{"text": "おもに、入試の現代文対策を述べる。学校の定期テスト対策では、授業中にとったノートや教科書や教科書ガイドなどをキチンと復習すればよい。\n学校のテストでも、教科書に書いてない作品を問題文として出題する場合がある。そういう問題の対策にも、これから述べる入試対策の現代文対策と似たような勉強法が必要になるだろう。\nこれから述べる読解の作法は、あくまで、入試対策や、定期テストでの授業で扱っていない範囲から出題された問題文への対策です。授業でならった範囲から出た問題文の場合は、あらかじめ内容や解釈を覚えた方が、てっとり早いです。というより、授業で習った範囲の問題文の解釈は、あらかじめテスト前の復習で、解釈ごと覚えておかないと、テスト中に問題をテスト時間内に解き終わりません。\n現代文の読解は、筆者の主張を短時間で正確に理解するための作業です。読解力とは、そのような短時間での理解の作業を遂行していく能力でしょう。\n数学に公式と言う「手法」があるように、現代文の読解にも「手法」があります。\n読解中の具体的な作業として、「それ」とか「その○○」みたいな指示語などの「それ」とは何を指すかを明確にしながら、問題文を読み進めます。\nこのため、国語の問題練習では、鉛筆や消しゴムなど筆記用具が必要になります。単に読むだけでは、練習になりません。数学などと学習法が似ています。数学などでは、計算練習のような、鉛筆を使った作業が必要な科目です。現代文も、鉛筆などの筆記用具を使った作業が必要です。\nテスト問題にも、問題文(作品の文章本文のこと)中に代名詞の「それ」とか「あれ」とかに傍線が引いてあって、設問文で \"傍線部Aの「それ」とは何を指すかを問題文中から抜き出して書きなさい。\" というような設問が多く出ます。\nなので、文を読むときに、最初から「それ」とか「その」などの代名詞などが出てきたら、問題文の何に相当するかをメモしながら(試験用紙などにメモ)、読み進めます。線で結ぶとか、カタカナ書きなどで具体的に対応する語句をメモしておくと良いでしょう。\n話題は変わりますが、もし自分で文章を書くときは、代名詞をあまり多用しすぎないように書いたほうが、読み手にとっては分かりやすい文章が書けるでしょう。\n「それ」などの代名詞を用いるよりも、「その○○」などというふうに具体的に指示対象を併記したほうが読み手が分かりやすいでしょう。\nとくに実社会での報告書や説明文などでは、なるべく読み手に掛かる読解の手間を、減らす工夫をしなければなりません。報告書での文の読まれる順序は、かならずしも文章のはじめから文が読まれるとはかぎらず、抜粋(ばっすい)などをされて、第三者の読者に途中だけ読まれる場合もあります。なので、もし書く際に代名詞を多用すると、読み手が前の文を読み返す負担が増えるので、なるべく代名詞を抑えたほうが良いのです。途中の段落の始めや、途中の章の始めなどでは、読み手がわざわざ前の段落や前の章を読み返さなくてもすむように、代名詞や指示語の使用はひかえめにして、具体的に名称を書くほうが読みやすくなる場合が多いでしょう。\n中学生・高校生では、別に報告書の書き方をここまで練習する必要は無いでしょう。学習時間も足りませんし。(学生は、他の教科・他の単元の学習もしなければならない。) まあ、読者は頭の片隅にでも、報告書の書き方を入れといてください。\nたとえるなら算数で引き算の練習をやれば、自然に足し算も上達しますよね。同様に、読解の練習をすると、自然に書く能力も上がります。\nなので読解練習での指示語の指示対象を探す練習の学習成果によって、自然に報告書や説明文を書く能力も上がります。\nただし、詩歌や俳句や物語文などの場合は、文を書く際のノウハウが変わります。俳句の場合は字数の制限がありますし、詩歌や物語文などの場合には音のリズムの関係もあるでしょうから、あまりに具体的に名称を書いてばかりいると、かえって読みづらくなってしまうかもしれません。このような詩歌などの場合には、指示語や代名詞も用いたほうが良いかもしれません。\nなので、書き手は用途に応じて、書き方を分けてください。\n問題文の主張に、感心する必要はありません。そんな事は入試では要求されません。現代文のテスト問題には、出題者が「この作品は優れた内容の作品であるので、出題しよう。」と判断した作品が問題文として採用されているので、ついつい感心しやすい内容の問題文が出ます。しかし、テスト中には、感心している暇がありません。そういう感傷(かんしょう)は、テスト後にひたりましょう。\nもっとも、検定教科書に採用された作品の場合、とくに説明文や近代文学などの場合は、内容の理解も教育の一部として考えられているので、もし予習復習の時間に余裕があったら、感心するような作品の問題文は何度か読み返すのも良いでしょう。また、現代文ではないですが、古文や漢文などでも、あらかじめ内容を理解してないと読解に時間が掛かるので、古文・漢文の作品は内容ごと覚えてしまうのも良いでしょう。\nただし、作品に「感心した」「感動した」という感情は、主観的な感情にすぎません。テスト等では、客観的に測定できる分析力や読解力が要求されます。客観的な読解能力とは、訓練しないと身につきづらいものです。客観的な読解能力のほうが、需要(じゅよう)が高いのです。\n読解問題には時間が掛かります。なので、まずは暗記してれば解ける、漢字問題などを中心とした大問(たいもん)があれば、そちらから解くことで、得点を確保しましょう。\nまた、古文・漢文などの古典の問題は、比較的、短時間で読解できたり、あるいは暗記問題だったりするので、現代文よりも先に古典文の大問から解いたほうが、得点できるでしょう。\nさて、問題の問題文を読む前に、設問を読むのが、受験テクニックです。現代文の大問では当然、設問から読むべきだし、古典の大問でも同様に、設問から読むべきです。\nその上で、設問で問われることを念頭に置きながら、問題文を読みます。もし、そうせずに、かりに試験用紙の掲載順どおりに読んでしまい、つまり問題文を読んでから設問文を読むと、そうすると設問文を読んだあとに再び問題文を読み直す必要がありますので、問題文を2度読むことになります。だから掲載順どおりの読み方をしてしまうと、問題文の読み直しをする必要が生じてしまうので、余計な時間が掛かり、設問を考える時間が足りなくなります。\n多少の例外はあるかもしれませんが、たいていの場合、設問から先に読んだほうが、得(とく)な場合が多いです。\nもしくは、本文の最初の段落など、本文の一部だけ先に読んでおいて、そのあとに設問を読んで、それから本文全部を順番に読む、などという方法も、よいかもしれません。\nかりに設問の数がやたらと多い場合とかは別でしょうが、普通のテストでは、そういう事はありません。そういう例外的な場合(設問の数がメチャクチャと多い場合とか)でない限りは、まずは設問を読んでから問題文全体を読んだほうが安全でしょう。\nそして、設問を先に読んでいるので、問われる内容が分かってるので、問題文を読んでる途中に、ある設問の答えが分かる場合があります。もし答えが分かった場合、その答えを忘れないうちに、もう解答用紙に書いてしまいましょう。どうしても解答用紙にかけない場合(たとえば字数内にマトメルのに時間が掛かる、とか)でも、せめて、答えの内容のメモ書きくらいは、問題用紙の余白などに、しておきましょう。\n数分でも時間がたつと、意外と忘れるものです。なので、忘れない内にメモ、です。\nなお、「代名詞の内容を追いながら、読む」などのテクニックを実行しながら、問題文本文を読むことを忘れないようにしてください。\nつまり、これまでの読解テクニックをまとめると\nというような順番になります。\nもし問題文を1回読んでも分からない場合、ほんの1分ほど設問に関係しそうな場所を読み直して、それでも分からない場合、もし他にも別作品の大問があれば、そちら(別作品)を解くのに取りかかります。\nたいてい1つのテストで、2個や3個の作品が問題文として別々に出題されてるので、それらに均等に時間配分をして、テストを解いていきます。ときどき、最初に掲載された問題文が、やたらと難しい場合もあるので、もしそういう場合に、最初の問題文だけに時間を割くと、ほかの問題を解く時間が無くなってしまいます。\n「問題用紙に掲載された作品中、どの作品が易しく解けて、どの作品が難しいか」なんてのは、読んでみないと分からないので、とりあえず、設問を読み終わったら、さっさと問題文を最初の作品から順番に読み始めましょう。\nさて、問題文と設問文との掲載順序について、けっして出題者は「気を利かして先に設問を掲載してから、次に問題文を掲載する、」なんて事は、してくれません。なので、しかたなく受験者のほうが、気を利かして先に設問文を読む必要があります。\n実社会でも、上司に報告や連絡や相談などをするときには、先に概要(がいよう)とか要約(ようやく)を話してから、続けて詳細を続けて話す必要があります。そうやって先に要約を話しておかないと、上司が聞きなおす必要が生じて、上司の時間を奪ってしまうからです。実社会での報告・連絡・相談では、もし先に要約を話さずに、先に詳細から話しはじめると、おそらく上司に叱られます。\nなので、新人の社会人は報告での要約の練習をさせられたりします。\n学校の現代文での練習で、設問を先に読むことも、そういう実社会での要約の練習だと思って、がんばりましょう。\nまた、実社会でも、文献調査(ぶんけんちょうさ)や取材(しゅざい)などをするときは、客先(きゃくさき)などから質問されそうなことを先に目星をつけておきながら、それから文献調査したり取材したりして、気付いたことをノートなどにメモをしながら、調査をしていくわけです。(※ ここで私のいう「取材」とは、一般企業の社員などが、勤務する業界の関連する展示会(てんじかい)イベントなどを取材することです。テレビ局などマスコミの「取材」の場合とは、ちがうかもしれません。)\n特に取材の場合、出張費用などが掛かったり、イベントなどの取材だと年に1回しか取材できない場合とかがありますので、取材前に事前に目星をつける必要があるわけです。\n話を戻すと、中学の国語の読解問題の解きかたの話でしたね。\nともかく、設問を先に読んでから、問題文を読むのが、受験テクニックです。\n学校や入試での、国語の現代文の長文読解での読解作業は、報告書の書き方とは逆方向の読み方を、やれば良いワケです。\nそれでは、報告書の書き方のノウハウを例示しましょう。\n日本語は、文章の最後まで読まないと意味が確定しません。なので、一文が長いと、読む際の負担が増えます。この「一文は、短めに書く。」という文章自体、なるべく短く書こうとしています。\n日本語は、文章の最後まで読まないと意味が確定しません。さて日本語では、否定形は、文の最後に来ます。否定形の前後では、文全体の意味が正反対に変わります。なので、否定形があると、読み直しの手間が生じます。だから否定形が多いと、読み直しの手間が増えて、読みにくい文章になります。この記事の「なるべく肯定形で書く。あまり、否定形は用いない。」という文章じたい、「○○で書く」という肯定形の表現を優先し、「△△は用いない。」というような否定形の表現を後回しにしています。\nたとえ読み手が文章を最後まで読まなくても、読み手が文意を予測できるようにして、冒頭に接続詞などを用いて、文意を示します。この「たとえ読み手が文章を最後まで読まなくても、」という文節自体が、「たとえ」という接続詞によって、文意を予測させています。\n理由は、箇条書きによって説明対象が明示的になるから。そのため、この記事自体、箇条書きを利用しています。\nなぜなら、読者にとっては、読み直しの手間が減ります。この記事自体、なるべく結論から書こうとしています。\n学生のテスト対策では、これの逆の文章が出題されることを意識すれば、対策しやすいわけです。つまり国語テストの読解問題の設問には、文章の結論を問う設問が、ほぼ必ず一問は出題されたりします。\n「作者の主張に近いものを、次の選択肢の中から選べ」というような設問です。\nあるいは接続詞を問う問題が出題されます。たとえば問題文のある文の接続詞を隠して空欄にして、その空欄に適した接続詞を選択させる選択問題なども、よく出題されます。\nある指示語のさす内容について、字数を一定以下に限定し、「この指示語の内容を○○文字以内で書け。」というような設問も、箇条書きの能力に近いでしょう。\nある動作の主語の内容を問う選択問題も多いです。たとえば設問文で 「傍線部Aの「彼」とは誰ですか? 問題文の中から抜き出しなさい。」みたいに主語の内容を問う問題も多いです。\n学校で習う文章は、テスト問題として出すための文章であるという理由から、実社会で書くべき文章とはズレがあります。学校で習う文章は、読解練習用に教育用に編集された文章であるので、やや読解が難しめの文章になっています。\n「教育用に編集」という主張の意味は、たとえば、たとえ作者が読み手に分かりやすいように、作者が文の冒頭に要約を書いていたりしても、出題者が冒頭の要約を隠して問題文を出題したりして、わざと分かりづらくさせたりまします。しまいには選択問題として、隠された要約にふさわしい選択肢を選ぶ問題が出題される場合すらも、あります。同様に、たとえ作者が文章の最後に結論やマトメなどを書いていても、出題者が結論などを隠して、問題の一つとして出題する場合もあります。\nですが、教育訓練の用途としては、あえて分かりづらく編集する出題も、必要な措置(そち)です。\n実は「具体的に明示的に書く。読み手に読みやすくなるように、書き手が書く。」というのは、書き手にとっては、難しいのです。読み手にとっては読むのが簡単な文章ほど、書き手にとっては書くのが難しくなります。\nたとえば全自動の洗濯機とか、あるいは全自動の炊飯器とかで、家事をするのは、利用者にとってはボタン一つで簡単かもしれませんが、その全自動の製品を作っている企業での仕事は、決してボタンひとつでは片付きません。\n同様に、読み手がスラスラと読めて内容を即座に把握しやすい文章であるほど、その文章を書き手は時間を多く掛けて書いています。\nだから、いきなり学生に文を書かせる教育は、難しいのです。なので、まずは、やや難しめにした文章を読ませる練習から、学生は教育されるわけです。\nたとえば小学校の算数の練習で、全自動の電卓をあまり使わない事と似ていますね。「電卓を作れ!」「計算機を作れ!」という課題は、小学生には解決が無理です。なので、まずは電卓に頼らなくても計算できるように、小学生は教育されますよね。\n同様に、中学での国語の読解練習でも、たとえ書き手の親切心に頼らなくても中学生が読解を出来るようになるため、中学生は読解練習をさせられているわけです。\n読解は独学しづらいので、学校の授業や塾などを活用する。まずは、キチンと学校に通って、キチンと予習復習をする。\n宿題などで「課題図書を読め」などという宿題も、読解力など訓練も兼ねているだろうから、キチンと宿題をする。\nここでは高校受験の国語のうち、現代文の対策について解説する。高校受験の現代文は以下の内容が出されることが多い。\n国語は数学・英語と並んで「主要3教科」と呼ばれることが多いが、3教科の中ではもっとも扱いが低い傾向にある。それは普段私たちが使用している日本語の読み書きが中心で、普段の生活でなんとなく身についているかのように見えるからであろう。しかし、国語の現代文の力は数学や英語と同じくらい、力をつけるのに時間のかかるものである。たとえば新聞が読めるからといって、哲学書や難解な評論が読める(理解できる)とはかぎらない。これらを読むには筆者の主張を丁寧に追うトレーニングを積まなければならない。小説でもストーリーを理解することはそれほど難しくはないが、登場人物の心理といった表面的な部分に描かれていないものを理解するには日常体験や他の本で読んだことなどと重ね合わせるなどを行わなければ読み間違えるであろう。また、筆者・作者が用いている日本語の表現技法も理解する必要がある。読解に限らず、作文でも同じことが言える。メールが書けることと仕事の報告書などを書くこととは全くことなる。この二つはそもそもルールが違うのだ。\n国語の現代文が英語・数学に比べて軽視されがちなもう一つの理由は勉強方法がわかりにくいというのもあるだろう。数学は計算練習や公式の暗記と適用が、英語は単語や文法の学習が基礎となることがはっきりしているが、国語の現代文では何をやればよいのかがよくわからないまま「なんとなく」点を取ったり落としたりすることは珍しいことではない。\n国語の学習に必要なものは丁寧に文章を追い、筆者の主張や作者の意図を汲み取るのに必要な読解力だけではなく、それを自分で組み立てなおす論理的な思考や体験や経験、一般常識などと重ね合わせる力である。これらは漫然と学習しても身につかない。正解・不正解にかかわらず「なぜこの答えになるのか(なったのか)」ということを考えながら解いてゆかなければならない。\n大雑把に分けると、あるものごとについて説明することが中心で筆者の意見が少ない説明文(たとえば「科学はどのように進んできたか」「サルの行動からわかること」など)、ある事実を踏まえて筆者の意見を述べているため筆者の主張がはっきりとしている評論文(たとえば「環境問題を解決するには何が必要か」など)、詩や俳句がどのようにしてでき、そのみどころなどを作品に沿って筆者の意見も交えながら解説している解説文に分けられる。\n全体として現在も存命の評論家や学者の文章が多い。これは現代文が現在進行しているいろいろな問題について評論・説明している文章を扱うことが多いためである。\n筆者の意見とその理由などが明確なため、文章を丁寧に追えば根拠となる部分を見つけることは難しくない。そのため、比較的力をつけやすく点を取りやすい。\n説明文や評論文では筆者の意見なのか事実なのかを理解しなければ文章を読んでいるうちに混乱してしまう。\n大学入試の現代文で出題されることの多い鷲田清一の文章だが、易しいところを高校入試に出題することもある。エコロジーへの関心などから内山節の評論も近年出題されやすくなった。また、数十年前から入試国語で人気のある大岡信・外山滋比古・加藤周一も、時間があればチェックしても損はない。\n物語文と随筆文に分けることができる。説明的文章と同様に現在も活躍している作家の作品が多く、公立高校や中堅私立高校ではすでに亡くなった作家はあまり登場しない。詩・短歌(和歌)・俳句が単独で出されることはあまりなく、解説文や古文と共に出題されることが多い。\n感覚的な理解や心理の読み取りといったものが必要とされるが、これはすぐに身につくものではない。そのため、早くからいろいろな問題を練習するのがよい。\n物語文ではまず、登場人物や場面をおさえなければならない。どんな人がいて、その人の人物像を簡単にとらえること、場面はどんなところで登場人物が何をしているのかをしっかりおさえるのが基本である。その上で場面の転換やストーリーの展開、登場人物の言動とその理由を考えると解きやすくなる。\n随筆文の読解は説明的文章に近い。つまり、筆者が何についてどう感じたのかを文章にそって考えなければならない。\n小説文ではあまりメジャーな作家の作品は出題されない。例外が重松清で、彼の作品は中学入試・高校入試共にどこかで出題されることが多い。そのため、彼の著作に一冊ぐらい目を通しておくと役に立つかもしれない。随筆では五木寛之の文章が比較的出題されやすい。白洲正子や向田邦子の随筆は、故人である上に教科書や問題集に文章が掲載されていることが多く、(公平性を保つことを目的に)公立高校を中心に高校入試では出題されにくい。しかし、今でも読みつがれている作家であるので、私立入試では出題者が「これくらいは読んでほしい」という気持ちを含めて、出題することもある。\n漢字の読み書きは大問1に出されることが多い。数学の計算問題と同じように始めにすませるのがよい。また、漢字の書き順に関する問題が出ることもある。\n奈良県の公立高校入試問題などのように手本の文を楷書で書き写すというのもある。この場合、止め・はねの正確さなどがチェックされる。\n多くの公立高校の入試では200字程度の作文を書かせる。作文には以下のような傾向が見られる。\n文章の内容や構成だけでなく、原稿用紙の基本的な使い方や言葉づかいなどもチェックされる。作文に限らないが国語の記述問題では制限字数の80%は最低書かなければ、減点される恐れがある。\n現代文と古文・漢文をセットにした問題が出されることがある。また、2008年まで都立高校の入試問題には対談が出題された。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87"} {"text": "たとえば読書感想文では、感想が重視されます。どんなに事実が書いてあっても、あなたの感想が書かれてなければ成績は0点でしょう。\nいっぽう、理科や社会科のレポート課題などでは、事実を調べて整理することが重視されます。どんなに斬新(ざんしん)な視点での感想が書かれていても、調査結果が一つも書かれてなければ成績は0点でしょう。\nまた、報告書の評価方法では、感想よりも分析の質が重視されます。\nどんな作文課題でも、事実と感想とを区別する必要があります。\n決して、「事実」と言って、意見や感想を書いてはいけません。\n感想・考えを書くときは「感想」、事実を書くときは「事実」として書きましょう。\n語尾が「です」・「ます」のような丁寧ないいまわしの表現を敬体(けいたい)といいます。\nいっぽう、語尾が「である」・「だ」のような表現を常体といいます。\n一般に、常体と敬体とが、混ざらないように書くのが正式な書き方だとされており、検定教科書でもそう紹介されています。\nただし、会話文の引用で、たとえば読書感想文での、作中の会話文の引用で、\nのような、引用の場所の文体が、引用以外の場所とは異なるような場合に場合は例外です。\n質が優れてなくても良いので、しめきり日を守ってください。ただし、真面目に書いてください。\nあまり中学校では意識することはないですが、原稿枚数オーバー(原稿枚数の超過)、または字数オーバー(字数の超過)は禁止です。\n理由は、もし出版物に掲載する原稿の場合、字数オーバーは、他人の原稿のスペースを削ってしまうからです。\nなので、原稿の字数オーバーは、実務 や 入試の小論文 などでは、大幅に減点されます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E4%BD%9C%E6%96%87"} {"text": "読書感想文と、それ以外の、学校行事などの感想文とでは、同じ「感想文」と言っても、書き手に求められる能力が違います。\n読書感想文は、「感想文」というより、あなたの感想をもとにした、分析レポートという意味での報告書に近いです。\n準備のための時間が多くある場合と無い場合とで、書き方が異なります。\nこのページでは、基本的に、宿題などとして、数週間ほどの時間が与えられている場合について、述べます。\n学校行事の感想文の場合、極端な場合、行事の数日後〜翌週あたりに、抜き打ちで、用紙1枚ていどの感想文を書かされる場合も、あります。\n\nまず読者に、どの行事なのか、どんな行事なのかを、完結に説明したほうが良いでしょう。運動会なのか、クラス対抗の音楽コンクールなのか、修学旅行なのか・・・、そして、とにかく感想を書いてください。\nいきなり書く内容を整理できない場合は、まず、下書きを書き始めてください。十行か二十行ほど下書きが書けたら、そろそろ、いったん清書したほうが良いでしょう。\nあと、他人のプライバシー(個人的な秘密など)とかは、当然、書いてはいけません。同級生のプライバシーはもちろん書いていけませんし、その他の人のプライバシーも書いてはいけません。\nなにも学校での感想文だけに限らず、そもそも文書(ぶんしょ)で、他人のプライバシーを勝手に公表してはいけません。\n感想文の必要に応じて、一緒に行事に参加した同級生の行動についても書く必要があるかもしれませんが、プライバシーを侵害しないように注意してください。他人のプライバシーについては、たとえ相手を褒める(ほめる)内容であっても、書かれた本人はプライバシーを気にする場合もあります。\n「○○くんは僕にしか見せてないけど、○○くんが△△で頑張っていた。」みたいな事は、ほめる内容ですが、しかし当事者しか知らないプライバシーなので、書かないほうが良いのです。\n同級生や同学年・同学校の生徒などについて、感想文で紹介する場合は、あくまでも公表されている情報を紹介します。たとえば、クラスのみんなの前で、あるいは学校生徒のみんなの前で公表されている情報であるなら、紹介できるかもしれません。\nまず、読む本を決めます。学校で課題図書が指定されている場合は、それを読みます。また、読書感想文にしてよい本の条件を学校側が決めていますので(たとえば恋愛小説や推理小説は禁止だとか)、その条件にしたがってください。\n「物語文であること」が、感想文を書くための条件として指定されている場合が、よくあります。\n21世紀の現代では感想文テンプレートという教材があります。そのテンプレートでも、前提として感想文の書き手が、それまで読んだことのない物語の感想、初めて読んだばかりについての物語の感想であることを、テンプレートの前提にしています。\nなので、もし、もう何か月も前に読んでしまった本、何年も前に読んでしまった本を、感想文のための読書に選んでしまうと、とたんに感想文を書くのが難しくなってしまいます。\nほか、さきほどの「問題点」の節で述べたように、日本の「読書感想文」教育の宿題では、長い作文をさせたがります。\nすでに何度も読んだことのある本は、新鮮味が無いので、また読んだところで、とくに感じることがなく、なので、感想を規定枚数の以上に書くことが大変です。\n(すでに何度も読んだことのある作品を読むことで、高度な分析ができるかもしれませんが、しかし規定の枚数・字数を満たしづらくなります。この「読書感想文」の宿題で要求される能力は、ある程度の長さの感想文を書く能力ですので、残念ながら分析の高度さは要求されてないのです。)\nなので、読む本として本を選ぶさいには、まだきちんと読んだことのない本で、読み終えられる本を、選んでください。\n読む作品を選ぶさい、あまり厚すぎる本を選ぶと、読み終わらないので、読み終えられる作品を選んでください。\nまた、難解すぎても、理解できず、感想が「難しかった」「よく分からない」以外に思いつきません。なので、そこそこ理解できる本を選んでください。課題図書などで指定されている本と、同じくらいの読者対象と厚さの本を選べば、とくに問題ないでしょう。\nどうしても、高度な本を読みたいなら、感想文の宿題を終わらせてから、自分の趣味でしましょう。\nいったん本を選んだら、よほど自分にあってないかぎり、次の手順で最後まで感想を書きすすめます。\nあれもこれもと本を変えていると、いつまでたっても、感想文が完成しません。\nどのみち、学校の宿題の感想文のための本を選ぶセンスなんて、実社会はあなたに求めていません。\nそして、読みながら、ノートなどに、感動した事項とかをメモに取ると良いでしょう。読後に思い出すのは、けっこう大変です。全ての文章でメモを取るのは大変なので、書籍全体の文量の5%〜10%くらいを読むたびにメモを取れば、充分です。\nネットにある、感想文の書き方のコツを紹介したサイトでも、メモを取りながら読み進めることを、すすめています[1][2]。\n物語文を読んでいる場合、読書中の予想した展開が、どんでん返しで間違える場合もありますが、気にせずノートにメモを取ります。「どんでん返しに、ダマされた!」ってのも、立派な感想です。\nメモ書きに時間を掛け過ぎても読み終わらないので、本当に最小限のメモでも充分です。そもそも、ほとんどの人は、たぶん、メモすらも取りません。\nそしてまず、読み終えたら、(現代ならパソコンなどで)下書きで感想を書いてください。ペース配分のため、いったん最後まで読む終えるまでは、まだ感想の(下書き ではなく)清書は書き始めないほうが良いでしょう。\nとにかく、「どこがどう、面白かったのか」などを書き始めます。単に「面白かった」とかだけなら、読者にとって不要な情報ですし、その後に書く文章も続きません。\n※ 宿題の名前は「感想文」だが、実際は「書評」(しょひょう)と混同されている。「書評」とは、書物の内容についての評論文のことです。\n読書感想文の清書の場合、そもそも何の本を読んだのかを、冒頭のほうで、明確に記載する。少なくともタイトルと著者名と出版社名をきちんと書く。たとえば夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んだのなら、それと、感想文に選んだ本の出版社名も記載する。出版社を書く理由は、教員が必要に応じて、その出版物を確認するためです。感想文の題名に、作品名を書く場合もあります。たとえば、『 夏目漱石『我輩は猫である』の感想文 』などのような感想文タイトルを書く場合があります。\n近代小説などの教科書などで紹介されている有名作品であっても、出版社によって、文中の漢字が変わっていたりする場合があるので、念のため出版社名も書きくのも良いかもしれません。\n書籍の題名、著者名、出版社名を紹介したら、「あらすじ」の紹介は最小限にして、あらすじ紹介を早く終わらせて、さっさと感想を書き始めます。宿題はけっして「あらすじ紹介文」ではなく、「感想文」が宿題なのですから。(しかし残念ながら、日本の教育では、感想文教育と読書教育が混同されており、しばしば、あらすじを長々と紹介しないと規定枚数を満たしづらい場合がよくある。)\n理想的には「あらすじ」よりも、感想を優先して書くべきです(実社会の書評では、そうなのです)。\nとりあえず理想的には、感想の根拠を説明するために、必要最低限の「あらすじ」を文章で紹介すれば、充分です。\n書いていてネタ切れをして、選んだ図書を読み返してみても、どうしても書くネタが思いつかない場合、時間があれば、国語の参考書などを読んだりして、ネタを仕入れてもよいです。たとえば夏目漱石の『我輩は猫である』の感想文を書く場合、どうしてもネタが思いつかないなら、参考書などで夏目漱石についての解説を読んだり、その時代の文学史の解説を読んだりします。あらたな知識を仕入れて視点が変わりますので、書けるネタが増えるでしょう。ただし、参考書を読むにも時間が掛かりますので、どうしてもネタが思いつかない場合にだけ、参考書でネタを仕入れてください。\nどっちみち、仕入れたネタをそのまま書いても、評価はもらえません。感想文は、べつに文学史のレポートではありません。あくまでもテーマは「感想」です。\nそのまま文学史を書くのはダメだが、感想の発想の参考にするだけなら、構わないということです。\nこのように、読書感想文は、学校行事の感想文とは、やや違います。「読書感想文」の宿題には、その名に反して、物語文を読むための勉強結果についてのレポートの宿題みたいな所があります。\nこのような、パソコンなどを利用する場合、下書きで、まずパソコンで下書きを書くのが良いでしょう。(ワープロソフトなどを使うと、自分が読みやすいでしょう。)\nそして、字数が規定枚数を満たすように、パソコンで編集していきます。\nたとえば、原稿用紙1枚が400字詰めの用紙の場合、「原稿用紙で3枚以上」という条件なら、1200字「1200字以上」という条件を満たすように、パソコン上で下書きをチェックします。\nパソコンの無料ソフトで、「文字数カウンター」などというような名前のソフトがあるので、そのようなものを使うとラクでしょう(実務では、そのようなものを使います)。\nそして、下書きが字数などの規定条件を満たしたら、そこで文章の言い回しなどを整えたりしてみて、最後に手書きで原稿用紙に書き写します。\n感想文は、べつに読解のレポートでもなければ、文学史のレポートではありません。あくまでもテーマは「感想」です。なので、あまり参考書とか資料集とかを読んでも、評価されません。参考書を何ページも読む時間があるなら、感想文課題に選んだ作品を何度か読み返したほうが良いです。\n2020年代の現代、小学生~中学生あたりを対象に、読書感想文のための文章スタイルを紹介したテンプレート教材があります。検定教科書ではないのですが。\nネットなどでも「読書感想文 テンプレート」などで検索すれば、画像つきで情報が得られるでしょう。「テンプレート」とは「ひな形(ひな型)」・「定型書式」といった感じの意味です。\nすでにマスコミなどでも感想文テンプレートは紹介されています[3]。\nいくつかの会社が、そういう感想文テンプレートの教材を出しています。\n会社によって、感想文のスタイルは違いますが、おおむね、以下のような構成で、以下のような順序です。\n※ 「自分の考え」の最後が「結論」「今後」を兼ねる場合もあります。\nその作品に興味をもった理由を、手短(てみじか)に書く。これは、感想文に限らず、論文でも同じです。\nこの機会に、そういう型を身に着けてしまいましょう。\nあと、単純な理由として、興味のない作品を何日も分析しつづけるのは、とても面倒です。\nきちんと、自分でも興味をもてそうな作品を選びましょう。\nけっして、「有名なこの作品に興味をもつと、周囲から頭良さそうに思われるから、本当は興味ないけど、仕方なくこの作品の感想文を書こう」なんてことは、しないでください。\nそして、感想文の読者は、作品の内容を知らないので、手短(てみじか)に書くわけですが、その際、「最終的に誰がどうした」という能動形・肯定形で書くと、書きやすいかもしれません。(前提として、たいていの場合、感想文を書く対象の文章作品は、物語文なので、登場人物がいるはずです。)\n小説界や映画界やマンガ産業などの背景事情として、物語文の創作の基本テクニックとして、作者は、登場人物に、作品のテーマや意味を込めています。物語の登場人物たちのことや、あるいは物語上の登場人物などの特徴づけのことを「キャラクター」と言います。\nまた、物語上の特徴づけとしての設定や性格などのことを「キャラクター性」と言う場合もあります。論者によって用語の使い方が多少は違うので、文脈から判断してください。\n日本の高校教師むけの国語教育書でも、ややニュアンスは違いますが、「キャラクター」という言葉が使われています。たとえば大修館書店の教育書『変わる! 高校国語の新しい理論と実践 「資質・能力」の確実な育成を目指して』には、次のような文章があります。「登場人物の言葉遣いをそれぞれ変えることでキャラクターを表現したりしている」[4]、「登場人物のキャラクターについて、宋定泊は利口だが欲深い人物、幽霊は美女という設定をし、」[5]などといった文章があります。(なお上記の抜粋(ばっすい)は、漢文『捜神記』(そうじんき)という古代中国のファンタジー小説・ホラー小説っぽい作品をもとに、高校生が作ったオリジナル演劇(朗読劇)を例に国語教育を説明している教育書にある文の抜粋。上記の作品キャラクター設定の抜粋は、あくまで高校生オリジナル作品の演劇の話なので、読者は覚えなくていい(古典知識ではありません。誤解しないように)。) \nこれは決してwiki独自研究ではなく、2023年の時点では中学・高校では習わない学問ですが、実は小説や映画などの物語にも、ウケのいい作法や型があり、「シナリオ理論」または「シナリオ論」などとして知られており、専門書なども存在しています。(一般の本屋ではシナリオ論の書籍はおいてないだろうが、大学レベルの文学書を置いてある専門書店などを探せば、そういうシナリオ論の書籍も置いてあったりする。)\n国語教育学でも、「物語論」(ナラトロジー)と言う名前ですが、上述の理論と類似の理論が知られています[7]。\nすでに国際的な学力調査であるPISA調査による言語能力の調査にも、物語論などの手法も取り入れられています[8]。アメリカやフィンランドでも、物語論の知見が国語教育に取り入れられています[9]\n日本の文部科学省などはPISA対策なども考えているので、日本の中学生・高校生は将来的に、上述のような物語論やシナリオ論のような考え方も、身に付けざるを得ません。\nだからといって中学生がシナリオ論やら物語論の書籍を買う必要はありません。「じつはシナリオ論という学問が存在しており、ウケる小説や英語の型のパターンを研究している学問である」ということを知っていれば十分です(文学趣味などの大人ですら、これを知らない人もいます)。\nキャラクターでテーマを置き換えるのは、シナリオ論でも物語論でも基本手法です。\nそもそも、物語論でも、登場人物には基本的に、役割があるとされています[10]。\nだから後述のように、5W1H(いつ When、 どこで Where、 だれが Who、 なにを What、 どのように 、どうした)の各要素の価値は、けっして平等ではなく、Who (誰が)こそが重要なのです。\n特に、マンガやアニメやイラストなど、キャラクターをどうデザインしたり作中でどう活用したりするかの理論体系を、俗(ぞく)に「キャラクター論」[11]と言います。\nだから、「最終的に誰がどうした」という形で要約を書くことで、自然とシナリオ論や、キャラクター論といった、現代的な手法を、自然と練習できるのです。\n5W1H (いつ When、 どこで Where、 だれが Who、 なにを What、 どのように 、どうした)と言いますが、実は5Wの価値は、作家サイドでは平等ではないのです。\n断然、登場人物・キャラクターについての「だれが」 Who こそが、現代的な物語論・シナリオ論・キャラクター論の重点なのです。\n実写の映画の観客だって、ほとんどは役者さんに注目します。役者さんの歩いている場所といった「どこが」 Where を知りたがる人なんて、滅多にいません。\nよほど抽象的な内容の小説ならともかく、小学生・中学生が読める程度の小説なら、シナリオ論や物語論(ナラトロジー)やキャラクター論にもとづくテンプレートで、だいたいは対応できるでしょう。\nなので、教材会社の読書感想文テンプレートで、良いのです。\n読者がシナリオ論やキャラクター論の存在を知ってるかは、関係ありません。21世紀の現代では、小説家や映画作家などの作り手の側にとっての常識なのです。\n小説などのあらすじを、箇条書きにしたのを\n1 ヤマダが〇〇する\n2 それに対してタナカが△△した\n3 アベが□□した\nみたいなのを、合計で十数段くらい行ってマトメたものをプロットと言います。\n小説家・脚本家は基本的に、作品を作る前などに、こういうのを作っています。\nそして、作品全体を読んでて「いちばん心に残ったこと」も書くのも、定石です。\nこれは、感想文に限らず、就職してからの社外のイベント展示会などの見学レポートなどでも同じです。\n「心に残ったこと」も基本、登場人物がどうしたという形になることが多いでしょう。ただし場合によっては、登場人物そのものではなく、その人物の発したセリフなどが、印象にいちばん残ったものの場合もあります。\nそして、なぜ印象に残ったのかという理由も、なるべく具体的に、自分の体験なども交えて、書きましょう。\n「自分の体験も交えて」が重要テクニックです。\n要するに、あなたは最終的に人生でどうなりたいのか、です。\n感想文は、小論文とは異なり、客観性を要求されるものではありません。感想文を読んでる読者が読みたいのは、あくまで「感想」です。\nだから、自分の人生の体験なども交えて、感想を具体的に分かりやすく書きましょう。\n「心に残ったこと」という形ではなくとも、たとえば本を読む前と読んだ後で、その本の影響で自分の考え方が変わったりすれば、代わりにその考え方の変化を書くのも良いかもしれません。\nこの場合も、人生の体験などもふまえて具体的に、考え方の変化の理由を書くと、分かりやすいかもしれません。\n「いちばん心に」という「いちばん」にこだわる理由は、なぜなら人生には時間に限りがあるので、そんなに「(1番目ではなく)6番目に心に残ったこと」とかまでは、説明しきれないのです。有限な人生なので、「いちばん心に残ったことは何か?」というのを、レポートでは要求されることが多くあります。(ただし、理科などの実験レポートでは、そういうのは要求されない場合もある。もっとも、大学の卒業論文などだと、学校によっては要求される場合もあるなど(学校にもよる)。)\n物語をつくる作者の側の時間も、有限です。作家の人生も有限ですので、ある程度は、内容を絞っているはずです。\nそもそも、文庫本などの書籍の紙のページ数も有限です。小説家は、有限のページ数の中で、「最低限はこれを伝えたい」という内容を、ある程度は絞っています。\n作家が、自分の作品で読者・観客などに伝えたい内容のことを「テーマ」と言います。\nべつに作者の考えたテーマと、読者がじっさいに感じた内容とが、同じとは限りませんし、その必要もありません。むしろ、作家側のテーマと読者の感じた印象とのギャップによって、その作品のファンたちによって文化が作られることすら、あります。\nともかく、有限のページ数のため小説家などはテーマを絞っているのが普通なので、「いちばん心に残ったこと」を書くことで、自然と作品のテーマ的なものについて考察することになります。\n「感想文」は、けっして小論文でもなく、まして教科書でもありません。\n感想文では、自分の考えを書きましょう。感想文テンプレートの多くも、そういうスタイルを進めています。\nとはいえ、すでに「いちばん心に残ったこと」を書いているので、そこで書いたことは、いちいち書かなくても良いでしょう。\nよって、「自分の考え」は、言い残した、補足的な内容になるでしょうか。\nこの場合も、自分の体験などを交えたり、「自分ならどうする?」とか、ともかく自分に置き換えて具体的に考えると、感想の説得力が高まるでしょう。\nただし、主役が悪人・ダメ人間の小説なども存在しますので(太宰治『人間失格』、芥川龍之介『羅生門』、など)、そういう場合にまで、「自分ならどうする」にコダワル必要もありません。感想を書く作品の性質に合わせて、うまくアレンジして使い分けてください。\nもっとも、下記コラムで述べるように、高校入試の傾向として、出題される作品のほとんどは基本的には道徳的な作品であり、そのため作中の教師などの人物は善い人物であることが高校入試の傾向として知られています。\nまた、物語以外の、『ファーブル昆虫記』みたいな子供向けの研究書みたいのも、「自分ならどうする?」は書けないでしょう? (「昆虫になれ!」というのか? カフカ『変身』じゃあるまいし。) うまくテンプレートをアレンジして作品のジャンルに合わせてください。\n高校入試国語の物語文の傾向として、中学卒業(高校入試を含む)までに出てくる国語の物語文は、基本的には道徳的な内容であることが知られています[12]。また、そのため高校入試でも(私立高校の入試でも)、出題された物語文の作中で教師役の人物が出てくる場合、ほとんどの作品では教師役は善人であり、さらに教師の行動や発言は正しいという傾向があります[13]。\n現実なら「先生は善人でいい人なんだけど、しかし先生の熱意が生徒にはプレッシャーになってしまって、空回りしている」と言うようなことも人間社会にはありそうですが、しかし、そういう複雑な状況の物語文は高校入試には出づらい傾向が高い事が知られています[14]。\nさらに言うと、物語中の家族関係における父親の役割について、近代小説や戦後の昭和の時代でも、高校入試に出そうな小説の中では、基本的には父親の役割は、子どもを自立させるための教師役のようなものであるのが知られており[15]、少なくとも2002年発売の『小説入門のための高校入試国語』による分析ではそうです。\n父親の役割は以下の2通り[16]。\nこの2パターンが、入試国語での典型的な「父と子の物語」のパターンです[17]。\n2020年以降はどうか知りませんが、2002年までの入試国語は上記パターンだったのです。\nさらに父親の役割は、単に正しいだけでなく、さらに(精神的にも社会的にも)「強い」のが入試国語での「父と子の物語」のパターンです[18]。\nもし父親が弱くて、子どもが簡単に乗り越えられてしまったら、その「父と子の物語」がすぐに終わってしまうので、なので父親は強めに設定されています。\n父親は、大人社会の象徴なのです[19]。\n「父親が社会の象徴という設定」は、もう近代の19世紀のヨーロッパの心理学や社会学などで、すでに提唱されていることです[20]。なので、昭和・平成の多くの作家が踏襲している設定です。\nなお、その心理学の理論が正しいかどうかは、当wikiの知ることではありません。21世紀の心理学では「再現性の危機」という問題があり、20世紀の心理学の教科書にもあったような過去の有名な理論を21世紀に追試験してみたら、なんと再現性が確認できなかった(なので心理学の教科書で、理論の見直しが必要になってしまった)という大問題があります。しかし、19世紀の心理学における家族関係の理論が正しかろうが間違ってようが、近代から昭和末期までの文学史上の統計的な傾向とは関係ありません。文学作品の内容は空想なので、21世紀の現実社会での心理学の学説の変化とは関係ありません。\n入試国語の母親については、自立につれて去っていく家庭の象徴であり[21]、なので道徳的には美しい存在です。上記の心理学や社会学でも、母親を家庭の象徴とする理論が19世紀から知られています。\nなので、けっしてヒッチコック映画『鳥』(とり)のようなヒステリックな女性としての母親とか、入試国語には出てきません。\nまた、子どもは母親に同情するのが入試国語の正解、もしくは自分も母親になるのが正解です[22]。\n母親の苦労が分かることになることが、子どもの成長のあかしであり、子どもの自立の証拠、という入試国語のパターンなのです。\n子供の成長につれて、子どもは家庭の外の人間関係が大きくなっていくので、家庭を置き去りしていくので、なので入試に出されそうな多くの物語では母親は孤独な存在になるので、なので母親には同情すべし、というパターンもよくあります[23]。\nなお、国語としても、日本語の「父性」や「母性」と言った言葉の意味は、上述の心理学理論が前提になっています。19世紀のスウェーデンの心理学者が上述のような理論をもとに moderskap(モータースカップ)とスウェーデン語の造語を発明し、それを日本語に訳したものが「母性」です[24]。\nこれらの心理学・社会学の「父性」と「母性」の理論では、母性により、母親は本能的に子供を愛するとされます。そして父親は、その父性により、子どもに社会のルールなどを教えるために、子どもを母性あふれる母親から切り離す、とされます。\n現実がそうかは知りません。「父性」「母性」と言った言葉は、こういうふうに使われる、と言う話をしています。果たして、現実の母親や父親の心理的傾向が統計的にそうなっているかは、当ページのwiki編集者たちの知ることではありません。21世紀の日本の家族関係の現実は、「父性」や「母性」の言葉の意味とは関係ありません。\n現実社会では、21世紀では、日本の土地事情などにより大人になっても親子で同居、ということもあります。しかしそんなのは、入試に出そうな近代文学の作品の設定には関係ありません。\nパート主婦とか、近代文学には関係ありません。\n暗黙の前提でしたが、学校国語に採用される児童文学では、「子どもは早く大人のように手に職をつけたがっている」というのが前提です[25]。\nなので、決してピーターパンのようなネバーランドのような子供だけの国とか、入試国語には、基本的にはないはずです。\n入試問題の場合、試験の時間が限られていますので、パターン外の設定の多すぎる作品は出てこないはずです。たまに例外的に、入試問題でも上記パターンに当てはまらない作品の出題がされ、難問な場合もあります。ですが、そのような難問は、どうせ他の受験生も解けないので、あまり気にする必要ないでしょう。\n入試は、「傾向と対策」と昔から言うように、一般的な問題集や過去問にあるパターン通りの問題がきちんと解ければいいのです。\n受験勉強では、パターン外の難しい国語問題に対策する時間があるなら、それよりも英単語とかを多く覚えましょう。\n\n※ 「自分の考え」の最後が「結論」「今後」を兼ねる場合もあります。\n最後のほうに(この作品の影響で)「今後、自分はどうしたいか?」というのを書きます。\n感想文だけでなく、論文などでも、似たような構成を書くことがあります。たとえば、学術系の論文なら、論文に書いた自分の研究成果をもとに、研究し残した、自分の次の研究テーマの希望や予想を書いたりするのも、よくあります。\n21世紀以降の論文などに文章スタイルとして使われることの多いパラグラフ・ライティングという文章法は、感想文テンプレートのスタイルとは違います。\nパラグラフ・ライティングは、\nなどの文章スタイルです。\nパラグラフ・ライティングは、どちらかというと感想ではなく論文など客観性の高いコンテンツのための文章スタイルです。このため、21世紀では、大学などで次第にパラグラフ・ライティングも教育されるようになっています。\nしかし大学などでの学生むけのトレーニングでは、まだ論文を書くほどの研究力をつけてない学生に向けて、あえて日記や感想文やエッセイなどといった割と主観的なコンテンツをパラグラフ・ライティングで書かせる課題などが行われる場合もあります。\nですが、エッセイなどをパラグラフ・ライティングで書かせるのは、あくまでトレーニング上での都合に過ぎず、あまり実用的ではありません。(そういう書籍も、あまり流行していません。)\n感想文についての文章のスタイルは、パラグラフ・ライティングではなく、上述の感想文テンプレートのような書き方のほうが無難でしょう。\n「テンプレ-ト」と呼び方のほかに「フレームワーク」(「枠組み」という意味)という呼び方をする場合もあります。文章のジャンルごとによって、その業界で適するフレームワークは違います。使い分けましょう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E6%84%9F%E6%83%B3%E6%96%87"} {"text": "小学校で、説明的な文章の書き方や、説明的な発表のしかたを練習したでしょう。\nでは、中学生むけの教材として、説明的な文章の書き方などを、本書では、まとめます。(本単元の内容は、基本的には、小学校で習ったことを、中学生むけの語句で簡潔に言い直したものである。)\n説明の対象の時間が変化していく場合(たとえば過去、現在、未来と変化していく場合)、\nなにかの作りかたを説明する場合と、それとも予想や分析を説明する場合とで、順序がちがう。\nなにかの作り方(たとえば料理の作り方)の説明の場合、\n時間の順に、\nまた、説明の順序を決めたら、その説明の最中は統一するべきです。\nたとえば、学校の通学路で、危険な場所について調査して報告をする場合、報告の順序としては、(※ 下記の例の一覧は、教育出版の検定教科書での例)\nなど、順番の考え方がいくつも、あります。\nどの順序で伝えるにしても、順序の方針を決めたら、その順序で最後まで伝えないと、聞き手・読み手が混乱します。\n何かを説明する文章を書く時は、見出しをつけると、読みやすくなる場合が多いです。(※ 東京書籍の中1国語教科書の見解)\nたとえば、ある料理の作り方の説明では(※ 架空の料理です)、\n/////////////// 例 ///////////////\n<この料理をつくるときに特別に準備するもの>\n食材\n器具\n<調理の手順>\n(※ 以下省略)\n///////////////\nのように、見出しをつけると、どこに何が書いてあるのか、ハッキリと分かるようになります。\n事実を伝えるときは、5W1H(ごダブリュいちエイチ)を意識して、伝えると良い。\n文章で書く場合は、「いつ・どこで・だれが・なにを・どのように・どうした」(←これが5W1H)を意識して、書くのである。\n理由などの「なぜ、そうしたのか?」などの分析や理由などの詳しい情報は、5W1Hのあとから説明する。\nなお、こういう説明の書き方でいう「事実」とは、いわゆる客観的事実(きゃっかんてき じじつ)のことです。\nなので、「私がこう思ったことは事実です。」というのは、たしかに一応(いちおう)は「私」さんにとっては事実ですが、しかし「私」さんの主観なので、客観的事実ではないので、説明的な文章では避けるべき(さけるべき)です。\n\nまた、事実でないことを伝えるには、たとえば推測ならば、文末に「だろうと思います。」などのように文末表現を工夫して、その文章が、推測であると分かるようにすべきである。\nこの前提として、事実と、それ以外の意見(感想または推測や予想)などとは、文章を別々に分けるべきである。(※ 教育出版の中1国語の見解)\nいっぽう、事実を伝えるときは、文末をはっきりと「である。」「です。」「ます。」「だ。」などといった言い切りの形にすべきです。(※ 教育出版の中1国語の見解)\nもしかしたら、ひかえめな表現のつもりで、事実を伝えようとしているのに「思います。」という表現をする人がいそうですが、しかし説明の場所では、語尾が「思います」だと意見だと誤解をされる可能性があります。\n人前で演説(えんぜつ)や発表などのスピーチをする場合、\nまず、自分の番のスピーチの最初で、自己紹介をしましょう。\nくらいの簡潔な紹介でかまいません。(※ 三省堂の中学3年国語など)\n作文だったら、原稿用紙に自分の名前を書けば分かりますが、しかしスピーチでは自分で自己紹介をする必要があります。\nそして、その演説をとおして何を伝えたいのか、ハッキリさせておきましょう。\nというのも、スピーチを聞くために、多くの聴衆に集まっていただいているからです。\n学生のスピーチの場合、「です・ます」調で話すのが良いとされる。\nまた、スピーチは、あまり、1人あたりの発表時間を長くできません。\nこのため、自分の意見の根拠の全てを伝えることは、スピーチでは無理です。\nなのでスピーチでは、どうしても伝えたい意見と、その根拠にしぼって、話すことになるでしょう。(※ 三省堂の見解)\nよって、スピーチのための原稿を用意する段階では、発表する内容をしぼりこむ必要があります。\nさて、スピーチでは、聞いている相手は、わからない事があっても、その場では調べることができません。\nなので、たとえば小学生を聞き手として、中学生が、自中学に見学にきた小学生を相手に、小学校と中学校との違いを説明するような場合は、話し手の中学生の側は、相手の小学生の知識を想定して、わかりやすい言葉で話す必要があります。(※ たとえば三省堂の中3国語では、全校生徒にスピーチする場合は、中1が聞いても分かるように言葉づかいを選びなさい、という内容の指導している。)\nさて、小学生を相手にスピーチする場合、具体的には、小学生が知らないだろう「部活」や「中間テスト」「期末テスト」といった、普通の小学校では使うことのない言葉を、無意識に使わないように気をつけましょう。\nなお、一般に、スピーチのあとには、聞き手からの質問などの時間があります。これを「質疑応答」(しつぎ おうとう)といいます。(※ 光村図書の中2国語)\nなので話し手の側は事前に、よくありそうな質問には、ある程度は応えられるように準備しておきましょう。\n議論(ぎろん)や討論(とうろん)などをする場合の「意見」の書き方としては、自分がその意見を「客観的に正しい」と思える理由も伝えましょう。(※ 東京書籍が中1で紹介)\nくわしくは2年生の範囲になりますが、議論や討論とは、そういうものだから、です。\nたとえば、あるアンケートでの、多かった意見の回答者数などのように、数値で客観的に計算できるものが多くある場合、数値そのものを記述するだけでなく、グラフなどを活用すると、わかりやすくなる。(※ 東京書籍の見解)\nある商品の販売数の年度ごとの変化や、ライバル他社の販売数との比較なども、数値などで説明できるものはグラフで説明すると、わかりやすい。(※ 東京書籍の見解\n棒グラフや円グラフ、折れ線グラフなど、適したグラフを活用しよう。\nもし、数値の対象の人数や販売数が膨大な場合(たとえば「15,6427台」とかの場合、「15万台」のように近似(きんじ)の値で良い。\nなお、報告書では、保護者への校内の合唱コンクールについての、保護者への報告がある。\n案内状の書き方は、どんなイベントの案内をするかで変わってきますが、どのイベントでも共通することもあります。\nまず、\nという事です。\nたとえば、仮に、ある学校で、生徒たちの書いたポスターの展示会をしたとしましょう。\n日時と場所は、箇条書きで書くのが普通です。\nのように。\nこういうのを、3~5行ていどのアイサツ文の直後にでも置きます。\nたとえば、草稿(そうこう、下書きの原稿のこと)を考えると、下記のような感じになるでしょうか?\nなお、左上のあて先(あてさき、宛先)などを通して、誰は来れないのかを、伝達する必要もあります。(※ たとえば、光村図書の中2国語の同窓会の案内では、「元6年2組の皆様」と宛先を明記してある。)\nたとえば、「生徒の兄弟や姉妹や友人は、来れるのか?」という問題もあります。\n「生徒の近所の家に住んでいる大人は、これるのか?」という問題もあります。\nあて先で、「保護者の皆様へ」とあるので、なるべく保護者だけに来て来てほしいと、しているのです。\n(※ 観客席などの席のある校内イベントでは、席の数の問題や、防犯などの問題で、もし保護者でない人が来ても、退席ねがう場合がある。) \n(※ ほぼ範囲外:)また、案内状の最後には、「以上」と明記して、文の終わりを明記します。(※ たとえば、光村図書の中2国語の同窓会の案内では、「以上」と文末を明記してある。)\nこうすることで、もし、印刷ミスなどの不備によって、たとえば「日時」とその下の行の印刷が消えてしまった印刷物が保護者に届けられても、その場合には、「以上」の語句も消えるので、保護者は「以上」の語句が無いので異常に気づきます。\nまた、同窓会などの学外イベントの場合、開催場所が(学校ではなく)たとえば市民ホールだったりして、その施設をレンタルするのに費用が掛かるなどの都合で、出席者の会費をとったり、あるいは出欠の連絡が事前の必要になったりします。(※ 光村が中2にそう指導している。)\n出欠の連絡が必要な場合、\nなどの明記も必要です。\n(※ くわしくは中学レベルを大幅に超えるので、以降の説明を省略したい。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E8%AA%AC%E6%98%8E%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%9F"} {"text": "親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。\n親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。\n庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。その時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかってきた。向うは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。鉢の開いた頭を、こっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中にはいった。邪魔になって手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。その晩母が山城屋に詫びに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。\nこの外いたずらは大分やった。大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人参畠をあらした事がある。人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてあったから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取ったら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。古川の持っている田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。太い孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稲にみずがかかる仕掛であった。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ挿し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、古川が真赤になって怒鳴り込んで来た。たしか罰金を出して済んだようである。\nおやじはちっともおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた。この兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである。\n母が病気で死ぬ二三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊りに行っていた。するととうとう死んだと云う報知が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。\n母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮していた。おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目なんだか今に分らない。妙なおやじがあったもんだ。兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれを勘当すると言い出した。\nその時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた。それにもかかわらずあまりおやじを怖いとは思わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている。だから婆さんである。この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。おれは到底人に好かれる性でないとあきらめていたから、他人から木の端のように取り扱われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直でよいご気性だ」と賞める事が時々あった。しかしおれには清の云う意味が分からなかった。好い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。\n母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃せばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩さえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。靴足袋ももらった。鉛筆も貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。その三円を蝦蟇口へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ落してしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を捜して来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗っていた。それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみて臭いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。\n清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したものでお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺れていたに違いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに逢っては叶わない。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿しい。ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。\nそれから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで並べていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかった。西洋館も日本建も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。清は何と云っても賞めてくれる。\n母が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思っていた。ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。その外に苦になる事は少しもなかった。ただおやじが小遣いをくれないには閉口した。\n母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。おれはどうでもするがよかろうと返事をした。どうせ兄の厄介になる気はない。世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云い出すに極っている。なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした。兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多を二束三文に売った。家屋敷はある人の周旋である金満家に譲った。この方は大分金になったようだが、詳しい事は一向知らぬ。おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ下宿していた。清は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんは何も知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。\n兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州下りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは四畳半の安下宿に籠って、それすらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。清に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを持って、奥さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまず今日には差支えなく暮していたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年来住み馴れた家の方がいいと云って応じなかった。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易えをして入らぬ気兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、妻を貰えの、来て世話をするのと云う。親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。\n九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意に使うがいい、その代りあとは構わないと云った。兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。二日立って新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一遍も逢わない。\nおれは六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。\n三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。\n卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。\n引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。\n家を畳んでからも清の所へは折々行った。清の甥というのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。甥こそいい面の皮だ。\nいよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。あまり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」と慰めてやった。それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。\n出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れてくれた。そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。\n青空文庫より\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E5%9D%8A%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93"} {"text": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html\n他のウェブサイトにある文書の転載が許可されていない為、紹介という形にさせて頂きました。\n或る日、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを散歩していた。\n遥、下には地獄があり、犍陀多(かんだた)という男が血の池でもがいているのが見える。\n犍陀多(かんだた)は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒であった。\nしかしそんな彼でも一度だけ良いことをしていた。道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやったのだ。\nそのことを思い出したお釈迦さまは彼を地獄から救い出してやろうと考え、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らした。\n血の池で溺れていた犍陀多(かんだた)が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきた。\nこれで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へ上へと登った。\n地獄と極楽との間にはとてつもない距離があるため、のぼることに疲れた犍陀多(かんだた)は糸の途中にぶらさがって休憩していたが、しかし下を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいて来る。\nこのままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多(かんだた)は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだ。\nすると突然、蜘蛛の糸は犍陀多がいる部分でぷつりと切れてしまい、彼は罪人達と一緒に暗闇へと、真っ逆さまに落ちていった。\n此の一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池(はすいけ)を立ち去った。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E3%81%AE%E7%B3%B8"} {"text": "中学校の古文は、竹取物語、枕草子、徒然草、平家物語、おくのほそ道 など、日本文学でも代表的なものを学ぶ。\n古典は、もともと、句読点やかぎかっこなどはない(白文)。\nただし、教科書では学習用として、すでに出版者側がつけている。\nまた、古典の場合、動作主が明確にかかれていないことが、多いので、\n文脈から読み取ることになる。\n文には、歴史的仮名遣いが使われている。\n歴史的仮名遣いで書かれた文を読むときの読み方の原則をここでは挙げる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E5%8F%A4%E6%96%87"} {"text": "小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校国語 > 中学校国語 古文 > 中学校国語 古文/竹取物語\nこのページでは「地球人」は地球の人類のことを、「宇宙人」は地球人を除いた宇宙人を指します。ご注意ください。\nかぐや姫はじつは月の世界の人。天人である。\nだが、単にかぐや姫が宇宙人というだけでは、ここまで後世に残る名作にはならない。かぐや姫と人間との関わりが面白さの醍醐味。\nかぐや姫がじつは宇宙人といっても、考え方の様式はほぼ地球人である。ただし、月 (の国) に帰らなければならないという宿命があるので、いくつかの地上の権威は結果的に通用しないことになる。もっとも、かぐや姫本人は、地上の権威を理解しているし、なるべく育ての親のおじいさんやおばあさんに幸せな暮らしをさせたいとも思っている。かぐや姫に地上の権威が通用しないという例を、作品中ではかぐや姫への求婚を、姫がすべて断る、ということで表現している。そのためか、かぐや姫はとても美人だ、という設定になっている。結果的に求婚を断る行動は地上の権威を否定することになるから読者には痛快であろう{{}}。しかも、かぐや姫の行動は、法に逆らっているわけでもないので、読者は大して罪悪感を感じないで済む。\nかぐや姫が通常の人間ではないということが読者に分かるように、冒頭で竹の中から小さな姫が発見される。しかし、この冒頭の段階では、かぐや姫の正体が月の住人だということは、まだ読者には分からない。かぐや姫の正体が分かるのは、結末ちかくになってからである。冒頭を読んだ読者に「かぐや姫はひょっとしたら普通の人間ではないのかもしれない」という事が分かれば十分である。\nそのような、姫の生い立ちの前置きが無いと、単に強情な娘が求婚を断り続けるだけのわがままな箱入り娘、という印象になってしまう。作中でも求婚を断り続けるかぐや姫のあまりの強情っぷりに、後に出てくる帝 (天皇) があきれるようなシーンもある。\n姫は全ての求婚を断るが、あまりの美貌に「我こそ」という美青年も数人 (より多い可能性もある) 現れる。この中でも特に美しい5人の貴族たちがおり、彼らの求婚は可能性を残した形で断られる。彼らは入手困難なものをそれぞれ要求され、持参した者と結婚するとした。5人の貴族はそれぞれの財力などを用いて自身に命じられたものを用意しようと一念発起した。しかし、偽物を献上し見破られたり、大金をはたいて天竺 (現在のインド) の商人か偽物しか得られなかったり、船が難破したりと散々だった。求婚をした貴族のうちの一人は、その自身の不幸な結末から、かぐや姫を疫病神あつかいをしはじめて、すっかり、かぐや姫への恋愛をなくしてしまうぐらいである(そのようなストーリ-中盤での疫病神あつかいが、ストーリー後半で明らかになる、かぐや姫の正体の伏線にもなってるのかもしれない)。\n五人の貴族の求婚がすべて失敗に終わったあと、(日本の)帝 (=天皇) がかぐや姫に興味を抱き、宮中に召抱えようとする。最終的に、かぐや姫を抱えようとする天皇も、姫に断られる。この帝ですら、かぐや姫の宿命を引き立てるための、引き立て役である。\n終盤にでてくる、天界の人たちの言説では、地上の権威や、地上人たちの人情などは、取るに足らない下らないものとして扱われている。\n中国や朝鮮などの外国では、日本の権威があまり通用しないが、どうも、そういう影響が作品にあるのかもしれない。仏教などの外来宗教の影響もあるのだろう。\nそのような、日本の権威や常識が通用しない世界が、地球上には存在することが、この地上の権威や人情を見下す天人たちの行動に、説得力などを与えているのであろうか。\n単に感情だけが、地上の感情だけが、天人にとって取るに足らないのでなく、かぐや姫を守ろうとする地上の兵士たちの警備の行動といった武力的な能力すらも、天人たちの超能力的な力の前には、地上は無力である。\nこうして、地上の感情も、地上の力も、天人たちの前では、無力・無駄な物として表現される。\nそして、ついに、かぐや姫は、天界に、つれて帰られてしまう。そして、天界の超能力的な力により、かぐや姫は地上のことも忘れてしまう。「天の羽衣」という物を、かぐや姫が着せられることにより、かぐや姫は地上のことを忘れてしまう。\nこうして、天人とともに、かぐや姫が月に帰って以降、もう、かつての人情のあった「かぐや姫」は出てこない。地上のことを忘れ去っているので、出てくる余地も無い。実際に、もうストーリー中には、天人もかぐや姫も登場しない。\nしかし、結末は、べつに月に帰るシーンでない。かぐや姫が帰る直前に、地上の者が、かぐや姫から貰った 不死の薬 があるのだが、この薬を地上の人たちが、不要な物として燃やすのが、結末である。\nかぐや姫が月に帰ったシーンを結末にするのではなく、結末は、そのあとの地上の人たちの、あきらめたあとの行動を結末にしているのである。\n悲劇的な結末である。\nストーリー冒頭での、竹の中が光っているという幻想的なシーンとは対照的に、結末は、つらい。\n竹取物語が書かれた時代は、かな文字が成立した時代であると考えられている。\nそもそも、かな文字が成立したので、日本語で物語が書きやすくなったと考えられている(※ 教育出版の見解)。\n(抜粋)\n今は昔、竹取の翁(おきな)といふものありけり。\n野山にまじりて竹をとりつつ、万(よろづ)のことにつかひけり。\n名をばさぬきのみやつことなむいひける。\nその竹の中に、本光る竹なむ一筋(ひとすぢ)ありけり。\n怪しがりて(あやしがりて)寄りて(よりて)見るに、筒の中光りたり。\nそれを見れば、三寸ばかりなる人いと7美しうてゐたり。\n翁いふやう、\n「われ朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になり給ふ(たまう)べき人なめり。」\nとて、手にうち入れて家に持ちて来ぬ(きぬ)。\n妻(つま)の嫗(おうな)に預けて養はす。\n美しきこと限りなし。\nいと幼けれ10ば、籠に入れてふ。\n今となっては昔のことだが、竹取の翁(おきな)というものがいた。\n野山に分け入って竹をとっては、様々なことに使っていた。\n名を「さぬきのみやつこ」と言った。\nその竹の中に、根元が光るものが一本あった。\n不思議がって近づいて見ると、竹の筒の中が光っていた。\nそれを見ると、三寸ほどの人がたいそうかわいらしく座っていた。\n翁が言うことは、\n「私が毎朝毎晩見ている竹の中にいらっしゃるために分かった。子供になってくださる人であるようだ。」\nと、手に入れて家に持って来た。\n妻の嫗にあずけて育てさせる。\nかわいらしいこと限りがない。\nたいそう小さいので、籠に入れて育てる。\n「いふもの」(イウモノ)、「ゐたり」(イタリ)などのように、明治時代よりも以前(つまり古代~江戸時代の終わり)までの古典の仮名遣い(かなづかい)は、現代の仮名遣いとは違っている。\nこの(「いふもの」「ゐたり」などの)ように、明治以前の古典に見られるような仮名遣いのことを「歴史的仮名遣い」という。\nその他、仮名遣いの現代と古典との違いの例をあげる。\n「いふもの」や「いひける」のように、語頭以外での「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」は、多くの場合、「は」→「わ」、「ひ」→「い」、「ふ」→「う」、「へ」→「え」、「ほ」→「お」と読むことが多い。\n「なむ」を「なん」と読むように、「む」を「ん」と読む場合がある。\n古文:「うつくしう」→ 読み:「うつくしゅう」 の様に、古文:「しう」→読み:「しゅう」。\nこの冒頭文の以外からも例を出せば、古文の「けふ」は「きょう」(今日)。古文の「てふ」は「ちょう」と読む。古文の「てふてふ」は読みは「ちょうちょう」で蝶々(ちょうちょう)のこと。「てふてふ」はアゲハチョウとかモンシロチョウなど、昆虫のチョウのこと。\nのように\n枕草子の「をかし」 → 読み:「おかし」の例のように、\nというふうになる。\n意味は「不思議に思って」。現代の「怪しいと思う」とは意味がちがい、「変だと思う」というような意味は無い。\n※ 高校の範囲だが、『枕草子』にも「小さきものは、みな、うつくし」(145段)という表現があるので、古語の「うつくし」は現代語の「かわいい」に対応する語だと推測することができるだろう。\nこの「あやし」や「うつくし」のように、たとえ同じ語が現代にあっても、古文では意味が違う場合があるので、注意。\n「いと美しうて」の「いと」とは、現代では「非常に」「とても」に置きかえられています。現代日本語では、「非常に」という意味での「いと」は使われていません。\nこのように、古典には、現代に使われなくなった言葉も多くあります。\n竹取の翁この子を見つけて後に、竹をとるに、節をへだてて1よごとに金ある竹を見つくること重なりぬ。\n2かくて翁やうやう豊かになりゆく。\nこの児養ふ3ほどに、すくすくと大きになりまさる。\n三月ばかりになる程に、4よき程なる人になりぬれば、5髪上げなどさうして、髪上げさせ6裳着す。\n帳の内よりも出さず、いつき養ふ。\nこの児のかたち清らなること7世になく、家の内は暗き処なく光満ちたり。\n翁心地あしく苦しき時も、この子を見れば苦しき事も止みぬ。\n腹だたしきことも慰みけり。\n竹取の翁はこの子を見つけて以後に、竹を取ると、節を隔てて空洞(よ)ごとに金が入っている竹を見つけることが重なった。\nこのようにして、翁はだんだん豊かになっていく。\nこの子を育てると、すくすくと大きくなっていく。\n三か月ほどたった頃に、成人したので、髪上げなどをあれこれ手配して、髪上げし裳着を行った。\n帳台の中からも出さず、心をこめて大切に育てる。\nこの子の顔だちの美しいことは世に類がなく、家の中は暗いところなど無いほど光に満ち溢れていた。\n翁は気分が悪く苦しいときでも、この子を見ると苦しいこともなくなった。\n腹立たしいことも気が晴れた。\n竹から見つかった、この美しい娘は「なよたけのかぐや姫」と名づけられた。\n「ありけり」や「使ひけり」の文末の「けり」は、過去についての伝聞をあらわす。\n「けり」は、『竹取物語』のように昔話などで用いられることが多いので、覚えておこう。\n「名をば、さかきのみやつことなむいいける」や「もと光る竹なむ一筋ありける。」の文末の「ける」は、「けり」の連体形。「ける」になっている理由は、文中に係り助詞「なむ」があるため。\n文中に、係り助詞「ぞ」・「なむ」・「や」・「か」がある場合、文末は連体形(れんたいけい)になる。\nなお、文中に係り助詞「こそ」がある場合、文末は已然形(いぜんけい)になる。\n「ける」の意味は、連体形になっていても、「けり」と同じであり、過去についての伝聞をあらわす。\n美しいかぐや姫には多くの男たちが求婚した。しかし、かぐや姫は求婚を断り続けた。なので、求婚をしつづける者は減っていった。そのうち、求婚をしつづける者が5人の男の貴族へとしぼられていった。\nかぐや姫はいっさい結婚をする気は無かったが、娘の将来を心配する翁が結婚をせかすのでかぐや姫は結婚の条件として5人の貴族たちに無理難題(むりなんだい)を出した。入手が至難の品物を持ってくることを結婚の条件にした。品物は5人の貴族ごとにそれぞれ別である。「蓬莱の玉の枝」はその品物の一つである。\n貴族の一人の「くらもちの皇子」(くらもちのみこ)が、「蓬莱の玉の枝」(ほうらいのたま の えだ)を持ってくる条件を出された。\nちなみに「蓬莱」(ほうらい)とは、中国(チャイナのほうの中国)の神話にある伝説上の島で、中国の東の海にある伝説の島である。中国の西・北・南には海はなく陸地であり、異民族の国であり、伝説の島などはありようがない。中国の東の島といってもべつに台湾(たいわん)でなければ、日本列島でもない。\nこの「蓬莱」のように中国の神話の影響が『竹取物語』にはあるようだ。\nさて、条件を出されたくらもちの皇子は、最初から「蓬莱の玉の枝」を探すのをあきらめ、かわりに偽(にせ)の「蓬莱の玉の枝」をつくってかぐや姫をだまそうとした。\nそのため手下の匠(たくみ)たちに「蓬莱の玉の枝」そっくりの枝を作らせた。\nそして、3年の月日がかかり、ようやく偽(にせ)の「蓬莱の玉の枝」が出来上がった。そして、翁の家をおとずれかぐや姫たちをだますために架空の冒険談をでっちあげて話しはじめた。\n当初、かぐや姫たちは「蓬莱の玉の枝」が偽造だとは知らなかった。しかし、話のあと匠たちが給料をかぐや姫に請求しに翁の家につめかけに来たことから皇子の嘘(うそ)がばれる。\nちなみに5人の貴公子の名前はそれぞれ\n結婚の条件として持ってくるべき品物はそれぞれ\n入手のための方法はそれぞれ\n以下の話はくらもちの皇子がでっち上げた、架空の冒険談である。\nこれやわが求むる山ならむと思ひて、さすがに怖しく思えて、山のめぐりをさしめぐらして、二三日ばかり見ありくに、天人の装ひしたる女、山の中より出で(いで)来て、銀(しろがね)の鋺(かなまる)を持ちて水を汲みありく。これを見て舟より下りて(おりて)、「この山の名を何とか申す」と問ふ。女、答へていはく、『これは蓬莱の山なり』と答ふ。これを聞くに、うれしきことかぎりなし。\nこれこそが、自分が探している(蓬莱の)山だろうと思って、(うれしかったが)やはり恐ろしく思われて、山のまわりをこぎまわって二日・三日ほど、様子を見て回っていたら、天人の服装をした女が山の中から出てきて、銀のお椀で水をくんでいます。これを(私が)見て、(私は)船から降りて、「この山の名を、何というのですか。」と尋ねました。女は答えて、「この山は、蓬莱の山です。」と答える。これを聞いて、(私は)うれしくて、たまらない。\n(中略)\nその山、見るに、さらに登るべきやう(ヨウ)なし。\nその山のそばひらをめぐれば、世の中になき花の木ども立てり。\n金(こがね)・銀(しろがね)・瑠璃(るり)色の水、山より流れいでたり。\nそれには、色々の玉の橋渡せり(わたせり)。\nそのあたりに、照り輝く(かがやく)木ども立てり。\nその中に、この取りてまうで(モウデ)来たりしは、いとわろかりしかども、のたまひし(ノタマイシ)に違は(タガワ)ましかばと、この花を折りてまうで(モウデ)来たるなり。\nその山を、見ると、(険しくて)まったく登れそうには、ありません。その山の斜面を回ってみると、この世の物には無い(この世の物とは思えないほど美しい)花の木が立っています。金色の水、銀色の水、瑠璃色の水が、山より流れ出ています。\nその川には、色さまざまの玉でつくられた橋が架けられています。その付近に、光り輝く木々が立っています。その中で(その木の中から取ってきた)、この取ってきたのは(取ってきた枝は)、かなり見劣りするものではありましたが、(姫の)おっしゃった物とは違ってはいけないだろうと思い、この花(の枝)を折って、まいってきたのです。\n(後略)\n玉の枝が偽物とはいえ匠たちが3年もの歳月をかけて作りあげたのだからとても高価な品物ではあろう。しかし、そんなことにはかぐや姫は興味が無い。かぐや姫はさっさと球の枝を皇子に返した。\n他の4人もすべて失敗した。ある貴公子は大金を使ったが失敗する。ある貴公子は船旅の途中に暴風雨にあって失敗し、かぐや姫を疫病神あつかいしはじめかぐや姫への興味がなくなる。ある貴公子は事故にあい大けがをして失敗する。ある貴公子はかぐや姫をだまそうとして失敗する。\nそして結局、5人の貴公子の求婚はすべて失敗した。\nこのあと天皇がかぐや姫の話題を聞きつけ、興味をいだき、かぐや姫を見てほれてしまい、天皇もかぐや姫に求婚しはじめる。\n天皇はこの物語世界では地上での最高の権力者である。その天皇からかぐや姫は求婚された。\nしかし、かぐや姫はかたくなに結婚をしようとしない。\n天皇はかぐや姫を無理やり宮中に連れようとかぐや姫をにぎるとかぐや姫は変身して影(かげ)になって一時的に消えてしまう。\nなので無理やりつれていくことも出来ない。\nかぐや姫が変身することで、かぐや姫が通常の人間でないことが説得力を持って読者や登場人物に伝わる。\nこのあと、いろんなやり取りがあって、そうこうしているうちに月日が流れ、かぐや姫は月に帰らなければならない日が近づく。\nかぐや姫を月に連れもどそうとする天人からかぐや姫を守ろうと、帝は翁の家に警備の兵を派遣して守らせる。\nその山、見るに・・・\nこのように、古文では助詞や主語が省略されることが多い。また、省略される主語の人称はかならずしも話し手(1人称)自身とはかぎらないので注意のこと。前後の文の文脈から主語をおぎなうことになる。\nそして、ついに天人たちがかぐや姫を月に連れかえりに地上の翁の家にやってくる。\n警備の兵は捕まえようとするが、天人たちの不思議な超能力によりまったく力が入らない。\nかろうじて弓矢を持ったものが矢を射っても、矢がまったく違う方向へ飛んでしまい当たらない。\nそして、かぐや姫は天人の超能力により自動的に屋外へと引きずりだされ、天人の居る場所へと動いてしまう。\nついに天人がかぐや姫を月に連れ戻そうとする。ここでかぐや姫は手紙を書き残すための時間が欲しいと頼み、天人に手紙を書くための時間を与えられる。\n月にかえる直前のかぐや姫はまだ地上の情の記憶が残ってるうちに手紙を書き残し、その手紙は天皇へ当てられた。\n天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣(はごろも)入れり。また、あるは不死の薬入れり。 一人の天人言ふ。「壺(つぼ)なる御薬(みくすり)たてまつれ。きたなき所の物きこしめしたれば、御心地(おんここち)悪しからむ(あしからン)ものぞ。」とて、持て寄りたれば、いささかなめたまひひて、少し形見とて、脱ぎ置く衣(きぬ)に包まむとすれば、ある天人包ませず。\n御衣(みぞ)を取り出でて(いでて)着せむとす。その時にかぐや姫、「しばし待て。」と言ふ。\n「衣、着せつる人は、心、異(こと)になるなりといふ。物(もの)一言(ひとこと)いひおくべきことありけり。」といひて文(ふみ)書く。\n天人の中の一人に持たせている箱がある。(その箱には)天の羽衣が、入っている。また別の箱には、不死の薬が入っている。一人の天人が言う、「壷に入っているお薬を飲みなさい。汚い所(=地上)のものを召し上がってきたので、ご気分が、(きっと)悪いでしょう。」と言って、(薬の壷を)持って寄ってきたので、(かぐや姫は)僅か(わずか)おなめになって、少し形見といて脱いでおく着物に包もうとすると、天人が(薬を)包ませない。\n(そして、)(天人が)お召し物(=天の羽衣)を取り出して、(かぐや姫に)着せようとする。\nその時に、かぐや姫は、「しばらく待ちなさい。」と言う。「天の羽衣を着せられた人は、心が、この地上の人間とは(別の心に)変わってしまうという。(じつは)一言、(地上の者たちに)言っておかなければならないことがあった。」と言って、(帝に当てた)手紙を書く。\n中将取りつれば、\nふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいとほし、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣(きぬ)着つる人は、もの思ひ(イ)なくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人(てんにん)具して昇り(のぼり)ぬ。 \n(地上の人間の)中将が(手紙と壷を)受け取ると、\n天人が、いきなり、さっと天の羽衣を(かぐや姫に)着せてさしあげたので、(もう、かぐや姫は)「翁を気の毒だ、かわいそうだ。」と思っていた気持ちも消え失せてしまった。\nこの天の羽衣を着た人(=元・かぐや姫)は、(もはや、地上の人としての気持ちが失せてしまったので、)(たかが地上のことで)思い悩むことも無くなり、(そのまま、)(天を飛ぶ)車に乗って、百人ほどの天人とともに、天に昇ってしまった。\nかぐや姫は連れてかれてしまった。そして、かぐや姫は「天の羽衣」を着たことにより、地上の人情は忘れてしまい、かぐや姫は翁たちにも興味はなくなった。\n翁・嫗(おうな)、血の涙を流して惑へど(まどえど)、かひ(かい)なし。あの書きおきし文を読みて聞かせけれど、「何せむにか命も惜し(おし)からむ。誰(た)がためにか何事も用なし。」とて、薬も食はず、やがて起きも上がらで、病み伏せり。\n中将、人々引き具して帰り参り(まゐり)て、かぐや姫をえ戦ひ留めずなりぬる事を細々(こまごま)と奏す(そうす)。薬(くすり)の壺(つぼ)に御文(おんふみ)添へ(そエ)参らす。広げて御覽(ごらん)じて、いといたくあはれがらせたまひて物もきこしめさず。御遊びなどもなかりけり。 \n翁と嫗(おうな)は、血の涙を流すほどに(悲しみ)取り乱したが、どうしようもない。(かぐや姫によって)書き置かれた、あの手紙を読み聞かせたが、「(今さら)何をすることがあるのでしょう。(どうして、)命が惜しいでしょうか。誰のために生きるのですか。もう、何も無用です。」と言って、薬も飲まず、やがて病み伏せってしまって、起き上がらない。\n中将は、人々(=兵士など)を引きつれ(宮中に)帰り参上した。(帝に報告し、)かぐや姫を引き留めるために戦うことが出来なかった事を細々と申し上げた。\n(そして、中将が預かっていた)薬の壷および手紙を、帝に、さしあげた。\n(帝は手紙を)広げて、お読みになり、とても、たいそう悲しみになり、食事も召し上がらない。(音楽などの)お遊びも、なされなかった。\n月に帰る直前のかぐや姫から地上の者たちは「不死の薬」を受け取り、天皇に薬がわたされたが、天皇も翁も嫗(おうな)もだれも薬を飲もうとしない。かぐや姫のいない世界で不死を生きることに翁たちはもはや興味が無い。翁と嫗は自分の娘としてかぐや姫をかわいがっていた。天皇も不死に興味が無く、その薬を士たちに富士山で燃やさせる。「不死の薬を燃やしたから不死=富士」と思わせておいて、実は「士に富む」(原文では「士どもあまた」)から「富士」というオチである。\n御文(おんふみ)、不死の薬の壺(つぼ)並べて、火をつけて燃やすべきよし仰せ(おほせ)たまふ。\nそのよしうけたまはりて、士(つはもの)どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。\nその煙(けぶり)、いまだ雲の中へ立ち上るとぞ、言ひ伝へたる。 \n(帝は)お手紙と不死の手紙を並べて、火をつけて燃やすようにと、ご命令になった。その旨を承り、兵士たちを大勢ひきつれて山に登ったという事から、その山を「ふじの山」と名づけたという。\nその煙は、いまだに雲の中へと立ち上ってると、言い伝えられている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E5%8F%A4%E6%96%87/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "「故事」(こじ)とは、昔の出来事のことである。\n「故事成語」(こじせいご)とは、ある故事が元になって出来た熟語である。たいてい、中国の古典に書かれた故事が、故事成語の元になっている。\nここでいう「中国」は、チャイナのほうの中国である。なお、中学校のこの単元においては以下の漢文についてを習うこと及びその次に述べる故事成語を覚えることを目的とする。\nwikibooksの仕組みではどうしても横書きになってしまう。一文字ずつ改行してならできなくもないものの、ページが大変なこと(長さ)になってしまうので、やむをえず横書きにした。横書きで上つきの記号は、縦書きでは右側に、同じく下つきの記号は左側に、と読み替えてほしい。\n以下に例を述べる。その前に、簡易的ではあるが、説明をしておく。右側(ここでは横書きなので倒して上側)にあるカタカナが送り仮名で、左側(ここでは同じく横書きなので倒して下側)にあるのが訓読記号である。\n①\nまず、上(実際には縦書きなので右側)のカタカナは前述の通り「送り仮名」である。無論古文の読み方によって読まなくてはならない。次に、下(これまた実際には縦書きなので左側)の前述の通り訓読記号の『レ』はレ点と称し、これがある文字の一つ前の文字を読むのは後であり、先にこれの後の文字を先に読んだ後(一文字)先ほどのレ点の前の文字を読む。\n②\nまず、最初の有にレ点がついているので、また同様に無しにもレ点がついているので、読む順番は1、備え(古文の読み方で)2、有れば3、患い(古文の読み方で)4、無し、となる。ここでは古文の読み方を適用することが重要である。間違っても、『備え患い有れば無し』(先に「レ点のないもの」を全て読んでしまった例)のようにしてはならない。レ点がついている文字は、レ点の次の文字を読んだ後、すぐに読む。\n③\nまず、『一』・『二』・『三』は『一・二・三点』という。二文字以上戻る場合、レ点では対処できないから出てくる。番号順に読む。\nでは、これを踏まえて、見てみよう。先に訓読記号のついていないものを読むので、1、東のかた2、鳥江を3、渡らんと4、欲す、となる。1、を読んだ後、他に訓読記号のついていない文字がないので、一(訓読記号)から順番に読む。こうすると、読むことができる。なお、漢文を書く場合においてもレ点と一・二・三点の使い分けをしよう。\nでは、これらを生かして、下の故事成語を読んでみよう。\nある主張の辻褄(つじつま)が合わないこと。\n矛盾\n楚人(そひと)に盾(たて)と矛(ほこ)とを鬻ぐ(ひさぐ)者あり。之(これ)を誉(ほ)めて曰(いは)く「わが盾(たて)の堅き(かたき)こと、能く(よく)陥す(とおす)ものなきなり。」と。また、その矛(ほこ)を誉めて曰く「わが矛の利なること、物において陥さざるなきなり。」と。\nある人いはく(いわく)「子(し)の矛を以て、子の盾を陥さば(とおさば)いかん。」と。その人応ふる(こたうる)こと能はざる(あたわざる)なり。\n楚の国の人で、盾と矛とを売る者がいた。その人が、盾をほめて、「私の盾の堅いことといったら、突き通せる物が無い。」と。また、その人は、矛をほめて、「私の矛の鋭いことといったら、どんな物でも突き通す。」\nある人が尋ねて、「あなたの矛で、あなたの盾を突きさすと、どうなるのか。」と言った。その商人は、答えることができなかった。\n中学校国語 漢文/矛盾も参照のこと。\nよけいなもの。\n中国の楚(そ)の国で、数名の者が地面に蛇の絵を早く描く競争をしていて、いちばん早く描き終えた者は酒を飲めるという競争をした。このときに、ある者が、いったん先に描き終えたが、「足まで描ける」と言ったら、別の者が「蛇には足がない。」と言われ、足を描いた男が負けてしまい、酒をうばわれたという。\n周囲を敵に囲まれること。または、周囲が敵ばかりで味方のいないこと。\n紀元前202年ごろの、古代の中国で、楚(そ)の国と、漢(かん)の国が、天下をめぐって争っていた。秦(しん)の王朝が滅んだあとの時代であり、いくつかの国が天下を争っていた。最終的に、楚と漢に、集約されていった。 そして、ついに楚と漢との決戦が起きた。\n楚(そ)の指導者の項羽(こうう)は、楚軍が垓下(がいか)の戦いで劣勢になり、敵側の漢の大軍に包囲された。その日の夜、項羽は四方の漢軍の陣のほうから、故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか。」と驚き(おどろき)嘆いた(なげいた)。この故事から\"周囲を敵に囲まれること\"を四面楚歌(しめんそか)と言うようになった。\n※最終的に項羽は戦に負け自殺し、漢が天下をにぎる。漢の指導者の劉邦(りゅうほう)が、あたらしい王朝の「漢」を作る。これが、漢王朝の始まりである。\nふたつの勢力がひとつの事柄について争っている間に、第三者が利益を得てしまうこと。\nハマグリが殻(から)を開けてひなたぼっこをしていると、鳥のシギがやってきて、ハマグリの身をついばもうとした。ハマグリは殻をとじて、シギのくちばしをはさみました。シギは『このまま今日も明日も雨が降らなければ、ハマグリは死ぬだろう』と言い、ハマグリは『今日も明日もこのままならば、シギの方が死ぬだろう』と言う。そうして、争っている間に、両者(りゃうしゃ)とも、漁師に捕まってしまった。\n中国の戦国時代における、たとえ話の一つ。\n必要のない心配、取り越し苦労(とりこしぐろう)のこと。\n杞(き)の国に、ひどく心配性の人がいた。もしも天が落ちてきたらどうしよう、地面が崩れたらどうしようと心配し、夜も眠れず食事ものどを通らぬほどに心配した人がいた。このことから、無駄な心配、取り越し苦労のことを指して杞憂(きゆう)という。\n人の幸不幸は変わりやすいということ。\n用例の一例として不幸な人をはげます場合に、「人間万事、塞翁が馬」などと使うことが多い。幸福で浮かれている人をいましめる場合にも、用いられる場合がある。\nこのことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、「人間万事塞翁が馬」などと使われる。\n文章の言い回しを、よりよく考え直すこと。\n単に、出版物などの誤字・脱字を訂正することは「校正」(こうせい)という熟語であり、推敲とは意味が異なる。\n唐の詩人の賈島(かとう)は、乗っているロバの上で詩を作っていた。その途中、「僧(そう)は推す(おす) 月下の門(げっかのもん)」という一句を口ずさんでから、「推す」のほかに「敲く」(たたく)という語を思いついて迷った。あまりにも夢中になっていたので、向こうから役人の韓愈(かんゆ)のひきいる行列がやってきたのにも気づかず、その中にぶつかってしまった。賈島はすぐに捕らえられ、韓愈の前に連れて行かれた。そこで賈島は経緯をつぶさに申し立てた。事情を知った韓愈は、賈島の話を聞き終わると、「それは『敲く』の方がいいだろう、月下に音を響かせる風情があって良い」と言った。そして、二人は、馬を並べていきながら詩を論じ合った。\nこのことから「文章を書いた後、字句を良くするために何回も読んで練り直すこと」を「推敲」という。\nあまりちがいのないこと。\n(書き下し文)\n中学校国語 漢文/五十歩百歩も参照のこと。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E6%95%85%E4%BA%8B%E6%88%90%E8%AA%9E_1%E5%B9%B4"} {"text": "中学校国語 漢文 > 矛盾\nここでは故事成語「矛盾」のもとになった話を解説する。なお、原文の難解な漢字はひらがなに直している。\n楚人1に盾と矛2とを鬻ぐ3者有り。これを誉めて曰く「わが盾の堅きこと、よくとほすもの莫きなり」と。また、その矛を誉めて曰く「わが矛の利なる4こと、物においてとほさざる無きなり」と。ある人曰く「子5の矛をもって、子の盾をとほさばいかん」と。その人こたふることあたはざるなり。\n楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。\n(『韓非子』(かんぴし)より)\n楚の国の人で盾と矛を売る者がいた。この人はこれを誉めて「私の盾は頑丈で、これを貫けるものはない」と言った。また、矛を誉めて「私の矛は鋭くて、物において貫けないものはない」と言った。ある人が「あなたの矛であなたの盾を貫いたらどうなるのですか」といった。商人は答えることができなかった\n「何でも突き通す矛」と「どんな攻撃も防ぐ盾」の2つがあるというのはおかしい。なぜなら、「何でも突き通す矛」が本当ならば「どんな攻撃も防ぐ盾」はウソになるし、その逆の場合は矛のほうがウソになるからである。このように、つじつまの合わないことを「矛盾」(むじゅん)と言うようになったのはこの話による。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E7%9F%9B%E7%9B%BE"} {"text": "中学校国語 漢文 > 青は藍より出でて藍よりも青し\nここでは故事成語「青は藍より出でて藍よりも青し」のもとになった話を解説する。なお、原文の難解な漢字はひらがなに直している。\n君子1曰く、学は以て已2むべからず。青はこれを藍3より取りて、藍よりも青く、氷は水之を為して、水よりも寒し、と。\n君子曰、學不可以已。青取之於藍、而青於藍、冰、水爲之、而寒於水。 \n(『荀子』より)\n君子がこうおっしゃった。「学問は終わったと思ってはいけない。青は藍から取り出すが藍よりも青い。氷は水が作り出すが水よりも冷たい。」と。\n「青は藍より出でて藍よりも青し」は「出藍の誉れ」とも言う。親や先生よりも優れた才能を示したり、仕事をしたりしたときに使われる言葉である。ここでは学問というものがどんどん発展していくのだから、「ここで終わり」という制限をかけて努力をやめることをいましめている。\nさて、原文は長い文ではないが少し難しい。「青取之於藍、而青於藍」を忠実に書き下し文にすると「青は之を藍より取りて、藍より青し」なる。この書き下し文をよく見ると「於」「而」という字は使っていないことに注目してほしい。この二つは「置き字」といい、原則として読まない(ただし、ふりがながあれば読む)のだが、これが返り点を打つ問題でのミスのもとになる。なお、返り点をうつと「青取二之於藍一、而青二於藍一」となる。同様に「而寒於水」には「而寒二於水一」と打つ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E9%9D%92%E3%81%AF%E8%97%8D%E3%82%88%E3%82%8A%E5%87%BA%E3%81%A7%E3%81%A6%E8%97%8D%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82%E9%9D%92%E3%81%97"} {"text": "中学校国語 漢文 > 温故知新\nここでは四字熟語「温故知新」のもとになった話を解説する。なお、原文の難解な漢字はひらがなに直している。\n子1曰く、「故きを温ねて2新しきを知れば、もって師たるべしと」。\n子曰、温故而知新、可以爲師矣。\n(『論語』より)\n孔子はおっしゃった。「昔の出来事や学説を研究して、現在にも通じる新しいものを発見すれば指導する立場になれるだろう」と。\n原文の「温故而知新」から「青は藍より出でて藍よりも青し」で解説した置き字である「而」を取り除いたのが四字熟語「温故知新」である。\n本文が短いので全部に返り点を打つと「子曰、温レ故而知レ新、可二以爲一レ師矣」となる。ここでも置き字と返り点に悩まされることになる。その理由は(ここでは横書きなのでわかりにくいだろうが)「一レ点」が登場することと最後にある置き字「矣」にある。「一レ点」のある部分はレ点を優先して下の字から上の字に返って読み、その後二点へ飛ぶ。さらに最後の「矣」は置き字なので読まない。この二つに気をつけたい。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E6%B8%A9%E6%95%85%E7%9F%A5%E6%96%B0"} {"text": "ここでは故事成語「五十歩百歩」の基になった文を見ていきたい。\n今から約2300年ほど前、中国の中心部の近くに魏(梁)という国があり、そこに恵王(けいおう)という王がいた。恵王は戦争好きで、国を強くするために先生として招いていた孟子に、こう相談した。「私は政治に心を尽くしています。ある地方で作物が取れないときは、そこの民衆を別の地方に移し、穀物を移します。となりの国の政治をよく観察してみても、私のように民衆のために心を砕いている者はいません。それなのに、となりの国の人口が減らず、私の国の人口が増えないのは、なぜですか」と。\nこの恵王の質問に、孟子はどう答えたのだろうか。\n孟子対へていはく、「王戦ひを好む。請ふ戦ひをもってたとへん。填然として、これに鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵をひきて走る、あるいは百歩にして後止まり、あるいは五十歩にして後止まる。五十歩をもって百歩を笑はば、すなわちいかん」と。 \nいはく、「不可なり。ただ百歩ならざるのみ。これもまた走るなり。」と。\n孟子は答えて言った。「王様は戦争がお好きです。戦争でたとえさせてください。ドンドンと進軍の太鼓が鳴り、武器はぶつかって火花を散らしています。そうしたら、よろいを捨てて武器を引きずって逃げ出した者がおりました。一方は百歩で立ち止まり、もう一方は五十歩で立ち止まりました。五十歩逃げた者が百歩逃げた者をおくびょうだと言って笑ったならば、どうでしょうか。」\n王は言った。「それはダメだ。ただ百歩でないというだけで、逃げたことには変わりない。」\n孟子は、恵王への答えに、こう言う。「それがおわかりでしたら、人口が多くなることを期待してはなりません」と。孟子からすれば、恵王の政治も、となりの国の政治も、大きな差がない―五十歩百歩なのである。\n孟子対曰、「王好戦。請以戦喩。填然、鼓之、兵刃既接。棄甲曳兵而走、或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。」 \n曰、「不可。直不百歩耳。是亦走也。」 \nもともとは少し長めの文章だが、故事成語のもとになったところだけをピックアップした。\nさて、すでにすこし触れたが「大きな差がない」ことを「五十歩百歩」という。これはすでに紹介したように「五十歩逃げた者が百歩逃げた者を馬鹿にして笑うことは意味がない」ことからきている。似たような言葉に「どんぐりの背比べ」「目くそ鼻くそを笑う」がある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E4%BA%94%E5%8D%81%E6%AD%A9%E7%99%BE%E6%AD%A9"} {"text": "中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。\nまず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。\nこのような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。\n念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。\nまた、平仮名は、その文字自体には意味が無い。\nいっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。\nまた、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。\n漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。\nいっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。\n「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。\nなお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。\n日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。\n日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。\n日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。\nまた、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。\nその段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。\n場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。\nたとえば\nとか\nなどのように。\nさて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。\n例\n上の例の文章は、4つの文でできている。\nそして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。\nまた、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。\n例\n「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。\nさらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。\nたとえば、\n例\nなら、\nと単語分けすることができる。\n文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。\n主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。\nたとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。\n一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。\nしかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。\nまた、日本語の文には、主語が無い場合もある。\nたとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。\nまた、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。\nまた、\nの場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。\n述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。\nたとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。\nなお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。\n主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。\n修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。\nたとえば、\nなら「まじめに」の部分が修飾語である。\nいっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。\n「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。\n「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。\n「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。\nこの例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。\nまた、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。\nまたは単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。\nいっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。\nたとえば、\nこの場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか?\nヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか?\n答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。\nいっぽう、\nなら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。\nのように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。\n接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。\n接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。\nエラーしたのが山田?出塁したのが山田?\n独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。\n\nあいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。\n上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。\n上の例文の「山田さん」も独立語です。\nいっぽう、\nこの例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。\nこの例文の「あのう」は独立語です。\nこの例文の「東京」は独立語です。\n二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。\n連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。\nまた、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。\n日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文\nの主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。\nしかし、\nという文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。\nそこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。\nの主部は、「自分の消しゴム」です。\n例文\nの述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。\nそこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。\nこの文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。\n例文\nについて、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。\nそこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。\n「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。\n「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。\nこの「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。\nつまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。\nまた、並立の関係にある単語を並立語といいます。\n「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。\nさきほどの例文では述語が並立していました。\nほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば\nという例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。\n\n単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。\nたとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。\nいっぽう、「に」は自立語ではない。\n原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。\nなお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。\nなお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。\nいっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。\n付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。\n名詞は普通、自立語に分類する。\n動詞の語感を自立語に分類する。\n動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。\nたとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。\n(学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。\n(学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。\n\n「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。\nたとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。\nこのように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。\n自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。\nたとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。\n「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。\n付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。\n活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。\n用言は普通、述語になれます。\n後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。\n動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。\n形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。\n用言の性質として\nなどの性質があります。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。\n後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。\n名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。\n体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。\n「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。\nたとえば「歩く」なら、\n「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。\nまた、動詞は述語になることができる。\nたとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。\n動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。\nたとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。\nいっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。\n同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。\n「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。\nまた、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。\n「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。\n名詞には、いろいろな種類がある。\n「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。\n「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。\n「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。\nのような文での「もの」、\nまたは\nの「こと」のような名詞を、形式名詞という。\n「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。\n※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。\n代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。\nいっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。\n代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。\n代名詞は、活用がない語である。\n\nこの一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。\nけっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。\n代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。\n名詞は普通、自立語です。\n副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。\n副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\n程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。\n「呼応の副詞」とは、\nのように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。\nたとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。\n「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。\nのように\nの「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。)\n(※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、\n※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。\nの「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。)\n「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。\n「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。\nこれ以外にも、\nまたは\nとかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。\n教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。\nたとえば、\nのように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている)\nなどの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。)\n叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\nの「ゆっくり」は、状態の副詞である。\n程度の副詞は、\n「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。\nの「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。\n「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。\n「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、\n「もっと右。」「もっと昔から。」\nのように名詞などの体言を修飾することもある。\nまた、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。\n指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。\n連体詞の直後には、かならず体言がつく。\n「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。\n「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。\nたとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。\n「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。\nなので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。\n同様に、「小さな」も連体詞である。\n「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。\n\n「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。\n\n「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。\n動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。\nなどの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。\nいっぽう\nの「ある」は、動詞である。\nこのように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。\nのような連体修飾語「去る」は連体詞である。\n「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。\nたとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。\nこのように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。\n形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈)\n「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈)\n\n感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。\n典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞)\nいろいろな例\n\n「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。\n「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。\n助動詞とは、活用のある付属語です。\n「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。\nつまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。\nいっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。\n「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。\n「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。\n「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。\n「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。\n動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。\nたとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。\n活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。\nたとえば、動詞の活用形には、\nの6種類がある。\nまた、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。\nたとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。\n「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。\n動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。\nたとえば、上記の「咲く」の場合、\n「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。\nまた、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。\n「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。\n五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。\nたとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。\n\n命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。)\n下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。\n\n上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。\n\n「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。\nもし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。\nなので、「起きる」の語幹は「お」にされている。\n「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。\n\n下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。\n「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。\nカ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。\nカ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\nサ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。\nサ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\n動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。\n「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令)\nというように、動詞「書く」は5段活用される。\nしかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。\n「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。\nいっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。\nこの「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。\n動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。\nこれは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。\nこの「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。\n「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。\n動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。\n共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。\nしかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。\n促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。\n撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。\nなお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。\n\n特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば\nの「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。\n本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。\nこのように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。\n形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。\n助動詞と補助動詞とは違う。\nなどの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。\nの「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。\nの「いただく」・「なる」も補助動詞である。\n「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。\n学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。\nたとえば\nなど、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。\nいっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。\nつまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。\n「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。\n動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。\n例:「起きる」と「起こす」。\n「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 \n一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。\n「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。\nものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。\nなど。\n\n特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は\nというように「無」の状態を表す場合と、\nのように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。\nこの、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。\n「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、\n「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。\nしかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。\nまた、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。\nこのように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。\nなお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。)\n「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。)\nなお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。\nなお、「ほしい」は同じ意味の英語の\"want\"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。\n「ほしい」も\nのように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。\n日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。\n補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。\nつまり、\n例\nという文章では、「歩いている」で、1文節と数える。\nつまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。\nまた、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。\n(批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、\nたとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、\nしかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。\n「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。)\n「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。\n形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。\n形容動詞に命令形は無い。\n「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。\nなお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。\n単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。\n文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。\n助動詞には、次のものがある。\n例\n活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。\n例\n「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。\n例\n「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。\n「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。\nなお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。\n例\nこの文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。\nこの文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。\n服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。\nまた、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。\n「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。\n「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。\n「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。\n\n「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。\n「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。\n(※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。\n時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。\n「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。\n「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。\n「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。\nまた、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。\n「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。\n「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。\n「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。\n「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。\n「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。\n「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。\n「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。\n「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。\n(※ 執筆中)\n国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。\n助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。\n主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。\n学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。\n格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。\nたとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、\nそれとも\nはたまた\nのかわからない。\nこの「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。\n気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。\nつまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。\nしかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。\nなお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\nつまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。\n\nさて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。\n三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。)\nたとえば、(学校教科書では習わない文だが、)\nという文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。\n助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。\n(※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。\nなどの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。\n「の」には、\nのように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味)\nのように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。\nこのように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。\nまた、\nのように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。\nこれらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。\nなお、混同しやすい例として\nのような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。\n接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。\n「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\n副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。\n三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。\n教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。\n\n終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。\n他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。\n単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。\n1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。\n「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。\nどちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。\n単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。\n日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。\n接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。\n文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。\n例文:\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95"} {"text": "※ 冒頭部のみを紹介する。資料の範囲なので、覚えなくてよい。中学生は1回か2回ほど通読すれば、充分である。\n『土佐日記』(とさにっき)とは、紀貫之(きの つらゆき)によって平安時代に書かれた日記。\n小倉百人一首(おぐら ひゃくにんいっしゅ)でも、紀貫之の作の歌が出てくる。たとえば、「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の 香に にほひける」は、紀貫之の歌である。\nこの紀貫之の生きた時代、平仮名(ひらがな)や万葉仮名などの仮名(かな)は女が使うものとされていたが、作者の紀貫之は男だが、女のふりをして『土佐日記』を書いた。\nというふうに始まる。「女もしてみむ」と言ってるが、もちろん本当は男である紀貫之が書いているのである。\n著者の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、女のふりをして冒頭文を書いた。船旅になるが、まだ初日の12月21日は船に乗ってない。\n女である私も日記を書いてみよう。\nある人(紀貫之)が国司の任期を終え、後任の者への引継ぎも終わり、ある人(紀貫之)は帰りの旅立ちのために土佐の官舎を発った日が12月21日の夜だった。そして。ある人は船着場へ移り、見送りの人たちによる送別のため、皆で大騒ぎをしているうちに夜が更けた。\n(まだ船には乗ってない。)\n男もすなる日記(にき)といふ(イウ)ものを、女もしてみむ(ミン)とて、するなり。\nそれの年の十二月(しはす、シワス)の二十日余り一日(ひとひ)の日の戌(いぬ)の刻(とき)に、門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。\nある人、県(あがた)の四年(よとせ)五年(いつとせ)果てて、例の事(こと)どもみなし終へて(オエテ)、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ(ナン)、別れ難く思ひて(オモイテ)、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。\n男もするという日記というものを、女も書いてみようとして書くのである。\nある年の十二月の二十一日の午後八時頃に、(土佐から)出発する。その時の様子を、少しばかり、もの(=紙)に書き付ける。\nある人が(=紀貫之)、国司の(任期の)4年・5年間を終えて、(国司交代などの)通例の事務なども終えて、解由状(げゆじょう)などを(新任者から紀貫之が)受け取って、住んでいた官舎(かんしゃ)から(紀貫之は)出て、(紀貫之は)船に乗る予定の所へ移る。\n(見送りの人は)あの人この人、知っている人知らない人、(などが、私を)見送ってくれる。\n長年、親しく交際してきた人が、ことさら別れがつらく思って、一日中、あれこれと世話をして、大騒ぎしているうちに、夜が更けてしまった。\n※ 男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。 - とても有名な冒頭文なので、読者は、そのまま覚えてしまっても良い。\n『土佐日記』は日本初の仮名文(かなぶん)日記(にっき)である。\n日記の内容は私的な感想などであり、べつに公的な報告・記録などでは無い。\n紀貫之は公務で、土佐(とさ、現在の高知県)に 地方官として、国司(こくし)として 赴任(ふにん)しており、土佐守(とさのかみ)としての仕事をしていた。その任が終わり、その帰り道での旅の、五十五日間の日記である。\nこの時代の公文書などは漢文で書かれており、男も漢文を使うものとされていた。そして日記は、男が、公務などについての、その日の記録を、漢文で書いたのが日記だとされていてた。\nしかし、土佐日記では、その慣例をやぶり、ひらがなで、著者が女を装い、私的な感情を書いた。このように日記で私的な感情を表現するのは、当時としては異例である。\nこの『土佐日記』によって、私的な日記によって文学的な表現活動をするという文化が起こり、のちの時代の日記文学および女流文学に、大きな影響を与えた。そして今で言う「日記文学」というようなジャンルが、土佐日記によって起こり始めた。\n(『土佐日記』はタイトルには「日記」とつくが、しかし現代の観点で見れば、『土佐日記』は後日に日記風の文体で書いた紀行文であろう。しかし、ふつう古典文学の『土佐日記』や『蜻蛉日記』(かげろうにっき)、『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)、『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)、『更級日記』(さらしなにっき)など、古典での「○○日記」などは、日記文学として扱うのが普通である。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E5%8F%A4%E6%96%87/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98"} {"text": "\nまず、「会議」と「議論」は違う。(※ 検定教科書では、混同されている。しかし、旺文社の参考書では区別している。)\n会議とは、なにかの団体が、今後の行動などを決めるための相談である。そのため、会議では事前に、どのようにして、決めるのかを、あらかじめ打ち合わせしておくのが、望ましい。\nたとえば、その団体の長(会長や社長など、学校ならば担任(たんにん)の教員)が決めるのか、それとも会議の出席者の多数決で決めるのか、などの決定の方法を、会議ではあらかじめ決めておくのが望ましい。\n(※ なので、たとえば、「学級会」などで委員会のメンバーを選挙したりするのは、「議論」ではなく「会議」。)\n議論(ぎろん、英語ではディスカッション)の目的として、なにかのトラブルなどの解決策をさぐるためのアイデアを出させたり、あるいは、なにか未解明のものを解明するのに情報を出し合うのが目的である。\nなので議論をする場合、解決策になりそうな、いろんなアイデアを出させよう。\nアイデアを出すのが目的だから、わざわざ2グループに分けて、勝ち負けを決める必要は無い。(なお、議論のさいに2グループに分けて、勝ち負けを決める方法で競争させて意見を出させる方法のことを「競技ディベート」という。 小学校で練習した、2グループに分けて勝負させるのは、正確には「競技ディベート」である。)\nただし、あくまで解決策を出させるのが目的だから、解決策をすばやく見つけ出させそうにない話題がでてきた場合、その話題は中断してもらおう。\nよくある例として、たとえば、「転勤して他校にうつる英語教員のALT(アシスタント・ラーニング・ティーチャー)の先生に、クラスから贈り物をすべきか?」という議論のさいに、「そもそも、日本のAETの制度の始まりは、〜〜〜〜(以下略)」とかの歴史などの話題が出てきたら、たとえその歴史の内容が正しくても、議論の進行をさまたげるので中断してもらうのが普通です。\nもし、ほかの人が歴史とかの話題を持ち出してきて、それに反論するために「そもそも」とかの意見をいうのなら構いません。しかし、いきなり、「そもそも」とか言い出すのは、まず、議論のさまたげになります。けっして「そもそも、〜〜」とか自分から言い出さないように、つつしみましょう。\nこの単元では、特に採決(さいけつ)をしない、「議論」について扱う。\nさて、議論をするにも会議をするにも、時間にかぎりがある。なので、なるべく実現可能性の高い話題について、話し合うべきである。\nまた、建設的な話し合いをするために、客観的に検証できような話題を議題に選ぶのが良い。\nたとえどんなに高尚(こうしょう)な話題でも、客観的に検証できない話題は、議論では、あまり好ましくない。なぜなら、第三者の役に立たないからである。\nたとえば、「夏目漱石と、森鴎外(もり おうがい)の、どちらが、すぐれた文豪(ぶんごう)か?」というのは、話題は文学的に高尚でありそうだが、しかし、検証方法が無い。\nどうしても、このような話題を話し合いたい場合、検証可能な話題に置き換える必要がある。\nたとえば、出版社での今後の出版方針のために夏目と森を比較する議論なら、「夏目漱石の著作と、森鴎外の著作、どちらが今までの販売数が多いか?」などの、客観的な指標に置き換える必要がある。\n学習塾での塾講師どうしの議論なら、「夏目漱石の著作と、森鴎外の著作、どちらを読むように進めるのが、塾生の全国模試での成績を上げるか?」など、客観的な指標に置き換える必要がある。\n議論のさいに意見を求められることもある。また、「これから◯◯の賛否についての議論をしよう」という提案も、意見である。\nさて、どちらの場合にせよ、まず実現可能性の高そうなアイデアをみちびけそうな意見を出すべきであう。(※ 旺文社の参考書では、そう主張している。)\nたとえば、「世界から病気を無くすべきだ」という主張や、「死を無くそう」とかの主張は、もはや、なにも建設的な提案をしてないのと同じである。\nたとえ、一見すると高尚な字面をならべていても、実現可能性の極端に低い主張や、実現可能性を無視した主張は、議論などでは好ましくないか、そもそも「議論に値しない」として無視されかねない。\nとにかく、前提として、実現可能性の高いことを、話題にすべきである。\nたとえば、「(私達は)割り箸をつかわないようにしよう」という提案があったとしましょう。(※ 教育出版の検定教科書にある例)\nさて、意見を提案する場合、冒頭に、あなたが「◯◯させたい」と思っている提案の内容を先に書くべきです。そのあとに、根拠を書くべきです。\nつまり、たとえば\nのようになります。\nそもそも、意見以外の感想は、「意見」ではない事です。\n「割り箸を使わない人が好きです。」とか、そういうのは、個人の感覚にもとづくので意見ではないのです。\nまた、もし「割り箸を使わない人が好きです。」という主観を意見であるとすると、これはつまり、「私の主観を、あなたは尊重すべきだ」という命令であり、とても傲慢です。\n世の中には、ご都合主義の自分勝手な人で、自分の意見を主張するときは「世間はもっと議論すべきだ」「世間はもっとディネートすべきだ」と言い、なのに、自分の嫌いな意見を他人に言われた時は「あなたの意見を聞いたせいで、気分が悪くなった」とか「めまいが酷くなる」とか言い出す、頭おかしい人または詐欺師(さぎし)・ペテン師がいます。人によっては、「医師もそう言っている」とか言い出します。はたして、その医者が実在するかどうか知りませんが。医師がどうこう言いますが診断書を見せなかったりします。\n対する世間の人は仕事で忙しく、慰謝料とか請求されたら面倒なので、そこで世間の人は意見を言い続けるのをやめます。しかし、頭おかしい人は、それで論破、論証などの議論をしたつもりになります。\n自分の嫌いな主張や意見に対して「気分が悪くなる」とか「めまいが酷くなる」とか生理的反応を言い出して、病気を言い訳に意見の中止をさせて、それで議論で論破したつもりになる頭のヘンな人がいます。もしかしたらそういう反対意見を聞くと気分が悪くなる病気があるのかもしれませんが、しかしそういう人があたかも論理的なフリをされては世間に迷惑です(肉体労働の現場に、五体不満足の人が来られても迷惑なのと同様)。\nなお、この手の人物の行動パターンとして、自分の意見を肩書で権威づけるために大卒のフリをしたりもしますが、実は短大卒だったり、難関の私大の系列のそれほど難関でない専門学校卒だったりするようなこともあります。\n\n競技ディベートを開催したいなら、議題としては、意見が「賛成」または「反対」の2種類だけに分かれる議題を選びましょう。\nたとえば、\nという議題は、学校内での競技ディベートの議題としても、かまいません。(※ 学校図書や光村図書などで、図書室マンガ案のディベートがある。)\nしかし、\nという模索は、競技ディベートとしては不適切です。\nなぜなら、賛成または反対の2つの意見に分かれないからです。\nべつに、こういった模索を考えること自体が悪いのでなく、競技ディベートのルールとはズレている、という事です。\nなお、学校などで意見の出し方の練習として競技ディベートをする場合、賛成派と反対派のグループ分けは、くじ引き や コイン投げ などで機械的に決めます。(※ 学校図書の中2国語の検定教科書の見解。) このため、競技ディベート中の立場が自身の本音とは違う場合もあるかもしれませんが、そういうのを体験することも勉強のひとつです。\nこの節で話すのは、競技ディベートではなく、ディスカッションの仕方の説明です。\nディスカッションでの議論の議題として、「○○すべきである。」といった意見を出すときは、そう思った具体的な理由を出しましょう。\nたとえば、ディスカッションにふさわしくない提案のしかたとして「わが中学の図書室にマンガをもっと置くべきだ。」という提案だけで、なぜそう思ったのか理由のない提案のしかたがあります。\nこの提案だけで理由が無い提案は、競技ディベートの場合の最初の議題の出し方です。ディスカッションの提案の仕方ではないのです。\nなので、競技を目的としない議論としては、あまり良くない提案のしかたです。(※ いくつかの検定教科書が、競技ディベートの方法だけを「意見」として説明している。)\n議論では、最初の理由の説明によって、しばらくはそれに合った話を皆でするので、よって最初の理由説明で議論の内容が大きく変わるのです。なので、議論の開催のさいには、あらかじめ、提案の根拠を述べるべきです。\nたとえば、提案のときに、\nという理由なのか、あるいは、\nという理由では、\nその後の議論の内容が、大きく変わってきます。\nもし図書室を利用する生徒を増やしたいという理由なら、「そもそも、なぜ利用する生徒を増やす必要があるのか? 利用者が少なくても良いのでは? 少ないと困ると考えている理由を話すべきだ」という反論などのように次の議論につながります。\nいっぽう、「マンガは今や日本が世界に誇る文化なので、」なら、「だったら、ゲームもマンガ同様に、日本が誇る子供文化だが、それも置くべきと考えているのか?」などの反論・議論につながります。\nこのように、提案者や、議論の開始時点の理由で、その後の議論の方向は、大きく変わります。\nなので、マジメな議論をする場合、提案に理由をつけくわえましょう。\n理由のない提案の場合、そもそも議論に、マジメな人が集まらないのが普通です。\nディスカッションは、べつに勝ち負けを争う(あらそう)ものではないので、\nのような、模索をする議題でも可能です。\nパソコンでプレゼンテーション用のソフトがあるので、それによって映像を編集できる。\nまた、プロジェクターがやや高価だが、電気量販店などで市販されている。すでに学校で購入ずみだろうから、それを使えばいい。\nプレゼンテーションは、時間が数分と限られている場合が多いので、短時間で説明できるように、映像にする図やグラフなどをあらかじめ、まとめておく必要があります。\nまた、その図やグラフを作成するための資料集めなどにも、時間が掛かります。なので、仕事でプレゼンテーションにする場合、スケジュールを遅らさないように気を付けましょう。\nまた、プレゼンテーションにかぎらず演説などでも、外部の人の前で発表する場合は、事前に内部の人どうしでリハーサルをしましょう。\n中学校で習う「意見文」というのも、読者が、上述のような議論などのさいの参考になるように、書き手が自分の意見を書いた文章のことです。\nとはいえ、一人で書くわけですので、限界はあります。\nまず、書き手は、よくありそうな反対意見を想定して、自身の意見を書くべきです。\nこのように、反論を想定して書くことで、自分の意見が明確になります。(※ 光村図書の中2国語の見解)\nまた、ある程度の反論に対して、理由のある再反論をすることで、自分の意見の説得力を高めることもできます。(※ 東京書籍の中2国語の見解)\nそして、自分の主張の根拠などを述べます。\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E8%AD%B0%E8%AB%96%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%A6%8B%E3%82%84%E6%8F%90%E6%A1%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%9F"} {"text": "実社会での報告書や説明文などでは、なるべく読み手に掛かる読解作業の手間を、減らす工夫をしなければなりません。\nそのため、次の節で述べるような、以下の工夫が必要です。\n※ 注意\n報告書、レポートとは、何かを調査して、調べて分かった結果を、書類にまとめたものである。\n書類にまとめる理由は、あとから見返せるようにするためです。\nまた、報告書を読む人は、アナタ以外の他人です。(あなた自身が読むために書き残す場合は、「メモ」「ノート」などと言います。)\n学生レベルの報告書なら、もし、あなたと同じ学年の平均レベルの学力の他人が読んでも、理解できるように、書かなければなりません。\nさらにまた注意事項として、書類を渡した相手(担任など)以外の第三者(学校なら先輩や後輩の生徒や担任以外の教師など、はたまた場合によっては学外の関係者など)が読む場合もありうるので、なるべく一般人が読んで分かるように書きましょう。特定の相手でないと通じないような書き方は、あまり好ましくないです。\nそのため、報告書は書き方は、誰が書いても似たような書き方になってきます。作家性や独自性などは不要です。\nあるビジネス報告書の書き方についての書籍でも、「ビジネス文書では複雑な文章、かっこいい文章、難しい語彙を使った文章を書こうとしない」のがコツだとあります[1]。\n「レポート」の意味について、英語としては不正確な用法だが、「レポート」と「報告書」とでは、慣習的に意味が違っている。「レポート」とは、報告に加えて、さらに分析などの入った書類のことであるという用法が、日本では慣例である[2][3]。\n単に起きただけのことを報告するだけの文章は、たしかに報告ではありますが、レベルが低いです[4]。\n「試合に負けた。」とか「テストで80点をとった。」とか、そういうのは報告です。\nもちろん場合によっては、そういった「なるべく早い」報告が必要な場合もありますし、仕事でも起きたことを口頭またはメールなどの文面ですぐに行うこともあります。しかしそれは「報告書」とは言わず、単なる「報告」です。(「なるべく早く」を略して、俗(ぞく)に「なるはや」などと言います。たとえば会社で上司からの命令で、「なるはやで〇〇の件、報告、よろしく」みたいに命令される場合もあります。)\n一言も「レベルが低い報告書」が悪いとは言っていません。ただ、レベルが低いものであることは知っておいてください。\n「報告書」と言った場合、最低限、起きたことや気づいたことなどの全体像を短時間で読みやすく把握しやすくするために、たとえば、可能なら表やグラフなどを追加したり、あるいは箇条書きなどで冒頭に要点をまとめたりして、文章も使って、まとめたりしたものです。\n統計レポートの場合なら、ひとまず情報の欠落なくまとめた上でなら、追加でさらに分析しやするために情報の欠落があっても追加の別グラフや別表などでまとめ方をするぶんには、構わないと思います。\n一般に、表がなければグラフも無い文章だけのレポートより、表やグラフを追加したレポートのほうが、レベルの高いレポートです。ただし、作成に時間が掛かります。\nさらに、分析を行って記述したり、分析のための追加調査とより深い分析を行ったりすると、もっとレベルの高いレポートになりますが、しかし分析のための調査や作成に時間が掛かってしまうというコストがあります。\nあるいは、仕事の種類によっては提案などを行ったりすると、レベルの高いレポートになるかもしれません。\nただし、状況によっては、スピード重視のため、あえてレベルの低めのレポートにして提出したほうが良い場合もあるでしょう。グラフや表を追加したレベルのレポートで留める場合もあります。\n社外の業界イベントの訪問の出張報告書とかなら、グラフや表は適さないので、そういう場合はグラフや表は不要です。\nこのように、報告書は、ジャンルによって、必要な書き方が変わります。\nほか、職場によっては、レポートの種類によっては、あらかじめ書式が決められている場合もあります。\nたとえば、社外の業界イベントの訪問の報告書などなら、5W1H(いつ When ・どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どのように(How))などは、あらかじめ書式で、\nみたいに箇条書きなどで書式(よく「テンプレート」と言います)が決められているかもしれません。また、もし書式で上記のような事が決められていなくても、一般にこのように冒頭などに箇条書きすることが望ましいです。\n細かいテンプレートは、それぞれの会社ごとに違うので、このページでは説明しません。\nただし、出張報告書の場合でも、出張で得られた知見などを分析的に報告することが求められています。\nもし、提出までの時間に余裕があるなら、必ずしも出張中に気づいたことだけを書く必要は無く、出張で得られた知見をもとに関連性と有用性の高そうな話題を追加調査して得られた情報とその知見を書いても構わないと思います。そのほうがレベルが高いレポートと見なされるでしょう。\nただし、追加調査すると時間が掛かるので、もし「なるべく早く」が要求されている場合なら、出張中に気づいた情報だけで提出するほうが良いかもしれません。\n上記のように、テンプレートを定めておくことで、あらかじめレポートに必要なレベルを事前に設定している会社もあります。\nさて、たとえば、いったんレベル低めのレポートを提出した上で、上司が把握したら、その上でレベルの上がった分析レポートを提出する、みたいな二段階のレポート提出の可能性もあるかもしれません。\nただし、会社ではなく学校(小中高および大学)では、こういった2段階のレポート提出の話は、あまり聞きません。先生が忙しく、そこまでの時間がありません。\n学校だと、学生の分析力をトレーニングするための目的で、分析のあるレポートまで要求することも、高校や大学のレポートではあるかと思います。(特に大学の2~3年生では論文に向けてのトレーニングとして、簡易な分析が要求されることもある)。\n企業のレポートにはある程度のスピードが要求されるので、決して最初からミスなしの完璧は目指さずに、とりあえず一通りの完成をしたら提出して、上司の修正の指示を受けて、レポートを修正していきます。\nまず、報告書の題名には、たとえば『○○について 報告』または『○○の調査結果』などのように、その書類の種類が報告書であることが分かるように題名をつける必要があります。\n単に『○○について』という題名だと、後日、その書類が感想文なのか報告書なのか何だったかのか、第三者がひとめ見たときに、分からなくなってしまいます。報告書を管理する人のことを思いやりましょう。\nまた、企業などでは、報告書を要求する上司は、報告書以外にも他の多くの書類を管理していることが多く、それら他書類との混同をふせぐため、題名で報告書であることを明記する必要があります。\nまた、報告対象について(『○○について 報告』の「○○」の部分)の明記も、忘れないようにしましょう。\n会社では通常、多くの事例についての報告書が管理されています。なので、報告対象について題名で説明がないと、分からなくなってしまいます。\nなお、書き手に余裕があれば、報告書の題名は、下記のように、より具体的にしましょう。たとえば、もし報告書の目的が、もし提案ならタイトルは「○○について 提案書」のようにするのが合理的です。\nあるいは提案ではなく、調査報告が目的の報告書なら「○○について 調査結果報告」などのように、具体的に目的が分かるようにするのが良いでしょう。[5]。\n資料集めなど調べることに夢中になって、教師が注意しないと、なかなか書き始めない生徒がときどきいるとのことです。特にネットがある現代、気を付けないと無制限に時間を調査でつぶしてしまうことになりがちです。\nなので、さっさと書き始めるのがコツです。調査レポートだけでなく、大学や一部高校の卒業論文とかでも同様です[6]。\nとりあえず書き始めて、トライ&エラー(試行錯誤)を何回も繰り返して[7]、たとえば出典を追加したりとか、論理構成を組み替えなおしたりとか、当初の「問い」を何度も直したりして、だんだんと文章の質を上げていくのが、調査レポートや論文の書き方です[8]。\n具体的に書き始めるためには、本を読んでいるときなどに、さっさと\nのが有効です[9]。\n生徒はまず、情報収集は、メモ程度で終わらせます。パソコンがあるなら、単語や箇条書きなどの雑なメモでもいいので、さっさと実際にテキストファイルにメモします[10]。文献でもネットでも、何かレポートに使えそうな情報を見つけたら、忘れないうちに、さっさと早めに単語・箇条書きなどでテキストファイルなどにその情報をメモします[11]。\n早めにメモしないと忘れてしまい、読み直し・検索しなおしなど時間が余計に掛かるので、なるべく早めにメモしておくと安全です。\nメモの段階では文章を整えず、文章を整えるのは、実際にレポートを書く段階で十分です。\nそして、レポートに必要な量の最低限の情報収集をしたら、とりあえず、なるべく早めに、情報・資料がやや不揃い(ふぞろい)でも、さっさと書き始めると良いでしょう。\nなぜなら、書かずに「たぶんこの情報が必要になるだろう」と思って情報収集するよりも、実際に書き始めてみてから実際に必要になった情報を集めるほうが的確に情報を集められるからです。\n卒業論文を1年間の年度で書く場合、最初の1か月目あたりで最初の実験やデータ取りをしたら、とりあえず文体は後回しで良いので、なんか論文っぽい作文をパソコンで書く。\nソフトウェアは、普通のワープロソフトで良い。たとえば、Microsoft Word など。どの学校にもあるだろう。\nいきなり文献を読むと、メモの単語の量が多くなりすぎる恐れがある。なので、実験をしたら先に、論文っぽい文章を書き、あとから文献を読んで単語を拾うメモをするのが良いかもしれない。\n読者が知りたいのは、文献の内容よりも、実験の成果のほうである。なので、実験をしたら、先に、論文の下書きを書こう。\nもちろん最終的な完成版とは大違いのデキになるが、しかしともかく論文の下書きを書き始める。\nそして、文献を1~2冊読んで、下書きをアップデートする。これは最初の1か月くらいで可能であろう。(スケジュールにも寄る。)\n決して、いつまでも下調べをし過ぎないように気を付けて、最低限の実験などを1回して参考文献を1~2冊読んだら(計算などで読みこなすのに年単位で時間が掛かる書籍の場合なら、結果の文章だけ読むのでも良い。つまり、参考文献を読むのに時間をかけ過ぎないように。参考文献はとりあえず数日で読むように)、卒業論文を書き始めるのがコツである。\n最終版に向けて文体やレイアウトなどを整えるのは、できれば提出の締め切り(年明けの1~2月中旬とか)の1~2月か月前(つまり最終学年の12月~年明け1月)くらいに、いったん終わっていれば好都合である。\n授業や部活(9月までとか)や就職活動や受験勉強(大学生でも大学院に進学する人もいる)や教育実習(大学で教員免許を取る場合)などがあるので、そんなに卒業論文ばかりに時間は掛けられない。そのため、参考文献を読むのにも時間を掛けられない。なので、あまり参考文献を読み込み過ぎないように注意する。\n極論、ネットのある現代、あとから良い参考文献を入手した場合、自分のブログなどで追加版などを発表すれば済む。\n文献はあまり増やし過ぎず、せいぜい部活終わりの9月くらいまでに読める量で良い。それ以降は、実験や論文執筆などを優先すること。\n締め切りは、だいたい、卒業年度の年明けの1月。2月に卒論の学内での正式な口頭発表。3月は卒業式。\n・・・となるだろう。\n逆算して、12月までに、ほぼ完成形の草稿(そうこう)が書き終わってないとマズイ。\n論文のデキが悪くてもいいので、締め切りを守ることを優先する。\nなぜなら、「当初のアイデアと当学校の設備で出来る実験では、あまり大した成果を出せなかった」というのも、立派な成果の一つである。この成果により、後輩や次世代の若者などが「別のアイデアを試してみよう」などと先に進んでいけるからである。外付けハードディスクでもUSBメモリでも構わないが、とにかく実験データや卒論ファイルなどのバックアップ用に保存メディアを2個以上は買え。\n「卒論のデータの入ったUSBを無くした」「データを間違えて消した」「USBメモリが壊れた」などのミスをする学生が時々いるので、実験データなどは最低でも3か所以上に保管せよ。1か所にしか保存しないのは、リスク分散できてない、単なる馬鹿である。\nさて、プレゼンテーション用のスライド作成(パワーポイントなど)は、年明けの1月あたりの後回しで良い。\n12月版の草稿にそなえて、10月までに、いったん完成形に近い書式で、とりあえず草稿(10月版)を書きあげる。この10月版草稿を、12月までに何回かアップデートしていく。\n最終学年の夏休みあたりに、中間発表をするのも良いだろう。研究室内でそういう中間発表をする大学・学部も多い。\nなお、学校側からも、7月あたりまでに、学生は卒業論文の仮題目(要するに論文の題名・テーマ)を申請・提出させられる。\n自分の論文の新規性は、既存の研究とはどう違うのかを説明するために、参考文献を使うのが本来の使い方。\nただし、論文の分野に不慣れな読者のために、新規性の説明以外にもジャンルの概要的な内容説明をするのも多少はあっても良いだろう(限度はあるが)。\nなお、同じ学年の生徒に理解できるように書こうと思っても、無理である。なぜなら、自分が1年間かけて書く論文を、同学年の生徒は別のテーマで忙しいので理解できない。\n自分と同じテーマに興味ある後輩が、実験などを追試できるように(そして検証できるように)論文を書けばいい。ここでいう「追試」とは、実験などを第三者が検証のために行うこと。(決して赤点の人の、再テストではない)\nいたずらに高度な数式や抽象概念などを使わなくてもいいので、まずは追試をできるように論文を書くのを目指そう。\nあるいは、もし理論研究などで実験の存在しない場合なら、式変形などのプロセスなど、ともかく思考のプロセスを論文で文章化して明示することで、後輩がアイデアの追体験をできるようにしよう。\n\n報告書じたいの著者名として、自分の名前を、題名のあとの冒頭、または書類の末尾など、見つけやすい場所に入れる必要があります。\nなぜなら、企業など実社会での報告書は、けっして1回書いて提出すれば終わりではなく、通常、書き直しを何度かする必要があるからです。\n通常、報告書を渡された相手である上司が報告書の内容をチェックして、内容に不足や誤字や明確な間違いなどがないことを確かめ、もし不足などがあれば著者が追記や書き直しなどを求められることがあります。\n上司は、あなた以外の人の書く書類も管理するので、なので書類には著者名が必要です。\nなお、企業の報告書や大学でのレポート・論文では、表紙だけで1ページを使用します[13]。企業などでの本格的なレポート・論文・報告書などの表紙には、そのレポート的な書類の管理のために必要な題名・著者名のほかに印刷による記載のほかに、印字などで管理部署などのハンコが押されたりして保管されたりするので、なので、表紙だけで1枚、必要です。\nなので、本格レポートでは、本文の書き出しは(表紙から、ではなく)2枚目以降になります。(実際には、さらに目次などが加わるので、本文書き出しは3枚目以降になる可能性もある)\nしかし中学・高校では、ここまでしなくても(表紙だけで1枚にしなくても)良いでしょう。\n報告書には、正確さが必要です」[14]。\nこのため、下記のように、報告書を書く際に、けっして、やってはいけない事があります。\nレポートを書く際に、「やってはいけない」「やる必要はない」書き方の一覧は以下の通り。\n上記の行為は、報告書ではしてはいけません。\nその他、「してはいけない」というほどの禁止事項ではないが、不要なこととしては、\nがあります。\nなお、報告書・レポートの文体には、次の点に気をつけてください。\n報告書やレポートは簡潔であることがもとめられます。そのため、字数が無駄に増えやすい敬体は使わず、常体で文章を書いていくのが基本です。\nまた、報告書などに限りませんが、書き言葉を使うのが鉄則です。文章は普段使うような言葉で書きがちですが、書くものは書き言葉でなければなりません。以下に、まちがえがちな話し言葉と書き言葉の一例をあげていきます。\nもちろん、会話を引用した場合には話し言葉でもかまいません。ただし、「」をつけて会話であることを示してください。\nまた、敬体を使わないこととも関連しますが、尊敬語や謙譲語も、基本的には、組織内部(社内や学内)での報告書では不要です。\nたとえば誰かが何かを言ったことを報告する場合、単に「〇〇が言うには、」のように書けば、一般の企業の報告書では充分でしょう。\nもし、いちいち「おっしゃった」とか「申した」とか報告書で書くと、読み手にとっても面倒です。\nたとえ敬体を社内のメール連絡などで使う場合でも、せいぜい「〇〇さんが言うには、〜〜 と言ってます。」のように丁寧語で書けば普通の企業では充分でしょう。\nただし、外部とのやりとりをする文書などでは、必要に応じて、敬語などを用いたアイサツ文などの書類を添える必要があるでしょう。\n報告書を読む人物は、あなた以外の他人です。だから報告書では、勤務先・在籍先などの会社・組織で一番その分野に詳しくない人でも知っている情報を前提にして、報告書を書いてください[15]。なので、場合によっては、世間の大人が知らないだろう専門知識や専門用語の使用が報告書で必要な場合には、報告書の内部で、その専門知識などの内容を1行〜2行程度で簡潔に紹介するなどの必要のある場合もあります。\n当然です。物語文を書くのならともかく、報告書では嘘をついてはいけません。\n起承転結とは、漢文での漢詩の絶句の書き方から生まれた文章の流れです[16]。起承転結は、報告書の書き方ではありません。\n報告書を書く時は、とくに こだわり のないかぎり、結論から書くべきです。\n参考までに、報告書の例ではないですが、商業高校の教科書『ビジネス基礎』には、章『話し方と聞き方』とで「結論から先に話す。」「わかりやすい言葉を使う。」「聞き取りやすい声の大きさと速さで、相手の反応を確かめながら話す。」とあります[17]。このように、ビジネスでは結論から話されるのを好みますので、とくに書式が指定されていないかぎりは、なるべく早めに結論や全体像などを相手に伝えるように心がけたほうが良い場合が多いと思われます。\n商業高校の教科書『ビジネス・コミュニケーション』によると、ビジネス文書の場合では、「起承転結」の構成ではなく「結起承」(けっきしょう)の構成で書くことが望まれている場合も多い[18]と言われている。\nさて、報告書の話題に戻ります。\n一般に、ビジネス系の文書では、書式が特に規定されてないかぎりは、最初に結論・要約を書くのが、ビジネス系の報告書では普通[19]。\nつまり、書式の指示が無い限り\nのような順序で、書くのが良いでしょう。\n起承転結で書いてしまうとよくない最大の理由は、「転」の部分です[20][21]。冒頭の「起」で読者が予想したことが、「転」でどんでん返しで外れてしまうと、読者が読み返す必要が生じてしまいますし、読解にも時間が掛かります。\n原稿用紙が何枚もある報告書を読みなおしたり読解したりする作業は、読者にとって、かなり労力が必要です。\nなお、歌舞伎の用語で「序・破・急」(じょはきゅう)という用語がありますが、この「序・破・急」も起承転結と同様、報告書・レポート・論文などの書き方としては不適切です[22]。\nそもそも書類の目的として、報告書の目的は、何かを調査するためだし、レポートや論文の目的は、なにかの課題・疑問の問いを見つけることです。\nいっぽう、起承転結や序破急は、起承転結の目的は漢詩の比喩の効果を高めるためのものだし、序破急の目的は日本舞踊を美しくみせるためのものなので、レポートなどとは目的がズレています[23]。\nどうしても論文・レポート・報告書などを文学などのジャンルに例えたいなら、小説や漢詩ではなく、さしずめ推理小説のようなものだろう[24]と言われており、まるで探偵が証拠にもとづき犯人を絞り込んでいくように、レポートなどでも調査結果の事実にもとづいて分析などを確固たるものにしていく必要があります。\nさて、結論が書類の冒頭と最後の両方に書かれるようなスタイル(結論→理由→結論)の文章構成を「双括式」(そうかつしき)と言います。\n「序論→本論→結論 」または「経緯→結論」のように、最後にだけ結論が来るスタイルは「尾括式」(びかつしき)と言います。\n「結論→理由」の順序のように、最初に結論が来るスタイルは「頭括式」(とうかつしき)と言います。\n文章による報告書の場合、双括式で書けば、読み手にとって読みやすくなる場合が多いので、読者は、とくにこだわりのないかぎり双括式で書きましょう。\nなぜ双括式だと読み手がラクになりやすいかというと、もし読み手が2回目の結論のある場所を読んだ時、その2回目の結論の直前の文が、理由の説明の終わりだと分かるので、読み手にとって理由の文の位置を特定するのがラクになり、そのため読み手が理由を分析するのもラクになります[25]。\nいっぽう頭括式だと、細かい分析が必要な報告書の場合には、理由を読み終えたあとに、いくつか前の文にもどって結論を確認する手間が生じるので、不便です。\nあるいは尾括式だと、理由を読むときが暗中模索の状態になりやすく、報告書では、かなり面倒になりやすいのです。\nなので、報告書では、双括式がいちばん便利なのです。\n学生にとっては双括式という用語の暗記よりも、このスタイルを使いこなせるようになることのほうが重要です。\n特に、1本の報告書のなかに、いくつかの小報告がある場合に、双括式が便利でしょう。なぜなら、1本の報告書の中のそれぞれの小報告をそれぞれ双括式で書くことにより、それぞれの小報告の範囲や境界が、読み手にとって明確になりますので、おすすめです。\nただし、調査対象が複雑だったり、相手の予備知識が不足している場合などは、結論より先に、必要に応じて予備知識などを手短かに冒頭の段落などで説明することもあります。[26]\nただし、予備知識を書く場合は、なるべく短くするべきです。なぜなら、予備知識は、知りたいことの本質ではないからです。報告書を読む上司などが知りたいのは、問題点や、その問題の事実です。予備知識は、問題の起きてない部分なので、本質ではありません[27]。\nですが、たとえ背景を先に書く場合でも、けっして、わざわざ起承転結のストーリーを長々と書いて誤解を招く必要は無いでしょう。\nまた、明確な結論が無い場合でも、概要を先に書くのが望ましい[28]。\n文学ではありませんので、なるべく管理しやすいように、あるいは今後の編集をしやすいように、形式的に書くべきです[29]。\nそのため、章番号や項目番号などのナンバリングも必要なら報告書に付けます[30]。\n報告書やレポートでは原則的に、レトリックなどの文学的表現は不要です[31]。\n修辞法(レトリックともいいます)については文法で解説しているので、そちらを見てください。ここでは、どうして修辞法を使わないのかを説明します。\n修辞法は文章の中で、表現に余韻を持たせたり、読者に考えさせたりするために使われます。しかし、報告文はなるべく正確に物事を読者に伝えることが目的の文章です[32]。文章の余韻や自分の感動、豊かな情景描写は報告する上で必要ではありません。あくまで、客観的な事実を簡潔かつ正確に伝えることが報告文の目的なのですから、読者に「この表現のセンスはいいね」「言葉の使い方が上手い」から言われることを目的としてはいけません。また、文法のページにもあるように、修辞法を使う文はイヤミでキザなイメージを与える可能性もあります。\nまた、読者に考えさせることで、解釈が分かれるような文章にするのも報告文の趣旨から外れます。事実を正確に伝えるという役割を果たさなくなるからです。\nただし、様子を伝えるのに「~のようだ(ような)」は使ってもいいでしょう。たとえば、「ネコのような大きさの動物」といった表現は、その動物の様子を正確に伝えるという役割を果たしています。この場合でも、あまり知られていないようなたとえを使ったり、独特のたとえは要りません。あくまで、誰でもイメージできる・分かるものでなければなりません。つまり、比喩を使う場合は、直喩(ちょくゆ)でたとえる必要があります。\n隠喩(いんゆ)は、読み手に読解の負担を与えるので、避けてください。隠喩とは、たとえば、ネコのような大きさのネコ以外の動物(たとえばウサギなど)に対して、「ウサギはネコだ。」とかいうように、「ような」「ようだ」を省略する表現です。\n「これから私は○○しようと思いました」などと今後の抱負やら予定が、文末などに書かれる場合がありますが、出題者から抱負の記述を要求されてないかぎり抱負は不要です。\n中学校・高校によっては、教育的な理由から(「生徒に自分の意見を書く練習をさせたい」など)、報告書で今後の抱負を書かせる場合もありますが、本来は報告書では、抱負の記述は不要です。なぜなら抱負は、事実でもなければ、分析でもないからです。\nそれでも、どうしても抱負のような今後の目標を報告書に書く場合、段落を分けたほうが良いでしょう。つまり、抱負のための段落を、新たに用意します。報告書を受け取った人物が、第三者に報告書の内容を紹介する際、抱負が不要な場合には、抱負の段落を省いて紹介する事ができます。逆に第三者に抱負の内容を紹介したい場合でも、抱負の内容だけを抜粋する事もできます。\n大学生の実験レポートなどでも、「今後の目標」は、行った実験データ部分の段落とは、段落が別々に分けられるのが通常でしょう。\nまだ調べてないことについて、1日で調べられるような事なのに「もっと調べたいと思いました」程度の抱負・予定なら、書く必要はありません。むしろ、その程度の予定なら、書かないほうがマシかもしれません。\nそれとも、もし未調査のことがあって、それを調べるには数カ月や数年も掛かりそうなら、「○○を調べたいと思いました」と言うよりも、はっきりと「○○は未調査であり、今後の研究には、さらなる年月が調査に必要だろう」などと書くべきです。\nたいていの場合、文献などでの調査中に、あなたの知らなかった新事実が判明するので、調査項目について全てを調べきるのは不可能ですし、調べきる必要もありません。\nしたがって、報告書では、例外として学校側から「○○について、文献△△で、すべてを調べろ」などと指定してないかぎり、項目すべてを調べきる必要がありません。提出期限までに調べられることを調べて、調べ終わらないことについては、未調査として扱えばいいだけです。\nあまりにも未調査の項目が多すぎると、書き直しを命じられますが、中学生として、きちんと文献を調べているなら問題はありません。\nだいたい、「○○を調べたい」と言われても、読者からすれば、「そんなに○○を調べたいなら、どうぞご自由に、実行すればいいんじゃないですかね?」って思うだけです。\n中学生・高校生が1日か2日で調べられることに、世間一般の大人は、興味がありません。\n大学の卒業研究みたいに数カ月も掛かったり、あるいは調査費用が高かったりするならばともかく、1日程度の調査で終わるだろう予定を紹介されても、大人の読者は「あ、そう。じゃあ、調べれば?」と思うだけです。\n報告書で聞かれているのは、調査対象についての調査したデータとか、そのデータの分析です。あなたの今後の予定は聞いてないのです。\n世間一般の大人は、あなたに興味は無いのです。\nよほど面白いアイデアが思いついて、そのアイデアをアピールしたいならともかく、そうでないなら、今後の抱負は不要です。\n報告書では、出題者から感想を指定されてない限り、感想を書く必要はありません。\nそれでも、もし、報告書で感想を書く必要のある場合は、手短かに要点を書きましょう。\n感想も原則的に不要です。\nなぜなら報告書の本質は、報告されたデータとか、そのデータに対する分析や調査結果です。あなたの感想には興味ないのです。\n報告書の本質でない「感想」を、長々と説明されても、読者は困ります。\nもし報告書で感想を書くにしても、なるべく、分析にも役立ちそうな感想を優先的に書くべきです。たとえば分析中に気になった事や、調査中に気になった事などがあれば、その気になった点とやらを書くのが良いでしょう。\n気になった点を書くことは「感想」というよりも、今後の調査についての「意見」などに近いかもしれませんが、あまり細かいことは気にする必要はありません。\n大人が書くレポートでも、最後に「感想」を書く場合は、実質的には、今後の調査についての「意見」を書いている場合が多いでしょう。\n企業で必要な「感想」(自称)の具体例を挙げます\nこういうのが、企業の報告書とかでの「感想」です。\nつまり、予想外の現象に遭遇したり、設備不足・人員不足などの理由で、きちんと検証しきれていない現象があるので、あくまで推測にすぎず「思われる」とか「見える」とかで語尾を濁さざるを得ないが、しかし、報告の必要がありそうな重要そうな現象を発見したかもしれないときに、「感想」とかの項目を追加して、マトメて報告するテクニックを使う場合もあります。\nはたして、企業のこういう想定外マトメの報告を「感想」と言うのが国語的に正当なのかという疑問はありますが、しかし、企業では、これが報告書の「感想」の実情です。文句を言うなら、経団連とかに文句を言ってください。\n残念ながら、大学とかでレポートの書き方を教えている大学教授とかは、こういう実情を知らないので、あいかわらず読書感想文の感想みたいな感想をレポートなどで要求しますが、しかし企業の「感想」は意味が違います。\nなお、たとえ想定外の特記事項の無い場合であっても、もし「感想」欄があるなら、下記のように、特記事項の無いことと、その根拠となる観察結果の印象などを書くと、読み手が検証しやすいので、便利です。\nこう書くと、特記事項の無いと判断した根拠も読み手が分かるので、読み手はいちいち書き手の意図を確認する手間が減ります。\n「感想」というより、「特記事項」や「追記事項」とでも言うべき項目のような気もしますが、しかし日本企業には、こういう言葉の使い方をしている企業もあるので、まあ必要に応じて、使い分けてください。\nなお、「所感」または「所見」という場合もあります」[33]。「考察」と言う場合もあります[34]。\nまた、企業によって、特記事項的なことを「感想」という場合もあり、いっぽうで、読書感想文みたいな感想のほうは「所感」という企業もあれば、その逆の企業もあります、\nつまり、特記事項的なことを「所感」といい、読書感想文的な感想のほうを「感想」という企業もあります。\n企業によって用語の使い方がバラバラなので、読者は将来、就職先の用語に合わせてください。\nそれでも、どうしても報告書に、読書感想文みたいな感想を書くのだとしたら、\n抱負と感想に要求される内容が似ているため、もし感想を書くなら、抱負とまとめても良いかもしれません。\nしかし、単に「報告書を書いて、勉強になった」「ためになった」「もっと勉強しようと思いました」などの感想なら、わざわざ書くほどの必要がありません。\n小学校・中学校での、人生で初めてかもしれない報告書の体験なら、感想を書くことにも教育的な意義があるかもしれません。しかし、大人の社会の報告書では、単純な「勉強になった」などの感想は不要です。\nなお、さきほど(今後の調査についての)「意見」と言いましたが、日常語でいう「意見」とは意味が違い、報告書や論説文でいう「意見」とは根拠のある提案などのことです。もしくは、根拠をもとに、なにかを証明することです。どちらにせよ、根拠をともないます。\nけっして、なんの根拠もない「〇〇すべきである。」(あるいは「〇〇するのが合理的だろう。」など)というだけの単独の文は、報告書でいう「意見」ではないのです。\n「意見」とは、それにさらに論拠を加えたものです。\nつまり\nのような文章構成のことが、報告書でいう「意見」のことです。\nこのように、意見を提案する場合には、先に意見を書き、直後に理由を書くのがマナーです。[35]。なぜならビジネス文書では、先に結論を書くのがマナーだからです。\nあるいは他の文例構成としては、報告書によっては提案の直前の文で論拠を説明している場合もよくあるので、\nのように書かれる場合もあるかもしれません。\nともかく、「提案」と「根拠」がセットでないと、報告書では「意見」として役立ちません。\n意見を書く際には、提案のすぐ近くに、根拠を書く必要があります。\nただし、意見や提案は、報告書のメインではないです。\n報告書は、あくまで、実際に起きたことを報告するのが本来の役割です。\nどうしても意見や提案の書類が必要な場合は、なるべく別の段落または別の書類にまとめましょう。ただし企業の場合、意見や提案などは、書類ではなく口頭で済ます場合も多く、意見や提案の書類が造られない場合もあります。(提案や意見は却下される場合も多く、却下される事項の書類をいちいち作成するのは、企業では手間なので。)\nそれでも、もし意見や提案などの書類を作る場合なら、報告書のほうに「別紙にて意見/提案あります」のようなコメントで紹介するぶんには、構わないでしょう。\n冒頭などで紹介するための結論(または要点)をまとめる場合は、まず下書きが必要です。\nあらかじめ別の用紙に下書きして、思うことがあれば、どんどん書き出していくのが良いです。その際、パソコンのワープロソフトなどを用いて、下書きしてもよいでしょう。パソコンを用いると、今後の構成の編集でも楽をできます。\nいったん紙やパソコンで書いてみると、意外と、書きたいことがどんどん思いつくものです。\n文章を十行くらい書き出したら、そこでいったん、書いた内容の順序を入れ替えて、結論から文章が始まるという構成にします。パソコンがあると、この文章の順序を入れ替える作業が、コピーペーストのボタンだけで終わるので、とても便利です。\nこの結論から書き直した文章を核にして、文章を書いていくと、良いでしょう。\n報告書では理想的には、調査や分析などが充分であるのが理想的ですが、しかし、時間や費用などの問題で、不十分な調査で終わってしまう場合もあります。\nその場合、要点を冒頭に書こうにも、何が要点なのかすら不明なので、「結末・要点から書く」という手法では書きようが無いという状況になります。\nこのように、調査が不十分で要点を書けない場合の対応策として、仮説を報告書内の適切な場所に書くのが良いでしょう。\n調べている最中で集めたデータなどをもとに、自分はどんなことを予想したか、そういったことを書くと良いでしょう。\nもちろん、あくまで仮説なので、「仮説であるが、〇〇かもしれない、と思っている。」などと、仮説であることが読み手に伝わるように記述しておく必要があります。このように、仮説と事実とは、報告書では区別を明確にできるようにすべきです。\nまた、もちろんその仮説の前提となるデータも、可能なかぎり、報告書に記述しましょう。\n報告書で、過去に実際に起きた出来事(できごと)を報告するとき、報告の順序では、かならずしも過去から順に報告する必要は無いです。\nなぜなら、もし過去の出来事が多い場合、読者がいちばん知る必要のある現在のできごとに到達するまでに、時間がかなり掛かってしまいます。\nなので、報告する出来事が多くなりそうな場合、まず最初に、現在起きていることを報告してしまいましょう。\nそのあと、過去から順に現在まで報告するのです。\nつまり、たとえば例文は\nのような説明順になります。\nつまり\nのような文章構成になります。\nまた、このような説明の副次的なメリット(利点 のこと)として、いちばん重要である現在の情報の読み落しする可能性がなくなるのと、論理のつながりが明確になるので安全です。\n上述のように最後にまた現在の話を書くこと、数学の定理の証明の文章のように、最後に提起された話題が再び来るので、論理構造が明確になります。\n報告書というよりかは説明文の書き方の話なのですが、何かを説明するときは(※ 例外として、厳密な証明でない限りは)少しくらいの重複があっても論理のつながりを明確にすることを優先するのが、国際標準での論文や企業などでの報告書のスタイルです[36][37]。言葉足らずになって論理が伝わらないよりも、少しくらいの説明の重複があってもいいので相手が確実に理解できるように説明することが、国際的にも求められていますし、文科系だけでなく科学技術の学会などの世界でも求められています。[38]。1981年発売『理科系の作文技術』(木下是雄 著、中公新書)から、2011年の福島原発の事故調査委員会で委員長を勤めた工学者の畑村洋一郎が編集している機械設計論の本にも、そう書いてあり、時代を超えて通用する考え方です。\nまた、重複してでもいいので、なるべく、読み返しなどをしないで済むようにして、書類中での論理の流れを止めないようにする必要があります[39][40]。\n「パラグラフ ライティング」と言った場合、決して単に段落の冒頭に結論を書くだけでなく(それは出来て当然ですが)、さらに上述のように、言葉足らずにならないように、重複が少しあっても良いので説明内容の論理展開のつながりを明確にする文章構造も求められている事に注意してください。ビジネスマン向けのパラグラフライティングの入門書で、講談社ブルーバックス『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」』でも、そうすべきだと主張されています。[41]。\n一般に説明やレポートと言うのは、読み手の時間節約のため説明の一部を抜粋しても内容が把握できるように書くことがビジネス現場で求められるので、ところどころ説明に重複があるのです。\nまた、派生的な効果ですが、抜粋しても分かるように説明することで、仮にどこか不明な説明不足な個所があっても、その説明不足ミスが全体に波及することを食い止めることができます[42]。\nたとえば大型客船や軍艦の設計など、大型の船舶の設計では、仮に座礁(ざしょう)やら敵軍からの砲弾の被弾などのせいで自分らの船に穴が一か所あいても、沈没しないように、船舶の内部をいくつかの開閉式の隔壁(かくへき)で区切ったブロックに分けて、浸水がブロック内にとどまるように設計します。\n文章の設計でも同様に、もし何か説明不足があっても、ミスがブロック内にとどまるようにするための隔壁として、それぞれの章や段落ごとのブロック内にミスの影響を留められるよう、他の章や段落で説明したことでも多少の重複をして説明しましょう。\nまた、上述の参考文献の種類から、科学技術の世界の作業現場や開発現場でも、学会などの学術の世界でも、行政の世界でも(事故調査委員会は行政です)、ビジネスの世界でも、基本的には言葉足らずよりも重複してでも確実に伝えるほうがマシです。\n戦前の電報の時代ではないので(「サクラサク」とかああいうのが電報)、特別な理由がないのに字数を減らしても無意味です。\nレポートや論文だけでなく、政治家の演説でも同様に教育指導されます。講談社ブルーバックスの『「分かりやすい話し方」の技術―言いたいことを相手に確実に伝える15の方法』に、そう書いてあります(著者が元・議員秘書で、自由民主党議員の秘書です)。[43]\nただし例外もあります。ソフトウェアのプログラムや、機械製造などの図面などといった詳細な設計をする分野では、重複のせいで指示ミスなどのさいの修正の手間が増やすので(たとえば、ある指示にミスが含まれていて、そのミスを含んだ指示を5回重複してしまうと、修正量が5倍になってしまう)、このような設計設計の分野では例外的に重複を避ける必要もあります。\n文科系の評論家や文科系の大学教授などの学者のなかには、詩歌などを例にして重複を極端におそれる人もいますが、しかし報告書はけっして娯楽ポエムでもなければ、娯楽ソングの歌詞でもないので、少しくらいの言説の重複を避ける必要はありません。\nもし大学教授あたりが何か知ったかぶりで何かの文献を権威にして文句を言ってきたら、上述の自民党議員秘書の講談社ブルーバックス文庫の書籍と、福島原発事故調査委員会委員長を勤めた畑村の書籍を論拠にして、反証しましょう。\n「歌を歌う」とか「違和感を感じる」というような表現を『重言』(じゅうげん、じゅうごん)と言います。(※ ワープロソフトで漢字変換する際は「じゅうげん」で出す。「じゅうごん」だと変換できないソフトもある。)\n国語教育では、いくつかの重言は不正解として扱われます。たとえば国語教師むけの教育書『変わる!高校国語の新しい理論と実践』(大修館書店)を読むと、「違和感を感じる」という表現を問題視しています[44]。\nしかし、講談社ブルーバックスの倉島保美 著『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」』などで重言を不正解とする国語教育者が反論されているように、日本国民の総意としては合意が取れていませんし、世間にも重言が普及しているのが実態です(普及しているのが実態だからこそ教育書でも取り上げざるを得ない)。受け身の「ら」抜き言葉などと同様、普及しているのが実態です。\n報告書の書き方とは直接の関係はありませんが、当wikiでは他にツッコめそうな単元のページが無いので、この単元を間借り(まがり)して、少しツッコんでおきます。\nなお、中学高校の検定教科書では、重言については特に触れられておらず、したがって文法違反とも正当とも、どちらとも言われていません。『変わる!高校国語の新しい理論と実践』(大修館書店)の執筆者の一人に文科省の官僚の一人もいるので、もしかしたら検定官は重言を文法違反だと思っているのかもしれませんが、しかし文科省からは省庁の声明などは出せていません。\nハッキリ言うと、パラグラフライティングの教育を国語ではなく(高校の)英語教科書で行われているのですが、この英語教育で文章の書き方を教える例のように、日本の大学などの国語学者はもう、日本の理科系の知識人からは国語教育者として相手されてません。しかし、人気商売のビジネスマンとかは国語学者を参考にしているかもしれません。\nなお、講談社ブルーバックスの著者の倉島保美は、民間や私企業だけでそういってるのではなく、大学などの公演などにも招かれてパラグラフライティングなどを教育指導している人です(たとえば東京都立大学の公演 2023.10.13「著者 倉島先生から教わる論理的な文章を書くための『パラグラフライティング講座』」開催について に招かれている人であり、リンク先に「対象者 本学教職員、博士後期課程学生、博士後期課程への進学を検討する博士前期課程学生」とあります)。手元に本が無いので大学名を忘れましたが、そのほかの大学の理系学部でも授業の講師をしていたはずです。\nこのように、ある大学の教育者が言っていることだからと言って、別に普遍の真実でも何でもなく、決して大学業界の多数での合意があるわけでもなく、業界や共同体の種類によって正解は変わるという事です。\n文章というのは、客層によって文体などを変える必要があります。もっと言うと、報告書のような、ある程度の知的な文章を書く際は、あまりにも広すぎる客層は、避けたほうが安全です。\n報告書と言うのは、仕事などに関して実際に起きている事を会社に報告するのが目的の書類ですので、決して暇つぶしなどに小説を読んでいる人は客層ではありません。だからこそ、パラグラフライティングを紹介している倉島などは、国文学者の文学でしか通用しない国語教育を批判しているわけです。\nサラリーマンがフルタイムで1日8時間ほど働いた場合、最低でも月給で15万円以上は、もらえます。報告書とは、月15万円以上を毎月欠かさずに払ってくれる会社のために書く書類であり、仕事に関する出来事とその分析などを報告するために書くものです。決して、せいぜい月に3000円ていどしか払ってくれなくて払わない月もあるような暇つぶしの小説読者なんかのために書くものではありません。\n本来なら、きちんと\nみたいに指導してほしいものですが、困ったことに大学教師などでも、自分の業界の書き方だけを唯一正解のどこでも通用する書き方として指導する、ちょっと頭の悪い大学教師もいて、まったく淘汰されません。困ったものです。\nだいたい、「違和感を感じる」という表現がダメだとして、ではどの表現が正解なのか、大修館書店の教育書は言いません。じゃあ「違和感がある」とか「違和を感じる」とかが正解なのか。\nハッキリ言って、「違和を感じる」なんて言い回し、世間では使われていません。\nサイト 矢野 幸那 著『「違和感を感じる」という使い方は正しい? 間違い? 言い換え表現を紹介 』掲載日 2023/04/17 20:01 によると、「違和感を覚える」「違和感を抱く」などの言いかえを提唱しています。\nしかし、そのほかの感情、たとえば「喜び」、「怒り」、「哀しみ・哀しみ」、「楽しみ」など喜怒哀楽(きどあいらく)について、\n「喜びを感じる」は特に重複していませんし、「怒りを感じる」も特に重複していませんし、この流儀だと「違和感」だけ使い方が違ってしまい、不便です。\n「快感を感じる」とかもダメなのか? じゃあ「快楽を感じる」はどうなのか? 「快感と快楽とで併用する動詞を変えるのは不便すぎないか?」とか、もしこう突っ込まれたら、どう反論するのか。\n「快感を抱く」なんて言うか? 「快感を覚える」と言い換えると、少し意味合いが変わってしまう(「初めての快感」みたいな意味に受け取られる)。\nあるいは「優越感」や「劣等感」は? さーて、どうする!? \nほーら、難しくなってきたー!\n・・・・と、まあ、このように、日本語の文法と言うのは、とても難しく、実際には慣用などによって成り立っています。\nあまりに慣用、慣例などが多すぎるので、日本在住の外国人にとっての日本語学習の負担にもなっているので、外国人との付き合い方にも影響を与えており、国際化の現代としては、言語文化の維持と国際化との両立とで、いろいろと悩みを抱えている日本人すらもいるくらいです。日本経済は貿易に成り立っている、という事も忘れるわけにはいきません。\nさて、 矢野 幸那 著『「違和感を感じる」という使い方は正しい? 間違い? 言い換え表現を紹介 』掲載日 2023/04/17 20:01 では。\n重言(二重表現)でも普通に使われる言葉も\n同じ重言の中でも、一般的に許容されている表現もあります。例えば「犯罪を犯す」「被害を被る」などは、テレビや雑誌でも普通に使われている重言です。一方、「頭痛が痛い」「本を読書する」などは控えた方がいい重言とされています。判断が難しいですが、言い換え表現が存在するのであれば、そちらを使うのが無難です。\nとあります。ご参考に。\n「判断が難しいですが」とか「無難」と言われているように、現代語の文法的には正解とか間違いとかは、決められていません。もし決めている自称・国語学者がいたら、少なくとも現代語の学者としては確実にインチキ学者ですので、淘汰すべきです。\nじっさい、明治時代から既に重言は存在しており、webサイトでは 「違和感を感じる」は誤用?正しい日本語の使い方 が紹介しています。\nさらに綿谷は明治25年に出刊された『道楽全書之内』の巻頭に掲載された番付【重言競】を以下のように翻刻し、「すべて当時の実用語中から、“重言”といい得る用法の言葉を取り上げたもので、案外その語数の多いのに驚かされる」とも述べています。\n番付【重言競】\n行司:月夜の晩、見てごらん、明朝早朝\n勤進元:学問を学ぶ、五戒の戒め\n《東》\n大関:後で後悔\n関脇:何月の月\n小結:旧暦の暦\n前頭:1.一時間の間、2.珍物もの、3.夫婦二人、4.一所の所、5.五色の色、6.人は上人、7.面長な面(かお)、8.五桐ぎり、9.急ぐ急用、10.半紙の紙、11.白髪の髪、12.御神酒の酒、13.迷子の子、14.入札を入る、15.古いむかし、16.鉄道の道、17.遠い遠国、18.干物もの、19.上へ上る、20.山家の家\n《西》\n大関:理解の解\n関脇:何日(いつか)の日\n小結:何歳の年\n前頭:1.一言の言葉、2.上品な品、3.幾人の人、4.別れて別々、5.金絲の絲、6.偏人な人、7.いゝ別嬪、8.紅葉の紅葉(こうよう)、9.廻文を廻す、10.木の葉ッぱ、11.船の船頭、12.燈明の明り、13.実子の子、14.落札が落る、15.今の当世風、16.馬車の車、17.近い近所、18.唐物もの、19.下へ下る、20.寺の寺内\n(※「前頭」の1.~20.は、東西の対をわかりやすくするための便宜上ナンバリング)\n「後で後悔」とか「月夜の晩」とか「学問を学ぶ」とか、21世紀でもよく聞きます。「見てごらん」は子どもに話かけるような表現であまり使われなくなっているかもしれませんが、特に文法的には問題視されていないのが現状です。(「ごらん」は「御覧」なので閲覧(えつらん)・観覧(かんらん)のような意味があり、「見る」とほぼ同じ意味)\nサイト冒頭で、「重言」(じゅうげん、じゅうごん)のことばの意味を紹介しており、\n「違和感を感じる」「馬から落馬する」「後で後悔する」「被害を被る」「犯罪を犯す」「頭痛が痛い」「必ず必要」「返事を返す」…。これらの表現にあなたは「違和感を感じる」でしょうか?\n上記のような「同じ意味の語を重ねた言い方」は、「重言(じゅうごん/じゅうげん)」と呼ばれています。\nと、あります。\nこのサイト著者は\n一方、「我々」「泣き泣き」「またまた」「はやばや」「知らず知らず」などの、同じ単語または語根を重ねて一語とした複合語である「畳語(じょうご)」や、「歌を歌う」「舞を舞う」などの「同族目的語」は避ける必要はありません。\nと言うが、このサイト著者は「違和感を感じる」を問題視していますが、だったら「違和感を感じる」は同族目的語だと言えば反論できてしまいます。つまり、「『違和感を感じる』が同族目的語ではない」という事をサイトは証明できていません。\n「違和感」と「感じる」で「感」という漢字を2回使っているから同族目的語ではないというなら、「歌を歌う」も「後で後悔」もダメです。ろくに論理的に反論できていません。\n要するに、単に文句を言う人が多ければ濫用を控えるべきだとして、文句を言う人が少なかったり偉い文学者とかが使っていれば問題視しない、という、非常にろくでもない理由で決まっているだけです。\n小説家や詩人といった作家のような人気商売なら、それでもいいでしょう。なので文学部とかで文革作家志望のコースとかでそうするのも(重言を控えるのも)アリかもしれません。ですが、義務教育でそれを無批判に「正解」とされては困ります。「重言を問題視する人もいるので、文学部進学者もいる中学高校教育の場では重言を仕方なく控えてもらう。」というのなら分かりますが、それは公教育の都合でしかありません。\nなぜなら、別に義務教育の国語教育は、作家志望者のコースではありません。義務教育の国語は、決して部活の文芸部の練習場ではありません。\nそもそも、そういう文学寄りの国語教育が現実の大人社会で使う日本語とズレているのが2010年代に問題視されたからこそ、2022年の教育指導要領の改訂で、国語教育が大幅に改定されて、契約書の読み方だとか法律文の読み方を高校教育でもっと時間を掛けて教える事になったのです。(要するに、日本の大学の文学部の国文学科(こくぶんがっか)の国語学者が、少し文科省からは信用されていません。大学入試の国語の入試問題を作っている国語学者そのものが、文科省からは少し信用されていない、という意味です。)\nなので、講談社ブルーバックスの著者の人たちのような理系の人たちも、そういう非論理的な日本の文系の業界の人たちを信用していません。パラグラフライティングの教育も、日本では国語学者たちはロクに紹介してこなかったので、理系の人たちが主導して(文学部ではなく理学部・工学部などの)理系の大学学部で教育してきたという歴史的経緯すらあるくらいです。\n国語学者の浅知恵の教育ではなく、正しい国語教育をするなら\nという事を基本的に教える必要があります。それゆえ、\nという方針になるでしょう。\nたとえば「ら」抜き言葉を不正解として問題視する勢力がある一方、「受け身」と「可能」の区別といった文意が明確になるとして活用する人もいます。たとえば「ら」抜き言葉の活用派の意見で、\n「やれる」なら可能、「やられる」なら受け身、\nといった使い分けができるとして「ら」抜き言葉を積極活用する人もいます。いっぽう、明治時代あたりに制定された文部省あたりの文法だと「やられる」でも可能の意味としても使えることになります。\nもっと言うと、明治時代や昭和の敗戦などのあとの国語改革で文部省などの制定した文法と、実際に世間や小説やビジネスなどの場で使われている日本語とは、もう明治時代あたりから既に異なっています。\nだから業界や地方などによって、通用している日本語が違います。\nたとえば「私」の読みの「わたし」と「わたくし」の意味の違いすら、地域や年代によって違います。\n逆に、\nこのように業界が異なれば、好ましいとされる表現も食い違っているくらい、実際の日本語の運用は業界などによってバラバラなのです。\nだから、21世紀の現代の文部科学省では、現代語の国語教育としては小学校で習うような最低限の規則だけを定めて、あとはそれぞれの業界の慣例に任せており、決して文科省は深入りしていません。\n日本では業界などによって、好ましいとされる表現の細部が変わるのが実態ですので、そういう業界差を教えないで「正解」と「不正解」の表現を決める人からは離れたほうが良いでしょう。例外的に、明らかな文法ミス、たとえば「私は have a ペンで~す」とか「ペンは、わたーしを、もってるでーす」みたいなカタコト外人みたいな表現を除けば、まず明確な正解・不正解が日本語にはないのが実態です。\n日本語では、統一的な正解表現というのは、ありません。\n明治や昭和の文部省(現在は文部科学省)などの定めた国文法や国語教育は、とりあえずの共通語のための文法に過ぎません。実際は、文部省の定めた文法ですら、方言の一種です。\nまとめを箇条書きするなら、\nという事を教えることと\nとでも、なるでしょうか。\nときどき、企業の管理職や、または大学教員などでも多少の重複した説明を不正解とする人もいますが、講談社ブルーバックスの著者の政治家秘書や設計技術者などの書籍の知見や「同族目的語」の概念から、重複を不正解とする人は大した仕事をしてない人だという事が、分かります。そういう出来の悪い管理職のいる会社からは、ひそかに転職活動を開始するなどして、そっと離れましょう。\n設計などのアイデア出しの際、いちいち言い換え表現とか考えるのが時間の無駄なので、同族目的語のように許容するのが実態です。だから元・設計技術者の倉島(NECで集積回路LSIの設計をしてた人です)は、重言を問題視してないわけです。\n重言をやみくもに不正解とする人は、設計といった上流工程の仕事をしてない人(ここでは「上流」と言っても決して「身分が高い」という意味ではなく「最初のほうの工程」と言う意味です)、たとえば人格的に問題があって、そういう上流の仕事を任せてもらえない人なので、転職などをして離れる必要があります。\n社会では、文句ばかりを言う層は、そもそも客層から排除されます。たとえばイスラム教徒は戒律(かいりつ)がきびしく文句を色々とつけてくるので、日本の創作物などでは、そもそもイスラム教徒を出さなくなり、最初から作品内にイアスラム教徒などは基本的に「居ない」ものとして扱われている傾向すらあります。もっとも、イスラム教徒も別に日本などとの商売のために宗教をしているわけではないので、それでも気にしていませんが。\n東アジア系などの在日外国人なども同様で、最初から居ないものとして扱っている作品も多くあります。\n企業の中には、金払いが悪いくせに口うるさい消費者を嫌って、そもそも一般消費者に向けては商品を販売していない企業すらも存在するくらいであり、そのような企業群をまとめて「B to B 」企業(ビー・トゥー・ビーきぎょう)と言います。Business to Business の略です。いっぽう、一般消費者向けの企業のことは「B to C 企業」と言い、to Consumer (消費者向け)の意味です。\n消費しかしたことのない子どもには分からないのかもしれませんが、大衆むけ・消費者むけの商売というのは、今や、嫌々(いやいや)にやらされる仕事なのです。\n株主などの外部向けの報告書や、一般消費者むけの報告書は、いやいや書かされるものです。株主に関しては、実際に数百万円以上を出資してくれたり、株式総会の会場に足を運んでくれるので、最低限の礼儀として、一応は義務教育教育レベルの敬語で書類を書いて、真摯に対応します。\n音楽ミュージシャンなんか芸能人の一部も既にそうなっており、たとえば音楽CDなどを出してもケチくらい消費者に文句しか言われないし違法コピーも広まりやすいから、いまやライブイベント中心のミュージシャンすらもいるくらいです。実際にライブ会場という現地に実際に足を運んでくれる人だけを相手する、という商売です。万が一、ライブイベントが違法に録画されても、誰が録画したかを追跡しやすい(なので訴訟(そしょう)しやすい)、という利点もあります。おそらく、落語家や噺家(はなしか)なども同様の傾向でしょう。\nいまや、宣伝のために仕方なく、最低限のCDやDVDや書籍を販売する、といった構造になっている業界すらも、あるくらいなのです。\nさて、(外部向けではなく)社内向けの報告書で、いちいち「拝啓」だの「敬具」だの書いてたら、上司に馬鹿にされます。「そんなことに気を使ってるくらいなら、さっさと、起きたことだけを書いて、報告書を提出しろ」みたいに上司に指導されるのがオチです。\n社外向けの書類だけ、仕方なく、無礼のないように最低限の礼儀として「拝啓」だの「~でございます」だのみたいな丁寧な表現を使うだけです。\n企業社会での敬語と言うのは、中学校や高校の教科書や参考書にあるような敬語で十分です。\nなお、敬語の使い方について、少しくらい丁寧すぎるぶんには、企業では問題ありません。\nたとえば「~させていただきます事になります。」みたいな表現を敬語の使いすぎの表現みたいに批判する評論家もいますが、しかし小売業界では特に問題視はされていません。\nあるいは、文章だと字数を短くするために「~します。」となって、口頭だと「~させていただきます」になったりと、文章と口頭とで言い回しが違うことすら、あります。\nスーパーやデパートなど小売業界のレジ打ちの人の言葉遣いを「丁寧すぎる」と問題視する評論家もいますが、小売業界からは全く相手されていません。\n学校の作文では、あまり、それぞれの段落にタイトルをつける事はないですが、しかし、企業などでのレポートは違います。\nあなたが今このページで読んでいる文章にも各章にタイトルがあるように、レポートにも章ごとにタイトルがあると、管理しやすくなります。\nまた、そのタイトルのつけかたは、その章の調査対象などを簡潔に示すタイトルにしてください。\nたとえば、日本の歴史についてのレポートで、ある章では日本の江戸時代の食文化について調査した結果を主に紹介しているなら、その章のタイトルは単に「江戸時代の食文化について」のような簡潔なタイトルで充分です。\nけっして、世間の各種の広告のキャッチコピーなどのように、一見すると矛盾するようなタイトルをつけないでください。\nたとえば、江戸時代の食文化のレポートなのに、人目を引こうと思って「江戸の寿司は未来だ!」(× ダメな例)とかの矛盾したタイトルをつけると、レポートの管理者(上司など)に読解作業の負担が掛かります。\nなお、感想などの段落も、タイトルをつけるべきです。感想の欄のタイトルは「感想」で充分でしょう。\nたとえば社会科の地理などのレポートで、特定の国の文化についてレポートを書く場合には、文献調査が必要でしょう。\nたとえ、理科実験など実技関係のレポートでも、参考書も用意しておいて、必要に応じて、関連箇所を目次で探して読むと、良いでしょう。\n(ただし、その科目の参考書が市販されてれば、の場合ですが)\n参考書を読む必要が無いなら、参考書を読む必要はありません。調査時間も限られているだろうし、参考書のすべてを読む必要はありません。参考書については、目次で関連の深そうなテーマを1つか2つか探して、数ページでも読めば充分です。\nそれでも分からないことがあれば、そこで初めて、図書館を利用したり、インターネットを利用したりすればよいのです。\n参考書を読めば分かるようなことを調べるのに、わざわざ図書館に行くのは、時間が大変に掛かります。それに夜中などは図書館が閉まっています。\n中学の参考書だけでなく、高校の参考書・資料集も、文献調査の際に買っておくと、図書館で文献を探す時間を節約できて便利です。\n内容の羅列をするなら、その文献を紹介すれば良いのです。そもそも内容の羅列は、学校側の出す課題のテーマにならないでしょう。そして、その文献の内容のうち、報告書で必要な箇所を紹介すれば、済むだけです。\n教科書・参考書以外の本の内容を紹介する場合でも同様です。\n説明のため、どうしても教科書または参考書の一文や語句などを紹介する必要がある場合などでも、紹介した文や語句についての自分(=あなた自身)の考えを、自分の理解できる言葉で説明してください。読者が知りたいのは、あなたの分析であり、べつにどこの教科書や参考書に、何が書いてあるかを知りたいのではありません。あなたの考えを説明するべきなのです。\nなお、引用などが必要な場合なら、カギ括弧(「」とか『』)で くくって、また、引用であることを明記してください。この引用のルールは、引用のもとになった作品の作者の著作権などの権利を尊重するためです。\n実技分野以外の、国語や社会科などのレポートなどで、文献を読んでレポートを書く課題の場合です。\n文献調査によって書く報告書の場合、あなたの主張の根拠にした出典を紹介してください。あなたが調査のために読んだ本のタイトルなどです。読んだ本が複数冊ある場合は、最低でも1冊はタイトルを書いてください。\n報告書にかぎらず、引用の場合には最低でも、その出典について、著者名・タイトル・出版社名 の3点は必ず記載するのがマナーです[45]。\n一般的には、大人の文献調査では、基本的には、出版社名・タイトル・著者名・出版年および版・参考にしたページなどを書きます。\nこのように、主張の根拠にした文献などを「参考文献」と言います。\n引用とは、他の本に書いてあることを、そのまま書き写すことです。\nたとえば『平家物語』から冒頭部を引用すると「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」となります。読みがな(「ぎおんしょうじゃ」とか「しょぎょうむじょう」とか)は、引用する必要は、ありません。\n上記の平家物語からの引用の例のように、引用が必要な場合は、その引用した部分を、カギ括弧(「」など)で、くくってください。\n上記の例では「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」の部分が、引用された箇所になります。\nまた、どこの本からの引用なのか、はっきりと分かるように紹介するべきです。上記の例の場合、『平家物語』という本からの引用だと分かります。\n引用の文量は、最低限にしてください。また、引用の際には、原則的に文字を変えたりせず、そのまま書き写します。ただし、漢字が常用漢字以外などの場合、常用漢字に変えてもかまいません(この場合、常用漢字に変更したことは、いちいち説明しなくていい)。\nしかし、そのような特別な理由が無いかぎり、そのまま記載するのが、引用のルールです。\nもし、なんらかの特別な理由があって、そのまま記載できない場合には、その理由を手短かに説明するようにしましょう。そうでなければ、剽窃といって、他の人の文章をぬすんだのと同じ扱いになってしまいます。剽窃とみなされると、よくてレポートの書き直し、悪ければ0点扱いされてしまいます。\nよくある、間違った引用の例として、作者名とその人の発言だけを紹介する例があります。\nたとえば\n※ ダメ名引用の記載の例\nみたいな引用の仕方です。なお、この文章(夏は~季節)は検定図書からの引用で、学校図書(教科書出版社のひとつ)の中1国語の中にある文章。\nこの文章だけ紹介されても、紹介文を読まされた読者にとっては、裏づけ調査が不可能または困難です。どの文献を調べれば乗っているかすら明記していないので、この作家のすべての著作を把握しないと、裏づけ調査できなくなってしまいます。そして、そもそも、この作家のすべての著悪を把握しているような人にとっては、そもそも、「椎名誠」と出典の作者名を紹介する必要は無いので、よって読者にとっては作者名だけを紹介するのは無駄です。\n正しい引用の仕方は、書籍名、作者名、ページ、出版年月日や第何版や第何刷などを正確に記述する必要があります。でないと、他の人が裏づけ調査をできないからです。\nなので、正しい引用の仕方だと、たとえば\nみたいに、どこから引用したのかを、きちんと第三者が「本当にもとの文献には、そう書いてあるか?」裏づけ調査をできるように引用を紹介する必要があります。\nどうやら\nみたいな、偉人の名文などの文章の紹介とかと混同しているような、まちがった引用の方法が、インターネットでは、ときどき見受けられます。(なお、パスカルとは西洋の哲学者・科学者のひとり。)\nなお、このパスカルのような外国の偉人の文献での発言ですら、本来の引用なら、たとえば\nみたいに、なにを調べれば裏づけ調査できるかのように描かないと、第三者が裏づけ調査しづらいために引用としては役立たず、あまり引用として正しいとは認められないでしょう。\nまだしも、小学校や中学校など義務教育や公教育で習うような常識的な有名作から、\nのように有名作を紹介するならともかく、\n読者に知らない人も多いかもしれない作品ですら、書籍名すら挙げないのは、明確に引用としては間違っています。\n物語文などでは文章の主語は省略される場合もあります。しかし、説明文や報告書などでは、なるべく主語を書いたほうが分かりやすいです。この箇条書き項目の「なるべく主語、あるいは目的語は省略せず、主語・目的語を書いたほうが分かりやすいです」という文章も、主語や目的語を省略せず、書いています。\nまた、できれば主語と述語とが、近くにあるほうが、読みやすくなります(日本語は述語で意味が確定するため)。\nこのため、もし一文の修飾語が長い場合には、文節を分ける工夫が必要です[50]。\nたとえば、\nではなくて、\nのほうが、読みやすいでしょう。\nこのように正確さを損なわない範囲で、なるべく主語と述語を近づけましょう。\nまた、一般に物事を分かりやすく説明したい場合には、全体像や概要を先に述べてから、各論を述べたほうが伝わりやすいです。\nなお、このように、レポートや報告書などの冒頭で述べる、全体像を手短かにまとめた段落のことを「アウトライン」(英:outline [51])といいます[52]。(※ なお論文の場合は冒頭の要点の段落のことを「アブストラクト」というが、「アウトライン」と「アブストラクト」ではニュアンスが微妙に違う。論文の書き方については中学生には高度なため、説明を省略。\nまた、この冒頭の概要(読者向けのアウトライン)を書く順序としては、よくあるパターンとして、じつは、その書類執筆時の最後のほうの時点で書くことになる場合がよくあります[53][54]。なぜなら、最後のほうの時点で冒頭を書いたほうが、書き手が書類で概要のあとに説明する内容をすでに分かっているので、より的確な概要を書くことができるからです。\nパソコン時代の著作・編集は、じつはこういう順序になるのが普通です。手書きの時代とは、順序が違います。\nただし、もうひとつの別パターンとして、多くの要因からなる複雑なテーマを扱うレポートの場合には、下書きで冒頭に概要・序論などを先に書いて話題を限定して、自分のためのガイドラインとして概要・序論を活用しつつ、そのあとから、序論の方針にしたがって本論を書き加え、そして最後にまた冒頭の概要・序論を書きなおす[55]、などというパターンもあります。\nどちらのパターンにせよ結局、冒頭部は、本論を書いた後に、冒頭部の概要・序論を書き直す必要があります。\nもし書類に目次をつける場合にも、おそらく目次を書く時点がいつかというと、スケジュールでは最後のほうの時点に目次を書くことになるでしょう。\nさて、文章を書く際、主語と述語を近づけた文章構成にすれば、自然と、最初の主語・出後の文節で概要が述べられ、次の主語・述語の文節で各論が述べられるので、つたわりやすくなるので、一石二鳥です。\nただし、このように、主語と述語を近づけると、やや堅苦しい言い方だと受け取られる場合や、内容によっては不正確になってしまう場合もあるので、読者の中学生は、うまく使い分けてください。\n日本語は、文章の最後まで読まないと意味が確定しません。そのため、一文が長いと、読む際の負担が増えます。この「一文は、短めに書く」という文章自体、なるべく短く書こうとしています。\n一般に、ビジネス文書でも、一文はなるべく短く書くのがマナーとされています[56][57]。\nまた、このため「~であるが、」など助詞「が」をあまり使わないのもテクニックです。逆接の助詞「が」を使うと文章が長くなりがちです。「~である。しかし」のように接続詞「しかし」に言い換えるのもテクニックです[58]。「しかし」ではなく「ただし」のほうが適切な場合もありますので、文章に応じて使い分けてください[59]。\nなお、「であるが」「だが」は逆接でない場合も多くあります。どちらにせよ、「であるが」「だが」は、使う場合は文章が長くなりがちなので少し気を付ける必要があります。\n理由を表す「であるから」「であるので」という長い言い回しもなるべく避けるべきで、改善策として「である。だから」「である。なので」のように2つの文に分けるほうが無難です[60]。\n日本語は、文章の最後まで読まないと意味が確定しません。日本語では、否定形(〜ない、〜しない、〜ず)などの動詞などは文の最後に来ます。否定形の前後では、文全体の意味が正反対に変わります。\nたとえば、「食べない」は、「食べ」の段階では読み手・聞き手にとっては「食べたい」「食べるとき」「食べよう」「食べない」など、色々な可能性があります。\nそのため、否定形があると、読み直しの手間が生じます。否定形が多いと、読み直しの手間が増えて、読みにくい文章になります。この箇条書き項目「なるべく肯定形で書く。あまり、否定形は用いない」という文章自体、「○○で書く」という肯定形の表現を優先し、「△△は用いない」というような否定形の表現を後回しにしています。\nどうしても否定形だけでかく場合、まず、否定される語句を短くします。\nたとえば、\nという文章の場合、否定される語句は「右」という、たった1文字です。このように、たった数文字だけに短くします。\n悪い例として、否定される語句が長い例文をみてみましょう。\nなんて否定される語句の長い文を読まされたら、きっと読んでる人はムカつくつでしょう。なぜなら、読んでる人は、せっかく「ジュゲムジュゲムゴゴーノスリキレ」という長い語句を読んだのに、その後に「ではなくて」と否定されるので、いままで読んだ努力が無駄になってしまうからです。\nあるいは、否定を使う場合のもうひとつの手法として、直前に疑問文をつけて「では、○○なのか?」と問うた直後に答えで「違う。○○ではない。」とかのように、「違う。」とかを前につけると、誤読のおそれが少ないでしょう。\n「では、山田さんなのか? ちがう。『山田さん』ではなく『田山さん』である。」のように。\n口頭で「ちがう」だと強すぎる表現で失礼だと感じる場合、「ちがうと思います」とか「ちがうのではないでしょうか?」みたいに、婉曲的な語尾をつける方向性で丁寧にしていくのが安全でしょう。\n別の理由ですが、ある書籍では、一文に複数のテーマを設けると読みづらくなるので、「肯定」と「否定」は別々の文章に分けるべきだと主張しています[61]。同様の理由で、「原因」と「結果」も1文には書かないようにすべきと主張しています。「原則」と「例外」も1文には書かないようにすべきと主張しています[62]。\nついでですが、口頭での報告の場合、「○○ではないです」のような否定表現は、避けたほうが安全です。なぜなら聞き間違えのおそれが高く、「○○で」と聞いた時点では「○○です。」と予想される可能性があるからです。特に仕事での口頭報告では、周囲の騒音などで、「○○で」「ガシャーン(騒音)」「です」のように、さえぎられる可能性があるので、気をつけてください。\n口頭での報告では、「○○ではないです」のような、否定形の補足説明は、むしろ逆効果です。\n口頭での報告は、なるべく肯定形だけで「△△です」のように肯定形だけで報告するほうが安全です。\nどのみち、説明される側の人も、口頭報告だけで細かい事を説明されても、覚えきれません。細かい説明は、後日、部下が書類(報告書)にまとめることになります。\nこの単元では、おもに文章での報告方法を中心に説明します。\nさて、肯定形を先に無く場合、注意すべきは、肯定形の文と否定形の文を、必要に応じて2つの文に分けることです。たとえば仮に\nという文章があったとしましょう。\n「フドシラ」「ペネモモ」「ロブキフ」とは、いまここで考えた固有名詞です。当然、辞書には載ってません。\nさて、この文章(「フドシラはペネモモでありロブキフではない。」)では、肯定形(「〜であり」の部分)と否定形(「〜ではない」の部分)を、くっつけて、ひとつの文にしています。さて、結局、「フドシラ」とは「ペネモモ」なのでしょうか、それともペネモモではないのでしょうか? \n解釈が、次のように何通りにも分かれます。\nこのように、肯定形と否定形をひとつの文にくっつけると、解釈の仕方が2通り以上、考えられる場合が生じるので、読む手にとっては面倒な事態が生じます。\nなお、もし元の文(「フドシラはペネモモでありロブキフではない」)のかわりに「フドシラはロブキフではなく、ペネモモである」と書けば、解釈2の場合だと分かります。\nそのため、どうしても肯定形と否定形を1つの文につなげる必要のある場合、否定形を先に持ってきましょう。\nさて、もし「フドシラ」「ペネモモ」などの意味不明な単語ではなく、\nという文章だったら、一般の読み手は「神奈川県」と「岡山県」は別の県だと知ってますから、山田くんの出身地を「神奈川県であり岡山県」という土地だと誤解する事はありません。\nしかし、報告書で使うことになる単語は、必ずしも一般の読み手が知ってる単語だとは限りません。例えば、\nとかになったら、もう読み手は、お手上げです。結局、ゴンザレスの出身地は「新井」なのでしょうか。それとも出身地は「新井」の「3丁目」ではなく、まったく別の場所なのでしょうか。\n肯定形を先にかく手法には、こういうリスクがありますので、書類では、肯定形を先に書くのをやめて否定形を先に書く方が良い状況もあります。\nしかし、口頭での報告では、\n疑問点は、文中で早めに説明していただけると、読者にとっては読み返す手間が省けるので、疑問点は文中で早めに説明したほうが良いです。また、疑問「点」と表記しているように、できれば疑問の箇所は文中で明確にしておき、説明のための文とは、別の文とすべきでしょう。さきほどの「あまり、否定形は用いない」にする理由と似ていて、読み返しの手間が少ない文章構成にするほうが、読者にとって便利です。\n・ ノウハウ(参考): 疑問文が長くなりそうなら、文頭で「疑問だが」などと述べてしまうのも、一つの手法。\n日本語では、「ある文が疑問文であるかどうか」は、文末を読まないと分からないため(文末に「〜なのだろうか?」「〜ではないか?」などのように文末の表現を読まなければ分からない)、もし疑問文が長い場合、読者に長い文を読み返す必要が生じてしまいます。読者は、文末を読む手前の瞬間までは、てっきりその文を平叙文だと思って読んでいるのが普通です。読者は文末を読んでから、やっと、その文が疑問文だということに気付くのです。\n読者が、文末を読んで疑問文だと気付いてから、文頭の内容を思い返したり、あるいは読みかえしたりして、疑問文の内容を把握しようとするのです。\nもし、疑問文の文章が短くて、しかも単純な内容なら、通常の疑問文で構わないでしょう。短い文章を読み返すのに、たいした手間は掛からないからです。\nでも、もし疑問文が長くて、しかも内容が難解なら?\nそして、たいていの場合、学生の書く疑問文は長くなりがちです。何故かというと、報告書の書き手が分からない内容を、書き手自身が手短かに説明するのは困難だからです。そもそも短く説明するためには、要点を理解してなければなりません。しかし、そもそも分からない内容の要点を理解するというひとは、通常ありえません。しかも報告書に書くような難しいテーマなので、なかなか短く説明するのが難しいのです。\nそのため、たいていの場合、疑問文は長くなりがちです。\nそこで、もし報告書で疑問点を述べる場合、疑問文の冒頭で「疑問点であるが、〜」「疑問だが、〜」のように、文頭で最初っから、その文が疑問文である事を述べてしまえば、読者は読み返しの必要が減るので、読者にとって助かります。\n英文法を考えてみれば、英語では、疑問文は冒頭に「Do you 」とか「Are you 」と表現していて、疑問文である事が明確です。日本語の報告書でも同様に、疑問がある場合は、文頭の表現を工夫して、疑問文であることを明確にしましょう。\n東京書籍の中1国語の教科書『新しい国語1』で、文章を書くときに、事実と推測と提案の区別をして書くように との指摘がある。\n学校教科書にかぎらず、ビジネス文書の書き方入門書などでも同様に、事実と意見は区別せよ、と指導するのが普通である[63]\n。\n事実(ファクト[64] fact)と意見(オピニオン[65] opinion)は分離すべきです。(なお「オピニオン雑誌」というのは、政治などの議論にて、評論家の意見などの書かれた雑誌のこと。)\nさらに、報告書などでは、推測や提案があるときは「推測だが、」とか「提案だが、」とか書いてくれると、読み手が読みやすくなるので、ぜひ諸君はそう書いてほしい[66]。\n事実の場合は、いちいち、事実を紹介している全ての文で「事実だが」と述べると、大量の「事実だが」という文が続出してしまいかねないので、省略するか、あるいは一つの段落に事実の説明をまとめるなど、工夫してほしい。\nもし大量に推測や提案がある場合にも、段落をまとめる必要があるかもしれない。\n\n電子メールなどで、メールの件名に「【質問】 ○○は△△ですか?」とか「【○○の連絡】 △△が□□に変更しました」とかのように、そのメールの文章の種類をあらかじめ明示する場合もあります[67]\n。\nただし、報告書では、このようなタグ表記の記号は、使いづらいかもしれません。\nなお、メール件名のタグ表記の記号(【】など)はとくに決まりはなく、[ ] や < > などでも良い。\nただし日本では視認性の良さなどの理由で、すみつきカッコ【】がよく、電子メール件名のタグに使われている[68]\n。\nなお、インターネット技術では、 < > の記号が別の意味ですでに使われてしまってるので(HTMLタグという技術ですでに使われている)、電子メールによる報告などでは<>記号は避けたほうが良いでしょう。\nまた、学校教材では 〔 〕の記号がよく、空欄補充の問題をあらわすのに使われるので、避けたほうが安全かもしれません。\nなお、電子メールで長い報告書を書くのは、一般にマナー違反です。電子メールソフトは、あまり長い書類を読むようには、つくられていません。\nもし電子メールで報告をする必要のある場合、なるべく短く、まとめましょう。\n\nたとえ読み手が文章を最後まで読まなくても、読み手が文意を予測できるようにして、冒頭に接続詞などを用いて、文意を示します[69]。さっき読んだ冒頭文の「たとえ読み手が文章を最後まで読まなくても、」という文節自体が、「たとえ」という接続詞によって、文意を予測させています。\n重要なのは、読み手にそのあとの文章を予想させることですので、必ずしも文法的には接続詞でなくても構いません。\nたとえば文頭で「具体的には」と書けば、読み手にとっては、「あ、このあとに具体例が来るんだな」って予測できます[70]。\n「同様に」などの言い回しを文頭に持ってきた場合も同じく、読み手はその後の内容を予想できます。こういう文章テクニックを活用しましょう。\n理由のひとつは、箇条書きによって、説明対象の全体像がハッキリするからです。\nたとえば\nと冒頭で箇条書きする事によって、これから説明する項目(「* なるべく主語〜」「* 一文は〜」「* なるべく肯定系〜」・・・「* なるべく結論から」)の全体の構造が、ハッキリします。ここでいう「構造」とは、「* なるべく主語〜」について説明と、「* 一文は〜」の説明が分離している事が分かるなどのように、何と何が分離しているかが分かります。\nもし、「一文は短めに書き、さらになるべく肯定系で書き、そして接続詞を用いて文の概要を示し、」・・・などのように書いてしまうと、文章が長くなり、読者は読解をするのが大変になってしまいますし、構造がどうなってるかも分かりづらいです。\nしかも構造が、次の例のように読者には何パターンも考えられてしまいます。たとえば、\nのように、読者は色々なパターンを想定して、どの構造なのかを読解せねばならず、読者に余計な手間が増えます。\nまた、書く人の側も、接続詞の「さらに」「そして」など、文脈に応じて追加せねばならず、手間が増えて、大変になります。\n箇条書きにしない場合、読者も、書き手も、ともに手間が増えてしまい、なにも良いことはありません。企業などでの報告書の実務では、積極的に箇条書きを用いたほうが良いでしょう。\nこの記事自体も、箇条書きを積極的に利用しています。学校の作文などでは、原稿用紙の都合などで箇条書きが難しい場合もありますが、念頭に入れてください。\nなお、箇条書きをする際は、箇条書きされた各文の冒頭に「・」などの記号をつけて、箇条書きである事を分かりやすく表示しましょう。\nなぜなら、読者にとっては、読み直しの手間が減ります。この記事自体、なるべく結論から書こうとしています。\n報告書での文の読まれる順序は、かならずしも文章のはじめから文が読まれるとはかぎらず、抜粋などをされて、第三者の読者に途中だけ読まれる場合もあります。\nもし書く際に代名詞(それ、あれ、あの人、彼、彼女、・・・などなど)を多用すると、読み手が代名詞の答えを探すために前の文を読み返す負担が増えるので、報告書や論文・レポートなどでは、なるべく代名詞を抑え、具体的な名称などで書いたほうが良いのです[71]。\n具体的な名称とは、たとえば「その本は」ではなくて、「その『我輩は猫である』という本は」のように具体名で言い換えるという事です。\n他にも、段落の始めや、章の始めなどでは、読み手がわざわざ前の段落や前の章を読み返さなくてもすむように、代名詞や指示語の使用はひかえめにしたほうがいいでしょう。つまり、段落の始めなどでは、具体的に名称を書くほうが、きっと読みやすいのです。\n中学生・高校生では、別に報告書の書き方をここまで練習する必要は無いでしょう。そもそも、学習時間も足りません。(学生は、他の教科・他の単元の学習もしなければならない。) 頭の片隅にでも、読者である中高生は、報告書の書き方を入れておいてください。\nただし、詩歌や俳句や物語文などの場合は、文を書く際のノウハウが、報告書とは変わります。俳句の場合は字数の制限がありますし、詩歌や物語文などの場合には音のリズムの関係もあるでしょうから、あまりに具体的に名称を書いてばかりいると、かえって読みづらくなってしまうかもしれません。このような詩歌などの場合には、指示語や代名詞も用いたほうが良いかもしれません。\n書き手は用途に応じて、書き方を分けてください。\n実務の報告書では、かならずしも、すべてを文章で表記する必要はなく、数値的なデータなら、グラフ(棒グラフや円グラフなど)で表示するほうが、ひと目で読み手が把握しやすく、読みやすい場合もあります。\nパソコンの表計算ソフト(エクセルなど)には、グラフを作る機能もあります。\nそしてワープロソフト(ワードなど)に、表計算ソフトで作ったグラフ画像を貼りつける機能があります。\n文章を書いたばかりのときは、書き手の頭の中では、予備知識がフル稼働しているので、なかなか他人視点になれません。\nなので、後日に読み返して見直したり[72]、あるいは他人に読んでもらって改善点をもらうのも良いでしょう。\n(※ 口頭発表は、中学3年の国語の範囲。)\n口頭発表では、聞き手が、聞き返すことが、むずかしいのです。\nもし、報告書の文章を読み返す場合なら、読み手が「読みかえそう」と思えば、時間さえあれば、いくらでも読み返せます。\nしかし、口頭発表では、聞き手が、「聞きかえしたい」と思っても、話し手に頼める立場になければ、聞き返すことができません。\nなので、もし、口頭発表をする場合は、このことの注意して、文章を、あらかじめ考えておく必要があります。\nまず、報告書の書き方でも教えたように、要点を先に伝えるという方法を、口頭発表でも行います。\nまた、日本語の演説ならば、否定型ではなく肯定形で言い替えるという手法も、演説などの口頭発表では必要です。\nさて、キング牧師の黒人差別反対の演説を、おそらく中学3年くらいに学校で習うと思います。\n「私には、夢がある。」という、あの演説です。\nキング牧師が、こういうふうに言ってるのは、かならずしも文芸的な表現とはかぎらず、演説のさいに、要点をさいしょに伝えるという手法を使った結果でもあるでしょう。\n仮に、あなたが、キング牧師のあの時代のあの場所にいた観客の1人だとしましょう。演説者のキング牧師から「私には、夢がある。」という言葉を聞けば、聞き手は、「この発言のすぐあとに、これから、その夢の内容を語るんだな・・・」と予想できます。\nで、その夢の内容が、黒人差別をやめさせたい、という、あの有名な演説なわけです。\nいっぽう、もし、いきなり、キング牧師が夢の内容を語ったとしましょう。「私には、夢がある。」という前置きをいわずに、いきなり「黒人への差別を、やめさせたい。」とか言ったとしましょう。(なお、キング牧師のじっさいに言った演説は、もっと長く、何分間も話し続ける演説である。しかし、本wikibooksでは、説明を簡単にするため、仮に(かりに)、キング牧師の演説の内容が数秒だったと、置き換えることにする。)\n観客の立場になってみましょう。すると、下記に述べますが、いくつかの欠点があるのです。\n実際には英語で牧師は言ったのでしょうが、ここwikibooks日本語版では、日本の読者にわかりやすく問題点を伝えるため、かりに牧師が日本語で発音したとして、なにが欠点なのかを説明します。\n仮に日本語で、キング牧師が「黒人への差別を、やめさせたい。」と演説したとしましょう。\n数秒たって、\nさて、さらに数秒たって、\nこのように、もし、あらかじめ「私には、夢がある。」とキング牧師が言ってないとしたら、\n観客が、いきなり「こくじんへのさべつをやめさせるのが」と聞いても、例えば、もしかしたら、次のように予想するかもしれないのです。\nこのように、前置きの「私には、夢がある。」がないと、聞き手にとっては、まったく予想がつかないのです。\nそして、もしも、話の内容について、まちがった予想をしてしまった聞き手は、そのあとの話を、聞きそびれてしまいます。かといって、観客が、話を聞いた時に、なにも予想しなければ、観客はその話(はなし)を理解できません。\nだからこそ、演説では、結論を前置きとして、手短かにいうことが大切なのです。\nその証拠に、ためしに、日本語に置き換えたバージョンのキング牧師のこの演説に、前置きがあったとしましょう。「私には、夢がある。」の前置きがあったとしましょう。\n観客は、もう、ここまで聞いた時点で、予想できます、「キング牧師は、黒人差別をやめさせる事が、目標なんだ!!」って予想がつきます。\n「私には、夢がある!」という前置きさえあれば、もはや、牧師の口から「やめさせのが、夢なんだ!」との発言を聞かなくても、観客はもう、予想できてしまうのです。黒人であるキング牧師の口から、「夢がある」と聞いた直後に、「黒人差別をやめさせることが」との発言を聞いた時点で、観客は、もう予想できるのです、「『私には夢がある。黒人差別をやめさせる事が、私の夢なんだ!』とか牧師が言おうとしてるんだな」という予想を。\n報告書では、意見や提案は、上司や相手から特に要求されてないかぎり、事実を優先して報告するようにしましょう。\nそれでも、もしメールなどで、短い報告文や提案文を同じメールでひとまとめにする場合(相手が一度のメールを読むだけで済むので、企業社会では、よくある)、せめて段落・章などを分けましょう。\nたとえば、もしアナタがIT業界に勤務するプログラマーだとして、ある会社での開発中のソフトウェアの不具合(ふぐあい)の連絡のための報告メールを書くなら、たとえば\nみたいに、報告と案とは、別個の章にすべきでしょう。\nこうすることで、たとえ提案が却下されたとしても、相手に不具合の報告がきちんと伝わります。\nなお、提案をする場合も、最初に結論を書き、つまり、「最終的に、こうなったほうが良いと思う状態」な結論を先に書き、あとから、その提案を思いついた根拠を書きます。\nこうすることで、相手が、読み返しする手間が減ります。\n文章構成の順序として、提案では、結論が先、理由はその(結論の)直後に、といった構成です。\nさて、提案は不採用になる場合もあるので、あまり長々と提案を書きすぎず、手短かに提案を書きましょう。\n報告メールの提案の場合なら、提案として思いついた事と、その根拠を、せいぜい5行ていどで紹介するようにしましょう。\nさて、もし何かの評論などで「意見」を書く場合では、「提案」に「根拠」がセットでないと、評論などは「意見」として役立ちません。\nこう報告書で書くべき理由は、なぜなら報告書の読み手である上司や客などは、根拠の部分を読んで、提案を採用するかどうかを決めるからです。\n提案の採用の権限をもっている人物は、大抵、あなたではなく、上司や、金を払う客です。\nなので、もしも根拠の情報がなくて提案だけを書いても、まったく役立ちません。\nもし根拠が無い場合、読み手は書き手の能力を疑い、「こいつ(書き手のこと)は自分の立場を理解できてないのではないか?」と疑うでしょう。\nもし提案だけで根拠が書かれてない場合、読み手はおそらく書き手の能力を疑い、その時点で読み手は、書かれた提案を自動的に不採用にするでしょう。\nなので、「提案」には「根拠」がセットでないと、役立ちません。\nの公式だと思っておきましょう。\n日常語でいう「意見」とは、何かの論文や評論などでいう「意見」とは、やや意味がちがうので、混同しないようにしましょう。\nもし、評論や論説文などで提案をする場合、けっして、抽象的に「もっと改善を増やすべきだ」みたいな漠然(ばくぜん)とした事を言うべきではない、という事を意識すべきです。\nつまり、意識すべきことして「具体的に何をどう変えれば改善になり、そのために我々はいま、こうすべきである」という事を念頭に、具体的に案を提案する必要があります。\nたとえば、環境保護のための活動の提案ならば、\nけっして漠然と「環境保護をすべきだ」ではなく、\nたとえば、企業での提案にたとえれば、例文として\nみたいに具体的に行動案を提案するべきです。\nつまり、社会で必要な意見とは、\nです。\n提案は、\nに分解されます。\n社長の提案なら具体案が無くても部下が気をつかって代わりに具体案を考えてくれますが、しかし、もし新人や若手社員が具体例の無い提案をしても、企業の会社内部では、案の検討が後回しにされたり軽視されたりといった扱いになります。\nなぜなら、たかが新人の気持ちの読解や心情の読解なんぞに、会社の上層部にとっては、時間を割きたくないからです。\nなお、意見を書く場合だけでなく、(例外として数学の証明を除き、)一般の社会では、何かの理論を提唱(ていしょう)する場合も同様に、具体例と根拠をつける必要があります。\nつまり\nです。\n「意見」について、長々と説明しましたが、しかし基本的に報告書では、意見は無くてもいいか、あっても手短かにすべきです。\nまた、メールなどで、なにかの提案メールを書く場合などでも、気をつけるべき事として、意見にともなう提案の論拠を、あまり長々と書きすぎないように、気をつけてください。\nなぜなら、もし提案などを書いても、その提案が不採用になる場合もあります。不採用になるかもしれないのに、提案の論拠を長々と書かれては、上司にとって困ります。\nしかし、たとえそれでも論拠を意見には書くべきです。論拠を書く理由は、上述のような上司を説得する理由のほかにも、理由がいくつかあります。\nまず、調査した本人にとっては当然のよくある思考法であっても、それ以外の役職の人にとっては、以外とわかりづらい思考法の場合があります。なので、短くてもいいので、自分以外の役職の人にも思考が分かるように、どういう思考回路でどう提案しているのかを示す必要があります。\nまた、もう一つの理由とは、たとえ提案が不採用になっても、その論拠を導くための思考方法などは、別の報告や仕事などで活用できる場合があるからです。\n論拠を読んだ上司が、回答として「君のこの提案は却下するが、しかし、きみの説明する根拠にも一定の事実がありそうなので、よって、別件であるが、わが社は□□をしようと思う」などのように、別の分野に流用される場合があります。\nともかく、もし意見をなにかの書類や仕事メールなどに書く場合には、主張する提案などに、論拠を手短かに加えましょう。\n日本語では通常、通常の文章の文末には「。」をつけます[73]。\n市販の報告書の書き方入門本を見ても、文末は原則的に「。」をつけています。(たとえば 倉島保美『改訂新版 書く技術・伝える技術』あさ出版 )\n例外的に文末に「。」をつけない場合とは、\n小中高では会話文の最後に「。」をつける文体で紹介されます。たとえば\nのように。\nしかし市販の書籍の多くでは、会話文の最後には「。」をつけていないです。たとえば\nのように、会話の最後の「。」は省略されることも、よくあります。\n体言止めをレポートの文末で使うというミスが市販の入門書から報告されていますが[75]、やはり体言止めの効果である余韻を残すことは、レポート・報告書の目的である正確な報告とはズレていますので、体言止めの濫用はひかえるべきでしょう。\nもし、文献調査などをした報告書の場合、参考文献があるので、参考文献を末尾につけると、読者が検証しやすくなり、便利です。\n引用箇所だけでなく、さらに巻末にも、こういった参考文献リストが必要です。\n本wikiにも、(執筆時点の版では)参考文献リストが記載されていると思いますので、参考にしてください。\n印刷する場合、ビジネスの報告書は基本、フォントサイズは12pくらいが目安です[76]。\nどうしても小さくする場合でも、最低でも 10.5pt はないと、老眼などの人が読めません[77]。\n提案書とか会議などで、よくあるダメな言い回しとして、「効率化するべき」とか「高度化するべき」とかいう文言があります[78]。\n「効率化するべき」とかの言い回しは、具体的な行動の提案になっておらず、目標に過ぎません。\n新人とかに「効率化するべき」などと言われるまでなく、上司はとっくに仕事の効率化を目指しています。読み手である上司が提案書などで知りたいのは、効率化をするために「具体的に何をするか?」というアイデアです。\nしかし「効率化するべき」とかの言い回しは、なんのアイデアにもなっていません。\nこういう具体的な行動を伴わない用語は、気をつけましょう。なるべく、具体的な行動を伴わない用語は、提案や企画などでは避けるべきです[79]。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%81%8D%E6%96%B9"} {"text": "メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。\n「王様は、人を殺します。」\n「なぜ殺すのだ。」\n「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」\n「たくさんの人を殺したのか。」\n「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」\n「おどろいた。国王は乱心か。」\n「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」\n 聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」\n メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。\n「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。\n「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。\n「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」\n「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」\n「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」\n「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」\n「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」\n「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」\n「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」\n「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」\n それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。\n「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」\n「なに、何をおっしゃる。」\n「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」\n メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。\n 竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。\n メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。\n「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」\n 妹は頬をあからめた。\n「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」\n メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。\n 眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄の季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。メロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、\n「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」\n 花嫁は、夢見心地で首肯いた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、\n「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」\n 花婿は揉み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。\n 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。\n 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」\n 濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。\n「待て。」\n「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」\n「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」\n「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」\n「その、いのちが欲しいのだ。」\n「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」\n 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、\n「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。\n ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。\n 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。\n 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。\n「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。\n「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。\n「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」\n「いや、まだ陽は沈まぬ。」\n「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」\n「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。\n「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」\n「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」\n「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」\n 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。\n「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、\n「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。\n「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」\n セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、\n「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」\n メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。\n「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。\n 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。\n「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」\n どっと群衆の間に、歓声が起った。\n「万歳、王様万歳。」\n ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。\n「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」\n 勇者は、ひどく赤面した。\n(古伝説と、シルレルの詩から。)\n青空文庫より引用。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E8%B5%B0%E3%82%8C%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%82%B9"} {"text": "中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。\nまず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。\nこのような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。\n念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。\nまた、平仮名は、その文字自体には意味が無い。\nいっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。\nまた、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。\n漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。\nいっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。\n「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。\nなお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。\n日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。\n日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。\n日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。\nまた、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。\nその段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。\n場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。\nたとえば\nとか\nなどのように。\nさて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。\n例\n上の例の文章は、4つの文でできている。\nそして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。\nまた、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。\n例\n「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。\nさらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。\nたとえば、\n例\nなら、\nと単語分けすることができる。\n文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。\n主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。\nたとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。\n一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。\nしかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。\nまた、日本語の文には、主語が無い場合もある。\nたとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。\nまた、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。\nまた、\nの場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。\n述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。\nたとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。\nなお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。\n主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。\n修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。\nたとえば、\nなら「まじめに」の部分が修飾語である。\nいっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。\n「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。\n「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。\n「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。\nこの例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。\nまた、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。\nまたは単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。\nいっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。\nたとえば、\nこの場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか?\nヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか?\n答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。\nいっぽう、\nなら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。\nのように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。\n接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。\n接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。\nエラーしたのが山田?出塁したのが山田?\n独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。\n\nあいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。\n上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。\n上の例文の「山田さん」も独立語です。\nいっぽう、\nこの例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。\nこの例文の「あのう」は独立語です。\nこの例文の「東京」は独立語です。\n二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。\n連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。\nまた、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。\n日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文\nの主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。\nしかし、\nという文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。\nそこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。\nの主部は、「自分の消しゴム」です。\n例文\nの述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。\nそこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。\nこの文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。\n例文\nについて、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。\nそこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。\n「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。\n「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。\nこの「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。\nつまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。\nまた、並立の関係にある単語を並立語といいます。\n「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。\nさきほどの例文では述語が並立していました。\nほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば\nという例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。\n\n単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。\nたとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。\nいっぽう、「に」は自立語ではない。\n原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。\nなお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。\nなお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。\nいっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。\n付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。\n名詞は普通、自立語に分類する。\n動詞の語感を自立語に分類する。\n動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。\nたとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。\n(学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。\n(学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。\n\n「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。\nたとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。\nこのように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。\n自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。\nたとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。\n「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。\n付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。\n活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。\n用言は普通、述語になれます。\n後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。\n動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。\n形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。\n用言の性質として\nなどの性質があります。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。\n後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。\n名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。\n体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。\n「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。\nたとえば「歩く」なら、\n「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。\nまた、動詞は述語になることができる。\nたとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。\n動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。\nたとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。\nいっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。\n同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。\n「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。\nまた、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。\n「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。\n名詞には、いろいろな種類がある。\n「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。\n「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。\n「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。\nのような文での「もの」、\nまたは\nの「こと」のような名詞を、形式名詞という。\n「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。\n※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。\n代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。\nいっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。\n代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。\n代名詞は、活用がない語である。\n\nこの一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。\nけっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。\n代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。\n名詞は普通、自立語です。\n副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。\n副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\n程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。\n「呼応の副詞」とは、\nのように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。\nたとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。\n「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。\nのように\nの「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。)\n(※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、\n※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。\nの「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。)\n「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。\n「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。\nこれ以外にも、\nまたは\nとかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。\n教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。\nたとえば、\nのように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている)\nなどの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。)\n叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\nの「ゆっくり」は、状態の副詞である。\n程度の副詞は、\n「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。\nの「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。\n「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。\n「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、\n「もっと右。」「もっと昔から。」\nのように名詞などの体言を修飾することもある。\nまた、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。\n指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。\n連体詞の直後には、かならず体言がつく。\n「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。\n「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。\nたとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。\n「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。\nなので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。\n同様に、「小さな」も連体詞である。\n「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。\n\n「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。\n\n「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。\n動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。\nなどの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。\nいっぽう\nの「ある」は、動詞である。\nこのように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。\nのような連体修飾語「去る」は連体詞である。\n「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。\nたとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。\nこのように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。\n形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈)\n「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈)\n\n感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。\n典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞)\nいろいろな例\n\n「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。\n「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。\n助動詞とは、活用のある付属語です。\n「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。\nつまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。\nいっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。\n「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。\n「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。\n「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。\n「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。\n動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。\nたとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。\n活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。\nたとえば、動詞の活用形には、\nの6種類がある。\nまた、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。\nたとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。\n「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。\n動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。\nたとえば、上記の「咲く」の場合、\n「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。\nまた、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。\n「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。\n五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。\nたとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。\n\n命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。)\n下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。\n\n上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。\n\n「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。\nもし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。\nなので、「起きる」の語幹は「お」にされている。\n「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。\n\n下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。\n「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。\nカ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。\nカ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\nサ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。\nサ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\n動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。\n「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令)\nというように、動詞「書く」は5段活用される。\nしかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。\n「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。\nいっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。\nこの「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。\n動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。\nこれは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。\nこの「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。\n「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。\n動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。\n共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。\nしかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。\n促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。\n撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。\nなお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。\n\n特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば\nの「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。\n本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。\nこのように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。\n形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。\n助動詞と補助動詞とは違う。\nなどの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。\nの「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。\nの「いただく」・「なる」も補助動詞である。\n「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。\n学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。\nたとえば\nなど、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。\nいっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。\nつまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。\n「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。\n動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。\n例:「起きる」と「起こす」。\n「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 \n一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。\n「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。\nものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。\nなど。\n\n特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は\nというように「無」の状態を表す場合と、\nのように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。\nこの、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。\n「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、\n「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。\nしかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。\nまた、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。\nこのように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。\nなお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。)\n「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。)\nなお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。\nなお、「ほしい」は同じ意味の英語の\"want\"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。\n「ほしい」も\nのように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。\n日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。\n補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。\nつまり、\n例\nという文章では、「歩いている」で、1文節と数える。\nつまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。\nまた、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。\n(批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、\nたとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、\nしかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。\n「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。)\n「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。\n形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。\n形容動詞に命令形は無い。\n「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。\nなお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。\n単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。\n文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。\n助動詞には、次のものがある。\n例\n活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。\n例\n「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。\n例\n「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。\n「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。\nなお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。\n例\nこの文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。\nこの文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。\n服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。\nまた、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。\n「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。\n「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。\n「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。\n\n「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。\n「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。\n(※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。\n時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。\n「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。\n「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。\n「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。\nまた、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。\n「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。\n「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。\n「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。\n「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。\n「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。\n「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。\n「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。\n「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。\n(※ 執筆中)\n国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。\n助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。\n主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。\n学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。\n格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。\nたとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、\nそれとも\nはたまた\nのかわからない。\nこの「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。\n気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。\nつまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。\nしかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。\nなお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\nつまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。\n\nさて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。\n三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。)\nたとえば、(学校教科書では習わない文だが、)\nという文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。\n助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。\n(※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。\nなどの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。\n「の」には、\nのように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味)\nのように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。\nこのように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。\nまた、\nのように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。\nこれらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。\nなお、混同しやすい例として\nのような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。\n接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。\n「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\n副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。\n三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。\n教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。\n\n終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。\n他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。\n単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。\n1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。\n「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。\nどちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。\n単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。\n日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。\n接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。\n文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。\n例文:\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95"} {"text": "中学校の教科書の漢文では、一年生では故事成語(こじせいご)を習い、二年生以降杜甫(とほ)、李白(りはく)、孟浩然、王維(おうい)などの唐代の盛唐四大家の詩と論語(ろんご)を学ぶ。