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訃報 2023年4月(ふほう 2023ねん4がつ)では、2023年4月に物故した、または物故が報じられた人物についてまとめる。 1日 - 15日 4月1日 - 金森達、日本のイラストレーター(* 1932年) 4月1日 - ケン・ブキャナン、スコットランドの元プロボクサー、元WBA・WBC統一世界ライト級王者、国際ボクシング殿堂(* 1945年) 4月1日 - 羅志軍、中華人民共和国の官僚、政治家、元南京市長・江蘇省人民政府省長(* 1951年) 4月1日 - クラウス・トイバー、ドイツのボードゲームデザイナー(* 1952年) 4月1日 - 櫛田泰道、日本の声優(* 1976年) 4月1日 - 田本憲吾、日本の政治家、第6代北海道帯広市長(* 1929年) 4月2日 - 降旗勝信、日本の理科教育学者、東京学芸大学名誉教授(* 1932年) 4月2日 - 、アメリカ合衆国の実業家、サイアー・レコード共同設立者(* 1942年) 4月2日 - 平田冨峰、日本の元警察官、剣道家、元警視庁刑事部捜査第一課長(* 1942年) 4月2日 - 川田文子、日本のノンフィクション作家(* 1943年) 4月2日 - ブッチ・ミラー、ニュージーランドの元プロレスラー、WWE殿堂(* 1944年) 4月2日 - ウラドレン・タタルスキー、ロシアの軍事ブロガー(* 1982年) 4月3日 - ナイジェル・ローソン、イギリスの政治家、一代貴族、元庶民院・貴族院議員、第64代財務大臣(* 1932年) 4月3日 - 、中華人民共和国の女優(* 1934年) 4月3日 - 藤吉次郎、日本のアナウンサー(* 1947年) 4月3日 - 、オーストラリアのアボリジニ権利活動家(* 1948年) 4月3日 - 萩原幸之助、日本の格闘家(* 1968年) 4月3日 - 、アメリカ合衆国の公務員、元メリーランド州知事首席補佐官(* 1969年) 4月3日 - 三浦隆一、日本のミュージシャン、ロックバンド「空想委員会」メンバー(* 1981年) 4月4日 - 、アメリカ合衆国の陸軍特殊部隊兵士、CIA職員(* 1929年) 4月4日 - レフ・マルキズ、ロシア出身のオランダのヴァイオリニスト、指揮者(* 1930年) 4月4日 - 、アメリカ合衆国の元レーシングドライバー、元自動車の速度記録保持者(* 1937年) 4月4日 - 、韓国の歌手(* 1938年) 4月4日 - 、韓国の元サッカー選手・指導者、元大分トリニティ監督(* 1939年) 4月4日 - 、ドミニカ共和国出身のメキシコの俳優(* 1941年) 4月4日 - 國重惇史、日本の実業家、元楽天証券・楽天銀行会長、元楽天副会長(* 1945年) 4月4日 - 、アメリカ合衆国のキーボーディスト、元メンバー(* 1963年) 4月4日 - 、アメリカ合衆国の実業家、決済アプリ「」創業者、元Square, Inc.CTO(* 1979年) 4月5日 - ビル・バトラー、アメリカ合衆国の撮影監督(* 1921年) 4月5日 - ダスコ・ゴイコヴィッチ、セルビアのジャズトランペット奏者、作曲家、編曲家(* 1931年) 4月5日 - 畑正憲、日本の小説家、随筆家、ナチュラリスト、動物研究家、プロ雀士(* 1935年) 4月5日 - 藤井明、日本の実業家、元新晃工業社長(* 1938年) 4月5日 - 松井伸一、日本のラジオパーソナリティ(* 1939年) 4月5日 - 海野弘、日本の評論家、作家(* 1939年) 4月5日 - 、イランの映画監督(* 1949年) 4月5日 - ウナちゃんマン、日本の配信者、YouTuber(* 1968年) 4月6日 - 、アメリカ合衆国の料理評論家(* 1926年) 4月6日 - ノーマン・レイノルズ、イギリスのプロダクションデザイナー、映画監督(* 1934年) 4月6日 - 、ドイツ出身のイギリスのパトロン、ジョン・ライドン夫人(* 1942年) 4月6日 - 生野慈朗、日本のテレビドラマ演出家、映画監督(* 1950年) 4月6日 - 、イギリスの歌手、S Club 7メンバー(* 1977年) 4月7日 - 、ルーマニア王国出身のアメリカ合衆国の法律家、元アインザッツグルッペン裁判主任検事(* 1920年) 4月7日 - 本村ツル、日本の元小学校教員、元ひめゆり学徒隊員、元ひめゆり平和祈念資料館館長(* 1925年) 4月7日 - 、アメリカ合衆国のマジシャン(* 1926年) 4月7日 - 寺崎裕則、日本の演出家(* 1933年) 4月7日 - 、スイスの政治家、元国民議会議員・司法警察相(* 1936年) 4月7日 - 、アメリカ合衆国のSF作家、タロットカード研究者(* 1945年) 4月7日 - 、スウェーデンのギタリスト、ABBAバンドメンバー(* 1952年) 4月7日 - 、スコットランドのミュージシャン、元アラン・パーソンズ・プロジェクトメンバー(* 1953年) 4月8日 - 富岡多恵子、日本の詩人、小説家、文芸評論家(* 1935年) 4月8日 - マイケル・ラーナー、アメリカ合衆国の俳優(* 1941年) 4月8日 - 高橋豊、日本の演劇評論家、元毎日新聞社専門編集委員(* 1945年) 4月8日 - 、スコットランドのソングライター、音楽プロデューサー(* 1946年) 4月8日 - 佐久川政信、日本の空手家、政治家、元南城市議会議員、元全沖縄空手道連盟会長(* 1949年) 4月9日 - 香村眞徳、日本の藻類学者、琉球大学名誉教授(* 1930年?) 4月9日 - 澄川喜一、日本の彫刻家(* 1931年) 4月9日 - 山本栄彦、日本の政治家、第15代山梨県知事、元山梨県甲府市長(* 1935年) 4月9日 - カール・ベルガー、ドイツのジャズピアニスト、作曲家、音楽教育者(* 1935年) 4月9日 - リチャード・ン、香港の俳優(* 1939年) 4月9日 - 今村忠純、日本の日本文学研究者、大妻女子大学名誉教授(* 1942年) 4月9日 - 、クロアチアのチェロ奏者(* 1947年) 4月10日 - 、フランスのバレエダンサー、振付師(* 1932年) 4月10日 - 広淵升彦 - 日本のジャーナリスト、元テレビ朝日ニュースキャスター、アメリカ文化研究者(* 1933年) 4月10日 - 武村泰男、日本の哲学者、三重大学元学長・名誉教授(* 1933年) 4月10日 - アン・ペリー、イギリスの小説家、元服役囚(* 1938年) 4月10日 - 、カナダの元アイスホッケー選手【王子イーグルスなどに所属】(* 1985年) 4月11日 - 菊池光造、日本の経済学者、京都大学名誉教授(* 1936年) 4月11日 - 中村美彦、日本のジャーナリスト(* 1941年) 4月11日(訃報発表日) - 、北アイルランドのIRA暫定派活動家、英陸軍情報機関による二重スパイとされる人物(* 1946年) 4月11日 - 、イスラエルの作家、新聞コラムニスト(* 1948年) 4月11日 - 、大韓民国の女優、モデル(* 1996年) 4月12日 - 、インドの実業家、名誉会長(* 1923年) 4月12日 - イヴォ・バフスカ、チェコ出身のアメリカ合衆国の数学者(* 1926年) 4月12日 - 山﨑孝明、日本の政治家、東京都江東区長、元東京都議会議員、元江東区議会議員(* 1943年) 4月12日 - 竹山洋、日本の脚本家(* 1946年) 4月12日 - 、イギリスのアンティーク専門家(* 1951年) 4月12日 - ジャー・シャカ、ジャマイカのレゲエミュージシャン(* 1950年代後半) 4月12日 - 、ロシアの作家、ラジオパーソナリティ、政治活動家(* 1975年) 4月12日 - 大川内智彦、日本のボーカリスト、ポップバンド「sancrib」メンバー(* 1993年) 4月13日 - ジョー・プライス、アメリカ合衆国の美術収集家(* 1929年) 4月13日 - マリー・クヮント、イギリスのファッションデザイナー(* 1930年) 4月13日 - 小池滋、日本の英文学者、翻訳家、鉄道史研究家(* 1931年) 4月13日 - 三浦紘一、日本の実業家、ユニバース創業者(* 1939年) 4月13日 - クレイグ・ブリーン、アイルランドのラリードライバー(* 1990年) 4月13日 - 、ナイジェリア出身のイタリアのバレーボール選手、同国女子代表(* 2004年) 4月14日 - 波多野重雄、日本の政治家、元東京都八王子市長(* 1926年) 4月14日 - 、イギリスの俳優(* 1932年) 4月14日 - 丹波明、日本の作曲家(* 1932年) 4月14日 - アベル・ポッセ、アルゼンチンの小説家、外交官(* 1934年) 4月14日 - 、ドイツ出身のイタリアの画家、グラフィックデザイナー(* 1934年) 4月14日 - 、アメリカ合衆国の伝道師、OM創設者(* 1936年) 4月14日 - 溝手顕正、日本の政治家、元自由民主党参議院議員、第74代国家公安委員会委員長、元防災担当大臣、元広島県三原市長(* 1942年) 4月14日 - 高橋康夫、日本の建築史・都市史研究者。京都大学名誉教授(* 1946年) 4月14日 - 、中華人民共和国の俳優(* 1950年) 4月14日 - 、アイルランドのギタリスト、ロックバンド「ザ・スクリプト」メンバー(* 1976年) 4月14日 - シンシア・ジェリ・バイレ、ケニアの陸上競技選手(* 2002年) 4月15日 - 四代目市川左團次、日本の歌舞伎役者、俳優(* 1940年) 4月15日 - 、インドの政治家、ギャング、元国会議員(* 1962年) 16日 - 30日 4月16日 - 松長有慶、日本の仏教学者、高野山真言宗僧侶(* 1929年) 4月16日 - アーマッド・ジャマル、アメリカ合衆国のジャズピアニスト(* 1930年) 4月16日 - 四十宮正男、日本の実業家、元兼松社長(* 1934年) 4月16日 - 仲田勝男、日本の実業家、元沖縄明治乳業社長(* 1944年) 4月16日 - 藤井幹雄、日本の弁護士、政治活動家(* 1960年) 4月17日 - 黒土始、日本の実業家、第一交通産業創業者(* 1922年) 4月17日 - 、アメリカ合衆国の歌手(* 1929年) 4月17日 - 加藤孝造、日本の陶芸家、人間国宝(* 1935年) 4月17日 - 、ブラジルのドラマー、アジムスメンバー(* 1946年) 4月17日 - 、ロシア出身のアメリカ合衆国のバス歌手(* 1950年) 4月17日 - 、ウクライナの政治家、元最高議会議員(* 1967年) 4月17日 - 、アメリカ合衆国のアメリカンフットボール選手(* 1992年) 4月18日 - アルバート・デル・ロサリオ、フィリピンの政治家、元外務大臣(* 1939年) 4月18日 - 高橋戒隆 - 日本の政治家、岡山県議会議員【自由民主党所属】(* 1967年) 4月18日 - 久保田剛史、日本のお笑い芸人、お笑いコンビ「インデペンデンスデイ」メンバー(* 1987年) 4月19日 - 椎名武雄、日本の実業家、元日本IBM社長(* 1929年) 4月19日 - 厚木凡人、日本の舞踊家、振付家(* 1936年) 4月19日 - 、アメリカ合衆国の元アメリカンフットボール選手、プロフットボール殿堂(* 1942年) 4月19日 - 、ドイツのテノール歌手(* 1950年) 4月19日 - 駒井久晃、日本の政治家、北海道苫前郡羽幌町長(* 1953年?) 4月19日 - 、アメリカ合衆国の歌手、ギタリスト、元メンバー(* 1964年) 4月19日(訃報発表日) - 大橋勇武、日本のギタリスト、作曲家(* 1967年) 4月19日 - ジェレミー・ノビス、アメリカ合衆国の元アルペンスキー選手(* 1970年) 4月19日 - エレナ・パンポロバ、ブルガリア出身のドイツの元テニス選手(* 1972年) 4月19日 - ムンビン、韓国の歌手、俳優、アイドルグループ・ASTROのメンバー(* 1998年) 4月19日 - C.ぶち、日本のイラストレーター(* 生年不明) 4月19日 - 井出智、日本の実業家、芸能プロダクション「Andmo」代表取締役(* 生年非公表) 4月20日 - 米倉健司、日本の元プロボクサー、元ヨネクラボクシングジム会長(* 1934年) 4月20日 - 高野澄、日本の作家(* 1938年) 4月20日 - ジョゼップ・マリア・フステ、スペインの元サッカー選手、元同国代表【FCバルセロナなどに所属】(* 1941年) 4月20日 - 川満勝弘、日本の歌手、ロックバンド「コンディション・グリーン」メンバー(* 1944年) 4月20日 - 、韓国の元タレント、牧師(* 1956年) 4月21日 - 、アメリカ合衆国の元軍人、真珠湾攻撃時の戦艦アリゾナ乗組員(* 1921年) 4月21日 - 、ユーゴスラビア王国出身の機械技師、玩具・パズルデザイナー、ホロコースト生存者(* 1926年) 4月21日 - 伊藤七郎、日本の実業家、元イトーキ社長(* 1930年) 4月21日 - 山本和義、日本の漢文学者、南山大学名誉教授(* 1936年) 4月21日 - 、韓国の俳優(* 1946年) 4月21日 - 、イタリアの作曲家(* 1957年) 4月21日 - マーク・スチュワート、イギリスのミュージシャン、ザ・ポップ・グループメンバー(* 1960年) 4月21日 - ダレ・クオディーテ、リトアニアの歴史学者、政治家(* 1962年) 4月21日(訃報発表日) - 坂本雄一、日本の陸上自衛官、陸将、第39代第8師団長(* 1967年) 4月22日 - ハーブ・ダグラス、アメリカ合衆国の元陸上競技選手、1948年ロンドンオリンピック走幅跳銅メダリスト(* 1922年) 4月22日 - バリー・ハンフリーズ、オーストラリアのコメディアン、俳優(* 1934年) 4月22日 - 、ヨルダンの政治家、第23代首相(* 1934年) 4月22日 - 朱銘、台湾の彫刻家(* 1938年) 4月22日 - フランク・シュー、中華民国出身のアメリカ合衆国の天文学者、天体物理学者(* 1943年) 4月22日 - ハルタJACK、日本の漫画家(* 生年非公表) 4月23日 - アモロス・マヌエル、スペイン出身の神学者、哲学者、上智大学名誉教授(* 1930年) 4月23日 - 中尾保徳、日本の実業家、元鶴屋百貨店社長(* 1933年) 4月24日 - 、ルクセンブルクのスポーツジャーナリスト、司会者(* 1927年) 4月24日 - 出村文男、日本の空手家(* 1938年) 4月24日 - 常石敬一、日本の科学史家、神奈川大学名誉教授(* 1943年) 4月25日 - 杉山栄太郎、日本の地方公務員、元石川県副知事(* 1923年?) 4月25日 - ハリー・ベラフォンテ、アメリカ合衆国の歌手、俳優、人権活動家、ロックの殿堂(* 1927年) 4月25日 - 、アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー、ハーモニーゴールド USA会長(* 1930年) 4月25日 - ベラ・クレプキナ、ソビエト連邦出身のウクライナの元陸上競技選手、1960年ローマオリンピック女子走幅跳金メダリスト(* 1933年) 4月25日 - 、アメリカ合衆国の女性、エメット・ティル殺害事件の発端となった女性(* 1934年) 4月25日 - 、スイスの作家(* 1939年) 4月25日 - 、イギリスの実業家、元シティグループ会長・ロイズ・バンキング・グループ会長(* 1941年) 4月25日 - フランソワ・レオタール、フランスの政治家、元文化大臣・国務大臣・国防大臣(* 1942年) 4月25日 - 西田隆昭、日本の実業家、川商ハウス社長(* 1952年) 4月25日 - 野中友博、日本の劇作家、演出家(* 1962年) 4月26日 - 、リトアニア出身のドイツの元ザクセンハウゼン強制収容所看守、ナチス戦争犯罪裁判で起訴・有罪判決を受けた最高齢の人物(* 1920年) 4月26日 - 、中華人民共和国の元空軍軍人、パイロット、元空軍副司令官(* 1927年) 4月26日 - 勝匡昭、日本の実業家、元ユニチカ社長(* 1934年) 4月26日 - 勝部明生、日本の考古学者、元橿原考古学研究所副所長・附属博物館長(* 1934年) 4月26日 - 岩崎堅一、日本の建築家、東京都市大学名誉教授(* 1939年) 4月26日 - 、台湾の俳優(* 1944年) 4月26日 - 、イランのアーヤトッラー、専門家会議議員(* 1947年) 4月26日 - 福間健二、日本の映画監督、詩人(* 1949年) 4月26日 - 、シンガポールの麻薬密輸人(* 1977年) 4月26日(訃報発表日)- 中北晃二、日本のイラストレーター、メカニックデザイナー(* 生年非公表) 4月27日 - ディック・グロート、アメリカ合衆国の元MLB選手・バスケットボール選手、、全米カレッジバスケットボール殿堂(* 1930年) 4月27日 - (レイ・ウィリアムズ)、スペインの俳優(* 1941年) 4月27日 - 、フランスの法律家、元欧州人権裁判所長官(* 1941年) 4月27日 - 、イギリス出身のアメリカ合衆国の司会者、政治家、元シンシナティ市長、バラエティ番組「ジェリー・スプリンガー・ショー」司会者(* 1944年) 4月27日 - 野沢正光、日本の建築家(* 1944年) 4月27日 - (ジョン・モーゲン)、イタリアの俳優(* 1950年) 4月27日 - オレクサンドル・ミシチェンコ、ウクライナ出身の親ロシア派警察官、メリトポリ警察署長(* 生年不明) 4月28日 - 、インドの歴史家(* 1923年) 4月28日 - 、ドイツの映画監督、脚本家、俳優(* 1929年) 4月28日 - 、ブラジルの柔術家(* 1935年) 4月28日 - 北村太道、日本の仏教学者、種智院大学名誉教授(* 1937年) 4月28日 - 大石悦子、日本の俳人(* 1938年) 4月28日 - 、イギリスの元近代五種選手、1976年モントリオールオリンピック団体金メダリスト(* 1941年) 4月28日 - 、アメリカの医師(* 1941年) 4月28日 - 木下和、日本の洋画家(* 1942年) 4月28日 - 、アイルランドのギタリスト、メンバー(* 1951年) 4月28日 - 、カナダのギタリスト、元バックマン・ターナー・オーヴァードライヴメンバー(* 1951年) 4月28日 - 、ドイツのギタリスト、フェア・ウォーニングメンバー(* 1961年) 4月29日 - 宮坂増雄、日本の写真家(* 1935年) 4月29日 - 、アメリカ合衆国のジャズピアニスト、トロンボーン奏者、編曲家(* 1937年) 4月29日 - 、アメリカ合衆国の元MLB選手、野球解説者【セントルイス・カージナルスに所属】(* 1939年) 4月29日 - ユリ・コロレフ、ロシアの元体操選手、9度の世界体操競技選手権優勝者(* 1962年) 4月29日 - アブ・フセイン・フセイニ、出所不明のイスラーム過激派活動家、自称ISIL第4代カリフ(* 生年不明) 4月30日 - 津田耕治、日本の浪曲師、歌手(* 1934年) 4月30日 - 、ロシアのファッションデザイナー(* 1938年) 4月30日 - ラルフ・ボストン、アメリカ合衆国の元陸上競技選手、1960年ローマオリンピック走幅跳金メダリスト(* 1939年) 4月30日 - 石田博三、日本の元プロ野球選手【大阪タイガース・阪神タイガース所属】(* 1939年) 4月30日 - 森下源基、日本の実業家、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)元社長(* 1941年) 4月30日 - 松田博、日本の社会思想史学者、立命館大学名誉教授(* 1942年) 脚注 04 ふほう
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吉成 夏子(よしなり なつこ)は、日本の実業家。株式会社Vernalossom代表取締役社長。父はゲーム会社・株式会社サクセス社長の吉成隆杜。 人物 株式会社サクセス社長・吉成隆杜の長女。かつてはパチンコメーカー京楽産業.に籍を有していたが、2012年より京楽産業.の実質的子会社であるAKS(現・Vernalossom)に出向。2014年1月より代表取締役に就任し、窪田康志との共同代表制を敷いた。同年6月をもって窪田が代表取締役を退き、以後吉成が単独で代表取締役を務めている。AKSでは発行済株式の100%を保有している。2019年1月のNGT48を巡る一連の騒動の際にも代表取締役の座にあったが、対応に批判を集めた。 関連企業 株式会社リイカ(元代表取締役社長) 株式会社クロスゲート(元代表取締役社長) 脚注 出典 外部リンク AKS社長·吉成夏子氏単独インタビュー:上海ChinaJoy 関連項目 AKB48 松村匠 今村悦朗 日本の女性実業家 AKB48 存命人物
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戸川町(とがわまち)は岡山県津山市にある地名。郵便番号は708-0037。 地理 奴通り(岡山県道68号津山加茂線上)の東に位置する。北は本町二丁目、本町三丁目、元魚町、西は福渡町、南新座、南は南新座、新職人町、桶屋町、東は新魚町、新職人町に接する。 歴史 古くは富川村、富川宿とも称した。 沿革 1889年6月1日 - 町村制施行により、津山城下町の戸川町他、宮川以西の町が合併して西北条郡津山町となる。 1900年4月1日 - 津山町が東南条郡津山東町を編入するとともに、西北条郡が西西条郡、東南条郡、東北条郡と合併し、苫田郡津山町となる。 1923年4月1日 - 苫田郡林田村が町制・改称、津山東町となる。 1929年2月11日 - 津山町が周辺の町村と合併し、市制施行し、津山市となる。 地名の由来 中世に戸川(富川)の宿があったと伝えられる歴史を尊重し、その中心にこの名前がつけられた。 世帯数と人口 2021年(令和3年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 小・中学校の学区 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 交通 岡山県道68号津山加茂線 施設 吉田楽器 妙願寺 長泉寺 脚注 参考文献 和泉橋警察署 『新旧対照市町村一覧』第2冊(東京:加藤孫次郎, 1889(明22)) 地名編纂委員会 『角川日本地名大辞典33 岡山県』(角川学芸出版, 1989, ISBN 4040013301) 津山市の町・字
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1988年度新人選手選択会議(1988ねんどしんじんせんしゅせんたくかいぎ)は1988年11月24日にホテルグランドパレスで行われた第24回のプロ野球ドラフト会議である。 概要 昭和最後のドラフト会議。 71選手の交渉権が確定した。 抽選に外れた球団は奇数指名順位はウエーバー方式、偶数指名順位は折り返しウエーバー方式で希望選手を指名。 ウエーバー順位は阪神 - ロッテ - ヤクルト - ダイエー - 大洋 - オリックス - 広島 - 日本ハム - 巨人 - 近鉄 - 中日 - 西武。 ロッテ5位の西山だけが指名を拒否してNTT四国に進んだ。 ダイエーは1位、2位、3位、6位の抽選に全て失敗した。 この年のドラフトは2巡目指名の岡幸俊が最多競合となった。 選択希望選手一覧 太字は、交渉権確定。色付きは指名重複。 背景色が暗い選手は入団拒否。 矢印の向きはウェーバー・逆ウェーバー制の指名順。 指名リスト パシフィック・リーグ 西武ライオンズ 近鉄バファローズ 日本ハムファイターズ オリックス・ブレーブス 福岡ダイエーホークス ロッテオリオンズ セントラル・リーグ 中日ドラゴンズ 読売ジャイアンツ 広島東洋カープ 横浜大洋ホエールズ ヤクルトスワローズ 阪神タイガース 脚注 1988 1988年の日本プロ野球 千代田区のスポーツ史 1988年11月
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ウルトラトレイル・デュ・モンブラン(=リュルトラ・トラーユ・デュ・モン・ブラン)はUTMBと略称され、フランスの東南部にあるシャモニー=モン=ブランで毎年8月末に開催される、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブランを取り巻くフランス、スイス、イタリアにまたがる山岳地帯を走るトレイルランニングの大会である。 この大会は2003年に始まり、その後に4つのレースが追加され、2009年にNHKが取材・テレビ放映してから日本でも広く知られるようになった。姉妹レースとして、富士山にてウルトラトレイル・マウントフジが2012年から開催されている。 レース 現在、5つの主なレースがある。 UTMB (Ultra-Trail du Mont-Blanc) 169.4km 累積標高差9,889m 制限時間46時間30分 CCC (Courmayour-Chanpex-Chamonix) 101.1km 累積標高差6,092m 制限時間26時間30分 TDS (Sur Les Traces des Ducs de Savoie) 119.1km 累積標高差7,338m 制限時間33時間 OCC (Orsières - Champex - Chamonix) 52.4km 累積標高差3,322m 制限時間14時間 PTL (La Petite Trotte à Léon) 307.9km 累積標高差26,471m 制限時間142時間 そのほか、16歳-22歳が参加できる#YCCや3歳-13歳が参加できるMini Ultra-Trailがある。 日本人の戦績 日本人の上位の戦績としては鏑木毅の3位、横山峰弘の6位、山本健一の8位(いずれも2009年)。 出典 関連項目 ウルトラトレイル・マウントフジ トレイルランニング ウルトラマラソン アドベンチャーレース トレッキング 外部リンク (フランス語・英語・イタリア語・ドイツ語・スペイン語) トレイルランニング大会 オート=サヴォワ県のスポーツ競技大会 ヨーロッパの陸上競技 2003年開始のスポーツイベント
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近藤 正昭(こんどう まさあき、1941年4月16日 - 2020年6月6日)は、日本の弁護士。NHK総合の法律をテーマにしたバラエティ番組『バラエティー生活笑百科』に1985年4月の放送開始から2010年(平成22年)11月まで出演し、視聴者に親しまれた。 経歴 1960年(昭和35年) - 岡山県立岡山操山高等学校卒業。 1965年(昭和40年)3月 - 京都大学法学部卒業 1966年(昭和41年)9月 - 司法試験合格 1969年(昭和44年)4月 - 岡山地方裁判所裁判官 1971年(昭和46年)4月 - 大阪地方裁判所堺支部裁判官 1973年(昭和48年)4月 - 依願退官・大阪弁護士会入会。近畿合同法律事務所に入所。 2020年(令和2年)6月 - 死去 役職 ダイキ株式会社社外監査役 DCMホールディングス株式会社社外監査役 津山圏域クリーンセンター技術審査委員会審査委員 宇治市個人情報保護審議会委員 講演 1998年(平成10年)11月 - 四国大学第38回芳藍祭(演題:「法律おもしろ百科」) 1999年(平成11年)10月2日 - 大阪経済法科大学フェア KEIHO IN 名古屋(演題:「おもしろ法律百科」) 2007年(平成19年) 8月24日 - PETサマーセミナー2007 in 琵琶湖(演題:「おもしろ法律百科」) 10月10日 - 「蒼穹私塾」第7回勉強会(演題「法律おもしろ百科」) 脚注 外部リンク 近藤正昭 - 近畿合同法律事務所 日本の弁護士 日本の裁判官 人 京都大学出身の人物 岡山県立岡山操山高等学校出身の人物 1941年生 2020年没
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竹村健一 パイプ片手に(たけむら・けんいち パイプかたてに)は、1993年4月-1997年3月にTBSラジオ・ABCラジオで放送されたトーク番組である。オリコカード協賛。 概要 評論家の竹村健一が最近の世相・社会情勢についてワンマンで熱弁する番組だった。アシスタントは高橋進。 竹村にとって、TBSラジオでは「ミッドナイトプレスクラブ」(1974年-1980年)以来のレギュラー番組であった。 出典 ラジオ東京スピリッツ~TBSラジオ開局60周年~ - 過去の番組表 竹村健一 1993年のラジオ番組 (日本) TBSラジオの番組の歴史 TBSラジオのトーク番組 TBSラジオのニュース・報道番組 TBSラジオの情報・ワイドショー番組 朝日放送ラジオ番組の歴史
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メンタルマップ()とは、認知心理学において記憶の中に構成される「あるべき姿」のイメージをさす言葉である。地理学では、「心の中の地図」を描いたものを指し、「イメージマップ」や「認知地図」とも呼ばれる。 教育における用法 地理教育では心の中の地図のことを指し、重要な概念とされている。 メンタルマップを調べるには、自由に思い浮かんだ地図を描かせる法や、課題に沿って順序を追って描画させる方法があげられる。前者では印象深かった建物などが描画されるが全体的にはあいまいなものになる傾向がある。後者ではより細かい描画も可能となるが、出題者の課題によってはメンタルマップを改変させてしまう危険性もはらんでいる。 地理学における用法 地理学、特に行動地理学おいてメンタルマップは地理空間上での書き手の空間的知識の広がりを理解するために用いられる。一般的に、都市内を描いた手書き地図には、都心から居住地に向かって広がる扇形の範囲内が描かれる傾向にある。 ピーター・グールド (地理学者)の著書、「メンタルマップについて」が嚆矢であり、メンタルマップの構造・機能的役割について分析している。メンタルマップは主観的に描かれるため、書き手の外部世界への認識を表している。従来は客観的な地図ではないため「ゆがんだ地図」として捉えられていたが、メンタルマップの特徴からその町に暮らす人々の様々な要素に対する知覚・認識(交通手段や買い物の選択といった行動のベース)にアプローチすることができる。 メンタルマップの破壊 元来、メンタルマップは自分の経験や知識・感覚を元に構成されたイメージであり、人はそれを元に行動をとる。しかし、実際の環境がメンタルマップと大きく異なった場合、躊躇したり、パニックに陥る場合がある。これを「メンタルマップの破壊」という。 コンピュータ上のグラフィカルユーザインタフェースにおいて、画面遷移の際にパーツの配置を大きく変更することはメンタルマップの破壊につながるため禁忌とされている。ただし、フェイルセーフのひとつの方法としてメンタルマップの破壊を利用した配置を用いる場合がある。 脚注 出典 参考文献 中村豊(2004)『メンタルマップの現象学』古今書院 富田和暁・藤井正(2001)『図説 大都市圏』古今書院 関連項目 ワーキングメモリ 行動地理学 レジナルド・ゴリッジ 地図 ユーザインタフェース 認知科学 記憶
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四輪車(よんりんしゃ) 動力を持ったものについては自動車を参照。 人力で動くものについては四輪自転車を参照。 鉄道車両の四輪単車については二軸車 (鉄道)を参照。
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宜興州(ぎこうしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の河北省承徳市灤平県北東部に設置された。 1203年(泰和3年)、金代により設置された宜興県を前身とする。1328年(致和元年)、元代により宜興県は宜興州に昇格した。1370年(洪武3年)、明代により廃止された。 かつて存在した中国の州 河北省の歴史
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ランジオロール(英:Landiolol)は、超短時間作用型の静注用のβ1超選択的アドレナリン拮抗薬である。 解説 血圧や心筋収縮力への陰性の影響が少なく、効果的に心拍数を減少させる 。 他のβ遮断薬と比較して、ランジオロールは、消失半減期が最も短く (3 ~ 4 分)、効果発現が非常に速く (投与終了直後に心拍数が低下し始める)、不活性代謝物(心拍数) で予測可能な有効性を示す。ランジオロール塩酸塩投与終了後 30 分で投与前値に戻る)。 ランジオロールの純粋な S-エナンチオマー構造は、他の β遮断薬と比較して、降圧の副作用が少ないと考えられている。これは、動脈血圧を低下させずに心拍数を低下させたい場合に、患者の治療に好ましい影響を与える。 ランジオロールは、エスモロールの化学構造を変更して、作用の持続時間を増加させることなく、より高い心選択性とより強力な効力を持つ化合物を生成することによって開発され、ランジオロール塩酸塩として販売されている。その良好なベネフィットリスクプロファイルに基づいて、ランジオロールは販売承認を取得し、2016 年半ばにRapibloc 、 Raploc 、 Runrapiq 、 Landiblocという商品名で欧州市場に導入された (300mgバイアルと20mgアンプルの2つの製剤で)。ランジオロールは、日本ではオノアクト(50mgと150mg) およびコアベータ (この12.5mg製剤は冠動脈 CT 血管造影における画質の改善を目的としている)が利用可能である。 作用機序 この薬は、超短時間作用型β1選択的遮断薬として作用する。肝臓のカルボキシルエステラーゼと血漿の偽コリンエステラーゼの両方によって急速に加水分解され、約4分の消失半減期を示す。 ランジオロールは、カテコールアミンであるアドレナリンとノルアドレナリンの心臓(β1受容体が主に位置する部位)に対する正の変時効果を阻害する、高度に選択的なβ1アドレナリン受容体拮抗薬 (β1 受容体遮断の選択性は、β2 受容体遮断の 255倍)である。ランジオロールは、他のβ遮断薬と同様に、交感神経興奮を低下させ、心拍数の低下、異所性ペースメーカーの自発的発火の減少、伝導の遅延、房室結節の不応期の延長をもたらすと考えられている。ランジオロールは、in vitro で膜安定化活性や固有の交感神経刺激活性は示さない。前臨床試験および臨床試験では、ランジオロールは超短時間作用で頻脈を制御し、作用の開始と消失が速く、さらに抗虚血効果と心臓保護効果を示した。 今日まで、ランジオロールは、臨床で使用されている β 遮断薬の中で、血漿半減期が最も短く、心臓選択性が最も高くなっている。 β1受容体遮断に対するランジオロールの選択性は、β2受容体遮断の255倍である。それに比べて、メトプロロールは心臓選択性がはるかに低く (ランジオロールはメトプロロールよりも100 倍 、エスモロールよりも 8 倍心臓選択的 )、半減期が60倍長い (ランジオロールの3-4分に比べて 3 ~ 4 時間)。 遺伝子変異がメトプロロールの不活性代謝物への変換を減少させ、メトプロロールの血漿濃度がほぼ 5 倍高くなるため、 CYP2D6代謝不良者は、メトプロロールの血中濃度が上昇するため、メトプロロールに対する心臓選択性が低下するとFDAは指摘している。 β2 アドレナリン受容体の活性化は、気管支の拡張と肺気道系の肺胞液クリアランスを促進する。その結果、β2受容体への影響が限定された心臓選択的β1遮断薬は、 COPDまたは喘息患者の肺に悪影響を与えることなく心拍数を低下させる。 β2受容体の薬理学的刺激は、健康なヒトおよび軽度のアテローム性動脈硬化症の冠動脈患者の冠血流を増加させる。このように、心臓選択的β1遮断薬は運動中の心筋酸素要求量を減少させるだけでなく、心拍数を選択的に低下させながら、β2受容体を介した冠動脈運動充血を顕在化させるのである。興味深いことに、ランジオロールはナトリウムとカルシウムの拮抗作用を持たないため、心拍数を低下させる作用が高い一方で、陰性強心作用が弱く、心不全患者にとってより適した心臓選択的β遮断薬である。ランジオロールとは対照的に、エスモロールなどの他のβ遮断薬への曝露は、長期のエスモロール注入中に見られる薬物耐性効果の原因となる、β受容体の再発現を増幅する。薬理学的シャペロンとして作用するβ遮断薬への細胞の長期暴露は、β1-アドレナリン受容体の総表面レベルを上昇させ、治療が突然中止されると、カテコールアミンなどの内因性アゴニストに対する反応が増強される。この現象は、β遮断薬離脱リバウンドと呼ばれる。しかし、ランジオロールは極性表面積が大きいため、細胞膜をほとんど透過せず、薬理学的シャペロン作用に乏しい。 生体内変化 ランジオロールは、エステル部分の加水分解によって代謝される。in vitroおよびin vivoのデータは、ランジオロールが主に偽コリンエステラーゼおよびカルボキシルエステラーゼによって血漿中で代謝されることを示唆している。加水分解によりケタール (アルコール分子) が生成され、さらに切断されてグリセロールとアセトンに分解され、カルボン酸成分 (代謝物 M1) となり、続いてβ酸化されて代謝物 M2 (置換安息香酸) が生成される。ランジオロール代謝物 M1 および M2 のβ 1 アドレナリン受容体遮断活性は、親化合物の 1/200 以下であり、ランジオロールの最大推奨用量と注入期間を考慮した場合、薬力学的影響は無視できることを示している。ランジオロールも代謝物 M1 と M2 も、異なるシトクロム P450 分子種 (CYP1A2、2C9、2C19、2D6 および 3A4) の代謝活性に対する阻害効果を in vitro で示さなかった。また、ラットにおいてランジオロールを反復静脈内投与した場合、チトクロームP450含量に影響を及ぼさなかった。 CYP P450誘導または時間依存性阻害に対するランジオロールまたはその代謝物の潜在的効果に関するデータはない。 用途 ランジオロールは、ヨーロッパで抗不整脈薬の適応がある。 上室性頻脈、および心房細動または心房粗動を有する患者の周術期、術後、または短時間作用型薬剤による心室レートの短期制御が望ましいその他の状況における心室レートの迅速な制御。 非代償性洞性頻脈で、医師の判断で心拍数が速くなり、特定の介入が必要となる場合。 さらに、ランジオロールは日本で心室細動または心室頻拍の治療薬として承認されている。 ランジオロールは、心房細動患者の急性心室レート制御の第一選択治療として使用できる (レベル I 推奨 - 欧州心臓病学会の 2020 年ガイドライン )。 ランジオロールの有益な効果は、60 以上の臨床試験で実証されている (Pubmed検索 - 2018 年 8 月)。ランジオロールは一般的に忍容性が高く、低血圧と徐脈のリスクは比較的低かった.ランジオロールを使用したほとんどの臨床試験は、心臓および心臓以外の手術の前後に、上室性頻脈または頻脈性不整脈の治療または予防のために周術期に実施されている。心不全のを有する患者もしくは有さない患者を対象とした、ランジオロールをプラセボ< ジルチアゼムおよびアミオダロンと比較する無作為化臨床試験が発表されている。心筋梗塞後や不応性致死的不整脈に対する使用の症例報告が公開されています。ランジオロールの代謝は速く、投与期間が限定されるため、ほとんどの有害事象は軽減される。ランジオロールは、敗血症によるVEGFシグナル伝達系の発現低下を阻害し、炎症性サイトカインとは無関係に冠微小循環を正常化することにより、敗血症ラットの心臓保護に寄与する可能性が示唆された。 敗血症性ショックに対するランジオロールの有効性と安全性が多施設共同前向き無作為化比較試験で検討され、その結果が2020年に有名誌Lancet Respiratoryに掲載され、敗血症患者におけるランジオロールの臨床効果が、新規発症不整脈を大幅に減少させ患者を目標心拍数範囲内にとどめることを実証した。さらに、ランジオロールは、人工呼吸不要日数、ICU不要日数、入院不要日数に関しても、臨床的に好ましい影響を与えることが示された。また、対照群では28日目までの死亡率が20%であったのに対し、ランジオロール群では28日目までの生存率が88%であった。頻脈や心房細動は敗血症の重要な予後因子であるため、これらは敗血症患者の標準治療にランジオロールを含めることができる非常に重要な知見である。さらに、集中治療室(ICU)入室時に100回/分(bpm)を超える頻脈は、予後を悪化させる危険因子とされている。 Journal of Cardiology に掲載された論文では、慢性心不全における心房細動・心房粗動の治療薬としてランジオロールの安全性と有効性が前向き臨床試験(全国209医療機関、1,000名以上)により示された。本調査は、心拍数の静脈内投与によるコントロールを必要とする慢性心不全患者を対象とした過去最大規模の試験であるが、重篤な血圧低下の報告は1%未満であり、ランジオロールの心臓選択性が強調され、血圧への作用は限定的であった。注目すべきは、70%以上の患者がNYHA IIIまたはIVクラスであり(35%がNYHA IV)、50%近くが左心駆出率40%未満であったことである。Landiolol投与後、最初に洞調律に戻るまでの時間の中央値は14時間で、最高注入速度の中央値は3μg/kg/minであった。 Landiololは、非心臓手術における術後心房細動の管理に有望な薬剤であり、血圧への影響を最小限に抑えながら心拍数を制御できる特性を有している。ランジオロールは、陰性強心作用が限定的であり、呼吸器系への耐性も良好である。炎症反応の調節とアドレナリン経路の鈍化に関連する付加的な利点が、おそらく心房細動の発生率の減少に寄与していると思われる。低用量(5-10μg/kg/min)の使用は、通常、心拍数を迅速に制御するのに十分であり、対照群に比べ洞調律への変換が早く、高い割合で行われることに関連している。 ランジオロールは低用量(3〜5μg/kg/min)で優れた耐容性を示すため、手術中および術後に予防的に使用することが可能である。ランジオロールの予防投与は、β遮断薬に関連する有害事象を誘発することなく、術後の心房細動の発生を減少させる。術中に限定した投与では十分な効果が得られないが、術後もランジオロールを継続投与する最適な投与方法を選択すれば、より良い効果が得られると思われる。 左心室機能障害のある患者 (左室駆出率 <40%、心係数 <2.5 L/min/m2、NYHA 3-4)、例えば心臓手術後、虚血中または敗血症状態では、1 µg/kg/minから低用量を開始し、綿密な血圧監視下で段階的に10μg/kg/minまで増やして心拍数を制御することが可能であった。 持続静注の換算表:μg/kg/min から ml/hr へ(オノアクト点滴静注用150の場合は下の例)150mg/50ml = 3mg/ml): ml/h での毎時注入速度の計算式 = (kg での体重 x μg/kg/min での投与量) / 50 (上表に基づく) 脚注 外部リンク 尿素 モルホリン ジオキソラン カルボン酸エステル フェノールエーテル アドレナリンβ受容体拮抗薬 抗不整脈薬 未査読の翻訳があるページ
