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1,764 | ボコスカウォーズ | 『ボコスカウォーズ』は、1984年にアスキーから発売されたX1用戦略シミュレーションゲーム。開発はラショウこと住井浩司が担当した。
ゲーム内容は、主人公「スレン王国」の国王を操作し、隣国バサム帝国にあるアドロス城にいる暴君オゴレスを倒す事を目的としている。
本作は、第1回アスキーソフトウェアコンテストに於いてグランプリを受賞した5作品のうちの1本で、審査発表の翌月となる1984年3月末よりパッケージ販売された。同年MSX、PC-8801、翌1985年にはS1、PC-6001mkII、PC-9801、FM-7、ファミリーコンピュータ用に移植・発売されている。
2003年にはエンターブレインからプロジェクトEGGにてダウンロード形式でPC-8801版が販売されており、2004年にはiモード用に移植された。2008年4月8日にファミコン版がWiiのバーチャルコンソールで配信されている。
2016年11月10日にピグミースタジオよりPlayStation 4、Xbox Oneにて、33年ぶりの続編となる『ボコスカウォーズII』が配信された。
発売当時のジャンルはロールプレイングゲーム、あるいはアクションロールプレイングゲームとされていたが、現代の価値観に照らせば戦略性・パズル性が強く、シミュレーションゲームに近く、シミュレーションRPGの先駆けとも言われる。また自分が動かないかぎり敵からは戦闘を仕掛けてくることはないというターン制に近いシステムになっており、実質的にはアクション性はない。
なお独特のゲーム音楽にはプログラマー自身による歌詞「すすめボコスカ」が付けられている。歌詞は取扱説明書に書かれている。
ログイン1984年11月号では、続編にあたるX1用『ニュー・ボコスカウォーズ』(『ログインNEWバージョン』とも)がプログラムリストと共に発表された。これは敵キャラクターを一新、アイテムやトラップを新設したバージョンで、前作より難易度の高いバランスとなっている。この作品はテープログイン1984年11月号にも収録されたが、これ以外の形でのパッケージ販売はされていない。
プレイヤーはスレン王国軍を操作し、敵国バサム帝国のアドロス城に進軍し、敵指導者を倒すのが目的である。ただし、一部機種では「滅亡に瀕したスレン王国の生き残りである王子が、暴君オゴレスへの最後の反撃に出る」という設定になっている。 横スクロールのフィールド上を左に進軍しながら、途中牢屋に囚われている仲間を集めつつ敵兵を倒し、マップ終端にいる最終ボスを倒すと1面クリアとなる。以降、より難易度の高いステージを同様に繰り返し、5面クリアするとゲームクリアである。
移動する場合、切り替えボタンで移動させるユニットを切り替えながら進軍するが、選択肢が「全員」「スレン王のみ」「騎士・重騎士全員」「兵卒・重兵卒全員」の4つしか用意されていない。それぞれの選択したユニットが同時に移動するため、意図しないキャラクターが木や岩に引っかかっていることがままある。また、移動は画面外のキャラクターにも作用する。
敵兵と味方兵が接触すると戦闘になるが、当時のコンピュータゲームとしては珍しくステータスの数値が王様のパワー(ヒットポイント)以外は一切表示されておらず、内部的なパワー数値とランダム要素によって勝敗が決定される。敗北したキャラクターは消滅、この際自軍の兵が勝利するとそのキャラクターに10ポイントのパワーがプラスされる。このため、たとえ強大な力を持つ主人公ユニットであっても、ザコ敵との戦いによって一定の確率で死亡し、突然ゲームオーバーを迎える場合もある。
また、いくつかのキャラクター同士には相性が設定されており、楽に勝てる組み合わせ・負けやすい組み合わせが存在する。また敵の背後(画面左側)から攻撃すれば勝率が高くなるというように楽に戦いを進める方法もあるが、自軍は最小でも職業単位でまとめてしか動かせないため、やむを得ず敵に接触することや地形に引っ掛かり身動きがとれなくなる場合も多い。背後からの攻撃は騎士らしからぬ振る舞いなので、実行には相応のペナルティがあるということを意味している。
※戦闘力は1周目のもの。1周クリアするごとに敵の戦闘力は10底上げされる。5周目以降は変化なし。 ※「呪いの落とし穴」は5周目まで増え続ける。5周目以降は変化なし。
初期ユニットはスレン王1人であり、魔法で岩や木に変えられた仲間を1人ずつ救出していかねばならない。これはゲーム機の処理機能の制限に合わせるための措置である。ただし、牢屋に捕らわれた兵卒はパソコン版のまま。
これに関連し「少数精鋭・雑魚を倒し成長」的な発想でゲームを進めた結果、戦闘結果がランダムであるためうまくいかず、パズル的な攻略法に気付く前に「運だけのゲーム」と誤解してしまうプレイヤーも少なくなかった。
パソコン版では敵キャラの多くが画面右に向かって進軍してくる傾向があるが、ファミコン版ではその動きが控えめである。特に、敵城から重騎士の大半を誘い出す場合、パソコン版では親衛隊の大半も外に出てしまうが、ファミコン版の親衛隊は城内に残る。
主に背景書き換え量の制約でゲーム進行、入力に対する反応は遅めで、移動が完了するまで方向キーを押していないと処理順の遅い味方がその場に残ってしまうこともある。逆用すれば、1列に並んだ味方を2列に並べ直すようなこともできる。
反面、音楽や効果音には凝っており、取扱説明書にはBGMの楽譜と歌詞(「すすめ すすめ ものども......」で始まるもの)が掲載されていた。この曲はチップチューンのカバーアルバム『ファミソン8BIT STAGE2』(2007年)で桃井はるこが声を当てて歌っている。
オゴレス亡き後、廃墟と化したアドロス城にすみついた悪霊を倒すため、再びスレン王国軍がバサム帝国跡に向かう。
『ボコスカウォーズII』は、ピグミースタジオから発売されたPlayStation 4、Xbox One、Nintendo Switch用シミュレーションRPG。
従来の作品をそのまま移植した「クラシックスタイル」と新要素が追加された「オリジナルスタイル」があり切り替えができる。
発売時には発売記念として「『ボコスカウォーズII』発売記念イベント in カルカル」が開催され、監督のラショウ、プロデューサーの小清水史の他、桃井はるこ、サカモト教授なども参加した。
平和だったスレン王国がバサム帝国の侵略を受け、民から慕われていたスレン王も捕らえられてしまった。
囚われの身となったスレン王だったが、牢からの脱出に成功し、行く先々で囚われの兵士たちを救出しながら王国奪還のためバサム帝国の攻め込むのだった。
2023年7月16日、インディーゲームイベントBitSummit Let's Go!!のピグミースタジオブースにて、アプリも併用するボードゲーム『ボコスカチェス』を出展。戦闘にはアプリ上で6面体のダイスを振り、ラショウはボコスカの運要素をチェスに活かしたと説明。プレイはドット絵で表された木製のコマを用い、量産したいとしている。 | [
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] | 『ボコスカウォーズ』は、1984年にアスキーから発売されたX1用戦略シミュレーションゲーム。開発はラショウこと住井浩司が担当した。 ゲーム内容は、主人公「スレン王国」の国王を操作し、隣国バサム帝国にあるアドロス城にいる暴君オゴレスを倒す事を目的としている。 本作は、第1回アスキーソフトウェアコンテストに於いてグランプリを受賞した5作品のうちの1本で、審査発表の翌月となる1984年3月末よりパッケージ販売された。同年MSX、PC-8801、翌1985年にはS1、PC-6001mkII、PC-9801、FM-7、ファミリーコンピュータ用に移植・発売されている。 2003年にはエンターブレインからプロジェクトEGGにてダウンロード形式でPC-8801版が販売されており、2004年にはiモード用に移植された。2008年4月8日にファミコン版がWiiのバーチャルコンソールで配信されている。 2016年11月10日にピグミースタジオよりPlayStation 4、Xbox Oneにて、33年ぶりの続編となる『ボコスカウォーズII』が配信された。 | {{コンピュータゲーム
| Title = ボコスカウォーズ
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| Genre = [[ウォー・シミュレーションゲーム|戦略シミュレーション]]
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| Media = [[コンパクトカセット|カセットテープ]]
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『'''ボコスカウォーズ'''』は、[[1984年]]に[[アスキー (企業)|アスキー]]から発売された[[X1 (コンピュータ)|X1]]用[[ウォー・シミュレーションゲーム|戦略シミュレーションゲーム]]。開発は[[ラショウ]]こと住井浩司が担当した。
ゲーム内容は、主人公「スレン王国」の国王を操作し、隣国バサム帝国にあるアドロス城にいる暴君オゴレスを倒す事を目的としている。
本作は、第1回[[アスキーソフトウェアコンテスト]]に於いてグランプリを受賞した5作品のうちの1本で、審査発表の翌月となる1984年3月末よりパッケージ販売された<ref name="APH20180514">{{Cite web|和書|title=コンテストグランプリを受賞した、シミュレーションRPGの先駆けとも言える「ボコスカウォーズ」|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1120664.html|website=AKIBA PC Hotline!|date=2018-05-14|accessdate=2021-09-06|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite journal|author=アスキー|title=天才たちの、デビューは近い。|journal=月刊アスキー1984年4月号|page=94頁}}</ref><ref group="注釈">パッケージ販売に先んじて、ログイン1984年4月号(3月18日発売)に、ボコスカウォーズのソースプログラムが掲載された(プレイするには、ハドソン社「mini Hu BASICコンパイラ」が必要)。</ref>。同年[[MSX]]、[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]、翌1985年には[[ベーシックマスター|S1]]、[[PC-6000シリーズ|PC-6001mkII]]、[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]、[[FM-7]]、[[ファミリーコンピュータ]]用に移植・発売されている<ref name="natsukashi2">M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』71ページ</ref>。
2003年には[[エンターブレイン]]から[[プロジェクトEGG]]にてダウンロード形式でPC-8801版が販売されており、2004年には[[iモード]]用に移植された。[[2008年]][[4月8日]]にファミコン版が[[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]で配信されている。
[[2016年]][[11月10日]]に[[ピグミースタジオ]]より[[PlayStation 4]]、[[Xbox One]]にて、33年ぶりの続編となる『'''ボコスカウォーズII'''』が配信された<ref name="gamewatch20161111">{{Cite web|和書
|author=船津稔
|date=2016-11-11
|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1029424.html
|title=33年ぶりの新作「ボコスカウォーズII」発売記念で、ゲーム界のレジェンド集合!?
|website=[[Impress Watch|GAME Watch]]
|publisher=[[インプレス]]
|language= [[日本語]]
|accessdate=2019-08-24}}</ref>。
== 概要 ==
発売当時のジャンルは[[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]、あるいは[[アクションロールプレイングゲーム]]とされていたが、現代の価値観に照らせば戦略性・パズル性が強く、シミュレーションゲームに近く、シミュレーションRPGの先駆けとも言われる<ref name="natsukashi2"/>。また自分が動かないかぎり敵からは戦闘を仕掛けてくることはないというターン制に近いシステムになっており、実質的にはアクション性はない。
なお独特のゲーム音楽にはプログラマー自身による歌詞「すすめボコスカ」が付けられている。歌詞は取扱説明書に書かれている<ref name="muri200">マイウェイ出版『死ぬ前にクリアしたい200の無理ゲー ファミコン&スーファミ』 (ISBN 9784865119855、2018年10月10日発行)、10ページ</ref>。
[[ログイン (雑誌)|ログイン]]1984年11月号では、続編にあたるX1用『'''ニュー・ボコスカウォーズ'''』(『ログインNEWバージョン』とも)がプログラムリストと共に発表された。これは敵キャラクターを一新、アイテムやトラップを新設したバージョンで、前作より難易度の高いバランスとなっている。この作品は[[テープログイン]]1984年11月号にも収録されたが、これ以外の形でのパッケージ販売はされていない。
== ゲーム内容 ==
プレイヤーはスレン王国軍を操作し、敵国バサム帝国のアドロス城に進軍し、敵指導者を倒すのが目的である<ref name="natsukashi2"/>。ただし、一部機種では「滅亡に瀕したスレン王国の生き残りである王子が、暴君オゴレスへの最後の反撃に出る」という設定になっている。
横スクロールのフィールド上を左に進軍しながら、途中牢屋に囚われている仲間を集めつつ敵兵を倒し、マップ終端にいる最終ボスを倒すと1面クリアとなる。以降、より難易度の高いステージを同様に繰り返し、5面クリアするとゲームクリアである。
移動する場合、切り替えボタンで移動させるユニットを切り替えながら進軍するが、選択肢が「全員」「スレン王のみ」「騎士・重騎士全員」「兵卒・重兵卒全員」の4つしか用意されていない。それぞれの選択したユニットが同時に移動するため、意図しないキャラクターが木や岩に引っかかっていることがままある。また、移動は画面外のキャラクターにも作用する。
敵兵と味方兵が接触すると戦闘になるが、当時のコンピュータゲームとしては珍しくステータスの数値が王様のパワー([[ヒットポイント]])以外は一切表示されておらず、内部的なパワー数値とランダム要素によって勝敗が決定される<ref name="natsukashi">M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』36ページ</ref>。敗北したキャラクターは消滅、この際自軍の兵が勝利するとそのキャラクターに10ポイントのパワーがプラスされる{{R|APH20180514}}。このため、たとえ強大な力を持つ主人公ユニットであっても、ザコ敵との戦いによって一定の確率で死亡し、突然ゲームオーバーを迎える場合もある{{R|natsukashi|muri200|APH20180514}}。
また、いくつかのキャラクター同士には相性が設定されており、楽に勝てる組み合わせ・負けやすい組み合わせが存在する。また敵の背後(画面左側)から攻撃すれば勝率が高くなる<ref>[https://twitter.com/itachocosystems/status/798068048695394304 ラショウ公式ツイート]</ref>というように楽に戦いを進める方法もあるが、自軍は最小でも職業単位でまとめてしか動かせないため、やむを得ず敵に接触することや地形に引っ掛かり身動きがとれなくなる場合も多い<ref name="natsukashi2"/><ref name="muri200"/>。背後からの攻撃は騎士らしからぬ振る舞いなので、実行には相応のペナルティがあるということを意味している<ref name="gs10">『[[GAME SIDE]]』([[マイクロマガジン社]])Vol.10 pp.130 - 131</ref>。
== 登場キャラクター ==
=== 味方 ===
; スレン王
: 主人公格で自軍に1体しか存在せず、敗北すると即ゲームオーバーである{{R|APH20180514}}。初期パワーは220であり、大木や領地の境界線を消去する能力を持つ。ファミコン版ではマップ上の木やサボテン等に変身させられている味方兵士を救出できる。なお、最大戦闘力は全キャラクター中最も高い320。ここまで育てると、敵兵卒には絶対に負けなくなる。
; 兵卒
: 初期戦闘力30と最弱の兵士だが、初期メンバーは最も多く、地形の中から救出して補充することもできる。2周目より登場する「呪いの落とし穴」を消去する能力を持ち、3勝した兵卒は重兵卒(戦闘力140)に変身する。オゴレス王の親衛隊の戦闘力を10にまで落とすことができる。
:; 重兵卒
:: 変身前の兵卒より+80のパワーを持つ。親衛隊に強い。最大戦闘力は310。
; 騎士
: 初期戦闘力150と兵卒よりはるかに高いパワーを持つが、初期メンバー数は少なく、マップ上での補充もできない。牢屋の[[鉄格子]]を消去する能力を持ち、3勝した騎士は重騎士(戦闘力260)に変身する。
:; 重騎士
:: 変身前の騎士より+80のパワーを持つ。魔導師に強い。最大戦闘力は310。
=== 敵 ===
; オゴレス王
: 最終ボス。戦闘力100。最強レベルのパワーを持つうえ、スレン王でなければまず倒せない。
; 兵卒
: 戦闘力10。最弱の存在だが、まれに高いパワーを持つ兵卒も混在している。
; 騎士
: 戦闘力50。パワーでは兵卒に勝る序盤の強敵。だが重騎士・重兵卒クラスの相手ではない。
; 獄吏
: 戦闘力30:: 40。味方軍の兵卒を捕らえた牢屋付近に出現する。俊敏でパワーもあり、兵卒では苦戦必至。
; 魔導師
: 戦闘力30。王様の背後に幻戦士を発生させる能力を持つ。重騎士に弱い。
:; 幻戦士
:: 戦闘力50。魔導師が生み出す幻だが、多大なパワーを持つうえに何度でも復活する特性を持つ。魔導師が敗北すると一緒に消失する。
; 重騎士
: 戦闘力100。王様を集中して攻撃する。パワーは強力だが、動きが鈍いという欠点がある。
; 親衛隊
: 戦闘力250。オゴレス王の周囲にいる最強の敵。しかし兵卒には弱く、重兵卒には致命的に弱い(兵卒には戦闘力10になる)。親衛隊の堅固な魔法鎧の隙間を突けるのは身軽な兵卒のみ、というイメージ<ref name="gs10" />。
※戦闘力は1周目のもの。1周クリアするごとに敵の戦闘力は10底上げされる。5周目以降は変化なし。
※「呪いの落とし穴」は5周目まで増え続ける。5周目以降は変化なし。
== 移植版 ==
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| [[MSX]]
| ラショウ
| アスキー
| [[ロムカセット]]
| 20116
|
|
|-
| style="text-align:right" |3
! ボコスカウォーズ
| {{vgrelease new|JP|1985年}}
| [[FM-7]]<br />[[PC-6000シリーズ|PC-6001mkII]]<br />[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]<br />[[ベーシックマスター|S1]]
| ラショウ
| アスキー
| PC-6001mkII, PC-8801:[[カセットテープ]]<br />FM-7, S1:[[カセットテープ]]及び[[フロッピーディスク]]
| '''PC-8801:'''2014305<br />'''FM-7:'''2014307
|
|
|-
| style="text-align:right" |4
! ボコスカウォーズ
| {{vgrelease new|JP|1985-12-14}}
| [[ファミリーコンピュータ]]
| ラショウ
| アスキー
| 320[[キロビット]][[ロムカセット]]<ref name="famimaga89">{{Cite journal |和書 |author = |title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ |date = 1991-05-10 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 9 |page = 89 |ref = harv}}</ref>
| HSP-04
|
| <ref name="muri200"/>
|-
| style="text-align:right" |5
! ボコスカウォーズ
| {{vgrelease new|JP|2003年12月15日}}
| [[Microsoft Windows|Windows]]
| ラショウ
| [[エンターブレイン]]
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[プロジェクトEGG]])
| -
|
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2003-12-15 |url=https://dengekionline.com/data/news/2003/12/15/79c3b32c43107c8fbaf04c1134e4fe22.html |title=「進め~進め~ものど~も~♪」でおなじみ『ボコスカウォーズ』がEGGで復活! |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2019-08-24}}</ref>
|-
| style="text-align:right" |6
! ボコスカウォーズ
| {{vgrelease new|JP|2004-05-17}}
| [[mova|504i]]以上<br />([[iアプリ]])
| [[ジー・モード]]
| ジー・モード
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(Get!!プチアプリ)
| -
|
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2004-05-13 |url=http://www.g-mode.co.jp/news/presstop/maine85.html |title=ジー・モード広報資料 |website=ジー・モード公式サイト |publisher=[[ジー・モード]] |accessdate=2022-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051025022422/http://www.g-mode.co.jp/news/presstop/maine85.html |archivedate=2005-10-25}}</ref>
|-
| style="text-align:right" |7
! ボコスカウォーズ
| {{vgrelease new|JP|2008-04-08}}
| [[Wii]]
| ラショウ
| [[エンターブレイン]]
| ダウンロード<br />([[バーチャルコンソール]])
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植
| <ref>{{Cite web|和書|author=土本学 |date=2008-04-07 |url=https://www.inside-games.jp/article/2008/04/07/28254.html |title=「バーチャルコンソール」4月8日配信開始タイトル |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2019-08-24}}</ref>
|-
| style="text-align:right" |8
! ボコスカウォーズ
| {{vgrelease new|JP|2015-07-21}}
| Windows
| ラショウ
| エンターブレイン
| ダウンロード<br />(プロジェクトEGG)
| -
| PC-8801版の移植
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-07-21 |url=https://www.famitsu.com/news/201507/21083848.html |title=『ボコスカウォーズ』伝説のアクションRPGがレトロゲーム配信サービス“プロジェクトEGG”で配信開始 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2019-08-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=たけのこ |date=2015-07-21 |url=https://dengekionline.com/elem/000/001/091/1091728/ |title=懐かしのARPG『ボコスカウォーズ』がプロジェクトEGGで配信開始。今なら500円で買える |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2019-08-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-07-21 |url=https://www.4gamer.net/games/008/G000896/20150721008/ |title=「プロジェクトEGG」で「ボコスカウォーズ(PC-8801版)」のWin8.1/E.M.D対応版が配信 |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2019-08-24}}</ref>
|}
; ファミリーコンピュータ版
初期ユニットはスレン王1人であり、魔法で岩や木に変えられた仲間を1人ずつ救出していかねばならない。これはゲーム機の処理機能の制限に合わせるための措置である<ref name="gs10" />。ただし、牢屋に捕らわれた兵卒はパソコン版のまま。
これに関連し「少数精鋭・雑魚を倒し成長」的な発想でゲームを進めた結果、戦闘結果がランダムであるためうまくいかず、パズル的な攻略法に気付く前に「運だけのゲーム」と誤解してしまうプレイヤーも少なくなかった。
パソコン版では敵キャラの多くが画面右に向かって進軍してくる傾向があるが、ファミコン版ではその動きが控えめである。特に、敵城から重騎士の大半を誘い出す場合、パソコン版では親衛隊の大半も外に出てしまうが、ファミコン版の親衛隊は城内に残る。
主に背景書き換え量の制約でゲーム進行、入力に対する反応は遅めで、移動が完了するまで方向キーを押していないと処理順の遅い味方がその場に残ってしまうこともある。逆用すれば、1列に並んだ味方を2列に並べ直すようなこともできる。
反面、音楽や効果音には凝っており、[[マニュアル#取扱説明書|取扱説明書]]にはBGMの楽譜と歌詞(「すすめ すすめ ものども……」で始まるもの)が掲載されていた。この曲は[[チップチューン]]のカバーアルバム『[[ファミソン8BIT STAGE2]]』([[2007年]])で[[桃井はるこ]]が声を当てて歌っている{{Refnest|収録には原作者のラショウも参加<ref name="8bit">[https://web.archive.org/web/20071213123104/http://5pb.jp/famison8bit/comment/index.html ファミソン8BIT.COM〜クリエイターズコメント〜] 2007年12月13日時点でのアーカイブ</ref>。}}<ref>他に[[HONDALADY]]のCASETTABLEという曲の中でも歌われている。</ref>。
== スタッフ ==
;FM-7, PC-8801版
*デザイン&オリジナルプログラム:[[ラショウ|住井浩司]]
*プログラム:井戸川理一、[[高橋義信 (実業家)|高橋義信]]
*カバーイラスト:伊東宜哉
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|rev1Score = 13.86/30点 (FC)<ref name="famimaga89"/>
|rev2 = [[ITMedia|ITMedia + D Games]]
|rev2Score = 肯定的 (FC)<ref name="itmedia20080909"/>
}}
{|class="wikitable floatright" style="font-size:70%; text-align:center; width:25%"
|+ 「ゲーム通信簿」評価
|-
! 項目
| キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ
! 総合
|-
! 得点
| 2.41 || 2.28 || 1.94 || 2.30 || 1.94 || 2.99
! 13.86
|}
;ファミリーコンピュータ版
:ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は別記の通り13.86点(満30点)となっている<ref name="famimaga89"/>。
:ゲーム情報サイト『[[ITMedia|ITMedia + D Games]]』においてゲイムマンは、本作がシミュレーションゲームでありながら運によって勝敗が決するシステムである事から「プレイヤーの腕は関係なく、すべて運任せで決まってしまう[[クソゲー]]」と評価される事が多いと指摘、さらにキーレスポンスが悪さなど操作性の問題点を指摘しているが、「その反面、集団での戦闘風景が、リアルに表現できているんじゃないかと思う」と述べた他、「団体行動におけるもどかしさが再現されているシステムだといえよう」と現実世界の再現性に関して肯定的に評価している<ref name="itmedia20080909">{{Cite web|和書|author=ゲイムマン |date=2008-09-09 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0809/09/news016.html |title=ある意味リアルなウォーシミュレーション? 「ボコスカウォーズ」 |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] + D Games |publisher=アイティメディア |accessdate=2019-08-24}}</ref>。
:ライターの佐々木 潤は中古PC・レトロゲーム専門サイト「Akiba PC Hotline!」によせたレビューの中で、パワーが大きい方が必ずしも勝てるわけではない点がユニークだと評している{{R|APH20180514}}。また、佐々木は操作しない限りはゲーム内時間が進まないシステムについても言及し、じっくり作戦を練ることができることから、前述のことと合わせて「シミュレーションRPGの元祖」ではないかともみている{{R|APH20180514}}。佐々木は気軽に遊べる難易度やゲームの長さ、軽快なBGM、当時としては斬新なルールなどから、賞を取ったのもうなずけると締めくくっている{{R|APH20180514}}。
== ニューボコスカウォーズ ==
=== ストーリー ===
オゴレス亡き後、廃墟と化したアドロス城にすみついた悪霊を倒すため、再びスレン王国軍がバサム帝国跡に向かう。
=== 登場キャラクター ===
; 味方
:; KING(王様)
:: 『ボコスカウォーズ』における王様と同一。
:; PAWN(兵卒)
:: 『ボコスカウォーズ』における兵卒と同一。マップ上のTREASURE(宝)に触れてもGREAT PAWNに変身できる。
::; GREAT PAWN(重兵卒)
::: 『ボコスカウォーズ』における重兵卒と同一。
:; KNIGHT(騎士)
:: 『ボコスカウォーズ』における騎士と同一。マップ上のTREASURE(宝)に触れてもGREAT KNIGHTに変身できる。「BOTTOMLESS POND(魔法の底なし沼)」を消去する能力も持つ。
::; GREAT KNIGHT(重騎士)
::: 『ボコスカウォーズ』における重騎士と同一。騎士と違い、「BOTTOMLESS POND(魔法の底なし沼)」は消去できない。
; 敵
:; DRAGONET(ドラゴニット)
:: 『ボコスカウォーズ』のオゴレス王にあたる存在。小龍の姿をしている。
:; RETAINER(リテイナー)
:: 『ボコスカウォーズ』の兵卒にあたる存在。
:; ARMOR-CLAD(アーマークラッド)
:: 『ボコスカウォーズ』の騎士にあたる存在。
:; EVELEYE(イビルアイ)
:: 『ボコスカウォーズ』の獄吏にあたる存在。
:; CONJURER(コンジャラー)
:: 『ボコスカウォーズ』の魔導師にあたる存在。
::; PHANTOM(ファントム)
::: 『ボコスカウォーズ』の幻戦士にあたる存在。
:; HEAVY ARMOR-CLAD(ヘビーアーマークラッド)
:: 『ボコスカウォーズ』の重騎士にあたる存在。
:; ENTOURAGE(エントラージュ)
:: 『ボコスカウォーズ』の親衛隊にあたる存在。
; その他
:; KILLER RIVER(死の川)
:: 『ニュー・ボコスカウォーズ』オリジナルのトラップ。マップ上に存在し、上に乗ると無条件で死亡する。
:; WARP HOLE(歪みの穴)
:: 『ニュー・ボコスカウォーズ』オリジナルのトラップ。マップ上に存在し、KING以外が上に乗ると±40ユニットの範囲でランダムにワープするか、WARP HOLEが消失する。どちらの結果になるかはランダム。
== ボコスカウォーズII ==
{{コンピュータゲーム
|Title = ボコスカウォーズⅡ
|Genre = [[シミュレーションロールプレイングゲーム|シミュレーションRPG]]
|Plat = [[PlayStation 4]]<br />[[Xbox One]]<br />[[Nintendo Switch]]
|Dev = [[KADOKAWA]]
|Pub = [[ピグミースタジオ]]
|Play = 1 - 2人
|Media = ダウンロード
|Date = '''PS4, XBOne'''<br />{{vgrelease new|JP|2016-11-10|NA|2017-10-17}}'''Switch'''<br />{{Flagicon|JPN}} 2020年3月19日
|Rating = {{vgrelease new|JP|{{CERO-A}}}}
|Sale =
|etc =
}}
『'''ボコスカウォーズII'''』は、[[ピグミースタジオ]]から発売された[[PlayStation 4]]、[[Xbox One]]、[[Nintendo Switch]]用[[シミュレーションロールプレイングゲーム|シミュレーションRPG]]。
従来の作品をそのまま移植した「クラシックスタイル」と新要素が追加された「オリジナルスタイル」があり切り替えができる。
発売時には発売記念として「『ボコスカウォーズII』発売記念イベント in カルカル」が開催され、監督のラショウ、プロデューサーの[[小清水史]]の他、[[桃井はるこ]]、[[サカモト教授]]なども参加した<ref name="gamewatch20161111"/><ref>{{Cite web|和書
|author=そみん
|date=2016-11-07
|url=https://dengekionline.com/elem/000/001/405/1405967/
|title=『ボコスカウォーズ2』11月10日発売。記念イベントでは桃井はるこさんとの『すすめボコスカ』曲コラボも!?
|website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]]
|publisher=[[KADOKAWA]]
|language= [[日本語]]
|accessdate=2019-08-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|author=臥待弦
|date=2016-11-07
|url=https://www.inside-games.jp/article/2016/11/07/103261.html
|title=『ボコスカウォーズII』発売記念イベントにサカモト教授も登場! 抽選で40名をご招待
|website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]]
|publisher=[[イード (企業)|イード]]
|language= [[日本語]]
|accessdate=2019-08-24}}</ref>。
=== ストーリー ===
平和だったスレン王国がバサム帝国の侵略を受け、民から慕われていたスレン王も捕らえられてしまった。
囚われの身となったスレン王だったが、牢からの脱出に成功し、行く先々で囚われの兵士たちを救出しながら王国奪還のためバサム帝国の攻め込むのだった。
=== 登場キャラクター ===
; 味方
:; スレン王
::
:; 兵卒
::
:; 騎士
::
:; ヒーロー
::
:; ジェネラル
::
:; ビショップ
::
; 敵
:; オゴレス王
::
:; 兵卒
::
:; 騎士
::
:; 魔導師
::
:; 親衛隊
::
:; ダリエイ
::
== ボコスカチェス ==
2023年7月16日、インディーゲームイベント[[BitSummit|BitSummit Let's Go!!]]のピグミースタジオブースにて、アプリも併用する[[ボードゲーム]]『ボコスカチェス』を出展。戦闘にはアプリ上で6面体の[[サイコロ|ダイス]]を振り、ラショウはボコスカの運要素を[[チェス]]に活かしたと説明。プレイは[[ドット絵]]で表された木製のコマを用い、量産したいとしている<ref>{{Cite news|author=箭本進一|url=https://www.4gamer.net/games/461/G046198/20230716004/|title=(プレイレポ)「ボコスカウォーズ」がチェスに。アプリの活用と運の揺らぎを表現したルールが特徴のボードゲーム|work=[[4Gamer.net]]|publisher=[[Aetas]]|date=2023-07-16|accessdate=2023-10-10}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
*「特集-RPGしてみようよ」『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』23号、アスキー、1984年、136頁。
*「MSX MAGAZINE永久保存版」アスキー、2002年。
== 関連項目 ==
*[[ファミソン8BIT STAGE2]]
== 外部リンク ==
* {{Wiiバーチャルコンソール|bw|ボコスカウォーズ(ファミコン版)}}
* [http://www.amusement-center.com/ アミューズメントセンター]
* [http://www.g-mode.co.jp/ ジー・モード]
* [http://bokosukawars2.com/ ボコスカウォーズⅡ 公式サイト]
* {{MobyGames|id=/26349/bokosuka-wars/|name=Bokosuka Wars}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|redirect1=ボコスカウォーズII
|1-1=2016年のコンピュータゲーム
|1-2=PlayStation 4用ソフト
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}}
{{デフォルトソート:ほこすかうおおす}}
[[Category:1983年のパソコンゲーム]]
[[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
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[[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
[[Category:プロジェクトEGG対応ソフト]] | 2003-02-15T11:06:03Z | 2023-10-30T08:26:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BA |
1,765 | 宇宙生物学 | 宇宙生物学(、英: Astrobiology、英: Exobiology、英: Xenobiology)とは地球に限らず、広く宇宙全体での生命体について考察し、生物生存の実態や生物現象のより普遍的な仕組み、生命の起源などを明らかにしようとする学問。アストロバイオロジーともいう。天文学、生物学、地質学、物理学、化学など横断的学問の上に成立する。しかし、比較的新しい学問なのでその定義ははっきりと確定していない。
2018年現在、地球以外の天体からは生命体は発見されておらず、したがって広義の宇宙生物学は、二つの分野に分けられる。すなわち、「地球以外の場所の生命に関する問題」と「地球上の生命が宇宙に出た際の問題」である。狭義の宇宙生物学では後者のみを指す。
前者では、地球外生命体の探査・推測を主に扱い、火星などの太陽系内の天体に関しては探査機を用いて、太陽系外の銀河系に生存しているかもしれない生命、とりわけ、高度な文明社会を持つと考えられている生物に関しては電波によるコミュニケーションを図ろうとしている(参照:地球外知的生命体探査)。そのほかにもドレイクの方程式や代わりの生化学といった地球外生命体の存在可能性・生体システムの考察がなされている。
後者では、無重力状態や宇宙線などの宇宙環境が人体に与える影響の研究、さらには地球上の動物、植物、細胞に与える影響を扱う。これらは人類が宇宙に進出してから少しずつではあるが、前者に比べて成果を挙げている。人体に関する研究は特に、宇宙医学と呼ばれる。
人間以外の動物の研究は、時間的な問題と長期的な宇宙空間での飼育技術の難しさから現在までの宇宙における動物のデータは限られている。ただし、動物の行動や発生といった限定的なものはいくつか実験されている。
宇宙空間におかれた動物がどのような行動を取るかは宇宙実験の初期から注目されていた。動物は宇宙滞在における初期段階には異常な行動をとることが多いが、やがて正常な状態へと移行し、動物には無重力状態に対する適応能力を有することが明らかになりつつある。たとえば、メダカは宇宙では平衡感覚に異常をきたすため、うまく泳げずに回転遊泳するが、数日後には無重力状態に適応して正常な遊泳が出来るようになる。また、クモに関しても宇宙滞在初期にはクモの巣をうまく張ることは出来ないが、数十日後には正常に張るようになる。人間に関しても宇宙酔いという乗り物酔いのような症状がみられるが、30時間から48時間程度で回復に向かう。
有性生殖を行う動物では、卵子と精子との受精によって個体の発生が始まる。発生と重力との関係はメダカの胚やカエルの受精卵などを用いて調べられている。結論から言うと両生類、魚類、無脊椎動物など、哺乳類以外の動物には初期発生に対して無重力状態は大きな影響を与えていないことがわかっている。メダカにいたっては宇宙ですでに交尾・産卵・孵化が確認されている。しかし、どの動物も器官の分化には筋肉や骨の形成が遅れるなど、少なからず無重力環境の影響がある。また、加齢についてのショウジョウバエや線虫を用いた実験があるが、ショウジョウバエはオスの加齢が加速し、メスは加速が認められず、線虫では加齢に影響しないとする実験結果が出ており、加齢や寿命に対する宇宙滞在の影響は統一した結論に達していない。加齢の加速原因としては宇宙線に含まれるHZE粒子がDNAに与える影響が考えられている。
陸上植物は固着生物として生活していく上での様々な環境ストレスを回避するために、光、水、重力といった環境を感受し、それを利用して自分の姿勢を制御するという仕組みを獲得した。それゆえ、陸上植物の形態形成は重力と大きく関わっており、植物の種子は無重力、微小重力状態でも扱いやすく、宇宙でも環境をコントロールすれば植物の種子は発芽して育ち、開花や結実も見られる。とはいえ、宇宙の無重力(微小重力)環境というのは、植物の生育に大きな影響を及ぼし植物生産にも影響することになる。
重力依存的な成長のメカニズムを研究するのに宇宙環境はとても有用であり、その解明は地球における植物の生産力を高めるだけでなく、宇宙で植物栽培をするのにも応用できると考えられる。
植物の生長や運動、体制維持に深く関係する植物ホルモンのオーキシンの流れは重力感受によって制御される。オーキシンの動態制御は無重力下の宇宙では機能せず、植物の姿勢制御や形態形成を変化させると考えられるが、重力がオーキシンの動態を制御するメカニズムはまだはっきり分かっていない。
重力屈性とは、根が下に伸びて茎が上に伸びる、というように植物が重力に反応してその伸長方向を変化させることである。イネとシロイヌナズナを地上で発育させた場合と宇宙で発育させた場合を比較した場合、地球上では明らかに地上部は上に、根は下に伸長している姿が見られるが、宇宙空間での無重力状態では伸長方向が制御されず、中には根が地上部の茎と同じ方向に飛び出して伸びているものも見られた。
根の重力屈性の場合、重力は根の先端の根冠細胞で感受されると考えられる。根冠の一部のコルメラ細胞では、デンプン粒を含んだアミロプラストが重力によって沈み、これによってオーキシンの流れが変化する。オーキシンには、地上部の芽や若い葉から根の方に流れ、根の中心部を通って先端へ向かい、Uターンするように根の周辺を通って戻る性質がある。根を傾けて重力刺激を与えると、オーキシンは上側には行かず下側だけに行こうとするので、傾いた根の下側でオーキシンの濃度が高くなり、下側の成長が上側に比べて相対的に遅くなるために地球上の植物の根は下方向に伸びる。
一方、無重力(微小重力)下では、コルメラ細胞の中でアミロプラストが沈降しないのでオーキシンが局在せず伸長方向の制御が不能になると考えられる。
アサガオやウリ科植物などが見せるつるを支柱に巻きつけながら伸張させる「つる巻き」のような、茎や根の先端がらせん状に回転しながら伸びる運動のことを回旋運動と呼ぶ。回旋運動には重力感受細胞である内皮を必要とするが、内皮細胞を作るのに必須のSCARECROW遺伝子が働かないと、アサガオなどは重力を感受できずに回旋運動もつるを巻くこともできなくなる。回旋運動とつる巻きが重力依存的な現象であることを意味するが、つる植物の宇宙の無重力環境で回旋運動をするのか、支柱に巻き付くかどうかは現在研究中である。
ウリ科植物の発芽直後に根と茎の境界域に形成される突起状の組織であるペグは、根は下へ茎は上へと伸ばす重力屈性に逆らい種皮を土の中に押さえつける。これによって芽生えは種皮から抜け出す。
地上では、ウリ科植物の種を上下逆さまになるように置いてもペグは必ず下方向にでるので、重力によって制御されていると考えられていたが、キュウリの種子を宇宙で発芽させても2個ペグができたので、ペグ形成には重力を必要しないことがわかった。
もともとキュウリの芽生えは2個のペグを発達させる能力を持つが、地上では重力に応答し、横たえられた芽生えの上側になった部位のペグ形成を抑制しているといえる。この抑制にもオーキシンが関係している。
NASAでは、シロイヌナズナの発芽前の種子を月面の植物栽培モジュールの中で発芽させ、遺伝子発現をモニターすることで、植物が低重力や温度、圧力や高放射線にどう対処するかを観察する実験を計画・進行している。シロイヌナズナの発芽・成長は、バイオマーカーとしての緑色蛍光タンパク質(GFP)をシロイヌナズナに発現させて、488nmの光で観察することで確認する。 モデル植物のシロイヌナズナはGFPマーキングが簡単にできる上に、火星の気圧に近い10キロパスカルの気圧でも成長できるので、研究材料として選ばれた。さらに、モジュールに月の土を加えて土の毒性や含有物を調べる実験も考えられている。
宇宙環境下における細胞は地上での実験では見られない挙動を示す。原生動物や哺乳類培養細胞などの様々な細胞に及ぼす宇宙飛行の影響は多く報告されている。細胞は重力を感受することができ、無重力に対する反応は個々の細胞で異なることもわかっている。例えばサリュート6号で行われた、ヒメゾウリムシの実験では、無重力下では細胞増殖が促進されることがわかっている。
広義の「宇宙生物学」が指す取り組むべき課題としては
の3点が挙げられる。
生命の起源は生物化学分野での一課題としても取り上げられるが、宇宙生物学では、生命は宇宙と深い係りのもとに進化したと定義し、より広く普遍的な概念を構築しようとするものである。
1960年代の初期の宇宙探査により、太陽系内に地球外生命および地球外文明が存在する可能性は一旦ほぼ否定され、生命の探査は地球外有機物の探索が主となっていた。しかしその後の探査や研究によって、木星の衛星エウロパの地下に微生物状の生命が存在する可能性が示唆され、その探査の方法が真剣に検討されるなど、太陽系内の地球外生命の探査をめぐる状況は大きく変化している。
他方、太陽系外の惑星系の直接的な探査は現在の人類の技術力では困難であり、先方から信号を送ってくるかもしれないとの期待のもと、地球外文明との交信のためのさまざまな試み(SETI)がなされている。アメリカ合衆国の天文学者フランク・ドレイクが提唱した地球外生命体がどれほど存在するかの方程式(ドレイクの方程式)を用いて大島泰郎は、「銀河系には100年に1度、我々と同程度の文明が誕生しており、総数では1000万個ほどであり、そのうち人類の存続期間と重なっている文明は10万個程度であろう」と推測している。
人類を含む地球生物の移住については比較的詳細な検討がなされ、宇宙植民島という考察が発表されている。ただし、生態学的な検討は十分なされておらず、宇宙環境における地球生物の適応性の問題など、生物学と密接に結び付いており、多数の課題を解決していく必要がある。 | [
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"text": "2018年現在、地球以外の天体からは生命体は発見されておらず、したがって広義の宇宙生物学は、二つの分野に分けられる。すなわち、「地球以外の場所の生命に関する問題」と「地球上の生命が宇宙に出た際の問題」である。狭義の宇宙生物学では後者のみを指す。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "前者では、地球外生命体の探査・推測を主に扱い、火星などの太陽系内の天体に関しては探査機を用いて、太陽系外の銀河系に生存しているかもしれない生命、とりわけ、高度な文明社会を持つと考えられている生物に関しては電波によるコミュニケーションを図ろうとしている(参照:地球外知的生命体探査)。そのほかにもドレイクの方程式や代わりの生化学といった地球外生命体の存在可能性・生体システムの考察がなされている。",
"title": "概要"
},
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"text": "後者では、無重力状態や宇宙線などの宇宙環境が人体に与える影響の研究、さらには地球上の動物、植物、細胞に与える影響を扱う。これらは人類が宇宙に進出してから少しずつではあるが、前者に比べて成果を挙げている。人体に関する研究は特に、宇宙医学と呼ばれる。",
"title": "概要"
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{
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"text": "人間以外の動物の研究は、時間的な問題と長期的な宇宙空間での飼育技術の難しさから現在までの宇宙における動物のデータは限られている。ただし、動物の行動や発生といった限定的なものはいくつか実験されている。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
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"text": "宇宙空間におかれた動物がどのような行動を取るかは宇宙実験の初期から注目されていた。動物は宇宙滞在における初期段階には異常な行動をとることが多いが、やがて正常な状態へと移行し、動物には無重力状態に対する適応能力を有することが明らかになりつつある。たとえば、メダカは宇宙では平衡感覚に異常をきたすため、うまく泳げずに回転遊泳するが、数日後には無重力状態に適応して正常な遊泳が出来るようになる。また、クモに関しても宇宙滞在初期にはクモの巣をうまく張ることは出来ないが、数十日後には正常に張るようになる。人間に関しても宇宙酔いという乗り物酔いのような症状がみられるが、30時間から48時間程度で回復に向かう。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
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"text": "有性生殖を行う動物では、卵子と精子との受精によって個体の発生が始まる。発生と重力との関係はメダカの胚やカエルの受精卵などを用いて調べられている。結論から言うと両生類、魚類、無脊椎動物など、哺乳類以外の動物には初期発生に対して無重力状態は大きな影響を与えていないことがわかっている。メダカにいたっては宇宙ですでに交尾・産卵・孵化が確認されている。しかし、どの動物も器官の分化には筋肉や骨の形成が遅れるなど、少なからず無重力環境の影響がある。また、加齢についてのショウジョウバエや線虫を用いた実験があるが、ショウジョウバエはオスの加齢が加速し、メスは加速が認められず、線虫では加齢に影響しないとする実験結果が出ており、加齢や寿命に対する宇宙滞在の影響は統一した結論に達していない。加齢の加速原因としては宇宙線に含まれるHZE粒子がDNAに与える影響が考えられている。",
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},
{
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"text": "陸上植物は固着生物として生活していく上での様々な環境ストレスを回避するために、光、水、重力といった環境を感受し、それを利用して自分の姿勢を制御するという仕組みを獲得した。それゆえ、陸上植物の形態形成は重力と大きく関わっており、植物の種子は無重力、微小重力状態でも扱いやすく、宇宙でも環境をコントロールすれば植物の種子は発芽して育ち、開花や結実も見られる。とはいえ、宇宙の無重力(微小重力)環境というのは、植物の生育に大きな影響を及ぼし植物生産にも影響することになる。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
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"tag": "p",
"text": "重力依存的な成長のメカニズムを研究するのに宇宙環境はとても有用であり、その解明は地球における植物の生産力を高めるだけでなく、宇宙で植物栽培をするのにも応用できると考えられる。",
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},
{
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"text": "植物の生長や運動、体制維持に深く関係する植物ホルモンのオーキシンの流れは重力感受によって制御される。オーキシンの動態制御は無重力下の宇宙では機能せず、植物の姿勢制御や形態形成を変化させると考えられるが、重力がオーキシンの動態を制御するメカニズムはまだはっきり分かっていない。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
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"text": "重力屈性とは、根が下に伸びて茎が上に伸びる、というように植物が重力に反応してその伸長方向を変化させることである。イネとシロイヌナズナを地上で発育させた場合と宇宙で発育させた場合を比較した場合、地球上では明らかに地上部は上に、根は下に伸長している姿が見られるが、宇宙空間での無重力状態では伸長方向が制御されず、中には根が地上部の茎と同じ方向に飛び出して伸びているものも見られた。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
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"text": "根の重力屈性の場合、重力は根の先端の根冠細胞で感受されると考えられる。根冠の一部のコルメラ細胞では、デンプン粒を含んだアミロプラストが重力によって沈み、これによってオーキシンの流れが変化する。オーキシンには、地上部の芽や若い葉から根の方に流れ、根の中心部を通って先端へ向かい、Uターンするように根の周辺を通って戻る性質がある。根を傾けて重力刺激を与えると、オーキシンは上側には行かず下側だけに行こうとするので、傾いた根の下側でオーキシンの濃度が高くなり、下側の成長が上側に比べて相対的に遅くなるために地球上の植物の根は下方向に伸びる。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
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"text": "一方、無重力(微小重力)下では、コルメラ細胞の中でアミロプラストが沈降しないのでオーキシンが局在せず伸長方向の制御が不能になると考えられる。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
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"text": "アサガオやウリ科植物などが見せるつるを支柱に巻きつけながら伸張させる「つる巻き」のような、茎や根の先端がらせん状に回転しながら伸びる運動のことを回旋運動と呼ぶ。回旋運動には重力感受細胞である内皮を必要とするが、内皮細胞を作るのに必須のSCARECROW遺伝子が働かないと、アサガオなどは重力を感受できずに回旋運動もつるを巻くこともできなくなる。回旋運動とつる巻きが重力依存的な現象であることを意味するが、つる植物の宇宙の無重力環境で回旋運動をするのか、支柱に巻き付くかどうかは現在研究中である。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "ウリ科植物の発芽直後に根と茎の境界域に形成される突起状の組織であるペグは、根は下へ茎は上へと伸ばす重力屈性に逆らい種皮を土の中に押さえつける。これによって芽生えは種皮から抜け出す。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "地上では、ウリ科植物の種を上下逆さまになるように置いてもペグは必ず下方向にでるので、重力によって制御されていると考えられていたが、キュウリの種子を宇宙で発芽させても2個ペグができたので、ペグ形成には重力を必要しないことがわかった。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
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"tag": "p",
"text": "もともとキュウリの芽生えは2個のペグを発達させる能力を持つが、地上では重力に応答し、横たえられた芽生えの上側になった部位のペグ形成を抑制しているといえる。この抑制にもオーキシンが関係している。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "NASAでは、シロイヌナズナの発芽前の種子を月面の植物栽培モジュールの中で発芽させ、遺伝子発現をモニターすることで、植物が低重力や温度、圧力や高放射線にどう対処するかを観察する実験を計画・進行している。シロイヌナズナの発芽・成長は、バイオマーカーとしての緑色蛍光タンパク質(GFP)をシロイヌナズナに発現させて、488nmの光で観察することで確認する。 モデル植物のシロイヌナズナはGFPマーキングが簡単にできる上に、火星の気圧に近い10キロパスカルの気圧でも成長できるので、研究材料として選ばれた。さらに、モジュールに月の土を加えて土の毒性や含有物を調べる実験も考えられている。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "宇宙環境下における細胞は地上での実験では見られない挙動を示す。原生動物や哺乳類培養細胞などの様々な細胞に及ぼす宇宙飛行の影響は多く報告されている。細胞は重力を感受することができ、無重力に対する反応は個々の細胞で異なることもわかっている。例えばサリュート6号で行われた、ヒメゾウリムシの実験では、無重力下では細胞増殖が促進されることがわかっている。",
"title": "狭義の宇宙生物学"
},
{
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"text": "広義の「宇宙生物学」が指す取り組むべき課題としては",
"title": "宇宙生物学の課題"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "の3点が挙げられる。",
"title": "宇宙生物学の課題"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "生命の起源は生物化学分野での一課題としても取り上げられるが、宇宙生物学では、生命は宇宙と深い係りのもとに進化したと定義し、より広く普遍的な概念を構築しようとするものである。",
"title": "宇宙生物学の課題"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1960年代の初期の宇宙探査により、太陽系内に地球外生命および地球外文明が存在する可能性は一旦ほぼ否定され、生命の探査は地球外有機物の探索が主となっていた。しかしその後の探査や研究によって、木星の衛星エウロパの地下に微生物状の生命が存在する可能性が示唆され、その探査の方法が真剣に検討されるなど、太陽系内の地球外生命の探査をめぐる状況は大きく変化している。",
"title": "宇宙生物学の課題"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "他方、太陽系外の惑星系の直接的な探査は現在の人類の技術力では困難であり、先方から信号を送ってくるかもしれないとの期待のもと、地球外文明との交信のためのさまざまな試み(SETI)がなされている。アメリカ合衆国の天文学者フランク・ドレイクが提唱した地球外生命体がどれほど存在するかの方程式(ドレイクの方程式)を用いて大島泰郎は、「銀河系には100年に1度、我々と同程度の文明が誕生しており、総数では1000万個ほどであり、そのうち人類の存続期間と重なっている文明は10万個程度であろう」と推測している。",
"title": "宇宙生物学の課題"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "人類を含む地球生物の移住については比較的詳細な検討がなされ、宇宙植民島という考察が発表されている。ただし、生態学的な検討は十分なされておらず、宇宙環境における地球生物の適応性の問題など、生物学と密接に結び付いており、多数の課題を解決していく必要がある。",
"title": "宇宙生物学の課題"
}
] | 宇宙生物学(うちゅうせいぶつがく、とは地球に限らず、広く宇宙全体での生命体について考察し、生物生存の実態や生物現象のより普遍的な仕組み、生命の起源などを明らかにしようとする学問。アストロバイオロジーともいう。天文学、生物学、地質学、物理学、化学など横断的学問の上に成立する。しかし、比較的新しい学問なのでその定義ははっきりと確定していない。 | [[Image:Chloroplasten.jpg|thumb|220px|宇宙の他の場所では、地球で見られるような[[細胞]]構造を採用しているかすら不明である(画像は[[葉緑体]]を含んだ植物の細胞)]]
{{読み仮名|'''宇宙生物学'''|うちゅうせいぶつがく|{{lang-en-short|Astrobiology}}、{{lang-en-short|Exobiology}}、{{lang-en-short|Xenobiology}}}}とは[[地球]]に限らず、広く宇宙全体での[[生命体]]について考察し、生物生存の実態や生物現象のより普遍的な仕組み、[[生命の起源]]などを明らかにしようとする学問。'''アストロバイオロジー'''ともいう。天文学、生物学、地質学、物理学、化学など横断的学問の上に成立する。しかし、比較的新しい学問なのでその定義ははっきりと確定していない。
== 概要 ==
2018年現在、地球以外の天体からは生命体は発見されておらず、したがって広義の宇宙生物学は、二つの分野に分けられる。すなわち、「'''地球以外の場所の生命に関する問題'''」と「'''地球上の生命が宇宙に出た際の問題'''」<ref>大島泰郎『宇宙生物学』</ref>である。狭義の宇宙生物学では後者のみを指す<ref>書籍によっては前者が狭義の宇宙生物学とされていることもあるが、本稿では後者を狭義の宇宙生物学と呼ぶ。</ref>。
前者では、[[地球外生命体]]の探査・推測を主に扱い、[[火星]]などの[[太陽系]]内の[[天体]]に関しては[[探査機]]を用いて、太陽系外の[[銀河系]]に生存しているかもしれない生命、とりわけ、高度な文明社会を持つと考えられている生物に関しては[[電波]]によるコミュニケーションを図ろうとしている(参照:[[地球外知的生命体探査]])。そのほかにも[[ドレイクの方程式]]や[[代わりの生化学]]といった地球外生命体の存在可能性・生体システムの考察がなされている。
後者では、無重力状態や[[宇宙線]]などの宇宙環境が人体に与える影響の研究、さらには地球上の動物、植物、細胞に与える影響を扱う。これらは人類が宇宙に進出してから少しずつではあるが、前者に比べて成果を挙げている。人体に関する研究は特に、[[宇宙医学]]と呼ばれる。
== 狭義の宇宙生物学 ==
=== 動物 ===
人間以外の動物の研究は、時間的な問題と長期的な宇宙空間での飼育技術の難しさから現在までの宇宙における動物のデータは限られている<ref>藤森義典『人類は宇宙へ向かう』</ref>。ただし、動物の行動や[[発生]]といった限定的なものはいくつか実験されている。
==== 動物の行動 ====
宇宙空間におかれた動物がどのような行動を取るかは宇宙実験の初期から注目されていた。動物は宇宙滞在における初期段階には異常な行動をとることが多いが、やがて正常な状態へと移行し、動物には無重力状態に対する適応能力を有することが明らかになりつつある。たとえば、[[メダカ]]は宇宙では[[平衡感覚]]に異常をきたすため、うまく泳げずに回転遊泳するが、数日後には無重力状態に適応して正常な遊泳が出来るようになる。また、[[クモ]]に関しても宇宙滞在初期には[[クモの巣]]をうまく張ることは出来ないが、数十日後には正常に張るようになる<ref>スカイラブ3号、ニワオニグモ。</ref>。人間に関しても[[宇宙酔い]]という[[乗り物酔い]]のような症状がみられるが、30時間から48時間程度で回復に向かう。
==== 動物の発生 ====
[[有性生殖]]を行う動物では、[[卵子]]と[[精子]]との[[受精]]によって[[個体]]の発生が始まる。発生と重力との関係はメダカの[[胚]]や[[カエル]]の[[受精卵]]などを用いて調べられている。結論から言うと[[両生類]]、[[魚類]]、[[無脊椎動物]]など、[[哺乳類]]以外の動物には初期発生に対して無重力状態は大きな影響を与えていないことがわかっている。メダカにいたっては宇宙ですでに交尾・産卵・孵化が確認されている<ref>1997年 IML-2ミッション 井尻</ref>。しかし、どの動物も[[器官]]の[[分化]]には[[筋肉]]や[[骨]]の形成が遅れるなど、少なからず無重力環境の影響がある。また、加齢についての[[ショウジョウバエ]]や[[線虫]]を用いた実験があるが、ショウジョウバエはオスの加齢が加速し、メスは加速が認められず、線虫では加齢に影響しないとする実験結果が出ており、加齢や寿命に対する宇宙滞在の影響は統一した結論に達していない。加齢の加速原因としては宇宙線に含まれる[[HZE粒子]]が[[DNA]]に与える影響が考えられている<ref>宇宙環境と生命 -宇宙生物学への招待- 佐藤温重</ref>。
=== 植物 ===
[[陸上植物]]は[[付着生物|固着生物]]として生活していく上での様々な環境ストレスを回避するために、[[光]]、[[水]]、重力といった環境を感受し、それを利用して自分の姿勢を制御するという仕組みを獲得した。それゆえ、陸上植物の形態形成は重力と大きく関わっており、植物の[[種子]]は無重力、微小重力状態でも扱いやすく、宇宙でも環境をコントロールすれば植物の種子は[[発芽]]して育ち、[[開花]]や[[結実]]も見られる。とはいえ、宇宙の無重力(微小重力)環境というのは、植物の生育に大きな影響を及ぼし植物生産にも影響することになる。
重力依存的な成長のメカニズムを研究するのに宇宙環境はとても有用であり、その解明は地球における植物の生産力を高めるだけでなく、宇宙で植物栽培をするのにも応用できると考えられる。
==== 重力に影響される植物の成長と運動 ====
植物の生長や運動、体制維持に深く関係する植物ホルモンの[[オーキシン]]の流れは重力感受によって制御される。オーキシンの動態制御は無重力下の宇宙では機能せず、植物の姿勢制御や形態形成を変化させると考えられるが、重力がオーキシンの動態を制御するメカニズムはまだはっきり分かっていない。
==== 重力屈性 ====
[[重力屈性]]とは、根が下に伸びて茎が上に伸びる、というように植物が重力に反応してその伸長方向を変化させることである。[[イネ]]と[[シロイヌナズナ]]を地上で発育させた場合と宇宙で発育させた場合を比較した場合、地球上では明らかに地上部は上に、根は下に伸長している姿が見られるが、宇宙空間での無重力状態では伸長方向が制御されず、中には根が地上部の茎と同じ方向に飛び出して伸びているものも見られた。
根の重力屈性の場合、重力は根の先端の[[根冠細胞]]で感受されると考えられる。根冠の一部の[[コルメラ細胞]]では、デンプン粒を含んだ[[アミロプラスト]]が重力によって沈み、これによってオーキシンの流れが変化する。オーキシンには、地上部の芽や若い葉から根の方に流れ、根の中心部を通って先端へ向かい、[[Uターン]]するように根の周辺を通って戻る性質がある。根を傾けて重力刺激を与えると、オーキシンは上側には行かず下側だけに行こうとするので、傾いた根の下側でオーキシンの濃度が高くなり、下側の成長が上側に比べて相対的に遅くなるために地球上の植物の根は下方向に伸びる。
一方、無重力(微小重力)下では、コルメラ細胞の中でアミロプラストが沈降しないのでオーキシンが局在せず伸長方向の制御が不能になると考えられる。
==== 回旋運動 ====
[[アサガオ]]や[[ウリ科]]植物などが見せる[[つる植物|つる]]を支柱に巻きつけながら伸張させる「つる巻き」のような、茎や根の先端がらせん状に回転しながら伸びる運動のことを回旋運動と呼ぶ。回旋運動には重力感受細胞である[[内皮 (植物)|内皮]]を必要とするが、内皮細胞を作るのに必須の[[SCARECROW遺伝子]]が働かないと、アサガオなどは重力を感受できずに回旋運動もつるを巻くこともできなくなる。回旋運動とつる巻きが重力依存的な現象であることを意味するが、つる植物の宇宙の無重力環境で回旋運動をするのか、支柱に巻き付くかどうかは現在研究中である。
==== ウリ科植物のペグ形成 ====
ウリ科植物の発芽直後に根と茎の境界域に形成される突起状の組織である[[ペグ]]は、根は下へ茎は上へと伸ばす重力屈性に逆らい種皮を土の中に押さえつける。これによって芽生えは種皮から抜け出す。
地上では、ウリ科植物の種を上下逆さまになるように置いてもペグは必ず下方向にでるので、重力によって制御されていると考えられていたが、キュウリの種子を宇宙で発芽させても2個ペグができたので、ペグ形成には重力を必要しないことがわかった。
もともとキュウリの芽生えは2個のペグを発達させる能力を持つが、地上では重力に応答し、横たえられた芽生えの上側になった部位のペグ形成を抑制しているといえる。この抑制にもオーキシンが関係している。
==== 宇宙での植物栽培 ====
[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]では、[[シロイヌナズナ]]の発芽前の種子を月面の植物栽培モジュールの中で発芽させ、遺伝子発現をモニターすることで、植物が低重力や温度、圧力や高放射線にどう対処するかを観察する実験を計画・進行している。シロイヌナズナの発芽・成長は、バイオマーカーとしての[[緑色蛍光タンパク質]](GFP)をシロイヌナズナに発現させて、488nmの光で観察することで確認する。
モデル植物のシロイヌナズナはGFPマーキングが簡単にできる上に、火星の気圧に近い10キロパスカルの気圧でも成長できるので、研究材料として選ばれた。さらに、モジュールに月の土を加えて土の毒性や含有物を調べる実験も考えられている。
=== 細胞 ===
宇宙環境下における細胞は地上での実験では見られない挙動を示す。[[原生動物]]や哺乳類培養細胞などの様々な細胞に及ぼす宇宙飛行の影響は多く報告されている。細胞は重力を感受することができ、無重力に対する反応は個々の細胞で異なることもわかっている。例えば[[サリュート|サリュート6号]]で行われた、ヒメゾウリムシの実験では、無重力下では細胞増殖が促進されることがわかっている。
== 宇宙生物学の課題 ==
広義の「宇宙生物学」が指す取り組むべき課題としては
# 生命の起源と進化
# 地球外生命の探査、地球外文明との交信
# 地球生物の地球外への移住
の3点が挙げられる<ref>高倉達雄『現代天文小事典』</ref>。
=== 生命の起源と進化 ===
生命の起源は[[生化学|生物化学分野]]での一課題としても取り上げられるが、宇宙生物学では、生命は宇宙と深い係りのもとに進化したと定義し、より広く普遍的な概念を構築しようとするものである<ref>例えば[[物理学]]や[[化学]]同様、地球外に出ても、その法則が適用できる普遍的な学問への昇華が目指されている。</ref>。
=== 地球外生命の探査、地球外文明との交信 ===
1960年代の初期の宇宙探査により、[[太陽系]]内に地球外生命および地球外文明が存在する可能性は一旦ほぼ否定され、生命の探査は地球外有機物の探索が主となっていた<ref name="egami">江上不二夫『生命を探る』</ref>。しかしその後の探査や研究によって、木星の衛星[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]の地下に微生物状の生命が存在する可能性が示唆され、その探査の方法が真剣に検討されるなど<ref>{{Cite book | 和書 | author=長沼 毅 | title=生命の星・エウロパ | publisher=NHKブックス | year=2004 }}</ref>、太陽系内の地球外生命の探査をめぐる状況は大きく変化している。
他方、太陽系外の惑星系の直接的な探査は現在の人類の技術力では困難であり、先方から信号を送ってくるかもしれないとの期待のもと、地球外文明との交信のためのさまざまな試み([[SETI]])がなされている。[[アメリカ合衆国]]の[[天文学者の一覧|天文学者]][[フランク・ドレイク]]が提唱した地球外生命体がどれほど存在するかの方程式([[ドレイクの方程式]])を用いて[[大島泰郎]]は、「銀河系には100年に1度、我々と同程度の文明が誕生しており、総数では1000万個ほどであり、そのうち人類の存続期間と重なっている文明は10万個程度であろう」と推測している<ref>大島泰郎『生命の誕生』</ref>。
=== 地球生物の地球外への移住 ===
人類を含む[[宇宙移民|地球生物の移住]]については比較的詳細な検討がなされ、[[スペースコロニー|宇宙植民島]]という考察が発表されている<ref>ジェラルド・オニール『宇宙植民島-1990年完成!“第二の地球”計画』</ref>。ただし、生態学的な検討は十分なされておらず、宇宙環境における地球生物の適応性の問題など、生物学と密接に結び付いており、多数の課題を解決していく必要がある。
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references /></div>
== 関連項目 ==
* [[地球外知的生命体探査]] (SETI)
* [[惑星の居住可能性]]
* [[代わりの生化学]]
* [[宇宙医学]]
* [[生物衛星]]
* [[宇宙に行った動物]]
* [[日本宇宙生物科学会]]
* [[宇宙移民]]
* [[軌道エレベータ]]
* [[宇宙生物学者の一覧]]
* [[検疫#宇宙船と宇宙飛行士]] - 生存可能性のある天体に宇宙船を送る場合は、検疫・消毒を行うこととなっている。
== 外部リンク ==
* [http://www.planetary.or.jp/setiathome/home_japanese.html SETI@home]
* {{Wayback|url=http://www.nhk.or.jp/dramatic/backnumber/38.html |title=NHK教育テレビ 地球ドラマチック『E.T.の住む星』 |date=20060207025901}}
* [https://www.jaxa.jp/article/special/kibo/index_j.html いよいよ始まる「きぼう」日本実験棟の組立て]
{{生物学}}
{{Astronomy subfields}}
{{地球外生命}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:うちゆうせいふつかく}}
[[Category:生物学の分野]]
[[Category:生物学の仮説]]
[[Category:宇宙開発]]
[[Category:地球外生命体]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:生命の起源]]
[[Category:宇宙生物学|*]] | 2003-02-15T11:08:56Z | 2023-10-10T20:29:54Z | false | false | false | [
"Template:Cite book",
"Template:生物学",
"Template:Astronomy subfields",
"Template:地球外生命",
"Template:Normdaten",
"Template:読み仮名"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6 |
1,767 | クソゲー | クソゲー、糞ゲーとは、「クソゲーム」の短縮形。ゲーム評論を行なうユーザーやメディアが、低品質でつまらないコンピュータゲームや初めから詰んでいるようなゲームを酷評する際に用いる言葉、またはその評価が与えられた個々のゲーム作品に対して用いる。
「クソゲー」という名称の起源については諸説あるが、一般的には、タレント、イラストレーターのみうらじゅんが、ファミリーコンピュータ用ソフトの 『いっき』(サンソフト・1985年11月発売)や『頭脳戦艦ガル』(デービーソフト・1985年12月発売)を評する際に使用したのが発祥とされる。
みうらも自身が命名者であることを自認しており、ファミコンブーム時に自身が雑誌で連載していたコラム「ゲロゲロゲームランド」上で、元々はバカ映画に沿ってバカゲームと呼んでいたものが、自腹で金払ってるんだからバカじゃ済まないだろう、ということでクソゲーと呼ぶようになったと後に語っている。当時のみうらが「クソゲーム」と発した文献上で確認できる語の初出は、『バグニューズ』(BNN社)1986年8月号の「ゲロゲロゲームランドクソGAME大会」である。この様な内容であったことから、連載中はよくメーカーからお叱りを受けていたとも後に語っている。
高橋名人も1986年8月10日発行の著書『ファミコン戦士に告ぐ 名人はキミだ! オレの秘技をまるごと初公開』の34ページで、「クソゲー」に言及している。ただ当時の高橋名人は、テレビ東京で放映の『おはようスタジオ』でレギュラーを持っており、この際に同じくレギュラー出演者であったみうらじゅんとは浅からぬ縁がある。みうらは後に、当時高橋名人と楽屋が同じだったこともあり、この頃入手困難だったファミコンソフトの『スターソルジャー』を、高橋名人より「名人価格」と称した特別価格で売ってもらったり、高橋名人のサインや、カセットに貼ると連射が早くなるという名人シールをもらったと語っており、この際にみうらより高橋名人に「クソゲー」という名称が伝わった可能性もある。
ゲーム雑誌では『ファミコン通信』1986年の12月発売号にて「くそゲー」などの表現が登場している。また翌年1987年2月6日号では、同誌連載の4コマ漫画『べーしっ君』で登場キャラクターのべーしっ君のお母さんが「クソゲー」というセリフを発している。なお、この回のタイトルは「怒りのクソゲー」であり、クソゲーを買って頭に来たのでクソゲーを頭に乗せて踊れば少しは気が紛れるかも、というネタであった。
それ以前の類似表現では、『週刊プレイボーイ』の1986年3月25日号に掲載された「ファミコン若大将のオッス!ファミコンくるくる情報」の書き出しの中に、「クソソフト」という言葉が出てくる。ゲーム関連では、「ソフト」と「ゲーム」がほぼ同義に使われることも多いことから「クソソフト」がどこかの段階で「クソゲーム」に変化し、次第に略されていき「クソゲー」となり広まったとも考えられる。
先述の『バグニューズ』では1985年末頃に、ゲームソフトのレビュー記事などで「つまらないタコソフト」、「出しても売れないようなタコなソフト」という記述が登場している。一方パソコン雑誌『The BASIC』では、1985年の初頭あたりから、「ダメソフト」との呼び方が時折現れているのが確認できる。これらから、1985年頃のパソコンマニアの間では、主にゲームを念頭につまらないソフトを「(罵倒語)ソフト」と呼ぶことが、少しずつ広まっていたものと考えられる。もっともこれらは、この時期のパソコン雑誌上ではめったに見られない表現でもあり、あまり大っぴらに使われるものではなかった。
1985年には、「つまらないソフト」の問題はファミコンにも広がっていた。同年中頃からサードパーティー製のソフトの発売が大きく伸びており、『スーパーマリオブラザーズ』が発売された10月以降は30作近く発売されている。翌年以降は更に伸びており、この時期大量のソフトが市場に流れ込んでいた。それらの開発元には、必ずしも技術が伴っているとは言えないものもあり、『スーパーマリオ』により更に引き上げられたプレイヤーの要求に応えられず、不評を買うことも増え始めていた。加えてファミコン本体の品薄を背景に、ソフトととの「抱き合わせ商法」が横行し、少なからぬ数の「つまらないソフト」が、ブームを支えた子どもたちの手に渡った。
1986年の時点では、氷水芋吉が『Beep』5月号の記事の中で、「スカ・ソフト」という表現を使っている。堀井雄二は『ログイン』10月号で、「カスゲーム」という言葉を使っている。この時点では「(罵倒語)ソフト(又はゲーム)」という表現には、未だ定まったものがなかったようである。その中で「クソゲー」が突出して広まった1つの手がかりになりそうなのが、1987年末に発行された、商業出版でのビデオゲーム関連用語集の草分け『新明解ナム語辞典』である。ここでは「クソゲー」について、「しょーもないゲームのこと。これは南青山あたりから発生した語であるが、類語として「ダメソフト」「お買い損ソフト」など、その他地方地方によってさまざまな言い回しがある。」と解説している。
南青山はその当時にアスキーが所在していた地区であり、『ファミコン通信』1986年12月12日号「ファミ通町内会」の中の、「ゲーム用語の基礎知識」に「くそゲー」の項目があり、以下のように解説されている。
さらに翌1987年の2月6日号では、荒井清和の人気漫画『べーしっ君』に、「あらやだ とってもつまらないわこのゲーム...... こういうのをクソゲーっていうのね」というセリフが登場している。主人公の母親のセリフであり、ゲーム用語の基礎知識とも矛盾しておらず、子供たちの間で「クソゲー」という言葉の存在を広める上で、かなり大きな役割を果たしたとも言われる。
またこれ以前に、1985年5月ごろからほぼ1年間にわたり、ナムコのファミコンソフトのテレビCMで「クーソーは、頭のコヤシです。」、「クーソーしてから、寝てください。」という眞木準によるキャッチコピーが繰り返し流れ、子どもたちの間でも話題を呼んでいた。「糞」をポジティヴな内容に転換したこのCMを更に逆転させ、そこから生まれる面白さが「クソゲー」の広まりを後押しした可能性もあるとされている。
「クソゲー」という言葉に対しみうらじゅんが果たした役割の1つに、それまでの「(罵倒語)ソフト(ゲーム)」という表現が、怒りや嘲りの発露として使われていたのに対し、ユーモアも含めてそれだけではない思いも表し、よりカジュアルな言葉として広めたことにあるともされる。
ゲーム作品がクソゲーと呼ばれる理由はプレイヤーの事情や感性によって異なるため一概に断定することはできないが、基本的には「プレイヤーが投じた金銭や時間に、面白さがまったく見合わないビデオゲーム」がクソゲーであるとされる。
具体例としては「難しすぎて、やる気がなくなってしまうゲーム」「ゲームシナリオや設定が悪く、一貫性に欠ける」「安易なキャラクターゲーム」などが挙げられている。
ごく稀に、「完成度が極めて低い」ゲームソフトが市場に流通することがあり、これらは「最低なゲーム」であるとしてクソゲーと認定されることがある。一例としては、レースゲームでありながら敵の車が動かないという致命的なゲーム性の破綻など様々な欠陥を抱え、レビューサイトで評価が軒並み最低点を記録、または最低点をつけることさえ放棄された『Big Rigs』が挙げられる。2009年にジャレコが発売したWii用ソフト『黄金の絆』は、社長(当時)の加藤貴康が、開発スタッフの制作体制に端を発する完成度の低さに苦言を呈し「クソゲー」と評価した。
ギャグ要素の強いゲームでは、発売元が「クソゲー」を自称する例もある。
1995年当時任天堂社長だった山内溥は、面白くも楽しくもないソフトは「ダメソフト」と表現したが、これは任天堂の厳しいコンテンツ管理の観点から出てきた言葉といえ、ユーザーの間に広まっているクソゲーの認識とは必ずしも対象が一致せず、あまり普及もしていない(『メイド イン ワリオ』のワード系プチゲームの選択肢にこの言葉が出てくる)。
また、設定や世界観やゲームシステムなど、どこかが普通とは違っておかしいゲームを「バカゲー」、素人でもすぐに全クリ出来てしまう程ゲームの難易度が著しく低くなってしまったゲームは「ヌルゲー」、逆にクリア条件が厳格で初見ではまず攻略できないようなもの、RPGでないにもかかわらず学習で判明した特定の手順を毎回再現しないとステージなどがクリアできないデザインのゲームは、「覚えゲー」とも呼ばれる。また、極端に難しく一見して攻略できないような場合は「無理ゲー」とも呼ばれる。これらのゲームも品質が低い、あるいは一般向けのゲームではないと見なされる場合が多い。
他には、クソゲーを監視・評価・コメントする人を「クソゲイザー」(クソゲー+gazer)と呼ぶ人もおり、SNSや動画サイトなどの著しい普及を背景に近年 そのような人が増加傾向にある。
ここでは具体例として、ゲームハード毎に5~10作品ほどを厳選して、著名なクソゲーのみを列挙するものとする。
ボストンにて開催されたPAX EAST 2017ではHeidi Kempsによって“Kusoge! More of Japan’s Awesomely Awful Videogames”として、実演付きでクソゲーの定義や紹介を行うイベントが行われた。 | [
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"text": "クソゲー、糞ゲーとは、「クソゲーム」の短縮形。ゲーム評論を行なうユーザーやメディアが、低品質でつまらないコンピュータゲームや初めから詰んでいるようなゲームを酷評する際に用いる言葉、またはその評価が与えられた個々のゲーム作品に対して用いる。",
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"text": "「クソゲー」という名称の起源については諸説あるが、一般的には、タレント、イラストレーターのみうらじゅんが、ファミリーコンピュータ用ソフトの 『いっき』(サンソフト・1985年11月発売)や『頭脳戦艦ガル』(デービーソフト・1985年12月発売)を評する際に使用したのが発祥とされる。",
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"text": "みうらも自身が命名者であることを自認しており、ファミコンブーム時に自身が雑誌で連載していたコラム「ゲロゲロゲームランド」上で、元々はバカ映画に沿ってバカゲームと呼んでいたものが、自腹で金払ってるんだからバカじゃ済まないだろう、ということでクソゲーと呼ぶようになったと後に語っている。当時のみうらが「クソゲーム」と発した文献上で確認できる語の初出は、『バグニューズ』(BNN社)1986年8月号の「ゲロゲロゲームランドクソGAME大会」である。この様な内容であったことから、連載中はよくメーカーからお叱りを受けていたとも後に語っている。",