\n学習内容は、レ点(れてん)や一二点(いちにてん)、漢詩(絶句、律句などの形式)である。\n白文(はくぶん)は、この後紹介する返り点や送り仮名を書いていない、漢文の元の文章をそのまま書き表したものである。\n訓読文(くんどくぶん)は、白文に日本語として読みやすいように返り点や送り仮名をつけた文である。\n書き下し文(かきくだしぶん)は、訓読文についている返り点や読み仮名を反映した、日本語として成立した文である。\nレ点(れてん)とは、上の語と下の語を入れ替えて読む記号である。漢字と漢字の間の左に書く。\n例えば、\nは、「別れを恨みては鳥にも心を驚かす」となる。\n一二点は、二点が上にあり、一点が下にある。\n読み方は、二点のすぐ上の語を最後に読み、先に二点のすぐしたにある語から一点になるまで下に読み続ける。\n例えば、\nは、「烽火三月に連なり」となる。\n今度はこれらを組み合わせたものを見てみよう。\nこの場合、レ点が連続していることがわかる。このときは二つ目のレ点の下・真ん中・一番上とよむ。したがって「その人応(こた)ふる能(あた)はざるなり」と書く。\n今度は一点とレ点が組み合わさっている。このときはレ点を優先して「之(これ)」から読み、続いて「問」を読むようにする。他は基本に従って読む。そうすると「子路(人名)をして之に問はしむ」と読む。\n漢文を書き下し文にして読むときに使用しない字がある。これを置き字(おきじ)という。中学校では「而」「於」ぐらいしかないので覚えてしまいたい。ただし、ひらがなで読みがなが書かれているときには書き下し文に書いて読む。\n詩の形式は、律詩、絶句と五言、七言を組み合わせた四つがある。\n律詩は、首聯(一・二句目)・がん聯(三・四句目)・頸聯(五・六句目)・尾聯(七・八句目)からできている。\nそのうち、がん聯と頸聯は対句とし、レ点や一二点の位置を句内で対称にする。\n絶句は、起句(一句目)・承句(二句目)・転句(三句目)・結句(四句目)からなる。\n五言は、一句の文字数が五つである。また、七言は、文字数が七つである。\n押韻は、同音の句が韻を踏んでいることである。\n五言の場合は、偶数句末。七言は、初句末と偶数句末である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87"} {"text": "\n国破れて 山河在り\n(くにやぶれて さんがあり)\n城春にして 草木深し\n(しろはるにして そうもくふかし)\n時に感じては 花にも涙を濺ぎ\n(ときにかんじては はなにもなみだをそそぎ)\n別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす\n(わかれをうらんでは とりにもこころをおどろかす)\n烽火 三月に連なり\n(ほうか さんげつにつらなり)\n家書 万金に抵たる\n(かしょ ばんきんにあたる)\n白頭掻けば 更に短く\n(はくとうかけば さらにみじかく)\t\n渾て簪に 勝えざらんと欲す\n(すべてしんに たえざらんとほっす)\n国の都の長安は戦争で破壊されてしまったが、自然の姿は昔のままである。\n町にも春が来て、草木は深く生い茂っている。\nこのような戦乱の時世を思えば、花を見ても涙が落ちる。\n家族との別れを悲しんでは、鳥の鳴き声を聞いても心が痛む。\n戦乱ののろし火は、もう何ヶ月も続いていて、家族からの手紙は万金にも値(「あたい」)する(ほど貴重である)。\n(悲しみのあまり頭を掻いて)白髪頭を掻けば、(髪が抜けるので)髪は更に薄くなって、簪(かんざし)も挿せなく(させなく)なりそうだ。\n四句からなる詩を絶句(ぜっく)といい、八句からなる詩を律詩(りっし)という。\n『春望』の形式は律詩。(八句からなるので。)\n律詩のうち、一句の字数が五字のものを五言律詩(ごごんりっし)といい、一句の字数が七字のものを七言律詩(しちごんりっし)という。\n『春望』の形式は五言律詩。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E6%98%A5%E6%9C%9B"} {"text": "黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の 広陵(こうりょう)に之く(ゆく)を送る\n故人(こじん)西のかた、黄鶴楼(こうかくろう)を辞(じ)し\n煙花(えんか)三月(さんがつ)揚州(ようしゅう)に下(くだ)る\n孤帆(こはん)の遠影(えんえい)、碧空(へきくう)に尽(つ)き\n唯だ(ただ)見る長江(ちょうこう)の天際(てんさい)に流るる(ながるる)を\n古くからの友人(孟浩然)は、西にある黄鶴楼(こうかくろう)に別れを告げ、\n花が咲き春の霞が立つ三月に、揚州へと(長江を)下っていった。\n遠くに見える(友が乗っている)一そうの舟の帆も、青空に消えそうになり、\nただ、長江が天の果てまで流れていくのを見るばかりである。\n七言絶句\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC%E3%81%AB%E3%81%A6%E5%AD%9F%E6%B5%A9%E7%84%B6%E3%81%AE_%E5%BA%83%E9%99%B5%E3%81%AB%E4%B9%8B%E3%81%8F%E3%82%92%E9%80%81%E3%82%8B"} {"text": "\n江(こう)は 碧(みどり)にして 鳥(とり)は 逾々(いよいよ)白(しろ)く\n山(やま)は 青(あお)くして 花(はな)は 然えん(もえん)と欲す(ほっす)\n今春(こんしゅん) 看(みすみす) 又(また)過(す)ぐ\n何(いず)れの日(ひ)か 是(こ)れ 帰年(きねん)ならん\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E7%B5%B6%E5%8F%A5"} {"text": "\n春眠不覚暁   春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚えず(おぼえず)、\n処処聞啼鳥   処処啼鳥(しょしょていちょう)を聞く、\n夜来風雨声   夜来風雨(やらいふうう)の声(こえ)、\n花落知多少   花(はな)落つること(おつること)知る(しる)多少(たしょう)。\n漢文(かんぶん)とは、昔の中国の文章。漢文の原文は、漢字のみ。しかし、漢字だけでは、われわれ日本人が読みづらいので、古くから日本では、送り仮名をつけて読んでいた。「春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず(おぼえず)、」といった読み方は日本での読み方であり、べつに中国人が、こう読んでいるわけではない。また、日本語での語順と、漢文の語順はちがっている。文法が、中国語と日本語ではちがうので、語順がちがってくるのである。\n四句からなる詩を絶句(ぜっく)といい、八句からなる詩を律詩(りっし)という。\n絶句のうち、一句の字数が五字のものを五言絶句(ごごんぜっく)といい、一句の字数が七字のものを七言絶句(しちごんぜっく)という。\n一句の字数は五字で四句からなるので、『春暁』の形式は五言絶句である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E6%98%A5%E6%9A%81"} {"text": "(書き出しの部分)\n(インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。\n沙羅双樹の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという事をあらわしている(ように見える)。\nおごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。\nまるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。\n遠く異朝(いてう、イチョウ)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(ちょうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りゃう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、諌め(いさめ)をも思ひ(オモイ)入れず、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。\n近く本朝(ほんてう、ホンチョウ)をうかがふに、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これらはおごれる心もたけき事も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、\n間近くは(まぢかくは)、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう、ニュウドウ)前(さきの)太政大臣平朝臣(タイラノアッソン)清盛公と申しし人のありさま、伝へ(ツタエ)承る(うけたまはる、ウケタマワル)こそ、心も詞(ことば)も及ばれね(およばれぬ)。\n遠く外国の(例を)さがせば、(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に)忠告されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに滅んでしまった者たちである。\n(いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。\n一の谷の戦いで源氏が勝利をおさめ、平家は海上に逃れていった。\n源氏の武将、熊谷(くまがい)が磯(いそ)のほうに進むと、なにやら立派な鎧の敵将が、これから海に逃れようとしている。\n熊谷、\n「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ(さふらえ)。まさなう(ノウ)も敵(かたき)に後ろ(うしろ)を見せさせたまふものかな。返させたまへ。」\nと扇(あふぎ、オウギ)を上げて招き(まねき)ければ、招かれてとつて(トッテ)返す。\n汀に(みぎはに、ミギワに)うち上がらむとするところに、おし並べてむずと組んでどうど落ち、とつて(トッテ)おさへて首をかかんと甲(かぶと)をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧(うすげしやう)して、かねぐろなり。わが子の小次郎(こじらう)がよはひ(ヨワイ)ほどにて容顔まことに美麗(びれい)なりければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。\n熊谷が(言った)、\n「そこを行かれるあなたは大将軍とお見受けいたします。見苦しくも敵(=源氏)に後ろ(=後ろ姿、背中)をお見せになるものよ。お引き返しなされ。」\nと扇を上げて、招くと、(その平家の武者は、)招かれて引き返す。\n(平家の武者が)波打ち際に上がろうとするところに、(熊谷は、馬を)強引に並べて、むずと組んでどうっと落ち、(熊谷が、平家の武者を)取り押さえて、(平家の武者の)首を切ろうと、かぶとを仰向け(おうむけ)にして(顔を)見てみると、年十六、七くらいの(若武者)が薄化粧して、お歯黒をつけているのであった。わが子の(熊谷の子の)小次郎ぐらいの年齢であった。顔立ちがたいへんに美しく、(熊谷は)どこに刀をさしてよいかも分からない。\n「そもそも、いかなる人にてましまし候ふ(さふらふ、ソウロウ)ぞ。名のらせたまへ、助けまいらせん。」\nと申せば、「汝は(ナンジは)たそ」\nととひ給ふ。\n「物そのもので候はねども、武藏(むさし)の国(くに)の住人、熊谷(くまげへの、クマガエノ)次郎(じらう、ジロウ)直実(なほざね、ナオザネ)。」と名のり申す。\n「さては、なんぢにあふては名のるまじゐ(イ)ぞ、なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも首をとって人に問へ(トエ)。見知らふ(ミシロウ)ずるぞ。」\nとぞのたまひ(イ)ひける。\n(熊谷が若武者に言った、)「いったい、(あなたは)どういう身分の人にて、いらっしゃいますか。お名乗りください。お助けいたしましょう。」と申すと、「(そういう)おまえは誰だ。」とお尋ねになる、(熊谷は答えて、)「物の数に入るほどの者ではございませんが、武蔵野の国の住人、熊谷次郎直実。」と名乗り申し上げる。\n(若武者は答えて)「それでは、お前に対しては名乗る気はないぞ。お前の(手柄の)ためには、(私は)よい敵だぞ。(私が)名乗らなくても、首を切って、人に(私の名を)尋ねてみろ。見知っているだろうよ。」と、おっしゃった。\n熊谷(くまがえ)\n「あつぱれ(アッパレ)大将軍(たいしやうぐん)や、この人一人(いちにん)討ち(うち)たてまたりとも、負くべきいくさに勝べきやう(ヨウ)もなし。また討ちたてまつらずども、勝つべきいくさに負くることよもあらじ。小次郎が薄手(うすで)負うたるをだに、直実は心苦しう(クルシュウ)こそおもふに、この殿(との)の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆き(なげき)たまはん(タマワン)ずらん、あはれ(アワレ)、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきっと見ければ、土肥(とひ、トイ)・梶原(かぢはら、カジワラ)五十騎(き)ばかりで続いたり。\n熊谷(くまがえ)泪(なみだ)をおさへて申けるは、\n「助けまゐ(イ)らせんとは存じ候へども、味方(みかた)の軍兵(ぐんぴょう)、雲霞(うんか)のごとく候ふ。よものがれさせ給はじ。人手にかけまゐ(イ)らせんより、同じくは、直実が手にかけまゐ(イ)らせて、後の御孝養(おんけんやう)をこそ仕り(つかまつり)候はめ。」\nと申ければ、\n「ただ、とくとく首をとれ。」\nとぞのたまひける。\n熊谷あまりにいとほ(オ)しくて、いづくに(イズクニ)刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く々く首をぞかいてんげる。\n「あはれ、弓矢とる身ほど口惜し(くちをし、クチオシ)かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目(うきめ)をばみるべき。情けなうも討ちたてまつる物かな。」\nとかきくどき、袖を顔(かほ)に押し(おし)あててさめざめとぞ泣きゐ(イ)たる。\n熊谷は(言った)、「ああ、立派な大将軍だ。この人一人を討ち申したとしても、負けるはずのいくさに勝てるわけでもない。また、討ち申さなくとも、勝つはずのいくさに負けることも、まさかあるまい。わが子の小次郎が軽い傷を負っただけでも、この直実(自分)はつらく思うのに、まして、この殿(若武者)の父親は、(子が)討たれたと聞いたら、どれほどお嘆きになるだろう。ああ、お助け申したい。」と思って、(自分の)後ろをさっと見てみれば、(味方の源氏の)土肥・梶原の軍勢が五十騎ほど続いている。\n熊谷は泪(なみだ)を抑えて、(若武者・敦盛(あつもり)に)申したことは、「お助け申したいとは思いますが、味方(=源氏側)の軍勢が雲霞のように(大ぜい)おります。決して、お逃げにはなれないでしょう。他の者の手にかかるならば、(どっちみち命が助からないのならば、)同じことなら、この直実の手でお討ちになり、のちのご供養(ごくよう)をさせていただきましょう。」と申したところ、\n(若武者は、)「とにかく、さっさと(私の)首を取れ。」とおっしゃった。\n熊谷は、あまりに、(若武者が)かわいそうに感じて、どこに刀を刺してよいかも分からず、涙で目もくらみ、気も動転して、(まるで)前後も分からないようなほどに思われたけど、(けっして、いつまでも、)そうばかりもしていられないので、泣く泣く首を切ってしまった。\n(熊谷は、)「ああ、弓矢を取る(武士の)身ほど、悔やまれるものはない。武芸の家に生まれさえしなければ、なんでこのようなつらい目にあったであろうか。非情にも、お討ち申しあげたものだ。」と、くりかえし嘆き(「かきくどき」=繰り返し、つぶやく。)、そでを顔に押し当てて、さめざめと泣き続けた。\nやや久しう(シュウ)あつて(アッテ)、さてもあるべきならねば、鎧(よろい)直垂(びたたれ ←ひたたれとも読むがこの場合はびたたれ)をとつて(トッテ)、首を包まん(つつまん)としけるに、錦(にしき)の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。\n 「あないとおし、この暁(あかつき)、城のうちにて管絃(くわんげん、カンゲン)したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢何万騎(ぎ)かあるらめども、いくさの陣(ぢん)へ笛持つ人はよもあらじ。上﨟(じやうらふ)は、なほも(ナオも)やさしかりけり。」\nとて、九郎御曹司(くらういんざうし)の見参(げんざん)に入れたりければ、これをみる人、涙を流さずといふことなし。後に聞けば、修理大夫(しゅりのだいぶ)経盛(つねもり)の子息に大夫敦盛(あつもり)とて、生年(しょうねん)十七にぞなられける。\nそれよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん、ホッシン)の思ひ(オモイ)はすすみけれ。\n(翻訳は省略前節の解説を読んでください。)\n結末: 結局、与一の放った矢は命中する。\n那須与一は、源氏のがわの兵で、弓矢の名人。\n海上にいる平家の側の舟から、扇(おうぎ)のついた棒の立った舟が出てきたので、疑問に思った義経が「あれは何だ?」と部下に聞いたところ、「この扇を射ってみろ、という事でしょう。おそらく、弓をいろうと出てきた義経さまを、逆に射殺してやろうという策略でしょう。それでも、部下のものに、扇を射させたほうが、よろしいでしょう。」と。\nそして、与一が選ばれる。\n途中、いろいろあったが、最終的に扇に、与一の矢が命中する。\n頃(ころ)は二月(にんぐわつ)十八日の酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。\n舟は、揺り上げ揺りすゑ(え)漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。\n沖には平家、舟を一面に並べて見物す。\n陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。\nいづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。\n与一目をふさいで、\n「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光(につくわう、ニッコウ)の権現(ごんげん)、宇都宮(うつのみや)、那須(なす)の湯泉大明神(ゆぜんだいみやう(ミョウ)じん、)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へん(ムカエン)とおぼしめさば、この矢はづさせ(ハズサセ)たまふな。」\nと心のうちに祈念(きねん)して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。\n与一、鏑(かぶら)を取つてつがひ、よつ引ぴいて(ヨッピイテ)ひやう(ヒョウ)ど放つ。\n時は二月十八日の酉の刻(=午後六時)ごろのことであったが、折から北風が激しく(吹い)て、磯に打ち付ける波も高かった。舟は(並みのため)上へ下へと揺れて漂うので、扇も竿の先に静止しておらず、ひらひらとしている。沖では平家が、舟を一面にならべて見物している。(いっぽう、)陸では源氏が、馬のくつわを並べて、これを見守る。\nどちらも、どちらも、晴れがましい情景である。与一は目をふさいで、\n「南無八幡大菩薩(なむはちまん だいぼさつ)、わが故郷の神々の、日光の権現(ごんげん)、宇都宮大明神と、那須の湯泉(ゆぜん)大明神よ、願わくは、あの扇の真ん中を射させてください。(もし、)これを射損じるものならば、弓を切りおって(私・与一が)自害(自害=自殺・切腹など)し、人に(他人に)二度と顔を合わせるつもりはありません。いま一度、(私を)故郷に迎えてやろうとお思いになるなら、この矢を外させないでください。」\nと(与一が)心のうちに祈り(いのり)念じて、(与一が)目を見開いたところ、風も少し弱まり、扇も(静かになり)射やすくなった。\n与一は鏑矢(かぶらや)を取ってつがえ、十分に引きしぼって(「よっぴいて」=「よく引いて」の音便)、ひょうと(矢を)放った。\n小兵(こひやう、コヒョウ)といふぢやう(イウジョウ)、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)際(ギワ、ぎは)一寸ばかりおいて、ひいふつ(ヒイフッ)とぞ射切つ(キッ)たる。\n鏑(かぶら)は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。\nしばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつ(サッ)とぞ散つたり(チッタリ)ける。\n夕日のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ、クレナイ)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ(タダヨイ)、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船端(ふなばた)をたたいて感じたり、陸には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。\n(与一は)小柄な武者とは言いながら、矢(の長さ)は十二束三伏で(長くて)、弓も強く、浦一帯に響くほど(鏑矢は)長いあいだ鳴り響き、誤りなく扇の要際から一寸ほど離れたところを、ひいふっと射きった。かぶら矢は海へ落ち、扇は(衝撃で)空へと舞い上がった。\n扇は、しばらく空中で舞っていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散り落ちていった。夕日のかがやいている中に、日輪を描いた真っ赤な扇が白波の上に漂い、(扇が)浮きつ沈みつ揺られれば、沖では平家が(感嘆し)、船端を叩いて感嘆し、陸では源氏が、えびらをたたいて、はやしたてた。\nあまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男(をのこ)の、黒革をどしの鎧(よろひ)着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持つたる(モッタル)が、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。\n伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄って、\n「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ。」\nと言ひければ、今度は中差(なかざし)取つて(トッテ)うちくはせ、よつぴいて、しや(シャ)頸(くび)の骨をひやうふつ(ヒョウフッ)と射て、舟底へ逆さまに射倒す。\n平家の方(かた)には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。\n「あ、射たり。」\nと言ふ(イウ)人もあり、また、\n「情けなし。」\nと言ふ者もあり。\nあまりの面白さに、感に堪えなかったのであろうか、舟の中から年のころ五十歳ばかりの男で、黒革おどしの鎧を着ていて、白江の長刀を持った男が、扇の立ててあった場所に男が近づき、舞を踊る。(源氏側の)伊勢(いせの)三郎(さぶろう)義盛(よしもり)は、与一の後ろに馬を歩み寄らせ、「ご命令だ、射よ。」と言うので、(与一は)今度は中差を取って弓につがえ、十分に引きしぼり、男の首の骨をひょうふっと射て、男を(船底へ)真っ逆さまに射倒す。\nその平家側の男を射ることを命じる。命令どおり、与一は射って、舞っていた男は首のあたりを射られ、射殺され、海へと落ちる。\n「ああ、射当てた。」と言う人もあれば、「非情だ。」と言う者もいる。\n作者は、舞をまった男を殺した源氏の行為を、戦場の非情さの例として書いている、と思われる。\n戦場なので、敵を殺すこと自体には、非難される理由はない。\nしかし、作者は、「情けなし。」(非常だ。心無いことだ。)という意見を、あえて取り上げている。ここに、戦場の敵側とはいえ、自分たち源氏を祝う者を殺した源氏に対しての、作者の不快感が出ていると思われる。そして、なにより、戦場の非情さを描いていると思われる。\nそして、人生の \"はかなさ\" を書こうとしているものと思われる。\nそのほか、平家と源氏との美意識のちがいなどを、作者は書こうとしていると思われる。平家の、敵とはいえ素晴らしい者には祝って舞を舞うという風流な価値観。いっぽう、源氏の側は戦争の勝利こそが、武士の名誉と考えている。\n平家と源氏の美意識のちがいは、ひいては、貴族と武士との価値観の違いであろう。\n(なお、平家も、武士の一族である。)\n平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。\n作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。\n作者:不明\n平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興(しんこう)の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。\n平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。\nなお、平家がほろび、源氏(げんじ)の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。\n那須与一は、歴史上は実在しなかった、架空の人物の可能性がある。そのため読者は、中学高校の歴史教科書では、那須与一を実在人物としては習わないだろう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E5%8F%A4%E6%96%87/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "仁和寺の僧侶の失敗談。\nある仁和寺の僧侶が、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を拝もうと旅行したが、付属の神社などを本体と勘違いし、本体である石清水八幡宮には参拝しないまま、帰ってきてしまった、という話。\n兼好法師は、教訓として「ささいなことにも、指導者は、あってほしいものだ。」と結論づけている。\n石清水八幡宮は山の上にあり、その山のふもとには付属の自社である極楽寺や高良神社がある。\n仁和寺(にんなじ)にある法師(ほふし)、年寄(としよ)るまで、石清水(いはしみづ)を拝ま(をがま)ざりければ、心憂(う)く覚えて、ある時(とき)思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)より詣で(まうで)けり。極楽寺(ごくらくじ)、高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得(こころえ)て帰りにけり。\nさて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果(はた)し侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊く(たっとく)こそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事(なにごと)かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。\nすこしのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。\n仁和寺(にんなじ)にいる僧が、年をとるまで、岩清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)を参拝しなかったので、(まだ参拝してないことを)残念に思ったので、あるとき(参拝しようと)思い立って、たった一人で徒歩で、お参りした。極楽寺(ごくらくじ)や高良神社(こうらじんじゃ)などを拝んで、これだけのものと思い、帰ってしまった。\nさて(帰ったあと)、仲間に向かって、「長年の間、思っていたことを、果たしました。(八幡宮は、)(うわさに)聞いていた以上に、とうとくあられた。それにしても、(岩清水に)お参りにきていた人が、みんな、山に登って行ったのは、何があったのだろうか。(私も)ぜひ見てみたかったけれど、(岩清水八幡宮の)神へお参りするのが最初からの目的であると思って(観光旅行ではないので、よそはよそと)、山までは見なかった。」と言ったという。\n(こういうことがあるので、)ちょっとしたことにも、その道の案内者はあってほしいものである。\n「尊く」は「とうとく」「荘厳で」。「おはす」は「あられる」「いらっしゃる」。「けれ」は過去を表す助動詞「けり」の已然形。\n→ 仁和寺のお坊さんは、他の参拝者の皆が山に登るので、なぜ登っているのか、山の上に何があるのかが、たいそう気になったのである。多くの人は、岩清水八幡宮(のご本尊)が山上にあることくらい知っている。しかし、このお坊さんは、岩清水八幡宮へはもうすでに全部お参りしたと勘違いしていて、長年の夢を果たしたとひとり思い込んで(せっかく出かけたのに)帰ってしまった。しかも、それを仲間に得意げに(きまじめな顔で)話している、少しおっちょこちょいなお坊さんである。\nそうして、著者の兼好法師は、ちょっとしたことも、ガイドさんがいた方が、失敗が無くてすむというものだ、という結論で締めくくっているのである。この話を読んだ私たち読者は、これを教訓として捉えるのである。\n※「係り結びの法則」について\n(書き出しの部分)\n(一人で特にすることもなく、)退屈なのにまかせて、一日中、机に向かって、心の中に次々と浮かんでは消えていく、たわいのないことを、(勢いにまかせて、)とりとめもなく書きつけていると、妙になんだかおかしな気分になってくる。\n「ものぐるほし」: 単語集によっては意味が「気が変になりそうだ」というものもあれば(桐原)、「馬鹿げている」というものもある(三省堂)。このように、単語集によって訳が違うので、訳出において、あまり細部を暗記する必要はない。\n「つれづれなる」: 徒然草は鎌倉時代に書かれた作品である。さて、「つれづれなる」という言葉を使い始めたのは、けっして鎌倉時代の吉田兼好ではない。すでに平安時代の『源氏物語』という作品で(高校で源氏物語を習う。なお、鎌倉幕府の源平合戦とは無関係)、「つれづれなるままに、南の半蔀(はじとみ)ある長屋に渡り来つつ」(源氏物語・夕顔(ゆうがお) )という文がある。「手持ちぶさたなので(「特にすることがないので」という意味)、南の半蔀(はじとみ)ある長屋にやって来ては」と訳せる。\n上述の語注の「(3) 静かで集中できるさま」は、やや意訳である。高校レベルの単語集を見ても(桐原、三省堂)、そのような意味は無い。\nこのほか、平安時代に『枕草子』で、134段「つれづれなるもの、除目(ずもく)に官(つかさ)得ぬ人の家。」とあるが、ただし前後の文脈からこの場合、「退屈」とは意味がやや違っている。\nある人、弓射ることを習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて、的(まと)に向かふ。\n師の言はく、\n「初心(しょしん)の人、二つの矢を持つことなかれ。後(のち)の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度(まいど)、ただ、得失(とくしつ)なく、この一矢(ひとや)に定むべしと思へ。」\nと言ふ。\nわづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせむと思はんや。懈怠(けだい)の心、自ら(みづから)知らずといへども、師、これを知る。この戒(いまし)め、万事(ばんじ)にわたるべし。道を学する人、夕(ゆふべ)には朝あらむことを思ひ、朝には夕あらむことを思ひて、重ねてねんごろに修(しゅ)せむことを期(ご)す。いはむや、一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らむや。何(なん)ぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難(かた)き。\nある人が、弓を射ることを習うときに、二本の矢を手にはさんで、的に向かう。先生の言うには、\n「初心者は(= 習い始めの人は)、二つの矢を持ってはいけない。(なぜなら、)のちの矢(= 二本目の矢)をあてにして、はじめの矢(一本目の矢)を、おろそかにしてしまう気持ちがでる。毎回、当たるか外れるかを考えず、この一本で当てようと思え。」\nたった二本の矢を射るのに、先生の前で、おろそかにしよう(射よう)と思うだろうか。(いや、思うはずがない。)(しかし、)怠け心というものは、(弓を習っている)本人は気付かなくても、(実は)心の片隅に生じてしまうということを、先生は分かっている。(ところで、)この(弓についての)教訓は、全ての物事に通用するだろう。仏道を修める人は、夕方には翌朝があることを思い、朝には夕方があることを思って、あとでもう一度丁寧に修行する心づもりでいる。(そんなにのんきでいて、)どうしてほんの一瞬間の中に、怠けおこたる心があることを気付くだろうか、いや、気付きはしない。(しかし、実はここに怠けりの心が潜んでいるのである。)\n (こう考えてくると、)なんとまあ、たった今の一瞬間において、すぐに実行することの非常に難しいことよ。\n兼好法師は、鎌倉時代の人物。\n本名は、卜部兼好(うらべ かねよし)。\nはじめは、卜部家が代々、朝廷に神職として仕えていたので、兼好法師も後二条天皇に仕えていたが、崩御ののち、兼好法師は出家した。\n京都の「吉田」という場所に住んでいたので(あるいは、京都の「吉田神社」にちなんで)、江戸時代以降、吉田兼好(よしだけんこう)の名で広く呼ばれるようになった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E5%8F%A4%E6%96%87/%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89"} {"text": "『枕草子』(まくらのそうし)とは、清少納言(せい しょうなごん)という実在の女が、ひごろ、感じたことを書いた文章である。現代(げんだい)でいう、いわゆる「随筆」(ずいひつ)である。枕草子は、物語ではない。平安時代の作品である。\nうつくしきもの。瓜(うり)に描きたる(かきたる)ちごの顔。すずめの子の、ねず鳴きするに踊り(をどり)来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひ(はイ)くる道に、いと小さき塵(ちり)のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげ(おかしげ)なる指(および)にとらへて、大人ごとに見せたる、いとうつくし。\n頭(かしら)は尼(あま)そぎなるちごの、目に髪(かみ)のおほえるをかきはやらで、うち傾きて(かたぶきて)ものなど見たるも、うつくし。 \n現代語訳\nかわいらしいもの。瓜に描いてある幼児の顔。(また、他にも、かわいらしいものとしては、)すずめの子が、(人が)ねずみの鳴きまねをしてチュウチュウとすると、踊るようにして、やってくる(のも、かわいらしい)。\n(他にも。)二歳か三歳ぐらいの幼児が、急いで這ってくる途中に、とても小さいごみがあったのを、目ざとく見つけて、とても愛らしげな指(ゆび)につまんで、大人などに見せているのは、とてもかわいらしい。\n髪をおかっぱにしている幼児の、目に髪の毛がおおいかぶさっているのを、かきあげもしないで、首をかしげて何かを見ているのも、かわいらしい。\n(第一四五段)\n語註など\n「をかし」と「あはれ」の違い: 「をかし」も「あはれ」も、ともに「趣(おもむき)が深い」と訳される場合があるが、しかし意味あいは微妙に異なる。「をかし」は基本的に、やや明るい感じにさせるものを言う場合に使う傾向がある。 いっぽう、「あはれ」は、しみじみとした気分にさせるものを言う[1]。\n現代語訳\n春は、明け方(あけがた)が良い。\nだんだん、白くなっていく山ぎわが、\n少し明るくなって、紫がかった雲が、細くたなびいているのが、良い。\n(読み: はる わ あけぼの。 ようよう しろく なりゆく やまぎわ、 すこし あかりて、むらさきだちたる くも の ほそく たなびきたる。)\n夏は夜が良い。\n月のあるころは言うまでも無い。(言うまでもなく、良い。)\n月のない闇夜(やみよ)ですらも、蛍の多く飛び立っているのが見れて良い。\nただ、一ひき、二ひきなど、少しずつ飛んでいくのも、おもむきがある。\n雨などがふるのも、おもむきがある。\n「さらなり」の和訳の「言うまでもない」は、けっして意訳ではない。ほかの古典作品でも「言うまでもない」という意味である。\n高校レベルだが「大鏡」(おおかがみ)という古典でも「さらなり」という単語があり、ここでも「言うまでもない」という意味である。\n大鏡・6・冒頭部「延喜の御時に古今撰ぜられしをり、貫之はさらなり」(以下略)とあるのだが、これは意味は「延喜の時代、古今和歌集を撰じられたとき、紀貫之(きのつらゆき、※ 和歌ですごく有名な歌人のひとり)は言うまでもなく、」という内容である。\n\n秋は夕暮れが良い。\n夕日がさして、山ぎわに近くなったころに、からすが、ねぐらに帰るために、三羽・四羽、あるいは二羽・三羽、飛んでゆくのも、しみじみとしている。\nまして、かりなどの列をつくっているようすが、(遠くを飛んだりして)小さく見えるのは、とても、おもむきがある。日がしずんでしまって、風の音や虫の声が聞こえてくるのは、言うまでも無い。(言うまでもなく、とても、おもむきがある。)\n※ 「言ふべきにあらず。」の訳を、「言うことが出来ない。」「言いようが無い。」という訳をする場合もある。「言いようが無いほど、おもむきがある。」というような意味。\n冬は、早朝が良い。雪のふりつもった朝は、言うまでもない。(言うまでもなく、良い。) 霜(しも)がおりて、たいそう白くなっているのも、また、そうでなくとも、たいそう寒い朝に火などを急いで起こして炭火を持って、廊下(ろうか)などをわたるのも、(冬らしくて)とても似つかわしい。(しかし、)昼になって、寒さがしだいにゆるんでいくと、火おけの火が、灰がちに白くなっているのは、みっともない。\n(※高校の範囲)「つきづきし」 ・・・ 意味は「似つかわしい」。\n清少納言は、清原元輔(きよはらのもとすけ、908年 - 990年)の娘。清少納言の本名は不明。\n清原の姓にちなんで「清少納言」と呼ばれた。\n清少納言は、平安時代の女房(にょうぼう)の一人。女房とは、宮中の女官。\n清少納言は、枕草子の作者である。\n一条天皇の時代に、藤原定子(ふじわらのていし)の女房として宮中に仕えた。藤原定子は、一条天皇の中宮。\n藤原定子は女。「中宮」とは、天皇の妻たちの一つ。\n源氏物語の作者の紫式部とともに、平安時代の王朝についての代表的な作家として、清少納言は有名。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90"} {"text": "相手への敬意をあらわしたり、文をやわらかくする言葉を敬語(けいご)という。動詞や助動詞が特別な形になったり、名詞に「お」「ご」をつけることで敬語にすることができる。(一覧表はw:敬語より)\n敬語の分類法は、じつは2通りある。\nひとつは、丁寧語・尊敬語・謙譲語の3種類に分類する方法と、\nもうひとつは、丁寧語・尊敬語・謙譲語・美化語・丁重語の5種類に分類する方法である。\n3種類に分類する場合、美化語は丁寧語の一部として扱うのが普通である。\n学校教科書でも、教科書会社にとって3種類の方法を採用しているか、それとも5種類の方法を採用しているかが違う。\n文献によっては、丁重語を「謙譲語II」などと表記する場合もある。\n教育の歴史的には、明治時代から西暦2000年ごろまで長く、敬語は3分類で教育してきた。\nしかし2007年ごろから、中学高校の学校教育で敬語の5分類を紹介してよい事になったようである。\n尊敬語(そんけいご)とは、文中で話題になっている人物への敬意を直接表す言葉である。\n動詞の尊敬語の場合なら、その動作をする人物が尊敬の対象である。\nよって、たとえ、話題になってない人物への敬意があっても、話題にしている人物や動作主への敬意を示さない表現ならば、それは「尊敬語」には分類しない。\nこのような、文中の話題人物だけに敬意の限られる表現を、果たして「尊敬語」と呼ぶべきか読者は疑問があるかもしれないが、しかし歴史的な経緯によって「尊敬語」と呼ぶように普及してしまっている。なので、学校教科書でも、文中で話題になっている人物への敬意を直接表す言葉のことは「尊敬語」と呼んでいる。\n動詞いがいでも、名詞にも尊敬語はある。\nなどは、名前に「さま」・「殿」をつけられる相手が尊敬されているので、尊敬語に分類される。\n「あなた」・「どなた」も尊敬語である。\n尊敬語とは、文中で話題になっている相手に敬意があることを明確に示す表現である。\nなので、たとえ丁寧な言い回しであっても、たとえば「お米」や「ご飯」などのように、尊敬の意思が不明な表現の場合には、尊敬語には分類しない。\n「ごらんになる」は見る人を尊敬しているので尊敬語である。\nしかし「ご飯」は食べる人を尊敬しているわけではないので、尊敬語ではない。\nたとえば\nのように、まったく敬意のない表現であっても、慣用的に「ご飯」でひとつの単語になっているので、使う場合もある。\n「お休みになる」は、休む人を尊敬しているので、(「お休みになる」は)尊敬語である。\nしかし「お米」は、コメを尊敬してはいないので、尊敬語ではない。\n「ごらんになる」の「ご○○になる」ほかにも、「お帰りになる」「お食事になられる」などのように\nなどのような動作をあらわす表現は普通、尊敬語である場合が多い。\nしかし、「おたずねする」は、尋ねる人物は自分なので、尊敬語ではなく、謙譲語に分類する。\nさて、中学・高校の敬語教育では、「お◯◯する」は機械的に謙譲語へと分類される。「お◯◯になる」は、機械的に尊敬語へと分類される。\nたとえば、「お食事する」は謙譲語に分類される。「お食事になる」なら、機械的に尊敬語に分類される。\nたとえば、\nの「お元気」とは、尊敬語か丁寧語か。\nこれがもし「お米(を食べる)」や「ご飯(を食べる)」といった単語の場合、特に誰も尊敬していないので、「お米」も「ご飯」も普通は丁寧語に分類する。\nしかし、「お元気ですか?」という文章の場合、尊敬している対象が聞き手、もしくは読み手である事が、明確である。\nじっさい、自分の健康のことを「お元気」とは言わない。\n「お元気」といった場合、自分いがいの誰かの健康のことについて言及しているのである。\nこれが、「お米」や「ご飯」などと、「お元気」の違いである。\n問題は、この「お元気」を尊敬語に分類するか丁寧語に分類するかである。\n日本の小中高の教育の敬語の分類では、「お元気」・「お休みになる」・「ごらんになる」などは「丁寧語」には分類しない。「お元気」などは尊敬語として分類する。\n日本の学校文法では、けっして「丁寧語であり尊敬語である」(×)のような、2つの種類にまたがる分類はしない。\nひとつの敬語表現は、「もし丁寧語であれば、尊敬語ではないし謙譲語でもない」し、「もし尊敬語であれば、丁寧語ではないし謙譲語でもない」のように、丁寧語か尊敬語か謙譲語かのどれかひとつであるように分類する。\n謙譲語(けんじょうご)とは、動詞の場合、その動作の受け手への敬意をあらわす表現である。\nまた、人物などの名詞・代名詞の場合は、その人物の立場を低くする(へりくだる)ことで、間接的に聞き手などへの敬意を表す言葉が、謙譲語である。\n特殊な形のものが多い。\n「おたずねする」は、たずねるのは自分なので、「おたずねする」は謙譲語に分類される。\n名詞の謙譲語とは、たとえば「粗品(そしな)をお送りします。」の「粗品」が謙譲語である。(※ 光村図書が「拙著」を紹介)\n自分のことを「小生」(しょうせい)というのも、謙譲語である。(※ 三省堂が「小生」を紹介)\n自分が作家の場合、自分の著作を拙著(せっちょ)というのも、謙譲語である。「拙」(せつ)とは、「つたない」という意味であり、「つたない」とは、「ヘタである」「未熟だ」のような意味である。(※ 光村図書が「拙著」を紹介)\n大人のサラリーマンやビジネスマンが、自分の勤務先の会社を「弊社」(へいしゃ)という場合があるが、これも謙譲語であろう。「弊」(へい)とは、「ついえる」とか「つかれる」とか、そういう意味である。(※ 光村図書が「弊社」を紹介)\nちなみに、自分の勤務先いがいの会社のことを敬語でいう場合は「御社」(おんしゃ)という。(※ 光村図書が「御社」を紹介)\nさて、ところで、偉い人からの手紙を受けとった場合、「お手紙を受けとった」などと言ったら、「お手紙」は謙譲語だろうか?\nいっぽう、自分が手紙を送る場合にも「お手紙をお送りします」などというので、「お手紙」は尊敬語にもなるのだろうか?\n検定教科書の出版社によっては、ある教科書会社の見解では、偉い人から送られた「お手紙」は謙譲語に分類し、一方、自分が偉い人に送る「お手紙」は尊敬語に分類する教科書もある。(※ 光村図書、教育出版などの中2国語の教科書)\nいっぽう、三省堂や学校図書の中2教科書は、このような「お手紙」の話題については、触れていない。\n丁寧語(ていねいご)とは、特に敬意の対象を設けず、文をやわらかい調子にする言葉。文末を「です」「ます」としたり(敬体)、動詞と同じく「お」「ご」をつけることで丁寧語になる。\n敬意の対象を設けないとはいえ、結果的に話し相手や読み手に敬意があってもかまわない。\n丁寧語のうち「お花」や「お水」などのように、丁寧にされる対象のもの(例では、「花」や「水」)が尊敬対象で無い場合の丁寧語をとくに美化語と呼ぶ場合がある。\n花を尊敬しているわけではなく、話し相手などを尊敬して場合もあるが、しかし、そうとは限らず特に誰も尊敬していない場合もあるので、尊敬語には分類せず、「お花」や「お水」などは「美化語」という丁寧語の一種に分類する。\nほかにも、たとえば、\nのように、現代では「お」をつけるのが普通になってしまっている単語もある。\n「ご飯」(ごはん)も、美化語である。(飯を尊敬しているわけではないだろう。)\n\n敬語は日本語を母語とする人でも間違えやすい。間違いの多くは、尊敬・謙譲・丁寧の区別があいまいで、謙譲語を使うべきときに尊敬語を使ってしまうなどのミスと二重敬語と呼ばれる尊敬語(または謙譲語)の文節に尊敬の助動詞「れる」「られる」を用いる過剰な敬語表現である。よくあるミスを挙げてみよう。\nまた、よく議論になる敬語として、さ入れ言葉、れ足す言葉、「バイト敬語[3]」などがある。さ入れ言葉とは、「読ませていただきます」を「読まさせていただきます」とするように動詞の後に「さ」を入れることである。れ足す言葉は、「行けます」を「行けれます」といってしまうことである。そして、「バイト敬語」とは「コーヒーのほうをお持ちしました(正しくは「コーヒーをお持ちしました」)」「こちらコーヒーになります(「こちらがコーヒーです」でよい)」など、ファミリーレストランやコンビニにてよく使われる敬語のことである。\nさ入れ言葉やれ足す言葉は「正しい日本語」として認知されていないため、違和感を感じる人が多い[4]。「バイト敬語」はテレビやコンビニなどで日常的に使われ、耳にすることの多い敬語だが、年配の人を中心に違和感を感じる人も少なくない。いずれにせよ、どれも現在「正しい日本語」とされていないため、作文や面接の際には使わないようにしたい。\n謙譲語とは、自分をへりくだる表現である。\n謙譲語のうち、特に話の聞き手(話し相手)を尊敬している場合、それを「丁重語」(ていちょうご)というのに分類する場合もある。\nたとえば、謙譲語「参る」は丁重語に分類される。\n丁寧語のうち、「です」「ます」「ございます」を、話相手に対する敬意があるとして、「お米」「ご飯」などとは独立させる流儀もある。\nつまり、\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E6%95%AC%E8%AA%9E"} {"text": "メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。\n「王様は、人を殺します。」\n「なぜ殺すのだ。」\n「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」\n「たくさんの人を殺したのか。」\n「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」\n「おどろいた。国王は乱心か。」\n「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」\n 聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」\n メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。\n「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。\n「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。\n「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」\n「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」\n「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」\n「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」\n「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」\n「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」\n「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」\n「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」\n それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。\n「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」\n「なに、何をおっしゃる。」\n「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」\n メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。\n 竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。\n メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。\n「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」\n 妹は頬をあからめた。\n「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」\n メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。\n 眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄の季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。メロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、\n「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」\n 花嫁は、夢見心地で首肯いた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、\n「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」\n 花婿は揉み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。\n 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。\n 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」\n 濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。\n「待て。」\n「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」\n「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」\n「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」\n「その、いのちが欲しいのだ。」\n「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」\n 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、\n「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。\n ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。\n 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。\n 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。\n「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。\n「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。\n「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」\n「いや、まだ陽は沈まぬ。」\n「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」\n「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。\n「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」\n「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」\n「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」\n 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。\n「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、\n「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。\n「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」\n セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、\n「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」\n メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。\n「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。\n 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。\n「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」\n どっと群衆の間に、歓声が起った。\n「万歳、王様万歳。」\n ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。\n「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」\n 勇者は、ひどく赤面した。\n(古伝説と、シルレルの詩から。)\n青空文庫より引用。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E8%B5%B0%E3%82%8C%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%82%B9"} {"text": "中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。\nまず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。\nこのような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。\n念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。\nまた、平仮名は、その文字自体には意味が無い。\nいっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。\nまた、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。\n漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。\nいっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。\n「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。\nなお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。\n日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。\n日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。\n日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。\nまた、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。\nその段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。\n場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。\nたとえば\nとか\nなどのように。\nさて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。\n例\n上の例の文章は、4つの文でできている。\nそして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。\nまた、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。\n例\n「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。\nさらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。\nたとえば、\n例\nなら、\nと単語分けすることができる。\n文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。\n主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。\nたとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。\n一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。\nしかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。\nまた、日本語の文には、主語が無い場合もある。\nたとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。\nまた、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。\nまた、\nの場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。\n述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。\nたとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。\nなお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。\n主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。\n修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。\nたとえば、\nなら「まじめに」の部分が修飾語である。\nいっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。\n「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。\n「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。\n「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。\nこの例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。\nまた、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。\nまたは単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。\nいっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。\nたとえば、\nこの場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか?\nヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか?\n答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。\nいっぽう、\nなら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。\nのように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。\n接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。\n接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。\nエラーしたのが山田?出塁したのが山田?\n独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。\n\nあいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。\n上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。\n上の例文の「山田さん」も独立語です。\nいっぽう、\nこの例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。\nこの例文の「あのう」は独立語です。\nこの例文の「東京」は独立語です。\n二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。\n連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。\nまた、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。\n日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文\nの主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。\nしかし、\nという文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。\nそこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。\nの主部は、「自分の消しゴム」です。\n例文\nの述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。\nそこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。\nこの文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。\n例文\nについて、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。\nそこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。\n「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。\n「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。\nこの「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。\nつまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。\nまた、並立の関係にある単語を並立語といいます。\n「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。\nさきほどの例文では述語が並立していました。\nほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば\nという例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。\n\n単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。\nたとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。\nいっぽう、「に」は自立語ではない。\n原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。\nなお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。\nなお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。\nいっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。\n付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。\n名詞は普通、自立語に分類する。\n動詞の語感を自立語に分類する。\n動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。\nたとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。\n(学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。\n(学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。\n\n「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。\nたとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。\nこのように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。\n自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。\nたとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。\n「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。\n付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。\n活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。\n用言は普通、述語になれます。\n後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。\n動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。\n形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。\n用言の性質として\nなどの性質があります。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。\n後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。\n名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。\n体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。\n「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。\nたとえば「歩く」なら、\n「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。\nまた、動詞は述語になることができる。\nたとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。\n動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。\nたとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。\nいっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。\n同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。\n「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。\nまた、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。\n「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。\n名詞には、いろいろな種類がある。\n「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。\n「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。\n「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。\nのような文での「もの」、\nまたは\nの「こと」のような名詞を、形式名詞という。\n「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。\n※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。\n代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。\nいっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。\n代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。\n代名詞は、活用がない語である。\n\nこの一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。\nけっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。\n代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。\n名詞は普通、自立語です。\n副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。\n副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\n程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。\n「呼応の副詞」とは、\nのように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。\nたとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。\n「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。\nのように\nの「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。)\n(※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、\n※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。\nの「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。)\n「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。\n「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。\nこれ以外にも、\nまたは\nとかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。\n教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。\nたとえば、\nのように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている)\nなどの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。)\n叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\nの「ゆっくり」は、状態の副詞である。\n程度の副詞は、\n「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。\nの「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。\n「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。\n「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、\n「もっと右。」「もっと昔から。」\nのように名詞などの体言を修飾することもある。\nまた、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。\n指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。\n連体詞の直後には、かならず体言がつく。\n「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。\n「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。\nたとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。\n「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。\nなので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。\n同様に、「小さな」も連体詞である。\n「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。\n\n「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。\n\n「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。\n動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。\nなどの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。\nいっぽう\nの「ある」は、動詞である。\nこのように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。\nのような連体修飾語「去る」は連体詞である。\n「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。\nたとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。\nこのように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。\n形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈)\n「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈)\n\n感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。\n典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞)\nいろいろな例\n\n「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。\n「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。\n助動詞とは、活用のある付属語です。\n「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。\nつまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。\nいっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。\n「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。\n「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。\n「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。\n「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。\n動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。\nたとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。\n活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。\nたとえば、動詞の活用形には、\nの6種類がある。\nまた、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。\nたとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。\n「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。\n動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。\nたとえば、上記の「咲く」の場合、\n「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。\nまた、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。\n「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。\n五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。\nたとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。\n\n命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。)\n下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。\n\n上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。\n\n「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。\nもし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。\nなので、「起きる」の語幹は「お」にされている。\n「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。\n\n下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。\n「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。\nカ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。\nカ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\nサ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。\nサ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\n動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。\n「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令)\nというように、動詞「書く」は5段活用される。\nしかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。\n「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。\nいっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。\nこの「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。\n動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。\nこれは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。\nこの「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。\n「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。\n動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。\n共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。\nしかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。\n促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。\n撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。\nなお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。\n\n特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば\nの「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。\n本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。\nこのように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。\n形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。\n助動詞と補助動詞とは違う。\nなどの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。\nの「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。\nの「いただく」・「なる」も補助動詞である。\n「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。\n学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。\nたとえば\nなど、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。\nいっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。\nつまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。\n「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。\n動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。\n例:「起きる」と「起こす」。\n「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 \n一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。\n「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。\nものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。\nなど。\n\n特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は\nというように「無」の状態を表す場合と、\nのように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。\nこの、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。\n「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、\n「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。\nしかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。\nまた、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。\nこのように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。\nなお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。)\n「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。)\nなお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。\nなお、「ほしい」は同じ意味の英語の\"want\"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。\n「ほしい」も\nのように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。\n日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。\n補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。\nつまり、\n例\nという文章では、「歩いている」で、1文節と数える。\nつまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。\nまた、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。\n(批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、\nたとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、\nしかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。\n「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。)\n「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。\n形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。\n形容動詞に命令形は無い。\n「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。\nなお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。\n単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。\n文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。\n助動詞には、次のものがある。\n例\n活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。\n例\n「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。\n例\n「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。\n「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。\nなお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。\n例\nこの文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。\nこの文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。\n服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。\nまた、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。\n「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。\n「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。\n「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。\n\n「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。\n「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。\n(※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。\n時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。\n「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。\n「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。\n「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。\nまた、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。\n「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。\n「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。\n「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。\n「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。\n「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。\n「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。\n「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。\n「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。\n(※ 執筆中)\n国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。\n助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。\n主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。\n学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。\n格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。\nたとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、\nそれとも\nはたまた\nのかわからない。\nこの「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。\n気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。\nつまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。\nしかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。\nなお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\nつまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。\n\nさて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。\n三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。)\nたとえば、(学校教科書では習わない文だが、)\nという文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。\n助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。\n(※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。\nなどの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。\n「の」には、\nのように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味)\nのように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。\nこのように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。\nまた、\nのように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。\nこれらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。\nなお、混同しやすい例として\nのような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。\n接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。\n「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\n副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。\n三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。\n教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。\n\n終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。\n他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。\n単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。\n1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。\n「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。\nどちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。\n単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。\n日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。\n接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。\n文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。\n例文:\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95"} {"text": "元二(げんじ)の安西(あんせい)に使ひ(つかい)するを送る   王維(おうい)\n渭城の朝雨軽塵を浥し\n客舎青青柳色新たなり\n君に勧む更に尽くせ一杯の酒\n西のかた陽関を出づれば(仮定未然形+ば)\n故人無からん\n※ 予備知識 旅立つのは友人・元二であり、王維ではない。\n(友人・元二との別れの日、)渭城に、朝、降った雨が、土ぼこりを潤して、\n雨が降ったので旅館のそばの柳の木は、(葉が)青々として色も鮮やかだ。\nさあ、君に勧めよう、(前日にすでに飲みあかしたが)さらに、もういっぱいの酒を飲もうではないか。\n西のほうにある関所の陽関を出てしまったら、(君のような)親しい友人も、もう、いなくなるだろうから。\n\n(左から右に読んでください。)\n前半の二句\nは、友人の出発を祝う句。\n後半の二句\nは、別れをさびしんでいることを表現した句。\n七言絶句\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E5%85%83%E4%BA%8C%E3%81%AE%E5%AE%89%E8%A5%BF%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%B2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%92%E9%80%81%E3%82%8B"} {"text": "\n牀前看月光   牀前(しょうぜん) 月光(げっこう)を看(み)る\n疑是地上霜   疑うらくは 是(こ)れ 地上(ちじょう)の霜(しも)かと\n挙頭望山月   頭(こうべ)を挙げて(あげて) 山月(さんげつ)を望み(のぞみ)\n低頭思故郷   頭(こうべ)を低れて(たれて) 故郷(こきょう)を思う(おもう)\n五言絶句。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E9%9D%99%E5%A4%9C%E6%80%9D"} {"text": "芭蕉は、自然の雄大さと、人間の儚さとを対比させ、無常観を表現している。しかし人の世が儚いからと言って決して人を見下しているわけではなく、儚いながらも、精一杯生きようとすることに人の意義を見出している。\n三代(さんだい)の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川(きたかみがわ)、南部(なんぶ)より流るる大河(たいが)なり。衣川(ころもがわ)は和泉が城(いすみがじょう)を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。\n泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関(ころもがせき)を隔てて南部口(なんぶぐち)をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても、義臣(ぎしん)すぐつてこの城にこもり、功名(こうみょう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。『国破れて山河あり、城(しろ、じょう)春にして草青みたり』と、笠うち敷きて(しきて)、時の移るまで泪(なみだ)を落としはべりぬ。\nかねて耳驚かしたる二堂開帳(かいちょう)す。経堂(きょうどう)は三将の像を残し、光堂(ひかりどう)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊(さんぞん)の仏を安置す。七宝(しっぽう)散り失せて、珠(たま)の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、既に頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨を凌ぐ(しのぐ)。しばらく千歳の記念(せんざいのかたみ)とはなれり。\n語注\n予備知識: 「平泉」(ひらいずみ)は、今で言う岩手県の一地方。\n(奥州に居た、奥州・藤原氏の)三代にわたる栄華も、(後世の歴史の視点からみれば、一瞬のあいだの夢のように)一睡のうちに消えて\n、(いまや廃墟になり、)大門のあとは一里ほど手前にある。(藤原)秀衡の館のあとは、いまや田野になってしまい、(彼が築かせた)金鶏山のみ、形を残している。\n(源義経が居たという)高館にのぼれば、北上川(きたかみがわ)が見えるが、北上川は南部地方から流れてくる大河である、\n衣川(ころもがわ)は( 藤原泰衡(やすひら)のいた )和泉が城(いすみがじょう)をめぐって流れ、高館のもとで大河に流れ込んでいる。\n源頼朝と対立した源義経は、奥州へと逃げのび、藤原秀衡に保護された。だが、秀衡の子の泰衡(やすひら)は、義経を攻め滅ぼした。高館ちは、そのときの戦場になった。\n川の流れという自然現象だけでなく、歴史を掛けていると思われる。\n芭蕉の一行が平泉を訪れた季節は、夏。以下の芭蕉の文章の訳は、夏ごろの風景を前提にしている。\n泰衡(やすひら)らの旧跡は、衣が関(ころもがせき)を隔てて、(平泉への入口である)南部からの入口(なんぶぐち)をかたく守り、夷(えぞ)の侵入を防ぐと思われる。それにしても、(義経に忠誠をちかう、)よりすぐられた忠義の臣が、この高館にたてこもり、奮戦したのだが、その功名(こうみょう)も一時(いちじ)の叢(くさむら)となってしまった。(漢文の杜甫の詩「春望」にあるように)『国(くに)破れて山河(さんが)あり、城(しろ、じょう)春にして草(くさ)青みたり』(国は破壊されても、自然の山や川は変わらず残り続ける。(廃墟となってしまった)城は、春ともなれば、草が生い茂り、青みがかっている。)と、笠を敷きて(しいて)、しばらくの間、泪を落としたのでありました。\nその昔、ここ(平泉)では、源義経(よしつね)の一行や藤原兼房(ふじわらのかねふさ)らが、功名を夢見て、敵とあらそっていたが、その名も今では歴史のかなたへと消え去り、ひと時の夢となってしまった。いまや、ただ夏草が生い茂る(おいしげる)ばかりである。\n(季語は「夏草」。季節は夏。)\n(卯(う)の花は白いが、)白い卯の花を見ると、義経の家来として、老臣ながら奮戦した兼房が、白髪(しらが)を振り乱して奮戦している様子が思い浮かぶことよ。  \n(季語は「卯の花」。季節は夏。曾良は芭蕉に同行してるのだから、季節は同じはず。芭蕉の「夏草や・・・」に対応させて、植物で句をはじめたと思われる。)\n(義経の高館をめぐったあと、芭蕉の一行は、中尊寺の金色堂を見に行く。)\n前々から耳にしていて、驚かされていた金色堂の二堂(経堂・光堂)が、開かれていた。経堂(きょうどう)には、像が三体あり、藤原清衡(ふじわらのきよひら)、藤原基衡(もとひら)、藤原秀衡(ひでひら)の三将の像が残っている。\n光堂には、この三代の棺をおさめられてあり、仏の像が三体ある。阿弥陀(あみだ)・観世音(かんぜおん)・勢至(せいし)の、三尊(さんぞん)の仏像が安置されている。\n(七宝が、かつては堂内を飾っていたが、)今では七宝(しちほう)も散り失せ、かつては珠玉(しゅぎょく)をちりばめられていただろう扉も、(長年の風雨により)今では風雨にいたみ、金箔の柱も霜や雪に朽ちて、もうすこしで退廃して草むらとなるところを、(鎌倉時代に)周囲の四面を囲い、風雨をよけるようにした(鞘堂が建てられた)。こうして、しばらくの間、千年の記念として残ることになったのである。\n五月雨の  降り(ふり)のこしてや  光堂(ひかりどう)\n光堂は昔のままだ。まるで、五月雨が、この光堂には降り残したかのようだ。(あたかも、光堂だけには降らなかったかのようだ。)\n江戸時代の俳人(はいじん)の松尾芭蕉(まつおばしょう)が、実際に旅をして、旅先の様子などを書いた紀行文(きこうぶん)。\n出発年: 元禄(げんろく)2年、(1689年)に芭蕉は江戸を出発した。\n5ヶ月のあいだ、旅を続けた。\n関東・東北・北陸・(岐阜の)大垣(おおがき)などを旅した。\n旅の途中、句を多く、つくった。\n従者(じゅうしゃ)として、曾良(そら)という人物をつれて、ともに旅をした。\n現代語訳\n月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。\n舟(ふね)の上(うえ)に生涯(しょうがい)を浮かべ(うかべ)、馬の口(うまのくち)とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)をすみかとす。\n古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。\n予(よ)も、いづれの年よりか、片雲(へんうん)の風に誘われて(さそわれて)、漂泊(ひょうはく)の思ひ(おもい)やまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋(あき)、江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)を払ひて(はらひて)、やや年も暮れ(くれ)、春立てる(はるたてる)霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心(こころ)を狂はせ(くるわせ)、道祖神(どうそじん)の招き(まねき)にあひて、取(と)るもの手(て)につかず。\nももひきの破れ(やぶれ)をつづり、笠(かさ)の緒(お)つけかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月(まつしまのつき)まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人(ひと)に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別しょ(べっしょ)に移る(うつる)に、\n面八句(おもてはっく)を庵(いおり)の柱(はしら)に懸け(かけ)置(お)く。\n月日は永遠に旅をつづける旅人のようなものであり、毎年、来ては去る年も、また旅人のようなものである。 \n(船頭(せんどう)として)舟(ふね)の上で一生を暮らす人や、(馬方(うまかた)として)馬のくつわを取って老いをむかえる人は、旅そのものを毎日、(仕事として)住み家としている(ようなものだ)。\n昔の人も、多くの人が旅の途中で死んだ。\n私も、いつごろの年からか、ちぎれ雲が風に誘われて漂う(ただよう)ように、旅をしたいと思うようになり、漂泊の思いやまず、海辺の地方などをさすらい歩きたく、去年の秋、川のほとりの粗末(そまつ)な家に(帰って)、くもの古巣(ふるす)を払ひって(暮らしているうちい)、しだいに年も暮れ、春になると、霞(かすみ)の立ちこめる空のもとで、白河の関(「しらかわのせき」、奥州地方の関所、現在でいう福島県にあった。) をこえようと、「そぞろ神」(そぞろがみ)が(私に)乗りうつって心をそわそわさせ、「道祖神」(どうそじん、旅や通行の安全を守る神)に招かれているように、何事も手につかない(ように、落ち着かない)。\nそこで(もう、旅に出てしまおうと思い)、(旅支度として)ももひきの破れを繕い(つくろい)、笠(かさ)の緒(お)をつけかえて、(足のツボの)「三里」(さんり、ひざ下にあるツボ)に灸(きゅう)をすえて(足を健脚にして)(旅支度をすますと)、松島の月(まつしまのつき)(の美しさ)がまず気になって、住んでいた家は人に譲り(ゆずり)(理由:帰れるかどうか分からないので)、自分はかわりに(弟子の一人の)「杉風」(さんぷう)が持っていた別しょ(べっしょ)に移った。\nと句を詠んで(よんで)、この句をはじめに面八句(おもてはっく)をつくり、庵(いおり)の柱(はしら)にかけておいた。\nいくつかの句が、おくの細道で詠まれているが、代表的な句を挙げる。\n夏草(なつくさ)や  兵(つわもの)どもが  夢(ゆめ)の跡(あと)\n場所:平泉(ひらいずみ)\n解釈\n季語は「夏草」。季節は夏。\n芭蕉が旅をした季節は、月を陽暦になおすと5月から10月のあいだなので、基本的に『おくの細道』に出てくる句の季節は、夏の前後である。\n閑かさ(しずかさ)や  岩(いわ)に しみいる  蝉(せみ)の声(こえ)\n場所:立石寺(りっしゃくじ)\n解釈\nもともと、芭蕉は最初は「閑かさや」のかわりに「さびしさや」と書いていたが、「さびしさや」だと直接的すぎて、読者にわびしさを感じさせようとする意図が見え見えで興ざめするし、芭蕉なりの工夫のあとがあるのだろう。\n季語は「蝉」。季節は夏。\n五月雨(さみだれ)を  集めて早し(はやし)  最上川(もがみがわ)\n場所:最上川\n解釈\n季語は「五月雨」。季節は梅雨どき。(旧暦の5月なので)\n五月雨の  降り(ふり)のこしてや  光堂(ひかりどう)\n場所:\n荒海(あらうみ)や  佐渡(さど)に 横たふ(よこたう)  天の河(あまのがわ)\n場所:越後路(えちごじ)\n解釈\nとりあえず、句を文字通りに解釈すると、\nというふうな解釈にでも、なるだろう。\n季語は「天の河」。季節は秋。芭蕉たちの旅の期間が夏の前後なので、この句が「天の河」から秋の句だと分かる。したがって、「荒海」は、この句では季語ではない。\nまちがって、「荒海」などから台風どきの日本海や、冬の日本海などを連想しないように注意。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E5%8F%A4%E6%96%87/%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%BB%E3%81%9D%E9%81%93"} {"text": "わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中(さなか)で故郷に近づくに従って天気は小闇(おぐら)くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村(あれむら)があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。\n おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。\n わたしの想い出す故郷はまるきり、こんなものではない。わたしの故郷はもっと佳(よ)いところが多いのだ。しかしその佳いところを記すには姿もなく言葉もないので、どうやらまずこんなものだとしておこう。そうしてわたし自身解釈して、故郷はもともとこんなものだと言っておく。――進歩はしないがわたしの感ずるほどうら悲しいものでもなかろう。これはただわたし自身の心境の変化だ。今度の帰省はもともと何のたのしみもないからだ。\n わたしどもが永い間身内と一緒に棲んでいた老屋がすでに公売され、家を明け渡す期限が本年一ぱいになっていたから、ぜひとも正月元日前に行(ゆ)かなければならない。それが今度の帰省の全部の目的であった。住み慣れた老屋と永別して、その上また住み慣れた故郷に遠く離れて、今食い繋ぎをしているよそ国に家移りするのである。\n わたしは二日目の朝早く我が家の門口に著(つ)いた。屋根瓦のうえに茎ばかりの枯草が風に向って顫(ふる)えているのは、ちょうどこの老屋が主を更(か)えなければならない原因を説明するようである。同じ屋敷内(うち)に住む本家の家族は大概もう移転したあとで、あたりはひっそりしていた。わたしが部屋の外側まで来た時、母は迎えに出て来た。八歳になる甥の宏兒(こうじ)も飛出(とびだ)して来た。\n 母は非常に喜んだ。何とも言われぬ淋しさを押包みながら、お茶を入れて、話をよそ事に紛らしていた。宏兒は今度初めて逢うので遠くの方へ突立って真正面からわたしを見ていた。\n わたしどもはとうとう家移りのことを話した。\n「あちらの家も借りることに極(き)めて、家具もあらかた調えましたが、まだ少し足らないものもありますから、ここにある嵩張物(かさばりもの)を売払って向うで買うことにしましょう」\n「それがいいよ。わたしもそう思ってね。荷拵(にごしら)えをした時、嵩張物は持運びに不便だから半分ばかり売ってみたがなかなかお銭(あし)にならないよ」\n こんな話をしたあとで母は語を継いだ。\n「お前さんは久しぶりで来たんだから、本家や親類に暇乞いを済まして、それから出て行くことにしましょう」\n「ええそうしましょう」\n「あの閏土(じゅんど)がね、家へ来るたんびにお前のことをきいて、ぜひ一度逢いたいと言っているんだよ」と母はにこにこして\n「今度到著(とうちゃく)の日取を知らせてやったから、たぶん来るかもしれないよ」\n「おお、閏土! ずいぶん昔のことですね」\n この時わたしの頭の中に一つの神さびた画面が閃き出した。深藍色(はなだいろ)の大空にかかる月はまんまろの黄金色(こがねいろ)であった。下は海辺の砂地に作られた西瓜(すいか)畑で、果てしもなき碧緑の中に十一二歳の少年がぽつりと一人立っている。項(えり)には銀の輪を掛け、手には鋼鉄の叉棒(さすぼう)を握って一疋(ぴき)の土竜(もぐら)に向って力任せに突き刺すと、土竜は身をひねって彼の跨(また)ぐらを潜(くぐ)って逃げ出す。\n この少年が閏土であった。わたしが彼を知ったのは十幾つかの歳であったが、別れて今は三十年にもなる。あの時分は父も在世して家事の都合もよく、わたしは一人の坊ッちゃまであった。その年はちょうど三十何年目に一度廻って来る家(うち)の大祭の年に当り、祭は鄭重を極め、正月中掲げられた影像の前には多くの供え物をなし、祭器の撰択が八釜(やかま)しく行われ、参詣人が雑沓(ざっとう)するので泥棒の用心をしなければならぬ。わたしの家(うち)には忙月(マンユエ)が一人きりだから手廻りかね、祭器の見張番に倅(せがれ)をよびたいと申出たので父はこれを許した。(この村の小作人は三つに分れている。一年契約の者を長年(チャンネン)といい、日雇いの者を短工(トワンコン)という。自分で地面を持ち節期時や刈入時に臨時に人の家に行って仕事をする者を忙月(マンユエ)という)\n わたしは閏土が来ると聞いて非常に嬉しく思った。というのはわたしは前から閏土の名前を聞き及んでいるし、年頃もわたしとおつかつだし、閏月(うるうづき)生れで五行の土が欠けているから閏土と名づけたわけも知っていた。彼は仕掛罠で小鳥を取ることが上手だ。\n わたしは日々に新年の来るのを待ちかねた。新年が来ると閏土も来るのだ。まもなく年末になり、ある日の事、母はわたしを呼んで\n「閏土が来たよ」と告げた。わたしは馳(か)け出して行ってみると、彼は炊事部屋にいた。紫色の丸顔! 頭に小さな漉羅紗帽(すきらしゃぼう)をかぶり、項にキラキラした銀の頸輪(くびわ)を掛け、――これを見ても彼の父親がいかに彼を愛しているかが解る。彼の死去を恐れて神仏に願を掛け、頸に輪を掛け、彼を庇護しているのである――人を見て大層はにかんだが、わたしに対して特別だった。誰もいない時に好く話をして、半日経たぬうちに我々はすっかり仲よしになった。\n われわれはその時、何か知らんいろんな事を話したが、ただ覚えているのは、閏土が非常にハシャいで、まだ見たことのないいろいろの物を街へ来て初めて見たとの話だった。\n 次の日わたしは彼に鳥をつかまえてくれと頼んだ。\n「それは出来ません。大雪が降ればいいのですがね。わたしどもの沙地(すなぢ)の上に雪が降ると、わたしは雪を掻き出して小さな一つの空地を作り、短い棒で大きな箕(み)を支え、小米を撒きちらしておきます。小鳥が食いに来た時、わたしは遠くの方で棒の上に縛ってある縄を引くと、小鳥は箕の下へ入ってしまいます。何でも皆ありますよ。稲鶏(いねどり)、角鶏(つのどり)、※鴣(のばと)[#「孛+鳥」、105-11]、藍背(あいせ)……」\n そこでわたしは雪の降るのを待ちかねた。閏土はまた左(さ)のような話をした。\n「今は寒くていけませんが、夏になったらわたしの処へ被入(いら)っしゃい。わたしどもは昼間海辺に貝殻取に行きます。赤いのや青いのや、鬼が見て恐れるのや、観音様の手もあります。晩にはお父さんと一緒に西瓜の見張りに行きますから、あなたも被入(いら)っしゃい」\n「泥棒の見張をするのかえ」\n「いいえ、旅の人が喉が渇いて一つぐらい取って食べても、家(うち)の方では泥棒の数に入れません。見張が要るのは※(「權」の「木」に代えて「豸」、第4水準2-89-10)猪(いのしし)、山あらし、土竜の類(るい)です。月明りの下でじっと耳を澄ましているとララと響いて来ます。土竜が瓜を噛んでるんですよ。その時あなたは叉棒を攫(つか)んでそっと行って御覧なさい」\n わたしはそのいわゆる土竜というものがどんなものか、その時ちっとも知らなかった。――今でも解らない――ただわけもなく、小犬のような形で非常に猛烈のように感じた。\n「彼は咬(か)みついて来るだろうね」\n「こちらには叉棒がありますからね。歩いて行って見つけ次第、あなたはそれを刺せばいい。こん畜生は馬鹿に利巧な奴で、あべこべにあなたの方へ馳け出して来て、跨の下から逃げてゆきます。あいつの毛皮は油のように滑(すべ)ッこい」\n わたしは今までこれほど多くの珍らしいことが世の中にあろうとは知らなかった。海辺にこんな五色(しき)の貝殻があったり、西瓜にこんな危険性があったり――わたしは今の先(さ)きまで西瓜は水菓子屋の店に売っているものとばかし思っていた。\n「わたしどもの沙地の中には大潮の来る前に、たくさん跳ね魚が集(あつま)って来て、ただそれだけが跳ね廻っています。青蛙のように二つの脚があって……」\n ああ閏土の胸の中には際限もなく不思議な話が繋がっていた。それはふだんわたしどもの往来(ゆきき)している友達の知らぬことばかりで、彼等は本当に何一つ知らなかった。閏土が海辺にいる時彼等はわたしと同じように、高塀に囲まれた屋敷の上の四角な空ばかり眺めていたのだから。\n 惜しいかな、正月は過ぎ去り、閏土は彼の郷里に帰ることになった。わたしは大哭(おおな)きに哭いた。閏土もまた泣き出し、台所に隠れて出て行くまいとしたが、遂に彼の父親に引張り出された。\n 彼はその後父親に託(ことづ)けて貝殻一包(つつみ)と見事な鳥の毛を何本か送って寄越した。わたしの方でも一二度品物を届けてやったこともあるが、それきり顔を見たことが無い。\n 現在わたしの母が彼のことを持出したので、わたしのあの時の記憶が電(いなずま)の如くよみがえって来て、本当に自分の美しい故郷を見きわめたように覚えた。わたしは声に応じて答えた。\n「そりゃ面白い。彼はどんな風です」\n「あの人かえ、あの人の景気もあんまりよくないようだよ」\n 母はそういいながら室(へや)の外を見た。\n「おやまた誰か来たよ。木器(もくき)買うと言っては手当り次第に持って行くんだから、わたしがちょっと見て来ましょう」\n 母が出て行くと門外の方で四五人の女の声がした。わたしは宏兒を側(そば)へ喚(よ)んで彼と話をした。字が書けるか、この家(うち)を出て行きたいと思うか、などということを訊いてみた。\n「わたしどもは汽車に乗ってゆくのですか」\n「汽車に乗ってゆくんだよ」\n「船は?」\n「まず船に乗るんだ」\n「おや、こんなになったんですかね。お鬚がまあ長くなりましたこと」\n 一種尖ったおかしな声が突然わめき出した。\n わたしは喫驚(びっくり)して頭を上げると、頬骨の尖った唇の薄い、五十前後の女が一人、わたしの眼の前に突立っていた。袴も無しに股引穿(ももひきば)きの両足を踏ん張っている姿は、まるで製図器のコンパスみたいだ。\n わたしはぎょっとした。\n「解らないかね、わたしはお前を抱いてやったことが幾度もあるよ」\n わたしはいよいよ驚いたが、いい塩梅にすぐあとから母が入って来て側(そば)から\n「この人は永い間外に出ていたから、みんな忘れてしまったんです。お前、覚えておいでだろうね」\n とわたしの方へ向って\n「これはすじ向うの楊二嫂(ようにそう)だよ。そら豆腐屋さんの」\n おおそう言われると想い出した。わたしの子供の時分、すじ向うの豆腐屋の奥に一日坐り込んでいたのがたしか楊二嫂とか言った。彼女は近処(きんじょ)で評判の「豆腐西施(せいし)」で白粉(おしろい)をコテコテ塗っていたが、頬骨もこんなに高くはなく、唇もこんなに薄くはなく、それにまたいつも坐っていたので、こんな分廻(ぶんまわ)しのような姿勢を見るのはわたしも初めてで、その時分彼女があるためにこの豆腐屋の商売が繁盛するという噂をきいていたが、それも年齢の関係で、わたしは未(いま)だかつて感化を受けたことがないからまるきり覚えていない。ところがコンパス西施はわたしに対してはなはだ不平らしく、たちまち侮りの色を現し、さながらフランス人にしてナポレオンを知らず、亜米利加(アメリカ)人にしてワシントンを知らざるを嘲る如く冷笑した。\n「忘れたの? 出世すると眼の位まで高くなるというが、本当だね」\n「いえ、決してそんなことはありません、わたし……」\n わたしは慌てて立上がった。\n「そんなら迅(じん)ちゃん、お前さんに言うがね。お前はお金持になったんだから、引越しだってなかなか御大層だ。こんな我楽多(がらくた)道具なんか要るもんかね。わたしに譲っておくれよ、わたしども貧乏人こそ使い道があるわよ」\n「わたしは決して金持ではありません。こんなものでも売ったら何かの足しまえになるかと思って……」\n「おやおやお前は結構な道台(おやくめ)さえも捨てたという話じゃないか。それでもお金持じゃないの? お前は今三人のお妾(めかけ)さんがあって、外に出る時には八人舁(かつ)きの大轎(おおかご)に乗って、それでもお金持じゃないの? ホホ何と被仰(おっしゃ)ろうが、私を瞞(だま)すことは出来ないよ」\n わたしは話のしようがなくなって口を噤んで立っていると\n「全くね、お金があればあるほど塵ッ葉一つ出すのはいやだ。塵ッ葉一つ出さなければますますお金が溜るわけだ」\n コンパスはむっとして身を翻し、ぶつぶつ言いながら出て行ったが、なお、行きがけの駄賃に母の手袋を一双、素早く掻っ払ってズボンの腰に捻じ込んで立去った。\n そのあとで近処の本家や親戚の人達がわたしを訪ねて来たので、わたしはそれに応酬しながら暇を偸(ぬす)んで行李(こうり)をまとめ、こんなことで三四日も過した。\n 非常に寒い日の午後、わたしは昼飯を済ましてお茶を飲んでいると、外から人が入って来た。見ると思わず知らず驚いた。この人はほかでもない閏土であった。わたしは一目見てそれと知ったが、それは記憶の上の閏土ではなかった。身の丈けは一倍も伸びて、紫色の丸顔はすでに変じてどんよりと黄ばみ、額には溝のような深皺が出来ていた。目許は彼の父親ソックリで地腫れがしていたが、これはわたしも知っている。海辺地方の百姓は年じゅう汐風に吹かれているので皆が皆こんな風になるのである。彼の頭の上には破れた漉羅紗帽が一つ、身体の上にはごく薄い棉入れが一枚、その著(き)こなしがいかにも見すぼらしく、手に紙包と長煙管(ながぎせる)を持っていたが、その手もわたしの覚えていた赤く丸い、ふっくらしたものではなく、荒っぽくざらざらして松皮(まつかわ)のような裂け目があった。\n わたしは非常に亢奮して何と言っていいやら\n「あ、閏土さん、よく来てくれた」\n とまず口を切って、続いて連珠の如く湧き出す話、角鶏、飛魚、貝殻、土竜……けれど結局何かに弾かれたような工合(ぐあい)になって、ただ頭の中をぐるぐる廻っているだけで口外へ吐き出すことが出来ない。\n 彼はのそりと立っていた。顔の上には喜びと淋しさを現わし、唇は動かしているが声が出ない。彼の態度は結局敬い奉るのであった。\n「旦那様」\n と一つハッキリ言った。わたしはぞっとして身顫いが出そうになった。なるほどわたしどもの間にはもはや悲しむべき隔てが出来たのかと思うと、わたしはもう話も出来ない。\n 彼は頭を後ろに向け\n「水生(すいせい)や、旦那様にお辞儀をしなさい」\n と背中に躱(かく)れている子供を引出した。これはちょうど三十年前の閏土と同じような者であるが、それよりずっと痩せ黄ばんで頸のまわりに銀の輪がない。\n「これは五番目の倅ですが、人様の前に出たことがありませんから、はにかんで困ります」\n 母は宏兒を連れて二階から下りて来た。大方われわれの話声(はなしごえ)を聞きつけて来たのだろう。閏土は丁寧に頭を低(さ)げて\n「大奥様、お手紙を有難く頂戴致しました。わたしは旦那様がお帰りになると聞いて、何しろハアこんな嬉しいことは御座いません」\n「まあお前はなぜそんな遠慮深くしているの、先(せん)にはまるで兄弟のようにしていたじゃないか。やっぱり昔のように迅ちゃんとお言いよ」\n 母親はいい機嫌であった。\n「奥さん、今はそんなわけにはゆきません。あの時分は子供のことで何もかも解りませんでしたが」\n 閏土はそう言いながら子供を前に引出してお辞儀をさせようとしたが、子供は羞(はずか)しがって背中にこびりついて離れない。\n「その子は水生だね。五番目かえ。みんなうぶだから懼(こわ)がるのは当前(あたりまえ)だよ。宏兒がちょうどいい相手だ。さあお前さん達は向うへ行ってお遊び」\n 宏兒はこの話を聞くとすぐに水生をさし招いた。水生は俄に元気づいて一緒になって馳け出して行った。母は閏土に席をすすめた。彼はしばらくうじうじして遂に席に著(つ)いた。長煙管を卓の側(そば)に寄せ掛け、一つの紙包を持出した。\n「冬のことで何も御座いませんが、この青豆は家(うち)の庭で乾かしたんですから旦那様に差上げて下さい」\n わたしは彼に暮向(くらしむき)のことを訊ねると、彼は頭を揺り動かした。\n「なかなか大変です。あの下の子供にも手伝わせておりますが、どうしても足りません。……世の中は始終ゴタついておりますし、……どちらを向いてもお金の費(い)ることばかりで、方途(ほうず)が知れません……実りが悪いし、種物を売り出せば幾度も税金を掛けられ、元を削って売らなければ腐れるばかりです」\n 彼はひたすら頭を振った。見ると顔の上にはたくさんの皺が刻まれているが、石像のようにまるきり動かない。たぶん苦しみを感ずるだけで表現することが出来ないのだろう。しばらく思案に沈んでいたが煙管を持出して煙草を吸った。\n 母は彼の多忙を察してあしたすぐに引取らせることにした。まだ昼飯も食べていないので台所へ行って自分で飯を焚いておあがりと吩付(いいつ)けた。\n あとで母とわたしは彼の境遇について歎息した。子供は殖(ふ)えるし、飢饉年は続くし、税金は重なるし、土匪(どひ)や兵隊が乱暴するし、官吏や地主がのしかかって来るし、凡(すべ)ての苦しみは彼をして一つの木偶(でく)とならしめた。「要らないものは何でも彼にやるがいいよ。勝手に撰(よ)り取らせてもいい」と母は言った。\n 午後、彼は入用の物を幾つか撰り出していた。長卓二台、椅子四脚、香炉と燭台一対ずつ、天秤(てんびん)一本。またここに溜っている藁灰も要るのだが、(わたしどもの村では飯を焚く時藁を燃料とするので、その灰は砂地の肥料に持って来いだ)わたしどもの出発前(ぜん)に船を寄越して積取ってゆく。\n 晩になってわたしどもはゆっくり話をしたが、格別必要な話でもなかった。そうして次の朝、彼は水生を連れて帰った。\n 九日目にわたしどもの出発の日が来た。閏土は朝早くから出て来た。今度は水生の代りに五つになる女の児を連れて来て船の見張をさせた。その日は一日急がしく、もう彼と話をしている暇もない。来客もまた少からずあった。見送りに来た者、品物を持出しに来た者、見送りと持出しを兼ねて来た者などがゴタゴタして、日暮れになってわたしどもがようやく船に乗った時には、この老屋の中にあった大小の我楽多道具はキレイに一掃されて、塵ッ葉一つ残らずガラ空きになった。\n 船はずんずん進んで行った。両岸の青山はたそがれの中に深黛色(しんたいしょく)の装いを凝らし、皆連れ立って船後の梢に向って退(しりぞ)く。\n わたしは船窓に凭(よ)って外のぼんやりした景色を眺めていると、たちまち宏兒が質問を発した。\n「叔父さん、わたしどもはいつここへ帰って来るんでしょうね」\n「帰る? ハハハ。お前は向うに行き著きもしないのにもう帰ることを考えているのか」\n「あの水生がね、自分の家(うち)へ遊びに来てくれと言っているんですよ」\n 宏兒は黒目勝ちの眼をみはってうっとりと外を眺めている。\n わたしどもはうすら睡(ねむ)くなって来た。そこでまた閏土の話を持出した。母は語った。\n「あの豆腐西施は家(うち)で荷造りを始めてから毎日きっとやって来るんだよ。きのうは灰溜の中から皿小鉢を十幾枚も拾い出し、論判(ろっぱん)の挙句、これはきっと閏土が埋(うず)めておいたに違いない、彼は灰を運ぶ時一緒に持帰る積りだろうなどと言って、この事を非常に手柄にして『犬ぢらし』を掴んでまるで飛ぶように馳け出して行ったが、あの纏足の足でよくまああんなに早く歩けたものだね」\n(犬ぢらしはわたしどもの村の養鶏の道具で、木盤の上に木柵を嵌(は)め、中には餌(え)を入れておく。鶏は嘴が長いから柵をとおして啄(ついば)むことが出来る。犬は柵に鼻が閊(つか)えて食うことが出来ない。故に犬じ[#「じ」はママ]らしという)\n だんだん故郷の山水に遠ざかり、一時ハッキリした少年時代の記憶がまたぼんやりして来た。わたしは今の故郷に対して何の未練も残らないが、あの美しい記憶が薄らぐことが何よりも悲しかった。\n 母も宏兒も睡ってしまった。\n わたしは横になって船底のせせらぎを聴き、自分の道を走っていることを知った。わたしは遂に閏土と隔絶してこの位置まで来てしまった。けれど、わたしの後輩はやはり一脈の気を通わしているではないか。宏兒は水生を思念しているではないか。わたしは彼等の間に再び隔膜が出来ることを望まない。しかしながら彼等は一脈の気を求むるために、凡てがわたしのように辛苦展転して生活することを望まない。また彼等の凡てが閏土のように辛苦麻痺して生活することを望まない。また凡てが別人のように辛苦放埒して生活することを望まない。彼等はわたしどものまだ経験せざる新しき生活をしてこそ然(しか)る可(べ)きだ。\n わたしはそう思うとたちまち羞しくなった。閏土が香炉と燭台が要ると言った時、わたしは内々彼を笑っていた。彼はどうしても偶像崇拝で、いかなる時にもそれを忘れ去ることが出来ないと。ところが現在わたしのいわゆる希望はわたしの手製の偶像ではなかろうか。ただ彼の希望は遠くの方でぼんやりしているだけの相違だ。\n 夢うつつの中(うち)に眼の前に野広い海辺の緑の沙地が展開して来た。上には深藍色の大空に掛るまんまろの月が黄金色であった。\n 希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。\n(一九二一年一月)\n青空文庫より引用。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E9%AD%AF%E8%BF%85"} {"text": "高瀬舟(たかせぶね)は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島(ゑんたう)を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまごひ)をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた、默許であつた。\n 當時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盜をするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、獰惡(だうあく)な人物が多數を占めてゐたわけではない。高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科(とが)を犯した人であつた。有り觸れた例を擧げて見れば、當時相對死と云つた情死を謀つて、相手の女を殺して、自分だけ活き殘つた男と云ふやうな類である。\n さう云ふ罪人を載せて、入相(いりあひ)の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を兩岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。此舟の中で、罪人と其親類の者とは夜どほし身の上を語り合ふ。いつもいつも悔やんでも還らぬ繰言である。護送の役をする同心は、傍でそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族(けんぞく)の悲慘な境遇を細かに知ることが出來た。所詮町奉行所の白洲(しらす)で、表向の口供を聞いたり、役所の机の上で、口書(くちがき)を讀んだりする役人の夢にも窺ふことの出來ぬ境遇である。\n 同心を勤める人にも、種々の性質があるから、此時只うるさいと思つて、耳を掩ひたく思ふ冷淡な同心があるかと思へば、又しみじみと人の哀を身に引き受けて、役柄ゆゑ氣色には見せぬながら、無言の中に私かに胸を痛める同心もあつた。場合によつて非常に悲慘な境遇に陷つた罪人と其親類とを、特に心弱い、涙脆い同心が宰領して行くことになると、其同心は不覺の涙を禁じ得ぬのであつた。\n そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で、不快な職務として嫌はれてゐた。\n――――――――――――――――\nいつの頃であつたか。多分江戸で白河樂翁侯が政柄(せいへい)を執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。智恩院(ちおんゐん)の櫻が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。\n それは名を喜助と云つて、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷に呼び出されるやうな親類はないので、舟にも只一人で乘つた。\n 護送を命ぜられて、一しよに舟に乘り込んだ同心羽田庄兵衞は、只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。さて牢屋敷から棧橋まで連れて來る間、この痩肉(やせじし)の、色の蒼白い喜助の樣子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬つて、何事につけても逆はぬやうにしてゐる。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるやうな、温順を裝つて權勢に媚びる態度ではない。\n 庄兵衞は不思議に思つた。そして舟に乘つてからも、單に役目の表で見張つてゐるばかりでなく、絶えず喜助の擧動に、細かい注意をしてゐた。\n 其日は暮方から風が歇(や)んで、空一面を蔽つた薄い雲が、月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、只舳(へさき)に割かれる水のささやきを聞くのみである。\n 夜舟で寢ることは、罪人にも許されてゐるのに、喜助は横にならうともせず、雲の濃淡に從つて、光の増したり減じたりする月を仰いで、默つてゐる。其額は晴やかで目には微かなかがやきがある。\n 庄兵衞はまともには見てゐぬが、始終喜助の顏から目を離さずにゐる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。それは喜助の顏が縱から見ても、横から見ても、いかにも樂しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。\n 庄兵衞は心の内に思つた。これまで此高瀬舟の宰領をしたことは幾度だか知れない。しかし載せて行く罪人は、いつも殆ど同じやうに、目も當てられぬ氣の毒な樣子をしてゐた。それに此男はどうしたのだらう。遊山船にでも乘つたやうな顏をしてゐる。罪は弟を殺したのださうだが、よしや其弟が惡い奴で、それをどんな行掛りになつて殺したにせよ、人の情として好い心持はせぬ筈である。この色の蒼い痩男が、その人の情と云ふものが全く缺けてゐる程の、世にも稀な惡人であらうか。どうもさうは思はれない。ひよつと氣でも狂つてゐるのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つ辻褄の合はぬ言語や擧動がない。此男はどうしたのだらう。庄兵衞がためには喜助の態度が考へれば考へる程わからなくなるのである。\n――――――――――――――――\n暫くして、庄兵衞はこらへ切れなくなつて呼び掛けた。「喜助。お前何を思つてゐるのか。」\n「はい」と云つてあたりを見廻した喜助は、何事をかお役人に見咎められたのではないかと氣遣ふらしく、居ずまひを直して庄兵衞の氣色を伺つた。\n 庄兵衞は自分が突然問を發した動機を明して、役目を離れた應對を求める分疏(いひわけ)をしなくてはならぬやうに感じた。そこでかう云つた。「いや。別にわけがあつて聞いたのではない。實はな、己は先刻からお前の島へ往く心持が聞いて見たかつたのだ。己はこれまで此舟で大勢の人を島へ送つた。それは隨分いろいろな身の上の人だつたが、どれもどれも島へ往くのを悲しがつて、見送りに來て、一しよに舟に乘る親類のものと、夜どほし泣くに極まつてゐた。それにお前の樣子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしてはゐないやうだ。一體お前はどう思つてゐるのだい。」\n 喜助はにつこり笑つた。「御親切に仰やつて下すつて、難有うございます。なる程島へ往くといふことは、外の人には悲しい事でございませう。其心持はわたくしにも思ひ遣つて見ることが出來ます。しかしそれは世間で樂をしてゐた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして參つたやうな苦みは、どこへ參つてもなからうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣つて下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の栖(す)む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云つて自分のゐて好い所と云ふものがございませんでした。こん度お上で島にゐろと仰やつて下さいます。そのゐろと仰やる所に落ち著いてゐることが出來ますのが、先づ何よりも難有い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい體ではございますが、つひぞ病氣をいたしたことがございませんから、島へ往つてから、どんなつらい爲事をしたつて、體を痛めるやうなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるに付きまして、二百文の鳥目(てうもく)を戴きました。それをここに持つてをります。」かう云ひ掛けて、喜助は胸に手を當てた。遠島を仰せ附けられるものには、鳥目二百銅を遣すと云ふのは、當時の掟であつた。\n 喜助は語を續いだ。「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふお足を、かうして懷に入れて持つてゐたことはございませぬ。どこかで爲事(しごと)に取り附きたいと思つて、爲事を尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。そして貰つた錢は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。それがお牢に這入つてからは、爲事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に對して濟まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。それにお牢を出る時に、此二百文を戴きましたのでございます。かうして相變らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出來ます。お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。島へ往つて見ますまでは、どんな爲事が出來るかわかりませんが、わたくしは此二百文を島でする爲事の本手にしようと樂しんでをります。」かう云つて、喜助は口を噤んだ。\n 庄兵衞は「うん、さうかい」とは云つたが、聞く事毎に餘り意表に出たので、これも暫く何も云ふことが出來ずに、考へ込んで默つてゐた。\n 庄兵衞は彼此初老に手の屆く年になつてゐて、もう女房に子供を四人生ませてゐる。それに老母が生きてゐるので、家は七人暮しである。平生人には吝嗇と云はれる程の、儉約な生活をしてゐて、衣類は自分が役目のために著るものの外、寢卷しか拵へぬ位にしてゐる。しかし不幸な事には、妻を好い身代の商人の家から迎へた。そこで女房は夫の貰ふ扶持米で暮しを立てて行かうとする善意はあるが、裕な家に可哀がられて育つた癖があるので、夫が滿足する程手元を引き締めて暮して行くことが出來ない。動もすれば月末になつて勘定が足りなくなる。すると女房が内證で里から金を持つて來て帳尻を合はせる。それは夫が借財と云ふものを毛蟲のやうに嫌ふからである。さう云ふ事は所詮夫に知れずにはゐない。庄兵衞は五節句だと云つては、里方から物を貰ひ、子供の七五三の祝だと云つては、里方から子供に衣類を貰ふのでさへ、心苦しく思つてゐるのだから、暮しの穴を填(う)めて貰つたのに氣が附いては、好い顏はしない。格別平和を破るやうな事のない羽田の家に、折々波風の起るのは、是が原因である。\n 庄兵衞は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べて見た。喜助は爲事をして給料を取つても、右から左へ人手に渡して亡くしてしまふと云つた。いかにも哀な、氣の毒な境界である。しかし一轉して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果してどれ程の差があるか。自分も上から貰ふ扶持米(ふちまい)を、右から左へ人手に渡して暮してゐるに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、謂はば十露盤(そろばん)の桁が違つてゐるだけで、喜助の難有がる二百文に相當する貯蓄だに、こつちはないのである。\n さて桁を違へて考へて見れば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでゐるのに無理はない。其心持はこつちから察して遣ることが出來る。しかしいかに桁を違へて考へて見ても、不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである。\n 喜助は世間で爲事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出來るだけで滿足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ滿足を覺えたのである。\n 庄兵衞はいかに桁を違へて考へて見ても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知つた。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折々足らぬことがあるにしても、大抵出納が合つてゐる。手一ぱいの生活である。然るにそこに滿足を覺えたことは殆ど無い。常は幸とも不幸とも感ぜずに過してゐる。しかし心の奧には、かうして暮してゐて、ふいとお役が御免になつたらどうしよう、大病にでもなつたらどうしようと云ふ疑懼(ぎく)が潜んでゐて、折々妻が里方から金を取り出して來て穴填をしたことなどがわかると、此疑懼が意識の閾の上に頭を擡げて來るのである。\n 一體此懸隔はどうして生じて來るだらう。只上邊だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こつちにはあるからだと云つてしまへばそれまでである。しかしそれは※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)である。よしや自分が一人者であつたとしても、どうも喜助のやうな心持にはなられさうにない。この根柢はもつと深い處にあるやうだと、庄兵衞は思つた。\n 庄兵衞は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた。\n 庄兵衞は今さらのやうに驚異の目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つて喜助を見た。此時庄兵衞は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光(がうくわう)がさすやうに思つた。\n――――――――――――――――\n庄兵衞は喜助の顏をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。今度は「さん」と云つたが、これは十分の意識を以て稱呼を改めたわけではない。其聲が我口から出て我耳に入るや否や、庄兵衞は此稱呼の不穩當なのに氣が附いたが、今さら既に出た詞を取り返すことも出來なかつた。\n「はい」と答へた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思ふらしく、おそる/\庄兵衞の氣色を覗つた。\n 庄兵衞は少し間の惡いのをこらへて云つた。「色々の事を聞くやうだが、お前が今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序にそのわけを話して聞せてくれぬか。」\n 喜助はひどく恐れ入つた樣子で、「かしこまりました」と云つて、小聲で話し出した。「どうも飛んだ心得違(こゝろえちがひ)で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。跡で思つて見ますと、どうしてあんな事が出來たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫(じえき)で亡くなりまして、弟と二人跡に殘りました。初は丁度軒下に生れた狗(いぬ)の子にふびんを掛けるやうに町内の人達がお惠下さいますので、近所中の走使などをいたして、飢ゑ凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を搜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたして、一しよにゐて、助け合つて働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引(そらびき)と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない/\と申してをりました。或る日いつものやうに何心なく歸つて見ますと、弟は布團の上に突つ伏してゐまして、周圍は血だらけなのでございます。わたくしはびつくりいたして、手に持つてゐた竹の皮包や何かを、そこへおつぽり出して、傍へ往つて『どうした/\』と申しました。すると弟は眞蒼な顏の、兩方の頬から腮へ掛けて血に染つたのを擧げて、わたくしを見ましたが、物を言ふことが出來ませぬ。息をいたす度に、創口でひゆう/\と云ふ音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも樣子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と云つて、傍へ寄らうといたすと、弟は右の手を床に衝いて、少し體を起しました。左の手はしつかり腮の下の所を押へてゐますが、其指の間から黒血の固まりがはみ出してゐます。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるやうにして口を利きました。やう/\物が言へるやうになつたのでございます。『濟まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなほりさうにもない病氣だから、早く死んで少しでも兄きに樂がさせたいと思つたのだ。笛を切つたら、すぐ死ねるだらうと思つたが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く/\と思つて、力一ぱい押し込むと、横へすべつてしまつた。刃は飜(こぼ)れはしなかつたやうだ。これを旨く拔いてくれたら己は死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して拔いてくれ』と云ふのでございます。弟が左の手を弛めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、默つて弟の咽の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顏を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、『待つてゐてくれ、お醫者を呼んで來るから』と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、『醫者がなんになる、あゝ苦しい、早く拔いてくれ、頼む』と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顏ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐる/\廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷(や)めません。それに其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、とう/\敵の顏をでも睨むやうな、憎々しい目になつてしまひます。それを見てゐて、わたくしはとう/\、これは弟の言つた通にして遣らなくてはならないと思ひました。わたくしは『しかたがない、拔いて遣るぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと變つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました。わたくしはなんでも一と思にしなくてはと思つて膝を撞(つ)くやうにして體を前へ乘り出しました。弟は衝いてゐた右の手を放して、今まで喉を押へてゐた手の肘を床に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。留守の間、弟に藥を飮ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内のなかが暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆あさんはあつと云つた切、表口をあけ放しにして置いて驅け出してしまひました。わたくしは剃刀を拔く時、手早く拔かう、眞直に拔かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも拔いた時の手應(てごたへ)は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向ひてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。わたくしは剃刀を握つた儘、婆あさんの這入つて來て又驅け出して行つたのを、ぼんやりして見てをりました。婆あさんが行つてしまつてから、氣が附いて弟を見ますと、弟はもう息が切れてをりました。創口からは大そうな血が出てをりました。それから年寄衆(としよりしゆう)がお出になつて、役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいた儘死んでゐる弟の顏を見詰めてゐたのでございます。」\n 少し俯向き加減になつて庄兵衞の顏を下から見上げて話してゐた喜助は、かう云つてしまつて視線を膝の上に落した。\n 喜助の話は好く條理が立つてゐる。殆ど條理が立ち過ぎてゐると云つても好い位である。これは半年程の間、當時の事を幾度も思ひ浮べて見たのと、役場で問はれ、町奉行所で調べられる其度毎に、注意に注意を加へて浚つて見させられたのとのためである。\n 庄兵衞は其場の樣子を目のあたり見るやうな思ひをして聞いてゐたが、これが果して弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて來て、聞いてしまつても、其疑を解くことが出來なかつた。弟は剃刀を拔いてくれたら死なれるだらうから、拔いてくれと云つた。それを拔いて遣つて死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。しかし其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたからである。喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。\n 庄兵衞の心の中には、いろ/\に考へて見た末に、自分より上のものの判斷に任す外ないと云ふ念、オオトリテエに從ふ外ないと云ふ念が生じた。庄兵衞はお奉行樣の判斷を、其儘自分の判斷にしようと思つたのである。さうは思つても、庄兵衞はまだどこやらに腑に落ちぬものが殘つてゐるので、なんだかお奉行樣に聞いて見たくてならなかつた。\n 次第に更けて行く朧夜に、沈默の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべつて行つた。\n(大正五年一月「中央公論」第三十一年第一號)\n青空文庫より\n初出:「中央公論 第三十一年第一號」\n   1916(大正5)年1月\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E9%AB%98%E7%80%AC%E8%88%9F"} {"text": "元文(げんぶん)三年十一月二十三日の事である。大阪で、船乘業(ふなのりげふ)桂屋太郎兵衞(かつらやたろべゑ)と云ふものを、木津川口(きづがはぐち)で三日間曝(さら)した上、斬罪に處すると、高札(かうさつ)に書いて立てられた。市中到る處太郎兵衞の噂ばかりしてゐる中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衞の家族は、南組(みなみぐみ)堀江橋際(ほりえばしぎは)の家で、もう丸二年程、殆ど全く世間との交通を絶つて暮してゐるのである。\n この豫期すべき出來事を、桂屋へ知らせに來たのは、程遠からぬ平野町(ひらのまち)に住んでゐる太郎兵衞が女房の母であつた。この白髮頭の媼(おうな)の事を桂屋では平野町のおばあ樣と云つてゐる。おばあ樣とは、桂屋にゐる五人の子供がいつも好い物をお土産に持つて來てくれる祖母に名づけた名で、それを主人も呼び、女房も呼ぶやうになつたのである。\n おばあ樣を慕つて、おばあ樣にあまえ、おばあ樣にねだる孫が、桂屋に五人ゐる。その四人は、おばあ樣が十七になつた娘を桂屋へよめによこしてから、今年十六年目になるまでの間に生れたのである。長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。其次に、太郎兵衞が娘をよめに出す覺悟で、平野町の女房の里方(さとかた)から、赤子(あかご)のうちに貰ひ受けた、長太郎と云ふ十二歳の男子がある。其次に又生れた太郎兵衞の娘は、とくと云つて八歳になる。最後に太郎兵衞の始て設けた男子の初五郎がゐて、これが六歳になる。\n 平野町の里方は有福なので、おばあ樣のお土産はいつも孫達に滿足を與へてゐた。それが一昨年太郎兵衞の入牢(にふらう)してからは、兎角孫達に失望を起させるやうになつた。おばあ樣が暮し向の用に立つ物を主に持つて來るので、おもちややお菓子は少くなつたからである。\n しかしこれから生ひ立つて行く子供の元氣は盛んなもので、只おばあ樣のお土産が乏しくなつたばかりでなく、おつ母樣(かさま)の不機嫌になつたのにも、程なく馴れて、格別萎(しを)れた樣子もなく、相變らず小さい爭鬪と小さい和睦との刻々に交代する、賑やかな生活を續けてゐる。そして「遠い/\所へ往つて歸らぬ」と言ひ聞された父の代りに、このおばあ樣の來るのを歡迎してゐる。\n これに反して、厄難(やくなん)に逢つてからこのかた、いつも同じやうな悔恨と悲痛との外に、何物をも心に受け入れることの出來なくなつた太郎兵衞の女房は、手厚くみついでくれ、親切に慰めてくれる母に對しても、ろく/\感謝の意をも表することがない。母がいつ來ても、同じやうな繰言(くりごと)を聞せて歸すのである。\n 厄難に逢つた初には、女房は只茫然と目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つてゐて、食事も子供のために、器械的に世話をするだけで、自分は殆ど何も食はずに、頻(しきり)に咽が乾くと云つては、湯を少しづつ呑んでゐた。夜は疲れてぐつすり寢たかと思ふと、度々目を醒まして溜息を衝く。それから起きて、夜なかに裁縫などをすることがある。そんな時は、傍に母の寢てゐぬのに氣が附いて、最初に四歳になる初五郎が目を醒ます。次いで六歳になるとくが目を醒ます。女房は子供に呼ばれて床にはいつて、子供が安心して寢附くと、又大きく目をあいて溜息を衝いてゐるのであつた。それから二三日立つて、やう/\泊り掛けに來てゐる母に繰言を言つて泣くことが出來るやうになつた。それから丸二年程の間、女房は器械的に立ち働いては、同じやうに繰言を言ひ、同じやうに泣いてゐるのである。\n 高札の立つた日には、午過ぎに母が來て、女房に太郎兵衞の運命の極まつたことを話した。しかし女房は、母の恐れた程驚きもせず、聞いてしまつて、又いつもと同じ繰言を言つて泣いた。母は餘り手ごたへのないのを物足らなく思ふ位であつた。此時長女のいちは、襖の蔭に立つて、おばあ樣の話を聞いてゐた。\n――――――――――――――――\n桂屋にかぶさつて來た厄難と云ふのはかうである。主人太郎兵衞は船乘とは云つても、自分が船に乘るのではない。北國通ひの船を持つてゐて、それに新七と云ふ男を乘せて、運送の業を營んでゐる。大阪では此太郎兵衞のやうな男を居船頭と云つてゐた。居船頭の太郎兵衞が沖船頭の新七を使つてゐるのである。\n 元文元年の秋、新七の船は、出羽國秋田から米を積んで出帆した。其船が不幸にも航海中に風波の難に逢つて、半難船の姿になつて、積荷の半分以上を流出した。新七は殘つた米を賣つて金にして、大阪へ持つて歸つた。\n さて新七が太郎兵衞に言ふには、難船をしたことは港々で知つてゐる。殘つた積荷を賣つた此金は、もう米主に返すには及ぶまい。これは跡の船をしたてる費用に當てようぢやないかと云つた。\n 太郎兵衞はそれまで正直に營業してゐたのだが、營業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇つて、其金を受け取つてしまつた。\n すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、殘り荷のあつたことやら、それを買つた人のあつたことやらを、人傳(ひとづて)に聞いて、わざ/\人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衞に渡つた金高までを探り出してしまつた。\n 米主は大阪へ出て訴へた。新七は逃走した。そこで太郎兵衞が入牢してとう/\死罪に行はれることになつたのである。\n――――――――――――――――\n平野町のおばあ樣が來て、恐ろしい話をするのを※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、252-下-27]娘のいちが立聞をした晩の事である。桂屋の女房はいつも繰言を言つて泣いた跡で出る疲が出て、ぐつすり寐入つた。女房の兩脇には、初五郎と、とくとが寢てゐる。初五郎の隣には長太郎が寢てゐる。とくの隣にまつ、それに並んでいちが寢てゐる。\n 暫く立つて、いちが何やら布團の中で獨言を言つた。「ああ、さうしよう。きつと出來るわ」と、云つたやうである。\n まつがそれを聞き附けた。そして「※(ね)[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、253-上-7]えさん、まだ寐ないの」と云つた。\n「大きい聲をおしでない。わたし好い事を考へたから。」いちは先づかう云つて妹を制して置いて、それから小聲でかう云ふ事をささやいた。お父つさんはあさつて殺されるのである。自分はそれを殺させぬやうにすることが出來ると思ふ。どうするかと云ふと、願書(ねがひしよ)と云ふものを書いてお奉行樣に出すのである。しかし只殺さないで置いて下さいと云つたつて、それでは聽かれない。お父つさんを助けて、其代りにわたくし共子供を殺して下さいと云つて頼むのである。それをお奉行樣が聽いて下すつて、お父つさんが助かれば、それで好い。子供は本當に皆殺されるやら、わたしが殺されて、小さいものは助かるやら、それはわからない。只お願をする時、長太郎だけは一しよに殺して下さらないやうに書いて置く。あれはお父つさんの本當の子でないから、死ななくても好い。それにお父つさんが此家の跡を取らせようと云つて入らつしやつたのだから、殺されない方が好いのである。いちは妹にそれだけの事を話した。\n「でもこはいわねえ」と、まつが云つた。\n「そんなら、お父つさんが助けてもらひたくないの。」\n「それは助けてもらひたいわ。」\n「それ御覽。まつさんは只わたしに附いて來て同じやうにさへしてゐれば好いのだよ。わたしが今夜願書を書いて置いて、あしたの朝早く持つて行きませうね。」\n いちは起きて、手習の清書をする半紙に、平假名で願書を書いた。父の命を助けて、其代りに自分と妹のまつ、とく、弟の初五郎をおしおきにして戴きたい、實子でない長太郎だけはお許下さるやうにと云ふだけの事ではあるが、どう書き綴つて好いかわからぬので、幾度も書き損つて、清書のためにもらつてあつた白紙が殘少になつた。しかしとう/\一番鷄の啼く頃に願書が出來た。\n 願書を書いてゐるうちに、まつが寐入つたので、いちは小聲で呼び起して、床の傍に疊んであつた不斷着に著更へさせた。そして自分も支度をした。\n 女房と初五郎とは知らずに寐てゐたが、長太郎が目を醒まして、「ねえさん、もう夜が明けたの」と云つた。\n いちは長太郎の床の傍へ往つてささやいた。「まだ早いから、お前は寐ておいで。ねえさん達は、お父つさんの大事な御用で、そつと往つて來る所があるのだからね。」\n「そんならおいらも往く」と云つて、長太郎はむつくり起き上がつた。\n いちは云つた。「ぢやあ、お起(おき)、著物を著せて上げよう。長さんは小さくても男だから、一しよに往つてくれれば、其方が好いのよ」と云つた。\n 女房は夢のやうにあたりの騷がしいのを聞いて、少し不安になつて寢がへりをしたが、目は醒めなかつた。\n 三人の子供がそつと家を拔け出したのは、二番鷄の啼く頃であつた。戸の外は霜の曉であつた。提灯を持つて、拍子木を敲(たゝ)いて來る夜廻の爺いさんに、お奉行樣の所へはどう往つたら往かれようと、いちがたづねた。爺いさんは親切な、物分りの好い人で、子供の話を眞面目に聞いて、月番の西奉行所のある所を、丁寧に教へてくれた。當時の町奉行は、東が稻垣淡路守種信(いながきあはぢのかみたねのぶ)で、西が佐佐又四郎成意(なりむね)である。そして十一月には西の佐佐が月番に當つてゐたのである。\n 爺いさんが教へてゐるうちに、それを聞いてゐた長太郎が、「そんなら、おいらの知つた町だ」と云つた。そこで※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、253-下-29]妹は長太郎を先に立てて歩き出した。\n やう/\西奉行所に辿り附いて見れば、門がまだ締まつてゐた。門番所の窓の下に往つて、いちが「もし/\」と度々繰り返して呼んだ。\n 暫くして窓の戸があいて、そこへ四十恰好の男の顏が覗いた。「やかましい。なんだ。」\n「お奉行樣にお願があつてまゐりました」と、いちが丁寧に腰を屈めて云つた。\n「ええ」と云つたが、男は容易に詞の意味を解し兼ねる樣子であつた。\n いちは又同じ事を言つた。\n 男はやう/\わかつたらしく、「お奉行樣には子供が物を申し上げることは出來ない、親が出て來るが好い」と云つた。\n「いゝえ、父はあしたおしおきになりますので、それに就いてお願がございます。」\n「なんだ。あしたおしおきになる。それぢやあ、お前は桂屋太郎兵衞の子か。」\n「はい」といちが答へた。\n「ふん」と云つて、男は少し考へた。そして云つた。「怪しからん。子供までが上を恐れんと見える。お奉行樣はお前達にお逢(あひ)はない。歸れ歸れ。」かう云つて、窓を締めてしまつた。\n まつが※(あね)[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、254-上-22]に言つた。「ねえさん、あんなに叱るから歸りませう。」\n いちは云つた。「默つてお出。叱られたつて歸るのぢやありません。ねえさんのする通りにしてお出。」かう云つて、いちは門の前にしやがんだ。まつと長太郎とは附いてしやがんだ。\n 三人の子供は門のあくのを大ぶ久しく待つた。やう/\貫木(くわんのき)をはづす音がして、門があいた。あけたのは、先に窓から顏を出した男である。\n いちが先に立つて門内に進み入ると、まつと長太郎とが背後(うしろ)に續いた。\n いちの態度が餘り平氣なので、門番の男は急に支へ留めようともせずにゐた。そして暫く三人の子供の玄關の方へ進むのを、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて見送つて居たが、やう/\我に歸つて、「これこれ」と聲を掛けた。\n「はい」と云つて、いちはおとなしく立ち留まつて振り返つた。\n「どこへ往くのだ。さつき歸れと云つたぢやないか。」\n「さう仰やいましたが、わたくし共はお願を聞いて戴くまでは、どうしても歸らない積りでございます。」\n「ふん。しぶとい奴だな。兎に角そんな所へ往つてはいかん。こつちへ來い。」\n 子供達は引き返して、門番の詰所(つめしよ)へ來た。それと同時に玄關脇から、「なんだ、なんだ」と云つて、二三人の詰衆(つめしゆう)が出て來て、子供達を取り卷いた。いちは殆どかうなるのを待ち構へてゐたやうに、そこに蹲(うづくま)つて、懷中から書附を出して、眞先にゐる與力(よりき)の前に差し附けた。まつと長太郎も一しよに蹲つて禮をした。\n 書附を前へ出された與力は、それを受け取つたものか、どうしたものかと迷ふらしく、默つていちの顏を見卸してゐた。\n「お願でございます」と、いちが云つた。\n「こいつ等は木津川口で曝し物になつてゐる桂屋太郎兵衞の子供でございます。親の命乞をするのだと云つてゐます」と、門番が傍から説明した。\n 與力は同役の人達を顧みて、「では兎に角書附を預かつて置いて、伺つて見ることにしませうかな」と云つた。それには誰も異議がなかつた。\n 與力は願書をいちの手から受け取つて、玄關にはいつた。\n――――――――――――――――\n西町奉行の佐佐は、兩奉行の中の新參で、大阪に來てから、まだ一年立つてゐない。役向(やくむき)の事は總て同役の稻垣に相談して、城代(じやうだい)に伺つて處置するのであつた。それであるから、桂屋太郎兵衞の公事(くじ)に就いて、前役の申繼を受けてから、それを重要事件として氣に掛けてゐて、やうやう處刑の手續が濟んだのを重荷を卸したやうに思つてゐた。\n そこへ今朝になつて、宿直の與力が出て、命乞(いのちごひ)の願に出たものがあると云つたので、佐佐は先づ切角運ばせた事に邪魔がはいつたやうに感じた。\n「參つたのはどんなものか。」佐佐の聲は不機嫌であつた。\n「太郎兵衞の娘兩人と倅とがまゐりまして、年上の娘が願書を差上げたいと申しますので、これに預つてをります。御覽になりませうか。」\n「それは目安箱(めやすばこ)をもお設になつてをる御趣意から、次第によつては受け取つても宜しいが、一應はそれぞれ手續のあることを申聞せんではなるまい。兎に角預かつてをるなら、内見しよう。」\n 與力は願書を佐佐の前に出した。それを披いて見て佐佐は不審らしい顏をした。「いちと云ふのがその年上の娘であらうが、何歳になる。」\n「取り調べはいたしませんが、十四五歳位に見受けまする。」\n「さうか。」佐佐は暫く書附を見てゐた。不束(ふつゝか)な假名文字で書いてはあるが、條理が善く整つてゐて、大人でもこれだけの短文に、これだけの事柄を書くのは、容易であるまいと思はれる程である。大人が書かせたのではあるまいかと云ふ念が、ふと萌した。續いて、上を僞る横着物(わうちやくもの)の所爲(しよゐ)ではないかと思議した。それから一應の處置を考へた。太郎兵衞は明日の夕方迄曝すことになつてゐる。刑を執行するまでには、まだ時がある。それまでに願書を受理しようとも、すまいとも、同役に相談し、上役に伺ふことも出來る。又縱(よ)しや其間に情僞(じやうぎ)があるとしても、相當の手續をさせるうちには、それを探ることも出來よう。兎に角子供を歸さうと、佐佐は考へた。\n そこで與力にはかう云つた。此願書は内見したが、これは奉行に出されぬから、持つて歸つて町年寄(まちどしより)に出せと云へと云つた。\n 與力は、門番が歸さうとしたが、どうしても歸らなかつたと云ふことを、佐佐に言つた。佐佐は、そんなら菓子でも遣つて、賺(すか)して歸せ、それでも聽かぬなら引き立てて歸せと命じた。\n 與力の座を起つた跡へ、城代(じやうだい)太田備中守資晴(おほたびつちゆうのかみすけはる)が訪ねて來た。正式の見廻りではなく、私の用事があつて來たのである。太田の用事が濟むと、佐佐は只今かやうかやうの事があつたと告げて、自分の考を述べ、指圖を請(こ)うた。\n 太田は別に思案もないので、佐佐に同意して、午過ぎに東町奉行稻垣をも出席させて、町年寄五人に桂屋太郎兵衞が子供を召し連れて出させることにした。情僞があらうかと云ふ、佐佐の懸念も尤もだと云ふので、白洲へは責道具を並べさせることにした。これは子供を嚇して實を吐かせようと云ふ手段である。\n 丁度此相談が濟んだ所へ、前の與力が出て、入口に控へて氣色を伺つた。\n「どうぢや、子供は歸つたか」と、佐佐が聲を掛けた。\n「御意でござりまする。お菓子を遣(つかは)しまして歸さうと致しましたが、いちと申す娘がどうしても聽きませぬ。とうとう願書を懷へ押し込みまして、引き立てて歸しました。妹娘はしくしく泣きましたが、いちは泣かずに歸りました。」\n「餘程情の剛(こは)い娘と見えますな」と、太田が佐佐を顧みて云つた。\n――――――――――――――――\n十一月二十四日の未(ひつじ)の下刻(げこく)である。西町奉行所の白洲ははればれしい光景を呈してゐる。書院には兩奉行が列座する。奧まつた所には別席を設けて、表向の出座ではないが、城代が取調の模樣を餘所(よそ)ながら見に來てゐる。縁側には取調を命ぜられた與力が、書役を隨へて著座する。\n 同心(どうしん)等が三道具(みつだうぐ)を衝き立てて、嚴めしく警固してゐる庭に、拷問に用ゐる、あらゆる道具が並べられた。そこへ桂屋太郎兵衞の女房と五人の子供とを連れて、町年寄五人が來た。\n 尋問は女房から始められた。しかし名を問はれ、年を問はれた時に、かつがつ返事をしたばかりで、其外の事を問はれても、「一向に存じませぬ」、「恐れ入りました」と云ふより外、何一つ申し立てない。\n 次に長女いちが調べられた。當年十六歳にしては、少し穉(をさな)く見える、痩肉(やせじし)の小娘である。しかしこれは些(ちと)の臆する氣色もなしに、一部始終の陳述をした。祖母の話を物蔭から聞いた事、夜になつて床に入つてから、出願を思ひ立つた事、妹まつに打明けて勸誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に來て門番と應對し、次いで詰衆の與力に願書の取次を頼んだ事、與力等に強要せられて歸つた事、凡そ前日來經歴した事を問はれる儘に、はつきり答へた。\n「それではまつの外には誰にも相談はいたさぬのぢやな」と、取調役が問うた。\n「誰にも申しません。長太郎にも精しい事は申しません。お父つさんを助けて戴く樣に、お願しに往くと申しただけでございます。お役所から歸りまして、年寄衆のお目に掛かりました時、わたくし共四人の命を差し上げて、父をお助け下さるやうに願ふのだと申しましたら、長太郎が、それでは自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書を書かせて、持つてまゐりました。」\n いちがかう申し立てると、長太郎が懷から書附を出した。\n 取締役の指圖で、同心が一人長太郎の手から書附を受け取つて、縁側に出した。\n 取締役はそれを披いて、いちの願書と引き比べた。いちの願書は町年寄の手から、取調の始まる前に、出させてあつたのである。\n 長太郎の願書には、自分も※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-2]や弟妹と一しよに、父の身代りになつて死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあつた。\n 取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに氣が附かなかつた。いちが「お呼になつたのだよ」と云つた時、まつは始めておそるおそる項垂れてゐた頭を擧げて、縁側の上の役人を見た。\n「お前は※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-8]と一しよに死にたいのだな」と、取調役が問うた。\n まつは「はい」と云つて頷いた。\n 次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。\n 長太郎はすぐに「はい」と云つた。\n「お前は書附に書いてある通りに、兄弟一しよに死にたいのぢやな。」\n「みんな死にますのに、わたしが一人生きてゐたくはありません」と、長太郎ははつきり答へた。\n「とく」と取調役が呼んだ。とくは※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-16]や兄が順序に呼ばれたので、こんどは自分が呼ばれたのだと氣が附いた。そして只目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて役人の顏を仰ぎ見た。\n「お前も死んでも好いのか。」\n とくは默つて顏を見てゐるうちに、唇に血色が亡くなつて、目に涙が一ぱい溜まつて來た。\n「初五郎」と取調役が呼んだ。\n やう/\六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活溌にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。\n 此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。\n「はい。」\n「お前の申立には※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。\n いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。\n「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」\n「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。\n 佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。\n 次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。\n 白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先(おひさき)の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆(けうさ)せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の徳川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒(ほこさき)は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。\n――――――――――――――――\n城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑(つ)いてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中(うかゞひちゆう)日延(ひのべ)」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會(だいじやうゑ)御執行(ごしつかう)相成候(あひなりさふらう)てより日限も不相立儀(あひたたざるぎ)に付、太郎兵衞事、死罪(しざい)御赦免(ごしやめん)被仰出(おほせいだされ)、大阪北、南組、天滿の三口御構(おかまひ)の上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。\n青空文庫より引用。\n(大正四年十月「中央公論」第三十年第十一號)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%B8%80%E5%8F%A5"} {"text": "読解とかをするとき、いろいろと具体例をもとに説明するので、関連することを連想するでしょう。感想文や小論文などで「連想」が必要な場合もありますが、「連想は、論証とは違う」ということを自覚してください。\n小学校と中学校の読解は、ここが違うでしょう(←仮説)。中学の説明文・評論文では、あなたの想像力だけでなく、作者という他人の想像と合わせて、読解をする必要があるのです(←知ったか振り、要検証)。\n読解中の連想は、単なる仮説です。文章に関連することを連想するわけですから、なんらかの因果関係はあります。しかし、その思い浮んだ因果関係は、まだ仮説です。\n読んでる作品の文章中で、その連想した仮説が紹介される場合もあれば、紹介されない場合もあります。\nなぜ、こういう事をわざわざ言うかというと、世の中には、自分の意見に近い意見の感想だけを聞いて、それで論証したつもりになる人が、けっこう多いんです。また、民主主義での議会の決定手続きは、多数決ですから、てっきり多数の人の感想を聞いて、それで論証したつもりになる人も、けっこう世間には、います(←偏見)。\nだから世間には、連想と論証の区別のついてない人が、結構たくさん、いるからです。自分の体験談とその時の感想を述べて、なにかを証明したつもりになっている人が、世間には、けっこう多いのです。\nたとえば政治評論とかで、誰かが、なんらかの政策に不満を持ったとしましょう。その人が、その政策を不満に感じる切っ掛けになった体験談と、そのときの感想を述べたとします。それ自体は、国民の意見の一つとしての民主的価値があるので大切な意見なのですが、だからといって、誰かの感想を聞いただけで証明をしたつもりになってはイケマセン。\nこの例では政治評論を例に上げましたが、べつに政治評論や社会評論だけに限らず、ほかの様々な評論や説明文でも、連想と論証の区別を注意してください。\n学問の研究の世界では、 < 自分の意見に近い意見の感想だけを聞いて、それで論証したつもりになる人 > ってのは、まったく相手にされません。\n文化系の学問の研究ってのは、その感想とか連想とかを客観的な方法で検証することこそが、研究なのです。もちろん中学生では、まだ研究には早いですが、将来的には、そうなんだ、って事を知っててください。\nだから中学校以上の国語の評論などでは、作者の意見と、世間の多数の意見とが、ときどき違う場合もあります。もちろん、あまり違わない場合もあります。\nまた、たとえ作者の意見と世間の意見が同じでも、その意見に辿りつくためのプロセスが世間の多数と違ってて、珍しいプロセスの場合もあります。そもそも、なんらかの珍しさがある意見だから、わざわざ教材などで紹介するわけです。\n体験談とかにもとづく感想を述べたのは、エッセイとか随筆(ずいひつ)とかと言われるジャンルですね。古典で習う、清少納言の『枕草子』や兼好法師の『徒然草』も、随筆です。現代風に言えば、枕草子も徒然草も、エッセイです。それはそれで、価値があります。随筆も、国語で習うでしょう。随筆なんかだと、その価値は、体験の珍しさ、または感想の珍しさにこそあるわけです。\n教科書で紹介される作品によっては、随筆と評論との区別が、付きづらい場合もあります。随筆の感想にも、感想の前提として何らかの価値観が付いていますから、価値観があれば意見を感じているはずで、随筆も、間接的に自分の意見を述べているジャンルになります。\n随筆と評論との違いは、自分の感想の紹介を重点に負いたのが随筆かな? 評論は、その仮説の検証に重点を置いているのかな?\n近代文学作家の作品では、作家名だけでは、評論なのか小説なのか随筆なのかは、判断できません。たとえば夏目漱石だって、評論を書いています。たとえば夏目漱石『私の個人主義』は、おそらく評論でしょう(『私の個人主義』は中学の範囲外なので、無理して読まなくてよい)。小説家の長文作品だって、評論の場合もあれば、随筆の場合もあるし、説明文の場合もあります(←べつに「夏目漱石がそうだ」とは言ってない、「夏目漱石が随筆を書いた」なんて言ってない。連想と論証の区別ってのは、こういうことだ)。\n説明文のテスト問題だと、(課題文ではなく)設問文も、理屈っぽいです。\nたとえば、「筆者の主張を、文中で使われてる語句も書き出して用いて、20字以内の文章で、まとめて書け(句読点が必要なら、句読点をふくめて20字以内で)。」と設問文に書いてあったら、たとえ近い内容の15字ほどの名詞が文中にあろうが、それが解答ではなくて、きちんと文章でまとめて書くことが解答です。\nこのような設問では解答のパターンが複数パターンありますが、条件1「筆者の主張」、条件2「文中で使われてる語句も書き出して用いて」、条件3「20字以内」、条件4「文章で」・・・という諸条件があるので、数個のパターンに限定される、というワケです。\nたとえ「書き出して」と設問文に書いてあっても、けっして「筆者の主張と最も近い文中の語句を書き出せ」という設問ではなくて、わざわざ設問文で(語句)「も」とか助け船を書いてあるんだし、さらにわざわざ「まとめて」とも設問に書いてあるんだから、きちんと自分で言葉を考えてまとめて書かないと不正解にしてやるぞ〜、という設問なワケです。\nこのような設問は、高校受験では私立高校などの入試国語で出題される場合があります。このようなタイプの設問は、けっして「引っ掛け問題」でもなんでもなく、むしろ親切です。だって、わざわざ、「文章で」とか、設問に書いてあるんだし。\nつまり出題する高校の意図は、「文章」と「名詞」「語句」の区別がつかない受験生の答案は、その区別の語彙力が無い時点で「国語力が低いなあ。語彙力もないし、文章と名詞の区別がついてないから、文法の理解も浅いぞ。よって、この答案を不正解にしてやる。」と判断するわけです。\nなにも説明文・表論文に限ったタイプの設問ではなく、物語文などでも同様のタイプの出題される場合もあります。ですが、とくに説明文・表論文に、このようなタイプの問題が出る場合が比較的多いかもしれません(←推測)。\n先ほど言ったように、このような自分で言葉を考える必要のある設問の場合、模範解答が複数パターンある場合もあります。\nそして入試国語では、私立高校の入試なんかで、こういう模範解答が複数パターンの設問が出る場合があります。公立高校だと、税金で運営されている立場上、答えが複数パターンある問題は、出題しづらい場合があります。\nそもそも、こういう公立高校などの採点の都合上があるので、だから入試過去問などでは模範解答が一個のパターンになるような「書き出し」タイプの問題が多いわけです。また、「書き出し」タイプの設問では、採点がほぼ機械的に反復作業で可能なので、大量の受験生を採点する必要のある公立高校入試では、答えが一個になる「書き出し」タイプの設問の場合が多いです。\nしかし私立では、学校側に、採点の裁量権があります。(もっとも私立にも私学助成金はあるが・・・) \nまた、他人の主張をまとめるタイプの問題は、出題者から見れば、受験生の読解力と語彙力や論理性を同時に測定できるので、難度が中堅レベル以上の学校では出題される場合もあります。\nただし、最近では不況による私立学校の経営上の都合上、採点するのに手間(つまり人件費)が掛かるので、もしかしたら今では複数パターンの答えのある設問が出題されづらいかもしれません。\nまた、入試はけっして現代文だけではないので、古典や他教科の受験対策もする必要があるし、なので現代文の読解の勉強時間には限界もあります。\nなお、大学入試では、採点の手間の都合上、受験生が多いので、手間の掛かる、答案複数パターンな設問が出題されづらいかもしれません。また、センター入試では、選択問題しか出ないので、このような文章を書かせる設問は出ません。私大なら裁量権があるはずですが、マスコミなどでは「入試問題の答えは一つでなければならない。そうでない問題は悪問。」という考えが強いかもしれず、大学側もマスコミなどからの批判を恐れて、複数パターン解答の問題を出さないかもしれません。\n高校入試国語よりも大学入試国語のほうが要求される分析力が浅いってのは、社会問題かもしれませんが(社会科の入試問題ではなく)、しかし現実として、こういう懸念があるでしょう。\nおそらく大卒の資格が、いくつかの国家資格では要件や1次試験試験免除になってたりするので、大学入試では公平性の観点から「解答は1個だけ」タイプの設問が好まれるのでしょう。たとえ私大でも、法律上は国公立と同様に「大学」なので、というわけです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E8%AA%AC%E6%98%8E%E6%96%87%E3%83%BB%E8%A9%95%E8%AB%96%E6%96%87"} {"text": "中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。\nまず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。\nこのような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。\n念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。\nまた、平仮名は、その文字自体には意味が無い。\nいっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。\nまた、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。\n漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。\nいっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。\n「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。\nなお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。\n日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。\n日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。\n日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。\nまた、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。\nその段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。\n場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。\nたとえば\nとか\nなどのように。\nさて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。\n例\n上の例の文章は、4つの文でできている。\nそして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。\nまた、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。\n例\n「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。\nさらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。\nたとえば、\n例\nなら、\nと単語分けすることができる。\n文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。\n主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。\nたとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。\n一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。\nしかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。\nまた、日本語の文には、主語が無い場合もある。\nたとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。\nまた、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。\nまた、\nの場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。\n述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。\nたとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。\nなお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。\n主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。\n修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。\nたとえば、\nなら「まじめに」の部分が修飾語である。\nいっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。\n「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。\n「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。\n「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。\nこの例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。\nまた、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。\nまたは単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。\nいっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。\nたとえば、\nこの場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか?\nヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか?\n答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。\nいっぽう、\nなら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。\nのように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。\n接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。\n接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。\nエラーしたのが山田?出塁したのが山田?\n独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。\n\nあいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。\n上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。\n上の例文の「山田さん」も独立語です。\nいっぽう、\nこの例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。\nこの例文の「あのう」は独立語です。\nこの例文の「東京」は独立語です。\n二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。\n連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。\nまた、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。\n日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文\nの主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。\nしかし、\nという文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。\nそこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。\nの主部は、「自分の消しゴム」です。\n例文\nの述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。\nそこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。\nこの文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。\n例文\nについて、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。\nそこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。\n「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。\n「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。\nこの「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。\nつまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。\nまた、並立の関係にある単語を並立語といいます。\n「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。\nさきほどの例文では述語が並立していました。\nほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば\nという例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。\n\n単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。\nたとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。\nいっぽう、「に」は自立語ではない。\n原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。\nなお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。\nなお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。\nいっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。\n付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。\n名詞は普通、自立語に分類する。\n動詞の語感を自立語に分類する。\n動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。\nたとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。\n(学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。\n(学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。\n\n「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。\nたとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。\nこのように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。\n自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。\nたとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。\n「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。\n付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。\n活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。\n用言は普通、述語になれます。\n後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。\n動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。\n形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。\n用言の性質として\nなどの性質があります。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。\n後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。\n名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。\n体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。\n「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。\nたとえば「歩く」なら、\n「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。\nまた、動詞は述語になることができる。\nたとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。\n動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。\nたとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。\nいっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。\n同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。\n「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。\nまた、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。\n「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。\n名詞には、いろいろな種類がある。\n「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。\n「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。\n「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。\nのような文での「もの」、\nまたは\nの「こと」のような名詞を、形式名詞という。\n「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。\n※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。\n代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。\nいっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。\n代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。\n代名詞は、活用がない語である。\n\nこの一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。\nけっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。\n代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。\n名詞は普通、自立語です。\n副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。\n副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\n程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。\n「呼応の副詞」とは、\nのように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。\nたとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。\n「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。\nのように\nの「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。)\n(※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、\n※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。\nの「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。)\n「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。\n「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。\nこれ以外にも、\nまたは\nとかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。\n教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。\nたとえば、\nのように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている)\nなどの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。)\n叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\nの「ゆっくり」は、状態の副詞である。\n程度の副詞は、\n「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。\nの「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。\n「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。\n「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、\n「もっと右。」「もっと昔から。」\nのように名詞などの体言を修飾することもある。\nまた、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。\n指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。\n連体詞の直後には、かならず体言がつく。\n「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。\n「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。\nたとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。\n「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。\nなので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。\n同様に、「小さな」も連体詞である。\n「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。\n\n「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。\n\n「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。\n動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。\nなどの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。\nいっぽう\nの「ある」は、動詞である。\nこのように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。\nのような連体修飾語「去る」は連体詞である。\n「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。\nたとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。\nこのように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。\n形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈)\n「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈)\n\n感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。\n典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞)\nいろいろな例\n\n「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。\n「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。\n助動詞とは、活用のある付属語です。\n「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。\nつまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。\nいっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。\n「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。\n「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。\n「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。\n「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。\n動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。\nたとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。\n活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。\nたとえば、動詞の活用形には、\nの6種類がある。\nまた、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。\nたとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。\n「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。\n動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。\nたとえば、上記の「咲く」の場合、\n「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。\nまた、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。\n「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。\n五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。\nたとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。\n\n命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。)\n下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。\n\n上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。\n\n「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。\nもし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。\nなので、「起きる」の語幹は「お」にされている。\n「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。\n\n下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。\n「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。\nカ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。\nカ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\nサ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。\nサ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\n動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。\n「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令)\nというように、動詞「書く」は5段活用される。\nしかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。\n「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。\nいっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。\nこの「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。\n動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。\nこれは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。\nこの「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。\n「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。\n動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。\n共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。\nしかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。\n促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。\n撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。\nなお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。\n\n特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば\nの「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。\n本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。\nこのように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。\n形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。\n助動詞と補助動詞とは違う。\nなどの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。\nの「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。\nの「いただく」・「なる」も補助動詞である。\n「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。\n学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。\nたとえば\nなど、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。\nいっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。\nつまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。\n「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。\n動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。\n例:「起きる」と「起こす」。\n「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 \n一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。\n「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。\nものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。\nなど。\n\n特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は\nというように「無」の状態を表す場合と、\nのように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。\nこの、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。\n「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、\n「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。\nしかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。\nまた、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。\nこのように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。\nなお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。)\n「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。)\nなお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。\nなお、「ほしい」は同じ意味の英語の\"want\"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。\n「ほしい」も\nのように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。\n日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。\n補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。\nつまり、\n例\nという文章では、「歩いている」で、1文節と数える。\nつまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。\nまた、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。\n(批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、\nたとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、\nしかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。\n「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。)\n「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。\n形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。\n形容動詞に命令形は無い。\n「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。\nなお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。\n単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。\n文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。\n助動詞には、次のものがある。\n例\n活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。\n例\n「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。\n例\n「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。\n「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。\nなお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。\n例\nこの文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。\nこの文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。\n服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。\nまた、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。\n「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。\n「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。\n「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。\n\n「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。\n「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。\n(※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。\n時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。\n「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。\n「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。\n「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。\nまた、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。\n「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。\n「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。\n「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。\n「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。\n「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。\n「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。\n「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。\n「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。\n(※ 執筆中)\n国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。\n助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。\n主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。\n学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。\n格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。\nたとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、\nそれとも\nはたまた\nのかわからない。\nこの「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。\n気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。\nつまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。\nしかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。\nなお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\nつまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。\n\nさて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。\n三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。)\nたとえば、(学校教科書では習わない文だが、)\nという文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。\n助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。\n(※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。\nなどの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。\n「の」には、\nのように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味)\nのように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。\nこのように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。\nまた、\nのように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。\nこれらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。\nなお、混同しやすい例として\nのような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。\n接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。\n「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\n副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。\n三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。\n教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。\n\n終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。\n他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。\n単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。\n1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。\n「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。\nどちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。\n単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。\n日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。\n接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。\n文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。\n例文:\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95"} {"text": "(※ 三省堂、教育出版の中3)\n干支(えと)は、図のように、東西南北の方角とも関連づけされている。むかしの中国や、むかしの日本では、しばしば、干支(えと)が用いられた。\n子(ね) = ネズミ\n丑(うし) = 牛\n寅(とら) = 虎\n卯(う) = うさぎ\n辰(たつ) = 龍\n巳(み) = 蛇(へび)\n午(うま) = 馬\n未(ひつじ)= 羊(ひつじ)\n申(さる) = 猿\n酉(とり) = 鳥\n戌(いぬ) = 犬(イヌ)\n亥(い) = いのしし\n(春)\n(夏)\n(秋)\n(冬)\n日本の旧暦は、月の満ち欠けを元にした太陰暦である。\n現在の暦は、太陽を元にした太陽暦(たいようれき)である。\n旧暦と、現在の暦には、季節のずれがある。\n旧暦では、1月・2月・3月が春。旧暦の夏は4月・5月・6月である。旧暦の秋は7月・8月・9月である。旧暦の冬は10月・11月・12月である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E5%B8%B8%E8%AD%98"} {"text": "中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。\nまず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。\nこのような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。\n念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。\nまた、平仮名は、その文字自体には意味が無い。\nいっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。\nまた、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。\n漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。\nいっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。\n「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。\nなお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。\n日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。\n日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。\n日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。\nまた、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。\nその段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。\n場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。\nたとえば\nとか\nなどのように。\nさて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。\n例\n上の例の文章は、4つの文でできている。\nそして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。\nまた、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。\n例\n「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。\nさらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。\nたとえば、\n例\nなら、\nと単語分けすることができる。\n文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。\n主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。\nたとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。\n一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。\nしかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。\nまた、日本語の文には、主語が無い場合もある。\nたとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。\nまた、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。\nまた、\nの場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。\n述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。\nたとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。\nなお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。\n主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。\n修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。\nたとえば、\nなら「まじめに」の部分が修飾語である。\nいっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。\n「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。\n「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。\n「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。\nこの例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。\nまた、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。\nまたは単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。\nいっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。\nたとえば、\nこの場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか?\nヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか?\n答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。\nいっぽう、\nなら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。\nのように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。\n接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。\n接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。\nエラーしたのが山田?出塁したのが山田?\n独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。\n\nあいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。\n上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。\n上の例文の「山田さん」も独立語です。\nいっぽう、\nこの例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。\nこの例文の「あのう」は独立語です。\nこの例文の「東京」は独立語です。\n二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。\n連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。\nまた、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。\n日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文\nの主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。\nしかし、\nという文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。\nそこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。\nの主部は、「自分の消しゴム」です。\n例文\nの述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。\nそこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。\nこの文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。\n例文\nについて、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。\nそこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。\n「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。\n「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。\nこの「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。\nつまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。\nまた、並立の関係にある単語を並立語といいます。\n「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。\nさきほどの例文では述語が並立していました。\nほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば\nという例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。\n\n単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。\nたとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。\nいっぽう、「に」は自立語ではない。\n原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。\nなお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。\nなお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。\nいっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。\n付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。\n名詞は普通、自立語に分類する。\n動詞の語感を自立語に分類する。\n動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。\nたとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。\n(学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。\n(学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。\n\n「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。\nたとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。\nこのように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。\n自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。\nたとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。\n「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。\n付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。\n活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。\n用言は普通、述語になれます。\n後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。\n動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。\n形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。\n用言の性質として\nなどの性質があります。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。\n後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。\n名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。\n体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。\n「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。\nたとえば「歩く」なら、\n「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。\nまた、動詞は述語になることができる。\nたとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。\n動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。\nたとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。\nいっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。\n同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。\n「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。\nまた、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。\n「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。\n名詞には、いろいろな種類がある。\n「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。\n「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。\n「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。\nのような文での「もの」、\nまたは\nの「こと」のような名詞を、形式名詞という。\n「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。\n※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。\n代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。\nいっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。\n代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。\n代名詞は、活用がない語である。\n\nこの一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。\nけっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。\n代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。\n名詞は普通、自立語です。\n副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。\n副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\n程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。\n「呼応の副詞」とは、\nのように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。\nたとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。\n「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。\nのように\nの「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。)\n(※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、\n※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。\nの「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。)\n「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。\n「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。\nこれ以外にも、\nまたは\nとかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。\n教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。\nたとえば、\nのように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている)\nなどの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。)\n叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。\n状態の副詞は主に動詞を修飾する。\nの「ゆっくり」は、状態の副詞である。\n程度の副詞は、\n「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。\nの「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。\n「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。\n「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、\n「もっと右。」「もっと昔から。」\nのように名詞などの体言を修飾することもある。\nまた、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。\n指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。\n連体詞の直後には、かならず体言がつく。\n「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。\n「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。\nたとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。\n「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。\nなので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。\n同様に、「小さな」も連体詞である。\n「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。\n\n「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。\n\n「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。\n動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。\nなどの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。\nいっぽう\nの「ある」は、動詞である。\nこのように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。\nのような連体修飾語「去る」は連体詞である。\n「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。\nたとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。\nこのように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。\n形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈)\n「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈)\n\n感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。\n典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞)\nいろいろな例\n\n「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。\n「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。\n助動詞とは、活用のある付属語です。\n「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。\nつまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。\nいっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。\n「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。\n「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。\n「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。\n「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。\n動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。\nたとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。\n活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。\nたとえば、動詞の活用形には、\nの6種類がある。\nまた、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。\nたとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。\n「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。\n動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。\nたとえば、上記の「咲く」の場合、\n「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。\nまた、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。\n「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。\n五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。\nたとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。\n\n命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。)\n下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。\n\n上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。\n\n「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。\nもし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。\nなので、「起きる」の語幹は「お」にされている。\n「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。\n\n下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。\n「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。\nカ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。\nカ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\nサ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。\nサ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。\n動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。\n「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令)\nというように、動詞「書く」は5段活用される。\nしかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。\n「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。\nいっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。\nこの「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。\nこのように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。\n動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。\nこれは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。\nこの「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。\n「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。\n動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。\n共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。\nしかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。\n促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。\n撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。\nなお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。\n\n特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば\nの「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。\n本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。\nこのように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。\n形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。\n助動詞と補助動詞とは違う。\nなどの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。\nの「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。\nの「いただく」・「なる」も補助動詞である。\n「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。\n学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。\nたとえば\nなど、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。\nいっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。\nつまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。\n「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。\n動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。\n例:「起きる」と「起こす」。\n「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 \n一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。\n「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。\nものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。\nなど。\n\n特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は\nというように「無」の状態を表す場合と、\nのように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。\nこの、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。\n「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、\n「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。\nしかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。\nまた、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。\nこのように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。\nなお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。)\n「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。)\nなお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。\nなお、「ほしい」は同じ意味の英語の\"want\"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。\n「ほしい」も\nのように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。\n日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。\n補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。\nつまり、\n例\nという文章では、「歩いている」で、1文節と数える。\nつまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。\nまた、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。\n(批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、\nたとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、\nしかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。\n「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。)\n「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。\n形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。\n形容動詞に命令形は無い。\n「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。\nなお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。\n自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。\n例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。\n名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。\n単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。\n文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。\n助動詞には、次のものがある。\n例\n活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。\n例\n「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。\n例\n「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。\n「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。\nなお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。\n例\nこの文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。\nこの文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。\n服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。\nまた、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。\n「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。\n「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。\n「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。\n\n「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。\n「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。\n(※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。\n時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。\n「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。\n「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。\n「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。\nまた、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。\n「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。\n「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。\n「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。\n「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。\n「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。\n「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。\n「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。\n「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。\n(※ 執筆中)\n国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。\n助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。\n主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。\n学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。\n格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。\nたとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、\nそれとも\nはたまた\nのかわからない。\nこの「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。\n気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。\nたとえば、\nという文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。\nつまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。\nしかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。\nなお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\nつまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。\n\nさて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。\n三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。)\nたとえば、(学校教科書では習わない文だが、)\nという文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。\n助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。\n(※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。\nなどの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。\n「の」には、\nのように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味)\nのように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。\nこのように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。\nまた、\nのように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。\nこれらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。\nなお、混同しやすい例として\nのような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。\n接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。\n「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。\n副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。\n三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。\n教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。\n\n終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。\n他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。\n単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。\n1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。\n「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。\nどちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。\n単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。\n日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。\n接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。\n文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。\n例文:\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95"} {"text": "文を強調するための技術を修辞法という。あくまで強調のためのものであり、使いすぎると強調点がわからなくなったり、いやみな文のように見えてしまう。また、小説や詩歌、話し言葉ではよく使われるが、説明文・論説文ではあまり使わない。\n小学校では「たとえ」と習う。あるものを別のものにたとえることである。「~のようだ」という言葉を使う直喩(ちょくゆ)といい、それを使わない隠喩(いんゆ)または暗喩(あんゆ)といい、人間以外のものを人間のようにたとえる擬人法(ぎじんほう)がある。\n例\n日本語の文では体言のみで終わることは少なく、「だ」「である」などをつけくわえる。それをあえて破り、体言のみの文末(述語)とすることを体言止め(たいげんどめ)といい、感動や詠嘆を表すことが多い。話し言葉では断定の助動詞「だ」などを省略することが多いため、結果的に体言止めになることが少なくない。\n例:「五月雨をあつめてはやし最上川」(松尾芭蕉)\n日本語の語順は主語・述語という順序が標準である。(また、修飾語と被修飾語も同様の語順である。)その語順を破ることで強調したいことを示したり、感動や詠嘆を表すことを倒置法(とうちほう)という。話し言葉や詩歌で多く使われる。\n例:「きれいだなあ、この海は。」ここでは主語と述語の語順を入れ替えて述語を強調している。\n同じ語をくり返す方法。\n例)嬉しい。めっちゃ嬉しい。\n人間ではないものを人間に例える方法。\n例 星が笑ってる。\n意味の近い言葉どうしやリズムの近い文どうしを合わせてセットにすることにより、組み合わせを強調する手法。詩歌などで情景を豊かに表す手法として用いることが多い。\n例:「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」(『平家物語』より)このばあい、「祇園精舎の鐘の声」と「沙羅双樹の花の色」、「諸行無常」と「盛者必衰」が対になっている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E6%8A%80%E6%B3%95"} {"text": "「故事」(こじ)とは、昔の出来事のことである。\n「故事成語」(こじせいご)とは、ある故事が元になって出来た熟語である。たいてい、中国の古典に書かれた故事が、故事成語の元になっている。\nここでいう「中国」は、チャイナのほうの中国である。なお、中学校のこの単元においては以下の漢文についてを習うこと及びその次に述べる故事成語を覚えることを目的とする。\nwikibooksの仕組みではどうしても横書きになってしまう。一文字ずつ改行してならできなくもないものの、ページが大変なこと(長さ)になってしまうので、やむをえず横書きにした。横書きで上つきの記号は、縦書きでは右側に、同じく下つきの記号は左側に、と読み替えてほしい。\n以下に例を述べる。その前に、簡易的ではあるが、説明をしておく。右側(ここでは横書きなので倒して上側)にあるカタカナが送り仮名で、左側(ここでは同じく横書きなので倒して下側)にあるのが訓読記号である。\n①\nまず、上(実際には縦書きなので右側)のカタカナは前述の通り「送り仮名」である。無論古文の読み方によって読まなくてはならない。次に、下(これまた実際には縦書きなので左側)の前述の通り訓読記号の『レ』はレ点と称し、これがある文字の一つ前の文字を読むのは後であり、先にこれの後の文字を先に読んだ後(一文字)先ほどのレ点の前の文字を読む。\n②\nまず、最初の有にレ点がついているので、また同様に無しにもレ点がついているので、読む順番は1、備え(古文の読み方で)2、有れば3、患い(古文の読み方で)4、無し、となる。ここでは古文の読み方を適用することが重要である。間違っても、『備え患い有れば無し』(先に「レ点のないもの」を全て読んでしまった例)のようにしてはならない。レ点がついている文字は、レ点の次の文字を読んだ後、すぐに読む。\n③\nまず、『一』・『二』・『三』は『一・二・三点』という。二文字以上戻る場合、レ点では対処できないから出てくる。番号順に読む。\nでは、これを踏まえて、見てみよう。先に訓読記号のついていないものを読むので、1、東のかた2、鳥江を3、渡らんと4、欲す、となる。1、を読んだ後、他に訓読記号のついていない文字がないので、一(訓読記号)から順番に読む。こうすると、読むことができる。なお、漢文を書く場合においてもレ点と一・二・三点の使い分けをしよう。\nでは、これらを生かして、下の故事成語を読んでみよう。\nある主張の辻褄(つじつま)が合わないこと。\n矛盾\n楚人(そひと)に盾(たて)と矛(ほこ)とを鬻ぐ(ひさぐ)者あり。之(これ)を誉(ほ)めて曰(いは)く「わが盾(たて)の堅き(かたき)こと、能く(よく)陥す(とおす)ものなきなり。」と。また、その矛(ほこ)を誉めて曰く「わが矛の利なること、物において陥さざるなきなり。」と。\nある人いはく(いわく)「子(し)の矛を以て、子の盾を陥さば(とおさば)いかん。」と。その人応ふる(こたうる)こと能はざる(あたわざる)なり。\n楚の国の人で、盾と矛とを売る者がいた。その人が、盾をほめて、「私の盾の堅いことといったら、突き通せる物が無い。」と。また、その人は、矛をほめて、「私の矛の鋭いことといったら、どんな物でも突き通す。」\nある人が尋ねて、「あなたの矛で、あなたの盾を突きさすと、どうなるのか。」と言った。その商人は、答えることができなかった。\n中学校国語 漢文/矛盾も参照のこと。\nよけいなもの。\n中国の楚(そ)の国で、数名の者が地面に蛇の絵を早く描く競争をしていて、いちばん早く描き終えた者は酒を飲めるという競争をした。このときに、ある者が、いったん先に描き終えたが、「足まで描ける」と言ったら、別の者が「蛇には足がない。」と言われ、足を描いた男が負けてしまい、酒をうばわれたという。\n周囲を敵に囲まれること。または、周囲が敵ばかりで味方のいないこと。\n紀元前202年ごろの、古代の中国で、楚(そ)の国と、漢(かん)の国が、天下をめぐって争っていた。秦(しん)の王朝が滅んだあとの時代であり、いくつかの国が天下を争っていた。最終的に、楚と漢に、集約されていった。 そして、ついに楚と漢との決戦が起きた。\n楚(そ)の指導者の項羽(こうう)は、楚軍が垓下(がいか)の戦いで劣勢になり、敵側の漢の大軍に包囲された。その日の夜、項羽は四方の漢軍の陣のほうから、故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか。」と驚き(おどろき)嘆いた(なげいた)。この故事から\"周囲を敵に囲まれること\"を四面楚歌(しめんそか)と言うようになった。\n※最終的に項羽は戦に負け自殺し、漢が天下をにぎる。漢の指導者の劉邦(りゅうほう)が、あたらしい王朝の「漢」を作る。これが、漢王朝の始まりである。\nふたつの勢力がひとつの事柄について争っている間に、第三者が利益を得てしまうこと。\nハマグリが殻(から)を開けてひなたぼっこをしていると、鳥のシギがやってきて、ハマグリの身をついばもうとした。ハマグリは殻をとじて、シギのくちばしをはさみました。シギは『このまま今日も明日も雨が降らなければ、ハマグリは死ぬだろう』と言い、ハマグリは『今日も明日もこのままならば、シギの方が死ぬだろう』と言う。そうして、争っている間に、両者(りゃうしゃ)とも、漁師に捕まってしまった。\n中国の戦国時代における、たとえ話の一つ。\n必要のない心配、取り越し苦労(とりこしぐろう)のこと。\n杞(き)の国に、ひどく心配性の人がいた。もしも天が落ちてきたらどうしよう、地面が崩れたらどうしようと心配し、夜も眠れず食事ものどを通らぬほどに心配した人がいた。このことから、無駄な心配、取り越し苦労のことを指して杞憂(きゆう)という。\n人の幸不幸は変わりやすいということ。\n用例の一例として不幸な人をはげます場合に、「人間万事、塞翁が馬」などと使うことが多い。幸福で浮かれている人をいましめる場合にも、用いられる場合がある。\nこのことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、「人間万事塞翁が馬」などと使われる。\n文章の言い回しを、よりよく考え直すこと。\n単に、出版物などの誤字・脱字を訂正することは「校正」(こうせい)という熟語であり、推敲とは意味が異なる。\n唐の詩人の賈島(かとう)は、乗っているロバの上で詩を作っていた。その途中、「僧(そう)は推す(おす) 月下の門(げっかのもん)」という一句を口ずさんでから、「推す」のほかに「敲く」(たたく)という語を思いついて迷った。あまりにも夢中になっていたので、向こうから役人の韓愈(かんゆ)のひきいる行列がやってきたのにも気づかず、その中にぶつかってしまった。賈島はすぐに捕らえられ、韓愈の前に連れて行かれた。そこで賈島は経緯をつぶさに申し立てた。事情を知った韓愈は、賈島の話を聞き終わると、「それは『敲く』の方がいいだろう、月下に音を響かせる風情があって良い」と言った。そして、二人は、馬を並べていきながら詩を論じ合った。\nこのことから「文章を書いた後、字句を良くするために何回も読んで練り直すこと」を「推敲」という。\nあまりちがいのないこと。\n(書き下し文)\n中学校国語 漢文/五十歩百歩も参照のこと。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E6%95%85%E4%BA%8B%E6%88%90%E8%AA%9E_1%E5%B9%B4"} {"text": "(※漢字紹介の著作権に関する見解 --すじにくシチュー (トーク) 2014年9月24日 (水) 13:01 (UTC) \n本記事では、各社の教科書や教科書ガイドなどを参考に、各学年の漢字の範囲を判断し、この記事で漢字を紹介しています。漢字そのものには著作権が無いと考えています。この「漢字そのものには著作権が無い」という考えに基づき、参考文献などとしても、教科書や教科書ガイド等は特に紹介はしません。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E6%BC%A2%E5%AD%97_1%E5%B9%B4"} {"text": "中等教育前期(中学校)の教科書です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E5%89%8D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E5%9B%BD%E8%AA%9E"} {"text": "ここでは高校受験の国語のうち、現代文の対策について解説する。高校受験の現代文は以下の内容が出されることが多い。\n国語は数学・英語と並んで「主要3教科」と呼ばれることが多いが、3教科の中ではもっとも扱いが低い傾向にある。それは普段私たちが使用している日本語の読み書きが中心で、普段の生活でなんとなく身についているかのように見えるからであろう。しかし、国語の現代文の力は数学や英語と同じくらい、力をつけるのに時間のかかるものである。たとえば新聞が読めるからといって、哲学書や難解な評論が読める(理解できる)とはかぎらない。これらを読むには筆者の主張を丁寧に追うトレーニングを積まなければならない。小説でもストーリーを理解することはそれほど難しくはないが、登場人物の心理といった表面的な部分に描かれていないものを理解するには日常体験や他の本で読んだことなどと重ね合わせるなどを行わなければ読み間違えるであろう。また、筆者・作者が用いている日本語の表現技法も理解する必要がある。読解に限らず、作文でも同じことが言える。メールが書けることと仕事の報告書などを書くこととは全くことなる。この二つはそもそもルールが違うのだ。\n国語の現代文が英語・数学に比べて軽視されがちなもう一つの理由は勉強方法がわかりにくいというのもあるだろう。数学は計算練習や公式の暗記と適用が、英語は単語や文法の学習が基礎となることがはっきりしているが、国語の現代文では何をやればよいのかがよくわからないまま「なんとなく」点を取ったり落としたりすることは珍しいことではない。\n国語の学習に必要なものは丁寧に文章を追い、筆者の主張や作者の意図を汲み取るのに必要な読解力だけではなく、それを自分で組み立てなおす論理的な思考や体験や経験、一般常識などと重ね合わせる力である。これらは漫然と学習しても身につかない。正解・不正解にかかわらず「なぜこの答えになるのか(なったのか)」ということを考えながら解いてゆかなければならない。\n大雑把に分けると、あるものごとについて説明することが中心で筆者の意見が少ない説明文(たとえば「科学はどのように進んできたか」「サルの行動からわかること」など)、ある事実を踏まえて筆者の意見を述べているため筆者の主張がはっきりとしている評論文(たとえば「環境問題を解決するには何が必要か」など)、詩や俳句がどのようにしてでき、そのみどころなどを作品に沿って筆者の意見も交えながら解説している解説文に分けられる。\n全体として現在も存命の評論家や学者の文章が多い。これは現代文が現在進行しているいろいろな問題について評論・説明している文章を扱うことが多いためである。\n筆者の意見とその理由などが明確なため、文章を丁寧に追えば根拠となる部分を見つけることは難しくない。そのため、比較的力をつけやすく点を取りやすい。\n説明文や評論文では筆者の意見なのか事実なのかを理解しなければ文章を読んでいるうちに混乱してしまう。\n大学入試の現代文で出題されることの多い鷲田清一の文章だが、易しいところを高校入試に出題することもある。エコロジーへの関心などから内山節の評論も近年出題されやすくなった。また、数十年前から入試国語で人気のある大岡信・外山滋比古・加藤周一もチェックして損はない。\n物語文と随筆文に分けることができる。説明的文章と同様に現在も活躍している作家の作品が多く、公立高校や中堅私立高校ではすでに亡くなった作家はあまり登場しない。詩・短歌(和歌)・俳句が単独で出されることはあまりなく、解説文や古文と共に出題されることが多い。\n感覚的な理解や心理の読み取りといったものが必要とされるが、これはすぐに身につくものではない。そのため、早くからいろいろな問題を練習するのがよい。\n物語文ではまず、登場人物や場面をおさえなければならない。どんな人がいて、その人の人物像を簡単にとらえること、場面はどんなところで登場人物が何をしているのかをしっかりおさえるのが基本である。その上で場面の転換やストーリーの展開、登場人物の言動とその理由を考えると解きやすくなる。\n随筆文の読解は説明的文章に近い。つまり、筆者が何についてどう感じたのかを文章にそって考えなければならない。\n小説文ではあまりメジャーな作家の作品は出題されない。例外が重松清で、彼の作品は中学入試・高校入試共にどこかで出題されることが多い。そのため、彼の著作に一冊ぐらい目を通しておくと役に立つかもしれない。随筆では五木寛之の文章が比較的出題されやすい。白洲正子や向田邦子の随筆は、故人である上に教科書や問題集に文章が掲載されていることが多く、(公平性を保つことを目的に)公立高校を中心に高校入試では出題されにくい。しかし、今でも読みつがれている作家であるので、私立入試では出題者が「これくらいは読んでほしい」という気持ちを含めて、出題することもある。\n漢字の読み書きは大問1に出されることが多い。数学の計算問題と同じように始めにすませるのがよい。また、漢字の書き順に関する問題が出ることもある。\n奈良県の公立高校入試問題などのように手本の文を楷書で書きうつすというのもある。この場合、止めはねの正確さなどがチェックされる。\n多くの公立高校の入試では200字程度の作文を書かせる。作文には以下のような傾向が見られる。\n文章の内容や構成だけでなく、原稿用紙の基本的な使い方や言葉づかいなどもチェックされる。作文に限らないが国語の記述問題では制限字数の80%は最低書かなければ、減点されるおそれがある。\n現代文と古文・漢文をセットにした問題が出されることがある。また、2008年まで都立高校の入試問題には対談が出題された。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A0%A1%E5%8F%97%E9%A8%93%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87"} {"text": "高等学校受験において古文は「国語」の問題に含まれる。古文の扱いについては都道府県や学校(私立や国立)ごとに異なる。例えば、東京都立高校の古文は現代文との融合問題として出題されるため、教科書レベルの単語や文法をおさえれば現代文との対応で判断できるため難しくはない。また、私立高校の中には古文を出題しない高校もある。しかし、他の公立高校や難関私立では一部の難解な語に注がつく程度で古文の読解をしなければならないものがある。どの教科にも共通して言えることだが、自分の志望する高校の国語ではどの程度の古文が出題されるかを過去問でチェックしておくべきである。\nまず教科書に出てくる文章を正確に音読できることが大切である。古文に限らないが、読めないものを理解することはできない。その上で現代語などと比較して大まかに意味を理解していこう。その過程で現代とことなる意味の言葉(古語)や言い回しをチェックしていく。こうして古語の意味を覚え、古文特有のリズムを身につけるとよい。そして、古文特有の表現や価値観を知っておくとさらに理解しやすくなる。\nまず表現について見てみよう。ただ「花」といった場合、奈良時代や平安時代始めの文章なら梅の花だが、それ以降は桜のことである。主語は省略することが多いので、行為や発言を誰が行ったのかをストーリーを元にとらえかえす必要がある。\n価値観については以下のことをおさえておこう。まず、「をかし」「あはれなり」という美意識が重要視される。「をかし」とは「趣がある」ことに感動する心である。そして、「あはれなり」は「しみじみと(心の内からわきおこるような)感動」である。これらは自然現象や風景の面白さ・不思議さ・美しさ、他の人の気づかいや人情に対する感心や機転・機知への賞賛などに使われる言葉である。このことから「風流であること」「気配り」「とっさの知恵」が大切にされていたことを知ると格段に文章を理解しやすくなる。\nもう一つは無常観である。仏教が伝来してから私たちの祖先はこの考え方を取り入れてきた。その中でも特に広く共有されたものが、世の中は全て移り変わるという価値観である。これは平家物語の冒頭で示される「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に代表される。こうした世界の変化を筆者や作者がどのように捉えているのかを考えてみるのも大切である。また、神や仏に対する信仰心は今とは比べ物にならないほど強いことも念頭に置こう。\n最後に現代の笑い話はシャレや話の切り返しのうまさなどに注目すること、教訓話はどのようなことをしたからこうなったのかを理解しながら筆者の考えを見つけることができるようにしよう。\n中学校では古典文法をあまり習わないので基本的なことをおさえておけばよい。特に以下の点には気をつけよう。\n以下の古語は現代語と意味がことなる上、入試にも出やすい。まずはこれから覚えておこう。\n傾向としては随筆や説話が多い。\n難解なものが多いためあまり出題されない。ただし、和歌の問題として『万葉集』から出題されることがある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A0%A1%E5%8F%97%E9%A8%93%E5%8F%A4%E6%96%87"} {"text": "ここでは著作権上、問題のない漢字や文法などの問題を演習する。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%85%A5%E8%A9%A6%E5%AF%BE%E7%AD%96%E5%95%8F%E9%A1%8C/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E"} {"text": "中学校書写では、行書が始まります。\n要点を押さえつつ、行書の発祥や楷書との違いを押さえておくと、行書の書き方や面白さが分かると思いますので、自らでも調べてみて下さい。\n楷書(かいしょ)は、普段私たちが使う字のことです。\n硬筆などで扱われ、小学校での書写で教わった書き方です。\n一方、行書は以下に述べるように、いかにも人間の書く自然に見える字です。\n小学校との大きな違いは、個性を表現して、ルールがなく伸びやかにかけるところです。\n行書(ぎょうしょ)が中学校から始まるわけですが、「行書」と聞くと難しそうだなぁというイメージがあるかもしれません。\nしかし、ルールや決まりの多い楷書に比べれば簡単です。\n中国の後漢時代にできましたが、筆を使えることができたら誰でもかける字体となっています。\n行書では、一筆書きのような滑らかな字を書くことができ、特にこれといった決まりがありません。\nしたがって、どこを繋げるかなど、自分で工夫することができ、人によって個性が現れます。\n街などに行くとよく看板などで見る(例:飲食店や古道具売りなど)文字ですが、とても読みやすいというメリットがあります。\n手紙やメッセージなどに使うことによって、自然体の柔らかい印象を持たすことができます。\n行書は生活にてとても重宝されている字体なのです。\n先程述べたように、これといった書き方はありません。しかし、綺麗に見える文字の形や書き方というのは自然と出てくるものです。\n道具は、筆を柔らかくほぐしたものが最適です。\n「崩そう」という意識を持たず、筆の流れを意識して書くと効率的に行書に味を持たせることができます。\n書く姿勢も大事です。\n体の重心を中央に持ってきて、背中をピンと伸ばす。(これは小学校で習ったものかもしれません。)書道の基本を押さえつつ自分の書きたい文字を書いたら上手く行きます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%9B%B8%E5%86%99"} {"text": "世界には、陸地には6つの 大陸(たいりく、英:continent コンティネント) と、海洋には3つの 大洋(たいよう、英:ocean オーシャン) がある。\n六大陸(ろくたいりく)や三大洋(さんたいよう)などと呼ばれることもある。\n地球全体の陸地よりも、地球全体の海洋のほうが広い。\n陸地と海洋の面積の比は、おおよそ\nである。\nつまり、海のほうが陸地よりも2倍以上広い。\n3つの大洋とは 太平洋(たいへいよう、英:Pacific Ocean)、大西洋(たいせいよう、英:Atlantic Ocean)、インド洋(英:Indian Ocean) である。このうち、日本が接しているのは太平洋のみである。\n「太平洋」の「太」は「ふとい」の字だが、「大西洋」の「大」は「おおきい」の字なので、間違えないように。\n世界地理の話題では、日本海など3つの大洋以外の海は、大洋のどれかに属した海として扱う。\n大西洋とは、ヨーロッパ(英:Europe)の西側にあり、ヨーロッパとアメリカ(英:America)との間にある大きな海です。\nインド洋とは、インド半島(英:Indian subcontinent)の周囲とインドの南にあり、アフリカの東海岸とオーストラリアの西海岸で囲まれた、アフリカ(Africa)・インド(India)・オーストラリア(Australia)との間の海です。\n6つの大陸とは、ユーラシア大陸(英: Eurasia ユーレイシア)、アフリカ大陸(Africa アフリカ)、北アメリカ大陸(North America ノース・アメリカ)、南アメリカ大陸(South America サウス・アメリカ)、オーストラリア大陸(Australia オーストレイリア)、南極大陸(Antarctica アンタークティカ)の6つである。\nユーラシア大陸とは、ロシアや中華人民共和国やヨーロッパ諸国やインドなどがある大陸である。もっとも広い大陸はユーラシア大陸である。\nいくつかの大陸は、さらに州(しゅう)に分けられる。\nその結果、世界は大まかに6つの州に分けられる。\nアジア州(アジアしゅう、Asia エイジャ)、ヨーロッパ州(ヨーロッパしゅう、Europe ユーロプ)、アフリカ州、北アメリカ州、南アメリカ州、オセアニア州(Oceania オウシェアニア)の6つの州である。\nユーラシア大陸は、ウラル山脈(英: Ural Mountains)を境(さかい)にして、 ヨーロッパ州(ヨーロッパしゅう) と アジア州(アジアしゅう) とに分かれています。\nロシア(英:Russia)というユーラシア大陸の北にある大きな国は、ヨーロッパ州とアジア州に、またがっています。なお、ロシアは、かつてソビエト連邦(英:Soviet Union ソビエト・ユニオン)を冷戦のときに構成していた国である。\nオセアニア州とは、オーストラリア大陸と、その周辺の諸島の地域です。\nいくつかの州は、さらに細かく分かれます。\nアジア州では、東アジア(英:East Asia イースト・エイジャ)や東南アジア(英:Southeast Asia)、シベリア(英:Siberia サイビーリア)、中央アジア(英:Central Asia セントラル・エイジャ)、南アジア(英:South Asia サウス・エイジャ)、西アジア(英:Western Asia)などに分かれます。\n私たちの国の日本(英:Japan ジャパン)は、東アジアにあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%89%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%B4%8B%E3%81%A8%E5%85%AD%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%99%B8"} {"text": "経度(けいど、英:longitude ロンジテュード)と緯度(いど、英:latitude ラティチュード)は、地球上での位置を知るための座標のひとつである。\nこのふたつの座標を使うことによって、地球上のすべての位置を表すことができる。\nまた、世界地図や日本地図などをみると、線が縦と横に見られるが、これは同じ経度どうしを結んだ線や、同じ緯度どうしを結んだ線であり、それぞれ経線(けいせん)および緯線(いせん)という線である。\nでは、この2つの座標について詳しく見ていくことにしよう。\n経度とは、北極点と南極点を結んだ、縦の座標である。このうち、イギリスのロンドンにある旧グリニッジ天文台(Greenwich Observatory グリニッジ・オブザーバトリー)を通る本初子午線(ほんしょしごせん、Prime meridian プライム・ミリディアン)を0度として、東西に180度ずつ、ひかれている。本初子午線より東側を東経(とうけい、east longitude)と言い、西側を西経(せいけい、west longitude)と言う。\nまた、経度180度の線にそって日付変更線(ひづけへんこうせん、国際日付変更線、International Date Line インターナショナル・デイト・ライン、略:IDL)がひかれている。なお、日付変更線は陸地等を避けるために、一直線ではない。陸地を避けるのは、もし陸地を日付変更線が通っていると、同じ陸地内で2つの日付が存在することになり混乱を招くからである。\n日本の経度は、東経123度から、東経154度のあいだにあります。\n東京の経度は、東経140度です。\n地球の、回転軸に垂直な面のうち最も太い面と、地表の交わる線を赤道(せきどう、英: Equator イクウェイタ)といい、赤道の緯度は0°です。\n緯度は、赤道に平行にひいた、横の座標である。赤道より北側を北緯(ほくい、north latitude ノース・ラティチュード)とよび、南側を南緯(なんい、south latitude サウス・ラティチュード)とよびます。\nこのうち緯度は、赤道を0度として、南極点(なんきょくてん)を南緯90度として、北極点を北緯90度として、線が引かれています。\n日本の緯度は、およそ北緯20度から北緯46度のあいだにあります。\n東京の位置は、北緯36度です。\n東京を緯度・経度で表せば、北緯36度、東経140度になります。\n原則的に赤道に近い地域ほど、暑い地域になります。つまり、緯度が0度に近い地域ほど、暑い地域というわけです。この理由は何故でしょうか?\n日本では、昼間の太陽は南に登りますが、南半球の国では昼間の太陽は北に登ります。\nつまり、赤道の真上の方角に太陽はあります。じっさいに赤道の地域では、ほぼ真上に、昼間の太陽はあります。\n太陽から地球に降りそそぐ太陽光線の向きから見て、赤道の地域は、ほぼ垂直です。しかし北極や南極に近づく地域ほど、太陽光線から見て斜めに降りそそいでいます。\nたとえば豆腐をナナメに切ると、まっすぐ垂直に切ったときよりも、断面積が大きくなりますよね?\nそれと同じように、太陽光がナナメに降りそそぐということは、大きな面積を太陽が照らしていることになります。太陽光線の量は変わらないのに、照らされる面積が広くなってしまったのだから、面積あたりの太陽光線の量は減ります。よって、北極や南極に近づいている、緯度が大きい地域ほど、日差しが弱くなります。そして日差しが高緯度では弱まるので、高緯度は寒いわけです。\nなお、北半球(Northern Hemisphere ノーザン・ヘミスフィア)と南半球(Southern Hemisphere サザン・ヘミスフィア)では、季節が逆になります。たとえば北半球が寒い冬の12月〜2月ごろの時期は、南半球では暑い夏の時期です。つまり北半球が冬の時、南半球は夏です。\n北半球が暑い7月〜8月ごろの時期は、南半球では寒い時期です。北半球が夏の時、南半球では冬です。\nところで、右上にある図(地球の公転の図)の、太陽のまわりを回っている地球の自転(じてん)の回転軸を見てみると、ナナメですよね?\n実際に回転軸は、やや傾いています。\nこの、地球の自転の回転軸のことを地軸(ちじく、英:axis アクシス、the earth's axis など)と言います。\n地軸の向きは、地球と太陽を結んだ面である公転面(こうてんめん)から、角度で23.4度ほど傾いています。\nこのため、季節によっては、南北両半球で緯度66.33度の緯線よりも高緯度の地域(北極圏、南極圏)で、夏に太陽が沈まない日を 白夜(びゃくや、Midnight sun ミッドナイト・サン) と言います。逆に、冬に太陽が昇ってこない日を極夜(きょくや、polar night ポーロー・ナイト)と言います。\n昼間に日の登っている時間の長さが、季節によって違うのも、地軸の傾きによるものです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E7%B7%AF%E5%BA%A6%E3%81%A8%E7%B5%8C%E5%BA%A6"} {"text": "地球儀(ちきゅうぎ、Globe グロウブ)は、地球(ちきゅう、the globe)を球体で表現した模型。平面に描かれた地図(ちず、英:Map マップ)では方位、角、距離、面積のすべてを同時に正しく示すことはできないが、地球儀は地球と同じ球体であるため、そのいずれにおいても狂いがほとんどない。地球儀の縮尺(縮めた割合)は様々であるが、縮尺とサイズをそれぞれ決められる平面の地図とは異なり、地球儀は縮尺を決めると球体のサイズも決まる。\nしかし、持ち歩くには不向きで不便である。このため、時と場所によっては平面の地図のほうが便利な場合もある。\n地球上の、2つの地点の間の最短の経路を求めたいなら、地球儀を使って、その地点のあいだを紙テープなどで、まっすぐに貼りあわせてみれば良い。そのテープの経路が、最短経路である。\nちなみに、北極と南極との間の地表の距離は、約20000kmである。つまり、極と赤道のあいだの距離は約10000kmである。なお地球の一周は約40000kmである。\n緯度は90度だから、緯度10度あたり、約1100kmである。(本によっては、10度あたり約1000kmと紹介している本もある。)\nまず、直角に交わった2本の紙テープを用意する。\n1本目の紙テープを、経線にそってはかりたい地点の上に貼り合わせる。つまりテープの方向は、北極と南極とを結ぶ方向になる。(経線は南北に走っているので。)\n2本目のテープは、1本目のテープと直角だから、2本目のテープは東西に走っている。\n地球儀は丸い。正確な形を反映するには、地球儀のような丸い球形でなければならない。なので、2次元上の平面にかかれた地図には、どんな地図の書き方でも、実物とはちがってひずんでしまう。\n2次元平面の地図で面積の比率を正しくしようとすると、方向や角度がずれてしまう。平面上で、方向や角度をただしくしとうとすると、今度は面積比がおかしくなってしまう。\nメルカトル図法(ずほう)とは、角度を正しくあらわせる図法である。航海図などとして昔から使われており、等角航路(とうかく こうろ)が直線で表される図法である。\nしかし、面積比が正しくない。\n赤道から離れるにしたがって、面積が実際よりも大きく描かれてしまう。\nたとえばグリーンランドは、じっさいには北アメリカ大陸とくらべて小さいのだが、メルカトル図法だとグリーンランドは北アメリカ大陸と同じくらいの大きさにかかれる。実際のグリーンランドの大きさは、南アメリカ大陸の8分の1くらいの大きさである。(※ グリーンランドは、メルカトル図法の説明で、よく例として用いられる。)\nまた、方向も正しくはない。\n正距方位図法(せいきょほういずほう)は、地図の中心からの方位と、距離が正しい図法である。飛行機の航空図に、つかわれる。2点間の最短経路の大圏コースが、正距方位図法では直線で表される。\nモルワイデ図法(モルワイデずほう)は、地図上の任意の場所で実際の面積との比が等しくなる 正積図法(せいせき ずほう) である。地球全体を1枚の平面に表現でき、地図の外周は楕円(だえん)になる。\n主に分布図に利用される。\n緯線は、どれも水平な直線になる。経線は中央経線が垂直な直線となるが、それ以外の経線は弧を描く。等積になるように緯線の間隔を調整するため、距離の比は一定になっていない。赤道上では正角でなく、南北方向が東西方向に比べ1.234倍に伸びている。地図の周辺部のゆがみが大きくなる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%84%80"} {"text": "\n世界の国の数は、190余りの独立国(どくりつこく、英:Sovereign state サーバン・ステイト)があります。独立国とは、領土(りょうど、territory テリトーリー)と主権(しゅけん、英:sovereignty サーバンティー)と国民(こくみん、英:nation ネイション)の3つの条件を持った国であり、その上で他の多くの国から独立しているとして認められた国のことです。\n国と国との境(さかい)のことを国境(こっきょう、border ボーダー)と言う。国によっては、大きな山が国境になってたり、大きな川が国境になってたりと、何が国境になっているかは、さまざまです。\n自然の地形の形をもとにした国境が多いですが、この他にも、人間が決めた緯線(いせん)や経線(けいせん)などをもとにつくられた国境もあります。\n緯度や経度を使った国境は、直線的な国境が多いです。たとえばアフリカ州の国には、直線的な国境が多いです。この理由は、かつてアフリカ州を侵略し植民地にして支配したヨーロッパ人たちが、緯度や経度をもとに国境を決めたからです。