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パームデールの戦い()は、1956年にアメリカ合衆国で発生した無人航空機の暴走、およびその後の撃墜の試みに関する一連の出来事である。 1956年8月、暴走した無人機を撃墜するため、アメリカ空軍所属の邀撃機がカリフォルニア州南部の上空に展開した。無人機はミサイル試験の標的機として使うためにから無線操縦により離陸したが、直後に操縦に反応しなくなり、無制御のまま飛行し続けた。を出撃した邀撃機は、すぐに無人機を捕捉し、搭載したロケット弾を全弾使用したが、これの撃墜に失敗した。無人機は燃料が切れた後、人口の少ない砂漠地帯に墜落した。 無人機に向けて発射されたロケット弾は流れ弾となって地上に落下し、面積にして1,000エーカー以上が炎上し、多くの地所/建造物が損害を受けるか破壊された。 背景 1950年代中頃、アメリカ海軍は艦船および施設の防衛のため、地対空/空対空ミサイルの開発を行っていた。当時試験されていたミサイルとしては、AIM-7スパローやなどがある。ミサイルの能力を確認する際には無人標的機が使用された。グラマンF6F-5K"ヘルキャット"は、こうした用途に使われていた無人機のひとつだった。 同時期、空軍においてはソビエト連邦の戦略爆撃機(Tu-16や新型のM-4など)からいかにして国土を防衛するべきかが議論されていた。1956年の時点で、空軍が第一線に配備した最新鋭の邀撃機は、重武装のノースロップF-89Dスコーピオン戦闘機であった。空軍では30個の現役部隊、空軍州兵では7個の邀撃機飛行隊にて運用されており、アラスカからニューヨークまでの各地域にF-89Dが配備されていた。 事件 1956年8月16日朝、ポイント・マグー海軍航空基地にて、視認性の高い赤色に塗装されたF6F-5K無人機が、海軍による最後の任務のために準備されていた。11時34分、無人機は離陸し、無線操縦によって太平洋上のミサイル試験空域に向かった。しかし、その後しばらくして無人機は操縦を受け付けなくなり、暴走状態に陥ったと判断された。 操縦手らは無人機が上昇しつつ緩やかに左へと曲がり、ロサンゼルス市のある南東へと向かうのを目撃していた。海軍には無人機の追跡に適した航空機がなかったため、北のオックスナード空軍基地に連絡した。直ちに所属のF-89D戦闘機2機が出撃した。1機目には飛行士ハンス・アインシュタイン(Hans Einstein)およびレーダー手C・D・マレー(C. D. Murray)の両中尉、2機目には飛行士リチャード・ハリマン(Richard Hurliman)とレーダー手ウォルター・ヘール(Walter Hale)の両中尉がそれぞれ搭乗していた。両機はアフターバーナーを全開にして北へと飛行し、無人機をロサンゼルス北西上空で捕捉した。無人機は南西へと進路を変え、ロサンゼルス通過後、再び北西へと進路を変えた。無人機が上空でゆっくりと旋回し始めると、F-89D戦闘機のパイロットらはMk4 "マイティ・マウス"2.75インチロケット弾での攻撃を行うべく、無人機が人口の少ない地域まで移動するのを待った。 戦闘機乗員らは攻撃手段についての議論を交わした。彼らのF-89Dには新型のヒューズ製E-6火器管制システム、AN/APG-40レーダー、攻撃計画コンピュータが搭載されており、無誘導ロケット弾を自動モードで発射するにあたって2つの選択肢があった。すなわち、対象の後方に付き追尾する形で発射するか、対象の進路に対し直角に侵入し真横から発射するかである。議論の末、無人機は旋回し続けていたため、後者が適していると判断された。北西へと旋回してからまもなくして、無人機はおよび上空を通過し、ほぼ無人のアンテロープ・バレー西部上空に侵入した。F-89D戦闘機は自動モードでの射撃を複数回試みたものの、火器管制システム設計上の不備のため、ロケット弾の発射には失敗した。 直後、無人機は再び進路を変え、ロサンゼルスへと引き返し始めた。アインシュタインとハリマンは故障した自動モードでの射撃を断念し、手動モードへの切り替えを余儀なくされた。元々、F-89D戦闘機は照準器を装備していたが、彼らの乗機からはE-6火器管制システムを搭載するにあたって取り外されていた。レーダー誘導システムが故障した状況下にあって、彼らは照準器を使うこともできないまま、無誘導のロケット弾の射撃を行わねばならなかった。F-89D戦闘機は104発のロケットを1度に発射することが可能で、全弾発射に要する時間はわずか0.4秒であった。また、2つの異なるパターンでリップル射撃を行うこともできた。2リップル(62発/42発)または3リップル(42発/32発/30発)である。1発でも命中すれば対象を撃墜することが可能と考えられた。マレーとヘールはインターバロメータを調整し、射撃パターンを3リップルに設定した。 無人機が上空を飛行している最中、最初の戦闘機が42発のロケットを発射したが、命中弾はなかった。2機目も続いて攻撃位置について42発を発射した。この時には数発が無人機の下部をかすったものの、爆発は起きなかった。付近で2機の戦闘機は再度攻撃を試み、合計64発のロケット弾が発射されたものの、命中弾はなかった。2機の乗員はインターバロメータを再調整し、無人機が北東に進路を変え、パームデールの街へと向かおうとしたところで最後の攻撃を行った。しかし、合計60発のロケット弾は1発も命中しなかった。この事件で空軍は合計208発のロケットを発射したものの、F6F-5K無人機を撃墜することができなかった。 戦闘機が燃料不足で帰投した頃、パームデールへと向かっていた無人機もまた燃料が切れ、エンジンが止まりかけていた。無人機はゆっくりと円を描きながら高度を下げ、から東に離れた砂漠地帯に墜落した。この際、P通り(Avenue P)の未舗装区間に設置されていた社の送電線を切断している。無人機の右翼は砂にめり込み、横転の後に大破した。1997年7月、考古学者らの調査中に残骸の一部が発見され、部品番号と検品スタンプから、この事件で墜落した無人機のものと確認された。 無人機が暴走した原因は、地上の送信機、もしくは航空機側の受信機の誤作動が原因だと考えられている。 その後 この事件は地上に被害をもたらした。無人機の撃墜に用いられたMk4ロケット弾にはPD弾頭(point-detonating warhead)が取り付けられていた。208発発射されたロケット弾のうち、起爆せず発見されたのは15発のみだった。 最初に発射されたロケット弾はキャスティークから北東に位置する雑木林で火災を引き起こし、からほど近い旧を含むが焼失した。 2回目の攻撃で発射されたロケット弾のいくつかは、ニューホールの街の近くに着弾した。プラセリタ・キャニオン(Placerita Canyon)では、1発のロケット弾が地面を跳ね回り、公園近くの複数箇所で火災を引き起こした。他の複数のロケット弾はインディアン・オイル社(Indian Oil Co.)の原油貯蔵所に火災を引き起こした。火災はバーマイト・パウダー社(Bermite Powder)の爆発物工場からの地点まで及んでいた。そのほか、グレアソン山(Mount Gleason)近くの付近でもロケットによる火災が起き、以上の雑木林が焼失した。 最後の攻撃はパームデールの方向に向かって行われたので、多くのロケットが市街地に到達した。「無人機がパームデールのダウンタウンを通り過ぎると、マイティマウスが雹のように降り注いだ」(As the drone passed over Palmdale's downtown, Mighty Mouse rockets fell like hail.)、「東3番街に住むエドナ・カールソンによれば、空軍のロケットが炸裂した際の破片が家の正面の窓を割って飛び込み、天井で跳ね返り、壁を突き抜け、最後は台所の食器棚に飛び込んだ」(Edna Carlson, who lived in the home on Third Street East, said that a chunk of shrapnel from one Air Force rocket burst through the front window of her home, ricocheted off the ceiling, went through a wall and came to rest in a kitchen cupboard.)などと報じられた。東4番街(4th Street East)ではロケット弾の破片が多くの家やガレージを貫通していた。1発は西10番街(10th Street West)に近いを走行中の自動車の目前に着弾し、破片がタイヤを切り裂いた上、車体を穴だらけにしていた。プラセリタ・キャニオンでは、作業用トラックの車内で食事を摂っていた2人の男が、木陰で休もうと離れた直後にロケット弾が着弾し、トラックを完全に破壊した。サンタクラリタ近くでは多数の火災が発生した。パームデール周辺では大規模な火災が3箇所あったほか、小規模な火災も無数に起きていた。 対応のために500人の消防士が投入され、状況が安定するまでに2日間を要した。が焼失した。死者はいなかった。 脚注 関連項目 コーンフィールド・ボンバー 1956年のアメリカ合衆国 1956年の航空事故 カリフォルニア州の歴史 軍用機による航空事故 アメリカ合衆国の空軍史 アメリカ合衆国の災害 (1945年-1989年) アメリカ合衆国で発生した航空事故 1956年8月
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小松 伸六(こまつ しんろく、1914年9月28日 - 2006年4月20日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。筆名・内海伸平。 経歴 北海道釧路生まれ。東京帝国大学卒。第四高等学校(金沢)教授を務めた。ゲーテ論、トーマス・マンの翻訳などを行うかたわら、1941年、第五次『赤門文学』を主宰。戦後は立教大学教授。久保田正文、林富士馬、駒田信二らと『文學界』の同人雑誌評を担当、原田康子らを発掘した功績で1979年、菊池寛賞受賞、81年、『美を見し人は』で芸術選奨文部大臣賞受賞。 日本現代紙碑文学館 岐阜県海津市の海津市海津図書館の文学同人誌を収集する施設「日本現代紙碑文学館」は、小松伸六の1万5千冊の寄贈が基礎となり、1976年(昭和51年)4月に設立されている。 著書 『美を見し人は 自殺作家の系譜』講談社, 1981 『ミュンヘン物語』文藝春秋, 1984 『愛と美の墓標』講談社, 1988 参考 デジタル版日本人名大辞典 『日本近代文学大辞典』講談社、1984年 日本の文学研究者 ドイツ文学者 日本の文芸評論家 日本の翻訳家 立教大学の教員 金沢大学の教員 東京大学出身の人物 北海道出身の人物 1914年生 2006年没
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山岡 洋之(やまおか ひろゆき、1975年4月23日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元プロ野球選手(投手)。 来歴・人物 伊丹北高では3年夏の全国高等学校野球選手権兵庫大会で27回連続無失点を記録。その後進学した東北福祉大学では2年先輩に門倉健、1年上には山田貴志らがおり、上級生になって台頭すると仙台六大学リーグで4年春は3勝、秋に4勝してリーグ最優秀選手を受賞するなど通算10勝0敗の成績を残した。4年時は同期の鈴木郁洋とバッテリーを組んで春秋ベストナイン。のドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団。 スライダーとシュートとサークルチェンジを武器に、1年目のは21試合に登板した。肩ができるのが早いため急なリリーフ登板が多かった。その後はを最後に一軍公式戦での登板がなく、オフに戦力外通告を受け、他球団の入団テストを受けたが合格せず現役引退。 引退後、オリックスの打撃投手に転身した。 9月15日、ほっともっとフィールド神戸での対東北楽天ゴールデンイーグルス13回戦において、前日に育成契約から支配下選手登録されたばかりの大下誠一郎のユニフォームが間に合わなかったため、大下は山岡のユニフォームを借りて出場しプロ初打席本塁打を放った。 詳細情報 年度別投手成績 記録 初登板:1998年4月3日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点 初奪三振:同上、8回裏に井上純から 初先発登板:1998年5月4日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)、4回1/3を3失点で勝敗つかず 背番号 57 (1998年 - 1999年) 54 (2000年 - 2002年) 102 (2003年 - ) 脚注 関連項目 兵庫県出身の人物一覧 東北福祉大学の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 外部リンク 日本の野球選手 兵庫県立伊丹北高等学校出身の人物 東北福祉大学硬式野球部の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 日本の打撃投手 オリックス・バファローズ関連人物 兵庫県出身の人物 1975年生 存命人物
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スティーブン・エドワード・デラバー(Steven Edward Delabar , 1983年7月17日 - )は、アメリカ合衆国ケンタッキー州出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 経歴 プロ入り前 のMLBドラフト43巡目(全体1283位)でアナハイム・エンゼルスから指名を受けるも、この時は入団しなかった。 プロ入りとパドレス傘下時代 のMLBドラフト29巡目(全体851位)でサンディエゴ・パドレスから指名を受け、プロ入り。 当初は先発だったが、にA+級に昇格したのを機にリリーフに転向。A級に降格され、5月23日に解雇された。 独立リーグ時代 6月7日、独立リーグであるフロンティアリーグのフローレンス・フリーダムに入団した。リリーフとして4試合に連投し、6月11日に退団した。 直後の6月20日、独立リーグであるカナディアン・アメリカン・リーグのブロックトン・ロックスに移籍。ここでは先発として起用され、11試合に先発して3勝3敗・防御率3.01の成績を記録。シーズン終了までプレーした。 も引き続きロックスでプレー。リリーフに転向したが、右肘を骨折して退団した。 独立リーグ退団後 は野球から離れ、妻の勤務先であるケンタッキー州のエリザベスタウンで右肘のリハビリをしながらクラブ活動担当の非常勤講師として働いた。 非常勤講師時代、速球の速度が戻っていることに気付いて野球を再開することとなった。 マリナーズ時代 4月30日、シアトル・マリナーズと契約を結んだ。同年9月11日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビューを果たした。さらに、9月14日のニューヨーク・ヤンキース戦では延長12回を無失点に抑え、その後チームがサヨナラ勝ちしたためメジャー初勝利を手にした。 3月22日にアスレチックスと東京で開催されたMLB日本開幕戦の遠征メンバー30人に登録された。3月26日に28人の開幕ロースターに登録された。 ブルージェイズ時代 2012年7月30日にエリック・テイムズとのトレードで、トロント・ブルージェイズに移籍した。 移籍後の8月13日のシカゴ・ホワイトソックス戦に10回から登板し「1イニング4奪三振」を記録。なお、延長戦でのこの記録はMLB史上初の記録となった。 は開幕から安定した投球を続け、前半戦は38試合に登板し5勝1敗・防御率1.71を記録し、奪三振58はアメリカンリーグの救援投手の中でトップだった。この成績が認められ、オールスターの「最後の一人」のとして選出される。オールスターでは1/3回を投げ、サンフランシスコ・ジャイアンツのバスター・ポージーから三振を奪った。7月30日のオークランド・アスレチックス戦では、対戦した3人の打者から全て三球三振を奪い、MLB史上48人目、球団史上初の三者連続三球三振を達成。なお、「1イニング4奪三振」と「イマキュレイト・イニング」の両方を達成したのは、デラバー含め4人しかいない(他はボブ・ギブソン、A.J.バーネット、フェリックス・ヘルナンデスの3人)。8月4日、右肩の炎症により15日間の故障者リストに入り、9月1日に外れた。後半戦の成績は、17試合の登板で防御率7.02であった。 6月17日、川﨑宗則のメジャー昇格に伴い、マイナーオプションによってAAA級バッファローに降格された。しかし、ブレット・セシルの故障者リスト入りによって6月19日にメジャーに再昇格した。6月24日に再びマイナーオプションによってAAA級バッファローに降格された。以降はメジャー昇格せず、セプテンバー・コールアップの拡張選手名簿からも外された。この年は前半戦だけの出番に終わり、中継ぎで30試合に登板して防御率4.91だった。 は、31試合に登板し、防御率5.22を記録。 1月15日にブルージェイズと1年契約を結んだが、3月29日に自由契約となった。 レッズ時代 2016年4月2日にシンシナティ・レッズとマイナー契約を結び、傘下のAAA級ルイビル・バッツへ配属された。5月7日にメジャー契約を結んで25人枠入りした。7試合に登板し8回、失点・自責点6、防御率6.75を記録。5月22日にDFA、5月24日にAAA級ルイビルに降格となった。 広島時代 2016年6月25日に広島東洋カープとの契約が合意に達したことが発表された。12月2日に自由契約公示された。 インディアンス傘下時代 1月13日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結び、同年のスプリングトレーニングに招待選手として参加することになった。 シーズン開幕後の4月24日、筋力増強剤の一種であるオスタリンの陽性反応があったとして80試合の出場停止処分(薬物規定違反)となった。なお、インディアンス傘下では登板機会がないまま7月5日に自由契約となった。 レンジャーズ傘下時代 1月4日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加することになった。 4月20日に自由契約となった。 2019年2月4日にカナダのラジオ番組「Outta the Park」の番組内で現役を引退する意向を示した。現在は地元で高校生に野球指導をしている。 投球スタイル 2013年までは平均球速93.9mph(約151.1km/h)のフォーシームとスプリッター、スライダーを武器に三振を奪う投球スタイルだった。基本球種はフォーシームだが、スプリッターやスライダーを初球から投げる割合も比較的高めとなっている。 球速は独立リーグ時代までは90mph(約145km/h)前後だったが、右肘の骨折手術成功後にウェイトボールを使用したトレーニングに取り組んだ結果球速が増加。しかし2013年8月4日に右肩を痛めて故障者リスト入りして以降、球速が低下した他、2014年からはリリースポイントが安定しなくなった。2015年までの2年間で与四球率5.40を記録。マイナーリーグ時代を通じて与四球率は4.50以上である。 詳細情報 年度別投手成績 2017年度シーズン終了時 獲得タイトル・記録・表彰 MLBオールスターゲーム選出:1回(2013年) NPB投手記録 初登板:2016年9月18日、対横浜DeNAベイスターズ24回戦(横浜スタジアム)、7回裏に3番手で救援登板、1回無失点 初奪三振:同上、7回裏に宮﨑敏郎から見逃し三振 背番号 35 (2011年 - 2012年途中) 50 (2012年途中 - 2015年) 56 (2016年 - 同年途中) 70 (2016年途中 - 同年終了) 脚注 関連項目 メジャーリーグベースボールの選手一覧 D 北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧#アメリカ合衆国 広島東洋カープの選手一覧 外部リンク Steve Delabar stats MiLB.com アメリカ合衆国の野球選手 在カナダ・アメリカ人の野球選手 在日外国人の野球選手 サンディエゴ・パドレス傘下の選手 独立リーグの野球選手 シアトル・マリナーズ傘下の選手 シアトル・マリナーズの選手 トロント・ブルージェイズの選手 トロント・ブルージェイズ傘下の選手 シンシナティ・レッズ傘下の選手 シンシナティ・レッズの選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 MLBオールスターゲーム選出選手 アメリカ合衆国のドーピング違反選手 ドーピング違反の野球選手 在日アメリカ人のスポーツ選手 アメリカ合衆国の野球指導者 高校野球指導者 ケンタッキー州の人物 1983年生 存命人物
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ミヤマタネツケバナ(深山種漬花、学名: )は、アブラナ科タネツケバナ属の多年草、高山植物。別名、ミネガラシ(峰芥)。 特徴 全体が無毛。根は地下に長く入る。短い根茎には古い根出葉の葉柄基部が残る。根出葉は奇数羽状複葉で長さ2-5cm、小葉は5-7個、長楕円形から倒卵形、長さ2-6mm、幅1.5-5mmになり、頂小葉はやや大く、小葉の縁は全縁。地上茎は株立になり、高さ3-10cm、茎葉は互生し、小葉は3-5個で根出葉と同形。葉柄の基部がやや耳状になって茎を抱く。 花期は7-8月。茎先に短い総状花序をつけ、白色の十字形の4弁花を2-6個つける。萼片は長楕円形で長さ約2mm。花弁は倒卵形で、長さ4-6mm。雄蕊は6個のうち4個が長い。雌蕊は1個。果実は長角果で斜め上向きにつき、広線形で長さ2-3cm、種子のあるところはやや膨らみ、先端の残存花柱は長さ1mmになってとがる。果柄は長さ3-6mmになる。長角果が熟すると果皮が2片に裂開し、種子を弾き飛ばす。種子は長さ約1.5mmになる。 分布と生育環境 北海道、本州の中部地方以北に分布し、高山帯の湿った岩礫地、砂礫地、岩隙などに生育する。雪解けの遅い雪田の跡などによく見られる。米倉浩司 (2017) は、「台湾にもあるとされるが疑わしい。」としている。 タイプ標本の採集地は、白山、御嶽山。 名前の由来 和名ミヤマタネツケバナは「深山種漬花」の意。別名のミネガラシは「峰芥」の意で、高山に生えることによる。牧野富太郎 (1940) は、『牧野日本植物圖鑑』において、「和名峰芥ハ高山ニ生ズルヨリ云ヒ此名ハ深山種漬花ヨリハ舊シ」と記述している。 種小名(種形容語) は、「日本の」の意味。 種の保全状況評価 国(環境省)のレッドデータブック、レッドリストでの選定はない。都道府県のレッドデータ、レッドリストの選定状況は、福島県で絶滅危惧II類(VU)。また、長野県では、変種ホソバミヤマタネツケバナ var. を認め、絶滅危惧IA類(CR)としている。 分類 同属で、南千島の高山から報告され、極東ロシア北東部から北アメリカ大陸北西部に分布するチシマタネツケバナ とは、本種は葉柄の基部が耳状になるが、同種は葉柄の基部が耳状にならない点が異なる。両種とも多年草であるが、チシマタネツケバナの地上部の形態は、むしろヨーロッパ原産の帰化植物で越年草であるミチタネツケバナ に似る。 ギャラリー 脚注 参考文献 北村四郎・村田源著『原色日本植物図鑑・草本編II(改訂53刷)』、1984年、保育社 豊国秀夫編『山溪カラー名鑑 日本の高山植物』、1988年、山と溪谷社 清水建美編・解説、門田裕一改訂版監修、木原浩写真『山溪ハンディ図鑑8 高山に咲く花(増補改訂新版)』、2014年、山と溪谷社 大橋広好・門田裕一・木原浩他編『改訂新版 日本の野生植物 4』、2017年、平凡社 牧野富太郎原著、邑田仁・米倉浩司編集『新分類 牧野日本植物図鑑』、2017年、北隆館 米倉浩司・梶田忠 (2003-)「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList) The World Flora Online 牧野富太郎『牧野日本植物圖鑑』、みねがらし、1940年、北隆館、牧野日本植物図鑑インターネット版 日本のレッドデータ検索システム 外部リンク ミヤマタネツケバナ - コトバンク アブラナ科 高山植物
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マダ( マドハー,Madha,Madhah)は、オマーンの飛地領土。 解説 本地はオマーンの飛地領土であるムサンダム半島とオマーン本土の間のアラブ首長国連邦領内にある。ムサンダム特別行政区・マダ県に属する。北緯25度17分4秒、東経56度19分59秒に位置する。中心部の標高は41m。内陸部の飛び地であり、海岸線は有していない。2003年現在の人口は2,246人。 この飛地はフジャイラとホール・ファッカーンを結んだ道路上にある75km2の土地であり、道路からマダに向けられた出口は2ヶ所整備されている。この飛地の国境は1969年に画定された。 マダは「New Madha」と呼ばれる開発地区以外はほとんどが無人地帯で、「New Madha」には道路・学校・郵便局・銀行等があり、電力および真水の供給がなされ、滑走路及び警察も存在する。 またマダ地内のナワという土地は、法的にはアラブ首長国連邦・シャールジャ首長国の一部とされており、飛地内の飛地(二重飛地)を形成しており、同心円状の飛地の多重構造を持つ。 脚注 外部リンク マダ・シャルージャ国境の道路標識 オマーンの地理 領土の飛地 オマーンの国境 アラブ首長国連邦の国境
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カルナヴァレ博物館 (カルナヴァレはくぶつかん、仏:) は、フランスの首都・パリの3区にある博物館。パリ歴史博物館 ()、カルナヴァレ美術館ともいう。 概要 カルナヴァレ博物館は、パリの歴史資料を収蔵・展示している市立博物館で、パリ3区の南境であるフラン=ブルジョワ通り沿いにある。 歴史のある貴族の邸宅が多いマレ地区に位置しており、この博物館もまた、カルナヴァレ館とル・プルティエ・ド・サン=ファルジョー館という2つの歴史的な建物で構成されている。カルナヴァレ館は、もともとは1548年に建造されたルネサンス様式の建物で、17世紀中頃に建築家フランソワ・マンサールが改修した後 、1866年、パリ市が買収・改修し、カルナヴァレ博物館が誕生した 。ル・プルティエ・ド・サン=ファルジョー館は1688年に建造された建物で、1895年にパリ市が購入し、パリ市立歴史図書館として使用した後、1989年、博物館の一部となった 。 博物館の収蔵品は約60万点に達し、絵画、彫刻、模型、家具、調度品、版画、ポスターなど様々な分野に及んでいる 。また、歴史資料を年代順に展示し、古代から現代に至るまでのパリの歴史を紹介している。 主な収蔵品 ジャン・ベロー 『オペラ座の舞台裏』 - (1889年) ダヴィッド 『球戯場の誓い』 - (1789年) ユベール・ロベール 『解体が始まったバスチーユ監獄』 - (1789年) 所在地及び交通手段 所在地:パリ3区 セヴィニエ通り23番地 (、) 地下鉄メトロ1号線 サン・ポール駅下車、北へ徒歩。 地下鉄メトロ8号線 シュマン・ヴェール駅下車、西へ徒歩。 脚注 外部リンク 公式サイト パリの博物館 パリの美術館 パリ3区 16世紀の建築物 フランソワ・マンサール
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ジャケット(ジャクリーヌ)・ド・リュクサンブール(仏:Jacquette(Jacqueline) de Luxembourg, 1415/16年 - 1472年5月30日)は、北フランス出身のイングランドの貴族女性。ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターの2番目の妻、そしてエドワード4世の王妃エリザベス・ウッドヴィルの母親として知られる。英語名はジャケッタ・オブ・ラクセンバーグ(Jacquetta of Luxembourg)。 生涯 リンブルク=ルクセンブルク家の傍系に位置するルクセンブルク=リニー家当主のサン=ポル伯ピエール1世と、その妻のマルゲリータ・デル・バルツォ(1394年 - 1472年)の間の娘として生まれた。嫁ぎ先となるイングランドの王室との血縁では、母方を通じてジョン(欠地王)の直系子孫にあたる。ジョンの末娘エリナー・オブ・レスターとその夫シモン・ド・モンフォールの間の三男の6世孫(つまりジョンの8世孫)に当たるためである。弟にサン=ポル伯・リニー伯兼フランス王国ルイがいる。 1433年4月22日、ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターと結婚した。ベッドフォード公は百年戦争中のイングランド・フランス二重王国の摂政を務めていた。サン=ポル伯爵家はブルゴーニュ陣営の有力貴族であるのみならず神聖ローマ皇帝ジギスムントとも同族であり、ベッドフォード公としてはジャケッタとの結婚により皇帝家に接近し、欧州大陸におけるイングランドの影響力を拡大しようと考えていた。なお、ベッドフォード公は1432年に先妻でブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の妹アンヌ・ド・ブルゴーニュに先立たれており、この結婚は再婚だった。 しかし、イングランドの同盟相手の善良公はベッドフォード公の再婚に不満で、先妻アンヌが存命だった1430年にベッドフォード公の従妹イザベル・ド・ポルテュガルと善良公が結婚した時から冷え切っていたベッドフォード公と善良公の関係は悪化、ブルゴーニュがイングランドから離反してフランスと和睦する遠因となった。ジャケッタは1435年9月14日、結婚から2年半ほどで子供もないまま夫と死別した。 イングランド王ヘンリー6世は叔父の寡婦ジャケッタをイングランドに呼び寄せるため、ベッドフォード公の侍従の息子だったサー・リチャード・ウッドヴィルを彼女の許に遣わした。イングランドへの旅行中に2人は恋愛関係となり、王の許しもないまま秘密裏に結婚した。やがてリチャードとの結婚が露見すると、王は腹を立ててジャケッタに与えられるはずだった寡婦財産を没収したが、補償として1000ポンドの年金を受給させた。2度目の結婚生活は長く幸福であり、ジャケッタはリチャードとの間に(判明しているだけで)14人もの子供を授かった。 1440年代半ばまでに、ウッドヴィル家の地位は上昇していった。ジャケッタがヘンリー6世と王妃マルグリット・ダンジューの双方と親族関係にあったことが最大の要因だった。ジャケッタは王の叔父の未亡人であり、ジャケッタの妹イザベルは王妃の叔父メーヌ伯シャルル4世・ダンジューの後妻であった。ジャケッタは宮廷では王妃に次ぐ身分にあり、かつ王妃とは親しい友人関係にあったので、宮廷で大きな影響力を持つことが出来た。さらに1448年に夫リチャードがヘンリー6世の計らいでリヴァーズ男爵に列せられた恩もあり、薔薇戦争の開始時、ウッドヴィル家はランカスター家の与党として活動した。 1464年、ウッドヴィル夫妻の長女エリザベスがヨーク家のエドワード4世と結婚したことで、ウッドヴィル家の運命は大きく変わった。夫リチャードはヨーク派に寝返り、エドワード4世からリヴァーズ伯爵位を授けられ、多くの高級官職にあずかった。しかし同家の突然の隆盛は、ヨーク派の古参の重鎮ウォリック伯リチャード・ネヴィルや王弟のクラレンス公ジョージ、グロスター公リチャード(後のリチャード3世)らの不興を買った。ウォリック伯は1469年に公然とエドワード4世に敵対し、エッジコート・ムーアの戦いでジャケッタの夫リヴァーズ伯と三男ジョンを生け捕ると、2人を斬首してしまった。 国内の実権を掌握したウォリック伯はさらに、ジャケッタに魔術によって国王夫妻を呪ったという汚名を着せ、彼女を魔女裁判にかけようとした。ジャケッタの嫌疑は1470年1月19日、ウォリック伯の軟禁から逃れて一時的に権力を回復した娘婿エドワード4世が開いた枢密院の議決により、無罪と証明された。ジャケッタはその2年後の1472年に亡くなった。リチャード3世は1484年、自身の王位継承を正当化するための法令「」の中で、ジャケッタと長女エリザベスは魔術を使ってエドワード4世とエリザベスの結婚を実現させたと非難したが、この非難の根拠となる証拠は一切挙げられていない 。 子女 2番目の夫リチャード・ウッドヴィルとの間に14人の子女があった。 ルイス・ウッドヴィル(生没年不明、夭折) アンソニー・ウッドヴィル(1483年没) - 第2代リヴァーズ伯爵 ジョン・ウッドヴィル(1469年没) ライオネル・ウッドヴィル(1484年没) - ソールズベリー司教 エドワード・ウッドヴィル(1488年没) リチャード・ウッドヴィル(1491年没) - 第3代リヴァーズ伯爵 エリザベス・ウッドヴィル(1492年没) - サー・と結婚、イングランド王エドワード4世と再婚 アン・ウッドヴィル(1489年没) - バウチャー子爵ウィリアム・バウチャーと結婚、第2代ケント伯と再婚 メアリー・ウッドヴィル(1481年没) - 第2代ペンブルック伯と結婚 ジャケッタ・ウッドヴィル(1509年没) - 第8代ストレンジ男爵ジョン・ル・ストレンジと結婚 マーサ・ウッドヴィル(1500年没) - サー・ジョン・ブロムリーと結婚 エリナー・ウッドヴィル(1512年没) - サー・アンソニー・グレイと結婚 マーガレット・ウッドヴィル(1490年没) - 第17代アランデル伯爵と結婚 キャサリン・ウッドヴィル(1497年没) - 第2代バッキンガム公ヘンリー・スタフォードと結婚、初代ベッドフォード公ジャスパー・テューダーと再婚 脚注 参考文献 森護『英国王妃物語』大修館書店、1986年。 城戸毅『百年戦争―中世末期の英仏関係―』刀水書房、2010年。 トレヴァー・ロイル著、陶山昇平訳『薔薇戦争新史』彩流社、2014年。 イングランド王族の妃 薔薇戦争の人物 ルクセンブルク=リニー家 1410年代生 1472年没