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"text": "高橋名人も1986年8月10日発行の著書『ファミコン戦士に告ぐ 名人はキミだ! オレの秘技をまるごと初公開』の34ページで、「クソゲー」に言及している。ただ当時の高橋名人は、テレビ東京で放映の『おはようスタジオ』でレギュラーを持っており、この際に同じくレギュラー出演者であったみうらじゅんとは浅からぬ縁がある。みうらは後に、当時高橋名人と楽屋が同じだったこともあり、この頃入手困難だったファミコンソフトの『スターソルジャー』を、高橋名人より「名人価格」と称した特別価格で売ってもらったり、高橋名人のサインや、カセットに貼ると連射が早くなるという名人シールをもらったと語っており、この際にみうらより高橋名人に「クソゲー」という名称が伝わった可能性もある。",
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"text": "ゲーム雑誌では『ファミコン通信』1986年の12月発売号にて「くそゲー」などの表現が登場している。また翌年1987年2月6日号では、同誌連載の4コマ漫画『べーしっ君』で登場キャラクターのべーしっ君のお母さんが「クソゲー」というセリフを発している。なお、この回のタイトルは「怒りのクソゲー」であり、クソゲーを買って頭に来たのでクソゲーを頭に乗せて踊れば少しは気が紛れるかも、というネタであった。",
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"text": "それ以前の類似表現では、『週刊プレイボーイ』の1986年3月25日号に掲載された「ファミコン若大将のオッス!ファミコンくるくる情報」の書き出しの中に、「クソソフト」という言葉が出てくる。ゲーム関連では、「ソフト」と「ゲーム」がほぼ同義に使われることも多いことから「クソソフト」がどこかの段階で「クソゲーム」に変化し、次第に略されていき「クソゲー」となり広まったとも考えられる。",
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"text": "先述の『バグニューズ』では1985年末頃に、ゲームソフトのレビュー記事などで「つまらないタコソフト」、「出しても売れないようなタコなソフト」という記述が登場している。一方パソコン雑誌『The BASIC』では、1985年の初頭あたりから、「ダメソフト」との呼び方が時折現れているのが確認できる。これらから、1985年頃のパソコンマニアの間では、主にゲームを念頭につまらないソフトを「(罵倒語)ソフト」と呼ぶことが、少しずつ広まっていたものと考えられる。もっともこれらは、この時期のパソコン雑誌上ではめったに見られない表現でもあり、あまり大っぴらに使われるものではなかった。",
"title": "「クソゲー」に至る変遷"
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"text": "1985年には、「つまらないソフト」の問題はファミコンにも広がっていた。同年中頃からサードパーティー製のソフトの発売が大きく伸びており、『スーパーマリオブラザーズ』が発売された10月以降は30作近く発売されている。翌年以降は更に伸びており、この時期大量のソフトが市場に流れ込んでいた。それらの開発元には、必ずしも技術が伴っているとは言えないものもあり、『スーパーマリオ』により更に引き上げられたプレイヤーの要求に応えられず、不評を買うことも増え始めていた。加えてファミコン本体の品薄を背景に、ソフトととの「抱き合わせ商法」が横行し、少なからぬ数の「つまらないソフト」が、ブームを支えた子どもたちの手に渡った。",
"title": "「クソゲー」に至る変遷"
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"text": "1986年の時点では、氷水芋吉が『Beep』5月号の記事の中で、「スカ・ソフト」という表現を使っている。堀井雄二は『ログイン』10月号で、「カスゲーム」という言葉を使っている。この時点では「(罵倒語)ソフト(又はゲーム)」という表現には、未だ定まったものがなかったようである。その中で「クソゲー」が突出して広まった1つの手がかりになりそうなのが、1987年末に発行された、商業出版でのビデオゲーム関連用語集の草分け『新明解ナム語辞典』である。ここでは「クソゲー」について、「しょーもないゲームのこと。これは南青山あたりから発生した語であるが、類語として「ダメソフト」「お買い損ソフト」など、その他地方地方によってさまざまな言い回しがある。」と解説している。",
"title": "「クソゲー」に至る変遷"
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"text": "南青山はその当時にアスキーが所在していた地区であり、『ファミコン通信』1986年12月12日号「ファミ通町内会」の中の、「ゲーム用語の基礎知識」に「くそゲー」の項目があり、以下のように解説されている。",
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"text": "さらに翌1987年の2月6日号では、荒井清和の人気漫画『べーしっ君』に、「あらやだ とってもつまらないわこのゲーム...... こういうのをクソゲーっていうのね」というセリフが登場している。主人公の母親のセリフであり、ゲーム用語の基礎知識とも矛盾しておらず、子供たちの間で「クソゲー」という言葉の存在を広める上で、かなり大きな役割を果たしたとも言われる。",
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"text": "またこれ以前に、1985年5月ごろからほぼ1年間にわたり、ナムコのファミコンソフトのテレビCMで「クーソーは、頭のコヤシです。」、「クーソーしてから、寝てください。」という眞木準によるキャッチコピーが繰り返し流れ、子どもたちの間でも話題を呼んでいた。「糞」をポジティヴな内容に転換したこのCMを更に逆転させ、そこから生まれる面白さが「クソゲー」の広まりを後押しした可能性もあるとされている。",
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"text": "「クソゲー」という言葉に対しみうらじゅんが果たした役割の1つに、それまでの「(罵倒語)ソフト(ゲーム)」という表現が、怒りや嘲りの発露として使われていたのに対し、ユーモアも含めてそれだけではない思いも表し、よりカジュアルな言葉として広めたことにあるともされる。",
"title": "「クソゲー」に至る変遷"
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"text": "ゲーム作品がクソゲーと呼ばれる理由はプレイヤーの事情や感性によって異なるため一概に断定することはできないが、基本的には「プレイヤーが投じた金銭や時間に、面白さがまったく見合わないビデオゲーム」がクソゲーであるとされる。",
"title": "具体例と理由"
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"text": "具体例としては「難しすぎて、やる気がなくなってしまうゲーム」「ゲームシナリオや設定が悪く、一貫性に欠ける」「安易なキャラクターゲーム」などが挙げられている。",
"title": "具体例と理由"
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"text": "ごく稀に、「完成度が極めて低い」ゲームソフトが市場に流通することがあり、これらは「最低なゲーム」であるとしてクソゲーと認定されることがある。一例としては、レースゲームでありながら敵の車が動かないという致命的なゲーム性の破綻など様々な欠陥を抱え、レビューサイトで評価が軒並み最低点を記録、または最低点をつけることさえ放棄された『Big Rigs』が挙げられる。2009年にジャレコが発売したWii用ソフト『黄金の絆』は、社長(当時)の加藤貴康が、開発スタッフの制作体制に端を発する完成度の低さに苦言を呈し「クソゲー」と評価した。",
"title": "具体例と理由"
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"text": "ギャグ要素の強いゲームでは、発売元が「クソゲー」を自称する例もある。",
"title": "具体例と理由"
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"text": "1995年当時任天堂社長だった山内溥は、面白くも楽しくもないソフトは「ダメソフト」と表現したが、これは任天堂の厳しいコンテンツ管理の観点から出てきた言葉といえ、ユーザーの間に広まっているクソゲーの認識とは必ずしも対象が一致せず、あまり普及もしていない(『メイド イン ワリオ』のワード系プチゲームの選択肢にこの言葉が出てくる)。",
"title": "他の呼称"
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"text": "また、設定や世界観やゲームシステムなど、どこかが普通とは違っておかしいゲームを「バカゲー」、素人でもすぐに全クリ出来てしまう程ゲームの難易度が著しく低くなってしまったゲームは「ヌルゲー」、逆にクリア条件が厳格で初見ではまず攻略できないようなもの、RPGでないにもかかわらず学習で判明した特定の手順を毎回再現しないとステージなどがクリアできないデザインのゲームは、「覚えゲー」とも呼ばれる。また、極端に難しく一見して攻略できないような場合は「無理ゲー」とも呼ばれる。これらのゲームも品質が低い、あるいは一般向けのゲームではないと見なされる場合が多い。",
"title": "他の呼称"
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"text": "他には、クソゲーを監視・評価・コメントする人を「クソゲイザー」(クソゲー+gazer)と呼ぶ人もおり、SNSや動画サイトなどの著しい普及を背景に近年 そのような人が増加傾向にある。",
"title": "他の呼称"
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"text": "ここでは具体例として、ゲームハード毎に5~10作品ほどを厳選して、著名なクソゲーのみを列挙するものとする。",
"title": "著名なクソゲー作品"
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"text": "ボストンにて開催されたPAX EAST 2017ではHeidi Kempsによって“Kusoge! More of Japan’s Awesomely Awful Videogames”として、実演付きでクソゲーの定義や紹介を行うイベントが行われた。",
"title": "受容"
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] | クソゲー、糞ゲーとは、「クソゲーム」の短縮形。ゲーム評論を行なうユーザーやメディアが、低品質でつまらないコンピュータゲームや初めから詰んでいるようなゲームを酷評する際に用いる言葉、またはその評価が与えられた個々のゲーム作品に対して用いる。 | <!--代表的なクソゲーは主観に絡む問題を含むため、あえて追記せず。本稿のノート参照されたし。-->
'''クソゲー'''、'''糞ゲー'''とは、「[[糞#言語表現における糞|クソ]][[ゲーム]]」の短縮形。ゲーム評論を行なうユーザーやメディアが、低品質でつまらない[[コンピュータゲーム]]や初めから詰んでいるようなゲームを酷評する際に用いる言葉、またはその評価が与えられた個々のゲーム作品に対して用いる。
== 語源 ==
「クソゲー」という名称の起源については諸説あるが、一般的には、[[タレント]]、[[イラストレーター]]の[[みうらじゅん]]が、[[ファミリーコンピュータ]]用ソフトの
『[[いっき]]』([[サンソフト]]・[[1985年]]11月発売)<ref>『EX MAX!』[[2008年]]6月号 P115</ref><ref>[http://www.biztieup.com/news_IGGix9KPi.html 元祖「クソゲー」の「いっき」が、ソーシャルゲームとしてモバゲータウンに登場!]{{リンク切れ|date=2018年3月}} - 業務提携ニュース [[2011年]][[3月10日]]</ref>や『[[頭脳戦艦ガル]]』([[デービーソフト]]・1985年12月発売)を評する際に使用したのが発祥とされる。
みうらも自身が命名者であることを自認しており<ref>みうらじゅん「「バカ映画」の命名者、みうらじゅんが緊急提言 「バカ」がダメなら「バカチシズム」でどうだ!」『[[映画秘宝]]Vol.10 GOGO!バカ大将』[[洋泉社]]、[[1998年]]、p160</ref>、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]ブーム時に自身が雑誌で連載していたコラム「ゲロゲロゲームランド」上で、元々はバカ映画に沿ってバカゲームと呼んでいたものが、自腹で金払ってるんだからバカじゃ済まないだろう、ということでクソゲーと呼ぶようになったと後に語っている<ref>[[GameWave]] みうらじゅんが選ぶクソゲーBEST3より</ref>。当時のみうらが「クソゲーム」と発した文献上で確認できる語の初出は、『バグニューズ』([[ビー・エヌ・エヌ新社|BNN社]])1986年8月号の「ゲロゲロゲームランドクソGAME大会」である。{{要出典範囲|この様な内容であったことから、連載中はよくメーカーからお叱りを受けていたとも後に語っている。|date=2021年11月}}
[[高橋名人]]も1986年[[8月10日]]発行の著書『ファミコン戦士に告ぐ 名人はキミだ! オレの秘技をまるごと初公開』の34ページで、「クソゲー」に言及している。ただ当時の高橋名人は、[[テレビ東京]]で放映の『[[おはようスタジオ]]』でレギュラーを持っており、この際に同じくレギュラー出演者であったみうらじゅんとは浅からぬ縁がある。みうらは後に、当時高橋名人と楽屋が同じだったこともあり、この頃入手困難だったファミコンソフトの『[[スターソルジャー]]』を、高橋名人より「名人価格」と称した特別価格で売ってもらったり、高橋名人のサインや、カセットに貼ると連射が早くなるという名人シールをもらったと語っており、この際にみうらより高橋名人に「クソゲー」という名称が伝わった可能性もある<ref>[[TBSラジオ]]『[[みうらじゅんの「サブカルジェッター」〜2番目がいいんじゃない]]』2007年11月3日放送 ゲスト:[[吉田豪]]とのトークより</ref>{{信頼性要検証|date=2022年1月}}。
[[ゲーム雑誌]]では『[[ファミ通|ファミコン通信]]』[[1986年]]の12月発売号にて「くそゲー」などの表現が登場している。また翌年1987年2月6日号では、同誌連載の4コマ漫画『[[べーしっ君]]』で登場キャラクターのべーしっ君のお母さんが「クソゲー」というセリフを発している。なお、この回のタイトルは「怒りのクソゲー」であり、クソゲーを買って頭に来たのでクソゲーを頭に乗せて踊れば少しは気が紛れるかも、というネタであった。
それ以前の類似表現では、『[[週刊プレイボーイ]]』の1986年3月25日号に掲載された「ファミコン若大将のオッス!ファミコンくるくる情報{{efn2|「ファミコン若大将」とは、『[[ポケットモンスター]]シリーズ』の生みの親として知られる[[田尻智]]のこと<ref name="denfami"/>。}}」の書き出しの中に、「クソソフト」という言葉が出てくる<ref name="denfami"/>。ゲーム関連では、「ソフト」と「ゲーム」がほぼ同義に使われることも多いことから「クソソフト」がどこかの段階で「クソゲーム」に変化し、次第に略されていき「クソゲー」となり広まったとも考えられる<ref name="denfami">{{Cite web|和書|url=http://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/180918 |title=「クソゲー」という言葉の起源は、みうらじゅん? 高橋名人? 徹底的に探ったら、意外な人物やあの雑誌が急浮上! |accessdate=2018-10-8 |date=2018-9-18 |website=電ファミニコゲーマー|publisher=[[ドワンゴ]]}}</ref>。
== 「クソゲー」に至る変遷 ==
先述の『バグニューズ』では1985年末頃に、ゲームソフトのレビュー記事などで「つまらないタコソフト」、「出しても売れないようなタコなソフト」という記述が登場している<ref name="denfami"/>{{efn2|これらの筆者はみうらじゅんではない<ref name="denfami"/>。}}。一方[[パソコン雑誌]]『The BASIC』では、1985年の初頭あたりから、「ダメソフト」との呼び方が時折現れているのが確認できる。これらから、1985年頃のパソコンマニアの間では、主にゲームを念頭につまらないソフトを「(罵倒語)ソフト」と呼ぶことが、少しずつ広まっていたものと考えられる。もっともこれらは、この時期のパソコン雑誌上ではめったに見られない表現でもあり、あまり大っぴらに使われるものではなかった<ref name="denfami"/>。
1985年には、「つまらないソフト」の問題はファミコンにも広がっていた。同年中頃から[[サードパーティー]]製のソフトの発売が大きく伸びており、『[[スーパーマリオブラザーズ]]』が発売された10月以降は30作近く発売されている。翌年以降は更に伸びており、この時期大量のソフトが市場に流れ込んでいた。それらの開発元には、必ずしも技術が伴っているとは言えないものもあり、『スーパーマリオ』により更に引き上げられたプレイヤーの要求に応えられず、不評を買うことも増え始めていた。加えてファミコン本体の品薄を背景に、ソフトととの「[[抱き合わせ商法]]」が横行し、少なからぬ数の「つまらないソフト」が、ブームを支えた子どもたちの手に渡った<ref name="denfami"/>。
1986年の時点では、[[鶴見六百|氷水芋吉]]が『[[ゲーマガ|Beep]]』5月号の記事の中で、「スカ・ソフト」という表現を使っている。[[堀井雄二]]は『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』10月号で、「カスゲーム」という言葉を使っている。この時点では「(罵倒語)ソフト(又はゲーム)」という表現には、未だ定まったものがなかったようである<ref name="denfami"/>。その中で「クソゲー」が突出して広まった1つの手がかりになりそうなのが、1987年末に発行された、商業出版でのビデオゲーム関連用語集の草分け『[[新明解ナム語辞典]]』である。ここでは「クソゲー」について、「しょーもないゲームのこと。これは南青山あたりから発生した語であるが、類語として「ダメソフト」「お買い損ソフト」など、その他地方地方によってさまざまな言い回しがある。」と解説している{{efn2|ただし、この本は辞書形式ではあるが、著者の西島孝徳のコラム集としての側面が強いため、あくまで解説の内容は西島の個人的な印象とみられる<ref name="denfami"/>。}}。
南青山はその当時に[[アスキー (企業)|アスキー]]が所在していた地区であり、『[[ファミコン通信]]』1986年12月12日号「ファミ通町内会」の中の、「ゲーム用語の基礎知識」に「くそゲー」の項目があり、以下のように解説されている。{{quotation|青少年諸君は、あんまり使ってはいけないことば。一般に、目を蓋いたくなるようなゲームをさして使用する。(例、「おまえ、あんなくそゲー買っちゃったの?」)。しつこいようだが、青少年諸君は使ってはいけない。<ref name="denfami"/>}}さらに翌1987年の2月6日号では、[[荒井清和]]の人気漫画『[[べーしっ君]]』に、「あらやだ とってもつまらないわこのゲーム…… こういうのをクソゲーっていうのね」というセリフが登場している。主人公の母親のセリフであり、ゲーム用語の基礎知識とも矛盾しておらず、子供たちの間で「クソゲー」という言葉の存在を広める上で、かなり大きな役割を果たしたとも言われる<ref name="denfami"/>。
またこれ以前に、1985年5月ごろからほぼ1年間にわたり、[[ナムコ]]のファミコンソフトのテレビCMで「クーソーは、頭のコヤシです。」、「クーソーしてから、寝てください。」という[[眞木準]]によるキャッチコピーが繰り返し流れ、子どもたちの間でも話題を呼んでいた。「糞」をポジティヴな内容に転換したこのCMを更に逆転させ、そこから生まれる面白さが「クソゲー」の広まりを後押しした可能性もあるとされている<ref name="denfami"/>。
「クソゲー」という言葉に対しみうらじゅんが果たした役割の1つに、それまでの「(罵倒語)ソフト(ゲーム)」という表現が、怒りや嘲りの発露として使われていたのに対し、ユーモアも含めてそれだけではない思いも表し、よりカジュアルな言葉として広めたことにあるともされる<ref name="denfami"/>。
== 具体例と理由 ==
ゲーム作品がクソゲーと呼ばれる理由はプレイヤーの事情や感性によって異なるため一概に断定することはできないが、基本的には「プレイヤーが投じた金銭や時間に、面白さがまったく見合わないビデオゲーム」がクソゲーであるとされる<ref name="denfami"/>。
具体例としては「難しすぎて、やる気がなくなってしまうゲーム」「ゲームシナリオや設定が悪く、一貫性に欠ける」「安易な[[キャラクターゲーム]]」<ref name="exmax">『EX MAX!』2008年6月号 P113〜116</ref>などが挙げられている。
ごく稀に、「完成度が極めて低い」ゲームソフトが市場に流通することがあり、これらは「最低なゲーム」であるとしてクソゲーと認定されることがある。一例としては、レースゲームでありながら敵の車が動かないという致命的なゲーム性の破綻など様々な欠陥を抱え、レビューサイトで評価が軒並み最低点を記録、または最低点をつけることさえ放棄された『[[Big Rigs]]』が挙げられる。2009年に[[ジャレコ]]が発売した[[Wii]]用ソフト『[[黄金の絆]]』は、社長(当時)の加藤貴康が、開発スタッフの制作体制に端を発する完成度の低さに苦言を呈し「クソゲー」と評価した。
[[ギャグ]]要素の強いゲームでは、発売元が「クソゲー」を自称する例もある。
* [[電気グルーヴ]]がプロデュースした[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]ソフト『[[グルーヴ地獄V]]』およびその続編の[[PlayStation Portable]]ソフト『[[バイトヘル2000]]』は、ジャンルを「クソゲー」と自称している。従ってレビューの点が低いほど高評価になる。
* [[ゲームボーイアドバンス]]ソフト『[[絶体絶命でんぢゃらすじーさん 〜史上最強の土下座〜]]』は雑誌広告などで、おかしなシナリオやプレイスタイル(決定キーがRボタン〈大抵の作品はAボタンが決定キーとして用いられるため〉、物語の目的を無視したクリアが可能など)から「クソゲー」を自称している。
== 他の呼称 ==
[[1995年]]当時[[任天堂]]社長だった[[山内溥]]は、面白くも楽しくもないソフトは「ダメソフト」と表現した<ref>1995年[[11月24日]]、第7回[[初心会]]ソフト展示会における講演での発言(『ファミコン通信』1995年[[12月22日]]号。[[平林久和]]、[[赤尾晃一]]『ゲームの大學』[[メディアファクトリー]]、[[1996年]]、p203)</ref>が、これは任天堂の厳しいコンテンツ管理の観点から出てきた言葉といえ、ユーザーの間に広まっているクソゲーの認識とは必ずしも対象が一致せず、あまり普及もしていない(『[[メイド イン ワリオ]]』のワード系プチゲームの選択肢にこの言葉が出てくる)。
また、設定や世界観やゲームシステムなど、どこかが普通とは違っておかしいゲームを「バカゲー」、素人でもすぐに全クリ出来てしまう程ゲームの[[難易度]]が著しく低くなってしまったゲームは「ヌルゲー」{{Efn2|手ぬるいゲーム、または湯の温度がぬるいようにきつくないゲーム、転じてこの難易度しかクリアーできない下手なゲーマー(ヌルいゲーマー)を指す場合もある<ref>山猫有限会社編、『ごくらくゲームワード』、光栄、pp.76-77,p.173, 1993. ISBN 4-87719-033-3</ref>。[[乳幼児]]向けに作られた[[PCエンジン]]版の『[[にこにこぷん]]』([[HuCARD]])などは、4歳までを対象とした[[日本放送協会|NHK]]最古の[[子供番組]]「[[おかあさんといっしょ]]」の[[着ぐるみ|マスクプレイ]][[人形劇]]を[[原作]]とした[[キャラクターゲーム]]ということもあり、わざとヌルゲーレベルの難易度で作られていることもある。}}、逆にクリア条件が厳格で初見ではまず攻略できないようなもの、[[コンピュータRPG|RPG]]でないにもかかわらず学習で判明した特定の手順を毎回再現しないとステージなどがクリアできないデザインのゲームは、「[[覚えゲー]]」とも呼ばれる<ref>山猫有限会社編、『ごくらくゲームワード』、光栄、p.116,p.170, 1993. ISBN 4-87719-033-3</ref>。また、極端に難しく一見して攻略できないような場合は「無理ゲー」とも呼ばれる。これらのゲームも品質が低い、あるいは一般向けのゲームではないと見なされる場合が多い。
他には、クソゲーを監視・評価・コメントする人を「クソゲイザー」(クソゲー+gazer)と呼ぶ人もおり{{要出典|date=2020年12月}}、SNSや動画サイトなど{{どこ|date=2020年12月}}の著しい普及を背景に近年{{いつ|date=2020年12月}}
そのような人{{誰2|date=2020年12月}}が増加傾向{{要出典|date=2020年12月}}にある。
==著名なクソゲー作品==
ここでは具体例として、ゲームハード毎に5~10作品ほどを厳選して、著名なクソゲーのみを列挙するものとする。
<!--● 本ページにおいて出典をつけるか、リンク先の記事ページの出典で確認できるようにしてください。-->
<!--● 作品数を厳選する際には、出典数の多いものや、ランキングで上位のものを優先してください。-->
===ファミコン===
*『[[たけしの挑戦状]]』<ref>https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2210/29/news044.html</ref>
*『[[スペランカー]]』<ref>https://www.inside-games.jp/article/2020/08/23/129329.html</ref>
*『[[いっき]]』<ref>https://www.4gamer.net/games/650/G065049/20230215053/</ref>
*『[[トランスフォーマー コンボイの謎]]』
*『[[バンゲリングベイ]]』<ref>マイウェイ出版『ファミコンクソゲー番付』2017年1月25日、p21</ref>
===セガサターン===
*『[[デスクリムゾン]]』<ref>『超クソゲー(2)』、p.202。</ref>
=== プレイステーション2 ===
* 『[[四八(仮)]]』<ref>{{Cite web|和書|title=「クソゲー・オブ・ザ・イヤー」を一変させた『四八(仮)』ショックとはなんだったのか? “テキストの量的分析”からクソゲーの定義とレビューの変容を見る |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200327z |website=電ファミニコゲーマー – ゲームの面白い記事読んでみない? |date=2020-03-27 |access-date=2023-08-15 |language=ja |last=shuuji_ishimoto}}</ref>
=== Wii ===
* 『[[メジャーWii パーフェクトクローザー]]』<ref>{{Cite web|和書|title=名高いクソゲー『メジャー パーフェクトクローザー』RTAに爆笑!「ランナーを出すとフリーズ」「よくある外野ゴロ」…? |url=https://www.inside-games.jp/article/2021/08/14/133831.html |website= |access-date=2023-08-15 |language=ja}}</ref>
=== Xbox 360 ===
* 『[[ジャンライン]]』<ref>{{Citation|title=ルールが崩壊している超次元麻雀ゲーム【ジャンライン雀】※麻雀分からなくても楽しめます|url=https://www.youtube.com/watch?v=wWVIv2pyHa0|language=ja-JP|access-date=2023-08-15}}</ref>
===スマートフォンゲーム===
*『[[飛べゴリラ]]』
== クソゲーを扱った作品・番組 ==
; 書籍
:* {{cite|和書|author1=阿部広樹|author2=箭本進一|title=超クソゲー|publisher=[[太田出版]]|date=1998-4-2|isbn=978-4872333831}}
:* {{cite|和書|author1=電子計算機応用遊興柔物研究会|title=クソゲー白書|publisher=[[夏目書房]]|date=1998-5|pages=|isbn=978-4931391383}}
:* {{cite|和書|author1=箭本進一|author2=阿部広樹|author3=[[多根清史]]|title=超クソゲー2|publisher=太田出版|date=2000-4-2|pages=|isbn=978-4872335149}}
:* {{cite|和書|author=阿部広樹|title=企画屋稼業 超クソゲー外伝|publisher=太田出版|date=2000-11-21|pages=|isbn=978-4872335477}}
:* {{cite|和書|author1=箭本進一|author2=多根清史|author=阿部 広樹|title=超クソゲーremix|publisher=太田出版|date=2003-6-6|pages=|isbn=978-4872337587}}
:* {{cite|和書|author1=多根清史|author2=箭本進一|author3=阿部 広樹|title=超クソゲーrevolutions|publisher=太田出版|date=2003-10-10|pages=|isbn=978-4872337839}}
:* {{cite|和書|author1=阿部広樹|author2=箭本進一|author3=多根清史|title=超クソゲー1+2|publisher=太田出版|date=2011-9-13|pages=|isbn=978-4778312749}}
:* {{cite|和書|author1=多根清史|author2=阿部広樹|author3=箭本進一|title=超クソゲー3|publisher=太田出版|date=2011-10-5|pages=|isbn=978-4778312756}}
:* {{cite|和書|author1=多根清史|author2=阿部広樹|author3=箭本進一|title=超クソゲーVR|publisher=太田出版|date=2016-9-15|pages=|isbn=978-4778315412}}
:* {{cite|和書|author1= |title=ファミコンクソゲー番付|publisher=[[マイウェイ出版]]|date=2016-12-15|isbn=978-4865116373}}
; 漫画
:* 『[[クソゲー戦記]]』([[渡辺電機(株)]])
:* 『[[クソゲー星人]]』(渡辺電機(株))
:* 『[[進め!!聖学電脳研究部]]』([[平野耕太]])
; ライトノベル
:* はじめてのクソゲー([[麻宮楓]])
:* [[クソゲーって言うな!]](おもちさん)
; DVD
:* 超クソゲー([[トップ・マーシャル]])
; 番組
:* [[伝説のクソゲー大決戦|伝説のクソゲー大決戦〜今甦る!記憶に残る迷作たち〜]]([[MONDO TV]])
:* [[伝説のクソゲー大決戦#新・伝説のクソゲー大決戦|新・伝説のクソゲー大決戦〜今甦る!記憶に残る迷作たち〜(MONDO TV)]]
== 受容 ==
[[ボストン]]にて開催された[[ペニー・アーケード・エキスポ|PAX EAST 2017]]ではHeidi Kempsによって“Kusoge! More of Japan’s Awesomely Awful Videogames”として、実演付きでクソゲーの定義や紹介を行うイベントが行われた<ref>{{Cite web2|df=ja|website=ファミ通.com|publisher=KADOKAWA Game Linkage|title=「Oh, What a Kusoge!!」日本の名だたるクソゲーを紹介する企画にアメリカのハードコアゲーマーたちが熱狂した夜【PAX EAST 2017】|url=https://www.famitsu.com/news/201703/11128780.html|date=2017-03-11|accessdate=2021-01-11|archivedate=2021-01-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210111133829/https://www.famitsu.com/news/201703/11128780.html|url-status=live}}</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[バカゲー]] - クソゲーとよく比較されやすい。
* [[アタリショック]] - [[1983年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のテレビゲーム機「[[Atari 2600]]」向けゲームタイトル『[[E.T. (アタリ2600)|E.T.]]』がクソゲー故の売上絶不調を境として起きたゲーム市場における空前の縮退現象。その一因として低品質ゲームソフトの粗製濫造があったと言われている。
* [[クソゲーオブザイヤー]] - [[2ちゃんねる]]において決められる年に一度のクソゲーの総評。
* [[KUSO文化]] - クソゲーが名前の由来。
* [[The Angry Video Game Nerd]] - 昔のクソゲーをレビューするYouTubeの動画。
* [[ビットワールド]] - [[NHK Eテレ]]の視聴者参加型番組。『クソゲー』のアイデアを随時募集しており、採用されたものは実際にブラウザゲームとして公式サイトに公開されている。
* [[ワゴンセール]] - 店舗がクソゲーを売りさばく手段としてよく用いられる。
== 外部リンク ==
* [https://itunes.apple.com/podcast/hobo-ri-kanitoi-xin-wen-podcast/id76012184?mt=2 じゅんの恩返し「ファミコン」] - ほぼ日刊イトイ新聞 Podcast(みうらがクソゲーに言及している)
{{コンピュータゲームのジャンル}}
{{DEFAULTSORT:くそけえ}}
[[Category:コンピュータゲームのジャンル]]
[[Category:コンピュータゲーム用語]]
[[Category:みうらじゅん]] | 2003-02-15T11:11:41Z | 2023-12-08T09:01:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%B2%E3%83%BC |
1,768 | イタチョコシステム | イタチョコシステムは、ラショウの営むソフトハウス。1994年に設立。神戸市中央区に本拠を置く。ゲームの音楽については、大槻由紀子(名義は「Y.オーツキ」)が1998年まで担当していた。
上記の第五作までが2004年にWindowsに移植された。
2020年3月24日現在 販売中のタイトル(販売:株式会社ピグミースタジオ)
直営店。ゲームやグッズを販売している。不定期営業。
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] | イタチョコシステムは、ラショウの営むソフトハウス。1994年に設立。神戸市中央区に本拠を置く。ゲームの音楽については、大槻由紀子(名義は「Y.オーツキ」)が1998年まで担当していた。 | {{複数の問題
|一次資料 = 2015年5月
|特筆性 = 2015年5月|分野 = 組織
|宣伝 = 2015年5月
|= 2015年10月
}}
'''イタチョコシステム'''は、[[ラショウ]]の営む[[ソフトハウス]]。[[1994年]]に設立。[[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]に本拠を置く。ゲームの音楽については、[[大槻由紀子]](名義は「Y.オーツキ」)が1998年まで担当していた。
==ヘナチョコゲーム==
;第一作 ヘナチョコタービー
:[[Macintosh]]初の競馬ゲームとして発売。いろいろな馬の血を混ぜて自分だけの馬を作り、競馬をするというゲームである。通販を行ったが、全然売れなかったらしい。
;第二作 サイテイバード
:[[鵜飼い]]のゲーム。何の知識もないまま開発に入ったため、「そもそも鵜飼いってなんだ?」ということすら分からず、図書館に通いつめだったらしい。通販も行ったが全然売れず、イタチョコは一時経営危機に陥った。
;第三作 難しい本を読むと眠くなる
:読書の途中でまどろむレディを操作して小人と遊ぶゲーム。
;第四作 あの素晴らしい弁当を2度3度
:お弁当屋さんシミュレーションゲーム。プレイヤーは弁当屋となり、弁当のメニューを考えて販売し、経営を行う。経営危機で日々の食費にまで困っていたとき思いついたらしい。やや売れて小ヒットとなった。このゲームからイタチョコは自主通販から一般流通へと販売方法を転換した。
;第五作 野犬ロデム
:野良犬シミュレーションゲーム。[[公園]]に捨てられた犬「ロデム」を操り、小自然に立ち向かう。ロデムは寒さや外敵に弱くすぐ死んでしまう。自由度の高さが売りで、パッケージの惹句に「異常なほどの自由度!」と書かれていた。「あの素晴らしい弁当を2度3度」に次ぐヒットとなった。
上記の第五作までが2004年に[[Microsoft Windows|Windows]]に移植された。
;''第六作 蒸し蒸しチキンそり旅行''
:第五作に登場したロデムたちの引くそりに乗って極点を目指す。[[Macworld - iWorld|マックワールドエクスポ]]に出展するために製作されたが間に合わなかった。
;第七作 うそつきと私
:ガキ大将シミュレーションゲーム。転校してきた「私」が仲間と共に数々の敵に立ち向かう。全五話。ラショウが以前製作した『[[ボコスカウォーズ]]』が元となったらしい。
;第八作 おませなおませな屋台大作戦
:世界初の屋台料理シミュレーション。「あの素晴らしい弁当を2度3度」と「野犬ロデム」を無理矢理合体させた物。ロデムを捨てたババビールが屋台を経営し、[[ペットショップ]]に入ってしまったロデムを買い戻そうとするストーリーである。
;''第九作 ニセミジンコのうそひみつ''
:第9作目記念作品。飼育ゲームを目指して開発を始めたが、全く違うゲームになってしまった。1996年のマックワールドエクスポに出展するために製作されたが、これも間に合わなかった。
;''第十作 私の傘のアメツチは''
:未発売。最も時間と費用をかけたゲームだったらしい。
;第十一作 スロプロウエスタン
:開拓者となり、荒野の画面を開拓していく。簡単なゲームを目指したはずだったが、本ソフトハウスのゲームの中でも最も難解なゲームになってしまったらしい。
;第十二作 ラーメンスペシャル
:「あの素晴らしい弁当を2度3度」の具をラーメンに変えたゲーム。
;第十三作 ロデムッチ
:『野犬ロデム』の続編。前作ではすぐ死んでしまうロデムが、多少死ににくくなり、植物や動物の種類も増え、植物が犬に寄生するなどイベントも豊富となった。
;ワレ、ウマソウニ見エズ
:炒め物作成ゲーム。大衆型、学生型、労働者型、迫り来る様々な「定食屋使徒」を、炒めゲリオンを作って撃退する。
;ワインはワイ
:ワイン作りゲーム。ワイン作りやそのおいしさを視覚的象徴的な世界にたとえ、歴史巻物としてワインラベルを創世する。
;イタチョコの野望
:熾烈なPC販売競争をモチーフとしたゲーム。
;''プレステ版 あの素晴らしい弁当を2度3度''
:「あの素晴らしい弁当を2度3度」を[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]に移植しようとしたものの、1998年12月開発中止が発表された。
;ジャングルと私
:『うそつきと私』第一話の改造ゲーム。「ホットシート」形式で対戦プレイができる。1996年のマックワールドエクスポで合言葉を言えば購入できたらしい。その後、グッズ店でも販売された。次回作は『エジプトと私』となっている。
;ギャラクレヤン
:他のゲーム発売が遅れた時に出されたおわびゲーム。給料を奪いに襲来するボランティアオーツキを、ラショウがラショウカップを投げて倒す。全9面。他にもイタチョコに関わる人や物が多数登場する。
;インゼイクレヤン
:CD『ニセゲームミュージックのうそひみつ』に収録されている、『ギャラクレヤン』のパロディゲーム。CDの印税を狙うラショウをオーツキがCDを投げて撃退する。
;''ボコスカヘッズ''
:イタチョコ初のCGIを利用した[[MMORPG]]の要素のあるネットゲーム。舞台はイタンデリアとチョコフォーレ。世界観は[[ボコスカウォーズ]]を基にしている。普通のMMORPGでは普通にみられるモブ(いわゆる「雑魚敵」の事)はほとんど存在せず、原則として鍛錬のみでキャラクターの能力値を上げる。基本的に戦う、争うよりも語るのがメインである。原因不明のバグが発生し、復旧のため一時休止宣言を行ったが、復旧の目処が立たないまま、2001年の夏に終了宣言。
;ネコリス
:多人数乱入参加型の落ち物パズルのようなCGIを利用したゲーム。ネコ+[[テトリス]]から名前が付けられたと思われ、[[笹木竹丸]]の『ネコリスちゃん』および[[芝村裕吏]]が創作した無名世界観にでてくるUMAである「01ネコリス」とは無関係である。また、Team Dyquem!がiPhone向けに配信しているパズルゲーム「ネコりす」とは全くといっていいほどゲームシステムが異なる。ゲームシステムとしてはテトリスよりも、[[メテオス]]のような降り方のブロックと横移動のみにした[[ヨッシーのクッキー]]を合わせたような感じである。このゲームは、同色をくっつけて消すというものが多い他のパズルゲームとは違い、盤面上に役を作ってブロックを消していく、というシステムを採用している。盤面を1度動かすには「チキン」という物が必要であるが、このチキンを得るには役を作らなければならず、また、チキンを減らすマイナス役も存在するので注意を要する。このマイナス役の存在により、マイナス役によってチキンを失うのを避ける為盤面を動かさなければならないがそれにもやはりチキンが必要となるのでどう転んでもチキンが減ってしまう、といった状況も稀に発生する。また初期チキンの数も決して多いとは言えず、役の作成も易しくない上に、役による獲得チキンも非常に少なく、常に2~3ターン以内で役を作らないとチキン切れによる手詰まりが起きるという状況であり、さらに(降ってきた物によって役が偶然できない限り)チキンを使い切っても確実に役ができないため手詰まりという状況も頻発するため、ゲームとして成り立っていない難易度といえる。
;南ソーイング里ミシン発見伝
:初の[[macOS|Mac OS X]]ゲーム。2007年12月末リリース。[[ミシン]]を踏んで美しい布を作り依頼主に買い取って貰う。「ミシン犬士」を集めることでさらに美しい布が作れるようになる。『[[南総里見八犬伝]]』にちなみ[[怨霊]]玉梓ならぬラショズサが登場する。
;Wine(ワイン)はY
:旧作のリメイク版。曰く、「ワイン作りのすてきなぼうとくゲーム」。
; 野犬のロデム
: 『野犬ロデム』に新機能を加えたリメイク版。2014年に[[PlayStation Mobile]]でリリースされたのち<ref>{{Cite web|和書|date=2014-07-02 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/656038.html |title=あの“野犬”シミュレーションがパワーアップして帰ってきた! 「野犬のロデム」 |website=GAME Watch |accessdate=2018-06-10}}</ref>、2015年にiOS/Android/PS Vitaに移植された。
; 弁当の素晴らしさをあの2度3度
: 2013年にiOS向け移植版が出た『あの素晴らしい弁当を2度3度』に新機能を加えたリメイク版。2016年にiOS/Androidに配信された<ref>{{Cite web|和書|date=2016-07-09 |url=http://dengekionline.com/elem/000/001/230/1230713/ |title=『弁当の素晴らしさをあの2度3度』の魅力とは? ラショウ氏が語るゲーム制作の秘密とイタチョコラショウ |website=電撃オンライン |accessdate=2018-06-10}}</ref>。翌2017年4月には[[生ハムと焼うどん]]とコラボした『'''弁当の素晴しさをあの2度3度~生ハムと焼うどん編'''』(PS Vita/iOS版)が配信されたが<ref>{{Cite web|和書|date=2017-04-12 |url=https://www.famitsu.com/news/201704/12130895.html |title=『弁当の素晴しさをあの2度3度~生ハムと焼うどん編』が配信開始 “常識を覆す(JK)”アイドルユニット“生ハムと焼うどん”が弁当を販売する!? |website=ファミ通.com |accessdate=2018-06-10}}</ref>、同月中に生ハムと焼うどんは活動休止した。
2020年3月24日現在 販売中のタイトル(販売:株式会社ピグミースタジオ)
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! rowspan="2" colspan="2" | タイトル
! colspan="6" | 機種
|-
! PS <BR>Vita !! iOS !! android !! PS4 !! XBox <BR>One !! Switch
|-
|-
| style="text-align:left" colspan="2" | 野犬のロデム || ○ || ○ || ○ || × || × || ×
|-
| style="text-align:left" colspan="2" | 弁当の素晴しさをあの2度3度 || ○ || ○ || × || × || × || ×
|-
|style="text-align:left" | 弁当の素晴しさをあの2度3度 || 生ハムと焼うどん編 || ○ || ○ || × || × || × || ×
|-
| style="text-align:left" colspan="2" | ボコスカウォーズ II || × || × || × || ○ || ○ || ○
|}
== 店舗 ==
直営店。ゲームやグッズを販売している。不定期営業。
=== 現存する店舗 ===
なし
=== 過去の店舗 ===
* イタチョコシステム吉祥寺店
* イタチョコシステム秋葉原店
* イタチョコワールドエキスポ(仮)
* イタレリィ・チョコレリィ(高田馬場)
* テアトルイタチョコ(東池袋、2007年3月閉鎖)
* イタチョコジョウルリグッズカフェ(渋谷、2008年2月29日~3月2日限定オープン)
* むづかしい月(神戸、2011年7月~2014年11月)
* イタゲーセン・チョコシス&テム(神戸、2016年1月~2017年12月)
== CD・DVD ==
=== CD ===
* ニセゲームミュージックのうそひみつ(2001年)
* 比喩の歌
* イタチョコ=ラショウの変な歌
* イタチョコ浄瑠璃曲傑作3曲(其の一)
=== DVD ===
* イタチョコ浄瑠璃DVD「鵺の首」
* イタチョコ浄瑠璃DVD「南ソーイング里ミシン発見伝」
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://difficult.floppy.jp iTA-Choco Systems] - イタチョコシステム公式サイト{{リンク切れ|date=2015年10月}}
* [http://ita.kayamatetsu.com/ イタゲーセン・チョコシス&テム] - 現在の直営店舗のサイト
* [https://www.pentacom.jp/itachoco/ ヘナチョコゲームセレクション for Windows(ペンタコム)]
{{デフォルトソート:いたちよこしすてむ}}
[[Category:日本のソフトウェア会社]]
[[Category:神戸市中央区の企業]] | 2003-02-15T11:16:13Z | 2023-10-08T03:55:42Z | false | false | false | [
"Template:複数の問題",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:リンク切れ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0 |
1,769 | ニュートン力学 | ニュートン力学(、英語: Newtonian mechanics)は、アイザック・ニュートンが、運動の法則を基礎として構築した、力学の体系のことである。 「ニュートン力学」という表現は、アインシュタインの相対性理論、あるいは量子力学などと対比して用いられる。
静止物体に働く力の釣り合いを扱う静力学は、ギリシア時代からの長い年月の積み重ねにより、すでにかなりの知識が蓄積されていた。ニュートン力学の偉大さは、物体の運動について調べる動力学を確立したところにある。
ニュートン力学は古典物理学の不可欠の一角を成している。「絶対時間」と「絶対空間」を前提とした上で、3 つの運動の法則(運動の第1法則、第2法則、第3法則)と、万有引力の法則を代表とする二体間の遠隔作用として働く力を基礎とした体系である。広範の力学現象を演繹的かつ統一的に説明し得る体系となっている。
ニュートン力学は、1687年のニュートン自身による、3巻から成る著作『自然哲学の数学的諸原理』(略称: プリンキピア、Principia)を通して公表された。ニュートン力学の主要な点はすべてこの中に含まれていると言ってもよい。
『プリンキピア』の表現形式は、ユークリッド原論に倣った作図を用いて幾何学的証明を積み上げる方式を採っている。この表現の中には、エルンスト・マッハが指摘したように十分に論理的とは言えない点も含まれており、その後の時代の多くの人々によって整理しなおされ、別の説明方法も与えられている。 今日的な「ニュートン力学」の解説は『プリンキピア』とは様相が異なったものとなっており、大学などで「ニュートン力学」と呼ばれている体系は、これを出発点としつつも多くの人々によって改良された、相対論以前の古典力学の体系と見なすのが適切である。
『プリンキピア』の冒頭部分は質量、運動量、慣性、力などの定義にあてられているが、重さという概念の他に質量という概念を導入したことが画期的だとされている。
なお「ニュートンが万有引力の法則などを発見した」という言い方が一般にされることも多いが、これは誤りである。それまでにシモン・ステヴィン、エドム・マリオット、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラーら先人によって発展してきた物理学をニュートン力学として体系づけたことが最大の功績であり、古典物理学はニュートンによって一旦完了したといえるのである。
ニュートン力学は、物体を「重心に全質量が集中し大きさをもたない質点」とみなし、その質点の運動に関する性質を法則化し、以下の運動の3法則を提唱した。また、これらの法則は、質点とは見なせない物体(剛体、弾性体、流体などの連続体)に対しても基礎となる考え方である。
力学分野における数多くの法則や定理は、基本的には、上の三つの法則から導出されるものである。また、位置ベクトルの時間に対する 2 階の常微分方程式である運動方程式は、ある時刻の位置と運動量(あるいは速度)を与えれば、あらゆる時刻の運動状態が確定する方程式であり、その意味で、ニュートン力学は決定論的であるとされる。
ニュートンの力学は、その後、ダニエル・ベルヌーイ、レオンハルト・オイラー、ピエール・ルイ・モーペルテュイ、ジャン・ル・ロン・ダランベール、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、ピエール=シモン・ラプラス、ガスパール=ギュスターヴ・コリオリらによって、今日的な力学体系の形にまとめ直され、ラグランジュやウィリアム・ローワン・ハミルトンによる解析力学へと発展した。
電磁気学が19世紀に発展した結果、電磁気学とニュートン力学が互いに矛盾することが問題となった。電磁気学における基本方程式であるマクスウェル方程式は、ニュートン力学における運動方程式と異なり、ガリレイ変換に対する不変性を持たず、慣性系によらず電磁気学の法則が成り立つならばそれは相対性原理を修正することになる。逆に、ニュートン力学とガリレイの相対性原理が正しいならば、マクスウェル方程式は一般の慣性系では成り立たず、電磁気学を修正する必要がある。 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ハインリッヒ・ヘルツ、ジョージ・フィッツジェラルド、ヘンドリック・ローレンツ、アルベルト・アインシュタインらの仕事によって、マクスウェルの理論の正当性が検証され、ニュートン力学は修正されることになる。 修正された新しい力学は特殊相対性理論と呼ばれ、ガリレイの相対性原理ではなくアインシュタインの相対性原理を基礎とし、ローレンツ変換に対して普遍な力学である。
その後に発展した一般相対性理論までの完成された力学は「古典力学」と呼ばれ、1920年代に成立した量子力学と区別される。 量子力学では局所実在論が成立せず、その意味でニュートン力学などの古典論とは決定的に異なっている。
ニュートン力学はラグランジュ形式やハミルトン形式で再定式化された。これらは、ニュートンの運動法則を座標系の取り方によらずに一般的に成立するように構成されたもので、ラグランジュ形式では、最小作用の原理(変分原理)からニュートンの運動方程式を再現する。ハミルトン形式では、正準変数とポアソン括弧を用いることにより、ニュートンの運動方程式に対応する正準方程式を対称な形で表現することができる。
現代の物理学の視点では、ニュートン力学は、「巨視的なスケールで、かつ光速よりも十分遅い速さの運動を扱う際の、無矛盾・完結的な近似理論」と理解される。
相対性理論は、物体の速さが光速よりも十分遅い・重力が十分に小さい(地球レベル)の条件下ではニュートン力学で十分近似されるし、量子力学の結果は、対象物体の質量を大きくした極限では、ニュートン力学の運動方程式の解と一致する。例えば、人工衛星や惑星探査までを含む宇宙航行の運動の予測を行う際には、ニュートン力学を用いて十分な精度で計算できる場合が多い。 | [
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"text": "ニュートン力学(、英語: Newtonian mechanics)は、アイザック・ニュートンが、運動の法則を基礎として構築した、力学の体系のことである。 「ニュートン力学」という表現は、アインシュタインの相対性理論、あるいは量子力学などと対比して用いられる。",
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"text": "静止物体に働く力の釣り合いを扱う静力学は、ギリシア時代からの長い年月の積み重ねにより、すでにかなりの知識が蓄積されていた。ニュートン力学の偉大さは、物体の運動について調べる動力学を確立したところにある。",
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"text": "ニュートン力学は古典物理学の不可欠の一角を成している。「絶対時間」と「絶対空間」を前提とした上で、3 つの運動の法則(運動の第1法則、第2法則、第3法則)と、万有引力の法則を代表とする二体間の遠隔作用として働く力を基礎とした体系である。広範の力学現象を演繹的かつ統一的に説明し得る体系となっている。",
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"text": "ニュートン力学は、1687年のニュートン自身による、3巻から成る著作『自然哲学の数学的諸原理』(略称: プリンキピア、Principia)を通して公表された。ニュートン力学の主要な点はすべてこの中に含まれていると言ってもよい。",
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"text": "『プリンキピア』の表現形式は、ユークリッド原論に倣った作図を用いて幾何学的証明を積み上げる方式を採っている。この表現の中には、エルンスト・マッハが指摘したように十分に論理的とは言えない点も含まれており、その後の時代の多くの人々によって整理しなおされ、別の説明方法も与えられている。 今日的な「ニュートン力学」の解説は『プリンキピア』とは様相が異なったものとなっており、大学などで「ニュートン力学」と呼ばれている体系は、これを出発点としつつも多くの人々によって改良された、相対論以前の古典力学の体系と見なすのが適切である。",
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"text": "なお「ニュートンが万有引力の法則などを発見した」という言い方が一般にされることも多いが、これは誤りである。それまでにシモン・ステヴィン、エドム・マリオット、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラーら先人によって発展してきた物理学をニュートン力学として体系づけたことが最大の功績であり、古典物理学はニュートンによって一旦完了したといえるのである。",
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"text": "力学分野における数多くの法則や定理は、基本的には、上の三つの法則から導出されるものである。また、位置ベクトルの時間に対する 2 階の常微分方程式である運動方程式は、ある時刻の位置と運動量(あるいは速度)を与えれば、あらゆる時刻の運動状態が確定する方程式であり、その意味で、ニュートン力学は決定論的であるとされる。",
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"text": "ニュートンの力学は、その後、ダニエル・ベルヌーイ、レオンハルト・オイラー、ピエール・ルイ・モーペルテュイ、ジャン・ル・ロン・ダランベール、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、ピエール=シモン・ラプラス、ガスパール=ギュスターヴ・コリオリらによって、今日的な力学体系の形にまとめ直され、ラグランジュやウィリアム・ローワン・ハミルトンによる解析力学へと発展した。",
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"text": "電磁気学が19世紀に発展した結果、電磁気学とニュートン力学が互いに矛盾することが問題となった。電磁気学における基本方程式であるマクスウェル方程式は、ニュートン力学における運動方程式と異なり、ガリレイ変換に対する不変性を持たず、慣性系によらず電磁気学の法則が成り立つならばそれは相対性原理を修正することになる。逆に、ニュートン力学とガリレイの相対性原理が正しいならば、マクスウェル方程式は一般の慣性系では成り立たず、電磁気学を修正する必要がある。 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ハインリッヒ・ヘルツ、ジョージ・フィッツジェラルド、ヘンドリック・ローレンツ、アルベルト・アインシュタインらの仕事によって、マクスウェルの理論の正当性が検証され、ニュートン力学は修正されることになる。 修正された新しい力学は特殊相対性理論と呼ばれ、ガリレイの相対性原理ではなくアインシュタインの相対性原理を基礎とし、ローレンツ変換に対して普遍な力学である。",
"title": "継承と発展"
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"text": "その後に発展した一般相対性理論までの完成された力学は「古典力学」と呼ばれ、1920年代に成立した量子力学と区別される。 量子力学では局所実在論が成立せず、その意味でニュートン力学などの古典論とは決定的に異なっている。",
"title": "継承と発展"
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"text": "ニュートン力学はラグランジュ形式やハミルトン形式で再定式化された。これらは、ニュートンの運動法則を座標系の取り方によらずに一般的に成立するように構成されたもので、ラグランジュ形式では、最小作用の原理(変分原理)からニュートンの運動方程式を再現する。ハミルトン形式では、正準変数とポアソン括弧を用いることにより、ニュートンの運動方程式に対応する正準方程式を対称な形で表現することができる。",
"title": "継承と発展"
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"text": "現代の物理学の視点では、ニュートン力学は、「巨視的なスケールで、かつ光速よりも十分遅い速さの運動を扱う際の、無矛盾・完結的な近似理論」と理解される。",
"title": "現代物理学での位置付け"
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"text": "相対性理論は、物体の速さが光速よりも十分遅い・重力が十分に小さい(地球レベル)の条件下ではニュートン力学で十分近似されるし、量子力学の結果は、対象物体の質量を大きくした極限では、ニュートン力学の運動方程式の解と一致する。例えば、人工衛星や惑星探査までを含む宇宙航行の運動の予測を行う際には、ニュートン力学を用いて十分な精度で計算できる場合が多い。",
"title": "現代物理学での位置付け"
}
] | ニュートン力学(ニュートンりきがく、は、アイザック・ニュートンが、運動の法則を基礎として構築した、力学の体系のことである。
「ニュートン力学」という表現は、アインシュタインの相対性理論、あるいは量子力学などと対比して用いられる。 | {{古典力学}}[[File:Newton-Principia-Mathematica 1-500x700.jpg|thumb|right|180px|『自然哲学の数学的諸原理』初版]]
{{読み仮名|'''ニュートン力学'''|ニュートンりきがく|{{Lang-en|Newtonian mechanics}}}}は、[[アイザック・ニュートン]]が、運動の法則を基礎として構築した、[[力学]]の体系のことである<ref name="bj">[[#physdict|『改訂版 物理学辞典』培風館]]。</ref>。「ニュートン力学」という表現は、アインシュタインの[[相対性理論]]、あるいは[[量子力学]]などと対比して用いられる<ref name="bj" />。
== 概要 ==
静止物体に働く'''[[力 (物理学)|力]]の釣り合い'''を扱う'''[[静力学]]'''は、[[古代ギリシア]]からの長い年月の積み重ねにより、すでにかなりの知識が蓄積されていた<ref name="bj" />。ニュートン力学の偉大さは、物体の[[運動 (物理学)|運動]]について調べる[[動力学]]を確立したところにある<ref name="bj" />。
ニュートン力学は[[古典物理学]]の不可欠の一角を成している。[[絶対時間と絶対空間]]を前提とした上で、3 つの運動の法則([[運動の第1法則]]、[[運動の第2法則|第2法則]]、[[運動の第3法則|第3法則]])と、[[万有引力]]の法則を代表とする二体間の[[遠隔作用]]として働く[[力 (物理学)|力]]を基礎とした体系である。広範の力学現象を演繹的かつ統一的に説明し得る体系となっている。
[[File:Principia1846-513.png|thumb|right|228px|Principia1846-513、 落体運動と周回運動の統一的な見方が示されている.]]
ニュートン力学は、1687年のニュートン自身による、3巻から成る著作『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(略称: プリンキピア、''{{lang|lat|Principia}}'')を通して公表された<ref name="bj" />。ニュートン力学の主要な点はすべてこの中に含まれていると言ってもよい<ref name="bj" />。
『プリンキピア』の表現形式は、[[ユークリッド原論]]に倣った作図を用いて[[幾何学]]的証明を積み上げる方式を採っている。この表現の中には、[[エルンスト・マッハ]]が指摘したように十分に論理的とは言えない点も含まれており、その後の時代の多くの人々によって整理しなおされ、別の説明方法も与えられている<ref name="bj" />。
今日的な「ニュートン力学」の解説は『プリンキピア』とは様相が異なったものとなっており、[[大学]]などで「ニュートン力学」と呼ばれている体系は、これを出発点としつつも多くの人々によって改良された、[[相対性理論|相対論]]以前の古典力学の体系と見なすのが適切である。
『プリンキピア』の冒頭部分は'''[[質量]]'''、'''[[運動量]]'''、'''[[慣性]]'''、'''[[力 (物理学)|力]]'''などの定義にあてられているが<ref>[[#principia|Newton (1729)]] pp. 1–7, ''Definitions'' . </ref>、'''[[重さ]]'''という概念の他に'''質量'''という概念を導入したことが画期的だとされている<ref name="bj" />。
なお「ニュートンが万有引力の法則などを発見した」という言い方が一般にされることも多いが、これは誤りである。それまでに[[シモン・ステヴィン]]、[[エドム・マリオット]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]、[[ヨハネス・ケプラー]]ら先人によって発展してきた物理学をニュートン力学として体系づけたことが最大の功績であり、古典物理学はニュートンによって一旦完了したといえるのである。
=== 質点に関する運動の法則 ===
[[File:Newtons laws in latin.jpg|thumb|right|180px|[[自然哲学の数学的諸原理|プリンキピア]]内の第一法則と第二法則が書かれているページ(1687年版)]]
ニュートン力学は、物体を「[[重心]]に全[[質量]]が集中し大きさをもたない[[質点]]」とみなし、その質点の運動に関する性質を法則化し、以下の運動の3法則を提唱した<ref>[[#matsuda|松田哲 (1993)]] pp. 17-24。</ref><ref group="注釈">[[#yamamoto|山本義隆 (1997)]] p.189 で述べられているように、このような現代的な表記と体系構築は主に[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]によって与えられた。</ref>。また、これらの法則は、質点とは見なせない物体([[剛体]]、[[弾性]]体、[[流体]]などの連続体)に対しても基礎となる考え方である<ref>[[#sunagawa|砂川重信 (1993)]] 8 章。</ref><ref>[[#hara|原康夫 (1988)]] 6-9 章。</ref>。
; [[運動の第1法則|第1法則]]([[慣性]]の法則)
: 質点は、[[力 (物理学)|力]]が作用しない限り、静止または等速直線運動する(これを満たすような座標系を用いて、運動法則を記述する)<ref>[[#principia|Newton (1729)]] p. 19, ''Axioms or Laws of Motion'' . "''Every body perseveres in its state of rest, or of uniform motion in a right line, unless it is compelled to change that state by forces impress'd thereon'' ".</ref><ref group="注釈">[[#sunagawa|砂川重信 (1993)]] p. 9 で述べられているように、この法則は[[慣性系]]の宣言を果たす意味をもつため、第 2 法則とは独立に設置される必要がある。</ref>。
; [[運動の第2法則|第2法則]]([[ニュートンの運動方程式]])
: 質点の[[加速度]] <math>{\vec{a}}</math> は、そのとき質点に作用する[[力 (物理学)|力]] <math>{\vec{F}}</math> に比例し、質点の[[質量]] <math>{m}</math> に反比例する<ref>[[#principia|Newton (1729)]] p. 19, ''Axioms or Laws of Motion'' . "''The alteration of motion is ever proportional to the motive force impress'd; and is made in the direction of the right line in which that force is impress'd'' ".</ref><ref group="注釈">この定義は比例(反比例)関係しか示されないが、結果的に比例係数が 1 となる単位系が設定され方程式となる。[[#berkeley|『バークレー物理学コース 力学 上』]] pp. 71-72、[[#horiguchi|堀口剛 (2011)]]。</ref><ref group="注釈">[[#hyodo|兵頭俊夫 (2001)]] p. 15 で述べられているように、この原型がニュートンにより初めてもたらされた着想である。</ref>。
: <math>\vec{a} = \frac{\vec F}{m}\,.</math>
; [[運動の第3法則|第3法則]](作用・反作用の法則)<ref>[[#principia|Newton (1729)]] p. 20, ''Axioms or Laws of Motion'' . "''To every Action there is always opposed an equal Reaction: or the mutual actions of two bodies upon each other are always equal, and directed to contrary parts'' ".</ref><ref group="注釈">[[エルンスト・マッハ]]によれば、この第3法則は、[[質量]]の定義づけを補完する重要な役割をもつ([[#machja|エルンスト・マッハ (1969)]])。</ref><ref group="注釈">ポアンカレも質量の定義を補完する役割について述べている。([[#poincare|ポアンカレ(1902)]])p.129-130に「われわれは質量とは何かということを知らないからである。(中略)これを満足なものにするには、ニュートンの第三法則(作用と反作用は相等しい)をまた実験的法則としてではなく、定義と見なしてこれに訴えなければならない。」</ref>
: 二つの質点 1, 2 の間に相互に力が働くとき、質点 2 から質点 1 に作用する力 <math>{\vec{F}_{21}}</math> と、質点 1 から質点 2 に作用する力 <math>\vec{F}_{12}</math> は、大きさが等しく、逆向きである。
: <math>\vec{F}_{21} = -\vec{F}_{12}\,.</math>
力学分野における数多くの法則や定理は、基本的には、上の三つの法則から導出されるものである。また、位置ベクトルの時間に対する 2 階の[[常微分方程式]]である[[ニュートンの運動方程式|運動方程式]]は、ある時刻の位置と[[運動量]](あるいは[[速度]])を与えれば、あらゆる時刻の運動状態が確定する方程式であり、その意味で、ニュートン力学は[[決定論]]的であるとされる。
== 継承と発展 ==
ニュートンの力学は、その後、[[ダニエル・ベルヌーイ]]、[[レオンハルト・オイラー]]、[[ピエール・ルイ・モーペルテュイ]]、[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]、[[ピエール=シモン・ラプラス]]、[[ガスパール=ギュスターヴ・コリオリ]]らによって、今日的な力学体系の形にまとめ直され、ラグランジュや[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]による[[解析力学]]へと発展した。
[[電磁気学]]が[[19世紀]]に発展した結果、電磁気学とニュートン力学が互いに矛盾することが問題となった。電磁気学における基本方程式である[[マクスウェル方程式]]は、ニュートン力学における[[ニュートンの運動方程式|運動方程式]]と異なり、[[ガリレイ変換]]に対する[[不変性]]を持たず、[[慣性系]]によらず電磁気学の法則が成り立つならばそれは[[相対性原理]]を修正することになる。逆に、ニュートン力学とガリレイの相対性原理が正しいならば、マクスウェル方程式は一般の慣性系では成り立たず、電磁気学を修正する必要がある。
19世紀末から[[20世紀]]初頭にかけて、[[ハインリッヒ・ヘルツ]]、[[ジョージ・フィッツジェラルド]]、[[ヘンドリック・ローレンツ]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]らの仕事によって、マクスウェルの理論の正当性が検証され、ニュートン力学は修正されることになる。
修正された新しい力学は[[特殊相対性理論]]と呼ばれ、ガリレイの相対性原理ではなくアインシュタインの相対性原理を基礎とし、[[ローレンツ変換]]に対して普遍な力学である。
その後に発展した[[一般相対性理論]]までの完成された力学は「[[古典力学]]」と呼ばれ、[[1920年代]]に成立した[[量子力学]]と区別される。
量子力学では[[局所実在論]]が成立せず、その意味でニュートン力学などの古典論とは決定的に異なっている。
[[File:Newtons cradle animation book.gif|thumb|right|200px|[[ニュートンのゆりかご]]]]
=== 解析力学 ===
{{main|解析力学}}
'''ニュートン力学'''は[[ラグランジュ力学|ラグランジュ形式]]や[[ハミルトン力学|ハミルトン形式]]で再定式化された。これらは、ニュートンの運動法則を座標系の取り方によらずに一般的に成立するように構成されたもので、ラグランジュ形式では、[[最小作用の原理]]([[変分原理]])からニュートンの運動方程式を再現する。ハミルトン形式では、[[正準変数]]と[[ポアソン括弧]]を用いることにより、ニュートンの運動方程式に対応する[[正準方程式]]を対称な形で表現することができる。
== 現代物理学での位置付け ==
現代の物理学の視点では、ニュートン力学は、「巨視的なスケールで、かつ[[光速]]よりも十分遅い[[速さ]]の運動を扱う際の、無矛盾・完結的な近似理論」と理解される。
[[相対性理論]]は、物体の[[速さ]]が光速よりも十分遅い・重力が十分に小さい(地球レベル)の条件下ではニュートン力学で十分[[近似]]されるし、[[量子力学]]の結果は、対象物体の[[質量]]を大きくした極限では、ニュートン力学の運動方程式の解と一致する。例えば、[[人工衛星]]や[[惑星]]探査までを含む宇宙航行の運動の予測を行う際には、ニュートン力学を用いて十分な精度で計算できる場合が多い。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 注釈 ==
{{reflist|group="注釈"}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|editor1=西川哲治|editor2=中嶋貞雄|editor2-link=中嶋貞雄|title=物理学辞典|edition=改訂版縮刷版|publisher=[[培風館]]|page=2480|year=1992|month=11|isbn=4-563-02093-1|ref=physdict}}
*{{Cite book|和書|editor=物理学辞典編集委員会|title=物理学辞典|edition=三訂版|publisher=培風館|page=2688|date=2005-09-30|isbn=4-563-02094-X}}
*{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=Tm0FAAAAQAAJ|author=Isaac Newton|others=[[ジョン・マチン|John Machin]], Andrew Motte (translator) |title=The Mathematical Principles of Natural Philosophy|volume=1|language=English|year=1729|ref=principia}}
*{{Cite book|和書|author=アイザック・ニュートン|authorlink=アイザック・ニュートン|translator=中野猿人|title=プリンシピア―自然哲学の数学的原理|publisher=[[講談社]]|year=1977|isbn=978-4061221390|ref=principiaja1}}
*{{Cite book|和書|author=チャールズ・キッテル|authorlink=チャールズ・キッテル|translator=[[今井功 (物理学者)|今井功]]|title=力学 |series=バークレー物理学コース 1|volume=上|publisher=[[丸善雄松堂|丸善]]|year=1975|isbn=978-4621029749|ref=berkeley}}
*{{Cite book|和書|author=チャールズ・キッテル|translator=[[今井功 (物理学者)|今井功]]|title=力学 |series=バークレー物理学コース 1|volume=下|publisher=丸善|year=1975|isbn=978-4621029664}}
*{{Cite book|和書|author=チャールズ・キッテル|translator=[[今井功 (物理学者)|今井功]]|title=力学 |series=バークレー物理学コース 1|edition=復刻版|publisher=丸善|year=2011|isbn=978-4621083376}}
*{{Cite book|和書|author=エルンスト・マッハ|authorlink=エルンスト・マッハ| |translator=[[伏見譲]]|title=マッハ力学 力学の批判的発展史|publisher=講談社|year=1969|isbn=978-4061236516|ref=machja}}
*{{Cite book|和書|author=砂川重信|authorlink=砂川重信|title=力学の考え方|series=物理の考え方 I|publisher=[[岩波書店]]|year=1993|ref=sunagawa}}
*{{Cite book|和書|author=山本義隆|authorlink=山本義隆|title=古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ|publisher=[[日本評論社]]|year=1997|ref=yamamoto}}
*{{Cite book|和書|author=松田哲|authorlink=松田哲|title=力学|series=パリティ物理学コース|publisher=丸善|isbn=978-4621038499|year=1993|month=8|page=292|ref=matsuda}}
*{{Cite book|和書|author=松田哲|title=力学|series=パリティ物理学コース|publisher=丸善|isbn=978-4621070451|year=2001|month=5|page=277}}
*{{Cite book|和書|author=原康夫|authorlink=原康夫|title=物理学通論|volume=I|publisher=[[学術図書出版社]]|year=1988|isbn=9784873610238|ref=hara}}
*{{Cite book|和書|author=堀口剛|title=力学の基礎|publisher=[[技術評論社]]|year=2011|isbn=978-4774147024|ref=horiguchi}}
*{{Cite book|和書|author=兵頭俊夫|title=考える力学|publisher=学術図書出版社|date=2001-3-25|isbn=978-4873610993|ref=hyodo}}
*{{Cite book|和書|author=ポアンカレ|title=科学と仮説|publisher=岩波書店|year=1938|isbn=4003390210|ref=poincare}}
== 関連項目 ==
*[[ニュートンの運動方程式]]
*[[万有引力]]
*[[剛体の力学]]
*[[振動運動]]
*[[時間]] - [[空間]] - [[ガリレイ変換]]
*[[修正ニュートン力学]]
*[[弾道学]]
*[[古典力学]] - [[解析力学]]([[ラグランジュ力学]]、[[ハミルトン力学]])
*[[現代物理学]] - [[量子力学]]、 [[特殊相対性理論]]、[[一般相対性理論]]
{{Physics-footer}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にゆうとんりきかく}}
[[Category:力学]]
[[Category:古典力学]]
[[Category:アイザック・ニュートン|りきかく]]
[[Category:物理学のエポニム]] | 2003-02-15T11:16:25Z | 2023-11-11T12:55:25Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:Physics-footer",
"Template:Normdaten",
"Template:古典力学",
"Template:Lang",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:読み仮名"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8A%9B%E5%AD%A6 |
1,771 | 人工生命 | 人工生命()は、人間によって設計、作製された生命。生化学やコンピュータ上のモデルやロボットを使って、生命をシミュレーションすることで、生命に関するシステム(生命プロセスと進化)を研究する分野である。「人工生命」は1986年にアメリカの理論的生物学者、クリストファー・ラングトンによって命名された。人工生命は生物学的現象を「再現」しようと試みる点で生物学を補うものである。また、人工生命(Artificial Life)を ALife と呼ぶことがある。手段によってそれぞれ、「ソフトALife」(コンピュータ上のソフトウェア)、「ハードALife」(ロボット)、「ウェットALife」(生化学)と呼ばれる。
一般には生命とはすなわち、(生物)分類学的な生物の生命のことであるが(近代以前の分類学である博物学の最上位の分類は生物と無生物(鉱物)という分類であった)、ここでは生命を持つ生物のような振る舞いをする、人工物なども全て含むものと「生命」を定義する。
ルーツの一つには、「生命とは何か」という哲学的な命題がある。「わからなければ作ってみよう」という発想のルーツの一つでもある。研究対象は大まかに、コンピュータ上に形成されるソフトウェア、既存の細胞機構に類似した機構を採用したウェットウェア、機械類で形成されたハードウェアの存在様式が想定されている。
個体生命が集合して、初めて生命として機能するという生態系的なアプローチも多く、その一方では細胞レベルの単細胞生物の集合体である個体を創造するアプローチも存在している。
これらアプローチは、既存の生命機構を抽象化した上で、何らかの人工物にその行動様式や機能を模倣させて、その振る舞いを研究したり、単純な機能セットを構築した上で組み合わせて個体として機能しうるか?というものであるが、さらにはそれら「個体」を集団として、生態系を構築する試みもなされている。
人工生命の研究では、ソフトウェアエージェントの進化や人工環境におけるシミュレートされた生命形態の増殖を研究する。その目的は生命の進化に見られる現象を制御された環境下で研究することであり、細菌やネズミを使っていては限界がある進化の研究をより自由に進めることにある。生体や環境のシミュレーションにより、かつては異端とされた実験や不可能とされた実験も可能となる(ラマルクの進化論と自然選択説の実験による比較など)。
また、経済学や社会学に関するエージェントについても、創発的特性に基づくものを総称して「人工生命」と呼ぶことがある。これら「人工生命」の共通点は、個体群による繰り返しの考え方である。つまり、エージェントが世代を重ね、突然変異などによって時と共により良く適合するようになっていく。
ライフゲームが良く知られているが、さらには突然変異による進化説的なアプローチから、他の生命から生まれた生命が他の生命を捕食したり依存して繁栄するかどうかを観察できるソフトウェアも存在する。進化学者のトム・レイは、Tierraという遺伝子の突然変異をシミュレートしたソフトを開発し、人工生命研究の先駆けとなった。
個体の一生は、わずか数秒から数分といった過酷な進化過程を経て、種族として生き延びるものや、強靭(きょうじん)で長命な個体の誕生まで、様々な淘汰による変化で多彩な生物層を形成する場合がある。
観察者が介入して、インタラクティブに人為選択による進化を促進させるソフトウェアも多い。
ガイア仮説をゲーム化したシムアース等は有名である。
現状の「生命」の一般的定義から言えば、ソフトウェアによる人工生命は「生きている」とは言えない。しかし、人工生命の可能性について別の意見もある:
一般に人工知能はトップダウン手法を用いるが、人工生命(ソフトウェア)ではボトムアップ手法を用いる。
人工化学(Artificial Chemistry)とは、人工生命(ソフトウェア)のコミュニティで化学反応プロセスを抽象化する手法として生まれた分野である。
人工生命(ソフトウェア)の技法を応用した最適化アルゴリズムが各種開発されてきた。人工生命とこれら最適化アルゴリズムの違いは、その進化的特性が生存とか死を避けるとか食物を探すといった方面ではなく、解を求める可能性を高める方向に向けられている点である。
進化的アート(Evolutionary art)は、人工生命の技法や手法を応用して新たなアートの形態を作ったものである。同様に、音楽に類似の手法を応用した Evolutionary music もある。
古くはコンフリクトの解消に他の介在を求めるウォルターの亀(1950年代)にも、その片鱗(へんりん)を見ることができるが、玩具化され市販されたものではメカニマルもある。メカニマルは単純に動物の動作を模倣したもので、知覚・思考能力は皆無だが、生物の工学的アプローチによる行動要式の解析は、その後多くの生物学者が注目しており、娯楽産業界はハリウッド等でも、特殊効果技術の一端として、「本物ソックリの動作をする機械」の研究が進んでいる。
その一方で、多関節機械に単純な目的意識を与えて、肉体に当たる機械部分を自由に制御させ、その結果を元に自己学習を行い、運動機能を改善させようという試みもある。学習開始直後は満足に進むことも出来ない存在が、学習を繰り返すうちに、バタフライ泳法のようなダイナミックな移動方法を習得した事例もある。
現在の生物学では脳や内臓・消化器官並びに生殖器を持つような多細胞生物を生み出すことは実現してないが、外部からのエネルギーを得て、自分の構成要素を環境から取り入れ、自己複製的に分裂するものの研究が進んでいる。将来的にはナノマシン技術の1つとして、特定の機能を持たせた人工単細胞生物による医療分野における活躍が期待されているほか、特定の物質を分解ないし無毒化する機能を持つ人工微生物による環境保全や、所定の分子構造を持つ生産物(燃料用アルコールから医薬品まで様々)をもたらすことも期待されている。
2003年の段階で塩基配列より人工ウイルスを約2週間で合成することに成功している。ただしウイルスは他の生物細胞内に侵入して自身の複製を行わせないと増殖できないため、生命の範疇に含めるかどうかには議論の余地がある。これは米代替バイオエネルギー研究所が1200万ドルの予算で2002年から行っている研究の一端で、5386塩基対を持つものであった。
2010年、アメリカのクレイグ・ヴェンター博士のチームはmycoplasmaのゲノムを表すほぼ完全なDNAを、酵母の中で合成し、本来のDNAを除去された近縁種の細菌の細胞に、合成したDNAを移植する手法で、自立的に増殖する人工細菌を作成することに成功している(この手法では、分裂の前段階で天然由来の細菌の細胞に頼ってはいるが、2回目の細胞分裂以降の細菌は人工的に合成された生物であると解釈している)。
生命は非生命からどのようにして生まれるか?