\n他にも、北アメリカにあるアメリカ合衆国(United States of America ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ)とカナダ(Canada)との国境も直線的です。\n日本やニュージーランド(英: New Zealand)やトンガ(英:Tonga)のように、まわりを海で囲まれた国を島国(しまぐに)あるいは海洋国(かいようこく、英: maritime country マリタイム・カントリー)と言います。\nなお、イギリスは、正確には、その島の一部が他の国になっていますが、島のほとんどがイギリスになっているので、慣習的にイギリスも海洋国や島国にふくめることが多いです。\n島国とは反対に、国土がまったく海に面していない国のことを内陸国(ないりくこく、英:Landlocked country ランドロックド・カントリー)と言います。たとえばモンゴル(英:Mongolia モンゴーリア)は内陸国です。\n国境での外国人の行き来の制限は、原則的に、許可のない外国人は入国させないのが普通です。外国への入国のさいには、パスポート(passport)という旅券が必要になります.\nヨーロッパのEUの加盟国では、例外的に、加盟国どうしではパスポートのチェックがありません。\nヨーロッパ州の人たちは、日本や朝鮮半島のある地域のあたりのことを「極東」(きょくとう、英:Far East ファー・イースト)と言う場合があります。\n彼らヨーロッパ州の人からみると、私たち日本は、ユーラシア大陸の東の端(はし)のほうにあるからです。\n世界の人口は2023年度は約80億人です。そのうち日本の人口は約1億2500万人であり、日本は最近1ランク下がり世界で12番目に人口の多い国になりました。\nしかし、近年、少子高齢化が進んでいるため、日本の人口は、どんどん減ってきています。\n日本の国土の合計の広さ(面積)は、いがいと広いです。ヨーロッパ州の国と比較すると、日本はドイツと同じくらいの広さです。日本の面積は、世界で60番目くらいです。イタリアやイギリスよりも、日本は広いです。\n国旗(英:national flag ナショナル・フラッグ)は、その国を表しているシンボルです。\n自国の国旗を大事にすることと同様に、外国の国旗も大切にすることが国際的な礼儀になっています。\n国旗や国名には、その国の成り立ちが表されてる物も多いです。\nたとえばアメリカ合衆国の国旗の星条旗(せいじょうき、the Stars and Stripes)の星の数50個は、アメリカの州の数です。\n帯の数が、赤白あわせて13本あるのは、独立した当時の州の数が13個だったからです。\n州の数が50個になったのは、1959年にハワイ州が出きた時です。ハワイ共和国を併合して、アメリカ合衆国の一部のハワイ州にしました。\nアメリカの国旗は、州が増えるたびに、国旗を変えてていたので、現在までに20回以上も国旗を変更しています。\nイギリスの正式な国名は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland )と言います。\nイギリスは4つの地域が連合して出来ている王国です。(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北(きた)アイルランド)\nイギリスの国旗の ユニオン ジャック(Union Jack) は、昔のアイルランドの国旗と、昔のイングランドの国旗と、昔のスコットランドの国旗を合わせたものです。\n(ウェールズはデザインに、ドラゴンの絵が入っているので、はぶかれている。)\nニュージーランドやオーストラリアなどのように、かつてイギリスの植民地だった国では、国旗の一部にユニオンジャックが入っています。\nオーストラリア国旗の左上はユニオンジャックです。なお、南半球にあるオーストラリアとニュージランドの国旗には、南十字星が描かれています。\nイスラム教(英:Islam イスラーム)の、さかんな国では、国旗にイスラム教を象徴する三日月や星が入っていることが多いです。たとえば、イスラム教徒の多いトルコ(英:Turkey ターキー)とパキスタン(英:Pakistan パキスターン)の国旗には、三日月と星が入っています。\nマレーシア(Malaysia マレイジャ)の国旗にも、三日月と星が入っています。\nロシア(英:Russia ロシア)と、かつての冷戦中のソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦、英表記:The Union of Soviet Socialist Republics)のように、政治のしくみが変わって国名が変わると、国旗も変わることもあります。\nカナダ(英:Canada)は1965年に国旗が変わりました。現在の国旗は、かえでの葉のマークが入っています。カナダの昔の国旗には、左上にイギリス国旗が描かれていました。\n国旗には、三色を使った国旗も多いです。\nヨーロッパには、十字をかたどった国旗もあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%80%85"} {"text": "小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会 地理 >時差\nニュース番組等で、世界各地からの中継を見たことがあるだろうか。そのときに、世界各地の時間が日本の時間と異なっていることに気づくはずだ。この時間の差が、時差(じさ、英:time difference)である。\n経線のことを「子午線」(しごせん)とも言う。\n地球は、ほぼ24時間かけて1回転している。1回転は360度なので、\n経度に15度の差が出るごとに時差は1時間ずつ増えていく。( 360度÷24時間 = 15度 )\n例えば、経度0度の地点と経度15度の地点とでは時差が1時間生じている。\nでは、日本の標準となる時間(標準時、英:standard time)は、どこの場所の時間だろうか。\n日本の標準時は東経135度の地点の時間である。東経135度がちょうど兵庫県 明石市(あかし し)を通っているため、日本はこの地域の時間を標準時としている。\nアメリカやロシアのような国土の広い国は、地域ごとに標準時を決めている。そのため、国内で時差が生じることになる。同じアメリカの都市でも、シアトル(Seattle)とニューヨーク(New York)の間には時差が生じているのだ。\nまた、ほぼ経度180度の線に沿って、日付変更線(ひづけ へんこうせん、英:International Date Line、略してIDL)が引かれている。日付変更線の東側と西側では24時間の時差が生じる。そのため、飛行機などが変更線を西から東へ越える場合には時計の日付を1日前に戻す。いっぽう、飛行機などが東から西へ変更線を越える場合には時計を1日進める。\n日付変更線の位置は、太平洋上の位置にある。\nでは、実際の時差を計算してみる。兵庫県明石市の東経は東経135度である。ただし「サマータイム」(夏時間)などの、季節による時刻調整は考えないとする。\nなお、計算式は()内に示した。\nロシアやアメリカのような大きな国では、複数の標準時を持つこともあります。たとえばロシアでは、標準時が9つもあります。国土が東西方向に長いほど、原則的に標準時の数は多くなります。\nアメリカでは6つの標準時があります。アメリカの隣国のカナダも、同じように標準時が分かれています。\nいっぽう、国によっては独自の標準時をもうけている国もあります。たとえば中国では、国全体で一つの独自の標準時をもうけています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%99%82%E5%B7%AE"} {"text": "イヌイット(英: Inuit )は、主にアラスカ、カナダ北部、グリーンランドなどの北極圏に住む民族である。彼らは寒帯の中でも氷雪地帯と呼ばれる、年の大半が雪や氷に覆われる地域に適応し、長い歴史を持つ狩猟民族として知られている。\nこの地域は、一年の大半は雪や氷に覆われてるが、夏の間だけ、わずかな時期だが、雪や氷に覆われない時期もある。\nイヌイットは昔、定住せずに獲物のいる地域を移動しながら生活していた\nこの地域は木が育たず、草もほとんど育たないため、食料の中心は動物の肉となる。\nイヌイットの伝統的な住居は、季節によって変わる。夏の住居はアザラシの皮で作られたテントであり、冬の住居は氷と雪で作られたドーム型のイグルー(英:igloo)である。\nただし、現代ではイグルーには長期滞在はせず、狩猟のときに一時的に居住しているだけである。\n伝統的なイヌイットの食料は、野生のカリブー(トナカイの北米地域個体群)の肉、アザラシの肉、クジラの肉、サケなどの魚だった。\n伝統的なイヌイットは、極地方では不足がちなビタミンを補うために生肉を摂取していた。とりわけ日照が不足がちで体内での合成が期待できないビタミンDは、魚や動物の肝臓や脂肪から摂取していた。\n伝統的なイヌイットは、夏はカリブーを狩り、冬はアザラシを狩っていた。食料は貯蔵庫に保管された。\nトナカイやアザラシの毛皮は、衣服や靴などの材料にも利用された。きばや骨は狩り道具の材料として使用された。\n1960年代ごろから、カナダ政府はイヌイットに定住化を促し、現在では都市に定住する人も増えている。イヌイットの食事も、商店などで加工食品を購入することもある。\nイヌイットの昔の乗り物は犬ぞりでしたが、現在はスノーモービルが一般的だ。狩りの方法も、かつては弓矢でしたが、現在ではライフル銃の使用も一般的だ。\n現在では、電化製品も普及しており、都市の住居にはテレビやインターネットなどもある。\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E9%9B%AA%E3%81%A8%E6%B0%B7%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97"} {"text": "南アメリカ州のペルーからボリビアにかけての地域にあるアンデス山脈(英:Andes アンディース)ぞいには、標高が富士山の山頂(標高3776m)よりも高い地域もあり、標高が高いところでは約4000mもあり、標高が2000m〜4000m以上のある中央アンデス高地が広がっている。\n標高が高いので、この中央アンデス高地の地域は全体的に、すずしい。この地域の住民は、インディオ(スペイン語など:indio)とよばれる先住民の人たちが古くから暮らしている。「インディオ」とは、ヨーロッパ人たちによる、この地域の先住民の呼び方である。\nすずしいので、低地よりも暮らしやすく、古くから 高山都市(こうざん とし) が発達してきた。\n高地のため、木が少ないことから、住居には石づくり、れんがづくりの家が多い。\n標高3000m〜4000mあたりの作物は、じゃがいも の栽培である。じゃがいもは寒さに強い。そもそも じゃがいも は、アンデス山脈が発祥の作物である。\n標高が下がり、標高2000m〜3000mの、やや温暖なところでは、とうもろこしを栽培することもある。標高によって育ててる作物が変わってくる。\nチチカカ湖(Lake Titicaca)という湖が、ペルーとボリビアの国境あたりの、標高3800mのあたりにあり、観光名所の一つになっている。\n標高4000m以上の場所では作物が育たないので、家畜を放牧(ほうぼく)しており、リャマやアルパカを放牧(ほうぼく 英:grazing)している。\nこれらの家畜は、荷物の運搬用や、毛を利用するためであり、あまり食用にはしない。アルパカ(英:Alpaca アルパーカ)の毛が衣類の材料になる。リャマもアルパカもラクダ科である。\n現地の人の衣類は、アルパカの毛で作ったポンチョ(英:poncho ポンチョウ)とよばれる服や、つばのついた帽子を着ている。\n帽子は、高地の強い日射しを防ぐためにかぶっている。\nもっとも高いところは標高6000m近くあるが、これらの標高の地域は氷雪地帯になっている。\n携帯電話やインターネットが普及している。急斜面が多いため、電話線を引くのがむずかしく、有線の電話が好まれていない。なので、かわりに携帯電話が普及している。携帯電話なら、通信用のアンテナがあれば、たとえ通信回線を引かなくても、利用できるからである。\n世界遺産で、古代のインカ文明(英:Inca Civilization)の遺跡である、マチュピチュ(英:Machu Picchu)があり、観光資源になっている。\n道路も整備され、トラックなど\nによる輸送も増えてきた。\nアンデス高地の周辺の低地では、赤道に近いこともあり、熱帯雨林などが広がる。\n果樹の栽培をしたり、ゴムの栽培をしたりしている。\n低地で栽培された作物が、高地の市場(いちば)で取引されることも多い。\n古くから使われてきた言語を話す人が少なくなりスペイン語を話す人が増えている\nアジア州の ヒマラヤ山脈(英:Himalayan Range) の北側にある、チベット高原(チベットこうげん、英:Tibetan Plateau チベトン・プラトー)は、標高が高く(標高4000m前後)、あまり普通の農産物の栽培には向いていない。\nここでは、寒さに強い大麦や小麦が作物として、標高4000m以下の地域あたりで、栽培されている。\nチベットの主食は、大麦、小麦などであり、米では無い。\n米は熱帯で多雨の土地に適した作物であり、チベットのような寒冷地では米は栽培に適さない。日本の北海道や東北で米が栽培されるのは、品種改良によるものであり、また日本が降水量が多いことによる。\nなお、チベットは現在、中華人民共和国に併合されて自治区の一つの チベット自治区 となっており、チベットは漢字で「西蔵」と書く。\nチベットでは、中国による開発が進んでいる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%A8%99%E9%AB%98%E3%81%AE%E9%AB%98%E3%81%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97"} {"text": "北海道では屋根に雪が積もらないように、急な三角屋根になっています。\n最近では、平らな屋根で屋根の雪を温めて溶かすようになっています。\nさらに、信号機は、縦になっていて、雪の重みで落ちないような工夫がされています。\nロシアの西部の地域あたりをシベリア(英: Siberia シバリー)という。\nシベリアの北部(特に北極海沿岸や、オホーツク海沿岸部)をのぞく、南部や中部のあたりでは、内陸地を中心に冬はとても寒いが、夏は意外と暑い。\nこのような気候の地帯を、冷帯(れいたい)あるいは亜寒帯(あかんたい)という。一方、カナダや、アラスカ、シベリア北部の北極海沿岸部などを寒帯(かんたい)という。\nこの記事では、おもにシベリアを例にして、亜寒帯について説明する。\nなお、シベリアの冬は、-40~50℃もしくはそれ以下まで冷え込むことがある。いっぽうで、シベリアの夏は30℃をこえることがある。(※シベリアの夏30度越えの出典: 東京書籍『新しい社会 地理』、平成23年3月30日検定済、平成25年2月10日発行、24ページ)\nつまり、シベリアの亜寒帯では、寒暖の差が大きい。\nシベリアの亜寒帯は夏が暑いので、寒帯とは違い、樹木が育つ。\nシベリアの森林地帯には、広い針葉樹林(しんようじゅりん)のタイガ(英:Taiga タイガ)がある。\n食料のための農作物では、小麦が多い。綿花も栽培されている。林業もさかんであり、木造の住宅も多い。\n夏が暑いので、野菜を夏のあいだに栽培することもあり、また保存食として野菜の漬物(つけもの)などもある。\nシベリアの住居は、床が高い、高床(たかゆか)になっている。この理由は、もしも家から出る熱が地面の氷をとかしてしまうと、建物が傾いてしまうからである。\n窓は二重窓や三重窓であり、家の中の熱を逃さないようにしている。\n冬場に外出するときは、あついコートに帽子をかぶって外出する。\nシベリアでは、夏場などは地表が溶けても、地面の奥深くは、氷が残っている。地中ふかくは、年中、凍ったままである。\nこのシベリアの地中深くのように、年中、凍ったままの大地のある場所を、永久凍土(えいきゅう とうど、英:Permafrost パーマ・フロースト)という。\nシベリアの北部の寒帯では、もはや樹木は育たない。しかし、夏場に、氷が溶けるので、草やコケは育つ。このような、植物に草やコケしか育たないほどに寒い地帯のことをツンドラ(英:tundra タンドラ)と言う。ツンドラは、寒帯であり、亜寒帯ではない。\nツンドラでは、トナカイなどを放牧している。トナカイの毛皮がコートの材料にもなる。\n北極や南極大陸のあたりは、氷雪気候(ひょうせつ きこう)になり、ツンドラ気候とは異なり、もはや年中、雪や氷が一面に広がっていて、草木は育たない。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E5%AF%92%E6%9A%96%E3%81%AE%E5%B7%AE%E3%81%AE%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97"} {"text": "アラビア半島やアフリカ北部では、年間の雨の量が少なく砂漠(さばく)が広がる。アジア州のモンゴルなどは、草原が広がるが、雨が少なく、樹木が育たない。\nこのような水の少ない乾燥した気候の地域を 乾燥帯(かんそうたい)と言う。\n砂漠は、水が足りずに樹木が育たないので、砂漠になっている。どのくらい雨の量( 降水量(こうすいりょう))が少ないかというと、1年間の降水量が日本では東京で1500mmほどだが、砂漠の年降水量はおよそ200mm以下で、それを大きく下回る場所も多い。実際の乾燥の有無は、降水量だけでは判断できず、気温の高さによる水の蒸発のしやすさの違いも考慮に入れないとならないが、おおむね、砂漠の降水量は記述したとおりである。\nなお乾燥帯では、1年の降水量は500mm以下である。\nアフリカ北部には、サハラ砂漠がある。\nほとんどの場所は砂漠であり、水が無いが、例外的に地下水や井戸水などから水が出る場所がいくつかあり、このような水の出る場所はオアシス(英:Oasis オウエイシス)と言う。オアシスの近くでは、農業が出来て、樹木も育つ。\nオアシスの農作物は、乾燥に強い小麦や なつめやし(英:date palm デイト・パーム) などが作られている。オアシスを中心に、季節ごとに家畜の羊やラクダなどを連れて移り住む 遊牧(ゆうぼく、nomadism ノウマディズム) を行っている。移動の理由は、水や草などを求めて、移動している。また、このような遊牧する人たちを遊牧民(ゆうぼくみん、英:nomad ノウマード)という。\n雨は少ないが、ごくまれに降ることもあり、降ると樹木が少ないため洪水になりやすい。\n大地が乾いているので、すこし風がふいただけでも砂ぼこりが立ちやすい。\nサハラ砂漠の中心部から南に離れて、北アフリカの南部、あるいはアフリカ中部のほうは、やや水が多く、草木もあるが、やはり乾燥している。このアフリカ中部のあたりをサヘル(英:Sahel)という。サヘルとは現地の言葉で「縁」(ふち)という意味である。(※誤字に注意 「緑」(みどり)と「縁」(ふち)の字を間違えないように。)\nサヘルとは、「サハラ砂漠の ふち」と言う意味である。\n「乾燥帯」には、サハラ砂漠だけでなく、サヘルまでも含めることが多い。\nサヘルのように雨が少し降る地域では、草原が広がる場所もある。草の背たけが低いのが特ちょうである。このような雨の少ない地域の草原をステップ(英:steppe ステープ)という。ステップは、アフリカだけでなく、アジア州の内陸国のモンゴルにもステップはある。\nステップの降水量は、地域にもよるが、およそ、年間で200mm〜500mmほどの降水量である。(※ 参考:日本は年降水量が東京では1500mmくらい。)\n住居は、日干しれんがのつくりが多い。森林が少なく、木材が足りないため。\n衣服は、長そでを着るのが普通。日射しが強いので、日をさえぎるため。\n砂漠の多い国のうち、開発のすすんだ国では、地下水などから水を引く、かんがい設備や水道設備が普及している国や地域もあるが、そのため、地下水の枯渇なども起きている。\nまた、砂漠はアフリカやアラビア地方の他にも、中国(中華人民共和国)の奥地にも砂漠の地方が存在する。\nモンゴルの伝統的な暮らしは、季節ごとに馬や羊やラクダなどの家畜を引き連れて移り住むまた、水を求めて旅をする。 遊牧(ゆうぼく) で生活していました。乾燥しているので、農業に適していません。\nモンゴルの1年間の降水量は、およそ300mmであり、ほとんどが夏に集中して雨が降る。ステップ(英:steppe ステープ)と、外国人から呼ばれる草原が広がっている。樹木は、水が足りないので、ほとんど無い。\nおもな食料は、馬や羊やラクダなどの家畜の肉や、家畜の乳(ちち)です。そのため、家畜に草や水を与えないといけないので、季節ごとに草や水がある場所に移り住みます。\n家畜には、馬や羊、山羊(やぎ)、牛、ラクダなどがあります。\nモンゴルの伝統的な住居は、テントの一種のゲル(英:Ger)でした。\nゲルは折りたたみ式で、木の骨組みに、家畜の毛などで作ったフェルトなどの布地(ぬのじ)などで出来ています。\n家畜の馬やラクダを率いて、ゲルを運びながら遊牧していました。馬は乗り物に使い、ラクダは荷物の運搬用です。家畜の使いみちは乗り物のほかにも、乳やバターなどの乳製品などを作ったり、食肉にすることもあります。\n現在ではゲルにも、太陽光発電のためのソーラーパネルがあり、発電した電気を使ってテレビや携帯電話などを使っていたりします。\n今では、首都のウランバートル(英: Ulan Bator)などの都市に定住する人や、アパートなどに住む人も増え、遊牧以外の仕事についている人もいます。\n今では、遊牧民の数は、モンゴル国民のうちの10%〜15%ほどでしか、ありません。\n現在の移動手段にはトラックなど自動車を使うことも増えています。\n現代では農業も、わずかながら始まっており、乾燥に強い農作物である小麦や じゃがいも や、野菜などを中心に作られ始めています。米は、水が足りないので、作られません。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B9%BE%E7%87%A5%E3%81%97%E3%81%9F%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97"} {"text": "世界の多くの国では、なんらかの宗教が信仰されている。行事(ぎょうじ)や、衣食住の習慣などにも、宗教の影響はある。\n私たちの国の日本でも、神道(しんとう)や仏教(ぶっきょう)が信仰されている。なお、神道とは、神社などで日本の神をまつっている古くからの宗教であり、いっぽう、仏教は外国から伝わってきた別の宗教であるので、間違えないように。\n仏教の日本への影響は、寺院や仏像などに影響を与えた。\nときどき「日本人は無宗教である。」という主張をする日本人がいるが、実際には、日本でも、伝統行事や風習などに宗教の影響は強く、単に「日本人が信仰に無自覚なだけ。」であろう。\n世界には、さまざまな宗教がある。その中でも、信じている信者の数が多い宗教は、キリスト教とイスラム教と仏教(ぶっきょう)の3つの宗教である。このキリスト教とイスラム教と仏教は、発祥の地や民族をこえて、他の地域や民族でも多く信仰されているので、世界宗教とも言われる。\nこの世界宗教に対して、ヒンドゥー教やユダヤ教などは、信仰の地域や民族が、ほぼ発祥の民族などに限られているので、民族宗教と言う。ヒンドゥー教はインドの民族宗教である。ユダヤ教はユダヤ人の民族宗教である。日本の神道(しんとう)も、民族宗教である。\n世界宗教の一つである仏教は、東南アジアから東アジアで、さかんに信じられている。日本も、寺院などがあるように、仏教の影響を受けている。現在では、タイで、仏教が さかんである。\n仏教の初めは、紀元前の6世紀ごろに、インドで、シャカという人物がひらいた。\n世界宗教の一つであるイスラム教は、アジア州のアラビア半島のあたりの地域で、さかんに、信じられている。\nアラビア半島のほかに、アフリカ北部や中央アジアなどで、さかんな宗教である。東南アジアでも、インドネシアで信じられている。\n経典である『コーラン』(あるいは『クルアーン』)に書かれた、唯一の神である「アッラー」という名の神の教えを守り、イスラム教の決まりにしたがった生活をおくる宗教。\nイスラム教をひらいたのは、7世紀の初めごろ、ムハンマド(あるいは マホメット とも言う。)という人物がひらいた。\nお祈りをするとき、祈る先の方角は、西アジアにあるメッカという都市にある カーバ神殿 に向けて、お祈りする。信仰(しんこう)のあつい人は、1日に5回、お祈りをメッカの方角に向かって、いのる。礼拝所の向きは、最初からメッカの方向に向けて建てられる。\nイスラム教の決まりには、お祈りの仕方のほかにも、さまざまな事が決まっている。\n(なお、ヒンドゥー教では牛肉を口にしない。イスラム教と、ヒンドゥー教とは、ちがう宗教なので、混同しないように。ヒンドゥー教は、インドで、さかんな宗教。)\nなお、イスラム教徒のことを ムスリム という。\nヨーロッパ州で広がっている宗教である。南北アメリカ大陸にも広がっている。東南アジアのフィリピンや、オセアニア州にも広がっている。\nキリスト教の聖典は「聖書」(せいしょ)である。それによれば、人はみな、神の子イエス・キリストをすくいぬしとすることで、すくわれる。\nイエスとは、1世紀の初めごろ生まれた、じっさいの人物であり、クリスマスは、その生まれたことを記念する行事である。この「クリス」の部分はキリストからきている。\n聖書では、イエスは十字架にかけられたのち、足かけ三日目の日曜日の朝によみがえっている。\nヨーロッパやアメリカで4月〜5月ごろにある復活祭(イースター)という行事は、これを記念するものである。\nキリスト教会で日曜日の朝におこなわれてきた礼拝も同じで、聖書にもそのように日曜日に集まっていたという記録がある。学校や店などの休日が日曜日なのもここからきている。\n日本では、アメリカやヨーロッパに広まった暦(こよみ)の制度を明治時代の政府が取り入れて広まったが、キリスト教そのものを取り入れたとはいえない。\n日本国内だけの信仰だったら、過去には江戸時代や室町時代などには神道と仏教が混ざったような信仰をしていた歴史もある。\n仏教は、日本の他にも、中国や韓国などの東アジアや、東南アジアのタイなどに広まっている。仏教は、もともとインドで発祥した宗教であった。しかし今のインドでは、ヒンドゥー教という、仏教とは別の宗教がさかんである。\n正確に言うと、日本の仏教は、インドで発祥した仏教のそのままの形ではなく、中国の民族的な宗教など、日本とインドのあいだにある他の国の民族的な宗教の影響も混ざっている。\n中東のパレスチナという地方にある エルサレム という場所に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地がある。\nこのエルサレムと周辺の地域で、第二次大戦後にイスラエルが建国を強行した。このことにより、以前にこれらの地に住んでいたパレスチナ人たちが住む場所をうしない、パレスチナ人が難民になった。\nパレスチナ人はイスラム教の多い民族であり、イスラエル人はユダヤ教の民族である。\nこのことが、アラブ諸国のあいだで、イスラエルに対しての反発の理由の一つになっている。\nイスラエルがユダヤ教の国なので、アラブ諸国ではユダヤ教への反発が強い。\nまた、アメリカがイスラエルと同盟を結んでおり、アメリカはキリスト教の多い国なので、そのようなことがアラブ諸国でのキリスト教への反発につながっている。\nこのようなパレスチナ周辺の政治問題をパレスチナ問題と言う。\nイスラエルの紛争は、ユダヤ教とイスラム教の宗教対立と言うよりも、イスラエルと周辺国の対立であろう。\nたとえばアメリカはイスラエルの同盟国だが、サウジアラビアやエジプトなどアラブ諸国のいくつかはアメリカの友好国でもある。アメリカはキリスト教の多い国だし、サウジアラビアはイスラム教の国である。宗教が異なっていても、友好国という例は世界中で多い。\n2001年には、アメリカ合衆国で 同時多発テロ事件 が起きた。このテロの首謀者が、イスラム教徒を名乗っていた。\nそして、首謀者がイスラムの原理主義者だと、欧米日の評論家などから言われた。\nこれをきっかけに、各国の評論家などが、キリスト教とイスラム教原理主義との宗教どうしの対立が起きている、という評論がなされるようになった。\nまた、アメリカで、強硬派の有力な政治家らが、キリスト教の支持を強めた。このことも、宗教どうしの対立という見方を助長した面もあるだろう。\nしかし、イスラム教の原理主義思想が、テロを引き起こしていると考えるのは、おそらく誤りである。\nなぜなら、キリスト教に、原理主義はある。ここで言う原理主義とは、経典の教えを絶対とするという意味である。そもそも宗教は、経典を尊重するのが通常である。\nそれに、同じ宗教どうしの国々でも、戦争などの対立は起こる。\nたとえば仏教の多い東アジア地域でも同様である。たとえば中国は、歴史上では、中国の国内どうしですら、多くの戦争を起こした。韓国や日本も同様に多くの国内戦争を起こしている。日本の戦国時代などの戦争を考えれば分かるだろう。\nキリスト教の国どうしでも、たとえばヨーロッパでは何度も戦争が起きている。\nイスラム教の国どうしでも、たとえばアラブ諸国では何度も戦争が起きている。\nさらに言うなら、「テロは悪いが、戦争は正義だ。」というのは、一部の国の身勝手な考えに過ぎないかもしれない。\nテロでは民間人などの非戦闘員が犠牲になることがある。しかし戦争でも、たとえば空襲による住宅街への爆撃などのように、非戦闘員の民間人を標的にした軍事作戦は、近現代の戦争には、ある。\n宗教がちがえば、たしかに価値観は大きくことなり、結果的に対立もあるだろう。おそらく歴史上では、ことなる宗教どうしの国の戦争も多くあったのだろう。\nしかし近年(2014年に記述)のイランなどイスラム教国と、キリスト教国であるアメリカの外交での対立の原因は、宗教対立と言うよりも、おそらくはパレスチナ問題のような領土問題などが背景になっている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%A8%E4%BA%BA%E3%80%85"} {"text": "ヨーロッパ系の白人や、アフリカ系の黒人などを、肌の色などの、遺伝的な違いを人種と言います。\n人種と民族とは、ちがいます。\nたとえば私たち日本人の人種は、東洋系の人種であり、肌の色が「黄色い」と言われる黄色人種(おうしょく じんしゅ)であり、アジア系の人種であり、モンゴロイド (英: Mongoloid) と言われる人種であることが分かっています。\nですが、東洋のほかの国々(たとえば中国や韓国など)とは、日本人は民族が違います。中国や韓国の多くの人種は、黄色人種ですし、アジア系の人種ですが、言語も生活様式も、日本とは、大きく異なります。\nこの日本と韓国、中国との違いは、おもに民族による違いです。\n民族どうしの区別は、言語や宗教や生活様式などの文化的な特徴から、それぞれの民族を区別されます。\n民族は、一つの国に、かならずしも一つの民族とは、かぎりません。たとえばアメリカ合衆国は、白人や黒人やインディアンなどの多くの人種からなり、また多くの民族からなる多民族国家(たみんぞく こっか、英:multiracial nation など)です。\nたとえば中国(中華人民共和国)も、漢民族やウイグル族、モンゴル族、チベット族、ミャオ(苗)族、朝鮮族、ホイ(回)族、チョワン(壮)族などをはじめ、合計で50以上もの民族からなる多民族国家です。\nただ、中国の人種は、多くの民族は、ほぼ東洋系の黄色人種です。このように、民族が違っていても、人種は近いこともあります。\nいっぽう、一つの民族がその国の人口のほとんどを占めている国を、単一民族国家(英:racially homogeneous nation 、homogeneous state など)と言います。\n実は、現代では、交通の発達や、貿易などによる経済のグローバル化や、国際協調などにより、どの国でも少数は、外国から来た民族など異民族(いみんぞく)がいるので、ほとんどの国の民族構成は多民族です。言葉通りの意味での「単一民族」な国家は、現代では、ほぼ、ありません。\n日本も、人口の大半は、ほぼ「大和民族」(やまと みんぞく)などと言われる民族ですが、北海道の先住民のアイヌ系の諸民族もあり、また沖縄には琉球系の諸民族がいました。これら各地の先住民とは別に、明治時代以降に、日本が朝鮮半島の韓国(当時は大韓帝国)を併合したので、その関係から、多くの韓国系・朝鮮系の民族が日本に移住または連れて来られ、今でも日本で生活をしつづけています。\n厳密な意味での単一民族国家は少ないですが、中国やアメリカなどの「多民族国家」と比べる場合に便利な言葉なので、実用的には「単一民族国家」という言葉が使われます。\nこのような事情から、過去に日本で政治家や評論家などが「日本は単一民族国家」などのような内容の発言する場合もありました。そして、その発言に対立する政治家や評論家が反発し「日本にはアイヌ民族などもあり、単一民族国家ではない。少数民族への差別発言である。」などのような内容で批判することもありました。\n公用語は、必ずしも、一つの国家に一つだけとはかぎりません。たとえばヨーロッパ州のスイスでは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つの公用語があります。\n世界では、英語が国際的な活動の場所で、多くの国で使われています。アメリカ合衆国やインドやニュージーランドやオーストラリアなど、かつてイギリスの植民地だった国では、英語が公用語に使われている国が多いです。\nこのほか、国際連合の公用語では、英語・ロシア語・フランス語・アラビア語・中国語の5つの言語が、国際連合の公用語になっています。\nまた、南アメリカ州や中央アメリカのカリブ海の諸国では、かつてスペインの植民地だった国が多く、そのためスペイン語が公用語として今でも使われている国が多いです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%A8%E8%A8%80%E8%AA%9E"} {"text": "アジア州はユーラシア大陸の大部分を占めているため、各地の気候は変化に富む。\n東部と東南部では、アジア特有の季節風(モンスーン)の影響を受ける。このモンスーンにより、夏には海からの湿った風がくるので、東部と南部で降水量が多い。モンスーンは夏と冬で向きが逆になるのだが、東アジアの場合、夏は南風、冬は北風である。また、季節風により、アジア東部では、四季が明確である。\n東南アジアと南アジアは熱帯雨林気候に属している国とサバナ気候に属している国がある。熱帯雨林気候の国ではスコールとよばれる大雨が、ほぼ決まった時間に降るため一年中雨が多く、赤道にも近いため非常に高温になっている。サバナ気候の国は降水量の非常に少ない乾季と大雨が降る雨季に分かれている。\n西アジアと中央アジアには雨が非常に少ないので、砂漠気候やステップ気候などの乾燥帯に属している国々が多い。\nまた、シベリアとよばれるアジアの北部は冷帯(亜寒帯)に属しており、北極に近い地域ではツンドラ気候になっているところもある。\nアジアには、中国やインドなど、人口の多い国が多い。\n世界の人口の6割がアジアに集まっている。世界人口は約72億人(2014年)の内、約43億人がアジアにいる。東南アジアは、雨が多く、稲作を中心とした農業が盛ん(さかん)なため、人口密度が高い。タイやベトナムは、米の輸出国になっており、東南アジアでは、米を年に2回つくる二期作(にきさく)も多い。\n世界の米の大部分はアジアで生産されている。生産量では中国が1位だが、輸出量ではタイが1位。中国の米は国内消費が中心。生産量は1位は中国、2位はインドである。輸出量は1位はタイ、2位はベトナムである。\nしかし、これら東アジアや東南アジアの地域は、すでに人口が増えすぎたため、今後は少子化や人口減に向かっていく可能性がある。\n一方、気候の暑い南部でも、山地や、内陸部や西アジアなどの乾燥帯などは、農業には向かないため、人口密度も低い。乾燥帯では、砂漠や草原(ステップ)が広がっている。乾燥帯の人々は、草や水を求めて家畜と移動しながら生活する遊牧をして生活していることが多い。チベット高原は、標高が高いため、冷帯であり、あまり農業には向かない。\nこれら西部の地域で農業をする場合は、稲作には向かないため、米以外の作物の畑作が通常。中国西部やインドでの主要な作物は、小麦などの畑作である。\nアジア北部のシベリアも、アジア州である。ロシアの東部のほとんどがシベリアに含まれているが、人口密度は低い。理由は、寒くて住むには厳しいことや、あまり農業に向かない土地であるためである。\n東アジアや東南アジアでは、工業化が進んだ。特に日本を中心に、東アジアで工業化が進んでいる。まず日本の高度経済成長で工業化が進んだ。続いて、韓国、シンガポール、台湾などのアジアNIESで工業化した。\n日本以外の東アジアや東南アジアでは、かつては、人件費の安さを利用した雑貨などの生産が多かったが、最近は技術力が高まり、東南アジアなどでも自動車部品や電気機械部品なども分業して生産するようになった。\n例えば韓国では、技術力が高まり、半導体や電気機械、自動車なども多く輸出するようになっており、東南アジアでは、タイやベトナムなどに工業団地も作られている。\nまた、インドでは、ソフトウェア開発などが進んでおり、IT産業がインドで盛んです。 なぜなら、インドはかつてイギリスに侵略されて植民地だったため、英語が普及しており、アメリカなどの英語を使う国と仕事がしやすいからです。また、時差の関係上欧米諸国が夜を迎えたときにインドではちょうど勤務時間になっており、仕事を分担して作業しやすいのも一因です。(詳しくは後述)インドの教育は英語が得意なだけでなく、数学も重視しているため理数系も得意なのです。\nインドの工業ではコンピュータだけでなく、自動車産業も盛んである。\nここでは主に第二次世界大戦後のアジア諸国との関係についてまとめて紹介します。\n韓国(大韓民国)とは1965年に成立した日韓基本条約で正式に国交を回復しました。植民地時代の補償問題などをめぐって日本政府と韓国政府の意見が対立することもあります。\n北朝鮮とは2018年現在、国交がありません。\n中国(中華人民共和国)とは1972年に日中共同声明を出して国交を回復しました。\n農業も盛んになりました。\n1972年まで日本政府は台湾(中華民国)を「中国」として承認していました。日中共同声明で、中華人民共和国を「中国」としてからは、正式な国交はなくなりましたが、民間レベルでの日本と台湾の経済交流はつづいています。\n国交を回復したときに戦後賠償として道路やダム建設などのインフラ整備を行ったのが、東南アジア諸国との経済関係のきっかけです。1990年代以降、日本の企業が工場をつくっていきました。\n日本は西アジア諸国から多くの原油を輸入しています。\n中国(中華人民共和国)は、人口が約14億人であり、世界でもっとも人口が多く、世界の人口の約5分の1をしめている。\n中国の人口の多くは、東部の平野部や東部の沿海部に集中しています。中国の西部は山地や 砂漠 が多く、人口は少ない。\n中国は、人組の夫婦の子供の数は1人だけとする 一人っ子政策(ひとりっこせいさく) を1979年から行っている。\nこのため、現在、人口の増加は抑えられている。かわりに、高齢者の割合がふえる高齢化(こうれいか)が予測されており、心配されている。\n(一方、インドも人口が10億をこえるが、インドでは人口の増加が予測されている。また、将来的にインドの人口が中国の人口を抜く可能性が予測されている。)\n2015年に中国は「一人っ子政策」を廃止すると発表し、すべての夫婦に2人目までの子供をもつことを許可した。\n中国の人口のうち、およそ9割の民族は漢民族(かんみんぞく)である。漢民族は、おもに中国東部に住んでいる。\nある国で、多数派でない民族は、少数民族(しょうすう みんぞく)という。中国は50以上の少数民族を持つ多民族国家(たみんぞく こっか)である。\n漢民族以外に少数民族が、何種類もある。中国の民族は多くあるが、おおまかには、漢民族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、ミャオ(苗)族、朝鮮族、ホイ(回)族、チョワン(壮)族、などに分けられる。\n中国政府は、チベット自治区など、少数民族の自治区をもうけており、伝統文化などを保護しているが、少数民族の中国からの独立などは認めてない。そのため、中国の支配に対する抵抗運動などが、チベットやウイグルなどで、たびたび起きている。中国ではチベット人やウイグル人などに対する少数民族への人権問題が生じている。\nチベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世(14th Dalai Lama)は、1959年にインドに亡命した。\n政治に関しては、共産党が政治の決定権をにぎっており、共産党による独裁政治の国である。たとえば政治指導者は、国民からの直接の選挙では選ばれていない。1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。この天安門での抗議運動に関する事件を天安門事件 と言う。\n中国は農業の大国である。農業は、華南(「かなん」、意味:中国の南部のこと)や華中(かちゅう、意味:北部と南部のあいだ)では、雨が多いため、稲作が多い。\n東南アジアに近いハイナン(海南)島のあたりでは、年に2回、米を作る、二期作も行われる。\n華北(「かほく」、意味:中国の東北部)では、雨が少ないため、小麦・大豆などの畑作が多い。西部は、乾燥しており、あまり農業にはむかず、遊牧などの牧畜である。\n中国は、小麦の生産量が世界1位である。(2位インド、3位アメリカ。)\n中国北部の乾燥地帯の農業では、小麦など乾燥に強い作物の畑作が盛んである。\n工業は、人件費の安さを利用している。そのため、世界の多くの国に中国の製品が輸出されており、中国は「世界の工場」とも言われている。\n南部の沿岸部の地域などに経済特区が多く、そのため工業地帯も南部の沿岸部に多い。南部の香港(ホンコン)の近くにあるシェンチェン(しんせん、深玔)市が経済特区であり、シェンチェンなどを中心に工業が発展している。\n南部とは別にも、中国東北部には第2次大戦の前から日本の旧・満州国への投資などで発達していた工業地帯があり、戦後も東北部の工業地帯が重工業の地帯になっている。\n第2次大戦後、中国の経済は、市場経済を禁止して、政府が経済を管理する経済政策を取った。そのため、中国は経済発展が遅れた。1980年ごろから、経済のおくれを取り戻すため、経済特区 をシェンチェン(しんせん、深圳)市やアモイ(廈門)市など一部の地域に導入し、市場経済を部分的に取り入れた。\n欧米や日本などの工場も、人件費の安さや、人口の多さによる消費者の多さを当てにして、多くの外国企業の工場などが中国に進出した。こうして、中国は、経済の規模がアメリカや日本につぐ経済大国になり、中国の国内総生産(こくない そうせいさん、GDP)も日本やアメリカと同じ程度になった。\nしかし、近年では、中国でも人件費が上昇しつつあり、外国企業は、より人件費の安いベトナムなどの東南アジア諸国に工場を移している。\n貧富の格差も大きい。\nとくに、内陸部の農村部は貧しい。そのため、農村部から出稼ぎなどで、沿岸部などの都市部に働きに出る。農村部から出稼ぎに来る人たちを 農民工(のうみんこう) と言う。\n中国の経済は、その貧富の格差によって、人件費を低くおさえているという面もある。\n2008年には北京(ペキン)オリンピックが開催された。2010年には、上海国際博覧会(シャンハイ こくさい はくらんかい)が開かれた。(いわゆる上海万博(シャンハイばんぱく)。 )\n中国は、BRICS(ブリックス)のうちの一国として、各国の投資家などが経済発展を期待している。BRICSとはブラジル (Brazil) 、ロシア (Russia) 、インド (India) 、中国 (China) 、シンガポール (Singapore) のこと。 BRICSは国土と人口と資源の多いことから、経済発展するだろうと期待された5国のことである。(シンガポールを抜いた4国でBRICsともいわれる。)\nインターネットや携帯電話やテレビなどは、都市部を中心に普及している。しかし検閲(けんえつ)などの言論統制(げんろん とうせい)が厳しく、インターネットやテレビや雑誌などでの自由な議論などは出来ない。\n中国人は、中国の本国とは別の場所にも多く移住している。世界中のいろんな国に中国人は移住しており、それら外国にいる中国人を華僑(かきょう)と言う。\n近年(2014年に記述)では、西部の内陸部で大規模な開発が進んでいる。理由は、主に、経済格差を解消するためや、すでに沿岸部の開発が進んで沿岸部は開発の余地が減ったこと等だろう。\n2009年に、内陸部の湖北(こほく、フーペイ)省で、長江(ちょうこう、揚子江(ようすこう)とも言う。)ぞいに、サンシヤ(三峡、さんきょう)ダムが完成した。ダムの建設により、長江の水の流れがせき止められるので、生態系への影響が各国の環境保護団体により心配されている。\n鉄道の建設も、各地で進んでいる。西部のチベット自治区では、青蔵(せいぞう)鉄道が2006年に開通した。\n工業地帯や都市を中心に、大気汚染が深刻である。理由は主に、燃料の石炭などが大量に燃やされているため。\n大気の汚染にともない、酸性雨の被害も発生している。\n耕地を広げたり、工業地域や商業地域の開発などのための無理な森林開拓により、森林破壊も起きている。\n工場などから出る排水などによる、水質汚染も各地で深刻である。川の魚が大量に死んだりする事例も多く発生している。\n中国の国民1人あたりのエネルギー消費量は世界の平均と比べて低く、経済発展によるエネルギー消費量の上昇にともない、今後も環境破壊が進む恐れ(おそれ)がある。\n中国は周辺国と領土問題でもめている。東南アジア諸国と中国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙(ナンシャー)諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと領土問題がある。\n日本とは、日本の尖閣諸島(せんかく しょとう)の領有に、中国は反対をしている。2010年には、中国の漁船が、日本の海上保安庁が所有している船に衝突する事件が起きた。\n中国には、中国大陸を中心とした政府を持つ中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)と、もう一つ、台湾に中華民国(ちゅうかみんこく)という政府がある。\n(※ この記事では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。)\n台湾の政治は民主主義であり、普通選挙が行われている。\n台湾(タイワン)を中心とした政権である。首都は台北(タイペイ)。工業国である。\n台湾は南方にあることもあって、農業では稲作が多い。\n台湾の工業では、コンピュータ部品などの産業が盛ん(さかん)である。大陸側の人件費の安い労働力などを利用するため、台湾の企業が大陸側に工場をもうけたりしている。\n第二次大戦の前や戦中では、中国は中華民国(ちゅうか みんこく)という国であり、国民党という政党が支配をしていて、蒋介石(しょうかいせき)という人物が国の支配者だった。しかし第二次大戦後、ソビエト連邦の支援を受けた中国共産党が、国民党と戦闘し、中国は内戦になった。そして共産党が勝利して、中国は、1949年に 中華人民共和国(ちゅうか じんみん きょうわこく) という国になった。 共産党の支配者は毛沢東(もう・たくとう)という人物で、毛沢東が中国大陸の支配者になった。\nいっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾に逃れた。\nこのため、台湾は中華民国になった。このころの中国は、「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。\nしかし、日本をふくめ世界の多くの国は、台湾は中国の一部という立場にたっている。また、現在の国際連合では、中華人民共和国を中国の代表として認めており、台湾は国連に加盟できない。\n東南アジアでは、いくつもの国があり、民族や宗教もさまざまである。\n東南アジアの国々は、かつては欧米諸国の植民地であったが、第2次大戦後に独立した。第二次大戦で、日本軍と、東南アジアを支配していた欧米諸国の軍とが戦闘をした。日本が戦闘を有利にすすめるため、現地の独立運動を軍事的に支援したり、欧米の軍との戦闘によって欧米の軍が弱体化したこともあり、東南アジア諸国での戦後の独立を早めることになった。\nだがベトナムなど一部の地域では、戦時中に現地の住民と日本軍とが対立し、住民に被害も出た。\n気候的に暖かく、降水量も多いため、米(コメ)の栽培に有利である。地域によっては、年に2回の米を作る二期作(にきさく)が行われる。ただし、かんがい設備などの不足で、貧しい米農家は一期作である。\n農業では、ヨーロッパ州などの植民地の時代に、天然ゴムやコーヒーなどの大農園(プランテーション)が開かれた地域も多い。独立後は、現地の人や現地の企業などによって、それらの農園が経営されている。現在では、それらの農産物が主要な輸出品になっている国も多い。プランテーションの作物は、輸出用の商品作物が中心である。\nなお現在では合成ゴムの発明によって、天然ゴムの売れ行きが減っている。\nマレーシアではアブラやし(油やし) が、さかんに栽培されている。 油やしから取れる油をパーム油という。パーム油は洗剤や食用油やせっけんやマーガリンなどの原料である。日本にも東南アジア産パーム油は輸出されている。\n第二次大戦後、天然ゴムの売り上げが減るいっぽう、アブラやしの売り上げが増えたので、マレーシアでは天然ゴム園をアブラやし園に変える転換が進んだ。\nフィリピンでは、バナナが主要な産業。\nインドネシアなどで、木材を輸出するためやアブラやし園をつくるために熱帯雨林を伐採していたり、農地を無理に拡大するために熱帯雨林を伐採していたりするので、熱帯雨林の破壊が、あやぶまれている。インドネシアの焼き畑による農業も、森林の破壊をまねいている。\nかつてインドネシアは丸太をそのまま日本など先進国に輸出していたが、1970年代ごろから自国の工業化のため、丸太のままの輸出を禁止し、板などに加工しないと輸出できないようにする規制がされるようになり、現在も規制が続いている。\nタイやベトナムは、米の輸出国である。タイは米の輸出量が世界1位。ベトナムは米の輸出量が世界2位。(生産量では中国のほうが多いが、中国の米は国内消費用であり、輸出量はやや少ない。)\nタイやインドネシアなど海沿いの国は、えびを日本向けに養殖して輸出してる産地でもある。えびの養殖場をつくるため沿岸部のマングローブ林が伐採され、森林破壊につながっている、という問題点もある。\nインドネシアなどは、石油や石炭、天然ガス、すず などが産出し、輸出されている。第2次大戦で日本軍が東南アジアに進出した目的の一つは、これらの資源を獲得するため。軍艦などの兵器を動かすには、石油が必要である。戦前の当時、日本は欧米諸国と対立し、石油などの輸入制限をされており、日本は石油などが不足していた。\n東南アジアの宗教は、地域によってさまざまである。\nインドネシアではイスラム教が多くの人に信仰されている。インドネシアは国全体ではイスラム教徒が多いが、例外的に、インドネシアのバリ島では、ヒンドゥー教を信仰する人が多い。(※ 教育出版の検定教科書にインドネシアのバリ島にはヒンドゥー教が広まっていることが記述されている。)タイでは仏教徒が多い。フィリピンでは欧米の植民地の時代にキリスト教が普及したため、キリスト教徒が多い。\n欧米などの企業や工場が、かつては中国の人件費が安かったので中国に進出をしていたが、近年では、欧米諸国は、より人件費の安い東南アジアのベトナムなどに進出先を変えている。\nまた、1980年ごろから欧米や日本企業が、シンガポールやタイやマレーシアなどに進出している。\nこの1980年ごろからの工業化にともない、タイやマレーシアでは都市部などに工業団地が作られた。\nこのような日本からの工場誘致の政策が成功したため、マレーシアで工場が増えていった。\n同じころ、タイも、日本から工業を誘致する政策を行った。そのため現在では、東南アジアではタイとマレーシアが主な工業国である。\nこれら(タイ、マレーシア、インドネシアなど)の国で工業団地がつくられたのが都市部の近くだったため、都市部の周辺は豊かになったが、しかし都市から離れた農村部は豊かにならなかった。そのため都市と農村との経済格差がこれらの国で存在している、と考えられている。\nいっぽう、1980年代ごろまでのベトナムは、ソビエト連邦などと友好的であり、いっぽう日本やアメリカとは対立していた。このため、ベトナムには日本やアメリカからの投資がなく、ベトナムは工業化におくれることになった。\n2016年の今でこそ、ベトナムも工業国であるが、それは、ベトナムの発展がおくれたため、ベトナムでは人件費が安いので、衣服など人手の掛かる産業の工場がベトナムに建てられていった、というような事情によるものである。\n現在、工業団地もタイやベトナムやインドネシアなどに作られている。日本の製造業も、タイやインドネシアの工業団地に多く進出している。\n東南アジアの工業では、かつては人件費の安さを利用した雑貨などの生産が多かった。しかし、最近は技術力が高まり、東南アジアなどでもインドネシアやタイなどの工業団地で、自動車部品や電気機械部品などを生産するようになった。\nASEAN(アセアン、東南アジア諸国連合)は、1967年に結成された、東南アジア諸国どうしの経済協力のための連合。1967年にインドネシア、タイ、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5カ国が加盟した。加盟国は、現在では10国に増えている。\n本部はインドネシアのジャカルタにある。\n第二次大戦前、東南アジアの多くが欧米の植民地になる時代のなかで、タイは唯一、植民地にならなかった国である。その理由は、ヨーロッパ諸国どうしが領土問題を起こして戦争しないようにさせるため、ヨーロッパ諸国の植民地の領土を直接は接触させないように、「緩衝国」として、タイが存続させられたからである。タイの場合、第二次大戦前は、イギリス領とフランス領との間に挟まれていた。\nマレー半島の先端にある島国。\n中国系の住民が多い。東南アジアなどでの中国系の住民のことを華人(かじん)という。シンガポールでは華人が経済の中心である。\n観光重視の政策のため、路上にごみを捨てると、きびしく罰せられる。金融や、電子機械などの工業などが中心である。農業は盛んではない。シンガポールは比較的早くから貿易の拠点として経済発展したこともあり、東南アジアにおける金融の中心地にもなっている。\nインドの気候は熱帯である。地域によって、雨の多い地域と少ない地域がある。\nインドは東部の地域は多雨。西部は乾燥。東部に ガンジス川 がある。西部に インダス川 がある。\nインド東部のガンジス川流域では稲の栽培がされており、降水量が比較的に多かったり、川の豊富な水を利用したりなどして、農業で稲の栽培もされている。\n一方、西部の農業では、乾燥に強い小麦の生産がインド西部のインダス川流域のパンジャブ地方などで盛んに行われている。\nインドは、世界的なコメの産地である。だが、インドのコメは国内消費用であり、輸出される割合は少ない。\nインドの周辺国には東部の隣国に バングラデシュ があり、西部の隣国に パキスタン がある。バングラデシュの気候も、インド東部と同様に多雨であり、バングラデシュの農業も米の生産が盛ん(さかん)である。\nインドでの米や小麦など穀物の生産は、国内での自給用であり、輸出はタイなどの東南アジアよりも少ない。\nインドは茶や綿花の栽培も盛んである。とくに、降水量のすくないインド西部の農業では、綿花の栽培が盛ん。インド北東部のアッサム地方が、世界的にも紅茶の産地。インドの周辺国のスリランカも、紅茶の産地として有名。アッサム地方は、傾斜地が多く、また、茶は水捌けのよい場所で栽培しやすい。よって、アッサム地方で茶が栽培される。\nインドがイギリスの植民地だったこともあり、イギリスなどヨーロッパに人気のある紅茶用の茶の栽培が、これらの地域で盛ん。\nインド中部のデカン高原では綿花の栽培が盛ん。このため、繊維工業も盛ん。\nインドでは近年、情報技術(IT)産業が盛んで、BRICSのひとつである。\nインドが多民族国家なこともあり、公用語のヒンディー語についで英語がインド国民どうしの共通語として普及している。人口は約12億であり、世界2位。将来的に中国の人口世界1位を抜くことが予測されている。\nインドはコンピューターのソフトウェア開発の産業が盛んなIT大国である。インドは英語が得意な人も多いので、アメリカなどとのビジネス交渉に有利であり、また人件費も安い。時差を利用して、アメリカから受けた注文を、アメリカでは夜中のうちに仕事を片づけるので(アメリカが夜のとき、インドは昼間)、アメリカからするとインドと協力することで開発が速く出来る。インド南部のバンガロールなどでソフトウェア開発などのIT産業が盛ん。\n鉄鋼業や機械工業が盛んである。\nインドはBRICs(ブリックス)のうちの一国であり、各国の投資家などが経済発展を期待している。\nヒンドゥー教 が信仰されている。ヒンドゥー教などの、インドの古い身分制度である カースト制 の影響がインドに残っている。カースト制は法律では禁止されているが、インドの人々の意識に深く残っている。インドでの職業の固定化の傾向や格差などは、カースト制の影響だろうと言うのが、国際的な通説である。\nガンジス川 が「聖なる水」としてヒンドゥー教の信仰の対象になっており、ガンジス川に水浴びにくる信者も多い。ヒンドゥー教は多神教である。牛を神聖な動物として崇めているため、牛肉は食べない。\nイギリスからのインドの独立後、ヒンドゥー教徒の多い民族と、イスラム教など異教徒の多い民族との対立から、いくつかの国がインドから独立した。\n1947年にはイスラム教の多いパキスタンがインドから独立。1948年には仏教徒の多い スリランカ(当時の国名は「セイロン」) がインドから独立。1971年には、東西に分かれていた東パキスタンからバングラデシュが独立。\nなお、スリランカは茶の産地として有名。スリランカの丘陵地(きゅうりょうち)で、茶が栽培されている。茶は水捌けのよい場所で栽培しやすいので、丘陵地などで栽培される。\nスリランカは1972年に国名を「セイロン」から「スリランカ」に改称した。\n具体的にどの国を「西アジア」というかというと、おおむね、サウジアラビア、イラン、イラク、クウェート、アラブ首長国連邦などである。\n西アジアは降水量が少なく、あまり農業に向かないが、乾燥につよい小麦やナツメヤシを栽培する。\nサウジアラビアなど、西アジアの気候は 乾燥帯(かんそうたい) であり、さばくが多い。東アジアを湿潤(しつじゅん)アジアと言う場合があるのに対し、西アジアは乾燥アジアと呼ばれることもある。\n西アジアの国々では石油が産出する国が多く、それら産油国では石油産業が主な産業である。石油産業は1960年代ごろから国有化がなされている。貿易で石油や原油を多く輸出している。日本も西アジアから石油を多く輸入している。\n西アジアで、最も石油の生産量が多いのはサウジアラビアである。そのほか、イラン、イラク、クウェート、アラブ首長国連邦で、石油の産出量や輸出量が多い。\nサウジアラビアは石油の産出量で世界2位。(世界1位はロシア、3位はアメリカ。)\nサウジアラビアの原油の埋蔵量は世界の約5分の1で、埋蔵量ではサウジアラビアが世界1位。2位はカナダだが、3位以降は西アジアの国が続き、3位イラン、4位イラク、5位クウェートとなっている。\n産油国は石油価格をコントロールするため、産油国どうしで 石油輸出国機構(せきゆ ゆしゅつこく きこう、OPEC、オペック) を1960年代につくった。当初はOPECにイラク、イラン、クウェート、サウジアラビアなどが加盟した。現在は、アラブ首長国連邦、カタールなども加盟している。\n現在ではOPECの影響力が低下しており、理由はOPEC加盟国以外の石油の産出が原因である。\n西アジアの宗教は、 イスラム教 の国が多い。サウジアラビアは、イスラム教の発祥の地であり、聖地のメッカとメディナはサウジアラビアにある。サウジアラビア、イラン、アラブ首長国連邦などで、イスラム教がおもに信仰されている。\n西アジアの民族には、アラブ系の民族が多い。西アジアの言語の文字にはアラビア語や、その系統の文字を用いる。\nただし、イスラエルはユダヤ教の国である。イスラエルは、文化などがヨーロッパ州に近い。その他は、西アジア。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%B7%9E"} {"text": "ヨーロッパ各州はユーラシア大陸の西端に位置している。\nヨーロッパ北部のノルウェーなどの海岸沿い(かいがんぞい)のギザギザした地形は氷河によって削り取られた地形である。このようなギザギザした地形をフィヨルドと言う。ノルウェーでは、この地形を活かし、漁業などの水産業がさかんである。\nヨーロッパには40カ国以上の国がある。それらの国の多くは、国土の面積が日本よりも小さい。\nドイツは、世界でも有数の工業国である。\nフランスでは、航空機の産業が有力である。\n産業革命がヨーロッパのイギリスやフランスを中心にして起きた。古くからヨーロッパで近代工業が起こったことにより、ヨーロッパでは工業がイギリス、フランス、ドイツなどで発達した。\n今でこそ中国が(一昔前は日本が)「世界の工場」と言われているが、元はイギリスが「世界の工場」と言われていた。\n現在でも、イギリス、フランス、ドイツなどの工業の技術力も高い。\n第2次大戦後はアメリカや日本の工業が発達してきたので、ヨーロッパの国々は日米に対抗するため、ヨーロッパの企業どうしで協力しあっていることが多い。\nたとえば航空機の生産では、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、ベルギーの企業が、航空機の部品を分担して共同生産をしている。\nEUの4カ国(フランス、ドイツ、イギリス、スペイン)が出資したエアバス社により、各国で部品を作り、最終組み立て工場のラインがあるフランスのトゥールーズで組み立てている。\nヨーロッパ州は工業が古くから発達したことで、大気汚染などの公害や環境問題などにも直面した過去があり、そのため公害などへの規制がきびしい。人々の環境問題への意識も高く、リサイクルも普及している。また、太陽光発電や風力発電など、環境の負荷がひくいと考えられている発電が発達している。\nライン川河口近くにユーロポート(港)が建設され、化学工業が盛んな地域となっている。\n北海油田の開発によって、イギリスとノルウェーは産油国となった。\n東ヨーロッパ(略して東欧ともいう。)は、工業がおくれており、賃金も安い。そのため、外国の企業が安い賃金の労働力を求めて、工場などを進出させている。日本の企業の工場やアメリカの企業の工場も、東ヨーロッパのチェコやポーランドやハンガリーに進出している。\nどのあたりを東ヨーロッパと言うかというかは、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどが挙げられる。\nチェコとポーランドとハンガリーの3カ国で工業が盛んである。とくにチェコは昔からの工業国であり、冷戦中はソビエト連邦が主導する社会主義の陣営にチェコやポーランドやハンガリーなどは組み込まれたが、その中でもチェコは工業力の高い国であった。現在でも東ヨーロッパの中でチェコは工業が盛んである。\nいっぽう、ポーランドは東欧の中でも人口が多く、国土も広い。ポーランドの国土の広さは、スペインと同じくらいである(チェコとハンガリーの国土面積は、北海道と同じくらい。)。そのため、今後の発展が期待されており、西ヨーロッパやアメリカなど外国の企業もポーランドに進出している。\nこれらの東ヨーロッパの国の経済発展が遅れた主な理由は、第2次大戦後の冷戦により、多くの東ヨーロッパの国がソビエト連邦の主導する社会主義の陣営に組み込まれたことである。\nヨーロッパには、EUの加盟国どうしでも、発展の格差などの地域格差があり、問題になっている。その一方で、東ヨーロッパへの工場進出のように、これら地域格差を、賃金を抑えるための手法など、経済に利用している面もある。\nヨーロッパの言語は、およそ3種に分類される。ヨーロッパ北西部の英語やドイツ語などのゲルマン系の言語と、南部のフランス語やイタリア語などのラテン系の言語と、東部のロシア語やチェコ語などのスラブ系の言語の3つの系統である。\nヨーロッパの民族も、とてもたくさんの種族がいるが、おおまかにはゲルマン民族、ラテン民族、スラブ民族の3つに分けることが出来る。\nヨーロッパではキリスト教が中心に信仰されている。キリスト教の宗派は、おおまかに3つの宗派に分かれる。古代からの教えを重んじるカトリックと、近世以降に宗教を改革したプロテスタントと、ロシアなどヨーロッパ東部でさかんな正教会(せいきょうかい)である。カトリックはイタリアなど南部のラテン系の国家でさかん。\nプロテスタントはイギリスを中心にさかん[1]。\nヨーロッパ単一市場が発足。\nヨーロッパ連合とは、ヨーロッパでの経済の統合など、ヨーロッパの国どうしで協力しあっている国家どうしの連合である。ヨーロッパ連合のことを EU(イーユー) という。\nEUの本部はベルギーの首都ブリュッセルにある。\nもともとは第二次大戦後に、ヨーロッパの資源の共同管理をすることで、資源をめぐる戦争をなくそうという平和目的として1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体( ヨーロッパ せきたん てっこう きょうどうたい 、英語 略称:ECSC イーシーエスシー)が、戦争であらそったドイツとフランスを中心に設立された。結果的にドイツ・フランスにイタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクを加えた6カ国で1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立された。\n似たような国際機関で、1958年にはヨーロッパどうしの経済協力を目的にヨーロッパ経済共同体( ヨーロッパ けいざい きょうどうたい、EEC イーイーシー )が設立された。また1958年に原子力の共同管理のためのヨーロッパ原子力共同体(ヨーロッパげんしりょく きょうどうたい、 EURATOM 、 ユーラトム)が設立された。\nこのECSCとEECとEURATOMの3つが統合して、1967年にヨーロッパ共同体( EC(イーシー) )となった。\nその後、ECは加盟国が増えていった。\nこのヨーロッパ共同体ECが、1993年にはヨーロッパ連合(EU 、イーユー)に発展した。\n国際機関が多く出てきたが、中学校では、とりあえずEU(ヨーロッパ連合)だけを覚えておけば、たぶん大丈夫だろう。\n2002年からEUの共通通貨のユーロが加盟国の多くで使われている。このため、それまで加盟国にあった通貨(たとえばドイツのマルク通貨やフランスのフラン通貨など)は廃止された。\nユーロは、ドイツやフランスなどをはじめ、多くの加盟国がユーロを導入している。\nしかし、イギリスは、ユーロを導入しておらず、イギリスの通貨は「ポンド」である。デンマークも、ユーロを導入していない。\n予備知識として、まず、EU域内の農産物の移動には、関税が掛からない、ということを知っておこう。\nさて、EU域内で食料を自給しようという目的で、つぎの共通農業政策(きょうつうのうぎょう せいさく)が1960年代から実施された。\n共通農業政策の内容は、EU域内で農産物にごと統一価格を定め、生産性の低い国にあわせて、高い価格で農産物を買い取ることである。\nこの共通農業政策は農家に有利なので、結果的に生産意欲が上がり、生産量も上がった。だが、EU財政の負担になったので、小麦など一部の農産物で買い取り価格の低下をしたり、生産調整をしたりなども起きている。\n(※ 「共通農業政策」は中学校の範囲。教育出版の教科書にある。)\nフランスは、ヨーロッパを代表する農業国であり、小麦の生産がさかんである。フランスは農産物の輸出も多い。フランス南部の地中海沿岸では ぶどう も生産しており、ワイン(ぶどう酒)の産業が有名である。\n農業がさかんなため、食料自給率は100%を超えており、外国に農産物を輸出している。\nこのためフランスは「EUの穀倉」(イーユーのこくそう)とも言われてる。\nフランス南部は気候が地中海性気候にちかく、ぶどうやオリーブなどの栽培がさかん。\n工業国でもある。 航空機産業や自動車産業が、さかん。航空機製造の大手企業であるエアバス社の組み立て工場が、フランスのトゥールーズにある。\nフランスの首都はパリ。芸術の文化がさかん。首都のパリは観光地でもある。 \nイギリスとフランスとのあいだのドーバー海峡(ドーバーかいきょう)の海底に、海底トンネルのユーロトンネルがある。\nまた、そのユーロトンネルをつかった高速鉄道のユーロスターが、ロンドン〜パリ間を走る。\nスイスは、どこの国とも軍事同盟を結ばない永世中立国である。また、その中立を維持するために、軍事力を高めている国である。スイスには徴兵制(ちょうへいせい)がある。スイスの公用の言語はドイツ語やフランス語やイタリア語である。「スイス語」という言語は無い。\n宗教も、カトリックとプロテスタントの両方である。スイスは、中立国ということから、国際会議などの開催の場所になることも多い。スイスには国際機関の本部も多く、たとえば世界保健機関の本部がある。フランスやドイツなどが加盟しているヨーロッパ連合(EU)には、スイスは加盟していない。\n永世中立というスイスの立場のため、第2次大戦後、ながらく国際連合にはスイスは加盟しなかったが、2002年にスイスは国際連合に加盟した。\n工業もさかんで、精密機械などに強い。\n工業がさかん。ドイツはヨーロッパで最大の工業国。\n自動車産業や電子工業や重化学工業がさかん。ライン川ぞいにあるルール工業地帯は、かつては石炭の産出地でもあり、鉄鋼業や重化学工業が、さかんであった。\n公用語はドイツ語。\n宗教はキリスト教。\n冷戦時は東西ドイツに分裂していた。なお東ドイツがソ連など共産主義・社会主義の陣営で、西ドイツがアメリカ・イギリスなど資本主義・民主主義の陣営である。\n冷戦の終了によって1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年には西ドイツが東ドイツを吸収する形で東西ドイツが統一した。\n第二次大戦後、ドイツは、労働力不足をおぎなうため、トルコなど地中海付近の国から移民を多く受け入れた。\nヨーロッパには50カ国くらいあるので、全ては紹介しきれない。学習に関わりが深そうな国をあげる。\n・ オランダ\n国土の4分の1が(つまり25%が)、海面よりもひくい干拓地(かんたくち)であり、その干拓地はポルダーと呼ばれる。\nチューリップの栽培や、酪農がさかん。\nオランダの首都はアムステルダム。\n・デンマーク\n・ スウェーデン\nヨーロッパ諸国は環境対策に力を入れている。\n国にもよるが、たとえばゴミの分別のきまりが、細かく決められている。\nまた、渋滞問題とも関係するが、都市の中心部への自動車の出入りに税金を掛けることで、鉄道やバスなどの利用をうながしている。\nそのバスの燃料も、ゴミ処理施設などから出るメタンガスを利用するなどして、エネルギー資源を有効活用していたりする。\n海岸沿いのデンマークでは、風力発電が盛んである。また、酸性雨などにも対策をしている。\nヨーロッパでは、多くの国が陸上で国境を接しているので、ある国で環境問題が起きると、となりの国にも影響が出やすい。\nヨーロッパでは19世紀から大気汚染が深刻になった。\nまた、工場や自動車の排煙のため、酸性雨(さんせいう)が増えた。酸性雨は、国境をこえて、被害を出した。酸性雨で枯れる樹木も、出てきた。\nこうした過去の経験にもとづき、現在では環境保護のための対策が取られている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E5%B7%9E"} {"text": "首都:モスクワ\nロシアは、ウラル山脈をはさんで、ヨーロッパからアジアにまたがる巨大な国である。ロシアの国土面積は、日本の約45倍もある。\n東西に長いため、9個の標準時をもつ。\nウラル山脈から東側をシベリアという。シベリア側がアジア州である。ウラル山脈から西側が、ヨーロッパ州である。\nロシアには多くの民族が暮らしており、スラブ系のロシア人が8割をこえるが、そのほかの少数民族をあわせて100以上の民族がいる。\n宗教は、民族が多いため、さまざまな宗教が信仰されているが、スラブ系ロシア人のあいだではキリスト教の正教会が、おもに信仰されている。\nロシアは、国土の大半が亜寒帯である。\n南西部の黒海(こっかい)沿岸(えんがん)やシベリア西部は、気候がやや暖かく、ステップ気候にちかく、南西部の農業では小麦などが栽培される。\n北部の北極海沿岸は、寒すぎて草木が育たず、コケ類しか育たない、ツンドラとよばれる気候である。\nツンドラ気候の南側の地域に、タイガとよばれる針葉樹林の地帯がある。\nロシア東部は、山地が多い。(「シベリアに、山地が多い」(×)ではなく、ロシア東部に山地が多い。シベリア西部には、平地が広がっている。シベリア東部が、ロシア東部のことであり、このシベリア東部が山地が多い場所である。)\n首都のモスクワは、ウラル山脈の西側にあり、つまりヨーロッパに近い側にある。\n原油や天然ガスが多く、パイプラインで輸送している。\nソ連時代には、コンビナートと呼ばれる工業地域をつくった。\nかつて、ロシアとその周辺にはソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦、ソ連)という国があった。\nソビエト連邦は1922年に誕生し、計画経済(けいかく けいざい)にもとづいた経済政策をしていた社会主義国だったが、1980年ごろには経済が行きづまり、ついに1991年にソビエト連邦は解体され、そしてロシア連邦と14の共和国に分かれた。\nソビエト連邦は、第二次大戦後はしばらく、アメリカ合衆国と対立していた。この、第二次大戦後のアメリカとソ連との対立を 「冷戦」(れいせん) という。(※ 教科書の範囲外。)\nソビエト連邦は現在のロシアを含む15の国で構成されていた。ソビエト連邦が崩壊するとそれらの国々は独立した国になった。中央アジアでは、カザフスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンもソビエト連邦に属していたが、今は独立した国々である。宗教について、カザフスタンなどではイスラム教が信仰されている。\n東ヨーロッパ側では、ウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)、モルドバなどがソビエト連邦に属していたが、現在では独立した国になっている。これらの国々はキリスト教の正教会の信者が多い。\nバルト海沿岸にある3つの国、エストニア・ラトビア・リトアニアをバルト三国という。バルト三国もソビエト連邦に属する国々であった。しかし、バルト三国は他の国々と違ってソビエト連邦崩壊の前に独立を果たした。バルト三国の宗教は、キリスト教である。\nロシアからみて西南方向に、黒海とカスピ海がある。この黒海とカスピ海に挟まれた地域を「カフカス地方」という。\nカフカス地方では、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンが独立国となっている。\nロシア西南部のカフカス地方にある「チェチェン共和国」は、「共和国」とはいうものの、ロシアの一部である。\nしかし、チェチェンに独立派がいるが、ロシア政府は独立を認めていない。\nこのため、独立派とロシア政府が対立し、武力衝突がたびたび発生している(チェチェン紛争)。(※ 中学の範囲内。教育出版『中学社会 地理 地域にまなぶ』、平成23年3月30日検定版、平成25年1月20日発行、71ページ)\nチェチェンでの宗教は、おもにイスラム教が信仰されている。\nロシア西部とウクライナ周辺で、小麦、大麦、ジャガイモなどの生産が盛んである。\nロシアで農業の盛んな地域は、気候の温暖なロシア西部のため、そのためロシアの農業は、ウクライナの農業に近い。\nいっぽう、北極海沿岸や、シベリア東部では、気候が寒冷すぎてツンドラ気候なので、農業がほぼ不可能なので、漁労などで食料を得たりしている。\nかつてソ連の時代には、「コルホーズ」(集団農場)や「ソフホーズ」(国営農場)といった、農場の国有的な統制(とうせい)があった。だが現在では、ロシアおよび旧ソ連からの独立国の農業は、民営化(みんえいか)しており、企業的な農業になっている。\nカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメンスタンなどを中央アジアという。\n中央アジアは乾燥気候である。\n中央アジアの農業では、かんがい(灌漑)による綿花(めんか)や小麦の栽培がさかんである。とくにウズベキスタンが、綿花の世界的な生産国になっている。\n過剰な かんがい により、アラル海の水位が低下しており、湖面の面積が減少し、アラル海は消滅の危機にある。(※ 中学の範囲内。日本文教出版『中学社会 地理的分野』、平成23年3月30日検定版、平成25年2月8日発行、116ページ)\nなお、アラル海やカスピ海は、内陸部にある湖(みずうみ)であり、周辺が乾燥地域なため、蒸発により塩分濃度が高い 塩湖(えんこ) になっている。(※ 中学の範囲内。出典は同上。『中学社会 地理的分野』)\nこのため、アラル海の湖面が減少すると、塩が出てきて、周辺の農地などに塩をまきちらし、塩害(えんがい)を起こすので、さまざまな問題を起こす。(※ 中学の範囲内。出典は同上。『中学社会 地理的分野』)\n中央アジアでは、羊(ひつじ)の遊牧もしている。\n黒海とカスピ海のあいだの地域を「カフカス地方」という。\nカフカス地方の農業では、茶の栽培が盛ん。\nまた、ブドウやオレンジなどの果樹栽培も、カフカス地方では盛ん。\nウクライナの首都はキーウ。\nウクライナでは工業が発達している。\n1986年の「チェルノブイリ原発事故」で有名になったチョルノービリ原子力発電所[1]は、ウクライナにある。(※ 中学の範囲内。日本文教出版『中学社会 地理的分野』、平成23年3月30日検定版、平成25年2月8日発行、116ページ)\n原油や天然ガスの輸出で、ロシアは世界でも上位の有数の国である。\n旧ソ連では、資源産地が離れていたので、それらを鉄道や水運などで結びつける「コンビナート」と呼ばれる方式の工業地域を各地につくった。シベリア鉄道などを輸送(ゆそう)に利用している。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%A8%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%81%AE%E5%9B%BD"} {"text": "アフリカの原住民の大半は黒人である。しかし、アフリカ北部の原住民は黒人だけとは限らない。アフリカ北部の住民には、古代や中世からアラブ系の人々やヨーロッパから移住した白人たちの子孫も多い。\n「アフリカの原住民 → 黒人」(×)という先入観は、間違いである。\n黒人が原住民の多くを占める地域は(アフリカ大陸の北部にある)サハラ砂漠(サハラさばく)より南の地域であり、このアフリカ南部の住民には今でも黒人が多い。\nアフリカは、地域によっては砂漠(さばく)の地域もあれば、熱帯林の地域、草原の地域もある。\n沿岸部を除く、北部と南部では、砂漠が多い。\nアフリカ北部には、サハラ砂漠がある。\nアフリカの中部を赤道が通っている。そのため、アフリカの赤道に近い地域は、標高が高いエチオピアなどの地域を除けば、ほとんどが熱帯である。\nアフリカ中部のギニア湾岸やコンゴ盆地のあたりの地域は雨が多く、そのため熱帯林が多い。この熱帯林の地域の農業では、いも類やバナナなどを栽培している。\n赤道から離れるにしたがって、気候が乾燥していき、風景がしだいに熱帯林から草原に変わっていく。\n草原の地帯では、1年のあいだに、雨季(うき)と乾季(かんき)がある。このため、木々はあまり育たず、草原は広がり、サバンナ(サバナ)やステップなどと言われる。\nゾウやしまうま、ライオンなどが多いのは、この草原のあたりである。\nそして、さらに赤道から離れると、草原から砂漠へと変わっていく。\nただし、アフリカ北西部のモロッコなどの地中海沿岸では、やや雨が多い。なので、小麦やぶどう、オリーブなどを生産する地中海式の畑作の農業が行われている。大陸の南端の沿岸部も、同様にやや雨が多いので、似たような畑作が行われている。\nアフリカ北部にある砂漠で、世界最大のサハラ砂漠がある。\nアフリカ北部の文化は、西アジアのアラブ地方の影響が大きい。サハラ砂漠とその北部でのアフリカ北部では、アラビア語が話され、宗教はイスラム教が信仰されている。\n砂漠での暮らしも、らくだや羊などの家畜を連れて、草と水を求めて移動する遊牧(ゆうぼく)である。\nなお、エジプトは、アフリカ州の北東部にある。エジプトに、ナイル川が流れている。ナイル川は、世界で最長の川である。\nアフリカ北西部にナイル川があり、川の周辺では農業が行われ、なつめやし などが栽培されている。\nなお、ナイル川は、上流の水源地が降水量の多い場所にあるので、エジプトの乾燥地帯を流れていても、ナイル川は1年中、かれることがない。なお、このように、上流の水源が降水量の多い場所にある、乾燥地帯を流れる川を、外来河川(がいらいかせん)という。\n一方で、サハラ砂漠より南の地域では、伝統的な宗教とキリスト教が多い。言語は中央アフリカや南アフリカでは旧宗主国の公用語である英語やフランス語などが使われている国が多い。アフリカには多くの民族や部族があり、それぞれ言葉も違うため、公用語を英語やフランス語などと定めている場合が多いのである。\nアフリカは16世紀ごろ、ヨーロッパに侵略され、ヨーロッパの植民地になった。原住民の黒人たちは、奴隷として諸外国に輸出され、とくに北アメリカ大陸と南アメリカ大陸に多く輸出された。\nこのような貿易を奴隷貿易(どれい ぼうえき)と言う。\nしかし、第二次大戦後、世界的な独立運動の高まりや民主主義、民族主義の高まりにより、1950年代ごろから、次々とアフリカの国が独立した。とくに1960年に多くのアフリカ諸国が独立したので、この年は「アフリカの年」(アフリカのとし)と言われている。\nヨーロッパ各国の植民地の境界線は、ヨーロッパ諸国の都合により、緯度や経度によって国境が決められたので、アフリカの国境は直線的であった。それらの境界線が、独立後の今でも国境として残っている。\nこのため、一つの国内に多くの民族が居るので、民族同士の対立や、領土をめぐる対立など、紛争や内戦のある国も多い。\nガーナはアフリカ中西部のギニア湾の沿岸部にあり、高温多雨の地域であり農業がさかんで、カカオ豆の生産地として世界でも有数である。カカオ豆はチョコレートの原料となる。\nコートジボワールとガーナは、世界でも上位のカカオ豆の生産地である。\nコートジボワールに次いで、ガーナはアフリカではカカオ豆の生産量が多い。カカオは元々は南アメリカの作物だったが、植民地時代にヨーロッパ人がアフリカに持ち込んだ。\nなお、生産量の世界1位はコートジボワール(ギニア湾の沿岸国)の全体の約30%、ガーナは2位〜3位前後で約15%。東南アジアのインドネシアも約15%である。\nアフリカの農業では、綿花、コーヒー、カカオ、天然ゴムなどがさかん。\n植民地時代にヨーロッパ州への輸出用に、大農場(プランテーション)が作らされた。そのため、アフリカの作物は自給用よりも、主に輸出用の、商品作物が多い。\nたとえば、ガーナではカカオのプランテーションが多い。ちなみに、カカオは、植民地時代に南アメリカから(※ アフリカではなく南「アメリカ」)、ヨーロッパ人がアフリカ大陸に持ち込んだものである。\nほかの国では、ケニアで茶のプランテーションが多い。なおケニアは、第二次大戦前はイギリスの植民地だった。イギリスで茶(紅茶)がよく売れるため、ケニアで茶が大量生産されたのである。\n第二次大戦後の独立後は、欧米の所有だった農場は国有化されたが、現在でも、それらの農産物が、ドルなどの外貨(「がいか」、意味:外国のお金のこと。)を稼ぐための重要な輸出品である。\n国にもよるが、アフリカの多くの国で、工業が発達しておらず、貧しい国が多い。アフリカでは、人口増加がいちじるしい。\nアフリカの農産物が輸出用に偏り、自給用の作物が少ない。国によっては食料不足になる国もあり、欧米や日本などの諸外国から経済援助や食料援助を受ける国もある。\nアフリカは、金やダイヤモンドや銅などの鉱産資源が豊富である。植民地時代から、これら地下資源の採掘が行われ輸出されてきた。\nまた20世紀には、石油がナイジェリアやアルジェリアなどで採掘されている。アルジェリアやリビアなど、アフリカ大陸の北部に、石油が多い(ナイジェリアはギニア湾岸にあり、アフリカ中部の国である。)。\nさらに近年は、コバルトやクロムなどの希少金属(きしょうきんぞく、レアメタル)が採掘されている。パソコンや携帯電話などの電子機器にもレアメタルは使われている。アフリカ南部に、これら金属の産出地が多い。\n資源が多いのにも関わらず、アフリカ国内に高度な工業力を持たないので、あまりアフリカの工業が発展していない。教育が整備されておらず、文字を読めない人なども多い。そのため、あまり工業の労働者が育たない。\nアフリカの産業は、農業や鉱産資源など、あまり高度な技術を必要としない産業に偏っており、しかも輸出用の産業に偏っている。\nとくに農産物は多くの国で生産できるので、国際競争も激しい。しかも輸出用の作物の多くは、商品作物のため、アフリカ内では消費しづらく、たとえ売り値が安くても輸出せざるを得ない。このため、商品作物は価格が不安定なのが一般であり、国際市場の影響を受けやすい。\nこのような、輸出に偏った産業の構造のため、アフリカの労働は賃金が低く、それがアフリカの経済が発展しづらい理由の一つだろう、と考えられている。\nこのような、特定の産業に偏った経済のことを、また、そのために生活が貧しい経済を、モノカルチャー経済という。\n南アフリカ共和国の政治では、少数の白人が、黒人を支配する政治が第2次世界大戦前から続いており、アパルトヘイト( 意味:人種隔離(じんしゅ かくり) )と言う、人種隔離の政策が取られていた。\nアパルトヘイト政策のため、黒人には長い間、選挙権が無かった。住むところも人種によって決められた。人種の異なる人との結婚は、禁じられていた。\nこのような差別的な政策に対し黒人による差別への反対運動が続いた。国際社会の批判もあり、1991年にアパルトヘイト政策が廃止された。\nそして1994年には、黒人の大統領のマンデラの政権が出来た。\n法律による差別は無くなったが、満足な教育を受けていない黒人も多く、賃金の高い職につけない黒人も多いなど、なかなか上手くはいってない。\n近年の南アフリカ共和国では、治安が悪化している。とくに、最大の都市のヨハネスバーグ(ヨハネスブルグ)は非常に治安が悪い。\nなお、2010年には、サッカーのワールドカップが南アフリカ共和国で開かれた。\nアフリカの国でも、都市化が進んでいる。首都などは工業化している国も多い。携帯電話なども都市では普及している。\nその一方で、アフリカ各地で人口の増加が多い。農村でも人口の増加は多い。貧しい農村に住みきれなくなった人が、仕事などを求めて都市に移住することが増えている。しかし、都市にも仕事は少ない。また、農村出身者などは、あまり教育を受けていない人が多いので、なかなか農村出身者などが、なかなか満足な仕事につけず、仕事につけたとしても賃金が安い。\n満足な仕事につけず、賃金が安く、そのため住居も買えないので、貧しい人々が勝手に路上に住んだり、スラムという公共用地などに勝手につくった住居に住んだりしている。\nスラムは、移住者が勝手につくったので、水道などの公共設備は通っておらず、劣悪な環境である。\nスエズ運河(スエズうんが、英: Suez Canal)はエジプトにある人口の運河で、アフリカ大陸と、ユーラシア大陸のアジア州のアラビア半島の付け根の、スエズ地峡(スエズちきょう)に位置し、地中海(ちちゅうかい)と紅海(こうかい)を結ぶ、人工の 運河である。\n船舶の通行のため、スエズ運河は建設された。\n1869年にスエズ運河は開通した。フランス人の土木技師レセップスが工事を指揮した。\n開通から、長らくフランスやイギリスが領有を争っていて、地元のエジプトはスエズ運河を領有できなかった。しかし、1956年にエジプトがスエズ運河を国有化した。\n中央アメリカにあるパナマ運河とともに、スエズ運河は、世界の二大運河(にだい うんが)として有名である。\nエチオピアは、赤道の近くにあるが、標高が高いため、気候がすずしい。\nエチオピアは、第二次世界大戦前からヨーロッパの植民地にされていない。エチオピアは、第二次世界大戦前からの独立国である。(※ 標高が高いことと、関連づけて、覚える。)\nエチオピアの農業では、コーヒーの生産がさかんである。(※ 標高が高いことと、関連づけて、覚える。)\n宗教では、キリスト教徒が多い。だが、イスラム教徒の多い地域もあり、民族対立が起きている。\n農業では、茶のプランテーションがさかん。\n第二次大戦前の植民地時代、イギリスの植民地だった。\nケニアの公用語は、英語とスワヒリ語。スワヒリ語は、ケニアだけでなく、タンザニアなど周辺のいくつかの国でも共通語として使用されている。\nケニアの首都はナイロビである。\nナイロビは発展しているが、周辺にスラムが出来ている。\nケニア山という、アフリカのなかでも、けっこう高い山がある。このケニア山が、国名の由来である。\nなお、「マサイの戦士」などとして有名なマサイ族が住んでいるのは、ケニアとタンザニアの周辺である。\nエジプトはアフリカ州にある。エジプトの首都はカイロである。\nナイル川が流れている。ナイル川は、世界で最長の川である。\nスエズ運河は、エジプトにある。\n1971年にアスワンハイダムが建設された。\nアスワンハイダムは、農業用水および、洪水の防止に利用されている。\nしかし、上流から肥えた(こえた)土が運ばれなくなり、下流に悪影響が出てしまっている。\nエジプトの宗教はイスラム教。エジプトの公用語はアラビア語。\nピラミッドやスフィンクスは、エジプトにある。(※ 中学地理の教科書では範囲外だが、このくらいの知識は、小学校の教科書に書いてあるので、覚えておこう。)\nアフリカ最南端にある国。\n黒人差別のアパルトヘイトを実施していた。\nトランスバールから石炭が産出する。\nアフリカ北西部の端(はし)にある山脈は、アトラス山脈。モロッコに、アトラス山脈がある。\nモロッコの北端から、海を隔てて、ヨーロッパのスペインがある。\nこのモロッコ北部とヨーロッパとのあいだの海峡(かいきょう)を、ジブラルタル海峡という。\nアフリカ南部に、喜望峰(きぼうほう)がある(最南端と言われることもあるが間違い。本当の最南端はアガラス岬)。\n砂漠は、アフリカ北東にあるサハラ砂漠が広くて有名である。\nそのほか、リビアに、リビア砂漠がある。\nまた、アフリカ南部にカラハリ砂漠やナミブ砂漠がある。\nエジプトの東側の、アフリカと西アジアとのあいだの海は、紅海(こうかい)という。\nアフリカ大陸の南部と海を隔てて東側に、マダガスカル島があり、マダガスカルという国がある。\nコンゴに、コンゴ盆地がある。\nキリマンジャロ山は、アフリカで最も標高が高い。\n赤道ちかくのアフリカ東部にビクトリア湖という大きな湖がある。\nアフリカ大陸南部とマダガスカル島とのあいだの海峡(かいきょう)は、モザンビーク海峡(モザンビークかいきょう)という。\n以下の場所が、紛争地帯になっている。\nまた、これら(スーダン、ソマリアの紛争など)の紛争により、多くの難民が発生している。\nスーダンでは、北部のアラブ系イスラム教徒と、南部のアフリカ系住民の地域(キリスト教徒が多い)とが対立している。\n2003年に、西部のダルフール地方が、アラブ系イスラム教徒によって襲撃されたため、国連がPKO部隊を派遣した。\n2011年に南スーダンが独立した。\nルワンダでは、多数派のツチ族と、植民地時代の支配者であったフツ族とのあいだで内戦が発生している。\n1994年、ルワンダで、大量虐殺(ぎゃくさつ)事件が起きた。\n東アフリカにある、インド洋に突き出た位置にあるソマリアが、紛争の多発地帯である。\nいくつかの地域で、エイズやマラリアなどが流行している。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B7%9E"} {"text": "中学校社会 地理/北アメリカ州では、北アメリカ州の地理について説明します。\nカナダ、アメリカ合衆国、メキシコからパナマにいたる北アメリカ大陸の国と、キューバなどカリブ海の国から成る。アメリカ合衆国やカナダは日本の約25倍以上の国土をもつ。\n北アメリカ大陸は南北に長い。気候に関しても、赤道近くの南部と北極に近い北部では大きく異なる。北極に近い北部は寒く、寒帯または亜寒帯に属する。カナダや (アメリカ合衆国の) アラスカが寒帯または亜寒帯である。アメリカ合衆国の南部及びメキシコなど、赤道付近の大陸南部は暑く、熱帯もしくは温帯である。アメリカ合衆国の南部でハリケーンが発生することも多い。\nアメリカ合衆国の気候は、アラスカを除きほとんどが温暖である。また、雨の量は東西の地域で変わってくる。\n北アメリカで、最も経済力や影響力が高い国は、(英語:United States of America)アメリカ合衆国である。北アメリカ大陸の中だけでなく、世界各国で見てもアメリカ合衆国の影響力は強い。国際的な場での公用の言語として英語が使われることが多い理由の一因は、アメリカ合衆国が公用語として英語を使っているからでもある(無論、かつて世界各地に植民地を持っていたイギリスが英語で植民地支配を行ったという理由もある)。\n国名は アメリカ合衆国(英語: United States of America)。アメリカと略されることが多い。U.S.A (United States of Americaの略) と略される場合もある。\nアメリカ大陸のうちの北アメリカにある国の一つである。国土が広く、面積は日本の約25倍である。経済力がとても高く、アメリカは国内総生産(GDP)が世界1位である。\nアメリカ合衆国には、東西にそれぞれ山脈がある。北アメリカ大陸の西には南北に長く険しい、ロッキー山脈 (英語:Rocky Mountains) がある。北アメリカ大陸の東には、アパラチア山脈 (英語:Appalachian Mountains) がある。そして、その2つの山脈のあいだに、プレーリー (英語:Prairie) あるいは グレートプレーンズ (Great Plains) と呼ばれる、中央平原などをはじめとした平原 (草原) が広がっている。このロッキー山脈が西経100度の近辺で気候に大きく影響を与え、西経100度近辺から西側では乾燥し、砂漠もある。\n西側の乾燥地域での農業は、小麦など乾燥に強い作物が栽培されている。また、東部にも少し存在する乾燥地域では、畜産で肉牛なども飼育されている。\n一方、東側では雨が多い。アメリカ中部の、中央平原やグレードプレーンズあたりの農業では、大豆やトウモロコシなどが栽培されている。ロッキー山脈より西側の、アメリカ合衆国の南部や南東部は温帯である。そのため、南部の農業ではサトウキビや米、バナナ、コーヒー(豆)、カカオなども栽培されている。\n話をロッキー山脈に戻すが,ロッキー山脈は環太平洋造山帯 (英語:Ring of Fire) という、太平洋のまわりに多く連なっている山脈の一部でもある。一応述べておくと、日本列島も環太平洋造山帯の一部である。\nアメリカ合衆国は,国土の大半が温暖な地域である。それゆえ、農業大国であり、農業輸出国としては世界最大級である。であるからして、アメリカ合衆国は「世界の食料庫」と言われている。アメリカの農業は、輸出を前提に大量生産している。そのため大規模な農家が多く、日本に見られるような小規模な農家[注釈 1]は少ない。\n小麦及び大豆、とうもろこし、綿花で、アメリカ合衆国は世界最大の輸出国である。国際的な穀物の流通大手の企業のいくつかがアメリカ合衆国にあり、それらアメリカ合衆国の穀物流通の大企業である商社を穀物メジャーと言う[注釈 2]。穀物メジャーは,世界の穀物の流通や販売に対して,とても強い影響力を持つ。また、農業関係の企業には,農産物の生産にとどまらず、農産物の加工や流通,農業機械の生産や販売、農産物や農薬、肥料などの販売などといった農業に関するさまざまな産業をまとめて、アグリビジネス (英語:agribuisiness) といい、そのような事業をしている企業も多い。\nアメリカ合衆国の農業は、大きな農地を、大型の機械を使って、少ない人手で耕作する農業である。種を蒔く際や農薬をまく際は、自家用の飛行機を使うこともある。また、バイオテクノロジーを利用し遺伝子を組み替えて改良した、新種の品種の農作物を栽培することにも、アメリカの農業 (の生産者) は積極的である。\nアメリカ合衆国の西部の内陸部は、雨が少ないため乾燥している。このため、作物の栽培には向かず、家畜の放牧による飼育などに利用されている。\nカリフォルニア周辺は、沿岸部であるがゆえに雨がやや多い気候である上,温暖である。よって、カリフォルニアでは、オレンジやブドウ、野菜などが生産されている。\nもともとは先住民として北アメリカ大陸には ネイティブ・アメリカン[注釈 3] や イヌイット などの先住民族が住んでいた。\n15世紀も末の1492年に、コロンブス(イタリア語:Colombo)が、ヨーロッパ人としては初めてアメリカ大陸を発見した。その後、17世紀にはイギリスなどのヨーロッパ人が移住を始め、彼ら移民が植民地を作った。ヨーロッパからの移民は、原住民から土地を奪い、開拓をしていった。住む場所を奪われた先住民族は人口が減っていった。ヨーロッパ系移民である白人が先住民族を支配した。ヨーロッパ人の開拓は、東海岸 (大西洋側) から始まり、西 (太平洋側) へと進んでいった。\nその後、アメリカ大陸では、労働力のため、アフリカ大陸から黒人が奴隷として連れられてきた。特に北アメリカの南部で、綿花などの畑の労働力として多く連れられた。現在のアメリカの黒人の祖先の多くは、アフリカから奴隷として連れられた黒人である。\n現在のカナダにあたる地域はフランスによって開拓され、アメリカ合衆国にあたる地域 (の大部分) はイギリスによって開拓された。そのため,現在のアメリカやカナダの文化にイギリスやフランスの影響がある。言語を例に挙げると、アメリカの公用語は英語である。しかし、カナダでは英語とフランス語[注釈 4]が公用語である。また宗教では、多くの人がキリスト教を信仰しており、宗派はプロテスタント (英語: Protestantism,Protestant) が多い。\n奴隷とは別に、外国からアメリカ合衆国へ移り住んだ移民も多い。建国前より、イギリスからの移民が多いが,イギリスとは別のヨーロッパ諸国からも多くの移民がアメリカに移り住んだ。アメリカの人口の約6割の人種がヨーロッパ系である。(アフリカ系の)黒人も人口の1割程度である。また、アメリカ合衆国の人口の約1割がメキシコやカリブ海諸国などからのヒスパニック系 (後述) の移民である。\nメキシコはスペインによって侵略され、開拓された。カリブ海の諸国もスペインによって開拓された国が多い。それ故、これらの国 (メキシコ以南) ではスペイン語が公用語である。これらアメリカ大陸でスペイン語を話す地域からの移民をヒスパニック (英語:Hispanic) という。野球などスポーツなどの選手では、黒人やヒスパニックも多い。\nアメリカ合衆国の白人の多くは、先祖が前述したようなヨーロッパから移住した移民である。よって、イギリス系の白人がもっとも多い。アメリカ合衆国の政治を握る人種は、長らく白人に限られていた。\nアメリカ合衆国は多民族国家であり、「人種のサラダボウル」と言われる。\n19世紀のリンカーン大統領の時代 (1860年ごろ) に奴隷制が廃止され、黒人などの奴隷は解放された。だが、その後も権利が白人とは同じではなく、公共施設や乗り物などでは、黒人は白人とは違う扱いをうけたりなど、黒人への差別はつづいた。黒人に白人と同じ公民権が公民権法によって与えられたのは1964年である。それまでは黒人と白人の権利は対等ではなかった。\n2009年に選挙でアメリカ合衆国では初めての黒人の大統領である、バラク・オバマ大統領が就任した。しかし、現在でも白人と黒人との間で経済的な格差があると指摘されている。\n世界で粋をゆく最先端技術をもつ。\n#地理及び気候で述べたように、アメリカ北東部には五大湖がある。そして、その五大湖近辺は鉄鉱石の産地である。そして、その南のアパラチア山脈近辺では石炭が採掘されていた。この鉄鉱石と石炭を用いて、アパラチア山脈ピッツバーグで鉄鋼業が始まった。さらに、それらを用いた自動車産業が五大湖にほど近いデトロイトで始まる。これを機として、1970年頃に至るまで、世界で最も大きな工業国だった。\nところが、1970年頃になると,第二次世界大戦から立ち直ったドイツや日本などの製品に国際的な競争力が弱まっていく。そして,それらの国の企業がアメリカに進出する動きが強まる[注釈 5]と、必然的に工場を設置しようと試み始める。それまでに多くの工場が乱立していた北東部には、人件費の面でも、スペースの面でも、もはや工場を設置する理由はなかった。そして、それらの理由を解決できる南部に新しい工業地帯が形成される。これを「サンベルト[1]」と呼ぶ。\nそして、1980年代からバイオテクノロジーや情報通信産業,航空宇宙産業などがサンベルトで発展していった。この頃から、北東部の鉄鋼業などは衰えが一層激しくなる。現在、アメリカの工業はサンベルトにおける自動車産業やバイオテクノロジー、情報通信産業、航空宇宙産業とサンフランシスコ郊外の先端技術産業 (世界有数が故に「シリコンバレー」と呼ばれる) に代表されていると言える。\nアメリカ合衆国の工業は世界各国の中でも、大量生産を早く成功させた。工作機械などの発明された当時は新型だった生産機械を積極的に活用し、生産工程に機械を積極的に取り入れ、それによって品質のばらつきの少ない工業部品を大量に作ることが出来るようになった。工作機械などによる生産の機械化により、部品の品質のばらつきが小さくなることによって組み立てなどの工程では分業しやすくなった。そのため流れ作業のベルトコンベアーのような生産手法を用いて大量生産をするようになった。\nさらに、部品ごとのばらつきを小さくするため、工業部品の規格化が積極的に行われた。こうして、規格大量生産と言われる生産手法がアメリカ合衆国で普及し、自動車産業などで積極的に導入された。一度に大量に製品を作ることで、部品1個を作るのに掛かる費用を安くすることができるため、製品そのものの製造費を安価に抑えられる。アメリカの工業は、次第にヨーロッパとの経済競争にも勝っていき、アメリカは工業大国となった。\nアメリカの生活では,生産が増えることで,消費も増えることになり、アメリカの消費生活は大量生産を前提にするものになっていった。\nアメリカ合衆国の貿易は輸入額が輸出額よりも多く、貿易赤字である。機械類や石油、自動車の輸入が多い。二酸化炭素の排出量は世界の中でも比較的多い。地球温暖化を防ぐための排出量の削減には大統領がドナルド・トランプに代わって以降あまり積極的ではなくなり、2019年にはパリ協定から離脱した。\nアメリカ合衆国の大企業には、海外に多くの子会社や関連企業を持つ多国籍企業(英語:multinational corporation,MNC)も多い。\n大手コンピュータ企業やインターネット通信会社、ファストフード店、洗剤の生産で知られる企業など、日本にも多くの多国籍企業が進出している。\n世界の石油の流通は、いくつかの大企業に強く支配されている。その石油の流通を支配している大企業を「石油メジャー」または「国際石油資本」と言う。\n生活水準は、貧富の格差が大きい。スラムが発生している都市も多い。富裕層 (金に余裕のある世帯) は、都市の中心部の老朽化した建物から、郊外の広い家に住むようになり、都市の中心部では家賃が下がる。すると、そこに貧困層が入ってくるようになり、スラムを形成するため、様々な問題が発生している。これをインナーシティ問題という。\n近年では,そこの再開発が進められてオフィスビルや高層マンションなどの建物が次々と建設され、市街地が高級化されている。そこへ富裕層が再び住むようになっているが、これをジェントリフィケーションという。その裏では、再開発のために追い出されてしまった貧困層のホームレス化などの問題も発生している。\nモータリゼーションが進んだ現在のアメリカでは自動車が普及しており、多くの高速道路が主要都市を繋いでいる。\n自動車を前提としている住宅街などでは,住宅地と商店街が離れている場合もあり、自動車が無いと買い物にも行けずに生活が成り立たない場合もある。また、アメリカのスーパーなどでは、日本よりもサイズが大きいものが販売されているので、大量の荷物を運ぶために自動車は欠かせない。\n都市と都市との間が離れているので、アメリカでは空港も多い。\n衣服のジーンズやTシャツは、もとはアメリカでの労働者の衣服である。\n工業や農業、軍事などの、アメリカの世界各国への影響力の強さと同様に、{{ruby|娯楽などの文化などでも影響力が強い。アメリカの映画産業は、カリフォルニア州のロサンゼルス市にあるハリウッドが著名であるが、ハリウッド映画は世界的にも影響力が高い。なぜなら、アメリカの映画は世界中に輸出されている。映画のストーリーなども,輸出することを前提にしてどこの国にでも人気になりやすいような単純化したストーリーである場合が多い。\nまた、ファストフード店はアメリカ発祥の文化である。日本にも出店しているある大手ファストフード店の本社はアメリカ合衆国にある。\n音楽のジャズは、アフリカ音楽とヨーロッパ音楽の両方の文化をもとにして、アメリカで生まれた音楽である。\nスポーツの野球は、まずアメリカで普及し広まった。そのため、アメリカの影響を強く受けた国 (主に太平洋に面した国) で人気な場合が多い。また、バスケットボールもアメリカを発祥としたスポーツである。\nショッピングセンターやコンビニエンス・ストアも、元をたどればアメリカに行きつく。ただしコンビニエンス・ストアは,日本に進出された後、日本で独自の発展をして、今では日本のコンビニの方式がアメリカなどにも輸出されている。また、コーラもアメリカから広がった飲料である。\n産業革命のころから、イギリスの国際的な影響力が強くなり(多くあった植民地を英語で支配したため)、そのころから英語が国際的な公用語になりだした。\n江戸時代生まれで明治時代の偉人である福沢諭吉は、江戸時代には日本はオランダ経由で洋書を輸入していたので、洋書を読むためオランダ語を学んでいた。だが、明治時代になり海外の情報が多く入ってくるに連れて、英語が国際的に普及していることを知り英語を学び始めたという。\n現在では、国際会議などの国際的な場での公用語は英語が多い。これらの理由は、アメリカの経済力によるものだけではない。英語はヨーロッパのイギリス以外の言語の、フランス語やドイツ語などと比べて、文法が簡単なので学習しやすい。そのような事も,英語が普及した理由の一つであろう。\nともあれ、英語が国際的に普及していることもあり、アメリカやイギリスでの出版や報道などの言論は、国際的にも普及しやすい。\nアラスカとハワイも,アメリカ合衆国の領土である。\n五大湖とは、スペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖の5つである。五大湖のうち、最も北及び西にあるのがスペリオル湖である。さらに、スペリオル湖が最も面積が広い。スペリオル湖の南にミシガン湖がある。\nアパラチア山脈の南部にある半島、アメリカ南東部にある半島は、フロリダ半島という。\nフロリダ半島とメキシコとの中間あたりにある大きな川が、ミシシッピ川である。また、ミシシッピ川の周辺の平原が、中央平原である。\nアメリカ南部の海のメキシコに囲まれた湾は、メキシコ湾。\nロッキー山脈は、カナダ西部からメキシコまで続いている。\n世界で2番目に国土が広い(1番はロシア)。\nカナダの最大の貿易相手はアメリカ合衆国である。カナダの農業は、アメリカと比べると小規模であるが、小麦の栽培が盛んである。\n公用語は英語とフランス語である。国民の多数はイギリス系の住民であり,国民の多数は英語を話す。ケベック州ではフランス系の住民も多く、フランス語が使われている。\n気候は、亜寒帯 (冷帯) と寒帯に属している。気候が寒いため、人口密度は低い。\n17世紀にフランスに植民地にされ,19世紀にはイギリスの植民地にされた。人口分布は東部に集中している。先住民はイヌイットや、ネイティブ アメリカンである。現在のカナダ経済では、ヨーロッパ系の白人が経済の中心である。ケベック州ではフランス系の住民が多く、カナダからの分離独立を掲げる運動も多い。1999年にはイヌイットが多く住む北部地域にイヌイットの言葉で「自分たちの土地」を意味する名の ヌナブト準州 が発足した。\n農業では,小麦の生産がさかんである。品種は春小麦である。春小麦とは、春に種を蒔き秋に収穫する小麦のことである。一方、冬に種をまき、翌年の夏に収穫する小麦を冬小麦と言う。春小麦は、冬を越す前に収穫できるので、寒い地域でも育てやすい。そのため、カナダなどの寒い国での小麦の栽培は、春小麦である。\nまた,五大湖の周辺地域では酪農がさかんである。\n鉱産資源にも恵まれており、ニッケルや鉄鉱石,石油,亜鉛,銀などを産出する。アメリカ合衆国との経済的な結びつきも強く、アメリカ合衆国及びカナダ、メキシコの3カ国は北米自由貿易協定(略称:NAFTA)を結んでいる。\n沿岸部が共に世界有数の漁場である太平洋及び大西洋であるが故に、水産業も盛んである。特にニシンやタラ、さけなどの漁獲量が多い。\n森林も多く,林業も盛んである。そして、パルプや紙の生産も多い。国土の3分の1をタイガと呼ばれる針葉樹林が占めている。\nメキシコやキューバ、ハイチなどのカリブ海諸国のことをまとめて、「中米(英語:Central America)」もしくは「中央アメリカ」などと呼ぶ。「中央アメリカ」と言っても、アメリカ合衆国の内陸部のことではないので間違えないように。\nこれら中米の地域の多くは、16世紀頃からスペインに侵略され植民地にされた国が多く、従って、中米諸国の公用語ではスペイン語を公用語にしている国が多い。また、主な宗教はキリスト教である国が多い。また,主な人種もスペイン系の白人との混血 (「メスチソ」と言う) である国が多い。アメリカ合衆国やカナダと異なり、中米諸国では、あまり白人そのものの数は多くない。\n工業は,国にもよるが,あまり高度な技術を要する工業は発達していない。特に、カリブ海の小さな島国では、農業以外の産業として観光業などを主な産業にしている国もある。経済的には、アメリカやカナダと比べると大変貧しい。治安も非常に悪い。\nメキシコやキューバ、ブラジル、アルゼンチンなどには、スペインやポルトガルなどのラテン系ヨーロッパ人が入植し侵略し開拓していったため、これらメキシコやキューバなど地中海諸国及び南アメリカ大陸の諸国を合わせ「ラテンアメリカ」と呼ばれている。\nラテンアメリカに対し、アメリカ合衆国とカナダには、アングロサクソンが多いので、アメリカ合衆国とカナダのことを「アングロアメリカ」という。\nカリブ海諸国の気候は熱帯である。アメリカ合衆国南部にあるフロリダ半島も地理的に近く、フロリダ半島の気候も、熱帯である。\n古くからの文明の遺跡などが残っている。かつてメキシコの地には、13世紀頃までマヤ文明 (英語:Maya civilization) があり、16世紀頃までアステカ文明があった[注釈 6]。アステカ文明はこの地に植民を始めたスペイン人によって滅ぼされた。それ以降、メキシコは長らくスペインの植民地だった時代がある。\n経済的には、アメリカやカナダと比べるとあまり豊かでなく、そのためアメリカに不法入国する者も多い。メキシコの公用語はスペイン語である。他の多くの中米諸国も公用語にスペイン語を用いていることが多い。アメリカ合衆国やカナダと比べると、メキシコの治安はとても悪い。麻薬組織など違法集団の勢力もメキシコでは強く、米国などに麻薬などが密輸されている。\n現在の経済では、アメリカやカナダとの経済的な結びつきも強く、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコの3カ国は北米自由貿易協定を結んでいる。\nメキシコはNIESと呼ばれる,新興工業経済地域の1つである。\n中米諸国の中で見れば、メキシコでは工業が盛んである。20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。\nカリブ海にある島国の一つ。1959年に革命 (キューバ革命) により社会主義国となって、キューバはソビエト連邦の陣営に加わった。そして、アメリカ合衆国と対立していた。革命の指導者は、カストロやチェ・ゲバラなどの人物である。\n革命後のキューバの経済では、ソビエト連邦の計画経済を手本にしたため、キューバの経済は市場経済を否定し、それまでの企業は国営化された。冷戦終了後の今でも社会主義国である。ソ連の崩壊後、ソ連からの援助が無くなったため経済が悪化している。\nキューバの農業は サトウキビ の生産がさかんであり、砂糖が重要な輸出品になっている。砂糖以外にあまり輸出できる産業がなく、モノカルチャー経済に陥っている。\n社会主義の為、医療費や教育費は無料である。社会主義が故に経済格差は少なく、治安は良いとされる。\nパナマには,「パナマ運河」という運河がある。太平洋と大西洋をより短く結ぶために建設された。かつてはアメリカ合衆国が管理していたが、1999年にパナマに返還された。\nまた、運河があるため、海運業がさかんである。パナマでは海運業を盛んにするため、船舶に関する税金が安くなっており、そのため外国の海運会社が船の船籍をパナマで登録することも多い。このような船をべんぎ ちせきせんという。パナマは便宜置籍船の船籍が置かれる国として有名である。\nその他にも、中米には多くの国がある。\nなどの国がある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B7%9E"} {"text": "南アメリカの国の数は、12\nカ国である。\n16世紀ごろからスペインやポルトガルの侵略によって、それらのヨーロッパの国の植民地になった歴史がある。\nそのため、多くの国では公用語がスペイン語。ただしブラジルではポルトガル語が公用語。\n人種は混血が進んでいる。主に先住民と、ヨーロッパ系の白人と、アフリカ系の黒人との混血がある。\n先住民は「インディオ」などと呼ばれている。ヨーロッパや北アメリカの国は、南北アメリカ大陸の先住民を「インティオ」と呼んでいる。この呼び方になった理由は、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸に植民をしはじめたころ、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸をインドだと勘違いしたことによる。\n古代や中世には、先住民がインカ文明やマヤ文明などを築いていた。\nアメリカ大陸の黒人の先祖は奴隷としてアフリカ大陸から連れて来られ、農場や鉱山の労働力として働かされた。\n先住民とヨーロッパ系との混血はメスティーソ(スペイン語:Mestizo、ポルトガル語:Mestiço)(あるいはメスチーソと表記。スペイン語などで「混血」という意味。)と呼ばれ、南アメリカの各国にいる。ちなみに白人と黒人との混血をムラートという。\nスペインやポルトガルの影響が強く、そのためキリスト教が多い。また南アメリカで多いキリスト教の宗派は、スペインやポルトガルでカトリックという宗派が多いのと同様に、南アメリカでもカトリックが多い。\nこのように、ヨーロッパ南部のスペインやポルトガルなどのラテン系ヨーロッパと、南アメリカ州(およびメキシコ)とは共通点が多いこともあり、よって南アメリカ州およびメキシコのことをまとめてラテンアメリカともいう。\n南アメリカ大陸の気候は、熱帯から寒帯まで、さまざまである。\n南アメリカ大陸の北部を赤道が通っている。\n気候は赤道に近い北部は熱帯であり、高温で雨も多く、熱帯雨林が多い。世界の熱帯林の、およそ3分の1が、南アメリカ州にある。\n赤道からはなれ、南に行くにつれて気温は下がり、雨も少なくなっていき、草原になっていく。\nただし、赤道近くでもアンデス山脈の高地では標高が高いため気温は下がり、涼しく、アンデス山脈の気候は高山気候である。\n大陸の南端は寒帯である。\n南アメリカ大陸のほとんどの地域の気候は、熱帯気候である。\n太平洋岸近くに、アンデス山脈があり、南北に長く約1万kmも(地球の全周は約4万km)、アンデス山脈は伸びている。アンデス山脈の標高は5000m〜6000m級である。\n赤道近くの大陸北東部にアマゾン川という長い川があり、東西方向に長く流れている。アマゾン川は南アメリカ大陸で最も長い川である。アマゾン川の流域面積は世界最大である。\n熱帯林の多くは、このアマゾン側のあたりにある。アマゾン川流域の熱帯林のことを「セルバ」と言う。\n大陸の北東部にギアナ高地があり、大陸の東部にブラジル高原がある。アマゾン川が流れている場所は、それらの間の低地であるアマゾン盆地に、アマゾン川が内陸の西から東の海岸方向へと流れているのである。熱帯林は、アマゾン盆地のあたりに広がっている。\nこのアマゾンの熱帯林が、近代の19世紀ごろから、農地の開拓などのために森林が伐採されており、世界各国から森林破壊のおそれが考えられている。特に第二次世界大戦後、ブラジルが開発のため、アマゾンの熱帯林の地域の開拓をすすめたので、開拓のための森林伐採が多くなった。\nブラジル高原の中央部は乾燥している。\nいっぽう、アンデス山脈とブラジル高原との間には、別の大きな川が北から南に流れており、ラプラタ川と言う。ラプラタ川の下流域のアルゼンチンあたりには草原が広がり、そのラプラタ川の下流域の草原をパンパと言う。パンパの気候は温暖湿潤気候やステップ気候であり、パンパの農業では、小麦の栽培や肉牛の放牧などが、さかんに行われている。\nブラジルは、数十年前まではコーヒー豆に頼ったモノカルチャー経済の国だったが、最近は開発が進み他の農作物などもとれるようになった。(大豆など)\n中部の大西洋側に、ブラジルという広い国がある。\nブラジルでは工業が発達している。自動車や航空機もブラジルで生産されている。航空機では世界4位の生産量である。\nブラジルの面積は、南アメリカの面積の半分近くであり、世界でも第5位の面積である。人口も多く約1億8000万人である。\nかつてポルトガルの植民地だった。(16世紀にポルトガルの植民地になった。)\n都市化も進んでいる。人口の増加が速すぎて、水道などの整備が追いつかず、都市部ではスラムも発生している。\n国土の多くが熱帯林であり、アマゾン川のほとんどもブラジルを流れている。そのためブラジルの開発が、アマゾンの熱帯林の森林破壊をともなってきたという問題もある。20世紀後半には、アマゾン盆地を横断する大きな道路を作るために森林を伐採したり、農地や牧場を作るために森林を伐採するなど、熱帯林の大規模な伐採も行われた。\n熱帯林が、先住民のすみかであり、動植物のすみかでもあるので、それらの保護の観点からも、熱帯林の森林伐採が不安視されている。\nブラジル政府は、近年、熱帯林の開発方針を変え、森林保護を行う方針に変わった。\n熱帯林での伝統的な農法は、焼畑農業である。\n \nアマゾン川が流れ流域が広いのが特徴である。\nブラジルの国民の所在は、多くがサンパウロやリオデジャネイロなどの大都市に集まっている。なお、ブラジルの首都はブラジリアであって、サンパウロではない。\n南アメリカ州の都市の多くは、おもに大西洋側の沿岸部にある。\n都市のスラム化はブラジルだけでなく、ペルーなど他の多くの国でも起きている。\nブラジルの農業を代表する農産物は、コーヒー豆である。ブラジルはコーヒー豆の生産量で世界1位である。ちなみに同じく南アメリカ州にあるコロンビアという国が、コーヒー豆の生産量が世界3位である。\nブラジルの農業では、植民地の時代からプランテーションで、さとうきび を作ってきた。やがて、コーヒーも栽培するようになった。こうして さとうきび とコーヒーが、ブラジルを代表する農産物になった。しかし、これだけだと、輸出品の農産物の種類が少なく、不景気の影響を受けやすい。\nこのような、特定の産業にかたよった経済のことを、「モノカルチャー経済」という。\nブラジル政府は近年では農業の多角化をすすめた。こうして、コーヒーと さとうきび 以外に綿花、カカオ、大豆、たばこ、とうもろこし、オレンジなどを栽培するようになった。\nさとうきびから、バイオ エタノール(バイオ燃料)を作る産業もさかんである。\nバイオエタノールは石油と違い、有限の地下資源で無いことが注目されています。また、植物は大気中の二酸化炭素を光合成により吸収しているので、バイオエタノールを燃やしても、吸収したぶんの二酸化炭素が排出されるだけで、差し引きが変わらないので、地球温暖化の防止の観点からも注目されています。二酸化炭素は地球温暖化の原因の物質と考えられています。\nしかし、さとうきびを新たに栽培するための農地はどうやって確保するのかという問題があります。既存の森林を切り開いて、さとうきび畑に変えるのが現実的な例です(※ 帝国書院の2022年の教科書の見解)。この場合、既存の森林には保水や土壌の維持の役割があるのですから、その森林を開いて畑に変えることは保水力の低下につながり、実際に土壌の流出も実際にたびたびブラジルでは問題になっています(※ 帝国書院の見解)。\nブラジルでは肉牛の生産もさかんであり、世界2位である。アルゼンチンは世界4位の肉牛生産量である。ブラジルとアルゼンチンが、南アメリカでの代表的な肉牛生産国である。ちなみに世界1位はアメリカ合衆国で、世界3位は中国である。\n牛や豚や馬は、ヨーロッパ人が南アメリカに持ち込んだ。もともと、牛や豚や馬は南アメリカには住んでいなかった。\n焼畑農業という、森林を伐採して、またはやしての繰り返しをしながら行う農業。\nブラジルには日系人(にっけいじん)が約150万人ほど暮らしている。20世紀の初めごろの1908年から日本からブラジルへの移民が始まった。当時の日系移民の仕事の多くは農作業であり、コーヒー農園やカカオ農園などで重労働をしていた。現在のブラジルの日系人は、かれら日系移民の子孫であり、日系2世〜6世くらいなどである。(2世は第二次大戦後などの近年に移住した人の子孫。)\nブラジルのサンパウロには日本人街もある。\n最近はブラジルから日本に出稼ぎ(でかせぎ)にくる人も多く、日本国内の自動車工場などで働いている。\n日本人街は、近年では中国人や韓国人などの移民が増えており、東洋人街になっている。\nブラジルで有名な行事で、リオのカーニバルがあり、リオデジャネイロで行われている。カーニバルとは、もともとキリスト教の謝肉祭(しゃにくさい)という行事である。だが、ブラジルのカーニバルでは、このキリスト教の謝肉祭に、アフリカなどの祭りが結びついて、独特の祭りになっている。もともとのヨーロッパのカーニバルとは、かなり違った祭りになっている。\n南アメリカは、鉄鉱石や銅などの地下資源も豊富である。ブラジルで鉄鉱石が取れ、チリで銅が取れ、ベネズエラでは原油が取れ、それらの国の重要な輸出品になっている。\nアンデス山脈の高地には、先住民の多い都市がある。これは、もとから先住民が高地に住んでいたのであり、標高が高いため他の所よりは他の国の侵攻が遅かった。標高の高い高地は気候がすずしいので、古代から都市が発展していた。インカ帝国などの古代文明が、古くはアンデス山脈に存在していた。インカ帝国は16世紀に侵入してきたスペインによって、滅ぼされた。\n文化では、南アメリカ州ではヨーロッパの影響も強い。\nスポーツでは、南アメリカ州で全体的にサッカーが人気である。\n音楽の曲の「コンドルは飛んでいく」という曲は、もともと南アメリカの音楽。\nサッカーの強豪国。\n1995年に発足(はっそく)した関税引下げの協定であるメルコスール(南米南部共同市場、MERCOSUL)という協定を、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの4か国が結んだ。(※中学の範囲内。教育出版の教科書に記述あり。「MERCOSUL」の綴りも、教育出版の教科書では写真で紹介している。)\n現在は、さらにベネズエラがメルコスールに加盟している。つまり、現在の加盟国はブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ベネズエラの5か国である。\nインカ文明は、アンデス山脈のペルーあたりに16世紀まで存在した文明であり、インカ帝国が支配していた。16世紀に、インカ帝国は、スペインから派遣されたコンキスタドール(征服者)のピサロに滅ぼされた。\nナスカの地上絵も、ペルーにある。(※ インカ文明、ナスカ地上絵ともに、中学地理の範囲内。日本文教出版の教科書に記述あり。)\nマチュピチュ遺跡があるのも、ペルーである。(※中学の範囲内。教育出版、日本文教出版、東京書籍の教科書に記述あり。)\nなお、「マヤ文明」と「アステカ文明」は、メキシコの古代文明なので、混同しないように。\n生物学者のダーウィンが進化論を発見するキッカケにもなった ガラパゴス諸島 は、南アメリカ州にある。(※中学の範囲内。日本文教出版の教科書に記述あり。)\nガラパゴス諸島の生物は、大陸から遠く離れているため、生物が独自の進化をとげており、その発見が進化論の発想に影響をあたえた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B7%9E"} {"text": "オセアニア州(Oceania)で中心的な影響力を持っている国は、オーストラリア(Australia)である。オーストラリアが政治的かつ経済的に中心になっている。\n現在ではオーストラリアの人口では白人が多い。オーストラリアの先住民は、白人では無いアボリジニ(Aborigine)であるが、18世紀にイギリス人が侵略し植民を始めて、オーストラリアはイギリスの植民地となった。20世紀はじめにイギリスから独立したが、引き続き、第二次大戦おわりまで、白人を中心とした政治が行われた。\nアボリジニの人口は、オーストラリアの人口のうち約1%である。\nオーストラリアの気候は、乾燥帯がほとんどであり、乾燥している。\nオーストラリア大陸の内陸部には砂漠や草原が多い。ただし南東部の海岸は雨が多く、そのため都市や農地も、これらの地域に集中している。\nオーストラリアの大都市であるシドニーやメルボルンも大陸の南東部にある。ちなみに首都はキャンベラ(英:Canberra)である。\nオーストラリアから南東の海に、ニュージーランド(英語: New Zealand)という島国がある。ニュージーランドの気候は温帯である。ニュージランドの先住民はマオリ(Māori)と言う。\nオーストラリアの大陸北部の気候も熱帯であり、海岸沿いは降水量が多い。\nオーストラリアの北にある、太平洋の諸島の気候は、おもに熱帯であり、降水量も多い。\nオーストラリアから北の海に、やや大きめの島でニューギニア島があり、このニューギニア島の東部にパプアニューギニア(英:Papua New Guinea)という国があり、この島の気候は熱帯であり、雨も多い。ニューギニア島の西部はインドネシア領である。\nニューギニア島および周辺の島々をメラネシア(Melanesia)という。\n一方、グアム島などの太平洋の北西部の島々をミクロネシア(Micronesia)という。ニュージーランドやハワイ諸島など、太平洋の東部にあると分類されている島々をポリネシア(Polynesia)という。ミクロネシアとポリネシアの境界線は、おおむね、日付変更線である。\n気候については、おもな気候は熱帯である。オーストラリアよりも北の、オセアニア州の太平洋の島々の、おもな気候は熱帯である。\nオセアニア州の小さな諸島には火山でできた火山島(かざんとう)、あるいは、サンゴ礁で出来た島が多い。\nたとえばハワイ諸島(英:Hawaiian Islands)は火山島である。\n火山島は、山がちなので、島に斜面が多い。土地も肥えていて、農業がしやすい。\nいっぽうサンゴ礁で出来た島は、あまり土地が肥えておらず、農業に向かない。\nニューギニア島から、やや離れた東の海に、ソロモン諸島がある。オーストラリアから見て北東方向にソロモン諸島(英:Solomon Islands)がある。\nオーストラリアの貿易では、輸出品には農産物や鉱産資源が多い。アメリカやドイツなどのような他の先進国とくらべて、オーストラリアでは機械製品などの輸出は、あまり多くない。\nオーストラリアでは鉱産資源が多く、鉄鉱石や ボーキサイト(アルミニウムの原料、英:bauxite )や石炭などの資源が豊富である。\nこれら鉱産資源の輸出先は、主に日本や中国、韓国である。\nこれら鉱産資源の採掘方法は、地面を、あたり丸ごと掘っていく 露天掘り(ろてん ぼり、英:Open-pit mining) という掘り方で掘っている。\n農業では、小麦の栽培や、牛や羊の放牧がさかんである。羊は 羊毛(ようもう) を入手するために飼育している。牛は牛肉用である。日本で言う「オージー・ビーフ」(英: Aussie Beef) はオーストラリア産の牛肉のこと。\n羊毛の生産量は世界2位で、羊の数は、およそ7,309万頭いる。オーストラリアの人口の約895.6万人 (2021年)より、羊の数のほうが多い。\nオーストラリアは南半球にあるので、季節が北半球とは反対である。この季節の反対を利用して、小麦の栽培では、北半球で生産が少ない時期に、オーストラリアでは生産して、輸出している。\n日本とも、貿易の関係が深い。近年の貿易の輸出相手は中国や日本、アメリカが輸出先の上位である。\n第二次大戦までは、イギリスの植民地が世界に多かったこともあり、イギリスとのオーストラリアの貿易が多かった。\n第二次大戦までは、白人を中心とした国づくりを目指しており、そのためイギリス系以外の移民を閉めだしていた。\n20世紀のはじめ頃、オーストラリアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュにより中国系の移民が増え始めた。中国系の移民によって、白人の仕事がうばわれたり、中国式の生活が広まったりしたので、それに対する白人の反発から、アジア系の移民も閉めだされるようになった。\nこのようなことから、イギリス系以外の移民を閉めだすようになった。このような政策は 白豪主義(はくごうしゅぎ、英: White Australia policy) と言われた。\nだが、労働力の不足などから、この方針を1970年ごろから変えて、ヨーロッパ系の移民やアジア系の移民などを入れ始めた。現在では多文化主義の政策を取っている。\n近年ではアジア系の移民が多く、中国系や韓国系の移民が増えている。\n先住民のアボリジニについても、現在はアボリジニの文化を保護する政策が取られており、先住民の土地の権利の回復なども行われている。\nニュージーランド(英語: New Zealand)の位置は、オーストラリアから南東の方向の海にある。大きな島が北と南にある(北島と南島)。\n先住民族はマオリ族で(Māori)ある。ニュージーランドの人種の構成は、ヨーロッパ系の白人がやや多い。\n羊の飼育がさかん。人口(約420万人)よりも、羊の頭数のほうが多い。\nオーストラリアと同様に、羊や牛を飼育がさかんである。\n羊は、羊毛や羊肉を生産するために飼育している。牛は牛肉の生産のためである。北島で酪農用の乳牛の飼育がさかん。\n南島では、島の東西で気候が異なる。島の南北に長い、サザンアルプス山脈(Southern Alps)があり、東西を分けている。偏西風により、島の西側ではしめった風が来るので、島の西側は雨が多い。\n島の東側は、やや乾燥しているが、オーストラリア内陸部とは違って砂漠になるほど乾燥しておらず、島の東部は草原などが多い。\n雨の少ない、南島の東側では、羊の飼育がさかんである。\nなお、ニュージーランドやハワイ諸島など、太平洋の東部にあると分類されている島々をポリネシア(Polynesia)と言う。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E3%82%AA%E3%82%BB%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E"} {"text": "「熱帯」と聞いて、あなたが想像するのは、たとえば、「熱帯雨林」などと呼ばれる、うっそうとしたジャングルかもしれません[1]。また、サバンナが思い浮かんだ人もいるでしょう。\nいっぽう、アフリカや中東などの砂漠などの気候も、昼間は暑いです。砂漠のような、雨のすくない地域を、「乾燥帯」といいます。\nでは、「熱帯」と「乾燥帯」のちがいは、何でしょうか?\nそれは、雨の降る量です。\nこれは、地理学者であるケッペンが考えた分類法です。\n世界中の地理学で、このケッペンの考えた分類法が使われています。\n現在、ケッペンの考えた、植生による「熱帯」「乾燥帯」の分類法においては、地球上では例外は見つかっていません。\n「植生が多く、乾燥している場所は、どうなるのか? 「乾燥帯」なのか?」などと思うかもしれませんが、そのような場所は、地球上には見つかっていません。\n1884年にロシア生まれのドイツ・の気候学者ウラジミール・ケッペン(1846-1940)によって初めて発表されました。\nその後ケッペンは1918年と1936年を中心に何度か修正を加え、気候学者のルドルフ・ガイガー(1894-1981)が分類体系にいくつかの変更を加えたため、ケッペン・ガイガー気候分類体系と呼ばれることもあります。\nケッペンの気候区分では、気候を5つの主要な気候グループに分け、各グループは季節的な降水量と気温のパターンに基づいて分けられています。\n5つの主なグループは、A(tropical: 熱帯)、B(dry: 乾燥)、C(temperate: 温帯)、D(continental: 大陸)、E(polar: 極地)です。\n各グループとサブグループは文字で表されています。\nすべての気候は、メイングループ(最初の文字)に割り当てられています。\nEグループを除くすべての気候には、季節性降水量のサブグループ(2文字目)が割り当てられています。\n例えば、Afは熱帯雨林気候を示し、Cfbは、末尾のbで示されるように、夏が暖かい海洋性気候であることを示します。\nケッペンは植物学者としての経験に基づいてシステムを設計したため、主な気候群は、与えられた気候分類地域でどのような種類の植物が生育しているかに基づいています。\n熱帯とは、年中あつくて、森林のある気候のことです。\n具体的には、ハワイなどの太平洋の島や、東南アジアの国々の気候が、熱帯です。\nまた、南アメリカ大陸の、アマゾン川流域の、赤道に近い地域にも、熱帯があります。\nほかにも、アフリカ大陸のギニア湾岸の赤道近くの地域にも、熱帯があります。\nこのように熱帯は、赤道ちかくの場所にあることが多いです。\n全熱帯地域は、雨がよく降ります。そのため、熱帯雨林が広がっています。\n一年のうち、月日によっては、「スコール」などと呼ばれる、短時間に強い雨が、よく降ります。\n農業については、熱帯では雨が多くて温度が高いので、米を栽培しようと思えば、栽培できるでしょう。\nしかし、東南アジア以外では、米の栽培は、あまり、さかんではないようです。\n熱帯で、米をつくらない地域では、タロイモやキャッサバ、ヤムイモなどを主食として栽培していたりします。\nキャッサバは、イモ類です。代表的な加工品に タピオカ があります。\nなお、東南アジアでも、タロイモ、キャッサバ、ヤムイモなどを栽培しています。\nバナナやマンゴー、グアバなどの果物も、熱帯では栽培されることも多いです。\nフィリピン産のバナナが、日本でも有名ですが、フィリピンも、熱帯に含まれます。\n熱帯には、サトウキビやココヤシなども栽培している国や地域もあります。ココヤシの実は、脂肪分が豊富で、マーガリンや石鹸などの原料になります。\nココヤシの実を乾燥させたものをコプラといいます。ココヤシの油が、フィジーの輸出品になっています。\nフィジーでは、自然由来のものでは、サトウキビから作られる砂糖と、ココヤシの油が輸出品になっています。\n熱帯での食肉用の家畜には、おもに、「ぶた」 や 「ニワトリ」を飼育していることが多いです。\n熱帯雨林には、動物もすんでいます。\n東南アジアの熱帯雨林には、オランウータンなどが生息しています。\nツバルやフィジーなど、熱帯の島国では、島の周辺に、サンゴ礁 が見られます。\nまた、海のちかくの森林では、マングローブといわれる、海水でも育つことのできる、特有の木が、みられます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%9A%91%E3%81%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97"} {"text": "ケッペンの気候区分によると日本の大多数の地域[1]を含む地球の中緯度地方のことを温帯という。\n四季がはっきりしていて1年を通して温かい。\n温帯は\nに細分される。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%B8%A9%E6%9A%96%E3%81%AA%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97"} {"text": "世界の国々には一年を通して暑い国もあれば、夏でも日本の冬と同じぐらいの気温にしかならない国など様々だ。また、砂漠のようにほとんど雨の降らない国や、逆に一年中たくさん雨が降る国、他にも季節によって雨の多い時期と少ない時期のある国とさまざまな特徴がある。\n降水量の平均的な状態を捉えて特徴付けたものを気候という。ここでは、世界の気候を見ていこうと思う。なお、一部発展的な内容の用語もある。無理に覚える必要はないが、知っておくと大変便利なので、できればそちらも見てほしい。\n世界の気候については一般的に、ドイツの気候学者ケッペンが植生に注目して気温と降水量から区分したケッペンの気候区分が用いられる。この正確な内容については高校地理Bで習うが、中学校では以下のことを理解してもらえれば十分である。\n気候は大まかに5つに分かれ、寒帯気候、亜寒帯気候、温帯気候、熱帯気候、乾燥帯気候がある。\nこの5つの気候は降水量を元にしてさらに細かく分けられる。\nたとえば熱帯気候は、一年中降水量が多く森林の多い熱帯雨林気候と、雨の多い時期と雨の少ない時期の差が大きく木々のまばらなサバナ気候に分かれる。\n本記事では、まずは5つの大まかな気候から説明する。\n温度のもっとも低い寒帯気候、その次に温度の低い亜寒帯気候、温度のそれほど暑すぎもなく寒すぎもない温帯気候、気温が高く雨の多い熱帯気候などがある。\n乾燥帯である砂漠では、普通温度が高い。だが、必ずしも乾燥帯で温度が高いとは限らない。内陸の草原地帯などは、雨が少ない地域では乾燥しているが、温度は砂漠ほどは暑くない場合もある。\n乾燥帯であるかの有無は、雨の量などが関わってくるので、涼しくても雨が少なければ乾燥帯でありうる。\nこの他の気候もある。地域の特性によって、様々な気候がある。\nたとえば南アメリカ大陸のアンデス山脈など、標高の高い地域での気候で、高山気候がある。\n標高が100m増えるごとに、気温が0.6度ほど下がる。このため、標高が高いほど寒い。\n熱帯は、一年中、暑くて雨が多い。地域によって、雨季と乾季がある。日射量が多いため、もっとも寒い月でも平均気温が18度を下回ることがなく、一年を通して気温の変化がほとんどない。そのため、四季ははっきりしない。一年中高い気温のため、上昇気流が発生して低気圧が生まれる。この低気圧が大量の雨をもたらすため、降水量も多い。\n分布場所は、おもに、赤道から北回帰線・南回帰線の間にいる。熱帯の場所では、インドネシアなどの東南アジアの島々の熱帯雨林や、南アメリカ大陸のアマゾン川の流域の熱帯雨林や、アフリカ州のケニアの草原(サバナ)などがある。\n熱帯は2つに分かれる。年中、雨が多く、森林が多く広葉樹のしげる熱帯雨林気候が一つ。もう一つは、雨季と乾季があり、木々はまばらで、草地(サバナ)の多いサバナ気候にである。長い草が多くなる。\n熱帯での農業では、米やカカオ(チョコレートの原料)や綿花など、成長期に多くの雨や水を必要とする作物が作られる事が多い。\n赤道直下の地域に分布していて年中多雨で気温の年較差は少ない。午後からはスコールと呼ばれる激しい雨が降る。数十メートルの高さまでになる多種類の熱帯性植物がうっそうと茂っておりこのような森林を熱帯雨林(tropical rainforest [1])と呼ぶ。\n一年を通して高温多湿となるので、人々の衣服や住居は湿気を上手く逃がすようなものになっている。たくさんの雨が降るためにラテライトと呼ばれる鉱石の混じったやせた赤土に地面が覆われ、農業には向かない。しかし、焼畑農業によって、キャッサバやタロイモ、ヤムイモの生産が伝統的に行われてきた。現在はプランテーションによる天然ゴム・アブラヤシ・カカオの生産も盛んに行われているが、もともと農業に向かない土地であるため、プランテーションによる農業が熱帯雨林の破壊をもたらしている面もある。\nこの気候に属する、主な都市はシンガポール(シンガポール)、ジャカルタ(インドネシア)、クアラルンプール(マレーシア)である。\n南回帰線から北回帰線の間の多くの地域に分布する。夏は雨の多い雨季となるが、冬は雨の降らない乾季になる。丈の高い草原の中に乾燥に強い樹木がまばらに生える、サバナとよばれる草原が多く見られる。\n人々の生活や農業は熱帯雨林気候と大体同じだが、ガンジス川の河口のバングラデシュや、メコン川流域のベトナム南部・カンボジア、チャオプラヤ川流域のタイなどでは米の二期作が行われており、生産量も多い。\nこの気候に属する主な都市は、ホーチミン(ベトナム)、バンコク(タイ)、リオデジャネイロ(ブラジル)である。\n降水量は非常に少ない。そのため、森林が育たない。雨が少なすぎて植物のまったく育たない砂漠気候\nと、少しは雨が降るので草などにかぎり植物が育つステップ気候に分けられる。\n年間・一日ともに気温差が大きい。回帰線近くの地域では夏は非常に暑く50度近くになることもあるが、冬は20度程度となる。比較的高緯度の地域では冬の気温が氷点下になることも珍しくない。内陸の草原地帯などは、雨が少ない地域では乾燥しているが、温度は砂漠ほどは暑くない場合もある。乾燥帯であるかの有無は、雨の量などが関わってくるので、すずしくても雨が少なければ乾燥帯の場合もある。\n乾燥帯での農業は、砂漠・ステップともに、雨が少ないので、あまり盛んでは無いが、もし農業をする場合には、小麦などのやや乾燥に強い作物を育てる事が多い。\n年間を通して雨はほとんど降らないため、植物は自生できない。このため、砂や岩石が広がる土地となっている。しかし、川の流域やオアシスとよばれる湧き水のあるところでは植物が自生することができる。\n人々は強い日差しと砂嵐とよばれる砂を含む強い風を避けるために、体を覆う服を身に着ける。降水量が非常に少ないため、人々が生活する場所は川の流域や湧き水のあるところに限られており、そこではカレーズと呼ばれる地下水路で水を運んで農業を行ってきた。また、オアシスや大河の流域には交易の重要拠点となったところもあり、そこでは商業も盛んに行われてきた。砂漠の農業は、オアシスの周辺で行われ、小麦やなつめやしなどを育てる事が多い。\nこの気候に属する主な都市は、バグダッド(イラク)、ドバイ(アラブ首長国連邦)、カイロ(エジプト)である。\n乾燥帯の分布場所は、主に緯度20度 〜 40度付近に分布する。\n雨は少ないとはいえ、雨季には雨も降るため、ステップと呼ばれる丈の低い草の生える草原が広がる。\nステップ気候の位置は、砂漠の周辺にあることが多い。アフリカのサハラ砂漠の周辺や、アラビア半島の砂漠の周辺にも、ステップ気候の地域がある。\n分布場所は、おもに砂漠気候からサバナ気候・温帯への移行地域に分布している。\nまた、モンゴルのような大陸の内陸でも、雨雲が届かず、雨が少ないので、ステップ気候である事が多い。\nステップ気候の住民の伝統的な生活では、山羊や羊などの家畜をともなって遊牧をしている事が多い。季節によって、草や水が多いところを求めて移動するからである。家畜の食べ物には、草を食べさせる。川や湖の近くでは農業や放牧・遊牧が行われてきた。しかし、近年では過剰な放牧や農地の拡大によって水がなくなったり、草が生えなくなったりして砂漠化が進んでいる地域もある。\nこの気候に属する主な都市は、ラホール(パキスタン)、ダカール(セネガル)である。\nもっとも寒い時期でも氷点下になることは少ないが、夏は地域によっては熱帯と同じぐらいの暑さになることがある。このため、四季の変化に富み、多くの動物・植物が生息する。気温・降水量共に農業に適していることから、古代から現代に至るまで農業や産業の発展した地域が多い。\n雨の降りかたなどによって、気候の区分が、次の3つの、温暖湿潤気候、西岸海洋性気候、地中海性気候に分けられる。\n温帯の中でも日本のように、1年間を通して気温の変化が大きく、降水量も多い気候を温暖湿潤気候とよぶ。\nヨーロッパの大西洋沿岸では、偏西風の影響のため、1年間を通して降水量の変化が小さい。このヨーロッパの大西洋沿岸の一帯のような気候のことを西岸海洋性気候(せいがん かいようせい きこう)という。日本では道南地方の室蘭市と日高地方で分布している。一年間を通して、雨が降る。\nイタリアなどの、ヨーロッパ州とアフリカ州の間にある地中海の周辺の国に多い気候である。夏には乾燥するが、冬は偏西風のために雨が降る。\n温帯モンスーン気候または温帯湿潤気候ということもある。主に中緯度の大陸東岸に分布する。\nこの気候に属する主な都市は、東京(日本)、シャンハイ(中国)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)である。\n季節風の影響を強く受けるため、温帯の中で四季の変化が、もっともはっきりしている。\n日本や、周辺の東アジア諸国での温暖湿潤気候での季節ごとに変化する原因は、季節によって風向きが変わる季節風が気候に影響を与えるためである。\n夏は低緯度の海からの風を受けるために高温多湿となるが、冬は高緯度の大陸からの風を受けるために乾燥した寒い季節となる(しかし、0度を下回ることは少ない)。また、夏には台風のような熱帯低気圧に襲われることもある。\n夏は暑く、冬は寒いので、ここに住む人々はそれぞれの季節にあうような生活スタイルを作っていった。例えば日本の伝統的な衣服は夏は涼しく、冬は暖かくなるような素材が好まれた。豊かな水と適度な気温のため、農業に適している。日本などの東アジア周辺では米作りが盛んである。バナナなどの暑い気候でしか作れないものなど以外は、ほとんど栽培可能。\n温帯の植物は、いっぱんに、広葉樹林と針葉樹林が混合している。\nまた、アルゼンチンのパンパ・アメリカのプレーリーのように豊かな草原地帯もある。パンパやプレーリーでは放牧も盛んに行われている。\nこの気候に属する主な都市は、ロンドン(イギリス)、パリ(フランス)、メルボルン(オーストラリア)である。ちなみに日本でも北海道の室蘭市と日高地方が属している。\n大陸西岸の高緯度地方(緯度40度 - 60度付近)に分布する。西ヨーロッパの多くはこの気候に属している。温暖湿潤気候などと比べると、西岸海洋性気候の気温の年間の変化は小さい。夏はあまり暑くならずすごしやすい。冬は長く寒いが、暖流からの偏西風の影響を受けるため、緯度のわりに冷え込みはきびしくない。例えばロンドンやパリは、サハリン(樺太)と同じ緯度だが、冬の平均気温は5度くらいで東京よりも少し寒いぐらいである。また、降水量は一年を通して一定である。\n落葉広葉樹や針葉樹林もあるが、牧草も育ちやすい。牧畜に適している地域であるため、農業と牧畜を組み合わせた混合農業が盛んに行われてきた。例えばフランスは小麦の生産が盛んな国であるが、チーズなどの乳製品の生産量も多い。\nイタリアのような地中海沿岸が中心だが、南北アメリカ大陸の西側にも見られる。夏は乾燥帯なみに乾燥するが、冬には雨が降る。また、ヨーロッパ州の沿岸の場合、大西洋沿岸には暖流の北大西洋海流が流れているので、緯度の割には温かい。冬はあまり気温が下がらないため、常緑広葉樹林となる。\n赤土やテラロッサと呼ばれる石灰岩が風化してできた土に覆われているため、土地はあまり豊かではない。しかし、夏の強い乾燥に耐えられるオレンジ・レモンなどの柑橘類やぶどう、オリーブの生産が盛んで、雨の降る冬に小麦を栽培する。こうした農業を地中海式農業という。また、日光の少ない地域の人々が夏にやってくることも多いため、リゾート地として有名なところも多い。\nこの気候に属する主な都市は、ローマ(イタリア)、アテネ(ギリシャ)、サンフランシスコ(アメリカ)である。\nシベリアのような気候である。冬は長く、特に真冬は寒さがとても厳しいが、夏は気温が上がり、天気が良ければかなり暑くなる。夏には気温が高くなるため、樹木も育つ。\n森林には、針葉樹やシラカバなどの木々が多い。\n亜寒帯での針葉樹林のことをタイガといい、これが多く分布する。\nユーラシア大陸の北部や、北アメリカ大陸の北部に多く見られる気候である。ロシアの首都のモスクワの気候も亜寒帯である。亜寒帯の分布地域は、中国北東部・朝鮮半島北部・ロシアの半分以上・アメリカ北部からカナダにかけての地域など、おおむね緯度40度以上の高緯度地域に分布する。\n季節は、温帯と同様に、四季が見られるが、夏は温帯ほどではないがやはり暑くなる。また、夏は日照時間が長いため昼夜の気温差が大きいのも特徴であり、特に内陸地方では昼にかけては暑くなるが、朝夜は一転して冷え込む。冬の平均気温は0度を下回るのが普通である。\n季節による、1年間の夏と冬との温度差が大きい。特に中国の北京のように、夏と冬の気温差が40度近くもあるところも存在する。\n冬の寒さが厳しい気候なので、人々は寒さ対策を行ってきた。朝鮮半島のオンドルはその典型例である。春から夏にかけては比較的温暖なので、その時期に小麦を栽培することが多い。特にロシア南部の黒土地帯は世界有数の小麦生産地帯である。また、寒さに強い、カブ・ソバ・ライ麦・ジャガイモの生産も盛んである。また、タイガは豊かな針葉樹林地帯であるので、林業も盛んである。\nこの気候に属する主な都市は、札幌(日本)、ペキン(中国)、モスクワ(ロシア)である。\n細かくは、亜寒帯には亜寒帯冬季少雨気候や亜寒帯湿潤気候などがあるが、中学校ではあまりこの区別は重要ではない。\n年間を通して寒い場所であり、氷がほとんど溶けない。ツンドラ地帯では夏の間だけは氷や雪には閉ざされないが、暑くはならず、季節ごとの温度差もあるが、真夏でさえ、気温が0度未満の地域もある。\n地面が凍ってしまうので、木々は育たない。\nユーラシア大陸と北アメリカ大陸の北部、グリーンランド、南極大陸に分布する。夏でも平均気温は10度を上回ることはない。このため、樹木は育つことができず、夏にコケなどが育つ程度である。氷雪地帯では一切の植物が育たない。土地も凍りついている、永久凍土とよばれる土地に覆われている。ただし、夏の間だけ表面がとけてコケなどが育つところもあり、そうしたところをツンドラという。\n細かくは、寒帯にはツンドラ地帯・氷雪地帯がある。\nカナダの北部、ロシアの北部やノルウェーの北部では、寒帯の中では、比較的暖かい地域であり、夏には気温が0度を上回り、氷が溶ける場合もある。寒帯の中では、暖かいと言っても、あくまで「寒帯の中では」という限定つきであり、温帯や亜寒帯と比べると低温である。\nさて、寒帯でも、夏に氷が溶ける場所では、コケや草が生える。このような夏に氷が溶けてコケや草が生えた地域をツンドラという。このような気候をツンドラ気候という。\nツンドラ地帯ではコケなどが生息しているため、トナカイなどを遊牧することで生活する人々もいる。\nこの気候に属する主な都市は、バロー(アメリカ合衆国アラスカ州)などであるが、人口は数千人程度である。\nグリーンランドや南極大陸など、もっと寒いところでは夏でも気温が0度を大きく下回り、夏でも氷が溶けない。1年中ずっと、地面が雪や氷に覆われている。そのため、植物が育たない。農業はまったくできず、この環境の中で生きている動物も限られている。\n砂漠とならんで人間が住むには非常に厳しい場所のため、大きな都市は存在しない。南極に昭和基地などの観測用基地が、またはグリーンランドなどにイヌイットの集落があるくらいである。\nちなみに、イヌイットの家のことを、イグルーと言う。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%80%99"} {"text": "様々な地域の調査という単元です。ここでは、日本国から近い大韓民国を例として使います。\n世界には、109あまりの国や地域があります。ここからいきなり選ぶのも難しいかもしれません。まずは、世界の大陸→その大陸の地域区分→その中で興味がある国や地域の順で選んでいくのもよいでしょう。では、この手順で調査する国や地域を決めてみましょう。\n例:韓国\n韓国と決まったら、それを調査する方法を決定します。方法としては主に次の2つがあります。それぞれ利点と欠点があります。\nインターネットで調べることにしました。Wikipediaを検索してみました。\n「大韓民国(だいかんみんこく、朝鮮語: 대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島南部の東アジアの国である。[1]朝鮮民主主義人民共和国の全域の領有権も主張している。英名のKoreaは、Koryŏとも表記されるGoryeo (高麗) を由来とする。陸地では北に朝鮮民主主義人民共和国と軍事境界線を、海上では南と東に日本、西に中華人民共和国と各々国境を接する。5千万人の人口のうちおおよそ半数が、2千5百万人以上で世界第2位の人口を有するソウル首都圏に居住する。[2]」\n検索の結果、上のような基礎情報が出てきました。これをレポートとしてまとめたいと思います。レポートは、発表のことも考えてまとめていきます。まず、まとめるときのポイントを書き出します。\n大事なところ(要点)だけを書き出す、文字は発表時に見やすいよう大きく書く、特に大事だと思うところは色を変える、わかりやすいよう挿絵などもいれるなどしましょう。\nでは、要点を実際に書き出してみます。\n大韓民国、通称韓国は、北に北朝鮮、西に中国、南と東の海上に日本と国境を接する。国民のうち約半数がソウルにいる。\nこのほかのサイトも検索し、より多くの情報を整理して発表しましょう。レポートを丸読みするのではなく、あらかじめ考えたわかりやすい文章を発表しましょう。レポートは常体、 つまり 「~だ」、「~である」 としたり、箇条書きにしてもよいですが、発表時は敬体、いわゆる「~です」、「~ます」を使いましょう。大きな声でゆっくり、はっきり話しましょう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%A7%98%E3%80%85%E3%81%AA%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E8%AA%BF%E6%9F%BB"} {"text": "諸外国と日本の緯度・経度を比べてみましょう。\nまず,日本の緯度は、およそ北緯20度から北緯46度のあいだにあります。日本の経度は、およそ東経122度から東経154度のあいだにあります。 \n日本は、けっこう緯度・経度に幅があるので、東京で代表させましょう。東京を緯度・経度で表せば、北緯36度、東経140度になります。\n日本と同じくらいの緯度・経度の国を教えます。\nまず、スペインやイタリアなどのヨーロッパ南部と、エジプトなどアフリカ大陸の北部が、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。\nアフリカ大陸の北端が、日本の東京の緯度と、だいたい同じくらいです。ヨーロッパ州の南部の国は、日本で言うと、東京よりも北の緯度であり、東北地方あたりの緯度にヨーロッパ諸国の南部の国々があります。\n地中海の緯度が、日本列島の本州から北海道までの緯度に近いです。\nさらにイランやサウジアラビアなども、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。\n中国、韓国、北朝鮮も、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。\nアメリカ合衆国の、アラスカを除く、ワシントンD.Cやカリフォルニアなどの北アメリカ大陸部も、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。\nメキシコの中部から北部も、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。\n日本の北海道の北端の緯度が、カナダの南部にあるカナダの首都のオタワと、ほぼ同じくらいの緯度です。\n日本の南端の緯度が、エジプト南部と同じくらいの緯度です。\n緯度が、日本の東北地方と同じ位のは、ポルトガル、スペイン、イタリア、ギリシャ、北朝鮮などです。これらの国は日本の東北地方から北海道と同じくらいの緯度です。\n韓国の緯度は、日本で言うと、関東北部〜東北地方南部あたりの緯度です。\n中華人民共和国の首都のペキン(北京)の緯度は、日本の東北地方北部のあたりの緯度です。\n日本の経度は、およそ東経123度から東経154度のあいだにあります。 \nオーストラリア大陸の国土の大部分と、ほぼ同じくらいの経度です。\n東経123度から東経154度のあいだには、オーストラリアの他にも、韓国、北朝鮮、ロシア、アメリカなどがあります。 ロシアの東部に、あたります。\nヨーロッパ州の人たちは、日本や朝鮮半島のある地域のあたりのことを「極東」(きょくとう、英:Far East ファー・イースト)と言う場合があります。 彼らヨーロッパ州の人からみると、私たち日本は、ユーラシア大陸の東の端(はし)のほうにあるからです。\n日本の標準時は東経135度の経線の時間です。この東経135度の経線を標準時子午線(ひょうじゅんじ しごせん)にしている。\nこの経度に兵庫県 明石市(あかし し)がある。\n標準時や時差の計算をするときは、経線のことを「子午線」(しごせん)という場合が多い。\n結論\n次の国の次の都市と、日本(東経135度とする。)との時差を求めよ。また、次の国の都市とロンドン(イギリス、東経0度)との時差を求めよ。\n答え\nロンドン(東経0度)との時差は、それぞれ、\n日本との時差を求める。まず、日本(東経135度)とロンドン(標準子午線)との時差を求める。\nである。\n東京都の時差は、それぞれ\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%8C%E3%81%9F_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BD%8D%E7%BD%AE"} {"text": "国の主権が及ぶ場所をまとめて、領域(りょういき)と言います。\n領域には、陸地である領土(りょうど)のほかに、領土から一定の範囲にある海である領海(りょうかい)と、領土と領海の上空である領空(りょうくう)から、なります。\n領空は、大気圏内までです。\n日本の領土は、北海道・本州・四国・九州の4つの大きな島と、その周辺の小さな島々から、成り立っています。\n領海は、海岸線から12海里(かいり)(12海里 = 約22km、正確には 22224m)の範囲です。( 1海里は1852mである。 )\nまた領海の最外部から、海岸線から200海里(約370km、正確には 370400m)までの水域、つまり12海里~200海里の水域のことを排他的経済水域(はいたてき けいざい すいいき)と言います。あるいは、経済水域(けいざい すいいき)と言います。\n排他的経済水域内にある水産資源や鉱産資源は、沿岸国の物になります。経済水域は領海と違い、他の国と重なることもあります。\n1982年に国連海洋法条約で、沿岸の海岸線から200海里までが排他的経済数域と定められました。\n日本の排他的経済水域の広さは、国土面積の10倍以上もあります。\n経済水域の広さでは、世界の中でも、日本は排他的経済水域が広く、日本の排他的経済水域の広さは世界6位です。\n日本は離島が多く、沖ノ鳥島(おきのとりしま)、与那国島(よなぐにじま)、南鳥島(みなみとりしま)などがあるので、このように国土面積の割りに排他的経済水域が広いのです。\n英語で排他的経済水域のことを Exclusive Economic Zone(エクスクルーシブ・エコノミック・ゾーン) というので、略称でEEZという場合もあります。\n排他的経済水域の中で、領海の最外部から、海岸線から24海里までの水域、つまり12海里~24海里までの水域のことを、接続水域 (せつぞくすいいき) とといいます。\n接続水域では、沿岸国が密輸や密入国などを取り締まります。\n排他的経済水域の外側の、どの国の領海や排他的経済水域にも属さない海は \n公海(こうかい) とよばれ、公海では、どの国も平等に航行や利用が出来ます。(公海自由の原則)\n日本では、日本固有の領土であっても、近隣諸国と領土をめぐって様々な問題が発生しています。\n北海道の東にある北方領土の歯舞群島、色丹島、択捉島の北方4島は、明治時代から国際的にも認められた日本固有の領土である。\nしかし、第二次大戦の末期に、ソ連(現:ロシア)が日ソ中立条約を破り、またソ連はポツダム宣言での連合国どうしの約束を破り、ソ連が国際法に違反して北方4島などへの侵略を開始してソ連軍が北方の諸島に侵入し、この地域を守備していた日本軍と戦闘になった。そして、ソ連は最終的に4島を不法に占拠した。\nソ連が崩壊した後もロシアに不法占拠されている。北方領土をめぐる問題が解決してない。 ロシアは日本の北方領土の国後島などを不法に占拠している。\nしばしば、周辺の日本の漁船が近づくと、領海を侵したとして日本漁船を銃撃・拿捕・抑留することも起きている。\n日本は返還交渉を続けていて、また文化的な交流事業なども続けているが、あまり進展はしていない。\n日本の島根県の竹島は、日本固有の領土である。\n歴史的には、そもそも竹島は1905年(明治38年)に、国際法に従って竹島が日本国の島根県に編入された。\nしかし、第二次大戦直後に韓国によって侵略され、現在(2022年の時点)は韓国軍が竹島を不法に占拠している状態である。\n第2次大戦後の1952年(昭和27年)、韓国の李承晩政権は、一方的に竹島を韓国領に取り込み、また日本海上に韓国は一方的に李承晩ラインを設定し、違反したとする日本漁船に銃撃・拿捕・抑留などをした。\n1954年(昭和29年)には、韓国が竹島に沿岸警備隊を派遣し、竹島を不法に占拠した。\n日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立(1965年)により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。\n李承晩ラインの廃止以降も、韓国による竹島の不法占拠は続いている。\n日本は、平和的な解決のための手段として、国際司法裁判所へ付託することを1954年以来から提案しているが、韓国政府がこれに応じていない。\nなお、竹島の韓国名は独島である。\n沖縄県の、東シナ海上にある尖閣諸島は、1895年に尖閣諸島が日本に編入されて以来、尖閣諸島は日本固有の領土である。このとき、他国の領有の形跡が尖閣諸島には無いことを日本は確認している。\n尖閣諸島は21世紀の現在でも日本が実行支配しているため、尖閣諸島においては領土問題は存在しない。\nしかし、1970年代ごろから日本固有の領土である尖閣諸島の海域に油田の存在が確認されると、中国と台湾が領有権を主張するようになった。\nそして2010年には、中国の漁船が、尖閣諸島の魚釣島の海域で日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きた。\nその後、2012年に尖閣諸島のほとんどを日本政府が国有化したものの、中国は、国際法に違反して武装した中国船を尖閣諸島の海域に侵入させ、日本漁船を追尾して脅迫に近い行動に出るなど、地元の人々は中国の脅威に警戒している。\nここで言う、「分」(ふん)とは角度の単位であり、 60分=1度 である。英語でも minute という。\n分の記号を ′ と描く。数字の右上に、離して、ナナメの短い線を書く。(60′=1°)\n北方領土のまわりの海は、さけ、たらばがに、ます などの水産資源が豊富。\nちなみに日本の国土面積は約38万km2。世界の190カ国の中で約60位の広さである。ドイツ(約36万km2)より狭い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%8C%E3%81%9F_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%9C%9F%E3%81%A8%E7%AF%84%E5%9B%B2"} {"text": "日本には、47の都道府県があります。1都(東京都)、1道(北海道)、2府(大阪府、京都府)、43県です。\n1871年(明治4年)の廃藩置県で、それまであった藩(はん)が廃止され、かわりに府(東京府、大阪府、京都府)や県が設置されました。直後は、今よりも多くの県があり、およそ300の県がありました。その後、多くの県が合併をし、1888年までに、最終的に47都道府県になりました。\n日本の地域の分け方には、北海道、東北、関東、中部、近畿、中国・四国、九州に分ける、七地方区分(なな ちほうくぶん)があり、この7地方区分がよく用いられます。\n場合によって中国・四国地方を別々に分けることで、8地方区分にする場合もあります。\n他にも多くの分け方がありますが、まずは、この7地方区分および8地方区分が基本になります。\nさまざまな視点により、もっと細かい分け方で区分を増やす場合もあれば、大まかな見方で区分を減らす場合もあります。\nまずは、細かく分けて区分を増やすほうを説明します。\n中国地方を、山陰と山陽の2つの地方に分ける場合もあります。\n中国山地の北側が山陰であり、中国山地の南が山陽です。\n中国・四国地方をまとめて、山陰・瀬戸内(せとうち)・南四国の3つの地方に分ける場合もあります。\n中国山地の北側が山陰であり、四国山地の南側が南四国であり、中国山地と四国山地の間が瀬戸内です。\n三重県を、中部地方(東海地方)に入れる場合があります。\n・日本海に面する、北部。\n瀬戸内海に面する、中部低地。\n太平洋に面する、南部。\nこの三つに分けることができる。\n中部地方を、南側の中部(静岡県+愛知県+岐阜県+三重県、山梨県、長野県)と、北側の北陸(石川県+富山県+福井県+新潟県)の2つの地方に分ける場合もあります。\n他にも、北陸(石川県+富山県+福井県)、甲信越(山梨県+長野県+新潟県)、東海(愛知県+岐阜県+三重県+静岡県)の3つの地方に分ける場合もあります。\n静岡県をふくまないで、東海地方と呼ぶ場合もあります。\n関東地方を、北関東(茨城県+栃木県+群馬県)と、南関東(東京都+神奈川県+千葉県+埼玉県)の2つに分ける場合もあります。\n関東地方(東京都+神奈川県+千葉県+埼玉県+茨城県+栃木\n県+群馬県)と甲信越地方(山梨県+長野県+新潟県)をまとめて関東甲信越地方と呼ぶ場合もあります。\n逆に、区分を大まかにして、区分の数を少なくする場合もあります。\nたとえば日本を、東日本(ひがし にほん)と西日本(にし にほん)とに、分ける場合もあります。ただし、べつに法律などで定められているものではなく、その範囲も明確ではありません。\nなお、電気機器の周波数では、東日本が50ヘルツ(Hz)であり、西日本が60ヘルツです。\nほかにも、北日本、東日本、西日本の3つに分ける場合もあります。\n* 東日本と近畿と西日本の3つに分ける場合や、東日本・中日本・近畿・西日本の4つに分ける場合もあります。\nどの県がどの区分に含まれるかは、場合によって7地方区分と一致しない場合があります。たとえば山梨県は、中部地方に含まれる場合もありますが、天気予報や交通などで、山梨県を首都圏(しゅとけん)の一つの県として扱う場合もあります。\n※地図で関西地方と表記されているが、関西方面は存在するが関西地方は存在しない事に注意する事。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%8C%E3%81%9F_%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E3%81%A8%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E5%8C%BA%E5%88%86"} {"text": "(注:東京書籍では、「造山帯」という用語が「変動帯」に改められ、環太平洋造山帯、アルプス・ヒマラヤ造山帯という語句が削除されました。なお、造山帯と変動帯の違いについては、Wikipediaを参照ください。)\n日本列島は、太平洋をとりまく環太平洋造山帯(かんたいへいよう ぞうざんたい、英:circum-Pacific belt または Ring of Fire)という地帯に含まれています。\n北アメリカ大陸のロッキー山脈(英語:Rocky Mountains)や、南アメリカ大陸のアンデス山脈(英:Andes)、東南アジア州のフィリピン諸島や、オセアニア州のニューギニア島も、環太平洋造山帯に含まれています。\n「環太平洋造山帯」という名前のとおり、太平洋をとりまく位置にある造山帯です。\nいっぽう、ヨーロッパ州のアルプス山脈から、アジア州にあるヒマラヤ山脈(ヒマラヤさんみゃく、Himalayan Range)まで伸びている造山帯が、アルプス=ヒマラヤ造山帯(英:Alpide belt)です。このアルプス=ヒマラヤ造山帯は、インドネシアまで続いています。\n一般に、これら2つの造山帯(環太平洋造山帯およびアルプス=ヒマラヤ造山帯)では、地震や火山が多いです。地球の歴史の中で、比較的、新しく出来た造山帯であり、現在も活動がさかんであるからです。\nまた、地震や火山が多い一方、温泉なども多い特徴があります。\n実は、地面はとてもゆっくりにですが、動いているのです。これを 大陸移動説(たいりく いどうせつ) と言い、現代では証明されています。\nハワイ諸島も、日本に向かって年間で約9cmずつ、日本に近づいていることが分かっています。\n地面は、プレート(英: plate) という物の上に乗っかっていて、そのプレートが動いているのです。地球上には、いくつものプレートがあります。プレートと、他のプレートがまじわることろでは、プレートどうしが押しあう場合もあります。プレートどうしが押し合う場合、プレートの上に地面があれば、その地面も押しつけられるので、地面がもりあがります。\n地球の歴史では、膨大な時間、プレートが押し合って地面が盛り上がり、山脈が出来る場合があります。\nなお、地震の原因も、じつはプレートの力です。プレートが地球の中にもどる場所の近くで、プレートは反対側の地中には戻らないほうの岩盤(がんばん)にも、引きずりこむような力を加えるので、プレートは岩盤をひずませます。岩盤に力がかかり続けると、ある時期に岩盤の一部がこわれます。このときの揺れ(ゆれ)が、地震です。\nこのため、プレートの境界では、地震や火山が多いのです。<-- コメント:現象という意味では火山よりは噴火のほうが収まりがよいのではないか。もっとも、なぜ噴火(火山)が多くなるのかの説明がない。 -->\n理科の用語ですが、海中にあるプレートを 海洋プレート(かいようプレート) と言います。陸地の下にあるプレートを 大陸プレート(たいりくプレート) と言います。\nプレートとプレートとが交わるところでは、地震が起きやすいです。日本列島の周囲でも、いくつかのプレートが交わっているので、日本は地震が多いです。日本では、ユーラシアプレートと北アメリカプレートと太平洋プレートとフィリピン海プレートの、あわせて4つのプレートが、日本の下で、押し合っています。\nいま、地球上にある、いくつかの大陸は、むかしは、ひとつの大きな大陸だったことがわかっています。そのひとつの大きな大陸のなまえを パンゲア(Pangea) といいます。\nドイツの気象学者のウェゲナー(Wegener)は大西洋をはさんだ両岸の大陸の形状(特にアフリカと南アメリカ)が、ほぼ一致することから、大昔は、このアフリカと南アメリカはおなじ大陸だったのが分裂したのではないか、と考えました。\nまた、アフリカと南アメリカは、地質や生物の分布も、にていることから、ますます、おなじ大陸と考えるようになりました。\nウェゲナーは、このようなアフリカと南アメリカは、昔はおなじ大陸だったという説を1912年に発表しました。\nこの「実は、大陸は移動している」という説を、大陸移動説(たいりくいどうせつ、英: continental drift theory, theory of continental drift)と言います。\nしかし、当時の人々の理解は得られませんでした。また、ウェゲナー本人も、どのような力で、大陸が動いているのかは、わかりませんでした。\nウェゲナーは大陸が動いていることの証拠を探す探検のためグリーンランドを探検している最中の1930年に、50才でウェゲナーは死んでしまいます。\nウェゲナーの唱えた大陸移動説は、彼の生存中は学会の多数からは、みとめられることはありませんでした。\nウェゲナーの時代から、それから数十年がたってから、技術の進歩により、海底の研究が進みました。すると、どうやら海底の奥ふかくから、溶岩が次々と、わき出している場所がある、ということが発見されます。これは 海嶺(かいれい) の発見です。大西洋の中央や、太平洋のチリ沖のイースター島の付近など、地球上のいくつかの海底に、海れいは、あります。\nまた、海底の奥深くで、地面が地中に引きこまれている場所も見つかります。これが 海溝(かいこう) です。\n太平洋のマリアナ諸島の近くのマリアナ海溝や、伊豆・小笠原海溝など、いくつかの海溝が、あります。\n海嶺や海溝の研究から、地中や海中のプレートとよばれる岩ばんが動いていることがわかります。\nウェゲナーの大陸移動説は、プレートにのっかった大陸が、プレートごと動くという考え方で説明できるようになりました。\n溶岩(ようがん)が、かたまるとき、地磁気の方向で、溶岩がかたまり、溶岩にほんの少しだけ、磁気が のこります。この 古い地質の磁気の方向をしらべることで、大陸移動説は 証明(しょうめい)されました。\n現在では、地震の原因はプレートのひずみによって起きることが分かっています。大陸プレートと海洋プレートの押し合いでひずんだプレートが、ひずみに耐え切れなくなって、こわれて、元にもどるときに、地震が発生します。\nそしてプレートをひずませる力の原因は、プレートが地中に引き込まれる力です。\nこのように、「プレートの運動によって、地震がおきる」という考え方を プレート テクトニクス(英: plate tectonics) と言います。\n先カンブリア時代に激しい運動を受けた後は、長い間地殻運動を受けずに侵食が進んだ、安定した陸塊。 長期間の侵食により、平原 大地が多い。\n日本は環太平洋造山帯に属することもあって、日本は山がちであり、国土のおよそ75%が山地でしめられている。\n日本の本州の中部あたりの、新潟県 糸魚川(いといがわ)と 静岡県 静岡市 とを結んだ線の周辺地域あたりに、幅100kmぐらいもある窪地(くぼち)がある。この窪地をフォッサ マグナ(Fossa Magna)という。\nフォッサマグナのことを大地溝帯(だい ちこうたい)とも言う。\nなお、糸魚川と静岡市を結んだ線のあたりにある断層(だんそう)を、糸魚川−静岡 構造線(いといがわ しずおか こうぞうせん)と言う。\n(断層とは、地震などで地面の一部がくいちがって、地面の左右の高さに急な違いがある場所のこと。)\nフォッサマグナは、線では無く、幅(はば)をもった面である。糸魚川-静岡構造線は、フォッサマグナそのものでは無い。\nフォッサマグナは、2つのプレートの交わる境界であることが現在では分かっており、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界に相当する。\nこのため、フォッサマグナの周辺では地震や火山活動が活発であり、たとえば活火山(active volcano[1])である富士山もフォッサマグナの周辺地帯にある。\nフォッサマグナを境にして日本の地形の特徴が東西で異なるので、フォッサマグナを境に東日本と西日本に分ける事が出来る。\n東日本は、だいだい山地が南北方向に伸びています。いっぽう西日本は、山地が東西方向に伸びています。\nこのフォッサマグナの西側に、飛騨山脈(ひだ さんみゃく)、赤石山脈(あかいし さんみゃく)、木曽山脈(きそ さんみゃく)という標高3000mもの山々がある。この飛騨山脈、赤石山脈、木曽山脈を日本アルプス(にほんアルプス)と言う。\nフォッサマグナの窪地は、周辺の山々から崩れ落ちた土砂からなる新しい地層によって、埋もれていることが地質調査によって分かっている。仮に周辺の土砂を取り除いた場合、フォッサマグナの深さは、実は 6000mもの深さであることが分かっている。\nこの日本アルプスを除けば、西日本の山は、あまり標高が高くない。\n用語\n山が、いくつもまとまっているところを山地(さんち)という。\n山地のうち、山々のいただきが、ほぼ、つながって、連なっている山々のことを山脈(さんみゃく)という。\n平らな場所を平地という。国土の4分の1が平地である。(のこりの4分の3は山地である。)\n平地のうち、海に面している場所を平野(へいや)という。\n内陸の平地で、まわりを山で囲まれている平地を、盆地(ぼんち)という。\n山梨県の甲府盆地(こうふ ぼんち)が有名。\n日本の人口は、平野や盆地などの平らな場所に集中している。\nまわりの平野などよりも高い場所にある平地を台地(だいち)という。農業を行う場合は畑に利用する事が多い。\n山地のいただきが平らなもの。\n低い山地がつらなっているもの。\n日本の川は、世界の多くの川と比べると、日本の川は 急流 であり、短いです。理由は、日本は国土面積の割に山が多く、標高の高い所から低いところへ川が流れるためです。\n明治時代に日本に来ていたオランダ人 デ・レーケ(de Rijke) は、彼の生まれたオランダは低地国であるため、ゆったりとした川しか見たことがなく、日本の川を見て「これは滝だ」と言ったらしいです。)\n日本は川が急なため、上流で大雨が降った場合には、下流では 洪水が起こりやすい です。\nこのような特徴のため、世界の多くの川に比べて、日本の川は流域面積(りゅういき めんせき)がせまいです。\nまた、山などから川が流れるため、ダムを作って水をためやすいです。また、ダムを作りやすいため、水力発電にも便利です。\n流れる川の水は、地面から土や砂をけずり取り、下流に土砂を運んでいきます。\n川が山地から平地に出た麓(ふもと)の地域( 山麓(さんろく)という。 )の周辺では、土砂などが山側を中心にして、扇状(おうぎ じょう)に平地側へ川が広がって、ふもとでは流れがゆるやかになるので運ばれた土砂が積もりはじめ、中流や下流には 扇状地(せんじょうち) という地形ができやすいです。\n扇状地の根もとの中央部には、つぶの大きい砂や石が多くて、そのため水が地下に抜けやすい(水はけが良い)ので、果樹園などの畑に利用される。\n盆地のまわりの山のふもとには、扇状地が出来ることが多い。そのため、扇状地の周囲が畑に利用される。山梨県の甲府盆地の扇状地の、果樹園の地帯が、このような扇状地の畑作の例として有名である。\n下流では、流れが遅くなり、したがって、積もる作用が強まります。また下流での石は、小さく丸い石が多いです。下流に近づくほど、水量は多くなり、川幅(かわはば)もひろくなります。\n地形として、川の下流の周辺では、三角州(さんかくす、英:river delta)という地形ができやすい。三角州のことをデルタとも言う。三角州には、つぶの小さい砂や石が多く、水が地下に抜けにくいので、水田として利用されやすい。\n日本のまわりの海底には、水深があさく200mていどで、傾斜のゆるい平らな大陸棚(たいりくだな、英:Continental shelf)が、ひろがっている。\nまた太平洋側の、日本の東に、水深が8000mをこえる海溝(かいこう、trench)がある。\n大陸棚は、東シナ海にとても広く、みられる。\nこの大陸棚には天然ガスや石油などの資源があると考えられている。\n暖流(だんりゅう)の黒潮(くろしお)と対馬海流(つしまかいりゅう)は、日本の南の赤道付近から北上して流れてきている。\n黒潮は太平洋側の海流で、赤道付近から北上してきている。黒潮のことを日本海流(にほん かいりゅう)とも言う。\n対馬海流も、赤道付近から北上してきているが、日本海側に流れる海流である。\nいっぽう、日本の北からは寒流(かんりゅう)が流れてきている。日本に来ている寒流の親潮(おやしお)は、千島列島(ちしま れっとう)から南下している。親潮のことを千島海流(ちしま かいりゅう)とも言う。\n日本の近海は、暖流と寒流がぶつかる海域であり、良い漁場になっている。\n海岸で、岬(みさき)と湾(わん)が くりかえし、海岸線が のこぎり の刃のように、ギザギザと入り組んでいる海岸のことを、リアス海岸(リアスかいがん、英: ria coast)と言います。リアス式海岸(リアスしき かいがん)とも言う。スペイン語の入江(いりえ)を意味するria(リア)に由来する。\n東北地方にある岩手県の 三陸海岸(さんりく かいがん) が、リアス海岸の例として有名である。\nリアス海岸の出来方は、もともと山地であったところに、谷に、海水が流れこんでできていったものです。このためリアス海岸のちかくには山地がある。\nリアス海岸では、多くの入り江や湾があり、また、波が低く水深が深いため、港として利用されやすい。また、波がおだやかなこともあり、貝や わかめ などの養殖(ようしょく)も行われることがある。\n海岸には、岩石が切り立っている急な岩場の岩石海岸(がんせき かいがん)と、砂が広がってる砂浜海岸(すなはま かいがん)があります。砂浜海岸の例には、千葉県の 九十九里浜 や、鳥取砂丘(とっとり さきゅう)などがあります。\nなお、砂丘とは風によって砂が運ばれて出来上がった丘(おか)である。\nさんご礁(さんごしょう)は、浅い海底で成長し、温かい海で成長する。沖縄県の島には、まわりの海にさんご礁のある島が多い。\n九州の有明海の海岸には、海岸部に発達する泥により形成された干潟(ひがた)があります。有明海だけでなく、東京や千葉など関東にも干潟はあり、北海道や東北地方や愛知県やなど、日本の各地に干潟はあります。\n干潟は、渡り鳥の生息地になっていたり、貝などの生息地になっています。\n現在では、干潟は、自然保護の観点から、環境保護をされていますが、昔は干潟はたんなるドロの多い場所と考えられており、多くの干潟が埋めたてられたり干拓などで無くなってしまいました。\n浅い海や、浅い湖に、堤防(ていぼう)をきずいて、その土地に水が入りこむのをとめて、土地を乾かして陸地を広げることを 干拓(かんたく) といいます。干拓によって作られた陸地を土地を 干拓地(かんたくち)といいます。\n北九州にある有明海(ありあけかい)の海沿い(うみぞい)にも、江戸時代の古くからの干拓地があります。岡山県の児島湾(こじまわん)にも江戸時代からの干拓地があります。\n秋田県の八郎潟(はちろうがた)にある大潟村(おおがたむら)は、1964年につくられた干拓地です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E6%AF%94%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E5%9C%B0%E5%BD%A2"} {"text": "小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会 地理 >気候 \n世界の気候の単元で見てきたように、世界の国々には一年を通して暑い国もあれば、夏でも日本の冬と同じぐらいの気温にしかならない国もある。また、砂漠のようにほとんど雨の降らない国や、逆に一年中たくさんの雨が降る国、他にも季節によって雨の多い時期と少ない時期のある国とさまざまな特徴がある。\nでは、日本はどうだろうか。日本列島は南北に長いため、北海道のように冬の気温が氷点下にまで下がるところもあれば、沖縄のように冬でも15度と東京の春ごろの気温と変わらないところもある。また、新潟県(山間部)及び青森県津軽地方のように雪が数メートルも積もる地方や、三重県尾鷲市のように非常に雨の多い地方、あるいは岡山県倉敷市のように一年中雨の少ない地方がある。\nここでは、日本の気候の違いを通して、日本各地の環境とそれに影響されている産業や文化などを見ていこう。\nまず、日本の大半が属している温帯と北海道のほとんどが属している亜寒帯について復習しよう。なお、ここは中学校社会 地理/世界の気候と同じ内容である。\nもっとも寒い時期でも氷点下になることは少ないが、夏は地域によっては熱帯と同じぐらいの暑さになることがある。このため、四季の変化に富み、多くの動物・植物が生息する。気温・降水量共に農業に適していることから、古代から現代に至るまで農業や産業の発展した地域が多い。\n雨の降りかたなどによって、気候の区分が、次の3つの、温暖湿潤気候、西岸海洋性気候、地中海性気候に分けられる。\n日本のように、1年間をとおして気温の変化が大きく、降水量の変化も大きい、温暖湿潤気候がある。\nヨーロッパの大西洋沿岸では、偏西風の影響のため、1年間を通して降水量の変化が小さい。このヨーロッパの大西洋沿岸の一帯の気候のこと西岸海洋性気候(せいがん かいようせい きこう)という。日本では道南地方の室蘭市と日高地方で分布している。\nイタリアなどの、ヨーロッパ州とアフリカ州の間にある地中海の周辺の国に多い気候である。夏には乾燥するが、冬は偏西風のために雨が降る。\n温帯モンスーン気候ということもある。主に中緯度の大陸東岸に分布する。\nこの気候に属する主な都市は、東京(日本)、シャンハイ(中国)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)。\n季節風の影響を強く受けるため、特に四季がはっきりとしている。\n温帯の中では、四季の変化が、もっともはっきりしている。\n日本や、周辺の東アジア諸国での温暖湿潤気候での季節ごとの変化の大きさの原因は、季節によって、気候に影響を与える季節風が変わるためである。\n夏は低緯度の海からの風を受けるために高温多湿となるが、冬は高緯度の大陸からの風を受けるために乾燥した寒い季節となる(しかし、0度を下回ることは少ない)。また、夏には台風のような熱帯低気圧に襲われることもある。\n夏は暑く、冬は寒いので、ここに住む人々はそれぞれの季節にあうような生活スタイルを作っていった。例えば日本の伝統的な衣服は夏は涼しく、冬は暖かくなるような素材が好まれた。豊かな水と適度な気温のため、農業に適している。日本などの東アジア周辺では米作りが盛んである。\n温帯の植物は、いっぱんに、広葉樹林と針葉樹林が混合している。\nまた、アルゼンチンのパンパ・アメリカのプレーリーのように豊かな草原地帯もある。パンパやプレーリーでは放牧も盛んに行われている。\nこの気候に属する主な都市は、ロンドン(イギリス)、パリ(フランス)、メルボルン(オーストラリア)である。\nちなみに日本では北海道の室蘭市と日高地方が属している。\n大陸西岸の高緯度地方(緯度40度 - 60度付近)に分布する。西ヨーロッパの多くはこの気候に属している。温暖湿潤気候などと比べると、西岸海洋性気候の気温の年間の変化は小さい。夏はあまり暑くならずすごしやすい。冬は長く寒いが、暖流からの偏西風の影響を受けるため、緯度のわりに冷え込みはきびしくない。例えばロンドンやパリは、サハリン(樺太)と同じ緯度だが、冬の平均気温は5度くらいで東京よりも少し寒いぐらいである。また、降水量は一年を通して一定である。\n落葉広葉樹や針葉樹林もあるが、牧草も育ちやすい。牧畜に適している地域であるため、農業と牧畜を組み合わせた混合農業が盛んに行われてきた。例えばフランスは小麦の生産が盛んな国であるが、チーズなどの乳製品の生産量も多い。\nイタリアのような地中海沿岸が中心だが、南北アメリカ大陸の西側にも見られる。夏は乾燥帯なみに乾燥するが、冬には雨が降る〔偏西風〕。また、ヨーロッパ州の沿岸の場合、大西洋沿岸には暖流の北大西洋海流が流れているので、緯度の割には温かい。冬はあまり気温が下がらないため、常緑広葉樹林となる。\n赤土やテラロッサと呼ばれる石灰岩が風化してできた土に覆われているため、土地はあまり豊かではない。しかし、夏の強い乾燥に耐えられるオレンジ・レモン・の柑橘類トマトやぶどう、オリーブの生産が盛んで、雨の降る冬に小麦を栽培する。こうした農業を地中海式農業という。また、日光の少ない地域の人々が夏にやってくることも多いため、リゾート地として有名なところも多い。\nこの気候に属する主な都市は、ローマ(イタリア)、アテネ(ギリシャ)、サンフランシスコ(アメリカ)である。\n(読み:あかんたい・かんたい)\n冷帯ともいう。\nシベリアのような気候である。冬は長く、特に真冬は寒さがとても厳しいが、夏は気温が上がり、天気が良ければかなり暑くなる。夏には気温が高くなるため、樹木も育つ。\n森林には、針葉樹やシラカバなどの木々が多い。\n亜寒帯での針葉樹林のことをタイガといい、これが多く分布する。\nユーラシア大陸の北部や、北アメリカ大陸の北部に見られる気候である。\nロシアの首都のモスクワの気候も亜寒帯である。\n亜寒帯の分布地域は、中国北東部・朝鮮半島北部・ロシアの半分以上・アメリカ北部からカナダにかけての地域など、おおむね緯度40度以上の高緯度地域に分布する。季節は、温帯と同様に、四季が見られるが、夏は温帯ほどではないがやはり暑くなる。また、夏は日照時間が長いため昼夜の気温差が大きいのも特徴であり、特に内陸地方では昼にかけては暑くなるが、朝夜は一転して冷え込む。冬の平均気温は0度を下回るのが普通である。\n季節による、1年間の夏と冬との温度差が大きい。特に中国の北京のように、夏と冬の気温差が40度近くもあるところも存在する。\n冬の寒さが厳しい気候なので、人々は寒さ対策を行ってきた。朝鮮半島のオンドルはその典型例である。春から夏にかけては比較的温暖なので、その時期に小麦を栽培することが多い。特にロシア南部の黒土地帯は世界有数の小麦生産地帯である。また、寒さに強い、カブ・ソバ・ライ麦・ジャガイモの生産も盛んである。また、タイガは豊かな針葉樹林地帯であるので、林業も盛んである。\nこの気候に属する主な都市は、札幌(日本)、ペキン(中国)、モスクワ(ロシア)である。\n細かくは、亜寒帯には亜寒帯冬季少雨気候や亜寒帯湿潤気候などがある。中学ではあまりこの区別は重要ではない。\n日本の気候は、ほとんどの地域は 温帯 に属し、温帯のうちの温暖湿潤気候に属する。だが北海道や東北地方は 亜寒帯(冷帯) に属する。\nまた、南西諸島の気候は、亜熱帯という、熱帯と温帯のあいだのような気候である。\n日本は季節風(モンスーン)の影響で、四季がはっきりしている。また、日本には梅雨(「つゆ」または「ばいう」)があり、日本の冬には雪もあるため、日本は年間の降水量が多い。\nなお、北海道では梅雨が無い。\n日本は南北に長いため、南の沖縄県と、北の北海道とでは、気候が大きくことなる。\n気候に影響するのは、緯度だけでは無く、山脈や山地によって、太平洋側と日本海側では、気候が大きく異なる。\n6月はじめごろから梅雨があり、日本の多くの地域で降水量が多くなる期間が、1ヶ月ほど続く。\n梅雨の原因は、北方にある冬の季節風と、南方にある夏の季節風とが、ぶつかりあって、ほとんど動かない梅雨前線が発生するからである。\nこの梅雨前線では、夏と冬の季節風がぶつかっているので、天気が不安定となり、雨が降りやすい。\n夏の季節風も、冬の季節風も、どちらとも、太平洋や日本海を通ってくるので、水分を含んでいる。\nしかも、梅雨の間の6月は前線が停滞しているので、前線が北に抜けるまでの1ヶ月ほど、雨の日が多い。\n季節が夏に近づくにつれ、夏の季節風のほうが強くなり、冬の季節風を北に押し返すので、前線は北に抜ける。\n梅雨前線が北に抜けると、梅雨が終わる。\nそして日本は、7月ごろに夏を迎え、気温の暑い日々が9月くらいまでつづく。\n夏の季節風は、太平洋の水蒸気を含んでいるので、日本列島の太平洋側の地域では、湿っている。\nいっぽう日本海側では、山地をこえるときに季節風が水分を失うので、日本海側では乾燥している。\n夏から秋にかけての9月ごろは、台風という、強風や大雨を起こす低気圧が南方から日本列島に北上してやってくる。台風で被害を受ける場合も多い。\n台風は、もともと赤道近くの熱帯の海で発生した低気圧( 熱帯性低気圧 )である。\n春から夏にかけての梅雨前線と同様に、秋から冬にかけても、秋雨前線が、やってくる。\n冬は、シベリア気団の発達により、北西の季節風が強くなる。季節風が日本海の水分をふくんでいるので、日本海側では雪が多く降る。いっぽう太平洋側では、山地をこえるときに季節風が水分を失うので、太平洋側では乾燥している。太平洋側では、日本海側とくらべると、雪もあまり降らない。\n冬の太平洋側の地域で、北方の山地から北風が南へ向かって、ふいてくる。この北方の山から吹き降ろしてくる風のことを「からっ風」といい、冷たくて乾燥している。\n前の節では、季節ごとによる気候の特徴を説明した。\n逆に、太平洋側の地域、および日本海側の地域を基準に、気候を見てみよう。\n他にも、地域の特性によって、多くの気候がある。一例として、瀬戸内気候を説明する。\n瀬戸内海ぞいの瀬戸内では、南北ともに、四国山地または中国山地にさえぎられているので、瀬戸内では雨も雪も少ない。\nこのように、南北を山にさえぎられている地域では、雨や雪が少ない。\n日本の気候区分はいろいろな説があるが、普通の教科書では以下のように分けられる。\n気候によって、農業など、産業や生活の特徴も変わってくる。それらの説明は、後の節や別の記事で説明を行う。\n「太平洋岸気候」や「太平洋型気候」などとも言う。夏は太平洋からの暖かく湿った季節風の影響で高温多湿となるが、冬は大陸からの冷たく乾いた風の影響を受けて乾燥する。西日本では暖流の日本海流(黒潮)の影響を強く受けるため、高温多湿となるが、東日本、特に東北地方は寒流の千島海流(親潮)の影響も受けるため、気温が上がらないときもある。特に千島海流の影響が強いときには夏でも やませ とよばれる冷たい風が吹き、冷害が起こることもある。\n夏から秋にかけて雨が多く、東北地方を除いて、冬でも寒いとはいえ霜が降ったり雪が降ったりすることは少ない。そのため、米以外の野菜や花の生産も盛んである。また、静岡県や鹿児島県では茶の生産も盛んである。\n「日本海岸気候」などとも言う。その名の通り日本海側に見られる気候である。日本海側には暖流である対馬海流が流れており、暖かく湿った空気を運んでくる。しかし、冬になるとユーラシア大陸からの冷たく乾燥した風が対馬海流の湿った風を冷やして雪にする。このため、気温のわりに雪がとても多く、世界有数の豪雪地帯となっている。\n冬に雪が多いため、雪への対策が行われている。例えば、雪が積もり過ぎないように屋根の角度を急にしたり、信号機を縦にしたりしている(特に東北と北海道が多い)。また、融雪パイプを使って道路の雪をとかすことも行われている。\nこの気候では雪が多いため、冬は農業ができない。しかし、春になると雪は豊富な雪解け水をもたらす。これを利用して春から秋にかけて米作りに集中する水田単作地帯が多い。特に新潟県は米作りで有名である。また、冬の間には農業ができないかわりに、さまざまなものづくりが行われてきた。新潟県の小千谷ちぢみ、石川県の輪島塗や加賀友禅などの伝統工業はもともと冬の間の仕事として発展してきたものである。現在でも燕市(新潟)の金属製洋食器、三条市(新潟)の金物、鯖江市(福井)の眼鏡などが有名である。また、豊富な雪解け水を生かした水力発電も積極的に行われてきたため、日本の電源地帯と呼ばれてきた。\n古い教科書では北海道式気候といったが、現在ではあまり使われない。\n温帯ではなく亜寒帯に属する。このため、夏は比較的すごしやすいが、秋の終わりから春の初めまでの気温は氷点下まで下がる。また、梅雨がなく、台風もあまり来ないため、夏は他の地方よりも乾燥する。ただ、北海道は太平洋側・日本海側・内陸・オホーツク海側とで気温や降水量に差があるため、札幌市や函館市と稚内市などでは違いがあるので注意したい。\n明治時代まで朝廷や幕府の力があまり及ばなかったため、長い間、先住民族であるアイヌの人々の伝統的な狩猟や漁業が中心で農業は盛んではなかった。明治以降に北海道として日本に正式に組み込まれると、開拓が進み、農業も活発に行われるようになった。当初は寒さに強い作物と酪農が中心であった。現在でもジャガイモ、ビート(てんさい・さとうだいこん)、小豆、小麦、乳製品の生産量は全国一である。しかし、品種改良によって寒さに強い米が開発され、北海道でも石狩平野を中心に米作りが盛んになり、現在では都道府県別の米の生産量も全国一となった。\n中央高地式気候ともいう。古い教科書では内陸式気候、あるいは、大陸性気候という言葉も使われたが、今はあまり使われない。\n中央高地(長野県・山梨県・岐阜県北部など)に見られる気候であるが、似たような気候は山形盆地や京都盆地にも見られる。夏は太平洋側で雨が降り、冬は日本海側で雪が降るため、一年を通して降水量は少ない。また、海から離れているため、夏と冬との気温差が大きく、夏は暑く、冬の気温は氷点下になることも珍しくない。特に夏の暖かく乾いた空気がフェーン現象を起こすこともあり、夏の気温をさらに高めることがある。ただし、標高の高い地域では夏でも気温があまり上がらないところもある。\n水源は多いが、平地が少ないため、米作りはあまり盛んではない。そのかわり、日当たりのよい山あいと乾燥した気候を利用した果物の栽培が盛んである。長野県のりんごの生産量は全国2位であり、山梨県のぶどう・もも の生産量は全国一である。また、長野県の野辺山原や群馬県の嬬恋村では夏でも涼しい気候を利用した抑制栽培による、キャベツ・レタスの栽培も盛んである。かつては生糸をつくるための養蚕も盛んだったが、日本の産業が軽工業から重工業にうつったため、現在では衰退している。\n瀬戸内式気候ともいう。瀬戸内海沿岸地域に見られる気候である。夏の季節風は四国山地に、冬の季節風は中国山地にさえぎられるために一年を通して降水量は少ない。このため、梅雨が短かったり、台風があまり来なかったりするときには干ばつが起こりやすい。その対策として人工的に大きな池を作って水を確保する施設であるため池が各地に作られた。気温は海に面していることもあって温暖である。\n雨も雪も少ないため、畑作が中心で、特に小麦が多く作られた。香川県のさぬきうどんは、この小麦を利用して作られてきた。また、雨が少ないということは晴れの日も多いということでもあり、それを利用した果物の栽培も盛んである。岡山県はオリーブやキウイフルーツの生産量が日本一である。愛媛県は長くみかんの生産量が全国一であった(現在は2位)。他にも晴れの日の多さを利用した塩の生産が以前は盛んで、広大な塩を作るための土地(塩田)が、広がっていた。しかし、塩作りの方法が変わったことなどによって、塩田を利用する必要がなくなり、現在は広大な塩田の跡地を工業用地として活用している。\n南西諸島気候または亜熱帯ともいう。鹿児島県の奄美大島から沖縄県にかけての気候である。冬の平均気温でも15度程度と本州に比べて温暖であるが、海に面しているため、夏は極端に暑くなることもない(八重山諸島は除く)。日本海流からの暖かく湿った風の影響で、年間降水量も多い。昼と夜の気温差と年間気温差が小さい。\nしかし、大きな川がないため、降水量のわりに水不足になりやすく、また台風の直撃を受けることも多いため、農業は畑作が中心であった。米作りは畑作ほど、さかんでない。特にパイナップルやさとうきびの栽培が盛んである。近年はマンゴーやパパイヤといったトロピカルフルーツと呼ばれるものだけでなく、暖かい気温を生かして季節をずらした花や野菜の栽培も盛んとなっているが、航空機の輸送コストの影響を受けやすいという問題も抱えている。\nこのような様々な気候の特色を知ればこれからはもっと自然との付き合いが楽しめるようになるだろう。\n日本は四季がはっきりしており、梅雨の影響によって太平洋側と日本海側で降水量が大きく違う。\n6月から7月にかけて雨が降り続く梅雨や、夏から秋にやってきて強い風と雨をもたらす台風は、重要な農業用水や飲料水の確保には欠かせない。しかし、台風の強い風と多くの雨で、くらしや農業に大きな影響が出ることがある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%BE%E3%81%96%E3%81%BE%E3%81%AA%E9%9D%A2%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E5%9C%B0%E7%90%86_%E6%B0%97%E5%80%99"} {"text": "東京や大阪などの大都市では、冷房の排熱などが屋外にたまり、周辺の郊外や農村よりも気温が高くなるヒートアイランド(英語:urban heat island:UHI、heat island)という現象があります。地面がアスファルトで覆われていることも、気温の上昇に関わっています。\nまた、東京などの大都市の夏では、夜間の最低気温が25度以上の「熱帯夜」(ねったいや)と呼ばれる夜が増えています。\nこの熱帯夜も、ヒートアイランドと関わりがあると考えられています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89"} {"text": "日本列島は環太平洋造山帯(かんたいへいよう ぞうざんたい、英:Ring of Fire)に属しているため、地震と火山が多い。\n地震は、地下の岩盤が壊れて生じる断層(だんそう)によって起きる。このため、断層が多い場所で、地震が多い場所は、今後も断層が生じると考えられており、そのため今後も地震が起きると考えられている。地震が起こりうると考えられる断層地帯のことを、活動中の断層という意味で、活断層(かつだんそう)という。\n大地震では、家屋の倒壊などの地震の直接の被害のほかにも、地震によって生じた土砂崩れや、地盤の液状化現象など、2次的な災害も起こりうる。\n地震の震源(しんげん)が海の下や海の近くの場合では、津波(つなみ、英:tsunami)が起きることもある。なお、断層は海底でも生じる。\n2011年に起きた東北の太平洋沖の地震(東日本大震災)では、津波によって大きな被害が出た。東北の海岸には防潮堤があったが、津波の大きさは、防潮堤を乗り越え、そして防潮堤をこわすほどの波の大きさだった。\n火山の噴火では、溶岩や火山灰が吹き出す。\n1991年に噴火した雲仙岳では、くだけた火山物質が高温のまま、早いスピードで山を下る 火砕流(かさいりゅう、英:pyroclastic flow) によって、多くの被害が出た。\n6月の梅雨や、秋ごろの台風では、集中豪雨のため、洪水(こうずい)などの水害(すいがい)が起きることもあります。\n洪水など水の直接的な被害のほかにも、山くずれ や土石流(どせきりゅう)などの2次的な災害もあります。\n東北地方や北海道の農業では、ときどき、夏場でも気温が大して上がらず、農作物の生育が悪くなり不作になるという冷害(れいがい)もあります。\n冷害により米などが不作になる場合もあります。\nただ、米は、もともと熱帯の作物であり、地域に合わない作物を作っていたという面もあります。\n東北地方で米が栽培できるようになったのは、品種改良による。\n雨がほとんど降らないと、水不足や 干ばつ(かんばつ、英:drought) などが起こります。\n森林地帯の樹木などの植物は、雨の際に水を吸収し、水をためておく働きがあります。\n洪水の原因の一つには、道路や住宅地などのために森林伐採をしすぎたという面もあります。\nこのため、山林の森林を伐採しすぎると、その山で土砂くずれが起きやすくなります。\nまた、明治時代から以降の日本は人口が増えすぎたので、昔だったら土砂くずれなどの災害が多くて人が住めなかったような山奥の場所にも、人が移住してきて住むようになったという面もあります。\n都市では、地下通路など地下の施設(しせつ)が多いですが、その地下施設に水が流れ込むこともあります。特に都市では、地面もアスファルトが多く、水が地面にしみこまないので、地下施設に水が流れ込みやすい面もあります。\nあらかじめ、災害が起きそうな場所を予測して図示した ハザードマップ(防災マップ、英:Hazard map)がある。\n個人の対策も、避難先を決めておくことも大事。\n大地震やマグニチュード何度の大災害が起きると、水道管や電線や道路などの、いわゆる ライフ ライン が破壊される場合もある。防災では、もしライフラインが破壊されても、しばらく(数日程度)は生きていけるように、非常用の食べ物や水、懐中電灯や携帯ラジオ、電池(懐中電灯やラジオ用)なども準備しておくべきだろう。\n防災では無いが、大人になったら、住居は地震保険などに入っておくことも、必要かもしれない。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E6%AF%94%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%A8%E9%98%B2%E7%81%BD"} {"text": "世界の人口は約70億人。(2014年)\nある国や地域の人口を、その国や地域の面積で割った量を 人口密度(じんこう みつど、英:population density) と言う。\n世界で見ると、東アジアや東南アジアの人口密度が高い。この理由は、これらの地域は稲作などがさかんであり、食料生産が多いからである。\nいっぽう、アフリカなどの乾燥帯や、ユーラシア大陸の北部の寒帯、北アメリカ大陸の北部の寒帯では、人口密度が低い。\n世界の人口は、アジア地域に6割が集中している。\n世界の平均の人口密度は1km2あたり、約50人です。(約50人/km2)\nいっぽう、日本の人口密度は、約343人/km2であり、人口密度の高さの順位が日本は世界で約34位であり、世界の中でも日本は人口密度が高いほうの国である。シンガポールなどの極端に面積が小さい国を除くと、日本の人口密度の順位は世界5位になる。\n以下に、主な地域の人口密度を示す。2005年度データにて作成。単位は人/km²。ただし、シンガポールなど、極端に面積の小さいものは除いてある。\n主な国の人口密度は、以下のとおりである。\n第二次大戦以降に、先進国の産業が発達し、そのため医療などが急速に発達したことで、先進国・発展途上国ともに死亡率(しぼうりつ、mortality rate あるいは death rate)が下がり、世界の人口が急激に増えました。\n中でも、アフリカや南アメリカやアジアの発展途上国では、急激に人口が増加しました。これら発展途上国の人口増加は、人口増加の割合の大きさから、 人口爆発(じんこう ばくはつ、英:human overpopulation) とも言われました。\nその後、先進国では、 出生率(しゅっしょうりつ/しゅっせいりつ 、英:birth rate)が下がり、人口の増加は落ち着きました。\nですが、発展途上国では、出生率があまり下がらずに死亡率だけが下がったので、発展途上国では人口の増加が落ち着かず、そのため食料生産が人口増に追いつかない地域も発展途上国には多くあります。\n途上国の人口増加で追いつかないのは、食料生産の他にも、水道や電気の普及も追いつかない地域が多いです。また病院や学校の普及も追いついていません。\n世界的な人口の増加によって、食料の不足や、環境問題の深刻化などが、心配されています。\n中華人民共和国では、中国国内での人口増への防止のため、1979年から、人口を減らすために子供の数を1組の夫婦につき子供1人にかぎる 一人っ子政策(ひとりっこ せいさく、中文:计划生育)を取り始めています。\n今後の予測では、世界の人口が、2050年には90億人を超えるという予想もあります。\nいっぽう先進国の、日本、ヨーロッパ、アメリカ合衆国などの先進国などでは、人口増加の割合が、発展途上国よりも小さくなっています。先進国の中には、人口が減少している国もあります。\n死亡率は低いですが、出生率も低いので、全体として、人口が増加しにくい傾向にあります。\n多くの先進国では、少子化が起きています。このため、先進国では、国の人口のうちの高齢者の割合が多くなっており、高齢化(こうれいか)が進んでいます。\n少子化と高齢化を合わせて、 少子高齢化(しょうし こうれいか)と言います。\n先進国の人口の年齢構成は、少子高齢化の傾向にあります。\n日本は、今後の予測では、少子高齢化に向かうと考えられています。\n多くの先進国では、現在の人口規模を維持しようと考えています。そのため、子育ての支援などを充実させて子供を生みやすい環境を整備したり、あるいは外国からの移民を受け入れて人口を維持しようとしています。ヨーロッパ諸国では、すでに移民を受け入れた国もあります。\n日本は少子化で人口減の傾向が予測されると言っても、人口密度で見た場合、日本の人口密度(約343人/km2)は、世界の平均(約50人)を大きく上回っています。ヨーロッパの工業国であり、ヨーロッパの中では人口密度の高い国であるドイツの人口密度の 230人/km2 よりも、またイギリスの人口密度 253人/km2 よりも、日本は人口密度が上回っています。\n各年代の人口をまとめて、年代別の人口が分かるように図示したものを人口ピラミッド(英:population pyramid あるいは age pyramid)と言います。\n日本での各国の人口ピラミッドの分類は、おもに、富士山型(ふじさん がた)、つりがね型、つぼ型という、3つの型(かた)に分けられる。\n発展途上国では、死亡率の高さから、あるいは死亡への不安から、出生率が高くなりやすく、富士山型が多く見られる。\nいっぽう、先進国では、死亡率・出生率がともに低く、つぼ型 か つりがね型 の傾向を示す。\nそれぞれの型の特徴を示す。\n死亡率が高く、出生率も高い国で見られる。いわゆる「多産多死」(たざん たし)。年少者の割合が多い。発展途上国に多い。アフリカの多くの国にあてはまる。\n人口ピラミッドが富士山型の国はエチオピア、インド、ブラジルなど。\nもし、医療や栄養状況などが改善して死亡率が下がれば、今後は人口が増えるだろうと予測される。あるいは、すでに人口が増加傾向の国も多い。\n死亡率が低く、出生率も低い。いわゆる「少産少死」(しょうさん しょうし)。ヨーロッパの先進国に多い。今後は人口が増えもしなければ減りもせず、人口が安定しつづける可能性が高い。このため、高齢者への年金や介護などの社会保障などの負担も今後は増えもせず減りもせず、労働者の人口も今後は増えもせず減りもせず、したがって経済も安定しやすいので、経済発展に有利である。\nフランスやアルゼンチンなどが、つりがね型にあたる。\n死亡率が低く、出生率も低い。いわゆる「少産少死」(しょうさん しょうし)。つりがね型よりも、出生率が、より低い。いわゆる、少子高齢化。\n高齢者の年金や介護などの社会保障などの負担の割合が大きくなりやすい。今後の人口は、減っていくだろうと予測される。\n一部の先進国で見られやすい。\n日本やドイツ、ギリシャ、イタリア、スペインなどが、つぼ型に当たる。\nなお、「高齢者」(こうれいしゃ)の定義は、国や国際機関ごとに異なる場合があり、国際連合(こくさいれんごう)では60歳以上を高齢者としており、国連の世界保健機関 (WHO) の定義では、65歳以上の人のことを高齢者としている。\n日本の法律では、65歳以上を高齢者とするのが一般である。\n日本では、0歳~14歳を年少人口,15歳~64歳を生産年齢人口,65歳以上を老年人口に区分する。\n日本の人口は、平野や平地などに集中しています。なかでも、東京・大阪・名古屋の三大都市圏(さんだい としけん)を始めとした日本各地の都市部に人口が集中しています。東京・大阪・名古屋の三大都市圏だけでも、日本の人口の約4割以上が集中しています。\n東京・大阪・名古屋とも、太平洋側にある都市です。日本の人口は、特に太平洋側の平地に集中しています。この東京・大阪・名古屋と、九州の福岡をむすぶ、帯状の地帯を、太平洋ベルトと言います。\n太平洋ベルト以外の東北や北海道などの地方でも、札幌や仙台などの地方都市に、その地方の人口が集中している。\n高度経済成長期の時代に、主に人々が仕事を求めて、人口が都市や周辺の地域に移動しました。\n現在でも、都市では仕事が多いので、昔ほどではないが、いまだに人口が都市や周辺地域に集まっています。\n都市では、人口の過密により、交通渋滞(こうつう じゅうたい)や住宅難、ごみ問題、大気汚染などの問題があります。\nそれでも都市に移住する人や、都市に住み続ける人が多いのが現状です。\n都心では、土地が不足したので、都心ではなく周辺の郊外に、農村などから移住する人も増えました。\nまた、企業の工場の用地なども、都心では不足したので、工場が郊外や、さらにその外側の地域に進出したりすることも増えました。\n1980年代ごろ、景気の加熱により、東京都心の土地の値段が上がりすぎたり、土地が不足したので、周辺の郊外が住宅地として開発されて、周辺に人口が流れるドーナツ化現象が置きました。ですが、1990年代ごろに都心の土地の値段が下がったので、2000年ごろからは、ふたたび都心の人口が増える傾向にあります。\nかつて1970年代、1980年代ごろに、都心の郊外が開発されたころに、人口が急激に増えたので、学校などの社会的な施設が不足したりするという事態が置きました。\n近年の都心では、高層マンションなどが多く建てられるようになり、高層マンションに移住する若い世代が増えましたが、学校などが不足する傾向にあります。\nいっぽう、かつて1960年代ごろに開発された郊外のニュータウンなどでは、今では人口の高齢化や、住宅の老朽化により、いわば「オールドタウン」とでも言うような状況に、おちいっている地域もあります。\nニュータウンや新興住宅地などとして1970年代ごろまでに開発された郊外の住宅地も、開発される以前は農村だった場合もあります。\nいっぽう、農村や山間部などでは、あまり仕事が無く、仕事も限られ、生活も不便であり、農村などでは人口が流出したりして、人口が減る、過疎化(かそ か)が進みました。今でも、農村などは過疎化が進んでいます。今の過疎化では、人口の移動とは別に、国全体の少子高齢化などによる人口減少もあります。一般に農村など過疎化している地域では、高齢化も進んでいます。\n過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって維持が困難になっている集落(しゅうらく)のことを、限界集落(げんかい しゅうらく)と言います。\n多くの過疎の農村などは、自分たちの村を維持しようとしているので、人口を増やすために町おこし・村おこしなどの対策を取ります。\n過疎地域での土地の安さを利用して、企業の工場などを誘致している地域もあります。\n過疎の地域では、土地の値段は安いですが、産業があまり盛んで無いので、仕事の賃金が低かったり、そもそも就職先が少ないという問題もありえます。過疎化した地域では、鉄道やバスなどの交通網が廃止されることもあります。\n老年人口が7%を超えている社会を、高齢化社会といいます。日本では、近年(2012年)では、老年人口が約24%である。\n現在の日本は、世界の中でも高齢化がすすんでいる国だが、1980年代ごろは、あまり高齢化が進んでいなくて若い世代が多かった。\n日本では、戦後の1947年〜1949年ころのベビーブーム(英語:baby boom [1][2]))により、若い世代が多く、人口も増加していった。\n医療の発達や栄養状況の改善などにより平均寿命(へいきん じゅみょう)は伸びたので高齢者は増えていったが、それ以上の割合で子供が生まれたので、社会の高齢化には、ならなかった。\nなお、1947年〜1949年ころのベビーブームに生まれた世代を「団塊の世代」(だんかい の せだい)という。\n1950年代以降は、ベビーブームほどの多産化は落ち着いて出生率が下がったが、その後の好景気もあり、1970年代まで、多産化の傾向と、それによる人口増は続いた。\nそして、1970年〜1980年ごろからは、人口が増えつつも少子化が進みはじめた。ついに、2005年ごろから、人口が減り始めた。\n今(2014年に記述。)も少子化が続いていることで、近年になって急激に高齢化が進んでいる。\n日本の人口は、もし単純に減少のペースが、今のようなペースで人口が減少した場合、今後の予測の一つでは2050年には人口1億人〜8000万人ほどになるという予想もある。\n高齢化により、老年人口を支える福祉の財源の負担が心配されています。また、人口減と高齢化により、労働力人口が今後は減ることが予測されています。日本の多くの有権者は、少子化を防ごうと考えており、そのため日本政府は少子化を防ぐために子供を生みやすい環境を整備するなどの対策を取っています。\n現在の日本の、1人あたりの女性が生涯(しょうがい)に産む子供の数である出生率(合計特殊出生率)は、およそ 1.39人(2011年)です。\nなお、合計特殊出生率が2.07を下回ると、人口が減少していくと言われています(※ 日本文教出版の公民の教科書)。\n人々が、あまり多くの子供を作らなくなった少子化の原因には、色々な説がありますが、高度経済成長の終了などによる経済情勢の悪化や、人口の過密などが主な原因と考えられます。\n少子化により子供の割合は減ったものの、働く女性は増加しており、そのため乳幼児を預かってもらう保護施設や保育園などの必要性が高まっており、これらの保育施設は不足の傾向にあります。\n経済の国際競争による、日本の経済情勢の悪化により、家庭の収入を増やすために働く女性も増える傾向にあります。\nもっとも、2050年以降は人口が減るに連れて高齢者の人数も減るので、2050年以降は高齢化の割合は落ち着いていくとも考えられる。\n東京・大阪・名古屋などの都市圏などでは、若い世代の人口の流入も多く、あまり高齢化が進んでいない。いっぽう、東北や四国や中国地方の山陰(日本海側)、九州などで高齢化が進んでいる\n農村などでは人付き合いなどで高齢者などの立場が強くなりやすいので、農村での若い人の立場の低さを若い人がきらって、人口が農村から都会に流出するという面もあるだろう。\n産業の構造も、高齢化にともない変わる。若い世代を対象にした産業は不利になり、年齢の高い世代を対象にした産業が有利になると考えられている。また、過疎地域の小学校・中学校などは、少子化により、過疎地域では生徒数が減ったり、生徒がいなくなったりしており、小学校などの統廃合が進んでいる。\n日本は2014年の現在は高齢化であり人口ピラミッドもつぼ型だが、かつて1930年〜1950年ごろの日本は人口ピラミッドが富士山型の国だった。\n今の高齢者は、この1950年ごろの当時は若かった世代が、今では年を取って高齢者になっている面もある。\n明治以降の日本の歴史では、人口ピラミッドが富士山型の時代が1960年ごろまで長く続いたので、日本の多くの産業や制度は、子供や若者の人口での割合が多いことを前提にしている。\n江戸時代の後半の、日本の人口は約3000万人です。その後、明治時代に開国をして、文明が発達するにつれて人口も増加する時代が明治時代・大正時代・昭和時代と、しばらく続きました。人口が増加するに連れて、住宅地などが足りなくなり、今まで人が住んでいなかった山間部などにも人が移住するようになった歴史もあります。\n「一般人口統計 2013年版」によると、2010年(平成22年)の主要国の高齢化率は以下のとおりである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E6%AF%94%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E4%BA%BA%E5%8F%A3"} {"text": "原油(石油)、石炭、鉄鉱石、銅、天然ガスなど、地下から得られる資源を 鉱産資源(こうさんしげん) という。\n鉱産資源には、鉄鉱石のように工業の金属の原料になるものと、原油や石炭や天然ガスなどのように主にエネルギー源になるものがある。\n工業の金属の原料になる資源には、鉄を得られる鉄鉱石の他にも、アルミニウムの原料のボーキサイト(bauxite)や、銅、ほかにも金や銀などの金属などがある。\n・ アメリカや中国は鉱産資源の埋蔵量が多いが、自国の鉱産資源はあまり使わず、外国から鉱産資源を輸入している。\n・ 鉱産資源は、その資源が分布している地域に、かたよりが多い。原油の埋蔵量は、アラビア半島周辺などの西アジアに多い。石炭は、比較的、広い地域に分布している。\n鉱産資源の消費も、地域による かたより があり、アメリカ合衆国や日本などの工業先進国で資源の消費が多いです。\n発展途上国でも、人口の増加や産業の発達、自動車や家電製品などの普及にともない、資源の消費が増えています。\n日本では、鉱産資源を輸入しています。実は日本でも、わずかながら石炭などの一部の鉱産資源は産出するのですが、あまり埋蔵量が多くなく、採掘に費用がかかり、オーストラリアなどから石炭を輸入したほうが安いので、日本ではそれらの資源を輸入しています。\nエネルギーの供給源の種類は、国によって、割合が大きく異なる。\nフランスでは、原子力発電がエネルギー源としてもっとも多く、原子力発電が4割に近い。いっぽう、日本では、石油が、エネルギーの4割に近い。日本はエネルギー資源の80%ちかくを輸入にたよっている。\n日本で使われてる石炭と鉄鉱石は、主にオーストラリアから輸入されています。日本は、原油を主にサウジアラビアとアラブ首長国連邦から輸入しています。\n日本では、急なエネルギー不足にそなえて、国家が石油などの資源を、九州や北海道などに備蓄しています。そのための備蓄基地(びちく きち)が日本にあります。日本では、石油は200日ぶんの備蓄が、備蓄基地にあります(2016年度)。\n多くの国で、電気機械の発達により、エネルギーを電力にして使用する割合が増えている。このため、発電も重要になっている。\n発電方法は古くは、ダムなどに水を貯めて、水の落差で水車を回して発電する 水力発電(すいりょく はつでん、hydroelectricity または hydroelectric generation) が主流でした。ですが、電力使用量の増加により、水力だけでは足りなくなり、石炭や石油などの燃料を燃やして、水を沸かして蒸気にして、蒸気でタービンを回すという 火力発電 が、多くの先進国で主流になりました。\n第二次大戦後、 原子力発電(英: nuclear electricity generation) が開発されると、国によっては原子力発電の電力生産の割合が大きくなりました。\n発電所は、その発電方法の特徴から、建設されている場所にかたよりがあります。\nたとえば水力発電にはダムが必要なので、山間部に水力発電所が作られます。\nいっぽう、火力発電所は、燃料の石油や石炭・天然ガスを海外から輸入するため、臨海部(りんかいぶ)に火力発電所がある場合が多いです。\nまた、原子力発電所は、冷却水が大量に必要なため、日本では海水を冷却水として使うため、原子力発電所も臨海部に立地している場合が多いです。\n火力発電の燃料である石油や石炭などの資源は有限の資源です。また、化石資源など燃料を燃やすことで、大気中の二酸化炭素を増やしてしまい、地球温暖化の原因にもなります。二酸化炭素は、地球温暖化の原因物質と考えられており、温室効果ガス(おんしつこうかガス、英: greenhouse gas、GHG)とも、よばれています。\nなお、原子力発電所の熱源の原料は、ウランです。ウランから出る放射線を熱源として利用して、蒸気をわかし、タービンを回して発電する仕組みです。\n原子力発電所は、放射性廃棄物を産出しますが、日本ではその最終処分ができません。原子力発電は火力発電とは違い、石油などの化石燃料を使用していないので、温室効果ガスを出しません。原子力発電所からは、トリチウムや放射性キセノンなどの放射性物質が排出されます。また、原子炉の定期点検のために、放射線被ばくを伴う作業が必要です。\n水力発電の建設は、山間部をダムとして開発しなければいかないので、建設できる場所にはかぎりがあります。\n火力や原子力には、そのための資源の埋蔵量に、かぎりがあります。\n火力発電を行うための石油や石炭などの燃料には埋蔵量にかぎりがあります。原子力発電を行うための原料のウラン(ドイツ語: Uran)にも、埋蔵量にかぎりがあります。\n将来的な資源の枯渇により、現状の発電方式のままでは、必要な電力エネルギーを確保できなくなるおそれが高いので、他の発電方法の開発もされています。\nこのため、 風力発電(Wind power) や、 太陽光発電 (たいようこうはつでん、photovoltaics、Solar Photovoltaics、略してPVとも)、太陽熱発電、 地熱発電(ちねつはつでん、じねつはつでん、英: geothermal power) などの新方式の発電が開発がされています。\n風力は風が吹くかぎり、いつまでも発電できます。太陽光発電・太陽熱発電は、太陽の光があるかぎり、いつまでも発電できます。なので、風力発電や太陽光発電など、これらの発電および、発電によって得られたエネルギーを「再生可能エネルギー」(英:renewable energy)などとも言います。\nしかし、あまり発電量が大きくなく、また発電量が安定もしていないという、安定供給の技術的な問題があります。\n風力発電は、風が吹かなければ発電できません。太陽光・太陽熱発電は、くもり や 雨などで太陽の光が弱まれば、発電量が落ちます。\nとは言え、火力発電とちがい、風力発電や太陽熱発電では燃料を必要とせず、ほぼ永久に発電できるので、将来的には石油などの資源の枯渇にともない、風力発電や太陽熱発電などが普及していく可能性が考えられます。\n地熱発電は、地下深くのマグマによって熱せられた地下水をもとに、熱水や蒸気によって発電を行う発電です。\n日本では、大分県(おおいたけん)などの温泉の多い地域で、地熱発電の開発が行われています。\nたとえば、大分県九重町(ここのえ まち)の八丁原(はっちょうばる)に地熱発電所があります。\n地熱発電の原理では、地下のマグマが必要です。温泉も、地下のマグマが地下水を暖めることで作られていると考えられています。\n(※ 温泉と地熱発電を、関連づけて覚えること。別府(べっぷ)温泉も、湯布院(ゆふいん)も、大分県の温泉である。)\nなお、これら風力・太陽光・地熱など、他の方式の発電にも、火力・原子力ほどではなくても、環境への影響があります。\n火力発電・水力発電・原子力発電は、どの発電方式でも、環境への影響があります。(水力発電を建設するには、ダムを作るために、山間の森林や集落などを無くさなければならない。)\n新型の発電方式であっても、発電設備のために場所を広く使いますので、それによる環境への影響が必ずあります。\nそのような問題があっても、日本では、なるべく発電方法の種類を増やしたほうが国のエネルギー政策にとって安全だろうという考えと、長期的に見れば石油やウランはいつかは枯渇するので太陽光発電などの再生可能エネルギーに切り替える必要があるという考えのもと、日本では新方式の発電の開発も進められています。\n日本の発電量の3割を原子力発電が占めている。(2009年)\n水力発電が約10%、 火力発電が約60%、原子力発電が約30% である。2011年の東日本大震災での原子力発電所の事故により、今後の原子力政策のありかたの議論が高まっている。\n近年(西暦2013年)の日本は電力は、70%くらいを火力発電で、まかなっています。原子力は20%くらいです。水力は7%くらいです。\n日本では1970年代の オイルショック(石油危機、英:oil crisis) による石油不足の反省などから、エネルギー源の確保の観点から石油だけでなく天然ガスなどエネルギー源を多様化する政策が日本では取られてきた。(「オイル・ショック」は和製英語)\nそのエネルギー源多様化の政策の一環で、ウランも発電用エネルギー源として輸入されてきた。\n石油や石炭など資源の埋蔵量には限りがあるので、今後に採掘できる年月である可採年数(かさい ねんすう、minable years、または R/P ratio、reserves/production ratio)は限られている。\n限りある資源は、何もエネルギー資源だけに限らず、鉄鉱石など鉱物の埋蔵量にも限りがある。\nなので、鉱産資源を用いた製品を リサイクル(Recycle) していくことが必要である。\nパソコンや携帯電話などの廃棄物などの中には、金や銀や貴金属などがある場合があるので、都市鉱山(とし こうざん、英語:urban mine)として注目されています。\n私達には何ができるでしょう。例えば、スーパーで袋を貰わない、ほかにも基本的なことだけど、ゴミの分別があります。\nそういったことを皆さんで行えば、きっといつかこの地球は報われるでしょう。\nたとえば買い物をするときは、マイバッグなどのカバンをつかうことで、ビニールぶくろをへらせます。洗剤(せんざい)などを買うときは、つめかえようの洗剤を買うことで、容器のおもさをへらせます。\nいらなくなったものは、人にあげたりすることで、そのものが使いつづけられるようにすることでも、あります。洋服などの布は、切れなくなても、雑巾や布巾の材料にできますし、機械などの油をふきとるための ウエス という布地の材料にもなります。\n空き缶などは、分別してゴミにだすことで、缶の資源として再利用してもらえます。ペットボトルも分別してゴミに出すことで再利用してもらえます。\n食品のトレーなども、スーパーの入り口などにある回収ボックス(かいしゅうボックス)に出すことで再利用してもらえます。\n新聞紙や雑誌などの古紙などは、地元のゴミ収集所の、古紙回収の日に、分別して出すことで再利用してもらえます。\n電気は 発電所などで、つくられています。では、そもそも発電所では、どうやって電気を作っているのでしょうか?\n火力発電所や 水力発電所や 原子力発電所などがありますが、そもそも火力や水力で、なんで発電が出来るのでしょうか?\nじつは、磁石をうごかすと、電気が発生します。くわしくは、理科で習います。\n磁石というのは、N極とS極にわかれている、あの磁石です。鉄をひきつける、あの磁石です。\nあとは、火力なり水力なり、なにかの動力で、磁石を動かせば、電気が発生するという仕組みで、これらの火力・水力・原子力の発電所は発電しているのです。\n火力発電所では、石油や石炭や天然ガスを燃やした熱で、水を沸かして蒸気にして、その蒸気の力を動力にしてタービンを回しています。あとは、このタービンに磁石をくっつければ、発電をするという仕組みです。\n火力発電所は、火で水を沸かすという仕組みなのです。なので日本の場合、海ぞいに火力発電所が立っている場合が多いです。海ぞいは水が多いからです。また、海沿いのほうが、内陸よりも、燃料の重油などを輸送しやすいのです。火力発電所は、大都市の近くの臨海部につくられています。消費地の都市に近いことも理由の一つです。\n原子力発電所も、じつは、水をわかして蒸気にして、その蒸気でタービン(英語:turbine)を回しています。\n原子力は、水を熱する手段なのです。\nウラン という物質の、原子核(げんしかく)が分裂するときに、熱を発生します。その熱を使って、水を沸かしているのです。原子核が分裂することを 核分裂(かく ぶんれつ) といいます。\n原子力発電所では、ウランの核分裂の熱で、水をわかして蒸気にして、蒸気で、タービンという水車のようなものを回して、発電しています。\n原子力発電では、ウランを冷やすための冷却水(れいきゃくすい)が大量に必要です。だから建設場所は、海水を冷却水として使える臨海部に、発電所が作られます。また、万が一の原発事故への対策から、都心からは離れた地方に作られるのが普通です。このため、都市からはなれた場所の海岸部に、原子力発電所は多いです。福井県の若狭湾(わかさわん)ぞいや、福島県の沿岸部に、原子力発電所は多いです。\n原子力発電には、放射線を出す放射性廃棄物(ほうしゃせい はいきぶつ)が作られるという問題点があります。\n水力発電所は、ダム(英: Dam)などから水を落としたときの力で、タービンを回します。\n山間部のダムの近くに、水力発電所がつくられるのが普通です。\nダムが山間部にしか作れないので、水力発電所も山間部に多いです。\n・ 風力発電は、風でタービンをまわして、発電する方式です。\n・ 地熱発電では、地熱で蒸気をわかして、タービンを回して発電します。\n・ 太陽光発電は、太陽電池に、太陽の光をあてて発電します。また、夜間は日の光が当たらないので発電できません。太陽光発電では、タービンを回していません。他のタービンを回して磁石で発電する方式とは、太陽光発電は違う原理です。\nサトウキビなどからエタノール(エチルアルコール)を作り、そのエタノールを燃料にするバイオエタノール(バイオ燃料 、Bioethanol)がある。\n当然、サトウキビを燃料として転用した分だけ食料としてのサトウキビの生産量は減る。なので、燃料として増産できる量には限りがある。\n水素ガスなどからエネルギーを取り出せる燃料電池は、べつに発電方法では無い。電池は、発電した電力を蓄える装置でしかない。水素ガスを作るのに、べつの電力が必要になる。水素ガスを作るための電力に、太陽光発電などの他の再生可能エネルギーを用いて、組み合わせる技術が期待されている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E6%AF%94%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E8%B3%87%E6%BA%90"} {"text": "世界では18世紀後半から始まった 産業革命(さんぎょう かくめい)以降、急速に産業が発展していった。その結果、現代では自動車でいつでも好きな場所へ移動できたり、冷房の普及で夏場も快適に過ごせるなど、私たちの暮らしはとても豊かになった。\nしかし、人類による資源の大量消費は地球環境に深刻な問題を起こしつつある。\nなどの問題がある。\n地球温暖化(ちきゅう おんだんか、英:global warming) の主な原因は、石油などの化石燃料(かせき ねんりょう、英:fossil fuel)の大量使用によって、排気にふくまれる二酸化炭素(にさんかたんそ)により、空気中の二酸化炭素が増加したためと考えられている。\n国連では温暖化の防止のため、1992年に国連環境開発会議(地球サミット)がブラジルのリオデジャネイロで開かれ、地球サミットで条約として地球温暖化防止条約( 気候変動枠組み(わくぐみ)条約)が採択された。\nまた1997年には、国連の会議(地球温暖化防止 京都会議)で,温室効果ガスの削減目標を定めた京都議定書(きょうとぎていしょ)が採択された。\nしかし、中国などの発展途上国と見なされていた国には、削減が義務づけられていない。\nまた、アメリカは当時に会議から離脱した。\n国別の排出量では2009年では、中国が1位であり、アメリカが2位である。\nこのような理由のため、京都議定書の実効性が疑問視されている。\n(削減義務を負わない)発展途上国と見なされた国の反論は、「地球環境問題を引き起こした原因は、主に先進国の活動が原因であり、われわれ途上国に負担を負わせるのはおかしい。」というような反論を途上国している。\n海抜の低いツバル、モルディブ、キリバスの国は、海水面が上がれば国土の多くが水没してしまう恐れがある。\n南極の大陸上の氷や氷河の氷が溶ければ、海面上昇。低地が水没する。なお、北極の氷が溶けても、もともと北極海に浮かんでいる氷が水に変わるだけなので、海面は上昇しない。\n温暖化によって、マラリアを媒介する蚊のハマダラカの生息域が広がる恐れが有る。\nなお、二酸化炭素のことを化学式から CO2(シー・オーツー) とも言う。Cが炭素(英:carbon カーボン)のことで、Oが酸素(英:Oxygen オキシジェン)および酸化(Oxidation オキシデイション)のことである。\n主に発展途上国で、耕作や放牧や工業化を目的にした森林伐採などで、森林面積が減少している。温暖化の原因にもなっていると考えられている。また、動物の生息域が減るので、生態系の保護の観点からも、森林破壊が問題である。\nなお、温暖化の化石燃料以外の他の原因として、森林伐採などによる森林の減少によって、植物の光合成(こうごうせい)による二酸化炭素の吸収量が減ったのも理由の一つでは、という説もある。\nもともと植物の少ない地域で、その地域が砂漠になる現象が世界の各地で起きている。原因は、過度の農業化や周辺の森林伐採などにより、\n土壌の保水性が失われたことなどである。\n酸性雨の原因は、化石燃料の排気にふくまれる窒素酸化物などの物質が、雨の酸性化の原因と考えられている。酸性雨により、森林が枯れたり、湖や川の魚が死んだりする場合もある。\nフロンガスという物質が原因で、オゾン層が破壊されることが1980年代に分かった。\n地球環境問題は一国だけの問題ではなく、複数の国々、さらに世界中全ての国に影響を与える問題である。このため、1970年代から国際会議でも取り上げられる重大なテーマとなった。\n地球環境問題についての最初の国際会議は1972年にスウェーデンのストックホルムで開かれた国連人間環境会議(ストックホルム会議)である。このとき「かけがえのない地球」というキャッチフレーズが用いられた。\n1992年にはブラジルのリオデジャネイロで国連地球サミットが開かれた。( ※ 正式名称は「環境と開発に関する国際連合会議」。ただし、「リオ会議」「国際連合環境開発会議」などとも呼ばれる。 ) 国連地球サミットにおいて、「持続可能な開発」という考え方が示された。\n1997年には京都で開かれた京都会議( ※ 正式名称は「第3回 気候変動枠組(わくぐみ)条約 締約国(ていやくこく)会議」 )において京都議定書(きょうと ぎていしょ)が締結され、世界の主要国が温室効果ガスの削減を求められるようになった。議定書の発効は2005年からである。\nこのようにして世界の国々が地球環境問題に対して一致して取り組むことが求められるようになったが、京都議定書からのアメリカの離脱、中国の経済発展にともなう温室効果ガス排出量の急増、発展途上国の経済発展と環境への影響の増大などに見られるように、各国の事情や利害の対立から一致した行動にはほど遠いという問題は解決されていない。\nヨーロッパでは陸続きの国が多いので、一つの国の環境問題が周囲の国に影響を与えることも大きく、環境問題が外交問題になりかねないこともあり、ヨーロッパでは1970年代ごろから環境問題の取り組みが積極的に行われてきた。\n工場などからでる排水や排煙などの処理が不十分だと、排水・排煙にふくまれる有害物質により、周辺の環境が汚染され、近隣の住民など多くの人の健康に被害が出る場合がある。このように、産業活動による多くの人への健康への悪影響を 公害(こうがい、英:pollution ) という。\n日本での公害は、第二次大戦の前から知られていたが、戦後の高度経済成長期に日本の全国各地が急激に工業化していくにつれて、さまざまな公害が全国各地で発生し、公害の被害が目立ち始めた。\n公害とは、主に、以下の7つの公害が典型的である。\n環境基本法では、この7つの種類の公害を、典型七公害(てんけい ななこうがい)としている。\n日本でも、かつて、大きな公害をおこしたことがある。四大公害(よんだい こうがい)として、水俣病(みなまたびょう)、四日市ぜんそく(よっかいち ぜんそく)、イタイイタイ病、 新潟水俣病(にいがた みなまたびょう)の4つの公害が、とくに被害が大きい公害として有名である。\n化学工場の排水にふくまれていた水銀および水銀化合物(有機水銀、メチル水銀)が原因でおきた病気です。水銀は猛毒(もうどく)なので、この水銀に汚染された水を飲んだり、水銀に汚染された海水で育った魚や貝を食べたりすると、病気になります。体が水銀におかされると、神経細胞が破壊され、手足がしびれたり、うごかなくなります。\n熊本県の水俣(みなまた)という地域や、水俣湾(みなまたわん)の周辺で、1953年ごろに新聞報道などで有名になった公害なので、水俣病(みなまたびょう)と言います。\nなお、有名になったのは1953年ごろからだが、それ以前の1940年代ごろから、水俣病とおぼしき症例が知られている。\n人間以外にも、猫や鳥など、水銀に汚染された魚を食べたり水を飲んだりしたと思われる動物の不審死がいくつもあり、当初は、水俣病の原因もよく分かっていなかったので、しびれている猫が踊って(おどって)るようにも見えたことから、当初は「猫おどり病」(ねこおどりびょう)とも言われた。\n三重県の四日市市は石油化学工業で、1940年ごろから、さかえていました。多くの石油化学工場があつまった 石油化学コンビナート といわれる工場のあつまりが、あります。\n1950年ごろから、この周辺では、ぜんそくや気管支炎(きかんしえん)など、のどをいためる病気の人が、ふえてきました。また、この近くの海でとれた魚は油くさい、と言われたりもしました。\n四日市ぜんそくの原因の物質は 亜硫酸ガス(ありゅうさんガス) だということが、今では分かっています。\nどうも、石油化学コンビナートから出る、けむりや排水(はいすい)が、環境に悪い影響をあたえているらしいと言うことが1960年ころから言われはじめ、社会問題になりました。\nこのうち、とくに ぜんそく の被害が有名なので、この四日市(よっかいち)でおきた公害を 四日市ぜんそく というのです。\n四日市ぜんそくの、ぜんそくの原因は、今ではわかっており、けむりにふくまれる亜硫酸ガス(ありゅうさんガス)や窒素酸化物(ちっそ さんかぶつ)が、おもな原因だと分かっています。\n1955年ごろ富山県の 神通川(じんづうがわ) の周辺で起きた病気であり、体の ふしぶし が痛くなり、骨が折れやすくなる病気です。\nカドミウム が原因です。カドミウムは猛毒です。\n川の上流にある鉱山から流れ出る廃水にカドミウムがふくまれており、その廃水を飲んだ人や、廃水に汚染された米などの農産物などを食べた人に、被害が出ました。\n1964年ごろに新潟県の 阿賀野川(あがのがわ) の流域で起きた、水銀および水銀化合物による公害です。\n化学工場の排水中の水銀化合物が原因です。\n症状は、熊本県の水俣病と同じです。\n第二水俣病(だいに みなまたびょう)とも言われます。\nこれらの公害病の原因の物質を排出した会社や工場に対し、住民らが国に裁判を、訴え(うったえ)でます。\n1960年代の後半に裁判が起こされ、1970年代の前半の1971年〜1973年ごろに判決が出ます。\n判決は、企業側の責任を認め、企業側は被害住民に 賠償金(ばいしょうきん) を支払うように命じた判決が出ます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E6%AF%94%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E7%92%B0%E5%A2%83%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "農業は、世界中の多くの国で行われています。いっぽう工業は、世界で見ると、工業の発達している国と、あまり発達していない国があります。工業は、ヨーロッパやアメリカ、日本で、とくに さかんです。\n産業には、農林水産業や工業のほかにも、商業やサービス業、金融業など、多くの産業があります。\n産業の分け方では、農林水産業を 第一次産業 と言います。工業や建設業を 第二次産業 と言います。そして、商業、サービス業、金融業、運輸業などを 第三次産業 と言います。\n近年(2014年に記述)の日本では第三次産業の就業者が約7割であり、もっとも多いです。\n第二次大戦前の日本では、稲作による農業を中心とした第一次産業が就業者の過半数を超えていましたが、第二次大戦後の経済成長で工業化が進み、第二次産業と第三次産業の就業者が増えていきました。\nその後、1970年代ごろから、石油危機や円高で、日本の工業が不利になり、また、韓国や中国・東南アジアなども工業力をつけ始め、工業の国際競争が厳しさを増し、日本の産業の中心が少しずつ移り変わり、第二次産業から第三次産業へと日本の産業の中心が移っていきました。\n日本に限らず、多くの国でも、産業の中心が  第一次産業 → 第二次産業 → 第三次産業  と移り変わっていく、似たような変化をする傾向があります。\n農業の生産品は、地域の特徴があり、地域ごとに違っています。たとえば、東南アジアでは稲作がさかんですが、これは米の栽培には多くの水と温暖な気候が必要だからです。\n日本では、産業の中心が第三次産業、第二次産業に移ったこともあり、第一次産業を目指す若者が少なくなっており、農業などで後継者不足が起きています。また、農業の就業者の高齢化も進んでいます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E6%AF%94%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E7%94%A3%E6%A5%AD"} {"text": "農業の生産品は、地域の特徴があり、地域ごとに違っている。たとえば、東南アジアでは稲作がさかんであるが、これは米の栽培には多くの水と温暖な気候が必要だからである。\n小麦は、世界各地で作られている。\n四国地方や九州地方などの温かい地方では、温かい気候を利用して、他の地方では春や夏にならないと作れない作物を早い季節に作る促成栽培(そくせい さいばい)が、さかんです。高知県(四国)や宮崎県(九州)で、促成栽培がさかんです。\n長野県の高原や、群馬県の高原、北海道などでは、その地方が寒いことを利用して、他の地域よりも出荷を遅らせる場合もあります。\nこのように、寒い土地の気候を利用して夏物の野菜の出荷を秋にずらすことを、 抑制栽培(よくせい さいばい) といいます。\n群馬県では、高原で作った抑制栽培の野菜の 高原野菜(こうげん やさい)が有名です。群馬県の嬬恋村(つまごいむら)は、キャベツなどの高原野菜で有名です。長野県・山梨県の八ヶ岳(やつがだけ)も、高原野菜で有名です。\nキャベツのほか、レタス、白菜などが、高原野菜として有名です。\nこれらの栽培方法(促成栽培、抑制栽培)では、他の地域が作れない季節なので、農家からすれば競争相手が減り、販売価格が高くても売りさばく事ができます。\nこれらの栽培方法をするとき、ビニールハウスやガラス温室などの施設を用いている場合もあり、このような施設を用いている場合に、施設園芸農業(しせつ えんげい のうぎょう)と呼ぶ場合も、あります。\n食料自給率(しょくりょう じきゅうりつ)が低いです。\n国内産の農産物は価格が高く、そのためやすい外国産の輸入農産物に押されています。多くの農産物では、価格の安さでは海外産に日本産はかなわないので、日本独自の品質の高さや安全性の高い農産物を作って対抗しています。\nまた、農業を継ぐ(つぐ)、「跡継ぎ」(あとつぎ)の若い人が少なく 高齢化(こうれいか)が、進んで(すすんで)います。\n耕地がせまいのも問題です。農家1戸あたりの耕地面積は1.5ha(ヘクタール)です。\n1haは1辺が100mの正方形の面積です。つまり、1ha=100m×100m=10000m2です。\n1ha=100a(アール)です。\n日本の国土は山が多いです。都市部に近い地域の平野では、住宅地や工業用地にも使われているので、ますます農地は少なくなります。\n日本の耕地では、稲の栽培が、もっとも多いです。稲作は、日本では東北地方や北陸地方で生産がさかんです。\n耕地面積の38%くらいが稲です。つづいて飼料用作物が24%で、野菜が13%で、果物が6%、麦が6%です。\n耕地面積は、じっさいに植えた農地の面積です。いっぽう、年に二回植えたら2倍として計算した面積を作付面積(さくつけ めんせき)といいます。\n作付面積では、野菜のほうが米よりも大きくなります。\n米の生産額は、現在では、21%くらいで、野菜の25%よりも少ないです。日本では野菜の生産額は、米よりも多いです。\n昔は、コメの方が生産額が多かったです。1980年では、米のほうが生産額が上でした。今では、順位が変わっているので、注意してください。\n日本でコメ作りがさかんな地域は東北と北陸です。新潟や秋田で、稲作が、とくに多いです。宮城や福島や青森などでも、稲作がさかんです。\n北海道も農地が大きいので、米の生産量は多いです。\n東北と北陸をあわせて、日本国内の米の生産量の40%ちかくを生産しています。この東北と北陸は、「日本の米倉」(こめぐら)と呼ばれています。\n東北や北陸で米の生産が多い理由としては、\nなどの理由です。\n米の消費量は、へってきています。\n第ニ次大戦後の昭和のなかごろから、食事の洋風化や多様化がすすみ、それにともなって米の消費もへりました。\n米は、1942年(第二次世界大戦中)に成立した食料管理法((しょくりょうかんりほう)で、政府が農家から米を買い上げて、米の値段(米価「べいか」という。)を安定させ、農家のくらしをささえていました。ですが、戦後の食生活の変化により、だんだん生産があまるようになり、そのため買い上げている国の財政にも負担になりました。\n1970年ごろから、政府は、農家に米の生産をへらすよう、命令をだしました。これが米の生産調整(せいさん ちょうせい)です。米の農地面積を減らすことを 減反(げんたん) ともいいます。\n政府は農家に、米をつくらず田を休ませる休耕(きゅうこう)や、米以外のほかの作物に栽培する作物をきりかえる 転作(てんさく) を、農家にすすめました。このように米の生産量を調整することを(米の)「生産調整」(せいさんちょうせい)または「減反」(げんたん)といいます。\n1995年には、古い食料管理法は廃止され、現在では、食料法(しょくりょうほう)に変わっている。\n(※ 範囲外?:) なお、食料管理法の廃止は、1995年に批准されたウルグアイラウンドのミニマムアクセス(最低輸入機会)とも関係している。(※ 参考文献: 清水書院『現代社会ライブラリーにようこそ 2018-19』)なお、さきほど「食料管理法」と書いたが、より厳密には「食糧管理法」である。\n果物は、その果物の種類ごとに、栽培に適している環境が違います。たとえば りんご は、すずしい所でよく育ちますが、みかんは温かい所でよく育ちます。このため、地域の気候など、地域の特性にあった果物が栽培されています。\n日本で果物の栽培がさかんな地域は、内陸の盆地や、山麓などの扇状地で、果樹の栽培がさかんです。\nりんごは、すずしい地域が、栽培に適しているので、青森県などで栽培されています。\nみかんは、あたたかい場所で、よく育ちます。このため、西日本に みかん の産地は多いです。愛媛県や和歌山県などが産地として有名です。\nぶどうは、気温が高く、雨の少ない、水はけの良い(=水が、たまりにくい)場所で、育ちやすいです。ぶどうの産地は、山梨県の甲府盆地が産地で有名です。甲府盆地の扇状地は、扇状地なので水はけも良いからです。ほかには、長野県や山形県も、ぶどう栽培のさかんな産地です。\n(果物は、他にも多くあるが、すべての種類を解説するのは時間がかかるので、他の果物は説明は省略する。\n野菜は、いたみやすいので、消費地の近くで生産されることが多い。\nこのため、東京に近い、茨城県や埼玉県や千葉県で、野菜づくりはさかんである。\n大阪や名古屋の周辺でも同様である。\nこのように、大都市の近くでおこなわれる農業を、 近郊農業(きんこう のうぎょう) という。\n日本の農家の総数は、2010年で、およそ252万戸です。\n農家のほとんどは、農家以外でも収入を得ている兼業農家(けんぎょうのうか)です。農家だけで収入を得ている専業農家(せんぎょうのうか)は少ないです。\n専業農家は、およそ41万戸である。(2013年に本文を執筆。)\n専業農家は総農家数の17%ていどです。今では、ほとんどは、兼業農家です。\n兼業農家のなかにも、農家での収入のほうが多い第一種兼業農家と、農家以外での収入が多い第二種兼業農家があります。いまでは、第二種兼業農家のほうが多いです。\n第一種種兼業農家が22万戸にたいし、第二種種兼業農家は95万戸で、第二種種兼業農家が総農家の37%をしめています。\n兼業農家が多い理由として、農業での収入が低いことです。耕地がせまいので、収入を増やすことも難しいのです。\n現在の日本の農業は機械化が進んでいます。アメリカ合衆国ほどの機械化ではありませんが、日本が現在は工業国なこともあり、コンバインなどの農業機械は、日本の多くの農家に普及しています。\n農家の中には収入を増やすために、機械をもっと多く買って使って生産性をあげようとする農家もいます。ですが機械を買ったり維持したりするのにも、お金はかかります。なので、なかなか収入がふえません。「機械化貧乏」(きかいか びんぼう)といって、機械を買うのに借りたお金や、機械を維持するのに必要なお金で、かえって貧乏になってしまうこともあります。\n広い地域が利用できる北海道や九州で、さかんです。ただし、牛乳用の酪農(らくのう)は、すずしい・寒い地域にかぎります。\n酪農では、群馬県あたりの山間部が、北海道よりも東京都市圏に近く、すずしいので、そのような東京に近くて、すずしい山間部などでも、酪農が行われる場合もある。\n日本では、第二次大戦前のころは、林業が さかんで、すぎ や ひのき などの木材が活用されていました。しかし、戦後は外国製の安い輸入木材との競争によって、日本の木材よりも外国の木材が多く使われるようになり、日本国内の林業は厳しくなり、また林業に従事する日本人も減りました。\n外国の林業の中には、一昔前は、環境保護のことを考えず、無理な過伐採を容認している国もありました。日本の木材は自然保護のことを考えて伐採されているので、なるべくなら日本の木材を用いることが、環境保護の観点では、良いかもしれません。\n1985年ごろから、日本の漁獲量が減っており、外国からの輸入が増えている。経済水域が1970年以降に設定されたことにより、日本の漁獲が厳しくなった。それまでは外国の海で魚を取る遠洋漁業を行っていた日本にとっては厳しくなった。\nまた、魚のとりすぎにより、世界的に漁獲量が減ってきている。魚の保護もあり、世界的に漁獲の制限が厳しくなってきている。\nこのような漁獲の厳しさがあるので、とる漁業よりも育てる漁業として、養殖(ようしょく)や、栽培漁業(さいばい ぎょぎょう)が重視されている。\n日本の近海は、暖流と寒流がぶつかる海域であり、良い漁場になっている。\n養殖とは、いけす などで魚や貝などを育てて、あとで食料などにするために、あとで取る仕事です。\nカキとノリは、ほとんどが養殖です。カキの養殖は、広島県(ひろしまわん)の広島湾(ひろしまわん)や、宮城県(みやぎけん)の松島湾(まつしまわん)での養殖が有名です。ワカメも、養殖が多いです。\nハマチの養殖や、マダイの養殖なども、あります。ハマチやマダイをそだてるエサは、イワシのすり身(すりみ)などです。このように、魚を養殖するために、ほかの小さな魚がつかわれる場合があります。\n逆に、養殖が難しい魚もいます。マグロは養殖が難しいのです。マグロは動きまわるので、いけす に ぶつかりやすく、傷ついてしまい、養殖がむずかしいのです。 養殖がしやすい水産物は、ワカメや、カキのような貝など、あまり動かない生き物です。\n養殖は海だけでなく、川や湖でも行われます。うなぎの養殖が、静岡県の浜名湖(はまなこ)で有名(ゆうめい)です。\n「いけす」や、漁業センターなどで、卵(たまご)を稚魚(ちぎょ)になるまでそだてて、さらにある程度(ていど)の大きさになるまで育てて(そだてて)から、魚を海に放して、その魚をとる漁業です。魚の数をふやすために、このように、たまごをそだてる方法が、おこなわれています。自然の海では、ほとんどの卵(たまご)は、ほかの魚にたべられてしまい、卵から稚魚にかえることができないから、です。\nサケの栽培漁業が有名です。マダイも、栽培漁業がされています。 他にも、ヒラメ・カレイなどの魚や、クルマエビ や イセエビ や ケガニ などの甲殻類(こうかくるい)、サザエ や アワビ などの貝類(かいるい)など、各地で、栽培漁業がされています。\n陸から近い海で(日帰りで行ける場所ていど)、漁(りょう)をすることを、沿岸漁業(えんがん ぎょぎょう)と言います。沿岸漁業のうち、海岸に近い場所で漁をすることを 近海漁業(きんかいぎょぎょう) といいます。小型の漁船(ぎょせん)で行くことが多いです。\n漁船で行くのに数日ほど掛かる距離の、日本の近海のことを、日本の沖合(おきあい)と言います。日本の沖合で、漁を数日かけて行うことを、沖合漁業(おきあい ぎょぎょう)と言います。中型以上の漁船で行くことが多いです。\n沖合よりも遠い北太平洋の海や、南太平洋、大西洋やアフリカ近海などの、日本から遠い海で漁をすることを、遠洋漁業(えんよう ぎょぎょう)と言います。漁の期間は、数カ月ちかく続きます。大型の漁船で行くことが多いです。冷凍設備などの整った大型の漁船が必要です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E6%AF%94%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E8%BE%B2%E6%9E%97%E6%B0%B4%E7%94%A3%E6%A5%AD"} {"text": "日本の工業\n日本の工業技術はアメリカやドイツともならび、世界でも有数の高度な工業技術を持った工業国である。\nしかし、近年では大韓民国や中華人民共和国、東南アジア諸国でも工業化が進んでいる。中国など、これら新興の工業国は、賃金の安さを利用して、多くの仕事を取って、工業製品を生産をしている。\nそのため、いくつかの業種では、日本から工場がほとんどなくなる産業の空洞化が進んだ。\n新興工業国の賃金の安い国の工業に対抗するため、ヨーロッパやアメリカ、日本など前々から工業国だった国は、技術力の高い製品を開発して新興工業国では作れない製品を生産し、差別化を図っている。\nまた、先進工業国どうしでも工業の競争がある。中国や東南アジアなどの賃金の安い国に、日本やアメリカやドイツなど工業先進国が工場を進出させるのも、より安い価格で製品をつくることで先進工業国どうしの経済競争に勝つためである。このため、中国や東南アジアの工場は、新興の工業国と言っても、ヨーロッパ企業や日本企業、アメリカ企業など先進工業国の企業の支援を受けており、新興工業国の工場の技術力は高い場合もある。\n日本で工業が盛んな地域は、主に太平洋側の平野部に多い。関東地方の太平洋側から、瀬戸内海、北九州にかけての地帯で工業がさかんであり、これらの地帯をまとめて 太平洋ベルト と呼ばれている。\n日本では、1970年ごろから、工業の国際競争が厳しさを増し、そのため、単純な技術で作られる製品の工場は、賃金の安い海外に移っていった。\n日本の製造業では、石油危機の反省から、省エネルギー化の研究開発が進み、省エネ製品が増えた。\n太平洋ベルトとよばれる日本列島の太平洋側の臨海部に多い工業地帯を中心に、明治時代の工業は発展してきた。太平洋ベルトの中にある、中京工業地帯 と阪神工業地帯 と京浜工業地帯 を現在では、 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会 地理 > 中学校社会 地理/日本の諸地域 九州地方\n中学校社会 地理/日本の諸地域 九州地方では、九州地方について学習します。\n九州の人口: 約1400万人 (2014年) 、日本全人口の約11%\n九州の面積: 約4万4468 km2、国土の約12%\n県庁所在地:福岡市\n博多なども有名です。\n県庁所在地:佐賀市\n県庁所在地:長崎市\n県庁所在地:熊本市\n県庁所在地:大分市\n県庁所在地:宮崎市\n県庁所在地:鹿児島市\n県庁所在地:那覇市\n地方全体の特徴を捉え、関連づけて理解しよう。\n九州地方は山が多く、さらに火山も多い。それゆえ、阿蘇山には世界最大級のカルデラがある。他にも、雲仙普賢岳や鹿児島湾の桜島などがある。九州南部の土壌は、火山の噴出物 (多くは火山灰) で出来たシラス台地が広がる。シラス台地は水はけが良く水持ちが悪いので、山肌などの斜面では、土砂くずれも発生しやすい上、水を張る必要のある稲作にはあまり向かない。そのためシラス台地では、稲作に代わる農業として畑作 (サツマイモなど・サツマイモの「サツマ」とは鹿児島県の旧国名) や畜産 (豚やにわとりなど) が行われている。いっぽう、北部では、広い平野 (筑紫平野) と豊かな水資源 (筑後川) を利用し稲作もさかん (詳細は後述) 。\n火山が多いこともあり、火山のエネルギー源となるマグマを利用した温泉も多い。例えば、大分県別府市の別府温泉や大分県由布市由布岳の湯布院など。地熱発電の開発も盛んで、大分県の八丁原など九州各地に地熱発電所がある。\n火山の副産物か、防災も発達した。雲仙普賢岳 (以下、雲仙岳) は1991年の噴火の際、砕けた火山物質が高温のまま早いスピードで山を下る 火砕流 (英:pyroclastic flow) によって、多くの被害が発生した。\n前述したが、阿蘇山はカルデラ (英: caldera) という火山の頂上がくぼんだ地形で有名。阿蘇山のカルデラの直径は20km近くもある。\n韓国や中国などの外国に近い。それゆえ、長崎などは、貿易港や港町として発達した。現在も韓国や中国からの観光客に九州は人気。\n沖縄には明治時代まで琉球王国が存在し、江戸時代などは中継貿易で繁栄していた。\n気候が温暖。夏や秋には台風の通り道になりやすい。降水量が多い (南部はシラス台地のため、ある程度水はけは良いため、洪水などが起こりづらい) 。気候が温暖なのは、南方にあることに加え、黒潮や対馬海流といった暖流が近くを通るからでもある。また、九州は太平洋に面しているため、南部は冬でも比較的暖かい。いっぽう、九州北部は、冬は日本海側からの季節風の影響もあり、南部ほど暖かくは無い。\n前述のような温暖な気候を生かした農業として促成栽培が盛ん。宮崎平野では、きゅうりやピーマンの促成栽培が盛んで、ビニールハウスなどで行われることも多い。冬に行う促成栽培では、ボイラーなどで暖房をすることもある。\n九州のその他の農業は、北部と南部で特徴が異なる。九州北部、とくに筑紫平野では、米作をし、米の収穫後に小麦などを栽培する二毛作も行われる。九州南部は前述したとおりシラス台地により水持ちが悪いため、稲作には向いておらず、代わりに畑作や畜産がさかんである。シラス台地の広がる鹿児島県の農業では、水のあまり必要ではないサツマイモや茶の生産が盛んである。九州南部の畜産は、豚や ブロイラー (食用の鶏) 、肉牛 などの畜産が盛ん。近年の畜産業界の経済競争では、外国産の安い肉に押されているので、日本産の肉は、安全性などの品質の高さを売りにしてブランド化している (例:「かごしま黒豚」「阿蘇あか牛」など) 。\n沖縄県の諸島や、鹿児島県の離島など、南西諸島の亜熱帯の地域の農業では、パイナップルやサトウキビ、マンゴーなどが栽培されている。宮崎県でも、近年はマンゴーなど南国風の農産物の栽培も盛ん。宮崎県はピーマンやきゅうりなどの促成栽培や、ダイコンの栽培などが宮崎平野などで盛んである。\n台風の通り道になりやすいため、家屋は強風にそなえた作りになっている。沖縄県などに、その特徴的な家屋が見られる。\n福岡県北九州市を中心として、福岡県一帯には大規模な工場群が見られ北九州工業地帯といわれることがある。\nこの地に工業地帯が成立したきっかけは、明治時代に、官営の八幡製鉄所が、福岡県の八幡村 (現在の北九州市) に出来たことであるが、これは、鉄鋼業に必要な石炭、鉄鉱石及び石灰石の入手に適していた、すなわち、石炭は筑豊炭田、鉄鉱石は近接した中国から輸入、石灰石は九州北部から山口県で大量に採掘されるという立地にあったことによる。その他、セメント産業などの重化学工業が盛んであった。\nしかし、第二次大戦後には、東京、大阪、名古屋といった大規模消費圏から遠いことや、1960年代以降、石炭は安価な輸入炭が主流となり、採炭業は衰え、九州各地にあった炭鉱はほとんどが閉山となるなど、立地状の優位性が低下したため、鉄鋼業にたよった北九州工業地帯の地位は低下していった。以降、自動車や電子機械などの機械工業に転身をするため、九州は1970年ごろから、機械工業の企業の工場を誘致した (沖縄県を除く) 。\n現在では北九州工業地域と呼ばれるようになった。\nそのため、近年 (2019年現在) でも、IC (集積回路) 工場や自動車工場が、各地にあり、九州は全国的にも電子部品の生産が、盛んな地域になっている。それゆえ、九州を シリコン アイランド という。「シリコン」とは、電子部品に使われている材料の一種であり、半導体という材料の一種である。\n久留米 (福岡県) ではゴム工業が盛んである。化学工業も、臨海部を中心に大牟田市 (福岡県) や延岡市 (宮崎県) 、水俣市 (熊本県) で盛んに行われている。大分県は石油化学工業を得意とする。造船なども長崎の佐世保などで盛んである。\n北九州市には公害の反省でエコタウンがあり、家電部品のリサイクルや回収、太陽光発電やバイオマスなどの新エネルギーの導入などが行われている。\n沖縄は、江戸時代までは、琉球という、日本とは別の国だった。今の沖縄のあたりが琉球王国だったので、琉球王国を沖縄県のかつての名前のように言うことがある。\n琉球は、江戸時代に日本国の領土になった。その後、明治時代の廃藩置県のときに、琉球が沖縄県になった。\n第二次大戦では、沖縄では地上戦が繰り広げられた。多くの沖縄県民が犠牲になった。\n第二次大戦の後、沖縄は、アメリカ合衆国に占領された。日本に沖縄が返還されたのは1972年のこと。ひめゆりの塔 (ひめゆりのとう) などの慰霊碑が建てられている。\n沖縄には、多くのアメリカ軍の基地などの軍用地がある。日本国内にあるアメリカの軍用地の70%ほどが、沖縄県にある。\n沖縄のまわりの海は、さんご礁が多い。さんご礁 (さんごしょう) は、浅い海底で成長し、温かい海で成長する。\n沖縄県の農業では、パイナップルや さとうきび 、マンゴーなども栽培されている。菊やランなどの、花をつくっている農家もある。菊の電照栽培 (でんしょうさいばい) も行われている。沖縄は温かいので、冬でも花がよく育つ。\n観光業の割合が高く、観光を中心に第三次産業の割合も高い。\n企業への消費者からの電話の問い合わせに受け答える コールセンター が沖縄では多い。産業の誘致のため、沖縄県が誘致したことと、また地方では賃金が安いため企業が地方にコールセンターを作ったためである。\n沖縄は、台風が多い。なので、伝統的な家は、屋根が低い。\nまた、そのような伝統的な家は、風を防ぐため、家の周りには石垣 (いしがき) がある。また、屋根は、瓦 (かわら) を 漆喰 (しっくい) で固めてある。\n防風林 (ぼうふうりん) も多い。\n最近では、コンクリート造りの家も多い。このような新しい家の多くは、屋根が平らで、家を低くすることで、台風の風を受けにくくするためである。\n沖縄では、川が短く、すぐ海に流れてしまうので水不足になりやすい。なので地下ダムをつくって水を貯めたり、家庭に貯水タンクをそなえる場合もある。\n化学工場の排水にふくまれていたメチル水銀が原因でおきた病気。水銀は猛毒 (もうどく) なので、この水銀に汚染された水を飲んだり、水銀に汚染された海水で育った魚や貝を食べたりすると、病気になる。体が水銀におかされると、神経細胞が破壊され、手足がしびれたり、動かなくなる。\n熊本県の水俣 (みなまた) という地域や、水俣湾 (みなまたわん) の周辺で、1953年ごろに新聞報道などで有名になった公害なので、水俣病 (みなまたびょう) と言う。\nなお、有名になったのは1953年ごろからだが、それ以前の1940年代ごろから、水俣病とおぼしき症例が知られている。\n人間以外にも、猫や鳥など、水銀に汚染された魚を食べたり水を飲んだりしたと思われる動物の不審死がいくつもあり、当初は、水俣病の原因もよく分かっていなかったので、しびれている猫が踊って (おどって) るようにも見えたことから、当初は「猫おどり病」 (ねこおどりびょう) とも言われた。\n佐賀県では、伝統工芸の焼き物の、有田焼 (ありたやき) や伊万里焼 (いまりやき) が有名である。\nこれら陶器の技術は、戦国時代〜安土桃山時代の豐臣秀吉の朝鮮出兵などで、朝鮮人の捕虜などを通して、朝鮮半島から日本に技術が伝わった。佐賀県の有田焼 (ありたやき) 、鹿児島県の薩摩焼 (さつまやき) 、山口県の萩焼 (はぎやき) など。今では、その地方の特産品の一つになっている。\n日本で弥生時代ごろ、漢の皇帝の光武帝 (こうぶてい) は、日本の奴国王 (なのくにのおう、ぬこくおう) に金印 (きんいん) を授けたという。\n金印は、江戸時代の1784年に、今の福岡県の博多湾の志賀島 (しかのしま) で発見されている。金印の印の面には「漢委奴国王」と彫られている。「漢委奴国王」の日本語での読みは「かん の わ のな こくおう」や「かん の わ の な の くに の おう」などと読む。\n有明海 (ありあけかい) に面した筑紫平野では、江戸時代から干拓 (かんたく) によって陸地が広げられてきた。有明海では、のり の養殖などが、さかんである。干拓で得られた陸地は、田畑や住宅地などになる。\n有明海の一部に諫早湾 (いさはやわん) がある。\n1989年より着工した諫早湾の干拓事業が、有明海全体を含んだ環境保全上の議論となっている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%9C%B0%E5%9F%9F_%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%9C%B0%E6%96%B9"} {"text": "中国地方\n四国地方\n中国山地と瀬戸内海と四国山地をさかいにして、地域が区分されている。\n中国山地の北側を 山陰(さんいん) と言い、中国地方のうち中国山地の南側を山陽(さんよう)と言い、四国のうち四国山地の北側を 北四国(きたしこく )といい、四国山地の南側を 南四国(みなみしこく) という。\nそして、中国山地の南側と、四国山地の北側の、瀬戸内海に面した地域を瀬戸内(せとうち)という。\n瀬戸内という地域名を用いれば、中国・四国地方は、 山陰 と 瀬戸内 と 南四国 の3つに分類できる。\n瀬戸内では、季節風が南北の山地にさえぎられるので、雨が降りづらく、降水量が少ない。そのため、瀬戸内では水不足にもなる。\n四国北東部の香川県の周辺の讃岐平野(さぬき へいや)などでは、古くは農業用水のために、ため池 を作って水を貯めることもあった。香川県での農業は、このような乾燥した気候のため、小麦の生産が盛んで、うどん・そば が特産品になっている。讃岐うどんは、香川県の特産品として全国的に有名。\nまた、瀬戸内、おもに香川県の沿岸部には、かつて塩田(えんでん)が広がっていた。\n瀬戸内は水不足になりやすいが、広島県などの山陽側の瀬戸内は、工業などの産業が発展している。\n中国・四国地方で人口の多い県は、広島県や岡山県など、中国地方側の山陽にある県である。人口は、沿岸部の、さらに平野部に集中している。瀬戸内の県でも、山間部には人口が少ない。\n広島市は、人口が100万人を超えており、中国・四国地方の中心的な都市になっている。また、広島市は政府から地方中枢都市に認定されている。\nいっぽう、山陰や四国は、過疎(かそ)の地域が多く、高齢化も進んでいる。広島市と岡山市は、政府から政令指定都市(せいれい してい とし)に認定されている。1980年(昭和55年)4月1日に広島市が日本で10番目の政令指定都市になった。2009年(平成21年)4月1日には岡山市が政令指定都市になった。\n南四国は、南方にあることと、太平洋側の暖流の黒潮の影響もあり、温暖な気候である。\n南四国は、夏に季節風が太平洋側から来るため、夏には雨が多い。いっぽう山陰は、冬には日本海からの季節風のため、雪も多い。\n広島・岡山などの山陽の瀬戸内海の沿岸部では、海上交通などの便が良いこともあり、古くから山陽では産業が発達していた。\n鳥取県や島根県などの山陰は、日本海に面することもあり、冬には雪も多く降ることもあります。このため、農業は、冬には、ほとんど行われないので、稲作では米の単作(たんさく)になっている事が多い。\n第二次大戦後は、多くの化学工場や石油工場などの石油化学コンビナートが、広島や岡山の瀬戸内海側の沿岸部に集まり重化学工業が発達し、瀬戸内は大きな工業地域になりました。瀬戸内工業地域(せとうち こうぎょうちいき)と言います。\nコンビナートとは、関連する工場がパイプラインでつながれている、いくつもの工場の集まりのことです。石油工場や化学工場は、海外からの輸入をしやすくするため、沿岸部にあります。\n岡山県の倉敷市(くらしきし)水島(みずしま)、山口県の周南市(しゅうなんし)徳山(とくやま)や\n岩国市(いわくにし)などに石油工場、化学工場などコンビナートが多くあります。\nこれら瀬戸内工業地域が、太平洋ベルトの一部になっています。広島市の周辺では自動車工業も発達しています。呉(くれ)市の周辺では、造船(ぞうせん)業も発達しています。\n四国側も、瀬戸内の沿岸部では、中国地方側ほどではないですが、工業が発達していて、機械工業などが見られます。愛媛県の新居浜(にいはま)には、化学コンビナートもあります。\n愛媛県の今治(いまばり)はタオルの産地として有名で、日本国内で最大のタオル生産です。「今治タオル」(いまばりタオル)というようなブランドになっています。\n促成栽培\n南四国では、温暖な気候と、十分な雨をいかした農業が、さかんです。ビニールハウスなどの温室も利用して、きゅうりやなす、ピーマンなどの野菜などの促成栽培も行われています。昔は、米の二期作なども行われていましたが、近年では、より多くの収入を得られる野菜の促成栽培のほうがさかんです。また、かつて日本で米の生産調整が行われたこともあり、稲作から畑作に切り替わる農家も多かったことも理由でしょう。\n南四国の促成栽培で生産された農産物は、東京や大阪などの大消費地へ、フェリーやトラックなどで運ばれ、日本全国に出荷されます。\n南四国では山がちな地形が多く 山の斜面に作られた、階段状になっている、棚田(たなだ)や段々畑(だんだんばたけ) も多くある。 \n愛媛(えひめ)県では、みかん の生産が、全国でも上位の生産量。(みかんの、他の生産地域は和歌山県など) \nみかんは、気候が温暖な場所で育ちやすい。\n愛媛県が山がちなこともあり、みかん畑の段々畑が有名。しかしオレンジの輸入自由化(1991年)もあり、みかんは競争が厳しくなっているので、レモン、いよかん など、類似の果物に栽培を切り替えた農家も多い。\n岡山県では、もも、ぶどう の生産が岡山平野などで、さかん。むかし話の桃太郎の場所が、岡山県。「きびだんご」の吉備(きび)とは、岡山の昔の地名のこと\n鳥取砂丘(とっとりさきゅう)では、らっきょう、長いも、などの栽培がさかん。その他の農地では、梨(なし)、メロンなどが栽培されている。梨は、「二十世紀なし」などが特産品になっている。\n\n広島県の水産業で養殖が盛んなのと同様に、愛媛県や香川県でも養殖など水産業がさかん。香川県では はまち の養殖、愛媛県では宇和島湾(うわじま わん)で真珠(しんじゅ)の養殖など\n鳥取や島根は、日本海に面することもあり、漁業もさかん。あじ、ぶり、ズワイガニなど。\n第二次大戦中の1945年の8月6日に、原子爆弾が投下された。広島は、日本の軍事拠点だった。呉(くれ)を中心に軍関係の施設が多かった。\n原爆ドームが、ユネスコの世界遺産に登録されている。\n現在では、原爆ドームは観光地にもなっており、国際的にも日本をおとずれた際の観光地として有名で外国人の観光客も多い。全国の学校から戦争について学びに来ることも多くある。\n瀬戸内の水産業では、養殖(ようしょく)が、さかん。広島で、かき の養殖が広島湾で、さかん。なお、広島の養殖は、かき の他にも、はまち、たい、ぶり、のり なども養殖している。愛媛で、まだい、ぶり、たい などの養殖がさかん。山口県は、くるまえび の養殖が、さかん。\n瀬戸内海は多くの島があるので、養殖に使える。\nなお、山口県の下関(しものせき)は、フグの産地としても有名。フグは、漁獲されることもあれば、養殖もある。\n瀬戸内の漁業は、沿岸漁業が中心。いっぽう、山陰の漁業は、沖合漁業や遠洋漁業も多い。\n瀬戸内海は、江戸時代には、大阪に向かう船が通るルートにもなっていた。\n第二次大戦後の高度経済成長期の後半頃から、中国・四国地方の交通網が整備され始めた。\n交通網が整備された結果、買い物などのため大都市部に人が吸い寄せられて、かえって周辺の地方の産業が衰退する現象が起きた。こういう現象を ストロー現象 という。\n瀬戸大橋(せとおおはし)などを初めとして、いくつもの橋の開通により、フェリーの本数は減って、廃止するフェリーの便も出た。\n1975年に開通。\n1983年に開通。\n1997年に開通。\n1985年(昭和60年)6月8日に開通した。\n1988年に開通。\n岡山県倉敷市(くらしきし)と、香川県坂出市(さかいでし)との間。この瀬戸大橋によって、本州と四国とが橋で、つながった。\n瀬戸内海を船で渡る必要が無くなった。コレ以前は、中国地方と四国地方とのあいだの行き来には、船で渡る必要があった。\n1998年に開通。\n瀬戸大橋や明石海峡大橋など、これらの本州と四国を結ぶための橋を、 本州四国連絡橋(ほんしゅう しこく れんらくきょう)という。\n1993年に開通。\n四国の南部に、高知県に高知平野(こうち へいや)がある。\n四国の中央に東西に長い四国山地がある。高知県から見れば、高知の北に四国山地がある。\n四国の北東部には、讃岐平野(さぬき へいや)が広がる。\n江戸時代16世紀〜17世紀ごろに銀をさかんに産出。世界遺産に2007年に登録された。\n出雲(いずも)とは、島根県の昔の呼び名。日本の神話では、日本各地の神々は出雲に旧暦10月に集まる。そのため、旧暦の10月の神無月(かんなづき)は、出雲では神有月(かみありづき)という。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%9C%B0%E5%9F%9F_%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%83%BB%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%9C%B0%E6%96%B9"} {"text": "\n県庁所在地: 津(つ)市\n県庁所在地: 大津(おおつ)市\n府庁所在地: 京都市\n府庁所在地: 大阪市\n県庁所在地: 神戸(こうべ)市\n県庁所在地: 奈良市\n県庁所在地: 和歌山市\n気候は、北部・中央部西部・中央部東部・南部に分けることができる。\n平城京・平安京などの古都があったため、古い町並みが多く、それらが世界文化遺産に登録されている場合もあり、世界遺産が多い。また、京都は観光名所にも、なっている。\n大阪は、江戸時代は商業の中心地であり、「天下の台所」とも言われた。明治時代の以降も、西日本の商業の中心地になったので、そのような経緯もあり、近畿地方の商業では、卸売(おろしうり)が大阪を中心にして発達している。\n大阪・神戸・京都が、この近畿地方の都市圏である。\n第二次大戦後は、平地に住宅地が足りなくなったため、山間部を切り開いて、千里(せんり)ニュータウン、泉北(せんぼく)ニュータウンなどが作られた。\n臨海部は埋め立ても多い。また、ニュータウンの開発の際に、切り崩された山の土を使って、埋立地のポートアイランドが作られた。\n1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災(はんしん・あわじ だいしんさい)では震度7の都市直下型の大地震が起きた。\nそもそも震度7自体が、この阪神・淡路大震災で新設された。\n大阪湾の側の臨海部や埋め立て地には、重化学工業の工場が多く、鉄鋼や石油化学の関連が多い。これら大阪湾の周辺の工業地帯が、阪神工業地帯(はんしん こうぎょうちたい)として知られる。\n他の工業地帯・地域とちがい、自動車の工場は少ない。\n第二次大戦後は重化学工業が発達したが、戦前の関西では糸を原材料にする繊維工業(せんい こうぎょう)が発達していた。\nまた、重化学工業の大工場とはべつに、機械工業などの中小工場が、東大阪(ひがし おおさか)市などに多い。人工衛星「まいど1号」なども開発され、打ち上げられた。近年では、ハードロックナットも有名。\n内陸部の門真(かどま)の周辺に、大手家電メーカーのパナソニックの工場があるので、関連の電子部品の工場も多い。\n三重県の亀山にシャープの液晶テレビ工場がある。\n液晶パネルや太陽電池などの生産・開発が、これらの地域でさかんである。\n2022年現在は液晶パネル工場は物流センター変わっている\n北部の海岸や、南部の海岸には、リアス海岸が多く見られる。\n南東部の三重県の志摩半島(しま はんとう)や英虞湾(あごわん)では、真珠の養殖がさかんである。\n近畿中部の滋賀県にある琵琶湖(びわこ)は日本一の広さの湖。高度経済成長期のころなど、かつて、生活排水などで琵琶湖に赤潮(あかしお)が大量に発生した。赤潮とは、プランクトンの大量発生で水面が赤くにごって見える現象である。近年でも、ときどき赤潮が発生する。赤潮が大量に発生する原因は、栄養であり、水の富栄養化(ふ えいようか)が原因である。廃水にふくまれる、りん や 窒素 などが原因と考えられている。合成洗剤の廃水に、これらの成分が多い。\n和歌山県では、みかん、梅などの生産がさかん。\n畜産では、牛肉の生産がさかん。三重県では松坂牛(まつざかぎゅう、まつざかうし)。他の地域では、神戸牛(こうべぎゅう)。近江牛(おうみぎゅう)など。これらの肉牛は高級牛として日本全国で有名。\n昔は林業がさかんであった。杉、ひのき の木材を生産していた。吉野杉(よしのすぎ)など。吉野は奈良県。\nしかし第二次大戦後は、外国からの輸入木材による価格の低下により、国産木材の需要は低迷した。また、林業の就業者の高齢化も、問題になっている。\n京都府では、京友禅(きょうゆうぜん)、西陣織(にしじんおり)、清水焼(きよみずやき)など。\nなど\n日本には、外国人も多く暮らしています。そのうちの多くは、中国人(約64万人)と韓国人・朝鮮人(合わせて約50万人)です。\n近年では、フィリピン(約20万人)やブラジル(約18万人)やベトナム(約8万人)などからの出稼ぎ労働者などが増えています。\n近畿地方では、歴史的な理由から、中国や韓国・朝鮮国籍の居住者が多いです。\n大阪の生野(いくの)区の、鶴橋(つるはし)地域や今里(いまざと)新地地域には、韓国籍・朝鮮国籍の在日韓国人・朝鮮人が多く住む、コリア タウンがある。なお、神戸市の長田区にもコリアタウンがある。\n在日韓国人・朝鮮人が多く日本に来た理由には、おもに以下のパターンがある。\n第二次大戦前の朝鮮人・韓国人は、もともと仕事として、工場の労働力や、土木工事の労働力として日本に仕事に来た。阪神工業地帯のあたりでは、低賃金の労働者や重労働の労働者が多く必要とされていた。そこで韓国の労働者が、これら低賃金・重労働の仕事に応募した。\n当時の朝鮮半島は経済発展が日本よりも遅れており、そのため日本からすれば、低賃金で韓国人・朝鮮人を働かせることが出来た。\n今でこそ阪神工業地帯では化学工場や電子機器の工場が多いが、戦前の阪神工業地帯は糸を原料にする紡績業などの繊維工業や、機械工業が発展していた工業地帯であった。\n今でこそ、日本の工業製品には高品質を売りにした高価格の工業製品が多いが、戦前の当時は低価格を売りにした工業製品が多かった。そのため、日本人ですら貧しい家庭の出身者などは、低賃金で重労働で働かされた。戦前の日本の輸出品として主要であった生糸(きいと)も、低賃金で女工(じょこう)などを働かして生産されたものであった。\n当時は朝鮮半島が韓国併合により日本国の一部になっていたので、今で言うと日本の一地方から低賃金の労働者を雇い入れたような出来事であった。\nさて、韓国のチェジュ島(済州島)が、韓国から日本に来る際の経由地点になっていたので、当時の韓国人・朝鮮人労働者の出身地にはチェジュ島が多い。\n第二次大戦後、韓国と北朝鮮が独立し、また戦争(第二次世界大戦)も終わったので、戦前から日本にいた在日韓国人・朝鮮人は、朝鮮半島への帰国が出来るようになった。また日本国への国籍の帰化も認められた。なので、当時、日本にいた多くの在日韓国人・朝鮮人は、朝鮮半島に引き上げたり、あるいは日本国に帰化した。\nこのとき、そのどちらもせず、つまり朝鮮半島に帰国もせず、また日本国に国籍を帰化もしない人もいて、日本に残り続けた。そのような朝鮮半島出身の人々が、今でも在日韓国人・朝鮮人の先祖として続いている。\n戦後に、朝鮮戦争などを逃れて、日本に来た在日韓国人・朝鮮人も、これら戦前から日本に移り住んでいた韓国人・朝鮮人を頼って来たので、生野を中心に コリアタウン になっていった。コリアタウンの商店街では現在ではキムチや韓国風焼き肉など韓国料理を売る料亭なども多い。\n今でこそ生野の鶴橋地域や今里新地地域はコリアタウンが有名だが、もともと、生野は工場労働者などの住む町であった。今でも、コリアタウンの外側の生野区および周辺で、工場は多い。\nもともと、近畿地方には、兵庫県に神戸港があったため、神戸の周辺地区は外国人の居留者も多かった。神戸には中華街「南京町」(なんきんまち)もある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%9C%B0%E5%9F%9F_%E8%BF%91%E7%95%BF%E5%9C%B0%E6%96%B9"} {"text": "3000m級の山々からなる日本アルプスにより、中部地方は次の3つの地域に分かれる。\n各地域で、気候や盛んな産業が大きく違う。\n日本アルプスは\nから成る。日本アルプスは「日本の屋根」とも言われる。なお、糸魚川・静岡構造線が日本アルプスの東部にある。\nここからは、各地域の特徴の紹介となる。\n冬には雪が多い、豪雪地帯である。新潟県の越後平野は米どころ (米の良い産地) として有名である。(水田地帯)\n富士山は日本の最高峰であり、単独峰。山梨県及び静岡県にまたがる。\n山に囲まれた平地、すなわち盆地が多い。それゆえ、中央高地の内陸部は、1年を通して降水量が少ない。盆地に都市が多く、甲府市(甲府盆地にある)や松本市(松本盆地にある)などが例である。\n季節風の影響により温暖であり、雪は少ない。自動車産業などの機械工業が愛知や静岡で盛んである。\n地理的には愛知県から、静岡県にかけてを東海と呼ぶことが多い。ただし、三重県や岐阜県は慣習的に東海に含まれる場合がある。例えば、愛知県、岐阜県、三重県を「東海三県」と表記するケースがある。\n名古屋は、三大都市圏(東京・大阪・名古屋)の一つとして、数えられる事が多い。また、政令指定都市として、名古屋や浜松、静岡が指定されている。\n愛知県を中心に、工業を主体とした中京工業地帯がある。なお、静岡の一部は東海工業地域と言い、別の工業地帯・地域として扱うのが一般的である。愛知県の西に隣接する三重県は、中京工業地帯に含める場合と、含めない場合がある。\n愛知を中心にした中京工業地帯の方が、静岡の東海工業地域よりも規模が大きいので、そちらから説明する。\n中京工業地帯では、愛知県の豊田市を中心に自動車産業が盛んである。大手自動車メーカーのトヨタ自動車の工場や関連工場、部品工場が豊田市およびその周辺(下請け企業も含めると三河全体)にある。\n自動車工業は、2016年現在の日本の製造業の輸出製品の中では売り上げが多く、自動車は日本の製造業の主力な輸出品である。製造業の中では、自動車産業がもっとも多く外貨を稼いでいると考えられている。しかし、家電や半導体など電気関連の輸出は、近年は不振である。自動車産業は、部品数が数万点にも上るため、景気への影響力が大きい、と考えられている。\n自動車の部品工場も中京工業地帯には多い。豊田市は1959年に市名を当時の「挙母市」から、トヨタ自動車にちなんで今の「豊田市」に市名を変更した。豊田市のような、大企業の影響を強く受けている町は 企業城下町 と呼ばれる。\n世界的に環境保護及び地球温暖化防止を推進するため、自動車に要求される排ガス基準などの環境基準が厳しくなっていることもあり、ハイブリッド車や電気自動車など環境に対応した低公害の自動車の開発が世界的に進められている。\nトヨタは1930年頃までの主力製品は、紡績機械という、自動的に糸をつむいで布製品を作る機械であった(これは現在でも分社化され、続けられている)。この地域の工業技術は、紡績機械の機械技術から、自動車の機械技術へと発展していった。\nなお、東海地方と近畿地方の境界の三重県の沿岸部では、石油化学コンビナートや製鉄所などがある。製鉄所で生産された鉄鋼は、自動車の鋼板(外装)などに利用される。石油化学コンビナートで生産されたプラスチックを原料にした製品は自動車の部品などに利用されている。このように、愛知県及び三重県の重化学工業は、自動車産業と深く結びついている。\n愛知県の瀬戸市では焼き物の「瀬戸物」が有名[注 1]だ。瀬戸市だけでなく、岐阜県の多治見市でも陶磁器の生産が有名だ。現在もセラミック製品の工場などが瀬戸市や多治見市に多く存在[注 2]する。\nそのセラミックだが、自動車産業が盛んである中京工業地帯に必要だ。なぜなら、自動車の点火プラグ (エンジンはガソリンと空気を混ぜた混合気に着火して爆発を起こすことで動いている) などに使われる耐熱部品などでセラミックが使われる (セラミックスは耐熱性が高い) ためである。であるからして、それらセラミック製品なども瀬戸市などの工場で作られている。\nこのように、愛知県が自動車産業に対する依存度が高いため、景気の影響を愛知県は受けやすい。近年のリーマンショックなどでも影響を受けたという。一般に、企業城下町は、景気の影響を受けやすい[注 3]と言われている。\n東海工業地域では、静岡県の浜松市を中心に、オートバイや自動車の生産が盛ん。大手の自動車メーカーの本田技研工業 (ホンダ自動車) の発祥の地でもある。高度経済成長期に、当時は新興企業だったホンダ自動車が、当時としては新しかったオートバイに開発の力を入れるなどしたことが基盤となっている。\nまた、ピアノなど、楽器の生産も盛ん。東海地方は、楽器メーカーで有名なヤマハの拠点でもある。\n中央高地の工業では、空気が比較的きれいなこともあり、IC(集積回路)などの精密電子部品や、プリンターなどの電子機器の工場が多い。また、時計やカメラなどの精密機械の工場も多い。これらは空気がきれいであることだけでなく、山梨県は首都圏に近接していることや長野県には多くの高速道路が走っていることなどの理由もある。特に長野県の諏訪盆地や松本市などに工場が進出している。諏訪市では、戦後、時計やカメラなどの精密機械工業が発達してきた。これらの精密機械工業は、第二次世界大戦中に空襲などを避けるため、諏訪に移転してきた工場である。\nさらに、1980年代ごろから、IC(集積回路)など電子部品の工場が進出してきた。前述したように、これらの工場は中央自動車道などの高速道路を利用しやすい地域に工場が進出していることが多い。\nまた、これらの産業が大きく発達した理由は、昔の産業の技術をうまく利用しているからである。\n黒部川のダムの水力発電による電力を利用したアルミ工業がさかんである。アルミは精錬するために電力を多く使うからである。\n北陸の沿岸には原子力発電所が多い。福井の若狭湾や新潟などに集中している。\nこの章では農業や林業、漁業について解説する。\n愛知県の渥美半島の農業では、温暖な気候を利用し、菊やメロンなどを温室やビニールハウスで栽培する施設園芸農業が盛んだ。ここで栽培されている菊は、電照菊として電照栽培が有名である。第二次世界大戦後に、用水路などのかんがい設備が発達して、農業が盛んになった。それ以前は、水不足の問題により農業はあまり盛んではなかった。愛知県の明治用水、豊川用水、愛知用水などの用水が有名。\n静岡県では、茶及びみかんの栽培が盛んであるが、みかんは国内の他の産地 (和歌山県や愛媛県、熊本県など) との競争やグレープフルーツなど他の果樹との競争が厳しい。\n静岡県は海岸線が長く、漁業も盛んに行われている。焼津港、清水港、沼津港など。焼津港はマグロなどを捕る遠洋漁業の基地として有名[要出典]。\n北陸は冬の季節風により雪が多いため、冬は農業ができない。それはすなわち裏作や二毛作などができず、田は稲だけの単作である。\n越後平野など、北陸には大きな平野がいくつかある。であるからして、地形が平坦な場所を利用しやすい。越後平野の場合は信濃川の下流にある。これらは日本アルプスなどの山々から湧き流れる川の水や雪解け水などを活用できる。要約すると水を得やすいのである。このため、稲作が盛ん。\n農業ができない冬の間は副業がさかんに行われる。かつては関東などに出稼ぎをすることが多かったが、今では屋内でも出来る仕事が盛ん。\n中央高地の山々に日本アルプスがある。\n中央高地の扇状地では、ブドウや桃、リンゴなどの栽培が盛ん。山梨県では、甲府盆地でぶどう及びモモの生産が盛ん。長野県では、長野盆地でリンゴの生産が盛んに行われている。\n第二次世界大戦までは、絹の需要が高く、蚕を育てる養蚕業がさかんだったので、扇状地には桑畑が多かった。なぜなら、蚕は桑の葉を食べるからだ。\n第二次世界大戦後は、ナイロンなどの化学繊維が普及して、絹の需要が世界的に低下した。このため、扇状地での農産物が桑から果樹に切り替わった。\n中央高地の高原では高原野菜としてレタスや白菜などの生産が盛んだ。高原は標高が高いため、他の地域より時期を変えて出荷する[注 4]こともある。長野県の軽井沢は避暑地として、また別荘地として有名。\n岐阜県は旧国名で北部を飛騨、南部を美濃と言った。\n南西部に愛知県にも跨る濃尾[注 5]平野がある。濃尾平野の岐阜県の側には木曽川や長良川、揖斐川が流れている。この3つの川を、木曽三川という。かつて、木曽三川はよく氾濫したため、川の周辺の集落に、周囲を堤防で囲った輪中という工夫をされた集落がある(詳細は後述)。\n南部の多治見などで陶磁器が盛んに製造されている。県北部にある白川郷の合掌造りの家の集落が、ユネスコの世界文化遺産である。\n県南部の美濃地方は、平野や高原があるが、県北部の飛騨地方は高地や山地の場所が多い。\n新潟は米作りが盛んだ。なぜなら水が豊富だからである。米の銘柄のコシヒカリは新潟の米の品種である。新潟の 越後平野で、特に盛んになっている。長野県から信濃川が流れてくる。\n伝統工芸として、燕市の金属洋食器、三条市の金物、小千谷市の織物である 小千谷縮などがある。\n湯沢などをはじめとした内陸は豪雪地域である。湯沢では1980年代にスキー場などが作られ、関東からも足を運びやすいため、観光客が増えた。しかし1990年代に入り、スキー客などの冬季の観光客数が減ったことも相まって、現在では夏など冬以外での観光資源の開発などに力を入れている。\n県の北部は、日本海に突き出た半島で、能登半島である。西部の海岸は、日本海に長く面しており、冬には北西からの季節風の影響を受け多くの雪が積もる。\n金沢は江戸時代に加賀藩の城下町として栄えた。そのため、周辺の地域で伝統工業が有名であり、輪島塗や九谷焼、加賀友禅、金箔がその例である。現在も金沢には城下町であった名残が残存している。武家屋敷なども残っているほか、道が迷路のように複雑である。金沢の道路が迷路のようになっているのは、もし加賀藩領内を戦場とする戦争が発生した際に、敵を惑わすためであった。現在の金沢は県庁所在地となっている。石川県には兼六園 (加賀藩の庭園) があり、日本三名園の一つである。\n伝統工芸では、越前和紙、越前漆器などがある。\n鯖江市で、眼鏡のフレーム作りが行われている。鯖江の眼鏡フレーム作りは農業ができない冬の間の農家の副業として普及してきた。国内生産の眼鏡の約9割が鯖江で製造された眼鏡フレームを利用している(もっとも、国内で製造される眼鏡の数は外国製のものに押され減少気味)。\n周辺の山地などから河川が多く集まり、富山県は水が豊富である。黒部川の流域に、黒部ダムなどの多くのダムがある。すなわち、水力発電所も多い。\n発電所が多いということは、電力を確保しやすいと言い換えられる。よって、かつては電力を多く使うアルミニウム産業が盛んだった。現在では、アルミニウムの加工や化学工業などが、富山で盛んに行われている。\n岐阜県から愛知県にかけての木曽川及び長良川、揖斐川の下流の流域には濃尾平野がある。これら3つの川は、伊勢湾に流れ込んでいく。\nこの3つの川の下流の流域は堤防で囲まれている[注 6]土地が多い。堤防で囲まれた土地を輪中と言う。濃尾平野の川の流域にはこの輪中が多い。\n輪中の中の土地の高さは川の水面と同じくらいか、水面よりも低いことが多い。この濃尾平野の輪中の多くは水田として利用されているほか、水を利用したレンコン作りや、金魚やウナギ養殖なども有名な産業でである\nこの土地は低地なので水が貯まりやすいため、水はけが良くない。水田は水を必要としますが、水が貯まりすぎても、稲はよく育たない。それゆえ、輪中の人々は代わりに水田を高くしようと、土を盛り、その上に水田を造成している。水田の周囲の土を掘削し、その掘った土で田を高くするため 堀田と言う。\n洪水が起きても、被害が少なくなるよう、この輪中に住む人々は工夫をしている。輪中では、家屋を建造する際に盛り土をし、家の土台を高くする。もし洪水が起きた際の被害を減らすためだ。さらに、洪水のときの避難場所は、高いところや、盛り土を盛ったり、石垣を葺いて高くした場所につくられた水屋である。水屋は普段倉庫として活用している。1976年 (昭和51年) の9月の台風では、大雨によって長良川と揖斐川の水かさが増し、安八町で堤防が切れ、水害が発生した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%9C%B0%E5%9F%9F_%E4%B8%AD%E9%83%A8%E5%9C%B0%E6%96%B9"} {"text": "17世紀に江戸幕府が開かれ、今の東京のあたりの開発が本格的になった。明治時代以降は、東京が日本の首都である。このため、東京に国会議事堂や最高裁判所など、多くの官庁がある。\n各国の大使館も東京にある。日本銀行も東京になる。\n大企業の本社や銀行の本店なども、東京に多い。東京証券取引所は、日本での主要な証券取引所のひとつであり、世界的にもロンドンやニューヨークと同じように取引額の大きい取引所のひとつである。\n鉄道は、東京都心から、放射状に伸びて開発された。高速道路など自動車道も、これにならい、東京を中心に交通が開発されている。\n高度経済成長期には、都心の地価が上がったこともあり、中心部から離れた東京都八王子(はちおうじ)周辺や千葉県などの郊外には、多くのニュータウンなどが建設された。\nしかしこれらのニュータウンは高度経済成長の後半ごろの時代に作られた街が多く、そのため近年では老朽化や人口の流出などが問題になっており、「オールドタウン」などと皮肉られてもいる。※ 検定教科書にもニュータウンの「オールドタウン」化の問題が取り上げられている(教育出版の中学地理の教科書にある)。これらは中学生があまり深く念入りにする方ではない。\n東京都心は周辺から働きに来る人も多く、東京都心の人口は、夜間人口よりも昼間人口のほうが多い。\n大学も、東京に多い。東京には、文化や情報が集められていると、一般的に考えられている。\n東京の産業では、出版業・印刷業が発達している。近年ではコンピューターソフトの会社も、東京や大阪などの都会に集まっている。\nこのように第三次産業が、東京では盛んである。まとめると東京は情報量が多いから出版業・印刷業などの第三次産業が発達している。\n千葉県に成田国際空港(いわゆる成田空港(なりた くうこう))があり、また東京に東京国際空港(羽田空港(はねだ くうこう))があり、これらは国際的な空港として機能している。\n仕事などを求めて都心に人口が流入していることもあり、近年では高層マンションが臨海部などに増えている。\nこれらの事は、けっしてバラバラに覚えるのではなく、仮説でいいので、関連づけて覚える。\nたとえば、あくまで仮説だが、\nなどのように、仮説で関連づけること。\n関東の土は、火山灰が積もって出来た 関東ローム層 からなる。関東ロームからなる台地と、利根川など川や谷の周囲にできた低地からなる地形である。\n関東平野が広がっている。\n気候は温暖である。関東の大部分が、太平洋側の気候であり、梅雨には、雨も多く降る。他の太平洋側の地域が冬に乾燥しているのと同様に、関東の冬も乾燥している。ただし、関東北部の山間部などは、気候が異なる。\n群馬県では、冬には北西の山間部から吹き降ろす、冷たい風の「からっ風」が有名。\nだが、特に関東全体が冬は寒いわけでもない。東京・千葉・神奈川・埼玉の気候は東海地方などと同様に温暖である。関東の都心でも、冬には雪も降る場合もあるが、たとえ雪が降っても雪の量は少ない。\n明治時代には、東京と神奈川を中心とする京浜(けいひん)工業地帯から発達した。沿岸部の埋め立て地には、重化学工業の大工場が多い。\n「浜」とは、神奈川県の横浜の「浜」である。\n第二次世界大戦後、東京湾の沿岸が過密になったこともあり、千葉の沿岸部の埋め立て地などに重化学工業の大工場が出来るようになって京葉(けいよう)工業地域が発達していった。\n仮説で関連づける。\n・・・という仮説などを、建てる。\n第二次大戦後に、東京が住宅地が増えるなどで過密になって、また東京の土地の値段も高くなったこともあり、埼玉県や栃木・群馬あたりの比較的に土地の広くて安い場所に、自動車工場などの機械工業などの工場が進出して、関東内陸工業地域(かんとう ないりく こうぎょうちいき)が発達した。関東内陸工業地域のうち、特に、埼玉より北の、群馬や茨城などの工業地域を指して北関東工業地域とも言うことも多い。\n関東内陸では、高速道路ぞいに工業団地が多く作られた。\n群馬県の大泉町(おおいずみ ちょう)には日系ブラジル人などの外国人労働者が多く、大泉町の人口の15%は外国人だと言われている。\nかつて第二次大戦前、群馬県に富岡製糸場(とみおか せいしじょう)があったように、戦前は、繊維産業が(北関東に限ったことではないが)盛んであった。つまり戦後、北関東の工業は、繊維産業から機械工業などに交代したことになる。\n茨城県には、大手電機メーカーである「日立」(ひたち)の設立地が茨城県の日立市(ひたち し)であるため、茨城県に「日立」(ひたち)の工場と、その取引先や系列の工場が多い。戦前には、茨城県に銅山(日立銅山(ひたち どうざん))があり、ここから産出された銅が、戦前の工業化に利用された。\nこれら北関東の工業団地とはべつに、東京の西部でも八王子や日野(ひの)、府中(ふちゅう)などにも機械工業や電気機械などの工業団地が多い。\nまた、東京都の大田区(おおたく)の工業団地には、熟練した技能をもつ職人たちが集まっている工場が多いと言われている。\nまた、大手製造業の研究所が、東京や神奈川などに多いと言われている。\n農業では、野菜の近郊農業が、関東平野の畑で、さかんである。\n東京などの大消費地に近いため、輸送費が安く、短時間で届けられる。そのため、野菜や乳製品など、新鮮さが重視されて、関東でも生産しやすい農産物が、関東の農業では生産されている。\nこのように、消費地の近くで農業をする農業手法を近郊農業(きんこう のうぎょう)という。\n群馬県の嬬恋村(つまごいむら)ではキャベツやレタスなどの高原野菜がさかんである。\nなお、群馬県は、こんにゃくの産地としても有名。\n東京の人口集中を解決しようとするため、1970年代には東京から科学系の研究所のいくつかを筑波に移転させて、筑波研究学園都市(つくば けんきゅう がくえん とし)がつくられた。また、近年の埼玉県に、東京から行政機関のいちぶを移した さいたま新都心 がつくられた。さいたま新都心はオフィス街になっている。\n人口の多いのは東京だけでなく、周辺の神奈川・千葉・埼玉にも人口が多いので、東京・神奈川・千葉・埼玉を東京大都市圏という。\n高度成長時代、東京の土地が高いことなどもあって、人口が周辺の千葉や埼玉などに流出するという、いわゆるドーナツ化現象が関東では起きていた。\nしかし近年、東京の再開発などもあり、東京に人口が流入している。(※ 検定教科書では、「ドーナツ化現象」の用語を紹介してない。いっぽう、市販の参考書では紹介されている。)\n\nなお、さいたま新都心は、鉄道跡地である。\nなどのような仮説が、考えられるだろう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%9C%B0%E5%9F%9F_%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%9C%B0%E6%96%B9"} {"text": "東北の気候は、 奥羽山脈(おうう さんみゃく) という南北に長く伸びた山脈を境にし、季節風のため、日本海側と太平洋側とで気候が違う。\n日本海側は、冬には雪が多い。日本海側の夏は、フェーン現象のため、暑くなる。\n(フェーン現象: 風が山をこえて、向こう側の低地におりるとき、風の気温が上がる。このような現象を フェーン現象 という。東北の場合は、夏に太平洋側から来て、奥羽山脈をこえた風が、低地に下がるときに気温が上がる。また太平洋側で雨などをふらすので、日本海側は夏は乾燥する。)\n太平洋側は、夏には「やませ」という北東の海からの季節風で、あまり気温が上がらず、湿っている。この やませ のせいで、夏に くもり の日が多くなり、夏の気温が低くなり、そのため米などの作物が不作になる 冷害になることがある。\n太平洋側の冬の雪の量は、日本海側と比べると、雪が少ない。\n東北では、日本海側・太平洋側の両側とも米作りがさかんである。冬は積雪のため、田での農業がむずかしく、そのため米は単作である。\nおもに平野で米作りがさかんだが、東北の場合、盆地でも米作りをする場合も多い。\n銘柄米も種類が多く、秋田県の銘柄米の「あきたこまち」や、山形県の「はえぬき」、宮城県や岩手県の「ひとめぼれ」が有名。\n「あきたこまち」の生産場所は、秋田平野 や 横手(よこて)盆地 などで生産されている。山形の「はえぬき」の生産は 庄内平野(しょうない へいや) など。\n東北は、 「日本の穀倉地帯」(こくそう ちたい) と言われるほど、米作りが盛ん。地域によっては、収入をおぎなうため、果樹や野菜を栽培したりする地域もあるが、東北全体を見た場合では、米作りが農業の大半をしめ、東北の耕地面積の約7割が水田である。\n東北全体で米作りがさかんだが、どちらかというと日本海側のほうで、より、米作りが盛ん。\n日本海側の秋田の郷土料理の「きりたんぽ鍋」など、日本海側で米を利用した郷土料理が多い。\n太平洋側は、どちらかというと、野菜や果樹栽培や畜産、酪農がさかん。\n畜産では、牛や豚、ブロイラー(食用のニワトリ)など。\n米沢牛(よねざわ ぎゅう) は、肉牛のブランドとして有名。酪農は、福島県の 阿武隈高地(あぶくま こうち) や、岩手の岩手山ろく(さんろく)にある 小岩井農場(こいわい のうじょう) などが有名。なお、小岩井農場では乳牛を飼育し、バターやチーズなどの乳製品を生産している。\n(山ろく・・・山の、ふもとのこと。漢字では「山麓」(さんろく)。)\n第二次大戦前までは、馬の飼育も、軍用馬や農耕馬の生産として盛んだったが、戦後は生産がおとろえ、肉牛や乳牛などの飼育に変わっていった。阿武隈高地や小岩井農場などでも、戦前の、かつては、馬の生産が中心だった時代もあった。\n盆地などでは、果樹を栽培することも多い。\nまた、冷涼な気候を活かし、青森では りんご を津軽平野を中心に栽培している。涼しいほうが栽培しやすいこともあり、青森はりんごの全国一の生産量の県であり、全国生産の約半分をしめる。(2014年に記述。)\n果樹は、山形県の さくらんぼ や ぶどう、福島県の もも など。山形の さくらんぼ は、日本全国でも有数の生産量になっている。\n福島では、福島盆地で、果樹栽培がさかん。\n第二次大戦後の米あまりも、果樹栽培の理由の一つ。1960年代ごろから、食事の洋風化によって、米の消費量が減り、米が あまるようになった。\nそのため、政府は、それまでの米農家に、畑作への転作をすすめてきた。(米の生産調整)\n伝統工芸は、南部鉄器(なんぶてっき)が岩手県盛岡(もりおか)市や奥州市などで盛ん。 会津塗り(あいづぬり)は、福島県の会津(あいづ)市や喜多方(きたかた)市。宮城県の こけし。秋田産の杉(すぎ)を利用した、秋田県 大館(おおだて)市の 曲げわっぱ(まげわっぱ)など。\n昔は冬のあいだ、農作業ができなかったので、家内工業として、伝統工業が発達してきた。\n高度経済成長期ごろから、高速道路の東北自動車道ぞいには工場が進出しており、IC(集積回路)工場や、電子機械の工場、精密機械などの工場が進出しており、この地帯はシリコンロードと言われる。土地の価格が安くて広く、空気や水がきれいなので、これらの工場が進出した。\n東北三大祭り として、青森のねぶた祭り、秋田の竿燈(かんとう)まつり、宮城県の仙台市の七夕(たなばた)がある。これに、山形県の花笠(はながさ)や、秋田で大晦日に行う「なまはげ」を加えて四大祭りや五大祭りという場合もある。なお、「ねぶた」の意味は、いくつかの説があるが、疲れ(つかれ)や睡魔(すいま)を取り除く、「眠り流し」が由来という説がある。\n太平洋側の 三陸海岸(さんりく かいがん) は リアス海岸 になっている。三陸の沖合(おきあい)あたりが、寒流(千島海流、親潮)と暖流(日本海流、黒潮)の、ぶつかりあう潮目になっているので、寒暖の両方の海流の魚があつまる、良い漁場になっている。\nまた、リアス海岸の波のしずかさを利用した養殖もさかんであり、かき や ほたて などの貝、こんぶ、わかめ などを養殖している。\nわかめは、三陸が日本1位の生産量である。\n三陸海岸の漁港は、気仙沼(けせんぬま)や石巻(いしのまき)が有名。\n仙台は、江戸時代には、伊達(だて)氏の治める城下町だった。仙台市は、自然を尊重した町づくりをしており、仙台市みずからを「杜の都」(もりの みやこ)としている。\n東北には、中尊寺(ちゅうそんじ)など、歴史的な建造物などが、東北は多い。\n東北は全体的に人口が減っており、過疎(かそ)になっている。\n作家の宮沢賢治(みやざわ けんじ)は東北の出身である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%9C%B0%E5%9F%9F_%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9"} {"text": "北海道は、北に位置するため梅雨がない。気候は冷帯(亜寒帯)である。冬は長く、11月ごろから雪が降り始める。夏の期間は冬の期間に比べると短い。\n家の窓を二重窓にして寒さを防いでいる。道路では、電熱線や温熱パイプで凍結をふせぐロード ヒーティングも発達している。\nオホーツク海の流氷(りゅうひょう)が冬に見られる。北海道の北東の海岸がオホーツク海側の海岸であり、1月ごろから3月ごろまで、流氷が見られる。\n北海道では冬には雪も多く降るので、札幌市(さっぽろし)では雪まつりも毎年、冬の2月ごろに行われている。\n北海道の農業は、全国でも有数の生産量である。農地が大規模な農家が多い。そのため専業農家も多く、農業にコンバインなどの大型の機械を用いている。\n石狩平野(いしかり へいや)などでは、稲作がさかん。北海道の西部でも、稲作がさかん。石狩平野も、やや西寄りにある。\n東部と比べて西部は、気温も、比較的、夏は高くなる。西部の冬の雪は、東部よりも多い。\n北海道の南部から中部に、南北に長く伸びる山脈の 日高山脈(ひだか さんみゃく) があり、この日高山脈の東西で気候が分かれる。\n米は、もともと熱帯の作物なので、もともとの米は北海道では育たず、近現代の北海道の米は、品種改良されて寒くても育つように改良された米である。\n北海道では、盆地でも米作りがされる。なぜなら、盆地は、夏の間、気温が高くなるからだ。北海道中部の、上川(かみかわ)盆地や富良野(ふらの)盆地などでは、稲作もされる。\n東部はあまり気温が上がらない。そして夏には、霧が多く発生する。冬は、西部よりも雪が少ない。\n稲作や畑作などに適さない場所では、かわりに畜産や酪農などが行われている。\n北海道の東部では、畑作や畜産や酪農がさかんである。\n十勝平野(とかち へいや)は、気候がやや冷たいのと火山灰地が広がることから、あまり米づくりに向かず、かわりに畑作や酪農がさかんに行われている。\n北海道の畑作物は、じゃがいも、てんさい、たまねぎ、かぼちゃ、にんじん、だいず、あずき などである。\n北海道が日本1位の生産量の農産物も多く、だいず、たまねぎ、かぼちゃ、てんさい、あずき、にんじん は、北海道が日本1位の生産量である。(「てんさい」とは砂糖大根のこと。甜菜(てんさい)。根を搾ってその汁を煮詰めると砂糖がとれる。)\n甜菜は全国の生産量の100%を占める。\nこのほか、北海道中部にある夕張(ゆうばり)ではメロン栽培が有名。北海道中部にある富良野(ふらの)ではラベンダー栽培が有名。\n根釧台地(こんせんだいち)は冷たい気候で、土が火山灰である。\nそのため、農産物の栽培には不向きであり、かわりに酪農や畜産が行われている。根釧台地の酪農では、バターやチーズ、牛乳などを生産している。\n根釧台地の火山灰土は、阿寒岳(あかんだけ)や摩周(ましゅう)などからの火山灰である。\n根釧台地の開発は、農作物が栽培しづらく開発が遅れたため、第二次世界大戦後になって開発が行われ、酪農などがさかんになった。\n1950年代から「パイロットファーム」事業や、1970年代の新酪農村(しん らくのうそん)などで、根釧台地での酪農の開発がさかんになって大きな酪農地帯に発展したが、その後の貿易の自由化などで乳製品などの価格が落ちて、あまり利益があがっていない。\n北海道の酪農は、消費地の本州から遠いこともあり、バター、チーズなどの乳製品の生産が発達したが、現代では冷凍輸送の発達もあり、牛乳なども多く生産している。\n北海道には、「アイヌ」と言われる先住民族がいる。江戸時代以前の日本では、アイヌ民族のことを「蝦夷」(えぞ、えみし)と言っていた。北海道は蝦夷地(えぞち)と言われていた。\nなお、「アイヌ」という特定の1つの民族がいたわけでは無く、何種類かの先住民族がいて、それら先住民族をまとめた言葉が「アイヌ」である。\n明治時代に北海道は大日本帝国の領土として一方的に組みこまれ、北海道の開拓が本格的に始まった。そのため、それ以前の自然が失われてしまった。現在の北海道でみられる田畑などの多くは、開拓後のものであり、森林を伐採して切り開いたものである。明治の開拓以前は、原野や森林が多くあった。\nアイヌ民族は狩猟で生計をたてており、農耕の習慣が無かった。\n明治のはじめごろに、開拓使(かいたくし)という役所が置かれた。\nロシアなどに対抗する警備の役割を兼ねて、日本の兵士に農業をさせる屯田兵(とんでんへい)が多く、北海道に置かれた。\nこのようにして、北海道の原野は農地などに開拓され、北海道は農業がさかんになった。\n明治時代に日本の農学校に赴任(ふにん)したお雇い外国人のクラークも、農学校の教師であった。\n地名に、アイヌの名残が多く見られる。たとえば「札幌」は「サッポロベ」が由来。\n明治政府が、あまりアイヌの文化の保護に熱心では無く、同化政策に力を入れていたこともあり、アイヌの文化が衰退してしまっており、アイヌは少数民族になっている。第二次世界大戦後は、政府はアイヌ文化を保護する方針へと変えた。\n知床半島は日本の三つの自然遺産のうちの一つであり、手つかずの自然が残っている。\n釧路湿原(くしろ しつげん)などの湿地も多く、タンチョウヅルなどの水鳥(みずどり)などの飛来する場所にもなっており、ラムサール条約の区域内である。\nラムサール条約とは、水鳥の生息地の湿地を保護するための国際条約である。\nタンチョウは、特別天然記念物である。\n釧路湿原は国立公園になっている。\n他にもラムサール条約に指定された湿地が北海道には多くある。\n火山も多く、有珠山(うすざん)や周辺の山々は、ときどき噴火する。\n洞爺湖(とうやこ)は、有珠山の活動によって出来たカルデラに水がたまった場所である。このようにカルデラに水がたまって出来た湖をカルデラ湖(カルデラこ)という。\n北海道には、他にもカルデラ湖がいくつかあり、たとえば東部には阿寒湖(あかんこ)や摩周湖(ましゅうこ)や屈斜路湖(くっしゃろこ)があり、これらがカルデラ湖である。\n洞爺湖の場所は、当然、有珠山にある。\n有珠山の周辺地域では、防災マップ(ハザードマップ)も作られている。\n洞爺湖の近くに温泉(洞爺湖温泉)があるのも、有珠山が火山だからである。有珠山は、ほぼ30年ごとに噴火すると言われている。1910年、1944年、1977年、2000年に噴火している。\n有珠山の近くにある 昭和新山(しょうわ しんざん) は、第二次大戦の末期1944年(昭和19年)に出来た。\n札幌市(さっぽろし)に人口が集中している。札幌市の人口は190万人ほどであり、北海道の人口の約3分の1が集中している。札幌は政令指定都市になっている。\n札幌市の町並みは、道が京都市のように碁盤(ごばん)の目(め)状に区画されている。これは明治政府が計画して都市が作られたからであり、明治時代に開拓使という役所が置かれた場所も、札幌市である。\n漁獲量が全国1位な海産物はさけ、ます、かに、ほたてがある。\n1970年以前は、ロシアやアラスカ沿岸(アメリカ合衆国)、ベーリング海で、日本の漁船が漁をする北洋漁業で、 すけとうだら などを取るのが盛んだった。1970年代の排他的経済水域の設定で、北洋漁業がおとろえ、漁獲量が大きく減少した。\n近年では、養殖に重点がおかれ、 ほたて や こんぶ などの養殖、栽培漁業などの「育てる漁業」に力を入れている。\n水産加工業もさかんでかまぼこや缶詰食品などが生産されている。\n室蘭市(むろらん し)で製鉄業。苫小牧市(とまこまい し)で製紙工業。室蘭、苫小牧ともに、場所は北海道の南西部の太平洋側にある。\nかつて、北海道に石狩炭田(いしかり たんでん)など、かつて石炭の炭田があり、さかえたが、第二次世界大戦後に衰退した。夕張(ゆうばり)などは、かつて炭鉱都市(たんこう とし)として、さかえていた。\n夕張市は、第二次世界大戦後にエネルギー革命によって石炭産業が衰えて、財政が悪化した。そのため夕張市は観光を振興したり、「夕張メロン」などの特産品を作ったりして町おこしをしたが、人口の減少は続き、今も夕張市の財政は苦しいままだ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%9C%B0%E5%9F%9F_%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%9C%B0%E6%96%B9"} {"text": "中学校の学習 > 中学校社会 地理 > 都道府県\n本ページはウィキブックス教科書として、中学校の社会科の地理分野の学習で用いる、参考用のページである。\n本ページからリンクされた各都道府県のページでは、おもに中学生の学習向けに都道府県の説明を行う。\n2014年の現在では、中学の社会科地理の検定教科書では、各都道府県ごとの個別の詳細な説明は行われていない。そのため、このリンク先の都道府県ページは、教科書の参考資料用および、高校受験の地理の参考書を兼ねるとする。\nそれぞれの地域のページにジャンプする。\nカッコ内は JIS X 0401 による都道府県コード。北から順につけられている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%8C%E3%81%9F_%E5%9C%B0%E7%90%86_%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C"} {"text": "測量などを基にしてに地形を正確に表した地図を地形図と言います。