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『王様達のヴァイキング』(おうさまたちのヴァイキング)は、さだやす(ストーリー協力:深見真)による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて、2013年14号から2019年39号まで連載。 孤独な天才ハッカー・是枝一希とエンジェル投資家・坂井大輔がIT業界を舞台に「世界征服」を目指す。作中の時間は1話の時点で2013年5月。 第18回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品。「マンガ大賞2015」第9位。 あらすじ 2013年5月7日、浅草の取り壊し寸前のビデオ屋での“怪物”と“天使”の邂逅が、大航海の始まりだった。天涯孤独の天才ハッカー・是枝一希が、エンジェル投資家・坂井大輔に導かれ、数々のサイバー事件を解決していくうちに、信頼できる仲間を得て、才能を大きく開花させる、その成長の航跡を描く。 登場人物 主人公 是枝 一希(これえだ かずき) 天才ハッカー。1995年2月21日生。連載開始時点は18歳で、ドローン暴走事件の後に19歳になる。ハンドルネームは「zer0(ゼロ)」。 高校中退。人とうまく接することができず、不器用でコンビニの仕事も即クビになる社会不適合者。消費者金融会社へのサイバー攻撃を繰り返す犯罪者だったが、エンジェル投資家の坂井に拾われる。 愛機は、2005年・IBM 製の ThinkPad X41。メモリーを2GBまで増設し、OS に Ubuntu 12.04 LTS を入れて使用。設定でCtrlキーとCapsLockキーを入れ替えている。是枝は「義父に買ってもらった」と思い込んでいるが、実際は義父が懸賞で当てたのを、是枝に与えたものである。 登場当初はおどおどした面が目立った少年だったが、やがて本来の攻撃性がむき出しになってゆく。ヘッジホッグからも「有言実行の男」と一目置かれる存在へと成長した。ずば抜けた能力を買われ、警視庁のコンピュータ犯罪捜査官に採用の後、「サイバーテロ対策特別研究チーム」(通称“特研”)に抜擢される。 好きなもの:PC、数字、256、大根 苦手なもの:水、風呂、コーヒー、炭酸飲料 癖:自分の爪を噛む、邪魔をする者を引っ掻く、考える時は紙に数字を書く 坂井 大輔(さかい だいすけ) エンジェル投資家。連載開始時点は40歳。 上田市立西中学校野球部を経て、早稲田大学を卒業後、情報通信系の企業に就職。その後、DVD並行輸入サービスの会社を創業した起業家だったが、その会社を20億円で売却しエンジェル投資家に転身した。 渋谷区宇田川町の「坂井ビル」を自宅兼仕事場にしている。 長野県出身で、実家は温泉旅館「藤ノ屋旅館」。 株式会社ヘッジホッグ(hedgehog) 坂井が投資して起業した会社。SNS関連のサービスを運営している。坂井ビルの地下1階にオフィスがあり、社員は同ビルに居候している。 唐沢 周平(からさわ しゅうへい) ヘッジホッグの社長。快活な人物。1989年5月30日生。 南雲 亮(なぐも りょう) ヘッジホッグの社員。人柄は穏健。1989年4月23日生。 西 ミノル(にし ミノル) ヘッジホッグの社員。口は悪いが、是枝の才能を認めている。1990年11月6日生。 渡部 裕助(ゆうすけ) ヘッジホッグの社員。石川県出身。加賀弁で話す。1988年12月19日生。 株式会社ゲームビット(GAME BIT) 坂井の投資先の1つ。社員数14人。是枝の初仕事でValkyrjaらによるサイバー攻撃から救われ、拉致事件の際には全社を挙げて捜索に尽力した。仮想通貨事件においても、重要な役割を担うこととなる。 玉山(たまやま) ゲームビットの社長。社員からは「玉さん」とも呼ばれている。 口の悪さと、常時着けている腕輪念珠がトレードマーク。 警察関係 神崎 翔太(かんざき しょうた) 警視庁刑事部捜査二課 特別捜査係 特殊知能犯担当 巡査部長。 無差別サイバーテロの取り調べで是枝と知り合い、共に捜査をしていくうちに彼の腕に全幅の信頼を寄せるようになる。 蘇芳に命を狙われ、一時意識不明の重体に陥るが、彼の総理就任後に無事現場復帰。 権力を傘に釈放された性犯罪者を取調室で暴行したことがあり、警察内では問題視されている。 古い体制を壊すためには自己犠牲も厭わない、直情型の熱血漢で、趣味はゲーム(FPS、ガンシュー、MMORPG など)。 藤井寺 絵美(ふじいでら えみ)、二ノ宮(にのみや)、末永(すえなが) 捜査二課の神崎の同僚達。 衣笠 真琴(きぬがさ まこと) 警視庁刑事部捜査二課の管理官である、異例の女性キャリアで、神崎らの上司。35歳。 父親が警察庁のOBだが、親子仲は険悪。 丹羽 久嗣(にわ ひさつぐ) 警視庁生活安全部サイバー犯罪対策課の一員。神崎とは警察学校での同期だった。優秀な頭脳と身体能力、刑事部顔負けの洞察力を併せ持つ。 ハッカーとして有能すぎる是枝に不審を抱き、当初は敵視していたが、是枝拉致事件を機に和解。対サイバー犯罪者共闘を誓う。 猿渡(さるわたり)、真鍋 直己(まなべ なおみ)、窪塚(くぼづか)、田尻(たじり) サイバー犯罪対策課の丹羽の同僚達。 赤城(あかぎ) 警視庁公安部外事第三課の一員。 国際テロ事件に当たり、是枝らが極秘で開発している、サイバー兵器の使用を依頼する。 蘇芳 正哉(すおう まさちか) 次期総理候補と目されている、経済産業大臣。日本のハイテク武装を目論む野心家。(14巻で内閣総理大臣に就任) ドローン暴走事件を受けて、「サイバーテロ対策特別研究チーム」を発足させたが、その真意は是枝の力を利用するためだった。 クラッカー Valkyrja(ヴァルキュリヤ) 本名:鶴野 秋(つるの あき)。1990年4月5日生。坂井がお気に入りの女性ソムリエ。本職は凄腕のクラッカー。是枝の逆鱗に触れてPCを壊された過去がある。laughingcatと二人で蘇芳正哉への復讐を画策するが、是枝の能力とセンスに利用価値を見い出し、仲間に引き入れようとする。 蘇芳正哉と愛人の間に生まれた娘であり、laughingcatの腹違いの姉。 laughingcat(笑い猫) 是枝の“宿敵”。「武器商人」と呼ばれるクラッカー。Valkyrjaを「女王様」と呼んで付き従う。是枝の技術に興味津々。偽名を名乗って堂々と坂井ビルに侵入、ルーターに細工し是枝へのメッセージを残した。 シリコンバレーに住んでおり、「シュレディンガー」という名前の猫を飼っている。 全身にタトゥーを入れたアウトロー風の青年だが、小学生時代は太っていてイジメを受けていた。 “特研”発足後、蘇芳正哉の一人息子:蘇芳 竜二(すおう りゅうじ)であることが明らかになる。1990年4月8日生。 mos(モス) 非合法な取引を行う裏サイトの管理人。本業は音楽関係で自宅にスタジオを持っている。 高 星雷(カオ・シンレイ) 中国のITセキュリティ企業「閃光電子公司」技術部トップ(CTO)だが、裏で工作用サイバー部隊「黒海」を率いる腕利きのクラッカー。日本のネットショップに対してサイバーテロを行う。 青年時代、出稼ぎ先の広島で地下銀行を営んでいたが暴力団に目を付けられ暴行を受ける。その際、命を救ってくれた蘇芳に心酔している。 犯罪関係者 鷲尾 威(わしお たけし) 元暴走族で六本木の半グレ集団「暴雷連合」の総長。 伊草の依頼により、パワーハラスメントでの告訴への火消しとして、被害者家族への脅迫や中傷、桐生のPCに対するクラッキングを請け負う。 伊草 公俊(いぐさ きみとし) 大手レストランチェーン「イグサフーズ」の社長。社内では悪質なパワーハラスメントを蔓延させている。 六本木では、荒っぽい遊び方をしていることで評判が悪い。 広島伊達会 西日本の暴力団にして、蘇芳正哉の資金源。 蘇芳との繋がりに感づいた神崎に、瀕死の重傷を負わせる。 その他 256(ニゴロ) 是枝が飼っているバーニーズ・マウンテン・ドッグ。9歳。 失踪した彼の実母からの最後の贈り物である。是枝の唯一の家族であり、心の支え。 加藤 剛(かとう つよし) 是枝の幼なじみ。電機メーカーの営業職。26歳。是枝からは「ゴリラ君」と呼ばれている。 人生の先輩として、陰日向から是枝を温かくサポートし続ける。 桐生 克典(きりゅう かつのり) 北里法律事務所に所属する敏腕弁護士。坂井と同じ中学の1期上。 インサイダー事件で坂井の窮地を救った後、パワーハラスメントに関する依頼を受け、そのことにより半グレ集団からの妨害に遭い、是枝の力を借りる。 書誌情報 さだやす(ストーリー協力:深見真) 『王様達のヴァイキング』 小学館〈ビッグコミック〉、全19巻 2013年7月3日発行(2013年6月28日発売)、ISBN 978-4-09-185329-5 2013年10月5日発行(2013年9月30日発売)、ISBN 978-4-09-185414-8 2014年2月4日発行(2014年1月30日発売)、ISBN 978-4-09-185845-0 2014年6月17日発行(2014年6月12日発売)、ISBN 978-4-09-186204-4 2014年10月5日発行(2014年9月30日発売)、ISBN 978-4-09-186354-6 2014年12月31日発行(2014年12月26日発売)、ISBN 978-4-09-186658-5 2015年5月5日発行(2015年4月30日発売)、ISBN 978-4-09-186889-3 2015年8月4日発行(2015年7月30日発売)、ISBN 978-4-09-187140-4 2015年12月5日発行(2015年11月30日発売)、ISBN 978-4-09-187338-5 2016年5月3日発行(2016年4月28日発売)、ISBN 978-4-09-187598-3 2016年11月2日発行(2016年10月28日発売)、ISBN 978-4-09-187899-1 2017年3月5日発行(2017年2月28日発売)、ISBN 978-4-09-189378-9 2017年8月2日発行(2017年7月28日発売)、ISBN 978-4-09-189607-0 2017年12月5日発行(2017年11月30日発売)、ISBN 978-4-09-189689-6 2018年4月4日発行(2018年3月30日発売)、ISBN 978-4-09-189816-6 2018年7月4日発行(2018年7月30日発売)、ISBN 978-4-09-860048-9 2019年1月4日発行(2019年1月30日発売)、ISBN 978-4-09-860208-7 2019年7月3日発行(2019年6月28日発売)、ISBN 978-4-09-860319-0 2019年10月5日発行(2019年9月30日発売)、ISBN 978-4-09-860405-0 ムービーコミック 2018年6月30日より映像配信サービスのdTVにて配信開始。 キャスト 是枝一希/小野賢章 坂井大輔/関俊彦 唐沢周平/広瀬裕也 南雲亮/金子哲平 西ミノル/鍛治本大樹 渡部裕助/阿部大樹 256/亀山雄慈 神崎翔太/濱野大輝 笑い猫/熊谷健太郎 ヴァルキュリヤ/今井麻美 主題歌 Candy or Whip「last show time」 脚注 外部リンク 王様達のヴァイキング 【作品TOP】 | ビッグコミックBROS.NET(ビッグコミックブロス) うさまたちのうあいきんく ビッグコミックスピリッツの漫画作品 犯罪を題材とした漫画作品
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エリザベス・ピーターズ(Elizabeth Peters、1927年9月29日 - 2013年8月8日)は、アメリカ合衆国の作家。本名はバーバラ・マーツ (Barbara Mertz) 、またバーバラ・マイケルズ (Barbara Michaels) のペンネームも使用する。 経歴 1927年、イリノイ州カントンにて生誕。 シカゴ大学のエジプト学者、ジョン・A・ウィルスンの下で学び、23歳の時に博士号を取得。1964年に作家としてデビュー、古代エジプトに関する本を2冊出版したが、主に執筆するのはミステリやサスペンスである。 バーバラ・マイケルズの名では主にゴシックや超自然現象を題材とした作品を執筆している。古代エジプトに関する学術書との混同を避けたい出版社がこの名を選んだ。アメリア・ピーバディシリーズは、エリザベス・ピーターズの名で執筆しているが、この名は彼女の2人の子から採られている。 雑誌『KMT』(古代エジプトに関する雑誌)の編集顧問委員のメンバーである。また、エジプト調査学会やオリエンタル・インスティテュートのジェームズ・ヘンリー・ブレステッドサークルのメンバーでもある。 2013年8月8日、メリーランド州フレデリックの自宅にて死去。 著書 エリザベス・ピーターズ名義 アメリア・ピーバディシリーズ エジプト学者のアメリアが主人公のシリーズ。最新作は2010年4月に刊行された第19作"A River in the Sky" 。 物語は1880年代にアメリアが独身女性として世界を見たいと決意するところから始まり、1922年にツタンカーメンの墓が発見されるところで終わる。以下、()内は作中のタイムライン。 砂洲にひそむワニ Crocodile on the Sandbank ( 1975年 / 2011年2月、青柳伸子 訳、原書房)(1884年 - 1885年) The Curse of the Pharaohs (1981) (1892年 - 1893年) The Mummy Case (1985) (1894年 - 1895年) Lion in the Valley (1986) (1895年 - 1896年) The Deeds of the Disturber (1988) (1896年夏) The Last Camel Died at Noon (1991) (1897年 - 1898年) The Snake, the Crocodile, and the Dog (1992) (1898年 - 1899年) The Hippopotamus Pool (1996) (1899年 - 1900年) Seeing a Large Cat (1997) (1903年 - 1904年) The Ape Who Guards the Balance (1998) (1906年 - 1907年) The Falcon at the Portal (1999) (1911年 - 1912年) He Shall Thunder in the Sky (2000) (1914年 - 1915年) Lord of the Silent (2001) (1915年 - 1916年) The Golden One (2002) (1916年 - 1917年) Children of the Storm (2003) (1919年 - 1920年) Guardian of the Horizon (2004) (1907年 - 1908年) The Serpent on the Crown (2005) (1922年) Tomb of the Golden Bird (2006) (1922年 - 1923年) A River in the Sky (2010) (1909年 - 1910年) Amelia Peabody's Egypt: A Compendium (2003) - ノンフィクション ヴィッキー・ブリスシリーズ ヴィッキー・ブリスシリーズは、美術史のアメリカ人教授が国際的な犯罪やサー・ジョン・スミスという美術品泥棒に関わっていく冒険小説。1969年に発表した"The Camelot Caper" は、スミスが主人公のスピンオフ作品である。どの巻から読んでも良いが、物語が続いているため刊行順に読むのが一番良い。 アメリア・ピーパディシリーズとクロスオーバーしており、第5作"Night Train to Memphis" と第6作"The Laughter of Dead Kings" では、アメリアの夫が重要な役どころを演じ、ジョン・スミスとエマーソンの関係が明らかになる。 Borrower of the Night (1973) Street of the Five Moons (1978) Silhouette in Scarlet (1983) Trojan Gold (1987) Night Train to Memphis (1994) The Laughter of Dead Kings (2008) ジャクリーン・カービーシリーズ ジャクリーン・カービーは特技が謎解きの司書。 The Seventh Sinner (1972) リチャード三世「殺人」事件 Murders of Richard III ( 1974年 / 2003年2月、安野玲 訳、扶桑社ミステリー) ロマンス作家「殺人」事件 Die for Love ( 1984年 / 2005年6月、本間有 訳、扶桑社ミステリー) 裸でご免あそばせ Naked Once More ( 1989年 / 1993年8月、田村義進 訳、徳間文庫) その他 The Jackal's Head (1968) Her Cousin John (1969) The Camelot Caper (1988) - ヴィッキー・ブリスシリーズのジョン・スミスが主人公 The Dead Sea Cipher (1970) The Night of Four Hundred Rabbits (1971) Legend in Green Velvet (1976) Devil-May-Care (1977) Summer of the Dragon (1979) The Love Talker (1980) The Copenhagen Connection (1982) バーバラ・マイケルズ名義 ジョージタウン三部作 Ammie Come Home (1968) - "The House That Would Not Die" のタイトルでバーバラ・スタンウィック、リチャード・イーガン主演でテレビ映画化された Shattered Silk (1986) Stitches in Time (1995) サムワン・イン・ザ・ハウス(誰かが家にいる)シリーズ Someone in the House (1981) Black Rainbow (1982) シリーズ外作品 The Master of Blacktower (1966) Sons of the Wolf (1967) Prince of Darkness (1969) The Dark on the Other Side (1970) The Crying Child (1971) Greygallows (1972) Witch (1973) House of Many Shadows (1974) The Sea King's Daughter (1975) Patriot's Dream (1976) Wings of the Falcon (1977) Wait for What Will Come (1978) The Walker in the Shadows (1979) The Wizard's Daughter (1980) Here I Stay (1983) The Grey Beginning (1984) Be Buried in the Rain (1985) Search the Shadows (1987) 残り火 Smoke and Mirrors ( 1989年 / 1993年2月、片岡しのぶ 訳、扶桑社ミステリー) 家出 The Runaway (短編) - マリリン・ウォレス編『シスターズ・イン・クライム』( 1989年 / 1991年1月、早川書房)収録 不思議な遺言 Into the Darkness ( 1990年 / 1992年11月、細美遥子 訳、扶桑社ミステリー) Vanish with the Rose (1992) Houses of Stone (1993) The Dancing Floor (1997) Other Worlds (1999) ノンフィクション Temples, Tombs, and Hieroglyphs (1964) Two Thousand Years in Rome (リチャード・マーツ共著) (1968) Red Land, Black Land (1978) 受賞・ノミネート 1986年:アンソニー賞巨匠賞受賞 1988年:"Trojan Gold" でアンソニー賞長編賞ノミネート 1989年:『裸でご免あそばせ』でアガサ賞長編賞受賞 1991年:"The Last Camel Died At Noon" でアガサ賞長編賞ノミネート 1992年:"The Snake, The Crocodile and the Dog" でアガサ賞長編賞ノミネート 1994年:"Night Train To Memphis" でアガサ賞長編賞ノミネート 1997年:"Seeing A Large Cat" でアガサ賞長編賞ノミネート 1998年:"The Ape Who Guards The Balance" でアガサ賞長編賞ノミネート 2000年:"He Shall Thunder in the Sky" でアガサ賞長編賞ノミネート、アンソニー賞長編賞ノミネート 2002年:"The Golden One" でアガサ賞長編賞ノミネート 2003年:"Amelia Peabody's Egypt: A Compendium" でアガサ賞ノンフィクション賞受賞、エドガー賞批評部門ノミネート 出典・脚注 外部リンク Barbara Michaels at Fantastic Fiction Elizabeth Peters at Fantastic Fiction アメリカ合衆国の推理作家 アメリカ合衆国のエジプト学者 アンソニー賞の受賞者 アガサ賞の受賞者 イリノイ州フルトン郡出身の人物 1927年生 2013年没
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藤田 浩一(ふじた こういち、1947年3月20日 - 2009年10月11日)は、日本のギタリスト、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー、実業家。トライアングル・プロダクション、バミューダ音楽出版の社長を務めた。 来歴 1967年、グループ・サウンズのバンド「アウト・キャスト」のメンバー(リズム・ギター)としてデビュー。作詞・作曲を手掛け、1969年には「The Love」を結成し、リード・ギターを務めた。 The Love解散後は、音楽制作、プロモーター、マネージメントなどを手がけ、プロデューサーへの下地作りの活動をする。また、かまやつひろしのマネージメント・プロモーションを手掛けたり、ベイシティローラーズのコンサートフィルムをイギリスで購入し、日本全国の映画館で上映した。 1975年4月24日、音楽事務所「トライアングル・プロダクション」を設立。1977年、かまやつの紹介によりレイジーのプロデュースを手がけ、これをきっかけにプロデューサー業を本格的に始める。 1979年、角松敏生のデモテープを聞きスカウト。角松は1981年に、シングル「YOKOHAMA Twilight Time」でデビュー。同年6月1日、「バミューダ音楽出版」を設立。 1980年、レイジーのキーボーディスト井上俊次と、3人組コーラスグループ「トロワ」による4人組ユニット「ビッグバン」をプロデュース。1981年3月に、シングル「愛のコリーダ (曲)」でデビューさせた。 1983年には杉山清貴&オメガトライブ(杉山清貴)を、1984年に菊池桃子をデビューさせた。 杉山清貴&オメガトライブ(1983-1985)、菊池桃子(1984-1988)は立て続けにヒットし、その後、1986オメガトライブやカルロス・トシキ&オメガトライブなども商業的に成功を収め、藤田のプロデュース作品を総称して「トライアングル・サウンド」と呼ばれた。 1995年以降はプロデュース業を休止し、社長業に専念した。2009年10月11日18時24分、病気療養中のさなか、神奈川県川崎市高津の自宅で死去。62歳没。 人物 音楽プロデューサー時代、レコーディングが終了した深夜2時以降は「藤田タイム」と呼ばれ、藤田が音源と共にドライブへ出掛け戻ってくるまで電源は落とせず、戻ってきた後で再びレコーディングが始まることもあった。 レイジーの井上俊次は『NIKKEI STYLE』のコラムで藤田との確執を明かしている。記事によると、レイジーがベイ・シティ・ローラーズの様な路線になった理由は藤田が大のロック嫌いでその中でもハードロックを嫌っていたためであると明かしている。 レイジー解散後に藤田の推薦で角松敏生と組むように勧められたが、当時の角松が音楽活動よりも遊ぶことを優先していたため、藤田に「彼とは組めません」と抗議したところ藤田から暴行を受けたことにより藤田の事務所とは縁を切っている。井上は藤田と縁が切れたことで、藤田が杉山清貴&オメガトライブで成功した一方、角松と自分が組んだところで成功出来たとは思えず、自分が事務所を飛び出したことでお互い幸福だったのではないかと評している。また、角松もソロでの活動を望んでいたことを『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』などのインタビューで話していた。 上記の経緯がありながら、藤田が逝去した後の2009年11月20日に行われた「藤田浩一さんを偲ぶ会」では井上が幹事を務めた。 角松は、『SEA BREEZE 2016』のライナーノートで、藤田について「お人柄や人生は怒涛そのもので、その生き様やビジネス手法には世間的には賛否両論あるというような話も聞く」と語る一方、方向性の違いから別れた後何十年も会っていなかったところ、「一度だけ突然電話をくれて『お前頑張っているよな。角松みたいな音楽をやる奴が生き残ってくれているのは嬉しいよ』とおっしゃってくれた」、というエピソードを語り、改めて感謝の念を述べていた。 2009年11月20日、ホテルフロラシオン青山で「藤田浩一さんを偲ぶ会」が営まれ、関係者のみならず、多くのファンも参列し、その功績を偲んだ。参列者には藤田のプロデュース作品29曲が収録された非売品の2枚組CDが配布された。 プロデュースしたアーティスト プロデュースした年代順に表示 レイジー 角松敏生 ビッグバン オメガトライブ 杉山清貴&オメガトライブ(杉山清貴) 1986オメガトライブ(カルロス・トシキ) カルロス・トシキ&オメガトライブ ブランニュー・オメガトライブ(新井正人) 菊池桃子 ラ・ムー 井浦秀知 池田政典 ジャッキー・リン&パラビオン TWIN FIZZ(仁科かおり、中谷内映)※仁科は藤田の没後、バミューダ音楽出版の事業を継承した。 KAZZ(川上和之) 脚注・出典 外部リンク 藤田浩一 Official Fan Site バミューダ音楽出版 藤田浩一紹介ページ 日本の作詞家 日本の男性作曲家 日本の音楽プロデューサー 日本の実業家 過去の渡辺プロ系列所属者 千葉県出身の人物 千葉県立千葉中学校・高等学校出身の人物 1947年生 2009年没
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エリック・アントニオ・プルガル・ファルファン(, 1994年1月15日 - )は、チリ・アントファガスタ出身のサッカー選手。CRフラメンゴ所属。チリ代表。ポジションはMF。 クラブ歴 アントファガスタに生まれ、CDアントファガスタの下部組織に入団した。2011年、15歳でプリメーラBの試合に出場しプロ初出場。その後2013年にレギュラーとしてトップチームメンバーとなった。2013-14シーズン末に退団。 2014年6月28日にウニベルシダ・カトリカは40万米ドルで彼の権利の70%を買い取り、同クラブに3年契約で移籍。前半戦、チームの調子が上がらない中で彼は活躍をみせた。マリオ・サラスが加入するとポジションを移した。 2015年8月20日にセリエAのボローニャFCに4年契約で移籍、移籍金は明らかになっていない。背番号は5番を与えられた。 2019年8月9日、ACFフィオレンティーナと4年契約を締結した。 2022年2月3日、ガラタサライにシーズン終了までのレンタル移籍が発表された。 代表歴 2015年1月29日に行われたアメリカ合衆国代表戦で代表初出場。コパ・アメリカ・センテナリオにも出場した。 コパ・アメリカ2019初戦の日本戦でコーナーキックからヘディングシュートを決め、先制ゴールを挙げた。 タイトル 代表 チリ代表 コパ・アメリカ: 2016 参考文献 外部リンク チリのサッカー選手 サッカーチリ代表選手 CDアントファガスタの選手 ウニベルシダ・カトリカの選手 ボローニャFCの選手 ACFフィオレンティーナの選手 ガラタサライの選手 CRフラメンゴの選手 コパ・アメリカ・センテナリオ出場選手 コパ・アメリカ2019出場選手 コパ・アメリカ2021出場選手 FIFAクラブワールドカップ2022出場選手 アントファガスタ州出身の人物 1994年生 存命人物
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5,6,7,8-テトラヒドロキノリン()は、化学式で表される複素環式化合物の一種。ベンゼン環とピリジン環が一辺を共有して縮合したキノリンのうち、ベンゼン環が飽和水素結合した構造である。 用途 医薬品や農薬の合成中間体となる。 合成 キノリンを卑金属触媒で水素化して得た1,2,3,4-テトラヒドロキノリンを、貴金属触媒で異性化して得られる。九州大学の実験で、PhTRAP-ルテニウム錯体を不斉触媒として、2-フェニルキノリンのうちピリジン環を水素化して2-フェニル-1,2,3,4-テトラヒドロキノリンを得ようとしたところ、ベンゼン環が選択的に水素化され、2-フェニル-5,6,7,8-テトラヒドロキノリンが93%の収率で得られた。 安全性 引火点は86℃で、日本の消防法では危険物第4類第3石油類(非水溶性)に区分される 脚注 キノリン シクロヘキサン テトラヒドロキノリン 第3石油類
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ドゥアルテ・ヌノ・デ・ブラガンサ(, 1907年9月23日 - 1976年12月23日)は、ポルトガルのミゲリスタ王位請求者。1932年より最後のポルトガル王マヌエル2世より立憲派ポルトガル王位請求者の地位をも引き継ぎ、単独のポルトガル王位請求者となった。 生涯 ポルトガルのミゲリスタ王位請求者ミゲル2世とその2番目の妻であるレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク侯女マリア・テレザの間の第7子として、オーストリアの城で生まれた。2人の異母兄がおり、父にとっては3番目の息子だった。 祖父ミゲル1世は姪の女王マリア2世と王位を争って敗北していた。そのため一家はマリア2世によって王位継承権を剥奪され、国外に追放されていた。 ドゥアルテ・ヌノの次兄は1919年に死去し、1920年7月21日には長兄のヴィゼウ公が貴賤結婚のために相続人の地位を放棄した。その10日後の7月31日、ミゲル2世はミゲリスタ王位請求者の地位を12歳のドゥアルテ・ヌノに譲り、ドゥアルテ・ヌノはミゲリスタの支持する名目上のポルトガル王「ドゥアルテ2世()」を名乗るとともに、位を継承した。ドゥアルテ・ヌノはまだ幼いため、叔母のバルディ伯爵夫人アルデグンデスが1928年まで摂政役を務めた。このときポルトガルは既に共和制に移行しており、ブラガンサ=コブルゴ家のポルトガル王であるマヌエル2世(マリア2世の曾孫)は亡命者の身の上であった。 ミゲリスタ派とマヌエル2世を戴く立憲派とは誰が正統なポルトガル王かで対立しているだけでなく、理想とする政体(前者は絶対君主制を、後者は1910年まで続いた立憲君主制を支持していた)についてもその考えは相容れないものだった。 しかしマヌエル2世に後継者がなかったことが、分裂状態にあるポルトガルの王制支持者を合同させる機会を与えた。マヌエル2世とミゲル2世は協議を重ね、マヌエル2世の死後はドゥアルテ・ヌノを後継者とするという取り決めを行った。1927年にミゲル2世が、1932年7月2日にマヌエル2世が死去すると、ミゲリスタと立憲派からなる王制支持者の大多数はドゥアルテ・ヌノを唯一のポルトガル王位請求者と認めるに至り、ミゲリスタと立憲派の合同が実現した。 立憲派の一部はミゲリスタ系のドゥアルテ・ヌノを自分たちの王と認めず、別の国王候補を立てようとした。マリア2世の曾孫にあたるザクセン元王太子ゲオルク、マリア2世の弟のブラジル皇帝ペドロ2世の曾孫ペドロ・ガスタンなどの名前が挙がったが、いずれも擁立には至らなかった。 1950年、ポルトガルの共和国議会は1834年に出されたミゲル1世に対する、また1910年に出されたマヌエル2世に対する追放令を撤回し、ドゥアルテ・ヌノを家長とする旧ポルトガル王室に帰国を認めた。しかしドゥアルテ・ヌノはティオンヴィルで自動車事故に遭い、ポルトガルに帰国したのは1952年になってからであった。 1951年にポルトガル大統領アントニオ・オスカル・カルモナが死去した際、独裁的権限を有していた首相アントニオ・サラザールはドゥアルテ・ヌノを国王とした王政復古を考えたが、その後考え直して自らが大統領になることにした。 1974年、ドゥアルテ・ヌノは自分の邸宅であったサン・マルコス宮殿をコインブラ大学に譲り渡し、その2年後に死去した。 ドゥアルテ・ヌノはポルトガル王家家長として 、 の総長を務めたほか、マルタ騎士団や金羊毛騎士団の騎士にも叙任されていた。 結婚と子女 1942年10月15日、ブラジルのペトロポリスにおいて、ブラジル皇子ペドロ・デ・アルカンタラの次女と結婚した。マリア・フランシスカは先述したペドロ・ガスタンの妹であり、この縁組はミゲリスタ派と立憲派2系統の合同を象徴するものとして、王制支持者たちから非常に喜ばれた。マリア・フランシスカとの間に3男を儲けた。 ドゥアルテ・ピオ(1945年 - ) - ブラガンサ公、ブラガンサ家家長 (1946年 - ) - ヴィゼウ公 (1949年 - 2017年) - コインブラ公 脚注 参考文献 関連項目 王位請求者 ブラガンサ公 ポルトガル王位請求者 金羊毛騎士団員 マルタ騎士団員 ブラガンサ家 20世紀ポルトガルの人物 1907年生 1976年没
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ヒルディスヴィーニまたはヒルディスヴィン(古ノルド語:。「戦いの家猪」、「戦いの猪」の意)は、北欧神話の愛の女神フレイヤが持っているイノシシの名前。 一説には愛人の人間オッタルが変身した姿ともいわれている。 フレイヤは2匹の猫が牽く車を持っていてこれに乗って移動するがヒルディスヴィーニに乗ることもある。この点は双子の兄で豊饒神のフレイもイノシシのグリンブルスティを持っておりそれに乗って移動することと共通している。 しかし2人がイノシシがお気に入りなのはイノシシが子供をたくさん産むことから豊饒多産のヴァン神族の聖獣となっていたためだという。 脚注 関連項目 グリンブルスティ ヒュンドラの歌 参考文献 H.R.エリス・デイヴィッドソン(en)『北欧神話』米原まり子、一井知子訳、青土社、1992年、ISBN 978-4-7917-5191-4。 V.G.ネッケル他編『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男訳、新潮社、1973年、ISBN 978-4-10-313701-6。 山室静『北欧の神話 神々と巨人のたたかい』筑摩書房〈世界の神話 8〉、1982年、ISBN 978-4-480-32908-0。 北欧神話の生物 神話・伝説の豚・猪
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ヨーロッパタヒバリ(学名:Anthus petrosus)は、スズメ目セキレイ科に分類される鳥類。 関連項目 イギリスの野鳥一覧 ロシアの野鳥一覧 セキレイ科
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ゲルト・エンゲルス(Gert Engels)ことゲルト・ヨゼフ・アルトゥール・エンゲルス(, 1957年4月26日 - )は、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 来歴 父親はアマチュアレベルのサッカー選手で、引退後はコーチを務めていた。エンゲルスも幼い頃から父親の指導するチームと行動を共にし、練習を手伝っていた。 1975年、U-18西ドイツ代表に選ばれて5試合に出場した。エンゲルスのもとにはブンデスリーガのクラブから数多くのオファーが舞い込んだが、その中から、幼い頃よりファンだったボルシア・メンヒェングラートバッハに移籍した。しかし、ボルシア・メンヒェングラートバッハでは出場機会が回って来ないまま3シーズン在籍して契約を満了した。選手時代のエンゲルスは、ボルシア・メンヒェングラートバッハでプレーしながら、で少年選手の指導も行なっていた。 1979年にアーヘン大学に入学し、卒業後はケルン体育大学に進んだ。ケルン体育大学時代も複数の青少年チームの指導にあたり、また同時にアマチュアクラブでのプレーも続けていたため、それらを合わせれば生活できる程度の収入を得ていたという。大学卒業も近づいたある日、学内に掲示されていた選手募集を見たのがきっかけとなり、1990年に日本のアセノ・スポーツクラブ(水戸ホーリーホックの前身のひとつ)に入った。クラブからの報酬はさほど高いものではなかったが、居住費や食費が出て日本語も勉強できるという点に魅力を感じたと語る。アセノ・スポーツクラブ在籍時は選手およびコーチをしながら、スポーツメーカー主催のサッカー教室で散発的に子供たちへの指導を行ったりしていた。 この頃、たまたま日本に住んでいた幼馴染のドイツ人女性を介して、その夫で祖母井秀隆と知り合う。祖母井の紹介により1991年春より黒田和生の下で滝川第二高校サッカー部の特別コーチとなる。その後、ドイツサッカー連盟(DFB)からフースバルレーラー(最上級指導者ライセンス)コースの受講が認められたため日本を離れる。6ヶ月間に及ぶフースバルレーラーの受講期間中には、選手獲得のためにドイツを訪れていた横浜フリューゲルスコーチの木村文治と出会い、スカウティングに協力した。 横浜フリューゲルス時代 ライセンスを取得して日本に戻った後、横浜Fからサテライトコーチ就任のオファーがあり、Jリーグ元年の1993年にコーチに就任した。監督が頻繁に代わる中、彼は一貫してコーチであり続け、1998年はヘッドコーチを務めていたが、10月に前任のカルロス・レシャックの監督解任を受け監督に昇格。それから1月後、横浜Fと横浜マリノスが合併し、クラブが事実上消滅することが発表された。動揺が走る中、チームは合併発表以降、リーグ戦、天皇杯のすべての試合に勝利した。 この間、エンゲルスはホームゲーム最終戦のスピーチで「誰でもいい、助けてくれ!」と叫んでアピールするなどクラブ消滅に対して最後まで闘い、天皇杯の決勝の前日にも「ドイツではカップ戦で優勝したチームには沢山の企業からスポンサーになりたいとオファーがある。カップ戦優勝チームが消滅するなんてドイツではあり得ない」と語った。 市原・京都時代 翌1999年はゼネラルマネージャーの祖母井秀隆に請われてジェフユナイテッド市原の監督となったものの成績不振によりファーストステージ限りで解任された。 2000年からは京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)のヘッドコーチとなったが、前任の加茂周が解任されたのを受けてセカンドステージから監督に昇格、この年はチームのJ2降格を食い止めることは出来なかったものの翌2001年はJ2優勝を果たし、さらにJ1に復帰した2002年には朴智星や松井大輔を率い、天皇杯で優勝した。しかし2003年は退団した朴智星の穴を埋めきれず、開幕から10試合で2勝8敗の不振のため解任された。 浦和時代 2004年から4年2ヶ月の間、浦和レッドダイヤモンズのヘッドコーチを務める。エンゲルス自身監督経験豊富にもかかわらず、一歩下がって当時の監督であったギド・ブッフバルト、ホルガー・オジェックの片腕としてサポートする浦和にとって貴重な存在であった。 2008年3月16日、成績不振の責任とクラブ内の意思疎通の欠陥を問われたオジェックが解任されたことに伴い、監督に昇格した。これによって、Jリーグのクラブで指揮を執るのは4チーム目ということになった。就任後、守備の要である闘莉王をボランチで起用し、ユース出身の堤俊輔や、ブッフバルト体制からセンターバックとして起用されることが多かった細貝萌を本職のボランチで起用するなど、サプライズ起用や若手起用などを行うことでチームの活性化を図る。数々の策が功を奏し、第13節 G大阪戦までリーグ戦9試合負けなしの好成績を収め、下位に沈んでいたチームを上位まで引き上げた。しかし中断期間終了後は他チームに研究され始めたこともあってか、思うように白星を得られなくなり、ナビスコカップは予選リーグ敗退、連覇を目指していたACLもガンバ大阪に敗れて準決勝敗退、2年ぶりの奪還を目指した天皇杯も横浜F・マリノスに敗れて5回戦で敗退するなどとチームは低空飛行を続けた。 奇策にすがるようにも見える起用法や采配には選手やサポーターから批判が起こり、選手紹介の際にスタジアムがブーイングで鳴り響く事態に陥った。そして極めつけは当時の主力だった永井雄一郎がエンゲルスの采配と浦和フロントのコンセプトの無さを公然と批判する事態にも発展した(最終的に永井はこの年限りで浦和を退団し、清水エスパルスへ移籍した)。 また、最後の望みとなったリーグ戦も第32節清水戦、第33節G大阪戦に敗れ、翌日には名古屋が札幌に勝利したことによりチームは5年ぶりの無冠が決定した。また、リーグ戦順位が4位以内に及ばなかったことにより翌シーズンのACL出場も逃し、契約を1年残して解任を通告された。 その後 2011年10月よりモザンビーク代表の監督に就任した。2014 FIFAワールドカップ・アフリカ予選途中の2013年6月に成績不振を理由に解任された。 2018年1月8日に横浜F監督時代選手だった吉田孝行が監督を務めるヴィッセル神戸のヘッドコーチに就任した。 2018年12月、京都のコーチに就任すると発表された。2019年11月28日、契約満了により退任すると発表された。 2019年12月9日に2020年シーズンからINAC神戸レオネッサの監督に就任することが発表された。2021年2月22日、退任が発表された。 指導者として 元々ユース世代のコーチから出発しており、選手の育成能力や戦術的組織を作る能力は非常に高い。 天皇杯に強く、コーチとして1度(横浜F)、ヘッドコーチとして2度(浦和)、監督として2度(横浜F、京都)の計5回優勝している。 エピソード 日本滞在が長いため、インタビューでもほぼ全て日本語で答えている。なお、本人によればドイツ語と日本語を含めて6ヵ国語を話せるとのこと。 夫人はフィリピン人である。 愛煙家である。 選手経歴 1962年 - 1975年 ユース 1975年 - 1977年 ボルシア・メンヒェングラートバッハ SGデューレン99 アセノ・スポーツクラブ 指導者経歴 1975年 - 1989年 SGデューレン99ユース:コーチ 1990年 アセノ・スポーツクラブ:コーチ 1991年 - 1992年 滝川第二高校:コーチ 1993年 - 1998年 横浜フリューゲルス 1993年 :コーチ 1994年 :サテライト・コーチ 1995年 - 1998年10月 :コーチ 1998年10月 - 12月 :監督 1999年2月 - 1999年5月 ジェフユナイテッド市原:監督 2000年 - 2003年 京都パープルサンガ 2000年 - 2000年5月:ヘッドコーチ 2000年6月 - 2003年6月 :監督 2004年 - 2008年 浦和レッズ 2004年 - 2008年3月:コーチ 2008年3月 - 2008年11月 :監督 2011年11月 - 2013年6月 代表:監督 2018年 ヴィッセル神戸:ヘッドコーチ 2019年 京都サンガF.C.:コーチ 2020年 INAC神戸レオネッサ :監督 タイトル 指導者時代 横浜フリューゲルス 天皇杯全日本サッカー選手権大会1回(1998) 京都パープルサンガ J2リーグ:1回(2001) 天皇杯全日本サッカー選手権大会:1回(2002) 脚注 関連項目 Jリーグ監督経験者 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧 外部リンク ドイツのサッカー選手 ボルシアMGの選手 ドイツのサッカー指導者 横浜フリューゲルスの監督 京都サンガF.C.の監督 ジェフユナイテッド市原・千葉の監督 浦和レッドダイヤモンズの監督 モザンビークのサッカー ヴィッセル神戸の人物 INAC神戸レオネッサ ノルトライン=ヴェストファーレン州出身の人物 1957年生 存命人物