生きているシステムの可能性と限界は何か?
人生は心、機械、文化にどのように関係しているか?
ソフトウェアによる人工生命は多くの批判にさらされてきた。しかし、サイエンスやネイチャーなどの学術誌に最近掲載される人工生命に関する論文に示されるように、徐々に学界の主流にも人工生命技術が受け入れられつつあり、特に進化の研究でその傾向が強い。
一般に人工生命の研究は計算機科学の分野で盛んであり、生物学者が人工生命を研究するということはほとんどない。計算機科学の中でも人工生命の研究に懐疑的な立場もある。
人工ウイルスに関して問題が指摘されている。韓国より報告のあったブタの遺伝情報のサンプルから、十数年前に開発された人工ウイルスの遺伝情報が検出されたとされている(→)。ウイルスは感染の過程で宿主の遺伝情報に自身の遺伝情報を書き込むため、もし人工ウイルスが環境中に流出した場合、どんな生物に感染しうるのかや、どんな影響があるのかが予測することができない。
またバイオテクノロジー的な技術によって改変された生物(LMO:Living Modified Organism)の漏出に関しては生物の多様性に関する条約に含まれる「生物の多様性に関する条約のバイオセーフティに関するカルタヘナ議定書(通称:カルタヘナ議定書)」において監視対象として制限されているが、生命そのものを製作した場合に於いても、同様の監視と漏出防止のための努力が求められている。
さらに人工微生物もナノマシン同様に、グレイ・グーの可能性が指摘されている。特に単なる機械装置とは違って、人工生命が環境中にある素材から自己複製が可能な場合、あらかじめ無限増殖を予防する措置も必要と考えられている。 | [
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"text": "人工生命()は、人間によって設計、作製された生命。生化学やコンピュータ上のモデルやロボットを使って、生命をシミュレーションすることで、生命に関するシステム(生命プロセスと進化)を研究する分野である。「人工生命」は1986年にアメリカの理論的生物学者、クリストファー・ラングトンによって命名された。人工生命は生物学的現象を「再現」しようと試みる点で生物学を補うものである。また、人工生命(Artificial Life)を ALife と呼ぶことがある。手段によってそれぞれ、「ソフトALife」(コンピュータ上のソフトウェア)、「ハードALife」(ロボット)、「ウェットALife」(生化学)と呼ばれる。",
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"text": "人工生命の研究では、ソフトウェアエージェントの進化や人工環境におけるシミュレートされた生命形態の増殖を研究する。その目的は生命の進化に見られる現象を制御された環境下で研究することであり、細菌やネズミを使っていては限界がある進化の研究をより自由に進めることにある。生体や環境のシミュレーションにより、かつては異端とされた実験や不可能とされた実験も可能となる(ラマルクの進化論と自然選択説の実験による比較など)。",
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"text": "ライフゲームが良く知られているが、さらには突然変異による進化説的なアプローチから、他の生命から生まれた生命が他の生命を捕食したり依存して繁栄するかどうかを観察できるソフトウェアも存在する。進化学者のトム・レイは、Tierraという遺伝子の突然変異をシミュレートしたソフトを開発し、人工生命研究の先駆けとなった。",
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"text": "古くはコンフリクトの解消に他の介在を求めるウォルターの亀(1950年代)にも、その片鱗(へんりん)を見ることができるが、玩具化され市販されたものではメカニマルもある。メカニマルは単純に動物の動作を模倣したもので、知覚・思考能力は皆無だが、生物の工学的アプローチによる行動要式の解析は、その後多くの生物学者が注目しており、娯楽産業界はハリウッド等でも、特殊効果技術の一端として、「本物ソックリの動作をする機械」の研究が進んでいる。",
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"text": "現在の生物学では脳や内臓・消化器官並びに生殖器を持つような多細胞生物を生み出すことは実現してないが、外部からのエネルギーを得て、自分の構成要素を環境から取り入れ、自己複製的に分裂するものの研究が進んでいる。将来的にはナノマシン技術の1つとして、特定の機能を持たせた人工単細胞生物による医療分野における活躍が期待されているほか、特定の物質を分解ないし無毒化する機能を持つ人工微生物による環境保全や、所定の分子構造を持つ生産物(燃料用アルコールから医薬品まで様々)をもたらすことも期待されている。",
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"text": "2010年、アメリカのクレイグ・ヴェンター博士のチームはmycoplasmaのゲノムを表すほぼ完全なDNAを、酵母の中で合成し、本来のDNAを除去された近縁種の細菌の細胞に、合成したDNAを移植する手法で、自立的に増殖する人工細菌を作成することに成功している(この手法では、分裂の前段階で天然由来の細菌の細胞に頼ってはいるが、2回目の細胞分裂以降の細菌は人工的に合成された生物であると解釈している)。",
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"text": "人工ウイルスに関して問題が指摘されている。韓国より報告のあったブタの遺伝情報のサンプルから、十数年前に開発された人工ウイルスの遺伝情報が検出されたとされている(→)。ウイルスは感染の過程で宿主の遺伝情報に自身の遺伝情報を書き込むため、もし人工ウイルスが環境中に流出した場合、どんな生物に感染しうるのかや、どんな影響があるのかが予測することができない。",
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"text": "さらに人工微生物もナノマシン同様に、グレイ・グーの可能性が指摘されている。特に単なる機械装置とは違って、人工生命が環境中にある素材から自己複製が可能な場合、あらかじめ無限増殖を予防する措置も必要と考えられている。",
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] | 人工生命は、人間によって設計、作製された生命。生化学やコンピュータ上のモデルやロボットを使って、生命をシミュレーションすることで、生命に関するシステム(生命プロセスと進化)を研究する分野である。「人工生命」は1986年にアメリカの理論的生物学者、クリストファー・ラングトンによって命名された。人工生命は生物学的現象を「再現」しようと試みる点で生物学を補うものである。また、人工生命を ALife と呼ぶことがある。手段によってそれぞれ、「ソフトALife」(コンピュータ上のソフトウェア)、「ハードALife」(ロボット)、「ウェットALife」(生化学)と呼ばれる。 | {{読み仮名|'''人工生命'''|じんこうせいめい}}は、[[人間]]によって設計、作製された[[生命]]。[[生化学]]や[[コンピュータ]]上のモデルや[[ロボット]]を使って、生命を[[シミュレーション]]することで、生命に関する[[システム]](生命プロセスと進化)を研究する分野である。「人工生命」は1986年にアメリカの理論的生物学者、[[クリストファー・ラングトン]]によって命名された。人工生命は生物学的現象を「再現」しようと試みる点で[[生物学]]を補うものである<ref>{{cite web|url=http://zooland.alife.org/|title=What is Artificial Life?|accessdate=2007-01-19|author=Christopher Langton|publisher=}}</ref>。また、人工生命(Artificial Life)を '''ALife''' と呼ぶことがある。手段によってそれぞれ、「ソフトALife」(コンピュータ上のソフトウェア)、「ハードALife」(ロボット)、「ウェットALife」(生化学)と呼ばれる<ref>{{cite web |url=http://www.reed.edu/~mab/publications/papers/BedauTICS03.pdf |title=Artificial life: organization, adaptation and complexity from the bottom up |author=Mark A. Bedau |date= 2003年11月 |accessdate=2007-01-19 |publisher=TRENDS in Cognitive Sciences}}</ref>。
== 概要 ==
一般には[[生命]]とはすなわち、([[生物]])[[分類学]]的な生物の生命のことであるが(近代以前の分類学である[[博物学]]の最上位の分類は生物と無生物([[鉱物]])という分類であった<ref>正確には、動物界・植物界・鉱物界の「3界」</ref>)、ここでは生命を持つ生物のような振る舞いをする、人工物なども全て含むものと「生命」を定義する。
ルーツの一つには、「生命とは何か」という[[哲学]]的な[[命題]]がある。「わからなければ作ってみよう」という発想のルーツの一つでもある。研究対象は大まかに、[[コンピュータ]]上に形成されるソフトウェア、既存の[[細胞]]機構に類似した機構を採用したウェットウェア、[[機械]]類で形成されたハードウェアの存在様式が想定されている。
個体生命が集合して、初めて生命として機能するという[[生態系]]的なアプローチも多く、その一方では細胞レベルの[[単細胞生物]]の集合体である[[個体]]を創造するアプローチも存在している。
これらアプローチは、既存の生命機構を[[抽象化]]した上で、何らかの人工物にその行動様式や機能を模倣させて、その振る舞いを研究したり、単純な機能セットを構築した上で組み合わせて個体として機能しうるか?というものであるが、さらにはそれら「個体」を集団として、生態系を構築する試みもなされている。
== ソフトウェア ==
人工生命の研究では、[[ソフトウェアエージェント]]の[[進化]]や人工環境におけるシミュレートされた生命形態の増殖を研究する。その目的は生命の進化に見られる現象を制御された環境下で研究することであり、細菌やネズミを使っていては限界がある進化の研究をより自由に進めることにある。生体や環境のシミュレーションにより、かつては異端とされた実験や不可能とされた実験も可能となる([[ジャン=バティスト・ラマルク|ラマルク]]の進化論と[[自然選択説]]の実験による比較など)。
また、経済学や社会学に関するエージェントについても、[[創発]]的特性に基づくものを総称して「人工生命」と呼ぶことがある。これら「人工生命」の共通点は、個体群による繰り返しの考え方である。つまり、エージェントが世代を重ね、[[突然変異]]などによって時と共により良く適合するようになっていく。
[[ライフゲーム]]が良く知られているが、さらには突然変異による進化説的なアプローチから、他の生命から生まれた生命が他の生命を捕食したり依存して繁栄するかどうかを観察できるソフトウェアも存在する。進化学者の[[トム・レイ]]は、[[Tierra (コンピュータプログラム)|Tierra]]という遺伝子の突然変異をシミュレートしたソフトを開発し、人工生命研究の先駆けとなった。
個体の一生は、わずか数秒から数分といった過酷な進化過程を経て、種族として生き延びるものや、強靭(きょうじん)で長命な個体の誕生まで、様々な淘汰による変化で多彩な生物層を形成する場合がある。
観察者が介入して、[[インタラクティブ]]に[[人為選択]]による進化を促進させるソフトウェアも多い。
[[ガイア仮説]]をゲーム化した[[シムアース]]等は有名である。
=== 哲学 ===
現状の「生命」の一般的定義から言えば、ソフトウェアによる人工生命は「生きている」とは言えない。しかし、人工生命の可能性について別の意見もある:
*「強い人工生命(Strong ALife)」の立場から[[ジョン・フォン・ノイマン]]は「生命とは、あらゆる媒体から独立して抽出できるプロセスである」としている。[[トム・レイ]]は、[[Tierra (コンピュータプログラム)|Tierra]]が生命をコンピュータ上でシミュレートしているのではなく、合成していると主張した。
*「弱い人工生命(Weak ALife)」の立場では、生命プロセスを化学物質から分離できないと考える。この立場の研究者は、生命現象の潜在的な機構を理解するために生命プロセスを真似しようとする。すなわち「我々は本質的にはなぜこの現象が発生するか知らないが、それを単純化すれば…」といった立場である。
=== 技術 ===
*[[セル・オートマトン]]は、スケーラビリティと並列化が容易であることから、人工生命研究でよく活用されてきた。人工生命とセル・オートマトンは歴史的にも密接な関係にある。
*[[ニューラルネットワーク]]は、人工生命の脳のモデルとして活用されることがある。それ以外の[[人工知能]]的技法もよく使われるが、生体の「学習」による個体群動的システム理論のシミュレーションにはニューラルネットワークが重要である。学習と進化の共存は生命体の本能の成り立ちの基本とされている([[ボールドウィン効果]])。
=== 関連する主題 ===
==== 人工知能 ====
一般に[[人工知能]]は[[トップダウン設計とボトムアップ設計|トップダウン]]手法を用いるが、人工生命(ソフトウェア)ではボトムアップ手法を用いる。
==== 人工化学 ====
人工化学(Artificial Chemistry)とは、人工生命(ソフトウェア)のコミュニティで化学反応プロセスを抽象化する手法として生まれた分野である。
==== 最適化問題での進化的アルゴリズム ====
人工生命(ソフトウェア)の技法を応用した最適化アルゴリズムが各種開発されてきた。人工生命とこれら最適化アルゴリズムの違いは、その進化的特性が生存とか死を避けるとか食物を探すといった方面ではなく、解を求める可能性を高める方向に向けられている点である。
*[[蟻コロニー最適化]]
*[[進化的アルゴリズム]]
*[[遺伝的アルゴリズム]]
*[[シミュレーティド・エボリューション]]
*[[遺伝的プログラミング]]
*[[群知能]]
==== 進化的アート ====
[[進化的アート]](Evolutionary art)は、人工生命の技法や手法を応用して新たなアートの形態を作ったものである。同様に、音楽に類似の手法を応用した Evolutionary music もある。
=== 主な人工生命シミュレータ ===
*プログラムベース
**[[Tierra (コンピュータプログラム)|Tierra]]
**[[Avida]]
**[http://www.spiderland.org/breve/ Breve]
**[[Darwinbots]]
**[http://www.greythumb.org/wiki/Nanopond Nanopond]
**[[Evolve 4.0]]
*モジュールベース
**[[Spore]]
**[http://www.technosphere.game-host.org/ TechnoSphere]
*パラメータベース
**[http://www.ventrella.com/ Ventrella.com]
**[http://www.timedancer.com/Kyresoo/Plants.htm Kyresoo Plants]
*ニューラルネットワークベース
**[http://sourceforge.net/projects/polyworld/ Polyworld]
== ハードウェア ==
[[画像:Robosnakes.jpg|thumb|right|蛇型ロボット]]
古くは[[コンフリクト]]の解消に他の介在を求める[[ウォルターの亀]](1950年代)にも、その片鱗(へんりん)を見ることができるが、玩具化され市販されたものでは[[メカニマル]]もある。メカニマルは単純に動物の動作を模倣したもので、知覚・思考能力は皆無だが、生物の工学的アプローチによる行動要式の解析は、その後多くの生物学者が注目しており、娯楽産業界はハリウッド等でも、特殊効果技術の一端として、「本物ソックリの動作をする機械」の研究が進んでいる。
その一方で、多関節機械に単純な目的意識を与えて、肉体に当たる機械部分を自由に制御させ、その結果を元に自己学習を行い、運動機能を改善させようという試みもある。学習開始直後は満足に進むことも出来ない存在が、学習を繰り返すうちに、[[バタフライ|バタフライ泳法]]のようなダイナミックな移動方法を習得した事例もある。
== ウェットウェア ==
現在の生物学では[[脳]]や[[内臓]]・[[消化器官]]並びに[[生殖器]]を持つような[[多細胞]]生物を生み出すことは実現してないが、外部からのエネルギーを得て、自分の構成要素を環境から取り入れ、[[自己複製]]的に分裂するものの研究が進んでいる。将来的には[[ナノマシン]]技術の1つとして、特定の機能を持たせた人工単細胞生物による医療分野における活躍が期待されているほか、特定の物質を分解ないし無毒化する機能を持つ人工微生物による環境保全や、所定の分子構造を持つ生産物(燃料用[[アルコール]]から[[医薬品]]まで様々)をもたらすことも期待されている。
2003年の段階で[[塩基配列]]より人工[[ウイルス]]を約2週間で合成することに成功している。ただしウイルスは他の生物[[細胞]]内に侵入して自身の複製を行わせないと増殖できないため、生命の範疇に含めるかどうかには議論の余地がある。これは米代替バイオエネルギー研究所が1200万ドルの予算で2002年から行っている研究の一端で、5386塩基対を持つものであった。
2010年、アメリカの[[クレイグ・ヴェンター]]博士のチームはmycoplasmaのゲノムを表すほぼ完全なDNAを、酵母の中で合成し、本来のDNAを除去された近縁種の細菌の細胞に、合成したDNAを移植する手法で、自立的に増殖する人工細菌を作成することに成功している(この手法では、分裂の前段階で天然由来の細菌の細胞に頼ってはいるが、2回目の細胞分裂以降の細菌は人工的に合成された生物であると解釈している)。
== オープンプロブレム ==
生命は非生命からどのようにして生まれるか?<ref>{{cite web|url=https://libarynth.org/open_problems_in_alife|title=A List of Open Problems (Open Problems in Artificial Life)|accessdate=2018-3-18|publisher=}}</ref><ref>{{cite web|url=http://authors.library.caltech.edu/13564/1/BEDal00.pdf|title=Open Problems in Artificial Life|accessdate=2018-3-18|publisher=}}</ref>
* 試験管で分子原生生物を作る。
* シリコン内での人工化学における生命への移行を達成する。
* 本質的に新しい生命システムが存在しえるかを決定する。
* 単細胞生物をライフサイクルをシミュレートする。
* 生きているシステムの物理的なダイナミクスからルールやシンボルが生成されるメカニズムを説明する
生きているシステムの可能性と限界は何か?
* オープンエンドな進化において必然的なことを決める
* 特異的な応答システムから一般的なシステムへ進化するための最小条件を決定する。
* 全てのスケールで力学的階層を作るフレームワークを作る。
* 生物や生態系を操作することによる進化の結果の予測可能性を決定する。
* 進化するシステムの情報処理、情報流、情報生成の理論を開発する。
人生は心、機械、文化にどのように関係しているか?
* 人工生命システムにおける知性と心の創発を実証する。
* 機械が及ぼす生命の大きな変化への影響を評価する。
* 文化的進化と生物学的進化の相互作用を記述する量的モデルを提供する
* 人工生命の倫理原則を確立する。
== 批判 ==
ソフトウェアによる人工生命は多くの批判にさらされてきた。しかし、[[サイエンス]]や[[ネイチャー]]などの学術誌に最近掲載される人工生命に関する論文<ref>{{cite web |url=http://myxo.css.msu.edu/cgi-bin/lenski/prefman.pl?group=al |title=Evolution experiments with digital organisms|accessdate=2007-01-19}}</ref>に示されるように、徐々に学界の主流にも人工生命技術が受け入れられつつあり、特に[[進化]]の研究でその傾向が強い。
一般に人工生命の研究は[[計算機科学]]の分野で盛んであり、生物学者が人工生命を研究するということはほとんどない。計算機科学の中でも人工生命の研究に懐疑的な立場もある。
=== バイオテクノロジーに対する懸念 ===
人工ウイルスに関して問題が指摘されている。韓国より報告のあったブタの遺伝情報のサンプルから、十数年前に開発された人工ウイルスの遺伝情報が検出されたとされている(→[http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050310302.html])。ウイルスは感染の過程で宿主の遺伝情報に自身の遺伝情報を書き込むため、もし人工ウイルスが環境中に流出した場合、どんな生物に感染しうるのかや、どんな影響があるのかが予測することができない。
また[[バイオテクノロジー]]的な技術によって改変された生物(LMO:Living Modified Organism)の漏出に関しては[[生物の多様性に関する条約]]に含まれる「生物の多様性に関する条約のバイオセーフティに関するカルタヘナ議定書(通称:[[生物の多様性に関する条約#カルタヘナ議定書|カルタヘナ議定書]])」において監視対象として制限されているが、生命そのものを製作した場合に於いても、同様の監視と漏出防止のための努力が求められている。
さらに人工微生物もナノマシン同様に、[[ナノマシン#ナノマシンの危険性|グレイ・グー]]の可能性が指摘されている。特に単なる機械装置とは違って、人工生命が環境中にある素材から自己複製が可能な場合、あらかじめ無限増殖を予防する措置も必要と考えられている。
== 脚注 ==
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<references />
== 関連項目 ==
*[[遺伝的アルゴリズム]]
*[[ウォルターの亀]]
*[[仮想生命]]
*[[ゲーム理論]]
*[[シムアース]]
*[[人工知能]]
*[[セル・オートマトン]]
*[[フランケンシュタインの怪物]]
*[[ホムンクルス]]
*[[ボイド (人工生命)|ボイド]]
*[[メカニマル]]
*[[ライフゲーム]]
*[[ロボット]]
*[[バーチャルペット]]
*[[生命の起源]]
*[[合成生物学]]
*[[複雑適応系]]
*[[OpenWorm]] - C.elegansを神経細胞間の信号伝達までシミュレーションすることによって精緻に再現するプロジェクトである。
== 外部リンク ==
*[http://www2.create.human.nagoya-u.ac.jp/~ari/stuff/alifesoft.html 人工生命の宝庫]
*[http://www.io.com/life/ Primordial Life]
*[http://www.scc.u-tokai.ac.jp/sectu/kaihaku/mechqua/mequ_gen.html 海洋科学博物館機械水族館]
*[http://www.alife.org/ International Society for Artificial Life (ISAL)]
*[http://mitpress.mit.edu/catalog/item/default.asp?tid=41&ttype=4 Artificial Life (journal)]
*[http://www.biota.org Biota.org Online Magazine and Podcast]
*[http://alifelab.org/ ALife Lab.]
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1,772 | 鳥人戦隊ジェットマン |
『鳥人戦隊ジェットマン』(ちょうじんせんたいジェットマン)は、1991年2月15日から1992年2月14日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜17:30 - 17:55(JST)に全51話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。
侵略者バイラムと戦うための戦士ジェットマンとなった5人の、戦いの日々や恋愛模様を描いている。視聴率不振だった前作の『地球戦隊ファイブマン』での反省を踏まえ、マンネリ打破の新機軸を取り入れるなど、シリーズ打ち切りの窮地に立たされていたスーパー戦隊シリーズ自体がさらなる転機を迎えた。東映公式では、本作品を『百獣戦隊ガオレンジャー』以前のシリーズのエポックメイキング的な作品としている。
タイトルは決定までに度重なる変更がなされており、オーディション当時の仮題はもっとストレートな『超人戦隊バードマン』とされていたことが、結城凱 / ブラックコンドルを演じた若松俊秀の回想の中で語られている。またメイン監督の雨宮慶太は、放映開始前のニュータイプ誌上で「現在、戦隊シリーズ新作『ジャンプマン(仮題)』の準備をしている」と語っている。
前作『地球戦隊ファイブマン』では、後半こそ持ち直したものの一時は著しい視聴率不振に陥り、シリーズそのものの存続が危惧されていた。東映プロデューサーの鈴木武幸は、当時の戦隊スタッフの一部がダレきった状態で撮影していると感じ、スポンサーに「売り上げは下げさせない」と約束したうえで大胆な革新を試みた。企画書では従来の子供向けというイメージを払拭し、大人の鑑賞にも耐えうるものとすることを掲げている。
中心スタッフには若手が多く起用された。メイン監督の雨宮慶太は、それまでデザイナーとしてシリーズに参加していたが本作品で初めて東映作品のテレビシリーズの監督を務めた。現場に予定調和を持ち込まないため、あえてテレビ撮影経験のない監督を起用することを望んだ鈴木は、周囲からの疑問の声に対して「映画を撮っているから大丈夫」と押し切って雨宮を抜擢したうえ、事前にスーパー戦隊シリーズの雰囲気に影響を受けないよう、下準備に該当する撮影を省いて現場に投入した。テレビ局側からも反対されたほど現場では不安感を抱かれたが、雨宮自身がパイロットの第1話と第2話の絵コンテを全シーン作成したことで、スタッフや局は納得したという。雨宮は鈴木から本作品でシリーズが最後になるかもしれないと告げられたという。同じくスーパー戦隊シリーズではメインライター初登板となった井上敏樹は、自身や雨宮などの若手が選ばれたのは、最後になるかもしれないという自棄からだったのではないかと推測している。特撮監督には、前作でデビューした佛田洋が続投。テレビ朝日プロデューサーの梶淳は、「戦隊は永遠に続くとは限らない」という危機感を持った人間が集まっていたと述べている。
西暦199X年初頭、地球は衛星軌道上に24時間体制で世界中を監視する宇宙基地アース・シップを有す世界規模の防衛組織地球防衛軍スカイフォースによって平和が守られていた。そのスカイフォースでは、太陽系第10番惑星で発見された新元素バードニウムを基に作られた人間の身体能力を強化することのできる新エネルギー・バードニックウェーブが開発され、それを元に人間の力では対応できないような脅威にも対抗できる超人戦士を作り出そうという、鳥人戦士製造計画Jプロジェクトが極秘に進行していた。
プロジェクト責任者の小田切綾は、犯罪や災害が起こると派遣される地上の隊員スカイフォーサーの中から5名の優秀な人物を選抜する。天堂竜は最初の被験者としてアース・シップでバードニックウェーブを浴び、強化人間ジェットマンの第1号であるレッドホークへの変身能力を身に着けた。
しかしその直後、さまざまな次元の世界を侵略してきた次元戦団バイラムの襲撃により、アース・シップは壊滅的な被害を受ける。多くの犠牲者が出るなか、竜の恋人だった藍リエが宇宙空間に消え、竜は小田切長官と共にジェットマシン・ジェットホークで脱出する。
リエを含む残りの被験者が浴びる予定だった4人分のバードニックウェーブは、4条の稲妻となって地球へ照射される。小田切と竜は、バードニックウェーブを浴びた4名を捜し出し、鳥人戦隊ジェットマンとしてバイラムに立ち向かわせようとしたが、その4人はいずれも民間人で、一筋縄ではいかない曲者揃い。5人は戦いの中で時には反目し、時には恋心を抱きながら、バイラムとの戦いに互いの青春を燃やしていく。
バードニックウェーブを浴びて超人的な能力を身に着けた5人の戦士。当初は次世代の防衛を担うスカイフォースの特殊部隊として編成されたが、バイラムの襲撃を受けて竜以外の隊員は全滅してしまう。そのため、実質構成はスカイフォース隊員の天堂竜と、偶然バードニックウェーブを浴びた民間人による混成部隊として活動する。また、初回以降は一部の話数を除き組織についての描写がほとんど見られず、竜を「元スカイフォーサー」と記述している資料も存在する。
名乗り順はレッドホーク→ブラックコンドル→イエローオウル→ホワイトスワン→ブルースワローだが、オープニングクレジットやDVDのジャケットではチーム加入順で描かれている。
第40・41話に登場する第2の鳥人戦隊。メンバーは、J1 - 5と呼ばれており、J1をリーダーとする正規の訓練を受けたサイボーグ戦士によって構成されている。隕石ベムによって窮地に陥るジェットマンの前に、一条総司令と共に現れた。
ジェットマンがバードニックウェーブを力の源にしているのに対し、ネオジェットマンは右胸に埋め込まれたバードニック反応炉を力の源にしていることからエネルギー切れの心配がない。またジェットマンのような変身描写はなく、黒のアンダースーツの上から軽装のアーマー、鳥の意匠をあしらったヘルメットを着用。標準武器は左胸のホルスターに携行している光線銃のネオシューターと右腰のホルスターに2つ携行している手榴弾のネオマイン。個人武器として、J1は剣のネオソード、J2は鎖鎌のネオスティンガー、J4はブーメランのネオスライサーを持つ。個人武器を持っていないJ3とJ5は、前者は徒手空拳、後者はネオシューターを主体としている。必殺武器は左右に砲門を備えたバズーカ砲のフレアーバスター。初陣では隕石ベムを退けるも、ジェットイカロスを操縦しての巨大戦では苦戦を強いられ、スカイキャンプに隕石ベムが侵入した際にも終始劣勢に立たされるなど、戦闘経験の不足ぶりを露呈する場面も散見された。
当初は一条を絶対視し、彼同様に竜たちを見下していたことから、巨大戦で彼らに助けられた際にも礼を失した態度を取り、スカイキャンプから追放された後は正式に自分たちがジェットマンに取って代わろうとした。しかしスカイキャンプに侵入した隕石ベムの圧倒的な力と、一条の身勝手な行動で危機に追いやられる中、変身能力を失ってもなお自分たちを助けようとする竜たちの姿に、彼らこそ真のジェットマンであると考えを改め、反応炉の全エネルギーを譲渡し変身能力を復活させた。
装備は全てメンバー共通であり、個人別の専用武器はない。手持ち武器は変身前でも使用可能。
ジェットマン各戦士の特性が反映された5機の特殊戦闘機で鳥の頭部を持つ。外装はバードナイト特殊鋼製。動力として太陽系第10番惑星を構成する反物質を利用した対消滅エンジンを搭載している。ジェットホーク以外の4機は第4話から正式登場。
各ジェットマシンにはローマ数字で「I」から「V」までの数字がナンバリングされており、ジェットマシンには変身しなくても搭乗することが可能。生身でジェットマシンに搭乗する際、ジェットマンはフライトスーツとヘルメットを着用する。
ロボットの重量設定はシリーズ他作品よりも小さいものとなっている。
裏次元侵略戦争によって裏次元世界を滅亡させた後、表次元に相当する地球を掌中に治めんと次元を超えて攻めてきた次元戦団。地球人を醜く愚かな者たちと侮蔑し、巨大魔城バイロックを拠点に、地球征服の計画を企てる。
裏次元での戦闘中に女帝ジューザが行方を晦ましたため首領の座は空位であり、残った4大幹部たちはジェットマンを先に倒した者が首領になるというトロイカ体制によるルールの下、半ばゲーム感覚で侵略を開始。しかし、4人の幹部はいずれも自分自身の存在に絶対的な優越感を抱いているプライドの高い性格のため、仲間意識はあれど基本的に信頼関係はなく、足の引っ張り合いで勝機を逃したり、時には1人の失敗を大勢で嘲笑うなど、それらが原因でジェットマンを倒す絶好の機会を逃すこともしばしばあった。それでもそれぞれ実力は互角だったことから辛うじて均衡は保たれていたが、トランザ誕生でパワーバランスが崩れて以降、ラディゲとトランザの露骨なまでの妨害合戦に加え、ラディゲ・マリア・グレイのもつれた感情により、組織は半ば自滅という形で崩壊していった。
一部のキャラクターを除き、身長・体重などの設定はない。
第30 - 32話に登場。太古の昔より地球に存在し、人間の天敵として生き続けてきた3体の怪物で悪魔的な外見をしている。人類を助ける行動に出るが、それは人類を人間果実という食糧にするため。永い眠りについていたが初めにムーが尖兵として復活し、その後、ラモンとゴーグもラディゲの血で復活。ラディゲはラモンとゴーグを従わせようとしたがバイラムは食糧である人間の敵であるため、拒絶されるもバイオ次元虫を用いて、従わせることに成功した。
ホワイトスワン役の蜂須賀祐一は、第17話撮影中に左頬骨を粉砕骨折する重傷を負い降板。その後、復帰には3年を要した。
メイン監督には前作まで4年連続担当の長石多可男に代わり、キャラクターデザイナーでもある映画監督・雨宮慶太を起用。雨宮は、先に制作が決まっていた映画『ゼイラム』の撮影のため、第1話・第2話を撮影した後一旦離脱し、第19話から復帰した。また矢島信男に代わり、『ファイブマン』から特撮監督に就いた佛田洋や、当時チーフ助監督として参加し、本作品の終盤にて非公式ながら監督を代行した渡辺勝也などと合わせ世代交代が図られた。東映不思議コメディーシリーズやスケバン刑事シリーズを手掛けていた坂本太郎も本作品でシリーズに初参加した。坂本は、なぜオファーが来たかは知らないが、変わった感じが欲しかったのだろうと述べている。
第30話からは後に平成仮面ライダーシリーズを多く手掛けることとなる白倉伸一郎がプロデューサー補として参加。
世代交代は脚本面にもおよんでおり、メインライターは前作まで9年連続担当の曽田博久に代わり、若手の実力派として台頭してきた井上敏樹が起用されている。井上をメインライターに起用するにあたって、当初テレビ朝日側のプロデューサーから「態度のでかさ」を理由に反対意見が出ており、これを心配した鈴木プロデューサーが「酒を飲んで話せば彼も悪い人間じゃない」と「井上君を囲む会」を開いたという逸話が残されている。この他荒川稔久や荒木憲一、川崎ヒロユキをはじめとするサブライター陣にも、当時若手の脚本家が多数起用された。荒川はシリーズ初参加であったが、井上から変化球を書くよう求められ「戦隊らしさ」を気にする必要がなく書きやすかったと述べている。
このように若手スタッフの起用が目立つ一方で、これまでシリーズに携わってきたスタッフも一部は前作より続投しており、監督の東條昭平、蓑輪雅夫、脚本(サブライター)の藤井邦夫、撮影技師のいのくままさおなどは引き続き本作品を支えることとなった。さらにこれまで長くシリーズを離れていた金田治がパイロット作品にアクションコーディネーターとして携わった他、野口竜もキャラクターデザイナーとして10年ぶりに復帰し次元獣をはじめとする個性豊かな敵デザインを手掛けるなど、バラエティに富んだスタッフ編成となっている。
アクション監督を務めた竹田道弘は、アクション面でも変化は試みられたが、当時の合成技術やワイヤーワークの限界などから雨宮の意図に応えられたかは疑問であったと述懐している。
劇中音楽は外山和彦 (KAZZ TOYAMA) が担当。後に第28話に理髪師役でゲスト出演も果たしている。
『超電子バイオマン』以降、主題歌作曲には歌謡曲畑の作曲家が起用されていたが、本作品ではおもにアニメ・子ども向け番組で活躍していたシンガーソングライターのつのごうじを起用。特にオープニングテーマでは王道ヒーローソングへの回帰を見せることとなった。
主題歌を歌う影山は、「電撃戦隊チェンジマン」(KAGE名義)、「光戦隊マスクマン」に次いでシリーズ3度目の主題歌歌唱。なお、この他本作品では挿入歌を4曲担当している。
以上に見られるような多数のチャレンジは多くの反響を呼んだ。梶によると、同業者からは驚きとともに心配する声も届いたが、当時はギリギリ批判が来なかったという。また、鈴木は本作品について、苦労したがシリーズに活を入れることには成功したと評している。
業界外からは、制作側に同人誌を送付するなど、子供以外の視聴者からの反応もあった。特に母親層の間では結城凱 / ブラックコンドルの人気が高く、「凱が死ぬのではないか」と予想したファンからの助命嘆願の手紙が多く届いた。凱の死は企画当初から決められていたものだったが、こうした反響に一時はスタッフも彼の生存を検討したという。結局、作中では凱の生死は明確に描写されなかった。凱役の若松俊秀によれば、関係者らはこうした反響が来ること自体が珍しいと述べていたという。メインライターの井上も、内容について批判的な投書が出たことも「それだけ話題になったのだろう」と述べている。
特記のない局はすべてテレビ朝日系列
いずれも発売元は東映ビデオ(後述のオリジナルビデオも含む)。それまでのスーパー戦隊シリーズのビデオは、『電子戦隊デンジマン』を除いて全話収録ではない、もしくはテレビシリーズのビデオが未発売というパターンが多かったが、本作品より全話収録のビデオのリリースが定着し、以降『魔法戦隊マジレンジャー』まで継続されることとなる。 | [
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "このように若手スタッフの起用が目立つ一方で、これまでシリーズに携わってきたスタッフも一部は前作より続投しており、監督の東條昭平、蓑輪雅夫、脚本(サブライター)の藤井邦夫、撮影技師のいのくままさおなどは引き続き本作品を支えることとなった。さらにこれまで長くシリーズを離れていた金田治がパイロット作品にアクションコーディネーターとして携わった他、野口竜もキャラクターデザイナーとして10年ぶりに復帰し次元獣をはじめとする個性豊かな敵デザインを手掛けるなど、バラエティに富んだスタッフ編成となっている。",
"title": "スタッフ"
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"text": "アクション監督を務めた竹田道弘は、アクション面でも変化は試みられたが、当時の合成技術やワイヤーワークの限界などから雨宮の意図に応えられたかは疑問であったと述懐している。",
"title": "スタッフ"
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"text": "劇中音楽は外山和彦 (KAZZ TOYAMA) が担当。後に第28話に理髪師役でゲスト出演も果たしている。",
"title": "スタッフ"
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"tag": "p",
"text": "『超電子バイオマン』以降、主題歌作曲には歌謡曲畑の作曲家が起用されていたが、本作品ではおもにアニメ・子ども向け番組で活躍していたシンガーソングライターのつのごうじを起用。特にオープニングテーマでは王道ヒーローソングへの回帰を見せることとなった。",
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"text": "主題歌を歌う影山は、「電撃戦隊チェンジマン」(KAGE名義)、「光戦隊マスクマン」に次いでシリーズ3度目の主題歌歌唱。なお、この他本作品では挿入歌を4曲担当している。",
"title": "音楽"
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"text": "以上に見られるような多数のチャレンジは多くの反響を呼んだ。梶によると、同業者からは驚きとともに心配する声も届いたが、当時はギリギリ批判が来なかったという。また、鈴木は本作品について、苦労したがシリーズに活を入れることには成功したと評している。",
"title": "評価"
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"text": "業界外からは、制作側に同人誌を送付するなど、子供以外の視聴者からの反応もあった。特に母親層の間では結城凱 / ブラックコンドルの人気が高く、「凱が死ぬのではないか」と予想したファンからの助命嘆願の手紙が多く届いた。凱の死は企画当初から決められていたものだったが、こうした反響に一時はスタッフも彼の生存を検討したという。結局、作中では凱の生死は明確に描写されなかった。凱役の若松俊秀によれば、関係者らはこうした反響が来ること自体が珍しいと述べていたという。メインライターの井上も、内容について批判的な投書が出たことも「それだけ話題になったのだろう」と述べている。",
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"text": "特記のない局はすべてテレビ朝日系列",
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"text": "いずれも発売元は東映ビデオ(後述のオリジナルビデオも含む)。それまでのスーパー戦隊シリーズのビデオは、『電子戦隊デンジマン』を除いて全話収録ではない、もしくはテレビシリーズのビデオが未発売というパターンが多かったが、本作品より全話収録のビデオのリリースが定着し、以降『魔法戦隊マジレンジャー』まで継続されることとなる。",
"title": "他媒体展開"
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] | 『鳥人戦隊ジェットマン』(ちょうじんせんたいジェットマン)は、1991年2月15日から1992年2月14日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜17:30 - 17:55(JST)に全51話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。 | {{pp-vandalism|small=t}}
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{{Redirect|ジェットマン|同じあだ名を自称する実在の人物|イブ・ロッシー}}
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{{注意|クレジットなどで確認できない[[スーツアクター]]の役柄を記載する場合には、'''必ず[[Wikipedia:信頼できる情報源|信頼可能な情報源]]からの[[Wikipedia:出典を明記する|出典を示してください]]。'''出典の無い情報については、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]に基づき一定期間ののち除去されるおそれがあります([[プロジェクト:特撮/スーツアクターの役名記載について]]での議論に基づく)}}
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|-
|colspan="3" style="background-color:#ffccff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[スーパー戦隊シリーズ]]'''
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第14作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[地球戦隊ファイブマン|地球戦隊<br />ファイブマン]]
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1990年3月<br />- 1991年2月
|-
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|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''鳥人戦隊<br />ジェットマン'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1991年2月<br />- 1992年2月
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第16作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[恐竜戦隊ジュウレンジャー|恐竜戦隊<br />ジュウレンジャー]]
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1992年2月<br />- 1993年2月
|}
{{基礎情報 テレビ番組
|番組名=鳥人戦隊ジェットマン
|ジャンル=[[特撮]][[テレビドラマ]]
|放送時間=金曜 17:30 - 17:55
|放送分=25
|放送期間=[[1991年]][[2月15日]] -<br />[[1992年]][[2月14日]]
|放送枠= スーパー戦隊シリーズ
|放送回数=全51
|放送国={{JPN}}
|制作局=[[テレビ朝日]]
|放送局=[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
|企画=
|製作総指揮=
|監督=[[雨宮慶太]] 他
|演出=
|原作=[[八手三郎]]
|脚本=[[井上敏樹]] 他
|プロデューサー={{Plainlist|
* 宇都宮恭三
* [[梶淳]](テレビ朝日)
* [[鈴木武幸]](東映)
}}
|出演者={{Plainlist|
* [[田中弘太郎 (俳優)|田中弘太郎]]
* [[岸田里佳]]
* [[ただのいっこ|成瀬富久]]
* [[内田さゆり]]
* [[若松俊秀]]
* [[三輝みきこ]]
* [[舘正貴|舘大介]]
* [[丸山真歩|丸山真穂]]
* [[久我未来]]
* [[広瀬裕|広瀬匠]]
}}
|声の出演=[[日下秀昭]]
|ナレーター=[[垂木勉]]
|音声=[[モノラル放送]]
|字幕=
|データ放送=
|音楽=KAZZ TOYAMA(外山和彦)
|OPテーマ=「鳥人戦隊ジェットマン」<br />歌:[[影山ヒロノブ]]
|EDテーマ=「こころはタマゴ」<br />歌:影山ヒロノブ
|言語=[[日本語]]
|外部リンク=
|外部リンク名=
|特記事項=「[[スーパー戦隊シリーズ]]」 第15作
}}
『'''鳥人戦隊ジェットマン'''』(ちょうじんせんたいジェットマン)は、[[1991年]][[2月15日]]から[[1992年]][[2月14日]]まで、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]で毎週金曜17:30 - 17:55([[日本標準時|JST]])に全51話が放送された、[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。
== 概要 ==
侵略者バイラムと戦うための戦士ジェットマンとなった5人の、戦いの日々や恋愛模様を描いている。視聴率不振だった前作の『[[地球戦隊ファイブマン]]』での反省を踏まえ、マンネリ打破の新機軸を取り入れるなど、シリーズ[[打ち切り]]の窮地に立たされていたスーパー戦隊シリーズ自体がさらなる転機を迎えた{{R|20th4}}。東映公式では、本作品を『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』以前のシリーズのエポックメイキング的な作品としている<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.toei.co.jp/tv/go-kai/story/1196570_1843.html |title=海賊戦隊ゴーカイジャー 第28話「翼は永遠に」|東映[テレビ] |work= |publisher=東映 |accessdate=2013-02-01}}</ref>。
タイトルは決定までに度重なる変更がなされており、オーディション当時の仮題はもっとストレートな『超人戦隊バードマン』とされていたことが、結城凱 / ブラックコンドルを演じた[[若松俊秀]]の回想の中で語られている{{R|episode one}}。またメイン監督の[[雨宮慶太]]は、放映開始前のニュータイプ誌上{{Full|date=2014年12月}}で「現在、戦隊シリーズ新作『ジャンプマン(仮題)』の準備をしている」と語っている。
== 特徴 ==
前作『[[地球戦隊ファイブマン]]』では、後半こそ持ち直したものの一時は著しい視聴率不振に陥り、シリーズそのものの存続が危惧されていた。東映プロデューサーの[[鈴木武幸]]は、当時の戦隊スタッフの一部がダレきった状態で撮影していると感じ、スポンサーに「売り上げは下げさせない」と約束したうえで大胆な革新を試みた{{R|VISUAL}}。企画書では従来の子供向けというイメージを払拭し、大人の鑑賞にも耐えうるものとすることを掲げている{{R|超世紀166|20th5}}。
中心スタッフには若手が多く起用された{{R|超世紀166|20th4}}。メイン監督の[[雨宮慶太]]は、それまでデザイナーとしてシリーズに参加していたが本作品で初めて東映作品のテレビシリーズの監督を務めた{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀166|20th4|20th32|material98}}}}。現場に予定調和を持ち込まないため{{R|material98}}、あえてテレビ撮影経験のない監督を起用することを望んだ鈴木は、周囲からの疑問の声に対して「映画を撮っているから大丈夫」と押し切って雨宮を抜擢したうえ、事前にスーパー戦隊シリーズの雰囲気に影響を受けないよう、下準備に該当する撮影を省いて現場に投入した{{R|VISUAL|20th5}}。テレビ局側からも反対されたほど現場では不安感を抱かれたが、雨宮自身がパイロットの第1話と第2話の絵コンテを全シーン作成したことで、スタッフや局は納得したという{{R|material98}}。雨宮は鈴木から本作品でシリーズが最後になるかもしれないと告げられたという{{R|20th32}}。同じくスーパー戦隊シリーズではメインライター初登板となった[[井上敏樹]]は、自身や雨宮などの若手が選ばれたのは、最後になるかもしれないという自棄からだったのではないかと推測している{{R|語ろう}}。特撮監督には、前作でデビューした[[佛田洋]]が続投{{R|超世紀166|20th4}}。テレビ朝日プロデューサーの[[梶淳]]は、「戦隊は永遠に続くとは限らない」という危機感を持った人間が集まっていたと述べている{{R|MAX49}}。
; 素顔の人間ドラマ
: 作劇面では「変身前の人間こそがかっこいい」と訴えるための工夫が多くなされている{{R|MAX49}}。
: まず、「変身後も本名で呼び合う行為」を全編を通して行った。本作品も脚本段階では以前のように「変身後はコードネームで呼び合う」予定だったが、[[田中弘太郎 (俳優)|田中弘太郎]]や[[若松俊秀]]をはじめとする出演者たちが「これでは不自然」と意見し、変更させたという{{R|超全集72|20th18}}。変身後も本名で呼び合うスタンスは一部の作品を除き現在に至るまでスーパー戦隊シリーズで定着することになる。さらに、変身後のヒーローが別人格になってしまわないよう、監督の雨宮はアクション側に逃げたり怖がったりする動きを取り入れた{{R|20th32}}。
: 必ずしも毎回全員が変身するわけではなく、戦闘時に何人かが欠けていることがたびたびあった点も特徴である。例えば、ブラックコンドルとブルースワローが第1話ではバードニックウェーブを浴びるシーンがあるのみで登場すらしなかったのをはじめ、第27話や第49話では戦闘力で劣るホワイトスワンが後方支援に回っている。これについては、戦隊シリーズで常に中心的存在のレッドホークも例外ではなく(第49話ではまったく変身していない)、最終的に全話で変身したのはイエローオウルのみとなっている{{efn|第47話では雷太自身は登場せず、変身後のイエローオウルのままの登場だった。}}。雨宮と井上は、毎回ヒーローが変身して武器を用いて戦い、ロボットに乗って敵を倒すという流れをすべて行うことを疑問視し、武器やロボを子供たちに訴求させるのであればギミックにドラマを持たせる必要性があり、これらを出し惜しみすることにしたという{{R|20th32}}。
: 第22話では、メインライターの井上が周囲に根回ししたうえで「全員が一度も変身せずに終わるシナリオ」を書いたが、スポンサーの反対により頓挫し、戦闘シーンを急遽付け加えた{{R|20th5|20th18}}。梶によれば、最終回近くでブラックコンドルの面が割れて凱の素顔が覗くという演出が、当時できる精一杯だったという。しかし当時の挫折を忘れず、翌々年の『[[五星戦隊ダイレンジャー]]』で「全員が一度も変身せずに終わる話」を実現させた{{R|MAX49}}。
: 巨大ロボが出てくると話が分断されてしまうという問題を解決するため、戦闘中のコックピットにおけるドラマが多くなっている{{R|MAX49}}。
: 最終回は、Aパートで最後の敵との戦いを決着させ、Bパートで戦いが終わって3年後の元ジェットマンを描いている{{R|20th32}}。
; 戦う[[トレンディドラマ]]
: 本作品では、これまで戦隊シリーズの中でほとんど排除されていた「男女混合チームの中での恋愛模様」を物語の中心に位置づけて描いたことが大きな特徴である{{R|超世紀166|20th4}}。鈴木武幸によると、かつて彼が手がけた『[[闘将ダイモス]]』での経験を生かし、恋愛で高年齢層を取り込む狙いだった{{R|suzuki}}。鈴木は提案にあたって周囲から猛反対にあうことを覚悟していたが、反対意見は全く挙がらなかったという{{R|20th5}}。井上敏樹も、かねてからスーパー戦隊シリーズで複数の男女がいながら何も起きないのはおかしいと考えていたことから、絶対にやりたい要素であったとしている{{R|語ろう|20th33}}。作中で描かれる恋愛の描写がこのように言われるのは放送当時、若い男女の恋愛を描いたドラマが「トレンディドラマ」と称されて人気であったためであり{{efn|テレビ朝日プロデューサーの[[梶淳]]は、トレンディドラマを意識していたわけではなく、恋愛要素が色濃くなっていった結果だと述べている{{R|20th96}}。}}、過去の戦隊全部の特徴をエンディング主題歌の歌詞に織り込んだ『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』(2011年放送)でも本作品のキーワードが「トレンディ」となっている。
: 具体的にはホワイトスワン・鹿鳴館香に対し、ブラックコンドル・結城凱とイエローオウル・大石雷太が恋愛感情を抱く→しかし、香はレッドホーク・天堂竜に好感情→だが、竜は洗脳されて敵組織次元戦団バイラムの幹部マリアとなったかつての同僚にして恋人・藍リエが忘れられない、という四角関係がストーリーの重要な部分を占めていた。これにより、それまでの戦隊に見られなかったメンバー間の愛憎劇と、戦隊チーム崩壊寸前の危機がたびたび描かれるようになった。その一方、恋愛絡み以外の回では、従来の戦隊シリーズから多く見られるコメディタッチの話が大半を占めていた。後年、鈴木は「結果的にはヒーローもので恋愛というのはあまり強調しないほうがいいということになりましたけれども」と述べている{{R|suzuki}}。
: アニメとは違い、実写では生身の人間が演じるため、大人の男女の愛憎は戦隊シリーズのコア・ターゲットには分かりにくく、愛情表現の演出もリアルに受け取られてしまう{{R|material98}}。そのため、視聴者の親から「子供番組であるのに恋愛ドラマでいいのか」という批判的な意見の手紙が多く届いたという{{R|material98}}。また、バンダイ発行の雑誌『[[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]]』にも、読者から「どこがいいんですか」「恋愛ごっこのついでにバイラム退治」という批判的な投稿が寄せられている。
; 敵組織の壮絶な内部抗争
: 敵組織内での幹部同士の対立という構図自体はこれまでの作品でも何度か見られたが、本作品における敵組織であるバイラムでは、それまでのシリーズとは異なり絶対的な力やカリスマを持つボスが存在せず、4人の幹部がお互いへの信頼関係が皆無なまま常に衝突しあい、終始にわたって組織内部に火薬庫を抱えた構図となっていた。ボスに該当するはずの女帝ジューザは、中盤で登場してわずか2話で退場している{{efn|鈴木はこの展開について「まさに井上イズム」と評している{{R|20th5}}。}}。時にはジェットマンとの戦闘中にもかかわらず、自らの野心のために邪魔な相手への妨害行為を公然と行い、結果としてジェットマンに対する勝機を逃すこともあった。後半には自ら支配者と名乗ったトランザに対しても、他の3人は面従腹背であった。これが結果的にジューザとトランザとの決戦の際、成り行きとはいえ「ヒーローと敵幹部による協力攻撃」という、これまでのシリーズでは見られなかった展開を生むこととなる。
; 演出面
: ドラマ性を重視した演出が目立つ本作品には、工事中のビル内を飛行するジェットホークや模型と着ぐるみを一瞬で入れ替えるジェットイカロスの合体シーンなど斬新な特撮も多く、特に従来の戦隊よりも巨大ロボットの活躍に比重が置かれたことで玩具の売り上げも高い結果を残し、後続作品に登場する[[恐竜戦隊ジュウレンジャー#守護獣|守護獣]]や[[五星戦隊ダイレンジャー#気伝獣|気伝獣]]などの演出に大きな影響を与えている。
: メカニック面でも最初の巨大メカのイカロスハーケンが登場するのは第5話であり、ロボットのジェットイカロスは第6話からの登場になる。また、過去作品に登場していた母艦の類や前2作に登場した基地(要塞)型ロボを登場させず{{R|material98}}{{efn|短い放映時間の中で、かなりの尺を要する基地ロボットや母艦の出撃から発進までのシークエンスはドラマとは直接関係なく、それを入れるのは難しいと判断されたためである{{R|material98}}。}}{{efn|未登場には終わったが、内部にジェットマシンとバードガルーダを収納し、ターボビルダーに似た方法で巨大な基地ロボに変形する巨大母艦も描かれている{{R|material98}}。}}、それに代わる新要素として「サポートロボ」が新たに導入されたのも、本作品からである{{efn|資料によっては、シリーズ初の3号ロボと位置づけている{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀166|20th4|20th35|material98}}}}。}}。同時に、既存のロボの武装として運用されるロボとしてもシリーズ初で、後の戦隊ロボのあり方に大きな影響を与えている。これは、キャラクターに対する視聴者の認識期間が短くなり、新たなキャラクターを投入しなければ飽きられてしまうことからによるものである{{R|material98}}。また、巨大ロボ戦で大ダメージを受けるとジェットマンの変身が解けることが多々ある。
; その他
: シリーズ初となる女性司令官の登場や、現行戦隊に取って代わろうとする新組織が身内から現れるといった展開、正邪のレギュラーのドラマが前面に出たこと、前後篇など連続したストーリーが多数見られたことなどから、一般怪人が30体ほどしかいないという点も特筆すべき点に挙げられる。怪人が少ないという傾向は翌々年まで続いた。また、スーパー戦隊シリーズで初めて、アイキャッチ映像に変身前のメンバーが登場した。
== あらすじ ==
西暦199X年初頭、地球は衛星軌道上に24時間体制で世界中を監視する宇宙基地'''アース・シップ'''を有す世界規模の防衛組織'''地球防衛軍スカイフォース'''によって平和が守られていた。そのスカイフォースでは、太陽系第10番惑星で発見された新元素'''バードニウム'''を基に作られた人間の身体能力を強化することのできる新エネルギー・'''バードニックウェーブ'''が開発され、それを元に人間の力では対応できないような脅威にも対抗できる超人戦士を作り出そうという、鳥人戦士製造計画'''Jプロジェクト'''が極秘に進行していた。
プロジェクト責任者の小田切綾は、犯罪や災害が起こると派遣される地上の隊員スカイフォーサーの中から5名の優秀な人物を選抜する。天堂竜は最初の被験者としてアース・シップでバードニックウェーブを浴び、強化人間ジェットマンの第1号である'''レッドホーク'''への変身能力を身に着けた。
しかしその直後、さまざまな次元の世界を侵略してきた'''次元戦団バイラム'''の襲撃により、アース・シップは壊滅的な被害を受ける。多くの犠牲者が出るなか、竜の恋人だった藍リエが宇宙空間に消え、竜は小田切長官と共にジェットマシン・'''ジェットホーク'''で脱出する。
リエを含む残りの被験者が浴びる予定だった4人分のバードニックウェーブは、4条の稲妻となって地球へ照射される。小田切と竜は、バードニックウェーブを浴びた4名を捜し出し、'''鳥人戦隊ジェットマン'''としてバイラムに立ち向かわせようとしたが、その4人はいずれも民間人で、一筋縄ではいかない曲者揃い。5人は戦いの中で時には反目し、時には恋心を抱きながら、バイラムとの戦いに互いの青春を燃やしていく。
== 登場人物 ==
=== 鳥人戦隊ジェットマン ===
バードニックウェーブを浴びて超人的な能力を身に着けた5人の戦士{{R|超全集12}}。当初は次世代の防衛を担うスカイフォースの特殊部隊として編成されたが、バイラムの襲撃を受けて竜以外の隊員は全滅してしまう{{R|group="ep"|1話}}。そのため、実質構成はスカイフォース隊員の天堂竜と、偶然バードニックウェーブを浴びた民間人による混成部隊として活動する{{efn|『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』では、世間から「風変わりな人たちが集まった戦隊」と称されている。}}。また、初回以降は一部の話数を除き組織についての描写がほとんど見られず、竜を「元スカイフォーサー」と記述している資料も存在する{{R|超全集14}}。
名乗り順はレッドホーク→ブラックコンドル→イエローオウル→ホワイトスワン→ブルースワローだが、オープニングクレジットやDVDのジャケットではチーム加入順で描かれている{{efn|レッドホーク→ホワイトスワン→イエローオウル→ブルースワロー→ブラックコンドル。}}。
; {{Visible anchor|{{読み仮名|天堂 竜|てんどう りゅう}}|天堂竜}}
: ジェットマンのリーダーであり{{R|超全集14|20th8}}、スカイフォース隊員スカイフォーサーの青年。[[1965年]][[5月10日]]生まれ。第13話で26歳になる{{R|group="ep"|13話}}{{R|学研の図鑑22}}。
: 作業ロボットの暴走事件を、スカイフォーサーのパートナーにして、恋人の藍リエと共に解決した功績からジェットマンに任命された{{R|group="ep"|1話}}。本来なら、リエと一緒にジェットマンになるはずだったが、バイラムの攻撃でリエを喪ってしまう{{R|group="ep"|1話}}。以降はバイラムへの憎しみを抱きながらも、それに囚われず、地球を守る戦いに身を投じていく。
: エリート軍人として訓練を積んだゆえに戦闘力は高く、また戦闘現場でも卓越した判断力を示すなど、戦闘集団の行動隊長としては申し分のない人材{{R|20th8}}。戦士としての実力も第一級だが、自身の影武者アンドロイド{{efn|グレイのセンサーでも見破れなかった。}}を製作したり{{R|group="ep"|34話}}、テトラボーイの技術を応用して異次元との通信を可能にしたり{{R|group="ep"|34話}}、ファイヤーバズーカを自動操縦に改造したりする{{R|group="ep"|50話}}など、技術者として優れている{{R|20th8}}。
: ストイックでプロ意識が強く、公私を混同しないことを己の信条とし、リーダーとしての責任感と平和を守る使命感は強い{{R|学研の図鑑22}}。しかし、相手の都合を全く考えようとせずに自分の価値観や考えを他のものに押し付けるやや朴念仁{{Sfn|赤の伝説|2012|p=69}}な傾向があり、その信念を他のメンバーたちにも求めるため、己の意志に反して戦士となった仲間たちと衝突することも多かったが、次第に彼らとも打ち解けていき、特に正反対の性格である凱とは三魔神との戦いを経て、無二の親友にして相棒になっていった。深層心理に隠された性格は「怠け者」{{R|group="ep"|11話}}{{R|20th8}}。
: [[酒]]は飲まず{{efn|第33話、第48話の描写を見るかぎり飲めないわけではない。}}、代わりに砂糖抜きの[[牛乳|ホットミルク]]を愛飲{{Refnest|group="出典"|name="ryu"|{{R|超全集14|20th8|学研の図鑑22}}}}。
: 東北地方出身で田舎には漬物屋を営む祖母の絹代がおり、本人も[[東北弁]]で会話する{{R|group="ep"|7話}}{{R|学研の図鑑22}}。大学時代はラグビーをやっており、ポジションはウイングであった{{R|学研の図鑑22}}。
: 香から好意を寄せられるが、戦士としての生き方やリエへの想いから拒否し、そのために凱と香の仲を発展させようと、お節介な行動をした結果、2人を傷つけてしまった{{R|group="ep"|22話}}。その後、リエがバイラム幹部のマリアになっていたことを知り、リエが再びマリアになってしまったショックから心を閉ざし、現実逃避してしまうが、凱との友情と心の中のリエのおかげで立ち直り、真の意味で凱たちと仲間になった{{R|group="ep"|32話}}。
: マリアとなったリエを救うためにも戦うようになり、リエに戻すことに成功するが、リエをラディゲに殺されたことで、今度こそ死別してしまう。この後、復讐の鬼となり、チームを脱退し、命を捨ててでもラディゲを倒そうとするが、リエの思いも込めた香の説得により復讐心を乗り越えて、チームに復帰。仲間たちと共にバイラムとの戦いに終止符を打った。
: バイラムが壊滅した3年後、凱たちや幻影のリエに祝福されながら香と結婚した{{R|group="ep"|51話}}。
: テレビシリーズ終了後に制作された総集編ビデオ『東映テレビヒーロー図鑑Vol.2 鳥人戦隊ジェットマン』では、授かった子供に「凱」と名付け、妻の香と共に平穏な日々を過ごしている姿が描かれている{{R|gahou121b}}。
::{{キャラスペック
|名称=レッドホーク
|身長=188{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]{{R|超全集14|20th8}}
|体重=79{{nbsp}}[[キログラム|kg]]{{R|超全集14|20th8}}
|走力=100{{nbsp}}[[メートル|m]]を9.0秒{{R|超全集14|20th8}}
}}
:; {{Visible anchor|レッドホーク}}
:: 天堂竜が変身する戦士{{R|超全集14|20th8}}。
:: スカイフォーサーとして厳しい訓練を受けているため数多くの技を身につけているなど戦闘技能が高く、中でも剣を使った戦いを得意としている{{R|group="出典"|ryu}}。
:{{-}}
; {{Visible anchor|{{読み仮名|結城 凱|ゆうき がい}}|結城凱}}
: ギャンブルや[[サックス]]演奏で生計を立てている青年{{R|学研の図鑑22}}。25歳{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集16|gahou106|20th16}}}}。
: 何事にも束縛されぬ一匹狼で、いわゆる不良気質であるが、優しさも併せ持ち、使命よりも仲間の人としての幸せを優先させる{{R|20th16}}。根は一本気{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=32}}。趣味は[[オートバイ]]・サックス演奏・賭け事{{efn|イカサマも得意で、第39話ではルーレットで思い通りの目を出す技術を披露している。}}と女性と遊ぶこと{{Refnest|group="出典"|name="gai"|{{R|超全集16|20th16|学研の図鑑22}}}}。[[タバコ]]も吸い、彼の行きつけの[[ジャズバー]]「{{読み仮名|golden gate|ゴールデンゲート}}」で、酒([[スコッチ・ウイスキー|マッカラン]]のストレート{{R|超全集16}})もよく飲む{{R|学研の図鑑22}}。男と[[納豆]]が嫌い{{R|超全集16}}{{efn|演じた[[若松俊秀]]も納豆が嫌い。}}。口癖は「これだけは言っておく」。深層心理に隠された性格は「真面目で寂しがり屋のいい子」{{R|group="ep"|11話}}。愛車はスズキ・TS200R{{efn|バイクアクションは演じる若松俊秀がスタントなしでほとんど演じている{{R|超全集72}}。}}。
: 当初はジェットマンへの勧誘を拒否し続け、「人類なんか滅んだ方がスッキリする」と言い捨てたことで、竜の怒りを買うが{{R|group="ep"|2話}}、心の根底にある正義感の強さゆえ、竜の熱意に根負けし、入隊を承諾する{{R|group="ep"|3話}}。だが、入隊以降も他人に指図されるのと、集団行動や人付き合いを好まず、竜に対してはことあるごとに反発{{R|20th16}}。ついには香を巡っての恋敵にまで発展してしまうが、戦士としての信念を貫く竜のことを認めてもいることから、互いのピンチを助け合うことも多く、サブリーダーになっていった。三魔神事件において、竜と亀裂が生じた末、後述で恋仲になった香を連れて、一時的に脱退するが、リエの件で現実逃避した竜に胸中で抱いていた友情を伝え、彼を立ち直らせるきっかけの一つとなる。
: 三魔神編で香へのアプローチが実って恋人同士になるが、生き方の違いから破局した。
: バイラム壊滅から3年後の竜と香の結婚式当日、花屋で花束を購入する際に偶然出くわした引ったくり犯の男を追跡して盗まれたバッグを取り戻すが、逆上した男にナイフで腹部を刺されてしまう。それでも力を振り絞って結婚式場に足を運び、親友の竜とかつての恋人だった香を祝福。幸福に満ちた2人の姿を見て満足した後、ベンチで一服した後に力尽きて倒れる{{R|group="ep"|51話}}。享年28{{R|学研の図鑑22}}。
:* メインライターの[[井上敏樹]]は、5人のキャラクターをはっきりさせるため強烈なキャラとして凱を出したと述べている{{R|20th33}}。東映プロデューサーの[[鈴木武幸]]は、大人っぽすぎるのではないかと危惧していたが、最終的には理解したという{{R|20th33}}。
:* 第2話の冒頭では、凱がカジノの女性ディーラーとキスをするシーンがあったが、実質的な初登場シーンには不適当としてカットされた{{R|20th18}}。
:* 第32話での凱と香が一夜を共にした翌朝のシーンでは、若松は男側が強く接するシチュエーションではないだろうとの考えからあえてさらっと話しかける演技を行ったが、監督の雨宮からプランは理解するが生々しすぎるとして普段の凱に戻した演技となった{{R|20th18}}。
:* 最終話で凱が死ぬという展開は、第18話「凱、死す!」で井上が冗談で凱が死ぬと言っていたことを経て、若松が最終回に取り入れることを提案したものであった{{R|20th18}}。凱を刺したひったくり役をブラックコンドルのスーツアクターである[[大藤直樹]]が演じたのも若松の提案である{{R|20th18}}。
::{{キャラスペック
|名称=ブラックコンドル
|身長=183{{nbsp}}cm{{R|超全集16|20th16}}
|体重=73{{nbsp}}kg{{R|超全集16|20th16}}
|走力=100{{nbsp}}mを9.5秒{{R|超全集16|20th16}}
}}
:; {{Visible anchor|ブラックコンドル}}
:: 結城凱が変身する戦士{{R|超全集16|20th16}}。
:: 実戦的な荒々しい喧嘩殺法を応用した肉弾戦に加え{{R|group="出典"|gai}}、剣も得意とする。
:: グレイの最後の一騎討ちでは、グレイの攻撃でヘルメットが破損して凱の顔が露出した{{R|20th16}}。
::* スーパー戦隊シリーズでは初のマスク割れであり、以降の作品でも行われるようになった。監督の雨宮は、このマスク割れについて東映プロデューサーの鈴木から反対されていたが、助監督から聞かなかったことにして撮影を断行したという{{R|20th32}}。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|大石 雷太|おおいし らいた}}|大石雷太}}
: 自然と野菜をこよなく愛する農業青年{{R|超全集18|20th12}}。22歳{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集18|gahou106|20th12|学研の図鑑22}}}}。
: ジェットマンへの誘いを「暴力は大嫌い」と断るが、バイラムにより自分の育てた[[野菜]]を荒らされたことにより、戦いに身を投じた{{R|group="ep"|1話}}{{R|20th12}}。
: 温厚かつ優しい朴訥な性格だが{{R|超全集18}}、怒らせると怖く{{R|学研の図鑑22}}、卑屈な面もあり、余計な一言を言ってしまうこともある。深層心理に隠された性格は「ツッパリの一匹狼」{{R|group="ep"|11話}}{{R|20th12}}{{efn|この性格が表に出た際の彼は凱のように振る舞い、ナンパも行ったが、スーツにゴム長という格好の上、ナンパを行った場所は自転車置き場で、ナンパ自体も失敗している。事件後には「僕に凱と同じ性格があったなんて」とショックを受けていた。}}。家族は祖母のキヨがいる。眼鏡は小さいころからかけている<ref group="ep">第9話、第46話の回想シーンより。</ref>。逆上がりができないほど、運動神経がイマイチだったが、バードニックウェーブを浴びることにより克服。アウトドアにも造詣が深く、原始時代に飛ばされた際はサバイバル能力を発揮し、原始人たちを指導して、壁画に残されるほどに慕われた{{R|group="ep"|26話}}{{R|学研の図鑑22}}。
: 女性メンバーを「さん」づけで名前を呼んでいる。
: 香に恋心を抱くが、告白する勇気はなく、彼女を見守る道を選ぶ{{R|超全集18}}{{efn|第22話で香の一件から生じた竜と凱のケンカを止めようとした際、凱から香のことで「腑抜け」と罵倒されたため、彼もケンカに加わってしまった。}}。バイオ次元獣ジクウマンモスのタイムスリップビームで、原始時代に飛ばされた際には香と瓜二つの女性・リーカと出会い、恋仲となるが、自身の時代を守るために彼女と別れる{{R|group="ep"|26話}}。この一件から、香への恋愛感情は昇華された模様。
: 料理上手にして、大食漢であり{{R|超全集18|20th12}}、ストレスが貯まると大食いに走る傾向にある。子供のころ、トマト大王というトマトの怪物が出てくる悪夢を恐れていたことがあり、トランザが差し向けた異次元生命体メタモルの力で現実化したことから、トマトを恐れるようになってしまったが、覚悟を決めて、トマトを食べ続けることで克服{{R|group="ep"|46話}}。
: バイラムとの戦いの後、幼なじみのサツキと結婚した{{R|group="ep"|51話}}。竜と香の結婚式にはサツキと共に出席{{R|group="ep"|51話}}。
: テレビシリーズ終了後に制作された総集編ビデオでは本人は登場しないものの、天堂夫妻の元に野菜を送り、一緒に送った手紙には自身ももうすぐ父親になることが書かれていた{{R|gahou121b}}。
:* 雷太が着用している黄色いトレーニングウェアは演じる成瀬富久の私物である{{R|超全集72}}。
::{{キャラスペック
|名称=イエローオウル
|身長=176{{nbsp}}cm{{R|超全集18|20th12}}
|体重=89{{nbsp}}kg{{R|超全集18|20th12}}
|走力=100{{nbsp}}mを11.4秒{{R|超全集18|20th12}}
}}
:; {{Visible anchor|イエローオウル}}
:: 大石雷太が変身する戦士{{R|超全集18|20th12}}。
:: 持ち前の怪力を存分に活かした戦いを得意とし、投げ技や相撲技などのパワー戦法や頭突き・体当たりなどの肉弾戦法を用いる{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集18|20th12|学研の図鑑22}}}}。また防御力も高い{{R|20th12}}。
::* 「スーパー戦隊のイエローは太っている」というイメージに実際に当てはまる数少ない一人<ref>「イエローはみんなカレー好き?」、『スーパー戦隊の常識 ド派手に行くぜ!レジェンド戦隊編』2012年4月、p.53。ISBN 978-4-575-30413-8</ref>。イエローオウルのスーツアクターを務めた[[石垣広文]]は、変身後も体型が変わらないように発泡スチロールを肉襦袢にして詰めていた{{R|gokai|仮面俳優191}}。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|鹿鳴館 香|ろくめいかん かおり}}|鹿鳴館香}}
: 名門鹿鳴館財閥の深窓の令嬢{{R|20th10}}。22歳{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集20|gahou106|20th10|学研の図鑑22}}}}。
: 容姿端麗でおしとやかな淑女{{R|20th10}}。偶然バードニックウェーブを浴びてしまったことを契機にジェットマンに加入{{R|group="ep"|1話}}。精神力は強く{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=32}}、超負けず嫌い{{R|学研の図鑑22}}。浮世離れした性格をしているが、怒ると怖く、口調も普段のおしとやかなものから乱暴になる{{R|20th10|学研の図鑑22}}。深層心理に隠された性格は「金持ち特有のひがみ屋」{{R|group="ep"|11話}}{{efn|本人はこのことに激しいショックを受けており、事件後には「悪夢を見たと思って忘れてくださいね」と仲間に頼んだほどだった。}}。当初はジェットマンを「ジェントルマン」と勘違いしていた。両親はニューヨークに在住しているが、第43話では帰国、登場している{{R|group="ep"|43話}}。
: 教育係のじいやから[[剣道]]を教えられてきており、スポーツ全般を得意とする{{R|20th10|学研の図鑑22}}。当初はジェットマシンをうまく操縦できなかったり{{R|group="ep"|4話}}、コンピュータの扱いにも苦労していたが{{R|group="ep"|30話}}、それらを克服して以降は分析やナビゲーション役も担当するまでになった。
: 果てしなく激しい戦い、そして竜や凱との恋の中で何度も挫折を味わうものの、精神的に大きな成長を遂げていった。その成長はリエの仇を討つために復讐鬼となった竜を改心させたほどである{{R|group="ep"|50話}}。
: 恋愛について、入隊以来竜の強さに惹かれ恋心を寄せていたが叶わず、凱から熱心なアプローチを受ける。第30話以降では凱と恋仲になるが、生き方の違いから破局。北大路グループの御曹司・北大路総一郎と幼いころからの許婚だったが、彼の傲慢な性格を知って婚約を解消している{{R|group="ep"|4話}}。
: バイラムが壊滅して3年後、かつての恋人でもある凱からも祝福されながら竜と結婚する{{R|group="ep"|51話}}。
: 雷太やアコを「さん」づけで呼んでいる。
::{{キャラスペック
|名称=ホワイトスワン
|身長=163{{nbsp}}cm{{R|超全集20|20th10}}
|体重=51{{nbsp}}kg{{R|超全集20|20th10}}
|走力=100{{nbsp}}mを10.2秒{{R|超全集20|20th10}}
}}
:; {{Visible anchor|ホワイトスワン}}
:: 鹿鳴館香が変身する戦士{{R|超全集20|20th10}}。
:: 銃の名手{{R|超全集20|20th10}}。パワーでは他のメンバーに劣るが、華麗な動きと一瞬で敵の弱点を突く攻撃を得意とする{{R|20th10}}。
:{{-}}
; {{Visible anchor|{{読み仮名|早坂 アコ|はやさか アコ}}|早坂アコ}}
: 三原北高校3年生で18歳{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集22|gahou106|20th14|学研の図鑑22}}}}。
: お金好きで、ジェットマンには当初[[アルバイト|バイト]]感覚で加わるが{{R|超全集22|20th14}}、超高額の報酬にはショックが大きかったり{{R|group="ep"|2話}}、バードニックウェーブの力も悪事に使わずスポーツの助っ人程度と割と小市民的。ちょっと口の悪い面もあり短気でお調子者だが、世話好きなしっかり者{{R|20th14}}。ボーイッシュな面もあり、凱からはおとこ女と言われたこともある。他のメンバーの恋愛沙汰には加わらず(茶化すことは好き)、人間関係を巧みに取り持ったりするなど、最年少ながら成り行きを見守るジェットマンのムードメーカーかつ潤滑油的存在でもある{{R|学研の図鑑22}}。ただ遠慮知らずで、自分よりずっと年長の他のメンバーをすべて呼び捨てにし、小田切長官のことを「オバン」と呼ぶ{{R|超全集22}}{{efn|後半からは長官と呼んでいた。}}など馴れ馴れしくしていた。また、寝相が悪い。深層心理に隠された性格は「涙もろい乙女チック」{{R|group="ep"|11話}}{{R|20th14}}。バードニックウェーブを浴びる以前は体育の授業もサボるほどだったが、バードニックウェーブを浴びてからはスポーツ万能になる{{R|20th14}}。
: 隊内恋愛とは一切無縁でキスは未経験{{R|group="ep"|20話}}ということもあり「色気より欲」というイメージもあるが、第10話では[[ラーメン]]オタクの龍田先輩にモーションをかけられており{{R|group="ep"|10話}}、裏次元人ディメンシアの戦士ダンの積極的な求愛には最終的には本人もまんざらではなかった{{R|group="ep"|24話}}。変身前にも変身後にも様々な事態でスカートをめくられるなど、[[セクハラ]]被害は一番多く受けている。
: 雷太のことは「雷ちゃん」と呼んでおり(呼ばないときもある)、仲が良く、彼に付き添ったり、助力したりしていた。
: バイクの免許はすでに取得しているようで、作中では凱と共にジェットスピーダーに乗っている。また未成年であるにもかかわらず、第6話と第13話では他の成人メンバーとともにシャンパンを飲んでいる。
: バイラムの作戦に利用された龍田によって、彼女をイメージキャラクターとするカップ麺「新次元ヌードル陽気なアコちゃん」が発売されたことがある{{R|group="ep"|10話}}{{R|学研の図鑑22}}{{efn|『[[轟轟戦隊ボウケンジャー]]』のミニコーナーではボウケンジャーの面々が食し、『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』第28話では、凱の墓にこのラーメンが供えられている。『[[恐竜戦隊ジュウレンジャー]]』最終回の巨大戦でもビルにこの広告があることが確認できる。}}。
: 恋愛面には関わらなかったこともあり、持ち前の明るさで、ジェットマンというチームとハードな世界観を支え続けた。
: バイラムとの戦いの後、アイドル歌手になる{{R|group="ep"|51話}}。また、竜と香の結婚式では、語り合う竜と凱の写真を撮った{{R|group="ep"|51話}}。
: 序盤はショートカットのヘアスタイルだったが、物語が終盤を迎えるころには肩までかかるほどのロングヘアになっていた。
::{{キャラスペック
|名称=ブルースワロー
|身長=159{{nbsp}}cm{{R|超全集22|20th14}}
|体重=52{{nbsp}}kg{{R|超全集22|20th14}}
|走力=100{{nbsp}}mを9.8秒{{R|超全集22|20th14}}
}}
:; {{Visible anchor|ブルースワロー}}
:: 早坂アコが変身する戦士{{R|超全集22|20th14}}。
:: 低空飛行や[[アクロバット]]戦法で華麗に戦う{{R|超全集22|20th14}}。小柄な体格のため動きも素早く、連続攻撃も得意とする{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集22|20th14|学研の図鑑22}}}}。固有技はないが剣技も優れている{{R|20th14}}。