地形図は国土交通省の中にある国土地理院という機関が発行しています。\n地形図について詳しく見てみましょう。まず地形図には縮尺というのが定められています。縮尺とは実際の距離を地図上で縮めた割合のことです。また、地形図上に同じ高さを結んだ線があります。これを等高線(とうこうせん)と言います。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E8%BA%AB%E8%BF%91%E3%81%AA%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E8%AA%BF%E6%9F%BB_%E5%9C%B0%E5%BD%A2%E5%9B%B3"} {"text": "中学校社会 地理/用語集では、中学校の地理(教科書ではこちら)の大切な用語をジャンル(教科書)別に並べてあります。ぜひ学習の参考にしてください。\nこの用語集の表記の仕方を説明します。\n用語をクリックすると、その用語について記述されている教科書にジャンプします。\n中学生に覚えてほしい、大切な世界地理の用語をジャンル別に紹介する。\n中学生に覚えてほしい、大切な日本地理の用語をジャンル別に紹介する。\nここには、合わせて読んでほしい項目(教科書)を並べておきます。\n地理をもっと詳しく知りたい人は、ウィキペディアを読んでみてください。少し難しいかも知れませんが、新しい発見があるかもしれません。地理用語が詳しく一つ一つ細かく説明がされています。ぜひ読んでみてください。ウィキペディアには、下からリンクできます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E7%94%A8%E8%AA%9E%E9%9B%86"} {"text": "中学校社会 地球/資料集は、中学校の地理の資料を集めたものです。ぜひ、学習の参考にしてください。\nここには、合わせて読んでほしい項目(教科書)を並べておきます。\n地理をもっと詳しく知りたい人は、ウィキペディアを読んでみてください。少し難しいかも知れませんが、新しい発見があるかもしれません。地理用語が詳しく一つ一つ細かく説明がされています。ぜひ読んでみてください。ウィキペディアには、下からリンクできます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E8%B3%87%E6%96%99%E9%9B%86"} {"text": "私達、現在の人間の直接の祖先である 新人 (しんじん) が、20万年前には、あらわれていました。 新人を、 現生人類 (げんせいじんるい) とも言い、また、 ホモ=サピエンス とも言います。 フランス南部からは クロマニョン人 のあとが発見されています。\n現生人類を含む、直立姿勢を完成した脳の大きな人類。 もともとギリシア哲学以来、人間の本質は英知の優れていることにあると考えられてきた。 これに応じて、賢い人間という意味でこの名がある。\nホモ・サピエンスは約30万~20万年前にアフリカで誕生し、5万年前以降にアフリカを出て、ヨーロッパ、アジア、シベリア、オセアニア、そして米国へと大拡散していったのです。 それ以前に世界各地にいた原人や旧人と、ホモ・サピエンスが生きていた時期は重なりますが、ホモ・サピエンスだけが生き残り、原人、旧人は滅びていきます。\n日本列島へのホモ・サピエンスの渡来も、この地球規模の大きな流れの中の一コマとして、捉えることができます。 日本列島にはじめてホモ・サピエンスが現れたのは、今から38000年ほど前のことでした。 かつては、その頃の日本列島とアジア大陸は陸続きで、祖先たちはそこを歩いて渡ってきたと考えられていました。\n人類は、どこで生まれて、どのように広がっていったのだろう。\n人類は、どのように生活していたのだろう。\n猿と人の違いはなんだろうか。\nまとめよう。\n最初の人類は、次に言う猿人とされています。アフリカのチャドで440万年以上前(約700万年前とされている)の地層から発見されている(ここで見つかった猿人をサヘラントロプス=チャデンシスという)猿人は二本足で立って歩ける二足歩行(にそくほこう)が可能だったといわれています。\n二足歩行ができるようになった結果、手で使う道具が発達していき、それにともなって知能も発達していったと考えられています。\n猿人は石をそのまま使っていただけだった(ただし一部では打製石器を使っていた)。打製石器は旧石器とも呼ばれます。このような打製石器までしか使っていない時代を旧石器時代といわれています。\nさらにその後、類人猿という種類の人類も誕生しました。類人猿の特徴は直立二足歩行をしていてこの頃から打製石器の本格的な使用を始めました。\nその後の100万年〜200万年後の時代の間に、人類はアフリカから出て、各地に散らばっていきました。\n今から200万年ほど前に原人があらわれました。\nアジア大陸の中国の北京の近くの周口店からは、 北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)のあとが発見されています。\n北京原人は火を使用していたことが分かっています。\nインドネシアのジャワ島からはジャワ原人のあとが発見されています。\nドイツからはハイデルベルク人が発見されています。\n原人は、言葉を話せました。また、火も道具として使っていました。\n石器は、打製石器を使っています。旧石器時代にふくまれます。\nドイツのネアンデルタールから旧人の ネアンデルタール人 のあとが発見されています。\n私達、現在の人間の直接の祖先である新人が、20万年前には、あらわれていました。\n新人を、現生人類とも言い、また、 ホモ=サピエンス とも言います。\nホモ→ホモ・サピエンス\nフランス南部からは クロマニョン人 のあとが発見されています。クロマニョン人が住んでいた洞窟の壁画から、当時の生活がわかり、狩りをしていたらしいことが絵から分かります。\nそのほか、クロマニョン人は打製石器や骨角器を使っていました。\nフランスの洞窟の壁画のラスコーの壁画や、スペインの洞窟のアルタミラの壁画などから、動物の絵が見つかっており、どうやら狩りの成功を、クロマニョン人は、いのっていたようです。\n我が国でも新人は発見されています。\n新人になると、磨製石器を使用していたので、新石器時代です。\nそして、人類の始まりから原人までは、旧石器の打製石器を使っているので旧石器時代です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%8F%BE"} {"text": "地球環境は、どのように変化していったのだろう。\nこの時代の人々はどのように生活していたのだろう。\n地球は数万年の周期で気温の低い氷期と、比較的に温暖な間氷期とをくりかえしています。\n現在は間氷期だろうと科学者の多くには考えられています。\n今から3万年ほど前は、地上には今よりも多く氷った土地があったと考えられ、「氷河時代」や「氷河期」などと言われます。\n今から1万年ほど前に氷河期がおわり、気候が温暖になりました。\nこの時代に、アジアやアフリカの大河の川ぞいでは、ゆたかな水をもとに農耕や牧畜が発達しました。\nこの年代は、我が国では縄文時代に当たります。\n今から1万数年ほど前から、世界の各地で農耕が始まり、動物も飼いならされていきました。牛や羊などを飼いならし、乳や肉を取る牧畜を始めました。\n農耕で得られた農作物を保存する必要性などから土器が発達しました。土器は、食料の保管や煮炊きに使われました。\nまた、農耕では、農地の近くに住み続ける必要があるので、竪穴住居などの住宅が発達しました。\n同じころ、石器をつくる技術が発達し、石をみがいた石器として磨製石器が作られ始めました。\n磨製石器を使い始めた時代を新石器時代と言い、旧石器時代とは区別します。つまり、磨製石器のころである新石器時代に農耕や牧畜が始まりました。言い換えると、旧石器時代には、まだ農耕や牧畜は始まっていません。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%96%B0%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "古代の主な文明は、どのような場所で起こり、どのような特色をもっていたのだろう。\n農業の発達にともない、治水工事や灌漑工事などの土木工事も行うようになりました。また、仕事の分業が始まるようになりました。\n分業が発達すると、農業から離れた仕事をする人も出来てきて、そのような人たちが農地から離れた場所に住むようになり都市が出来ていきました。\n石器の時代が過ぎ、やがて青銅器や鉄器などの金属器を作る技術が出来てきました。まず初めに、青銅をつくる技術が発明されました。なお、青銅とは銅とスズ(漢字:「錫」 )との合金です。青銅にすることで、銅やスズの単体の状態よりも、硬くなります。\nつづいて、鉄器が紀元前1500年ごろに西アジアで発明され、農具に鉄器が用いられ農耕の生産力が高まりました。\n鉄器の生産は、その後、周辺の地域にも広がっていきます。\nアフリカやアジアの大河の川ぞいでは、ゆたかな水をもとに農耕や牧畜が発達し、そのため文明が発達できました。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河の流域の各地域で文明が発達していきました。この4地域での文明を四大河文明と言います。\nそれぞれの文明を、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明といいます。\nこれらの四大河文明は文字が使われていました。\nたとえばメソポタミアでは、つぎのように文明が発達しました。\n今のイラクの近くにあるチグリス川、ユーフラテス川ぞいのメソポタミアでは、紀元前3300年ごろには当時としては、かなり高度な文明が栄えていました。これをメソポタミア文明といいます。\n紀元前6000年ごろにはすでに、人々がメソポタミアの地に住み、農業などをしていたとされます。しかし、農業文明よりも更に進んだ、高度な文明が特に発展したとされる時代が、この紀元前3300年ごろからです。\n紀元前3300年ごろのメソポタミアでは、青銅器が使用され始めていました。また、月の満ち欠けをもとにした暦が作られ、使用されていました。これは我が国では太陰暦と呼ばれます。\nこの時代までに、1週間の7曜日制や、時間や角度の六十進法、1年間を12か月とすること、などといった、物事の数え方や計り方が作られ、現代にもその影響は数多く残っています。また、そのような数を扱う技術の必要性にともなって、数学が非常によく発達していました。\nメソポタミアでは、城壁で囲まれた都市が作られました。都市は、神殿を中心にしています。メソポタミアの宗教では、多くの神々がまつられました。\nエジプトのナイル川の流域に発生したエジプト文明は、メソポタミア文明と同様に、当時としては高い技術を持つ、高度に発達した文明でした。たとえば我が国において太陽暦と呼ばれる、太陽の運行を基準にした暦を作り、使用していた。これは現在世界中で使われる現行の暦であるグレゴリオ暦に近いもので、エジプト文明では天文学が発達していたことを示しています、\nこのような高度な暦は、エジプトの農業において特に重要でした。エジプト文明は、のちの時代のヨーロッパ人から「ナイルの賜物」と呼ばれましたが、これは、ナイル川が毎年夏になると氾濫し、その洪水が運ぶ栄養によって、エジプトの農業が大きな恩恵を受けていたからです。この毎年の氾濫の時期を、正確な暦で予測することにより、氾濫の危険を回避しながら、豊かな恵みの恩恵を受けることが可能になったのです。また、氾濫後には土地を区画整理し直す必要があったため、測量術も発達していきました。\nエジプトの農業では、ムギなど栽培をしていました。パピルスという草から紙が作られました。この「パピルス」が紙の英語のpaper(ペーパー)の語源です。ヒエログリフという象形文字が、紙に書かれたり、石にきざまれました。\nエジプト文明では、ピラミッドと呼ばれる、多くは四角錐状の巨大な建造物が数多く作られました。これらは王の墓であったとする説が有力ですが、必ずしも墓を主たる目的として建造されたわけではないとする説もあります。いずれにせよ、王には大きな権力があったと考えられており、ピラミッドの建造には多くの技術者や、人夫、奴隷などの労働者が関わっていたとされています。\nインド・パキスタンの近くのインダス川の流域ではインダス文明が紀元前2500〜紀元前2300年ごろに起きました。\n下水道や浴場などの公共施設もそなえ、死者の丘を意味するレンガ作りのモヘンジョ=ダロという都市を作っています。\n紀元前4000年ごろ〜紀元前3000年ごろから、中国(今でいう中華人民共和国の地域)の黄河や長江の流域で、農業が起こり、中国文明が起きました。黄河の流域で、あわ・きび などを栽培していました。長江の流域で、稲を栽培していました。\nこれら中国の古代文明の、古い呼び方では、川の名前をとって、「黄河文明」「長江文明」などという場合もありましたが、その後の歴史研究で、長江など黄河以外の別の川の流域でも文明が古くから栄えていたことが分かり、現在では「中国文明」と、まとめて呼ぶことが多いといわれます。\n農業や石器・土器などよりも以降の文明が発達しだした時代は、おそらく紀元前2000年よりも後の時代であると考えられています。紀元前1500年ごろに、黄河の流域に「殷」という王朝の出来た時代から、とくに文明が発達しはじめました。この殷のころから、青銅器が中国でも作られ使われ始めました。\nメソポタミア地方では紀元前18世紀ごろ、バビロニアという国の王であるハンムラビが、この地域を統一しました。そして、ハンムラビ王は法律を整え、ハンムラビ法典を作りました。\nこの法典では、復讐の権利を認めており、「目には目を、歯には歯を」といわれる記述が、この法典にあります。\nこの規定は、復讐の権利を認めると同時に、復讐が行き過ぎないように制限をかけている法律でもあります。\n交易や行政の都合などから、くさび形文字が発明されていました。ハンムラビ法典も、くさび形文字で書かれています。道路などの工事も進め、メソポタミアでは商業がさかえるようになり、周辺地域との交易もさかんになりました。\nくさび形文字は、しだいにアルファベットの原型に発達していきます。\n紀元前1500年に北方の中央アジアの異民族のアーリア人に侵入され、征服されます。先住民は奴隷として支配されます。\n支配者たちは身分制度を作り、神官のバラモンと呼ばれる階級を頂点とする身分制度を作りました。この身分制度が、のちにインドの伝統的な身分制度のカーストにつながります。\n身分にはバラモン(神官)、クシャトリア(王族や武人)、バイシャ(農民や商人などの平民)、シュードラ(奴隷)の身分がありました。\nバラモンの権力は宗教だけでなく、政治などでも権力を持ちました。\n※ 別ページで説明する。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会/歴史 > 中学校社会 歴史/年代測定法\nどのような年代測定法があり、その年代測定法にはどのような特徴があるのだろう。\n年代測定法は、どのような時代の調査に使用されるのだろう。\n紀元前1000年頃までであれば、木材の年代及び木の年輪から年代を測定することもできる。なぜなら、多くの場合木の年輪は毎年1本ずつ増加していくからである。\n炭素の原子は3種類の同位体がある[1]。それらは安定で量の多い12C(炭素12)と、ごく僅かで不安定な13C(炭素13)と、極めて僅かで不安定な14C(炭素14)である。自然界の炭素のほとんどは、12Cである。\nこの14Cは、放射線を出しながら 壊れ続け、約5700年ごとに半分になっていく。この約5700年を半減期という。14Cは、大気上層で高エネルギーの一次宇宙線によって生成される。\n生体は光合成や呼吸をしているため、生きている間に関して言えば、生体内の14Cの割合と大気中の14Cの割合はほぼ同じになる(厳密には、「速度論的同位体効果」があるためか、生物種ごとに微妙に13Cや14Cの割合が異なる[2]。大学レベルなので、気にしなくていい)。しかし、死後は呼吸も光合成もしなくなるため、大気中の14Cの割合と死体内の14Cの割合がずれていく。空気中の炭素は、大気圏などから宇宙線によって生成された14Cが供給されるいっぽう、死体の14Cは減り続けていく。この、空気中の14Cの割合と、死体内の14Cとのズレの割合を調べることで年代を算出する。\n動物だけでなく、植物でも炭素をふくむので、この方法で測定が可能である。いっぽう、金属など炭素をふくまない物は炭素の方法では年代を測定できない。\n過去数百年〜3000年ていどのものについては、歴史書などから年代の分かっている同時代の実物の測定により、この測定に必要な関連データを得られる。\nしかし、数千年〜数万年以上も前のものは、ほとんどの地域で歴史書などが残っていなく、関連データを得られない。したがって、科学の進歩により、それ以前の年代測定が訂正されて、測定値が変わることがある。\nしたがって、なるべく他の測定方法とも組み合わせて確認する必要がある。\n考古学では、放射年代の他にも、地層の調査など、さまざまな観察や測定を組み合わせて、より信頼性の高い年代を調べることが行われている。\n数万年ていどよりも前になると、もはや、放射性年代測定以外に、確認のしようがなく、はたして本当に放射年代の数値が正確なのかどうかは確認のしようがない。たとえば、太陽から、地球上に降り注ぐ放射線の量が、もしかしたら現在と大幅に違っている可能性もありうるし、もし、そうだとすると、年代測定の数値の前提がくずれる。\nだが他に年代の測定方法が、数万年ていどよりも古い時代では、無い。なので仕方なく、もっとも確からしい年代測定法として放射年代測定が使われている。\n猿人や原人、旧人、新人などの年代測定も、放射性カリウム40など(通常のカリウムはカリウム39である。)、さまざまな元素の放射性年代測定によって化石などを調べて年代を推定している。\n「猿人がアフリカで440万年以上前に発生していた」ということも放射性年代測定によって知り得る。\n人間以外の動植物も、化石を放射性年代測定によって調べて年代を推定している。\n地球の歴史が46億年ていど だという事も、地球や隕石などのウランによる放射性年代測定での年代比較による。\n半減期は一定だろう、と仮定している。なお、ウラン238の半減期は約44億年であり、\n今のところ、科学者たちは、「放射性物質の半減期の大きさは、時間がたっても、常に変わらず一定だろう。」と、さまざまな実験結果にもとづいて、判定している。\n炭素以外にも、ウランなど、さまざまな放射性原子があり、測定対象の古さや、測定物質の種類にあわせて、使い分けられる。\nちなみに宇宙の年齢の約137億年というのは、天体観測で、天体の出す光の波長を分析して調べている。詳しい解説には、高校レベルの物理や地学の知識が必要なので、中学の社会科での説明は省略する。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E6%B8%AC%E5%AE%9A%E6%B3%95"} {"text": "大陸の文明にはどのような特徴があるのだろか\n文明は時代によってどのように変化したのだろうか\n東アジアでは、中国にある黄河や長江の流域で農業などの原始的な文明が紀元前4000年〜紀元前3000年ごろから始まっていて、土器なども作っていました。これらの中国文明は、東アジアでは、古くから発達した文明の代表例として扱われることも多いとされています。\n黄河の流域では、水や肥えた土などを元に畑作が行われ、アワやキビ、ヒエなどの農産物が作られました。同じころ、長江の流域でも、稲作が行われ始めました。\n農業により、食料が増えたことで、人口も増えた。磨製石器などの石器や、土器なども生産されていました。\n紀元前1600年ごろから、黄河や長江の流域の土地には、都市や国家も形成されていきました。\n中国で青銅器を生産しだしたのは、紀元前1600年より以降だと考えられています。中国でも紀元前3000年ごろのものと思われる青銅器も見つかっていますが、これらはメソポタミアなどの先進文明の地域から交易などによって中国に持ち込まれたものだろうと考えられています。\n紀元前1600年ごろに、いくつもの国をまとめた 殷という王朝が成立しました。殷のことを「商」とも言います。\nこの殷は占いを重んじる政治を行いました。亀の甲などを焼くと、ひび割れができますが、このヒビ割れの方向をもとに、殷は政治の占いをしていたことが分かっています。\nそして、占いの結果を亀の甲や牛の骨にきざんだものが甲骨文字です。この甲骨文字が後の時代の漢字のもとになっています。\nこの時代に青銅器も使われていました。\n青銅器は貴重品なので、王族や宗教的な儀式などで使われました。\n殷は、紀元前1100年ごろに、周に、ほろぼされます。\nこうして、周という王朝が出来ました。周の時代に、青銅製の貨幣が作られ、商業が発達していきました。\n周の力は紀元前8世紀ごろから弱まり、中国全土が多くの国に分かれて争うようになります。\n紀元前8世紀~紀元前3世紀ごろまで続いた争いの時代を春秋・戦国時代といいます。\n紀元前8世紀ごろから、鉄製の道具が普及しはじめ、やがて農具や武器などに鉄が使われるようになります。鉄製の農具が普及したことで、農業は発達しました。\n戦乱が長く続いたことやそれぞれの国が強力な国となるために、理想的な政治のありかたを考える思想家が多くあらわれました。\n孔子は、この春秋戦国時代の思想家です。\n孔子は、親子などの家族関係をもとに、君臣の間の上下関係などの礼儀や、葬儀などの儀式などを重んじる思想を唱えました。孔子は、思いやりの大切さを説き、その思いやりの心を「仁」という言葉で表しました。\nこのような思想が受け入れられた背景として、この春秋・戦国時代は、反逆や戦乱などが耐えない時代でもありました。\n孔子の教えを儒教といいます。孔子の教えを弟子たちがまとめた書物を『論語』といいます。のちの時代に、儒教の教えは我が国や朝鮮にも伝わり、その政治などに大きな影響を与えます。\n紀元前3世紀である紀元前221年に、秦が中国を統一しました。そして、秦王は、これまでつかわれていた「王」よりも上位の称号として「皇帝」という称号をつくりました。そして、秦王が最初の皇帝となり、自らを始皇帝と名乗りました。\n秦は、北方の異民族の侵入を防ぐため、万里の長城を作らせました。\nまた、それまで中国の各地方によって異なっていた貨幣や文字、長さ・重さ・体積 などの制度も統一しました。\nしかし、始皇帝の死後、各地で反乱があいつぎ、秦の統一後から、わずか15年ばかりで、秦は滅びます。\n紀元前202年、秦にかわって、漢という王朝が中国を統一しました。漢は約400年ほど続きました。\n漢は勢力を広げ、武帝(皇帝の人名)の時代には朝鮮半島にも勢力を広げ、朝鮮半島に楽浪郡を起きました。また、中央アジアにも支配を広げました。\n漢の時代に、紙の発明があり、歴史書なども多く書かれました。\n商業では、西アジアと中国の交易もさかんになった。のちの時代に、この貿易の経路がシルクロード(英語:Silk Road)と言われるようになります。「シルクロード」の意味は「絹の道」という意味です。ローマ帝国などのヨーロッパの生産物も、このシルクロードを伝って、中国に伝わっていったと考えられています。\n中国からは、絹織物などが輸出されました。漢では工芸も発達し絹織物などが生産されていました。一方、西方から中国には仏教やブドウなどが伝わってきました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E6%98%8E"} {"text": "ギリシャやローマの文明はどのように発達し、どのような特徴をもっているのだろう。\nギリシャやローマの文明は世界にどのような影響を与えたのだろう。\n四大河文明(メソポタミア文明など)からしばらく遅れて、紀元前8世紀頃から地中海近くにあるギリシャ・ローマで文明が発達してくる。\nギリシャでは紀元前8世紀頃から、ギリシャ各地に、いくつもの独立した都市国家(ポリス)が出来た。なかでも、アテネという都市国家 と、 スパルタ という都市国家の、この2つの都市国家(ポリス)が、とても有力であった。\nギリシャでは商工業が発達して、平民や兵士の力が強くなった。\n都市国家(ポリス)のうちの一つであるアテネでは、18歳以上の男子の市民による直接民主政治(デモクラチア)が行われた。\nいっぽう、ギリシャには、奴隷が多くいた。奴隷は、民主政治には参加できなかった。奴隷は人口の3分の1もいた。民主政治に参加できたのは、市民や兵士などの特権階級だけであった。\nスパルタなどの、他のポリスでも、似たような市民や兵士という特権階級による民主政治が行われた。\nスパルタは、周辺のポリスを侵略したりするので、スパルタでは兵士を育てるための軍事訓練がきびしい。スパルタではスパルタ人の男子は、少年期から兵士として育てられ、少年の受ける軍事訓練(ぐんじ くんれん)では、きびしい規律(きりつ)によって集団訓練をさせられた。現在の「極めて厳格な様子」を表すスパルタの語源となっている。\nなお、スパルタ人以外の征服された地域の人は、軍事や政治からは切り離されて、農業や商工業などをさせられた。スパルタ人は、征服された人々の反乱をおそれて、征服された人々が武器を手にしないよう、征服された人々を軍事や政治の仕事には関わらせなかったのである。\nまた、スパルタは、鎖国的な政策をとり、スパルタは、ほかのポリスとの貿易(ぼうえき)を禁止したので、スパルタでは商工業はあまり発達しなかった。\nギリシャでは、ギリシャ文字が使われていた。ギリシャ文字は、フェニキア文字(オリエント地方で使われてた文字の一つ)が元になっている。\nギリシャでは、演劇や建築、物語などが発達した。ギリシャ神話もつくられた。議論もさかんになり、哲学や数学などの学問もさかんになった。哲学者の アリストテレス や ソクラテス 、 歴史学者の ヘロドトス など、多くの学者がギリシャ文明から出てきた。\n紀元前4世紀ごろにギリシャ各地のポリスが統一される。北方のマケドニアの アレクサンドロス大王 によって、ギリシャは統一され支配された。\nアレクサンドロスは、さらに領土を拡大しようとし、エジプト、ペルシャなどオリエント各地にも遠征した。\n同じころ、オリエントの文化が、ギリシャにも伝わってきた。これによって、ギリシャでは、オリエントの文化とギリシャの文化がまじわった新しい文化のヘレニズム文化が生まれてきた。ヘレニズムの語源になった「ヘレネス」とは、「ギリシャ人」という意味。\nギリシャの学問では、科学がさかんになり、数学者の エウクレイデス(ユークリッドのこと) や、 物理学者・機械工学者の アルキメデスが出た。\nアレクサンドロス自身は、ペルシャ征服後のインドへの遠征からの、バビロンへの帰還中に病没し、満32歳で死亡した。アレクサンドロスの死後、彼の帝国は分裂した。\n伝説では、アレクサンドロスが東方への遠征中、ゴルディオンという地方に立ち寄ったとき、ゴルディオンのゼウス神殿には、絶対にほどくことのできない結び目があると言われていました。その神殿にある、伝説の車にとりつけられた結び目です。\nそして、その結び目をほどいたものは、世界の王になれるという言い伝えがありました。\nアレクサンドロスが立ち寄るずっと前にも、多くのものが、この結び目をほどいてやろうと挑戦しましたが、誰一人として、ほどけませんでした。\nアレクサンドロスは、自分こそ結び目をほどいて王になってやろうと挑戦しましたが、それでも結び目はほどけませんでした。\nそこでアレクサンドロスは剣を持ち出して、結び目を一刀両断に切って、無理矢理、ほどいてしましました。\n結び目の言い伝えが影響したのかどうか知りませんが、アレクサンドロスは東方の遠征に成功し、大きな領土を獲得しました。\n\n紀元前6世紀ごろには、イタリア半島でいくつかの都市国家ができていた。紀元前1世紀ごろに、都市国家の一つのローマは周辺の都市国家を征服し、ローマ帝国ができた。さらに、紀元前30年ごろにはローマ帝国が地中海を囲む、ヨーロッパ南部および中央部、西アジアの地中海沿岸部、アフリカの地中海沿岸分の一帯まで、支配を広げた。\nローマによるヨーロッパの支配は、今で言うフランス(当時はガリア)の地をほぼ全て支配し、今で言うスペイン(当時はイスパニア)の地まで、ほぼ全土を支配した。\nギリシャ文字のアルファベットをもとにした、ローマ独自の文字のラテン文字(ローマ字)を持っていた。\nローマには、奴隷がいた。\n広い領土をおさめる必要性から、実用的な文化が発達した。\n暦(こよみ)では、エジプトの太陽暦をもとに、ユリウス暦(ユリウスれき)を作った。道路を整備した。法律も整備された。水道も整備された。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%96%87%E6%98%8E"} {"text": "インドで紀元前5~6世紀頃に釈迦(ゴーダマ=シッダールタ)という人物が、それまでの身分制度(カースト)を批判し、及び、バラモンの教えを批判した。\n釈迦は苦しみとその原因について説き、正しい道をおこなって心の迷いを捨て、悟りをひらくことで、身分によらず救われると唱えた。\nこのようにして、 仏教が出来た。\nその後、仏教は、国家にも保護される。\n仏教は、その後、東南アジアにも広がり、さらに中国や朝鮮半島、日本にも伝わる。\nオリエントのパレスチナ地方ではユダヤ教が信じられていた。紀元前のころ、ローマ帝国にパレスチナは支配された。\n西暦1年より少し前ごろに、パレスチナの地に、イエスという人物が現れた。(西暦とは、かつてイエスの生年と考えられた年を西暦1年とした、キリスト教の暦である)\n当時、極端に細かいおきてや形式を重んじて信仰や愛を軽んずるユダヤ教の宗派が人々を苦しめていたが、イエスはこれを批判し、人々に分かりやすいたとえで罪のゆるしと救いを説いた。愛あふれる父である神を愛し、兄弟や仲間、隣人を愛し、敵をも愛すること、真の平和と幸福、神の国、世の終わり、さばきについて教え、本当のおきてを示し、多くの人々が信じて弟子となっていった。\nイエスはキリストと信じられるようになったが、(「キリスト」とは、ユダヤ教の「メシヤ」からきたことばで、救世主をさす)イエスに偽善をあばかれた宗派やローマ帝国は、かれらを迫害した。\nイエスは、大きな十字架にはりつけにされて、ローマ帝国に処刑されたという。しかし、イエスの弟子たちはのちにクリスチャン(キリスト者)とよばれるようになり、やがてかれらの信仰はキリスト教として今日までに世界でもっとも多くの人々に広まることになる。\nユダヤ教はユダヤ人のための民族宗教であって、ユダヤ民族とそれ以外の民族には格差があり、人は平等ではなかったが、イエスの弟子たちは、ユダヤ人も、ユダヤ人からみた異邦人も、みなキリストを信じて救われたという。そうしてキリスト教は、ローマ帝国の領内で広まっていった。4世紀になると、ローマ帝国が方針をあらため、キリスト教を国教として保護する。\n1世紀ごろから弟子たちは、イエスやその教えに関する文書・手紙類(新約聖書)を書き写し、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)とともに信仰のみちびきとしていた。こんにち、その日本語訳はウィキソースの聖書からも読むことができる。なお、「新約」「旧約」の「約」というのは、神との契約、約束という意味で、翻訳の「訳」とは別の字である。また、『旧約聖書』の「旧約」というのはキリスト教徒から見たいいかたである。ユダヤ教徒は、『新約聖書』を経典とは認めていない。ユダヤ教の経典はもともと、日本語で『旧約聖書』と呼ぶものだけであり、ユダヤ人たちは旧も新もなく単に『タナッハ』と呼ぶ。\nキリスト教は、ユダヤ教を完成させたものであるといい、ユダヤ教と似ている部分もある。ユダヤ教は聖書にある唯一の神ヤハウェ(かつてはヱホバと呼ばれた)を信じる一神教であり、キリスト教は同じく聖書の神を三位一体と信じる一神教である。\nのちの時代にできるイスラム教も、ユダヤ教やキリスト教を参考にしている。\nパレスチナのエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、いづれにとっても聖地である。\n7世紀の始めごろ、アラビア半島では、商業がさかんであり、商人が力を持っていた。アラビア半島の都市メッカでは、商業が発達していた。\n7世紀はじめごろに、メッカの地に、商人の家に生まれたムハンマドが現れ、40歳の頃にムハンマドは神の啓示を受けたとして、40歳の頃からメッカの地で、イスラム教を唱えた。\nイスラムの教えでは、神は唯一アッラーのみであるとしており、偶像崇拝を禁止した。\nこのため、イスラム教では、神の像は無い。\nまた、神の前に、人々は平等であると説いた。イスラム教の経典は『コーラン』と言う。\nムハンマドの教えは、迫害された。ムハンマドは、迫害を逃れるため、メディナに移住した。ムハンマドは、教えを広めるため、軍を組織した。そして、ムハンマドは軍事力でメッカを奪い返した。\nその後、ムハンマドと弟子たちの征服活動によって、アラビア半島の諸国は統一されていき、イスラム教はアラビア半島と北アフリカなどの周辺の地に広まっていった。\nコーランは、生活を厳しく律しており、豚肉を食べることの禁止や、飲酒の禁止、1日5回の礼拝や、断食や巡礼など、日常生活の多くの決まり事を記している。\n「イスラーム」という語は、自身の重要な所有物を他者の手に引き渡すという意味を持つaslamaという動詞の名詞形であり、ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。\n中東のパレスチナという地方にある エルサレム という場所に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地がある。\n現代(西暦2014に記述。)の話になるが、\nこのエルサレムと周辺の地域で、第二次大戦後にイスラエルが建国を強行した。このことにより、以前にこれらの地に住んでいたパレスチナ人たちが住む場所をうしない、パレスチナ人が難民になった。\nパレスチナ人はイスラム教の多い民族であり、イスラエル人はユダヤ教の民族である。\nこのことが、アラブ諸国のあいだで、イスラエルに対しての反発の理由の一つになっている。\nイスラエルがユダヤ教の国なので、アラブ諸国ではユダヤ教への反発が強い。\nまた、アメリカ合衆国がイスラエルと同盟を結んでおり、アメリカはキリスト教の多い国なので、そのようなこともあり、アラブ諸国ではキリスト教への反発につながっている。\nこのようなパレスチナ周辺の政治問題をパレスチナ問題と言う。\nヒンドゥー教は、現代ではカースト制などで批判があるが、このカースト制はバラモン教が手本になっている。\nヒンドゥー教よりも昔の時代に(現代人の言う方では)「バラモン教」という宗教があり、このバラモン教でカーストの教えがあった。\n仏教がインドで出来たこともあってか、仏教の伝説上の仏(ほとけ)は、じつはヒンドゥー教の神が由来であったりする場合も多い。\nところで、たぶんアナタは「ヒンドゥーとインドの発音が似てる」と思うだろうが、その通りで、ヒンドゥーとはペルシャ語で「インド人」という意味である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A"} {"text": "日本列島の人々はどのような生活をしていたのだろう。\n日本列島の生活や文化の様子は、どのように変化していったのだろう。\n今から数万年も前の氷河時代 には、地上には、今よりも多く氷った土地があり、そのため海水面が今よりも低く、我が国は大陸(たいりく)と地続きでした。\nナウマンゾウ や オオツノジカ や マンモス などの動物も、我が国にやってきました。(※「オオツノジカ」とは、大きな角の鹿だから、オオツノジカという。)\nナウマンゾウなどの骨の化石が、我が国で発見されています。野尻湖では、ナウマンゾウとオオツノジカの化石が発見されています。\nこの時代の気候については、植物の化石からも、地層などから、寒い地域に多い木の花粉の化石が多く見つかっており、今よりも気候が寒冷だったらしいことが分かっています。\n3万年前には、日本列島に人間(新人)がやってきていました。まだ、石器時代であり、 打製石器(だせい せっき) を使っています旧石器時代です。\n当時の人間の生活は、大型動物の狩りをしたり、木の実などを採集していました。\n我が国にも、旧石器時代があったことが、考古学の調査により、知られています。\nこの時代は、まだ土器は作られておらず、先土器時代ともいいます。\n住居は、簡単なつくりの小屋や、洞窟(どうくつ)など暮らしていました。\nまだ、きちんとした農業は、始まっていません。そもそも、人々は、一つの場所には定住せず、えもの の動物を追って、移り住んでいたと考えられており、したがって農業をする必要もありません。\n群馬県の 岩宿遺跡からは、三万年前の地層と二万年前の地層から、打製石器のかけらが見つかっています。\n岩宿遺跡の石器は1946年に発見されました。青年の相沢忠洋により、発見されました。\n相沢により、群馬県の関東ローム層の地層から、石器のような、黒曜石のかけらが発見されます。\n相沢は、この石の破片を、大学に調査してもらおうと思い、明治大学に石の破片の調査を依頼しました。(※ 学校名の「明治大学」は、覚えなくて良い。)\n明治大学などの学者の調査で、この遺跡が一万年以上前の遺跡であることが分かり、我が国に旧石器時代があったことが証明されます。\n人類は\n猿人\n原人\n新人\nの順番\n約2万年前ごろから、気候が温暖になりはじめました。\nそして約1万年前には、ついに氷河時代が終わり、南極や氷河の氷が溶けて、海水面が上がっていました。海水面の上昇により、日本列島が大陸(ユーラシア大陸)から切り離され、ほぼ現在の形になっていました。\n我が国では、ナウマンゾウやオオツノジカは、絶滅しました。\nこの時代に、西アジアなどを中心に世界では農業が始まりました。気候が暖かくなったこともあり、農作物が育ちやすくなったと考えられています。\nまた、土器も、世界では作られ始めました。\n我が国でも、しだいに農業や土器の生産が始まっていきました。農業では、クリなど、実のなるものを栽培していました。クリやドングリなどを食料にしていました。植物の栽培など、原始的な農業は始まっていたが、まだ本格的な農業は、この時代には始まっていないと考えられています。\n我が国の土器は、食料の煮炊きや、保存などのために用いられました。ドングリなどを煮炊きしていました。\n(ドングリは、煮て、アクを抜かないと、食べられません。クリは、アクがないので、煮なくても食べられます。)\n我が国の、このころの土器は、表面に縄の文様がついているので、縄文土器と言われます。\nそして、我が国での、この時代を縄文時代といいます。\n縄文時代の人の家の建物は、竪穴住居といって、地面に穴をほりさげたあとに、柱を立てて、草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。\n縄文人の集落が あったとおもわれる場所からは、貝がらが多い場所が、たくさんでてきます。\nこの貝がらが多くある場所を貝塚と言います。\n縄文時代の石器には、打製石器の他に、表面を磨いた磨製石器が見つかっています。\nまた、矢じりの石器などが見つかっており、弓矢が作られていたらしいことが分かっています。この時代は、弓矢による狩りでは、動きの素早いシカやイノシシなどの中型の獣を狩っていたと思われています。\n磨製石器は、石の槍先や、石の矢じり、斧などに使われています。\n動物の骨でつくった 骨角器という刃物も、みつかっています。\n骨角器でつくった釣り針や もり(水中の魚を突き刺す武器) なども、見つかっています。\n打製石器を旧石器ということがあるように、磨製石器を新石器とも言います。\nこの時代の住まいとして、穴に柱を立てて、草や木の枝で屋根を作っただけの竪穴住居が出てきました。\n縄文の遺跡からは、土偶という土を焼き固めて作られた、女性のような形の人形が見つかる場合があります。\n土偶(どぐう)は、食料が増えることを祈ったり、女性の安産をいのったものだと考えられています。\n貝塚には、たとえば大森貝塚があります。明治時代に、アメリカ人のモースが大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見が、きっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が、始まりました。\nほかの貝塚には、福井県の鳥浜貝塚や、千葉県の加曽利貝塚があります。\n青森県の 三内丸山遺跡は、今からおよそ5000年前の集落だと思われています。三内丸山遺跡からは、栗の木を栽培した形跡が見つかっています。\n多くの土器や石器のあとも、みつかっています。\n大型の掘立て柱も、見つかっています。掘立て柱の用途は、まだ分かっていません。\nヒスイの玉や、黒曜石(こくようせき)で出来た刃物のようなものも、見つかっています。\nヒスイは、この地ではとれず、新潟県の糸魚川などの他の土地で取れるので、他の地域と交易があったのだろう、ということが考えられています。\nこの三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。\n縄文人の死者の骨は、姿勢が、手足を折り曲げて、葬られている骨が多く見つかっています。このような葬り方を屈葬と言います。この姿勢で葬った理由は、まだ分かっていません。\nこの時代の社会は、村長はいたが、まだ、貴族などの階級などは無かったと思われています。住居の大きさや、墓などの遺跡を調べても、だれの住居や墓でも、それほど大きさに変わりはなく、副葬品なども少なく、よって貴族などはいなかったと思われています。\n以上のような縄文時代が、紀元前500年くらいまで、約1万年と数千年ほど続きました。\nイネの栽培については、一説では、すでに縄文時代の後期から、大陸から伝わってきた稲作により、九州を中心に日本各地でイネの栽培が始まっていたという説があります( (※ 範囲外:)「縄文稲作」説とか「縄文農耕」説とか言われる)。一方、定説では、縄文時代のあとの弥生時代から日本各地でイネの栽培が始まったというのが定説です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2_%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%B8"} {"text": "\nこの時代の人々の生活は縄文時代からどのように変化したのだろう。\n稲作のはじまりは人々にどのような影響を与えたのだろう。\n紀元前4世紀ごろから、稲作が、大陸や朝鮮半島から、西日本へと伝わった。そして稲作は西日本から東日本へと広がっていったというものが定説。\nいっぽう、実は縄文時代に稲作が伝わっていたという説もある( (※ 範囲外)「縄文稲作」説または「縄文農耕」説 )。\nどちらの説にせよ、紀元前4世紀ごろには、すでに日本に稲作が伝わっており、日本人は水田を耕作しはじめた。稲だけでなく、麦やクリなども栽培していた。\nただし、北海道と沖縄には、稲作は伝わらず、北海道と沖縄では、それぞれ独自の文化ができた。\n青銅器や鉄器も、紀元前4世紀ごろに、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から日本へと伝わっている。\n物だけでなく、人間も大陸(中国)や朝鮮半島から、多くの人が、九州などに やってきたと思われている。遺跡から発見された人骨などの特徴から、大陸や朝鮮半島の人々と近い特徴の人骨が見つかっている。\nこのような中国や朝鮮からやってきた人たちと ともに、稲作や青銅器などの技術も伝わったと思われています。\n縄文土器とはちがう、新しい土器が見つかっており、縄文土器より、うすくて、かたい。また色が褐色(かっしょく)である。高温で土を焼ける技術が発達したため、このような、うすめの土器が作れるようになった。縄目(なわめ)は無く、表面は なめらかである。このような土器の名を、最初に発見された場所の東京都 文京区(ぶんきょうく) 弥生町(やよいちょう)から、この土器を弥生土器(やよい どき)という。\nまた、弥生土器の発見される地層が、縄文土器の地層よりも新しい地層であることが多いことから、時代の順序が分かる。\nこのころの時代を 弥生時代(やよいじだい) という。この弥生土器の発掘されたものには、よく、米や籾(もみ)がついており、この土器の時代に稲作が始まっていたことが分かる。\nまず、弥生土器は、縄文土器にくらべて明るく褐色で、うすくて かたい。このような色調や器肉の厚さの違いは、縄文土器が焼成時にまさしく器面を露出させた野焼き(のやき)をするのに対し、弥生土器ではワラや土などをかぶせる「覆い焼き」(おおいやき)を用いたことに由来する。このために焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる。こういった焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに九州北部で発生したと推察されるが、九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなることと関係が深いと思われる。また強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたために、器面に大粒の砂が露出しているのがみられることがある。\n石包丁は、イネの穂先を刈り取るのに、使われたと思われている。\nイネを保管するための、高床倉庫(たかゆか そうこ)の遺跡も、発見されている。\nねずみや湿気をふせぐために、高くしてあり、柱にはネズミよけの返しがついている。\n農具には、木製の鋤(すき)や鍬(くわ)を作って、使っていたと思われています。\n青銅器や鉄器が、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から伝わっている。\n銅鏡(どうきょう)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)などの青銅器がある。\n発見された銅鐸に、うす や きね を用いた作業の様子を ほった絵がある。このことからも、稲作が行われていることがわかる。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵がある。\n青銅器の多くは、おもに、いのり の道具に使われていたと思われています。\n豊作などを、祈っていたと思われています。\n鉄器は、工具や武具、農具など実用品に用いられた。\n農具や工具や武具には、石器や木器もあわせて、もちいられた。\n以上のような弥生時代は、紀元前4世紀ごろから、紀元3世紀ごろまでのあいだ、約700年間ほど続く。\n稲作など農業で、人口が増える。農地に必要な土地や水などの配分をめぐって、村と村との間で、争い(あらそい)が増えた。\n佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがり いせき)から、争いのあとが見つかっている。吉野ヶ里遺跡は、集落のまわりに、柵(さく)や濠(ほり)の有る集落であり、しかも矢が刺さった人骨が見つかっており、 物見やぐら も、ある。\nなお、柵(さく)や濠(ほり)で囲まれた集落のことを、環壕集落(かんごう しゅうらく)という。吉野ヶ里遺跡は、環壕集落の代表例でもある。\n中国(漢)の歴史書によると、紀元前1世紀ごろには、倭人(わじん、日本人のこと)が100あまりの小国を作っていた、という。(『漢書』(かんじょ)による。)\n漢での日本国の呼び名は、中国の歴史書では、「倭」(わ)と記されており、日本人のことを「倭人」(わじん)と記している。\nのちの時代の日本で、「倭」の代わりに「和」という漢字が当てられる。「倭」という文字には「まかせる」と受け取れる意味があったり( 「委任」(いにん)の「委」に字が近い。 )、小さいことを意味する「矮小」(わいしょう)の「矮」(わい)に近く、のちの時代の日本が嫌がったためである。すくなくとも752年(天平勝宝4年)ごろから日本のことを言う時に「和」という名称を用いている。 現代の日本で、日本風のことを「和風」と言ったりするときの「和」の語源は、この「倭」である。\nいっぽう日本の、この時代には、文字を持っていなかったので、中国の歴史書が、現代での弥生時代の歴史研究でも手がかりになっている\nまた、別の歴史書の『後漢書』(ごかんじょ)の東夷伝(とういでん)という部分によると、1世紀半ばに、倭(わ)の奴国(なこく、現在の福岡県あたり)の王が、漢に使いを送り、皇帝から金印(きんいん)などをあたえられたという。\n金印の実物は、江戸時代に発見されている。江戸時代に、現在で言う福岡県の志賀島(しかのしま)で、1784年に発見され、金印には文字が刻まれており、「漢委奴国王」(かんのわのなのくに)と、漢字が刻まれている。\n『後漢書』の「後漢」というのは、漢の王朝は、いったん、途絶えたが復活したので、いったん途絶える前の漢を「前漢」(ぜんかん)といい、復活したあとの時代の漢のことを「後漢」(ごかん)という。\n「奴国王」という言い方から分かるるように、日本の各地に「国」があり、「王」に当たる階級があったことが分かる。つまり、この時代の日本には、すでに階級があって、人々どうしの貧富の差も大きかったと考えられている。\nその後の時代の様子からも、すでにこの弥生時代の日本に「王」に当たる特権階級が出来ていたと思われている。\n漢(中国)では西暦184年から民衆の反乱である 黄巾の乱(こうきんの らん) により、漢は従えていた諸国の軍勢を動員した。黄巾の乱は平定されたが、諸国の軍勢の権力が強まり、これによって諸国の軍事力なしでは漢は政治ができなくなり、諸国どうしが中国の支配をめぐって争い、長い戦乱の時代が始まり、後漢はおとろえた。\n漢の王朝は220年まで残っていたが、190年ごろから、実質的に中国は戦乱の時代になっており、多くの国々に別れて戦争をしていたが、220年ごろには、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3カ国に集約されていった。それぞれの3国が、べつべつの皇帝を立てていた。220年ごろから280年ごろの中国の時代を三国時代(さんごく じだい)という。184年の黄巾の乱から280年までを三国時代にふくめる場合も有る。\n最終的に、中国で三国を統一する国は、魏のながれをくむ「晋」(しん)という王朝である。\n中国の歴史書『三国志』のうちの、魏についての歴史書の『魏志』(ぎし)に、倭人についての記述である倭人伝(わじんでん)によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、30か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、銅鏡100枚をもらったことが、倭人伝に記されている。\n邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明である。学説では、近畿説と九州説が、有力な説である。\nこの時代の日本には、階級が奴隷から王まで、あったことが、倭人伝の記述から分かっている。\n魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれている。(抜粋)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "このページ (中学校社会 歴史/古墳時代) では、古墳時代について解説します。この単元の用語には難しいものが多いので、漢字の間違いなどに十分注意してください。\n日本列島での国家の形成と古墳の出現にはどのような関係があるのでしょうか。\n記紀の記述から、当時の日本人のものの見方はどのようなものだったのかを読み取りましょう。\n3世紀前半ごろ、奈良県の纒向遺跡(まきむくいせき)に、前方後円墳[1](ぜんぽうこうえんふん)が作られました。それは、90メートル級で、しかも5基同時に作られたと伝えられます。\nさらに、280メートル級の巨大な箸墓古墳(はしはかこふん)が、3世紀の半ばごろには造営されるようになりました。\nこのように、古墳(こふん)が造営されるようになってから6世紀後半まで続くこの時代を、古墳時代(こふんじだい)と呼びます。この時代の文化を、古墳文化(こふんぶんか)といいます。\nこのころ、大和(奈良県)を本拠としたヤマト王権(おうけん)が生まれていました。その首長は、大王(だいおう、おおきみ)で、のちの天皇(てんのう)です。\nヤマト王権の支配域と考えられる場所に古墳が多く存在するので、大王や豪族(ごうぞく)[2]の墓だと考えられています。\n古墳の形は、円形に土が盛り上がっている「円墳」と、四角形に土が盛り上がっている「方墳」が基本的な形であり、これらを組み合わせた前方後円墳が代表的である。\n古墳の多くは、表面を石で覆っていて、内部には石室と呼ばれる部屋があり、死者が入った棺が収められていた。このほか、さまざまな副葬品がおさめられた。副葬品には、古墳時代のはじめごろは銅鏡や銅剣、埴輪などが置かれた。やがて、鉄製の武具や馬具、農具なども石室におさめられるようになった。これらの副葬品は、その当時貴重であったり、価値があったものが多い。\n特に大きな古墳が、大和(現在の奈良県)や河内(現在の大阪府南部)を中心に多く作られていることから、近畿地方を中心に、有力な豪族たちがいたと考えられている。この近畿地方の有力な豪族たちの連合の政権のことを、現代では「ヤマト王権」、「ヤマト政権」などという(呼称は担当教員に尋ねるかもしくは教科書並びにプリント類を参照)。\n4世紀から5世紀には、前方後円墳が、大和地方だけでなく、各地に広がっていく。各地で発掘された鉄剣などにヤマト王権の関連人物の名 (後述) が刻まれていたことから、5世紀の後半には、ヤマト王権は九州から関東までを支配していたと強く考えられている。\nこの大和にいた、有力な豪族たちの連合体であるヤマト王権が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷になっていく。\n埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王の名の入った文が、刻まれている。この文から、この地方の支配者 (豪族) は、ワカタケル大王に使えていたと推定される。そして、熊本県の江田船山古墳にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀[3]があることから、ワカタケル大王の支配領域が、関東地方から九州までの広い範囲に、及んでいたと強く推定されている。当時はまだ漢字以外の文字が存在しなかったので、稲荷山古墳の鉄剣には115字の漢字の文が刻まれており、その文に「ワカタケル大王」という名がある。また、江田船山の鉄刀は、「ワ▫︎◻︎◻︎ル大王」と名前の一部が読めなくなっている。\n後の日本の神話の書の『古事記』や、後の歴史書の『日本書紀』などから「ワカタケル」という人物の存在が知られていることが、鉄剣などがワカタケルの存在を裏付ける証拠になったのだ。ワカタケル大王が雄略天皇であるということが分かっている。また、中国の歴史書などでの倭の五王の倭王武にでもある。「ワカタケル大王より」\nこの章では「ヤマト政権」並びに「ヤマト王権」のみを挙げた (基本的にはこの2つが主流) が、この政治体の呼び方は多数ある。また、「ヤマト」を漢字で「大和」と書く人もいる。前述のように、できるだけ担当教員の指示に従い、それが不可能ならば教科書に従ってほしい。\nなお、この本を読んでいる学生の周りに、「ヤマト朝廷」という呼び方をする人はいないだろうか。かつてこのように呼ばれていたことがあるが、現在、この呼び方は衰退し、一般に通じにくくなっている[4]。保護者やインターネット上のウェブサイトなどでこのように教えられるもしくは表現されている場合があれば、一般に通じない可能性があることに、十分留意してほしい。\nヤマト政権が、後に朝廷になるとはいえ、古墳時代の始めや中頃では、まだヤマト政権は各地の豪族のうちの1つに過ぎないという。古墳時代の始めのうちは、まだ日本の統一がほとんど進んでおらず、ヤマト政権は「朝廷」と呼べる段階に至っていないというのが現在の定説である。ただし、これには疑問点も出されるなど、ヤマト政権の勢力範囲などの真相については諸説ある。\n5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、東北や北海道地方、南洋諸島を除く日本各地を平定した。ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、大王と呼んでいた。大王の一族は、後の天皇の一族である。例えば、5世紀の中ごろに近畿地方に作られた大仙古墳 (仁徳天皇陵とされる) は、大王の墓だと考えられている。仁徳天皇が祀られている。(葬られている者は判明していない)\nこの頃には、政権がかなり安定しており、政治組織を整えられるようになった。\n豪族は、血縁をもとに、氏という集団を作っていた。そして、豪族たちの名前に関する制度で、この氏と姓による、後に氏姓制度と呼ばれる、作られた。\n例えば、蘇我馬子であれば、「蘇我」が氏、「馬子」が名となる。詳しくは以下のとおりである。\nこの氏とは、血のつながった者どうしの集団である。\nそれに対し姓とは、政治の職務による称号である。\nこのような改革により、6世紀の半ばごろまでには、ヤマト王権による中央集権的な日本各地の支配が進み、のちの時代で言う「朝廷」のようなものが形成されていったと考えられる。\n4世紀、朝鮮半島には南西部の百済(高校世界史では「ひゃくさい」)[5]と、東部の新羅(高校世界史では「しんら」)[6]、北部の高句麗(「ゴクリョ」ともいう。)、伽耶諸国が存在し、互いに争っていた。伽耶のことを任那あるいは加羅とも言った。\n日本は、鉄などの資源をもとめて、伽耶や百済と交流があった。そのため、日本はこの2国 (伽耶と百済) と連合して、敵である新羅および高句麗と戦った。\n朝鮮半島での、広開土王(好太王とも言われる)の碑文によると、倭が高句麗との戦争を4世紀後半にしたことが書かれている。この戦いでは高句麗が倭の軍を破った。\n最終的に、7世紀、新羅が朝鮮半島を統一する。\n5世紀の終わりごろ、中国では「宋」という国が、中国の南部を治めていた。この時代、中国は北朝[7]と呼ばれる北魏、南朝[7]と呼ばれる宋の2つの国に分かれ、争っていた。\nその宋の歴史書の『宋書』倭国伝では、5世紀ごろ、日本の5人の王が、それぞれ外交の使者を宋に送ってきたと書かれている。この5人の王が、どの天皇か、それとも天皇ではない別の勢力なのか、様々な説がある。有力な説では、このうちの武は、日本書紀に「幼武天皇」という記述のあるワカタケル大王のことだろうと考えられているが、仮説に過ぎず、実際の関係は定かではない。\nなお、最終的に、中国は「隋」という国によって6世紀の終わりごろに統一される。しかし、この隋の時代は長くは続かなかった。\n5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に移住した。これらの古い時代に大陸から日本へ移り住んだ人たちを現代では 渡来人(教科書によっては「帰化人」) という。\nこの5世紀頃の渡来人により、以下のような外国の文化が日本に伝わった。\n特筆すべきことは、須恵器と仏教が伝わったことである。\n須恵器とは、弥生土器よりも、さらに製法の進んだ、かたい土器である。須恵器の製法は、丘などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという、「のぼり窯」を用いた方法だ。野焼きよりも高温で焼けるので、よりかたい土器が焼きあがる。縄文土器も弥生土器も、のぼり窯は用いていなかった。\n6世紀の半ばごろに仏教も伝来する。545年前後に、朝鮮半島の百済の王から、仏像や経典が日本の天皇に贈られる。\n仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで、 シャカ という人物が始めた宗教である。シャカはゴーダマ=シッダルタ とも言われる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "このページでは、6~7世紀前後の中国のようすについて紹介します。学校では学習しない範囲が多く含まれているので、注意してください。\n※ほとんどの教科書には、隋そのものについての詳しい記述はありません。\n中国は、五世紀から六世紀にかけて南北に分裂していました。589年、分裂していた中国を一つにまとめたのが、隋です。\n隋を建国した楊堅は、「科挙」という官僚を選ぶ試験を作りました。この科挙は、20世紀まで1000年以上行われました。\n楊堅に続いて隋を支配した皇帝が、煬帝です。\n煬帝は、高句麗遠征(高句麗との戦争)を三回も行い、この遠征のために大運河の建設も進めました。\nしかし、遠征は失敗。このために重税を課された人々は 次々に反乱を起こし、中国は内乱状態になります。\n結局、都の大興(のちの長安、西安)は、隋の武将であった李淵に攻め落とされ、そのすぐ後に隋は滅亡しました。\n※学校では学習しない範囲が含まれています。\n隋を滅ぼした李淵は、618年に唐という国を建国し、皇帝になって国を治めました。その後、李淵に続いて皇帝に即位した太宗は、628年に中国の統一を達成します。\n太宗は、当時モンゴル草原を支配していた「東突厥」という国を侵略し、支配下に入れました。\n三代目の高宗という皇帝は、東突厥の西にあった「西突厥」や朝鮮半島の「高句麗」「百済」を滅ぼし、唐を拡大させていきました。\n中央アジアから朝鮮半島まで領土を広げた唐。唐の都は長安(現在の西安)に置かれました。\n当時のユーラシア大陸には、地中海から西アジア、中国までを結ぶ「シルクロード」という巨大な交易路がありました。\nシルクロードでは、中国の特産品である絹をはじめ、香辛料や金貨・宗教や音楽といった文化も各地に伝えられました。\nシルクロードの東に位置する長安には、それらの交易品や文化・技術が集まり、人口百万人を超える国際都市として繁栄しました。\nまた、シルクロードを通してイスラム教の国々と貿易を行っていた唐では、長安や洛陽・広州などの中国の都市でムスリム商人(イスラム教を信じている商人)が活発に活動しました。\n唐では、律令によって次のようなことが制定されました。\nちなみに、律令の律は「刑法」、令は「政治に関する法」を表します。律令の一部は、日本でも取り入れられました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%9A%8B%E3%81%A8%E5%94%90"} {"text": "なぜ大化の改新などの改革が起こったのだろう。\nこの時代の文化にはどのような特色があるのだろう。\n6世紀はじめ、九州北部で、朝鮮半島での百済をすくうための出兵の負担への反発がきっかけで、大和朝廷に対する大規模な反乱が527年に起きる。豪族の磐井(いわい)氏が反乱を指揮したためこの名がついた。磐井氏の役職は国造(くにのみやつこ)という。後の国司(こくし)と間違えやすいので、注意が必要である。古墳時代のページで説明した氏姓制度にのっとり、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこのいわい)という呼称が一般的である[古墳時代参照]。\n朝鮮半島での、百済をすくうための出兵の負担への反発がきっかけである。\nヤマト王権は、反乱をおさえるのに、1年余り要した。この 磐井の乱(いわい の らん) を、豪族の物部氏(もののべし)の 物部麁鹿火(もののべの あらかみ) が しずめたので、物部氏(もののべし)の大和朝廷での影響力が強くなる。\n※磐井の乱は、超中学の範囲なので、超難関校受験を希望しないのであれば、覚える必要はない。\n一方朝鮮半島では、かつて半島がいくつかの国に分かれていたが、5世紀中頃には新羅(しらぎ、シルラ)による統一が進み、日本が協力していた伽耶(カヤ)諸国は領土を失い、滅んだため、朝鮮半島での日本の勢力は失われた。\n(なお、朝鮮半島の国々は、中国・唐に強く影響を受けるということも頭に入れておいて欲しい。新羅は、唐との結びつきが強かったため、唐とほぼ同時期に栄え、そして滅びた。)\n大和朝廷の中では、豪族どうしが、権力をめぐって争っていた。\n中でも豪族の蘇我氏(そがし)が、力をのばした。蘇我氏は、渡来人と協力していた。そのため、大和(ヤマト)王権では外交の担当しており、また中国の宗教である仏教を日本に取り入れようとしていた。\n蘇我氏は、自分の娘である堅塩媛や小姉君を欽明天皇の 妃 にするなどもして、勢力を強めていった。しかし、もともと力をつけていた物部氏と対立を深めていくこととなる。\n用明天皇の跡継ぎをめぐって、ついに、対立は極限まで来てしまう。蘇我馬子は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)、物部守屋は穴穂部皇子を挙げたのだ。そして蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害した。これに物部守屋は怒り、挙兵をする。しかし蘇我氏には、大伴氏や平群氏、厩戸皇子が味方に付いたため、優勢になった。そして蘇我馬子(そがの うまこ)は、物部守屋(もののべの もりや)を倒す。これが丁未の乱である。\nそして蘇我氏は、大王とならぶほどの、大きな権力を手に入れた。\nこのころ、大陸では、南北朝に分かれていた中国を、隋(ずい)が統一して、589年に隋は帝国になった。\nしかし618年に、わずか29年で、隋は唐(とう)にほろぼされてしまう。\nこれから説明する古代日本の時代は、中国では、ちょうど隋が活躍していたころと同じころの時代である。\n蘇我氏が物部氏を倒してから、しばらくして、蘇我氏は、蘇我の血を引く額田部王女(ぬかたべのおうじょ、 「推古天皇」ともいう。)を大王(おおきみ)にした。(この時代には、まだ「天皇」という呼び名がなかったといわれている。「天皇」という名称は、あとの時代の天武天皇のころから用いられるようになったという説がある。)\nまた、大王が女性なので(推古は女性)、政治を助けるために、推古天皇の 甥 であり、蘇我氏の血を引く厩戸皇子(うまやどのおうじ)、 のちの聖徳太子(しょうとくたいし)が摂政(せっしょう)として593年に任命された。聖徳太子は、蘇我馬子の娘の 婿 であり、また、穴穂部間人皇女の子である。また聖徳太子の祖母が蘇我氏の一族である。\nこの時代に、まだ「摂政」という正式な呼び名や制度は無く、したがって聖徳太子は、将来的な天皇の候補としても立てられている。\nこうして、蘇我の一族の者たちが、政治の実権をにぎった。この時代を、今で言う奈良県の奈良盆地南部の飛鳥地方に政治の中心地があったので、飛鳥時代(あすか じだい)という。\n聖徳太子は、蘇我氏と協力して、天皇を中心とする国家を作り上げました。聖徳太子は、そのための改革を、いくつも行いました。\n603年には、冠位十二階(かんい じゅうにかい)の制により、家がらにとらわれずに、才能の有る人物を役人などに取り立てるようにしました。それまでは、氏姓(うじ・かばね)の制度のように、家がら ばかりで、仕事や地位が決まっていました。位(くらい)が12の階級に分かれているので、冠位十二階という。位により、冠(かんむり、かん)の色が違う。「冠」といっても、布製の帽子のような冠であり、べつに金属冠では無い。\nまた604年には、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)を定め、役人の心がまえとして、天皇の命令にしたがうべきことや、仏教をうやまうべきこと等を定めました。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。\n内容を現代風に訳す(やくす)と、およそ、次のようなことが書かれています。\n十七条の憲法(抜粋)\nその他にも、いろんなことが書かれていて、全部で17条あるので、十七条の憲法(じゅうしちじょう の けんぽう)と言います(憲法十七条ともいうが、少し古臭い)。\nもともとの文は漢文で書かれています。この聖徳太子の時代には、まだ、ひらがなが、ありません。のちの歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)に、十七条の憲法の原文があります。\n原文は、とても長いので読みやすいように送り仮名をつけ、記述の一部を抜粋すると、\n十七条の憲法(抜粋)\nといったふうに、書かれています。\n十七条の憲法は、「憲法」と言っても、現代の日本の「日本国憲法」のような、他の法律の基本となる民主主義の理念や、日本国の国家理念がふくまれたものとはちがうので、混同しないでください。\n「和をもって尊しとなす」と、「篤く三宝を敬え」は、有名な言葉なので、知っておいてください。\n「詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め」も、けっこう有名です。意味は「天皇からの命令(=詔)を受けたら、かならず、したがいなさい。」という意味です。\nこれらの改革は、中国の制度を参考にしたと思われています。隋でも、科挙(かきょ)という試験の成績で、成績優秀な人を、役人に取り立てていました。\n日本では、国内の政治が整うと、日本は外交を活発化させ、隋との正式な国交を目指しました。そのために、日本は、隋への外交の使者として、日本から小野妹子(おのの いもこ)を随に607年に派遣させました。\n隋も、隋は朝鮮半島北部の高句麗(こうくり、コグリョ)と対立していたので、日本との関係を重視しました。\n小野妹子が隋に送られ時、聖徳太子らは、隋と日本を対等の立場で国交を結ばせようとしたので、妹子には、そのような内容の手紙を、隋の皇帝へと届けさせました。隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、その対等になろうとする日本の手紙の内容を無礼だとして、たいそう腹をたてたと言いますが、隋は高句麗との争いをひかえていたので、敵を増やすのは好ましくないと判断し、隋は日本との国交を重視しました。\n隋の歴史書である『隋書』(ずいしょ)に、この妹子との外交に関する記述があります。\n隋の皇帝へと、小野妹子が差し出した国書(こくしょ)には、\n「日出ずる処(ひ いずるところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日(ひ)没する処(ぼっするところ)の天子に致す(いたす)。恙無きや(つつがなきや)」 \nとあります。両国とも「天子」(てんし)という表現を用いていることに注目してください。つまり、日本の天皇と、中国大陸の皇帝を、同じ地位(ちい)と見ているわけです。\nほかにも、日本のことを「日出ずる処」と書いて、隋(ずい)を「日没する処」と書いてあります。日本がこれから栄え、隋は滅びるという風に見えてしまいます。\n当初、この日本からの国書を読んだ隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、日本を無礼(ぶれい)な国と思い怒ったといいます。\n煬帝を怒らせた「日出ずる処」ですが、地球上では、中国大陸の東側に日本があるので、日本のほうが、夜明けが早いです。隋から見ると、日本のある方角から太陽が登ってきます。このことを言ったのです。\nそれから、数回にわたって、日本から隋に使者が渡った( 遣隋使(けんずいし) )。 また隋の進んだ文化を学ぼうと、多くの日本の留学生や僧などが同行し、隋の進んだ政治制度や仏教を学んで、日本に持ちかえりました。\n隋も、これら日本からの留学生や僧を受け入れました。\n聖徳太子が政治をおこなっていた時期でもある7世紀ごろ、今でいう奈良県である飛鳥地方に都が置かれていました。この時代のことを 飛鳥時代(あすかじだい) といい、この時代の文化を 飛鳥文化(あすかぶんか) といいます。\n蘇我氏や聖徳太子らが、仏教を保護したため、この飛鳥文化は仏教を中心とした文化であった。蘇我馬子は飛鳥寺(あすかでら)を、(場所は今で言う奈良県に)建てさせます。聖徳太子は、法隆寺(ほうりゅうじ)を607年に建てさせます。法隆寺の場所は、今でいう奈良県の斑鳩(いかるが)地方(奈良盆地の西部)にあります。\n法隆寺は、現存する木造建築の中では、 世界最古の木造建築 です。法隆寺は、世界文化遺産に1993年に登録されました。法隆寺は、のちの7世紀後半に火災にあって消失してしまい再建されるが、それでも世界最古の木造建築である。\n法隆寺には、 釈迦三尊像(しゃか さんぞんぞう) や 百済観音像(くだらかんのんぞう) 、おさめられている。釈迦三尊像を作ったのは、渡来人の子孫である 鞍作止利(くらつくりのとり) が作ったとされる。鞍作止利のことを、止利仏師(とりぶっし)とも言う。\nそのほか、法隆寺には絵画の玉虫厨子(たまむしのずし)など、多くの美術品が、おさめられている。\nこの飛鳥文化には、中国や朝鮮半島の影響が強く現れています。\nさらに、間接的であるが、ギリシアや中東の美術文化が、中国や朝鮮半島を通して、日本に入って来ている。\nたとえば法隆寺の柱は、円柱の中央が、ふくらんでいる。これはギリシャのパルテノン神殿などギリシャ建築に多く見られる特徴であり エンタシス という特徴である。その他、唐草文様などが美術品に見られるが、唐草文様の発祥はギリシアである。\nさて、聖徳太子は、四天王寺(してんのうじ)も、建てさせます。場所は、今でいう大阪府の難波(なにわ)です。\n飛鳥時代の、ほかの寺では、広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩像(みろく ぼさつぞう)も、飛鳥時代の仏像として有名である。\n中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、唐(とう)という帝国になっていた。唐は、隋の制度を引き継いだ。\n622年に、聖徳太子が、死去します。\n聖徳太子の死後は、蘇我氏が権力が強まります。\n蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなります。\nまず、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがの えみし)の権力が、強まります。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)の権力が強まります。\n643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という聖徳太子の子である人物と、山背大兄王 の一族を滅ぼします。\nこのような強権的な蘇我氏に対して、豪族たちからの不満が高まります。\n645年に、ついに、皇族の中大兄皇子(なかのおおえの おうじ)と、豪族の中臣鎌足(なかとみの かまたり)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。\nこれを 乙巳の変(いっしのへん) といいます。(※ 「乙巳の変」の用語は高校の範囲なので、一般の中学生は覚えなくていい。)\n大化の改新と混合しやすいので、注意しましょう。\nこの殺害事件が乙巳の変、それを含めた政治改革が大化の改新です。\nこのあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を 大化の改新(たいか の かいしん) という。言い伝えでは、645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたと言われますが、確認されていません。\nもし、この年に「大化」の年号を定めたなら、この「大化」という年号により、日本では始めて年号が定められたことになります。なお、年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのだろうと思われます。\n645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は退位して、皇極元・天皇の弟の孝徳天皇(こうとく てんのう)が645年に天皇になります。中大兄皇子は、のちに天皇( 天智天皇(てんじ てんのう) )に即位することになるが、この大化の改新のときには、まだ中大兄皇子は天皇では無い。孝徳天皇は難波宮(なにわのみや)に都を移します。難波宮は大阪府にあります。\n中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、唐(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要があった。\nさて、改革の内容はと言うと・・・\n乙巳の変(いっしのへん)の翌年646年(大化2年)に改新の詔(かいしん の みことのり)が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『日本書紀』で発見されています。\n改革の内容は、以下の、公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)、国司(こくし)の設置(せっち)、です。\n次に述べる一連の制度改革は、唐の法律を参考にしています。\nこれまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、朝廷が持つことになります。この命令が公地公民(こうちこうみん)です。朝廷が管理できない土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できない住民の存在も禁止します。\n7世紀のなかばになると、朝鮮半島で戦乱が起きます。\n朝鮮半島では、新羅(しらぎ、シルラ)が唐(とう)と連合して、百済(くだら、ペクチェ)を攻めた。\n660年に百済(くだら、ペクチェ)が、 新羅(しらぎ、シルラ)に滅ぼされます。\n百済は、日本とは親しかったのでした。親しかった百済が滅んだことで、日本は、朝鮮半島での勢力を失います。\n日本は百済を復活(ふっかつ)させるため、新羅と戦争をします。663年に、中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、日本 対 新羅の戦争が起きます。これが白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい、はくそうこう の たたかい) と言います。日本は負けます。新羅と唐の連合軍に、日本は負けました。\nなお、後に新羅は676年に高句麗(こうくり)も滅ぼし、新羅が朝鮮半島を統一することになります。先ほども述べたように、唐との結びつきがとても強いです。唐が滅びるまで、新羅の時代が続きます。\n白村江の戦い にやぶれた日本は、国内の政治に集中します。中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃にそなえるため、九州の防備を強化します。九州北部に 防人(さきもり) という防衛(ぼうえい)のための兵士たちを置き、水城(みずき)という水の満たされた濠(ほり)を持った土塁(どるい)が築かれた防御地点をいくつも作ります。\n667年に、中大兄皇子は都を 大津宮(おおつのみや) に移します。大津宮の場所は、今でいう滋賀県の近江(おうみ)です。それ以前の都は、奈良の飛鳥(あすか)地方にありました。\nこの都を近江の大津宮にうつしたことも、攻撃に備えてなのかもしれません。近江は、飛鳥よりも内陸にあります。\n668年に中大兄皇子は天皇として大津宮で即位し、中大兄皇子は天智天皇(てんじ てんのう)になります。\n668年に、法典である 近江令(おうみりょう) が出来ます。天智天皇(=中大兄皇子)が中臣鎌足に命じ、役人たちに編纂(へんさん)させたものです。また天智は、全国的な戸籍である 庚午年籍(こうごねんじゃく) を作成されます。これが、日本最初の戸籍です。よく聞かれるのは、天智天皇なのか、後に出てくる天武天皇(てんむてんのう)なのかです。注意しましょう。\n天智天皇が亡くなる(なくなる)と、天皇の皇位をめぐり、皇族どうしの争いが起きます。天智の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、 天智の子の大友皇子(おおとものおうじ)とが、672年に争い戦争になる。これを 壬申の乱(じんしんの らん) という。大海人皇子が勝ち、大海人皇子が 天武天皇(てんむてんのう)として飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位する。\n「日本」という国号や、「天皇」という称号は、天武天皇の時には、使われていただろうと考えられています。\n天武天皇の死後、その皇后が持統天皇(じとうてんのう)として即位します。持統天皇は、都を奈良に移して藤原京(ふじわらきょう)を建設させます。藤原京は、道路が碁盤(ごばん)の目のように、格子(こうし)状に区画されています。この都の碁盤目のような区画は、唐の都を参考にしています。\n701年(大宝元年)の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。大宝律令は、唐の律令(りつりょう)という法律を参考にしています。\n「律」は罪人をさばくための刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。\n律令にもとづいて政治を行う国家のことを、歴史学の用語で 律令国家(りつりょう こっか) と言います。\nこの大宝律令を編纂(へんさん)した人物は、藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心に編纂(へんさん)した。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。\n政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。二官には、神々をまつる宗教を行なう 神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう 太政官(だじょうかん)がおかれた。\n太政官には、 右大臣、 左大臣、 太政大臣が置かれた。\n太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。\n八省は、宮内省(くないしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、民部省(みんぶしょう)、治部省(じぶしょう)、式部省(しきぶしょう)、中務省(なかつかさしょう)である。\nこのようにして、中央の地位の高い役職についた者たちが元になって、貴族(きぞく)の階級が出来上がっていった。\n班田収授や、租庸調(そようちょう)も定められた。\nまた、九州には、防衛のための役所として、太宰府(だざいふ)が置かれた。\n政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。\nまず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。\n国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。\n郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。\n中央と地方の役所を図にまとめると、次のようになる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "この時代の人々のくらしはどのようなものだろう。\n公地公民はどのように崩れたのだろう。\n人々の身分は良(りょう)と賤(せん)に分かれていました。「賤」は奴隷などのことで、いわゆる「奴婢」(ぬひ)です。男の奴隷が奴(ぬ)で、女の奴隷が婢(ひ)です。奴婢は、売買もされたという。\n「良」の人々の多くは、いわゆる農民などのことです。奴婢は全人口の1割ほどで、奴婢以外との結婚を禁じられるなどの差別を受けていました。\n政府は人民を管理するために戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。\nこの当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。\nこの奈良時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。\nこのような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。\n現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。\n詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。\n目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。\n6年ごとに人口を調査します。\n税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも口分田(くぶんでん)が与えられます。\n原則として、6才以上の男女に田を与えます。男(6才以上)には2反の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2の田を与えています。5才以下には与えられません。\n6年ごとに更新されるため、詳しく言うと、6才から11才までの間に田を与えられる、ということになります。\n死んだ人の分の田は、国に返します。\nこれらの制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)と言い、これは唐の均田制(きんでんせい)に習った制度です。\n税(ぜい)の種類です。\n租(そ)とは、田の収穫量の、およそ3%の稲 を国に納めよ(おさめよ)、という税です。\n調とは、絹や地方の特産物を国に納めよ、という税です。\n庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。\n前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。\nこれとは別に、出挙(すいこ)という、国司が強制的に農民に春に稲を貸し付けて、秋に5割の利息を農民から取る制度があり、税のように考えられていました。\nこの他、一般の人々の負担には兵役(へいえき)や労役(ろうえき)などがあり、兵役では防人(さきもり)として3年間ほど九州に送られたり、衛士(えじ)として都の警備を1年間 させられました。\n労役では、雑徭(ぞうよう)として土木工事などの労働を60日以内(1年あたり)させられたり、運脚(うんきゃく)として庸・調を都まで運ばされました。\n農民の負担が重い一方で、貴族は税などを免除されました。\n政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。\nまず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。\n国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。\n郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。\nこの時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。山上憶良(やまのうえの おくら)のよんだ貧窮問答歌(ひんきゅう もんどうか)には、このころの農民の苦しい生活のさまが歌われている。\n*\nまた、人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。\n朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年(養老7年)の出来事である。\nさらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。\nこれは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。\nまた、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに 荘園(しょうえん) と呼ばれることになる。\n経済では、この奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)という貨幣が708年(和同元年)に発行され、流通していました。\nこれより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97"} {"text": "奈良時代の日本の人口は、時期にもよりますが、日本全国で600万人ほどです。\n律令国家はどのようにして完成し、どのような特色を持っているのだろう。\n律令国家とは、どのようなものなのだろう。\nこの時代の文化はどのような特色があるのだろう。\nこの時代の外国との交流にはどのような特徴があったのだろう。\n文武天皇(もんむてんのう、大宝律令を作らせた)の、つぎの天皇である元明天皇(げんめいてんのう)の時代に、都(みやこ)が移りました。藤原京(ふじわらきょう)から710年(和銅3年)に奈良の 平城京(へいじょうきょう) へと都が移りました。この710年から、794年(延暦13年)に京都の平安京(へいあんきょう)に変わるまでの、奈良(なら)に都がある約80年間の時代を 奈良時代(なら じだい) といいます。年号をおぼえる語呂合わせ(ごろあわせ)は「なんと(710)、見事な平城京」。\n平城京は、唐(とう)の都の長安(ちょうあん)を参考に作られました。道の通りが碁盤目(ごばんめ)のように、区画(くかく)が整理(せいり)されています。このような、碁盤目のような区画のつくりを 条坊制(じょうぼうせい) といいます。\n都と全国を結ぶ幹線道路も整備されました。(五畿七道、ごき しちどう)\n五畿とは畿内の5つの国である大和(やまと)、山城(やましろ)、河内(かわち)、摂津(せっつ)、和泉(いずみ)のことです。\n七道とは、東山道(とうざんどう)、東海道(とうかいどう)、北陸道(ほくりくどう)、南海道(なんかいどう)、山陽道(さんようどう)、山陰道(さんいんどう)、西海道(さいかいどう)のことです。\n道路には、役人が馬を乗り継ぐための 駅(うまや) が置かれました。「駅」と言っても、現在の鉄道の駅(えき)とは、ちがいます。\nまた朝廷(ちょうてい)は、東北地方の人々を蝦夷(えみし)と呼び、蝦夷を支配(しはい)するための拠点(きょてん)として多賀城(たがじょう)が、今で言う宮城県(みやぎけん)の位置に置かれました。\n奈良時代の文化は、仏教の影響と唐との交流の影響で、平城京を中心に貴族の文化が栄えました。\nとくに、聖武天皇(しょうむ てんのう)の治めた 天平(てんぴょう) の年号の時代に、この傾向が強いので、この奈良時代の文化を 天平文化(てんぴょうぶんか) と言います。\n聖武天皇のころ、飢饉(ききん)がつづいたり、貴族の反乱が起きたりします。\n737年(天平9年)には病気の天然痘(てんねんとう)が流行り、多くの死者が出る。\n740年(天平12年)には、九州で、貴族の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)による反乱も起きた。\n政治が不安定になる。\nまた、人口が増えて公地公民が上手くいかなくなってきた。\n聖武天皇は、仏教の力に、すがる。\nまず聖武天皇は741年(天平13年)に、国ごとに 国分寺 (こくぶんじ)と 国分尼寺 (こくぶんにじ)を建てさせる。都には 東大寺 (とうだいじ)を建てさせた。\n743年(天平15年)に、東大寺の本尊(ほんぞん)として大仏を作らせる。\n東大寺の大仏は、盧遮那仏(るしゃなぶつ)という仏です。\n行基(ぎょうき)という僧(そう)がいました。彼は、民衆のために用水の池や橋をつくったりしながら、諸国をまわって教えをといていたので、民衆に、したわれていました。\nしかし、朝廷は、はじめは、行基の行動をとりしまります。当時は、民衆への仏教の布教が禁止されていたし、寺の外での活動も禁止されています。\n朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす危険人物(きけんじんぶつ)だろう、と思われていたのです。\nさて、大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、民衆の支持が必要でした。このため、民衆に慕われていた僧の行基(ぎょうき)の活動を認めます。\n中国大陸の帝国が唐にかわっても、かつての遣隋使(けんずいし)と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の 遣唐使(けんとうし) を送ります。\n遣唐使は、奈良時代のあいだに6度ほど、派遣(はけん)されます。\nのちの平安時代には遣唐使は廃止(はいし)されますが、奈良時代には、まだ遣唐使は廃止されてません。\n717年に唐にわたった 阿倍仲麻呂(あべの なかまろ) や、仲麻呂と供に唐にわたったこともある 吉備真備(きびのまきび) が遣唐使として有名です。阿倍仲麻呂は、唐からの帰りの船で遭難(そうなん)してしまい、日本に帰れず、唐の役所に仕えることになって一生を終えました。\nなお、最初の遣唐使として630年に唐に派遣された犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)は、最後の遣隋使(けんずいし)でもあります。\n阿倍仲麻呂は、日本に帰ろうとして乗った船が難破(なんぱ)し、日本に帰れず、最終的に唐の皇帝(こうてい)に仕えることになります。\n吉備真備は2回も唐にわたり、日本に帰れます。\n日本の朝廷らは、唐の有名な僧(そう)の 鑑真(がんじん) に、日本でも仏教(ぶっきょう)をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招き(まねき)ます。この招きを受け、鑑真は日本への渡航をおこないますが、5回も失敗し、6回目で日本に着きます。6回目で日本についたころには、鑑真は失明しています。\n鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開きました。\n東大寺にある 正倉院(しょうそういん) には、奈良時代の美術品や、聖武天皇が日用した道具などが収められています。\n宝物には、ギリシャやペルシャ、インドなどから運ばれてきたものもある。シルクロードという中国大陸からヨーロッパまでの貿易の通路を通ってきた宝物である。後世の言い方だが正倉院のことを「シルクロードの終着駅」とも例える。\n(※ 赤漆文欟木御厨子〜蘇芳地金銀絵箱蓋は、おぼえなくて良い。)\n712年(和銅5年)に『古事記』(こじき)という天皇家や貴族などにつたわる神話の時代をまとめた書が、できます。この『古事記』は、天武天皇により編纂が命じられ、712年に完成しました。\n『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が、暗記していた神話や歴史を、太安万侶(おおの やすまろ)が3巻の書にまとめた書です。\n神話の時代から推古天皇にいたるまでの出来事が古事記に書かれています。\nまた、日本の歴史書および神話の『日本書紀』(にほん しょき)が720年(養老4年)に完成します。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇にいたるまでの国家と天皇の歴史を書いた、歴史書と神話の混ざったような書です。\n日本書紀の編纂は、時代順に出来事を書く編年体(へんねんたい)で記述しています。日本書紀は、舎人親王(とねり しんのう)らが、全30巻にまとめています。\n古事記と日本書紀を合わせて、「記紀」(きき)と言います。この他、地方の産物や地理・伝説などをまとめた『風土記』(ふどき)も作られた。\n文学では、和歌(わか)をまとめた『万葉集』(まんようしゅう)が759年(天平宝字3年)ごろから編纂(へんさん)されます。貴族の作った和歌だけでなく、農民や防人などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。万葉集には全部で4500首あまりの歌が収録されています。\n貴族の歌人では、飛鳥時代の柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)や、奈良時代の大伴家持(おおともの やかもち)と同じく奈良時代の山上憶良(やまのうえの おくら)、奈良時代の山部赤人(やまべの あかひと)などが有名です。\n万葉集の文字の読みは、万葉仮名(まんようがな)という、漢字の音で日本語を表す読みです。たとえば、次のような句を次のように読みます。\n(現代語訳) さあ、みんな 早くヤマトへ帰ろう 大伴の御津(みつ)の浜の松のように (家族も)帰りを待ち(=松とのシャレ)こがれているだろうよ\n(現代語訳) 唐衣の 裾に、すがって 泣きつく子どもたちを (防人に出るため)置いてきてしまったなあ、 母もいないのに\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "この時代の政治にはどのような特徴があるのだろう。\nこの時代の文化にはどのような特色があるのだろう。\nこの時代の人々の考え方はどのようなものだろう。\n~貴族がさかえた時代~\nかつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。\nのちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、桓武天皇(かんむ てんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年(延暦3年)に京都府の 長岡京(ながおかきょう) にうつす。さらに794年(延暦13年)に京都府の 平安京(へいあんきょう) にうつす。\n奈良から平安京への寺院の移転は禁止されます。\n他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔(むかし)の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。\n平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を 平安時代(へいあんじだい) という。\nくわしくいうと、後に1192年(建久3年)に武士である源頼朝が権力をにぎる鎌倉幕府(かまくら ばくふ)ができますが、794年から1192年までを平安時代と言うことが多い。\nなお、平安時代より、あとの武士による政治の時代になっても、都は平安京のままです。明治時代に東京に都が移るまでは、平安京が日本の都でした。平安京のつくりは、唐の都である 長安(ちょうあん) を、参考(さんこう)にしています。\n桓武天皇は、公地公民が上手くいかない理由の一つである、税負担の重さに改革の手をつけます。\n税負担の重さを減らしました。雑徭(ぞうよう)の日数を60日から30日に減らします。6年ごとに見直してた区分田に支給を、12年ごとに変えました。\n(※ 中学の範囲外:) また、国司に対する監督をきびしくするため、勘解由使(かげゆし)という役人を置きました。(※ 検定教科書では、単に「国司に対する監督をきびしくさせました」的なことだけが書いてあり、「勘解由使」(かげゆし)の用語は紹介してない。 ただし、自由社の教科書では、勘解由使(かげゆし)を紹介している。)\nこのころ、奴婢(ぬひ)の制度も、無くなっていきました。\nまた、農民を兵士にすることをやめ、郡司の子弟(してい)などから健児(こんでい)という兵士を選ぶようにしました。\nまた、桓武天皇の政権は、東北地方に支配を広げます。\n東北地方の 蝦夷(えみし) とよばれる人々は朝廷の支配に反対し、たびたび反乱を起こしていました。朝廷は蝦夷の征服のため、797年(延暦16年)に 坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ) という人物を 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) という役職(やくしょく)に任命し、彼に東北地方を平定させ、朝廷は東北地方に支配を広げました。\nしかし、その後もたびたび、蝦夷の反乱は起きました。\n蝦夷の族長はアテルイという人物で、アテルイの兵力と、対する田村麻呂らの朝廷軍との戦いです。\n結果的に、田村麻呂の側が勝ちます。つまり朝廷の側が勝ちます。\nアテルイは負け、802年(延暦21年)に降伏(こうふく)します。アテルイは平安京に連行されたのち、京にて処刑されます。\n田村麻呂は、アテルイの命を助けるよう減刑をもとめましたが、貴族たちの反対により、アテルイは処刑されました。\n東北での戦争のさい、胆沢城(いさわじょう、場所は岩手県、築802年)が田村麻呂らにより築かれ、また多賀城(たがじょう、宮城県、築724年)、秋田城(あきたじょう、秋田県、築733年) なども朝廷軍の拠点になり、朝廷による東北支配の拠点になります。\n平安時代に入り、奈良時代の仏教とは変化した。天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)という新しい宗派(しゅうは)ができ、それが広まった。奈良時代の仏教とはちがい、新しい平安時代の宗派は、山奥(やまおく)で修行(しゅぎょう)をしたりする仏教である。\n僧の最澄(さいちょう)と僧の空海(くうかい)による、新しい仏教の考え方が広まった。おそらくは朝廷が、奈良時代の政治に深く介入した従来の仏教勢力をきらい、かわりに新しい宗派を保護したのだろう。\n最澄も空海も、遣唐使と共に唐にわたり留学し、唐の新しい仏教の教えを学んできた僧である。\n最澄は805年(延暦24年)に日本に帰国し、比叡山(ひえいざん、滋賀県にある。)に 延暦寺(えんりゃくじ) を建て、天台宗 (てんだいしゅう)をひろめた。最澄は伝教大師(でんきょうだいし)とも言われます。\n空海は806年に帰国し、高野山(こうやさん、和歌山県にある。)に 金剛峯寺(こんごうぶじ) を建て、真言宗(しんごんしゅう)を広めた。 ことわざの「弘法も筆のあやまり(こうぼうも ふでのあやまり)」の弘法大師は空海のことだ。\n比叡山と言い、高野山と言い、ともに山であることに注目もしよう。朝廷が仏教の政治介入を嫌う事とも、つじつまがあう。\n奈良時代に墾田永年私財法により、開墾した土地の所有が認められるようになったので、貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていった。この貴族の所有する私有地が 荘園(しょうえん) である。\nまた、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利が出来た。\n税を収めない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)といいます。\nこれら不輸不入の権もあり、貴族の荘園は、どんどんふえていき、朝廷の税収は減るので財政は悪化し、律令政治が上手くいかなくなります。\n有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族に、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを寄進(きしん) という。\n10世紀に入ると、班田収授は行われなくなり、公地公民は くずれていきます。\n9世紀の中頃になると藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足のこと。)の子孫の一族の藤原氏(ふじわらし) が、権力を強めます。\n藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の妃(きさき)にしています。\nすると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせき)ということになるので、藤原氏の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。\n藤原氏の一族では、とくに11世紀の前半に 藤原道長(ふじわらの みちなが) と、道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)らの親子が権力をにぎっていた時代が、もっとも勢力が、さかんでした。\n道長が有名なので、よく、教科書などに道長が取り上げられますが、藤原氏の権力は、べつに11世紀に急に強まったわけではなく、9世紀ごろから藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政になったりなど、すでに藤原氏の勢力が強かったです。皇族以外で摂政になったのは、良房が、はじめてです。\n天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政(せっしょう)になり政治の実権(じっけん)を握り、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を 摂関政治(せっかん せいじ) といいます。\n道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。\n意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。この歌は、いわゆる「望月の歌」(もちづきのうた)として有名です。\n摂関政治のころ、地方の行政は、国司に まかせられるようになりました。国司の中には、自分は現地に行かずに都にとどまり、代理人を送る者も、いました。\n国司には、蓄えをふやそうと、税を厳しく取り立てる者もあり、農民などの不満は大きく、朝廷に国司の不正を訴えでる者もいました。\n894年(寛平6年)に、菅原道真(すがわらの みちざね)の進言により遣唐使が廃止されます。\n遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的な負担が大きい、などです。\nこの遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。\nかわりに日本独自の貴族文化が発展していきます。この平安時代に発展した日本独自の貴族文化を国風文化(こくふうぶんか) と言います。\nなお、)\n大宰府の職の地位については、道真のもとの右大臣の職とくらべたら、(大宰府の管理職は)地位が低い。\n「左遷」(させん)という熟語が現代の日本にありますが、その具体例として、菅原道真が901年に大宰府の職へ追いやられたことが、「左遷」の典型例であると、現代ではよく表現されます。\nなお、「左遷」の語源は古代中国の文献『史記 韓信盧綰伝』であり、日本に由来する言葉ではありません。(※ 文献名『韓信盧綰伝』は中高の範囲外なので覚えなくてよいです。)\n右大臣である道真が大宰府に追いやられる前、藤原氏で左大臣だった藤原時平(ふじわらの ときひら)が、道真をこころよく思わなかったので陰謀をしかけたのです。(※ 育鵬社の検定教科書のコラム欄に、道真の「追放」と書いてあるので、追いやるなどと言ってもマチガイではない。)\nそして時平の陰謀により菅原道真が大宰府に追放されて以降、道真は903年(延喜3年)に大宰府で亡くなってしまいました。道真の死後、京都では災害や異変が多く発生したので、人々はこれを、きっと道真の祟り(たたり)にちがいないと、恐れ(おそれ)ました。ある貴族は、落雷に打たれて死をとげたとも、言い伝えられています。\nこのため、当時の京都の天皇や大臣たちは祟りをしずめようとして、道真を神様として、たてまつるようになった、といわれてています。\n現在、「天満宮」(てんまんぐう)と言われる神社・寺は、菅原道真をたてまつっている宗教施設です。また「天神」(てんじん)とは、神様としての菅原道真のことを言っています。「天神」とか「天満」とか「天」と言葉のつく理由は、一説には、たたりが京都の天気・天候の異常としてに災害をもたらしたからだと(いわゆる「気象災害」、たとえば台風による被害、暴風雨や激しい落雷、あるいは日照り(ひでり)などといった天気の異常による被害の発生のこと)、いわれています。\nこうして現代には、菅原道真は学問の神様であるとして、いいつたえられるようになりました。\n大宰府の場所にあたる現代の福岡県も天満宮(太宰府天満宮)があります。\n道真が「学問の神様」であるといわれてるほどに学問が得意と言われている理由は、道真は若くして、地位の高い役人になるための試験に合格したからだと、言われています。\nなお、京都には北野天満宮があります。\n唐は10世紀の始めごろに滅び、小国の争いをへて、宋(そう)が統一して、宋に王朝が変わります。中国と日本の、正式な国交は途絶えますが、商人などの交流や僧侶の留学はその後も続き、中国の文物も日本に入ってきました。同じ頃、朝鮮半島では高麗(こうらい、コリョ)が出来て、高麗が新羅(しらぎ、シルラ)を滅ぼしました。\nひらがな や カタカナ などの かな文字が、平安時代に発明されます。\nひらがなは、漢字の形をくずして、発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。\nこの時代の当初(とうしょ)、ひらがなやカタカナは、女が用いる字であった。\n(※ 発展 : )貴族の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、名を隠し(かくし)、女を名乗り『土佐日記』(とさにっき)を書いた。日記の出だしの文章は「男もすなる日記というものを 女もしてみむとて するなり」と言った出だしです。\n内容は、第三者のフリをして、国司(こくし)として、四国の土佐(とさ)に派遣されていた紀貫之のような経歴の人物のことを、書いた日記です。(※ 教育出版の教科書で『土佐日記』を紹介。)\n\nかな文字をつかって、『古今和歌集』(こきん わかしゅう) や『竹取物語』(たけとり ものがたり) などが、この時代に書かれた。\n『古今和歌集』は、紀貫之(きのつらゆき)という人物の編集による和歌集です。(醍醐天皇(だいごてんのう)の命令により、紀貫之らが『古今和歌集』を編集しました。)\n文学の物語では、紫式部(むらさきしきぶ)によって『源氏物語』(げんじものがたり)が書かれました。\n(※ 発展: )この『源氏物語』は、主人公は貴族の「光源氏」(ひかる げんじ)という人物で、光源氏を中心とした貴族の恋愛などを書いています。\nなお、名前が後の幕府の「源氏」(げんじ)と似ていますが、光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来た1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。\n随筆(ずいひつ)では、清少納言(せい しょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。\n紫式部も清少納言も、宮廷(きゅうてい)に仕える女官(にょかん/にょうかん)です。\n絵画では、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が出てくる。寝殿造りの屋敷の屏風(びょうぶ)や ふすま などに大和絵が描かれた。絵巻物などにも大和絵は描かれた。\n(※ 発展: )大和絵の作品では、鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)や源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)などが有名です。\n鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)は、当時の社会を風刺するために、蛙や猿、うさぎなどの動物たちを擬人的に描いて表現した絵です。\n大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。「源氏物語絵巻」は、紫式部の『源氏物語』の内容を、絵画を使って表したものです。\n平安時代には、貴族の衣服の正装(せいそう・・・正式な服のこと)が変わり、男の貴族の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) になります。\n貴族の住居の形が 寝殿造(しんでんづくり) になる。\n平安時代の中ごろは、伝染病が流行ったり、災害が起きたりしたので、社会の不安が大きくなった。このため、宗教では、人々に安心を与える宗教が、平安時代の半ばごろから流行るようになる。\n浄土教という信仰が流行るようになる。阿弥陀如来(あみだにょらい)にすがり、念仏(ねんぶつ)を唱えていれば、死後には、極楽浄土へ行ける、という信仰である。\n浄土教を布教した人物では、空也(くうや)という人物が有名である。空也(生:903年~没:972年)は、10世紀中ごろ、諸国をまわり、庶民に浄土教を布教していた。「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という念仏を唱えるとよい、と空也は民衆たちに広めたという。人が集まる市(いち)で布教していたことから、空也は、市聖(いちのひじり)とも呼ばれます。\n仏教の教えによると、1052年(永承7年)は釈迦が死んでから2000年後ということらしく、死後1000年ともなると釈迦の教えがおとろえて世の中が悪くなるという思想があり、この思想は 末法(まっぽう) と言われた。この末法思想もあって、浄土信仰は広まっていった。\n地方にも浄土教がひろまり、各地に阿弥陀仏をまつる寺院である 阿弥陀堂(あみだどう) がたてられた。たとえば岩手県の平泉(ひらいずみ)には 中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)という阿弥陀堂 が建てられた。大分県に富貴寺大堂(ふきじおおどう)が、たてられた。\n人々の不安もあって、仏教では、念仏(ねんぶつ)を唱えて阿弥陀仏(あみだぶつ)さえ信じさえすれば救われるという内容の浄土教(じょうどきょう)が流行りました。\n京都の宇治(うじ)にある平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)は、この時代に建てられました。十円玉に描かれている建物は、平等院鳳凰堂の絵です。\n平等院鳳凰堂のなかにも、阿弥陀像(あみだぞう)があります。平等院鳳凰堂も阿弥陀堂です。\n平安時代には、地方の豪族や有力農民たちは私有地を広げていったのであった。9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。\nこのようにして、武士(ぶし)が、できていった。\n武士たちは、一族の かしら を棟梁(とうりょう)として、それぞれの一族ごとに武士団(ぶしだん)を結成していった。\n貴族の中にも、これにならい、武士団をつくり棟梁となって兵を指揮する者が、地方貴族から出てきた。源氏や平氏などが、そのような貴族の武士である。\n源氏も平氏も天皇の子孫です。\n武士の中には、朝廷に対して反乱を起こす者も出てきました。\n10世紀の935年(承平5年)に、平将門(たいらの まさかど)が反乱を関東地方で起こしました。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、将門の反乱を鎮圧します。\n将門は、常陸(ひたち)の国府をおそい、周辺の国府もしたがえて、自分たちで国司を任命し、京都の朝廷とは別に自分たちの朝廷をつくろうとします。平将門は「新皇」(しんのう)をなのりました。しかし、鎮圧されました。\n939年(天慶2年)には、藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を瀬戸内海の周辺で起こし、海賊らを率いて反乱を起こします。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、反乱を鎮圧します。\n朝廷の力だけでは、この2つの反乱をしずめることはできず、ほかの武士の協力をえる必要があり、これらの反乱により武士の影響力が増すことになった。\nこの2つの反乱のことを、起きた年の年号をとり 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう の らん) と言う。\n11世紀の1051年(永承6年)には東北地方で反乱が起き、安倍頼時らが反乱を起こした。この反乱の鎮圧を、源氏である源頼義(みなもとのよりよし)および源義家(みなもとの よしいえ)らの兵が鎮圧した。この反乱と鎮圧のできごとを 前九年の役(ぜんくねん の えき) と言う。\n1051年から1062年(康平5年)まで続いた。源氏が鎮圧を行ったので、関東地方では源氏の影響力が強まった。\nまた1083年(永保3年)にも反乱が起き、源氏らが鎮圧した。1083年から1087年まで争乱がつづき、この争乱を 後三年の役(ごさんねんのえき) と言う。\nまた、後三年の役で勝利した源氏の側についた藤原清衡(ふじわらの きよひら)の一族の奥州藤原氏(おうしゅう ふじわらし)の勢力が広まった。中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)は、藤原清衡が建てさせた阿弥陀堂(あみだどう)である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "11世紀の半ばすぎごろになると、藤原氏の影響力は弱まり、藤原氏とは関係のうすい 後三条天皇(ごさんじょう てんのう) が即位した。天皇は、藤原氏の政治に不満をもつ貴族も用いて、政治の実権を天皇にもどした。こうして摂関政治は終わっていった。\n後三条の子が次の天皇の 白河天皇(しらかわ てんのう)になり、同様に天皇中心の政治を行った。白河天皇は1086年(応徳3年)に、生存中に次の天皇の堀河天皇に位をゆずり、白河 元・天皇は上皇(じょうこう)として、上皇が政治の実権をにぎった(天皇や上皇が出家すると、法皇ともよばれる)。\n上皇の住む住居が 院(いん) と呼ばれていたので、上皇による政治を 院政(いんせい) と言う。\n(※ 後三条天皇は院政をしていない。院政をしたのは白河天皇。)\n堀河天皇の死後は、白河の孫である 鳥羽天皇(とば てんのう) が即位する。この鳥羽天皇も鳥羽上皇になった。\n鳥羽上皇の次は、後白河 元・天皇が後白河上皇(ごしらかわ じょうこう)となり、院政を行った。\nこのようにして院政が100年ばかり、続いていく。\nいっぽう、摂関家だった藤原氏の権力は、おとろえていった。\nさて、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利がある。\n税をかけさせない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への国司など役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)という。有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族などに、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを寄進(きしん) という。\n院政のころには、上皇や皇族などに寄進される荘園が増えていった。\nまた、上皇が仏教を保護したこともあり、寺院に荘園が多く与えられた。\n摂関政治のころは天皇の母方の摂関家が政治を支配していたが、院政になり父方の家系に政治の実権が移った。\nさて、天皇家の内部でも天皇と上皇との権力をめぐって対立が起きてくる。これにくわえて、藤原氏の内部の対立も加わり、ついに1156年(保元元年)には戦乱となって、保元の乱(ほうげん の らん)が起きた。\n上皇の側の崇徳上皇(すとく じょうこう)には、左大臣の藤原頼長(ふじわらの よりなが)、平氏の平忠正(たいらの ただまさ)、源氏の源為義(みなもとの ためよし)が、従った。\n天皇の側の後白河天皇には、関白の藤原忠通(ふじわらの ただみち)、平氏の平清盛(たいらの きよもり)、源氏の源義朝(みなもとの よしとも)が、従った。\n勝ったのは、後白河天皇の側である。\nつまり平清盛と源義朝が加わった側が勝っている。\n保元の乱の後、1159年(平治元年)に、保元の乱での恩賞に不満をいだいた源義朝(みなもとの よしとも)が兵をあげて乱をおこしたが、平清盛らの軍に鎮圧される。これが 平治の乱(へいじの らん) である。源義朝の子の源頼朝(みなもとの よりとも)は、伊豆(いず、場所は静岡県)に流された。\nこの件により、平氏の影響力が強まった。\n清盛は、武士の力を利用しようとする後白河上皇との関係を深めます。\n1167年(仁安2年)には、清盛は武士としては初めての太政大臣(だじょう だいじん)になります。\n平清盛は、藤原氏の摂関政治のように、清盛の娘の徳子(とくこ)を、天皇の高倉天皇(たかくらてんのう)の后(きさき)にして、生まれた子を安徳天皇(あんとくてんのう)にさせ、平氏が政治の実権を得ていきます。\nこのようにして、平氏の一族が、朝廷での重要な役職を得ていき、権力をつよめます。\n清盛は、宋との貿易を重視し、日宋貿易(にっそう ぼうえき)のための整備に、かかります。今でいう神戸にあった大輪田泊(おおわだのとまり)という港を改修します。日宋貿易により、日本には宋銭(そうせん)が多く入ってきた。\n日本と宋との正式な国交は開かれておらず、これらの交易は、民間の交易である。\n平氏の一族は栄え(さかえ)、 「平氏にあらずんば 人にあらず」 (意味:平氏の一族でなければ、その者は人ではない。) とまで言われるほど、平氏が栄えた。平氏は全国ほどの土地を支配した。\n清盛は 海の神をまつっている厳島神社(いつくしま じんじゃ) を敬った(うやまった)。そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)とした。\n厳島神社には、『平家納経』(へいけ のうきょう)という、平家が一族の繁栄(はんえい)を願って納めた(おさめた)書が、納められている。\n10世紀のはじめごろ、907年(延喜7年)に唐がほろんで、多くの小国に分かれた。979年(天元2年)に宋(そう)が中国を統一した。\n中国では、役人を登用するための試験の科挙(かきょ)が隋のころにつくられたが、宋になって科挙(かきょ)を整えた。\n12世紀に宋は、北方におこった国である金(きん)との闘いにやぶれ、宋は都を長江(ちょうこう、チャンチヤン)の流域にうつし、これ以降の時代を南宋(なんそう)という。南宋に移る前の宋は、北宋(ほくそう)ともいう。\nこうして中国の政治が中国南部にうつったため、中国南部の土地の開発がすすみました。\n宋の文化では儒学が重んじられ、儒学の一派から、身分の秩序を重んじる朱子学(しゅしがく)がおこった。仏教では座禅を重んじる禅宗(ぜんしゅう)や浄土宗(じょうどしゅう)がさかんになった。\n宋の技術からは、火薬や羅針盤(らしんばん)、木版印刷(もくはん いんさつ)の技術が出来た。宋の産業では、茶の栽培や、陶磁器などの生産がさかんになった。美術では水墨画がさかんになった。\n遣唐使のような役人などの留学は廃止されていたが、民間の商人たちの貿易はつづいた。宋で貨幣に用いられていた銅銭(どうせん)の宋銭(そうせん)は、日本にも輸入された。日本と宋との正式な国交は無く、民間での交易である。\n日本で平清盛が支配する時代に、日本と貿易を行った宋は、南宋のほうである。\n8世紀に新羅(しらぎ、シルラ)がおとろえ、10世紀の936年(承平6年)に高麗(こうらい、コリョ)が新羅を滅ぼした。\n高麗の産業では、陶磁器の生産がさかんになった。\n平氏の独裁的な政治に、他の皇族や、上皇の院、ほかの武士などからの不満が高まっていく。それらが、のちに、平氏の打倒へと、つながる。\nついに1180年(治承4年)、皇族の 以仁王(もちひとおう) は、平氏を滅ぼすように命令を下す。以仁王は後白河法皇の子である。以仁王の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3/%E9%99%A2%E6%94%BF%E3%81%A8%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%8F%B0%E9%A0%AD"} {"text": "鎌倉幕府はどのように成立し、どのように政治を行っていったのだろう。\nこの時代の人々はどのように暮らしていたのだろう。\n平安時代末期、政権をにぎっていた平氏(へいし)に対する不満が高まった。その中で、1180年(治承4年)に以仁王(もちひとおう)が挙兵し[1]、諸国の武士に「平氏を討伐せよ」との命令を出した。同年、伊豆(いず)に流されていた源頼朝(みなもとの よりとも)、ついで木曽(きそ)の源義仲(みなもとのよしなか)らがこの命令に従って挙兵した。源頼朝は鎌倉を中心に関東の支配を固めていった。頼朝は、自らは鎌倉にとどまって指揮をして、かわりに弟の源義経(みなもとの よしつね)を西に送って、平氏を西へと追いつめていく。\nそのころ、源義仲は平氏を京都から追い出すことに成功したが、朝廷の後白河上皇(ごしらかわじょうこう)側との対立を生じていた。後に、朝廷は源義仲追討の命令を出し、義仲は源頼朝の命令を受けた源義経(みなもとの よしつね)らに滅ぼされた。一方、平氏も力を盛り返し、京都に攻め上ろうとする勢いを見せ始めた。しかし、源義経らが平氏を 一の谷の戦い(いちのたにの たたかい) および 屋島の戦い(やしまのたたかい) で破り、ついに1185年(文治元年)に壇ノ浦の戦い(だんのうらの たたかい)で平氏をほろぼした。\n※ 脚注\n義経(よしつね)は頼朝(よりとも)と対立する。義経(よしつね)は、頼朝(よりとも)らによって、滅ぼされる。\n義経らは東北地方である奥州にいる奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)をたよって東北に逃げていたので、かくまっていた奥州藤原氏も頼朝により滅ぼされる。\nいっぽう、平氏の滅亡後、頼朝(よりとも)が朝廷に要求したことより、新しい制度として国ごとに守護(しゅご)が一人ずつ置かれ、荘園や公領(こうりょう)には、地頭(じとう) が置かれた。守護の仕事は、その国の御家人の統制や謀反の取り締まりなどの、軍事・警察の管理者である。地頭の仕事は、荘園および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てである。\nそして頼朝は1192年(建久3年)に、朝廷から征夷大将軍(せいい たいしょうぐん) に任命される。\n頼朝は鎌倉に(今でいう神奈川県の鎌倉市のあたり)、幕府(ばくふ)という武家政治の拠点を開いた。この鎌倉にある幕府を鎌倉幕府(かまくら ばくふ)と言い、鎌倉に幕府があった時代(1192年~1333年の約140年間)を鎌倉時代(かまくらじだい) と言う。\n「征夷大将軍」という言葉の意味は、頼朝の時代からは武士たちの中での最高権力者というような意味になっていく。「征夷大将軍」の元々の意味は、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)のように東北地方の蝦夷(えみし)を征服するための将軍という意味だった。\n将軍の家来の武士のことを 御家人(ごけにん) という。将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに( 御恩(ごおん) )、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦う( 奉公(ほうこう) )という関係であった。\n頼朝は、御家人を守護や地頭の仕事につけた。\n御恩(ごおん)とは、将軍が御家人の土地の権利を認めて保証したり、手柄のあった御家人には新しく領地を与えることである。\n奉公(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことである。「いざ鎌倉」(いざ かまくら)と言って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていた。「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。\nこの主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としている。このように土地を仲立ちとした主従関係を 封建制(ほうけんせい) あるいは封建制度(ほうけんせいど)と言う。\n頼朝の死後は、頼朝の子の頼家(よりいえ)が次の将軍になり、さらに次の将軍位は頼朝の子の実朝(さねとも)がついたが、政治の実権は、頼朝の妻の北条政子(ほうじょう まさこ)らの一族の北条氏にあった。その政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)が執権(しっけん)という役職につき、北条氏らが幕府の実権をにぎった。\nまた、幕府の問題を決めるときには、会議のため、有力な御家人の中から選んだ評定衆(ひょうじょうしゅう)を集めて、会議をした。北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかたを 執権政治(しっけん せいじ) という。\n3代目将軍の実朝は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺される。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶える。北条氏は、京都の貴族を形式的な将軍にむかえて、北条氏が政治の実権をにぎった。\n1221年(承久3年)、京都の朝廷で院政を行っていた 後鳥羽上皇は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出し、兵を挙げた。だが、集まった兵士は少なく、北条氏の側が上皇側の軍を破る。\n後鳥羽上皇は島根県の隠岐に島流しにされ、追放される。これを承久の乱という。\n幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に六波羅探題を置いた。また、上皇側に味方した勢力の土地は取り上げ、上皇側の土地に新たに地頭を任命した。こうして西国でも幕府の支配は強まっていった。\n承久の乱 のあとの1232年(貞永元年)に、執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)らにより、武家社会の慣習(かんしゅう)をもとに御成敗式目(ごせいばい しきもく) という法律をつくり、御家人の権利や義務が定められ、この式目が政治や裁判の よりどころ になった。これは律令(りつりょう)とは別の法律である。御成敗式目のことを貞永式目(じょうえい しきもく)ともいう。\n御成敗式目(抜粋)\nその他、律令では ゆるされていないが、女性が養子をむかえることを認める。女性が養子に所領をゆずることを認められた。鎌倉時代は女の地位が、けっこう高かった。女でも土地の相続(そうぞく)ができ、また女でも地頭になれた。\n武士は、日ごろから武芸(ぶげい)に、はげんでいた。やぶさめ(流鏑馬)、かさがけ(笠懸)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸に、はげんでいた。3つとも、馬に乗り、弓矢で的をいるものである。\nこの3つの武芸を 騎射三物(きしゃみつもの) という。\n犬追物では、やわらかい特殊な矢を使い、犬を殺さないようにしていたのである。\n農民の負担は、荘園や公領の領主への年貢だけでなく、地頭も労役などを農民に負担させていた。こうして、領主と地頭とによる二重の支配を農民は受けていた。地頭の領主は、領主と同じように強くなっていき、地頭と領主とが裁判であらそうようにもなった。幕府は、領主の土地の半分を地頭のための物としたり( 下地中分(したじちゅうぶん) )、地頭から一定の年貢を領主に納めることを条件に地頭が領地を支配するようになった。( 地頭請(じとううけ) )\n農民の中には、地頭のきびしい支配を領主に訴えでる者たちも、あらわれた。\n鎌倉時代の農業では鉄を用いた農具が普及し、そのため農業が発展した。\n鎌倉時代には稲(いね)と麦との二毛作(にもうさく)が、近畿地方や西日本を中心に行われるようになった。秋に米を収穫し裏作として麦をつくり、春に麦を収穫する。\nまた、桑、うるし、茶、こうぞ(紙の原料)、ごま、大根、豆、ねぎ などの栽培も、さかんになった。\n牛や馬を用いて、牛や馬に鋤(スキ)をひかせて田を耕す方法も行われるようになった。また、草を焼いた灰や木を焼いた灰( これらを草木灰(そうもくばい)という )や糞尿(ふんにょう)の肥料(ひりょう)も使われた。\n商業や工業も発展していった。\n手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶(かじ)職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになった。衣料品などの手工業者もあらわれた。\n農工業の発達もあって商業も発達した。定期的に市場(いちば)をひらく定期市(ていきいち)が、寺社などの近くで、毎月3回ほど決まった日に市が開かれはじめるようになった。この毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。\n商業には貨幣が必要なので、中国大陸から宋銭(そうせん)が多く、日本に輸入された。また、貨幣の流通とともに、銭を貸す高利貸し(こうりがし)もあらわれた。\n上述のように、鎌倉時代のころ、宋銭が日本全国的に貨幣として普及したと考えられている。つまり、貨幣経済が鎌倉時代ごろに日本全国的に普及したという事。つまり、鎌倉時代以前の地方の経済は、いまでいう「物々交換」や「現物交換」の経済が主体だった事である。\n裏を返すと、鎌倉時代以前の古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)や富本銭(ふほんせん)は、京都および京都の周辺など一部の地域でしか普及しなかった事[1][2]が、歴史学的には分かっている。貨幣の流通しなかった地方では、麻や布、稲などが貨幣の代わりとして役割をはたした[3][4]。\n鎌倉時代には、文化の担い手は主として公家(くげ)や僧であったが、やがて、かざり気のない力強さを好む武士の気風が文化のうえにもあらわれた。これを鎌倉文化(かまくらぶんか)という\n鎌倉時代には、武士や庶民にもわかりやすい新しい宗派が生まれ、信者を多く得ることになった。修行を重んじる禅宗(ぜんしゅう)は、武士の気風にあっていることもあり、武士に広まった。北条氏は、禅宗を保護し、宋から禅僧を招いたり、鎌倉には建長寺(けんちょうじ)や円覚寺(えんかくじ)を建てたり、そのほか各地にも禅寺を建てた。\n禅宗以外の浄土信仰などは、幕府や朝廷からは迫害(はくがい)も受けたが、民衆に広がっていった。\n鎌倉時代の前からある、天台宗や真言宗などの宗派も、貴族などを中心に引き続き、信仰されていた。\n新しく開かれた宗派の一覧とその特色を次の表にまとめた。\n※ 脚注\n歴史学で現代では疑問視されている仮説だが、かつて鎌倉時代の地方文化や地方経済の発展の原因としての仮説で、「鎌倉幕府ができたことにより、京都の中央の文化が鎌倉をふくむ地方に広がるようになった」という説がよく言われていた。だが21世紀に入り歴史学が進歩して、この説が疑われている。どうも、鎌倉幕府ができる前から、たとえば宇都宮歌壇による和歌など、地方で独自に芸術作品なども作られてきた[1]。\n※ なお、奥州藤原氏による中尊寺金色堂(1124年に建立)は幕府以前から岩手県に存在しているが、この金色堂について中学歴史では、浄土宗の普及の結果として、平安時代の単元にて語られている。\nともかく、このような歴史学の進歩のため、現代の小中高の教育では鎌倉時代の文化の発展の原因については、教えずにボカすことになる。中学生・高校生の学習としては、まずは実際に過去に起きた事実を覚えるべき、という事になる。まずは史実を確認しよう。\n武士の支配する社会になったので、平安のころの貴族文化とは、ちがった文化が出てきた。\n文芸では、平氏の繁栄(はんえい)から滅亡(めつぼう)までを書いた『平家物語』(へいけ ものがたり)のように、軍記物が人々の関心をあつめた。\n琵琶法師(びわほうし)という盲目(もうもく)の僧の人物が、琵琶による弾き語りで各地で平家物語などを語り歩いたという。当時は、文字の読める人が少なかった。\n随筆では鴨長明(かもの ちょうめい)による『方丈記』(ほうじょうき)や、吉田兼好( よしだ けんこう、兼行法師(けんこうほうし) )の『徒然草』(つれづれぐさ)などが出てきた。\n朝廷の貴族を中心とした和歌などの文化も残っていた。朝廷では後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命令により、藤原定家(ふじわらの さだいえ、ふじわらの ていか)により『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)が編集された。\n鎌倉時代の和歌集は他にもあり、3代将軍の源実朝(みなもとの さねとも)によって残された『金槐和歌集』(きんかい わかしゅう)がある。武士出身の歌人もあらわれ、源実朝や、武士から僧になった西行(さいぎょう)などの歌人もあらわれた。\n彫刻(ちょうこく)では、金剛力士像(こんごうりきしぞう)が、つくられた。金剛力士像がある場所は、奈良の東大寺の南大門にある。この金剛力士像を作った彫刻家(ちょうこくか)は運慶(うんけい)と快慶(かいけい)である。\n東大寺は、平安時代からあった寺ですが、平氏に焼き払われたので、鎌倉時代のはじめごろに再建されました。この再建のときに、中国大陸の宋の建築様式である大仏様(だいぶつよう)が南大門などに取り入れられました。大仏様は天竺様(てんじくよう)ともいいます。\n絵画では、似絵(にせえ)という肖像画が描かれるようになった。\n鎌倉は、陸上では山に囲まれており、防御には向いていた。しかし、そのままでは孤立してしまうので、切通し(きりとおし)がつくられた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "モンゴル帝国はどのように勢力を広げていったのだろう。\nモンゴル帝国はどのように日本に侵攻し、日本はどのように対処したのだろう。\nなぜ鎌倉幕府は衰えたのだろう。\n13世紀、中国大陸と、中国をふくむユーラシア大陸の広い地域では、遊牧民(ゆうぼくみん)であるモンゴル民族がモンゴル帝国を築いていた。まずモンゴル民族じたいの統一はテムジンによって統一された。そしてテムジンは1206年にチンギス=ハンという称号を名乗ります。つまり、テムジンとチンギス=ハンは同一人物です。チンギス=ハンと、その一族は、西アジアや東ヨーロッパまで攻め込み、領土を拡大しました。\nチンギスの孫の フビライ=ハン もモンゴル帝国を支配しており、フビライは国号を元(げん)に変えました。また、都を大都(だいと、現在の北京(ペキン) )に変えました。モンゴル帝国は戦争によって支配を中国にも広め、それまで中国南部を支配していた王朝であった南宋(なんそう)をほろぼしました。また、ベトナムにも、元は出兵しましたが、ベトナムは強く抵抗(ていこう)して戦いました。\n元(げん)は、モンゴル人のつくった国であり、中国人や漢民族の作った国ではありません。チンギス=ハンもフビライ=ハンも、モンゴル人であり、漢民族ではありません。(現在でも、モンゴル地方には、モンゴル国という独立国があります。)\nフビライの率いる元(げん)は、朝鮮半島を統一していた高麗(こうらい、コリョ)も服属(ふくぞく)させました。\n中国大陸には南宋(なんそう)がのこっているのでした。日本は平安時代に日宋貿易をしていたように、宋は日本との結びつきがある国です。\n元は南宋を支配下におくため、宋と交流のあった国に次々と服属を求め、したがわなければ兵を送り、支配していきました。\n日本にも、フビライからの服従の要求を伝える元(げん)からの使者が、たびたび来ます。執権の8代目の北条時宗(ほうじょう ときむね)は、元(げん)の要求を拒否しつづけます。\n1274年(文永11年)、ついに元が日本に攻め込みます。元が約3万人の軍勢(ぐんぜい)で博多湾(はかたわん)に上陸し、元(げん) 対 日本の戦いになります。\n最終的には暴風雨の影響により元軍が引き上げたので日本が勝ちますが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢(どくや)、元軍の集団戦に苦戦しました。\nそれまでの日本では、武士どうしの戦いでは一騎打ち(いっきうち)が主流でしたが、外国の軍隊が相手では、日本の慣習は通用しません。\nこの1274年の元と日本の戦いを 文永の役(ぶんえい の えき) と いいます。\n画像の合戦の絵は、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらい えことば)という絵巻物の一部の絵です。\n蒙古(もうこ)とはモンゴルのことです。\nこの戦いのあと、幕府は次の元軍(げんぐん)の侵攻(しんこう)に備え、博多湾の沿岸(えんがん)に石塁(せきるい)を築かせます。\n1281年(弘安4年)に、元(げん)の軍勢(ぐんぜい)は、再び日本に襲来(しゅうらい)してきます。今度の元(げん)軍は14万人もの大軍(たいぐん)です。\n日本は、勝ちます。この1281年の戦いを 弘安の役(こうあんのえき) といいます。この弘安の役でも暴風雨により元軍は被害を受けました。\nこの2度の元軍の襲来をあわせて、元(げん) 対 日本の戦いのことを 元寇(げんこう) という。\nつまり 文永の役 と 弘安の役 をあわせて 元寇(げんこう) と言う。\n「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀(とくがわみつくに)の編纂した『大日本史』に出てくる。\n元は3度目は日本に襲来できなかった。フビライは企画したが中国大陸南部での反乱などがあり、日本への襲来は延期になり、さらにフビライの関心が中国大陸南部の平定やベトナムの遠征へと関心が変わり、そのうちフビライも死んだので、日本には3度目の襲来はなかった。\nさて、このときの暴風雨は、のちに「神風」(かみかぜ)と言われるようになった。1276年(建治2年)の公文書である『官宣旨』(かんせんじ)の中に「神風」という字が出てくる。のちに、江戸時代の国学でも「神風」(かみかぜ)と言われ始めた。\n「神風」という言葉は、後に昭和の戦争での「神風特攻隊」(かみかぜ とっこうたい)などの語源にもなった。\n古くは日本書紀にも「神風」という語句は出てくるが、江戸以降で「神風」といったら、元寇のときの暴風雨のことである。\n御家人は元寇で多くの費用を使ったが、幕府は 御恩(ごおん) としての褒美(ほうび)の土地を、じゅうぶんには用意できなかった。元寇は日本国内での防衛戦なので、新たに日本が獲得した領土は無いのである。\nこのため、御家人は幕府に不満を持つようになった。\nさきほど紹介した竹崎季長(たけさき すえなが)も、恩賞(おんしょう)の少なさに不満をもった御家人(ごけにん)の一人で、そのため幕府に自分の功績(こうせき)をうったえでるために、彼の元寇での活躍を記した絵巻物(えまきもの)を手下のものにつくらせた結果、さきほどの蒙古襲来絵詞(もうこ しゅうらい えことば)が出来たと言われています。\n御家人の中には、社会の変化で、生活が貧しくなり、借金をする者も出てきた。1297年(永仁5年)に、幕府は御家人の借金を帳消し(ちょうけし)にする 徳政令(とくせいれい) を出した。永仁の徳政令(えいにん の とくせいれい)である。\nだが結果は、金貸しからすれば、貸した金が返ってこないのは困る(こまる)から、なので、金貸しが御家人には金を貸さなくなっただけであった。\n金をかりれなくなった御家人は、あいかわらず貧乏なままであった。\nこのような鎌倉幕府の失政がつづき、幕府の権威(けんい)や信用は落ちていった。\n鎌倉時代のなかごろにより、朝廷では2つの派閥が皇位を争うようになった。幕府は、2つの派閥に交代で皇位につくよう命じた。いっぽうの派閥を 大覚寺統(だいかくじとう) と言い、もういっぽうの派閥を 持明院統(じみょういんとう) という。 (※ 派閥名は、おぼえなくて良い)\n大覚寺統であった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、幕府を倒す計画をたてるが、1324年(元亨4年)、計画がもれて失敗する。この1324年の事件を 正中の変(せいちゅうのへん) という。 (※  正中の変は、おぼえなくて良い)\n1331年(元徳3年)に、ふたたび幕府を倒そうと計画するが、また、計画がもれて失敗する。この1331年の事件を 元弘の変(げんこうのへん) という。 (※ 元弘の変は、おぼえなくて良い)\n後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐(おき)に島流しにされた。天皇は島流しになったが、幕府に不満のあった各地の武士や御家人たちは、天皇に味方して各地で兵をあげはじめた。\n御家人でない武士の楠正成(くすのき まさしげ)らが、幕府軍に抵抗した。また、悪党(あくとう)という、幕府や荘園領主に従わない武装勢力が出てき始めて、幕府に逆らう勢力が増えた。\n当時の「悪党」という言葉は、「強いもの」というふうな意味であり、今でいう「悪い者」という意味では無い。\nやがて後醍醐天皇が隠岐(おき)から脱出する。\n1333年(元弘3年)、幕府の御家人であった 足利尊氏(あしかが たかうじ) は幕府を裏切り、後醍醐天皇と協力し、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を足利尊氏が攻め落とした。\n同1333年、関東では 新田義貞(にった よしさだ) が鎌倉を攻め落とし、こうして鎌倉幕府は1333年に滅んだ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3/%E5%85%83%E5%AF%87"} {"text": "この時代はどのような改革が行われ、どのように室町幕府が成立したのだろう。\n1333年(元弘3年)に新田義貞(にった よしさだ)らが鎌倉幕府を攻め落として、鎌倉幕府をほろぼした。鎌倉幕府がほろんだあと、後醍醐天皇は、摂政や幕府をおかず天皇を中心とした政治を行った。翌年1334年には年号を「建武」(けんむ)とさだめたので、これらの後醍醐の政治を 建武の新政という。だが、公家に多くの恩賞を与えるいっぽうで、武士への恩賞は少なかったので、武士は不満を持った。\n新政をほろぼそうと足利尊氏が武士の復権をかかげて兵をあげた。そして、尊氏の軍が後醍醐天皇の朝廷の軍に勝ち、建武の新政はわずか2年半ほどで終わった。\n後醍醐天皇が政治を行っていた頃、建武元年(1334年)に京都の二条河原に立てかけられた札に、次のような、政治の混乱ぶりが書かれている。新政への批判を遠まわしに書いていると思われる。\n原文は、韻をふんでいて、リズムカルになっている。\n足利尊氏(あしかが たかうじ)は、京都にあらたに天皇をたてた。こうして京都に北朝(ほくちょう)が出来た。このときに尊氏が京都にたてた天皇は光明天皇(こうみょう てんのう)。\nすると、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は奈良の吉野(よしの)山中に逃れた。後醍醐天皇の吉野側の朝廷を南朝(なんちょう)という。\n尊氏は1338年に北朝の天皇から(尊氏が)征夷大将軍に任命され、足利尊氏が室町幕府(むろまち ばくふ)を開いた。\n南北朝の対立は、やがて全国的な対立へと発展した。\n各国の武士は、南北朝のうち自分に有利な側に味方して争ったので、南北朝の対立は全国的な内乱となり、約60年間にわたって争乱がつづいた。\n南北朝から拡大した全国的な争乱によって、各国の守護(しゅご)職の権利が強まり、それまでの軍事や警察権に加えて、さらに年貢の半分を得る権利などが守護に認められた。やがて国司にかわって守護が各国を支配するようになった。このような守護を守護大名(しゅご だいみょう)という。\n南北朝の対立は、足利の側の北朝に有利に進み、3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)のころには、南朝はほとんど勢力を失っていた。そして南朝を北朝に合一するように呼びかけ、南朝に従わさせて、1392年に足利義満は南北朝を統一した。\n義満は将軍権力を固めて南北朝の統一を行い、天皇に迫る権力を確立する事となる。「室町」時代(むろまち じだい)の呼び名は、3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)が、京都の室町(むろまち)に開いた御所(花の御所(はなのごしょ))が政治の中心地になったことによる。室町幕府がつづいた1573年までの約240年間を室町時代という。南北朝が、幕府主導で統一されたことにより、朝廷は政治的な権限を失っていった。\nのちに義満は太政大臣(だじょう だいじん)となり、朝廷の権威も手に入れ、政治の実権をにぎった。さらに、のち、義満は出家したので、義満は天皇の臣下ではなくなった。\n室町幕府では、将軍の補佐役として管領(かんれい)という職を置いていた。守護は、有力な守護大名などから選ばれた。細川(ほそかわ)氏や畠山(はたけやま)氏などの有力な守護大名が交代で管領に選ばれた。\nまた、関東には鎌倉府(かまくらふ)を置かれ、室町幕府による関東支配の拠点になった。関東府の長官には足利氏の一族がついた。\n14世紀には中国で漢民族の帝国である明(みん)が1368年にたてられた。いっぽう、モンゴル族の元(げん)は北に追いやられた。\n南北朝の争いのころから、東シナ海では倭寇(わこう)の海賊的な活動が活発になった。このころの倭寇の人員は日本人が中心だったが、ほかにも中国人や朝鮮人も加わっていた。倭寇は海賊行為や密貿易をしていた。倭寇は、沿岸の街から食料などを略奪したり、人をさらったりした。明は、日本に倭寇の取り締まりを求めた。\n明は貿易を制限し、明に朝貢をする国にのみ、明との貿易を認め、自由な貿易を禁止した。貿易そのものも、明への朝貢の一部とみなされ、周辺国からの朝貢としての輸出品に対し、明は返礼を与えてやるという形式での貿易だった。\n足利義満は、この機会に明と国交をむすび、倭寇の取り締まりも行い、明への朝貢貿易を行った。明の皇帝からは義満は「日本国王」(にほん こくおう)と認められた。正式な日本の貿易船には、海賊船と区別するために、文字の書かれた合い札(あいふだ)が日本として、明から勘合(かんごう)という合い札の片方が日本の貿易船に与えられた。\n合札の、もう片方は中国側が持っており、日中両国の合い札を合わせることで、文字が正しく出来上がる。日明貿易のことを、勘合を用いたため、勘合貿易(かんごう ぼうえき)という。\n日本からは、銅や刀剣が輸出された。明からは、銅銭、生糸、絹織物、陶磁器などが日本にもたらされた。\n日本の明との貿易の利益は、幕府の収入源に なった。\n14世紀末の朝鮮半島では、李成桂(り せいけい、イ・ソンゲ)が高麗(こうらい、コリョ)をたおし、朝鮮(ちょうせん)という国をたてた。\n朝鮮も明への朝貢貿易を行った。また朝鮮も日本に倭寇の取り締まりを求め、日本とは対等な国交をむすび、朝鮮と日本との貿易も行われた。勘合に似た仕組みの合い札が、朝鮮との貿易でも使われた。\n朝鮮では、公用語が漢文だったが、あらたに独自の文字のハングルが民衆のために作られ、1446年(文安3年)に朝鮮王によって公布された。しかし、まだ民衆には、あまりハングルは普及しなかった。現在の韓国や北朝鮮ではハングルが文字に使われている。ハングルは表音文字である。また、朱子学が広まった。このころに日本では、まだ綿があまり栽培されていなかったので、朝鮮からの輸出品で綿布などが多く輸出された。\nのちに日本でも綿の栽培がされるようになった。\n朝鮮からの輸出は、綿の他には経典などが日本へ輸出された。朝鮮の印刷技術では、金属活字が使われていたという。\n朝鮮との貿易は、のちに対馬の宗(そう)氏だけが朝鮮から貿易をみとめられ、貿易の独占権を与えられ、宗氏が朝鮮との貿易を独占するようになった。\n沖縄では14世紀には、3つの勢力に分かれていて北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)の3つの地域が争っていたが、15世紀に中山王(ちゅうざんおう)の尚(しょう)氏が沖縄本島を統一し、琉球王国(りゅうきゅう おうこく)をたて、首里(しゅり)を都とした。(首里の場所は現在の那覇(なは)市。)\nなお、北山を山北(さんほく)という場合もあり、南山を山南(さんなん)という場合もある。\n琉球の貿易では、東南アジア・中国・日本とをむすぶ中継(ちゅうけい、なかつぎ)貿易が行われた。\n北海道は蝦夷地(えぞち)と言われていた。蝦夷(えぞ)では、アイヌ民族が、くらしていた。\n津軽(つがる)半島の十三湊(とさみなと)を拠点に、和人とアイヌとの交易が行われた。\n蝦夷地からは鮭(さけ)や昆布などが輸出され日本にもたらされた。\nこの十三湊の領主の安東氏(あんどう し)が栄えた。\n15世紀には、北海道の南部に和人が進出し、渡島(おしま)半島の沿岸部に館(たて)と呼ばれる根拠地を多くつくり、アイヌと交易した。和人の進出により、それまでいたアイヌと衝突を起こした。アイヌの首長のコシャマインが蜂起したが、和人に鎮圧された。\nコシャマインの蜂起の鎮圧後、しばらくすると和人とアイヌとの交易が再開され、交易は安定していった。また、この時代、和人の居住区域は限定されていた。(※ 帝国書院のデジタツパンフレット版の教科書見本より。)\n6代将軍 義教(よしのり)が暗殺されたころから、すでに守護大名どうしが対立していました。(※ 東京書籍、日本文教出版の教科書で紹介。)\nそして15世紀の8代将軍 足利義政(あしかが よしまさ)の時代に、義政には実子がおらず、跡継ぎ(あとつぎ)の座をめぐり、まず先に弟の足利義視(あしかが よしみ)が形式的には跡(あと)を継いだが、その翌年に正妻である日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を生み、このことが発端となり15世紀なかばに争いになる。\n(※ 自由社の教科書で、上述のような、あとつぎ争いのイキサツが紹介されている。)\nまた、三官領のうち斯波(しば)氏では斯波義敏(しば よしとし)・斯波義廉(しば よしかど)のあいだで相続争いが起こり、また畠山氏では畠山政長(はたけやま まさなが)・畠山義就(はたけやま よしなり/よしひろ)の間でそれぞれ相続争いが起こった。\nこのころは既に将軍の権力は衰えており、各地の守護大名が力を強めていて、たがいに勢力争いをしていた。将軍や官領の跡継ぎ(あとつぎ)争いが起こり、それぞれの家中でそれぞれ細川勝元(ほそかわ かつもと)と山名宗全(やまな そうぜん)につき、このため二派の争いはその後に全国的な争いに発展することとなる。\n畠山政長と義就の衝突から、京都を戦場とする戦いが1467年(応仁元年)に起きた。この戦乱を 応仁の乱(おうにんの らん) という。この戦いは長期戦となり、京都の町は焼け野原になり、勝元・宗全の両者亡き後も争いは止まず、応仁の乱は11年ほど続いた。応仁の乱では、足軽(あしがる)と呼ばれる軽装の歩兵が、機動力が高く、活躍した。\n(この応仁の乱を要因として、戦乱が地方にも広がり、しだいに戦国時代へと突入することになる。)\n米と麦などの二毛作(にもうさく)が西日本だけでなく東日本でも広まり、全国各地に広まった。\n手工業も進歩し、農具が普及したこともあり農業技術が進歩した。かんがい(灌漑)の技術の発達が発達して灌漑に水車が用いられるようになったり、用水が作られた。また人の糞尿や牛馬の糞などから作られた肥料の使用の普及や、牛馬を用いた耕作も普及していった。これらに加えて、従来の肥料である草や木を燃やして灰にした草木灰(そうもくかい)や、刈草をくさられた肥料なども使用されていた。\n農業の生産力が増えたこともあり、多くの種類の農作物が栽培された。麻(あさ)、桑(くわ)、藍(あい)、茶なども生産され、養蚕(ようさん)もさかんになった。16世紀には、朝鮮から伝わった綿の栽培も、三河(みかわ、愛知県)などでさかんになった。\n紙の原料の こうぞ、油の原料の えごま、漆器(しっき)の塗料(とりょう)の原料の うるし、なども栽培された。手工業では、京都の西陣(にしじん)や博多(はかた、福岡県)などの絹織物(きぬおりもの)や、紙、陶器、刀や農具なども生産された。各地の特産物が手工業や農業では作られた。\n茶の特産地では、京都の宇治(うじ)などが特産地になった。\n刀や農具を作るための鍛冶(かじ)や鋳物(いもの)業も、さかんになった。その原料を掘り出すための採掘も多く行われ、銅や金・銀、砂鉄などが採掘された。\n手工業では、業種ごとに同業者どうしの組合の 座(ざ) がつくられ、座には製造や販売を独占する権利が、有力な寺社などから与えられた。\n室町時代には、鎌倉時代よりも ますます商業が発達した。たとえば定期市は、鎌倉時代は月3回の 三斎市(さんさいいち) だったが、室町時代には月6回の 六斎市(ろくさいいち) になった。\n室町時代の産業では、運送業(うんそうぎょう)が発達した。商業や農業・工業が発達したので、商品を運ぶ必要がふえたからである。\nこの時代の陸上での運送業者は、馬を使って運送をすることが多かったので、 馬借(ばしゃく) と言われる。なお、牛車で運ぶ場合は 車借(しゃしゃく) と言う。\n道路も整備された。幕府や寺社などは、交通の要所に関所(せきしょ)をもうけ、通行税をとった。\n商業には貨幣(かへい)が必要である。明の銅銭である明銭(みんせん)を日本に輸入されて使われた。この明銭とあわせて、鎌倉時代に宋から輸入して使われた宋銭(そうせん)も引き続き使われていた。このころの日本では、正式な貨幣は作られず、明銭や宋銭などを日本国内での貨幣として使用していた。\n明銭では永楽通宝(えいらくつうほう)が有名である。\n農民は、年貢を貨幣で納めることも多くなっていった。そのために、農作物を市で売って貨幣に変えることも行われた。\n他にも、倉庫などの保管業などを行っていたり輸送の管理をしたりする 問丸(といまる) が出来た。これが問屋(とんや)の起源である。\n高利貸し(こうりがし)で金貸しをおこなう金融業者(きんゆう ぎょうしゃ)が京都や奈良などの都市で増えてくる。土倉(どそう) や 酒屋(さかや) と言う。土倉(どそう)とは今でいう質屋(しちや)のことで、客から品物をあずかるかわりに、客にお金を貸した。酒屋は、文字どおり酒もつくっていたが、大きな利益をえていた一部の酒屋は土倉も行い、金貸しも行っていた。幕府は、土倉や酒屋から税を取って利益を得るかわりに、土倉や酒屋を保護をした。\n諸産業の発達により、各地の湊には港町が発達した。また寺社の門前には門前町が発達した。\n職業が増えるに連れ、庶民の職業の中でも、いやしい職業だと差別される職業も出てきた。たとえば、動物の革を加工して革製品をつくる皮革業などが、動物を殺したり死体を扱うので、いやしい職業だと差別されるようになった。このような差別される職業には、「河原者」(かわらもの)と言われる、河原に住んでいるような者がなった。河原に住んでいた理由は、河原が無税だったから貧しい者などが住んだという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説と、加工などの際の臭気などで人里から離れたところに住む必要があったという説などがある。河原者のつく職業には、皮革加工の他にも、河原者は井戸掘り、芸能(能の役者)、運搬業、行商、庭づくりなどの造園業などにも河原者が多く従事していた。\nのちの江戸時代には、皮革業の職業の身分は「えた」とされ、「ひにん」という農民よりも低い身分と同様に扱われるようになった。\nいっぽう、僧侶や武士などの職業も、死にふれる機会は多い職業だが、これらの職業は差別されなかった。\nもっとも、皮革業なども商工業に必要な職業なので、皮革業などの職業からも商売で成功して金持ちになる者も出てきた。また、江戸時代には、必要な職業なので皮革業は差別されつつも、規制によって一定の保護もされた。明治時代の以降、職業の自由化にともなう競争により、皮革業などの職業の者の多くが没落し貧しくなったが、それ以前の時代は、必ずしも皮革業は貧しくなかった。\n河原者の中で最も著名なのが庭師の善阿弥で、彼は足利義政にも仕え、銀閣寺の庭園を彼と彼の子と孫とによって作った。その他、京都の中世以降の石庭の多くは河原者(御庭者)の作である。\n神道では、「けがれ」(穢れ)という思想があって、死は「けがれた」物だという考えがあり、それに関わることは良くないことだとされていた。仏教でも、殺生を嫌う考えがあった。このようなこともあり、皮革業などは、けがれの多い職業だと見なされており、「エタ」と言われた。エタは江戸時代ごろの後世には「穢多」という当て字をされた。「けがれ」(穢れ)の概念は、不衛生などの概念とは異なる。\n室町時代には、農民の自治が前の時代よりも強くなった。\n色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決める 寄合(よりあい) という集まりが開かれるようになった。\nこのような主体的な村を惣(そう)または 惣村(そうそん) という。このような惣は、産業が発達していた近畿地方から始まり、しだいに地方へも広がっていった。\n近江(おうみ、今は滋賀県)の国の今堀惣(いまぼり そう、今は近江市)で、1488年に定められた。\n翌年1489年には、つぎのような別の規則も定められた。\nなお、現在も山間部の一部の村において寄合の風習がのこる地域がある。\n室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。\n年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。\n農民や馬借などは、あまり裕福ではなく、これらの貧しい職業の民は、当時は 土民(どみん) と言われていた。\nこの土民たちが集団で実力行使にでることを 土一揆(どいっき) という。\n室町時代には、貨幣による経済がすすんできたので、生活苦の農民などは借金をする必要が生じました。そのため、借金のふくらむ農民などが多くなり、たびたび借金帳消しの徳政をもとめて高利貸しなどをおそって借金の証文(しょうもん)を焼きすてる土一揆が、よくおきた。\nこのような一揆のきっかけが、次にいう 正長の土一揆(しょうちょう の どいっき) である。\n近江国(おうみのくに、滋賀県のこと)の貧しい馬借(ばしゃく)たち運送業者が、京都で高利貸しをしている酒屋や土倉をおそい、幕府に徳政を要求した一揆である。\n当初、幕府は徳政の求めには応じなかったので、一揆の民衆は借金の証文(しょうもん)を焼き捨てたり質物をうばうなど、実力行使(じつりょくこうし)に出た。\n・正長元年(1428年)\n・オイメ(負い目) - 借金のこと。\n1428年より先の借金は、神戸(こうべ)の4か郷では、帳消しにする。\n奈良の興福寺(こうふくじ)大乗院(だいじょういん)の日記には、この正長(しょうちょう)の土一揆(どいっき)について、次のように書かれている。\nまた、北陸地方の加賀(かが、今で言う石川県)では、農民などが浄土真宗の一向宗(いっこうしゅう)を中心にして、一揆(いっき)によって守護を追い出し、それから自治が100年間ほど続いた。このような、一向宗を中心にした一揆のことを一向一揆(いっこう いっき)という。\n一向宗の信仰では、蓮如(れんにょ)が中心的になった。\n京都の山城(やましろ)では、地侍(じざむらい)や農民たちの団結した一揆により、守護大名の畠山(はたけやま)氏を追い出し、自治を8年間ほど行った。これを、山城の国一揆 という。\n禅宗などの影響はみられるが、鎌倉時代と比べると仏教色や大陸色は一層薄れたものになり、現代に伝統文化、伝統芸能と呼ばれるものの多くはこの時代にその源流が求められるものが多い。室町時代には、京都の文化が地方にも伝わっていった。\n足利義満(あしかが よしみつ)によって、北山(きたやま)の別荘として金閣(きんかく)が建立された。3つの階の1番下は寝殿造り、2階は武家風、3階は禅宗の様式となっており、公家と武家の文化がまざった造りになっている。後の禅宗の鹿苑寺(ろくおんじ)。\nこのころの文化のことを北山文化(きたやま ぶんか)という。\n京都の東山に、足利義政によって銀閣(ぎんかく)が建立された。2層からなり、下の層は寝殿造り、上の層は禅宗の様式というように、内部の様式は金閣と似た様式になっている。後の慈照寺(じしょうじ)。(京都)\nこのころの文化のことを東山文化(ひがしやま ぶんか)という。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "この時代の世界はどのような動きを見せたのだろう。\nヨーロッパでは、395年にローマ帝国が東西の2つの国に分裂したが、はじめは、どちらも国政がふるわなかった。やがてヨーロッパ各地で小国がいくつも興った(おこった)。そしてローマではキリスト教が国教だった。\nローマ帝国の国教だったキリスト教は、ローマ帝国の崩壊後もヨーロッパの諸国に受け入れられ、西ヨーロッパを中心にカトリック教会が作られ、ヨーロッパ全域にキリスト教が普及した。やがてカトリックの教皇は、小国の国王にも勝る影響力を持つようになった。\nそしてキリスト教中心の社会になっていった\n8世紀ごろから、西アジアを中心に、イスラム教が発展する。そして西アジアが、中国やインドと、ヨーロッパとの間をつなぐための貿易の経路となり、イスラム諸国は交易でさかえた。イスラム諸侯は、中国(唐)などとも貿易をした。\nまた、西アジアのイスラム諸国では、古代ギリシアの書物などが残され、そのため古代ギリシアの哲学や医学などが、イスラム諸国に受け継がれた。また、中国から、紙の製法や、羅針盤(らしんばん)・火薬などの技術が、イスラム諸国に、つたわってきた。\nさらに、数学では、インドからゼロの概念や、インドの数字が伝わってきて、アラビア数字に発展した。\n11世紀に西アジアでイスラム教の勢力が伸びたことで、キリスト教の聖地エルサレムが、イスラム教の領土になった。カトリック教会は聖地エルサレムの奪回(だっかい)のために、ヨーロッパ諸国にイスラム諸国との戦いを呼びかけ、十字軍(じゅうじぐん)を結成させて11世紀から13世紀にかけて軍を数回にわたり遠征させたが、最終的に十字軍はイスラム諸国に敗退して失敗に終わった。こうした十字軍の失敗により、ローマ教皇の権威は低下した。その代わり、各地の国王の影響力は強まった。\nいっぽう、経済では、イタリアとイスラムの間で、地中海を通じた貿易などによって交易が進んだ。そして西ヨーロッパに、イスラム文化の文化が伝えられた。\nイスラム勢力の西アジアでは、当時のヨーロッパで失われていた古代ヨーロッパの文献が残っていたこともあり、古代のヨーロッパの文化が西アジアからヨーロッパに伝わった。\n14世紀ごろから、当時のヨーロッパで忘れられていた古代ギリシャ・古代ローマの文化を復興する風潮が起こり、この風潮はルネサンス(文芸復興)と言われた。イタリアを中心にルネサンスが起きた。\n中国からイスラム商人を経て伝わった羅針盤(らしんばん)や火薬などの改良も進んだ。科学では実験や観察を重んじるようになり、地球球体説にもとづく世界地図が作られ、天文学や地理学も発達した。こうした科学技術は交易にも役立ち、航海の技術などが発達して、のちに南ヨーロッパの商人たちが海外進出していく。\nルネサンスでは、レオナルド=ダ=ビンチ や ミケランジェロ などの芸術家が活躍した。\n16世紀ごろ、ローマのカトリック教会は免罪符(めんざいふ)を売りに出した。教会は、軽い罪なら、免罪符を買えば許される、とした。\nドイツのルターは、この免罪符の販売の行為を腐敗として、ローマ教会を批判して、宗教改革(しゅうきょう かいかく)を始め、新しい宗派を結成した。このルターらの宗教改革を支持してローマ教会から離れたキリスト教徒は、プロテスタント(抗議する者)と呼ばれた。\nまた、ルターの宗教改革に刺激され、スイスでも、フランスから来たカルバンが宗教改革を起こした。カルバンの宗教改革では、職業や労働を信仰の一部として解釈(かいしゃく)したので、労働の結果として富を蓄えることが正当化された。そのため商工業者にルターの改革は受け入れられ、商工業の影響力が強いオランダ・イギリスやフランスなどで広まった。\nこれらの宗教改革は、けっして人道主義でもなく、民主化ではない。\nたとえば、カルバンは、厳密な教義にもとづく統制的かつ独裁的な政治を行い、もしも統制に従わない者などがいれば処刑した。[1]\nまた、ルター派の政治家は、農奴制(のうどせい)のドイツで大規模な農民反乱が起きたとき(「ドイツ農民戦争」、※高校の範囲、中学範囲外なので覚えなくて良い)、農民を弾圧する諸侯(しょこう)を支持した。ルター派は富裕な商工業者に支持されてたのであり、貧しい農民に支持されたのではない。\nいっぽうカトリック教会でも、立て直しのための改革が進み、イエズス会が結成された。イエズス会は、アジアやアメリカなど海外にも積極的に布教した。\n参考文献\nヨーロッパの商人たちでは、アジアとの貿易により伝わってきた香辛料や絹織物などのアジアの産物を求めて、インドや中国などへの関心が高まっていたが、西アジア諸国ではイスラム教の国々の勢力が強く、イスラム諸国との取引の深いイタリア以外の国は、地中海からはヨーロッパの商人は自由にインドや中国へは向かえなかった。そのため、イタリア以外のスペインやポルトガルなどの国では、別の航路が求められ、新しい航路が探されていた。\nポルトガルは1488年に南アフリカ大陸の南端の喜望峰(きぼうほう)に到達して、海路でインドに直接に行ける可能性を明らかにした。\nそして、1498年には、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマが実際にアフリカ南端を経由してインドに到達した。\nいっぽう、スペインは、ポルトガルに対抗し、イタリア人で西回りの航路を開拓していたコロンブスを支援した。コロンブスは実際に大西洋を西へ航海して、1492年にアメリカ大陸の西インド諸島を発見した。コロンブスは、アメリカ大陸をインドの一部だと思っていたが、ヨーロッパ人には知られていなかった新しい大陸であった。のちにスペインはアメリカ大陸を征服していった。\nアメリカ大陸の先住民を「インディアン」「インディオ」などと呼ぶ習慣は、このコロンブスの時代の誤解がもとになっている。なお、現在は、アメリカ合衆国では先住民のことを「ネイティブ=アメリカン」とも読んでいるが、その一方で「ネイティブ=アメリカン」という言い方がヨーロッパ系のアメリカ白人の主導での言い換えであるので、先住民の中には、この言い換えを嫌い、引き続き「インディアン」と呼び続ける運動も起こっている。\n歴史的事実かどうかは不明だが、次のような言い伝えがある。\nコロンブスは、アメリカ大陸を発見したあと、その発見を祝ったパーティーで、コロンブスをねたんだ者から「海を船で西に進んだだけじゃないか。そんなのは簡単なことだ。」というような やっかみ を言われた。そこでコロンブスは、そのパーティー会場の卓上にあった ゆで卵を取り出し、「だれか、この卵を、支えをつかわずに立ててみてください。」と言ってみた。すると、他のものは、誰も立てられなかった。そのあとコロンブスは、卵の端を少し潰して、端を平(たいら)にすることで、じっさいに卵を立てて見せた。\nすると、やっかみを言ってた者は「そんな方法でいいなら、誰でもできる」と反論したという。\nするとコロンブスは、次のようなことを言ったという。「ええ。手本を見せたあとなら、だれでも簡単にできますね。」と。\n「このように、誰かがやってみせた事は、後から来た人には簡単に見えることなのです。ですが、実際には、最初になにかをするのは、とてもむずかしいことなのです。」と。\n・・・というような言い伝えがあり、この言い伝えを「コロンブスの卵」という。\n16世紀には、スペインの援助を受けたマゼランの船団が西回りの航路で世界一周をした。マゼラン本人は航海の途中にフィリピンで先住民と争い、マゼランは死亡したが、彼の部下がそのまま航海をつづけ、世界を一周してスペインにもどった。この世界一周により、地球が球体であることが航路からも証明された。\nアメリカ大陸に到達したスペイン人はアメリカ大陸を武力で征服し、先住民の文明をほろぼした。そしてアメリカ大陸のいくつかの土地をスペインの領土とした。\n15世紀ごろまでは、メキシコにはアステカ王国が栄え、ペルーにはインカ帝国が栄えていたが、スペイン人は、これらの国を武力で征服し、ほろぼした。そして先住民を奴隷として働かせ、農場や鉱山などでの労働力として酷使した。このようにして中南米はスペインに征服され、中南米の地域はスペインの植民地になった。\nアメリカ大陸では有力な銀山が発見され、銀が多く採掘された。\nじゃがいも・さつまいも、とうもろこし・かぼちゃ・トマト・たばこ・とうがらし・カカオ などは、アメリカ大陸の作物である。これらの作物がヨーロッパに紹介された。\nさとうきびは、オセアニア州のニューギニア島あたりが原産であり、アメリカの原産では無い。\nさとうきびも、アメリカの大農場(プランテーション)で栽培され輸出された。\nアメリカ大陸で先住民だけでは労働力が足りなくなると、アフリカから黒人を強制的につれてきて、奴隷として働かせた。\nスペインの宗教がキリスト教のカトリックだったことから、中南米にはイエズス会の宣教師が多く送られ、中南米地域でカトリックが広まった。また、スペインはフィリピンを占領し、マニラを拠点に貿易を行った。\nポルトガルは、インドのゴアやマレー半島のマラッカ、中国のマカオなどを拠点にして、香辛料や絹などを買い入れ、ヨーロッパに輸出した。\nしかし16世紀末ごろに、カトリックの多いスペイン領から、プロテスタント系の住民の多いオランダが独立した。そしてオランダの貿易のため、17世紀の始めごろの1602年には東インド会社を作り、インドネシアのジャワのバタビア(今のジャカルタ)を貿易の拠点にして、東南アジアでの貿易の影響力を強めた。\nアメリカやアフリカを征服したヨーロッパ人が、アジアと貿易してたことから、世界の各地の産業や情報が、貿易を通して結びつくようになった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%82%84%E8%BF%91%E4%B8%96"} {"text": "日本に来たヨーロッパ人はどのような影響を与えたのだろう。\n戦国時代の16世紀の1543年(天文12年)に、九州の今でいう鹿児島県の島である種子島(たねがしま)に、ポルトガル人を乗せた中国大陸の船が流れ着く。\nこのとき、ポルトガル人から鉄砲(てっぽう)が日本に伝わる。それまでの日本には鉄砲は知られていなく、新兵器であった。当時の鉄砲の仕組みは、火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みである。種子島の領主の種子島時尭(たねがしま ときたか)は、ポルトガル人から大金を払って鉄砲を買い入れ、部下にその仕組みと製造法を学ばせた。\n時尭はヨーロッパ人の鉄砲の威力を見て感心し、即座に2000両の大金を支払い2丁の鉄砲を購入したという。\nやがて各地に鉄砲の情報が広がる。堺(さかい、大阪府にある)や国友(くにとも、滋賀県にある)で、それまでの刀鍛冶などによって大量に鉄砲が日本国内でも生産されるようになった。\nこの時代のころ、ヨーロッパでは、海路での貿易が、さかんであった。15世紀に入ってから西アジアではトルコ系のオスマン帝国が成長し、ヨーロッパは貿易ルートをオスマン帝国にさえぎられるようになっていたからだ。このため陸路(りくろ)をさけた貿易が、さかんになった。16世紀には、ポルトガルやスペイン人らは、貿易で東アジアに進出しており、そこで貿易を行っていた。\n鉄砲の伝来により、日本での戦いの仕方が、大きく変わった。\nこのようなことをきっかけに、日本とポルトガルとの貿易が始まり、やがてスペインも日本との貿易を始め、ポルトガル人・スペイン人の商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)や、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ、貿易をするようになった。\n日本への輸入品は、中国の生糸や絹織物など、中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども、日本に輸入され、伝えられていった。日本からの輸出品は、銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたので、世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。\n当時の日本人がヨーロッパ人を南蛮人(なんばんじん)と読んだので、日本によるヨーロッパとの貿易のことを 南蛮貿易(なんばん ぼうえき)という。\nまた、戦国時代のヨーロッパ人の来航により、キリスト教が日本に伝わった。\n1549年(天文18年)にはイエズス会のスペイン人の宣教師(せんきょうし)であるフランシスコ=ザビエルが日本の鹿児島に来て、キリスト教を伝えた。当時の日本では、キリスト教徒のことを キリシタン と呼んでいた。\nそのあと、他の宣教師も、次々と日本にやってきた。たとえばルイス・フロイスなどの宣教師である。\n宣教師は貿易の世話もしたので、戦国大名たちの中にはキリスト教を保護する者が、西日本を中心に、特に九州を中心に多く出た。キリスト教の信者になった大名のことを キリシタン大名(キリシタンだいみょう) という。キリシタン大名になった戦国大名には、有馬晴信(ありま はるのぶ)、松浦隆信(まつら たかのぶ)、宗義智(そう よしとも)、大村純忠(おおむら すみただ)、黒田長政(くろだ ながまさ)、大友宗麟(おおとも そうりん)、小西行長(こにし ゆきなが)、高山右近(たかやま うこん)などがいた。\n1582年(天正10年)には、九州のキリシタン大名の大村・大友・有馬を中心に、日本からローマ教皇のもとへ少年使節が4人、送られた。(天正遣欧少年使節(てんしょう けんおう しょうねん しせつ)) しかし、使節は1590年(天正18年)に帰国して、帰国の時点では、すでに日本では豊臣秀吉により宣教師が禁止されていたが、キリスト教はまだ許されていた。\nキリスト教は、平等を説き、病院や孤児院なども建てたので、民衆の心をつかみ、民衆たちにもキリスト教は広がっていった。17世紀の初め頃には、日本国内でのキリスト教の信者の数が30万人をこえるほどになっていたと言われている。\n(: 発展)イエズス会は、カトリック系の組織。ヨーロッパの宗教改革で勢力を伸ばしたプロテスタントに対抗し、カトリックでも改革が進められ、そのカトリックの中でもイエズス会は有力な組織であった。信者を獲得する理由もあり、イエズス会(カトリック)は海外への布教も進めていた。ザビエルなども、そういったカトリックの一連の布教活動もあって、日本などに布教しにきていた。(※ 教科書会社の副教材ワークブックで、ここら辺の背景事情まで教えられている。 )\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%9D%A5%E8%88%AA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E4%BA%BA"} {"text": "中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代では、戦国時代と安土桃山時代について解説します。\n戦国時代とはどのようなものだったのだろう。\nこの時代の対外政策はどのようなものだったのだろう。\nこの時代の文化にはどのような特色があるのだろう。\n室町時代の後半は、応仁の乱がきっかけで各地に領土獲得のための争いが広がった。この室町時代後期の日本各地で戦乱があった時代を 戦国時代と言い、戦乱が続いた。応仁の乱で、守護大名が京都に出向いて兵を指揮していたころ、国もとに残っていた家臣らが実権をにぎるというということが起きた。他にも、各地で、身分が下の者が、守護大名に取って代わろうとして争い、大名になった者たちが現れ始めた。このように身分の下のものが身分が上の大名を倒して、新しく大名になることを下克上という。\nそして、戦国時代の大名を戦国大名という。戦国大名の多くは、下克上によって、大名に成り上がった。\n無論、すべての守護大名が下克上で倒されたわけでなく、守護大名のまま、時代が戦国時代になり、守護大名から戦国大名になった者もいる。守護大名出身の戦国大名には、武田氏、今川氏、佐竹氏、山名氏、大友氏、島津氏などがある。\nその他の戦国大名は、ほとんどが下剋上によって戦国大名に成り上がった者である。\n戦国大名どうしが戦うことから、領地内での統制も強める必要があった。戦乱の時代に対応した、領地を管理するための法律を、新たに作る必要がある。\nそれぞれの戦国大名が領地内でしか通用しない法律を勝手に作った。これが 分国法 である。戦国大名の領地を分国と呼んでいた。その分国の中で通用する法律だから分国法というわけである。\nたとえば甲斐 (山梨県) の戦国大名である武田信玄は『甲州法度次第』という分国法を1547年(天文16年)に作った。\n甲州法度次第のように、部下どうしの争いを両方とも処罰することを 喧嘩両成敗 という。\n他にも今川氏の『今川仮名目録』などの分国法がある。\n分国法の内容は大名によって違うが、多くの大名の分国法では、勝手に他国と連絡をとることを禁止するなど、家臣の裏切りを防ぐための決まりや、家臣同志が争った場合は両方とも罰することで領内を団結させるなどの決まりであることが多い。\n大名の多くは家来を自分の城の近くに住まわせた。このため、城の近くに街が出来た。これが 城下町 がである。朝倉氏の一乗谷 (現在は福井県内) や、北条氏の小田原 (現在は神奈川県内) などが城下町である。\n戦国大名たちは、荘園領主の支配を認めず、荘園だった土地を自国の領土とした。\n多くの大名がおり、各地で争いがおきているので、その全てを解説する時間はない。なので、代表的な人物を中心に取り上げる。\n戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年(永禄13年)以降から、まず、尾張 (現在の愛知県西部) の 織田信長 が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年(永禄3年)に、尾張が桶狭間の戦いで駿河 (現在の静岡県) の大名である今川義元の軍に攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。\n今川討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を攻撃し、今川義元を討ち取った。\n(発展的事項、おわり。)\nなお、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、桶狭間の当時は織田信長の家臣であり、当時の名は 木下藤吉郎(きのした とうきちろう) と名乗っていました。のちの1570年のころに名を変え、木下藤吉郎から羽柴秀吉(はしば ひでよし)に名前を変えています。\n桶狭間の戦い以降、信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年(永禄11年)には、足利義昭(あしかが よしあき)を支援して京都に入った。義昭が、室町幕府の第15代将軍になる。\n1569年(永禄12年)、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスと初めて出会い、彼にキリスト教の布教を許可します。(※ ルイス=フロイスについては、中学の範囲外。清水書院など一部の教科書ではコラムなどで紹介されている。) \n信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、一般に言われています。\n(発展的事項「信長包囲網」、おわり。)\nまた、仏教勢力にも容赦は無く、一向一揆の根拠地である大阪の石山本願寺を1580年(天正8年)には屈服させた。\n義昭は1573年に京都の槇島城(まきしまじょう)で挙兵したが失敗し、織田によって義昭は京都から追放された。 (※「槇島城」については、おぼえなくてよい。)\nこれによって、室町幕府は、ほろんだ。\n1575年(天正3年)に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である 長篠の戦い(ながしのの たたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは、織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により、織田が勝ち、武田は負ける。\n武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。\n1576年(天正4年)、近江(おうみ、滋賀県)に城を築かせ(きずかせ)、5層の天守閣(てんしゅかく)を持つ 安土城(あづちじょう) を築かせる。\n安土城の城下町では、次に説明する楽市楽座(らくいち らくざ)などの新しい政策が行われた。\n商業をさかんにするため、関所(せきしょ)で通行税(つうこうぜい)を取ることを廃止(はいし)する政策を、岐阜や安土で行った。\n一般に商人は、利益をだすために、費用をあまり払いたくないので、そのため税のひくい場所で商売をしたがります。\nまた、各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し、だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。\nそして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、楽市楽座(らくいち らくざ)といいます。\n商業都市の堺は自治都市だったが、信長は堺を支配下に置き、自治の権利をうばい、直轄領にした。\n1582年(天正10年)、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は家臣の秀吉(ひでよし)などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。\nこのとき、家臣の明智光秀(あけち みつひで)が反逆をして、この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。\n信長は当初は応戦していたといいますが、やがて敵の兵数を知るとけを覚悟し、家臣の森蘭丸(もり らんまる)らに寺に火を放たせ、信長は自刃(じじん)したと\n言います。\nこの1582年(天正10年)の本能寺での一連の事件が本能寺の変(ほんのうじのへん) です。\n信長は、天下統一をしていません。\n天下統一ならず、信長は死亡します。\nのちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉です。\n織田信長の時代のころ、秀吉は、信長に仕えていた有力な武将であった。そのころは、羽柴秀吉(はしば ひでよし)などと名乗っていた。\n本能寺の変のとき、秀吉は、信長の命令により、毛利軍と戦争をしている時期だった。信長の死の報告を聞いた羽柴秀吉は、ただちに毛利との停戦をし、そして京都・大阪に向かい 山崎の戦い(やまざき の たたかい) で明智光秀を倒す。\nその後、信長の家来だった柴田勝家と戦い、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉軍は柴田軍を倒す。\nこのようにして、信長の支配権の争いに秀吉は勝って行き、信長の領地を受け継いでいく。\n1583年(天正11年)に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に大阪城(おおさかじょう)を築かせ、この大阪城を本拠地(ほんきょち)にした。\nそのあと、秀吉は各地の大名たちを平定し従えていきます。徳川家康も、秀吉は従えさせた。\n1585年(天正13年)、羽柴秀吉は朝廷から 関白(かんぱく) の称号を、もらう。\n1586年(天正14年)、羽柴秀吉は朝廷から豊臣(とよとみ)の姓(せい)をもらい、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と名乗る許可を得ます。秀吉は、関白と太政大臣(だいじょうだいじん)の朝廷の地位を手に入れる。\nそして秀吉は、各地の大名どうしに争いをやめるように停戦命令として惣無事令(そうぶじれい)を1585年(天正13年)に出す。停戦命令に従わなかった九州の島津(しまづ)氏は、1587年(天正15年)に征伐され屈服させられた。\nそして1590年(天正18年)には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょう うじまさ)を滅ぼします。同1590年(天正18年)、秀吉に従っていなかった東北の奥羽(おうう)の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで秀吉が天下統一をなした。\n秀吉は支配下に大坂、堺、京都、などの重要都市を直接支配下に置いた。佐渡(さど)金山、生野(いくの)銀山、石見銀山(いわみぎんざん)なども直接支配下に置いた。\n農民から年貢を取るための土地の調査を検地(けんち)という。\n検知そのものは信長の時代からも行われていたが(※ 教育出版などの検定教科書に記述がある)、さらに秀吉は各地でちがっていた物さし(ものさし)の長さや ます の容積などを統一し、また、全国の田畑の面積や土地のよしあしを調べた。(※ 信長はそもそも全国統一してないので、物差し などの全国統一のやりようがない。日本を全国統一したのは秀吉である。)\nマスの基準(きじゅん)は、京都で使われていた京枡(きょうます)が全国の基準の枡になった。このような、秀吉が行った検知の改革のことを太閤検地(たいこう けんち)という。「太閤」(たいこう)とは「関白をやめた人」という意味であり、秀吉のことである。秀吉は関白をやめた後には「太閤」(たいこう)と名乗っていました。\nそして検知の記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である石高(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られた。\n検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。\nまた、これで、かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなった。そして公家や寺社などの荘園領主としの権利は完全に否定され、公家などの勢力は衰えた。\n1588年(天正16年)に農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令の刀狩令(かたながりれい)をだします。名目は大仏を京都の方広寺(ほうこうじ)に作るので材料の鉄が必要なため、という名目です。秀吉の狙いは、一揆(いっき)を防ぐため、というのが現代(2014年に記述)での一般的な考えです。\nこのような検地や刀狩の結果、農民と武士との中間的な立場の人間がいなくなり、農民と武士との身分のちがいが、はっきりとしました。このようなことを現代の用語で兵農分離(へいのう ぶんり)といいます。\nさらに秀吉は1592年(天正20年)に、人々が身分を勝手に変えることを許さなくした。これを人掃令(ひとばらい れい)という。\n豊臣秀吉は、キリスト教を禁止する。いっぽう、信長はキリスト教を優遇して保護していました。信長がキリスト教の布教を認めた理由は、信長に敵対する仏教勢力と対抗する目的だと思われている。秀吉も、最初のほうはキリスト教を許可していた。\n秀吉がキリスト教を禁止した理由として一般に言われているのは、一般に、\nキリシタン大名の大村純正が長崎をキリスト教に寄付し、長崎がキリスト教の領地になっていることを、九州の平定の際に知った秀吉が、キリスト教は天下統一のさまたげになるだろうと考えたから、と言われています。\n1587年(天正15年)にキリスト教の宣教師(せんきょうし)を日本の外へ追放(ついほう)するバテレン追放令(バテレンついほうれい) を出します。バテレンとは、ポルトガル語で神父を意味する パードレ padre が由来の言葉。 (※ ポルトガル語表記「padre」は、おぼえなくてよい。) しかし南蛮貿易は許可していたこともあり、取り締まりの効果は不十分だった。\n天下統一を果たした秀吉は、明を征服しようという夢を抱(いだ)くようになりました。秀吉は明を統治する計画を持っていました。しかし、日本から中国大陸の明へ向かって直接軍隊を派遣(はけん)するのは困難です。\nそこで、秀吉は、朝鮮に、明へ行く道の通行許可を求めましたが、朝鮮はその要求を拒みました。これにより、秀吉は明を征服する前に、朝鮮に出兵する必要があると考え、朝鮮に軍隊を送って朝鮮と戦いました(文禄の役)。\n文禄の役で出兵した軍隊は、朝鮮の地域を次々に陥落(かんらく)させ、ついには漢城(かんじょう、現在のソウル)にまで達しました。明は、朝鮮に軍を派遣し、日本と明の戦いになりました。さらに、日本軍は補給を断たれ、明との間で苦戦しました。\nすると、明との間で和平交渉が行わrましたが、さまざまな事情により、破局しました。秀吉を「日本国王に命じる」などの文書を秀吉が不満に思ったことも原因の一つとされます。\n明との交渉が破局すると、再び、開戦です。日本は朝鮮へ軍を派遣(はけん)しました(慶長の役)。このとき、秀吉自身も朝鮮に赴(おもむ)こうとしましたが、第107代後陽成天皇によって止められました。\n秀吉が没すると、朝鮮への出兵は終わりました。\n信長が生きてて影響力の強かったころの安土文化(あづち ぶんか)と言います。信長が安土城(あづちじょう)を建てさせたころの文化だからです。秀吉の時代の文化を桃山文化(ももやま ぶんか)と言います。「桃山」とは、秀吉が築いた伏見城(ふしみじょう)の、のちの時代の地名です。安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。\n室町時代に生まれた茶の湯は、千利休(せんの りきゅう)により、質素さや簡素さなどの「わび」(侘び)を重んじる、「侘び茶」(わびちゃ)とよばれる茶道(さどう)へと発展した。\n織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。\n千利休により、妙喜庵待庵(みょうぎあん たいあん)などの茶室が造られた。(※ ウィキペディアに茶室内部の画像が無いので、外部で探してください。)妙喜庵待庵は国宝になってる。妙喜庵待庵の茶室の広さは、わずか二畳しかない。\nふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。狩野永徳(かのう えいとく) や 弟子の狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。\n狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。\nほかの派の画家では、長谷川等伯(はせがわ とうはく)が有名。\n南蛮貿易により、ヨーロッパの医学・天文学・印刷技術が日本に伝わる。\nパン(pão)やカステラ(pão de castela)、カボチャ、カッパ、カルタ(carta)、テンプラ(Temporas)、たばこ(tabaco)、ボタン(Botão)が日本に伝わる。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。「pão」や「carta」などは、おぼえなくてよい。)\n「カステラ」の由来は、有力な説はポルトガル語でCastelaがスペインのカスティーリャ地方のことだが、カスティーリャ地方のパンケーキという意味でカステラが日本に伝わって、日本語の「カステラ」になったという。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。)\n逆に日本からの輸出では、銀や刀や茶などが輸出され、catana(「カタナ」、刀のこと)などのポルトガル語の由来になった。屏風がbiomboに、坊主がbonzoに、伝わった。\n浄瑠璃(じょうるり)と歌舞伎(かぶき)\n琉球から 三味線(しゃみせん)のもとになる三線(さんしん)が日本に伝わった。日本で 三味線(しゃみせん)として発展した。民衆のあいだでは、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。\nのちの江戸時代には歌舞伎は演劇となっていき男だけが歌舞伎を行うことになるが、この安土桃山時代には女が歌舞伎踊りをしていた。\n衣服では、小袖(こそで)が普及していった。木綿(もめん)の衣服が、麻にかわって一般的になった。民家の屋根には瓦屋根(かわら やね)の様式が京都などでは増えていった。\n", "url": 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)。こうして、戦乱の時代が終わり、徳川氏は日本全国を支配し、江戸幕府が置かれてからの約260年間、大きな戦乱のない時代が続いた。この1603年からの約260年間を江戸時代という。\n幕府の直接の支配地(現代語で「直轄地」(ちょっかつち)又は幕領という)の広さは、全国の約4分の1にあたる約700万石(ごく)であった。\n江戸幕府の直轄地(ちょっかつち)とは、江戸はもちろん、そのほかに、京都・大阪・奈良・長崎も江戸幕府の直轄地だった。つまり、江戸・大阪・長崎などの重要な都市や、金銀の取れる鉱山、政策上で重要な港などが、直轄地になった。\n江戸幕府では、将軍から1万石以上の領地を与えられた武士を、大名(だいみょう)と言った。17世紀なかごろでは、日本全国で200あまりの大名がいたとされる。\n大名家は、大きく3つの種類に分けられ、それによって配置も大きく異なっている。\nそれぞれの地方の政治は、大名に任されていた。大名の支配している地域とその支配の仕組みを合わせて藩(はん)という。また、各藩は幕府に従い、農民に対しては「年貢」(ねんぐ)とよばれる税を課していた。\nこのように、江戸時代には将軍と大名による人民の支配体制がとられ、このような支配体制を幕藩体制(ばくはんたいせい)という。\nなお、将軍直属の家来であり、1万石未満の者のことを、「旗本」(はたもと)または「御家人」(ごけにん)といいます。\n幕府は大名を取りしまる法律として武家諸法度(ぶけしょはっと)を1615年に定め、幕府に無断での築城・婚姻などを禁止した。法度に違反した大名には、領地没収(いわゆる「取りつぶし」)などの、きびしい処分を行った。\nまた、3代将軍の徳川家光(とくがわ いえみつ)の時代に、\n領地と江戸を往復する参勤交代(さんきんこうたい)をするように定めた。\nまた、大名の妻子(さいし)を江戸に住まわせ、江戸住まいの生活費は、大名の藩の負担になった。参勤交代の旅費も、藩の負担となった。\nなお、通説として、参勤交代のねらいは、大名による反乱を防ぐために、江戸に大名の妻子を人質(ひとじち)として住まわせる事と、往復の旅費や江戸生活の出費をさせる事である、というものがある。また、大名と大名宇都将軍の主従関係を確認するという意味合いもある。\n\nさらに大名は、幕府から江戸城の修築や河川修復などの普請(土木工事)も命じられ、その費用は藩の負担になったので、ますます藩の財政は苦しくなりました。\nまた、幕府は公家や天皇にも法度を定め、禁中並公家諸法度(きんちゅう ならび に くげしょはっと)を1615年に定めました。そして京都には朝廷を監視するため京都所司代(きょうと しょしだい)を置きました。\n1603年、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。3代将軍の徳川家光(いえみつ)の時代ころに、幕府のしくみが完成した。\nまず、将軍の下に老中(ろうじゅう)を置き、通常時の政治の実務を監督させ、それを「若年寄」(わかどしより)たちが補佐をした。通常時は、老中が将軍の次に位が高い。\n非常時には、大老(たいろう)が置かれた。非常時は、大老が、将軍の次に位が高い。\n「大目付」(おおめつけ)とは、大名の監視(かんし)をする役職である。\n「寺社奉行」(じしゃぶぎょう)とは、寺社を取りしまる奉行である。\n「町奉行」(まちぶぎょう)とは、江戸の町政をおこなう奉行である。(※ 中学3年の公民の用語でいうと、江戸の町の行政(町政)と司法(裁判)の仕事をするのが町奉行である。つまり、町奉行は、「立法」はしない。江戸時代は、司法と行政を、同じ機関が行った。)\n「勘定奉行」(かんじょうぶぎょう)とは、江戸幕府の財政を取りしきる奉行である。また、幕府の直轄領(ちょっかつりょう)の監督もしている。なお、江戸幕府の直轄領のことを「天領」(てんりょう)という。(※ いちおう、「天領」(てんりょう)は中学検定教科書の範囲内。教育出版の教科書および自由社の検定教科書で紹介されてる。しかし、他の教科書では紹介されておらず、それほど重要な用語でもないだろうから、無理して覚える必要は無いだろう。下記の、歴史用語が「天領」から「幕領」に変化している件も参照のこと) つまり、勘定奉行の仕事とは、江戸幕府の財政のほか、天領を監督する仕事もしている。\n「遠国奉行」(おんごくぶぎょう)とは、京都・大阪・長崎などを支配する奉行である。\n西国大名の監視のため、「大坂城代」(おおさかじょうだい)が置かれた。\n勘定奉行のしたに、郡代(ぐんだい)や各種の代官(だいかん)が配置された。\nまた、幕府は、貨幣の発行権も独占し、さらに石見(いわみ)銀山や佐渡(さど)金山などを幕府の直轄地(直接の支配地)にした。\n江戸幕府はヨーロッパ諸国の軍事的干渉・宗教的干渉などをおそれ、貿易や出入国をきびしく制限する政策をとった。のちの明治時代にこのような江戸幕府の政策は「鎖国」(さこく)と呼ばれた。\n中学・高校の歴史の検定教科書を執筆している歴史学者のひとりである山本博文(大学教授、東大)も、彼の著書で、「鎖国」という言葉が間違いだというデマを批判している[1]。\n山本のいうには、\n・・・というような感じで山本は批判している。\n要するに、歴史研究の成果としては、単に、アイヌや琉球といった従来(昭和ごろ)は未解明だった地域との貿易の実態が、21世紀頃から解明されてきただけにすぎない。\nその研究成果を反映して「4つの口」(中国・韓国・アイヌ・琉球)という表現がある歴史学者によって提唱されただけのことである。この表現風にいうなら、昭和の従来説はさしずめ「2つの口」(中国・韓国)だろうか。\nところが、それを無知な世間の人(マスコミなど)が、「鎖国」という表現が「4つの口」に変わった、というデマに置き換えているだけである。\n念のため参考書を調べてみても、2020年以降に出版された中学参考書(学研や旺文社など)を見ても、「鎖国」という用語は引き続き使われています。\n中学だけでなく、高校の山川出版社(教科書会社名)の2020年発行の検定教科書ですら、「鎖国」という用語があります。高校の参考書でも、その出版社の本をみても、「鎖国」の用語はあります。参考書によっては「4つの口」という用語を紹介している出版社もありますが、べつに「鎖国」と言う用語と置き換えようしなんて、していません(マスコミが勝手に「置き換わっている」と騒いでるだけです)。\nもはや「教科書に『鎖国』の用語は無い」と言うのは、完全なデタラメです。またもし仮に将来、中学教科書から「鎖国」の文字が消えたとしても、高校教科書には引き続き残るでしょう。\n世間では、「江戸時代の当時、『鎖国』という用語は使ってなかったので、教科書から消すべき」という意見もあります。\nしかし、そもそも「藩」という用語は廃藩置県のときに出来たらしいです。『江戸幕府』という用語自体、滅んだ鎌倉幕府や室町幕府を連想させるため、江戸幕府は自分たちの政権を呼ぶのに『幕府』という用語を使わせなかった、とも言われています。歴史用語にはこのように、当時は存在しなかった言葉も多くあります。\n\n「鎖国」政策の直接要因となった出来事は、1637年の島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)である。この「島原・天草一揆」とは、九州の島原(しまばら、長崎県)・天草(あまくさ、熊本県)地方で、農民たちが重税やキリスト教の取り締まりに反発して、大規模な一揆を起こした事である。\nこのような出来事の結果、江戸幕府は、さらにきびしいキリスト教の取りしまりをするために、1639年にはポルトガル船の日本への来航を禁止した。(スペインは1624年にすでに日本への来航を禁止されていた。)\nただし、いわゆる「鎖国」の例外として、オランダは日本への来航を許された。\n1639年には貿易のための商館が平戸から長崎の出島(でじま)へと移され、出島でオランダ・清(しん)と日本との貿易が行われた。また、対馬藩を通じて李氏朝鮮(りしちょうせん)との貿易をしており、日本は合わせて3か国とのみ貿易を行っていた。\nオランダは、日本ではキリスト教を布教していない。\n徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていた。なお、この貿易は、のちに廃止される。\nこの貿易では、日本の船に幕府の貿易許可をしめす朱印状(しゅいんじょう)という証明書が必要だったので、そのような朱印状を持っている日本船を朱印船(しゅいんせん)と呼んだ。この朱印船による東南アジアとの貿易を朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)という\n2代将軍の秀忠の時代にも朱印船貿易は続き、キリスト教を秀忠が禁止したあとにも、朱印船貿易は続けられた。\n東南アジアのルソン(今のフィリピン)やシャム(今のタイ)に日本人が集団で移り住み、東南アジア各地に日本町が出来た。\n当時はスペイン人がルソン(今のフィリピン)に進出していた。\nこの朱印船貿易のころは、日本は貿易相手になった西洋諸国については、オランダの他にもイギリスとポルトガルとも日本は朱印船貿易をしていました。\nなお、このころは、長崎県の平戸(ひらと)に、貿易のための商館がありました。\n朱印船貿易により、日本からは銀が輸出されました。いっぽう、中国産の生糸や絹織物などが、日本に輸入されました。\n朱印船貿易は3大将軍の家光(いえみつ)のときに終わります。\n家康は、イギリスとオランダの日本との貿易を許し、平戸(ひらど、長崎県にある)での貿易が始まる。\nきっかけは1600年に豊後(ぶんご)に流れ着いたオランダ船リーフデ号に乗っていたオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)とイギリス人のウィリアム・アダムス(william Adams)であり、この二人が幕府の外交の相談役になったからである。\n今の東京にある八重洲(やえす)の名前の由来はヤン・ヨーステンである。\nスペインに遅れて貿易に参加することになったオランダは、キリスト教の布教には関心がなかった。\nオランダは日本との貿易を独占するため、スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしている、と幕府に、つげていた。\nイギリスはオランダとの競争にやぶれ、日本をはなれて、イギリスの関心はインドでの貿易に変わった。\n3代将軍の家光の1629年のころから、キリスト教徒を発見するため、踏み絵(ふみえ)を用いた絵踏み(えふみ)が行われるようになった。\nこの時代、キリスト教は禁止されていたが、かくれてキリスト教を信じる「隠れキリシタン」(かくれキリシタン)がいた。このような隠れキリシタンを取り締まるため、幕府は人々にキリストやマリアなどが描かれた銅板の踏み絵(ふみえ)を踏ませるという、絵踏み(えふみ)をさせて、絵踏みをしないものはキリシタンであるとして処罰した。\n反乱軍の中心人物は、天草四郎(あまくさ しろう)とも言われる「益田時貞」(ますだ ときさだ)で、反乱軍は島原半島の原上にたてこもったが、幕府の松平信綱(まつだいら のぶつな)を中心とする兵数12万人ほどの幕府軍により、反乱軍は負けた。\nこの出来事を「島原・天草の一揆」(しまばら・あまくさ の いっき)と言う。「島原・天草の一揆」とは、いわゆる「島原の乱」(しまばら の らん)のことである。\n「島原・天草の一揆」後、幕府は、人々を宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)に記し、仏教寺院にその人が仏教徒であることを証明させることで、キリスト教の禁止をさらに強めた。\n江戸幕府は貿易を制限していき、江戸時代の貿易の相手国は最終的に朝鮮と琉球(りゅうきゅう、今でいう沖縄)、オランダ、清(しん、今でいう中国)、アイヌ(今でいう北海道)だけに、かぎられていく。\n当時、オランダは台湾やインドネシアに進出していた。台湾の地に、オランダ人は「フォルモサ」(オランダ語:Formosa)という地名を名づけていた。(※ フォルモサという地名は、小中学生は、おぼえなくて良い。)\nスペイン人の来日を禁止する。\nこのように、幕府は貿易を独占し、また、制限していく。\n貿易だけでなく、キリスト教の布教も禁止し、また、外国人が、一部の地域をのぞいて日本に入れないようにした。\nこの、江戸幕府による、外国人と日本人との交流を減らして(へらして)いった対外政策は、のちに江戸時代の1800年ごろから鎖国(さこく)と言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がります。\nなお、江戸幕府は長崎のオランダ商館に、外国のようすを幕府に報告(ほうこく)させるための報告書(ほうこくしょ)の提出を義務づけ、『オランダ風説書』(オランダふうせつがき)の提出が義務づけられた。\n(※ 発展: )オランダの宗教は、宗教改革のプロテスタントの国である。それまで戦国時代に貿易していた相手国であるスペインやポルトガルは、カトリックの国である。\n結果的に、日本はカトリック国との貿易を日本国民に禁止したことになり、そして日本は結果的にプロテスタント国であるオタンダとの貿易を日本国民に認めたことになる。\n徳川家康の時代に、対馬藩(つしまはん)を通して朝鮮(ちょうせん)との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断(ちゅうだん)しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し、日本と朝鮮との貿易が再開します。対馬藩(つしまはん)の大名である宗(そう)氏の媒により、朝鮮と日本との貿易が復活します。朝鮮から日本への(、日本が輸入した)輸入品は、生糸や木綿、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)です。\n日本からは銅や銀が輸出されました。\n3代将軍の家光の時代からは、日本で将軍の代替わり(だいがわり)ごとに、朝鮮からの通信使(つうしんし)が訪れるようになります。朝鮮からの通信使を 朝鮮通信使(ちょうせん つうしんし) と言います。\nまた、朝鮮の釜山(プサン)には倭館(わかん)が作られ、貿易の拠点になりました。\n江戸時代、沖縄は「琉球」(りゅうきゅう)という王国でした。\n江戸時代の初めごろ、17世紀に、琉球国は薩摩藩によって征服(せいふく)されました。そして、薩摩藩によって、琉球は年貢を取られるようになりました。\n幕府や薩摩藩は、琉球国に、日本と中国との貿易を仲介させました。琉球が、日本に征服される以前から行っていた中国との貿易をつづけさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。\nまた、中国は、朝貢をする国とだけ貿易をする方針だったので、日本は、琉球国を仲介して、琉球を中国に朝貢させた。江戸幕府も、琉球に中国との貿易を仲介させるため、琉球が中国に朝貢することを認めた。\nこのため、琉球王国は、日本に征服されているのに、琉球は中国に朝貢するという、独特な立場の国になった。\n中国との貿易のために、このような朝貢貿易という名目があったため、江戸時代のあいだ、琉球王国は、ほろんでいません。\n(江戸幕府)将軍や琉球国王の代替わりごとに江戸に使節を送らせるのが慣例になり、幕府の権威(けんい)が琉球にまで及んでいる事を江戸などの人々に印象づけた。琉球からは、将軍が変わるごとに慶賀使(けいがし)と呼ばれる就任祝いの使節と、琉球王が変わるごとに謝恩使(しゃおんし)と呼ばれる感謝の使節が江戸に派遣された。\n幕府は、琉球からの使節には、中国風の衣服を着させることで、あたかも中国が日本に服属しているかのような印象を、庶民に与えたと言われています。\n江戸時代、北海道は「蝦夷(えぞ)」とよばれており、アイヌ民族が住んでいました。\n現代では、この北海道のいくつかの民族をまとめて、アイヌ民族と呼んでいます。\nアイヌは、松前藩(まつまえはん)と貿易をさせられていました。\nアイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと交換していたといいます。\nこのような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、1669年、反乱を起こしました。シャクシャインという人物を中心に反乱を起こしました。\n松前藩は、シャクシャインをだまし討ちして殺害しました。松前藩は、停戦を申し込むとウソをいってシャクシャインをまねき、シャクシャインがやってきたところを、殺害しました。(※ 検定教科書の範囲内 東京書籍や帝国書院の教科書で、本文外の写真などの下のコラムで記述。)\nそしてアイヌによる反乱は鎮圧され、いっそう厳しく(きびしく)、アイヌは支配されました。\n貿易の品目は、日本からは、コメや酒、鉄器などを、アイヌに輸出していたと言われています。\n江戸時代は身分制度がきびしく定められた時代です。\n江戸幕府は、それ以前の秀吉の時代からの兵農分離(刀狩り)の政策を江戸幕府も受け継ぎ、江戸幕府は人々を、武士(ぶし)、百姓(ひゃくしょう)・町人(ちょうにん)に区別する身分制度を定めました。\n江戸時代の「町人」とは、今でいう、城下町などの比較的に大きな都市(当時は城下町などが都市だった)に住む住人、というような意味です。また、町人の職業も、今でいう商人と職人です。\n百姓(ひゃくしょう)は、主に農民たちです。江戸時代の全人口の80%以上は百姓(農民)です。\n町人は、主に、商人と(大工などの)職人です。\n武士や町民のような、比較的に高い身分は、原則として、その家の親から長男に代々、受け継がれました。また、勝手に身分を変えることは出来ませんでした。\nまた、身分や職業や家柄などによって、住む場所がほとんど決められており、それ以外の場所に住むことは原則的に出来ませんでした。\n武士は、城下町に住まわされました。\nまた、江戸時代は、武士・百姓・町人のほかに、「えた」「ひにん」という低い身分が定められていました。\n(身分別の人口割合 おわり)。\n武士の頂点に立つのが将軍であり、その下に様々な役職が置かれました。\n武士の特権として、名字(みょうじ)を名乗ったり、刀を持つこと(帯刀、たいとう)は原則として武士のみ許されていた。武士の住む場所は、主に城下町でも城に近いところに住むようにされました。\n農民は、おもに農村に住まわされました。農村は、城下町よりも離れたところに作られています。\n農民は主に二つに区別されており、土地を持つ本百姓(ほんびゃくしょう)と、土地をもたない水呑百姓(みずのみびゃくしょう)に区別されていました。\n収穫高の40~50パーセントが年貢として納められた。年貢が5割の場合、五公五民(ごこう ごみん)と、いいます。「五公」で年貢が5割という意味です。\n年代によって年貢が6割の場合もあり、その場合は六公四民(ろくこう よんみん)といいます。\n年代によって年貢が4割の場合もあり、その場合は四公六民(よんこう ろくみん)といいます。\nつまり、江戸時代の年貢は、五公五民ぐらいでした。\n年貢となる農作物は、おもに米(こめ)ですが、地域の実情に応じて、特産品などが代わりに年貢として納められる場合もあります。\n村役人は、有力な本百姓のなかから、藩などによって選ばれました。有力な本百姓は、「名主」(なぬし)、「組頭」(くみがしら)、「百姓代」(ひゃくしょうだい)などといわれる村役人に選ばれました。名主は、「庄屋」(しょうや)ともいいます。\n農民のくらしは、贅沢(ぜいたく)をしないように、きびしく管理されました。\n農民への御触書(おふれがき)によって、農民の生活のきまりが、定められました。\n御触書の内容は、現代風に訳すと次のような内容です。\n農民への御触書(おふれがき)\n以上の内容が御触書の内容として有名ですが、他にもつぎのような内容も御触書にあります。 (※ おぼえなくても、大丈夫だろう。)\n農民への御触書(おふれがき)\n御触書などの命令により、江戸時代では、田畑の売買は禁止されていました。\n農民には、村で5〜6件ごとに五人組(ごにんぐみ)という集団をつくらせ、年貢の未納や犯罪などに連帯責任を負わせました。\n(※ 範囲外。& 編集者への情報 )かつて上記の御触書は「慶安の御触書」といわれていましたが、どうも慶安(年号のひとつ)の時代のものではなく、元禄(げんろく)元年(※ 17世紀末ころ)に甲府藩で作成されたものであり、なのに天保(てんぽう、19世紀前半)の頃に日本全国に普及した際に、作成年代が「慶安の御触書」と間違って慶安の頃のものとして伝えられたらしい事が歴史研究で解明されてきた[3]。なので、「慶安」という時代を限定する表記は外すことになり(慶安の時代ものではないので)、単に「御触書」または、御触書だけだと何の御触書か分からないなら「農民への御触書」のように言うようになった。\nどうやら、江戸時代後半の財政難やら飢饉などで悩んでいる諸藩の政治家たちが、江戸時代初期の江戸幕府が隆盛していただろうと思われた3第将軍・家光のころの時代を懐かしんで、「慶安の御触書」という名前をつけたらしい[4]。なお、江戸時代、年号をつける権限をもつのは天皇である(将軍ではない)。慶安は3代・家光や4代・家綱の時代。\nまた、昭和の時代の歴史学の通説では、「慶安の」御触書などを信じて、江戸時代の農民は比較的に貧しかったと考えられていたが、しかし、江戸時代の後半になると庶民の旅行ブーム(御蔭参り(おかげまいり) )なども発生するので、もし本当に貧しいなら旅行の余裕は無いはずなので、つまり実際の江戸時代の農民・庶民の暮らしぶりは、昭和の通説で考えられていたよりも、生活に余裕があったという可能性も、21世紀の学説では考えている。\nなお、「御蔭参り」(おかげまいり)とは、伊勢神宮に参拝するブーム。江戸や大阪から数十日をかけて伊勢神宮に参拝したり、東北や九州からも伊勢神宮に参拝したり、そんな旅行ブームが江戸時代の後半にあった。\n土地や家屋などを持つ町人は、それぞれ「地主」(じぬし)、「家持」(いえもち)と言われた。それらを持たない町人は、「地借」(じがり)、「店子」(たなこ)と呼ばれた。\n家や店を持つ町民は、営業税を納める必要がありました。しかし、町人の負担は、百姓と比べると軽かったです。\nこのほか、「えた」 および 「ひにん」 と言われる、農民よりも身分が低くされ、もっとも身分が低い(ひくい)という差別をされた人々がいました。「えた」と「ひにん」は、それぞれ別の身分です。\nえたは、皮革業(ひかくぎょう)などのような、動物の死体をあつかう職業などをしていた身分です。このような死体を扱う身分は、いやしい職業だと、当時は考えられていました。しかし、武士なども、戦(いくさ)のときには敵をころしたりしますが、武士は低い身分とはされませんでした。このように、とても武士に都合のいい非合理な差別でした。\n「えた」や「ひにん」は皮革業のほかにも、さまざまな職業の者がいました。犯罪者の処刑にたずさわったりする職業の「えた」・「ひにん」の者もいました。「ひにん」には、役人のもとで下働きをしたり、あるいは芸能にたずさわる者もいました。\n「えた」「ひにん」の住む場所は、きびしく制限され、あまり他の身分の者と関わる機会の少ないような場所にすまされ、他身分との交流なども制限を受けた。百姓や町人の住む場所とも別の場所にと、「えた」「ひにん」の住む場所は区別されました。\nかつて昭和の終わりころまで、江戸時代には「士農工商」(しのうこうしょう)の4つの身分がある、と言われてました。\nしかし、近年の研究により、4つの身分に区分するよりも、武士・町人・百姓の3つに区分するほうが実態に近い事が分かっています。\nそもそも「士農工商」とは、中国(今でいう中華人民共和国の「中国」)の古い書物にある用語だったようです。\n\n江戸時代、家庭は、父親の権限が強かった。(いわゆる家父長制(かふちょうせい)である。)\n家長(かちょう)には、原則として父親がなるものとされた。(家長とは、いわゆる「戸主」(こしゅ)のことであり、その家の主(あるじ)のことである。)武家の場合、女性は家長になることは許されなかったし、財産を相続することも許されなかった。(※ 武家と女性の相続についての参考文献: 清水書院の検定教科書。) \nまた、次の家長になるものとして、長男が優遇された。女性や次男以下の家庭内での地位は、低かった。\n(で、自由社の検定教科書などが指摘してる事だが、)江戸時代の「家」は、企業・自営業(じえいぎょう)に近い。だから、たとえ長男であっても、家業(かぎょう)を継がない場合は、家を継げなかったのである。「家業」とは、たとえば店を経営している商家なら、その店を経営することが「家業」。\n江戸時代、家業と家の財産は、家長ではなく、家そのものに属するものとされた。(※ 参考文献: 日本文教出版の検定教科書。)\nよく、江戸時代の家制度の説明で「家は長男が継ぐものとされた」などと教科書で書かれる場合があるが、家を継ぐ場合には家業も継がねばならない、という条件がある。\nべつに商人に限ったことではなく、江戸時代に限ったことでもなく、武家や戦国時代から、こうである。(※ 参考文献: 『大学の日本史 2―教養から考える歴史へ 中世』山川出版社、2016年第1版、192ページ、)\n(で、自由社の検定教科書が言うには)江戸時代の家制度は、血統による身分の区分ではなく、職業による身分の区分である。(※ 参考文献: 自由社『あたらしい歴史教科書』、平成23年検定版、127ページ)\nだから、百姓・町人などから武士に取り立てられる者もいれば、その逆に武士から町人になる者もいた(・・・と自由社は主張している)。\n(※ 範囲外:) たとえば、「3本の矢」の故事でも有名な戦国大名・毛利元就(もうり もとなり)は、息子の苗字が「吉川」元春(きっかわ もとはる)・「小早川」隆景(こばやかわ たかかげ)のように、倒した敵大名の苗字を名乗らせているのは、敵大名の統治していた領地や家臣団・領民などを、息子に継がせるために、その敵大名家の苗字を名乗らせたのである。(※ 参考文献: 『大学の日本史 2―教養から考える歴史へ 中世』山川出版社、2016年第1版、192ページ、)\n{[コラム|丁稚など|\n当時の「家」は現代とは違い、商人や職人の家では、住み込みなどで主人の家で働く人も多かった。10歳くらいの若い子が、住み込みで働きに来ていることもよくあり、10歳くらいの彼らは「丁稚」(でっち)と言われた。\n}}\n17世紀のなかばごろになると、平和な時代になったこともあり、幕府や藩は、大規模な新田開発を進めました。\nその結果、開墾(かいこん)が進み、全国の田畑の耕地面積が秀吉の頃の、ほぼ2倍 に広がりました。\n幕府や藩の財政は百姓からの年貢にたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要があったのです。\n江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。\n年貢米は江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。\n治水(ちすい)工事も進み、農地に水を引く灌漑(かんがい)のための用水路(ようすいろ)が各地にできた。\n箱根上水(はこね じょうすい) や 玉川上水(たまがわ じょうすい) は江戸時代に出来た。\n九州の有明湾で干拓(かんたく)事業がされた。\n備中鍬(びっちゅうぐわ)・千歯こき(せんばこき)・千石どおし(せんごくどおし)などが開発された。\n踏車は、人間が踏んで回す水車なので、重力に逆らって水を高いところにあげられるという仕組みである。\n竜骨車(りゅうこつしゃ)という、かんがい用の農具もあります。形は踏車とちがいますが、竜骨車も、農民が足で踏んで(ふんで)動かすことで、水がくみあがる仕組みです。\n売ることを目的に、綿・なたね・茶・麻・あい、などの、今で言うところの商品作物(しょうひんさくもつ)が作られるようになった。\n農村でも貨幣(かへい)が使われるようになった。\n綿の生産の発達により、民衆の服は麻(あさ)から綿(めん)に変わっていく。\nあい や べにばな などは、染料として使われた。\n外国から伝わった作物も、つくられるようになった。さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこし、などである。\n油かす(あぶらかす) ・・・ なたね油やごま油の しぼりかす であり、肥料として使われる。\n干鰯(ほしか) ・・・  いわし。肥料として使われた。\n沿岸漁業が、ほとんど。\n九十九里浜(くじゅうくりはま、現在の千葉県)では、いわし漁がさかんだった。瀬戸内海では塩田(えんでん)が発達した。\n家内制手工業(かないせい しゅこうぎょう)\n問屋制家内工業\n工場制手工業(こうじょうせい しゅこうぎょう)\n西洋史で言う マニュファクチュア に対応している。\n金山(きんざん)\n銀山(ぎんざん)\n銅山(どうざん)\n銅は長崎貿易の輸出品に、なった。\n鉄\n江戸時代は、商人があつかう商品の量や種類が増えた。このため、商業の仕組みが発達した。貨幣が全国的に流通するようになった。\n商品の量や種類がふえ、複雑(ふくざつ)化していったので、商人も分業化するようになり、問屋(とんや)や仲買(なかがい)や小売商(こうりしょう)の区別ができた。\n問屋どうしの中でも分業はすすみ、さらに分業化が商品の種類ごとに進み、米をあつかう米問屋(こめどんや)や、木綿(もめん)をあつかう木綿問屋(もめんどんや)、油問屋(あぶらとんや)など、専業化していった。\n問屋(とんや)とは、生産者から商品を仕入れ、販売店などの小売業者に商品を販売する仕事である。\n\nいろんな種類の商人の職が出てきます。現代の仕事に関連づけて、おぼえてください。現代の仕事に関連づけないと、おぼえづらいでしょう。\n江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。\n年貢米や、年貢のかわりの特産物(とくさんぶつ)は、江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。\n大阪は商業がさかえ、「天下の台所」(てんかの だいどころ)と言われました。\n分業化は蔵屋敷でも、されていました。仕事の種類によって、大阪では蔵元(くらもと) や 掛屋(かけや)などに分業されました。江戸では 札差(ふださし) などがありました。\n蔵元(くらもと)は、売りさばきが担当の商人です。今でいう販売員です。\n掛屋(かけや)は、売上金の輸送や保管の仕事です。今でいう銀行の 預金業務(よきんぎょうむ) や 振り込み(ふりこみ) のような仕事をしています。\n蔵屋敷で現金化できる年貢や特産物など、諸藩からの商品をあわせて、 蔵物(くらもの) と言います。\nいっぽう、民間から出た商品も出回り、納屋物(なやもの)といいます。 (※ おぼえなくてよい。)\n両替商(りょうがえしょう)は、もともとは、金貨や銀貨や銅貨の交換を、手数料をもらって行なう仕事ですが、そのうち仕事の内容が変わり、今でいう銀行のような預金(よきん)業務と貸付(かしつけ)業務を行なうようになった。\n両替商は貨幣の調達などに信用があるので、両替商どうしの帳簿(ちょうぼ)上の処理(しょり)で貨幣(かへい)の送金(そうきん)の代わり(かわり)とする 信用取引(しんようとりひき) の仕組みが発達した。\n江戸を中心に関東では金が取引の主流であり、大阪などの関西では銀が取引の主流であったので、両替が必要だった。「両」とは金貨のこと、あるいは金貨の単位である。\n商人のなかには、江戸の三井(みつい)や大阪の鴻池(こうのいけ)のように、財政の苦しい藩(はん)や大名に おかね を貸し付けたり、藩の財政にかかわるほどの、有力な商人もあらわれた。\n貨幣をつくるには、材料の金や銀が必要なので、幕府は鉱山を開発しました。\nまた、貨幣をつくる権利は幕府が独占した。\n商業の発達には、交通の発達も必要である。\n江戸時代の始めごろまでは、商売の支払い方法では、後でまとめて払う方法が普通だった。\nしかし1673年に、三井高利(みつい たかとし)が江戸で開いた越後屋呉服店(えちごや ごふくてん)が、現金払いで店頭ですぐに売買する商法を始めた。\nこのような商法は江戸時代の当時「現金かけ値なし」(げんきん かけねなし)と言われた。「かけ値」とは、定価よりも高く売ること。\n越後屋は、かけ値をやめたのである。(※ 東京書籍、清水書院、教育出版など、多くの検定教科書で紹介。)\n売買がすぐに成立するぶん、越後屋はすぐに代金を改修できるし、また、客にとっては安く販売できるため、越後屋と客の双方に利点があった。(※ ← ほぼ帝国書院の教科書の見解)\n越後屋は、呉服店のほか、両替商(りょうがえしょう)も行った。\n船は、大量の荷物を、少ない人物で運べます。しかも、一度、船に積めば、目的地までは途中で積み替えをする必要がありません。\nこのため、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このような理由で、海運(かいうん)が発達した。\nまた、船も改良され発達した。\n菱垣廻船(ひがきかいせん)\n樽廻船(たるかいせん)\n東廻り(ひがしまわり)航路\n西廻り(にしまわり)航路\n江戸の商人である川村瑞賢(かわむら ずいけん)によって、東回り航路と西回り航路が開かれた。\n全国を道でつなぐため、街道(がいどう)が出来た。\n江戸の日本橋(にほんばし)を起点とする幹線道路(かんせんどうろ)としての街道が5本あるが、これを五街道(ごかいどう)という。読みは「ごがいどう」ではなく「ごかいどう」なので、まちがえないように注意。\n五街道(ごかいどう) と、そのほかの道である 脇街道(わきかいどう) などによって、東北から山陰・山陽地方までが道でつながった。\n九州や四国も、それぞれの島の内部が、道でつながった。\n五街道は、東北地方の南部の今でいう福島県から京都までしか、つながっていない。\n日光へと向かう 五街道のうちの街道が日光街道(にっこうかいどう)である。\n日光街道は、北関東の宇都宮(うつのみや)のあたりで、ふたまたに分かれていて、宇都宮から福島の白河(しらかわ)へと向かう奥州街道(おうしゅうかいどう)に分岐(ぶんき)している。 (※ 宇都宮・白河など、細かな地名は、おそらく教科書の範囲外なので、学校対策では、おぼえなくてよい。)\n以上の二本の街道が、五街道への北への方面である。\n次に京都方面について、説明する。\n京都の方面へと江戸から向かう街道は3本あるが、そのうちの2本は、途中(とちゅう)で合流(ごうりゅう)する。\n五街道のうちの一つである甲州道中(こうしゅうどうちゅう)は、長野県の信濃(しなの)の諏訪(すわ)のあたりで、五街道のうちの別の一つである中山道(なかせんどう)と合流する。\n甲州道中の名前は「甲州」道中だし甲府(こうふ)を通るが、じつは長野県の信濃まで、つながっている。\n五街道のうちの一つである東海道は、太平洋ぞいの街道であり、京都まで他の街道とは、つながっていない。東海道の経路は、今でいう神奈川県 → 静岡県 → 愛知県 → 京都 の経路である。\n当時の用語で言えば、小田原(おだわら、神奈川) → 駿府(すんぷ、静岡) → 名古屋(なごや、愛知) → 京都 である。\n東海道は、もっとも人々の行き来が、さかんだった。\n警備(けいび)上の理由から、街道には、通行者の取り調べるため通行を制限(せいげん)する関所(せきしょ)が、おかれた。\n関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形(てがた)を見せる必要があった。\n関所では、とくに江戸に入る鉄砲(てっぽう)と、江戸から出る女は、きびしく調べられた。鉄砲の取り調べは、反乱を恐れて(おそれて)、のことである。江戸から出る女は、参勤交代で人質として江戸に住まわせた女である、大名の妻が、こっそり江戸から故郷(こきょう)へ帰国(きこく)することを恐れて、である。\n「入り鉄砲に出女」(いりでっぽうに、でおんな)と言われ、これら2つは、きびしく調べられた。\n街道には、旅行者が寝泊まり(ねとまり)するための宿場(しゅくば)が、もうけられ、宿場町が発達した。\n大名(だいみょう)や幕府の役人のとまる宿(やど)である本陣(ほんじん)や、ふつうの武士のとまる脇本陣(わきほんじん)や、一般の旅行者が泊まる旅籠(はたご)が、もうけられた。\n宿場の周辺の人々には、役人などのため人手をかす負担があって、この負担を 助郷(すけごう) という。\n東海道には53の宿場があり、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と言われた。\n街道には、通行者が場所をわかりやすいように、並木(なみき) や 道しるべ が、もうけられた。また街道の道のりの約4キロメートルごとに一里塚(いちりづか) が、もうけられた。一里(いちり)とは、長さの単位(たんい)であり、今でいう約4キロメートル。\n郵便物をとどけるため、人が走ったり馬をつかって運ぶ飛脚(ひきゃく)の仕事が発達した。\n幕府が管理する飛脚を 継飛脚(つぎひきゃく) という。町人のあいだでは 町飛脚(まちひきゃく) が利用された。\n江戸時代に商業の中心的な都市は、江戸と大阪です。江戸と大阪と京都を三都(さんと)という。\n江戸\n大阪\n貨幣は、江戸と大阪で違っており、江戸では主に金が用いられ、大阪では主に銀が用いられた。そのため、両替商が金銀の交換を行った。\nその他の都市\n京都\n都市では、商業の発達にともない、商人たちが同業者の組合である株仲間(かぶなかま)が結成されていった。\n株仲間は、幕府の許可のもと、営業を独占するかわりに、税を納めた。\n商人には、大名にも金をかすほどの有力な商人もあらわれ、江戸の三井(みつい)家や、大阪の鴻池(こうのいけ)家などの有力な商人が現れた。\n4代将軍〜5代将軍のから、幕府は財政が悪化していき、財政のあまり良くない状況が、江戸時代の終わりまでずっと続きます。\n江戸時代には貨幣が普及していきますが、田畑の収穫が急にふえるわけでもなく、そのくせ人口はふえるし、鉱山から採れる金銀の量もへっていきますので、今の時代から見れば財政がわるくなっても当然です。\n5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)は、動物を極端に保護する、生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)を出した。\n綱吉が、いぬ年の生まれで、特に犬を保護したので、犬公方(いぬ くぼう)と大衆から呼ばれて、きらわれた。\n令を出した理由は、一節には、綱吉には、子がなく、僧からのすすめで、殺生を禁じたら子ができる、と僧にすすめられ、とくに犬を大切にすれば子ができるとすすめられたらしいのが、令を出した理由だと言われている。\n儒学などの学問に力を入れた。湯島に孔子(こうし)をまつる聖堂(せいどう)を立てる。儒学の中でも、とくに朱子学(しゅしがく)という学問を重んじた。朱子学は身分秩序を重んじるため、幕府にとって都合がよかった。\n前将軍のときの火事の、明暦の大火(めいれきのたいか)での費用がかさむなどが、財政悪化の理由の一つです。\n金貨・銀貨にふくまれる金・銀の量をへらした貨幣を発行したが、貨幣の信用がさがり、そのため物価(ぶっか)が上がった。\n現代でも、一般に、貨幣の信用が下がると、物価が上がります。\n江戸時代は貨幣の信用のうらづけは、金貨や銀貨にふくまれている金・銀なので、貨幣の中の金銀のわりあいを減らせば、商人が物を売るときに今までと同じ金・銀を手に入れるには値段を上げなければ金銀の量が前と同じになりません。\nなので、貨幣の質をさげると、物価が上がってしまいやすいのです。\nただし、綱吉の政権がそこまで経済政策に詳しかったかどうかは、まだ未解明である。歴史学者が研究中であるので、中学生は深入りしなくていい。\n(発展的事項、おわり。)\n綱吉が、このように儒学などの学問を重んじた理由や、あわれみの令を出して殺生(せっしょう)をきらった理由としては、一節には、家康からの軍事力にたよった武断(ぶだん)的(てき)な政治をあらためるためかも?・・・という説も今では言われています。しかし、家康のころから朱子学を重んじてはいましたので、綱吉のねらいがコレかどうかは、わかりません。\n(雑談、おわり。)\n読者はテレビ時代劇などで『忠臣蔵』(ちゅうしんぐら)を見たことある人もいるでしょう。\nこの忠臣蔵の題材にもなった、赤穂浪士の討ち入り事件およびキッカケの事件が起きた時期(1702~1703年)が、ちょうど綱吉の統治の時代です。\n赤穂事件とは、旧・赤穂藩の主人である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、幕府のお偉いさんの吉良上野介(きら こうずけのすけ)に過度に馬鹿にされたと思い、江戸城の中で、刀で吉良に切りつけた事件です。\nその後、浅野内匠頭は処刑されましたが、旧・赤穂藩の武士たちは、主人の復讐のために、吉良家に討ち入りしました。\n武士道の観点からすれば、主人のカタキを取る旧・赤穂藩による討ち入りは美談のように思えますが、一方で幕府の役人・吉良に反逆することは武士道に反するように思えます。\n江戸時代の当時からもう、庶民のあいだでも議論になっていました。\n当時の庶民が詠んだとされる狂歌に、次の歌があります。\n赤穂浪士たちの討ち入りのリーダーは、大石内蔵助(おおいし くらのすけ)という人物です。\n幕府内ですら、さすがに討ち入りに処罰を与える必要性は多くの幕府内の幹部・学者が感じているものの、ではどういう理由で処罰を下すべきか、討ち入り直後の時期には幕府内でも意見が割れたようです。\nなお、赤穂浪士たちは最終的に幕府から切腹を命じられ、切腹しました。\nもしかしたら、1710年や1718年に武家諸法度が改訂されたのは、赤穂事件の影響があるのかもしれませんね。(考えて見ましょう。検定教科書も、答えを出さずに、自分で考えるように推奨しています。)\n\n新井白石(あらい はくせき)は、綱吉のあとの、6代将軍の家宣(いえのぶ)に使え、7代将軍の家継(いえつぐ)に仕えた儒学者である。\n新井白石は、綱吉のときに質の低下した金貨・銀貨の質をもとの質にもどした。また、貿易で金銀が外国に流出していたので、長崎貿易に制限を掛け、金銀の海外流出をおさえた。この白石の政治(せいじ)を、正徳の治(しょうとく の ち)という\n綱吉の生類あわれみの令は、白石によって廃止(はいし)されます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A"} {"text": "8代将軍の徳川吉宗(とくがわ よしむね)のころになっても、幕府の財政は、よくありません。吉宗の理想は家康のころの政治で、吉宗は質素倹約(しっそけんやく)をすすめました。\n吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほう の かいかく)と言います。\n吉宗自身も倹約につとめました。\n財政の悪い理由は、収入が少なく、支出が多いわけです。だったら、財政(ざいせい)改革では、何らかの方法で収入をふやして、支出をへらせばいいわけです。\n質素倹約には、支出をへらす狙い(ねらい)も、あります。倹約令の対象者は、武士が中心です。(武士の給料は幕府から出ていたので、幕府の支出を減らすには、武士に倹約をしてもらう必要があります。)\nでは、収入を増やすには、どうすればよいでしょうか。米の収穫量の石高(こくだか)をふやせばいいわけです。年貢の米が、収入のもとなのだから、だったら米の石高を増やせばいいので、吉宗は新田(しんでん)の開発をすすめました。\n年貢も、ふやしました。\n商品作物の開発も、すすめて、菜種・さつまいも、さとうきび、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)、・・・などの開発をさせました。\n飢饉(ききん)にそなえ、さつまいもの栽培の研究を、青木昆陽(あおきこんよう)に命じます。\n江戸に目安箱(めやすばこ)を作って、庶民や町民でも、アイデアを書いて投書(とうしょ)で幕府に意見をとどける仕組みが出来た。目安箱からの意見により、江戸に無料の病院の小石川養生所(こいしかわ ようじょうじょ)が出来た。\n江戸の消防(しょうぼう)である町火消し(まちひけし)の制度を、目安箱の意見も参考にして、整備していった。\nキリスト教をのぞく、産業や医学や天文学(てんもんがく)などの実学(じつがく)の洋書(ようしょ)の輸入を許可します。当時の輸入された洋書は、ヨーロッパの洋書が中国語に訳された漢訳洋書(かんやくようしょ)です。\nまた、オランダ語を青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)たちに学ばせました。\n大名の参勤交代をゆるくするかわりに、大名は石高1万石につき100石の割合で米をさしだす上米の制(あげまいのせい)が作られました。上米の制により、参勤交代での江戸の滞在期間は半年になった。それまでは1年の江戸滞在だった。\n公正な政治や裁判をおこなうため、これまでの法令を整理した公事方御定書(くじがた おさだめがき)を出して、政治や裁判の基準を定めた。\nこのような,吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほうのかいかく)と言います。\n(以下略)\n改革により一時的に財政が立ち直ったが、農民にとっては年貢がきびしくなったこともあり、さらに飢饉(ききん)や凶作(きょうさく)も重なって、百姓一揆(ひゃくしょう いっき) や 打ちこわし(うちこわし) が起こった。\n吉宗の改革で、年貢の率を、豊作・凶作にかかわらず一定の率にする定免法(じょうめんほう)で、米の値段を安定させようとしていたので、不作のときは農民が苦しくなりました。\n米の値段(ねだん)の調整(ちょうせい)につとめた吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)と人々から呼ばれたり、「米公方」(こめくぼう)と人々から呼ばれたりしました。\n吉宗は、青木昆陽(あおき こんよう)にオランダ語の学習を命じて、蘭学者にしました。この青木昆陽が、日本でのサツマイモの栽培方法を研究し、(青木の助言もあってか)吉宗たちは飢饉(ききん)にそなえる食品としてサツマイモを日本で普及させました。(※ 東京書籍、帝国書院、教育出版、清水書院、日本文教出版などの教科書で紹介。)\n10代将軍の家治(いえはる)のころ、幕府の財政が、また悪化していきます。\n8代吉宗の改革で年貢は増えたのですが、そのあと、米の値段そのものが下落していったのです。こうして、10代将軍のころ、また財政が悪化したのです。\n老中の田沼意次(たぬま おきつぐ)は、農産物を中心とした年貢(ねんぐ)だけでは限界があると考え、商業を重んじた政策を取ります。\n商工業者に事業独占の株仲間(かぶなかま)の結成を積極的に認めるかわりに、株仲間から税(ぜい)を取り、収入をふやしました。\n田沼は、長崎貿易もすすめ、日本からの輸出品(ゆしゅつひん)には海産物(かいさんぶつ)や銅(どう)を輸出(ゆしゅつ)することで、日本に金銀を流入させようとします。また、銅山の開発も行いました。\n輸出品には銅のほかにも、海産物が俵物(たわらもの)として輸出された。\n田沼の政治は、貨幣経済の進む世の中でも安定的に税収をとる工夫をしている、という財政的には合理的な政策であったが、幕府の役人のあいだに賄賂(わいろ)が横行するようになったりして、批判(ひはん)もあった。\nまた、天明のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におこり、百姓一揆や打ちこわしがおこり、田沼の政治は行きづまり、田沼は失脚(しっきゃく)して老中をやめさせられた。その原因は、東北地方での冷害が原因だと言われています。また、同じ時期に浅間山の噴火も発生しています。\n(※ 発展:) 田沼のこういった経済政策の効果があったのか、江戸の文化はこのころ発展して、日本の文化の中心も、それまでの大阪(上方(かみがた))を中心としていた文化だったのが、しだいに江戸を文化の中心とする文化になっていった。(※ ソースは某教科書会社の副教材ワークシート。)あるいは、文化の発展にあわせて、経済政策を田沼が改革したのか。 田沼の活躍した時代の(大阪ではなく)江戸中心とした文化はおおむね、「化政文化」(かせいぶんか)と言われる時代に含まれる。\n(かんせいの かいかく)\n天明のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におきた。天明のききんのつづくなか、老中だった田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として松平定信(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になる。\n定信は奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主で、天明のききんのときに、素早い対策を取り、すばやく商人から米や食料を買いあげて、農民に食料をくばるという方法で、領内で飢饉(ききん)による死者を一人も出さなかったと言われる。\nこの功績が評価され、定信は老中になった。\nこのとき、将軍は徳川家斉(とくがわ いえなり)。\n定信は、さまざまな改革をおこなう。松平定信の行った改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。\n飢饉(ききん)により、まず、食料生産をふやさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす(ふやす)政策を取る。\n江戸に出稼ぎで来ていた農民を農村にかえらせるため帰農令(きのうれい)を出し、農民を農業に専念させます。また、商品作物の制限をし、なるべく米をつくらせます。\n凶作でも飢饉(ききん)にならないように、米を蔵(くら)に蓄え(たくわえ)させるという囲い米(かこいまい)の制度を作ります。\nききんで米が不足しているということは年貢による収入も少ないということであり、幕府の財政も少なくなっています。なので、帰農令や囲い米には、財政を安定化させる役割もあります。\n定信は倹約をすすめました。ききんで、余計な金をつかっている余裕がないし、そもそも年貢不足による財政難(ざいせいなん)なので、ぜいたくも出来ません。\n松平定信(まつだいら さだのぶ)のこれらの改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。\n寛政の改革には、食料の増産(ぞうさん)のほかにも、以下のような政策もあります。\n職業訓練です。\nききんにより、農村が荒廃して江戸に人が流入したりして、江戸の町に浮浪者がふえたので、無宿舎を対象に職業訓練を行った。\n借金の負担がおもくなった武士をすくうための、借金帳消しの政策。つまり徳政令(とくせいれい)。当然のごとく、商人は次からは金をかさなくなるので、武士の経済問題が先送りされただけであった。\n儒学の派(は)には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。\n朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、陽明学などのほかの派の儒学は異学(いがく)とされた。\nしかし、この改革では倹約を強制し、さらに学問の統制、思想の統制などを行ったり、借金帳消しをさせたため、産業や文化が停滞(ていたい)し、人々の反発がつよまり、定信は6年ほどで失脚(しっきゃく)した。\n狂歌には、「白河(しらかわ)の 清き(きよき)に魚(さかな)の 住(す)みかねて もとの濁り(にごり)の 田沼(たぬま)こいしき」とも、うたわれました。\n「世の中に 蚊ほど うるさき ものは(わ)なし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねむれず」とも、うたわれました。\n(※ 社会科の範囲外: )よく「狂歌」と「川柳」(せんりゅう)とが間違えられる。「狂歌」は五・七・五・七・七の合計31音。「川柳」は五・七・五の合計17音。\n寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。\nロシアは、1792年に日本に貿易の通商(つうしょう)を求めるため日本に人を送り、1792年に根室(ねむろ、北海道)にロシアから使節として ラクスマン が来ました。ラクスマンは、ロシアに漂流した大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)を日本に送り返しに来るついでに、通商を求めました。\nしかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。\nさて、1804年にロシア人の外交官(がいこうかん)のレザノフが日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、通商をことわります。\n幕府は、北方の海岸の警備(けいび)に力をいれます。また、間宮林蔵(まみや りんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。\nまた、伊能忠敬(いのう ただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させた。\n1808年にはイギリスの軍艦(ぐんかん)のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質(ひとじち)にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去(たいきょ)した。これを フェートン号事件(フェートンごう じけん) と言います。\n1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出した。\n将軍・家斉(いえなり)のとき。\n全国的なききん。ききんで死者の大きい地域は東北や北陸だけでなく、関東や、大阪などの西日本をふくむ。\n大阪は、この時代の商業の中心地である。その大阪で被害が出てるのだから、すごい飢饉(ききん)なわけである。\n幕府や藩には、まずしい人を救うだけの財政的なゆとりがなかった。関東も、ききんの被害が大きく、幕府には、財政的な余裕(よゆう)がない。\n幕府が、江戸での打ち壊しをふせぐため、江戸に米をあつめるため、大阪町奉行などに米を買い占めさせた。\nこのようなことから、幕府に対して反乱が起きる。\n大阪の町奉行所の元・役人の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)が、町奉行に貧民の救済を申し出たが、町奉行に聞き入れられず、その上、大阪で買い占めた米を江戸に送っているという有様(ありさま)だった。\nついに1837年に反乱を起こしたのが、大塩平八郎だ。商人の家を大砲でおそったりした。\n乱は一日ほどで、しずめられた。\nしかし、大塩の乱が世間の人々の心に与えた影響は大きい。\nこれから、各地で、一揆や打ち壊しが、ふえてきた。\n1841年に、老中に水野忠邦(みずの ただくに)がつき、対策をとった。水野忠邦の政策を天保の改革という。手本は、松平定信の寛政の改革が、水野の手本であった。\n水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。\n物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させた。\nだが、物価の上がった本当の理由は、その時代に貨幣の質を下げられて発行されていたのが原因であり、このため、物価の引下げの効果は、ほとんどなく、株仲間の解散は失敗に終わった。\n(発展的事項、「政策の分析」、おわり。)\n天保の改革は、他にも、以下の内容がある。\n・ 農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための人返しの令(ひとがえしのれい)を出した。\n・ 江戸と大阪を幕府の領地にしようとして上地令(あげちれい)を出したが、多くの大名などに反対され失敗した。\n天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、幕府そのものも人々からの信用が下がっていった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%A8%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C"} {"text": "百姓や町民などの庶民は、「読み」(日本語の読み)、「書き」(日本語の習字)、「そろばん」(算数のこと)などを寺子屋(てらこや)で学んだ。\n当時の外国では読み書きの出来る庶民は少なく、世界各国の中でも日本は文字を読める人が多い国であった。\n徳川家康(とくがわいえやす)をはじめとして幕府は、幕府を保ちつづけるには儒学(じゅがく)などの道徳的な学問が必要だと考え武士に儒学を学ばせた。\n儒学では、平和に必要なのは忠義の大切さや子の親への忠孝の大切さなど、上下関係にもとづく忠孝や礼儀が社会の平和に必要だと考えられていた。\nこのように上下関係にもとづき平和を求めるという儒学の内容が幕府の身分差別の制度にも都合が良かったので、儒学が武士に学ぶべきとされる学問になった。\n儒学の中でも、朱子学(しゅしがく)と言われる学問は、とくに上下関係による礼節を重んじていたので幕府は朱子学こそ儒学の中でも学ぶべき学問と定めていき、朱子学が武士の学ぶべき学問とされた。\n5代将軍の綱吉のころ、幕府は武士に儒学を学ばせる学校を江戸に開き、 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ) を開いた。ほかの藩も武士の教育のため、藩校(はんこう)を開いた。\nいっぽう、ヨーロッパの政治や道徳や宗教などに関する学問は日本の社会をまどわし日本を混乱におとしいれる危険な学問であるだろう、ということが江戸幕府に考えられており、西洋の政治に関する学問の多くは禁止をされ、西洋道徳を学ぶことも禁止された。\n日本の古典や歴史を学ぶことは幕府は認めていたので、たとえば万葉集(まんようしゅう)などの古典や、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)などの歴史を学んだり研究する者もあらわれた。\nヨーロッパの医学や農学、科学技術など、キリスト教や政治道徳に関係の無い学問を学ぶことは江戸時代のなかばの18世紀はじめごろ、8代将軍・徳川吉宗の改革などにより、西洋の科学技術などの研究が認められていった。\n当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを蘭学(らんがく)と言った。 *蘭(らん)とはオランダのこと\n18世紀のおわりごろ、オランダの医学書が日本語へと訳(やく)された。翻訳書(ほんやくしょ)を出したのは、医者の杉田玄白(すぎたげんぱく)と医者の前野良沢(まえのりょうたく)の二人がかりである。\n杉田と前野の協力により、オランダ語で書かれた医学書の『ターヘル・アナトミア』(オランダ語:Ontleedkundige tafelen「オントレートクンディヘ・ターフェレン」)が日本語に訳され、翻訳版(ほんやくばん)が『解体新書』(かいたいしんしょ)として出されたのである。\nこれが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書になった。\n翻訳の当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書が無くたいへんな時間がかかった。わずか一行ほどの文章を翻訳するのにも数日かかることもあり、翻訳本の出来上がるまでには4年ほどの年月がかかった。\nまだオランダ語に対応する日本語が無い言葉もあって、「神経」(しんけい)・「軟骨」(なんこつ)・「動脈」(どうみゃく)・「盲腸」(もうちょう)・「十二指腸」(じゅうにしちょう)などの言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉である。\nついでに杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを書いた本である『蘭学事始』(らんがくことはじめ)という本を記した。\nちなみにオランダの医学書のターヘル・アナトミアそのものが、実はドイツの医学書の翻訳本である。\n19世紀には、オランダ商館の医師として長崎に来日したシーボルトが、鳴滝塾(なるたきじゅく)をひらき医学をおしえるかたわら、いろいろな蘭学を教え、多くの弟子を育てた。\nシーボルトは帰国のときに、国外持ち出しの禁じられていた地図を持ち出そうとしたため追放された。\nいっぽう江戸では、18世紀のなかごろ、植物や絵画や蘭学など色々なことに詳しい平賀源内(ひらがげんない)が発電機(はつでんき)のエレキテルを作った。エレキテルでの発電の仕組みは、摩擦(まさつ)によって発電する仕組みである。平賀源内はほかにも、寒暖計(かんだんけい)を日本で初めて作っている。\n伊能忠敬(いのう ただたか)は、日本全国の地図をつくるために細かく調べる測量(そくりょう)する旅をして、正確な日本地図である『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかい よちぜんず)を作った。\n江戸時代のなかばごろから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれた。このような学問を 国学(こくがく) という。\n賀茂真淵(かものまぶち)の弟子の本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の研究を行い、本居宣長(もとおり のりなが)は『古事記伝』(こじきでん)を記し、国学を高めた。\n宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。\n国学のそもそものきっかけは、もっと前の時代にさかのぼる。\n4代将軍の徳川家綱(いえつな)の時代の1650年代のころに水戸藩の藩主であった徳川光圀(とくがわ みつくに)は、日本史の研究を人々に勧め(すすめ)させた。その歴史研究にともなって、万葉集などの古典も研究された。\n光圀の命令により、僧の契沖(けいちゅう)が万葉集を研究し、次のようなことに気づいていった。\n学者たちの古典研究の結果、学者たちから儒教や仏教の考えにとらわれない立場で日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、のちに国学(こくがく) へと発展していく。\nつまり、国学の発展にともない、儒学にもとづいた古典研究への疑い(うたがい)が増えてきた。\n「 『万葉集』や『古事記』などの日本の古典の内容を研究するときに、外国の国の文化である儒教や仏教だけの道徳にもとづいて研究するのはおかしくないか? 」\n「そもそも儒学は中国という外国の学問じゃないか? 仏教だって、中国から伝わったインドの宗教だ。日本古来の宗教ではない。」\n「中国の古典を研究するときに、中国の儒教の立場から考えてみるのならまだ分かる。」\n「しかし、なぜ日本の研究で、しかも平民にまだ儒教や仏教が伝わってない時代の『万葉集』や『古事記』の研究で、儒教や仏教の考えにもとづいてばかりの研究しか儒学者は研究しないのか? おかしくないか?」\n「日本古来の伝統とは、儒学にもとづいてではなく、その古代の道徳を解き明かして研究するべきだろう?\n 日本の古典文化を研究するときは、儒教にとらわれない立場で日本古来の古典や文化の研究をするべきだろうと思う。」\n以上のような考えが、国学の考え方である。\n徳川光圀(とくがわ みつくに)から万葉集の研究を命じられた契沖(けいちゅう)は万葉集を研究し、『万葉代匠記』(まんようだいしょうき)を記して1690年に出来あがった。研究を命じた光圀は、のちに日本史の歴史書の『大日本史』(だいにほんし)を記した。\nもっとも、国学のきっかけである徳川光圀は儒学も信望していた。また、『万葉代匠記』を表した契沖も、仏教の僧侶である。\nこの契沖の研究をさらに発展させたのが、後の時代(吉宗のころ)の荷田春満(かだの あずままろ)であり、さらに荷田春満の弟子の賀茂真淵(かものまぶち)が研究を受け継いだ。\nさらに、のちの時代(10代将軍家治(いえはる)のころ)に、本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の解読(かいどく)と研究を行い、以上に述べたように国学をより発展させた。本居宣長は賀茂真淵(かものまぶち)の弟子である。\nじつは儒教の研究者のほうも、国学より少し前のころ、日本国内で日本人の儒学者から改革者が出てきて、彼ら改革者が言うには、\nなどの主張があった。\nそこで、だったら『論語』を直接研究しよう、という運動が起こった。これを古学(こがく)という。\nこの「古学」は儒教の研究だが、『論語』など古代中国の古典の原典にあたろうとする、伊藤仁斎(いとう じんさい)などの客観的な研究により、すぐれた研究成果をあげ、のちの「国学」にも影響を与えた。\nしかし幕府は、古学が体制の学問である朱子学を批判しているので、寛政2年(1790年)に寛政異学の禁(かんせい いがく の きん)で、朱子学以外の儒学を規制し、陽明学(ようめいがく)などの規制とともに古学も規制して、陽明学や古学を公式な場所で授業することなどを禁止した。\n(※ 範囲外?:) 火薬は、戦国時代には鉄砲の弾薬として利用されていた。しかし、江戸時代に入ってから火薬の技術は、花火(はなび)などの娯楽に活用された。(※ 帝国書院の検定教科書で紹介されている。)\n江戸時代の文化は、まず、17世紀末ごろから18世紀はじめごろにかけて、大阪や京都を中心に、新しい文化(「元禄文化」(げんろくぶんか)という)が生まれ、発展した。江戸の半ば頃から文化の中心が江戸に移っていった。元禄とは、この時代の元号が元禄(げんろく)だからだ。元禄文化は、町人を中心とした、生き生きとした活気のある文化である。\n江戸時代の後半になると、文化は江戸の町人が中心になった。これを、 化政文化(かせいぶんか) という。\n正月 と 雑煮(ぞうに)や、節分、ひな祭り と ひな人形、端午の節句 と こいのぼり、などの年中行事が庶民にも広まったのは、江戸時代のころです。それ以前は、武家など一部の人の行事でした。(なお、年中行事(ねんじゅうぎょうじ)とは、毎年 特定の日に行う行事のことです。)\nなお、江戸時代の暦(こよみ)は旧暦であり、中国の暦を手本にしており、現在とは違う暦(こよみ)なので、約1か月ほどのズレがあります。\nまた、歌舞伎などの芝居で提供されていた幕の内弁当(まくのうち べんとう)が好評で、しだいに芝居以外の場所でも弁当として普及した。(※ 日本文教出版が傍注で紹介。)\n新興宗教が登場し、天理教(てんりきょう)や黒住教(くろずみきょう)や金光教(こんこうきょう)などの新興宗教が登場した。\n菜種油を使った照明が庶民のあいだにも普及し、比較的に多くの人々が夜にも働いたり遊んだりどをできるようになった。(※ 帝国書院の教科書デジタルパンフレットに記載あり)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E5%AD%A6%E5%95%8F"} {"text": "ヨーロッパでは、16世紀の初めごろ、王権が強く、王が絶対的な権力をにぎっていた。これを絶対王政(ぜったい おうせい)という。イギリスのエリザベス一世や、フランスのルイ14世が、絶対王政の王として有名である。\n王権は、神から国王に与えられたものとされ、国民は、絶対に王にしたがわなければならない、とされた。これを王権神授説(おうけん しんじゅせつ)という。\n16世紀から17世紀のイギリスでは、国王が王権神授説(おうけん しんじゅせつ)を取っていた。\n国王は、国民に重い税金をかけた。\nこうした国王の専制に、ついに1642年に議会が反発し、内戦になった。議会派は、クロムウェルの指導の下、国王派と戦争し、内乱になり、ついに国王派の軍を倒し、クロムウェルらの議会派が勝ち、革命が起きた。かつての国王のチャールズ一世は処刑された。\nイギリスは一時的に共和制になった。\nこれをピューリタン革命という。\nしかし、その後のクロムウェルの政治に対して、独裁的だとして国民らの反発が起きる。そのため、クロムウェルの死後、王権が権力を取り戻して、王政が復活する。\n復活した王政に対しても国民らの反発がおき、議会を尊重しない国王(ジェームズ2世)に対して、1688年に議会はジェームズ2世を国外にしりぞけ、かわりにオランダから新しい国王(ウィリアム3世)をイギリス議会は招いた。\nこのイギリス議会による国王追放の事件を、名誉革命(めいよ かくめい)という。議会政治による革命なので、血を流さざるを得ない従来の革命に比べて「名誉的」という考えである。\nオランダから来た新しい国王(ウィリアム3世)は議会を尊重した。そして、新国王とイギリス議会のあいだで、政治に関する取り決めの約束が行われた。このイギリスでの国王と議会の取り決めを 権利章典(けんり しょうてん) という。(あるいは「権利の章典」とも。)\n権利章典(要約)\n国王は議会の承認がなければ、税金を掛けることもできず、また議会の承認なしでは法律を国王は作れないようになった。\nこうして、国王は議会にしたがうようになり、政治の中心は議会に移り、国王と言えども、議会の定めた法律にしたがう立憲君主制(りっけん くんしゅせい)がイギリスで始まった。\nこれらの革命後、イギリスでは、さまざまな改革が進みイギリスは発展していき、18世紀ごろからイギリスはヨーロッパの強国になっていく。\nイギリスでの名誉革命のころから、新しい合理的な思想が出てきて、これらの思想が名誉革命以降のアメリカやフランスなどでの革命などに影響を与えた。\nイギリスのロックは、人間は生まれながらにして自由と平等の権利を持っているとして、専制的な王に対して民衆が抵抗する権利を持つことを説き、名誉革命を支持した。(抵抗権)\nフランスのモンテスキューは『法の精神』により、司法・立法・行政の三権による三権分立(さんけん ぶんりつ)を説いた。なお、司法とは裁判をすることである。立法とは法律を作る事である。\nフランスのルソーは『社会契約論』(しゃかい けいやくろん)を書き、人民主権の考えを説いた。(人民主権)\n同じころ、物理学などの科学も発達した。\nこれら、新しい知識や思想を説明するため、百科事典なども作られた。\nこれらの新しい合理的な思想を啓蒙思想(けいもう しそう)という。\nイギリス本国では名誉派革が起きても、イギリスは植民地には独立などを認めなかった。北アメリカでは最初はイギリスとフランスとが植民地を広げて争っていたが、フランスは北アメリカから撤退した。18世紀の半ばには、北アメリカの大半はイギリスの植民地になっており、その数は13州にわたった。\n北アメリカではイギリスから、一方的な課税をされた。アメリカは、国会議員のような代表者をイギリス本国の議会には送らせてもらえなかった。イギリスは、海外の植民地をめぐってフランスと対立し戦争をくりかえしており、その税負担がアメリカに重くのしかかった。\nこれらのイギリスの支配に反発し、北アメリカで現地の白人らによる独立戦争が起きた。アメリカはイギリスから1775年に独立し、アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく) となった。1776年にアメリカは独立宣言(どくりつ せんげん)を発表した。\n独立宣言(抜粋、要約)\n1787年には文章で書かれた憲法も定められた。なお文章で書かれた憲法のことを成文憲法(せいぶん けんぽう)という。アメリカの憲法が、世界最初の成文憲法である。独立戦争を指揮していたワシントンが、アメリカ合衆国の初代大統領になった。アメリカ合衆国の憲法では、国民主権(ただし白人のみ)および三権分立(立法・行政・司法)がさだめられ、連邦制の共和国家になった。独立後のアメリカでは、貴族などの制度は、認められなかった。\nこうしてアメリカ合衆国は民主主義の国になった。しかし、基本的人権は白人にのみ限られ、黒人や先住民(いわゆる「インディアン」)らは差別されており、奴隷制度も南部を中心にあって、黒人などは奴隷のままであった。\nイギリスやアメリカで革命がおきてもなお、18世紀のフランスでは絶対王政がつづいていた。かつて17世紀の「太陽王」ともいわれたルイ14世のころには、ベルサイユ宮殿などのような豪華な宮殿が作られた。その後の18世紀も同様に、絶対王政がつづいていた。\nまた、フランスは、領土や植民地をめぐっての戦争をイギリスなどと行ってもいたので、このような支出の多い財政から財政は悪化し、結果他国と比べても税金が重かった。\nイギリスで革命が起きた後は、フランスなど周辺国でも、各国の議会が、それぞれの国の国王に改革などを求めたが、フランスの場合、あまりフランスの国王は積極的でなかった。\nフランスでは、貴族と聖職者が権力をにぎっており、国民の大多数を占める農民や市民などは低く扱われていた。フランスでは、身分は主に3つに大きく分かれていた。第一身分に聖職者、第二身分に貴族、第三身分は市民や農民である。聖職者と貴族の階級が特権階級であった。この身分制度などの、フランスの旧制度を アンシャン・レジーム(仏: Ancien régime)という。3つの身分の代表者による議会である三部会(さんぶかい)も、たびたび開かれていたが、第三身分の改革を求める意見が他の身分と対立していた。平民たち第三身分は、あらたに国民議会(こくみん ぎかい)をつくり、対抗した。この国民議会の動きを、国王が武力でおさえようとした事に対する、平民たちの反発がきっかけとなり、後の革命の動きに、つながっていく。\n1789年にパリなどの都市で平民や農民、一部の貴族などが反乱を起こした。反乱軍により、政治犯などが収容されていたバスティーユ牢獄(バスティーユろうごく)が襲撃された。バスティーユ牢獄は絶対王政の象徴(しょうちょう)と見られており、政治犯などが捕らえられていると考えられていた。\nもっとも、実際のバスティーユ牢獄には当日の囚人は7名しかおらず、ほとんど空の状態であった。その解放された囚人7人には、政治犯はいなかった。7人のうち、4人は文書偽造犯であり、2人は狂人であり、1人は素行の悪い貴族であった。\n襲撃後も反乱は続き、ついに国王側の軍を倒し、フランス革命になった。\n革命派の議会が人権宣言(じんけん せんげん)を出し、政治の主権は国民たちにあることが定められた。\nフランスでは王政(おうせい)は廃止され、共和制(きょうわせい)になった。\n地方でも、農民たちが反乱を起こし、こうしてフランス全土に革命がいきわった。国王だったルイ16世は処刑され、国王の妻のマリー=アントワネットも処刑された。\nこれら一連のフランスの革命をフランス革命という。\nフランスの人権宣言(抜粋、要約)\n自由・平等・人民主権や、私有財産の不可侵などが、人権宣言で、うたわれた。\n周辺の王政の国は、フランスから革命が波及するのを警戒し、そのためフランスとの戦争になった。\nこうした時代の中、フランスでは軍人のナポレオンがクーデターを1799年に起こし、ナポレオンが一時的に権力をにぎった。直後にナポレオンは臨時政府を作り、国民投票により信任された。1804年にナポレオンは国民投票によって皇帝の地位についた。\nナポレオンの政権では、個人の自由や平等などの理念にもとづく法律を作り、また、さまざまな改革が行われた。ナポレオン法典(ナポレオンほうてん)により、経済活動の自由 や 私有財産の不可侵 などが定められた。\nフランスは、かつての絶対王政から一転して、革命された国家になった。\nフランス国民は、自由と平等の理念のもと、一致団結し、フランス国民としての自覚が出来上がっていった。教育制度も整えられ、義務教育や大学などの教育制度がフランス国内に整えられた。\n革命後のフランスは、しだいに国力をつよめ、ついには周辺国へ攻め込んで侵略した。そして、一時期、フランスは、イギリスとロシアをのぞく、ヨーロッパの大部分を支配した。しかし、ロシアとの戦争でフランス軍がモスクワを攻め落とすも(ロシア遠征)、フランス軍は最終的に大敗し、それからナポレオンの権力はおとろえた。\nこのフランスとロシアの戦争のときのロシア軍の戦略は、フランスに占領される前に自国ロシアの町を焼き払ってしまう 焦土作戦(しょうど さくせん) であった。そして、ロシアは、わざと退却してフランス軍をロシア領の奥深くに引きずり込んだ。ロシアの戦略は、このような戦術により、フランス軍の食料の補給(ほきゅう)を断つという戦略であった。フランス軍がロシア各地を占領したとき、占領先の町は焼失させられていた。フランス軍は占領先のロシアでの住居も食料も失ってしまう。そして冬が近づき、ひとまずフランスへと撤退しようとするフランス軍に対し、ロシア軍が攻撃をして、フランス軍は敵地ロシアでの寒さと食糧不足のために死にゆくフランス兵が続出した。\nこうして、フランスはロシア遠征で大敗をした。\nその後、フランスは諸国に攻め込まれ、ナポレオンは捕らえられ、1815年にナポレオンはエルバ島に流された。\nフランスに支配された国や、フランスと敵対した国でも、フランスの改革は見習われ、ヨーロッパのそれぞれの国でも改革が進んでいった。\nナポレオンの失脚後、1814年にオーストリアの首相メッテルニヒによる諸国への呼びかけでウィーンで開かれた会議により、ヨーロッパは、革命前のような状態にもどされた。この旧体制による反動を ウィーン体制(ウィーンたいせい) という。\nフランスでは、しばらく王政がつづくが、1830年7月にふたたび革命が起き(七月革命)、つづけて、いくつかの革命を経て(二月革命など)、フランスは共和制になっていく。\nフランス革命などのように、市民や平民などが政治参加を求めて起こす革命のことを市民革命(しみん かくめい)という。\nではなぜ、そもそもナポレオンがロシア遠征をしたのか。その理由は、ナポレオンはロシア遠征以前にはイギリスと戦争していたので、欧州諸国にイギリスとの通商を禁止させる大陸封鎖令(たいりく ふうされい)を出したのだが、ロシアが封鎖令に従わなかったためである。ロシアは穀物などをイギリスに輸出した。\nなので、フランスに従わないロシアを懲らしめるために、ナポレオン率いるフランス軍はロシアに遠征し、その結果が返り討ちにあった、ということである。\nでは、なぜイギリスとフランスは戦争をしていたのか? その解説は、中学教科書の範囲外であろう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%A8%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E8%AB%B8%E5%9B%BD"} {"text": "17世紀でのヨーロッパの工業は主に手工業だった。\nしかし18世紀の後半ごろから、イギリスでは蒸気機関(じょうき きかん)を動力とする機械が、さかんに工業に使われ始めた。蒸気機関とは、石炭で湯をわかし、発生した蒸気の圧力で、物を動かしたりする装置である。\nワットなどの発明家・技術者が蒸気機関を改良していった。\nイギリスでの蒸気機関の実用化により、イギリスの工業生産力が飛躍的に高まった。イギリスでは、製鉄業、機械工業、造船業などが、さかんになった。このような蒸気機関の実用化などによる、工業の機械化と工業力の飛躍的な進展のことを、産業革命(さんぎょう かくめい)と言う。\nさらに汽車がスチーブンソンにより発明され、鉄道により、イギリスの交通が発達した。\nイギリスの各地にはマンチェスターのような工業都市が各地にできていった。\nイギリスは、安価な工業製品を輸出した。19世紀のイギリスは「世界の工場」と呼ばれた。\nイギリスは、インドから綿織物(めんおりもの)を輸入していたが、イギリスで産業革命が進み、イギリス国内では紡績機械で綿織物を安く大量生産できるようになって、イギリスから世界に綿織物が輸出された。\n19世紀にはイギリスの周辺のフランス・ドイツなどのヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国でも、イギリスに対抗するため、産業革命が進められた。\n工業用地や農地などの土地や設備などの資本(しほん)によって、生産量が大きく変わるので、それらの資本を有する地主や企業経営者などの資本家による、利益を求めての投資活動が、さらに経済を発展させるという資本主義(しほんしゅぎ)の考え方が出てきた。\n\n産業革命による機械化により、多くの職業では熟練工がいらなくなったので、賃金の安い子供や女性も労働力として用いられるようになった。機械設備を購入するには多額の費用が必要なので、工場や土地を持つ資本家と、それらを持たない一般の労働者の経済格差が広がった。\n労働者の地位は低く、たとえば工場や炭鉱などで働かされた子供は、低賃金で1日15時間以上もの長時間労働をさせられることもあった。長時間労働させられる子供は、学校などには通わせてもらえない。\n失業した労働者が、仕事を求めて都市などの工場などで働いたため、都市は過密になっていった。また、石炭の煙などにより、大気汚染などの環境汚染も進んでいった。\n産業革命後のイギリスでは、貧富の格差は広がっていった。イギリスをまねて産業革命をすすめた他の国でも同様に、貧富の格差は広がっていった。\nヨーロッパの貧しい者たちの中には、アメリカ大陸に希望をもとめて移住する者たちも出てきた。\n資本主義が貧富の格差の原因と考えられたので、資本主義の考えの見直しの運動が起こっていった。\n労働者どうしで組合(くみあい)をつくり、労働組合(ろうどう くみあい)を結成して、資本化との賃金の交渉や労働時間の交渉などで資本家に対抗していこうという考えが起こった。あるいは土地や機械設備などの生産手段を公有化していこうとする改革を起こそうという考えが起きていった。\n工業文明での貧富の格差の拡大などが、資本主義の矛盾(むじゅん)だと考えられた。\n労働組合の拡充や、生産設備の共有化を求める改革運動などを通して、平等な社会を築こうとする考えは、社会主義(しゃかい しゅぎ)といわれた。\nこのような社会主義的な運動によって、平等な社会が実現できるだろうと、当時のヨーロッパでは考えられていた。\nドイツでは、マルクスが社会主義の思想をとなえた。\nマルクスの分析は、支持者から科学的な分析だと考えられた。\n資本家の側からも、労働者のきびしい状況を知り、労働環境の改善につとめる人物も出てきて、オーウェンなどの人物がいる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%A8%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E8%AB%B8%E5%9B%BD"} {"text": "アメリカ合衆国は産業で大きく2つに分けられ、北部で工業が発展した。南部では農業が主な産業だった。\nアメリカでは、経済政策、奴隷制をめぐって南北が対立していた。南部が奴隷制の維持および自由貿易を主張していた一方、北部は保護貿易や奴隷解放を主張していた。1860年に奴隷解放を主張するリンカーンが大統領に当選した事から、1861年に南北戦争(なんぼく せんそう)が起きた。\n1863年にリンカーンは奴隷解放宣言(どれい かいほうせんげん)を出した。\n戦争は、北部が勝利した。黒人にも選挙権が与えられた。しかしながら、黒人などへの差別は、その後も続いた。\nその後、西部の開拓が進んでいった結果、元々住んでいた先住民(インディアン)などは追い出され、移住させられた。\n1869年には大陸横断鉄道(たいりく おうだん てつどう)が出来て、大西洋岸と太平洋岸が鉄道で結ばれた。\nこのころ、西部の開拓地のことは、「フロンティア」と呼ばれた。\nこのころ、カリフォルニアで金脈が発見され、ゴールドラッシュがあった。\n※ 検定教科書ではコラムとして、\nが扱われている。(帝国書院)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89"} {"text": "19世紀に入り、産業革命やフランス革命がおこると、欧米では近代国家(国民国家・近代国民国家)の建設が進みました。\n近代国家とは、国に住む文化や価値を共有している人々を、自由や平等といった考えの下で「国民」として一つにまとめる国家のことです。\n近代国家では、国民から兵士を集め(徴兵制)、「国民軍」が作られました。\nこのページでは、そんな近代国家の建設を進めた国々を紹介します。\nドイツは19世紀の半ばまで、数十か国の国々に分かれていました。その中で特に大きな影響力を持っていたのが、プロイセン王国です。プロイセンは、首相であったビスマルクのもとでドイツの統一を進めました。下記の文は、そんなビスマルクが議会で行った演説の一部です。\n鉄は武器を、血は兵器を表します。ビスマルクはドイツの武力による統一を目指し、プロイセンの軍事力を強化させていきました。(このことを、鉄血政策という) \n1871年、ドイツ統一に反対したフランスとの戦争(普仏戦争)に勝利したプロイセンは、ドイツ統一を達成。プロイセン国王ヴィルヘルム一世を皇帝として、「ドイツ帝国」を成立させました。\n※プロイセン王国自体は、ドイツ帝国を構成する国として存続しました。\nドイツ帝国では、新しい憲法(ビスマルク憲法)や帝国議会を整備し、近代国家の建設を進めました。\nそんなドイツの宰相となったビスマルクは政治の実権を握り、重工業を中心に工業や軍事力を強化。イギリスと肩を並べる大国へと成長しました。力を蓄えたドイツは、のちに世界進出を目指すようになります。\nちなみに、ドイツ帝国の憲法は大日本帝国憲法の手本とされたりもしました。(日本の立憲政治のはじまりも参照のこと。)\n※この項目は中学校の範囲外です。\n普仏戦争の際、ドイツはフランスの領土であるアルザス・ロレーヌ地方を自国の領土としました。フランスがこの地方の奪還のため戦争を仕掛けることがないよう、ビスマルクはフランスを国際社会から孤立させるように外交関係を築きました。\nこれを、「ビスマルク外交」といいます。\n<ドイツの外交関係>\n1890年にビスマルクが失脚すると、フランスはロシアとの同盟などを通して孤立状態を脱していきます。\nイタリアは、ドイツと同様に19世紀半ばまで小国に分裂しており、フランスやオーストリアなどの大国に翻弄されてきました。\nそのような状況の中、イタリアを統一しようと行動に出たのが、サルデーニャ王国です。サルデーニャ王国は統一に反対するオーストリアなどとの戦争を通し、1861年に「イタリア王国」を成立させます。イタリア王国は、1870年までにヴェネツィアや教皇領(ローマ)などを併合し、イタリアのほとんどを統一しました。\nしかし、イタリアには統一の際に回収できなかった地域がオーストリア領に残っていました。この地域のことを「未回収のイタリア」と呼びます。北イタリアの南チロル地方や、現在のクロアチアの一部であるトリエステがそれにあたります。この地域をイタリア領とすることは、イタリア王国の悲願でした。このことがその後の争いの火種となっていきます。\n19世紀、皇帝の専制(独裁)政治であったロシア帝国には、不凍港(冬に凍らない港)がありませんでした。そのため、冬でも港が凍らない、地中海や黒海へ領土を広げようと画策していました。しかし、そのためにはロシアの南にあるオスマン帝国を打ち倒さなければなりません。そこで、ロシアはオスマン帝国に対してクリミア戦争を起こしました。このような、ロシア帝国の南への拡大を目指す政策のことを「南下政策」といいます。\nしかし、クリミア戦争はロシアを警戒した英仏にさまたげられ敗北。地中海・黒海方面への進出は失敗に終わりました。こうして、ロシアは近代化・工業化の遅れを実感するようになりました。\n近代化の遅れを感じたロシアは、近代化へ向けた改革を進めるようになります。\n※行われた改革の内容は、覚えなくても良い。\nしかし、改革の効果はそこまで発揮されず、憲法や議会は整備されないままでした。このような状況で、ロシアでは徐々に社会主義が台頭していきます。\n欧州方面での南下に失敗したロシアは、次にアジアでの南下を目指しました。\nロシアは、中央アジアの「トルキスタン」と呼ばれる地域の国々を征服。\nペルシャ(現在のイラン)にも攻撃をしかけ、領土の拡大・不平等条約の締結などを行いました。\n※帝国主義の世界も参照のこと。\n1860年までに、ロシアは清との間にも条約を締結。清の領土であった沿海州などをロシア領としました。\nロシアはさらなる東アジアでの拡大を狙い、同じく東アジアでの拡大を狙う日本やイギリスと対立していくことになります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E3%81%AE%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%BB%BA%E8%A8%AD"} {"text": "日本が鎖国していたころ、ヨーロッパでは産業革命などにより科学技術が大きく発達したため、ヨーロッパの兵器の技術も発達していった。\n19世紀のころ、産業の近代化などで国力をつけていたヨーロッパ諸国は、アジアとの貿易のしかたを変えるようになった。結論から言うと、ヨーロッパによるアジアへの侵略が始まっていった。\nもっと、くわしく説明すると、つぎのような説明になる。\n日本では戦国時代ごろだった16世紀ごろは、ヨーロッパは、貿易相手のアジアの国とは、あまり戦いをしなかった。だが、そのあと、ヨーロッパの近代化でヨーロッパの国力が強まったことで、ヨーロッパはアジアに対しても侵略的になっていく。\n(アフリカや南米では、ヨーロッパは、すでに侵略的だった。)\nたとえば、直接、アジアと戦争をして領土を獲得して、領地で現地のアジア人を安い値段で働かせ農産物などを生産して、本国のヨーロッパに産物を輸出するようになった。\nまた、ヨーロッパの武力を背景に、戦争で負かしたアジア諸国の国政に干渉するようになった。\n1800年代のはじめごろ、イギリスはインドに進出していました。イギリスの支配は、だんだんと強まっていきます。イギリスに対する大きな反乱が1857年に起きました。インド大反乱です。シパーヒーが反乱を起こしたので、シパーヒーの乱(あるいは「セポイの乱」)とも言います。\nですが、イギリスは反乱を武力で平定し、そのあと、イギリスの支配をますます強め、インドを直接の支配下に置き、植民地にしました。\nインド大反乱より昔になるが、1830年ごろ、イギリスはインドを中継地として清(しん)と貿易をしていました(三角貿易)。清は欧米との貿易の港を広州(こうしゅう、コワンチョウ)の一港に制限して欧米と貿易をしていました。\nイギリスは、綿織物などの輸出品が、あまり清には売れず、そのいっぽうで、清からは茶(ちゃ)などを多く輸入しました。イギリスでは、紅茶を飲む習慣が広がっていました。\nイギリスの貿易は赤字になり、そのためイギリスから支払いのための銀が多く流出しました。この銀の流出をいやがったイギリスが、貿易でかせごうとして、支配していたインドで麻薬(まやく)のアヘンをつくり、アヘンを清にこっそりと輸出します。\nこのため、清には多くの麻薬中毒者(まやくちゅうどくしゃ)が出てきて、また、支払いのための銀が清から流出していきました。\n清が、アヘンの輸入を取り締まり始めます。清の役人の林則徐(りん そくじょ)が、アヘンの取締りを始めます。林則徐は、密輸されたアヘンを没収し、焼き捨てさせました。\nすると、イギリスは貿易の自由を口実にして、戦争を1840年にしかけました。これがアヘン戦争(アヘンせんそう)です。イギリスの海軍の軍艦で、清の船を破壊するなどして、清は対抗手段がなくなり、戦争はイギリスの勝利でした。\n戦争に負けた清は、不利な条約である 南京条約(ナンキンじょうやく) を1842年に結ばされ、さらに多額の賠償金(ばいしょうきん)を支払わされ、また清は香港(ホンコン)をイギリスにゆずりわたすことになってしまいました。イギリスは香港を手に入れました。\nまた、上海(シャンハイ)など5つの港を開かせました。\n清は、関税自主権(かんぜいじしゅけん)を失いました。また、清は外国人を裁判にかける権利がなくなり、イギリスなど外国の領事が裁判権を持つことになりました。外国が領事裁判権(りょうじ さいばんけん)を持つことになりました( いわゆる、治外法権(ちがいほうけん) )。 \n上海などの主な港の近くには、中国の主権がおよばない地域が作られ、外国人が母国のように自由に行動できる 租界(そかい) という居留地(きょりゅうち)が出来ました。\nまた、清はイギリスとの条約だけでなく、アメリカやフランスなどの、その他の欧米諸国とも、清が不利な不平等条約を結ばされました。\n清は多額の賠償金を払うため、国民に重い税をかけた。このことが清国民の不満を高めた。また、もともと清の王朝は満州族の王朝であり、漢民族などは満州族による支配には不満をいだいていた。\n洪秀全(こう しゅうぜん、ホンシウチュワン)を中心にする、満州族の政府である清国政府を倒そうとする反乱が1851年に起き、南京を拠点にして太平天国(たいへい てんごく)という国が、一時的に作られた。\nこの乱を、太平天国の乱(たいへいてんごく の らん)という。\n太平天国は、運動の理想として、農民たちに土地を平等に分け与えることなどをかかげて、農民たちに支持されました。\nしかし、イギリスなどの支援を受けた清国政府によって、太平天国は倒され、1864年には太平天国の拠点だった南京も占領され、洪秀全も自殺しました。\nいっぽう、そのころの日本に、アヘン戦争での清の敗戦の知らせが、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていった。\nまた、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていっているという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめた\n。\nこのあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていった。\n日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払い(いこくせん うちはらい)の方針を変えないと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%BE%B5%E7%95%A5"} {"text": "ロシアは勢力を 千島(ちしま) や 樺太(からふと) にのばしていました。\n1778年に、ロシアが蝦夷地(えぞち)の厚岸(あっけし)に来て、日本の松前藩(まつまえはん)に通商をもとめましたが、ことわられました。\n寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。\n蘭学を学んでいた林子平(はやし しへい)は、書物の『海国兵団』(かいこくへいだん)を1791年に記し、日本は海岸をまもる必要性を人々にときましたが、幕府には世間をさわがせるものだとして林子平は処罰されてしまいます。\nしかし、子平の言う通りの状況に、このあとの時代は動いていくのです。\nロシアは、1792年に日本に貿易の通商を求めるため日本に人を送り、根室(ねむろ、北海道)にロシア人の軍人の ラクスマンがきました。しかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。 \n1804年にはロシア人の外交官のレザノフが日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、ことわります。\n幕府は、北方の海岸の警備に力をいれます。また、間宮林蔵(まみやりんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。\nまた、伊能忠敬(いのうただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させました。\nそして、間宮林蔵は間宮海峡(タタール海峡)の発見<=樺太が島であることを証明>、伊能忠敬は大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)<=日本全国の地図>を作成しました。\nレザノフの1804年よりもさかのぼって、1796年にはイギリスが日本に来ていました。\n1808年にはイギリスの軍艦のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去した。これを フェートン号事件と言います。\n幕府は、1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出しました。\nいっぽう、アヘン戦争(ヨーロッパによるアジア侵略のページ参照)での清の敗戦の知らせが、日本に、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。\nまた、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていっているという情勢に気がつく者があらわれはじめてきます。\nこのあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていきました。\n日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払いの方針のままだと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給することをゆるしました(天保の薪水給与令、しんすいきゅうよれい)。\n1853年にアメリカ合衆国の4隻の軍艦が日本の浦賀(うらが、神奈川県の港)にあらわれ、軍艦をひきいたアメリカ人のペリー(Perry)が開国を日本に求め、アメリカ大統領からの国書を幕府に、わたしました。\n当時、日本に来た4隻のアメリカの船は、色が黒かったため、黒船(くろふね)と日本の人から言われました。\nアメリカの軍艦は、蒸気船と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船の煙突からは煙がもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのロシアやオランダの船の帆船とは違い、最新式の船でした。\nペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある江戸に近い関東の浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、長崎が外国との外交の窓口でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接に交渉をしようとする態度をとりました。\nこのようなアメリカの船とペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。とりあえずペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、一年後にもう一度、日本に来てもらうように頼みました。\n幕府は、事態を重く考え、朝廷にも報告をして、諸国の大名にも相談をしました。相談のあいては、外様大名もふくみます。\nこれがのちに大きな意味を持つこととなります。\nいっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、燃料や水の補給を日本でおこなうために立ち寄りたいという理由が、主な目的でした。当時のアメリカは、中国大陸の清と貿易をおこなっていたり、太平洋で捕鯨(読み:「ほげい」・・・、意味:「クジラとり」のこと)を行っていたので、日本で補給が出来ると都合が良かったのです。\nそして1年後の1854年に、ペリーがふたたび日本に来ました。1854年の交渉では、もはや幕府はアメリカの開国要求をことわりきれず、ついに日本は開国をします。\n日本とアメリカとの間で条約がむすばれ、日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)が結ばれました。\nこの日米和親条約により、下田(しもだ、静岡県にある)と函館(はこだて、北海道)が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。\n(※ 参考:) 1855年に日露和親条約が結ばれ、択捉島より南の北方領土を日本領に、得撫島より北の千島列島をロシア領としました。\nアメリカの総領事(そうりょうじ)のハリス(Harris)は、幕府に対して、日本とアメリカとの貿易を求めました。ハリスの説得は、イギリスなどの戦争をためらわない国から、不利な開国の要求をおしつけら戦争をしかけられる前に、アメリカと開国の条約を結んだほうが安全である、という説得でした。\n幕府は、オランダなどからの情報で、清がイギリスでアヘン戦争に負けたという国際情勢を知っており、欧米に戦争になり日本が侵略されることを恐れたので、アメリカとの条約を1858年に幕府の大老の井伊直弼(いい なおすけ)は結びました。こうして、日米修好通商条約(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)が結ばれ、この条約によって、函館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5港が貿易港として開かれました。\n日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。\nこの、アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを治外法権(ちがい ほうけん、英語:Extraterritoriality)と言います。領事裁判権(りょうじ さいばんけん)とも言います。\nまた、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の貿易の条約を、幕府は結びました。これを、安政の五カ国条約(あんせいの ごかこくじょうやく)と言います。覚え方は、五つの国の頭文字をとって「アオイフロ」です。\n幕府の伊井直弼による条約締結は、日本を欧米の侵略から守ろうとする考えのものでしたが、当時の庶民の多くは、まだ、欧米の強大な軍事力を知らず、幕府の態度は、臆病者だと思われていました。\n井伊直助は幕府の許可を取らなかったこともあり、反対派も多くいました。\n開国に反対の主張をしていた諸藩の武士たちを、幕府は弾圧していき捕らえて処刑などの処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と言います。吉田松陰(よしだ しょういん)などの人物が処刑されました。\nちなみに、このときの元号は「安政」です。だから、安政の五カ国条約、安政の大獄というのです。\nのちの1860年、井伊直弼は江戸城の桜田門(さくらだもん)の近くを通っていたときに、「安政の大獄」による弾圧に反対をしていた浪士(ろうし)によって、暗殺されてしまいます。この、井伊直弼が死んだ暗殺事件を「桜田門外の変」(さくらだもんがいの へん)と言います。\nまた、金銀の交換比率が、日本と欧米でちがっており、日本では金銀の交換比率が1:5なのに対して、外国では1:15であった。外国人がこの比率の差を利用して、日本に多くの銀貨をもちこんで、日本の金を買って交換したので、日本から多くの金が流出した。\nその後、幕府は小判を改鋳して小さな小判をつくることで(万延小判、まんえんこばん)、交換比率を国際的な比率に近づけさせて、金の流出をふせいだが、小判の価値が低下したため物価の上昇が起きた。\nこのような品不足や物価の上昇などにより、庶民のくらしは苦しくなっていきました。そのため 一揆(いっき) や 打ち壊し が起きました。\n庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきます。\n世間から、外国を打ちはらおうとする考えが出てき始めます。このような、外国を打払いしようという考えを攘夷(じょうい)と言い、攘夷の主張を攘夷論(じょういろん)と言います。\n攘夷論にくわわり、世間では、国学などの影響(えいきょう)もあって、朝廷や天皇を盛り上げて、敬おう(うやまおう)という、尊王論(そんのうろん)が出てきます。\n尊王論と攘夷論が加わり、尊王攘夷論(そんのうじょういろん)という、組み合わせた考えが出てきました。(のちに、尊王攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への批判にかわり、やがて幕府を倒そうという運動へと変わっていきます。)\n薩摩藩と長州藩は攘夷の実力行使に出ましたが、外国に負けました。\n・薩英戦争(さつえい せんそう)\n戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。\n・長州藩の下関戦争(しものせきせんそう)\n長州藩の高杉晋作(たかすぎ しんさく)や木戸孝允(きど たかよし)らは、攘夷論のマチガイに気づき、かわりに長州藩の改革を進めていきます。下級武士であった高杉晋作(たかすぎ しんさく)や木戸孝允(きど たかよし)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていきます。\nこのようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊王攘夷運動はマチガイだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を倒す必要があるという考えが高まりました。\n薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。\nしかし、1866年に、土佐藩(とさはん、高知県)の浪人坂本龍馬(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同盟である薩長同盟(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。\n幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。\nイギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。\nなお、坂本竜馬は、のちの大政奉還のあと、何者かによって暗殺された。坂本竜馬が、京都の河原町(かわらまち)にある近江屋(おうみや)に、友人の中岡慎太郎(なかおか しんたろう)といるところを、何者かによって坂本・中岡の二人ともが斬殺され殺害された。\n坂本は首を斬られて即死した。中岡は重傷を負って、二日後に死亡した。犯人は不明である(諸説あり)。\n土佐藩の下級武士の生まれで、剣術をまなぶため江戸に出たたときに海外情勢に関心をもつようになり、さまざまな知識人と会う内に、勝海舟(かつ かいしゅう)と知り合う。そして、海軍や海上貿易などの必要性をさとる。その後、龍馬は「海援隊」(かいえんたい)という貿易商社をつくる。また、龍馬は薩長同盟の仲立をした。龍馬が書いた「船中八策」(せんちゅう はっさく)は、のちの明治維新の方針の参考にされた。この船中八策は、横井湘南が書いた「国是七条」(こくぜしちじょう)を参考にしたと言われている。\n船中八策の内容は(要約、現代語訳)、\nである。\nまた、高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、アヘン戦争後で薩長同盟前の1862年に藩の仕事として上海(シャンハイ)に滞在していたころ、中国人がヨーロッパ人の召使い・奴隷のような扱いを受けている様子を目撃し、危機感をもち、長州の改革の必要性を痛感した。\nこのころ、「世直し」をとなえた農民一揆が、全国各地で起きていた。また、大坂や江戸で、打ちこわしが起きた。また、1867年には「ええじゃないか」と民衆が熱狂する騒ぎが起きた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%96%8B%E5%9B%BD"} {"text": "幕府の15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、1867年10月に二条城にて政権を朝廷にかえしました。土佐の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ)などが慶喜に朝廷に政権を返すことを助言しました。\nこの出来事のことを、つまり徳川幕府が朝廷に政権を返したことを大政奉還(たいせい ほうかん)と言います。\nこうして、江戸幕府の約260年の時代は終わりました。\n倒幕派は、幕府の再興をきらったので、政治を古来の天皇中心の政治にもどそうとして、王政復古の大号令(おうせいふっこの だいごうれい)を1867年12月に出した。\n慶喜は、新政府から領地の一部を国に返すように命じらた。また、慶喜の政治への参加が認められなかった。旧幕府はこれに反発し、京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で戦い1868年に起こし、旧幕府軍と新政府軍との戦いになった。この戦いを、鳥羽・伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)と言う。この鳥羽伏見の戦いで幕府軍はやぶれた。\n新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍をやぶり、西郷隆盛ひきいる新政府軍は江戸へと進み、1868年に江戸城を戦わずにして開城(かいじょう)させた。無血開城(むけつかいじょう)という。江戸城の開城の交渉では、倒幕派の西郷隆盛(さいごう たかもり)が、幕府の勝海舟(かつ かいしゅう)とが話し合った。\n会津藩(あいづはん、今でいう福島県)は、江戸城の開城を不服とし、新政府軍とは対立した。また、東北の諸藩も、会津を支援した。江戸をおさえた新政府軍は北上し、会津藩の城を次々と落としていき平定していった。\n会津の戦いでは、16歳~17歳の会津藩士の若い少年兵からなる白虎隊(びゃっこたい)が、会津藩が戦いにやぶれ、城下に火が上がるのを見て、自決した。\n旧幕府軍は、会津の他にもいたので、新政府軍は、さらに北上し、新政府軍は1869年に北海道の函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にたてこもった幕府軍をやぶり、榎本武明(えのもと たけあき)らのひきいる旧幕府軍は負けをみとめ降伏(こうふく)した。この江戸の北上から五稜郭までの一連の戦争を戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。\n戊辰戦争が終わり、新政府軍は日本国内を平定した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%8A"} {"text": "戊辰戦争のころ、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、五箇条の御誓文(ごかじょう の ごせいもん)を、明治天皇(めいじてんのう)より出させた。\n内容は、現代風に訳すと・・・\n五箇条の御誓文(抜粋)\nこのように、あたらしい日本の政治では、なるべく日本国民みんなで政治を行おう、という政治を行う方針であることを、大名などに示した(しめした)。\n庶民に向けては五榜の掲示(ごぼうのけいじ)を出したが、内容はキリスト教を禁止したり、一揆を禁止したりと、江戸時代と変わらない内容であった。キリスト教の禁止については、外国からの反発により、1873年には解禁になった。\n五榜の掲示の原文は、長いので原文紹介は省略する。\n1868年、新政府は「江戸」(えど)の地名を「東京」(とうきょう)に改めた。年号を「明治」(めいじ)に、あらためた。1869年に、新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつった。\n年号が明治の時代を明治時代(めいじ じだい)という。\n幕末から明治時代はじめごろに行われる一連の改革を明治維新(めいじ いしん)という。\n江戸幕府が無くなったあとも、藩の領地は大名がおさめつづけていた。新政府は1869年に、大名のおさめていた藩の領地を国の領地にさせた。これを版籍奉還(はんせきほうかん)という。\n1871年には、明治政府は、藩をやめさせて、かわりに県・府をおきました。府知事(ふちじ)や県令(けんれい)には政府の任命した人間がつきました。\nこれを廃藩置県(はいはん ちけん)と言います。\n江戸時代の身分制度はなくなり、農民や町民は平民になりました。平民は、江戸時代とは違い、職業や済む場所は変われるようになりました。苗字を平民も持てるようになりました。\n武士は士族(しぞく)と変わりました。公家と大名は華族(かぞく)となりました。\nまた、えた・ひにん〈非人〉などの差別をされていた人たちも平民としてあつかう、解放令(かいほうれい)が出された。このように、身分の差が小さくなっていったことを四民平等(しみんびょうどう)という。\n武士は、江戸時代に持っていた特権を失いました。\n1871年に、不平等条約の改正の交渉のため、岩倉具視(いわくら ともみ)を大使(たいし)とした使節団が欧米に送られた。( 岩倉使節団(いわくらしせつだん) ) 使節団には木戸孝允(きどたかよし)・大久保利通(おおくぼ としみち)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)などの政府の首脳たちも、使節団として同行した。\nしかし、条約改正は出来なかった。欧米は、日本の法律が不十分なことや、日本の国力が弱いことなどを口実に、日本からの条約改正の要求には応じなかった。\nかわりに使節団は、同行した留学生らと共に、欧米の政治などの制度を視察・調査したり、文化などを見学したり、工場などを視察してから、日本に帰国した。\n政府の首脳たちが直接に欧米を視察して、日本政府は欧米の国力を知ることになった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%98%E3%81%BE%E3%82%8A"} {"text": "政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年(明治6年)に徴兵令(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。\n江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。\nただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。\n江戸時代の税は米など農産物であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度であった。\nこのため、政府は税の制度をあらため、地主に現金で税をおさめさせるようにしました。この改革を地租改正(ちそ かいせい)といい、1873年から行われました。\n土地にかかる税の金額は、土地の値段の3%と決められ、この地価の3%を土地の税である「地租」(ちそ)として地主が現金ではらう制度になりました。土地の値段を「地価」(ちか)と言います。つまり、地主のおさめる地租(ちそ)の金額は、地価(ちか)の3%の金額になりました。\nこの制度の前提として、土地を個人が所有できるように、土地の制度が、すでに改正されていました。また、農地に、何を作付けするかは、農地の所有者の自由になっていました。\nこの改正の結果、地域によっては税の負担が増えた地域もあり、一揆が起きた地域もあった。のちの1877年には地租の税率(ぜいりつ)が引き下げられ、3%から2.5%へと税率が引き下げられました。\n1872年(明治5年)に、義務教育をすべての児童に受けさせる目的のため、学制(がくせい)を公布した。学制の内容は、6才以上の男女に義務教育を受けさせるという内容であった。\nしかし、学校の建設費の負担や授業料の負担は地元の人に負わされ、負担が大きいので反発があり、また当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発があった。\nこのような理由で就学率(しゅうがくりつ)は低く、実際に学校に通ったのは、一部の子であった。\n(就学率とは、学校に通っている者の割合のこと。)\n明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%の就学率になっていった。\n義務教育の制度は、欧米を手本にした制度であり、主にフランスを手本にしている。フランスの制度が、日本にあわない部分もあったので、のちにアメリカの教育制度を取り入れた教育令(きょういくれい)を1879年に出した。\nフランスでの義務教育の始めの歴史について言えば、フランス革命が1789年に起きたことが、義務教育のきっかけであった。革命によって民主化したフランスは、周辺国の民主化していない国からは危険な国と思われており対立していた。フランスはドイツなどの周辺国と戦うために、軍を発展させる必要があり、そのためには工業の発展や、国民の教育が必要であった。\n工業を発展させるにも教育を受けた学力の高い労働者が多く必要である。また、軍隊を近代化させるにも、もしも兵士が読み書きをできないと、軍の近代化が出来ない。\nこのようにして教育を受けたフランスの軍はとても強く、また国家に対する忠誠心も高かった。周辺の国の兵士は領主や国王のための戦争をさせられていたが、いっぽうのフランス兵は自らの国を守るために戦争に行った。フランスと戦争をした周辺国のドイツなどは、勇敢(ゆうかん)なフランス軍に苦戦をした。\nフランス以外の国にも以前から教育制度はあったが、戦争でのフランスの強さを知り、周辺のヨーロッパ諸国の教育でもフランスを手本に教育を改革していった。\n明治政府の指導者たちは、このような教育の歴史を知っており、日本の近代化のため、フランスを手本にしたのであろう。\n学校の教科に関して言えば、理科が教えられるようになった。『小学人身窮理』(しょうがく じんしん きゅうり)などの教科書が使われた。(江戸時代の子供への教育は「読み・書き・そろばん」だった。)「窮理」(きゅうり)とは自然法則を学ぼう、という意味である。\nまた、算数の教育が始まり、漢数字をもちいていた和算にかわり、現在の小学校の算数でならうようなアラビア数字をもちいた洋算(ようさん)が始まった。『筆算題叢』(ひっさんだいそう)などの教科書が使われた。\n外国の歴史や地理についても教えられるようになり、ヨーロッパの歴史や地理についても教え始め、教科書として『万国地誌略』(ばんこくちしりゃく)や『万国史略』(ばんこくしりゃく)などの教科書が作られ始めた。\n図画などの美術などの教育も始まり、『小学普通画学本』(しょうがっこう つうがどくほん)が使われた。\n体育や家庭科などの教科も作られ、それらの教科書が作られた。\n政府は、産業についても近代化を図るため、関所や株仲間を廃止し、自由な経済活動を促した。そして、欧米の先進国から招いたお雇い外国人らの指導のもとで、西洋の知識や技術を取り入れ、近代産業の育成を目指した。この政策を殖産興業という。\n政府は、幕府や諸藩が持っていた造船場・鉱山などを政府のもとに移し、新たに富岡製糸場などの官営模範工場を開設した。また、博覧会を開催して、産業技術の普及に努めた。\n交通では、1872年(明治5)年、新橋・横浜間に初めて鉄道が開通し、その数年後には神戸・京都間にも開通した。政府は、港や道路を建設し、海運会社に補助金を支給するなど、交通網の整備を図った。通信では、飛脚に代わる郵便制度が、前島密の立案で1871年に始まったほか、国内各地が電信で結ばれた。こうした整備によって、人や物資の輸送、情報の伝達が便利になり、全国的な交流も活発になっていった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9"} {"text": "明治のはじめごろ、政府はちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出し、散髪脱刀令(さんぱつだっとう)を1871年に出した。:「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」などと、ちまたで言われていた。\nまた、1876年には、刀を持ち歩くのをやめさせるように廃刀令(はいとうれい)が出された。\n東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめた。牛肉や豚肉などをたべる習慣がでてきて、牛なべ などが食べられる牛肉屋や洋食屋が出てきた。江戸時代は、仏教の関係で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べるのが禁止されていた。\nいっぽう、地方の村のようすは、江戸時代と、さほど変わらない様子だった。\n中江兆民(なかえ ちょうみん)や植木枝盛(うえき えもり)などが、フランスなど欧米の人権思想を紹介し、運動に影響を与えた。\nまた、福沢諭吉の「学問のすゝめ」(がくもんのすすめ)による、自立をすすめる主張が、青年の考えに影響を与えた。\n活版印刷(かっぱん いんさつ)の普及もあり、新聞や雑誌などの出版物が広まり、これらの新しい思想もそれらの出版物をとおして普及していった。\n宗教では神道(しんとう)を重んじる政策が取られました。そのため、1868年に神仏分離令(しんぶつ ぶんりれい)が出されました。これがきっかけになって、日本全国にわたって仏教寺院や仏像などが破壊される運動がおきる混乱になりました。