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上杉 二美(うえすぎ ふたみ、1951年1月7日 - )は、長野県出身の女優。劇団青年座所属。桐朋学園芸術短期大学部芸術科演劇専攻卒業。血液型はA型、身長158cm、体重45kg。趣味は剣道、調布の民謡朗読などのボランティア。作陽音楽短期大学ミュージカル科非常勤講師、東京文理学院高等部で講師を務める。 出演 テレビドラマ TBS Gメン'75 第333話 「悪魔を呼ぶ子供」(1981年) 新・天までとどけ2 3年B組金八先生 第4シリーズ(1995-1996年) - 石築サツキ(朋子の母) 役 第5シリーズ(1999-2000年) - 入船クニ子(力也の母) 役 うちの子にかぎって…2 第6話 - 牛島レイ子 役 華麗なる一族 月曜ミステリー劇場 十津川警部シリーズ36 河津・天城連続殺人事件(2006年1月9日) ホステス探偵危機一髪6「銀座の高層マンション建設反対殺人事件 死体の横に落ちた鍵…通り魔のゴリラ男だけが知っている警察も騙された盲点」(2004年5月31日) 金田一耕助シリーズ「神隠し真珠郎」 - 女中かず子 役 月曜ゴールデン 信濃のコロンボ事件ファイル2 戸隠伝説殺人事件(2014年11月24日) 愛の劇場 愛の断崖 フライパンの唄 ポーラテレビ小説 グッバイ・ママ ディア・フレンド フジテレビ おばさんデカ 桜乙女の事件帖 アテンションプリーズ - 掃除のおばちゃん 役 赤い糸の女(東海テレビ、フジテレビ)- 徳州麟平の母 役 日本テレビ 外科医有森冴子スペシャル 火曜サスペンス劇場 わが町9「妻殺しをたくらむ夫の眼前で妻がレイプ - 大都会の闇にうごめく悪の連鎖」(1997年10月14日) ドロ刑(2018年)- 浜田律子 役 NHK 大河ドラマ 武蔵 MUSASHI 少年ドラマシリーズ ユタとふしぎな仲間たち スキッと一心太助 テレビ朝日 はぐれ刑事純情派(1993年)- 田代三枝子 役 流転の王妃・最後の皇弟 特捜最前線第21話 土曜ワイド劇場 炎の警備隊長・五十嵐杜夫3 私の部屋に見知らぬ男の死体が!秘密を知る女は隊長の恋人!?(2005年7月16日) 終着駅の牛尾刑事VS事件記者・冴子13 家族の食卓(2013年12月28日) 私は代行屋! 事件推理請負人3 不倫医師殺人!銀座ホステスを襲う謎の黒革の手帳!?(2014年11月15日) テレビ東京 北アルプス山岳救助隊・紫門一鬼10「白馬・唐松岳殺人ルート」(2008年3月12日)- 岡野誠二 役 孤独のグルメ Season2第7話(2012年11月21日)- お母さん 役 らせんの迷宮〜DNA科学捜査〜 第5話(2021年11月12日) 関西テレビ ドウニチラヴ第8話 毎日放送 ウルトラマンコスモス第6話・怪獣一本釣り(2001年8月11日) 不明 サザエさん 映画 まあだだよ 春の雪 さくら隊散る - 羽原の母 役 CM 松下電工 味の素 ヤクルト サントリー BOSS7 ゼロックス 東芝 うず潮 カーサワデー エーボン化粧品 味の素ほんだし デビアスダイヤモンド パナソニック ビデオムービー 松下電工 クリーンシャワレ エスビー食品 5/8チップ オリエントコーポレーション 足利銀行 綜合警備保障 舞台 劇団青年座 桜姫東文章 - 入山 役 新版四谷怪談 - お政・お大 役 永遠の青空 - 元村葉子 役 仏田摩耶山開帳 三文オペラ - ポリー 役 将軍たちの夜 永遠の青空 からゆきさん 四谷怪談 新・四谷怪談 真夜中のブランコ 三島由紀夫 綾の鼓 いやいやながら医者にされ ブンナよ木からおりてこい 盟三五大切 近松心中考 ほととぎすほととぎす 金閣炎上 弥次喜多 宮城野 写楽考 オセロ あした天気になあれ 劇団風力写真機 外部リンク プロフィール - 青年座映画放送 青年座公演 映像・舞台 日本の女優 桐朋学園芸術短期大学出身の人物 長野県出身の人物 1951年生 存命人物
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白 慶花(ペク・ギョンファ、1992年11月11日 - )は、在日朝鮮人の元女子バスケットボール選手である。ポジションはセンター。 来歴 京都府出身。 京都朝鮮中高級学校中級部から桜花学園高校に進み、全国大会優勝を経験。 卒業後は筑波大でインカレ3位を経験後、アイシン・エィ・ダブリュ ウィングスにアーリーエントリーを経て加入。 2019年6月、平壌で行われた2020年東京オリンピックを目指す朝鮮代表の選考会に参加した。 2020年、トヨタ紡織サンシャインラビッツに移籍。 2023年、引退。 脚注 関連項目 バスケットボール選手一覧 筑波大学の人物一覧 京都府出身の人物一覧 外部リンク #12白慶花 - トヨタ紡織サンシャインラビッツ 北朝鮮の女子バスケットボール選手 在日外国人のバスケットボール選手 在日韓国・朝鮮人のスポーツ選手 トヨタ紡織サンシャインラビッツの選手 アイシン ウィングスの選手 筑波大学出身の人物 桜花学園高等学校出身の人物 京都府出身の人物 1992年生 存命人物
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月弓(げっきゅう) 弦月の別名。 ツクヨミの別表記。月弓命。 サカタインダストリィ#月弓・シリーズ (ゲーム『フロントミッション』に登場する兵器) 参考文献
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大嶋 春樹(おおしま はるき、2000年7月11日 - )は、兵庫県出身のサッカー選手。Jリーグ・Y.S.C.C.横浜所属。ポジションはDF。 来歴 神戸弘陵学園高校をへて、中京大学に進学。同大サッカー部では川地功起、水口湧斗らとプレーした。2022年12月19日、2023年シーズンからのY.S.C.C.横浜加入内定が発表された。 2023年3月5日、J3リーグ開幕戦のカターレ富山戦でJリーグデビューを飾った。 所属クラブ 米田SSC VIVO FC 神戸弘陵学園高等学校 中京大学 2023年 - Y.S.C.C.横浜 個人成績 |- |2022||中京大||16||他||colspan=2|-||colspan=2|-||1||0||1||0 |- |2023||rowspan="2"|YS横浜||15||rowspan="2"|J3||31||3||colspan=2|-||colspan=2|-||31||3 |- |2024||5|||||||||||||||| |- 31||3||colspan=2|-||colspan=2|-||31||3 colspan=2|-||colspan=2|-||1||0||1||0 31||3||colspan=2|-||1||0||32||3 |} 脚注 関連項目 横浜スポーツ&カルチャークラブの選手一覧 日本のサッカー選手 中京大学体育会サッカー部の選手 横浜スポーツ&カルチャークラブの選手 神戸弘陵学園高等学校出身の人物 兵庫県出身の人物 2000年生 存命人物
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マッキントッシュ・ラボ (McIntosh Laboratory, INC) はアメリカ合衆国の高級音響機器の設計および製造会社。マッキントッシュ (McIntosh) のブランド名で知られる。 歴史 マッキントッシュ・ラボ社は1949年創立。創立者フランク・H・マッキントッシュ。創業地ワシントン。所有地はニューヨーク州ビンガムトン。代表者はチャーリーズ・M・ランドール。 1990年、クラリオンの米国法人が買収した。さらに2003年5月には持株会社であるディーアンドエムホールディングスが買収し、傘下ブランドとなった。日本への輸入・販売・サポート業務はそれまでエレクトリが行っていたが、2007年4月1日にディーアンドエムホールディングスが新たに設立した日本法人子会社、株式会社マッキントッシュ・ジャパンに移された。 2012年10月に高級オーディオメーカー(ブランド)を多く傘下に持つイタリアの持株会社がD&Mホールディングスから買収し、自社の傘下に収めた。日本での輸入販売権はまたエレクトリに戻され、サポート業務を引き継ぐことになった。 製品 アンプ製品については、「ブルーアイズ」と呼ばれる左右パワーメーターが主な外観的特徴となっている。 現行製品 スピーカー コンパクトディスクプレーヤー アンプ カーオーディオ(カーオーディオ事業の日本輸入権はクラリオンに残っている) McIntosh AP1 Audio Player - iOS向け音楽再生アプリケーション マッキントッシュ製アンプのフロントパネルのランプやメーターを再現している公式アプリケーション。 純正システムへの採用 日本国内においては、富士重工業(現・SUBARU)がレガシィ(3 - 5代目[BH/BE型 BP/BL型 BR/BM型])のメーカーオプション扱いでマッキントッシュオーディオを採用したことで知られる。 過去の日本法人 商号株式会社マッキントッシュ・ジャパン(英称: McIntosh Japan Co., Ltd.) 本社〒210-8569 神奈川県川崎市川崎区日進町2番地1 設立年月日2007年4月1日 株主株式会社ディーアンドエムホールディングス 100% 脚注 外部リンク アメリカ合衆国の音響機器メーカー アメリカ合衆国の自動車部品サプライヤー 音響機器メーカー スタジオ関連機材メーカー エポニム
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住信SBIネット銀カード株式会社 (SBI Sumishin Net Bank Card Co., Ltd.) は、住信SBIネット銀行株式会社の完全子会社。かつてはクレジットカード事業を行っていた。 概説 2009年に設立。2010年4月にソニーファイナンスインターナショナルからCPコスメティクスとの提携クレジットカード事業を会社分割により譲受したが、2023年3月31日をもって全てのサービスを終了している。親会社の住信SBIネット銀行とサービス面で提携しているクレジットカード「ミライノカード」は自社発行もしくはライフカードとの提携カードであり、ネット銀カードとは接点がない。 かつて発行していたクレジットカード 提携カード CPコスメティクス - ソニーファイナンスインターナショナルより会員と債権を譲受 加盟する信用情報機関 クレジットカードなどの信用審査を行う為に以下の信用情報機関に加盟する。 株式会社シー・アイ・シー(CIC) 脚注 外部リンク 住信SBIネット銀カード かつて存在した日本のクレジットカード事業者 東京都港区の企業
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スリュムヘイム(トリルハイムとも。)とは、北欧神話に登場する巨人スィアチの館である。その名前は「轟く家」("crash-home")、「雷の鳴る家」("Thunder Home")、「騒がしい家」("noisy-home")を意味する。 スリュムヘイムはヨトゥンヘイムの山合いにあった。スィアチが雷神トールに倒された後は、娘のスカジが一人で暮らしていたようである。『古エッダ』の『グリームニルの言葉』において神々の住居が列挙されるが、このスリュムヘイムは6番目に挙げられ、そこでスカジは「神々の麗しい花嫁」と呼ばれる。 『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第23章によれば、スカジは海神ニョルズと結婚したが、彼女はスリュムヘイムに住みたいと言った。しかしニョルズは自分の館ノーアトゥーンで暮らしたいと言った。そこで2人は7日ずつ交互に互いの館で暮らすことにした。しかしノーアトゥーンは港にあったため、スカジは海鳥の声がうるさくて眠れなかった。ニョルズはスリュムヘイムで暮らす間、狼の遠吠えが我慢ならなかった。2人は離婚し、スカジはスリュムヘイムでまた暮らすようになった。 一説には、弓の神ウルとスカジが出会って意気投合し、スリュムヘイムで同居するようになったとも言われている。 脚注 関連項目 スカジ (北欧神話) スィアチ ヨトゥンヘイム 参考文献 V.G.ネッケル他編『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男訳、新潮社、1973年、ISBN 978-4-10-313701-6。 松村武雄編著『北欧の神話伝説(II)』名著普及会〈世界神話伝説大系 30 〉、1980年改訂版、ISBN 978-4-89551-280-0。 Byock, Jesse (Trans.) (2006). The Prose Edda. Penguin Classics. ISBN 978-0-14-044755-2. Orchard, Andy (1997). Dictionary of Norse Myth and Legend. Cassell. ISBN 978-0-304-34520-5. Simek, Rudolf (2007) translated by Angela Hall. Dictionary of Northern Mythology. D.S. Brewer. ISBN 978-0-8599-1513-7. 北欧神話の地名 神話・伝説の建築物
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三輪 祐見子(みわ ゆみこ、1969年4月23日 - )日本のテレビプロデューサーである。株式会社テレビ朝日総合編成局ドラマ制作部長。 来歴 東京都出身。早稲田大学卒業後、1992年にテレビ朝日入社。同期には六車俊治など。 広報部に配属され、『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』『美少女戦士セーラームーン』を担当。1995年に制作部へ異動し、『土曜ワイド劇場』の担当プロデューサーとなる。その後も深夜枠ドラマなどのプロデュースを経て、『エースをねらえ!』より本格的に連続ドラマを手掛けるようになる。『DOCTORS〜最強の名医〜』第3部から2018年SP、『刑事7人』第1部で黒田徹也と共にゼネラルプロデューサーを担当するなど、医療ドラマや刑事ドラマを手がけた。 2016年より『おっさんずラブ』の製作総指揮(ゼネラルプロデューサー)を担当し、2019年度エランドール賞(プロデューサー賞・奨励賞)を受賞。『おっさんずラブ』のプロデューサー貴島彩理は三輪のことを、内山聖子とともにテレビ朝日の女性ドラマプロデューサーの道を切り開いたスタープロデューサーと述べている。 2021年現在もドラマを担当する一方で、総合編成局の管理職の立場からシンエイ動画の非常勤取締役を務めたり、『RE-MAIN』の立ち上げに参画するなど、アニメーション製作にも僅かながら関与している。 作品リスト 脚注 日本のテレビプロデューサー テレビ朝日の人物 早稲田大学出身の人物 東京都出身の人物 1969年生 存命人物
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2005年日本グランプリ(2005 Japanese Grand Prix)は、2005年F1世界選手権第18戦として、2005年10月9日に鈴鹿サーキットで決勝レースが開催された。 概要 前戦ブラジルGPにて、ルノーのフェルナンド・アロンソがドライバーズチャンピオンを獲得。コンストラクターズタイトルはマクラーレンがルノーを2ポイントリードした接戦のまま、残り2戦を迎えた。 日本GP前の会見にて、ホンダがBARの全株式買収(フルワークス化)を発表。さらに、来期より参戦する新チームに対してエンジン供給を行う用意があると発表した。この新チームはのちにスーパーアグリと判明するが、テレビ解説者として鈴鹿入りした鈴木亜久里は、この時点では噂を否定していた。 テレビ放送は、フジテレビ系列が中継する日本GPとしては初の生放送となった。フジテレビ系列が日本国内で開催したF1グランプリを生中継するのは、1994年にTIサーキット英田で行われたパシフィックGP以来、11年ぶりのことであった。 予選 土曜日午前のフリー走行はウェットコンディションで行われ、フェラーリのミハエル・シューマッハがS字コーナーで足をすくわれてクラッシュした。午後の予選開始時には雨は上がっていたが、まだ路面は濡れているため、各マシンは浅溝のインターミディエイトタイヤを装着して出走した。 しかし、セッション途中から再び激しい雨が降り始め、終盤に出走したドライバー(前戦の上位入賞者)はスロー走行しかできなかった。その結果、13番目にアタックしたトヨタのラルフ・シューマッハが、2年連続となる日本GPのポールポジションを獲得。14番目にアタックしたBARのジェンソン・バトンが2位となった。思わぬ天候の演出により、トヨタとホンダ(エンジン)が日本GPのフロントローを分け合う形になった。 ラルフ・シューマッハの前にアタックしたレッドブルのクリスチャン・クリエンが自己ベストの4位を獲得し、BARの佐藤琢磨が5位につけた。 コンストラクターズタイトルを争うマクラーレンとルノーは直に雨の影響を受け、ジャンカルロ・フィジケラが3位につけた以外は、フェルナンド・アロンソ、キミ・ライコネン、ファン・パブロ・モントーヤの3人が16 - 18位と下位グリッドに沈んだ。 結果 決勝 新旧王者の接戦 決勝当日の日曜日は好天に恵まれた。ラルフ・シューマッハがポールポジションから好スタートを切り、フィジケラがバトンをかわして2位に浮上した。後方スタートのミハエル・シューマッハは7位、アロンソは8位、ライコネンは12位にジャンプアップした。佐藤とバリチェロはスタート直後に1コーナで接触し、大きく順位を落とした。モントーヤはオープニングラップの最終コーナーでクラッシュし、5周に渡りセーフティカーが導入された。 レース再開後、9周目のシケインでアロンソがクリエンをパスするが、勢い余ってシケインをショートカットした。レースコントロールはルノーに対してペナルティの可能性を通達し、アロンソは一旦クリエンを先行させてから再び抜かねばならなかった。 トップのラルフは12周目に最初のピットイン。燃料搭載量を減らす3ストップ作戦を予定していたが、セーフティカー走行で作戦が狂い、順位を落としてしまう。以後、レース終盤までフィジケラがトップをキープし、後方でバトンとウィリアムズのマーク・ウェバーが接戦を展開した。 5位争いはミハエル、アロンソ、ライコネンの3台が接近戦を演じる。19周目、アロンソはバックストレートでミハエルのスリップストリームにつき、超高速コーナー130Rへの飛び込みでアウト側からかわす大技を決めた。ライコネンも最初のピットイン後、30周目の1コーナーでアウト側からミハエルを抜いた。アロンソはピットイン後ポジションを落としたが、再びミハエルの背後に迫り、33周目にライコネンと同じく1コーナーアウト側からこの日2度目のオーバーテイクを成功させた。上位6台はフィジケラ-バトン-ウェバー-ライコネン-アロンソ-シューマッハの順となる。 最終ラップの逆転劇 フィジケラは2位以下を20秒近く離して、38周目に2回目のピットイン。40周目にはバトンとウェバーが同時ピットインしたが、ウェバーの給油作業の方が早く終わり、ふたりの順位が逆転した。ライコネンはピットインを最後まで遅らせ、ファステストラップを記録しながらコース上でマージンを稼いだ。45周目にピットインすると、ウェバーとバトンをかわして2番手でコースに復帰。トップのフィジケラとは5.4秒の差があったが、フィジケラはタイヤの磨耗でペースが上がらず、両者の差は急速に縮まっていった。 49周目、アロンソがホームストレートでウェバーに並びかけ、イン側の芝生にタイヤを落としながらも怯まず3位に浮上した。 ライコネンはフィジケラよりも2秒速いラップタイムを出し、残り3周で背後に追いついた。52周目、フィジケラは130Rで周回遅れに捉まり、2台はテール・トゥ・ノーズの状態で最終ラップに突入した。ホームストレートでライコネンはアウト側にラインを変え、フィジケラの抵抗にも構わず1コーナーアウト側から抜き去り、ついにトップに浮上。ライコネンはフィジケラを引き離し、劇的な展開で今季7勝目を達成。チェッカーを受けた直後に両手を挙げ、喜びを表現した。 ライコネンとアロンソは予選のハンディを挽回し、F1では抜きにくいサーキットといわれる鈴鹿で果敢なオーバーテイクショーを披露した。レース後のインタビューで、ライコネンは「自身のベストレース」と語り、アロンソは3位という結果に不満だったものの、ミハエルとの130Rでのバトルを「最高の瞬間だった」と語った。 デビュー以来、日本GPにおいて3年連続入賞していた佐藤は、スタート直後の1コーナでコースアウトを喫し、9周目にはシケインでトヨタのヤルノ・トゥルーリに接触した。その後走行を続け1周遅れの13位でフィニッシュしたものの、トゥルーリとの接触がレース後に危険行為と判断され失格となった。トヨタ代表の富田務とリタイアしたトゥルーリは、佐藤の強引な仕掛けを強く非難した。 コンストラクターズタイトル争いではルノーが逆転し、2点リードして最終戦中国GPを迎える。 結果 *Ret:リタイア、DSQ:失格 記録 ポールポジション: ラルフ・シューマッハ - 1'46.106 ファステストラップ: キミ・ライコネン - 1'31.540 ラップリーダー: ラルフ・シューマッハ (1-12周目) ジャンカルロ・フィジケラ (13-20周目, 27-38周目, 46-52周目) ジェンソン・バトン (21-22周目, 39-40周目) デビッド・クルサード (23周目) ミハエル・シューマッハ (24-26周目) キミ・ライコネン (41-45周目, 53周目) 脚注 2005 2005年のF1レースレポート 2005年の日本のモータースポーツ 鈴鹿サーキット 2005年10月
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中山 宏子(生年月日不明)は、かつて劇団「WAHAHA本舗」に所属していた女優。 1984年の第2回公演『福祉』からWAHAHA本舗に参加。1991年の第15回公演『シェイクスピアだよ!全員集合!』を以て俳優業を休業した。主なテレビ番組出演は「冗談画報」(フジテレビ)、「河田町プッツン意思表示」(フジテレビ)など。当時同劇団員のなんきんと婚姻関係があった。主なビデオ出演は「竹中直人の放送禁止テレビ」。 脚注 日本の女優 過去のWAHAHA本舗所属者 生年未記載
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浜町(はまちょう、はままち) はまちょう 廃止自治体 浜町 (佐賀県) - 佐賀県藤津郡に所在。現:鹿島市。 浜町 (熊本県) - 熊本県上益城郡に所在。現:山都町。 その他の地名 浜町 (釧路市) - 北海道釧路市の地名。 浜町 (苫小牧市) - 北海道苫小牧市の地名。 浜町 (函館市) - 北海道函館市の地名。 浜町 (洞爺湖町) - 北海道虻田郡洞爺湖町の地名。 浜町 (豊浦町) - 北海道 虻田郡豊浦町の地名。 浜町 (浦河町) - 北海道浦河郡浦河町の地名。 大湊浜町 - 青森県むつ市の地名。 浜町 (釜石市) - 岩手県釜石市の地名。 浜町 (気仙沼市) - 宮城県気仙沼市の地名。 浜町 (太田市) - 群馬県太田市の地名。 浜町 (加須市) - 埼玉県加須市の地名。 浜町 (銚子市) - 千葉県銚子市の地名。 浜町 (船橋市) - 千葉県船橋市の町名。 日本橋浜町 - 東京都中央区の町名。 浜町 (横浜市) - 神奈川県横浜市鶴見区の町名。 浜町 (川崎市) - 神奈川県川崎市川崎区の町名。 浜町 (小田原市) -神奈川県小田原市の地名。 浜町 (新潟市) - 新潟県新潟市東区の地名。 浜町 (一宮市) - 愛知県一宮市の地名。 浜町 (刈谷市) - 愛知県刈谷市の地名。 浜町 (蒲郡市) - 愛知県蒲郡市の地名。 浜町 (摂津市) - 大阪府摂津市の地名。 浜町 (芦屋市) - 兵庫県芦屋市の町名。 浜町 (西宮市) - 兵庫県西宮市の地名。 浜町 (出雲市) - 島根県出雲市の地名。 浜町 (宇部市) - 山口県宇部市の地名。 浜町 (五島市) - 長崎県五島市の地名。 はままち 浜町 (石狩市) - 北海道石狩市の地名。 浜町 (羽幌町) - 北海道苫前郡羽幌町の地名。 浜町 (黒石市) - 青森県黒石市の地名。 浜町 (鰺ヶ沢町) - 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町の地名。 浜町 (滑川市) - 富山県滑川市の地名。 浜町 (能美市) - 石川県能美市の地名。 浜町 (半田市) - 愛知県半田市の地名。 浜町 (碧南市) - 愛知県碧南市の地名。 浜町 (四日市市) - 三重県四日市市の地名。 浜町 (大津市) - 滋賀県大津市の地名。 浜町 (舞鶴市) - 京都府舞鶴市の地名。 浜町 (宮津市) - 京都府宮津市の地名。 浜町 (門真市) - 大阪府門真市の地名。 浜町 (大東市) - 大阪府大東市の地名。 浜町 (守口市) - 大阪府守口市の地名。 浜町 (倉敷市) - 岡山県倉敷市の地名。 浜町 (高梁市) - 岡山県高梁市の地名。 浜町 (丸亀市) - 香川県丸亀市の地名。 浜町 (須崎市) - 高知県須崎市の地名。 浜町 (土佐清水市) - 高知県土佐清水市の地名。 浜町 (北九州市門司区) - 福岡県北九州市門司区の地名。 浜町 (北九州市若松区) - 福岡県北九州市若松区の地名。 浜町 (大牟田市) - 福岡県 大牟田市の地名。 浜町 (苅田町) - 福岡県京都郡苅田町の地名。 浜町 (鹿島市) - 佐賀県鹿島市の地名。 浜町 (長崎市) - 長崎県長崎市の地名。地元では「はまのまち」とも呼ばれる。 浜町アーケード - 長崎県長崎市にある商店街。 浜町 (水俣市) - 熊本県水俣市の地名。 浜町 (山都町) - 熊本県上益城郡山都町の大字。旧・矢部町中心地の地名で商店街の名称にも使われる。 浜町 (別府市) - 大分県別府市の地名。 浜町 (豊後高田市) - 大分県豊後高田市の地名。 浜町 (延岡市) - 宮崎県延岡市の地名。 浜町 (日向市) - 宮崎県日向市の地名。 浜町 (鹿児島市) - 鹿児島県鹿児島市の町名。 浜町 (阿久根市) - 鹿児島県阿久根市の地名。 浜町 (敷根村) - 鹿児島県姶良郡敷根村の大字。1954年(昭和29年)に敷根村が国分町に編入されたのに伴い大字麓と統合し大字敷根となった。現在の霧島市国分敷根の一部にあたる。
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昭明町(しょうめいちょう)は愛知県名古屋市中川区にある町名。現行行政地名は昭明町1丁目から昭明町5丁目。住居表示未実施。 地理 名古屋市中川区の南東部に位置し、東に松年町、西に明徳町、北に昭和橋通、南に港区丸池町と接する。 歴史 世帯数と人口 2019年(平成31年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 学区 市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。 施設 ヤマダ電機 家電住まいる館YAMADA名古屋本店 名阪近鉄バス 名古屋営業所 昭明公園 その他 日本郵便 郵便番号 : 454-0855(集配局:中川郵便局)。 脚注 関連項目 名古屋市の地名 中川区の町・字
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SARI(サリ)は、日本の女性シンガーソングライター。 概要 愛知県を中心に活動するインディーズ女性シンガーソングライター。2012年3月、インディーズレーベルStudio SoCoから楽曲『星が照らすキミ feat.SARI』でデビューする。 楽曲が発売された当時、愛知・岐阜・三重内で、ヒップホップ、R&B等ジャンル内で最も話題を呼んでいたと言われているCLUBイベント『FLY AND FLASHY』に過去出演していたアーティストとしても知られている。 ディスコグラフィ 配信 『星が照らすキミ feat.SARI』(2012年3月7日) 脚注 日本の女性シンガーソングライター 日本の女性歌手 日本のR&B・ミュージシャン 存命人物
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南部山健康運動公園(なんぶやまけんこううんどうこうえん)は、青森県八戸市にある都市公園(総合公園)である。 概要 南部山健康運動公園は通称南部山公園と呼ばれている、八戸市河原木の八戸北バイパス沿いに位置する。23haの公園敷地内には、体育館、温水プール、トレーニングジム、テニスコート、多目的広場などが整備されている。 アクセス 八戸自動車道:八戸インターから車で約20分 八戸自動車道/百石道路:八戸北インターから車で約5分 八戸市中心市街地から車で約20分 東日本旅客鉄道(JR東日本)・青い森鉄道:八戸駅から車で約20分 周辺 八食センター(車で10分程度) 八戸北インター工業団地 ハイテクパーク 脚注 外部リンク 南部山健康運動公園 東北地方の運動公園 八戸市のスポーツ施設 青森県の公園 八戸市の地理
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大野 ツトム(おおの ツトム)は、日本の漫画家。2022年より『ヤングガンガン』(スクウェア・エニックス)にて、『騎士団長のエルフさんだって乙女がしたい。』を連載している。 来歴 2011年、『チャンピオンRED』(秋田書店)10月号よりアクション作品の『閃槍のリオネ』の連載を開始。大野にとって同誌初登場作品となる。2013年、『漫画アクション』(双葉社)17号より「尻尾が生えた少女」が戦うバトルアクション『しっぽ!エンハンスメント』の連載を開始。2015年、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて堅物な男子高校生と義母のラブコメディ作品『茄子とアルタイル』の連載を開始し、同年に連載を終了。 2016年、『ヤングアニマル』(白泉社)22号より和風ファンタジーの『斑丸ケイオス』の連載を開始し、2017年に連載が終了となる。2019年、『ヤングガンガン』(スクウェア・エニックス)4号より犬とバディを組む冒険活劇『テツヲベルッタ』の連載を開始。2021年、同誌にて読み切り「騎士団長ギルガさんは乙女がしたい」を掲載し、2022年より同誌にて、誌面によると「読み切り版をパワーアップした」という『騎士団長のエルフさんだって乙女がしたい。』の連載を開始。 作品リスト 連載漫画 ネム×ダン(『月刊COMICリュウ』2008年5月号 - 2009年1月号、全1巻) - 不定期連載 夕ばえ作戦(原作:光瀬龍、脚色:押井守、『月刊COMICリュウ』2009年2月号 - 2011年1月号、全4巻) 閃槍のリオネ(『チャンピオンRED』2011年10月号 - 2012年3月号) - 未単行本化 TIGER&BUNNY -The Beginning-(原作:サンライズ、『ニュータイプエース』Vol.14 - vol.17、全2巻) しっぽ!エンハンスメント(『漫画アクション』2013年17号 - 2014年13号、全2巻) 茄子とアルタイル(『ビッグコミックスピリッツ』2015年7号 - 2015年44号、全2巻) 斑丸ケイオス(『ヤングアニマル』2016年22号 - 2017年24号、全3巻) テツヲベルッタ(『ヤングガンガン』2019年4号 - 2020年13号、全3巻) 騎士団長のエルフさんだって乙女がしたい。(『ヤングガンガン』2022年22号 - ) - 読み切りから連載化。 読みきり漫画 仲本の類(『アオハル』第0号) - 「青春とヒロイン」がテーマ。 タイトル不明(『震災に負けるな!東日本project』、2011年8月) - チャリティ同人誌に漫画寄稿。 タイトル不明(原作:サンライズ、『ニュータイプエース』Vol.1掲載、『TIGER & BUNNY 公式コミックアンソロジー #01 It takes two to make a quarrel.(ケンカは一人ではできない)』2011年) - 『TIGER & BUNNY』のアンソロジー寄稿作品。 信長ファイト(『アオハル "sweet"』、2012年) タイトル不明(『水着アクション』2013年) - 双葉社の合同誌寄稿作品。 鉄のゴーレム(『ヤングガンガン』2016年5号) - 『ヤングガンガン』初登場作品。 騎士団長ギルガさんは乙女がしたい(『ヤングガンガン』2021年19号) その他 イラスト(『pixiv年鑑2011オフィシャルブック』収録、2011年9月30日発売、エンターブレイン) 翠星のガルガンティア(作品公式Twitterカウントダウンイラスト) まどか☆マギカ(コミケ89ローソン) 脚注 師匠 只野和子 外部リンク 日本の漫画家 生年未記載 存命人物
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『ニンゲンBOX~プレミア!新種バカ図鑑~』(ニンゲンボックス プレミア!しんしゅバカずかん)は、2006年3月にフジテレビ系列で放送された番組。フジテレビでは、2006年3月28日0:35から1時間放送された。『100人目のバカ』の続編にあたる。 概要 日本中の愛すべき人達を紹介する番組。100人目のバカシリーズでお馴染みの存在だったバカトップ3の中沢健・伊藤博樹・ますだまつり、森下晴夫やヒャクレンジャー等の近況やいいのまちUFOふれあい館(福島市飯野町青木)などが紹介された。 出演者 関根勤 倉田真由美 YOU 斉藤舞子(フジテレビアナウンサー) レポーター ビビる大木 戸部洋子(フジテレビアナウンサー) ナレーション 吉田伸男(当時 フジテレビアナウンサー) スタッフ 構成:渡辺健久、根垣寿美 音効:岡戸久幸(SPOT) TD:岩崎真澄(…from r) CAM:山下義人(…from r) VE:石井博文(…from r) EED:高野毅(ヌーベルPC)、石井謙作 MA:寺本征弘 ヘアメイク:目崎陽子(SUGAR) ロケ協力:GEISAI実行委員会 協力:浅井企画 リサーチ:フリード、100バカ制作委員会 スタジオ協力:Tri-1スタジオ 編成:渋谷謙太郎(フジテレビ) AD:今井貴公 ディレクター:安達敏春、鈴木博久、安藤茂寛 演出:三澤隆之 プロデューサー:柴田明廣、大槻泰輔 制作協力:サラダボウル 制作著作:フジテレビ 2006年のテレビ番組 (日本) フジテレビの深夜番組の歴史 フジテレビの特別番組 フジテレビのバラエティ番組の歴史 関根勤