::* [[レインボー造型企画]]の光輝は、ヒロインであることから従来のブルーよりもスーツカラーを明るくしたと述べている{{R|SPB}}。
=== ジェットマンの支援者・関係者 ===
; {{Visible anchor|{{読み仮名|小田切 綾|おだぎり あや}}|小田切 綾}}
: ジェットマンの長官。スカイフォースの幹部にしてスカイキャンプの責任者でもあり、スーパー戦隊シリーズ初の女性司令官である。ジェットマンたちを厳しくも温かく見守る、心強い最大の理解者。33歳<ref>『鳥人戦隊ジェットマン』DVD第4巻の解説書より。</ref>。
: 指揮官としての能力は言うまでもなく、軍人としても一廉の技量の持ち主で、単身で最前線に赴いて銃やロボを用いて戦うこともある。第43話では変身することなく単身ジェットガルーダに乗り、バイオ次元獣ヒルドリルを倒した{{R|group="ep"|43話}}。また、ロボや新兵器の開発にも携わるなど工学にも造詣が深い。
: たびたび起こる戦隊内部のいざこざにも、ただ沈毅で通しているように見えるが、戦いが続く5人を休暇のために旅行へ連れて行ったりと{{R|group="ep"|36話}}、折に触れて思いやりのある性格を垣間見せることもある。一方で、完璧な人生を自負しているため、恥をかかされるとすさまじい怒りを示す{{R|学研の図鑑22}}。またキャリア志向のエリート女性である一方、結婚願望も持っているようである。
: 竜たちと同様に[[飛行服]]を着ることもあるが、基本的には常に[[制服]]姿で通している。初期の地上での移動時は、[[マツダ・RX-7]](FC3C カブリオレ)を使用していたこともある{{R|group="ep"|1話}}。
: バイラムとの戦いから3年後、竜と香の結婚式に出席{{R|group="ep"|51話}}。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|一条総司令|いちじょうそうしれい}}|一条総司令}}
: 第40・41話に登場。スカイキャンプの新司令官として、ネオジェットマンとともにやってきたスカイフォースの幹部。自分を差し置いて鳥人戦隊長官に小田切が任命されたことを根に持っており、そのことへの復讐として彼女の部下であるジェットマンの追放を画策する。
: 上層部に根回しを済ませた上で小田切から鳥人戦隊の指揮権を剥奪するなど、政治力には長けているが、同時に悪い意味の軍人気質の塊でもあり、竜以外は民間人出身者で構成されるジェットマンをあからさまに見下し、正規の軍人からなるネオジェットマンの優位性を示すことに強いこだわりを見せる。またネオジェットマンに対しても、彼らの成果が自身の意にそぐわぬものであった際には邪険に扱い、窮地に際しても見殺しにしようとするなど、完全に使い捨ての道具としか見ておらず、竜からも「指揮官としての資格はない」と糾弾されたように、一貫して指揮官としての資質が欠如した人物として描写されている。
: そうした人間性は、隕石ベムが基地に侵入するという緊急事態においても全く変わらず、「自分は指揮官だから」という理由で戦闘への参加を拒否したのみならず、自ら追放した竜たちを呼び戻そうとしたり、ネオジェットマンや小田切を捨て駒にして自分だけ助かろうとするなど、どこまでも自己中心的な言行に終始。その結果、竜たちや小田切のみならず、自らの手駒であったはずのネオジェットマンからも見放される格好となった。
: 隕石ベムに襲われながらも命は取り留めたものの、それ以降の動向について作中では触れられていないが、隕石ベムが倒された後で小田切が「二度と立ち直れない」と、一条が再起不能に陥ったことを示唆する台詞を残している{{R|group="ep"|41話}}。
:
; じいや
: 本名については作中では言及されていないが、鹿鳴館家に仕え、香を幼いころから世話している。ジェットマンとしての香の戦いに直接的には関わらないものの、最初は反対しながらも200億円分のダイヤを買い占めさせ、それをアコに見せつけ元に戻す作戦に協力したり{{R|group="ep"|8話}}、ウラナイジゲンの策略で戦いに恐怖する香に、幼いころに作った「香ちゃん憲法」を引き合いに立ち直らせるなど{{R|group="ep"|19話}}、温かさと厳しさをうまく兼ね揃えながら彼女を見守る。彼もまた、香同様にジェットマンをジェントルマンと勘違いしていた。
==== ネオジェットマン ====
第40・41話に登場する第2の鳥人戦隊{{R|学研の図鑑22}}。メンバーは、J1 - 5と呼ばれており、J1をリーダーとする正規の訓練を受けたサイボーグ戦士によって構成されている{{R|学研の図鑑22}}。隕石ベムによって窮地に陥るジェットマンの前に、一条総司令と共に現れた。
ジェットマンがバードニックウェーブを力の源にしているのに対し、ネオジェットマンは右胸に埋め込まれた'''バードニック反応炉'''を力の源にしていることからエネルギー切れの心配がない。またジェットマンのような変身描写はなく、黒のアンダースーツの上から軽装のアーマー、鳥の意匠をあしらったヘルメットを着用。標準武器は左胸のホルスターに携行している光線銃の'''ネオシューター'''と右腰のホルスターに2つ携行している手榴弾の'''ネオマイン'''{{R|超全集38}}。個人武器として、J1は剣の'''ネオソード'''、J2は鎖鎌の'''ネオスティンガー'''、J4はブーメランの'''ネオスライサー'''を持つ{{R|超全集38}}。個人武器を持っていないJ3とJ5は、前者は徒手空拳、後者はネオシューターを主体としている。必殺武器は左右に砲門を備えたバズーカ砲の'''フレアーバスター'''{{R|超全集38|20th6}}。初陣では隕石ベムを退けるも、ジェットイカロスを操縦しての巨大戦では苦戦を強いられ、スカイキャンプに隕石ベムが侵入した際にも終始劣勢に立たされるなど、戦闘経験の不足ぶりを露呈する場面も散見された。
当初は一条を絶対視し、彼同様に竜たちを見下していたことから、巨大戦で彼らに助けられた際にも礼を失した態度を取り{{efn|J1のみ、ジェットマンに命を救われた後に小田切と一条の会話を聞いて、一条の醜悪な本音を知ったことをきっかけに竜たちに対する態度を改め、素直に礼を言うと同時に、恩知らずな態度を取った他のメンバーの非礼を詫びていた。}}、スカイキャンプから追放された後は正式に自分たちがジェットマンに取って代わろうとした。しかしスカイキャンプに侵入した隕石ベムの圧倒的な力と、一条の身勝手な行動で危機に追いやられる中、変身能力を失ってもなお自分たちを助けようとする竜たちの姿に、彼らこそ真のジェットマンであると考えを改め、反応炉の全エネルギーを譲渡し変身能力を復活させた。
=== その他の戦士たち ===
; 裏次元ディメンシアの戦士
: 第23・24話に登場。バイラムに滅ぼされた裏次元世界ディメンシアの最後の鳥人戦隊たち{{R|学研の図鑑42}}。3人でバードガルーダに乗って裏次元からやって来た。地球人よりも体が弱いが、鳥人への変身能力を持っている{{R|学研の図鑑42}}。
:* メインライターの井上は、ディメンシアの戦士を登場させたことについて「我ながらナイスアイデア」だったと述べている{{R|20th33}}。
:; レイ
:: 裏次元戦士のリーダー格で真面目な性格。当初から地球人との共闘を考えており、ジェットマンと協力してイカロスとガルーダを改造し、グレートイカロスへの合体を可能にするが彼自身はその姿を見ることなく、イカロスの救援に向かった際にラディゲに倒される。
:; カンナ
:: 裏次元戦士の紅一点でレイの恋人。地球で幸せになりたいと願っていたが、レイと同様にラディゲに倒される。
:; ダン
:: 裏次元戦士では最年少の弟分的存在で、彼だけは青い服を着ている。明るく軽い性格でアコにちょっかいを出す。また、他のみんながロボの改造にかかりっきりの時も仮病を使ってアコと2人っきりになり、デートに連れ出すなど子どもっぽい面も多い。レイとカンナがラディゲに殺されたうえにバードガルーダも奪われたため、変身してラディゲとの激闘の末ガルーダを奪還するがその際に重傷を負い、アコに見守られながら息を引き取り死亡した。
::* 鳥人ダンのデザインは、雨宮慶太のラフスケッチを基に企画者104の河野成寛が担当した{{R|百化河野}}。雨宮は頭部を羽毛で作ることを想定していたが、予算的に難しいため変更された{{R|百化河野}}。
:
; 裏次元ベルセルクの戦士
: 第29話に登場する、バイラムに滅ぼされた裏次元ベルセルクのただ2人の生き残り。手にした物体を武器に変化させる能力を持つ。その能力を捨てた時に、1人の人の命を救うことができる。
:; ルー
:: ベルセルクの女戦士。バイラムに復讐するために地球にやって来た。ラディゲと互角に戦う実力を持つ。紆余曲折を経て復讐心と能力を捨て、負傷した竜を救う。
:; デュラン
:: ルーの幼馴染であり、恋人。ルーの暴走を止めるために地球にやって来た。ラディゲの罠にかかってバイオ次元獣ヨロイスネークにされるも、ジェットマンの活躍で元に戻り、能力を捨てたルーと共に地球を去る。
== ジェットマンの装備・戦力 ==
=== 共通装備 ===
装備は全てメンバー共通であり、個人別の専用武器はない。手持ち武器は変身前でも使用可能。
; クロスチェンジャー{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集12|gahou104|20th6}}{{Sfn|30大戦隊超全集|2007|p=160}}}}
: ジェットマンの5人が両腕に装備している変身用のブレス。右腕用の'''エンブレムフォーメーション'''と左腕用の'''コレスポンダー'''からなる{{R|超全集12|20th6}}。「クロスチェンジャー」の発声と共にエンブレムフォーメーションの真ん中を押すと、鳥の頭と翼が飛び出し、変身する。コレスポンダーは通信機であり、変身には用いられないが、ジェットマシンを合体させるために必要なマシンコントロールキー・'''バードロック'''を搭載しており、コンソールにはめ込むことで合体する{{R|material88}}。
; バードニックスーツ{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集67|gahou104|30大161|20th6}}}}
: ジェットマンの体を守るバードニウム・ポリマー繊維製の強化スーツ{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集67|gahou104|20th6}}}}。バードニックウェーブを浴びた5人の身体を変身前から透明の皮膜状態で覆っていて、変身時にブレスからのコードシグナルによって可視化すると同時にエンブレムフォーメーションからヘルメットが射出される{{R|gahou104}}。ジェットマンに500kgのパンチ力などの強靭な身体能力と30メートル以上のジャンプ力、ジェットウィングを与える。
: 基本的にはクロスチェンジャーを起動して装着するが、ソウジキジゲン戦の凱とラディゲとの最終決戦に1人で臨んだ際の竜はクロスチェンジャーを使わずに装着した。
; ジェットウィング{{R|超全集67|30大161}}
: 基本装備。背面から上腕にかけて隠されている小さな翼。展開することで飛行することができる。
; バードブラスター{{Refnest|group="出典"|name="jet"|{{R|超全集24|gahou104|30大162|20th6}}}}
: 基本装備のレーザー銃で鳥を模している。通常は右腰のホルスターに装備。空気中のイオンをプラズマ化した高エネルギービームを左右の銃口から発射{{R|超全集24|gahou104}}。一撃で1メートル四方の鉄の固まりを溶かす{{Refnest|group="出典"|name="jet2"|{{R|超全集24|30大162|20th6}}}}。
: 第38話でレーザートカゲのバイオ次元虫を捕獲する際には、中央部から冷凍ビームを発射した。
:* シリーズ初の動物を模した共通武器である{{R|21st13}}。当時バンダイのデザイナーであった[[野中剛]]は、バードブラスターの玩具売上が良かったことを証言しており、翌年自身が担当した『[[恐竜戦隊ジュウレンジャー]]』でもこれを踏襲して恐竜の顔を模しており、以後も定番化していった{{R|21st13}}。
; ブリンガーソード{{R|group="出典"|jet}}
: 基本装備の剣で鍔の部分は鳥の翼を模している。通常は鍔を折り畳み、刃を収縮した状態で左腰のホルスターに装備。ダイヤの7 - 8倍の硬度を持ち、耐熱性にも優れ軽量なバードニウムを用いた特殊金属バードナイト特殊鋼製{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集24|gahou104|20th6|material88}}}}。刀身にプラズマエネルギーを発生させることで切れ味を上げ、戦車をも切り裂く{{R|超全集24}}。レッドのもののみ柄が長くなっている{{R|gahou106}}。
: 記憶が戻ったリエは、この武器を用いてラディゲの背中に傷を付け、その傷がジェットマンに勝利をもたらす要因となった。
: 第47話ではラディゲ人間態の助力を得たレッドホークがブリンガーソードに2人のエネルギーを込めて、トランザのバイオガンのエネルギーを押し返し、バイオガンの破壊に成功した。
; ウイングガントレッド{{R|group="出典"|jet}}
: 基本装備のガントレット。重力制御装置によって重力波を噴出し、右腕のパンチ力を強化する{{Sfn|完全超百科|2006|p=47}}{{R|超全集24}}。先端のGジェネレーター(重力発生装置)から最大150Gの衝撃波を発生させて敵をはね飛ばすことも可能{{R|group="出典"|jet2}}。先端部の左右の銃口からは重力波光線の'''ウイングビーム'''{{R|超全集24|30大162}}を放つ。
: 合体ラモンや隕石ベムとの戦いでは、レッドホークがウイングガントレッドを放った後、ブラックコンドルとイエローオウルが同時にウイングガントレッドを放ち、最後にホワイトスワンとブルースワローがウイングビームを放つ合同技を披露した{{efn|隕石ベム戦では、イエローオウルとブルースワローが担当を逆にして行った。}}。
; ビークスマッシャー{{R|group="出典"|jet}}
: 追加装備の光線銃。左右の銃口から物質の分子構造を破壊・消滅させる'''フェザー光線'''{{efn|資料によっては、'''フェーザー光線'''と記述している{{Sfn|完全超百科|2006|p=47}}{{Sfn|赤の伝説|2012|p=67}}。}}と'''モーションチェイサー'''機能で反射しながら敵を記憶し、敵を追尾する光線を発射{{R|超全集24}}。「シューティング」と叫びながら放つこともある。第33話から登場。
: 設計者の相沢博士がアースシップ壊滅時に死亡したためにエネルギー回路が未完成のままだったが、粘着ゴキブリの粘着剤でジェットストライカーが動けなくなり、ファイヤーバズーカが使用できなくなった事態を打破すべく、小田切が開発を再開。相沢の遺児である美加の記憶に隠されていた設計図により完成した。
: 小田切も粘着ゴキブリや隕石ベムとの戦いで使用し、血のヒトデが竜から離れて香に襲い掛かろうとした際には、血のヒトデを撃ち落として倒している。
; ジェットハンドカノン{{R|group="出典"|jet}}
: バードブラスターの後部にブリンガーソードを「セットアップ」の合図で合体させたエネルギー銃{{Sfn|赤の伝説|2012|p=67}}。ブラスターとソードに蓄えられた破壊エネルギー{{Sfn|超戦力超百科|2013|p=38}}を一気に放出し、半径10メートル以内の物を蒸発させる{{R|超全集24|gahou104|20th6}}。
: ジェットハンドカノンを「シュート」の合図で5人同時に発射する必殺技の'''バードボンバー'''{{R|group="出典"|jet}}は5つの光線が一体化して球体状の大型エネルギー弾となり、命中した相手を巨大なエネルギー球に包んだ後、ガラスのように割れて、ダメージを与える。一度撃つと、30分間使用不能になるのが弱点{{R|超全集24}}。初使用となった次元虫(母虫)戦では、レッドホークに命令されることが気にいらないブラックコンドルが加わらなかったことから反撃を許してしまい、それにより、ブラックコンドルもバードボンバーに参加したことで、ようやく倒すことができた。このため、正式使用はジャグチジゲン戦からとなった。粘着ゴキブリ戦では、使用不能のファイヤーバズーカの代わりに、ウイングビームを加えて威力を強化するも通用しなかった。
; スマッシュボンバー{{R|group="出典"|jet}}
: バードブラスターの後部に変形させたビークスマッシャーを「ビルドアップ」の掛け声と共に合体させたレーザーライフル。威力はジェットハンドカノンのバードボンバーの3倍{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集24|gahou104|30大162|material88}}}}。
: 5人同時で撃つスマッシュボンバー{{Sfn|完全超百科|2006|p=48}}は、5つの光線が一体化して球体状のエネルギー弾となる。その威力はファイヤーバズーカに匹敵。第33話から使用。
=== 個人技 ===
; レッドホーク
:; ウイングパンチ{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集14|gahou106|30大161|20th8}}}}
:: ジェットウイングをはばたかせながらパンチをたたき込む{{R|超全集14|20th8}}。
:; 飛行斬り{{R|gahou106|20th8}}
:: ジェットウイングを展開させて空に舞い上がり、ブリンガーソードで斬る{{R|20th8}}。ファイタージゲンに使用。
:; 飛行シュート{{R|20th8}}
:: ジェットウイングで飛行しながらバードブラスターで敵を撃つ{{R|20th8}}。
:
; ブラックコンドル
:; コンドルフィニッシュ{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集16|gahou106|30大161|20th16}}}}
:: 空中からブリンガーソードで十字に斬る{{R|超全集16|20th16}}。ソウジキジゲンを倒し、魔神ムー相手にも使用。
:
; イエローオウル
:; 岩石落とし{{Refnest|group="出典"|name="Oulu"|{{R|超全集18|gahou106|30大161|20th12}}}}
:: 大きな岩を敵に投げつける{{R|20th12}}。ファッションジゲン戦では連続で放って倒した。
:; 必殺つっぱり{{R|group="出典"|Oulu}}
:: 相撲の[[張り手]]攻撃{{R|20th12}}。
:
; ホワイトスワン
:; スワンウイング{{Refnest|group="出典"|name="swan"|{{R|超全集20|gahou106|30大161|20th10}}}}
:: ジェットウイングをマントのようにはためかせて、衝撃波で敵を吹き飛ばす{{R|超全集20|20th10}}。
:; スワニーアタック{{R|group="出典"|swan}}
:: 急降下しながら、ウイングガントレッドでパンチを放つ{{R|超全集20|20th10}}。ウラナイジゲン相手に使用。
:
; ブルースワロー
:; クロスチョップ{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou106|30大161|20th14}}}}
:: 空中から放つフライングクロスチョップ{{R|20th14}}。アクロバットな動きで敵を翻弄してから放つこともある。
=== 合同技 ===
; コンドルオウルタワーリングアタック{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集16|gahou104|30大161}}}}
: ブラックコンドルとイエローオウルのコンビネーション技。イエローの肩を踏み台にしてブラックがブリンガーソードを決め、連続してイエローが岩石落としを決める{{R|超全集16}}。第14話でのカメラジゲン戦で使用。
; ダブルキック{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集20|gahou104|20th6}}}}
: ホワイトスワンとイエローオウルのコンビネーション技。空中で手を繋ぎ、同時にキックを放つ{{R|超全集20}}。ジャグチジゲン戦では、ホワイトスワンとブルースワローで放った。
; スワン・スワロークロー
: ホワイトスワンとブルースワローが敵に抱きつき顔面をひっかきまくる。
; ジェットマンの真の力{{R|20th6}}
: 5人で空に舞い上がり、空中で巨大な火の鳥となって敵に突進する{{R|gahou104}}。ラディゲとの最終決戦で使用し、ダメージを与えることができた。
=== メカニック ===
; ジェットストライカー
: レッドホーク専用の赤い戦闘バギー{{Sfn|超戦力超百科|2013|p=27}}。第6話から登場。
: 水素を燃料としたハイドロプラズマエンジンを搭載する{{R|超全集26|20th22a}}。ブースターにより、30メートルのジャンプが可能{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE"|{{R|超全集26|gahou108|20th22a}}}}。自動操縦機能も持つ{{R|20th22a}}。
: 武器はロケットランチャー{{R|group="出典"|MACHINE}}{{efn|資料によっては、ロケット砲と記述している{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=51}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=33}}。}}とボディ先端の2門の機銃{{R|group="出典"|MACHINE}}。
: 第14話で小田切の指示を受けた竜の手で改造されたことで{{efn|雷太、香、アコの3人はカメラジゲンの手で写真に変えられており、竜と共に作業していた凱はバイラム出現の報せを受けて、焦りから作業を中断して飛び出してしまった。}}、150万度の[[プラズマ]]弾を放つ必殺武器'''ファイヤーバズーカ'''への変形が可能となった。
:; ファイヤーバズーカ
:: ジェットストライカーが変形した必殺プラズマ[[バズーカ砲]]。レッドホークの呼びかけで、変形したジェットストライカーを5人で抱え上げる。レッドホークの「ファイヤーバズーカ・スタンバイ」とレッドホーク以外の4人の「OK」の掛け声と共に、大気中から吸収したイオンと5人のエネルギーをバズーカ内に注入して、エネルギーを融合してプラズマ化させ10万気圧、摂氏150万度のプラズマ光弾'''プラズマブレット'''を精製{{R|超全集24|20th22a}}。レッドホークの「スコープ・ロック」の掛け声と共に標的を捕捉。レッドホークの「ファイヤーバズーカ」と全員の「ファイヤー」を合図に発射し、発射されたプラズマブレットは火の鳥の形状となる。5人揃わなくても発射は可能だが、威力は低下し、プラズマブレットも火の鳥の形状にはならない。発射時の反動も大きく、レッドホークが単独で使用した際は反動でレッドホークも吹き飛ばされてしまった。
:: 第14話において、カメラジゲンと盾役のグレイに同時にダメージを与えるために投入。初使用時は仲間たちがカメラジゲンの手で写真に変えられていたことから、レッドホーク単独での発射となるが、グレイの右腕を吹き飛ばし、カメラジゲンにもダメージを与えることに成功した。第25話でのライトアルマジロとの1戦目ではブラックコンドル抜き、第31話での魔神戦ではブラックコンドルとホワイトスワン抜きで使用。第34話と第42話でのグレイ戦において、レッドホークを除いた4人で使用した際には、ブラックコンドルがレッドホークの役割を担当した。最終決戦では竜の手で改造され、射手を必要としないオートコントロール機能を与えられたが、パワーアップを果たしたラディゲの口からの破壊光線によって破壊された{{R|group="ep"|51話}}。
:
; ジェットスピーダー
: ブラックコンドルとブルースワローのオフロードバイク{{R|20th22a}}。各々のパーソナルカラーが用いられている。第6話から登場。
: 最高時速360キロメートル{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE2"|{{R|超全集26|超世紀181|gahou108|30大169|20th22a}}}}。ジェットストライカー同様に自動操縦機能を搭載し、荒地も走行可能{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=33}}。
: 武器はミサイルランチャー{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀181|gahou108}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=51}}}}(劇中未使用)。
: ブルースワローはジェットバンサーの荷台に乗ることのほうが多く、ブラックコンドルも自分のバイクを使用することが多いため、使用頻度は高くない。第25話において、ブラックコンドルはジェットスピーダーの自動操縦機能を活かした奇襲攻撃でグレイを退けている。
; ジェットバンサー
: イエローオウルとホワイトスワンの黄色の[[ピックアップトラック]]{{R|20th22a}}。運転はイエローオウルが担当{{R|20th22a}}。第2話から登場。
: ハイパーガスタービンエンジンを搭載する{{R|超全集26|20th22a}}。荷台にジェットスピーダーを搭載しての運搬も可能{{R|20th22a}}。最高時速400キロメートル{{R|group="出典"|MACHINE2}}。
: 武器は車体上部と荷台に設置された三門の'''プラズマガトリング砲'''{{R|group="出典"|MACHINE}}。ライトは赤外線を発するスキャナーにもなる{{R|超全集26|20th22a}}。プラズマガトリング砲の射手は主にアコが務めているが{{R|20th22a}}、竜が行うこともあった。最終決戦において、ラディゲとの戦いで窮地に陥った竜を間一髪救った。
=== ジェットマシン ===
ジェットマン各戦士の特性が反映された5機の特殊戦闘機で鳥の頭部を持つ。外装はバードナイト特殊鋼製{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集28|20th22b|学研の図鑑42}}}}。動力として太陽系第10番惑星を構成する反物質を利用した対消滅エンジンを搭載している{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集28|30大164a|20th22b|学研の図鑑42}}}}。ジェットホーク以外の4機は第4話から正式登場。
各ジェットマシンにはローマ数字で「I」から「V」までの数字がナンバリングされており、ジェットマシンには変身しなくても搭乗することが可能。生身でジェットマシンに搭乗する際、ジェットマンはフライトスーツとヘルメットを着用する{{efn|フライトスーツは整備を行う際にも着用し、巨大マシン操縦時に変身が解けた場合もフライトスーツ姿になる。ヘルメットは白を基調としており、各人毎のパーソナルカラーのエンブレムが施されているが、凱用のヘルメットは白ではなく黒で、香用のヘルメットのエンブレムは桃色になっている。また、第20話で凱は普段着のまま、ジェットイカロスに乗り込み、すぐにブラックコンドルに変身した。}}。
* 特撮監督の[[佛田洋]]によれば、ストーリーに絡めた空中戦を描くことが目指されたが、1年間のバンクも撮らなければならないため序盤の訓練シーンが設けられたという{{R|20th9933}}。
; ジェットホーク
: ジェットマシン1号機。レッドホークが搭乗する赤い鷹型戦闘機。ジェットマシンでは最も各スペックのバランスがとれている{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE3"|{{R|超全集28|gahou110|20th22b}}}}。
: 武器は垂直尾翼基部に備えている2門の光弾砲'''プラズマホークカノン'''{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE4"|{{R|超全集28|超世紀181|gahou110|30大164a|20th22b}}}}。
: ジェットイカロスでは頭部と胴体{{R|超全集30}}、グレートイカロスでは頭部を含めた胴体中心部、イカロスハーケンでは先頭部になる。
: 第1話では小田切が操縦し、竜を連れて壊滅するアース・シップより脱出している。第40話ではJ1が操縦した。
:* 第2話では従来のような3機編隊の敵戦闘機との戦闘と差別化するため、ファイタージゲンが敵として設定され、空中戦の描写が設けられた{{R|20th9933}}。
; ジェットコンドル
: ジェットマシン2号機。ブラックコンドルが搭乗する黒い禿鷹型戦闘機。ジェットマシンでは最高のスピードを誇る{{R|超全集28}}。
: 武器は両翼に三門ずつ備えている光弾機銃'''コンドルバルカン'''{{R|group="出典"|MACHINE4}}。機首には'''重力波発生装置'''を内蔵{{R|group="出典"|MACHINE3}}。体当たり技の'''マッハタックル'''{{R|20th22b}}は第4話の訓練時に使用。ジェットホークの合同技はプラズマホークカノンと同時発射する'''ダブルジェットビーム'''{{R|超全集28|gahou110}}。
: ジェットイカロスの右足{{R|超全集30}}、イカロスハーケンでは中心部右側、グレートイカロスでは左腿になる。
: 第40話ではJ2が操縦した。
; ジェットオウル
: ジェットマシン3号機。イエローオウルが搭乗する黄色い梟型[[垂直離着陸機|VTOL戦闘機]]。高出力の機体。
: 武器は翼の内側に一門ずつ装備されている光弾機銃の'''オウルスマッシャー'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集28|30大164a|20th22b}}}}。機体下部には'''マジックハンド'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集28|超世紀181|30大164a|20th22b}}}}を装備。マジックハンドは100トンの物体を持ち上げることが可能で{{R|20th22b}}、それを活かして、岩を落下させる'''岩石落とし'''{{R|gahou110}}を繰り出す。オウルスマッシャーは劇中未使用。
: ジェットイカロス、グレートイカロスの右腕{{R|超全集30}}、イカロスハーケンでは右翼部になる。
: 第40話ではJ4が操縦した。
; ジェットスワン
: ジェットマシン4号機。ホワイトスワンが搭乗する白鳥型戦闘機。高性能[[レーダー]]を装備し、索敵能力に優れる{{R|group="出典"|MACHINE3}}。
: 武器は頭部の側面に一門ずつ装備されている光弾機銃の'''スワニーパルサー'''{{R|group="出典"|MACHINE4}}。
: ジェットイカロスの左足{{R|超全集30}}、イカロスハーケンでは中心部左側、グレートイカロスでは右腿になる。
: 第40話ではJ5が操縦した。
; ジェットスワロー
: ジェットマシン5号機。ブルースワローが搭乗する青い燕型戦闘機。運動性能に優れ、アクロバット飛行を得意としている{{R|group="出典"|MACHINE3}}。
: 武器は光弾機銃の'''スワローシャワー'''{{R|超全集28|20th22b}}(未使用)と翼を分離して飛ばす'''ウイングカッター'''{{R|group="出典"|MACHINE4}}。
: ジェットイカロス、グレートイカロスの左腕{{R|超全集30}}、イカロスハーケンでは左翼部になる。また、ウイングシールドも形成。
: 第40話ではJ3が操縦した。
=== 巨大戦闘機 ===
; イカロスハーケン
: 第5話から登場。5機のジェットマシンが「'''合体!ジェットスクラム'''」のコールで合体した巨大重爆撃戦闘機形態{{R|超全集30|20th23}}。主翼と垂直尾翼を収納したジェットホーク後部に変形した他の4機が接続される形で合体。
: 必殺技は接続した全機のエンジンで対消滅プラズマを発して機体を燃えあがらせ、マッハ15で火の鳥となって敵に体当たりする'''ジェットフェニックス'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集30|gahou110|30大164b|20th23}}}}。
: この形態からジェットイカロスに変形することや{{R|group="ep"|24話}}、逆にジェットイカロスの状態からイカロスハーケンに変形することも可能{{R|group="ep"|51話}}{{efn|『[[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]]』でも披露している。}}。
:* 玩具「天空合体DX超合金ジェットイカロス」ではオリジナルのキャリアパーツを装着することで、ディスプレイすることが可能{{R|TH4542}}。
; バードガルーダ
: 第23話から登場。鳥型の巨大戦闘機。表次元と裏次元の間を自由に航行することもできる{{R|material88}}。バイラムに対するレジスタンス活動を行っていた裏次元世界ディメンシアの戦士たちが建造したもので、後にジェットマンに託された。当初は3人乗りだったが、5人乗りに改造された。
: 武器は機体下部に装備された2門ミサイルの'''ガルドバルカン'''{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE5"|{{R|超全集32|gahou110|30大164b|20th23}}}}、口から放つ冷凍光線の'''ダイヤブリザード'''{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE6"|{{R|超全集32|超世紀181|gahou110|30大164b|20th23}}}}{{efn|セミマルには数分で破られた。}}。翼の超振動ブレード攻撃の'''ウイングスラッシャー'''{{R|超全集32|gahou110}}もあるが、劇中未使用。
; ハイパーハーケン
: 第32・34話に登場。イカロスハーケンとバードガルーダが「合体!ハーケンスクラム」のコールで合体した超巨大戦闘機{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集34|20th23|学研の図鑑42}}}}{{efn|ハーケン後部にガルーダが接続される形で合体。}}。この形態からグレートイカロスに変形することや、グレートイカロスの状態から本形態に変形することも可能。
: ボディ下部2門の砲身から強力破壊ビーム'''ハイパーバスター'''{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE7"|{{R|超全集34|gahou110|30大164b|20th23}}}}を発射。
: 必殺技は亜[[光速]]で飛行しながら、光に包まれた状態で体当たりする'''ハイパー・G・アタック'''{{R|group="出典"|MACHINE7}}。
: 第34話では、テトラボーイからの発信信号を手がかりに次元を飛び越える能力を発揮し、バイロックへの潜入を果たした。
:* シリーズ初のロボット形態以外での1号ロボと2号ロボの合体形態である{{R|20th35}}。デザインは『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』のマーベラーをイメージしている{{R|20th34}}。
:* 玩具ではバードガルーダとイカロスハーケンを固定用のディスプレイ台座にセットして完成させる{{R|TH4542}}。
=== 巨大ロボ ===
; ジェットイカロス
: 第6話から登場。5機のジェットマシンが「'''合体!スクラムウイング'''」{{R|超全集30|20th23}}のコールで合体した巨大ロボ。装甲はバードニウム合金製。胸部にはジェットマンのエンブレムが刻まれている。合体のみならオートコントロールでも可能だが{{R|超全集30}}{{efn|その際は小田切がコールする。}}、その場合は本来の強さが発揮できない。第43話では小田切の体内に寄生したヒルドリルを退治すべく、ミクロ化を行った{{efn|香はナビゲートのために残る。}}。操縦は竜が行うが、不在の場合は凱が行う。最終回でグレートイカロスから分離した際はジェットガルーダを操縦する竜を除いた4人と小田切が操縦し、竜が座る位置に凱が、凱が座る位置に小田切が座っていた{{R|group="ep"|51話}}。
: 多彩な武器を装備しており、刀身に対消滅プラズマを放出して敵を切り裂く剣の'''バードニックセイバー'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集30|超世紀181|gahou110|30大164b|20th23|学研の図鑑42}}}}、厚さ5メートルの鋼鉄板を切り裂く2本の投げ[[短剣]]'''ジェットダガー'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集30|超世紀181|gahou110|30大164b|20th23|学研の図鑑42}}}}、[[薙刀]]の'''ジェットランサー'''{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE8"|{{R|超全集30|超世紀181|gahou110|30大164b|20th23}}}}、ジェットランサーとジェットダガーを合体させた'''トライランサー'''{{R|gahou110}}、20メートル四方の鋼鉄の固まりを切断する[[斧]]の'''イカロスアックス'''{{R|group="出典"|MACHINE8}}、[[戦車]]を一撃でたたきつぶす[[ハンマー]]の'''イカロスマグナ'''{{R|group="出典"|MACHINE8}}、電流も流せる巨大鎖[[分銅]]の'''イカロスクラッシャー'''{{R|group="出典"|MACHINE8}}、ジェットスワローの主翼が変形した[[盾]]の'''ウイングシールド'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集30|gahou110|30大164b|20th23|学研の図鑑42}}}}、マッハ2の速度で放つロケットパンチの'''ショットパンチャー'''{{R|group="出典"|MACHINE8}}{{efn|主にブラックコンドルが発射を担当。15話ではレッドホークが担当。}}を使用。この他、ジェットオウルの両翼ならびにオウルスマッシャーを変形させた二連ビームガン・'''ウイングレーザー'''を持つが、劇中では未使用。第6話の凱のセリフによれば、ミサイルも装備しているが使用例はない。
: 必殺技はバードニックセイバーの刀身を発光させた状態で滑空しながら左から右に横一線に水平に斬り裂くというもので特に技名はない{{R|学研の図鑑42}}。第51話では滑空・横一線せず、左腕を落とされた状態でラゲムの背中の傷をジェットガルーダもろとも貫いた。第20話ではイカロスクラッシャーでソウジキジゲンに止めを刺している。
: 小田切いわく「地上最強のロボット」であり、次元獣相手には苦戦することは少なかったが、バイオ次元獣を初めとした次元獣以外の相手には苦戦を強いられることが多く、腕(主にジェットスワロー合体部)を通算で5回も切り落とされたり、攻撃を受けただけで操縦者の変身が解除したり<ref group="ep">第23話、第43話、第44話、最終回など。</ref>、バードニックセイバーが折れる、溶けるといった描写が何度も見られた<ref group="ep">第23話、第35話、第40話、第48話。</ref>。また、バイオ次元獣を単体で倒したことはなく、ネオジェットマンが操縦した際は実戦経験が乏しいこともあり、隕石ベムに対して太刀打ちできなかった。
; ジェットガルーダ
: 第23話から登場。バードガルーダが「'''変形!ジェットガルーダ'''」のコールで変形した巨大ロボ{{R|超全集32|20th23}}。全身の装甲は表次元には存在しない特殊元素ガルドニウム製{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集32|20th23|学研の図鑑42}}}}。人間的な頭部を持たない特異なデザインで、[[インド神話]]の「[[ガルダ]]」をモチーフにしている。ジェットマン以外では元の持ち主であるディメンシアの戦士たち{{R|group="ep"|23話|24話}}、彼らを殺害して強奪したラディゲ{{R|group="ep"|24話}}と地球以外の次元の出身者たちが操縦し、ジェットマンの2号ロボになってからは小田切が単独で操縦したこともある{{R|group="ep"|43話|51話}}。
: 装備・技は稲妻状の破壊光線'''ガルドビーム'''{{R|gahou110}}、右足で繰り出す飛び蹴りの'''ブーストキッカー'''{{R|超全集32|gahou110}}{{efn|資料によっては、'''ブーストキック'''{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=82}}と記述している。}}、全エネルギーを放出することで胸から放つ熱線ビームの'''ガルーダバースト'''{{R|group="出典"|MACHINE5}}。目の部分には透視光線{{Sfn|赤の伝説|2012|p=67}}の'''ガルドサーチャー'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集32|gahou110|30大164b}}}}を備えている。
: 必殺技は両腕のカギ爪にエネルギーを集めて発光させ、空中から敵を×字に切り裂く'''ガルーダクロー'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集32|超世紀181|gahou110|30大164b}}}}。
: 最終決戦では、第43話同様小田切が操縦して参戦。グレートイカロスの合体解除後は、竜が単独で操縦して、ラゲムの鎧となったバイロックを破壊、ラゲムを拘束。ジェットイカロスのバードニックセイバーで共に貫かれ、ラゲムもろとも爆散{{efn|竜はレッドホークに変身して脱出。}}して、残骸となった{{R|group="ep"|51話}}。
:* 設定上はジェットイカロスよりかなり大きいが、作中では同等の大きさとして扱われている。玩具でもジェットイカロスより大きいが、元バンダイ社員の[[野中剛]]が当時の担当者から聞いたところによれば、これはハイパーハーケン形態からの逆算であったという{{R|20th34}}。
; グレートイカロス
: 第24話から登場。ジェットイカロスとジェットガルーダが「'''合体!グレートスクラム'''」のキーボイスで合体した巨大ロボ{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集34|20th23|学研の図鑑42}}}}。2大ロボが右腕を交差させた後、ジェットイカロスの後ろにジェットガルーダが立ち、2体とも分離。ジェットガルーダの胴体部内にジェットイカロスの胴体、ジェットガルーダの両手足内にジェットイカロスの両手足が合体し、ヘッドギアを被る。「完成・グレートイカロス」の発声を行う。セミマルに対抗すべく、ジェットマンとディメンシアチームが共同で改造を行い、合体可能となった。極めて高い防御性能を持つ{{Sfn|完全超百科|2006|p=49}}。
: 頭部からは'''グレートビーム'''{{R|group="出典"|MACHINE7}}、胸の円形部からは'''ブレストビーム'''{{R|超全集34}}(未使用)を発射。
: 必殺技は胸部の[[エンブレム]]から発する超高温・超高圧光線'''バードメーザー'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集34|超世紀181|gahou110|30大164b|20th23|学研の図鑑42}}}}。ベロニカ戦とラゲム戦で通用しなかった際には、直撃したメーザーのエンブレムの形が崩れるというかたちで表現された<ref group="ep">第44話、第48話、最終回。</ref>。
: 第31話でのイエローのセリフによるとブラックとホワイトがいないため、合体できないとされていたが、第27話と第48話ではホワイトやレッドを欠いた4人で合体を果たしている。初合体時はガルーダを操縦していたダンは合体完了後、ブルーに連れられて、彼女と一緒の操縦席に座っていたが、最終回でガルーダを操縦していた小田切が搭乗した際は後部の固定式の座席に座っていた。
:* デザイン画では、ジェットコンドルとジェットスワンの位置がジェットイカロスと同様であった{{R|TH4542}}。
:
; テトラボーイ
: 第31話から登場。ジェットイカロスとジェットガルーダのサポート用に小田切長官が開発した青い3号ロボ{{R|超全集36|学研の図鑑42}}。ニューロコンピューター内蔵の無人による自動操縦式サポートロボで、素早い動きによるパンチやキックなどの攪乱戦法を得意とする{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集36|20th23|学研の図鑑42|TH4542}}}}。武装はなく、テトラパンチやテトラキックなどの技で戦う{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集36|20th23|学研の図鑑42}}}}。
: 「'''テトラフォーメーション'''」や「'''変形・テトラバスター'''」のコールで4連装バズーカ砲の'''テトラバスター'''{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀181|20th23}}{{Sfn|赤の伝説|2012|p=67}}}}に変形。ジェットイカロスやジェットガルーダの武器となり、'''超強力プラズマタキオンビーム'''を上下左右の砲口から発射{{R|超全集36|20th23}}。グレートイカロスとの合体技として、テトラボーイをバードメーザーに取り込んで放つ戦法があり、この技でベロニカを破った{{R|group="ep"|45話}}。
: 第34話では竜がバイロックに侵入するためのトロイの木馬とし、第39話では凱がグレイとルーレット勝負をした際には、気づかれない程度にカジノバーを傾けることで、凱に勝利をもたらしたり{{efn|第39話の脚本を手掛けた[[荒川稔久]]は、誰にも気づかれないように傾けるという想定で執筆していたが、実際の映像について傾けすぎだろうと述懐している{{R|20th9332}}。}}、戦闘以外でも活躍している。
: 最終回では自身のパンチでラゲムの弱点を発見するも、拘束された状態で両腕を切断されて機能停止してしまう。
:* 玩具ではグレートイカロスにも装着可能で、オリジナルギミックとして付属のグリップをテトラバスターに付けることで人の手で持てる、なりきり玩具の面を持っていた{{R|TH4542}}。また、玩具オリジナルの形態として弾丸とグリップが付属した「ガンモード」に変形が可能{{R|TH4542}}。
=== スペック ===
ロボットの重量設定はシリーズ他作品よりも小さいものとなっている{{R|20th99}}。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1"
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! 名称 !! 全長 !! 重量 !! colspan=2|スピード
|-
! ジェットストライカー
|
|120{{nbsp}}kg{{R|gahou108|20th22a}}
|colspan=2|500{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]]{{R|group="出典"|MACHINE2}}
|-
! ジェットホーク
|29{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="SPEC"|{{R|超全集28|超世紀181|gahou110|20th22b}}}}
|15{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|SPEC}}
|colspan=2|[[マッハ数|マッハ]]7{{R|group="出典"|MACHINE4}}
|-
! ジェットコンドル
|35.2{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC}}
|20{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}}
|colspan=2|マッハ10{{R|group="出典"|MACHINE4}}
|-
! ジェットオウル
|24.9{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC}}
|21{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}}
|colspan=2|マッハ2{{R|group="出典"|MACHINE4}}
|-
! ジェットスワン
|35.2{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC}}
|24{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}}
|colspan=2|マッハ4{{R|group="出典"|MACHINE4}}
|-
! ジェットスワロー
|24.9{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC}}
|14{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}}
|colspan=2|マッハ8.5{{R|group="出典"|MACHINE4}}
|-
! イカロスハーケン
|43.3{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE8}}
|94{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE8}}
|colspan=2|マッハ12{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集30|超世紀181|gahou110|20th23}}}}{{efn|書籍『30大スーパー戦隊超全集』では「マッハ15」と記述している{{R|30大164b}}。}}
|-
! バードガルーダ
|54{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE6}}
|105{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE6}}
|colspan=2|マッハ20{{R|group="出典"|MACHINE6}}
|-
! ハイパーハーケン
|88.6{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="SPEC2"|{{R|超全集34|超世紀181|gahou110|30大164b|20th23}}}}
|199{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC2}}
|colspan=2|亜光速{{R|超世紀181}}(光速に近い{{R|group="出典"|MACHINE7}})
|-
! テトラバスター
|32{{nbsp}}m{{R|超全集36}}
|32{{nbsp}}t{{R|超全集36}}
|
|-
! 名称 !! 全高 !! 重量 !! スピード !! 出力
|-
! ジェットイカロス
|52.8{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE8}}
|94{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE8}}
|マッハ1{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集30|gahou110|20th23}}}}
|260万馬力{{R|超世紀181|20th23}}
|-
! ジェットガルーダ
|60.8{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE5}}{{efn|書籍『超世紀全戦隊大全集』では「61.4メートル」と記述している{{R|超世紀181}}。}}
|105{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE6}}
|マッハ6{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集32|gahou110|20th23}}}}{{efn|書籍『超世紀全戦隊大全集』では「マッハ2」と記述している{{R|超世紀181}}。}}
|300万馬力{{R|20th23}}
|-
! グレートイカロス
|77.5{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC2}}
|199{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC2}}
|マッハ2.5{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集34|超世紀181|gahou110|20th23}}}}
|800万馬力{{R|20th23}}
|-
! テトラボーイ
|40{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="SPEC3"|{{R|超全集36|超世紀181|gahou110|30大164b|20th23}}}}
|32{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC3}}
|マッハ0.8{{Refnest|group="出典"|{{R|超全集36|gahou110|20th23}}}}
|
|}
=== 基地・施設 ===
; スカイキャンプ
: スカイフォースの施設で鳥人戦隊の基地。内部には、司令室やトレーニングジム、ジェットマシン各機を収容している格納庫などがあり、中盤以降は最上部の司令室上に、バードガルーダがまさに鳥のように止まっている。基地内は外観よりも広く、ロボ状態の3大ロボを立たせた状態で整備することも可能。また、コンピューターによる管理が徹底しているためか、ジェットマンの5人と小田切以外の常駐メンバーが登場していない。第41話において、バイオ次元獣隕石ベムに潜入された。
; アース・シップ
: 第1話に登場。地球の衛星軌道上に浮かび、常に監視している地球防衛軍スカイフォースの中枢を成す宇宙基地で、内部には各研究施設が設備されており、Jプロジェクトや兵器開発などの研究が進められていたが、バイラムの攻撃によって破壊され、地上にバードニックウェーブが降り注ぐことになった。
== 次元戦団バイラム ==
裏次元侵略戦争によって裏次元世界を滅亡させた後、表次元に相当する地球を掌中に治めんと次元を超えて攻めてきた次元戦団。地球人を醜く愚かな者たちと侮蔑し、巨大魔城バイロックを拠点に、地球征服の計画を企てる。
裏次元での戦闘中に女帝ジューザが行方を晦ましたため首領の座は空位であり、残った4大幹部たちはジェットマンを先に倒した者が首領になるというトロイカ体制によるルールの下、半ばゲーム感覚で侵略を開始。しかし、4人の幹部はいずれも自分自身の存在に絶対的な優越感を抱いているプライドの高い性格のため、仲間意識はあれど基本的に信頼関係はなく、足の引っ張り合いで勝機を逃したり、時には1人の失敗を大勢で嘲笑うなど、それらが原因でジェットマンを倒す絶好の機会を逃すこともしばしばあった。それでもそれぞれ実力は互角だったことから辛うじて均衡は保たれていたが、トランザ誕生でパワーバランスが崩れて以降、ラディゲとトランザの露骨なまでの妨害合戦に加え、ラディゲ・マリア・グレイのもつれた感情により、組織は半ば自滅という形で崩壊していった。
一部のキャラクターを除き、身長・体重などの設定はない{{R|20th24}}。
* キャラクターデザインは左右非対称が意識され{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=361|loc=「DESIGNER'S INTERVIEW14 [[野口竜]]」}}、幹部は白と黒のモノトーンでまとめられている{{R|百化283}}。
; {{Visible anchor|{{読み仮名|裏次元伯爵ラディゲ|うらじげんはくしゃくラディゲ}}|裏次元伯爵ラディゲ}}{{efn|「裏次元伯爵」を名乗ったのは第1話でのみ。}}
: 4幹部の実質的なリーダー格{{R|20th24}}。25歳{{R|超全集41|20th24}}。残忍かつ冷酷な野心家で、異常なまでに執念深い。人間の情愛などを「愚劣な感情」などと軽んじる一方、マリアに対しては倒錯した感情を抱いていた。
: 尊大かつ傲岸不遜な性格で、自分の上に立つ者の存在を決して認めず、他者が必死で努力する姿を敵味方関係なく「健気」と皮肉を交えて嘲笑し{{efn|セミマルがグレートイカロスに敗れた時には逆にマリア・グレイ・トランに嘲笑された。}}、相手を見下しきった態度であしらう姿がしばしば見受けられた。ジューザにより記憶を消され、人間の姿にされた際は心優しい好青年となるが{{R|group="ep"|17話}}、記憶を取り戻した時には何の未練もなく自身を助けた女性・早紀を殺害している{{R|group="ep"|18話}}。ベロニカのエネルギーを吸収した影響で再び人間の姿になるが、以前とは異なり、記憶は保ったままだった{{R|group="ep"|46話}}。正体を隠して、竜に味方する形でトランザへの逆襲を成功させる{{R|group="ep"|47話}}。
: 目的のためなら手段を選ばない冷徹さと柔軟な判断力が特徴で、ジェットマンを倒すために裏次元人の生き残りや太古の眠りより復活した魔神、ジェットマンの長官である小田切など、バイラム固有の戦力以外の存在をしばしば利用した。ジューザやトランザといった組織内の仇敵を打倒するためにはジェットマンと共闘することさえ辞さなかった。
: 悪役特有の邪悪な性質を持つ一方、バイラムの戦士としての誇りもあり、トランザによって魔神ロボ・ベロニカに捕らわれた雷太、アコ、香を救い出したり、崖から落ちそうになった竜を助けたこともあった{{efn|前者の理由が「自分の獲物だから」、後者が「トランザを倒すため」。}}。また、トランザの鼻を明かすためとはいえ、マリアとグレイに協力を要請して共に隕石ベムを作り出した際は、その2人と祝杯を挙げていた。
: 次元の壁を切り裂くこともできる'''秘剣ブラディゲート'''と呼ばれる剣を愛用する{{R|超全集41|20th24}}。第27話では自身の霊能力を披露したが、ジェットマンを霊界に引きずり込み始末しようとして失敗した際、跳ね返ったダメージによって霊能力を失う{{R|group="ep"|27話}}。またラディゲとしての姿の他に、'''凶獣ラディガン'''なる真の姿を持つ。終盤ではベロニカのエネルギーを吸収し、最終形態の'''ラゲム'''に変化する力を得た。
: 執念深さが常軌を逸しており、特に一度屈服させられたトランザへの恨みは凄まじく、幾度となく逆襲を狙った末に第47話ラストにおいて凄まじい報復を行ったが、一生消えない生き地獄を与え続けるために、あえて止めは刺さずにそのまま彼を放置した。
:* {{要出典範囲|名の由来は「肉体の悪魔」の著者・[[レーモン・ラディゲ]]から。|date=2020年3月}}デザインは恐竜や巻貝の化石の要素が取り入れられている{{R|百化283}}。
:; {{読み仮名|凶獣ラディガン|きょうじゅうラディガン}}
:: ラディゲの真の姿。ラディゲは怒りの感情が昂ることでこの形態に変身する。おぞましい怪物の姿をしており、左手に秘剣ブラディゲートが一体化している。口からは衝撃波を放つ{{R|超全集41|20th24}}。この姿に変身すると敵のあらゆる攻撃を防御する。魔人ロボ・ベロニカの体内でその生体エネルギーを吸収する際にも一瞬だが変身した。
::* デザインはラディゲと同様に恐竜の化石の要素が取り入れられている{{R|百化283}}。
::{{キャラスペック
|名称=ラゲム
|身長=97{{nbsp}}m{{R|超全集41|gahou121}}
|体重=5,000{{nbsp}}t{{R|超全集41|gahou121}}
}}
:; ラゲム
:: 魔神ロボ・ベロニカの生体エネルギーを吸収したことにより変身可能となった、ラディガンの強化進化形態にしてラディゲの最終形態である巨大怪獣。両手の爪や舌、噛み付きといった攻撃を行い、最大の特徴は、バードニックセイバーをへし折り、バードメーザーを受けてもびくともせず、ジェットフェニックスをもはね返す高い防御力にある。胸部にはラディガンの顔があり、発声もその部分から行う。
:: 初登場時はラディゲの意思とは無関係に変身したためか、胸部にはラディガンの顔がなく、本能のままに暴れ、グレートイカロスのボディを貫いて勝利した。最終決戦においては、ラディゲがジェットマンの真の力でダメージを受けた後、自らの意思で変身。以前と同じようにジェットマンの各巨大ロボを圧倒するが、リエに付けられた背中の傷が巨大化したことで開いてしまい、その部分が唯一の弱点となる。テトラボーイの攻撃で弱点が発覚した後、傷を隠すためにバイロックを鎧として纏った。
::* デザイン画ではラディガンの顔はついていなかった{{R|百化301}}。
:; ラゲム(第二形態{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=300}}{{efn|書籍『スーパー戦隊画報 第2巻』では「最終形態」と記述している{{R|gahou121}}。}})
:: ラゲムがバイロックを鎧とする形で融合した姿。唯一の弱点である背中の傷を保護するための姿であるが、バイロックの力でパワーアップも果たした。頭部の球体からは破壊光線や糸状の拘束光線を放ち、両肩からは2つの光輪を放つ。身体から光を発して衝撃波を起こし、それで大量の大岩をぶつける戦法も披露。防御面も強化され、バリヤーの展開が可能となった。触手の一つにはブラディゲードが一体化している{{R|超全集41}}。
:: テトラボーイを拘束した状態から光輪で両腕を切断して機能停止させ、衝撃波からの大岩でジェットイカロスの左腕も破壊するが、竜が操縦するジェットガルーダの右腕からの打撃で鎧を破壊されてしまい、ジェットガルーダに拘束された状態からジェットイカロスのバードニックセイバーで背中の傷をジェットガルーダと一緒に貫かれて最期を迎えた。死の間際、ラディゲは吐血しながら「これで、このラディゲを倒したつもりだろうが、俺の魂は裏次元から永遠に貴様たちを呪い続けるだろう!」という呪詛の言葉を残し、ジェットガルーダもろとも爆散。ラディゲの兜だけが残された。
::* スーツは強化前後で頭部を差し替える形となっている{{R|百化301}}。
:
; {{Visible anchor|マリア}} / {{読み仮名|藍 リエ|あおい リエ}}
: 元スカイフォース隊員で、竜の恋人。鳥人戦隊の隊員にも選ばれていたが、バイラム襲撃の際に次元の歪みに吸い込まれてしまい、ラディゲの洗脳を受ける。ただし竜はリエの死亡を確信しており、マリアをリエと同一人物だとは第31話まで知ることはなかった{{R|group="ep"|31話}}。
: かつてのリエはピアノを愛する心優しい女性だったが、洗脳されて以来、烈しい闘争心を持った好戦的な性格へと変貌する。恋人だった竜も倒すべき仇敵としか認識していない。しかしマリアとなってもピアノの腕は全く衰えておらず、その美しい演奏はグレイを惹きつけた{{efn|マリア / リエが劇中でよく弾くピアノ曲は、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の「[[ピアノソナタ第23番 (ベートーヴェン)|熱情ソナタ]]」第1楽章。}}。
: 万能スティック・'''ネクロッド'''が武器{{R|超全集42|20th24}}。リエとしての記憶と人格はすでにないが、洗脳前の記憶が時々[[フラッシュバック]]し苦しむ様が見受けられる。
: 新参の幹部であるため女帝ジューザのことを知らなかった。
: ラディゲを貶しながらも、その実力は認めており、ジューザの手で人間に変えられたラディゲが復活した際は喜びの顔を見せ、隕石ベムを用いた作戦ではラディゲに祝福の言葉をかけている。
: ラディゲの策略により血のヒトデに寄生されるが{{R|group="ep"|48話}}{{efn|資料によっては、この状態の名称を'''獣化マリア'''と記述している{{R|20th24}}。}}、竜の呼び掛けにより血のヒトデから解放され、リエとしての記憶と姿を取り戻す{{R|group="ep"|49話}}。ただしマリアとして悪事を働いてきた記憶もそのまま残ってしまい、数々の凶行に手を染めてしまった自分を許せなかったため、竜の下にも戻ることができず、せめて自分の人生を踏みにじったラディゲに一矢報いようと、彼の背に恨みを込めてブリンガーソードを突き立てるもラディゲの怒りを買い、即座に返り討ちにされる形で斬られ、竜に自分のことを忘れるように遺言を残して彼の前から去った後、グレイに看取られながら竜を想いつつ涙を流し、息を引き取った{{R|group="ep"|49話}}。そしてグレイの涙と共に肉体は消滅した。バイラムが壊滅して3年後、香と結婚式を上げる竜の前に幻影の姿で現れ祝福した{{R|group="ep"|51話}}。
:
; {{Visible anchor|グレイ}}
: ロボット幹部。その出生については全く不明。背中に必殺砲'''グレイギャノン'''{{R|超全集42|20th24}}を、腕にはマルチショットガン・'''ハンドグレイザー'''{{R|超全集42|20th24}}を装備している。掌からは衝撃波も放つ。鋼鉄のボディの防御力は高く{{efn|ただし、第25話でラディゲの剣を手で受け止めた時には手から流血していた。}}、パワー・格闘戦にも秀でるなど戦闘力は高い。
: ロボットではあるがマリアに恋心を持ったり、ワインと煙草(指に装備された超小型の火炎放射器をライターのように使い火をつける)とクラシック音楽を好むという人間的な面を持ち{{R|超全集42|20th24}}、バイラムのメンバーでは比較的理性的な性格。ラディゲとは対照的に卑怯な手を使わず、正々堂々の戦いを好む。その一方、第34話では自身と結託した竜(実はアンドロイド)が用済みとなるや銃撃し、バイロック内にてジェットマンと対決するジゴクメドゥーサにグレートイカロスのエネルギーを吸わせ、そのまま自爆するよう指示するといった冷徹な策士としての顔を見せたり、第36話ではクラシック音楽を鑑賞していたところ、笛を吹いて邪魔をしてきたトランに向かってワイングラスを投げつけて激昂するといった気性の荒い一面も見せている。他の幹部たちと違って侵略などの野心をあまり持たず、純粋に強い相手との戦いだけを楽しんでいた節がある。
: マリアの奏でるピアノに魅了されてからは彼女に騎士道的な愛を捧げるようになり{{R|group="ep"|13話}}、何度か自らの身体を盾にマリアを助けた。彼女を救うため、ジェットマンに助力を求めたこともある{{R|group="ep"|42話|49話}}。マリアからも信頼されるようになったが、自身の想いは最後までマリアには伝わらないまま、その最期を看取り、自身の涙が、マリアの亡骸を光に変えた{{R|group="ep"|49話}}。
: マリア以外の幹部に対しても、第32話と第40話ではラディゲのバイオ次元獣製作に協力し、第11話ではトランの勧めで遊び心を学ぶためにジハンキジゲンを作り出すなど、協調性を見せている。トランザからは他の2人の幹部よりは信用されていた模様{{efn|ラディゲは造反のたびにトランザに痛めつけられ、マリアも第38話でバイオ次元虫をジェットマンに奪われる失態を犯した際にトランザから制裁を受けたが、グレイは第39話でトランザの指示を拒否するも、トランザはグレイを痛めつけて無理やり言うことを聞かせようとはしなかった。第44話ではトランザの指示によるものなのか、グレイがベロニカの修理を行った。}}。
: 前述の通り、侵略に関する積極的な野心を持たないため、次元獣・バイオ次元獣を自ら指揮することは少ないが、指揮した次元獣・バイオ次元獣は、ジェットマンを窮地に追い込んでいる{{efn|ジハンキジゲンはジェットマン各人の隠れた性格を引き出したことにより、まともに戦えない状態にし、ジクウマンモスはジェットマンを原始時代に飛ばし、スナイパーキャットは凱以外のジェットマンをチェスの駒のような状態に変えた。}}。
: ブラックコンドル・凱とはライバル関係にあり、何度も一対一の死闘を繰り広げた。終盤には敵味方を超えて互いに戦士として認め合う部分があり、両者の間には奇妙な友情が芽生えていた。
: マリアの最期を看取った後、その喪失感から凱との決着を付けようと決意し、同じくラディゲに対し、リエの弔い合戦を挑みに向かった竜を追う凱たちの前に立ちはだかり、凱と最後の[[一騎討ち]]を繰り広げた末に胸にブリンガーソードを突き刺され敗北{{R|group="ep"|50話}}。凱に火を付けてもらった葉巻で最期の一服を嗜みながらマリアのことを想いつつ、静かに機能は停止していった{{R|group="ep"|50話}}{{efn|グレイ役の[[日下秀昭]]によれば、ラストシーンはアクション監督の[[竹田道弘]]の提案によりテレビドラマ『[[太陽にほえろ!]]』のジーパン刑事をイメージしている{{R|仮面俳優133}}。}}。
:
; {{Visible anchor|トラン}}
: 超能力を使う少年幹部。9歳{{R|超全集42}}。ゲーム感覚で作戦を立案し、相手の被害はおろか、味方の犠牲などですら「ゲームを楽しむためだけの要素」と捉える冷酷な性格。ジェットマンを倒した者が、バイラムの頂点に立つルールも彼の考案によるもの。
: 腕に装着したキーパッド・'''メタルトランサー'''{{R|超全集42|20th24}}によって発動するサイコキネシスでジェットマンを度々翻弄した。いつもはゴーグルをして顔を隠しているが、サイコキネシス使用時にはゴーグルを展開させて素顔を現す。
: 年少の子どもであることにある種の劣等感を持っており、他の幹部からそれを蔑まれ、ジェットマンからも子どもゆえに情けをかけられたことでコンプレックスが爆発し、急成長を遂げる{{R|group="ep"|36話}}。
:* デザイン画では髪を逆立てていたが、ヘアセットがうまく行かず実現しなかった{{R|百化285}}。
:; トランザ
:: 第37話より登場。敵味方両方から子ども扱いされ、フラストレーションが限界に達したトランが怒りによって成人に成長した姿で、帝王を自称する。髪は銀色で、唇は紫色である。能力が急上昇していることに反して精神面はあまり成長しているとは言えず、非常に自己顕示欲が強い。初登場時に竜と剣術勝負、凱とゴルフでのナンパ勝負、挙げ句の果てには雷太と大食い勝負をするなど、どんなことでも相手の上に立たないと気が済まない。好んで自らの権力を誇示したがり、ラディゲに自分の名を「様」付けで呼ぶことを強要したり、自らが建造した魔神ロボ・ベロニカに他の3幹部をわざわざ搭乗させたりした。
:: 性格は尊大かつ自己中心的で、自分の失敗を全く認めないどころか、他の幹部に転嫁するなど、性格の歪みに加速が掛かっている。ラディゲらが生み出したバイオ次元獣・隕石ベムを横取りして自分の作戦に利用しておきながら、隕石ベムがジェットマンに敗れると責任をラディゲらに押しつけたのは、その例である。
:: サイコキネシスに加え、魔剣'''ボルトランザ'''{{R|超全集42|20th24}}による攻撃力は圧倒的で、初戦では単独でジェットマンと他のバイラム幹部たちを軽く一蹴し、レッドホークのスーツをズタズタにして、竜に深手を負わせた。第47話のみだが幻想世界を作り出す能力も持つようである。右腕のメタルトランサーは自身の武器やグリナム兵の呼び出し、隕石ベムの心臓部を爆破寸前に取り出すなど、少年時より能力がアップしている。また、テストロボットG2とベロニカの単独での建造、レッドホーク以外の4人をオブジェに変えたバイオガンの開発など、技術力も計り知れないものとなっている。
:: トラン時代は愉快犯的な行動が多く見られたが、成長後はそういった面は影を潜め{{efn|第46話でトマト大王をけしかけた際には、トラン時代を思わせる愉快犯ぶりを見せた。}}、地球侵略よりもジェットマンを倒すことに執着するようになった。何度かジェットマンを全滅寸前まで追い込んだが、いずれもラディゲの妨害により失敗に終っている。一度はラディゲを初めとする他幹部を服従させるが、所詮は力のみによる支配であり、誰一人として忠誠を誓う者はなかった。
:: ベロニカの一件でラディゲが消息を絶つと、組織を完全に掌握したと高をくくるが、バイオガンを用いてのジェットマン狩りの最中、帰還したラディゲの支援を受けたレッドホークの反撃に遭い、スマッシュボンバーで力の根源であったメタルトランサーを破壊されたことにより、剥製化していたブラックコンドルたちも復活してしまい、全員揃ってのファイヤーバズーカの直撃を受けて重傷を負う。さらにラディゲの執拗な追い討ちで心身共に酷く甚振られたことで、脳神経を破壊され{{efn|医師たちはトランザの容態を見て、「脳神経がズタズタにやられてしまい、一生廃人のまま(再起する見込みはない)」という会話を交わしている。}}、精神崩壊を起こし、一生自分への恐怖心を抱えながら生かすために、敢えて止めを刺されることなく放置された末、身元不明の患者として城東脳神経外科病院に収容される。最後はラディゲの宣言したとおり、彼への恐怖に怯え、発狂して錯乱しながら隔離病棟の奥へと消えていった{{R|group="ep"|47話}}。
::* メインライターの井上は、トランが大人になるという展開は最初から決めていたといい、見せ場を意図した展開であると述べている{{R|20th33}}。[[広瀬匠]]の起用も井上のリクエストであったという{{R|20th33}}。一方で、トランザの壮絶な末路は、脚本にはなく演者である広瀬の発案だったという<ref>高木晃彦編「東映ヒーロー悪役列伝vol.2 広瀬 裕」『東映ヒーロー悪役列伝』[[辰巳出版]]、2006年12月30日、ISBN 4-7778-0319-8、32頁。</ref>。
:
; {{Visible anchor|女帝ジューザ}}
: 第17話・第18話に登場。かつて「万物の創造と破壊を司る者」として恐れられ、ラディゲ、グレイ、トランを従え、多くの次元世界を侵略したバイラムの首領。裏次元侵略戦争の際、最後の戦いで戦死したものと思われていたが、実は戦いで受けたダメージを回復させるために休眠していただけで、新たなる活力を得たことで永い眠りから目覚める。究極の破壊獣セミマルを宿し、隕石と共に地球に襲来した。
: 口から衝撃波、手から結晶ビームを放つ{{R|20th24}}。
: ジェットマンを一度は単独で圧倒し、凱の身体を結晶と化すなど実力者であり、ラディゲの謀叛もいとも簡単に退けて見せた。そのラディゲを人間の姿に変えて記憶を消した上で、一度は表次元に追放するが、復活したラディゲの逆襲に遭い、ラディゲの指示を受けたジェットマンのバードブラスター一斉攻撃とホワイトスワンのブリンガーソードで額の結晶を壊されたことで弱体化する。自分の顔を傷つけられたことに激昂し本性を現したが、カリスマ性のなさが災いして、ラディゲ以外の幹部たちや結晶状態から戻ったブラックコンドルからも攻撃され、ファイヤーバズーカで重傷を負う。その場は何とか逃げ延びるが、最終的にバイラムには不要の存在として、ラディゲの手で止めを刺される結末となった。
:; 魔獣ジューザ
:: ジューザが変身した姿。ラディゲが変身したラディガン同様に怪物の姿をしている。
:: 左手から連続で破壊弾を放つ{{R|20th24}}。
:
; 魔獣セミマル
: 第23・24話に登場。ジューザが身に宿し、忘れ形見として残していた卵から誕生し、ラディゲに育成された究極の破壊獣。ラディゲ曰く破壊の神。卵は大きく、[[イラガ]]の[[繭]]のような模様をしており、幼体は[[イモムシ]]のような姿で、成体は背中に翼が生えた[[悪魔]]のような外見をしている。人間の苦しみや悲しみを吸って成長し、「その力は一瞬にして大地を割り、天を焦がす」と恐れられる。手から出す念動波であらゆる物を破壊する。初陣であるジェットイカロス戦では評判通りの並外れた戦闘能力を発揮し、バードニックセイバーを叩き折ったうえ、ジェットイカロスの両腕を斬り、戦闘不能にまで追い込んだ。ジェットガルーダとの戦闘でも圧倒するが、ガルーダバーストでダメージを負ったために撤退。グレートイカロスとの戦いでも互角の勝負を展開するが、バードメーザーに敗れる。
:
; {{読み仮名|次元獣|じげんじゅう}} / {{読み仮名|バイオ次元獣|バイオじげんじゅう}}
: バイラムの怪人。次元虫に寄生された人間界の物体が怪物化したのが次元獣である。その証拠として体のどこかに次元虫がある。寄生された物体が小型の場合は一律に人間大の次元獣として発生するが、元々人間大より大きな物体が寄生された場合は巨大(元の物体と同等の大きさ)な次元獣として発生する{{efn|ファイタージゲン、ハウスジゲン、バスジゲンがこの例である。}}。また、人間大の次元獣も次元虫の能力もしくはメタルトランサーの操作により巨大化することが可能で、通常は一度倒されたあと巨大化再生する。次元虫ごと倒されたために巨大化できなかった次元獣や、戦略により倒されなくても巨大化した次元獣も存在する。名称は「◯◯ジゲン」。バイオ次元虫に寄生された物体は生物の特性も併せ持ったバイオ次元獣となる。名称は「◯◯+生物名」or「生物名+◯◯」。巨大化能力については次元獣と変わりない。
: 次元獣には人語を発し、個性的なキャラクターを持つ者も多かったが、バイオ次元獣にこのようなタイプは少なく、侵略兵器としての性格が色濃くなった。
:
; {{読み仮名|次元虫|じげんむし}}
: ジェットマンに倒された母虫が残した卵から孵化したもので、大きさは人の掌よりやや大きい程度。様々な物体に寄生して次元獣と呼ばれる怪物を発生させるほか、状況に応じて次元獣を巨大化させる能力も持つ。死ぬと跡形もなく消滅する。
:; {{読み仮名|次元虫(母虫)|じげんむし ははむし}}
:: 第1話に登場。バイラムに使役されている昆虫型の生物。等身大の大きさで人間を捕食して栄養とし数十個の卵を生み落としたが、初戦でジェットマンに深手を負わされ退却。その後も出撃したが、初めてジェットマンが五人揃った戦いで必殺技のバードボンバーによって倒された。
:; {{読み仮名|バイオ次元虫|バイオじげんむし}}
:: マリアが次元虫に生物の遺伝子を付加し、強化改造された物。外見的には次元虫と全く異なる。寄生された物体はバイオ次元獣となる。バイオ次元虫は不完全な合成生物であり、繁殖はできない。
::* デザインは[[クモ]]をモチーフに[[カブトガニ]]のイメージも取り入れられている{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=294}}。
:
; グリナム兵
: 種のような物体・グリナムの種から生まれるバイラムの戦闘兵。斧のような剣と指から撃つ弾丸を武器とする他、体を蔦状に変化させて相手を捕縛できる。知能はさほど高くないが、人語を話せる他、「強化のために次元虫を付けてもらいたい」と思うなど思考を有する者もいる。第28話では[[阿部渡]]が声をあてている。ドライヤージゲンとトランの間を行ったりきたりした一団など、個性的な面もある。一度だけ、女性の体型をしたグリナム兵が登場した。
:
; G2
: 第42話に登場。ベロニカ開発の過程でトランザが試験的に開発したテストロボット。ボディカラーは黄色。想定していたほどの結果が出なかったため、製造早々トランザに欠陥品扱いされ、グリナム兵の訓練用に供せられることになったが逃亡する。その後、地上に迷い出た際に機能停止しかけていたところをグレイに助けられたのをきっかけに彼を慕うが、当のグレイは一時の同情から助けたまでに過ぎず、以降は全く相手にされないでいた。
: 最後はジェットマンのファイヤーバズーカから身を挺してグレイを守るが、グレイからはその奮闘を気づかれることなく、誰にも看取らぬまま機能停止し爆発する。
:* デザインモチーフは[[デッサン人形]]{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=298}}。
=== バイラムの戦力 ===
; 魔城バイロック
: 次元間の狭間に浮かぶバイラムの要塞。次元転移装置を装備しており、これによって表次元と裏次元を自在に航行可能。内部には重力などの物理法則が一切無視された空間が広がっている。
: 最終回では、ラディゲが表次元に召喚し、ラゲムの鎧として装着した。
:{{機動兵器
|名称=ベロニカ
|別称=魔神ロボ
|全高=92{{nbsp}}m{{R|超全集42|gahou120}}
|重量=500{{nbsp}}t{{R|超全集42|gahou120}}
|飛行速度=マッハ4{{R|超全集42|gahou120}}
}}
; 魔神ロボ ベロニカ
: 第44話・第45話に登場。トランザが対グレートイカロス用に開発した生体メカにして巨大ロボ。
: テストロボットのG2を経て、完成し、巨大なモノリス状の物体から出現した。ロボットには珍しく相撲のような[[褌]]がついている。操縦席には全員が搭乗するが、主操縦はトランザが担当。内部に拘束した人間から吸収した生体エネルギーで動き、武器は斧の付いた形状の剣とシールドに加え、腹部から放つアンカーや光の翼も搭載。
: ジェットマンとは三度に渡って交戦。1戦目ではラディゲが操縦に割り込んだことで生じた隙を突かれ、バードニックセイバーによる反撃を受けてコクピットを破損して撤退。2戦目ではバードメーザーをシールドで受け止め、アンカーでグレートイカロスの腹部を貫き、そこから侵入したトランザの手で雷太、香、アコの3人を捕虜にすることにも成功。3戦目では捕虜たちに加え、ラディゲも生体エネルギーとするが、ラディゲに逆にエネルギーを吸収されて出力が低下し、生体エネルギー要員もジェットマンに全員救出されてしまう。最終的にはバードメーザーのエネルギーにテトラボーイを乗せて突っ込ませる合体技を受けて爆発四散した。
:* デザインは雨宮慶太が担当{{R|百化300}}。雨宮はスーツアクターの[[宮崎剛 (俳優)|宮崎剛]]のためにデザインしており、宮崎の手の芝居を気に入っていたことから指をすべて動かせるようにしている{{R|仮面俳優199}}。また、宮崎はジェットイカロス役の日下秀昭との身長差が10センチメートル以上あったため、足は20センチメートルほどの高下駄となっている{{R|仮面俳優199}}。
== 三魔神 ==
第30 - 32話に登場。太古の昔より地球に存在し、人間の天敵として生き続けてきた3体の怪物で悪魔的な外見をしている。人類を助ける行動に出るが、それは人類を人間果実という食糧にするため。永い眠りについていたが初めにムーが尖兵として復活し、その後、ラモンとゴーグもラディゲの血で復活。ラディゲはラモンとゴーグを従わせようとしたがバイラムは食糧である人間の敵であるため、拒絶されるもバイオ次元虫を用いて、従わせることに成功した。
; ムー
: 最下級の魔神で両腕に付けた刃が武器。手首は再生可能。
: ラモンとゴーグを復活させようと戦士の血を求めて香をさらった。コンドルフィニッシュとファイヤーバズーカで重傷を負った後、ラモンとゴーグのもとへと敗走するが、ゴーグの手で消滅させられる。
; ラモン
: ムーより後に復活した2体の魔神の片割れで剣と牙状の刃が武器。体から触手を出して戦士の血や魔神の遺体を吸収。治癒能力で傷ついた人間を回復させた後、[[パイナップル]]に似た形状の人間果実に変え、口から出す管でエキスを吸うことを楽しみとする。
: ゴーグがジェットマンに敗れた際、その遺体を吸収して、パワーアップしようとしたところをラディゲによってバイオ次元虫に寄生され、配下にされる。
:* 目はスーツアクターの目が直接出る形状となっている{{R|百化296}}。
:; ラモン(合体){{R|20th24}}
:: ラモンとゴーグが合体した姿。魔神の力に執着するラディゲがグレイの協力を得て回収したゴーグの遺体をバイロック内に運び、体内にバイオ次元虫を数匹忍ばせて元の位置に戻し、ラモンがその遺体を吸収しようとしたところをバイオ次元虫を寄生合体させ、配下とした。牙や光球といった合体前の双方の武器のほか、両手からの光線を武器とする。
:: 折しもジェットマンは、内部トラブルで凱と香が離脱、さらに魔神の攻撃でマリアがリエに戻るも、ラディゲによって再びマリアになったため、ショックの竜は現実逃避に陥り、空中分解状態だったが、凱の励ましで竜は元に戻り、ジェットマンのウィングガントレッド連続攻撃に敗北。巨大化後は、ハイパーハーケンのハイパー・G・アタックで粉砕された。
::* デザイン画では腹部から鳥のような脚が現れるギミックが存在した{{R|百化296}}。
; ゴーグ
: ラモンと同時に復活した魔神で二又の槍を武器とする。自力で巨大化することが可能。
: 巨大戦ではジェットイカロスとジェットガルーダを相手に優位な戦いを見せたが、間一髪で完成したテトラボーイが加わって形勢逆転し、ジェットイカロスのテトラバスターで倒される。遺体は、ラモンとラディゲが争っている隙にグレイに持ち去られて、ラディゲにバイオ次元虫を仕掛けられる。