このように明治初期に仏教が破壊された混乱のことを「廃仏毀釈」(はいぶつ きしゃく)といいます。(「廃仏毀釈」の漢字は、教科書レベルでは覚えなくて良い。しかし常識的な歴史知識なので、出来事じたいは覚えておくように。)\nまた、キリスト教の信仰が、日本でも明治時代に合法化された。\n西洋の学問(洋学)を学習する熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れた。\n福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『学問のすすめ』で、国を発展させるには、国民の一人ひとりが自分の頭で物事の善悪などを考えられるようになる必要があることを説き、\nと、主張した。\nまた、物事をきちんと考えられるようになるためには、きちんとした内容の本などを読み、学問をするのが良いことを述べた。\n福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『学問のすすめ』を出版し、勉強をしないと、単純な仕事しかできないので地位のひくい仕事にしかつけずに貧しい生活しか出来なくなる、というふうなことを福沢は説いた。\nまず、福沢は『学問のすすめ』の出だし(でだし)の冒頭(ぼうとう)の文では、\nという文があり、\n人は生まれながらにして平等である、という内容である、アメリカ合衆国の建国(けんこく)した当時の独立宣言(どくりつせんげん)の内容を紹介した。\nそのうえで、現実の社会は、理想とはちがって不平等であることを福沢は説明した。\n冒頭文のしばらくあとには、きびしい現実を紹介した説明が続いている。現代語に訳して紹介すると、\n福沢は民主主義(みんしゅしゅぎ)を紹介し、そのゆえ、政府の能力の高さは国民の能力の高さによって決まると説き、そのため国民は学問を学んで自らの知識を高めなければならない、と説いた。\nもし、国民が馬鹿だったら、民主主義の国では政府も馬鹿になってしまう、と福沢は説き、これからの時代は、政治が悪くなっても政治家だけの無能(むのう)ではなく、国民にも学問をしなかったという無能の責任がある、と注意をした。\nそして福沢は、『学問のすすめ』や、他の本などで、実学や、算数や理科や地理学などの大切さをとなえた。\nいっぽうで古文や漢文などの文学だけを学問とみなそうとする態度の学者を、福沢は批判した。\n学問は、なるべく世の中の役に立てるべきである、というふうなことを、福沢は説いた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E9%96%8B%E5%8C%96%E3%81%A8%E6%AE%96%E7%94%A3%E8%88%88%E6%A5%AD"} {"text": "日本は開国したが、隣国の朝鮮は開国した日本を、欧米の圧力(あつりょく)に負けた格下(かくした)の国の日本とみなし、日本との国交を朝鮮は中止した。\n日本の政府の中には、アジアの近代化のためには、日本の軍事力を背景にして強引(ごういん)にでも朝鮮を開国させるべき、という征韓論(せいかんろん)という考えがあり、板垣退助(いたがき たいすけ)や江藤新平(えとう しんぺい)や西郷隆盛(さいごう たかもり)が征韓論を主張していた。\nまた西郷隆盛(さいごう たかもり)が、みずからが交渉役となって、朝鮮と平和に交渉をすることを西郷は提案していた。\n欧米の視察から帰国した大久保利通は、朝鮮の早急な開国には反対し、交渉が失敗した場合の日本の安全を考え、早急な朝鮮の開国を目指している西郷や板垣の提案に、大久保利通など政府メンバーの多くは反対した。\n大久保の考えは、対外政策をいそぐよりも、まずは国内の近代化をすすめ国力をたくわえるべき、というような考えであった。\nこのような経緯から、板垣と西郷と江藤は、政府を去った。\n伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、征韓論を支持してなかったと考えられている(東京書籍などの教科書でも、その見解)。現代の世間では、明治時代の後半に伊藤が韓国統監(とうかん)に就任したイメージから、ついつい伊藤が征韓論を支持していたかのような珍説が、ネット上などにあるが、しかしそのような言説(伊藤が征韓論を支持してた?という珍説)は事実無根の言説なので、けっして信用しないように。\n上述のように、むしろ伊藤博文・大隈重信(おおくま しげのぶ)・木戸孝允(きど たかよし)・岩倉具視(いわくら ともみ)は、大久保の主張のような内政優先の路線を支持していただろう、と考えられており、(現代日本の東京書籍などの)検定教科書も その見解である。\nまた、板垣退助について現代人は、自由民権運動などのイメージから、ついつい、現代日本の政治での「リベラル派」などの主張する外交路線の 韓国や北朝鮮との友好重視路線のイメージを かさねがち であり、てっきり、板垣退助が韓国に友好的かというイメージ(もちろん、まちがったイメージである )を いだきがち かもしれない。しかし、むしろ板垣は、征韓論を主張していた中心的人物である。\n現代人の このような勘違い(「板垣は征韓論を主張しないはずだ」的な勘違い)の原因のひとつは、おそらく「民主主義者は平和主義」であるという勘違いが原因であり、「戦争を起こすのは、民主的でない人物が政治家だからだ」という勘違いである。しかし、アヘン戦争を起こしたイギリスが議会制民主主義の国であることからもわかるように、「民主主義者は平和主義」という思想は、勘違いでしかない。\nいっぽう、西郷が政府をさったのと同じころ、士族の間では政府の対して不満が高まっていた。さまざまな改革により武士の特権が剥奪されていったからである。\n1874年ごろから九州の各地で、士族による反乱が起きた。1874年に江藤心平らが佐賀で反乱をおこしたが、政府軍によって、鎮圧(ちんあつ)された。江藤は死刑になった。\nほかにも、反乱がおき、このような不平士族たちの指導者として、西郷隆盛がかつぎだされた。西郷も、その不平士族とともに、1877年に大規模な反乱が鹿児島で起きた。この鹿児島での西郷ひきいる反乱が西南戦争(せいなんせんそう)である。\nだが、政府軍が勝ち、西郷たち反乱軍は負けた。\n西南戦争の以降、士族の反乱は、なくなった。\n1871年に日本は清国と条約を結び、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)がむすばれた。\n5年後の1876年には朝鮮との国交の条約である日朝修好条規(にっちょう しゅうこうじょうき)がむすばれた。\nこの条約によって、日本と朝鮮との貿易も始まった。日朝修好条規の内容は朝鮮にとって不利な条約であり、朝鮮にとっての不平等条約であった。\n日本の軍事力を背景に不平等な条約を朝鮮におしつけた条約であった。また、この条約で、日本は朝鮮を独立国として見なすことになった。当時の朝鮮は、清国に朝貢をしていた清の属国であったが、日本は今後は朝鮮を清の属国としてではなく、朝鮮を独立国としてみなして、朝鮮と交渉していくことになった。\nこのため、朝鮮を属国とみなしていた清国とは、しだいに日本は対立をしていった。\nこの条約の前年1875年に、日本の軍艦が朝鮮から砲撃を受けた事件である江華島事件(こうかとう じけん)があり、この事件の原因は朝鮮の近くで無断で測量を行った日本に落ち度があったが、日本はこの事件の被害をもとに交渉を有利にすすめた。\n(覚えなくてもいい。)\n日本との条約が不平等であったものの、朝鮮も改革の必要性はみとめており、朝鮮の軍の改革のため、日本からの支援を受けた。\nだが朝鮮の改革は軍事の改革にとどまり、朝鮮政府は議会など民主的な改革はしなかった。\nそれから、朝鮮の政府では、日本を手本にして朝鮮も民主的な改革をしていこうという派閥の独立党(どくりつとう)と、清との関係を維持するために改革に反対する事大党(じだいとう)とが、対立しました。\n1882年には改革に反対する守旧派の軍人らによる暴動がおきました。\n1884年には改革派の政治家である金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)によって、改革をすすめようとしない政権をうばおうとする事件の甲申事変(こうしんじへん)がおきましたが、失敗しました。清の軍隊により鎮圧され、金玉均の事変は失敗しました。\nそれまでの政権は、王妃(おうひ)である閔氏(びんし)が、政権をにぎっていたのです。\nそして、金玉均が失敗したのですから、つまり閔氏が勝ったことになります。\n当時の清の軍の兵器は、ヨーロッパから銃器などの兵器を買っており、清は軍事力の強い国だった。日本政府は清との戦争をおそれ、金玉均をあまり支援しなかったのです。\nこれらの事件が、清の軍隊により鎮圧されたことで、朝鮮での日本の影響力は弱まりました。\n甲申事変に失敗した金玉均は、日本に逃げ、福沢諭吉などから支援を受けます。\n日本では、民主化をしようとしない朝鮮や、その朝鮮を支援しようとする清に対して、民主化をしようとしない周辺国を見捨てるべきという考えが日本で広まり、新聞に書かれた論説の『脱亜論』(だつあろん)が広まった。\n金玉均は、のちに政治活動のため清の上海(シャンハイ)に出かけたときに、朝鮮政府から送られた暗殺者の洪鐘宇(ホン・ジョンウ)によってピストルで撃たれて、金玉均は暗殺された。\n金玉均の死体は、朝鮮の漢城(かんじょう)でさらしものにされ、日本人の民衆の怒りをかった。\n日本は、欧米の近代的な国際関係を模倣として、国境を定めようとしました。\n幕末の1855年にロシアと結んだ日露和親条約では、北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)が明確に日本固有の領土とされ、千島列島がロシア領とされた一方、樺太については、どちらの領土であるか明確に定められませんでした。\nそのため、明治政府は、1875年(明治8年)にロシアとの間で、樺太・千島交換条約を締結し、樺太はロシア領とする代わりに、千島列島を日本領としました。\n翌年の1876年(明治9年)、日本政府は、小笠原列島は日本領であると宣言し、国際的社会は、日本の小笠原所有を認めました。こうして小笠原諸島は、日本の領土になりました。\n1895年に、清をはじめとするどこの国の支配も及んでいないか慎重に確認した上で当時は無人島だった尖閣諸島を日本領に編入することを閣議決定しました。また、1905年には、遅くとも17世紀半ばごろには領有権を確立していた竹島を正式に日本領へ編入することを閣議決定しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82"} {"text": "1869年(明治2年)に、政府は蝦夷地(えぞち)を「北海道」(ほっかいどう)と改めた。\nまた、開拓使(かいたくし)という役所を置いた。開拓史は官営工場の運営や、鉱山の開発などを行い、また北海道の開拓のため、日本各地から移住者をつのって、北海道に移住させた。\n北海道の開発に伴い、先住民のアイヌは従来の土地を失った。また、政府はアイヌに対して同化政策を行い、アイヌの風習の多くは否定されていった。アイヌの人びとは、日本語の使用や、日本風の姓名を名乗ることを義務づけられました。\n北海道での農地の開墾・開拓のついでに防備の仕事をする屯田兵(とんでんへい)として、士族を北海道に移住させた。\n札幌農学校(さっぽろ のうがっこう、今の北海道大学)を設立し、(いわゆる「お雇い外国人」の)クラークの指導の下、北海道の農業にアメリカ式の農業を取り入れた。しかし、北海道以外では、アメリカ式の農法は、あまり取り入れられなかった。\n樺太については、\n1875年にロシアとの間で、樺太・千島交換条約(からふと・ちしま こうかんじょうやく)が結ばれ、樺太はロシア領と決定し、千島は日本領と決定した。\n1899年、政府は、アイヌの生活などを保護する名目で、「北海道旧土人保護法」(ほっかいどう きゅうどじん ほごほう)(※ 法律名)を制定した。(※ 注意: 旧来の「土人保護法」ではなく、「旧土人」(アイヌのこと)の「保護法」のこと。)\nそして政府は、農業を希望するアイヌ人に、農地を与えた(※ 参考文献: 清水書院、自由社など)。また、契約に不慣れなアイヌ人を守るために、相続以外の土地の取引を、この法律(北海道旧土人保護法)で禁止した(※ 参考文献: 東京書籍のコラムの欄外の表、自由社など)。\nまた、アイヌの人々だけが通う学校もできた。\n第二次大戦後、日本全体の社会保障や福祉政策が整備され、農地改革などにより(※ 自由社の教科書)、アイヌに対する特別な施策は行われなくなった(※ 参考文献: 東京書籍、自由社など)。\n1997年、アイヌ文化振興法が制定された。アイヌ語やアイヌ舞踊の伝統が振興されることとなった。また、アイヌ文化振興法の制定にともない、北海道旧土人保護法は廃止された。\n2008年、日本の衆参両議院で、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致(ぜんかいいっち)で採択(さいたく)された。\n\nネットなどをみると、しばしば、「明治時代、アイヌ語が禁止された」という俗説がある。\nしかし、それを裏付けるような「アイヌ語禁止令」みたいなものの存在は知られていない。\nもちろん明治時代、一般のアイヌの子供には日本語の学習は強制されました。(なお、そもそも伝統的なアイヌ語に文字が無い。「アイヌ文字」と言うのは無い。)\nむしろ、明治時代になると、和人の言語学者がアイヌ語を研究対象にし始めます。金田一京助(言語学者)などのアイヌ語研究も有名です。w:金田一京助\n現代では、一部の人権団体・公共団体みたいな組織や、書籍などを出している評論家が、「アイヌ語禁止令」とか著作内で言ってたりしますが、しかしその禁止令は歴史学的には知られていません。\nなお、歴史文書などで確認されている、同化政策によりアイヌが禁止された出来事は、\nなどです。(※ 検定落ちだが、自由社(教科書出版社)の検定不合格本が、女性の入れ墨禁止令、男性の耳輪、酋長の妾の制限、などに触れている。)自由社だ\nけでなく、日本学術会議の論文 『報告 アイヌ政策のあり方と国民的理解』、3ページ目などにも同様の、アイヌの風習の禁止令の記載がある。\n\nアイヌ語の衰退について、近年の研究によると、じつはアイヌ語が急速に衰退した時期は、大正・昭和戦前の時代から、らしいという学説もある。明治時代は、学校では教えられないものの、北海道のアイヌ社会ではアイヌ語が存続していたらしい。(※ 参考文献: ネット上のPDF論文: 『アイヌ民族の文化復興と教育に関する研究 言語復興と歴史教育におけるエンパワーメント』40ページ目。リンクすると何故かwikiがエラーになるので、非リンク。)\nどうやら結局のところ、少数民族の言語というのは、単にその言語を話す権利を与えるだけでは不十分のようである。少数民族の文化は、積極的に保護をしないと、少数民族の言語は経済的な事情などにより急速に淘汰されてしまい消失してしまいやすい、という、歴史的にたびたび見られる現象のようである。\nたとえば経済政策において、自由放任が必ずしも労働者の保護につながらないので適切な規制が必要な場合もあるように、どうやらアイヌ語も明治政府~昭和の過剰な自由放任によって、アイヌ語が衰退してしまったような側面もあるようである。\n似たような事は、少数民族といった異民族の文化だけにかぎらず、一国内の一つの民族内の少数派の文化でも、少数派の文化は経済的な事情により淘汰されてしまい衰退・消失・途絶などをしてしまう現象は、よく起きる現象である。(※ 参考 『アイヌ語の衰退と復興に関する一考察』)\n\n1871年に、清と日本国との間で、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)が結ばれ、国交が開かれた。\n琉球(りゅうきゅう)は、江戸時代には薩摩藩に事実上は支配されていた。しかし、形式的には、琉球は清にも朝貢する外交を行っていた。\nこのため、琉球や台湾の所属の問題で、日本政府は清と、たびたび対立していた。\n廃藩置県(1871年)のあと、1872年に政府は琉球藩(りゅうきゅうはん)を置いた。廃藩置県の方針に従い、1879年に琉球の藩を廃止し、沖縄県を設置した。これを琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)という。\n学校教育をすぐに導入したが、租税制度などの行政はすぐには変えなかった。\n1895年には尖閣諸島(せんかくしょとう)も日本領として編入することを閣議決定しました。\n1876年ごろ、日本政府は、小笠原列島は日本領であると宣言し、。国際的社会は、日本の小笠原所有を認めたので、日本領となりました。\n1905年、島根県の竹島(たけしま)も正式に日本領へ編入することを閣議決定しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%81%A8%E6%B2%96%E7%B8%84"} {"text": "いっぽう、征韓論にやぶれて政府を去っていた板垣退助(いたがき たいすけ)らは、西南戦争の前から、言論活動によって、政府への批判を主張した。\n1874年に、板垣は、政府に対しての求めで、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう民撰[1]議院(みんせんぎいん)を、すぐに設立するように求め、民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出しました。\n当時の日本の政治には、まだ選挙の制度が無かったので、薩摩藩や長州藩の出身者など明治維新に影響力のあった藩の出身者たちから成りたつ、少数の政治家によって政治が決まっていた藩閥政治(はんばつ せいじ)だったのです。\nこの民撰議院の設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を自由民権運動と言います。自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動だったが、しだいに農民や商工業者などにも支持をされていきます。\nなどいいう歌詞の歌が流行った。俳優の川上音二郎(かわかみ おとじろう)が歌ったことで有名になった。\nこのような、演説に節(ふし)をつけた歌のことを演歌(えんか)という。\n1880年(明治13年)に、各地の自由民権運動の代表が大阪に集まり、国会期成同盟(こっかい きせい どうめい)を作り、署名を集めて、政府に対して国会開設を要求した。\nしかし、1881年のときには、まだ、国会を開くために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がありませんでした。憲法とは、その国の法律をつくるさいの基本となる考え方を定めたり、法律をつくるときの決まりごとや、国会の決まりごとなどを定めた法律です。\n国会の決まり事をきめた法律すら出来ていないので、まだ民撰議院を開くことは出来ません。\n国会の開設の時期や憲法の方針をめぐって、政府では意見が分かれ、大隈重信と岩倉具視(いわくらともみ)の意見が対立した。岩倉は、ドイツにならった憲法を時間をかけて作ろうとした。いっぽう、大隈重信は、イギリスにならった憲法をつくるべきと主張し、ただちに国会を開くべきだと主張した。\n1881年に政府が北海道開拓使の施設を安く商社に払い下げようとしたことが、新聞で問題になった。政府は払い下げを中止した。\nそして1881年、北海道の開拓使の施設を関係者に安く払い下げようとする事件が起きると、民権派による政府への批判が強くなり、政府はこの民権派の動きに大隈が協力したとして、大隈を政府から追い出し、10年以内に国会を開くことを国民に約束しました( 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) )。(実際に、10年後の1890年に国会が開かれます。数え年での10年後なので、1881年の10年後が1890年になる。)\nこの1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる憲法(けんぽう、英語:Constitution コンスティチューション)を作りました。\nそして、板垣退助は自由党を結成し、一方、政府から追放されていた大隈重信は立憲改進党(りっけん かいしんとう)を結成した。\n政府とは別に、民間で将来の憲法の提案が色々と考えられました。これを私擬憲法といいます。有名なものに以下のものがあります。\n五日市憲法は、東京の五日市町(いつかいち ちょう)(※ 現在の あきる野市(あきるのし) )で発見された憲法案です。\n内容の一部を現代語訳すると、\nこのように、五日市憲法案には、検閲の禁止や、言論の自由もあり、いまの日本国憲法に近い内容の条文も多い。\n明治時代の日本国の憲法を、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこく けんぽう)と言います。また、この憲法のあとのころから、日本の国名は「日本」のほかに「大日本帝国」(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく)という言い方もされるようになりました。\n明治政府は、ヨーロッパの憲法を調べさせるため、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らをヨーロッパに派遣しました。伊藤らは、イギリスの法学者であるスペンサーやドイツの法律学者であるグナイストから憲法学を学び、またオーストリアの法律学者のシュタインから憲法学のほか軍事学や教育学などさまざまな学問を学びました。\nスペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えました。また、伊藤は、シュタインから憲法を学んだほか、軍事学や教育学、はたまた統計学や衛生学など、さまざまな学問を学びました。\nそして帰国後、伊藤はドイツ(プロイセン)を中心にさまざまな国の憲法を手本にして、 大日本帝国憲法を作りました。\nまた、伊藤の帰国後の1885年(明治18年)に、立憲制の開始にそなえて内閣制度がつくられ、伊藤は初代の内閣総理大臣になった。\n伊藤は、日本の憲法の天皇についての条文は、ドイツが日本と同じように皇帝をもっているので、ドイツの憲法を手本にするのが良いだろう、と考えたようです。\n大日本帝国憲法(だいにっぽんていこく けんぽう)は1889年に明治天皇から国民に発布[2](はっぷ)されます。\n大日本帝国憲法(抜粋)\n現在(21世紀)の日本と比べると、大日本帝国憲法は国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての本格的な憲法となった。当時の日本からすると、大日本帝国憲法は民主的に進歩した憲法だった。\nそして、明治の日本は憲法を持ち憲法に基づいた議会政治を行う、アジアでは初めての立憲国家(りっけんこっか)となった。\n新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。\n大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。\nつまり、日本を統治するのは、藩閥でも華族でもなく、天皇であるということである。ただし、天皇の独裁ではなく、内閣の助言をもとに天皇が政治を行うとした。また、予算や法案の成立には、議会の同意が必要だった。このように、大日本帝国憲法の成立を期に、日本は事実上の立憲君主制(りっけん くんしゅせい)となった。\n司法・立法・行政などの最終的な決定権は、天皇が持つ事になった。\n外交や軍事の、最終的な決定権は天皇がにぎる事とされた。憲法では、軍隊は天皇が統率するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。\nつまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。\n(このように軍隊を統率する権限を 統帥権と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。)\n外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。\n国民は、天皇の「臣民」(しんみん)とされた。\n国民の権利は、法律の範囲内という条件つきで、言論の自由や結社・集会の自由、心境の自由などの権利が保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利と比べると、当時の権利は国民にとって制限の多いものであった。\n国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。\nなお、右の図中にもある「枢密院」(すうみついん)とは、有力な政治家をあつめて、天皇の相談にこたえる機関である。\n憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための総選挙が行われた。つづいて国会である帝国議会(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。(第1回帝国議会)\n議会の議院(ぎいん)は衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)との2つの議院からなる二院制(にいんせい)であった。\nこの1890年のときの選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。一方の貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。\n衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(年間15円以上。)が必要で、満25才以上の男子に選挙権が限られた。実際に選挙に参加出来たのは全人口の約1.1%ほど(約45万人)に過ぎなかった。その後、普通選挙の実施を目指して、大正デモクラシーなどを通じて人々は努力していくことなる。\nまた、第一回帝国議会の衆議院総選挙での、政党ごとの議席の割合では、自由民権運動の流れをくむ政党が多くの議席を獲得しました。\n1891年、ロシアの皇太子のニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字表記: Nicholai II)が日本を訪問し、日本政府はニコライを接待していた。\n皇太子ニコライが滋賀県の大津町(現 大津市)を訪問中に、警備の仕事だったはずの日本人の巡査の一人に切りつけられるという事件が起きた。犯人は、その場で取り押さえられ、捕まった。\nこの事件で、日本の政府はロシアの報復をおそれて、裁判所に犯人を死刑にするように要求した。\nしかし、当時の最高裁判所である大審院の院長である児島惟謙は、日本の刑法の法律にもとづくと、この場合は死刑は不可能であり、無期懲役にするべきと主張とした。\n日本の新聞などの世論は、これに注目した。日本だけでなく、欧米も、この事件の判決に関心をもった。もし、裁判所が死刑の判決を出せば、裁判所は政府のいうままで、場合によっては法律も曲げることがあることを示す。それは近代国家では決してあってはならないことである。しかし、犯人を死刑にしなければロシアとの戦争になるかもしれない。または多額の賠償金や領土を要求されるかもしれなかった。\n結局、日本の裁判所は、法律にしたがって、犯人を無期懲役にすることに決まった。\n憲法発布の翌年の1890年には教育勅語(きょういく ちょくご)が出された。教育勅語では、「忠君愛国」(ちゅうくんあいこく)の道徳が示され、また、親孝行などを中心とする道徳も示された。\n憲法の交付に続いて、刑法(けいほう)・民法(みんぽう)・商法(しょうほう)などの法律も公布されていった。民法での家の制度は、父親や長男などの家長(かちょう)・戸主(こしゅ)の権限が強く、実質的には江戸時代での家の制度と、あまり変わらなかった。一夫一妻制が制度化されたことにより、女性の地位は安定したが、あいかわらず女性の地位は低かった。\n同じころ、地方制度も整備され、市制・町村制などが定められた。知事や市長を任命するのは、政府によって任命された。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%98%E3%81%BE%E3%82%8A"} {"text": "明治のはじめごろ、政府はちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出し、散髪脱刀例(さんぱつだっとう)を1871年に出した。:「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」などと、ちまたで言われていた。\nまた、1876年には、刀を持ち歩くのをやめさせるように廃刀令(はいとうれい)が出された。\n東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめ、レンガづくりの洋館(ようかん)がつくられるようになった。牛肉や豚肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきた。なお江戸時代は、仏教の関係で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べるのが禁止されていた。洋服を着る人も、でてきた。\n馬車や人力車も、でてきた。\nこのような明治初期の社会の変化のことを「文明開化」(ぶんめい かいか)という。\nいっぽう、地方の村のようすは、江戸時代と、さほど変わらない様子だった。\n飛脚に変わり、1871年に郵便制度が出来た。前島密(まえじまひそか)らによって、郵便の制度が、ととのえられた。数年後には、全国一律の料金制度ができた。\n1872年には、新橋(しんばし)・横浜(よこはま)間に、日本で最初の鉄道が開通した。\n活版印刷の技術は幕末の頃より輸入されていた。明治になって、出版活動がさかんになった。\n1870年には、日本で新聞(しんぶん)が最初に出始め、日刊(にっかん)の「横浜毎日新聞」(よこはままいにちしんぶん)が発行された。そのあと、次々とあたらしい新聞が発行されていった。\n暦(こよみ)では、江戸までの太陰暦(たいいんれき)をやめて、明治からは太陽暦(たいようれき)に切りかわった。\n1週間を7日にすることが決まり、1日が24時間と決まり、日曜日が休日と決まりました。\n江戸時代の貨幣制度は複雑であったが、1871年(明治4年)に新しい貨幣が発行された。新しい貨幣の金額の単位は「円」(えん)、「銭」(せん)、「厘」(りん)である。\n改革によって、株式会社の制度も認められた。\n1873年には日本で初めての銀行も出来て(※ 「第一国立銀行」という銀行が出来た。なお、後述する「日本銀行」ではない。)、\nまた、1882年には中央銀行として日本銀行(にほん ぎんこう)が設置された。\n渋沢栄一(しぶさわ えいいち)などの財界人が、これらの金融改革にも中心的になった。なお渋沢栄一は、富岡製糸場の建設にも協力している。\n※ 「第一国立銀行」については、中学範囲外なので、覚えなくて良い。\n幕末のころから、貿易などによって欧米人が日本にやってくるようになると、病気も日本に持ち込まれてしまい、コレラなどの病気が、日本にも入ってきた。\n明治10年には、1万4000人ほどの死者をだすほどに流行していた。\n政府は対策のため、消毒や、上下水道などの整備などをした。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%B1%95"} {"text": "欧米は産業革命などによって国力が高まり、軍事力も高まった。イギリスやフランス・アメリカなど、欧米の主要国は原材料や市場などを求めて、アジアやアフリカの侵略の競争に乗り出し、アジアやアフリカを植民地とした。\nこの時代の、植民地を獲得できるような強国のことを、「列強」(れっきょう)などと言います。\n欧米の列強どうしは、植民地の獲得の競争によって、互いに対立していった。ときには植民地の獲得をめぐって、欧米の国どうしで戦争をする場合もあった。\nこのような、列強が植民地をめぐって争う時代や運動のことを、帝国主義(ていこくしゅぎ、imperialism [1])といいます。\nまた、ヨーロッパでは多くの国で、市民革命や産業革命などに伴う(ともなう)近代国家としての確立とともに、徴兵制を導入するようになっていったりして、そして各国で国民軍が設立されていきました。(※ 帝国書院の見解です。帝国書院の令和3年用デジタルパンフレットに記載あり。)\nスエズ運河をイギリスが入手。(スエズ運河の位置は、アラビア半島とアフリカの付け根。)\nイギリスはビルマ(現在のミャンマー)を支配した。\nアメリカはハワイを併合した。ハワイは、もともとは「ハワイ王国」という独立国だったが、白人によるクーデターによって、ハワイ王国を侵略して併合した。\nまた、アメリカは東アジアではフィリピンをめぐるスペインとの戦争の米西戦争(べいせいせんそう)に1898年に勝ち、アメリカはフィリピンを獲得した。\nロシアはシベリア鉄道の建設を進めた。また、太平洋岸に軍港を建設し、その軍港をウラジオストクと名づけた。「ウラジ・オストク」とは、ロシア語で「東方(=オストク)を支配(=ウラジ)する」という意味である。\nこのようにロシアは南下政策(なんか せいさく)を取った。\nイギリスはロシアの南下政策を警戒し、日本との条約改正の交渉に応じて、1894年に日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく)が結ばれる。理由はロシアの警戒。内容は治外法権の撤廃。(領事裁判権の撤廃) まだ日本の関税自主権は取り戻せていない。この条約改正の時期は、まだ日清戦争の前。この1894年のときの外相は陸奥宗光(むつ むねみつ)。\n関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年になる。\nドイツやイタリアは、産業革命が遅れたので、イギリスやフランスに遅れて、植民地の獲得競争に乗り出した。\nこのような帝国主義の列強の植民地獲得競争によって、世界の多くの地域は、欧米のいずれかの国の領土あるいは植民地となっていった。\n日本は外交交渉を有利にしようと、井上馨(いのうえ かおる)らの主唱する欧化政策(おうか せいさく)の一つとして、1883年には、東京に、洋風の建物の鹿鳴館(ろくめいかん)を建て、欧米人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなども、日々、ひらいてみたが、まったく条約改正は進まず、鹿鳴館は失敗した。国民や自由民権派などからは、ぜいたくな物として反発された。\n1886年には、和歌山県の沖合い(おきあい)の海上で、イギリス船のノルマントン号(ごう)が沈没する事件が起きた。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けなかった。日本人の乗客は、全員、死亡した。\nこの事件の裁判は、イギリス人の領事によって、日本国内で、おこなわれた。治外法権による領事裁判権にもとづき、イギリス人領事による裁判が、おこなわれたのである。\n船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、これが日本への差別的な判決だと感じた。なお、船長は禁錮刑(きんこけい)3ヶ月になった。\nこの一連の事件をノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん 、英語:Normanton Incident ノーマントン・インシデント)という。\nこの事件の判決をきっかけに、日本では、条約改正をしようという運動が強まっていったのであった。\nそして、そのあと、1894年に、イギリスとの間で条約を改正し、1911年に各国とのあいだの日本の関税自主権の回復に成功したのである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C"} {"text": "朝鮮では、開国に伴う改革の負担などは、農民に押し付けられた。税は重税になり、農民は貧困になった。このような状況によって、朝鮮の政権や開国への不満が農民たちに高まり、大規模な反乱が1894年に起きた。\n減税や、腐敗した役人の追放や、日本をふくむ外国の排除を求める反乱である、甲午農民戦争(こうご のうみん せんそう)が1894年に起きたのである。\nこの反乱を起こした農民たちの多くが、「東学」という宗教団体を信じていたので、この反乱を、東学党の乱(とうがくとうの らん)とも言う。キリスト教を「西学」(せいがく)としており、その西学に関して、東洋の伝統的な価値観を「東学」と、いっていた。\n反乱は大規模であり、いっぽう朝鮮政府はわずかな兵力しか持っていなかったので、清に鎮圧のための軍の派遣をたのんだ。\n日本も、事前の天津条約(てんしん じょうやく)による清との取り決めにしたがって、朝鮮半島に反乱鎮圧や居留民(きょりゅうみん)の保護などのための日本軍を出兵した。\n1894年に起きた甲午農民戦争の反乱はすぐにおさまったが、日本・清の両国とも朝鮮から兵をひかなかった。\n日本・清の両国とも、朝鮮での自国の影響力が弱まることをおそれたのである。\nやがて両国は対立が深まっていき、同1894年に豊島(ブンド)沖で日本艦隊と清国艦隊が交戦したのをきっかけに、同1894年に日本は清に宣戦布告を行い、ついに日本と清との戦争が起きた。\nこうして日清戦争(にっしんせんそう)が1894年に始まった。\n日清戦争で争いあった国は日本と清であるが、両国が手にいれようとしたのは朝鮮半島の支配権であり、戦場になった場所も朝鮮半島およびその周辺の地域・海域である。\n戦争は、日本の勝利で翌年1895年に終わった。\n清は軍事力の高い強国だと思われていたのですが、戦争が始まってみると、陸戦でも海戦でも日本の勝利でした。\n日清戦争の前の清は「眠れる獅子」(ねむれる しし)と諸外国から恐れられていました。獅子とはライオンのことです。\nこの日清戦争のあと、中国大陸では、清の民族(みんぞく)である満州族(まんしゅうぞく)に対する反発が、だんだんと強まっていきます。じつは、もともと、中国では満州族に対する不満が大きかったのです。清の王朝は、満州族の王朝でした。満州族が、漢民族(かんみんぞく)などのおさめていた中国を侵略してつくった王朝が清(しん)です。満州族は、漢民族を支配しました。\n漢民族たちは、満州族の支配を、不満に感じていました。\n満州族は、自分たちの風習を漢民族にも、むりやり、やらせました。たとえば満州族の男は、髪型が辮髪(べんぱつ)という、髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編み(みつあみ)にし、後ろにたらした髪型なのですが、漢民族の男にも、これをやらせました。ほかにも、いろんなことで、漢民族は、満州族のやりかたに、したがわせられました。\nなので、日清戦争は、民族で見れば、日本人と満州族との戦争です。\n1895年、日清戦争の講和条約として、首相の伊藤博文や外務大臣の陸奥宗光を代表者として、下関条約(しものせきじょうやく)が日本と清とで結ばれた。内容は、以下の通り。\n以上が、下関条約の主な内容である。\n朝鮮が清の属国でなくなり、朝鮮が独立国となったこともあって、朝鮮は国名を「大韓帝国」(だいかん ていこく)に1897年に変更しました。朝鮮国王も皇帝を名乗った。\n「大韓帝国」の3文字目が「帝」であることに注意してください。\nこれによって、古代から東アジアでつづいていた、中国を諸国の最高権力として周辺国を属国と見る朝貢体制(ちょうこう たいせい)は、完全に、くずれました。\nまた、台湾が日本領になった。第二次大戦で日本が戦争に負ける1945年(昭和20年)まで、台湾は日本領である。\n日清戦争後の台湾の領有によって、日本が台湾の統治を行い、日本の投資や開発によって台湾の近代化は行われていく。\n日本は、清からの多額の賠償金をもとに、産業開発の投資や軍備の増強を行った。八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)は、このときに建設されたものである。\n総額 約3億6千万円 のうち、\nつまり、\n以上、賠償金の使いみち。\nロシアは、日本の勢力が中国にのびることで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。\nロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本に遼東半島を清に返させる要求を出すように、日本に要求をだします。\nこの、ロシア・ドイツ・フランスによる、遼東(リャオトン)半島を清国へと返させる要求を、三国干渉(さんごく かんしょう、\n英:Triple Intervention)と言います。\n日本は、三国干渉の要求にしたがい、しかたなく清国に遼東半島を返します。\nこの三国干渉にかんして、日本国内ではロシアに対する反発から、「臥薪嘗胆」(がしん しょうたん)という言葉が流行した。「臥薪嘗胆」の意味は、復讐(ふくしゅう)のために、がまんすること、と言う意味である。\n臥薪嘗胆とは、中国の古い故事(こじ)に由来する熟語(じゅくご)で、漢字の意味は、\n薪(たきぎ)の上で寝ることの痛みで屈辱(くつじょく)を思い出し、(= 臥薪)\nにがい胆(きも)を嘗(な)めることで、屈辱を忘れないようにする(嘗胆)、ということである。\nロシアへの対抗心が当時の日本では盛り上がった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89"} {"text": "清(しん)が日清戦争に負けたことで、清が弱いことがヨーロッパに知られると、ヨーロッパは清に対して強気の交渉に出て、清から多くの利権を手に入れます。\n清は、それまで「眠れる(ねむれる)獅子(しし)」とおそれられていましたが、日本に敗戦してからは、清は弱い国だと、欧米から見られるようになったのです。\nやがて、ロシアが遼東半島を借りる権利を清から手に入れた。\nイギリスやドイツ・フランスも、清から土地の権利などの利権を手に入れていきます。\nこのようなことから、清の民衆とのあいだに、ヨーロッパに対する反発感情が高まっていきます。\n1899年には、義和団(ぎわだん)という宗教団体が欧米の勢力をしりぞけようとする暴動(ぼうどう)を起こします。この暴動を 義和団の乱(ぎわだん の らん) と言います。義和団は、「扶清滅洋」(ふしん めつよう)という言葉を、運動の標語にしていました。「扶清滅洋」の\n意味は、「清朝をたすけて、西洋をほろぼせ」という意味です。\n清の政府は、この乱を支援します。清国政府は、欧米に対して宣戦布告(せんせん ふこく)をします。\n欧米は、日本をふくむ8カ国からなる連合軍を派遣し、義和団と清国軍と戦い、乱をしずめます。\nなお、連合軍は、イギリス・ドイツ・ロシア・日本・アメリカ・フランス・イタリア・オーストリアの8カ国の軍隊からなります。「オーストリア」は、南半球に有る「オーストラリア」ではなく、ヨーロッパに有る「オーストリア」ですので、まちがえないようにしてください。\n(※ やや難しいので、分からなければ、あと回しにしてください。)\n日本の議会では、日清戦争後、政党の力が強くなりました。\n民権派の大隈重信(おおくま しげのぶ)と板垣退助(いたがき たいすけ)が憲政党(けんせいとう)を結成し、それまでの第三次伊藤博文内閣(いとう ひろぶみ)に代わり、1898年に大隈重信を首相とする日本で最初の政党内閣が生まれた( 「隈板内閣」(わいはんないかく)という。 ※ 中学範囲外か)。\n1898年の板垣と大隈の内閣はわずか4ヵ月あまりで倒れ、1898年11月から(第二次)山県有朋(やまがた ありとも)内閣になる。山県有朋は、政党勢力が官僚に入り込めないように、文官任用令(にんようれい)を制定した。(※ 中学範囲外)\n(※ また山県内閣は軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじん げんえきぶかんせい)という制度を制定し、軍部大臣には、現役の陸海軍大将・中将しか、なれないようにした。これは政党の力が軍部におよぶのをふせぐためである。この単元の範囲をこえるので、くわしい説明を省略。とりあえず、この「軍部大臣現役武官制」の用語が、のちの時代に、とても重要になる用語だということを知ってもらいたい。)\nこのような山県の政党への制限に、憲政党は不満をもった。憲政党は、山県と対立する伊藤博文(いとう ひろぶみ)に接近していった。\nそして山県内閣が終わり、1900年には伊藤博文(いとう ひろぶみ)が、伊藤みずからを総裁(そうさい)とする立憲政友会(りっけん せいゆうかい)の結成が9月に予定されていたので、憲政党はこれに合流し、そして立憲政友会が予定どおりに9月に結成され、1900年10月から立憲政友会による第四次伊藤内閣になった。\n※ 憲政党と立憲政友会は対立していない。議会で対立したのは、山県系の勢力と、政党系の勢力である。\nつまり順序は、\nである。(※ 中学の範囲では、この順序が重要。)\nなお、伊藤内閣は貴族院の反対によって退陣させられ、1901年に政権が桂太郎(かつら たろう)内閣に変わる。桂は、山県系の人物だと考えられている。\n※ 政党名がたくさん出てくるが、まず覚えるべき政党は、「憲政党」「立憲政友会」の二つであり、覚えるべき人物については憲政党の大隈重信と板垣退助、および立憲政友会の伊藤博文である。他の政党を覚えるよりも、それなら「山県有朋」をさらに覚えたほうが、政争の背景が分かりやすくなるだろう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%8B%E3%82%89%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A0"} {"text": "ロシアは、冬でも凍らない港が軍事上の理由で必要だった[1]。そのため、ロシアは勢力圏を南に伸ばしていた(南下政策)。東アジアでは、遼東半島にあった旅順に軍艦の基地を増設していた。\n1899年(明治32年)の義和団事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にいつづけた。そして、朝鮮半島や清に勢力をひろげようとした[2]。日本・イギリス・アメリカの3カ国がロシアに抗議して、ロシアは兵を引くことを約束した。だが、じっさいにはロシアは兵をひかずに居続けた。それどころか、ロシアは占領軍を増強した。\nロシアの強硬な方針にイギリスは危機感を感じた。イギリスは南アフリカでの戦争[3]のため、中国に影響を及ぼす余裕がなかった。\nそこでイギリスは、ロシアの南下政策に対抗するため、日本との提携をはかり、1902年に同盟を結んだ。この日本とイギリスの同盟を、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)という。\n日本はロシアとの戦争をふせぐため、外交で解決しようとした。日本の案では、ロシアが満州を支配することを認めるかわりに、日本が朝鮮を支配することを認めさせるという案をロシアに提出した。\nしかし、ロシアがこの案を拒否し、交渉はまとまらず決裂し、1904年に、ついに日本はロシアとの戦争の開戦にふみきった。\n開戦にあたって、ロシアの満州領有に反対するイギリスとアメリカは、日本を経済的に支援した。また、戦費調達のために日本銀行副総裁の高橋是清が、イギリスやアメリカを訪問し、外国債(外債)[4]を募集する。\n日露戦争の戦場になった場所は、朝鮮半島の周辺の海域と、満州の陸上および海域であった。\n陸地での戦場では、旅順や奉天[5]での戦いで、激しい戦闘となったが日本がロシアに勝利した。海上では、日本海海戦において東郷平八郎ひきいる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させた。\nしかし、日本は大きく戦力を消耗しており、軍事費を使いきっていた。いっぽうのロシアでも政府に反対する革命の動きがおきはじめ、ロシアも戦争をつづけることが、難しくなった。\nそこで日本は状況が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカにロシアとの講和の仲立ちをしてもらって、講和条約であるポーツマス条約(英語: Portsmouth Treaty) が結ばれ、日露戦争は終結した。\nアメリカ大統領のセオドア=ローズベルト(Roosevelt)が講和の仲立ちになり、日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアの代表はヴィッテ(Витте)であった。\n条約の主な内容は次のようなものであった。\nしかし、日本は講和を急いだため、賠償金をとらなかった。このことが国民の反発を呼び、東京の日比谷では政府高官の邸宅や警察署・交番、講話を支持した新聞社を襲撃して放火するなどの事件が起きた(日比谷焼き討ち事件)。国民からすれば、20万人の死傷者を出し、戦争で多くの負担をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのだった。\nポーツマス条約で獲得した鉄道の経営のために、政府により半官半民の企業の南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。 また、租借地と満鉄路線の警備などのため、満州に日本の機関[7]が置かれた。\nのちの第二次世界対戦のときに日本軍が満州に滞在している理由は、おおまかな理由は、元をただせば、この日露戦争で得た権益を防衛するために派兵されたからである。\n1907年には日露協約が結ばれ、日本とロシアとの満州での勢力範囲が決められた。\nこの満州への日本による権益獲得では、アメリカが日露戦争では資金面などで日本に協力したにも関わらず、ほぼ日本が満州の権益を独占することになり、アメリカは満州に権益を獲得できなかった。アメリカなどは、満州の事業の門戸開放を日本に要求したが、日本は要求を拒んだ。こうしてアメリカの日本への不満が高まり、のちにアメリカと日本とが対立していく原因の一つとなった。\n日露戦争の前、開戦を、多くの国民が支持した。だが、開戦に反対する意見もあった。\n非戦論をとなえた人をあげれば、キリスト教徒の内村鑑三や、社会主義者の幸徳秋水が有名である。\nまた、歌人の与謝野晶子(よさの あきこ)は、戦場にいる弟を思いやる詩を書き、「君(きみ) 死(し)にたまふ(たもう)こと なかれ」という詩を書いた。\n君死にたまふことなかれ(抜粋)\n現代語訳\n私は日露戦争の非開戦論者であるばかりでなく、戦争の絶対廃止論者である。・・・(中略)・・・戦争の利益は強盗の利益である。・・・・・・近くはその実例を日清戦争において見ることができる。二億の富と一万の生命を消費して日本国がこの戦争より得たものは何であるか。・・・その目的だった朝鮮の独立は弱められ、中国の分割が始まり、日本国民の負担はとても増加し、・・・東洋全体が危険におちいったではないか。\n(以上、現代語訳)\n内村鑑三のこの反戦論は、当時の世論である主戦論に対抗したものである。\n日清戦争の直前の1894年に、イギリスとのあいだで、外務大臣の陸奥宗光(むつ むねみつ)の交渉により、治外法権をなくすことに成功。この治外法権の廃止(はいし)は、日本がイギリスと結んだ、 日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく) による。\n(1870年代から条約改正のための交渉はしていたが、そのころは、欧米は理由をつけて、受け入れなかった。)\n日清戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども治外法権をなくすことに同意したが、日本の関税(かんぜい)自主権(じしゅけん)は、みとめなかった。\n日露戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、各国は、関税自主権の改正にも応じるようになり、外務大臣の小村寿太郎(こむら じゅたろう)の各国との交渉により、1911年に日本の関税自主権は回復した。\nこの日露戦争での日本の勝利は、黄色人種(日本)が白人の国(ロシア)に勝利した戦争であるとみなされた。そのため、アジアやアフリカの欧米の植民地にされた地域の人々を勇気づけた。だが、その後の日本は、欧米と同じように植民地支配的な政策を朝鮮などで行っていったことにより、アジア・アフリカの欧米への不満と同様に日本も失望されていくことになる。\nのちのインドの独立運動家ネルーは、獄中で書いた著書『父が子に語る世界史』の中で、ネルーの少年時代のころの日露戦争における大日本帝国の勝利が、アジア諸国に独立への希望を与えたことを書いており、ネルー少年自身も感激した。\nしかし、その後、大日本帝国が欧米列強と同じく、近隣諸国を植民地支配下に置いたこと、日本による侵略の悲惨を最初に味わわされたのは朝鮮であったというふうに記述している。\nとはいえ、日露戦争の終戦直後の時点では、アジアでの植民地支配をされていた民衆は、日本の勝利に喜ぶ者が多かった。日露戦争後、アジアでは独立を目指す政治運動がさかんになる。もっとも、アジア植民地のヨーロッパ諸国からの独立の時期そのものは、ほとんどは第二次世界大戦後の時代になる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89"} {"text": "日露戦争の勝利によって、大韓帝国(以下、韓国)でのロシアでの影響力が無くなり、韓国での日本の影響力や支配が強まる。\n日露戦争後、日本は韓国を保護国としてあつかい、外交権をにぎり、1905年に 韓国統監府 を置いた。初代統監には伊藤博文がついた。やがて内政権も日本がにぎり、韓国軍を解散させた。\n日本による韓国の保護国化にともない、国としての権利を韓国から接収したので、韓国の民族運動家は不満をいだいた。保護国化にともなう反発が朝鮮で起こり、解散させられた兵士が民衆とともに武器をもって日本に抵抗する義兵運動(ぎへい うんどう)とよばれる抵抗運動が朝鮮半島で広がった。\nまた、韓国の皇帝も、国際社会に訴えようとしたが、しかし欧米列強に無視された。\nそれどころか、すでに韓国統監府の時点で、更新された日英同盟やポーツマス条約で、韓国に対する日本の保護権が認められていたありさまであった。(※育鵬社の教科書に書いてあります)。\nそして1909年に、満州に滞在中の伊藤博文が暗殺される事件が起きる。事件は1909年に満州のハルビンで発生した。犯人は韓国人の民族運動家である 安重根 であった。伊藤は統監として、韓国の政治を取りしきり義兵運動を弾圧したため、韓国人の運動家からは恨まれる立場にあった。(※ 備考: 歴史学では、安重根が独立運動をしていた証拠は見つかってなく、東京書籍や教育出版などの検定教科書でも単に「運動家」または「民族運動家」としか書いてない。清水書院は「独立運動家」と記述している。)\n( 伊藤が死んだこともあり、日本の世論は強硬になった。)そして、1910年、韓国併合ニ関スル条約に基づき日本は韓国を併合し、大韓帝国は無くなり、朝鮮半島は日本の植民地になった。\nこの、日本が大韓帝国を併合したことを韓国併合(かんこくへいごう)という。\n朝鮮(および韓国)という国家が消滅したことにともない、欧米や日本と結んでいた不平等条約は消えた。\n石川啄木(いしかわ たくぼく)の短歌\n初代朝鮮総督の 寺内正毅(てらうち まさたけ) の短歌\nこの併合は対等ではなく、併合により朝鮮の国家を完全に廃され、韓国では日本の武力を背景とした植民地支配が行われた[1]\n[2]\n[3]。\n先に植民地になっていた台湾と同様に、朝鮮の人々には選挙権がなかった[4]。\n大韓帝国が消滅したことにより、名が「朝鮮」(ちょうせん)に変わった[5]。\n韓国統監府の名は 朝鮮総督府(ちょうせん そうとくふ) に変わった。\nその他の政策は日本での近代化政策を元にして行われた。\nたとえば朝鮮の学校教育に関して言えば、朝鮮の学校では、日本語と朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史などが教えられるようになった。併合以前は朝鮮語が国語であり、日本語は外国語扱いであった。また日本にならい初等教育は6年生で義務教育であったが、併合後は当初4年制で高中等教育への連絡を断ち、義務教育ではなくなった。\n後に6年制に戻したが、就業率は不明で4年で退学する生徒が多かった。\n朝鮮語よりも日本語の教育の授業時間が増加、朝鮮語は1939年には随意科目となり、授業時間がなくなった。日本人校長の判断で朝鮮語授業は続けられたという話もある。\n朝鮮の学校では、朝鮮の歴史や文化を教えることは禁止されたとも言われている(※ 東京書籍の教科書に記述あり)。\nまた、工業化のための開発や投資が朝鮮に対して行われていった。鉄道をひくなどの開発が、おこなわれた。土地調査と、土地の権利の整理もされた。朝鮮は公田制で私有地は宮田や両班など有力者、駅田などで農民は土地を所有せず、代々耕作権を所有し、収穫に応じて税を納めていた。土地調査後は地主に小作料を納める事になり、耕作権の取得争いに破れた農民は土地を離れ、都会へでるか、日本や満州へ流浪するものが、表れるようになった。\n耕作権を取得しても、本来地主が負担すべき土地税なども農民に負担させたから、小作料は40〜50%前後の高率となった。\nなお通説では、この土地の権利整理のときに、所有権が不明確という理由で、朝鮮人の多くが土地を失った(※ 東京書籍の教科書に「所有権」、「土地を失い」との記述あり)と言われている。土地を失った朝鮮の人のいくつかは、小作人になったり、日本や満州に移住するなどの必要にせまられた。[6]\n朝鮮の工業や商業は、日本との貿易や、日本からの投資によって、近代化していった。しかし、朝鮮の歴史や文化を軽視した同化政策や、強引な近代化や日本企業・日本人に有利な政策などは、朝鮮人の不満をさらに高め、朝鮮の人びとの抵抗がつづいた。\n両班は官職であり、法によって定められた身分ではなかった。安定した貴族階級ではないため、官職でなくなれば収入は無くなり、没落する両班が多く現れるようになった。\n朝鮮の植民地支配は1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで続いた(※ 東京書籍の教科書に記述あり)。\n余談だが、韓国併合の際、現在のソウルにあった首都の「漢城」(かんじょう)を「京城」(けいじょう)に改名した(※ 東京書籍や教育出版の教科書に記述あり)。\nその他にも、併合により多くの地名を日本風に変えた。\nなお、義兵などの抵抗運動が起きたが、日本軍によって鎮圧された。\n併合直後の朝鮮では、日本はいっさい創氏改名の強制も、徴兵も、していない。それらの政策を強制した時期が、ちがう。\n日本の占領による政策として有名な政策で、「創氏改名」(そうし かいめい)という、朝鮮人に日本風の名前を名乗らせた政策が有名だが、併合直後は、まだこの政策をおこなっていない。 創氏改名を行った年は1939年(昭和14年)であり、ずいぶんとあとの時代である。よって、この節では創氏改名 を解説しない。\n朝鮮半島での徴兵(日本軍への徴兵)は、第二次世界大戦の途中ごろからである。\n冷静に考えれば、もし、併合当初での独立運動の頻発するような状況で、日本が朝鮮で徴兵制をしたら、朝鮮の独立派に武器を与えてしまうことになるだろう。\n徴兵期間は短いが、現地徴兵徴用が多く、戦後外務省の調査では軍人軍属は陸軍25万、海軍12万人となっています。\n注\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88"} {"text": "を参照。\n日露戦争の勝利によって、日本がポーツマス条約で得た利権をもとに、日本は南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう かぶしきかいしゃ)を設立した。南満州鉄道株式会社は「満鉄」(まんてつ)と略される。\n満州には、満州経営のため、政府により半官半民の企業の南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう かぶしきがいしゃ) ( 略称: 満鉄(まんてつ) )が設立された。 また、満鉄の鉄道の警備などのため、満州に日本軍が置かれた。\nなお、この満州鉄道を警備している日本軍は、のちの1919年に「関東軍」(かんとうぐん)と言い改められる。中国の山海関(さんかいかん)より東の位置を「関東」といい、その地域を守備していたので、関東軍(かんとうぐん)と言い改められる。\nこの戦争の交渉の結果、日本は満州に権益を得ることになった。のちの第二次世界対戦のときに日本軍が満州に滞在している理由は、おおまかな理由は、元をただせば、この日露戦争で得た権益を防衛するために派兵されたからである。\nさて、1907年には 日露協約(にちろ きょうやく) で、日本とロシアとの、満州での勢力範囲が決められた。\nこの満州への日本による権益獲得では、アメリカが日露戦争では資金面などで日本に協力したにも関わらず、ほぼ日本が満州の権益を独占することになり、アメリカは満州に権益を獲得できなかった。アメリカなどは、満州の事業の門戸開放を日本に要求したが、日本は要求を拒んだ。こうしてアメリカの日本への不満が高まり、のちにアメリカと日本とが対立していく原因の一つともなったと考えられる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0"} {"text": "日露戦争後の1911年に中国大陸で革命が起きて 中華民国(ちゅうかみんこく)が建国され、 孫文(そんぶん、スンウェン)という人物が中華民国の代表者に選ばれる。この一連の革命が 辛亥革命(しんがい かくめい)である。\n孫文は、政治の方針として、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」(みんせい)の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えた。\n日露戦争の以降、戦争に勝った日本から近代化の方法を見習おうと、清からは多くの留学生が日本にやってきた。清の政府も、戦後は、戦前までの方針をあらため、封建社会は維持しつつも、日本政府とも協力して近代化のための改革を進めることにした。\n日本国内では、言論の自由などが保障されていたので、清などの周辺国からは革命家などが日本へ亡命のために滞在した。日露戦争に日本が勝ってからは、より多くの外国人が日本に学びにきた。欧米に植民地にされている国からも、欧米を倒すために近代化の方法を学ぼうと、多くの者たちが日本に訪れた。\nこれから紹介する孫文(そんぶん、スンウェン)も、政治運動などのため、日本に滞在していた時がある。\n当時の日本政府は、欧米との友好の政策方針のため、あまり日本国内での反欧米の革命家の滞在や活動を好まなかったが、民間人や一部の政治家などが、周辺国の革命家を支援した。\nそして、まだ孫文たちが革命を起こさないうちに、中国で革命が急に起きる。次の節で説明する。\n1911年、中国の四川省での鉄道の国有化および、その鉄道の外国への借款に対する反対の暴動が起き、この反乱に応じて、武昌(ぶしょう、ウーチャン)で軍隊が反乱を起こした(鉄道借款が国権を売り渡す行為と批判された)。\nそして各地で反乱が起こり、清からの独立宣言が次々と起きた。\nこれが辛亥革命(しんがい かくめい)である。\n当時、中国人の革命運動家として有名であった孫文(そんぶん、スンウェン)は、この辛亥革命を起こしてない。革命当時、孫文はアメリカに滞在しており、アメリカで革命の知らせを聞いた。孫文は、アメリカのほかにも、日本に滞在し中国での革命のための運動をしていた時期もある。中国大陸では、清国の王朝を倒そうとする革命運動は、当然、取り締まりを受けていたので、日本やアメリカで孫文は中国での革命のための運動を行っていたのであった。\n革命後、孫文は中国大陸に帰国した。\nそして、革命運動の代表者が決まっていなかったので、1912年に臨時政府の代表者として孫文が 臨時大総統(りんじ だいそうとう) として選ばれた。\n孫文は、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」(みんせい)の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えていた。\nそして孫文たちは、中華民国(ちゅうか みんこく)の建国を宣言した。中華民国の首都は一時的に南京(ナンキン)に変わった。\nまだ、清の皇帝は生き残っている。清の宮殿なども、残っている。\nしかも孫文は、臨時の代表者にすぎない。\n実際に中華民国で権力をにぎったのは、かつて清国の政治家であり、軍を掌握していた袁世凱(えん せいがい、ユワン シーカイ)だった。孫文には軍隊を管理する能力がなく、孫文に大した実権はなかった。\n袁世凱は、清の皇帝を退位させ、そして袁世凱が最高権力者の大総統になった。皇帝が退位したことにより、清の王朝は終了した。\nそして中国の首都は南京(ナンキン)から北京(ペキン)にもどった。\n袁世凱は、独裁政治を始めた。\n結局、孫文は日本に亡命することになった。\n1915年に、袁世凱は病死した。袁世凱の死後、中国はまとまらず、各地に軍閥(ぐんばつ)が出てきた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E9%9D%A9%E5%91%BD"} {"text": "日本での産業革命は、明治時代に起きた。\n明治の始めごろ~中ごろは、繊維産業を中心に、軽工業から、工業が成長していった。明治の後半は、重工業の発展が日本でも起きた。\n繊維工業は、欧米向けの生糸などの輸出であった。日本の安い賃金で、欧米向けに安い価格の生糸などを輸出していた。\n明治の始めごろは、工場設備などの機械や、軍艦・大砲などの兵器は、日本では国産化できず、欧米から輸入していた。\n生糸などを輸出して獲得した外貨をもとに、機械類や兵器などを欧米から購入していた。\n明治のはじめごろ、国は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していた。しかし、政府にとっては財政の負担だった。また、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばっていることにも、なってしまう。\nなので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。\nこの払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし)・古河(ふるかわ)などの大会社であった。これらの大会社は、経済で支配的な地位をもつ財閥(ざいばつ)になった。\nイギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)をもとに、生糸を生産し、おもにアメリカむけに輸出していた。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機だった。日本でも、紡績機を改良していった。\n日清戦争後は、清や韓国にも、日本産の綿糸が輸出された。\n原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けた。\nこのように生糸(きいと)や綿(めん)製品は、日本の主要な輸出品になっていった。そして繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していった。また、農村では、生糸の生産のため、養蚕(ようさん)が、さかんになった。\n日露戦争後には、日本が世界一の生糸輸出国になった。\n日清戦争で得た賠償金をもとに八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)が1901年に建設された。この八幡製鉄所が、日本での重工業の発展の、きっかけになった。\n鉄道の建設がすすみ、1889年(明治22年)には東海道線が開通した。1906年に軍事上の理由により、主要な民間の鉄道が国有化された。\n農民には、不景気などで土地を手放してしまい、地主などの下で農作業を働かされる小作人(こさくにん)が増えた。\n理由はいくつかあるが、よくある説は・・・\nなど。\nいっぽうで、手放された土地を、地主(じぬし)などが買いしめていった。\n農村で収入が少ない農民は、都市に出稼ぎにいったりした。\n貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工(じょこう)としてはたらくこともあった。\n女工は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、はたらかされた。それでも、その娘には、ほかに仕事先がないので、その仕事先で、はたらかざるをえなかったのだろう。\n日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである。\n1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。\n日本の労働者の賃金は安く、重労働で過酷だった。このため、労働運動が盛り上がっていた。労働組合も、明治の半ばごろから作られ始めた。\nしかし、政府は、労働運動が革命運動などにつながると考え、労働運動を取り締まる方針であった。\n1900年には、治安警察法(ちあん けいさつほう)が制定され、社会運動が取締りを受けた。\nいっぽうでは、工場法が制定され、労働条件の改善も はかられた。\n1901年には社会民主党が、片山潜(かたやません)などにより、結成されたが、取締りを受け、解散させられた。\n1910年(明治43年)には、天皇(明治天皇)の暗殺計画のうたがいにより、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら12名が死刑にされた。これを大逆事件(たいぎゃく じけん)という。\n平塚らいてう(らいちょう)が青踏社(せいとうしゃ)を作り、女性解放を唱えた。\n栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していた。\nここで公害事件がおき、鉱石の処理の安全対策が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒」(こうどく)が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れて(かれて)いった。\nほかにも、工場の排煙から排出される亜硫酸ガスによって、周辺の山の木や草は枯れていき、はげ山(はげやま)になった。はげ山 になると、洪水がおきやすくなるので、鉱毒でよごれた川の水が広がっていき、ますます被害は拡大した。\n作物だけでなく、人間も病気になっていった。死者もふえていった。眼病にかかったり、胃などの内臓の病気にかかっていった人がふえてきた。\n衆議院議員の田中 正造(たなか しょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえた。だが、政府は対策をとられなかった。\n田中正造は、世論にうったえるため、天皇に直訴しようとした。そのため、議員をやめて、それから天皇に直訴しにいったが、天皇の近くで警官に取り押さえられた。\nだが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。\n鉱石は、ほりだしたままでは、さまざまな不純物をふくんでいるので、使えないのである。なので、不純物をとりのぞくため、さまざまな薬品の液体を鉱石にくわえていく。\nこのため、排水が出てくる。\nこの排水の安全化の処理が不十分なままであった。\nなお、1892年の古在 由直(こざい よしなお)らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸である。\n幕末のころから、コレラなどの伝染病が日本に入ってきた。\n明治時代には、伝染病の防止のため、上下水道の整備や、消毒などの公衆衛生が発達した。\n\n江戸時代の小説は、正義が悪をこらしめるという、儒教的な発想にもとづいた、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の小説が多かった。\nしかし、明治になり、欧米の文学や思想が紹介されたりしたことから、このような勧善懲悪な筋書きをうたがう作家が出始め、新しい傾向がでてきた。\n文芸では、つぎのような作家が出てきて、つぎのような変化をおこした。\n・坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)\n・二葉亭 四迷(ふたばてい しめい)\nそれ以前は、小説は漢文調だったのだ。\n坪内逍遥の小説も、漢文調である。\n小説で写実主義が強調されると、それの影響を受け、ほかの分野にも写実主義を導入しようとする者も、出てくる。\n・正岡 子規(まさおか しき) \n「柿(かき)くへば 鐘(かね)が鳴る(なる)なり 法隆寺(ほうりゅうじ)」などの視覚的・映像的な情景的な句を、多く、のこす。\n弟子は高浜虚子(たかはま きょし)や河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)など。\n正岡の努力もあり、俳句の地位は高まり、小説家など、ほかの分野の作家も俳句を作り始めた。夏目漱石や坪内逍遥なども俳句を作っている。\n正岡は、祖父に江戸時代の高名な儒学者の大原観山(おおはら かんざん)を持つ。正岡の作風は、漢詩の影響を受けていたのだろう。\n・夏目漱石(なつめ そうせき)\n『坊っちゃん』の主人公は、東京の物理学校(現代の東京理科大学の前身)を卒業したばかりの新任教師である。漱石の英語の教員の体験をもとに書いている。\n・与謝野 晶子(よさの あきこ)や樋口 一葉(ひぐち いちよう)など、女の作家も、この明治時代に出てきた。\n与謝野 晶子の代表作は、『みだれ髪』、『君死にたまふことなかれ』など。\n樋口 一葉の代表作は、『たけくらべ』、『にごりえ』など。\n美術や音楽などの分野では、つぎのような変化があった。\n日本画は、一時、おとろえたが、フェノロサ や 岡倉天心(おかくら てんしん)が、復興させた。\nまた、横山大観(よこやま たいかん)が活躍した。西洋式の手法を取り入れた、新しい日本画が流行った。\n彫刻では、高村光雲(たかむら こううん)が活躍した。\n・音楽\n小学校の唱歌(しょうか)や、軍隊での軍歌などとして、洋楽(ようがく)が広まっていった。\n音楽では、滝 廉太郎(たき れんたろう)が『荒城の月』などの曲を作曲した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "ハワイに移民する人が、明治の中ごろから増えました。\nハワイではアメリカなどの要望により、砂糖を生産するためのサトウキビが大量に栽培されている大農園を耕す労働力が不足しており、移民を受け入れていました。\nハワイはもともとハワイ王国という独立国であり、ハワイ王国は憲法をもつ立憲君主制の国でしたが、1898年にアメリカによってハワイがアメリカ領として併合されました。\n明治時代の末期にアメリカは移民を制限したので、日本人の移民先がブラジルなどに変わりました。\nよくある仮説では、「日本によるハワイ移民は、白人国家アメリカのハワイ侵略に対する、アジア人の国家の日本としての牽制(けんせい)だ」という説もある。\nアメリカによるハワイ併合を嫌った併合前のハワイ国王カラカウワは、明治時代の日本をおとずれ、当初はハワイ王室と日本の皇室との婚姻を申し出たが、しかし日本政府はアメリカとの外交関係の悪化をおそれたため、この婚姻の申し出は断られたという史実がある(※ 参考: w:カイウラニ)。そして説では、代わりとして、日本はハワイ移民を申し出だという説。\nただし、日本の移民先がしだいにハワイからブラジルなどに変わったり、日本だけでなく中国もハワイなどに移民していたりなど、疑問点もある。\nなお、アメリカ白人によるハワイ併合のクーデター時、日本は邦人(ほうじん)保護の名目として軍艦を送っており、これは日本の婉曲的な意思表明として、アメリカ人によるクーデターに対する日本の不快感の表明だろうと思われている(※ 参考: w:リリウオカラニ)。 (※「邦人」(ほうじん)とは、海外・外国にいる日本の一般人(軍人などではない)のこと。)\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E7%A7%BB%E6%B0%91"} {"text": "1914年から起きた第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア・トルコなどの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営とが戦争をしていました。\nドイツ・オーストリア・イタリアの三国は三国同盟(さんごくどうめい、Triple Alliance )を結び、同盟国(どうめいこく)と言われます。対してロシア・フランス・イギリスは三国協商(さんごくきょうしょう、Triple Entente)を結び、連合国(れんごうこく)と言われています。つまり同盟国と連合国(三国同盟と三国協商)が、争った戦争ということです。(ただし、イタリアはオーストリアとの領土問題があったため、連合国側で参戦しました。)\n戦争は長期化した。また、毒ガス(どくガス)が新兵器として登場し、被害が大きくなった。潜水艦(せんすいかん)も、新兵器として、つかわれた。\nなお、戦車(せんしゃ)や飛行機、飛行船も新兵器として使われたが、この時代の戦車や飛行機は、まだ性能がひくかった。\nこの第一次世界大戦からヨーロッパでは戦争のしかたが大きく変わり、それまでの男の兵士だけが戦争に従事する方式から、民間人や女子も工場動員などで戦争に協力させて、国力を出し切って戦う総力戦(Total War [1])になった。\n(ただしヨーロッパ以外の日本やアメリカでは国土が戦場にならなかったこともあり、日本やアメリカでの総力戦への変換は、のちの第二次世界大戦のころになる。)\n日本では、国土が大した被害にあわなかったことから、日本の民衆や評論家などの多くは、戦争のしかたが総力戦に変わったことに気づかず、のちに、欧米の戦力をあなどることになる。\nこのころの日本は、大正時代であった。明治天皇は、すでに亡くなっており、大正天皇が日本の天皇だった。\n日本も第一次世界大戦に参戦し、日本はイギリスと日英同盟を結んでいたことを理由として、日本はイギリス側である連合国(れんごうこく)の側に立って参戦した。\nドイツの基地が、中国大陸の青島(チンタオ)にあったので、日本は、青島のドイツ基地を占領した。\nまた、大戦中の1915年(大正4年)に中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。\n中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。\nヨーロッパ南東部の、ルーマニアやギリシャなどのあるバルカン半島(Balkan)の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立をしていた。\n第一次大戦の前からバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」(Powder keg of Europe)と言われていた。バルカン半島にはルーマニアやブルガリアやセルビアやアルバニアやギリシアなどの多くの国がある。また、歴史的背景から宗教や民族も複雑にからみあっていた。\n1914年に、オーストリアの皇太子の夫妻が、ボスニアの首都のサラエボをおとずれていたときに、暗殺される事件が起きた。この暗殺事件を サラエボ事件 という。この事件の犯人がスラブ系セルビア人の青年であった。\nこの事件に対する報復で、同年1914年にオーストリアがセルビアに宣戦布告したのが、のちの第一次世界大戦のきっかけであった。そしてオーストリアの同盟国のドイツがオーストリアを支持した。いっぽう、セルビアには同じスラブ系民族であるロシアが支持した。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持した。\nオーストリアの支持の側であるドイツは、セルビアを支持しているロシア・フランス・イギリスに対して宣戦布告した。\n13世紀以降、バルカン半島はオスマン帝国(オスマン・トルコ)の支配下に置かれていた。しかし、オスマン帝国がおとろえていくとバルカン半島でもギリシャ人やスラブ系民族による独立運動が盛んになっていった。さらに、ヨーロッパ諸国が勢力拡大を目指してバルカン半島に介入していった。特に、南下政策を続けるロシアとパン=ゲルマン主義[2]をかかげるオーストリアとが厳しく対立した。\nそうした中で、1908年にオスマン帝国で立憲政治の回復をめざす青年トルコ革命がおきる。この革命でオスマン帝国が混乱していることに乗じて、オーストリアは同じ年にボスニアとヘルツェゴビナをオーストリアに併合した。しかし、既にトルコから独立していたセルビアも、セルビア人を中心とするスラブ人の統一国家をつくろうとする大セルビア主義に基づいて、同じスラブ系民族の多いボスニア・ヘルツェゴビナを併合しようとしていた。このため、このボスニア・ヘルツェゴビナをめぐってオーストリアとセルビアと対立していたのである。\n大まかに言えば、青年トルコ革命 → オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合→ オーストリアとセルビアの対立 → サラエボ事件 という流れといえる。\n世界大戦のさなか、ロシアでは革命が1917年に起きる。ロシアでの、これらの革命をロシア革命 (英:Russian Revolution)という。\nロシアでは、日露戦争のころから、ロシア皇帝の圧政(あっせい)に反対する運動があったが、第一次世界大戦による物資の不足などで国民生活が苦しくなり、ますます皇帝政治に対する反対運動が強まっていた。\nそして1917年3月に、労働者の抗議(こうぎ)などの運動が起こり、軍隊もこの運動に同調した。軍隊が、皇帝を裏切った以上、もはや皇帝を守るものはなく、ロシア皇帝のニコライ2世(ロシア語: Николай II、英:Nicholas II)は退位するはめになった。(三月革命)\nそして、退位後、ニコライ2世とその一族は革命政府により殺害された。こうしてロシアの帝政(ていせい)は終わり、ロマノフ王朝(ロマノフおうちょう、英表記:House of Romanov)は終わった。\n帝政にかわる、革命運動による臨時の政府が出来て、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(英語表記:Soviet)と呼ばれた。日本語での呼び方では、短く略して「ソ連」「ソビエト連邦」などと呼ぶ場合もある。\nこうしてロシア政府にかわり、ソビエト政府が、ロシアの領土を支配することになった。\n1917年3月直後のころの臨時政府は、当初、第一次世界大戦の戦争継続の方針だった。だが、即時の停戦をかかげるレーニン( ロシア語:Ле́нин ,英:Lenin)が1917年11月に革命を起こして成功し(十一月革命)、こうしてロシアの革命運動ではレーニンの思想が、中心的な思想になった。\nソビエト政府も、第一次世界大戦を、ロシア・フランス・イギリスの三国協商のまま、イギリスやフランスと協力したが、革命によるソビエト国内の混乱もあり、ソビエトは戦争から引いていった。\nソビエトは各国に、無併合・無賠償・民族自決の即時講和を呼びかけた。\n1918年に、ソビエトはドイツ側と講和して、ソビエトは連合国では無くなった。\nソビエトは、地主の土地を没収して、農民に使わせるために政府が管理するなど、社会主義的だと考えてた政策を行った。\nソビエトの政治の仕組みは社会主義(しゃかい しゅぎ)や共産主義(きょうさん しゅぎ)と言われる方式であり、当時としては新しい方式の政治の仕組みだった。\n日本の中学校教育では、社会主義と共産主義とは、区別しない事例が多い(ただし、いくつかの教科書では例外)[要出典]。実際、欧米でも、歴史的にも、似たような意味で「社会主義」と「共産主義」の語句が使われていた事もある。ややこしい事として、現代(21世紀)の中国共産党は、名前は共産党だが、しかし経済の政策では、中国政府は私企業を認めているので、中国共産党の政策は厳密な意味での「共産主義」とはいいがたい。\n本書でも、とくに断りが無い限り、社会主義と共産主義を区別しないこととする。\nロシア革命後、ソビエト連邦が社会主義運動や共産主義運動の中心地になったので、ソビエトに従おうとする政治思想と共産主義・社会主義とが混同されることになった。\nソビエトの政府は、共産主義を目指していた。そのため、土地や産業を国有化した。\n共産主義はロシア以外には広まらなかった。(のちに中国(ちゅうかじんみんきょうわこく)が共産主義になる時期は、第二次世界大戦のあとである。)\n※(中学の範囲外: )なお、「共産主義」という言葉は、少なくとも日本ではすでに1920年代から存在しており、たとえばロシア革命よりも約10年後だが1925年4月に公布された治安維持法に関して、交付前の衆議院の法案成立をめぐる審議では,若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内務大臣が「俗(ぞく)の言葉で申し上げれば,この法律は無政府主義,共産主義を取りしまる法律であるといってもよろしいのであります」と述べている。(清水書院の高校「歴史総合」教科書より。)いくつかの中学歴史のような、「共産主義」という言葉を使わずに「社会主義」という言葉だけで説明するスタンスは、少なくとも日本史学的には、いろいろと苦しい。\n連合国は、ロシア革命が周辺国に広がることをおそれ、革命反対派に協力するため、1918年にシベリアに出兵した。イギリス・フランス・アメリカ・日本が出兵。日本は約7万人の軍隊をシベリアに出兵した。これらの出来事をシベリア出兵(シベリアしゅっぺい、英: Siberian Intervention)という。\n1924年にレーニンが死んでからは、ソ連では、しだいにスターリン (ロシア語:Сталин、英: Stalin)が権力をにぎっていった。\nスターリンは統制を強め、しだいにスターリンの独裁政治へとなっていった。そして、スターリンに反対する人物を次々と追放したり処刑したりしていった(大粛清)。\n産業政策は、重工業を中心にした工業化を進めていった。1928年からは「五ヵ年計画」を実行し、重工業化と農業の集団化をおしすすめた。\nアメリカは、はじめは中立を保っていたが、ドイツが中立国の船を攻撃しはじめた事を理由に、1917年に、アメリカはイギリスの側として参戦する。アメリカから支援された大量の物資や武器などにより、イギリス側の連合国が有利になった。\n連合国の側にアメリカと日本という、当時の強国が2つも加わったこともあり、戦争は連合国に有利に進んだ。\nそして1918年、ドイツが負けを認めて降伏(こうふく)し、よってアメリカ・イギリス・フランスの連合国が勝利して、第一次世界大戦は終わった。ドイツとオーストリアは負けた。\nイタリアは、戦争の途中で、連合国の側の支持へと変わった。\n第一次世界大戦中の1915年(大正4年)に、日本は中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。\nフランスの首都のパリで講和会議(こうわかいぎ)であるパリ講和会議(英:Paris Peace Conference)が1919年に開かれ、ドイツとの間で戦後の処理のための条約として、ベルサイユ条約(フランス語:Traité de Versailles) が1919年に結ばれた。「ベルサイユ」とは、フランスにあるベルサイユ宮殿(きゅうでん)のことで、この場所で講和会議が行われたことによる。\n条約の結果、ドイツは多くの賠償金を払うことになった。ドイツは、フランスとの領土問題のあったアルザス=ロレーヌ地方(英表記:Alsace-Lorraine)を失い、アルザス・ロレーヌはフランスに渡された。(アルザス=ロレーヌ地方は、炭鉱や石炭などの資源が豊富であり、そのためフランスとドイツとの間で、しばしば領土争いになる事の多い土地である。)\nそしてドイツが世界各地に持っていた植民地は、放棄させられた。特に、大戦前にドイツが持っていた中国の山東省の権益や、ドイツ領だった南洋諸島の委任統治権などは、日本が受け継ぐことになった。\nアメリカのウィルソン大統領は、民族自決(みんぞく じけつ、self-determination)の原則などの理想を掲げた。民族自決の原則などの要求をふくんだ「14か条の平和原則」をウィルソンは掲げた。しかし、英仏などの戦勝国が、自国の植民地の権益を主張したため、ドイツが植民地を失った以外には、たいした成果はなかった。\nなお、「14か条の平和原則」の主な内容は、秘密外交の廃止、民族自決、軍備の縮小、国際機関の設立である。\nパリ講和会議のさい、日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案した。人種差別撤廃に向けた世界初の試みだった。\n当時は、欧米諸国を中心に人種差別が横行しており、日系移民排斥問題など日本人に対する人種差別問題の解決が急務であった。この提案は、人種差別を受けていた多くの人々を勇気付けるとともに、イギリスのアーサー・バルフォア外相は説得に訪れたハウスに対し、「ある特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と述べるなど波紋を呼んだ。\nそして、植民地保有国である欧米列強の反対により、賛成多数にも関わらず、全会一致でないとして却下された。アメリカでは、差別を受けていた黒人が日本の提案に期待していたが、賛成多数にも関わらず、全会一致でないという理由で却下した自国政府の決定に反発する声が上がった。\nちなみにウィルソン自身は人種差別の撤廃に賛同したようだが、アメリカ議会が反対したようである。\nアメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした国際連盟(こくさい れんめい、英:League of Nations)の設立が決まった。そして1920年に、国際連盟が設立した。国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれた。\nスイスは、永世中立国(えいせい ちゅうりつこく、英: permanently neutralized country)である。中立国とは、戦争の時に、どの外国にも協力しない、ということである。\n(※ べつに、中立は、「戦争をしない」という意味ではないし、「軍隊を持たない」という意味でもない。スイスは軍隊を持っているし、もしスイスが攻め込まれたらスイス国民は自国を守るための戦争を行う。)\nスイスは中立国なので、国際機関の本部の場所として良いだろうと考えられ、スイスが国際連盟の場所に選ばれたのである。\nこの国際連盟と、のちに作られる国際機関の国際連合(こくさい れんごう、英:United Nations、略称:UN ユー・エヌ )とは、べつの組織である。\n国際連合が作られるのは第二次世界大戦のあとであり、第一次世界大戦のあとの時代には国際連合(UN)はまだない。\n国際連盟を提案したアメリカは、国際連盟には加盟していない。アメリカ議会の反対により、アメリカは国際連盟には加盟していない。\n日本人の新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)が、国際連盟の事務局の次長(じちょう)として選ばれた。「次長」というのは役職のひとつで、二番目ぐらいにえらい役職のことである。\n今日(2014年に記述。)の一般の会社でも「次長」(じちょう)という役職があり、社長や部長などの次にえらい役職が次長である。\nなお、国際連盟の常任理事国に、日本が入っている。\n国際連盟は、ヨーロッパ人など白人の国家および列強国を中心とした国際機関であった。当時はアフリカやアジアの多くは列強の植民地であったので、今の国際連合とは違って、国際連盟ではアフリカなどの主権をうったえることが出来なかった。\n第二次大戦後の国際連盟ですらも、国際連合の設立直後は、戦勝国とヨーロッパ諸国など白人の国を中心とした連合であり、当初はアフリカやアジアの多くは植民地のままであり、代表者を国際連合に送ることは出来なかった。\nとはいっても、べつに国際連盟の当時の国際協調の方針は、なにも植民地支配の正当化を目的としたものではないだろう。国際連盟の設立者たちは、もっと単純に、世界平和や有効を願ったのだろう。しかし、当時の現状の前提となる列強の身勝手な植民地支配もあり、やがて国際連盟の加盟国から、たいして植民地を持たないドイツや日本国などが国際連盟に反発していき、列強が二つの陣営に分かれ(植民地を「持つ国」「持たざる国」)、そして国際連盟は機能をしなくなっていく運命にある。\nかといって、当時の帝国主義時代の、植民地をあらそう時代の、欧米の人たちに、もはや植民地を独立させることは国防上からも無理であろう。もう国際連盟の理念と現実との矛盾は、いわば「時代の限界」とでも言うしか無いのだろう。\nもちろん、たとえ「時代の現代」だろうが、列強が植民地支配という「悪」(民族自決の観点から見れば)を行ったことには変わりない。そして日本国すらも、欧米と同様にして朝鮮半島や中国へと植民地支配を広げていった「悪」の国となる。\nこの、植民地支配という悪行のために、やがて列強の各国は、「第二次世界大戦」という、とても手痛い犠牲を払うことになる。\n各国が、おたがいに軍備の保有量を減らして少なくするという軍縮(ぐんしゅく、英:Disarmament)のための会議が、1921年、1922年にアメリカのワシントンで開かれた。この会議を ワシントン会議(Washington Naval Conference) という。\nこのワシントン会議によって、各国の海軍の軍事力を軍縮することが決まった。\nイギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの軍艦の主力艦(しゅりょくかん、英:Capital ship)の保有トン数の比が、\nと、決まった。\n主力艦以外の、補助艦については、まだ決まっていない。\nまた、日本・アメリカ・イギリス・フランスによる、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約(よんかこくじょうやく)が結ばれ、それにともなって日英同盟は廃止(はいし)された。\n交渉の結果、日本は山東省を中国(中華民国)に返すことになったので、中国に山東省を返還した。\n軍縮によって、軍事費の増大にこまっていた日本の政府は助かった。だが、日本国内の一部の強硬派には、軍縮に不満も多かった。\nこのようなワシントン会議によって決まった国際社会の体制を ワシントン体制(ワシントンたいせい、Washington system [3]) と言う。\nワシントン会議では、補助艦の保有トン数の制限については、決まっていなかった。1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が決まった。\nの比率である。\nロンドンはイギリスの首都で、ロンドンでロンドン会議が開かれた。\n第一次世界大戦の戦後処理で、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」(みんぞく じけつ)の理念にもとづき(「どの民族も、他の民族から支配されるべきではない」という思想)、オーストリアからはハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが独立し、ロシアからもポーランドやフィンランドが独立した。\nしかし、この民族自決の理念は、ヨーロッパの民族の自決にだけしか適用されず、アジアやアフリカなどは、欧米の植民地のままであった。\n東欧諸国の独立は、ドイツの封じ込めや、ソ連の封じ込めなどに都合がよい。\n第一次世界大戦の戦中や戦後に、ヨーロッパやアメリカでは、労働者や女性も総力戦に貢献したことから、選挙権を労働者や女性にも拡大するべきと言う要求が強くなっていき、実際に多くの欧米の国で選挙権が拡大された。\n女性の選挙権は、イギリスでは1918年には女性に選挙権が与えられた。アメリカでは1920年に男女の普通選挙が与えられた。\nまた、ドイツでは第一次世界大戦の終了のころに皇帝が退位して共和国となっており、ドイツでは1919年にワイマール憲法が制定され、満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、国民主権となり、労働者が労働組合を作る権利(団結権)が認められた。\nまた、すでに説明したが、ロシアではロシア革命により社会主義・共産主義が成長した。ロシア以外の国でも、社会主義を掲げる運動が活発になった。\n戦中や戦後、ヨーロッパが戦場になって疲弊したこともあり、国際社会での中心的な国が、イギリスからアメリカに、しだいに移っていった。\nアメリカの工業や商業も発展し、ラジオや自動車などが大量生産され普及した。映画やジャズ音楽なども普及した。\n欧米の列強は、アジアの植民地の運動を認めなかった。しかし、ウィルソンの平和原則や、ロシア革命など、民族自決を重視する国際的な風潮に刺激され、インドや中国などのようなアジア各地の植民地では、独立運動がさかんになった。\n日本も植民地として朝鮮半島を支配しており、また中国の満州などに権益を持っており、中国の一部植民地のように支配していたので、それら朝鮮半島や中国では、日本へ反発する運動がさかんになった。\n朝鮮半島では、1919年3月1日に京城(けいじょう、今のソウル)で、民衆が、日本からの独立を求めて「独立万歳」(どくりつばんざい、独立マンセー)と言って行進する運動が起きた。これを三・一独立運動(さん・いち どくりつうんどう)と言う。\nこれをキッカケに朝鮮各地でも、日本からの独立を求める運動が起きた。\nしかし朝鮮総督府は、これらの運動を取り締まり、武力で鎮圧した。\nその一方で、総督府は強圧的な方針の一部をあらため、朝鮮人の権利の一部を拡大し、朝鮮での言論や出版や結社などを、部分的に認めた。\n日本人の思想家である柳宗悦(やなぎ むねよし)は、三・一独立運動に関して、日本の朝鮮支配を批判した。「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。\n中国に権益を持っていた国は日本だけではなくヨーロッパ諸国も同様だが、しかし日本は「二十一か条の要求」で中国に高圧的な要求したばかりという理由もあり、中国での反・帝国主義の運動では、日本が主に敵視された。\n1919年5月4日には、二十一か条の要求の取り消しを求めて、北京(ペキン)で学生による行進があった。これを五・四運動(ご・し うんどう)と言う。これをキッカケに、中国の各地でも、日本への抗議運動が起きた。\n日本の商品などへのボイコットも起きた。\n(「ボイコット」とは不買運動のこと。)\n中華民国は独立国である。なので、「独立運動」とは言わない。たとえ列強に権益を持たれているといっても、いちおう中華民国は独立国である。\nこのような情勢のもと、孫文(そんぶん、スンウェン)は中国国民党(ちゅうごく こくみんとう)を結成した。\nまた、孫文とは別の勢力が、中国共産党(ちゅうごく きょうさんとう)を1921年に結成した。\nなお、孫文は1925年に病死する。孫文の持っていた権力は、孫文の死後は、国民党の軍を掌握していた蒋介石(しょう かいせき、チャンチエシー)が権力をにぎることになる。\nイギリスなど欧米は、インドなど植民地のアジア諸国に対しては、第一次世界大戦中には、戦後の自治の拡大を約束して、協力を呼びかけた。しかし、その約束は守られなかった。\nインドではガンディー (Gandhi)などの主導により、自治やイギリスからの独立を求める運動が起きた。\nガンディーは「非暴力・不服従」( 非暴力 = Non Violence 不服従 = Civil 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けいき)という。\n商人には、うまく商売に成功して、急に大金持ちになるものが出てきた。彼らは「成金」(なりきん)と呼ばれた。将棋で「歩」の駒が裏返ると「と金」になることに例えられたのである。\n特に、船と鉄に関する商売が好景気だったので、船成金(ふねなりきん)などが出てきた。\nまた、日本で商工業が発達したことにより、都市で働く労働者の人口が増えた。\nまた、水力発電がすすんだ。\n連合国は、ロシア革命が周辺国に広がることをおそれ、革命反対派に協力するため、1918年にシベリアに出兵した。イギリス・フランス・アメリカ・日本が出兵。日本は約7万人の軍隊をシベリアに出兵した。これらの出来事をシベリア出兵(シベリアしゅっぺい)という。\n好景気にともない、物価が上昇した。特に戦争により米の輸入が減ったこともあり、米の価格が上昇した。\nまたシベリア出兵のため、米の買占めも起きた。\n米の価格が上昇すると、米の値上がりを期待して取引で儲け(もうけ)ようとする商人などがあらわれはじめ米の買い占めがおこり、ますます米が値上がりしていった。米が急に値上がりしたので、庶民は米が買えなくなり、また、かわりの穀物(こくもつ)も、すぐにはできないので、庶民は食べ物にこまることになった。\n1918年には、富山県で主婦たちが米屋に安売りを要求して暴動がおきたことをきっかけに、全国で米の安売りをもとめる暴動が起きた。\nこれら一連の米に関する騒動(そうどう)を、米騒動(こめそうどう)と言う。\n当時の内閣の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣は、この米騒動により議会で辞職に追い込まれた。\nそして1918年に新しい内閣総理大臣が決まり、立憲政友会の総裁の原敬(はら たかし)が、寺内の次の内閣総理大臣になった。\n原内閣は、軍部と外務大臣以外の大臣が、すべて政党出身(立憲政友会)であり、はじめての本格的な政党内閣だった。\nこのように、好景気にかんして、いろんなことが日本で起きた。\nしかし、ヨーロッパでの世界大戦が終わり、ヨーロッパの産業が回復してくるにつれて、日本は不景気になっていった。1920年には、日本は不景気になっており、多くの会社や工場が倒産(とうさん)した。\n藩閥政治(はんばつ せいじ)を批判し、政党による政治を主張する 護憲運動(ごけん うんどう) が政党から主張された。\n立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)や、立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)などが護憲運動の中心になった。\nそもそも日露戦争後の日本の議会の政権では、政党の立憲政友会を基盤とした内閣と、藩閥・官僚・陸海軍を基盤とした勢力とが、交互に政権を担当していた。\n1912年には、陸軍が軍備増強の要求をしたが、政権を担当する立憲政友会の総裁(そうさい)の西園寺公望(さいおんじ きんもち)の西園寺内閣(さいおんじ ないかく)が財政難を理由に増強案を拒否したので(※ 日露戦争後なので財政難)、内閣に圧力をかけるために陸軍大臣が辞職して、内閣が解散するはめになった。そして、後任の首相には藩閥の支持する桂太郎(かつら たろう)がついた。しかし、民衆がこれに反発し、倒閣運動を起こし(第一次護憲運動、だいいちじ ごけん うんどう)、倒閣運動は日本各地に広がり、桂内閣は50日あまりで倒れた。\nこの第一次護憲運動で、尾崎行雄や犬養毅が運動の中心になったのである。\n護憲運動などにより、民衆の意見を政治に反映すべきだという考えが強まった。\n政治学者の吉野作造(よしの さくぞう)は、民衆の意向を議会や政治に反映させるべきだと説き、吉野は民本主義(みんぽん しゅぎ)を唱えた。「民本」(みんぽん)という語の理由は、当時の日本の主権者は天皇だったので、「民主主義」という語は天皇の主権を侵すことと考えられていたので、「民本」と言う語を吉野は用いた。\nそして、この民本主義の思想によって、普通選挙を要求する運動が強まった。\n以上のように、大正時代には、自由主義、民主主義(デモクラシー)的な社会の風潮があった。このような大正時代の民主的な風潮のことを大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)という。\n1925年の加藤高明(かとう たかあき)内閣で、普通選挙制が成立。満25才以上のすべての男子に選挙権が与えられた。納税額は、選挙権には関係なくなった。まだ、女子には選挙権は無い。\n1928年には、第一回の普通選挙が行われた。\n加藤内閣以降の議会では、衆議院で多数をしめた政党の総裁が首相になることが、「憲政の常道」(けんせい の じょうどう)とされ、五・一五事件(ご・いちご じけん)の起こる1932年まで、おこなわれていった。\n女性の地位の向上や、女子の選挙権の獲得を目指す女性解放運動(じょせい かいほううんどう)が、平塚らいてう(ひらつか らいちょう)などにより主張された。\n平塚らいてうは市川房枝(いちかわ ふさえ)と協力して、1920年に新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。\nなお、青踏社(せいとうしゃ)は文学団体。いっぽう、新婦人協会は政治団体。\nしかし女性の選挙権獲得は、(第二次世界大戦の終結の)1945年まで無い。\n1922年に被差別部落への部落差別の解消をうったえるための全国水平社(ぜんこく すいへいしゃ)が京都で結成した。\nそのほか、北海道では1930年に北海道アイヌ協会が設立された。\n第一次世界大戦が終わり、しばらくの間、世界は、そこそこ平和だったこともあり、また欧米との各国での軍縮に関する条約もあり、日本では軍備が縮小された。\n大正時代には、都市ではガス、水道、電気、電灯が普及した。(※ 水力発電が大正時代に始まったことと関連づけて、電気や電灯が大正時代に普及したことを覚える。)\n工業の発展が背景にあり、そのため専門知識をもつ労働者の必要性が生じ、都市などでは、会社勤めをするサラリーマンがあらわれた。\nそのため、都市の郊外も開発された。このころの新式の住居には、洋間を利用した「文化住宅」(ぶんかじゅうたく)があらわれた。郊外に、このような文化住宅が多く建築され、サラリーマン家庭が住んでいた。\nまた、都市と郊外をつなぐ交通手段としての必要などから、電車や鉄道が使われるようになった。バスも普及した。さらに、東京では地下鉄が、浅草・銀座などに開通した。\nターミナル駅もあらわれた。そのターミナル駅の周辺には、デパートや劇場なども、あらわれた。鉄道会社が中心となって、このような鉄道周辺やターミナル周辺の郊外の開発をすすめた。\n都会にはデパートなどもできた。\n食事では、パンを食べることも広がった。\n洋食屋も普及し、カレーライス、オムレツ、コロッケなどの洋食も普及した。キャラメルやドロップなどの洋菓子も普及してきた。(※ 洋菓子の普及については、清水書院や帝国書院のコラムに記載されている。キャラメルなど、明治大正のころに国産の洋菓子が登場してきた。)\nまた、女性タイピストやバスガールや女性アナウンサー(ラジオ用)などの「職業婦人」(しょくぎょ うふじん)が表れた。男性労働者では、工場や役所などに勤めるサラリーマンが増えてきた。 (※ 発展: )また、役所などのサラリーマンの服装を通じて、背広(せびろ)が普及しはじめた。(※ 清水書院の教科書に、「背広」の記載あり)\n洋服は、先に男性を中心に洋服が普及していたが、大正時代になると女子の洋服も普及してきた。バスガールなどの制服にも、洋服が採用された。また、女学校の制服に洋服(セーラー服など)が取り入れられた。(※ 洋服については、東京書籍や教育出版などに記載あり。)\n義務教育は、ほぼ完全に普及した。さらに、中学校や女学校への進学者も増えてきた。このような背景もあり、雑誌や新聞を読む人が増えた。発行部数(1日の発行部数)が100万部をこえる新聞もあらわれた。\nまた、活字本を読める人も増加したため、当時としては比較的に価格の安い1冊1円の円本(えんぽん)による文学全集シリーズ本が流行した。それからは庶民が比較的気軽に文芸に親しめるようになった。(※ それ以前は、文芸は富裕層だけが楽しめた文化であった。)\n同じころ、文庫本なども出版され始めた。\n大衆小説が流行り、江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)も、この時代に流行った作家である。\nこのような大衆へのメディアの普及が、大正デモクラシーの背景にある。\nラジオ放送が始まったのも、大正時代である。1925年に東京、大阪でラジオ放送が始まった。(※備考. 放送開始の翌年には、東京・大坂・名古屋の放送局が合併して日本放送協会(NHK)が設立した。)\n映画とレコードが、大正時代のころから流行をしはじめる。映画では、アメリカの映画も劇場公開された。\n映画では、はじめは音声がなく、かわりに弁士がセリフや解説をしゃべる無声映画であり、当時は活動写真(かつどう しゃしん)とよばれていた。しかし1920年から、有声映画(ゆうせい えいが、いわゆる「トーキー」)が始まる。\nアメリカ映画やジャズなどの日本での普及を通して、アメリカ的な文化が日本に流入していき、そのようなアメリカの大衆娯楽的な文化は「モダン」と言われた。(※ 帝国書院に記載あり。)\n同じころ、洋服が普及してきたこともあって、私服などで洋服を着ることも「モダン」と言われた。\n街中などで洋装をした若者は、洋服を着た女性なら「モガ」(「モダン・ガール」の略)と言われ、男性なら「モボ」(モダン・ボーイ)などと呼ばれた。\n野球などのスポーツも流行した。テニスも、知られてきた(※ テニスの参考文献: 帝国書院の教科書)。\n競馬も人気に。\n民俗学(みんぞくがく)という、農村の庶民の文化を研究する学問を唱えた柳田国男(やなぎだくにお)が表れた。\n哲学では西田幾多郎(にしだ きたろう)が『善の研究』(ぜん の けんきゅう)をしるし、ドイツ哲学に東洋の禅の思想を加えた解釈を築いた。\n芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)、志賀直哉(しが なおや)、谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)、\n児童向けの文芸雑誌『赤い鳥』には、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(くものいと)が掲載された。\n児童向けの文芸雑誌『赤い鳥』には、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(くものいと)や、新実南吉(にいみなきち)の『ごんぎつね』が掲載された。\n労働組合の指導により、ストライキなどの労働争議(ろうどう そうぎ)が盛んになった。\n労働運動を行っていた友愛会(ゆうあいかい)などの指導により、1920年(大正9年)には日本で最初のメーデーが開かれた。\n1921年には友愛会は日本労働総同盟(にほんろうどうそうどうめい)と改名した。\n農村でも、小作料引き下げなどの要求をする小作争議(こさく そうぎ)が盛んになった。\n1922年には全国的な農民組合である日本農民組合が結成された。\nまた1922年には日本共産党がひそかに結成された。\nまた、1925年の男子普通選挙が実現した年と同年、暴力的な革命運動を取り締まる目的で治安維持法(ちあん いじほう)が1925年に成立した。治安維持法を制定した背景には、ソビエトなどから革命思想が日本に入ってくることを恐れたのだろう、という説が有名である。\nだが、この治安維持法は、本来の目的とはちがい革命とは結びつかない労働運動をも取り締まる目的で悪用されることになり、さらに、のちの時代には政府に反対する者を弾圧するために悪用されることになる。\n1923年に、関東地方で東京と横浜を中心に大地震(だいじしん)が起きた。死者・行方不明者は14万人以上であった。この地震を 関東大震災(かんとう だいしんさい) と言う。\nまた、地震による被害(ひがい)で、日本の不景気が、さらにひどくなった。\nなお、この地震で、「朝鮮人が反乱を、くわだてている」という内容のデマ(「デマ」とは、かんちがいした連絡や伝言などのこと。)が飛び交い、不安にかられた民衆らが、朝鮮人や社会主義者らを殺害する事件が起きたという。殺害された人数については、現代の歴史学では、定説がなく、人数は定まっていない。当事の司法省は230名あまりの朝鮮人が殺害されたと発表した。\n東京に朝鮮人がいた理由は、当時は韓国併合後の時代だったので、仕事などで日本に働きに来ていた朝鮮人がいたのです。\n震災後の復興では、大都市の公共の建築物は、赤レンガから鉄筋コンクリートに置き換えられていった。(帝国書院の教科書に、鉄筋コンクリートの記載あり。)\n復興のさい、火災などの延焼を防ぐため、各地に(建物以外の)公園などを設けた。このような、防火のための、公共の空き地のようなものを、「防火帯」(ぼうかたい)という。隅田公園(すみだ こうえん)は、その役割を持っている。[2]\nまた、小学校に隣接する公園を増やした。これも、後藤新平などが、関東大震災の復興として主導したものである。\nこうした後藤新平らの手法は、その後の災害復興でも参考にされた。1995年の阪神・淡路大震災後の神戸市の復興事業でも,この時の計画が参考とされた。[3]\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに戦争によってヨーロッパが弱体化したので、戦後(第一次世界大戦後)はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。\n1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を世界恐慌(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。\nこのアメリカでの暴落が起きた日が木曜日だったことから、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した(失業率25%)。\n日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。日本では、世界恐慌の起こる前から、たびたび国内で不景気による恐慌が起きていた。1923年には関東大震災で、経済も大きく傾いた。\n日本では1927年に、多くの銀行の倒産や休業があいつぎ、取り付け騒ぎも起こって、金融恐慌(きんゆう きょうこう)が起きていた。(※ 昭和戦前の「金融恐慌」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、覚えた方が良い。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)\nこのような日本国内の金融恐慌にくわえて、世界恐慌が1929年に起きたので、日本は大きく不景気になった。\nアメリカ向けに生糸などの輸出をしていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受け、日本はとてつもなく不景気になった。\nそして日本では、多くの会社が倒産した。このため、三菱や三井・住友などの財閥が倒産した会社の事業を吸収した。だが、このことによって、財閥が大もうけしていると庶民から見られるようになり、財閥が敵視されるようになっていった。\n世界恐慌後、日本では農業が混乱していた。まずアメリカ向けの生糸が売れなくなったことから、日本では生糸の原料の まゆ の価格が暴落し、養蚕業(ようさんぎょう)が衰退した。さらに1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入が減り、農家が苦しくなった。そして翌年の1931年は凶作となり、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りする家も出てきた。\nいっそ農村から脱出して都市で働こうにも、むしろ都市で失業した人が農村にもどってくる状況であった。\nこのように世界恐慌の影響が、日本では1930年ごろから影響があらわれはじめ、昭和恐慌(しょうわ きょうこう)となった。\n(※ 昭和戦前の「昭和恐慌」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)\nこのように日本国民の生活が苦しくなってきたため、労働争議や小作争議が、はげしさを増していった。\n恐慌の名前のつく出来事が、たくさん出てきたので、順序をまとめよう。\nの順序で起きている。\nこのうち、因果関係が直接的にあるのは「世界恐慌 → (日本での)昭和恐慌」である。\n同じころ、第一次大戦後の軍縮のながれがあったので、各国の政府は不景気もあり軍事費をへらすため、軍縮に同意した。\n1930年には、ロンドン海軍軍縮会議に日本も参加して、この条約(ロンドン海軍軍縮条約)に調印した。\n(※ 昭和戦前の「ロンドン海軍軍縮条約」を覚えさせるのは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。)\nしかし、日本の軍人たちの中には、この軍縮を敵視した。そして、この軍縮条約が、天皇の権限を犯しているという口実で、政党を批判する意見が、軍部内に強くなった。\n首相の浜口雄幸(はまぐち おさち)は、過激派の右翼の暴漢におそわれて負傷し、浜口は退陣をした。\nまた、このころ恐慌だったため、政党が財閥の味方をして民衆を苦しめていると考える勢力が、軍部内に多くなり、軍部からは政党を敵視する意見が強くなった。\n(※ なお1928年には、張作霖(ちょうさくりん)を爆殺した事件を、日本の陸軍が起こしている。)\n世界恐慌(1929年に起きる)の起こる前から、イタリアでは1922年にムッソリーニひきいるファシスト党が政権をにぎっていた。\nこのファシスト党が独裁的な政党だったので、このような思想を、のちにファシズムというようになった。\nドイツでは第一次大戦の賠償(ベルサイユ条約にもとづく賠償)で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。\nパンなどの食料品を買うのにすら、手押し車に札束をたくさんつめて買い物をする、という状況であった。\nこのような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれた。\n1933年には、ヒトラーのひきいるナチ党(「ナチス」ともいう)が政権を取った。ヒトラーは公共事業をおこして失業を減らすことに成功したので、ドイツ国民からの支持をあつめた。\nナチスは、ドイツ民族の優秀さを強調するいっぽう、ユダヤ人を迫害し、また共産主義者を敵視した。\nまた、ベルサイユ条約を無視して再軍備をした。このため軍需産業も活発になり、これも景気の回復に役だった。\n日本で世間一般に「ナチ」や「ナチス」と言った場合、ヒトラーの時代の彼らの党のことを言う場合と、ヒトラーらの政権が支配する時代のドイツ軍や、ヒトラー政権時代の軍国主義的なドイツ国全体のことを言う場合がある。\nいちおう、現代では、学術的には、政党名として「ナチス」「ナチ」などというのが基本的とされている。21世紀の現代日本の中学の検定教科書でも、まずヒトラーたちの政党名として「ナチス」「ナチ」などの用語を紹介している。\nしかし、東京書籍(教科書会社のひとつ)の教科書を読むと、ドイツ軍のほうの意味でか、「ナチスは(中略)。(次の文では主語を省略)東方に領土を拡大しました」のように、ドイツ軍またはドイツ国のほうの意味でも「ナチス」と読み取れるような表現もある。\nまた、教育出版(教科書会社のひとつ)の教科書では「ナチ党」のように、政党のことを言う場合には、語尾に「党」をつけている。\n歴史的には、もともと第二次大戦のときに、英米など、第二次大戦でのドイツの交戦相手国が罵倒(ばとう)のような意味で「ナチ」「ナチス」「ナチ・ジャーマニー」(ジャーマニーとはドイツ人のこと)などと言いはじめた経緯(けいい)がある。\nナチ・ジャーマニーという表現については、日本では、「ナチス・ドイツ」などと和訳される。\n\n欧米などの各国は、世界恐慌の負担を、植民地におしつけた。そのため、イギリスとフランスは、本国と植民地とのあいだだけで自給自足をしようとして、外国からの輸入品には高い税金をかけて、追いだそうとした。(このような、外国の商品にかける税金を関税(かんぜい)と言う。つまりイギリスやフランスなどは、輸入品に高い関税をかけた。)\n※「関税」(かんぜい)という言葉も、地理分野や公民分野の範囲なので、おぼえよう。「関税」そのものは、現代でも存在している制度である。\nこのようにして植民地と本国だけからなるブロック内で自給自足する ブロック経済(ブロックけいざい、英:bloc economy) をつくっていった。そのため、今までの自由貿易主義を、イギリスやフランスは、やめていった。\nこうなると、日本やドイツなどの、あまり大きな植民地をもたずに、貿易による輸出で稼いでいた国は、とても経済が苦しくなることになる。実際に、日本の経済は苦しくなっていった。\nイギリスほどの植民地ではないが、日本もまた満州に権益をもっていたので、満州の権益の保護を強めようとした。\nアメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、失業者を減らすために公共事業をたくさん起こすなど、政府が積極的に仕事をつくって経済を回復させるニューディール政策を1933年から行った。\n「ニューディール」とは「新規まき直し」という意味である。\nテネシー川にダムをつくるなどの公共事業を行った。また、政府は労働組合を保護し、労働者の賃金をあげる政策を行った。\nソビエト連邦は、経済が共産主義であり、欧米型の資本主義ではなかったので、あまりソビエトは世界恐慌の影響をうけなかったとされる。\nこのようなこともあり、世界恐慌にくるしむ各国では、ソビエトのように経済における統制をしようとする意見が強まっていく。\nそして、経済だけでなく、政治全体においても統制を強めようとする全体主義(ぜんたいしゅぎ)の意見が、日本でも軍部などを中心に強まっていく。\nこうして、世界恐慌により、全体主義の国が増えていく。\nドイツおよび日本の全体主義的で軍国主義的な思想や傾向は、ファシズムと言われた。元々の意味は、イタリアの政党の「国家ファシスト党」(こっかファシストとう、イタリア語: Partito Nazionale Fascista、PNF))の政治思想が言葉の由来である。\nこのイタリアのファシスト党の政治思想が全体主義的で軍国主義的な思想だったので、このような全体主義的で侵略的な思想をファシズム(fascism)というようになった。そして、このような軍国主義的な傾向をかかげるドイツや日本の政治家を、アメリカやイギリスなどが「ファシスト」(fascist)と批判するようになった。「ファシズム」という用語は、アメリカなどがドイツを批判するためにもちいたのであり、ドイツのナチス党自身はナチス自身の政策のことを「国家社会主義」(こっか しゃかいしゅぎ,ドイツ語: Nationalsozialismus、英語: national socialism)と言っていた。\n(※ 発展: )第二次大戦前後および戦中のドイツ・イタリア・日本の3国の同盟関係をあらわす歴史用語として、「枢軸国」(すうじくこく)という用語がある。\n枢軸国の語源は1936年の「ベルリン=ローマ枢軸」というドイツ・イタリアの協定である。(※ 東京書籍の教科書でも、語源として「ベルリン=ローマ枢軸」という語句だけ紹介している。)\n歴史学では、「ファシズム」という用語は国際的にも学術用語・歴史用語として定着している。\nこの国際的な意味での歴史用語・学術用語として「ファシズム」の意味は、単にドイツとイタリアと日本の、世界恐慌後から第二次大戦終了までの政治の、強権的な政策や、軍備拡張的な政策、対外侵略的な政策のことを言ってるだけです。\n日本国の中学や高校の学校教育での教科書も、国際的な「ファシズム」の意味と同じように、単にドイツ・イタリア・日本に限定して「ファシズム」という用語が使われている。\n「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)である。\nなお、ドイツ・日本・イタリアの3か国とも、ソ連の共産主義を敵視していた。このため、共産主義とファシズムとは、べつべつの思想として取りあつかうのが、現代では普通である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%A8%E5%90%84%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%BF%9C"} {"text": "中華民国では、孫文の亡くなったあと、蒋介石が国民党の実権を握った。一方で、中国には辛亥革命のあと、各地で多くの軍閥が、おたがいにあらそっていた。軍閥の中でも特に有力だったのが、満州から北京一帯を支配する張作霖だった。\n蒋介石の率いる国民政府軍が共産党をおさえて各地の軍閥を倒して統一を進めていた、1927年、国民政府軍が南京で外国の領事館などを襲撃すると、イギリスとアメリカは武力で報復したが、協調外交を進める日本は参加しなかった。これにより、政府の外交政策は軟弱であると批判されることになる。\n1928年には国民党軍は北京にせまった。このとき、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は殺害され、満州占領のきっかけとなる(張作霖爆殺事件)。\n満州現地に駐留していた関東軍は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。\n関東軍は、満州を占領する口実をつくるため、柳条湖ちかくの南満州鉄道の線路を爆破し、中国側のしわざだと断定した。そして、自衛を口実として奉天などの都市を占領し支配下においた。この自作自演の事件を 柳条湖事件という。\nそして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。\n満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。\nこのことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを「傀儡政権」「傀儡国家」などと言われることが多い[1]。\nこのとき日本政府は、中国とは戦争をしない方針だった。しかし、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀 を、満州国の元首にさせた。\nこの一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を満州事変[2] という。\n当時の中華民国は満州国の建国をみとめず、日本と対立した。\n1932年、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は、満州国の承認には反対していた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、犬養を殺す事件をおこした。この事件を 五・一五事件 という。 \n犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強く、犯人の軍人への刑罰を軽くした。このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件がふえていくことになる。\n次の首相は斉藤実(海軍出身)に決まった。そして斉藤内閣は、満州国を承認した。\nその後も軍人や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わったと言われる。\n中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになり、イギリス人のリットンを委員長とする調査団(リットン調査団、英:Lytton Commission) が満州におくられた。\n調査団の報告と分析は、つぎのようなものであった。\nリットン報告書(英:Lytton Report)は満州国建国は否定したものの(なので満州地域の名目上の主権者は中国[3])、日本の権益も認めたものであった。しかし、日本の世論および政府は報告書の提案に反発した。\n日本は満州事変前にも満州の一部(満鉄の付属地など)に権益を持っていたので、その事変前の権益は、事変後にも維持されている。(つまり、決して満州全域から撤退したのではない。[4])\nなお、リットンの調停案では、最終的には実現しなかったが、中国の主権のもと、実際は国際連盟からの外国人顧問による自治政府を作ってはどうか、というものだった[5]。一説には、これは事実上、国際連盟の委任統治とするものだという説もある[6]。\n※ 中学レベルどころか高校レベルでも難しいので、詳細は覚えなくていいだろう。\nしかし、名目上、リットンの調停案では、中国は満州への主権を持っている[7]のも、忘れてはならない。\n日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。\nしかし、この間にも満州では陸軍が占領地を拡大していったこと(熱河作戦)から、日本は国際的な信用を失った。ついに日本は1933年3月に国際連盟から脱退した。\nなお、ドイツも翌1934年に国際連盟を脱退する。このように主要国である日本とドイツが脱退してしまったので、国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまう。\nさて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって工業化が進んだ。満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では、国策による満洲関連の投資や軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興の財閥があらわれた(いわゆる「新興財閥」)。\nしかし農村では、ひきつづき不景気が続いていた。また、満州を開拓する人々を満蒙開拓団として募集したので、日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。日本政府は満州を「王道楽土」「五族協和」などと宣伝し、朝鮮や中国など周辺の地域からも多くの者が満州に移住した。\n1936年、陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などの政府の主要機関や大臣らを襲った。首相の岡田啓介は一命をとりとめたものの、前首相の斉藤実と蔵相の高橋是清などが、反乱軍[8]によって殺害された。\n反乱軍は、日本の不況や国難の原因を政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の政治を行うことをめざした。\n結局、この反乱は4日で鎮圧され、首謀者たちは処刑された。\nしかし、不況を解決できない政党政治への不信や国際協調路線に対する不満などから国民や新聞の多くは、青年将校たちの反乱を賞賛した。このため、以降の政治では、軍部の発言力が強まっていく。\n一部の政党政治家も、政争を自分たちの党に有利に進めるために、国民による軍部の支持を利用して、軍部に理解をしめしたので、議会が軍部につけこまれる原因をつくってしまった。また、議会でも国際協調路線の政治家の発言力が弱まっていく。軍部内でも、外国に対して強硬的な方針の者の発言力が強まり、国際協調などの路線の発言力は弱まっていく。\nそして、軍部に反する言論が取り締まりを受けることになっていった。\n大正デモクラシーの自由主義的な風潮から一転して、昭和初期の日本では、議会の制度はあったものの、しだいに、まるで軍部の支配する国のようになっていく。\n日本は、ワシントン軍縮条約・ロンドン軍縮条約を、アメリカやイギリスと結んでいたが、1936年に軍縮条約が期限をむかえるのに合わせ、軍縮条約を破棄し、日本は軍備を増強していく。\nこうして、第一次大戦後の国際体制の「ワシントン体制」は崩壊していった。\n1930年代の当時の日本経済は、世界恐慌の影響で世界的な不況下だったが、ドルに比べて円安だった時期があって、綿製品や雑貨などが一時的に輸出がふえた。しかし、その後、欧米諸国が日本製品の関税を引き上げた。\nいっぽう、日本では政府が軍需産業に投資を行ったので、重化学工業が発達した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89"} {"text": "\n1937年に盧溝橋事件が何者かにより発生し日中戦争が起こる。宣戦布告 (戦争を始める旨の事前通告) をしないまま、日本軍は中国に侵攻し、特に首都[1]の南京を占領した際に市民や捕虜を殺傷し、多数の死者を出した。これを南京事件という。なおこの事件については、現在残されている資料では規模を完全に把握出来ないというのが実情である。中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗する。\n満州事変以降、日本との関係が悪化し始めていたアメリカやイギリスなどが反発し、中国を援助する政策を取ったこともあり、戦争は長期化する。\n戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また「挙国一致」(国のため一致団結しようというスローガン)の一環として1938年に国家総動員法が成立し、議会の同意なく、戦争に必要な人員や物資の動員が行われることが可能になった。1940年には、ドイツ (ナチス) やソ連の一党独裁を模倣して大政翼賛会を結成した。\n戦後(第二次世界大戦後)の昭和の時代の中学高校の世界史教育では、今では勘違いだが、かつて「日本が中国を侵略していたとき、中国軍はほとんど近代兵器を武装していなかった」と中学校で教えられたと言われている[要出典]。\nだが、これは間違いであると、21世紀の世界史研究で明らかになっている。\nじっさいの中国はアメリカ・イギリスなどから高水準の武器の支援を受け、中国軍は欧米の戦車も持っているという、中国はなかなかの軍事強国の水準でもあった。また、このため、日本軍がなかなか苦戦をしいられた戦場もある。\n1937年7月7日と8日に、北京にある盧溝橋という地区で訓練中の日本軍と中国軍が軍事衝突する[2]事件があった。この事件を盧溝橋事件と言う。[3]ここから、日中間での戦闘が始まる。\nもし日本が宣戦布告をすると、日本は中立国アメリカからの輸入をできなくなったり、資金調達のための国債 (国の借金) を引き受けてもらえなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語を用いて「北支事変」と呼称したが、事変といえど、北支事変は事実上の戦争であり、この北支事変が日中戦争の始まりであるとする中学校の教科書が多いはずだ。\n盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかには、多くの説がある。\n中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって挑発したという説もあるし、日本軍の自作自演説もある。他の説には、中国には国民党と対立していた共産党という勢力がある[4]が、その共産党の陰謀で日本軍と国民党軍との戦争をねらった発砲だという説もあれば、ソビエト連邦のソ連共産党のスパイによる陰謀説もある。\nしかし、真相はいまだ不明である。\n日本軍は1937年8月に上海へ「上海地区に居る日本人の保護」を目的として派兵を行った。この戦闘を第二次上海事変と言う。あるいは、上海戦とも言う。\n上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。日本軍には、「南京を攻略すれば中国に勝てる」という考え (中国一撃論) があった。しかし、国民党の支配者であった蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は継続された。\n12月の南京攻略の際、日本軍により、住民など非戦闘員 (戦いに携わらない人) を含め、かなりの人々が殺害された。この1937年12月から1938年2月の南京で日本軍が多くの南京市民を殺害したとされる事件を 南京事件 と言う[5]。南京大虐殺と呼ばれることもある。\n真偽や実情は今でも不確定であり、研究者などが研究中だ。日本政府は、国民に対し特に南京での住民の殺害の有無についての一切を語ることは無かった。そのため戦後になって極東国際軍事裁判によって多くの日本国民は南京での虐殺を知ることになる。\nこの日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。\nアメリカ・イギリスは、フランス領インドシナから、物資を国民党に援助していた。一方でソビエトは、おもに中国共産党を援助した。\n1938年、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人を (政府が) 動かせるように、国家総動員法を定めた。\n1940年には、近衛文麿内閣のもと、「挙国一致」(国を挙げて1つの目的を実行しようというスローガン)の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、大政翼賛会に合流した。\nその後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは配給制や切符制になった。その他にも、「ほしがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの標語が物資の節約のため唱えられた。\n庶民たちは10戸ごとにまとめられ、「隣組」を組み、協力しあう事とされたとともに、互いに監視させられた。\nもし、このような統制的な風潮に反対すると、「非国民」などとレッテルを貼られ、批判された。\n朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える創氏改名が行われた。朝鮮人の日本への同化政策から、朝鮮人から朝鮮名を奪い、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89"} {"text": "中国大陸で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパではドイツが軍事力を背景にして、オーストリアやチェコスロバキア西部(現在のチェコにあたる。)を併合した。\nイギリスやフランスは、当初はドイツによる併合を認めていた。併合を認めていた理由は、ドイツの占領した地域がオーストリアなど民族的に近い国だったことや、ドイツが植民地を持たないこと、ソビエト連邦を封じ込めるためであった。しかし、ヒトラー率いるドイツは、その後、ポーランドの領土も要求した。イギリスとフランスは、ポーランドの支援を発表したが、ドイツはこれを無視した。\nドイツは、1939年8月にソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上、1939年9月にドイツはポーランド西部に侵攻して占領した。そのため、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告[1]し、ドイツ対イギリス・フランスという列強どうしの戦争に発展した。ソ連もポーランド東部に侵攻して占領した。\nこのドイツによるポーランド侵攻をきっかけとして第二次世界大戦(英語: World War II)が始まった[2]。ただし、まだこのときはアメリカはイギリスの援助にとどまっていた。\n1940年には、ドイツ軍は、デンマークとノルウェーを攻撃し占領した。さらにドイツはオランダおよびベルギーを攻撃。ドイツは1940年にはパリを占領し、フランスを降伏させた。そして、イギリス本土に上陸するためにイギリスへ激しい空襲を行う。\nまた、イタリアが、ドイツ側で参戦した。\nいっぽう、独ソ不可侵条約をむすんでいたソ連はポーランドの東部を占領し、さらにフィンランドを侵略して戦争となった[3]。\n1940年6月にフランスに、ドイツの傀儡政権[4]が建てられた(ヴィシー政権)。しかし、ドイツに抵抗する軍人や政治家はイギリスに亡命して自由フランスという組織を結成し、フランス国内に住む民間人に抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけて抵抗した。\n(※ 「レジスタンス」 英語: resistance )。英語で「抵抗する」をレジスト resist という。\n1941年8月には、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相との間に、大西洋憲章が結ばれた。ドイツに対抗して戦うことを確認した憲章である。このドイツとの戦いを、ファシズム国家による侵略から民主主義を守るための戦い、と宣言した。\n1936年、共産主義国であるソ連に対抗するための、日独防共協定が日本とドイツとの間に結ばれた。また1937年11月にはイタリアが加入し、日独伊防共協定が結ばれた。\nしかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約がむすばれたため、防共協定は、いったん実効性がなくなった。\n日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。この三国の軍事同盟を日独伊三国軍事同盟[5](独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれた。\nこの日独伊三国同盟によって、ドイツとの戦争の最中だったイギリスと、イギリスを支持するアメリカと日本との対立は決定的となった。\nドイツはナチスの政策にもとづき、占領地ではユダヤ人を迫害し、多くのユダヤ人を捕らえ、アウシュビッツ(ポーランド)の収容所など、各地の収容所に送った。ユダヤ人は収容所などで強制労働させられたり、処刑された。このため、ナチスの迫害から逃げるため、多くのユダヤ人が隠れて住んだり、あるいはアメリカなどに亡命[6]した。\nこのユダヤ人への迫害のようすを伝える史料として、ユダヤ人の少女アンネ=フランクが書いた日記が有名である。アンネは衰弱のため、収容所内にて15歳で亡くなった。\nさて、1940年のこと。リトアニアの日本領事館にはドイツに追われたユダヤ人が集まっていた。リトアニアの日本領事館の外交官であった杉原千畝は、同盟国ドイツの意向に反して、杉原は人道の観点からユダヤ人をアメリカなどに逃がすために、途中経路の日本入国のビザを発給した。このため、約6000人のユダヤ人が命をすくわれた。\nこのほか、中国の上海などに逃げようとしていたユダヤ人が、満州国が入国をしぶったために足止めされていたので、日本の陸軍のハルビン機関長の樋口季一郎は、独断で列車の手配をして、通行させた。\nなお、救出されたユダヤ人の人数については、史料ごとに人数が違っており、正確な人数は、よく分かっていない。\n第二次世界大戦が始まった1939年は、日中戦争の最中だった。この頃には、戦争の範囲が拡大しすぎて日本にとっては収拾がつかない状態になっていた。また、アメリカやイギリスは中華民国の蒋介石を支持し、東南アジアなどの植民地から中国を支援していた。そのため、すぐに中国は降伏すると考えていた日本の目論見ははずれ、戦争が長期化していた。日本軍の侵攻は中国の主権と独立の尊重などを取り決めた条約(九カ国条約)違反であるとされ、国際的な孤立も深まった。\n日中戦争の行きづまりを解決するため、アメリカやイギリスによる中国への支援ルートを断ち切ろうとした。石油・ゴム・錫などの資源の確保も重要だった。そのため、1939年に日本軍は東南アジアへの足がかりを求めて中国南部へと侵攻した。その結果、米・英・仏は警戒を強め、アメリカは日本に対して経済制裁を始めた。\n1940年に入ると、ヨーロッパでドイツが次々と勢力を拡大していた。フランスはすでに述べたように、ドイツに占領されて傀儡政権のもとにおかれていた。オランダも国土が占領されて政府はイギリスに亡命していた。イギリスはドイツ軍の空襲を受け、激しい戦いとなっていた。\nこうしたヨーロッパの状況を見た日本は東南アジアへの侵攻を進めた。そのために、1941年、ソ連と日ソ中立条約を結び、北方の安全を確保した。そして、1940~41年にかけてヴィシー政権の要請を受けるという形をとって日本軍はフランス領インドシナ[1]に進駐する。アメリカは日本の行動を侵略的な行動と認定し、日本への石油の輸出を全面禁止した。\nアメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していた。この状況を、日本政府やマスコミは、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutch)の4カ国の頭文字をとった「ABCD包囲網(または「ABCD包囲陣」)」と呼び、国民の敵愾心[2]をあおった。\n日本の近衛内閣は、アメリカと交渉を進める一方、1941年の10月上旬までに交渉が上手くいかなければアメリカ・イギリスとの戦争を始めるという方針を固めた。このときの日本の要求は以下のようなものだった。\nあまりにも都合の良すぎる日本側の提案はアメリカ側に受け入れられず、たちまちタイムリミットである10月がやってきた。しかし、近衛文麿は有効な手を打つことができず、軍・帝国議会・世論の強硬路線をおさえきれなくなった。そのため近衛内閣は総辞職し、陸軍大将の東条英機が新たに首相となった。\n1941年11月26日、アメリカは日本に対して以下のような要求を出した。\nこのときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)という[3]。「ハル・ノート」はあくまでアメリカの原則的な方針を書いたものでしかなかったが、日本はこれを「交渉決裂」と判断した。そして、1941年12月1日にアメリカ・イギリスとの戦争を正式決定した[4]。\n1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾(英:Pearl Harbor)にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃(真珠湾攻撃(英語:Attack on Pearl Harbor))した。真珠湾攻撃の約1時間前には、日本陸軍がマレー半島のイギリス領に上陸し、イギリス軍との戦闘がはじまった。こうして、 主に日本とアメリカ・イギリスが中心となった太平洋方面の戦争を、太平洋戦争(英語:Pacific War または Asia-Pacific War)という[6]。\nこの奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。「Remember Pearl Harbor」(意味:真珠湾を忘れるな! )が、アメリカでのスローガンになった。\n日本のアメリカとの開戦後、ドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦布告した。こうして、日本・ドイツ・イタリアの3カ国を中心とする陣営(枢軸国)と、アメリカ合衆国・イギリス・フランス(自由フランス)・ソビエト連邦・中華民国を中心とする陣営(連合国)とが戦争するという形になった。\n開戦当初、アメリカ・イギリスなどは戦争の準備が十分にできていなかったうえ、アメリカ海軍は真珠湾攻撃で大きな損害を受けていた。このため、日本軍は次々と勢力を拡大することができた。その際、日本は列強諸国によるアジアの植民地を解放するというスローガンを掲げた。そのため、当時の日本では大東亜戦争とよんだ[7]。\nこのように、日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年にミッドウェー海戦で、日本は空母[8]を4隻失うなどの大損害を受け、アメリカに大敗した。その後、アメリカ軍も戦争の準備を整えていったため、ガダルカナル島の戦いなどを経て、日本軍は各地で敗北し、当初の占領地の多くを失った。そればかりでなく、太平洋戦争以前から日本が統治していた地域にもアメリカ軍が迫ってきた。\nまた、日本軍は食料や物資などの補給を軽視していたため、戦況が悪化すると物資の輸送が困難となり、いくつもの戦場で日本兵が餓死した。\nなお、日本政府では、戦局の悪化にともない、議会では首相の東條英機の指導力をうたがう意見が強くなる。サイパンが米軍に占領されて日本列島がアメリカ軍の空襲範囲に入ると、東條は議会の政治家からの支持も失い、1944年(昭和19年)7月に東條内閣は総辞職に追い込まれた。\n日本にとっての太平洋戦争の目的の一つは東南アジアの資源の確保だった。しかし、日本は、表向きの戦争の正当化の理由として、ヨーロッパ諸国による東南アジアでの植民地支配の打倒と解放という理念をかかげた。それを大東亜共栄圏とよんだ。\n当時の東南アジアの地域の人々は、すでに独立運動を始めていた。独立運動の指導者たちは日本と利害が一致したので、当初は日本軍に協力した。\nしかし、日本軍が支配するようになると、独立運動の弾圧、地下資源の独占、食料や物資の略奪、ゴムやジュートなどの軍事的に必要な作物への転換を強制したりするようになった。物資調達には軍票を用いたが、無計画に発行したため現地ではハイパーインフレが起き、経済を混乱させた。また、強制労働にアメリカ・イギリスなどの捕虜以外に現地の人々を動員したが、厳しい労働と少ない食料などから多くの犠牲者を出した。このため、今度は日本への不満が高まった。\n1943年、日本は東京で大東亜会議をひらく。これは1941年8月にアメリカ・イギリスが発表した大西洋憲章に対抗するという目的もあった。タイ、満州、ビルマ、フィリピン、インドなどの代表をあつめ、欧米からの植民地支配の解放などをうたった大東亜共同宣言を発表した。しかし、日本軍による厳しい統治にはかわらなかった。\n日本の劣勢が明らかになると、各地で日本に対する不満がゲリラなどの形でふき出してきた。ビルマ(現・ミャンマー)のように抗日組織が結成され、大規模な武装蜂起を起こした地域もあった。\n第二次世界大戦の開戦直後はドイツ軍が圧倒的な速さで各地を侵攻したが、イギリスへの上陸はできなかった。そのため、ヒトラーは方針を転換し、1941年6月に不可侵条約を結んでいたソ連へと攻め込む(独ソ戦)。ドイツが攻めこんでくることを予想していなかったソ連は敗北を重ねるが、首都のモスクワの手前で踏みとどまり、激しい抵抗を行った。そして、1942~43年のスターリングラード攻防戦でドイツ軍は大敗し、ソ連がドイツ占領地へ侵攻を始めた。\nヨーロッパ西部でも、1944年にアメリカ・イギリス連合軍がフランス北西部のノルマンディーに上陸した。こうして、ドイツはアメリカ・イギリスとソ連にはさみうちにされた。そして、1945年4月30日にヒトラーが自殺し、5月2日にはドイツの首都ベルリンがソ連軍に占領される。1945年5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏した。\nイタリアは1943年7月に連合軍がシチリアに上陸・制圧したことで、ムッソリーニは失脚に追い込まれる。1943年9月にはイタリアは連合国軍に降伏した。\nこうして、ヨーロッパでの戦闘は終わった。\nアメリカ・イギリス・ソ連の代表は、1945年2月にソ連のヤルタで、ドイツの戦後処理について話していた( ヤルタ会談)。\nこのヤルタ会談では、日本との戦争の対応についても話し合われ、密約として、ソ連の対日参戦と千島列島・樺太の領有が認められた。\nそして3カ国の代表は1945年7月には、日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談し、ポツダム宣言をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国の名で発表した。\n戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。1943年、それまで徴兵をされていなかった文科系の大学生も兵士として動員された。これを学徒出陣という。徴兵されなかった理科系の学生、女学生、中学生なども工場などの仕事に動員されて働かされた(勤労動員)。\nまた、生活物資とくに食糧の不足はますます深刻になっていった。普通の店で買える品物は極端に少なくなる一方、軍や軍需工場は違法な買い占めを行っていた。その上、物資の横流しも横行していたため、軍に対する反感は強まっていたが、治安維持法などで取りしまられていたので、表に出ることはなかった。\n朝鮮や台湾では、反乱や自治権を要求されることなどをおそれ、徴兵は行われなかった。しかし、もはや兵力や労働力の不足は極めて深刻だった。はじめは労働者の動員にとどまっていたが、やがて朝鮮や台湾でも徴兵を実施された。徴兵された朝鮮人・台湾人は戦線に出るのではなく、連合国兵士の捕虜監視の役割を当てられることがあり、戦後、戦犯と認定されることもあった(※ 中学範囲外: BC級戦犯)。\nアメリカ軍がサイパン島を占領すると、サイパン島から飛び立ったアメリカ軍の大型爆撃機B29によって、日本の各地が空襲されるようになる。都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む、疎開をさせられた(学童疎開)。\n当初は軍事施設や工場だけを標的にしていたが、効果が薄かったため、都市を無差別に攻撃するようになった[1]。B29は焼夷弾[2]を投下し、日本の都市を焼き払った。\n1945年3月10日の東京大空襲では、約10万人の人が亡くなった。その後は、大阪や名古屋など日本全国の主要な都市が空襲にあい、多くの人命が失われた。\n1944年になると、沖縄での戦闘が始まる可能性が高くなり、沖縄の住民たちは疎開のため九州や台湾に移動した。しかし、アメリカ軍の潜水艦によって、民間船が撃沈されることも激増した。特に疎開する学童を多く乗せた疎開船・対馬丸が撃沈され、多数の犠牲者が出た事件は現在でもよく知られている。\n1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、日本軍と地上戦になった(沖縄戦)。沖縄では根こそぎ動員と呼ばれ、成人男性だけでなく、中学生は兵士として、女学生は看護婦などとして動員された。そのため、被害は軍人・兵士だけでなく、一般市民の犠牲も多大だった。\nまた、日本軍によって、集団自決をせまられた沖縄県民も多くいたという[3]。「洞窟に沖縄住民とともに隠れた日本軍は、泣きやまぬ乳幼児がいると米軍に発見されないためにと乳幼児を殺害した」「禁止されていた方言を話した地元住民が、スパイ容疑で殺害されたりもした」という事例もあったという。\nこうして、米軍との戦闘だけでなく、様々な要因で沖縄県民のうち約5分の1から4分の1にあたる約12万人が亡くなった。\n1945年6月23日、日本軍の現地司令官は、もはや日本軍は力つきたとして自決した。こうして、日本軍の組織的な抵抗は終わり、沖縄はアメリカ軍に占領された。しかし、日本軍の一部はその後も沖縄各地にひそんで、戦闘はその後(終戦後の9月7日ごろまで)も続いた。\nドイツが降伏し、沖縄戦での敗色が濃厚になる中、日本政府はソ連を仲立ちとしてアメリカなどと講和することを模索しはじめた。しかし、ドイツの降伏後、日本との戦争を決めていたソ連は日本政府との交渉には消極的だった。\n一方、1945年7月には、アメリカ・イギリス・ソ連の三か国は日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談し、ポツダム宣言をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国[4]の名で発表した。\nポツダム宣言(要約、抜粋、現代語訳)\nこのとき、日本はポツダム宣言を「黙殺」すると発表したが、これはアメリカ側からは「拒否」と受け取られた。\nアメリカは1945年の8月6日に広島に原子爆弾(略して原爆)を投下した。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどが亡くなった。\nまた、8月8日、ソ連は日ソ中立条約をやぶって満州に攻めこんだ。こうして、日本が計画していた「ソ連を仲立ちとする講和」という方針は完全に破綻した。8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れることを正式に決定し、連合国に通達した。\n1945年(昭和20年)の8月15日、ラジオ放送で天皇が国民に日本の降伏を発表した。こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は終わった[5]。\n「大本営」とは、戦時中の日本軍の本部のこと。日本政府による公式な戦況の報告が大本営発表である。当初は比較的正確だったが、日本政府は戦況が不利になっても、国民の戦意を低下させないために、ウソの発表をしたり、あたかも勝利してるかのように新聞などでの表現を変えさせた。そのため、戦局が悪化して誰の目にも日本の不利が明らかとなると国民の信頼を失った。有名な表現は、日本軍の退却・撤退とはいわず、あたかも単に軍の進行の方角を変更しただけのようにみせかける「転進」、部隊などの全滅を美化する「玉砕」などがある。\n現代でも、政府や企業などによる、自分に都合よく信用できない発表のことを「大本営発表」という。\n(資料集で名前だけ紹介されることが多い)\n零戦は日本海軍の艦隊や航空機を敵方の航空機から護衛する戦闘機の一種で、太平洋戦争中の主力戦闘機だった。正式名称は「零式艦上戦闘機」。零戦の他に「ゼロ戦」「零式艦戦」などとも呼ばれる。\n「特別攻撃隊」の略。特攻は日本軍が戦争末期にとった、航空機や特攻用に開発された人間爆弾「桜花」による体当たり戦法で、特攻隊はこれを行う部隊。特攻兵器に脱出装置はないため、パイロットは確実に死ぬ。「神風特攻隊」が有名である。形式的には志願だったが、実質的に強制されることが多かった。特攻のような攻撃はドイツやソ連でも行われてはいた。しかし、最初から生還を前提にしていないことや規模、組織的な戦法という点で日本が際立っている。ほかにも、1~2人乗り潜水艦に爆薬をつめた人間魚雷「回天」、モーターボートに爆薬を載せた「震洋」による特攻もあった。\n大和は世界最大の戦艦である。沖縄戦の最中、大和をはじめとした軍艦10隻が沖縄に派遣された。しかし、途中でアメリカ海軍の艦隊に遭遇し、アメリカ海軍の航空母艦の艦載機による攻撃をうけて撃沈された。大和を攻撃したアメリカ軍の軍人は、まるで巨大な島を攻撃しているかの様な感覚に陥ったという。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6"} {"text": "\n1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領される。\nアメリカの占領時の方針として、日本の政治体制を変え、未来においてアメリカの脅威にならないよう導く意図があった。その中で、日本を「民主化」(みんしゅか)するという理念も掲げられた。\n終戦後の日本政府の上層にアメリカ軍の 連合国軍総司令部(れんごうこくぐん そうしれいぶ)であるGHQ(ジー・エイチ・キュー、General Headquarters ゼネラル・ヘッドクォーターズ の略)が位置するという、暫定的な統治システムが作られた。\n一方、沖縄や奄美(あまみ)や小笠原諸島(おがさわら しょとう)は、アメリカが直接統治することになった。\nGHQの最高司令官はマッカーサーというアメリカ軍人。\n占領政策では、まずポツダム宣言にもとづき、日本軍を解散させた。\nマッカーサーは、日本に来る数年前の時代、フィリピンでアメリカ軍を指揮していた。\nしかし、フィリピン方面での日米の戦争が激化すると、アメリカ本土はフィリピンをあまり戦略的に重要でないと判断し、マッカーサーをオーストラリア方面の司令官に変えさせた。\nフィリピン方面から外されたマッカーサーは不満を感じ「私はまた戻ってくるだろう」という意味の \"I shall return.\" アイ シャル リターン という発言をした。\nその後、太平洋方面のアメリカ艦隊は勝利をつづけ、ついに日本を占領する。マッカーサーはGHQの最高司令官になり、フィリピンではなく、日本と深く関わることになる。\nアメリカによる日本占領開始の前後のころのマッカーサーの階級は「元帥」(げんすい)。日本では「マッカーサー元帥」などと呼ばれる場合もよくある。\n軍隊内部では序列をきめる階級があって、例えば戦争映画などでは「軍曹」(ぐんそう)とか「二等兵」(にとうへい)とか「大佐」(たいさ、だいさ)とか、様々な呼称がなされるが、これら3つ(軍曹、二等兵、大佐)はすべて実在する階級。 「元帥」(げんすい)というのは、軍隊内部で最上級の階級である。\nただし、日本軍では「元帥」と「大元帥」(だいげんすい)は階級ではなく、称号、勲章に分類される。\n戦争を指導した人間は、戦争犯罪人(せんそうはんざいにん)として、裁判にかけられ、東条英機以下 7名が死刑になった。\nこの戦争指導者をさばいた裁判を極東国際軍事裁判 (通称・東京裁判)という。\n(※ 範囲外の注記:) 厳密には「戦争犯罪」というのは戦争指導者だけではないが(捕虜の虐待や民間人虐殺も国際法違反で戦争犯罪なので)、しかし東京書籍の検定教科書では東条英機など指導者を「戦争犯罪人」として表記している。\n戦争犯罪として裁かれたのは敗戦国がおこなった行為だけであり、アメリカやソビエトなどの戦勝国のおこなった民間人殺害などの戦争犯罪については裁かれなかった。また、裁かれ、刑罰を受けた人物にもかたよりがあった。\nなお、サンフランシスコ講和条約の規定により、日本政府は主権回復と引き換えに東京裁判を受け入れる事に同意し国際条約として締結された。そのため、後の占領終了後に日本政府は東京裁判の判決を引きつづき受け入れ、現在(2019年)にいたる。\n「A級戦犯」とは、この東京裁判で死刑になった東条英機以下 7名と、戦争への指導的な協力者として逮捕されたそのほかの関係者のこと。\nなお、国際法(こくさいほう)では「戦争犯罪」(せんそう はんざい)という言葉の内容は、戦争の指導にかぎらず、捕虜(ほりょ)の虐待や民間人の殺傷なども含む。\n東京裁判において、連合国が戦争犯罪の内容をもとに罪を3種類に A級, B級, C級 に分類して、そのうち戦争指導を犯罪行為としてA級に分類したので、東京裁判で戦争指導者として裁かれた東条英機など7名ほかのことを「A級戦犯」という。\n天皇は戦争犯罪人として指定されていない。\nA級、B級、C級の分類は\nというように、罪の重さではなく、罪の種類を表している。\n戦争犯罪人として裁かれた政治家・軍人のほかにも、連合国によって軍国主義的とみなされた政治家や公務員達が、それらの公職から追放された。\n1946年には、あたらしい憲法の日本国憲法(にほんこく けんぽう)が交付された。\nこの日本国憲法はGHQがつくった憲法案を、日本の議会が採択したものである。\nこの新憲法の日本国憲法では、 国民主権(こくみんしゅけん) ・ 基本的人権の尊重 (きほんてきじんけん の そんちょう)・ 平和主義(へいわしゅぎ) の3つの原則が掲げられた。\n天皇は政治の主権者でなくなった。日本国民の統合の象徴になった。戦後の主権者は日本国民である。(戦後の天皇が国の元首であるかどうかについては様々な議論があり、こういう場で断定的に記述すべきものではない)\nまた、民法も改正され、父親の権限が強かった家制度が廃止された。家庭においては、男女の法的な権利は対等になった。夫と妻の法的な権利も対等。また、長男を優遇するような決まりもなくなった。相続では兄弟姉妹が均分に相続することになった。\n戦時中に政治犯として捕まっていた人は釈放され、言論の自由がかかげられたが、あくまでも占領者のアメリカ主導の自由であった。\n戦前や戦中は規制を受けたり禁止された政治運動や政治団体も、合法化した。\n北海道アイヌ協会も再建。部落解放同盟も再建。日本共産党が合法化された。\n1946年に昭和天皇は占領当局の意向に同意し、自分(天皇)は神ではなく人間\nであると宣言した。\nだが一方で、アメリカに不都合な主張は検閲(けんえつ)され、また戦時中の戦争指導者を擁護(ようご)するような主張も検閲(けんえつ)された。\nつまり、言論の自由や出版の自由など一応は保証されたが、アメリカなど連合国に不都合な言論については弾圧された。\n国家主義者の団体と見なされたり、連合国にとって不都合な団体は解散させられた。\n戦前や戦争中の日本の外国への軍事行動を「侵略」と批判する主張は許可されても、イギリスやフランスなどの東南アジアやアフリカでの植民地支配を批判するような主張はほとんど許可されなかった。\n戦前の日本はまったく民主的ではなかった、という主張はまちがいであろう。明治憲法は当時としてはかなり民主的であり、また、戦前にも普通選挙はあった。戦前の日本の立場について、擁護したり、戦勝国の言い分に反論を述べると、「軍国主義者」などと批判する悪弊は、当時も今もこの国で見られる。\nしかし事実上様々な民主的な政策が、占領下の改革で行われた。\n他にも、占領軍が民主化であると考えた幾つか(いくつか)の政策が実行された。\nいっぽう、かつて日本に併合されていた朝鮮半島では、1945年9月2日に、北緯38度より北にソ連軍が進出してソ連に占領され、また朝鮮半島の南半分にはアメリカ軍が進出してきた。1948年に朝鮮半島で半島の南側には大韓民国(だいかん みんこく)が独立し、同じ年に半島の北側では北朝鮮(「きたちょうせん」、正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく) )が独立する。\n満洲はソ連軍の軍政下に入り、そのあと中華民国に渡された。\n日本のポツダム宣言受諾の通告の時期よりも前、ソビエト連邦は1945年の8月8日に満州に侵攻した。現地がかなり深刻で悲惨な混乱状態になった後、日本人の捕虜はシベリアなどのソ連領に連行されて、労働力として酷使(こくし)された。(シベリア抑留(シベリアよくりゅう))。\nこのため、6万人以上の日本人が死亡した。\nこのソ連によるシベリア抑留は、ポツダム宣言に違反した行為である。ポツダム宣言の条件文は、日本への条件だけでなく、戦勝国どうしにも条件をつけていて、その約束にソ連は違反している。宣言の第9項目では、武装解除した日本兵は日本に送りかえすことを、連合国どうしで約束している。\n台湾は、中華民国に編入された。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%86%8D%E5%BB%BA"} {"text": "人類は二度の世界大戦を経てその悲惨さ(ひさんさ)から、欧米各国は「戦争は望ましくない」と考えるようになり、国家間の対立についてはなるべく交渉によって解決するべきだと考えるようになった。\n第二次大戦のときにあった連合国(United Nations ユナイテッド・ネイションズ)は、第二次大戦の戦後には、あらたな戦争をふせぐために国際政治を話しあう国際機関である国際連合(United Nations)を1945年に作った。\nここで復習をしよう。国際連合と同じ役割をしていた国際機関を「国際連盟」といった。しかし第二次世界大戦を止められなかったことや制裁手段、加盟国の関係でこの国際連盟ではなく国際連合がつくられたのである。\n国際連合の設立はアメリカのルーズベルト大統領の提案による。\n日本では国際連合のことを「国連(こくれん)」と略すことも多い。\n国連の本部は、アメリカのニューヨークにある。\nまた、主要国が国際政治をはなし合う場所を国際連合にかえたことで前にあった国際連盟は、自然に消えた。\n国際連盟の常任理事国は、第二次大戦の連合国の主要国である。国際連合の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5か国である。\nまた、戦時中の連合国が元になってるので、日本やドイツを「敵国」として認定する旧敵国条項(きゅうてきこくじょうこう)が、今(本文を2014年に記述)でも残っている。\n第二次世界大戦後、世界の国々はアメリカやイギリスを中心とする「西側」の陣営と、ソビエトを中心とする「東側」の陣営にわかれた。「西側」とか「東側」とは、ヨーロッパを中心とした地図での話だからである。ソビエト連邦のあった(現在の)ロシアはヨーロッパの東側にある上、ヨーロッパ東部にはロシアに占領された地域が多かったので、このような呼び名になった。\nいっぽう、アメリカはヨーロッパから見れば大西洋をはさんで西側にアメリカがある。\nこの米英の西側陣営と、ソビエトの東側陣営との対立を冷たい戦争あるいは冷戦(英:Cold War)という。アメリカとソ連とが直接、戦争をすることはなかった[1]。\nソ連の経済の体制が共産主義という私有財産や私企業を認めない制度であったので、冷戦は米英のような資本主義の陣営とソ連を中心とした共産主義の陣営との対立であるだろう、というような見方をされることもある。\n1989年にソビエト連邦が崩壊してロシアなどのいくつかの国に分かれるまで、冷戦が続いた。\nソ連が崩壊したので、冷戦ではソ連が負け、アメリカが勝ったと言えるかもしれない(あくまでもソ連は『崩壊』したにすぎない。西側に敗れたわけではない)。\nドイツは米ソの方針の違いから「米英仏」の西側と「ソ連」の東側に分断して占領された(第二次世界大戦にナチス・ドイツだったため戦争で占領された)。その後1949年には東西が別々の国として独立した。西ドイツが西側陣営の資本主義国であり、東ドイツが東側陣営の共産主義国である。ドイツの首都であるベルリンでは1961年に東西ドイツの境界にベルリンの壁が築かれた。\nまた、軍事同盟として西側は自由主義・資本主義のヨーロッパの国同士およびアメリカと北大西洋条約機構(きたたいせいよう じょうやく きこう、略称:NATO ナトー)を1949年に結んだ。いっぽう、西側の共産主義・社会主義陣営であるソ連と東欧諸国はワルシャワ条約機構を1950年に結んだ。そして北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構とは対立した。\n米ソの両陣営は、軍拡競争(互いに相手より強い軍隊や武器をつくること)をした。両陣営とも、核兵器を開発した(第二次世界大戦中に)。\n\n欧米の植民地となっていた国々では、第二次世界大戦後に、次々と独立運動がおこり、独立していった。\nとくに東南アジアや南アジアでは、独立運動が戦後もつづいており、インドネシアやベトナムやインドなどの国々が独立していった。\nアフリカでは1960年に独立が相次ぎ17カ国ほどが独立し「アフリカの年」と言われた。\n第二次世界大戦が終結すると国民党とソビエトの支援を受けた中国共産党と国民党とが対立し、内戦となった。\n内戦には共産党が勝利し、中国本土には1949年、 中華人民共和国が成立した。共産党の指導者であった 毛沢東 が主席に就任した。\nいっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾に逃れた。このため、台湾は今も中華民国のままだ。こうした経緯のために、中国は「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。\n朝鮮半島では、日本敗戦後、ソ連とアメリカが占領しあってそれぞれ北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)となった。そして、1951年に北朝鮮が韓国に攻め込んで朝鮮戦争(英:Korean War) が起きた。\nアメリカ軍を主力とする国連軍(こくれんぐん、United Nations Force ユナイテッド・ネイションズ・フォース)が韓国をたすけて北朝鮮軍と戦闘。中国は同じ共産主義の北朝鮮をたすけて、「義勇軍」(ぎゆうぐん)という名目で、じっさいには正規の部隊である中国軍をおくり、中国軍(同じ共産主義のソ連はアメリカと直接対決するわけにはいかないのでソ連の援軍が中国軍に混じっていた)と国連軍とが戦闘した。すなわち、中国軍(一部はソ連軍)と国連軍(大部分をアメリカ軍が占める)が対戦したことにもなるので、冷戦の章でいった「西側と東側の直接対決」は実はあったことになる。\nこの国連軍と中国・北朝鮮軍との戦闘は休戦協定が1953年に結ばれるまで続く(あくまで「休戦」であり「終戦」ではないので国際法上は今も戦闘状態にあるが、現在それの「終戦宣言」をしようという話がある)。\n朝鮮戦争によりアメリカ軍が苦しくなると、アメリカは日本を西側の陣営にくわえようとしたので、日本の占領政策を変えた。\nアメリカは日本に軍隊をつくらせようとしたが、日本国憲法のしばりがあって軍隊をつくれないのでかわりに「警察予備隊」(けいさつ よびたい)という組織を日本につくらせた。\nおそらく、「軍隊」とは呼べないので、かわりに「警察」と呼びたい、というわけなのだろう。\n警察予備隊の装備はそのころの時代の軍隊の歩兵に近い(というか現在は一緒)銃火器を装備したり、警察予備隊の訓練はアメリカ軍の指導のもとにおこなわれたりなど、どう見ても軍隊としか思えない「警察予備隊」であった。\nそのあと、警察予備隊は1952年に「保安隊」(ほあんたい)に発展し、さらに保安隊から1954年には自衛隊になった。\n朝鮮戦争で経済的には日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたために日本は好景気になった。この朝鮮戦争のときの好景気は、「特需」(とくじゅ)と言われた。\nまた、これらの警察予備隊や自衛隊などの創設のさい、旧軍人の公職復帰などの規制が緩和された。\n朝鮮戦争の前後からアメリカと共産主義陣営のソビエトとの対立という構図がしだいにアメリカの目に明らかになり、そのためGHQは1950年ごろから日本での政府・行政の公職から共産党系や共産主義者とみなした人物を追放した。これをレッドパージという。\nさらに、マスコミや民間企業などにも、この動きが拡大した。\n朝鮮戦争などがあったためアメリカは日本を西側の陣営に加えようとした。そのため、アメリカは米軍基地の存続を条件に日本の独立を早めようとした。\nそのための講和会議がひらかれることになり、1951年9月にアメリカのサンフランシスコで講和会議がひらかれた。そして日本国は西側陣営である自由主義諸国などの48カ国とのあいだに サンフランシスコ平和条約(英:Treaty of Peace with Japan) を結んだ。\nこうしてアメリカ・フランス・カナダ・オランダ・ベルギー・オーストラリアなどをはじめとした48カ国と平和条約がむすばれた。\nこのころの日本の首相は吉田茂(よしだ しげる)である。日本国は吉田茂首相を全権にしてサンフランシスコ平和条約に調印した。\nそして翌年の1952年には、日本は独立を回復し、主権を回復した。この条約によって、GHQは廃止された。\nしかし、沖縄はひきつづきアメリカの統治下におかれることになった。\nなお、ソ連など東側諸国とはサンフランシスコ平和条約を結んでいない。ソ連は日本の北方領土の国後島などを不法に占拠しているので、講和を見送った。ソ連と日本の国交回復は、1956年の日ソ共同宣言(にっそ きょうどうせんげん)まで待たなければならない。\nまた、サンフランシスコ平和条約といっしょに、日本国内のアメリカ軍基地にひきつづきアメリカ軍がとどまるための条約である 日米安全保障条約(にちべい あんぜん ほしょう じょうやく、英:Security Treaty Between the United States and Japan) が日本とアメリカとのあいだで、むすばれた。略して「安保」(あんぽ)とか、「安保条約」(あんぽじょうやく)とか、「日米安保」(にちべいあんぽ)などと言う場合もある。\n日本は、独立後もしばらくは国際連合の加盟はできなかった。なぜなら、常任理事国であるソ連が日本の加盟に反対していたからである。しかし、1956年の鳩山一郎内閣の時代に日ソ共同宣言がむすばれて日本とソ連との国交が回復したこともあり、ソ連も日本の国連加盟に反対をしなくなり、1956年に国際連合の加入を認められた。日本では、この1956年の国連加盟をもって「国際社会へと復帰した」という意見が多い。\n1955年(昭和30年)、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され、参加国としてインド・中国・エジプト・インドネシアなど29ヶ国があつまり、帝国主義の植民地支配に反対することが決められた。また、平和共存をうったえた。反帝国主義・平和共存の「平和10原則」(へいわ じゅうげんそく)が宣言された。この会議にあつまったこれらの国々は、「第三世界」(Third World [2])と呼ばれた。\n1954年、アメリカは水素爆弾の実験を、太平洋のビキニ環礁で実験した。日本の漁船、第五福竜丸(だいご ふくりゅうまる)などが被ばくする事件があった。これをきっかけに、日本国内で原水爆禁止運動が広がる。\nこのころ、社会党などが安保条約や自衛隊に反対した。\n1955年に自由民主党( じゆうみんしゅとう、略:自民党(じみんとう) )が結成され、長期政権が続いた。自民党は野党の社会党(日本社会党)などと対立した。この1955年から長く続いた自民党を与党とした長期政権の体制で、野党として主に社会党が対抗していた体制のことを55年体制(ごじゅうごねんたいせい)という。(この時代、野党第一党が社会党だった。)\n1960年、日本政府は日米安保条約を改定し、与党自民党の岸信介(きし のぶすけ)内閣によって新安保条約(しん あんぽじょうやく)がアメリカと結ばれた。この条約によって、日本が他国から攻撃を受けた場合に日米共同で防衛義務があることが決まった。\nそして、この安保に反対する国民が多く、反対派の野党や国民によって、新安保への大きな反対運動が起きた。安保反対派は、安保のせいで日本がアメリカの戦争に巻き込まれる、などと主張し反対運動を行った。\nしかし、自民党は国会の手続きどおりに採決を行った。強行採決と批判された。\n1960年5月〜6月には国会前で大きな安保反対デモが起きた。このような、新旧の安保条約に対する一連の反対運動を安保闘争(あんぽ とうそう)という。\nなお、岸内閣は新安保条約が成立・発効するまでは内閣を続けて発効を見届け、条約が発効したのち、岸内閣は総辞職して退陣した。\n1962年、ソ連がキューバにミサイルを配置し、アメリカとの緊張が高まる(キューバはアメリカに近いが東側陣営)。アメリカとソ連との交渉の結果、最終的にソ連はミサイルを撤去した。このできごとをキューバ危機という。\nなお、この事件をきっかけに、米ソの首相間の直通電話(ホットライン)が設置された。\nまた、このキューバ危機の当時のアメリカの大統領はケネディ大統領で、ソ連の首相はフルシチョフ首相である。\nちなみに、この危機よりも前、キューバでは革命が1959年(昭和34年)に起きており、カストロやゲバラによって革命が行われて、それまでの親米政権が倒されて、革命後のキューバは反米政権になっていた。そのため、東側陣営であったのである。\nちなみに危機の前年の1961年は、ベルリンの壁が建設された年である。\n1960年代前半のベトナムでは、ソ連・中国の支持する東側陣営の北ベトナムと、アメリカの支持する西側陣営の南ベトナムとのあいだで、ベトナムの南北の対立から発展した内戦が起きていた。アメリカは南ベトナムを支援するため、1965年にはアメリカが北ベトナムを爆撃し、さらにアメリカは地上軍をベトナムに派遣して参戦した(ベトナム戦争)。しかし、北ベトナムもソ連・中国の支援を受けていたことから、北ベトナムはもちこたえ、戦争は長引いた。そして世界的に反戦運動が起こり、アメリカ国内でも反戦運動が起こり、そのこともあって1973年にはアメリカ軍はベトナムから撤退した。そして北ベトナムが南ベトナムに侵攻し、ベトナムの南北が共産主義に統一された。こうしてアメリカが、ベトナム戦争では、敗れる結果となった。\nなお、日本ではベトナム戦争中に沖縄の米軍基地がベトナム戦争のための戦闘機の拠点として活用されていたので、それに対する批判が起こった。(なお、沖縄が日本に返還された年は1972年である。)(※ 範囲外: ベトナム戦争で、沖縄からアメリカ軍の爆撃機(B-52など)が飛び立ち、北ベトナムに爆撃を行った。「B-52」とか範囲外なので、機種名は暗記しなくてよい。ただし、「爆撃機」くらいは、出来れば覚えてほしい。)\nベトナム戦争中は北ベトナムはゲリラ戦で対抗した。アメリカ軍は北ベトナム軍のひそむジャングルを枯らすため、枯葉剤(かれはざい)をベトナムのジャングルにまいた。枯葉剤は人体にも毒性が強く、そのため、ベトナムのジャングルの多くの住民に健康被害が出た。\n※ 未記述\n二度の世界大戦をへて反戦の気運(きうん)が世界各国で高まったにも拘わらず、第二次大戦後の時代でも戦争は無くならなかった。朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)などの中学歴史の学校教科書で説明している戦争以外にも、ベトナム戦争(1960年)、中ソ紛争(中国とソビエトの対立した戦争、1969年)、中越戦争(中国とベトナムの対立。「ちゅうえつ せんそう」、1979年)、中印戦争(中国とインドの対立。「ちゅういん せんそう」。1962年)、インド・パキスタン戦争(インドとパキスタンの対立。1947年)、フォークランド戦争(イギリスとアルゼンチンの対立、1982年)、アフガン紛争(1978年)、イラン・イラク戦争(イランとイラクが対立。1980年)など・・・、さまざまな紛争が、第二次大戦後でも起きている。\n(※ 「フォークランド戦争」「アフガン紛争」は、中学の範囲外なのでいまのところおぼえなくて良い。「朝鮮戦争」(ちょうせん せんそう)などの覚える必要のある戦争名は他の節で提示する。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%86%B7%E6%88%A6"} {"text": "朝鮮戦争による特需による好景気もあり、日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどった。\n1956年に政府が出した経済白書では「もはや戦後ではない。」とまで書かれている。\n1950年代のなかごろから重化学工業が発達していった。\n1960年に、内閣の池田勇人(いけだ はやと)首相は、「所得倍増計画」(しょとくばいぞう)を目標にかかげた。\n好景気により、日本人の所得は増え、1968年には所得が倍増し、目標が達成された。\nこの好景気は1970年代の前半まで、つづく。\n「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)\n白黒テレビ・電気式洗濯機・電気式冷蔵庫の3つの製品が普及し、「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が「三種の神器」と言われた。\nこの1960年〜1970年代ころの好景気による日本の経済力の成長のことを、高度経済成長(こうど けいざいせいちょう)と言う。\nアジアで最初のオリンピック(Olympic)が、1964年に東京で開かれた。(東京オリンピック)\nまた、東京オリンピックに合わせて新幹線(しんかんせん)もつくられ、東海道新幹線(とうかいどう しんかんせん)が開通した。\n1970年には、大阪で万国博覧会(ばんこくはくらんかい、英: Universal Exposition, 仏: Exposition universelle)が、ひらかれた。そんな中で戦後の文化も形成されていった。(詳しくは中学校社会 歴史/検定教科書で紹介されているコラム的話題などのページを参照してください。)\n1972年に沖縄は日本に返還された。\nアメリカはソ連との冷戦を有利にすすめるため、中国大陸を支配している共産党の政府である中華人民共和国の政府と、1960年代ごろからアメリカは友好をむすんだ。\nアメリカに軍事的に守られている日本も、このような国際的な流れに乗り、1972年の田中角栄(たなか かくえい)内閣のときに、日本は、それまで承認していた台湾の中華民国にかえて、中国大陸の中華人民共和国の政府を承認した。これにともない、日本は一方的に台湾の中華民国政府との国交を断絶した。\n1952年に日本と国民党の中華民国とのあいだにむすばれていた日華平和条約(にっか へいわじょうやく)があったのだが、日本は一方的に、この日華平和条約を破棄(はき)したのである。\nなお、2013年では、中華民国を国家承認している国家は22カ国である。\nさて、1970年代の話に、もどる。\n日本は台湾を無視し、人民共和国と日本とのあいだで、一方的に日中共同声明(にっちゅうきょうどうせいめい)を1972年に発表した。また1978年には、やはり台湾との友好を無視し、日本と中華人民共和国とは一方的に日中平和友好条約(にっちゅう こっこうゆうこうじょうやく)を結んだ。\n日本では、これら一連の人民共和国との友好化のために台湾を見捨てた政策は、一方的に「日中国交正常化」(にっちゅう こっこう せいじょうか)とか「日中国交回復」(にっちゅう こっこう かいふく)などとして正当化された。\n2015年の時点では、台湾の「中華民国」は、日本政府は承認していない国である。\n朝鮮半島の大韓民国とは、1965年に日韓基本条約(にっかん きほんじょうやく) により、日本と韓国との国交が回復した。\nなお、北朝鮮とは、2021年の時点では、まだ日本との国交は、むすばれていない。\n1955年の経済白書に「もはや戦後」ではないと書かれたことで、日本の復興を宣言していると思うかもしれない。そういう側面もあるかもしれないが、じっさいに白書の前後の文章を読んでみると、じつは、だいぶ意味合いが違っている。\nじっさいの文章には、「もはや戦後ではない」は、以下のように文章がつづく。\n「もはや戦後ではない。われわれは今や異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」\n「新しきものの摂取は常に抵抗を伴う。」(中略)「近代化--トランスフォーメーション--とは、自らを改造する過程である。その手術は苦痛なしにはすまされない。明治の初年我々の先人は、この手術を行って、遅れた農業日本をともかくアジアでは進んだ工業国に改造した。その後の日本経済はこれに匹敵するような大きな構造変革を経験しなかった。そして自らを改造する苦痛を避け、自らの条件に合わせて外界を改造(トランスフォーム)しようという試みは、結局軍事的膨張につながったのである。 」\n「我々は日々に進みゆく世界の技術とそれが変えてゆく世界の環境に一日も早く自らを適応せしめねばならない。もしそれを怠るならば、先進工業国との間に質的な技術水準においてますます大きな差がつけられるばかりではなく、長期計画によって自国の工業化を進展している後進国との間の工業生産の量的な開きも次第に狭められるであろう。」\n「このような世界の動向に照らしてみるならば、幸運のめぐり合わせによる数量景気の成果に酔うことなく、世界技術革新の波に乗って、日本の新しい国造りに出発することが当面喫緊の必要事ではないであろうか。 」\nと1955年の経済白書に書かれたのである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2"} {"text": "1970年代ころから、冷戦では、ソビエトの工業がおくれはじめ、ソビエトは経済でも行きづまっていった。\n1979年のソビエトによる アフガニスタン侵攻(Soviet war in Afghanistan) もあり、米ソでは軍事費が増大した。\nアメリカはミサイル防衛計画などを発表し、巨額の軍事費を軍事の技術開発に投資した。ソビエトは経済がくるしいにもかかわらず、ソビエトも、アメリカに軍事的に対抗するため、ソビエトは予算を軍事費につぎこんだので、ソビエトの経済はますます苦しくなっていった。そして、ついに共産主義経済が、行きづまりそうになった。\nそのため、ソビエトは改革をおこなって、経済を活性化することを考えた。\n1985年にはソ連で当時の最高指導者のゴルバチョフ(ロシア語:Горбачёв、ラテン文字:Gorbachev) によるゴルバチョフ政権が出来て、そしてゴルバチョフは共産主義的な経済手法をあきらめ、市場経済の導入や、情報公開などの改革をおこなった。このゴルバチョフの改革を ペレストロイカ(ロシア語:перестройка、ラテン文字表記:Perestroika) と言う。ペレ・ストロイカとは、ロシア語で「再建」という意味である。\nしかし、この改革により、ソ連の国内では自由化をもとめる声がつよまっていった。また、東欧ではソ連からの独立をもとめる声がつよまっていった。\nそして、1989年に、ゴルバチョフとアメリカのブッシュ大統領とが地中海のマルタ島で首脳会談し、ついに冷戦の終了を宣言した(マルタ会談)。\nそれからソ連は解体されていった。\n1990年には、東西に分裂していたドイツが統一した。当時、西ベルリンへの行き来をさまたげていた ベルリンの壁(ベルリンのかべ、ドイツ語: Berliner Mauer) は、民衆たちによって壊された。\nそして、1991年にはロシアやウクライナなどのソ連を構成していた国々が分離して独立した。ソ連にかわって、ロシアやウクライナなどのかつての構成国により、独立国家共同体(どくりつこっか きょうどうたい)が結成された。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%86%B7%E6%88%A6%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%B5%90"} {"text": "1980年代の前半ごろ、日本の製造業は、世界でもトップクラスの品質を持つほどまでの実力になった。(石油危機があったのは1973年であり、80年代ではない。)\n日本経済は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と海外から評されるほどになった。\nそして80年代の日本の貿易では、日本から家電(テレビなど)・半導体・自動車などの日本の工業製品が、海外に多く輸出された。\nこのため、アメリカの工業などが苦境に立たされ、アメリカのメディアなどが日本を批判し(いわゆる「ジャパン・バッシング」)、アメリカ政府から日本政府に政治的な圧力も加えられた。\nこのように、日本とアメリカのあいだで貿易摩擦(ぼうえき まさつ、trade friction [1])が起きた。\n1980年代には、日本は世界の中でも経済大国になっていた。\n1980年代の終わり頃には、土地の地価や株の株価の値上がりを期待して、取引が活発になっていった。やがて、地価や株価が値上がりしすぎて、1991年(平成3年)ごろから地価や株価が下がり始めた。(ちなみにピーク時の都内中心地の地価は、一般人が買えるような値段でなくなってしまい、ある試算では山手線の内側の土地価格で米国全土が買えるというデータがはじき出されたとか。まさに、土地神話だった。)\n株価などが下がり始めると、多くの証券会社が経営難におちいっていった。経営破綻した証券会社もある。また、銀行も株価や地価の値上がりを前提に融資の貸し出しをしていたため、株価が下がりはじめると、銀行の経営も苦しくなっていった。銀行どうしの多くは、合併などによりこの危機をのりきっていった。また、大手を含めていくつかの銀行は倒産した。\n(例えば、バブル時代に代表的だった山一證券は借金が膨らみ、結局倒産してしまった。)\n直接は株取引をしていない企業も、株価や地価が高い好景気を前提にした事業計画を立てていたりしていたため、いったん株価が大きく下がり始めると、経営が苦しくなっていき、多くの会社が経営難におちいり、多くの会社が倒産していった。また倒産していない企業でも、従業員の解雇もふえたり、事業の見直しによる事業の縮小や事業撤退や事業転換などが行われたりした。\nこうして「平成不況」(へいせい ふきょう)と言われるになっていった。\n「平成不況」といっても、けっして1991年以降は株価が下がりっぱなしだったわけではなくて、実際には、のちにコンピューター業界の好景気によるITバブル(アイティーバブル)と言われる部分的な好景気も1990年代後半から2000年代前半あった。\n1990年は冷戦後である。冷戦が終わったら、地域紛争が各地で、増え始めてきた。\n1990年にはイラクが隣国のクウェートに侵攻し、湾岸戦争(わんがんせんそう、Gulf War [2])が起きた。この湾岸戦争で、イラク軍と戦うためにアメリカなどからなる多国籍軍が結成された。\nこの他、旧ユーゴスラビアで内戦があった。\nまた、1992年には国連のPKO(平和維持活動)に自衛隊が参加した。\n1995年には、阪神・淡路大震災(はんしん あわじ だいしんさい)が起きた。\nヨーロッパでは1993年に、それまでのECに代わりヨーロッパ連合(EU)が発足した。その後、東ヨーロッパ諸国がEUに加わっいった。なお現在、EU域内の共通の通貨としてユーロが用いられている。\nなおAPEC(エイペック、アジア大平洋協力会議)が発足した年は1989年である。\n1990年ごろから自民党の金権体質への不満が高まり、1993年に国政では自民党・共産党をのぞく党派が細川護煕(ほそかわ もりひろ)を首相として連立政権をつくった。こうして自民党の「55年体制」と言われる長期政権は終わった。\n約40年間、55年体制が続いたことになる。\nそののち、自民党はふたたび政権与党にもどった。\n2001年、アメリカのニューヨークで、何者かによる航空旅客機のハイジャックによるテロ事件が起こり、多くの乗客が死んだ。その後すぐに、このハイジャック犯の正体は、アルカイダ(英語: Al-Qaeda)というイスラム系をなのる過激派組織の一味だということが分かった。\nこのアメリカでの2001年のテロ事件を アメリカ同時多発テロ などと言う。\nアメリカは、このアルカイダをかくまっていたアフガニスタンのタリバン政権を攻撃し、戦争になり、アメリカはアフガニスタンを占領した。\n日本の小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣は、アメリカを支持した。\nアフガニスタン攻撃の後のころ、イラクには大量破壊兵器を開発しているという疑惑があった。国連はこの疑惑を調べようとしたが、イラクは国連の調査に協力的でなかった。\nアメリカはイラクが大量破壊兵器を開発していると判断し、2003年にアメリカはイラクを攻撃した。\nこれを イラク戦争(イラクせんそう、英:Iraq War) と言う。\nイラク戦争ではアメリカが勝利した。\nドイツやフランスなどは、イラク攻撃の理由が不十分だとして、アメリカの戦争には参加しなかった。\nイラク戦争によってサダム・フセイン政権は崩壊した。しかし、イラクではフセインの独裁がなくなったことにより、それまでフセイン政権の軍事力をおそれていたテロ組織がイラクで活動するようになった。そして、イラク戦争後にイラクを占領していたアメリカ軍やアメリカ軍の協力者には、テロによる多くの死者が出た。\nしかし、イラクは実は大量破壊兵器を開発しておらず、国連の調査に協力しなかったのは、イラクが大量破壊兵器を開発しているように見せかけることで、イラクの国際社会への影響力を強めようとしたフセインのウソであることが判明した。\nイラク戦争が、フランスやドイツなどの大国を無視して行われたので、国際社会でのアメリカの影響力が落ちていった。\n日本は、イラクの復興支援に協力するため、自衛隊をイラクに派遣した。\n中国大陸の中華人民共和国では、第二次大戦後に共産党が国民党から政権をうばってから、ずっと共産党による独裁がつづいている。\n(※ この節では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。\n1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。\nこの天安門での抗議運動に関する事件を 天安門事件(てんあんもん じけん) と言う。\nなお中国は、経済を活性化するために、1070年代から市場経済の導入をおこなった。そして中国はしだいに経済大国に成長していった。\nこうして、中国は、経済の規模がアメリカや日本につぐ、経済大国になった。\nしかし、中国では、あいかわらず民主化がなされずに共産党による独裁がつづいている。\nまた、中国は周辺国と領土問題で、もめている。\n日本とは日本の尖閣諸島(せんかく しょとう)の領有に、中国は反対をしている。\n2010年には、中国の漁船が、日本の海上保安庁の巡視船に衝突する事件が起きた。\nまた、中国と東南アジア諸国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙(ナンシャー)諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと領土問題がある。\n中国は、第二次大戦後、1950年にチベットを侵攻し、また1949年に中国はウイグルに侵攻し、そのまま中国がチベットやウイグルを領有する状態が、つづいている。\nこのため、中国ではチベット人やウイグル人などに対する少数民族への人権問題が生じている。\nチベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世(14th Dalai Lama)は、1959年にインドに亡命した。\n1998年(平成10年)に、長野県長野市でオリンピック冬季競技大会が開催された。\n2013年(平成25年)には、IOC総会で2020年に夏季オリンピックを東京都で開催することが決定した。\n工場の海外進出などの経済のグローバル化と、物価(ぶっか)下落(げらく)のデフレ化が進んでいった。\n2000年ごろからのインターネットや電子メールなどの普及もあり、これらの動きが、さらに強まった。\n1990年代の半ばごろからか、日本の機械工業などの製造業は、この「平成不況」を技術開発によって乗り切ろうとしたので、すでにバブル崩壊の時点でも技術力の高かった日本の工業は、ますます技術力が上がっていき、現在(2014年に記述。)の日本は世界の中でも高度な技術を持った工業大国になっていった。\n(バブルの前から、中国や韓国などの低価格な輸出品に対抗するため、日本の製造業は技術開発を重視していた。)\nしかし、日本は技術力の高さが製造業などの一部の業界だけにとどまり、コンピュータ業界などの技術力はアメリカにおくれをとっているなどの問題もある。また電子工業では日本企業の技術力は高いものの、しかしその能力を商品販売にうまく結びつけられず、よって韓国や台湾などの新興国との競争に苦しめられ、日本の電子工業業界などの企業は経営が苦しくなっていってるという問題点もある。\n2000年ころからか、日本の大企業は、かかえる事業のうち、不採算な部門から事業撤退しはじめた。同様に2000年ころからか、大企業どうしの合併や再編が起き始めた。\n少子化などとも絡んで、2000年ごろから地方経済が衰退し始めたり、貧富の格差が拡大してきたと考えられる。\n不況の原因として、政治の遅れなどが考えられこともあり、また政府の収入・支出の健全化のための財政改革とも関係して、規制緩和などが行われた。しかし結果は、いまいち好況には、ならなかった。\nまた、2000年代には、郵政民営化(ゆうせい みんえいか)など、国営事業の民営化も行われた。\nまた、規制緩和とも関係してか、地方分権をうったえる政治主張が、さかんになった。\n2000年ごろからか、中国(中華人民共和国)が「世界の工場」と言われ始め、世界各国に低価格の商品を輸出し、日本経済は苦戦した。\nなお、中国は1970年代後半から、資本主義を取り入れる改革路線を取っていた。\n日本は、1990年頃から、工場を海外に移し始めた。その結果産業の空洞化(さんぎょうのくうどうか)が進んでいる。\n2001年にはアメリカ同時多発テロが起きた。\n2002年、北朝鮮と日本との外交交渉で、北朝鮮による日本人拉致(らち)を北朝鮮政府が公式に認め、拉致被害者のうち5名が帰国した。\nしかし拉致被害者はその他にも多くいるので、まだ拉致問題は解決していない。\n2008年には世界金融危機(せかい きんゆうきき)が起きた。\n2009年には、日本では政権交代が起き、自民党から民主党に政権が移り、2012年まで民主党の政権が続いた。\n2011年には、日本の東北地方を中心に大地震が起きた( 東日本大震災(ひがしにほん だいしんさい) )。この地震による津波により、東北の太平洋岸が大きな被害を受け、主に津波により多くの死傷者が出て、また福島の原子力発電所が事故を起こして放射能もれが起きた。\n2012年の衆院選で自民党が勝利し、2017年の現在では、ひきつづき自民党の政権が続いている。\n現在、少子高齢化が日本では進行している。\n世界では現在、グローバル化などのため移民が各地で増加している。先住民との摩擦も起きている。\n2020年には、新型コロナウイルスが猛威を振るった。そのため、同年開催予定の東京オリンピック・パラリンピックが1年延期した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%86%B7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A"} {"text": "1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御[1](ほうぎょ)し、当時の皇太子の明仁(あきひと)親王[2](しんのう)が新たな天皇として即位した。翌日8日には元号が「平成」(へいせい)と改元されて、「昭和」は終わった。昭和天皇の遺体は、2月24日の大喪(たいそう)の儀(ぎ)、大喪の礼(たいそう の れい)が行われ、昭和天皇の霊柩[3](れいきゅう)は武蔵野陵に安置、埋葬された。明けて1990年(平成2年)に新天皇(平成の天皇)即位の礼が挙行された。\n.\n昭和天皇の死去による一連の儀式にともない、法令に基づき、元号(げんごう)の改元も行われ、そして1989年に日本の元号は『平成』(へいせい)になった。\nその平成も、2019年には、高齢化した今上天皇の退位(譲位)とそれに伴う新天皇の即位によって『令和』(れいわ)という元号に改められた。\nなお、2019年の時点では、退位した天皇は「上皇」(じょうこう)として新天皇の公務を支えている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E6%AD%BB%E5%8E%BB"} {"text": "次の3つの用語が、検定教科書では重要語句になっている。(令和2年検定版で確認済み、下記に例を記述する。)\n文科省の定める学習指導要領(中学 社会科版)には\nそのためだろうか、「少子高齢化」、「情報化」、「グローバル化」の3つの語句を教科書で太字で紹介している検定教科書が多い。\nよって、定期テストや入試には、このような語句や内容が、重点的に出ると思われる。\nなお、「グローバル化」の語源の globe グローブ とは、球体や地球を表す意味の英語である。\n「国際化」と「グローバル化」との違いは、「国際化」が同じ母国の国籍の国民どうしの共同体を前提にしたうえでの外国政府や外国企業間との交渉やビジネスなどを意味するのに対し、「グローバル化」とは共同体じたいが多国籍・多民族から成り立つような意味で使われる事が多い。\n現在、世界の多くの国では、市場経済(しじょう けいざい)が導入されている。ソ連とアメリカの冷戦が1980年代後半に終わるまでは、ソ連の支配下にある共産圏では市場経済が導入されていなかったが、冷戦の終了と共に、かつての共産圏では市場経済を導入した。\nまた世界の多くの国で、貿易や外交のための外国語としては英語が多く使われている。英語が、国際的な場所での、中心的な公用語になっている。\n産業に置いて、ヒト(人)・モノ(物)・カネ(金)が国境を越えても動くようになった。このため、賃金の安い発展途上国など(中国や南アジア諸国、東南アジア諸国など)に多くの産業や工場が集まり、賃金の高い先進国では、いくつかの国内産業が衰退(すいたい)した。国内産業の海外流出による産業の空洞化の問題が起こっている。知的所有権の国際的な対応も、せまられるようになった。\n多くの国では、貿易なしでは、産業を維持するのが、むずかしい。国際分業化が進んでいる。\n工業製品では、最終製品が日本で作られている製品でも、中身の部品が外国製の物も多い。たとえばパソコンなどのコンピュータがそうである。\nたとえば、日本で売られているパソコンの部品の場合、たとえパソコンのブランドが日本企業のブランドでも、中身の部品は外国製のことも多い。マザーボード(基板のこと)の生産国は台湾企業が多く、パソコンのCPUはアメリカ合衆国の企業の生産が普通である。ハードディスクはタイかシンガポールか中国などのアジア諸国で生産されている事が多い。ハードディスクの場合、そのハードディスクの生産メーカーが日本企業でも、生産工場はその日本企業がタイなどの外国に保有する外国工場で生産している場合が多い。\nメモリチップの生産国は、日本の場合もあるが、韓国企業などの場合もある。\nその外国企業ですら、すべてを自国で生産するのは難しい。たとえば、おそらくマザーボードを作っている台湾企業ですら、それらのマザーボードの部品や生産設備を、けっして台湾だけで全部を生産することは困難であり、おそらくは外国製の部品や外国製の生産装置も用いられている。\n食料生産は、とうの昔から国際化している。第二次大戦後の日本は食料自給率が低く、米(こめ)や生鮮食品を除けば、多くは輸入品でまかなっている。また、たとえ日本料理であっても、原材料は外国から輸入していることも多い。\n国際政治では、主要国の首脳どうしの意見交換の場としてサミット(主要国 首脳会議)が開かれるようになった。どこの国も、主権は持つが、たとえアメリカ・ロシアのような大国でも国際世論を無視するのは難しくなった。しかし、ロシアは国際法をやぶってウクライナへの侵攻を開始するなど、軍事力が物を言う構造自体に変化があったわけではない。\n現代には、インターネットやハイテクが定着した。エレクトロニクスはIC、LSI、超LSIや携帯電話や光ファイバーなどと技術革新が進んでいる。日本の工業の移り変わりの歴史は、明治や大正あたりの製鉄などの重厚長大(じゅうこう ちょうだい)から、現代は半導体などの軽薄短小(けいはく たんしょう)型の産業に切り替わり、産業構造のハイテク化を起こした。これは経済のソフト化[2]、サービス化[3]とも呼ばれている。\nインターネットの発達によって、今までは情報を不特定多数には発信する機会の無かった人でも、簡単に情報を発信できるようになった。\nインターネットによって、遠くの友人とも、動画つきのネット電話で簡単に話すことも出来るようになった。また、インターネットを利用した通信販売などオンライン・ショッピングなどと言われる商取引も、盛ん。\nネットでの通信販売は、ネットで商品について調べながらでも、品物を吟味することが出来る。\nしかし,情報通信の発達にともない、今までは無かったトラブルも増えてきている。\n知らない人から、迷惑メールが送られてくることもある。また、ネット取引を装った詐欺なども、簡単に行えるようになった。\nまた、情報を簡単に入手できるということは、裏(うら)を返すと、もしも非公開の個人情報などが漏れても、情報が簡単に伝わってしまう、ということである。\n基本的に、インターネットでは、自分や友人・知人などの個人情報は書き込まないほうが安全である。\nインターネットでは、プライバシーに配慮しなければならない。\nまた、コンピュータの発達により、データの複製が簡単に出来ることになったことから、著作物の許可の無いコピーなど、知的財産権の侵害も目立つようになっている。\nもしも、インターネット上で文章や画像、音楽などを公開するときは、著作権に注意する。インターネット上での公開にも著作権法などが適用されるので、他人の著作権を侵害しないようにする。\nインターネットで情報の入手がラクになったことから、大量の情報が入手できるようになった。すると、多すぎて読み切れない量の情報がインターネット上ではあるため、いらない情報は無視をしたり後回しにして必要な情報から集めるという、情報の優先順位をつける能力も必要になってきた。\nコンピューターそのものは機械であり、善悪の判断が出来ない。そのため、犯罪に使われる場合もある。また、インターネット上には、違法行為や犯罪を行っているウェブ・サイトも存在している。\nもちろん、犯罪行為は、たとえコンピュータやインターネットを用いていようが、用いていまいが、どちらにせよ法律によって犯罪は処罰される。しかし、コンピューター産業は技術の進歩が早く、私達の注意が追いつかないため、ネット上での詐欺などが見ぬきにくく騙されてしまうこともありえる。\n悪者に悪用されないように、インターネット上には、むやみに自分の名前や住所などの個人情報を書いてはいけない。\n他人の個人情報も、同意がない限り、書いてはいけない。\nインターネット通信は、自分だけのものではないので、利用の際には、他人に迷惑をかけないように注意する。\n書き込みをするときは、けっして違法な書き込みをしない。犯罪予告などの違法な書き込みをすると法的に処罰されることもある。\nこれらのマナーなどの問題とは別に、技術的な注意点がある。\nインターネット上には、ネットにつながった他人のパソコンの情報を盗み見したり、他社のパソコンを無許可で遠隔操作(えんかくそうさ)したりなどの行為を行う者もいる。そのような悪意を持った者が、悪事をしやすくするソフトウェアを開発する場合もある。他人のパソコンのシステム内に勝手に入り込んで(感染)、かってにシステム設定を書き換えて、ウイルス開発者が悪事をしやすいように書き換えてしまう迷惑なソフトウェアを コンピュータ・ウイルス という。このようなコンピュータ・ウイルスは、感染したパソコンの利用者の知らないうちに、かってに他人のパソコンのシステムの中枢に入り込んでしまう。\nコンピューターというのはプログラムという命令文を実行する機械に過ぎないため、もしプログラムに「このパソコンの情報を盗んで、外部にもらせ」とかいった、悪意にもとづいた命令文が書かれていたら、そのとおりに実行してしまう。\nパソコンからコンピュータ・ウイルスを削除できるセキュリティ・ソフトと言われるソフトウェアも存在する。\nウイルスの削除には専門的な知識が必要なため、そのようなセキュリティ・ソフトを生産している企業がある。\nコンピュータ・ウイルスは、ほぼ毎日、新しいウイルスが開発されている。これに対抗して、セキュリティ・ソフトも開発が進められている。\n日本は、長寿国ということもあり、高齢化(こうれいか)が進んでいる。また、未婚率や女性の出産年齢の上昇などもあり、社会の子供の数が少ないという少子化(しょうしか)も進んでいる。\n日本の人口は、2005年が人口のピークで、それから人口の減少が始まっている。\n国民の高齢化によって、社会保険の負担が増えていくことが予想されている。(2014年に記述。)\n少子化と高齢化を合わせて、少子高齢化(しょうし こうれいか)と言う。日本では少子化による労働力の減少の心配や、高齢者の生活を支える負担能力の減少が、心配されている。\n日本だけに限らず、多くの先進国で、少子高齢化の傾向がある。\n食料自給率の低さやエネルギー自給率の低さなど、食料やエネルギーを輸入に頼っていることを考えても、人口を維持し続けるのは難しくなっていくかもしれない。\nしかし、日本の現在の社会制度の多くは前提として、人口増や1億人程度以上の人口を維持している状態を前提にした制度が多く、また人口増を可能にした高度経済成長などの好景気を前提にした制度も多く、あまり人口減少や少子化を前提としていない制度が多い。\n政治家や企業家や国民の中には、自国の人口が多いほうが自国の経済活動の規模が大きくなると考え、自国の人口が多いほど外国との経済競争に有利になるだろうという考えにより人口を維持しようと考える者も多い。\n制度改革にも時間がかかり、そのあいだは、急激な人口の減少や急激な少子化があると、社会に混乱が起きる。\n日本では少子化を防ごうとする政策が取られている。\nたとえば日本では2003年に 少子化対策基本法(しょうしかたいさく きほんほう)が制定された。\n日本だけに限らず、多くの先進国では、少子化が進んでいるので、少子化を防ごうとする政策が取られている。\nいっぽう発展途上国では人口の増加が問題である。人口の増加につれて、食料危機の危険性が高まってくる。現状では計算上では、農産物は人類のすべてを養えるだけの量は生産されている。しかし、人口が増えれば、どうなるかは分からない。\n人口が増えれば、石油などのエネルギーの消費も増えていく。\n長寿命化によって、高齢者の割合も増えていく。高齢者への介護の負担も増えていく。子供を産んで増やしたところで、その子供もいずれは年を取り、高齢者になっていく。\n子供を増やして若者を増やせば、一時的には、一人あたりの高齢者福祉への負担は減るが、問題の先延ばしに過ぎない。\n結局は、どこかの時代で、若者は「これから、高齢者福祉の負担が大きくなる」と、覚悟を決めるしかないのである。\n(人口問題があるからか、)当面は発展途上国では人口増加によって若者が多くても、将来的には発展途上国でも、いずれ少子高齢化が進行すると予想されている。(※ 近年の帝国書院の教科書でも、そう予想している。2018年に本文を記述。)\nどのみち、世界の多くの国は、将来的に少子高齢化を体験することになるので、いっそ「日本などの先進国は、海外の発展地上国の未来の問題(高齢化社会など)を先取りしてる」とでも考えて、積極的に問題解決をしていくのがよいだろう。\n企業の商品開発などで高齢者に対応した商品開発をするなど(※ 帝国書院の教科書がこういうのを提案している)、建設的思考で高齢化社会への対応を心がけていきたいものである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4"} {"text": "次の用語が、検定教科書では重要語句になっている。(平成28年度、令和3年検定版で確認済み、下記に例を記述する。)\n文科省の定める学習指導要領(中学 社会科版)には(一部中略)\n文化→習慣や生活様式、ものの見方など、人々が作ってきたものや生活の仕方\nAI(人工知能)の発達...ビッグデータによる情報収集、提供。 その他、介護ロボット、補助ロボットなどの発達\n情報格差(デジタルデバイト)の拡大\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "次の用語が、重要語句である。\n文部科学省の指導要領には\nと書いてある。\nそのためだろうか検定教科書の多くは、これら指導要領で紹介された\nといった用語を、教科書で太字で紹介している教科書会社が多い。\n学習者である中学生にとっては、これらの用語がテストに出る可能性があるので、重点的に暗記する必要がある。\n文科省の用意した用語どうしの組み合わせは無視して、いったん、もとになった考え方を考察してみよう。\n組み合わせは、以下のとおりだった。\nさて、「対立」は、人間社会のいたるところで生じる。たとえば資源の分配をめぐっての対立、報酬の分配の対立、・・・さまざまなことで対立は生じるだろう。だれだって、多くの資源や多くの報酬が欲しい。\nしかし「そんなことは無い! わたしはそんなに物が欲しくない!」という人がいるかもしれない。\nだが、本当に、そうだろうか。どんな人でも、食べ物が必要である。食べ物だって、お金が無いと買えない。ならば、お金の確保をめぐって対立が起きるだろう。たとえ、円やドルなどの貨幣を廃止したところで、食べ物の問題が無くなるわけではない。食べ物を作るには農地などの土地が必要だ。農業を行うなら、用水などの水も必要だ。水の確保をめぐっての対立も起きる。\n人間がいるかぎり、人間は自身のための資源をめぐって、他人との対立を起こすだろう。\nしかし、現実として日本では、農業用水をめぐる内戦は起きていない。食べ物を奪い合っての戦争も起きていない。何故だろうか? \n君たちの回答の中には、「他人の物を奪うと、ドロボウとして処罰されて警察に逮捕されるから。」と回答するかもしれない。\nなるほど、たしかにそうだ。そういうルールがある。「ルール」は、文科省の指導要領での用語で言う「合意」に当たるだろう。なお、前提として、「ルールに基づいて行動しよう。」「ルールを守らない人は、処罰(しょばつ)しよう。」というルールを設ける必要もあるだろう。そうやってルールという合意に基づいて、みんなが平等に従うというのが、「公平」だろう。\nしかし、公平(こうへい、equity)と公正(こうせい、fair)は意味が違う。\nたとえば、具体的な人名を挙げるが、芸能人のビートたけしの川柳で「赤信号、みんなで渡れば 怖くない」という、日本人の習性を皮肉った川柳があった。\nつまり、みんなで悪いことをすれば、それは平等かもしれないが、しかし正義ではない。\nつまり、平等なだけではダメなんだ。さらに、正しいかどうかも考慮する必要がある。\nだから、ぼくたちは「公正」を考えよう。「効率」と「公正」のバランスを考えよう。\n実教出版の教科書では、たとえば一部のスポーツ選手が高額の年俸をもらっていることを、「効率」重視だが不「平等」の例として取り上げています。\nさて、別に実教の見解ではないのですが、世間ではよく、企業の社長が高額な報酬を得ているのを「労働者への差別」だと文句を言う人がいます。そういう文句を言う人は、じゃあスポーツ選手には文句を言わないのでしょうか。「スポーツ選手は高額の報酬ではいいけど、そこらの中小企業の社長はダメ」なんてのは、それこそ中小企業への単なる差別です。なんというか、差別を批判する人ほど自身の差別性に気づけないようで滑稽(こっけい)です。\n高校範囲で、かなり発展的な話題なのですが、東京書籍「公共」および清水書院「私たちの公共」の検定教科書が、ベンサムの格言「最大多数の最大幸福」を紹介しつつ、同じページで「トロッコ問題」というトレードオフの典型のような哲学的問題を紹介しています。なおそのページでは「トレードオフ」の用語は紹介していません。\nなぜで大人たちは、そういうルール(「他人の物を奪うと、ドロボウとして処罰されて警察に逮捕される。」)を決めたのだろう。\n君たちの回答の中には、「自分の物が盗まれたら困るから。だから、みんなでルールを作って、他人の物を盗めないようにした。」と回答するかもしれない。\nならば、どうして他人の物を盗んでもいい代わりに、自分の物を盗まれても文句を言わない。」というルールを作らなかったのだろう。あるいは、「強いやつが力ずくでいくらでも他人の物を盗んでもいい。」というルールを作らなかったのだろう。\nひょっとしたら、いまの各国での法律とか道徳などのルールも、もとをただせば、強いやつが力ずくで決めさせたルールなのかもしれない。\n「僕たちは、弱いんだ。」「弱いから、みんなで力を合わせないといけない。」「だから、みんなで助け合おう。」\nでは、「他人に自分の盗ませてあげる」という行為は、貧しい人への \"助け\" には ならないのか? 他人に物を盗まれても、「盗まれた」と思うのではなく、「プレゼントした。」「寄付してあげた。」と思うのはダメなのか?\n「みんなが物を盗むと、物を \"自分で作ろう\" とする人がいなくなる。」と反論するかもしれない。\nなるほど、ドロボウにだって、物は必要だ。ドロボウにだって、食べ物も必要だ。ドロボウにだって、衣服も必要だ。ドロボウにだって、住居は必要だ。\n\"物を作る人\" を盗んでくれば良いではないか? 人を誘拐して、奴隷にすれば良いではないか? \n「それは犯罪だ。」「奴隷にされた人が、かわいそうだ。」「歴史的にも、奴隷制は失敗している。」\nでは、どうして他人を奴隷のように無理やり働かすのがいけないのか。\n「歴史的にも奴隷制は失敗している証拠を教えよう。たとえば昔のアメリカの黒人奴隷。あるいは古代・中世での世界各地での奴隷制。これらは結局、失敗し、いまではアメリカもヨーロッパも、奴隷制を否定している。」\nでは、どうして奴隷制は失敗したのだろう? あるいは、もし奴隷制が歴史的に失敗していなかったら、奴隷制を始めるつもりなのか?\nあるいは、国は税金を国民から取ってるいるが、これは「国が無理やり金を国民に払わせる」という、国民を奴隷のように扱う行為にはならないのだろうか? なぜ税金を払うのだろう? 自分で作った物を売って得た富を、どうして他人に分けないといけないのか。税務署は強盗じゃないのか?\nなぜ税金を払うのだろう? \n君たちの回答の中には、「日本に住んでる以上は、日本の公共サービスを使っているのだから、日本の役所にお金を払う必要がある。」と回答するかもしれない。\nでは、なぜ住んでる場所の持ち主に、お金を払わないといけないのだろう? そもそも、日本国の土地の持ち主は誰なのか? 地主か? そうだとすれば地主は、どうして税金を払うのか?\n天皇が持ち主か? じゃあ、国民は天皇の所有物に過ぎないのか? あなた個人だけでなく、あなたの大切な家族も友人も、天皇の所有物の一つに過ぎないって言うのか?\n国の持ち主は誰だろうか? 日本国民だろうか? では、もし外国人が日本に帰化して日本国籍を取得したら、彼/彼女は日本国の持ち主の一人か?\n・・・・・・と、疑問はいくらでも考えようと思えば考えつく。しかし、日常生活では、このような疑問を考えなくても生活は回っている。べつに家庭生活だけでなく、企業での労働などでもこのような疑問を考える必要も無い。\nなぜ、「国の持ち主が誰か?」とかを考えなくても、社会が円滑に動くのだろう。\n・・・・・・と、まあ、疑問はつきないが、深入りしすぎると、ほかの単元を勉強する時間がなくなるので、とりあえず、このくらいにしよう。\nちなみに、上記の説明は、高校でならう「万人の万人への闘い」という近代ヨーロッパの思想をもとに、現代日本風にアレンジしたものである。ヨーロッパの各地で宗教のちがいなどにもとづく戦争と内乱が続いた17世紀、イギリスの思想家ホッブズが「万人(ばんにん)の万人へのたたかい」という考えを著書『リバイアサン』[3][4]などで述べた。(※ 中学範囲外なので覚えなくて良い。高校の公民科では確実にホッブズについて習う。)\nホッブズの思想によると、まず、すべての人間には、自分の生命を守る権利(自然権)があるとした[5]。 しかし、その権利だけでは、自分を守ろうとするがために、かえってお互いに相手を敵だとみなし、死の恐怖と不安に支配された状態になると考えた。ホッブズはそうした状態を「万人の万人に対する闘い」と呼んだ。そこには芸術も学問もなく、孤独で貧しく悲惨な人生しか送れない。\nホッブズは、自然権をお互いの合意のもとで制限し、これを主権者にゆずりわたすことで国家ができたと説明した。そして、人々は国家に従うことで、人民どうしが相手を味方であるとみなせるようになり、平和と安全を確保できると考えた。\n理科でいう「効率」(こうりつ)とは、「少ない時間で、たくさんの仕事をする能力」のことである。\nしかし、社会科のこの単元では、「効率」とは「少ない労力と費用と時間で、成果を出すこと」という意味だとしよう。\nまた、そのために(少ない労力などで成果を出すために)「無駄を省く(はぶく)」というような意味だとしよう。\nある国のある年度の政治についてなら、税金や人手にも限りがあるので、「効率」も必要である。\n公立中学校の授業とかだって、限りある時間と予算のなかで、効率よく行われなければならない。なので、そういう理由もあって「授業中には、生徒は私語をしない」とかのルールもあるわけだ。\n授業にかぎらず、部活とかだって、校庭や体育館などの限られたスペースを、みんなで上手く活用するわけだ。\nここで重要なのは、よほど体育館の広い中学(例えばスポーツ名門校の私学とか)でないかぎり、けっして皆が同時に、体育館を使うわけではない。\nつまり、体育館が普通の広さの公立中学では、けっして室内スポーツをしてる運動部の皆(男子バスケ部、女子バスケ部、男子卓球部、女子卓球部、男子バドミントン部、女子バドミントン部・・・)の全部員(1年生から3年生まで全員)が、けっして同時に、体育館を使うわけではない。\nでは、どうやって使っているかというと、かわりばんこ に、一定の時間ごとに交代して、体育館の室内スペースを使ってるわけだ。\nこういうルールをつくることで、体育館の限られたスペースを、うまく使ってるわけだ。ルールを作ることで、効率を上げてるよね。\nで、体育館で練習できないあいだは、筋トレなどの他の練習をして、うまく時間を有効活用してるわけだよね。\n(※ 検定教科書では、運動部どうしの校庭の使い方の事例であったが、ウィキブックスでは体育館にアレンジした。)\n仮に、校庭が、校舎の耐震補強(たいしんほきょう)工事のため、校庭の3分の1の面積が、使えなくなったとしよう。\nこのため、校庭で練習しなければならない運動部である、サッカー部、野球部、ソフトボール部、陸上部、・・・などが、練習場所が足りなくなりそうだとしよう。\n屋外競技のどの部活も、大会前の直前の期間であるとして、大会の試合にそなえて校庭で実践的な練習をしたいと思ってるとしよう。\n私たち中学生は、どうすべきでしょうか?\n・・・というのが、検定教科書に書かれている事例である。\nなにも公共的な機関にかぎらず、日常生活でも、時間に限り(かぎり)があり、土地の広さにも限り(かぎり)がある。\n夜間のピアノ練習によって、隣人トラブルが起きたという、そういう事件がある。(ここウィキブックスでは、この事件について深入りしない。検定教科書でも、そもそも事件が実在した事自体、教科書は紹介してない。)\nさて、夜中に眠ろうとしてる隣人からすれば、ピアノの音を聞かされて眠れないのは、すごく不満であるし、睡眠不足になりかねず、健康を害しかねないだろう。(別に、事件の隣人がそうだったとか言ってるわけではない。) \nだから、まあ、このピアノ事件に関して言えば、夜中に楽器の練習をする行為は、マナー違反だろう。\nピアノの練習時間を限定する法律なんて、普段の生活では聞いた事ないが(ひょっとしたら、今の時代なら、どこかの法律にあるかもしれないが)、だからって、けっして、ある行為の規制が法律に無いからって、なんでもやってイイわけではない。\n夜中にピアノの音を聞かされる隣人にだって、夜中ぐらいは静かに眠らえてもらうっていう、当たり前の権利がある、・・・って考えるのが公正だろう。\nだからといって、いちいち法律で、「夜中の◯時から翌朝△時までは、音を出す楽器の練習をしていけません。」とか書くのも、非効率である。だって、「楽器」が駄目でも、じゃあ、「夜中にトイレに行ってオナラの音が出るのはイイのか駄目なのか?」とか、あるいは「夜中に部屋で勉強するために明かりがつくのは、明かりが窓から漏れるから、通行人はまぶしくて、通行人に迷惑ではないか?」とか、「最近の電子楽器では、イヤホンをして演奏者にしか音が聞こえない楽器もあるんだが?」とか、いちいち、そういった細かいことの想定を、法律は書ききれない。\n法律は、なるべく簡単なほうが、理解しやすいし、覚えやすく、効率的である。もし法律が効率的でないと、とても運用しきれない。\nこのように、「効率」とか「公正」ってのは、けっして、抽象的な議論ではなく、そういう事をきちんと考えて対策しておかないと、いろいろと隣人トラブルや、ついには事件になりかねない。\nもし夜中、街灯が適度に明るければ、防犯などにも役立つかもしれないし、暗いことなどによる事故も減る。\nでも、街灯を点灯するためには電気エネルギーが必要である。\n街灯をいくつか消灯すれば、省エネになる。\nさて、夜中に出歩くことの多い人にとっては、街灯が多く点灯するほうが、便利である。\nいっぽう、夜中に出歩かないことの多い人にとっては、なるべく街灯をいくつか消灯するほうが、省エネになって有利である。\n街灯を多く点灯しても、それとも少なく点灯しても、どちらかの人々に有利になってしまい、もういっぽうの人々に不利になってしまう。\nどうすればいいか、読者の中学生は、生徒どうしで話しあってみよう、・・・\n・・・と教科書は課題を出している。\nどんなに効率の良くて公正なルールでも、多くの人々が合意してなければ、そのルールは守られない。\nだから、なるべく多くの人が合意するルールを作る必要がある。\nでも、けっして検定教科書は、「すべての人」が合意すべきルールを作るべきなんて、言ってない。あくまで、「多く」の人が合意すべきである、と教科書は言ってるわけだ。\nもう一方で、まだ生まれてない世代にも、政治や法律などのルールは配慮する必要である・・・と、ある検定教科書は言っている。\nそして、社会の変化によって、どんなルールが効率的で公正かは、変わっていく。\nまた、ルールには、必要に応じて例外的に、少しだけ変更しなければならない場合がある。たとえば、スポーツして遊ぼうとして、野球やソフトボールなどの集団球技のスポーツで対戦しようと思ったとき、ルールどおりの人数がそろわず、人数が足りない場合がある。そのような場合、少ない人数でも遊べるようにルールを変更する必要があるだろう。\nいくつかの検定教科書で、「少数意見の尊重」という言葉があります。(※ 帝国書院や日本文教出版(ただし社会保障の単元)など。)\nもちろん、けっして少数派の意見が議会などで可決して通るわけではありません。(もし少数派だから意見が可決すると仮定してしまうと、たとえば、まるで第二次世界大戦前の日本での軍部大臣現役武官制のような、一部の人間によって国会など議会が左右される不合理な状況になってしまいます。)\n「小数意見の尊重」とは、けっして「少数意見に従う」という意味ではありません(※ 日本文教出版が紹介)。\nですが、良い議論をするためには、色々な立場などからの多様な意見をあつめる必要があります。だから少数意見であっても、その意見が存在すること自体は尊重しなければなりません。\n中学の範囲を超えますが(たぶん教師などが口頭で説明するでしょうが)、近代フランスにおける哲学の格言で「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という、民主主義的な態度を示したような名言があります。(※ なお、この格言は、よくヴォルテールの発言と紹介されてきたが、実際にはヴォルテールを研究した哲学者エルベシウスによる要約であるらしく、ヴォルテール自身は発言してないらしい。)\n(※ 高校の範囲:) 民主主義は、けっして万全の政治体制ではありません。しかし、ほかのどの政治体制よりもマシです。20世紀のイギリスで首相を勤めたチャーチルは、「民主主意義は最悪の政治形態である。ただし、(民主主義以外の)他の政治形態を除いてのことだが…」と述べています(高校の東京書籍『公共』教科書の見解)。\nけっして形式的に「民主主義」と言われるものを妄信するのではなく、実際に少数意見の存在の権利が守られているかとか、多様な知見を政策などに取り入れているかとか、そういったことに気を配っていきたいものです(高校の東京書籍『公共』教科書の見解)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%92%E3%81%A8%E3%82%89%E3%81%88%E3%82%8B%E8%A6%8B%E6%96%B9%E3%82%84%E8%80%83%E3%81%88%E6%96%B9"} {"text": "あなたの住むまちの広場が汚れていたとしましょう。広場をきれいにするには、気が付いた人がボランティアで掃除する、人々がお金を出し合って掃除係を雇う、などの方法があります。しかし、ボランティアが十分に集まるとは限りません。また、お金を払わなくても広場を使えるなら、掃除にかかるお金を出そうと思う人は少ないでしょう。快適な広場を維持するために、人々に公平な負担を求めるなら、広場を使う全ての人々から、少しずつ、かつ、強制的に、お金を集めるのが合理的です。\nこのように、人に何かを強制する力を権力といいます。\nさらに、国や地方公共団体が行う、警察や消防のサービス、学校の運営、年金や医療保険などについても、広場と同じことがいえるでしょう。国家が国民に強制する力を国家権力といいます。\n国民の自由と安全を守るために存在する国家権力は、社会に必要なものです。しかし、それはとても強大なもんどえあるがゆえに、同時に個人の意思を無視して、お金の支払いや労力の提供を強制するおそろしい力でもあります。それをよりよく使うには、どうすればよいでしょうか[1]。\nそこで、ここでは、人権思想と民主主義の歩みについて見ていきましょう。\n古代ギリシア民主政などの一部の例外を除いて、古代や中世では、世界のほぼすべての国で、民主主義は行われませんでした。(なお、例外の古代ギリシアでも、古代ギリシアでは参政権は原則的に兵役の義務にともなうものであったので[2]、つまり古代ギリシアで選挙権のあった「市民」とは軍役の義務を負った兵士などのことであり、現代の民主主義とは違う。)\nそもそも、古代や中世では、国家の主権者は、国民ではありませんでした。\n国王や貴族(や教皇・法王)などの、一部の人たちだけが、その国の政治に参加していました。国王や貴族が、一般の人々を支配しており(専制支配、(せんせいしはい) )、人々に重税を課していたりしました。\nまた、その国王や貴族は、生れながらの身分によって、誰がその地位に付くかも、ほとんど決められていました。\n選挙で選ばれた政治家からなる「議会」のような組織は、古代・中世では、ない国も多かったです。あったとしても、国王や貴族と比べて、当初の議会は、権力が弱いものでした。\nしかし、近代になると、ヨーロッパでは、専制政治への不満が、高まっていきます。(※著者注 なお、もともと中世ヨーロッパの絶対王政には、外国からの不当な干渉をふせぐために(ローマ教会からの圧力なども、不当な干渉にふくむ)、国王の権力を強めていったという側面もあった。)\nそしてフランス革命(1789年)によって、フランスでは、フランス国王が処刑され、専制政治が倒されます。\n同じ1789年に発表された『フランス人権宣言』は、決して単なる人権思想を主張するだけの狙いではなく、フランス革命後の政治方針という側面もあります。\n『フランス人権宣言』は実質的に、革命後のフランスでの、当面の憲法のようなものでもありました。なお、フランス憲法は1791年に制定されます。(※ 教育出版の教科書で、革命後のフランス憲法の制定年が紹介されてる。)\nヨーロッパの他の国では、国王を処刑しない国でも、選挙で選ばれた政治家からなる議会をつくらせていったりして、国王や貴族などから権力をうばっていきました。\nこのように、民主主義は、戦いによって、勝ち取っていったものです。\n民主主義を行う国が増えていったのは、近代になってからであり、ヨーロッパやアメリカ合衆国を中心として、民主主義が行われるようになりました。\nちなみに、アメリカ独立革命が起きたのは1775年であり、フランス革命(1789年)よりも、アメリカ独立革命のほうが古いです。\n1775年のアメリカ独立革命後、1776年に発表された独立宣言のなかで、生命・財産の権利などがうたわれます。\nそして、1787年に、アメリカ合衆国の憲法が制定されます。\nフランス人権宣言や、アメリカ独立宣言では、人は生まれながらにして、自由や平等などの権利をもつことが宣言されました。\nこのように、人が生まれながらにして持っている権利のことを「人権」(じんけん)といいます。\n近代の人権思想で、最初に認められていった権利は、生命や身体を不法にはおびやかされない権利や、財産を持つ権利などといった、自由権(じゆうけん)です。\nしかし、資本主義がすすむにつれて、長時間労働などの問題が出てきたり、貧富の格差が大きくなっていくなどしました。\nそのため、最低限度の生活を保障する社会権(しゃかいけん)が認められていくようになりました\n20世紀に入ってから、1919年にドイツのワイマール憲法で、社会権(しゃかいけん)が世界で初めて、憲法の規定として認められました。\nまた、労働者が、労働環境の改善のために、労働運動を始めるとともに、また、労働者が政治へ参加できる権利を求めるようになり、選挙権の拡大運動が行われました。\nこのように、選挙権が、しだいに広がっていき、普通選挙運動へと、つながっていきました。\nじつは、中世のイギリスでも、1215年に発表されたマグナカルタで、国王といえども正当な法律や裁判によらなければ逮捕や土地・財産の没収などをしてはならないという取り決めが、されています。(※ マグナカルタは検定教科書の範囲内。検定教科書の図表中にマグナカルタの条文が紹介されている。)\nただし、マグナカルタは、貴族の権利を保障したものです。\n名誉革命(1688年)後のイギリスで、『権利の章典』(けんり の しょうてん)によって、議会の同意なしに国王が法律をつくることは違法とされ(第1条)、またイギリスの政治は、議会にもとづく政治とすることが確認されました。(※ 「権利の章典」は検定教科書の範囲内。検定教科書の図表中に「権利の章典」の条文が紹介されている。)\nイギリスでの名誉革命(1688年)のころから、民主主義的な思想が出てきて、これらの思想が名誉革命以降のアメリカやフランスなどでの革命などに影響を与えた。\nたとえ革命で人権宣言が出されても、それが法律とならなければ、人権を守るための実効性がありません。\nそのような事情もあってか、フランス革命では、フランス人権宣言が出されてまもないうちに、人権宣言にもとづく考え方を採用したフランス憲法が制定されました。\nまた、アメリカ合衆国でも、アメリカ独立宣言にもとづくアメリカ憲法が制定されました。\nさて、憲法が制定されても、個別の法律が、憲法に従わっていなければ、人権を守るための実効性がありません。\nそのような事情もあってか、近代以降の国家では、憲法とは、その国の最高法規(さいこう ほうき)であるとされ、憲法に従っていない法律は無効であるとされています。\nそして、イギリスの『マグナカルタ』や『権利の章典』が国王といえども法律にしたがうべきだという決まりを定めたように(現代風にいうと、国王などによる「人の支配」ではなく、「法の支配」「法治主義」であるべきという考え方)、近代以降の国家でも、政治の権力を持った政治家たちが法律や憲法にしたがわなければ、人権を守るための実効性がありません。\nなので、政治家には、憲法にしたがう事が、求められます。\nこのように、憲法に最高法規としての実効性を持たせることで、民主主義的な政治を行おうという考え方を、「立憲主義」(りっけんしゅぎ)といいます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF"} {"text": "日本では、明治時代になってから、西洋の民主主義が、一般の人々に紹介されました。そして、自由民権運動が、盛り上がりました。\nまた、欧米諸国と対等な外交関係を築くためにも(※ 育鵬社の教科書の見解がこう。こう書いても教科書検定に通る。)、日本国は法体系を近代化する必要などもあって、明治時代のなかば、大日本帝国憲法(明治憲法)が制定・発布されました。\n大日本帝国憲法は、日本で初めての、近代西洋的な意味での「人権」(human rights[1])を保障した憲法でもあります。\nこの明治憲法では、天皇が主権者であるという点が現代の憲法とは違いますし、人権が「法律の範囲内」という制限がつくという点も、現代の憲法とは違います。\nなお、大日本帝国憲法で想定された人権は、現代でいえば、法律によらなければ死刑などで殺されない生命の権利や、財産を持つ権利などの、いわゆる自由権(じゆうけん)を中心としたものです。最低限度の生活を保障する社会権は、まだ1889年(大日本帝国憲法の制定年)当時の世界には浸透していませんでした(そもそも社会権が誕生したのが、1919年のドイツのワイマール憲法が世界で最初。それより前の時代の1889年の大日本帝国憲法が、社会権を保障するはずがないのは当然。)\n第一次世界大戦後には、日本で、政党政治の普及を通じて民主主義が進展し(大正デモクラシー)、また、男子普通選挙が実現しました。\nしかし、1930年代、満州事変が起きた前後のあたりから、しだいに軍部が権力をにぎっていくなかで、大日本帝国憲法の天皇が軍部を管轄しているという名目のため、国会や政党が、軍部の権力に歯止めをかける事が、しづらくなっていきました。\nまた、1925年に制定された治安維持法(ちあん いじほう)と、大日本帝国憲法の法律の範囲内で人権を制限できるという規定により、軍部に批判的な言論が、発表しづらくなっていきました。\nそしてついに軍部は暴走していき、日本が第二次世界大戦へと突入していき、1945年の敗戦をむかえました。\n1945年8月に、日本が、降伏(こうふく)勧告としてのポツダム宣言を受け入れたことで、公式には第二次世界大戦が終わりました。(※ 実際には、東南アジアなどでは、ヨーロッパ諸国による植民地支配から、現地住民が独立するための戦争が、続いていた。日本軍の現地部隊が、非公式に、現地住民の独立運動家などに武器を横流ししていたという説もある。)\nそして、降伏した日本は、ポツダム宣言にある、戦後の民主化の方針のもと、憲法を改正する必要が生じました。\nポツダム宣言には、日本がしたがうべき方針としては、軍国主義を取り除くこと、民主主義を強化すること、基本的人権を尊重することなどが、定められています。\n改憲案については、政党や民間の運動家などからも、さまざまな改憲の草案(そうあん)が出てきました。また、当初の政府案は、GHQにとっては民主化が不十分だとして認められず(※ 政府の当初案は、GHQには、大日本帝国憲法の語句を部分的に変えただけだと思われたようだ)、憲法を全面改正することになりました。\nそして、最終的に、連合国軍総司令部(GHQ)が示した憲法草案をもとにした改憲案が、戦後の1946年に開かれた国会で審議され、1946年11月3日に日本国憲法として公布され、翌1947年5月3日から施行(しこう)されました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%A8%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%86%E3%81%BF"} {"text": "憲法(英:constitution コンスティチューション)とは国の基本となる最高法規(英:supreme law サプリーム・ロー)である。具体的には、憲法は国家や政治のあり方や国民の権利と義務を定めるもっとも基本的な法であり、憲法に違反している法律は無効とされる。(憲法98条)\n一方、法律は国会の制定したきまりのことを指す。\n日本国憲法の原則として、国民主権(英訳:the sovereignty of the people)、平和主義(英訳:Pacifism)、基本的人権の尊重(英訳: respect for fundamental human rights)が挙げられる。これは憲法の三大原則と呼ばれている。\n日本国憲法では、主権者は日本国民であると、明確に宣言されている。\n日本国憲法の前文でも「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と宣言されている。\n政治の決め方は、国民からの選挙で選ばれた議員を代表者として、議員を通して議会で政治が決まります。なお、このように、議会を通して政治を決める方式を議会制民主主義(ぎかいせい みんしゅしゅぎ、Representative democracy リプリゼンティティブ・デモクラシー)と言い、また、間接民主制(かんせつ みんしゅせい)とも言う。\n日本国憲法の議会のあり方では、大日本帝国憲法の時代と同様に、議会制が取られている。日本国憲法では国民の普通選挙が保障されており(憲法第15条)、公職選挙法によって選挙権は男女ともに18歳以上の大人に選挙権が平等に与えられる。また、最高裁判所の裁判官は国民による審査をうける。\nこのように、主権者が国民であるという方式や考え方などを「国民主権」という。\n日本国憲法では、明確に国民主権が明記され、天皇の主権が否定された。大日本帝国憲法では主権者であった天皇は、日本国憲法では、天皇は日本国の「象徴」と憲法第1条で規定された[1]。\n政治に関しては、天皇は、実際の政策の決定は行わず、また政策の決定をする権限も天皇は持っていない。天皇は、儀式的な国の仕事である国事行為を行うとされている。また、その国事行為は、内閣の助言と承認にもとづくとされている。\n天皇の国事行為は次のようなものが挙げられる。\n全ての人間が生まれながら持っている基本的な権利を基本的人権(きほんてき じんけん、英:fundamental human rights ファンダメタル・ヒューマン・ライツ)という。基本的人権は憲法第11条にて「侵すことのできない永久の権利」とされている。\n基本的人権には、以下のような権利がある。平等権・自由権・社会権(英:Social rights)・参政権(英:Suffrage )・人権を守るための権利がある。これらについては別のページにて詳しく説明する。\n憲法で定められた権利は、どうあつかっても良いのではなく、社会全体の利益または他人の権利をそこなわない範囲で、憲法の権利の活用がみとめられている。そのために各人の権利を調整する原理を公共の福祉'という。\nたとえば授業中に大声でさわいだりして他の生徒の勉強をじゃますることは、他の生徒の「教育を受ける権利」を侵害しているため、授業中に大声でさわぐ生徒を先生が叱っても、人権侵害にはならない。\n公共の福祉はあくまで、それぞれの人権の矛盾や衝突を避けたり、調整したりするためのものである。したがって、人権の侵害の口実に公共の福祉を用いることはゆるされていない。\n日本国憲法では、戦争をおこさずに平和主義をまもろうとしています。憲法では、日本は戦力(せんりょく)や武力(ぶりょく)を持たないとしており、軍隊を持たないとしていますが、実際には日本国は自衛隊(じえいたい)が戦車などの兵器をもっています。\n自衛隊が存在していたり、自衛隊が兵器をもっていることは、憲法に矛盾しているような状態なので、批判的な意見や議論もあります。ですが、日本の第二次大戦後の政治では、今までのところ、国会議員の選挙で選ばれた政権が、自衛隊の保有を認める時代が、ずっと、つづいています。\n憲法には権利(けんり、英:right)だけでなく、国民の義務(ぎむ、英:obligation オブリゲイション)についても書かれています。\n義務は、納税(のうぜい)の義務(第30条) 、 子供に教育を受けさせる義務(第26条) 、 勤労の義務(第27条) の3つの義務があります。\n日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、\nわれらとわれらの子孫のために、\n諸国民(しょこくみん)との協和(きょうわ)による成果と、わが国(くに)全土(ぜんど)にわたって自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し、\n政府の行為によって再び戦争の惨禍(さんか)が起る(おこる)ことのないようにすることを決意し、\nここに主権が国民に存(ぞん)することを宣言(せんげん)し、\nこの憲法を確定する。\nそもそも国政は、国民の厳粛(げんしゅく)な信託によるものであって、\nその権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使(こうし)し、その福利(ふくり)は国民がこれを享受(きょうじゅ)する。\nこれは人類普遍(じんるいふへん)の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づく(もとづく)ものである。\nわれらは、これに反する一切の憲法、法令(ほうれい)及び(および)詔勅(しょうちょく)を排除する。\n日本国民は、恒久(こうきゅう)の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであって、\n平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。\nわれらは、平和を維持し、専制と隷従(れいじゅう)、圧迫(あっぱく)と偏狭(へんきょう)を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい(しめたい)と思う。\nわれらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏(けつぼう)から免れ(まぬかれ)、平和のうちに生存する権利を有する(ゆうする)ことを確認する。\nわれらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的(ふへんてき)なものであり、この法則に従う(したがう)ことは、自国の主権を維持(いじ)し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務(せきむ)であると信ずる。\n日本国民は、国家の名誉(めいよ)にかけ、全力をあげて この崇高(すうこう)な理想と目的を達成することを誓う(ちかう)。\n憲法の改正は、通常の法律とは違う改正の手続きがありますが、改正そのものは日本国憲法でも可能です。\n日本国憲法の条文にも改正の手続きが書いてあります。\n憲法を安定させるため、改正の条件は、通常の法律よりも、きびしい条件になっています。\n通常の法律の改正よりも、より多くの議員の賛成や国民の賛成が、憲法の改正では必要なようになっています。\n憲法は最高法規なので、他の法律よりも安定させる必要があり、そのため日本では、きびしい改正の条件になっています。\nまず、衆議院と参議院それぞれ両方の総議員の3分の2以上の国会での賛成によって、発議(はつぎ、意味:国会での提案のこと)されます。\nこの憲法改正の発議では、衆議院と参議院は対等です。\n国会での発議ののち、国民投票にかけ、過半数の賛成があれば、憲法は改正されます。\nこれらの条件の一つでも満たさなければ、その発議での憲法改正は廃案になります。たとえば衆議院の3分の2以上の賛成が合っても参議院の3分の2が満たさなければ廃案です。衆参の3分の2以上を満たしても、国民投票の過半数の賛成に届かなければ廃案です。\n以上の条件を満たし、もしも憲法改正が決まったら、天皇が国民の名で憲法改正を公布することになります。憲法改正の公布も、天皇の国事行為の一つです。\nさて、西暦2021年7月の時点では、まだ日本国憲法は一度も改正されていません。\n2007年に、憲法改正のための国民投票の手続きを定めた法律の国民投票法(こくみん とうひょうほう)が制定され2010年に施行されました。\nなお、国民投票法の正式名称は「日本国憲法の改正手続に関する法律」です。\nなお、憲法改正には改正発議のあとの国民投票による「その過半数」(憲法 第96条)の賛成が必要ですが、しかし「その過半数」とは何の過半数なのかは憲法そのものには書かれていません。国民投票法では、有効投票の過半数によって憲法改正をできると制定しています。(※ 検定教科書では、帝国書院や教育出版の教科書で、本文では説明は無いがい、図表で「投票」の過半数だと説明されている。)\n有権者の過半数ではなく、有効投票の過半数です。\n憲法の改正で、よく提案される改正案を上げます。\nほかにも、いろいろと改正案はあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%89%87"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会 公民 > 中学校社会 公民/国民主権\n中学校社会 公民/国民主権では、日本における国民主権について憲法を交え中学校の公民という立場から考えます。\n日本国憲法では、主権[1]者は日本国民であると明言しています。\n現在は、国民による選挙で選ばれた議員を代表者として、議員を通して議会 (国会) で政治がされます。なお、このように、議会を通して政治を決める方式を議会制民主主義、あるいは間接民主制とも言います。\n参政権とは、国民の誰もが政治に参加できる権利です。\n日本では、18歳以上の日本国民ならば、誰でも国会や地方議会の選挙の際に投票できる選挙権があります。また、25歳以上の日本国民ならば誰でも衆議院の議員に立候補できる被選挙権の権利です。なお、参議院の立候補は、30歳からです。また、憲法改正のときの国民投票の権利なども参政権に含まれます。\n日本国憲法では、大日本帝国憲法の時代と同様に、議会制が取られています。ただし、日本国憲法では選挙権を与えられる対象が大日本帝国憲法の時代よりも拡張され、選挙権は国民であれば18歳以上の男女に選挙権が平等に与えられます。\n選挙で選ばれた議員が政治を決めるため、政治に投票する選挙権などの 参政権 が重要な権利になります。また、政策を主張するには、そのための自由や権利が無くてはなりません。そのため、言論の自由や表現の自由もまた重要な権利です。\n大日本帝国憲法では国家の主権者であった天皇は、日本国憲法では日本国の「国民の統合の象徴」と憲法第1条で規定されています。\n政治に関して言えば、天皇に実際の政策を決定する権限はありません。天皇は、儀式的な国の仕事である国事行為を行うとされています。また、その国事行為は、内閣の助言と承認にもとづくとされています。\nもっとも、大日本帝国憲法の時代でも、形式的に政治の主権は天皇にあったものの、実際は議会の意向 (後に軍の意向) をある程度反映して政治が行われていました。\n日本国憲法では国民主権が明記され、天皇の主権が否定されました。\n外国からは、天皇が日本の元首と見なされることもあります。元首とは、外国に対し国を代表する人を指します。\nこれには、次の行為があります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%B8%BB%E6%A8%A9"} {"text": "基本的人権は、おおまかに 自由権(じゆうけん)、 平等権(びょうどうけん) 、 社会権(しゃかいけん) などの権利に分けられる。 \nこのうち、自由権は大まかには身体の自由、精神の自由、経済活動の自由に分かれます。\n犯罪をして逮捕されるときなどをのぞけば、体を不当に拘束されない、という権利です。\n日本国憲法では、\nという言い方をしています。\n生命を法によらなければ奪われない権利と合わせて「生命・身体の自由」と言われています。\n法律によらなければ、逮捕はされません。(第33条) 警察官が逮捕をする場合も、裁判官の発行する令状(逮捕令状)が必要になります。[1] \n逮捕された場合でも、裁判をすぐに受ける権利があります。(第37条) \nまた、裁判とも関連して、憲法の条文では、取り調べでの自白の強要はゆるされていないというような定めがあり、自白のみを証拠にする場合には裁判の判決で処罰を下すことはできないことが定められています。被告人には不都合なことを黙る黙秘権(もくひけん)もあります。\nまた、「身体の自由」は、奴隷的な拘束を禁じた義務でも、あります。\nどのような考えを持っていても、少なくとも法律では、その考えを持つだけでは罰しない、ということに、憲法では、なっています。\n精神の自由には、思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由や、学問の自由 などがあります。\nどのような政治信条を持っていたり人生観を持っていようが、法律では罰されません。\nまた、何を正義と思おうが、思うだけなら罰されません。\nただし、思うだけでなく、実際に行動にうつせば、もし、その行動が法律に違反していれば、当然、取り締まりを受けます。\nまた、役所以外が、特定の考えを批判しても、べつに思想の自由を侵害したことになりません。\nたとえば、政治の政党は、当然、政党ごとに政治信条がちがってきます。ですが、たとえ政党が別の政党の政治信条を批判したところで、それはべつに憲法違反になりません。\nあなたの父母などの保護者が、あなたの考えを批判しても、保護者は憲法違反になりません。\n学校などの場合、生徒の考えが道徳に違反している場合、先生が生徒の考えを批判する場合もあります。\n厳密(げんみつ)に考えれば、たとえ子供であっても精神の自由があるのですが、教育上の理由から、生徒の考えが明らかに社会道徳にさからっている場合には、慣習的に教育者は生徒をしかることも、社会的には、ゆるされています。\nどんな考えを発表しても、その主張が侮辱(ぶじょく)や脅迫(きょうはく)などを目的とした違法な主張で無い限りは、発表をしたことで刑罰や取り締まりを受けない、・・・と一般に考えられており、これを「表現の自由」と言います。\n(※ 範囲外)\n日本国憲法そのものの表現の自由に関する条文には、侮辱・脅迫などの例外規定はない。憲法では、表現の自由について、単に\n「第二十一条\nとだけ書いてある。だが、現実の社会においては、主張に侮辱(ぶじょく)や脅迫(きょうはく)などの違法な主張があれば、警察などによって取り締まられている。\n例えば、もしも「○○(実在の人名)を殺してしまえ。」(犯罪の指示)とか「△△しないと、○○(実在の人名・地名など)を襲撃するぞ。」(脅迫)とか言ったり発表したりすれば、その人は、取り締まりを受ける場合もある。\nなので、wikibooksでは「表現の自由」について「どんな考えを発表しても、その主張が侮辱(ぶじょく)や脅迫(きょうはく)などの違法な主張で無い限りは、発表をしたことで刑罰や取り締まりを受けない、」のように説明した。\nもちろん、推理小説とかで作中の殺人犯とかが、「○○を殺す。」と言っても、脅迫を目的とした小説ではないので、取り締まりは受けないだろう。同様に、歴史小説とかで源頼朝が「平家を滅ぼす。」などと言ったとしても、その小説の作者は取り締まりは受けないだろう。\nだが、もしも、単に現代の一般人が「○○(実在の人名)を殺せ。」などと言ったりすれば、当然、刑法などによって取り締まりを受ける。\n検定教科書によっては、「侮辱や脅迫」などの例外については説明せず、単に「どんな考えを説明しても、取り締まりを受けない」などと説明する場合もありうる。中学生徒は、定期テストのため、答案は、自校で採用している検定教科書に合わせよう。\n\nキリスト教を信じようが、仏教を信じようが、神道を信じようが、あるいは自分で作った宗教を信じようが、または、宗教を信じないとしても、法律では罰されません。つまり、どんな宗教を信じても、あるいは、宗教を信じないとしても、それは自由であるということです。\nなお、キリスト教の教会が、教会の中で仏教など他教の儀式を禁じようが、それは信教の自由をやぶったことになりません。国や法律以外のことについては、憲法による信教の自由は関与しません。\nある宗教の信者が、その宗教をやめたいと思ったら、教団の側は、信者が信仰をやめて宗教から抜ける自由をみとめなければ、ならないでしょう。また、たとえ、親や学校の教師だとしても、あなたに特定の宗教を強要したり、あるいは、特定の宗教を信仰しないように強要することはできません。\nまた、政府と宗教とは分離されています。(政教分離) 原則として日本では、政府が特定の宗教を保護することは禁じられています。ただし、裁判の判例では、例外として、宗教的文化財への補助や宗教系私立学校への補助などを許しています。\nまた、外部的行為を伴う宗教行為は、他者の人権と衝突する可能性がある以上、信教の自由の保障は無制限ではない。\n判旨:精神異常者の平癒のために加持祈祷が宗教行為としてなされても、それが他人の生命、身体等に危害を及ぼすものであり、それによってBが死亡した以上、信教の自由の保障の限度を逸脱したものであり、Aの加持祈祷行為は傷害致死罪に当たる。\n憲法の保障する『学問の自由』とは、具体的に何のことかと言うと、通説では、おもに大学の自治のこととされています。(※ 日本の大学入試センター試験でも、この見解である。そういう出題がされている。)つまり、小学校・中学校・高校は、対象になっていません。\n職業選択の自由などがあります。近代よりも昔は、人々は身分のしばりがあって、自由に職業を選ぶことが出来ませんでした。職業選択の自由では、そのような職業を選ぶ際の制限をなくしています。(第22条)\nただし、どんな仕事も、お金を払う客がいないと成り立たないので、かならずしも、ある職業を目指したからと、その職業になれるとはかぎりません。\nたとえばプロのボディビルダーを目指しても、その職業につける人は少ないでしょう。\n職業選択の自由は、その職業になれることまでは、保証しません。職業選択の自由が保証するのは、ある職業を目指しても、法律では、その目標が禁止されることはない、ということです。\nただし医者や弁護士のように、その仕事につくのに免許などの資格が必要な仕事もあります。\n原則的に、どこの地域にも引越しができて、住所をかえることができます。明治よりも前の、江戸時代では、人々は自由には移り住むことが出来ませんでした。明治時代になって、こういった引越しをさまたげる制限は、なくなりました。\nただし未成年(みせいねん)の子供は、親など親権者の許可がなくては、引越しはできません。\n自分の財産をもてる権利と、その財産が不当におかされない権利です(第29条)。むかしは、支配者が勝手に人々の財産を取り上げることがあったので、そういう不当な取り上げが出来ないようにしています。\nどうしても、国が土地などの財産をゆずってほしい場合には、かわりに、たとえば国が金を払って買い取るなどの、相応の補償(ほしょう)をしなければなりません。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%A8%A9"} {"text": "自由権だけがあっても生まれによる差別があっては、民主主義は達成できません。\nもし、生まれによって、法律にしたがわなくてよい人がいては、法治主義は崩壊し、憲法や法律による民主主義は、機能しません。\nまた、性別を基準としての、不合理な差別があっても、民主主義は達成できません。第二次大戦後の日本では、参政権と公職選挙法によって、男女とも18歳以上の選挙権を認めていますが、日本国憲法では、さらに踏みこんで、性別による差別を許さないというような主張を憲法14条などで決めています。\nこのように、人間は、生れながらにして、誰もが個人としての尊厳を保障されなければなりません。\nそこで、日本国憲法では、人はだれもが、法の下(もと)に平等であることを確認しています(いわゆる「法の下の平等」(ほうのもとのびょうどう). ※「下」の漢字に注意、「元」(×)ではない)。\nもちろん、子どもといえども基本的人権があります。子どもにも生命の権利はあり、子どもの生命をうばう事は、許されません。このように、子どもといえども基本的人権の例外ではありません。\nしかし、子どもは飲酒・喫煙の制限を受けるなど、さまざまな制限を受けます。このような子どもへの制限は、法律的に許されます。\nまた、学力試験や適性試験などの成績・得点によって、公立学校などへの進学先が変わってきたりすることは、認められています(※ 帝国書院 の見解)。そのかわり、公的機関への進学先・就職先などを決める試験の機会は、日本国民なら、だれもが生れながら均等に与えられていなければなりません。\nつまり、「平等」といっても、専門知識、知力・体力などの能力のちがいによって、就職先がちがったり、進路がちがうことを認めないという意味ではありません。(「つくる会」の見解。検定合格する見解でもある)\nまた、職場の上司と部下とのあいだの、仕事中の上下関係をみとめないという意味での平等ではありません。(「つくる会」の見解。検定合格する見解でもある)\n憲法が保障する平等とは、おもに、法は、だれに対してでも強制力をもつという意味の、法の下の平等(ほうのもとのびょうどう)のことです。\nたとえば、男女において、就職や進学の機会や、義務教育の内容が、もし仮に、特別な理由(健康上の理由など)もないのに、機会が大きくちがっているとしたら、きっと、平等に反する行為でしょう。(※ 実際には、女子校などもあるので、ややこしいが。なので、ときどき、国公立の女子大のあつかいで、男性からの裁判も起きている。)\n労働についての法律においては、男女雇用機会均等法(だんじょこようきかい きんとうほう)が定められています。97年の均等法の改正により、募集や採用において、男女で賃金や採用条件などの格差をもうけることは、差別とされ、許されなくなりました。\n家庭においても、夫婦間の家庭内暴力(かていない ぼうりょく、ドメスティック・バイオレンス、DV)は、許されません。夫から妻への暴力がゆるされないだけでなく、妻から夫への暴力も許されません。\n日本国憲法では、結婚は、結婚をしようとする両性双方の合意だけが必要であり、夫婦どうしの結婚の機会は、対等です。\nなお、大日本帝国憲法の時代にあった華族(かぞく)や貴族(きぞく)などの制度は、日本国憲法では認められていません。つまり、第二次世界大戦後の日本には、法律のさだめている貴族や華族はいません。\nアイヌ民族などにも、差別があってはいけません。\nまた、黒人などに、肌のいろを理由とした差別があってはいけません。\n在日外国人への差別もあってはいけません。今これらの人達に対する就職や結婚などでの差別がなくなっていません。人権保障を推進していくことが今後求められます。\n外国人に対しては、その外国が、日本と国交のある外国なら、どこの国籍の外国人でも、原則として、外国人としての等しい扱いを受けるべきでしょう。\nなお、「日本国」は、韓国とは国交があり、北朝鮮とは国交がありません。\nまた、韓国・北朝鮮のある朝鮮半島は、第二次世界大戦に日本が敗戦する前までは、日本国の植民地であり、事実上の日本領土であったので、単に不法入国した人もいるでしょう。そういう場合は、不法入国扱いは好ましくないと思われます。\nまた、出かせぎ労働などで、日本に来ている在日ブラジル人や在日中国人などは、不法入国でないとすれば、正式な法手続きをふまえて来日してるわけですから、権利は、それなりに保障されなければなりません。\nたとえば、外国人の子どもの教育などでも、日本の公立の小中学校に進学してる場合は、教育の機会を保障するために、特別な配慮をすべきだろうと、現状では考えられています。\n最低限度の生活の保障をしている社会権(しゃかいけん)とも関わることなのですが、身体障害などの障害者であっても、義務教育を受ける権利は、保障されなければなりません。たとえば、学校の検定教科書には、視力がよわい人のために、とくべつに文字の大きい教科書も、存在しています。\nまた、公共機関は、車イス利用者などの身体障害者でも利用できるように、なるべく、入り口にはスロープ(ゆるやかな坂)などをつけるべきだとされています(いわゆる「バリアフリー」)。\nもし、その公共施設の建築構造上の理由で、どうしても車イス利用などのためのスロープを追加することが困難な場合には、その施設の人が介助者となって、入場などを手伝う必要があるでしょう。\n本ページ上記では、説明を簡単にするために、法律的に明確に禁じられている差別や、あるいは政府などがその分野における差別を規制しようとしている事柄(ことがら)を中心にあつかってきました。\nですが、実際には、ある対応が、法律で許されないような「不合理な差別」に当たるかどうかを決めることは、社会には多様な意見があるので、なかなか容易なことではありません。\nまた、たとえば障がい者であっても、たとえば平等な機会にもとづく選抜試験の結果、障がい者の成績が悪かったとして、その成績の悪さを理由として選抜されずに、好成績の者よりも不利な状況になることもあるのは、程度の問題もありますが、日本では現状、それは差別ではありません(※ 帝国書院の見解)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%B9%B3%E7%AD%89%E6%A8%A9"} {"text": "江戸時代に「えた」「ひにん」という身分にされた人々が多くすんでいた地区がありました。その地区に住む人が、明治維新以降も差別されました。明治時代に身分の解放令がだされましたが、日本の世間では、地区住民への差別が残りつづけたためです。\nこうした地区住民への差別問題のことを「部落問題」や「同和問題」といいます。また、差別された人々の多かった地区のことを、「差別されている部落」という意味で、「被差別部落」 といいます。\n現在でも地方による差はありますが、就職や結婚などで被差別部落出身者への差別が残っています。\nこのような差別が残りつづけることは、日本国憲法で主張されてる国民の平等の理念に反するので、部落差別を解消するための法律などの政策が取られています。\n1965年の同和対策審議会の答申では、同和問題を解決するために努力することが国の責務とされ、この答申の方針にもとづき、同和対策事業特別措置法などが制定されました。その後、1982年に地域改善特別措置法が制定され、1996年には人権擁護試作推進法が制定されました。\n現在でも、人権教育などの施策が続いています。\n全国水平社 とは、1922年 (大正11年) に設立された、部落問題を解決するために民間で設立された団体です。\nアイヌ問題については、部落問題とは、事情が異なります。\nまず、そもそもアイヌとは、北海道や樺太 (からふと、) (= サハリン) 、千島列島の先住民族のことです。\nアイヌは、日本とは異なる、独自の言語や独自の文化を持っていました。\n明治時代に、北海道は日本に併合されました。その結果、アイヌ民族も正式に日本に支配されることになったので、日本政府はアイヌ民族に対して、日本文化への同化政策を押し進めたので、アイヌ民族の固有の文化が否定されました。また、北海道の開拓にともない、アイヌの土地がうばわれたので、貧困におちいるアイヌ人も増えました。また、併合前のアイヌの生計は狩猟や漁労などで生計を立てていましたが、開拓にともない、農耕などに強制的に生業を変えさせ、また併合後に狩猟などが規制されたので、アイヌが生活の場を失い、貧困におちいりました。\n第二次大戦後、このような同化政策がしだいに批判されます。そして1997年にはアイヌ文化振興法されました。また、2008年には国会で「アイヌ民族を先住民とすることを求める決議」によって、アイヌ民族を日本の先住民族の一つだと認めることが日本の国会で正式に認められました。\nなお、この2008年の決議の背景として、2007年に国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことも受けています。\nそして2019年には、日本ではアイヌを尊重する地域社会づくりのための『アイヌ施策推進法』が制定され(※ 帝国書院の検定教科書デジタルパンフレットで確認)、これにともない今までのアイヌ文化振興法(1997年公布)は廃止されました[1]。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E8%A2%AB%E5%B7%AE%E5%88%A5%E9%83%A8%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "\nこのページは編集合戦のため、編集保護されています。現在の記述内容が正しいとは限りません。ノートで合意が形成されるなど、保護を解除できる状態になった場合、保護の解除を依頼してください。\n日本には、外国人も多く暮らしています。そのうちの多くは、中国人(約64万人)と韓国人・朝鮮人(合わせて約50万人)です。(なお、この記事では「朝鮮人」とは北朝鮮の国籍に属する人とします。)\n近年では、フィリピン(約20万人)やブラジル(約18万人)やベトナム(約8万人)などからの出稼ぎ労働者などが増えています。\n在日外国人にも人権はあるので、人権は保障されていますが(「人権」とは人間に与えられる権利なので、外国人も人なので人権は保障される。)、日本人とまったく同じ権利が与えられているわけではありません。\n外国人に与えられない権利の例として、参政権(さんせいけん)があります。\nこのうち韓国人と朝鮮人については、かつて日本が韓国( 「大韓帝国」という国が、昔あった。 )を併合していた歴史があり(1910年に大韓帝国を併合)、第二次大戦の終戦時ごろには約200万人の在日韓国人・朝鮮人がいました。\n仕事で日本に来たり、あるいは戦時中の労働者としての動員で朝鮮半島から日本に連れて来られた人などです。\n検定教科書では「強制連行」などと表記する場合があり、たしかに強制的につれてこられたわけですが、特定の民族を不利にあつかったわけではなく、戦時中の日本国民にも強制労働や徴兵の義務などを課したのと同じように、当事は日本国の一部だった朝鮮半島や台湾にも労働を強制したわけです。\n現在の日本国民の中には在日朝鮮人・韓国人を信用してない人もいて、そのため在日朝鮮人・韓国人を嫌う人もいます。そのため、在日朝鮮人・韓国人への差別があります。検定教科書の多くは、これを不合理な差別と考えているようであり、不合理なのでこの差別をなくすべき、というような事を主張しています。在日朝鮮人への結婚や就職での差別をなくすべき、と考えている検定教科書が多いです。\nなお、在日朝鮮人・韓国人には、普段は本名のかわりに、日本風の通称を名乗っている人がいます。(ただし、役所などへ公式な書類を出す時などは、本名を名乗る必要がある。)例外的に、それは日本の慣習でも認められています。\n(※ 在日朝鮮人の通称の存在については、中学教科書の範囲内です。)\n検定教科書は、おおむね「在日朝鮮人は民族の誇りを守って、日本国籍を取得せずに日本に暮らし続けてる」というような事を言って、かれら在日朝鮮人・韓国人の立場をかばっています。\nかれら第二次大戦の終戦当時の在日韓国人・朝鮮人の多くは、第二次大戦の終戦後は母国の韓国・北朝鮮に帰ったり、あるいは日本の国籍を取得して日本国民になったりしました。\nですが、様々な事情で母国には戻らず、日本国籍を取得しないで、そのまま日本に住みつづけた者も多くいました。\nそのような関係で現在にも日本に多くの韓国人・朝鮮人がいます。\nよくある勘違いとして、戦争中に強制連行により朝鮮半島から連れてこられた人の子孫が、在日朝鮮・韓国人の大半だと勘違いしている人が多いです。しかし、統計では、戦時中に国の命令で強制的に朝鮮半島から日本に連れてこられた人は、たったの数百〜数千人です。(※ 参考文献: 外務省情報文化局 『外務省発表集(外務省発表集および公表資料集)』第十号, 昭和三十五年(1960年)二月, p. 51-54. 「(三) アジア、豪州関係 1.在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について 記事資料 昭和三十四年七月十一日」 )\n考えてみれば、朝鮮半島の人をわざわざ日本に連れてくるよりも、現地の朝鮮半島で働かせたほうが安上がりです。\nまた、その他の在日韓国人・朝鮮人として、日韓併合の時代から日本にいた韓国人・朝鮮人とは別に、第二次大戦後の朝鮮戦争(1950年に勃発)から逃れるために、1950年代ごろに日本に密入国してきた人が加わっています。\n当時の推定では約20万人〜40万人の密入国の韓国人・朝鮮人が密入国した、と言われています。\nべつに、これら朝鮮戦争時の密入国者の全てが、そのまま今でも在日外国人のままではなく、日本には国籍を日本国籍にかえる帰化(きか)という手続きもあるので、帰化して日本国籍になった人もいる。\nまた、帰化の手続きがあるので、帰化して日本国籍を取得する外国人も多く、そのため、在日韓国人・朝鮮人の数は減ってきています。\n在日外国人にも人権はあるので、人権は保障されていますが、日本人とまったく同じ権利が与えられているわけではありません。外国人に与えられない権利の例として、参政権があります。\n「無制限に外国人に参政権を与えると、もしも日本を侵略したり負かそうとする外国があると、参政権が悪用される恐れがある」という考えと、「国政への参政権は、国家の主権に関わる」という考えのもと、参政権は日本国籍を持つ日本国民にのみ与えられ、外国人には与えられていません。\nまた、参政権いがいの権利の制限として、公務員にも国籍条項(こくせき じょうこう)があり、外国人の日本国の公務員への就職は制限されています。\nちなみに世界の多くの国では、外国人には選挙権を与えていません。地方参政権などを外国人に与えているのは、世界でおよそ40カ国です。\n日本での、これら外国人の権利への制限について、「差別では?」という意見を主張する人もいますが、今のところ、外国人参政権に反対する日本国民の意見が多く、外国人に国政への参政権は与えられていません。\n「地方政治の参政権のみに限り、外国人にも与えるべきでは?」という主張をする意見もあり議論になっていますが、国政への外国人参政権への日本国民からの反対意見の大きさと同様に、地方参政権の外国人参政権にも反対する日本国民の意見が多く、外国人に地方政治の参政権は与えられていません。\n「国民の義務である納税の義務を負っているのに、参政権は無いのはおかしいのでは?」という意見もありますが、「納税は参政権の根拠にならない。納税と参政権を結びつけると、低所得者は参政権が無くなることになり、おかしい。」という反対意見もあります。\n日本では、日本国外に住んでいる日本人にも本国の選挙に投票できる参政権があります。\nですが、韓国では韓国以外に住んでいる在外の韓国人については2012年まで選挙権がありませんでした。\nまた、北朝鮮にいたっては政治が独裁政治であり、そもそも民主主義ではありません。\nちなみに世界の多くの国では、外国人には選挙権を与えていません。地方参政権などを外国人に与えているのは、世界でおよそ40カ国です。\nヨーロッパでは、EUの加盟国の多くが、加盟国の外国人に対してのみ、地方参政権にかぎり参政権を与えています。国政への原則として参政権は与えていません。\nフランス、ドイツ、イタリアでは、EU加盟国以外の外国人には参政権はありません。\n日本国での学校の検定教科書では、多くの教科書会社では、在日韓国人・朝鮮人への蔑視にもとづく差別があるとしている。その差別の具体例として、就職や結婚での差別がある、と記述している。\n\nいっぽう、日本国籍を持つ障害者などは、企業がなるべく雇用に努める法的な義務があり、一定以上の規模の企業は、規模に応じて雇用する障害者を雇用する義務があり、従わないと罰金を払う必要がある。\nなお、日本の学校教科書では、いわゆる「えた」・「ひにん」などの被差別部落の問題を取り上げたあとに、在日外国人の「差別」問題を記述に取り上げたものが多い。\n被差別部落の問題については、日本国の国会などで、これらの差別の解消にもとづく答申として「同和対策審議会」の「答申」が1965年に出されたり、差別の解消をめざすための法律の「同和対策 特別措置法」などが存在している。日韓基本条約などの条約はあるし、在日韓国人・朝鮮人の在留資格について定めた法律「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」などもある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%9B%BD%E5%86%85%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%A8%E8%AD%B0%E8%AB%96"} {"text": "社会権とは、社会を生きていく上で人間が人間らしく文化的に生きるためには、国が積極的にかかわる必要がある、という考えからうまれたもの。\n日本では生存権、教育を受ける権利、勤労の権利などの権利を社会権と呼ぶ。\n歴史的には、社会権の考え方は、ドイツのワイマール憲法が世界で初めて法律として定めた。社会権は20世紀に入ってから認められた権利である。\n「生存権」とは、だれもが人間らしい生き方ができる権利のことである。日本では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と日本国憲法第25条において明記されている。\nそして、この「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことを保障するための手段として、社会保障などの行政がなされている。\n病気やけが、老齢などによる生活不安、突然の失業・労働災害・事故などによって生活が苦しくなることがある。そういうときに個人や家族の責任にするのではなく、国の責任として、生活の保障をしていくためのしくみを社会保障という。社会保障は生存権を保障するための具体的な政策の一つでもある。\nたとえば、病気にかかった場合に、安い価格で適切な医療や介護を受けられるような医療保険・介護保険や老齢になったときに受け取る年金、貧しくて生活が苦しい人を政府がサポートすることによって自立をうながしていく生活保護などがある。\n詳しい内容は中学校社会 公民/社会保障制度を参照してほしい。\n現代の社会では、子供は、親や学校などから教育を受けなければ、社会で必要な知識を身につけることは困難である。\nそのため、子供が教育を受ける権利が保障されている(日本国憲法第26条)。\n日本では義務教育は無償になっており(日本国憲法 第26条)、授業料などは取らず、義務教育の学校教科書も無料になっている。\n(ただしエンピツやノートなどの文房具は、各家庭が自費で出費している。)\n病気や大けがなどで病院に長期入院しているため学校へ通えない子供には、院内学級のある病院などを利用して、教育が施される。\n勤労の権利は、日本では社会権に含まれている。日本国憲法は、国民に勤労の権利を保障している(日本国憲法第27条)。\n賃金などの最低基準は、労働基準法などの法律で定められている。\nまた、一般に会社の従業員(労働者)などは経営者(使用者)などに対して弱い立場に落ちいりやすいので、労働者の権利を保護し、権利を守るための法律もある。\nそれが、労働時間や賃金などの最低限度を定めた労働基準法 、労働組合はどういうことができるかを定めた 労働組合法 、労働組合と使用者との対立がはげしくなったときのための労働関係調整法 などの法律で、労働者の権利が保証されている。この3つの法(労働基準法・労働組合法・労働関係調整法)をまとめて労働三法 という。これらをもとに、我が国は労働者も会社から最低限の保護を受けられるような仕組みをつくっている。\n労働者は労働組合の結成をする権利が憲法や法律で認められており( 団結権 )、組合などがその会社の労働者の賃金を上げる賃上げ交渉などをする団体交渉権 を認めている(日本国憲法第28条)。\n労働者の権利には、他にも、ストライキなどの団体行動権が認められている。ストライキとは、労働者が団結して仕事を停止することである。\nこれら3つの権利(団結権・団体交渉権・団体行動権)をまとめて労働三権という。この労働三権と勤労の権利をあわせて労働基本権という。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%A8%A9"} {"text": "当然のことではありますが、われわれは完全に、まっさらに自由なわけではなく、何をしてもいいわけではないですよね。\n現代では多くの国民に言論の自由があると言われていますが、しかし、だからといって何を言ってもいいわけではないと思います。\n他人のプライバシーを侵害する発言、名誉を傷つける発言は、許容されるのでしょうか ?\n他人の尊厳、価値を侵害する行動は事実上制限されています。\nまた、区画整理や道路拡張などの公共の土木工事のとき、工事予定地にもとから住んでいた人は、充分な保障金を払われるという条件のもと、その工事予定地から引っ越すことを要請される場合もあります。\n空港の建設などでも、充分な補償のもと、引っ越しを要請、期待される場合もあります。\nこの場合、居住の自由が、公共の利益のために、制限を受けているわけです。\nまた、(コレラや赤痢(せきり)などの)重大な伝染病、感染症にかかった人は、他人への感染をふせぐ隔離(かくり)のため、強制的に入院させられ、勝手に出歩かないように、移動の自由を制限させられる場合もあります。(感染症法 や 医療法 という法律で、こういう処置が認められている。(※ 東京書籍や清水書院などの教科書の図表に記述あり))\nまた、道路などでデモを行う場合は、事前に届け出(とどけで)が必要です。届け出をしないで、公共の場所でデモをすると、処罰の対象になります。\nこのように、公共の目的のために、人権・権利が制限されることがあり、これを「公共の福祉」(こうきょう の ふくし)といいます。\n日本国憲法でも、公共の福祉は、憲法第12条で認められています。\n一方で、「公共の福祉」を理由に、むやみに人権が制限されないようにする注意も必要です。\nたとえば、表現の自由、言論の自由と、名誉を傷つけられた個人の関係にしても、その個人が政治家の場合、どうでしょうか?政治家の名誉を傷つけることを恐れるあまりに、マスメディアが、政治家を批判できなくなってしまうのは、風とおしの良い社会,政治が成り立たなくなり、政治家の暴走を許す危険もあります。\nまた、テレビなどの有名人・芸能人の場合の「プライバシー」を保護するべき範囲も、一般の人とは、違うかもしれません。しかし一方、有名人・芸能人にとってもプライバシーが侵害されないで生活できることは、重要な事です。\nハンセン病という病気があり、「らい病」ともいう。\nハンセン病は、現代では感染性は低いと考えられているが(しかし、感染性は低いとはいえ、ハンセン病は「らい菌」という細菌の媒介する感染症ではある)、医学が未発達だった過去の時代、ひどく感染すると思われていたため、第二次世界大戦後の1953年に公布された「らい予防法」によりこの病気の患者を強制的に隔離する法律が施行されて、強制隔離が実行された。\n日本だけでなく、多くの外国でも、ハンセン病の治療方法が未確立だった時代には、隔離的な政策が取られていた。\nだがのちに医学の発達により、ハンセン病は感染しない事が分かった。また、戦前~戦時中の1940年代には、すでにアメリカでハンセン病の治療薬とされるものが発表されていた(現代では、この1940年代の治療薬でハンセン病を治療できた事が解明されている。※ しかし医学の新薬開発はそんなに単純ではなく、治療や薬とされたものが効果が無かったり、失敗の歴史もある。(たとえば野口英世の黄熱病ワクチンなどの失敗例))。\n1950年代には、ハンセン病治療薬が本当に効くかどうか分からなかったが、しかしその後何十年経っても、薬でハンセン病を治療できる事例が豊富に積み重なってきたにもかかわらず、「らい予防法」による強制隔離は続いた。\nそしてようやく、「らい予防法」は1996年に廃止される。\n現在では、ハンセン病患者を隔離する方針は、明らかに間違っている、という合意が成立している。\nこういった一連の問題から、人権問題の議論として、ハンセン病の患者は、強制隔離により、不当に「行動の自由」などの人権を奪われたのではないか、という事が問題視された。\n(※ 範囲外: )なお2008年には、「ハンセン病問題基本法」が制定された。(※ とうほう社「ビジュアル公民2020」で記載を確認)\nしかし、「らい予防法」は、戦後の日本国憲法の掲げる「公共の福祉」や「健康で文化的な生活」の文脈にもとづいて制定された法律だろう。\nしかし結果的には、ハンセン病患者の方たちの人権を不当に奪っている。そして事実上、患者の方たちが嘗めた辛酸は、余人の想像を絶するものがあっただろう。\n社会科の範囲外:赤痢やコレラなどの感染症の患者を、医師や自治体などの判断をもとに最低限度の隔離をすることは合法だし、公衆衛生からもそれが求められる。法律では「感染症法」などに規定がある。公共の福祉、ということになるだろう。日本国憲法には、「健康で文化的な生活」という文言もあるから、政府や行政などは公衆衛生を向上させる義務がある。\n「公共の福祉は悪である。」、はずはないし、そもそも実際にはそんな主張をする人は、世の中に一人もいないだろう。\n2020年、新型コロナ(2019年型コロナウイルス)の感染拡大の問題により、日本を含む多くの国で、医師などの診断によりコロナ感染者とされた人々の隔離等が行われている。本wiki本ページ執筆の現在もコロナ問題が進行中であるので、深入りを避けるが(2021年に記述)、行動の自由などの権利と公衆衛生を両立することの難しさは、政治家や医療関係者だけではなく、あらゆる人が痛感しているだろう。\n新型コロナのような最近の話題だけではない。ハンセン病などの過去に議論になった話題でも類似の問題は存在している。\n実際、ハンセン病患者団体などがコロナ問題についても声明を出しているので、けっして無関係ではない。また、新聞報道などでは関心事にもなっている[1]。\nハンセン病は、発症した場合、手足の末しょう神経に麻痺が出る場合もあり(※とうほう社「ビジュアル公民2020」で確認)、重い症状になる事もある。また、皮膚に病変が出来る場合もある。ハンセン病は皮膚の病変しか症状がないから、皮膚の病変のせいで、見た目が醜いので、差別された、という主張は不適切だろう。(もっとも、現実問題、ほんとうの意味でそんな主張をした人がいたかどうかも怪しい)。見た目による差別もあったかもしれないが、しかし手足の麻痺などの重大な症状もあるし、また、感染性も低いとはいえ、「らい菌」という細菌により伝染するので、感染性自体はある病気である。\n「善意で行った行動は、かならず良い結果をもたらす」。残念ながら、この命題の真偽値は偽(false,0) でしょう。\n日本の薬害エイズ問題でエイズウイルス入りの血液製剤(血友病の治療薬が血液製剤)を処方してしまった医師は、悪意からではなく、医師の職務として、患者を治療しようとして血液製剤を処方した筈だ。睡眠薬サリドマイドの催奇形性だって、通常の治療行為だった筈が、想定外の悲惨な事態に繋がっていったのだろう。とはいえ、実際に薬品を作って販売し、それを認可し、それを処方する人間には、その薬品の安全性と効果に責任があるだろう。その薬品に関して破滅的な悪い出来事が起こった時に、善意でやったことだから仕方ないよね、で、済む筈がない。それらの問題に関わった厚生官僚や政治家や医師が実際に、現実にどういう人間かは知らないが、業務上でミスをおかしたのは間違いないし、世間から多少悪人呼ばわりされて非難されても、仕方がないのではないだろうか。\n医療にかぎらず、経済政策などでも、「よかれ」と思って行った政策で裏目の結果が出た例がある。1990年以降の例だと、バブル崩壊後、デフレをともなう不況で対策が遅れたのは、財務省官僚や政治家がインフレによって国民が困窮するのを防ぐためインフレ対策にに力を入れたため、結果、デフレ化して不況下していった・・・という側面がある。\n海外の例なら、1980年代のソビエト連邦の崩壊、そのソ連を建国した1917年頃のロシア革命は、「改革により、ロシアの経済と社会をよくしよう。そのために改革に反対する、ロシアの王族を革命で打倒しなければ。」と考えたのだろう。もっともこの話は、善意が裏目が、というよりは、歴史の大きな流れが現前している出来事だろう。\n日本の昭和の日中戦争や太平洋戦争などの今になっては無謀な戦争と呼ばれる出来事はどうだろう。あらゆる人間が確実に善意を持ち合わせていることは間違いない。当時の政治家達や大人達がこの国の国益の為に奔走したことは間違いないだろう。\nしかし問題は、「善意」とは何かという事だ。善意とは個人の気持ちにすぎない。あくまでもそこには、自分自身の気持ち以外は何もない。\nここに他者が介在し、その他者が何を喜び、何を欲し、何を幸せとし、その他者が何者で、実際にはどんな存在なのか。\nそれを知ること無しに、(A)、善意が善行になる日は来ないであろう。\n前編集者S は、(A)の部分に、または知れないことの限界を知らずに、という言葉をつけ足したが、あらゆることに関しての不可知性に関しては同意するが、この問題に関して知られないことを大上段に語るのなら、そもそも、善意や善行なるものについて最初から語らないのが正解だろう。\n善意や善行について語るのなら、どこまでも真実を追求しなければならないし、限界を語って自己満足にふけるのなら、善性とは縁のない人間性なのだろう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%85%AC%E5%85%B1%E3%81%AE%E7%A6%8F%E7%A5%89"} {"text": "「新しい権利」とは、日本国憲法では、まだ規定されていないが、時代の変化に合わせて、新たに、保障する対象に追加するべきと考えられている権利のことである。\n「知る権利」や「プライバシーの権利」などが、新しい権利である。\n国民が政治について判断を下すためには、国民に国や地方公共団体の活動についての正しい情報が与えられなければならない。\nそのため、国や地方公共団体は、自分たちの活動を、なるべく公開するべきである、という考えがあり、この考えにもとづき活動内容についての情報公開が多くの役所で行われ、情報公開制度が作られている。\nこのような権利を「知る権利」(しる けんり)という。\n1999年には 情報公開法(じょうほう こうかいほう) が制定された。\nまた、「知る権利」を保障するためには、新聞やテレビなどのマスメディアによる報道の自由も、重要である。\n私生活での秘密であるプライバシー(英: Privacy)を、他人に勝手に公開されるべきではないと言う考えに基づき、私生活の秘密を守るべきという「プライバシーの権利」が主張されている。\nこのような考えにもとづき 個人情報保護法(こじんじょうほう ほごほう)が2003年に制定され2005年に施行された。\nなお、行政の情報公開でもプライバシーに配慮する必要があり、たとえば地方公共団体での情報公開では住民個人の情報などは公開してはならない。\nテレビや新聞などのマスメディアも、情報公開の対象者のプライバシーには配慮しなければならない。\nその一方で、マスメディアやメディアを見る大衆には、知る権利もあるので、「知る権利」と「プライバシーの権利」とのバランスが重要である。\n中学生どうしや友達どうしでも、相手にプライバシーがあるので、勝手に無断で相手に私生活の情報を公開してはいけない。\nまた、他人の電話番号や他人の住所などもプライバシーに近い扱いを受けるので、他人のこれらの情報は、公開しないほうが良い。\n撮影された写真などを、みだりに公開されると、プライバシーが侵害されたり、つけまわされたりして危ない目にあいかねないので、無断の写真撮影を禁止するべきという考えにもとづき、他人から無断で写真を撮影されない権利や、写された相手に無許可で写真を利用しないように主張できる権利が考えられている。\nこのような、自分の写った写真を無許可で公開されない権利のことを肖像権(しょうぞうけん)という。\nなお、日本の法律では、肖像権という権利を規定した文章は無い。\n一般人を無断で撮影した写真を無許可で利用したら肖像権の侵害になるという考えが一般である。\nでは、テレビのニュース報道などの場合の相手の肖像権をどうするかが、よく議論になる。\nたとえば政治家などの写真撮影やビデオ撮影などを無原則に禁止してしまうと、テレビや新聞などで報道ができなくなる。\nこのため、国会議員、地方議員、公務員などの公人(こうじん)といわれる人たちの公務中の活動ではプライバシー権などが部分的に制限されていて、報道などの正当な理由にもとづけば、公開できるという考えが一般である。\nただし、相手が公務員など公人であっても、公務いがいの私生活などでは、プライバシー権などがあるので肖像権もあり、私生活は、むやみに写真公開されてはいけない。\nまた、政治家の家族や友人など、公人の本人いがいのは、公人では無く私人(しじん)だと見なされるので、本人いがいは原則的にプライバシーの保護や肖像権の保護の対象になる。\nまた、スポーツの競技大会での選手など、注目されることが対象者の目的の場合は、スポーツ大会中の選手のようすなら一般に撮影が許されたりと、肖像権が制限されると考えるのが普通である。\nまた、テレビや新聞で報道された写真などの対象者が、特に有名でない一般人でも、個人を特定できない場合などは、肖像権の侵害には当たらないと判断される場合もある。\nこのように一般人相手でも特定できないなら写真公開できるように、しておかないと、たとえばニュースなどで報道に値する出来事があった場合でも、その出来事が起きた場所に、一般人がいると、出来事の写真を公開できなくなってしまうので、このような解釈がされている。\n肖像権にはこのように例外的に制限される場合もあるとはいえ、中学生にはこのような判断が難しい。\n取り敢えず、友達同士の写真や動画はインターネットやSNSでは公開しない方が良いだろう。\n友達同士の場合は政治家や公務員などとは違い、相手が公人であることはまず無いと言っていいだろう。\n友達以外でも、あまり他人が写った写真やビデオ動画などを自分が中学生もしくは高校生のうちは、インターネットなどで不特定多数などには公開しないほうが良いだろう。\nどうしてもインターネットで写真を公開したい場合は、相手の人に確認を取って許可がもらえた場合にのみ公開するのが良い。しかし、中学生にはここまでのステップを踏めるだけの時間が足りない筈だから、中学生のうちはインターネットでの他人が写った写真の公開はしないほうがトラブルに巻き込まれにくくなるので良いだろう。\n日本では、高度経済成長期ごろの公害問題や自然破壊などをきっかけに、環境を守る権利が主張されはじめました。\n自然は一度、壊されると、回復するのが長い時間がかかったり、森林地帯などが工業化されてしまうと回復が困難になる。なので、大規模な工事や開発がされる前には、事前に工事などが自然環境にどういった影響を与えるかを工事事業者などが調査して、周辺住民に説明をする責任が工事事業者などにある。\nこのような、開発の環境への影響の評価を環境アセスメント(英:Environmental Impact Assessment、略:EIA)と言う。1997年には環境アセスメント法が制定された。\nまた、この高度成長のころ、ビルやマンションなどが増えたので、高い建物の周辺には日当たりの悪い住宅が出てきた。この問題を受けて、高い建物は日当たりを妨げてはいけないという制限が法律で作られ、周辺住民の日照権(にっしょうけん、英:Right to light)という権利が、それは日当たりを妨げるビルなどを制限する権利が主張され始めた。\n日照権の観点から、建築基準法(けんちく きじゅんほう)では、建物の高さや形などが制限されている。\nたとえばマンションの北側の部分が斜めになっていることが多いのは、周囲の建物の日照権を守るためである。(太陽は昼間には南に登るので、反対方向の北に影が出来る。)\n個人が,個人的な事柄について,さまざまな人や物事から干渉されずに自由に決定する権利。医療現場での患者が十分な説明を受けたうえで同意するインフォームド・コンセントや自らの臓器の提供について意思を表明するドナーカードもこの権利に基づいている。\nたばこの煙を吸いたくない人が、吸わないように出来る権利の嫌煙権も、環境権の一部と考えられている。嫌煙権の観点から、公共機関などでは、分煙(ぶんえん)や禁煙(きんえん)が進んでいる。\nインターネットの発達した現代、個人の情報がインターネットに残りつづけることが、プライバシーの観点などからも問題視されるようになりました。\nそこで、インターネット上の個人情報を削除させる権利をつくろうという議論が起こり、この権利のことを「忘れられる権利」と言います。\nヨーロッパでは、すでにEUにおいて2018年以降、「忘れられる権利」がEUの「一般データ保護規則」(GDPR)において制定されています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%A8%A9%E5%88%A9"} {"text": "日本国憲法では、前文や第9条で、平和主義を主張しています。\n第9条 【戦争放棄、戦力および交戦権の否認】 \n日本国憲法第9条では、おもに、\nを主張しています。\nしかし、実際の日本の第二次大戦後の歴史や政治では、そうなっていません。\n本書でこれから述べるように、日本国は「自衛隊」(じえいたい)という組織をもっています。また、自衛隊は、戦車や戦闘機などの兵器を持っています。(※ 検定教科書でも、「自衛隊」という用語は、重要語として太字で紹介されています。)\n日本国憲法が、こうなった経緯(けいい)は、大まかに言うと、第二次世界大戦後に日本国憲法が出来たあとに、国際情勢が大きく変わり、日本が戦力や武力をもたないでいることが、国際政治的には難しくなったのです。\nただし、なるべく憲法の平和主義の原則を守ろうという考えで、政治や法律では慎重な武力の運用がなされています。\n日本政府は、「自衛隊」や、自衛隊の持つ兵器などは、憲法で禁じられた「戦力」ではない、という立場を取っています。\n日本政府の説明では、主権国家には自衛権があり、「自衛のための必要最小限度の実力」を保持することは、憲法第9条で禁じられた「戦力」には当たらないと説明しています。\nまた、日本政府は、自衛隊の武器や部隊の能力のことを「防衛力」(ぼうえいりょく)という言い方で表現しています。\nまた、他国からの侵略のおそれなどに対策をすることを「安全保障」(あんぜん ほしょう)という言い方をしています。\nですが国際的には、日本の自衛隊や兵器は戦力だろうと見なされています。\n自衛隊が存在していたり、自衛隊が兵器をもっていることは、憲法に矛盾しているような状態なので、批判的な議論もあります。ですが、国会議員の選挙で選ばれた政権が、自衛隊の保有を認める時代が、ずっと、つづいています。\nつまり、自衛隊の存在を、選挙権を持った日本国民の多くは認めており、また自衛隊での兵器の保有も国民の多くは認めています。また、国民の多くは、そのような自衛隊や兵器保有の状態が憲法に矛盾していると考えています。\nなお、2020年段階では、まだ日本国憲法は改正されておらず、「戦力」の保有を禁じたままです。\n日本は第二次世界大戦でアメリカなどの連合国に敗れ、日本はアメリカ軍を主体とする連合国軍に軍事占領されました。\n連合国は日本に非武装化を求め、その意向を組んだ憲法が作られることになりました。\nそれからしばらくして、アメリカとソビエトとの対立が起こり、そして1950年に朝鮮戦争(ちょうせん せんそう、英:Korean War)が起こり、アメリカは朝鮮半島に戦力を向けざるを得なくなりました。\nそれをきっかけとして、アメリカの連合国軍総司令部GHQの総司令官マッカーサーは日本に防衛のため警察予備隊(けいさつ よびたい)の設立をもとめました。警察予備隊は、その後、保安隊と名称が変わり、さらに1954年(昭和29年)に自衛隊(じえいたい)と名称が変わり、自衛隊法の制定もされました。\n自衛隊は内閣の管理下に置かれています。自衛隊の最公指揮権は、文民(ぶんみん、英:civilian シビリアン)である内閣総理大臣が持ちます。\nこのように、国民が、選挙で選ばれた国民の代表である政治家(=文民)を通じて、軍隊をコントロールすることをシビリアン・コントロール(civilian control) といいます。\n自衛隊は災害派遣でも活躍しています。\n2007年(平成19年)には、防衛庁(ぼうえいちょう)は防衛省(ぼうえいしょう)に昇格しました。\n日本は経済力が高い国なので、必然的に自衛隊の予算の金額も諸外国にくらべると大きく、世界でも上位の防衛力を自衛隊は持っています。日本は、国家予算にしめる防衛費の割合は、国の経済力の大きさを表すGDP(国内総生産)の1%未満という世界でも低い水準なのですが(多くの諸外国はGDPで2%前後)、日本の経済力自体が高いので国家予算も大きくなり、世界の中でも日本は上位の防衛予算になっています。\n自衛隊は国外でも活躍しています。国際平和協力法(PKO協力法)に基づいて、カンボジアや東ティモールなどでの国連平和維持活動(こくれん へいわいじ かつどう、英:Peacekeeping Operations、略:PKO ピーケーオー)に参加しています。\nまた公海上での海賊対策などにも、自衛隊は活躍しています。ソマリア沖の海賊対策には、2009年に海上保安庁とともに自衛隊が出動しました。\n2003年(平成15年)にはイラクの復興支援に自衛隊は参加しました。\n日本はアメリカと 日米安全保障条約(にちべい あんぜんほしょうじょうやく、英:Japan / United States Security Treaty) を結んでいます。\n内容は、日本の防衛のために、他国が日本の領域を攻撃したとき、日米が共同で対処することです。\nまたそのために日本国内にアメリカ軍が基地や軍事施設などをつくって駐留することを認めています。\nアメリカ軍の日本国内の軍事基地は、東京都の横田(よこた)基地や、神奈川県の横須賀(よこすか)基地や厚木(あつぎ)基地、山口県の岩国(いわくに)基地、沖縄の嘉手納(かでな)基地や普天間(ふてんま)基地などがあります。\nアメリカ軍基地の多くは、面積で見ると、沖縄に集中しています。面積では日本にあるアメリカ軍基地のうち約71%が沖縄にあります。このようなこともあり、沖縄県の基地負担がたびたび政治的問題になっています。\nまた日米両政府は、宜野湾市の住宅街の中にある普天間飛行場を名護市辺野古沖に移設することで合意しましたが、野党や地元住民の多くは反対しています。\nそして、日米安全保障条約の施行についての具体的内容を定めた日米地位協定という条約があります。この内容について、裁判権などについて不平等だという批判があります。\n同盟国が他国から攻撃を受けたとき、自国は攻撃されていなくても自国に対しての攻撃とみなし同盟国の防衛に参加する権利を集団的自衛権といいます。\n日本政府は、この権利は憲法第9条の規定のため行使できないとしてきましたが、2014年に限定的な行使は可能とする見解に変更しました。(武力行使の「新三要件」)\nこれに関連して、平和安全法制(安全保障関連法案)が2015年に成立し、自衛隊の任務が広がりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E4%B8%BB%E7%BE%A9"} {"text": "国際連合(英:United Nations)は1948年(昭和23年)の世界人権宣言 ,1966年の国際人権規約を採択。世界人権宣言は国際社会において世界各国の人権保障における模範となっている。\nそして国際人権規約は条約として締約国(ていやくこく)に対し人権保障を義務としている。\n以上の他に国際連合は人種差別を無くすため人種差別撤廃条約や女性(女子)差別を無くすため女子差別撤廃条約 ,障害者の権利保障のための障害者権利条約などの人権保障のための条約を定めている。\nこれらの条約は締約国に対し強い影響力(えいきょうりょく)をもっており,現に日本では女子差別撤廃条約により男女雇用機会均等法が制定され男女平等が進んだ。\n・カナダを中心としたイヌイット\n・オーストラリアのアボリジニ\nなど先住民族の権利保障に努力する事も国際社会において広がっている。\n2007年には国際連合において先住民族の権利に関する国連宣言が採択された。\n今日(こんにち)の国際社会では世界規模で人権を保障するため条約など規則に定められた人権の「水準」に基づき世界各国の人権保障の状況を監視し,差別など人権侵害を解除しなければならない。\nそこで国際連合では2006年に国連人権理事会が設置され加盟国の人権保障の状況について調査し,問題が発見された場合には改善するよう勧告をしている。\nグローバル化の進んだ現在,人権保障ないしさまざまな社会問題は世界規模で結び付いている。\n環境汚染は国境を越え,先進工業国と発展途上国の間の経済格差は不法移民の増加につながっている。\n地球環境問題や貧困問題 ,難民問題の解決,エイズへの取り組みなどには国際協力が必要不可欠となっている。\n我々にはこの国際社会の一員として「地球規模」で持続可能な社会を実現するため努力することが求められている。\nそして国際的な人権保障を現実のものにするため「国境を超えて」活動する非営利(利益を目的としない)民間組織「NGO(非政府組織)」の活動が注目されている。\n今日ではNGOがさまざまな国際会議に参加し条約の締結に影響をあたえている部分もある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A7%E3%81%AE%E4%BA%BA%E6%A8%A9"} {"text": "政治についての、人々の意見のことを 世論(せろん、よろん、英:public opinion) と言う。\nテレビや新聞やラジオや雑誌などによる、大衆への報道(ほうどう)のことをマス・コミュニケーション(略:マスコミ、英:mass communication [1])と言い、そのような報道を行っているテレビや新聞やラジオなどの機関のことをマス・メディア(英:mass media [2])という。テレビ、新聞、ラジオなどで報道を行っている報道機関(ほうどう きかん、英:the press)のことが、マスメディアです。\nマスメディアと同じ意味で、つまり報道機関という意味でマスコミという言葉を使うこともあります。\nマスメディアの報道では、単に起きた出来事だけでなく、その解釈もふくめて報道するのが一般である。\nマスメディアの情報や解釈は、必ずしも正確とは限らない。(※ 検定教科書にも、そう書かれています)\nマスメディアの機関や会社は、機関や会社によっては、政治について特定の理念を持っている場合があります。\nたとえば、新聞どうしでも、それぞれの新聞社ごとに(たとえば中日新聞と朝日新聞と毎日新聞と日本経済新聞と読売新聞と産経新聞で)、同じ時期の同じ事件についても、各社ごとに意見や論じ方が違っている場合もあります。(※ 東京書籍がそう言っている)\nこのように、同じ情報源でも、結果的にマスメディアの会社ごとに、ちがう情報になることも、よくあります。\nさて、もし特定の政治的な考えを、マスメディアのある機関が持っていた場合、その機関が、特定の方向に世論を誘導しようとする場合があります。世論を誘導するために、マスメディア機関が誘導したい方向に都合のいい情報しか発表しようとしない場合もあります。(日本文教出版や育鵬社がそう言っている。)\nたとえば、ことなる新聞社の新聞で、同じ政治の出来事についての記事で、その記事の解釈を見比べると、新聞社ごとに違っている場合もあります。好意的な解釈をしている新聞もあれば、同じ出来事を批判的に解釈している新聞もあります。\n新聞だけでなく、テレビやラジオや雑誌でも同様に、それぞれの会社ごとに出来事の解釈に偏りがあります。\nしたがって、私達はマスメディアの情報を、いくつも比較して批判的に見ることが必要です。\n私たちは、けっして一つの情報をうのみにすること無く、いろんな情報を比べることによって、情報を確かめて、きちんと考えて判断する必要があります。\nこのように、メディアを利用しつつも、メディアをうのみにせず、さまざまな視点から確かめることによって、メディアから社会についての正しい情報を読み解く能力のことをメディア・リテラシー(英: media literacy t [5] )と言います。(※ 東京書籍、日本文教出版、自由社、育鵬社などが「メディアリテラシー」という用語を紹介。)\nマスメディアによる意図的な誘導とは別に、マスメディアでは、まだ答えの分からない出来事も扱うので、出来事の解釈をマスコミ関係者が推測せざるをえない部分もあり、推測なので、正しい場合もありうるし間違っている場合もありうる。\n私達が世論を知るには、マスメディアを利用するしか、ほとんど手段はありません。この点で、マスメディアの影響力はとても大きいので、マスメディアは、「司法、立法、行政」の三権につづく、「第四の権力」(英:Fourth Estate フォース・エステイト)とマスメディア全体が例えられることもあります。(※ 自由社が「第4の権力」という用語を紹介している。)\n\nまた、新聞記者などの取材で、取材対象が外国の政府など権力の大きい場合、取材対象に批判的なことを書くと、今後の取材を断られる場合があって、取材が行いづらくなるので、取材を断りそうな相手には、あまり批判的なことを報道しない場合もありうる。\nまた、独裁国家では、政府に批判的なことを報道すると逮捕されたりしてしまうので、政府に都合の良い情報しか報道しない。\n\nまた、民間のテレビ局では、テレビ番組などを作るのにはお金(制作費)がたくさんかかるので、お金を払ってくれる大企業などの出資者(「スポンサー」という)や、大手の広告会社などの都合のいいことしか報道しない場合もある。(※ 中学公民では範囲外だが、過去に高校の『情報』科目で、メディアリテラシーにおける「スポンサー」などの概念を習う場合があった。)\nまた、『提灯(ちょうちん)記事』という用語があり、なんらかの事情で、マスメディア企業が取材対象にとって都合のいい事ばかりを書いた記事のことを『提灯記事』(ちょうちん きじ)と言います。\n取材対象に批判的なことを書くと、今後の取材をしづらくなる事が多いので、取材対象がよほどの不祥事をしないかぎり、マスメディア各社が取材対象に批判的なことを書かないで都合のいいことばかり書く場合(つまりチョウチン記事)があります。\nまた、単にマスメディア機関の知識不足などによって、マスメディアの判断が間違う場合もあります。\n\n新聞などのマスメディアは、世論を知るための調査として、社会の関心になりそうな内閣の支持・不支持や、支持政党や、政策への賛成・反対など、政治における重要項目などについて、不特定多数の人々にアンケートを取って世論の考えを調査して、そのアンケートの結果を発表することがあります。\nこのようなマスコミによる、アンケートなどの調査を 世論調査(せろん ちょうさ、よろん ちょうさ、英:opinion poll オピニオン・ポール) と言います。\nマスコミが、偏った意見を伝えるだけなら、まだマシです(良くないが)。\nひどい場合には、ウソの情報を伝える場合すら、あります。\n昔から世界各国でマスコミは、そのマスコミ会社にとって都合の悪い対立陣営の政治家や対立業界の企業などについて、たびたび意図的にウソの報道をして、対立陣営のイメージを落として、テレビ視聴者や新聞読者などを だましてきました。近年、このようなマスコミによるウソの実態が露呈してきて、『フェイクニュース』として世界各国で問題視されてきています。\n『言論の自由』を悪用し、無責任でデタラメな報道をしているマスコミ会社があります。学生は、気をつけましょう。\nメディアからの情報は、たとえ伝える人に悪気(わるぎ)がなくても、実は不正確で、かならず偏見の入るものなのです。\n型にハマったものの考え方や、そうして得られた世界観のことを「ステレオタイプ」と言います。\n型にハマるのは悪い事のように思われがちですが、しかし私たちは物事を他人に伝える際、説明の前提として共通の認識がなければなりません。その共通の認識が、はたして本当に真実かどうかの保証はないのにかかわらず。\nだから、メディアの伝える情報は、どうしても、どこかで人々の先入観に従ったものになります。\nたとえ、偏見や先入観にとらわれないものの見方を紹介するメッセージであっても、そのようねメッセージですら他人に伝わる際には原理的に最低限の偏見にとらわれたものになってしまうのです。\n清水書院の検定教科書では紹介していない事なのですが、たとえば小中学校の公民の説明の際でも、「民主主義はすばらしいものである」とか、どうしても前提として決め付けなければなりません。\nそういう前提がないと、それ以降の細かい話(たとえば憲法の第何条がどうのこうのとかの解説)に入れません。\nべつに政治や経済だけでなく、大衆文化や芸術などでも、とにかくメディアの伝えるものは基本的に、かならず、説明の前提としての偏見・先入観が含まれてしまいます。そのような先入観の混在は、説明を分かりやすくするためには、どうしても混ざってしまうのです。\nだから私たちの目指すべきこととしては、実現不可能な「偏見のない考え方」を目指すのではなく、自身のもっている偏見に気づいて上手にコントロールできる能力が必要とされるでしょう。\nさて、メディアからの情報収集ではなく、たとえばインタビューなどで聞き取り調査をする場合、気をつけなければならないこととして、取材対象の集団は必ずしも世間の人々の意見をバランスよく反映しているとは限りません。\nどんな集団であっても、何らかの目的をもって集まっていることで集団が形成されているわけですから、その集団の考え方には片寄りがあります。\n学校の生徒の集団だって、ほとんどが学生ばかりなわけで、片寄っているわけです。中学校の場合なら普通、先生以外に大人はいないだろうし(ただし戦災などで中学校に通えなかった高齢者の夜間中学などは除く)、片寄りはあります。\n地域の自治会などの集会ですら、「その地域に住んでいる」という条件がありますので、片寄りがあります。\nなので、一見すると集団の皆に意見をつのって「客観的な意見をあつめている」つもりでも、気づかないうちに似たような意見ばかりを集めてしまいますので、もし自分がそういう意見の片寄りの仕組みに気づいてないとしたら、その意見が世間の意見だと誤解してしまい、結果として片寄った意見が形成されている場合があります。\nまた、普通の人は、自分と似た考えをもつ集団に所属したがるので、自分の属する集団でほかの人の意見を聞いても、自分と似た考えばかりが集まりがちです。(たとえば部活動とかを例に考えてください。運動部の人が、自分の属する部活で「好きなスポーツは?」と他の部員にインタビューを聞いたら、当然ですが自分の部活と同じ答えが返って来る傾向が多いでしょう。)\nこういうふうに、せっかく意見を集めても、なんらかの原因で、自分と似た意見ばかりが片寄って集まってくる現象のことをエコーチェンバーと言います。もともと音響の用語で、音楽録音用の残響室のことをエコーチャンバーと言っていました。\nさて、意見を集める際にはエコーチェンバーという現象がありますが、だからといって集団を形成する人々から意見を集めることが悪いわけではなく、こういう事があることを自覚すべきでしょう。世界中の全ての集団から意見を集めるのは不可能ですので、ある程度、意見を集める集団をしぼりこまざるをえないのが実情でしょう。\nともかく、エコーチェンバーという現象があることを自覚してないと、自分の属する集団の他人から意見をきいて「客観的な意見を集めている」つもりなのに、しかし同じ集団に属するので似たような意見ばかりが集まってしまうので実際には片寄った意見ばかりが集まることになってしまい、目的と結果が一致しません。\nなので、意見の集め方には、ちょっとした工夫が必要です。(どういう工夫が必要なのかは本ページでは説明しません。大人になるまでに、各自で考えてください。)\nまた、本を読んだりする場合でも同じ危険性があります。普通の人は、自分と考えの近い意見の書かれた本を読みたがります。なので、本を読んで「多様な意見を集めている」つもりでも、しかしエコーチェンバー(あるいは別セクションで述べているフィルターバブル)によって知らずのうちに自分の考えと似た意見ばかりを集めてしまい、あまり情報として役立たない、片寄った意見ばかりを集めてしまうこともあります。\nなので本の読み方にも、工夫がいろいろと必要です。\nなお、とくにインターネット上のコミュニティで、同じ意見・感想ばかりが集まって、(その意見が世間だと誤解してしまったりした結果として)閉鎖的・過激なコミュニティが形成される現象のことをサイバー・カスケードと言います。\n自分がエコーチェンバーに落ちてしまうことを防ぐためには、現在の自分の考えとは違う意見の話を読んだり聞いたりして、自分の今までの考えを「勘違いかもしれない」と疑ってみる必要があります。\nたとえば自分が高校生で、「今の高校生は昔の高校生よりも頭もいい」とか思っているなら、逆の「もしかしたら今の高校生は、昔よりもある意味では馬鹿かもしれない」みたいな主張をしている人の話も時々は読んだりするべきなのです。\n読者対象である自分を否定するような内容の書籍で、統計や歴史などの証拠がキッチリとそろっていて、もっともらしい内容の書籍を読むのが良いでしょう。\nスポーツで例えるなら、対戦などの試合のようなものです。