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肥田 金一郎(ひだ きんいちろう、1874年7月2日 - 1936年8月11日)は、日本の実業家。父・肥田昭作が採掘権を獲得した福島県高玉鉱山を経営する傍ら、福島県馬産の要職に携わる。日本中央競馬会(JRA)福島競馬場に連なる福島競馬倶楽部の公認開催権取得に功績を残し、また後には1908年の馬券禁止以来苦境に陥っていた千葉県中山競馬倶楽部の地位向上に尽くし、日本の最高障害競走・中山大障害を創設するなど、のちに中央競馬の主要場となる中山競馬場の礎を築いた。政治面では、安達郡高川村長や安達郡会議員を務めた。住所は牛込区市谷甲良町41であった。 経歴 福島県産馬・競馬事業について 1874年、東京市に生まれる。1892年、旧制学習院中等科を卒業し、福島県高玉鉱山に入社、1919年まで経営に携わった。 馬好きだった昭作の影響もあって自身も馬をよく好み、福島在住の間、県馬産事業に深く関わった。1912年に安達郡高川村から産馬組合議員に選出されたのを初めとして、1917年には安達郡産馬畜産組合長に就任した。福島はかつて1万5000頭の馬を生産した本州第一の馬産地であったが、この当時は1万1000頭前後まで減少しており、これを憂えた前組合長・伊藤彌(わたる)がオーストラリアから牝馬の輸入を画策していた。しかし伊藤は計画実現を目前にして没したため、肥田がこの事業を引き継いで各方面との折衝を行い、1919年に第1回の輸入が実現、以後3度にわたって40頭の牝馬が持ち込まれ、競馬や馬匹改良に充てられた。これは福島県に「豪サラ」が持ち込まれた最初の例となった。1920年、肥田は畜産組合長および1915年から務めていた高川村長を辞し、翌1921年に馬政長官より産馬功労者表彰を受けた。 肥田は馬産地福島県に公認競馬を設置することにも成功した。創立以来経営不振が続いていた静岡県藤枝競馬倶楽部が開催権の売却を希望していることを知ると、県内有力者の説得に努め、1917年12月、権利買収に成功。翌1918年に公認競馬施行体・福島競馬倶楽部が発足した。肥田は1921年より会頭、1923年より副会頭となった。なお、1918年の福島開場以前は、開成山競馬場で開催が行われていたが、肥田はここで自身の所有馬に騎乗してレースに出走する「紳士騎手」としての顔もあった。 また、1920年に競馬協会(帝国競馬協会)の理事に当選し、理事長安田伊左衛門らと共に競馬法の制定に取り組んだほか、馬匹改良上重要でありながら管理がずさんだった馬の血統および能力登録の必要性を説き、協会事業として行わせている。 中山競馬倶楽部における業績 1926年、帝国競馬協会理事を辞した肥田は、千葉県の中山競馬倶楽部に招かれ、常務理事に就任した。これ以前、同倶楽部は葛飾村古作(現・船橋市古作)にあった競馬場を行徳町(現・市川市行徳)の海岸沿いへ移転することを計画していたが、その完成を目前にして関東大地震(関東大震災)が発生し、新競馬場は津波によって流失した。この被害によって中山競馬の開催は妨げられ、混乱に乗じた幹部同士の権力闘争も発生するなど、倶楽部は機能麻痺状態に陥っていた。1924年より理事長は欠員が続いており、常務理事は事実上の最高職であった。 肥田はまず新たな競馬場用地の確保に着手、旧競馬場のあった古作の別の土地を改めて候補に選んだ。倶楽部の内紛で長らく競馬開催ができず土地の賃借料支払いが滞っていたことから、周辺地権者の悪感情が強く交渉は難航したが、中山町々長中村勝五郎、加藤貞次、法典村々長高橋恒治といった地元有力者の協力を取り付け、翌年には契約締結に至った。続いて肥田は「東洋一の競馬場」を建設すべく独断で競馬場の着工申請を行ったが、承認理事会において常務理事・阿部純隆が「着工申請は肥田の越権行為である」として不信任動議を提出した。これを受け、肥田は直ちに農林相山本悌二郎に宛て、事態収拾の陳情書を送付。この書簡は「同倶楽部に纏綿たる情実を赤裸々に具陳し謹んで明鑑を仰ぎ、もって同倶楽部の刷新更正の御裁断を懇願する」として、相次ぐ権力闘争などの内幕を詳細に記したものであった。これに対し農林省畜産局は「紛擾に終始し競馬開催が行われないことは競馬法違反であり、12月末日までに正常開催が行われなかった場合、中山競馬倶楽部の公認を取り消す」旨の通牒を返した。ここに至り内紛は沈静化、16日後の10月23日には新生中山競馬場が着工された。その後も肥田に反感を持つ一派は工事妨害を行うなどして裁判にも発展したが、行政による調停もあり大事に至らず、昼夜兼行の工事によって約70日という日数で落成した。 翌年から行われた新競馬場による開催は活況を呈し、また、身元不審な人間も出入りしていた旧習を改め規則励行に務めたことも奏功し、従来「競馬界の癌」との世評まであった中山競馬倶楽部は急速な成長を遂げた。肥田はその後も常務理事として倶楽部を主導、1930年からは正式に理事長となり、死去するまでその職にあった。 中山大障害創設 古作の土地は、起伏に富んだ独特の地形であり、この上に建設された中山競馬場もまた、直線に急坂を備えるなどした独特のコース形態となった。肥田はこれに着目し、東京競馬倶楽部が東京優駿大競走(日本ダービー)を創設したことを機に、対抗する目玉の競走として、かねて腹案としていた障害の大競走創設を実行に移した。協力を仰いだ騎兵少佐・岡田小七によるコース設計は、距離4100m、大竹柵、大土塁、大生垣という三大障害など8つの障害で計10回の飛越を行い、高低差4.06メートルから5メートルの3つ坂路を2回ずつ上下するという、当時の障害競走の常識をはるかに越えたものであった。出走馬が集まらないであろう、人馬とも未熟であるため危険が伴う、といった反対意見も出たが、1934年12月5日に「大障碍特別競走」として第1回競走が行われた。出走馬4頭と少ない中で肥田の所有馬キンテン(稲葉幸夫騎乗)が初代の優勝馬となった。その後「大障害特別」は「中山大障害」と名を変えて春秋2回の開催となり、日本における障害の最高格競走(2001年以降、障害で唯一のGI級競走)として定着、春季競走は2001年より「中山グランドジャンプ」と改名されて国際競走となった。 このほか、中山競馬場では日本ダービーに先駆けて行われた4歳馬限定の本格的ステークス競走「中山秋季特別」(1929年創設)や、平地競走で日本最長距離の4000mで施行された「中山四千米」(1930年創設)など数々の名物競走が行われた。他の倶楽部ではこうした競走の副賞に銀杯を提供することが専らであったが、中山では陶製の花器や金属の馬像なども用意され、「とにかくこの倶楽部は変わったことをするので有名だ」(『競馬フアン』昭和12年12月号)とも評された。 死去 肥田は理事長在任中の1936年8月11日、直腸癌により62歳で死去した。その死後従六位を追贈され、翌1937年3月23日にはその功績を讃えて中山競馬場に胸像が建立された。また同年、松平頼寿を理事長として公認11倶楽部を統合した新組織・日本競馬会が発足。肥田は生前、松平と共に出席した臨時馬政調査会などの場において、全国倶楽部の統合組織を設立すべしとの主張を繰り返しており、死後その実現へ至る運びとなった。帝国競馬協会は肥田の葬儀に際し、「今春議会を通過したる競馬機構の変革今方に其の実施を見んとす 君は実に機構革新の主唱者なり」とその死を悼んだ。墓所は東京都港区南青山の玉窓寺で、青山霊園1-ロ-10側の道路沿いにあり、正面「肥田家之墓」。 賞詞など ※『馬事功労十九氏事蹟』の略歴より 1918年 - 畜産功労者表彰(中央畜産会、福島県産馬畜産組合連合会) 1921年 - 産馬功労者馬政長官表彰 1925年 - 紺綬褒章(高川村役場および村立小学校々舎の建築費用4800円余の寄付による) 1935年 - 観菊御会招待 関連項目 ワカタカ:肥田から中山競馬倶楽部理事の乾鼎一に譲渡されたのち、第1回日本ダービーの優勝馬となった。 出典 参考文献 山田仁市(編)『馬事功労十九氏事蹟』(日本馬事会、1942年) 日本中央競馬会(編)『日本競馬史 第3巻 - 各地競馬場の歩み』(日本中央競馬会、1972年) 中山競馬場70年史編集委員会(編)『中山競馬場70年史』(日本中央競馬会中山競馬場、1998年) 19世紀日本の実業家 20世紀日本の実業家 馬主 日本の競馬に関する人物 福島県の市町村長 福島県の郡会議員 従六位受位者 紺綬褒章受章者 学習院中・高等科出身の人物 東京都出身の人物 1874年生 1936年没
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ロジャー・ウィリアムソン(Roger Williamson、1948年2月2日 - 1973年7月29日)は、イングランド出身のレーシングドライバー。 来歴 1972年にイギリスF3を制覇。翌1973年はF2に参加していたが、F1ドライバーのジャン=ピエール・ジャリエがF2チャンピオン獲得を狙って、F2に専念。ジャリエの代役として、ウィリアムソンはイギリスグランプリでF1デビューを果たしたが、2周目に発生した多重事故に巻き込まれリタイアした。 死亡事故 デビュー2戦目となったオランダグランプリでウィリアムソンは悲劇に襲われた。8周目コース中盤のS字コーナーを通過した際タイヤトラブルからウィリアムソンのマーチ・731フォードはコースアウトしてガードレールにクラッシュした。そのガードレールが過去のマシンのクラッシュ跡でコースとは反対側に反っているという危険な状態だった。マシンは飛び上がって一度土手に乗り上げた後コースに転落して横転、さらに火災が発生した。横転後もマシンのスピードは衰えず、逆さまのままコースを燃え上がりながら滑っていき、ガードレール沿いのインコース脇にようやく停止した。同僚のデビッド・パーレイが救出のためにマシンを止めて駆け寄り、消火と救出を試みたが、ウィリアムソンは燃え盛るマシンの中で焼死してしまった。25歳没。F1デビューからわずか2戦、一度も完走を果たせないままの死であった。 ウィリアムソンが事故に遭いマシンが炎上、パーレイが救出しようとするが果たせず、レースを続けている他のドライバーに停車と救出への協力を求めるが無視され、目の前でウィリアムソンが焼死していくのが分かりながら肩を落として去る、という悲劇的な顛末は写真や映像として記録されており、鎮火後にコクピットの中からウィリアムソンを出そうとする写真も撮影されている。 後にパーレイは「あの時、彼はまだ生きてたんだ。僕に叫んでた。『For God's sake, David, get me out of here!!(頼むから、デビッド、俺をここから出してくれ!!)』って…」と語っている。事故発生後も現場のすぐ脇を走り続け、このレースの優勝者になったジャッキー・スチュワートは「レースが中断されない限り、私達は走り続けることしかできなかった」とコメントした。ニキ・ラウダも、「パーレイを見て、(ウィリアムソンが)無事脱出したと思ってた。まさか乗ってたなんて…」とコメントしている。 レース戦績 脚注 関連項目 モータースポーツ F1ドライバーの一覧 デビッド・パーレイ 外部リンク Roger Williamson biography イングランドのF1ドライバー マーチのF1ドライバー ヨーロッパF2選手権のドライバー 競技中に死亡したモータースポーツ選手 火災で死亡した人物 1948年生 1973年没
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陸軍治罪法(りくぐんちざいほう)は、廃止された日本の法律。大日本帝国時代に大日本帝国陸軍の軍人を主な対象に施行された軍法の一つである。 概要 1883年(明治16年)に太政官布告として設置された(明治16年8月4日太政官第24号布告)。 1888年(明治21年)には法律として全部改正され(明治21年10月2日法律第2号)、「陸軍治罪法執行規則(明治21年陸達第204号)」が追加された。 1890年に刑事手続法の一般法である治罪法に替わり刑事訴訟法(明治23年法律第96号)が制定され、また1908年に陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)が制定されたことから、刑訴法に習って訴訟手続を改正すべきとの法曹界からの意見を受け、1921年(大正10年)に「陸軍軍法会議法」(大正10年4月26日法律第85号)が設置され、これに伴い1922年(大正11年)4月に廃止。 構成(1883年) 第一章 総則 第二章 軍法会議ノ構成 第三章 軍法会議ノ権限 第四章 陸軍検察 第五章 審問 第六章 判決 構成(1888年) 第一章 総則 第二章 軍法会議ノ構成 第三章 軍法会議ノ権限 第四章 陸軍検察 第五章 審問 第六章 判決 第七章 再審 第八章 復権 第九章 特赦 関連項目 陸軍軍法会議法 陸軍監獄令 軍法会議 陸軍刑法 海軍治罪法 参考文献 官報附録「陸軍治罪法(明治16年太政官布告第24号)」、1883年。NDL。 官報「陸軍治罪法(明治21年法律第2号)」、1888年。NDL。 田山宗尭「陸軍治罪法執行規則(明治21年陸達第204号)」、『憲兵要規第1類』、1888年。NDL。 三浦裕史『近代日本軍制概説』信山社、2003年。 廃止された太政官布告・太政官達 廃止された日本の法律 日本の軍刑事手続法 大日本帝国陸軍 1883年の法 1888年の法 1922年に廃止された法
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SIGMA(シグマ)は、韓国でHIPHOPの最先端として名を馳せたBIGFLOの元メンバーZ-UK(ジウク)を中心に結成されたグローバルボーイズグループ。 楽曲制作からパフォーマンスまでメンバーが全プロデュースを手がけ、グループ名はSIGMA (読み方:シグマ)常に足し算をする記号=「Σ」「経験・実力・流行・人気」時代に沿って全てを足し算し、常に進化を遂げていく意味がある。 2021年1月26日にシングル「HIGHER」でデビュー!シングルには日本語Verの他に韓国語Verも収録されこの曲で日韓同時デビューとなる。 メンバー Z-UK(ジウク) リーダー 出身:韓国 プサン 担当:作曲・RAP・振付・音楽プロデューサー 生年月日:1月 27日 血液型:A型 身長:175cm Debut:2014年 BIGFLO「First Flow」 SHUN(シュン) 出身:日本 宮崎県 担当:ダンス・RAP 生年月日:10月 27日 血液型:A型 身長:178cm 趣味:ショッピング、ダンス Debut:2015年 SELLOUT CHANHYO(チャンヒョ) 出身:韓国 ソウル 担当:ヴォーカル 生年月日:1月 27日 血液型:B型 身長:178cm 趣味:サーフィン、歌、ゲーム 特技:テコンドー、キーボード、作曲 Debut:2020年 SIGMA PROJECT R.Y.U(リュウ) 出身:日本 長野県 担当:ダンス・RAP 生年月日:4月 2日 血液型:AB型 身長:180cm 趣味:ショッピング 特技:美味しいコーラを作れる Debut:2020年 SIGMA PROJECT ディスコグラフィ SIGMA Debut Single「HIGHER」(2021年1月26日) 「HIGHER-JP Ver-」 「HIGHER-KR Ver-」 「HIGHER-Instrumental-」 DM-0009 /DIAMOND MUSIC ¥1,500+Tax 脚注 外部リンク sigma-official Twitter OFFICIAL ΣSIGMA YouTube OFFICIAL ΣSIGMA Instagram OFFICIAL ΣSIGMA 韓国の音楽グループ コーラス・グループ 4人組の音楽グループ
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村上 昭夫(むらかみ あきお、1927年1月5日 - 1968年10月11日)は、日本の詩人。 生涯 岩手県東磐井郡大東町(現:一関市)出身。生地は現在の陸前高田市。両親は叔父と姪の関係であった。岩手中学校(現:岩手高等学校)を卒業。第二次世界大戦中、日本鋳造鶴見工場に学徒動員。工場の寮に募集斡旋があったことから満州国哈爾濱省官吏となるが、8月に終戦。ソ連のシベリアで二年間の過酷な抑留生活を送る。 1946年に帰国後、1947年に盛岡郵便局に勤務、労働組合機関誌を編集して小説や詩を発表する。しかし1950年に結核が発病し、退職を余儀なくされる。この結核との闘病生活は41歳で亡くなる最期まで続く。村上の創作活動は闘病生活の中、サナトリウムでの俳句から始まり、やがて同じサナトリウムに入院してきた詩人の高橋昭八郎の影響から詩に転じた。 処女詩集で唯一の詩集である『動物哀歌』は、村野四郎が序文と編集を担当し、第8回晩翠賞及び第18回H氏賞を受賞している。しかし贈呈式への出席は叶わなかった。 末弟で岩手放送の元ディレクターである村上成夫が評伝を書いている。同郷の詩人北畑光男が村上昭夫研究誌「雁の声」を主宰している。またコールサック社の「コールサック文芸・学術文庫」から『村上昭夫著作集』上下巻が刊行された。 略歴 1927年 岩手県東磐井郡大原町(現:一関市大東町)に生まれる 1939年 岩手中学校(現:岩手高校)入学 1950年 岩手医大サナトリウム入院 1954年 岩手県詩人クラブ結成会員 1959年 詩誌「La」の会入会、『動物哀歌』として作品発表。 1967年 第8回土井晩翠賞 1968年 第18回H氏賞受賞 詩集 『動物哀歌』思潮社 1967年 詩碑 村上昭夫詩碑(盛岡市立図書館) 関連人物 村野四郎 北畑光男 出典 外部リンク 村上昭夫詩碑 20世紀日本の詩人 岩手県出身の人物 シベリア抑留経験者 結核に罹患した人物 1927年生 1968年没
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IZU VILLAGE(伊豆ビレッジ、いずビレッジ)とは、静岡県伊豆の国市田京にある、時之栖が運営する複合リゾート施設。隣接する道の駅「伊豆のへそ」と一体的な関係にある。 概要 伊豆箱根鉄道の田京駅の南西、狩野川・国道414号と国道136号の狭間、修善寺道路の大仁中央ICの東隣に立地している。 2017年9月に、前身である「IZU・WORLD みんなのHawaiians」(旧・伊豆洋らんパーク)から改名して開業した。当初は御殿場高原ビールのレストラン「GKB & Village」のみだったが、同年12月には東隣に宿泊施設「HESO Hotel」(へそホテル)が開業。 2018年9月には、北部に「MERIDA X Base」がオープン。同年11月23日には、「道の駅 伊豆のへそ」の「伊豆いちごファクトリー」を中心としたリニューアルに合わせて、隣接する南端エリアに「伊豆・村の駅」(伊豆のへそ店)を併設した。 構成 MERIDA X Base - 自転車 GKB & Village - レストラン HESO Hotel(へそホテル) - 宿泊 伊豆・村の駅(伊豆のへそ店) (道の駅「伊豆のへそ」) 沿革 1976年(昭和51年) - 「伊豆洋らんパーク」開業。 2005年(平成27年) - 南方の駐車場の一角に、「道の駅 伊豆のへそ」が開業。 2009年(平成21年) - 時之栖が買収。 2012年(平成24年)5月2日 - 「IZU・WORLD みんなのHawaiians」に改称し、リニューアルオープン。 2017年(平成29年) 8月 - 「IZU・WORLD みんなのHawaiians」閉業。 9月 - 「IZU VILLAGE」(「GKB & Village」)開業。 12月 - 「HESO Hotel」(へそホテル)開業。 2018年(平成30年) 9月 - 「MERIDA X Base」開業。 11月 - 「道の駅 伊豆のへそ」が「伊豆いちごファクトリー」を中心にリニューアルオープン。合わせて隣接する南端エリアに「伊豆・村の駅」(伊豆のへそ店)を併設。 脚注 関連項目 時之栖 道の駅 伊豆のへそ 外部リンク IZU VILLAGE - 公式ウェブサイト GKB & Village - 公式ウェブサイト 伊豆いちごファクトリー - 公式ウェブサイト 伊豆の国市の建築物 2017年開業の施設
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白馬 毅(はくば たけし、1983年5月5日 - )は、モンゴル国ウランバートル市(出生地はトゥブ県)出身で陸奥部屋(入門時は立田川部屋)に所属した元大相撲力士。本名はアリオンバヤル・ウヌルジャラガラ(モンゴル語キリル文字表記:、ラテン文字転写:Ariunbayar Unurjargal)。身長186cm、体重127kg、血液型O型。得意手は左四つ、寄り、投げ。最高位は東小結(2010年7月場所)。2011年4月、大相撲八百長問題にて引退勧告処分を受け、引退した。 来歴 1998年12月に見習い生として陸奥部屋に入る。1999年末に外国人枠の影響で同じ時津風一門の立田川部屋に入門し、2000年1月場所において初土俵を踏む。同年9月21日に元関脇・青ノ里の立田川親方が停年で部屋を閉鎖したため、立田川部屋の他の所属力士と共に陸奥部屋へと移籍した。 2001年1月場所では7戦全勝で序二段優勝を果たす。新生・陸奥部屋としては初の優勝力士となった。三段目で足踏みしたものの、2003年1月場所に幕下へ昇進。小兵のため幕下中位で2年以上苦労したが、2006年に入ると幕下上位に定着し、同年11月場所には自己最高位の東幕下2枚目の位置で7戦全勝の成績を挙げて幕下優勝を果たし、翌2007年1月場所において新十両へと昇進した。 その2007年1月場所と続く3月場所でも勝ち越しを果たし、翌5月場所では負け越したものの続く7月場所では勝ち越した。しかし、7月場所と同年9月場所の間に行われた夏巡業の間に右膝を痛めてしまい、同年夏に右膝を手術した(そのため、右膝の半月板は現在では8割方欠落している状態である)。場所前に全く稽古ができない状況で迎えた同年9月場所では、前半は5連敗を喫したものの、途中から盛り返して8勝7敗と勝ち越した。翌11月場所では5勝10敗と大敗したものの、続く2008年3月場所では西十両3枚目で8勝7敗の成績を挙げ、翌5月場所において新入幕を果たした。 新入幕で迎えた2008年5月場所では西前頭16枚目の位置で4勝11敗と大敗し、1場所で十両へ陥落した。その後、2010年1月場所で10場所ぶりに再入幕を果たし、その場所で9勝6敗と幕内で初の勝ち越しを果たした。自身最高位の東前頭9枚目に上がった翌3月場所では、千秋楽に8勝目を挙げて勝ち越しを決めた。なお、9日目には高見盛を小褄取りで倒している。西前頭5枚目へ番付を上げた翌5月場所では、10日目に勝ち越し、2大関(日馬富士・琴欧洲)を初顔で破る活躍を見せ、10勝5敗という幕内で自身初めてとなる二桁勝利を挙げた。 翌7月場所で新三役となる東小結へと昇進するものの、横綱・大関(途中休場した魁皇を除く)陣に対して1勝もできず、その場所では4勝11敗と大きく負け越した。同場所の10日目にウランバートルにいる父親が急死したという訃報を受けて、千秋楽の翌日にモンゴルに帰国した。 2011年に発覚した大相撲八百長問題では、特別調査委員会から八百長に関与した人物として名前が挙がり、同年4月1日に開かれた日本相撲協会臨時理事会の結果、日本相撲協会から引退勧告を受けた。同様の処分を受けた他のモンゴル人力士や白鵬らと話し合った結果、引退届を提出し受理された。自身は引退に際して「僕は八百長はしていない。騒がせて申し訳ない。僕がやめることでこの問題が良くなり、日本の文化である相撲が良くなるのならば犠牲になっても構わない。日本の文化を愛していきます」と語った。同年4月7日に保志光と共にスーツ姿で日本相撲協会を訪れて最後の挨拶を行い、同年4月9日にモンゴルに帰国した。同年6月18日に、東京都内のホテルで自身の断髪式と結婚披露宴を同時に行った。現在は東京都内で母親が経営するモンゴル料理店を手伝っている。2017年の時天空の葬儀では時天空の遺影を運んでいる姿が伝えられた。 人物・エピソード 入門のきっかけは日本に住んでいた叔母(父親の姉)から「力士になってみない?」と言われたことと、元々叔母の知り合いが前・立田川親方と友人関係で、「体の大きな少年がいる」と誘われたことによる。「日本に対する憧れと、飛行機に乗ってみたい」という軽い気持ちで決意したが、「まさか入門するとは思わなかった」という。中学卒業後の1998年12月に来日。すぐに陸奥部屋に入門予定だったが、所属していた星誕期の日本帰化がなかなか実現できなかったため、1年間稽古を積みながら部屋で生活していた。この1年間は3ヶ月のビザが切れると10日間帰国するという日々を過ごしていたが、「辞めても帰るところがない」と辛抱を続けていた。 多くのモンゴル人力士とは異なり、モンゴル相撲の経験はなく、ごく普通の家庭で育った。親戚にもモンゴル相撲の力士はいなかった。入門以前のスポーツ歴は遊びでバスケットボールと柔道を2週間ほどやった程度。また、大相撲もたまにテレビで見る程度で、相撲や力士に対する強い憧れもなかった。 「白馬」という四股名は名古屋市在住で現在は故人の陸奥部屋の後援者が、「モンゴルと言えば“馬”、それと“白星”」ということにちなんで名付けた。同じ名前ということで長野県白馬村では後援会が作られた。 2008年10月に結婚し、2009年11月3日に長女が誕生したことを2010年に公表した。2021年現在は2男2女の父親となっている。夫人は同じモンゴル出身の時天空の妹にあたる。なお、母親のエンフトヤは2009年6月から両国でモンゴル料理店「ウランバートル」を経営している 。 主な成績 通算成績 通算成績:347勝303敗12休 勝率.534 幕内成績:55勝65敗 勝率.458 現役在位:67場所 幕内在位:8場所 各段優勝 幕下優勝:1回(2006年11月場所) 序二段優勝:1回(2001年1月場所) 場所別成績 八百長問題により中止 引退時の番付は2月28日発表の順席による。 幕内対戦成績 脚注 関連項目 小結一覧 外部リンク モンゴル出身の大相撲力士 陸奥部屋 八百長に関与した選手 永久追放されたスポーツ選手 在日モンゴル人 トゥブ県出身の人物 ウランバートル出身の人物 1983年生 存命人物
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高速えんがる号(こうそくえんがるごう) 北海道中央バスが運行するバス路線については、北海道中央バス札幌北営業所#高速えんがる号・特急北大雪号を参照。 道北バスが運行するバス路線については、道北バス#高速えんがる号・特急北大雪号を参照。 北海道北見バスが運行するバス路線については、北海道北見バス#高速えんがる号・特急北大雪号を参照。 遠軽町の交通 えんかる
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ファイラカ島(ファイラカとう、、jazīrät failakä)は、ペルシャ湾に位置するクウェートの島。 概要 地方区分はアースィマ県ファイラカに属し、首都のクウェート市から約20kmに位置する。クウェート有数の避暑地として国内外に人気がある。 1950年代の遺跡調査で古代ギリシャ文化が確認され、文化観光地としての開発も行われている。 湾岸戦争時、ファイラカ島全体はイラク軍の拠点であった。イラク軍撤退後はアメリカ合衆国海兵隊の演習基地として立ち入り禁止地域であったが、現在は制限が解除され住民は帰還している。しかし戦争時に破壊された社会基盤の復旧が完全に進んでおらず、島内各地で戦闘の跡を確認することができる。 ファイラカ(Failaka)は、古代ギリシャ語で「辺境地」を意味するファイラキオ("fylakio")に由来する。 歴史 紀元前3000年頃、独自のパンテオン、太陽信仰(参照:シャマシュ)、人身御供を行っていた。 紀元前3世紀、アレクサンドロス3世(大王)のインド遠征の際、古代ギリシャ人はエーゲ海のイカリア島に形が似ていることに因み、イカリア(Icaria)と名付け植民。 1990年のイラクによるクウェート侵攻時、約2,000人いた住民はすべて追い出され、イラク軍の拠点となった。翌年の湾岸戦争でアメリカ軍率いる多国籍軍が奪還した。 2002年、ファイラカ島で実施されたクウェート軍と海兵隊の合同演習のときに、イスラム原理主義を信奉するクウェート人によるアメリカ兵殺害事件が発生したが、治安は安定している。 交通アクセス フェリー「イカルス」がクウェートシティより運航している。 関連項目 外部リンク Kuwaiti-Slovak Archaeological Mission (KSAM) Overhead imagery nautical description BBC News article クウェートの島 ペルシャ湾の島 アジアの考古遺跡 アースィマ県
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ヴァレンシュタイン (Wallenstein)は、1970年代のいわゆるクラウトロックと呼ばれるようになる、1971年から1982年に活動したドイツのロック・バンド。下ラインラントのフィールゼンで結成され、後にメンヒェングラートバッハに拠点を置いた。 略歴 ヴァレンシュタインは1971年の夏に、(デュッセルドルフ芸術学園にて)野心的な芸術を学ぶ学生、フィールゼン出身のユルゲン・ドラゼ (Jürgen Dollase)によってBlitzkrieg (ブリッツクレイグ=電撃戦)のバンド名の下に結成された。彼はすでにクラシック音楽の訓練を受け、ピアノとダブルベースを演奏していたものの、スキッフルやジャズの編成で演奏していた。さらに、メンヒェングラートバッハ・ヘナホルトのPeter Gielen(Octopus Productions)と、ドラゼの後のロード・マネージャー兼イタリア人仲間であるCorrado Faccioniがバンドの基礎から関与していた。ヴァレンシュタインは、ドラゼとFaccioniが他のバンドからの最初のラインナップを集めたため、ある種の「テストチューブの子供」としてスタートした。グループの最初のソロ・ギタリストは、エルケレンツ出身で、今日では有名な天文学者として知られるヴォルフガング・ジンジャー・ステイニケだった。しかし、このスミディス・ブルース・バンドの元メンバーは、フィラデルフィア出身のアメリカ人、ウィリアム(ビル)・ジョセフ・バローンと交代した。ステイニケにとって物理学や天体物理学、数学の研究が最優先だったからだ。ユルゲン・ドラゼはすでにヒルデスハイムのハラルド・グロスコフを獲得し、ブルンスム出身のオランダ人、ジェリー・ベルカース(現在死去)をビル・バローンのすぐ後にバンドに引き入れていた。 「Blitzkrieg」という名前がすでに英国のバンドに使用されていた(英国の音楽出版社は「Blitzkreig」とスペルを間違えていたが…)のと、当時のドイツのレコード・レーベルでは政治的に正しい名前ではなかったため、三十年戦争の指揮官アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインからグループ名をいただき、1972年初めにバンドは誕生した。また、1972年初めには古典的なアート・ロックのデビュー・アルバムがリリースされた。それは1971年9月から12月までケルン近郊のストメルンにあるディーター・ディルクスのスタジオで録音され、以前のバンド名がそのままタイトルにされた。同年、ドイツのレコード・レーベル「ピルツ」が『マザー・ユニヴァース』をリリースし、デビュー・アルバム『ファースト (電撃戦)』(こちらも「ピルツ」レーベルから発売)を稲妻(Blitz)と同じくらい速く成功させた(注: 『マザー・ユニヴァース』のアルバム・カバーは、ハラルド・グロスコフが撮影したドラゼの祖母の肖像写真である)。 1978年に、ドラゼは音楽スタイルをかなり変えた後、バンドの全メンバーを置き換えた。1979年にイリヤ・リヒター (Ilja Richter)とのZDF放送におけるディスコ番組でのパフォーマンスをきっかけに、ドイツのポップ・チャートでシングル「Charline」が17位に到達した。そして、シングル「Don't Let It Be」(アルバム『Blue Eyed Boys』より)は、かなり成功し、売れ行きもかなり好調だった。1981年3月から6月まで、ヴァレンシュタインは最後のツアーを行った。グループは1982年、ついに解散した。 ディスコグラフィ アルバム 『ファースト (電撃戦)』 - Blitzkrieg (1972年) ※1971年録音 『マザー・ユニヴァース』 - Mother Universe (1972年) 『コズミック・センチュリー』 - Cosmic Century (1973年) 『ストーリーズ、ソングス&シンフォニーズ』 - Stories, Songs & Symphonies (1975年) 『雌雄同体』 - No More Love (1977年) Charline (1978年) Blue Eyed Boys (1979年) Fräuleins (1980年) SSSSS…Top (1981年) 脚注 外部リンク Official site of Jürgen Dollase (Tre Torri Verlag) Harald Grosskopf's Homepage Wolfgang Steinicke's Homepage ドイツのプログレッシブ・ロック・バンド 1971年に結成した音楽グループ 1982年に解散した音楽グループ
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中津道路(なかつどうろ)は、大分県中津市内に建設中の自動車専用道路(国道212号)である。将来的には地域高規格道路中津日田道路の一部を構成する。 2009年(平成21年)3月20日全線開通した。 概要 起点:大分県中津市犬丸 終点:大分県中津市伊藤田 全長:2.1 km 規格:第1種第3級 道路幅員 一般部・橋梁部(中小橋):暫定10.50 m(完成20.50 m) 橋梁部(長大橋):暫定9.50 m(完成19.50 m) 車線数:暫定2車線(完成4車線) 車線幅員:3.5 m 設計速度:80 km/h 関連項目 九州地方の道路一覧 地域高規格道路一覧 外部リンク 大分県庁(事業案内) 大分県の道路
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「夢で逢えたなら...」(ゆめであえたなら)は、175Rのメジャー13枚目、通算15枚目のシングルである。2007年7月25日にリリース。 概要 前作から約5か月ぶりのリリース。 表題曲は、『劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!』の主題歌に起用され、175Rとしては初の映画主題歌となった。 通常盤と初回盤の2形態でのリリースであり、初回盤は「夢で逢えたなら...」のPVと、2007年5月27日にSHIBUYA-AXで行われたツアー『Bremen~無礼男の音楽隊~』から「ハッピーライフ」を収録したDVDが付いてくる。この「ハッピーライフ」は通常盤にはカップリングとして収録されている。また、初回盤のCDは表題曲のみの収録となっている。 通常盤600円、初回盤1100円と低価格で販売された。 収録曲 CD 夢で逢えたなら... 作詞・作曲:shogo.k ハッピーライフ 作詞・作曲:shogo.k DVD(初回盤のみ) 夢で逢えたなら... ハッピーライフ 175Rの楽曲 2007年のシングル 平成仮面ライダーシリーズの主題歌 日本映画の主題歌 めてあえたなら
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『サラダ記念日』(サラダきねんび)は、俵万智の第一歌集。河出書房新社、1987年5月8日初版発行、ISBN 4-309-00470-9。 概要 著者の俵万智は1985年の第31回角川短歌賞次席作品「野球ゲーム」からすでに現代口語短歌のホープとして知られていたが、月刊カドカワの連載「とれたての短歌です。」でも広く注目を浴び始めており、その俵の第一歌集ということで刊行前から話題となっていた。出版されるや280万部のベストセラーとなり、1987年度ベストセラーランキングの第1位となった。ちなみに初版の発行部数は8000部であった。 表題の「サラダ記念日」(「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日)のほか、第32回角川短歌賞を受賞した「八月の朝」などを含む434首を収録。発売翌年、第32回現代歌人協会賞を受賞した。新しい現代短歌の先駆けとなり、後に続く若手の歌人たちに影響を与えた。 井狩春男によると、この本がベストセラーになった後にも、書名を『サラダ日記』と間違える出版関係者が何人もいたという。 また、男性の立場から書いた『男たちの「サラダ記念日」』やヤクザ・極道を題材にした『カラダ記念日』(筒井康隆)などの翻案・パロディ作品が出現した。本家の河出書房新社からも全国から募集した歌の優秀作を載せた『わたくしたちのサラダ記念日』という本が出版された。『フルーツ白書』(黒木香)のように表紙のデザインが酷似した書籍も登場した。短歌集の中の12首からなる合唱作品『コメディア・インサラータ』が林光によって作曲された。1988年にはジャック・スタム、1989年にはジュリエット・カーペンターによる英訳版も出版された。 前述の通り角川短歌賞受賞者で月刊カドカワの企画で注目を浴びていた俵の初歌集ということで角川書店からの出版になるはずだったが、角川書店社長の角川春樹自身が俳人であり、歌集、句集など短詩型文学の書籍は売れないものであると考えていたため、出版には反対したといういきさつがある。結局河出書房から出版されたこの『サラダ記念日』はミリオンセラーとなり、みすみすそのチャンスを逸した格好になった角川は後に「人生最大の失敗だった」と振り返っている。 刊行当時、俵が東京都町田市在住であったことから、小田急小田原線の沿線風景が作品の舞台としてしばしば登場している。 著者自身の名前や勤務校(神奈川県立橋本高等学校)が実名で短歌に詠み込まれるため実体験を描いたノンフィクションとして受け止められることが多かったが、実際には文学的感興を出すための演出がかなり施されている。表題歌の「サラダ記念日」の一首は、弁当を作ってボーイフレンドと野球を見に行った時に思いついたもので、鶏のから揚げをいつもと違うカレー味の味付けにしたら「美味しい」と褒められたので、「今日は記念日だな」と思ったのがきっかけであったと俵自身が語っている。から揚げがサラダに変わった理由については「から揚げではヘビー過ぎるし、メインがおいしいよりサブがおいしい方がより記念日にすることに意義があるんじゃないかと。ささやかなものがおいしい。そう言ってくれたことが記念日になる方がより効果があるような気がした」と語っている。7月6日という設定も、なんでもない日が記念日になるという思いを表現したかったため、恋愛のイメージが強い七夕の1日前をあえて選んだものである。また、サラダがおいしい初夏であり、音韻的にも爽やかな印象を出すために7月(しちがつ)とサラダのS音で頭韻を響かせている。実際の日付は「七月でもなければ六日でもなくて、もうちょっと早い季節だったような気がする」と振り返っている。 2020年7月6日には俵がTwitterで「サラダ記念日」の一首を引用した上で、「今は「いいね」の数を競うような風潮があるけれど、これはたった一つの「いいね」で幸せになれるという歌です」とツイートし、18万の「いいね」が付いている。 研究 明治大学政治経済学部教授で文学者のマーク・ピーターセンは、この歌集の 「おまえオレに言いたいことがあるだろう」 決めつけられてそんな気もする という詩について、「その『おまえ』と『オレ』を you と me にしてしまい、その上、英語で真似できない『決めつけられて』という表現の簡潔さもなくしてしまったら、その歌の魅力の何が残るだろう。はたして、これは俵万智の歌だと、人に紹介する意味があるのだろうか」と日本語の詞を英訳することそのものに嘆きを覚える様を自著に記している。 ドラマ 歌集を原作とし1987年10月18日にTBS系列の東芝日曜劇場で放送されたテレビドラマ。 あらすじ 東京の下町、築地に住む豆腐屋の娘・清水さやかは早稲田大学に通う学生。ボーイフレンドはいるもののさやかは短歌の魅力に取りつかれていく。 スタッフ 脚本:高村美智子 プロデューサー:石井ふく子(安田成美出演のTBSドラマ『親子ジグザグ』、1988年4月以降の『東芝日曜劇場』は柳井満が制作に加わっていた) 演出:清弘誠 音楽:城之内ミサ(安田成美歌唱の楽曲『風の谷のナウシカ』は細野晴臣が作曲している) 出演 安田成美、船越栄一郎、前田吟、香山美子、北林谷栄、早瀬裕一、戸川京子、長江健次、人見明、石井富子、横山あきお、千うらら、渡部雄作、河野美地子、水谷大輔、増田康好、阿部渡、他 関連項目 1987年の文学 男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日(1988年公開) アイドル歌会(俵万智らが選者として出演するイベント、2021年のサラダ記念日に第1回を開催) 脚注 注釈 出典 歌集 俵万智 20世紀の詩 河出書房新社 7月の記念日 料理を題材とした作品 1987年の書籍 相模原市を舞台とした作品 湘南を舞台とした作品 多摩地域を舞台とした作品 バブル期の昭和時代を舞台とした作品 日曜劇場 (単発番組) 1987年のテレビドラマ 東京都中央区を舞台としたテレビドラマ 大学を舞台としたテレビドラマ 詩を題材とした作品