: 復活した際には「傷ついた戦士に用はない!」と言っていたが、それ以降はほとんどセリフはない。
:* 目はラモンと同様にスーツアクターの目が直接出る形状となっている{{R|百化296}}。
== キャスト ==
=== レギュラー・準レギュラー ===
* 天堂竜 / レッドホーク - [[田中弘太郎 (俳優)|田中弘太郎]]
* 鹿鳴館香 / ホワイトスワン - [[岸田里佳]]
* 大石雷太 / イエローオウル - [[ただのいっこ|成瀬富久]]
* 早坂アコ / ブルースワロー - [[内田さゆり]]
* 結城凱 / ブラックコンドル - [[若松俊秀]]
* 小田切長官{{efn|第1話のオープニングクレジットでは「小田切綾」。}} - [[三輝みきこ]](第1 - 8,10,11,13 - 17,20 - 25,27 - 37,39 - 41.43 - 51話)
* じいや - [[早川雄三]](第1,2,4,8,13,19,22,23話)
* ラディゲ - [[舘正貴|舘大介]]
* マリア / 藍リエ{{efn|第50・51話のオープニングクレジットでは「リエ」。}} - [[丸山真歩|丸山真穂]]
* グレイ{{efn|声兼スーツアクター。}} - [[日下秀昭]](第1 - 42,44 - 50話)
* トラン - [[久我未来]](第1 - 37話)
* トランザ{{efn|第36話のオープニングクレジットでは役名未表記。}} - [[広瀬裕|広瀬匠]](第36 - 47話)
* ナレーション - [[垂木勉]]
=== 主なゲスト出演者 ===
* 長官 - [[松本朝生]](第1話)
* 女ディーラー - 松本由香(第2話)
* サングラスの男 - [[野村和也]](第2話)
* 体育教師 - [[稲山玄]](第2話)
* 婦警 - [[細井正美]](第3話)
* 男 - 松山恭尚(第3話)
* 北大路総一郎 - 水橋智(第4話)
* 神父 - [[児玉頼信]](第4話)
* 中年の男 - [[喜多川2tom|喜多川務]](第6話)
* ウエイトレス - 湯川晶子(第6話)
* 女の子 - 飯千隆子(第6話)
* 竜のおばあちゃん - [[村田知栄子]](第7話)
* 相原江美子 - [[野田よしこ]](第7話)
* 龍見恭太郎 - [[てらそままさき|寺杣昌紀]](第8話)
* 老夫婦 - [[大木史郎]]、[[高山千草]](第8話)
* サツキ{{efn|第51話のオープニングクレジットでは「サッちゃん」。}} - 華井すずみ(第9・51話)
* 少年時代の雷太 - [[須藤晃]](第9話)
* 少女時代のサツキ - [[百地千寿]](第9話)
* ガードマン - 飯尾英城(第9話)
* 警官 - 平節男(第9話)
* ウエイター - [[道脇広行]](第9話)
* 龍田三夫 - 入沢宏彰(第10話)
* 母親 - 三瓶奈奈(第10話)
* OL1 - 河岸加奈子(第10話)
* OL2 - [[松本恵子]](第10話)
* OL3 - 岸川恭子(第10話)
* 女子大生 - 青木克枝(第10話)
* バスの乗客 - [[吉田真弓 (女優)|吉田真弓]]、[[三川雄三]]、[[中村瑞希]]、[[益田てつ|益田哲夫]]、中島実(第12話)
* 運転手 - 蘭紅徹、栗田聖佐晃(第12話)
* カメラマン - 流川修(第13話)
* モデル - 小又奈名子(第13話)
* ギャル - 坂本静華、浜島ちあき、虎谷美津子(第13話)
* ウェイトレス - 山崎明美(第14話)
* テニス少女 - 成田有里恵(第14話)
* キョウコ - [[塩原薫]](第15話)
* 音楽の先生 - 松原晶代(第15話)
* アコのクラスメイト - 真下琴絵、西島愛(第15話)
* アイドル歌手 - 菊地博(第15話)
* 間吹静子 - [[湯原弘美]](第16話)
* 間吹周一郎 - [[内山森彦]](第16話)
* 医師 - [[春延朋也]](第16話)
* 看護婦 - 鮏川亨代(第16話)
* 漫画家 - 新井ふかし(第16話)
* 主婦 - 二階堂美由紀(第16話)
* 早紀 - [[古川理科|古川りか]](第17・18話)
* 医師 - [[茂木和範]](第18話)
* お手伝い - [[松本じゅん]](第18話)
* 6才の香 - [[小出由華]](第19話)
* 女占い師・リリカ - 荒木ひとみ(第19話)
* 作業員 - 今井清也、大内浩司(第19話)
* ミチル - [[遠野なぎこ|青木秋美]](第20話)
* 咲子 - 長谷川美佳(第20話)
* 晴夫 - 武田涼佑(第20話)
* 神父 - [[木村修]](第20話)
* 花嫁 - 大内陽子、遠藤さとみ、曽我部天佐子(第20話)
* 幼いアコ - 大藤晶子(第21話)
* 井口 - [[ドン貫太郎]](第21話)
* 男、A - 田中正太郎(第21話)
* 男、B - 野村利之(第21話)
* 女の子 - 柏木友佳(第21話)
* レイ - [[石渡譲|石渡譲二]](第23・24話)
* カンナ - [[前田夏菜子|前田賀奈子]](第23・24話)
* ダン - [[藤原秀樹]](第23・24話)
* 凱の女友達 - 佐藤亜里、彩田かりな(第23話)
* リーカ{{R|20th12|東映ヒーローMAX}} - 岸田里佳(第26話)
* 原始人 - [[山浦栄]]、[[泉福之助]]、[[渡部るみ]](第26話)
* 泰元上人 - [[石橋雅史]](第27話)
* 老婆 - [[花原照子]](第27話)
* 少女 - [[田原加奈子]](第27話)
* 美女 - 三瓶奈奈(第27話)
* お婆ちゃん - [[戸川暁子]](第28話)
* 床やさん - 外川和彦(第28話)
* ルー - 高木あゆみ(第29話)
* デュラン - 菊池優介(第29話)
* 長老 - [[岩城力也]](第29話)
* 剣士 - [[岡本美登]](第30話)
* ボクサー - 仲館剣(第30話)
* 男1 - [[中川正義]](第30話)
* 男2 - [[久野明孝]](第30話)
* 作業員 - 石田哲也、[[鈴木信明]](第31話)
* 相沢博士 - [[伴大介|伴直弥]](第33話)
* 美加 - 塙紀子(第33話)
* 院長 - [[森富士夫]](第33話)
* 恵理 - 永松佳奈(第35話)
* お母さん - [[寺内よりえ]](第35話)
* 女の子 - 宮島育美(第36話)
* 母親 - 武田留美子(第36話)
* ギャル - 北村陽子、香月久美子(第37話)
* 柳 - [[浜田治貴|浜田治紀]](第38話)
* 谷口教授 - [[村上幹夫]](第38話)
* 女ディーラー - 森下真弓(第39話)
* 一条総司令 - [[手塚秀彰]](第40・41話)
* J1{{efn|name="neo"|クレジットではネオジェットマンと表記。}} - [[望月祐多]](第40・41話)
* J2{{efn|name="neo"}} - [[笠原竜司]](第40・41話)
* J3{{efn|name="neo"}} - [[渡辺実 (俳優)|渡辺実]](第40・41話)
* J4{{efn|name="neo"}} - [[宮崎剛 (俳優)|宮崎剛]](第40・41話)
* J5{{efn|name="neo"}} - [[長門美由樹]](第40・41話)
* 香の父 - [[桝田徳寿]](第43話)
* 香の母 - [[五十嵐五十鈴]](第43話)
* 凱のガールフレンド - 吉村庸子(第44話)、山口夏海(第44・48話)、工藤めぐみ(第44・48話)
* 幼い雷太 - [[田嶋秀任]](第46話)
* 雷太のおばあちゃん - [[橋本菊子]](第46話)
* 医師 - 栗田聖佐晃、中川正義(第47話)
* 警備員 - [[山崎之也]](第48話)
* ドライバー - 吉成幸一(第48話)
* アコのマネージャー - [[東條昭平|東条庄兵]](第51話)
* ひったくり犯 - 大藤直樹(第51話)
* 神父 - 新堀和男(第51話)
* 花屋店員 - 鮭川亨子(第51話)
=== スーツアクター ===
ホワイトスワン役の[[蜂須賀祐一]]は、第17話撮影中に左頬骨を粉砕骨折する重傷を負い降板{{R|仮面俳優37|20th89}}。その後、復帰には3年を要した{{R|仮面俳優37|20th89}}。
* レッドホーク - [[新堀和男]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.redactionclub.com/member/KazuoNiibori.html|title=新堀和男|publisher=株式会社レッド・エンタテインメント・デリヴァー|accessdate=2011-04-27}}</ref>、[[前田浩]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www15.plala.or.jp/redmax/prof.html |title=前田浩 プロフィール|publisher=O.S FACTORY|accessdate=2012-07-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071223005207/http://www15.plala.or.jp/redmax/prof.html|archivedate=2007-12-23 }}</ref>
* ホワイトスワン{{Refnest|group="出典"|<ref>『特撮 NEW TYPE THE LIVE』2012年4月号([[角川書店]])p51</ref>{{R|仮面俳優37|20th89}}}} - [[蜂須賀祐一]]、[[赤田昌人]]
* イエローオウル{{Refnest|group="出典"|{{R|episode one|gokai|仮面俳優191}}}} - [[石垣広文]]
* ブルースワロー<ref name="all">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.allcinema.net/person/117612|title=蜂須賀昭二のプロフィール|work=|author=|publisher=[[allcinema]]|accessdate=2012-04-24}}</ref> - [[蜂須賀昭二]]
* ブラックコンドル{{R|仮面俳優163}} - [[大藤直樹]]
* グレイ<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.allcinema.net/person/115223|title=日下秀昭のプロフィール|work=|author=|publisher=[[allcinema]]|accessdate=2012-04-06 14:38}}</ref>{{R|仮面俳優133}} - [[日下秀昭]]
* テトラボーイ{{R|21st14}}、ジェットガルーダ{{R|21st14}}、グリナム兵<ref name="ジェットマン!">{{Cite web|和書|date=2011-09-05|url=https://ameblo.jp/motokuni55v/entry-11008785060.html|title=ジェットマン!|publisher=「motoブログ」|accessdate=2011-09-05}}</ref> - [[竹内康博]]
* 次元獣{{R|仮面俳優199}}{{efn|ヌードルジゲンほか{{R|仮面俳優199}}。}}、ベロニカ{{R|仮面俳優199}} - [[宮崎剛 (俳優)|宮崎剛]]
* グリナム兵{{R|ジェットマン!}} - [[中川素州]]、[[福沢博文]]、林潔、[[中川清人]]
== スタッフ ==
メイン監督には前作まで4年連続担当の[[長石多可男]]に代わり、キャラクターデザイナーでもある映画監督・[[雨宮慶太]]を起用。雨宮は、先に制作が決まっていた映画『[[ゼイラム]]』の撮影のため、第1話・第2話を撮影した後一旦離脱し、第19話から復帰した{{R|20th32}}。また[[矢島信男]]に代わり、『ファイブマン』から特撮監督に就いた[[佛田洋]]や、当時チーフ助監督として参加し、本作品の終盤にて非公式ながら監督を代行した[[渡辺勝也]]などと合わせ世代交代が図られた。東映不思議コメディーシリーズやスケバン刑事シリーズを手掛けていた[[坂本太郎 (テレビドラマ監督)|坂本太郎]]も本作品でシリーズに初参加した{{R|20th00}}。坂本は、なぜオファーが来たかは知らないが、変わった感じが欲しかったのだろうと述べている{{R|20th00}}。
第30話からは後に[[仮面ライダーシリーズ|平成仮面ライダーシリーズ]]を多く手掛けることとなる[[白倉伸一郎]]がプロデューサー補として参加。
世代交代は脚本面にもおよんでおり、メインライターは前作まで9年連続担当の[[曽田博久]]に代わり、若手の実力派として台頭してきた[[井上敏樹]]が起用されている。井上をメインライターに起用するにあたって、当初テレビ朝日側のプロデューサーから「態度のでかさ」を理由に反対意見が出ており、これを心配した鈴木プロデューサーが「酒を飲んで話せば彼も悪い人間じゃない」と「井上君を囲む会」を開いたという逸話が残されている<ref>{{Cite web|和書|publisher=Changerion Memorial 東映公式サイト|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/changerion/interview/toshiki-inoue.stm|title=井上敏樹インタビュー|accessdate=2012-11-10}}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref>。この他[[荒川稔久]]や[[荒木憲一]]、[[川崎ヒロユキ]]をはじめとするサブライター陣にも、当時若手の脚本家が多数起用された{{R|20th9332}}。荒川はシリーズ初参加であったが、井上から変化球を書くよう求められ「戦隊らしさ」を気にする必要がなく書きやすかったと述べている{{Sfn|21st 3|2017|p=32|loc=「スーパー戦隊制作の裏舞台 荒川稔久」}}{{R|20th9332}}。
このように若手スタッフの起用が目立つ一方で、これまでシリーズに携わってきたスタッフも一部は前作より続投しており、監督の東條昭平、[[蓑輪雅夫]]、脚本(サブライター)の[[藤井邦夫]]、撮影技師の[[いのくままさお]]などは引き続き本作品を支えることとなった。さらにこれまで長くシリーズを離れていた[[金田治]]がパイロット作品にアクションコーディネーターとして携わった他、[[野口竜]]もキャラクターデザイナーとして10年ぶりに復帰し次元獣をはじめとする個性豊かな敵デザインを手掛けるなど、バラエティに富んだスタッフ編成となっている。
アクション監督を務めた[[竹田道弘]]は、アクション面でも変化は試みられたが、当時の合成技術やワイヤーワークの限界などから雨宮の意図に応えられたかは疑問であったと述懐している{{R|20th9333}}。
劇中音楽は外山和彦 (KAZZ TOYAMA) が担当。後に第28話に理髪師役でゲスト出演も果たしている。
* プロデューサー - 宇都宮恭三、[[梶淳]](テレビ朝日)・[[鈴木武幸]](東映)
* 原作 - [[八手三郎]]
* 連載 - [[テレビマガジン]]、[[てれびくん]]、[[テレビランド]]
* 脚本 - [[井上敏樹]]、[[荒木憲一]]、[[川崎ヒロユキ]]、[[荒川稔久]]、[[藤井邦夫]]、[[渡辺麻実]]、八渡直樹、[[増田貴彦]]
* 音楽 - KAZZ TOYAMA(第4話までは外山和彦名義)
* アクション監督 - [[竹田道弘]]([[ジャパンアクションクラブ|ジャパン・アクション・クラブ]])
* 監督 - [[雨宮慶太]]、新井清、[[東條昭平]]、[[坂本太郎 (テレビドラマ監督)|坂本太郎]]、[[蓑輪雅夫]]
* 撮影 - [[いのくままさお]]
* 照明 - 中川勇雄、斎藤久
* 美術 - 山下宏
* キャラクターデザイン - [[野口竜]]、河野成浩{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|pp=282、362}}、雨宮慶太{{efn|第44、45話に登場のベロニカのデザインを担当<ref name="百化300" />。}}
* 造型 - [[前澤範|前沢範]]
* イラスト - 上遠野恵介(第1, 2話)、竹本のぼる(第10話)
* 録音 - 石川孝
* 編集 - 山口一喜、伊吹勝雄
* 記録 - 栗原節子、國米美子、高山秀子、吉田由香、岡重佳子
* 選曲 - 宮葉勝行
* 効果 - [[大泉音映]]
* アクションコーディネーター - [[金田治]](第1, 2話のみ)
* 計測 - 黒須健雄
* プロデューサー補 - [[白倉伸一郎]](第30話より)
* 助監督 - [[渡辺勝也]]、[[竹本昇]]
* 操演 - 船越幹雄
* 美粧 - サン・メイク
* 衣裳 - 東京衣裳
* 装飾 - [[装美社]]
* 装置 - 東映美術センター、紀和美建
* 進行主任 - 奈良場稔、室橋忠、後藤田伸幸
* 制作デスク - 岩永恭一郎
* 制作担当 - 藤田佳紀
* 企画協力 - [[企画者104]]
* 資料 - 河野成浩
* 造型製作 - [[レインボー造型企画]]
* 視覚効果 - [[映画工房]]
* 現像 - [[東映化学工業|東映化学]]
* カースタント - [[タケシレーシング]]
* 車輌協力 - [[マツダ|MAZDA]]
* オートバイ協力 - [[スズキ (企業)|スズキ株式会社]]
* ビデオ合成 - [[東通ecgシステム]](前岡良徹、鈴木康夫、佐藤祐宏、大野英樹)
* 撮影協力 - [[後楽園ゆうえんち]]、[[那須高原]]・りんどう湖ファミリー牧場、パルテノン多摩
* (株)[[特撮研究所]]
** 操演 - [[鈴木昶]]、[[尾上克郎]]
** 撮影 - 高橋政千
** 照明 - 林方谷
** 美術 - [[三池敏夫]]
* 特撮監督 - [[佛田洋]]
* 制作 - [[テレビ朝日]]・[[東映]]・[[東映エージエンシー]]
== 音楽 ==
=== 主題歌 ===
{{Infobox Single <!-- プロジェクト:楽曲 をご覧ください -->
| Name = 鳥人戦隊ジェットマン
| Artist = [[影山ヒロノブ]]
| Album =
| A-side =
| B-side = こころはタマゴ
| Released = [[1991年]][[2月27日]]
| Recorded = 1991年<br/>{{JPN}}
| Genre = [[J-POP]]
| Length =
| Label = [[日本コロムビア]]
| Lyricist = [[荒木とよひさ]]
| Composer = [[つのごうじ]]
| Producer =
| Certification = 第7回[[日本ゴールドディスク大賞]]アルバム賞学芸部門
| Chart position =
| Last single = [[CHA-LA HEAD-CHA-LA]]<br/>([[1989年]])
| This single = '''鳥人戦隊ジェットマン'''<br/>(1991年)
| Next single = [[サイレントメビウス]]〜イメージソングXY-II〜<br/>(1992年)
}}
『[[超電子バイオマン]]』以降、主題歌作曲には歌謡曲畑の作曲家が起用されていたが、本作品ではおもにアニメ・子ども向け番組で活躍していたシンガーソングライターの[[つのごうじ]]を起用。特にオープニングテーマでは王道ヒーローソングへの回帰を見せることとなった。
主題歌を歌う影山は、「[[電撃戦隊チェンジマン]]」(KAGE名義)、「[[光戦隊マスクマン#主題歌|光戦隊マスクマン]]」に次いでシリーズ3度目の主題歌歌唱。なお、この他本作品では挿入歌を4曲担当している。
; オープニングテーマ「鳥人戦隊ジェットマン」
: 作詞:[[荒木とよひさ]] / 作曲・編曲:つのごうじ / 歌:[[影山ヒロノブ]]
: 予告ではインストゥルメンタル版が使用された。番宣CMではアレンジ版のBGMが使用されている。また、後楽園ゆうえんちヒーローショーのCMでもインストゥルメンタル版が使用されている。
: 主題歌候補として同曲の他に「[[#挿入歌|時を駆けて]]」(のちに挿入歌として使用)が挙げられていた{{R|5colored}}。東映とテレビ朝日は「時を駆けて」を支持する中、つのと影山、日本コロムビアディレクターの木村裕史は「鳥人戦隊ジェットマン」を推して同曲のレコーディングを強行、プレゼンの結果最終的に同曲が採用されることとなったという逸話がある{{R|5colored}}。
: 影山は、ヒーローソングはマイナーコードの曲が多いため、メジャーコードの主題歌は新鮮で、絶対に売れると感じたという{{R|20th21}}。
: [[サバン・エンターテイメント]]の会長[[ハイム・サバン]]は、歌詞の中でヒーローの名を何度も連呼する発想を絶賛しており{{R|figure}}、同社が制作した『[[パワーレンジャー]]』の主題歌もタイトル名を連呼するものとなっている{{R|VISUAL}}{{efn|フィギュア王のインタビューにおいて、鈴木はジェットマンの歌がパワーレンジャーに影響を与えたことについては「そうだと思う」と述べており、断定はしていない{{R|figure}}。}}。
; エンディングテーマ「こころはタマゴ」
: 作詞:荒木とよひさ / 作曲:つのごうじ / 編曲:[[山本健司]] / 歌:影山ヒロノブ
: カノンコードが使用されたバラード曲である。
: 最終回では1番フルコーラス+2番ハーフ(サビ部分)という構成で使われた。
: 影山はオープニングよりもこちらの方が気に入っているといい、後年自身のライブなどでも度々歌唱している{{R|20th21}}。
: 2009年3月6日発売の『[[「ハヤテのごとく!」キャラクターカバーCD 〜選曲:畑健二郎〜]]』で[[西沢歩]]役の[[高橋美佳子]]が、2020年1月29日発売の『SAYAKAVER.2』で[[佐咲紗花]]が<ref>{{Twitter status2|sasakiSSsayaka|1205741090382307328|2019年12月14日|accessdate=2020-03-02}}</ref>、それぞれカバーしている。
=== 挿入歌 ===
; 「時を駆けて」(第14・16話)
: 作詞:荒木とよひさ / 作曲:つのごうじ / 編曲:山本健司 / 歌:影山ヒロノブ
: 主題歌候補として制作された楽曲{{R|5colored}}。新番組予告および第18・21・25・37話ではインストゥルメンタル版が使用された。
; 「炎のコンドル」(第20話)
: 作詞:井上敏樹、[[里乃塚玲央|そのべかずのり]] / 作曲:[[松澤浩明]] / 編曲:[[石田勝範]] / 歌:結城凱(若松俊秀)
; 「ゲームじゃないんだぜ」(第13・19話)
: 作詞:そのべかずのり / 作曲:柴矢俊彦 / 編曲:KAZZ TOYAMA / 歌:影山ヒロノブ
: 第38話ではインストゥルメンタル版が使用された。
; 「大空の誓い」
: 作詞:安藤芳彦 / 作曲:つのごうじ / 編曲:KAZZ TOYAMA / 歌:[[森の木児童合唱団]]
: 第13話では本曲のメロディが、カメラジゲンの被害者になるモデルの撮影シーンで流れている。
; 「鳥になろうよ」
: 作詞:八手三郎 / 作曲:柴矢俊彦 / 編曲:石田勝範 / 歌:副島俊直、SHINES
; 「悲しきグリナム兵」(第28話)
: 作詞:そのべかずのり / 作曲・編曲・歌:KAZZ TOYAMA
: インストゥルメンタル版と併用して使用された。
; 「青空で会いましょう」
: 作詞:安藤芳彦 / 作曲:[[小杉保夫]] / 編曲:KAZZ TOYAMA / 歌:[[斉藤小百合]]
; 「ジェットイカロス 無敵ロボ!」(第12話)
: 作詞:八手三郎 / 作曲:小杉保夫 / 編曲:石田勝範 / 歌:影山ヒロノブ
: 第16話および最終話ではインストゥルメンタル版が使用された。
; 「ジェットガルーダ鳥のロボ」(第36・43話)
: 作詞:八手三郎 / 作曲・編曲:KAZZ TOYAMA / 歌:影山ヒロノブ
; 「陽気なアコちゃん」(第10話)
: 作詞:荒川稔久 / 作曲・編曲:若松俊秀 / 歌:早坂アコ(内田さゆり)、鹿鳴館香(岸田里佳)
: 作曲は凱役の若松が担当しており、撮影現場で依頼され1日で仕上げたという{{R|超全集72}}。
; 「Bye Bye バレンタイン」(第6話)
: 作詞:鮎川めぐみ / 作曲:金田一郎 / 編曲:金田一郎 / 歌:[[PINK SAPPHIRE]]
; 「[[ファラオのように]]」(第7話)
: 作詞:[[デーモン閣下|デーモン小暮]] / 作曲:[[ACE (ミュージシャン)|エース清水]] / 編曲:[[聖飢魔II]]、[[松崎雄一]] / 歌:聖飢魔II
; 「愛の魔力」(最終話)
: 作詞:白峰美津子 / 作曲:[[上田知華]] / 編曲:[[新川博]] / 歌:[[Lip's]]
=== CD ===
* 鳥人戦隊ジェットマン 音楽集 (COCC-7464)
* 鳥人戦隊ジェットマン 音楽集II (COCC-7892)
* 鳥人戦隊ジェットマン 音楽集III (COCC-10045)
** このうち、音楽集Iのみ2007年に「ANIMEX 1200」シリーズとして復刻。
* 鳥人戦隊ジェットマン ヒット曲集」(COCC-7588)
** 1991年度[[ゴールドディスク大賞]]アルバム大賞学芸部門受賞。影山は、ヒーローソングで受賞できたことは意外かつ大きな喜びであったと述べている{{R|20th21}}。
* 鳥人戦隊ジェットマン スーパーアクションサウンド (COCC-9068)
** 2部構成からなる番外編となるドラマアルバム。同アルバムオリジナルのバイオ次元獣ギロチンコウモリ(声:[[西尾徳]])が、テレビシリーズ前半に登場する主な次元獣を率いてジェットマンと交戦する。3号ロボ・テトラボーイも登場する。
* 鳥人戦隊ジェットマン コンプリートソングコレクション (COCC-14062)
** [[日本コロムビア]]のあ〜る盤として復刻 (COR-14062)
* 鳥人戦隊ジェットマン ミュージックコレクション (COCC-13978 - 13979)
** 音楽集I - IIIのハイライト版だが、収録時間の都合上、音楽集IIIに収録されていた「ジェットガルーダ鳥のロボ」のインストゥルメンタル版など、一部の楽曲が未収録となっている。
== 放送日程 ==
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
|-
!放送日!!話数!!サブタイトル!!登場怪人!!脚本!!アクションコーディネーター!!アクション監督!!監督
|-style="text-align: center;"
|align="right"|1991年{{0}}2月15日
|1||戦士を探せ
|style="text-align: left;"|
* 次元虫(母虫)
|style="text-align: left;" rowspan="7"|井上敏樹
|style="text-align: left;" rowspan="2"|金田治
|style="text-align: left;" rowspan="51"|竹田道弘
|style="text-align: left;" rowspan="2"|雨宮慶太
|-style="text-align: center;"
|align="right"|2月22日
|2||第三の戦士
|style="text-align: left;"|
* [[戦闘機|ファイター]]ジゲン
* 次元虫(母虫)
|-style="text-align: center;"
|align="right"|3月{{0}}1日||3||五つの力!
|style="text-align: left;"|
* [[蛇口|ジャグチ]]ジゲン
|style="text-align: left;" rowspan="49"|
|style="text-align: left;" rowspan="2"|新井清
|-style="text-align: center;"
|align="right"|3月{{0}}8日
|4||戦う花嫁
|style="text-align: left;" rowspan="2"|
* [[交通信号機|ロード]]ジゲン
|-style="text-align: center;"
|align="right"|3月15日
|5||俺に惚れろ
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東條昭平
|-style="text-align: center;"
|align="right"|3月22日
|6||怒れロボ!
|style="text-align: left;"|
* [[マンション|ハウス]]ジゲン
* 凶獣ラディガン
|-style="text-align: center;"
|align="right"|3月29日
|7||竜の結婚!?
|style="text-align: left;"|
* [[鏡|カガミ]]ジゲン(声 - [[桑原たけし]])
|style="text-align: left;" rowspan="2"|坂本太郎
|-style="text-align: center;"
|align="right"|4月{{0}}5日
|8||笑うダイヤ
|style="text-align: left;"|
* [[ダイヤモンド|ダイヤ]]ジゲン
|style="text-align: left;"|荒木憲一
|-style="text-align: center;"
|align="right"|4月12日
|9||泥んこの恋
|style="text-align: left;"|
* [[ミシン|ファッション]]ジゲン(声 - [[依田英助]])
|style="text-align: left;"|川崎ヒロユキ
|style="text-align: left;" rowspan="2"|蓑輪雅夫
|-style="text-align: center;"
|align="right"|4月19日
|10||カップめん
|style="text-align: left;"|
* [[カップ麺|ヌードル]]ジゲン(ゴッドラーメン)(声 - [[神山卓三]])
|style="text-align: left;"|荒川稔久
|-style="text-align: center;"
|align="right"|4月26日
|11||危険な遊び
|style="text-align: left;"|
* [[自動販売機|ジハンキ]]ジゲン(声 - [[梅津秀行]])
|style="text-align: left;"|藤井邦夫
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東條昭平
|-style="text-align: center;"
|align="right"|5月{{0}}3日
|12||地獄行バス
|style="text-align: left;"|
* [[路線バス|バス]]ジゲン
|style="text-align: left;" rowspan="3"|井上敏樹
|-style="text-align: center;"
|align="right"|5月10日
|13||愛の迷路
|style="text-align: left;" rowspan="2"|
* [[カメラ]]ジゲン(声 - 梅津秀行)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|蓑輪雅夫
|-style="text-align: center;"
|align="right"|5月17日
|14||愛の必殺{{Ruby|砲|バズーカ}}
|-style="text-align: center;"
|align="right"|5月24日
|15||高校生戦士
|style="text-align: left;"|
* [[スピーカー|ボイス]]ジゲン(声 - [[西尾徳]])
|style="text-align: left;"|渡辺麻実
|style="text-align: left;" rowspan="2"|新井清
|-style="text-align: center;"
|align="right"|5月31日
|16||紙々の叛乱
|style="text-align: left;"|
* [[紙|カミ]]ジゲン
|style="text-align: left;"|荒木憲一
|-style="text-align: center;"
|align="right"|6月{{0}}7日
|17||復活の女帝
|style="text-align: left;"|
* 女帝ジューザ(演 - [[高都幸子]])
|style="text-align: left;" rowspan="2"|井上敏樹
|style="text-align: left;" rowspan="2"|坂本太郎
|-style="text-align: center;"
|align="right"|6月14日
|18||凱、死す!
|style="text-align: left;"|
* 女帝ジューザ=魔獣ジューザ
|-style="text-align: center;"
|align="right"|6月21日
|19||見えます!
|style="text-align: left;"|
* [[水晶玉|ウラナイ]]ジゲン(演 - [[荒木ひとみ]]、声 - [[土井美加]])
* 死神
|style="text-align: left;"|荒川稔久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|雨宮慶太
|-style="text-align: center;"
|align="right"|6月28日
|20||結婚掃除機
|style="text-align: left;"|
* [[掃除機|ソウジキ]]ジゲン(声 - [[山口健]])
|style="text-align: left;" rowspan="2"|荒木憲一
|-style="text-align: center;"
|align="right"|7月{{0}}5日
|21||歩くゴミ
|style="text-align: left;"|
* [[ごみ|ゴミ]]ジゲン(プータン)(声 - [[松本梨香]])
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東條昭平
|-style="text-align: center;"
|align="right"|7月12日
|22||爆発する恋
|style="text-align: left;" rowspan="3"|
* 魔獣セミマル
|style="text-align: left;" rowspan="3"|井上敏樹
|-style="text-align: center;"
|align="right"|7月19日
|23||新戦隊登場
|style="text-align: left;" rowspan="2"|雨宮慶太
|-style="text-align: center;"
|align="right"|7月26日
|24||出撃{{Ruby|超|スーパー}}ロボ
|-style="text-align: center;"
|align="right"|8月{{0}}2日
|25||笑う影人間
|style="text-align: left;"|
* ライトアルマジロ
* 影ジェットマン
* 影人間
|style="text-align: left;"|荒木憲一
|style="text-align: left;" rowspan="2"|蓑輪雅夫
|-style="text-align: center;"
|align="right"|8月{{0}}9日
|26||僕は原始人
|style="text-align: left;"|
* ジクウマンモス(声 - 神山卓三)
|style="text-align: left;"|荒川稔久
|-style="text-align: center;"
|align="right"|8月16日
|27||魔界大脱出
|style="text-align: left;"|
* 亡霊次元獣軍団{{efn|ジャグチジゲン・カミジゲン・ダイヤジゲン・ヌードルジゲン(声 - 神山卓三)の4体。}}
* 妖怪
|style="text-align: left;"|荒木憲一
|style="text-align: left;" rowspan="3"|東條昭平
|-style="text-align: center;"
|align="right"|8月23日
|28||元祖次元獣
|style="text-align: left;"|
* [[ヘアドライヤー|ドライヤー]]ジゲン(声 - 梅津秀行)
|style="text-align: left;"|荒川稔久
|-style="text-align: center;"
|align="right"|8月30日
|29||最後の戦い
|style="text-align: left;"|
* ヨロイスネーク
|style="text-align: left;"|{{Plainlist|
* 渡辺麻実
* 八渡直樹
}}
|-style="text-align: center;"
|align="right"|9月{{0}}6日
|30||三魔神起つ
|style="text-align: left;"|
* 魔神ムー(声 - [[河合義雄]])
* 魔神ラモン(声 - [[丸山詠二]])
* 魔神ゴーグ(声 - 桑原たけし)
* 凶獣ラディガン
|style="text-align: left;" rowspan="3"|井上敏樹
|style="text-align: left;" rowspan="2"|蓑輪雅夫
|-style="text-align: center;"
|align="right"|9月13日
|31||戦隊解散!
|style="text-align: left;" rowspan="2"|
* 魔神ラモン(合体ラモン)
* 魔神ゴーグ
|-style="text-align: center;"
|align="right"|9月20日
|32||翼よ! 再び
|style="text-align: left;" rowspan="2"|雨宮慶太
|-style="text-align: center;"
|align="right"|9月27日
|33||ゴキブリだ
|style="text-align: left;"|
* 粘着ゴキブリ(声 - 桑原たけし)
|style="text-align: left;"|荒木憲一
|-style="text-align: center;"
|align="right"|10月{{0}}4日
|34||裏切りの竜
|style="text-align: left;"|
* 異次元生命体ジゴクメドゥーサ
|style="text-align: left;"|荒川稔久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東條昭平
|-style="text-align: center;"
|align="right"|10月11日
|35||鳩がくれた戦う勇気
|style="text-align: left;"|
* 毒ガスネズミ
|style="text-align: left;"|荒木憲一
|-style="text-align: center;"
|align="right"|10月18日
|36||歩く食欲! アリ人間
|style="text-align: left;"|
* アリバズーカ(声 - 西尾徳)
* アリ人間
|style="text-align: left;" rowspan="2"|井上敏樹
|style="text-align: left;" rowspan="2"|雨宮慶太
|-style="text-align: center;"
|align="right"|10月25日
|37||誕生! 帝王トランザ
|style="text-align: left;"|
* ギョライピラニア
|-style="text-align: center;"
|align="right"|11月{{0}}1日
|38||いきなりハンマー!
|style="text-align: left;"|
* レーザートカゲ(声 - 西尾徳)
* ハンマーカメレオン
|style="text-align: left;"|増田貴彦
|style="text-align: left;" rowspan="2"|蓑輪雅夫
|-style="text-align: center;"
|align="right"|11月{{0}}8日
|39||廻せ命のルーレット
|style="text-align: left;"|
* スナイパーキャット(声 - [[岸野一彦]])
|style="text-align: left;"|荒川稔久
|-style="text-align: center;"
|align="right"|11月15日
|40||命令! 戦隊交代せよ
|style="text-align: left;" rowspan="2"|
* 隕石ベム
|style="text-align: left;" rowspan="2"|荒木憲一
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東條昭平
|-style="text-align: center;"
|align="right"|11月22日
|41||変身不能! 基地壊滅
|-style="text-align: center;"
|align="right"|11月29日
|42||おれの胸で眠れ!
|style="text-align: left;"|
* 試作ロボットG2(声 - [[むたあきこ]])
|style="text-align: left;" rowspan="4"|井上敏樹
|style="text-align: left;" rowspan="2"|蓑輪雅夫
|-style="text-align: center;"
|align="right"|12月{{0}}6日
|43||長官の体に潜入せよ
|style="text-align: left;"|
* ヒルドリル
* 魔神ロボ ベロニカ
|-style="text-align: center;"
|align="right"|12月13日
|44||魔神ロボ! ベロニカ
|style="text-align: left;" rowspan="2"|
* 魔神ロボ ベロニカ
|style="text-align: left;" rowspan="2"|雨宮慶太
|-style="text-align: center;"
|align="right"|12月20日
|45||勝利のホットミルク
|-style="text-align: center;"
|align="right"|1992年{{0}}1月10日<br />{{efn|1991年12月27日は「年末年始プレイ情報」放送のため、1月3日は「新春ファッションバラエティ'92~芸能人おしゃれ大図鑑」放送のためそれぞれ休止。}}
|46||トマト畑の大魔王
|style="text-align: left;"|
* 異次元生命体メタモル=トマト大王(声 - [[横井弦之助]])
|style="text-align: left;"|荒木憲一
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東條昭平
|-style="text-align: center;"
|align="right"|1月17日
|47||帝王トランザの栄光
|style="text-align: left;"|
* 帝王トランザ
|style="text-align: left;" rowspan="5"|井上敏樹
|-style="text-align: center;"
|align="right"|1月24日
|48||死を呼ぶくちづけ
|style="text-align: left;"|
* 獣化マリア
* 血のヒトデ
* ラゲム
|style="text-align: left;" rowspan="2"|蓑輪雅夫
|-style="text-align: center;"
|align="right"|1月31日
|49||マリア…その愛と死
|style="text-align: left;"|
* 獣化マリア
* 血のヒトデ
|-style="text-align: center;"
|align="right"|2月{{0}}7日
|50||それぞれの死闘
|style="text-align: left;"|
* グレイ
* ラゲム
|style="text-align: left;" rowspan="2"|雨宮慶太
|-style="text-align: center;"
|align="right"|2月14日
|51||はばたけ! 鳥人よ
|style="text-align: left;"|
* ラゲム
|}
== 評価 ==
以上に見られるような多数のチャレンジは多くの反響を呼んだ。梶によると、同業者からは驚きとともに心配する声も届いたが、当時はギリギリ批判が来なかったという{{R|MAX49}}。また、鈴木は本作品について、苦労したがシリーズに活を入れることには成功したと評している{{Sfn|大全集|1993|loc=「新たな世紀に向けて 企画者インタビュー [[鈴木武幸]]」}}。
業界外からは、制作側に同人誌を送付するなど、子供以外の視聴者からの反応もあった{{R|MAX49}}。特に母親層の間では結城凱 / ブラックコンドルの人気が高く{{R|20th18}}、「凱が死ぬのではないか」と予想したファンからの助命嘆願の手紙が多く届いた。凱の死は企画当初から決められていたものだったが{{R|超世紀166}}、こうした反響に一時はスタッフも彼の生存を検討したという{{R|material98}}。結局、作中では凱の生死は明確に描写されなかった。凱役の[[若松俊秀]]によれば、関係者らはこうした反響が来ること自体が珍しいと述べていたという{{R|20th18}}。メインライターの井上も、内容について批判的な投書が出たことも「それだけ話題になったのだろう」と述べている{{R|20th33}}。
== 放映ネット局 ==
特記のない局はすべてテレビ朝日系列
* [[広域放送|関東広域圏]]:ANB(現:EX) '''[[テレビ朝日]]''' ※キーステーション
* [[北海道]]:HTB [[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]
* [[青森県]]:RAB [[青森放送]]([[日本ニュースネットワーク|日本テレビ系列]]、1991年2月 - 9月)
** →ABA [[青森朝日放送]](1991年10月 - 1992年2月)
* [[岩手県]]:IBC [[IBC岩手放送|岩手放送(現:IBC岩手放送)]]([[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]])
* [[宮城県]]:KHB [[東日本放送]]
* [[秋田県]]:ABS [[秋田放送]](日本テレビ系列)
* [[山形県]]:YBC [[山形放送]](日本テレビ系列)
* [[福島県]]:KFB [[福島放送]]
* [[新潟県]]:NT21(現:UX) [[新潟テレビ21]]
* [[富山県]]:KNB [[北日本放送]](日本テレビ系列)
* [[石川県]]:HAB [[北陸朝日放送]](1991年10月 - 1992年2月{{efn|開局前のサービス放送で第33話から放送開始<ref>『北日本新聞』1991年9月27日付朝刊、テレビ欄。</ref>。石川県では『[[電撃戦隊チェンジマン]]』(『チェンジマン』は[[北陸放送]](TBS系列)→[[石川テレビ放送|石川テレビ]]([[フジニュースネットワーク|フジテレビ系列]])で放送)で一旦終了していたスーパー戦隊シリーズの放送が5年ぶりに復活した。}})
* [[福井県]]:FTB [[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]([[フジニュースネットワーク|フジテレビ系列]])
* [[山梨県]]:YBS [[山梨放送]](日本テレビ系列)
* [[長野県]]:TSB [[テレビ信州]](日本テレビ系列・テレビ朝日系列クロスネット、1991年2月 - 3月)
** →ABN(現・abn) [[長野朝日放送]](1991年4月<ref>『長野朝日放送の20年』(2011年4月1日発行)144ページ</ref> - 1992年2月)
* [[静岡県]]:[[静岡朝日テレビ|SKT 静岡けんみんテレビ(現:SATV 静岡朝日テレビ)]]
* [[愛知県]]・[[広域放送|中京広域圏]]:NBN [[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ(現愛称・メ~テレ)]]
* [[大阪府]]・[[広域放送|近畿広域圏]]:ABC [[朝日放送テレビ|朝日放送(現:朝日放送テレビ)]]
* [[鳥取県]]・[[島根県]]:TSK [[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]](フジテレビ系列)
* [[広島県]]:HOME [[広島ホームテレビ]]
* [[山口県]]:TYS(現:tys) [[テレビ山口]](TBS系列)
* [[徳島県]]:JRT [[四国放送]](日本テレビ系列)
* [[香川県]]・[[岡山県]]:KSB [[瀬戸内海放送]]
* [[愛媛県]]:EBC [[テレビ愛媛]](フジテレビ系列)
* [[高知県]]:KUTV [[テレビ高知]](TBS系列)
* [[福岡県]]:KBC [[九州朝日放送]]
* [[長崎県]]:ncc [[長崎文化放送]]
* [[熊本県]]:KAB [[熊本朝日放送]]
* [[大分県]]:OBS [[大分放送]](TBS系列)
* [[宮崎県]]:MRT(現:mrt) [[宮崎放送]](TBS系列)
* [[鹿児島県]]:KKB [[鹿児島放送]]
* [[沖縄県]]:RBC [[琉球放送]](TBS系列)
== 他媒体展開 ==
=== 映像ソフト化 ===
いずれも発売元は[[東映ビデオ]](後述のオリジナルビデオも含む)。それまでのスーパー戦隊シリーズのビデオは、『[[電子戦隊デンジマン]]』を除いて全話収録ではない、もしくはテレビシリーズのビデオが未発売というパターンが多かったが、本作品より全話収録のビデオのリリースが定着し、以降『[[魔法戦隊マジレンジャー]]』まで継続されることとなる。
* ビデオ(VHS、セル・レンタル共通)は、1992年4月から1993年2月にかけて全11巻(各巻5話(10・11巻のみ3話)収録)がリリースされた。巻末特典として、8巻に主題歌のカラオケ映像が、9 - 11巻に「ジェットマン体操」の振付映像{{efn|DVDリリース時にも、Vol.1の特典映像として収録されている。}}(振付:[[ラッキィ池田]])がそれぞれ収録されている。また各巻の最後に収録されている、次巻収録分の次回予告のうち第1巻収録分のものは、1992年2月にリリースされた『電子戦隊デンジマン』のビデオ(VHS、セル・レンタル共通)第18巻(最終巻)に収録されている。
* 本作品の第1話から第6話(第4話を除く)と、前作『地球戦隊ファイブマン』第47話・最終話の再編集版が収録されたHEROクラブのビデオ『スーパー戦隊スペシャルレポート 誕生!鳥人戦隊ジェットマン』がリリースされている。内容はファイブマンからジェットマンへの引き継ぎを兼ねたものとなっている。HEROクラブからはこれ以外にも、テレビシリーズを再編集したビデオが2巻リリースされている。
* [[DVD]]は[[2005年]][[6月21日]]から[[10月21日]]にかけて、全5巻が発売された<ref>{{Cite journal |和書|date=2005-05-01 |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.118 |issue=(2005年5月号) |publisher=[[朝日ソノラマ]] |page=60 |title=Visual Radar |id=雑誌コード:01843-05 }}</ref>。各巻2枚組・10話(Vol.4のみ11話)収録。全話ともVHS版のマスターからの流用収録である都合上、次回予告は本放送で使用されたのとは違い、番宣CMのバージョンを使用。最終巻の特典映像に収録されている第1話の予告も同様である。DVDの戦士のパッケージ順は名乗り順ではなくOPの並び順である。[[2022年]][[5月11日]]には放送終了30周年記念として、全2巻(各巻5枚組・Vol.1は25話、Vol.2は26話収録)のコレクション版が発売された<!--出典:外部リンクにある東映ビデオの特集ページ-->。
=== 他テレビシリーズ ===
; 『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』
: 第51話として放送された特別総集編「スーパー戦隊大集合」に登場。タイムレンジャー5人がタイムジェットで本作品の時代を見に来たという設定で、本作品の映像が流用されている。
; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』
: 第28話にて凱 / ブラックコンドルが登場。
; 『[[非公認戦隊アキバレンジャー]]』
: 第1期第6話にレッドホークのみ、第2期の第1話に変身後のメンバー全員が登場。また、第2期第6話には次元獣をオマージュした怪人'''ユルキャラジゲン'''が登場している。
; 『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』
: 第18話(第18カイ!)にて、ジェットマンのギアを使用し、本作品第51話の一部のシーンを再現したシーンが放映された{{R|:0}}。
=== 映画作品 ===
; 『[[スーパー戦隊ワールド (映画)|スーパー戦隊ワールド]]』
: 1994年公開の3D映画で、ジェットマンおよびジェットイカロス、グリナム兵が登場。
; 『[[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]]』
: ジェットイカロス / イカロスハーケンが登場。
; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE 空飛ぶ幽霊船]]』
: グリナム兵が登場。
; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』
: ジェットマンの5人が登場。
; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z]]』
: レッドホークが登場。
; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦]]』
: イエローオウルが登場。
; 『[[機界戦隊ゼンカイジャー THE MOVIE 赤い戦い! オール戦隊大集会!!]]』
: 『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』の劇場作品。レッドホークが登場。
=== オリジナルビデオ ===
; 『東映テレビヒーロー図鑑Vol.2 鳥人戦隊ジェットマン』
: 1993年10月にVHS・LDとして同時リリースされ、DVDのVol.5にも特典映像として収録された。本編時間60分。
: 内容は新規撮影部分を交えたテレビシリーズの総集編であり、テレビシリーズの最終回から数年後、結婚して家庭を持った竜と香がアルバムを見ながら、ジェットマンとして戦っていた当時を振り返るという構成となっている。新規撮影部分はビデオ撮影で行われた。
:
; 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』
: 『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』の[[スーパー戦隊Vシネマ]]作品で、レッドホークとジェットホークが登場。
=== 小説・漫画 ===
; 小説『ジェットマン』(著:[[井上敏樹]])
: 1992年2月から1995年3月にかけて、[[小学館]][[スーパークエスト文庫]]より全3巻が発売された(現在絶版)他、後年[[電子書籍]]での販売も行われている。
: 内容としてはテレビシリーズを下敷きにしつつも、後述の通りテレビシリーズとはまた異なる形で登場人物の側面を掘り下げるなど、よりドラマ要素の濃いものとなっている。
:# 俺に惚れろ
:# 爆発する恋
:# 俺の胸で眠れ
: 登場人物は主にジェットマンとバイラムの幹部陣で、裏次元の人々や魔神などは出てこない。またバイラムのメンバーでも次元獣やグリナム兵は出てこないが、代わりにラディゲの血のしずくから生み出された多頭の目のない蛇のような怪物や、グレイの操る機械たちが集まって生まれた金属の樹木などが登場する。
: ラディゲとマリア、凱と香の性行為を示唆する描写がある他、各キャラクターの性格もいわゆる負の面を強調された描写がなされている。各キャラクターの設定の違いについては、[[#登場人物]]の節も参照。
; 漫画『鳥人戦隊ジェットマン 時を駆けて{{efn|掲載時の題名は『鳥人戦隊ジェットマン 天駆ける戦士』。}}』(作画:[[ふじいあきこ]])
: 放送当時出版されていたアニメ・特撮情報誌「[[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]]」にて連載。1996年8月に[[メディアワークス]]より全1巻の単行本として発売された(現在絶版)。
: テレビシリーズのラストから、さらに数年後の話を描いた続編であるが、公式に続編として位置づけられているわけではなく、前出の総集編ビデオにおける新撮映像の内容と異なる設定{{efn|一例として、ビデオでは竜と香の子供は「凱」と名づけられた男児であるが、同作品では小田切長官と同じ「綾」という名前の女児となっている。}}も見受けられる。
: トランザの体を利用して復活したラディゲとの戦いに身を投じることになったジェットマンを描く。ブラックコンドル=凱に代わるキャラクターとしてグリーンイーグルに変身するジェフ(ジェフリィ・剣崎)という青年が加入する。また同作品に登場するジェットマンは、各自の表情が分かるように、ヘルメットの顔の部分が透けて見えるようデザインが変えられている。
=== ゲーム ===
; 『鳥人戦隊ジェットマン』
: 1991年12月21日、[[エンジェル (ゲーム会社)|エンジェル]]から発売された[[ファミリーコンピュータ]]用ソフト。開発は[[ナツメアタリ|ナツメ]]で、ジャンルは[[アクションゲーム]]。
: 全6ステージからなっており、第1 - 5ステージは好きな順番でプレイ可能。キャラクターも5人の中から好きな戦士を選べる。ただし選んだ戦士がステージでやられてしまうと、そのステージをクリアするまでは、その戦士は使用不可となる。5ステージともクリアすると、最終ステージが始まる。最終ボスは魔獣セミマルであり、ラディゲら幹部は一切登場しない。
== CS放送・ネット配信 ==
; CS放送
* [[東映チャンネル]]
**[[1998年]]7月 - [[1999年]]5月(「GO! GO! ヒーローズ」枠)
**[[2007年]]11月 - [[2008年]]5月
**[[2010年]]4月 - 10月
; ネット配信
* 東映特撮 [[YouTube]] Official
**[[2012年]][[1月23日]] - [[7月15日]]
**[[2014年]][[12月7日]] - [[2015年]][[6月7日]]
**[[2021年]][[9月9日]] - [[2022年]][[3月3日]]{{efn|これに先立ち、同年7月4日 - 11日には『機界戦隊ゼンカイジャー』第18話の一部シーンの元ネタとなった、本作品の第51話(最終回)も期間限定で配信されている<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2199095/|title=『ゼンカイジャー』で『ジェットマン』の伝説の最終回を完全再現「神回すぎる」|accessdate=2021-07-04|publisher=ORICON NEWS}}</ref>。}}
== 備考 ==
* 本作品より、[[バンダイ]]の関連商品のCMが一部を除き、フィルム撮影からビデオ撮影に移行した。
* 番組終了から3年後の[[1995年]][[3月21日]]に放送された、シリーズ20周年記念特番『不滅の戦隊ヒーロー大全集』([[関東ローカル]]・[[関西ローカル]]、17:00 - 18:00)では、本作品より若松俊秀が「戦隊OBチーム」の一人として参加(他は[[宮内洋]]と[[小牧リサ]])、番組内では、「『鳥人戦隊ジェットマン』第28話に登場した次元獣『ドライヤージゲン』は、その後どうなったか?」(答:床屋に転業した)というクイズが出題されたり、第45話「勝利のホットミルク」の竜と凱の会話シーンが若松の前で映された。ドライヤージゲンのエピソードは、これより前に[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送された『[[TVジェネレーション]]』のラストコーナー「おはがきプレイバック」でも、視聴者からの投稿により放送された。
* 小学館てれびくん編集部発行のムックシリーズ[[超全集]]は、本作品よりスーパー戦隊シリーズでの単独作品の展開がスタートした{{R|Walker98}}。先行する『[[仮面ライダーBLACK]]・[[仮面ライダーBLACK RX|RX]]超全集』や『[[特警ウインスペクター]]超全集』では番組終盤の内容は収録されていなかったが、『ジェットマン超全集』以降の単独作品の超全集は最終回まで収録した内容となった{{R|Walker98}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 参照話数 ===
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=== 出典 ===
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* {{Cite book|和書|date = 2012-07-28|title =スーパー戦隊戦士列伝 赤の伝説|publisher = 角川書店|isbn = 978-4-04-110216-9|ref = {{SfnRef|赤の伝説|2012}}}}
* {{Cite book|和書|date=2014-12-20|others=鴬谷五郎[編著]|title=東映ヒーロー仮面俳優列伝|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4-7778-1425-1|ref={{SfnRef|仮面俳優列伝|2014}}}}
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* {{Cite book|和書|date = 2021-04-20<!--奥付表記-->|title =スーパー戦隊|series=学研の図鑑|publisher = 学研プラス|isbn = 978-4-0540-6788-2|ref = {{SfnRef|学研の図鑑|2021}}}}
* {{Cite book |和書 |date=2022-04-01 |title=スーパー戦隊 TOY HISTORY 45 1975-2021 |series = ホビージャパンMOOK |publisher=[[ホビージャパン]] |isbn=978-4-7986-2745-8 |ref={{SfnRef|TH45|2022}} }}
* 『スーパー戦隊 Official Mook』[[講談社]](講談社シリーズMOOK)
**{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2017-03-25|title=21世紀|volume=vol.3|volume-title=[[爆竜戦隊アバレンジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|isbn=978-4-06-509514-0|ref={{SfnRef|21st 3|2017}}}}
**{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2018-05-10|title=20世紀|volume-title=1991 鳥人戦隊ジェットマン|publisher=講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn=978-4-06-509613-0|ref={{SfnRef|20th1991|2018}}}}
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== 外部リンク ==
* [http://www.super-sentai.net/sentai/jet.html 鳥人戦隊ジェットマン](スーパー戦隊ネット内の紹介記事)
* [https://www.toei-video.co.jp/special/jetman/ DVD 鳥人戦隊ジェットマン特集](東映ビデオ内にあるサイト)
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1,776 | ミュージカル映画 | ミュージカル映画(、英: Musical film)は、映画のジャンルの一つで、物語に混在して俳優が歌を歌う形式を指す。一般的に歌によって筋を発展させたり、映画上の配役を特徴付けたりする。ミュージカル映画のサブジャンルはミュージカルコメディであり、通常の音楽、ダンス、筋書きに加えて、強いユーモアの要素を持つ。
ミュージカル映画は、1920年代にトーキーが発明され、映画に音楽をあわせることが可能となったことを期に出現した。長編映画として最初のトーキーとされるアル・ジョルスン主演の『ジャズ・シンガー』(1927) からして、音楽映画である。当初は舞台作品をそのまま映画にしたものが多く、ストーリーそのものが無いレビュー短編なども多く作られた。
しかしトーキー当初は歌もダンスも未熟な役者が多く駆り出され、粗製濫造の感もあった。そのような中で人気を集めたのは、洗練された魅力を持った欧州風オペレッタ映画であり、ハリウッドでもドイツ出身のエルンスト・ルビッチら欧州の人材が活躍した。
世界恐慌によってブロードウェイも不況に巻き込まれた1930年代前半、ダンサーとして一流の人材が仕事を求めてハリウッドに流れこみ、1933年の『四十二番街』を皮切りに本格的なミュージカル映画の土台が形作られることになった。
ダンサーのフレッド・アステアはRKOの女優ジンジャー・ロジャースとコンビを組み、一連のヒット作でテクニカルかつロマンティックなダンスシークエンスを披露して人々の喝采を浴び、世界的な人気者となった。このアステア&ロジャースのコンビは、息のあった男女のダンサーの代名詞として現在でも使われることがある。
他にも、天才的な振付師であるバスビー・バークレイは、映画ならではの演出・特撮・カット割りを駆使し、ミュージカル映画に舞台とは違う独自の発達をもたらした。具体的には、ダンサー達をその真上からカメラで見下ろし、その隊列で万華鏡のような映像を造り出す、いわゆるバークレー・ショットの創造がある。
そんな中、映画会社のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)社は、ミュージカル映画の活況に即座に対応し、1929年に公開された『ブロードウェイ・メロディー』をシリーズ化することを明確にし、1935年に『踊るブロードウェイ』1937年に『踊る不夜城』、1940年に『踊るニュウ・ヨーク』をそれぞれ制作した。もう一方のパラマウント映画社は、『ラジオは笑う』(1933年)の続編である『1936年の大放送』(1935年)、『1937年の大放送』(1936年)、『百万弗大放送』(1937年)をそれぞれ公開した。
そうして形作られた人気を背景に、30年代末期以降のミュージカル映画はテクニカラーの導入、高品質の録音再生システムの導入など、技術革新の恩恵をいち早く受ける分野ともなった。
この黎明期をはじめ20世紀前半のミュージカル映画のストーリーは、突然歌い踊りはじめても違和感の少ない歌手やダンサー、ミュージカルスターを登場人物にして、その舞台裏や私生活を描いたものがもっぱらであり、それらは後に舞台裏ミュージカルと呼ばれる伝統的ジャンルとなる。
1940~1950年代はスター・システムによるミュージカル映画の最盛期で、特にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社は、ジュディ・ガーランドやジーン・ケリー、前述のフレッド・アステアなど数多くの優れたミュージカル俳優の出演する、豪奢な作品群で一世を風靡した。他社も20世紀フォックスはベティ・グレイブル、パラマウント映画はビング・クロスビー、コロムビア映画はリタ・ヘイワースといった看板スターを擁したものの「星の数よりも多い」と謳われるMGMの圧倒的な質量にはかなわなかった。
『巴里のアメリカ人』と『恋の手ほどき』ではアカデミー作品賞を受賞し、芸術的にも評価が高かったMGMミュージカルは、この時代の娯楽映画の代名詞と言っても過言ではなく、他にも『踊る大紐育』『錨を上げて』『私を野球につれてって』『雨に唄えば』『バンド・ワゴン』『イースター・パレード』『オズの魔法使』『若草の頃』といった数々の名作を後世に残している。またこの時期はいわゆるティン・パン・アレーの作詞家・作曲家が最後の輝きを見せた時期でもあり、現在までスタンダード・ナンバーとして愛唱されるミュージカル映画の曲も数多い。
1940年代のアメリカ合衆国でサウンディーズと呼ばれるジュークボックス映画が作られていた。レストランやナイトクラブ等に置かれたパノラムと呼ばれる専用装置にコインを投入すると、デューク・エリントンら人気ジャズマンの登場する約3分間の短篇音楽映画を楽しむことができた。テレビの登場により一時的な流行で終わるが、サウンディーズ向けに作られたフィルムは、当時のミュージシャンの姿を今に伝える貴重な映像資料となっている。
40年代半ばにブロードウェイで公開された『オクラホマ!』は、脚本を練ったドラマティックなストーリーでブロードウェイ・ミュージカルに革命をもたらしたが、その流れは50年代になって映画にも流れ込んだ。以後、ジョージ・キューカー監督の『スタア誕生』(1954年)や、ロジャース&ハマースタインの作品に代表されるストーリー重視のミュージカルが主流を担うようになり、それまでのMGMが得意としていた歌や踊りなど個人芸重視の舞台裏ミュージカル、スター・システムの映画は影を潜めるようになった。
このストーリー重視の新しい流れのミュージカルには、物語と音楽を高度に結びつける困難な作業とセンスが必要であるため、映画製作者達は元々完成度の高いブロードウェイ・ミュージカルに題材を求めるようになり、以後映画オリジナルのシネ・ミュージカルは製作頻度が激減することになった。
時を同じくしてシネマスコープの導入にともない映画は大型化。たださえ制作費が多額なミュージカル映画は、それに見合った収益が見込める超大作志向に活路を見出す。それが花開いたのが60年代であり、『サウンド・オブ・ミュージック』をはじめ『メリー・ポピンズ』『マイ・フェア・レディ』など現在でもスタンダードとなっている大作名画が、ハリウッド各社、あるいはフランスやイギリスなど各国からも誕生。ミュージカル映画は最大の黄金期を迎える。
また舞台の世界と同様、『ウエスト・サイド物語』以降には社会性を強く打ち出した作品が出現し、高く評価されるようになった。但しそれは同時にそれまでハリウッド・ミュージカルが標榜していた「夢の世界」を色褪せた物とさせる諸刃の剣であり、現在からすれば評価の分かれる所である。
1960年代の終り頃には、肥大化したミュージカル映画は超大作の商業的失敗が相次ぐようになり一気に退潮。台頭してきたアメリカン・ニューシネマやSFX映画に娯楽映画の主流を譲ることになり、以後30年近くにわたって主流から外れたままの存在となる。特に題材と人材の発掘場であるブロードウェイの低調が大きく影響し、俳優・監督・その他スタッフに人を得られなくなり、質的に優れた作品は散発的に作られるのみとなった。
そうしたメインストリームの退潮の一方、エルヴィス・プレスリーやビートルズなど特定の人気ミュージシャンをフィーチャーしたジュークボックス・ミュージカルと呼ばれる小規模なミュージカル映画が1950年代半ばから作られ始め、サントラとの相乗効果でヒットを挙げるなどしていた。この路線が'70~80年代になって、特定歌手にこだわらず若者向けのキャッチーな曲をサントラに満載し、ポップス市場と強く結びついた映画を作る動きとなった。殊更に『アメリカン・グラフィティ』『サタデー・ナイト・フィーバー』らの大ヒットを手本とするもので、批評家らに高く評価される事はなかったものの、その後のミュージック・ビデオ時代の礎ともなり、また『ロッキー4』などミュージカル以外の映画の造り方にも影響を与えた。
1990年代に入ると『美女と野獣』をはじめとするディズニーのアニメミュージカル映画が、大人にも受け入れられて大ヒットを記録。それを嚆矢として2000年代に入った近年、実写の本格ミュージカル映画もブロードウェイのヒット作を映画化する形で復調を見せるようになった。2003年には『シカゴ』がミュージカル映画としては34年ぶりとなるアカデミー作品賞を受賞。その後「RENT/レント」(2005年)「プロデューサーズ」(2005年)「ヘアスプレー 」(2007年)「マンマ・ミーア!」(2008年)など、ブロードウェイミュージカルが次々と映画化されるようになった。
ミュージカル映画では劇中で披露される歌は事前にスタジオで録音した曲を撮影現場で再生し、役者は口パクで演じるという方法が多いが、「レ・ミゼラブル」では、歌唱はすべてその場で撮影しながら録音したものである。現場ではピアノの生伴奏を役者にイヤホンで聞かせながら撮影した(ピアノの音はリズムのためであり、後にオーケストラのサウンドに変えられているものもある)。
一方ボリウッドを中心として映画製作が年間800本行なわれているインドにおいては、その作品の大多数にミュージカル要素が組み込まれている。製作本数から鑑みてミュージカル映画の本場はインドであるとする見方もある程だが、ただしその作風はアクション映画など他のジャンルの要素まで雑多に詰め込んだ独特のものである。これらの映画も1990年代以降、ラジニカーント主演『ムトゥ 踊るマハラジャ』など一部の人気映画が海外進出をするようになった。
日本の最初のトーキーである『マダムと女房』も、ハリウッドのそれと同様にミュージカルの要素が強い作品である。
日本のミュージカル映画の特徴として挙げられるのが、七五調を違和感なく使える時代劇との相性の良さであり、戦前の危機的な世相の中作られた名作『鴛鴦歌合戦』をはじめ、エノケンこと榎本健一や美空ひばりといったスターの主演する時代劇ミュージカルが戦中から昭和30年代にかけてヒットを飛ばしている。『狸御殿』シリーズも戦中戦後にかけて映画会社をまたがって幾作も作られ、2005年にも最新作『オペレッタ狸御殿』が作られる、息の長いシリーズとなった。
一方時代劇以外の分野では『素晴らしき男性』『アスファルト・ガール』などハリウッドに範をとった野心的ミュージカル大作も作られてはいたものの、それらは観客の失笑を買う結果となった。フランキー堺主演の『君も出世ができる』は批評的には数少ない成功例として挙げられるが、それすら興行的には失敗する有様であった。現代劇におけるミュージカルは、もっぱらその当時の流行歌を主題とした歌謡映画として、あるいは加山雄三やクレイジー・キャッツらが主演するコメディ映画のワンシークエンスとして、といった形で観客に受け入れられていた。
現在、ブロードウェイの翻訳作品が強い舞台の世界と同様、日本の映画界においてもオリジナルのミュージカル作品が作られることは稀(「嫌われ松子の一生」など)で、時折製作されても幼年層を対象にしていることが多く、一般層に受け入れられにくいことは否めない。
最近では「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭 2012」の短編部門において、角川裕明監督のミュージカル作品『ユメのおと』が最優秀作品賞を受賞。日本に和製ミュージカル映画を根付かせるという目的で「Japanese Musical Cinema」という団体を立ち上げている。翌年の2013年には、埼玉県×松竹共同製作のオムニバス映画『埼玉家族』の中の一作品として、鶴見辰吾主演/角川裕明監督によるミュージカル作品『父親輪舞曲(ちちおやロンド)』が劇場公開された。
2014年公開の周防正行監督『舞妓はレディ』(タイトルは「マイ・フェア・レディ」のパロディ)は、オーディションで抜擢された主役の上白石萌音が、スターへの階段を上るきっかけを作った。
2021年に公開の『すくってごらん』では、ミュージカルをベースとしながらもダンスシーンを排除し、歌唱力の高い俳優陣を起用。日本人が観ても気恥ずかしさを感じないことを意図した作品となった(ジャンルとしては“新感覚ポップエンターテインメント”を謳っていた)。
(舞台作品の映画化は「stage = S」で示す。括弧内は舞台の初演年度) 代表的なミュージカル映画の基準は以下のものです。
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] | ミュージカル映画(ミュージカルえいが、は、映画のジャンルの一つで、物語に混在して俳優が歌を歌う形式を指す。一般的に歌によって筋を発展させたり、映画上の配役を特徴付けたりする。ミュージカル映画のサブジャンルはミュージカルコメディであり、通常の音楽、ダンス、筋書きに加えて、強いユーモアの要素を持つ。 | {{出典の明記|date=2013年6月}}
{{読み仮名|'''ミュージカル映画'''|ミュージカルえいが|{{lang-en-short|Musical film}}}}は、[[映画]]の[[ジャンル]]の一つで、[[物語]]に混在して[[俳優]]が歌を歌う形式を指す。一般的に歌によって筋を発展させたり、映画上の配役を特徴付けたりする。ミュージカル映画のサブジャンルはミュージカルコメディであり、通常の音楽、ダンス、筋書きに加えて、強いユーモアの要素を持つ。
==歴史==
===1927~1930年代===
[[ミュージカル]]映画は、[[1920年]]代に[[トーキー]]が発明され、[[映画]]に[[音楽]]をあわせることが可能となったことを期に出現した。長編映画として最初のトーキーとされる[[アル・ジョルスン]][[主演]]の『[[ジャズ・シンガー]]』(1927) からして、音楽映画である。当初は[[舞台]]作品をそのまま映画にしたものが多く、[[ストーリー]]そのものが無い[[レビュー]]短編なども多く作られた。
しかしトーキー当初は歌も[[ダンス]]も未熟な[[役者]]が多く駆り出され、粗製濫造の感もあった。そのような中で人気を集めたのは、洗練された魅力を持った欧州風[[オペレッタ]]映画であり、[[ハリウッド]]でも[[ドイツ]]出身の[[エルンスト・ルビッチ]]ら[[欧州]]の人材が活躍した。
[[世界恐慌]]によって[[ブロードウェイ]]も不況に巻き込まれた[[1930年]]代前半、[[ダンサー]]として一流の人材が仕事を求めてハリウッドに流れこみ、[[1933年]]の『[[四十二番街]]』を皮切りに本格的なミュージカル映画の土台が形作られることになった。
ダンサーの[[フレッド・アステア]]は[[RKO映画|RKO]]の[[俳優|女優]][[ジンジャー・ロジャース]]と[[二人組|コンビ]]を組み、一連の[[ヒット]]作でテクニカルかつ[[ロマンティック]]なダンス[[シークエンス]]を披露して人々の喝采を浴び、世界的な人気者となった。このアステア&ロジャースのコンビは、息のあった男女のダンサーの[[代名詞]]として現在でも使われることがある。
他にも、天才的な振付師である[[バスビー・バークレイ]]は、映画ならではの演出・特撮・カット割りを駆使し、ミュージカル映画に舞台とは違う独自の発達をもたらした。具体的には、ダンサー達をその真上からカメラで見下ろし、その隊列で万華鏡のような映像を造り出す、いわゆる'''バークレー・ショット'''の創造がある。
そんな中、映画会社の[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]](MGM)社は、ミュージカル映画の活況に即座に対応し、1929年に公開された『[[ブロードウェイ・メロディー]]』をシリーズ化することを明確にし、1935年に『[[:w:Broadway Melody of 1936|踊るブロードウェイ]]』1937年に『[[:w:Broadway Melody of 1938|踊る不夜城]]』、1940年に『[[踊るニュウ・ヨーク]]』をそれぞれ制作した。もう一方の[[パラマウント映画]]社は、『[[:w:The Big Broadcast|ラジオは笑う]]』(1933年)の続編である『[[:w:The Big Broadcast of 1936|1936年の大放送]]』(1935年)、『[[:w:The Big Broadcast of 1937|1937年の大放送]]』(1936年)、『[[:w:The Big Broadcast of 1938|百万弗大放送]]』(1937年)をそれぞれ公開した。
そうして形作られた人気を背景に、30年代末期以降のミュージカル映画は[[テクニカラー]]の導入、高品質の録音再生システムの導入など、技術革新の恩恵をいち早く受ける分野ともなった。
この黎明期をはじめ20世紀前半のミュージカル映画のストーリーは、突然歌い踊りはじめても違和感の少ない歌手やダンサー、ミュージカルスターを登場人物にして、その舞台裏や私生活を描いたものがもっぱらであり、それらは後に'''舞台裏ミュージカル'''と呼ばれる伝統的ジャンルとなる。
===1940~1950年代中頃===
1940~1950年代は[[スター・システム (俳優)|スター・システム]]によるミュージカル映画の最盛期で、特に[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]社は、[[ジュディ・ガーランド]]や[[ジーン・ケリー]]、前述の[[フレッド・アステア]]など数多くの優れたミュージカル俳優の出演する、豪奢な作品群で一世を風靡した。他社も[[20世紀フォックス]]は[[ベティ・グレイブル]]、[[パラマウント映画]]は[[ビング・クロスビー]]、[[コロムビア映画]]は[[リタ・ヘイワース]]といった看板スターを擁したものの「星の数よりも多い」と謳われるMGMの圧倒的な質量にはかなわなかった。
『[[巴里のアメリカ人]]』と『[[恋の手ほどき]]』ではアカデミー作品賞を受賞し、芸術的にも評価が高かったMGMミュージカルは、この時代の娯楽映画の代名詞と言っても過言ではなく、他にも『[[踊る大紐育]]』『[[錨を上げて (映画)|錨を上げて]]』『[[私を野球につれてって (映画)|私を野球につれてって]]』『[[雨に唄えば]]』『[[バンド・ワゴン]]』『[[イースター・パレード (映画)|イースター・パレード]]』『[[オズの魔法使]]』『[[若草の頃]]』といった数々の名作を後世に残している。またこの時期はいわゆる[[ティン・パン・アレー]]の作詞家・作曲家が最後の輝きを見せた時期でもあり、現在までスタンダード・ナンバーとして愛唱されるミュージカル映画の曲も数多い。
[[1940年代]]の[[アメリカ合衆国]]で[[サウンディーズ]]<ref>サウンディーズは、1938年にロサンジェルス在住のある歯科医(ゴードン・キース・ウッドアード)が発明した映画ジュークボックスに端を発し、改良を加えたのち、1940年初頭に、ときのアメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトの息子ジェイムズらの共同出資で新会社が設立され、製品化された、音楽映画上映装置パノラムにかけられるフィルムの総称である。</ref>と呼ばれる[[ジュークボックス]]映画が作られていた<ref>{{Cite book|和書 |title=映画館と観客の文化史 |date=2006年7月25日 |publisher=中央公論新社 |page=42}}</ref>。[[レストラン]]や[[ナイトクラブ]]等に置かれた[[パノラム]]と呼ばれる専用装置にコインを投入すると、[[デューク・エリントン]]ら人気ジャズマンの登場する約3分間の短篇音楽映画を楽しむことができた。[[テレビ]]の登場により一時的な流行で終わるが、サウンディーズ向けに作られた[[フィルム]]は、当時のミュージシャンの姿を今に伝える貴重な映像資料となっている。
===1950年代中頃~1960年代===
40年代半ばにブロードウェイで公開された『[[オクラホマ!]]』は、脚本を練ったドラマティックなストーリーでブロードウェイ・ミュージカルに革命をもたらしたが、その流れは50年代になって映画にも流れ込んだ。以後、[[ジョージ・キューカー]]監督の『[[スタア誕生 (1954年の映画)|スタア誕生]]』(1954年)や、[[ロジャース&ハマースタイン]]の作品に代表されるストーリー重視のミュージカルが主流を担うようになり、それまでのMGMが得意としていた歌や踊りなど個人芸重視の舞台裏ミュージカル、スター・システムの映画は影を潜めるようになった。