自分の考えと同じ本ばかり読むのは、対戦・試合などをしないようなものです。\nしかし、このような自分を否定するような意見の読書や視聴などには、心理的なストレス(負担・苦痛)が掛かります。まるで、スポーツの対戦で負けたら、挫折感(ざせつかん)を味わって、悔しい(くやしい)ようなものです。\nしかし、反対意見を読むというストレスを我慢してでも、自分に対する反対意見に付き合わない限り、エコーチェンバーに落ちてしまいます。\n社会問題などの情報なら、読者のアナタが自発的に修正しなくても、世間の偉い人(学者さんとか知識人とか)が勝手に教科書などを修正してくれます。\nしかし、「私は頭がいい/私は馬鹿だ」みたいな自己評価などは、もしエコーチェンバー的な情報の片寄りによって、自己評価も片寄ってしまった場合、世間の偉い人の手ではもう、その誰かアカの他人にとっての「自己評価」の片寄りを修正できません。なぜなら、他人の脳味噌はいじくれないからです。\n自分を褒めてくれる内容の本を読むのは気持ちいいですが、しかしそれを目的にしてしまう読書はもはや勉強ではなく、単なる娯楽です。なにより怖いのは、勉強できておらず娯楽で時間をつぶしているだけなのに、「自分は勉強できている」と自己評価が高くなり、本来の能力の低さ と 自己評価の高さ の差がどんどんと開いていしまうことです。\n形式的に多くの冊数の本を読んでいても、内容が片寄っていては、せっかくの読書の意味がありません。気をつけましょう。\n高校生くらいになったら、読書の評価軸を見直しましょう。小学生くらいに言われる「多くの本を読むとよい」のは、幼児や小学生のような言葉を覚える段階での話です。\n高校生くらいになったら、やみくもに多くの本を読むのではなく、自分を鍛えるために適切な本を選んで読むのです。\n読書で勉強する際は、やみくもに冊数やページ数の多さを目指すのではなく、「自分(このwikiをよんでるアナタ)の考えとは反対の意見のある書籍も読む」ということを目標にするのが良いと思います。もちろん、自分の考えと同じ意見の書籍も読むべきです。\nさて、マスコミや左翼政党はよく、「低所得者に配慮しろ!」「女性にも配慮しろ!」などと言います。教科書もそう言っているかもしれません。\nしかし、たとえば、貧乏人が「貧乏は素晴らしい」という本ばかり読んでたら、その貧乏人は一時(いっとき)は気分はいいですが、しかしいつまで経っても同じ暮らしを続けて貧乏のままでしょう。本当にアナタの人生、それで良いのですか? 貧乏なままで良いのですか? という事です。\n仮にアナタが「べつにカネだけが人生じゃない」という人生観でも、たとえば仮にアナタがスポーツ好きの人なら「スポーツが下手でもイイじゃないか。スポーツの技術なんて知らなくていい」という主張につかってばかりではスポーツ能力が成長しません。「絵がヘタでもいいじゃないか」も「音楽がヘタでもいいじゃないか」も「勉強ができなくてもいいじゃないか」も同様です。\nあるいは、アナタが女性なら、21世紀の欧米でのファミニズム運動の流行に乗って「女性は男性に差別されている!」と連呼するだけで何の建設的・現実的な提案もない本を読むのは、それが気軽で気持ちいい女性読者もいるかもしれません。ですが、その「女性差別」とやらの現状分析や原因を分析して現実的な対策をしない限り、何時まで経っても、その女性は差別されたままでしょう。理由はさきほどの貧乏人の例と同じです。\nなお、現実はそんなに甘くはなく、もう実際に高校の公共の教科書などで、2010~2020年代のある医大での女性受験者の面接での点数の不利な取り扱いの事例が紹介されており、女性の面接の点数を下げた原因として、外科医の労働環境の過酷さと、それが女性には健康上の理由で耐えづらいという現実が、もう紹介されています。\nそして、その公共教科書などでは、結論として「もし女性の医者をもっと増やすなら、保険料や税金などの医療費が増えることになるだろう」という感じの論で、トレード・オフ的な経済的な分析法で説明しています。医療費も増えずに女医を増やすことなんて無理なのです。一言も「女医を増やすな」なんて教科書では言っていません。単に「女医を増やすなら、医療費も増えることになる」という経済的な現実を認めろ、というだけの話です。\nその医大の面接の採点方法が正しいかどうかなんて事は、公共教科書は一言も言っていません。ですが、それにも関わらず、「女医を増やせば医療費も増えることになるよ」という経済的な予想についてすら世間では「女性差別だ」などと批判するような人も、残念ながら世間には居ます。(もちろん、もう高校教科書では、そのような「女性差別だ」は相手にされていないのが現実。)\nなお、どちらか一方を選択すれば、もう一方をあきらめなければならない状態を、トレード・オフ( trade-off )と言います。もうこれが高校生・高校教科書の知的レベルの高さです。世間には残念ながら、こういった高校教科書より下の知的レベルの大人も、男女とわず、います\nこのように、女性にとって現実と向き合うためには、都合のいい耳障りの言い非現実な主張は、否定しなければならない必要もあります。このため、社会問題などの現実的な対策を考える議論をストレスに感じる人もいます。しかしそういったストレスから逃れていて、自分に耳障りのいい主張だけを集めて広めていては、社会からは相手にされません。\n低所得者や女性など何らかの「弱者」とされる者への配慮は必要ですが、しかし弱者とされた側の人は、けっして永久に配慮に甘んじ続けるだけではいけません。筋トレに負荷が必要なように、心や知性の成長にも適度な負荷が必要です。自分の心や知性の成長にあわせて、負荷も段階的に上げていきましょう。\n\nメディアは、紹介する情報が片寄っているのが普通です。\nインターネットなどで、ユーザーが見たくない情報を遮断する「フィルター」という機能があります。\nこういうフィルターがあるので、多くの情報を集めているつもりでも、知らず知らずのうちに、自分好みの情報ばかりを集めてしまう現象も起こりえますが、こういう現象のことをフィルターバブルと言います。\nここでいうバブルとは泡のことで、いくつもの泡が、それぞれ、ほかの泡と切り離されて断片的に孤立している様子の事を言っています。(「バブル」と言っても、べつに不動産バブルや金融バブルのことではないので、誤解しないように。)\nまた、インターネットに限らず、紙の書籍やテレビなどでもフィルターバブルと似たような現象は起こります。\n残念ながら、雑誌や書籍や新聞・テレビなどでも、読者や視聴者の好みそうな情報でないと売れないので、結果として、読者などにウケのいい情報ばかりが紹介されますので、読者以外の知っている情報とはズレが大きくなっている場合もあります。\nフィルターバブルに陥らないように、気をつけましょう。情報の集め方には、工夫がいろいろと必要です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E4%B8%96%E8%AB%96%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2"} {"text": "日本では18歳以上の男女の日本国民に、選挙権(英:voting rights)があり、一定の年齢(ねんれい)以上ならば仕事や性別や納税額(のうぜいがく)などに関係なく、だれでも選挙権があって投票に参加できるしくみです。\nかつて、1945年以降から長らく20歳以上の男女の日本国民に選挙権が与えられる仕組みでしたが、2016年に公職選挙法の改正により選挙権が18歳以上に引き下げられました。そして実際に2016年の参議院議員選挙で、18歳以上の有権者による投票が行われました。\n有権者がもつ一票の価値は性別や納税額など差別されず、平等であるというしくみです。\n選挙でどの有権者がどの候補者に投票したかをわからないようにするしくみです。\n有権者が直接、代表者(首長や議員)を選ぶしくみです。アメリカのように直接代表者を選ばない間接選挙(かんせつ せんきょ)のようなしくみもあります。\n選挙の規則について定めた法律で、さまざまな規則があります。\n選挙の運営を管理する機関のことです。\n日本の国会は、衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)という、2つの議院からなる二院制(にいんせい、英:bicameralism バイカメラリズム)である。\n二院制により、同じ政策について、異なる議院で審議を出来るので、一院制の場合よりも、より慎重に議論をすることが出来ます。\nなお、衆議院と参議院には選挙区や任期などにちがいを設けてあります。\n衆議院の選挙は、小選挙区制と比例代表制をあわせた、小選挙区比例代表並立制(しょうせんきょく ひれいだいひょう へいりつせい)です。\n小選挙区選挙で1票を投票し、比例代表選挙でも1票を投票するので、有権者は、有権者1人につき2票を持っています。\n衆議院選挙での小選挙区選挙(全国での定数:289名)は、全国を289の小選挙区に区割りしているので、当選できる議員の定数は289名です。\n比例代表選挙では、全国を11のブロックに区割りし、全国あわせて176人の議員が選ばれます。\n参議院の選挙区は、都道府県ごとの選挙区(ただし鳥取県と島根県、徳島県と高知県をそれぞれ合同選挙区とした45の選挙区)で、各選挙区から2名〜8名を選びます。全国で選挙区制で148名を選びます。\nこれとはべつに、比例代表制で、全国を一つの選挙区として、100名を選びます。\n現代には、さまざまな選挙制度の問題点があります。\nたとえば小選挙区制では、当選者以外の票が多くなりやすいので、当選者以外に投票した人の意見が無駄になってしまうという問題点があります。(なお、当選者以外に投票した票のことを死票(しひょう)と言います。 )また、選挙区の人口などによって、有権者の一票の価値が異なってしまうという問題もあります。これを一票の格差(いっぴょうのかくさ)と言います。\nこのような問題点をなくすためには新しい選挙のルールをつくっていくことが必要です。そのため国などでは選挙区の区分けを変えたり、選挙区を減らしたりして対応しています。しかしながら、まだ問題は解決しておらず改善に向けた議論が続いています。\n同じような政策の方針や、同じような政治の理念を持っている政治家の集団、あるいは議員の集団を 政党(せいとう、英:political party) と言います。\n議会制の民主政治では多数決で政策が決まるので、同じ政策を目指している政治家どうしは協力しあって行動したほうが、政策が通りやすいのです。\n特に国の政治の場合は、政党どうしの競争が政治の中心になることが多く、このような政党の競争が行われる政治のあり方を政党政治(せいとう せいじ、英:party system) と言います。\n一般に、国会で、もっとも多数派をしめている政党が政権をとっています。政権をとっている政党のことを与党(よとう、英:ruling party または governing party) と言います。政権をとれていない政党を野党(やとう、英:opposition) といいます。\n国会の場合などで、どの政党も過半数をとれてない場合には、複数の政党どうしが協力しあって、ひとつの内閣をつくる場合があります。この場合の連立している内閣の政党を、連立与党(れんりつ よとう、英:coalition government コーリション・ガバメント)と言います。\n政党は、選挙の前に、有権者たちに、もし政権を取った時に行おうとする政策を発表するのが一般的です。このような政党が発表している、政権を取った時の実行を約束した政策のことを 政権公約(せいけんこうやく)と言います。またはマニフェストとも言います。\n1955年から日本では選挙の結果、自由民主党(じゆう みんしゅとう)が、ほとんどの間、与党となって、自民党は与党として政権を担当しました。また野党は日本社会党(にほん しゃかいとう)の勢力が占めました。\nこのような自由民主党が与党の第一党として、日本社会党が野党の第一党とした国会の体制は55年体制(ごじゅうごねん たいせい)と言われました。\nしかし、1992年〜1993年ごろから、政治の考えかたの違いから、それまでの政党が分裂し、再編成され、1993年には自民党(自由民主党)が野党になりました。\nしかし、長続きせず、1994年には自民党をふくめた連立政権が出来ました。\nその後は、2009年まで自民党の政権が続きましたが、2009年の衆議院選挙で民主党(みんしゅとう)が勝利して過半数の議席を獲得し、政権が自民党から民主党に交代し、自民党は野党になりました。\n2012年12月に民主党の政権は終わり、それから自民党中心の政権に変わりました。\n2021年の時点では、政権与党は自民党と連立政権を組んでいる公明党です。\n政治の、政策の調査や、政党の宣伝などの活動を行うには、お金が必要です。国会議員にも給料が出ますが、それとは別に、政党には国から税金によって政党交付金(せいとう こうふきん)という政党への助成金が支出されています。政党助成金(せいとう じょせいきん)とも言います。\n政治資金規正法(せいじしきん きせいほう)などの法律は、政党の資金について定められています。\n国会議員を選ぶ選挙や、地方議員を選ぶ選挙など、日本国民や地域の住民などの有権者が投票できる選挙が実際に行われるさいに、選挙が始まってから、街中にある掲示板に、選挙の候補者の写真ポスターが用意されます。これを「選挙ポスター」と言います。\nこのポスターには、けっして、落書きをしたり、わざと破いたりしては、いけません。もし落書きしたり破いたりすると、違法行為になり、警察などによって、落書きなどを行った人は処罰されます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E9%81%B8%E6%8C%99%E3%83%BB%E6%94%BF%E5%85%9A"} {"text": "・ 国会(こっかい) ・・・ 国民の選挙によって選ばれた代表者で構成される議会であり、立法権(りっぽうけん)をつかさどる。日本の国会は二院制(にいんせい)であり、衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)がある。\n・ 二院制 (にいんせい) ・・・ 国会が衆議院と参議院から成るように、議会が2つの議院から成り立つこと。メリットは、決議を慎重にし国民の意思をより正確に反映できること。もし、衆議院と参議院が、まったく同じ構成だと、同じ議論を衆議院と参議院で2回繰り返すだけになってしまうので、日本では衆議院と参議院の選挙区や任期などに、ちがいを設けてある。\n(2022/8現在)[1]\n衆議院の任期が短く、衆議院にだけ解散がある。\n→ 衆議院には国民の意思を反映させる機会が参議院に比べて多いことを表している。これによって衆議院には、いくつかの点で参議院より強い権限が与えられている。衆議院の優越(しゅうぎいん の ゆうえつ)\n議員定数・選挙権(せんきょけん)・被選挙権(ひせんきょけん)は公職選挙法(こうしょく せんきょほう)で決められている。\n国会の仕事はいくつかありますが、最大の仕事は法律の制定や法律の改廃などの、立法(りっぽう)です。\n実例\n衆議院が内閣不信任案を決議した場合、内閣は10日以内に、衆議院を解散するか、内閣を総辞職しなければならない。\n国会には、衆議院・参議院ともに、議員全員が出席する本会議(ほんかいぎ)と、議員が分かれて参加する、少数の議員からなる委員会(いいんかい)があります。\n国会に出された法律案などの議案は、まず、専門の委員会で審議(しんぎ)され、その結果が本会議に報告され、本会議に議案が回されます。\n委員会では、必要に応じて外部から議案に関係ある知識に詳しい専門家を呼んできて、専門家の意見を聞く、公聴会(こうちょうかい)を開く場合もある。\n本会議では、委員会での審議を参考にして、本会議で討論をして審議を行い、本会議での審議の後に多数決で採決をされます。\n本会議は、公開が原則となっており、テレビ中継などもされます。\n法案の可決など議案の可決などを行っているのは、本会議です。\n衆参どちらかの本会議で可決された議案は、もう一方の議員に回され、同じような過程で、委員会や本会議で審議され、本会議で採決します。\nもし、衆議院の本会議の意見と、参議院の本会議の意見が異なれば、両院協議会が開かれます。\n「衆議院の優越」とは、衆議院の本会議の結果が、参議院の本会議よりも優越する、ということです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9B%BD%E4%BC%9A"} {"text": "日本の議院内閣制は、イギリスの制度にならったものである。\n世界の多くの国では、民主主義で国民からの投票によって議員が選ばれるが、そうでない国もある。\n※ 一部の検定教科書で紹介されているらしい。\n国にもよりますが、「大統領」と「首相」は異なります。一般的に、国王のいない国では、「大統領」が国家元首です。「首相」は、行政府の長のことです。\nたとえばフランスは、大統領もいますが、それとは別に首相もいます。\nドイツも、大統領がいますが、それとは別に首相がいます。\n大統領と首相、どちらが政治の実権をにぎっているかは、国によって異なります。\nなお、アメリカ合衆国には、大統領とは別の「首相」はいません。\n国際的な通例では、国王がいる国では、国王が国家元首です。だからイギリスでは、国王(エリザベス女王)が国家元首です。しかしエリザベス女王は政治の実権は握っていません。イギリスで政治の実権をにぎっているのは首相です。\nこのように、国家元首だからといって、政治の実権をにぎっているかどうかも別問題です。\nアメリカ合衆国は民主主義の国である。\nアメリカでは行政の最高責任者の選挙は議会によらず、事実上は国民によって直接に選ばれる大統領(だいとうりょう)が行政の長になるという大統領制の国である。(実際はアメリカ国民が大統領選挙人を選ぶ。この選挙人は議会とは異なる。)\nアメリカの場合、議会には大統領の不信任決議権が無く、また大統領にも議会の解散権が無い。このように議会と大統領が独立している。したがって、議会の意見と大統領の意見とが対立することもある。\nアメリカでは、法律の立法は、議会だけが立法権を持ち、大統領には立法権は無い。大統領には、議会が提案した法案への法案拒否権(ほうあん きょひけん)がある。大統領は議会には議席を持たない。\n議会は上院(じょういん)と下院(かいん)からなる。\n選挙権は18歳以上から。\n\nイギリスは民主主義の国である。\nイギリスは 立憲君主制(りっけん くんしゅせい) であり、国王を元首(げんしゅ)としている。国王には、ほとんど権限が無い。イギリスの議会は、上院の貴族院(きぞくいん)と下院の庶民院(しょみんいん)とからなる二院制である。下院は、国民からの選挙で議員が選ばれ、全体的に下院のほうが上院よりも権限が強い。\n内閣は下院で多数をしめる党から選ばれるのが一般的で、首相は、その多数を占める党の党首であることが一般的である。議会が首相を指名し、国王は首相を任命する。\n選挙権は18歳以上から。\n中華人民共和国は、中国共産党が政治権力をにぎっている社会主義の国である。国民からの議院の直接選挙は無く、事実上は中国共産党が権力を握っており、一党独裁制を導入している。\n日本の国会に相当する機関は、全国人民代表大会(ぜんこく じんみん だいひょう たいかい)である。略して全人大(ぜんじんだい)という。\n権力分立はしておらず、立法、司法、行政の三権は共産党の指導下に置かれている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%BF"} {"text": "市議会や県議会・都議会・府議会・道議会では、お金のつかいかたを決めるだけでなく、市内・県内などのきまりを作る場合もあります。国の決まりは 法律(ほうりつ、英:law あるいは statute スタチュート) といいますが、市や県などの中のきまりを 条例(じょうれい、英:by-law バイロー) といいます。\n市議会や県議会では、条例を決められます。市の条例は、その市内でだけ通用します。県の条例は、その県内だけで通用します。\n法律に反する条例は作ることができません。\n一般の法律は憲法(constitution)には逆らえないのと同様に、条例も憲法には逆らえません。\n憲法、法律、条例の強制力の優先順位を書くと、\nとなります。\n法律をつくる場所は、国会(こっかい、Diet)だけであり、国会議員(英:legislator レジスレイター)の多数決(英:majority rule マジョリティ・ルール)で法律を作ります。市議会や県議会など地方議会(英:local assembly ローカル・アセンブリー)の多数決では、法律は作れません。\n(国会については、別の記事で、くわしく説明する。)\n市議会の議員は、選挙(せんきょ)によって、選ばれます。市議会などの議員(ぎいん)を、住民などからの投票(とうひょう、英:voting)によって、えらぶことを 選挙(せんきょ、英:election) といいます。\n自治体や国などの議員の選挙についての法律は、公職選挙法(こうしょく せんきょほう)などに定めがあります。\n市議会議員の選挙や市長の選挙は、ふつうは、4年ごとに1回、おこなわれます。\n県会議員や県知事の選挙も、ふつうは、4年ごとに1回、おこなわれます。\n市長を選ぶ選挙では、立候補者の中から、もっとも多い投票をもらった人だけが市長になります。ほかの、まけた人たちは、市長には、なれません。\n県会議員を選ぶ選挙と、市議会議員をえらぶ選挙は、べつの選挙です。\n市議会選挙や県議会選挙などで、住民が投票をする、住民の持つ選挙権は20才以上からあります。\n投票できるという、選挙権をもつ人を 有権者(ゆうけんしゃ、英:electorate エレクトレート) といいます。\n市長選挙も県知事選挙も、投票は18才以上からです。\n投票できるのは、その市や県に3ヶ月以上住んでいる18才以上の市民や県民だけです。このような人が、有権者になれます。\n市議会議員(しぎかい)をえらぶ選挙(せんきょ)では、住民が、一人一票で立候補者(りっこうほしゃ)に投票し、もっとも多くの投票をもらった立候補者から議員になります。\n選挙で議員として立候補できるのは、すくなくとも、25才以上からです。\n市議会や県議会の議員は、25歳から立候補できます。市長も25才から立候補できます。\n県知事など、都道府県知事への立候補は、30才以上でないと、立候補できません。\n地方議会には、国政とは違い、住民が直接に、議会の同意を得ずに、議員の解職を求めたり、住民が条例を直接に制定できたりなど、直接に地方政治に携われる直接請求権(ちょくせつ せいきゅうけん)がある。\nただし直接請求には、一定の割合の、有権者の住民による署名が必要である。\n(※ 高校の範囲 :)ちなみに外来語でいう「レファレンダム」やら「リコール」などは、単に欧米での上記の制度に対応する英語です。住民投票が「レファレンダム」であり、議員・主長・役員などの解職請求や議会の解散請求が「リコール」です。条約の制定・改廃の請求は「イニシアティブ」と言います。\n格言で「地方自治は民主主義の学校」と言われます。この格言は、19世紀後半の政治学者ブライスの格言です。身近な地方自治を通して、やがて国政なども身近に感じるようになって主権者としての主体性をもつようになるというような意味です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%87%AA%E6%B2%BB"} {"text": "地域によっては、住民が情報公開制度などを活用して、行政が適正に活動している監視する制度や運動があり、このような制度に「オンブズ制度」などと言います。スウェーデンで19世紀から始められた制度がもとになっています。\n「オンブズマン」制度とか「オンブズパーソン」制度とか、単に「オンブズマン」、「オンブズパーソン」などとも言われます。\nwikibooks『中学校社会_公民/地方自治#直接請求権』で説明ずみ。参照せよ。\n地域のボランティア運動(たとえば高齢者福祉など)や自然保護運動などの団体をつくるさいに税制などで優遇を受けられやすい「非営利組織」(NPO)という制度があります。「エヌピーオー」と読みます。\n自然保護運動、ボランティア運動などで、NPOを結成したりすることがあります。\n都道府県や市町村といった自治体(じちたい)が、地域の高齢者保護など福祉行政の仕事の一部を、その地域のボランティア系のNPOに委託している場合もあります(※ ネットの東京書籍の教科書についての写真で見た)。\nNPOは、その活動が国際的かどうかは関係ありません。(名前の似ているNGOは国際的。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%81%AE%E4%BD%8F%E6%B0%91%E9%81%8B%E5%8B%95"} {"text": "家族に関する法律には、民法などに定めがある。また戸籍法では、出生や婚姻や死亡などの際の、戸籍の届け出についての定めがある。\n祖父母や孫などがなく、夫婦と未婚の子どもだけの家族、または夫婦だけの家族のことを核家族(かくかぞく)という。\n父または母と、その未婚の子の家族も、核家族に含める。\nつまり、\nいっぽう、祖父母や孫など、夫婦と子ども以外の家族がいる場合など、3世代以上の人のいる家族のことは、「大家族」といったり、「拡大家族」という。\n現代の日本では、核家族の家庭が多い。拡大家族は、減ってきている。\nこのほか、一人で暮らす単独世帯も多い。\nまた、少子化により、核家族であっても、子どもの数が昔よりも減ってきている、といわれる。\n昭和の高度経済成長のころは、父が働き、母が家庭で専業主婦をするという家庭が多かった。しかし、21世紀の現代では、男女とも働きにでる共働き(ともばたらき)の家庭も多くなっている。\n婚姻(こんいん)は、本人および相手の両方の合意が必要。つまり両性の合意が必要。婚姻では男女が平等である。\n※ 帝国書院の教科書(平成25年版)に書いてある。\n財産の相続(そうぞく)において、男女は平等。\n現行の民法では、特に遺言(ゆいごん)が無いかぎり、もし死者に配偶者がいれば、まず、配偶者がその半分を相続する。子供がいれば、残りの半分を子供どうしで均等に分け合う。子供がおらず配偶者だけなら、配偶者が全て相続する。配偶者が既に死亡しており、子供だけが残っていれば、全財産を子供どうしで均等に受け継ぐ。\n父母と子の間の財産相続は、平等では無い。子供の財産は、親の財産の半分を子供どうしが均分に相続する。\nたとえば、ある家庭の父親(Aとする)が死んだとして、父親Aの財産の半分つまり 2分の1 をAの配偶者である妻が受け継ぐ。\nある家庭で父が死んだ場合の財産を「母」が受け継ぐ場合、その「母」とはA本人の生みの親の母親ではなく、Aの妻のことである。Aの子供から見た場合の「母」のことである。\nそのあと、残りの半分を、Aの子供が分け合う。\nもし子供が3人なら、 1/2 × 1/3 = 1/6 だから、子供は1人あたり 父親の 1/6 の財産を受け継ぐ。(均分相続)\n明治時代〜第二次大戦終戦までの民法などでは、財産は父親が管理することが定められていて、長男が受け継ぐ。男女平等では無いし、男同士でも次男以下や次男や三男は財産を受け継がない。\n当時は、家は長男が受け継ぐものと考えられていた。\n上述のように現代では、父母が2人とも死んだ場合、現代の相続では基本的に、財産は子どもに均等に分配される。\nこのように、長男だけが相続するのではなく、息子たちと娘たちに平等に財産が分配されることを、一般に「分割相続」(ぶんかつ そうぞく)という。\n(高校の日本史などで「分割相続」という用語が、平気で出てくる。 たとえば「鎌倉時代の御家人の領地が、分割相続によって、どんどんと少なくなっていき、鎌倉時代の後期には、貧しくなる御家人も多く出てきた」みたいな文脈で使われることもある。)\nもし親が死んだら、子は財産を相続しますが、このとき、もし親に借金が多いと、子供は借金も相続することになります。民法で、そう定められています。日本の相続制度は、このような単純承認(たんじゅん しょうにん)という制度になっています。\n貯金よりも借金が多い場合に相続を断るには、死亡後から3ヶ月以内までに家庭裁判所に申請しなければなりません。「限定承認」(げんてい しょうにん)または「相続放棄」(そうぞく ほうき)を家庭裁判所に申請します。\n「限定承認」とは、もし、親の貯金や資産と、親の借金を差し引きして、もし借金のほうが多ければ、相続しない、という選択です。\n「相続放棄」とは、単に、親に借金があろうが無かろうが、親から何も相続しない、という選択です。\n限定承認か相続放棄をしないと、たとえ貯金よりも借金が多くても、相続しないといけなくなりますので、借金ごと相続してしまいます\\。\n例えば親が会社経営をしている場合などで、会社の業績が悪い場合には、多額の借金を抱えてる場合がありうるので、注意が必要です。\nなお、限定承認をするには、相続人全員の賛成が必要になります。なので、実質的には、限定承認が困難でしょう。親の借金が多い場合には、相続放棄をするのが安全です。\n相続の仕組みなどを知らないのが普通なので、ついつい申請をためらってしまいがちですが、早めに申請しないと大変なことになる場合があります。\nそもそも単純承認を原則にした民法自体に欠陥がある気もしますが、現実として日本の民法の相続の制度は、親の財産が借金の場合でも単純に相続する「単純承認」を原則とした制度になってるのが実情です。もしアナタが死亡した親の借金を相続させられてしまい、誰かを恨むなら、有権者と政治家を恨みましょう。このような、民法の欠陥を放置してきた人とは、有権者自身です。民法の議論を怠り、憲法論議ばかりをしてきた、無能な有権者たちの自己責任でしょう。有権者が選挙権を持ってとは、そういう事です。法律の欠陥は、有権者の愚かさの表れでもあります。\n相続については、相続税の細かいことよりも、まずは借金の相続を放棄できる限定承認・相続放棄の期間が死亡後3ヶ月と限られているということを知っておいてください。\n本人を基準に、血のつながった父と母、子供や、兄、姉、弟、妹や祖父母、おじ、おば、おい、めい、いとこ、などを血族(けつぞく)と言う。\n本人を基準に、血の繋がっていない、結婚相手である配偶者(はいぐうしゃ)や、けっこない手の父親(義父)、母親(義母)、義兄(ぎけい)、義弟(ぎてい)、義妹(ぎまい)、義姉(ぎし)などを、姻族(いんぞく)という。\n法律で、親族の範囲を定める場合には、「親等」という、血縁関係や婚姻関係などに基づき決められる階級が用いられる。\n親等では、血族と姻族を区別しない。\n・ 1親等(いっしんとう)\n本人および配偶者(夫や妻のこと)を基準とし、本人の子どもと本人および配偶者の父親・母親を1親等とする。\n兄弟姉妹は2親等であり、1親等では無いので、間違えないように。\n要は、「父」、「母」と呼ばれる相手は、血がつながってようが、義理で血がつながっていまいが、基本的に1親等になるはずである。\nそして、本人の子供は1親等である。\n・ 2親等(にしんとう)\n具体的に言うと、兄弟姉妹や祖父母や孫などが2親等である。また配偶者の兄弟・姉妹も本人の兄弟姉妹と区別しないので、配偶者の兄弟・姉妹も2親等である。つまり、兄弟姉妹は2親等である。\n本人および配偶者を除く、1親等である人間の子供や父母を2親等とする。\n本人の兄の配偶者の義姉や、姉の配偶者の義兄も、実の兄や姉と同じく2親等である。\n配偶者の兄弟姉妹は2親等である。本人と配偶者を区別しないので、つまり本人および配偶者の兄弟姉妹および2親等とする。\n要は、「兄弟姉妹」や「祖父母」と呼ばれる相手は、血がつながってようが、義理で血がつながっていまいが、基本的に2親等になるはずである。\n・3親等(さんしんとう)\n3親等とは、血がつながってようが、義理で血がつながっていまいが、「おじ」とか「おば」とか「おい」とか「めい」とかが3親等である。\nおじ、おばの子供のことを「いとこ」と言うが、いとこは4親等である。\n日本の民法では、「親族」とは、6親等内の血族と、配偶者と、3親等内の姻族を「親族」として定める(民法第725条)。\n親族の範囲では、血族と姻族は平等では無いので、間違えないように。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%AE%B6%E6%97%8F"} {"text": "~朗読(外部サイト)~\n以下、「前文」より日本国憲法の原文である。\n日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、\nわれらとわれらの子孫のために、\n諸国民(しょこくみん)との協和(きょうわ)による成果と、わが国(くに)全土(ぜんど)にわたつて自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し、\n政府の行為によつて再び戦争の惨禍(さんか)が起る(おこる)ことのないやうにすることを決意し、\nここに主権(しゅけん)が国民に存(ぞん)することを宣言(せんげん)し、\nこの憲法を確定する。\nそもそも国政は、国民の厳粛(げんしゅく)な信託(しんたく)によるものであつて、\nその権威(けんい)は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使(こうし)し、その福利(ふくり)は国民がこれを享受(きょうじゅ)する。\nこれは人類普遍(じんるい ふへん)の原理であり、この憲法は、かかる原理に基く(もとづく)ものである。\nわれらは、これに反する一切の憲法、法令(ほうれい)及び(および)詔勅(しょうちょく)を排除する。\n日本国民は、恒久(こうきゅう)の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであつて、\n平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。\nわれらは、平和を維持(いじ)し、専制(せんせい)と隷従(れいじゅう)、圧迫(あっぱく)と偏狭(へんきょう)を地上から永遠に除去(じょきょ)しようと努めてゐる国際社会において、名誉(めいよ)ある地位を占めたい(しめたい)と思ふ。\nわれらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏(けつぼう)から免れ(まぬかれ)、平和のうちに生存する権利を有する(ゆうする)ことを確認する。\nわれらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念(せんねん)して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的(ふへんてき)なものであり、この法則に従ふ(したがう)ことは、自国の主権を維持(いじ)し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務(せきむ)であると信ずる。\n日本国民は、国家の名誉(めいよ)にかけ、全力をあげて この崇高(すうこう)な理想と目的を達成することを誓ふ(ちかう)。\n用語解説\n協和 心を合わせて仲よくすること。\n恵沢 めぐみ、恩恵(おんけい)。\n惨禍 いたましい災い(わざわい)。\n主権 政治のありかたを最終的に決定する最高の権力\n厳粛 まじめで、きびしく、おごそかな様子。\n信託 信用して、まかせること。\n権威 社会的信用の高さなどによって他人を自発的に服従させるような力のこと。強制的に服従させる社会的な上下関係である権力とは区別される。\n行使 権力や力を実行すること。\n福利 幸福と利益。\n享受 受け取って自分のものにすること。\n普遍 どこでも。いつでも。\n人類普遍の原理 人類にとって、いつの時代においても、当てはまる原理。\n詔勅 天皇の発する公文書(詔書)と、公的な言葉(勅語)。\n恒久 いつまでも変わらないこと。永遠。\n崇高 気高い様子。\n専制 上に立つ者が独断でものごとを決めること。\n隷従 他の者につき従うこと。隷属。\n偏狭 せまく、かたよっていること。\n欠乏 不足していること\n責務 責任と義務\n第1条 【天皇の地位・国民主権】  \n第2条 【皇位の継承(けいしょう)】 \n第3条 【天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認】 \n第4条 【天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任】 \n第5条 【摂政(せっしょう)】 \n第6条 【天皇の任命権】 \n第7条 【天皇の国事行為】 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。\n第8条 【皇室の財産授与(ざいさんじゅよ)】 \n用語解説\n第1条\n象徴 抽象的で形のないものを表現するときに、かわりとして似たような感じをもつ具体的なもので表したもの。\n第2条\n世襲 地位などを子や孫など血のつながった者が代々うけつぐこと。\n皇室典範 皇位の継承や皇室の範囲や皇族の扱いなど皇室に関することがらを定めた法律。\n第3条\n国事行為 天皇が国家機関として行う儀礼的な行為。\n第4条\n権能 権限と能力。\n第5条\n摂政 天皇にかわって国事行為を行う皇族。\n第6条\n指名 この人だと名をあげて確定すること。この憲法の場合は適任者を選ぶこと。\n任命 人を官職や役目につける命令。この憲法の場合の「任命」は、国会の指名を承認する形式的な行為。\n第7条\n政令 憲法や法律を実施するために、内閣によって制定される命令。\n公布 広く知らせるために発表すること。\n公示 広く知らせるために、人々が知りうる状態におくこと。\n官吏 役人。国家公務員。\n任免 職につける行為・権限と、その職をやめさせる行為・権限。任命と免職(めんしょく)。\n委任状 ある事務などの処理について他人に任せているときに、そのことを記した書面。\n全権委任状 条約を結ぶかどうかの交渉の際に、自国の外交官など交渉者が国家を代表して交渉していることを証明するための公の文書。元首から代表者である外交官など交渉担当者に渡される。\n大赦 国や皇室にめでたいことがあったときに、軽い罪など一定の程度以下の犯罪への刑罰に対して、特別に刑の執行を免除し、また刑事訴訟の訴えを取り下げること。\n特赦 刑を言い渡された特定の人に対して、刑の執行を免除し、有罪判決の効力を失わせること。\n復権 有罪判決により失われた権利(被選挙権など)を回復させること。\n栄典 国家に功績のある者には勲章や位階などが与えられることがあり、そのような勲章や位階をまとめて栄典という。\n批准 条約を国家が最終的に承認すること。\n接受 受け入れること。\n第8条\n賜与 身分の高い者が、身分の下の者に財産などを与えること。\n第9条 【戦争放棄、戦力および交戦権の否認】 \n用語解説\n第9条\n基調 ある作品や論説などでの、主張などの基本的な傾向。\n希求 ねがい、もとめること。\n国権 国の権力。「国権」という用語そのものには批判的な意味は無い。\n威嚇 おどしつけること。\n武力の行使 軍事力や兵力を実際に使うこと。この憲法の場合は、実際に戦闘を行うこと、という意味だろう。\n交戦権 戦争をなしうる権利。この憲法での「交戦権」の解釈について、自衛のための戦争についての反撃の権利を認めるかどうかが論争・政争などになっている。また、「交戦権」の解釈について次の2つの説がある。 (1)戦時国際法では戦争を行ってる国どうしについて戦争当事者として認められている権利があり、それぞれの敵兵を攻撃したり敵国領土を攻撃したりする権利は認められている。この権利のことを、この憲法では「交戦権」と言っているというような説。  (2) 戦争を行う権利そのものを、この憲法では「交戦権」と言っているという説。\n第10条 【国民の要件】 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。\n第11条 【基本的人権の享有(きょうゆう)】 国民は、すべての基本的人権の享有(きょうゆう)を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。\n第12条 【自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止】 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用(らんよう)してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。\n第13条 【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。\n第14条 【法の下の平等、貴族の禁止、栄典】 \n第15条 【公務員 選定 罷免権(ひめんけん)、公務員の本質、普通選挙の保障、秘密投票の保障】 \n第16条 【請願権(せいがんけん)】 \n第17条 【国および公共団体の賠償(ばいしょう)責任】 \n何人も(なんびとも)、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償(ばいしょう)を求めることができる。\n第18条 【奴隷的拘束(どれいてきこうそく)および苦役(くえき)からの自由】\n \n何人も(なんびとも)、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る(よる)処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。\n第19条 【思想および良心の自由】 思想(しそう)及び良心(りょうしん)の自由は、これを侵してはならない。\n第20条 【信教の自由】 \n第21条 【集会結社表現の自由、通信の秘密】 \n第22条 【居住移転および職業選択の自由、外国移住および国籍離脱の自由】 \n第23条 【学問の自由】 \n学問の自由は、これを保障する。\n第24条 【家庭生活における個人の尊厳(そんげん)と両性の平等】 \n第10条\n用語解説\n要件 必要とされる条件。\n日本国民たる要件 これを定めた法律としては国籍法がある。\n第11条\n基本的人権 \n享有 生まれながらにして持っていること。\n第12条\n不断 絶えることのない。「普段」とは意味がちがうので、まちがえないように。\n濫用 むやみに用いること。「乱用」とは字が違うので、まちがえないように。\n第13条\n公共の福祉 \n第14条\n信条 \n門地 家がら。\n華族 大日本帝国憲法下の時代にあった特権的な高い地位である爵位(しゃくい)を持つ人々とその家族。爵位には公爵(こうしゃく)・侯爵(こうしゃく)・伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)・男爵(だんしゃく)があった。\n第15条\n罷免 職をやめさせること。\n固有 そのもの自体が、なんらかの性質などをもとから持っていること。\n普通選挙 納税額や身分などに関係なく、自国民の大人なら誰でも投票できて、誰もが同じ一票を持つ選挙。\n選挙人 選挙権を持つ人。\n第16条\n何人も(なんびとも) 誰でも。だれであっても。まちがって「なんにんも」とは読まないように注意しよう。\n請願 国や地方公共団体等の機関に対して、希望などを申し立てること。\n第17条\n不法行為 \n第18条\n拘束 捕らえたり監禁したりして、自由には動けないようにすること。\n苦役 強制的に労働をさせること。\n第19条\n思想 政治や社会などについての考えかたや見解。\n第20条\n信教 宗教を信じること。\n信教の自由 どの宗教を信じるかを本人が選ぶ自由。また、宗教を信じないことを選ぶ自由。\n祝典 お祝い(おいわい)の儀式。\n第21条\n結社 人々がなんらかの目的をもった団体をつくること。または、その団体のこと。\n検閲 民間による出版物や放送などの内容を、国など公の機関が審査を行い、大衆への発表の前に審査し、発表内容が不適当な内容と認めた場合には発表を禁止すること。\n第24条\n婚姻 結婚すること。\n両性 この憲法の場合、男性と女性のこと。\n配偶者 夫婦での、おたがいの結婚相手。夫にとっての妻。妻にとっての夫。\n相続 財産を親などから受けつぐこと。\n立脚 よって、たつこと。「立脚する」とは「よりどころ にする」というような意味。\n第25条 【生存権(せいぞんけん)、国の社会的使命(しめい)】 \n第26条 【教育を受ける権利、教育の義務】 \n第27条 【勤労(きんろう)の権利および義務、勤労条件の基準、児童(じどう)酷使(こくし)の禁止】 \n第28条 【勤労者の団結権(だんけつけん)】 \n第29条 【財産権(ざいさんけん)】 \n第30条 【納税(のうぜい)の義務】 \n国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。\n第31条 【法定の手続(てつづき)の保障】 \n第32条 【裁判の権利】 \n第33条 【逮捕(たいほ)の要件】 \n第34条 【抑留(よくりゅう)・拘禁(こうきん)の要件、不法拘禁に対する保障】 \n第25条\n社会福祉 老人福祉や障害者福祉など、社会的弱者に救済を国が与えること。\n社会保障 社会保険や公的扶助などによって、国民の生存権を保障すること。\n公衆衛生 国民の健康の維持や向上のため、病気の予防などを行うこと。\n第26条\n普通教育 専門教育・職業教育ではなく、国民にとって社会生活で必要とされる知識などを教え、国民共通に与える教育。\n第27条\n酷使 重労働などに、こき使うこと。\n第28条\n団体交渉 労働組合などの労働者の団体が、経営者など使用者を相手に、労働条件について交渉すること。\n団体行動 労働者のストライキなど。\n第29条\n私有財産 個人または民間の会社など、公共機関でない民間の者が所有している財産。\n第33条\n現行犯 ちょうど目の前で犯罪を行っている者。または目の前で犯罪を行い終わった者。\n司法官憲 司法に関わる公務員のこと。この条文では裁判官のこと。\n令状 裁判官が出す警察などへの許可書で、強制的な処分を行うことを認める文書。逮捕状や差押状(さしおさえじょう)などがある。\n第34条\n抑留 比較的に短い期間、強制的に居場所をとどめおかせること。逮捕にともなう警察署内にある留置場での2日程度の留置など。\n拘禁 比較的に長期の間、強制的に居場所をとどめおかせること。刑務所や留置場などで、被疑者や受刑者を、長期間にわたり留めておくこと。\n第35条 【住居の不可侵(ふかしん)】 \n第36条 【拷問(ごうもん)および残虐刑(ざんぎゃくけい)の禁止】 \n第37条 【刑事被告人の権利】 \n第35条\n押収 裁判所・検察官が、証拠物などを差し押さえたり、被疑者から取り上げて没収し警察署などで保管すること。\n第36条\n拷問 相手に肉体的苦痛をあたえ、むりやりに情報を出させたり要求にしたがわせること。\n第37条\n審問 審理のために問いただすこと。\n第38条 【自己に不利益な供述(きょうじゅつ)、自白(じはく)の証拠能力】 \n第39条 【訴求処罰(そきゅう しょばつ)の禁止、一事不再理(いちじ ふさいり)】 \n第40条 【刑事補償(けいじ ほしょう)】 \n第38条\n自白 自分が犯罪を犯したと供述すること。あるいは、自分の犯した犯罪の内容について供述すること。\n第39条\n訴求処罰 その法律が定められる前の出来事を、さかのぼって処罰すること。\n第41条 【国会の地位・立法権】 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。\n第42条 【両院制】 国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。\n第43条 【両議院の組織・代表】 \n第44条 【議員および選挙人の資格】 \n第45条 【衆議院議員の任期】 \n第46条 【参議院議員の任期】 \n第47条 【選挙に関する事項】 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。\n第48条 【両議院議員 兼職(けんしょく)の禁止】 何人も、同時に両議院の議員たることはできない。\n第49条 【議員の歳費(さいひ)】 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額(そうとうがく)の歳費を受ける。\n用語解説\n第41条\n国権 国の権力。国家権力。\n第44条\n選挙人 選挙権を持つ人。公職選挙法で、選挙権は、20歳以上の日本国民に定められている。\n第45条\n満了 期間を最後まで終えること。\n第46条\n改選 議員の任期満了のときに、あらためて選挙を行い、次の任期の議員たちを選ぶこと。\n第49条\n国庫 国家に属する財産の保管場所。あるいは、その国家財産の持ち主として捉えた国家財政および国家のこと。\n歳費 国会議員に国から支給される報酬。\n第50条 【議員の不逮捕特権(ふたいほ とっけん)】 \n第51条 【議員の発言・表決(ひょうけつ)の無責任】 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論(とうろん)又は表決(ひょうけつ)について、院外で責任を問はれない。\n第52条 【常会(じょうかい)】 国会の常会は、毎年一回これを召集する。\n第53条 【臨時会(りんじかい)】 \n第51条\n表決 議会に提出された議案について、賛成または反対の意思を表明すること。\n第54条 【衆議院の解散・特別会(とくべつかい)、参議院の緊急集会(きんきゅう しゅうかい)】 \n第54条\n但書 「ただし」や「但し」などをつけて、その直前の文章への例外規定を表す文。\n第55条 【資格争訟(そうしょう)の裁判】 \n第56条 【定足数(ていそくすう)、表決】 \n第57条 【会議の公開、会議録、表決の記載】 \n第55条\n争訟 訴訟を起こして争うこと。\n議席 ここで言う「議席」とは、議員としての資格のこと。\n第56条\n定足数 議会を開くために必要とされる最小限度の出席者数のことをいう。衆参両院では本条文よりそれぞれ3分の1以上の出席者数が必要であり、委員会の定足数については国会法により「その委員の半数以上」つまり2分の1以上が必要であり、両院協議会は3分の2位上である。 \n過半数 半分をこえる数。\n第57条\n秘密会 公開されない会議。非公開の会議。\n頒布 広く、多くの人に配って、行きわたらせること。\n第58条 【役員の選任、議員規則・懲罰(ちょうばつ)】 \n第59条 【法律案の議決・衆議院の優越(ゆうえつ)】 \n第60条 【衆議院の予算先議(よさんせんぎ)、予算議決に関する衆議院の優越】 \n第61条 【条約(じょうやく)の承認(しょうにん)に関する衆議院の優越】 \n第58条\n懲罰 ここでいう「懲罰」とは、院内の秩序を乱した議員に国会内で制裁を加えること。国会法122条によると議会秩序のために議員に科せる制裁としては、広会議場における戒告・広会議場における陳謝・一定期間の登院停止・除名(議員の資格をなくす。)の4種類の罰がある。最も重い国会による懲罰が除名。一般的な「懲罰」の意味は、こらしめるために罰すること。\n除名 議員としての資格を失わせること。国会による懲罰のうち最も重い懲罰が除名。\n第60条\n予算 一会計年度の、国家または地方公共団体の、歳入と歳出における、見積もり。\n第61条\n条約 \n締結 とりきめること。\n第62条 【議員の国政調査権(こくせいちょうさけん)】 \n第63条 【閣僚の議員出席の権利と義務】 \n第64条 【弾劾裁判所(だんがい さいばんしょ)】 \n第62条\n出頭 本人みずからが、ある場所に出向くこと。\n第64条\n罷免 ある公務員を、やめさせること。\n訴追 この条文でいう「訴追」とは、裁判官の罷免を求めるために弾劾の申し立てをすること。一般的には、訴追とは訴えを起こして、訴訟を進めさせること。\n弾劾裁判所 衆参両院議員の各7人からなる。\n第65条【行政権(ぎょうせいけん)】 行政権は、内閣に属する。\n第66条【内閣の組織、国会に対する連帯(れんたい)責任】\n第67条【内閣総理大臣の指名、衆議院の優越(ゆうえつ)】\n第68条【国務大臣の任命および罷免】\n第69条【内閣不信任決議の効果】 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。\n第70条【内閣総理大臣の欠缺・新国会の召集と内閣の総辞職】 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない。\n第71条【総辞職後の内閣】 前二条の場合には、内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。\n第72条【内閣総理大臣の職務】 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。\n第73条【内閣の職務】 内閣は、他の一般行政事務の外(ほか)、左の事務を行ふ。\n第74条【法律・政令(せいれい)の署名(しょめい)】 法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署(れんしょ)することを必要とする。\n第75条【国務大臣の特典】 国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は害(がい)されない。\n用語解説\n首長 組織の中で、いちばん、えらい者。\n第66条\n文民 軍人でない人。この規定にともなって、日本では現役の自衛官は大臣にしないのが、日本では一般である。では、自衛隊を退役した元・自衛官についてはどうあるべきか、諸説ある。つまり、どの範囲までを「軍人」というかに多くの説がある。現憲法では自衛官も人権として参政権を持っており、それとの整合性についても諸説ある。なお、過去の戦後の昭和時代のころの日本においては「文民」と言う場合には「職業軍人の経歴を有しない者」とする説が有力であったが、べつに文民に対応する英語の civilian(シビリアン) には政治家の軍隊経験そのものを禁じるような国際的な定説は無く、たとえばアメリカ合衆国では元・職業軍人のアイゼンハワーが選挙に出て政治家に転職し大統領(第34代)になっているという例もある。\n第67条\n案件 議案にかけられている事がら(ことがら)。議題にされている事がら。\n第68条\n任意 法的な制限なく、自由に選択すること。意のままに、まかせること。\n第69条\n不信任 この条文での不信任とは、国会が内閣を信用せず、その存続をみとめないこと。\n総辞職 この条文での総辞職とは、内閣総理大臣および全ての国務大臣が自ら(みすから)職をやめること。一般に「辞職」とは、みずから職をやめること。\n第70条\n欠缺 欠けていること。この条文見出しでは、欠員のこと。\n第73条\n総理する 全てを処理・管理すること。\n時宜(じぎ)によつては  場合によっては。都合によっては。状況によっては。\n掌理(しょうり) 全体を取りまとめて処理・管理すること。\n第74条\n連署 同一の文書等に複数の者が名を書き連ねること。同一の文書等に複数の者が署名すること。\n第76条 【司法権・裁判所、特別裁判所の禁止、裁判官の独立】\n第77条 【最高裁判所の規則制定権】\n第78条 【裁判官の身分の保障】\n第79条 【最高裁判所の裁判官、国民審査(こくみんしんさ)、定年(ていねん)、報酬(ほうしゅう)】\n第80条 【下級裁判所の裁判官・任期・定年、報酬(ほうしゅう)】\n第81条 【法令審査権と最高裁判所】\n用語解説\n第76条\n特別裁判所 特定の種類の事件をあつかう裁判所であるか、あるいは特定の身分を持つ人についてのみ扱う裁判所であって、さらに司法裁判所の司法権に属さない裁判所。大日本帝国憲法下での行政裁判所や軍法会議、皇室裁判所などのこと。ただし国会が設置する弾劾裁判所は例外である。\n(※ 中学の範囲外。大学範囲) なお、海難審判所(かいなんしんぱんしょ)や国税不服審判所(こくぜいふふくしんぱんしょ)などの行政審判所(ぎょうせいしんぱんしょ)は司法裁判所の管理下に属するので、特別裁判所には含めない。本76条の規定通り、行政審判は終審には出来ない。\n終審 その裁判について、それ以上は訴えることのできない最終的な審判。\n第77条\n検察官 犯罪を捜査し、起訴および維持する権限をもつ公務員。\n第78条\n心身の故障 重い病気など心や体に生じた障害。\n第82条 【裁判の公開】\n第82条\n対審 裁判で、対立している双方の当事者(民事訴訟では原告と被告、刑事訴訟では検察官と被告人・弁護人)が、裁判官の前でそれぞれの主張を述べること。民事訴訟における口頭弁論、刑事訴訟における公判手続などが、これにあたる。\n善良の風俗 社会での道徳や、良いとされる習慣など。\n虞(おそれ) 心配。\n第83条 【財産処理の基本原則】\n第84条 【課税(かぜい)】\n第85条 【国費の支出および国の債務(さいむ)負担】\n第86条 【予算】\n第87条 【予備費】\n第88条 【皇室財産・皇室の費用】\n第89条 【公(おおやけ)の財産の支出または利用の制限】\n第90条 【決算検査、会計検査院(かいけい けんさいん)】\n第91条 【財政状況の報告】\n内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。\n用語解説\n第84条\n租税 いわゆる税金のこと。\n第85条\n債務 この条文では、たとえば借金での返す義務のように、将来にお金を払う義務のこと。\n第88条\n計上 予算の中に、ふくませること。\n第89条\n公金 国や地方公共団体のお金。\n便益 便利なこと。利益になること。\n第90条\n会計検査院 国家機関の一つで、国の収入支出の決算を検査する。\n第92条 【地方自治の基本原則】\n第93条 【地方公共団体の機関、その直接選挙】\n第94条 【地方公共団体の権能】\n第95条 【特別法(とくべつほう)の住民投票】\n用語解説\n第92条\n本旨 あるべき姿(すがた)。ありかた。\n第93条\n吏員 地方公務員など。\n第95条\n特別法 ここでいう特別法とは、特定の地域のみに適用される法。例としては、広島平和記念都市建設法(昭和24年法律第219号)、長崎国際文化都市建設法(昭和24年法律第220号)、横浜国際港都建設法(昭和25年法律第248号)などの国際港都建設法(横浜・神戸)、京都国際文化観光都市建設法\n(昭和25年法律第251号)などの国際文化観光都市建設法(京都・奈良・松江)などがある。\n第96条 【改正の手続、その公布】\n用語解説\n第96条\n発議 議案を提出すること。\n第97条 【基本的人権の本質】\n第98条 【最高法規、条約および国際法規の遵守】\n第99条 【憲法尊重(そんちょう)擁護(ようご)の義務】\n用語解説\n第98条\n条規 条文に書かれている規則・規定。\n第99条\n擁護 まもること。かばうこと。\n第100条 【憲法施行期日、準備手続】\n第101条 【経過規定 ー 参議院未成立の間の国会】\n第102条 【同前 ー 第1期の参議院議員の任期】\n第103条 【同前 ー 公務員の地位】\n用語解説\n第100条\n起算 数え始めること。\n施行 法令の効力を実際に発生させること。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95"} {"text": "法律や公務員だけでは社会は動かず、民間の会社で労働をする多くの人たちによって、社会は支えられています。\n職業の種類は、とても多いので、すべてを個別に解説はできません。\nところで、どのような買い物にも、お金が、かかります。物を買ったりサービスを受けたいするのにも、お金を払う必要があります。\nなので、お金の流れを見ることで、社会での労働のしくみを、つかみやすくなります。また、労働を『お金の流れ』で表すことによって、計算できるようになりますし、大きさをくらべたりすることも出来るようになります。\nボランティアや家の手伝いなど、お金をやりとりしない労働もあります。ですが中学公民の経済分野では、とりあえずは、計算しやすさという理由で、お金のやりとりで表される労働を中心に考えていきます。\nまた、公民の「経済」(けいざい)の分野では、特定の職業にかぎらず、すべての労働に共通する仕組みについて、全体的に考えていきます。\nお金も、特定の職業に限られずに、すべての職業で用いられているので、お金のやりとりの分析をすることで、特定の職業にかぎらずに通用する分析ができそうですね。\nでは、お金と労働との関係について、いろいろと学んでいきましょう。\nまず、企業などが商品を製造し販売しているとき、その企業を、商品の 生産者(せいさんしゃ、英:producer プロデューサー) と見なします。そして商品を買う個人を、その商品の 消費者(しょうひしゃ,英: Consumer コンシューマー) と見なします。\nここで言う生産は、なにも食料品や自動車などの工業製品のような具体的な形のあるものだけに限らず、鉄道会社などが交通機関を提供したりなどの有料のサービスの労働も生産と見なすのが、経済学では普通です。なので、電車やバスやタクシーで、有料で人を運んだりすることもサービスの提供なので「生産」です[1]\n[2]\n[3]\n[4]\n。\n医者などが病院で医療行為をするのもサービスの提供なので[5]\n[6]\n[7]\n[8]\n[9]\n「生産」と見なします。\n世間一般でいう「サービス」や「生産」の意味と、経済学で言う「サービス」や生産の意味は違うので、アタマのすみに置いておいてください(中学生には、医療が「生産」や「サービス」かどうかとか、電車が生産が「生産」や「サービス」かどうかとかは、あまり重要ではないので、無理に分類を暗記しなくていい。実際、東京書籍はこの話題を扱っていない)。\n日本の社会と世界』(平成25年2月25日検定版、96ページ)では、病院で治療を受けることも「サービス」とみなすとある。また、高校教科書「高等学校 新政治経済 最新版」(清水書院、平成25年3月26日 検定版、76ページ)によると、商品(正確には財)やサービスを作り出すことを「生産」という。よって医療行為も「生産」に分類される。中学教科書だけでなく、高校の検定教科書の出している山川出版でも同様、医療も「サービス」に含めている。\nこう考えると、仕事をして お金をかせぐことは、「生産」と見なせそうです。こうして、まとめて生産という言葉で表すことで、いろんな職業の労働をまとめて分析できます。\n公民では、労働を生産(せいさん、production[10] プロダクション)活動と捉えることで、私たちがその労働の成果に金をはらうことを消費(しょうひ、consumption[11] コンサンプション)と考え、生産と消費の関係を考えていくことで、社会における労働全体のしくみを考えていくことで、労働に対する理解をふかめます。\n消費者は、生産者のつくった商品などの成果を買って消費します。生産者のつくった商品などのことを 財(ざい、英:goods グッズ) といいます。消費者は財を消費します。消費者が購入して使うだけの、ふつうの商品などの財を消費財(しょうひざい、consumer goods[12])という。財の中には、食料品のように、買ってからすぐに使用して無くなるものもあれば、家具や家電製品などのように長く残る物もある。家具などのように長期間つかう財のことを 耐久消費財(たいきゅう しょうひざい、英:durable goods デュラブル・グッズ)と言う。\n一家の経済生活のやりくりのすべてを総称して 家計(かけい、households[13]) と言う。父母の月々の収入や貯蓄から、家族の1ヵ月の生活のもろもろの支出(ししゅつ)・ローンの支払いなどを差し引きしたものである。\n経済学においては、消費側の最小単位として、個人の消費者ではなく世帯ごとで考えた家計(かけい)という言葉を用いる。これは、家賃や光熱費など家族に共通の支出があるなど、家計の支出や貯蓄、投資などの決定が、個々の世帯員単位ではなく世帯単位で行われると考えられるからである。\nたいていの家庭では、収入の一部を将来にそなえて取っておく。つまり貯金をしている。この収入を取っておくことや、取っておいた収入のことを 貯蓄(ちょちく、英:saving) という。貯蓄を、病気など不慮(ふりょ)の出来事の対応などに当てたりしています。\n貯蓄のお金の保管方法としては、銀行や信用金庫などにお金を預ける方法が普通であり、自宅でお金の多くを保管する家庭は少ない。\n自宅には生活費などで必要な分だけを置いて、それ以上の大金は銀行などで保管してもらうのが一般的である。\nエンゲル係数(エンゲルけいすう、英:Engel's coefficient エンゴルズ・コウフィシエント)とは、その世帯の消費支出のうち、どれだけ食費に回しているかを示す目安です。\n収入が少ない世帯でも、生きていくためには食べ物が必要ですから、収入が少なくても食費は下がらないのが普通です。\n一方、収入が増えれば増えるほど、人は食費以外のものにお金を使うようになる傾向があります。つまり、収入が少ない人ほど、食費にお金をかけてしまいます。この傾向を エンゲルの法則(英:Engel's law) といいます。\nしたがって、収入が低い時はエンゲル係数は高く、収入が高い時はエンゲル係数は低くなります。\nほとんどの場合、商売を行いたい人(経営者)は、その商売を運営するための組織(企業)をつくります。ここでは、企業についてみていきましょう。企業とは、次のような条件を満たした組織を指します。\n商売を行いたい人(経営者)が、銀行や証券会社から必要なお金を借りて、工場や店舗などの設備を整えます。その上で、原材料や完成品を仕入れつつ、労働者(従業員)を雇って、経営します。[15]\n(>_<) 企業の定義は絶対に覚えてください。定義を覚えないと、この後の説明が分かりません。\nでは、そもそも企業は、なぜ、生産をするのでしょうか?\n企業が生産をするのは、お金を儲けたいからです。例えば、製造業では、作った製品を売ってお金を稼ぎます。物を売って儲けたお金は「売上」(sales セールス)とよばれます。\n普通、会社がいくら儲かっても、社長とサラリーマンは同じ給料を貰います。社長や社員は、売り上げたお金の全額を貰えません。何故なら、会社を運営するために、建物を守るために、原材料を買うためにも、お金は必要です。それだけではなく、将来への費用もかかります。したがって、多くの企業は売上の大半を会社の貯金箱に入れ、将来の仕事のための費用としています。\n従業員は、会社から給料をもらうことで、お金を稼げます。こうして従業員は 収入(しゅうにゅう、英:income インカム) を得られます。\nこのような、仕事をするために、かかってしまうお金のことを「費用」(ひよう、英:cost コスト)とか「経費」(けいひ)とかと言います。\n商品の売り上げは、材料費などの経費よりも大きくないと、仕事をしても儲からなくなり、その会社は損をしてしまいます。\nなので、売り上げから経費を引いた金額が、儲けにあたり、大事です。売り上げから経費を差し引いた利益のぶんの金額のことを 利潤(りじゅん、英:profit プロフィート) と言います。\nつまり、式で利潤を表せば、\nです。\n企業は、もし利潤が稼げないと、経費を払えなくなってしまい、だから原材料なども買えなくなってしまい、その仕事を続けられなくなります。\n利潤が大きければ大きいほど、これからも安心して仕事をつづけやすいので、なので、ふつう、どの企業でも、利潤を大きくすることが、その会社の目標になります。\n企業には、利潤の追求の他にも、法律などを守ったりなどの社会的責任も要求されますが、まずは法律の認める範囲内で利潤を確保しないと企業は存続できませんので、ほとんどの企業は利潤の追求を目標にします。\nこれらの説明は、会社から見た立場です。会社の社長などから見た立場です。\n従業員の立場で見ましょう。\n従業員は、かせいだ給料(きゅうりょう)で物を買えます。\n給料などのように、労働をして、収入として得た金額のことを所得(しょとく、英:income [16])と言います。中学校の場合では、「 収入 = 所得 」と捉えて問題ないです。税金なども払い終わっており、自由に使えるぶんのお金のことが所得だと思って問題ないでしょう。\n\nいわゆる「サラリーマン」などの、ふつうの労働者は、勤労所得でお金をかせぐことが多いでしょう。\nなお、株式会社(かぶしき かいしゃ)の社長の給料の所得は、ふつうは勤労所得として扱います。株式会社の持ち主は、株主であって、必ずしも社長は自社の株(かぶ)を多く持つ大株主(おおかぶぬし)とは限らないからです。個人業主の収入は給料(きゅうりょう)では、ありません。給料というのは、事業主が部下に与える報酬(ほうしゅう)であり、事業主本人は部下では無いからです。個人事業の収入から経費や税金などを引いた所得が、そのまま、事業主の所得になります。\nなお小さな商店などで、実質的には自営業であっても、税金などの扱いの差の理由から、株式会社として設立される場合があります。\n収入から税金と社会保険料など支出する義務のある分を差し引いた残りの金額のことを 可処分所得(かしょぶん しょとく、英:disposable income ディスポーザボル・インカーム) と言います。\n単に「所得」や「収入」と言っただけの場合、税金などが引かれた残りの金額のことなのかどうかがハッキリしないので、税金などを引いた残りの所得額だとハッキリさせる場合に「可処分所得」という言葉を用います。\nつまり可処分所得とは、実際に所得者が使える金額のことです。\n現代の産業では、一つの生産者が全ての財を自分で作ることは、ほとんどの産業では無理であり、生産者もまた、他の生産者が作った原材料や生産設備などの財を元にして、その財を用いて商品を生産している。この生産設備や原材料などを 資本財(しほんざい、英:capital goods キャピタル・グッズ) と言う。機械設備などのように、長期間、残り続ける資本財のことを 固定資本(こてい しほん、英:fixed capital フィックスド・キャピタル) という。原材料や労働力などは固定資本では無い。\n生産活動には設備のほかにも、従業員や労働者などの労働力(ろうどうりょく)が必要であり、さらに工場や店などを建てるための土地などの自然(しぜん)が必要である。\nこれら、設備・労働力・土地などの生産に必要な財をまとめて生産財(せいさんざい、英:production goods[18])という。\n生産財の内、とくに設備・労働力・土地の3つを「生産の3要素」などと言う。生産には、これ以外にも技術や特許や専門知識・ノウハウなどの 知的財産(ちてき ざいさん、英: intellectual property インテレクチュアル・プロパティー) が必要な場合もある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%A8%E3%81%AF"} {"text": "多くの企業は、民間の人が経営しており、このように民間が経営している企業のことを私企業(しきぎょう)と言います。私企業とは別に、国や地方公共団体が資金を出して経営している企業のことを公企業(こうきぎょう)と言います。市営バスの経営は公企業です。放送局の公共放送のNHKも公企業でしょう。\nある会社の中で最高の権力を持っている人は、「大株主」(おおかぶぬし)や「筆頭株主」(ひっとうかぶぬし)と言われる人たちです。会社内での最高の権力者は、その会社の発行(はっこう)している「株式」(かぶしき)を持っている「株主」(かぶぬし)という人たちの中で、その会社が発行している株式のうちの半分以上の株を持っている人たちです。\nなぜなら、いわゆる「社長」(しゃちょう)を選ぶ会議が、株主総会(かぶぬし そうかい)であり、その総会で、ある株主が投票できる票の数は、その株主の所有する株式の数に比例するからです。\nそもそも株の売買とは、その会社の株式総会での、議決(ぎけつ)の権利(けんり)を売買しているのです。\nある株式会社(かぶしき がいしゃ)で、その会社を所有(しょゆう)しているのは、その会社の株券(かぶけん、stock certificate ストック・サーティフィケイト)を購入して保有している 株主(かぶぬし、英:shareholder シェア・ホウルダ)たち です。\n経営者は、会社の持ち主では、ありません。いわゆる「社長」(しゃちょう)は、会社の持ち主では、ありません。同様に、会社は従業員の持ち物でも、ありません。\nある会社の所有と、その会社の経営や業務を行っている人たちは、かならずしも同じ人たちとは、かぎりません。\n株主は、お金を払って、その会社を経営する権利を買っているのです。「社長」とは、株主から頼まれて代理に会社を経営する人です。大株主が自分を社長にする場合もあります。\nいっぽう、会社の側が、なぜ株式を発行して売るのかというと、会社が資金調達(しきん ちょうたつ)をするためです。たとえば中小企業の経営者が自費を払って会社に5000万円の資本金を増やすときは、たとえば1口 5万円 の株式を1000口ほど発行して、それを経営者が自費で1000口を購入する、などの行動を取ります。\n※ 「資本金」の法律的な正確な意味は何か、という問いについては、中学高校の範囲を大幅に超えるので、説明を省略。とりあえず中学範囲では、「資本金」とは、会社の元手のお金、と思っておいても構わない。\nなお、株式発行の他にも資金調達の方法はあります。株式発行は、資金調達の手段のうちの一つに過ぎません。ある企業が、生産活動の元手(もとで)のために預金しているお金のことを 「資金」(しきん) などといい、資金にくわえて機械や設備などの生産活動に使える会社の物を合わせて 資本(しほん、英: capital キャピタル) と言います。株式の公開は、資金を調達するための手段の一つです。資本とは、会社の持っている貯金や資産の中から、借金を返すために必要なお金などのように自由には使えない分のお金を差し引いて、残りの生産活動のために自由に使えるぶんのお金が資金です。\nこの「資本」という言葉をもって、私たち日本をはじめとする日本やアメリカなどの市場経済のような、原則的に企業の存在を認めて企業の自由な経営を認める市場経済を理想とする考えのことを 資本主義(しほん しゅぎ、英:capitalism キャピタリズム) と言います。\nさて、株式会社では、有力な株主たちが経営者を決め、そして経営者が決める経営権の中には、会社の保有する資産(しさん、英:asset アセット)を、どう扱うかということを決める権利もありますので、したがって会社の持ち主は、実質的には株主ということになります。「社長を誰にするか?」ということを決めるのも、株主たちの決める権限です。\n社長(しゃちょう)とは、株主から、代理人として経営を任されただけの役員(やくいん)に、すぎません。\n従業員を、どれだけ雇うのか、どう雇うのか、そもそも従業員を雇う必要があるか、ということを決めるのも株主の権限か、あるいは株主から選ばれた経営者が決める権限です。\n株主の人数は、一人とは限りません。ある会社の、多くの株主の中で、大きな割合で株を保有している人のことを 「大株主」(おお かぶぬし、英:major shareholder など) と言います。ある会社の株主の中で、その会社の株式を最も多く保有している株主を 「筆頭株主」(ひっとう かぶぬし、英:largest stockholder など) と言います。\nある社長が、その会社の大株主や筆頭株主でもある場合、いっぱんに「オーナー社長」と言われます。大株主でもなく筆頭株主でもなく、株主から社長職だけが与えられた社長の場合は「サラリーマン社長」とか「雇われ社長」(やとわれ しゃちょう)と言われます。\nつまり、企業の所有と、経営や業務を行っている人たちは、かならずしも同じ人たちとは、かぎりません。\nこのように、株主が必ずしも経営者とは限らないという仕組みのことを「所有と経営の分離」と言います(※ この語は高校の範囲)。\n株主総会において、株主の意思を反映する「取締役」が通常は複数選任されます。株主総会での投票権は、一人一票ではなく、所有する株式数に比例して株主に投票権が与えられます。取締役という役職は、あくまでも会社が出資者の利益のために経営をしているかを監視するための役職であり、取締役個人の権能として会社を代表して取引を行ったり、従業員を雇ったりすることは一般にはありませし、できません。取締役が複数選任される場合(こちらが一般的)、取締役会が組織され取締役は個人としてではなく、取締役会の決議として意思を表明します。\n会社を代表して取引を行ったり、従業員を雇うことのできる権能を「代表権」といいます。「代表権」は個人の権能として行使されることに注意してください。株式会社の場合、この代表権を誰に与えるかは取締役(取締役会)の決定によります。代表権を与えられた相手が取締役である場合、代表取締役と言います。代表権の行使は会社の意思表明そのものですから、代表権を持つ人は「社長」と呼ばれる例が多いのですが、代表権を与える人数に制限はないため、代表権を持った「副社長」や「取締役会会長(一般には「会長」と略します)」がいる場合もあります。なお、取締役(取締役会)は「執行役」という役職を取締役またはそれ以外から選任することができ、執行役に代表権を与えることもできます。\n会社法などに定められた会社の登記(とうき)などでは、代表取締役をかならず選任することが義務づけられています。このため、裁判などでも、その会社で「代表取締役」や「社長」などの肩書きをもつ人物が外部に対して行った取引などは、普通は取り消しできずに有効な取引として守らなければならないのが普通です(やや違うが「表見代理」という法律用語(民法学など)がこの解釈に近い)。なので、株主総会での社長の選任も、株主は慎重に行う必要があります。\n「表権代理」とは、会社経営に限らない用語ですが、代理権を与えてない人物(無権代理人)にあたかも代理人としての肩書きなどを与えていた場合、裁判などでは、事情を知らない取引相手の利益を保護するために、その無権代理人の代理行為が法的に有効になってしまうことがあることです。民法110条あたりに、表見代理の規定があります。\nだから代表取締役などの「社長」などの肩書きであっても、表見代理の考え方により、外部に対して行った取引では、「社長」の行った取引は裁判では有効とさることもあります。\nまた、規模の小さい小企業では、いちいち筆頭株主が社長を監視するのは面倒ですので、筆頭株主がそのまま代表取締役になるオーナー社長型の経営もよくあります。\nさらに発展的な話をしましょう。会社が借金をしたさいの「借金のカタとして会社のものを差し押さえてもいい」という権利をもつ「抵当権」(ていとうけん)の話です。\n上記の話を一見すると、会社は誰の所有物かと言うと、あたかも筆頭株主の所有物かのように見えます。実際、そうである実態の場合もあるのですが、しかし実はこれにも抜け穴があります。\nその抜け穴のひとつが抵当権(ていとうけん)です。「抵当権」(ていとうけん)とは、おおむね、会社が借金をしたさいの「借金のカタとして会社の資産を優先的に差し押さえてもいい」という権利のことです。\n抵当権で、カネを貸すのは通常、外部の人です。そして、時代にもよりますが、基本的に日本国の経済政策では、会社にカネを貸す人の権利を保護するための制度を用意しており、少なくとも2010年台では、会社が借金を払えなくなった場合、カネを貸していた人のうちでさらに「抵当権」をもつ権利者は、かなり強力な権利をもっており、抵当にいれられている会社資産を競売などにおいて、ほかの債権者に優先して所有することができます。\nよく銀行などが、カネを貸している会社の土地や設備などを抵当に入れている場合があります。\nそう、これらの情報を組み合わせるとわかるのですが、つまり、たとえば証券取引でもし大赤字・倒産寸前の上場企業の株を購入しても、どうせ銀行などが会社資産を抵当に押さえているので、その上場企業の株を購入した株主にはなんの得もありません(例外として、会社が倒産前に業績復活して株価が値上がりしないかぎりは)。なぜなら、会社が倒産した際、その設備などの資産の行き先は、株主ではなく抵当権をもつ銀行などの機関だから、です。\n株主総会(かぶぬし そうかい、英:general meeting ジェネラル・ミーティング)とは、株主たちが定期的に集まって、会社の経営方針について話し合う会議です。\n株主総会ではない場所で、その会社の株主以外である従業員や社長などが、その会社の仕事として会社の経営方針について話し合う会議をするのは可能です。ですが、その社長に誰を選ぶかを決める会議が株主総会です。なので、結局、株主総会が会社の経営について話し合う会議の中で、最高の権力を持った会議になります。\nそれぞれの株主の議決権(ぎけつけん)の大きさは、1株につき1票です。たとえば1000株の株主は1000票を持ち、3000株を持つ株主は3000票です。持ち株(もちかぶ、英:holdings)の株式数(かぶしきすう)に応じた議決権を持ちます。人数の多数決は、議決とは直接の関係がありません。\nつまり、会社の経営に口を出したいなら、あらかじめお金を出資して株式を購入する必要があります。株主総会では、金(かね)を出さないくせに口を出すことなんて、出来ません。こういう株式数のみに応じて議決権の大きさが決まる仕組みがあることで、株式の出資者は、出資者以外からの不当な干渉を防ぐことが出来ます。\n株主総会では、会社の今後の経営方針や、取締役(とりしまりやく)たちや監査役(かんさやく)などの役員が決められます。取締役会とは、株主総会で株主から経営を任された人たちによる会議です。\nニュースなどで、東京証券取引所などの 証券取引所(しょうけん とりひきじょ、英: Stock exchange) で取引される株式会社の 株価(かぶか) についてのニュースなどを見たことのある人も多いでしょう。\nある会社が規模が大きく、業績も とても良い会社は、証券会社での株の売り出しが認められます。証券取引所に株の売り出しを登録することを 上場(じょうじょう、英:Initial public offering 、略:IPO ) といいます。上場した会社は、資金調達の手段として、証券市場による株の売買を利用します。証券市場から調達する必要のない会社の場合、上場できるほどの業績を持っていても、上場しない場合もあります。\nかならずしも、会社は、証券市場などに上場しているとは、限りません。\nむしろ、日本にある多くの中小企業は、証券市場には上場していません。上場している会社は、ごく一部の大企業です。\n株取引(英:stock trading など)の投資家は、証券市場で、上場している会社の株を買うことが出来ます。株主は、株を持ち続ける義務はなく、株を売ることも出来ます。また、株を買える人は、原則的に大人なら、金さえ出せば、誰でも株を買うことが出来ます。たとえば、日本人でなくても日本の会社の株は買えます。\n上場している会社の株価(かぶか、英:share price)は、つねに変わります。一定の価格では、ありません。普通は、業績の良い企業の株価が上がります。原則的に株取引は、株を売りたい人と買いたい人との条件が合えば取引が成立するので、買いたい人たちの1株あたりに払ってもいいと考える金額と、株を売りたい株主たちが希望する売り値とで、株価は決まります。なので、ある会社の株が高くても、その会社の株を買いたいという人が多ければ、その会社の株価が高くなります。つまり需要と供給で決まります。\nある会社の株が値上がりしそうだと株の投資家が思ったとき、投資家は その株が安い時に購入して、高くなった時に売り払えれば、その投資家は、もうけることが出来ます。これを「利ざや」(英: margin または profit)と言います。\n投資家が値上がりしそうだと思っても、かならずしも予想通りに値上がりするとは限りません。買った株の株価が値下がりする場合もあります。値下がりした場合でも売ることは出来ますが、売っても儲け(もうけ)が出ません。\nこのように、株を買うことには、「株価が下がるかもしれない」というリスクもあります。\n東京証券取引所などの証券取引所と、たとえば野村證券(のむらしょうけん)や大和証券(だいわしょうけん)などの証券会社とは、別の会社です。証券会社は、単なる仲介業者です。証券取引所と、株の購入者との間を仲介します。一般の株式購入者は、証券取引所からの直接の購入は出きません。上場企業の株を購入したい場合は、証券会社を通して、証券取引所から購入する必要があります。\n現代の株券は、電子的に管理されています。紙による株券の管理は廃止されました。日本の証券取引所は、東京や大阪など、合わせて日本には6ヶ所、あります。\n株主に、会社の利潤の中から、利益が支給される場合があります。そのような株主への利益支給を 配当(はいとう、英:dividend ディビデンド) と言います。\nこのような配当を支給するかどうかを決めるのも、株主の権限です。\n配当は義務ではありません。たとえば上場してない中小企業などで、株主が社長の一人だけという場合は、配当を支払う必要がないので、配当は行われないことが、ふつうです。\n会社が倒産(とうさん)しても、株主の保有する、その会社の株式の資産価値が無くなりゼロになるだけであり、株主は それ以上の責任は 負いません。このような出資額を失うリスクを超えた責任を、投資家が負わないようにしている仕組みを 有限責任(ゆうげん せきにん、英:limited liability リミテッド・ライアビリティー) といいます。\nこうすることで、出資者は、出資額以上のリスクは負うことがなくなるので、安心して出資できるようになります。また、会社側は、出資者を安心させることで、出資者を増やすことができるので、株式公開による資金調達で安定して資金調達をすることが出来ます。\n会社の資金調達の方法は、なにも株式の発行により出資者をつのるだけには限りません。銀行から金を借りるという 借り入れ(かりいれ) の方法もあるし、社債(しゃさい、英: corporate bond)と言って社債の出資者から金を借りる債権を発行する方法もあります。\n上場したばかりの企業をのぞけば、会社の資金調達は、むしろ銀行から借りるのが一般でしょう。そもそも、ふつう銀行がどのようにしてお金を儲け(もうけ)ているかというと、会社に金を貸して利息で儲けているのです。\n企業の活動が、もし株主だけに貢献するだけで、消費者や社会全体に害を与える活動をしていれば、その企業は社会や消費者から反発され存続が難しくなります。\nこのため、企業は自社が社会に与える影響を自覚し、適切に行動する必要があります。少なくとも企業は法令を順守する必要があります。また環境になるべく負荷を与えない活動をする必要があります。\nそして、株主や投資家に対しても、もちろん収益に関する情報開示など、適切な情報についての説明責任を企業は果たす必要があります。\n企業の負う法令順守の義務に加え、上述のような社会に害を与えないといった類の責任のことを 企業の社会的責任 といいます。\n※ 本来:(※ 範囲外: )の意味では「社会的責任」とは下記コラムで述べるように「法的責任」に対比させたものだった。しかし現代では慣用的に企業の守るべき法的責任も含んで「企業の社会的責任」という場合も多い[1]。\nまた、1970年代の石油危機のさいにも、企業の便乗値上げや買占め・売り惜しみなどを批判する声として、公害や石油危機のこういった企業への批判として、たとい法的責任は問えなくても社会的責任を企業に要求すべきだというような文脈で用いられた表現です。\nしかも前述の「メセナ」については、商業高校のその検定教科書では章「企業のマーケティング活動」の節「マーケティングの考え方」で紹介するほどの、徹底ぶりです[6]。\n商業高校教科書では言及していませんが、この用語「社会的責任」の内容も、法律を守るのはもちろん、たとえ合法であっても反倫理的な脱法行為を企業が行わないようにするために「透明性の確保」(transparency トランスペアレンシー)や「説明責任」(accountability アカウンタビリティ)なども加えて企業に要求することで「持続可能な発展」に寄与させることが social responsibility です[7]。なので、まったくメセナとは意味が違います。\nよって『企業の社会的責任』は、利益を目的としない慈善事業(いわゆる寄付、フィランソロピー、メセナ)とは異なります。\nメセナとは、音楽コンクールなどの開催の支援をしたりなどの文化的活動だが、メセナ(フランス語:mécénat)はべつに社会的責任を果たすことではありません。そもそも特定の芸能活動を社会的責任と考えることは、その他の文化活動からすれば不公平であり、音楽コンクールの開催などは、単なる宣伝活動です。\n寄附行為は、べつに社会的責任を果たすことではありません。企業は既に税金を払っており、国は税金を払わせる以上の金銭の徴収の義務を企業に負わせてはいけません。\n企業は、短期的には利益だけを追求して活動しますので、なんの用心もしてないと、ともすれば企業は、長期的に企業活動を見た場合に、企業が公害やその他なんらかの人権侵害、あるいは詐欺的な行為などといった社会問題などを引きおこしたりして、社会に害をおよぼす自体にも、なってしまう場合がありかねません。\nそのような害のある事態を起こさないようにするために、持続可能性のある企業活動をしやすいような制度や経済システムをつくろうという取り組みが、本来の社会的責任の意味です。欧州委員会はすでに2002年の時点で「CSR: 持続可能な発展への企業の貢献」という題名の報告書を出しています[11]。\n2020年の現在、『SDGs』というフレーズで持続可能性(サスティナビリティ)の重要性がうたわれていますが、なにも最近に始まった事ではなく、企業に限定すれば、すでにCSRの一部として行われてきた活動にすぎません。\nそれと関係がるかどうか分かりませんが、商業高校の教科書『ビジネス・コミュニケーション』でも、CSRとSGCsを関連づけて説明しているものもあります[12]。\nさてCSRの歴史の話に戻ると、欧米の国際企業の中には、かつて1980年代、生産費を安くするために、海外の工場では、先進国の労働基準法には違反しているような、強制労働のような環境で低賃金の労働をさせたり、あるいは移民を呼び寄せてパスポートを取り上げて、強制労働をさせていたという人身売買のような事例があり、世界的に問題視されました。そのような問題のある強制労働を規制しようというのも、『企業の社会的責任』(CSR)の文脈でよく語られます[13]。このように、音楽コンサート開催や自前の美術館を持つ事とは、CSRはまったく意味が異なります。\n1990年代には、途上国の労働現場での児童労働が問題視されました。服飾メーカーやスポーツ用品メーカーが、そのような児童労働でマスメディアなどから批判されました[14][15]。先進国の多国籍企業は、発展途上国に生産を委託していることも多いので、こういった児童労働を防ぐことに協力することも、『企業の社会的責任』の範囲になります[16][17]。\nそのほか、違法な労働で生産されたものを輸入しない、不当に安い賃金で働かせて生産されたものを輸入しないという、といったフェアトレード(直訳すると「公平な fair 取引 trade」)も、広い意味では『企業の社会的責任』のための活動のひとつと言えるでしょう[18][19]。\nサッカーのワールドカップでも2002年以降、児童労働によって生産されていないことを保証した「フェアトレード」のラベルのついたサッカーボールを使用しています[20]。\nなお児童労働に関する国際社会の規制についてては、2020年の現在では、とっくに法的にも禁止されており、すでに西暦2000年の段階でOECD理事会が多国籍企業ガイドラインとして児童労働などを禁止しています[21]。そのほか、環境保護や、贈収賄の禁止などが、OECDの多国籍企業ガイドラインで定められています[22]。\nこのように、当初は(法的責任ではないが社会的には責任があるという意味で)『企業の社会的責任』と言われていた規範でも、のちにそれが国際的な規制として国際機関や先進諸国に採択される場合もあります。\nほか、SA 8000 という国際認証規格が、児童労働や強制労働の禁止などを定めている[23][24]。SA 8000 ではILO(国際労働委員)や国連人権条約などに準拠して、具体的に労働の倫理を制定しています。\n製造業でも、電子機器に、有害物質(鉛(なまり)やカドミウム、水銀、六価クロムなど)を原則として出来る限り使わないとするRoHS規制(ローズきせい)が現代では制定されています。このRoHS規制もよく『企業の社会的責任』の文脈でも議論されます[25][26]。\nそもそも、日本では明治期や大正期から、大企業が病院建設や学校建設などの寄付をするというフィランソロピーの事例はありましたが[27]、しかし公害などは明治・大正・昭和中期までの時代は放置される傾向だった歴史があるので、フィランソロピーを社会的責任の文脈で述べるのは、やや問題があるでしょう。\nその他、21世紀以降の日本では、たとえば株式総会での総会屋(そうかいや)の排除など、暴力団やそのフロント企業が類似組織といった反社会的組織(「反社」などと略称されます)による干渉を、企業活動から排除することも、「企業の社会的責任」の一貫として求められおり、たとえば平成19年に政府官邸の犯罪対策閣僚会議幹事会がそのような声明文(『企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針について』)を出しています[28]。\n現在の日本では暴力団との売買について、スーパーマーケットやコンビニなどの小売店が最低限の生活物資を販売する事以外は、原則として暴力団とは売買や取引をしてはいけないのです。なお、冠婚葬祭のために式場を暴力団に貸し出すのが認められるなど、若干の例外もあります。\nまた、このような暴力団排除として規制される対象の団体は、けっして明示的に暴力団や「○○組」などと自称公開している団体だけではなく、表面的には人権活動家のフリをして暴力団的行為を行う「エセ同和団体」や、右翼思想団体のフリをして暴力団的行為を行う「エセ右翼」といった、「エセ社会活動家」(政府官邸がそう表記しています)もまた、暴力団と同様に規制や監視などの対象になる事を、日本政府官邸がすでに平成19年に声明を出してます[29]。\nなお、暴力団対処の行政活動は、法律(暴力団対策法)だけでなく、都道府県の条令もまた重要です。日本のすべての都道府県に、暴力団対策の条例があります。慣習的に、東京都で他県に先行して条例が制定され、他県が東京都をまねた条例を制定する傾向があります。\nその他、議論になっていることとして、政治的に過激な学生団体をどう扱うかという問題で、暴対法の類推解釈が可能なのではないか[30]という意見もあれば、そういう類推解釈を批判する意見もあります。\n過去の日本では、「連合赤軍」という、学生団体との密接なかかわりのあるテロ団体が、テロ事件を起こした事例があります(「浅間山荘(あさま さんそう)事件」など、他)。\n高校の社会科で習う憲法裁判の事例で、「三菱樹脂(みつびし じゅし)事件」という昭和時代の1960~1970年代の裁判があり、この三菱樹脂事件とは、大学時代に学生運動団体に過去に関わっていた人が、企業(三菱樹脂)への就職活動の際に過去の経歴のことで内定取り消しにあったということで裁判を起こしたという裁判事例があります。なお昭和の当時はまだ暴対法は制定されていなかったので(暴対法の制定は1991年であり、平成3年)、当時の裁判では暴力団規制との関連の議論はされませんでした。\nしかし、暴対法のある21世紀の現代は違います。\nこの三菱樹脂事件は憲法学ではよく憲法問題として扱われ、憲法「思想信条の自由」との問題で、高校レベルぐらいの教科書や参考書などでもそう紹介されるのですが、さらに21世紀の現代では暴対法との関連も気になるところでしょう。\nさて、法学的な分析テクニックとして、昨今のテロ問題を議論する際は、けっして破防法(破壊活動防止法)やテロ団体規正法ばかりに注目するのではなく、暴対法(暴力団対策法)もにまた注目するというテクニックも参考にしたいところです。破防法やテロ団体規正法などは、これは警察や公安委員会が団体監視をするために従う刑事的な法律なのであって、けっして民間企業のテロ団体への売買の規制するという民事的な規定をしたものではないからです。\nテロ団体やテロ疑惑団体の規制などのアイデアについて考える際、過去のマスコミでの議論の経緯から往々にして破防法ばかりを考えてしまいガチですが、しかし実務的には暴対法もまた考慮する必要があるのです。\n\nなんでメセナに批判的なことをWikibooksでわざわざ書いてるかというと、じつは日本では困ったことに、企業の中には、従業員への残業代の賃金(ちんぎん)の不払いなどの違法行為を行ってる企業(いわゆる「ブラック企業」)であるにもかかわらず、その企業が「ボランティア活動」としてカンボジアなどの東南アジア諸国やアフリカ諸国などの民衆などにボランティアなどを行ったり、あるいはメセナ的な活動などを行ったりすることで、さぞかし、その違法企業が社会貢献をしてるかのような立派な企業であるかのようにみせかけるという、違法であり迷惑な企業が存在しているのである。[要出典]\nもちろん、そのボランティア活動やメセナ活動などの財源は、残業代不払いなどの違法行為によって、不当に稼いだカネを資金源にしてる、というカラクリなわけだ。[要出典]\nだから、読者のみなさんは企業を見るときに、決していくつもの判断基準の優先順位をまちがえないように注意しよう。メセナやボランティアを行ってるかどうかという判断基準よりも、まず先に、違法行為を行ってないかを判断基準にしたほうが良いでしょう。[要出典]\n従業員を雇用をすることは、べつに社会的責任ではありません。そもそも企業には従業員を雇い入れる義務は無いので、社長が一人だけで会社を設立し、そのまま一人だけの会社であっても良いのです。\n労働基準法などの義務規定は、会社が従業員を雇った際に、雇った従業員に対して会社が追う最低賃金や労働時間などの義務であり、そもそも従業員を雇うかどうか自体の義務は、企業にはありません。\n労働基準法や男女雇用機会均等法などを守ることは、法令順守にふくまれています。\n「中小企業」とは、日本では、製造業の場合、資本金3億円以下または従業員300人以下の企業です。\n卸売業(おろしうりぎょう)の場合では、資本金1億円以下または従業員100人以下の企業が、中小企業です。\n小売業では、5000万円以下または50人以下が中小企業です。サービス業では、5000万円以下または50人以下が中小企業です。\nなお、参考までにサラリーマンの平均年収をネットで調べたところ、税引き前の金額で約400万円ということです。そこから税金や年金などをさしひくと約300万円になります。3億円という数字が、サラリーマンの平均年収の何人ぶんかというと、\nです。つまり、100人のサラリーマンが、平均年収ほどの金額を会社設立のために出し合えば、なんと中小企業でない会社が設立できてしまいます。\n(ちなみに「大企業」「大会社」の基準は、法律では決められていません。)\n日本では、会社数全体の99%が中小企業です。従業員数では約70%〜80%ちかくが、中小企業です。出荷額では、全体の約50%が中小企業です。\n製造業の場合、大企業の製品で必要とする部品などを、下請け(したうけ)として、つくっている企業などが多いです。\n賃金格差は、大企業と中小企業との間で、明治時代ころの昔からあります。大企業のほうが賃金が高く、中小企業のほうが賃金がひくいのが、普通の場合です。\n高度経済成長などの時代に、一時、賃金格差は解消に向かっていきましたが、近年、国際競争などにより、賃金格差が広がってきています。\n資本金(しほんきん)とは、けっして土地や設備などの固定資産(こていしさん)でもなく、けっして売上高(うりあげだか)でもなく、純利益額(じゅんりえき がく)でもなく、預金額(よきんがく)でもなく、株式の発行価(はっこうか)額の合計でもありません。\nまた、資本金および従業員数が、中小企業の基準なわけです。\n資本金の算出方法は法律で決められていますが、説明には中学の範囲を大幅に超えるので、説明を省略します。\n資本金とは、おおまかにいうと、その会社が、社外からの信用を得るために、使わないで取って置くと決めた金額です。一般の個人どうしのつきあいでも、まったく貯金がない個人を信用しないのと同様に、会社どうしでも、まったく銀行預金のない会社を信用しません。\nなので、ふだんの会社経営のさいには、資本金のおかねは、自由勝手には使えません。いわば、経営者が、会社から預かっている預金のようなものです。\nなので、資本金とは、けっして、その会社の単なる銀行預金ではありません。では何かというと、中学範囲を大幅に超えるので説明省略します。\nさて、場合によっては大企業などでは、ある会社の資本金の額と、その会社の利益額・売上高・預金額などのあいだに、大きな違いがある場合もありえます。すでに信用も知名度もある大企業の場合には、わざわざ新たな信用を得るために資本金を増やす必要がないから、です。\nなので、とくに大企業の経営状況を見るとき、資本金だけでは実態がよく分からないので、気をつけてください。\n近年、日本企業が、外国の企業と協力する場合も増えています。また、東南アジアなどの賃金の安い国に、工場をうつす企業も増えています。多国籍企業(たこくせき きぎょう)が、日本企業で増えてきています。\nこのように、経済のグローバル化が、近年の人類では起こっています。\nまた、外国人の労働者を、限定的に受け入れる事も始まっています。「研修」の名目で、外国人労働者を受け入れる場合もあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E3%83%BB%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%BF"} {"text": "そもそも銀行(英:bank)は、どうやってお金をかせいでいるのでしょうか?\n銀行は、企業などにお金を貸して利子(りし)と元金(がんきん)を返してもらうことで収入を得ています。\nお金を貸した際の利息によって収入を得ているのです。預金者が預けたお金の一部が、企業に貸し出されます。\n貸すときの利息は、預金の利息よりも高いので、このしくみで、銀行は利益をかせげるのです。(くわしくは、後述の、銀行の仕事についての節で説明します。)\n銀行のように、お金の貸し借りをする業務を、金融(きんゆう、英:finance[1] ファイナンス)といいます。お金の融通(ゆうづう)をする、という意味です。銀行以外にも証券会社や保険会社の業務も金融になります。\nそして金融を業務に行っている会社を金融機関(きんゆう きかん、英:financial institution ファイナンシャル・インスティチューション)と言います。銀行や証券会社や保険会社は、金融機関です。\n銀行は、企業などにお金を貸して利子(りし、英:interest インタレスト)と元金(もときん、がんきん 、英:principal)を返してもらうことで収入を得ています。借り手はお金を返す必要がありますが、さらに利子(りし)を借り手は銀行に払わなければなりません。そもそも利子(りし)によって、銀行は収入を得ているからです。\n預金者が銀行に預けたお金の一部は、お金を借りたい企業や個人などに貸し出されています。\n銀行が貸すときの利子率は、預金の利息率よりも高いので、銀行は利益をかせげます。銀行の利子収入と預金者への利息支出との差額が、銀行の利潤になります。\nたとえば、ある銀行にあずけた預金につく利子が1年あたり0.001%だとします。その銀行が企業に貸し出す時の利息が、例として、1年あたり2.000%の利息で貸し出しをしたりするわけです。\nすると銀行の貸し出しによる利益は、単純計算で、さしひき、1年あたり1.999%(=2.000ー0.001)の利益があります。(実際の数字ではなく、原理の説明のためのイメージですので、数字を覚える必要はありません。)\n銀行からすれば、貸し出すお金が高いほど、リスクも大きいので、一般に貸し出す金額に 利子率(りしりつ、英:interest rate インタレスト・レイト) を掛けた金額が利子になります。\nなお、銀行は、企業にだけカネを貸すのではありません。個人にも、銀行はカネを貸します。銀行が個人にお金を貸す例は、たとえば住宅ローンなどです。\n必ずしも、お金を借りたい企業や個人が、返せるという保証は無いので、銀行は、その人や会社が本当に金をかえせるだけの能力があるかどうか、審査(しんさ)をします。会社が借りようとするする場合は、会社の事業計画や過去の実績や売り上げなどが審査されます。個人が借りようとする場合も、借りようとするお金の利用法や、その人の所得などを参考に審査をします。\n銀行では、預けたお金の全てが貸しだされるわけではありません。預金をおろす利用者のために、お金のいくらかは、貸しださずに残しています。(※ 範囲外: なお、これを「預金準備」とか「準備預金」などと言います。)\n預金者から見れば、預金者の預けたお金が銀行を通して間接的に企業などに貸し出されているので、銀行のように預金者と貸し手の異なる金融の仕組みを 間接金融(かんせつ きんゆう、英:indirect finance) と言います。\nこれに対して、株取引などの証券取引などは、購入者が直接、出資者や貸し手になっているので、証券取引などの金融を 直接金融(ちょくせつ きんゆう、英:direct finance) と言います。\n銀行とは別に、貸金業(かしきんぎょう)には、消費者金融(しょうひしゃ きんゆう)のように預金業務を行わずに、お金を貸すことで利息を得ている会社もあります。ですが中高生には消費者金融の利用の機会は無いので、この節では、銀行などの預金業を行っている金融機関のしくみについて説明します。なお、消費者金融は、銀行からお金をかりて、元手の資金を調達していることが多いです。\n銀行の仕事の、もうひとつは、いわゆる「振り込み」(ふりこみ、英:transfer )などの、銀行口座を用いた送金の仕事です。口座取引のたびに、けっして 直接 お金を送るのではなく、振込額を引き落とした口座から振込額の分だけ口座の預金額を引き落として、相手の振込先の口座のある銀行が振り込まれた分の金額だけ口座の預金額を増やします。\nこうすることで、直接、お金を運ぶ必要がなくなるので、取引が円滑になります。このように、直接、現金を移動しなくても取引が行えるようにしている仕組みのことを 為替(かわせ、英:exchange) と言います。\n銀行は、このように、口座を用いた取引の仲介(ちゅうかい)をして、手数料を取ることで利益を得ています。会社どうしの銀行を仲介にした支払いでは、「手形」(てがた)や「小切手」(こぎって)を使う場合もあるのですが、中学の範囲を超えるので、ここでは説明しません。\n一般の人から預金をするのは、銀行の他にも、信用金庫も、預金業務をします。また、郵便局でも、郵便貯金(ゆうびんちょきん)として、預金業務をしています。信用金庫が預金から利益をえる手法は、銀行と同様で、企業にお金を貸して利息収入で、信用金庫は利益を得ます。\n銀行には、一般の銀行の他に、銀行にお金を貸すことを業務にしている、言わば「銀行にとっての銀行」も あります。\nそれは、日本の国が運営している日本銀行(にほん ぎんこう)という銀行です。略して日銀(にちぎん)と言われる場合もあります。\n日本銀行が、貸し借りをする目的は、お金の価値の安定のためや、物価の安定のためなどです。\n日本銀行のように、銀行や政府に対してのみお金を貸し出す銀行を 中央銀行(ちゅうおう ぎんこう) と言います。日本にかぎらず、ある国において、自国の政府に対してのみお金を貸し出す銀行のことが中央銀行です。\nつまり日本国の中央銀行は、日本銀行です。\n日本銀行がお金を貸すときの利息の割合を、公定歩合(こうてい ぶあい)といいます。この公定歩合と、貸出すお金の量を調整することで、経済が安定するようにさせています。\n証券会社や証券取引所は、株取引(かぶ とりひき)や国債(こくさい、英: Government bond)・社債(しゃさい、英: corporate bond)などの債券(さいけん)の売買や取引を仲立ちしています。\n株取引などの証券取引などでは、購入者が直接、出資者や貸し手になっているので、証券取引などの金融を 直接金融(ちょくせつ きんゆう) と言います。\nある会社が規模が大きく、業績も とても良い会社は、証券取引所(しょうけん とりひきじょ、英:securities exchange[2])での株の売り出しが認められます。証券取引所に株の売り出しを登録することを 上場(じょうじょう、英:Initial public offering 、略:IPO ) といいます。上場した会社は、資金調達の手段として、証券市場による株の売買を利用します。証券市場から調達する必要のない会社の場合、上場できるほどの業績を持っていても、上場しない場合もあります。\nかならずしも、会社は、証券市場などに上場しているとは、限らない。\nむしろ、日本にある多くの中小企業は、証券市場には上場していません。上場している会社は、ごく一部の大企業です。\n株取引の投資家は、証券市場で、上場している会社の株を買うことが出来ます。株主は、株を持ち続ける義務はなく、株を売ることも出来ます。また、株を買える人は、原則的に大人なら、金さえ出せば、誰でも株を買うことが出来ます。たとえば、日本人でなくても日本の会社の株は買えます。\n上場している会社の株価(かぶか、英:share price)は、つねに変わります。一定の価格では、ありません。普通は、業績の良い企業の株価が上がります。原則的に株取引は、株を売りたい人と買いたい人との条件が合えば取引が成立するので、買いたい人たちの1株あたりに払ってもいいと考える金額と、株を売りたい株主たちが希望する売り値とで、株価は決まります。なので、ある会社の株が高くても、その会社の株を買いたいという人が多ければ、その会社の株価が高くなります。つまり需要と供給で決まります。\nある会社の株が値上がりしそうだと株の投資家が思った時、投資家は その株が安い時に購入して、高くなった時に売り払えれば、その投資家は、もうけることが出来ます。これを「利ざや」と言います。\n投資家が値上がりしそうだと思っても、かならずしも予想通りに値上がりするとは限りません。買った株価が値下がりする場合もあります。値下がりした場合でも売ることは出来ますが、売っても儲け(もうけ)が出ません。\nこのように、株を買うことには、「株価が下がるかもしれない」というリスクもあります。\n東京証券取引所などの証券取引所と、たとえば野村證券(のむらしょうけん)や大和証券(だいわしょうけん)などの証券会社とは、別の会社です。証券会社は、単なる仲介業者です。証券取引所と、株の購入者との間を仲介します。一般の株式購入者は、証券取引所からの直接の購入は出きません。上場企業の株を購入したい場合は、証券会社を仲介して、証券取引所から購入する必要があります。\n現代の株券は、電子的に管理されています。紙による株券の管理は廃止されました。日本の証券取引所は、東京や大阪など、合わせて日本には6ヶ所、ある。\n株主に、会社の利潤の中から、利益が支給される場合があります。そのような株主への利益支給を 配当(はいとう、英:dividend ディビデンド) と言います。\nこのような配当を支給するかどうかを決めるのも、株主の権限です。\n配当は義務ではありません。たとえば上場してない中小企業などで、株主が社長の一人だけという場合は、配当を支払う必要がないので、配当は行われないことが、ふつうです。\n会社が倒産(とうさん、英:bankrupt バンクラプト)しても、株主の保有する、その会社の株式の資産価値が無くなりゼロになるだけであり、株主は それ以上の責任は 負いません。このような出資額を失うリスクを超えた責任を、投資家が追わないようにしている仕組みを 有限責任(ゆうげん せきにん) という。\nこうすることで、出資者は、出資額以上のリスクは負うことがなくなるので、安心して出資できるようになる。また、会社側は、出資者を安心させることで、出資者を増やすことができるので、株式公開による資金調達で安定して資金調達をすることが出来る。\n会社の資金調達の方法は、なにも株式の発行により出資者をつのるだけには限りません。銀行から金を借りるという 借り入れ(かりいれ 、英:borrowing) の方法もあるし、社債(しゃさい、英: corporate bond)と言って社債の出資者から金を借りる債権を発行する方法もあります。\n銀行にかぎらず、金融商品の売買の投資において、どんな投資であっても、必ずしも期待された値上がりが起きるとは限りません。値上がりを期待して購入した金融商品が、もしかしたら購入したときよりも値下がりしてしまい、売るときに購入時よりも低い値段でしか売れずに、結果的に損をしてしまうというリスクもあります。\n一方で、もしかしたら購入時より値上がりするかもしれません。投資において、売値から購入金額を差し引いて結果的に得られた利益のことをリターンと言います。\nこのように金融商品には、リスクとリターンの可能性があります。\nなお、よく「リスクが大きい」とか「リスクが少ない」「リスクが小さい」などの表現をする場合があります。\n一般に、「リスクが大きい」とは、予想できる利益の金額のふれ幅が大きいことです。つまり、もしその投資が成功すれば莫大な利益が出る可能性が高いが、しかしもし失敗すれば損失が莫大になってしまう可能性が高いような場合、「リスクが大きい」のように表現します。\nいっぽう、「リスクが小さい」「リスクが少ない」とは、予想の利益のふれ幅が小さいことであり、つまり成功時の利益が小さい可能性が高いが、しかし失敗時の損失も小さい可能性が高い、のような意味に使われる表現です。\nリターンが比較的に大きいと予想される商品は、リスクも大きいのが通常です(株式など)。\n一方、リターンが比較的に小さいと予想される商品は、リスクも小さいのが通常です(投資信託など)。\nこのように、リスクとリターンは比例的な関係にあります。\nだから確実にお金を大きく増やせる投資なんて無いのです(※ 日本文教出版の見解)。\n(※範囲外: )日本に証券取引所は4か所(東京、名古屋、福岡、札幌)です[3]。(ときどき世間には「東京だけ」だと誤解している人がいる。)\n企業などが、じっさいに銀行から大金を借りる時などに、銀行が条件として「(カネを貸してあげたあと、あなたの返済の際に)もし借金を返せなくなった場合に、あなたの会社のこの土地を差し出してほしい」などのように、借り手の持っている土地や建物などの高額な財産を、もし返済できなかったときに銀行にゆずりわたすという条件で、銀行がお金を貸す場合があります。\nこのように、物を貸す時に、もし返せなかった場合に、ある物を提供することを、担保(たんぽ)といいます。\n「銀行に融資してもらおうと交渉したら、銀行が担保を求めたので、土地を担保にして、銀行からお金を借りた」などのように、担保という言葉をつかいます。\n担保とは、いわゆる「借金のカタにする」という言葉に、意味が近いです。なお、借金が返せなかった相手から、担保にしていた土地などを回収することを、世間では「借金のカタを取る」などと言います。\n法律用語では、「抵当」(ていとう)という用語が、担保に意味が近いです。(※ 高校の世界史科目などでも、「抵当」という用語が出てくる場合があります。たとえば「古代ギリシアでは債務の抵当として、奴隷が売買された。しかしアテネでは改革により紀元前7世紀以降、アテネでは人間を抵当することを禁止した」のような表現で、使われます。)\n銀行に預金口座をつくるとき、普通預金(ふつうよきん)のほかに、定期預金(ていきよきん)という種類の口座があります。\n定期預金とは、利子は普通預金よりも高いのですが、しかし定期預金では預け始めてから一定期間(たとえば6ヵ月以上)が経過しないと定期預金は引出しできません。\nどの程度の期間、引出しをできないかは、その口座の契約時などに定めます。\n一定期間が経過する前に定期預金を引出しするためには、契約違反として解約手数料を預金者が払う必要があるので、預金者はカネが減ってしまいます。\n預金をあずけている利用者にとっては、定期預金はメンドウですが、しかし銀行からすれば、定期預金のほうが、預金長期に安定して貸し出しをしやすいので、利率は定期預金のほうが高めになっているわけです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E9%87%91%E8%9E%8D%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%BF"} {"text": "さまざまな商品の価格を平均した価格を 物価(ぶっか) という。\nいっぽう、景気(けいき)とは、次のような事である。\n物価と景気は、べつの概念(がいねん)だが、物価の動きと景気は深く関わりがあり、物価と景気の組み合わせによって、いろんな経済現象が起きる。それを、これから学んでいく。\n物価のデフレーションとは、単に多くの商品の物価が、全体的に下がっていくことです。\n物価のインフレーションとは、単に多くの商品の物価が、全体的に上がっていくことです。\n物価が上がること自体は、別に好況でも不況でも無い。同様に、物価が下がること自体も、別に好況でも不況でも無い。\n物価のうごきは、前年度を基準の100とした指数で表すことで多い。このような指数で表した物価の動きを 物価指数(ぶっか しすう、英:price index) という。\nたとえば物価が前年度より5%上がったら、物価指数は105である。\n物価指数を、英語で Consumer Price Index というので、英語の頭文字を取って CPI と略す場合もある。\n(※ ウィキペディアの仕様で数式表示中に日本語が使えないので、英語ですがガマンしてください。)\n物価には生産財の物価である企業物価(きぎょう ぶっか、英:producer price)と、消費者が実際に購入する消費財の物価である消費者物価(しょうひしゃ ぶっか、英:consumer price)がある。消費者物価指数(しょうひしゃ ぶっかしすう、consumer price index、 略:CPI)とは、消費者物価の物価指数のこと。\n好景気のときは、物価が高くても安心して買えるから、商品の値段が高くてもモノが売れるので、物価が上がりやすく、インフレになりやすい、と言われています。\nしかし、物価が高くなっても、かならずしも好景気とは限りません。インフレでも不景気になる場合はあります。\n例えば第二次大戦前の世界恐慌時のドイツでのハイパーインフレ(hyperinflation)のときは、ドイツは失業が増えて不況でした。\n日本では、中東で中東戦争が起きて石油の輸入が滞って石油危機(oil crisis [2])が起きた時には、多くの商品の物価が上がりました。この石油危機のとき、多くの会社が倒産しました。\nインフレになった時、賃金も上がることが多いが、物価も上がる。たとえ賃金が上がっても、物価がそれ以上に上がれば、労働者の暮らしは楽にはならない。そこで、物価との比較で見た実質的な賃金のことを実質賃金(じっしつ ちんぎん)と言い、賃金を消費者物価指数で割り算した数で表す。\nつまり労働者の給料が2割増加しても、同時に物価も2割増加しているならば労働者は多くの物資を購入できるようになっていないため実質賃金は向上していないというわけである。労働者の賃金が変化していなくても経済状況などにより物価が上昇しているならば実質賃金は下落しているということになる。\nいっぽう、不景気のときは、お金を節約しようとして、なるべく安い商品を買いたがるので、デフレになりやすいと考えられています。しかし、物価が下がっていっても、かならずしも不景気とは限りません。\n技術革新などをすれば、今までよりも安く物を作れるようになるので、物価は下がります。たとえば、日本の第二次大戦後の高度経済成長期には、工業技術の進歩により、多くの工業製品の値段は下がっていきました。しかし高度成長は物価が下がっても好景気であり、不景気ではありません。\nデフレと不景気は違います。\n日本では、バブル崩壊後の不景気の時期が、デフレの時期とも重なったので、「デフレ不況」(デフレふきょう)と言われましたが、けっして不況になると必ずデフレになるというわけでは、ありません。\n通貨を基準にして物価のしくみを考えましたが、逆に物を基準にして通貨について考えることもできます。\nインフレは、たとえば今まで100円の物が120円になれば、通貨の1円あたりの価値が下がったことになります。今まで100円を出せば買えた物が、今度は120円を出さないと買えなくなったわけですから。\nなので、貯金をしている人にとっては、インフレでは、貯金の価値が下がります。\nデフレでは、通貨の価値が上がることになります。たとえば今まで100円の物が90円になれば、100円を使えば10円があまって、その10円で別の物を買えます。\nなので、貯金をしている人にとっては、デフレは貯金の価値が上がります。\nインフレでの不況の場合、物価が上がるので、消費者は物が買いづらくなり、消費者は苦しくなります。\nいっぽう、デフレでの不況の場合、生産者は物の値段を上がられないので、売り上げを出しづらく、生産者が苦しくなります。\n大人の消費者は、お金をかせぐために仕事をしているので、別の場所では生産者でもあります。\nなので、インフレ化で不況の場合、まず消費者が苦しくなりますが、いずれ生産者も苦しくなります。\nまた生産者は、稼いだ所得で消費するので、別の場所では消費者でもあります。なので、デフレ下で不況の場合は、まず生産者が苦しくなりますが、いずれ消費者も苦しくなります。\n物価が急激に大きく上がり下がりすると、経済が混乱するので、どの国でも各国の政府は自国の物価を安定させる努力をしています。\nまた、政府が通貨を多く発行したりして市場に流通させれば、市場に多くのお金が流れ込みますが、社会全体の物の量はそのままなので、物価が上がりインフレになるのが普通です。\nデフレ下で不況の場合、デフレの影響を弱めるために、このようなインフレ政策が取られる場合があります。\n好景気と不景気が、交互に繰り返されていくのが、普通です。\nどんな好景気もつづかず、終わります。不景気も、いつかは終わっていくのが、普通です。\nたとえば、よく売れる商品は、多くの企業が、その商品を作ります。その結果、そのうち社会全体では、その商品が作りすぎになって、売れ残りが出てしまい、余って在庫(ざいこ)になってしまいます。\n売れ残りのぶんは、当然、もうかりません。なので、生産に使ったお金が回収できなくなります。\n生産しても売れなければ、お金が回収できなくなるので、当然、新しくその商品を生産をする会社は減ります。そうなると、今までその商品を作っていた会社や労働者は役割がなくなるので、失業が起こります。\nこのようにして、ある業界では好景気が終わり、不景気になっていきます。社会の多くの業界で好景気が終わり不景気になれば、社会も不景気になっていきます。\n不景気も、労働者がきちんと努力をしていれば、いつかは終わるのが普通です。\nなぜならば、不景気では、生産しても売れないのだから、生産量が減っていきます。そうなると、そのうち社会全体で物の量が減っていきます。そして社会で物不足になっていき、みんなが困るようになれば、今度は物が必要なので物が売れるようになっていきます。こうして、物を生産すれば、売れるように変わるので、好景気になっていきます。\nこうして、不景気も終わっていくのが、普通です。\nこのようにして、好景気と不景気が、交互に繰り返されていくのが、普通です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%99%AF%E6%B0%97%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8B%95%E3%81%A8%E7%89%A9%E4%BE%A1"} {"text": "ある業界の市場が、もし一つの企業にのみ供給されると、どうなるだろうか?\n他の企業がなければ、売り手の企業が値段を上げても、消費者は買わざるを得ないだろう。\n企業は、利潤を追求しようとするから、ふつうは、売れるのならば、なるべく高く商品を売ろうとするだろう。\nすると、消費者は、高く商品を買わされることになる。\nここで、もし、他の企業がその業界の市場に参入すれば、売り手どうしの安値での販売競争が起きるので、消費者は安く商品を買える。\nこのように、生産者どうしの競争によって、消費者は得をするのである。\nしかし、業界によっては、新規参入に大掛かりな設備などで膨大な投資費用が必要な場合などがあり、新規参入がしづらい業界もある。\nそのような参入に膨大な費用が必要な業界では、少数の大企業にのみ市場が支配されてしまう恐れが\nある。\n少数の企業に生産や販売が集中している状態のことを 寡占(かせん、英:oligopoly オリゴポリー) と言います。そして、さらに寡占が進んで少数の大企業などの生産者によって生産や販売が支配されるようになった状態のことを 独占(どくせん、英:monopoly モノポリー) と言います。\nこのような独占や寡占の状態になると、(もし生産者企業が法律を無視すれば、)少数の生産者どうしで値段を釣り上げることが可能になる。( 独占価格(どくせん かかく、英:monopoly price)と言う。 )\nこのような独占・寡占が起こると、消費者には不利益になるので、国は競争をさまたげる行為を法規制しており、競争をうながすために独占禁止法(どくせん きんしほう) を制定しており、公正取引委員会(こうせい とりひき いいんかい)によって独占禁止法などにより、競争妨害の取り締まりが運用されている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E7%AB%B6%E4%BA%89%E3%81%AE%E6%84%8F%E7%BE%A9%E3%81%A8%E7%8B%AC%E5%8D%A0%E7%A6%81%E6%AD%A2%E6%B3%95"} {"text": "物を買うのも、法律上は 契約(けいやく) の一つである。\n買い物は、たとえ契約書(けいやくしょ)などの書類を交わさなくても、口頭での「買います。」という約束であっても、法律的には契約なのである。\nなので、販売側に詐欺や不良品などの過失がない場合は、取り消しできないのが普通である。\n販売方法によっては、消費者保護の観点から、一定期間内の間なら無条件な解約が認められる場合もある。だが、基本的にほとんどの契約は、もし解約すると損害賠償などが発生する。\nたとえば、ある商品を購入したとして、そのあとに店にレシートを持って行って交換をしてほしいと頼んでも、基本的には店側には交換に応じる義務は無い。\n店によっては好意で、消費者側の購入品の間違えの場合などに限り、商品が未使用・未開封で購入直後〜数日後程度で、生鮮品などでなければ、レシートの提示とともに店側が好意で交換や返金に応じてくれる場合もあったりするが、これらの交換に法的な義務はなく、あくまで、その店が好意で交換に応じてくれただけにすぎない。したがって交換や返金を店側が断る場合もあるし、たとえ店側に交換を断られても、法的には店側には責任は無いのが一般的である。\n契約についての法律は、民法などに定めがある。\n契約は原則的に守るべき責任があるが、ただし銃や麻薬などの売買契約などのように法律に違反した契約は無効であり、守る法的義務が生じないばかりか、処罰の対象にもなる。\nまた、だまされたり、おどされたりして結ばされた契約は取り消しをすることが出来る。\n買い物には消費者にも責任があると言っても、消費者には生産者とちがい、その商品の専門的な知識が無いのが普通であり、その知識さを悪用してウソの広告を出したりする悪質な業者も、ときどき出てきます。\nまた、商品の中には欠陥品があり、消費者が被害を受ける場合もある。\nそのため、消費者の権利を守るための法律が作られています。\n1962年にアメリカの大統領 J・F・ケネディの主張した 消費者の4つの権利(Consumer Bill of Rights) がある。\n日本の戦後の高度経済成長の時代において、経済の発展にともない消費者問題も取り上げられるようになり、1968年(昭和43年)に消費者を保護するための 消費者保護基本法(しょうひしゃ ほご きほんほう) が施行(しこう)された。\n2004年(平成16年)には改正され 消費者基本法(しょうひしゃ きほんほう) となった。消費者基本法では、消費者の権利、事業主の責任、政府(国や地方公共団体など)の責任などを規定している。\n1994年(平成6年)に 製造物責任法(せいぞうぶつ せきにんほう、PL法、Product liability) が定められた。\nこの製造物責任法により、欠陥品による被害は、生産者が負うことが定められた。より細かく説明すると、たとえ生産者に過失が無くても、製品に欠陥があることさえ本当ならば、生産者が損害賠償責任を負うことを定めた法律である。このため、消費者は製品の欠陥だけを立証すればよくなり、消費者が生産者に損害賠償をさせやすくなった。\n損害賠償を求めることの出来る期間は出荷後10年までである。\n2000年に 消費者契約法(しょうひしゃ けいやくほう) が定められた。\n商品の説明が事実と異なる場合や、強引に加入されて契約した場合は、一定期間内であれば契約を取り消しできる法律。\n2009年には 消費者庁(しょうひしゃ ちょう) が発足した。これは、それまで各省庁に分散していた消費者行政を一元化したものである。\n訪問販売や電話勧誘で商品を購入した場合は、一定の期間内(基本的には8日以内)であれば、通知により、無条件で契約を取り消せる制度があり、この制度をクーリング・オフ(cooling-off)という。特定商取引法に定められている。通知は、内容証明郵便(ないようしょうめい ゆうびん)を配達証明つきで行うと確実であるが、別に書留(かきとめ)でも構わない。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%83%BB%E6%B6%88%E8%B2%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E4%BF%9D%E8%AD%B7"} {"text": "街角で声をかけ、事務所や喫茶店や営業所などにつれこんで、強引に契約させたりする。\n電話などで「抽選に当たった」などと言って、「賞品を受け渡したいので事務所に来てほしい」などと言って事務所に呼び出して、事務所で強引に賞品を購入させる方法。\n商品を販売しながら会員を勧誘し、会員は会費として高い値段で商品を買わねばならないが、もし自分が会員になれば、一時的には会費を出費するが、新規の会員を勧誘して入会させれば、今度は自分は紹介料をもらえて儲かるので、最終的には得をする、・・・などと言って勧誘する。\nもちろん、マルチ商法は、いきづまる。\nなぜかというと、新規会員を入会させるともらえる「紹介料」とやらの出どころは、もとをただせば、今までの会員が買わされた高額商品の出費である。なので、多くの会員は損をする側になっている。また、人間の数には限りがあり、いつかは必ず、会員が増えなくなる。よってマルチ商法の会員は、だいたいの場合は損をする側になる。\n消費者トラブルについての相談機関として、地方自治体が消費生活センターを設置している。\nまた、国が、国民生活センターという機関を設置しており、消費者への情報提供、商品テストなどの活動をしており、消費生活センターとも連携している。\n消費者庁では、電話で相談できる窓口の「消費者ホットライン」をもうけている。消費者庁は2009年に設立した省庁である。消費者庁は、2009年のそれまで、いろんな省庁で別々に行われていた消費者トラブルなどについての対応を、あたらしく消費者庁で一元化することによって行政を効率的にするため、あたらしく設立された庁である。\n消費者トラブルになってしまったと感じたら、けっして一人では悩まずに、なるべく消費生活センターなど、公共の相談機関に、直接、行って、相談したほうがよいだろう。詐欺師の中には、ウソの肩書として「消費生活センター」などの職員を名乗る詐欺師も、いるかもしれない。なので、消費生活センターなどに相談する場合は、なるべく直接、消費生活センターなどに出向くのが望ましい。\n消費生活センターの場所が分からない場合は、市役所などの役所に相談して教えてもらおう。地域によっては市役所の中に、消費生活センターの窓口がある場合もある。\n悪質な業者や詐欺師(さぎし)には、いちど、詐欺にあった人を、「だましやすい人」と判断して、「もっと、だまそう」と考えて、さらにだまして来る場合もある。そのような、さらにだます手口として、たとえば「詐欺への救済手続きの代行をする」などのウソをついて、「手数料」などとして、お金をだまし取る詐欺業者もある。\n詐欺師には、ウソの肩書として警察や弁護士または、警察・弁護士などの関係者などを名乗り、やはり、手数料などと称して、金をだまし取る手口もある。詐欺師の中には、消費生活センターの職員を名乗る詐欺業者も、いるかもしれない。\nなので、悪質業者や詐欺業者に引っかかってしまったと感じたら、消費者の取るべき対策は、まず消費生活センターなどの公共の相談機関に、直接に出向いて相談することである。\n契約とは、法律上の約束のことである。契約は、原則的には、一方的には解除できない。\nもし、一方的に契約が解除できるとすると、合法的に契約されたものまで解除されてしまうと、社会が混乱してしまうからである。\nただし、訪問販売やキャッチセールスなどのように、消費者が自ら店舗に出向いた取引の場合、一定期間内なら、書面で取り消しを通知することで契約の取り消しができる。この制度をクーリング・オフ制度という。\nクオーリング・オフ(cooling off)とは「頭を冷やしてから、考える」という意味である。\nクーリング・オフは、契約直後から一定期間内しか出来ないので注意。販売方法の種類によって取り消しできる期間の日数がちがうが、たいていの場合の期間は販売後8日まで、である。\nまた、通信販売は、クーリング・オフできない。通院販売では事業者が自主的にクーリング・オフに応じない限りは、通院販売ではクーリングオフができない。\n訪問販売だからといって、かならずしも詐欺とか悪質商法とは限らず、そのため商品の購入の契約をしてしまった場合、契約を守る義務が発生するからである。\nまた、消費者契約法(しょうひしゃ けいやくほう)により、事業者が契約内容について事実とちがう説明をした場合に、契約を取り消すことができる。また、事務所などにつれこまれて、契約しないと帰らしてもらえなかったりして、強制的に契約させられた場合も、消費者契約法により、契約を取り消しできる。\n・いらない場合は、けっして「いいです」とか「結構です」などのような、どちらとも受け取れる表現では、ことわらない。「いらないです」「買わないです」などというふうに、はっきりと断る。「いりません」だと、「いりま」と言った段階で相手が「いりますか? いるんですね?」と拒否の返答を遮ってきたりする場合がありうるで、「いらないです」と言って断るほうが、より安全です。\n・むやみやたらにサイン、署名(しょめい)をしない。サインしただけでも、契約が成り立つ。\n家庭などで、宅配などの際、受け取りにサインをお願いされる場合もあるが、親などが留守で、子供だけでは信頼していいかどうかわかりづらい業者の場合、サインをせず、「現在は親が外出中で不在」「家にいるのは契約者とされる本人ではない」という事情を話して、いったん帰ってもらうのが望ましいだろう。\n宅配や郵送をよそおった詐欺商法などの場合もありうる。なので、なるべく宅配時に留守をしている子供は、親に確認してから受け取る、あるいは親本人に受け取ってもらうのが望ましい。\nまともな業者なら、どのみち、もしも宅配時に相手が留守なら不在通知をポストなどに入れて商品は持ち帰るので、事情を話せば、まともな業者なら、不在通知などをわたして帰ってくれるはずである。\n「現在は親が外出中で不在」「家にいるのは契約者とされる本人ではない」というのは、一時的な受け取りを拒否する理由として、常識的には正当な理由であろう。\nそれでも宅配員が帰らない場合は、そもそも信頼できない業者であるか、または信頼できない宅配員である。\nもしも、大手の宅配企業の宅配員が、そのような、親が不在の場合に受け取り拒否を認めない対応をすれば、相手企業に苦情を入れるべきである。相手企業に苦情を入れられるようにするため、相手企業の連絡先のメモをして、ひかえておくべきであろう。\nこまったことに、一部の宅配員や宅配企業の中には、受け取り家庭の子供が「親が外出中」という理由を話しても、受取り拒否をみとめようとしない場合がある。なので、こういう場合には、あとで消費生活センターなどに相談を入れるのが望ましいだろう。\n「無料」と言っても、サービスの一部が無料なだけで、有料な部分があるゲームが多い。ゲーム中で有料サービスを申し込むとゲームを有利に進められるなどのサービスがあり、そのためお金のない子どもが不用意に有料サービスを購入してトラブルになる事例がある。そもそもゲーム会社は利益を出すためには、何らかの有料サービスを売らなければいけない。\n商品の実物が直接は確認できないので、購入後に、事前の情報と違っていたというトラブルがある。\nオークションとは、一種の せり である。そのため、定価のような決まった価格はないので、たとえ法律にのっとって行われても、最終的な値段が、とても高い値段になることがある。\n一個人が出品しているのが普通なので、出品者が詐欺的な人物だったりすると、たとえば代金を支払ったのに、商品が渡されないなどの詐欺がある。\nほかの詐欺の方法では、たとえば出品者の関係者が落札希望者として参加して、不当に価格をつりあげる詐欺などの事例もある。\nまた、国際的な消費者運動の団体である国際消費者機構(CI)が、消費者の8つの権利と5つの責任を定めている。\n※ 検定教科書でも近年では、電子教科書版や教師用マニュアルなどで家庭科の教科書にリンクしています(東京書籍の公式サイトのデジタルパンフレットで確認)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%82%AA%E5%BE%B3%E5%95%86%E6%B3%95%E3%81%A8%E6%B6%88%E8%B2%BB%E8%80%85%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6"} {"text": "商店での商品の調達は、ふつうは、けっして商店が直接に工場などの生産者から買ってるわけでは ありません。\nたいていの場合は、仲介の業者が、商品をつくった生産者と、商品を売ってる商店との間に入っています。その仲介業者は、 問屋(とんや) とよばれたり、または 卸売業者(おろしうり ぎょうしゃ) などとよばれます。\n日本には、多くの商店があるので、もしも生産者から直接に買い付けていては、大変な手間が かかってしまいます。\n生産者も小売店も、手間が大きく、かかってしまうのである。仲介業者が、生産者から商品を買い、それを商店などの 小売業(こうりぎょう) に売っているのです。\n例として、北海道以外に住んでいる読者に質問しますが、たとえば牛乳を買うときに、毎回、北海道の酪農農家を訪問して牛乳を買いに行きたいですか?\n問屋(とんや)という業種があることで、生産者は問屋とだけ販売交渉をすればよく、また商店などの小売業者(こうり ぎょうしゃ)も、問屋とだけ交渉すれば、よいのです。\n私たちが買い物をする一般の商店のことを小売店(こうりてん)と言います。\n商店街の商店や、スーパーマーケットやデパートやコンビニエンスストアなどが小売店です。\n小売店や卸売業などをまとめて、商業(しょうぎょう)と言う。\n生産者から小売店を経て、私たちの手元にまで商品が届くながれのことを流通(りゅうつう)と言います。\n商品を運ぶ運輸業なども、流通の一部です。\n生産者から小売店までの流通の経路に、卸売業者など中間業者を挟むと、そのぶんお金を中間業者に払わないといけないので、小売価格が高くなる場合があります。\nこのため、費用の削減のため、大きなデパートや大手コンビニなどの買い付けだと、本社などが、直接、生産者から買い付けて、卸売業者などを通さない直接仕入れ(ちょくせつ しいれ)や一括仕入れ(いっかつ しいれ)を行う場合もある。\nインターネットを用いたオンライン・ショッピングでは、小売店を挟む必要が、ありません。\nコンビニでは、レジで会計の時、バーコードを読み取ってレジで値段を計算している。このときに商品の購入情報も読みっており、どの商品が、いつ、どの店で、どれだけ売れたかという情報をコンピューターを通じて本社などに伝えている。このシステムをPOSシステム(読み:ポス・システム)という。\nこのPOSで入手した情報を、今後の販売戦略に利用している。POSとは「販売時点 情報管理」という意味で「point of sale」のこと。\nなお、送られる情報は、商品名や商品の数量だけでなく、購入者のおおよその年齢(推測した年齢)や、性別、その日の天気なども、POSでは送られている。\nコンビニの他にも、外食チェーンや、ガソリンスタンド、大手ドラッグストアなどの、チェーン展開をしている多くの業種でPOSシステムは活用されている。\n小売店の自社ブランドの製品。スーパーやデパートなどの、あるていど大きい小売店に多い。商品で、生産から小売までを、小売店の一つの会社でまとめて行っている。\nブランドの企業の名義(めいぎ)は小売店だが、実際に生産を行っている会社は異なるのが普通である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%B5%81%E9%80%9A%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%BF"} {"text": "ある市場での、ある商品について、消費者が買おうとする量を 需要(じゅよう、英:demand) と言う。\nこれに対して、生産者が実際に店頭において売りに出す量を 供給(きょうきゅう,英:supply) という。\n市場での価格について考えていこう。なお、市場での価格のことを市場価格(英:market price)と言う。\nまず、右の曲線グラフ(「需要供給曲線」)について、なぜ、生産者の曲線が右上がりになるのかを説明する。\n生産企業からすれば、高い価格で売れるものほど、より多く生産したいので、価格に比例して数量が増加している。よって、生産者の曲線が右上がりになる。\nいっぽう、消費者からすれば、低い価格で買えるものほど、消費者全体では、より多く、その商品を購入するので、価格が増えるほど数量の減っていく関係になっている。よって、消費者の曲線は、右下がりになる。\n消費者と生産者は、まったく都合が対立するのである。そして、よくよくグラフを見ると、消費者の行動をあらわす曲線と、生産者の行動をあらわす曲線とは、グラフでは一点で交わっている事に注目しよう。\nさて、もしも需要だけが大きくて、供給が少ないと、市場価格での値段はどうなるだろうか?\nつまり、式で不等号を用いて表現すれば、\nの場合には、どうなるだろうか?\n当然、少ない商品について多くの購入希望者が買おうと競争するので、買える人は限られてくる。\n売り手からすれば、なるべく高い値段で売りたいので、より高い値段で買ってくれる買い手に、売り手は売るだろう。\nそうなると、供給に対して、需要が大きければ大きいほど、商品の値段は高くなるのが普通である。\nいっぽうで、売り手があまり値段を釣り上げすぎると、買い手は購入をあきらめ、買う気を無くすだろう。\nつまり市場価格が高くなると、買い手の購入意欲が減るので、需要量は減る。\nなので、消費者の多くが「買いたい。」と思える値段の範囲内で、値段は上がっていくだろう。\nさて、商品が高く売れるとなると、ほかの多くの業者も、どんどん市場に参入するだろう。\nその結果、市場への供給量は、どんどんと増えていくだろう。\nつまり市場価格が高くなると、売り手の参入意欲が増えるので、供給量は増える。\nそのうち、消費者の需要よりも商品の供給量が多くなれば、売れ残りの商品が出てくる。\n生産者からすれば、生産に要した原材料費などの経費を稼がないとマズイので、安値でも売らざるを得ない。\n商品は、倉庫や店舗に置いておくだけでも、場所を取ってしまう。なので、あまり多くを置き過ぎることは出来ない。なので、売れ残りは、安値でも売らざるを得ない。\nまた、食料品などの生鮮品など、商品によっては長期保存が難しい商品もある。このような商品は、販売者が保管しておくことが出来ない。\nたとえば生鮮食料品の場合なら、値下げして売るか( 価格↓ によって 需要↑)、あるいは堆肥などの原料として専門業者に販売するか( 市場開拓により 需要↑)、あるいは廃棄するかなど (供給↓) 、自分で利用するか(市場に出さない、よって 供給↓)などしかない。\nともあれ、基本的に、売れ残った商品は、値段が下がる。( 価格↓ によって 需要↑)\nまとめると、\n長期的には、市場の店頭で見られる価格は、売り手が「この値段なら売っても良い」と思える価格であり、また、買い手が「この値段なら買っても良い」と思える価格になっていきます。このような売り手と買い手の両方が納得できる価格のことを 均衡価格(きんこう かかく、英:equilibrium price) と言います。\nこのように市場では価格の調整によって、自動的に、うまく経済が回る仕組みが保たれている。このような仕組みを 市場メカニズム(英:market mechanism) という。\nまた、このように、自由な取引を前提とした経済の仕組みを市場経済(英:market economy [1])という。\n生産者が生産して供給する理由は、消費者が買ってくれるだろうという需要を見越してのことである。なので、結局、生産者による供給と消費者の需要は、長期的には釣り合うことになる。\n需要のほうが供給よりも多ければ( 需要 > 供給 )、多くの生産者が参入するなどして、供給量が増えていき( 供給↑ )、結局、生産者による供給と消費者の需要は、長期的には釣り合うことになる。\n供給のほうが需要よりも多ければ( 供給 > 需要 )、売れ残りの商品が出てしまい、結局、生産者や販売者は売れ残りを処分するために値下げなどをして( 価格↓ よって 需要↑)、消費者に商品を買ってもらうなどするしか無い。なので供給が需要よりも大きい場合でも、長期的には、生産者による供給と消費者の需要は、いずれ釣り合うことになる。\n需要供給曲線において、価格をあらわす変数には普通、「P」または小文字の「p」を使う。大学の教科書などを見ても、価格の変数お文字は通常、pまたはPである。おそらく、英語で価格を意味する price (プライス)に由来する記号だろう。一方、数量をあらわす変数の文字は特に決まっておらず、文献によってはQで表す場合もあれば、x(エックス)で表す場合もあれば[2]、yで表す場合[3]もある。\n市場メカニズムの前提として、複数の企業が参入しており、それぞれ競争しあっている必要がある。もし、この前提がなくなると、市場メカニズムが働かなくなり競争が起こらなくなってしまう。\n市場に、売り手となる企業・生産者が、一社しか参入していなく、その一社が市場を支配してる場合を独占(どくせん)という。独占された市場では、市場メカニズムによる価格の調節機能が働かなくなるため、消費者が不当に高い価格を支払わされることになりかねない。\nなお、独占された市場での価格のことを独占価格(どくせん かかく)という。\nまた、売り手となる生産者・企業が、少数の場合を寡占(かせん)といい、この場合も価格調節の機能が働きにくくなる。寡占市場での価格のことを、「寡占価格」と呼ぶ場合もあるが、「独占価格」と呼ぶ場合が多い。\nまた、もし、ある市場に参入している企業の数が複数であっても、販売価格や生産量についてその市場の参入企業どうしが協定し足並みをそろえることで、市場メカニズムが働かなくなる。この場合、価格競争は起きないので、価格調節の機能が働かなくなる。販売価格について、企業どうしが協定をすることカルテル(Kartell)という。「価格カルテル」ともいう。\n日本では、競争を促すため独占禁止法(どくせん きんしほう)が制定され、独占、カルテルを原則的には禁止している。また日本では、市場での独占・寡占などを取り締まる行政委員会として、公正取引委員会(こうせいとりひき いいんかい)が設置され、独占禁止法などの法律にもとづいて、企業や市場を監視している。\nなお、公正取引委員会は、専門家5人から構成される。\nふつうの商品やサービスの価格は市場メカニズムによって決まるが、例外的に、水道料金などでは生活の安定のため市場メカニズムに左右されるのが好ましくと考えられており、地方自治体が水道料金を決めている。他にも電気やガスなども生活の安定という考えから、国や政府が価格を強く規制している。このように国や地方自治体などがサービスの価格を決めたり、あるいは国や政府などが価格の決定に強く関わっているサービスの料金のことを 公共料金(こうきょう りょうきん) と言う。\n水道料金のほかに、電気料金や都市ガス料金が公共料金である。\n公共料金のサービスを提供している組織は、必ずしも公共機関では無い。\nである。\n郵便料金とか、鉄道料金・バス運賃・タクシー運賃なども公共料金であり、民間が自由には決められない。\n経済学などの用語で、「市場の失敗」と言う用語があり、インフラや治安などは民間企業に任せてしまうと、事業の性質上、独占をされているのが普通なので、価格調整などの市場メカニズムが起きずに、極端な高価格などの不便を引きおこしてしまいかねないことを「市場の失敗」と言います。\nその他、「市場の失敗」の例としては有名なものとして、公害がよく例にあげられます[5]。\nこういった「市場の失敗」という考え方にもとづき、たとえば治安維持など一部の事業は企業ではなく国などが運営したり、あるいは交通機関などはたとえ民間企業が運営する場合でも法的な規制が強く存在していたりもします。\nなお経済学には「政府の失敗」という対比的な呼び名の用語もありますが、しかし意味がそれほど対比的ではなく、「政府の失敗」とは市場メカニズムとはあまり直接の関係のない意味です(なので当面は覚えなくていい)。「政府の失敗」とは政府など国家機関だけに運営させると、きめ細かい対応が出来ない[6]、非効率な運営になりやすい[7]、と言ったような意味です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E9%9C%80%E8%A6%81%E3%81%A8%E4%BE%9B%E7%B5%A6"} {"text": "価格(かかく)とは、購入される個々の財(ざい)・サービスなどの1単位ごとに支払われる金額のことを指す。いわゆる値段(ねだん)や料金(りょうきん)と似たような意味である。\n価格の決まり方は、基本的には市場での需要(じゅよう)と供給(きょうきゅう)とのバランスによって価格が決定される。\n価格は、基本的に商品の需要と供給によって決まる物であるが、価格に決定の仕方によっていくつかの種類がある。\n市場(しじょう)で現実に成立する価格で、需要と供給の大小によって上下する。例として、株式市場における株価などがある。\n一般に、供給量に対して需要量が多ければ価格は上昇する傾向にあり、価格の上昇にともない供給が増えていきます。一方で、供給量に対して需要量が少なければ、価格は低下する傾向があり、価格の下落にともない供給が減る傾向があります。このような仕組みがあるので、長期的に見れば価格は、需要と供給のつりあう価格となる傾向があります。市場価格のうち、需要量と供給量のつりあう価格を均衡価格(きんこう かかく)と言う。(※ 帝国書院の教科書風の説明。)\n独占価格(どくせん かかく)とは、せまい意味では1社により独占された市場での価格をいうが、広い意味では寡占価格(かせん かかく)や管理価格(かんり かかく)のことも指す。\n水道料金のほかに、電気料金や都市ガス料金が公共料金である。\n公共料金のサービスを提供している組織は、必ずしも公共機関では無い。\nである。\n郵便料金とか、鉄道料金・バス運賃・タクシー運賃なども公共料金であり、民間が自由には決められない。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E4%BE%A1%E6%A0%BC%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E"} {"text": "輸出(ゆしゅつ、英:export)は、外国へ商品を売ることである。輸入(ゆにゅう、英:import)とは、外国から商品を買うことをである。\n貿易収支(ぼうえき しゅうし、英:trade balance)とは、輸出額と輸入額の差額である。\n貿易黒字(ぼうえき くろじ、英:trade surplus トレイド・サープラス)とは、輸出額が輸入額より大きい場合のことである。\n貿易赤字(ぼうえき あかじ、英:trade loss)とは、輸入額が輸出額を上回ってる場合のことである。\n加工貿易(かこう ぼうえき、英:added-profit trade)とは、外国から原料を輸入し、日本国内で加工して工業製品にして、その工業製品を外国に輸出することで外貨をかせぐ貿易の方法のことである。\n日本には資源がとぼしく、外国から原料などを多く輸入しているので、日本にとって加工貿易は、必要な方法である。\n「1ドル=110円」とかの、ある国と別の国との通貨の交換を、外国為替(がいこく かわせ)といいます。\nまた、「1ドル=110円」のような、国と国との通貨の交換比率のことを「為替レート」(かわせレート)または「為替相場」(かわせ そうば)といいます。\n銀行の窓口の近くの電光掲示板などで、為替レートが表示されています。為替レートは、日々、変動します。\n外国企業との貿易の取引きでは、取引きのどこかの段階で、日本円を、相手の国の通貨に変える必要があります。\nこのような、日本円と外国通貨との交換の手続きは、日本の銀行と、貿易相手の外国の銀行が、仲介業者となって、通貨の交換が行われます。\n日本の貿易では、支払いの通貨はアメリカの通貨のドルで支払いをすることが多いです。\n「円高ドル安」(えんだかドルやす)というのは、ドルに比べて円が高いということです。「円高」と略す場合もあります。\nたとえば、仮に1ドルと交換するのに100円だったとして、つまり為替レートが1ドル=100円 だったとして、そのあと為替レートが 1ドル=90円 に交換の比率が変化したら、今までよりも少ない円でドルが買えるようになったので、円高になったことになります。\n逆に為替レートが 1ドル=100円から 1ドル=110円に変わったら、円が安くなったので円安ドル高(えんやすドルだか)、つまり円安です。\n円高になると、輸入企業が有利になります。なぜかというと、今までの手持ちの円で、より多くの外国製品が買えるからです。\nいっぽう、輸出企業が不利になります。なぜかというと、たとえばアメリカに輸出するときは、現地の通貨であるドルで販売するのが一般です。日本で作っている以上は、製品を作る費用は日本の円でかかっているので、それと同等の価値の値段を輸出先のドルでもつけないといけません。なので、円高の時は日本の輸出製品は、現地企業に比べて割高の値段になるのが普通です。そのため、輸出先国の消費者から日本製品が高価格と思われて、購入を手控えられてしまうことが多いのです。\nなので加工貿易による工業製品の輸出で儲けている日本にとっては、円高では経済が苦しくなる場合が多いです。また、日本の場合、円高だと貿易収支は赤字になりやすいです。円安だと、貿易収支は黒字になりやすいです。\n製造業は円高だと苦しくなる場合が多いです。特にデジタル家電などの規格化が進んだ工業製品では、どこの国で作っても性能が大して変わらないので価格の安さだけで消費者に評価されやすく、円高だとデジタル家電の輸出は不利です。\n円高による日本経済の「円高不況」(えんだか ふきょう)などと言われます。\nもっとも、原材料や石油などを購入するのには円高のほうが安く輸入できるので、必ずしも円高が悪いことばかりではありません。また、円安が輸出に有利と言っても、日本は外国から多くの資源や食料を輸入しているので、円安が進みすぎると経済が悪化してしまう恐れもあります。\n円安だと石油価格は、日本人にとって割り高になります。\n1960年代ごろから、せんい製品・カラーテレビ・自動車・半導体電子部品などが多く輸出され、アメリカの製造業が不振になり、アメリカと日本との貿易摩擦が起こる。\nアメリカは日本に輸出の規制を、もとめる。\nアメリカと中国が、日本の大きな貿易相手。\n日本から外国への輸出では、アメリカへの輸出、中国(中華人民共和国のこと)への輸出、韓国(大韓民国のこと)への輸出、台湾への輸出が多い。\n外国から日本への輸入は、中国からの輸入、アメリカからの輸入、オーストラリアからの輸入が多い。\n中国は人件費が安いので、その結果、輸出品の価格も安くなるので、各国の消費者が価格の安い中国製品を好んで買うので、多くの製品が中国から輸出される。\n中国からの輸出品の生産は、中国の現地企業が生産している場合もあれば、外国の起業が人件費の安い中国に工場をたてて生産している場合もある。\n中国にかぎらず、東南アジアも人件費が安いので、中国と同様に、安い製品の輸出をしている。\n日本からも、人件費の安い外国に生産工場をうつす動きがあるが、その結果、国内の工場の仕事が減り、国内の生産力が下がるという産業の空洞化が起きている。\nまた、外国に工場を作ると、日本国内の工場でつちかわれた生産ノウハウも外国の労働者に教えることになるので、外国に技術ノウハウが流出するという 技術流出(ぎじゅつ りゅうしゅつ) も、問題になっている。\nまた、中国は人口が多く、世界最大の人口を持つので、中国市場に多くの企業が参入し、中国への輸出額も多くなっている。\n自由貿易の促進のため、関税の引き下げや、貿易の障害になりうる制限である貿易障壁を取り払うことを呼びかける国際機関。GATTにかわって設立された。約160カ国が加盟。\n日本もこれに加盟し、なるべく関税の引き下げや貿易障壁などに協力している。\n太平洋沿岸地域ではアジア太平洋経済協力APEC(エイペック)\n1989年にオーストラリアの呼びかけて発足。日本も参加。日本・アメリカ合衆国・カナダ・韓国・オーストラリア・ニュージーランドおよび当時の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 加盟6か国の計12か国で発足した。\nオーストラリア、日本、アメリカ、韓国、台湾、中国、香港、メキシコ、カナダ、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、ニュージーランドの旗 ニュージーランド、フィリピン、シンガポール、タイ、パプアニューギニア、チリ 、ペルー、ロシア、ベトナム が参加。\n北アメリカ大陸でアメリカ、カナダ、メキシコが結んでいる貿易の協定。関税の撤廃などの自由貿易の推進をしている。\nその他、2国間以上で相互に関税の引き下げるなどの協定を結ぶ自由貿易協定(じゆう ぼうえき きょうてい、FTA )を結ぶことも多い。\nFTAはFree Trade Agreement の略。\nFTAをさらに発展させたものとして、関税だけでなく各国間での人の移動の規制緩和などをふくむ、より深い経済交流の協定である経済連携協定(EPA)がある。EPAはEconomic Partnership Agreement の略。\nこれらの経済のグローバル化によって、価格は安くなった。その反面、いくつかの産業では先進国から人件費の安い国へ産業が流れて、先進国でいくつかの産業が衰退した。\nまた、各国で景気が連動するようになった。2007年〜2008年におきた、アメリカの住宅バブル崩壊がきっかけの国際的な金融危機である世界同時不況は、その例であろう。\n鉄鋼や自動車などの関税を10年以内に撤廃。\n以下のものの関税を10年以内に撤廃もしくは削減。\n農産物のバナナ、パインの関税を10年以内に撤廃。\n水産物のキハダマグロ、カツオの関税を10年以内に撤廃。\n日本からの輸出の農産品目として関心の高いブドウ・リンゴ・ナシの関税を撤廃。\n介護現場や看護現場でのフィリピンからの外国人介護福祉士・看護師の日本への受け入れもEPAに基づく(もとづく)ものである。\nブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)の4カ国のこと。\nこの4カ国は1990年以降の経済成長が目覚ましい国である。\nこの4カ国の共通点として、国土が広く、天然資源も豊かで、人口も多いので、1990年代よりも以前から経済発展が期待されていた。\n4カ国の特徴\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E8%B2%BF%E6%98%93%E3%81%A8%E5%86%86%E9%AB%98%E3%83%BB%E5%86%86%E5%AE%89"} {"text": "一国の経済力は、どうやって計算すれば良いだろうか?\nまず、消費者が商品を買う時、値段のぶんの価値を認めている。\n消費者が商品を買う時、原材料費などの原価よりも値段が高くても消費者が買う理由は、その「原価との差額のぶんだけの価値が、商品に追加されている」と消費者が認めているからである。\nもし、消費者が値段分の価値を商品に認めていないのなら、消費者は買わなければいいのである。\nだったら、ある商品について、原価と販売価格の差を計算すれば、その商品を消費者まで届ける労働の生産性が測れそうである。\n最終的な売り上げ額から、原材料費や設備費や下請けメーカーへの費用などの原価を引いた差のことを 付加価値(ふか かち、英:added value[1]) という。\nつまり式で書けば、簡単に言うと、\nである。\n販売者以外の原材料メーカーなどの労働の価値は、販売者から見た場合の原材料費に含まれている。\n付加価値の計算では、原材料などの中間財を売ることで得た金は含まれない。これは同じ商品について二重に数えることを、さけるためである。\n付加価値などの用語の意味などは、業界によって多少の意味の違いはあるが、大まかな意味は、このような意味や計算式である。\nそして、日本中のすべての産業について、日本中の付加価値を足し合わせれば、その国全体の(つまり日本国全体の)、労働の生産性が計算できそうである。\nじっさいに、国内の付加価値を総計した金額のことを 国内総生産( こくない そうせいさん)といい、英語のGross Domestic Product (グロス・ドメスティック・プロダクト)を略した GDP (読み:ジーディーピー) という表記がよく用いられる。\nつまり式で書けば、簡単に言うと、\nである。\n国内総生産の計算では、企業が原材料などの中間財を売ることで得た金は含まれない。これは同じ商品について二重に数えることを、さけるためである。\nボランティア労働や家事労働などの成果は、GDPの計算には含まれない。なぜなら、計算のしようがないのである。\nさて、日本のGDPは世界第3位である。(2014年。)\nGDPの1位はアメリカ合衆国であり、2位は中華人民共和国です。2010年に日本はGDPで中国に抜かれました。\nところで、「経済成長率」(けいざい せいちょうりつ、英:economic growth rate)という言葉を聞いたことがあるだろうか?\n年ごとに国内総生産の変化を調べれば、経済力が成長しているかどうかが分かりそうである。\n経済学では、経済成長率とは、次の式によって定義される。\nなお、上の式で、\n式から分かるように、GDPが前年より下がると、経済成長率はマイナスになる。このようなGDPが下がった場合を「マイナス成長」などという。\n「マイナス」成長と言っても、けっしてGDPの金額そのものがマイナスというわけでは無くて、けっして赤字や借金などでは無くて、マイナス成長とは単にGDPが下がっただけのことである。\n国内総生産(GDP)には、日本国内で働いた外国人の作った付加価値も含まれる。また国内総生産(GDP)には、日本人が外国で作った付加価値は含まれない。\n以前使われていた指標として、国民総生産(こくみん そうせいさん)というものがあった。これは国民[2]が作った付加価値の合計で、英語では Gross National Product (グロス・ナショナル・プロダクト)と言い、略した GNP (読み:ジーエヌーピー) と言う略称の表記がよく用いられた。\n式で国民総生産を書けば、\nである。\n国民総生産は、日本人が外国で作った付加価値の金額も含まれる。そのため、グローバルな経済活動が進み、日本企業が国外で、または海外企業が日本国内で行う経済活動も活発になった現在、日本国内の経済状況をしめすのにやや不正確なGNPは使われていない。\n中学校の段階では、「名目GDP」と「実質GDP」の用語の意味のちがいは知らなくても、じゅうぶんである。\nなお、「実質GDP」(じっしつGDP、英:real GDP)とは、物価の変動を考慮して、単純計算で求めたGDPに、物価指数を用いて補正したものに過ぎない。\n実質GDPの式は中学レベルを超えるので紹介しない。\n「名目GDP」(めいもくGDP、英:nominal GDP ノミナル・ジーディーピー)とは、物価の補正などを行ってない単純計算で求めたままのGDPのことである。\nGNPについても同様に名目GNPと実質GNPがある。\n「実質経済成長率」(じっしつ けいざい せいちょうりつ、英:real economic growth rate)とは、物価の変動を考慮して、単純計算で求めた経済成長率に物価指数を用いて補正したものに過ぎない。\n実質経済成長率 の式は中学レベルを超えるので紹介しない。なお、「名目経済成長率」(英:nominal economic growth rate)とは、物価の補正などを行ってない単純計算で求めたままの経済成長率のことである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9B%BD%E5%86%85%E7%B7%8F%E7%94%9F%E7%94%A3%E3%81%A8%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B7%8F%E7%94%9F%E7%94%A3"} {"text": "財政について、1年間の国または収入を歳入(さいにゅう)と言います。\n4月1日から、翌年の3月31日までの1年間が、会計での一年の年度です。\n財政について、一年間の年度の支出を、歳出(さいしゅつ)と言います。\n国会できまった政策(せいさく)や事業(じぎょう)の計画を実行にうつすには、お金が、かかります。\n警察や消防などにも、お金が、かかります。公立学校の運営にも、お金が、かかります。市役所や県庁や中央官庁の運営にも、お金は、かかります。このような公共サービスを行うのにも、お金が必要になります。\n道路やダム、港、上下水道など、社会全体で利用したり活用したりする設備や施設を社会資本(しゃかいしほん)と言います。社会資本の多くは、投資の規模が大きくて、民間に投資させるのは不向きです。また、みんなが使うものなので、個々人に別個に所有させていては非効率です。なので、道路やダムなどの建設は、国などが支出をして建設していくのが一般です。なお、社会資本のことをインフラストラクチャーとかインフラとも言います。たとえば「道路インフラ」とか「港湾インフラ」と言ったら、社会資本として見た場合の道路や港のことです。\n国や地方などの命じる道路建設や、国や地方の命じる災害対策工事などの土木工事のことを、公共事業(こうきょう じぎょう)と言います。この公共事業にはお金がかかります。そして、国のお金は、税金として、あつめられます。\n一般に、道路やダムや公共の電気網・水道設備などを社会資本(しゃかいしほん)に分類されます。\nこのような国の政策や国の事業計画を実行するためのお金の出し入れのことを、財政(ざいせい)と言います。\n国だけでなく、市町村や都道府県などが行う政策や事業のお金の出し入れも、おなじように財政(ざいせい)と言います。\n一般の家庭や企業の収入・支出については、「歳入」・「歳出」とは言いません。歳入歳出という場合は、国の財政や都道府県・市町村などの財政の場合の用語です。\n財政について、これからの一年間の歳出と歳入の計画を、予算(よさん)という。そして、前の一年間の歳入と歳出を、決算(けっさん)という。\n国の歳入は税金だけでなく、国債(こくさい)という、国が金を借りるための債券を政府は発行していて、民間などから借入れています。\nつまり、(日本)国債で金を借りている者は(日本)政府です。金を貸している者は、国債の購入者です。\n国債は借金ですので、国債を購入した相手に、将来的に利子をつけて返却しなければなりません。\nなお、日本政府ではなく地方公共団体が発行している債券のことを地方債(ちほうさい)といいます。\n国債や地方債をまとめて公債(こうさい)と言います。(※ 東京書籍、教育出版、育鵬社などで「公債」を紹介) 国債も地方債も借金です。つまり、公債は借金です。\n不景気がつづいて税収が減った時に、税収の不足分をおぎなうために国債を発行する事が多いと言われています(※ 検定教科書でも、そういっている)。\n国債の返却は、将来にわたって、国民の税金によって返却が行われることになります(※ 検定教科書でも、そういっている)。\n国債で借り入れた金は国の借金なので、当然、歳出として返さなければならない。国債費は、その年度に返すぶんの国債の金額である。国債の利子(りし)や元本(がんぽん)の返済のぶんである。\n社会保険(しゃかいほけん)・生活保護(せいかつほご)・社会福祉・失業対策など。\n社会保険(しゃかいほけん)とは、事故や病気や高齢などに備えて、国民が事前に強制的に入らされる保険です。医療保険(いりょうほけん)、年金保険(ねんきんほけん)、介護保険(かいごほけん)、雇用保険(こようほけん)、労災保険(ろうさいほけん)の5種類の社会保険があります。\n国民の高齢化によって、社会保険が増えていくことが予想されています。(2014年に記述。)\n地方財政をたすけるため、国は地方に金を出しています。地方が受けとる国からの交付金を地方校税と言います。国は、地方校税をはらう側の立場なので、つまり地方交付税を交付する側の立場なので、地方校税交付金が、国の歳出になります。\n国や地方などの命じる道路建設や、国や地方の命じる災害対策工事などの土木工事のことを、公共事業(こうきょう じぎょう)と言います。国の歳出における「公共事業関係費」とは、国が、この公共事業に払う歳出のことです。\n国民は、納税の義務を負っている。(憲法第30条:「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。」)\n・ 直接税と間接税\n所得税と法人税は、税金をおさめている納税者(のうぜいしゃ)と、税金を負担している人( 担税者(たんぜいしゃ) という)が同じ人である。\nこのような 納税者と担税者とが同じ税金を 直接税(ちょくせつぜい) という。いっぽう、税金を納める人と、税金を負担する担税者が別々の人である税金を 間接税(かんせつぜい) という。たとえば 消費税(しょうひぜい) が間接税である。酒税も間接税です。\n・ 国税と地方税\n税金には、都道府県や市町村に納める(おさめる) 地方税(ちほうぜい) と、国に納める 国税(こくぜい) がある。\nなお、消費税のように、税金を負担する人と、税金を納める人がちがう税金を 間接税(かんせつぜい) という。\n収入の低い人にも消費税がかかるので、消費税の負担の感じかたが、収入の少ない人ほど重い負担と感じる場合もある。このようなことを、消費税の「逆進性」(ぎゃくしんせい)などと言う。(日本では、多くの人は累進課税を税における公平感の基準に考えているので、消費税は逆進的に感じる。)\n必ずしも、だれもが健康とは限らないし、また、格差が固定化するのを恐れているので、累進課税によって所得を平均化するのが望ましいと、日本では考えられている。\nこのため、あまり消費税を大きくするべきではない、という意見もある。しかし、けっして収入が低いからと言って消費税の税率が高くなるということは無いので、そこは勘違いしないように。\n所得税などの累進課税では、収入の低い人は負担をへらすほうが公平だろうという考え方にもとづいている。いっぽう、消費税は、収入に関係なく、同じに税率をかけるのが公平だろうと考えている。\n税金は、だれかが負担しなければ、いけないのです。\n公道などの道路を作ったり修理したりするのにも税金は使われています。ほかにも、公立の学校の設備や公立学校で働く先生や職員などの人の給料にも、税金は使われています。市役所や郵便局など役所の設備や、そこで働く人の給料にも、税金は使われています。警察署や消防署も、税金がつかわれています。\n道路をなくすわけには、いきません。市役所や郵便局なども、なくすわけにはいきません。だから、税金が必要になるのです。\n読者の学生は、大人になったら、会社などで働きはじめる人が多いでしょう。働いて収入をかせぐことは、所得税という税金をはらうことでもあります。けっして「募金(ぼきん)やボランティア活動をすることだけが、社会への貢献だ」なんてことは、ありません。仕事をするということは、結果的に所得税を税金を払うという、一種の募金のような行為でも、あるのです。\n国が歳入をあつめるには、税金として集めるほかに、民間などから「借りる」という方法もあります。\n国が民間からお金を借りる場合は、「貸してあげてもいい。」と考えている人からお金をかります。このため、国債(こくさい)という、「将来、利子を払って元金(もときん)とともに国がお金を返します」という権利をきめた証券(しょうけん)を、国が発行し販売します。\n税収だけでは必要な財政支出をまかなえない場合に( 「赤字財政」(あかじ ざいせい)と言う )、国は国債を発行します。\n国債は、国の借金なので、期限が来たら、国は、借りた分の元金に利子をつけて借金を返さなければなりません。なので、国債が多いと、あとで国の財政が苦しくなります。\n国債の借金を返すための財源は税金です。なので、国債の借金は、将来の国民の負担になります。\nなお、地方公共団体が発行する借金の債権を 地方債(ちほうさい) と言い、国債と地方債をまとめて 公債(こうさい) と言う。\n国債や地方債の残高が、毎年、どんどんと増加しています。つまり、国や地方公共団体の借金が、増加しています。このため、「借金が本当に返せるのか?」とか不安視もされています。財政の改革が必要になっています。国の事業の経費の節減や、不要な事業の廃止や民営化が必要だろうと、よく言われる。\n国が歳入をあつめるには、税金と国債のほかにも、印紙収入(いんし しゅうにゅう)というのが、あります。役所で手続きをする場合、手数料が必要になる場合があります。このとき、利用者は印紙(いんし)というものを役所の窓口などで購入し、役所に出す書類などに印紙を貼って(はって)提出します。印紙収入とは、役所が印紙を販売したことによる収入です。政府が印紙を発行しています。\n税金として集めた金額を 租税(そぜい) と言います。国債は租税ではありません。印紙収入は租税ではありません。\n所得税や法人税や消費税など、税金として集めた歳入が租税です。\n・ 統計(とうけい)データ\n国の財政の役割としては、景気の調整という役割もあります。\n不景気のときには、民間に仕事が少ないので、公共事業などを行い支出を増やすことで景気を向上させようとします。また、減税を行い民間に、流れる資金を増やします。この他、政府は中央銀行とも協力して、さまざまな政策を行います。\n逆に、好景気がゆきすぎてる時は、増税をしたり、公共事業を削減(さくげん)したりして、景気を落ち着かせる場合があります。\n好景気がゆきすぎると、物価が高くなりやすく(インフレになりやすく)、生活が苦しくなる場合があります。\nこのように、政府が財政を利用して、景気を調整しようとする政策のことを 財政政策(ざいせい せいさく) と言います。\n税収や国債にもとづく予算とは別に、政府や国の信用にもとづいて集めた資金による予算が存在していた。その資金を、政府が地方公共団体や政府の関係機関に投資したり融資したりしていた。これを財政投融資といい、かつては郵便貯金などが財源にあてられていた。これは道路の整備や地域の開発のように、多くの人々の生活に深いかかわりのあるものの普通の銀行や金融機関は資金を出しにくい事業に出資される。\n2001年からは、財政投融資は債券になっており、財投債という債券が発行されている。\nかつて財政投融資は規模が大きく、一般会計の半分ほどの大きさだった時代もあった。そのため、財政投融資は「第二の予算」とも言われていた。しかし近年、財政投融資の規模は縮小している。\n日本では、1960年代ごろの高度経済成長期あたりに、日本各地で多くの道路や水道、河川には橋など、多くの\n社会資本が整備されてきました。\nですが21世紀をすぎた現在、それらは老朽化してきています。また、実際に老朽化した水道管が破裂するなどの事故、ときどき起きています。\n整備して最新のものに取り替えようにも、財政難などの問題もあり、なかなか簡単にはいきません。\nだから、もしかしら作り変えをするのではなく、その土地でその社会資本を廃止するという選択肢を取らざるをえない可能性もあります。\n今後は少子高齢化による人口減少の問題もあるので、そういう未来の状況のなかで、その社会資本を維持できるのか、維持すべきなのか、それとも維持をやめて封鎖や取り壊しをすべきなのか、色々と考えていかざるをえません。\n「ふるさと納税」という制度があります。これは所得税や住民税を納める際などに、自分の住んでいる自治体ではなく、希望する他の自治体に税金を収める制度です。(教育出版「公共」の見解)\n自分の住んでいない場所を「ふるさと」と言うべきか日本語の語感として疑問もあるかもしれませんが、まあこういう制度もあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%B2%A1%E6%94%BF%E3%83%BB%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%B2%A1%E6%94%BF%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2"} {"text": "税金には、都道府県や市町村に納める 地方税 と、国に納める国税 がある。\n税\n酒税は「しゅぜい」と読む。関税は「かんぜい」で、外国からの輸入物に対して、かけられる税金。\n所得税と法人税は、税金をおさめている人(納税者)と、税金を負担している人(担税者)が同じ人である。このような(税金を納めている人と負担している人が同じ)税金を直接税という。また、直接税の多くは収入が多くなるほど税率が大きくなる累進課税 という仕組みが取られている。累進課税制度では、高所得者と低所得者とあいだの、納税後の収入を近づける結果になるので、格差の拡大のゆきすぎを防ぐという仕組みがある。いっぽうで、あまりにも累進の度合いが高すぎると、他人より多く働いても、多くの税金を持って行かれてしまうので、働く意欲をそこなう可能性もあると指摘されている。\nまた、所得税は、累進課税などの格差拡大をふせぐ仕組みから、一見すると公平な税金の取り方のように見えるが、会社などで働いている世代に多くの負担を求める税だともいわれている[1]。\n主な直接税は所得税、法人税、相続税である。\n他にも次のような直接税がある。どれも地方公共団体に納める地方税である。\n教育出版などの一部の教科書でも触れられているので、ここでもいくつか補足しよう。また、検定教科書ではないが、資料集などで触れられている場合もある(とうほう社『ビジュアル公民2020』にて、確定申告の記述があるのを確認)。\nここで説明する制度の具体的な方法・内容については中学高校のレベルを大幅に超えるので、大まかな説明にとどめる。しかし、皆さんも将来、アルバイトをしたり仕事に就いたりしたときによく聞くようになる言葉なので、できれば読んでほしい。\n所得税の場合、確定申告という、所得を税務署に申告する制度を利用する。これによって、支払うべき所得税額を確定し、自分で税を納める。普通は、働いて収入を得た人は全て確定申告をしなければならない。\nしかし、日本などでは、会社員が会社から受け取る給料は、あらかじめ所得税が差し引かれているのが普通である。なぜなら、会社員の場合、会社側が確定申告を会社員に代わって行い、所得税を払っているからだ。こうした仕組みを「源泉徴収」という。「年末調整」はこれに関する制度。\nただし、会社員であっても1000万円以上の収入がある場合や複数の会社から収入を得た場合には自分で確定申告をしなければならない。\nいっぽう、税金を納める人(納税者)と、税金を負担する人(担税者)が別々の人である税金を間接税という。たとえば、消費税の場合、税金を負担するのは消費者であるが、税金を納めているのはお店などの小売店である。\n間接税の税率は個人の収入には関係しない。税金を負担する人は商品を買った消費者である。値段の中に、税がふくまれている。\n主な間接税は、入湯税・関税・酒税などである。\n所得税にも消費税にも、それぞれ長所と短所がある。\nまず、所得税を中心に税金を集めると、おもに働く世代から税金を取っていることになる。だから、所得税だけで税金を集めることは、世代の公平性という観点からは望ましくない。しかし、収入の差を減らし、人々の間の格差をなるべく縮小する点で優れている。\n一方、消費税は、年代に関係なく商品を買うので、どの年代の人たちからも、税金を取りやすい仕組みになっている。そのため、世代間の公平という点では優れている。一方で、収入の低い人でも、消費税を払うことになるため、消費税は収入のひくい人にも、負担をしいる。このため、消費税は、収入がひくいほど、収入における税の負担の割合が大きくなるという、「逆進性」がある。また、消費税は、消費をすればするほど税金を払うことになりますので、消費意欲をそこなって、消費が低迷する可能性がある[3]。\n税を集める効率性という点ではどうだろうか。\n収入によって税率が変わるというのは、払うべき税金額の計算や手続きなどが複雑になり、その制度のための費用なども掛かる。また、税務署が、すべての人の収入を把握するのは難しい。所得税だけでは、収入をかくす人も出るだろう。だから、所得税だけの税制だと、業種ごとの不公平が生じる。\nいっぽう、消費税のように税率が一定なら、消費をするたびに税金を払うことになり、業種に関係せず人々は消費するので、そういう意味では消費税は公平でもある。このように、消費税には、業種によらず公平に税金をとれるという長所があることなどから、多くの国で、消費税は導入されている。しかし、消費税は支払う企業側の事務処理や資金の負担などが大きい。食料品などの特定の商品は消費税率を安くする軽減税率は制度が複雑になり、事務処理の負担がさらに増す。\n結局、どんな税金の取り方にも、長所と短所がある。\nひとつの種類の税金に片寄ることなく、いろんな方式の取り方の税金を、組み合わせる必要がありそうだ。\n税金は、だれかが負担しなければならない。\n公道などの道路を作ったり修理したりするのにも税金は使われている。ほかにも、公立の学校の設備や公立学校で働く先生や職員などの人の給料にも、税金は使われている。市役所など役所の設備や、そこで働く人の給料にも、税金は使われている。警察署や消防署も、税金がつかわれている。\n道路をなくすわけにはいかない。市役所などの行政サービスもなくせない。だから、税金が必要になる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%A7%9F%E7%A8%8E"} {"text": "日本は、戦後(第二次大戦後)に公共事業を多く行い、財政の支出がふくらんだ。その結果、国の借金もふくらんだ。国の借金の残高である国債残高(こくさい ざんだか)は800兆円をこえている。\n政府は、支出を減らすために国の事業の縮小や撤退を行い、国が行っていた事業のいくつかを民間企業にさせたり、あるいは民間企業に事業を売り払う、民営化(みんえいか)を行っている。\nまた、省庁(しょうちょう)の統廃合も、財政支出の削減を考えての面もある。\n2018年、水道事業の運営を民間企業が行うことを可能にする水道法改正案が国会で可決されました。\n日本にかぎらず、海外でも一部の国で、水道を民営化する政策が実行されたこともあります。ただし海外では、国によっては、水道料金の高騰などの不都合が起こり、ふたたび水道事業を公営に戻した国もあります。(民営化前の議論では、「民営化によって効率的な経営が行われることにより、水道料金が安くなるはずだ」という予想があったが、その予想に当てはまらない結果になった国もあった。)\nかつて、日本の水道管理は原則、自治体が行うものでした。しかし近年の日本では、水道民営化も議論になっています。\nなお、改正水道法の法案では、民営化したとしても最終的に自治体が給水の責任をもつものとされています。そのため、災害などの際は自治体が最終的な給水の責任を持つと考えられている、と言われています(※ 日本文教出版の教科書の見解)。\n\n1980年代にイギリスではサッチャー政権が行政などの民営化の改革を進めており、経済的な議論のほかにもサッチャーが女性首相であったことなどワイドショー的な話題も含めて、世界的にも話題になった。ただし日本の上述の改革の手本は1990年代のものも多く、90年代にはすでにサッチャー政権は終了しているので、完全には時期は重なってはいない。ともかく、2000~2010年の日本は90年代のイギリスの民営化改革にならった行政改革をしていたと思われる。\nなお高校の政治経済でサッチャー政権については習う。イギリスだけでなく、雨リカのレーガン政権の1980年代の新自由主義なども、この流れによるものである。日本も1980年代、国鉄(現在のJR)や電信電話公社(現在のNTT)などの民営化が続いたが、これも米英と歩調をあわせた日本流の新自由主義の一貫だと思われており、高校の政治経済の教科書でも、おおむね、そのような視点で解説される。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%A1%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "財政支出を行うには、財源となる税金を取らなければいけません。税金を取らずに、財政を大きくすることは出来ません。\nスウェーデンなどでは、ステチルや介護などの福祉が手厚かったりしますが、かわりに税金が大きく、消費税は20%をこえています。このようなことを福祉の面から考えた「高福祉高負担」(こうふくし こうふたん)という言葉があります。\nなにも医療や介護だけに限らず、国の公共サービスや公共事業が大きければ、その分、税金の負担は重くなります。\n政府の財政支出の規模が大きくなれば、その分、税金は重くなります。\nスウェーデンのような、たとえ税金が重くなっても、国の公共サービスなどを手厚くするべきだという考えを 「大きな政府」 と言います。\nアメリカは政府の支出を最小にとどめるべきだという考えにたち、個人の責任に多くをゆだねるという考えにたっています。このような国の財政では、税金は小さくなりますが、国の公共サービスも小さくなります。政府の支出を最小にすべきだという考えを 「小さな政府」 と言います。\n欧米の先進国では、財政を拡大するには税金などの歳入をふやすしかないと考えています。逆に税金を減らそうと思ったら、財政支出も減るので、国の事業が減り、公共のサービスのいくつかは無くなることもガマンしなければならない、と考えています。\nどんな国の事業でも財源として税金が必要であり、何かの公共サービスをしてもらうには税金などを国民は払わなければならない、と考えられています。このような考えを財政におけるトレード・オフ(英: Trade-off)と言います。(※ 高校で習う単語です。)\n財政の悪化をくいとめるには、国の事業に無駄づかいが無いかを監視するのも、有権者には必要かもしれません。ですが根本的には、有権者自身が、今ある公共サービスの意義を見直し、多くの人が不要だと感じた公共サービスは廃止したりしてサービスを中止させることをしなければ、財政支出は減りません。\nもしも地方自治体などの財政が破綻したら、どのみち、その自治体の不要な公共サービスは、財源が無くなるのでサービスを中止することになります。\n読者は中学公民の冒頭の単元で、公平・公正・効率の3つの考え方を習ったと思います。\nこれら3つの考えの間にも、トレード・オフはあります。\n例えば、ある問題の対策として、公平に処理しようとすると、ある部分では効率性が損なわれたりする場合もあります。\nこのような場合には、「公平と効率はトレード・オフの関係にある」などと言えます。\nそもそも公平・公正と効率の3つのバランスを考えないといけない理由じたい、これら3つの視点がトレード・オフの関係にあるからです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%80%8D"} {"text": "日本銀行は、物価や景気などが安定するように、民間の金融市場に流通するお金の量を調節したりする場合があります。\nこのような日銀の行動を、日銀の「金融政策」(きんゆう せいさく)などといいます。\n日本銀行は金融市場で国債や手形などを売買することで、民間の金融市場のお金の量を調節しています(これを公開市場操作(こうかい しじょう そうさ)といいます)。\n景気が悪くなってきた場合、日銀は、民間の銀行などの金融市場のお金を増やさせる行動を取ります。そのためには、景気が悪い場合には、日銀は、民間の銀行から何かを買うという買い物を、金融市場ですればいいわけです。そうすれば、民間の銀行には、日銀が買ったぶんだけのお金が入りますので。\nつまり、景気が悪いとき、日銀は、民間の銀行から、それらの銀行が保有している国債(こくさい)や手形(てがた)などを買います。\n逆に、景気がよいときは、日銀は、どんどん、日銀の持ってる国債や手形などを売ります。\n昔は、公定歩合(こうてい ぶあい)(※ 日本銀行が民間の銀行にお金を貸し出すときの金利)を変化させて、景気を調節することが多かったですが、近年の日本では、日本銀行の金融政策は、原則として公開市場操作によることが主に用いられています。\nともかく、現在の金融政策の中心は、「公開市場操作」です。\n政府も、公共事業などを通して、民間企業に入るお金の量を調節する場合があります。\n不景気のときは、道路工事などの公共事業をして、民間企業に入るお金を増やします。公共事業のほかにも、減税を行うことで、民間企業の持つお金を増やす場合もあります。\nただし、これらの公共事業や減税は、政府の財政(ざいせい)を赤字に近づけてしまいます。\nいっぽう、景気がよい時には、景気の加熱を防ぐため、税金を増やしたり、公共事業を減らすことで、民間企業のもつお金を減らします。\nこのように、政府が、公共事業の増減や、減税・増税などで、景気を調節することを財政政策(ざいせい せいさく)といいます。\nじっさいには、日銀の金融政策と、政府の財政政策とが、うまく組み合わされて、景気を調節するための政策が行われます。\n金融政策と財政政策をまとめて経済政策(けいざい せいさく)といいます。\n外国でも、景気の変化にあわせて中央銀行は金融政策を行い、政府は財政政策を行います。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%99%AF%E6%B0%97%E5%AF%BE%E7%AD%96%E3%81%A8%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%94%BF%E7%AD%96"} {"text": "日本の社会保障は、社会保険・公的扶助(こうてき ふじょ)・社会福祉・公衆衛生の4つにもとづいている。\n社会保障での「公衆衛生」とは、保健所などの、感染症の予防の活動のこと。\n人々が万が一の事故や病気などにあったときのために備えて、あらかじめお金を出し合う仕組みを保険(ほけん)という。\n保険には、民間による保険と、国による保険がある。この記事での保険の説明は、おもに、国による保険について説明する。\n「社会保険」(しゃかい ほけん)とは、日本国による保険である。たとえば、病気になったときに医療費が安くなるという国民健康保険(こくみん けんこうほけん)や、老齢になったときにお金を受けとる年金(ねんきん)などが社会保険である。\n社会保険は保険の内容ごとに、医療保険(いりょう ほけん)や年金保険(ねんきん ほけん)、介護保険(かいご ほけん)や、労働災害保険(ろうどう さいがい ほけん)、雇用保険(こよう ほけん)などに分かれている。\n国民健康保険などの国の医療保険に加入してないと、病気になったときに治療費を全額負担することになり、治療費が高くなる。\n公的な医療保険(健康保険など)はすべての日本国民に加入の義務がある。( 国民皆保険(こくみん かいほけん) )\n健康保険に加入するのは75歳未満で、75歳以上は後期高齢者医療制度(こうき こうれいしゃ いりょうせいど)を利用する。\n老齢になったときにお金を受けとる 年金(ねんきん) は、社会保険の一つである。\n国による公的年金(こうてき ねんきん)の年金保険には、国民年金(こくみん ねんきん)などがある。\n国民年金の基本的な役割は、高齢になったときに年金を受け取れる老齢年金(ろうれいねんきん)の役割が基本だが、ほかにも、けが・病気で障害者になったときの障害年金(しょうがい ねんきん)という役割もある。\nこれら老齢年金、障害年金、遺族年金は、一つの年金で、まとめて払っている。個別に払うことは出来ない。\nまた、年金の加入先には、職業別に国民年金、厚生年金、共済年金などがあるが、一般の利用者が「どの職業が、どの年金に加入するか?」を自分で覚える必要は無く、年金事務所などに相談に行って申請書に職業など必要事項を書いて報告すれば、事務所の担当者が法律にもとづいて、適正に加入先を判断してくれる。\n就職した場合は、勤務先の会社が大手の会社なら、会社が手続きを代行して厚生年金などに登録してくれる。\nだが、そうでない会社もあるので、きちんと確認する必要がある。\n会社を失業した場合は、けっして自動的には加入するべき年金加入先が切り替わらないので、年金事務所を訪れて、自分で国民年金に登録しなおす必要が有る。\nなお、年金を納め始める20歳のときと、45年後の65歳の時代では、物価が異なる場合も考えられる。このため、国による年金の受給額には、物価の変動に応じて年金受給額を調節するという、「物価スライド」という仕組みを取り入れている。\n・ 障害年金(しょうがい ねんきん)\nこの障害年金では、病院への初診の時点で年金に加入してないと、たとえ病気・けがで障害者になっても、障害年金を受けられない。\n障害者手帳(しょうがいしゃ てちょう)は年金に加入しなくても障害者が市役所の福祉課などに申請すれば受け取れるが、障害年金は年金に未加入(み かにゅう)だと受け取れない。\n世間で「年金」というと、少子化による老齢年金の財政難ばかりが話題に取り上げられやすい。だが、実用的には、障害年金について知ることも、とても重要である。\nこの障害年金の制度による障害者への救済があるため、たとえ国の財政・政策に不満があろうが、年金には必ず加入するべきであり、年金保険料は払うべきである。\n国民年金は20歳を過ぎると、国民すべてが加入する義務がある。払わなくても罰則がないが、年金を受け取れない。\n国民年金、厚生年金などの加入者が死亡したときに、残された遺族(いぞく)に対して支給される公的年金。\n・ 労働災害保険(ろうどう さいがい ほけん)\n仕事でケガをしたときの社会保険として、労働災害保険(ろうどう さいがい ほけん)がある。業務上の病気・けが等の災害を労働災害(ろうどう さいがい)という。通勤(つうきん)中の災害も含む。労働災害を略して労災(ろうさい)と言う。\n労災保険は原則的に会社が加入義務を負い(特殊な業界を除く。)、負担料も会社が払う義務がある。\n授業員がアルバイト、パートであろうが、経営者は労災保険を払う義務がある。経営者以外の授業員の数が、たとえ1人でも従業員がいれば、会社は労災保険を払う義務がある。\n労災保険の加入義務が無いのは個人経営の自営業の場合など。\nもし加入義務のある普通の会社なのに、労働者を雇っているのに会社が労災保険を払って無かったら、違法なので、役所に相談し違法行為を報告するべき。\nアルバイトやパートを労災保険に加入させない会社があれば、会社の違法行為なので、役所に相談し違法行為を報告するべき。\n世間で「社会保険」というと、少子化による老齢年金の財政難ばかりが話題に取り上げられやすいが、実用的には、障害年金や労災保険について知ることも、とても重要である。これら労災年金や障害年金などを知らないと、もしも病気や事故、労働災害などを負った時に、大変な事態に、あいかねない。\n公的介護保険(こうてき かいご ほけん)は、40歳以上に加入義務がある。\n介護が必要になったときに、1割負担で介護が受けられる。\n介護が必要な老人も、老人ホームなどで介護を受ける。\n2000年に、公的介護保険制度が導入された。\n現在の日本では、介護労働は、一般に重労働であり、なのに賃金が低いという社会問題がある。さらに介護職員の待遇が、非正規社員の場合もある。\n収入が少なくて最低限度の生活が出来ない人に、自立のために必要なぶんの生活費を役所が支給する制度を生活保護(せいかつ ほご)という。生活保護の財源は、税金などである。\n貧しくて生活費をもらう側の人が、生活保護を受ける側の人である。\nこの制度は生活保護法(せいかつ ほごほう)に、もとづく。\nまず、身体障碍や知的障害など、障害のある人のことを「障がい者」と言います。\n英語のほうで、障害者を意味する ハンディキャップド handicapped が文字中の cap (帽子)のつづりから、物乞い(ものごい)・コジキを連想させるので尊厳上よろしくない、と苦情が高まって、言い回しが person with disabilities (直訳すると「できないことのある人」的な意味)になっており、日本の公文書などでは「障害のある人」のように訳されます。\n小中学校にある「特殊学級」とか「特殊支援学級」というのは、知的障碍児童や肢体不自由児童や極度の弱視者や難聴者や身体虚弱者などのための教室のことです。教科書では習いませんが、おそらく中学校あたりで教師からの口頭などで習うと思います。昭和後半~平成初期の時代は「特殊教育」と言ってましたが、2007年から「特別支援教育」へと言い方が変わりました[1]。地域によっては「養護学級」などという場合もあります[2]。\n\n※ 下記から中学の範囲に戻る\n高齢者や障害者を施設などに隔離(かくり)せず、たとえ障害者や高齢者でも、なるべく自宅で普通に生活できるようにすることこそが社会福祉の目指すべき方向性である、という考え方のことをノーマライゼーション(normalization[3])という。\nまた、ノーマライゼーションのための手段として、歩道などを車いすの身体障害者でも移動しやすいように整備をしたりする必要がある。\nたとえば、道に大きな段差があると、その場所は車いすの人が通行できない。同様に公共機関の入り口に大きな段差があると、その施設には車いすの人が入れなくなる。\n一般に建物の床は、平地よりも、やや高い場所にあるのが普通なので、スロープ(なだらかな斜面)などが無いと、車いすの人は、その建物の入り口には入れなくなる。なので、公共施設などの入り口には、スロープなどがあるのが一般である。\nこのように、公道や公共施設などの整備をして、障害者が使えない施設をなくすことをバリア フリー(barrier free[4])という。\n言葉の「バリア」の意味は、物をさえぎるバリアーのことで、入り口の段差が車いすの障害者にとっては、障害者を遠ざけるバリアーになっている、という意味である。\n説明のために車いすの利用者に例えたが、べつに車いす利用者だけに限らず、ノーマライゼーションやバリアフリーは取り組まれている。\nほか、公共施設や店舗などは、盲導犬の使用を拒否できません(※ 東京書籍の見解[5])。\n製品を設計する際に、利用者に障害者なども含み、身体に不自由のある人でも使えるように設計することをユニバーサルデザイン(英: universal design[6])という。べつに、利用対象を障害者に限定していない。\n障害者基本法という法律があり、障害のある人の自立と社会参加を目的としています。\nぽか、2013年には障害者差別禁止法が制定されました。障害者差別禁止法は文字通り、障害のある人への差別を禁止する理念の法律です。\n最近は「インクルージョン」という用語も提唱されてきている。(※ 東京書籍が公民教科書で紹介予定(東京書籍デジタルパンフレットによる確認)。)\n「ノーマライゼーション」や「バリアフリー」など既存の用語だと意味を限定しすぎてしまうので(「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」だと設計手法の用語)、もっと大まかに「障碍者でも、なるべく不自由がなく暮らせるようにしよう」という程度の漠然とした福祉思想のことを「インクルージョン」と言っている。\n「インクルージョン」は比較的に新しい用語なので、本wiki当ページでは、これ以上の説明を省略する。「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」などは1990年代頃から古く提唱されてきているが用語だが、インクルージョンはそうではない。\nなお、英語でインクルージョン inclusion とは、「含む」(ふくむ)とかの意味の名詞。動詞インクルード include の名詞形。「障碍者でも、健常者でも、わけへだてなく」的な意味だと思われる。\nインクルージョンなどを提唱している人たちには、障害児むけの特殊学級などを批判している人もいます。健常な児童と同じ学級で教育すべきだという意見です。\nインクルージョンでは理想をいろいろと言っていますが、ただし当然ですが、インクルージョン化のためにそれだけ予算が掛かります[7]。地域によっては「養護学級」などという場合もあります[8]。「高福祉、高負担」と習う通りの現実です。\n専門的なスタッフ(人員)の配置も本来なら必要です[9]。障害児の世話を健常者の生徒に押し付けて(少しなら人生経験として良いですが)、健常者の生徒の学ぶ権利などの機会を奪うような事態にならないように留意してもらいたいものです。\nあいにく、日本の国家財政は21世紀は、平成のあいだに長く続いた不況により、財政難の傾向です。\n予想になりますが、少子化も関連して学校の統廃合などよくしていますので、統廃合の際に障碍者支援の設備を見直すバリアフリー化をしたり、組織などの見直しをしてノーマライゼーションすることになるのでしょうか。\nともかく、予算の限りがありますので、障害者も権利の主張は大事ですが、しかし最終的には障害のある事実を受け入れる必要があります。\nかつて、古代や中世のころ、人間の周囲には、きびしい自然の壁が立ちはだかっていました。科学技術や文明の発達により、人間のできる自由は増えましたが、しかしそれでも、人間のできることに、あいかわらず限度があるのも事実です。今後も限度があり続けるでしょう。健常者ですら、自分が男として生まれる、あるいは女として生まれる、あるいは性染色体XXYや性染色体XYYの人間として生まれる(※ 『性染色体』は高校理科の「生物」科目で習います)、などの現実は、変えることはできません[10]。戸籍上の性別をいくら変えようが、染色体は変わりません。\n夢を見て挑戦するのが人間にとって大切なのと同じくらい、夢やぶれて涙する現実をみつめるという、挫折(ざせつ)することも大事なのです。あなたの好き嫌いに関係なく訪れる現実に対し、せいいっぱい楽しみ、せいいっぱい泣く、それが人間の生き方でしょう。\nなお、別に「バリアフリー」がインクルージョンに変わるわけではない。たとえば、中学教科書の東京書籍の教科書でも、インクルージョンの理想を実現するための手段としてバリアフリー的な建築を行うべきといった主張などをしている[11]。\n※ 検定教科書ではありませんが、福祉系の話題を扱った学術書を見ても「ノーマライゼーション」という単語も引き続き使われており、インクルージョンを実現するための手段としてノーマライゼーションをすべきだと主張している学術書もあります[12]。\n障害者に限らず、高齢者や在日外国人など、そういった、弱者とされる人々のことも、もちろん健康な人のことも考えて、尊重しようという「多様性」(ダイバーシティ)という概念も提唱されています。\n女性の人権問題なども、ダイバーシティの問題として扱うこともできます[13]。\nしかし、現実には、在日外国人の権利については国家主権などの理由で、国政選挙権などが制限されているのも事実です。\n実現している外国人むけ政策としては、日本に住む外国人のための日本語学級などが、東京書籍の教科書で紹介されています。\n障害者を雇う企業もあります(※ 東京書籍の教科書でも紹介されている)。\nしかし、障害によっては、どうしてもつけない仕事もあります。たとえば、目の見えない障害の人は、どうやっても、物を見る仕事にはつけません。目の見えない人が仕事をしたい場合、物を見る以外の、他の仕事につく必要があります。\nなお、東京書籍の教科書パンフレットに、「ダイバーシティを尊重するインクルージョン」という文章があります[14]。なんだか似た理念の語句です。\n日本では高齢化にともなって年金などの国の支出が増えることが予想されており、また少子化にともなって労働力人口が減り、年金の納入者が減るので、福祉のための税負担が高まることが予想されている。日本の高齢者の割合は、約23%である。(2010年)\n日本国の一般歳出の30%以上を、社会保障費が占めている。\nスウェーデンは社会保障が充実しているが、税金も高い。スウェーデンの社会保障財政は、高福祉高負担(こうふくし こうふたん)と言われる。スウェーデンの消費税率は25%もある。(スウェーデンは、社会保障では、いわゆる「大きな政府」の方針を取っている。)\nいっぽうアメリカ合衆国は、低福祉低負担である。(アメリカ合衆国は、社会保障では、いわゆる「小さな政府」の方針を取っている。)\n年金は、老齢の世代である定年退職した世代の受け取る年金を、若い労働力人口の世代が払っている、という制度に、なっている。\nこのような、年上の世代に年金を支給するために若い世代が年金を払う方式を 賦課方式(ふか ほうしき) という。日本の年金制度は、賦課方式である。\nいっぽうで、貯金のように、若い世代が払った保険料を、その若い世代自身が老齢になったときに支給するという方式を積立方式(つみたて ほうしき)という。日本の年金制度は、積立方式では無い。\n年金は若い世代に負担させる賦課方式の制度であるので、もし若い世代が減る時代になると、年金の財政が悪化することになる。\n現在は、少子高齢化のため、年金財政が不安視されている。\nいっぽうで、過去の若い世代が多い時代には、賦課方式は、財政にとって都合の良い制度であった。\n財政の制度においては、短所の無い制度なんて、無いのである。長所は、短所の裏返しなのである。\nたとえば年金の世代間の賦課方式の場合は、人口構成が若い時代には、財源確保をしやすい。だが、少子の時代には財源確保をしづらくなる。\n積立方式も同様に、長所の裏返しとして、短所がある。\nたとえば、もし、ある世代が、大恐慌や大災害や戦争などの被害により、その世代に失業者や低所得者が多くなり、特性世代に貧しい世代が出来ると、積立方式では、その貧しい世代の老後の年金収入を、そのままでは確保できなくなる。\n年金の足りない財源を、税金などで補充する方法も考えられており、では、その分の税金をどこから取るのかが問題になる。\nバブル崩壊後の不況や、国際競争の激化による、会社の倒産や事業撤退、または労働者の失業などがバブル崩壊後から長く続いたので、多くの労働者も企業も、そんなに収入や貯金に余裕は無い。\n年金は職業によって加入する年金が違っている。たとえば自営業者や無職は国民年金だけに加入することになっており、一般の会社員は厚生年金(こうせいねんきん)に加入する。\n(くわしく言うと、20歳以上60歳未満のすべての国民が、まず、国民年金に加入する(大学生で就職してなくも、20歳以上60歳未満なら、国民年金に加入しなければならない)。その上で、会社員は厚生年金に加入する。※ 左の図表を参考に。)\n年金の種類によって支払う負担額や、老齢になったときに受けとる受給(じゅきゅう)額が違う。\n会社員の加入する厚生年金は、給料の金額が大きいほど、保険料の金額も大きくなり、老齢になったときに受け取る年金額も大きくなります。\nもし、自営業者と無職が、たとえ「厚生年金に入ろう」と思っても、加入できない。自営業者と無職は、国民年金にしか入れない。自営業者や無職が、どんなに収入や貯金に余裕があっても、厚生年金には加入できない。\nこのように、年金の種類によって支払う負担額や、老齢になったときに受けとる受給額が違うので、年金の制度に不公平や格差があり、問題にも、なっている。\nこのような加入する年金間の不公平の問題を解決するため、「年金の一元化」(ねんきん の いちげんか)という政策が主張されており、厚生年金と共済年金(きょうさいねんきん)の統合が進んでいる。\nだが、自営業などの多い国民年金と、会社員の多い厚生年金との間の統合は、あまり、統合が進んでいない。\nなお、厚生年金や共済年金の加入者が払う保険料の一部は国民年金に払われているので、厚生年金や共済年金の加入者も国民年金に払っていることになる。\n老齢年金は、原則として25年以上の加入をしていないと、給付は1円も受け取れない。\n国民年金と名前の似ている「国民年金基金」(こくみん ねんきん ききん)という公的年金があるが、国民年金基金の運営者は国では無く、特殊法人である。\n国民年金基金を運営しているのは、「国民年金基金連合会」(こくみん ねんきん ききん れんごうかい)という厚生省の管理する特殊法人であり、運営者は厚生労働省そのものではない。\n国民年金基金の制度は、厚生年金と国民年金との格差を少なくするために、1991年(平成3年)にできた制度である。\n国民年金に任意(にんい)で負担額を上乗せして、かわりに老後に多くの年金を受け取るというのが、国民年金基金の制度である。\nまた、国民年金や厚生年金は、インフレの場合には受給額の増額をする「物価スライド」(ぶっかスライド)という保護制度があるが、国民年金基金には物価スライドなどの保護が無い。\n会社員が加入する厚生年金は、不況による企業の倒産などで、財政が悪化している。\nまた、自営業者や無職などが対象の国民年金は、年金制度への不信などから、未加入者が増えており、悪化している。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E5%88%B6%E5%BA%A6"} {"text": "\n女性差別撤廃条約を受けて、日本では1986年(昭和61年)には 男女雇用機会均等法 が施行された。性別を限定した雇用の募集は原則的には禁止されている。男女の賃金は、同じ仕事内容なら、賃金も男女で同じである。\n1999年には 育児・介護休業法 が施行された。\n雇われている労働者も人間なので、もちろん人権がある。雇う側に比べ弱い立場にある労働者を守るため、労働者を保護し、集団で労働条件の改善を要求することなどを 労働基準法 並びに 労働組合法、労働関係調整法 などの法律で、保障している。代表的であるこの3つの法 (労働基準法・労働組合法・労働関係調整法) をまとめて 労働三法 と言う。\n労働基準法は賃金や労働時間などの最低基準を決めている。労働時間は「1日8時間を基本とし、1週間で40時間まで」と決められている。もし時間外労働をさせる場合には、会社は割増で賃金を払う必要があり、制限もある。この時間外労働の割増賃金の割増率は25%〜50%である。休日に労働させると35%〜の割増がされる。\nなお、当然のように思われる読者の方も多いだろうが、アルバイトもパートタイマーも法定の労働時間の制限は同じである。\nそして、労働基準法の定める基準を守らせるため、労働基準監督署 という役所が、日本の各地に置かれている。\n前述のように、労働者は雇う側 (以降、使用者) に比べ弱い立場にあり、本来なら労働者と使用者の間で契約として自由に取り決めることができる労働条件だが、各々が個々に交渉すれば、労働者にとって不利な条件になりやすい。それ故労働組合の結成をする権利が憲法や法律で認められており(団結権)、組合などがその会社の労働者の賃金を上げる賃上げ交渉など労働条件の交渉をする 団体交渉権 を認めている。そして、労働条件についての約束である労働協約を経営者と労働組合の間で結ぶことができる。\n憲法28条 「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」\nこれら3つの権利 (団結権・団体交渉権・団体行動権) をまとめて 労働三権 と言う。\n他に、ストライキなどの労働争議を起こす 団体行動権 が認められている。ストライキ(wikt)とは、労働者が団結して仕事を停止すること (それにより、使用者は労働条件を改善しなければならなくなる) である。労働争議の解決は、使用者と労働者が自主的に解決するのが原則であるが、どうしても当事者同士で解決しない場合には、労働委員会が間に入る。労働委員会の解決方法は、労働関係調整法に定められており、労使の話し合いをあっせんしたり、調停案を出したり、強行的に仲裁をする。\nまた、使用者が労働組合に加入している従業員に不当な扱いをすることは労働組合法 (第7条) で禁止されている。このような使用者が労働者に労働三権の行使を妨害することを「不当労働行為」)と言う。不当労働行為も労働組合法で禁止されている。\nなお、賃上げの交渉の権利が認められているが、必ずしも労働者の要求が通るとは限らない。最終的に賃金を上げるかを決定する権限は、使用者にある。なお、労働者の労働組合への加入は義務では無い。\n女性には男性と同様の給料をもらう権利もあるが、男性と同等の責任もある。かつて、男女雇用機会均等法などのできる前は、女性への福祉の観点から、女性の深夜労働が禁止されていた。しかし女性の深夜労働の禁止は削除された。\n労働者が不正などを行った場合などを除き、使用者が労働者を解雇する場合には、解雇する日の30日よりも前に通知する義務があり、また30日分の給料を解雇予告手当として支払う義務がある。ところが、この法律を無視する会社も存在する。もちろん、通知義務違反や解雇予告手当の未払いは会社側の違法行為であるため、労働基準監督署など[1]に相談するべきだ。\n公共職業安定所 (ハローワーク) では、失業者などに仕事を紹介しているほか、職業訓練を受けたい人のための公共の職業訓練施設なども紹介している。\n障碍者の雇用を促進するため、企業には規模に応じて一定の割合の障碍者数の雇用をする法的義務が、障害者雇用促進法(ws)で定められている。しかし、競争の厳しい昨今の経済では、達成が難しい企業もあるほか、職種によっては、障碍者を雇い入れるのが難しい場合もある一方、障碍者を雇い入れている数の水増しが発覚した企業も存在する。\n中学校社会 公民/労働問題 を参照。\n一般に、収入を得るための働き先を失うことを失業といいます。「失業者」とは、収入のための仕事先 (会社など) を探しているが、雇用先の無い状態の人のを指します。そのため、主婦や学生は失業者には含めません。厳密には、失業者のうち「完全失業者」とは、働く意思をもって求職活動をしていながら、就職先の見つからない人のことを言います。\n一般に、景気が悪くなった時に、失業者は増えると考えられています。また、産業構造が大幅に変化した時にも、失業者が増える場合があります。\nかつて、日本では使用者が労働者を定年まで同じ企業で勤め上げさせるように雇う、終身雇用が大企業では一般的であったという。この頃の日本は「世界の工場」と呼ばれ、製造業が好景気だった。そのため、安定して労働者を雇い続けることができた。日本は、アメリカやイギリスなどとの製造業の競争に勝ち、これらの国の製造業を衰退に導いた。\nしかし、次第に中国や韓国などの国々が工業力をつけてきた。それから日本の企業は、それらの国との厳しい競争にさらされることになった。外国との市場の奪い合いになるため、日本の企業の売り上げが減っていった。この減った分の売り上げは給料などの費用を減らすことにつながり、労働者の解雇や給料の見直しが行われた。今度は日本が外国から仕事をうばわれる側に回っていった。いつしか中国が「世界の工場」[2]と言われるようになっていった。こうして、多くの日本企業で、終身雇用は無くなっていった。\n昔の会社では、その会社への勤務年数が長くなるほど賃金や役職が上がるという、年功序列が取られていた。しかし、今では少なくなった。\n企業によっては、大企業などを中心に年功序列を続けている場合もあるが、景気の悪化などによって、実質的には長年勤めていても人員解雇の対象になる場合も多い。また、景気の悪化で高い賃金を払えなくなった企業が、自社の給与体系を見直すこともある。給与体系をすぐに変えられない会社の場合には、一旦社員には形式上退職させ同じ会社に再雇用するという形で、新人社員と同じくらいの程度の給料にするという方法を取る場合もある。\n前述のように、終身雇用や年功序列の終わりにより、労働者が定年までに受けとる給料の合計額 (生涯賃金) は、これからも低下する。高度経済成長期やバブル期などの頃は生涯賃金が3億円と言われてた時代もあったが、これからは低下する企業が多い。\n上記のように、終身雇用が減少した今 (2020年) では、労働者のおよそ3人に1人が、アルバイトやパート、派遣労働などの 非正規雇用 の状態で働いている労働者 (非正規労働者) である。これらの非正規の労働は、不況になると人件費の削減対象として解雇されやすいという特徴があります。また、一般に非正規は賃金が低い。昭和の時代は少なかった非正規労働者が増えつつあることは、企業が雇用の調整をしやすくしたことも意味する。派遣労働者 (非正規労働者に含まれる) の所属は、人材派遣会社に所属している労働者であり、派遣先の正社員 (正規労働者) ではない。このように労働者の中でも特に弱い立場にある非正規労働者が正規労働者になれるよう、失業しても生活に困らないよう、生活保護や職業訓練などを社会全体で支えていく必要がある。\n日本では、少子高齢化や人口減少、ニート(wp)の増加などが進みつつあり、外国人労働者を受け入れなければならなくなっている。外国人は日本人と同じ労働をしても給与を安く抑えられる、深夜労働をしてくれるなどの理由で、外国人を使いたがる企業がある。\nかつての日本は外国人労働者の就役を一部の分野に限定してきた。1990年代から南アメリカ大陸の国々の日系人(wp)の受け入れを始め、外国人労働者の数は増加傾向にある。しかし、前述のように近年まで外国人労働者の数が少なかったため、日本社会や日本の人々に多い外国人に対する差別的思想が蔓延っている。\n※ 労働者の権利保護とは別のことなのですが、最近の2020年代の中学公民の教科書には、中学生に向けて、「働く」とか「就職」とかはどういうことなのか、説明しています。\nとりあえず、東京書籍と帝国書院の教科書では、経済は「分業」で成り立っている、と説明しています。\n教科書ではあまり理由をきちんと説明していなおですが、wiki側で分業の理由をきちんと説明すると、一人の労働者の人生の時間には限りがあるので、分業しないと、仕事を身に着けるためのトレーニングの時間だけで人生が終わってしまい、ろくに仕事ができなくなってしまいます。(たとえば、4年ていどの勉強で身につく仕事でも、もし30個の仕事を分業せずにぜんぶ仕事しようとすると、30×4年=120年 で、人間の平均寿命オーバーになってしまい、仕事しないまま人生が終わります。)\nなので、分業が必要なのです。\nまた、分業のさいには、それぞれの人が、得意なことを活用できる職場に勤める必要があります[3]。たとえばパン屋だったら、当然ですが、パン屋さんはパンを作るのが得意でないと、お客さんは困ります[4]。\nパン屋さんは、パンの原料の 小麦や さとうきび の生産なんて、していません[5]。\n。小麦をつくるのは小麦農家です。これが分業です。\nまず、将来の希望の仕事を決めるさいの、暗黙(あんもく)の前提として、会社名ではなく職業で決める、という進路相談や就職活動などでの常識があります。東京書籍の教科書も、日本文教出版の教科書も、「会社」ではなく「職業」の志望を考えさせています。\n中学の検定教科書では、「仕事をとおして夢をかなえたり」みたいに言います。高校の教科書だと「自己実現」みたいに言います。\n基本的には、自分の好きな分野を事を目指すとよいでしょう。(東京書籍なども明言してないですが、そんな感じです。)\nなぜなら、本当に好きなら、練習を長々とたくさん出来るので、得意になるからです(帝国書院の中学教科書の言うように、得意な仕事でないと、せっかくの分業の意味がありません)。\nただし、その仕事につくための練習や仕事が「好き」でないと困ります。「パンを食べるのは好きだけど、パン作りは好きでない」みたいな人がパン屋に就職活動されても、就職は難しいでしょう。\n社会の貢献と関係なく、やみくもに「好き」と言っても限度もあります。「年収1000億円が欲しい。お金が好き」とか言っても、そんな夢はほとんどの人は、かないません。もっと現実的な夢をみましょう。\n東京書籍の教科書に「キャリアデザイン」という言葉があります。進路や経歴(職歴・学歴など)をデザインする、みたいな意味です。(日本文教出版の教科書では「キャリア教育」という用語を使っています[6]。)\nたとえば、スポーツが好きなら、「僕はオリンピックで金メダルをとる!」は、決してキャリアデザインとは言いません。たとえば現実的なキャリアデザインは、スポーツ志望の場合なら最低限、「できれば、社会人スポーツのある実業団のある企業かに入る。もし高校卒業・大学卒業でプロ団体には入れれば、なお良い」とかでしょうか。\n帝国書院のパン屋の例のように、まず、ふつうの人が、頑張れば出来そうなことを、着実に身につけましょう。\nふつうのパン屋と同じ練習をしても成功できるかどうかは不明です。しかし、ふつうのパン屋の人なら皆が練習しているパン作りの基礎テクニックすら無理な人は、絶対にパン屋としては成功できないでしょう。だからまず、ふつうの人ができることを、着実に出来るように練習すべきです。\n「競争に敗れるなどして希望の仕事につけなかったら、どう修正するの?」というのがキャリアデザインでしょう。「弁護士になるなら、べつに東京大学じゃなくてもいいよね?」とか、「法律の知識で仕事したいなら、司法書士とか行政書士でも良いはずだよね?」とか、そういうツッコミです。\nさて、色々なことを勉強するのは大切ですが、しかし人生の時間にも限りがあります。教科書会社がインタビューしている作家とか有名人とか、若者の好きそうな人も、インタビューでは色々と勉強しろと若者に言いますが、実際には彼ら自身は、なんでもは勉強できていません。\nたとえばインタビューされているのが小説家なら、彼はマンガも書けなければ、曲も作れないし、スポーツも苦手だったりするかもしれません。\n代わりに必要なのは、自分が勉強できてない分野への経緯や想像力を持つことが重要でしょうか。そういった想像力をもつためにも、中学・高校・大学などを卒業したあとの勉強は、日々の仕事の勉強も大切ですが、しかし時々は国語・数学・理科・社会・英語など仕事以外のことも勉強する必要があるでしょう。\n東京書籍の教科書には、分業によって「社会で必要な財やサービスを提供していく」と目的があります。\n目的を忘れてはいけません。あくまで、社会に必要な財やサービスといったものを生産するのが、分業の目的です。決して、この目的を忘れて、形式的に、単に難しいだけで社会に役立たない技術のトレーニングばかりをしないようにしましょう。たとえば、中学卒業以上の社会科(地歴公民 科)では、時代遅れになった五十年や百年年も前の古い教科書の内容を、理解せずに言葉を断片的に丸暗記しても、社会では何の役に立ちませんし、それでは就職も難しいでしょう。\nだいたい、どのお店の客を見ても、どの消費者も、その消費者じしんにとって役に立たない商品を買いたくありません。\n視点を、企業の経営者の目線に、変えてみましょう。どの会社の社長も、その会社に役立たない志望者を、雇用したくありません。役立とうとする気のない人を雇うほど、一般の企業も役所も、お人よしではありません。\n何よりも、経営者から見れば、社会を無視するワガママな就職志望者は、自分はお店では好き勝手に商品を消費してるのに、なのに企業に向かっては「経営者は好き嫌いを無視して、私を雇え」というような自分勝手な考え方をする人を、絶対に経営者は雇いたくありません。(知能が低いのはまだしも、性格までもワガママなのに「自分はマジメ!」だと思いあがっているいて性格が悪いのは、もう雇いたくないのです。)\nキャリアデザインとは、このように自分をみつめなおすことで、志望の進路やそのための勉強・努力や練習を、より適切なものに見直しておくことも含まれるでしょう。\nなお、中学の段階で、あまり「やりたい職業」が決まってなくても、大丈夫です。日本文教出版の公民の検定教科書では、2015年の日本の中学生のアンケートで、50%近くの中学生が、まだ将来の希望の職業が決まっていません[7]。\n社会の役に立つかどうかを考えずに、人気(にんき)や評判だけで進路を決めるのは、下記の理由から危険です。\nこれは高校の教科書の内容なのですが、「自分が社会に受け入れらている」という感覚が、青年期以降の健全な精神の発達には必要です。(※ 清水書院(高校の教科書会社)の『公共』教科書の見解です[8]。)「自分は社会に受け入れられている」という感覚が無くなると、自己嫌悪や無力感などの状態になります。\n清水書院は具体的にはどうすべきかまでは指定していないですが、しかし上述の議論から常識的に考えて、なるべくなら、社会の役に立とうとする職業や仕事っぷりを目指すのが健全でしょう。\n社会の役に立つことを目指している仕事のほうが「自分は社会に受け入れらている」という感覚を得やすいからです。\n普通の人は、「自分が社会から受け入れてもらえてない」という孤独には耐えられず、そのため、その状態になると自己嫌悪で行動がおかしくなり、やることなすこと失敗だらけになります。\nあくまで、社会に受け入れられるために、まずは他人になるべく負担をかけないようにする必要としての経済的自立であり、そのための仕事に必要だからという理由での進路志望やキャリアデザインです。あくまで最終目的が「社会に受け入れてもらう」であることを間違えないようにしましょう。\n自分がよほどの才能にめぐまれた大天才でないかぎり、進路を考えるときは、少しは社会の役に立とうとする事も考慮したほうが、将来的には精神的に安全だろうと思われます。\nたとえば子供時代にスポーツ志望で「将来はオリンピック選手になって金メダルをとる」を目標にしたが、金メダルどころか日本トップ3以内にすらなれない場合、それどころかプロになれない場合、またはプロの底辺にしかなれない場合など、どうやって自分の自信を保つか、です。\n外部サイトですが、日本教育学会理事、日本教育政策学会理事がキャリアデザイン教育について似たような改革案をネットで言っていました[9]\n最初の夢がかないそうにない場合、それに近い第二・第三の夢を考える必要があります。たとえば、「プロの漫画家とかゲーム作家とかになりたい」の夢がかなわなかった場合、その夢の根拠が「ものづくり」なら、べつに自動車業界とか食品業界とかの他の仕事に変えても構わないわけです[10]。\nあるいは、「日本のマンガやアニメは『クールジャパン』と言われて海外の人々に受けているので、これを仕事にしたい」とかだったら、別にマンガなどに限らず海外と取引するビジネスマンでも良いわけですし、それに就職できなくても最悪、翻訳家などでも構わないわけです。\nこのように、第一の夢に向かって努力するだけでなく、加えて「『やりたい』の根っこを掘ること」もまた重要です。\n憲法などの「職業選択の自由」があるので、中学・高校は一切、教えてくれません。ビジネス書などを読むと、こういった事が少しは書いてある場合もあります。「もし、事業の投資の選択肢に迷った場合は、社会の役に立つほうに投資しろ」みたいなノウハウとか、ビジネス書に書かれている場合もあります。\n国語の教科書でも著作の紹介されている医学者・養老孟司さんは(たとえば養老孟司(ようろう たけし) 著、『かけがえのない未来』[11]、『考えるヒト』などが国語教科書に掲載)、就職・仕事に関するの評論では\nみたいなことを2010年以降はよく言っています[13]。\n養老氏が言うには、\nとのことです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%A8%E4%BF%9D%E8%AD%B7"} {"text": "労働基準法が守られていない場合が多い。たとえば残業(ざんぎょう)というのが合って、「サービス残業」(サービスざんぎょう)と言うのがある。「残業」そのものは違法ではなく合法である。「残業」とは本来は仕事が時間内に終わらなかった場合に、終業時間のあとも職場に残らせてもらって仕事をつづけることであり、労働者がスケジュール調整のため自発的に数時間の残業する場合がある。労働者自身が自発的に残業した場合は、会社は残業代を払う義務は無いし、会社も労働者も自発的な残業について報告の義務はない。\nだが、それを悪い雇い主が悪用して、時間外の残業を労働者に命じているのに、自発的な残業として処理させている場合がある。これをサービス残業という。このようなサービス残業の強制は違法行為である。サービス残業は長時間労働を招くため、過労死などを招く。\nこれと似たような例で「名ばかり管理職」(なばかり かんりしょく)というのも、あります。\n管理職には残業代を払う必要がないので、これを悪用し、従業員を名目上の管理職に指名して、長時間労働をさせる仕組みです。\n女性差別撤廃条約(じょしさべつ てっぱい じょうやく)を受けて、日本では1986年(昭和61年)には男女雇用機会均等法(だんじょこようきかい きんとうほう)が施行され、1999年には育児・介護休業法(いくじ・かいご きゅうぎょうほう)が施行された。男女の性別を限定した雇用の募集は原則的には禁止されている。\nしかし、現実的な問題として女性は賃金の低いパートタイムの労働などの仕事につきやすい。パートにつきやすいのは、育児との両立のために、育児の時間を確保するためである\n不況の場合は、これらパート・アルバイトなどの従業員が解雇されやすく、このため不況の場合に女性が解雇されやすいという現実がある。\n産業の業界によっては、時期や季節ごとなどに労働力の需要が大きく変わる産業がある。そのような業界では、人材派遣会社から労働者を派遣してもらうことがある。\nこのような時期によって大きく労働需要の変わる業界では、アルバイトなどの採用活動をしていると採用に手間がかかるので、派遣会社で調整しているのである。\nこの派遣労働者の派遣先での労働は、もともと期間契約であり、また派遣先の正社員では無いのでなので、不況になると派遣労働者は契約の更新を打ち切られやすく失業しやすい。\n休日以外にも給料をもらって年に数日ほど会社を休める有給休暇(ゆうきゅう きゅうか)という制度があり、労働基準法(39条)で定められています。たとえば6ヶ月間働いて、全労働日の8割以上に出勤した場合は、10日の有給休暇があります。\nですが、現実的には、有給を全部は取らせなかったり、有給を取りづらい雰囲気の企業もあります。もちろん、有給休暇の禁止は違法です。\nまた、アルバイトであろうがパートタイマーであろうが有給休暇はあります。\n法律では、たとえアルバイトやパートタイムなどでも、労働時間の制限や、有給の日数などは同じに与えなければいけませんが、この法律を無視する会社もあります。もちろん、会社側の違法行為なので、役所の労働基準監督署( ろうどうきじゅんかんとくしょ、略称は労基(ろうき) )などに相談するべきでしょう。\nどの役所に相談に行くべきか、分からなくても、住んでる地元の市役所などに相談に行けば、市役所の職員が担当の役所を紹介してくれます。\nまた、2017~2019年に日本政府の主導する働き方改革として「同一労働同一賃金」(どういつろうどう どういつちんぎん)とする原則にもとづく関連法が国会で可決され、最終的にその内容の法律が制定されました。(※ 検定教科書の範囲です。自由社の市販本で確認。なお、検定合格版(検定不合格になったのは(公民ではなく)歴史分野のほう)。)\n2020年の時点では、段階的に同一労働同一賃金のための改革が導入されていく予定であり、すでに一部の改革は実施されています。\n(※ 範囲外: )次に述べるのは労働者の権利の問題というよりも、「労働組合が問題」であるが、第二次大戦後の昭和期の日本では一時期、かつて労働組合が、労働以外の政治団体の かくれみの になっている場合があって、本来なら労働組合は労働者の権利問題に取りかかるべきなのに、そうするのでなく、労働組合の団体がたとえば米軍基地問題や原発問題、外交問題などに口出しをしようとする労働組合やそのような問題のデモ行為をする労働組合も、少なくなかった。\n労働者の権利としては、米軍基地問題デモや原発問題デモなどの政治運動に参加しなくても、労働組合に加入する権利はあるハズだ。\n将来の仕事を考えるにしても、まったく働いたことのない人には、どういう仕事が自分にあってそうか、わかりません。\nそこで「インターンシップ」と言って、学生が企業で体験的に実際に働いてみるという方法があります。アルバイトと異なるのは、インターンシップは原則、無報酬である点です。\n中学生ではまだ本格的には働けないかもしれませんが、高校生や大学生・専門学校生などになると、もしかしたら読者のなかには将来的にインターンシップを経験する人もいるかもしれません。\nさて、日本では「サービス残業」など労働時間の長さが問題視されています。\n会社仕事というのは、あくまで生きるための手段です。会社などでの仕事と私生活とのバランスのことを「ワーク・ライフ・バランス」(英: work-life balance[2])と言います。こういったバランスも考えて、あるいはバランスを目指して、人生を過ごしていく必要があるでしょう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "工場などからでる排水や排煙などの処理が不十分だと、排水・排煙にふくまれる有害物質により、周辺の環境が汚染され、近隣の住民など多くの人の健康に被害が出る場合がある。このように、産業活動による多くの人への健康への悪影響を 公害(こうがい) という。\n日本でも、かつて、大きな公害をおこしたことがある。公害は第二次大戦よりも前の昔からあるが(明治時代の足尾銅山の鉱毒事件なども公害であろう)、第二次大戦以降は以下の4つの公害および公害による病気が、とくに被害が大きい公害として有名である。\nこの4つの公害を四大公害病(よんだい こうがいびょう)と言います。\n上記の4つの公害が、1950年〜1960年ごろに起きました。高度経済成長のときに重化学工業が成長しましたが、公害をふせぐための環境対策が遅れたことが、この4大公害の原因の一つです。\n四大公害の裁判は別々に行われましたが、判決は4つとも患者側の全面勝訴です。\n1964年ごろに新潟県の阿賀野川(あがのがわ)の流域で起きた、水銀および水銀化合物による公害です。\n化学工場の排水中の水銀化合物が原因です。\n被告は、昭和電工(しょうわでんこう)です。(※ 検定教科書にも被告企業名が記載されています。)\n症状は、熊本県の水俣病と同じです。\n三重県の四日市市は石油化学工業で、1940年ごろから、さかえていました。多くの石油化学工場があつまった石油化学コンビナートといわれる工場のあつまりが、あります。\n被告は、三菱油化などの石油コンビナート6社です。(※ 検定教科書にも被告企業名が記載されています。)\n1950年ごろから、この周辺では、ぜんそくや気管支炎(きかんしえん)など、のどをいためる病気の人が、ふえてきました。また、この近くの海でとれた魚は油くさい、と言われたりもしました。\n四日市ぜんそくの原因の物質は 亜硫酸ガス(ありゅうさんガス) だということが、今では分かっています。\nどうも、石油化学コンビナートから出る、けむりや排水(はいすい)が、環境に悪い影響をあたえているらしいと言うことが1960年ころから言われはじめ、社会問題になりました。\nこのうち、とくに ぜんそく の被害が有名なので、この四日市(よっかいち)でおきた公害を 四日市ぜんそく というのです。\n四日市ぜんそくの、ぜんそくの原因は、今ではわかっており、けむりにふくまれる亜硫酸ガス(ありゅうさんガス)や窒素酸化物(ちっそ さんかぶつ)が、おもな原因だと分かっています。\n1955年ごろ富山県の神通川(じんづうがわ)の周辺で起きた病気であり、体の ふしぶし が痛くなり、骨が折れやすくなる病気です。\nカドミウム が原因です。カドミウムは猛毒です。\n被告は三井金属工業です。(※ 検定教科書にも被告企業名が記載されています。)\n川の上流にある鉱山から流れ出る廃水にカドミウムがふくまれており、その廃水を飲んだ人や、廃水に汚染された米などの農産物などを食べた人に、被害が出ました。\n化学工場の排水にふくまれていた水銀および水銀化合物(有機水銀、メチル水銀)が原因でおきた病気です。被告は「チッソ」という企業です。(※ 検定教科書にも被告企業名が記載されています。)\n水銀は猛毒(もうどく)なので、この水銀に汚染された水を飲んだり、水銀に汚染された海水で育った魚や貝を食べたりすると、病気になります。体が水銀におかされると、神経細胞が破壊され、手足がしびれたり、うごかなくなります。\n熊本県の水俣(みなまた)という地域や、水俣湾(みなまたわん)の周辺で、1953年ごろに新聞報道などで有名になった公害なので、水俣病(みなまたびょう)と言います。\nなお、有名になったのは1953年ごろからだが、それ以前の1940年代ごろから、水俣病とおぼしき症例が知られている。\n人間以外にも、猫や鳥など、水銀に汚染された魚を食べたり水を飲んだりしたと思われる動物の不審死がいくつもあり、当初は、水俣病の原因もよく分かっていなかったので、しびれている猫が踊って(おどって)るようにも見えたことから、当初は「猫おどり病」(ねこおどりびょう)とも言われた。\nこれらの公害病の原因の物質を排出した会社や工場に対し、住民らが国に裁判を、訴え(うったえ)でます。\n四大公害の裁判は別々に行われましたが、判決は4つとも患者側の全面勝訴です。\n裁判は1960年代の後半に起こされ、1970年代の前半の1971年〜1973年ごろに判決が出ます。\n判決は、企業側の責任を認め、企業側は被害住民に 賠償金(ばいしょうきん) を支払うように命じた判決が出ます。\n四大公害などの発生を受け、公害対策の気運が高まります。\n近年では、焼却処理施設などから出るダイオキシンなど、新たな公害問題が社会問題に。\n企業の活動による健康被害だが、工場の中の従業員だけに健康被害がある場合については、「公害」と呼ぶ場合もあるが、ふつうは「職業病」(しょくぎょうびょう)などと呼ぶ。\n近年では、「アスベスト」という素材をあつかう労働者の健康被害が問題になった。アスベストは、断熱材などとして長い間、使われていたが、2009年に禁止になった。\n家庭からの排水や、自動車などの排煙によって環境が汚染されることも、公害である。\n公害とは、主に、以下の7つの公害が典型的である。\n環境基本法では、この7つの種類の公害を、典型七公害(てんけい ななこうがい)としている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%85%AC%E5%AE%B3%E3%81%AE%E9%98%B2%E6%AD%A2%E3%81%A8%E7%92%B0%E5%A2%83%E4%BF%9D%E5%85%A8"} {"text": "現在(2014年)、世界にある独立国の数は200近くです。\n世界中の人々は、どこかの国家に住んでいるか、どこかの国家に属しています。\n国家が、国内の政治について、外国から支配を受けずに、国家が独立を保つことや、国内政策を最終的には自国で決定する権利のことなどを 主権(しゅけん) と言います。独立国には、この主権が欠かせません。\n国家の主権は、法律的には、どの国にも対等です。(主権平等の原則)\n国際社会は、このような主権を持つ国々を中心に構成されています。\n国家が成り立つには、主権の他にも、国民(こくみん)と領域(りょういき)が必要です。国家は、領域・国民・主権の3つの要素から成り立っています。(国家の三要素)\n主権とは、外国からの内政への不干渉の権利です。主権は、その国家が、その国の領土と国民を統治することを正当化している権利であり、国内政策を最終的には自国で決定する権利です。\n領土(りょうど)・領海(りょうかい)・領空(りょうくう)などの、その国の主権が及ぶ場所をまとめて、領域の(りょういき)と言います。領空とは、領土・領海の上空で、大気圏内です。\nなお、沿岸から約12海里(=約22km)までの海が領海として認められます。また沿岸から200海里(約370km)までの水域(つまり12海里〜200海里の水域)で、領海の外側の範囲の水域のことを経済水域(けいざい すいいき)あるいは排他的経済水域(はいたてき けいざい すいいき)と言います。\n経済水域内にある漁業資源や鉱物資源は、沿岸国に権利があります。経済水域は領海と違い、他の国と重なることもあります。\n1982年に国連海洋法条約で、沿岸の海岸線から200海里までが排他的経済数域と定められました。\n英語で排他的経済水域のことを Exclusive Economic Zone というので、 略称で EEZ という場合もあります。\n経済水域の外側の、どの国の領海や経済水域にも属さない海は 公海(こうかい) とよばれ、公海では、どの国も平等に航行や利用が出来ます。(公海自由の原則)\n南極大陸や宇宙空間は、どの国の領域にも属しません。\n北海道の東にある北方領土(ほっぽう りょうど)の歯舞群島(はぼまい ぐんとう)、色丹島(しこたん とう)、国後島(くなしり とう)、択捉島(えとろふ とう)の北方4島(ほっぽう よんとう)は、明治時代から国際的にも日本固有の領土として認められていました。しかし第二次大戦の末期に、ソ連(現:ロシア)が日ソ中立条約を破り、またソ連はポツダム宣言での連合国どうしの約束を破り、ソ連が不法に北方4島などへの侵略を開始してソ連軍が北方の諸島に侵入し、この地域を守備していた日本軍と戦闘になった。そして、ソ連は最終的に4島を占領した。\nソ連が崩壊した後もロシアに不法占拠されている。北方領土をめぐる問題が解決してない。 ロシアは日本の北方領土の国後島などを不法に占拠している。\nしばしば、周辺の日本の漁船が近づくと、領海を侵したとして日本漁船を銃撃(じゅうげき)・拿捕(だほ)・抑留(よくりゅう)することも起きている。\n日本は返還交渉を続けていて、また文化的な交流事業なども続けているが、あまり進展はしていない。\n日本の島根県の竹島(たけしま)は、第二次大戦直後に韓国によって侵略され、現在(2014年の時点)は韓国軍が不法に竹島を占拠している状態である。\n歴史的には、そもそも竹島は1905年(明治38年)に、国際法に従って竹島が日本国の島根県に編入され、日本固有の領土となった。\nしかし第2次大戦後の1952年(昭和27年)、韓国の李承晩(りしょうばん)政権は、一方的に竹島を韓国領に取り込み、また日本海上に韓国は一方的に李承晩ライン(りしょうばんライン)を設定し、違反したとする日本漁船に銃撃(じゅうげき)・拿捕(だほ)・抑留(よくりゅう)などをした。\n1954年(昭和29年)には、韓国が竹島に沿岸警備隊を派遣し、竹島を占拠した。\n日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立(1965年)により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。\n李承晩ラインの廃止以降も、韓国は竹島を占有しつづけている。\n日本は、平和的な解決のための手段として、国際司法裁判所へ付託(ふたく)することを1954年以来から提案しているが、韓国政府がこれに応じていない。\nなお、竹島の韓国名は独島(トクド)である。\n沖縄県の、東シナ海上にある尖閣諸島(せんかく しょとう)は、1895年に日本に編入されて以来、日本固有の領土である。このとき、他国の領有の形跡が尖閣諸島には無かったと、日本側は確認したとしている。\nしかし、日本のこの島の領有に、1970年ごろから中国(中華人民共和国)、および台湾が反対をしている。\nこの海域にはこのころ、油田の存在が確認されていて、その問題も絡んでいるのだろうという指摘もある。\nそして2010年には、中国の漁船が、尖閣諸島の魚釣島(うおつりじま)の海域で日本の海上保安庁の巡視船に衝突する事件が起きた。\nただし、解決すべき領土問題は存在しない。\n国旗や国歌は、その国を表しているシンボルです。\n自国の国旗を大事にすることと同様に、外国の国旗も大切にすることが国際的な礼儀になっています。\n自国を愛して自国の旗や国家などに敬意を払うことも、国際的な礼儀となっています。なぜかというと、外国の人も、その国を愛し、その国の国旗と国家に敬意を持っているからです。\nなお、日本では法律で、国旗を日章旗(にっしょうき)とし、国家を 君が代(きみがよ) とすること1999年の国旗・国歌法(こっきこっかほう)の成立で決まっています。日章旗とは、「日の丸」(ひのまる)とも言います。\n愛国心とは、国を愛することです。政府を愛することではありません。国を愛することは、自国の歴史や文化などに、敬意や愛着をもち、大切にしていくことです。\n国の誇りを守ることとは、今の私たちだけの誇りを守ることではなく、未来の子孫の誇りを守ることです。私達のいまの日本の文化や歴史も、祖先たちが、子孫など未来の日本人のために、受け継いできたものです。\n国際法(こくさいほう)とは、国際社会での平和や秩序を保つためのルールや決まり・合意などのこと。\nなお、国際法は主に二つから成り立つ。\nひとつは国家間の長年の習わしによって成立した国際慣習(こくさい かんしゅう)である。例として、公海の自由(公海を船舶が自由に航行できる権利)や外交官の特権などが、国際慣習法である。\nもうひとつは、条約(じょうやく)で、国家間でむすばれた約束を文書の形で表したものです。条約には日米安全保障条約の様に2国間のものもあれば、南極条約の様に多国間での条約もあります。\n国際連合憲章などの国際機関に関するものも、これに含める場合もある。\n国際法には、平和時の通常の国際法とは別に、やむをえず戦争になったときのためにも国際法で戦争の当事国などを律するための戦時国際法(せんじ こくさいほう)もあります。\n国と国のあいだで、あらそいがおきたときに、法律的に公平な解決のための裁判をおこなうための機関。国連(国際連合)の機関である。\n裁判を始めるには、争っている両国の合意が必要。\nオランダのハーグにある。15名の裁判官で構成される。裁判官は加盟国から選ばれる。\n主権国家を抑えてまで従えさせる強制力は、国際法そのものには無い。\nたとえば国連(国際連合)でも、国連を構成しているのは個々の主権国家であり、それぞれの主権国家以上の力は国連そのものには無い。国連の資金も、どこかの国家が提供しているのである。\nこのような国際法の限界のため、たとえ国際法があっても、それだけでは、なかなか紛争や戦争が法律的には解決しないのが現状である。実際の戦争や紛争の対処には、各国の軍事力を背景にした外交交渉などが必要であるのが現状である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%9B%BD%E5%AE%B6"} {"text": "第二次大戦のときにあったアメリカを中心とした連合国(れんごうこく、United Nations ユナイテッド・ネイションズ)の51カ国のあつまりは、第二次大戦の戦後には、あらたな戦争をふせぐために国際政治を話しあう国際機関として1945年に作りかえられた。これが国際連合(こくさい れんごう,United Nations)である。\nこの連合国の国際機関としての変化はアメリカのルーズベルト大統領の提案による。\nその国際政治を話しあう場所に変化した連合国(United Nations ユナイテッド・ネイションズ)の機構が、現在(西暦2014年に本文を記述)の国際連合(こくさいれんごう、英:United Nations ユナイテッド・ネイションズ)である。(英語では連合国も国際連合も、ともに United Nations ユナイテッド・ネイションズ であり、区別してない。)\n日本では、連合国と国際連合を区別して呼ぶ。なお国際連合のことを、 国連(こくれん)と略すことも日本では多い。\n国連(国際連合)の本部(Headquarters)は、アメリカのニューヨーク(New York)にある。\nこの国際連合(こくさい れんごう)は、戦前にあった国際連盟(こくさい れんめい、League of Nations リーグ・オブ・ネイションズ)とは、べつの組織である。(たとえば、国際連盟 League of Nations の本部はスイスのジュネーブにあった。)\n戦争中の連合国の同盟をもとにして、新たに国際連合をつくった、というのが通説である。より正確に言うと、そもそも国際連合は、連合国が国際機関として発展した組織である。英語では、連合国と国際連合とを区別せず、ともに United Nations (ユナイテッド・ネイションズ) という。\n「連合国」と「国際連合」というように名前を変えているのは、日本国が勝手に「国連」と名前を変えて呼んでいるだけにすぎない。\nまた、主要国が国際政治を話し合う場所を国際連合に変えたことで、以前にあった国際連盟は自然に解消された。\n国際連盟の常任理事国(じょうにんりじこく)は、第二次大戦の連合国の主要国である。国際連合の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5か国である。\n国際連合は、平和をまもるために話し合いをする機関ということになったが、その「平和」とは、戦勝国にとって都合の良い平和にすぎなかった。\nたとえばイギリスやオランダなどの連合国は、第二次大戦の終戦直後は、東南アジアの新興国(しんこうこく)など植民地から独立した新興国にたいして再び支配しようと、かつての植民地だった国に軍を送り戦争をしかけるような有り様であった。\n国連は設立当初は第二次大戦の戦勝国であるアメリカやイギリスなどの戦勝国が、国際社会を管理するために国際平和を理念にかかげたにすぎない国際機関だった。\nこのような連合国の有り様もあり、永世中立国のスイスは、2002年までは国際連合に加盟しなかった。\nだが、1945年の国際連合の設立後、時代がすぎていくにつれ、第二次大戦後に独立した新興国などが新しく国連に加盟していき加盟国が増えていって、現代では国際連合は実際に国際問題を話しあったりして国際世論を形成する場へと成長した。\n現在では193カ国が国際連合に加盟している。(2011年の時点。)\n永世中立国のスイスは2002年まで加盟しなかったが、現在はスイスは国際連合に加盟している。\n日本は1956 (昭和31年)に国際連合に加盟した。\n国際連合憲章(こくさいれんごう けんしょう、英: Charter of the United Nations)には、つぎのようなことが書かれている。なお、国際連合憲章は1945年に開かれたサンフランシスコ(アメリカの地名、 San Francisco)での国際会議でまとめられた。\n憲章の全部は長いので、上にあげた内容はウィキブックスでの要約(ようやく)である。前文および19章111条からなり、とうてい全ては解説できない。\n国際連合には、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、国際司法裁判所・事務局などの主な機関と、ユネスコ(UNESCO、国連教育科学文化機関)や世界保健機関(WHO)などの多くの専門機関から、なっている。\n全ての加盟国から代表者が集まる会議で、毎年1回、9月に、ひらかれる。この毎年9月の国連の総会を 通常総会(つうじょうそうかい) という。\n世界でおこる、さまざまな問題について話し合う。\n総会での議題についての投票は、各加盟国が平等に1国1票(いっこく いっぴょう)の投票権を持ち、議決は出席国の過半数の賛成の多数決(たすうけつ)で成立するのが原則である。(重大な問題では3分の2以上の賛成が必要な場合もある。)\n通常総会とは別に、重大問題がおきたときには、特別総会(とくべつそうかい)が ひらかれる。さらに緊急性の高い重大時には緊急特別総会(きんきゅう とくべつそうかい)がひらかれる。\n安全保障理事会はつぎの5カ国の常任理事国と、2年で交代する10カ国の非常任理事国とを合わせた15カ国の理事国からなる。\n常任理事国(じょうにんりじこく)はアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・ 中華人民共和国 の5カ国で、この米ロ英仏中の五カ国は 五大国(ごたいこく) と言われる。\n非常任理事国は総会で選ばれ、日本もたびたび非常任理事国に選ばれる。常任理事国の機関は「常任」という名のとおり、無期限(むきげん)である。\n通常の問題については、15カ国のうち9カ国以上の賛成で決められる。しかし、重要な問題については常任理事国 の5大国全部の賛成がないと決定できない仕組みである。したがって、重要な問題では、常任理事国のうち1カ国でも反対すると決定できない。\nこのことを五大国の 拒否権(きょひけん) という。\n国際連合では、もし侵略行為を行う国があれば、加盟国全体で制裁を行う 集団安全保障(しゅうだん あんぜんほしょう、collective security) という考えをとっている。\n国際紛争が起きた時には、国連は解決に向けて、安全保障理事会などを開き、対策を会議します。\n国連は紛争地域などで、停戦の維持や監視、公正な選挙の実施などのため、派遣者として加盟国の軍隊などからなる武装した軍隊を結成して(「国連軍」とは別組織)、および非武装の停戦監視団・選挙監視団などを、当事国の同意にもとづき派遣して、それらの任務()を遂行することもあります。このような停戦監視などの活動のことを国連平和維持活動 (PKO)(Peace Keeping Operationの略)と言います。\nなお、PKOのために派遣される、武装した軍隊のことを国連平和維持軍(PKF、Peace Keeping Foece の略)と言います。(※ 検定教科書では、一部の教科書(清水書院や、育鵬社の教科書)で「平和維持軍」を紹介。)\n日本の自衛隊も国連のPKO活動に参加しており、さまざまな地域で活動しています。日本では1992年にPKO協力法(国際平和協力法)が制定され、カンボジアの復興のためPKOに参加するようになりました。カンボジアのPKOには自衛隊と文民警察官が派遣されました。\nその後もモザンビーク、ゴラン高原、東ティモールなどでのPKOに自衛隊は参加しました。\nなお、2003年のイラクでの自衛隊の復興活動は、国連のPKOとは別の活動です。\n世界の人々の生活や経済などの問題について広くあつかい、解決を目的とした機関で、国連のほかの多くの専門機関と連携しながら解決にあたっている。経済・社会・文化・教育・保健などについて、あつかう。\n独立を目指しているが、まだ十分な独立のための能力が足りない地域に対して、指導(しどう)・監督(かんとく)などを行う。\n1994年に独立したパラオが最後の信託統治地域であり、パラオの独立により信託統治地域は無くなった。そして信託統治理事会は役割を終え、現在は活動は停止している。今後は、必要がある時に会議が開かれるとされている。なおパラオの場所は、太平洋上のミクロネシア地域にある。\n国際連合ができる前は、国際連盟(こくさい れんめい)があった。\nかつて、国際連盟(こくさい れんめい)には委任統治(いにん とうち、mandate マーンデイト)という制度が合った。\n委任統治の対象地域は、第一次世界大戦での敗戦国ドイツの支配していたアフリカおよび太平洋の植民地と、敗戦国オスマン帝国(トルコのこと)の支配下にあった中東地域であった。\n委任統治とは、形式的には戦勝国がこれらの地域を自国の植民地とすることを防止して、また住民の福祉をすすめ、将来の自治・独立に向けた協力をすることが目的であるとされた。しかし実態(じったい)は植民地と変わらず、単なる名前の変更に過ぎなかった。 \nこの委任統治の制度は、第二次世界大戦後に廃止され、国際連合下の信託統治制度へと発展された。\n第二次世界大戦後に、アメリカ合衆国によって占領・統治され,1947年以降は国際連合からの信託統治になったマーシャル諸島(しょとう)においては,核実験が行われるようになった。太平洋上にマーシャル諸島はある。\nマーシャル諸島のビキニ環礁(ビキニかんしょう)では、23回もの核実験が行われた。\n国と国のあいだで、争いがおきたときに、公平な解決のための裁判をおこなう機関。オランダのハーグにある。15名の裁判官で構成される。裁判官は加盟国から選ばれる。\n国際連合のいろいろな事務を行っている。最高責任者は総会(そうかい)で選ばれ、選ばれた事務局の最高責任者を事務総長(じむそうちょう、英:Secretary-General of the United Nations)という。\n2009年には事務総長に韓国の潘 基文(パン・ギムン)が選ばれ、彼が第8代事務総長になった。\n国際連合には、専門機関(せんもんきかん、英: Specialized Agencies)がある。\n教育、科学、文化の発展による国際理解のもたらす平和を目的として設立された。まずしい国などで文字の読めない子たちに読み書きを教えて識字率(しきじりつ)を向上させる活動や、義務教育の普及のための活動、また、世界遺産の登録と保護などを行っている。\n本部はフランスのパリ。\nユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない」とある。\n戦争のある紛争地域など、めぐまれない環境(かんきょう)の子供たちや、発展途上国(はってんとじょうこく)の子供たちを支援(しえん)する活動をしている。\nまた、その活動のために寄付金(きふきん)を、あつめていもいる。\n感染病など病気の予防や対策を行ったり、世界の健康(けんこう)や衛生を守る仕事をしている。\nこの他にも、さまざまな専門機関があります。\n有名な機関は、\nなどがあります。\n国際通貨基金 IMFは、通貨の安定を目的とした機関です。IMFも国連の専門機関です。UNの文字が入ってないですが、IMFは国連の機関です。\n世界貿易機関WTOは、自由貿易をすすめるための機関です。\nさらに、この他にも専門機関があります。\n・ 国連難民高等弁務官事務所\n・ 国際労働機関 ILO\n・ 国際原子力機関 IAEA\nその他、多くの機関があります。全ての機関を覚える必要はないですが、機関の名前から、国連の仕事の内容をつかむようにしましょう。\nなど。\n日本は国連への分担金が2位。(2013年)\n1位はアメリカ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%8D"} {"text": "ヨーロッパ連合とは、ヨーロッパでの経済の統合など、ヨーロッパの国どうしで協力しあっている国家どうしの連合である。ヨーロッパ連合のことを EU(イーユー) という。European Union の略。\nEUの本部はベルギーの首都ブリュッセルにある。\nもともとは第二次大戦後に、ヨーロッパの資源の共同管理をすることで、資源をめぐる戦争をなくそうという平和目的として1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体( ヨーロッパ せきたん てっこう きょうどうたい 、英語 略称:ECSC イーシーエスシー)の設立が、戦争であらそったドイツとフランスを中心に設立された。結果的にドイツ・フランスにイタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクを加えた6カ国で1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立された。\n似たような国際機関で、1958年にはヨーロッパどうしの経済協力を目的にヨーロッパ経済共同体( ヨーロッパ けいざい きょうどうたい、EEC イーイーシー )が設立した。また1958年に原子力の共同管理のためのヨーロッパ原子力共同体(ヨーロッパげんしりょく きょうどうたい、 EURATOM 、 ユーラトム)が設立された。\nこのECSCとEECとEURATOMの3つが統合して、1967年に発足したヨーロッパ共同体( EC(イーシー) )が設立された。\nその後、ECは加盟国が増えていった。\nこのヨーロッパ共同体ECが、1993年にはヨーロッパ連合(EU 、イーユー)に発展した。\n国際機関が多く出てきたが、とりあえずEU(ヨーロッパ連合)だけを覚えておけば、たぶん大丈夫だろう。\n2002年からEUの共通通貨のユーロが加盟国の多くで使われている。このため、それまで加盟国にあった通貨(たとえばドイツのマルク通貨やフランスのフラン通貨など)は回収された。域内での関税は撤廃されている。EUの加盟国は27カ国に達し、域内の人口は5億人におよぶ巨大な経済圏である。\n欧州連合の旗は、つぎのような旗です。\n1967年に東南アジアの諸国を中心にASEAN(アセアン、東南アジア諸国連合)が結成され、政治経済や安全保障の分野での協力をしている。\n現在のASEAN加盟国は、インドネシア 、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、 ラオス、 カンボジア。\nカンボジアは、1999年にASEANに加盟。カンボジアでは第二次大戦後、1970年代ごろから、たびたび内戦があった(カンボジア内戦)。\n内戦のきっかけとなっていた独裁勢力が、1991年には追放され、その後、カンボジアでの独裁や内戦の心配がなくなり、そして1998年にはカンボジアがASEAN加盟が認められた。\n日本はASEAN加盟国では無いが、ASEANの発足当初から日本はASEANに協力し、たびたび会議などに参加している。\n第二次世界大戦の前では、世界恐慌により、欧米諸国が自国に有利な関税引き揚げなどの保護的な貿易を行って、閉鎖的な経済ブロックをつくった。それが、諸国どうしの対立につながり、世界大戦のきっかけの一つとなったと考えられてる。\nまた、日本軍が、第二次世界大戦で、東南アジアに進出するきっかけになったのも、アメリカなどからの日本への石油の輸出禁止によって、日本が石油を輸入できなくなったという理由もある。\nこのような、経済ブロックの失敗による反省にもとづき、第二次世界大戦のあとは、貿易をなるべく開放的にすることが望ましいとされた。\nそして、1948年、「関税と貿易に関する一般協定」(GATT)が結成され、国際的な関税の引下げが計られた。\n世界貿易機関(WTO)は、GATTにかわって、1995年に結成された。WTOは、さらなる自由貿易の促進のため、関税の引き下げや、貿易の障害になりうる制限である貿易障壁を取り払うことを呼びかける国際機関。2016年では、約160カ国が加盟している。\n日本もこれに加盟し、なるべく関税の引き下げや貿易障壁などに協力している。\n太平洋沿岸地域ではアジア太平洋経済協力APEC(エイペック、Asia-Pacific Economic Cooperation の略)\n1989年にオーストラリアの呼びかけて発足。日本も、発足時から参加している。\n日本・アメリカ合衆国・カナダ・韓国・オーストラリア・ニュージーランドおよび当時の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 加盟6か国の計12か国で発足した。\nオーストラリア、日本、アメリカ、韓国、台湾、中国、香港、メキシコ、カナダ、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、ニュージーランド、フィリピン、シンガポール、タイ、パプアニューギニア、チリ 、ペルー、ロシア、ベトナム が参加している。\n北アメリカ大陸でアメリカ、カナダ、メキシコが結んでいる貿易の協定。関税の撤廃などの自由貿易の推進をしている。\nその他、2国間以上で相互に関税の引き下げるなどの協定を結ぶ自由貿易協定(じゆう ぼうえき きょうてい、FTA )を結ぶことも多い。\nFTAはFree Trade Agreement の略。\nFTAをさらに発展させたものとして、関税だけでなく各国間での人(ひと)の移動の規制緩和などをふくむ、より深い経済交流の協定である経済連携協定(EPA)がある。EPAはEconomic Partnership Agreement の略。\nこれらの経済のグローバル化によって、価格は安くなった。その反面、いくつかの産業では先進国から人件費の安い国へ産業が流れて、先進国でいくつかの産業が衰退した。\nまた、各国で景気が連動するようになった。2007年〜2008年におきた、アメリカの住宅バブル崩壊がきっかけの国際的な金融危機である世界同時不況は、その例であろう。\nブラジル、アルゼンチンなど、南米諸国5か国が参加している、経済的な地域機構である。\n東南アジア諸国のGDP(国民総生産)の合計よりも、南米諸国のGDPの合計のほうが大きい。\n2010年度のGDPでは\nである。\nアメリカやイギリス・フランス・ドイツなどの先進国は、アフリカなどの発展のおくれた国に資金援助や技術援助などの援助をおこなっている。\n日本も、同じように、アフリカなどに資金援助や、農業技術や医療技術などの指導の技術援助などを、アフリカやアジアの発展の遅れた国に援助している。\n先進国の政府や政府機関による、発展のおくれた発展途上国に対して行う政府援助を政府開発援助(せいふ かいはつ えんじょ、ODA オーディーエー)と言う。\n日本が派遣(はけん 、英:despatch)している青年海外協力隊(せいねんかいがいきょうりょくたい)もODAのひとつであり、アフリカなどで技術支援をしている。志願できるのは、20〜39歳の青年の男女の日本人が志願できる。\n40才〜69才の年長者は、シニア海外ボランティアに志願できる。\nODAは政府活動である。\n・ NGO (非政府組織、※ 「エヌジーオー」と発音)\n政府指揮下の団体のほかに、民間にもボランティア活動をしている人たちはいる。外国での活動にかぎらず、国内活動でも国外活動でも、民間のボランティア活動をしている組織や団体を非政府組織(ひせいふ そしき、NGO エヌジーオー、non-governmental organizations)と言う。\n赤十字や、「国境なき医師団」は、NGOである。\n日本では国外でのボランティア活動をしている組織や団体に対してNGOという場合が多い。\nNGOの中には、国連などと共同作業している国際的な団体もあるが、かならずしも全てのNGO団体が、国連と関係が深いわけではない。\n・ NPO(非営利組織 、 ひ えいり そしき、Non profit Organization ) ※ 「エヌピーオー」と発音\n「非営利組織」(NPO)といっても、けっして「商売をしない」という意味でもなく、また「利益を出してはいけない」という意味ではなく、もしも利益が出ても、最低限の給料だけを従業員などの関係者に分配して、あまった利益は今後の活動のための資金にしている団体のことである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BB%A5%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%B5%84%E7%B9%94"} {"text": "2001年、アメリカのニューヨークで、何者かによる航空旅客機のハイジャックによるテロ事件が起こり、多くの乗客が死んだ。その後すぐに、このハイジャック犯の正体は、アルカイダというイスラム系の過激派組織の一味だということが分かった。\nこのアメリカでの2001年のテロ事件を アメリカ同時多発テロ などと言う。\nアメリカは、このアルカイダをかくまっていたアフガニスタンのタリバン政権を攻撃し、戦争になっていった。\nアフガニスタン攻撃の後のころ、イラクには大量破壊兵器を開発しているという疑惑があった。国連はこの疑惑を調べようとしたが、イラクは国連の調査に協力的でなかった。\nアメリカはイラクが大量破壊兵器を開発していると判断し、2003年にアメリカはイラクを攻撃した。\nこれを イラク戦争 と言う。\nイラク戦争ではアメリカが勝利した。\nドイツやフランスなどは、イラク攻撃の理由が不十分だとして、アメリカの戦争には参加しなかった。\nイラク戦争によってサダム・フセイン政権は崩壊した。しかし、イラクではフセインの独裁がなくなったことにより、それまでフセイン政権の軍事力をおそれていたテロ組織がイラクで活動するようになった。そして、イラク戦争後にイラクを占領していたアメリカ軍やアメリカ軍の協力者には、テロによる多くの死者が出た。\nしかし、イラクは実は大量破壊兵器を開発しておらず、国連の調査に協力しなかったのは、イラクが大量破壊兵器を開発しているように見せかけることで、イラクの国際社会への影響力を強めようとしたフセインのウソであることが判明した。\nイラク戦争が、フランスやドイツなどの大国を無視して行われたので、国際社会でのアメリカの影響力が落ちていった。\nアフリカで、以下の場所が、以下のように紛争地帯になってる。\nまた、これら(スーダン、ソマリア、コンゴの紛争など)の紛争により、多くの難民が発生している。\nスーダンでは、北部のアラブ系イスラム教徒と、南部のアフリカ系住民の地域(キリスト教徒が多い)とが対立。\n2003年に、西部のダルフール地方が、アラブ系イスラム教徒によって襲撃されたため、国連がPKO部隊を派遣した。\n2011年に南スーダンが独立した。\nルワンダでは、多数派のツチ族と、植民地時代の支配者であったフツ族とのあいだで内戦が発生している。\n1994年、ルワンダで、フツ系の武装勢力による大量虐殺(ぎゃくさつ)事件が起きた。\n東アフリカにある、インド洋に突き出た位置にあるソマリアが、紛争の多発地帯である。\n1945年〜1946年に結成された旧ユーゴスラビアは、社会主義で、多民族国家で、6つの共和国からなる連邦国家であった。\nセルビア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、スロベニア、マケドニア、モンテネグロの6ヶ国からなる。\n冷戦の終結時、民族運動が高まり、そして1991年にスロベニアとクロアチアが独立した。その後、ボスニア=ヘルツェゴビナやモンテネグロも独立。\n宗教は、ギリシャ正教、カトリック、イスラム教が混在している。ボスニアにはイスラム教徒が多い。\n各国の独立のさい、各国内で、民族対立や宗教対立が起きた。\nボスニア=ヘルツェゴビナでは民族・宗教対立から内戦になった。\nまたセルビアでは、2008年にコソボが独立を宣言したが、セルビア政府はこれを認めていない。\n旧ユーゴスラビアは指導者チトーによって率いられていた国で、「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国」と言われた。\n冷戦中、社会主義系の独裁者ポル・ポトが権力をにぎり、極端な社会主義を掲げた独裁政治により、1979年ごろに多くのカンボジア国民が虐殺、または飢餓などで死亡した。(※ ポルポトの名前は高校の「地理」「公民」参考書にも出てこない。高校の「世界史」の教科書には出る。)\nその後、カンボジアはベトナムと対立し、やがてベトナムがカンボジアを侵略すると、カンボジア国内でカンボジア国民がポルポト政権によって大量虐殺されている状況が明らかになった。\nこの後、カンボジアで、さまざまな紛争や内戦が起こり、最終的にポル・ポトは追放された。\n東ティモールは、2002年にインドネシアから独立した。1999年に国連の監視下のもとで、独立するかどうかの投票が行われ、その結果、独立が多数をしめたので、2002年に独立した。\nこの独立の前後に、反対派による襲撃があった。そのため、国連のPKOが派遣された。現在でも、政情が不安定である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%B4%9B%E4%BA%89%E3%81%A8%E3%83%86%E3%83%AD"} {"text": "\n冷戦中、アメリカとソ連は核兵器の数を競い合いました。\n冷戦が終わっても、核兵器は残りました。いま(2014年)、世界にある核兵器の多くはアメリカとロシアの核兵器です。\n冷戦中の米ソは、核兵器を持つことで、相手の国をおどして自国への攻撃を防ぐという核抑止論(かく よくしろん)に基づいて、アメリカとソ連の両国は自国の核兵器を増やしていました。\nたしかに冷戦中には、アメリカとソ連のあいだには、直接の戦争は置きませんでした。\nしかし、その結果、核兵器を増やしていく競争になり、核の処分に困ることになりました。\n昨今、保有国のアメリカとロシアなどは、たとえ保有する核兵器を削減しても、自国の核兵器の保有禁止はしておらず、核兵器の保持をし続けている。\nいっぽう、日本は1960年代ごろから非核三原則(ひかく さんげんそく)を掲げており、国際社会に核廃絶を訴える立場を取っている。\n非核三原則は「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」からなり、1960年ごろから政府が国会で、これらの原則を打ち出したものである。だが、法律では無いので、法的な根拠や拘束力は無い。\n日本と日米安全保障条約を結んでいるアメリカが、核兵器を保有していることいっぽう、日本はアメリカに安全保障の軍事面を多くたよっていることから、たびたび、「もちこませず」について、議論になる。\n「核兵器を持たず、作らず」の2項目については、1955年(昭和30年)に締結された日米原子力協力協定や、それを受けた国内法の原子力基本法および、国際原子力機関(IAEA)による査察(ささつ)の受け入れ、核拡散防止条約(NPT)等の批准で法的に禁止されている。\n保有国以外が核兵器を持つことを禁止。すでに持っていた、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の5カ国以外の国の、核保有を禁止した1968年からの条約である。\nこの条約には、批判もされていて、すでに核兵器を持っている核保有国が核兵器を独占することを認めているだけの、わがままな条約だという批判もある。\n現実には、核保有国の削減は、あまり進んでいない。\nあらゆる場所での、核兵器の開発のための核実験の禁止する条約を1996年に国連総会が採択した。\nしかし、これらの条約に関わらず、現実としては、核保有国は、増えている。たとえば、1990年代後半には、インドやパキスタンが核実験を行い、核保有をしました。インドは中国などの核兵器に対抗する措置として、核開発を行い、またパキスタンはインドと対抗するために核開発を行っていました。\n北朝鮮が核開発を行い、核保有の疑いが高く、北朝鮮に日米による北朝鮮への核放棄の要求をせまる六カ国協議( 参加国: アメリカ、ロシア、中国、日本、韓国、北朝鮮 )などが開かれても、協議に参加したアメリカもロシアも中国も、自国の核兵器を放棄しようとはしていません。2006年には北朝鮮が核実験を行いました。\n核保有をしていない日本や韓国も、アメリカや中国やロシアには、核放棄を要求していません。\n日本周辺の各問題では、北朝鮮による核開発や、すでに核兵器を多く保有している中国の核ミサイル配備が、日中や米中のあいだで、軍事的緊張を高めています。\nですが、世界的には、核兵器の保有数はロシアが世界1位で、アメリカが世界2位です。\n中東では、イスラエルが核兵器を保有している可能性が高く、それに反発するイランやシリアが核開発を進めています。\n日本が長年、核廃絶を唱えても、国際社会では、核兵器の保有国が増える傾向にあります。\nたとえ日本国などの学校教育で、核廃絶の意義や素晴らしさが唱えられても、核保有や核開発を行っている国々は日本の学生や教員の考えなんかには従ってなんかくれません。\n「ロシアやアメリカなどの一部の国だけが核兵器を保有できるのは、おかしい」という国際社会の一部の意見には、見方を変えれば、「どこかの東洋の国の意見では、ロシアやアメリカなどの核保有には文句をつけないのに、他の国が核保有や核開発を行うと東洋のある国は文句をつけて、その東洋のある国は「自国は平和主義だ」としている。東洋のある国の意見は とても自己中心的でオカシイ」という見方もできるかもしれません。\n「たとえ国際社会で受け入れられなくても、それでも核放棄の意義を主張しつづけることは素晴らしい」と言う考えが日本国などの学校教育にあっても、そのような日本国などの学校教育の見方にすら、核保有や核開発を行っている国々では、そのような見方は受け入れられてはいないのが現実です。\nたとえ国際連合が核開発を制限する条約を採択していて、それについて日本人の考えで「国際連合は平和主義の素晴らしい組織であり、だから国連の意向に従って核放棄をすべきである。」と日本が考えようが、そのような「国連を素晴らしいとする」という日本の考えや「国連を平和主義とする」という日本の考えや、「軍縮を平和主義とする」日本の考えにすら、そもそも外国は必ずしも従ってくれれません。\n国際社会は、たかが日本の都合には合わせてくれないのです。ましてや、その日本の学校教育の都合になんか、国際社会は全く合わせる理由はありません。\nたしかに、一部の国だけが独占的に核兵器を保有しているのは、どう考えても不公正です。\nその一方で、核兵器の拡散が再現なく続いて広まっていけば、これはとても危険です。テロリストに核兵器が渡る懸念(けねん)もあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%A0%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%A8%E8%BB%8D%E7%B8%AE"} {"text": "などの問題がある。\n地球温暖化(ちきゅう おんだんか) の主な原因は、石油などの化石燃料(かせき ねんりょう)の大量使用によって、排気にふくまれる二酸化炭素(にさんかたんそ)により、空気中の二酸化炭素が増加したためと考えられている。\n国連では温暖化の防止のため、1992年に国連環境開発会議(地球サミット)がブラジルのリオデジャネイロで開かれ、地球サミットで条約として地球温暖化防止条約( 気候変動枠組み(わくぐみ)条約)が採択された。\nまた1997年には、国連の会議(地球温暖化防止 京都会議)で,温室効果ガスの削減目標を定めた京都議定書(きょうとぎていしょ)が採択された。\nしかし、中国などの発展途上国と見なされていた国には、削減が義務づけられていない。\nまた、アメリカは当時に会議から離脱した。\n国別の排出量では2009年では、中国が1位であり、アメリカが2位である。\nこのような理由のため、京都議定書の実効性が疑問視されている。\n(削減義務を負わない)発展途上国と見なされた国の反論は、「地球環境問題を引き起こした原因は、主に先進国の活動が原因であり、われわれ途上国に負担を負わせるのはおかしい。」というような反論を途上国している。\n海抜の低いツバル、モルディブ、キリバスの国は、海水面が上がれば国土の多くが水没してしまう恐れがある。\n南極の大陸上の氷や氷河の氷が溶ければ、海面上昇。低地が水没する。なお、北極の氷が溶けても、もともと北極海に浮かんでいる氷が水に変わるだけなので、海面は上昇しない。\n温暖化によって、マラリアを媒介する蚊のハマダラカの生息域が広がる恐れが有る。\nなお、二酸化炭素のことを化学式から CO2(シー・オーツー) とも言う。Cが炭素(英:carbon カーボン)のことで、Oが酸素(英:Oxygen オキシジェン)および酸化(Oxidation オキシデイション)のことである。\n主に発展途上国で、耕作や放牧や工業化を目的にした森林伐採などで、森林面積が減少している。温暖化の原因にもなっていると考えられている。また、動物の生息域が減るので、生態系の保護の観点からも、森林破壊が問題である。\nなお、温暖化の化石燃料以外の他の原因として、森林伐採などによる森林の減少によって、植物の光合成(こうごうせい)による二酸化炭素の吸収量が減ったのも理由の一つでは、という説もある。\nもともと植物の少ない地域で、その地域が砂漠になる現象が世界の各地で起きている。原因は、過度の農業化や周辺の森林伐採などにより、\n土壌の保水性が失われたことなどである。\n酸性雨の原因は、化石燃料の排気にふくまれる窒素酸化物などの物質が、雨の酸性化の原因と考えられている。酸性雨により、森林が枯れたり、湖や川の魚が死んだりする場合もある。\nフロンガスという物質が原因で、オゾン層が破壊されることが1980年代に分かった。\n地球環境問題は一国だけの問題ではなく、複数の国々、さらに世界中全ての国に影響を与える問題である。このため、1970年代から国際会議でも取り上げられる重大なテーマとなった。\n地球環境問題についての最初の国際会議は1972年にスウェーデンのストックホルムで開かれた国連人間環境会議(ストックホルム会議)では「かけがえのない地球」(Only One Earth)というキャッチフレーズが用いられた。(※ 英語の Only One Earth まで最近の東京書籍の検定教科書にある)\n1992年にはブラジルのリオデジャネイロで国連地球サミットが開かれた。( ※ 正式名称は「環境と開発に関する国際連合会議」。ただし、「リオ会議」「国際連合環境開発会議」などとも呼ばれる。 ) 国連地球サミットにおいて、「持続可能な開発」(Sustainable Development)という考え方が示された。(※ 英語の Sustainable Development まで最近の東京書籍の検定教科書にある)\n1997年には京都で開かれた京都会議( ※ 正式名称は「第3回 気候変動枠組(わくぐみ)条約 締約国(ていやくこく)会議」 )において京都議定書(きょうと ぎていしょ)が締結され、世界の主要国が温室効果ガスの削減を求められるようになった。議定書の発効は2005年からである。\nこのようにして世界の国々が地球環境問題に対して一致して取り組むことが求められるようになったが、京都議定書からのアメリカの離脱、中国の経済発展にともなう温室効果ガス排出量の急増、発展途上国の経済発展と環境への影響の増大などに見られるように、各国の事情や利害の対立から一致した行動にはほど遠いという問題は解決されていない。\nヨーロッパでは陸続きの国が多いので、一つの国の環境問題が周囲の国に影響を与えることも大きく、環境問題が外交問題になりかねないこともあり、ヨーロッパでは1970年代ごろから環境問題の取り組みが積極的に行われてきた。\n私達には何ができるでしょう。例えば、スーパーで袋を貰わない、ほかにも基本的なことだけど、ゴミの分別があります。\nそうしたことを私達で行っていきましょう。\nたとえば買い物をするときは、マイバッグなどのカバンをつかうことで、ビニールぶくろをへらせます。洗剤(せんざい)などを買うときは、つめかえようの洗剤を買うことで、容器のおもさをへらせます。\nいらなくなったものは、人にあげたりすることで、そのものが使いつづけられるようにすることでも、あります。洋服などの布は、切れなくなても、雑巾や布巾の材料にできますし、機械などの油をふきとるための ウエス という布地の材料にもなります。\n空き缶などは、分別してゴミにだすことで、缶の資源として再利用してもらえます。ペットボトルも分別してゴミに出すことで再利用してもらえます。\n食品のトレーなども、スーパーの入り口などにある回収ボックス(かいしゅうボックス)に出すことで再利用してもらえます。\n新聞紙や雑誌などの古紙などは、地元のゴミ収集所の、古紙回収の日に、分別して出すことで再利用してもらえます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%92%B0%E5%A2%83%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "日本はエネルギー資源の80%ちかくを輸入にたよっている。\n原子力発電とは、ウランなどの放射性物質を用いて、放射熱で水蒸気を発生させて発電する方法である。\n使用済み核燃料に含まれるウランやプルトニウムを再処理工場で再生する試みは、1993年から建設を始めたが未だに(2019年)再処理工場が完成していない。\n火力発電とは違い、石油などの化石燃料を原子力発電では用いないので、原子力発電は温室効果ガスを出さない。しかし、日本には原子力発電所から排出される放射性廃棄物の最終処分場がない。また、原子力発電所からは、放射性のトリチウムやキセノンガスが放出され、原子炉の定期点検のために放射線被ばくを伴う作業が必要になる。\n日本では1970年代のオイルショックによる石油不足の反省などから、エネルギー源の確保の観点から石油だけでなく天然ガスなどエネルギー源を多様化する政策が取られてきた。\nそのエネルギー源多様化の政策の一環で、ウランも発電用エネルギー源として輸入されてきた。\n2009年2月には、日本に55基の発電用原子炉があり、日本の発電量の3割を原子力発電が占めていた。内訳は、水力発電が約10%、火力発電が約60%原子力発電が約30%だった。\n2011年の東日本大震災での原子力発電所の事故により、国内の全ての原子力発電所で追加の安全対策工事が必要になった。2013年9月15日から2015年8月10日までの約2年間に渡り、すべての原子炉が稼働停止したが、その間に日本の電力が不足することはなかった。\n地震や火山活動が活発な日本列島での原子炉の安全性に不安が大きく、外国からのミサイル攻撃の標的になる可能性も指摘されているために、今後の原子力政策のあり方の議論が高まっている。\n石油などの化石資源やウランなどの有限な資源を用いない、再生可能な太陽光発電、太陽熱発電、風力発電などは、発電の効率が悪い。\nたとえば太陽光発電では、原理的に広い土地を必要とし、また夜間は発電できない。改良は進められているが、しかし、どんなに改良が進んでも、地上にふりそそぐ太陽光そのもののエネルギー以上には発電できない。\nサトウキビなどからエタノールを作り、そのエタノールを燃料にするバイオエタノールがある。\n当然、増産した分だけ食料の生産量は減る。そのため、増産できる量には限りがある。\n水素ガスなどからエネルギーを取り出せる燃料電池は、べつに発電方法では無い。電池は、発電した電力を蓄える装置でしかない。水素ガスを作るために、別の電力が必要になる。\nエネルギーのうち、原油、天然ガス、石炭などのような化石燃料や、ほぼ無加工で使えるエネルギーのことを「一次エネルギー」と言う。\nいっぽう、電気は「二次エネルギー」である。都市ガスやガソリンを、二次エネルギーに分類することもある。\n原子力は、発電の手段でもあるので、原子力を一次エネルギーに分類することもある。\n現在(2014年)、世界の人口は約70億人である。これからも人口は増加する見込みである。\n世界の人口は1900年ごろから急激に増え始めた(1900年には約16億5000万人。)。\n特に第二次世界大戦後の1950年には25億人を突破した。このような急激な人口の増加は「人口爆発」(じんこう ばくはつ、英:Human overpopulation)と言われた。\n現在(2014年)では、ヨーロッパや日本などの先進国では少子化による人口の減少の傾向がある。しかし、途上国では人口が増加する傾向にあり、地球全体としては人口は増加する見通しである。近年では、アフリカ諸国や中東(ちゅうとう、アラビア地方のこと)で、人口の増加が大きい。\n人口が増えるいっぽう、食料の生産量が増加できる見込みは無いので、将来的に食料が不足する危険性が高まっている。\n食べ物だけでなく、飲み水も不足する恐れがある。\n人口の増加によって、エネルギー源も不足する恐れがある。また環境の悪化を起こす可能性も高いと考えられている。\n国連の予測では、2050年には世界の人口は約90億人になると国連は考えている。\n石油や石炭など資源の埋蔵量には限りがあるので、今後に採掘できる 可採年数(かさい ねんすう、minable years、または R/P ratio、reserves/production ratio) は限られている。\n限りある資源は、何もエネルギー資源だけに限らず、鉄鉱石など鉱物の埋蔵量にも限りがある。\nなので、鉱物資源を用いた製品をリサイクルしていくことが必要である。\n人間にやさしい環境を維持するために、社会を持続可能なものにしなければならない。\nエネルギー問題の解決に必要なことは、けっして技術や制度だけに頼るのではなく、生活を見直してエネルギーの消費そのものを減らしていくように自分たちを改革する必要があるのだろう。\n「地球にやさしい環境」などという言葉があるが、べつに地球は泣きも笑いもしない。たとえば石油が枯渇して困る生き物は人間であり、鳥や魚などの他の生き物ではないし、まして地球そのものは惑星であり生物ですらない。\n森林資源の保護などは人間以外の動物にも優しいかもしれないが、環境保護の目的はあくまでも人間のためである。\nわれわれ人間は自分が生きるために、豚や牛や魚を殺して食肉として食べている。\n2015年、2016年から2030年までの持続可能な開発目標として SDGs が定められました。\nSDGs(持続可能な開発目標)の文字 D の意味する「開発」(Development)には、経済的な豊かさだけでなく、精神的・人道的な豊かさも含まれており、\nなのでたとえばフェアトレードなどもSDGsの考え方に合致しています(※ 教育出版の見解)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E8%B3%87%E6%BA%90%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%80%81%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%80%81%E9%A3%9F%E6%96%99%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "メインページ > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中高一貫校の学習 > 中等教育前期の数学\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E5%89%8D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%A6"} {"text": "1よりも小さい、はしたの数を計算できるように小数点(.)を使って表した数のこと。\n2つの数a, bがあり、aをbで割った商を数にしてあらわしたもの。\nまた、次の単位も使われることがある。\n普通、液体の体積は次の単位を用いる。\n単位Lは筆記体の小文字ℓで書くこともある。\nまた、容積と体積の関係は次の通り。\nある決まった時間内に進む距離のことを速さという。例えば、10秒で進んだ距離なら秒速、5分で進んだ距離なら分速が使われる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6/%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E5%BE%A9%E7%BF%92"} {"text": "高等学校入学試験数学では、おおむね次の4つが出題される。\nここでは、この4つについて、過去問も交えて受験対策をしていくことにする。\n公立高校の場合、最初は様々な分野から出題される小問集合となっていることが多い。ここの出来不出来は合格を左右する。例えば、東京都立高校の共通問題の場合、100点満点中46点ほどがここに含まれる。上位校なら全問正解が前提となるので、素早く正確に解いていきたい。中堅ならば素早くなくてもよいが、正確である必要はある。ここで1点でも多く稼げれば、後のミスをリカバリーできる。\n普通の公立高校では、計算はごくごく単純で、小学校の計算問題(特に分数や小数の四則演算)、正負の数の四則演算、一次方程式、平方根の混じった式が出やすい。問題数はおおむね、3~5問。そのため、これはウォーミングアップ程度に考え、1~2問解くことによって緊張をほぐすようにするとよいだろう。また、その場合は後の難問に備えてなるべく速く解くべきである。そして、ここは全問正解を目指すべきである。\nしかし、程度の高い私立高校では、普通にやってはとても解けないような問題がある。これは「置き換え」をマスターしているかどうか問う問題である。よって、何度も出ている数や式をA,Bなどに置き換えるとほぼ確実に解ける。ともかく、ここは点数稼ぎになる。見直しの時間を難問に充てるためにも、素早く正確な計算力を磨いてほしい。\nただし因数分解と二次方程式では、高度な応用力が必要となる場合がある。小問の誘導を見極めること、どんな式が作れるか見極めること、そして最終手段としての数を絞って代入して行くという方法を忘れないことが肝心である。\nとは言っても、実際はこれはほぼ考え尽くされてしまっており、そのパターンが十分理解されておれば楽に解ける問題が多い。\n近年、統計分野が重視されていることから、資料の整理に関する問題が1・2問出ることが多い。平均値の求め方はもちろん、その他の用語の意味と求め方をしっかり復習しよう。ここは「わかっていれば簡単だが、わかっていなければ全然取れない」ところである。特に、中央値・最頻値・相対度数などの用語に気をつけたい。\n作図は図形分野だが、図形の大問よりも小問集合で出ることが多い。公立高校入試ではほぼ必須である。\n問題集や教科書にあるようなレベルのものからかなり高度な問題まであり、都道府県や学校ごとの差が大きいのが入試の文章題の出題傾向の特徴である。また、都立高校入試(共通問題)のように数式を証明させる問題もある。\n1. 徒歩でA地点からB地点まで行くのに、時速4kmで歩くと、予定より15分遅れ、時速5kmで歩くと予定より15分早く着く。このとき、次の問いに答えよ。\n公立高校受検ならば、平面図形の問題では作図と証明が必ず出題される。ただ、作図は小問集合(概ね大問1か2)、証明は平面図形の大問で出題される。\n独自問題を出す公立高校入試や難関私立では、現在では高校数学Aの図形で習う内容を知っていると大変有利になることがある。この内容は、昔(1993年以前)は中学校内容だったせいか、発展内容として難易度の高いテキストには掲載されていることが多い。そちらで練習するといいだろう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A0%A1%E5%8F%97%E9%A8%93%E6%95%B0%E5%AD%A6"} {"text": "不正確な記述が含まれる記事です。詳細はトークページをご覧ください。\n数学には、中学でならう数学のほかにも、色々な数学があります。\nまた、次に紹介するもののいくつかは、日本の高校の数学や理科などで、習うものもあります。\nほんの少しだけ見てみましょう。\nボールなどを高いところから落下させるとき、落下した高さを \n\ny\n\n{\\displaystyle y}\n〔m〕として、手を話してから経過した時間を \n\nx\n\n{\\displaystyle x}\n〔秒〕とすると、およそ \n\ny\n=\n5\nx\n2\n\n\n{\\displaystyle y=5x^{2}}\n の関係で落下します。\n中学3年の数学で \n\ny\n=\na\nx\n2\n\n\n{\\displaystyle y=ax^{2}}\n の形の関数を習いましたが、この関数をつかって、高校では、物体の落下などの運動を分析できるようになります。\n中学校では \n\ny\n=\na\nx\n2\n\n\n{\\displaystyle y=ax^{2}}\n の形の関数を習いましたが、高校では、さらに \n\ny\n=\na\nx\n2\n\n+\nb\nx\n+\nc\n\n{\\displaystyle y=ax^{2}+bx+c}\n の形の関数を習います。\nなお、 \n\ny\n=\na\nx\n2\n\n+\nb\nx\n+\nc\n\n{\\displaystyle y=ax^{2}+bx+c}\n の形の関数のことを 2次関数 といいます。\n中学校で「1次関数」というのを習いましたが、「2次関数」とは \n\ny\n=\na\nx\n2\n\n+\nb\nx\n+\nc\n\n{\\displaystyle y=ax^{2}+bx+c}\n の形の関数です。\nこの2次関数を使うことにより、より一般的な現象が計算できるようになります。\n2次方程式 \n\na\nx\n2\n\n+\nb\nx\n+\nc\n=\n0\n\n{\\displaystyle ax^{2}+bx+c=0}\n の解の公式で、\n\nx\n=\n\n−\nb\n±\n\nb\n2\n\n−\n4\na\nc\n\n\n2\na\n\n\n{\\displaystyle x={\\frac {-b\\pm {\\sqrt {b^{2}-4ac}}}{2a}}}\n というのを、中学校で習っています。\nところで、 \n\ny\n=\nx\n2\n\n+\n2\nx\n+\n5\n\n{\\displaystyle y=x^{2}+2x+5}\n をグラフに書くと、この関数はx軸とは交わりません。\nx\n2\n\n+\n2\nx\n+\n5\n=\n0\n\n{\\displaystyle x^{2}+2x+5=0}\nについて、解の公式に代入しても、\nのように、\n\n\n−\n16\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {-16}}}\n のような負の数の平方根が出現してしまいます。\n高校で習う数学により、このような数の使い方が分かるようになります。\nなお、負の数の平方根のことを「純虚数」(じゅん きょすう)といいます。 \n−\n16\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {-16}}}\n は虚数です。\nいっぽう、有理数の集合 と 無理数の集合 をあわせた集合にふくまれる数のことを 実数 (じっすう)と言います。\n虚数は、実数ではないです。\n次に言うことは数学的には厳密ではないですが、「実数」とは「物の長さとして表せる数またはその-1倍のこと」だと思っておけば、中学〜高校レベルでは充分でしょう。\n2\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {2}}}\n だって、正方形 ABCD の対角線の長さは、辺ABの長さの \n\n\n2\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {2}}}\n 倍ですので(三平方の定理 で証明できます)、平方根だって長さとして表わせます。\nさて、2つの実数 a,b を用意して、\nの形であらわされる数のことを「複素数」(ふくそすう)と言います。\nb=0 とすることで、実数も複素数として扱うことができます。なお(「純虚数」ではなく)「虚数」とは、複素数のうち実数でない複素数のことです(つまり複素数 \n\na\n+\nb\n\n−\n1\n\n\n{\\displaystyle a+b{\\sqrt {-1}}}\n において b≠0 の場合が虚数)。\nまた、中学の範囲では説明できませんが、複素数をつかうと、a=0 とすることで(ただし b≠0 )、 \n\n\n−\n2\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {-2}}}\n や \n\n\n−\n3\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {-3}}}\n などの純虚数もすべて扱えます。\nなので、複素数を考えることにより、扱える数の範囲が広がり、二次方程式の解もすべての場合に扱えるようになります。\nなお、高校では、さらに \n\n\n−\n1\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {-1}}}\n を文字 \n\ni\n\n{\\displaystyle i}\n に置き換え、複素数は\nのような形で表します。( もし \n\n\n−\n1\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {-1}}}\n の形のままで計算すると、計算ミスをしやすいので、文字 \n\ni\n\n{\\displaystyle i}\n に置き換えて複素数を計算するのが普通である。)\n夏に、ふつうのセミは毎年発生しますが、北アメリカには13年周期で発生する特別なセミと、17年周期で発生する特別なセミがいます。\n13と17は素数なので、北アメリカのこのセミは 素数ゼミ (そすうゼミ)と言われています。\n科学的には仮説ですが、素数ゼミは、天敵の発生の周期となるべくズレた周期で発生したほうが生存しやすいので、進化によって、素数の周期で発生するように進化してきたのだろうと思われています。\nたとえば、もし12年周期で発生するセミなら、天敵の発生周期が周期2年や周期3年や周期4年だとすると、天敵に食べられてしまいます。\nしかし、13年周期のセミなら、周期2年や3年や4年の天敵とは、あわなくてすみます。\n周期1年の天敵にだけが敵なので、だいぶ生存の確率が増えるでしょう。\n中学教育の内容は、定期的に変わるので、むかしは中学で教えてた分野が、いまでは高校で初めて教える分野になっている場合もあります。\n次に紹介する「三角形の重心」と「最大公約数と最小公倍数」は、むかしは中学で教えていた時代もありました。\nぶあつい画用紙などで作った三角形の模型を、右図のように棒などで支えるとき、どこを支えると、バランスよく、三角形が落ちずに支えられるでしょうか?\nじつは、下の図のように、ある頂点から、向かいあう辺の中間点に引いた線分を、 比率 2:1 に分割する点で支えると、バランスよく支えられることが分かっています。\nまた、このような点のことを 三角形の重心(じゅうしん)と言います。\nまず、「約数」(やくすう)という用語があります。\n約数とは、ある数を整数(普通は自然数)で割り算したとき、商として現れる数のことです。\nたとえば、24の約数は、\n24の約数  1, 2, 3, 4, 6, 8, 12, 24\nのようになります。\n24÷1=24 なので、「24」自身も24の約数に ふくまれます。\n同様に「1」も、24÷24=1 として整数の割り算の商として表われるので、1も約数に ふくまれます。\nさて、たとえば 24 と 30 のように2つの数があるとき、\nその両方に約数としてふくまれる数があり、これを公約数(こうやくすう)といいます。\n24の約数  1, 2, 3, 4, 6, 8, 12, 24\n30の約数  1, 2, 3, 5, 6, 10, 15, 30\nですので、よって\n24と30の公約数は\nの4個です。\nそして最大公約数(さいだい こうやくすう)とは、その名のとおり、公約数のうち、いちばん大きな数のことです。\n24と30の最大公約数は 6 です。\nなお、2つの数の最大公約数が1の場合、その2つの数を「互いに素」(たがい に そ)と言います。\nたとえば、数 8 と 数 15 は「互いに素」です。なぜなら、公約数は1しかないからです。\n2も3も4も5も6も7も8も、いっさい公約数ではないです。\n「2」は8の約数ですが、しかし15の約数ではないです。\n「3」は15の約数ですが、しかし8の約数ではないです。\n同様に、4から8まで、公約数には、なっていないです。\n「7」にいたっては、そもそも、8の約数ではなく、15の約数でもなく、まったく無関係の数になっています。\nさて、ある数が「素数」であるかどうかと、「互いに素」とは、別々(べつべつ)の考え方です。混同しないように気をつけましょう。\nたとえば、上の8と15の約数の例では、\n素数3は15の約数ですが、しかし「互いに素」ではないです。\nいまの中学校では、すでに「集合」という考え方を習っています(「自然数の集合」など習っている)。2つの集合の共通部分や、共通でない部分などを図解するさいに、よくベン図が使われます。\n「24の約数の集まり」も、ものの集まりなので、数学的には「集合」として扱えます(実際、高校以上の数学では、集合として あつかう)。\n2つ以上の倍数に共通する数を 公倍数(こうばいすう)といいます。\nたとえば 6 と 14 の倍数については、それぞれかき鳴らべると、\nなので、24 や 48 は、6と8の公倍数です\n最小公倍数とは、その名のとおり、公倍数のうち、自然数で最も小さい数です。(負の倍数を考えると、いくらでも小さくできてしまうので、「公倍数」といった場合は自然数だけを考える。)\nつまり、24が、6と8の最小公倍数です。\n大きな数の最大公約数や最小公倍数を求めるときは、素因数分解をすると、もとめやすい。(くわしくは『高等学校数学A/整数の性質』で習う。 私立高校の受験とかで出るかもしれないので、リンクだけ紹介しておく。)\nむかしは中学で、二進法(にしんほう)などを教えていましたが、2019年の時点では、二進法などは習わなくなっています。現在の日本の教育カリキュラムでは、二進法の単元は、高校の『数学1A』に移動しています。\n小学校でならう、1 → 2 → 3 → …… → 7 → 8 → 9 → 10 のような数え方は十進数(じっしんすう)といいます。\n二進法とは、 1 → 10 → 11 → 100 → 101 →・・・ のように、0と1だけで整数を表す数え方です。\nむかし、中学の数学教育では「二進法がコンピュータに使われてる」などと教えていました。現在のコンピュータでも、コンピュータ内部の計算で二進法が使われている事じたいは、同じままです。\nさて、現代のパソコン利用者とって身近なところでは、\nお絵描き系のソフトとかで色を調整するとき、よく\nみたいに、ある色の、色のつよさを0から最大で255まで、色を強くできます。\nこの「255」の数字の由来は、\n十進数の式\nが由来です。(かけ算で 2 が 8個)\nこの255(十進数)は、2進数で表すと\nです。(ケタ数が多いので、4つずつで区切るのが普通。)\n「256」でなく「255」なのは、コンピュータ内部ではゼロから数字を数えているため、0から255までの数字の数が256個だからです。\nつまり、\nのような色のデータの形式では、色の三原色あたり、2進数で8ケタずつのデータを確保している事になります。\nそして、三原色というように、3つの原色のつよさの比で色を表しているので、合計で 3×8 = 24 で、24ケタの2進数で色を表すことになります。\n「24ビットカラー」というのは、このようなデータ形式で色を管理しているという意味です。\n現在のインターネットなどコンピュータ環境でよく利用されている暗号として、RSA暗号(アールエスエーあんごう)というのがありますが、この暗号は原理として素因数分解を利用しています。\nたとえば、37 × 71 = 2627 というのは筆算をすればいいだけなので簡単ですが、\nしかし、いきなり「2627」という数字を、もし貴方が見せられて、それを「素数か、素数でないかを判定してください。もし素数でないなら、素因数分解してみなさい」といわれても、むずかしいでしょう。\nじっさいに、たとえば「5371」という数字をいきなり出されて、これが「素数であるかどうかを判定して」と言われても、コンピュータも何も持ってない人には、むずかしいでしょう。(ちなみに 5371 は素数ではなく、41×131=5371 です。)\n2つの大きな素数のかけ算を素因数分解するのは、一般に難しいという性質を、RSA暗号は利用しています。\nたとえば、少人数学級の中学校があり、1クラスの生徒数が9人で、1つの学年に学級が2クラスあるとしましょう。\nある科目のクラス平均点は、\nだったとしましょう。\nそして、補習はテストで30点以下だった生徒に対して行われる学校だとしましょう。\nしかし、A組のほうは補習をうけさせられる30点以下の成績をとっている生徒が1人ですが、B組のほうは補習をうけさせられる30点以下の生徒が4人もいたとして、\n実際のそれぞれの生徒の得点の分布が\nだったとしましょう。\nA組とB組は、平均点(50点)だけで見ると同じですし、範囲(10〜90の範囲である)も同じですが、しかし、クラス内の得点の事情が、かなり違っています。\nA組とB組は、平均も範囲も同じなのに、なのにA組のほうは、補習をうける生徒は,10点をとっている1人目の生徒1人だけなのに、いっぽうB組のほうは、クラス9人中の半数ちかい4人の生徒が10点ですので、B組では補習をクラスの半分ちかくが受けます。\nなのに、「平均」と「範囲」いう考え方だけでは、このような 散らばり の程度を表現できないので、新しい考え方が必要です。\nそこで、高校で習う「分散」(ぶんさん)や「標準偏差」(ひょうじゅん へんさ)という概念を使うと、このような ばらつき の程度を、数値的に表せるようになります。\nなお、「分散」は\nで定義されます。\n(※ 教育出版の検定教科書では、分散の定義まで、教える)\n標準偏差は分散の平方根です。\n例では、数えやすいように、たったの9人のクラスにしましたが、実際の社会では、もっと多くのものの統計を数えるわけです。\nたとえば、もし9人の受けたテストでなくて、900人の受けたテストだったら…という場合もあるわけです。\nよく受験産業でいう「偏差値」(へんさち)を求める計算には、この「分散」や「標準偏差」が利用されています。\n中学では \n\n\n2\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {2}}}\n が 、けっして \n\n\n2\n5\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {2}{5}}}\n や \n\n\n13\n7\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {13}{7}}}\n のような整数だけを分子と分母にもつ分数では表せないこと(つまり無理数であるという事)を習っていますが、しかし、その証明は習っていません。\n高校の数学で、その証明を習います。\n証明の方法は、おおまかに言うと、\n上述のような、証明したい内容と反対のことを仮定して矛盾をみちびくことにより、証明したい内容を証明する論法のことを 背理法(はいりほう) といいます。\n2\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {2}}}\n だけでなく \n\n\n3\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {3}}}\n や \n\n\n5\n\n\n{\\displaystyle {\\sqrt {5}}}\n も同様にして、無理数であることを証明できます。\nまた、素数がかぎりなく存在することも 背理法で証明できます。\n中学校では、右の図のように、60°など といった角度が特別な角度の直角三角形について、3辺の長さの比が決まっている事を習った。\nしかし、直角三角形の相似の条件を考えれば、角度が50°や75°などの角度であっても、3辺の比率は決まるはずである。\nそこで高校では、もはや 60°や45°などの特別な角度でなくても、3辺の長さの比が決まることを利用して、斜辺の基準にして比率を求める。\n直角三角形の斜辺と高さの比率を\nで表したものを「正弦」(せいげん)といい、\n記号では「 sin 」 (サイン)という記号を使って\nのような記法で表す。\n具体例をあげると\nである。\n角度が50°の直角三角形については、分度器(ぶんどき)や定規(じょうぎ)などを使って実際に書いてみれば、\n3辺の長さの比を測定することができる。\nなので、sin 50° の近似値を求めることもできる。\n実際に求めてみると、\nである。\nなお、「コサイン」とか「タンジェント」という言葉も、三角関数の一種です。\nコサインは\nです。\nコサインは記号で cos と表します。\nタンジェントは記号で tan と表します。\nそして、「sin (角度)」の記法と同様に、cos や tan の後ろに角度を書きます。\nです。\n詳しくは高校で習うので、ここでは、これより深くは解説しないでおきます。\n中学で 32=9 のように「指数」(しすう)という考えかたを習いました。\nところで、歴史の研究の分野で使う放射性年代測定(ほうしゃせい ねんだいそくてい)では、\n放射性物質の強さが一定の年月が経つと半分ずつになっていく事を、年代測定に利用しています。\n放射性炭素 が半分になるのは、約 5730年 の時間が掛かります。ここでいう「炭素」とは、理科で習う 元素記号 C の炭素のことです。通常の炭素とは別に、放射性炭素がわずかながら空気中に存在しています。\nくわしい原理の理解には、高校で習う理科の化学(かがく)などの知識も必要なので、中学では解説しきれないのですが、\n放射性年代測定には、指数の計算も必要になります。\nたとえば、放射能のつよさが半分になる一定の年月が \n\nx\n\n{\\displaystyle x}\n回 だけ経過したとすると、その放射能の強さは、もとの放射能の強さを a とすると\nのように、指数をつかった数式で表すこともできます。\nたとえば放射性炭素の場合、\nなので、\n17190年後の放射能の強さは、もとの放射能の強さの \n\n(\n\n1\n2\n\n)\n3\n\n\n{\\displaystyle ({\\frac {1}{2}})^{3}}\n 倍、つまり、もとの強さの8分の1になっているわけです。\n数学の世界には、まだ、人類のだれにも答えが知られてない難問もあります。そのような、まだ誰にも解かれてない数学の問題のことを「未解決問題」(みかいけつ もんだい)といいます。\n中学でも、問題の意味が理解できるような未解決問題もあります。\nたとえば、ゴールドバッハ予想という未解決問題の内容は、\nというものです。\nたとえば、\nなどです。\nまだ誰にも、この予想は証明されていないのです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A63%E5%B9%B4%E7%94%9F%E3%82%80%E3%81%91_%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%8C%E3%82%8B%E6%95%B0%E5%AD%A6"} {"text": "この分野では光(英語: light)と音(英語: sound)について扱います。光と音は全く異なった現象に見えますが、実際にはこれらは多くの共通した性質を持っています。\n光は多くの場合にまっすぐ進む。例えば、暗い箱を作り、その壁に細いスリットを設けると、スリットから入って細くなった光線がそのまま直進する様子がわかる。この性質は真空中や空気中の多くの場合で成り立ち、太陽や電球などから発せられた光は、発せられた方向に直進する(ただし、空気中であっても、異なる密度の空気が隣接するような場合は光は曲がることもある。蜃気楼はその一例である。また、真空であっても、ブラックホールの周囲などの特殊な条件では光は曲がることが知られている)。 \n反射面に垂直な直線法線と、入射した光とがなす角を入射角(英語: angle of incidence)と呼び、法線と反射した光とがなす角を反射角(angle of reflection)と呼ぶ。\nこのとき、\nが成り立つ。これを反射の法則という。\n上の図では\n\n\nθ\ni\n\n\n{\\displaystyle \\theta _{i}}\nが入射角に対応し、\n\n\nθ\nr\n\n\n{\\displaystyle \\theta _{r}}\nが反射角に対応する。図でわかるとおり、入射角と反射角は等しい。\n下の図では光が黄色の線、鏡が黒の線で直角に紫の法線が伸びている。この図では光の方向が書かれていないが、作図の際書かなければならない。\nまた、例えば空気中を直進して来た光が水面に当たって水中に入りこむときには、光は水面でその方向を変えることが知られている。このような現象を光の屈折(英語:refraction)と呼ぶ。屈折した光と物質境界の垂直方向(法線)とがなす角度を屈折角(英語: refracting angle)と呼び、光の屈折の大きさは各々の物質が持つ屈折率(英語: refractive index)によって決まる。屈折率がより小さい物質からより大きい物質に光が入射するときには、屈折角は入射角よりも小さくなることが知られている。反対に、屈折率がより大きい物質からより小さい物質に光が入射する場合、屈折角は入射角よりも大きくなる。\n実際の例では、空気から水に向かって光が入射する場合、水の屈折率は空気よりも大きいため、屈折角は入射角よりも小さくなる。\n例えば細長い棒を水の中に差し入れると、その棒は曲がって見える。これは、光の屈折によるものである。\nまた、透明であるガラス瓶やコップが目に見えるのも、この屈折の効果による。\n屈折がなければ透明なものは目に見えないという事を体感する実験の例として、ガラス製の瓶やコップを油に沈める実験が知られている。油の中にガラスを沈めると、ほとんど見えなくなる。これは、油とガラスの屈折率が非常に近い値であるためである。\n赤外線の発見の歴史は、イギリスの天文学者のウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel)が太陽光をプリズムで分光した際に、それぞれの色の帯を温度計で計ったら、どの色の部分も温度が上がったが、赤色の光線のとなりの目には色が見えない部分が一番高く温度上昇していることが発見されたという、いきさつがある。\n「では、分光された紫色の光線のとなりにも、なにか目には見えない線があるのでは?」というふうなことが学者たちによって考えられ、\nドイツの物理学者ヨハン・ヴィルヘルム・リッター(Johann Wilhelm Ritter)により、ある種類の物質が紫外線をあびると化学変化することが発見され、同時に紫外線の存在も実証された。\n(ちなみに、赤外線は、赤色ではありません。\n暖房機器の「赤外線ヒーター」が赤く光っているのは、スイッチの消し忘れをふせぐため、つまり安全のために、赤色のランプをくっつけているのです。)\n同じ様に、紫外線も、むらさき色ではありません。\nテレビやラジオの電波は、実は、赤外線よりも、さらに外側の(波長の長い)光です。電波は見えません。\n病院のレントゲンなどで使うX線やガンマ線は、紫外線よりも、さらに外側の(波長の短い)光です。X線やガンマ線は見えません。\n日焼けをすると、皮ふの中のメラニン細胞が増えます。これは、私たちの体が、メラニン細胞を作っているのです。では、なぜメラニン細胞を作るのでしょうか。それは、紫外線によって、細胞が傷つくのを防ぐためです。黒人の人は、うまれつきメラニン細胞が多いので、肌が黒いのです。白人の人は、うまれつきメラニン細胞が少ないので、肌がピンクっぽい白なのです。\n紫外線は、私たちの細胞の中にある遺伝子を傷つけます。なので、紫外線をあびすぎると、皮膚ガンになりやすくなるので、あびすぎてはいけないのです。\n\nとても、あつく、熱した鉄などは、光を出すことが知られています。(あぶないので、マネは、しないでください。)\nいっぽう、光をプリズムにとおすと、色が分かれます。\nこのような、とてもあつい物からでる光も、プリズムにとおすと、色が分かれます。\n理科の電気の実験でも、ニクロム線に電気を通すと、温度が高くなって、わずかに赤く光ります。