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自発教令(motu proprio)は、教皇の教令であって、その発出が枢機卿または他の輔佐ではなく教皇自身により決められたことを示す「motu proprio」(羅:自発的に)という節が用いられているものである。 通常、教令 (decree) の形式をとり、捺印および副署されない以外は小勅書 (litterae apostolicae) に似る。 最初の自発教令は1484年にインノケンティウス八世により発出された。 教令の一般的な形式であり、特に、機関の新設、法または手続の小さな変更、個人または機関に許可を与えるときに、一般的にみられる形式である。 自発教令は、発出する理由に始まり、続いて設けられる法または規制あるいは与えられる恵みについて述べられる。 教皇自身が氏名と日付をラテン語で署名する。 この節を含む教令は、教会法または教皇の以前の指示に反するときでも有効である。 さらに一般的に言えば、「motu proprio」は、「sua sponte」(職権により)に類似し、「自身の動議による」を示すために用いられるラテン語の句であるが、これは米国の法律家の意見においてはめったに使われず、法曹界にわたってよく知られている「sua sponte」が用語として好まれる。 外部リンク 教皇庁 教皇パウロ六世自発教令一覧 教皇庁 教皇 ヨハネ・パウロ二世 自発教令一覧 教皇庁 教皇 ベネディクト十六世 自発教令一覧 カトリック
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ミッチ・リッチモンド (Mitchell James "Mitch" Richmond III, 1965年6月30日 - ) はアメリカ合衆国フロリダ州フォートローダーデール出身の元バスケットボール選手。1988年から2002年まで14シーズンNBAでプレーした。ポジションはシューティングガード。身長196cm、体重97kg。 キャリア カンザス州立大学から1988年のNBAドラフトで1巡目全体5位でゴールデンステート・ウォリアーズに指名された。平均22,0得点4,2アシスト5,2リバウンドでルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)を受賞。1990年代に入る頃には、クリス・マリンとリッチモンド、ティム・ハーダウェイの3人はランTMC(3人のファーストネーム、ティム(T)、ミッチ(M)、クリス(C))と呼ばれ、それぞれがシーズン平均20得点以上を上げた。3人の能力とドン・ネルソンヘッドコーチの速攻重視の戦術により、ウォリアーズはリーグで最も得点力の高いチームになっていた。1991年にサクラメント・キングスにビリー・オーウェンスとの交換でトレードされた。 キングスには1991-1998年所属。この頃のキングスはドアマットチームでリッチモンドは常に平均21得点以上したがチームの成績は上がらなかった。個人としての活躍は素晴らしく、95年のNBAオールスターゲームでMVPを受賞。96年にはドリームチームIIIに選ばれた。 1998年のオフにオーティス・ソープと共に、クリス・ウェバーとの交換でワシントン・ウィザーズにトレードされた。ウィザーズでのリッチモンドは欠場する試合が増えて期待されたほどの成績は残せなかった。 2001年にはロサンゼルス・レイカーズに移籍、年齢的な衰えはあったもののリッチモンドは初のNBAファイナル優勝を果たして引退した。 アメリカ代表 1988年ソウルオリンピックで銅メダルを獲得。 1996年アトランタオリンピックで金メダルを獲得。 プレイスタイル シューティングガードとして必要な要素を兼ね備えた非常に安定したプレーができた選手で、特にジャンプシュート、3ポイントシュート、ドライブインとコートのどこからでも決められるスコアリング能力は特筆すべきものである。ディフェンスも安定して欠点のない選手だがチームが勝てないことで目立たない選手だった。ルーキーから10年連続1試合平均21得点以上をマークした4選手の一人。リッチモンドのルーキー時代を見たマイケル・ジョーダンは「得点能力に関しては僕を超えることが出来るセンスを持っている。」と太鼓判を押し、後の活躍を予言した。 成績 976試合出場 20,497得点 3,801リバウンド 3,398アシスト 1,211スティール FG成功率.497 FT成功率.850 新人王(1989) オールNBA2ndチーム 3回(94、95、97) オールNBA3rdチーム 2回(96、98) オールルーキー1stチーム(89) オールスターMVP 1回(95) 優勝経験1回(2002) 外部リンク ミッチ・リッチモンド(英語) アメリカ合衆国の男子バスケットボール選手 ゴールデンステート・ウォリアーズの選手 サクラメント・キングスの選手 ワシントン・ウィザーズの選手 ロサンゼルス・レイカーズの選手 NBAオールスターゲーム選出選手 バスケットボール男子アメリカ合衆国代表選手 オリンピックバスケットボールアメリカ合衆国代表選手 バスケットボールのオリンピックメダリスト アメリカ合衆国のオリンピック金メダリスト アメリカ合衆国のオリンピック銅メダリスト NBA永久欠番保持者 アフリカ系アメリカ人のバスケットボール選手 フォートローダーデール出身の人物 1965年生 存命人物
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伊賀氏事件(いがしじけん)は、鎌倉時代前期の貞応3年(1224年)6月から閏7月にかけて伊賀氏によって起こった鎌倉幕府の政変。伊賀氏の変ともいう。 経過 貞応3年(1224年)6月13日に第2代執権・北条義時が急死。当時、義時の長男の泰時と義時の弟の時房は六波羅探題として京にいた。訃報は16日に京へ伝えられ、泰時は17日に、時房は19日に出京。26日に鎌倉に入ったが、泰時はまず由比ヶ浜に宿をとり、翌27日に自邸に戻っている。その間の18日に義時の葬儀が行われ、その際の兄弟の序列は朝時・重時・政村・実義・有時の順となっており、義時の後妻(泰時の継母)・伊賀の方の長子である政村も嫡子ではなく庶子の一人として扱われている。なお、『吾妻鏡』では泰時の鎌倉到着まで10日を要しており緊急事態にしては遅いが、『保暦間記』では泰時はしばらく伊豆に逗留し、時房がまず鎌倉へ帰って安全を確認した後、泰時も鎌倉に入ったとある。 泰時は、28日に鎌倉殿後見である北条政子の御所に招かれた。政子は泰時を執権に任命することを決め、大江広元もそれに賛同している。だが当時の鎌倉では泰時が政村を討つという噂が流れ、政村の周辺は騒然となっていた。また伊賀の方が泰時の家督継承に反対しているという噂が流れ、風聞によれば伊賀の方は実子・政村を執権職に就けて、兄の伊賀光宗に後見させ、娘婿・一条実雅を将軍に擁立しようとしているということだった。 7月になると、光宗とその弟たちは鎌倉御家人の中でも実力があり政村の烏帽子親である三浦義村邸にたびたび出入りした。万が一、義村が政村・光宗と手を結べば幕府は転覆しかねないと憂慮した政子は、17日の深夜にひそかに義村を訪ね、政村・光宗との関係を詰問し、光宗らと謀反を企てているのでなければ事態の収拾に協力せよと迫った。義村は政村に謀反の気持ちはないと弁明するとともに、光宗兄弟の暴走を制止すると誓った。 閏7月1日、政子は三寅を連れて泰時邸に入り、義村以下の宿老を招集。政子は謀反の計画の存在を語り、謀反を防ぐために協力してほしいと呼びかけた。御家人たちが泰時を支持したことで大勢は決し、伊賀の方は伊豆北条へ、光宗は信濃へ、光宗の弟朝行・光重は九州へ配流となり、公卿である実雅は朝廷に配慮して京都へ送還された後に越前へ配流となった。 しかし彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は処罰を免れ、後に評定衆・引付頭人・連署など要職を経て第7代執権に就任し、終生得宗家に忠実な姿勢を貫いた。また、主犯として処罰を受けた光宗やその弟の朝行・光重も、翌嘉禄元年(1225年)7月の政子の死後間もなく8月から12月に幕政への復帰を許されるなど、寛大な措置が採られた。『明月記』によると実雅の妻だった義時と伊賀の方の娘も、同年11月以降に公家の唐橋通時と再婚するため入京している。伊賀の方についても、嘉禄3年(1227年)2月に実雅の妻の妹が京で公家の西園寺実有と結婚しており、その前年にその母が入京していることから、その母を伊賀の方とする見解もある。 これについては、まだ幕府は黎明期で体制が安定しておらず、あまりにも厳重な処分を下せば波紋が広がり幕府の基盤が揺らぐという憂慮に基づく裁定だったとする解釈や、将軍後継として京より迎えられた三寅(後の九条頼経)の側近で義時の娘婿でもあった一条実雅は既に鎌倉内外の御家人に強い人脈を形成しており、泰時は武力衝突の回避と反泰時派の炙り出しの意味も含めて慎重に対応し続けたとする見方もある。 一方で、通説は幕府の編纂書『吾妻鏡』貞応3年6月28日条に記された伊賀氏謀反の「風説」を事実と認定した上での説だが、『吾妻鏡』の記事中では伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言されておらず、鎌倉入りの前に事前調査させた泰時によって「謀反の噂は事実ではなく、騒ぎ立てるな」と伊賀氏の謀反は否定されており、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため、この事件はすでに将軍家との血縁もなく、北条本家との関係も希薄となって影響力の低下を恐れた政子が牧氏事件と同じ構図を創り上げて、義時後家として強い立場を持つ事になる伊賀の方を強引に潰そうとして仕掛けたでっち上げで、泰時は政子の画策には乗らずに事態を沈静化させたとする説も唱えられている。北条家の家督問題は本来、義時の後家である伊賀の方が中心となって解決されるべき問題であり、義時の姉とはいえ頼朝に嫁ぎ北条家を離れた政子の介入は不当なものであったとしている。この説については、言及しつつも「通説もなお傾聴すべきであろう」として、その推測を危ぶむ見方もあるが、特にその根拠は示されていない。一方で、陰謀があったかはともかくとして冤罪だった可能性は高いとして支持する見方もある。 なお義時の先妻(正室)姫の前の長子である朝時はこの事件の際には動かなかったものの、『湛睿説草』に収録されている朝時が義時の四十九日仏事を行った際に仏前で読みあげられた言葉を記した「慈父四十九日表白」には日付が閏7月2日とあり、『吾妻鏡』に7月30日に行われたとある公的な四十九日仏事とは別に朝時は自身を施主とした四十九日仏事を行っている。また後年には評定衆への就任を辞退するなど、泰時に対抗する動きを見せている。 事件の翌嘉禄元年(1225年)6月には大江広元が、7月には北条政子が死去しており、泰時主導の体制が固まるまでにはなおも時間を要することになる。 主な出来事 特に注記のないものは『吾妻鏡』による。日付は全て貞応3年(元仁元年)(旧暦)による。 6月13日 北条義時急死。直ちに六波羅探題にいる北条泰時・時房に対して使者が出される。伊賀の方は出家。 6月16日 鎌倉からの使者が六波羅探題のある京都に到着。 6月17日 泰時、未明(丑刻)に六波羅を出立して鎌倉に向かう。 6月18日 義時の葬儀が行われる。葬儀の際の兄弟の序列は、北条朝時・重時・政村・実義・有時の順。 6月19日 時房、六波羅を出立して鎌倉に向かう。 6月26日 泰時、時房・足利義氏と共に鎌倉に入るが、この日は由比ヶ浜の別邸に泊まる。なお『保暦間記』によると、泰時は鎌倉への下向途中に伊豆国(本領のある北条か)に逗留して、時房をまず鎌倉入りさせ、安全を確認した後にこの日鎌倉入りしたとしている。 6月27日 泰時、鎌倉の本邸に入る。 6月28日 泰時が北条政子邸に呼び出されて時房と共に「軍営御後見」(執権の別名)に任ぜられる。泰時が政村を討つという噂が流れ、政村の周辺は騒然となる。また政村の外戚の伊賀光宗兄弟が執権のことについて憤り、伊賀の方が娘婿の一条実雅を将軍に、政村を執権にして、伊賀兄弟に政治を行わせることをひそかに企てているという噂も流れる。泰時方の人々がその噂を泰時に告げるが、泰時はそのような噂は事実ではないと述べて、驚いたり騒いだりせず、必要のあるもの以外が泰時邸に参じることを禁じた。 6月29日 北条時盛(時房の長男)・北条時氏(泰時の長男)が上洛。両人は世間の噂を聞いて鎌倉にいるべきではないかと言ったが、泰時・時房が促して上洛させた。 7月5日 伊賀兄弟が三浦義村の館に出入りし、人々は何か密談をしているのではないかと怪しむ。伊賀兄弟は夜に伊賀の方のいる旧義時邸に集まり何かを変えないことを誓い合っていたと女房が泰時に告げるが、泰時は動揺せず兄弟が変わらないことを誓い合うのは神妙なことだと言う。 7月17日 鎌倉近郊の者どもが集まり騒動となる。政子が義村邸を直接訪問して事実関係を問いただす。義村は何も知らないと答えるが、政子はなおも問い詰め、義村は政村には全く反逆の心はないが光宗らは何か考えがあるようなので私が制止すると言い、政子を帰らせる。 7月18日 義村が泰時邸を訪問して釈明する。泰時は、自分は政村に敵意を持っていないと答える。 7月30日 義時の四十九日仏事が行われる。夜に騒動となり御家人が旗を上げ甲冑を着て競い走るが、実際には合戦など起こってないので夜明けには静まる。 閏7月1日 三寅・政子臨席の宿老会議が泰時邸にて開催。その場に義村が召喚され、事実上軟禁される。葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光らも召集され、改めて一同に二心が無いことが確認される。 閏7月2日 『湛睿説草』収録の「慈父四十九日表白」によると、朝時が自身を施主とした義時の四十九日仏事を行う。 閏7月3日 泰時邸での宿老会議において時房や大江広元も同席の上で、伊賀の方と伊賀兄弟の処分が決定される。光宗らが実雅を将軍にしようとする陰謀が露見したとして、実雅は公卿のため幕府が勝手に処分できないため京都に送還し朝廷に処分を委ね、伊賀の方と伊賀兄弟は流罪とし、その他の者は罪に問わないとされる。 閏7月23日 実雅の京都送還が行われ、伊賀朝行・光重兄弟、光宗の子宗義、甥光盛が同行を許される。源親行、伊具盛重も仰せによらず私的に扈従したため、後にそのことが罪に問われて出仕を止められ、所領を召し放たれている。 閏7月29日 光宗の政所執事職を解任し、所領52か所を没収する。母方の叔父の二階堂行村が囚人として預かる。 8月22日 実雅が16日に京へ着いたとの知らせがもたらされる。 8月27日 光宗が処刑されるとの噂が流れ騒動となるが、事実ではなかったので間もなく静まる。 8月28日 『皇帝紀抄』によると、京で騒動があり朝行・光重が六波羅に召し籠められる。 8月29日 伊賀の方が伊豆国北条郡、光宗が信濃国にそれぞれ配流される。朝行・光重は時盛と時氏が囚人として預かり、京から九州への配流が決定する。 10月10日 朝議にて実雅の越前国への配流が決定(実雅は公卿であるため、幕府の奏請を朝廷がそのまま受け入れて朝議決定とする形が取られた)。 10月29日 実雅が解官され越前国へ配流。 11月9日 京に留め置かれていた朝行・光重が九州へ配流される。 脚注 関連項目 牧氏事件 鎌倉時代の事件 北条政子 北条泰時 三浦義村 1224年の日本
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2017 ワールド・ベースボール・クラシック・フィリピン代表(2017ワールド・ベースボール・クラシック・フィリピンだいひょう)は、2016年に開催されたワールド・ベースボール・クラシック第4回大会予選に出場した野球フィリピン代表である。 経緯 9月17日に第4回WBC予選の組み分けが発表され、フィリピンは予選1組で開幕を迎えることとなった。 1月28日に第4回WBC予選のフィリピン代表が発表された。2月12日、敗者復活1回戦でニュージーランドに敗れ予選敗退となった。 代表選手 以下が代表選手であり、所属は同大会期間中のものとする。 脚注 関連項目 野球フィリピン代表 2017 ワールド・ベースボール・クラシック ふいりひん 2017
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日本童画家協会(にほんどうがかきょうかい)は、子ども向けの絵本などのため童画を描く画家、美術家の団体。 概要 1927年から1943年ごろまで活動した第1次「日本童画家協会」と1961年から1983年まで活動した第2次「日本童画家協会」がある。第1次と第2次の間に「日本童画会」(1946年から1961年)が活動した。 第1次「日本童画家協会」は、初山滋、武井武雄、川上四郎、岡本帰一、深沢省三、村山知義、清水良雄が1927年に結成。「新ニッポン童画会」「童心美術協会」などとともに、日本少国民文化協会に併合されるまで存在した。 第2次「日本童画家協会」は、「日本童画会」が解散した翌年の1962年、武井武雄、黒崎義介、林義雄らが結成。1983年2月7日、心筋梗塞のため武井武雄が逝去した後、解散。 1965年、日本美術家連盟、日本漫画家協会、日本理科美術協会、児童出版美術家連盟、出版美術家連盟とともに、日本美術著作権連合を設立。林義雄が日本美術著作権連合の理事を務めた。 関連項目 コドモノクニ  赤い鳥 出典 日本の美術団体
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川島 美衣(かわしま みえ、1965年12月30日 - )は、宝井プロジェクト所属の日本の女優、YouTuber。神奈川県出身。身長。体重。特技は日舞、テニス、ジャズダンス、パソコン。円演劇研究所卒業。YouTubeチャンネル「激辛みえちゃんねる」はチャンネル登録者1万人を超えている。 所属事務所経歴 優企画(1985年 - 2020年6月)→宝井プロジェクト(2020年7月1日 - ) 出演 テレビドラマ 連続テレビ小説「はね駒」(1986年4月7日 - 10月4日、NHK) 「刑事貴族」第1シリーズ 第6話(1990年6月8日、日本テレビ) - 看護婦 役 土曜ワイド劇場「おんな警視連城真衣子」 第3作(1991年3月9日、テレビ朝日) - 弁護士の秘書 役 「アース・クエイク 平成18年春・東京大震災」(2006年4月3日、日本テレビ) 世にも奇妙な物語 07’春の特別編「雰差値教育」(2007年3月26日、フジテレビ) - 雰差値委員 役 「東京大空襲」(2008年3月17日 - 3月18日、日本テレビ) 「CHANGE」第1話(2008年5月12日、フジテレビ) - ママさんバレーのメンバー 役 「チーム・バチスタの栄光」第5話(2008年11月11日、フジテレビ) - 蔵田の娘 役 「なるようになるさ。」(TBS) - レストランの客 役 「純喫茶に恋をして」第12話(2021年3月1日、フジテレビ) - 「はまゆう」の客 役 「#コールドゲーム」第1話(2021年6月6日、フジテレビ) - 避難民 役 「孤独のグルメ」第9シリーズ 第2話(2021年7月17日、テレビ東京) - 「山小屋」のママ 役 その他 「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」(TBS) 「これは戦争だ!」(日本テレビ) - 信者 役 「ザ!世界仰天ニュース」(日本テレビ) 「ヒロイン誕生!ドラマチックな女たち」最終回(2022年12月26日、NHK) - 本田美奈子.の母 役 CM 江崎グリコ キャンディーバー 企業用ビデオパッケージ セブン-イレブン ミサワホーム 出典 外部リンク 俳優・川島美衣のホームページです。 宝井プロジェクトによる公式プロフィール みえぷーのPooPooぷろぐ 日本の女優 神奈川県出身の人物 1965年生 存命人物 宝井プロジェクト
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ジョージ・ルウェリン・デイヴィス (George Llewelyn Davies 1893年7月20日-1915年3月15日) は、アーサー・ルウェリン・デイヴィスとシルヴィア・ルウェリン・デイヴィス夫妻の5人息子の長男。4人の弟たちと共に、ジョージは脚本家ジェームス・マシュー・バリーのキャラクターであるピーター・パンやロスト・ボーイズに着想を与えた。彼の名は『ピーター・パン』の登場人物であるジョージ・ダーリングの名に使用された。1915年、第一次世界大戦で亡くなった。イギリスの作家ダフニ・デュ・モーリエのいとこである。 生い立ち デイヴィスと弟のジャックはナニーのメアリー・ホグソンと共にいつも通りケンジントン・ガーデンズに出掛けた際、バリーと出会った。当時4歳であったデイヴィスは、バリーの初期の冒険作品に登場する少年の描写に影響を与えた。1901年、バリーの別荘であるブラック・レイク・コテージでホリデーを過ごした際、バリー撮影による弟ピーターを中心とした写真絵本『The Boy Castaways 』に弟ジャックと共に参加した。 1904年に初演されたバリーの戯曲『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』において、1903年の執筆開始時、デイヴィスは10歳でピーター・パンと大体同い年であった。バリーはピーター・パンやロスト・ボーイズの描写はデイヴィス兄弟の言動をしばしば参考にしていたと語った。例えばバリーが、亡くなった赤ん坊はネバーランドで生きると語ったところ、ジョージが「死ぬことはとても大きな冒険だね」と語ったことがピーター・パンの最も有名な台詞の1つとなったとされる。 1907年にデイヴィスの父アーサーが亡くなると、バリーはデイヴィス兄弟に経済的支援をしており、1910年にデイヴィスの母シルヴィアが亡くなると後見人となった。デイヴィスはバリーを「ジムおじさん」と呼び、成長しても親しく、進学で離れても定期的に手紙を交換していた。のちに末の弟ニコはデイヴィスとマイケルはバリーと「一心同体」であったと語った。 成長後 デイヴィスはイートン・カレッジに進学し、スポーツ特にクリケットの才能を発揮し、下級生のうちにエリート社交クラブ「ポップ」に選出された。その後トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)に進学し、伯父で俳優のジェラルド・デュ・モーリエおよび脚本家のバリーの経歴を踏襲し演劇部に所属した。 イギリスが第一次世界大戦に参戦し、デイヴィスと弟ピーターは志願兵となった。王立ライフル隊少尉に任命され、フランドルの塹壕に着任し、銃撃を受け頭部を負傷して21歳で亡くなった。イーペル近くのVoormezeleに埋葬された。 メディア 1978年、BBCはミニシリーズ『The Lost Boys 』を制作した。年齢に応じて、バリー役を演じたイアン・ホルムの息子バーナビー・ホルム、ポール・ホームズ、フィリップ・キャスラー、マーク・ベンソン、クリストファー・ブレイクの複数の俳優がデイヴィス役を演じた。 2004年の映画『ネバーランド』では子役のニック・ラウドが演じた。 ミュージカル『ファインディング・ネバーランド』において2014年のケンブリッジ公演、2015年のブロードウェイ公演ではソイヤー・ヌンズが演じた。 脚注 Birkin, Andrew: J. M. Barrie & the Lost Boys (Yale University Press, 2003) 第一次世界大戦期のイギリスの軍人 イートン・カレッジ出身の人物 第一次世界大戦で戦死した人物 1893年生 1915年没
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久米郡(くめぐん)は、岡山県(美作国)の郡。 以下の2町を含む。 久米南町(くめなんちょう) 美咲町(みさきちょう) 郡域 1900年(明治33年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 岡山市 北区の一部(旭川以東のうち建部町福渡以北) 津山市の一部(吉井川以南) 久米南町の全域 美咲町の大部分(江与味・西を除く吉井川以西) 歴史 久米郡(第1次) 近世に久米北条郡・久米南条郡に分割された。 久米郡(第2次) 明治33年(1900年)4月1日 - 郡制の施行により、久米南条郡・久米北条郡の区域をもって発足。以下の各村が本郡の所属となる。郡役所が豊岡村に設置。(24村) 旧・久米北条郡(13村) - 大井西村、大井東村、大倭村、久米村(現・津山市)、三保村、打穴村(現・美咲町)、倭文東村、倭文中村(現・津山市)、倭文西村、西川村、垪和村、大垪和村(現・美咲町)、鶴田村(現・岡山市) 旧・久米南条郡(11村) - 弓削村(現・久米南町)、吉岡村(現・美咲町)、福岡村、佐良山村(現・津山市)、豊岡村、稲岡北村(現・美咲町)、稲岡南村、龍川村、龍山村(現・久米南町)、福渡村(現・岡山市)、神目村(現・久米南町) 明治34年(1901年)4月1日 - 佐良山村の一部(大谷)が福岡村に編入。 明治37年(1904年)6月1日 - 豊岡村・稲岡北村が合併して加美村が発足。(23村) 明治39年(1906年)4月1日 - 加美村の一部(山ノ城)が稲岡南村に編入。 大正6年(1917年)4月1日 - 弓削村が町制施行して弓削町となる。(1町22村) 大正11年(1922年)11月23日 - 福渡村が町制施行して福渡町となる。(2町21村) 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 昭和4年(1929年)2月11日 - 福岡村が苫田郡津山町・津山東町・西苫田村・二宮村・院庄村と合併して津山市が発足し、郡より離脱。(2町20村) 昭和15年(1940年) 4月1日 - 弓削町・龍川村が合併し、改めて弓削町が発足。(2町19村) 9月1日 - 倭文東村・倭文中村が合併して倭文村が発足。(2町18村) 昭和16年(1941年)2月11日 - 佐良山村が津山市に編入。(2町17村) 昭和17年(1942年)11月3日 - 加美村が町制施行して加美町となる。(3町16村) 昭和18年(1943年)11月3日 - 大井東村・大倭村が合併して大東村が発足。(3町15村) 昭和27年(1952年) 4月1日 - 稲岡南村が改称して誕生寺村となる。 8月1日 - 大井西村・大東村が合併して大井町が発足。(4町13村) 昭和28年(1953年) 4月1日 - 倭文西村・西川村・垪和村が合併して旭町が発足。(5町10村) 7月1日 - 旭町が御津郡江与味村の一部(江与味)を編入。 昭和29年(1954年)4月1日 - 弓削町・誕生寺村・龍山村・神目村が合併して久米南町が発足。(5町7村) 昭和30年(1955年) 1月1日(6町1村) 大井町・久米村・倭文村が合併して久米町が発足。 加美町・三保村・打穴村・大垪和村が合併して中央町が発足。 吉岡村が勝田郡飯岡村・北和気村・南和気村と合併して柵原町が発足。 2月1日 - 福渡町・鶴田村が合併し、改めて福渡町が発足。(6町) 昭和36年(1961年)10月1日 - 旭町が真庭郡落合町の一部を編入。 昭和42年(1967年)1月15日 - 福渡町が御津郡建部町と合併し、改めて御津郡建部町が発足。(5町) 平成17年(2005年) 2月28日 - 久米町が津山市に編入。(4町) 3月22日 - 中央町・旭町・柵原町が合併して美咲町が発足。(2町) 変遷表 行政 歴代郡長 参考文献 関連項目 久米郡 (愛媛県) 久米郡 (鳥取県) 岡山県の郡 美作国の郡 岡山市北区の歴史 津山市の歴史 久米南町 美咲町
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平野 聡(ひらの さとし、1979年2月11日 - )は、日本のラジオDJ。セイ所属。大阪府箕面市出身。血液型はA型。 人物 2005年に行われた「第1回 FM AICHI パーソナリティ・コンテスト」でグランプリを獲得。中学時代にラジオを通して音楽と出会う喜びを知り、20歳の時に友人の一言でラジオDJになることを決意する。通算10回のチャレンジでFM802のオーディションに合格し、2009年、FM802のDJとして活動開始。 2017年3月にFM802を卒業し、FM AICHIで帯番組を担当することになったため名古屋に引っ越した。FM AICHI卒業後は再び大阪府内で暮らしている。 趣味はスポーツ、読書、ラグビー観戦など。村上春樹のファンであり、FM AICHIで担当していた番組「Groovin' TODAY」では村上春樹がJFN系列局で不定期で放送される「村上RADIO」の言い方のモノマネをしていた。また、馬場俊英のファンでもあり、大阪時代から仲良くさせてもらっているという。 出演番組 現在 α-STATION GOOD&NEWKYOTO(月曜、火曜16:00-18:00) WONDERS!(金曜7:00-10:00) 過去 ラジオ α-STATION SIESTA GRAFFITY (金曜 14:00 - 16:00、2017年4月 - ) MBSラジオ 朝いちばん!豊島美雪です (リポーター) FM802 FUNKY JAMS 802 (木曜<水曜深夜> 3:00 - 6:00、2009年10月 - 2010年3月) NIGHT RAMBLER (木曜<水曜深夜> 1:00 - 4:00、2010年4月 - 2012年3月) WEEKEND FOR-REST (土曜、日曜 5:00 - 7:00、2012年4月 - 2017年3月) FM岡山 TWILIGHT PAVEMENT (水曜、木曜 17:00 - 20:00、2015年4月 - 2017年3月) エフエム宝塚 サンデーミュージックフラワー FM AICHI Groovin' TODAY (月曜 - 金曜 6:00 - 9:00、2017年4月 - 2020年3月) C・Tech FUTURE GENERATION(木曜 20:30 - 21:00、2019年10月 - 2020年3月) アリーナDJ Fリーグ シュライカー大阪 館内DJ ラ・セレナ 脚注 外部リンク 平野聡 - 所属事務所のページ 日本のDJ 大阪府立渋谷高等学校出身の人物 大阪府出身の人物 1979年生 存命人物
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ヨハン・グロットムスブローテン(Johan Grøttumsbråten、1899年2月12日 - 1983年1月24日)はノルウェー、オスロ市Sørkedalen出身の元ノルディック複合、クロスカントリースキー選手。 プロフィール 1920年代から1930年代にかけて活躍、オリンピックや世界選手権で多くのメダルを獲得した。 1924年のシャモニーオリンピックではノルディック複合とクロスカントリースキー18kmで銀、クロスカントリースキー50kmで銅メダルを獲得、1928年サンモリッツオリンピック ではノルディック複合、クロスカントリースキー18kmの2冠、1932年レークプラシッドオリンピック ではノルディック複合で2連覇を達成した。 ノルディックスキー世界選手権では1926年のノルディック複合で金メダル、1931年はノルディック複合とクロスカントリースキー18kmでともに金メダルを獲得した。 グロットムスブローテンはまたホルメンコーレン大会のノルディック複合で5回優勝(1923年、1926年、1928年、1929年、1931年)しており1924年にはホルメンコーレン・メダルを受賞している。 外部リンク ホルメンコーレンメダル受賞者一覧(PDF) ホルメンコーレン大会優勝者一覧(PDF) ノルウェーのノルディック複合選手 ノルウェーのクロスカントリースキー選手 ノルウェーのオリンピック選手 ノルディック複合のオリンピックメダリスト クロスカントリースキーのオリンピックメダリスト ノルウェーのオリンピック金メダリスト ノルウェーのオリンピック銀メダリスト ノルウェーのオリンピック銅メダリスト 1899年生 1983年没
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都制調査会(とせいちょうさかい)は東京都が条例で1956年1月に設置した機関。都知事の諮問機関として設けられた。23の特別区の組織(都との間の二重行政の問題など)や首都制度に関する調査検討などを行った。初代会長は次田大三郎、第2代会長は田中二郎。 調査会は当初1957年までに特別区改革の方針をまとめていたが、1957年10月の国の第4次地方制度調査会の「地方制」の答申を受けて都道府県制度が根本的に改革される可能性を考慮に入れて再検討する必要ができた。しかし地方制実現は当面見込みが薄いとして昭和35年2月に都知事の求めにより、急激な人口増加への対応など東京都が当面直面する課題への解決策検討が調査会に委ねられた。 成立 設立の背景には昭和30年代の東京への人口流入による都市問題の深刻化があった 当時の都知事安井誠一郎が「グレーター東京」構想の一環で、1955年に都議会に「都政審議会条例案」を上程した。その後、都議会での議論を経て、都制調査会条例と名前を変えるなど修正の後12月に可決され、昭和31年(1956年)1月12日に条例公布施行。同年3月に第1回会合。 昭和38年(1963年)3月の都議会の「都制調査会条例を廃止する条例」により廃止。 答申 1962年2月に「首都制度当面の改革に関する答申」を提出、1961年2月に最終答申「首都制度に関する答申」を行った。1962年9月に「首都制度に関する答申」を提出。 都制調査会の1962年9月答申をうけて、地方制度調査会からも「首都制度当面の改革に関する答申」が出された。都から区への事務移行についての見解は、都制調査会と同様だった。 委員 委員は知事が委嘱した。初期の委員と専門調査員のうち13名は学識経験者、7名は都議会議員だった。 発足時委員 田中二郎 藤田武夫 小倉庫次 次田大三郎 岡松成太郎 岸喜二雄 菊地民一 大沢梅次郎 曽根光造 清水長雄 篠統一郎 岡田助雄 加藤千太郎 出典 関連項目 地方制度調査会 首都圏整備委員会 外部リンク 首都制度当面の改革に関する答申 昭和37年10月1日 首都制度に関する答申 昭和37年9月8日 東京の都区制度 東京都の歴史 1956年設立の組織 1963年廃止の組織
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鍋山 貞親(なべやま さだちか、1901年〈明治34年〉9月1日 - 1979年〈昭和54年〉8月18日)は、日本の社会運動家で、非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)幹部。筆名に大川権三、石橋庸五、島崎孝次、豊崎伍一、須田麟造などがある。大阪府東成郡鯰江村(現在の大阪市城東区)出身。 経歴 小学校卒業後、旋盤工として働く。次第に社会運動に傾倒し、友愛会に所属した。その後、日本労働総同盟に移り、日本共産党(第一次共産党)に入党した。この間、日本労働組合評議会結成に参画するなどの活動を行った。党再建(第二次共産党)後、徐々に党内で頭角を現し、佐野学とならぶ中心的幹部として三・一五事件以後の党組織の再建に従事した。 しかし、1929年、四・一六事件で警察に検挙され市ヶ谷刑務所に収監。1933年、獄中で佐野とともに転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を出した。これは、コミンテルンの指導を受けての共産主義運動は日本にはそぐわないものであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(「一国社会主義」運動)を行うというものだった。この声明は獄中にあった党員を初め、多くの運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させることになった。 第二次世界大戦後は、一時期労農前衛党を結成して政界復帰を図るも果たせず、1946年に、後に塩路一郎や宇佐美忠信など右派労働運動家が出入りする世界民主研究所を設立、その代表理事として反共運動を指導、死去まで勤めた。1950年に結成された民主社会主義連盟では佐野や三田村四郎と共に発起人と評議員に名を連ね、民社党・同盟の理論的・戦術的ブレーンとしても活動した。 1979年8月18日、食道癌のため東京都渋谷区の自宅で死去。77歳。 著書 左翼労働組合と右翼との闘争 第1輯 希望閣 1931 社会民主主義との闘争 第2輯 希望閣 1931 転換期に立つ 日東出版社 1948 日本共産党批判 勤労時報社 1949 (民主社会シリーズ) 転向十五年 佐野学共著 労働出版社 1949 (労働民主シリーズ) 私は共産党をすてた 自由と租国を求めて 大東出版社 1949 共産党批判 鹿鳴社 1950 平和共存下の日共と組合運動 世界民主出版部 1955 ソ連と日本 スターリン批判の意味するもの 世界民主出版部 1956 わが国政党の性格解剖 社会党の左旋回を中心として 日本民主協会 1958 議会政治破壊のデモ 民主政治下のデモと専制政治下のデモ 世界民主研究所 1960 共産党をたたく12章 魔力の正体を衝く 有朋社 1973 企業と共産主義 弘津恭輔共著 労働問題懇話会 1974 産業労働ライブラリー 『鍋山貞親著作集』鍋山歌子編 星企画出版 1989 関連文献 高畠通敏「一国社会主義者 佐野学・鍋山貞親」思想の科学研究会編『共同研究 転向(上)』(平凡社, 1959年/改訂増補版, 1978年) 脚注 日本の政治運動家 日本の社会運動家 衆議院議員総選挙の立候補経験者 民社党の人物 戦前の日本共産党の人物 日本の反共主義者 大阪市出身の人物 1901年生 1979年没 食道癌で亡くなった人物