このストーリー重視の新しい流れのミュージカルには、物語と音楽を高度に結びつける困難な作業とセンスが必要であるため、映画製作者達は元々完成度の高いブロードウェイ・ミュージカルに題材を求めるようになり、以後映画オリジナルのシネ・ミュージカルは製作頻度が激減することになった。
時を同じくして[[シネマスコープ]]の導入にともない映画は大型化。たださえ制作費が多額なミュージカル映画は、それに見合った収益が見込める超大作志向に活路を見出す。それが花開いたのが60年代であり、『[[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]]』をはじめ『[[メリー・ポピンズ]]』『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』など現在でもスタンダードとなっている大作名画が、ハリウッド各社、あるいはフランスやイギリスなど各国からも誕生。ミュージカル映画は最大の黄金期を迎える。
また舞台の世界と同様、『[[ウエスト・サイド物語 (映画)|ウエスト・サイド物語]]』以降には社会性を強く打ち出した作品が出現し、高く評価されるようになった。但しそれは同時にそれまでハリウッド・ミュージカルが標榜していた「夢の世界」を色褪せた物とさせる諸刃の剣であり、現在からすれば評価の分かれる所である。
===1970年代~1980年代===
1960年代の終り頃には、肥大化したミュージカル映画は超大作の商業的失敗が相次ぐようになり一気に退潮。台頭してきた[[アメリカン・ニューシネマ]]や[[SFX]]映画に娯楽映画の主流を譲ることになり、以後30年近くにわたって主流から外れたままの存在となる。特に題材と人材の発掘場であるブロードウェイの低調が大きく影響し、俳優・監督・その他スタッフに人を得られなくなり、質的に優れた作品は散発的に作られるのみとなった。
そうしたメインストリームの退潮の一方、[[エルヴィス・プレスリー]]や[[ビートルズ]]など特定の人気ミュージシャンをフィーチャーしたジュークボックス・ミュージカルと呼ばれる小規模なミュージカル映画が1950年代半ばから作られ始め、サントラとの相乗効果でヒットを挙げるなどしていた。この路線が'70~80年代になって、特定歌手にこだわらず若者向けのキャッチーな曲をサントラに満載し、ポップス市場と強く結びついた映画を作る動きとなった。殊更に『[[アメリカン・グラフィティ]]』『[[サタデー・ナイト・フィーバー]]』らの大ヒットを手本とするもので、批評家らに高く評価される事はなかったものの、その後の[[ミュージック・ビデオ]]時代の礎ともなり、また『[[ロッキー4]]』などミュージカル以外の映画の造り方にも影響を与えた。
===1990年代~===
1990年代に入ると『[[美女と野獣 (1991年の映画)|美女と野獣]]』をはじめとする[[ディズニー]]のアニメミュージカル映画が、大人にも受け入れられて大ヒットを記録。それを嚆矢として2000年代に入った近年、実写の本格ミュージカル映画もブロードウェイのヒット作を映画化する形で復調を見せるようになった。2003年には『[[シカゴ (2002年の映画)|シカゴ]]』がミュージカル映画としては34年ぶりとなるアカデミー作品賞を受賞。その後「[[レント (ミュージカル)|RENT/レント]]」(2005年)「[[プロデューサーズ]]」(2005年)「[[ヘアスプレー (2007年の映画)|ヘアスプレー]] 」(2007年)「[[マンマ・ミーア!]]」(2008年)など、ブロードウェイミュージカルが次々と映画化されるようになった。
ミュージカル映画では劇中で披露される歌は事前にスタジオで録音した曲を撮影現場で再生し、役者は口パクで演じるという方法が多いが、「[[レ・ミゼラブル (2012年の映画)|レ・ミゼラブル]]」では、歌唱はすべてその場で撮影しながら録音したものである。現場ではピアノの生伴奏を役者にイヤホンで聞かせながら撮影した(ピアノの音はリズムのためであり、後にオーケストラのサウンドに変えられているものもある)<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=3kh5FngE1ME 映画『レ・ミゼラブル』特別映像]</ref>。
一方[[ボリウッド]]を中心として映画製作が年間800本行なわれている[[インド]]においては、その作品の大多数にミュージカル要素が組み込まれている。製作本数から鑑みてミュージカル映画の本場はインドであるとする見方もある程だが、ただしその作風はアクション映画など他のジャンルの要素まで雑多に詰め込んだ独特のものである。これらの映画も1990年代以降、[[ラジニカーント]]主演『[[ムトゥ 踊るマハラジャ]]』など一部の人気映画が海外進出をするようになった。
==日本のミュージカル映画==
日本の最初のトーキーである『[[マダムと女房]]』も、ハリウッドのそれと同様にミュージカルの要素が強い作品である。
日本のミュージカル映画の特徴として挙げられるのが、七五調を違和感なく使える[[時代劇]]との相性の良さであり、戦前の危機的な世相の中作られた名作『[[鴛鴦歌合戦]]』をはじめ、エノケンこと[[榎本健一]]や[[美空ひばり]]といったスターの主演する時代劇ミュージカルが戦中から昭和30年代にかけてヒットを飛ばしている。『[[狸御殿]]』シリーズも戦中戦後にかけて映画会社をまたがって幾作も作られ、2005年にも最新作『[[オペレッタ狸御殿]]』が作られる、息の長いシリーズとなった。
一方時代劇以外の分野では『[[素晴らしき男性]]』『[[アスファルト・ガール]]』などハリウッドに範をとった野心的ミュージカル大作も作られてはいたものの、それらは観客の失笑を買う結果となった。[[フランキー堺]]主演の『[[君も出世ができる]]』は批評的には数少ない成功例として挙げられるが、それすら興行的には失敗する有様であった。現代劇におけるミュージカルは、もっぱらその当時の流行歌を主題とした歌謡映画として、あるいは[[加山雄三]]や[[クレイジー・キャッツ]]らが主演するコメディ映画のワンシークエンスとして、といった形で観客に受け入れられていた。
現在、ブロードウェイの翻訳作品が強い舞台の世界と同様、日本の映画界においてもオリジナルのミュージカル作品が作られることは稀(「[[嫌われ松子の一生 (映画)|嫌われ松子の一生]]」など)で、時折製作されても幼年層を対象にしていることが多く、一般層に受け入れられにくいことは否めない。
最近では「[[SKIPシティ国際Dシネマ映画祭]] 2012」の短編部門において、[[角川裕明]]監督のミュージカル作品『[[ユメのおと]]』が最優秀作品賞を受賞。日本に和製ミュージカル映画を根付かせるという目的で「[[Japanese Musical Cinema]]」という団体を立ち上げている。翌年の2013年には、埼玉県×[[松竹]]共同製作のオムニバス映画『[[埼玉家族]]』の中の一作品として、[[鶴見辰吾]]主演/角川裕明監督によるミュージカル作品『[[父親輪舞曲]](ちちおやロンド)』が劇場公開された。
2014年公開の[[周防正行]]監督『[[舞妓はレディ]]』(タイトルは「[[マイ・フェア・レディ]]」のパロディ)は、オーディションで抜擢された主役の[[上白石萌音]]が、スターへの階段を上るきっかけを作った。
2021年に公開の『[[すくってごらん#実写映画|すくってごらん]]』では、ミュージカルをベースとしながらもダンスシーンを排除し、歌唱力の高い俳優陣を起用。日本人が観ても気恥ずかしさを感じないことを意図した作品となった(ジャンルとしては“新感覚ポップエンターテインメント”を謳っていた)<ref>{{Cite web|和書|title=映画「すくってごらん」特集 真壁幸紀監督インタビュー+尾上松也、百田夏菜子、柿澤勇人、石田ニコル、音楽制作陣コメント|“歌えるキャスト”が織りなす新感覚の音楽表現 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー|url=https://natalie.mu/music/pp/sukuttegoran01|website=音楽ナタリー|accessdate=2021-03-24|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。
== 代表的なミュージカル映画の一覧 ==
(舞台作品の映画化は「stage = S」で示す。括弧内は舞台の初演年度)
代表的なミュージカル映画の基準は以下のものです。
# [[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]が[[ミュージカル映画ベスト]]に選出した25作品
# [[アカデミー作品賞]]受賞作品
# [[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]]の最高賞受賞作品
=== 1920年代 ===
* [[ブロードウェイ・メロディー]] (1929) アカデミー作品賞
=== 1930年代 ===
* [[四十二番街]] (1933) [[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]選出ミュージカル第13位
* [[トップ・ハット]] (1935) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第15位
* [[ショウボート (1936年の映画)|ショウボート]] (1936) S (1927) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第24位
* [[巨星ジーグフェルド]] (1936) アカデミー作品賞
* [[オズの魔法使]] (1939) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第3位
=== 1940年代 ===
* [[ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ]] (1942) [[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]選出ミュージカル第18位
* [[若草の頃]] (1944) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第10位
* [[踊る大紐育]] (1949) S (1944) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第19位
* [[イースター・パレード (映画)|イースター・パレード]] (1948)
=== 1950年代 ===
* [[巴里のアメリカ人]] (1951) [[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]選出ミュージカル第9位 アカデミー作品賞
* [[雨に唄えば]] (1952) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第1位
* [[バンド・ワゴン]] (1953) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第17位
* [[ホワイト・クリスマス (映画)|ホワイト・クリスマス]](1954)
* [[掠奪された七人の花嫁]] (1954) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第21位
* [[スタア誕生 (1954年の映画)|スタア誕生]] (1954) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第7位
* [[野郎どもと女たち]] (1955) S (1950) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第23位
* [[王様と私 (1956年の映画) |王様と私]] (1956) S (1951) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第11位
* [[恋の手ほどき]] (1958) アカデミー作品賞
=== 1960年代 ===
* [[ウエスト・サイド物語 (映画)|ウエスト・サイド物語]] (1961) S (1957) [[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]選出ミュージカル第2位 アカデミー作品賞
* [[シェルブールの雨傘]] (1964) [[パルム・ドール]]
* [[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]] (1964) S (1956) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第8位 アカデミー作品賞
* [[メリー・ポピンズ]] (1964) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第6位
* [[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]] (1965) S (1959) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第4位 アカデミー作品賞
* [[オリバー! (映画)|オリバー!]] (1968) S (1960) アカデミー作品賞
* [[ファニー・ガール]] (1968) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第16位
=== 1970年代 ===
* [[キャバレー (1972年の映画)|キャバレー]] (1972) S (1966) [[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]選出ミュージカル第5位
* [[グリース (映画)|グリース]] (1978) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第20位
* [[オール・ザット・ジャズ]] (1979) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第14位 [[パルム・ドール]]
=== 1980年代 ===
=== 1990年代 ===
* [[美女と野獣 (1991年の映画)|美女と野獣]] (1991) [[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]選出ミュージカル第22位
=== 2000年代 ===
* [[ダンサー・イン・ザ・ダーク]] ''Dancer in the Dark'' (2000) [[パルム・ドール]]
* [[ムーラン・ルージュ (映画)| ムーラン・ルージュ]] ''Moulin Rouge!'' (2001) [[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]選出ミュージカル第25位
* [[シカゴ (2002年の映画)|シカゴ]] ''Chicago'' (2002) S (1975) アメリカン・フィルム・インスティチュート選出ミュージカル第12位 アカデミー作品賞
=== 2010年代 ===
* [[レ・ミゼラブル (2012年の映画)|レ・ミゼラブル]](2012年)''Les Miserables'' アカデミー作品賞ノミネート
* [[ラ・ラ・ランド]](2016年)''La La Land'' アカデミー作品賞ノミネート
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[ミュージカル]]
* [[映画]]
* [[演劇]]
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[[Category:ミュージカル映画|*]] | 2003-02-15T12:02:39Z | 2023-10-31T10:49:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB%E6%98%A0%E7%94%BB |
1,779 | ゲノム | ゲノム(独: Genom、英: genome, ジーノーム)とは、「遺伝情報の全体・総体」を意味するドイツ語由来の語彙であり、より具体的・限定的な意味・用法としては、現在、大きく分けて以下の2つがある。古典的遺伝学の立場からは、二倍体生物におけるゲノムは生殖細胞に含まれる染色体もしくは遺伝子全体を指し、このため体細胞には2組のゲノムが存在すると考える。原核生物、細胞内小器官、ウイルス等の一倍体生物においては、DNA(一部のウイルスやウイロイドではRNA)上の全遺伝情報を指す。分子生物学の立場からは、すべての生物を一元的に扱いたいという考えに基づき、ゲノムはある生物のもつ全ての核酸上の遺伝情報としている。ただし、真核生物の場合は細胞小器官(ミトコンドリア、葉緑体など)が持つゲノムは独立に扱われる(ヒトゲノムにヒトミトコンドリアのゲノムは含まれない)。
ゲノムは、タンパク質をコードするコーディング領域と、それ以外のノンコーディング領域に大別される。ゲノム解読当初、ノンコーディング領域はその一部が遺伝子発現調節等に関与することが知られていたが、大部分は意味をもたないものと考えられ、ジャンクDNAとも呼ばれていた。2020年現在、遺伝子発現調節のほか、RNA遺伝子が生体機能に必須の情報がこの領域に多く含まれることが明らかにされた。
古典遺伝学では、「ある生物をその生物たらしめるのに必須な遺伝情報」として定義される。遺伝子「gene」と、染色体「chromosome」あるいはgene(遺伝子(ジーン)の)+ -ome(総体(オーム))= genome (ジーノーム)をあわせた造語であり、1920年にドイツのハンブルク大学の植物学者ハンス・ヴィンクラーにより造られた。
H. Winkler によるはじめの定義では「配偶子(生殖細胞)が持つ染色体セット」を意味したが、1930年に木原均によって「生物をその生物たらしめるのに必須な最小限の染色体セット」として定義し直された。木原は、コムギ染色体の倍数性の観察に基づき、このゲノム説を提唱した。どちらの定義でも、生殖細胞に含まれる全染色体(もしくはその遺伝情報)を表し、N倍体生物の体細胞にはN組のゲノムが存在すると考える。
1956年にDNAが発見されて以降は、「全染色体を構成するDNAの全塩基配列」という意味も持つ。
ゲノム分析とは、倍数体種のゲノム構成を染色体レベルで明らかにする方法である。倍数体種とその両親種を交配し、その雑種第一代の減数分裂での染色体対合を観察し、ゲノム相同の程度を計算する。主に植物において、生命維持の基本単位であるゲノムが一つの細胞に3組以上存在するという、多倍数性がみられることがある。木原によるゲノム説の元となったパンコムギにおいては、3種のゲノムが2組ずつ合わさった6倍体であることがゲノム分析により示された。
1990年代から、ゲノムの全塩基配列を解読することを目標としたゲノムプロジェクトがさまざまな生物種を対象に実施されている(完了したのはゲノム配列決定であり、内容の解読は完了していないので、「ゲノムプロジェクト」ではなく、ゲノムシーケンシングプロジェクト、あるいはゲノム配列決定プロジェクトともいう)。全ゲノム情報の解明は網羅的解析による生命現象の理解の基盤となるものである。しかし塩基配列を読み取っただけでは生命現象の理解には不十分で、個々の塩基配列の機能や役割、発現したRNAやタンパク質の挙動などを幅広く検討していかなければならない。
そこで、現在ではゲノムを研究するゲノミクスを初めとして、オーミクス(-omics = -ome + -ics)と呼ばれる、網羅的解析を特徴とする研究分野が盛んになってきている。ゲノムDNAからの転写産物(トランスクリプト; Transcript)の総和としてトランスクリプトーム(Transcriptome)、存在するタンパク質(プロテイン; Protein)の総体としてプロテオーム(Proteome)がある。また代謝産物(Metabolite)の総和としてメタボローム(Metabolome)という概念もある。特にプロテオームを扱う分野をプロテオミクスという。これらのゲノム解読以降の研究を総称してポストゲノムと呼ぶことがある。
オーミクスでは、データを効率良く網羅的に収集し、コンピュータによって解析することが必須となる。これに対応するバイオインフォマティクスという分野の研究も盛んである。
試験管の中でオリゴヌクレオチド(小規模なDNA断片)を化学合成する技術は、1950年代から存在した。
2003年、J.C.ベンター研究所のクレイグ・ヴェンターらは、大腸菌のDNA合成機構を利用して、ウイルスのDNA断片をつなぎ合わせ完全なゲノムを合成することに成功した。
2005年、より大きい生物でもゲノムを丸ごと合成する技術が日米の研究機関で独立に開発された。慶應大学/三菱化学生命研究所の枯草菌を用いるシステムと、ベンター研究所の酵母菌を用いるシステムである
2007年、クレイグ・ヴェンターらは、酵母菌を利用してDNAの断片をつなぎ合わせて、マイコプラズマ・ジェニタリウムという細菌のゲノムを構築した。
また同年、慶應大学の板谷光泰らは、枯草菌を利用して短いDNAをつなぎ合わせて、マウスのミトコンドリアゲノムおよびイネの葉緑体ゲノムを再構築した。
2010年5月、ベンター研究所はマイコプラズマ・ミコイデスという細菌のゲノムを人工合成し、別種の細菌のマイコプラズマ・カプリコルムに移植して、移植先の細胞を制御することに成功した。合成ゲノムによって細胞の制御に成功したのは世界初である。これは、ゲノムを人工的に設計・合成し、細胞に移植して、細胞が機能することを実証したもので、合成生物学の進展につながる成果となった。細胞膜や細胞内の器官は人工合成していないため完全な「人工生命」ではないが、これらの研究がさらに進めば、合成生命の誕生に行き着くことになる。
半数体ヒトゲノムは約30億塩基対からなり、体細胞は2倍体であるため約60億塩基対のDNAを核内に持っている。分裂酵母では3本の染色体DNA上に、大腸菌やミトコンドリアでは一つの環状DNA上に保持されている。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)のようなレトロウイルスではRNAが媒体になる。
遺伝子数とゲノムサイズは必ずしも比例しない。両生類や植物のユリのゲノムサイズは大きく、昆虫やトラフグではゲノムサイズが小さい。これはイントロンや遺伝子間のジャンクDNAの長さが原因である。例としてミジンコの方がヒトよりゲノムサイズは小さいが遺伝子数は多い。また原核生物は真核生物よりゲノムに占めるコーディング領域の割合が高い傾向があり、遺伝子がゲノムにコンパクトに収まっている。
それからゲノムサイズが大きくなると大量の情報を保存できるが複製に使うエネルギーが増え生存に不利に働くため、一定のゲノムの大きさで自然選択圧が掛かる。また原核生物より真核生物の方が複雑で必要な情報量が多い傾向があり、一般に真核生物ではスプライシングによってイントロンが抜けエクソンのコーディング領域が翻訳されるため、原核生物に比較して真核生物はゲノムサイズが大きくなる傾向がある。 | [
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"text": "ゲノム(独: Genom、英: genome, ジーノーム)とは、「遺伝情報の全体・総体」を意味するドイツ語由来の語彙であり、より具体的・限定的な意味・用法としては、現在、大きく分けて以下の2つがある。古典的遺伝学の立場からは、二倍体生物におけるゲノムは生殖細胞に含まれる染色体もしくは遺伝子全体を指し、このため体細胞には2組のゲノムが存在すると考える。原核生物、細胞内小器官、ウイルス等の一倍体生物においては、DNA(一部のウイルスやウイロイドではRNA)上の全遺伝情報を指す。分子生物学の立場からは、すべての生物を一元的に扱いたいという考えに基づき、ゲノムはある生物のもつ全ての核酸上の遺伝情報としている。ただし、真核生物の場合は細胞小器官(ミトコンドリア、葉緑体など)が持つゲノムは独立に扱われる(ヒトゲノムにヒトミトコンドリアのゲノムは含まれない)。",
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"text": "古典遺伝学では、「ある生物をその生物たらしめるのに必須な遺伝情報」として定義される。遺伝子「gene」と、染色体「chromosome」あるいはgene(遺伝子(ジーン)の)+ -ome(総体(オーム))= genome (ジーノーム)をあわせた造語であり、1920年にドイツのハンブルク大学の植物学者ハンス・ヴィンクラーにより造られた。",
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"text": "H. Winkler によるはじめの定義では「配偶子(生殖細胞)が持つ染色体セット」を意味したが、1930年に木原均によって「生物をその生物たらしめるのに必須な最小限の染色体セット」として定義し直された。木原は、コムギ染色体の倍数性の観察に基づき、このゲノム説を提唱した。どちらの定義でも、生殖細胞に含まれる全染色体(もしくはその遺伝情報)を表し、N倍体生物の体細胞にはN組のゲノムが存在すると考える。",
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"text": "ゲノム分析とは、倍数体種のゲノム構成を染色体レベルで明らかにする方法である。倍数体種とその両親種を交配し、その雑種第一代の減数分裂での染色体対合を観察し、ゲノム相同の程度を計算する。主に植物において、生命維持の基本単位であるゲノムが一つの細胞に3組以上存在するという、多倍数性がみられることがある。木原によるゲノム説の元となったパンコムギにおいては、3種のゲノムが2組ずつ合わさった6倍体であることがゲノム分析により示された。",
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"text": "1990年代から、ゲノムの全塩基配列を解読することを目標としたゲノムプロジェクトがさまざまな生物種を対象に実施されている(完了したのはゲノム配列決定であり、内容の解読は完了していないので、「ゲノムプロジェクト」ではなく、ゲノムシーケンシングプロジェクト、あるいはゲノム配列決定プロジェクトともいう)。全ゲノム情報の解明は網羅的解析による生命現象の理解の基盤となるものである。しかし塩基配列を読み取っただけでは生命現象の理解には不十分で、個々の塩基配列の機能や役割、発現したRNAやタンパク質の挙動などを幅広く検討していかなければならない。",
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"text": "そこで、現在ではゲノムを研究するゲノミクスを初めとして、オーミクス(-omics = -ome + -ics)と呼ばれる、網羅的解析を特徴とする研究分野が盛んになってきている。ゲノムDNAからの転写産物(トランスクリプト; Transcript)の総和としてトランスクリプトーム(Transcriptome)、存在するタンパク質(プロテイン; Protein)の総体としてプロテオーム(Proteome)がある。また代謝産物(Metabolite)の総和としてメタボローム(Metabolome)という概念もある。特にプロテオームを扱う分野をプロテオミクスという。これらのゲノム解読以降の研究を総称してポストゲノムと呼ぶことがある。",
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"text": "オーミクスでは、データを効率良く網羅的に収集し、コンピュータによって解析することが必須となる。これに対応するバイオインフォマティクスという分野の研究も盛んである。",
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"text": "試験管の中でオリゴヌクレオチド(小規模なDNA断片)を化学合成する技術は、1950年代から存在した。",
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"text": "2003年、J.C.ベンター研究所のクレイグ・ヴェンターらは、大腸菌のDNA合成機構を利用して、ウイルスのDNA断片をつなぎ合わせ完全なゲノムを合成することに成功した。",
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"text": "2005年、より大きい生物でもゲノムを丸ごと合成する技術が日米の研究機関で独立に開発された。慶應大学/三菱化学生命研究所の枯草菌を用いるシステムと、ベンター研究所の酵母菌を用いるシステムである",
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"text": "2007年、クレイグ・ヴェンターらは、酵母菌を利用してDNAの断片をつなぎ合わせて、マイコプラズマ・ジェニタリウムという細菌のゲノムを構築した。",
"title": "ゲノム合成"
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"text": "また同年、慶應大学の板谷光泰らは、枯草菌を利用して短いDNAをつなぎ合わせて、マウスのミトコンドリアゲノムおよびイネの葉緑体ゲノムを再構築した。",
"title": "ゲノム合成"
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"text": "2010年5月、ベンター研究所はマイコプラズマ・ミコイデスという細菌のゲノムを人工合成し、別種の細菌のマイコプラズマ・カプリコルムに移植して、移植先の細胞を制御することに成功した。合成ゲノムによって細胞の制御に成功したのは世界初である。これは、ゲノムを人工的に設計・合成し、細胞に移植して、細胞が機能することを実証したもので、合成生物学の進展につながる成果となった。細胞膜や細胞内の器官は人工合成していないため完全な「人工生命」ではないが、これらの研究がさらに進めば、合成生命の誕生に行き着くことになる。",
"title": "ゲノム合成"
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"text": "半数体ヒトゲノムは約30億塩基対からなり、体細胞は2倍体であるため約60億塩基対のDNAを核内に持っている。分裂酵母では3本の染色体DNA上に、大腸菌やミトコンドリアでは一つの環状DNA上に保持されている。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)のようなレトロウイルスではRNAが媒体になる。",
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"text": "遺伝子数とゲノムサイズは必ずしも比例しない。両生類や植物のユリのゲノムサイズは大きく、昆虫やトラフグではゲノムサイズが小さい。これはイントロンや遺伝子間のジャンクDNAの長さが原因である。例としてミジンコの方がヒトよりゲノムサイズは小さいが遺伝子数は多い。また原核生物は真核生物よりゲノムに占めるコーディング領域の割合が高い傾向があり、遺伝子がゲノムにコンパクトに収まっている。",
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"text": "それからゲノムサイズが大きくなると大量の情報を保存できるが複製に使うエネルギーが増え生存に不利に働くため、一定のゲノムの大きさで自然選択圧が掛かる。また原核生物より真核生物の方が複雑で必要な情報量が多い傾向があり、一般に真核生物ではスプライシングによってイントロンが抜けエクソンのコーディング領域が翻訳されるため、原核生物に比較して真核生物はゲノムサイズが大きくなる傾向がある。",
"title": "数と大きさ"
}
] | ゲノムとは、「遺伝情報の全体・総体」を意味するドイツ語由来の語彙であり、より具体的・限定的な意味・用法としては、現在、大きく分けて以下の2つがある。古典的遺伝学の立場からは、二倍体生物におけるゲノムは生殖細胞に含まれる染色体もしくは遺伝子全体を指し、このため体細胞には2組のゲノムが存在すると考える。原核生物、細胞内小器官、ウイルス等の一倍体生物においては、DNA(一部のウイルスやウイロイドではRNA)上の全遺伝情報を指す。分子生物学の立場からは、すべての生物を一元的に扱いたいという考えに基づき、ゲノムはある生物のもつ全ての核酸上の遺伝情報としている。ただし、真核生物の場合は細胞小器官(ミトコンドリア、葉緑体など)が持つゲノムは独立に扱われる(ヒトゲノムにヒトミトコンドリアのゲノムは含まれない)。 ゲノムは、タンパク質をコードするコーディング領域と、それ以外のノンコーディング領域に大別される。ゲノム解読当初、ノンコーディング領域はその一部が遺伝子発現調節等に関与することが知られていたが、大部分は意味をもたないものと考えられ、ジャンクDNAとも呼ばれていた。2020年現在、遺伝子発現調節のほか、RNA遺伝子が生体機能に必須の情報がこの領域に多く含まれることが明らかにされた。 | {{Otheruses|生物学用語|漫画作品|ゲノム (漫画)|Windows用シューティングゲーム|G-Nome}}
'''ゲノム'''({{lang-de-short|Genom}}、{{lang-en-short|genome}}, '''ジーノーム''')とは、「[[遺伝]]情報の全体・総体」を意味するドイツ語由来の語彙であり、より具体的・限定的な意味・用法としては、現在、大きく分けて以下の2つがある。古典的[[遺伝学]]の立場からは、[[倍数性|二倍体生物]]におけるゲノムは生殖細胞に含まれる[[染色体]]もしくは[[遺伝子]]全体を指し、このため体細胞には2組のゲノムが存在すると考える。[[原核生物]]、[[細胞内小器官]]、[[ウイルス]]等の一倍体生物においては、[[デオキシリボ核酸|DNA]](一部の[[ウイルス]]や[[ウイロイド]]では[[リボ核酸|RNA]])上の全遺伝情報を指す。[[分子生物学]]の立場からは、すべての[[生物]]を一元的に扱いたいという考えに基づき、ゲノムは'''ある生物のもつ全ての[[核酸]]上の[[遺伝情報]]'''としている。ただし、真核生物の場合は細胞小器官(ミトコンドリア、葉緑体など)が持つゲノムは独立に扱われる(ヒトゲノムにヒトミトコンドリアのゲノムは含まれない)。
ゲノムは、[[タンパク質]]をコードする[[コーディング領域]]と、それ以外のノンコーディング領域に大別される。ゲノム[[ゲノムプロジェクト|解読]]当初、ノンコーディング領域はその一部が遺伝子発現調節等に関与することが知られていたが、大部分は意味をもたないものと考えられ、[[ジャンクDNA]]とも呼ばれていた。[[2020年]]現在、遺伝子発現調節のほか、RNA遺伝子が生体機能に必須の情報がこの領域に多く含まれることが明らかにされた。
== 定義 ==
古典遺伝学では、「ある[[生物]]をその生物たらしめるのに必須な遺伝情報」として定義される。遺伝子「'''gen'''e」と、染色体「chromos'''ome'''」あるいはgene(遺伝子(ジーン)の)+ -ome(総体(オーム))= genome (ジーノーム)をあわせた造語であり、1920年にドイツの[[ハンブルク大学]]の植物学者[[ハンス・ヴィンクラー]]により造られた{{sfn|ダウドナ|2017|p=34}}。
H. Winkler によるはじめの定義では「[[配偶子]]([[生殖細胞]])が持つ[[染色体]]セット」を意味したが、1930年に[[木原均]]によって「[[生物]]をその生物たらしめるのに必須な最小限の染色体セット」として定義し直された。木原は、[[コムギ]]染色体の倍数性の観察に基づき、このゲノム説を提唱した。どちらの定義でも、生殖細胞に含まれる全染色体(もしくはその[[遺伝情報]])を表し、[[倍数性|N倍体]][[生物]]の[[体細胞]]にはN組のゲノムが存在すると考える。
1956年にDNAが発見されて以降は、「全染色体を構成する[[デオキシリボ核酸|DNA]]の全[[塩基配列]]」という意味も持つ。
== ゲノム分析 ==
ゲノム分析とは、倍数体種のゲノム構成を染色体レベルで明らかにする方法である<ref>[http://www.civic.ninohe.iwate.jp/100W/05/047/page2.htm 『日本の科学者・技術者100人』木原均]</ref>。倍数体種とその両親種を交配し、その雑種第一代の減数分裂での染色体対合を観察し、ゲノム相同の程度を計算する。主に植物において、生命維持の基本単位であるゲノムが一つの細胞に3組以上存在するという、多倍数性がみられることがある。木原によるゲノム説の元となったパンコムギにおいては、3種のゲノムが2組ずつ合わさった6倍体であることがゲノム分析により示された。
== ゲノム配列解析と機能マッピング ==
{{出典の明記| date = 2023年6月| section = 1}}
1990年代から、ゲノムの全塩基配列を解読することを目標とした[[ゲノムプロジェクト]]がさまざまな生物種を対象に実施されている(完了したのはゲノム配列決定であり、内容の解読は完了していないので、「ゲノムプロジェクト」ではなく、ゲノムシーケンシングプロジェクト、あるいはゲノム配列決定プロジェクトともいう)。全ゲノム情報の解明は網羅的解析による生命現象の理解の基盤となるものである。しかし塩基配列を読み取っただけでは生命現象の理解には不十分で、個々の塩基配列の機能や役割、発現したRNAやタンパク質の挙動などを幅広く検討していかなければならない。
そこで、現在ではゲノムを研究する[[ゲノミクス]]を初めとして、[[オーミクス]](-omics = -ome + -ics)と呼ばれる、網羅的解析を特徴とする研究分野が盛んになってきている。ゲノムDNAからの転写産物(トランスクリプト; Transcript)の総和として[[トランスクリプトーム]](Transcriptome)、存在するタンパク質(プロテイン; Protein)の総体として[[プロテオーム]](Proteome)がある。また代謝産物(Metabolite)の総和として[[メタボローム]](Metabolome)という概念もある。特にプロテオームを扱う分野を[[プロテオミクス]]という。これらのゲノム解読以降の研究を総称してポストゲノムと呼ぶことがある。
オーミクスでは、データを効率良く網羅的に収集し、コンピュータによって解析することが必須となる。これに対応する[[バイオインフォマティクス]]という分野の研究も盛んである。
== ゲノム合成 ==
試験管の中で[[オリゴヌクレオチド]](小規模なDNA断片)を化学合成する技術は、1950年代から存在した。
2003年、[[:en:J. Craig Venter Institute|J.C.ベンター研究所]]の[[クレイグ・ヴェンター]]らは、[[大腸菌]]のDNA合成機構を利用して、[[ウイルス]]のDNA断片をつなぎ合わせ完全なゲノムを合成することに成功した<ref>[http://www.pnas.org/content/100/26/15440.abstract?sid=d03773b8-96c2-44a6-ac23-49a2204772a9 Generating a synthetic genome by whole genome assembly: φX174 bacteriophage from synthetic oligonucleotides]</ref>。
2005年、より大きい生物でもゲノムを丸ごと合成する技術が日米の研究機関で独立に開発された<ref>[http://www.spc.jst.go.jp/hottopics/1012fusion/r1012_itaya.html 合成ゲノムのバイオロジー:世界と日本の現状]</ref>。[[慶應大学]]/[[三菱化学生命研究所]]の[[枯草菌]]を用いるシステムと、ベンター研究所の[[酵母菌]]を用いるシステムである
2007年、クレイグ・ヴェンターらは、[[酵母菌]]を利用してDNAの断片をつなぎ合わせて、[[:en:Mycoplasma genitalium|マイコプラズマ・ジェニタリウム]]という細菌のゲノムを構築した<ref>{{Cite journal
| doi = 10.1126/science.1151721
| last = Gibson
| first = B
| coauthors = Clyde A. Hutchison, Cynthia Pfannkoch, J. Craig Venter, et al.
| title = Complete Chemical Synthesis, Assembly, and Cloning of a Mycoplasma genitalium Genome
| journal = Science
| accessdate = 2008-01-24
| date = 2008-01-24
| url = http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/1151721
| volume = 319
| page = 1215
| pmid = 18218864
| issue = 5867
}}</ref>。
また同年、慶應大学の[[板谷光泰]]らは、[[枯草菌]]を利用して短いDNAをつなぎ合わせて、[[ハツカネズミ属|マウス]]の[[ミトコンドリア]]ゲノムおよび[[イネ]]の[[葉緑体]]ゲノムを再構築した<ref>Mitsuhiro Itaya, Kyoko Fujita, Azusa Kuroki, Kenji Tsuge. “Bottom-up genome assembly using the Bacillus subtilis genome vector”. Nature methods. Vol..5, no.1, 2008, p.41-43 </ref>。
2010年5月、ベンター研究所は[[:en:Mycoplasma mycoides|マイコプラズマ・ミコイデス]]という細菌のゲノムを人工合成し、別種の細菌の[[:en:Mycoplasma capricolum|マイコプラズマ・カプリコルム]]に移植して、移植先の細胞を制御することに成功した<ref>[http://www.sciencemag.org/content/329/5987/52.abstract Science 2 July 2010: Creation of a Bacterial Cell Controlled by a Chemically Synthesized Genome]</ref>。合成ゲノムによって細胞の制御に成功したのは世界初である。これは、ゲノムを人工的に設計・合成し、細胞に移植して、細胞が機能することを実証したもので、[[合成生物学]]の進展につながる成果となった。[[細胞膜]]や細胞内の器官は人工合成していないため完全な「人工生命」ではないが、これらの研究がさらに進めば、合成生命の誕生に行き着くことになる。
== 数と大きさ ==
半数体[[ヒトゲノム]]は約30億[[塩基対]]からなり、[[体細胞]]は2倍体であるため約60億塩基対の[[デオキシリボ核酸|DNA]]を[[細胞核|核]]内に持っている。[[分裂酵母]]では3本の染色体DNA上に、[[大腸菌]]や[[ミトコンドリア]]では一つの[[環状DNA]]上に保持されている。[[ヒト免疫不全ウイルス]](HIV)のような[[レトロウイルス]]では[[リボ核酸|RNA]]が媒体になる。
遺伝子数とゲノムサイズは必ずしも比例しない。[[両生類]]や植物の[[ユリ]]のゲノムサイズは大きく、[[昆虫]]や[[トラフグ]]ではゲノムサイズが小さい。これは[[イントロン]]や遺伝子間の[[ジャンクDNA]]の長さが原因である。例として[[ミジンコ]]の方が[[ヒト]]よりゲノムサイズは小さいが遺伝子数は多い。また[[原核生物]]は[[真核生物]]よりゲノムに占める[[コーディング領域]]の割合が高い傾向があり、遺伝子がゲノムにコンパクトに収まっている。
それからゲノムサイズが大きくなると大量の情報を保存できるが複製に使うエネルギーが増え生存に不利に働くため、一定のゲノムの大きさで[[自然選択]]圧が掛かる。また原核生物より真核生物の方が複雑で必要な情報量が多い傾向があり、一般に真核生物では[[スプライシング]]によってイントロンが抜け[[エクソン]]のコーディング領域が[[翻訳 (生物学)|翻訳]]されるため、原核生物に比較して真核生物はゲノムサイズが大きくなる傾向がある。
==ゲノムサイズの例==
{| class="wikitable"
!生物種!!ゲノムサイズ<br /><small>(bp: [[塩基]]数)</small>!!遺伝子推定領域
|-
|[[ココナッツカダンカダンウイロイド]]<br/>[[アボカドサンブロッチウイロイド]]||246(最小のゲノムを持つ[[ウイロイド]])||0
|-
|[[ブタサーコウイルス1]]||1759(最小のゲノムを持つウイルス)||?
|-
|ヒト[[ミトコンドリア]]||1.7×10<sup>4</sup>(細胞小器官)||13
|-
|λ[[ファージ]]||4.8×10<sup>4</sup>(一般的なウイルス)||50
|-
|[[ナスイア・デルトケパリニコラ]]||1.1×10<sup>5</sup>(最小のゲノムを持つ細菌)||137
|-
|[[イネ]][[葉緑体]]||1.3×10<sup>5</sup>(細胞小器官)||65
|-
|[[ナノアルカエウム・エクウィタンス]]||5.0×10<sup>5</sup>(最小のゲノムを持つ古細菌。共生/寄生)||536
|-
|[[マイコプラズマ・ゲニタリウム]]||5.8×10<sup>5</sup>(記載種として最小のゲノムを持つ)||467
|-
|[[メタノテルムス属|メタノテルムス・フェルウィドゥス]](超[[好熱菌|好熱]][[メタン菌]])||1.2×10<sup>6</sup>(古細菌。最小の自由生活性生物)||1283
|-
|[[エンケファリトゾオン・インテスティナリス]]([[微胞子虫]])||2.2×10<sup>6</sup>(最小のゲノムを持つ真核生物)||1939
|-
|[[パンドラウイルス属|パンドラウイルス・サリヌス]]||2.5×10<sup>6</sup>(最大のゲノムを持つウイルス)||2556
|-
|[[ハロバクテリウム・サリナルム]]([[高度好塩菌]])||2.6×10<sup>6</sup>(一般的な古細菌)||2749
|-
|[[大腸菌]]||4.6×10<sup>6</sup>(一般的な細菌)||4149
|-
|[[メタノサルキナ・アケティウォランス]]([[メタン菌]])||5.7×10<sup>6</sup>(最大のゲノムを持つ古細菌)||4540
|-
|[[出芽酵母]]||1.2×10<sup>7</sup>||5880
|-
|[[マスティゴコレウス・テスタルム]]([[藍藻|藍色細菌]])||1.3×10<sup>7</sup>||9,131
|-
|[[ストレプトマイセス・ラパミキニクス]]([[放線菌]])||1.3×10<sup>7</sup>||10,002
|-
|[[クテドノバクテル・ラケミフェル]]([[クテドノバクテル綱|好熱性放線菌様細菌]])||1.4×10<sup>7</sup>||11,540
|-
|[[ミニキュスティス・ロセア]]([[粘液細菌]])||1.6×10<sup>7</sup>(最大のゲノムを持つ細菌)||14,018
|-
|ミナミネグサレセンチュウ([[線虫]])||2.0×10<sup>7</sup>(最小のゲノムを持つ動物)||6,712
|-
|[[C. elegans|カエノラブディティス・エレガンス]]([[線虫]])||9.7×10<sup>7</sup>||約20000
|-
|[[シロイヌナズナ]]||1.3×10<sup>8</sup>||約27000
|-
|[[キイロショウジョウバエ]]||1.8×10<sup>8</sup>||13,931
|-
|[[キイロタマホコリカビ]]||3.4×10<sup>8</sup>||約13000
|-
|[[イネ]]||3.9×10<sup>8</sup>||約37000
|-
|[[ミドリフグ]]<ref>{{cite web|title=Tetraodon Project Information|url=http://www.broadinstitute.org/annotation/tetraodon/background.html|accessdate=17 October 2012}}</ref>
||3.9×10<sup>8</sup>||
|-
|[[カイコ]]||4.3×10<sup>8</sup>||
|-
|[[ヒアリ]]||4.8×10<sup>8</sup>||
|-
|[[ブラック・コットンウッド]]<ref>[http://www.sciencemag.org/content/313/5793/1596.abstract The Genome of Black Cottonwood, Populus trichocarpa (Torr. & Gray) Science(2006)]</ref>
||4.8×10<sup>8</sup>||
|-
|[[トウモロコシ]]||2.3×10<sup>9</sup>||約32000
|-
|[[ヒト]]||3.0×10<sup>9</sup>||約26000
|-
|[[ハツカネズミ|マウス]]||3.3×10<sup>9</sup>||約29000
|-
|[[コムギ]]||1.7×10<sup>10</sup>||
|-
|[[フリチラリア・アッシリアカ]]([[ユリ科]][[バイモ属]]の植物)||1.3×10<sup>11</sup>||
|-
|[[プロトプテルス・エチオピクス]]([[ハイギョ|アフリカハイギョ]]の一種)||1.3×10<sup>11</sup>||
|-
|[[キヌガサソウ]]||1.5×10<sup>11</sup>||
|-
|[[ポリカオス・ドゥビウム]]([[アメーバ]])||6.7×10<sup>11</sup>(最大のゲノムを持つ生物)||
|}
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=[[ジェニファー・ダウドナ]]/サミュエル・スターンバーグ|translator=櫻井祐子|title=CRISPR (クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見|publisher=[[文藝春秋]]|date=2017年10月4日|isbn=978-4163907383}}
* Benfey, P and Protopapas, AD(2004). Essentials of Genomics. Prentice Hall.
* Brown, TA(2002). Genomes 2. Bios Scientific Publishers.
* Gibson, G and Muse, SV(2004). A Primer of Genome Science(Second Edition). Sinauer Assoc.
* Gregory, TR(ed)(2005). [[The Evolution of the Genome]]. Elsevier.
* Reece, RJ(2004). Analysis of Genes and Genomes. John Wiley & Sons.
* Saccone, C and Pesole, G(2003). Handbook of Comparative Genomics. John Wiley & Sons.
* Werner, E. In silico multicellular systems biology and minimal genomes, Drug Discov Today. 2003 Dec 15;8(24):1121-7. [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=pubmed&dopt=Abstract&list_uids=14678738&query_hl=3 PubMed]
== 関連項目 ==
* [[ゲノム編集]]
* [[遺伝子診断]]
== 外部リンク ==
* [http://genome.ucsc.edu UCSC Genome Browser]
* [http://www.genomesize.com/ Animal genome size database]
* [http://www.genomesonline.org/ GOLD:Genomes OnLine Database]
* [http://www.genome.jp/ja/ ゲノムネット 京都大学化学研究所バイオインフォマティクスセンター]
* [http://www.nibb.ac.jp/press/071212/071212_open.html ヒメツリガネゴケゲノムの解読] 基礎生物学研究所 プレスリリース
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'''2月2日'''(にがつふつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から33日目に当たり、年末まであと332日([[閏年]]では333日)ある。
== できごと ==
* [[962年]] - [[東フランク王国|東フランク王]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]がローマ教皇[[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]から戴冠を受け、初代[[神聖ローマ皇帝]]となる。
* [[1580年]]([[天正]]8年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[三木合戦]](三木の干殺し)が終結。[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[三木城]]を陥落させる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.miki.lg.jp/site/mikirekishishiryokan/3014.html |title=三木合戦(三木の干し殺し) |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[三木市]] |date=22 Aug 2019}}</ref>。
* [[1653年]] - [[ニューアムステルダム]](現在の[[ニューヨーク]])に正式に市の資格が与えられる。
* [[1709年]] - [[ロビンソン・クルーソー]]のモデルといわれる[[スコットランド人]]船員の[[アレキサンダー・セルカーク]]が太平洋の無人島で発見される。
* [[1848年]] - [[米墨戦争]]終結のための[[グアダルーペ・イダルゴ条約]]に調印。
* [[1868年]]([[慶応]]4年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[大坂城]]炎上<ref>{{Cite web |url=https://www.osakacastle.net/pdf/leaflet/yukari-bakumatsu_202307.pdf |title=大阪城ゆかりの地マップ 幕末・維新 |date=2023-7 |publisher=大阪城天守閣 |accessdate=2023-12-20|}}</ref>。
* [[1876年]] - [[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の[[ナショナルリーグ]]設立<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/this-day-in-history/national-league-of-baseball-is-founded |title=National League of baseball is founded |access-date=14 Aug 2023 |publisher=A&E Television Networks, LLC. |website=This Day In History |date=3 Feb 2023}}</ref>。
* [[1878年]] - [[ギリシャ]]が[[オスマン帝国]]に宣戦布告。
* [[1909年]] - [[岩国電気軌道]]が、岩国駅〜新町間で開業。[[1924年]](大正13年)[[2月29日]]に山口県営となるが、[[1929年]](昭和4年)に廃止。
* [[1913年]] - ニューヨークの[[グランド・セントラル駅]]の現在の駅舎が使用開始。
* [[1920年]] - [[エストニア]]と[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエト・ロシア]]が[[タルトゥ条約]]に調印。ソ連が[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の支配下にあったエストニアの独立を承認。
* 1920年 - 東京市街自動車の乗合バスに日本で初めて女性[[車掌]](バスガール)が登場。
* [[1922年]] - [[ジェイムズ・ジョイス]]の小説『[[ユリシーズ]]』が発刊。
* [[1934年]] - [[合衆国輸出入銀行]]設立。
* [[1937年]] - 日本で、[[林銑十郎]]が第33代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[林内閣]]が発足。
* [[1940年]] - 衆議院で[[斎藤隆夫]]が軍部の[[日中戦争]]処理方針を非難する[[反軍演説]]を行う。
* [[1942年]] - [[国防婦人会|大日本国防婦人会]]・[[愛国婦人会]]・大日本聯合婦人会を統合して[[大日本婦人会]]が発足。
* [[1943年]] - [[第二次世界大戦]]: [[スターリングラード攻防戦]]がソ連の勝利で終結。
* [[1946年]] - [[宗教法人法|宗教法人令]]改正。[[神道]]を[[宗教]]として扱い、[[神社]]を[[宗教法人]]とする。
* 1946年 - [[ソビエト連邦最高会議幹部会]]が南サハリン([[南樺太]])およびクリル諸島([[千島列島]])を領域とする[[南サハリン州]]の設置と[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア共和国]]への編入を発令。
* [[1954年]] - 戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により禁止されていた国際航空業務が再開。[[日本航空]]は初の国際線となる東京〜ウェーキ〜ホノルル〜サンフランシスコ線を開設<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/1cd2c5a80d87fa727e2f1dbe8bea0dd9f4591c60 |title=日本の国際線第一便(日本航空)がサンフランシスコに飛び立ってから63年 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[Yahoo! JAPAN]] |date=2 Feb 2017}}</ref>。
* 1954年 - [[福岡県]][[須恵町]]の[[炭鉱]]、新栄鉱業所の坑内で爆発事故があり、15人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=96|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1956年]] - [[庄内事件]]: [[阪急電鉄|京阪神急行電鉄]][[阪急宝塚本線|宝塚線]][[庄内駅 (大阪府)|庄内駅]]において、車両故障時の対応の不手際から、激怒した乗客が線路を封鎖して電車を止める。
* [[1959年]] - [[ソビエト連邦]]の[[ウラル山脈]]山中において、[[ディアトロフ峠事件]]が発生し、[[トレッキング]]客9人が怪死。
* [[1958年]] - [[岩手県]][[雫石町]]女助山中腹(国有林)の[[木炭|炭焼き]]小屋2つが[[雪崩]]に襲われ全壊。6人が死亡、7人が重傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=112-134|isbn=9784816922749}}</ref>
* [[1967年]] - [[アメリカン・バスケットボール・アソシエーション (1967-1976年)|アメリカン・バスケットボール・アソシエーション]]が発足する。
* [[1970年]] - [[コーンフィールド・ボンバー| コーンフィールド・ボンバー不時着事故]]が発生。
* [[1971年]] - [[湿地]]の保護に関する[[ラムサール条約]]が調印される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/nature/ramsar/conv/About_RamarConvention.html |title=ラムサール条約と条約湿地 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[環境省]]}}</ref>。[[1975年]][[12月21日]]に発効。
* [[1972年]] - グアム島に隠れ続けていた元日本兵・[[横井庄一]]が帰国。
* [[1976年]] - [[テレビ朝日|NETテレビ(現・テレビ朝日)]]で『[[徹子の部屋]]』が放送開始。
* [[1987年]] - 前年2月の[[エドゥサ革命]]後の[[フィリピン]]で新憲法制定。
* [[1990年]] - [[ソビエト連邦の崩壊]]: エストニアの代議員合同総会で、1920年の同日に調印した[[タルトゥ条約]]が現在も有効であり、エストニアは独立国であると宣言。
* 1990年 - [[アパルトヘイト]]: [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]][[南アフリカの大統領|大統領]]が[[アフリカ民族会議]]などを合法化し、[[ネルソン・マンデラ]]の釈放を約束。
* [[1998年]] - [[日本の郵便番号]]が7桁となる。
* [[2000年]] - [[888年]][[8月28日]]以来、1112年ぶりに年月日全ての数字が[[偶数]]になる。
* [[2005年]] - 前年、[[アメリカ合衆国|米国]]のカーライルグループに買収された[[DDIポケット]]が[[ウィルコム]]に社名変更。
* [[2006年]] - [[神戸新交通ポートアイランド線]]の[[市民広場駅]] - [[神戸空港駅]]間が延伸開業。
* [[2011年]] - [[エジプト]]で反[[ホスニー・ムバーラク|ムバラク]]派の[[デモ]]隊とムバラク派のデモ隊が衝突。多数の死傷者を出す。
* 2011年 - [[大相撲八百長問題]]: 日本相撲協会の臨時理事会で、十両の[[千代白鵬大樹|千代白鵬]]、三段目の[[恵那司千浩|恵那司]]、元幕内[[春日錦孝嘉|春日錦]]の竹縄親方の3人が八百長への関与を認めた。
* [[2013年]] - 映画『[[アメリカン・スナイパー]]』のモデルとなったアメリカの元[[軍人]][[クリス・カイル]]が、射撃訓練中に射殺される。
* [[2019年]] - 横浜[[海上保安庁|海上保安部]]は、[[小笠原諸島]]の母島沖で停船命令に従わず逃げたとして、中国漁船の船長を漁業主権法違反(立ち入り検査忌避)の疑いで現行犯逮捕した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM226DZ2M22ULOB00P.html |title=停船命令無視した疑い、中国漁船長を逮捕 サンゴ密漁か |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=2 Feb 2019}}</ref>。
* [[2021年]] - [[節分]]が[[1897年]]以来124年ぶりに2月2日となる。以降4年ごとに節分が2日となり、[[2057年]]と[[2058年]]は2年連続で2日になると予測されている。
* [[2023年]] - アメリカは、[[南シナ海]]で海洋進出を続ける中国への抑止力を強化するため、フィリピン国内で米軍が使用できる軍事拠点を新たに4カ所設定し、9カ所とすることでフィリピンと合意したと発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/philippines-usa-idJPKBN2UC0CW |title=フィリピン、米軍使用基地を4カ所増加 対中国で結束 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=2 Feb 2023}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
* [[1208年]] - [[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography//James-I-king-of-Aragon |title=James I|king of Aragon |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[アラゴン王国|アラゴン]]王、[[バルセロナ伯]](+ [[1276年]])
* [[1522年]] - [[ルドヴィコ・フェラーリ]]、[[数学者]](+ [[1565年]])
* [[1649年]] - [[ベネディクトゥス13世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス13世]]、[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1733年]])
* [[1650年]] - [[ネル・グウィン]]、[[イングランド王]][[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の寵姫(+ [[1687年]])
* [[1669年]] - [[ルイ・マルシャン]]、[[作曲家]]、[[鍵盤楽器]]奏者(+ [[1732年]])
* [[1700年]] - [[ヨハン・クリストフ・ゴットシェート]]、[[文学者]](+ [[1766年]])
* [[1711年]] - [[ヴェンツェル・アントン・カウニッツ]]、[[外交官]]、[[政治家]](+ [[1794年]])
* [[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[岡部長著]]、[[岸和田藩]]主(+ [[1756年]])
* [[1743年]] - [[ジョゼフ・バンクス]]、[[博物学者]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1820年]])
* [[1785年]]([[天明]]4年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[松平頼啓]]、[[西条藩]]主(+ [[1848年]])
* [[1813年]]([[文化 (元号)|文化]]10年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[戸沢正令]]、[[新庄藩]]主(+ [[1843年]])
* [[1829年]] - [[アルフレート・ブレーム]]、[[動物学|動物学者]]、[[著作家|作家]](+ [[1884年]])
* [[1839年]]([[天保]]9年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[黒田長知]]、[[福岡藩]]主(+ [[1902年]])
* [[1841年]] - [[フランソワ=アルフォンス・フォーレル]]、[[科学者]](+ [[1912年]])
* [[1852年]] - [[ホセ・グアダルーペ・ポサダ]]、[[画家]]、[[イラストレーター]](+ [[1913年]])
* [[1859年]] - [[ハヴロック・エリス]]、[[医師]]、[[性科学者]](+ [[1939年]])
* [[1873年]] - [[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]、外交官、政治家(+ [[1956年]])
* [[1875年]] - [[フリッツ・クライスラー]]、[[ヴァイオリニスト]]、作曲家(+ [[1962年]])
* [[1882年]] - [[ジェームズ・ジョイス]]、[[小説家]](+ [[1941年]])
* 1882年 - [[梨本伊都子]]、元[[皇族]]、[[梨本宮守正王]]の妃(+ [[1976年]])
* [[1885年]] - [[ミハイル・フルンゼ]]、[[ロシア革命]]時の[[ボルシェヴィキ]]指導者(+ [[1925年]])
* [[1887年]] - [[嶋中雄作]]、[[編集者]]、[[出版]]人(+ [[1949年]])
* [[1888年]] - [[木村小左衛門]]、[[政治家]](+ [[1952年]])
* 1888年 - [[松田竹千代]]、政治家(+ [[1980年]])
* [[1891年]] - [[アントニオ・セーニ]]、政治家、第4代[[イタリア共和国]][[共和国大統領 (イタリア)|大統領]](+ [[1972年]])
* [[1893年]] - [[コルネリウス・ランチョス]]、数学者、[[物理学者]](+ [[1974年]])
* [[1894年]] - [[片岡鉄兵]]、[[小説家]](+ [[1944年]])
* 1894年 - [[ダムディン・スフバートル]]、[[革命家]]、[[軍人]] (+ [[1923年]])
* 1894年 - [[ヘンリク・アンソニー・クラマース]]、物理学者(+ [[1952年]])
* [[1895年]] - [[阿部豊]]、[[俳優]]、[[映画監督]](+ [[1977年]])
* 1895年 - [[ジョージ・ハラス]]、[[アメリカンフットボール]]選手、指導者(+ [[1983年]])
* [[1896年]] - [[カジミェシュ・クラトフスキ]]、数学者(+ [[1980年]])
* 1896年 - [[鹿島守之助]]、外交官、政治家、[[鹿島建設]]会長(+ [[1975年]])
* [[1899年]] - [[東畑精一]]、[[経済学者]]、[[農学者]](+ [[1983年]])
* [[1901年]] - [[ヤッシャ・ハイフェッツ]]、ヴァイオリニスト(+ [[1987年]])
* 1901年 - [[中村翫右衛門 (3代目)]]、俳優、[[前進座]]共同創立者(+ [[1982年]])
* 1901年 - [[木村禧八郎]]、[[政治家]]、[[経済評論家]](+ [[1975年]])
* [[1905年]] - [[アイン・ランド]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Ayn-Rand |title=Ayn Rand|American author |access-date=14 Aug 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[小説家]](+ [[1982年]])
* [[1908年]] - [[おのちゅうこう]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]]、[[詩人]](+ [[1990年]])
* 1908年 - [[ウェス・フェレル]]、[[プロ野球選手]](+ [[1976年]])
* [[1910年]] - [[アレクサンダー・ウニンスキー]]、[[ピアニスト]](+ [[1972年]])
* [[1915年]] - [[二葉あき子]]、[[歌手]](+ [[2011年]])
* 1915年 - [[アバ・エバン]]、外交官、政治家(+ [[2002年]])
* [[1919年]] - [[エルンスト=ヴィルヘルム・ライネルト]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[2007年]])
* 1919年 - [[リーザ・デラ・カーザ]]、[[演劇]][[歌手]](+ [[2012年]])
* [[1922年]] - [[松澤宥]]、[[芸術家]](+ [[2006年]])
* [[1923年]] - [[アルベルト・ラフォルス・カサマダ]]、[[画家]]、詩人(+ [[2009年]])
* 1923年 - [[レッド・ショーエンディーンスト]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](+ [[2018年]])
* [[1924年]] - [[ソニー・スティット]]、[[ミュージシャン]]([[ジャズ]]、[[サクソフォーン|サックス]])(+ [[1982年]])
* [[1926年]] - [[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]、政治家、[[フランス大統領の一覧|フランス大統領]](+ [[2020年]])
* [[1927年]] - [[スタン・ゲッツ]]、ミュージシャン(ジャズ、サックス)(+ [[1991年]])
* 1927年 - [[島原輝夫]]、[[プロ野球選手]](+ [[2004年]])
* [[1929年]] - [[ヴェラ・ヒティロヴァ]]、映画監督(+ [[2014年]])
* 1929年 - [[安藤まり子]]、[[歌手]]
* 1929年 - [[ジョン・H・ホランド]]、[[科学者]](+ [[2015年]])
* [[1931年]] - [[若ノ海周治]]、[[大相撲]][[力士]]・元[[小結]](+ [[1999年]])
* 1931年 - [[ヴァルター・ブルケルト]]、[[神話学|神話学者]]、[[宗教学|宗教学者]](+ [[2015年]])
* 1931年 - [[水野潤一]]、詩人
* [[1932年]] - [[長沢二郎]]、[[競泳]]選手(+ [[2010年]])
* 1932年 - [[金原二郎]]、[[司会者]]、[[アナウンサー]](+ [[1997年]])
* [[1933年]] - [[タン・シュエ]]、[[ミャンマー]]の[[国家平和発展評議会]]議長([[軍事政権]]トップ)
* [[1934年]] - [[オタール・イオセリアーニ]]、映画監督(+ [[2023年]])
* 1934年 - [[小泉喜美子]]、[[推理作家]]、[[翻訳家]](+ [[1985年]])
* [[1935年]] - [[野田幸男]]、[[映画監督]](+ [[1997年]])
* [[1937年]] - [[ドン・ビュフォード]]、元プロ野球選手
* 1937年 - [[張富士夫]]、[[経営者]]
* [[1938年]] - [[山崎晴哉]]、[[脚本家]](+ [[2002年]])
* [[1940年]] - [[トマス・M・ディッシュ]]、[[SF作家]](+ [[2008年]])
* [[1942年]] - [[堀絢子]]、[[声優]]
* [[1944年]] - [[中川秀直]]、政治家
* [[1945年]] - [[舟崎克彦]]、[[作家]]、[[画家]](+ [[2015年]])
* 1945年 - [[ペーター・レーゼル]]、[[ピアニスト]]
* [[1946年]] - [[岸久美子]]、[[俳優|女優]]
* 1946年 - [[アルファ・ウマル・コナレ]]、政治家
* [[1947年]] - [[ファラ・フォーセット]]、女優(+ [[2009年]])
* [[1948年]] - [[蔡志忠]]、[[漫画家]]
* [[1949年]] - おぼん、漫才師([[おぼん・こぼん]])
* 1949年 - [[石山輝夫]]、俳優
* 1949年 - [[ブレント・スパイナー]]、[[俳優]]
* 1949年 - [[堀内護]]、歌手([[ガロ (フォークグループ)|ガロ]])(+ [[2014年]])
* 1949年 - [[水橋春夫]]、ギタリスト、音楽プロデューサー(+[[2018年]])
* [[1950年]] - [[石塚俊明]]、ドラマー、パーカッショニスト
* 1950年 - [[木戸修]]、[[プロレスラー]](+ [[2023年]])
* 1950年 - [[天龍源一郎]]、元プロレスラー
* [[1952年]] - [[朴槿恵]]、[[政治家]]、第18代[[大韓民国|韓国]]大統領
* 1952年 - [[ラルフ・マークル]]、[[暗号]]研究者
* [[1953年]] - [[ウラジミール・コバリョフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1954年]] - [[大田弘子]]、経済学者
* 1954年 - [[浅野和之]]、俳優
* [[1956年]] - [[藍川由美]]、[[声楽家]]
* [[1958年]] - [[山田亘]]、[[ミュージシャン]]、[[ドラマー]]([[FENCE OF DEFENSE]])
* [[1959年]] - [[柄刀一]]、小説家
* 1959年 - [[玉元正男]]、歌手([[フィンガー5]])
* 1959年 - [[中原勇一]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[ウィチット・チットウィマーン]]、外交官(+ [[2023年]])
* [[1961年]] - [[大森望]]、SF評論家
* 1961年 - [[小池英夫]]、テレビプロデューサー
* 1961年 - [[大野雄次]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[江幡和志]]、元プロ野球選手
* [[1963年]] - [[寺尾常史]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄20代[[錣山]](+ [[2023年]])
* 1963年 - [[内藤時浩]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1963年 - [[ちわきまゆみ]]、ミュージシャン
* 1963年 - [[マリー=クロード・ピエトラガラ]]、[[バレエ]]ダンサー、[[振付家]]
* [[1964年]] - [[樋口了一]]、[[ミュージシャン]]
* [[1965年]] - [[佐野直喜]]、元プロレスラー
* 1965年 - [[ガイ・ペリマン]]、ラジオ[[ディスクジョッキー|DJ]]
* [[1966年]] - [[田口惠美子]]、アナウンサー
* 1966年 - [[鶴巻和哉]]、[[アニメ監督]]
* 1966年 - [[琴冠佑源正]]、元大相撲力士
* 1966年 - [[馬淵よしの]]、元[[飛込競技|飛び込み]]選手
* [[1967年]] - [[ローラン・ンクンダ]]、[[コンゴ民主共和国]]の反政府勢力指導者
* [[1968年]] - [[ショーン・エリオット]]、元[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]]
* 1968年 - [[軌保博光]]、映画監督
* [[1969年]] - [[ヴァレリー・カルピン]]、[[サッカー選手]]
* [[1970年]] - [[増田雄一]]、モデル、俳優
* [[1971年]] - [[北岡夢子]]、歌手、女優
* 1971年 - [[豊田清]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[藤野朱美]]、元新体操選手
* [[1972年]] - [[HISASHI]]、[[ミュージシャン]]([[GLAY]])
* 1972年 - [[メルビン・モーラ]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[ダナ・インターナショナル]]、歌手
* 1972年 - [[Fizzy]]、[[トランス (音楽)|トランス]]DJ
* 1972年 - [[ジャレッド・フェルナンデス]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[テゴ・カルデロン]]、[[ミュージシャン]]
* [[1975年]] - [[宇治田隆史]]、脚本家
* [[1976年]] - [[井上聡]]、[[お笑いタレント]]([[次長課長]])
* 1976年 - [[遼河はるひ]]、元[[宝塚歌劇団]]、女優、タレント
* 1976年 - [[ドラゴン・キッド]]、プロレスラー
* [[1977年]] - [[劇団ひとり]]、お笑いタレント
* 1977年 - [[EXILE ÜSA]]、[[ダンサー]]([[EXILE]])
* 1977年 - [[シャキーラ]]、ミュージシャン
* [[1978年]] - [[バリー・ファーガソン]]、元サッカー選手、指導者
* 1978年 - [[吉原宏太]]、元サッカー選手
* 1978年 - [[クラウディオ・モレル・ロドリゲス]]、サッカー選手
* 1978年 - [[福田朋夏]]、[[フリーダイビング]]選手
* [[1979年]] - [[宮崎有妃]]、プロレスラー
* 1979年 - [[大島永遠]]、[[漫画家]]
* [[1980年]] - [[ルイス・ナバス]]、野球選手
* [[1981年]] - [[北川弘美]]、女優
* 1981年 - SOH、歌手([[GReeeeN]])
* [[1982年]] - [[高橋知幸]]、アナウンサー、ショートトラックスピードスケート選手
* 1982年 - [[堀越のり]]、元[[タレント]]
* 1982年 - [[中村真人 (野球)|中村真人]]、元プロ野球選手
* [[1983年]] - [[三浦永理]]、[[競艇選手]]
* 1983年 - [[横松寿一]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[カロリナ・クリュフト]]、[[陸上競技選手]]
* [[1984年]] - [[宮地真緒]]、女優
* 1984年 - [[加藤士津八]]、元[[騎手]]、調教師
* 1984年 - [[胡金龍]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[桐山漣]]、俳優
* 1985年 - [[田中利幸 (馬術選手)|田中利幸]]、馬術選手
* 1985年 - [[神崎大輔]]、サッカー指導者
* 1985年 - [[シルヴェストレ・ヴァレラ]]、サッカー選手
* 1985年 - [[マイケル・リーバス]]、歌手、タレント
* [[1986年]] - [[浅尾美和]]、元[[ビーチバレー]]選手、[[ファッションモデル]]
* 1986年 - [[ティファニー・ヴァイス]]、元フィギュアスケート選手
* [[1987年]] - [[アーロン・トンプソン]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[ジェラール・ピケ]]、サッカー選手
* [[1988年]] - [[トラビス・スナイダー]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[マックス・パールマン]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[ブラッド・ピーコック]]、プロ野球選手
* [[1989年]] - [[水上れみ]]、[[グラビアアイドル]]
* 1989年 - [[ローガン・ダーネル]]、プロ野球選手
* [[1990年]] - [[島内宏明]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[原田開]]、サッカー選手
* 1990年 - [[湯本美咲]]、タレント、女優
* 1990年 - [[ニック・リックレス]]、野球選手
* 1990年 - [[ダン・ゴスリング]]、サッカー選手
* 1990年 - [[チョン・ハナ]]、歌手
* [[1991年]] - [[金子昌広]]、サッカー選手
* 1991年 - [[澤田圭佑 (俳優)|澤田圭佑]]、俳優、殺陣師、ダンサー
* 1991年 - [[川久保雄基]]、俳優
* 1991年 - [[南羽翔平]]、俳優
* 1991年 - [[マット・ボイド (野球)|マット・ボイド]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[フランシスコ・フェメニア]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[郭俊麟]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[清原翔]]、俳優、モデル
* 1993年 - [[吉村界人]]、俳優
* 1993年 - [[高橋宗司]]、元陸上選手
* [[1994年]] - [[三河悠冴]]、俳優
* [[1995年]] - [[椿芽久]]、バレーボール選手
* 1995年 - [[仲村まひろ]]、タレント
* 1995年 - ぺけたん、[[YouTuber]]([[Fischer's]])
* [[1996年]] - 池田彩夏、元アイドル([[littlemore.]])