\nむかしのヨーロッパの科学者が、とても、あつい物から出てくる光にふくまれている色をしらべたら、温度が千度や二千度くらいの時は、赤い光がおおいですが、もっと温度をあげていくと、だんだん、白い光が多くなってくることが、わかってきたのです。\nさらに、もっと、もっと、温度を上げていくと、物体から出る光は、青白い光が多くなってくることが、わかってきたのです。\n昔の科学者は考えました。「地上の物体では、温度が高いほど、赤い光から青白い光になる法則があるんだから、夜空にうかぶ星の色も、地上とおなじように、青い星は、きっと温度が高いにちがいない」と、むかしの科学者が、かんがえたのです。\nじっさいに、この考えは、ただしいことが、さまざまな研究から、たしかめられています。\n夜空の星には、いろんな色の星があります。\n色のちがいは、星の表面の温度のちがいです。星から届いた光を、プリズムを使って色を分けて、くわしく色を調べれば、星の表面の温度が分かります。星の表面の温度を、表面温度といいます。\nさそり座のアンタレスなどの赤色の星は、温度が3000度です。\n黄色い星は、表面温度が、およそ6000度です。太陽も表面は6000度です。\n白い星は、表面の温度が、およそ10000度です。白い星は、冬に見える、おおいぬ座のシリウスなどがあります。\n青白い星は、15000度くらい、またはもっと熱い温度です。青白い星は、おとめ座のスピカがあります。\n色と、星の表面温度のならびを書くと、次のようになります。\n色で温度が分かる種類の星は、太陽のように、その星じたいが光を出してる星です。さそり座のアンタレスも、おおいぬ座のシリウスも、自分から光を出しているのです。そういう光を出す星を、恒星といいます。\n月は、自分からは、光を出していません。太陽の光を反射しているので、月は明るく見えるだけです。なので、月の色からは、月の温度は分かりません。\n\n屈折率が大きい媒質から小さい媒質に光が入るときに、入射光が境界面を透過せず、すべて反射する現象が起きる。これを全反射(英語: total reflection)という。全反射は、入射角が大きくなると起こる。\nガラスなどを引き伸ばしてつくられる光ファイバー(Optical fiber)では、一端から入った光をファイバー内部で全反射させることで、もう一端へと光を送って、もう一端から光が出てくる。\n光ファイバーの応用例として、通信ケーブルや、胃カメラなどの内視鏡がある。\n光ファイバーは、内部が2層構造になっており、内側の層と外側の層との境目で全反射を起こすことで、光を送っている。通信用の光ファイバーは、プラスチックのカバーで、おおわれている。\n通信用の光ファイバーケーブルでは、数多くの光ファイバーをたばねて、被覆でおおってあり、外部からは一本の太いケーブルのように見える。\n全反射は、光の進路を変えるための直角プリズムにも利用されている。双眼鏡などの光学機器に用いられる。\n直角プリズム内で1回だけ反射させれば90度だけ進行方向を曲げることが出来る。2回、反射させれば、180度、進行方向を曲げることができる。\n紙の表面や、板の表面など、ふつうのものの表面は、たいらに見えても、よくよく見ると、こまかいデコボコがいくつもあります。\nこのデコボコの向きが、それぞれバラバラの向きなので、反射する光のむきも、反射したあとは、バラバラの向きに向かっていきます。\nこの、光が、バラバラな方向に反射する現象を乱反射と、いいます。\n乱反射のおかげで、わたしたちは、物体を、どの方向からでも、見ることができるのです。入射角と反射角が等しいという反射の法則は、たとえ乱反射であっても、一つ一つの光線については成り立っています。\n※ たぶん授業中に口頭で習う。\n学校の美術室とか家庭科室とかの出入口のドアなどにあるガラスで、ガラスの向こう側がくもったように見えるガラスを見たことがあるだろう。\nガラスの向こうがわにある物体が何かはよく見えないが、明かりは取り入れられるし、なんとなくガラスの向こうになにかが有るのか、それとも無いかという事ぐらいは、見える、あのガラスである。\nああいうガラスを、「すりガラス」という。\n「すりガラス」は、どういう仕組みになっているかというと、「すりガラス」は、表面がデコボコしているので、いろんな方向に反射したり屈折したりするので、くもったように見えるのである。\nすりガラスも、乱反射をする紙のように、表面に細かいデコボコがある。\n\nここでは、レンズを用いたときに光が描く軌跡についてまとめる。ここでは、単純なレンズである凸レンズについて扱う。一般に、虫眼鏡や顕微鏡など物体を拡大して見るための器具は、光の方向を変えるために、凸レンズを用いている。また、遠視用の眼鏡にも用いられる。\n凸レンズは、レンズの真ん中がレンズの縁よりも厚くなっている。代表的な凸レンズである球面凸レンズは次のような形をしている。\nレンズの2つの面は、ある半径の球の一部を切り取った形をしている。このとき、元の球の半径をレンズの曲率半径と呼ぶ(曲率半径はレンズの焦点距離(英語: focal length)と関連しているが、焦点距離と曲率半径の関係について詳しく扱うことはしない。)。\nここでは球面凸レンズを扱う。球面凸レンズは、レンズの両側に焦点(英語: focal point)と呼ばれる点を持つことが知られている。焦点とレンズの中心との距離はレンズの両側で等しい。この、レンズと焦点との距離を、焦点距離(英語: focal length)と呼ぶ。焦点距離の記号は、 f で表すことが一般である。\n一般にレンズはプラスチックやガラスなどの材質で作られるが、これらは光を通す材質であると同時に、空気よりもw:屈折率が高いことが知られている。\n現在の指導要領では、屈折率について扱わない。屈折率について詳しく知りたい場合、w:屈折率などを参照するとよい。\n既に水と空気の例で説明した通り、光は異なる材質の境界を通過するときに、進む方向を変える。同様に、空気中からレンズを通過するときも、光は方向を変える。実際にレンズを抜けた後に光が向かう方向は、光がレンズに入射する方向と位置が分かれば、計算によってあらかじめ知ることができる。\nここでは特に、光が向かう方向が簡単に定まる場合についてまとめる。球面凸レンズでは一般的に、以下の三つの性質が成り立つ。\n最初の例と最後の例は時間を反対に見ると、同じ事柄を指していることに注意が必要である。時間を反対にするとは、ここでは光の進行方向を逆向きにすることに他ならず、このとき両者は互いに移り変わる。\n上で述べたレンズの性質を利用して、レンズを通り抜けた光が結ぶ像の位置と大きさについて調べることができる。レンズが結ぶ像の性質は、対応する物体がレンズの焦点距離より遠くにあるかどうかで変化する。ここではまず物体がレンズの焦点距離より遠くにある場合について述べる。\nこのとき、物体から放たれる光線は次のような軌跡をたどる。\n図の中で物体の先端からレンズを通過する光線を3本描いたが、この3本はそれぞれ上で挙げた3つの光線に対応している。これらは1点で交わる。\nここで、物体から放たれた光は3本の光線が交わった点に像を作る。この像を実像(英語: real image、リアルイミッジ)と呼ぶ。実像は常に物体に対して上下、左右がともに逆(倒立)の向きで現れ、その大きさとレンズからの距離は、物体とレンズとの距離によって決まる。\n実像の大きさと現れる位置の性質は、物体とレンズの距離がレンズの焦点距離の2倍に達したときに変化する。ちょうど2倍のときには、実像の大きさはちょうど物体と同じになり、実像とレンズの距離は物体とレンズの距離と等しくなる。一方、物体とレンズの距離が焦点距離の2倍より大きいときには実像の大きさは実際の物体の大きさよりも小さくなり、実像の位置は、物体とレンズの距離よりもレンズに近くなる。一方、物体とレンズの距離が焦点距離の2倍より小さいときには実像の大きさは実際の物体の大きさよりも大きくなり、実像の位置は、物体とレンズの距離よりもレンズから遠くなる。\n一方、物体の位置がレンズの焦点距離よりもレンズに近い場合には、光線が像を結ぶ位置は変化する。このとき生じる像を虚像(英語: virtual image)と呼ぶ。虚像は常に物体よりも大きくなる像であり、虫眼鏡で物体が拡大して見えるのは物体の虚像を観察していることに注意が必要である。虚像は実像の場合と違い正立で現れ、常にレンズに対して物体が存在する側に現れる。\nレンズを使ったときに現れる像の位置と大きさは、実像と虚像の場合を含めて「レンズの公式」と呼ばれる式にまとめることができる。この式は指導要領の範囲外であるので、詳しくはw:レンズを参照すること。\nピンホールカメラ(英: pinhole camera)は、レンズを使わずに針穴(ピンホール)を利用したカメラである。針穴写真機ともいう。\n凸レンズと逆に光を発散させるレンズは凹レンズ(英語: concave lens)と言う。\n凹レンズを通る光には主に以下のような性質がある。\n凹レンズでできる像は常に正立虚像で、物体と同じ側にある。焦点距離を負の数値であらわす(f < 0)と、凸レンズの場合と同じレンズの公式が成り立つ。\n※ たぶん授業中に口頭で習う。\n写真のように、鏡が曲がっている場合、普通の平らな鏡とは写りかたが違う。\n凸面鏡(とつめんきょう)の場合、広い範囲がうつる。\n道路のロードミラー(「カーブミラー」ともいう)も凸面鏡である。(※ ロードミラーでは広い範囲をうつす必要があるので、凸面鏡が使われている。)\n音(おと、sound)とは、物の振動により空気の震えが、耳に届いて聞こえるものである。これは空気の振動と言い換えることもできる。\n音は、空気中では波のように、物にあたって反射したり、狭いところでは屈折したりするので、音は波として伝わる。\nなので音の波の特徴を強調したい場合には音波(おんぱ、sound wave)という場合も有る。\nまず音を出す音源の物体が振動したとすると、それに触れている空気が振動し、その結果、空気に回りと比べて密度の高い部分が\n出来る。空気の密度の高い部分は、自然に周囲に拡散してしまうが、その分、拡散した先の密度が高くなるので、結果的に空気の密度の高さが伝わっていくことになる。さて、音源は、この間も振動しているのであった。音源の振動のタイミングによって、音源が空気を押しているときは、音源のとなりの空気は密度が高くなるが、逆に音源が引っ込んでいるときは、空気の密度は小さくなる。だから、そして音源の振動によって、空気の密度も振動する。このとき、空気の圧力が高い部分はより圧力が低い回りの部分に空気を押しやろうとする。空気の振動が伝搬され、それが音として聞こえるのである。\n空気の振動が、われわれ人間の耳の中に有る鼓膜(英語: eardrum)を振動させ、それが人間の脳には音として認識される。\nそれゆえ、空気の無い真空の場所で、音は伝わらない。たとえば、耐圧容器の中に、自動起動のベルなどを鳴らしつつ、真空ポンプなどで空気を抜くと、ベルを鳴らしても、真空だと音は伝わらないので、真空に近づくにつれ音の大きさは小さくなり、やがて何も聞こえなくなる。\n雷や遠くの花火では、音と光が同時に発生している。だが、遠くにいる場合、音が光よりも遅れて聞こえてくる。これは、音と光の速さに大きな差があるためである。\n音の伝わる速さは(同じ気温の)空気中では、およそ 340m/秒 であることが知られている。一方、光の伝わる速さは真空中で 約30万km/秒 であることが知られており、これは音の伝わる速さよりもはるかに速く、1秒間に地球を7周半するほどの速度である。(音の場合、地球を一周するには約二分が必要)\n音の速さが(同じ気温で)一定ということを知る実験には、例えば\"広い空間に何人かの実験者を等間隔で並べ、大きな音を出し、音が聞こえた順に手をあげる等の合図をする\"という実験を行なうことで見ることが出来る。仮に、音が無限に速い速度を持つときには全員の合図が一斉に現われるはずである。実際には音の速度は有限であるので、十分に広い場所で実験すれば、一斉に手をあげることは無い、と考えるのは自明の理だろう。\n音楽のド,レ,ミ,ファ,・・・などを思い起こせば分かるように、音には高さが有る。\n音の高さは、音の空気の振動の、振動の多さである。1秒あたりの振動の回数を、周波数(英語: frequency、フリークエンシ)あるいは振動数(英語: frequency、フリークエンシ)と言う。単位はヘルツ(Hz)である。例えば、100Hzの音は1秒間に100回振動している(1秒×100回=100Hz)。この振動数の大きい音ほど、音が高くなる。振動数の小さい音は、低い音になる。人間の聞こえる音(可聴域)の振動の範囲は、約20Hz~約20000Hzである。\n音は、物に当たると反射する。例えば、やまびこ(「こだま」とも言う。)が例である。\nまた、音は屈折もする。たとえば夜中に、遠くの音が聞こえてくるのは、温度によって音の屈折のしかたが違うので、上空のあたたかい空気を通って、遠くの音が屈折しながら伝わってきているのである。いっぽう昼間は、上空よりも高度の低い場所のほうが暖かく、音は高度の低い場所をとおって伝わる。\n音波のように、密度の高い部分と低い部分が交互に伝わる種類の波を疎密波(英語: compression wave)という。また、音波は進行方向と、振動の方向が同じであるが、このような波を縦波(英語: longitudinal wave)という。音波は縦波の一例である。\nスプリングを、横にはズラさず、くりかえし伸び縮みさせたとき、ちぢみが伝わっていくが、それが縦波の伝わりかたである。\nいっぽう、水面をつたわる波は、進行方向と、振動の方向が直角であるが、このような波を横波(英語: transverse wave)という。子供の頃とかに縄跳びで、波をつくってあそんだことのある読者もいるかもしれない。そのような、縄跳びでつくる波も、横波である。\n音は周りの物を振動させるのであった。音が伝わっていった先に有る物体が、音が伝わったことによって振動をして、その物体もまた音を出すことが有る。このような現象を共鳴(英語: resonance、レゾナンス)という。\n音波の波は縦波であったが、これをグラフで見やすいように、縦軸に密度をとって、横軸に位置や距離をとってグラフに表すことがある。\nこのように、波は周期的に、おなじパターンを繰り返す。グラフでの波の高いところを山(英語: crest)といい、波の低いところを谷(英語: trough)と言う。そして、山と山との間の距離を波長(英語: wave length、ウェイブレングス)という。(波長を、谷と谷との間の距離と言っても良い。一般の波では、結果は同じ。)記号で表す場合は、波長はλ(「ラムダ」と読むギリシャ文字)で表すのが一般である。\n振動数が、一秒間に振動する回数である。音の高さは振動数で決まり、振動数が大きいほど、音も高い。振動数の単位にはHz(ヘルツ)が用いられる。\n音の大きさは振幅(英語: amplitude)で決まる。振幅が大きいほど、音も大きくなる。\n波長の式は、\nである。\n式から分かるように、音の速さが同じなら、波長が長いほど、振動数は小さくなる。\n{[コラム|「デシベル」と「ベル」|\n音の大きさの単位で、「ベル」というのがある。\nよく、騒音などの大きさをあらわすのに1ベルの10分の1の「デシベル」という単位が使われる。デシベルの記号はdBである。\n例えば、「飛行機の離着陸の音は100dB(デシベル)」などのように使われる。100dBのように、\nちなみに、普通の話し声は50〜60dBくらいである。\n音が10デシベル大きくなると、音は10倍の大きさになっている。なので20デシベル違うと、100倍の大きさである。\nデシベルの計算法には、高校で習う数学(「対数」という分野。高校2年で習う)を使うので、中学では計算法は深入りしなくていい。\n}}\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%85%89%E3%81%A8%E9%9F%B3"} {"text": "ここでは物質の性質について調べる。まず上であげた物質の性質について簡単に解説する。最初にここで扱う物質の分類について説明する。\n物質の中にはいくつかの物質が混ざってできているものがある。 例えば、空気はw:酸素(さんそ)やw:窒素(ちっそ)などいくつかの気体が混ざってできている。このようにいくつかの物質が混ざってできている物質のことをw:混合物(こんごうぶつ、mixture)と呼ぶ。いっぽう、混合物でなく、混じりけのない物質のことをw:純物質(じゅんぶっしつ、pure substance)と呼ぶ。\n純物質についての詳細は、化学変化を扱う項で説明する。\n木材や砂糖などは燃えると二酸化炭素を発生する。木材は炭素を含み、砂糖も炭素を含む。このように炭素を含み、天然に存在する物質を有機物(ゆうきぶつ、organic compound)という。\n有機物は、加熱すると、こげる。加熱した有機物の周囲の気体は、二酸化炭素をふくむので、石灰水の入った集気びんなどで集めて、びんをふって石灰水にまぜれば、白くにごる。また、水が発生する。\nいっぽう、ガラスや食塩などのように炭素を含まない物質や、燃えても二酸化炭素をふくむ物質を出さない物質を無機物(むきぶつ inorganic compound)という。\n二酸化炭素自身は、無機物に分類するのが普通である。\n無機物は、燃えない物が多い。なので、加熱しても、こげない物が多い。たとえば食塩やガラスは燃えない。ただし、無機物でも、スチールウールなどのように燃える物もある。\n加熱した無機物の周囲の気体を、石灰水の入った集気びんなどで集めて、びんをふって石灰水にまぜても、なにも白くにごらない。\n有機物は、生き物の体内でなくても、科学実験で、人の手によって人工的に合成できる。1828年にウェーラーによって、尿素(にょうそ)が世界で初めて人工的に合成された。それ以前は、有機物は、生き物の体内でないと、つくれないと思われていた。\nプラスチック材料は,天然には産出せず、主に(おもに)石油などを原料として人工的につくられた物質で合成樹脂(ごうせいじゅし、synthetic resin、シンセティク・レジン)ともよばれる。\nプラスチックは軽くて、割れにくく、加工しやすいので、いろいろな形のものをつくることができ、我々の生活を快適にしている物質といえる。\nプラスチックは,炭素をふくむ物質であり、有機物のなかまである。そのため共通して加熱するととけてやわらかくなったり、燃え出したりする性質がある。\n実験などでプラスチックを燃やすときは、換気をしながら実験すること。プラスチックプラスチック素は燃やすと、一般に二酸化炭素をふくむ気体が発生する\n。\nプラスチックの種類によっては、ダイオキシン有害な成分をふくむ気体もあるので換気をする必要があり、自治体によってはダイオキシン類対策特別措置法関連条例で禁止されている場合もある。\n実験などは、学校の理科教員の指示にしたがって行うこと。\n中学校で有機物として習うようなプラスチックは、つまり、ポリエチレン・ポリスチレン・ポリエチレンテレフタラート・ポリプロピレン・ポリ塩化ビニルは、燃やすと二酸化炭素が出てくる。これらのプラスチックを燃やして出た気体を集気ビンなどで集め、石灰水に通すと、二酸化炭素をふくむため、石灰水は白くにごる。\nまた、プラスチックは一般に熱や電気を通しにくい性質をもっている(しかし、近年は電気を通すプラスチックも開発されている。)。\nプラスチックにはいろいろな種類がある。例えば、ペットボトルに使われている栓はポリエチレン(PE)でできており、本体はポリエチレンテレフタラート(PET)とよばれるプラスチックである。\nこの節では、固体の金属の性質を考える。\n金属は、すべて無機物である。\nフライパンで加熱する部分に鉄が用いられたり、やかんで加熱部に鉄などが用いられるのは、金属が熱を伝えやすいからである。フライパンの手で持つところは、熱を伝えにくいようにプラスチックなどで出来ている。\n金属では、電気と熱を伝えやすい。このことから、「金属中で熱を伝えている物質は電気ではないのか?」という疑問が浮かんでくるかもしれない。じっさいに、金属中では電気が熱を伝えていることが、さまざまな実験により確かめられている。\n物質の密度(みつど、density、デンシティ)とは、物質の単位体積あたりの質量を表す値である。密度の単位は、 [g/cm3] などである。\n密度は形状などによらず、同じ物質なら、密度は一定である。このため、ある物質の質量と体積は比例する。\nさて、同じ体積の紙と銅とで重さを比べた場合、銅の方が重い。このことは、銅の密度が紙の密度よりも大きいことを示している。\nある物質の密度が、水の密度( 約1.00g/cm3 )よりも軽いとき、ある物質は水に浮く。なお、 リットルとcm3の関係は、\n1Lは「いちリットル」と読む。\n同じ体積の紙と銅を用意し、その重さの違いを確かめよ。重さの違いを確かめるにはw:天秤(てんびん、balance、バランス)などを利用することができる。\n密度はあらゆる物質が持つ量であり、その値は物質によって非常に異なっている。水のような液体や、空気のような気体の密度は通常固体の密度よりも小さい。すぐ後で扱うが、多くの物質は温度(と圧力)によって、その状態を\"気体\"、\"液体\"、\"固体\"に変化させる。このとき、物質の状態変化に伴って、物質の密度はこの順に大きくなることが普通である。つまり、ほとんどの物質で、固体の密度がもっとも大きく、つぎに液体の密度が大きく気体の密度はもっとも低い。\n水はこの一般則の例外であす。水においては、\"固体\"(氷)の密度が\"液体\"(水)の密度よりも小さい。これは\"氷が水に浮かぶ\"性質につながっている。水の密度は、4℃の液体のときが、もっとも密度が高い。つまり、水は4℃のときに、もっとも密度が高くなる。\n密度の単位は g/cm3 (グラム毎立方(まいりっぽう)センチメートル) またはkg/m3 (キログラム毎立方(まいりっぽう)メートル) で与えられる。\n質量を測定するときは、上皿天びん(うわざらてんびん)などの天びん(てんびん)を用いる。\n物質の質量を測定する場合は、片側に被測定物をのせ、反対側に分銅を載せる。分銅を質量の基準とする。\n両方の皿の釣り合いを見て、質量を判断する仕組みである。\nなので、皿に物を乗せる前に、両方の皿が釣り合っているかどうかを確認する必要が有る。もし、釣り合っていなかったら天びん本体に調整用のねじ等が付いているので、それで両方の皿が吊り合うように調整してから、皿に物を乗せる。\n粉末などを測定する場合は、粉末が溢れたりしないように薬包紙(やくほうし)などを用いる。この場合は薬包紙を分銅を載せる側の皿にも置いた上で上記の調整を施したり、もしくは薬包紙の質量をあらかじめ測定しておく。\n分銅は、あまり直接には、手で触らないようにする。\n手の皮脂などが分銅につくと、その皮脂などの質量が追加した分だけ、重さが変わってしまうからである。\n軽い分銅を皿に載せたりおろしたりする場合なら、専用のピンセットが天びんに付属していることがあるので、その付属のピンセットなどを用いる。\n上皿てんびんの手順\n電子てんびんの場合、上皿てんびん とは違い、左右のうでは無い。\n電子てんびんの手順\n科学実験で発生させた気体を集める場合、気体が空気よりも軽い物質の場合は、空気中を上昇していくので、補集用のフラスコなどは下向きにして集める必要がある。\n水に溶けない気体の場合は、水を満たした水槽に、フラスコを開いた口を下向きにして入れ、フラスコの内部は水(みず)で満たしておき、このフラスコの中にガラス管などで気体を導く。この方法を水上置換法(すいじょうちかんほう、)という。\n酸素や水素は水に溶けにくいので、水上置換法で集められる。\n水に溶ける物質でも、溶けにくい物質ならば、水上置換法で集める場合もある。\n空気よりも軽い気体を集める場合で、水に溶けやすい物体を集める場合や、水に溶けにくい気体でも水に溶かしたくない場合などは、水を使わない方法で集める必要がある。フラスコの開いた口を下向きにし、そのフラスコの内部にガラス管などで気体を導く。このとき気体を導くための管は、フラスコの奥の上の方まで入れる必要がある。このような集め方を上方置換法(じょうほうちかんほう)という。\n空気よりも重い気体を集める場合は、補集用のフラスコなどは、開いた口を上向きにして集める必要がある。\nこの集め方を下方置換法(かほうちかんほう)という。\nここでは、理科の実験でよく用いられる気体の性質についてまとめる。\n性質\n二酸化炭素(にさんかたんそ、carbon dioxide、カーボン・ダイオキサイド)は、空気中に0.03%程含まれる気体であり、酸素原子に炭素原子が2つ結合した分子からなる気体である。二酸化炭素は我々に取って身近な気体である。我々は呼吸をする際、酸素を吸収して二酸化炭素を排出している。これは我々が食物からエネルギーを取り出すさいに酸素を消費すると同時に、二酸化炭素を排出することと対応している。一方、植物はw:光合成(こうごうせい、photosynthesis [1]、フォウトー・シンセシース)によって二酸化炭素を吸収しつつ、酸素を排出する。これは呼吸と逆の反応である。光合成について詳しくは、中学校理科 第2分野を参照。\n二酸化炭素は炭素と酸素が結合する(炭素が燃える)ことで生じる。我々の身の回りにある物の多くも炭素を含んでいる。例えばw:綿(めん、cotton、コットン)などのw:天然繊維(てんねんせんい、natural fiber)でできた衣類は炭素を含んでおり、それらが燃えるときには二酸化炭素が発生する。また、w:石油(petroleum、ペトロレウム)やガソリン(gasoline)も炭素を含んでおり、燃えるときには二酸化炭素を発する。\n二酸化炭素は空気よりも重い気体であるので、二酸化炭素を集める時には捕集器具を下方に置く(下方置換法 w:下方置換)。二酸化炭素を水に溶かした溶液は、w:炭酸(たんさん、carbonic acid)と呼ばれ、弱い酸性の水溶液になる。\nw:酸素(さんそ、oxygen、英:オキシジェン)は空気中に20%ほどの割合で含まれる気体であり、我々にとって身近な気体である。我々はw:呼吸(こきゅう、breathing、ブリジング)をする際体内に酸素を取り入れている。これは、我々が生命活動を行うのに必要なエネルギーを生産するために、食物から吸収した栄養素と酸素とが必要になるからである。\nまた、酸素は物体が燃えるために必要である。例えば、木に火をつける際、よく火が起こりかかった所に息を吹きかけて火を起こすが、これは木が燃えるために必要な酸素を送り込んでいるのである。より詳しくいえば、木の表面は炭素を含んだ物質でできており、物質中の炭素と空気中の酸素が結合する反応によって熱が発生するのである。\n物が燃えるのに、酸素との結合が必要なことを、酸素の 助燃性(じょねんせい) と言う。可燃物が濃度の高い酸素と反応すると、火花を出して、はげしく燃えるので、実験時は取扱いに注意のこと。\n実験室では、薄い過酸化水素水(かさんかすいそすい)を用いて酸素を発生させることが多い。w:過酸化水素水(hydrogen peroxide)は平時でも酸素と水とに分解するが、二酸化マンガン(にさんかマンガン、manganese dioxide)を加えることでその反応を促進することができる。ただし、このとき反応を行うのはあくまで過酸化水素水のみであり、w:二酸化マンガンは反応の際に変化しない。このように反応の際に自身は変化せずに他の反応を促進する働きがある物質を、触媒(しょくばい、catalyst、カタリスト)と呼ぶ。(w:触媒について詳しくは高等学校化学などを参照。)\nなお、消毒薬で「オキシドール」というものがあるが、これは過酸化水素水の水溶液である。\n過酸化水素水は血液に混ざると、血液中に含まれるカタラーゼという物質が触媒の作用をし、過酸化水素水を分解して、酸素と水に分解する。\n消毒薬のオキシドールを傷口につけると発泡するのは、酸素が発生したためである。\n生のレバーにもカタラーゼがふくまれているので、生レバーにオキシドールをかけても、酸素が発生する。\nその他の作り方\n※ 製品表示に「まぜるな危険」と書いてある漂白剤や洗剤などは、まぜてはいけない。有毒な気体が発生する恐れがある。\n酸素の集め方\n魚などの水中の生き物は、水に、わずかに溶けている酸素を呼吸している。\n水素(すいそ、英: hydrogen、ハイドロジェン)は非常に軽い気体であり、空気中で燃える。(可燃性(かねんせい)である。) 水素が燃えるとき、水素が酸素と結合することで水が発生する。\n可燃性なので、実験時は取扱いに注意。学校の先生の指導をキチンと聞くこと。\n作り方\n集め方\n性質\nアンモニア(英:ammonia)は窒素と水素からなる分子であり、性質は匂いの強い気体であり、また水に溶けやすい。アンモニアの水溶液はアルカリ性を示す。アンモニアは空気よりも軽く、補集するときには器具を上に置いて捕集する。(アンモニアは水に溶けるので、水上置換法では集められず、上方置換法でアンモニアを集める必要がある。)\nなお、アンモニアのにおいを確認するときは、手であおぐなどして、アンモニアから鼻のほうへ風を送って、においを確認する。\nけっして、直接、鼻を近づけて確認してはいけない。鼻を近づけて確認すると危険である。\nアンモニアの作り方\n窒素(ちっそ)は、大気の80%を占める気体であり、水に溶けにくく、化学反応を起こしにくい性質を持つ。\n性質\n大気中の空気は、主に、80%ちかくは窒素であり、20%ちかくが酸素である。なお、水蒸気は、空気の成分にはふくめないのが一般的である。大気中の空気のうち、二酸化炭素などは、ごくわずかである。\n危険な性質のため、中学校では実験をして生成する機会は無いが、他にも知っておくべき気体がある。\nプールの消毒剤や、水道水の消毒にも、塩素が用いられている。\n不完全燃焼をふせぐため、物を燃やすときには、換気をする必要がある。\n都市ガスもプロパンガスも、主成分のメタンやプロパンそのものには、においが無い。ガスもれを気づきやすくするという、安全上のため、いやな臭い(におい)がつけてある。\nメタンは空気よりも軽いので、ガスが漏れたときは、上のほうに たまる。プロパンは空気よりも重いので、ガスが漏れたときは、下のほうに たまる。\n砂糖を水に溶かすと砂糖水ができる。食塩を水に溶かすとこのとき、食塩水ができる。\nたとえば何も溶かしていない水100gが入ってるビーカーに、食塩を20gくわえて溶かすと、食塩水の水溶液の重さは120gになる。(なお、水100gに対し、温度20℃では食塩は37gくらいまで溶ける。) たとえ、溶質を多く くわえすぎて、溶けのこりが出ても、ビーカー内の重さは はじめの水の重さと加えた溶質の重さの合計であり、質量は失われない。\nろ紙の選び方は、折って開いたあとに、ろうとの8分目ぐらいの大きさになる物をえらぶ。\nろ紙の折り方\n牛乳は、不透明です。しかし、牛乳を放っておいても、沈殿は出来ません。いっぽう、ふつうの泥水(どろみず)は、放っておくと、沈殿ができます。\n牛乳のような、水溶液ではないけれど、沈殿もできない液体を、コロイド溶液(コロイドようえき)といいます。\n血液や墨汁も、コロイド溶液です。\nコロイド溶液は、粒子がとても小さいので、水となじんで、沈殿をしないのです。\nコロイド溶液では、粒子は、液体中に均等に分散しています。\nコロイド溶液を、無理に水と粒子に分けるには、遠心分離機(えんしん ぶんりき)という装置を使います。(※ 遠心分離機の装置が高度なので、中学生は、実験しなくていい。)\n水溶液の溶質の濃さを数値化したものを濃度(のうど、concentration、コンセントレイション)と言う。\n水溶液の濃度を表す場合は、いろいろな表し方がある。このうち、よく用いられる質量パーセント濃度の表し方を説明する。\n水溶液の全体の質量(溶媒の質量だけでなく、水溶液全体の質量)に対する、溶質の質量をパーセント表示したものが、質量パーセント濃度である。\n式で表すと、\nあるいは\nである。\nある物質を一定量の水に溶かしていき、その物質がもうこれ以上は溶けきれなくなったときのことを飽和(ほうわ、saturation、サチュレイション)という。\nどの溶質も、温度が高くなると、溶解度は増えるが、その増え方の度合いは物質ごとにちがう。\n食塩(塩化ナトリウム)は、あまり温度によって溶解度が、ほとんど変わらない。\nミョウバンは、温度によって、溶解度が、急激に変わる。\n水溶液から出てきた固体をルーペや顕微鏡で観察すると、その物質に特有な規則正しい形をしていることがわかる。純粋な物質で規則正しい形をした固体を結晶(けっしょう、crystal、クリスタル)という。\n物質をいったん溶媒に溶かし、温度を下げたり溶媒を蒸発させたりして再び結晶として取り出す操作を再結晶(さいけっしょう)という。再結晶により物質をより純粋にすることができる。\n水を摂氏0℃まで冷やすと氷(こおり)になったり、100℃にすると沸騰して水蒸気になるように、同じ物質でも、温度によって状態が変わる。\n水に限らず、物質は温度によって、状態が変わり、固体(こたい)、液体(えきたい)、気体(きたい)の三種類のうちのいずれかをとる。\n食塩(塩化ナトリウム)は約800℃で液体になる。鉄は約1500℃で液体になる。窒素は約 -200℃(マイナス200℃)で液体になる。\n食塩を融解させる実験はふつうの試験管では出来ない。耐熱試験管やルツボなどを用いる必要がある。\n氷(こおり)や鉄や木や紙や布などのような物体。固体の内部では、粒子は、規則ただしく整列している。\n水(みず)やアルコールなどのような、流れることのできる物体。\n液体は、容器によって形は変わるが、体積は変わらない。液体では、粒子どうしは整列しておらず、自由に動けるので、形が変わる。\n粒子の間隔(かんかく)は、固体よりも広い。\n空気や酸素や二酸化炭素のような物体。\n容器の仲に広がり、容器によって体積は変わるし、形も変わる。気体では、粒子は飛び回っており、粒子と粒子の間隔は、とても広い。\n物質が、固体から液体に変化したり、液体から固体に変化したり、液体から気体に変化したり、気体から液体に変化することを状態変化(じょうたい へんか)という。\n状態変化をしても、物質そのものは他の物質には変化せず、また質量は変化しない。\n温度が高くなるほど、物質を構成している粒子の運動は激しくなる。そのため、一般に温度が高くなるほど、体積がふえる。ただし、氷から水への変化は例外であり、4℃のときがもっとも密度が大きい。\n液体が気体になることを気化(きか)という。\n水を熱して100℃に近づけると、容器の底の方の水が泡立つが、これは水に溶けていた空気が気化したものである。この現象を沸騰(ふっとう)という。\n水が気体になったものを水蒸気(すいじょうき、water vapor、ウォーター ベイパー)という。水から水蒸気に変化すると体積は元の水の約1700倍にも変化する。いっぽう水蒸気から水になると、体積は元の水蒸気の約 \n\n\n1\n1700\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {1}{1700}}}\n 倍になる。\n沸騰の実験を行うときは、急激に沸騰すると、湯が吹き飛んで危険なので、急激な沸騰を防ぐために沸騰石(ふっとうせき、boiling chip)を加える。なお、急激に沸騰することを突沸(とっぷつ)という。\n一度、使用した沸騰石は再利用してはいけない。沸騰石が突沸を防止できるのは最初の一回だけである。また、長期間、液体につけた沸騰石も能力を失う。\nここでは物質のw:沸点とw:融点について説明する。物質は温度や圧力を変化させることで\"気体\"(きたい、gas、ガス)、\"液体\"(えきたい、liquid、リキッド)、\"固体\"(こたい、solid、ソリッド)の間を移り変わることが知られている。\nここでは特に、温度による変化について述べる。\n上であげた\"気体\"、\"液体\"、\"固体\"のことを物質のw:三態(さんたい)と呼び、これらの間の変化をw:状態変化(じょうたいへんか)と呼ぶ。特に、状態変化のうち固体から液体への変化をw:融解(ゆうかい、Melting)と呼び、液体から気体への状態変化をw:蒸発(じょうはつ、evaporation)と呼ぶ。また、融解が起こる温度を融点(ゆうてん、melting point)と呼び、蒸発が起こる温度を沸点(ふってん、boiling point)と呼ぶ。日常的な例では水の温度を 摂氏0度 にすることで水を固体にすることができる。また、水の温度を摂氏100度にすることで、水をw:水蒸気にすることができる。これらは状態変化の例である。\n純物質の状態変化の際に物質の温度変化を観察すると、特徴的な結果が観察できる。\n氷などの物質を状態変化させその温度変化を観察せよ。特に物質の状態変化が続いているときの温度に着目せよ。\n氷が水になるとき、しばらく温度変化しない時間がつづく。\nこの実験では、熱を加え続けても、状態変化が続いているときには物質の温度は変化しないことが観察できる。これは、加えた熱が、状態変化のためのエネルギーに用いられるからである。つまり、氷がとけるために、加えられた熱エネルギーが用いられているので、しばらく温度が変化しない。\nただし、ロウのような混合物では、状態変化をしている時でも、温度は変化する。混合物の加熱実験では、融解中でも、温度が上がりつづける。\n純物質の場合でだけ、固体がとけているときに、しばらく温度が変化しない現象が起きる。のは、純物質の場合のみである。\n固体から液体になるときだけでなく、液体から気体になる沸騰のときでも、温度は一定である。\nたとえば水を沸騰させると、水温は100℃の状態がつづく。\n水にかぎらず、純粋な物質なら、融解や沸騰のときには、しばらく温度が変わらない。\n一般に純物質の融点と沸点は、(同じ圧力では)物質ごとに決まった値を持つ。このことは、混合物を分離するために利用することができる。\n「(同じ圧力では)」と書いたのは、沸点は気圧によって変わるからである。たとえば高い山の頂上付近では、沸点が下がる現象がある。\n通常の標高の低い場所では水の沸点は100℃だが、たとえば日本の富士山の頂上付近では水の沸点は約88℃で沸騰が始まる。\n食塩水などのように、かなりの高温にしないと融解しない固体の物質(食塩の主成分の塩化ナトリウムの融点は約800℃と、水の沸点を大きく上まわっている。)が溶けている水溶液を考える。\nまず、食塩水は、沸点が100℃よりも少しだけ高くなる。この現象を沸点上昇(ふってんじょうしょう、boiling-point elevation)という。\n食塩水を加熱すると、沸点で水だけを含む純粋な水蒸気が得られる。水蒸気には、食塩は含まれていない。\nこの蒸気を冷ませば、純粋な水が得られる。このように蒸発を利用して、溶液から液体を分離する方法を蒸留(じょうりゅう、distillation)という。\n水とエタノールの混合液体のような液体どうしの混合物について、加熱をした時の温度変化を観察する同じ実験を行うと、状態変化の最中にも混合物全体の温度が変化することが観察できる。\nたとえば、純粋なエタノールの沸点は、約78℃だが、混合液体だと、78℃くらいで沸騰が始まってからも、温度の上昇は緩やかになるが、それでも温度はなだらかに上昇していく。これが純物質の蒸発とは違う性質である。78℃くらいで蒸発が始まった時の蒸気にはエタノールの成分が多く含まれているが、少しだけ水蒸気も含まれている。このように、純物質の蒸発とは、少しちがう現象がおきる。\n水とエタノールの混合液体の加熱をつづけて、80℃から82℃、85℃、88℃、92℃、93℃、95℃・・・・・・と加熱を続けていくと、100℃の手前で、温度上昇がゆるやかになり、100℃以上は上がらない。\nこの100℃あたりの蒸気を調べると、水を多く含むが、エタノールもすこしだけ含む。\nこのように、温度によって、蒸気に多く含む物質が異なるので、異なる今度での蒸気を分けて集めることで、物質の純度を高めることができ、この方法で純度を高めることを分留(ぶんりゅう)という。\n例えば沸点がより低い物質の沸点近くに温度を保ったとき、蒸発した気体には沸点が低いほうの物質が多く含まれると考えられる。\n蒸気を集めて、それを冷やして液体に戻すと、沸点の低いほうの物質を多く含む液体が得られる。\nこの手法で物質を分離することを蒸留(じょうりゅう)と呼ぶ。蒸留はw:原油(げんゆ)を精製する際に用いられるなど多くの応用がある。(詳しくはw:蒸留を参照。)\n水の蒸気にも少しだけエタノールが含まれるように、分留では完全に分離することは不可能である。純度を上げるためには、分留で分離した異なる温度での蒸気を、冷まして液化させた後に、また蒸発させて分留をして、さらにその異なる温度での蒸気を冷まして液化させたものを再び分流して・・・・というふうに、何回も分留を繰り返すことによって、純度をあげている。\n融点と沸点は物質にかかる、大気の圧力によって変化することが知られている。例えば、高山で水を沸騰させるには100度より低い温度で十分なことが知られている。これは高山ではw:大気圧がより低いため、水を蒸発させるのに必要なエネルギーが減るからである。\n物質が状態変化を起こすとき物質の体積は変化するが物質の質量は変化しないことを説明する。このことは例えば、\"氷をコップに入れて重さを測り、氷が融けた状態での重さと比較する\"などの実験を行うことで確認できる。\n状態変化は分子と分子と間の相互作用を変化させるが、分子自体は変化させない(物質が分子と呼ばれる小さい粒でできていることは後に説明する)。例えば、固体では個々の分子間の距離は近く分子が自由に動くことができない一方、気体では分子が自由に動くことができる。このときにも分子自身の数や重さが変化するわけではないため、状態変化によって物質の質量は変化しない。\n石油化学産業とは、石油を原料として、さまざまな製品をつくる産業である。\nほとんどのプラスチックは、石油を原料にして作られている。たとえば、ビニル袋などのビニル製品、合成ゴムなどのプラスチックは、石油から作られるのが通常である。\nまた、灯油や軽油やガソリンなども、石油から作られている。\n地中から取り出したままの石油を原油(げんゆ)という。この原油が、石油工業の、おおもとの原料である。\n原油そのものでは製品にはならず、この原油を工場で成分ごとに分けます。これを石油の精製(せいせい)といいます。\n蒸留塔(じょうりゅうとう)で、成分ごとに分けられます。\n石油の蒸気は、温度によって、ふくまれる成分の割合がかわってくるので、この現象を利用して、成分ごとに分けています。蒸留塔の中には、数十段ものトレイ( 棚(たな)のこと )が組み込まれています。図では、トレイが数段ですが、じっさいには、もっと多いです。このように、成分ごとに沸騰(ふっとう)する温度のちがいで物質をわけることを、 分留(ぶんりゅう) と言います。\n精製によって、原油は成分ごとにわかれ、ガス、ガソリン、ナフサ、灯油、軽油、アスファルトなどに分かれ、分留されます。分留された成分のことを留分(りゅうぶん)と言うことがあります。「ガソリン留分」、「ナフサ留分」、「軽油留分」などのように言います。ガソリン留分からガソリンがつくられ、軽油留分から軽油が作られます。\nナフサは、プラスチックなど、さまざまな製品の原料になります。ナフサを分解するナフサ分解炉(ぶんかいろ)で、エチレンやプロピレン、ブタジエン、ベンゼン、トルエンなどのガスの成分が、とり出されていきます。\nこれらエチレンなどの成分から、プラスチックや合成繊維(ごうせいせんい)、合成ゴム(ごうせいゴム)などの誘導品(ゆうどうひん)を作っていきます\nプラスチックのポリエチレンは、エチレンを原料に作られます。ポリプロピレンは、プロピレンを原料に作られます。\n水(みず)を冷やすていくと摂氏0℃で氷(こおり)になる。このように、ほとんどの液体は、冷やしていくと固体になる。液体が固体になることを凝固(ぎょうこ、freezing)と言い、そのときの温度を凝固点(ぎょうこてん、freezing point)と言う。\n凝固が終わりきるまでの、水(みず)と氷(こおり)が混じっている混合物のときの温度は0℃のままである。\n凝固が終わり、水(みず)がすべて氷(こおり)になった氷(こおり)を冷やしていくと、さらに温度を下げることが可能である。\nいっぽう、氷を加熱していくと、摂氏0℃で溶け始め水になっていく。溶け終わるまでの間は、氷と水の混合物の温度は0℃のままである。\nこのように、固体は加熱していくと、たいていの物質では液体になる。加熱された固体が液体になることを融解(ゆうかい)という。\nそして、加熱された物質が融解するときの温度を融点(ゆうてん、melting point)と言う。\n一般に、ふつうの物質では、凝固点と融点とは同じ温度である。\n凝固点まで冷やしても、凝固が開始しない場合がある。この場合、ほんの少しの振動などを液体に加えたりすると、凝固が開始するのが一般である。\n凝固点で凝固が開始しない場合に、凝固を開始させないように静かに冷却を続けていくと、凝固点より低い温度でも、液体でいられる。この現象を過冷却(かれいきゃく、supercooling、スーパー・クーリング)という。\n次に電気伝導度(でんき でんどうど)について説明する。後に扱うが、物質に流れる電気とは、w:電子(でんし、electron、エレクトロン)の流れのことであり、物質に電気が通りやすいかどうかは、物質の性質によって決まる。電気伝導度は、物質が電気を通しやすいかどうかを表す値であり、物質ごとに決まる定数である。この値は、物質が持つ電子の状態によっており、密度と同様に微視的に決まる値である。\n例えば、流れて来た電子が入り込む部分が、既に他の電子によって埋まっている場合には、その物質は電気を通しにくくなる。一方、電子が非常に動きやすい状態になっている物質では、流れてきた電子が他の電子を押し出して電子の流れを伝えるため、電気が流れやすくなる。これらは物質ごとの結合の性質によって変化することが知られているが、ここでは詳しくは扱わない。(詳しくは高等学校化学などを参照。)\nさいわいにも電気の通りやすさには物質の種類ごとにある程度の共通性がある。ここではその性質についてまとめる。\n物質に対して電気を流す実験を行う。特に、いくつかの金属について電気が通りやすいことを確認する。水溶液について実験を行うときには十分に安全上の注意を払うこと。\n実験の結果から金属については電気が通りやすいことがわかる。(これは、金属原子間の結合方法によっているが、これについては高等学校化学、w:金属結合などを参照。)。\n一般に電気を流すためにはw:導線が用いられるが、導線の材質には通常何らかの金属が用いられる。これは金属の電気伝導度が高いことに加え、丈夫であることや加工が可能であることによるものである。\n電気が関わる現象としてw:雷がある。\n雷は、雲の中の水滴と地面との間に非常に高い電圧が生じた結果、本来なら電気を通しにくい大気中を電気が通過していく現象である。電気は基本的に電気を通しやすい物質に向かっていく傾向があるため、電気伝導度の高い金属製の物体は雷を呼びやすく、注意が必要である。一方、この性質を利用して雷を誘導する器具としてw:避雷針がある。\nまた、物質によっては固体の時に電気を通さなかった物質で、水溶液にすることで電気を通すようになる物質もある(w:食塩など)。これらの物質は大抵はw:イオン結合(ionic bond)によって結合する物質である。(詳しくは高等学校化学を参照。)\n物質の性質として目につきやすいものとして、その物質の色があげられる。残念ながら物質の色について一般的に述べることは難しい。これは、物質に色がついて見えるのは、物質がある色(w:波長)の光を選択的に反射していることに対応するのだが、その仕組みが物質のミクロの構造によることが多いからである。例えば、w:ダイヤモンド(diamond)とw:黒鉛(こくえん、graphite、グラファイト)は同じ炭素原子(たんそげんし)からできていることが知られているが、これらの色は全く異なる。\nこれは、これら2つの物質では原子の並び方が異なっており、光に対する反応が違うからである。このように物質の色について調べるには光についての知識が必要となるため、ここでは細かく扱うことはしない。(詳しくは高等学校物理などを参照。)\nプラスチックは、くさりにくい種類のものが多い。なので、農業用のフィルムなど、自然界でつかうプラスチックでは、やぶれたりして散らばったりすると、ちらばった破片などが、自然界で、くさらずにのこり続けてしまうので、ゴミとして、のこり続けてしまう、という問題があった。\nそこで、自然界で分解されやすい、生分解性樹脂(せいぶんかいせい じゅし、biodegradable polymer)が、開発された。\nなお、生分解性樹脂などが、自然界で分解されることを生分解という。\n生分解性樹脂の成分は、種類にもよるが、おもに、タンパク質の生分解樹脂もあれば、あるいは、乳酸(にゅうさん)をもとに得られるポリ乳酸や、あるいはグリコール酸をもとにポリグリコール酸のものや、あるいはデンプンやセルロース、キトサンなどからつくられるものがある。微生物などの作用によって、これらの生分解性樹脂は、しぜんに分解される。\n外科(げか)手術用の縫合糸(ほうごうし)に、抜糸(ばっし)の必要がないため、ポリ乳酸やポリグリコール酸の糸が使われている(※ 高校理科の啓林館、東京書籍の検定教科書に記述あり)。\nプラスチックの種類のうち、高温に熱すると柔らかくなり、冷やすとかたくなるプラスチックを熱可塑性プラスチック(ねつかそせいプラスチック)という。\nいっぽう、別の種類のプラスチックとして、加熱しても軟化せず、加熱によってかたくなり、また、冷やしても軟化しないプラスチックを熱硬化性プラスチック(ねつこうかせいプラスチック)という。\nプラスチックのことを「樹脂」(じゅし)あるいは「合成樹脂」(ごうせいじゅし)とも言う。\nこれらのプラスチックが、熱可塑性である。\n塩化ビニルは、燃やすと有害な気体がでるので、無理に、これらのプラスチックの加熱の実験しなくて良い。\n2000年にノーベル化学賞を白川英樹(しらかわ ひでき)が取ったことでも有名な導電性高分子(どうでんせい こうぶんし)とは、\nポリアセチレンに、少量のヨウ素や臭素(しゅうそ)を加えたものである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E7%89%A9%E8%B3%AA%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%8C%E3%81%9F"} {"text": "\nさて、「温かい、暖かい、暑い、熱い」とか「寒い、冷たい、冷える」とかを定量化したものを、温度と呼ぶことにしよう。\n温度の単位として実用上、多く用いられている℃単位の摂氏温度を用いる。摂氏温度は、セルシウス温度(Celsius temperature)とも言う。また、温度差をセルシウス度(degree Celsius)といい、これはケルビン(kelvin;単位記号 K)に等しい。\n温度計の種類にアルコール温度計や水銀温度計などあるが、これらは物体の温度が上がることによる膨張を、温度の測定器として利用した器具である。\nまた、アメリカ合衆国含む一部の国では、ヤード・ポンド法の華氏温度が使われている。日本の計量法などの法令でカ氏度は[1]、「例外的に限定した取引又は証明」に用いる場合以外は認められておらず、日常的に華氏を使う機会は少ない。また、SIでは華氏温度も摂氏温度と同様にケルビンから導出されている。\n「熱量とは何か」を述べる前に、たとえ話をする。\n1kgの物体と、べつの1kgの物体を合わせて、重量計に載せれば、測定値は2kgになる。\nだが、容器に入った10℃の水に、等量の10℃の水を注いでも、20℃にはならない。\nいっぽう、温度を上げるには、エネルギーが必要だが、エネルギーは足しあわせができる。\nこのような理由から、加熱された物体に蓄えられた熱エネルギーと温度とを区別する必要がある。\nそこで、熱エネルギーのことを熱量(英語: heating value)といい、これは温度とは区別する。\n熱量の単位はカロリー(フランス語: calorie)といい、単位の記号はcalと書く。1cal の古典的定義は「水 1 kg の温度を0 °Cから1 °Cに上げるのに必要な熱量」であったが、現在は、計量法において「カロリーは正確に 4.184 J」と定義されている\n熱量の式は、\nQ=mcΔT\nここで:\nである。\n栄養学の分野ではキロカロリー(kcal しばしば、Cal と綴られカロリーと発音されることに注意)が用いられることが多い。さらにカロリーはSIたんいではないので、中学でも熱量の計算にはカロリーを用いるべきではないだろう。\n水以外の物質は、同じ熱量を与えても、水とは温度の変化しやすさが違う。\nたとえば、夏場で、鉄が熱くなってるのを体験した人もいるだろう。この理由の一つは、鉄と水とでは、温度の変化のしやすさが違うからである。\nまず、1cal とは、水 1g の温度を 1℃ 上昇させるのに必要な熱エネルギーのことである。\n1gの物質を、温度を1℃上昇させるのに必要な熱量を比熱という。比熱の単位は ジュール毎キログラム温度\n J/(g・℃) \n水の比熱は約4.18 J/(g・℃)である。\n物質の熱量の式は、\nである。\n物体の温度の正体とは、実はその物体を構成している、それぞれの分子の運動の激しさのことである。この温度による運動は、その物体の、いくつもの分子が、ぶつかりあってるので、不規則である。 \nこのように、物質をつくっている分子が衝突しあっていることを分子運動という。\n分子運動の強さが分子どうしの引力に比較して無視できるほどまでに弱ければ、抑えこまれてしまい物体が固体状の形状を保つ。これが温度が低いと固体になる理由である。\n固体でも、分子は、結晶の格子点を中心に運動している。液体では、外部から力を加えると、体積は変わらないものの、流動して容易に形を変える事ができる。\n固体を加熱するなどして温度を高めると、いずれ、固体から液体へ変わる。これは、熱運動が強まり、もはや結晶の構造を取るのが不可能になったからである。\n液体を加熱していくと、いずれ、気体へ変わる。気体は分子運動が、分子間力よりもはるかに大きく、もはや、各分子がバラバラに離れて行動している状態である。したがって、液体から固体になると体積が増える。\nなお、液体から気体への変化にかぎらず、一般に物体は温度が上がると、ほとんどの物質で体積が増える。\n熱は、外部から手を加えなければ、自然と温度の高い所から、温度の低いところへと移動していく。\nその結果、温度の高かった場所は、熱を手放していき、だんだんと温度は低くなる。逆に、周囲と比べて温度の低かった場所は、しだいに温度が高くなる。そして、いつしか、ふたつの箇所の温度は同じになる。このような熱の移動が無い状態を熱平衡という。\nいっぽう、熱が、温度の低いところから、温度の高い所へと自然に移動することは、無い。\nさて、静止した物体での熱の伝わり方には、大きく分ければ、熱伝導(英語: thermal conduction、サーマル・コンダクション)と対流(英語: convection、コンベクション)と熱放射(英語: radiation、ラディエイション)の三つに分けられる。\n熱を持った物体そのものが静止していても、となりにある気体や液体などが運動すれば、その気体などが熱を運ぶ。これを対流(convection、コンベクション)という。\n気体や液体などでは、温度差があると、温度が高いほど密度が軽く浮力が生じるので、自然に対流が起こりやすい。\n密度変化による対流の場合は、循環運動をする場合が多い。なぜなら、暖められて密度が軽くなることで浮力が発生し、そのため暖められた物体が上方に移動し、かわりに元から上部にあった冷たい物体が押しのけられ、押しのけられた冷たい物体は重力によって降りてくる。\n対流が起きなくても、固体などの物質どうしが接触していけば、熱は伝わっていく。これを熱伝導(thermal conduction、サーマル・コンダクション)という。\n金属は、熱伝導をしやすい。なので、台所のフライパンなどの加熱するための調理器具は、金属製なのである。\n分子運動の伝搬が、熱伝導の起きる理由である。\n実は、どの物体も、人間の目には見えないが、電磁波という電場と磁場の変化を伝搬する波を出している。電磁波を出すことを放射(radiation、ラディエイション)という。その放射する電磁波が、人間の眼に見えないのは、単に放射電磁波の周波数が、人間の目の可視領域で無いからという理由である。\nこの放射する電磁波は、常温では周波数が低く、赤外線の領域である。高温になるほど、物体の放射電磁波の周波数が高くなり、可視領域へと入っていく。溶鉱炉などで、高温で溶けた金属が光るのは、この放射光によるものである。このような高温物体から電磁波がでることを熱放射、あるいは単に放射という。熱輻射と言う場合もある。\nこの放射電磁波によっても、エネルギーが高温側の物体から低温側の物体に輸送される。低温側からも放射電磁波が出るが、高温側の物体のほうが放射電磁波のエネルギーが大きいので、差し引きして、結局は、高温側から低温側へとエネルギーが移る。\nロバート・ボイル(Sir Robert Boyle)という人物が、容器内の気体の温度を変えずに、一定温度での気体の圧力と気体の体積との関係を調べたところ、法則性を発見した。\n外部から、ピストンを押しこむなどして、気体の体積を半分にすると、気体の圧力が2倍になる。\n(ピストン内の気体の圧力を測るには、たとえばピストンの可動部に外側から重りを載せるなり、あるいはバネばかりを利用するなりと、ともかく工夫すれば可能である。)\n同様に、気体の体積を\n\n\n1\n3\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {1}{3}}}\n倍にすると、圧力が3倍になる。同様に、気体の体積を\n\n\n1\n4\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {1}{4}}}\n倍にすると、圧力が4倍になる。\n以下、気体体積の\n\n\n1\n5\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {1}{5}}}\n倍や\n\n\n1\n6\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {1}{6}}}\n倍でも同様である。べつに気体体積は整数倍でなくても、たとえば\nこれ等をまとめると、気体の圧力p[Pa]と体積V[m3]との関係には、以下の関係式がある。\n(Kは定数)\nこの関係式を、ボイルの法則(ボイルのほうそく、Boyle's law)という。\nさて、シャルルという人物が、温度と容積の関係を測って研究したところ、法則性を発見した。大気圧の状況下では、気体を1℃温、上昇させると、0℃の体積の\n\n\n1\n273\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {1}{273}}}\nずつ膨張することを、シャルルは発見した。\nこれを式で表すと、0℃のときの気体の体積をV0として、一般の温度の体積をVとすると、温度t[℃]のときの関係式は、\nであることを、シャルルは発見した。\nこの法則をシャルルの法則(英: Charles's law)という。\nシャルルの観測結果をグラフに書くと、マイナス273.15℃で、理論上では気体は体積が0になる。このマイナス273.15℃を絶対零度(英語: absolute zero、アブソリュート・ゼロ)という。絶対零度以下の温度は、測定誤差の範囲程度を除けば、理論上は考えらない。\nまた実験的にも絶対零度以下の温度は、測定誤差の範囲程度を除けば、確認されていない。たとえばマイナス300℃やマイナス500℃などは実在しない。\nなお、現代では、絶対温度に273.15を足した値がセルシウス温度と定義されている。\n絶対零度のマイナス273.15℃とは、分子運動の全くない状態である(ただし量子力学では、不確定性原理のため、原子の振動が止まることはない)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E7%86%B1%E3%81%A8%E6%B8%A9%E5%BA%A6"} {"text": "バネが物体を吊り下げている場合に関して、物体が重力によってバネを引っ張った場合に、なぜ、重力を受けている物体は運動方程式にしたがって落下していかないのだろうか。それは、吊り下がっている物体が、バネを引っ張っている力と同じ大きさの力で、バネから引き上げる力を受けているからである。\nこのように、物体が他の物体に力を及ぼすときは、必ず相手の物体からも同じ大きさの力を受けている。これを作用・反作用の法則(英語: action-reaction law)という。\n静電気の力も, 磁力も, 重力も, どんな力であっても、作用・反作用の法則が成り立っている。\n磁力は、磁石と別の磁石や一部の金属が引き合ったり反発したりする力のことである。\n磁力でも、作用・反作用の法則が成り立っている。磁石が鉄を引きつけるとき、鉄もまた磁石を引きつけているのである。\n重力は, 質量をもつ物体どうしが引き合う力である。\n地球上のすべての物体は、地球による重力によって、地球の中心方向へと引っ張られている。たとえば、ボールを落とすと落下するのも、重力がボールに働いているからである。\n月の重力の大きさは、地球の重力の約6分の1である。\n星の重力の大きさは、その星の質量に比例する。月の重力が地球よりも小さい理由は、月の質量が地球よりも小さいからである。\n重力は、接触していなくても、はたらく。\nすべての物体は、周囲に重力を発生させている。なので、重力のことを「万有引力」ともいう。じつは地球も、私たちから重力によって引っ張られている。\n野球ボールやサッカーボールも周囲に重力を発生させている。しかしわたしたちは、野球ボールやサッカーボールなどに引っ張られるとは感じない。それは、野球ボールやサッカーボールの質量が小さすぎて、重力が小さすぎるからである。\n月は、地球からの重力を受けている(もしそれが無ければ, 月は地球のまわりを回り続けることはない)。同様に、地球も、月からの万有引力を受けている。\n重力の法則は、生き物かどうかとか、星かどうかとかでは、まったく影響されない。物体なら、すべての物に、万有引力は同じ法則で、作用・反作用の関係で働く。\n重力の法則を発見した人物は、イギリス人のニュートンである。木から落ちるリンゴを見て、彼は重力の法則を思いついた、といわれている。たんに、物体が下方向へと落下するだけなら、ニュートンでなくても、もっと以前に思いついていただろう。ニュートンが偉大なのは、地球もまた、リンゴによって引っ張られてるはずだ、という事に気がついた事である。そして、宇宙にある月などの星もまた、地球による重力によって引っ張られているはずだ、という事に気がついた事である。そして、地球もまた、月の重力によって、引っ張られてるはずだ、・・・というように。\nでは、なぜ、月は地球をめがけて落下しないのだろう。ニュートンはこう考えた。ボールを力強く投げると、遠くへ落下する。もっと力強く投げると、もっと遠くへ落下する。ところで、地球は丸いので、地球の半径や直径には限りがある。もし、とても力強くボールを投げて、地球よりも遠くへ落下したら、どうなるだろう、・・・と。結果的には、地球のまわりを、飛び続けるはずだ、と考えた。\nなお、じつは、このしくみは、現代の人工衛星が地球のまわりを飛びつづけて地球のまわりを回り続ける原理でもある。\n地面の上で静止しているボールにも、重力がはたらいている。なのに、ボールが地中へと落下していかないのは、地面がボールを押し返している(垂直抗力)からである。\n止まっている物体を動かしたいときには、その物体を手で押したり、道具を使って押したりする。ここで、そのように止まっている物体を動かす性質を持つものを力(英語: force、フォース)と呼ぶ。力は、手を使ったり道具を使ったりして物体に対して与えることが出来る。また、磁石などを用いることで、物体に触れることなく力を与えることも出来る。\n力には物体を動かす時、対象が粘土などの柔らかいものなら、物体を変形させることができる物体を変形させる働きや止まっている物体を動かしたり、動いている物体の行き先を逸らしたりできる物体の動きを変える働き、そして重力に逆らいながらものを抱えるなどができる物体を持ち上げたり、支えたりする働きがある。\n実際には、あらゆる物体が原子や分子の集合によって出来ていることを考えると、物体を変形させることは、原子や分子の並びを変化させることであり、物体を動かす働きの一つとして考えられることに注意。分子については後に扱う。\n同じ方向に2つの力をかけたときには、物体に働く力はそれら2つの力の和と同じだけの力がかかった時と同じふるまいを示す。また、反対方向に2つの力をかけたときには、物体にはたらく力はそれら2つの力の差と同じだけの力がかかった時と同じふるまいを示す。このように、物体にかかった力は、たがいに強めあったり弱めあったりすることがわかる。\nここでは力のつりあいの条件について考える。力のつりあいとは、物体に複数の力が働いているときに、それらの力が互いに別々の方向を持つことで、お互いを完全に打ち消し合っている場合のことを指す。変形しない物体に対して様々な方向から複数の力をはたらかせる実験を行なうとする。この実験で、物体に対して反対向きの方向に、同じ大きさの力をかけているときには、物体は動かない。このような情況を、物体に働く力がつりあっているという。\nまた、まったく反対向きで同じ大きさの力がかかったときには、物体が動かないことがわかる。これは、物体に力のつりあいがおこっている状態と、物体にまったく力がはたらいていない状態は、同じ状態であることを示している。\n力の大きさは単位はニュートン Nを使う。1 Nは地球上で質量が100 gの物体に働く重力に(ほとんど) 等しい。地球上で100 gの物体にはたらく重力は、正確には 0.98 N である。だが中学では、質量100 gの物体にはたらく地球の表面付近での重力は 1 N であるとする。\n月の重力の大きさは、地球の重力の6分の1である。すなわち、質量600 gの物体は、地球上では 6 Nの重力がはたらき、月では 1 Nの重力がはたらく。\n(高校レベルだが、ニュートンの定義を正確に言うと、1キログラムの質量をもつ物体に1メートル毎秒毎秒 (m/s2) の加速度を生じさせる力が1ニュートンと定義される。また、単位質量あたりに働く重力の大きさを重力加速度というが、地球の表面付近での重力加速度は9.80665 m/s2と、10 m/s2 に近似できるため、100 gの物体に働く地球の表面付近での重力は1 Nとして扱える。\nなお、重さと質量は区別する必要がある。地球と月とで重力の大きさはちがう。また宇宙の中でどの星からも遠く離れている場所では、ほぼ無重力になる。このように重力の大きさは場所によって変わるので、もし重さと質量を同じ単位で扱うと混乱してしまう。\n質量とは、物体の動かしにくさの度合い(=慣性)を表す量である。質量の単位には、グラム[g]やキログラム[kg]がある。1 kgは1000 gである。\n1889年に質量1 kgの基準として、国際キログラム原器という分銅が、さだめられた。白金90 %、イリジウム10 %のまざった合金で、円柱形の物体として、キログラム原器がつくられた。なお、日本の国内にあるキログラム原器は、国際キログラム原器の複製(ふくせい)である。\nしかし、2007年、この原器の質量が、年数がたった事により、ほんのわずかばかり、小さくなっているという事が、わかった。そこで、より正確な基準をきめようと、研究されてきた。\nその結果、2019年に、キログラムの定義が変更された。物理量の測定における基準を国際的に管理している国際度量衡委員会は、定義を新しくしてプランク定数(という物理定数がある。高校で習う。)を基準にすることにより、キログラムの測定で従来の基準(白金の分銅)よりも高精度に定義できると前々から(2011年ごろから)主張しており、国際度量衡委員会はキログラム原器の定義をプランク定数にもとづく基準へ変更すべきだと主張していた。日本は、国際度量衡委員会のその考えに従って、キログラム原器の定義をプランク定数にもとづく定義に変更した。\n近年(きんねん)、力の単位をニュートン単位に統一した理由は、昔は国や業界ごとに単位が別々(べつべつ)であり、不便(ふべん)であったので、その不便を解消しようと国際的な取り決めがなされたからである。その国際的な取り決めによって、力の単位にはニュートンを、質量の単位にはキログラムを標準的に用いることが決まったのである。\nこの国際的に取り決めた単位系を国際単位系(こくさい たんいけい)と言い、略称ではフランス語(Système International d'unités)を語源としてSI単位(エスアイたんい)とも言う。\nまた、国際単位系では、長さの単位にはメートルを、時間の単位には秒を標準的に用いることが原則となっている。\nただし、国際単位系では、これら以外の単位、たとえばグラムや分、時、センチメートル、キロメートルなどを使うことが禁じられているわけではない。\n高校や大学範囲での理科の学習では、物理量の単位系には、原則としてSI単位が用いられる。\n中学範囲でも、原則として、SI単位を用いるので、質量の単位はグラムやキログラムだし、重さの単位はニュートンだし、長さはメートル法である。\n中学範囲でSI単位以外を用いるとすれば、グラム重とニュートンとの換算や、中学3年理科『地球と宇宙』宇宙の広がりで登場する距離の単位「光年」など限られる。\n読者は「長さがメートル法とか、質量がグラム単位なんて、当然じゃないのか?」と思うかもしれないが、日本では明治頃の古くから、メートルやグラムに親しみがあるが、実は外国では、国によってはメートル法やグラム単位はかならずしも当然ではない。長さにインチ単位や、重さにポンド単位を日常的に用いている国も存在するのである。\nともかく、読者が中学範囲学習者なら、原則として物理量の単位系には、\n以上に従うことが、中学範囲の理科でも、高校・大学範囲の理科でも原則である。\n質量を測定するときは、上皿天びん(うわざらてんびん)などの天びん(てんびん)を用いることが多い。\n物体の質量を測定する場合は、片側に被測定物をのせ、反対側に分銅を載せる。分銅を質量の基準とする。\n両方の皿の釣り合いを見て、質量を判断する仕組みである。\nなので、皿に物を乗せる前に、両方の皿が釣り合っているかどうかを確認する必要が有る。もし、釣り合っていなかったら天びん本体に調整用のねじ等が付いているので、それで両方の皿が吊り合うように調整してから、皿に物を乗せる。\n粉末などを測定する場合は、粉末が溢れたりしないように薬包紙(やくほうし)などを用いる。この場合は薬包紙を分銅を載せる側の皿にも置いた上で上記の調整を施したり、もしくは薬包紙の質量をあらかじめ測定しておく。\n分銅は、あまり直接には、手で触らないようにする。\n手の皮脂などが分銅につくと、その皮脂などの質量が追加した分だけ、重さが変わってしまうからである。\n軽い分銅を皿に載せたりおろしたりする場合なら、専用のピンセットが天びんに付属していることがあるので、その付属のピンセットなどを用いる。\n上皿天びん以外の天びんでは、ピンセットでは運べないような重い分銅を用いる場合も有る。このような場合、ピンセットでの持ち運びが危険な場合なので、他の方法で分銅を運ぶ。たとえば理科実験用の手袋(一般の手袋や軍手は、不可。)などをして、手袋をした手で分銅をつかんで持ち運ぶ場合も有る。\n重さを測定する場合は、ばねばかり や 台はかり などを用いることが多い。\n※新学習指導要領では以下の分野は2年の地学分野で習う。\n圧力(あつりょく)とは、単位面積あたりの面に垂直にはたらく力のことである。\nつまり、\nである。\n力が働く面積が小さいときには, 上の式の右辺の分母が小さくなるので, 圧力は強くなる。たとえば、えんぴつの両端を、図のように手で、つまんだとする。とがった先端(せんたん)をおさえてる指のほうでは痛く感じる。その理由は、とがったほうでは、力のかかる部分の面積が小さいため、圧力が高くなるからである。\n圧力の単位には、Pa(パスカル)がつかわれる。Paとはどういう単位か, もう少し詳しく述べる。\nまず、力の単位をN(ニュートン)で考えよう。いっぽう、面積の単位を、\n\n\nm\n2\n\n\n{\\displaystyle m^{2}}\n (平方メートル)で考えよう。このとき、 圧力の単位は、力の単位/面積の単位なので, N/m2(ニュートン毎平方メートル)となる。この単位がPa(パスカル)である。「Pa」の 頭文字 P は大文字で書く。\nここで、空気が与える大気圧と、空気に重さがあることとの関係について述べる。\n17世紀のドイツのマグデブルク市で行われた、物理学者ゲーリケによる古典的な実験として、大気圧の大きさを見せびらかすために、2つに割ることが出来る 鉄球を用意し、鉄球の中を真空(しんくう)にして、その2つの鉄球を分割しようとしたときに、非常に大きな力でないと鉄球を引き離せないことを実験した例が有る。\n鉄球を引き離すには、一人の人間では到底は不可能で、馬を何頭も用意して、馬たちに引っ張らせて、やっと鉄球が引き離せる結果になった。\nこのような巨大な大気の力を、大気中にいる我々が普段の生活では、なぜ、感じないのだろうか。なぜ、われわれの体は大気の巨大な力に押しつぶされないのだろうか。それは、我々の体の中は真空ではないので、中からも空気の圧力がかかっているため、外側の力と打ち消し合い、押しつぶされないのである。(力には方向があった。逆向きの力は打ち消し合って、差引の力が物体に掛かるのであった。圧力もまた同様に、方向があって、逆向きの力は打ち消しあう。)\n大気圧を測定するには、真空を利用すれば良さそうである。イタリアの物理学者のトリチェリは、ガラス管に液柱を満たして逆さまにする実験で、簡単に真空を作り、この液中の重さが大気圧と釣り合うことから、大気圧を測定した。\n大気圧の大きさは、地表ではおよそ100,000 Paである。高山では大気圧は山のふもとよりも低いため、ふもとから密閉された袋を持って行くと袋がふくらむ。なお100 Paをヘクトパスカル[hPa]という。大気圧の100,000 Paをヘクトパスカル単位で表せば、1000 hPaである。\nトリチェリが実験で用いた液体は水銀(すいぎん)である。この水銀は猛毒なので、中学生は、この実験は行わない方が良い。トリチェリが実験で水銀を用いた理由は、水銀は比重が大きいので、実験のガラス管の長さを節約できるからである。\nなお、トリチェリの実験で、逆さまにしたガラス管の上部に出来た真空をトリチェリの真空(トリチェリのしんくう)という。\nこのことから、大気圧は高度が低いところではより大きいことがわかる。これは、空気に質量(しつりょう)があるからである。高度が低い地点での空気は上方により多くの空気があるため、それらを支えるためにより多くの圧力を与えることになり、大気圧も大きくなるのである。空気に重さがあることは、後に気体を用いた実験を行なうことでわかる。\n水中の物体がまわりの水から受ける圧力を水圧(すいあつ)という。水圧は,同じ深さなら同じ大きさであり,深さが深いほど大きくなる。また,水圧は,あらゆる物体の面に垂直にはたらく。\n水圧が深さが深いほど大きくなるのは、水圧が上にある水の重さによって生じているからである。\n水中などの液体中にある物体や水面にある物体が、水から受ける、浮き上がる上向き方向の力のことを浮力(ふりょく)という。この浮力の原因は、物体の下の面が受ける水圧のほうが、物体の上の面が受ける水圧よりも大きいことによって生じる。\n(実は空気中でも空気の重さによる浮力が物体に働くので, 上の式は厳密には正しくはない)\n一般に「力が強い」、「強い力が働く」、「学力」「気力」など力という言葉はいろいろな意味で用いられる。しかし、科学的な考え方をする時には、力は常に1つの意味で用いられる。\nある面積あたりに働く力を圧力(あつりょく、pressure、プレッシャ)という。\nさて、ある面に働く圧力が一定だとすると、働く面積に比例してその面に働く力の合計は大きくなる。\n地表を取り巻く空気の層を大気(たいき、atmosphere、アトモスフィア)という。大気にも質量があるので、この質量により重さの力がかかり、大気中の物体に重さがかかるので、大気中の物質は大気から力を受ける。この大気から受ける力は、圧力で表示できる。大気がおよぼす圧力を大気圧(たいきあつ、atmospheric pressure)という。\n液体の中にあるものに対しては、浮力(ふりょく、buoyancy)が働くことが知られているが、これは物体の上面に働く圧力と、下面に働く圧力との差によって与えられる。\nここからは、力と圧力の性質についてより詳しく見ていく。\nばねの伸びは、ばねに働く力の大きさに比例する。このことをフックの法則という。このことを利用すると、ばねの伸びからばねに働いた力の大きさを知ることができる。これを応用した器具がばねばかりである。\nばねなどから荷重を取り除くと元に戻るように、物体の中には、力を加えて変形しても、力を取り除くと元に戻る性質を持つものが有る。このような性質を弾性(だんせい)という。\nばねばかりのばねや、ゴムひもなどが、弾性の有る物体である。\nまた、ばねなどの弾性のある物体が、弾性によってものを引っ張ったり押したりする力のことを弾性力(だんせいりょく)という。\nいっぽう、力を加えて変形すると、力を取り除いても元に戻らない性質の物体も有る。たとえば、工作用の粘土などがそうである。このような、力を取り除いても元に戻らない性質を塑性(そせい)という。\n発展: 弾性限界(だんせい げんかい)\n弾性のある物質でも、くわえる力が大きくなりすぎると、力を除いても元に戻らない。それ以上の力を加えられたら、もう戻れない限界の荷重を弾性限界(だんせい げんかい)という。  \n物体を押して動かすとき、重さが同じでも、物体の置かれている床がデコボコしていたりザラザラしていたり、あるいは物体がデコボコしていたりザラザラしていると、動かすのに、余計な力が必要になる。このような動かそうとする力に対する抵抗を、摩擦(まさつ)といい、摩擦による抵抗力のことを摩擦力(まさつりょく)という。\nもし、摩擦がなければ、少しでも力を加えれば物体が動いてしまうが、実際には、どんな物体にも摩擦があるので、そのようなことは起きない。\nボールや、コロ(丸太のような円柱状のもの)などが転がりやすい仕組みは、接触面を減らすことによって、摩擦を減らしているからである。\n人間が、ぬれた床や道路などを歩くときに滑りやすいのは、床や道路の表面のザラザラした隙間に水が入り、ザラザラした隙間が埋まってしまうので、摩擦が減るからである。\n摩擦について、一種の「抵抗力」というと損失と同一視されやすいが、ぬれた床の例のように、摩擦は必ずしも無ければ良いというものではない。もし摩擦がなければ、われわれ人間は歩くたびに滑って転んでケガをしてしまう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%8A%9B%E3%81%A8%E5%9C%A7%E5%8A%9B"} {"text": "ルーペ(独: lupe)とは、いわゆる「虫めがね」などのことである。ルーペでは、決して太陽を見てはいけない。(目を痛めるので。) \nルーペの倍率は5倍~10倍程である。\nタンポポなどの道端の植物など、肉眼で確認できる程度のものは、このルーペで見るのが効率的である。ちなみに、タンポポで、花びらのように見える物は、じつは一枚一枚が花全体である。それぞれの「花びらのような物」に、おしべ や めしべ が個別についており、独立した花なのである。\nルーペの使い方\n双眼実体顕微鏡は、観察する物をプレパラートにする必要が無い。倍率は20倍~40倍ほどである。\nピント(焦点)合わせなどの調整は、以下のように行う。\n顕微鏡のレンズには、接眼レンズ(eyepiece)と対物レンズ(objective)の2種類が必要である。\n顕微鏡の倍率は、\nである。\nたとえば接眼レンズの倍率が15倍であり、対物レンズの倍率が4倍なら、顕微鏡の倍率は60倍である。(15×4=60より)\n一般に中学校などで使うような形式の顕微鏡の倍率は、40倍から600倍までである。\nミジンコやミドリムシなど、いわゆる「微生物」と言われるものは、ルーペなどでは倍率が小さすぎて確認できない場合が多い。微生物などは、顕微鏡以上で観察しよう。\nまず、プレパラート(ドイツ語: Präparat)の準備が必要である。鏡筒上下式顕微鏡と、ステージ上下式顕微鏡のどちらとも、プレパラートが必要にななる。このプレパラートの準備方法を、つぎに説明する。\n顕微鏡で観察する時は、プレパラート(ドイツ語: Präparat)を使う必要がある。\nうすい物しか観察できない。あつい物を観察したい場合は、うすい切片にする必要がある。\n以上の手順で、観察を始められる。さらに高倍率で観察したい場合には、対物レンズをレボルバーを回して、高倍率の対物レンズに替える。\n顕微鏡で見える像は、上下左右が反対に見える顕微鏡が普通である。なので、プレパラートを動かすと、像は反対方向に動いて見える。よって、プレパラートを動かしたい場合には、動かしたい方向とは反対の方向に動かす。\nいきなり、高倍率の対物レンズで観察すると、視野がせまいので調整が難しくなる。そのため、まずは低倍率の対物レンズを使用する。\nまた、高倍率にするほど、明るさは暗くなる。\n理科におけるスケッチのしかたは、美術スケッチとは、ことなる。\n理科におけるスケッチのしかたを述べる。\n中学では、立体感の表現方法まで覚えなくてもよいが、もしスケッチで立体感をつける場合は、点の多い・少ないで表現する。(奥まっていて影になりそうなところほど、点が多くなる。)\n立体感の表現は、やや難しいので、中学校では描かないほうが無難だろう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E8%BA%AB%E8%BF%91%E3%81%AA%E7%94%9F%E7%89%A9%E3%81%AE%E8%A6%B3%E5%AF%9F"} {"text": "生物\n花などは、いろいろな場所に存在する。これらの花は、やがて果実に変化し、種子をのこす。花はどのように果実になるのだろうか。\n花には、普通、外側から順に、がく、花弁(かべん、petal)、おしべ(stamen)、めしべ(pistil)がある。めしべのもとのふくらんだ部分を子房(しぼう,英: ovary)といい、子房の中にある小さな粒を胚珠(はいしゅ、ovule)という。 胚珠は、将来、種子(しゅし,seed)になる。\n花粉がめしべにある、柱頭につくことを受粉と言う。受粉が行れると、子房が成長して果実(かじつ)となり、子房の中にある胚珠は種子(しゅし,seed)になる。\nおしべは、やく (anther) と 花糸(かし、filament) から、なる。やく は花粉の入った袋である。やくは、細い糸のような花糸によって支えられている。\nめしべは、柱頭(stigma)・花柱(style)・子房から、なる。子房の中には胚珠があり、受精すると胚珠は種子になる。\n柱頭は、めしべの先端部にあり、花粉がつきやすいように、粘液状のものが付いている。花柱は、柱頭と子房をつなぐ部分であり、花粉管が通る部分。\n花には、 花弁(かべん、petal) と、花弁の根本のほうにある緑色の先のいくつか別れた がく(sepal) がある。花弁は、いわゆる「花びら」(はなびら)のことである。\n花弁は、昆虫などを引きよせるために、目立っている色と香りを持つ植物(plant)が多い。\nタンポポの先っぽの黄色い部分は、実は、多くの花の集まりである。「花びらのように見える物」が、実は一つ一つが、花である。そのため、「花びらのように見える物」一つ一つが、それぞれ おしべ と めしべ・子房などを持っている。\nヒマワリも同様である。\n花が種子をつくるためには、めしべにある柱頭に花粉がつく必要があり、柱頭に花粉がつくことを 受粉(じゅふん、pollination) という。\n柱頭いがいの場所についても、受粉では無い。たとえば子房に花粉がついても受粉では無く、とくに変化は起きない。同様に花柱(かちゅう)に花粉がついても、とくに変化は起きない。\n花粉が柱頭につくと、花粉から花粉管(かふんかん、pollen tube)という管が出て来て、花柱の仲を下る。花粉管が胚珠に達して、そこで受精(じゅせい)が行われる。受精をすると、胚珠は種子になり、子房は果実になる。\n種子には、種の中に栄養分である胚乳(はいにゅう、endosperm)を持っている有胚乳種子(ゆうはいにゅう しゅし)と、胚乳を持たない無胚乳種子(むはいにゅう しゅし)とがある。\n有胚乳種子は、種皮(しゅひ)と、植物体になる胚(はい)と、栄養分の胚乳(はいにゅう)とからなる。\nカキやイネなどが有胚乳種子である。\nいっぽう無胚乳種子であるアサガオ、エンドウ、クリの種子は、種皮と胚と子葉(しよう)からなり、栄養は子葉に蓄えられている。無胚乳種子は、種皮と胚と子葉からなる。\n有胚乳種子も子葉を持っており、胚に子葉がふくまれている。有胚乳種子の胚は、子葉・幼根(ようこん)・胚軸(はいじく)・幼芽(ようが)から なる。\n種子植物には、子房のある植物と無い植物とがあり、子房のあるほうを被子植物(ひし しょくぶつ、angiosperms)といい、子房の無いほうを裸子植物 (らし しょくぶつ、英語: Gymnosperm、学名:Gymnospermae)という。つまり、種子植物には被子植物と裸子植物の2種類がある。\nタンポポ・アブラナ・サクラ・エンドウなどが被子植物(ひし しょくぶつ)である。\n子房があり、胚珠は子房の中にある。\nマツ・スギなどの針葉樹や、イチョウ・ソテツなどが裸子植物(らし しょくぶつ)である。\n子房が無く、胚珠がむきだしになっている。雄花(おばな)と雌花(めばな)を持つ。\nなお、イチョウの「実」(み)と言われている銀杏(ぎんなん)は、じつは実(み)ではなく、銀杏全体が種(たね)である。\n根の種類には、「主根と側根からなる根」と、「ひげ根」の2種類がある。\n主根とは、真ん中に一本ある、太い根である。\n側根とは、主根から枝分かれした根である。\n双子葉類(そうしようるい、dicotyledon)は、主根と側根からなる根を持つ。タンポポやヒマワリが双子葉類であるので、主根と側根からなる根を持つ。\n双子葉類とは、文字どおり子葉が ふたば の植物である。子葉を見なくとも、葉脈(vein)が網目状のものが双子葉類である。\n単子葉類(たんしようるい、monocotyledon)は、ひげ根を持つ。イネやトウモロコシやススキが、単子葉類なので、ひげ根を持つ。単子葉類とは、文字どおり子葉が一つの植物である。子葉を見なくとも、葉脈が平行状のものが単子葉類である。\n根の先っぽ付近には、多くの根毛(こんもう)が生えている。\n根毛は細いので、土の細かいすきまにも入り込めるので、水(water)を効率的に吸収できる。このとき、水に溶けている養分も吸収している。\nまた、根毛によって表面積が大きくなるので、水などの吸収にも都合が良い。\n側根や主根の中心部には、水を運ぶための道管(どうかん)と、葉で作られた栄養を通すための師管(しかん)が、いくつもある。道管は、茎や葉にもある。根の道管は、茎や葉の道管と、つながっている。\n茎には、道管と師管(しかん)がまとまった維管束(いかんそく、英語: vascular bundle)が、いくつもある。この維管束の並びかたが、双子葉類と単子葉類とで違っている。\n双子葉類(ホウセンカなど)では、いくつもの維管束が、輪のように整列している。いっぽう、単子葉類(トウモロコシなど)では、いくつもの維管束が散らばっている。\n双子葉類(ホウセンカなど)では、輪の内側が道管で、輪の外側が師管である。道管と師管とのあいだの輪の部分の細胞を、形成層(けいせいそう)と言う。単子葉類には、形成層は無い。\n道管のあつまりを木部(もくぶ、英語: xylem)という。師管のあつまりを師部(しぶ、英: phloem)という。\n茎の表面の一部を輪状に はぐと、師管が切られるので、上側の表皮がふくらむ、下側の表皮はふくらまない。\n茎の内側の道管は切られていないので、根から吸い上げてる水は、そのまま流れつづける。\nいろいろな所に咲いている花は、必ずしも葉が付いている。この葉に見られる筋(すじ)のことを、葉脈(ようみゃく,vein)という。葉脈は、道管(どうかん)や師管(しかん)が通っており、茎の維管束(いかんそく)とつながっている。この葉脈が、水や栄養の通り道になっている。\nなお、双子葉類(アブラナ・アサガオなど)の葉脈は網目状であり、単子葉類(トウモロコシなど)の葉脈は平行状である。\n葉の表皮や断面には、たくさんの部屋のようなものが見られる。このひとつひとつを細胞(さいぼう,cell)という。(細胞のことは、今は詳しく習わないので気にする事はない。)\n細胞は、生物の体に共通して見られる。また、葉の細胞の中に見られる、小さな緑色の粒を葉緑体(ようりょくたい,chloroplast)という。\n葉が緑色をしているのは、葉緑体があるためである。この葉緑体で、太陽の光のエネルギーを利用してデンプン(starch)を作る光合成(photosynthesis)が行われる。\n葉の、空気にふれている外側の部分を表皮(ひょうひ)という。日の当たってる側はもちろん、日かげになってる、葉の裏側でも、空気にふれている外側の部分は表皮という。\n葉の表皮には、三日月形の細胞が2つ向かいあった孔辺細胞(こうへんさいぼう)がある。葉の裏側には、孔辺細胞に囲まれたすきまの穴である気孔(きこう,stoma)が多くあり、気孔などを通して葉から水蒸気として水が出ていく現象を蒸散(じょうさん、transpiration)という。\n同じくらいの大きさの、葉つきの枝を用意する。そのうち1本は、葉をすべて取って茎だけにする。葉を取った後にワセリンを塗っておく。もう1本の枝は、葉を残す。\n水の入ったガラス管に枝をつなぎ、その水量の変化から、蒸散の量を調べる実験をする。\nそのため、ガラス管は2本、必要になる。\nゴム管などで、ガラス管と枝との間を密封する。\n実験結果は、葉の付いている枝のほうが、水の減りが早い。\n葉の裏側からの蒸散のほうが、表側からの蒸散よりも多いことを調べる実験には、ワセリンなどを葉の表に塗った場合と、葉の裏側に塗った場合とで比べれば良い。\nこの場合、理論上は、蒸散が一番多いのは、何も塗らないCである。次に多いのは、表側にだけワセリンを塗ったBである。一番少ないのは、Aである。\n水が多く減るほど、蒸散が多い。\n光合成では、デンプンが作られる。光合成は日光のある昼間しか行われていない。\n光合成は植物の葉の細胞にある葉緑体(ようりょくたい、chloroplast)という部分で行われ、動物の細胞には葉緑体は存在しない。\n光合成には、水と二酸化炭素と光の3つが必要である。これらのうち、一つでも欠けると光合成は出来ない。水も必要だと言うことを忘れないように。(水の一部から得られる水素(化学式はH)は、デンプンや糖などの栄養素にも含まれる。ブドウ糖(glucose 発音: グルコース)の化学式は\n\n\nC\n6\n\n\n\nH\n12\n\n\n\nO\n6\n\n\n\n\n{\\displaystyle {\\ce {C6H12O6}}}\nであり、水素が含まれている。デンプンの構造は、ブドウ糖などの糖がいくつも、くっついた形をしている。)\n以上の2つの実験を合わせると、「光合成には、葉緑体に光が当たることが必要である。」ことが分かる。つまり、葉緑体が光を利用して光合成を行っている。\n※ 葉の漂白の実験の手順\nもし、光合成で二酸化炭素が吸収されるなら、溶液中の二酸化炭素が吸収されるはずである。そして、二酸化炭素が吸収されれば、その分、酸性が弱まり、BTB溶液の色が変わるはずである。\n予備知識として、\nBTB溶液は、\nである。\n実際に実験すると、オオカナダモの入ったフラスコは、青色になるので、アルカリ性になっていったことが分かる。\nいっぽう、オオカナダモの入ってないほうは、緑色のままである。\nこの試験管AとBのように、調べようとしている条件(この場合はオオカナダモの有無)以外は、同じ条件にして実験をすることを、対照実験(たいしょうじっけん)という。\n石灰水は、2酸化炭素で白くにごるのであった。タンポポの葉を入れたほうの試験管は、光合成で、二酸化炭素が吸収されるので、にごらないはずである。\n実際の実験でも、タンポポの葉を入れたほうの試験管は、白くはにごらないで透明のままである。タンポポの葉の無いほうは、二酸化炭素が、そのまま残るので、石灰水で白くにごる。\nこの試験管AとBのように、調べようとしている条件(この場合は葉の有無)以外は、同じ条件にして実験をすることを、対照実験(たいしょうじっけん)という。\nこのオオカナダモのBTB溶液での実験も、タンポポの葉の石灰水での実験も、光合成の検証の代表的な実験であるので、参考書などで、きちんと学習しておくこと。\nこれらの実験によって、光合成では二酸化炭素を吸収していることまでは検証できるが、まだ酸素を合成していることの検証はできていない。\n酸素の合成の検証は、つぎのような点火実験である。\n中学・高校の段階では、この可燃性が分かった段階で、この実験では酸素が発生したと判断してよい。\n光合成は、葉緑体で行われてる。より、くわしい場所を言うと、葉緑体の中にある、葉緑素(ようりょくそ)という緑色の色素で光合成を行っている。この葉緑素が緑色なので、それをふくんでいる葉緑体が緑色に見えている。\n葉緑素のことを英語でクロロフィル (Chlorophyll)ともいう。\n植物は光合成で最終的にデンプンを作りますが、決していきなりデンプンを合成しているのでは、ありません。\nまず、光合成では最初は、二酸化炭素や水などを材料にして、ショ糖(ショとう)やブドウ糖などの糖(とう)を合成しています。その糖の一部を材料として、植物はデンプンを葉や根などで合成しているのです。\n小学校の理科で、人体の消化のしくみの勉強で、デンプンは最終的にブドウ糖に分解される、というふうに習ったと重います。\n一方、光合成の順序は消化の順序とは逆です。光合成では糖をもとに、デンプンを作っているのです。\nまた、糖は、水に解けやすいですが、デンプンは水に溶けにくいのです。植物が体の中で栄養を運ぶときには、水に栄養を溶かした状態で運びます。もし、デンプンのままだと、溶けていないので、デンプンの栄養を運べないので、不便なのです。\nなおデンプンとは、糖がいくつもつながった物です。\nイモなどでは、根に多くのデンプンをたくわえている。\nイモなどの根にあるデンプンは、夜中のうちに、葉から根へと糖が送られており、糖からデンプンを合成している。\nイモなどの植物で実験をして確認したい場合は、その植物を一日中、光に当てないでおくと、その日の夜は、糖が足りないので、デンプンが合成できず、なので翌日のデンプンが不測しているので、イモの部分を切り出してヨウ液をつけても、あんまりヨウ素デンプン反応が強くは起こらず、こうして、これらの仮説を確認できる。\n植物は光合成とは別に、酸素を吸って二酸化炭素を吐く呼吸(こきゅう、respiration)も行っている。\n呼吸は、昼も夜も行われている。いっぽう、光合成は日光のある昼間しか行われていない。呼吸では、デンプンを酸素を使って分解して、エネルギーを取り出している。\n用意するもの\n方針\n手順\n光合成と呼吸で出入りする気体の関係は、逆である。\nつまり呼吸では、\nという関係である。\nデンプンが元になったブドウ糖を、呼吸で分解することで、植物はエネルギーを得ている。(ブドウ糖の化学式は\n\n\nC\n6\n\n\n\nH\n12\n\n\n\nO\n6\n\n\n\n\n{\\displaystyle {\\ce {C6H12O6}}}\nであり、水素(化学式はH)が含まれている。デンプンの構造は、ブドウ糖などの糖がいくつも、くっついた形をしている。デンプンや糖などにふくまれる水素によって、呼吸後の水(化学式は\n\n\nH\n2\n\n\nO\n\n{\\displaystyle {\\ce {H2O}}}\n)が得られている。\n植物は夜中にも呼吸を行っている、と習いました。\n呼吸の量と、光合成の量と、光の強さの関係を、グラフにまとめましょう。右のようなグラフになります。\n光の ある・なし には関係なく植物は呼吸をつねに行っています。光合成を行っている時も、呼吸を行っています。そのため、光合成を行っている時も、呼吸によって、二酸化炭素を排出しています。\n光が強いときには、呼吸による二酸化炭素の排出量よりも、光合成による二酸化炭素の吸収量のほうが大きいのです。なので、結果的に光が強いときには植物は、二酸化炭素の(光合成による)吸収量から(呼吸による)排出量を差し引いたぶんだけ、二酸化炭素を吸収することになります。\n植物の呼吸による二酸化炭素の排出と、光合成による二酸化炭素の吸収速度が、つりあった状態での光の強さのことを、補償点(ほしょうてん,compensation point)あるいは光補償点(ひかりほしょうてん)といいます。\n見かけの光合成速度がゼロになる点は、補償点である(光合成速度と呼吸速度が等しいため)。\n真の光合成速度(photosynthetic rate)を求めるには、見かけの光合成速度(apparent photosunthetic rate)に、呼吸速度(respiration rate)を足し合わせなければならない。呼吸速度を測定するには、暗黒で測定すればよい。\n実験による測定で、直接に\n\n\nO\n2\n\n\n\n\n{\\displaystyle {\\ce {O2}}}\n量を測定して得られる測定値は、真の光合成速度から呼吸速度を差し引いた値である。\nあるていどまでは光の強さが増すにつれて、光合成速度も大きくなる。\nしかし光が、ある一定値よりも強くなると、たとえ、それ以上に光が強くなっても、光合成速度が変わらない状態になる。この状態を光飽和(ひかりほうわ)といい、飽和した直後の光の強さのことを光飽和点(photic saturation point)という。\n小学校の理科で、日かげのほうが育ちやすい植物と、日なたのほうが育ちやすい植物を習ったと思います。\nアオキやコケ類・シダ類(fern)などは、日かげのほうが育ちやすいです。このように、ひかげのほうが育ちやすい植物を陰生植物(いんせいしょくぶつ)といいます。\nススキやアカマツやシラカバは、日なたのほうが育ちやすいです。このように、ひなたのほうが育ちやすい植物を陽生植物(ようせい しょくぶつ)といいます。\n日光のあたり具合によって、育ちやすいかどうかが変わってくるわけですから、これはどうやら光合成に関係性がありそうだと思うでしょう。じっさいに、光合成とは関係があります。\n答えをいうと、右のグラフです。(※ 高校の範囲内なので、中学一年生は覚えなくてもよいですが、高校入試にも出ることがあるので、考えてみてください。)\nこのグラフを参考にして、今までに習った知識を整理してください。\nなお、この発展の章のグラフのような、光合成についての光の強さと光合成量などの関係のグラフのことを「光合成曲線」(こうごうせい きょくせん)などといいます。\nこれから説明する、シダ植物やコケ植物や藻類も、植物にふくまれる。\nまた、ワカメやコンブなどの海藻は藻類ですが、アマモなどの海草は植物に分類されます。\n植物には、種子を作らない植物もある。シダ植物やコケ植物は、胞子(ほうし、spore)で増える。\nワラビやゼンマイなどはシダ植物である。シダ植物(Fern)には、根・茎・葉の区別があり、維管束を持つ。\nコケ植物には、根・茎・葉の区別が無く、維管束を持たない。ゼニゴケやスギゴケがコケ植物である。\nシダ植物とコケ植物の両方とも葉緑体を持っており、光合成を行う。\n細かい葉の裏側に、胞子のう(ほうしのう)があり、その中で胞子(ほうし、spore)が出来る。\n胞子のう が乾燥して水分がなくなると、胞子のう が割けて、胞子が飛び散る。\nしめった場所に落ちた胞子は発芽する。\n発芽した胞子には前葉体(ぜんようたい)というハート型のものになる。この前葉体の役割は、受精のためである。前葉体で受精が行われる。シダ植物の受精には水が必要なので、水がある場所で発芽する仕組みになっている。\n前葉体の造精器(ぞうせいき)で精子が作られ、造卵器(ぞうらんき)で卵(らん)が作られる。前葉体が水につかると、精子は泳いでいき、卵にたどり着けば受精が行われる。\n雄株(おかぶ)と雌株(めかぶ)に分かれているものが多い。維管束は無い。水は、体の表面全体から吸収する。体全体に葉緑体があり、光合成を行う。\nシダ植物とちがって、コケ植物は根・茎・葉の区別が無く、そのため根を持たないので水を吸収する力が弱い。なので日かげで無いとコケ植物は育ちにくい。\n雄株には造精器があり、雌株には造卵器がある。受精すると、造卵器(ぞうらんき)が胞子のう になる。胞子のう で、胞子が作られる。\nスギゴケの場合、直立しているので茎があるように見えるが、根・茎・葉の区別は無い。またスギゴケには維管束は無い。\nコケ植物には下部に 仮根(かこん、rhizoid,) という根のような物があるが、これは別に水を吸収する力が強いわけではなく、単に体を支えるためのものである。ゼニゴケ・スギゴケの雄株・雌株とも、仮根がついている。\nスギゴケ、ゼニゴケとも、コケ植物の増え方は、胞子(ほうし)をつくって増える。コケ植物は、種子はつくらない。雌株にのみ、胞子のう が出き、胞子のうの中で胞子が落ちて、周囲に ばらまかれる。地面に落ちた胞子は発芽して成長し、やがて雄株または雌株になる。\nスギゴケでは雄株(おかぶ)は、雄器(ゆうき)の中に、精子(せいし)をつくる。雌株(めかぶ)は雌器(しき)の中に、卵(らん)をつくる。精子は水の中を泳ぎ、精子が卵に到達すると受精が起きる。雌株は受精によって、雌器に 胞子のう がつくられ、胞子のう の中で、胞子がつくられる。\n藻類(そうるい)には、海水中に生息するものと、川や湖などの淡水中に生息するものがある。\nミカヅキモやケイソウ、アオミドロは、淡水中で生息する藻類である。\nいっぽう、ワカメやコンブ、ヒジキやノリなどは、海水中に生息する藻類である。\nオオカナダモは水中や水辺で生息しているが、種子植物であり被子植物の単子葉類であり、まったく藻類では無い。\nコケ植物と同様に、藻類には根・茎・葉の区別は無い。また、藻類には維管束も無い。そもそも、まわりが水ばかりなので、維管束で水を運ぶ必要性が無い。\n藻類によっては、緑色ではなく赤色のものもあるが、どの種類でも葉緑体を持つ。赤色の藻類でも、葉緑体を持っているが、その他に赤色の色素をもっているので赤く見えている。どの種類の藻類でも葉緑体を持っているため、光合成をする。\nワカメやコンブなどは、やわらかい。これは海水の流れの力を受け流すためである。\nちなみに、海中でのワカメの色は、やや赤色っぽい、褐色(かっしょく)である。ワカメは湯通しすると緑色になる。食用のワカメが緑色なのは、湯通ししてあるからである。\n増え方は種類によって異なる。\n生物の種類の名前には、世界共通の学名(がくめい)がある。学名のつけかたには世界共通の規則が定められており、二名法(にめいほう)という命名法にもとづく国際的な規則が定められている。\nたとえばヒトの学名は Homo sapiens (ホモ・サピエンス)である。 二名法で用いられる言語はラテン語であり、2単語のラテン語で学名を表している。最初の Homo は属名(ぞくめい)というものであり、 sapiens が種小名(しょうしゅめい)である。このように二名法では、属名と種小名を併記する。このような命名法を、18世紀の中ごろにカール・フォン・リンネが確立した。\nたとえばアンズの学名は Prunus armeniaca である。イチョウの学名は、Gingko biloba である。\nいっぽう、「ヒト」 や 「イヌ」 や 「ネコ」 や「アンズ」や「イチョウ」などと言った、ある種について、日本で一般的に使われる呼び名は、和名(わめい)である。\n花粉(かふん)の中に精細胞(せいさいぼう)が、ふくまれている。\nめしべの胚珠(はいしゅ)の中に、卵細胞(らんさいぼう)が、ふくまれている。\nおしべの先には、ふくらんだ物が付いている。これは花粉がつまっている。このおしべの先にある、花粉のふくろを、 やく という。「やく」のことを、「花粉ぶくろ」ということもある。\nめしべは、 柱頭(ちゅうとう) と、 花柱(かちゅう) と、 子ぼう(しぼう) の3つの部分からなる。\nめしべの先にある、ふくらんだ部分です。おおくの植物では、柱頭には、ねばねばとした液体がついている。この「ねばねば」は、花粉をつけやすくするためです。花粉が柱頭につくことを受粉(じゅふん)といいます。花粉は、おしべの先の「やく」から出るのでしたね。\nめしべの根元にある、ふくらんだ部分です。子ぼうは、受粉のあとに、子ぼうが実(み)になります。「受粉」とは、柱頭の先に、花粉がつくことでしたね。そして、花粉は、おしべの先の、「やく」から、出るのでしたね。\n柱頭に花粉がつかないと、子ぼうは、実(み)になりません。\n子房は、植物によって、「花びら」や「がく」の上にある場合と、花びらの下にある場合があります。\nアサガオやアブラナでは、子ぼうは、花びらの上にあります。\nヘチマやカボチャでは、子ぼうは、花びらの下にあります。\n柱頭と子ぼうとのあいだの、やや細い部分です。\nめしべにある柱頭(ちゅうとう)に、花粉がつくことを 受粉(じゅふん) といいます。受粉をした花には、変化が起こります。\n柱頭いがいの場所についても、受粉ではありません。子房に花粉がついたのは、柱頭ではありません。子ぼうに花粉がついても、とくに変化は起きません。\n花柱(かちゅう)に花粉がついても、とくに変化は起きません。\n受粉をして花に変化がおきるのは、柱頭(ちゅうとう)に花粉がついた場合だけです。だから、柱頭に、花粉がついたばあいだけを、受粉(じゅふん)といいます。\n柱頭は、ほとんどの植物では、柱頭は「ねばねば」していて、花粉がつきやすいようになっていることが多いです。\n「子ぼう」の中には、「はいしゅ」(胚珠)があります。柱頭に花粉がついて、受粉をすると、やがて子ぼうがふくらんでいき、そして実(み)になります。実(み)のなかには、種(たね)があります。この種は、元は、はいしゅでした。\nアサガオでは、おしべとめしべが同じ花にあります。このような花の場合、花が開くと、おしべの花粉が、めしべにふりかかります。このような仕組みの受粉を 自家受粉(じかじゅふん) といいます。自家受粉では、虫や鳥などの助けは、いりません。\nめしべの柱頭が、ほかの株(かぶ)の花のおしべから出た花粉と、受粉をすることです。\n花粉を運ぶ方法は、虫によって運ばせる方法や、風によって飛ばす方法などがあります。\n虫によって、はこばせる方法は、花のみつを吸いにきた虫に、花粉がつくようにする方法です。\nこのような仕組みで花粉を虫にはこばせる花を、 虫媒花(ちゅうばいか) といいます。虫媒花は、他家受粉に、ふくまれます。\n虫媒花は、花粉がねばねばしていることが多いです。これは、虫の体に花粉がつくうえで、都合がいいです。\nまた、虫媒花の、花の色や大きさは、目立つものが多いです。これは、虫に気づかれやすくするために、都合がいいと考えられています。\n虫媒花は、蜜(みつ)をだします。\n\n風によって花粉を運ばせる方法の花を、 風媒花(ふうばいか) といいます。風媒花は、他家受粉に、ふくまれます。\n花粉は、さらさらしていて、軽いものが多いです。これは、風に飛ばされやすくて、都合がいいと考えられています。\n風媒花は、花が目立ちません。また、風ばい花は、みつが少ないです。\n多くの植物で、虫ばい花と風ばい花のどちらかが、花粉の運び方ですが、植物のなかには、ほかの運び方で花粉を運ぶものも、あります。水媒花(すいばいか)や、鳥媒花(ちょうばいか)がある。他家受粉に関しては、水媒花も鳥媒花も、他家受粉である。\n花粉を水に流させて、花粉を運びます。\nこの水媒花は、水中に生えている植物で、みられることがあります。\n鳥の体に花粉をつけて、花粉を運ぶ花です。木に咲く花に多いです。\n冬ごろに咲く花が多いです。冬は、虫が少ないので、虫をエサにしている鳥は、少ない虫のかわりに、花のみつを吸う場合があるのです。\n\n人間が、手作業で、花粉をめしべの柱頭にくっつける受粉のしかたを、人工受粉(じんこうじゅふん)といいます。\n農業で、実を確実に作らせて、収穫を多く得たい場合に、人工受粉が使われることが多いです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E6%A4%8D%E7%89%A9%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%A8%E7%A8%AE%E9%A1%9E"} {"text": "五感(ごかん)とは、動物が外界の情報を感じ取るための感覚です。五感には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つがある。それぞれの感覚器官によって、外界の情報を捉えて、神経を介して脳に伝え、認識している。\n感覚器官(かんかく きかん)とは、五感の情報を受け取り、神経信号に変換する器官である。五感には、目、耳、鼻、舌など、それぞれ特有の感覚器官がある。\nなお、皮ふ(ひふ、皮膚)も、感覚器官にふくめ、暖かさ・冷たさ・圧力・痛さの刺激を受け取る。\n感覚器官には感覚神経がつながっており、感覚神経は、脳や せきずい(脊髄) へととながっている。\n感覚器官が刺激を受けると、感覚神経に電気的な信号が発生し、そして感覚神経をその電気的な信号が通って、脳に信号が伝わることにより、脳が感覚として認識します。\nこれらの五感は、私たちが日常生活で様々な情報を収集し、世界を理解するための重要な手段です。それぞれが異なる役割を果たしており、私たちの生活に不可欠な役割を果たしています。\n眼でとらえる光の感覚を視覚(しかく、vision)と呼ぶ。\n眼は、前部の表面に角膜(かくまく、cornea)がある。角膜は水晶体を保護している。角膜の内側には、\n虹彩(こうさい、iris)の働きにより、瞳の大きさが変わる。\n虹彩によって、レンズ(水晶体)に入る光の量を調節している。\nそして、レンズ(水晶体)を通った光が網膜(もうまく、retina)の上に像を結ぶ。\nヒトの目は、顔の正面に2つあるので、前方の物を立体的に見たり、物との距離を正確にとらえたりするのに適している。\n水晶体と網膜の間は、(けっして空洞ではなく)、眼球がつまっている。\n耳で受け取る音の感覚を聴覚(ちょうかく、hearing)という。\n音は空気の振動なので、鼓膜(こまく)でその振動をとらえる事により、耳では音を検出している。\n耳の奥に鼓膜があり、鼓膜に届いた振動によって、耳小骨(じしょうこつ、ossicle)に伝わり、蝸牛殻(かぎゅうかく)に伝えられる。\nそして、うずまき管に音の刺激を受け取る細胞があり、音の感覚として神経を通って脳に伝えられ、最終的に脳が音を感じる。\n耳は、顔の左右1つずつにあるので、音の来る方向を知ることができる。\n鼻でかぐ、においの感覚を嗅覚(きゅうかく、olfaction)と呼ぶ。\n鼻の奥に、においを感じる感覚細胞があります。この細胞に物質がつくことで、においの刺激を受け取ります。そして、その鼻の奥の感覚細胞は、感覚神経につながっています。\n(※ 範囲外 :) 味覚で感じる味は後述のように5種類だが、しかし嗅覚(きゅうかく)のほうは臭い物質は数十万種類にもなる。\n舌(した)で感じる味の感覚を味覚(みかく、gustation)と呼ぶ。\n舌には、味を感じ取れる感覚細胞が多くある。\n(※ 中学理科の範囲外:)ヒトの味覚には、甘味(あまみ、もしくは\"かんみ\")、塩味(えんみ)、苦味(にがみ)、酸味(さんみ)、うま味(うまみ) の5つがある。(※ 家庭科で習うかも?)\n[1]\nものをさわった、さわられた等の接触(せっしょく)の感覚のことを触覚(しょっかく)と呼ぶ。\n人間の場合、皮膚で触覚が発達している。\nまた、皮膚は触覚のほかに、温度の感覚、痛みの感覚、重さの感覚も感じる(※ 学校図書の検定教科書に記述あり)。\n\nじつは、人間の感覚には、五感以外にも多くの様々な感覚がある。\nたとえば平衡感覚(へいこう かんかく)である。\nよく体育の授業などで、平均台などを使った運動で「平衡感覚が~~(以下略)」とか教師が言ってるのを聞いたことあるかもしれないが、その平衡感覚のことである。\n高校で習うのだが、平衡感覚をつかさどる三半規管(さんはんきかん)は、耳にある。\n生物学・医学では分類状、平衡感覚は、聴覚とは別の感覚としてあつかわれる。\nまた、口には、のどのかわいた場合の感覚もある。\n内臓には、空腹などの感覚もある。\n生物学・医学でいう「感覚」には、五感のような外界からの刺激だけでなく、空腹感のような体内の「感覚」も含む。\n神経系(しんけいけい)は、まわりの世界を認識(にんしき)する役割(やくわり)があり、脳(のう)や神経(しんけい)や五感(視覚「しかく」、聴覚「ちょうかく」、触覚「しょっかく」、味覚「みかく」、嗅覚「きゅうかく」)が、はたらいています。\n脊髄と脳が中枢神経(ちゅうすうしんけい)であり、中枢神経では末端から来る刺激の処理が行われる。ほかの神経は末しょう神経(まっしょうしんけい)である。\n運動神経や、眼や鼻など感覚器官の感覚神経は末しょう神経である。末しょう神経では、刺激の伝達が行われている。\n筋肉にも、神経がつながっています。筋肉につながらている神経は、筋肉を動かすために脳から送られた信号を連絡するためのものです。\nこの、筋肉を動かすための神経のことを運動神経と言います。\n脳やせきずいを基準として考えれば、\n運動神経は、脳やせきずい などの中枢から出された命令を、筋肉まで運ぶのが役目です。\n刺激(しげき)は、神経(しんけい)を通って、脳に伝わり、それが感覚になる。\n詳しくは、感覚器官→感覚神経→脊髄→脳→脊髄→運動神経→運動器官→反応\nヒトの神経は、多くの神経細胞(しんけい さいぼう)で出来ている。(※ 学校図書の検定教科書の本文で「神経細胞」の用語あり。中学範囲です。)\n脳や せきずい も、神経細胞が多く集まって出来ており、電気的なさまざまな信号を発して、処理がされています。\n\nケガをしたときの痛みも、神経の働きによるものです。\n体表に割と近い体内の場所に、刺激を神経に伝える感覚細胞があり、皮膚がケガなどをした際には、刺激を神経に伝えることで、脳が痛み(いたみ)として感じます。)\nまた、暑い・寒いなどの感覚も同様に、体表近くにある感覚細胞が、神経にそういった寒暖の刺激を伝えています。\n痛みは、動物が安全に生きるために必要なものです。\n痛みがあるからこそ、われわれ人間は、その痛みをさけようとして、生き方を学習できるのです。\n(※ 高校でも範囲外 :)先天性障害の一種で、無痛症(むつうしょう)という、痛みを生まれつき感じない症状があるのでますが、この無痛症の乳児・幼児は、動けるようになったときに無理な姿勢をして骨折をしてしまったり、口内を嚙んで傷つけてしまったり、冬場などはストーブで火傷してしまったり等の事故を起こしてしまったりします[2]。\n(余談) 余談であるが、温冷の感覚と、痛覚とは、ほぼ同じ感覚細胞である。その証拠に、先天性の無痛症の患者は、温冷の感覚も感じない。\n別の余談であるが、トウガラシなどに含まれているカプサイシンの「からさ」は、実は痛覚を刺激している事が、分子細胞生物学的な研究により明らかになっている。\nこのカプサイシンは、触覚の痛覚も刺激しており、その証拠に、カプサイシンを手で触ると、手がヒリヒリする事が知られている。\n\n熱いものを触ったときに、無意識に手をひっこめたりする反応のように、意識しなくても起こる反応を、反射(はんしゃ)という。\n反射では、信号は脳を通らず、脊髄(せきずい)だけを通っている。\n反射での反応の命令には、脳は関わっていない。信号の伝わる経路が短く、脳の判断時間も無いので、すばやく反応が行われる。そのため、危険から、とっさに身を守るのに、反射は都合が良い。\nこのように、脳を経由しない反射のことを、せきずいが経由されるので、せきずい反射 と言う。\n\n暗いところから明るいところになったとき、\n人間では、じつは瞳(ひとみ)の大きさが調節されます。(※ 学校図書の教科書に記述あり。)\n(人間ではないですが、ネコの瞳が分かりやすいかもしれません。)\nこの瞳の調節も、無意識に行われるので、販社として分類される場合もあります。(※ 学校図書の教科書で、煩瑣yの単元で紹介している。)\n動物の中には、ヒトが感知できない感覚を受け取ることができるものもあります。\nたとえば、一部の昆虫は、紫外線を感知できます。(※ 東京書籍に記述あり。用語「紫外線」も東京書籍の検定教科書に記載あり。)\n(ヒトは紫外線を感知できません。)\nヘビは、目の上のあたりにあるピットという感覚器官を持ち、獲物などの熱を感知しています。\nまた、コウモリやイルカは、音波を発して、それが周囲のもんに当たって反射するのを受け取って、周囲の状況の認識に活用しています。(※ 大日本図書に記述あり)\n(※ 範囲外. 記述なし) なお、工業製品の音波ソナーなども、類似の原理です。\n\n私達の体は骨格によって支えられています。骨は人体の中で最も堅固な部位の一つです。\n脳をまもっている、あたまの大きな骨です。\n目が入るためのすきまが、あります。\n鼻(はな)が通るためのすきまが、あります。\nセキツイ(脊椎)とは、背中(せなか)のまんなかにある、首の背中がわから、腰(こし)のあたりまでのびている、一本の長い骨の集まりです。いわゆる「背骨」(せぼね)のことです。\n背骨のある動物(どうぶつ)を セキツイ動物(vertebrate) といいます。わたしたち人間も、セキツイ動物です。\nろっ骨(rib)は、胸のあたりにある、かごのような、骨です。ろっ骨は、心臓(しんぞう)と、肺(はい、lung)を、まもっています。\n腸(ちょう)などの内臓をまもっている。腸(ちょう)とは、食事(しょくじ)で食べた栄養(えいよう)を体に取りこむ場所です。\n筋肉の大部分はタンパク質で出来ています。\n骨をうごかすための筋肉は、筋肉のはじっこが、両方(りょうほう)とも、骨についています。このような、骨をうごかすための筋肉を 骨格筋(こっかくきん、英: skeletal muscle)といいます。\n骨格筋(こっかくきん)の両はじの、骨についているぶぶんを けん(腱、tendon) といいます。\nこの骨格筋が、ちぢんだり、ゆるんで元(もと)の長さにもどることで、骨をうごかします。\nこのしくみで、骨をうごかせるためには、こっかくきんは、両はじが、べつべつの骨に、ついていなければいけません。\n関節(かんせつ、joint)は2つの骨(ほね)から成り立ちますが、そのうちのいっぽうは先が丸いです。もういっぽうは骨のさきが、やや くぼんでいます。このようにして、うまく組み合わさるようになっています。骨(ほね)の先が丸く出っぱっているほうを関節頭(かんせつとう)といい、くぼんでいるほうの骨を関節窩(かんせつか)といいます。\n関節(かんせつ)は、関節頭(かんせつとう)と関節(かんせつ)と関節窩(かんせつか)をつつんでいる関節包(かんせつほう)を持っています。関節包(かんせつほう)の内がわは滑膜(かつまく)と呼ばれる膜組織(まくそしき)であり、滑膜から滑液(かつえき)とよばれる液(えき)が分泌(ぶんぴつ)されて、その液が関節腔(かんせつくう)をみたしています。滑液(かつえき)にはすべるをよくする役目と、軟骨(なんこつ)に栄養をあたえる役目があります。\n関節包(かんせつほう)のまわりには、靭帯(じんたい)があって、じょうぶにしています。\n腕(うで)の、ひじのところで、腕をまげるための筋肉と、腕をのばすための筋肉は、べつべつの筋肉です。\nもし、一つの筋肉しかなかったら、たとえば、腕を曲げるための筋肉しかなかったら、腕をのばすためには、腕をおろしたりしなければいけません。また、もしも、腕をのばすための筋肉が無いと、腕をのばしたままの恰好で、手をあげることが出来ません。\n腕をのばすときには、腕を曲げるときにつかうほうの筋肉はゆるんでいます。\n腕をのばすための筋肉がちぢむことで、腕はのびます。\n曲げるための筋肉と、のばすための筋肉が、両方ともあることで、私たちたちは、すばやく体を動かせます。\n足の筋肉では、ひざのところで足を曲げるための筋肉も、似たような仕組みになっています。\n筋肉には、つくりが、2種類ある。平滑筋(へいかつきん、英:smooth muscle)と横紋筋(おうもんきん、英:striated muscle)です。\n横紋筋は、骨格筋および心筋(しんきん)に付いている。心筋とは、心臓を動かしている筋肉である。\n平滑筋は、内臓を動かすため。内臓に付いている、内臓筋(ないぞうきん)である。\n骨格筋(skeletal striated muscle)と心筋(cardiac muscle)は、両方とも横紋筋だが、性質は大きく異なる。\n骨格筋は、意思で動き、収縮が早いので急な運動にも適しているが、疲労しやすい。\n心筋は、意思で動かず、疲労しない。\nセキツイ動物とは、背骨や脊椎と呼ばれる骨格を持つ動物のことを指します。\nセキツイ動物には、魚類、両生類、は虫類、鳥類、哺乳類などが含まれます。それぞれのグループは、独自の特徴を持っています。\n例えば、\n魚類は鱗で覆われた体を持ち、鰭を使って泳ぎます。\n両生類は、水生の幼生期と陸生の成体期を持つことが特徴的です。\nは虫類は、体表に鱗を持ち、卵を産むことができます。\n鳥類は、羽毛やくちばしを持ち、飛ぶことができます。\n哺乳類は、毛で覆われ、乳を与えることができます。\nセキツイ動物は、内臓がよく発達しており、神経系も高度に進化しています。セキツイ動物は、陸上や海中、空中などの様々な環境に適応し、多様な形態や生態を持っています。\nセキツイ動物は、地球上の生物の中でも非常に重要な存在です。私たち人間を含め、多くの生物がセキツイ動物として分類されています。\nまた、セキツイ動物は、食物連鎖の上位に位置し、生態系において重要な役割を果たしています。\n無セキツイ動物とは、背骨がない動物のことを指します。私たちがよく知っている生き物の多くは、セキツイ動物であり、背骨を持っています。\nしかし、無セキツイ動物には、ヒトデやイソギンチャク、カニやエビ、貝殻やイカ、昆虫やクモ、ミミズなど、多様な種類の生き物が含まれます。\n魚類は、水中に生息するセキツイ動物の一群であり、水中での生活に適応した多くの特徴を持っています。カツオやメダカなどが魚類です。\n魚類は、温度によって体温が変化する変温動物です。そのため、水温が変化することで体温が変わり、代謝や生理的な機能に影響を与えることがあります。一方で、魚類は環境温度に適応した体温調節能力を持っており、体内の酵素反応や代謝速度を調節して、生き残るために必要な体温を維持することができます。\n魚類は、鰓を使って水中の酸素を摂取し、二酸化炭素を排出することで呼吸を行っています。鰓は、水を通して酸素を取り込み、血液に含まれるヘモグロビンと結合して酸素を運びます。一方、二酸化炭素は血液から鰓へと移動し、水中に排出されます。\n魚類の皮膚は、水中で生活するために適応した構造を持っています。魚類の皮膚は多くの種に鱗があり非常に薄く、柔らかいため、水の抵抗を減らすことができます。\n魚類は殆どの種が卵生です。雌が卵を産卵したあと雄が放精し水中で卵と精子が出会う体外受精です。\n卵から孵化して稚魚となり、成長して成魚となるという過程があります。魚類の卵は、通常水中に産み落とされ、孵化するまでに数日から数週間を要します。孵化した稚魚は、自力で泳ぐことができ、自らの餌を捕食するようになります。成長につれて、稚魚は徐々に成魚に変化していきます。\nサメの一部には胎生や卵胎生の種もいます。\n両生類とは、カエルや参照雨をなどの動物のことです。カエルの幼生はオタマジャクシと呼ばれ水中で生活しています。\nオタマジャクシは鰓を使って水中で呼吸します。成長すると、カエルになり、陸地で生活するようになります。カエルは肺を使って呼吸することができます。\nこのように、水中と陸上の両方で生活していることから両生類と呼びます。\n両生類は卵生で、卵は寒天のような物質で覆われています。受精は体外で行われ、メスが体外に産卵すると、オスが卵に精子をかけることで受精が起こります。\n両生類は変温動物で、体温を維持する仕組みがないため、水温や気温が変わると体温も変わります。また、体の表面は粘膜で覆われ、湿っています。\n「は虫類」とは、トカゲ、ヘビ、カメ、ワニなどの動物のことを指します。\nは虫類は、体温を一定に保つことができず、外部の温度に依存して体温を調節します。これを変温動物と呼びます。\nは虫類の体は、頑丈で堅牢な鱗で覆われています。これは、身を守るための防御機構であり、乾燥した環境に適応するための進化的な特徴でもあります。\nまた、ヘビなどの一部のは虫類は、体を地面に密着させることで振動を感知し、獲物を探し出すことができます。\nは虫類は、さまざまな種類があります。たとえば、トカゲにはヤモリ、イグアナ、カメレオンなどがあり、ヘビにはボア、コブラ、マングースなどがいます。\nカメは、陸生種と水生種があります。ワニは、世界中の熱帯地域に生息し、大型で強力な動物です。\nは虫類は、食物連鎖の上位に位置することが多いため、食物網において重要な役割を果たしています。\nまた、彼らは人間にとっても、ペットとして飼育されることがあります。\nしかし、一部のは虫類は、毒を持っていたり、攻撃的な性格を持っているため、扱い方には注意が必要です。\nは虫類は卵生で、子供を生むときには卵を産みます。卵には硬い殻があり、外敵から守ることができます。\n受精は、雄の精子が雌の体内で卵子と出会うことで行われます。このような受精方法を体内受精といいます。\n「鳥類」とは、私たちが一般的に「とり」と呼ぶ生き物のことです。\nスズメ、ニワトリ、ハトなどがその例です。また、ペンギンも鳥類に分類されます。\n鳥類は嘴を持ち、ほとんどは飛ぶことができます。\n鳥類は哺乳類とは異なる呼吸構造を持っており、気管と気嚢を介して空気を循環させることで、より効率的に酸素を取り込み、二酸化炭素を排出します。この仕組みによって、鳥類は高い運動能力を発揮することができます。\n鳥類は卵生であり、かたい殻に包まれた卵を親鳥が温め、世話します。卵から孵った後も、親鳥は子にエサを与え、世話をします。また、鳥類は恒温動物であり、外界の温度に関係なく体温をほぼ一定の範囲内に保つ仕組みを持っています。鳥類の体表面にはふつう羽毛が生えています。\n哺乳類とは、母親が子どもに乳を与えて育てる動物のことを指します。\nイヌ、ネコ、ウサギ、ウマ、サル、ウシなどが哺乳類に属します。\n哺乳類は、体温を一定に保つことができる恒温動物で、内部の調節機構によって体温を調整します。\n呼吸は肺で行い、空気は鼻や口から取り入れられ、気管を通って肺に入ります。\n皮膚には体毛があり、保温や防御の役割を果たします。\n哺乳類は胎生で、胎盤を通じて母体から栄養を得ます。胎盤によって胎児が守られるため、卵生の動物に比べてより発達した状態で生まれることができます。\n草食動物と肉食動物の目の位置の違いには、それぞれの生態に合わせた理由がある。\n草食動物は、肉食動物から狙われる危険があるため、側面に目を持っている。\n側面にある目は、周囲の広い視野を確保することができ、肉食動物の動きを早く察知することができる。\nこれにより、草食動物は早期に危険を感じ、自分自身を守ることができる。\n一方、肉食動物は、獲物を見つけるために前方に目を持っている。\n前方にある目は、立体視による深度感を生み出すことができ、獲物の位置や距離を正確に把握することができる。\nこれにより、肉食動物は狩りの成功率を高めることができる。\n草食動物と肉食動物の目の位置の違いは、それぞれの動物が生き残るために必要な適応である。\n無セキツイ動物(むせきついどうぶつ、invertebrates)は、脊椎(せきつい;背骨(せぼね)のこと)を持たない動物分類群です。\n無セキツイ動物には、節足動物(せっそくどうぶつ、arthropod)や軟体動物(なんたいどうぶつ、Mollusca)などがあります。\n節足動物には、甲殻類(こうかくるい、crustaceans)、昆虫、クモなどが含まれます。\n軟体動物には、タコやイカ、マイマイ(カタツムリ)などが含まれます。また、\n無セキツイ動物はすべて、変温動物であるという特徴があります。\n節足動物(せっそくどうぶつ)は、動物界の大きなグループの1つであり、多様な種類の節足動物が存在します。\nこのグループには、昆虫、クモ、サソリ、ザリガニ、エビ、カニなどが含まれます。\n節足動物は、体を節(ふし;segment)に分け、各節に1対の脚を持つ特徴があります。\n多くの節足動物は、硬い外骨格(がいこっかく;exoskeleton)を持ち、この外骨格は保護や筋肉の付着の役割を果たします。\nまた、節足動物は、気管呼吸系を持つことが一般的で、鰓呼吸(はいこきゅう)を行うものもいます。\n昆虫は(こんちゅう)は、陸上生物の中でも最も多様性に富んだグループの一つであり、世界中に約100万種が存在します。昆虫は、体が3つの節からなる頭胸部と、10の節からなる腹部で構成されています。\n昆虫は外骨格を持ち、その外骨格は保護や運動をサポートする役割を持っています。また、昆虫の足は非常に多様で、適応に応じて形態が変化することがあります。\n昆虫は気管呼吸を行います。気管は、体内に分枝している管であり、体内に酸素を取り入れることができます。このため、昆虫は非常に高い代謝率を持ち、飛行や高速移動が可能となっています。\n昆虫は通常、卵生生殖を行います。雄が精子を雌に送り込むことで、卵が受精し、幼虫が孵化します。幼虫はしばしば成体とは異なる形態を持ち、成長してから成体になります。ただし、一部の昆虫は卵生生殖ではなく、生きた仔を生んだり、単為生殖を行ったりすることがあります。\nザリガニやエビ、カニの場合\n甲殻類(こうかくるい)は、節足動物に属する多様な種類の動物で、海や淡水、陸上に生息しています。\n体は外骨格で覆われ、複数の節に分かれています。\n甲殻類の呼吸は、鰓(えら)を用いて行われます。鰓は、水中の酸素を吸収することができます。一方、陸上に生息する甲殻類の多くは、気門を持っており、気中の酸素を吸収することができます。\n多くの種類では、メスは卵を産み、オスが精子を放出して受精させます。また、一部の種類では単為生殖も行われます。\nダンゴムシは、陸上に生息する甲殻類の一種です。体は丸い形をしており、外骨格によって覆われています。\nダンゴムシは、擬気管(ぎきかん)と呼ばれる肺に類似した器官を持っており、気中の酸素を吸収することができます。\nまた、ダンゴムシは卵生で、オスがメスが交尾することで受精します。卵から孵化した幼虫は、脱皮を繰り返して成長します。\n軟体動物(なんたい どうぶつ)は、軟らかい体を持つ多細胞動物の総称です。このグループには、貝類、マイマイ、イカやタコ、などがふくまれます。\n貝類(かいるい)は、無脊椎動物の一群で、外殻を持ち、水中で生活するものや陸上に生息するものなど多様な種類が存在する。\n呼吸に関しては、水生貝類は鰓(えら)を用いて酸素を取り入れる二酸化炭素を排出する「えら呼吸(branchial respiration)」をおこなう。\n一方、陸生貝類は肺を持ち、肺呼吸(lung breathing)をおこなう。\n体構造:貝類は二枚貝、巻貝、腹足類、頭足類などの分類群に分けられます。多くの貝類は、二枚の殻を持ち、その中に身を収めています。巻貝は螺旋状の殻を持ち、腹足類は単殻または螺旋状の殻を持ち、頭足類は殻を持たず、鰓脚類や軟体類などの形態を取ります。貝類の体の中心には消化管、神経系、循環器系、排泄器官があります。\n呼吸:貝類の多くは、鰓を使って呼吸を行います。鰓は水中にある酸素を取り込み、二酸化炭素を排出します。鰓は、二枚貝の場合はマントル腔内にあり、腹足類や頭足類の場合は体の側面にある鰓室内にあります。\n発生:貝類の多くは、卵生であり、水中で孵化します。孵化した幼生は、二枚貝の場合は浮遊生活を送り、巻貝や腹足類の場合は底生生活を始めます。成長するにつれ、貝殻が成長し、内部の身体がそれに合わせて変化します。成熟した貝は、種によっては繁殖行動を行い、卵を産みつけることで次世代を残します。\n頭足類(とうそくるい) は、イカやタコなどを含む軟体動物の分類群である。\nこの分類群の特徴は、足が頭部から出ていることである。頭足類は、胴部が頭部よりも上にあり、内臓が胴部につまっている。\nイカやタコは、えら呼吸を行い、卵生である。\n分子生物学的手法による遺伝子解析は、生物種の進化的関係を推定する上で重要な役割を果たしています。これらの手法を用いると、無脊椎動物の多くが脊椎動物とは異なる遺伝子配列を持っていることが明らかになっています。たとえば、環形動物門(Annelida)の多くの種は、脊椎動物の遺伝子とは異なるヘモグロビンタンパク質を持っていることが知られています。これは、環形動物門が脊椎動物とは異なる進化的経路をたどったことを示しています。\nまた、現在では無脊椎動物の中にも、共通の祖先を持つ系統がいくつか特定されています。たとえば、軟体動物門(Mollusca)や刺胞動物門(Cnidaria)は、分子生物学的解析によって、それぞれ単系統群であることが示されています。しかし、これらの系統は、他の無脊椎動物群とは異なる特徴を持っており、一般的には無脊椎動物全体の進化的関係にはあまり影響を与えません。\nこのように、無脊椎動物は多系統であることが分子生物学的な解析から示唆されています。しかし、その多様性は同時に、進化の素晴らしい証拠でもあります。生物の多様性を理解する上で、無脊椎動物の研究は非常に重要であると言えます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%A8%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF"} {"text": "火山(かざん、volcano)の地下深い場所には、岩石(rock)が高温で溶けた、どろどろの高温の物質があり、これを マグマ(magma) という。このマグマが、割れ目や火口などから、ふきだすことを、火山の 噴火(ふんか、erupt (動詞) ) と言う。そして、このようなマグマが吹き出す山を火山(かざん、英: volcano)という。\nマグマが地上に流れ出したものを 溶岩(ようがん、lava) という。溶岩は地表に出てきたばかりのときは液体状である。ところが、地上で溶岩が冷えると、しだいに溶岩は固体になっていく。溶けた状態の溶岩と、固まった状態の溶岩の、どちらとも溶岩という。\n固まった状態の溶岩の表面には、無数の小さな穴が見られる。\n火山の溶岩は地下100kmくらいの地中深くから上がってきて、地下10km~数kmくらいのマグマだまり(magma chamber)にたまる。マグマは大陸プレートの中を上昇してきている。プレート(plate)とは、地球の表面をおおう厚さ数百kmの岩板の層(layer)である。プレートは1年間に数cmほどだが動いている。\n火山では、はげしい噴火をした場合、火口のちかくの岩石がくだけたりして、石や砂や岩や灰などを吹き飛ばしてまきちらすことがある。このような物を 火山噴出物(かざん ふんしゅつぶつ) という。\nこの火山噴出物は、大きさによって、分類される。\n火山噴出物のうち、直径2mmより大きく、まだ、かたまっていなく、溶けた溶岩がまじってる場合は、火山弾(かざんだん)という。\n火山から噴出した気体を 火山ガス という。火山ガスの成分のほとんどは、水蒸気である。(火山ガスの90%以上は水蒸気である。) 水蒸気のほか、二酸化炭素、二酸化硫黄、塩化水素、硫化水素なども、ふくまれる。「ガス」GASとは、英語で「気体」の意味である。\n色が白っぽく、表面にたくさんの小さな穴があいている。\n石や岩の出来かたには、いろいろなできかたがあるが、マグマが冷えて、かたまって、岩や石ができた場合、それらを 火成岩(かせいがん、igneous rock) という。\n深成岩は、ゆっくりと冷えるて出来るので、結晶が大きい。また、結晶の大きさがそろっている。このような、同じような大きさの結晶が、つまっているつくりを 等粒状組織(とうりゅうじょう そしき) という。\n火山岩は、急に冷やされるので、結晶になっていない 石基(せっき) という部分が多い。その石基のなかに、いくつか、結晶が散らばって存在している。このため、火山岩は結晶や粒の大きさがそろっていない。この火山岩の石器の中に散らばってる結晶を 斑晶(はんしょう) という。\nそして、このような石基の中に、いくつか斑晶が、ちらばっている構造を 斑状組織(はんじょうそしき) という。\n火成岩の鉱物は、おもに、セキエイ、チョウ石(チョウセキ)、クロウンモ(黒雲母)、カクセン石(カクセンセキ、角閃石)、キ石(キセキ、輝石)、カンラン石(カンランセキ)の6つからなる。\nこのうち、無色か白色・灰色である無色鉱物は、セキエイ(無色か白色)とチョウ石(白色か灰色)である。有色鉱物はクロウンモ(黒色)、カクセン石(黒色)、キ石(黒緑色)、カンラン石(うす緑色)\n※ 鉱物の結晶構造の画像がウィキペディア内に見当たらないので、参考書や外部サイトなどで鉱物の結晶構造を見てください。\nこの他、磁鉄鉱(じてつこう)も、有色鉱物である。磁鉄鉱は黒色であり、磁石に付く。\nなお、宝石の「水晶」(すいしょう)は、高純度なセキエイの結晶であり、普通は無色で透明である。\nどの火成岩にも、チョウ石が、ふくまれている。\nダイヤモンドは、炭素の結晶である。傷のつきにくさでは、「ダイアモンドが、地球上では、もっとも傷がつきにくい」などと科学界でも言われている。\n※ そのため、近代ごろの日本では、仏教などに伝わる想像上の金属「金剛」(こんごう)になぞらえて、ダイヤモンドが「金剛石」(こんごうせき)と呼ばれた時代もある。(※ 「金剛力士像」(こんごうりきしぞう)とか、日本史で習ったのを思い出そう。)\nルビーは、酸化アルミニウムをおもな成分として、すこしだけクロムがまざったものである。\nなお、ダイヤモンドは、地球の内部の奥深くの高温と高圧によって、炭素が固まって、できたものである。\nなので人工的にも、高温と高圧の条件で、炭素を反応させることによって、ダイヤモンドが合成できる。\n人工ダイヤモンドは、その硬さ(かたさ)をいかして、工業用のカッターに加える材料などに使われている。\nなお、ダイヤモンドは燃える。ダイヤモンドは炭素で出来ているので、火を近づけると、空気中の酸素と、ダイヤモンドの炭素とが反応して、燃えてしまう。\nマグマの ねばりけ は、ふくまれる二酸化ケイ素の割合によって決まる。二酸化ケイ素の多いマグマのほうが、ねばねばしている。そして、マグマの ねばりけ によって、溶岩の流れる様子がちがうので、噴火の様子などが変わってくる。\nマグマのねばりけ によって、山の形もちがってくる。これらの火山の形は、過去に噴火して流れた溶岩が固まって出来たものである。\n傾斜の ゆるやかな火山 ・・・ ねばりけの弱いマグマの火山の場合は、溶岩が広がりやすいので、山はなだらかになる。ハワイのマウナロア山が、このような、ねばりけの弱いマグマの火山の例である。このような、傾斜のゆるく、広がった火山を、楯状火山(たてじょうかざん)という。アメリカハワイ州のキラウエア山も、楯状火山である。\nもりあがった火山 ・・・ いっぽう、マグマの ねばりけ が強い火山は、もりあがったような形をしている。昭和新山(しょうわしんざん)が、このようなねばりけの強いマグマの火山である。このようなもりあがった形の火山を、溶岩ドーム(ようがんドーム)という。なお、昭和新山のことを、有珠山(うすざん)ともいう。昭和新山の他には、雲仙普賢岳(うんぜん ふげんだけ)が、この溶岩ドームの火山である。\n富士山や桜島(さくらじま、鹿児島県)、浅間山(あさまやま)は、ねばりけが中間ぐらいであり、円すい形の形をしている。このような形の火山を、成層火山(せいそう かざん)という。\n地震(じしん、earthquake)とはプレートや地盤、岩盤にずれが生じることで起こる現象。(なお月で起こる地震を、月震「げっしん」という)\nプレートとは、地球の表面をおおう、厚さ数百kmの岩板の層である。地球上には、いくつものプレートがある。それぞれのプレートは、それぞれの方向に1年間に数cmほどだが動いており、そのため他のプレートなどに力をおよぼしあっている。\n地面がゆれる、地震(じしん、英: earthquake)の原因は、じつはプレートの力です。プレートが、地球の中にもどる場所の近くで、プレートは、反対側の地中には戻らないほうの岩盤(がんばん)にも、引きずりこむような力を加えるので、プレートは岩盤をひずませます。岩盤に力が、かかり続けると、ある時期に、岩盤の一部が、こわれます。このときの揺れ(ゆれ)が、地震です。\n海中にあるプレートを 海洋プレート(かいようプレート) と言います。陸地の下にあるプレートを 大陸プレート(たいりくプレート) と言います。\nプレートとプレートとが交わるところでは、地震が起きやすいです。日本列島の周囲でも、いくつかのプレートが交わっているので、日本は地震が多いです。日本では、ユーラシアプレートと北アメリカプレートと太平洋プレートとフィリピン海プレートの、あわせて4つのプレートが、日本の下で、押し合っています。\n地震の際、地面の一部が切れてずれる場合があります。このような切れた地面の層を 断層(だんそう、英: fault) と言います。断層とは、地層にかぎりません。\n断層の原因も、元々は、プレートによる力です。\n大きな地震のあとに、断層が生じる場合もあります。\n断層は、その断層ができる前の地面を引っ張る力によって、その断層が生じた場合、断層のかたほうがずり落ちるようになりますが、この断層を 正断層(せいだんそう 、normal fault) と言います。\nいっぽう、押し合う力によって作られた断層は、断層が押しあがるようになりますが、この断層を 逆断層(ぎゃくだんそう、reverse fault) と言います。\n地震の用語\n地震は、ひずみに耐え切れ(たえきれ)なくなった地下の岩盤(がんばん)の破壊によって、おこる。その破壊した岩盤の位置(いち)である。したがって、震源は、地中にあるのが、ふつう。\n震源の真上にある、地表での位置。\n地震が起きた時の、その地震を観測した影響をもとに、震度(しんど、seismic intensity)として階級分けがされている。震度は、エネルギーの大きさとは、関係がない。\n日本では、震度は、震度0から震度7までがある。震度には、震度5と震度6で、震度5弱と震度5強があり、震度6弱と震度6強があるので、震度は合計で10段階にわけられている。\n震度とは地震の観測場所での地震の影響なので、同じ震源で起きた地震でも、震度の観測場所によって、震度の大きさは違ってくる。\n一般に、震源に近い場所ほど、震度は大きくなる。震源から遠くなると、震度は小さくなる。\n\n地震のゆれの大きさを記録する機械を 地震計(じしんけい、seismometers) といいます。\n地震のときに、地震計の全部が、ゆれてしまっては、記録のしようがありまえん。\n地震計では、地震が来ても、うごかない部分をつくる必要があります。\nそれには ふりこ のしくみを利用します。ふりこの支点を手で持って、支点をはやく動かしても、ふりこのおもりは、ゆっくりとしか動きません。この現象を利用すれば、地震計で、地震が来てもうごかない部分をつくれます。このような地震でも動かない点のことを不動点(ふどうてん)という。不動点としての おもり に、ペンを取り付けて、自動回転している円筒状の記録用紙に記録している。\n一つの振り子だと、一方向のゆれしか記録できないので、3つの振り子と3つの記録用紙を使って、(一つの振り子に、1つの記録用紙を使ってる。)東西方向・南北方向・上下方向の3方向を、地震計は記録している。\n日本各地にある、地震計を設置している場所を地震観測点(じしん かんそくてん)と、いいます。\n地震のエネルギーの大きさは、マグニチュード(magnitude)という単位で、あらわします。記号は、「M」です。ふつうの地震では、M4~M6くらい。大地震ではM7~M9くらいになる。\nマグニチュードが1大きくなると、エネルギーの大きさは、約31倍から約32倍になります。なので、マグニチュードが2大きくなると、エネルギーの大きさは、約1000倍になります。(かけ算で31×31と、32×32とを計算して、確認してみよう。)\nマグニチュードと、震度との関係は、よく 例え として、電球の明るさ( 光度(こうど) )と、照らされた場所の明るさ( 照度(しょうど) )に、たとえられる。電球の明るさが同じでも、照らされた場所の距離が遠ければ、照らされた場所の明るさは減ってくる。\nマグニチュードが低くても、震源が内陸で浅いと、被害が大きくなる場合が有る。このような震源が内陸で浅い地震のことを直下型地震(ちょっかがた じしん)という。\n1995年の兵庫県南部地震のマグニチュードはM7.2である。2011年の東北太平洋沖地震はM9.0である。なお、新潟県中越地震(2004年)と、新潟県中越沖地震(2007年)は、別の地震。\n地震のつたわってくる場合、最初に小さい ゆれ が来てから、しばらくしてから、それより大きなゆれが伝わってくることが多い。\nこのようなことが起きる理由は、じつは地震のつたわり方には2種類あるからである。\nまず、最初の小さなゆれのことを 初期微動(しょきびどう、preliminary tremor)という。\nつづけて、やって来る、大きなゆれのことを 主要動(しゅようどう)という。\n地震がおきると、先に、P波(ピーは)という速い波が伝わってきてから、あとでS波(エスは)という遅い波が、つたわってくる。\nPは英語で、「最初の」とか「始めの」とかを意味する プライマリー primary という語句の頭文字です。S波のSは、英語で「2番目」とかを意味する セカンド second です。\nここでいう、P波とかS波とかの「波」とは、揺れ(ゆれ)の、伝わり(つたわり)のことである。振動(しんどう)の つたわり のことである。べつに、海の波のような液体が、地中を流れているわけではないので、まちがえないように。\nさて、P波は たて波 という伝わり方であり、S波は横波(よこなみ)という伝わり方である。\nたて波のP波は、よこ波のS波よりも速度が大きいので、さきにP波がとどき、あとからS波がとどく。このことから、最初に、(プライマリーに、)たて波がとどくので、最初に届く たて波 がP波(primary wave、プライマリーウェイブ)と呼ばれるようになったわけである。\n地面の上に、大きな振動をあたえるのは、横波であるS波のほうである。この横波のS波を 主要動(しゅようどう) という。\nなので、さきにP波がとどいて少しゆれたあとに、ちょっと時間がたってからS波が来て、S波の主要動で大きく、ゆれる。\n最初に縦波のP波がきてから、よこなみのS波がくるまでのあいだを 初期微動(しょきびどう) という。S波が来るまでは、初期微動がつづく。ある地点でのP波とS波との到着時刻の差のことを、初期微動続時間(しょきびどう けいぞくじかん)という。初期微動継続時間とは、つまり、初期微動を感じる長さである。\n初期微動継続時間は、震源からの距離に比例することが分かっている。初期微動継続時間が長いほど、震源からの距離も大きい。もし、地震の伝わる速度が分かっていれば、初期微動継続時間によって、震源までの距離を求めることができる。\n地震の伝わる速度が分かっていれば、複数の観測地点で初期微動継続時間を測れば、その測定結果から、震源の位置を数学の連立方程式で求めることが出来る。\nP波とS波の到着時刻から、震源までの距離を求めるための公式として、つぎのような公式が知られている。\n震源までの距離を \n\nd\n\n{\\displaystyle d}\n kmとして、P波の速度を \n\n\nv\np\n\n\n{\\displaystyle v_{p}}\n km/秒 として、S波の速度を \n\n\nv\ns\n\n\n{\\displaystyle v_{s}}\n km/秒 として 、初期微動のつづく時間を \n\nt\n\n{\\displaystyle t}\n秒とすると、\nv\np\n\n⋅\nv\ns\n\n\nv\np\n\n−\nv\ns\n\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {v_{p}\\cdot v_{s}}{v_{p}-v_{s}}}}\nはふつうは 6 km/秒 〜 8 km/秒 で 大森係数(おおもりけいすう) といい、記号で\n\nk\n\n{\\displaystyle k}\n と書く。これより、大森公式は\nである。\nイメージしやすいように、数をいれよう。Kは、だいたい6 km/秒 〜 8 km/秒なので、ここでは、k=7 km/秒としよう。\nとして、d=震源までの距離(km)で、tは初期微動継続時間(秒)なので、\nである。\n大森公式を利用すると、いくつもの観測地点で震源までのきょりをもとめると、そこから震源の位置を見いだすことができる。\n3つの観測地点からの震源までの距離が求まれば、そこから、連立方程式で、震央および震源の位置を決定できる。\nいま、地球上にある、いくつかの大陸は、むかしは、ひとつの大きな大陸だったことがわかっています。そのひとつの大きな大陸のなまえを パンゲア といいます。\nドイツの気象学者のウェゲナーは大西洋をはさんだ両岸の大陸の形状(特にアフリカと南アメリカ)が、ほぼ一致することから、大昔は、このアフリカと南アメリカはおなじ大陸だったのが分裂したのではないか、と考えました。\nまた、アフリカと南アメリカは、地質や生物の分布も、にていることから、ますます、おなじ大陸と考えるようになりました。\nウェゲナーは、このようなアフリカと南アメリカは、昔はおなじ大陸だったという説を1912年に発表しました。\nしかし、当時の人々の理解は得られませんでした。また、ウェゲナー本人も、どのような力で、大陸が動いているのかは、わかりませんでした。\nウェゲナーは大陸が動いていることの証拠を探す探検のためグリーンランドを探検している最中の1930年に、50才でウェゲナーは死んでしまいます。\nウェゲナーの唱えた大陸移動説は、彼の生存中は学会の多数からは、みとめられることはありませんでした。\nそれから、数十年がたってから、技術の進歩で、海底の研究が進みます。すると、どうやら、海底の奥ふかくから、溶岩が次々と、わき出している場所があることが見つかります。これは 海嶺(かいれい、oceanic ridge) の発見です。大西洋の中央や、太平洋のチリ沖のイースター島の付近など、地球上のいくつかの海底に、海れいは、あります。\nいっぽう、海底の奥深くで、地面が地中に引きこまれている場所も見つかります。これが 海溝(かいこう、trench) です。\n太平洋のマリアナ諸島の近くのマリアナ海溝や、伊豆・小笠原海溝など、いくつかの海溝が、あります。\n海嶺や海溝の研究から、地中や海中のプレートとよばれる岩ばんが動いていることがわかります。\nウェゲナーの大陸移動説は、プレートにのっかった大陸が、プレートごと動くという考え方で説明できるようになりました。\n溶岩(ようがん)が、かたまるとき、地磁気の方向で、溶岩がかたまり、溶岩にほんの少しだけ、磁気が、のこります。この、古い地質の磁気の方向をしらべることで、大陸移動説は、証明(しょうめい)されました。\n地震はプレートのひずみによって起きることが分かっています。大陸プレートと海洋プレートの押し合いでひずんだプレートが、ひずみに、たえきれなくなって、元にもどるときに、地震が発生します。\nそしてプレートをひずませる力の原因は、プレートが地中に引き込まれることです。\nプレートの運動によって、地震がおきるという考え方を プレートテクトニクス(英: plate tectonics) と、いいます。\n日本列島は、太平洋をとりまく環太平洋造山帯(かんたいへいよう ぞうざんたい、英:circum-Pacific belt または Ring of Fire)という地帯に含まれています。「環太平洋造山帯」という名前のとおり、太平洋をとりまく位置にある造山帯です。\nこの環太平洋造山帯がある位置は、プレートの境界にあたることが多く、そのため地震や火山も多いです。そのため「環太平洋 火山 帯」という場合もあります。\nいっぽう、インド地方にあるヒマラヤ山脈は、アルプス=ヒマラヤ造山帯という、別の造山帯である。\n山の斜面などを切りくずすと、小石や砂、ねんどなどが、層(そう)になっていることがあります。このような地中から出てきた層を 地層(ちそう) とよびます。\n地層は、川の流れによってできる。その地層は、今でこそ、地上にあるが、大昔は、海などの底にあったのである。地層は、川の流れなど、水の流れによって、土砂が積もって出来たのである。\n実際に、地層の中にある石を見ると、丸みをおびている石が多い。また、魚の骨や、貝のカラなどが見つかる場合もある。\nこれらの事から、地層が出来上がるには、水の流れが、関わっていることが、予想できるだろう。\nでは、水の中で、土砂(どしゃ)は、どのように積もっていくのだろうか。これは、実験すれば、答えは分かる。\n実験した結果は、石や砂や粘土を混ぜたものを、透明なコップに入れた止まった水の中に入れると、まず、一番下に石が積もる。石の上に砂が積もる。さらに、その砂の上に粘土が積もる。\n土砂が海中に流される場合は、陸側の近くの海中に、まず石が多く積もる。少し離れた場所に砂が多く積もる。粘土は、いちばん遠くまで、流されて積もることが知られている。\nまた、海中の土砂は、より古くに積もった土砂ほど、下に来る。なので、普通は、古い地層ほど、下に来る。\nでは、もともと海中にあった土砂が、なぜ地上に出てきて、地層として、見られるのだろうか。\n地層によって、いくつかの原因があります。\n地面が、盛り上がることがあります。この原因は、なんでしょうか。\nじつは、地面は動いてるのです。とてもゆっくりですが、動いているのです。地面は、プレートという物の上に乗っかっていて、そのプレートが動いているのです。地球上には、いくつものプレートがあります。プレートと、他のプレートがまじわる所では、プレート同士が押し合う(おしあう)場合もあります。プレート同士が押し合う場合、プレートの上に地面があれば、その地面も押しつけられるので、地面が盛り上がります。こうして、地面が盛り上がる場合があります。\nインド地方にあるヒマラヤ山脈は、プレートが押し合って出来た山脈です。インド半島は、約5500年前は、かつて離れていました。\nその後、3800年前、2400年前、・・・と、インド半島をのせたプレートの運動によって、インド半島が、ユーラシア大陸に衝突して、インド半島の一部が押し上げられました。こうしてヒマラヤ山脈ができた。ヒマラヤ山脈の化石(fossil)には、アンモナイトの化石もあります。\n大地が盛り上がることを隆起(りゅうき)といいます。いっぽう、大地がしずむことを沈降(ちんこう)といいます。\n海岸段丘(かいがん だんきゅう)は、海岸線近くの海底が、水のはたらきで平らになったあとに、隆起によって地上に押し上げられて、出来る地形である。隆起された平らな地形の一部は、海水ちかくが侵食を受けて削られ、階段状になっていく。\n一方、川沿いにできる河岸段丘(かがん だんきゅう)は、堆積した土砂によって出来た、平らな河原(かわら)が、隆起して、出来る地形である。隆起された平らな地形の一部は、海水ちかくが侵食を受けて削られ、階段状になっていく。\nリアス式海岸は、起伏の多い山地が沈降して、できた地形である。\nリアス式海岸が、さらに沈降すると、山頂や尾根だけが水面から出るので、多くの小さな島からなる多島海(たとうかい)になる。\n地層の層は、水平とは かぎりません。地層が曲がっていて、一部分だけ、盛り上がっている場合もあります。このような地層の形を しゅう曲(しゅうきょく,褶曲) と言います。しゅう曲の原因は、プレートの動きによって、両側から押し付けられる力が加わったからです。\n地層のしゅう曲で、山になっている部分を 背斜(はいしゃ) といいます。地層のしゅうきょくで谷になってる部分を 向斜(こうしゃ) といいます。\n地層が押し合った場合に、必ずしも曲がるとは限らず、地層が切れる場合もあります。\nこのような切れてずれた地面を、 断層(だんそう) と言います。断層とは、地層にかぎりません。\n断層の原因も、元々は、プレートによる力です。\n大きな地震のあとに、断層が生じる場合もあります。\n断層にかかる力の方向は、押し付けあう方向だけとは、かぎりません。\n地面に、引っ張られる力が加わって、断層ができる場合もあります。\nしゅう曲によって、地層の石や砂や粘土の、上下の関係が、曲がったところで、逆転したり、変化することがある。\n断層も、地層の石や砂や粘土の、上下の関係が、切れたところで、逆転したり、変化することがある。\n動物の肉は、死んでしまうと、すぐに分解されていく。しかし動物の骨は、分解されづらい。地上に骨がある場合は、壊れやすいが、地中にある場合は、骨が、かなり長く、のこる場合もある。\nこのようにして、大昔の生き物の骨やカラなどが残ったものを 化石(かせき、英語:fossil) という。\n骨だけでなく、大昔の貝が残った物も、化石である。\nまた、大昔の動物の「足あと」などの痕跡(こんせき)でも、大昔の動物の痕跡がキッチリと残っていれば、それらは化石として扱う。\n動物にかぎらず、植物などでも、大昔の植物の痕跡(こんせき)なら、化石という。\n化石によって、その地層が出きたときの、まわりの環境が分かります。\nたとえば、地層の、ある層の部分から、貝の化石が出てきたら、地層の、その層の部分が出きた時期には、その地層は、海底にあった可能性が高いことが分かります。貝のアサリの化石なら、アサリは、海の浅いところにすむので、そういった環境まで、知ることができます。\nもし、サンゴの化石があれば、サンゴは、あたたかい地域の海にしか生息しないので、その地層は「昔は海だった」ということと、その化石が出きた時期は、気候があたたかい場所だったことが分かります。サンゴの化石のような、たい積したころの環境をしめすような化石を 示相化石(しそう かせき、facies fossil) といいます。\nシジミは、淡水(たんすい)にすむ海である。淡水とは、川や池や湖のような、海水を含まない水である。なので、シジミの化石があれば、そのような環境だったことが分かる。シジミの化石も示相化石である。\n地球の年齢は、さまざまな調査で、およそ 45億年 であることが分かっています。\n地球上で発見されている、もっとも古い化石は38億年まえの化石といわれています。\nそれ以前の時代は、岩石そのものが少ない時代です。\n人類が出る前の時代などは、文字の記録が残っていないのえ、地質調査などで調べるしかない時代です。このような人類以前の大昔の時代を 地質時代(ちしつじだい、英語:Geologic time scale;Geological age) といいます。\n化石を調べて行った結果、時代ごとに特徴のちがいがあることが分かり、地質時代を分けて、先カンブリア時代((せんカンブリアじだい、Precambrian (age))と、 古生代(こせいだい、英: Paleozoic era)と、中生代(ちゅうせいだい、英語:Mesozoic era)と、新生代(しんせいだい、英: Cenozoic era)とに、時代を分けています。\nサンヨウチュウ (Trilobite、トリロバイト)のさかえた時代は 古生代 です。古生代は、約5億4200万年前から 約2億5100万年前です。\nこの古生代には、他にも サンゴ や フズリナ や ウミユリ などがさかえました。\n古生代にあらわれ始めた シーラカンス(coelacanth) は、いまも、子孫が生きのこっています。\n植物では、シダ植物が、さかえました。\n中生代(ちゅうせいだい)は、恐竜(きょうりゅう)や、は虫類が、さかえた時代です。\n中生代は、約2億5000万年前から約6500万年前までです。\nまた、中生代の海では、 アンモナイト(Ammonite) が、さかえました。\n恐竜の祖先である シソチョウ(Archaeopteryx) が、あらわれた時代も中生代です。\n恐竜の化石やシソチョウの化石は、地層の時代を知ることのできる示準化石(しじゅんかせき、index fossil)です。\n約6,500万年前から現代までを 新生代(しんせいだい、英: Cenozoic era) といいます。\n新生代のうち、約6,500万年前から約200万年前までを第三紀といい、約200万年前から現代までを第四紀と分ける。\n第四紀は、人類の祖先が出現し始めた時期です。\n第四紀は、ナウマン象やマンモスが出現した時代でもある。\n中生代までは、さかえていた恐竜が、新生代に入っては、絶滅(ぜつめつ)します。\nまた、第四紀は、氷河期(ひょうがき)があった時代です。\n氷河期の時代は、海の水面が下がり、日本列島は大陸と地続きになりました。そのため、マンモスなどの動物は、あるいて日本列島にやってきました。\nモンモスの化石は、地層の時代を知ることのできる示準化石です。\n大昔の化石の年代は、どのようにして分かったのでしょうか?\nそれは、 放射性元素(ほうしゃせい どういげんそ) というものを分析しています。\n放射線を出す元素を、放射性元素(ほうしゃせい どういげんそ)といいます。\nたとえばウランという元素が、放射性元素です。\nウランは、時間がたつと、ある割合でこわれて、べつの元素に、かわります。\n放射性元素は、時間がたつと、ある割り合いでこわれて、べつの元素に、かわります、\nこのウランのように、化石や地層のなかにふくまれた放射性元素をだす元素の量をしらべることで、その化石ができてから、どのくらいの時間がたったかを調べることができます。\nこのような、放射性元素をはかる測定方法を 放射性年代分析(ほうしゃせい ねんだいぶんせき) と、いいます。\n川の周りには石が転がっていますね。それは、川の流れにのって石が運ばれてくるからです。\nここでは、流れる水の影響を学びます。\n流れる水は、土や砂などを、おしながす・けずりとる・つもらせるの三つのはたらきがあり、頭文字をとってサルのおけつと覚えることができます。\nたとえば雨が降った日の水たまりなどをみると、最初は水がたまっていくだけですが、そのうち、水たまりから水があふれて、高いところから低いところに流れていき、とても小さな川のようになります。また、水たまりがいくつもあるので、小さな川もつながっていき、水たまりだったところも、いくつかつながっていきます。\n雨が上がってから、水が流れていた水たまりからつくられた小さな流れのあった場所を見ると分かるのですが、流れのあたっところが、けずりとられて、くぼんでいきます。\n雨の日の、土の上に出きた水たまりや水の流れなどでは、水が土をけずりとっているので、水は茶色く、にごっています。\n流れていった雨水や、水たまりにあった水は、そのあと、どこへ行くかというと、地下にしみこんで行ったり、あるいは、溝などに流んだりします。\n雨の日の水たまりからも、「おしながす・けずりとる・つもらせる」の三つの作用が確認できます。\n流れる水が地面を、けずり取る作用を しん食(しんしょく、侵食) と言います。\nけずり取られた土や砂は、そのまま流れによって下流へと運ばれていきますが、この運ぶ作用を運ぱん(うんぱん、運搬)といいます。\nこの運ぱんは、水の流れが速いほど、大きな物が運べるようになります。水の流れがおそい場所では、運べなくなるので、その場所に、運んできた物が、たまっていきます。この、流れがおそい場所に、物がたまる作用を たい積(たいせき、堆積) と言います。\nけずる作用も、運ぶ作用も、流れが速いほど、強くなる。\n川の中での砂や石は、大きさや重さによって流され方がちがう。砂と石なら、砂のほうが流されやすい。このように、つぶが小さな物ほどながされやすい。\nねん土(ねんど、粘土)はつぶ自体は細かいので、かわいた粘土や、固まっていない粘土は、流されやすい。\n石でも、小石と大きな石だったら、小さい石ほど流されやすい。\n川には曲がっているところがある場合もある。曲がっている川では、外側ほど流れが速く、内側は流れがおそい。\nこのため、外側はしん食によってけずられるので、がけのように水深が深くなっている。いっぽう、内側はたい積によって、石や砂や粘土がつもっている。このようにして、川の曲がりの内側では、川原(かわら)ができやすい。\n川に限らず、流れている物について、流れが始まっている場所を 上流(じょうりゅう) と言います。\nたとえば、山から低地へと流れている川だったら、川の上流は、山のほうにあります。\n日本の場合、ふつうの川では、川の上流へと、たどっていけば、もっとも上流の場所は、山地です。\nこのため、川の上流は、かたむきが急で、流れが速いです。水の量は、下流と比べて、上流は少ないです。\n上流にある石は、角ばった石が多いです。石は、下流へと近づくに連れて、流れの途中に、石どうしでぶつかったりして、かどが削り取られて丸く小さくなっていきますが、上流ではまだ削られてはいないので、石は角張っていて大きいです。\nV字谷 という地形ができやすい。\n川が、山から平地に出たあたりを川の中流(ちゅうりゅう)と言います。\n中流にある石は、丸まった石が多いです。これは運ぱんのさい中に、石のかどが、石どうしでぶつかったりして、削り取られているからです。\n中流での石の大きさも、上流よりかは小さいのが、ふつうです。\nまた、中流では流れが、ゆるやかになるので、たい積作用も見られやすく、川原がある場合もあります。\n川が山地から平地に出た地域の周辺では、土砂などが山側を中心に平地側へ扇状に広がって、たい積した 扇状地(せんじょうち) という地形ができやすいです。\n下流では、流れが遅くなり、たい積作用が強まります。また下流での石は、小さく丸い石が多いです。\n下流に近づくほど、水量は多くなり、川幅(かわはば)もひろくなります。\n地形として、川の下流の周辺では、三角州(さんかくす,river delta)という地形ができやすい。\n川は、ふつうは、まっすぐではなく、カーブしているのが、ふつうです。川は、カーブの外側にちかいほど、川の流れ早くて侵食がすすむので、ますますカーブが、はげしくなっていく場合があります。カーブの内側にちかいほうも、たい積が行われるために、ますますカーブが、はげしくなっていきます。\nそして、カーブがきつくなりすぎると、そのカーブは、川の本流から外れて、湖になってしまいます。この外れた湖は、カーブをしているので三日月形なので 三日月湖(みかづき こ) といいます。\n堆積物が、長い間に押し固められて、できた岩石のことを堆積岩(たいせきがん)という。\n堆積岩は、火成岩とはちがい、マグマによる加熱を受けていない。そのため堆積岩の内部には、化石などが残っている場合もある。\nれき岩、砂岩、泥岩は、岩石中の粒の大きさによって分類される。\n地震のつたわりかたの研究などから、地球の内部には、液体の部分があることが分かっています。\n地震の波には、たて波とよこ波がありますが、横波は液体の中をつたわりません。\n地球の表面にある、かたい部分を 地殻(ちかく、crust) といいます。地殻のあつさは、陸地では約30kmから約70 kmくらいまでです。\n海洋の海底では、約7kmくらいです。\n地殻の下には マントル(mantle) という高温の、岩石のようなものでできた物が、あります。マントルは、地殻の下から 2900km くらいまでの深さに、マントルが、あります。\nマントルの成分は岩石です。\n火山のマグマは、マントルから、できます。\nマントルのほとんどは、固体の岩石です。マントルの温度はとても高いのですが、マントルにかかる圧力も高いので、液体にはならずに、マントルは固体なのです。\nマグマは、ほとんど固体のマントルの一部が、液体になったものです。\nマントルのさらに下には 核(かく) があります。\n核は、外側の 外核(がいかく、outer core) と、内側の 内核(ないかく、inner core) とに、わかれます。外核の部分が液体です。\n地磁気の原因は、液体の外核が流れ動いていて、そのため核内に電流が流れ、地磁気が発生するのだろう、と考えられています。\n核の成分は、鉄やニッケルなどの金属から出来ていると考えられています。\n地球の内核は地下5,100 kmから6,400 kmで、固体からなると考えられています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96"} {"text": "ここでは物質の性質が保たれる最小の単位がw:分子であることを説明し、それらは個々の分子の性質をうまく扱うことで他の分子に変化させられることを説明する。また、具体的に分子の組成やw:化学変化の過程を記述する方法として、w:化学式(chemical formula)とw:化学反応式(chemical equation)を導入する。\n炭酸水素ナトリウムを加熱すると二酸化炭素と水が発生し、加熱後の物質は炭酸ナトリウムになる。また、酸化銀を加熱すると酸素が発生し、加熱後の物質は銀になる。\n1種類の物質から2種類以上の物質に分かれる化学変化を分解という。\n乾電池を用いた電気回路で、酸化銀に電気が通るか調べても、酸化銀は電気を通さない。一方、銀は電気をよく通す。なので、分解して別の物質に変わったことが分かる。\nもとの物質とは異なる性質を持った物質ができる変化を化学変化(かがくへんか、chemical change)または化学反応(かがくはんのう、chemical reaction)という。分解も、化学変化である。\n・分解の例\n物質の分解のやり方は、加熱の他にもある。電気を通しても、分解する。\n電気を通すことによって物質を分解することを電気分解(でんきぶんかい、electrolysis、エレクトロシス)または略して電解(でんかい)という。\n水を電気分解すると、+極には酸素、-極には水素が発生する。発生した水素の体積は酸素の2倍である。水は水素と酸素に分解できる。\n・水の電気分解\n・発生気体の体積比\n塩化銅水溶液を電気分解すると、+極には塩素が発生し、-極には銅が付着する。塩化銅は塩素と銅に分解できる。\n実験では、うすい水酸化ナトリウムを溶かしたあとに、電流を流す。水酸化ナトリウムをまぜるのは、電気を通りやすくするため。\n(※ 水酸化ナトリウムを扱うときはゴム手袋をする。また、液が目に入らないように安全メガネをする。もし、目に入ったら、すぐに水道水であらい、先生に報告して処置をあおぐ。)\n発生する気体について\n気体の種類の確認方法\nこのように、水の電気分解では、水素と酸素が、体積比でかならず\nの割合で気体が発生する。\n物質の分解が起きる現象は、いままでに紹介した、熱による分解 や 電気による分解の他にも、光による分解や化学変化がある。\n理科室で使う薬品の液体でも、光によって化学変化しやすい物質は、保管中の化学変化をふせぐために、褐色(かっしょく)の容器に入れられて保管されているのが普通(ふつう)である。\nまた、さらに棚(たな)の中などの、棚を閉じた状態では光の当たらない場所に保管する事により、保管中の化学変化を防ぐ必要がある。\n(※ 参考:) 理科室以外の物質でも光によって分解するものは、ある。よくポスターなどの印刷物の色が何年も経過すると消えることがある理由は、光によって、塗料が分解したことが、色の消える原因である。\nすべての物質は、とても小さな粒子が組み合わさって出来ている。\n原子の表記には、記号がつけられている。アルファベット1文字か2文字で書ける記号がつけられており、分子の構成を記述するためにはその記号を用いる。この記号はw:元素記号と呼ばれる。ここで、よく知られている原子の元素記号を列記しておく。\nなど。\n書き方の決まりは、\n読み方の決まり\n他にも様々な元素があり、それらはw:周期表などにまとめられている。周期表はそれぞれの元素を、ある順序に従って並べたものである。周期表の仕組みについて、あとの節で説明する。\nロシアのメンデレーエフによって、1869年に、周期表は作られはじめた。メンデレーエフは、まず原子質量の順に原子を表に並べた。すると、周期的に、化学反応などの性質の似た元素が表にあらわれる事を発見したのである。当時に、まだ知られていない元素があったが、それは、「未発見の元素があるのだろう」とメンデレーエフは考えた。のちに、メンデレーエフの予想したとおり、未発見の元素が、発見された。\n原子の質量は、種類によってちがう。もっとも軽い原子は、水素原子である。\n水素原子の場合、原子1個の質量は\nである。(17の前に、0が25個ついている。)\n水素元素を集めて1gにするのに何個の原子が必要かというと、\n(中学では、語源までは暗記する必要はない。)\nなお、元素記号の文字の由来は、おもにラテン語あるいはラテン語由来の英語やフランス語、ドイツ語などで表した場合の頭文字である。たとえば水素はラテン語で「hydrogenium」(ヒュドロゲニウム)と言い、英語では「hydrogen」(ハイドロジェン)と言い、それらの頭文字の h を大文字にして、Hという元素記号が水素に付けられた。\n(水素「hydrogenium」などのラテン語の表記に関しては、中学では覚える必要はない。)\n酸素の元素記号Oも、ラテン語の酸素 oxygenium(オキシゲニウム) などが語源である。英語では酸素は、\nラテン語由来の元素記号は、ナトリウムが分かりやすい例で、ラテン語ではnatrium(発音もナトリウム)といい、ラテン語の発音が、日本での発音とほとんど同じである。いっぽう英語ではナトリウムのことをsodium(ソウディウム)と言い、まったく違う発音である。なお、英語での表記は、ナトリウム化合物を日本語でソーダ(飲料水の「ソーダ水」とは別物。)と言うことなどに影響を残してる。\nカリウムKも、英語ではpotassium(ポタシウム)と、まったく元素記号とは別の発音である。ラテン語ではカリウムはkalium(カリウム)と、元素名そのままである。\nこのように、必ずしも英語の発音に元素記号が近いとは限らない。原則的に、元素記号の表記と、元素名の発音は、ラテン語を語源としている。\n銀のAgもラテン語の銀 argentum(アルゲントゥム) が語源である。英語の銀のsilverとは、まったくつづりも発音も異なる。\n金のAuもラテン語の金 aurum(アウラム)が語源である。\nともかく、元素記号には、きちんとした根拠があるので、安心して元素記号を覚えてもらいたい。\nまた、化学の元素記号は世界共通である。たとえば水素だったら、どこの国でも水素の元素記号は H である。\n多くの物質では、原子がバラバラに存在していることは無く、いくつかの原子が結びついており、これが集まって物質になっている。\nある物質の分子は、その物質としての性質を持つ最小単位である。分子自身もいくつかの原子が組み合わさることで構成されている。\nまた、同じ原子からできていても、原子の配置によって異なった性質を示す分子ができる場合もある。そのため、ある分子がどの原子で構成されているかを知るだけでは、物質の性質を予測することはできない。また、反対にある分子がどのような原子でできているかを調べるには、物質ごとの特別な手段を用いる必要がある。ここでは既に性質がよく知られている分子だけを扱うが、分子の性質を調べる手法を知ることが重要である。\n分子は、原子の組み合わせでできている。分子が1種類の原子だけで構成されている場合、その分子の呼び名で、原子の名称を流用して用いる場合が多い。\nたとえば、水素は、水素原子2つが結びついて水素分子を作る。水素の気体とは、水素分子が、いくつも集まった気体である。\n酸素は、酸素原子2つが結びついて酸素分子を作る。酸素の気体とは、酸素分子が、いくつも集まった気体である。\n例えば、気体の実験で用いる水素(水素分子)は、2つの水素原子からなっている。この分子の化学式は、\n上の例は水素分子である。\n酸素分子を元素記号で書くとき、酸素の元素記号Oを用いて、\nと書く。\nこのような、元素記号を用いた分子の記述法をw:化学式と呼ぶ。ある分子の化学式を書くためには、その分子がどのような原子から構成されているかを把握している必要がある。また、化学式から分子の構成を読み取ることもできる。ただし、化学式からは分子の構成以上の情報は読み取れない。\nここで、Hは水素原子の元素記号であり、Hの右下に書かれた添字の2はそれが2つあることを表す。また、水素分子の例にあるように、分子中の原子の数は対応する元素記号の右下に小さい文字でつけるのが書き方である。\n水分子(みずぶんし)は、水素原子2個と酸素原子1個が結びついている。\nH2Oの読み方は「エイチ・ツー・オー」と読む。\n次に、よく知られた代表的な物質の化学式を書き記す。\n読み方\nここで、他の気体についても化学式をまとめておく。\nここで、水素や酸素のように単一の原子でできている分子をw:単体(たんたい)と呼ぶ。また、水分子やアンモニアや二酸化炭素のように複数の原子からできている分子を、w:化合物(かごうぶつ)と呼ぶ。\nいっぽう、複数の物質が混ざっているものを混合物(こんごうぶつ)という。食塩水は混合物である。砂糖水も混合物である。空気は混合物である。\n塩化ナトリウムそのものは、塩素とナトリウムとが化合しているので化合物である。食塩水で、水に塩化ナトリウムが溶けていても、水分子と塩化ナトリウムは化合してはいないので、食塩水は混合物である。\n塩化ナトリウムは結晶をつくっており、分子というまとまりを持たないが、原子数の比が、ナトリウム原子と塩素原子の比率は、かならず1:1なので、化学式を書くときは NaCl と書く。\n鉄は結晶構造をとり、分子というまとまりを持たない。鉄では鉄原子Feが規則正しく並んでいるので、化学式では Fe で表す。\n銅など、他の金属も同様で、結晶構造をとり、分子構造をとらないが、元素記号で分子を表す。\n(* 発展 周期表の順序\n各々の原子は実は物の最小単位では無く、原子はそれぞれw:原子核(げんしかく)とw:電子(でんし)から構成されている。実際には原子核もいくつかのw:中性子(ちゅうせいし)とw:陽子(ようし)から構成されているのである。個々の原子の違いはその原子の原子核が含む陽子の数と中性子の数によって決まるが、このうち原子の電気的な性質は陽子の数で決まる。周期表はその原子の原子核中の陽子の数によって元素を並べている。例えば、水素原子は陽子を1つ含むので1番目であり、酸素は8個含むので8番目である。また、周期表には各行で原子の数がまちまちだが、これにも理由がある。(これについては高等学校化学、w:遷移元素などを参照。)\n中学の範囲において、この表の全てを記憶する必要はないが、原子番号1番から20番までの20個を最低限は覚えておくとよい。\nまた、カリウムK、カルシウムCa、マンガンMn、鉄Fe、銅Cu、銀Ag、ヨウ素I(大文字のアイ)、金Au、などを覚えておくと良いだろう。\n書籍などでの実際の周期表には、つぎのように、原子番号や質量が、元素記号のとなりに書かれる。\n左上の数字は原子番号で、左下の数字は炭素原子12Cの質量を12としたときの、その原子のおよその質量である。\n書籍によっては、書く位置が違う場合もあるので、その書籍ごとに確認のこと。\nそれぞれの原子を羅列していくと、\nというようになる。\nこのような、水素原子Hの質量を1としたときの、ヘリウム原子Heの質量比4や、リチウム原子Liの質量比7、ベリリウム原子の質量比9など、水素原子の質量を1としたときの原子の質量比のことを原子量と言う。\nより詳しく言うと、現在では、原子量の基準には、炭素原子12Cの質量を12として、原子量の基準にしている。原子量は、一般の中学・高校の理科参考書の周期表を見れば、普通は記載されている。\n原子番号と原子量を見ると分かるように、原子量は、元素番号のほぼ2倍だが、しかしピッタリ2倍とは、限らない。\n元素記号のとなりに原子番号や原子量を書くときは、周期表を書くときなどに限る。ふつうの化学反応式では、反応式中に原子番号や原子量を書かないのが、普通である。\n水素からネオンまで、第一周期から第二周期の終わりまで(横方向)、語呂合わせで「水兵リーベぼくの船」というのが戦前から有名。\nなお、リーベとはドイツ語で「愛する」と言う意味。水兵が船を愛している、という内容。\nこのあと、「名もあるシップス・クラークか」(ナトリウムからカルシウムまで)などと続くが、意味が分かりづらい。シップスはまあSHIP(舟)だとして、クラークって何のことやら。\nさらにそのあと、「スコッチ曝露マン」以下略・・・(スカンジウム以降)とか続く。なお、「曝露」は「ばくろ」と読む。スコッチはお酒のウイスキーの一種。\nほか、おそらく平成あたりからだろうが、1族(縦方向)の水素、リチウム、ナトリウムを「エッチなリナちゃん」などと呼ぶのもある。\nw:元素記号に語呂合わせの例がある。\n中学では、「水平リーベ僕の船」「名もあるシップス クラークか 」と「エッチなリナちゃん」あたりの元素を覚えていれば、あとはカリウムK、カルシウムCa、マンガンMn、鉄Fe、銅Cu、銀Ag、ヨウ素I(大文字のアイ)、金Au、だけ覚え足せば済む。\nこの程度の元素の順番と位置を覚えておけば、あとは実用的には語呂合わせがあるのを知っていれば十分である。忘れたら実務では周期表を見れば済む。大学入試ではどうだか知らないが。\n鉄(てつ)の粉末と硫黄(いおう)の粉末の混合物を加熱すると、硫化鉄(りゅうかてつ)という黒色の粉末ができる。\n加熱する前の、鉄と硫黄がまざっただけの粉末は、黄色がかった灰色である。\n硫化鉄の化学式は FeS である。\n加熱する前の鉄の粉末と硫黄の粉末の混合物は、磁石につく。(鉄粉が磁石につくため) しかし、加熱したあとに出来る硫化鉄の混合物は、磁石につかない。\nこのように、化学変化をすると、物理的な性質が変わる。\n硫化鉄の化学式 FeS もテストに出るので、覚えておこう。このFeSのできる反応は、どの検定教科書にも書いてある代表的な反応なので、おぼえておくこと。\nまた、銅と硫黄の混合物を加熱すると硫化銅ができる。\nこのように、2種類以上の物質が結びついてもとの物質と違う別の1種類の物質ができる化学変化を化合(かごう)という。化合した物質を 化合物(かごうぶつ、chemical compound) という。\n銅の粉末を加熱すると、銅が空気中の酸素と化合して酸化銅(さんかどう)ができる。酸化銅は、銅と酸素の化合物である。また、炭素を加熱すると、炭素が空気中の酸素と化合して酸化銅ができる。\n既にいくつかの場合に、複数の物質が反応し別の物質を作る過程を見てきた。ただし、一口に反応といってもその種類は様々であり、熱を発する物や、複数の物質を生じる物があることには注意が必要である。扱った過程の中には、いくつかの分子から別の分子を生じる過程もあった。例えば、過酸化水素水から水と酸素が生じる反応はこの例である。これらの反応は、どれも分子と分子の反応であり、反応の中で個々の原子が変化することはない。この理由については下の発展を参照。\n一般に、通常では原子核は変化しないが、とても大きなエネルギーを加えた場合には変化させることも可能である。このような原子が他の原子に変化する反応はw:核反応(かくはんのう)と呼ばれ、一般にここで扱う反応より高いエネルギーが必要になる。ただし、元々不安定な元素は、勝手に原子核中の中性子が崩壊し、他の元素に変化する場合がある。(詳しくは、w:ベータ崩壊などを参照。)\n次に述べる化学反応は、核反応とは異なるので混同しないように注意のこと。\nそれぞれの分子を化学式で記述する方法を既に学んだ。同じように反応の過程も化学式と似た記号で記述できると便利である。このような記述法をw:化学反応式(かがくはんのうしき、chemical equation)と呼ぶ。化学反応式は化学反応を記述するための一般的な方法だが、反応の詳細(例えば、熱を発するかどうかや反応が進む速度)については記述できないことに注意が必要である。\n化学反応式を書くときには真ん中に矢印を書き、左側に反応前の物質の化学式を書き、右側に反応後の物質の化学式を書く。また、複数の物質があるときにはその間に+記号を置く。例えば、上であげた過酸化水素水が水と酸素に分解する反応は次のようになる。\n2\n\nH\n2\n\n\n\nO\n2\n\n\n⟶\n2\n\nH\n2\n\n\nO\n+\nO\n2\n\n\n\n\n{\\displaystyle {\\ce {2H2O2 -> 2H2O + O2}}}\nここで、それぞれの分子の化学式の前の数字は、反応に関わる分子の数を表す。上の反応では2つの過酸化水素水分子に対して2つの水分子と1つの酸素分子が生じる。このとき全体に定数をかけても関係は変わらないが、それぞれの定数が公約数1を持つ整数に取る必要がある。\n反応中で原子が変化しないことから、式の左辺と右辺で分子の数は変化しない。上の例では、左辺でも右辺でもHが4つと、Oが2つ存在する。\n水素と酸素から、水を合成する反応は、つぎの反応式になる。\n図示すると、つぎのような図になる。\nこの水の合成実験は、けっこう危険なので、教員の指示がない限りしなくてよい。\n図を見ると分かるように、反応の前後で、原子の個数は変化していない。\n鉄を熱したとき、鉄に酸素が結合して酸化鉄になるが、その化合した酸素の分だけ質量が増える。\n化学変化の前後で、その変化に関係している物質全体の質量は変わらない。これを質量保存の法則(しつりょうほぞんのほうそく、law of conservation of mass)という。\n炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)と塩酸(HCl)を反応させると、二酸化炭素が発生する。\n密閉されていない容器の中でこの反応をさせると、発生した二酸化炭素は空気中に逃げていくので、反応前後の質量を比べると、反応後は質量が減少している。\nいっぽう、密閉された容器の中で反応させると、発生した二酸化炭素は空気中に逃げていかないため、反応前後の質量は変化しない。\nこのように、気体が発生する反応でも、質量保存の法則は成り立つ。\nなお、この炭酸水素ナトリウムと塩酸の反応でできた液体は、塩化ナトリウムと水の混ざったものである。\n化学式も覚えよう。\n※ 炭酸水素ナトリウムそのものは、あまり質量保存の法則では重要ではないのだが、この炭酸水素ナトリウムの実験はどの教科書にも書かれる有名な実験なので、テストにも入試にも出るだろうから、覚えておこう。\n水溶液中の反応で、沈殿ができても、質量保存の法則は成り立つ。\n塩化バリウム水溶液(BaCl2) に、硫酸(H2SO4)をくわえると、硫酸バリウム(りゅうさんバリウム)(化学式: BaSO4)の白い沈殿ができる。\nてんびんなどで、重さを実際に測ってみると分かるのだが、化学反応の前後で、重さは変わらない。\nこのように、沈殿が生じたところで、合計の質量は変わらず、よって質量保存の法則は成り立つ。\nなお、反応後には、塩酸も出来る。\n化学式も覚えよう。\n※ 硫酸バリウムそのものは、あまり質量保存の法則では重要ではないのだが、この硫酸バリウムの実験はどの教科書にも書かれる有名な実験なので、テストにも入試にも出るだろうから、覚えておこう。\n金属を熱したとき、化合した酸素の分だけ質量が増える。しかし、たとえ酸素がじゅうぶんに存在しても、一定量の金属に化合する酸素の質量には限界がある。また、金属の質量と化合した酸素の量の質量の間には比例の関係がある。\n化合する物質の質量の比は一定である。これを定比例の法則(ていひれいのほうそく、law of definite proportions)という。例えば、銅の質量と酸素の質量との比はつねに\n\n4\n:\n1\n\n{\\displaystyle 4:1}\nであり、マグネシウムの質量と酸素の質量との比はつねに\n\n3\n:\n2\n\n{\\displaystyle 3:2}\nである。\n物質が酸素と化合することを酸化(さんか、oxidation、オキシデイション)という。\nたとえば、銅(Cu)が酸化して酸化銅(CuO)ができる反応がある。\n燃焼(ねんしょう、combustion、コンバスチョン)とは、化学反応により発熱現象が激しく進行することである。発熱の際に発光を伴うことも多い。\n可燃物は、酸素との反応で燃焼をする。\n(燃焼とは、必ずしも酸素との反応だけでなく、フッ素と反応して燃焼することもある。中学レベルでの燃焼は、酸素との化合による燃焼を扱う。)\n酸化は必ずしも燃焼反応とは限らず、ゆっくり進む場合もある。金属のサビなどは、酸化がゆっくり進んだ現象である。\n繊維上の鉄を スチールウール(steel wool) という。色は銀白色である。スチールウールは表面積が大きいので、火であぶると燃焼しやすい。\nスチールウールを酸素中で熱すると、激しく反応し、酸素と化合し燃焼する。スチールウールを燃やすと、酸化鉄(さんかてつ、iron oxides)になる。\n燃焼前のスチールウールは鉄なので磁石につくが、酸化鉄は磁石につかなくなる。\nこの酸化鉄の重さは、スチールウールよりも重い。この重さの増加は、酸素が化合して質量が増加したためである。質量を測るには、天びんを用いれば良い。反応前に、あらかじめスチールウールの質量を測定しておいて、反応後の酸化鉄の質量も同様に測定すれば良い。\n酸化鉄にはいくつかの種類があり Fe3O4 や Fe2O3 や FeO などがある。スチールウールの燃焼実験ではこれらの物が混在する。\nスチールウールの燃焼実験での、燃焼後のスチールウールの外側の表面成分は Fe3O4 が多い事が多いので、これをスチールウールの燃焼反応における酸化鉄の化学式として採用することが多い。\n燃焼前のスチールウールは、薄い塩酸にいれると、泡が発生し、また、スチールウールが溶ける。このときの発生した泡は水素である。\n鉄 + 塩酸 → 塩化鉄 + 水素\nいっぽう、燃焼後の酸化鉄を薄い塩酸に入れても、泡は発生せず、水素は発生しない。ただし、塩酸と反応しないわけではなく、塩化鉄が生成する。\n酸化鉄 + 塩酸 → 塩化鉄 + 水\nこのように、酸化鉄は、鉄とはちがう化学的性質を持つ。これらの実験からも鉄と酸化鉄とは、べつの物質であることが分かる。\n木炭など炭素は、酸素と反応すると、二酸化炭素になる。\n図にすると、つぎのようになる。\n発生後の気体が二酸化炭素であることを確かめる方法には、石灰水に気体を通せば白くにごることから、発生した気体が二酸化炭素であることが分かる。\nもし、ある物質を燃やした時に二酸化炭素が生成すれば、その物質は炭素を含んでいたことになる。\n木材や紙などを燃やした時に、反応後の燃えカスの質量が、反応前よりも軽くなったりするのは、反応によって生じた二酸化炭素や水蒸気などが空気中に散っていったからである。\nロウソクを燃やした時にロウが減っていくのも、反応によって生じた二酸化炭素や水蒸気が空気中に散逸していくからである。\n炭素を含む化合物には、木材の他にも、砂糖やエタノールやロウなどがある。\n木材などの炭素を含む有機物は、空気中で燃やすと、木材中の炭素と空気中の酸素とが反応して二酸化炭素ができる。\nマグネシウムをリボン状の形にしたものを マグネシウムリボン という。マグネシウムリボンに火をつけて空気中で燃焼させると、酸素と反応し、明るい炎をあげて燃え、酸化マグネシウムになる。\n酸化マグネシウムの化学式は MgO である。\nマグネシウムには光沢があるが、酸化マグネシウムには光沢はない。\n一般に酸化物は、光沢を持たない。酸化マグネシウムの色は白色である。\n反応後の物質が、反応前のマグネシウムとは別の物質であることは、次のようにして確かめられる。\n反応前と後のマグネシウムのどちらとも、塩酸に入れると溶ける。燃焼前のマグネシウムは、うすい塩酸にいれると泡(水素)が発生する。だが、燃焼後の物質(酸化マグネシウム)をうすい塩酸に入れても反応せず、また、泡も発生しない。\n燃焼後の物質(実は酸化マグネシウム)の質量を測定すると、反応前のマグネシウムよりも、反応後は質量が大きくなっている。これは酸素がマグネシウムに化合したため、そのぶんの質量が増えたかあである。\n酸化マグネシウムの化学式 MgO は簡単な化学式なので、テストに出やすいので、覚えておこう。\n水素(すいそ)は、酸素と反応すると、水になる。\nしたがって、もし、ある物質を燃やした時に水が生成すれば、その物質は水素を含んでいたことになる。\n空気中で銅粉(どうふん)を熱すると、酸化銅(さんかどう、copper oxide、カッパーオキサイド)になる。酸化銅の質量は、酸素が化合したぶんだけ、反応前よりも質量が増えている。\nなお、酸化銅には CuO と Cu2O とがある。色はCuOが黒色で、Cu2Oが赤色だが、どちらとも、もとの銅の光沢を失っている。\nたとえば、銅(Cu)が酸化して酸化銅(CuO)ができる反応の場合、化学反応式は\nとなる。\n黒色の酸化銅である 酸化銅CuO と、 炭素C を混ぜたものを熱すると、赤褐色の粉末になる。\nこれは、酸化銅が銅に戻った反応である。\n化学反応式は以下の式になる。\n酸化銅と化合していた酸素は、炭素と反応して二酸化炭素となり、その二酸化炭素は散っていったからである。\n炭素は銅から酸素を奪う反応をしたことになる。\nこのように酸化の逆である、酸素を奪う反応を反応を還元(かんげん、reduction)という。酸化銅と炭素との反応で、酸化銅は還元されたことになる。(還元: 酸化銅→銅) また炭素は、酸化銅を還元したことになる。\nいっぽう、炭素自身は酸素と化合して二酸化炭素になったのだから、炭素は酸化したことになる。(酸化: 炭素→二酸化炭素) \nこのように、ある物質が還元する時は、かならず、同時に別の物質が酸化をしていることになる。\n酸化銅の還元は炭素でも可能だが、水素を用いても酸化銅を還元することができる。\nガラス管につめた酸化銅に水素を通して熱すると、還元できる。還元をすると、水素と酸素が化合して水ができるので、ガラス管の内側が水蒸気でくもる。\n酸化銅の還元で用いた水素や炭素のように、酸化物から酸素を奪う働きのある物質を還元剤(かんげんざい)という。\n酸化されたのは、水素。(H→H2O) \n還元されたのは、酸化銅。(CuO →Cu)\n・鉄(スチールウール)の燃焼。(酸化)\n・マグネシウムの燃焼\n・銅の酸化\n・炭素の酸化(燃焼)\n・過酸化水素水の分解\n・炭酸水素ナトリウムの分解\n・酸化銀の分解\n・水の分解(電気分解)\n・塩酸(HCl)と水酸化ナトリウム(NaOH)の中和反応\n・石灰水(水酸化カルシウム水溶液)と二酸化炭素とで、石灰水の白くにごる反応\n・塩酸(HCl)と亜鉛(あえん、Zn)の反応\n・銅と硫黄の化合\n・鉄と硫黄の化合\n・硫化鉄と塩酸の反応\n化学反応や状態変化に伴って熱エネルギーの出入りが起こる時の熱のことを反応熱(heat of reaction)という。反応熱には燃焼熱、溶解熱(heat of dissolution)、中和熱(heat of neutralization)、生成熱、融解熱、蒸発熱(heat of evaporation)、昇華熱などがある。熱量の単位にはJ(ジュール)を使う。1cal=4.184Jである。反応熱の表記は、物質量1molあたりの熱量(単位は[kJ/mol] 。1kJ=1000J である )で現すことが多い。1ジュールとは、力の大きさ1ニュートンで移動距離1メートルの仕事をすることである。つまり、1J=1N・mである。\n化学反応式の右辺に反応熱を記し、両辺を等号で結んだ式を熱化学方程式(thermochemical equation)または熱化学反応式という。\nたとえば、炭素(黒鉛)の1molを燃焼させた場合の熱化学方程式は以下のようになる。\n反応熱は、上の式のように右辺に表す。\nプラスチックは、数百個や数千個などの、いくつもの原子がつながった、巨大な分子である。\nデンプンは、炭素Cや水素Hや酸素Oをふくむ分子が、数百個や数千個などの、いくつもつながって作られた、巨大な分子である。\n植物が光合成をして二酸化炭素を吸いこむのは、このデンプンをつくるための炭素Cを、植物が手に入れるためである。\nデンプンを燃やすと、炭になる。なので、デンプンが炭素をふくんでいることが分かる。\nまた、砂糖を燃やすと炭になる。なので、砂糖が炭素をふくんでいることが分かる。\n製鉄所(せいてつじょ)での、鉄の製鉄は、以下のとおり。\n鉄の原料は鉄鉱石(てっこうせき、iron ores)です。\nこの鉄鉱石に、酸化鉄(さんかてつ)がふくまれている。\n製鉄会社では、高炉で鉄鉱石を溶かすさい、酸化鉄を還元するため、「コークス」といわれる炭素をくわえて、最終的に鉄や鋼が作られます。\nなお、鉄鉱石の還元のさい、酸素と炭素が反応するため、二酸化炭素が発生します。\nなお、コークスは、石炭をむし焼きにしたもの。コークスの主成分は炭素である。\n鉄をつくるには、鉄鉱石から、製鉄所にある高炉(こうろ)で鉄を溶かします。高炉の高さは100m(メートル)以上もあります。高炉で溶かした鉄が、銑鉄(せんてつ、pig iron)です。\nなお、高炉の内側には、耐火性のレンガが内貼り(うちばり)してある。このレンガによって、高炉は、溶けた熱の高温に耐えられるようになっている。\n鉄鉱石は、酸化していて、さびています。鉄鉱石を溶かす時に、さびをとるため、炭素をふくんでいる石炭をむしやきにしたコークス (ドイツ語:Koks) を加えています。コークス中の炭素と、鉄鉱石とが反応します。つまり還元(かんげん)反応です。酸化の反対の反応を、つまり酸化した物質から酸素が失われる反応を還元(かんげん、reduction)と言います。\n反応熱で、高炉中は高温になり、鉄が溶けます。\n銑鉄は、高炉の中で下に液状になって、たまり、炉の下のほうから取り出されます。\nこの炭素が鉄に多くまざると、鉄はかたくなり、もろくなる。銑鉄には炭素が多くあるので、銑鉄は、かたくてもろいです。銑鉄に、ふくまれる炭素の濃度は、だいたい4%から5%まで、です。この炭素の濃度だと、銑鉄が、やや低い温度で溶けやすくなるので、結果的に、銑鉄の濃度が、こうなります。\n不純物は、酸素の他にも、ふくまれてるので、コークスの他に、石灰石(せっかいせき)を加えています。\n鋼(はがね)とは、銑鉄を転炉(てんろ)という炉に送り、転炉で酸素(さんそ)を吹き込むことで、炭素を燃焼(ねんしょう)させて減らし(へらし)、ちょうどいいぐあいにまで炭素を減らすことで、丈夫(じょうぶ)な鋼(はがね)に、なります。ねばりが ありながら、しかも かたくなるように、炭素の量を調節した鉄です。鋼にふくまれる炭素の量が、どのくらいかと言うと、0.02% から 2.1%までの炭素濃度です。\n転炉のあと、さらに圧延機におくられ、板のかたちの鋼板(こうばん)や、棒のかたちの棒材(ぼうざい)などへと、加工されます。\n鉄や鋼をあわせて、鉄鋼(てっこう)と、よびます。\n鉄鋼を生産している産業を鉄鋼業(てっこうぎょう)と言います。\nなお、ステンレス鋼(ステンレスこう、Stainless steel)とは、鋼(はがね)にニッケルやクロムを加えた合金です。\nアルミニウムをつくったり、銅をつくったりなど、鉄鋼以外の金属を生産するのは、金属工業と言います。アルミや銅の生産は、鉄鋼業とは言いません。\nステンレスは、鉄(てつ)Feをおもな成分として、鉄に、クロム(元素記号: Cr)やニッケル(元素記号: Ni)が加わった合金である。\n「ステンレス」の語源は、「stain less」であり、さび(stain) が ない(less)、という意味。\n鉄の合金のことを鋼(はがね、英:steel)というので、正確には「ステンレス鋼」(ステンレスこう、stainless steel)という。\n建築物などに使われている鉄を、表面をペンキなどの塗料(とりょう)で、塗装(とそう)する理由のひとつは、酸化をふせぐため である。\n鉄が空気と触れ合わなければ、空気中の酸素とも触れ合わないので、その鉄に酸化が起きなくなる。\nしかし、塗料そのものが、しだいに空気中の酸素や雨水などと反応して分解したりしていくので、建築物などでは数年ごとなど、定期的にペンキを塗り直す必要がある。\nなお、アルミニウムの建築材には、ペンキを塗らないのが普通である。\nアルミニウムは、酸化しても、酸化が表面で止まり、その表面の酸化膜が保護膜になることにより、アルミ内部まで酸化がすすみづらいので、ペンキを塗る必要が無い。\nアルミニウムは、酸素とむすびつきやすい。\nアルミニウムの原料であるボーキサイトの主成分は、酸化アルミニウムである。\n(※ 参考 :)アルミニウムは酸素との結びつきが強いこともあり、人類がアルミニウムを発見したのは歴史でも遅くて(おそくて)、1800年ごろに人類はアルミニウムの物質を発見した。そして1850年のナポレオン3世のフランスではアルミニウム製の食器が生産されていた。\nさて、ルビーは、酸化アルミニウムの結晶に、クロムがすこし混ざったものである。\nサファイアは、酸化アルミニウムの結晶に、鉄とチタンがすこし混ざったものである。\nルビーもサファイアも、酸化アルミニウムの結晶に、不純物がまざったものである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%8C%96%E5%AD%A6%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%A8%E5%8E%9F%E5%AD%90%E3%83%BB%E5%88%86%E5%AD%90"} {"text": "電流とは単純には電気の流れのことである。電気の流れで実際に動いているのは電子であり、金属などの電気を通すもので電子は動くことが出来る。ここでは、電流の細かい性質には触れず、電流の基本的な性質について扱う。\nここでは、電流の性質についてまとめる。しかし、電流について述べる前に、電流がどのようなものから出来ているかについて簡単にまとめる。\n電気を通さない物質を不導体または絶縁体(英語: insulator、インサレイター)という。絶縁体同士をこすり合わせることで、物質に静電気(英語: static electricity)を貯めることが出来る。静電気が溜まった状態のことを帯電(英語: electrostatic charge)しているという。\n静電気は磁石と同じく、触れることなくお互いの間に力を働かせることが知られている。例えば、下敷きをこすった後に髪の毛に近づけると髪の毛が逆立つが、これは静電気によって、髪の毛が下敷きに引っ張られているということである。また、静電気にはプラスとマイナスがあり、磁石のNとSのようにプラス同士、マイナス同士を近づけると反発し、プラスとマイナスを近づけると引き合う性質がある。こすった時にプラスとマイナスのどちらに帯電しやすいかは、絶縁体の性質による。\n静電気は電流と関係があり、帯電したものを金属に近づけると瞬間的に電気が流れ、放電(英語: electrostatic discharge)が起こることが知られている。冬に金属で出来た物に触れようとするとパチッと痛みを感じるのは、皮膚表面が帯電していて、金属に触れた瞬間に放電が起こるからである。実際には静電気として蓄積されているものと電流として流れているとされているものは、どちらもw:電子(でんし)と呼ばれるw:粒子であることが知られている。電子は容易に観察することは出来ないため、ここではその性質については詳しく述べない。(詳しくは高等学校理科 物理Iなどを参照。)\n空気といった電気をほとんど通さない物に比べて、金属は電気をかなり通しやすい。正しい方法で金属の導線を繋ぎ合わせることで、電流の流れる「道」を作ることが出来る。この「道」を繋いだ一セットをw:電気回路(英語: electric circuit、エレクトリック・サーキット)と呼び、電気回路の要素を記号を使って表した設計図を電気回路図と呼ぶ。電気回路図は形式が標準化されているので、電気回路図を見て電気回路を組み立てたり、逆に作った電気回路を電気回路図に表したりということが誰にでも出来る。例えば、電池(直流電源)は\nと表され、w:抵抗(電流を流れにくくする物体のこと)は\nと表される。また、導線は直線で表される。電池には陽極(+極)と陰極(-極)があるが、回路記号では線が長い方が陽極に対応する。実際の電池では突起のある方が陽極である。\n電池と抵抗だけをつないだ簡単な電気回路図は\nで与えられる。電気回路の中では各点でその点を流れる電流と電圧が決まる。\n導線などの導体内の電気の流れおよび、その流れている電気の量を電流(でんりゅう、electric current、エレクトリック・カレント)という。電流の強さの単位は、アンペアという単位で表す。アンペアの記号は A で表す。\n電気回路に電流を流す、働きの大きさのことを電圧(英語: voltage、ボルテージ)という。一般にw:電池の電圧は、その電池の中の物質によって定まる。電圧の単位はボルトといい、記号はVで表す。(詳しくは高等学校物理を参照。)\nこのような電池の電圧を起電力(英語: electromotive force, EMF)という。起電力は、電池内の物質の種類によって、一定に定まる。電池内の物質の量には影響されない。物質の種類によって、起電力が定まる。\nたとえば、家庭用のマンガン乾電池1個の電圧は1.5Vである。\n歴史的には、乾電池の発見と発明によって、一定の電圧で電気回路に電気を送り続ける定電圧源が人類の手に入るようになり、電圧と電流とを明確に区別することができるようになった。\nでは、電池や電圧というのは、そもそも何であろうか?\n電池(電源)を省いて電気回路を作ったとしても何も起こらない。例えば輪っかのようにため池を作っても、エッシャーの滝のように水が急に流れだすことはなく、止まったままである。だが、池に高低差を作って、低い方から高い方へポンプで水を送ってやれば、水は自然と流れだすことになる。このポンプの役割をするのが電池であり、水の高低に対応するのが電位である。また、高低の傾斜をきつくすれば水の流れる勢いも速くなるが、同じように電位の高低差こそが電圧の正体である。\nしたがって、電池の両端には、かならず電位差がある。更に、一般に、電池については陽極がより電位の高い方とする。さて、このとき電気回路図中の2点についてその2点が異なった電位を持っていることが分かる。上の電気回路中でも電位差があるので電位が高い点から低い点へと電流が流れるが、この際に電気抵抗(英語: resistance、レジスタンス)を通過するため、ここで電圧降下をおこす。電気抵抗は導線と比べて「電気の流れにくい場所」と理解することが出来る。その場所を電流が通ることで熱が発生し、また電流が勢い(=電圧)を失う。このことによって電気回路中に異なった電位があることと整合的になるのである。ここまでの話では、電圧降下の量が電気抵抗の性質によって変化し、電位の差を埋めるのに十分でなくなるように思えるかも知れない。しかし、このような場合には常に、抵抗の値と合わさってちょうど電位差を埋めるように対応する電流が流れるのである。電気回路中の電位についてより(詳しくは高等学校理科 物理Iを参照。)\n電池を2つ縦に並べるようなつなぎ方を、w:直列接続または直列つなぎと呼ぶ。\nまた、直列に対して電池を横に平行に並べるようなつなぎ方を、w:並列接続または並列つなぎと呼ぶ。\n直列接続を用いると、電池全体の両端に対する電位差は、各々の電池の両端に対する電位差の和になる。一方並列接続では両端の電位差は1つの電池を用いたときの電位差と比べて変化しない。ただし、電池の寿命は、1本だけを用いたときと比べて、並列つなぎに用いた電池の数だけ長くなる。\n同様にして抵抗の接続の仕方にも直列接続と並列接続がある。このときの全体としての抵抗値を計算することが出来るが、これは高等学校物理の範囲である。\n電流の流れにくさを電気抵抗、または単に抵抗という。\n流れにくさと、その物体とを区別したい場合には、電流を流れにくくする素子のことを抵抗器あるいは抵抗体と呼んで区別する場合も有る。\n本節でも、混同を避けるため、流れにくさのことは抵抗と呼び、物体側は抵抗器あるいは抵抗体と呼ぶことにしよう。\n抵抗(電気の流れにくさのほう)の単位は、オーム(英:ohm、オウム)といい、記号は\n\nΩ\n\n{\\displaystyle \\Omega }\nで表す。\n一般に抵抗器の両端で、ある電位差があるときに、抵抗器に流れる電流は\nで与えられることが知られている。ここで、V[V]は抵抗の両端の電位差で単位[V]はw:ボルトと読まれる。\nまた、I[A]は抵抗を流れる電流値で、電流の単位[A]はw:アンペアで与えられる。\n更に、R[\n\nΩ\n\n{\\displaystyle \\Omega }\n]は、抵抗の大きさを表わす値であり単位[\n\nΩ\n\n{\\displaystyle \\Omega }\n]は、w:オームと読まれる。\n上の式は電圧と電流の関係を表わす式であり発見者の名前にちなんでw:オームの法則と呼ばれる。\n抵抗300[Ω]を持つ電気抵抗に9[V]の電位差を与えたとき、抵抗中を流れる電流は何[A]か。\nオームの法則を用いればよい。V = 9, R = 300を用いると、\nを得る。よって流れる電流は0.03[A]である。\n一般に抵抗の大きさは使われている物質が同じ材質なら用いられている材質が長いと抵抗も大きくなり、材質が細いと大きくなる。また、同じ長さでの抵抗値は\n物質によって異なっている。\n導線の太さや長さによって抵抗の大きさは変わる。直感的に、導線が太いほうが電流が流れやすいのは分かるだろう。\n実際に電気抵抗は、導線の太さに反比例して、抵抗が小さくなることが、実験的に確認されている。\nさらに、導線は材質や太さが同じならば、導線が長いほど抵抗が大きくなり、長さに比例して抵抗が大きくなることが、実験的に確認されている。\n記号はすべてを覚える必要はないが、最低限、固定抵抗器と乾電池、豆電球、スイッチ、電圧計および電流計、接続している交点と接続していない交点との区別、などは覚えてもらいたい。\n電流を測る計器を電流計(でんりゅうけい)という。形状や使い方は、学校教科書などを参考にしてください。\n電圧を測る計器を電圧計(でんあつけい)という。形状や使い方は、学校教科書などを参考にしてください。\n電流計や電圧計は、つなぎ方を間違えると、故障する場合があります。\n放電管に、高い電圧をかけると、電気回路が導線でつながってなくても電気が流れることがある。このような現象を放電(ほうでん)という。\n歴史的には、真空放電管の実験で、マイナス側の陰極から、なにか(これは電子の線である。)が放射されるのが発見された。\nなので、陰極から出る電子の線は、電子線(でんしせん、cathode ray、カソード・レイ)と呼ばれる。\nまた、この実験から、電子は負の電荷をおびていることが、人類に分かった。\n(※注意 \nここでは、電流を電熱線に流す実験と、電球に流す実験を行なう。ここでは、電流を流すことで電熱線では発熱が得られ、電球に流すことで光が得られることがわかる。得られる光や発熱の強さは、それらにかける電圧を大きくすることで強くなる。\nここで、得られる光や発熱の強さは、電熱線や電球が消費する電力(でんりょく、electric power)によって定まる。電力は、ある時間当たりに抵抗が消費するエネルギーのことである。電力は\nで与えられ、電力の単位は[W](ワット)である。(詳しくは、高等学校理科 物理Iを参照。)\n電力P[W]を式で書けば、\nである。\n1000Wのことをキロワットと言い、1kWと表す。\nオームの法則が成り立つ電気回路の場合、電流Iについて\nが成立ち、電力の式 P=VI に、この V=RI を代入すれば、\nが成り立つ。そのため、発する光や発熱は、かける電圧の2乗に比例するはずである。\n同様に、電力の式 P=VI に、 I=V/R を代入すれば、\nとなる。なお。以上の式は、あくまでもオームの法則が成り立つ場合での式である。\n抵抗に流れる電流による抵抗熱を利用した機器なら、たいていの機器ではオームの法則がなりたつ。\n中学の学習で扱う機器なら、ほとんどの電気回路でオームの法則が成り立つので、この結果が成り立つと思って良い。\n)\n電熱を利用して水を熱することを考えよう。1Wの電力を1秒間、加えた時の熱量を1ジュールという。ジュールの単位記号はJなので、1ジュールは式では 1J とあらわす。\n電気の発熱量を表す場合は、カロリーではなく、なるべくジュール単位で表すのが一般的である。\nなお、カロリーとは、水1グラムを1℃上昇させるのに必要な熱量である。\nジュールとカロリーとの関係は、およそ\nである。\n読者は「カロリーという単位があるのに、なぜ、わざわざジュールという単位をつくったのだろうか?」と疑問を持つかもしれない。その質問に、お答えしよう。\nジュールという単位は、力学という物体の運動法則を調べる学問での「仕事」という物理量が元になっているのである。力学で「仕事」という物理量があり、その「仕事」の単位がジュールなのである。\n上記の式で、単位の読みは、Jはジュール。Nはニュートン。mはメートル。\n詳しくは後のエネルギーに関する節で習う。\nここでは、ともかく、電気の発熱量はジュールという単位で表すのが一般的だと知っていただければ良い。\nジュールという単位は、ワットを基準に考えれば、1Wの電力を1秒間、発熱させた時の熱量だった。\n実生活では、30Wの蛍光灯を3時間ほど使用したりと、1Wよりも、もっと大きな電力を、1秒よりも、はるかに長い時間、用いることが多い。\n電力のワットに、時間(=60分のこと)を掛けた量を電力量(でんりょくりょう)という。単位はワット時[Wh]あるいはキロワット時[kWh]である。\n計算例として、たとえば使用電力が30Wの蛍光灯を3時間ほど用いたら、使用電力量は 30[W]×3[h]=90[Wh] である。\nなお、電力量の単位 Wh の末尾のhは英語のhour(「アワー」、1時間、2時間と言った「時間」の意味。)の略である。\n磁石に鉄などを近づけると鉄は磁石に引きよせられることが知られている。このような磁石の性質を見るために、w:磁界(じかい)という考え方を用いる。磁界とは磁石の\n回りの各々の点にある矢印が張りつき、その矢印によって、その点の近くに鉄などが現われたときにそれらが引きよせられる方向を記述する方法である。\nこのとき、鉄などが引きよせられる強さは矢印の長さで表わす。\n一般に、ある磁石にはN極とS極があるが、磁界は通常N極からS極に向けて伝っていくように書かれる。磁界は途中で途切れることが無い。\n磁場の向きが分かるように図示しよう。磁石の作る磁場の方向は、砂に含まれる砂鉄の粉末を磁石に、ちりばめて、ふりかけることで観察できる。\nこれを図示すると、下図のようになる。(画像素材の確保の都合上、写真と図示とでは、N極とS極が逆になっています。ご容赦ください。学校教科書などで、磁力線(じりょくせん)の図示を確認してください。)\nこのような磁界の図を磁力線(じりょくせん)という。磁力線の向きは、磁石のN極から磁力線が出て、S極に磁力線が吸収されると定義される。棒磁石では、磁力の発生源となる場所が、棒磁石の両端の先端付近に集中する。そこで、棒磁石の両端の先端付近を磁極(じきょく、magnetic pole)という。\n磁力線の向きを、どうやって確認するかというと、方位磁針(ほういじしん、compass)を用いればいい。その場所の方位磁針の向きが、その場所での磁力線の向きである。\n永久磁石が作る磁力線を図示する場合は、N極から力線が出て、S極で磁力線が吸収されるように書く。磁力線は、磁界を図示したものなので、磁極以外の場所では、磁力線が分岐することはない。N極以外の場所では磁力線が生成することもなく、S極以外の場所で磁力線が消滅することもない。\nまた、磁力線が交わったりしてはいけないし、枝分かれもしてはいけない。もし、交わらして磁力線を書くと、その場所での方位磁針の向きが2通りあることになり、不合理な図となる。\n鉄やコバルトやニッケルに磁石を近づけると、磁石に吸い付けられる。また、鉄やコバルトやニッケルに永久磁石などで強い磁力を与えると、鉄などから磁石を遠ざけても、鉄やコバルトやニッケルそのものが磁場を周囲に及ぼすようになる。 このような、もともとは磁場を持たなかった物体が、強い磁場を受けたことによって磁場を及ぼすようになる現象を磁化(じか、magnetization)という。\nまた、鉄(英:iron)とコバルト(英:cobalt)とニッケル(英:nickel)は、磁化されることのできる金属であり、このような磁化される物質を磁性体(じせいたい)という。\n必ずしも、すべての金属が磁性体とは限らない。たとえば、銅は磁化されないので磁性体ではない。\nまた、金属以外の物質は、一般に磁化はされず、したがって金属以外の物質は磁性体ではないのが一般である。\n磁化された鉄などは、べつに永久磁石ではないので、反対方向から磁化すれば磁気が打ち消されて磁化が消える。また、外界との磁界との相互作用などで、磁化された鉄などの磁力は、自然に磁化が消失していく。\n電流は、その周囲に磁界を作る。これは方位磁針を電気回路の近くに置くことで確認できる。\n直線電流がつくる磁界の向きは、電流の向きに右ねじを進めるときに、右ねじを回す向きである。この電流と磁界の向きとの関係を右ねじの法則、あるいはアンペールの法則(Ampère's circuital law)と言う。\nコイルのような曲線部を持つ電気回路が作る磁界の向きも、電気回路の各部分の電流が右ねじの法則に従って、磁界を作っている。\n電流の周りに生じる磁界の強さは電流の強さと導線からの距離だけで決まることが知られている。(しかし、ここでは具体的にその強さを求めることはしない。詳しくは高等学校理科 物理Iなどを参照。)\n導線を棒状のものにまきつけて、ある一定の長さにしたものを、w:コイルと呼ぶ。電気回路用のコイルについてはソレノイド(Solenoid)またはソレノイドコイルと呼ぶ場合が多い。コイルに電流を流したときにも磁石のときに見たような磁界が流れることが知られている。\n磁界の向きは、方位磁針で確認できる。\n電気回路に電流を流すと磁力が発生するのだった。この電流が作る磁界を、永久磁石の代わりに磁力の発生源として利用したものが電磁石(でんじしゃく、electromagnet)である。\n実際の電磁石では、磁力を強めるために、コイルのソレノイド部分に鉄の棒を収める構造になっている。鉄芯が磁化させることで、磁力を強めている。\n電流が磁界から受ける力を利用して、モーターがつくれる。モーターの原理は、右図のようなものである。\n電流の向きから磁界の向きに、右ねじを回した向きに、力は働く。\n整流子とブラシは、半回転ごとに電流の向きを切り換えることにより、つねにコイルを同じ向きに回転させるためのものである。\n整流子が切り替わる瞬間は、いきおいで、そのまま回り続ける。\n磁界の中で、導線に電流を流したとき、導線に働く力の向きは、電流の向きと磁界の向きの両方に直交する。\nまた、力の向きは、右ねじを、電流の向きから磁界の向きに右ねじを回したときに、その右ねじが進む向きである。\nこの法則をフレミングの左手の法則という。\n電流の向きを逆にすると、力の向きも逆になる。この場合にも、力の向きは、右ねじを電流の向きから磁界の向きに右ねじを回したときに、その右ねじが進む向きになっているので、フレミングの法則が成り立っている。\nコイルを置き、その輪の中に、磁石の先端を出し入れする実験実験を行なってみる。ただし、コイルの両端には電圧計を接続し、コイルに流れる電流の電圧を測定するものとする。\nこのとき、図のように、電流が流れる。\n近づけたときと、遠ざけているときに、その磁石を動かしているあいだのみ、電流が流れる。遠ざけているときの電流の向きは、近づけているときの電流の向きとは、逆向きである。\nこの現象を電磁誘導(でんじ ゆうどう)といい、この電流を誘導電流(ゆうどう でんりゅう)という。\n電磁誘導で電流が流れるのは、磁力が変化している間のみである。磁石を近づけおわった状態で固定していても誘導電流は流れない。\nこの電磁誘導を発見した人物は、イギリス人のファラデーである。\n電磁誘導では、コイルの巻数が大きければ大きいほど、発生する誘導電流の大きさも大きくなる。\nまた、磁界の変化の速さが大きければ大きいほど、発生する誘導電流の大きさも大きくなる。\n検流計を使えばいい。なお、検流計の内部のしくみは、検流計の中には導線の他にも磁石が入っており、フレミングの法則による力を、巻きバネをバネ計りとして用いて、はかっている。あらかじめ、検流計の製造業者などが、大きさの分かっている電流を流して、どのていどの大きさの電流で、どのていど、フレミングの法則による力が働くかを確かめて調整してある。なので、検流計の使用時に、流れている電流計の大きさが分かるという仕組みである。\nロシアのレンツは、磁界を変化させると、その変化をさまたげる向きに電流が流れることを発見した。この法則をレンツの法則という。\n※ アンペールの法則により、電流のまわりには、(電流の向きを基準にして)右回りに磁界が発生している。\n誘導電流のまわりに発生する右回りの磁界の向きは、磁石の動きによる磁界の変化を打ち消す向きになっている。\nこのように、磁界が変化している間のみ、誘導電流が流れる。また、その誘導電流の向きは磁界の変化を妨げる向きである。\nこれをレンツの法則(Lenz's law)という。\n現在の火力発電や水力発電や原子力発電などの発電所では、この電磁誘導の原理を用いて、発電を行なっている。火力発電や原子力発電では、火力などで発生する熱によって水をわかして水蒸気をつくり、固定した磁界の中にあるタービンを、水蒸気を用いてタービンをまわし、そのタービンの軸が発電機の軸とつながっているので、タービンの軸の回転といっしょに発電機も軸が回転し、そして発電機の軸にはコイルが取り付けてあるので、それによって誘導電流を発生させるのである。\n水力発電では、上流から下流に流れ落ちる水流の力をもちいて、タービンを回している。\nおおざっぱに言うと、火力発電などのしくみは、タービンを回すことで発電機のコイルまたは磁石を回し、発電している。(中学の範囲では、この程度のおおざっぱな理解で充分だろう。)\nなお、自転車の発電機では、軸に取り付けられた磁石のほうを回転させる仕組みになっており、コイルは固定されているのが一般である。\n近年、鉄道の自動改札で、専用のICカードをセンサーの近くにかざすだけで、自動的に料金を払うなどの改札の処理を行うを処理がある。これも、電磁誘導を利用している。\nまず、改札機に、磁界を発生させる装置が入っている。\nまた、ICカードの内部には、電源は無い。\nそしてICカードの内部には、コイル状のアンテナが入っており、改札の磁界によってカードに誘導電流が発生し、その誘導電流によってカードのICチップが作動し、そして改札とカードがデータのやりとりをし始めて、改札の処理をするシステムになっている。\n電磁調理器(IH調理器)の中にはコイルがあり、そのコイルで磁界を発生させている。そして、コイルの電流の向きがすごく速く変わる仕組みになってるので、コイルによって発生する磁界の向きも、同じようにすごく速く変わる。\nそして、調理ナベに誘導電流が流れ、調理ナベの電気抵抗によって発熱することで、熱を発生させている。\nなお、コイルから発生した磁界が、調理ナベなどの底面などに、あたっても、もし磁界が変化しなければ、ナベに誘導電流は流れない。\nだったら、磁界を変化させれば、調理ナベの底面に、誘導電流が流れる。なので、IH調理器の内部のコイルは、電流の向きがすごく速く変わる仕組みになってるのである。\n乾電池による電流は、電池切れなどが起きてなければ、大きさは変わらずに一定のままである。\nいっぽう、発電機の電流は、磁石またはコイルが回転しているため、電流および電圧の大きさが周期的に変わる。\n電池切れしてない乾電池による電流のように、大きさが一定のまま変わらない電圧と電流のことを直流(ちょくりゅう)という。\nいっぽう、周期的に、電圧と電流の大きさが変わる場合を交流(こうりゅう)という。\n家庭用のコンセントに供給されてる電圧は交流である。\nオシロスコープという装置で調べると、交流の波形が見られる。\n交流の電圧・電流にて、電流の向きの変化が、1秒間あたりに起きる回数を周波数(しゅうはすう)といい、周波数の単位はヘルツ(記号: Hz)である。\n日本では、家庭に供給されている交流の電気では、東日本では50Hz、西日本では60Hzである。\n電気をおくる場合、電流を大きくすると抵抗熱が大きくなり、よって電力の損失が大きくなるという事実がある。\n同じ電力(電力P = 電圧V × 電流I )でも、電圧を高くして電流を低くしたほうが、抵抗熱が小なくなるという事実がある。\nなので発電所からの送電では、電圧を高くして、電気を送っている。発電所で発電される交流は電圧が数十万ボルトであるが、送電のとちゅうで変電所(へんでんしょ)にある変圧器(へんあつき)によって段階的に引き下げられて数千ボルトに引きさげられ、さらに家庭に届く直前には電柱の上にある柱状変圧器によって100ボルトや200ボルトに引き下げられ、この100Vや200Vの電気が家庭に届いている。\nなお、電池にプラスとマイナスの端子があるように、直流の電源にはプラスとマイナスの向きがある。\nしかし、交流では、電圧が交互に向きが変わるので、電源などでは、あまりプラスとマイナスの区別をしない。じっさいに、家庭用のコンセントには、プラスとマイナスの区別が無いのが一般的である。\n変圧器(へんあつき)は、鉄心(てっしん)に、巻数のことなる2つのコイルを図のように巻いた仕組みになっている。\nこれで電圧を変圧できる理由は、電磁誘導を利用している。\n巻数の多いがわのコイルに高圧電流を流すと、コイルのまわりに電磁石のように磁界が発生し、その磁界が鉄心の中をとおるため、巻数のすくない側のコイルに誘導電流が流れる。\nこのさい、2つのコイルの巻数の比の関係により、巻数の少ないがわのコイルには低い電圧が発生する。\nN1:N2=E1:E2 Nは巻き数、Eは電圧\nこうして変圧器では、電圧を変換している。\nなお、コイルの巻数の比を変えることで、変圧の比も変えることができる。\n例題\n一次側の電圧が2500Vあるが、これを100Vに変換したい。一次側の巻き数を6250回とすれば、二次側の巻き数を何回にすればいいか?\n答え…N1:N2=E1:E2、6250:N2=2500:100、N2=250回\nよってN2の巻き数は250回にすれば良い。\n携帯電話の充電器やパソコンなどに使われているACアダプターには、変圧器が入っているものもある。\nこれらのアダプターなどにある「AC」または「DC」という表記がある場合がある。\nAC(発音: 「エーシー」)とは、交流の英語の Alternating Current の略である。\nまた、ACアダプターとは、交流を直流に変換するアダプターである。\nパソコンのアダプターに、ACアダプターが使われている理由は、コンピューターは、直流で動くため、電圧を直流に変換する必要があるからである。\nいっぽう、DC(発音:「ディーシー」) とは、直流の英語の Direct Current の略である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E9%9B%BB%E6%B5%81%E3%81%A8%E7%A3%81%E7%95%8C"} {"text": "原子力発電の核燃料には、ウラン(ドイツ語: Uran)などが用いられる。\nウランなど、一部の物質からは放射線(英:radial rays ラディアルレイズ)が出る。放射線は、とてもエネルギーが強いので、多く浴びすぎると危険である。\n放射線の性質として、目に見えないが、ぶつけられた物を電離してイオン化する性質がある。また、透過能力を持ち、物体を通りぬける。\nまとめると、放射線の代表的な性質として\n放射線によって、放射線をあびた物が電離をする理由は、放射線のエネルギーがとても強いので、電子をはじきとばすためである。\nこの放射線の電離作用などにより、生物のDNAが傷ついてしまう。ウランや核燃料・核廃棄物など、放射性物質の管理に、厳重な管理が必要な理由の一つは、人体および生物の健康上の理由である。\n放射性同位元素が放射性崩壊を起こして別の元素に変化する性質を、放射能(英: radioactivity) と言う。\nウランなど、放射線を出す物質をまとめて、「放射性物質」などと言う。\n核燃料などの無い自然界にも、ごくわずかながら、放射線があり、自然放射線と言う。\n自然放射線の由来は、宇宙からの自然放射線や、あるいは大地や大気などの、ごくわずかな放射性物質(天然のウランなど)などの影響である。\n(地上での)自然放射線については、自然界での量は少なく被害をおそれる必要は無い。\nしかし、核燃料や、核廃棄物などによる放射線は、自然の放射線と比べて、とても量が大きいので、人工の放射線および放射能は危険である。よって、これらの核物質の取り扱いには厳重な注意や管理が必要である。\n放射線には、いくつかの種類がある。\nアルファ線(α線)、ベータ線(β線)、ガンマ線(γ線)のほか、エックス線(X線)がある。ウランなどの放射性物質からはアルファ線、ベータ線、ガンマ線が発される。\nこれら放射線は、それぞれ特徴がちがう。\nこれら放射線の正体が明らかになった方法の一つは、放射線を電界や磁界に置くと、その電気に応じて放射線の進行方向が変わるので、正体が分かった。\nヘリウムそのものは、危険ではない。同様に、電子そのものも危険ではない。「電磁波」というと聞きなれないが、じつは自然界の光も電磁波の一種である。\n放射線の応用は、原子力発電のほか、その透過能力をいかして、エックス線が医療のレントゲンなどにも用いられている。\n医療のCTスキャンとPET診断では、放射線を利用している。(※ 備考: PETとは、陽電子放射断層撮影装置のことであるが、PET診断のために、被験者に放射性物質をふくむ特殊なブドウ糖やグルコース類を摂取してもらっている。)\nまた、工業では、透過能力をいかした非破壊検査(英: Non Destructive Inspection, 略:NDI)などにも応用されている。\n空港の荷物検査の機器(カバンなどの中身を見る機器)も、放射線を利用しているのが一般的である。(※ 参考文献: 大日本図書 および 教育図書)\nまた、自動車タイヤなどに使われるゴムやプラスチックなどで、ある種類のゴムやプラスチックの製造工程において、放射線を照射することで、耐熱性を向上させることができるゴムやプラスチックがあることが知られており、実際に自動車産業で活用されている。(※ 最近の中学理科の教科書には、この話題が書いてある。)\nジャガイモに放射線を照射すると、芽が出にくくなり、長期保存できるようになるので、すでに実用されている。\nその他、歴史研究の分野での放射性年代測定など、放射線には多くの活用がある。\n(※ 中学理科のの検定教科書の範囲内。)\n霧箱という装置により、飛行機雲のように、放射線のとおった道筋が見える装置がある。\n霧箱のなかには、蒸気がつまっている。放射線が入射すると、その放射線の作用により、飛行機雲のように道筋が液化するので、放射線の道筋が見えるという仕組みである。\n(ウィキペディアに霧箱のわかりやすい画像がないので、検定教科書などを参照してください。)\n放射線の強さの単位には、ベクレル(単位:Bq)およびシーベルト(単位:Sv)がある。\nシーベルトは、人間が、その量の放射線をあびたときの影響の度合いによる、放射線の強さの度合いである。\n自然放射線の強さをシーベルトであらわすと、およそ年間 2.4ミリシーベルトが世界平均である。シーベルトの単位記号の表記は Sv と書く。ミリシーベルトは mSv と書く。 年間 2.4 mSv が自然放射線の世界平均である。\nベクレルは、人体の影響は考えておらず、放射線の強さのみを考えている。\n1895年にレントゲン(人名)は、真空放電の実験をしていたとき、放電管から、目に見えない未知のなにかが出ていて写真フィルムを感光させることを発見し、この(写真フィルムを感光させる)未知のなにかをX線と名づけた。\n1896年、ベクレル(人名)は、ウランから、X線に似た何かが出ていることを発見しました。(ベクレルの発見した)この何かは、のちに放射線と名づけられました。\nレントゲン以降、キュリー夫妻など多くの科学者が、放射線の性質を解明していきました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A"} {"text": "動物と植物に共通して、すべての生物は細胞(さいぼう、cell)から成り立っている。細胞は、生物の基本的な単位である。いくつかの動植物では、細胞だけを取り出しても、培養液(ばいようえき)などを与えると生きていける。細胞よりも細かく分割すると、たとえ培養液を与えようが生きていけない。\nヒトの体は約37兆個の細胞からできている。生物の種類によって,体をつくる細胞の個数は異なる。\n細胞1個の大きさは生物の種類にもよるが、だいたい 0.01 mm ~ 0.05 mm である。この大きさは、肉眼では観察できないが、顕微鏡でなら観察できる大きさである。\nタマネギの表皮細胞が、このような通常の大きさの細胞の例である。\n例外として、細菌類の細胞は小さく、0.0002mm ~ 0.0010mm 程度であり、逆に鳥類の卵細胞(らんさいぼう)は特に大きく、ダチョウの卵は一個の細胞であって直径9cmもある。ニワトリの卵黄も3cmほどもある大きい細胞である。\n細胞の発見は、1665年、イギリスのロバート・フックによってコルクの薄片を顕微鏡で観察したことで発見された。\n彼は、自作の顕微鏡を用いて観察したところ、多数の中空の構造があることを知った。それを修道院の小部屋(cell、セル)にみたて、細胞(cell)と呼んだ。彼が観察したのは、死んだ植物細胞の細胞壁(さいぼうへき)であった。\n細胞の見た目や働きはさまざまに異なるが、基本的な機能や構造は同じである。\n動物細胞・植物細胞とも、すべての細胞は核(かく、nucleus)と細胞質(さいぼうしつ、cytoplasm)、それを囲む細胞膜(さいぼうまく、cell membrane)からなる。細胞質とは、細胞のうち、細胞膜の内側から核をのぞいた部分の総称のこと。そのため細胞質には多くの構造をふくむ。\n核は、細胞の分裂増殖中をのぞけば、ふつうは1つの細胞につき、1つの核だけである。\n顕微鏡での核の観察は、 酢酸カーミン(さくさんカーミン、acetocarmine) や 酢酸オルセインや酢酸ダーリアで、染められる。酢酸カーミン、酢酸オルセインで核は赤く染まる。酢酸ダーリアで核は青く(紫)染まる。\nプレパラートとカバーガラスを用いる、通常の顕微鏡の観察法で、染色した核を観察できる。\n核の内部には染色体(せんしょくたい)があり、染色体が遺伝子(いでんし)の正体である。より詳しく言うと、染色体の内部にあるDNA(ディーエヌエー、デオキシリボ核酸)という物質が遺伝子の正体である。\nなお、核と細胞質を合わせて原形質(げんけいしつ、protoplasm)とも呼ぶ。\n核がない細胞は、増殖できない。また、核がない細胞は、早く死んでしまう。\nなお、ヒトの赤血球も核がない。このため赤血球は増殖できず、100日くらいで死んでしまう。\nなお、核の中には、染色体のほかにも、核小体(かくしょうたい)という球形のものがある。また、核の表面には、核膜孔(かくまくこう)という小さな無数の穴があり、核への物質の出入りに関わっている。(※ 核小体と核膜孔は高校の範囲である。とりあえず中学の段階では、核小体と核膜孔は知らなくても問題ない。\nまとめると、動物・植物に共通するつくりは、\nである。\nさらに、酸素呼吸を行っている多くの動物・植物では、細胞質中にミトコンドリアを持つ。ミトコンドリアによって酸素呼吸を行っている。(植物も酸素呼吸を行っている。)\n細胞質の分類では、ミトコンドリアを細胞質に含める場合が多い。\n小胞体とリボソームという構造が、動物・植物の両方の細胞に共通である。\nリボソームはタンパク質を合成している。植物にもタンパク質はある。\n小胞体は物質の輸送(ゆそう)に関わる。\n細胞質には、このように、さまざまな小さな器官があり、これを核とともに細胞小器官(さいぼうしょうきかん、\norganelle)と呼ぶ。細胞小器官どうしの間は、水・タンパク質などで満たされており、これを細胞質基質(さいぼうしつきしつ、cytoplasmic matrix)と呼ぶ。\n植物の細胞にのみ、ある作りとしては、細胞壁(さいぼうへき)、葉緑体(ようりょくたい)、液胞(えきほう)がある。\n動物細胞では、液胞はとても小さく、通常の顕微鏡では観察できないので、中学レベルでは、動物細胞には液胞が無いとして扱う。\n「液胞」(えきほう)の「胞」(ほう)の字は、部首が「にくづき」の「胞」である。「細胞」(さいぼう)の「胞」(ぼう)の字と同じである。まちがって「泡」(あわ、ほう)を書かないように。\nおもに動物細胞のゴルジ体が大きく観察しやすい。じつは、植物細胞にも、すごく小さいが、ゴルジ体がある。ただし植物細胞のゴルジ体は小さすぎるので光学顕微鏡では観察できない。電子顕微鏡などで観察できる。\n生物には、体が一つの細胞だけからなる単細胞生物(たんさいぼう せいぶつ、英: unicellular organism)と、体がいくつもの細胞からなる多細胞生物(たさいぼう せいぶつ、英: multicellular organism)がある。\n私たちヒト(人間のこと)は、多細胞生物である。ヒトの体は約60兆個の細胞からできている。生物の種類によって,体をつくる細胞の個数は異なる。\n肉眼で見ることの出来る生物は、ふつう、多細胞生物である。\nミジンコは多細胞生物であることに注意。小さいからといって、必ずしも単細胞生物とは限らない。\n単細胞生物は、一つの細胞に、生きるのに必要なすべての機能が備わっている。\n形や働きがよく似た細胞の集まりのことを組織(そしき、tissue)と言う。\n例\nいくつかの種類の組織が集まり、一つのまとまりになった物であり、ある決まった働きをしている物を器官(きかん、organ)という。\n例\n私たち人間一人一人は、それぞれ1個の個体である。一つの動物は1個の個体である。\n1本の木も、1個の個体である。\n個体は、器官が集まって、つくられる。\n動物の体のしくみについて学習します。\n表のような対照実験(たいしょう じっけん)により、だ液によってデンプンが分解される事が分かります。\nなお、ベネジクト液は麦芽糖(ばくがとう)に反応します。よって、表の結果により、だ液によってデンプンが分解され、麦芽糖が出来ている事が分かります。\n消化(しょうか、英: digestion)\n食べ物は、消化器官で、分子の細かい、水に溶けやすい物質に変化されます。分子が大きいままでは、体内に吸収できません。\nあなたたち、人間は、口の中が、「つば」という液体で、しめっていますよね。\n口の中から出る「つば」を、 だ液(だえき,saliva) といいます。\nデンプンは、ブドウ糖分子がいくつも(何十個や何百個というほど多い)つながったものである。\nだ液のアミラーゼは、このデンプンを分解し、デンプンを、麦芽糖(ばくがとう、英:maltose、malt sugar) に変える働きがある麦芽糖とは、ブドウ糖分子が2つ、つながったものである。(※ 検定教科書の範囲。東京書籍の図中に「麦芽糖」がある)。\n食べ物を、体に吸収しやすいように、体内で変えることを 消化(しょうか) と言います。\nだ液によって、デンプンが麦芽糖に変わることも、消化にふくまれます。\nまた、消化をすることができる液体を 消化液(しょうかえき) と言います。だ液も消化液です。\nだ液の中には、 アミラーゼ という物質があって、このアミラーゼがデンプンを麦芽糖に消化していることが分かっています。\nまたアミラーゼのように、消化液にふくまれており、消化を行っている物質を 消化酵素(しょうかこうそ) といいます。\nアミラーゼはデンプン以外のものは、分解しません。タンパク質や脂肪を、アミラーゼは分解できません。アミラーゼが分解できるのは、デンプンだけです。\nだ液が出てくる場所をだ液せん(だえきせん、唾液腺、salivary gland)と言います。\nこれら、消化酵素は、消化の前後で変化しません。化学でならった「触媒」(しょくばい)と似ていますが、ちがいもあります。(※ 発展 :)消化酵素は、熱を加えると、働きをうしなってしまい、冷ましても、消化の能力は、もどりません(※ 大日本図書の検定教科書で、発展コラムの扱い。詳しくは高校で習います)。\n(※ 範囲外 :)消化酵素の、よく働く温度は、30℃~40℃くらいであり、これは動物の体温に近いです。\nタンパク質は、胃で胃液の中にふくまれる消化酵素(ペプシン)によって分解され、さらに小腸で すい液の消化酵素(トリプシン)および小腸の中にある消化酵素によって分解され、最終的に、(タンパク質は)より小さな分子であるアミノ酸になります。\n脂肪は、すい液中の消化酵素(リパーゼ)のはたらきで、脂肪酸とモノグリセリドに分解されます。\nアミラーゼは、デンプンを分解する能力をもつが、タンパク質や脂肪は分解しない。\n同様に、ペプシンはタンパク質を分解するが、デンプンや脂肪を分解しない。\nリパーゼも、脂肪を分解するが、デンプンやタンパク質を分解しない。\nこのように、消化酵素は、控訴ごとに働く分子の対象が決まっている。\nさて、食べ物は、口から食道(しょくどう)を通って、つぎに胃(い)に降りてきて、胃で消化液(しょうかえき)によって細かく分解(ぶんかい)され、つぎに腸(ちょう)で栄養(えいよう)を吸収され、最後に肛門(こうもん)で糞(「ふん」。ウンチのこと。大便とも言う。)として排出されます。\n食べ物が通るこれらの管を、 消化管(しょうかかん、gastrointestinal tract) と言います\nこれら、消化に関わる身体の各部を 消化器(しょうかき、digestive organ) と言います。\n消化によって、デンプンやタンパク質が小さい分子に分解される理由は、小腸で吸収しやすくするためです。(デンプンなどの分子は、大きいので、そのままでは小腸の壁を通ることができないからです。)\n食べ物は、胃の次には、小腸に行きます。\n小腸では、栄養が吸収されます。また、小腸でも、食べ物の消化は行われます。なお、小腸の壁には、消化酵素があります。\n小腸の内壁には、おおくのヒダがあり、さらにヒダには 柔毛(じゅうもう) という、小さな突起(とっき)が、いくつもある。(※ 範囲外 :)なお柔毛は、 「柔突起」(じゅうとっき) とも言う。\n養分は、この柔毛から吸収される。柔毛の中には、毛細血管(もうさいけっかん)と リンパ管(リンパかん) があり、養分は、これらの管によって、運ばれる。\n柔毛のおかげで小腸の表面積が大きくなり、栄養の吸収にも効率がよい。柔毛の長さは約1mmと短いが、小腸の表面積は約200m2にも、およぶ。200m2は、テニスコート1面分もの広さだ。\n水分は、主に小腸で吸収されるが、一部の水分は大腸で吸収される。\nなお、消化されなかった食物の繊維などは、便(べん)として肛門(こうもん)から排出される。\n小腸で吸収されたブドウ糖の一部は、肝臓(かんぞう)でグリコーゲン という炭水化物にかえられる。\nグリコーゲンになることで体内で保存がしやすくなる。体のエネルギーが不足する時など必要に応じてグリコーゲンがブドウ糖に分解されてエネルギー源になる。(※ 備考: ) グリコ-ゲンとして貯蔵できる量には限りがあるので多すぎる糖分を摂取すると体内では脂肪として合成される(※ 東京書籍の検定教科書に傍注あり)。\n体内に吸収されたアミノ酸の一部は、肝臓でタンパク質に合成されて全身に運ばれ体をつくる材料としてのタンパク質として活用される。\n体内に吸収された脂肪酸とモノグリセリドは、ふたたび脂肪になって貯蔵されエネルギー源として利用される。\n肝臓は、ヒトの大人では 1000g~1500g もの質量のある大きな臓器です。\n肝臓の働きは、\nお酒にはエタノールが含まれますが、肝臓でエタノールが分解されます。\nまた、細胞中のタンパク質の分解などでアニモニアが出来ますが、アンモニアは人体に有害なので肝臓はアンモニアを(人体に無害な)尿素(にょうそ)に変えます。そして、尿素は、尿(にょう)に含まれる物質として対外に排出されます。\nこのような仕組みで、ヒトは体内にアンモニアがたまらないようにしています。\n肝臓には、脂肪の消化を助ける胆汁をつくる働きもあり胆汁は胆のう(たんのう)に送られます。なお、胆のうは、肝臓とは別の臓器です。最終的に胆汁は、胆のうにたくわえられたあと腸に送り出されます。\nそして 肝臓(かんぞう) から出る たん汁(たんじゅう、胆汁) と、 すい臓(すいぞう、膵臓) から出るすい液が、小腸の消化液です。たん液とすい液とが、十二指腸に流れこんで、食べ物とまざり、消化液の混ざった食べ物が、小腸の中を進みます。\n; すい液(pancreatic juice)\n消化器では、最終的には、炭水化物は ブドウ糖(ブドウとう) まで分解されます。タンパク質は アミノ酸(アミノさん) まで分解されます。脂肪の消化は、 脂肪酸(しぼうさん) と モノグリセリド まで分解されます。柔毛で体内に吸収された脂肪酸やモノグリセリドは体内でふたたび脂肪に合成されリンパ管に吸収されてやがて血液に運ばれます。\nすでに説明したかもしれませんが(wikiでは版によって説明の状態が異なる)、食物中の消化しきれなかった繊維は、肛門から便(べん)として排出されます。\nこの他にも、いったん体内に吸収された物質でも、最終的に使い終わって不要になったら、対外に排出されます。\n体内に吸収された養分が消費される際などに、肺から吸収した酸素を消費して、二酸化炭素が発生します。そして、二酸化炭素は人体には不要なので、血液によって肺に二酸化炭素は送られ、呼吸のさいに肺から二酸化炭素は排出されます。\nタンパク質は分子中に窒素(元素記号 N )を含む。タンパク質やアミノ酸が分解されると、そのままではアンモニア(化学式:NH3)という有毒な物質ができてしまう。(※ 大日本図書の教科書に「NH3」の文字あり。)\nタンパク質の分解で出るアンモニアは、人体に有害なので、肝臓によって人体に無害な尿素(にょうそ)に変えられたあと、血液によって腎臓(じんぞう)に尿素は送られ、さらに ぼうこう などに送られ、水分とともに尿(にょう)として排出されます。\n便は、未消化で吸収されなかったものですが、しかし尿のもとになるアンモニアや尿素は吸収されたタンパク質から作られたものです。\nなお、尿の約96%は水分です(※ 学校図書)。\nじん臓(じんぞう、腎臓)の位置は、体内の背中側の、横隔膜(おうかくまく)の下の、腰(こし)のあたりにある。\nじん臓は、血液から、不要な物を、こしとって、血液をきれいにする働きをしている。\n尿素も、じん臓で、こしとられる。\nこしとられた尿素や不要物は、余分な水分といっしょに、 ぼうこう (膀胱、urinary bladder) へと、送られる。このようにして、ぼうこうで、 尿 (にょう、Urine ユレン) が、たまる。\nちなみに、腎臓で こしとられて つくられる尿の量は、最終的には、1日で1リットルくらいの尿として排出する。じん臓では、いったん、1日あたり、なんと160リットル近くも、尿を作る。だが、べつに、この水量のほとんどは排出されず(もし、そんなに多くの水分を体外へ排出したら、死んでしまう)、尿の中にある水分や、ブドウ糖やミネラルなどの栄養を再吸収して、あらためて不要なものだけを排出するので、最終的に、体外へは1日あたり1リットルくらいの尿として排出する。\nなお、腎臓でいったん作られる、160リットル近い尿のことを、 原尿(げんにょう) と言う。\n私たち人間は、空気を吸っています。\n空気をすって、空気中の酸素を体に取り入れて、二酸化炭素を、はき出しています。\nこのように、酸素をすって、二酸化炭素を吐くことを 呼吸(こきゅう) と言います。\n吐き出す空気に二酸化炭素がふくまれていることを確認するには、石灰水にストローなどを使って息を吹き込めば、白くにごることから分かります。もしくは、石灰水を入れたふくろに息を吹き込めば、石灰水が白くにごります。\n人間は、体内の肺(はい)という部分で、酸素を体内に吸収し、二酸化炭素を体外に出して、呼吸をしています。\n肺は、左右に1個ずつあります。肺は、左右を合わせれば2個あります。\n空気は、のど や鼻から、肺へと向かって吸い込まれます。\nのどや鼻を通って、 気管(きかん) を通り、気管の先が2本に分かれていて、この気管が2本に分かれている部分を 気管支(きかんし) といいます。\nそして、気管支の先には、肺が、ついています。\nこの肺で、酸素が体の中に吸収され、二酸化炭素が、排出(はいしゅつ)されます。肺の中で酸素と二酸化炭素の交換(こうかん)が、おこなわれています。\n鼻から、気管、気管支、肺までを 呼吸器(こきゅうき) と言います。以上にくわえて、横隔膜(おうかくまく)や、ろっ骨(ろっこつ、肋骨)を、呼吸器にふくめる場合も、あります。\n横隔膜(おうかくまく)が下がると、肺がふくらむので、肺に空気が吸い込まれます。横隔膜が上がると、肺が元に戻って、空気が吐き出されます。\n肺の中には、気管支が、より小さな細気管支に枝分かれしていて、その先に 肺胞(はいほう) という小さな ふくろ が、いくつも ついています。酸素の吸収と、二酸化炭素の排出は、この肺胞(はいほう)で行われています。肺胞で、酸素と二酸化炭素の交換(こうかん)が、おこなわれています。\n肺胞の一つ一つのまわりには、 毛細血管(もうさいけっかん) という細かい血管(けっかん)がついています。なお、血管とは、血液を運んでいる管です。肺胞は、毛細血管に酸素を送っています。また、毛細血管から、二酸化炭素を受け取っています。\nなお、口から食べ物が入った時に食べ物が通る管である 食道(しょくどう) と、気管とは、べつの管である。\n人間や、ほかのほ乳類は、肺で呼吸をしています。肺で呼吸をすることを 肺呼吸(はいこきゅう) と言います。\n人間の呼吸は、肺呼吸です。ほ乳類の呼吸は、肺呼吸です。\nしかし、魚は、エラで呼吸をします。魚には、肺はありません。\n魚は、口から水を吸い込み、その口の中の水をエラに通して、エラで水から酸素を取り込み、二酸化炭素を排出します。\nなお、魚を、魚の外側から見た時に、目のうしろにあるヒレのようなものは、「えらぶた」という物であって、エラではない。エラは、えらぶたに下に、かくれている。\nエラの内部には、毛細血管が、たくさん、あります。\nクジラとイルカは、ほ乳類です。クジラとイルカは、海に住んでいますが、ほ乳類です。クジラもイルカも、肺で呼吸しています。クジラには、エラが、ありません。イルカには、エラが、ありません。\n魚類だけでなく、イカもタコも、エラで呼吸しています。エビも、エラで呼吸しています。貝も、エラで呼吸しています。\n鳥類と、は虫類(トカゲやヘビなど)は、肺呼吸です。カメは、は虫類なので、カメは肺呼吸です。\n両生類(カエルなど)は、成体(せいたい)は肺呼吸ですが、成体になる前の子(たとえばオタマジャクシなど)は、エラ呼吸です。\n心臓から出て行く血液が運ばれている血管を、動脈(どうみゃく、英語: artery)と言う。動脈は、壁(かべ)が厚く、弾力性がある。\n、vein、Venae)\n心臓に戻っていく血液が運ばれている血管を、 静脈(じょうみゃく) と言う。静脈の中には、血液が逆流しないための弁(べん)が、ある。\nとても細かく枝分かれをしていて、血管の壁もうすい毛細血管(もうさいけっかん、英語: capillary vessel, capillary)という血管が、体のいろんな場所にある。毛細血管では、栄養のやりとりや、酸素や二酸化炭素のやりとりをしている。\n動脈のうち、肺に血液を送り出す肺動脈(はい どうみゃく)は、二酸化炭素が多く、酸素が少ないです。\nこの理由は、肺動脈には、他の臓器などで酸素の消費の終わった血液が送られてくるので、よって酸素が少なく二酸化炭素が多いのです。\nただし、肺と心臓とが、比較的に近くにある事から、肺と心臓の間の血管以外では、動脈には酸素が多いのが普通です。\nともかく、肺で酸素を血液にたっぷりと取り入れたあと、酸素をふくんだ血液は肺静脈を通っていったん心臓に戻ります(肺循環(はい じゅんかん))。\n心臓から肺動脈、肺、肺静脈を通って心臓に戻る血液循環のことを「肺循環」(はい じゅんかん)と言います。\nそして、肺循環を終わったあとの血液は酸素を豊富に含むので、さらに別の動脈によって、全身の各部に送られ、その各部の毛細血管で酸素が消費されて二酸化炭素に置き換わったあと、今度は静脈によって回収され、心臓に静脈血が集まります(体循環(たい じゅんかん))。\n心臓から、肺以外の全身を通って心臓に戻る血液循環のことを「体循環」(たい じゅんかん)と言います。\nそして、体循環を終えて心臓に戻ったあとの血液が、そして肺に送り出してまた、酸素をたっぷり取り入れる(肺循環の再開)、・・・という繰り返しの流れになる。\nなお、毛細血管からの帰りなどで、酸素の少ない血液のことを「静脈血」と言います。このため、肺動脈を通って心臓から肺に向かう血液は、流れている場所は動脈ですが、しかし血液中の酸素が少ないので、肺動脈の血液の分類上は「静脈血」になります(※ 東京書籍、学校図書、大日本図書の見解)。\n肺動脈は、血管の分類は、心臓から送り出される血液の血管なので、動脈です。\n同様に、肺から出たあとの、酸素を多く含んだ血液のことを「動脈血」と言います。このため、(肺から心臓に向かう)肺静脈の血液は、分類上では、動脈血になります。\nヒトの心臓は、筋肉で、出来ている。なお、心臓の筋肉を 心筋(しんきん) という。\n心臓は、ふくらんだり、ちぢんだりを、たえまなく、くりかえしていて、血液を動かしている。\n心臓のつくりは、4つの大きな部屋に分かれている。 右心室(うしんしつ、英: right ventricle) 、 右心房(うしんぼう、right atrium) 、 左心室(さしんしつ、Left ventricle) 、 左心房(さしんぼう、Left atrium) という、4つの部屋に分かれている。\nなお、心臓で言う「左」とか「右」の向きは、その心臓を持っている側の人間から見た場合の、向きである。\nだから、図1.を見ている者から見た場合では、見ているあなたの左側に、右心室や右心房が来る。見ているあなたの右側に、左心室や左心房が来る。\n肺から送られた血液は 肺静脈(はいじょうみゃく,pulmonary vein) を通って、左心房(さしんぼう)まで、たどりつく。\n左心室(さしんしつ)から 大動脈(だいどうみゃく、aorta) へと血液を送り、大動脈から全身へと血液が送られる。\n心房と心室は、交互(こうご)に、ちぢむ。心房がちぢんでいる時は、心室は、ちぢまない。いっぽう心室がちぢんでいる時は、心房は、ちぢまない。\n全身の血液が、 大静脈(だいじょうみゃく、vena cava) を通って、心臓の右心房(うしんぼう)へと血液が戻って来る。\n右心房へともどってきた血液は、右心房から右心室へと送られる。そして右心室から、肺動脈(はいどうみゃく)へ送られる。肺動脈を通って肺へ血液が送られている。\n血液中の酸素は、どこから供給されているのかというと、肺で、血液は酸素を受け取っています。なので、肺から出てきたばかりの血液は、酸素が多いのです。\n逆に、肺へ、これから送られる血液は、酸素が少なく、二酸化炭素が多いです。\n肺へ送られる血液の通る血管は、心臓の右心室(うしんしつ)からの肺動脈(はいどうみゃく)です。つまり、肺動脈は、酸素が少ないです。肺から出てきたばかりの血液が通る血管は、肺静脈(はいじょうみゃく)です。肺静脈の血液は、これから左心房(さしんぼう)に流れ込みます。\nヒトの血液には、赤血球(せっけきゅう、英: Red blood cell)、白血球(はっけっきゅう、英: White blood cell)、血小板(けっしょうばん、英:Platelet)などの固形成分と、血しょう(けっしょう、血漿)という透明な液体の成分がある。\n中央のくぼんだ円盤状の1個の細胞。身体中の細胞に酸素や栄養を運ぶはたらきをしている。色の赤いヘモグロビン(hemoglobin ヒーモグロービン)というタンパク質の物質を赤血球がふくむため、血液は赤く見える。ヘモグロビンが酸素を運んでいる。ヘモグロビンは鉄(てつ)をふくんでいる。鉄を化学式で書けば、鉄の化学式は Fe だから、つまりヘモグロビンは Fe をふくんでいる。\n学校給食など食事の際、鉄分をふくんだレバーやホウレンソウなどが、ときどき食品に出される理由のひとつは、鉄分は血液に欠かせない重要な物質だからである。\nヘモグロビンは、酸素の多い所では、酸素とむすびつき、酸素の少ない所では、酸素を放す(はなす)。このヘモグロビンのしくみで、酸素の多い肺から体の各部へと酸素が運ばれる。\n赤血球は細胞だが、ほ乳類の赤血球には、核は無い。\nなお、人間の場合、ヘモグロビンは赤血球にあるが、ミミズでは血しょうにヘモグロビンがある。\n人間の場合、呼吸で生じる二酸化炭素は、赤血球には、ふくまれていない。呼吸で生じる二酸化炭素は、血しょう(けっしょう)にふくまれて、運ばれる。\n一酸化炭素( 化学式: CO )は血液中のヘモグロビンと反応して結びついてしまう。そのため酸素( 化学式: O2 )とヘモグロビンが結合できなくなり、血液による酸素の運搬能力を低下させる害がある。不完全燃焼などの際に、炭素と大気中の酸素が反応して一酸化炭素が発生する。\nたばこの有名な有害成分は以上の3種だが、この他にも約200種の有害成分がある。\n1個の細胞であり、体外から侵入した異物や病原体を取りこみ、これらを分解することで、体を守る。核がある。\nこのように、病気から体を守る仕組みを免疫(めんえき、immunity)という。(※ 中学の保健体育の範囲内)\n白血球は、この免疫に、ふかく関わっている。\n白血球の種類には、リンパ球(りんぱきゅう)やマクロファージなどがある。(※ 中学の保健体育の範囲内)\n発展: 白血球と免疫のしくみ(※ 中学の保健体育の範囲内)\n血管がやぶれたときに、血液をかためることで、出血をふせぐ仕組みに関係している。核は無い。\n約90%は水だが、血しょう(けっしょう)に、ブドウ糖やアミノ酸などの栄養分が溶けており、血液の流れによって、これらの栄養が全身に運ばれる。また、尿素(にょうそ)などの不要物も血しょうに溶けている。また、ホルモンも血しょうに溶けている。なお、ホルモンとは、体の働きを調節する物質である。(※ 中学の保健体育の範囲内) \n「血糖値」(けっとうち)とか「血糖量」(けっとうりょう)とは、この血液中に溶けているブドウ糖の濃度のことである。\n呼吸で生じる二酸化炭素は、血しょう に ふくまれて運ばれる。\nイカの血液には、ヘモグロビンが無い。かわりに、銅(どう)をふくむヘモシアニンという物質が、イカの血液にふくまれている。イカの体内では、ヘモシアニンが血液の流れによって酸素を全身に運んでいる。\nヘモシアニンをふくむ血液の色は、やや青色である。よって、イカの血液は青い。\nほ乳類では、このアンモニアを、肝臓(かんぞう)で、毒性のひくい 尿素 (にょうそ)という物質に変える。尿素は水に溶ける。なお、最終的に尿素は、尿(「にょう」・・・オシッコのこと。)とともに、体外へ排出される。尿については、肝臓の他にも、腎臓(じんぞう)が関わる。\n肝臓(かんぞう)では、血液に入った有毒な物質を分解する。\n消化液の 胆汁 (たんじゅう) は、肝臓で作られている。胆汁は、胆のう (たんのう) へ送られ、胆のうから十二指腸へと送られている。\n健康診断などの尿検査(にょうけんさ)では、尿の中に、血液や糖(とう)などが混ざっていないかなど、さまざまな物を測っている。\n糖尿病は、尿の中に、とても多い糖分がふくまれる病気である。この病気は、けっこう危険であり、眼や腎臓などの、さまざまな器官で障害を起こすという症状(しょうじょう)がある。糖尿病には、このような各器官での合併症(がっぺいしょう)があるため、けっこう危険な病気である。\n糖尿病(とうにょうびょう、diabetes mellitus)とは、すい臓に異常が起きて、本来なら すい臓から分泌(ぶんぴ)されるべきインスリン(insulin)というホルモンの分泌(ぶんぴ)が、うまくは分泌されなくなってしまった病気である。もし、本来どおりにインスリンが細胞と結合すると、ブドウ糖を消費させる。しかし、インスリン分泌がうまくいかないと、この消費がなくなってしまい、その結果、ブドウ糖が余ってしまう。\nその結果、原尿にブドウ糖が高濃度で含まれるので、原尿のブドウ糖を吸収するさい、ブドウ糖が多すぎて吸収しきれず、そのため体外に出される尿に高濃度のブドウ糖が含まれて排出される。\n(もし健康なヒトなら、原尿のブドウ糖は、ほぼ100%再吸収されてるので、尿中には高濃度のブドウ糖は排出されない。なのに高濃度のブドウ糖を含む尿が排出されるという事は、つまり病気に掛かっている事になる。)\n高血糖が長く続くと、血管が変性して血流が低下してしまい、その結果、眼や腎臓などの、さまざまな器官で障害を起こす。糖尿病には、このような各器官での合併症があるため、けっこう危険な病気である。\n糖尿病になる原因は、大きくは二つの種類に分けられる。\nまず、生まれつきの理由で、インスリンを分泌する細胞そのものが破壊されていて分泌できない場合の1型糖尿病(いちがた とうにょうびょう)がある。この1型の場合、若くして発症することが多い。\nもう一つは、肥満や喫煙・運動不足などの生活習慣病などにより、インスリンの分泌量が低下したり、インスリンに細胞が反応しなくなる場合であり、これを2型糖尿病という。日本では、II型糖尿病が多く見られている。\n糖尿病の治療には、I型・II型とも、インスリンの投与が行われる。患者は、食後などに毎回、自分でインスリンを注射しなければならない。\n2型の生活習慣が原因と考えられる場合、食事の見直しや、適度な運動なども、治療に必要になる。\nヒトの 「のどぼとけ」 の、すぐ下には、甲状腺(こうじょうせん)という器官がある。この甲状腺は、甲状腺ホルモンというホルモンを分泌している器官である。ホルモンとは、体内のいろいろな働きを調節するための分泌物(ぶんぴぶつ)である。(※ くわしくは、中学の保健体育で習うか、または高校生物で習う。)\nさて、甲状腺ホルモンの主成分はヨウ素である。ヨウ素は、ワカメやコンブなどに多く含まれている。\nさて、通常のヨウ素には放射能(ほうしゃのう)が無い。だが、原子力発電などの原子核分裂では、放射能のある様々な物質が作られ、その中に放射性のある特別なヨウ素も作られる場合がある。\n原子力発電などの事故などへの対策として、原子力発電所などの近隣地区にヨウ素剤(ようそざい)が配布される理由は、この放射能のある特別なヨウ素が甲状腺に集まらないようにするためである。\n体内に吸収されたヨウ素は、甲状腺に集まる性質がある。なので、あらかじめ、普通のヨウ素を摂取しておけば、放射性のある特別なヨウ素を吸収しづらくなるのである。\nなお、甲状腺ホルモンの働きは、体内での、さまざまな化学反応を促進(そくしん)する働きがある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E7%B4%B0%E8%83%9E%E3%81%A8%E4%BD%93%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF"} {"text": "五感(ごかん)とは、動物が外界の情報を感じ取るための感覚です。五感には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つがある。それぞれの感覚器官によって、外界の情報を捉えて、神経を介して脳に伝え、認識している。\n感覚器官(かんかく きかん)とは、五感の情報を受け取り、神経信号に変換する器官である。五感には、目、耳、鼻、舌など、それぞれ特有の感覚器官がある。\nなお、皮ふ(ひふ、皮膚)も、感覚器官にふくめ、暖かさ・冷たさ・圧力・痛さの刺激を受け取る。\n感覚器官には感覚神経がつながっており、感覚神経は、脳や せきずい(脊髄) へととながっている。\n感覚器官が刺激を受けると、感覚神経に電気的な信号が発生し、そして感覚神経をその電気的な信号が通って、脳に信号が伝わることにより、脳が感覚として認識します。\nこれらの五感は、私たちが日常生活で様々な情報を収集し、世界を理解するための重要な手段です。それぞれが異なる役割を果たしており、私たちの生活に不可欠な役割を果たしています。\n眼でとらえる光の感覚を視覚(しかく、vision)と呼ぶ。\n眼は、前部の表面に角膜(かくまく、cornea)がある。角膜は水晶体を保護している。角膜の内側には、\n虹彩(こうさい、iris)の働きにより、瞳の大きさが変わる。\n虹彩によって、レンズ(水晶体)に入る光の量を調節している。\nそして、レンズ(水晶体)を通った光が網膜(もうまく、retina)の上に像を結ぶ。\nヒトの目は、顔の正面に2つあるので、前方の物を立体的に見たり、物との距離を正確にとらえたりするのに適している。\n水晶体と網膜の間は、(けっして空洞ではなく)、眼球がつまっている。\n耳で受け取る音の感覚を聴覚(ちょうかく、hearing)という。\n音は空気の振動なので、鼓膜(こまく)でその振動をとらえる事により、耳では音を検出している。\n耳の奥に鼓膜があり、鼓膜に届いた振動によって、耳小骨(じしょうこつ、ossicle)に伝わり、蝸牛殻(かぎゅうかく)に伝えられる。\nそして、うずまき管に音の刺激を受け取る細胞があり、音の感覚として神経を通って脳に伝えられ、最終的に脳が音を感じる。\n耳は、顔の左右1つずつにあるので、音の来る方向を知ることができる。\n鼻でかぐ、においの感覚を嗅覚(きゅうかく、olfaction)と呼ぶ。\n鼻の奥に、においを感じる感覚細胞があります。この細胞に物質がつくことで、においの刺激を受け取ります。そして、その鼻の奥の感覚細胞は、感覚神経につながっています。\n(※ 範囲外 :) 味覚で感じる味は後述のように5種類だが、しかし嗅覚(きゅうかく)のほうは臭い物質は数十万種類にもなる。\n舌(した)で感じる味の感覚を味覚(みかく、gustation)と呼ぶ。\n舌には、味を感じ取れる感覚細胞が多くある。\n(※ 中学理科の範囲外:)ヒトの味覚には、甘味(あまみ、もしくは\"かんみ\")、塩味(えんみ)、苦味(にがみ)、酸味(さんみ)、うま味(うまみ) の5つがある。(※ 家庭科で習うかも?)\n[1]\nものをさわった、さわられた等の接触(せっしょく)の感覚のことを触覚(しょっかく)と呼ぶ。\n人間の場合、皮膚で触覚が発達している。\nまた、皮膚は触覚のほかに、温度の感覚、痛みの感覚、重さの感覚も感じる(※ 学校図書の検定教科書に記述あり)。\n\nじつは、人間の感覚には、五感以外にも多くの様々な感覚がある。\nたとえば平衡感覚(へいこう かんかく)である。\nよく体育の授業などで、平均台などを使った運動で「平衡感覚が~~(以下略)」とか教師が言ってるのを聞いたことあるかもしれないが、その平衡感覚のことである。\n高校で習うのだが、平衡感覚をつかさどる三半規管(さんはんきかん)は、耳にある。\n生物学・医学では分類状、平衡感覚は、聴覚とは別の感覚としてあつかわれる。\nまた、口には、のどのかわいた場合の感覚もある。\n内臓には、空腹などの感覚もある。\n生物学・医学でいう「感覚」には、五感のような外界からの刺激だけでなく、空腹感のような体内の「感覚」も含む。\n神経系(しんけいけい)は、まわりの世界を認識(にんしき)する役割(やくわり)があり、脳(のう)や神経(しんけい)や五感(視覚「しかく」、聴覚「ちょうかく」、触覚「しょっかく」、味覚「みかく」、嗅覚「きゅうかく」)が、はたらいています。\n脊髄と脳が中枢神経(ちゅうすうしんけい)であり、中枢神経では末端から来る刺激の処理が行われる。ほかの神経は末しょう神経(まっしょうしんけい)である。\n運動神経や、眼や鼻など感覚器官の感覚神経は末しょう神経である。末しょう神経では、刺激の伝達が行われている。\n筋肉にも、神経がつながっています。筋肉につながらている神経は、筋肉を動かすために脳から送られた信号を連絡するためのものです。\nこの、筋肉を動かすための神経のことを運動神経と言います。\n脳やせきずいを基準として考えれば、\n運動神経は、脳やせきずい などの中枢から出された命令を、筋肉まで運ぶのが役目です。\n刺激(しげき)は、神経(しんけい)を通って、脳に伝わり、それが感覚になる。\n詳しくは、感覚器官→感覚神経→脊髄→脳→脊髄→運動神経→運動器官→反応\nヒトの神経は、多くの神経細胞(しんけい さいぼう)で出来ている。(※ 学校図書の検定教科書の本文で「神経細胞」の用語あり。中学範囲です。)\n脳や せきずい も、神経細胞が多く集まって出来ており、電気的なさまざまな信号を発して、処理がされています。\n\nケガをしたときの痛みも、神経の働きによるものです。\n体表に割と近い体内の場所に、刺激を神経に伝える感覚細胞があり、皮膚がケガなどをした際には、刺激を神経に伝えることで、脳が痛み(いたみ)として感じます。)\nまた、暑い・寒いなどの感覚も同様に、体表近くにある感覚細胞が、神経にそういった寒暖の刺激を伝えています。\n痛みは、動物が安全に生きるために必要なものです。\n痛みがあるからこそ、われわれ人間は、その痛みをさけようとして、生き方を学習できるのです。\n(※ 高校でも範囲外 :)先天性障害の一種で、無痛症(むつうしょう)という、痛みを生まれつき感じない症状があるのでますが、この無痛症の乳児・幼児は、動けるようになったときに無理な姿勢をして骨折をしてしまったり、口内を嚙んで傷つけてしまったり、冬場などはストーブで火傷してしまったり等の事故を起こしてしまったりします[2]。\n(余談) 余談であるが、温冷の感覚と、痛覚とは、ほぼ同じ感覚細胞である。その証拠に、先天性の無痛症の患者は、温冷の感覚も感じない。\n別の余談であるが、トウガラシなどに含まれているカプサイシンの「からさ」は、実は痛覚を刺激している事が、分子細胞生物学的な研究により明らかになっている。\nこのカプサイシンは、触覚の痛覚も刺激しており、その証拠に、カプサイシンを手で触ると、手がヒリヒリする事が知られている。\n\n熱いものを触ったときに、無意識に手をひっこめたりする反応のように、意識しなくても起こる反応を、反射(はんしゃ)という。\n反射では、信号は脳を通らず、脊髄(せきずい)だけを通っている。\n反射での反応の命令には、脳は関わっていない。信号の伝わる経路が短く、脳の判断時間も無いので、すばやく反応が行われる。そのため、危険から、とっさに身を守るのに、反射は都合が良い。\nこのように、脳を経由しない反射のことを、せきずいが経由されるので、せきずい反射 と言う。\n\n暗いところから明るいところになったとき、\n人間では、じつは瞳(ひとみ)の大きさが調節されます。(※ 学校図書の教科書に記述あり。)\n(人間ではないですが、ネコの瞳が分かりやすいかもしれません。)\nこの瞳の調節も、無意識に行われるので、販社として分類される場合もあります。(※ 学校図書の教科書で、煩瑣yの単元で紹介している。)\n動物の中には、ヒトが感知できない感覚を受け取ることができるものもあります。\nたとえば、一部の昆虫は、紫外線を感知できます。(※ 東京書籍に記述あり。用語「紫外線」も東京書籍の検定教科書に記載あり。)\n(ヒトは紫外線を感知できません。)\nヘビは、目の上のあたりにあるピットという感覚器官を持ち、獲物などの熱を感知しています。\nまた、コウモリやイルカは、音波を発して、それが周囲のもんに当たって反射するのを受け取って、周囲の状況の認識に活用しています。(※ 大日本図書に記述あり)\n(※ 範囲外. 記述なし) なお、工業製品の音波ソナーなども、類似の原理です。\n\n私達の体は骨格によって支えられています。骨は人体の中で最も堅固な部位の一つです。\n脳をまもっている、あたまの大きな骨です。\n目が入るためのすきまが、あります。\n鼻(はな)が通るためのすきまが、あります。\nセキツイ(脊椎)とは、背中(せなか)のまんなかにある、首の背中がわから、腰(こし)のあたりまでのびている、一本の長い骨の集まりです。いわゆる「背骨」(せぼね)のことです。\n背骨のある動物(どうぶつ)を セキツイ動物(vertebrate) といいます。わたしたち人間も、セキツイ動物です。\nろっ骨(rib)は、胸のあたりにある、かごのような、骨です。ろっ骨は、心臓(しんぞう)と、肺(はい、lung)を、まもっています。\n腸(ちょう)などの内臓をまもっている。腸(ちょう)とは、食事(しょくじ)で食べた栄養(えいよう)を体に取りこむ場所です。\n筋肉の大部分はタンパク質で出来ています。\n骨をうごかすための筋肉は、筋肉のはじっこが、両方(りょうほう)とも、骨についています。このような、骨をうごかすための筋肉を 骨格筋(こっかくきん、英: skeletal muscle)といいます。\n骨格筋(こっかくきん)の両はじの、骨についているぶぶんを けん(腱、tendon) といいます。\nこの骨格筋が、ちぢんだり、ゆるんで元(もと)の長さにもどることで、骨をうごかします。\nこのしくみで、骨をうごかせるためには、こっかくきんは、両はじが、べつべつの骨に、ついていなければいけません。\n関節(かんせつ、joint)は2つの骨(ほね)から成り立ちますが、そのうちのいっぽうは先が丸いです。もういっぽうは骨のさきが、やや くぼんでいます。このようにして、うまく組み合わさるようになっています。骨(ほね)の先が丸く出っぱっているほうを関節頭(かんせつとう)といい、くぼんでいるほうの骨を関節窩(かんせつか)といいます。\n関節(かんせつ)は、関節頭(かんせつとう)と関節(かんせつ)と関節窩(かんせつか)をつつんでいる関節包(かんせつほう)を持っています。関節包(かんせつほう)の内がわは滑膜(かつまく)と呼ばれる膜組織(まくそしき)であり、滑膜から滑液(かつえき)とよばれる液(えき)が分泌(ぶんぴつ)されて、その液が関節腔(かんせつくう)をみたしています。滑液(かつえき)にはすべるをよくする役目と、軟骨(なんこつ)に栄養をあたえる役目があります。\n関節包(かんせつほう)のまわりには、靭帯(じんたい)があって、じょうぶにしています。\n腕(うで)の、ひじのところで、腕をまげるための筋肉と、腕をのばすための筋肉は、べつべつの筋肉です。\nもし、一つの筋肉しかなかったら、たとえば、腕を曲げるための筋肉しかなかったら、腕をのばすためには、腕をおろしたりしなければいけません。また、もしも、腕をのばすための筋肉が無いと、腕をのばしたままの恰好で、手をあげることが出来ません。\n腕をのばすときには、腕を曲げるときにつかうほうの筋肉はゆるんでいます。\n腕をのばすための筋肉がちぢむことで、腕はのびます。\n曲げるための筋肉と、のばすための筋肉が、両方ともあることで、私たちたちは、すばやく体を動かせます。\n足の筋肉では、ひざのところで足を曲げるための筋肉も、似たような仕組みになっています。\n筋肉には、つくりが、2種類ある。平滑筋(へいかつきん、英:smooth muscle)と横紋筋(おうもんきん、英:striated muscle)です。\n横紋筋は、骨格筋および心筋(しんきん)に付いている。心筋とは、心臓を動かしている筋肉である。\n平滑筋は、内臓を動かすため。内臓に付いている、内臓筋(ないぞうきん)である。\n骨格筋(skeletal striated muscle)と心筋(cardiac muscle)は、両方とも横紋筋だが、性質は大きく異なる。\n骨格筋は、意思で動き、収縮が早いので急な運動にも適しているが、疲労しやすい。\n心筋は、意思で動かず、疲労しない。\nセキツイ動物とは、背骨や脊椎と呼ばれる骨格を持つ動物のことを指します。\nセキツイ動物には、魚類、両生類、は虫類、鳥類、哺乳類などが含まれます。それぞれのグループは、独自の特徴を持っています。\n例えば、\n魚類は鱗で覆われた体を持ち、鰭を使って泳ぎます。\n両生類は、水生の幼生期と陸生の成体期を持つことが特徴的です。\nは虫類は、体表に鱗を持ち、卵を産むことができます。\n鳥類は、羽毛やくちばしを持ち、飛ぶことができます。\n哺乳類は、毛で覆われ、乳を与えることができます。\nセキツイ動物は、内臓がよく発達しており、神経系も高度に進化しています。セキツイ動物は、陸上や海中、空中などの様々な環境に適応し、多様な形態や生態を持っています。\nセキツイ動物は、地球上の生物の中でも非常に重要な存在です。私たち人間を含め、多くの生物がセキツイ動物として分類されています。\nまた、セキツイ動物は、食物連鎖の上位に位置し、生態系において重要な役割を果たしています。\n無セキツイ動物とは、背骨がない動物のことを指します。私たちがよく知っている生き物の多くは、セキツイ動物であり、背骨を持っています。\nしかし、無セキツイ動物には、ヒトデやイソギンチャク、カニやエビ、貝殻やイカ、昆虫やクモ、ミミズなど、多様な種類の生き物が含まれます。\n魚類は、水中に生息するセキツイ動物の一群であり、水中での生活に適応した多くの特徴を持っています。カツオやメダカなどが魚類です。\n魚類は、温度によって体温が変化する変温動物です。そのため、水温が変化することで体温が変わり、代謝や生理的な機能に影響を与えることがあります。一方で、魚類は環境温度に適応した体温調節能力を持っており、体内の酵素反応や代謝速度を調節して、生き残るために必要な体温を維持することができます。\n魚類は、鰓を使って水中の酸素を摂取し、二酸化炭素を排出することで呼吸を行っています。鰓は、水を通して酸素を取り込み、血液に含まれるヘモグロビンと結合して酸素を運びます。一方、二酸化炭素は血液から鰓へと移動し、水中に排出されます。\n魚類の皮膚は、水中で生活するために適応した構造を持っています。魚類の皮膚は多くの種に鱗があり非常に薄く、柔らかいため、水の抵抗を減らすことができます。\n魚類は殆どの種が卵生です。雌が卵を産卵したあと雄が放精し水中で卵と精子が出会う体外受精です。\n卵から孵化して稚魚となり、成長して成魚となるという過程があります。魚類の卵は、通常水中に産み落とされ、孵化するまでに数日から数週間を要します。孵化した稚魚は、自力で泳ぐことができ、自らの餌を捕食するようになります。成長につれて、稚魚は徐々に成魚に変化していきます。\nサメの一部には胎生や卵胎生の種もいます。\n両生類とは、カエルや参照雨をなどの動物のことです。カエルの幼生はオタマジャクシと呼ばれ水中で生活しています。\nオタマジャクシは鰓を使って水中で呼吸します。成長すると、カエルになり、陸地で生活するようになります。カエルは肺を使って呼吸することができます。\nこのように、水中と陸上の両方で生活していることから両生類と呼びます。\n両生類は卵生で、卵は寒天のような物質で覆われています。受精は体外で行われ、メスが体外に産卵すると、オスが卵に精子をかけることで受精が起こります。\n両生類は変温動物で、体温を維持する仕組みがないため、水温や気温が変わると体温も変わります。また、体の表面は粘膜で覆われ、湿っています。\n「は虫類」とは、トカゲ、ヘビ、カメ、ワニなどの動物のことを指します。\nは虫類は、体温を一定に保つことができず、外部の温度に依存して体温を調節します。これを変温動物と呼びます。\nは虫類の体は、頑丈で堅牢な鱗で覆われています。これは、身を守るための防御機構であり、乾燥した環境に適応するための進化的な特徴でもあります。\nまた、ヘビなどの一部のは虫類は、体を地面に密着させることで振動を感知し、獲物を探し出すことができます。\nは虫類は、さまざまな種類があります。たとえば、トカゲにはヤモリ、イグアナ、カメレオンなどがあり、ヘビにはボア、コブラ、マングースなどがいます。\nカメは、陸生種と水生種があります。ワニは、世界中の熱帯地域に生息し、大型で強力な動物です。\nは虫類は、食物連鎖の上位に位置することが多いため、食物網において重要な役割を果たしています。\nまた、彼らは人間にとっても、ペットとして飼育されることがあります。\nしかし、一部のは虫類は、毒を持っていたり、攻撃的な性格を持っているため、扱い方には注意が必要です。\nは虫類は卵生で、子供を生むときには卵を産みます。卵には硬い殻があり、外敵から守ることができます。\n受精は、雄の精子が雌の体内で卵子と出会うことで行われます。このような受精方法を体内受精といいます。\n「鳥類」とは、私たちが一般的に「とり」と呼ぶ生き物のことです。\nスズメ、ニワトリ、ハトなどがその例です。また、ペンギンも鳥類に分類されます。\n鳥類は嘴を持ち、ほとんどは飛ぶことができます。\n鳥類は哺乳類とは異なる呼吸構造を持っており、気管と気嚢を介して空気を循環させることで、より効率的に酸素を取り込み、二酸化炭素を排出します。この仕組みによって、鳥類は高い運動能力を発揮することができます。\n鳥類は卵生であり、かたい殻に包まれた卵を親鳥が温め、世話します。卵から孵った後も、親鳥は子にエサを与え、世話をします。また、鳥類は恒温動物であり、外界の温度に関係なく体温をほぼ一定の範囲内に保つ仕組みを持っています。鳥類の体表面にはふつう羽毛が生えています。\n哺乳類とは、母親が子どもに乳を与えて育てる動物のことを指します。\nイヌ、ネコ、ウサギ、ウマ、サル、ウシなどが哺乳類に属します。\n哺乳類は、体温を一定に保つことができる恒温動物で、内部の調節機構によって体温を調整します。\n呼吸は肺で行い、空気は鼻や口から取り入れられ、気管を通って肺に入ります。\n皮膚には体毛があり、保温や防御の役割を果たします。\n哺乳類は胎生で、胎盤を通じて母体から栄養を得ます。胎盤によって胎児が守られるため、卵生の動物に比べてより発達した状態で生まれることができます。\n草食動物と肉食動物の目の位置の違いには、それぞれの生態に合わせた理由がある。\n草食動物は、肉食動物から狙われる危険があるため、側面に目を持っている。\n側面にある目は、周囲の広い視野を確保することができ、肉食動物の動きを早く察知することができる。\nこれにより、草食動物は早期に危険を感じ、自分自身を守ることができる。\n一方、肉食動物は、獲物を見つけるために前方に目を持っている。\n前方にある目は、立体視による深度感を生み出すことができ、獲物の位置や距離を正確に把握することができる。\nこれにより、肉食動物は狩りの成功率を高めることができる。\n草食動物と肉食動物の目の位置の違いは、それぞれの動物が生き残るために必要な適応である。\n無セキツイ動物(むせきついどうぶつ、invertebrates)は、脊椎(せきつい;背骨(せぼね)のこと)を持たない動物分類群です。\n無セキツイ動物には、節足動物(せっそくどうぶつ、arthropod)や軟体動物(なんたいどうぶつ、Mollusca)などがあります。\n節足動物には、甲殻類(こうかくるい、crustaceans)、昆虫、クモなどが含まれます。\n軟体動物には、タコやイカ、マイマイ(カタツムリ)などが含まれます。また、\n無セキツイ動物はすべて、変温動物であるという特徴があります。\n節足動物(せっそくどうぶつ)は、動物界の大きなグループの1つであり、多様な種類の節足動物が存在します。\nこのグループには、昆虫、クモ、サソリ、ザリガニ、エビ、カニなどが含まれます。\n節足動物は、体を節(ふし;segment)に分け、各節に1対の脚を持つ特徴があります。\n多くの節足動物は、硬い外骨格(がいこっかく;exoskeleton)を持ち、この外骨格は保護や筋肉の付着の役割を果たします。\nまた、節足動物は、気管呼吸系を持つことが一般的で、鰓呼吸(はいこきゅう)を行うものもいます。\n昆虫は(こんちゅう)は、陸上生物の中でも最も多様性に富んだグループの一つであり、世界中に約100万種が存在します。昆虫は、体が3つの節からなる頭胸部と、10の節からなる腹部で構成されています。\n昆虫は外骨格を持ち、その外骨格は保護や運動をサポートする役割を持っています。また、昆虫の足は非常に多様で、適応に応じて形態が変化することがあります。\n昆虫は気管呼吸を行います。気管は、体内に分枝している管であり、体内に酸素を取り入れることができます。このため、昆虫は非常に高い代謝率を持ち、飛行や高速移動が可能となっています。\n昆虫は通常、卵生生殖を行います。雄が精子を雌に送り込むことで、卵が受精し、幼虫が孵化します。幼虫はしばしば成体とは異なる形態を持ち、成長してから成体になります。ただし、一部の昆虫は卵生生殖ではなく、生きた仔を生んだり、単為生殖を行ったりすることがあります。\nザリガニやエビ、カニの場合\n甲殻類(こうかくるい)は、節足動物に属する多様な種類の動物で、海や淡水、陸上に生息しています。\n体は外骨格で覆われ、複数の節に分かれています。\n甲殻類の呼吸は、鰓(えら)を用いて行われます。鰓は、水中の酸素を吸収することができます。一方、陸上に生息する甲殻類の多くは、気門を持っており、気中の酸素を吸収することができます。\n多くの種類では、メスは卵を産み、オスが精子を放出して受精させます。また、一部の種類では単為生殖も行われます。\nダンゴムシは、陸上に生息する甲殻類の一種です。体は丸い形をしており、外骨格によって覆われています。\nダンゴムシは、擬気管(ぎきかん)と呼ばれる肺に類似した器官を持っており、気中の酸素を吸収することができます。\nまた、ダンゴムシは卵生で、オスがメスが交尾することで受精します。卵から孵化した幼虫は、脱皮を繰り返して成長します。\n軟体動物(なんたい どうぶつ)は、軟らかい体を持つ多細胞動物の総称です。このグループには、貝類、マイマイ、イカやタコ、などがふくまれます。\n貝類(かいるい)は、無脊椎動物の一群で、外殻を持ち、水中で生活するものや陸上に生息するものなど多様な種類が存在する。\n呼吸に関しては、水生貝類は鰓(えら)を用いて酸素を取り入れる二酸化炭素を排出する「えら呼吸(branchial respiration)」をおこなう。\n一方、陸生貝類は肺を持ち、肺呼吸(lung breathing)をおこなう。\n体構造:貝類は二枚貝、巻貝、腹足類、頭足類などの分類群に分けられます。多くの貝類は、二枚の殻を持ち、その中に身を収めています。巻貝は螺旋状の殻を持ち、腹足類は単殻または螺旋状の殻を持ち、頭足類は殻を持たず、鰓脚類や軟体類などの形態を取ります。貝類の体の中心には消化管、神経系、循環器系、排泄器官があります。\n呼吸:貝類の多くは、鰓を使って呼吸を行います。鰓は水中にある酸素を取り込み、二酸化炭素を排出します。鰓は、二枚貝の場合はマントル腔内にあり、腹足類や頭足類の場合は体の側面にある鰓室内にあります。\n発生:貝類の多くは、卵生であり、水中で孵化します。孵化した幼生は、二枚貝の場合は浮遊生活を送り、巻貝や腹足類の場合は底生生活を始めます。成長するにつれ、貝殻が成長し、内部の身体がそれに合わせて変化します。成熟した貝は、種によっては繁殖行動を行い、卵を産みつけることで次世代を残します。\n頭足類(とうそくるい) は、イカやタコなどを含む軟体動物の分類群である。\nこの分類群の特徴は、足が頭部から出ていることである。頭足類は、胴部が頭部よりも上にあり、内臓が胴部につまっている。\nイカやタコは、えら呼吸を行い、卵生である。\n分子生物学的手法による遺伝子解析は、生物種の進化的関係を推定する上で重要な役割を果たしています。これらの手法を用いると、無脊椎動物の多くが脊椎動物とは異なる遺伝子配列を持っていることが明らかになっています。たとえば、環形動物門(Annelida)の多くの種は、脊椎動物の遺伝子とは異なるヘモグロビンタンパク質を持っていることが知られています。これは、環形動物門が脊椎動物とは異なる進化的経路をたどったことを示しています。\nまた、現在では無脊椎動物の中にも、共通の祖先を持つ系統がいくつか特定されています。たとえば、軟体動物門(Mollusca)や刺胞動物門(Cnidaria)は、分子生物学的解析によって、それぞれ単系統群であることが示されています。しかし、これらの系統は、他の無脊椎動物群とは異なる特徴を持っており、一般的には無脊椎動物全体の進化的関係にはあまり影響を与えません。\nこのように、無脊椎動物は多系統であることが分子生物学的な解析から示唆されています。しかし、その多様性は同時に、進化の素晴らしい証拠でもあります。生物の多様性を理解する上で、無脊椎動物の研究は非常に重要であると言えます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%A8%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF"} {"text": "雲の正体は、水である。太陽の熱や光のエネルギーによって、海や川・湖などから蒸発した水蒸気が、やがて上空で冷えて、水蒸気を含んだ空気が露点で凝結して水ができて、雲になる。\n雲も霧(きり)も、成分は同じ水であり、空気中に水滴が浮かんでいるのである。\n雲と霧との違いは、標高(「ひょうこう」・・・高さのこと)である。\nそして、雲の一部は雨を降らし、その雨水が川や海や湖に流れ込む。\nこのように、地球上で水は循環している。\n蒸発を起こすための熱は、もとは、太陽の光による熱である。つまり、太陽のエネルギーが、水の循環のエネルギー源である。\nなお、標高が高くなるほど、気温も低くなるのが普通である。\n湿度の測定は 乾湿計(かんしつけい) で、はかります。\n普通の温度計である 乾球温度計(かんきゅうおんどけい) と、液だめの部分を水で濡らしているガーゼでつつんでいる 湿球温度計(しっきゅうおんどけい) が、乾湿計の中身です。\n乾球温度計と湿球温度計との温度差から、湿度表(しつどひょう)を用いて、湿度が求められます。\n温度というと、どちらの温度計の温度なのか分からないので、乾湿計の温度計の目盛りの数値は、それぞれ示度(しど)といいます。\n乾球温度計の示度(しど)、あるいは、湿球温度計の 示度(しど) というふうに呼びます。\nたとえば乾球温度計の示す温度が17℃であって、湿球温度計の示す温度が14.5℃の場合、乾球と湿球の温度差が2.5℃となり、湿度は表から75%になる。\n湿度は、晴れの日では、通常、温度が高いほど、湿度は低くなる。したがって昼ごろに湿度が最も低くなる。\n晴れの日の場合、温度の変化と、湿度の変化とは、逆の変化をするのが普通である\n(気温は昼ごろに最も高くなるのが普通。)。\n雨やくもりの場合、湿度の変化は小さい。\n空気にも、実はおもさがある。地球の地表を取りまく空気を大気という。大気にも重さがあるので、重さにより、大気中のものにも力がかかる。(水中のものには、水から、押しつぶすような力が、かかってるのと、同じような現象。)\n大気がおよぼす、押しつぶす方向の空気の力を 大気圧 という。気体がおよぼす、押しつぶす方向の力を 気圧 という。気象や天気で「気圧」といった場合、大気圧のことを言う場合が多い。\nなお、上空では、地上よりも、その高さより上の空気の量が少ないので、上空に行くほど、気圧は低くなる。\n大気圧の単位は、ふつう、hPa(ヘクト パスカル)という単位で表す。または「気圧」という単位で表す。\n「気圧」という言葉には、「大気圧」という意味の場合と、圧力の単位の一つの場合の、2つの意味がある。\n大気圧の測定器には、アネロイド気圧計などが用いられる。\n\n高気圧や低気圧の気圧とは、地表付近での気圧のことである。\n高気圧・低気圧の高低の基準は、まわりの気圧であり、1気圧=1013hPaが基準では無い。このため、1000hPaの高気圧も、ありうる。\n高気圧の場所の地表からは、風が吹き出す。低気圧の場所の地表には、風が吹き込む。\nしたがって、高気圧から低気圧に向かって、地表に、風は吹く。\n上空では、風の向きは逆方向である。こうして、空気は循環している。\n実際の地表での風の向きは、高気圧から低気圧に向かって真っ直ぐでは無く、地球の自転のため、じゃっかん、斜めになる。北半球では風は右にそれる。南半球では左にそれる。\n吹き出すときの風向きは、上空からの天気図で見た場合、右回り(時計回り)で吹き出す。この「右」や「時計回り」とは、北を上としてみた場合の視点である。まっすぐ吹き出すのではなく、このように渦をまいて吹き出す理由は、地球が自転していることが理由であり、詳しくは中学理科で習うが転向力(てんこうりょく)という力により、圧力の傾きに対して右側に風がそれる。\n中学校では、「北半球では、高気圧は右回り。」という結果だけを知っていれば良いだろう。\nなお、高気圧が「右回り」であるのは、北半球の場合であり、南半球ではちがった結果になるので注意。\n温度が高い場所では、大気が膨張し、上昇気流が発生するため、地表は低気圧になりやすい。逆に、温度が低いと、高気圧になりやすい。\nしたがって、地表での風の向きは、温度の低い場所から、温度の高い場所に向かって、風が吹くことが多い。\n上空では、逆向きである。温度の高い場所から低い場所へ向かって、上空では風が吹きやすい。\n高気圧の中心近くでは、上空から地表へと風が流れる 下降気流 が発生する。また、下降気流のため、雲ができにくく、天気は晴れることが多い。\n低気圧の場所では、風が吹き込む。\n風向きは、上空からの天気図で見た場合、左回りの反時計回りで、吹きこむ。この「左」とか「反時計回り」とは、北を上としてみた場合の視点である。\n低気圧の中心近くでは、地表から上空へと風が流れる上昇気流のため、雲ができやすく、天気は悪いことが多い。\n等圧線を描くときは、 1000hPa を基準にして 4hPa ごとに線を書く。また、 20hPa ごとに太線にする。\n気象観測で、風のようすを表す時は、風がふいてくる向きと、風の強さとで表す。\n風のふいてくる向きを 風向 と言う。\n風の方向は、 16方位(じゅうろく ほうい) で、あらわす。\n風向は、吹き流しで調べられる。吹き流しの上流の方角が、風向である。支柱に近い口の広い側が上流で、支柱から遠い狭い側が下流である。\n風の強さは、風による、空気の動く速さで表し、これを 風速(ふうそく) という。風速の単位はメートル毎秒(メートルまいびょう)である。\n風のつよさを表す際に、風速ではなく、風が物におよぼす力を段階的にあらわした 風力(ふうりょく) で表す場合もある。\n風力の階級は、もっとも弱い階級0から、もっとも強い12までの、13階級で表される。この風力の階級を 風力階級(ふうりょくかいきゅう) という。\n地球上の雲は、気象衛星(きしょうえいせい)という、人工衛星(じんこうえいせい)によって撮影されている。\n日本では気象衛星は、「ひまわり」という気象衛星が(2023年の時点)運用されている。\n日本での天気予報は、気象衛星からの情報も参考にするが、それだけではなく、日本各地の地上からの観測所からの情報も元にして、決められている。\n日本には、地域気象観測システム(通称アメダス ; AMeDAS -- Automated Meteorological Data Acquisition System)という気象観測システムがあり、観測装置が日本国内各地の約1300ヶ所の気象観測所にある。\n気象観測の情報には、気象衛星やアメダスのほか、気象レーダーや海洋・海上気象観測や、などの情報がある。\nこれらの、情報を元にして、気象庁は天気図や予報天気図を作成し、気象庁は天気予報を発表する。\n空をおおう雲の量が、9割以上のばあいを くもり という。空をおおう雲の量の割り合いを、 雲量 と言い、0から10の11段階で表す。\n雲量が1割以下の状態で、雨や雪などの降ってない状態を 快晴(かいせい) という。\n雲量が2割から8割のときを、晴れ(はれ) という。\nつまり、\n:雲量=0~1:快晴\n:雲量=2~8:晴れ\n:雲量=9~10:くもり\n雨の量のことを雨量と言い、雨量はmm(ミリメートル)単位で表す。\n雨以外にも、雪や ひょう や あられ などをまとめて、降水(こうすい)という。\n雪やひょうなど、雨以外の場合の降水の量は、雪や氷を融かして水にしてから、測る。\nそして、降水の量をまとめて、降水量と言い、単位は一般にmm(ミリメートル)で測る。\n雨量は、雨量計などで測る。\n大規模な空気のかたまりであり、広い範囲にわたって、気温や湿度が、ほぼ一様である物。\n大陸の上では、広い範囲にわたって地上の特徴が似通っているので、気温や湿度の一様な大きな空気のかたまりが出来やすい。\n同様に、太平洋上やオホーツク海などの大洋上でも、周囲が同じような温度の海ばかりなので、海上でも気温や湿度の一様な大きな空気のかたまりが出来やすい。\n一般に、海で出来る気団は湿っており、大陸で出来る気団は乾いている。\n温度のちがう二つの気団が、ぶつかっている場所の、境目の面や線のこと。空気のかたまりは体積をもつので、実際には、二つの気団の境い目(さかいめ)は面になるが、地図上に表すときは線になるので、「前線」と言われる。\n気団の境い目としての面と線を区別するとき、境い目の面のほうを「前線面」(ぜんせんめん)と言って、線である「前線」(ぜんせん)と区別する場合もある。前線面という用語を用いれば、線としての「前線」とは、前線面と地表との交線とも言える。\n中学理科では、前線面と前線とを区別する。\nこれらの前線のどれも、寒気と暖気のぶつかっている状態である。寒気と暖気のぶつかりは天気に影響を与えるので、関心があるから、その前線の位置が調べられるのである。\n一般に前線の付近では、雨が多く、天気が悪い。\nどの前線でも、暖気は上昇しやすいため、寒気は暖気の下にある。寒冷前線では、寒気が暖気の下にもぐりこむ。温暖前線では、暖気が寒気の上に、はいあがる。\n寒冷前線では、強い上昇気流が発生し、前線面の傾きが急であり、そのため、積雲状の雲が発生しやすい。そのため寒冷前線では、強い「にわか雨」が短時間で降ることが多い。雷や突風なども、ともなう事があり、天気は激しい。\n寒冷前線の通過後は、天気は回復し晴れ、寒気のため、気温が下がる。\n温暖前線では、前線面はゆるやかである。発生する雲は層雲などの薄くて広い雲である。雨はふるが、弱い雨が、長時間にわたって降る。\n温暖前線の通過後は、天気は回復し晴れ、暖気のため、気温が上がる。\n停滞前線では、層雲が出来やすく、雨などの天気の悪い日が長く続く。日本の梅雨(つゆ)や秋雨(あきさめ)の期間は、停滞前線によるものである。\n閉塞前線というのは、寒冷前線に温暖前線が追いついた状態である。地表付近にある2つの寒気は、寒冷前線に由来する寒気と、温暖前線に由来する寒気である。閉塞前線の暖気は、その2つの寒気の上に押し上げられる。\n閉そく前線では、二つの寒気に挟まれた暖気が押し上げられるので、上昇気流が強く、そのため積乱雲などが発生しやすく、雨は強く、風も強くなりやすい。\n\n6月ごろに、雨の日が多くなる。また、雨の降る量も多い。これを梅雨という。\nこの理由は、北側の冷たく湿った オホーツク海気団と、南側のあたたかく湿った太平洋側の 小笠原気団 が日本付近でぶつかりあい、そこで気団が動きにくくなるからである。\n気団の境界線のことを 前線(ぜんせん) というが、梅雨をもたらす両気団の境界線上の前線を 梅雨前線 という。\n衛星画像などの上空から雲の様子を見ると、東西にのびる雲で、雲に切れ目のなく、つながった雲が、日本をおおう。\n6月も終わりに近づき、夏が近づくにつれて、南側の小笠原気団が優勢になり、北側のオホーツク海気団が北へ押し戻されていく。俗に言う「梅雨明け」である。その結果、夏が近づく。\n風力記号は0~12の13段階で表されます。風力記号の形は、右の図を参考にしてください。矢羽の向きは風向の向きを表しています。右の図の下の風力記号の場合、北北西から観測者の位置に向かって風が吹いていることになります。つまり、「観測者から北北西の方向には風が吹いている」と誤解しないように注意してください。\n風力記号には、天気も天気記号で記入する必要があります。また、気温と気圧も併記することが望ましいです。風力記号の風向は16方位で表されます。\n偏西風は、中緯度の地域で起こる大気循環のひとつであり、地球の自転によって発生するコリオリの力によって発生します。地球が自転することによって、地表から大気中に向かって上がる空気が東側に、下がる空気が西側に逸れることで、高気圧から低気圧へ向かう風が西から東に吹くという大気循環が生じます。この偏西風は、太平洋上を中心に周囲に向かって吹いており、日本の上空でも西から東に向かって吹いています。\n偏西風は、日本に限らず、世界中の中緯度地域で吹いており、冬季には強くなります。偏西風は、大気の移動に伴って様々な天候の変化をもたらします。たとえば、日本においては、偏西風が季節風のような役割を果たし、冬季には温暖化傾向にあり、春先には乾燥した晴天が続く傾向があります。\nまた、偏西風は、台風が発生する熱帯地域にも影響を与えています。偏西風が強く吹くと、台風は西から東に移動しやすくなります。逆に、偏西風が弱いと、台風は日本に向かって進みやすくなります。\n季節風とは、季節によって一定の方向から吹いてくる風のことを指します。これは、地球の自転と太陽からの放射エネルギーの影響によるもので、主に赤道から中緯度地域にかけて発生します。\n夏季には、赤道付近の海上に高気圧が発生するため、南側の海から北側の大陸に向けて風が吹きます。このため、日本でも夏季には南から風が吹いてきます。\n冬季には、この状況が逆転し、北側の大陸が高気圧となり、南側の海から風が吹いてきます。このため、日本では\n冬季には北から風が吹いてきます。\nまた、季節風はアジアを中心に世界各地に影響を与え、農業や漁業、航海などに大きな影響を与える重要な気象現象の一つです。\n湿度については、海で発生する気団については湿度が高い。一方、大陸で発生する気団は乾燥しているのが普通であります。\n日本付近の場合、一般に北の地域にある気団は低温であり、南の地域にある気団は高温であります。\nこのため、日本の周囲の地域の気団の特徴は以下のようになります。\nこれらの気団は、日本の気象に大きな影響を与えることがあり、天気予報などでも頻繁に取り上げられます。また、気象災害などを予防する上でも、これらの気団の動向を把握することが重要です。\n中国の華南や華中、インドシナ半島北部は中緯度高圧帯に位置するため、周辺の地域に比べて比較的乾燥した高温の状態が続くことが多いとされています。\n長江気団は、寒帯性のシベリア気団(シベリア高気圧)が温暖化したものであるため、日本に影響を与えることはほとんどないとされています。\n従来の日本の天気に影響を与える気団の分類には、シベリア気団、オホーツク海気団、小笠原気団、揚子江気団の4つがありました。\nしかし、揚子江気団は他の3つと比較して狭く、また他の気団から変化したものも含んでいるため、令和3年以降の教科書では揚子江気団を固有の気団として扱わなくなりました。\n長江気団(揚子江気団)は現在も気象庁などで扱われることがあります。\n大気の循環には、熱帯から極域へ向けての熱エネルギーの輸送が重要な役割を果たします。熱帯地方では、太陽からの強い日射によって地表面が暖められ、熱帯低気圧が発生し、上空の対流圏まで熱気が上昇します。この熱気は、熱帯高気圧帯から極域に向けて移動し、寒冷な高緯度地域では下降気流となって地表に近い大気を加熱します。このように、熱帯から極域への熱エネルギー輸送が大気循環を担い、気候を形成しています。\nまた、地球自転によって、地表面は東向きに移動し、大気も地表面とともに東向きに移動します。このため、赤道周辺の大気は東西方向に速く移動する一方で、高緯度地域の大気は東西方向に遅く移動します。この大気の移動速度の違いが、大気の渦巻きを生み出し、渦が発生することで高気圧と低気圧が形成されます。\n以上のように、地球規模の大気循環は、熱・水・エネルギーの循環を担っており、気候や天気に大きな影響を与えています。\n春には、日本付近を高気圧と低気圧が交互に西から東へ通過し、天気が数日周期で変化します。\n気温の変化も大きく、低気圧の東側では南からの暖かい空気が流れ込むため、気温は上昇しますが、低気圧の西側では北からの冷たい空気が流れ込むため、気温は下降します。\n春の後半は高気圧が多く覆い、日照時間が徐々に増えますが、沖縄・奄美では5月に梅雨の季節が始まります。\n夏の前半は、梅雨前線の影響により北海道以外全国的に降水量が多くなります。\n夏の後半には、太平洋高気圧が全国的に晴天と高温をもたらします。\n多くの日で全国的に30℃以上の気温となり、北海道と沖縄の気温差は約5℃程度と小さくなります。\n一方、オホーツク高気圧が現れると、北日本の太平洋側には冷たく湿った東風が吹き、曇りがちな日が多く、気温も下がります。\n沖縄・奄美では、台風の接近が8月に増えます。\n9月には、秋雨前線や台風の影響で降水量が増加しますが、特に西日本では残暑が続く年もあります。\n10月には、移動性高気圧による晴天の日が多くなります。\n11月には、低気圧が通過した後に冬型の気圧配置が一時的に現れ、日本海側を中心に雨の日が多くなり、北日本では雪が降り始めます。11月には、低気圧が通過した後に冬型の気圧配置が一時的に現れます。\n冬になると、シベリア高気圧とアリューシャン低気圧が共に強まります。\n日本周辺は等圧線に垂直なストライプ状の冬型気圧配置になり、北西の季節風が吹き込んでシベリアからの冷たい空気がもたらされます。この冷たい季節風は山脈にぶつかって上昇気流や雲を発生させ、日本海側では多くの雪の日があり、特に山岳地帯では3メートルを超える積雪が見られます。\n一方、太平洋側では山から乾燥した風が吹き下ろされ、晴天の日が多くなります。\n北海道では気温が氷点下に継続している一方、沖縄と奄美では気温が15°C以上になることがよくあります。北海道と沖縄の間には20°C以上の気温差があります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%A4%A9%E6%B0%97%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96"} {"text": "水に溶かしたとき、その水溶液に電流が流れるようになる物質を電解質(英語: electrolyte)という。\n水にとかしてもその水溶液に電流が流れない物質を非電解質という。\n塩化ナトリウムであっても、水溶液に溶かしていない、固体の塩化ナトリウムでは、たとえ電気回路に電圧を加えても、電気を流さない。水酸化ナトリウムも同様に、水溶液に溶かしていない固体の水酸化ナトリウムは電気を流さない。\n塩化銅も、固体の状態では、電圧を加えても、電気を流さない。\n塩化銅の水溶液に電気を流すため、水溶液にプラスの陽極とマイナスの陰極の電極を差し込んで電気を流すという実験について、これから説明する。\nこの塩化銅水溶液に電気を流す実験では、陰極に、銅が付着する。一方、陽極付近には、塩素が気体として発生する。\n発生気体が塩素であることは、臭いが、プールの消毒液のような臭いであることからも分かる。有毒な気体なので、あまり、かぎすぎないように。においをかぐときは、手であおぐようにして、かぐこと。\n実験をするときは、換気をして、実験すること。\nこの陽極と陰極のそれぞれの発生物質から、塩化銅の水溶液では、塩素と銅という二つの物質に分かれている事が、予想される。\n電気を流していない状態では、二つに分かれた塩素と銅は、水溶液に溶けている状態だが、電気を流すことで、出てきた、という仕組みが予想される。\n電気は、プラスとマイナスが、引き寄せあうのだった。\n陰極に銅が付着するということは、水溶液中の銅は、逆の電荷を持っているということであり、つまり銅はプラスの電荷を持っているということである。\n一方、陽極に塩素が発生するという事は、つまり塩素は逆符号の電気を持っている、つまり塩素はマイナスの電気を持っているということである。\nそのほかの様々な実験からも、塩化銅の水溶液中での、電気を流す前の塩素は、マイナスの電気を持っていることが確認されている。中学生は、この実験結果を、うのみにして良い。水溶液中の銅についても、塩化銅の水溶液の中では、電気を流す前の銅は、プラスの電気を持っていることが確認されている。\nさて、普通の水に少量の食塩などを混ぜて電気を流すと、水の電気分解によって、水素と酸素が発生する。\n今回の塩化銅の水溶液に、電気を流して、銅と塩素を発生させる実験は、つまり、塩化銅の電気分解(電解)をしたことになる。\nなお、この実験で陰極に銅が付着することを応用して、金属の表面に 銅めっき をすることが出来る。\n銅品位が20%から40%の銅精鉱を、コークスCなどとの加熱反応で還元したものは、銅品位が約99%であり、粗銅とよばれる。粗銅には、亜鉛や銀などの不純物が含まれるので、純度をさらにあげるためには、これら亜鉛などを分離する必要があり、そのために電解が利用されている。\n硫酸銅(II)水溶液をもちいる。そのさいの電極(陽極)に、純度をあげたい銅を用いる。つまり、粗銅を陽極に用いる。純度の高い銅を陰極に用いる。電気分解により、次の反応が起こる。\n陽極からは、銅だけが溶け出すのではなく、銅よりイオン化傾向の大きい鉄や亜鉛やニッケルなども溶け出す。しかし陰極で析出するのは、ほとんど銅だけなので、陰極にて高純度の銅が得られる、という仕組みである。\n粗銅中に銀や金が含まれていた場合、イオン化傾向が銅よりも小さい銀や金は、陽極の下に沈殿する。これを陽極泥(英語: anode slime)という。陽極泥には、金や銀などが含まれているので、ここから金や銀を回収する。\n陰極には純度の高い純度99.99%程度の銅が析出する。これを純銅という。\n他の電解質の水溶液に、電気を流す場合も考えてみよう。\n塩酸の水溶液に電気を流すと、陽極に塩素が発生する。塩化銅の水溶液に電気を流す実験でも、陽極には、塩素が発生したのであった。以上の2つの実験から、塩素をふくむ電解質の水溶液の陽極には、ふつう、塩素が発生することがわかる。\n一方、塩酸の水溶液に電気を流す実験で、陰極(マイナス極)のほうには、水素が発生する。\nそのほかの様々な実験からも、塩酸や塩化銅の水溶液中での塩素は、マイナスの電気を持っていることが確認されている。中学生は、この実験結果を、うのみにして良い。\n原子は, 陽子と中性子からなる原子核と、原子核のまわりを回る電子からできている。原子の直径は1億分の1cm程度である。電子は、原子核には含めない。\n陽子の質量と、中性子の質量は、同じである。厳密にいうと、ほんのわずかに質量が違うのだが、ほとんど同じなので、中学の段階では、陽子の質量と、中性子の質量は同じである、と考えてよい。一方、電子の質量は、陽子と比べて、極めて小さい。電子の質量は、陽子の質量の 約 \n\n\n1\n1800\n\n\n{\\displaystyle {\\frac {1}{1800}}}\n 倍 でしかない。\nしたがって、原子にとって、電子は、ほとんど質量が無い。ある原子や分子の質量の大きさを決めているのは、その原子核の陽子や中性子の個数である、と考えても、中学高校では、あまり問題は無い。\n電子1個のマイナスの電気の強さは、陽子1個のプラスの電気の強さと符号が反対なだけで、強さは同じであるので、1個の電子と1個の陽子の力がつりあう。\n原子の中心には+の電気をもつ原子核が1つあり、マイナスの電気をもついくつかの電子がそれを取り巻いている。安定している状態の原子や分子では、原子核の持つ陽子の数と、電子の持つ数とは、同じであり、原子核がもつ+の電気の総量と、電子のもつマイナスの電気の総量が等しいので、原子全体は電気を帯びていない。\nある原子が、何の元素であるかは、原子核に含まれる陽子の数で決まる。一方で、原子核の中性子の数は、陽子の数に近いが、必ずしも陽子と中性子の数が同じとは限らない。原子核に含まれる陽子の数が同じで(すなわち、同じ元素で)、中性子の数が異なるものを、同位体(英語: isotope)という。\nふつうの水素原子の原子核は、1個の陽子だけである。1個の陽子だけを持つ水素原子のまわりの電子の数は、1個の電子がある。\nふつうのヘリウム原子の原子核は、2個の陽子と、2個の中性子との、計4個の粒子である。ヘリウムの電子の数は、陽子と同じ2個である。\nヘリウム原子の原子核の質量は、水素原子の原子核の質量の、ほぼ4倍である。\nたとえば水素原子とヘリウム原子の質量の比なら、電子の質量は無視できる。よって原子核の粒子数の比から、ヘリウム原子の質量は、水素原子の質量の4倍である。\n電気を帯びた原子をイオンという。イオンのうち、+(プラス)の電気を帯びたイオンを陽イオンと言い、いっぽう、-(マイナス)の電気を帯びたイオンを陰イオンという。\n塩化銅の水溶液での塩素は、陰イオンである。塩化水素の水溶液での塩素も、陰イオンである。\n塩化銅の水溶液での銅は、陽イオンである。塩化水素の水溶液での水素は、陽イオンである。\nイオンは原子が電子を失ったり受けとったりすることにより、安定な状態になったものである。陽イオンは、原子が電子を失って+の電気を帯びたものである。電子を2個失うと、1個の場合の2倍の+電気を帯びる。一方、塩素原子などは電子を受けとり-の電気を帯びる。\n原子の記号の右肩に,帯びている電気の種類と量を書いた記号をイオン式という。\n(注:イオン式という用語は、令和2年度教科書から全ての教科書で撤廃されました。)\nOHなど、いくつかの原子があつまった物であるが、分子にはなっていないものを、原子の集まりという意味で、原子団(げんしだん)と言う。\nアンモニウムイオンも、このような、いくつかの原子があつまったイオンであり、アンモニウムイオンは原子団である。\nナトリウムイオンは陽イオンであり、Na+である。\n塩化ナトリウム NaCl では、塩化物イオンCl-のマイナス電荷1個と、ナトリウムイオンNa+とのプラス電荷1個がつりあっているので、塩化ナトリウム NaCl 全体では電気を持っていない。\n塩化銅 CuCl2 も、塩化物イオン Cl- の2個と、銅イオン1個 Cu2+ のプラス電荷の2個がつりあっているので(銅イオンの場合、銅原子1個につき電気が2個ある)、塩化銅 CuCl2全体では電気を持っていない。\n電解質が水にとけて陽イオンと陰イオンとに分かれることを電離(英語: ionization)またはイオン化という。非電解質は電離しない。\n塩化ナトリウムが水に溶けてイオンに分かれることも、電離である。塩化銅が水溶液中で塩化物イオンと銅イオンに分かれることも電離である。\n砂糖が水に溶けても、電離はしていない。エタノールを水に溶かしても、電離してない。\n塩化水素は、気体の状態では水素原子と塩素原子が結合したもので電気的に中性である。水にとけると、水素イオンH+と塩化物イオンCl-となる。1つの塩化水素からは1つの水素イオンと1つの塩化物イオンができる。\n・塩化水素\n・塩化ナトリウム\n・水酸化ナトリウム\n・塩化銅\nスポーツドリンクなどの広告とかで、「電解質」やら「イオン」などの文字を見たり聞いたりすることもあるでしょう。保健体育などの授業でも、電解質やイオンなどの言葉を聞く場合もあるかもしれません。\nこれは、どういうことでしょうか。\nじつは、私たち人間の体にも、血液中などに、塩化物イオンやナトリウムイオンなどのイオンが溶けています。\nナトリウムイオンは、人体で、さまざまな働きをしています。汗をかくと、ナトリウムイオンなどのイオンが失われます。もしナトリウムが不足しすぎると、 めまい や けいれん などの危険な症状になります。\nなので、ナトリウムイオンなどをおぎなうために、食事などでは食塩をおぎなう必要があるので、塩分のふくまれたものを食べるのです。\n学校の給食は、栄養士の人などが、中学生に必要な塩分やカロリーやビタミンなどを計算して、給食を作っています。アレルギーが無い限り、なるべく給食を食べるようにしましょう。\nさて、汗をたくさん、かいたあとに、水だけを飲んでも、ナトリウムは補われません。熱中症で、汗をかきすぎた場合は、患者に水だけを飲ませるよりも、うすめの食塩水をのませたほうが良いのです。(中学高校の保健体育の教科書でも、そう説明されています。)ちなみに、みそ汁の濃度と同じくらいの濃度が、熱中症の人に飲ませる食塩水の濃度では、ちょうど良いとされています。この濃度は、水1kgあたり、食塩2gていどです。\nスポーツドリンクで「イオン」とか「電解質」と言ってるのは、商品にもよりますが、運動で汗をかいたときに不足しやすいナトリウムなどのイオンが含まれている飲料だからです。\nこの節で扱う電子殻(でんしかく)について、詳しくは高校で習う。\n原子の構造のうち、電子が並んでいる原子核の周りの部分について、より詳しく見ていこう。\nこの電子殻は何重かにわかれており、内側からK殻(英語: K shell)、L殻(英語: L shell)、M殻(英語: M shell)、……と呼ぶ。\nそれぞれの層に入ることのできる電子の数は決まっており、その数以上の電子が一つの層に入ることは無い。たとえば、K殻に入ることのできる電子の数は2つまでである。また、電子は原則的に内側の層から順に入っていく。M殻以降では例外もあるが、中学・高等学校の化学ではこれについては扱わない。\nまた、いちばん外側の電子殻にある電子を最外殻電子と呼ぶ。最外殻電子は原子の性質に大きな影響を与える。ある原子とある原子との接点が、実際には電子殻であるため、原子の結合の仕方などはこの最外殻電子の個数が重要になってくる。原子の性質を決める最外殻電子を特別に価電子(英語: valence electron)と呼ぶ。\n最外殻にそれ以上電子が入ることのできない状態を閉殻という。閉殻になっている原子の価電子の個数は0であると約束する。\n各々の原子の電子の、電子殻への配列の仕方を電子配置(英語: electron configuration)という。K殻に2個の電子が全て収められた場合の電子配置は、希ガスであるヘリウムHeの電子配置と同じである。L殻まで電子が全て収められ、L殻に8個の電子とK殻に2個の電子の合計10個の電子が全て収められた場合の電子配置は、希ガスであるネオンNeの電子配置と同じである。\n同様に、M殻の終わりまで全て電子が収められた状態は、希ガスであるアルゴンArの電子配置と同じである。\nナトリウムがイオン化すると、電子配置はネオンNeと同じになる。(原子核は、ナトリウムNaとネオンNeは、ちがっている。)\n塩素がイオン化すると、電子配置は、アルゴンArと同じになる。(原子核は、塩素 Cl とアルゴン Ar は、ちがっている。)\nヘリウムや、ネオンやアルゴンは、周期表では、18族の最後の列になる。\nこれら18族のヘリウム、ネオン、アルゴンは、安定しており、化学反応しづらい。\n18族以外の他の原子でも、電子配置が18族の配置と同じ配置になると、その原子や分子などは安定する。なので、水溶液中などでは、電子配置が、最外殻電子を埋めるように、もしくは最外殻電子をなくすように、反応をする。\nこの結果、周期表を見ることで、イオンになった場合の電荷の数や符号が、だいたい予想できる。\n水素H、リチウムLi、ナトリウムNaなど、周期表の1族の原子がイオンになったとき、イオンはそれぞれ、H+、Li+、Na+、・・・というふうに、イオンの電気がプラス1である。\n逆に、塩素は、周期表の17族にあるが、電子が1個だけ増えると、18族の電子配置と同じになるので、塩素イオンCl-というふうに、塩素イオンの電気はマイナス1ということが、周期表からも予想できる。\nイオンに限らず、分子をつくる反応でも、最外殻電子の電子数を安定配置にする方向に、反応が進む。\nたとえば水素Hの気体が、水素分子H2として存在する理由も、2個の水素原子が最外殻電子を1個ずつ共有すると、電子配置がヘリウムと同じになり、安定するからである。\n酸素分子も同様であり、2個の酸素原子が、電子を2個ずつ共有すれば、16族の酸素原子は、ちょうどネオン(18族)の電子配置と同じになる。\n固体の塩化ナトリウムでも、ナトリウムの電子1個が、塩素の電子殻に移動することで、それぞれ電子殻が安定する。\n電子殻について、詳しくは高校で習う。\nしかし、K殻よりも小さい殻は発見されませんでした。\n化学反応で発生したイオンを調べる方法には、様々な方法があるが、一つの方法として、次に説明する炎色反応が応用できる。\nナトリウムやカリウム、カルシウムなどのある種の元素は、炎の中に入れると、元素の種類ごとに特有の色の炎が上がる。\nこのような現象を炎色反応(英語: flame test)という。\nイオンの検出では、白金線にイオン水溶液をつけガスバーナーの炎に入れると、もし水溶液中のイオンがリチウムイオンなら赤色に、ナトリウムイオンでは黄色に、カリウムでは赤紫色にそれぞれ炎が色づく。\n中学の段階では、元素と色の対応を、無理に覚える必要はない。\n花火の色は、炎色反応を利用しているのが、一般である。\n化学変化や温度差、光などの作用によって電気エネルギーをつくり出す装置を電池(英語: battery)という。\n電池のうち、化学変化を利用して化学エネルギーを電気エネルギーに変える電池のことを、化学電池と呼ぶ。