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APA アメリカ心理学会(American Psychological Association) アメリカ精神医学会(American Psychiatric Association) アルドステロン産生腫瘍 (aldosteron-producing adenoma) アコライツ・プロテクション・エージェンシー(Acolytes Protection Agency) - WWEで活動したプロレスラーのユニット。 アパグループ - アパホテル、アパマンションなどを展開する日本の企業グループ。 (APA Corporation) - 原油や天然ガスの探査・開発・生産などを手掛ける米国企業。 日本広告写真家協会(Japan Advertising Photographers' Association) 日本測量調査技術協会(Association of Precise Survey & Applied Technology) 事前確認制度(Advance Pricing Arrangement (Agreement)) - 移転価格に対する二重課税のリスクを解消するために企業が課税当局とあらかじめ協議する制度。→移転価格税制を参照 アメリカ海軍における攻撃輸送艦の類別記号 (American Poultry Association) アジア議会 (Asian Parliamentary Assembly) アジア平和連合 (Asian Peace Alliance)
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ホセ・ペドロ・モウラン・ラミー・ヴィソゾ(José Pedro Mourão Lamy Viçoso, 1972年3月20日 - )は、ポルトガル出身のレーシングドライバー。1992年ドイツF3選手権チャンピオン。 経歴 ラリードライバーだった父の影響でモトクロスを始め、その後カートへ転向。1989年にフォーミュラへ転向し、この年のポルトガル フォーミュラ・フォード1600でチャンピオンを獲得。 1991年にGMロータスユーロシリーズ、1992年にドイツF3で共にチャンピオンを獲得した。1993年に国際F3000選手権に参加し、ロータスのテストドライバーも務めた。 F1 ロータス時代 1993年の第12戦ベルギーGPで、フリー走行中にアレッサンドロ・ザナルディが大クラッシュし負傷。このことで、ロータスは続く第13戦イタリアGPから、代役としてラミーを起用することになった。 F1デビュー戦では予選は最下位に終わり、決勝は終盤に電気系のトラブルでリタイアしたが11位完走扱い。続く地元の第14戦ポルトガルGPでは、予選18位からスタートしたが、途中でスピンを喫しリタイアした。第15戦日本GPでもスピンを喫してリタイアしたが、13位で完走扱いとなった。最終戦のオーストラリアGPはスタート直後に接触しリタイヤ。結局この年は一度もチェッカーフラッグを受ける事が出来なかった。 そのまま1994年はレギュラーシートを獲得、4戦中3戦完走の成績を残していた。しかし、第3戦サンマリノGPでのリタイヤは、スタートでエンストしたJ.J.レートに追突したもので、その際にパーツが観客席まで飛び、負傷者を出すこととなった。 そして第4戦モナコGP後、イギリスシルバーストン・サーキットでのテスト中に高速コーナーであるアビーカーブで大クラッシュを起こす。高速コーナーで強い負荷の掛かったリヤウィングが支柱から折れ、270km/hでコントロールを失ったマシンはコースアウトしてタイヤバリアを飛び越えフェンスを突き破ってコース外へ飛ばされると、エンジン等が千切れコクピットのみになった車体が観客席に落下。反動で何回転もしながらコースをくぐるための地下道の入口に落下し炎上するという凄まじいクラッシュであった。両膝の皿、右足首、右手首を骨折し、両手親指を脱臼する全治1年とも言われる重傷を負い離脱。幸いにもテスト中だったために観客等はおらず、ラミー以外の負傷者はいなかった。この頃は、J.J.レート、ジャン・アレジ、ルーベンス・バリチェロ、アンドレア・モンテルミーニが負傷、カール・ヴェンドリンガーが意識不明に陥り、ローランド・ラッツェンバーガー、アイルトン・セナが死亡するなど、開幕前から重大事故が多発していたため、関係者に再度衝撃を与えた。 ミナルディ時代 1995年は、当初パシフィックからの参戦が決定していたが、開幕直前になってパシフィックより戦闘力があると思われるティレルへの移籍を画策して交渉を開始。ミカ・サロとのシート争いとなり、ティレルのマシンでのテストドライブも行ったが、最終的には敗れ、また鞍替えによりパシフィックのオーナーであるキース・ウィギンスを激怒させたことから、ラミーは多くのスポンサーマネーを持ちながらパシフィックのシートをも失う形となった。 この結果、前半戦はF1浪人となったが、資金難に苦しむミナルディに持参金を持ち込み、第10戦ハンガリーGPからピエルルイジ・マルティニに代わって参戦。最終戦オーストラリアGPでは、完走8台というサバイバルレースを生き残り6位入賞、これが自身初・そして唯一の入賞となった。またミナルディにとっては、この年唯一の入賞だった。 1996年も引き続きミナルディに在籍、全戦に出走し唯一のフル参戦となる。しかし入賞は記録できず、最高位は第5戦サンマリノGPにおける9位となった。翌年以後のシート交渉は進展せず、F1参戦はこの年が最後となった。 スポーツカーレース 1997年以降、ラミーは主にル・マン24時間レースを中心とするプロトタイプレーシングカーの世界に活動の場を移した。特に2007年以降はプジョーのエース格となり、プジョー・908 HDi FAPで2007年のル・マン・シリーズ(LMS)チャンピオンを獲得している。ただしル・マン24時間では2位が2回(2007年・2011年)で優勝には一歩手が届いていない。 また2000年代以降はニュルブルクリンク24時間レースとの相性が良く、2001年に初優勝を飾ると、以後2002年・2004年・2005年・2010年と計5回総合優勝を飾っている。 レース戦績 フォーミュラ ドイツ・フォーミュラ3選手権 マカオグランプリ 国際フォーミュラ3000 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) † : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。 フォーミュラ1 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) グランドツーリング FIA GT選手権 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) † : 選手権ポイントの対象外。 FIA GT1世界選手権 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) スパ24時間レース スポーツカー ル・マン24時間レース アメリカン・ル・マン・シリーズ 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) ドイツ・ツーリングカー選手権 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) ル・マン耐久シリーズ/ル・マン・シリーズ 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) : インターコンチネンタル・ル・マン・カップに参戦していたため、規定によりポイントは加算されない。 セブリング12時間レース デイトナ24時間レース インターコンチネンタル・ル・マン・カップ 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) FIA 世界耐久選手権 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) † : ランクはドライバーズ・ワールド・チャンピオンシップ上の順位を示す。 ユナイテッド・スポーツカー選手権/ウェザーテック・スポーツカー選手権 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) エピソード 1993年ポルトガルGPのフジテレビ中継では、丁度実況席で彼の話題を言っていた際にスピンを喫した。このため、実況の古舘伊知郎は「言ったそばからラミー!」との言葉を残した。このフレーズが気に入ったのか、次戦日本GPで彼がスピンした際にも「言ったそばからラミー、あ、今は言ってませんが」と再び使用している。 アイルトン・セナには、同じポルトガル語圏出身であること、セナと同様ロータスに所属していたことなどから可愛がられており、セナの死後はレーシングスーツの下にセニーニャTシャツを着てレースに臨んでいた。 脚注 関連項目 モータースポーツ ドライバー一覧 F1ドライバーの一覧 ポルトガルのF1ドライバー チーム・ロータスのF1ドライバー ミナルディのF1ドライバー 国際F3000選手権のドライバー ドイツF3選手権のドライバー マカオグランプリのドライバー アメリカン・ル・マン・シリーズのドライバー ヨーロピアン・ル・マン・シリーズのドライバー FIA 世界耐久選手権のドライバー FIA GT選手権のドライバー FIA GT1世界選手権のドライバー IMSA スポーツカー選手権のドライバー ル・マン24時間レースのドライバー スパ24時間レースのドライバー ドイツツーリングカー選手権のドライバー ニュルブルクリンク24時間勝者 リスボン県出身の人物 1972年生 存命人物
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「履物と傘の物語」(はきものとかさのものがたり)は、2015年2月から3月まで、NHKの音楽番組『みんなのうた』で放送された楽曲。 『みんなのうた』に、日本の女性アイドルグループ・AKB48が初めて起用された楽曲。 放送開始当初から、心温まる物語に多くの問い合わせや感想が寄せられ、大きな反響を呼んだ。 作詞:秋元康、作曲・編曲:片桐周太郎、歌:AKB48。 概要 本楽曲は、2015年3月4日に発売されたAKB48の39thシングル『Green Flash』のType-Nと劇場盤に収録されている。 歌っているメンバーは、高橋みなみ、小嶋陽菜、柏木由紀、渡辺麻友、島崎遥香、横山由依、松井珠理奈、指原莉乃の8人である。 同楽曲は、ある田舎の駅の近くに並んでいる履物屋と傘屋、それぞれを経営している独り暮らしのおばあさん2人の交流を描いた物語となっている。 『みんなのうた』では、5分間1曲枠で放送された。 『みんなのうた』の放送で使用されたミュージック・ビデオは、今回で番組41回目の参加となる南家こうじが制作したアニメーション映像だが、『Green Flash』Type-Nの付属DVDに収録されているミュージック・ビデオは、半崎信朗が制作したアニメーション映像になっている。 2015年3月9日にNHK総合テレビで放送の『MUSIC JAPAN』で披露され、2015年3月14日にNHK BSプレミアムで放送の『AKB48 SHOW!』でも披露された。 また、2015年4月29日に発売された岩佐美咲の4thシングル「初酒」には、カップリング曲として岩佐のソロによるカバーバージョンが収録されている。 脚注 出典 外部リンク キングレコードによる紹介ページ 「Green Flash」Type-N(通常盤) 「Green Flash」劇場盤 ミュージック・ビデオ NHK みんなのうた - 履物と傘の物語 - AKB48 日本の子供向け楽曲 みんなのうたの楽曲 (2010年代) 2015年の楽曲 AKB48の楽曲 キングレコードの楽曲 秋元康が制作した楽曲 傘を題材とした楽曲 きものとかさのものかたり
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フィラデルフィア国際空港()はアメリカ合衆国のペンシルベニア州フィラデルフィアにある国際空港。ダウンタウンの10km南西に立地している。アメリカン航空のハブ空港で、アメリカ合衆国・カナダ・南アメリカとヨーロッパを結んでいる。ペンシルベニア州で一番旅客の多い空港である。 ターミナル 6つのターミナルに合計125箇所の搭乗口がある。個々のターミナルは繋がっているため、構造的には1つの建築物と見ることもできる。 ターミナルBとCは最も古い建物で1953年に完成した。間に商業施設がある。過去に数回改修されており、設備は新しい。 ターミナルDは1973年に完成した。16の搭乗口がある。 ターミナルEは1977年に完成した。米国慰問協会のラウンジがあり米軍関係者が利用する。 ターミナルFは2001年に完成した。38の搭乗口がある。 ターミナルAは2003年に完成した。大型機に対応しており国際線が発着する。 就航路線 貨物 UPS航空 フェデックス・エクスプレス DHLアビエーション カリッタ航空 アメリジェット 空港アクセス 空港からフィラデルフィア市中心部までは、南東ペンシルベニア交通局 (SEPTA)の近郊電車が接続している。 タクシーはフィラデルフィア市内中心部まで空港から$28.50のフラットレートである。 事故 2018年4月17日(日本時間18日)、ニューヨーク・ラガーディア空港発ダラス・ラブフィールド空港行きサウスウエスト航空1380便(ボーイング737-700型機、機体番号:N772SW)がペンシルベニア州上空を飛行中に左側の第1エンジンが爆発し、当空港へ緊急着陸した。乗客144人と乗員5人の計149人が搭乗していたが、爆発時の衝撃で左主翼近くの窓が破損。乗客1人が死亡し、7人が負傷した。国家運輸安全委員会による予備調査で、エンジンのファンブレードが損失しており、折れた部分に金属疲労の痕跡があると発表した。 脚注 関連項目 アメリカ合衆国の空港の一覧 外部リンク Philadelphia Marketplace ペンシルベニア州の空港 クラスBの空港 フィラデルフィアの建築物
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ジョン・コウヘイ・アンドウ(、日本名:安藤 洸平〈あんどう こうへい〉、1986年5月12日 - )は、アメリカ合衆国の日系人ヨーヨーパフォーマー。 2008年に行われたヨーヨーの世界大会の1A部門で優勝し、それ以外には2004-2007年全米大会2A部門優勝、2000-2004年米・テキサス州大会2A部門優勝と数々のタイトルを保持している。 2000年から2007年にかけて2Aが専門であったが、2008年の世界大会は1A部門に出場し優勝。周りを驚かせた。長い2Aの経験を生かした1Aのスタイルでその年の最も革新的なプレイヤーに選ばれた。現在、一時的に日本に移住し早稲田大学国際教養学部に在学中。ハイパーヨーヨーのトップスピナーリュージとして活躍していたが、トップスピナーを辞め、現在はSHAQLERというヨーヨーチームで活躍している。 ヨーヨープレイヤー +あんとう しよん 早稲田大学留学生 1986年生 存命人物
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マイク・ミルズ(Mike Mills, 1966年3月20日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、グラフィックデザイナー。 経歴 1966年3月20日、カリフォルニア州バークレーに生まれる。同州サンタ・バーバラで育った。1989年、クーパー・ユニオンを卒業する。 アディダス、ナイキ、ギャップなどのCMを監督し、エール、ブロンド・レッドヘッド、パルプなどのミュージック・ビデオを監督した。また、ソニック・ユースやビースティ・ボーイズのレコード・カヴァーのデザインを手がけている。 2005年、『サムサッカー』で長編映画監督デビューを果たす。2009年、ミランダ・ジュライと結婚した。2010年、ユアン・マクレガー主演の『人生はビギナーズ』を監督し、主人公の父親役を演じたクリストファー・プラマーにアカデミー助演男優賞をもたらした。2016年の『20センチュリー・ウーマン』では、アカデミー脚本賞にノミネートされた。 フィルモグラフィー 長編映画 サムサッカー Thumbsucker (2005年) - 監督・脚本 マイク・ミルズのうつの話 Does Your Soul Have a Cold? (2007年) - 監督・製作 ビューティフル・ルーザーズ Beautiful Losers (2008年) - 出演 人生はビギナーズ Beginners (2010年) - 監督・脚本 20センチュリー・ウーマン 20th Century Women (2016年) - 監督・脚本 カモン カモン C'mon C'mon (2021年) - 監督・脚本 脚注 外部リンク アメリカ合衆国の映画監督 アメリカ合衆国の脚本家 アメリカ合衆国のグラフィックデザイナー ミュージック・ビデオ・ディレクター バークレー出身の人物 クーパー・ユニオン出身の人物 1966年生 存命人物
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『星のカービィ キラキラ★プププワールド』(ほしのカービィ キラキラプププワールド)は、『星のカービィ』シリーズを題材とした南条アキマサによる4コマ漫画。現在『キャラぱふぇ』で連載されている。 概要 『キャラぱふぇ』2014年3-4月号から連載が開始された。当初のタイトルは『星のカービィ 〜トリプルデラックス編〜』で、『星のカービィ トリプルデラックス』を題材にしていた。その後『タッチ!カービィ スーパーレインボー』の発売に合わせて2015年3-4月号より『星のカービィ 〜スーパーレインボー編〜』が開始され、同年11-12月号より現在の題名『星のカービィ キラキラ★プププワールド』に改題された。 1巻では「ゲームオリジナルキャラクター(ゲームが原作)としてエリーヌと秘書スージーが登場する」という矛盾する紹介があったが、2巻以降からはそれを指摘された為か、コメントは削除されている。 絵柄が非常に愛らしく、登場キャラクターのほとんどは、頬にピンクのチークが描かれているのが特徴。秘書スージーや、三魔官シスターズ、アドレーヌやリボンといった女の子キャラクターが非常に可愛らしく描かれている。 ギャグの面白さより、キャラクター達の可愛らしさや、彼らのほのぼのとしたやり取りや日常を重視している作品である。 登場キャラクター カービィ 本作の主人公。素直で純粋無垢でお人好しで、敵であれ誰とでも仲良くなれる性格。食いしん坊で、食べ物に関しては強い執着を見せる。 ワドルディ カービィの友達。いつもカービィのお人好しさと、食いしん坊さに振り回されている。1巻は基本的にゲストを除くと、カービィと彼しか登場しない。 デデデ大王 2巻から登場(1巻の描き下ろし除く)。プププランドの大王で、食いしん坊な性格。頬にチークがあり、非常に愛らしく描かれている。 メタナイト プププランドの剣士。1巻ではスージーに改造されて、メタナイトボーグにされていた。他のキャラクターと異なり、頬にチークは描かれていない。 秘書スージー 『ロボボプラネット』編で登場する、ハルトマンワークスカンパニーの女性秘書。乙女チックな性格で、侵略の邪魔になるカービィを倒そうとするが、カービィのマイペースさに翻弄され、いつもうまく行かない。原作ではカービィを「ピンクのゲンジュウミン」と呼ぶが、本作では「カービィ」と名前で呼んでいる。アイスが好き。 主なゲストキャラクター エリーヌ 『タッチ! カービィ スーパーレインボー』編に登場する妖精の女の子。 クレイシア 『タッチ! カービィ スーパーレインボー』編に登場。エリーヌの友達。 ロボボアーマー 『ロボボプラネット』編に登場。 プレジデント・ハルトマン 『ロボボプラネット』編に登場。原作と異なり、生存している。 三魔官シスターズ 『スターアライズ』編に登場。性格は原作とほぼ同じだが、三人とも原作より女の子らしい性格になっている。また、原作同様フラン・ルージュはフラン・キッスに異常な執着を見せる。 ハイネス 2巻の中表紙絵でのみ登場。素顔を晒している。 リック&カイン&クー 『スターアライズ』編に登場。カービィの友達三人組。リックとクーは頬にチークが描かれている。 アドレーヌ&リボン 『スターアライズ』編に登場。アドレーヌは原作の一人称は「あたし」でカービィを「カーくん」と呼ぶが、本作では「私」で、カービィを呼び捨てにする設定に変更されている。 フラッフ 『毛糸のカービィプラス』編に登場。 三色カービィ(黄色、青、緑) 『スーパーカービィハンターズ』編に登場。性格はオリジナルとほぼ同じ。 マホロア 2巻の描き下ろし4コマ、『スターアライズ』編などに登場。原作と異なり悪人ではなく、「カービィの純粋な友達」という設定になっている。 マルク 2巻の描き下ろし4コマ、中表紙絵に登場。マホロア同様、原作と異なり悪人ではなく、「カービィの純粋な友達」という設定である。 タランザ 2巻の描き下ろし4コマ、中表紙絵に登場。原作で彼が登場する『トリプルデラックス』編は、当時はまだカービィとワドルディしかメインで登場しなかったので、未登場である。 ウィスピーウッズ ウィスピーボーグ 単行本 星のカービィ キラキラ★プププワールド(2017年3月15日発売 ISBN 9784048928052) - 改題前の「トリプルデラックス編」と「スーパーレインボー編」の作品も収録されている。 星のカービィ キラキラ★プププワールドDX(2020年3月14日発売 ISBN 9784049129472) きらきらふふふわあると しのかあひいきらきらふふふわあると 4コマ漫画
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ウロシュ・ラジッチ(、2003年3月15日 - )は、セルビアのサッカー選手。ポジションはディフェンダー。 経歴 レッドスター・ベオグラード 2023年1月10日、アンドリヤ・ラドゥロヴィッチと共にFKラドニク・スルドゥリツァに半年間の契約でレンタル移籍した。 2023年6月22日、FKノヴィ・パザルに半年間の契約でレンタル移籍した。 脚注 外部リンク セルビアのサッカー選手 レッドスター・ベオグラードの選手 RFKグラフィチャルの選手 FKラドニク・スルドゥリツァの選手 FKノヴィ・パザルの選手 SKディナモ・チェスケー・ブジェヨヴィツェの選手 ニシュ出身の人物 2003年生 存命人物
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論文掲載料(ろんぶんけいさいりょう、)は、研究者が投稿した論文原稿を、オープンアクセスまたはハイブリッドオープンアクセスの学術誌に掲載してもらう時、著者である研究者に出版社から課される手数料。この手数料は通常、研究者自身ではなく、研究者の所属する大学や研究機関または研究助成機関からの研究費によって支払われる。出版社の中には、研究費が少ない研究者に手数料を免除するところもある。 実態 学術出版社は、出版費(編集費用、査読システムの管理費用など)をカバーするのに必要な収入を得るために、購読料収入や出版助成金などさまざまな方法を用いている。 論文掲載料は通常、高額である。学術出版社は、100ドル未満から3,000ドルを超えるなどさまざまなレベルの論文掲載料を課している。大手出版社のインパクトファクターが高い学術誌は、論文掲載料が高い傾向にある。 論文掲載料は、オープンアクセスの倫理問題と絡んだ論争となっている。 伝統的な出版社は、購読学術誌中の個々の論文をオープンアクセスにする場合(ハイブリッドオープンアクセス学術誌)、エクストラの掲載料を請求する。ハイブリッド学術誌の論文掲載料の平均額は、フルオープンアクセスの約2倍である。 オープンアクセスは、クローズドアクセスの論文掲載料に追加料金が課される。例えば、米国科学アカデミー紀要では、1論文あたり1,700ドルの論文掲載料が請求されるが、オープンアクセスの場合は1,350ドルの追加料金がかかる。同様に、アメリカ地球物理学連合の『Journal of Geophysical Research』では、クローズドアクセスの場合1,000ドルの論文掲載料だが、オープンアクセスの場合3,500ドルを請求する。 紙媒体の学術誌で、論文掲載料を徴収しない場合でも、一定数のページを超えた場合、カラーの図を依頼した場合など、出版社は超過料金を課す。 論文掲載料は、論文が受理された時に発生するが、原稿を投稿し査読の開始前に、投稿料()が請求されることは金融学や経済学などの分野では珍しくない。 ページチャージ()という用語は、論文掲載料または投稿料のいずれかを指す。 批判 オープンアクセス学術誌での論文掲載料は、掲載費用の負担を読者から著者(またはその資金提供者)にシフトさせている。このことが新たな懸念を引き起こしている。 1つ目の懸念事項。出版社は論文を掲載すると利益が得られるので、原稿の質が悪くても、投稿された原稿を掲載するハゲタカジャーナルの増加である。 2つ目の懸案事項。大学や研究機関の資金が十分でなく、オープンアクセス学術誌(例えば、BioMed Centralの学術誌)に掲載してもらう論文掲載料を研究者が払えず、研究成果を公表できない場合が起こることだ。 所得の低い国の著者への割引、または費用をカバーする外部資金の提供などがない限り、論文掲載料は、開発途上国の研究者や研究資金の少ない研究分野を排除してしまう。しかし、従来のモデルでも、このような割引や資金の提供はすでに研究界に大きな負担となっている。 3つ目の懸案事項。アメリカ国立衛生研究所(NIH)やウェルカム・トラストなどの主要な資金提供機関が、研究の支援からオープンアクセス出版の支援へと資金を振り替える動きである。ウェルカム・トラストの上級政策顧問であるRobert Terryは、研究予算の1–2%が知識の創造から知識の普及に変わると述べている。 マックス・プランク研究所の2015年の研究では、学術出版社の年間売上高は約76億ユーロに上る。このお金は、世界の大学や研究機関が、所属研究者が学術論文を閲覧できるように購読料やライセンス料として払っている額である。支払い総額はオープンアクセスの公開に十分な額であるとしている。 関連項目 オープンアクセス 電子ジャーナル ビールのリスト 捕食出版 脚注・文献 外部リンク Curb, L. A., & Abramson, C.I. (2012) An examination of author-paid charges in science journals. Comprehensive Psychology, 1, 4. Guy, M., Holl, A. (2015) Article Processing Charges. Briefing Paper, PASTEUR4OA project オープンアクセス 学術雑誌 学術出版 研究 資料学 図書館情報学
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KENROKU(けんろく、1980年8月19日-)は、兵庫県芦屋市出身の俳優。身長182cm、体重75kg。血液型はO型。趣味はボディビルディング、一人旅、神社仏閣巡り、プロレス・格闘技観戦。特技はボクシング、華道、英会話。NESTA(全米エクササイズ&スポーツトレーナー協会)認定パーソナルフィットネストレーナー、NESTA認定ダイエット&ビューティースペシャルリスト資格やボクシングのプロライセンスも取得している。 経歴 1980年8月19日生まれ。父は華道未生流副家元。 2002年甲南大学在学中に渡米。カリフォルニア州サンタモニカのアクティングスクールで芝居と英語を学ぶ。 2003年活動の場を東京に移し、俳優としての活動を開始。 2006年アーティスト名を"KENROKU"とし、映画、舞台、CM等に出演。 2012年後楽園ホールにてプロボクシングライセンス取得。 2014年神社検定参級取得。 2015年8月16日俳優の金子賢が主催する大会「サマー・スタイル・アワード」に出場し176cm超級で6位入賞。 2016年よりポーラスター東京アカデミー講師を担当。 2017年10月よりTPサテライト エンタメフィットネス講師を担当。 2017年11月1日TWIN PLANETへ移籍。 2020年8月16日オンラインパーソナルトレーニングアプリ「Togetherおうちで一緒にトレーニング」を開発し、AppStoreとGoogle Playでリリース。 出演作品 舞台 ROOM 「Amuse-Prestage project-unit」(2005年、千本桜ホール) - ろまんす (2010年、アクアスタジオ)- 田波直人 役 改訂版!!そして竜馬は殺された (2010年、時来組)- 原田左之助 役 それゆけ!遠山一家〜ヤスの妹 萌え♪萌え♪極楽(パラダイス)〜 (2011年、エアースタジオ) - アントニオ町田 役 十二人の怒れる人々 (2011年、アクアスタジオ)- 10号 役 〜AduLt〜 (2012年、万本桜企画)- 洋介 役 檻からホットブラザーズ (2012年、演劇集団Z-Lion、新宿タイニイアリス)- ブンタ 役 たまり、るいゆー (2013年、万本桜企画)- アブニール夢見が丘 壁一枚の物語 (2013年、ユーキース・エンタテインメント、新宿タイニイアリス、十三Ardiente)- ユウスケ 役 劇団コラソン第26回公演「モテなキ」 (2013年、コラソン・ジャパン、下北沢駅前劇場)- KENROKU 役 G&Gアクターズファクトリー第5回プロデュース作品「秋宵(あきよい)〜遠い日の宴〜」 (2013年、ユーキース・エンタテインメント、笹塚ファクトリー)- 山口公平 役 劇団コラソン第27回公演「忘年会」 (2013年、コラソン・ジャパン、ステージカフェ下北沢亭)- 劇団ドガドガプラス第26回公演「浅草アリス in wonderland」(2018年、浅草東洋館 旧フランス座)- 知渡玲&ジルドレ 役 CM アサヒスーパードライ 「人生の歓び篇 第2弾」 富士フイルム 「お正月篇」 ENEOS 「Dr.おうちのエネルギー」 JT ウィンストン (たばこ) 大正製薬 「リアップX5プラス 未来編」 TV 女と愛とミステリー「パートタイム探偵2」(テレビ東京) au携帯ドラマ横浜エイティーズ -丸山春樹 役 RESCUE〜特別高度救助隊(2009年、TBS) NHK 社内用啓発コンテンツドラマ バラエティ「爆問!最強ドッキリ祭」 (2014年、TBS)-IT社長ケン役 有吉ゼミ(2015年、TBS)-金子賢役 行列のできる法律相談所(2016年、NTV)-山田章仁役 ブラックスキャンダル(2018年、NTV)-ウェイター役。 犬も食わない(2018年、NTV)。 億婚(2019年、テレビ朝日) -ケン役。 映画 ワイルド・フラワーズ(2004年)- 放送禁止劇場版「密着68日 復讐執行人」(2008年)- 252-生存者あり-(2008年) -大和田誠 役 20世紀少年-最終章-(2009年)- 唐人街探偵 東京MISSION - (2021) PV T.M.Revolution「Phantom Pain」 広告 明治製菓、SAVAS スコッチバンク銀座 EIZO 雑誌 celebの宝石箱 植松晃士ファッションムック ワニマガジン社 イベント 松山優太ファン親睦イベントMC 脚注 外部リンク ツインプラネット Togetherおうちで一緒にトレーニング (2013年9月5日より) 日本の男優 TWIN PLANET 神戸市出身の人物 1980年生 存命人物
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ヤン1世オルブラフト(ポーランド語表記:Jan I Olbracht(Albrecht) / リトアニア語表記:Jonas Albrechtas, 1459年12月27日 - 1501年6月17日)は、ポーランド王(在位:1492年 - 1501年)。カジミェシュ4世とローマ王アルブレヒト2世の娘エリーザベトの三男。ボヘミア王及びハンガリー王であるウラースロー2世(ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー)の弟、ポーランド王兼リトアニア大公アレクサンデルおよびジグムント1世の兄である。 生涯 ヤン・オルブラフトはポーランド王太子として、コペルズティンの戦い(1487年)でタタールに対し華々しい勝利を収めた。1490年、ハンガリーの貴族階級はラコーシュの議会においてヤンをハンガリー王と宣言したが、この決定は兄のボヘミア王ウラースロー2世によって退けられ、ウラースロー2世がハンガリー王に即位した。 1492年、父の死によりポーランド王位を継承した。一方、弟アレクサンデルのリトアニア大公位継承に伴い同君連合が一時的に解消されたことで、ポーランド国家財政は著しい損害を受けたため、地方の下級貴族(シュラフタ)の牙城であるのような地方議会の激しい敵意を招き、補助金を国王による彼らへの追従姿勢によって捻出する傾向が強まった。 ヤン1世はオスマン帝国に対峙するキリスト教世界の覇者としての地位を望み、時代状況は彼の野心に味方していた。兄ウラースロー2世はハンガリーとボヘミアの国王として中欧に大きな影響力を振るっており、ライバルの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が1492年にモスクワ大公イヴァン3世と結んだ同盟に匹敵する同盟体制の構築を目論んでいた。ヤン1世本人もモルダヴィア公国を属国としていたために、トルコ人による攻撃の脅威にさらされていた。1494年にレヴォチャで結ばれた盟約では、ヤン1世、ウラースロー2世兄弟及びブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロの3人の君主が対トルコ遠征に関する詳細を詰め、ヤン1世の支援を仰ごうとしていたモルダヴィアの・シュテファン3世もこの会談に協力した。 1496年、戦役のためにヤン1世は大きな代償を払いつつポーランド内から80000人の兵士をかき集めたが、軍事計画はシュテファン3世のモルダヴィア軍によるガリツィアへの突然の侵攻によって瓦解した。モルダヴィアがポーランドと敵対した理由は、ヤン1世が末弟のジグムントにモルダヴィア公位を与える野心をかぎつけた為と言われる。敵対したモルダヴィアとポーランドは戦争に突入し、モルダヴィア領内に入ったポーランド軍は首都スチャヴァの包囲に失敗した後、コズミン森の戦いで決定的な敗退を喫した。この敗戦の原因の1つは、従軍したシュラフタ達の不服従による指揮系統の乱れにあったとし、ポーランド帰国後にヤン1世は数百人のシュラフタの所領を没収している。ただし、国王は治世末期には人気を回復している。 ドイツ騎士団の新総長となったフリードリヒ・フォン・ザクセンがポーランド王への忠誠を拒むと、ヤン1世は彼に無理やり服従を強要した。騎士団に更なる迫害を加えようとしたヤン1世の決意は、1501年に自身が急死したことで挫折した。子供が無かったため、王位はアレクサンデルが継承、ポーランドとリトアニアは再び同君連合となった。 参考文献 V. Czerny. The Reigns of Jan Olbracht and Aleksander Jagiellon. Kraków, 1882. 関連項目 ピョートルクフ法令 ポーランド国王 ヤギェウォ家 クラクフ出身の人物 1459年生 1501年没
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福島県道67号中野須賀川線(ふくしまけんどう67ごう なかのすかがわせん)は、福島県郡山市から須賀川市に至る県道(主要地方道)である。 概要 路線データ 起点:郡山市湖南町中野字飯ケ森 終点:須賀川市一里坦(国道4号交点 一里坦交差点) 総延長:30.217km 実延長:29.729km 歴史 1993年(平成5年)5月11日 - 建設省から、県道中野須賀川線が中野須賀川線として主要地方道に指定される。福島県によって現在の路線名が認定される。 路線状況 バイパス 袋田バイパス(須賀川市) 起点…須賀川市袋田字大橋 終点…須賀川市袋田字守子 全長…1.1km 幅員…9.25m(車道部6.0m) 袋田地区中心部は幹線道路であるにもかかわらず車両のすれ違いができない狭隘区間と屈曲部が続き円滑な交通の支障となっており、通学路でありながら歩道もなく児童の通学に事故の危険があったことから集落を迂回するバイパスが2010年度より事業化され、2013年7月31日に開通した。 重複区間 国道118号(岩瀬郡鏡石町蒲之沢町~須賀川市一里坦(終点)) 冬期閉鎖区間 郡山市湖南町中野字飯ヶ森 - 須賀川市梅田字牛佛(諏訪峠区間、11.9km) 道路施設 今田橋 今田橋側道橋 全長:30.1m 幅員:2.0m 竣工:1986年 須賀川市今泉字堀ノ内から柱田字横耕内に至り、一級水系阿武隈川水系滑川を渡る。上り線側に人道橋が架設されている。 新山橋 全長:38.3m 幅員:8.0m 竣工:1973年 新山橋側道橋 全長:38.0m 幅員:2.0m 形式:単純鋼I桁橋 竣工:2009年度 須賀川市西川字長坦・字隠久保から西川字西田・日向町に跨り東北自動車道を渡る。須賀川市立西袋第一小学校の通学路ながら歩道が設置されていなかったため、地方特定道路整備事業として下り線側に側道人道橋が設置された。人道橋の総工費は5500万円。 影沼橋 全長:87.9m 幅員:8.8m×2 竣工:1972年 / 1982年(上り/下り) 須賀川市牛袋町から影沼町、堀底町に至り、一級水系阿武隈川水系釈迦堂川を渡る。橋上は片側2車線にて供用されている。 地理 通過する自治体 郡山市 須賀川市 岩瀬郡鏡石町 須賀川市 交差する道路 郡山市 福島県道6号郡山湖南線(湖南町中野字飯ケ森 起点) 須賀川市 福島県道29号長沼喜久田線(梅田字古手宮) 福島県道55号郡山矢吹線(矢沢字明池) 福島県道294号三穂田須賀川線(吉美根字土橋) 東北自動車道(牛袋町(須賀川IC)) 福島県道63号古殿須賀川線(須賀川市堀底町) 岩瀬郡鏡石町 国道118号松塚バイパス 会津若松市方面(蒲之沢町) 須賀川市 国道4号須賀川バイパス・国道118号 水戸市方面(一里坦(一里坦交差点) 終点) 沿線にある施設など 須賀川市役所岩瀬支所 岩瀬図書館 岩瀬公民館 岩瀬商工会館 須賀川市立西袋中学校 須賀川市立西袋第一小学校 須賀川アリーナ 須賀川市文化センター 総合南東北病院附属 須賀川診療所 脚注 関連項目 福島県の県道一覧 067
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銀座出入口(ぎんざでいりぐち)は、東京都中央区築地、銀座にある首都高速道路都心環状線の出入口である。内・外回り双方の出口・入口とも設置されているフルインターチェンジである。4箇所の入口と出口の所在地は離れている。 接続する道路 晴海通り 周辺 歌舞伎座 NISSAN CROSSING 新橋演舞場 東銀座駅 銀座駅 隣 首都高速都心環状線 (13,14)新富町出口 - (15,16)銀座出入口 - 汐留JCT(汐留出入口併設) 関連項目 日本のインターチェンジ一覧 外部リンク 銀座 - 首都高ネットワーク案内|首都高ドライバーズサイト んさ きんさ 東京都中央区の交通 銀座 1962年開業の道路施設