* [[1997年]] - [[鎌田英嗣]]、フィギュアスケート選手
* [[1998年]] - [[加藤史帆]]、アイドル([[日向坂46]])
* 1998年 - [[古田大虎]]、俳優
* 1998年 - [[高橋斗亜]]、元俳優
* [[1999年]] - 植田碧麗、歌手(元[[NMB48]])
* 1999年 - [[坂本遥奈]]、アイドル([[TEAM SHACHI]])
* [[2000年]] - [[藤野涼子]]、女優
* 2000年 - [[村上宗隆]]、プロ野球選手
* [[2001年]] - [[牧野真莉愛]]、歌手([[モーニング娘。]])
* 2001年 - [[清水麻貴|清水麻貴、]]ラグビー選手
* [[2002年]] - [[坂本真凛]]、アイドル([[SKE48]])
* 2002年 - [[井東紗椰]]、女優
* 2002年 - 瀬田さくら、アイドル([[ばってん少女隊]])
* [[2004年]] - [[岩本蓮加]]、アイドル([[乃木坂46]])
* 生年不明 - [[青野菜月]]、元声優
* 生年不明 - 吉田鮎香<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/2090006731/ |title=吉田鮎香 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=WEB[[ザテレビジョン]]}}</ref>、キャスター
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1992年]] - [[ラムタラ]]、[[競走馬]]、[[種牡馬]](+ [[2014年]])
* [[2020年]] - [[リバティアイランド]]、[[競走馬]]
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[1044年]]([[寛徳]]元年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[藤原隆家]]、[[公卿]](* [[979年]])
* [[1529年]] - [[バルダッサーレ・カスティリオーネ]]、[[外交官]]、作家(* [[1478年]])
* [[1580年]]([[天正]]8年[[1月17日]]) - [[別所長治]]、[[播磨国]]の[[戦国大名]](* [[1558年]]?)
* [[1594年]] - [[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ]]、[[作曲家]](* [[1525年]]?)
* [[1639年]]([[寛永]]15年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - [[蜂須賀家政]]、[[徳島藩]]初代[[藩主]](* [[1558年]])
* [[1704年]] - [[ギョーム・ド・ロピタル]]、[[数学者]](* [[1661年]])
* [[1769年]] - [[クレメンス13世 (ローマ教皇)|クレメンス13世]]、第248代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1693年]])
* [[1805年]] - [[トーマス・バンクス]]、[[彫刻家]](* [[1735年]])
* [[1812年]] - [[イサーク・ティチング]]、[[オランダ]]の[[カピタン]](* [[1745年]])
* [[1826年]] - [[ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン]]、政治家、法律家、『[[美味礼讃]]』著者(* [[1755年]])
* [[1896年]] - [[川田甕江]]、[[漢学者]](* [[1830年]])
* [[1907年]] - [[ドミトリ・メンデレーエフ]]、[[化学者]](* [[1834年]])
* [[1925年]] - [[アンティ・アールネ]]、[[民俗学|民俗学者]](* [[1867年]])
* [[1939年]] - [[ウラジーミル・シューホフ]]、[[建築家]]、[[技術者]](* [[1853年]])
* [[1940年]] - [[フセヴォロド・メイエルホリド]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography//Vsevolod-Yemilyevich-Meyerhold |title=Vsevolod Yemilyevich Meyerhold|Russian theatrical producer, director, and actor |accessdate=18 Aug 2032 |publisher=Britannica}}</ref>、[[演出家]]、[[俳優]](* [[1874年]])
* [[1941年]] - [[デリール・スチュワート]]、[[天文学者]](* [[1870年]])
* [[1942年]] - [[ダニイル・ハルムス]]、[[詩人]]、[[作家]](* [[1905年]])
* [[1944年]] - [[レオン・ブランシュヴィック]]、[[思想家]](* [[1869年]])
* [[1945年]] - [[カール・ゲルデラー]]、元[[ライプツィヒ]]市長、反[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]活動家(* [[1884年]])
* 1945年 - [[アルフレート・デルプ]]、[[イエズス会]][[神父]](* [[1907年]])
* [[1950年]] - [[コンスタンティン・カラテオドリ]]、数学者(* [[1873年]])
* [[1956年]] - [[小野三千麿]]、[[野球選手]](* [[1897年]])
* [[1960年]] - [[斎藤三郎 (文学・野球研究者)|斎藤三郎]]、[[野球の歴史|野球史]]と[[石川啄木]]の研究者(* [[1895年]])
* [[1963年]] - [[ハーバート・サミュエル]]、[[イギリス]]郵政相・内相(* [[1870年]])
* 1963年 - [[大倉喜七郎]]、[[実業家]](* [[1882年]])
* [[1965年]] - [[カール・ヨハン・リンド]]、[[陸上競技]]選手(* [[1883年]])
* [[1967年]] - [[フィリス・ジョンソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1886年]])
* [[1968年]] - [[トゥリオ・セラフィン]]、[[指揮者]](* [[1878年]])
* [[1969年]] - [[ボリス・カーロフ]]、俳優(* [[1887年]])
* [[1970年]] - [[バートランド・ラッセル]]、数学者、[[哲学|哲学者]](* [[1872年]])
* [[1972年]] - [[高田保馬]]、[[経済学者]]、[[社会学者]](* [[1883年]])
* [[1974年]] - [[斎藤素巌]]、[[彫刻家]](* [[1889年]])
* [[1979年]] - [[谷口吉郎]]、[[建築家]](* [[1904年]])
* 1979年 - [[シド・ヴィシャス]]、[[パンク・ロック|パンク・ロッカー]](* [[1957年]])
* [[1980年]] - [[江崎利一]]、実業家、[[江崎グリコ]]創業者(* [[1882年]])
* 1980年 - [[ウィリアム・スタイン]]、[[生化学|生化学者]](* [[1911年]])
* [[1983年]] - [[ルイ・ケルヴラン]]、[[科学者]](* [[1901年]])
* 1983年 - [[深見千三郎]]、舞台芸人(* [[1923年]])
* [[1987年]] - [[アルフレッド・ライオン]]、[[ブルーノート・レコード|ブルーノート]]創設者(* [[1909年]])
* 1987年 - [[アリステア・マクリーン]]、[[小説家]](* [[1922年]])
* 1987年 - [[山本豊市]]、[[彫刻家]](* [[1899年]])
* [[1988年]] - [[ソロモン (ピアニスト)|ソロモン]]、[[ピアニスト]](* [[1902年]])
* [[1989年]] - [[小林行雄]]、[[考古学|考古学者]](* [[1911年]])
* 1989年 - [[オンドレイ・ネペラ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1951年]])
* [[1990年]] - [[龍興山一人]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1967年]])
* 1992年 - [[バート・パークス]]、俳優、[[歌手]](* [[1914年]])
* [[1993年]] - [[リード・マイルス]]、[[グラフィックデザイナー]](* [[1927年]])
* 1993年 - [[田丸仁]]、[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督]](* [[1933年]])
* 1993年 - [[アレクサンダー・シュナイダー]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]](* [[1908年]])
* [[1994年]] - [[中西陽一]]、政治家、[[石川県知事一覧|石川県知事]](* [[1917年]])
* [[1995年]] - [[フレッド・ペリー]]、[[テニス]]選手(* [[1909年]])
* 1995年 - [[ドナルド・プレザンス]]、[[俳優]](* [[1919年]])
* 1995年 - [[谷川雁]]、[[詩人]]、[[評論家]](* [[1923年]])
* [[1996年]] - [[徳川義寛]]、[[昭和天皇]]の[[侍従|侍従長]](* [[1906年]])
* 1996年 - [[ジーン・ケリー]]、俳優、[[ダンサー]](* [[1912年]])
* 1996年 - [[小堀清一]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* 1912年)
* [[1998年]] - [[レイモンド・キャッテル]]、[[心理学者]](* [[1905年]])
* 1998年 - [[アルーン・タジェフ]]、[[地質学|地質学者]]、[[映画人|映画作家]](* [[1914年]])
* [[2000年]] - [[宮本輝紀]]、[[サッカー選手]]、指導者 (* [[1940年]])
* [[2001年]] - [[加堂秀三]]、[[小説家]](* [[1940年]])
* [[2002年]] - [[海老一染太郎]]、[[太神楽]]師 (* [[1932年]])
* [[2003年]] - [[ルー・ハリソン]]、[[作曲家]](* [[1917年]])
* 2003年 - [[湯口栄蔵]]、サッカー選手、指導者 (* [[1945年]])
* [[2004年]] - [[式守伊之助 (29代)]]、大相撲[[立行司]](* [[1935年]])
* [[2005年]] - [[マックス・シュメリング]]、[[プロボクサー]](* [[1905年]])
* 2005年 - [[デビッド・ジョーンズ (パンアメリカン航空)|デビッド・ジョーンズ]]、[[パンアメリカン航空|航空会社]]特別顧問(* [[1916年]])
* 2005年 - [[ゴッフレード・ロンバルド]]、[[映画プロデューサー]](* [[1920年]])
* [[2007年]] - [[竹本正男]]、[[体操競技|体操]]選手(* [[1919年]])
* 2007年 - [[松尾晋平]]、[[料理人]]、[[陶芸家]](* [[1956年]])
* 2007年 - [[大杉君枝]]、[[アナウンサー]](* [[1963年]])
* [[2008年]] - [[ジョシュア・レーダーバーグ]]、[[分子生物学|分子生物学者]](* [[1925年]])
* [[2009年]] - [[山内一弘]]、プロ野球選手(* [[1932年]])
* 2009年 - [[大木康子]]、歌手(* [[1942年]])
* [[2010年]] - [[黒井敦史]]、[[レーシングドライバー]]([[全日本プロドリフト選手権]])(* [[1968年]])
* [[2013年]] - [[杵屋五三郎 (3代目)|三世杵屋五三郎]]、[[長唄]]三味線方(* [[1918年]])
* 2013年 - [[クリス・カイル]]、[[軍人]]、[[狙撃手]] (* [[1974年]])
* [[2016年]] - [[韮沢靖]]、イラストレーター(* [[1963年]])
* [[2017年]] - [[岡野俊一郎]]、サッカー選手、[[日本サッカー協会]]名誉会長(* [[1931年]])
* [[2019年]] - [[鬼八頭かかし]]、漫画家(* 生年不明)
* [[2023年]] - [[横路孝弘]]、弁護士、政治家、第10-12代[[北海道知事一覧|北海道知事]]
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2006年]] - [[ギャロップダイナ]]、[[競走馬]](* [[1980年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[聖燭祭]](キャンドルマス、主の奉献、被献日)/[[主の迎接祭]]([[キリスト教]])
*: グレゴリオ暦で2月2日に祝われる西方教会(カトリック教会・聖公会・プロテスタント諸派)の祝日。イエス・キリストが聖母マリアとナザレのヨセフによって神殿に連れて来られ、律法に従い[[エルサレム]]の神殿に捧げられたことを祝う<ref name="saito1997">{{cite book|和書 |title=366日誕生石の本 |author=斉藤貴子 |publisher=日本ヴォーグ社 |year=1997 |page=71}}</ref><ref name="kato1998">{{cite book|和書 |title=366日の話題事典 |author=加藤迪男 |publisher=東京堂出版 |year=1998 |page=41}}</ref>。地域によってはこの日でクリスマスシーズンの終わりとして、クリスマスツリー等を燃やす。
* [[グラウンドホッグデー]]({{USA}}・{{CAN}})
*: [[ウッドチャック|グラウンドホッグ]]とはリスの一種で、この日、冬眠から目覚めたグラウンドホッグがどのような行動をとるかで、それから先の天気を占う。1887年に小さな集会として始まったもので、グラウンドホッグが巣穴から出てきたときに、自分の影を見て驚いて巣穴に戻ったら、その先さらに6週間冬が続き、影を見ずに外にとどまっていたら、春の到来が近いとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://amview.japan.usembassy.gov/groundhog-day/ |title=グラウンドホッグ・デー:アメリカのちょっと変わった風習 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=Public Affairs Section, U.S. Embassy Japan |date=29 Jan 2016}}</ref>。
* [[タルトゥ条約]]の日({{EST}})
*: [[1920年]]のこの日、 エストニアと[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ソビエト・ロシア]]がタルトゥ条約に調印し、[[帝政ロシア]]の支配下にあったエストニアの独立をソ連が承認した。
* {{仮リンク|世界湿地の日|en|World Wetlands Day}}
*: [[1971年]]のこの日に[[湿地]]の保存に関する[[ラムサール条約]]が調印されたことを記念して[[1997年]]に制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.wetlands.org/ja/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%B9%BF%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%97%A5/ |title=世界湿地の日 |work=Wetlands INTERNATIONAL |accessdate=14 Aug 2023 |date=9 Feb 2018 |publisher=国際湿地保全連合}}</ref>。
*[[節分]]({{JPN}} 1897年、2021年 - 2057年の間は4年ごと、2058年)※[[立春]]の前日
*二日灸/如月灸({{JPN}})
*: 元は[[2月2日 (旧暦)|旧暦2月2日]]の行事。この日に灸をすえると倍の効能となり、その年を無病息災で過ごせるという<ref name="kato1998" /><ref name="kondo1999">{{cite book|和書 |title=今日はどんな日? 雑学366日 |author=近藤道郎 |publisher=展望社 |year=1999 |page=25}}</ref>。
* [[麩]]の日({{JPN}})
*: 「ふ(2)」の語呂合せで協同組合全国製麩工業会が制定<ref name="kase2009">{{cite book|和書 |title=すぐに役立つ 366日記念日事典 |author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著 |publisher=創元社 |year=2009 |page=21-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.nissyoku.co.jp/today/623973 |title=2月2日。今日は麩の日 |work=日本食糧新聞社 |accessdate=14 Aug 2023}}</ref>。
* [[頭痛]]の日({{JPN}})
*:「2(ず)2(ツー)」の語呂あわせ。[[ジョンソン・エンド・ジョンソン]]が[[2001年]]に制定した。それとは別に「頭痛撲滅委員会」が2月22日を頭痛の日として制定している<ref name="kase2009" /><ref name="kato2006">{{cite book|和書 |title=記念日・祝日の事典 |author=加藤迪男 |publisher=東京堂出版 |year=2006 |page=19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/317684 |title=2月22日は「頭痛の日」、片頭痛治療は予防の時代へ |date=15 Feb 2023 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[ダイヤモンド社|DIAMOND]] online}}</ref>。
* 国際航空業務再開の日({{JPN}})
*: 戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により禁止されていた国際航空業務が、[[1954年]]のこの日に[[日本航空]]により再開されたことに由来<ref name="kato1998" /><ref name="kondo1999" />。
* バスガールの日({{JPN}})
*: [[1920年]]のこの日、[[東京乗合自動車|東京市街自動車]]の乗合バスに日本初の女性[[車掌]](バスガール)がお目見えしたことに由来。
* 夫婦の日({{JPN}})
*: 「ふう(2)ふ(2)」の語呂合せ<ref name="kase2009" /><ref name="kato2006" />。
* [[ツインテール]]の日({{JPN}})
*: 日本ツインテール協会が提案、この日に男性は心を寄せる女性に二本のヘアゴムを渡し、受け入れた女性は自分の髪をツインテールにすることで応える<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.twintail-japan.com/about/day.html |title=ツインテールの日 2本のゴム―ボーイ・ミーツガールのときめき |publisher=JAPAN TWINTAIL ASSOCIATION. |accessdate=14 Aug 2023}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0202|date=Aug 2023}}
* [[1889年]] - [[ジョナサン・ジョースター]]、エリナ・ペンドルトンと結婚。(『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』)
* 年不明 - 火曜日、ヨーク・ハッターの腐乱死体が発見される。(『[[Yの悲劇]]』プロローグ第1場)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0087年 - [[エゥーゴ]]、[[アクシズ]]に対し[[サイド (ガンダムシリーズ)#サイド7(ノア→グリーン・オアシス)|グリプス2]]([[コロニーレーザー]])を巡る「メールシュトローム作戦」を実施。(アニメ『[[機動戦士Ζガンダム]]』)
* [[2003年]] - アナザーファイズ誕生の影響により仮面ライダーファイズの存在と歴史が消滅する。(特撮『[[仮面ライダージオウ]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1818年]] - [[甲賀流忍者!ぽんぽこ]]、滋賀県甲賀市の山中に生息している[[バーチャルYouTuber|バーチャルユーチューバー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=CR5c4I3gzIQ |title=【2周年記念生放送】ぽんぽこ202歳になりました!!! |date=2022-10-31 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[YouTube]] }}</ref>
* [[1968年]] - 水野銀次郎、[[特撮]]『[[兄弟拳バイクロッサー]]』に登場する主人公のひとり<ref>第1話より。</ref>
* [[1976年]] - 中井巧朗、[[漫画]]・[[アニメーション|アニメ]]『[[バクマン。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=小畑健|authorlink1=小畑健|author2=大場つぐみ|authorlink2=大場つぐみ|date=2010-12-29 |title = バクマン。キャラクターブック キャラマン。 |page = 60 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4088748498 }}</ref>
* [[1989年]] - 長谷川千雨、漫画・アニメ『[[魔法先生ネギま!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://king-cr.jp/special/negima/25.html |title=25.長谷川 千雨 |access-date=14 Aug 2023 |work=『魔法先生ネギま!麻帆良学園中等部2-A』 |publisher=[[赤松健]]・[[講談社]]・関東魔法協会 [[キングレコード|King Record.Co.,Ltd.]]}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 赤松健|authorlink=赤松健 |date=2003-08-12 |title = 魔法先生ネギま! |volume = 第2巻 |page = 98 |publisher = [[講談社]] |series = [[講談社コミックス]]|isbn = 978-4063632767 }}</ref>
* [[2031年]] - [[Fire Bomber#ミレーヌ・フレア・ジーナス|ミレーヌ・フレア・ジーナス]]、アニメ『[[マクロス7]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|macrossd|1488708759895617541}}</ref>
* 生年不明 - キキ、[[児童文学]]・アニメ映画『[[魔女の宅急便]]』シリーズの主人公 (なお、誕生日は原作の後にわかるため、スタジオジブリが想定しているかは不明)<ref>{{Cite book |和書 |date=2017-05-24|author1=角野栄子|authorlink1=角野栄子|author2=佐竹美保(イラスト)|authorlink2=佐竹美保|title = キキとジジ 魔女の宅急便 特別編その2 |page=13|publisher = [[福音館書店]]|series=福音館創作童話シリーズ|isbn = 978-4834083385 }}</ref>
* 生年不明 - チャクラ、漫画『[[おまじないネコ チャクラくん]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |author=じょうさゆり|authorlink=上重☆さゆり|date=1996-02-01|title =おまじないネコ チャクラくん|page=7 |publisher = [[小学館]]|series=てんとう虫コミックススペシャル|isbn=978-4091492418}}</ref>
* 生年不明 - 観束総二、小説・アニメ『[[俺、ツインテールになります。]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/ore_twi/chara/ |title=観束総二/テイルレッド |work=『俺、ツインテールになります。』 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[水沢夢]]・[[小学館]]/製作委員会はツインテールになります。[[TBSテレビ|TBS]]}}</ref>
* 生年不明 - 涼風青葉、漫画・アニメ『[[NEW GAME!]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|work=『NEW GAME!』 |url=http://newgame-anime.com/character/ |title=CHARACTER 涼風青葉 |accessdate=14 Aug 2023|publisher=[[得能正太郎]]・[[芳文社]]/NEW GAME!製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 奥村正宗、漫画『[[2.5次元の誘惑]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shonenjump.com/ririsa/question/ |title=Q13 奥村たちの誕生日が知りたいです! |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=橋本 悠/[[集英社]] |work=『2.5次元の誘惑』}}</ref>
* 生年不明 - 駆動ライガ、アニメ『[[トミカ絆合体 アースグランナー]]』の主人公のひとり<ref name=":1">{{Twitter status|yk2kinakomochi|1356316742155259904}}</ref>
* 生年不明 - 駆動クウガ、アニメ『トミカ絆合体 アースグランナー』の主人公のひとり<ref name=":1" />
* 生年不明 - とんだぶうた、ベネッセの教材『[[こどもちゃれんじ]]』、アニメ『[[しまじろうヘソカ]]』『[[しまじろうのわお!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kodomochallenge|164211361314902017}}</ref>
* 生年不明 - ジェット・リンク(サイボーグ002)、漫画・アニメ『[[サイボーグ009]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mangattan.jp/manga/reports/20190202jet/ |title=ジェット・リンクの誕生日をお祝いしました! |access-date=14 Aug 2023 |publisher=石ノ森萬画館 |date=3 Feb 2019}}</ref>
* 生年不明 - ネフェルタリ・ビビ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Nefeltari_Vivi.html |title=ネフェルタリ・ビビ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - にんじん、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/ninjin.html |title=にんじん |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2022-10-31 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - エリザベローII世、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/elizabello_ii.html |title=エリザベローII世 |work=『ONE PIECE』 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - キラー、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/killer.html |title=キラー |work=『ONE PIECE』 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 国近柚宇、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|W_Trigger_off|1091350567996309506}}</ref>
* 生年不明 - 吹出漫我、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア (アニメ)|僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-20/ |title=吹出漫我 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 庄田二連撃、漫画・アニメ『僕のヒーローアカデミア』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-06/ |title=庄田二連撃 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 井上利香、漫画『[[終わりのセラフ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[おおきく振りかぶっての登場人物#桐青高校|高瀬準太]]、漫画・アニメ『[[おおきく振りかぶって]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|date=2008-05-01|title=おおきく振りかぶって|page=53|publisher=[[主婦と生活社]]|series=生活シリーズ―PASH!アニメーションファイル|isbn=978-4391626438}}</ref>
* 生年不明 - 倉本圭、漫画・アニメ『[[ふらいんぐうぃっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|flying_tv|728155122040066050}}</ref>
* 生年不明 - 鳴海まどか、漫画・小説・アニメ『[[スパイラル 〜推理の絆〜]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ヘビのユキ、漫画・アニメ『[[おとぎストーリー 天使のしっぽ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[ARIAの登場人物#藍華・S・グランチェスタ(あいか えす グランチェスタ / Aika S. Granzchesta)|藍華・S・グランチェスタ]]、漫画・アニメ『[[ARIA (漫画)|ARIA]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=天野こずえ|authorlink=天野こずえ|date=2005-10-29|title=ARIAオフィシャルナビゲーションガイド|page=50|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4861272127|series=BLADEコミックス}}</ref>
* 生年不明 - ワイ(ワイ・ナ・ガーベナ)、漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pokesp_special|1356519592441483266}}</ref>
* 生年不明 - 須賀京太郎、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=小林立|authorlink=小林立|date=2010-01-29|title=咲 Saki ラブじゃん♥ マホちゃんの必殺技完成!(Guide Book)|page=46|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|isbn=978-4757526341}}</ref>
* 生年不明 - 佐藤裕子、漫画・アニメ『咲-Saki-』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=佐藤 裕子(さとう ゆうこ) |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 覚、漫画『[[東京★イノセント]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=鳴見なる|authorlink=鳴見なる|date=2009-06-22|title=東京★イノセント|volume=第7巻|page=122|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[ガンガンONLINE#ガンガンコミックスONLINE|ガンガンコミックスONLINE]]|isbn=978-4757525856}}</ref>
* 生年不明 - 大宮勇、漫画・アニメ『[[きんいろモザイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|harayui|1488832687414849538}}</ref>
* 生年不明 - 池野楓、漫画・アニメ『[[桜Trick]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=タチ|date=2012-08-27|title=桜Trick|volume=(1)|page=2|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムきらら#まんがタイムKRコミックス|まんがタイムKRコミックス]]|isbn=978-4832241879}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=タチ|editor=まんがタイムきらら|editor-link=まんがタイムきらら|date=2014-04-26|title=桜Trick TVアニメ公式ガイドブック 〜ヒミツのシラバス〜|volume=(1)|page=30|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムきらら#まんがタイムKRコミックス|まんがタイムKRコミックス]]|isbn=978-4832244382}}</ref>
* 生年不明 - 小金乙、漫画・アニメ『[[おちこぼれフルーツタルト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=[[浜弓場双]] |date=2018-06-27 |title=おちこぼれフルーツタルト |page=2 |volume=3巻 |publisher=[[芳文社]] |series=[[まんがタイムKRコミックス]] |isbn=978-4832249554}}</ref>
* 生年不明 - 男屋秀彦、小説・漫画・アニメ『[[アキカン!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - レム、小説・アニメ・ゲーム『[[Re:ゼロから始める異世界生活]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|Rezero_official|959360788669415424}}</ref>
* 生年不明 - ラム、小説・アニメ・ゲーム『Re:ゼロから始める異世界生活』に登場するキャラクター<ref name=":0" />
* 生年不明 - 松岡凛 、小説・アニメ『[[ハイ☆スピード!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|iwatobi_sc|1356437337698263043}}</ref>
* 生年不明 - ロイド・アスプルンド、アニメ・漫画『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|geass_gr|1488527559134433282}}</ref>
* 生年不明 - ホイ・コウ・ロウ、アニメ・漫画『[[勇者特急マイトガイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://mightgaine.net/character/ |title=キャラクター ホイ・コウ・ロウ |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作会社)|SUNRISE]] |work=『勇者特急マイトガイン』}}</ref>
* 生年不明 - 桜木千春、アニメ『[[AKB0048]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 連坊小路アキラ、アニメ・小説・漫画『[[革命機ヴァルヴレイヴ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.valvrave.com/character/#c12 |title=連坊小路 アキラ |work=『革命機ヴァルヴレイヴ』 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作会社)|SUNRISE]]/VVV Committee, [[毎日放送|MBS]]}}</ref>
* 生年不明 - 水神矢成龍、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=14 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - 二ノ舞きさらぎ、読者参加企画『[[HAPPY★LESSON]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://archive.asciimw.jp/mediamix/happy/chara/index.php |title=キャラクター紹介 二ノ舞きさらぎ |work=『HAPPY★LESSON』 |publisher=[[アスキー・メディアワークス]] |accessdate=14 Aug 2023 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090304013826/http://archive.asciimw.jp:80/mediamix/happy/chara/index.php |archivedate=4 Mar 2009}}</ref>
* 生年不明 - [[卯月コウ]]、[[いちから|ANYCOLOR]]株式会社が運営する『[[にじさんじ]]』に所属する[[バーチャルYouTuber|バーチャルライバー]]<ref>{{Twitter status|udukikohh|1072496003960446976}}</ref>
* 生年不明 - ござるっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |editor=講談社|editor-link=講談社|date=2010-01-20|title =Tamagotchi iD らくらく育て方ガイド|publisher = [[講談社]] |isbn =978-4063648140|page=36}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author1=ウィズ|authorlink1=ウィズ (玩具)|author2=バンダイ(監修)|authorlink2=バンダイ|date=2011-11-01|title テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|publisher = [[小学館]] |isbn =978-4097510482|page =18 }}</ref>
* 生年不明 - 天海きいろ、ゲーム『[[ゲッターラブ!! ちょー恋愛パーティーゲーム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/getterlove/quest7.html|title=ゲッターラブ!!質問コーナー第7回|date=20040813070908|accessdate=14 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - セリオス、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=001 |title=セリオス |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[コナミアミューズメント|Konami Amusement]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref>
* 生年不明 - 黒川凪子、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130409_150075/ |title=【ガールフレンド(仮)通信14】重低音を奏でるパンクガール 黒川凪子ちゃん(CV:後藤沙緒里) |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]]|website=ファミ通App |date=9 Apr 2013}}</ref>
* 生年不明 - 鷹城恭二、ゲーム・アニメ『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40030 |title=鷹城 恭ニ(たかじょう きょうじ) |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - ファン(F.A.N.G)、ゲーム『[[ストリートファイターV]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=キャラ図鑑117:F.A.N.G |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/130338 |website=[[カプコン|CAPCOM]]:シャドルー格闘家研究所 |access-date=14 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - 清遠乙女、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://idoljihen.jp/character/kiyotoo-otome/ |title=高知県 清遠 乙女 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[MAGES.]] アイドル事変製作委員会 |work=『アイドル事変』}}</ref>
* 生年不明 - キョウカ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!|プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1620965255278112771}}</ref>
=== 忌日 (フィクション) ===
* 没年不明 - 飛鳥五郎、特撮テレビドラマシリーズ『[[快傑ズバット]]』に登場するキャラクター
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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'''2月4日'''(にがつよっか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から35日目に当たり、年末まであと330日([[閏年]]では331日)ある。
== できごと ==
* [[211年]] - [[ローマ皇帝]]・[[セプティミウス・セウェルス]]が死去<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Charlemagne/Military-campaigns |title=Septimius Severus|Roman emperor |access-date=18 Feb 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。彼の息子の[[カラカラ]]と[[プブリウス・セプティミウス・ゲタ|ゲタ]]が共同皇帝として即位するが、1年後カラカラがゲタを暗殺した。
* [[724年]] ([[神亀]]元年) -[[聖武天皇]]が即位。
* [[960年]]([[建隆]]元年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[趙匡胤]]が皇帝に即位。宋([[北宋]])が建国。
* [[1789年]] - [[ジョージ・ワシントン]]が初代[[アメリカ合衆国大統領]]に選出。
* [[1794年]] - [[フランス]][[立法府]]が[[フランス共和国]]の全領域において[[奴隷]]制度を廃止。
* [[1807年]] - [[ナポレオン戦争]]: [[アイラウの戦い]]が始まる。
* [[1861年]] - [[アメリカ合衆国]]から離脱した南部の6州が[[アメリカ連合国]]の結成を宣言。
* [[1868年]]([[慶応]]4年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[神戸事件]]起こる。
* [[1899年]] - [[米比戦争]]が始まる。
* [[1902年]] - [[木村栄]]が[[自転軸]]の傾きに関する方程式の第三成分([[Z項]])を発見。
* [[1904年]] - [[御前会議]]で対露交渉の打切りを決議し、[[日露戦争]]開戦が決定。
* [[1929年]] - [[昭和天皇]]の弟の[[高松宮宣仁親王|宣仁親王]]が[[宣仁親王妃喜久子|徳川喜久子]]と結婚<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kunaicho.go.jp/about/history/history13.html |title=旧高松宮 |publisher=[[宮内庁]] |accessdate=18 Feb 2023}}</ref>。
* [[1932年]] - 第3回[[冬季オリンピック]]、[[レークプラシッドオリンピック (1932年)|レークプラシッド大会]]開催。[[2月13日]]まで。
* [[1933年]] - [[二・四事件]](長野県赤化教員事件)はじまる。おもに教員を対象とした左翼思想弾圧。その後全国に波及。
* [[1935年]] - [[九六式艦上戦闘機|九試単座戦闘機]]が初飛行を行う。
* [[1938年]] - [[ブロンベルク罷免事件]]: [[アドルフ・ヒトラー]]が[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]国防相ら[[ドイツ国防軍]]幹部を罷免し、統帥権を掌握。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ジャワ沖海戦]]。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[ウィンストン・チャーチル]]、[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ヨシフ・スターリン]]による[[ヤルタ会談]]が始まる。
* [[1948年]] - セイロン(現在の[[スリランカ]])がイギリス連邦内のドミニオン(自治領)として独立。
* [[1951年]] - [[三原山]]が噴火。三原山は前年[[1950年]][[7月16日]]から約70日間噴火し、その後静穏状態だったが、再び噴火活動を開始<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.5026/jgeography.60.107 |title=1950~1年三原山噴火の活動状況と研究陣展望 |author=諏訪彰 |year=1951 |journal=地學雜誌 |publisher=東京地学協会 |volume=60 |issue=3 |pages=107-114 |doi=10.5026/jgeography.60.107}}</ref>。
* [[1952年]] - [[第一大邦丸事件]]。
* [[1952年]] - [[吐噶喇列島]]が[[アメリカ合衆国]]から日本へ返還される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokara.jp/resource/pdf/sonsei.pdf |title=略年表 |publisher=[[十島村]] |accessdate=19 Feb 2023 |format=PDF}}</ref>。
* [[1955年]] - 静岡県の[[秋葉ダム]]建設現場にて爆発事故。死者19名、負傷者多数。([[秋葉ダム・ダイナマイト爆発事故]])
* [[1961年]] - [[アンゴラ解放人民運動]] (MPLA) が[[ポルトガル領アンゴラ]]の首都[[ルアンダ]]の刑務所を襲撃、[[アンゴラ独立戦争]]が始まる。
* [[1965年]] - [[アリューシャン地震 (1965年)|アリューシャン地震]]、[[マグニチュード|Mw]]8.7。
* [[1966年]] - 千歳発の[[全日本空輸|全日空]]機・ボーイング727-100が着陸直前に[[東京国際空港|羽田]]沖に墜落。乗客・乗員133人全員が死亡。([[全日空羽田沖墜落事故]])
* [[1969年]] - [[ヤーセル・アラファート]]が[[パレスチナ解放機構]]議長に就任。
* [[1971年]] - [[ロールス・ロイス]]社が経営破綻。
* [[1974年]] - アメリカの左翼過激派組織[[シンバイオニーズ解放軍]]が大富豪の娘[[パトリシア・ハースト]]を誘拐。
* [[1975年]] - [[海城大地震]]。
* [[1976年]] - 第12回[[冬季オリンピック]]・[[インスブルックオリンピック (1976年)|インスブルック大会]]開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://olympics.com/ja/olympic-games/innsbruck-1976 |title=インスブルック1976 冬季オリンピック |access-date=19 Feb 2023 |publisher=国際オリンピック委員会}}</ref>。[[2月15日]]まで。
* 1976年 - 米上院・多国籍企業小委員会の公聴会で[[ロッキード]]社の日本政府高官への[[賄賂|贈賄]]が発覚。[[ロッキード事件]]の発端。
* [[1978年]] - [[宇宙科学研究所|東大宇宙航空研究所]]が宇宙観測衛星「[[きょっこう]]」を打上げ。
* [[1980年]] - [[イラン]]で、[[ルーホッラー・ホメイニー]]の指名により[[アボルハサン・バニーサドル]]が初代[[イランの大統領|大統領]]に就任。
* [[1983年]] - 日本初の実用静止[[通信衛星]]「[[さくら2号a]]」打上げ。
* 1983年 - [[カーペンターズ]]のメンバー、[[カレン・カーペンター|カレン]]が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tapthepop.net/day/57019 |title=カレン・カーペンターを偲んで~輝かしい活躍の舞台裏で彼女が抱えつづけた”心の闇”とは!? |publisher=TAP the POP |accessdate=19 Feb 2023 |date=4 Feb 2022}}</ref>。
* [[1992年]] - [[ベネズエラ]]で[[ウゴ・チャベス]]が[[クーデター]]を起こし失敗。
* [[1994年]] - [[宇宙開発事業団]]が[[H-IIロケット]]1号機で技術試験衛星「[[みょうじょう]]」「[[りゅうせい]]」を打上げ。
* [[1997年]] - [[鳥栖フューチャーズ]]解散に伴い市民倶楽部[[サガン鳥栖]]FC創立。
* [[2000年]] - [[オウム真理教]]が解散し、[[アレフ (宗教団体)|アレフ]]として再出発。
* [[2003年]] - [[ユーゴスラビア]]で新憲法採択。国号を[[セルビア・モンテネグロ]]に改称。
* [[2004年]] - [[マーク・ザッカーバーグ]]が[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]の[[Facebook]]を開設。
* [[2005年]] - 国内で最初の変異性[[クロイツフェルト・ヤコブ病]]の患者を[[厚生労働省]]が確認。患者はすでに前年末に亡くなっている。
* [[2010年]] - [[大相撲]]の第68代[[横綱]]・[[朝青龍明徳|朝青龍]]が、度重なる不祥事に責任を取る形で現役引退を表明。
* [[2015年]] - [[トランスアジア航空235便墜落事故|トランスアジア航空235便が墜落]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.roc-taiwan.org/jp_ja/post/12678.html |title=トランスアジア航空機墜落事故について |access-date=19 Feb 2023 |publisher=Ministry of Foreign Affairs, Republic of China (Taiwan) |date=5 Feb 2015}}</ref>。
* [[2022年]] - 第24回[[冬季オリンピック]]・[[2022年北京オリンピック|北京大会]]開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://olympics.com/ja/news/beijing-2022-opening-ceremony-one-world-one-family |title=北京2022オリンピック開幕!「One World, One Family」 |access-date=19 Feb 2023 |publisher=国際オリンピック委員会}}</ref>。[[2月20日]]まで。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
* [[1553年]]([[天文 (元号)|天文]]22年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[毛利輝元]]<ref>{{Twitter status|akitakatahaku|1357321441054625794}}</ref>、[[戦国大名]](+ [[1625年]])
* [[1632年]]([[寛永]]8年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[秋月種信]]、日向[[高鍋藩]]3代藩主(+ [[1699年]])
* [[1677年]] - [[ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ]]、 [[作曲家]](+ [[1731年]])
* [[1688年]] - [[ピエール・ド・マリヴォー]]<ref>{{Cite web |title=Pierre Marivaux {{!}} French author |url=https://www.britannica.com/biography/Pierre-Carlet-de-Chamblain-de-Marivaux |website=Britannica |access-date=2023-02-19 |language=en}}</ref>、[[劇作家]]、 [[小説家]](+ [[1763年]])
* [[1735年]]([[享保]]20年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[上杉勝承]]、出羽[[米沢新田藩]]2代藩主(+ [[1785年]])
* [[1745年]]([[延享]]2年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[前田治脩]]、[[加賀藩]]10代藩主(+ [[1810年]])
* [[1746年]] - [[タデウシュ・コシチュシュコ]]、[[軍人]](+ [[1817年]])
* [[1770年]]([[明和]]7年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[松平信古 (上山藩主)|松平信古]]、出羽[[上山藩]]5代藩主(+ [[1796年]])
* [[1776年]]([[安永 (元号)|安永]]4年閏[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[松平輝延]]、上野[[高崎藩]]5代藩主(+ [[1825年]])
* [[1804年]]([[享和]]3年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[松平容敬]]、陸奥[[会津藩]]8代藩主(+ [[1852年]])
* [[1835年]]([[天保]]6年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[前島密]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/327/ |title=前島密|近代日本人の肖像 |access-date=19 Feb 2023 |publisher=国立国会図書館}}</ref>、[[官僚]]、政治家、実業家(日本近代郵便の父)(+ [[1919年]])
* [[1842年]] - [[ゲーオア・ブランデス]]、[[文学史|文学史家]]、 [[評論家]](+ [[1927年]])
* [[1847年]]([[弘化]]3年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[安部信発]]、武蔵安部藩13代藩主(+ [[1895年]])
* [[1850年]]([[嘉永]]2年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[後藤貞行]]、[[彫刻家]](+ [[1903年]])
* [[1852年]]([[嘉永]]5年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]])- [[小林富次郎]]、実業家(+ [[1913年]])
* [[1868年]] - [[コンスタンツ・マルキエビッチ]]、[[政治家]](+ [[1927年]])
* [[1871年]] - [[フリードリヒ・エーベルト]]、[[ドイツ国]]([[ヴァイマル共和政]])初代[[ドイツ国大統領|大統領]](+ [[1925年]])
* [[1873年]] - [[エティエンヌ・デマルトー]]、[[陸上競技選手]](+ [[1905年]])
* [[1875年]] - [[ルートヴィヒ・プラントル]]、[[物理学者]](+ [[1953年]])
* [[1881年]] - [[フェルナン・レジェ]]、[[画家]](+ [[1955年]])
* [[1887年]] - [[リジ・イヤス]]、[[エチオピア皇帝]](+ [[1935年]])
* [[1888年]] - [[ビル・ラリデン]]、元プロ野球選手(+ [[1942年]])
* [[1891年]] - [[三上於菟吉]]、[[作家]](+ [[1944年]])
* [[1892年]] - [[アンドレウ・ニン]]、[[共産主義者]]、 [[革命家]](+ [[1937年]])
* [[1893年]] - [[レイモンド・ダート]]、[[人類学者]](+ [[1988年]])
* [[1896年]] - [[フリードリッヒ・フント]]、物理学者(+ [[1997年]])
* [[1897年]] - [[ルートヴィヒ・エアハルト]]、[[ドイツの首相|ドイツ首相]](+ [[1977年]])
* [[1898年]] - [[伊東深水]]、[[日本画家]](+ [[1972年]])
* [[1900年]] - [[ジャック・プレヴェール]]、[[詩人]]、[[児童文学作家一覧|童話作家]](+ 1977年)
* [[1902年]] - [[チャールズ・リンドバーグ]]、飛行家(+ [[1974年]])
* [[1903年]] - [[アレクサンダー・イミック]]、男性世界最高齢(+ [[2014年]])
* 1903年 - [[武原はん]]、[[日本舞踊家]](+ [[1998年]])
* [[1904年]] - [[鄧穎超]]、[[政治家]]、[[周恩来]]の妻(+ [[1992年]])
* [[1906年]] - [[クライド・トンボー]]、[[天文学者]](+ [[1997年]])
* 1906年 - [[ディートリヒ・ボンヘッファー]]、[[ルター派]]の[[牧師]]、[[神学者]](+ [[1945年]])
* [[1907年]] - [[オットー・オーレンドルフ]]、[[ナチス・ドイツ]][[親衛隊中将]](+ [[1951年]])
* [[1909年]] - [[工藤孝一]]、[[サッカー選手]]、指導者(+ [[1971年]])
* [[1912年]] - [[バイロン・ネルソン]]、[[ゴルファー]](+ [[2006年]])
* 1912年 - [[エーリヒ・ラインスドルフ]]、[[指揮者]](+ [[1993年]])
* [[1913年]] - [[ローザ・パークス]]、[[公民権運動|公民権運動家]](+ [[2005年]])
* [[1918年]] - [[川島雄三]]、[[映画監督]](+ [[1963年]])
* 1918年 - [[ルイジ・パレイゾン]]、美学者、哲学者 (+[[1991年]])
* 1918年 - [[アイダ・ルピノ]]、[[俳優|女優]]、映画監督(+ [[1995年]])
* [[1921年]] - [[ロトフィ・ザデー]]、[[計算機科学|計算機科学者]](+ [[2017年]])
* [[1923年]] - [[桃井真]]、[[国際政治学者]](+ [[2004年]])
* [[1927年]] - [[右手和子]]、[[声優]](+ [[2011年]])
* 1927年 - [[岡田節人]]、[[発生生物学|発生生物学者]](+ [[2017年]])
* [[1928年]] - [[金永南]]、政治家
* [[1931年]] - [[イサベル・ペロン]]、政治家、元[[アルゼンチンの大統領|アルゼンチン大統領]]
* [[1932年]] - [[福田繁雄]]、[[グラフィックデザイナー]](+ [[2009年]])
* [[1933年]] - [[竹田和平]]、[[実業家]]、[[投資家]](+ [[2016年]])
* 1933年 - [[一柳慧]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[2022年]])
* [[1936年]] - [[小野清子]]、元[[体操選手]]、[[参議院議員]](+ [[2021年]])
* 1936年 - [[富田耕生]]、声優(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20201001-OIIXIT25INPHBHYZDRSH2J6HWQ/ |title=初代ドラえもんの声優・富田耕生さん死去、84歳 |access-date=19 Feb 2023 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=1 Oct 2020}}</ref>)
* 1936年 - [[貴家堂子]]、声優(+ [[2023年]])
* [[1937年]] - [[山中雅博]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1938年]] - [[猪熊功]]、[[柔道]]選手(+ [[2001年]])
* 1938年 - [[加藤剛]]、[[俳優]](+ [[2018年]])
* 1938年 - [[勝間田具治]]、[[アニメーション演出家]]
* [[1940年]] - [[ジョージ・A・ロメロ]]、映画監督(+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書|date=2017-07-17 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0092985 |title=ゾンビ映画の父ジョージ・A・ロメロ監督が死去 77歳 肺がんのため |publisher=[[シネマトゥデイ]] |accessdate=19 Feb 2023}}</ref>)
* [[1941年]] - [[金芝河]]、[[詩人]](+ 2022年)
* [[1943年]] - [[ケン・トンプソン]]、[[コンピュータ技術者]]
* [[1944年]] - [[黒沢年雄]]、俳優
* [[1945年]] - [[宮城谷昌光]]、[[時代小説]]作家
* [[1947年]] - [[ダン・クエール]]、第44代[[アメリカ合衆国副大統領]]
* [[1948年]] - [[加橋かつみ]]、[[ミュージシャン]](元[[ザ・タイガース]])
* 1948年 - [[三重ノ海剛司]]、第10代[[日本相撲協会]]理事長、[[大相撲]]第57代[[横綱]]
* 1948年 - [[アリス・クーパー]]、[[ミュージシャン]]
* [[1950年]] - [[大津あきら]]、[[作詞家]](+ [[1997年]])
* 1950年 - [[泉アキ]]、[[歌手]]、[[タレント]]
* 1950年 - [[菅谷勇]]、声優
* [[1952年]] - [[福谷たかし]]、[[漫画家]](+ [[2000年]])
* [[1953年]] - [[喜多郎]]、[[キーボーディスト]]
* [[1953年]] - [[山下達郎]]、[[シンガーソングライター]]
* 1953年 - [[寺田吉孝]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[千葉繁]]、声優、[[音響監督]]
* 1954年 - [[水越恵子]]、シンガーソングライター
* [[1955年]] - [[宮内タカユキ]]、[[アニメソング]][[歌手]]
* 1955年 - [[高橋広 (野球)|高橋広]]、[[野球選手]]
* [[1957年]] - [[石破茂]]、政治家
* [[1958年]] - [[時任三郎]]、俳優
* 1958年 - [[東野圭吾]]、[[小説家]]
* 1958年 - [[長澤和明]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* 1958年 - [[中西康晴]]、[[キーボーディスト]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[音楽プロデューサー]]
* [[1959年]] - [[榎徹]]、実業家、[[大分トリニータ|大分フットボールクラブ]]代表取締役
* 1959年 - [[大久保勝也]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[ジョナサン・ラーソン]]、作曲家、[[脚本家]](+ [[1996年]])
* [[1961年]] - [[井上荒野]]、小説家
* [[1962年]] - [[宙也]]、ミュージシャン
* [[1963年]] - [[井上望]]、元[[アイドル]]、タレント
* 1963年 - [[張正九]]、[[プロボクサー]]
* 1963年 - [[ピルミン・ツルブリッゲン]]、[[アルペンスキー|アルペンスキーヤー]]
* 1963年 - [[吉本明子]]、[[厚生労働省|厚生労働]][[官僚]]
* [[1964年]] - [[石原真理|石原真理子]]、女優
* [[1965年]] - [[森浩之]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[中島恵利華]]、[[プロゴルファー]]
* [[1966年]] - [[小泉今日子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shinchosha.co.jp/writer/7022/ |title=小泉今日子 |access-date=19 Feb 2023 |publisher=[[新潮社]]}}</ref>、[[歌手]]、女優
* 1966年 - [[ヴィアチェスラフ・エキモフ]]、元自転車競技選手
* [[1967年]] - [[草野満代]]、キャスター
* 1967年 - [[kyo (ミュージシャン)|KYO]]、ミュージシャン
* 1967年 - [[セルゲイ・グリンコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1995年]])
* [[1968年]] - [[江口ともみ]]、[[タレント]]
* 1968年 - [[佐々木蔵之介]]、俳優
* [[1970年]] - [[吉原知子]]、元[[バレーボール]]選手
* 1970年 - [[ガブリエル・アンウォー]]、女優
* 1970年 - [[ハンター・バイデン]]、[[弁護士]]
* 1970年 - [[マリナ・エルツォワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1971年]] - [[河野啓三]]、キーボーディスト([[T-SQUARE]])
* [[1973年]] - [[ドナート・カブレラ]]、指揮者
* 1973年 - [[中嶋美年子]]、元アナウンサー
* 1973年 - [[宮内洋 (野球)|宮内洋]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[オスカー・デ・ラ・ホーヤ]]、プロボクサー
* 1973年 - [[佳嶋]]、イラストレーター
* [[1974年]] - [[塚本徳臣]]、[[空手道|空手道選手]]
* [[1975年]] - [[戸叶尚]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[ナタリー・インブルーリア]]、歌手、女優
* 1975年 - [[じゅんいちダビッドソン ]]、お笑いタレント
* 1975年 - [[三国一夫]]、俳優
* [[1976年]] - [[伏見俊昭]]、[[競輪]]選手
* [[1977年]] - [[モンターニャ・シウバ]]、[[格闘家]]
* [[1979年]] - [[山崎静代]]、お笑いタレント、女優、元ボクサー([[南海キャンディーズ]])
* [[1980年]] - [[桐谷健太]]、俳優
* 1980年 - [[矢吹健太朗]]、漫画家
* [[1981年]] - [[森田祐司]]、[[ギタリスト]]
* 1981年 - [[トム・マストニー]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[斉藤優香]]、女優
* [[1984年]] - [[光龍忠晴]]、元大相撲力士
* 1984年 - [[ダグ・フィスター]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[豊田圭史]]、元野球選手
* [[1985年]] - [[川端崇義]]、元プロ野球選手
* [[1986年]] - [[北村聡]]、元陸上競技選手
* 1986年 - [[40mP]]、ミュージシャン
* [[1987年]] - [[ダレン・オディー]]、サッカー選手
* 1987年 - [[鮫島良太]]、[[騎手]]
* 1987年 - [[ルーシー・サファロバ]]、元テニス選手
* 1987年 - [[西岡優妃]]、女優
* [[1988年]] - [[新名彩乃]]、声優
* 1988年 - [[カーリー・パターソン]]、[[体操選手]]
* 1988年 - [[ロマン・タラン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1988年 - [[宇佐美佑果]]、元[[アナウンサー]]
* [[1989年]] - [[鈴木勝吾]]、俳優
* 1989年 - [[大空直美]]、声優
* [[1990年]] - [[戸松遥]]<ref>{{Cite web |url=https://www.tomatsuharuka.com/profile/ |title=Profile |accessdate=19 Feb 2023 |publisher=戸松 遥 Official Website}}</ref>、声優
* 1990年 - [[吉村卓也]]、俳優
* 1990年 - [[俵有希子]]、元タレント
* [[1991年]] - [[杉谷拳士]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[大政絢]]、女優
* [[1994年]] - [[伊倉愛美]]、タレント
* 1994年 - あいなぷぅ、お笑いタレント([[パーパー]])
* 1994年 - [[クリス・ギッテンス]]、プロ野球選手
* [[1997年]] - [[中条あやみ]]、ファッションモデル、女優
* 1997年 - [[山根綺]]、声優、歌手、アイドル([[Kleissis]])
* 1997年 - [[高島崚輔]]、政治家、[[兵庫県]][[芦屋市|芦屋市長]]
* [[1998年]] - [[鈴代紗弓]]、声優
* 1998年 - 武知海青、[[パフォーマー]]([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]])
* 1998年 - [[西山小春]]、野球選手
* [[1999年]] - 植村梓、元アイドル(元[[NMB48]]、Mignon)
* [[2000年]] - [[大場花菜]]、アイドル([[=LOVE]]、元YOANI1年C組)
* 2000年 - [[近藤あさみ]]、グラビアアイドル、元[[ジュニアアイドル]]
* [[2001年]] - [[春名風花]]、タレント、女優、声優
* 2001年 - [[青木柚]]<ref>{{Cite web|和書|title=青木柚(あおきゆず) |publisher=[[ザテレビジョン|WEBザテレビジョン]] |url=https://thetv.jp/person/2000044660/ |accessdate=19 Feb 2023}}</ref>、声優
* 2001年 - [[亀田温心]]、騎手
* [[2002年]] - RIO、アイドル([[NiziU]])
* 生年不明 - [[生田未歩]]、声優
* 生年不明 - [[輝山新]]、声優
* 生年不明 - [[本泉莉奈]]、声優
* 生年不明 - [[市川太一]]、声優
=== 人物以外(動物など)===
* [[2002年]] - [[エアメサイア]]、競走馬
* [[2006年]] - [[トーセンジョーダン]]、競走馬、種牡馬
== 忌日 ==
* [[211年]] - [[セプティミウス・セウェルス]]、[[ローマ皇帝]](* [[146年]])
* [[1041年]]([[長久]]2年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[藤原公任]]、[[公卿]]、[[歌人]](* [[966年]])
* [[1348年]]([[貞和]]4年/[[正平 (日本)|正平]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[楠木正行]]、[[武将]]、小楠公(* [[1326年]])
* [[1498年]] - [[アントニオ・デル・ポッライオーロ]]、[[画家]]、[[彫刻家]]、[[版画家]]、金細工師(* [[1429年]]/[[1433年]])
* [[1615年]]([[慶長]]20年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[高山右近]]、[[キリシタン大名]]、[[利休七哲]]の1人(* [[1552年]])
* [[1673年]]([[寛文]]12年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[保科正之]]、[[江戸時代]]の[[大名]](* [[1611年]])
* [[1781年]] - [[ヨゼフ・ミスリヴェチェク]]、[[作曲家]](* [[1737年]])
* [[1894年]] - [[アドルフ・サックス]]、[[楽器]]製作者(* [[1814年]])
* [[1909年]] - [[ジョン・クラークソン]]、[[プロ野球選手]](* [[1861年]])
* [[1916年]] - [[アドルフ・ビアラン]]、[[チェリスト]]、作曲家(* [[1871年]])
* [[1918年]] - [[秋山真之]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中将]](* [[1868年]])
* [[1921年]] - [[グザヴィエ・メルリ]]、[[美術家]](* [[1845年]])
* [[1928年]] - [[ヘンドリック・ローレンツ]]、[[物理学者]](* [[1853年]])
* [[1929年]] - [[長井長義]]、薬学者(* [[1845年]])
* [[1934年]] - [[エルネスト・ナザレー]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1863年]])
* [[1939年]] - [[エドワード・サピア]]、[[人類学|人類学者]]、[[言語学|言語学者]](* [[1884年]])
* [[1943年]] - [[林銑十郎]]、政治家、第33代[[内閣総理大臣]](* [[1876年]])
* [[1947年]] - [[ルイージ・ルッソロ]]、[[画家]]、作曲家(* [[1885年]])
* [[1969年]] - [[セルマ・リッター]]、[[俳優|女優]](* [[1905年]])
* [[1983年]] - [[カレン・カーペンター]]、[[ミュージシャン]]([[カーペンターズ]])(* [[1950年]])
* [[1985年]] - 米治一、[[彫刻家]](* [[1896年]])
* [[1988年]] - [[藤井松太郎]]、第7代[[日本国有鉄道]]総裁(* [[1903年]])
* [[2000年]] - [[ロナルド・ロバートソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1937年]])
* [[2001年]] - [[ヤニス・クセナキス]]、[[作曲家]](* [[1922年]])
* 2001年 - [[J・J・ジョンソン]]、[[トロンボーン]]奏者(* [[1924年]])
* [[2005年]] - [[ルイス・サンチェ]]、元[[プロ野球選手]](* [[1953年]])
* [[2006年]] - [[谷よしの]]、女優(* [[1917年]])
* [[2011年]] - [[寺岡孝]]、元プロ野球選手(* [[1942年]])
* [[2012年]] - [[芦野宏]]、[[シャンソン]]歌手(* [[1924年]])
* [[2014年]] - [[午馬]]、[[俳優]]、[[映画監督]](* [[1942年]])
* [[2015年]] - [[日沼頼夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H15_W5A200C1CC0000/ |title=日沼頼夫氏が死去 ウイルス研究の権威 |access-date=19 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=6 Feb 2015}}</ref>、[[医学者]](* [[1925年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[立春]]({{JPN}} 1985年 - 2024年)
*: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が315度の時で、春の初め。
* [[節分]]({{JPN}} 1984年、2104年)※[[立春]]の前日
* [[世界対がんデー]]
*: [[2000年]]の「対がん同盟結成を呼びかけるパリ憲章」に基づいて、国際対がん連合が[[2002年]]から実施している。
* [[独立記念日]]({{LKA}})<ref name="kato1998">{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=43}}</ref>
*: [[1948年]]2月4日に[[イギリス]]から独立したことに由来。
*[[ザ・ビートルズ]]の日
*: ファンがビートルズの愛称”Fab.4”を日付(February 4)にかけたもの。
* 西の日({{JPN}})<ref name="kato1998"/><ref name="kato2006">{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=20}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=23}}</ref>
*: 「に(2)」と「し(4)」の語呂合わせから。
* ぷよの日({{JPN}})<ref name="kase2009"/>
*:[[ぷよぷよ]](「ぷ(2)」と「よ(4)」)の語呂合わせから。株式会社[[セガ]]が制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://puyopuyoquest.sega-net.com/puyo_anniversary2020/ |title=2月4日は『ぷよの日』! |publisher=[[セガ|SEGA]] |accessdate=19 Feb 2023}}</ref>。
* 高齢者安全入浴の日({{JPN}})
*:いつまでも元気な「不老不死」を、風呂での死亡事故の無い「風呂不死」とかけて、その「不(2)死(4)」と「入=にゅう(2)浴=よく(4)」と読む語呂合わせから。高齢者入浴アドバイザー協会が制定<ref>{{Cite web|和書|title=2月4日が「高齢者安全入浴の日」に登録されました!! |publisher=PR TIMES |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000006.000072193.html |accessdate=19 Feb 2023 |date=15 Jan 2021}}</ref>。
* Nissyの日({{JPN}})
*:日付は2と4で「[[Nissy]](ニッシー=ニッ(2)シー(4)」の語呂合わせから。2018年に[[東京ドーム]]公演で登録を一般発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://avex-management.jp/news/180205_5213 |title=2月4日は「Nissyの日」!日本人男性ダンス&ボーカリストのソロとして“初”の東京ドーム2Days開催をサプライズ発表! |publisher=[[エイベックス・マネジメント|avex management]] |date=2018-02-05 |accessdate=19 Feb 2023}}</ref>。
* ビタミンCケアの日({{JPN}})
*:株式会社ドクターシーラボが制定。「[[ビタミンC]]」はシミ、シワの悩みを解決するのに役立ち、その効果をより多くの人に実感してもらうのが目的。日付は、立春となる日が多い2月4日で、春が始まり紫外線が気になる時期に、ビタミンCで日焼けや肌荒れをケアしてもらいたいとの願いから<ref name=Feb4>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=35|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
* レディース・ユニフォームの日({{JPN}})
*:レディース・ユニフォーム協議会が制定。ユニフォームの必要性や役割、効用などを発信し、ユニフォームマーケットの活性化を図るのが目的。日付は全国的に春夏用の展示会が行われる時期であることと、「ユニ(2)フォー(4)ム」と読む語呂合わせから<ref name=Feb4/>。
{{精度|section=1|date=2020年10月}}
== フィクションのできごと ==
* [[1909年]] - シー・カプリス、ゲーム・アニメ『[[サクラ大戦]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sakura-taisen.com/archives/game/3ps2/chara_ci.html |title=シー・カプリス |access-date=19 Feb 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] |work=『サクラ大戦3~巴里は燃えているか~』}}</ref>
* [[1973年]] - [[ブルー・マリー]]、ゲーム『[[餓狼伝説]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.garou15th.com/character/mary.php |title=ブルー・マリー |access-date=19 Feb 2023 |publisher=餓狼伝説総合公式サイト}}</ref>
* [[1997年]] - クリリン、[[サンリオ]]の『[[コロコロクリリン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/character/kuririn/#char_profile |title=コロコロクリリン |work=[[サンリオ]] |accessdate=2022-08-27}}</ref><ref>{{Cite book|title=SANRIO MEMORIES|publisher=サンリオ|date=2010-09-15|page=176}}</ref>
* 生年不明 - 梶原空、漫画・アニメ『[[スケッチブック (漫画) |スケッチブック]]』の主人公
* 生年不明 - みるく、『[[シナモロール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/characters/cinnamon/ |title=お友だち みるく |access-date=2022-08-27 |publisher=[[サンリオ]] |work=『シナモロール』}}</ref>
* 生年不明 - [[キャプテン翼の登場人物#イタリア|ジノ・ヘルナンデス]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|date=2003-05-20|title=キャプテン翼 3109日全記録 (愛蔵版コミックス) |publisher =[[集英社]]|isbn=978-4087827897|page=169}}</ref>
* 生年不明 - グロリオーサ(ニョン婆)、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/anime/character/characters/Gloriosa_GrandmaNyon |title=グロリオーサ(ニョン婆) |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2022-08-27 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ハルタ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/halta.html |title=ハルタ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=202208-27 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - フカボシ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Fukaboshi.html |title=フカボシ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2022-08-27 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 松尾、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 月島秀九郎、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-bleach.com/chara/04/tsukishima.html |title=月島秀九郎 |access-date=2022-08-27 |publisher=[[久保帯人]]/[[集英社]] |work=『BLEACH』}}</ref>
* 生年不明 - ワイズリー、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|date=2011-07-04|title=D.Gray-manキャラクターランキングブック キャラグレ! |page=165|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088702681}}</ref>
* 生年不明 - 浅茅ヶ原の鬼女、漫画・アニメ『[[ぬらりひょんの孫]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 神崎澪、漫画・アニメ『[[この音とまれ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 西尾錦(ニシキ)、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/special/tokyoghoul/first/chara_05.html |title=西尾 錦(CV:浅沼晋太郎) |accessdate=2023-02-04 |publisher=[[石田スイ]]/[[集英社]]・東京喰種製作委員会 |work=『東京喰種トーキョーグール√A』}}</ref>
* 生年不明 - アン・サイベル、漫画・アニメ『[[寄宿学校のジュリエット]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ハイリ、漫画『[[かけあうつきひ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=福井セイ|authorlink=福井セイ|year=2022|title=かけあうつきひ|volume=第3巻|page=59|publisher=[[小学館]]|series=[[少年サンデーコミックス]]|isbn=978-4098508648}}</ref>
* 生年不明 - 黒田雪成、漫画・アニメ『[[弱虫ペダル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yowapeda_anime|959804116405907456}}</ref>
* 生年不明 - ジェイク・ラング(シヴァ)、漫画『[[CIPHER]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 佐藤マサオ、漫画・アニメ『[[クレヨンしんちゃん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鈴木涼二、漫画・アニメ『[[ラブ★コン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/lovecom/characters.html |title=登場人物 鈴木 涼ニ |access-date=2022-08-27 |publisher=[[中原アヤ]]・[[集英社]]/[[東映アニメーション]] [[TBSテレビ|TBSアニメーション]] |work=『ラブ★コン LOVELY★COMPLEX』}}</ref>
* 生年不明 - 友清朱里、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=小林立|authorlink=小林立|date=2016-12-24|title = 咲-Saki- |volume=16巻 |page=181|series=[[ヤングガンガン#ヤングガンガンコミックス|ヤングガンガンコミックス]]|publisher = [[スクウェア・エニックス]]|isbn=978-4757551930}}</ref>
* 生年不明 - 藤岡ハルヒ、漫画・アニメ『[[桜蘭高校ホスト部]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 水嶋沙依理、漫画・アニメ『[[恋愛ラボ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 山伏しずく、小説・アニメ『[[楠芽吹は勇者である]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yuyuyu.tv/churutto/character/#/yamabushishizuku |title=楠芽吹は勇者である|山伏 しずく |publisher=Project 2H |accessdate=2023-02-04 |work=『結城友奈は勇者である ちゅるっと!』}}</ref>
* 生年不明 - 紅かすみ、読者参加企画・アニメ『[[セラフィムコール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 桜井真美、読者参加企画『[[お嬢様特急]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 春日咲子、音楽配信企画『[[ひなビタ♪|ひなビタ♪ 凛として咲く花の如く]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|hinabitter|1224346904089088000}}</ref>
* 生年不明 - テレサ・ワーグナー、アニメ『[[多田くんは恋をしない]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tadakoi.tv/chara02.html |title=テレサ・ワーグナー |accessdate=2023-02-04 |publisher=TADAKOI PARTNERS |work=『多田くんは恋をしない』}}</ref>
* 生年不明 - 整備班長、アニメ『[[戦翼のシグルドリーヴァ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sigururi|1298603350229831681}}</ref>
* 生年不明 - まりん、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.snk-corp.co.jp/official/kof2003/character/girls_malin.html |title=まりん |access-date=19 Feb 2023 |publisher=SNK PLAYMORE |work=『THE KING OF FIGHTERS 2003』}}</ref>
* 生年不明 - 落合恵子、ゲーム・アニメ『[[ゲートキーパーズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 駒野千代、ゲーム・漫画『[[遙かなる時空の中で]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 神郷洵、ゲーム・アニメ『[[ペルソナ3]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 九魅、ゲーム・アニメ『[[閃乱カグラ NewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/kumi.php |title=九魅 |access-date=2023-02-04 |publisher=Marvelous Inc. |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#白雪千夜|白雪千夜]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20090 |title=白雪 千夜(しらゆき ちよ) |access-date=2023-02-04 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 徳川まつり、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30019 |title=徳川 まつり(とくがわ まつり) |access-date=2023-02-04 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - ゼロ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=91&cate=name&cont=Zero |title=ゼロ |access-date=2023-01-28 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - オリオン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『夢王国と眠れる100人の王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=33&cate=name&cont=Orion |title=オリオン |access-date=2023-01-28 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 逆先夏目、ゲーム・漫画・アニメ『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/sakasaki_natsume/ |title=逆先 夏目 |accessdate=2022-08-27 |website=『あんさんぶるスターズ!!』 |publisher=Happy Elements}}</ref>
* 生年不明 - ルゥ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1621690026873745410}}</ref>
* 生年不明 - ケイト・ダイヤモンド、ゲーム『[[ディズニー ツイステッドワンダーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://twisted-wonderland.aniplex.co.jp/character/cater |title=ケイト・ダイヤモンド |access-date=19 Feb 2023 |publisher=Disney Aniplex |work=『DISNEY TWISTED WONDERLAND』}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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1,782 | 2月5日 | 2月5日(にがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から36日目に当たり、年末まであと329日(閏年では330日)ある。 | [
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'''2月5日'''(にがついつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から36日目に当たり、年末まであと329日([[閏年]]では330日)ある。
== できごと ==
* [[1160年]]([[平治]]元年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[平治の乱]]が終結する。
* [[1597年]]([[慶長]]元年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[豊臣秀吉]]の命により、[[長崎市|長崎]]でカトリック信徒26名が処刑される([[日本二十六聖人]])。
* [[1631年]] - [[ロジャー・ウィリアムズ]]が[[ボストン]]の教会の牧師に着任。
* [[1649年]] - [[清教徒革命]]: スコットランド議会が革命に反対し、[[フランス王国|フランス]]に亡命中の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]をスコットランド王及びイングランド王に推戴すると宣言<ref>{{Cite book|title=The Oxford Handbook of the English Revolution|url=https://books.google.co.jp/books?id=rjmqBgAAQBAJ&pg=PA128&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false|publisher=Oxford University Press|date=2015|isbn=978-0-19-969589-8|language=en|first=Michael J.|last=Braddick}}</ref>。
* [[1778年]] - [[サウスカロライナ州]]が[[連合規約]]の初批准州となる。
* [[1818年]] - ジャン=バティスト・ベルナトットが[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]として[[スウェーデン=ノルウェー]]王に即位。
* [[1862年]] - [[アメリカ合衆国財務省]]が初めて[[政府紙幣]]({{仮リンク|デマンド・ノート|en|Demand Note}})を発行。
* [[1877年]] - [[東海道本線]]の[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]から[[京都駅]]までがつながる。全線が開通したことを記念して[[明治天皇]]を迎えて鉄道開通式を実施。
* [[1885年]] - [[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]で、[[ベルギー]]が領有を主張していたコンゴを、ベルギー王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]の私領地([[コンゴ自由国]])として扱うことを決定。
* [[1901年]] - [[官営八幡製鐵所]]が操業開始。
* [[1913年]] - [[護憲運動]]: [[立憲政友会|政友会]]と[[立憲国民党|国民党]]が[[第3次桂内閣|桂内閣]]の不信任案提出、[[尾崎行雄]]が弾劾演説を行う。([[大正政変]])
* [[1917年]] - [[メキシコ]]の[[メキシコ憲法|現行の憲法]]が採択。
* [[1918年]] - 大之浦桐野炭鉱(現:[[福岡県]][[宮若市]])にて爆発事故。死者・行方不明者71人<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p321 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
* [[1919年]] - [[チャーリー・チャップリン]]、[[メアリー・ピックフォード]]、[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[D・W・グリフィス]]らによって[[ユナイテッド・アーティスツ]]が創業。
* [[1920年]] - [[慶應義塾大学]]と[[早稲田大学]]を初の私立大学として認可。
* [[1923年]] - [[国際刑事警察機構]](インターポール)設立。
* [[1936年]] - [[日本野球連盟 (プロ野球)|全日本職業野球聯盟]]設立。
* 1936年 - [[チャーリー・チャップリン]]監督の映画『[[モダン・タイムス]]』がアメリカで公開。
* [[1940年]] - [[沖縄県]][[尖閣諸島]][[魚釣島]]沖合に[[大日本航空]]機阿蘇号([[ダグラス DC-2]])が[[不時着]]([[大日本航空阿蘇号不時着事故]]))。機体は胴体が真っ二つになったが、乗員・乗客13人は魚釣島に上陸して無事<ref>遭難日航機真二つ、乗員十三人は救出(昭和15年2月7日 東京日日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p59 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ダグラス・マッカーサー]]が[[フィリピン]]からの撤退以来初めて[[マニラ]]に戻る。
* [[1969年]] - [[福島県]]の[[磐梯熱海温泉]]・[[磐光ホテル]]で火災発生。31人死亡。
* [[1971年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の「[[アポロ14号]]」が月面に着陸。
* [[1973年]] - [[渋谷駅]]の[[コインロッカー]]で嬰児の死体が発見される。以後、同様の事件が続発。([[コインロッカーベイビー]])
* [[1981年]] - [[神戸新交通ポートアイランド線]]が開業。
* [[1987年]] - [[宇宙科学研究所]]がX線天文観測衛星「[[ぎんが (人工衛星)|ぎんが]]」を打上げ。
<!--* [[2004年]] - [[すき家]]がアメリカ産牛肉の[[牛海綿状脳症|BSE]]の影響で在庫切れとなり、[[牛丼]]の販売を一時全面休止。 -->
<!-- * [[2005年]] - [[横浜市]][[磯子区民文化センター]][[杉田劇場]]が開館 -->
<!-- * [[2010年]] - [[オリックス・バファローズ]]の[[小瀬浩之]]外野手が、キャンプ中の[[沖縄県]][[宮古島市]]のホテルで死亡しているのが発見される。[[2000年]]の[[藤井将雄]]([[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]])以来、現役選手のまま死去。 -->
== 誕生日 ==
* [[976年]]([[天延]]4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[三条天皇]]、第67代[[天皇]](+ [[1017年]])
* [[1579年]]([[天正]]7年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[鈴木正三]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Suzuki-Shosan Suzuki Shōsan Japanese Zen priest] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[僧侶]]、[[仮名草子]]作家(+ [[1655年]])
* [[1626年]] - [[セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル|セヴィニエ夫人]]、[[著作家]](+ [[1696年]])
* [[1635年]]([[寛永]]11年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]])- [[伊達宗利]]、第2代[[宇和島藩|宇和島藩主]](+ [[1709年]])
* [[1748年]] - [[クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ]]、[[作曲家]](+ [[1798年]])
* [[1767年]]([[明和]]4年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[朽木倫綱]]、第9代[[福知山藩|福知山藩主]](+ [[1803年]])
* [[1770年]] - [[アレクサンドル・ブロンニャール]]、化学者、鉱物学者、地質学者、動物学者 (+ [[1847年]])
* [[1784年]] - [[ウィリアム・テイラー・バリー]]、第10代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1835年]])
* [[1788年]] - [[ロバート・ピール]]、[[イギリス首相]](+ [[1850年]])
* [[1796年]] - [[ヨハネス・フォン・ガイセル]]、[[ケルン大司教]]、[[枢機卿]](+ [[1864年]])
* [[1799年]]([[寛政]]11年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]])- [[安井息軒]]、[[儒教|儒学者]](+ [[1876年]])
* [[1810年]] - [[オーレ・ブル]]、[[ヴァイオリニスト]]、作曲家(+ [[1880年]])
* [[1814年]]([[文化 (元号)|文化]]4年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[榊原政愛]]、第9代[[高田藩|高田藩主]](+ [[1861年]])
* [[1833年]]([[天保]]3年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]])- [[水野忠精]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[山形藩|山形藩主]](+ [[1884年]]){{要出典|date=2022年7月}}
* [[1835年]] - [[フリードリヒ・ヴィネッケ]]、[[天文学者の一覧|天文学者]](+ [[1897年]])
* [[1836年]](天保6年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]])- [[天璋院]]、江戸幕府13代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家定]]の[[徳川将軍家御台所|御台所]](+ [[1883年]])
* 1836年 - [[ニコライ・ドブロリューボフ]]、文芸評論家、社会批判家 (+ [[1861年]])
* [[1840年]] - [[ジョン・ボイド・ダンロップ]]、[[発明家]]、[[ダンロップ]]創業者(+ [[1921年]])
* 1840年 - [[ハイラム・マキシム]]、発明家(+ [[1916年]])
* 1840年(天保11年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[法印大五郎]]、[[侠客]]、[[清水次郎長]]一家の一人(+ [[1919年]])
* [[1848年]] - [[ジョリス=カルル・ユイスマンス]]、[[小説家]](+ [[1907年]])
* [[1856年]] - [[フランク・ポドモア]]、[[著作家]]、[[社会主義]]運動家(+ [[1910年]])
* [[1864年]] - [[カール・タイケ]]、作曲家(+ [[1922年]])
* [[1876年]] - [[リカルド・ビニェス]]、[[ピアニスト]](+ [[1943年]])
* [[1878年]] - [[アンドレ・シトロエン]]、[[実業家]]、[[シトロエン]]社創業者(+ [[1935年]])
* [[1880年]] - [[宮脇長吉]]、[[衆議院議員]](+ [[1953年]])
* [[1882年]] - [[アウグスト・コプフ]]、天文学者(+ [[1960年]])
* [[1888年]] - [[高木市之助]]、[[日本文学研究者|国文学者]](+ [[1974年]])
* [[1891年]] - [[ロジャー・ペキンポー]]、[[プロ野球選手]](+ [[1977年]])
* [[1892年]] - [[栃木山守也]]、[[大相撲]]第27代[[横綱]](+ [[1959年]])
* [[1893年]] - [[ローマン・インガルデン]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1970年]])
* [[1894年]] - [[槇有恒]]、[[登山家]](+ [[1989年]])
* [[1898年]] - [[尾崎士郎]]、[[小説家]](+ [[1964年]])
* 1898年 - [[大河内傳次郎]]、[[俳優]](+ [[1962年]])
* [[1900年]] - [[アドレー・スティーブンソン]]、[[政治家]](+ [[1965年]])
* [[1901年]] - [[宇佐美洵]]、[[財政家]](+ [[1983年]])
* [[1902年]] - [[岩本薫]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](+ [[1999年]])
* [[1903年]] - [[前川佐美雄]]、[[歌人]](+ [[1990年]])
* 1903年 - [[百井盛]]、[[教育者]](+ [[2015年]])
* 1903年 - [[松平康東]]、[[外交官]](+ [[1994年]])<ref>{{Cite web|url=https://www.munzinger.de/search/portrait/Koto+Matsudaira/0/8673.html|title=Koto Matsudaira|accessdate=2020-01-10|website=Munzinger|language=ドイツ語}}</ref>
* [[1904年]] - [[美濃部亮吉]]、[[経済学者]]、[[東京都知事]](+ [[1984年]])
* 1904年 - [[ローレンス・ウェイジャー]]、[[地質学者]]、[[探検家]](+ [[1965年]])
* [[1906年]] - [[ジョン・キャラダイン]]、[[俳優]](+ [[1988年]])
* [[1907年]] - [[葛原妙子]]、歌人(+ [[1985年]])
* [[1909年]] - [[グラジナ・バツェヴィチ]]、作曲家(+ [[1969年]])
* [[1910年]] - [[フランシスコ・バラージョ]]、[[サッカー選手]](+ [[2010年]])
* [[1911年]] - [[ユッシ・ビョルリング]]、[[テノール]][[歌手]](+ [[1960年]])
* 1911年 - [[中村光夫]]、[[文芸評論家]](+ [[1988年]])
* [[1914年]] - [[ウィリアム・S・バロウズ]]、[[作家]](+ [[1997年]])
* 1914年 - [[アラン・ロイド・ホジキン]]、[[生理学者]](+ [[1998年]])
* 1914年 - [[山田伝]]、[[プロ野球選手]](+ [[1987年]])
* [[1915年]] - [[ロバート・ホフスタッター]]、[[物理学者]](+ [[1990年]])
* [[1917年]] - [[山田五十鈴]]、[[俳優|女優]](+ [[2012年]])
* 1917年 - [[上杉隆憲]]、[[米沢藩|米沢]][[上杉氏|上杉家]]16代目当主(+ [[1995年]])
* [[1920年]] - [[小野寺公二]]、[[小説家]](+ [[1998年]])
* [[1923年]] - [[榎本茂]]、元プロ野球選手
* [[1924年]] - [[ゼルマ・メーアバウム=アイジンガー]]、詩人(+ [[1942年]])
* [[1927年]] - [[結城昌治]]、小説家(+ [[1996年]])
* [[1928年]] - [[土井茂]]、[[映画監督]](+ [[2013年]])
* [[1929年]] - [[リュック・フェラーリ]]、[[作曲家]](+ [[2005年]])
* 1929年 - [[長岡久夫]]、元プロ野球選手(+ [[2017年]])
* [[1931年]] - [[内田良平 (俳優)|内田良平]]、俳優(+ [[1984年]])
* [[1932年]] - [[田中希代子]]、[[ピアニスト]](+ [[1996年]])
* 1932年 - [[高階秀爾]]、[[美術史家]]
* 1932年 - [[チェーザレ・マルディーニ]]、サッカー選手、指導者(+ [[2016年]])
* [[1934年]] - [[ハンク・アーロン]]、プロ野球選手(+ [[2021年]])
* 1934年 - [[丸元淑生]]、小説家(+ [[2008年]])
* [[1935年]] - [[長尾旬]]、元プロ野球選手(+ 2013年)
* [[1938年]] - [[岩井國臣]]、[[政治家]]
* [[1939年]] - [[小池兼司]]、元プロ野球選手
* [[1940年]] - [[斎藤十朗]]、[[政治家]]、第21・22代[[参議院議長]]
* 1940年 - [[H・R・ギーガー]]、[[画家]]、[[デザイナー]](+ [[2014年]])
* [[1942年]] - [[涌井洋治]]、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[日本たばこ産業|JT]]会長、大蔵省[[主計局#主計局長|主計局長]]、[[財務省大臣官房#官房長|大臣官房長]]
* 1942年 - [[ロジャー・ストーバック]]、元[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1943年]] - [[マイケル・マン (映画監督)|マイケル・マン]]、映画監督
* [[1944年]] - [[秋元羊介]]、[[声優]]
* 1944年 - [[玉の海正洋]]、[[大相撲]][[力士]]、第51代[[横綱]](+ [[1971年]])
* 1944年 - [[又吉イエス]]、[[政治運動家]]([[世界経済共同体党]]代表)(+ [[2018年]])<!--、[[唯一神]](自称であり、ここに記すことは客観的ではない)-->
* 1944年 - [[アル・クーパー]]、[[ミュージシャン]]
* [[1946年]] - [[シャーロット・ランプリング]]、女優
* 1946年 - [[神山治貴]]、実業家、[[マクニカ]]創業者
* [[1947年]] - [[弘田三枝子]]、歌手(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN7W56M7N7WUCLV00B.html|title=歌手の弘田三枝子さん死去 ヴァケーションなどがヒット|publisher=朝日新聞デジタル|date=2020-07-27|accessdate=2020-12-17}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2020/07/27/0013547695.shtml |title= 弘田三枝子さんが死去 73歳「ヴァケーション」「夢みるシャンソン人形」など |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2020-07-27 |accessdate= 2020-11-13 }}</ref>)
* 1947年 - [[小林正之]]、元プロ野球選手
* 1947年 - [[西郷輝彦]]、[[歌手]]、[[俳優]](+ [[2022年]])
* [[1948年]] - [[クリストファー・ゲスト]]、俳優
* 1948年 - [[バーバラ・ハーシー]]、女優
* 1948年 - [[スヴェン・ゴラン・エリクソン]]、元サッカー選手、指導者
* [[1949年]] - [[三宅恵介]]、[[テレビプロデューサー]]
* 1949年 - [[井上洋一]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[住友秀雄]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[パンタ (歌手)|パンタ]]、ミュージシャン(+ [[2023年]])
* 1950年 - [[木村修治]]、元[[死刑囚]](+ [[1995年]])
* [[1951年]] - [[中尾隆聖]]、声優
* [[1952年]] - [[金田伊功]]、アニメーター(+ [[2009年]])
* 1952年 - [[斉藤鉄夫]]、政治家
* 1952年 - [[後藤次利]]、[[作曲家]]、[[ベーシスト]]
* 1952年 - [[橋本ひろし]]、[[キョウデン]]会長、[[歌手]]
* [[1953年]] - [[石川孝志]]、元[[プロレスラー]]、元大相撲力士
* [[1955年]] - [[大葉健二]]、俳優
* 1955年 - [[花村萬月]]、[[小説家]]
* [[1956年]] - [[大地真央]]、女優
* 1956年 - [[渡辺麿史]]、プロ野球選手(+ [[2014年]])
* [[1957年]] - [[ユーリー・タム]]、[[陸上競技]]選手
* [[1959年]] - [[こせきこうじ]]、[[漫画家]]
* 1959年 - [[ジェニファー・グランホルム]]、政治家、第47代[[ミシガン州]][[知事]]
* [[1960年]] - [[樹なつみ]]、漫画家
* [[1962年]] - [[ジェニファー・ジェイソン・リー]]、女優
* 1962年 - [[川原新治]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[森田芳彦]]、元プロ野球選手
* [[1963年]] - [[ゴラン・ユーリッチ]]、サッカー選手
* 1963年 - [[牧野正幸]]、実業家
* 1963年 - [[宮崎正裕]]、剣道家
* [[1964年]] - [[ローラ・リニー]]、女優
* 1964年 - [[竹内都子]]、[[お笑い芸人]]([[ピンクの電話]])
* 1964年 - [[鈴木寛]]、政治家
* 1964年 - [[ダフ・マッケイガン]]、[[ベーシスト]]([[ガンズ・アンド・ローゼズ]]、[[ヴェルヴェット・リヴォルヴァー]])
* 1964年 - [[ポイズンJULIE澤田]]、も尾プロレスラー
* 1964年 - [[緋田康人]]、俳優
* [[1965年]] - [[ゲオルゲ・ハジ]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1965年 - [[荘真由美]]、声優
* [[1966年]] - [[ホセ・マリア・オラサバル]]、[[ゴルファー]]
* 1966年 - [[仲田秀司]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[川上麻衣子]]、女優
* [[1967年]] - [[森脇健児]]、[[タレント]]
* 1967年 - [[鶴保庸介]]、政治家
* [[1968年]] - [[ロベルト・アロマー]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[矢部達哉]]、ヴァイオリン奏者
* 1968年 - [[マーカス・グロンホルム]]、[[ラリー]][[レーシングドライバー|ドライバー]]
* 1968年 - [[藤田明宏]]、高校野球指導者
* [[1969年]] - [[木内秀信]]、声優
* 1969年 - [[ボビー・ブラウン]]、歌手
* [[1970年]] - [[生駒治美]]、声優
* 1970年 - [[藤原理恵]]、タレント、歌手(元[[C.C.ガールズ]])
* 1970年 - [[アストリッド・クンバーヌス]]、陸上競技選手
* 1970年 - [[クリス・ブロック]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[山中崇史]]、俳優
* 1971年 - [[ジョー・マツモト]]、プロ野球選手
* [[1972年]] - [[長州小力]]、お笑いタレント([[西口プロレス]])
* 1972年 - [[メアリー (デンマーク王太子妃)|メアリー]]、[[デンマーク]]王太子[[フレデリク (デンマーク王太子)|フレデリク]]の妃
* [[1973年]] - [[トウ亞萍|鄧亞萍]]、[[卓球]]選手
* [[1974年]] - [[橋本岳]]、政治家
* 1974年 - [[岩佐岳]]、[[アニメーション]][[プロデューサー]]
* [[1975年]] - [[生駒雅紀]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[ジョバンニ・ファン・ブロンクホルスト]]、サッカー選手
* 1975年 - [[尾上松緑 (4代目)]]、[[歌舞伎]]役者、俳優
* [[1976年]] - [[トニー・ジャー]]、俳優
* 1976年 - [[三橋泰介]]、アナウンサー、スピーチコンサルタント
* [[1977年]] - [[吉井由紀]]、女優
* 1977年 - [[野沢和香]]、モデル、女優
* 1977年 - [[Koji (俳優)|Koji]](末吉宏司)、俳優
* 1977年 - [[青木裕子 (1977年生)|青木裕子]]、元タレント
* 1980年 - [[長崎伸一]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[かぬか光明]]、声優
* [[1982年]] - [[勝哲也]]、[[ファッションモデル]]
* 1982年 - [[立道聡子]]、歌手
* 1982年 - 新妻悠太、お笑いタレント(元[[トップリード]])
* 1982年 - [[宇多村典明]]、元野球選手
* 1982年 - [[ロドリゴ・パラシオ]]、サッカー選手
* 1982年 - [[小林ゆう]]、声優
* [[1984年]] - [[カルロス・テベス]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[クリスティアーノ・ロナウド]]、サッカー選手
* 1985年 - 伊地知大樹、お笑いタレント(元[[ピスタチオ (お笑いコンビ)|ピスタチオ]])
* [[1986年]] - [[ライアン・ウェブ]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[駒場孝]]、お笑いタレント([[ミルクボーイ]])
* 1986年 - [[マヌエル・フェルナンデス]]、サッカー選手
* 1986年 - [[比留川游]]、ファッションモデル
* 1986年 - 留奥麻依子、ファッションモデル、女優
* [[1987年]] - 伊藤花菜、タレント、歌手(元[[SDN48]])
* 1987年 - [[マーク・ハンバーガー]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[東海林愛美]]、女優
* 1987年 - [[ダレン・クリス]]、俳優
* [[1989年]] - [[ブリドカットセーラ恵美]]、声優
* [[1990年]] - [[荒牧慶彦]]、俳優
* 1990年 - [[金井貢史]]、サッカー選手
* 1990年 - [[松原朋美]]、アナウンサー
* [[1991年]] - [[奥田佳菜子]]、タレント
* 1991年 - [[王躍霖]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[サンニ・ウトリアイネン]]、陸上競技選手
* [[1992年]] - [[ネイマール]]、サッカー選手
* 1992年 - [[ステファン・デ・フライ]]、サッカー選手
* 1992年 - [[大原ゆい子]]、シンガーソングライター
* 1992年 - [[吉住絵里加]]、タレント、声優(元[[仮面ライダーGIRLS]])
* [[1993年]] - [[Rei (シンガーソングライター)|Rei]]、シンガーソングライター、ギタリスト
* 1993年 - [[勇翔]]、俳優、タレント([[BOYS AND MEN]])
* 1993年 - [[アダム・オンドラ]]、[[クライマー]]
* [[1994年]] - [[中島早貴]]、[[歌手]](元[[℃-ute]])
* 1994年 - [[小宮有紗]]、女優、DJ、声優([[Aqours]])
* 1994年 - [[二岡康平]]、陸上選手
* [[1995年]] - [[小野木里奈]]、女優
* 1995年 - [[平口みゆき]]、元アイドル(元[[palet]])
* 1995年 - [[馬淵優佳]]、飛込競技選手
* 1995年 - [[丸山泰資]]、元プロ野球選手
* 1995年 - 山中綾華、ミュージシャン(元[[Mrs. GREEN APPLE]])
* 1995年 - NICO、YouTuber([[平成フラミンゴ]])
* [[1996年]] - Mayuri、アイドル([[iiyu]]、元[[ひめキュンフルーツ缶]])
* [[1997年]] - [[渡辺剛 (サッカー選手)|渡辺剛]]、サッカー選手
* 1997年 - [[鈴木優 (野球)|鈴木優]]、元プロ野球選手
* 1997年 - [[松本穂香]]、女優
* 1997年 - 小嶋紗里、女優
* 1997年 - [[高橋春織]]、女優、タレント
* [[1998年]] - AIRI、アイドル、ミュージシャン(元[[CHERRSEE]])
* 1998年 - [[上野優華]]、歌手、声優
* [[1999年]] - [[あのん]]、モデル、アイドル(元[[predia]])
* 1999年 - [[木下晴香]]、女優、歌手
* 1999年 - [[柴田瑠歌]]、女優
* [[2000年]] - ジュンモ、アイドル([[CRAVITY]])
* [[2001年]] - [[キム・ミンジュ]]、アイドル、女優(元[[IZ*ONE]])
* 2002年 - [[鈴木萌花]]、アイドル([[AMEFURASSHI]])
* [[2002年]] - [[デイヴィス・クリーヴランド]]、俳優
* 2002年 - [[チソン (NCT)|パク・チソン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 2002年 - [[カン・テヒョン]]、アイドル([[TOMORROW X TOGETHER]])
* [[2003年]] - [[Kōki,]]、ファッションモデル、作曲家
* 2003年 - [[水沢林太郎]]、俳優
* 2003年 - [[宮﨑小雪]]、キックボクサー
* [[2007年]] - [[秋本レイラニ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202012080000667.html|title=秋本レイラニ「ビッグになるのは不可避」映画初出演|accessdate=2021-01-06|date=2020-12-09|publisher=[[日刊スポーツ]]}}</ref>、ファッションモデル
* [[2016年]] - [[堰沢結萌]]、子役
* 生年不明 - [[村田知沙]]、声優
* 生年不明 - 星菜日向夏、アイドル([[GEMS COMPANY]])、Vtuber
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[1157年]] - [[コンラート1世 (マイセン辺境伯)|コンラート1世]]、[[マイセン辺境伯]](* [[1098年]]頃)
* [[1406年]]([[応永]]13年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]])- [[畠山基国]]、[[守護大名]]、[[室町幕府]][[管領]](* [[1352年]])
* [[1543年]]([[天文 (元号)|天文]]12年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]])- [[木下弥右衛門]]、[[豊臣秀吉]]の父
* [[1597年]]([[慶長]]元年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]])- [[パウロ三木]]、[[日本二十六聖人]]のひとり(* [[1564年]]?)