\n一方、太陽光発電パネルなどのように、化学反応を用いなくても発電できる装置は、化学電池ではない。\n本節では、化学電池を重点的に説明する。イオンの観点から、化学電池を説明する。\nさて、化学電池では、どうやって、化学変化で電気を起こしているのだろうか。\nまず、電気回路について、復習の便宜のため、説明しておこう。\nまず電流とは、導線の内部を、マイナスの電気をもつ電子が流れているのが電流の正体である。\n金属線を電池などの電源に接続すると、金属線中の電子は-極から+極に向かっていっせいに移動する。回路を流れている電流とは、このように電源の-極から+極に流れる電子の移動である。\n電流の向きは電源の+極から出て-極に入る向きに流れると決められている。これは、電流の向きが決められた当時は電子がまだ発見されていなかったことによる。電流の正体が-の電気をもつ電子の流れであることがわかってからも、「電流は電源の+極から出て、-極に入る向きに流れるもの」と定義されている。\n1780年ごろ、イタリアの解剖学者ガルバーニ(1737〜1798)は、解剖したカエルの あし に2種類の金属を接触させると、あしが感電したかのようにけいれんすることを発見した。ガルバーニはカエルの筋肉に電気がたくわえられているのだろうと考え、これを「動物電気」と名づけた。\nしかし、解剖した あし が けいれん する本当の原因は、2種類の金属が、電池の電極となって、電気をつくっているのだった。\nイタリアのボルタ(1745〜1827)による電池の研究によって、けいれんの本当の原因が明らかになった。\nそしてボルタは、1800年、2種類の金属(銅と亜鉛)で、食塩水(塩化ナトリウム水溶液)でしめらせた厚紙をはさんだ物によって電池をつくり、現代でいう「ボルタの電池」を発明した。\nこの電池から取り出される電流は小さかったので、ボルタは直列的に2種類の金属ではさんだ厚紙(食塩水でしめらせてある)を何段も積みかさね、柱状にした電池を発明した。この柱状に積み重なったボルタの電池を「ボルタの電椎」(でんつい)という。\nうすい塩酸、またはうすい硫酸に、亜鉛板と銅板をひたすと、電池が作れる。銅板の側が電池の正極で、亜鉛板の側が負極である。このように、亜鉛板と銅板と酸溶液からなる電池をボルタの電池(Voltaic pile)という。\n亜鉛板が電池のマイナス極に相当し、銅板がプラス極に相当する。\nここで重要なのは、決して片方の亜鉛板だけを硫酸にひたしても、マイナス極しか出来ていないから、電気は発生しなくて、電池にはならない。たとえ亜鉛板が酸と反応して溶けても、電池は出来ず、電気も流れず、単に亜鉛板が硫酸にとけていくだけである。\nマイナス極の亜鉛板だけでなく、亜鉛板にくわえて、プラス極になる銅板を薄い硫酸にひたして、こうしてプラス極とマイナス極とがそろって、化学電池になるのである。\nボルタの電池が、電池であることを確認するには、回路に豆電球(ただし理科実験用の小型のもの)をつないだり、あるいはモータ(ただし理科実験用の小型のもの)をつなげば良い。回路に電球やモータをつないだとき、電極で起こる化学反応は以下の通りである。\n亜鉛原子が電子を2個失って亜鉛イオン(Zn2+)になり水溶液にとけ出す。\nここで、記号 e は電子である。電子は、当然、マイナスの電気を持っているので、e-という記号になる。\n電子e-は、導線を伝わって、亜鉛板から銅板のほうへと流れていく。\n亜鉛板にたまった電子が導線へ流れ出し、モーターを通ったあと銅板に流れこむ。この電子は、水溶液中の水素イオン(H+)と結びつき水素原子になる。できた水素原子2個が結びついて水素分子(\n\n\nH\n2\n\n\n{\\displaystyle H_{2}}\n)になる。\n電子の流れは「亜鉛板 → 銅板」なので、電流の向きは、「銅板 → 亜鉛板」となり、亜鉛板が−極、銅板が+極となる。\nボルタの電池の電圧は、最初は常にほぼ一定である。この電池が作る電圧を起電力(英語: electromotive force, EMF)という。ボルタの電池の起電力は、1.1ボルトである。\n電圧や起電力の単位の「ボルト」の由来は、ボルタの電池を発見したボルタが由来である。\nなお、ボルタの電池は、時間がたつと、起電力が下がっていってしまう。これは反応中に銅板で発生する水素による泡が原因である。\nこのような電極に発生した泡による起電力の低下を、電池の分極(英語: polarization)という。分極は高校レベルなので、中学生は、あまり気にしなくて良い。\nボルタの電池のように、プラス極の金属板とマイナス極の金属板は、べつの種類の元素でなければならない。\nプラス極とマイナス極の両方の金属板を亜鉛板にして、塩酸など酸溶液にひたしても、まったく電気は流れない。\n同様に、プラス極とマイナス極の両方の金属板を銅板にして、塩酸など酸溶液にひたしても、まったく電気は流れない。\nボルタの電池の他にも、化学反応を用いた電池は多くある。たとえば、乾電池に用いられるアルカリ電池やマンガン乾電池も、化学反応を用いている。\nこのように、起電力の電圧の発生要因に化学反応を用いている電池を化学電池(かがくでんち)という。\n金属と酸との化学電池の組み合わせは、銅と亜鉛だけでなくとも、可能である。\n銅板とマグネシウムリボンでも、塩酸の水溶液で、電池は出来る。\n亜鉛板とマグネシウムリボンでも、塩酸の水溶液で、電池は出来る。\nビーカーをセロハンまたは素焼きの筒・板で区切り、どちらかに硫酸銅水溶液に銅板、もう一方に硫酸亜鉛水溶液に亜鉛版をひたすと、電池が作れる。銅板の側が電池の+極で、亜鉛板の側が-極である。このように、亜鉛板と銅板と酸溶液、セロハンまたは素焼きの板からなる電池をダニエル電池という。\n亜鉛原子が電子を2個失って亜鉛イオンになり水溶液にとけ出す。なので亜鉛イオンはとけてボロボロになっていく。\nここで、記号 e は電子である。電子は、当然、マイナスの電気を持っているので、e-という記号になる。\n電子e-は、導線を伝わって、亜鉛板から銅板のほうへと流れていく。\n亜鉛イオンが溶けだすことにより硫酸亜鉛水溶液内のイオンの濃度は濃くなっていく。\n亜鉛版側から流れてきた電子e-は硫酸銅水溶液中の銅イオンとくっつき、銅原子となり銅板に付着する。\n銅イオンが銅板に付着するため、硫酸銅水溶液のイオンの濃度は薄くなり、溶液の色も青色から無色に変化していく。\nセロハンとは?→紙のようなもので目には見えない無数の穴があり、イオンが通り抜けることができる。\n①...液体が混合するのを防ぐため。\n→当たり前のことであるが、硫酸銅水溶液と硫酸亜鉛水溶液をセロハン・仕切りを入れずにビーカーに入れたら混ざってしまう。\n②...電気的なかたよりを防ぐため。\n→ダニエル電池では、銅板側の硫酸銅水溶液のイオンの濃度は薄くなり、亜鉛イオンが溶けだすことにより硫酸亜鉛水溶液内のイオンの濃度は濃くなっていく。ということは、銅板側では陽イオンである銅イオンが減り、-にかたよっている、亜鉛側では陽イオンである亜鉛イオンが増え、+にかたよっているといえる。そのためダニエル電池ではセロハンを通してイオンが移動する現象が起きる。亜鉛版側の亜鉛イオンが硫酸銅水溶液側に行き、銅板側の水溶液の硫酸イオンが+極側に移動する。そのため電気的なかたよりがなくなる。\nマンガン乾電池の起電力の電圧は約1.5ボルトである。\nマンガン電池の内部では、マイナス極に亜鉛を用いており、プラス極に二酸化マンガンを用いている。\n電解質として、塩化亜鉛水溶液を用いている。\nボルタ電池のような反応がなぜ起こるかは、次の節で説明する、亜鉛板と銅板とのイオン化傾向の差による。\n自動車のバッテリーで用いられている電池である。\n電極は、マイナス極に鉛を用いている。プラス極には、酸化鉛を用いている。\n電解質には、うすい硫酸が用いられている。\n鉛電池では、外部から逆向きに電流を加えることで、充電が出来る。このように、充電の出来る電池のことを二次電池と言う。\n一方、充電できない電池を一次電池という。マンガン乾電池は充電できないので、マンガン乾電池は一次電池である。\n携帯電話のバッテリーや、ノートパソコンのバッテリーに用いられている。二次電池であり、充電できる。\nデジタルカメラなどに用いられている。二次電池であり、蓄えられる電気の大きさが大きい。\nボルタ電池・ダニエル電池のような反応がなぜ起こるかは、この節で説明する、亜鉛板と銅板とのイオン化傾向の差による。\n金属元素の単体を水または水溶液に入れたときの、陽イオンのなりやすさをイオン化傾向(英語 ionization tendency、イオニゼイション・テンデンシー)という。\n例として、亜鉛Znを希塩酸HClの水溶液に入れると、亜鉛Znは溶け、また、亜鉛は電子を失ってZn2+になる。\n一方、銀Agを希塩酸(薄い塩酸のこと)に入れても反応は起こらない。\nこのように金属のイオン化傾向(陽イオンのなりやすさ)の大きさは、物質ごとにイオン化傾向の大きさが異なる。\n今度は、銅を希塩酸の溶液に入れてみた場合を考える。この場合は、なにも反応しない。\n以上の例だけでは、まだ、銅と銀のイオン化傾向の大きさの大小関係は不明である。\nそこで、銅と銀のイオン化傾向(陽イオンのなりやすさのこと)を比べるための実験例として、\n硝酸銀AgNO3の溶液に、銅線や銅板などの銅の固体を添加する。\nここでは、銅板を添加したとしよう。すると、銅板の表面に銀が付着し、銀が析出する。\n一方、この硝酸銀の溶液中では銅板は陽イオンとなり溶ける。\n溶液は、しだいに青くなるが、この青色は銅イオン溶液の色である。以上の変化を反応式で書くと、\nなお、この反応で生じた銀を、生じ方が樹木が伸びるように析出した銀が伸びることから銀樹という。\nいっぽう、今度は溶液を変え、硫酸銅 H2SO4 の溶液に銀板Agをいれても、\nなにも析出せず、なにも変化は起きない。\nこれらのことから、銅は銀よりもイオン化傾向(陽イオンのなりやすさのこと)が大きいであろうことが予測できる。\nまた溶液を変え、硫酸銅の水溶液に亜鉛板Znを添加すると、亜鉛の表面に銅が析出する。\nこのことから、亜鉛Znは銅Cuよりもイオン化傾向が大きいことが予想できる。\nさまざまな溶液や金属の組み合わせで、イオン化傾向の比較の実験を行った結果、\nイオン化傾向の大きさが決定された。\n左から順に、イオン化傾向の大きい金属を並べると、以下のようになる。\n(中学の段階では、覚える必要はない。)\n金属を、イオン化傾向の大きさの順に並べたものを金属のイオン化列(英語: ionization series)という。\n水素や水は金属では無いが、比較のため、イオン化列に加えられる。\n金属原子は、上記の他にもあるが、高校化学では上記の金属のみのイオン化列を用いることが多い。\nなお、イオン化列の記憶のための語呂合わせとして、\n「貸そうかな、まあ、あてにすな、ひどすぎる借金。」(かそうかな、まあ、あてにすな、ひどすぎる しゃっきん。)\nなどのような語呂合わせがある。ちなみにこの語呂合わせの場合、\nと対応している。中学では無理に覚える必要はない。\n(以上、発展内容:イオン化傾向)\n酸素と水素を用いて、電気分解と逆の反応を行っている。水素などの陽極の燃料を、触媒を用いてイオン化させ、余った電子を取り出す電池。陽極の燃料が水素の場合は、陰極で酸素および回収した電子と反応し水になる。このような仕組みで、電気を取り出す装置を燃料電池(ねんりょう でんち)という。様々な方式の燃料電池がある。\n一方、電気分解は、次のような反応式で表せた。\n水素ガスなどからエネルギーを取り出せる燃料電池(ねんりょう でんち)は、べつに発電方法では無い。電池は、発電した電力を蓄える装置でしかない。水素ガスを作るのに、別の電力が必要になる。\n石油を燃やしたりするのとは違い、燃焼を行っておらず、反応では水と電気が出来るだけなので、直接的に大気汚染をすることは無く、環境への負担が低いと考えられており、そのため燃料電池の開発が進められている。\n電解質の水溶液に、電極を2本入れて、それぞれの電極に、外部の直流電源から電気を通じると、電極で水溶液中の物質に化学反応を起こせる。これを電気分解(でんきぶんかい、electrolysis、イレクトロシス)という。あるいは略して電解(でんかい)という。\n電気分解で、直流電源の負極につないだ側の電極を陰極(いんきょく、cathode、カソード)という。\n電気分解で、直流電源の性極につないだ側の電極を陽極(ようきょく、anode、アノード)という。\n陰極の電荷は、電源の負極から電子が送られてくるので、陰極は負電荷に帯電する。一方、陽極の電荷は、正電荷に帯電する。\nなお、電極には、白金や炭素などを用いる。\n一般に電気分解で反応を起こしたい対象は「水溶液」であり、電極そのものは反応を起こしたい対象ではないので、混同しないように注意のこと。外部の文献などでは、説明の簡略化のため、電気分解では「電極での反応」などという事が多いが、電極そのものが析出をするのでは無いので、間違えないように。\nこの電気分解の実用例として、金属の精錬に利用されている。\n純水な水は電気を通さないので、導電性を高めるために硫酸か、あるいは水酸化ナトリウムを加える。\n陰極で水素 H2 が発生する。\n陽極では、酸素 O2 が発生。\n水の電気分解で発生する気体の体積の比率は、一定で、\nである。\nこれまでに、塩酸(えんさん)や酢酸(さくさん)や硫酸(りゅうさん)などの酸について学んだ。これらの薄い水溶液は、つぎのような性質を示す。\nこのような性質を酸性(さんせい)と言った。また、酸性を示す物質を酸(さん、acid)と言った。酸性の水溶液のこれらの性質の理由は、イオンの観点で見ると、実は水素イオンH+の性質である。したがって、酸とアルカリをイオンの観点から定義しなおすと次のようになる。\n酸とは、水に溶けたときに水素イオン H+ を出す物質である。\nたとえば塩化水素HClは、水溶液中では\nと電離しているので、塩化水素は酸である。硫酸 H2SO4 も、同様に化学式に水素原子 H を含んでいる。この水素原子が水素イオンになるというわけである。\nアルカリとは、水に溶けたときに水酸化物イオン OH- を出す物質である。\nたとえば水酸化ナトリウムNaOHは、水溶液中では\nと電離しているので、水酸化ナトリウムはアルカリである。\nアンモニアNH3は、分子中にOHを含んでいないが、アンモニアの水溶液はアルカリ性をしめす。これは、アンモニアNH3は水に溶けると次のように電離して、水溶液中の水分子から水素イオンをうばってNH4+をつくり、水酸化物イオンOH-を発生させるためである。\nこのように、ある物質が酸かアルカリか、または、どちらでもないかは、イオン反応式も知らなければ判断できないので注意が必要だ。\nアンモニアの例からも分かるように、もし化学式中に水素原子Hを含んでいても、その水溶液が酸性とは限らない。\nさて、つぎの節では、小学校以来これまでに習った酸とアルカリの基本的な性質を復習する。イオンの観点による酸やアルカリの定義と、これまでに習った酸やアルカリの基本的な性質や実験例、具体的な反応式などを関連付けてしっかり理解しよう。\n酸性の溶液には次のような性質が有る。\nおもな酸には、塩酸HCl、酢酸CH3COOH、炭酸H2CO3、硫酸(りゅうさん)H2SO4、硝酸(しょうさん)HNO3などがある。ミカンなどの柑橘類(かんきつるい)に含まれるクエン酸や、食用油などに含まれるオレイン酸も酸である。\n塩酸 HCl とは、塩化水素(えんかすいそ、hydrogen chloride)という気体が溶けた水溶液である。\n無色透明の水溶液である。強い酸性を示す。\n塩酸は、水溶液中で、次のようにイオンに電離している。\nにおいは、刺激臭が有る。この刺激臭は塩化水素の蒸気のにおいである。\n(※ 注意:塩酸のにおいをかぐ時は、決して直接、かいではいけない。塩酸の蒸気を手であおいだり鼻に風を送ったりして、間接的に、においをかぐ。)\n食用の酢酸水(CH3COOH水溶液)である食酢(しょくさく)には、酢酸(CH3COOH)が3%〜5%ほど含まれている。\n酢酸は、水溶液中で、次のようにイオンに電離している。\nにおいは、すっぱい刺激臭が有る。\n濃い酢酸は、寒くなると凍る。凍った酢酸を氷酢酸(ひょうさくさん)という。\n二酸化炭素CO2の溶けた水溶液である。\n水溶液中では、つぎのように電離している。\n強い酸である。\n水溶液中では\nと電離し、強い酸性を示す。\n塩酸や硫酸などの強い酸のことを、まとめて、強酸(きょうさん)という。\n一方、炭酸や酢酸などの、弱い酸を、弱酸(じゃくさん)と言う。\n塩酸や硫酸、硝酸などの強い酸は、危険であり、取り扱いには注意を要する。皮膚などにつかないように注意する。\nもし、実験の失敗などで、これらの酸の濃い酸が体にかかったり、大量の酸がかかったら、実験を中断し、すぐに大量の純水で洗い、先生や大人に相談すること。\n注意するのは、酸の液体だけでなく、酸の液体から発する蒸気なども、注意すること。蒸気を、かぎすぎないようにすること。また、目に入らないようにすること。\nまず、復習をしよう。\n水酸化ナトリウム水溶液や水酸化カルシウム水溶液やアンモニア水溶液は、つぎのような性質を示す。\nこのような性質をアルカリ性と言う。(または塩基性(えんきせい)と言う。中学の段階では、アルカリ性で呼び方を統一してよい。)また、水溶液がアルカリ性を示す物質のことをアルカリ(alkali、発音:アルカライ)という。\nアルカリの中にはタンパク質や脂肪などを溶かすものもあり、皮膚などを溶かし、強いアルカリや濃いアルカリの中には危険な物もある。取り扱いには注意すること。皮膚などにアルカリをつけないようにする。もしアルカリが目に入った場合は、即座に大量の純水で洗い流し、先生や大人に相談および連絡をして、必要に応じて保険医などに診察してもらうこと。\n注意するのは、アルカリの液体だけでなく、アルカリの液体から発する蒸気なども、注意すること。蒸気を、かぎすぎないようにすること。また、目に入らないようにすること。\nこういう目にアルカリの入る事故が起きないように、あらかじめ、安全メガネなどを掛けておくなど、必要に応じて準備すること。\n水酸化ナトリウム(すいさんかナトリウム、sodium hydroxide、ソウディアム・ハイドロオキサイド)は、強いアルカリ性を示す。なので取り扱いには気をつけること。\n消石灰のことである。\nアンモニアの水溶液をアンモニア水(アンモニアすい)という。\n水酸化カリウムは、次のように電離する。\n酸性でもなく、アルカリ性でもない性質を中性(ちゅうせい)という。純水(じゅんすい)は、中性である。\n水溶液が中性をしめす物質は多くあるが、例を上げると、食塩水や砂糖水は中性である。リトマス紙に中性の水溶液をつけても、色は変わらない。\nイオンの観点から見れば、水溶液が中性の物質は、たとえば、\nなどがある。\n酸性の溶液とアルカリ性の溶液を混ぜた水溶液を作ると、酸の水素イオン\n\n\nH\n+\n\n\n{\\displaystyle \\mathrm {H^{+}} }\nと、アルカリの水酸化物イオン\n\n\nO\nH\n−\n\n\n{\\displaystyle \\mathrm {OH^{-}} }\nが結合し、水分子H2Oが出来る。\nこの反応を中和(ちゅうわ)と呼ぶ。\n酸とアルカリが中和した際には水が生じる。\nまた、中和の結果、その水溶液は中性に近づく。中和とは、酸とアルカリが反応して水を生じることを言うので、必ずしも水溶液は中性ではない。\n具体例として、塩酸 HCl と水酸化ナトリウム NaOH との、中和を考える。\nのような反応が起こる。\n(左辺前半の H+ +Cl− はHClに由来。左辺後半の Na+ + OH− は NaOH に由来。)\n中和をしただけだと、水溶液にNaClが溶けて電離したままなので、塩化ナトリウム NaCl は 出来ない。\n塩化ナトリウム NaCl のように、分子式が、酸とアルカリの中和で作れる分子になってる化合物を、塩(えん)と言う。\nつまり、\nである。\nたとえ塩化ナトリウムや塩化物で無くとも、もし酸とアルカリの中和反応で出来る化合物なら、その化合物は塩(えん)と言う。\n塩の定義を、より詳しく言うと、中和反応での、酸の陰イオンと、アルカリの陽イオンとが結びついた化合物を、塩(えん)という。\n詳しい定義で、たとえばNaClを説明すると、\nというふうに、確かに、塩(えん)に なっている。\n塩酸の水溶液に、水酸化ナトリウムを加えていくと、中和によって、だんだん中性に水溶液は近づいていく。そのまま、さらに水酸化ナトリウムを加えると、完全に塩酸の水素イオンを打ち消した時点では、水溶液は中性になる。さらに水溶液に水酸化ナトリウムを加えていくと、アルカリ性になる。\n塩酸に水酸化ナトリウムを加えて中性になった水溶液に、さらに水酸化ナトリウムを加えても、中和は起こらない。なぜなら、中性の水溶液には、あまっている水素イオンが無いからである。なので、完全に中和して中性になった水溶液に、水酸化ナトリウムを加えると、そのままアルカリ性になっていく。\n中和で生じる塩の種類については、反応に用いた酸とアルカリによって生じる塩が決まる。例えば、塩酸とアンモニア水が反応した時には水と塩化アンモニウム(えんかアンモニウム、ammonium chloride)が生じる。この反応は次の化学反応式で書かれる。\n以上の例のように、酸とアルカリを混合すると、中和によって、水と塩(えん)が生じる。\n・塩化ナトリウム(食塩) NaCl\n中和によって塩化ナトリウムを生じさせたい場合は、塩酸HClと水酸化ナトリウムNaOHの中和で、塩化ナトリウムNaClを生じさせる事が出来る。\n・硫酸バリウム BaSO4\n硫酸 H2SO4 と水酸化バリウム Ba(OH)2 の中和によって、塩(えん)として、硫酸バリウム BaSO4 が生じる。\n硫酸バリウムは白色であり、また、沈殿(ちんでん)を生じる。つまり、硫酸バリウムは白色の沈殿になる。\nしたがって、硫酸と水酸化バリウムの中和で、白色の沈殿が生じる。この、硫酸と水酸化バリウムの中和で生じた白色の沈殿が、硫酸バリウムである。\n反応式を書くときは、塩だけでなく、水も生じることを忘れないように。\nなお、硫酸バリウムは、医療用の放射線検査でもちいる造影剤(ぞうえいざい)である。\n・炭酸カルシウム CaCO3\n白色の沈殿である。石灰水を白く濁らせるのは、この炭酸カルシウム である。\n炭酸と、水酸化カルシウム水溶液との、中和で炭酸カルシウム CaCO3 が生じる。\n・塩化カルシウム CaCl2\n塩酸 HCl と 水酸化カルシウム Ca(OH)2 の中和で、塩化カルシウム CaCl2 が生じる。\n・硝酸カルシウム Ca(NO3)2\n硝酸 HNO3 と 水酸化カルシウム Ca(OH)2 の中和で生じる。\n沈殿は生じない。水溶液から硝酸カルシウムを取り出す場合は、蒸発や再結晶などによって取り出す。\n以上の塩の例のように、塩には、NaClのように水に溶けやすい塩と、硫酸バリウム BaSO4のように水に溶けにくい塩との、2種類がある。\n水溶液中での酸性やアルカリ性には強さがある。酸性やアルカリ性の強さを決める要因は、おもに、その酸の種類またはアルカリの種類と、水溶液中での酸またはアルカリの濃度で決まる。\n水溶液の酸性やアルカリ性の強さを表す値を pH(ピーエイチ、もしくはペーハー) と呼ぶ。pH が、 pH=7のとき、その溶液は中性である。\npHが7未満が酸性である。pHが小さくなるほど、溶液は酸性に近づく。\n一般に、pH=0で最も強い酸性である。\nまたpHが7より大きいと、アルカリ性である。pHが大きくなるほど、溶液はアルカリ性に近づく。一般に、pH=14が最も強いアルカリ性である。\npHは普通、0から14の範囲内である。\n私たち中学3年以上の読者は、イオンを知っているし、酸は水素イオン H+ によって出来ることも知っているし、アルカリは水酸化物イオン OH- などによって出来ることも知っている。\nつまり、PHの強さは、水溶液中の水素イオンや水酸化物イオンの数や濃度から、計算することができる。( PHとイオンの数の計算は、くわしくは、高校で習う。 )\n物質の中には、水溶液に接触させた時に、水溶液のpHの値によって色が変化するものがある。このような物質はpHを調べるのに用いることができるので、これらの物質のうちpHを調べる物質として実用化されている物質をpH指示薬(pH indicator、ピーエイチ・インディケイター)という。いわゆるリトマス試験紙もpH指示薬に含まれる。またリトマス試験紙のように、pH指示薬を試験用の紙に染み込ませて用いる事が多い。このようなpH指示薬を染み込ませてある紙をpH試験紙(pH indicator paper)という。\nリトマス紙やBTB溶液やフェノールフタレイン溶液は、pH指示薬である。pH指示薬には、他にもメチルオレンジなどがある。\npH指示薬は、その物質によって、色を変えるpHの範囲が限られている。たとえば、メチルオレンジはpH=3.1以下では赤色で、そこからpHが高くなると黄色味を増していき、pH=4.4では橙黄色である。pH=4.4より高いpHでは橙黄色のまま、ほとんど色が同じなので、このpHの範囲では指示薬として用いられない。\nなお、このように指示薬の色が変わるpHの範囲を変色域(へんしょくいき、indicator range など)という。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%8C%96%E5%AD%A6%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3"} {"text": "向きがちがう2つの力を合成した場合は、図のように、平行四辺形の対角線の向きの、合力となる。\n摩擦の無い斜面上では、そこにある物体には、重力と垂直抗力が図のように働く。それ以外の力は働いていない。\n重力のうち、斜面に垂直な分力は、垂直抗力と打ち消しあう。このため、斜面をすべる物体は、斜面から浮びあがったりもしなければ、斜面の地下深くに沈んだりもしない。\nそして、重力のうち、斜面に平行で斜め下向きの分力によって、物体は加速していく。\n下図のように、斜面の傾きが大きくなればなるほど、斜面に平行で斜め下向きの分力は大きくなる。そのため、斜面の傾き大きいほど、台車は、すばやく斜面をすべり落ちていく。\n速さとは、単位時間(1秒、1分、1時間)あたりの移動距離(m、km)のことである。速さの単位は m/s や km/h など, 長さの単位を時間の単位で割ったような単位である。\n電車で、「時速100キロメートル」といっても、止まっていた電車がいきなり時速100キロメートルで運転を始めるわけではない。\n時速10キロメートル、時速20キロメートル、時速30キロメートル、・・・としだいに加速していって、最終的に時速100キロメートルまで速さを上げていくわけである。\n実際には、電車は、なんらかの事情で、またある時は減速したりするが(たとえばカーブの近くでは速さを落すだろう)、またある時は加速したりする。\n電車や自動車などのスピードメーター(速度計)には、その各瞬間の速さが表示されてるだろう。\nこのように、各瞬間ごとの速さを、瞬間の速さという。\n瞬間の速さは、その瞬間を時間的中点とする区間の平均の速さに等しい。\nさて、駅から次の停車駅までの区間の全体的な速さを知りたい場合、そのような各時点での速さでは不便だろう。\nたとえば、東北新幹線が、東京駅から新青森駅までの約700kmを、およそ3時間で到着したとしよう。\nこの東京〜新青森の間での瞬間の速さは、途中の駅で停車したりなどで、瞬間の速さはどんどん変わる。\nしかし、最終的に、約700kmの距離を3時間で走行したわけだから、\nという計算により、およそ 233 km/h で電車が走行した事が分かる。\nこのように、区間全体で判断した速さのことを平均の速さという。\n水平でなめらかな床の上に、ピンポン玉やビー玉などを置いて、手で押すと、しばらく、ほぼ同じ速度で転がりつづける。摩擦があるので、しだいに減速していき、最終的には止まる。\nなにも、ボールのように転がる物質でなくても、たとえば、ドライアイスをなめらかな床の上に置いて、ドライアイスをおし動かすと(ゴム手袋をすること。けっして直接はさわらないように)、しばらくドライアイスはそのまま同じ速度で進みつづける。\nこれは、ドライアイスが出る気体(二酸化炭素)が、床とドライアイスのあいだに入りこむことにより、摩擦が減るからである。\nドライアイスにかかる力には、重力と抗力があるが、それらの力の方向はどれも、運動の方向とはちがう方向である。\nなので、また、ドライアイスにかかる力の合力はゼロである。つまり、図のように摩擦のない水平面の上ですべる物体では、図のように重力と抗力の合力はゼロである。\nさて、このように、滑りやすい物体を、地面に滑らせ、その様子を観察する実験を行なう。このとき、物体は向きも速さも変えずに動き続ける。この様な運動を等速直線運動と呼ぶ。\n運動している物体は、受けている力の合力がゼロである場合、向きと速さを変えずに運動を続ける(静止状態も「速さ0の運動」としてこれに含まれる)。この法則を慣性の法則という。\n理科では、物体に力を加えて、その力の向きに動かしたとき、仕事(英語: work)をしたという。\n仕事は、力の大きさと力の向きに動いた距離との積のことである。\n単位時間あたりにする仕事を仕事率(英語: power)という。\n仕事率の単位は, 仕事の単位を時間の単位で割ったものである。仕事の単位としてJ (ジュール)を用い, 時間の単位として秒を用いた場合の仕事率の単位は J/sとなり, これはW(ワット)という名前がついている。\n動滑車やてこなどの道具を使った場合、物体を動かすのに必要な力は小さくなるが、力をはたらかせる距離は大きくなり、仕事は道具を使わない場合と変わらない。このことを仕事の原理'という。\n仕事の概念を用いて、物体のもつ位置エネルギーが計算できる。\n質量Mの物体の重さは、重力加速度をg(≒9.8 m/s2)とすれば、Mgなので、位置エネルギーの基準を地面を0とすれば、地面から高さhにある物体の位置エネルギーUは、\nとなる。たとえばM=2 kg, h=3 mの場合, 位置エネルギーは, \nとなる。ここで、kg m2/s2 という単位は、Jという単位と同じである。\n機械の能力をしりたい時、単位時間あたりにどれだけの仕事ができるかを知りたいときがある。\nたとえば、モーターを使うときなど、そうだろう。\nそこで、仕事率が、次の式で定義されており、その単位はワット(記号: W)である。\n1秒間に1J(ジュール)の仕事をするのが、1W(ワット)である。つまり、W(ワット)はJ/s(ジュール毎秒)と同じ内容であるが、習慣的にWと書くのが一般である。\n仕事率の単位の「ワット」(記号 W)は、電力の単位の「ワット」(記号 W)と同じ単位である。\nもし読者がすでに「エネルギー」という量を習ってれば、ワット(W)とは、1秒間あたりに使われるエネルギーの大きさを表す単位ことである。\n滑車(かっしゃ)とは、中央に1本の軸を持つ自由回転可能な円盤(索輪)と、その円盤(索輪)を支持して他の物体に接続するための構造部とで構成される機構であり、円盤(索輪)外周部に接する棒状物または索状物の方向を案内する目的のほか、索状物の張力を他の物体に伝達したり 索状物へ張力を与える目的に用いる器具である。\nロープ、ケーブル、ベルト、あるいは鎖などの柔軟性を持った索状物を円盤の周囲にかけて使う場合には、円盤外周に沿って2つのフランジとその間に溝を設けて索状物が逸脱しないようにするのが一般的である。力の方向を変えたり、引張力を伝達するだけではなく、機械的倍率を向上させるのにも多用されている。5種類ある単純機械の1つである。英語では複数の滑車を組み合わせた装置を \"block and tackle\" と呼ぶが、日本語では「滑車装置」あるいは「複滑車」「組み合わせ滑車」などと呼ぶ。\n滑車には取付方法により二つの呼称がある。\n滑車装置の最も単純な理論では、滑車と線(ロープ)に重さがないと仮定し、摩擦によるエネルギー損失もないと仮定する。また、引っ張っても線は伸びないと仮定する。\n平衡状態では、動滑車にかかる力はゼロとする。すなわち、動滑車の軸にかかる力は両側の線に等しく分散して伝わることを意味する。これを示したのが図1である。線が平行でない場合でもそれぞれの線の張力は等しいが、方向が異なるためベクトルとして表した力の総和がゼロになる。\n次に、錘(負荷)の重量とそれが移動した距離の積は、線を引っ張る力(張力)と引っ張った長さの積に等しい。持ち上げた重さを引っ張った力で割った値が滑車装置の機械的倍率である。\nこのように、滑車装置は、なされる仕事(しごと)の量を変化させない。仕事は、力と距離の積である。滑車は力が少なくて済む代わりに、距離を犠牲にしている。少ない力で負荷を持ち上げることができるが、所定の高さまで持ち上げるにはより長く引っ張る必要がある。\n図2では、動滑車によって重量 W を半分の力で持ち上げることを可能にする。力(図1の赤い矢印)は線の両側に等しくかかり、その一方は天井に固定されている。この単純な装置では、力の方向と重量が移動する方向は同じである。この場合の機械的倍率は2である。重量を引き上げるのに必要な力は W/2 だが、所定の高さまで引き上げるのに2倍の長さの線を引き上げる必要がある。したがって、全体としてなされる仕事(力×距離)は同じである。\n図2aでは2つ目の滑車(定滑車)が追加されており、単に力の方向を反転させている。機械的倍率は変化しない。\n定滑車を追加することで機械的倍率を向上させることもできる。図3では、定滑車を追加することで機械的倍率が3になっている。それぞれの線の張力は W/3 で、それぞれの滑車の軸にかかる力は 2W/3 である。図2aのようにさらに定滑車を追加することで力の方向を反転させることができるが、機械的倍率は変わらない。それを図3aに示す。\nこのように理想的な滑車を追加していけば、機械的倍率をどんどん向上させることができる。実際には滑車を増やせばその重量もかかるし、摩擦も増大する。したがって、現実の滑車装置には使用可能な滑車数の限界がある。図4aには機械的倍率が4の滑車装置を示している。天井への固定箇所がまとめられ、動滑車が1つの軸でまとめられた実用的な実装を図4bに示す。\n滑車がすくない方が効率がよい場合もある。複滑車ではそれぞれの滑車やロープにかかる力が分散される点が最大の利点であり、それによって滑車やロープの耐えられる荷重を抑えつつ、大重量を持ち上げることができる。組み合わせ方によっては、滑車やロープにかかる力がそれぞれの場所で異なることもある。block and tackle では基本的にロープは1本であり、定滑車と動滑車をそれぞれ同じ軸に実装可能という利点がある。 \n図のように、傾き θ の斜面があるとしよう。計算の簡単化のため、斜面は滑らかであるとして、摩擦は無いとしよう。\nまた、0° < θ < 90° としよう。\nこの場合、物体を鉛直方向に h[m] だけ高い場所に上げる仕事を計算しよう。\nまず、物体を動かすのに必要な力は、斜面を用いた場合、図から分かるように、\nである。\nしかし、高さhまで上げるために必要な、斜面の距離は、\nである。\n結局、仕事 W は\nとなり、仕事は同じである。\nすでに、物体の運動は、物体に力が働いたときだけ変化することを見た。ここでは、物体を運動させたり変化させたりすることができる量を、その物体が持つエネルギーと呼ぶ。運動している物体は、それが静止しているボールなどの物体に衝突することによってボールを動かせるので、運動する物体もエネルギーを持っている、運動している物体の、運動によるエネルギーを 運動エネルギー(うんどうエネルギー、kinetic energy) という。\nさまざまな実験の結果によると、物体の運動エネルギーの公式は、 物体の速さを v [m/s]とし、その物体の質量を m [kg]としたとき、その物体の運動エネルギーをK[J]とすると、運動エネルギーの公式は\nである。\nこのように、運動エネルギーは、速さの2次式になる。\nなので、たとえば、自動車が時速30kmで走行しているときと、時速60kmで走行しているときとでは、速度が2倍になってるので、運動エネルギーは4倍になっている。\nこれが、自動車でスピードの出しすぎが危険な理由のひとつである。\n運動エネルギーを考えるときには物体の速度の大きさだけに注目し、速度の方向は考えないことに注意が必要である。ここで、あるエネルギーを持った物体は他の物体に衝突することで、持っているエネルギーを衝突した物体に与えることが出来る。このように、ある物体が持つエネルギーは他の物体に与えることが出来る。\nいっぽう、物体の衝突の際には、音が発生することがある。音は上で述べた通り空気の振動であるので、空気自身も振動を行なうために、速度を持たなければならず、エネルギーを持つことがわかる。この時には、もともと物体が持っていたエネルギーは、他の物体に移っただけでなく、音として放出されたということが出来る。\nこのように、ある物体が持っているエネルギーは、他の物体のエネルギーになることや全く違った種類のエネルギーとなることが知られている。エネルギーの種類としては、運動エネルギー(うんどうエネルギー)、位置エネルギー(いちエネルギー)、電気エネルギー(でんきエネルギー)、熱エネルギー(ねつエネルギー)などがある。\nふりこの運動では、位置的な高さがいちばん高い状態になったとき、速度が0である。いっぽう、高さの一番ひくい状態のとき、速度が最大の状態なので、運動エネルギーも最大である。\nこれは、一番高いときと低いときとの位置エネルギーの差が、運動エネルギーに変わった事と、同等である。\nふりこは、もし摩擦や空気抵抗(くうきていこう)を無視すれば、振り子はずっと振れつづけるので、振り子はいちばん高さの高い状態と低い状態とを何度もずっと 交互(こうど)に くりかえしつづける。\nこの振り子の動きについて、高さ最大の状態と速度最大の状態とのくりかえしの現象(げんしょう)を、エネルギーの考えから見れば、つまり、位置エネルギーと運動エネルギーは、交互に移りかわることができる。\nそして、エネルギーの形が位置エネルギーから運動エネルギーに変化しても、あるいは運動エネルギーから位置エネルギーに変化しても、両方のエネルギーを足し合わせた和(= 位置エネルギー + 運動エネルギー )は、変化しない。\nある物体について、位置エネルギーと運動エネルギーとの和を、力学的エネルギーという。\nつまり、ある物体について、その物体の力学的エネルギーを式で書けば、\nである。\nそして、摩擦などによる損失を無視すれば、力学的エネルギーがつねに一定であるという法則のことを力学的エネルギー保存の法則と呼ぶ。\n遊園地にあるジェットコースターは、力学的エネルギーにおける、位置エネルギーと運動エネルギーのうつりかわりを利用している。そのため、ジェットコースターは、高い位置にきたときはコースターの速度がゆっくりであり、低い位置にいるときほどコースターの速度が大きい。\nなお、コースターが始めに高い場所にのぼる時には、モーターによって、その高さまで上げられる。\nバネなども、振り子のように、速度最大の状態と、速度0の状態とをくりかえし、交互に運動をしつづける。\nバネなどのような、力を加えると伸びるが、手を離すなどして力をのぞくと元の長さに戻る性質を、弾性(だんせい)というのであった。\nそして、バネのように弾性のある物体にたくわえられたエネルギーのことを弾性エネルギーという。\n弾性エネルギーは、以上の説明で述べたように、位置エネルギーと似た性質がある。(※ 検定教科書によっては、弾性エネルギーを、バネの場合の位置エネルギーである、として見なす場合もある。)\nエネルギーには、運動エネルギーや位置エネルギーのほかにも、さまざまな形態がある。\nたとえば、光のエネルギーや、熱のエネルギーなど。\nそして重要なこととして、ある種類のエネルギーは、別の種類のエネルギーに変換されることがある。\nたとえば、太陽からの光のエネルギーにより、水が加熱され、水蒸気とり、上空で雲となれば、\nそれはつまり、光のエネルギーが、上空にある雲としての位置エネルギーに変換されたことになる。\nさらに雲が雨をふらせば、その落下する水滴の一部はダムに蓄えられる。\nそして、そのダムの水の落下する力学的エネルギーによって、発電用タービンをまわし、こんどは電気エネルギーに変換されてゆく・・・・。\n自然現象にかぎらず、工業製品でも同様である。たとえば電気ストーブは、電気を熱にしている。いっぽう、火力発電では、火の熱を使って電気を発電する。\nこのように、電気エネルギーと熱エネルギーも、相互に変換できる。\n生命現象でもエネルギーは変換されてゆくのは同じで、植物などのエネルギーも、もとをたどれば、太陽光の光エネルギーである。動物や植物の生き物の体のなかでも、さまざまな化学反応が起きているわけであり、物質のもつ化学エネルギーを利用しているわけである。\nこのように、エネルギーは、変換されてゆくことがある。\n熱も、蒸気機関車などを考えれば分かるように、エネルギーを持っている。熱のもっているエネルギーを熱エネルギーという。\nしかし、高温の物体を放置しておくと、しぜんに、まわりの物に熱を伝えてしまい、その物体は温度が下がっていって、最終的には、その物体は、まわりの環境と同じ温度になる。\nこのように、熱エネルギーは、まわりに散らばっていきやすい。\nこのように、熱エネルギーは、運動エネルギーや位置エネルギーとは、ちがう性質があるので、熱エネルギーは、力学的エネルギーには含めない。\n熱エネルギーの理科の実験では、耐熱フラスコに入れた水を沸かして蒸気にして、その蒸気の力で、小型の風車をまわしたり、あるいはピストンのシリンダーを動かす実験などがある。\n(※ あぶないので、ひとりでは実験しないこと。学校などで実験するさいも、やけどをしないように注意のこと。)\nなお、物がこすれる現象である摩擦(まさつ)によって、熱エネルギーが発生する。\n摩擦が起こるには、前提として、その物体が運動する事が必要である。つまり、摩擦が起こるには、前提として、運動エネルギーが必要である。\nそして、摩擦によって熱エネルギーが発生するということは、つまり、運動エネルギーが摩擦によって熱エネルギーへと変化した事になる。\n\nある物体に、日光などの光が当たると、その物体が熱くなるように、光は、その光を受けた物体に熱エネルギーを与える。\nということは、光そのものも、エネルギーを持っていることになる。\n光のエネルギーのことを光エネルギーという。\n物体が何かにぶつかったとき、音が出る。\nこれは、運動エネルギーが失われたぶん、音に変わったことになるから、つまり、音もエネルギーである。\n音のエネルギーのことを「音エネルギー」などという。\n音とは空気の振動であるので、つまり、物体の運動エネルギーが、空気の振動のエネルギーへと変わったことになる。\nわたしたちの耳が音を感じる仕組みは、耳の中にある鼓膜(こまく)があるが、空気の振動が鼓膜につたわり、そして鼓膜が振動するから、である。\nさて、音をテープレコーダーなどに録音するマイクの仕組みは、マイクの中に、空気の振動をうけて振動しやすいような部品が、集音(しゅうおん)をするための部品として取り付けられている。マイクの、その集音をするための部品が振動することによって、その部品の位置がわずかにズレるので、マイク内にある電気回路での電気の流れやすさが変わる。\nこの、マイク内の電気回路での電気の流れやすさが、空気の振動によって変わることを利用して、マイクは音を感じ取り、テープレコーダーなどに録音している。\nまた、スピーカーなど音を発生させる機械は、そのスピーカーなどの内部に電気で振動する部品が入っている。スピーカー内の部品を振動させることで、空気を振動させ、音を発生させている、という仕組みである。\n電気モータや、電気で動くオモチャのクルマなどを考えれば分かるように、電気によって運動エネルギーを発生させる事ができる。\nまた、静電気によって、髪が逆立つ(さかだつ)などの現象から分かるように、電気によって位置エネルギーを発生させる事ができる。\nつまり、電気そのものも、エネルギーを持っている。電気のエネルギーのことを電気エネルギーという。\n白熱電球(はくねつでんきゅう)や蛍光灯(けいこうとう)などの照明(しょうめい)の家電(かでん)などのよう、電気を流すことによって、光が出ることもある。\nつまり、電気エネルギーによって、光を発生させられる。\nまた、磁石をもちいた、理科実験でもよくある発電の方法では、磁石を運動させる必要があるので、つまり、この発電方式では、運動エネルギーが必要である。\n火力発電では、蒸気をわかして、その蒸気の力でタービンを回し、タービンに取り付けられた磁石のような物質を運動させている。つまり、火力発電は、熱エネルギーをもとにして、電気エネルギーを発電している。\nさて、太陽電池を考えればわかるように、光エネルギーをもとに、電気エネルギーを取り出すこともできる。\n化学反応によって、ある物質が高温になったり、逆に低温になったりする。つまり、化学反応によって、その物質の熱エネルギーの量が変わったことになる。\nまた、化学反応の結果、光が出る場合もある。\nわたしたち生き物の食事も、胃や腸などでの消化(しょうか)や栄養の吸収などによって、食品を体内で化学反応させて、食品のもつエネルギーの一部をもとに、熱エネルギーをつくり出している。そのため、生き物は、体温を持っている。\n白熱電球をつけるとき、その電球に与えられた電力の多くは熱に消費されてしまう。\nつまり、白熱電球をもちいて、電気エネルギーを光エネルギーに変換したいという目的なのに、目的外の熱エネルギーに多くのエネルギーが使われてしまう。\nこのように、機械や工業製品などをもちいてエネルギーを変換するとき、いくらかの割合が目的外の種類のエネルギーに変換されて消費されてしまう。\n白熱電球では、電球に与えた電気エネルギーの90%以上は熱エネルギーとして消費されてしまう。残りの約10%だけで、電球は光を出しているのである。\nいっぽう、蛍光灯では、同じ明るさにしたいとき、白熱電球より電力を小さくできる。\nさらに、LED電球では、同じ明るさにしたいとき、蛍光灯よりも消費電力を小さくできる。\nこのようにLEDや蛍光灯は、白熱電球よりも変換効率が高い。\nまた、LED電球は、同じ明るさの白熱電球や蛍光灯と比べて、あまり熱くならない。(※ かといって、さわってヤケドをしないように。興味があって実験したいなら、放射温度計や赤外温度計などで調べると安全だろう(推測)。直接はLEDにさわらず、LEDの明かりをオフにしてから、放射温度計などで調べるといいかもしれない。)\nこのLEDの温度上昇の少なさから、確かにLEDでは、光に変換される効率が高いことが分かる。\n投入されたエネルギーの対して、利用できるエネルギーの割合を、効率(こうりつ)という。\n白熱電球はエネルギー変換の効率が悪いことから、日本では近年、白熱電球が廃止されていき、LED電球などへの切り替えが進んでいる。\nエネルギーを使った機械には、力学的エネルギーを使った機械のほか、電気エネルギーを使った機械や、化学エネルギーを使った機械などいろいろな機械があるが、どんな機械であっても、熱エネルギーが利用しないのに発生してしまう。\nまた、熱に加えて、さらに音などの振動エネルギーとして、エネルギーが利用されずに放出される場合もある。(※ 東京書籍の教科書)\n※ 熱の伝わりかた などについては『中学校理科 第1分野/熱と温度』で説明した。\n物体を地面から離して速度は付けずに落下させた場合、手を離した直後の初速度は秒速0m/sだが、障害物などがなければ、1秒後は約9.81m/sの速度になっており、2秒後は約19.6m/sの速度になっており、3秒後は約29.4m/sになっており、・・・というふうに1秒ごとに約9.81m/sずつ速度が増していく。地面に当たるまで、このような加速を続けていく。\nこのような、障害物などが無く、落下を続けていく落下運動を自由落下(じゆうらっか、free fall)という。\nまた、速度の変化率のことを加速度(英語: acceleration、アクセラレーション)という。\n自由落下する物体は、重力によって、鉛直方向の下向き(つまり地面に向かう向き)に、一定の加速度 g (=約9.81m/s2)で加速するので、この重力による加速度を重力加速度(じゅうりょくかそくど)という。\n重力加速度の記号は、一般に小文字の g で表す。\n地球上での重力加速度 g の大きさは、約9.81m/s2である。\nこれは地上での重力による加速度なので、月面では1/6倍になることに注意せよ。\nまた、無重力下では重力加速度はゼロ( 0 m/s2)になる。\n加速度の単位はm/s2であり、速度の単位のm/sとは異なることに注意せよ。\n加速度の単位の意味は、一秒あたり(= 1/s )の速度 m/s の変化率なので、\nとなる。\nまた、加速度が一定の運動を、等加速度運動という。自由落下は等加速度運動の一つの例である。\n自由落下の重力加速度は、どの物体に対しても共通である。\n羽毛や紙などの軽い物を落下させた時にゆっくり落ちる現象があるが、この現象は、空気による抵抗である。実際に、実験で、真空にした透明容器内などで羽毛や紙などの落下をさせると、金属などと同じ落下速度で落ちることが、実験的にも確認されている。\n空気による運動への抵抗を空気抵抗(くうきていこう、air resistance)という。\nパラシュートなどを考えればわかると思うが、質量に対して幅が大きい物は、空気抵抗を受けやすい。\n紙や羽毛などが空気抵抗を受けやすいのも、パラシュートなどと同様の仕組みである。\n(なお、真空を作る実験は、真空ポンプなどを用いることになるが、ポンプの使用法に関する専門的な知識が必要なので、中学生には実験が難しいので、行わないほうがいいかもしれない。もし真空での落下実験に興味があれば、映像教材などを学校の先生に見せてもらうか等をしてください。)\nボールなどを斜め上向きに投げたら、どういった軌跡を描くだろうか。空気抵抗は考えないとする。投げたボールにも重力は働くので、上向きの速度が少しずつ減速していく。しかし横向きの速度成分は重力の方向とは別方向なので、横向き成分は変化をしない。\n結果的に投げたボールは鉛直下向きに加速していくので、右図のような軌跡を描く。\nこのような、物体を投げた時の軌跡を、放物線(ほうぶつせん、parabola、パラボラ)という。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC"} {"text": "石炭、石油、天然ガスを化石燃料(英語: fossil fuel、ファーソル・フューエル)という。これら化石燃料は、一般に地中に埋蔵されていたものを採掘して得られる。埋蔵量が限られている資源である。\nこれら石油・石炭・天然ガスは、大昔に死んだ生物の死体や残骸などの有機物が、地中にうずもれたまま、長い年月の間に化学変化をしてできたものである。なので、化石燃料は埋蔵量が限られている。\n電気の主な発電方法は、火力発電、原子力発電、水力発電である。これらの3種類の発電では、いずれも共通して、回転羽根を持ったタービン(羽根車)を回して発電している。タービンに永久磁石が取り付いており、その磁石がタービンと一緒に回転することによって、電磁誘導によって発電をしている。\n「火力」や「水力」や「原子力」とは、タービンの回転力を得る方法の種類である。\n火力発電では、火力により水を熱して蒸気にさせることで、その蒸気圧によって、タービンを回転させている。蒸気は回収して冷却して再利用するので、これらの発電所の立地は、一般に冷却水が入手しやすい海岸沿いにあることが多い。\n原子力発電も、核分裂を行う物質が発生する熱により、水を熱して蒸気にしていることで、タービンを回す力を得ている。\n原子力発電は、名前が「原子力」なので、てっきり、たとえば電池から電気が出るように原子核そのものから電気が出るのかと誤解されやすいが、そうではない。原子力発電における原子力も、火力発電での火力と同様に、蒸気を沸かすための熱源に過ぎないのである。\nいっぽう、水力発電では、高所にダムなどを作り、高低差を利用して、水を高所から低所に流す間の地点にタービンの羽根を置くことで、タービンを回している。\n火力発電に使われる石油(英語: petroleum,ペトロリアム)は、化石燃料の一種であるため、無限に使い続けることはできない。さらに、原子力発電で用いられる放射性物質(英語: radioactive substance)も、有限の地下資源であり、無限に手に入るわけではない。\nまた、原子力発電には放射性廃棄物の処分方法をめぐる、未解決の問題もある。\nなお、この他にも、太陽光発電や風力発電など、発電方式は多くある。\nなお、太陽光発電は、ある種の半導体に光を当てると電圧が発生し電池(※注意 化学電池ではない)になる光電池を利用した発電である。\n光電池に当てる光を太陽の光にすれば、太陽が存在する限りは、地球が滅ばなければいつまでも発電できる。\nなお、太陽光発電と、太陽熱発電とは、別の発電方法である。太陽熱発電は、太陽光を浴びた物質の熱を利用した発電であり、一般に光電池は利用しない。\n現在の文明は大量のエネルギー資源を消費しており、そのため人類は、現在の大量消費の生活を続けることはやがて不可能になると考えられる。現在でもエネルギー資源の保護を考えた議論も進んでいるが、いまだ明確な結論は出ていない。実際にはこの議論は結論が出る類の議論ではないので、各国が妥協をくり返すことが現実的な解決策となるかもしれない。\n火力発電では、蒸気を液体にもどすため、冷却水の流れる復水器によって、蒸気を冷却しているのであった。\nそして、その復水器のなかの水は、蒸気によってあたためられるので、熱をもつ。\nこの復水器の中の水の熱は、タービンをまわすほどの力は無くても、お湯をわかすなど別の用途には、じゅうぶん使えるほどの熱をもっている。\nそこで、この熱をそのまま放水路に流すのではなく、給湯や暖房などのエネルギー源として利用すれば、エネルギーが有効に利用できそうである。\nしかし、発電所で、かりに、排熱を利用して、お湯をわかしても、お湯を住宅街などに届けるあいだに、さめてしまう。\nふつう、発電所は、住宅街などから、遠い場所にある。\nなので、このような排熱による給湯のシステムは、発電所では、あまり行われていない。\nしかし、工場や大型のビルなどで、自家発電をするときは、お湯の消費地が近くにあるので、発電のさいに生じる排熱を有効に利用できる。\nそこで、工場や大型ビルなどで、自家発電をする設備のある場合は、さらに排熱をつかって、お湯をわかして活用するシステムのある場合もある。\nこのように、発電などのさいに熱を発生する機関で、その熱をほかのエネルギー源につかうシステムのことを コージェネレーション システム あるいは単に コージェネレーション という。(※ 「コージェネレーション システム」および「コージェネレーション」のともに検定教科書で紹介されている用語。)\nつまり、コージェネレーションシステムを利用するには、消費地のちかくで発電する必要がある。\n火力発電では、発生させたエネルギーのほとんどが排熱として捨てられてしまうため約35%くらいのエネルギーしか消費地で活用できないが、コージェネレーションではエネルギーを約70〜80%を活用できる。\nまた、一般の家庭でも、家庭用の燃料電池をつかって電気をつくるさいに、熱も発生するので、この熱でお湯をわかす事も可能であり、これが家庭用のコージェネレーションとして、実用化されている。\n※ 原子力発電などは、単元『中学校理科 第1分野/放射線』で続けて説明する。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AA%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC"} {"text": "科学技術の発展によって我々の生活は多くの恩恵を受けている。しかし、科学技術は様々な問題をかかえていることにも注意する必要がある。\n我々の生活は多くの先人達の知恵によって支えられている。ビルを建てることも電気を使うことも、物理学に支えられた近代的な技術がなければ不可能である。また、我々が用いている多くの素材は、化学の手法によって開発されて来た。このように、我々が用いている技術と知識に敬意を払い、科学技術の発展を支えていくことが望ましい。\n水素などの陽極の燃料を、触媒を用いてイオン化させ、余った電子を取り出す電池。陽極の燃料が水素の場合は、陰極で酸素および回収した電子と反応し水になる。このような仕組みで、電気を取り出す装置を燃料電池(ねんりょう でんち)という。様々な方式の燃料電池がある。\n水素ガスなどからエネルギーを取り出せる燃料電池(ねんりょう でんち)は、べつに発電方法では無い。電池は、発電した電力を蓄える装置でしかない。水素ガスを作るのに、べつの電力が必要になる。\n陶磁器やガラスなどの、いわゆる「焼き物」のような、材料はセラミックスceramicsである。\nセラミックスは一般的に耐熱性、耐摩耗性、耐食性に優れる。しかし衝撃荷重に弱い。\nまた圧縮荷重には比較的強いが、引張荷重には弱い。\nセラミックスは共有結合によって結合した材料によって作った個体状の材料である。\nセラミックは硬度がよく、プラスチックなどと比べて、硬い。高分子ではないので、ゴムとは違って伸びにくいし、曲がりにくい。傷がつきにくい。しかし、金属結合では無いため、延性がないので衝撃に弱くてもろい。また、成型が困難である。(高分子とは違い融点が高いためと、金属のような延性が無いためから。)\n耐燃性が良く、セラミックスは高分子とも違い、燃えにくい。セラミックスは融点も高い。\n水酸化アパタイトは、骨の無機成分である。\nこれとおなじ化学構造のセラミックで造った人工の骨は、生体と化学的に結合し、安定となる.\n生体内で安定であり、生体に害を及ぼさない性質を 生体親和性 (せいたい しんわせい)などという.\nさらに生体材料を生体に移植したときに、適切に移植すれば、骨組織などと化学的に結合する材料を生体活性材料などという.あるいは「生体活性がある」などという.\n水酸化アパタイトは弱アルカリ性の物質である。酸には良く解ける.アルカリには難溶である.骨には65%の水酸化アパタイトが含まれている.\nバイオガラスは多量の酸化カルシウムと燐酸を含むガラスである.骨組織との親和性に優れる.\n水酸化アパタイト、バイオガラスはともに生体活性である。\nアルミナは、生体内で耐食性があり、化学的に安定であり、また、生体に害を及ぼさないので人工骨などに用いられている.アルミナは生体内で骨組織とは化学結合を造らないので、生体活性はない。このような性質を生体不活性という。\n化学結合を造らないので、体内に固定する場合には、ねじ溝などを作ることにより機械的に固定する。\n自然界で、微生物などにより分解される樹脂を生分解性プラスチックという。\nまた生分解性プラスチックが、自然界で分解されることを生分解という。\n分子構造の種類は、おもに、タンパク質のものと、ポリ乳酸とポリグリコール酸のものや、デンプンやセルロース、キトサンなどからつくられるものがある。\n一般に、生分解性樹脂は親水性が高まるほど、生分解されやすくなる。\nポリアセチレンの導電率は半導体ほどである。ポリアセチレンは長い共役二重結合(きょうやく にじゅうけつごう)をもった化合物である。\n一般に化合物の価電子は、共役二重結合の内部を動き回れる性質がある。(この共役二重結合を動き回れる価電子をπ電子という。)この共役二重結合とπ電子が半導体並みの導電率の理由である。\n実用的な導電性ポリアセチレンには、さらに導電性を高めるため、添加物として、ヨウ素I2またはAsF6 が添加されている。ヨウ素もAsF6もそれ単体は、大した導電性を持たない。\nこのヨウ素などの添加によって金属並みの導電性を持つ。\n単体では導電性を持たないヨウ素を添加して導電性が向上するのは、ヨウ素に電子が吸収されるからであり、である。ヨウ素の他に、Br2やFeCl2なども、電子を吸収する。これらの性質を電子吸引性という。また電子吸引性をもった化合物をアクセプターという。\nNaやLiなどは電子を供与する物質であり、これらを添加することでも、ポリアセチレンの導電性を向上できる。\nこの電子を供与する性質を電子供与性と言い、また電子供与性のある化合物をドナーという。\nこの原理は、シリコン半導体などのドーピングの原理と似た原理である。\nなので共役π電子系の導電性高分子でも、ドナーやアクセプターの添加を化学ドーピングあるいはドーピングという。\nポリアセチレンのシス型とトランス型とで導電性は異なる。トランス型のほうが導電性が大きい。\nポリアセチレンそのものの合成は、チーグラー触媒を用いてアセチレンガスと有機金属化合物から合成できる。\nポリアセチレンの他の高分子でも導電性樹脂の開発が進められている。\nたとえばポリチオフェンやポリアニリンが有る。\nそれらも同様に、共役二重結合をもった導電性樹脂の場合は、導電の仕組みは共役二重結合によるものである。\nスターリング機関というのを、ひょっとしたら技術科の資料集で習うかもしれない。\nよく、自動車のモデルとして、スターリング機関を加熱して、エンジンに見立てるという教育がある。\nでは、加熱せずに、スターリング機関を(電力などで)運動させたら、どうなるのだろうか?\n実は、冷却器になる。\nこれをスターリング冷凍機という。\nそして、この冷却器の便利なところは、本格的なスターリング冷凍機なら、ー100℃くらいの、かなり低い温度まで冷却できる。\nもちろん、超電導を起こすための絶対零度には、まだまだ及ばない。なので、「断熱消磁」(だんねつしょうじ)と言われる、別の技術で、絶対零度に近づける。\nしかし、常温から、いきなり断熱消磁を行うのは効率が悪い。なので、断熱消磁を行う前に、まず先にスターリング冷凍機を用いて、冷却するのである。\nこの他、ある種類の赤外線センサーは、絶対零度に近いほど性能が良くなるので、このような極度の低温で性能を発揮する特殊なセンサーを冷却するのにも活用され、宇宙観測のための超高精度の赤外線センサーの冷却に、スターリング冷凍機が用いられている。\nアクリル酸ナトリウムCH2=CH-COONaを架橋させた樹脂は、多量の水を吸収する。\n給水の仕組みは、水が加わると、電離によってCOONa部分が、COO-とNa+に電離するが、このときイオンの増加により浸透圧が発生するので、水を吸収する。\nまた、COO-どうしは同種の電荷なので反発しあい、樹脂が膨張するので、膨張した隙間に水が入り込めるようになり、水を吸収する。\n用途としては、紙おむつや保水剤などがある。\nダイオード(diode)という半導体素子はp極とn極とがあり、電気が流れるのは、p極に加えた電圧がn極の電圧よりも高い時だけである。それ以外の場合は電気が流れないので、交流から直流への整流などに用いられる場合もある。\n他にも様々な用途がある。\nダイオードのうち、電流が流れた時にPN接合面が発光するものを発光ダイオード(はっこうダイオード)という。\nダイオードには過大な電流が流れると故障するので、回路には抵抗器を加えるのが一般である。\n水晶に力を加えると、電気が発生することは昔から知られていた。 \n逆に、水晶に電圧をかけると、伸び縮みをする。たとえば上部に正、下部に負の電圧をかけると伸びるときは、逆に上部に負、下部に正の電圧をかけると、縮む。よって交流電圧をかけると伸び縮みを繰り返し、ふるえる。振動に伴って、音が出るので、ブザーとして使える。\n水晶のように、力を加えると電圧が発生し、逆に電圧を加えると、ひずみの生ずる材料を圧電体(あつでんたい)という。\n圧電体に力をくわえると電圧が発生する。ライターの着火素子に火花を出す仕組みや、ガスコンロの点火用の部品や、圧力センサーとして使われている。\nアクリロニトリル CH2=CH-CN を重合させようとすると、CH2=CH-CN の二重結合の部分であるビニル基 CH2=CH-が、付加重合をして一重結合になることで、他の分子との結合が可能になる。\nアクリロニトリルを付加重合させたものをポリアクリロニトリルという。ポリアクリロニトリルを主成分とした繊維をアクリル繊維という。\nポリアクリロニトリルは疎水性であり、染色しづらい。\nそのため、ポリアクリロニトリル繊維に添加物として酢酸ビニル CH2=CH-OCOCH3 などを混ぜて、染色性を高める。\nアクリロニトリルを窒素などの不活性気体中で、温度200℃ から段階的に温度を上げ 温度3000℃程度の高温で熱分解すると、炭素を主成分とする炭素繊維(カーボンファイバー)が得られる。炭素繊維は強度が優れている。\n(※ 発展的記述です。けっして、「全部、おぼえよう。」なんてせずに、分かるとこだけ読み進めて言ってください。)\n小学校の理科で習うような電気部品では、デジタルの計算機は、つくれません。\n以下の真空管(しんくうかん)は、発展的記述である。電子部品の歴史の学習として読んでいただきたい。\nコンピュータに計算させる部品には、今でこそ半導体ICを用いているが、1940年ごろのアメリカでは、真空管(しんくうかん)というを用いていた時代もあった。\n電気回路の整流には今でこそ半導体ダイオードを用いているが、1960年ごろまでは、昔は、整流などに真空管を用いていた時代もあった。\nそもそも半導体ダイオードの「ダイオード」の語源が真空管の一種の、2極(ダイ・オード) 真空管のことが由来である。\n真空管(しんくうかん、vacuum tube)とは、ガラス管の中を真空(しんくう)にしたガラス管の中で、電源のマイナス極に結びついた電極と、電源のプラス極に結びついた電極を取り付け、マイナス極を熱することで電子を放電させることで電気をながすという、大きな電気部品です。\nこの2極真空管で、整流が出来ます。\n2極真空管の整流の仕組みは、離れた陽極(ようきょく)と陰極(いんきょく)に大きな電圧差をかけ、このとき陰極に高温を加えると電子が放出するという、陰極線(いんきょくせん)を利用したものである。\nそもそも陰極線(いんきょくせん、cathode ray、カソード・レイ)の発見そのものが、放電管では陰極からしか電子が放電されないという実験事実によるものです。\n電子の放電は、マイナス極を熱したときにしか、おきません。プラス極を熱しても、電子は放電しません。\nちなみに熱すると電子が放出しやすくなるので、このような電子を熱電子(ねつでんし、thermo electron)という。熱すると熱電子が出やすくなる、この現象のことをエジソン効果(エジソンこうか,Edison effect)という。\n電子の電荷(でんか)は、マイナスの符号であることに注意してください。電子がマイナスなので、電流の向き電子の動く向きとは反対になります。なので真空管での電流の向きは、陽極から陰極への向きです。\nこの陰極からしか電子が出ないという仕組みを使うと、電流を一方向のみに流す整流(せいりゅう)ができます。\n整流によって、陽極から陰極へ電流が流れます。(電子は陰極から放出され陽極に到達する。)\nこの加熱するという理由から、真空管は耐久性に欠陥があった。また、小型化も難しかった。半導体ダイオードや半導体トランジスタの実用化後は、加熱の必要がなく、真空管を用いていた多くの電子部品で、耐久性の高い半導体部品へと置き換わることになった。\nこの真空管に、さらに、もう一本、マイナス極の近くに、金属の網状のグリッド電極を取り付けます。3本目の電極であるグリッド電極の電圧の大きさを変えると、陰極から放電される電子の量が変わります。3本目の電極の電圧をかえるのに流した電流の大きさ以上に、陰極からの電流の大きさを変えることができます。これによって、3極真空管には、少ない電流の変化を、大きな変化に変える 増幅(ぞうふく)が可能になります。(増幅といっても、べつに無から有の電流を作るわけでは無く、外部電源は必要になる。)\n3極真空管は、半導体の実用化後は、半導体トランジスタ(transistor)に置き換えられていった。\n陰極線が発見されたばかりのころは、まだコンピュータへの応用には、気づかれていませんでした。それから時代が変わって1940年ごろに、第二次大戦のため、アメリカでは高性能の計算機が必要になり、新型の計算機の開発が進みます。この時代に、陰極線を用いた真空管で計算機が作れる、ということが、気づかれます。\nアメリカ軍は、真空管を用いた電子式の計算機の開発に、巨額の資金(しきん)を、つぎ込みます。\nそうして、完成した電子計算機が、エニアック ENIAC というコンピュータです。\n真空管は、陰極を加熱するという理由から、耐久性に欠陥があった。たとえば電球のフィラメントが焼き切れるように、真空管が熱で電極が焼き切れたりなどして、故障するということが多かった。\nまた、真空管は小型化も難しかった。\n\nしばらく年月がたち、半導体という物質に、いくつかの物質をまぜると、一方向にしか電子が流れないという現象が発見されます。半導体の中を、一方向にのみ、電子が流れます。半導体素子(はんどうたい そし)での整流の発見です。\nしかも、半導体により一方向に流すばあいは、真空管とはちがい、熱する必要がありませんでした。材料の中を電子がながれるので、放電をさせる必要もなくなります。\nなので、熱で故障することが無くなります。おまけに加熱のためのヒータを取り付ける必要も無くなります。\nまた、3極真空管のように、3つの電極を作って、増幅作用があることなども発見されます。\n半導体ダイオードや半導体トランジスタの実用化後は、加熱の必要がなくなり、真空管を用いていた多くの電子部品で、耐久性の高い半導体部品へと置き換わることになりました。\nトランジスタの場合は、電極の端子が3つあり、それぞれエミッタ(emitter)、ベース(base)、コレクタ(collector)と言います。ベースに電圧が加わらないと、トランジスタのエミッタ-コレクタ間には電流が流れません。\nこのようにトランジスタでは、ベース電圧により、エミッタ-コレクタ間の電流のオン・オフを切り替えられます。この仕組みをトランジスタの スイッチング作用(スイッチングさよう,switching) と言います。\nICとは、集積回路(しゅうせきかいろ)とも言われ、数mmのチップに、電子素子(でんしそし)を、とても多く、つめこんだ部品です。コンピュータ部品にICが使われます。パソコンだけでなく、計算する機能をもっている「デジタル家電」(デジタルかでん)などの製品のほとんどに、ICは入っています。\nIC産業や電子産業が、半導体(はんどうたい)産業と言われることもあります。ICの材料に、半導体(はんどうたい)という材料が使われることが多いからです。\n半導体(はんどうたい)とは、電気の流しやすさが、電気を流す金属などの導体(どうたい)と、電気を流さないゴムなどの絶縁体(ぜつえんたい)とのあいだの、半分くらいの流しやすさの材料なので、半導体(はんどうたい、semiconductor,セミコンダクター)といいます。\n元素のケイ素(元素記号:Si)であるシリコンなどが半導体です。\n高機能のICの製造には、とても、お金がかかります。どれだけ多くの素子をICチップに多く組み込めるかで性能がきまるので、最先端の精密(せいみつ)技術を持った大企業でないと、製造も開発も、出来ません。\nICの配線の加工は、とても細かいので、手では不可能です。おもに、光を用いています。\nたとえば写真の業界では、銀塩写真(ぎんえんしゃしん)は、光を用いて、化学反応を制御しています。半導体の製造でも、光を用いて、シリコンウエハにぬられた感光剤(かんこうざい)の化学反応を制御して、ICを作っています。\nなので、半導体製造装置(はんどうたいせいぞうそうち)には、レンズなどの光学部品が、ついています。\nシリコンウエハに、写真のように回路図をうつして、ICの配線をつくっているのです。\nLSI(「エル・エス・アイ」、大規模集積回路)とは、ICの中でも、1つのチップの中の電子部品の数が、とても多いICです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC1%E5%88%86%E9%87%8E/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93"} {"text": "生物が成長する際には、細胞分裂が起きている。一度の細胞分裂で、1個の細胞が2個に分かれる。3個には分裂しない。\n大まかに順序を見ると、細胞分裂は、つぎのようになっている。\n植物の細胞分裂の細かい順序\n以上の分裂の順序は、植物の場合の順序である。\n(動物の場合も、ほとんど順序は同じだが、植物で細胞のしきりが出来るところが、動物はちがう。動物細胞では、しきりのかわりに、くびれ が、外側から出来て、2個の細胞に分かれる。)\n染色体とは、細胞分裂のときに見える、ひも のような物である。染色体の中には、生物の形質を決める遺伝子(いでんし)が入っている。細胞分裂のとき以外は、染色体は顕微鏡では見えない。染色体の本数は、生物の種類ごとに決まっている。\n動物のヒトの場合、染色体の本数は22対の常染色体と1対の性染色体の46本である。\n(図中のピンク線は成長点ではなく、等間隔につけた点です)\n方法\n観察の結果、同じ根でも、成長の大きい場所と、成長の小さい場所があることが分かる。\n根の先端付近が、成長が大きい。いっぽう、根元の付近(種の近く)は、ほとんど成長していない。\nこの、根の先端近くの、成長の大きい(細胞分裂が活発な)箇所を、成長点(せいちょうてん)と言う。\nなお、根の先端そのものより、ほんの少しだけ根に近い側が成長点である。根の先端は、成長点を保護するための組織になっており、根の先端を 根冠(こんかん) と言う。\n方法\nタマネギを水に数日間つけて、根を出させる。観察するのは、この根のほうである。\n顕微鏡の観察では、まず、低倍率で100倍くらいで観察する。しだいに倍率を高くするため、倍率を変えていき、100倍~600倍くらいで観察する。\n1つの細胞あたりの染色体の本数は、生物の種類ごとに決まっている。\n染色体の本数は偶数である。\n生物の生殖(せいしょく、英:reproduction リプロダクション)のしかたには、有性生殖(ゆうせいせいしょく:Sexual reproduction)と無性生殖(むせいせいしょく、asexual reproduction )の、二つの殖え方がある。\n無性生殖には、おもに、分裂(ぶんれつ)・出芽(しゅつが)・栄養生殖(えいようせいしょく)がある。\n分裂(ぶんれつ、fission)とは一つの体が二つの体に分かれて殖える方法。\n分裂は、アメーバなど、おもに単細胞生物に多い生殖方法である。一部の多細胞生物の中にも、分裂で増える物がいる。\nからだの一部が膨らみ、その部分が分かれて、新しい個体をつくる方法\nヒドラなど。\n\n栄養生殖(えいようせいしょく、英語:vegetative propagation)では、体の一部が膨らむ。\n栄養生殖の例\n無性生殖では、親と同じ遺伝子の染色体を、子は受け継ぐ。\n分裂(ぶんれつ)・出芽(しゅつが)・栄養生殖(えいようせいしょく)のどれも、細胞分裂によって増殖しており、体細胞分裂(たいさいぼうぶんれつ)という方法である。体細胞分裂では、分裂の前と後で、染色体は同じである。そのため、親の形質(けいしつ)と、まったく同じ形質を、子供はそのまま受け継ぐ。\n無性生殖では、有性生殖とちがい、雄と雌が出会う必要が無いので、無性生殖では、比較的に短い時間に個体数が増えやすい。\n有性生殖では、一般の細胞とは別に、精子(せいし)や卵(らん)といった生殖のための特別な細胞をつくる。この、精子や卵などを生殖細胞(せいしょく さいぼう)という、いっぽう、ふつうの細胞を体細胞(たいさいぼう)という。\n精子は、1個の細胞でもある。細胞の観点から見た場合の精子のことを、精細胞(せいさいぼう)という。\n同様に、卵のことを卵細胞(らんさいぼう)という。卵は、1個の細胞でもある。\n精細胞や卵細胞の染色体の1対あたりの染色体数は、通常の体細胞(たいさいぼう)の半分の染色体数である。そのため、子は、親の遺伝子を半分ずつ受け継ぐ。\nこの半分ずつの染色体を持つ精細胞と卵細胞が受精して、卵が受精卵になることで、染色体の数は足しあわされる。受精卵の染色体の本数は元の体細胞と同じ本数である。\nふつうの染色体の一対では、母方からの染色体の持つ情報と、父方からの染色体の持つ情報とが、ちがっている。このように、染色体の一対は異なる情報どうしで、働きを補い合っている。\nしかし、もし、血のつながった親子どうしで交配して子供を産んでしまったり、あるいは兄弟姉妹どうしで交配して子供を産んだりすると、生まれる子供の染色体は、家族どうしの子なので、染色体の一対のうち2本とも似たような染色体となってしまい、染色体の情報が重なってしまう。このため近親交配では、生まれた子の染色体の一対では2本の情報が重なってしまい、その結果、身体に異常を持つ場合が多くなる。\n日本では法律で、血のつながった親子どうしの結婚は禁止されている。同様に兄弟姉妹どうしの結婚も禁止されている。\nなにも人間だけに限らず、犬や猫などの動物の場合でも、近親交配は、弱い子供を作ってしまう傾向が高い。有性生殖をする生物では、親子や兄弟同士の近親交配をすると、生まれる子供が身体などに不具合を持つ場合が多くなる。\n減数分裂(げんすう ぶんれつ)とは、精細胞や卵細胞ができるときの分裂で、染色体の数が半分になる。この精細胞や卵細胞ができるときの分裂を減数分裂(げんすう ぶんれつ)と言う。\n受精卵のときに、染色体の数が卵と精子の両方の染色体があわさって、もとの数の染色体にもどる。有性生殖では、子は、両親の染色体および遺伝子を半分ずつ受け継ぐ。親の染色体の半分を受け継ぐため、子の特徴は、親になる。しかし、子の染色体・遺伝子は、親の染色体・遺伝子と異なる。\nこのため、有性生殖では、多様な個体が生まれていく。\n有性生殖には、雄と雌が必要だが、子に遺伝的な多様性が得られるため、環境の変化に対応できる可能性がある。\nいっぽう、生殖細胞でない通常の細胞(体細胞)が分裂するときの分裂のことを、体細胞分裂(たいさいぼう ぶんれつ)と言う。\n分裂前の細胞の染色体と、分裂後の細胞の染色体は、まったく同じである。そのため、遺伝子は同じである。\n染色体の数は、分裂の直前に2倍に増え、分裂のときに、その染色体が半分になって、もとの数に戻るので、分裂後の染色体の数は分裂前の通常時と同じである。\n花粉の中に精細胞がふくまれている。\nめしべの胚珠の中に、卵細胞がふくまれている。\nホウセンカなどの植物の花粉と、寒天と砂糖(ショ糖)を用いて、顕微鏡などを用いて観察できる。\n砂糖を混ぜた寒天の溶液を固まらせた物は、めしべと状態が似ているので、この砂糖入りの寒天を使って、花粉管が観察できる。\nまず、砂糖を混ぜた寒天を作る必要がある。\n有性生殖をする動物には、雄(おす)と雌(めす)との区別がある。\n精子には、尾のような物があり、この尾を、べん毛(べんもう、flagellum フラジェルム)という。\n(※ 性染色体については、くわしくは、高校で習う。)\nヒトの体細胞は、染色体の対(つい)を23組、あわせて46本の染色体をもつ。\nヒトの精子と卵は、23組のペアのうち1本ずつ23本の染色体を持っている。受精卵になると精子と卵の染色体をあわせて46本の染色体となる。\n性の決定に関与する染色体を性染色体(せい せんしょくたい、sex-chromosome)と呼ぶ。いっぽう、性染色体でない染色体を、常染色体(じょう せんしょくたい)と言う。\nヒトの場合、男性ホルモン(テストステロンなど)を女性に投与しても、性別は変わらない。同様に、女性ホルモン(エストロゲンなど)を男性に投与しても、性別は変わらない。性ホルモンでは性別は変わらない。ヒトの性別を決定するのは遺伝子である。\n(※ 性ホルモンについて、より詳しくは保健体育や高校生物などであつかう。)\n受精卵から成長した個体になるまでの過程を発生(はっせい、embryogenesis)と呼ぶ\nそして発生中の子の体のことを胚(はい)という。つまり受精卵になってから成長いた個体になるまでの間の時期の子の体を胚(はい)という。\n例えば、ニワトリの雌(めす)は1日に1個程度の卵を産む。交尾をしないでも卵は産まれるが、孵化(ふか)しない。交尾をしないで受精しないで産まれた卵を無精卵(むせいらん)と呼び、交尾をして受精して産まれた卵を有精卵(ゆうせいらん)と呼ぶ。無精卵と有精卵をニワトリの体温と同じ37℃で保温すると、無精卵は変化しないが、有精卵は2日程度で血管が3日程度で心臓が形成され、7日程度で脳や目や手足などが形成され、20日程度で生まれヒヨコになる。血管や心臓が発生の初期に形成されるのは、卵黄にある栄養を血管や心臓で取り入れるためである。\n受精卵は体細胞分裂を繰り返して成長するが、その体細胞分裂を卵割(らんかつ、cleavage)と呼ぶ。\n卵割で生じた細胞を割球(かっきゅう、blastomere)と呼ぶ。\n受精卵は体細胞分裂を繰り返して成長するため、それぞれの細胞は受精卵の遺伝子を全てそのまま受け継ぐ。発生の過程で、それぞれの細胞は遺伝子の異なる部分を使うことで、それぞれ異なる細胞になっていき、これを分化(ぶんか、differentiation)と呼ぶ。つまり、個体の全ての細胞は同じ遺伝子をもつが、使う遺伝子の組み合わせで異なる細胞になっていく。\nカエル(flog)の受精では、精子は動物極側から侵入する。精子が卵に侵入した位置の反対側には、灰色の部分が三日月になっている箇所が生じる。これを灰色三日月(はいいろ みかづき)という。発生が進むと灰色三日月の位置に原口(げんこう)が生じる。\nカエルの卵は、卵黄が植物極側に片寄った端黄卵である。\nカエルの発生は、\nの順で起こる。\n原腸胚のころになると、胚葉は、外胚葉、中胚葉、内胚葉に分化する。\n神経胚のころになると、外肺葉は表面を覆う表皮(epidermis)と管状体の神経管に分化し、中胚葉は支持器官の脊索(せきさく、notochord)と体節(たいせつ、somite)と腎節(じんせつ、nephrotome)と側板(そくばん、abdominal plate)に分化し、内胚葉は管状の腸管(enteron)に分化する。\nその後、外胚葉性の器官では、表皮は皮膚の表皮、眼の水晶体や角膜、口や鼻の上皮に分化し、神経管は脳や脊髄、眼の眼胞や網膜に分化する。\n中胚葉性の器官では、脊索は退化し、体節は脊椎骨・骨格・骨格筋、皮膚の真皮に分化し、腎節は腎臓や輸尿管に分化し、側板は心臓などの内臓、血管の結合組織や筋組織に分化する。\n内胚葉性の器官では、腸管は前部が気管・肺、食道、胃、肝臓、膵臓に分化し、中・後部が小腸、大腸、膀胱に分化する。\n遺伝(いでん、heredity)とは、生物の形や性質が、遺伝子によって、親から子へ伝わることである。\nまた、生物の形や性質のことを形質(けいしつ、trait, character)と呼ぶ。\n形質には、親から子へ遺伝する遺伝形質(いでんけいしつ)と、\n環境の影響によって獲得した遺伝しない獲得形質(かくとくけいしつ、acquired character)がある。\nこのページでは、「形質」とは遺伝形質のことを指す。\nメンデルは、エンドウの形質の遺伝の規則性を調べた。\nエンドウには、種子の形が「丸形」(まるがた)の物と、「しわ形」の物がある。種の丸形の性質と、しわ形の性質は、1個の個体には、同時には表れない。\nこのような、けっして同時には現れない形質を対立形質(たいりつ けいしつ)と言う。\nエンドウの対立形質には、種子の丸形・しわ形の他にも、子葉の色(黄色、または緑色)、種皮の色(灰色、または白色)、花の位置(茎の途中、または茎の頂上)、草たけ(高い、または低い)などがある。\nメンデルは、この対立形質に注目して、エンドウの形質の遺伝の実験を行い、遺伝の規則性を調べた。\nメンデルは実験を行う準備にあたり、ある個体を親、子、孫、……と何代にもわたって自家受粉させ、丸形の種しか残さない個体を選びだした。\n同様に、何代にもわたって自家受粉させ、しわ形の種しか残さない個体を選びだした。\n裏をかえすと、丸形の種の個体を自家受粉させたときに、必ずしも、子の形質は丸形の種になるとはかぎらず、しわ形の種の形質を持つ子が出てくる場合もある。\nつまり、丸形の親であっても、しわ形の形質の遺伝子を持っている場合がある。\nなのでメンデルは、丸形の遺伝子のみを持っている個体を選び出すために、丸形の種を持つエンドウのみの自家受粉をくりかえし、何代にもわたって丸形の形質を表すエンドウを選び出す必要があったのである。\nこのように、何代にもわたって個体を自家受粉させても、丸形の種の形質のみを出し、しわ形の形質を出さない場合は、その系統の個体は、しわ形の遺伝子を持っていないと考えられる。\nこれらのように、何代にもわたって、同じ形質のみを現す系統の個体を純系(じゅんけい)と言う。そして、純系でない個体を雑種(ざっしゅ)と言う。対立形質どうしを持つ純系どうしの親をかけあわせてできた子は、雑種である。\n純系の親どうしを掛け合わせた雑種の子では、それぞれの形質で、それぞれ片方の親の形質だけが現れる。これを優性の法則(ゆうせいのほうそく)という。\nこのとき、雑種の子にあらわれるほうの形質を優性形質という。子にあらわれないほうの形質を劣性形質という。\n雑種の子は、優勢の形質の遺伝子も、劣性の形質の遺伝子も、両方とも親から受け継いでいる。しかし、劣性のほうの遺伝子は、優性の遺伝子があるときには形質が発現しないのである。\n優性の形質のほうの遺伝子を優性遺伝子と言う。劣性の形質のほうの遺伝子を劣性遺伝子という。\nここでいう優性・劣性の「優劣」とは、べつに生存に適しているかどうかを示していない。単に、子が、親から優性・劣性の両方の遺伝子を受け継いだときに、子に形質が現れるほうの遺伝子を「優性」といい、子に形質が現れないほうの遺伝子を「劣性」というだけの事である。\n…のだが、令和2年度教科書からは、「優性」「劣性」が、それぞれ「顕性」「潜性」に改められた。また、啓林館の教科書では「優性の法則」が削除された。また、日本医学会においても「顕性」「潜性」の使用が推奨されている。このため、学校で「顕性」、「潜性」と習った場合、そちらを使用されたい。\n純系の対立形質を持つ親どうしを掛け合わせた子を雑種第一代という。雑種第一代どうしを掛け合わせた子を(つまり純系の孫にあたる)、雑種第二代という。\n雑種第一代である子の、劣性のほうの遺伝子は、べつに消えたわけではないので、子どうしを掛け合わせて次世代をつくると、その次世代である孫にあたる雑種第二代では、ときどき両方の親から劣性の形質だけを受け継ぐ場合があるので、その場合には劣性の形質が現れる。\nまた、このような孫世代の実験から、劣性の遺伝子が消えたわけではないことが確認できる。\n劣性遺伝子が形質を現さない場合とは、優性遺伝子とあわさった場合だけである。\nオーストリア人のメンデル(1822年~1884年)は、遺伝のしくみを調べるため、エンドウを使って、次のような実験を行った。\nこのメンデルの実験によって、遺伝における優性や劣性のしくみが明らかになっていった。\n[1]\nメンデルの実験方法\nメンデルは、異なる形質をもつエンドウの品種を用意し、2年間にわたり育て、\n同一個体の配偶子間で行われる自家受精(autogamy)で\n全く同じで変化しない子孫を生じる純系(じゅんけい、pure line)の品種を選んだ。\nその際、対立形質が明確な、たがいに異なる対立形質を7つ採用し、\n実験に採用された対立形質\n1856年から62年にかけてエンドウの交配実験を行った。そして、実験結果を記録した。\n実験1\n1.種子の形について、\n丸と しわ の純系を用意して両親P(Parens)としたところ、\nその子である雑種第一代[2]F1(Filius)は、全て丸であった。\nこのように子(F1)では、対立形質の片方のみが表れる。\n子(F1)で現れる形質を 優性形質(ゆうせい けいしつ、dominant trait) と呼び、子(F1)で現れない形質を 劣性形質(れっせいけいしつ、recessive trait) と呼ぶ。\nここでの優性・劣性は、単に形質が現れやすい・現れにくいを意味し、べつに形質が優秀である・劣等であることを意味しない。\nこのエンドウの場合、種子の丸形が優性形質であり、種子の しわ形 が劣性形質である。\n優性形質のことを、単に「優性」と略す場合もある。同様に、劣性形質のことを、単に「劣性」と略す場合もある。\n実験2\nF1(子)を自家受精したところ、\n雑種第二代F2(孫)では、丸と しわ が5474個と1850個で、およそ 3:1 の出現比であった。\nこのようにF2(孫)では、\n優性形質と劣性形質が、およそ3:1の比で出現する。\n実験3\nF2(孫)を自家受精したところ、\nF2で しわ だったものは、F3で全てしわの純系となり、\nF2で丸だったものは、565株のF3の内、\n193株は丸の純系となり、\n372株は丸と しわ を3:1の比で生じた。\nこのようにF3では、F2で劣性形質を示すものは、劣性形質の純系となり、\nF2で優性形質を示すものは、このうち、3分の2は優性形質と劣性形質を3:1の比で生ずる子孫を作り、\n3分の1は優性形質の純系となる。\n実験4\n1.種子の形と2.胚乳の色について、\n種子の形が丸で胚乳の色が黄の純系と種子の形がしわで胚乳の色が緑の純系を用意して両親Pとしたところ、\nその子F1はすべて丸で黄であった。\n実験5\nF1を自家受精したところ、\nF2では丸・黄、丸・緑、しわ・黄、しわ・緑が315個、108個、101個、32個で、\nおよそ9:3:3:1の出現比であった。\n個体の遺伝子の構成を記号で表したものを遺伝子型(いでんしがた、genotype)と呼ぶ。\n遺伝子型はふつう優性形質をAやBなどのアルファベットの大文字で表し、いっぽう劣性形質をaやbなどのアルファベットの小文字で表す。\nある形質を決定する遺伝子は、ペアの染色体の同じ位置に1つずつ、あわせて2つあるため、アルファベット2文字で表される。\n遺伝子型によって現れる形質を表現型(phenotype)と呼ぶ。\n遺伝子型の記号を [ ] で囲んで表すこともある。( 例: [A] , [a] )\n実験1では、\n種子の形が丸をA、しわをaと表すとすると、\n遺伝子型は、丸の純系はAA、しわの純系はaaと表せる。\nこの両親Pの配偶子はそれぞれA、aとなり、\nその子F1の遺伝子型はAaとなり、表現型は[A]となる。\nこのように、優性形質の純系と劣性形質の純系とを交雑すると、\nその子は優性形質のみを表し、\nこれを優性の法則(law of dominance)と呼ぶ。\nなお、今日では、エンドウの種子の形を決める遺伝子は、\n実際には酵素を作る遺伝子であり、その酵素がデンプンを作って種子の形を丸にしていることがわかっている。デンプンの量は、AaはAAとaaの中間であるが、種子の形を丸にするには十分な量であるため、Aaの種子の形は丸となっている。\n実験2では、\nF1の遺伝子型はAaと表され、\n配偶子が作られるとき分離し、\nそれぞれの配偶子はA,aとなる。\nこのように配偶子形成の際ペアの遺伝子が分離し、\nそれぞれ配偶子に受け継がれることを分離の法則(ぶんりのほうそく、law of segregation)と呼ぶ。\nF1の自家受精では、\nその配偶子がそれぞれ受精するため、\nF2ではAA:Aa:aa=1:2:1となり、\n結果[A]:[a]=3:1となる。\n実験3では、\nF2で[a]だったものは、aaであるから、\nその配偶子はaであり、自家受精でaaつまり[a]となる。\nF2で[A]だったものは、AA:Aa=1:2であるから、\n3分の1のAAの配偶子はAであり、自家受精でAAつまり[A]となり、\n3分の2のAaの配偶子はA,aとなり、自家受精でAA:Aa:aa=1:2:1つまり[A]:[a]=3:1となる。\n実験4では、\n種子の形が丸をA、しわをa、胚乳の色が黄をB、緑をbと表すとすると、\n遺伝子型は、丸で黄の純系はAABB、しわで緑の純系はaabbと表せる。\nこの両親Pの配偶子はそれぞれAB,abとなり、\nその子F1の遺伝子型はAaBbとなり、表現型は[AB]となる。\n実験5では、\nF1の遺伝子型はAaBbとあらわされ、\n配偶子が作られるとき分離し、\nそれぞれの配偶子は、AB,Ab,aB,abとなる。\nF1の自家受精では、\nその配偶子がそれぞれ受精するため、\nF2で \nとなり、\n結果\nとなる。\n実験4・5では、\n種子の形だけあるいは胚乳の色だけに注目すると、\nそれぞれ優性の法則と分離の法則に従い独立して遺伝している。\nこのように、2つの遺伝子が異なる染色体に存在するとき、\nその遺伝子が互いに影響しないことを独立の法則(どくりつのほうそく、law of independence)と呼ぶ。\n遺伝子のある場所は、染色体のなかにある。染色体のなかにある物質で、DNA(読み:ディー・エヌ・エー)という物質が、遺伝子の本体・正体である。DNAとはデオキシリボ核酸(deoxyribonucleic acid)の略である。\nDNAは、A,T,G,Cという4種の記号で表される4種類の構成要素(「塩基」(えんき)という)が多数つながった鎖である。そして、DNAのその構造は、2本の鎖が一対になり、らせん状になっている。この塩基の並び方で、遺伝の情報が決定される。\nAとT、GとCとが、互いに結びつきあう。2本の鎖が形づくられている。\nつまり、塩基配列上では、AはかならずT と結びつく。具体例をいうなら、AはT以外の塩基とは結びつかない。たとえばAはGは結びつかない。AはCは結びつかない。Aは、他のA塩基とも結びつかない。\n同様にTもA以外の塩基とは結びつかない。Tは他のT塩基とも結びつかない。\n同様にGもC以外とは結びつかない。CもG以外とは結びつかない。\n遺伝子の正体は、DNAにおける塩基の並び方である。この遺伝子の並び方が、生物の形や性質を決めている。\nなお、DNAの二重らせん構造を発見した学者はワトソンとクリックである。なお、DNAそのものを発見した人物はミーシャという人である。DNAが遺伝子であることを解明した人物は、ワトソン・クリックとは別の学者(エイブリーや、ハーシーとチェイスなど)である。\n※ エイブリー、ハーシーとチェイスについては高校の範囲の人名であるので、中学生は暗記しなくてよい。\n\n一人の人間の中では遺伝子は、受精卵の時から、細胞分裂の際は、必ず複製されている。\n親から子に伝わる遺伝子は、組み合わせは変わるが、子は両親から遺伝子を受け継ぐ。\nそして、親から子へ、子から孫へと、遺伝情報を子孫に伝えている。\n遺伝子の研究成果は多くあるが、近年の成果を、この節では取り上げよう。\nこのような成果がある。では、関連する技術を解説していこう。\n生物学で言うクローン (clone [3]) とは、ある個体と、まったく同じ遺伝子を持つ別の個体を、作ることである。\n植物のクローンは、さし木などで、簡単にクローンが作成できる。\n現代でも技術的に難しいのは、動物のうち、ウシやヒツジなどのような、有性生殖する動物のクローン作成である。\n現在の技術では、動物のクローンの作成では、胚や体細胞から取り出したDNAを含む核を、未受精卵に移植する「核移植」によって作った卵を代理母の子宮に移植して、代理母にクローンを出産させ、クローンを作成する。\n通常の受精などとは違う仕組みである。\n現在の技術では、(代理母でなく、)出産されたクローン動物には、身体の異常がある事が多い。\nヒトのクローン作成は、各国の法律などによって禁止されている。\n遺伝子の組み換え方法には、いろいろな方法があるが、酵素を用いた方法が、有力な方法である。\nある酵素には、特定のパターンのDNA塩基配列を切断する酵素がある。このような、特定パターンの塩基を切断できる酵素を、制限酵素(せいげん こうそ、英: restriction enzyme)と言う。このような酵素を切断のパターンごとに集めて、DNAと混ぜれば、酵素との組み合わせによって、思い通りの切断が出来る。\n切断だけだと、単にDNAが切断されただけなので、DNAをつなぐ事の出来る別の酵素を用いて、つなげたりする。DNAをつなげられる酵素をDNAリガーゼ(ディーエヌエーリガーゼ、DNA ligase)と言う。\nこのほか、様々な組み換え方法を用いて、DNAを目的の配列に組み替えて、その組み替えたDNAを細胞などに戻して培養し、遺伝子組み換えが出来る。\n(※ 制限酵素やDNAリガーゼなどは、詳しくは、高校・大学で習う。中学では、制限酵素やDNAリガーゼは、覚えなくても良いだろう。)\n制限酵素の応用は、遺伝子組み換え以外にも、遺伝子の配列の分析・調査などにも応用できる。\n遺伝子組み換えをした品種は、自然界には存在していないので、それを利用するさいに未知の問題が起きる可能性がある。そのため、遺伝子組み換えをするさいには、注意が必要である。\n食品の成分表などに「遺伝子組み換えでない」などの注意書きがあるのは、このような組み換え品種を原材料に利用していない事を示している。\n自然界のバラは、青い色素をつくることができないため、青いバラは無かった。しかし、パンジーの花に、青い品種があるので、このパンジーの青い色素をつくる遺伝子を、遺伝子組み換えの技術をもちいてバラに導入することによって、青い色素をつくるバラが開発された。こうして、青いバラが開発された。2004年、日本で、青いバラが世界で初めて、つくられた。\n糖尿病の患者は、インスリンという物質をつくる事ができないため、体内でインスリンが不足し、そのため症状がでる。そこで、インスリンを大量生産するのに、微生物が使われている。\nヒトのインスリンをつくる遺伝子を、遺伝子組み換え技術をもちいて大腸菌に導入し、大腸菌にヒトのインスリンをつくらせる。\nそして、そのインスリンを、注射などで、体内に送っている事で、糖尿病の症状をやわらげてる。\n大腸菌によるインスリンの生産手法が発明されるまでは、化学的に合成したものか、ブタのインスリンを使っていた。しかし、ブタのインスリンは、ヒトのインスリンとは構造がちがうし、化学的に合成したものもヒトのインスリンとは構造がちがうため、有害な副作用が起こる原因になっていた。\nしかし、ヒトのインスリンと同じものを大腸菌でつくれるようになったので、糖尿病患者のインスリン注射によるアレルギー症状の発生が減った。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E7%94%9F%E7%89%A9%E3%81%AE%E7%B4%B0%E8%83%9E%E3%81%A8%E7%94%9F%E6%AE%96"} {"text": "地上のセキツイ動物の祖先は、もとをたどれば魚類であることが、地層の調査から分かっている。\nまず、親から生まれた子や、子だけでなく孫以降の子孫にもに、ある性質が受け継がれつづけることを、遺伝(いでん、英: heredity)という。\nある生物の遺伝に関する情報は、その生物の細胞の核の中の、染色体の中の、遺伝子(いでんし、gene)という部分にある。(※ くわしくは3年の理科で、遺伝子について習う。)\n生殖をして子供が出来るたびに、なんらかの理由により、すこしずつ遺伝的な特長が変化していって、あるいは、ある子供が生まれるときに突然に遺伝的な特徴が変異をして、その子が、そのまま親になって子供をうんで、次の世代へと変化が受け継がれていった、というようなことが、数多くの世代で繰り返されていって、種(しゅ)が変化していった。\nこのように、世代を重ねることに遺伝的な特徴が変化していき、その変化が受け継がれることを、進化(しんか)という。このため、進化には、とても長い年月がかかる。\n遺伝子が変わらない限り、遺伝的な特徴は、変わらない。\nこの分野で言う「種」(しゅ)とは、動物や植物などの種類とかのことである。植物のタネ(種)のことではないので、間違えないように。\n世代を重ねない変化は進化ではない。\nたとえば昆虫の、幼虫からサナギ、成虫への変化は、世代を経た変化でない。幼虫からサナギなどへの変化は、同じ世代内での変化であるので、進化ではなく、単なる変態である。\nまた、遺伝によって、子孫に受け継がれない、ある親だけでの変化は、進化ではない。\nたとえば、ヒトの親が、子供を生む前に、食べ物をたくさん食べて太っても、その変化は、別に遺伝子を変化させないので、進化ではない。\n同様に、ヒトの親が、子を産む前に、髪を切ろうが、その変化は遺伝子を変化させないので、進化ではない。\n動物が子供を産むたびに、親と特徴が少しずつ違うのは、動物の子は、遺伝子を、父親と母親の両方の性質を受け継ぐので、子の遺伝子は父とも母とも遺伝子が違っている。子の遺伝子の半分は、父親に由来しているが、子の遺伝子の、もう半分は母親由来の遺伝子である。\nこれはセキツイ動物の場合である。\nほかの種では、そもそも性別があるとは限らない。単細胞生物などでは、性別が無く、細胞分裂で個体数を増やす種もある。(※ くわしくは、生殖と遺伝子の関係については、中学3年で習う。)\n地層から分かる。古い時代の地層から見つかる物ほど、古い時代の生き物である。\nある種と、別の種が近いかどうかは、遺伝子の調査から分かる。遺伝子とは、細胞の中にある、遺伝をつかさどる部分であり、染色体の中に、ふくまれている。染色体は、核の中に、ふくまれている。(※ 遺伝については、くわしくは中学3年の理科で習う。)\nレントゲン写真やエコー写真などの透過写真で、セキツイ動物の、さまざまな種の個体が生まれる前の胚(はい)のころの写真を撮影すると、どの種でも、発生の初期の、最初のほうの姿は似たような姿をしている。\nこのようなことからも、セキツイ動物は、ほぼ共通の祖先を持つ可能性が高いことが分かる。\nたとえ現在は存在していない種でも、その種の化石が残っていれば調べられる。\nシソチョウ(英:archaeopteryx)という種の化石には、鳥の特徴とハチュウ類の特徴があり、この事実から、鳥類とハチュウ類は、近い種であることが分かる。\nシソチョウは恐竜に近い骨のつくりを持つが、前足が つばさ になっており、羽をもっている。シソチョウには、口には歯があり、尾が長く、ハチュウ類の特徴を持つ。いっぽう、つばさがあり、鳥類の特徴を持つ。\nそのほかの調査とも合わせて、鳥類はハチュウ類から進化したことが分かっている。\n1億5000万年前の地層からシソチョウの化石が見つかっている。\nさまざまな調査から、脊椎動物は、まず魚類があらわれ、魚類の一部が両性類に進化し、さらに両生類の一部がハチュウ類に進化したことが分かっている。\nそして、ハチュウ類の一部から、鳥類とホニュウ類が進化した。\n鳥類からは、ホニュウ類は進化していない。\n哺乳類の祖先は、ハチュウ類であると考えられている(なお、20世紀では、哺乳類の祖先が両生類だと考えられていた)[1]。\n種の近い物どうしは、特徴も近い。\nたとえば両性類は魚類から進化したが、両生類も魚類も、ともに水中に卵を産み、また、変温動物である。\n魚類は、えら呼吸である。両生類は、子はえら呼吸であり、両生類の親は、肺呼吸である。いっぽうハチュウ類は肺呼吸しか出来ない。\n呼吸からも、\nという進化の順序が見て取れる。\nハチュウ類、鳥類、ホニュウ類は、呼吸が、肺呼吸である。\n魚類そのものは、何から進化したのかというと、水中で生活する無セキツイ動物から魚類が進化したと考えられている\nセキツイ動物の骨格を見ると、形は違っていても、骨の数や位置が似通っているものが多い。\nオーストラリアに生息するカモノハシ(英:platypus)は、子を母乳で育てるのでホニュウ類だが、卵生であり、くちばしを持っている。このため、カモノハシは、ハチュウ類から哺乳類への進化の間の状態の種であると考えられている。\n必要ないけど カモノハシは毒を持っている。\nまたカモノハシは体が毛におおわれている。このことからも、ハチュウ類とホニュウ類との近縁関係が、うかがえる。\nシーラカンス(英:coelacanths)は魚類の一種であり、現在(2014年に本文を記述。)も種が現存している。胸びれ(むなびれ)の内部に骨があり、セキツイ動物の前足に当たると考えられている。地質時代の古くから、体のつくりが変わっておらず、そのため「生きている化石」(英:living fossil)などとも言われる。「生きた化石」とも言う。\nシーラカンス以外にも、地質時代など古くから体のつくりが変わっていない種はある。ゴキブリなども、古くから存在している。\nシーラカンスは、かつて「絶滅した」と考えられていた。\nセキツイ動物の前足は、骨格のつくりから、魚類の胸びれにあたり、鳥類のつばさに当たる。このように、役割がちがっていても、つくりの同じ器官のことを、相同器官(そうどう きかん)と言う。\nいっぽう、つくりがちがっているが、役割が同じ器官のことを相似器官と言う。たとえば、昆虫の羽と、鳥類のつばさ が、相似器官(そうじ きかん)である。\nハイギョ(英:lungfish)は、オーストラリアなどに住む魚類の一種である。魚類だが、肺がある。詳しく言うと、ハイギョの浮き袋が、肺の機能を持つ。このことから、魚類の浮き袋がもとになって、両生類の肺が進化したことが、うかがえる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E7%94%9F%E7%89%A9%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96"} {"text": "地球などの天体の、北極点と南極点をつなぐ見かけ上の軸を、地軸という。\n天体によって異なるが、地球の場合は地軸を約23.4°傾いており、太陽の周りを公転している。\nこの傾きは常に一定であるために、傾きがあることから、1年間で昼と夜の長さが異なり、季節が生じる。\nこれは地軸の傾きに関係しており、北半球の場合、夏は北の地軸を太陽に向かっているために、春秋に比べて\n長時間日光が当たる。そのために、春秋と比べて気温が高くなる。\nまた、冬は北の地軸を太陽と逆に向くために、冬はあまり日光が当たる時間がなく、気温も春秋と比べて低くなる。\n北半球と南半球の季節が異なるのは、地軸の傾きによって関係している。\n地球は約一日で、北極側から見て半時計周りに一回転している。これを自転といい、この回転における軸を地軸とする。\n地球は赤道上で、時速約1500キロメートルという高速で回転しているが、私たちは速さを感じず、宇宙に放り出されたりもしない。\nこれは、どういうことでしょうか? \nまず、一つの理由として、万有引力(ばんゆういんりょく)があるからと考えられており、\n全ての物は、お互いに引き付けあう。そして、地球も物体なので、他のすべての物を引き付けています。\nさて、地球が動いていても、私たちは、地球の動くスピードを感じません。これは、どういうことでしょうか? \nそれは、たとえば、私たちが電車やバスに乗ってる時、停止状態から動き始めたときにはスピードを感じますが、しばらくするとスピードを感じないのと同じ仕組みなのです。そして、車がブレーキをかけると、今度は反対方向のスピードを感じます。\n私たちが感じるスピードとは、じつはスピードの変化(へんか)を、感じているのです。だから、同じスピードで乗り物が動き続けていると、スピードを感じなくなるのです。\n中世に地動説を主張した、物理学者のガリレオ(Galileo Galilei/1564-1642)は、「船に乗っている人は、その船の速さを感じない」と例えて、地球が動いていても速度を感じないことを説明しました。\nまた、船の上で、まっすぐな柱の近くで物を落とすと、船が動いているのに、そのまま、その柱の根元ちかくに落ちます。これは、船といっしょに、船に乗っている人も同じ速度で動いているし、船に乗っている人が持っている物体も同じ速度で動いているからです。\n※太陽を観察する時の注意\n太陽の大きさは、地球の直径に比べて、太陽の直径は約109倍である。太陽の直径は約140万kmである。\n地球上から見た場合、太陽はそこまで大きく見えない。太陽の大きさは、月の直径のおよそ400倍にもなるが、\n地球から見える太陽の大きさは、月の大きさと同じくらいに見える。\nこれは地球と太陽との距離がとてつもなく長いからである。\n地球から月までの距離は約38万km、地球から太陽までの距離は約1億5000万kmにもなる。\n地球と太陽の距離は、地球と月の距離のおよそ400倍にもなるため、太陽と月は同じくらいの大きさに見える。\n体積としての比率を求めるため、1³:109³、1:(109×109×109)≒ 1:1300000 となるため、\nまた、太陽の体積は、地球の体積の約130万倍と考えられる。\n太陽の表面の温度は 約6000℃ であり、内部ほど温度は高くなり、太陽の中心部の温度はおよそ1500万℃とも考えられる。\n光の進む速度は約300,000㎞/sであり、地球から太陽までの距離は約1億5000万kmもあるために、\n150,000,000÷300,000=500、つまり500秒は約8分なので、\n太陽から出た光が、地球に届くまでには約8分もかかる。私たちが地上で見る太陽の光は、約8分前に太陽から放たれた光である。\n太陽の質量は、地球の約33万倍です。\n太陽を観測した写真をよくみると、表面に黒い しみ のようなものが見える。これを 黒点(こくてん) という。\nこの黒点は温度が周囲よりも低く、黒点付近の温度が4000℃ 〜 5000℃ だということが分かっている。\nそして、この黒点は、毎日、おなじ方向へ、移動していく。黒点が、太陽の東から西へ移動していく。\nこれは、太陽が自転をしているからである。太陽が球形のため、黒点の位置が、地球から見た太陽の周縁部に来たとき、黒点は潰れて見える。このことからも、太陽が自転をしていることが分かる。\n太陽は固体ではなく、ガス状の物体である。そのため、自転周期が緯度によって違う。太陽の黒点の周期から緯度を調べると、太陽の赤道では、自転周期は約25日である。黒点が東から西へ移動するのに、だいたい12日~13日ていど掛かり、その後、太陽の裏側に12日~13日ほど隠れ、そのあと、再び東側に現れるので、自転周期が約25日だと分かる。\nまた、太陽上のいくつもの黒点の速さから、太陽が気体であることが分かっている。太陽が固体だとした場合の計算と合わないので、太陽は気体だ、とされている。\n太陽の中心は、水素で出来ている。この水素の原子核 H が4個あつまり、核融合(かくゆうごう)をして、ヘリウムの原子核 He に、かわる。\nこの核融合反応(かくゆうごう はんのう)のときに、とても大きな熱エネルギーが発生する。\n中心部の温度は、理論上、約1600万度だと言われている。\n太陽の、光って見える表面の部分のことを 光球(こうきゅう) という。\n太陽の表面温度が 6000℃ というのは、この光球の温度が 6000℃ だと言うことだ。\n光球のまわりを、気体がとりまいている。これは太陽の大気(たいき)である。この太陽の大気(たいき)の層を 彩層(さいそう) という。\n彩層の厚さは数千kmから1万kmにも、およぶ。\n彩層は、ふだんは見えないが、日食(にっしょく)の時に、皆既日食(かいき にっしょく)の数秒間だけ見られる場合がある。また、とくべつな望遠鏡で見ることができる。\n地球と月と太陽が一直線にならんで、月が太陽の光球を 完全に おおいかくす ことを かいき日食(かいきにっしょく、皆既日食)と、いう。\nとくべつな望遠鏡で彩層を見ると、ところどころ、あかい炎(ほのお)が、もえあがっている。\nこれを プロミネンス という。あるいは 紅炎(こうえん)という。\nプロミネンスの高さは数万kmから数十万kmにも、およぶことがある。\n彩層の外側には、うすい気体が広がっています。この層を コロナ といいます。コロナには、光球からの光があたっているが、とてもうすいため、普段は全く見えない。\nコロナにあたった光は、光球からの強い光に、かきけされてしまい、普段は気づかない。\nコロナの明るさは、光球の100万分の1くらいなので、ふだんはコロナには気づけない。\n地球と月と太陽が一直線にならんで、月が太陽の光球を 完全に おおいかくす 皆既日食(かいきにっしょく) の時だけ、太陽の光球が隠れるため、コロナが白く輝く様子が見える。\n月は、直径が約3500kmです。地球の約4分の1の直径です。地球から月までの距離は、約38万kmです。\n月は、地球のまわりを回っています。約1ヶ月かかって、地球のまわりを月が1周します。\n月のように、ある天体が、他の天体のまわりを、まわることを、公転(こうてん)と言います。\n月の公転周期は、約29.5日です。\n月の満ち欠け(みちかけ)の原因も、月の公転によります。月の満ち欠けの周期も、公転周期と同じく、約29.5日です。\n月の表面に見える、黒く見える丸い穴をクレーターと言います。でこぼこした、くぼみがあります。\nクレーターが出きた理由は、いん石(いんせき、隕石)が衝突(しょうとつ)したからだろう、と考えられています。\n月が球形のため、月の周縁部では、クレーターが、つぶれて見えます。\nクレーターとはべつに、月の表面の、黒く見えるあたりを 海(うみ) といいます。「海」と言っても、月の海には、水はありません。\nそもそも、月には、水がありません。月には、空気も、ありません。月には、大気がありません。\n月の表面には、海(黒く見える部分)がいっぱいあるけど、裏には、ほとんどありません。\n月の表面の、白く見える部分を陸(りく)と、言います。\n月には雲が無いので、地球からは、月の表面が、よく見えます。\n夜空で月が明るく見えるのは、太陽からの光を反射しているからです。月そのものは、光を作っていません。太陽のように光を作る惑星を恒星(こうせい)と言います。いっぽう、月は、恒星では、ありません。\n月の直径は、約3500kmです。地球の直径と比べた場合、月の直径は、地球の直径の4分の1です。地球の方が大きいです。\n月と地球の距離は、約38万kmです。\nなお、太陽と地球との距離は、約1億5000万kmであり、月と地球の距離の約400倍です。\n月の重力は、地球の重力の約6分の1です。月は、地球よりも小さいので、月の重力も、地球より小さいです。\nたとえば、仮に地球上で1000グラムの物の重さを、月で、ばねばかりで、はかったとすると、月では166グラム( ≒ 1000÷6 )くらいの重さになります。\nいっぽう、月で、天びんで、重さを はかった場合は、両方の皿の上の物の重さが6分の1になるので、つりあいの結果は、地上と変わりません。\n月には、大気がありません。この理由は、月の重力が小さいので、空気を引き止められなかったからだろう、と考えられています。\n月は自転しています。月の場合、月の自転周期が、公転周期と同じ周期です。このため、月は、いつも地球に同じ面を見せています。\n太陽のように、光を発してる星を、恒星(こうせい)と言います。星座をつくる星も、恒星です。月は、恒星ではありません。地球から見た場合に、月が明るく見えるのは、太陽の光を反射してるからです。\nいっぽう、地球のように、その星じたいは、光を発しない星で、太陽のまわりを回っている天体を惑星(わくせい)といいます。\n月のように、惑星のまわりを回っている星は、衛星(えいせい、衛星)といいます。\nたとえば、月は地球の衛星です。月は、太陽の衛星では、ありません。\n月は、地球のまわりを、回っています。このように、星が、星のまわりを回っていることを、公転(こうてん)といいます。\n地球そのものも、太陽のまわりを、公転しています。地球が太陽のまわりを1まわりするのに、1年かかります。季節が1年ごとにくりかえす理由は、地球の太陽のまわりの公転です。\n太陽系は 銀河系(ぎんがけい) という星の集団の一部にしか、すぎません。つまり、銀河系の中に、太陽系があります。\n銀河系の形は、うずをまいた円盤状(えんばんじょう)の形をしていることが分かっています。銀河系の恒星の数は、約1000億個~2000億個もあります。\n銀河系の大きさは、とても大きいので、キロメートルだと、不便です。そこで 光年(こうねん) という 距離の単位を使います。\n1光年の距離は、そのあいだの距離を移動するのに、光でも1年もかかる長さです。1光年は約9兆5000億kmです。\nそして、この光年という単位をつかうと、銀河系の直径は10万光年です。\nなお、光の速度は、1秒間に約30万kmである。(地球を7週半するほどの速度に相当する。)\nわたしたちの太陽系は、銀河系の中心から、およそ3万光年、はなれた場所です。銀河系の中心は、私たち地球から見て、いて座の方向にあります。\n夜空で、数十個から数十万の星があつまって見える場所を 星団(せいだん) とか 星雲(せいうん) とかと、いいます。\n星座のアンドロメダ座のそばに見える、いくつもの星があつまったアンドロメダ星雲(アンドロメダせいうん)は、私たちの銀河系とはべつの星です。なので アンドロメダ銀河(アンドロメダぎんが) とも言われます。\n星には、いろいろな明るさのものがあります。明るい星から1等星(いっとうせい)、つぎに明るい2等星(にとうせい)、そのつぎに明るい3等星(さんとうせい)、つづけて同じように4等星・5等星・6等星・7等星・8等星,・・・・・と明るさによって分けられています。人間の目では、6等星(ろくとうせい)まで見えます。また星には、いろいろな色のものがあります。白っぽい星や赤っぽい星などです。さそり座のアンタレスは、赤っぽい色の1等星です。\n1等星の明るさは、6等星の明るさの、約100倍です。1等星より明るいものは0等星や、-1等星(マイナスいっとうせい)になります。\n星座を夜の空に、さがすときは、1等星や0等星などの、明るい星を、手がかりにして、さがすと、さがしやすいと思います。\n地球から見た星の見え方は、じつは、時間が立つとともに動きます。\nこの理由は、地球が自転(じてん)をしているからです。\n見ている空の方角によって、どの方向に、どのくらい星が動くかがは違います。北の空の星空では、だいたい1時間に15度くらい、北極星のまわりを、北極星を中心とした円に沿って、回っています。向きは、時計の針(はり)とは、反対向きに、北極星のまわりを回っています。\nところで15度という数字と、一日の長さについて、考えよう。\n一日は24時間でしたよね。24時間に15度をかけてみましょう。\n答えは、360です。なお、円の角度は360度です。\nさきほど説明した、「1時間で、星の動きは15度」というのは、北の空の星空での場合です。\n南の空や、東や西の空では、星の、1時間あたりの動きの方向などが、ちがいます。\nたとえば、7月7日の午後7時から、さそり座を1時間ごとに観察したとしましょう。午後8時ごろ、東の空に見えるさそり座は、午後10時ごろには南の空を通り、その後、西の空に動きます。星の動きの方向は、太陽の動きの方向と同じです。時間とともに星は動きますが、星の並び方はかわりません。\n日本から、北の空を見ると、 北斗七星(ほくと しちせい) と カシオペヤ座 が見える。\n北斗七星の形は、「ひしゃく」という水をくむための道具のような形をしています。\nまた、カシオペヤ座は、5つの星が「W」のような形で並んでいる星座です。\n北極星は、北の方角にあります。時間が経っても何日が経っても、北極星はいつでも同じ位置に見えるため、方角を知る際には重要な星です。北極星の周りの星は、北極星を中心に動いて見えます。実際には、他の星が北極星の周りを公転しているわけではなく、地球の自転軸の方向(南北方向)と同じ方向の延長線上に北極星があるため、地球から見た場合には北極星を中心にして他の星が公転しているように見えるのです。\nこれらの北の空の星は、日本から一年中夜に見ることができます。\n北極星は2等星なので、見つけにくいかもしれません。代わりに、北斗七星やカシオペヤ座を利用して北極星を探すことが一般的です。北極星とカシオペヤ座の間には、おおよそ北極星が位置しています。\nなお、北斗七星は星座ではなく、おおぐま座の一部であり、北極星は星座ではなく、こぐま座の一部であり、こぐま座のしっぽの先が北極星になっています。こぐま座のしっぽの先とその周辺は一年中見ることができます。\n毎日同じ時刻に星座の位置を測定すると、星座の位置は1ヶ月で約30度ほど北極星を中心に回転し、1年間には12ヶ月あり、12×30=360°となります。したがって、1日あたりの変化は約1度となります。このように、同じ時刻に見える星の位置が少しずつ動いていくことを「年周運動」と呼びます。\n夜空で星座をさがすのには、 星座早見(せいざ はやみ) という道具が便利です。\n地球は自転と公転を行い、この運動によって天体の動きが生じます。地球の自転は、自転軸を中心に西から東に向かって1日1回転します。この自転によって、太陽や星は東から昇り、西へ沈む様子が見られます。\nまた、地球の公転は、太陽を中心に約1年かけて軌道を周ります。この公転によって、太陽の位置が季節によって変わるのが観察されます。\n太陽や星の日周運動は、地球の自転によって生じる現象です。太陽は、地球の自転軸と傾いた面との交点(赤道上の春分点や秋分点など)を中心に、1日1回転するように見えます。\nこのため、太陽は東から昇り、西へ沈む様子が観察されます。また、夏至や冬至では、太陽の高度が最も高くなったり低くなったりするのが特徴的です。\n星の場合も同様に、地球の自転によって日周運動が生じます。星の位置によっては、春分点や秋分点と同様に、特別な位置関係になり、この位置を基準にして星座を区別することがあります。\n星の年周運動は、地球の公転によって生じる現象です。地球が太陽を中心に公転するため、観測者の位置から見える星の位置は、季節によって異なります。\n例えば、夏の時期には夏の大三角や冬の大三角が観測できるようになります。これは、太陽が黄道上を移動することによって生じる現象です。\n太陽の日周運動とは、地球上で見た場合に太陽が東から昇って西に沈むまでの一連の運動のことをいいます。\n太陽の位置は、地球上の観測者の位置と日時によって異なります。例えば、春分の日には、太陽は地球の赤道上にあり、昼と夜の長さはほぼ等しくなります。\nこれに対して、夏至の日には、太陽は地球の北半球の天頂付近にあり、北半球では昼が長くなります。また、冬至の日には、太陽は地球の南半球の天頂付近にあり、南半球では昼が長くなります。\n地球の公転と太陽の日周運動が重なり合うことで、季節の変化が起こります。たとえば、北半球の夏至の日には、太陽が北半球の天頂付近にあるため、北半球では夏となります。\n一方、南半球では冬至の日に太陽が南半球の天頂付近にあるため、冬となります。\n太陽を中心に、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の8つの惑星(惑星)が公転しています。これらの惑星を覚えるために、「水金地火木土天海(冥)」という言葉を使うことがありますが、冥王星(めいおうせい)は今では準惑星に分類されます。\nまた、月は地球の衛星であり、太陽の周りを公転しているわけではありません。このように、恒星(こうせい)の周りを公転する天体を惑星、惑星の周りを公転する天体を衛星と呼びます。\n太陽系には、惑星や衛星、そして小惑星や彗星(すいせい)などがあります。夜空に輝く(かがやく)惑星や月は、太陽に照らされているため見えるので、これらの惑星から見た地球も同じように輝いていると考えることができます。\n惑星とは、恒星の周りを公転し、自身も光を発しない天体のことです。太陽系には、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の8つの惑星があります。\nこれは、惑星を覚えるための助けとなる、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の順序を覚えるための呪文のような言葉です。冥王星は現在、準惑星に分類されています。\n惑星の周りを公転する天体を衛星と呼びます。例えば、月は地球の衛星であり、木星には、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストなど、約67個の衛星が存在しています。\n小惑星とは、おもに火星と木星の間の軌道で、太陽の周りを公転している、数メートルから数百メートルくらいの小さな天体のことを指します。小惑星は主に岩石で構成されています。\n彗星とは、太陽系外から飛来し、太陽に接近することで太陽光を反射して輝きを放つ天体のことを指します。彗星は核(かく)と呼ばれる固体物質と、その周りに広がるガスと塵(ちり)から構成されています。\n金星は、地球よりも、太陽系の内側にあるので、真夜中には金星は見えない。\n金星は、明け方、東の空に見えることから明けの明星、夕方、西の空に見えることから宵の明星といわれる。\n彗星(すいせい)は太陽系のひとつで長い尾をひいてかがやく星です。なかには、決まった周期で太陽のまわりをまわるものもあります。また、彗星の本体は『核』(かく)とよばれるよごれた氷のかたまりです。\n彗星の事実\nチリやガスを含む雪玉で、太陽とカイパーベルトの間を公転しています。太陽系の彗星の公転軌道はとても大きい卵型なので、太陽を1周するのに数十年から数千年をかけます。\n望遠鏡を使わずに見ることができる彗星はまれで、見るためには望遠鏡が必要です。\n太陽から遠く離れている彗星は、黒い岩石やチリが氷におおわれていますが、太陽に近づくと氷が溶け始め大量の水やガスが放出されます。地球でも彗星やその尾が見られることがありますが、たとえ1本に見えても実際には2本あります。\n彗星の多くは数kmから数百kmの大きさですが、その尾は数百kmの長さです。\n数百年ごとに見られるめずらしい見事な尾を持つ彗星を大彗星と呼びます。前回は1910年に確認されましたが、再び見るには数百年待たなければなりません。天文学者も大彗星がいつどのようにやってくるかはわかっていません。もし近いうちに彗星が見られると聞いたら、以下のやり方で彗星を見てみましょう。\n彗星の尾はぼんやりしていて見えないことが多いですが、尾が地球の大気に触れると燃え上がり、流星群(りゅうせいぐん)が見えるときもあります。\n彗星は太陽から遠くはなれて公転軌道で移動しているので、望遠鏡でも確認できず誰も数えられません。ですが、毎年アマチュア天文家が地球に接近した100以上の彗星を発見しています。2005年11月までに2857個確認され、その多くは太陽に衝突したり太陽系外へ飛び去ったりします。\n多く発見者にちなんで名付けられます。同時に発見された場合にはヘール・ボップやシューメーカー・レヴィのように連続した名前になります。\n昔は天文学の理解が足りなかったことから、いくつかの文明では彗星は王の死や戦争での敗北などの不幸がおとずれるきざしであると関連付けられていました。その一方で、富や食料の増加など幸運を招くきざしと考えた文明もあります。\n1910年にハレー彗星が確認された際には「彗星の尾によって地球が汚染される」という騒動が起こったものの、実際には地球の大気に何の影響もありませんでした。\n以下は、太陽系の惑星と月と冥王星の名前と、対応する古代ローマ神話またはギリシャ神話の神の名前と、それらがどのような特徴や象徴を持っていたかを簡単に説明したものです(日本語で書きますが英語表記と原語表記も併記します)。\n水星 (Mercury) - ローマ神話の神・メルクリウス (Mercurius) / ギリシャ神話の神・ヘルメス (Hermes)\n水星は、太陽系の惑星の中で最も小さく、軌道が短いことで知られています。メルクリウス(ヘルメス)は、旅行、商業、不正行為、盗みなどの神であり、素早く動くことを象徴する神でもあります。\n金星 (Venus) - ローマ神話の神・ヴィーナス (Venus) / ギリシャ神話の神・アフロディーテ (Aphrodite)\n金星は、地球から見て明るく美しい星として知られています。ヴィーナス(アフロディーテ)は、愛と美の女神であり、美しさ、愛情、芸術、そして生殖力を象徴しています。\n地球 (Earth) - ギリシャ神話の神・ガイア (Gaia)\n地球は、私たちが住む星です。ガイアは、地球を象徴する女神であり、自然、地球、生命、豊穣を司る女神として崇拝されています。\n月 (Moon) - ギリシャ神話の女神・セレーネ (Selene) / ローマ神話の女神・ルーナ (Luna)\n月は、地球の衛星であり、私たちが日々目にする自然現象のひとつです。セレーネ(ルーナ)は、月を司る女神であり、夜、月、美、そして神秘を象徴しています。\n火星 (Mars) - ローマ神話の神・マルス (Mars) / ギリシャ神話の神・アレース (Ares)\n火星は、赤い色が特徴の惑星であり、戦争の神としても知られています。マルス(アレース)は、ローマ神話やギリシャ神話において戦争、暴力、破壊を象徴する神であり、戦いの勇気や力を与える神でもあります。\n木星 (Jupiter) - ローマ神話の神・ユピテル (Iuppiter) / ギリシャ神話の神・ゼウス (Zeus)\n木星は、太陽系の惑星の中で最も大きく、軌道が広いことで知られています。ユピテル(ゼウス)は、天空や雷を支配する神であり、最高神とされています。また、権力、法律、秩序、そして父性を象徴する神でもあります。\n土星 (Saturn) - ローマ神話の神・サトゥルヌス (Saturnus) / ギリシャ神話の神・クロノス (Chronos)\n土星は、特徴的な環を持つ惑星として知られています。サトゥルヌス(クロノス)は、時間や収穫を司る神であり、長い時間とともに成長するものを象徴する神でもあります。また、財産や富、農業にも関係する神です。\n天王星 (Uranus) - ギリシャ神話の神・ウラノス (Ouranos)\n天王星は、太陽系の惑星の中で最も斜めに軌道を取ることで知られています。ウラノスは、天空や星座を司る神であり、大地や海を生み出した神でもあります。\n海王星 (Neptune) - ローマ神話の神・ネプトゥーンス (Neptunus) / ギリシャ神話の神・ポセイドン (Poseidon)\n海王星は、青い色が特徴的な惑星であり、海を象徴しています。ネプトゥーンス(ポセイドン)は、海や地震を支配する神であり、海の生物や漁業、航海にも関係する神です。\n冥王星 (Pluto) - ローマ神話の神・プルート (Pluto) / ギリシャ神話の神・ハーデース (Hades) \n冥王星は、太陽系の準惑星であり、かつては惑星とされていました。プルート(ハーデース)は、地下界の王であり、死者の支配者として知られています。また、豊穣や地下の富を象徴する神でもあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%A8%E5%AE%87%E5%AE%99"} {"text": "動物性プランクトンは、エサとして、植物性プランクトンを食べている。\n具体的に言うと、ミジンコやゾウリムシなどの動物性プランクトンは、ケイソウやアオミドロなどの植物性プランクトンを食べる。\nそして、動物性プランクトンも、メダカなどの小さな魚に食べられる。\nメダカなどの小さな魚も、さらに大きな魚に、エサとして食べられる。\nというふうに、より大型の生き物などに食べられていく。\n生きてるあいだは食べられずに寿命を迎えて死んだ生物も、微生物などにエサとして食べられていく。\nこのように、生き物どうしが、「食べる・食べられる」 の関係を通じて関わり合っていることを 食物連鎖(しょくもつれんさ) という。\n食物連鎖は、なにも水中の生き物だけでなく、陸上の生き物にも当てはまる考え方である。\nある生物が、別の生物を食べる場合、食べる側の生物を 消費者(しょうひしゃ) という。\n動物は、他の動物または植物を食べているので、動物はすべて消費者である。肉食動物も草食動物も、どちらとも消費者である。\n植物を 生産者(せいさんしゃ) と言う。食物連鎖の始まりの生物は、植物になる。草食動物は、生産者では無い。\n本ページの図のように、三角形で図示された生産者と消費者の個体数の関係を、生物量ピラミッド または 生体量ピラミッド などという。植物など、ピラミッドの下段ほど個体数が大きいので、ピラミッド状の三角形で図示されている。\n生物量ピラミッドでの「消費者」は、書籍での説明の必要に応じて、「第一次消費者」「第二次消費者」、・・・ など、多段階に分類される。\n第一次消費者は、第二次消費者に食べられる。第二次消費者の視点から見れば、第二次消費者は第一次消費者を食べる。\n第三次消費者が書かれていれば、第三次消費者は、第二次消費者を食べる。第二次消費者は、第三次消費者に食べられる。\nつまり、栄養は、\nというふうに、移動していく。\n第一次消費者が生きるためには、それに食べられる生産者が必要なので、よって、第一次消費者の数は、生産者よりも少なくなる。\nつまり、不等式で書けば\nである。\n同様に、第二次消費者が生きるためには、食料として第一次消費者が必要なので、\nとなる。\n生産者と第一次消費者との個体数の関係を合わせれば、つまり、\nとなる。\n第三次消費者が書かれている場合も同様にして、\nとなる。\nこのように、ピラミッドの上に置かれる個体ほど、個体数が少なくなる。\n書籍の必要に応じて、第四次消費者や第五次消費者が書かれている場合は、個体数の大小関係は\nの関係である。\nたとえば、第二次消費者の体の大きさは、第一次消費者を食べられるので、第二次消費者は第一次消費者よりも体が大きい。\nなんらかの理由で、生産量ピラミッド中での、ある生物の個体数の比率が変わっても、時間が経てば、もとどおりに近づいていく。\nそのため、しだいに、もとどおりに近づいていく。\n他の場合も考えてみよう。\nつりあいの状態から、なんらかの理由で、肉食動物が増えた場合も考えよう。仮に、この状態を「(肉食動物=増)」と書くとしよう。\nこのように、食物連鎖を通じて、個体数の比率は調節されている。\n(※ 画像を募集中。カナダでの、オオヤマネコ(捕食者)とカンジキウサギ(被食者)の個体数のグラフなどを作成してください。)\n環境破壊や森林伐採などで、ある地域で、大規模に森林が破壊されてしまうと、生産量ピラミッドの最下段の生産者が減ってしまうので、上の段の消費者の動物も、その地域では生きられなくなってしまう。\n人工的な環境破壊のほかにも、火山の噴火、山くずれ、洪水などの自然災害で、生物の量が大幅に減る場合もある。\n落ち葉や、枯れ木、動物の死がい や ふん などの有機物を分解して無機物にする生物を分解者(ぶんかいしゃ)と言う。\nおもに、菌類(きんるい)や細菌類(さいきんるい)が、分解者である。\n菌類とは、いわゆるカビやキノコのことである。シイタケやマツタケは菌類である。アオカビやクロカビは菌類である。\n細菌類とは、たとえば、大腸菌(だいちょうきん)、乳酸菌(にゅうさんきん)、納豆菌(なっとうきん)などが、菌類である。\n分解者の分解によって、有機物は、二酸化炭素や水や窒素化合物などに分解される。\nこれら、菌類や細菌類は、葉緑体を持っていないので、光合成によって栄養を作ることができない。\n菌類は葉緑体を持っていないため、菌類は植物には、ふくめない。細菌類も、同様に、植物にふくめない。\n菌類の栄養の取り方は、カビ・キノコともに、菌糸をのばして、落ち葉や動物の死がいなどから、養分を吸収している。\n食物連鎖で生物間を移動する物質は栄養素だけではなく、生命には望ましくない有害物も、食物連鎖を移動していく。\nたとえば、かつて農薬として使用されていたDDT(「ディーディーティ」と読む)は、自然界では分解されにくく、脂肪に蓄積しやすく、そのため食物連鎖を通じて高次の消費者へも取り込まれ、動物に害をおよばした。\n生物内で分解・排出できない物質は、体内に蓄積しやすいという特徴がある。さらに、その生物を食べる消費者の体には、もっと多く蓄積しやすい。このため、生態ピラミッドで上位の生物ほど、高濃度で、その物質が存在しているという現象が起き、この現象を生物濃縮(せいぶつ のうしゅく、biological concentration)という。\n毒性のある物質で、生物濃縮を起こす物質によって、高次の消費者を死亡させたり、高次の消費者の生命が脅かされた事例が過去に起きた。\n生物濃縮を起こす、危険物質は、DDTやPCB(「ピーシービー」と読む)といった人工合成物や、有機水銀や鉛(なまり)といった重金属(じゅうきんぞく)などがある。\n現在、アメリカおよび日本などでは、DDTの使用は禁止されている。\n日本で起きた水俣病は、おもに有機水銀の生物濃縮による。\nなお、水銀で毒性のあるのは、けっして有機水銀だけではない。無機水銀(硫化水銀[3] )や通常の金属水銀も猛毒である[4]。なお、有機水銀のことを「メチル水銀」ともいう。「メチル」とは化学の用語のひとつで、詳しくは高校の有機化学で習う。\n通常の金属水銀も無機物である、しかし「無機水銀」と言った場合、まぎらわしいが、けっして通常の金属水銀のことではなく、硫化水銀の事を「無機水銀」と言う。当然、こんな、まぎらわしすぎる用語を若者の中学生・高校生に引きおこす用語「無機水銀」は、中学高校の理科では習わない。\n正直、水俣病の水銀の種類をわざわざ「有機水銀」と強調する必要は、教育的には乏しいだろう。おそらく、硫化水銀などとの区別のため、わざわざ、水俣病の水の種類を「有機水銀」と強調しているのだろうか。しかし、「無機水銀」という用語を中学高校では教えられない一方で「有機水銀」と言う用語だけを教えるので、いまいち教育的な効果が不明瞭な状態になっている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E7%94%9F%E7%89%A9%E3%81%A8%E7%92%B0%E5%A2%83"} {"text": "地球温暖化(ちきゅう おんだんか, global warming[1]) の主な原因は、石油などの化石燃料(かせき ねんりょう)の大量使用によって、排気にふくまれる二酸化炭素(にさんかたんそ)により、空気中の二酸化炭素が増加したためと考えられている。\n日本列島は環太平洋造山帯(かんたいへいよう ぞうざんたい、英:Ring of Fire)に属しているため、地震と火山が多い。\n地震は、地下の岩盤が壊れて生じる断層(だんそう)によって起きる。このため、断層が多い場所で、地震が多い場所は、今後も断層が生じると考えられており、そのため今後も地震が起きると考えられている。地震が起こりうると考えられる断層地帯のことを、活動中の断層という意味で、活断層(かつだんそう)という。\n大地震では、家屋の倒壊などの地震の直接の被害のほかにも、地震によって生じた土砂崩れや、地盤の液状化現象など、2次的な災害も起こりうる。\n地震の震源(しんげん)が海の下や海の近くの場合では、津波(つなみ、英:tsunami)が起きることもある。なお、断層は海底でも生じる。\n2011年に起きた東北の太平洋沖の地震(東日本大震災)では、津波によって大きな被害が出た。東北の海岸には防潮堤があったが、津波の大きさは、防潮堤を乗り越え、そして防潮堤をこわすほどの波の大きさだった。\n火山の噴火では、溶岩や火山灰が吹き出す。\n1991年に噴火した雲仙岳では、くだけた火山物質が高温のまま、早いスピードで山を下る 火砕流(かさいりゅう、英:pyroclastic flow) によって、多くの被害が出た。\n森林地帯の樹木などの植物は、雨の際に水を吸収し、水をためておく働きがあります。\n洪水の原因の一つには、道路や住宅地などのために森林伐採をしすぎたという面もあります。\nこのため、山林の森林を伐採しすぎると、その山で土砂くずれが起きやすくなります。\n都市では、地下通路など地下の施設(しせつ)が多いですが、その地下施設に水が流れ込むこともあります。特に都市では、地面もアスファルトが多く、水が地面にしみこまないので、地下施設に水が流れ込みやすい面もあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%90%86%E7%A7%91_%E7%AC%AC2%E5%88%86%E9%87%8E/%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校英語 > 中学校英語/1年\n中学校英語/1年では、学年の英語について教授します。単語及び文法も必要に合わせて一緒にお読みください。\n英語であつかう文字のアルファベットには、大文字(おおもじ) と 小文字(こもじ)があり、それぞれ26字ずつあります。ひとつの大文字に、ひとつの小文字が対応し、対応する文字どうしは同じ呼び方で呼ばれます。例えば、A と a という文字は同じ/ei/(エイ)という呼び方です。\nそれぞれの文字は固有の音を持っているが、その対応は簡単ではなく1つの文字が複数の読みを持つこともあるし、\n異なった文字が同じ音を持つこともあります。前者の例では、 a については読み方がすくなくとも4通り存在します。\n※ アイ I の大文字を書くときは、上下の横棒をしっかりと書いてください。市販の書籍では、印刷の都合で横棒が見えづらい場合がありますが、しかし、横棒を書くべきです。書かないと、エルの小文字 l と誤解されかねません。\n\n「ヘボン式ローマ字」は、小学校の時習った訓令式のローマ字とは違いますが、よく使われるのでおぼえておきましょう。\nヘボン式ローマ字表\nヘボン式ローマ字の決まり \n1.訓令式のローマ字 (小学校で習ったローマ字)と表記が違うものがある。(表中の太字にしてあるところ)\nし:shi  ち:chi  つ:tsu  ふ:fu  じ:ji  ぢ:di づ:zu \nしゃ:sha  しゅ:shu しょ:sho ちゃ:cha ちゅ:chu  ちょ:cho じゃ:ja じゅ:ju じょ:jo \n「si」「ti」などはヘボン式ローマ字では使いません。\n2.のばす音は、「a,i,u,e,o」の上に「^」や「-」をつけて表しますが、省略することが多いです。\n例 公園:kôen  ラーメン:ramen\n3.小さい「っ」はふつう前の文字を重ねて表します。ただし、「ch」の前では「t」で表します。\n例 納豆:natto  抹茶(まっちゃ):matcha\n4.ふつう「ん」は「n」で表しますが、「m,b,p」の前では「m」で表します。\n例 サンマ:samma(「さっま」とも読めてしまいますが、気にしなくてかまいません。)進歩:shimpo\n5.「n」の後に「a,i,u,e,o,y」がくるときは、「^」や「-」をつけます。\n例 店員:ten'in \n 「tenin」だと、「てにん」に なってしまう。\n本屋:hon'ya \n 「honya」だと、「ほにゃ」に なってしまう。\n6.地名や名前の最初の文字は、大文字にします。\n東京(とうきょう):Tokyo 山田太郎:Yamada Tarô または Tarô Yamada\n7.「おお」「おう」を「oh」と表すことがあります。\n例 大阪(おおさか):Ohsaka\n次の a から z までの単語(たんご)を、書いて、練習しよう。\n文字を組み合わせることで、ある単語(たんご)を作ることができ、文中では、つねに単語が単位となって、文字があらわれます。単語は、それぞれ固有の意味を持ち、それらを組み合わせることで、文が作られます。そのため、それぞれの単語の意味を覚えることが、言語を修得する上では、重要になります。\n各々の単語の発音は、ふつうはアルファベットごとの音を組み合わせて得られるが、特に、複数の音を持つ語では、その字に対して、どの音が用いられるかを、単語ごとに記憶しなくてはなりません。\nまた、英単語は、それぞれ強く読まれる部分があり、アクセントといいます。\n例えば、 apple\nでは、 第一音節 ap- にアクセントがつきます。アクセントがつく文字は、ほとんどの場合は、ア・イ・ウ・エ・オといった母音(ぼいん)の場合が多いです。ここでは、\nの中では母音字は a, e の2つであるが、 e はこの単語では読まれないことから、アクセントがつく文字は a しかない事が分かります。\n文中でも英語には、独得の発音法があります。例えば\nについて考えます。この文は、\nという意味だが、この状況では、この文は、すでに目の前に何かがあることが分かっており、それがペンだということを示す文です。\nこのとき、文中で重要な単語は\nだけであるので、その部分が特に強調されて読まれます。このとき、強調というのは\n大声で読むというより、pの発声の前に、一瞬、口の中に空気をためて、それを吹き出すようにするとよいです。このような強調のため、じっさいの発音を聞くと、\nのように聞こえるものと思われます。ここで最初のディはthis中のth音が\n次のi音とつなげて読まれたものであり、次のシはthis中のs音が次のis中のi音と\nつながって読まれたものであり、ザは、is中のsと次のa音がつなげて読まれたものであります。\nさきほどの\nの文章のように、英語では、単語と単語のあいだは、少し空ける。\nなお文末の「.」はピリオドといい、日本語の「。」と似たような働きをしている。\n英語では、自分のことを言う時は、すべて「I」(アイ)です。\n日本語では、自分のことを「わたし」「ぼく」「おいら」「あたい」「わし」とか色々と自分のことを表す表現がありますが、しかし、英語には、そういうのは無く、「自分は/が」はすべて「I」(アイ)です。また、この「I」は、必ず大文字です。\n相手のことをいうときも同様に、英語では、「あなたは/が」はて「you」(ユー)です。\n日本語では、「あなた」「きみ」とか相手のことを表す色々な表現がありますが、しかし英語では相手のことを表す表現はすべて「you」または「You」です。\n\n文章中で、文の最初に置かれる文字は、必ず大文字になります。例えば、\nでは最初の文字である H が大文字になっています。\nまた、通常の文では、文の最後には\nという記号がつきます。\nこの「.」記号のことをピリオドといいます。つまり、ふつうの文の終わりには、ピリオドがつきます。\nこの記号は、日本語の\n(句点)に対応する記号です。\nたとえば、\nなら、ピリオドのある場所は、Helloの後ろにピリオドがひとつ、I am Tom のうしろにピリオドが1つ、years old のうしろにピリオドが1つあります。\nこの文(Hello. I am Tom. I'm twelve years old.)で、合計3つのピリオドがあります。\n疑問文(しつもんぶん)の場合ではこの記号は\n(クエスチョンマーク)で終わります。疑問文については後により詳しく学びます。\n例文に\nとありますが、この I am 〜 は日本語で「私は~です」を表す重要な表現なので覚えてください。また、2行目の\nの You are〜 は日本語で「あなたは ~ です」になります。\nそこで日本語で「○○は △△です」という形になる文章をあげていきます。\nそれぞれの am,are,is などを「be動詞」(ビーどうし)といいます。\nbe動詞のある文章の語順は、< 主語 + be動詞 + 〜.> の順が、質問ではない文章のときの、基本的な順序です。\n疑問・質問の場合、たとえば\nとありますが、この場合、You are from Tokyo. (ユー アー フロム トーキョー. 、あなたは東京出身です)という文を基準に考えると、you と are の位置が入れ替わっていますが起きた状態です。\nこのように、疑問文では、主語とbe動詞が、入れ替わります。\nbe動詞をつかった文の疑問文は、<be動詞 + 主語 〜?> の形になります。\nまた、’’’人名・地名・国名・曜日・月などの固有名詞と、I は、かならず最初の一文字が大文字になります。’’’\nまた、疑問文には、一応、決まった答え方があります。\n例えば、\nという問に対しては聞かれているのが話し手自身のことであることから、 肯定の場合には\nと答え、いっぽう、否定の場合には\nと答えます。\na とは、ひとつのなにか、を指し示すときに使います。そして、そのひとつの物の前に、a を置きます。\nつまり、この例文では、ペンが1つ、ということが分かります。\nエンピツ(pencil)が1本なら、\nとなります。\nまた、a の位置は、かならず、その1つの物の直前に来ます。つまり、< a + 名詞の単数形>の順序になっています。\nただし1つのリンゴ(apple)の場合、an apple (アン アップル)となります。an は「アン」と読みます。つまり、\nとなります。\nタマゴ egg の場合も、\nとなります\napple(アップル)やegg(エッグ)は、発音のさいしょが「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」のうちのどれかです。\nその場合、1つのものなら、 an になります。\nつまり、1つのオレンジ(orange)なら、\nとなります。\nanの位置も、その1つの物の直前に、来ます。\nつまり、母音で始まる名詞について、「ひとつの〜」といいたいときは\nと、なります。\nもし、ノート(notebook ノウトブーック) や机(desk デェスク)やイス(chair チェーアァ)が1つなら、\nそれぞれ、\nとなります。\nなお、私( I )が一人でも、 a は、つけません。相手(you)が一人でも、a は、つけません。これ(this)、あれ(that) が一つでも、a は、つけません。\nplay が動詞である。\nなお、tennis (テニス)は数えられないので、 a をつけない。\n文法\n英語の動詞でbe動詞でない動詞のことを一般動詞(いっぱんどうし)と呼びます。例えば、\nなどが一般動詞です。\nほとんどの動詞は、一般動詞です。\n一般動詞を用いる文でも、語の順序は be動詞 を用いる場合と変わりません。前から順に、<主語 + 述語>の順で単語を並べます。\n上の文では\nの中ではIが主語であり、動詞は like です。\nのように、人にものを尋ねるときの文章を疑問文(ぎもんぶん)と呼びます。\n疑問文の語順は、動詞が一般動詞である場合と、be動詞である場合とで、語順が異なっています。\nいっぽう、be動詞を用いた文の疑問文を作る場合には、まず、be動詞を文頭に持って来て、それ以外の単語を平叙文の場合と同じ仕方で並べます。\nつまり、\nの順です。\nたとえば上の文である\nなら、これは、平叙文の\nが、疑問文になるために are が文頭に動かされた結果です。\nまた、一般に、疑問文の発音では、文章の最後をあげる音調をつけます。\n疑問文に対する答え方には、一応、決まったものがあります。\nというものです。\nここで「yes」は「はい」という意味の言葉です\n「No」は「いいえ」という意味の言葉です。\n「yes」とか、なにかについて、そのとおりだと主張することを肯定(こうてい)といいます。\nいっぽう、「No」とか、「I'm not」とか、なにかを「ちがう」と主張することを、否定(ひてい)といいます。\nなお、Yes/Noの返事をするときは、「Yes I am.」の「am」や、 「No I'm not.」「not」とかの音を、やや、のばします。\n「I am」 は、ふつうだったら、I am Tom 「アイ アム トム」のように、「アイ アム」と発音しますが、 Yesの返事では、「イエス アイ アァム」のように、やや、のばすわけです。\n同様に、 「I'm not」は、I'm not Tom. なら「アイム ノット トム」ですが、しかし No の返事では、「ノー、アイ ドーント」のように、やや、のばすわけです。\nのように、一般動詞の疑問文をいう場合は、動詞\nを文頭に持って来て、それ以外の語は通常の文と同じ順番で並べます。\nつまり、\nの順です。\nただし、英語の文には2つの動詞が出て来てはいけないという原則から、\n上の do は補助動詞(ほじょ どうし)と呼ばれます。 (※ 「補助動詞」の名前は覚えなくて良い。)\nまた、do自体には動詞としての意味もあるので(「する」「おこなう」という意味が動詞doにある)、どちらの使い方であるかを見分ける\n必要があります。\nとりあえず、一般動詞での疑問文では、「はい、そうです」という意味の返事の場合には\nと答えます。\nいっぽう、「いいえ、ちがいます」という意味の返事の場合には\nと答えます。\nYes/Noの返事をする場合、文中の「do」(ドゥー)や「don't」(ドント)は、やや長めにのばします。\n通常の会話中では、2度出て来た語で、既に話し手と聞き手の両方が\n何の語であるかを知っているときには動詞は\nで代用されることが多いことから、一般動詞がdoで代用されたのです。\nここで、これらの文章であらわれる主語と述語については会話中での対応する\n語と対応させる必要があります。\n私は毎週末に寿司(すし)を食べます。それは、とてもおいしいです。すしは日本の伝統的な食べ物です。あなたは醤油(しょうゆ)を知っていますか。それは、ソイソースです。\n※ delicious の単語は、1年生の範囲を越えてるので、delicious を覚えるのは後回しでよい。\n2個以上のリンゴは apples となるように、複数では名詞のうしろに s がつきます。\n複数形には、不規則な変化をする名詞もあるので、あとの節で、もっと詳しく説明します。\nは、\nの意味を否定したものです。\n主語がある動詞によって表わされる動作をしないことを表わす文を否定文(ひていぶん)と呼ぶ。\n一般動詞の文でも否定文を作れるし、be動詞の文でも否定文を作ることができます。\n一般動詞の文に対しては、否定文は、通常の文の語順を保ったまま、動詞の前に\nを付け加えることで作られます。\nここで、 not は否定(ひてい)の意味を表わす副詞であり、do は動詞の意味を持たないため、補助動詞です。\nここで、\nという単語は do not を省略したものであり、このように省略された語句を省略形(しょうりゃくけい)という。\ndon'tなどの「 ' 」という記号は、 アポストロフィ といいます。省略形では、一般にその発音は\n元の語の発音と比べて変化する。\nいっぽう、be動詞の場合には、上の方法とは異なっており、通常の文の並びを保ったまま、 be動詞のうしろに not だけを用いることで否定文を作ることができる。\n例えば、\n(発音:アイアムア・ドクター)\nを否定する文は\n(私は医者でありません。)(発音:アイアム・ノット・ア・ドクター)となる。\nis,are に対しては、\nなどが省略形として存在する。\nam not に対する省略形は存在しない。\n聞き手に対して何かを命令するような文を命令文(めいれいぶん)と呼ぶ。\n命令文を用いるときには聞き手は目の前の相手に\n決まっているので文の主語は省略される。そのため、例えば平叙文が\nだったときには、\nが、命令文となる。\nただし、このような命令形そのままの表現は、上司などの目上(めうえ)の人に対しては、失礼になる。\nもし、目上の人にむかって、おねがいをしたい場合は、つぎの節で述べる「Please」(プリーズ)を使う必要がある。\nまた、「〜してください」の意味で、ていねいに頼みごとをするときには Please(プリーズ) を最初につける。\n目上の人に頼みごとやお願いごとをしたい場合には、Please (プリーズ)という表現を、さいしょに加えると良い。Pleaseは「〜してください。」という意味である。\nのように、さいしょに Please をつけると、ていねいな言いまわしになる。\nPleaseをつける位置は、その文の始めである。\nもし、日本語のように、文のうしろに please をつけてしまうと、聞き手が途中までしか聞いてない時点では、命令口調だと勘違い(かんちがい)される場合がある。しかし、後ろに please をつけても、けっして間違いではない。うしろに please をつける場合、\nのように、カンマを入れる。\n検定教科書でも、文のうしろに please をつけた英文もある。\nとはいえ、きみたち中学生のような子供・若者は、あまり後ろに please をつけないほうが、安全である。目下のものが目上の人物に頼み事をするときは、文章のさいしょに please をつけるのが、安全である。\nいっぽう、たとえば教師が生徒にむかって頼み事をするときとか、親が子供にむかって頼み事をするときとか、そのような目下に人にむかって、ていねいに頼むときには、もしかしたら文章のうしろに please をつけるかもしれない。\n命令文の否定形も存在するが、この場合は動作を禁止する意味となる。\n命令文の否定は don't を動詞の直前につけることで作られる。例えば、\nの命令文の否定は\nとなる。\n否定のお願いをする場合は、pleaseを使って\nという使われ方をすることがある。\nI「私」やmy マイ「私の」や、me ミー 「私に」のように、話し手との関係を表わす語を 人称(にんしょう) と呼ぶ。\nI「私」のように、話し手自身のことを1人称(いちにんしょう)という。\nyou 「あなた」などの聞き手のことを2人称(ににんしょう)という。\nそれ以外の「かれ」「かのじょ」「何か」などのことを3人称(さんにんしょう)という。\nここで、「わたしたち」のように、自分と誰か他の人を合わせた場合は We(ウィー) という1人称となる。\n「あなたたち」などのように、聞き手と1人称以外の誰かを合わせたものが主語となる場合は、 you(ユー) という2人称である。\n英語では、それぞれの人称を表わす語が存在するため、それら人称を記憶する必要がある。\nまた、それらの語は、主語が単数か複数かによって、その人称を表わす語が変化する。\nここではそれらを\nなど、「○人称△数」と呼んで区別する。\nそれぞれに対応する語は主語としてあらわれる形では\nとなる。\n3人称単数の it は、例えば道具や機械などの人工物や、天気など、人間とは異なったものにたいする代名詞として使われる。しかし、この使いわけは情况にもよる。例えば、動物はitで表わす場合が多いが、ある人のペットでありその性別(オス/メス)が知られている場合などでは he や she で表わされることも多い。特殊な例では何か思入れの\nあるものを指して he や she で物体を表わすこともある。しかし、物体の場合には、ふつうはitでうけることが多い。\nここで、特に3人称単数をつかって一般動詞を用いた文を作るときには、一般動詞の語尾に s をつける。これは俗に(ぞくに)「三単現の s」(さんたんげんのエス) と呼ばれる。\n例えば、上の例では\nが対応する例である。\nこれらの動詞につける語尾は、通常はsをつければよい。しかし、 wash(ウォッシュ、洗う)など、動詞の最後の音によっては、それでは発音しにくくなってしまうため、語尾が変化することがある。\n一般には最後の文字が\nなどで終わる単語にsをつけるときにはsがesに変化する。\n例えば\nなどが、あげられる。\nさらに、最後の音が子音+yで与えられる場合には、その部分は子音+iesに変化する。例えば、\nなどがその例である。一方、母音+yの場合にはこの様な変化はせず、単に s をつければよい。例えば、\nなどがその例である。\nここで、特に動詞 do については、 s をつけたときの変化形は\nとなる。ただし、この do については、この語が補助動詞として使われた場合にも、3単現のsによって変化する。そのため3人称単数が主語となる一般動詞の疑問文では、\nのように、補助動詞の do が does に変化する。この時、残った動詞の側には、s はつけない。\n次に、「私の」「あなたの」のように、あるものの所有者を表わす表現について述べる。\n「私のペン」「私のカバン」など、英語で言いたい場合、代名詞のIではなく my という所有格(しょゆうかく)に変化して、 my pen とか my bag になる。\n「あなたのペン」なら your pen になる。あなたのカバンなら、 your bag になる。\nいっぽう、I や you などは主格(しゅかく)という。\nそれぞれの人称と単数複数に応じて所有格が存在する。ここでまとめると\nとなる。\n所有格は文章にあらわれるときは、 a や the のような冠詞(かんし)のようなものとして用いられる。冠詞は、ふつうは、1つの名詞に対して、1つしか用いることができないため、\n所有を表わす語がついた語には a や an をつけることは出来なません。\n例文\nでは friend の前に your がついているため、けっして\nや\nなどのような表現をすることは、出来ません。\nまた、 your がついても、 be動詞は、主語 Tom に対応する is のままです。\nけっして、be動詞に are とか、書いてはいけません。\n同様に\nなら、 be動詞は、主語 Tom に対応する is のままです。\nけっして、be動詞に am とか、書いてはいけません。\n「~している」のように、現在のことでも今まさに目の前で起こっていることを記述する文を現在進行形(げんざい しんこうけい)と呼ぶ。\nもし、cookを「現在進行形にせよ」と出題されたなら、\nとすればよい。\nこのように、ある動詞の現在進行形の述語には、\nが用いられる。\nなお「ing形」の読みは、「アイエヌジーけい」などと読むのが普通である。\n上の例では\nが現在進行形にあたる。これは、ある動作が、ちょうど目の前で行なわれていることを表わす文章である。日本語訳では、動詞に「〜している」などの語尾をつけて訳す。\nここでは単に、「読む」ではなく「読んでいる」となる。\n疑問文や否定文の作り方は、現在進行形を用いた文の動詞は be動詞 となるため、単にbe動詞の場合の規則に従えばよい。たとえば、\nのように、be動詞を冒頭に持って来て、あとは、そのまま文章を並べて、「?」を最後につければよい。\n\n英語では、単数の名詞と、複数の名詞では、形が変わる。\n例えば、\nなどである。\nbooks、dogs、pencils などの形を複数形(ふくすうけい)と呼ぶ。複数形の名詞を作るときには、ふつうは名詞の語尾に s をつければよい。\nただし、 dish: dishes\nなど、sh,ch,s などの語尾を持つ語については、複数形は -es をつけることになる。\n他にも歴史的事情などにより複数形の作り方が、けっして単にsをつけるだけでない名詞も存在する。例えば、複数形と単数形が同じ形である語の例として\nが存在する。\nまた、水 water (ウォーター) などの物質や、しあわせ happy などの感情のように、数を数えることが出来ない名詞も存在する。 この様な名詞は「不可算名詞」(ふかさんめいし)と呼ばれ、これらの名詞の複数形は存在しない。\nto (トゥー) は、方向について「〜に」「〜へ」の意味があります。\nボブはカナダ出身です。\nの、 from(フロム) も前置詞です。 from には、物事の起点などを表す意味があります。from は、起点について、「〜から」という意味です。\n\n例文\non(オン) も前置詞です。「~の上に」という意味でよく使われますが、接していればなんでも使えます。\n例文\nとなっている。\n曜日は、それぞれ単語の最初の文字を、かならず大文字にしなければならない。\n一般に、人の名前やものの名前など、固有名詞(こゆうめいし)では、かならず単語の最初の文字は、大文字になる。\nちなみに、「週」は英語で「week」(ウィーク)である。「week」という単語は、べつに固有名詞ではない。\n次に、月を表わす方法を述べる。日本語ではそれぞれの月は単に 1月,2月,3月, ... と名前をつけていったが、英語ではそれぞれの月に\n固有の名前がついている。対応する名前を書き並べると、\nとなる。\nここでも、単語の最初の文字は、かならず大文字にする必要がある。ある月に何かが\nあることを示すとき、前置詞 in (イン)を用いる。例えば、\nなどが用いられる。\nなお、「季節」は英語で 「season」(シーズン)と言います。複数形は「seasons」(シーズンズ)です。\nつぎに、英語での数の数え方について述べる。\n小さい方から順に並べていくと、\nなどとなる。例えば、432は\nと読む。\n<参考>外国の子供向けの動画だが、数字についてまとめられている。The Big Numbers Song\nまた、英語の数には上で見たような通常の数の他に、1番目・2番目などのような、順序・順番を表わす数がある。この時、通常の数を基数(きすう)と呼び、いっぽう順序を表わす数(1番目、2番目、・・・)を序数(じょすう)と呼ぶ。\n序数の多くは基数と似た形を持つがいくつかの序数は基数と大きく違った形を持つため、ここで紹介する。\nのようになる。見て分かる通り、ほとんどの場合には単に基数の表式に-th\nをつけることで正しい表式が得られる。ただし、1,2,3は例外である。\nまた、5,8,9では単に-thをつけるのにとどまらず、5 では同化による無声化とそれによるつづり字の変化、8 は同化と正書法上の子音字の削除、9 は子音字 th によって代替された機能的 e の削除、が行われる。\n日常では、つぎのように、略記される場合も多い。\n入試や学校のテストでは、略記しない表記(first や second など)が出題されるだろう。\nより大きい数でもほとんどの場合は単に-thをつければよい。ただし、\nのように最後がyで終わるような単語では単にthをつけるのではなく名詞の複数や動詞の直説法第三人称単数形と同様\nyをieに変えてthとする。この場合には 50th: fiftieth\nとなる。\n21、22、23、31、32、33・・・などの1の位がone,two,threeであるものは後ろにthをつけることをせず、\n1の位のone→first,two→second,three→thirdと変更する。\nある月のうちでその月の何日かを表わすときには基数ではなく序数を使う。\nこれは、ある月のうちで何番目の日を表わす数であることからこれが用いられる。\n1月1日は、英語で書くと「January 1st」または「January 1」と書き、読みは「ジャーヌアリー ファースト」と読みます。\n同様に、1月2日なら、「January 2nd」または「January 2」と書き、「ジャーヌアリー セカンド」と読みます。\n同様に1月3日は「January 3rd」または「January 3」と書き、「ジャーヌアリー サード」と読みます。\n同様に1月4日は「January 4th」または「January 4」と書き、「ジャーヌアリー フォース」と読みます。\n同様に、2月8日は「February 8th」または「February 8」と書き、「フェーブラリー エイトス」と読みます。\nなお、「月日」の「月」は英語で「month」(マンス)と言います。\n「日付」(ひづけ)は英語で「date」(デイト)と言います。\nある曜日に対して、その日に何かがあることを示すには、前置詞として on を用いる。上の文では、\nの\nが対応する表現である。\n動詞の前に can (キャン)をつけると、「〜できる」の意味になる。\n「ボブがテニスをする」は「Bob plays tennis.」のように動詞にsがつくが、canがつくと例文(Bob can play tennis.)のように三単現の s が無くなる。\nwellは「上手(じょうず)に」の意味。\n疑問文は、\nとか\nのようになる。 \nCanで聞かれた疑問への返事\nなお、can のような、動詞の前について、その動詞を修飾して、動詞が原形になる品詞を、英文法では助動詞(じょどうし)という。\nまた、canを使わずに、似たような意味の言葉で、 be good at というのがある。\nのようにつかう。\nなお、「彼は上手なテニスプレイヤーです。」\nなどというような表現方法もある。\n「私は英語がちょっとだけ話せます。」のように「少しだけ〜できる」という表現には、 a little (ア リトル)をつかう。\nもし「Can you speak English?」 (キャンユー スピーク イングリッシュ?) (あなたは英語が話せますか?)と質問されて、\n「はい、少しだけ(英語を話せます。)」と答えたいなら、\nで通じる。\nちょっとした、お願い事をするとき、「Please ○○」のかわりに、\nという表現も使えます。\n「 Can you help me? 」は、教科書にもよくある表現なので、そのまま覚えよう。\nさて、I, my, me, mine の活用変化を覚えるには、書くだけでなく、発音するのが良い。\nつまり、声を出して「アイ・マイ・ミー・マイン」「ユー・ユア・ユー・ユアーズ」「ヒー・ヒズ・ヒム・ヒズ」「シー・ハー・ハー・ハーズ」「イット・イッツ・イット」「ウィー・アワー・アス・アワーズ」「ユー・ユア・ユー・ユアーズ」「ゼイ・ゼア・ゼム・ゼアーズ」と、何度か唱えるのがよい。\nもちろん、書く練習のほうが、もっと必要である。\n< be動詞 + 動詞のing形>で、「〜している」になる。また、このような形の語句や文章を現在進行形(げんざい しんこうけい)という。\nたとえば、playing , stugying は、どれも現在進行形である。\n疑問文\n「 What are you doing?」は教科書で、よくある表現なので、そのまま覚えてしまおう。\n「 What are you doing?」 の返事は、たとえば、\nとか、\nとか、色々とあります。\nplaying のように、原形の語尾が y なら、現在進行形では、そのまま ing をつけるのが、現在進行形の語形の変化規則である。\ndoing(doの進行形) や going (goの進行形)のように、語尾が o で終わる場合にも、そのまま ing をつけるのが、規則。\n「いつ、〜をする」など時間について質問をしたい場合には、さいしょに When (フェーン)をつけて、疑問文でたずねればいい。\n会話例\n例文\n※ 「When is your birthday? 」は誕生日をたずねる慣用表現になってるので、そのまま覚えてしまおう。\n「どこで、〜をする」など、場所を質問したい場合には、さいしょに Where (フェアー)をつけて、疑問文でたずねればいい。\n会話例\n※ 「Where do you live?」は住所をたずねる慣用表現になってるので、そのまま覚えてしまおう。\n※ 文末の live は、ふつうは「リブ」と短く発音しますが、この慣用表現の場合、疑問文での語末の音調をあげるのに引きづられ、やや長めに「リーブ」と伸ばします。\n※ 「Where are you from?」は出身をたずねる慣用表現になってるので、そのまま覚えてしまおう。\n動詞の後ろに ed をつけることで、多くの動詞では、過去を表せる。では、例文を見ていこう。\n例文\nこのように、動詞の後ろに ed をつけることで、多くの動詞では、過去を表せる。また、動詞の「〜ed」のような、過去をあらわす形のことを過去形(かこけい)という。\n動詞の過去形の例\nstudyのように、yで終わる単語は、語尾がiedになる場合が多い。\nしかし、いくつかの動詞には例外があり、不規則な変化をする。\nなお、\nのように、語尾が y であっても、そのまま ed をつける単語もある。\nBe動詞の過去形は、つまり、\nや\nのようになる。\nまた、didの疑問文は\nのようになる。\n疑問文のさい、過去形になる動詞は冒頭の Do → Did だけであり、 play は原形に戻る。\n過去についての疑問に対する回答は、\nあるいは\nのようになる。\nほかにも、go などの基本的な動詞でも、不規則な変化をする場合もある。\n例文\nなお、疑問文では、\nのように、Didだけが過去形。wentは原形のgoにもどる。\nこのように、不規則動詞でも、Did以外の動詞は、原形にもどる。\nなどがある。\n「今朝、テニスをプレイしました。」と英語でいいたい場合、日本語とはちがって、\nのように、現在形になる場合があります。\n「今朝」について言う場合、現在形か過去形かが、あまりハッキリしません。そのため、検定教科書の例文を見ても、過去形をおしえる単元では this morning は、用いていません。\n2人以上の兄弟 brothers (ブラザーズ)\n2人以上の姉妹 sisters (シスターズ)\n固体でないため、数えられない。\nただし、「コップに入った水」「グラスに入った水」などは、\nのように、数えられる。\n固体ではあるが、きめ細かく、数えられない。\nスポーツ名は抽象的なもののため、数えられない。\n教科も、抽象的なので、数えられない。\n「私は、しあわせです。」は、英語で\nとなります。\n私の状態をあらわす happy の前に、 a は、つきません。「happy」(ハッピー)とは「しあわせである」という状態を表す言葉です。\nこのように、何かの状態をあらわす単語を形容詞(けいようし)といいます。\nたとえば、 happy は形容詞です。\nですが、「ボブは大きなイヌを、飼っている。」のように、\nのように、名詞(この場合 dog )がある場合は、形容詞の前にa または an などが、つきます。\nこのように、形容詞は、名詞の前につけることもでき、その名詞の状態や性質などを表すこともできます。つまり、英語の形容詞は、名詞を修飾(しゅうしょく)できます。\n「私は、かなしいです。」は英語で、\nとなります。 「sad」(サッド)とは、かなしい状態をあらわす言葉です。\n「ボブは、背が高い。」は英語で、\nとなります。「tall」とは、身長が高かったり、建物が高かったり、そういう状態を表します。\n「彼は、背が高い」は英語で、\nです。このように、たとえ代名詞を使っても、語順は、かわりません。\nとなります。\n形容詞には、たとえば、つぎのような単語があります。\nold は、年齢をいうときにも、\nのように、使います。\nさまざまな例文\nなお、「bar」 とは「棒」のこと。\n赤 red、青 blue など、色も形容詞です。\n例文\nほかの色も、ふつうの色なら、形容詞です。たとえば、\n緑 green(グリーン), 黄色 yellow (イエロー)、白 white (ホワイト)、黒 black (ブラック)、茶色 brown (ブラウン)、灰色 gray (グレイ)、 これらすべて形容詞です。\n「私は、しあわせではない。」は、英語で\nとなります。\nこのように、be動詞をつかった文なら、be動詞のうしろに not をつけるだけで、反対の意味になります。\nいっぽう、「ボブは大きなイヌを、飼っている。」の否定、つまり「ボブは、大きなイヌを、飼っていない」なら、\nのように、なります。\nつまり、形容詞のある文章の否定は、ふつうの文章の否定と同じように、<be動詞 + not + 〜>または<do(does) not + 〜>で、否定の意味になります。\n例\nなら、「私は、かなしくない。」です。\nなら、「ボブは、背が高くない。」です。\n例文\nさまざまな例文\nvery がつくと、「とても」「すごく」の意味になります。\nたとえば、 「私はとても、しあわせです。」は英語で、\nとなります。\nvery のつく位置は、かならず、形容詞の直前です。\n例文\nちなみに、年齢を相手に尋ねる場合は、\nで、たずねられます。\nHow old are you? は、英語教科書で、よくある表現なので、このまま覚えましょう。\nまた、この How old のように、<How + 形容詞 + 〜?>で、ものごとの程度を、たずねることができます。\nたとえば、長さを尋ねたい場合、「それは、どのくらい、長いのですか?」を英語でいうなら、\nと、なります。\nなお、How short 〜(×)とは、いいません。\nHow many (ハウ メニー)で、数について「いくつ?」かをたずねられます。\nたとえば「リンゴを、いくつ、あなたは持っていますか?」は、\nとなります。\n答えは、たとえば、2個のリンゴを持ってれば、\nとかになります。\nひとつもリンゴを持ってなければ、\nとか、あるいは\nとかになります。\nHow many apples の語尾sのように、複数形になることに、注意してください。no apples の語尾のsも、忘れないように。\nつまり、\nの形になります。\n「これは便利です」は英語で、\nです。「useful」は「便利な」「便利である」という意味です。 useful (ユースフル)は、単語 use (ユース)(※ 「使うこと」の意味で、動詞のuseとは少し発音が違う)のうしろに ful がついています。 useful のように、ほかの単語のうしろに ful などの語尾がついて、形容詞などになる場合もあります。\n「 私のカバンは、便利です」は英語で、\nになります。\n「その絵は、うつくしい」は英語で、\nです。\nbeautiful (ビューティフル)とは、「美しい」という意味です。\nなお、美人のことを英語で beauty (ビューティー)といいます。\n「その絵は、すごく、うつくしい」は英語で、\nです。\n否定型を書くなら、be動詞の否定形ですから\nになります。\n疑問形を書くなら、\nです。\n「この本(ほん)は、おもしろい」は英語で、\nです。\n「interesting」とは、何かの物体や出来事などが「興味深い」「おもしろい」という状態です。\ninteresting のように、形容詞の語尾に、 ing がつく単語も、英語にはあります。\nHe has a interestng book. \nなら、「彼はおもしろい本を、持っている。」の意味です。\n「これは、興味深い」「これは、おもしろい」は英語で、\nです。\n「あれは、おもしろい」は英語で、\nあるいは\nです。\n「That's」とは、「That is 」の省略です。\nと省略せずにいっても、かまいません。\n「それは、おもしろい」「それは興味深い」は英語で、\nです。省略せずに\nといっても、かまいません。\n会話などでは、前後の文脈から、「It」「That」とかが無くても「Interesting」だけで内容が分かる場合があるので、単に\nのように、主語やbe動詞を省略する場合もあります。\n「この本(ほん)は、とても、おもしろい」は英語で、\nです。\n「あの本は、とても、おもしろい」は、英語で、\nとなります。 \nこのように、 very の位置は、形容詞の直前です。\n「とても美しい」は very beautiful です。「とても、おもしろい」は very interesuting です。\nたとえ、形容詞の語尾に、 ful がつこうが、ing がつこうが、 very の位置は、かわりません。\nたとえば、\nなら、「それは、おもしろくはない」などの意味になります。「つまらない」かどうかは、この文だけでは、分かりません。\nHe doesn't have a interestng book. \nなら、「彼は、おもしろい本は、持っていない。」の意味です。\nこのように、形容詞の語尾にingがついていようが、否定形をかくときは、ふつうの否定文と同様の規則、つまり<be動詞 + not>または<do(does)+ not + 動詞の原形>のパターンになります。\nいっぽう、interesting をつかった疑問文をかくなら、たとえば\nなどのように、ふつうの疑問文と同様の規則です。\n「イチロー(Ichiro)とジロー(Jiro)は兄弟です」は、英語で、\nとなります。\n主語の Ichiro と Jiro は、あわせて二人なので、あわせると複数ですから、Be 動詞が are になることに注意してください。\nまた、brothers というふうに、述語ぶぶんの名詞は、複数形になります。\nつまり、「彼らは兄弟です」の\nでの are と同様に、「Ichiro and Jiro are 〜」というふうに be 動詞が are になっています。\n先生が\nと言ったら、\n「聞いて、そのあと、(聞いたことと同じ言葉を)くりかえして、(言って)ください。」\nという意味です。\n生徒に、発音の練習をさせたいときに、よく、先生が「 Listen and repeat. (リッスン アンド リピート)」と使います。生徒は、先生の言った言葉を、そのまま、くりかえして、いいます。\n「〜の中にある」などの表現は、in(イン)を使います。\nたとえば、\nとなります。\n「私は、中央町(ちゅうおうちょう)に住んでいます。」なら、英語で、\nです。\n<live in 〜>で、「〜に住んでいる」という意味になります。<live in 〜>は、住んでいる場所を示すさいによく使う熟語なので、そのまま覚えてしまいましょう。\n「トムも、中央町に住んでいます」なら、英語、\nのようになります。\n主語が3人称なので動詞に三単現在の s がついて「lives」になっています。「〜も」の意味の too が、文末についています。 in の位置は、名詞の前だということに、かわりません。\n「このカバンの中に、ノートがある」は英語で、\nのように、なります。\n「〜の近くになる」という表現には、near (ニア)を使います。\nとなります。\nin とか near とかは、名詞などの前におくので、in や near などを前置詞(ぜんちし) といいます。\n「家で」という表現には「at home」(アット ホーム)を使います。 at も前置詞です。\n「学校に行く」という意味の「go to school」の、「to」(トゥー)も前置詞です。\nto は、方向について、「〜へ」「〜に」という意味です。\n「ボブは、シアトル(※ アメリカ合衆国の都市のひとつ)出身です」なら、英語で、\nと、なります。\nこの from も前置詞です。「from 〜」は 、起点について「〜から」の意味です。\n「トムは、ニューヨーク出身です」なら、英語で、\nです。\n「トムは、朝、6時に起きます」なら、\nです。\n時刻についての「〜に」は at を使います。\nいっぽう、「朝に」「昼に」「晩に」などの「〜に」では in を使います。\n「シアトルについて、教えてください」なら英語で、\nです。\nabout に、「〜について」の意味があります。\n「トムは、6時ごろに起きます。」なら、\nです。\nさきほどの「〜について」のaboutと、この「〜ごろ」のabout は同じ単語です。about には、「ほぼ、〜ごろ」「約〜ぐらい」のような意味も、あります。 \nたとえば、\n「CDを、どのくらい持っていますか?」\nと聞かれて、\nもし「80枚ぐらい」と答えるなら、\nと答えます。\nのように答えても、いいです。\nなお、「起きる」の意味の「get up」(ゲットアップ)や「wake up」(ウェイク アップ)の、「up」も前置詞です。\n「stand up」の up も、同じ前置詞です。\n「up」は、「上に」「上へ」などの、上の方向についての意味をあらわす前置詞です。\n「すわる」の意味の「sit douwn」(シット ダウン)のdownも前置詞です。\n「down」は、「下に」「下へ」などの、下の方向についての意味をあらわす前置詞です。\nこれら、「in」「to」「at」「from」「about」「down」「up」などを、前置詞(ぜんちし)といいます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/1%E5%B9%B4"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校英語 > 中学校英語/1年 > 中学校英語/1年/単語\n中学校英語/1年/単語では、学年の英語について教授します。中学校英語/1年及び中学校英語/1年/文法も必要に合わせて一緒にお読みください。本ページでは熟語・連語も含みます。\n黒板は、または、\nともいう。\n※ ちなみに黒板用のチョークは、英語でも chalk (チョーク)である。\nアメリカからの転校生が、学校の校門に、やってきたとしましょう。\nクラスの前までつれてきたとして、クラスを紹介する例文は\n学外の市営や県営などの図書館も、英語で library という。つまり、英語では、図書室と図書館を区別しないのが普通。\n※ 「アメリカ」とはカナダやメキシコなどもふくむ、あのあたりの地域名だが、「America」でもアメリカ合衆国だと通じる場合も多い。\n例文\n例文\nちなみにマンガ本は、\ndictionary を覚えるのは、1年生にはやや難しいだろうが、中学の範囲内なので、とりあえず練習しよう。\n例文\nhobby の意味は、実は単なる「趣味」ではない。hobby は、本業以外のもので、しかも技術を要する趣味に限定される(※出展: 桐原3000[1])。\nそのため、実は「音楽鑑賞」や「読書」は、普通は hobby には含めない。\nスポーツや園芸、切手収集、楽器演奏、絵画(を書くこと)、などが、hobby とされる(ジーニアス英和辞典[2]、桐原3000)。\nもちろん、日本の学校教育では、中立的な立場という都合により、なにが技術を要する趣味かどうかなんかて言えないので、「読書」や「音楽鑑賞」などでも hobby としも、日本国内では、かまわないだろう。\nただし、米英では、読書や音楽鑑賞のようなものは、受け身の趣味とみなされ、pastime (パスタイム)と言われ、pastime とは「気晴らし」の意味である(ジーニアス英和の項目hobby、桐原3000の項目hobby)。\nずいぶんとヒドい言われ様だが、しかし米英人がそう見なしているので、日本人としては変えさせることもできない。\nこれはつまり、英語では、楽器を演奏することから、音楽を聞くことも一緒に趣味とする表現に当たる単語が、英語には存在しない、という事になる。スポーツの場合も同様で、スポーツ観戦からスポーツの競技者としての参加もふくめて一緒に趣味として表現する単語が、英語には存在しない。\n高校英語や大学受験では、そこまでの深入りは要求されておらず、たとえば大学受験用の高校1年レベルの単語集「英単語ターゲット1200」でも、hobbyは単に「趣味」という意味だとされている。\n\n例文\n例文\nlisten to (リッスン トゥー) で「〜を聞く」という意味の熟語です。よく使う表現なので、覚えよう。\n例文\n例文\n例文\n※ 「your」 で「あなたの」という意味。文脈から明らかだろうから、自然な訳になるように、例文の訳では「あなたの」を省略した。よく、授業中で先生が生徒に教科書を開かせるときに、「open your book page ○○」とかいって、教科書の○○ページ目を開けさせる。\n例文\n例文\n例文\n例文\nさきほどの例文に対する答え\n※ 持つの have と同じ単語。\n例文\n例文にたいする答え\n例文\n例文\n※ 「knee」は発音に注意。「ニー」である。「くにー」などと発音しないように。\nからだ全体\n例文\n例文\nTom is a baseball fun. トムは野球ファンです。\n「プレイすることがすきです」\nスポーツ以外のことでも、練習には practice を使える。\n※ なお、ラケットは racket (ラケット)。覚えなくて良い。\n例文\n例文\n「teach」(ティーチ)で「教える」という意味。語尾に「-er」(○○アーと読む)で「○○をする人」という意味の英語になる。「teach + er」で 「教える人」→「先生」というわけ。\n例文\n※ English(イングリッシュ) の場合、前につくのは a でなく an (アン)になるので注意。単語のさいしょの発音が「ア・イ・ウ・エ・オ」のどれかの前では、a ではなく an になる。\nほかの教科の教師を紹介する場合は、\nたとえば、数学の田中先生(男性)を紹介する場合、\nのようになる。\n単語について、ちなみに「制服」を英語でいうと uniform (ユニフォーム) である。\nその他の例文\n単語\nちなみに大学は\nちなみに、お風呂は\nであり、bus とは、ちがう単語。\n例文\n※ 注意事項など\n「40」のfortyは つづり に注意。「14」fourteen に引きづられてか、つづりを間違える例がある。\n「 ○○(数字) + yaers old 」で、「○○歳」の意味になる。\n※ 人名の最初の文字は、かならず大文字で書く。\n呼びかけるときは、 Mr.Brown とか Ms.Brown のように、敬称をつけて使おう。\nMr.Green とか Ms.Green のように、敬称をつけて使おう。\n最近、教科書で見かける人名\n※ 「キャロル」は女性の名前のひとつだが、しかし小説『不思議の国のアリス』の原作者の男性がペンネームで「ルイス・キャロル」というのを名乗っていたりと、ややこしい。しかも、このアリスの文中の一節も、英語教科書で紹介されることがあるので、これまた、ややこしい。\nMr.Hall とか Ms.Hall とか、Mrs.Hall などのように使う。\nなお、「穴」(あな)を表す英単語は hole である。\n日本語と日本人は、同じ Japanese という単語である。\n※ 「doctor」の、さいごの2文字は「or」である。「er」ではないので、間違えないように。\n学校の中の保健室については、\n※ イギリスではpantsは下着を指す。\nshoesは「shoe」(シュー)の複数形。単数形shoeだと、片足ぶんになってしまう。なので、ふつうに両足ぶんの場合、複数形 shoes のまま使う。\n単数形 glass だと、片方の目のぶんだけになってしまう。なので、ふつうは、 glasses で使う。\n例文\nここでの「簡単な」は、「難しい」の対義語としての「簡単な」のこと。easy は形容詞なので、「簡単」とだけ訳してはいけない。「簡単な」あるいは「簡単である」と訳すように。\nだから辞書には「容易な」「(・・・するのが)やさしい」とも書いてある(ジーニアス英和[3] )。なお、訳語のひとつの「やさしい」の表記についてジーニアス英和辞典にもセンチュリー英和辞典にも平仮名で「やさしい」と書いてある[4][5]。\n語尾が -eの ease (イース)だと、「容易さ」と訳せると、英和辞典にある(ジーニアス英和やセンチュリー英和など)。英和辞典では、「簡単さ」という言い回しは、現状ではあまり採用されていない。だが、国語辞典を見ると、「簡単さ」という単語もあるのが日本語では実情である(三省堂『新明解国語辞典 第八版』[6])。\n※ 難易のことではなく、構造や仕組みが「単純な」「簡単な」と言いたい場合は、別の単語(たとえば simple など)なので、誤解しないように。\nだが実際には、simpleでも、難易における「簡単な」意味もある(ジーニアス英和辞典やセンチュリー英和で確認できる)。\n※ 動詞の未来形は1年の範囲外なので、tomorrow は1年では習わないかもしれないが、せっかくだから、いっしょに覚えよう。どうせ、2年生で、未来形をあつかう授業で tomorrow も習うだろうし。\n※ 家庭科の英語は、直訳すると、工業 (industrial) と家庭 (home) の経済学 (economics) 、となる。\n※ 7月「July」は、古代ローマの偉人のジュリアス・シーザーが名前の由来。なお、シーザーは英語風の発音。現地風の発音ではユリウス・カエサルになる。\n※ 「August」は、古代ローマの偉人のアウグスツスが名前の由来。\nシーザー(カエサル)とアウグススツは、高校の世界史などで習う。\n※ 3月のMarch は、冒頭の大文字・小文字の違いをのぞけば、「行進」march (マーチ)と同じスペル。\n会話例\n※ 「第一の」は、one (ワン)ではない\n「私の○○」は「my ○○」(マイ ○○)というように、Iではなく、my (マイ)を使う。\nたとえば、「私のペン」は「my pen」。\n「彼の○○」は、「his(ヒズ)○○」。たとえば「彼のペン」は「his pen」。「彼女のペン」は「her pen」。\nちなみに、「あなたの○○」は「your(ユア) ○○」\nこのような my, your, his, her などの言葉の形を所有格(しょゆうかく)という。\nいっぽう、I, you, he, she, they などを主格(しゅかく)という。\n例文\n例文\n回答例\n※ 「up」(アップ) は「上へ」「上に」のような意味。「down」(ダウン)は「下へ」「下に」のような意味。\n※ wash a dishes は、教科書でよくある表現なので、そのまま覚えてしまおう。\nおやつ\nおなかがすいたら、\n例文\nのように使う。\n例文\nBob is strong. (ボブ イズ ストロング) ボブは強い。\n語尾が ed で、動詞の過去形と同じだが、 tired は形容詞である。\n例文\nI'm tired. (アイム タイアード) わたしは、疲れています。\n例文\n※ boxは、複数形が、boxs(×)ではなく、boxes なので、まちがえないように。\n形容詞の暗記は、反対の意味どうしを組み合わせで覚えると、覚えやすい。\n※ tall は縦長で高いのものに使う。なので、ビルなどをtall で表してもよい[7]。木が高いのも tall tree で言える。 highは、「高い熱」high fever などにも使う。※ とはいえ、中学1年でここまで気にしなく良いだろう。\nThey are playing soccer in the park. (ゼイ アー プレイング サッカー イン ザ パーク) 彼らは公園でサッカーをしています。\nなお、鉄道について\nカモノハシの複数形は platypuses\nなお、カモノハシは、ほ乳類。\nテニスとかのコートのネットも、net と書く。\n書けなくてもいいが、ドイツ語、スペイン語、中国語の「ありがとう」「こんにちは」に相当する言葉については、発音を知っておくとよい。\nいちおう、検定教科書にも、書いてある(東京書籍の「ニューホライズン」という教科書にある)。\n英語以外の外国語は、日本の高校入試には、ふつうは、出ない。\n英語とドイツ語は、ドイツ語の Guten と 英語の good が対応しており,ドイツ語の tag とは 英語のday(デイ) が対応しており,ドイツ語の Danke には英語の Thank が対応してるなど、多くの単語が対応しあっている。\nつまり、Guten Tag を日本語に直訳すると、「良い日」になる。\nだが、ドイツ語の文法は、英語の文法とは大きく違うので、上記の対応は、おぼえなくてよい。\n※ なお、社会科の地理分野で、世界地理で、英語とドイツ語はともにゲルマン系の言語であることを習う。社会科のほうで、言語について、ゲルマン語系の設問が出題される可能性がある。\n世界で、スペイン語を日常的に話す人口は、すごく多い。ある言語を話す人口の順位で、スペイン語は上位である。\nなぜなら、南アメリカ大陸の多くの国で、スペイン語が公用語になっている。メキシコなど、アメリカ大陸中部の諸国でも、スペイン語が公用語として使われている。\nスペイン本国よりも、南アメリカ大陸など本国以外のスペイン語人口の総人口のほうが多いほどである。\n※ 中学社会科の地理分野で、世界地理で、スペイン語とフランス語はともにラテン系の言語であることを習う。\n※ つづりは省略。フランス語のつづりは、むずかしいので。\n※ 中学社会科の地理分野で、世界地理で、スペイン語とフランス語やイタリア語はともにラテン系の言語であることを習う。\n※ つづりは省略。ロシア語の文字はキリル文字をつかう。ローマ文字ではない。\n※ ロシア語やポーランド語はスラブ系の言語である。\n※ つづりは省略。韓国語の文字はハングル文字をつかう。漢字は、韓国では、あまり使わない。\nアラビア文字は、むずかしいの\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/1%E5%B9%B4/%E5%8D%98%E8%AA%9E"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校英語 > 中学校英語/1年/文法\n中学校英語/1年/文法では、1学年の英語で習得すべき単語について教授します。中学校英語/1年及び中学校英語/1年/文法も必要に合わせて一緒にお読みください。\n英文の語順は、ふつう、 <主語 + 動詞 + 目的語> の順になる。\nこの例文の場合、どれが主語、動詞、目的語かというと、\nである。\nいっぽう、日本語では、\n「私は(←主語)/一冊の本を(←目的語)/持っています(←動詞)」のように、「主語/目的/語動詞」(※日本語の場合)になってる。\nしかし、英語では日本語とは語順がちがう。\nまた、ひとつの文に、動詞は1個だけである。\nなので、たとえば、「私の持っている本を、私が読む」ということを説明したい場合は、たとえば\nのように、文を、動詞の数だけ、分けて説明する必要がある。\nいっぽう、「I have and read this book.」(×)などは、まちがいである。\nほかの例文\n日本語の「イヌが好きだ」の「イヌが」のように、好き嫌いについての表現は、日本語では「イヌが」は「が」がついて主語みたいになる場合もあるが、英語では、ちがうので注意しよう。\nほかの例文\ntheは「その」という意味である。すでに話題にのぼった名詞や、話をしている者どうしの間で何をさしているかわかっているものにつける。\nたとえば、\nの和訳なら、「私は、そのペンを持っています。」などと訳す。\nthe を使う場合、それがつく名詞の前から「a」および「an」は除去しなければならない。つまり、「This is the a bag.」(×)のようなのは間違いである。\n(※ 発展 :)「the をつかうとき、その名詞のaとanは除去する」と覚えるのも良いのだが、「a / an が変化して the になった」または「the が変化して a / an になった」と考えるのも良いだろう。こう考えれば、文章中で a / anをつかう位置と、the を使う位置が同じであることも説明がつく。\nためしに、さきほどの例文の This is a bag. の a を the に変えててみよう。\nとなる。この言い回しをつかう場合は、「これは、その かばん です。」の発言をする前に、すでに、このかばんについて話題にしていたことになる。\nともかく、「the」はすでに話題にあがっているものについて使うのが、普通のルールである(ただし、例外もある)。\n(※ 発展 :)なお、どうしても「私は、その一つのバッグを持っています。」(持つ = have)と言いたい場合、a でなくone を使い、たとえば「I have the one bag.」のように a ではなく one を使う。\n名詞の複数(2つ以上のもの)は、普通語尾にsをつける。\n「本を2冊」と言いたい場合、「two books」のように、<数 + 名詞ーs >の語順になる。\n直訳すると「2冊の本」になる。語順は、<数 + 名詞ーs >の語順でなければならない。\nつまり、けっして、「I have books two.」(×)などと言ってはいけない。\nもし、3冊の本を、私が持ってるなら、\nである。\n参考のため、1冊の本を持ってる場合の例文を書くと、\n1冊の本の場合でも、<数 + 名詞>の語順になってることに、注目しよう。「a book 」の「a」で、数が「1」だという事が分かる。\n「私は、その本を2冊持っています。」(※ 話題にあがった本を2冊持っていることを伝えたい)のような場合は、\nI have the two books .\nとなる。\nこのように、the は twoやthree など数を表す表現よりも先に来る。\nなお、たとえば赤いをred(レッド)というのだが、たとえば「その赤い本」は the red book となる。「I have the red book. 私はその赤い本をもっている」である。このように the は他の情報よりも先に来る。くわしくは red や blue(ブルー、意味 : 青い)などの単元で説明する。\nthe two books の語順も、\n「 the + 数 + 名詞」 とだけ覚えるのではなく、「the + 話題にあがっているか以外の情報 + 名詞」のように今後も応用のきくように覚えるのが文法の勉強のコツ。\n私が何なのかを説明するときに、<I am 〜>(アイ アム 〜) という表現を使う。\n例\n語注\n例\nplay や eat など、動詞がある場合は、使わない。\nたとえば、「私はテニスをプレイします。」なら、\nである。「I am play tennis」(×)とはいわない。\n相手が何であるかを説明するときは、<you are〜>(ユーアー)を使う。\nつまり、「I are」(×)や、「You am」(×)などは、まちがいである。\n※ 発展: 「am」や「are」のことを、「 be動詞 」(ビーどうし)という、\nYou are ~. (あなたは〜 / あなたたちは〜)の疑問文は、areを主語の前に出して 「Are you ~?」 となる。\n(※ 発展:)「be動詞のある文章(You are Tom.)をこれから疑問文に変えたいとき、疑問文ではbe動詞が冒頭に来るように移動する。」というふうに理解する。\nAre you ~?に対する答えは、\nまたは\nという。\n例文\nなお、国名や国籍名は、大文字にする。\n(※ 発展:)「私はトムですか?」を英語にしてみよう。(『自分の名前ぐらい分かるだろ』とか言わないように。たとえば、演劇をする人達が、トムの役を私が演じるのか聞く場面など、いくらでも使用例はある。)\nAm I Tom?\nになる。このように、be動詞(amやare)と主語(IやYou)の語順を入れ替えたものとなる。\nなので、疑問文を覚えるときは、「be動詞のある文章(You are Tom.)をこれから疑問文に変えたいとき、疑問文ではbe動詞が冒頭に来るように移動する。」というふうに理解するのである。\n\n「彼は~です」のように、彼がなにであるかをいうときは、<He is ~.>(ヒー イズ )の形を使う。\nheは、「彼」の意味を表す代名詞であり、男性であり単数(たんすう)である。(「単数」とは、「一つ」という意味。なお、二つ以上にものは「複数」(ふくすう)といい、後述のthey(ゼイ、彼ら・彼女ら・それら)が複数。)\n例文\nなお、 my (マイ) は「私の〜」という意味。\n※ なお、名詞の前に my を使う場合、その名詞には a や the を使わない。「a や the が変化して、myになった」と覚えると良いだろう。\n例文\n「He is a good tennis player」は、直訳すると、「彼は、上手なテニスプレイヤーです。」のようになるが、和訳する場合は、「彼はテニスが上手です。」のように、日本語として自然にきく表現になおすとよいかもしれない。\nテストや入試などで「彼は、上手なテニスプレイヤーです。」のように直訳すると、文章の意味を理解してないと判断される場合があり、よって減点をされる場合がある。\nsheは「彼女」の意味を表す代名詞であり、女性であり単数である。\n例文\n例文\nam,are,isなどの、be動詞のある文の疑問文では、be動詞(am,are,is)を主語の前に出す。つまり、<be動詞 + 主語 + 〜?>の語順になる。\nbe動詞(am,are,is)のある文の否定文は、be動詞(am,are,is)のあとにnotを入れる。つまり、<主語 + be動詞 + not + 〜.>の語順になる。\n参考\n「これ」が何であるかを説明するときは、<this is 〜>を使う。\n「これは~ですか?」という問いの文は、isをthisの前に出し、文の終わりにクエスチョンマーク(?)をつける。\n※ つまり、This をつかう疑問文でも、he や she の疑問文と同じように be動詞(am, are ,is )が主語の前に出てくる。このルールに変わりはない。(※文法の勉強では、どのルールが変わらないのかも確認しながら、文法を理解していくこと。)\nThat is ~.は、自分から離れているものをさして、「あれは~です」の言い方。いっぽう、This is ~.は、手もとにあるものをさして、「これは~です」という言い方。\n※ This(これ、「ジス」) が That(あれ、「ザット」)に変わっただけである。語順も、This でも That でも同じである。\n※ 応用\nIs this a pen? 「これはペンですか」\nをもとに、「あれはペンですか」という疑問文を作ってみよう。方法は、this を that に変えればいいだけなので、答えは\nIs that a pen? 「あれはペンですか」\nになる。\n「これは~ではない」という打ち消しの文は、isのあとにnotを入れて、This is not ~.という形にする。\nという。\n(※ 応用 )では、「あれは~ではない」を考えて見ましょう。This をThatに変えるだけなので、\nThat is not a pen . (あれはペンではありません)\nになります。このように、否定文であっても、This でも That でもルールは同じままです。\nwho(誰)は、人の名前や間柄をたずねる疑問詞で、文頭に置く。\n返答には、たとえば、彼が Tom なら、\nとか、あるいはトムと私の関係についても返事にくわえて\nとか返答したり、あるいは\nなどのように、答える。\nなお、 my (マイ) は「私の〜」という意味。\nfriend (フレンド)は友人という意味。\nなお、it (それ)が何なのかをたずねるときに、 「Who is it?」(×)とは言わない。\nit について、何なのかをたずねる場合は、\nで、質問する。\nなお、「あなたは誰ですか?」なら「Who are you?」(フー アー ユー)になる。「私は誰だ?」なら「Who am I?」(フー アム アイ)になる。だが、あまり日常では、「Who are you?」や「Who am I?」を使うことはないだろう。\nなお、「彼らは誰ですか?」なら、「Who are they?」(フー アー ゼイ)になる。「Who are they?」は使う可能性があるので、おぼえておこう。\nWhatは「何か?」「何の」という意味で、文のはじめに使う。\n例文 \nWhat is 〜で聞かれた質問の答えには、\nで答える。\nなお、病院などで、体のどこの調子がわるいのかを聞かれる時、\nと、聞かれる場合もある。\nwrong は、「(具合や調子などが)悪い」という意味の形容詞である。\n「What's wrong?」とは、病気にかぎらず、なにかの調子が悪そうな時、「どこの調子が悪いのですか?」とたずねる慣用表現である。\n病院の場合、「What's wrong?」できかれたら、患者のがわの返事は、たとえば、\nなどがある。\nhurt は「傷付く」という意味の動詞だが、「My leg hurts」で慣用表現になってるので、あまり文法的なことは気にしなくてよい。\n「What's the matter?」「What is the matter?」とは、「どこか、問題がおありですか? (問題点を、聞いている)」「問題点は、どこですか?」の意味である。\n日本語訳の「どこ」に引きずられて where(×)にしないように注意しよう。\n「Waht's the mateer with you?」(どこか、問題がおありですか?)というように「 with you」がつく場合もある。with you がついても、意味は、with you がつかない場合と、ほぼ同じ意味である。\nこのように、動詞は主語のあとにくる。\n※ 一般動詞でもbe動詞(am, are , is )でも、「動詞は主語のあと」というルールが同じであることに気づこう。\nlike,haveなどの一般動詞の否定文は、動詞の前にdo not(don't)を入れる。\nのように答える。\nbe動詞の後ろにnotをつければ否定文になる。\n相手に直接質問するとき、like, have などの 一般動詞の疑問文は、文頭に Do をつける。\n※ 「Do you ~?」というように、youとセットで覚えること。別の単元で後述するが、heやsheではDoではなくDoes(ダズ)という別の単語になるので。\nのように、動詞には do を使う。\nあまり、 \nとか、 \nとか、言わない。\n「いいえ」なら、\nなどになる。\n2つのうち、どちらかであるかをたずねるときは、or(それとも)を使う。\n「~しなさい」のように相手に命令する文を命令文という。命令文には主語がなく、動詞で文を始める。\n「~してはいけません」と禁止する言い方は、命令文の前にDon't(ドント)をつける。\n「~してください」と丁寧な形にする場合は、命令文の前か後にPlease(プリーズ)をつける。\npleaseを文の最後につける場合は、,(コンマ)を忘れないようにする。\n「~しましょう」と仲間を誘う言い方は、命令文の前にLet's(レッツ)をつける。\nたとえば、「何を持っているか」とたずねるときは、Whatを文頭におき、答えはI have ~.と持っているものを答える。Yes,Noは使わない。\nこのように、「何に対して○○していますか」という文章は、「What do you 〜?」となる。\n主語が三人称単数で現在形のとき、動詞 have は has になる。また、多くの一般動詞は、三人称単数で現在形のとき、動詞の語尾に-s(-es)をつける。このことを俗に「三単元のs」(さんたんげんのエス)という。\n三人称単数とは、I,you以外の単数であり、he(彼)、she(彼女)、it(それ)で表されるもの。\nなおhaveを三人称単数現在形にする場合、形が変わりhas(ハズ)となるため注意する。\n主語が三人称単数で現在の文のときの否定文は、動詞の前に does not (ダズ ノット)をおき、動詞は原形(-sや-esのつかない形)にする。\nつまり、<主語 + does not + 動詞の原形 + 〜 .>の形になる。\n疑問文は主語の前にDoesをおき、動詞は原形にする。答えには、do/don't のかわりに、does / doesn'tを使う。\n・語尾がs,o,x,sh,chの場合はesをつける。\n・語尾が子音字(a.i.u.e.o以外のアルファベ \n・また、例外もある。\n参考: 平叙文\nbig(大きい)、nice(すばらしい)、good(よい)、famous(有名な) のように、性質(大きさ、長さ、形、色、性質、状態)などを表す語を形容詞(けいようし)という。\nこの語順の入れ替わった「This car is good.」と「This car is good.」のように、語順がどうであれ、両方の文とも「good」が形容詞である。\n例文\nもちろん、「big」(大きい)が形容詞である。dog(いぬ)は名詞。\nhungry も、形容詞である。\nthirsty も形容詞である。\ngood が、形容詞である。 tennis player は、形容詞ではない。player は名詞である。\nThis is a good car.(これはよい車です。)\nをもとに、「あれはよい車です」や「あの車は良い」を考えて見ましょう。ThisをThatに変えればいいだけです。\nThat is a good car.(あれはよい車です。)\nThat car is good.(あの車はよい。)\n疑問文「これはよい車ですか」を考えて見ましょう。まず、基準の「 This is a good car.(これはよい車です。)」をもとに、疑問文をつくってみましょう。\n「これは~ですか?」は「Is this ~?」のパターンでした(※ 暗記してください)。なので、このパターンに、形容詞を入れてみればいいだけです。では、入れてみましょう。答えは、\nIs this a good car? (これはよい車ですか。)\nになります。\n(問題)さて、例文\nで、good が、形容詞。 tennis player は、形容詞ではない。player は名詞でありました。\nでは、問題です。例文\nThis is a good car.\nで、good car は形容詞ですか?\n(答え) いいえ、good car は形容詞ではありません。goodだけが形容詞です。\n(問題)では、carはなんですか。\n(答え) carは名詞です。\nHow old ~?は「何歳ですか」と年齢をたずねる文。\n※ 形容詞について「どのくらい~ですか」と程度をたずねる場合、「How + 形容詞 ~ ?」で聞く場合がよくあります。\n返事は、たとえば\nなどになる。\nこのように年齢は、~ years old で表すが、years oldは省略することもある。\nつまり、\nともいう。\n※ old (オールド)は「古い」(ふるい)という意味の単語だが、How old ~と年齢をたずねるときは、5歳や10歳などの、幼い(おさない)相手であっても How old ~ を使う。\n年齢だけでなく、たとえば身長でも\nHow tall ~? (ハウ トール ~?)「身長はどのくらいですか?」\nのように、\nHow + <形容詞> で、なにかの程度を聞く表現がある。\nyoung では年齢をたずねないのが普通。\nHow old とか How tall のように、普通は数値が大きいほうの形容詞でたずねる。\n人間以外の対象でも、長さについてたずねるなら、\nHow long ~?(ハウ ロング~)「長さはどのくらいですか?」\nとなる。long は「長い」という意味だが、短いものの長さを聞く場合も How long を使う。\nwe はIの複数形であり、「私たちは」の意味。\nyouは、単数・複数が同じ形。\n主語が複数のときのbe動詞には、areを使う。\nつまり、<we are 〜> または <you are 〜> または <they are 〜> などのような形になる。\nyouが単数か複数かの見分けには、areのあとにくる名詞が単数か複数かで、見分けることもできる。\nmy(私の)、your(あなたの)、his(彼の)、her(彼女の)、its(それの)などを所有格(しょゆうかく)という。\n「トムの」や「私の母の」というときは、Tom's や my mother'sのように、名詞の語尾に('s)(アポストロフイs)をつける。\n(読み) my マイ。your ユア。his ヒズ。her ハー。its イッツ。\n(読み) our アワ。your ユア。their ゼア。\n(読み) mine マイン。oursアワーズ。yours ユアーズ。 theirs ゼアーズ。\n(読み )hers ハーズ\n(※ 練習法)暗記の練習では、口頭で「I my me mine」 (アイ・マイ・ミー・マイン)とセットでリズミカルに発音して覚えるのがコツ。you なども同様。つまり「you your you yours」 ユー・ユア・ユー・ユアーズ。 \n下記の文法の練習に深入りする前に、さきに上記の一覧表を「アイ・マイ・ミー・マイン」式ですべて覚えるのが良い。\n練習用にセットを書いておく。\nI my me mine (アイ・マイ・ミー・マイン)\nyou your you yours (ユー・ユア・ユー・ユアーズ)\nhe his him his (ヒー・ヒズ・ヒム・ヒズ)\nshe her her hers (シー・ハー・ハー・ハーズ)\nit its it its (イット・イッツ・イット・イッツ)\nwe our us ours (ウィー・アワー・アス・アワーズ)\nyou your you yours (ユー・ユア・ユー・ユアーズ)\nthey their them theirs (ゼイ・ゼア・ゼム・ゼアーズ)\n練習では、これを、口で10~20回ほど発音したり、またスペル(つづり のこと)を覚えるために同じぐらいの回数だけ書き取りしておくのが良い。\n\n代名詞はhe(彼は)、his(彼の)、him(彼を)のように変化する。\n例文\nけっして、日本語の「彼が」にひきずられて、 I like he.(×)などと書かないように注意しよう。\n例文\nいっぽう、「彼の本を、私は持っています」なら、\nとなる。\nこの場合、I have 「him book」(×)とかには、ならない。\n例文\n※ 「所有格」や「目的格」という用語を習ったので、さきほどの一覧表を、これらの用語を使ったものに置き換えよう。(中学2年以降の巻末付録などでは、下記のように表の用語が修正される。)「~のもの」はそのままで覚えていい。いちおう、「~のもの」を意味する専門用語はあるが、あまり中学高校の学習では普及していない。\n(読み) mine マイン。oursアワーズ。yours ユアーズ。 theirs ゼアーズ。\n\n「talk with 〜」で、「〜と話す」という意味の熟語であり、 with は、いっしょにする相手などを表す前置詞である。\ntalk with など、動詞のあとにつづく前置詞のあとに人称がくるときは、目的語として、あつかう。\nwhose (フーズ)は、持ち主をたずねる疑問詞である。あとに名詞が続いてwhose + 名詞のときは、「誰の○○」という意味になり、この場合のwhoseは所有格を兼ねている。\n単独で使われるときは「だれのもの」の意味を表す。\nといううように、2通りの返事がある。\nもし、「私」の本なら、2通りの答え方があり、\nとなる。\nもし、「彼」の本なら、同様に2通りの答え方があり、\nとなる。\n「彼」の本の場合、「彼のもの」his と、「彼の」his が同じ語形だが、格が異なるので、注意しておこう。\nもし、「彼女」の本の場合なら、同様に2通りの答え方があり、\nとなる。\nwhich(フィッチ)は「どちらが」「どれが」の意味の疑問詞である。\n例文\nまた、この例文のように、<Which do you 〜, X or Y ?>で、「XとYのうち、どちらがアナタは〜ですか?」の意味になる。\n返事には、すでに分かっている主語(I)や動詞(like)を略して\nのように、答えてもよい。\nなお、<Which does he 〜、X or Y ?> なら、「彼はXとYのうち、どちらを〜しますか?」のような意味。\n<Which does she 〜、X or Y ?> なら、「彼女はXとYのうち、どちらを〜しますか?」のような意味。\n<which is 〜?>の問いには\nのように、<主語+is 〜.>で答える。\n語釈\nなお、<Which do you like 〜?>は、<Which is your favorite, ・・・>で言い替えることができる。\n<can+動詞の原形>で「~することができる」という意味。\nたとえば、「あなたはテニスをプレイすることができます」なら\nである。\n上記 He can ~の例文は、\nが変形したものであると考えるとよい。can がつくことによって、plays → play と変化したことに注目しよう。\ncanの否定文はcanのあとにnotをおく。また、can not は can't と短縮できる。\n(例題 )「あなたはテニスをプレイすることができません。」を英語にしてください。\n答えは\nYou can not play tennis. \nまたは\nYou can't play tennis. \nです。\n(※ 範囲外)文法的には can not を中学で習うが、実はあまり2語の can not は英米では使わない。どうしても can't と短縮せずに書かざるをえない何らかの事情のある場合には、 cannot と一語で書くのが好まれる[1]。\ncanの疑問文はcanを主語の前に出す。\n※ 当然、play など文中の一般動詞は原形である。\n疑問への返事には Yes,~ can. / No,~ can't. など。\n「今ピアノをひいています」のような、現時点であることが続いている最中であるという表現は<be動詞 + 動詞の~ing形>で表せます。\n<be動詞 + 動詞の~ing形> は、和訳では「~している、~しているところだ」などと訳すのが一般的です。また、このような表現を現在進行形(げんざい しんこうけい)と言う。\n現在している最中であり、しかもその動作をがまだ終わってない最中のことが、現在進行形です。\n(※ 発展)ただし例外もあり、like (好きである)や see (見える)などは、すでに元の形の状態でその最中であるという意味があるので、ふつうは ~ingの形にしない。\n※ 中1でこれら例外の動詞を覚えきるのは無理なので、色々な参考書を読んで多くの例文になれていくしかない。\n<talk with 〜>で「〜と会話する、している」の意味の熟語。with (「ウィズ」)は、前置詞(ぜんちし)というものの一種で、いっしょにする相手などを示すときに用いる前置詞。\nこのように、文中に前置詞があっても(例文の場合は with が前置詞)、進行形の文章になることができる。\n現在進行形の否定文は、<be動詞 + not>の形になる。\n現在進行形の疑問文は、be動詞を主語の前に出し、答えはbe動詞を使って答える。\n過去のことは過去形を使って表す。\n一般動詞(規則動詞)の過去形は「動詞の原形+ed(またはd)」の形で、主語が何であっても同じ形になる。\n一般動詞(規則動詞)の過去形は「動詞の原形+ed(またはd)」の形で表すが、不規則に変化する動詞もある。規則的に変化する動詞を規則動詞というのに対して、不規則に変化する動詞を不規則動詞という。変化は1語1語覚えるしかない。\n一般動詞の過去の否定文は「did not(didn't)+動詞の原形」で表し、主語が何であっても同じ形になる。\n疑問文は「Did+主語+動詞の原形 ~?」で表す。またその回答は、「Yes/No+主語+did/did not(didn't).」で表す。\n「What time is it? 」は「何時ですか」と時刻をたずねる文。\nこの用法での itは時刻を表す形式的な主語 it であり、意味はない。\n「今、何時ですか?」のように、現在であることを強調したい場合には、now (ナウ、意味:今の)をつけて、\nと聞く。\n※ 実際の会話では「ホワッタイム イズイットナウ」のように、what time でひとつの語句のように発音することが多い。生活英語で時間をたずねるときの典型的な会話例なので、この「What time is it now? (ホワッタイム イズイットナウ)」ごと何回も口ずさんで発音してみて覚えてしまうのが良いだろう。\n※ what は疑問視であるが、上述のように what は形容詞のような働きもする。直訳すると「What time is it now?」は「今はなんの時間ですか?」という言い回しになっている。ただし、ここら辺の文法はあまり規則的でないので、深く考えなくていい。\nWhat time do you ~?(何時に~するか)の問いには、I go to bed at ten. (10時に寝ます)のように「at + 時刻」で答える。\nHow many ~?は「何人の」「いくつの」の意味で、人や物の数をたずねるときに使う。\nwhenは「いつ」の意味の疑問詞。\n返事には、その「時」を答える。\n上の例文のように、when は過去形でも使える。\nwhereは「どこ」の意味であり、「場所」をたずねるときの疑問詞である。\n会話例\n上の例文のように、where は過去形でも使える。\n過去分詞はどうなるのですか?誰か教えてください\nthisの複数形がthese(ジーズ)であり、「これら」の意味。\nthatの複数形はthose(ゾーズ)となり、「あれら」の意味。\nThese(Those)では、そのあとに続く名詞も複数形になる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/1%E5%B9%B4/%E6%96%87%E6%B3%95"} {"text": "不規則動詞だけでなく規則動詞も含まれた動詞の活用表です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/%E5%8B%95%E8%A9%9E%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96%E5%BD%A2_1%E5%B9%B4"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校英語 > 中学校英語/2年\n中学校英語/2年では、学年の英語について教授します。単語及び文法も必要に合わせて一緒にお読みください。\n以降、品詞については名詞を(n)・動詞を(v)・形容詞を(a)・副詞を(adv)・前置詞を(prep)・接続詞を(cnj)と表す。\nto+動詞の原形で書かれる語を、不定詞と呼ぶ。上の文章中では\nの2つの文章中で不定詞が用いられている。他に最後の文でも不定詞が用いられているがその不定詞の用法は上の不定詞の用法と同じであるので繰り返さない。上の文で\nの中では選ぶことを欲するという意味で取ることができるので、to take は文章の中でwantの目的語の働きをしている。目的語になるのは名詞の働きであるので、不定詞の名詞的用法と呼ばれている。一般に多くの名詞的用法の不定詞は〜することのように訳されることが多い。目的語になる他、不定詞の名詞的用法は文章中で主語になることも出来る。\n一方、上の文のうち\nの方では買うべきもの(服)のように服を修飾していることからto buy がoneにかかる形容詞として用いられていることが分かる。この様な用法を不定詞の形容詞的用法と呼ぶ。一般に不定詞の形容詞的用法にはいくつかの意味がある。代表的な例として使われ方を表わす用法や義務を表す用法がある。例えば、\nなどは対応する名詞の使われ方を表わす用法の例であり、\nなどは対応する名詞に対してするべき事を表す用法である。より詳しい使い分けは高等学校の範囲である。\n次に疑問詞を用いた疑問文について説明する。上の文章では\nの内でwhyという語は疑問詞と呼ばれる語の1つである。疑問詞は\n何を、なぜ、いつ、どこのように答えにyes,noではなく何らかの情報のある語を必要とする語のことである。このような語を用いるときには必ず疑問詞を文頭に持って来てそれ以外の語を通常の疑問文の語順に並べることで文を作ることが出来る。また、疑問詞は通常疑問文にしか用いられない。\n(\n最も口語的には平叙文の語順で対応する部分だけを疑問詞に置き換えることで実質的な疑問文を作ることも行われるようである。)\n動詞の種類は一般動詞であってもbe動詞であっても疑問文の語順に変化は現われない。\nよく用いられる疑問詞には\nなどがある。また、疑問詞と他の語をつなげて慣用的な意味を持たせた表現も存在する。この様な表現では疑問詞と他の語の組み合わせを1つの疑問詞と思って文を作ればよい。代表的な例として、\nなどがある。例えば、\nなどが慣用的によく用いられる。また、特にhowについてはそれを形容詞と組み合わせることでどれくらい〜かという様な疑問詞を作ることが出来る。代表的な例は、\nなどがある。疑問詞を用いた疑問文ではその文が疑問文であるにもかかわらず最後の強勢は下げることが知られている。\n次に上の文章中で、\nの文について説明する。この文の主語はIであり、述語はthinkである。しかし、この文には更にもう1組thisとisという主語述語の組が含まれている。このように主語と述語の組が複数含まれている文をw:複文という。一方、主語と述語が1組だけ含まれている文をw:単文と呼ぶ。複文には複数の文が同じ重みで含まれている文と片方の述語が主だった意味を定め、もう片方の述語が他の述語の意味を補う働きをする文がある。前者については各々の文は等位関係にあるといい、後者では文は主従の関係にあるという。文が等位関係にあるか主従関係にあるかはそれらをつなぐ接続詞によって決まる。接続詞とは、2つの文の間に何らかの関係をつける語である。例えば、日本語では〜だから、しかし、そしてなどがあげられる。\n上の例では接続詞としてthatが用いられている。そのため、上の文は文法的には\nと等しい。しかし実際には多くの場合thatは省略されるので、上ではthatを書いていない。ここで接続詞thatは、日本語でいう〜ということに対応する\n意味を持つ。つまりこの文章は〜ということを思うという様に訳せばよい。ここで、that以下の文はthinkの目的語となっていることからthat以下の文全体が名詞として働いていることが分かる。一般に文中の主語や術語以外の成分で主語と述語を含んでいる文の成分を節と呼ぶ。この用語を用いて、\nここで使われた接続詞thatの用法はthat節の名詞的用法と呼ばれる。\n他によく使われる接続詞として\nなどがあげられる。この中で、andとbutだけは文を等位関係にする接続詞であり、それ以外は接続詞に続く文を主文に従属させる文とする接続詞である。前者の接続詞を等位接続詞、後者の接続詞を従属接続詞と呼ぶ。\n(v)・(n)等は前の課を参照。(int)は間投詞を表す。\n文章中で現在以外のことについて述べたいことがある。現在、過去、未来のように時間を表わす表現のことをw:時制と呼ぶ。ここでは特に過去に関する事実を述べる時制について説明する。過去の事実を述べるときには文章中の述語動詞を過去形にすればよい。過去形は一般的な動詞では動詞の原形に-edをつけることで作ることが出来る。例えば、\nなどがあげられる。一方、最後が-eで終わる動詞には単に-dをつける。\nまた、最後が子音+yで終わる動詞ではyをiにかえて-edをつける。\nまた、最後が単母音+子音で終わる語は最後の子音を重ねて-edをつける。\nここまでのように語尾に-edをつけることで過去形が作れる語をw:規則動詞と呼ぶ。一方、英語の動詞の中にはそれとは異なった変化によって過去形を作る動詞も少なからず存在する。これをw:不規則動詞と呼ぶ。これらの動詞は頻繁に使われる動詞である場合が多い。不規則動詞の原形から過去形を作る方法は動詞ごとにほぼばらばらであり、個別に覚えるしかない。しかし、幸いにも不規則動詞は非常に多いわけではなく、また時代の流れとともに新しくできてくる動詞で不規則変化をする動詞は稀であるため、それほど苦労する事はないかも知れない。主なものをあげると、\nなどがある。平叙文では単に文章中で動詞を過去形に置き換えればよい。上の例では\nなどが過去形の例である。2つ目の文ではputの過去形と原形が一致しているため文を見ただけでは文の時制が現在であるか過去であるかは分からない。これらは文脈を見てその時制がどちらにあるかを判断しなけばならない。\nまた、疑問文や否定文の過去を扱うときには、動詞ではなく補助動詞のdoをdidに変えることで過去時制の文が作られる。本文の例では\nなどがその例である。\n次に\nの文についてより詳しく説明する。この文では述語であるlentの後に\nと\nの2つの名詞が続いている。この様に述語の後に名詞が2つ続く例は2通りある。1つは2つの名詞がどちらも述語の目的語となっている場合である。実際には\nこの場合はこちらであり、youとmy bicycleはどちらもこの述語lentの目的語となっている。lentの原形であるlendは貸すという意味の単語であり、\n貸す相手と貸すものの両方を目的語として取る。このため、2つの名詞はどちらも目的語なのである。この様に動作を受ける人と動作を受けるものの\n2つを取る動詞は他にもいくつかある。これらはどれも\nの順で目的語を取る。この順番を入れ換えることは出来ない。ここで、人に対応する目的語をw:間接目的語、ものに対応する目的語をw:直接目的語と呼ぶ。ただし、多くの動詞では上の並びと同じ意味で\nの書き換えをすることが出来る。このときには目的語はものだけであり、to 人はto前置詞の副詞句である。\n言語を習得するには。得た知識を実際の文章に対して適用してみることが必要となる。ここでは特に、英語版wikibooksのwikijunior\n[1]\nから、次の文章を訳してみる。この文章は南アメリカ諸国の文化や地理を説明する文書の一部であり、完全な文書は\n[2]\nに存在する。この文書は英語圏の子供向けに書かれた文書であるので比較的簡単な英文で書かれている。興味があれば全訳にも挑戦してみるとよいかもしれない。\n子供向けとはいえ文法的にも単語のレベル的にもかなり進んだ内容であり、母国語でない人間にとっては簡単に読むわけにはいかないだろう。\nWho lives in South America?\n上の文では誰にという意味の疑問詞whoが用いられている。このため、上の文は\n平叙文の語順であるけれども、分類としては疑問文に含まれる。whoは人称としては\n3人称にあたり、この文は現在のことを表わした文であることから、動詞には\n3単現(3人称単数現在形)のsがついている。\nliveは住むという意味を表す動詞であるが、この使い方をするときは\n目的語を取ることは出来ない動詞である。この様な動詞をw:自動詞と呼ぶ。\n一方、目的語を取ることが出来る動詞をw:他動詞と呼ぶ。\n主語が住んでいる場所を示すためには副詞を用いて表す。ここでは前置詞を用いて副詞句をつくって、住んでいる場所を表している。ここでは前置詞はinが用いられているが、これは特に国や地域などのわりあい広い範囲を表すときに用いられる。より狭い範囲での場所を表すには前置詞atが用いられる。しかし、その使いわけはある程度主観にもよるようである。\n南アメリカに住んでいる人々は3つの主だったグループに分かれる。それぞれ現地の人々、ヨーロッパ系、そしてアフリカ系である。実際には国にもよるが、ほとんどの人々はこれら3つの人種の混血となっている。\nこの段落の最初の文の主語はgroupであるが、これには多くの形容詞がついているため、\n主語が長くなっている。形容詞まで含めた主語のことを主部と呼ぶことがある。\nこの文の主部は\nである。ここで分かる通り、名詞groupを修飾する形容詞mainと\nthreeが存在するときには、threeの方を先に持って来る。更に、of peopleはgroupにかかる形容詞句であるが、peopleで構成されたの様に構成物を作りだす意味のofであると考えられる。同じ意味のofは例えば\nなどの表現でも用いられる。これらは長い主語であるが全体としては\nという文であり、それらに適当な形容詞が付けられているのである。\n文中で:が用いられ、それ以降に主語で述べられた3つのグループについての説明が与えられる。上の記号である:はw:コロンと読まれ、おおよそ日本語で即ちの意味を表わす。つまりコロン以降の名詞で前の文に対する説明を与えるのである。\n次の文では\nから始まっているがこれはw:分詞構文と呼ばれる文法であり、高等学校英語の範囲でありやや高度な文法である。簡単に説明するとこの構文は、分詞に主語を補って完全な文にした後、接続詞でつないだのと同じ意味になる。特に、分詞構文に主語が存在しない場合には、次に続く文の主語が対応する分詞の主語になる。しかし、実際にはこの文の主語はmost peopleでは無いのだが、文脈から意味が分かるということで改めて主語を指定することを省いたようである。次にhoweverという単語が続いているが、この単語は単にしかしという意味を表わす。この単語は副詞であり、文の最初に置くことも出来る。しかし、文の動詞の前に',(コンマ)'で区切って文中、特に動詞の直前に置かれることも多い。上の文ではdepending - の部分は文の術語areにかかる副詞句と考えることができるので、howeverが入っている位置は文頭と考えることが出来る。\n現地の人々\npeopleは複数として扱われる。意味としてはpersonの複数形と思っておけば良い。\n現地の人々は南アメリカに最初に住んでいた人々であった。彼らにはいくつかの民族があり、彼らはそれぞれ別の言語と文化を持っていた。彼らの中で最も有名なのはインカ人である。彼らはケチュア語を話し、1200年から1533年にわたってTawantinsuyuと呼ばれる偉大な帝国を作っていた。インカ帝国は既に存在していないが、現在でも1300万人程度のケチュア語を話す人々がいる。\n最初の文ではindigeous peopleが最初の人であったと述べている。それ以降のto - はthe first peopleを修飾する不定詞の形容詞句である。\n次の文はThere - の文章であり、文章の主語はtypesであり複数形であるので、文の術語areは複数形に対応する形を取っている。この文ではカンマに区切られて別の主語術語が続いている。\neachはそれぞれという意味で、単数形として扱う。この語では、日本語に引きずられて複数として扱ってしまいがちなので注意が必要である。同様の性質を持つ語としてeveryがあるがこの語は全てのという意味を表わす形容詞であるが、そうであるにも関わらず、この形容詞がついた語は単数として扱わなくてはならない。前置詞withは、〜と一緒にが1つの意味だが、ここでは、〜を所有しているというような意味である。形容詞ownは通常所有格を表わす語に続いて用いられ所有されているということを強調するような意味を持つ。\n次の文ではthe most famous - という文が用いられているが、これは形容詞の最上級と呼ばれ\nこれも進んだ文法である。\nここで形容詞の\nofが最上級に続いた場合には、of以降の名詞の中で一番であるという意味を表わす。結局ここでは全ての人々の中で最も有名な(人々)という意味が対応する。\nwereはareの過去形であり、主に複数形の語が主語のときのbe動詞として用いられる。\n次の文ではan empire called Quechuaという表現が見られるが、この文中でcalledは、an empireを修飾する過去分詞である。過去分詞の用法は中学校英語の範囲である。\nまた、この文ではand以降にbetweenに続く名詞で作られる副詞句の後、再び述語 hadが続く形になっている。この様な場合後の文で主語が省略されたことは、後の文の主語と前の文の主語が等しいことを示している。よって、後の文の主語もIncasであり、Incasが、a vast empireを所持していた事が分かる。\n次の文でno longerは既に〜ないという意味を持ち、この語が入った文はnotが含まれなくとも否定文として扱われる。しかし、それ以外の語順は平叙文と同一であり、3単現のsもそのまま残っている。but以降の節では、indigeous people who speak Quechua という表現が見られるが、これは\n関係代名詞と呼ばれる。働きとしては、whoを主語として書かれる形容詞節がwhoの直前の名詞を修飾する。ただし、whoの節の主語は、whoの直前の名詞を用いる。結局この文はケチュア語を話す現地の人々という意味を表わす。\nヨーロッパ系\n1530年代にスペインやポルトガルからのヨーロッパ人(イベリア半島を参照。)は南アメリカを植民地にしていった。南アメリカのうちでポルトガルの植民地にされた地域はブラジルという大きな国になった。他の多くの国はスペインの植民地となった。南アメリカの北方に3つのスペインにもポルトガルにも植民地化されなかった小さな3つの国があったが、それらは仏領ギアナ、スリナム、ギアナである。\n最初の文で1530sという表現はおおよそ1530年代という事を表わす表現である。\nまた、w:スペインとw:ポルトガルはヨーロッパの国である。この文にはstarted colonisingという表現が含まれているが、\nここで、colonisingという語はcoloniseの動名詞であり、意味はだいたいto coloniseの名詞的用法と同じである。\n動名詞は中学校英語の文法である。ただし、名詞的用法でどちらが使われるかはその文の述語によって\n変わる。この文の述語であるstartは動名詞と不定詞の両方を取る動詞であるので、どちらを用いてもよい。\ncoloniseは難しい単語だが、単に目的語を1つ取る他動詞であり、意味はw:植民地化するである。\n次の文でparts which were colonised ... の文でのwhichは関係代名詞であり、上で見た関係代名詞whoと同じ働きをする。whichとwhoの使いわけは、whoは人に対して用い、whichはそれ以外のものに対して用いるという使いわけである。ここで、were colonizedは、植民地化されたという意味を表わす\n文法であり、w:受動態と呼ばれる。受動態は中学校英語 第3学年で扱われる。文全体としては、植民地化された部分という意味になる。becameは、becomeの過去形で、意味はbe動詞に似ているが特に変化の意味を表すため、〜になると訳される。この語は、be動詞と同じ扱われ方をするので、この動詞の後には目的語ではなく、補語が続く。\n次の文でmost ofという表現があるが、ここでのmostは最上級の意味はなく、単にofで表される名詞のほとんどがという意味を表す名詞である。the otherの中で、otherは他のという意味を表す形容詞だが、特にthe otherの形で用いられたときには全ての他のものという意味を表す。\n次の文でvery northという表現では、\n北であることを強める働きをしている。 countries that were colonised ...の表現はwhichやwhoと同じくthatを関係代名詞として用いた場合である。thatは、ものに対しても人に対しても使える。どちらかといえばwhoやwhichはより形式的な場面で使われることが多い。\n更にこの文ではeither -a- or -b- という表現が用いられているが、この表現は-a-か-b-のどちらかをという意味を表す表現である。この表現自体は高等学校英語で紹介されることが多いので詳細はそちらを参照。\nイベリア半島\nイベリア半島は大西洋に突き出している南ヨーロッパの地域である。イベリア半島にはポルトガルとスペインという2つの国があるが、5つもの異なった言語がある。\n最初の文のthatは関係代名詞であり、piece that pokes out into .. と続いている。意味は、突き出ている部分となる。pieceは日本語でピースと読まれることもあるが、地理的な話題であることからここでは地域でもよいだろう。Atlantic Oceanは大西洋の意味である。次の文でもコロンが用いられているが、それ以降の名詞であるPotugalとSpainが、two countriesを表わしている。\n\n中学校英語 文法項目 2学年\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/2%E5%B9%B4"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校英語 > 中学校英語/2年/単語\n中学校英語/2年/単語では、2学年の英語で習得すべき単語について教授します。中学校英語/1年 および 中学校英語/2年/文法も必要に合わせて一緒にお読みください。本ページでは熟語・連語も含みます。\nのように、カッコ内に、複数形の表記を書く。\nたとえば、「山」の英語の場合、mountains が、複数形のときの表記。\nこの節は書きかけです。この節を編集してくれる方を心からお待ちしています。\nこの章では、1年もしくは2年で学習する単語 (熟語・連語も含む) を紹介します。日本語訳の前にある漢字は、「冠」が冠詞、「動」が動詞、「名」が名詞、「形」が形容詞です。後に「(1)」とあるものは1年生で、「(2)」は2年生で学習する単語です。\n写真をあらわす名詞には、picture のほかにも photo や photograph がある。\nだが、take a photo とは、あまり言わない。もっとも、「take a photo」などでも、間違いではない。\n例文\n例文\n※ 光(ひかり) light と、軽いは、つづりが同じ。なお、「右」のつづりは right である。\n(※ 参考) 時刻が「早い」は early である。fast は速度や動きが「速い」ようす。\n例文\n例文\nいっぽう、感情を引き起すもの(出来事や書籍や映像など)については、\nとか、\nとかのように、〜ing の形になります。\n形式的には、surprisedは過去形-edと同じ形だ、surprising は進行形と同じ形ですが、しかし、surprised も surprising も形容詞として扱うのが普通です。\nexcited や exciting など、ほかの感情を表す語でも同様に、形容詞としてあつかうのが一般的。\n例文\nDo you have a question ? 何か質問がありますか?\n例文\ninteresting の主語になるのは、他人をおもしろがらせる物や出来事など。\ninterestedの主語になるのは、「私」や「あなた」など、おもしろさを受け取った人。\n※ 「That sounds interesting」を「あれは、おもしろそうだ。」(×)とは訳さない。「That sounds interesting.」は慣用表現になっており、「それは、おもしろそうだね」などと訳す。\nなお、 sound (サウンド)には、名詞と動詞があり、直訳すると、それぞれ\nである。\n「That sounds interesting.」で「それは、おもしろそうだ。」というような意味の慣用表現に、なっている。\nなので、入試や定期テストなどの和訳では、けっして、「それはおもしろと、聞こえる」(×)などと直訳してはいけない。\n(※ 範囲外: )中学の授業や高校入試では誤魔化されているが、interesting は本来、知的な関心を呼ぶという意味での「おもしろい」に使う。だから、たとえばテニスをプレイしてみて「面白かった」とか言う場合、interesting ではなく形容詞 fun (ファン)を使う。 It's fun to play tennis. 「テニスをプレイするのは面白い」\n(※ 範囲外: )実は to や than でも良い。つまり、be different to ~ なども可。from が一般的だが、英国口語でto 、米国で than も使われる(ジーニアス英和およびセンチュリー英和で確認)。作問をする教員は注意のこと。\n例文\n例文\n例文\n(※ 範囲外? )雨ガッパは raincoat である。雪ダルマは snowman である。\n関連表現\nglobe は球体という意味だが、地球を表す場合もある。なお、手袋 glove (グラブ)と、まちがえないように。\n(※ やや中学の範囲外:) pianist は、職業以外にも、単にピアノがうまい人を a good pianist のように言う場合もある。\nsinger も同様で、歌がうまい人を a good singer と言う場合もある。\n詳しくは高校の英文法で、名詞構文(めいし こうぶん)という単元で習う。\nHe is a good singer. 「彼は歌をうたうのが上手だ。」\nは、\nHe sings well.\nのように言い換えできる。\nsinger にかぎらず、音楽やスポーツのplayerでも同様に well で言い換えできる。\n\n「エネルギー」という読みは、ドイツ語に由来する読み。\n英語では、「エナジー」と読む。\n参考\n\n※ 「アフリカ」の「ア」の部分にアクセントがあるため、「アー」と伸ばしてるように聞こえる。発音記号では「アフリカ」と伸ばしてないが、このようなアクセントの事情を考え、本書では「アーフリカ」と表記した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/2%E5%B9%B4/%E5%8D%98%E8%AA%9E"} {"text": "be動詞の命令文は<Be 〜.>という形式になり、このように、動詞の原形で始まる。原形(げんけい)とは、もとの形である。\n上記の英文は、意味の上では You must be a good boy.と同じ内容を表す。\nBe(be,am,are,is)動詞では、「be」がもとの形であり、それ以外のamやareやisなどはbeが主語に合わせて変化したものである。amは原形ではないので注意。\nまた、このように、原形が必ずしも 私「I」 のときの動詞の形とは、かぎらない。(とはいえ、命令文以外の多くの構文では、私「I」 のときの動詞の形と同じ場合が多い。なので、暗記の対象としては、例外的に私「I」のときの動詞が原形でない場合だけを覚えればいい。)\n参考\nbe動詞の否定の命令文は <Don't be 〜.> となる。\n例文\n例文\n感情をあらわす形容詞の中には、\nのように、ed が語尾につくものがあります。\nしかし、いっぱんに、これらの感情をあらわす 〜ed の語は、形容詞として扱います。受け身としては、扱わないのが、日本での英語教育では普通です。\nいっぽう、感情を引き起すもの(出来事や書籍や映像など)については、\nとか、\nとかのように、〜ing の形になります。\n語形的には、surprised は過去形 -ed と同じ形だし、surprising は進行形と同じ形ですが、しかし、surprised も surprising も形容詞として扱う(あつかう)のが普通です。\nexcited や exciting など、ほかの感情を表す語でも同様に、形容詞としてあつかうのが一般的。\n「晴れ」は英語で sunny (サニー)です。\n太陽が英語で sun (サン)です。晴れの日には、太陽が見えるから、 sunny というわけです。 \n「今日は晴れです。」は英語で\nと書きます。\nこのように、 It が形式的な主語になります。文法用語で、このような It の用法を「形式主語」などと言います。\n日本語を和訳するとき、 It に当たる「それ」などの語は訳しません。入試などで、「それ」などの語をかくと、不正解になる場合があります。\n「昨日は、晴れでしたよ」なら、\nとなります。\nたとえば、「(天気が)雨」は英語で、rainy (レイニー)です。「雨が降る」は英語で rain (レイン)です。レインコート raincoat のレインと同じです。\nを和訳してみましょう。\n「今日は、雨です。」などが、 「It is rainy today. 」の和訳になります。\n参考\nなお、「天気」は英語で weather (ウェザー)です。\n気温の温暖・寒冷についても、\nwarm と cool は、比較的、すごしやすい気候の場合です。いっぽう、 hot と warm は、比較的、きびしい気候です。\nたとえば、真夏の炎天下などには、 hot を使うといいでしょう。冬の雪(snow スノウ)の日などには、cold を使うといいでしょう。\n春ごろや秋ごろの気候で、 warm や cool を用いる事が多いでしょう。\nまた、「 was 〜 ing 」「were 〜 ing」のようなのを過去進行形(かこ しんこうけい)といい、その名の通り、過去に進行中だった事を表現するのに過去進行形を使う場合があります。\n例文\nなどになります。\n疑問文は、\nのようになります。\n疑問への回答は、「Were you 〜?」で聞かれたなら、\nのようになります。\n「What ware you 〜ing 〜?」で聞かれたなら、たとえば、\nと聞かれたら、\n返事は、たとえば\nなどのようになります。\n返事では、いちいち at 〜 o'clock とか、last night とか、くりかえしません。\nどうしても時間を強調したい場合は、 at that time (アット ザット タイム)(意味:そのときには)などの語句をおぎなうとよいでしょう。\n「along 〜」(アロング)で、「〜にそって」の意味があります。\nもしトムが「ボブといっしょに、川沿いを歩いていたよ」と言うとしたら、\nのように、言うことになります。\nwith(ウィズ) で「〜といっしょに」の意味があります。\n「春休み中、どうしてた?」を英語で聞くと、\nになります\n「during 〜」(デュアリング) で、「〜の最中に」「〜中に」の意味があります。\n返答で、(春休み中なら、)「ハワイ(Hawaii)に行ってた」と答えるなら、\nとなります。\nちなみに、ハワイのお土産(おみやげ、英:Souvenir (※ 範囲外?))でよくある品物は、アロハ・シャツ(aloha shirt)や、マカデミア・ナッツ(macadamia nuts)などです。\n「aloha」(アロハ)は、ハワイ語で「こんにちは」にあたる挨拶の言葉ですが、「愛」を意味する単語でもあります。\n「留学生の女の子が、わたしたちの通う日本の学校にやってきた。」というようなシチュエーションだとしましょう。\nもし彼女が自己紹介で、「私達は、去年、日本に来ました。」と言うとしたら、\nになります。\nこの表現では、前置詞はつけません。英米の習慣的にそうなってるので、おぼえてください。\n時間を表す時には、時間に at や in など前置詞をつけない場合があります。\nもし彼女が自己紹介で、「私達は、4週間前に、日本に来ました。」と言うとしたら、\nago は、期間について「〜前」にという意味です。期間以外のものの前後については、ago は使えません。たとえば、\nなお、「食べる前に、手を洗え。」というのには、ago は使えません。「何かをする前に、べつの何かをする」というような場合の「前」を表現するには before (ビフォア)を使います。\nちなみに「食べる前に、手を洗え。」を英語で言うとしたら、たとえば\nのようになるでしょう。\nbefore は、出来事の前後関係での「あと」という意味です。\n「手をあらったあとに、食べていい」なら、たとえば\nのようになるでしょう。\nafter (アフター)は、出来事の前後関係での「あと」という意味です。つまり、 before と after とは、反対どうしの意味です。\nWhen 〜 で、「〜したとき、」の意味をもつ接続詞になる。\nつまり、 when には、「いつ、〜?」疑問詞の用法のほかにも、「〜したとき」という接続詞の意味もある。\n例文\n例文\n助動詞 will (ウィル)を用いて、未来のことを表現できる。<will + 〜(動詞の原形) >で、 「~するでしょう、~する予定だ」 の意味。 動詞は原形になることに注意。原形とはもとの形のこと。具体的には、主語が三人称単数ならば助動詞の文章では、動詞の語尾にはsまたはesなどのない形になっているはずである。\n参考:\n< I will 〜 >のように、自分(I)について will をつかうと、自分の予定や、自分の意志を伝える表現になる。\n(※範囲外: )なお、ウィンドウ・ショッピングも window-shopping で通じる[1]。\n※ 過去形では、たとえば look が looked になったりと動詞が変化したりのように動詞には「過去形」というのがあるが、しかし動詞に「未来形」というのは無い。\n英語学に「未来時制」(みらいじせい)という考え方はあるが、それは上述の助動詞 will などのことである。動詞の変化との混同を嫌ってか「未来形」とはあまり言わずに、willなどのことを「未来表現」などと言う場合も多い。\n基本的に、英語で動詞の時間を表す場合は、現在か過去か未来かの3つのうちのどれかか、それらいずれかの進行形(現在進行形か過去進行形か未来進行形)や完了形(現在完了や過去完了や未来完了)だけである。「完了形」を中学2年では習っていないかもしれないが、とにかく時間については英語では、現在・過去・未来の3つのうちのどれかしか存在しない。\nよって、現在・過去・未来のほかの時間については、気にする必要は無い。\nwill を未来の「時制」のようなものと考える上述の見方とは別に、willを確信度の比較的に高い見通しである、と解釈する流儀もある。will には、未来予測の用法とは別に、現在の習慣または過去の習慣をあらわす用法や、意思をあらわす用法もあるから、である。また、遠く離れた場所について「今ごろは~だろう」などと予想する場合も will を使います[2]。また、未来のことであっても、話し手にあまり確実性の自信の無い場合は、will ではなく may など別の助動詞を使います。\n上述のように will は比較的に確信度が高いし、一方で may は確信度が低い、または控えめな言い回しが may なので、とくに確信が高いわけでも低いわけでもないが、しかし断言ではない場合で あくまで予測や推測であることを言いたい場合、どうすれば良いかというと、単に I think that ~ 「私は~だと思います」などの簡単な言い回しで良い[3]。ここでの that は「~ということ」という意味の接続詞。\n今夜や今晩や、その日の未来について場合や、数時間後について言う場合、will など未来形をつかうのが普通です。\n例文\ntonight は「トゥナイト」と読む。tonight の意味は「今夜」、「今晩」などの意味。\n「もうすぐ」(副詞:soon 、スーン)や、数分後についてすら、will をつかう場合があります。\nたとえば、\n「もうすぐ、彼は来るでしょう。」なら、\nです。\n例文\nこのように、 willの疑問文は、willを主語の前に出す。\n返答は、「はい」なら\nで答え、\n「いいえ」なら\nで答える。\n「won't」は「ウォント」と読む。won't は will not の省略形。\n例文\n(※ 範囲外 :)検定教科書では明言されてない文法規則だが、ひとつの文節中に、「助動詞はひとつまで」という規則がある。\nそして、will も do も does も助動詞である。なので、will をつかった文では、絶対に do や does を使わない。なので、未来の動作をたずねる疑問文でも、冒頭には do や does は絶対に出てこない。疑問文の冒頭の Do や Does は助動詞である、と覚えれば、暗記の負担が軽減される。\nある動詞が助動詞かどうかを判別する大まかな方法は(be動詞などのように例外も多少あるかもしれないが)、否定形があるかどうか、である。will の否定形は will not や won't が存在する。do の否定形は do not や否定の短縮形 don't が存在する。\nしかし eat や look など一般の動詞には、否定形やその否定の短縮形が存在しない。\nある動詞が、be 動詞でもないのに、その動詞に専用の否定形が存在していれば、それはおおむね助動詞であろう。\nbe going to 〜 でも、未来をあらわせる。be(am,are,is) going to + 動詞の原形は「~するつもりだ、~する予定だ」の意味の熟語。 be going to は助動詞ではないが、will とまとめて勉強したほうが効率なので、助動詞の節で紹介する。検定教科書や参考書でも、will といっしょに紹介される。\n例文\n予定をあらわすときに be going to を使う場合があるがwill との区別は明確で、be going to は既に決まっていた予定を、will はそれまでは未定でその場で確定した予定を表す。なので、たがいに交換可能ではない。\n例文\nこの< going to go to 〜>のように、どこかに行く予定の場合なら、goを二回つかっても、構わない。\n「雨が、ふりそうです。」は英語で、\nと書ける。\nIt は形式的な主語であり、和訳のさいは、itを「それ」とは訳さない。\nここでの「 to rain 」の rain は動詞で、「雨が降る」の意味。\nbe going to ~ の疑問文は、be動詞を主語の前に出す。答え方は、普通のbe動詞の文の場合と同様、be動詞を使って答える。\n<Will you ~?>は、依頼「~してくれませんか」の意味でも使われる場合もある。\n「Help me, please.」(私を手伝ってください。)というよりも 「Will you help me?」 のほうが、すこしばかり、丁寧な言い方になる。\nもちろん、文章によっては「あなたは、(未来に)~するでしょうか」の意味で「Will you 〜?」が使われる場合もあるので、依頼か未来か、どちらの意味で使われてるかは、文脈から判断すること。\n「あしたは晴れて、暑くなるでしょう。」なら、\nとなる。\nこのように、天気や気温についても、接続詞 and が使える。\n「東京は、あした、晴れるでしょう」なら、\nとなる。ふつうに、場所を表す前置詞 in をつかって、 in Tokyo のように、場所を追加すれば済む。\ntonight は「トゥナイト」と読む。tonight の意味は「今夜」、「今晩」などの意味。\n助動詞 will がつくので、動詞は、原形になる(is → be 、rains → rain など)ことを忘れないように。\n天気や気温について、過去のことをいいたいなら、be動詞を過去形にすれば済む。つまり、is の過去形 was を使う。\n「もし〜なら」を表すには、接続詞 if (イフ)を使います。\nなお、未来の予定のことを言う場合でも、if の節の中の動詞は現在形にする。\nこの場合、「If it is fine tomorrow,」の is が現在形であることに、注目。\n「we will play 〜」は、if の外の節なので、この節は未来形になるので助動詞 will がある。\n「〜しなければならない」の意味を表すのには、助動詞 must が使える。\n例文\n「You must ~. 」は命令文とほぼ同じ内容を表す。\n「You must not ~.」 で文を始めると、「〜してはいけない」という否定文を作ることが出来る。\n「〜しなければなりませんか」と尋ねる疑問文は、 Must I ~? で文を始める。\n※ must に過去形は無い。過去の義務について「しなければならなかった」と言いたい場合、後述の had to を使う。だから、そもそも、義務や強制の用法での must の正確な意味は「現在~しなければならない」というような現在の圧力がさしせまっているというような意味である[4](普通の参考書にはそう書かれてないが)。must自体が現在の意味を含むので、過去について言いたい場合は had to など別の表現になるのは当然である。\n※ must not の短縮形は mustn't であり、なお発音は「マスント」である。 mustn't の最初の t は読まない。\n「have to + 動詞の原形」で、「〜しなければならない」の意味を表す。主語が3人称単数のときは、has to ~となる。\n例文\nhave to は、助動詞 must とほぼ同じ内容を表す。\nmust と have to の意味が大体同じなのに、一方で must not とdon't have to の意味は違います。\nこれを覚えるのは一見すると大変そうですが、しかし not の位置の違いに注目すると、丸暗記しなくて済みます[5]。\nmust の否定形 must not には、must の直後に not がついていますし、短縮する場合も mustn't のように must につけます。\n一方、義務をあらわす have to の否定形のdon't have to には、haveにも to にも、notがついていません。not をつけるという構造ではなく、別途 don't をつけるという構造です。そして don't の意味は、単に「~ではない」という 弱い否定の意味です。\nなので、don't have to は単に「~する義務がない」つまり「~する必要が無い」といった弱い意味になります。このように、答えは英文に書いてあります。\n未来のある時点に「~しなければならない」と言いたい場合、will must (×)とか must will (×)とかは言えない。\n英文法の規則により、「ひとつの英文中には、助動詞はひとつまで」という規則がある。\nどうしても、「来週には ~ しなければならない」とか言いたい場合、 will have to ~ で表現する。\nこのように、 have to は形式的には助動詞ではない、として分類される(意味的には実質的には助動詞であるが)。\n同様に、未来の動作を意味する be going to ~ も、形式的には助動詞ではない。\n中2のここまで習ったのをまとめると、\n形式的に助動詞であると分類されるものは、\ndo/ does/ did\nwill\nmust \ncan\nなどである。\nいっぽう、\nbe going to ~ (未来の動作を意味する)\nhave to ~ (「しなければならない」を意味する)\nは、形式的には助動詞ではない、とみなされる。\n助動詞2個以上の問題の回避策として be going to や have to を使う場合、細かいニュアンスのちがいは無視される。\nhave to よりも must のほうが意味合いが強いが、しかし助動詞2個問題では、そのような意味合いは無視されるのである。\nbe going to には will が対応する。\nhave to には must が対応する。\nなお、中3~高校の範囲の単語だが、be able to ~ という表現が、can に対応する。\nable はエイブルと読む。「能力」のことを ablity (アビリティ)というのだが、それと関連づけて覚えてもらいたい。また、「能力」の意味から分かるように、能力を強調するニュアンスがある。\nしかし、そういうニュアンスも、助動詞2個問題を回避する場合には、ニュアンスの違いが無視される。\n<May I ~?>は「~してもいいですか」と許可を求めるときに用いる。mayはcan,willと同じく助動詞であとは動詞の原形。\nMay I ~? できかれたら、返事は、もし相手に「してもいい」と許可を出すなら(ペンを貸してもいい、パスポートを見せてもいい)、\nなどで答える。\nCan I 〜 ? でも、「〜してもいいですか」の意味がある。\n「私はあなたのパスポートを見てもいいですか?」→「あなたのパスポートを見てもいい?」→「パスポートを見せてください」というわけである。\n<Shall I ~?>は「~しましょうか」と相手の意向をたずねる。\n接続詞 「or」(オア) で、「または」「〜か、それとも〜か」の意味があります。\nなお、 by (バイ)は、手段を表す前置詞です。by の意味は、手段について「〜によって」の意味です。\n他の例文も見てみましょう。\nのようになります。\nor の位置は、 並列する 2つのものの間で、使います。\n3つ以上のものを並列するときは、たとえば、\nのようになります。\n「by bus」 と「by train」のあいだに or がありませんが、それは省略したからです。いっぽう、「train」「plane」のあいだの「or」は、最後に並列されたものなので、省略できません。\nつまり、さいごの「or」以外は省略できます。\n「or」の省略について、「bus」「train」「plane」の語順を入れ替えた例文で、説明すると、つまり\nこのように、さいごの「or」は省略できません。しかし、さいご以外の or は、省略できます。\n「私は日本で生まれました。」\nI was born in Japan. (アイ ワズ ボーン イン ジャパン)\nこの 「born in 〜」は「〜で産まれた」という意味の、熟語です。\nこの文での「born」は、形容詞のような働きをしています。\n例文を見てみましょう。\nなどのように、born in は使います。\n「わたしは、この本を探しています」\nI am looking for to this book.\n「looking for」で「探している」という意味です。\n「わたしは、彼を探しています」なら、\nI am looking for him.\nともなり、探すものが代名詞などで表現できる場合、himなどのように目的格をつかうことで to を省略する場合があります。(省略しなくても良い。)\nThere is(are) ~.は「~がある、~がいる」の意味である。there の単語そのものの意味は「そちら」などの意味だが、この用法の場合は、there は訳さない。\n<There is(was)〜 >.は、主語が単数のばあいに用いる。\nいっぽう、<There are(were) ~.>は、主語が複数のばあいに用いる。\n<There is 単数名詞>の形になる。\nどこにあるかの場所を説明したい場合、 「on the desk」とか、「in my room」とか、「on the wall」のように、前置詞を用いた句などを追加して、場所を説明する。\n「その木の下に」は、under the tree になる。\napple の冠詞を an にすることを忘れないように。\n<There are 単数名詞>の形になる。\nsome で、「いくつかの」「数個の」という意味がある。また、「some + 名詞の複数形」のようになる。\nan apple と an orange は、あわせて2個の物体が存在してるので、「an apple and an orange」をまとめて複数あつかいになる。\nThere is(are) ~.の疑問文は、is,areをthereの前に出し、< Is(Are) there ~? > 。\n例文\nThere is(are) ~.の否定文は、is,areのあとにnotをおき、< there + is(are) + not + 〜 >。\nWhen 〜 で、「〜したとき、」の意味をもつ接続詞になる。\nつまり、 when には、「いつ、〜?」疑問詞の用法のほかにも、「〜したとき」という接続詞の意味もある。\n例文\n例文\nこの「playing」のように、動詞ingで、進行形(×)ではなく、名詞のように扱うことができる。\n〈動詞の原形+ing〉を動名詞(どうめいし)といい、「~すること」の意味で、名詞のようになる。そのため、主語になったり、あるいは like などの動詞の目的語になることがある。\n動名詞の和訳は、「〜ing」を「〜すること」と訳す。\nつぎの例文のように、動名詞は主語になっても、かまわない。\n例文\nつぎの例文のように、前置詞のうしろに、名詞でなくて、動名詞がくる場合もある。\nなお、この be good at 〜ing は「〜が得意です」という意味の熟語である。重要表現なので、この熟語を覚えよう。\n詳しくは下記。\n〈to+動詞の原形〉で、つぎのような意味になる場合がある。\nこれら3つの〈to+動詞の原形〉の用法を不定詞(ふていし)という。\n不定詞に必ず「to」がつくので、「to 不定詞」(トゥーふていし)と呼ぶ場合もある。学習塾とか予備校などで、「to 不定詞」と表現する場合もある。\n※ 不定詞の基本的な用法は、上記の3つのみである。つまり、不定詞には、動詞になるような用法は無い。\n〈to+動詞の原形〉で「~すること」の意味になる場合がある。この〈to+動詞の原形〉の用法を不定詞(ふていし)という。\n不定詞には、この他にも、いろいろな用法がある。とりあえず、この節で説明したような不定詞の「〜すること」の用法を、不定詞の名詞的用法という。\nなお、 過去のことについては、不定詞を使わないのが普通であります。\nつまり、動詞 finish (フィニッシュ、意味: 終える、終わる)については、finish to eat (×)とか、 finish to play(×)とか、けっして言わない。\n何かを終えた場合は、動名詞をつかって、\nとか\nとかのように、言う。\nつまり、基本的に to 不定詞は、未来のことを表現する場合に使う。\n※ ただし、だからといって「動名詞が未来のことではない」ことは意味しない。たとえば Let's go shopping! 「ショッピングに行きましょう!」は、~ingの形だが、直後の未来について述べている。\n〈to+動詞の原形〉は、「~するために」の意味で、目的を表し、そして動詞を修飾する、という場合もある。これを不定詞の副詞的用法という。\n例文の went (ウェント、)は、動詞 go の過去形である。けっして、want(ウォント、意味: 欲しい)と混同しないように。\n「to buy some apples」の部分が、不定詞を使ってる部分である。\n「to buy some apples」で、副詞的に、「リンゴを買うために」という目的を表す。\nいちいち「動詞を修飾」と覚えるよりも、「〜するために」という和訳を覚えたほうが、良い。入試で出題されるのも、和訳のほうである。修飾してるのが動詞かどうかは、入試に出づらい。\nまた、いちいち「動詞を修飾」と覚えるのではなく、「目的を表す」「副詞的な用法」と覚えたほうがよい。\n「形容詞的用法」という語句を覚えるよりも、\n<something to + 動詞の原形>で、「何か〜するための物」という熟語を覚えたほうが良い。\nまず、\nのように、something が、不定詞つきではなく、単独で使われてる場合の和訳は、somethingを「何かを」などと訳すのがよい。\nこの規則をいちいち覚えるのはメンドウなので、それよりも、さっさと「something to eat」とか「something to drink」とかを熟語の暗記のように覚えたほうが早い。\nここで、注意するべきか、和訳に「何」という文字があるからと言っても、べつに疑問文ではない。\nまた、うしろ3文字がingだからといって、べつに進行形でもなければ、動名詞でもない。\nともかく、さっさと「something to eat」とか「something to drink」とかを覚えたほうが早い。\n例文\n※なお、否定文・疑問文の場合はsomething ではなくanythingを用いる\nなお、\nの「at 〜 ing」のように、前置詞の目的語になれるのは、名詞または名詞に相当する動名詞などだけである。不定詞が前置詞の目的語になることはない。\nto 不定詞は、基本的に、「未来にしようとする行為や目的をあらわすのに使う」と考えると、理解しやすい。\nたとえば、 finish (終える)など、過去のことを表す動詞には、to不定詞ではなく、動名詞を使う。\nなにかを終えた時、それは、けっして「これから(未来に)実行しようとする行為」ではなく、「すでに終わった行為」だから、である。\nいっぽう、副詞的な用法「to buy some apples」(リンゴを買うために)も、ある時点に「これからリンゴを買おう」と、誰かが考え、その計画を実行しようとているわけである。\nもとの例文は\nだった。動詞 went はgoの過去形である。このように不定詞であらわされる目的は、過去を起点にしてもよい。\nまた形容詞的な用法の、something to drink (何か飲むもの)のような目的を追加した修飾も、誰かが「これから、飲もうとする」という計画を実行しようとしてるのである。\nこのように、to不定詞は、基本的に、ある時点を起点にして「未来にしようとする行為や計画などの目的」を表す。\nもっと短く、まとめると、to不定詞は基本的に、「目的を表す」と覚えるとよい。\nただし、意味的に未来に向かうといっても、時制は、そのままである。\nたとえば、\nで、「to buy some apples」(リンゴを買うために)と考えている時点は、過去のある時点である。\nたとえ、「これから、リンゴを買おう」と考えても、動詞 went は過去形のまま、である。\nこれは、前置詞toをつかった例文と比較すれば納得しやすい、たとえば go to school と比較すると、納得しやすいだろう。\nたとえば、\nで、じっさいに学校に到着する時刻は、未来である。「I go to school」と主語の人物が主張した時点では、まだ出発したり通学中だったりして、まだ到着していない。\nしかし、たとえ未来に到着するからといっても、けっして助動詞 will は使わない。 「I will go to school」(×)とかは言わない。\nよくある例文 go to school の「to」は、不定詞ではない。この go to school の「to」は前置詞である。\nしかし、意味を考えると、この前置詞 to は、目的地を表している。\nつまり、<go to + 目的地>という熟語である。\nそして、主語の人物が、これから、「その目的地に行こう」という未来についての計画を実行している 最中(さいちゅう) なのである。\ngo to school の段階では、まだ、学校には到着していない。これから学校に到着しようとする時点なのである。\nこうやって考えると、前置詞 to もまた、未来に向かっての目的を表している。\nなお、じっさいに試験問題で「go to 目的地」の文章を和訳するときは、ここまで分析しなくても良い、\nたとえば「go to school」を和訳するときは、たんに「学校に行く」などと訳すのがいい。\nへたに、「学校に到着しようとして、出発して通学している」などと和訳すると、採点者から「進行形と混同してるのか?」などと誤解されて、減点をされるだろう。\n動名詞をつかった文は、ほとんどの場合、 不定詞の名詞的用法の文章に書き換えることができる。たとえば、\nは、両方の文とも、正しい文である。\nただし、want や finish など、いちぶの動詞では、例外がある。\n< want to be 〜>で、「〜になりたい」という慣用表現になってるので、そのまま覚えよう。いっぽう、 want being (×)とは言わない。\nたとえば、\nは文法的に正しい文である。\nしかし、いっぽう、\nとは、言わない。あまり want being とは言わない。テストで I want being 〜 とか書いたら、減点される場合もあるだろう。\n何かを終えた場合は、動名詞をつかって、\nとか\nとかのように、言う。\nいっぽう、 finish to eat(×)とか finish to play (×)とかは、まちがい。\n(※ 範囲外: )逆パターンで、不定詞から動名詞の書き換えは、かならずしもそうではない。start to ~ 「~し始める」や begin to ~ 「~し始める」は、意味的に、ほぼ確実に、不定詞の未来用法になる。これを start ~ing や begin ~ing と言い変えても構わない。ただし、対義語の stop はそうではない。このように、不定詞から動名詞の書き換えは、あまり規則的ではないので、中学レベルでは、深入りの必要は無い。高校の範囲。\nto+動詞の原形で書かれる語を、不定詞(ふていし)と呼ぶ。上の文章中では\nの2つの文章中で不定詞が用いられている。他に最後の文でも不定詞が用いられているがその不定詞の用法は上の不定詞の用法と同じであるので繰り返さない。上の文で\nの中では選ぶことを欲するという意味で取ることができるので、to take は文章の中でwantの目的語の働きをしている。目的語になるのは名詞の働きであるので、不定詞の名詞的用法と呼ばれている。一般に多くの名詞的用法の不定詞は〜することのように訳されることが多い。目的語になる他、不定詞の名詞的用法は文章中で主語になることも出来る。\n一方、上の文のうち\nの方では買うべきもの(服)のように服を修飾していることからto buy がoneにかかる形容詞として用いられていることが分かる。この様な用法を不定詞の形容詞的用法と呼ぶ。一般に不定詞の形容詞的用法にはいくつかの意味がある。代表的な例として使われ方を表わす用法や義務を表す用法がある。例えば、\nなどは対応する名詞の使われ方を表わす用法の例であり、\nなどは対応する名詞に対してするべき事を表す用法である。より詳しい使い分けは高等学校の範囲である。\n次に疑問詞を用いた疑問文について説明する。上の文章では\nの内でwhyという語は疑問詞と呼ばれる語の1つである。疑問詞は\n何を、なぜ、いつ、どこのように答えにyes,noではなく何らかの情報のある語を必要とする語のことである。このような語を用いるときには必ず疑問詞を文頭に持って来てそれ以外の語を通常の疑問文の語順に並べることで文を作ることが出来る。また、疑問詞は通常疑問文にしか用いられない。\n(\n最も口語的には平叙文の語順で対応する部分だけを疑問詞に置き換えることで実質的な疑問文を作ることも行われるようである。)\n動詞の種類は一般動詞であってもbe動詞であっても疑問文の語順に変化は現われない。\nよく用いられる疑問詞には\nなどがある。また、疑問詞と他の語をつなげて慣用的な意味を持たせた表現も存在する。この様な表現では疑問詞と他の語の組み合わせを1つの疑問詞と思って文を作ればよい。代表的な例として、\nなどがある。例えば、\nなどが慣用的によく用いられる。また、特にhowについてはそれを形容詞と組み合わせることでどれくらい〜かという様な疑問詞を作ることが出来る。代表的な例は、\nなどがある。疑問詞を用いた疑問文では、その文が疑問文であるにもかかわらず、最後の強勢は下げることが知られている。\n次に上の文章中で、\nの文について説明する。この文の主語はIであり、述語はthinkである。しかし、この文には更にもう1組thisとisという主語述語の組が含まれている。なお、このように主語と述語の組が複数含まれている文を複文(ふくぶん)という。いっぽう、主語と述語が1組だけ含まれている文を単文(たんぶん)と呼ぶ。\n上の例では接続詞としてthatが用いられている。そのため、上の文は文法的には\nと等しい。しかし実際には多くの場合thatは省略されるので、上ではthatを書いていない。ここで接続詞thatは、日本語でいう〜ということに対応する\n意味を持つ。つまりこの文章は〜ということを思うという様に訳せばよい。ここで、that以下の文はthinkの目的語となっていることからthat以下の文全体が名詞として働いていることが分かる。一般に文中の主語や述語以外の成分で主語と述語を含んでいる文の成分を節と呼ぶ。この用語を用いて、\nここで使われた接続詞thatの用法はthat節の名詞的用法と呼ばれる。\n他によく使われる接続詞として\nなどがあげられる。\n「(なぜなら)~だから」と原因・理由などを表す接続詞には、because(ビコーズ)が使える。\nthan は「ザン」と読み、「than 〜」 は「〜よりも」の意味になる。\n2つのものを比べて「AはBより~だ」は〈A is + 比較級 + than B〉で表す。\n比較級をつくるには、その形容詞・副詞の語尾にer(r)をつける。\n副詞にも比較変化があり、変化のしかたは形容詞と同じ。\nたとえば「BよりもAのほうが好きだ」は、「like A better than B」で表す。\nbetter(ベター)は、副詞 well の比較級(ひかくきゅう)である。\n長い単語など、いくつかの単語の比較級では、 「more ○○ than ・・・」になる。more は「モア」と読む。\nどの形容詞・副詞が more ◯◯ than 〜形式の比較級になるかは、おぼえる必要がある。検定教科書の巻末付録などに書いてあるので、書きとり練習で覚えよう。\ngood や many などは、不規則な変化をする。\ngood の比較級は better (ベター) である。\n3つ以上のものを比べて「一番、~だ」「もっとも 〜だ」というときは、最上級を使って〈A is the + 最上級 + in〔of〕 ~〉で表す。最上級のあとに名詞がつくこともある。\n最上級をつくるには、その形容詞・副詞の語尾にest(st)をつける。\n副詞にも形容詞と同様に比較級、最上級があり、変化のしかたは形容詞と同じ。\nつづりの長い形容詞など、いくつかの単語の最上級は〈the most + 形容詞の原級〉の形になる。「原級」とは、形容詞のもとの形 のこと。\nmost になる単語\n「Aが一番好きだ」はlike A the bestで表す。 best は、副詞 well の最上級(さいじょうきゅう)である。\n以下の変化パターンがある。\n下記の表に、比較級、最上級のうち、初歩的なものを抜粋した。他の形容詞、副詞の最上級については、くわしくは、中学校英語/形容詞・副詞の比較変化 2年を参照のこと。\n\n\nAとBを比べて 「同じくらい~だ」 は <A is as 〜 as B.> で表す。\n<as 〜 as> の「〜」の部分は、形容詞または副詞の、原形がくる。\n例文\n「彼と同じくらい」「私と同じくらい」のように、人称代名詞を使う場合、 him や me などのような形になることに注意。\n< is not as 〜 as ・・・> で、「・・・ほどは、〜ではない」の意味になる。\n<主語 + be動詞 + 動詞の過去分詞>で、「〜が・・・されている」の意味になります。「過去分詞」は「かこぶんし」と読みます。\nこのような<主語 + be動詞 + 動詞の過去分詞>「〜が・・・されている」の表現を、「受け身」(うけみ)または「受動態」(じゅどうたい)といいます。\nbe動詞のあとにつづくのは、けっして過去形(×)ではなく、過去分詞形です。\n過去分詞は、規則動詞の場合は、過去形と同じ形である。だが、不規則動詞の場合は、そうとは、かぎらない。\nこの『坊ちゃん』についての例文のように、受け身で過去にされた行為をあらわす場合は、be動詞を過去形にすれば済みます。\nまた、誰によって、その行為がされたかを表すには、 「by 〜」を使います。\n例文\nだれが盗んだかは分からないので、「by 〜」は書かれない。\nこのように、受け身の疑問文は、be動詞を文の最初に置く。つまり、<Be動詞 + 主語 + 過去分詞 + 〜 ?> の形になる。\n※ United Nations (ユナイテッド ネイションズ): 国際連合。\nこの United は、「合体した」「連合した」などの意味をあらわす、形容詞のようなもの。Nationとは、国家または民族のこと。\nこの united は、過去(×)の意味ではない。アメリカ合衆国「the United Nations of America 」の united と同じく、United Nations のunited は形容詞的な「合体した」「連合した」の意味。\n文型 SVC は、「S は C だ」「S は C のようだ」のような意味になる。C は、Sの性質に関わる単語になる。Cを補語(ほご)という。\n例文\nというように、対応している。\nと対応している。\nCの位置に、名詞がきても、かまわない。\nこのように、Cにくる品詞は一般的に、形容詞や名詞になることが多い。\n例\nVには、<look 〜>「〜に見える」や<become 〜>「〜になる」などの動詞がくる場合もある。\nこのように、「look 名詞」ときても、かまわない。\nlookは、あとに形容詞または名詞を補語にとって、SVCの文型で、「~に見える」の意味を表す。\nbecomeは、あとに補語をとって、「~になる」の意味を表す。becomeの補語 C は、形容詞または名詞になる。\n文型 SVO1O2 は、「SはO1にO2をVする」の意味になる。\n例文\n文型「SVOO」は、「SVO to O 」に変換できる場合が多い。(ただし動詞や文脈によっては to 以外の for(~のために)など別の前置詞のほうが適切な場合もある。)\n例文\n現在の視点で過去の出来事を表す。have(has)+過去分詞で表し、継続、経験、完了、結果の4つの用法(使い方)がある。\n現在まで動作が継続して進行していることを表す。 have(has)+been+動詞のing形で表す。\nI have been studying English for 2 hours.\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/2%E5%B9%B4/%E6%96%87%E6%B3%95"} {"text": "※ 文中で最上級を使う時は、 「the best」 のように the を使うことを忘れないように。\nfast(速い)は、とても比較級・最上級の例文を作りやすい単語なので、入試にもテストにも頻出。\nhard(熱心に)は副詞であり、副詞のテストも兼ねて、定期テストなどに出やすい。fewは、数詞についての表現などでも使うことがあるので、入試に出やすく、よって定期テストにも出やすい。\nyoung や strong は、2年生で習い始める単語なので、原形のテストの兼ねて、定期テストに出題されやすい。特に young は、テスト問題は「How old are you?」などの疑問詞をつかった表現の会話文などの返事などの文章で、テスト問題でも使用されやすい。\nなお、「原級」とは、形容詞の もとの形 のこと。(※中1の文法の授業で習った形容詞の形は、基本的には原級であろう。正確には、下記の一覧表を参照せよ。)\nclean には、動詞「掃除する」の意味もあり、テストで狙われやすい。\nnear には前置詞の用法もあるが、形容詞の用法もあり、テストで狙われやすい。\n下表で太字にした語は、原形そのものが中学2年あたりの範囲の、難しめの語なので、とくに定期テストに出やすい。太字にしなかった単語も、数が限られてるので、テストに出されやすいので、なるべく練習しておくこと。\ndangerous (危険な)という単語は、あまり書く機会はないが、2年生で習うのに適度なむずかしさの単語なので、テストに出やすく、高校以上では つづりも狙われるので、いまのうちに練習しておこう。\ntired(つかれた)は、edで終わってることから、過去形の変化との引っ掛け問題などで、狙われやすい。\ncareful は、会話文などで、「Be careful.」(注意しろ)などで使われるので、テストにも、やや出やすい。\nwonderful は、会話以外では、あまり使わない単語だが、しかし、難関高校の入試などでは、つづりが狙われるかも(推測)。たとえば「 It's (won ○○ ) ! 訳:それはすばらしい!」のような穴埋め問題で「カッコ内に当てはまる単語を、冒頭のヒントの3文字を省略せずに、単語ごと書け。」みたいな問題で、つづりが狙われやすそう。\n重要度が高く、テストにも頻出。すべて覚えること。\nlate (遅い)は、比較の例文が造りやすく、入試や定期テストに出やすい。\nlarge (大きい)も、比較の例文が造りやすく、入試や定期テストに出やすい。\nthirsty (のどが渇いた)は、2年くらいで習う単語なので、そういう事情でテストに出やすい。また、入試でも、「thirsty」のつづりが、会話表現の知識を問う問題などの穴埋め問題などで、狙われやすい。\nbusy (忙しい)や easy(簡単な) は、つづりは簡単だが、意味がやや抽象的なこともあってか、中1でなく、中2で習う単語となっている。まじめに勉強してる生徒へのサービス問題として中2の定期テストなどで出題される事も多いので、つづり も、きちんと練習しておこう。\n日本の外来語でも、「ビジネス」や「イージー」などの単語があるので、これらの英単語のつづり(busy, easy)は知ってて当然とされる。\nhappy や hungry などは、中1でも会話練習やリスニングなどでは練習してるはずだし、1年の英語教科書の巻末の単語集などには書いてあったりする。よって、中2以降では、つづりが書けるかも、定期テストや高校入試で狙われる。生徒がサボっておらずにきちんと勉強してるかを確かめるため、定期テストや入試で、会話表現の単語のつづりも狙われる。日本の外来語でも「ハッピー」や「ハングリー」があるので、これらの英単語のつづりは狙われる。\nこれらの参考表現も、いちおう、検定教科書に書いてあるので、難関高校などでは、このような単語も狙われる。\n特に、sad に注意。感情表現の形容詞は、2年で習うことが多く、定期テストや高校入試に出やすい。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/%E5%BD%A2%E5%AE%B9%E8%A9%9E%E3%83%BB%E5%89%AF%E8%A9%9E%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83%E5%A4%89%E5%8C%96_2%E5%B9%B4"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校英語 > 中学校英語/3年\n中学校英語/3年では、3学年の英語について教授します。単語及び文法も必要に合わせて一緒にお読みください。\nたとえば「来月には~できるだろう」のような未来の可能性を言いたい場合、 will can (×)とは言えない。 \nなぜなら、1文中に助動詞は2つ以上用いてはならない、という規則がある。この様な場合 will be able to <動詞の原形> で表す。\n例えば「彼は泳げるようになるだろう。」このようにして表す。\n助動詞とは動詞を補って新たな意味を付け加える語である。助動詞は通常動詞の原形の前につく。よく用いられる助動詞として\nなどがあげられる。\n他に連語として用いられ助動詞と同じような使われ方をするものもある。これらの多くは文法的には助動詞ではなく、形容詞や動詞などで書かれるものだが、ここでまとめておく。\n一文中に助動詞を2つ以上は使えないので、既に助動詞を使っている文章で「できるかもしれない」とか「未来には~かもしれない」のような複合的な表現を用いる場合は、下記の連語をもちいて助動詞を2個以上つかわなくても済ませるように回避する必要がある。\nある助動詞っぽい語句が、形式的には助動詞でないとみなされているか、それとも形式的にも助動詞であるかの判別法は、大まかには、否定形やその否定短縮形を見ることです。\nたとえば、will や must や can のように形式的にも助動詞だとみなされている語句は、否定形が won't や mustn't やcan't のように、助動詞そのものに否定がつきます。\n一方、be going to の否定形は、isn't have to や aren't have to などです。これは単に be 動詞の否定形です。\n同様に、 have to の否定形は、don't have to あるいは doesn't have to などです。これは助動詞 do / does の否定形にすぎません。\n助動詞には過去形も存在する。しかし、助動詞の過去形は通常それ自体が定まった意味を持つため必ずしも対応する助動詞の過去の意味になるとは限らない。よく使われる助動詞の過去形として\nなどがある。mightやwouldやcouldは対応する助動詞と似た意味で使われより丁寧な含みを持たせた意味で使われることがよくある。これらの意味合いについては仮定法を参照。仮定法は高等学校英語英語Iの範囲である。\nまた、\n今までは主語が動作をすることを表す文を扱ってきた。ここでは主語が動詞で指定された動作をされることを表す文を扱う。このような文を受動態と呼ぶ。これに対応して、主語が動詞で指定された動作をする文を能動態と呼ぶ。受動態を作るときには\nで書かれる能動態の文章に対して\nのようにして作られる。ここである動詞の過去分詞は規則動詞では動詞の過去形と同じ形である。一方、不規則動詞では固有の形を持っており、これらも不規則動詞の過去形と同様動詞ごとに覚えるしかない。\n通常、能動態を受動態に変化させるときには能動態の主語は前置詞byを用いて表される。しかし、they、somethingなど、元々能動態の文の主語にそれほど強い意味がなく、単に文法的に主語が必要だからそこに置かれていたようなときには、文中で\nの部分を省略することができる。\n一般に日本語の文を単に英語に直すと、受動態の文を多く使ってしまいがちになるといわれている。しかし、日本語にとって自然な文でも英語で同じ使い方をしたときにそれが自然な使い方にならない場合もあることには注意する必要がある。\n受動態を助動詞と組み合わせて用いることもできる。このときには\nのような文は\nというようになる。これはbeがbe動詞の原形であることを用いているといえる。\nあるものがどこかに存在することを、特にThere is -.などによって書かれる文で表すことができる。一般にはこの文は\nのように書かれる。このような文の主語はthereだと思われがちだが、文法的にはこの文の主語はbe動詞の後に現れる名詞が主語である。そのため、この名詞が複数である場合にはbe動詞としてareが用いられる。この文は過去形と組み合わせて使うこともでき、また助動詞とともに用いることもできる。\nThere is ... .の文は単にある地点に物体が存在していることを述べる文であるため、「~はそこだ(です)」といった「そこ」という場所を強調したい文を作るときには使えない。その場合\nではなく、\nなどとして「(探していた)本がそこにある。」などの意味を表せばよい。\n日本語でよく用いられる語彙でも英語圏では意味が異なる、もしくは通じないもののことを和製英語と言う。\n例えば「私は昨日ペーパーテストを受けた。」と表す場合は\nとなる。(誤)は「昨日紙質検査を行った。」と解釈される。このように全く意味は異なる。\n参考までに身近にある和製英語を少し挙げておこう。\n以上のように(特にコミュニケーション時は)知らずに使うと誤解を招くことがあるので注意を要する。\n英語版Wikibooksから、太陽系の歴史などを説明する文章、“en:Wikijunior Solar System/Solar System”を抄訳してみる。この文書は英語圏の子供向けに書かれた文書であるので比較的簡単な英文で書かれている。興味があれば全訳にも挑戦してみるとよいかもしれない。とはいえこの範囲だけでも関係代名詞などの進んだ文法が出てくるため、簡単に読み下すことはできないかもしれない。\nsolarは形容詞でありsystemを修飾している。やや難しい単語であるが、語の性質上割合よく出て来る。\nwonderはthinkと似た意味の言葉だが、より不思議に思うようなイメージが強い言葉である。記号-はダッシュと呼ばれ、ここではコロンと近い意味で用いられる。次の文でhave been watching ...は現在完了の文であり、ここでは継続の意味で用いられており、「(ずっと)見て来た」という意味である。次のtrying to ...は分詞構文であり、この動詞tryの主語は前の文の主語と同じでpeopleである。詳しくは高等学校英語を参照。特にこの場合は補う接続詞の例として〈一方……である〉という意味のwhileがあげられる。figure outは2つの単語を組み合わせて特に理解するという意味を表わす。このような語は句動詞と呼ばれる。組み合わさった後の語の意味は動詞と副詞の意味を考えればわかるものも多く、句動詞によく用いられる基本的な副詞それぞれのイメージを掴んでおけば役に立つ。それでも意味から推察できない場合は多く、それらの場合は個別に記憶するしか無い。\nkeep -ingは〈〜をし続ける〉という意味の表現である。ここで、keepに対する目的語として不定詞の名詞的用法を用いることは出来ず必ず動名詞を用いなくてはいけない。\nrock or gas that move ...のthatは関係代名詞のthatである。この部分の意味は「動いている石やガス」となり、that以下の表現はrockとgasの両方を修飾している。次の文ではon one we call the Earthという表現があるが、ここにはoneの後に関係代名詞が省略されている。実際には関係代名詞のthatとwhichは省略される場合が多いのである。そのため、上の表現は、「我々が地球と呼んでいるあるもの(惑星)」の様になる。関係代名詞が省略できる条件については高等学校英語を参照。また、Earthは地球という意味の単語だが、この名詞は通常冠詞としてtheを伴う。これは地球が1つしかないことが知られているため、会話にでて来るEarthが常に特定されているものと考えられるからである。更に、この文ではthe Earth, which movesという様に文が続いている。ここで現われたwhichも関係代名詞であるが、特にEarthのような固有名詞を修飾するときには前の名詞と関係代名詞の間にコンマが必要となる。この用法は〈関係代名詞の非制限用法〉と呼ばれるが詳しくは高等学校英語の範囲である。\n同じ文中でa star we call ...では再び関係代名詞thatが省略されている事に注意。次の文はThere ...の文であり、主語はplanetsである。ここで、planets moving around ...のmovingは現在分詞の形容詞的用法であり、planetsを修飾している。この用法は中学校英語の範囲である。同じ文の最後でas wellは連語として用いられ同じ様にという意味になる。後にas well asなどの表現が高等学校英語で紹介されるが、こちらの用いられ方は異なっている。\n次の文でallはthingsを修飾する形容詞であるが、allは〈全ての〉という意味で修飾を受けた語は複数形となる。似た意味の語でeveryがあるが、この語に修飾された名詞は単数形を用いなくてはならないので注意が必要である。togetherは〈全て合わせて、一緒に〉というような意味の副詞である。are calledはcallの受動態である。callは目的語を2つ取ることが出来る動詞であるので、2つの目的語のどちらかを主語にして受動態を作ることになるが、ここでは間接目的語を主語にしている。次の文では等位接続詞soが用いられている。soは接続詞として使われたときは〈だから〉という意味を表わす。話をつなげるのに便利であるため英語で話したり書いたりするときに多用されがちだが、soは原因と理由でつながれる関係でしか用いられないので、単に日本語でいう〈……て〉のように意味の並列に近い文の接続に用いることは出来ないことに、注意が必要である。次の文でrealizeはthinkと近い意味だが、〈発見する〉といった意味に用いられる。realizeはrealize that ...の形でthat節を目的語として取る。この時には、〈(that節以下のことを)知った〉という様な意味になる。\n次の文で、They thought everything movedではthoughtの後にthat節を作るthatが省略されており、everythingとmovedはそれぞれthat節の主語と術語である。\n次の文でseemはbe動詞と同じ使われ方をして、補語を取る動詞である。意味は〈〜に見える〉となる。sensibleはやや難しい単語であるが、〈分別がある〉という意味である。似たつづりの語でsensitiveは〈細かすぎる、敏感な〉などの意味であり、使いわけに注意が必要である。feelは〈感じる〉という意味の動詞である。よく使われる単語で不規則動詞であり、過去形はfeltである。また、as if ...は次に節を取って〈まるで……の様に〉という意味になる。この表現は実際にはそうでないものを節の内容として取ることがあり、そのときには節の中味は仮定法の表現になる。ここでは、実際に地球が動いていることから仮定法を用いていないようである。仮定法は割合進んだ文法であるので、詳しくは高等学校英語を参照。最後のdoes it?は付加疑問文であり、itはthe Earthであり、doesはfeelに対応する。\n最初の文でAbout 500 years agoは〈約500年前の〉という意味である。agoを用いたときには、文の述語は必ず過去形になる。更に、500 yearsの前のaboutは、〈およそ〉という意味を持っており、前置詞のaboutとは異なっている。a man we call ...のmanとweの間には、thatが省略されており、関係代名詞thatの省略である。文の述語であるsuggestは、〈提案する〉と訳されることが多い。訳語は堅い感じがするが、似た意味のinsistなどよりも弱い語感があり、よく用いられる。suggestもthat節を目的語として取る語である。\n次の文でa man called Galileoのcalledは、関係代名詞の省略ではなく、形容詞的に用いられた過去分詞で、manを修飾している。この文の動詞はbeginの過去形beganだが、beginは目的語として動名詞と不定詞の両方を取ることが出来る動詞である。この文のwithは〈……を用いて〉の意味で、new inventionを用いて宙を見るということである。コロンの後に続く単語はここではinventionの中味で、望遠鏡のことである。\n次の文でshowは、過去形showedを持つため、規則動詞と思われがちだが、過去分詞はshownが用いられるので、不規則動詞である。showもthat節を目的語として取る動詞である。この文中で、it was very likely that ...という部分がある。この文のthat以下は実際にはitの部分に置かれる内容であり、この中味そのものがwasに対する主語である。しかし、この部分を主語にすると主部が非常に長くなり、おさまりが悪くなるという意味で、代わりにitが主語として用いられ、that節は後にまわされる。この時に用いられるitを形式主語という。形式主語はIt is -a- to -b-.の文で既に用いられたが、ここでは不定詞の代わりではなく、that節の代わりに用いられている。that節の代わりの形式主語は、高等学校英語の範囲である。\nmore and moreは、比較級を用いた注意すべき用法だが、高等学校英語の範囲であるので詳しくは述べない。ここでの意味はますます多くのという意味である。start usingで、startは目的語として動名詞と不定詞の両方を取る動詞であり、最後のto study ...は、不定詞の副詞的用法であり、〈……を研究するために〉という意味である。studyは、勉強するという意味があるが、どちらかといえば、〈一生懸命学ぶ〉という意味であり、単に知識を得るという意味ではlearnが用いられる事が多い。次の文でhow ...という表現は疑問詞を用いた節を用いた表現で、やや難しい文法である。この表現自体も高等学校英語の範囲なので、簡単な解説にとどめる。詳しくは高等学校英語を参照。文中で名詞の代わりとして、疑問詞の節がつらなる用法では、対応する疑問詞を用いた疑問文で尋ねられる内容が名詞として与えられる。ここでは、how the planets movedと文が続いているため、〈どのように惑星が動いているのか〉という意味になる。How does the planets move?で、「どのように惑星が動いているのだろうか?」という疑問文になることに注意。\n中学校英語 文法項目 3学年\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/3%E5%B9%B4"} {"text": "中学校英語/3年/単語は、3年生が中学校英語科で学習する単語の一覧です。単語には、熟語や連語なども含まれます。多くの生徒が高校受験を控える重要な年、時期ですので、しっかり学習しましょう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/3%E5%B9%B4/%E5%8D%98%E8%AA%9E"} {"text": "ふつう、英語の一文は、つぎの5つの文型のうちのどれかに、当てはまる。\nなお、\nそして、「SVC」や「SVOC」などの文型では、「SはCである」「SはCになる」などの意味となり、つまり S の性質が C であると主張している。\nなお、入試には、「この文は、第何文型か? 答えよ.」のような問題は、入試には出ない。\nなぜなら、ほとんどの場合、例文の意味を答えさせる問題によって、文型の理解を試験するから。それでも、もし文型に関する問題が出るとしたら、「SVO」とか「SVOC」などを答えさせる問題であろう。\nだから、「SVOC は、第何文型だったか?」などを覚える必要は無い。\n「SV」「SVO」「SVC」「SVOO」「SVOC」などの用語が分かっていれば、じゅうぶんである。\n<have(has) + 過去分詞>の形を現在完了形といい、つぎに述べるような用法をもつ。\n<have(has) + 過去分詞>で、「ずっと~している」の意味をもつ場合がある。\n補足説明として、for(~のあいだ),since(~以来),how long(どのくらいの間?) などの語句が用いられる場合がある。\nHow long has she lived in Tokyo? どのくらい長く、彼女は東京に住んでいますか?\nなどのように、How long で質問できる。\n<have(has) + 過去分詞>で、「~したことがある」の意味をもつ場合がある。\n「〜(場所)に、行ったことがある」といいたい場合は、<have been to 〜>を使います。\ngo や gone は使いません。< have gone to 〜>というと、「〜に行ってしまった。その結果、今は、ここには、いない。」という意味になる。\n例文\n参考 : been は「いる」の場合も\nHow long have she been in Japan? どのくらい長く、彼女は日本にいますか?\nこのように been は、「いる」の意味でも使われる。 have been だからといって、「行った経験が・・・」と訳すとは、かぎらない。\n(※ 範囲外?) 副詞の ago (前)や yesterday (昨日)や接続詞 when (~のとき)や last (たとえば last Monday (この前の月曜日) )など、特定の時間を表す表現といっしょには、現在完了は使えない。\nなお、now (今), just (ちょうど)、today(今日)などの現時点を表す表現なら、文脈によっては現在完了形とともに使うことができる。\nまた、recently (最近)、this week(今週)など、現在を含む一定期間の語句も、現在完了形で用いることができる。接続詞 since(以来)も、これらの同類であるので、現在完了形で使えるのは当然である。\n(※例外の慣用句) I forgot. 「忘れてしまった」みたいな、意味的には現在も忘れているわけだが、forget 「忘れる」については慣用的に過去形を使うのが普通。そのほか、hear, find, understand は、意味的には完了であっても現在形のままで使うのが普通。\nこういう例外的な単語があるので、基本的には、have gone や have been など、よく例文に出てくる言い回しさえ覚えれば、中学レベルでは十分だろう。あとは、テストなどで与えられた簡単な英文を読めればいい。\nの形で示され、過去から現在に至るまでずっと行われてきた動作を示す。\n現在進行形の疑問文と同じような手順である。\nただし、上の2番目の例文の「for」は必ず付ける。\nこのように、単なる完了形の疑問文では主語とhaveを逆にする。疑問詞が付く場合は、先頭に疑問詞を置いてから書く。\n疑問詞のある場合の考え方を説明する(※ 出典は未確認)。\nまず、 \nのように、疑問視のない形の平常文を頭の中で考える。\n次に、これを単なる疑問文に置き換えて、\nにする。(この段階では、待っていたかいないかを聞いている。)\nそして最後に、「誰を待っていたか」をたずねるために、疑問視を文頭に持ってくるのと、その疑問視に対応する目的語 someone を除去して、\nとする。\nこのように、疑問視がある場合でも、基本的な構造は、疑問詞のない場合と同様である。\n現在進行形は、未来へと動作が続いて行くのに対し、現在完了進行形は、未来へと動作が続く事を保証していない。\nつまり\nIt is fun for me to swim.(泳ぐことは私にとっておもしろい。)\nにおいて、\nIt が形式主語、\nto swim が真主語、\nである。\n例文\n参考\nsay の場合は、\" \"(ダブル クォーテーション)で、セリフを囲む必要がある。\nつまり、 「I said to Tom to stand up.」(×)はマチガイ。\n<how to 動詞の原形>は、「〜のしかた」「〜の方法」という意味の目的語になれる。\n例文\nshowは、「…(人)に」「how to ~」の順に並べることができる。「…に~の仕方を見せる」の意味になる。\nto 不定詞は「~して」の意味で、感情の原因を表すこともある。副詞的用法の1つ。\n名詞の直後に 〜ing をつけくわえることで、「~している○○(名詞)」の意味になり、名詞を修飾する(形容詞の働き)。\nこれら現在分詞の用法は、あとの単元で説明する「関係代名詞」(かんけい だいめいし)をつかった文と比べると分かり易い。\n名詞の直後に 〜ed をつけくわえることで、「〜された○○(名詞)」の意味になり、名詞を修飾する。\nこれら過去分詞の用法は、あとの単元で説明する「関係代名詞」(かんけい だいめいし)をつかった文と比べると分かり易い。\n「~ですよね、~でしょうね」と、相手に念をおしたり同意を求める言い方。これを付加疑問文(ふか ぎもんぶん)という。\nwho や、which などの単語には、つぎに述べるように、接続詞と代名詞をかねる用法があり、その用法を「関係代名詞」(かんけい だいめいし)という。\nまず、参考として、関係代名詞(かんけい だいめいし)を使ってない文を例示する。\n関係代名詞を用いると、下記のように書き換えできる。\nこのように、関係代名詞(かんけい だいめいし)は2つの文を結ぶ接続詞と代名詞の働きをかね、関係代名詞以下の節は、すぐ前の名詞(先行詞)を修飾する。先行詞は「せんこうし」と読む。\n関係代名詞whoは、先行詞が「人」のときに使い、関係代名詞以下の節で主語の働きをする。\n関係代名詞whichは、先行詞が「物」「動物」の場合に使い、接続詞と代名詞の働きをかねる。which以下の節は前の名詞(先行詞)を修飾する(形容詞句)。しかし、重たい語句なので、口語ではほとんど thatを使用する。\n関係代名詞thatは、先行詞が「人」の場合でも「物」「動物」の場合でも使い、接続詞と代名詞の働きをかねる。that以下の節は前の名詞(先行詞)を修飾する(形容詞句)。\n関係代名詞which(目的格)は、先行詞が「物」「動物」の場合に使い、接続詞と目的格の代名詞の働きをかねる。which以下の節は先行詞を修飾する。\n目的格の場合の which は、省略できる。\n関係代名詞that(目的格)は、先行詞が「人」の場合でも「物」「動物」の場合でも使い、接続詞と目的格の代名詞の働きをかねる。that以下の節は先行詞を修飾する。\n目的格のthatは、省略できる。\nこれは、目的格の関係代名詞 which や that を省略した形とも解釈できる。というか、関係代名詞の省略形と解釈したほうが、暗記の量が減るので、オススメである。\n検定教科書では「接触節」という用語は教えず、かわりに、目的格の関係代名詞は省略できる、というふうに教えているようだ。\n分詞の形容詞的用法は、関係代名詞の省略形とも解釈できる。\n現在分詞の形容詞的用法は、関係代名詞の省略形とも解釈できる。\n試験などの際は、「これは現在分詞の形容詞的用法か、それとも関係代名詞の省略形か?」などのような分類には、あまりコダワル必要はない。そういう問題は、入試には出ない。\n過去分詞の形容詞的用法は、関係代名詞の省略形とも解釈できる。\n試験などの際は、「この文は過去分詞の形容詞的用法か、それとも関係代名詞の省略形か?」などのような分類には、あまりコダワル必要はない。そういう問題は、入試には出ない。\n英語において、「もし私が...だったら、〇〇しているだろう。」と言うときは、次のように言う。\nこのような構文を、仮定法(過去)という。\n例文の主語に続く動詞は、必ず過去形にしなくてはならない。\n「私が裕福だったらいいのにな。」を英語にすると、次のようになる。\n希望を英語で表現するには、「主語 + wish + 主語 + 動詞の過去形 + 〜」と書く。\nこの文も、仮定法と同じく、 動詞は過去形 にする。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/3%E5%B9%B4/%E6%96%87%E6%B3%95"} {"text": "活用形の部分を隠して、上から順に活用形を当てていく。間違えた動詞はマークしてもう一度覚えるようにする。これを何回か続ければよいだろう。また、紙やタブレットなどに綴りを書いて覚える、いわゆる書き取り練習というものでは英単語を効果的に覚えることができない[1][2]。入学試験では英単語のスペルを間違えると減点される場合があるが、英単語の綴りにはある程度規則性があるため、英単語の音を覚えておけば単語の綴りはかけるはずだ。\n覚えるのが簡単な分、テストでは狙われやすい。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/%E4%B8%8D%E8%A6%8F%E5%89%87%E5%8B%95%E8%A9%9E_2%E5%B9%B4"} {"text": "中等教育前期(中学校)の教科書です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E5%89%8D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E8%8B%B1%E8%AA%9E"} {"text": "Dearは手紙の書き出しなどで、よくある表現。\n例\n※ ちなみに、\n「動詞 to 動詞の原形」を不定詞というが、「want to 動詞」については、覚えたほうが早い。\n例文\nどのくらい、\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AA%E8%A1%A8%E7%8F%BE"} {"text": "Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校英語 > 中学校英語/単語\n中学校英語/単語では、中学校の英語で習得すべき単語を紹介します。\n※everyday だと「毎日の」という形容詞になってしまうので注意。\nhomework は名詞である。\n楽器を「演奏する」場合、the を使い、「play the 楽器名」になる。\npractice も同様に、「practice the 楽器名」になる。\nスポーツをplayの場合、 a や the をつけない。\nスポーツを練習する場合、同様に、theをつけずに、「practice スポーツ名」になる。\nhave a dinner (×)でなく、 have dinner である。\n返事の例\n「by 乗り物名」のあいだに a や the は、つけない。\nabsent は 形容詞\n例文\n- I like baseball. ベースボールが好きです。\n例文\n※似た単語で、funは「楽しい、面白い」という意味なので注意。\n例文\n合唱部と吹奏学部は、例外的に\nという。\nその他の文化部は、 ○○ club という。\n運動部については、語尾に team (ティーム)を付け加える。\nteam とは、日本語でいう「チーム」のこと。\nたとえ個人競技でも、部活全体には team を使う。\n例文\nHe practices tennis after school. 彼は放課後、テニスを練習します。\n\n\nオレンジの複数形のつづりは、テストに出やすいので[要出典]、おぼえておきましょう。\nhungry は形容詞(けいようし)である。\n例文\n例文\n返答\nthirsty は形容詞(けいようし)である。\n\n動物 animal は数えられる名詞。\n※(注意)「熊」(くま)は漢字で書けるようにしよう。入試などでは、漢字を要求されることもある。状態の「態」とまちがえないように。\n鳥の複数形、テストに発音が出やすい。\n生きている牛を beaf(ビーフ)とは言わない。 beaf は牛肉のみ。同様に、生きているブタを、ポークとか言わない。\nエレファントのつづりは、テストで問われやすい。\nコアラの生息地のオーストラリアは英語圏なので、そのため、koala のつづりがテストに出る可能性もある。\n1960年代ごろ、イギリスのロックバンドであるビートルズ(Beatles)が活躍したので、その話題が英語の教材にも出やすい。\nその関係で、カブトムシ beetle も、昆虫のなかでは、英語のテストに出やすい。\n例文\n※ tired は語尾に ed がついてるが、けっして過去形(×)としては扱わない(あつかわない)。 tired は形容詞として扱われる。\n例文\n※ interesting は語尾にingがついてるが、けっして進行形(×)としては扱わない(あつかわない)。interesting は形容詞として扱われる。\n例文\n※ 中1英語では、韓国と北朝鮮を区別しなくても、よいだろう。区別する場合は、「South Korea(韓国)」、「North Korea(北朝鮮)」などとする。」\n「 United States of America 」(ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ)の略。「 United States of America 」を、おぼえるべき。\nunited (ユナイテッド)とは、「連合」とかの意味。 stares は「州」の意味。\nなお、「合衆国」を、「合州国」(×)とまちがえないように。\n「the United States of America」の発音は、「ザ・ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ」。「ジ・ユナイテッド」(×)ではない。「the」の次の「ユナイテッド」の「ユ」は、母音ではないので、the の音は「ザ」のまま。\nなお、「U.S.」と書く場合もある。\nなお、アメリカの首都はワシントン。\n「 United Kingdom 」(ユナイテッド・キングダム)の略。\n※(参考)ドイツ語のつづりでは、ドイツの国名は「Deutschland」となる。\n例文\n返事の例\n楽器を「演奏する」場合、the を使い、「play the 楽器名」となる。\n音楽に関連する語\n1年生の段階では、temple , shrine などは、やや難しいが、入試までに最終的に覚えさせられるので、おぼえておこう。\n博物館 museum は、音楽 music と語源(ごげん)が同じだろうと伝えられてる。\n\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E8%8B%B1%E8%AA%9E/%E5%8D%98%E8%AA%9E"}