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ユーリ・フォアマン(Yuri Foreman、男性、1980年8月5日 - )は、イスラエルのプロボクサー。ベラルーシ・ホメリ出身。元WBA世界スーパーウェルター級王者。 来歴 ベラルーシに生まれ、10歳でイスラエルに移住した。1999年にはアメリカ合衆国に拠点を移した。 2002年1月24日、アメリカ合衆国でプロデビューし、初回TKO勝ち。 2007年12月6日、24戦目でNABF北米スーパーウェルター級王者アンドレイ・ツルカン()に挑戦し、10回判定勝ちで王座を獲得した。同王座は2度の防衛に成功した。 2009年6月27日、IBF世界スーパーウェルター級王座挑戦者決定戦でコーネリアス・バンドレッジ()と対戦し、3回に偶発的なバッティングで右瞼をカットし続行不可能となりノーコンテストとなった。 2009年11月14日、WBA世界スーパーウェルター級王者ダニエル・サントス()に挑戦し、12回3-0の判定勝ち。無敗(28勝1NC)のまま世界王座を獲得した。この試合はマニー・パッキャオ vs. ミゲール・コットの前座として行われ、その後、パッキャオの対戦相手としても候補に挙げられた。 2010年6月5日、ニューヨークのヤンキースタジアムにて、元世界2階級制覇王者のミゲール・コット()と初防衛戦を行い、序盤から挑戦者に一方的に攻められ続けて9RTKO負け。王座から陥落するとともに、キャリア初黒星を喫した。 2011年3月12日、アメリカ・ネバダ州ラスベガスMGMグランドにて、ミゲール・コットVSリカルド・マヨルガの前座として登場。パヴェウ・ヴォラク()と対戦し、6回終了時に陣営が試合を棄権したことによる6回終了TKO負けで自身初の2連敗となった。試合後に引退を表明した。 2013年1月23日、引退を撤回して2年ぶり復帰戦を行い6回3-0の判定勝ちを収める。 2014年6月7日、セルヒオ・マルチネスVSミゲール・コットの前座でホルヘ・メンデスと試合予定であったが、フォアマンが突然5月19日にチーム内のいざこざが原因として引退を発表した。 2015年10月29日、同年12月5日にバークレイズ・センターで復帰戦を行うと発表された。 2015年12月5日、再び引退を撤回して、約2年ぶりの試合をバークレイズ・センターでスーパーウェルター級8回戦を行い、8回3-0(3者共77-75)の判定勝ちを収め復帰戦を白星で飾った。 2016年6月3日、ニューヨーク市クイーンズ区でジェイソン・デービスとスーパーウェルター級8回戦を行い、2回1分55秒TKO勝ちを収めた。 2016年12月8日、WBAは最新ランキングを発表し、フォアマンをWBA世界スーパーウェルター級9位にランクインした。 2017年1月13日、フロリダ州ハイアリアのハイアリアパーク競馬場でWBA世界スーパーウェルター級スーパー王者でIBO世界スーパーウェルター級王者のエリスランディ・ララと対戦し、4回1分17秒KO負けを喫しWBAスーパー王座の獲得並びにIBO王座の獲得に失敗した。 獲得タイトル NABF北米スーパーウェルター級王座(防衛2=返上) WBA世界スーパーウェルター級王座(防衛0) 脚注 関連項目 男子ボクサー一覧 世界ボクシング協会(WBA)世界王者一覧 外部リンク イスラエルのボクサー ベラルーシのボクサー スーパーウェルター級世界王者 世界ボクシング協会世界王者 ホメリ出身の人物 ユダヤ人のスポーツ選手 1980年生 存命人物
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1949年世界フィギュアスケート選手権(1949ねんせかいフィギュアスケートせんしゅけん、1949 World Figure Skating Championships)は、1949年2月16日から2月18日までにフランスのパリで開催されたフィギュアスケートの世界選手権。 各国メダル数 競技結果 男子シングル 女子シングル ペア 外部リンク 競技結果(英語) 関連項目 世界フィギュアスケート選手権 フィギュアスケート競技会 1949 1949年のスポーツ 1949年のフランス フランス開催の国際ウィンタースポーツ競技大会 パリのスポーツ競技大会 1949年2月
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アルベール・マルクール(Albert Marcœur、1947年12月12日 - )は、フランスの作曲家、シンガーソングライターである。1970年代初頭に音楽キャリアをスタートした。彼の一連の作品は、メロディックで、リズミカルで、ソニックな実験音楽と、ド派手な童謡、ユーモラスで風変わりな歌詞をミックスしている。フランスで彼は「フランスのフランク・ザッパ」と呼ばれている。 ディスコグラフィ スタジオ・アルバム 『マルクール・デビュー!』 - Albert Marcœur (1974年) 『塗り絵帳』 - Album à colorier (1976年) 『アームズ&サイクルズ』 - Armes & cycles (1979年) 『ジョゼフ入りアルバム』 - Celui où y'a Joseph (1984年) Ma vie avec elles (1990年) Sports et percussions (1994年) m, a, r et cœur comme cœur (1998年) Plusieurs cas de figure (2001年) L apostrophe (2005年) Travaux pratiques (2008年) Si Oui, Oui. Sinon Non (2017年) ※with Le Quatuor Béla サウンドトラック Deux Lions au soleil (1980年) Douce enquête sur la violence (1981年) Un tour de manège (1989年) Un enfoiré et quelques connards (1991年) Mon placard (1998年) Premonition (2006年) 出典 外部リンク www.marcoeur.com 公式ウェブサイト (フランス語) 1947年生 存命人物 ディジョン出身の人物 フランスの歌手 フランスの作曲家
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『探検奨学金』(たんけんしょうがくきん、原題 )は、1903年に刊行されたジュール・ヴェルヌの冒険小説。 概要 かつて船長で海賊に転向したハリー・マーケルは捕らえられ、イングランドへ移送される途中にジョン・カーペンターと仲間と脱出して他の者たちと共に大西洋を横断する。様々な試練が彼らと同乗者たちに降りかかるものの、それらの難局を切り抜ける。 登場人物 ハリー・マーケル (Harry Markel) - 元船長で海賊になったが捕らえられる ジョン・カーペンター (John Carpenter) - ハリーの仲間 外部リンク 驚異の旅 1903年の小説 フランスの冒険小説 海洋冒険小説 海賊を題材とした小説
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キャプテン&テニール(Captain & Tennille)は、1972年にダリル・ドラゴン (Daryl Dragon)とトニ・テニール (Toni Tennille)夫妻が結成したアメリカ合衆国の男女ポップ・デュオ。 略歴 キーボーディスト兼アレンジャーの「キャプテン」ことダリル・ドラゴンと、ボーカリストでソングライターのトニ・テニールは、共にザ・ビーチ・ボーイズのツアーに参加。ツアー終了後、デュオとしての活動を開始した。1973年に自主製作盤のレコードが評判を呼び、A&M社と契約。カバー曲「愛ある限り」(全米1位)、「君こそすべて (The Way I Want to Touch You)」(全米4位)、「マスクラット・ラブ」、カバー曲「ショップ・アラウンド」、「愛の証し (Do That to Me One More Time)」(全米1位)、「ロンリー・ナイト」「キャント・ストップ・ダンシング」「ユー・ネバー・ダン・イット・ライク・ザット」などがヒットを記録した。 ドラゴンが「キャプテン」のニックネームになったのは、彼がいつも船長のような帽子をかぶっていたことに由来する。 1984年から、テニールはジャズ歌手としてキャプテンのプロデュースによる数枚のアルバムを発表し、舞台『ビクター/ビクトリア』に主演するなど活動の場を広げている。 後に二人は離婚している。 キャプテンことダリル・ドラゴンは、2019年1月2日に死去した。 ディスコグラフィ スタジオ・アルバム 『愛ある限り』 - Love Will Keep Us Together (1975年、A&M) 『ソング・オブ・ジョイ』 - Song of Joy (1976年、A&M) 『雨に想いを』 - Come In from the Rain (1977年、A&M) 『ドリーム』 - Dream (1978年、A&M) 『愛の証し』 - Make Your Move (1979年、Casablanca) 『幸せの絆』 - Keeping Our Love Warm (1980年、Casablanca) More Than Dancing (1982年、Wizard) The Secret of Christmas (2007年、Retroactive Entertainment) 脚注 関連項目 モータウン 外部リンク 公式ウェブサイト(アーカイブ) Toni Tennille's site(アーカイブ) 1975 singles Toni Tennille returns to her Southern roots – Montgomery Advertiser, April, 2016. アメリカ合衆国の音楽グループ グラミー賞受賞者 A&Mレコードのアーティスト 1972年に結成した音楽グループ 2013年に解散した音楽グループ
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キス・オブ・ライフ() 音楽作品 Kiss of Life - あんさんぶるスターズ!!ユニットソングALKALOIDに収録。 KISS OF LIFE (平井堅の曲) - 平井堅のシングル曲。 KISS OF LIFE (崎谷健次郎のアルバム) - 崎谷健次郎のアルバム。 KISS OF LIFE - 上記アルバムの表題曲。上田浩恵への提供曲「WINDS OF LOVE」を、作詞家を変えてセルフカバーしたもの。 Kiss of Life (加奈崎芳太郎のアルバム) - 加奈崎芳太郎のアルバム。 KISS OF LIFE (RXのアルバム) キス・オブ・ライフ(Kiss of Life) - ザ・コアーズの曲。アルバム『ホワイト・ライト』に収録。 - シャーデーのシングル曲。 - 2003年のイギリス映画。 KISS OF LIFE (韓国の音楽グループ) - 韓国の音楽グループ。 同名の作品
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フーカー潜水(フーカーせんすい)は、本来、目・鼻・口を同時に覆う簡単なマスクに水上からホースで空気を供給する送気式潜水の一種を指す。その名称は、かつて阿片などの麻薬を吸うときに使用されていた器具の名前 (hookah) に由来する。ヘルメット潜水との対比から、マスク潜水と呼ばれる場合もある。 フーカー潜水の特徴 水上からホースで送られた空気は、安全のための逆止弁を経由してマスク内に連続的に供給される。ダイバーの呼気および余剰に供給された空気は、マスクに取り付けられた排気弁から水中に放出される。水上の空気供給装置の能力は一般に非常に限られており、潜水可能な深度は水深10メートル前後が普通である。ヘルメット潜水と比べ装備が簡便で軽量なため、かつては浅い場所での簡単な水中作業などで多用されていたが、その後のスクーバの普及により活躍の場は大きく狭まった。しかし、水上から空気を供給するため潜水時間に制限がないことと、構成が単純でメンテナンスも容易であることから、現在でも、一部地域の潜水漁師などによって少数ながらも使用されている。 フーカー潜水の発展形 スクーバの普及に伴い、フーカー潜水の発展形として、スクーバダイビングで使用するマスクとレギュレーター(2ndステージ)を使用し、ダイバーが背負うタンクに替えて水上から空気を供給する潜水装置が広く使用されている。現在では、フーカー潜水といえばこちらの方式を指すことが多い。空気供給装置の能力にもよるが、水深20 - 30メートル程度まで潜水可能なものもある。 その他フーカー潜水類似の潜水方法 フーカー潜水に類似した潜水方法として、フリーフローヘルメット (free-flow helmet) と呼ばれるものがある。これは、簡単にいえば、水中で逆さまにしたバケツには水が入らないことを応用したもので、首下あたりまでを覆う単純なヘルメットに、水上からホースで空気を供給する潜水方法である。ヘルメットには空気の供給を調整する機構はとくになく、余剰の空気はヘルメットの下部から水中に放出される。これがフリーフロー (free-flow) と呼ばれる所以で、フーカー潜水のマスクも同様にフリーフローマスク (free-flow mask) と呼ばれることもある。フリーフローヘルメットは、スクーバが広く普及してからはほとんど使用されなくなっていたが、近年、このシステムをレクリエーション用に改良したものが「シーウォーカー」などと称して再登場し、日本でも沖縄のビーチリゾートなどで使用されている。 関連項目 ヘルメット潜水 大気圧潜水服 外部リンク シーウォーカーのページ 潜水
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デ・アデラールスホルスト(De Adelaarshorst)は、オランダ・オーファーアイセル州デーフェンターにあるサッカー専用スタジアム。1920年の開場以来ゴー・アヘッド・イーグルスのホームスタジアムとして使用されている。 概要 1920年に建設されたスタジアム。1965年9月29日にはスコットランドのセルティックFCとの試合で観客数25,000人を記録し、スタジアムの最多収容人数記録を塗り替えた。その後はFIFAによる立ち見席の規制などを受け、安全性の観点から収容人数を抑え始めたものの、2015年の改装後には国内最大となる2,100人の屋根付き立ち見スタンドが誕生した。 開催された主なイベント 1974 FIFAワールドカップ予選 1973年8月29日 : 8-1 UEFA U-21欧州選手権2017予選 2015年9月4日 : 4-0 国際親善試合 2013年10月14日 : 0-3 ギャラリー 脚注 外部リンク 公式ウェブサイト オランダのサッカー競技施設 UEFA欧州女子選手権競技場 ゴー・アヘッド・イーグルス デーフェンテル 1920年開設のスポーツ施設
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とは、精製あるいは配合されて何らかの用途に利用可能な状態とした化学物質のこと。特に剤形が整えられた場合はという。 様々な薬品 薬 - 生物が摂取しないものを含む調合された化学物質全体。正確には、薬品を含むより広い概念。 主に生物に用いる薬品 薬物 - 主に人間が生物の身体に用いることを目的とする薬品の総称、および通称。 医薬品 - 特に西洋医学や何かしらの該当法における医療を目的とした薬品。日本では医薬品医療機器等法により規制される。 非生物に用いる薬品 農薬 - 農作物や園芸作物の防虫・防病・消毒などを目的とした薬品。日本では農薬取締法により規制される。 火薬・爆薬 - 急激な燃焼反応を得る目的で用いられる薬品。日本では火薬類取締法により規制される。 その他の薬品 試薬 - 化学実験・研究を目的とした薬品。 治験薬 - 化学実験・研究を目的とした薬品。 漢方薬 - 漢民族が発明したとされる東洋医学および東洋の民間療法などにおいて用いる薬品。 生薬 - 東洋医学および東洋の民族療法などにおいて用いる薬品。 関連項目 化学 薬学
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ツィッピー・ホトベリー(, Tzipi Hotovely, 1978年12月2日 - )は、イスラエル・レホヴォト出身の同国の政治家(リクード党所属)、ジャーナリスト。父母はグルジアからの帰還者。 出自・学歴 1978年、レホヴォトにグルジアからの帰還者の家庭に生まれ、宗教系の高校を経て、バル=イラン大学、テルアビブ大学では法学を専攻し、テルアビブ大学では同学の博士号を獲得し、大学卒業後は法律事務所で勤務する。その後は、ジャーナリスト、「マアリブ紙」のコラムニストとして、テレビの討論番組への出演を機に名声を高める。 政界入り 2008年12月には、ジャーナリストから政界への進出を試み、当時野党だったリクードの党員選挙に出馬。ジャーナリストとしての知名度を生かして比例順位18位につける健闘を見せ、翌年2月の総選挙で初当選した。リクード党内でも最も強硬な議員の一人であり、宗教系の高校で教育を受けた経緯からユダヤ人入植者に対する強い共感を持つ。2005年のガザ地区撤退計画で強制退去が行われたヨルダン川西岸のホメッシュ再建を当選以来掲げている。2009年11月25日にベンヤミン・ネタニヤフ首相が打ち出した、10ヶ月間のヨルダン川西岸入植地建設凍結に対しては激しい批判を加えている。2011年6月には、入植者組合や国家統一党のヤアコブ・カッツ党首ら超党派議員とナブルスのヨセフの墓地を訪問し旧約聖書を朗読。国会議員による墓参は2000年以降、11年間中断していた。 脚注 外部リンク ツィッピー・ホトベリー公式サイト ツィッピー・ホトベリー:クネセット公式サイト イスラエルの女性政治家 イスラエルの政治家 クネセト議員 イスラエルのジャーナリスト ユダヤ系イスラエル人 グルジア系イスラエル人 ユダヤ系グルジア人 イスラエル中央地区出身の人物 テルアビブ大学出身の人物 1978年生 存命人物
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後川村(しつかわむら)は、兵庫県多紀郡にあった村。現在の丹波篠山市後川各町にあたる。 地理 山岳:大野山 河川:羽束川 歴史 1892年(明治25年)1月8日 - 日置村の一部(大字後川上村・後川新田村・後川中村・後川下村・後川奥村)が分立して発足。 1955年(昭和30年)4月10日 - 日置村・雲部村と合併して城東村が発足。同日後川村廃止。 参考文献 角川日本地名大辞典 28 兵庫県 関連項目 兵庫県の廃止市町村一覧 多紀郡 丹波篠山市域の廃止市町村 1892年設置の日本の市町村 1955年廃止の日本の市町村
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あげまん - 隠語 あげまん (映画) - 1990年公開されたの日本映画。監督・脚本は伊丹十三。 揚げ饅頭、揚げまん棒 - 和菓子である饅頭のバリエーションのひとつ。
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『アニメ「ポケットモンスターXY&Z」キャラソンプロジェクト集』(アニメ ポケットモンスターエックスワイアンドゼット キャラソンプロジェクトしゅう)は、2016年に発売されたテレビアニメ『ポケットモンスター XY&Z』のキャラクターソングアルバムである。発売元はSME Records。 概要 テレビアニメ『ポケットモンスター XY』が『ポケットモンスター XY&Z』(以下『XY&Z』)として新シリーズを開始するにあたり、「ゲッタバンバン」で人気を集めた佐香智久がキャラソン総合プロデューサーを務めることが発表となった。第1弾の「XY&Z」を始め、テレビアニメ『XY&Z』の主題歌として順次制作された。 第1弾として発表された「XY&Z」はテレビアニメ『XY&Z』のオープニングテーマ。サトシ役である松本梨香がオープニングを担当するのは「やじるしになって! 2013」以来、サトシとしてオープニングテーマを担当するのは『ハイタッチ!2009』(ヒカリ(豊口めぐみ)とのデュエットソング)以来で、サトシ単独では「スパート!」以来となる。iTunesアニメランキングでは第1位を記録した。2017年1月9日に放送された『はじめてのおつかい』(日本テレビ系列)でも挿入歌として使用された。 第6弾「ピカチュウのうた」は、史上初となる全編がピカチュウの言葉で歌われた楽曲であり、その歌詞に多くの関心を集めた。LINEミュージックランキング第1位、iTunesアニメランキング第1位、iTunes総合ランキング第4位、Bilboard JAPAN "HOT ANIMATION"第1位などのランキングを獲得。2016年8月15日付のBillboard JAPAN Hot 100では初登場4位を記録した。 vol.1 2016年1月20日に発売。通常版(SECL-1832)、完全生産限定盤(SECL-1830/1831)の2種類でリリース。 CD XY&Z 歌:サトシ(松本梨香) 作詞・作曲:佐香智久、編曲:佐香智久、saku キャラクターソング第1弾。『XY&Z』オープニングテーマ。 プニちゃんのうた 歌:ユリーカ(伊瀬茉莉也) 作詞:佐香智久、作曲:馬渕直純、長田直也、編曲:中西ゆういちろう キャラクターソング第2弾。『XY&Z』エンディングテーマ。 ロケット団 団歌 歌:ロケット団[ムサシ(林原めぐみ)・コジロウ(三木眞一郎)・ニャース(犬山イヌコ)] 作詞:ロケット団、作曲:たなかひろかず、編曲:渡部チェル キャラクターソング第3弾。『XY&Z』エンディングテーマ。 XY&Z〜Off Vocal〜 DVD(完全生産限定盤のみ) TVアニメ「ポケットモンスター XY&Z」ノンクレジットオープニング映像 TVアニメ「ポケットモンスター XY&Z」ノンクレジットエンディング映像 封入特典(完全生産限定盤のみ) ポケモントレッタ「サトシゲッコウガ」 vol.2 -総集編- 2016年10月26日に発売。前作から約9ヶ月振りと短いブランクで発売された。通常版、初回生産限定盤A、初回生産限定盤Bの3形態でリリース。第1弾に収録された曲も収録されている。 CD 収録曲は特記なき場合『XY&Z』エンディングテーマ。 XY&Z 歌:サトシ(松本梨香) 作詞・作曲:佐香智久、編曲:佐香智久、Saku キャラクターソング第1弾。『XY&Z』オープニングテーマ。 プニちゃんのうた 歌:ユリーカ(伊瀬茉莉也) 作詞:佐香智久、作曲:馬渕直純、長田直也、編曲:中西ゆういちろう キャラクターソング第2弾。 ロケット団 団歌 歌:ロケット団[ムサシ(林原めぐみ)・コジロウ(三木眞一郎)・ニャース(犬山イヌコ)] 作詞:ロケット団、作曲:たなかひろかず、編曲:渡部チェル キャラクターソング第3弾。 ドリドリ 歌:セレナ(牧口真幸) 作詞:中川翔子、岩里祐穂、作曲:鈴木健太朗、編曲:Saku キャラクターソング第4弾。中川翔子の同名の曲のカバー。 キラキラ 歌:シトロン(梶裕貴) 作詞・作曲:佐香智久、編曲:湯浅篤 キャラクターソング第5弾。佐香智久の同名の曲のカバー。 ピカチュウのうた 歌:ピカチュウ(大谷育江) 作詞・作曲:佐香智久、編曲:Saku キャラクターソング第6弾。 ニャースのバラード 歌:ニャース(犬山イヌコ) 作詞:戸田昭吾、作曲・編曲:たなかひろかず キャラクターソング第7弾。 XY&Z –movie ver.- 歌:サトシ(松本梨香) 作詞・作曲:佐香智久、編曲:佐香智久、Saku キャラクターソング スペシャル版。『ポケモン・ザ・ムービーXY&Z ボルケニオンと機巧のマギアナ』オープニングテーマ。 DVD(初回限定生産盤Aのみ) キャラソンプロジェクト スペシャルトーク映像(出演:佐香智久、松本梨香、矢嶋哲生) DVD(初回限定生産盤Bのみ) ノンクレジットOP・ED映像 「XY&Z –movie ver.-」promotion video 封入特典 初回生産限定盤共通 OP・ED絵コンテブックレット 初回限定生産盤A ポケモンカードゲームオリジナルキラカード「チルタリス」 色違いのチルタリスとともに佐香智久が描かれている。 初回生産限定盤B ポケモンカードゲームオリジナルキラカード「サトシゲッコウガEX」(サトシのロゴ入り) 脚注 外部リンク テレビアニメ「ポケットモンスター XY & Z」キャラソンプロジェクト公式サイト Sony Musicによる紹介ページ 2016年のシングル 2016年のアルバム ポケットモンスターのアルバム テレビ東京のテレビアニメ主題歌 キャラクターソング・アルバム エスエムイーレコーズのシングル エスエムイーレコーズのアルバム 長大な音楽作品名
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大内 輝弘(おおうち てるひろ)は、戦国時代の武将。大内氏第14代当主・大内政弘の次男・大内高弘の子。子に大内武弘(たけひろ)。通称は太郎左衛門尉。系図によると、はじめ隆弘(たかひろ)、氷上太郎と名乗っていたという。大内氏の第18代の当主とする場合もあるが、輝弘に実権は無かったとみられる。 生涯 大友氏の食客として 大内氏の一族だが、父の高弘が謀反を起こして大友氏の下へ亡命していたため、豊後国で生まれた。大友氏のもとで寄食していたが、貧しい暮らしをし、幼いころは知るものも少なかった。 天文23年(1554年)2月から永禄8年(1565年)5月の間、大友義鎮の推挙と資金援助により将軍・足利義輝から偏諱を賜い、輝弘と名乗る。 大内輝弘の乱 永禄12年(1569年)、大友宗麟が毛利元就と北九州地域の覇権を巡って争った際、大友軍は毛利軍の攻勢の前に一時は壊滅の危機に立たされていた。宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、宗麟は客将となっていた輝弘に兵を与え、同年10月11日に若林鎮興らの大友水軍を付けて密かに海上から周防国秋穂に上陸させた。輝弘の率いる兵力は少なかったが水上戦では市川経好の軍を撃破した。 将軍にも認められた大内氏の一族だというので輝弘が周防国に入ると毛利氏の支配に抵抗する大内氏の遺臣がこれに呼応し、周防国の毛利軍はその大半を北九州の戦線に投入していたため、苦戦を強いられた。しかし、高嶺城を守る経好夫人の市川局が少ない城兵を指揮して徹底抗戦した。 輝弘は守護所山口の大内氏別邸築山館には入ることはできたものの、山間の城までは完全に占領することができなかった。 輝弘の攻撃を知った元就は北九州攻略を諦め、即座に軍を返して吉川元春と小早川隆景率いる精鋭を周防国に向かわせた。輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出するが追撃厳しく、10月25日に子の武弘らと富海(とのみ:現在の防府市)の茶臼山で自害した(大内輝弘の乱)。 輝弘の山口侵入によって毛利軍は本州に撤退せざるを得なくなり、大友氏は筑前国など北九州の毛利方の諸城の奪回に成功した。 脚注 注釈 出典 参考文献 関連項目 大内氏 豊後塚 てるひろ 戦国武将 切腹した人物 1520年生 1569年没
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カディス()は、アンダルシア州カディス県のムニシピオ(基礎自治体)。カディス県の県都である。スペイン南西部の港湾都市として重要な役割を果たしている。カディス司法管轄区に属する。大西洋に面するカディス県の海岸はコスタ・デ・ラ・ルス(光の海岸)と呼ばれる。 歴史 紀元前10世紀頃、地中海交易で活躍していたフェニキア人が築いた拠点がカディスの起源とされ、フェニキア人によってガディル(Gadir)と称された。当初はイベリア半島の一部ではなく、半島から離れた小島だったと考えられている。土砂の堆積などによってやがてイベリア半島と結びついた。古代ギリシア人にもカディスは知られており、彼らにはガデイラ(Gadeira)として記されていた。その後ローマ帝国、西ゴート王国の支配を経て、イスラム勢力による征服を受けた。しかし13世紀半ば、レコンキスタ運動のもとカスティーリャ王国のアルフォンソ10世がイスラム勢力からカディスを奪い、再びキリスト教勢力の統治下におかれた。その後、カスティーリャ王国とアラゴン王国が合併してスペイン王国が成立したことにともない、カディスはスペイン領となった。 大航海時代、街はルネサンスの影響を受けた。クリストファー・コロンブスがカディスより第2回目と第4回目の航海に出た。後にカディスの街はインディアス艦隊の拠点港となった。 その結果、街はスペインの敵国、特にイングランドの主な攻撃目標となった。16世紀にはバーバリ海賊らによる度重なる侵略の失敗もあった。1569年、旧市街の大部分が大火に見舞われた。1587年4月、イングランド海軍軍人のフランシス・ドレークによる侵攻で、港が3日間占領された。多くの店舗と31隻の船が破壊され、6隻の船が拿捕された。この攻撃でスペインのアルマダの進水式が1年遅れた。 1596年、街はエセックス伯ロバート・デヴァルーとノッティンガム伯チャールズ・ハワードによる侵略に苦しんだ。チャールズ・ハワードは街の一部を接収したが、街や港を支配することは不可能であった。さらに1625年、バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズがカディスの侵略を開始したがスペインに撃退された。1654年に開始された英西戦争では、1655年から1657年の間、ロバート・ブレイク提督がカディスを封鎖した。1702年のカディスの戦いでイングランドはジョージ・ルーク(George Rooke)やオーモンド公ジェームズ・バトラーの指揮下で再度攻撃をしかけたが、包囲するための多額の費用負担が生じ撤収した。 18世紀初頭のスペイン継承戦争でブルボン家(ボルボン家)のフェリペ5世のスペイン王位が承認されると、商業活動の振興を図るボルボン家のもとでカディスはさらに発展する。 18世紀、グアダルキビール川の砂州が生じたことで、スペイン政府はスペイン領アメリカとの貿易を独占してきた上流のセビリアから、大西洋へのアクセスの良いカディスに港を移した。この間、街はアメリカ大陸との貿易が、スペイン全体の4分の3を占め、黄金期を迎えた。カディスはスペインで最も素晴らしく、国際的な街となり、海外との貿易拠点となった。その中で最も裕福だったのはアイルランド系のコミュニティであった。現在の旧市街の歴史的建造物の多くは、この時代のものである。 しかし18世紀末に、街は再び襲撃を受けた。1797年2月から1798年4月までイギリスがカディスを包囲し、封鎖したが、これも戦費が原因で失敗に終わった。サンタ・クルスでの敗北から戻ったホレーショ・ネルソン提督が1800年に街を砲撃した。19世紀のナポレオン・ボナパルトの時代、カディスはスペインにおいてフランスの侵略に対抗できた数少ない街の一つであり、カディスにはその支配は及ばなかった。そのため、カディスのサン・フェリペ・ネリ教会で国民議会が開催された。これはスペイン初の近代議会とされる。国民主権を確認し、それまでの身分制社会における封建的諸制度を撤廃し、1812年憲法(カディス憲法)が採択された。しかし、スペインに戻ったボルボン家の国王は憲法に理解を示さず、絶対君主として振る舞おうとした。 こうした歴史的経緯と、それまでに培われていた自由を重んじる気風から、19世紀のカディスは自由主義的な運動の発端となった。ウィーン体制の発足後、ボルボン家の復古王政下で1820年よりラファエル・デル・リエゴのもとで自由主義的改革が図られた(1823年までに鎮圧される)。また、1868年の九月革命でボルボン家の国王が亡命する際も、カディスでの蜂起がその契機となっている。 20世紀には、マヌエル・アサーニャの人民戦線内閣に対してスペイン領モロッコで蜂起したフランコが、モロッコとイベリア半島を結ぶ重要な拠点として早期に占領した。(スペイン内戦も参照。) 地勢・産業 大西洋に面する港湾都市。紀元前より貿易港として栄え、現在も工業製品やぶどう酒など様々な商品が積み出される。アフリカなど各地へ向かう船も発着する。近隣の都市としては、約25キロ北西のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、85キロ南東のアルヘシーラスなどが挙げられる。 ナバンティア国営造船所の工場があり、内外向けの艦艇の製造が行われている。 気候 カディスは暑い夏で、地中海気候である(狭い半島に位置するため、海洋の影響が大きい)。夏の夜は熱帯性であるものの、昼間の気温はヘレス・デ・ラ・フロンテーラやアンダルシアの非常に暑い内陸部などと比べると、比較的に穏やかである。 海岸 カディスは半島に位置し、とても美しいビーチがいくつかある。 プラジャ・デ・ラ・カレータ(La Playa de la Caleta)はカディスで最も愛されているビーチである。類稀な美しさとBarrio de la Viñaから近くあるため、常にカーニバルの歌で述べられる。 2つの城、サン・セバスチャン、サンタ・カタリーナの間に位置する旧市街のビーチである。 カディスの新区にあるプラジャ・デ・ラ・ビクトリア(Playa de la Victoria)は、カディスの観光客と先住民に最も訪れられるビーチである。ビクトリア浜の寸法といえば、約3kmの長さで、平均幅50mの砂もある。 プラジャ・デ・サンタ・マリーア・デル・マル(Playa de Santa María del Mar)またはプラジータ・デ・ラス・ムヘレス(Playita de las Mujeres)は、カディスの小さなビーチで、ビクトリア浜とカレータ浜の中間に位置している。カディス旧市街の素晴らしい景色を眺めることなどできる。 その他の浜辺として、トレゴルダ(Torregorda)やコルタドゥーラ(Cortadura)やエル・チャト(El Chato)など挙げられる。 人口 政治 自治体首長はアンダルシーア国民党(Partido Popular Andaluz)のテオフィラ・マルティネス(Teófila Martínez)、自治体評議員はアンダルシーア国民党:17、アンダルシーア社労党(PSOE de Andalucía):7、アンダルシーア統一左翼(IULV-CA):3となっている(2011年5月22日の自治体選挙結果、得票順)。 観光 大聖堂 大地の門 サン・フェリーペ・デ・ネリ教会 サンタ・カタリーナ城 海の博物館 トレー・タビラ バレーラ庭 ギャラリー スポーツ カディスCFがカディスを本拠地とするサッカークラブ。リーガ・エスパニョーラに属する。 主な出身者 マヌエル・デ・ファリャ - 作曲家。 ホセマヌエル・カバジェロ - 小説家。 ミゲル・マレティーネス・デ・ピニジョス - 政治家。 ジョージ・ミード - アメリカ合衆国の職業軍人。 ホセ・セレスティーノ・ムティス - 植物学者で数学者。 姉妹都市・友好都市 ボルティモア、アメリカ インディオ (カリフォルニア州)、アメリカ ロチェスター (イングランド)、イングランド ブレスト、フランス カルタヘナ・デ・インディアス、コロンビア メキシコシティ、メキシコ ハバナ、キューバ サントス、ブラジル ミードウェイ、イギリス モンテビデオ、ウルグアイ タンジェ、モロッコ ビジャ・シスネーロス、西サハラ ビブロス, レバノン セウタ、スペイン ウエルバ、スペイン ア・コルーニャ、スペイン モストレス、スペイン トーレビエハ、スペイン 脚注 関連項目 フランシスコ・デ・ミランダ(ベネズエラの革命家。カディスで獄死。) カディスの赤い星(逢坂剛の小説作品。直木賞と日本推理作家協会賞を受賞) スペイン立憲革命 カディス湾 外部リンク 公式サイト アンダルシア州の自治体 カディス県の自治体 スペインの県都 スペインの古都 スペインの港町 かつての島 フェニキアの植民都市
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U-17サッカーノルウェー代表(U-17サッカーノルウェーだいひょう、ノルウェー語: Norges G17-landslag i fotball, 英語: Norway national under-17 football team)は、ノルウェーサッカー協会によって編成されるノルウェーのサッカーの17歳以下のナショナルチームである。17歳以下を対象とするUEFA U-17欧州選手権とFIFA U-17ワールドカップに出場するためのチームである。 FIFA U-17ワールドカップの成績 UEFA U-17欧州選手権の成績 歴代監督 アーランド・ヨンセン 2014-2018 グンナー・ハレ 2018- 脚注 外部リンク U-17ノルウェー代表 - ノルウェーサッカー協会 U17 のるうえ
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大津地域センター(おおつちいきせんたー)は、農林水産省の地方支分部局である近畿農政局(京都市)の出先機関。 2011年9月1日施行の「農林水産省設置法の一部を改正する法律」によって滋賀農政事務所が廃止され、代わりに東近江地域センターとともに設置された。 組織 農政事務所廃止に伴い近畿農政局が地域センター。 所在地:滋賀県大津市京町3-1-1 管轄区域:大津市、草津市、守山市、栗東市、甲賀市、野洲市、湖南市、高島市 管内事務所 野洲川沿岸農地防災事業所(甲賀市水口町暁) 関連項目 農林水産省 近畿農政局 脚注 外部リンク 近畿農政局 滋賀県の行政 大津市 地方農政局 2011年設立の政府機関
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2トーン・レコード(2 Tone Records )は、英国のレコード・レーベル。スペシャルズやマッドネス、セレクターなどのグループをかかえ、1970年代後半から80年代初頭に人気となった。彼らの音楽性の中心は、60年代前半にジャマイカで流行した、スカのサウンドであった。スペシャルズの代表曲「ルーディたちへのメッセージ」のオリジナルは、ジャマイカ系イギリス人のダンディ・リヴィングストン(Dandy Livingstone)である。 所属したアーティスト The Apollinaires Bad Manners (only for Dance Craze) The Beat (band) (aka The English Beat in the United States) The Bodysnatchers (band) Elvis Costello & The Attractions (only for one unreleased single) The Friday Club The Higsons JB's Allstars Madness (band) Rhoda Dakar Rico Rodriguez (musician)|Rico Rodriguez The Selecter The Specials (sometimes called The Special AKA) The Swinging Cats イングランドの音楽 イングランドの企業 イギリスのレコード・レーベル