* [[1661年]]([[順治]]18年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]])- [[順治帝]]、第3代[[清]][[皇帝]](* [[1638年]])
* [[1705年]] - [[ジャン・ジル]]、[[作曲家]](* [[1668年]])
* [[1766年]] - [[レオポルト・フォン・ダウン]]、[[ハプスブルク君主国]]の陸軍元帥(* [[1705年]])
* [[1790年]] - [[ウィリアム・カレン]]、[[化学者]](* [[1710年]])
* [[1807年]] - [[パスカル・パオリ]]、[[コルシカ独立戦争]]の指導者(* [[1725年]])
* [[1818年]] - [[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]]、[[スウェーデン]]王(* [[1748年]])
* [[1868年]]([[慶応]]4年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]])- [[浅野斉粛]]、第9代[[広島藩|広島藩主]](* [[1817年]])
* 1868年(慶応4年1月12日)- [[佐々木只三郎]]、[[京都見廻組]]組員(* [[1833年]])
* [[1880年]] - [[アドルフ・ボリー]]、第25代[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1809年]])
* [[1881年]] - [[トーマス・カーライル]]、[[評論家]]、[[歴史家]](* [[1795年]])
* [[1896年]] - [[末広鉄腸]]、政論家、[[新聞記者]](* [[1849年]])
* [[1897年]] - [[チャールズ・ラドボーン]]、[[プロ野球選手]](* [[1854年]])
* [[1907年]] - [[ルートヴィヒ・トゥイレ]]、作曲家(* [[1861年]])
* [[1910年]] - [[ジェイムズ・ウィリアム・マーシャル (郵政長官)|ジェイムズ・ウィリアム・マーシャル]]、第27代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1822年]])
* [[1915年]] - [[ロス・バーンズ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1850年]])
* [[1925年]] - [[横田千之助]]、[[政治家]](* [[1870年]])
* [[1932年]] - [[バーニー・ドレイファス]]、[[ピッツバーグ・パイレーツ]]オーナー(* [[1865年]])
* [[1934年]] - [[ウィリアム・モーリス・ディヴィス]]、[[地理学者]](* [[1850年]])
* 1934年 - [[留岡幸助]]、[[福祉]]事業家(* [[1864年]])
* [[1937年]] - [[ルー・アンドレアス・ザロメ]]、[[作家]](* [[1861年]])
* [[1938年]] - [[武田五一]]、[[建築家]](* [[1872年]])
* [[1942年]] - [[小川平吉]]、[[大正]]・[[昭和]]期の[[法務大臣|司法大臣]]、[[国土交通大臣|鉄道大臣]](* [[1870年]])
* 1942年 - [[久保為義]]、[[映画監督]]、[[脚本家]](* [[1906年]])
* [[1945年]] - [[ラグナル・エストベリ]]、建築家(* [[1866年]])
* [[1946年]] - [[ジョージ・アーリス]]、[[俳優]](* 1866年)
* [[1949年]] - [[安宅弥吉]]、[[実業家]]、[[安宅産業]]創業者(* [[1873年]])
* [[1957年]] - [[原一司]]、漫画家(* [[1915年]])
* [[1962年]] - [[ジャック・イベール]]、作曲家(* [[1890年]])
* [[1968年]] - [[阿部武雄]]、作曲家(* [[1902年]])
* [[1970年]] - [[佐藤得二]]、[[小説家]](* [[1899年]])
* 1970年 - [[西川鶴三]]、[[照明技師]](* [[1910年]])
* [[1971年]] - [[ラーコシ・マーチャーシュ]]、[[ハンガリー]]の指導者(* [[1892年]])
* [[1977年]] - [[オスカル・クライン]]、[[物理学者]](* [[1894年]])
* [[1979年]] - [[清水川明於]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1925年]])
* [[1983年]] - [[千田正]]、[[政治家]](* [[1899年]])
* [[1984年]] - [[エル・サント]]、[[プロレスラー]](* [[1917年]])
* [[1987年]] - [[磯田光一]]、[[文芸評論家]](* [[1931年]])
* [[1988年]] - [[エメリック・プレスバーガー]]、映画監督、脚本家(* [[1902年]])
* [[1991年]] - [[中川一政]]、[[洋画家]]、[[詩人]]、[[随筆家]](* [[1893年]])
* [[1992年]] - [[早川幸男]]、[[天体物理学|宇宙物理学者]](* [[1923年]])
* [[1993年]] - [[ハンス・ヨナス]]、[[哲学|哲学者]](* [[1903年]])
* 1993年 - [[ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ]]、映画監督、脚本家、[[プロデューサー]](* [[1909年]])
* [[1996年]] - [[小国英雄]]、脚本家(* [[1904年]])
* [[1997年]] - 中田ラケット、[[漫才師]]([[中田ダイマル・ラケット]])(* [[1920年]])
* [[1998年]] - [[武原はん]]、[[日本舞踊]]家(* [[1903年]])
* 1998年 - [[高橋竹山]]、[[津軽三味線]]奏者(* [[1910年]])
* 1998年 - [[富島健夫]]、小説家(* [[1931年]])
* 1998年 - [[山田重雄]]、[[バレーボール]]指導者(* [[1931年]])
* [[1999年]] - [[ワシリー・レオンチェフ]]、[[経済学者]](* [[1906年]])
* [[2000年]] - [[クロード・オータン=ララ]]、映画監督(* [[1901年]])
* 2000年 - [[高橋英辰]]、[[サッカー選手]]、指導者(* [[1916年]])
* [[2002年]] - [[舟越保武]]、[[彫刻家]](* [[1912年]])
* [[2003年]] - [[松本惠雄]]、[[能楽師]](* [[1915年]])
* [[2004年]] - [[菊池福治郎]]、[[政治家]](* [[1925年]])
* [[2005年]] - [[ニャシンベ・エヤデマ]]、[[トーゴの大統領一覧|トーゴ大統領]](* [[1937年]])
* [[2006年]] - [[都留重人]]、経済学者(* [[1912年]])
* [[2007年]] - [[人生幸朗・生恵幸子|生恵幸子]]、[[漫才師]]([[人生幸朗・生恵幸子]])(* [[1923年]])
* [[2008年]] - [[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]]、[[宗教家]](* [[1918年]])
* [[2009年]] - [[児玉弘義]]、[[プロ野球選手]](* [[1942年]])
* 2009年 - [[渥美国泰]]、[[俳優]](* [[1933年]])
* [[2010年]] - [[小瀬浩之]]、プロ野球選手(* [[1985年]])
* [[2011年]] - [[永田洋子]]、[[新左翼]]活動家(* [[1945年]])
* [[2014年]] - [[ロバート・ダール]]、政治学者(* [[1915年]])
* [[2018年]] - [[古在由秀]]、[[天文学者]]、初代[[国立天文台]]長(* [[1928年]])
* [[2019年]] - [[堀文子]]、[[日本画家]](* [[1918年]])
* [[2020年]] - [[佐野康之]]、[[声優]](* [[1970年]])
* [[2022年]] - [[西村賢太]]、[[小説家]](* [[1967年]])
* [[2023年]] - [[貴家堂子]]、声優(* [[1936年]])
* 2023年 - [[辻村寿三郎]]、人形作家(* [[1933年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2015年]] - [[ステイゴールド (競走馬)|ステイゴールド]]、[[競走馬]](* [[1994年]])
* [[2020年]] - [[ニシノフラワー]]、競走馬(* [[1989年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
* [[憲法記念日]]({{MEX}})
*: [[1917年]]のこの日、メキシコで現行の憲法が採択された。
* {{仮リンク|気象予報士の日|en|National Weatherperson's Day}}({{USA}})<!-- 日本の「気象予報士の日」(8月28日)もあるが、とりあえず -->
*: アメリカの最初の気象観測者である[[ジョン・ジェフリーズ]]の[[1744年]]の誕生日を記念。
<!-- enにあるが、{{要出典}}が貼られているのでコメントアウト。
* {{仮リンク|カシミール連帯の日|en|Kashmir Solidarity Day}}({{PAK}})
*: [[1990年]]から実施。
-->
* 職業野球連盟設立の日<ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=23-24}}</ref>/プロ野球の日<ref name="saito1997">{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=74}}</ref><ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=27}}</ref>({{JPN}})
*: [[1936年]]2月5日に、[[日本野球連盟 (プロ野球)|全日本職業野球連盟]]が結成され、[[日本プロ野球|プロ野球]]が誕生したことに由来。当時の加盟チームは、[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]、[[阪神タイガース|大阪タイガース]]、[[中日ドラゴンズ|名古屋ドラゴンズ]]、[[翼軍|東京セネタース]]、[[名古屋金鯱軍]]、[[オリックス・バファローズ|阪急軍]]、[[松竹ロビンス|大東京軍]]の7チームだった。
* 笑顔の日({{JPN}})<ref name="kase2009"/>
*: 2と5の語呂合わせで、いつもニコニコと笑顔になっていようという日。
* ふたごの日({{JPN}})<ref name="kase2009"/>
*: 2と5の[[語呂合わせ]]。[[双子]]並びに[[多胎児]]の[[育児]]がしやすい環境づくりを考える日。
* [[日本語検定]]の日({{JPN}})<ref name="kase2009"/>
*: 日本語検定のPRのために[[東京書籍]]が制定。25で「日本語」の語呂合わせ。
* エコチュウの日({{JPN}})<ref name="kase2009"/>
*:中古車に乗ることは、新車の製造過程で排出されるCO2削減につながることをアピールしようと、クルマ情報誌「goo」を展開する株式会社プロトコーポレーションが制定。日付は、2(ツー=チュウ)5(コ)で、中古車によるエコロジー貢献活動を始めた日から<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=36|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
* ピカチュウの日({{JPN}})
*:『[[ポケットモンスター]]』シリーズのキャラクター、[[ピカチュウ]]のポケモン全国図鑑ナンバー「No.025」が由来であり、ファンの間で記念日化していた。[[2020年]]にポケモン情報局(公式Twitter)がツイートで取り上げ、公認化された<ref>[https://twitter.com/poke_times/status/1224981057952415744? ポケモン情報局【公式】の投稿] 2020年2月5日配信 2021年11月25日閲覧</ref>。
* [[ニゴロブナ]]の日({{JPN}})※2月5日 - [[2月7日|7日]]<ref name="kase2009"/><ref>{{cite book|和書|title=衣・食・住の記念日事典|author=加藤迪男|publisher=日本地域社会研究所|year=2010|page=83}}</ref>
*:ニゴロブナの産地である[[滋賀県]][[高島市]]が制定。2567で「ニゴロブナ」と読ませる語呂合わせから。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0205|date=2011年6月}}
* [[1862年]] - 十五少年、無人島を脱出。([[ジュール・ヴェルヌ]]『[[十五少年漂流記]]』)
* [[1971年]] - [[ニューメキシコ州]]ピートモンドで異変が発生。ワイルドファイア計画が発動される。([[SF映画]]『[[アンドロメダ…]]』)
* 西暦不明 - 浪速大学医学部臨時教授会において第一外科教授に[[財前五郎]]が選出される。(小説『[[白い巨塔]]』山﨑豊子作)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1974年]] - パティ、サンリオの『[[パティ&ジミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/characters/pattyandjimmy/ |title=パティ |access-date=2023-02-04 |publisher=[[サンリオ]] |work=『パティ&ジミー』}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=SANRIO MEMORIES |publisher=サンリオ |date=2010-09-15 |page=30}}</ref>
* [[2002年]] - [[にゃんごすたー]]、[[青森県]]黒石市出身の[[ゆるキャラ]]、[[ドラマー]]<ref>{{Cite web|和書|title=にゃんごすたー |url=http://nyangostar.jp/ |website=にゃんごすたー 公式WEBサイト |access-date=2022-09-14}}</ref>
* 生年不明 - 苗木誠、ゲーム・アニメ『[[ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生]]』の主人公<ref>{{Twitter status|dangan_official|1362910309967486976}}</ref>
* 生年不明 - 春日野悠、ゲーム・アニメ『[[ヨスガノソラ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|title=春日野 悠 |url=http://www.cuffs.co.jp/products/yosuga/character/har_01.html |access-date=2022-09-14 |publisher=Sphere |work=ヨスガノソラ}}</ref>
* 生年不明 - 春日野穹、ゲーム・アニメ『ヨスガノソラ』の主人公の双子の妹<ref>{{Cite web|和書|title=春日野 穹 |url=http://www.cuffs.co.jp/products/yosuga/character/sor_01.html |access-date=2022-09-14 |publisher=Sphere |work=ヨスガノソラ}}</ref>
* 生年不明 - ビスタ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/bista.html |title=ビスタ |access-date=2023-02-14 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - ブラメンコ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/bramenko.html |title=ブラメンコ |access-date=2023-02-04 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - 相田リコ、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|1357346789704142860}}</ref>
* 生年不明 - 志摩柔造、漫画・アニメ『[[青の祓魔師]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aoex_official|1357343232972103685}}</ref>
* 生年不明 - Ms.ジョーク、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group10/10-02/ |title=Ms.ジョーク |access-date=2023-02-04 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - のろいのしかいし、漫画・アニメ『[[魔王城でおやすみ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|maoujo_anime|1489765718774075393}}</ref>
* 生年不明 - 橋田遥、漫画・アニメ『[[ブルーピリオド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|blueperiod_pr|1357343157021794304}}</ref>
* 生年不明 - 日置順子、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|work=『ハイスクール・フリート』 |url=https://www.hai-furi.com/character/02_03/ |title=日置 順子 |accessdate=2023-02-04 |publisher=AAS/新海上安全整備局}}</ref>
* 生年不明 - 竜胆しずね、ゲーム『[[ガンスリンガー ストラトス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://gunslinger-stratos.jp/gs2/information/2015/01/post-706.html |title=しづねの誕生日を祝おう!竜胆しづね誕生日キャンペーン開催のお知らせ |access-date=2022-09-14 |publisher=SQUARE ENIX CO. |work=Gunslinger Stratos |date=2015-01-28}}</ref>
* 生年不明 - 深里、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave|閃乱カグラNew Wave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/misato.php |title=深里 |access-date=2023-02-04 |publisher=Marvelous Inc. |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』}}</ref>
* 生年不明 - 鯱いかり、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|828075751023005698}}</ref>
* 生年不明 - 浅見ミワコ、ゲーム『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://t7s.jp/character/chara/36.html |title=浅見ミワコ |access-date=2022-09-14 |publisher=Tokyo 7th シスターズ}}</ref>
* 生年不明 - ドロシー・ウェスト、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=柴崎恵美子|title=テレビ超ひゃっか プリパラ アイドルずかん|publisher=小学館|year=2016|page=14|ISBN=978-4-09-750417-7}}</ref><ref name=":0">{{Twitter status|idolland_arts|1489735519831400448}}</ref>
* 生年不明 - レオナ・ウェスト、ゲーム・アニメ『プリパラ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=テレビ超ひゃっか プリパラ アイドルずかん|year=2016年|publisher=小学館|page=16|author=柴崎恵美子|isbn=978-4097504177}}</ref><ref name=":0" />
* 生年不明 - フォルカー、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=131&cate=name&cont=Volker |title=フォルカー |access-date=2023-02-04 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 桜河こはく、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/oukawa_kohaku/ |title=桜河 こはく |accessdate=2023-02-04 |publisher=Happy Elements |website=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
* 生年不明 - 塚原雫、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/tsukahara |publisher=Akatsuki Inc. |title=塚原 雫 |accessdate=2023-02-04 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
* 生年不明 - 鴨田侑、メディアミックス『[[プリンス・オブ・ストライド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://posweb.jp/pos/character/mihashi/02.html |title=三橋高校|鴨田侑 |access-date=2023-02-04 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |work=『プリンス・オブ・ストライド』}}</ref>
* 生年不明 - [[ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル#エマ・ヴェルデ|エマ・ヴェルデ]]、メディアミックス『[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]』、アニメ『[[ラブライブ!スーパースター!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://lovelive-as.bushimo.jp/member/verde/ |title=エマ・ヴェルデ |accessdate=2023-02-04 |work=『ラブライブ! スクールアイドルフェスティバルALL STARS』 |publisher=プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 [[ブシロード]] [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]]}}</ref>
<!--* [[2014年]] - アニス・ファーム、アニメ『[[超音戦士ボーグマン]]』に登場するキャラクター-->
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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1,784 | 2月7日 | 2月7日(にがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から38日目に当たり、年末まであと327日(閏年では328日)ある。 | [
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'''2月7日'''(にがつなのか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から38日目に当たり、年末まであと327日([[閏年]]では328日)ある。
== できごと ==
* [[199年]]([[建安 (漢)|建安]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - {{仮リンク|下邳の戦い|en|Battle of Xiapi}}が終結。降伏した[[呂布]]らが処刑。
* [[457年]] - [[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]が[[東ローマ帝国]][[レオ朝]]の初代皇帝に即位。
* [[1369年]]([[応安]]元年/[[正平 (日本)|正平]]23年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - [[足利義満]]が正式に[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]]に就任。
* [[1450年]] - [[サフォーク伯|サフォーク公]][[ジョン・ド・ラ・ポール (第2代サフォーク公)|ジョン・ド・ラ・ポール]]と[[マーガレット・ボーフォート]]が結婚。
* [[1657年]]([[明暦]]2年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[江戸幕府]]が[[吉原遊廓]]を[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]から浅草千束へ移転させる。
* [[1795年]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第11条]]の批准が完了。
* [[1807年]] - [[ナポレオン戦争]]: [[アイラウの戦い]]
* [[1855年]]([[安政]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[日露和親条約]]締結。
* [[1873年]] - 太政官布告「[[敵討禁止令]]」を公布。
* [[1881年]] - [[石川県]]・[[滋賀県]]から分離して[[福井県]]を再設置。福井県・滋賀県が現在の形となる。
* 1881年 - [[堺県]]を廃止して[[大阪府]]に編入。
* [[1904年]] - {{仮リンク|ボルチモア大火|en|Great Baltimore Fire}}が発生<ref>{{Cite web|和書|title=アメリカ・ボルチモア大火(1904年2月7日) |url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/168/ |website=Yahoo!天気・災害 |access-date=2022-08-09 |language=ja |publisher=災害カレンダー}}</ref>。
* [[1927年]] - [[大正天皇]]大喪。大赦137,669名、減刑46,138名。
* [[1934年]] - [[中島久万吉]]商工相が13年前に書いた文章の中で逆臣・[[足利尊氏]]を礼讃している([[中島久万吉#足利尊氏論|足利尊氏論]])として、[[貴族院 (日本)|貴族院]]で追及される。9日に辞任。
* [[1939年]] - [[滋賀県]][[杉野村 (滋賀県)|杉野村]]に存在していた[[土倉鉱山]]付近で[[雪崩]]が発生。[[飯場]]が2棟倒壊、埋没して死者10人、重傷者8人、軽傷者2人<ref>湖北の山奥で雪崩、飯場の二十人死傷(昭和14年2月8日 大阪毎日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p228-p229 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1941年]] - 日本初の国産[[モーターグライダー]]「[[日本式蜂型]]」が初飛行。
* [[1943年]] - [[第二次世界大戦]]: 日本軍の[[ガダルカナル島]]からの撤退([[ケ号作戦]])が完了。
* [[1946年]] - [[出口王仁三郎]]が[[大本]]を再建。
* [[1952年]] - [[埼玉県金子村B29墜落事故]]が発生。
* [[1960年]] - 東京03地域の電話の[[市内局番]]が3桁になる。
* [[1964年]] - [[ビートルズ]]が、イギリスのロックグループでは初の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]公演のためアメリカに到着。
* [[1965年]] - [[ベトナム戦争]]: アメリカが[[北ベトナム]]爆撃(北爆)を開始。
* [[1968年]] - [[カナダ]]で憲法が改正され、[[英語]]のほか[[フランス語]]も[[公用語]]となる。
* [[1971年]] - [[スイス]]で国民投票により[[女性参政権]]を承認。
* [[1974年]] - [[グレナダ]]が[[イギリス]]から独立。
* [[1979年]] - [[冥王星]]が[[1930年]]の発見から初めて[[海王星]]の軌道の内側に入る。
<!-- * [[1981年]] - 当時[[TBSテレビ|TBS]]系列で放送されていた人気番組、「[[8時だョ!全員集合]]」内にて、[[志村けん]]と[[仲本工事]]によるじゃんけんコントが始まる。[[じゃんけん]]で最初に用いる「最初はグー」が広まるきっかけとなった。 -->
* [[1982年]] - [[西成区覚醒剤中毒者7人殺傷事件]]。[[大阪府]][[大阪市]][[西成区]][[山王 (大阪市)|山王]]の[[文化住宅]](アパート)で[[覚醒剤]]中毒者の男が妻子・近隣住民ら7人を殺傷した。
* [[1984年]] - [[STS-41-B]]ミッションで、[[スペースシャトル・チャレンジャー]]の{{仮リンク|ロバート・リー・ステュアート|en|Robert L. Stewart}}、[[ブルース・マッカンドレス2世]]両飛行士が史上初の命綱なしの[[宇宙遊泳]]に成功。
* [[1985年]] - [[自由民主党 (日本)|自民党]][[木曜クラブ|田中派]]内で[[創政会]]が発足。
<!-- * [[1987年]] - 『[[マルサの女]]』が日本で劇場公開。 -->
<!-- * [[1989年]] - [[美空ひばり]]人生最後のコンサートが[[北九州市]]の九州厚生年金会館で行われる。 -->
* [[1990年]] - [[ソビエト連邦の崩壊]]: [[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]][[ソビエト連邦共産党中央委員会|中央委員会]]が、共産党[[一党独裁制]]の放棄を採択。
* [[1991年]] - [[ハイチ]]で初めて民主的な選挙で選出された[[ジャン=ベルトラン・アリスティド]]が大統領に就任。
* [[1992年]] - [[欧州共同体|EC]]加盟12か国が「[[マーストリヒト条約]]」に調印。
* [[1993年]] - [[能登半島沖地震]]発生。
<!-- * [[1995年]] - [[兵庫県南部地震]]で、気象庁が正式に[[震度]]7の地域を発表。 -->
* [[1998年]] - 第18回[[冬季オリンピック]]、[[1998年長野オリンピック|長野大会]]開催。[[2月22日]]まで。
* [[1999年]] - [[ヨルダン]]国王[[フセイン1世]]が崩御。[[アブドゥッラー2世]]が即位。
<!-- * [[2000年]] - [[愛知高速交通]]設立。 -->
* [[2006年]] - [[文仁親王妃紀子]]の懐妊が公となる(同年[[9月6日]]に[[悠仁親王]]を出産)。
* [[2009年]] - [[2009年ビクトリア州森林火災]]が発生。
* [[2010年]] - [[ラウラ・チンチージャ]]が[[コスタリカ]]初の女性大統領に選出される。
* [[2012年]] - [[岡山県]][[倉敷市]]にある[[JX日鉱日石エネルギー水島製油所]]で[[倉敷海底トンネル事故]]が起きる。
* [[2014年]] - 第22回[[冬季オリンピック]]、[[2014年ソチオリンピック|ソチ大会]]が開催。[[2月23日]]まで<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joc.or.jp/games/olympic/sochi/ |title=ソチオリンピック2014 - JOC |accessdate=2018-01-29}}</ref>。
* [[2016年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[人工衛星]]と称する[[ICBM]]を打ち上げる<ref>{{Cite web|和書|date=2016-02-07 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM06H4K_X00C16A2000000/ |title=北朝鮮、長距離弾道ミサイル発射 沖縄上空を通過 |work=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-01-29}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[574年]]([[敏達天皇]]3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[聖徳太子]]{{要出典|date=2021-02}}、[[飛鳥時代]]の皇族(+ [[622年]])
* [[1478年]] - [[トマス・モア]]、[[思想家]](+ [[1535年]])
* [[1693年]] - [[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]]、[[ロシア皇帝]](+ [[1740年]])
* [[1741年]] - [[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]、[[画家]](+ [[1825年]])
* [[1801年]] - [[ウィレム・デ・ハーン]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1855年]])
* [[1812年]] - [[チャールズ・ディケンズ]]、[[小説家]](+ [[1870年]])
* [[1834年]]([[天保]]4年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[広沢真臣]]、[[長州藩|長州藩士]]、[[参議]](+ [[1871年]])
* [[1837年]] - [[ジェームズ・マレー (辞典編纂者)|ジェームズ・マレー]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1915年]])
* [[1838年]]([[天保]]9年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[赤禰武人]]、[[幕末]]の長州藩士 (+ [[1866年]])
* [[1867年]] - [[ローラ・インガルス・ワイルダー]]、小説家(+ [[1957年]])
* [[1870年]] - [[アルフレッド・アドラー]]、[[心理学者]](+ [[1937年]])
* [[1871年]]([[明治]]3年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[志賀潔]]、[[細菌学|細菌学者]](+ [[1957年]])
* 1871年 - [[ヴィルヘルム・ステーンハンマル]]、[[作曲家]](+ [[1927年]])
* [[1875年]] - [[山脇延吉]]、[[政治家]]、[[実業家]](+ [[1941年]])
* [[1877年]] - [[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ]]、[[数学者]](+ [[1947年]])
* [[1884年]] - [[鳩山秀夫]]、[[法学者]](+ [[1946年]])
* [[1885年]] - [[シンクレア・ルイス]]、小説家(+ [[1951年]])
* 1885年 - [[高碕達之助]]、政治家(+ [[1964年]])
* [[1886年]] - [[木村篤太郎]]、政治家(+ [[1982年]])
* [[1889年]] - [[ハリー・ナイキスト]]、[[物理学者]](+ [[1976年]])
* [[1892年]] - [[ヤン・スメテルリン]]、[[ピアニスト]](+ [[1967年]])
* [[1893年]] - [[鈴木茂三郎]]、政治家(+ [[1970年]])
* [[1901年]] - [[伊志井寛]]、[[俳優]](+ [[1972年]])
* [[1905年]] - [[ウルフ・スファンテ・フォン・オイラー]]、[[生理学者]](+ [[1983年]])
* 1905年 - [[ポール・ニザン]]、小説家(+ [[1940年]])
* 1905年 - [[波多野完治]]、[[心理学者]](+ [[2001年]])
* [[1906年]] - [[愛新覚羅溥儀]]、[[清朝]]第12代・[[満州国]]皇帝(+ [[1967年]])
* 1906年 - [[浜村純]]、[[俳優]](+ [[1995年]])
* 1906年 - [[オリェーク・アントーノフ]]、[[航空機]]設計者(+ [[1984年]])
* [[1911年]] - [[入江たか子]]、[[俳優|女優]](+ [[1995年]])
* [[1913年]] - [[織田隆弘]]、[[高野山]][[真言宗]]大僧正(+ [[1993年]])
* 1913年 - [[ラモン・メルカデル]]、[[内務人民委員部|NKVD]]の[[スパイ|諜報員]]、[[レフ・トロツキー|トロツキー]]の[[暗殺|暗殺者]](+ [[1978年]])
* [[1919年]] - [[イルゼ・パウージン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1999年]])
* [[1920年]] - [[佐野誠三]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1976年]])
* [[1922年]] - [[三根山隆司]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄10代高嶋(+ [[1989年]])
* [[1925年]] - [[吉田とし]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1988年]])
* 1925年 - [[加藤一 (画家)|加藤一]]、[[画家]](+ [[2000年]])
* [[1926年]] - [[津島恵子]]、[[俳優|女優]](+ [[2012年]]<ref>{{Cite news |title=女優の津島恵子さんが死去 「ひめゆりの塔」などで知られる |newspaper=[[スポニチ Sponichi Annex]] |date=2012-08-03 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/08/03/kiji/K20120803003827250.html |accessdate=2020-10-31}}</ref>)
* [[1927年]] - [[ジュリエット・グレコ]]、[[シャンソン]]歌手(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN9S2H3GN9SUHBI004.html|title=ジュリエット・グレコさん死去 仏シャンソンの大御所|publisher=朝日新聞デジタル|date=2020-09-24|accessdate=2020-12-15}}</ref><ref>{{Cite news2|title=La chanteuse Juliette Gréco est morte|newspaper=Le Monde|date=2020-09-23|url=https://www.lemonde.fr/disparitions/article/2020/09/23/la-chanteuse-juliette-greco-est-morte_6053355_3382.html|agency=Groupe Le Monde|language=フランス語|accessdate=2020-11-10}}</ref>)
* [[1931年]] - [[ピエール・シャンボン]]、[[生物学者の一覧|生物学者]]
* [[1934年]] - [[金美齢]]、[[評論家]]
* [[1935年]] - [[バーブ佐竹]]、[[歌手]](+ [[2003年]])
* 1935年 - [[クリフ・ジョーンズ]]、元[[サッカー選手]]
* [[1937年]] - [[阿久悠]]、[[作詞家]]、小説家(+ [[2007年]])
* [[1938年]] - [[ジョニー・ワーハス]]、元プロ野球選手
* 1938年 - [[高島正義]]、元プロ野球選手
* [[1940年]] - [[益川敏英]]、[[理論物理学者]](+ [[2021年]])
* [[1941年]] - [[小林稔侍]]、俳優
* [[1945年]] - [[菊川昭二郎]]、元プロ野球選手
* [[1948年]] - [[石鍋裕]]、[[フランス料理]]のシェフ
* 1948年 - [[植田芳暁]]、[[ミュージシャン]]([[ザ・ワイルドワンズ]])
* 1948年 - [[タイガー戸口]]、元[[プロレスラー]]
* 1948年 - [[出口修至]]、天文学者
* 1948年 - [[リチャード・プレブル]]、政治家
* [[1948年]] - [[岸川美好]]、[[演歌歌手]]
* [[1949年]] - [[国井雅比古]]、[[アナウンサー]]
* 1949年 - [[青山ミチ]]、[[歌手]](+ [[2017年]])
* 1949年 - [[柳井正]]、[[実業家]]
* [[1950年]] - [[飯塚将光]]、オートレース選手(+ [[2014年]])
* [[1951年]] - [[西浦勝一]]、騎手、調教師
* [[1952年]] - [[高橋佳代子]]、アナウンサー
* 1952年 - [[トニー・リュウ]]、俳優
* [[1955年]] - [[片山雅博]]、[[アニメーション]]評論家 (+ [[2011年]])
* [[1955年]] - [[ミゲル・フェラー]]、俳優、[[声優]](+ [[2017年]])
* [[1956年]] - [[マーク・セント・ジョン]]、[[ギタリスト]]([[キッス]])(+ [[2007年]])
* 1956年 - [[佐々木啓司]]、高校野球指導者
* 1956年 - [[平山正人]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[倉持知子]]、漫画家
* [[1959年]] - [[カルロス・ポンセ]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[青島美幸]]、女優
* [[1960年]] - [[松本保典]]、声優
* [[1962年]] - [[ガース・ブルックス]]、歌手
* 1962年 - [[デヴィッド・ブライアン]]、[[キーボーディスト]]([[ボン・ジョヴィ]])
* [[1963年]] - [[香坂みゆき]]、女優
* [[1964年]] - [[平松八千代]]、歌手
* 1964年 - [[住宅正人]]、[[竹輪笛|ちくわ笛]]演奏者
* [[1966年]] - [[田島昭宇]]、[[漫画家]]
* 1966年 - [[西沢立衛]]、[[建築家]]
* 1966年 - [[クリスティン・オットー]]、[[競泳]]選手
* [[1967年]] - [[大沢伸一]]、ミュージシャン([[MONDO GROSSO]])
* [[1968年]] - [[寺岡呼人]]、ミュージシャン
* 1968年 - [[土門廣]]、元[[俳優]]
* [[1969年]] - [[古賀誠 (アニメーター)|古賀誠]]、アニメーター
* 1969年 - [[中川幸太郎]]、[[作曲家]]
* 1969年 - [[浦上壮史]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1969年 - [[コアラ (お笑い芸人)|コアラ]]、元タレント、[[実業家]](元[[アニマル梯団]])
* [[1970年]] - [[柏屋コッコ]]、漫画家
* 1970年 - [[福沢博文]]、俳優、[[スーツアクター]]
* [[1971年]] - [[大野エリ]]、声優
* 1971年 - [[鎌田雅人]]、作曲家、ミュージシャン
* 1971年 - [[ローランド・メリーニョ]]、元野球選手
* [[1972年]] - [[古今亭志ん丸]]、[[落語家]]
* 1972年 - [[諏訪内晶子]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1972年 - [[本宮泰風]]、俳優
* [[1973年]] - [[園崎未恵]]、声優、歌手
* [[1974年]] - [[Nujabes]]、音楽プロデューサー(+ [[2010年]])
* [[1975年]] - [[松田樹利亜]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1976年]] - [[奥大介]]、元サッカー選手(+ [[2014年]])
* 1977年 - [[マリウス・プッツナウスキー]]、[[総合格闘家]]
* [[1977年]] - [[宮本恒靖]]、元プロサッカー選手、指導者
* 1977年 - [[たなかえり]]、女優
* 1977年 - [[森野文子]]、女優
* [[1978年]] - [[アシュトン・カッチャー]]、俳優
* 1978年 - [[エンディ・チャベス]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[ダニエル・ファン・ブイテン]]、サッカー選手
* [[1979年]] - [[石毛佐和]]、声優
* 1979年 - [[剣武輝希]]、元大相撲力士
* 1979年 - 桜井誠、ミュージシャン([[Dragon Ash]])
* [[1980年]] - [[古井弘人]]、ミュージシャン(元[[GARNET CROW]])
* [[1981年]] - [[北川俊澄]]、[[ラグビーユニオン]]選手
* 1981年 - [[高志綱]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[向井理]]、俳優
* 1982年 - [[大田祐歌]]、歌手、元[[タレント]]([[チェキッ娘]])
* [[1983年]] - [[クリスチャン・クリエン]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
* 1983年 - [[小坂忠士]]、[[騎手]]
* 1983年 - [[スコット・フェルドマン]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[真田裕貴]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[高木あずさ]]、タレント、[[グラビアアイドル]]
* 1984年 - [[松坂南]]、タレント、グラビアアイドル、女優
* [[1985年]] - [[李玲 (砲丸投)|李玲]]、元陸上競技選手
* 1985年 - [[藤原ななこ]]、元グラビアアイドル
* 1985年 - [[奈良沙緒理]]、元タレント
* [[1988年]] - [[加護亜依]]、歌手(元[[モーニング娘。]]、元[[W (ハロー!プロジェクト)|W]])
* 1988年 - [[佐々木竜太]]、サッカー選手
* 1988年 - [[マシュー・スタッフォード]]、[[NFL]]選手
* 1988年 - [[パーダール・ビアンカ]]、フィギュアスケート選手
* 1988年 - [[イ・ドンク (アイスホッケー)|イ・ドンク]]、プロアイスホッケー選手
* [[1989年]] - [[ウラジーミル・ウスペンスキー]]、フィギュアスケート選手
* [[1990年]] - [[ダニエル・オブライエン]]、フィギュアスケート選手
* 1990年 - [[メロベ・エフレム]]、フィギュアスケート選手
* 1990年 - [[アンナ・アブレウ]]、歌手
* 1990年 - [[ニール・エザリッジ]]、サッカー選手
* 1990年 - 小川暖奈、お笑い芸人([[スパイク (お笑い)|スパイク]])
* [[1991年]] - [[前山剛久]]、元俳優
* 1991年 - [[YOHKO]]、シンガーソングライター
* [[1992年]] - [[クセニヤ・ストルボワ]]、フィギュアスケート選手
* 1992年 - [[濱健人]]、声優
* 1992年 - [[廣瀬麻伊]]、ファッションモデル
* 1992年 - [[矢島舞美]]、タレント、歌手(元[[℃-ute]])
* [[1993年]] - [[仲野太賀]]、俳優
* 1993年 - [[J.P.ファイアライゼン]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[服部弾馬]]、陸上競技選手
* 1995年 - [[ロベルト・オスナ]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[阿波加俊太]]、サッカー選手
* [[1996年]] - [[萩原舞 (歌手)|萩原舞]]、実業家、元歌手、元アイドル(元℃-ute)
* 1996年 - [[伊波杏樹]]、声優、舞台女優([[Aqours]])
* 1996年 - [[ピエール・ガスリー]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー
* [[1998年]] - [[渚みつき]]、[[AV女優]]
* [[1999年]] - [[松元環季]]、元女優、元声優、元[[子役]]
* 1999年 - [[オコエ桃仁花]]、バスケットボール選手
* 1999年 - [[片岡未優]]、グラビアアイドル、(元[[虹のコンキスタドール]])
* [[2001年]] - [[丹所健]]、陸上選手
* [[2002年]] - [[紅林弘太郎]]、プロ野球選手
* [[2004年]] - ユウマ(中来田悠真)、アイドル([[&TEAM]])
* 2004年 - [[小杉怜子]]、タレント
* [[2007年]] - 石原さき、アイドル([[#よーよーよー]])
* [[2009年]] - [[渡辺莉奈]]、アイドル([[日向坂46]])
* 生年不明 - [[金子未佳]]、声優
* 生年不明 - [[好村俊子]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://pro-baobab.jp/ladies/komura_t/index.html|title=好村 俊子|publisher=ぷろだくしょんバオバブ|accessdate=2021-01-06}}</ref>、声優
* 生年不明 - YUiNA EMPiRE、アイドル([[CARRY LOOSE]])
* 生年不明 - ウルウ・ル、アイドル(CARRY LOOSE)
* 生年不明 - 佳衣、ギタリスト([[DIAURA]])
== 忌日 ==
* [[199年]]([[建安 (漢)|建安]]3年12月24日[[癸酉]]) - [[呂布]]、[[武将]]、群雄(* 生年不詳)
* 199年(建安3年12月24日癸酉) - [[陳宮]]、[[武将]](* 生年不詳)
* 199年(建安3年12月24日癸酉) - [[高順]]、[[武将]](* 生年不詳)
* [[1002年]]([[長保]]3年[[閏]][[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[藤原詮子]]、[[円融天皇]]の[[女御]](* [[962年]])
* [[1045年]]([[寛徳]]2年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]) - [[後朱雀天皇]]、第69代[[天皇]](* [[1009年]])
<!--* [[1333年]] - [[日興]]、僧侶(* [[1246年]])日興の誕生日2月7日は「旧暦」なので注意!-->
* [[1362年]]([[貞治]]元年/[[正平 (日本)|正平]]17年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[佐竹義篤 (九代当主)]]、[[常陸国]]の[[守護大名]](* [[1311年]])
* [[1395年]]([[応永]]2年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]) - [[結城直光]]、[[下総国]]の守護大名(* [[1330年]])
* [[1546年]]([[天文 (元号)|天文]]15年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[千葉昌胤]]、下総国の[[戦国大名]](* [[1495年]])
* [[1626年]] - [[ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム5世]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]](* [[1548年]])
* [[1642年]]([[寛永]]19年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[安楽庵策伝]]、[[僧侶]]、[[落語]]の祖(* [[1554年]])
* [[1652年]] - [[グレゴリオ・アレグリ]]、[[作曲家]](* [[1582年]])
* [[1779年]] - [[ウィリアム・ボイス]]、作曲家(* [[1711年]])
* [[1799年]]([[嘉慶 (清)|嘉慶]]4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[乾隆帝]]、第6代[[清]][[皇帝]](* [[1711年]])
* [[1818年]] - [[エンニオ・キリノ・ヴィスコンティ]]、考古学者(* [[1751年]])
* [[1837年]] - [[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世アドルフ]]、[[スウェーデン|スウェーデン王]](* [[1778年]])
* [[1873年]] - [[シェリダン・レ・ファニュ]]、[[小説家]](* [[1814年]])
* [[1878年]] - [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]、第255代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1792年]])
* [[1885年]] - [[岩崎弥太郎]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Iwasaki-Yataro Iwasaki Yatarō Japanese industrialist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[実業家]]、[[三菱財閥]]創業者(* [[1835年]])
* [[1898年]] - [[アドルフォ・ファルサーリ]]、[[写真家]](* [[1841年]])
* [[1902年]] - [[楠本正隆]]、第3-5代[[衆議院議長]]、第6代[[東京都知事一覧|東京府知事]](* [[1838年]])
* [[1903年]] - [[ジェームズ・グレーシャー]]、[[気象学者の一覧|気象学者]](* [[1809年]])
* [[1909年]] - [[クルト・ネットー]]、[[冶金学|冶金学者]](* [[1847年]])
* [[1917年]] - [[ジョゼフ・アレヴィ]]、[[言語学|言語学者]]、オリエンタリスト([[東洋学|東洋学者]])(* [[1827年]])
* [[1920年]] - [[アレクサンドル・コルチャーク]]、[[ロシア革命]]期の[[白軍]]総司令官(* [[1873年]])
* [[1928年]] - [[九条武子]]、[[歌人]]、[[教育者]](* [[1887年]])
* [[1937年]] - [[エリフ・ルート]]、第38代[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1845年]])
* [[1938年]] - [[ハーベイ・ファイアストーン]]、実業家、[[ファイアストン]]社創業者(* [[1868年]])
* [[1941年]] - [[杉山彦三郎]]、[[茶]]研究家(* [[1857年]])
* [[1942年]] - [[イヴァン・ビリビン]]、[[イラストレーター]](* [[1876年]])
* 1942年 - [[ドランド・ピエトリ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1885年]])
* 1942年 - [[フリッツ・トート]]、[[ナチス・ドイツ]]軍需相(* [[1891年]])
* [[1944年]] - [[ロバート・E・パーク]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1846年]])
* 1944年 - [[三上於菟吉]]、小説家(* [[1891年]])
* [[1950年]] - [[井上正夫]]、[[俳優]](* [[1881年]])
* [[1959年]] - [[ギター・スリム]]、[[ギタリスト]]、歌手(* [[1926年]])
* 1959年 - [[ナップ・ラジョイ]]、[[プロ野球選手]](* [[1874年]])
* [[1960年]] - [[イーゴリ・クルチャトフ]]、[[物理学者]](* [[1903年]])
* [[1972年]] - [[ウォルター・ラング]]、[[映画監督]](* [[1896年]])
* [[1975年]] - [[香山滋]]、小説家(* [[1904年]])
* 1975年 - [[大貫賢]]、[[プロ野球選手]](* [[1906年]])
* [[1977年]] - [[牛原陽一]]、映画監督(* [[1924年]])
* [[1979年]] - [[ヨーゼフ・メンゲレ]]、[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]][[軍医]](* [[1911年]])
* [[1983年]] - [[武井武雄]]、[[童画|童画家]](* [[1894年]])
* [[1986年]] - [[ミノル・ヤマサキ]]、[[建築家]](* [[1912年]])
* 1986年 - [[藤井勇]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督]](* [[1916年]])
* [[1987年]] - [[小山敬三]]、[[画家]](* [[1897年]])
* 1987年 - [[住宅顕信]]、[[俳人]](* [[1961年]])
* [[1988年]] - [[リン・カーター]]、[[ファンタジー]]・[[SF作家]](* [[1930年]])
* [[1991年]] - [[オットー・フリードリッヒ・ボルノウ]]、[[教育学|教育学者]]、[[哲学|哲学者]](* [[1903年]])
* 1991年 - [[春風亭柳朝]]、[[落語家]](* [[1929年]])
* [[1992年]] - [[バズ・ソイヤー]]、[[プロレスラー]](* [[1959年]])
* 1992年 - [[小川紳介]]、ドキュメンタリー[[映画監督]](* [[1935年]])
* [[1994年]] - [[ヴィトルト・ルトスワフスキ]]、作曲家(* [[1913年]])
* [[1997年]] - [[ダニイル・シャフラン]]、[[チェリスト]](* [[1923年]])
* [[1999年]] - [[フセイン1世]]、[[ヨルダン|ヨルダン王]](* [[1935年]])
* [[2000年]] - [[シッド・エイベル]]、[[アイスホッケー]]選手(* [[1918年]])
* 2000年 - [[新山志保]]、[[声優]](* [[1970年]])
* [[2002年]] - [[原健策]]、俳優(* [[1905年]])
* 2002年 - [[田部文一郎]]、[[実業家]](* [[1907年]])
* [[2006年]] - [[富樫洋一]]、[[サッカー]][[ジャーナリスト]](* [[1951年]])
* [[2007年]] - [[アラン・マクダイアミッド]]、[[化学者]](* [[1927年]])
* 2007年 - [[星山博之]]、[[脚本家]](* [[1944年]])
* [[2008年]] - [[川村二郎]]、[[ドイツ文学|ドイツ文学者]](* [[1928年]])
<!-- 特筆性は? * [[2009年]] - [[マイケル・ア・ラ・モード]]、音楽ディレクター(* [[1973年]]?) -->
* [[2012年]] - [[千石正一]]、動物学者(* [[1949年]])
* [[2014年]] - [[牧野隆志]]、 [[作曲家]]([[東京プリン]])(* [[1964年]])
* [[2015年]] - [[河上和雄]]、[[弁護士]]、[[検察官]](* [[1933年]])
* [[2017年]] - [[ツヴェタン・トドロフ]]、哲学者(* [[1939年]])
* 2017年 - [[中山美保]]、タレント、喜劇役者(* [[1938年]])
* [[2018年]] - [[パット・トーピー]]、ミュージシャン([[MR. BIG (アメリカのバンド)|MR. BIG]])(* [[1953年]])
* [[2019年]] - [[森下哲夫]]、俳優(* [[1945年]])
* [[2020年]] - [[エンジェル・エチェバリア]]、元プロ野球選手(* [[1971年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[北方領土の日]]({{JPN}})<ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=29}}</ref><ref name="kato2006">{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=21}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=25}}</ref>
*: [[1855年]]2月7日([[安政]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]])に[[日露和親条約]]が結ばれ、[[北方地域|北方領土]]が日本の領土として認められたことに由来。[[1981年]]に日本政府が制定。
* [[独立記念日]]({{GRD}})
*: [[1974年]]のこの日、グレナダが[[イギリス]]から独立した。
* [[フナ]]の日({{JPN}})<ref name="kato2006"/><ref name="kato2010-1">{{cite book|和書|title=衣・食・住の記念日事典|author=加藤迪男|publisher=日本地域社会研究所|year=2010|page=84}}</ref>
*: 「ふ(2)な(7)」の語呂合せ。[[茨城県]][[古河市]]のフナ甘露煮店協会が2001年に制定。
* [[ニゴロブナ]]の日({{JPN}})※[[2月5日]] - 7日<ref>{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=23}}</ref><ref>{{cite book|和書|title=衣・食・住の記念日事典|author=加藤迪男|publisher=日本地域社会研究所|year=2010|page=83}}</ref>
* 長野の日<ref name="kato2006"/>/オリンピックメモリアルデー<ref name="kase2009"/>({{JPN}})
*: [[1998年]]のこの日に[[長野オリンピック|長野冬季オリンピック]]の開会式が行われたことに由来。日本青年会議所北陸信越地区長野ブロック協議会が1998年に制定。
* 福井県ふるさとの日({{JPN}}[[福井県]])<ref name="kato2006"/>
*: [[1881年]]のこの日に、[[石川県]]・[[滋賀県]]から越前・若狭を分離して福井県が設置されたことに由来し、福井県が[[1982年]]に制定。
* 興師会([[日蓮正宗]])
*: 日蓮正宗の開祖・日興の祥月命日にあたり報恩の法要が総本山大石寺をはじめ、日蓮正宗の全ての寺院で営まれる。日興は[[セリ|芹]]を好んで食べたので、本尊に芹を供える。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0207|date=2011年6月}}
* [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - ジオン公国軍、地球侵攻作戦を本格的発動。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 酸ヶ湯紗雪、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/sukayu_sayuki |title=青森 酸ヶ湯紗雪 |access-date=2022-11-01 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - [[水瓶座のカミュ]]、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=39 |title=水瓶座(アクエリアス)のカミュ |access-date=2022-11-01 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |work=『聖闘士星矢』 |author=[[車田正美]]}}</ref>
* 生年不明 - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#童守小学校 5年3組|山口晶]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=週刊少年ジャンプ特別編集|authorlink=週刊少年ジャンプ |year = 1997 |title = 地獄先生ぬ~べ~大百科 |page = 37 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス デラックス]] |isbn = 4-08-858883-5 }}</ref>
* 生年不明 - リリアデント・蔵兎座、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1225435250295066624}}</ref>
* 生年不明 - 井浦秀、漫画・アニメ『[[堀さんと宮村くん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|horimiya_anime|1358068543334490112}}</ref>
* 生年不明 - 瀬戸内智恵、アニメ『[[刀使ノ巫女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tojitomo|1225433988644274176}}</ref>
* 生年不明 - エアリス・ゲインズブール、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVII]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|livedoornews|1358071702408822784}}</ref>
* 生年不明 - 東郷あい、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20108 |title=東郷 あい(とうごう あい) |access-date=2022-11-01 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - クリスティーナ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1093328518371405824}}</ref>
* 生年不明 - 佐月マリ、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heaven-burns-red.com/character/31c/satsuki-mari/ |title=佐月マリ |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=2023-01-11 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* [[1889年]] - [[ジョナサン・ジョースター]]、漫画・アニメ『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』 Part1『[[ファントムブラッド]]』の主人公
* [[2010年]] - 魅上照、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ |coauthors = [[小畑健]]|year = 2006 |title = DEATH NOTE |volume = 第13巻 |page = 18 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-874095-9 }}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{新暦365日|2|6|2|8|[[1月7日]]|[[3月7日]]|[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]|0207|2|07}}
{{1年の月と日}} | 2003-02-15T12:35:50Z | 2023-12-23T10:52:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%887%E6%97%A5 |
1,786 | 2月9日 | 2月9日(にがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から40日目にあたり、年末まであと325日(閏年では326日)ある。 | [
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'''2月9日'''(にがつここのか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から40日目にあたり、年末まであと325日([[閏年]]では326日)ある。
== できごと ==
* [[474年]] - [[レオ2世 (東ローマ皇帝)|レオ2世]]が[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]]に即位<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Leo-II-Roman-emperor |title=Leo II|Roman emperor |access-date=14 Aug 2023 |publisher=britannica}}</ref>。レオ2世の父[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]も共同皇帝として即位した。
* [[1588年]]([[天正]]16年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[室町幕府]]最後の[[征夷大将軍|将軍]][[足利義昭]]が官職を辞して[[准三宮]]の待遇を受ける(この日をもって室町幕府が滅亡したとする説もある)。
* [[1598年]]([[慶長]]3年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]・[[蔚山城の戦い]](一次):[[蔚山城]]で籠城中の[[加藤清正]]・[[浅野幸長]]らが、[[明]]・[[朝鮮]]軍による最後の攻撃を撃退。撤退を開始した明・朝鮮軍を援軍の[[毛利秀元]]らが追撃する。
* [[1621年]] - [[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]がパウロ5世の跡を継いで[[ローマ教皇]]に即位。
* [[1801年]]([[寛政]]12年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[伊能忠敬]]が日本初の実測地図とされる、[[蝦夷]]南東海岸と[[奥州街道]]の略地図を[[江戸幕府]]に上呈する。
* [[1825年]] - [[1824年アメリカ合衆国大統領選挙]]: 選挙結果のもつれこみにより最終的に[[アメリカ合衆国下院]]で[[ジョン・クィンシー・アダムズ]]が[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に選出。
* [[1849年]] - [[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]が建国。
* [[1860年]]([[安政]]7年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]) - [[日米修好通商条約]]批准書交換のため[[新見正興]]を正使とする[[万延元年遣米使節|遣米使節団]]が[[浦賀]]を出港。
* [[1861年]] - [[南北戦争]]: [[ジェファーソン・デイヴィス]]が[[アメリカ連合国]]の暫定大統領に指名。
* [[1870年]] - [[アメリカ国立気象局]]が創設。
* [[1893年]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ]]の歌劇『[[ファルスタッフ]]』が[[ミラノ]]で初演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chopin.co.jp/media/opera217/a2062 |title=ファルスタッフ[全3幕]ヴェルディ作曲 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=ハンナ |date=27 May 2019}}</ref>。
* [[1895年]] - [[アメリカ合衆国]]の体育教師・[[ウィリアム・G・モーガン]]が[[バレーボール]]を考案<ref>{{Cite web |url=https://www.bostonmagazine.com/news/2017/02/09/volleyball-invented-in-massachusetts/ |title=Throwback Thursday: When Volleyball Was Invented in Massachusetts |access-date=14 Aug 2023 |publisher=Metro Corp. |website=Boston magazine |date=9 Feb 2017}}</ref>。
* [[1900年]] - [[ドワイト・フィリー・デービス|ドワイト・デービス]]ら[[ハーバード大学]]テニスクラブのメンバーがインターナショナル・ローンテニス・チャレンジ(後の[[デビスカップ]])を創設。
* [[1920年]] - [[スヴァールバル条約]]締結。
* [[1932年]] - [[井上準之助]]前[[財務大臣 (日本)|蔵相]]が失政を問われて[[血盟団|血盟団員]]・[[小沼正]]により射殺される。([[血盟団事件]])
* [[1934年]] - [[トルコ]]・[[ギリシア]]・[[ルーマニア]]・[[ユーゴスラビア]]の4国による{{仮リンク|バルカン協商|en|Balkan Pact}}が成立。
* [[1936年]] - 名古屋・[[鳴海球場]]で日本初のプロ野球試合・[[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[名古屋金鯱軍|金鯱]]が開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://apec.aichi-c.ed.jp/kyouka/shakai/kyouzai/2018/syakai/nagoya/nag025.htm |title=鳴海球場跡(なるみきゅうじょうあと) |access-date=14 Aug 2023 |publisher=愛知県教育委員会 |website=愛知エースネット}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://tabi-mag.jp/narumikyujo/ |title=【知られざるニッポン】vol.32 日本初のプロ野球が行なわれた鳴海球場 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=プレスマンユニオン |website=ニッポン旅マガジン}}</ref>。
* [[1950年]] - [[ジョセフ・マッカーシー]]米上院議員が[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]に[[アメリカ共産党|共産党員]]が在籍していると演説。([[マッカーシズム]])
* [[1951年]] - [[日本青年会議所]]設立。
* [[1960年]] - [[ジョアン・ウッドワード]]が[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]](ハリウッド名声の歩道)認定第1号となる。
* [[1964年]] - [[ビートルズ]]が『[[エド・サリヴァン・ショー]]』に初出演。
* [[1967年]] - インドネシア国会が[[スカルノ]]大統領の解任を決議。
* [[1969年]] - [[ボーイング747]](ジャンボジェット)が初飛行<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/70015 |title=2月9日 ジャンボジェット機が初飛行(1969年) |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[講談社]] |website=サイエンス365days}}</ref>。
* [[1971年]] - [[アポロ14号]]が地球に帰還。
* [[1972年]] - [[ポール・マッカートニー]]らが結成したバンド「[[ウイングス]]」が初公演。
* [[1975年]] - [[ソユーズ17号]]が地球に帰還。宇宙滞在時間の最長記録を29日間に更新。
* [[1980年]] - [[元尾道市長夫妻殺害事件]]: [[広島県]][[尾道市]]の前市長・佐藤勲(当時55歳)が、市内の自宅で妻(当時45歳)とともに殺害される。事件発生から15年後の1995年2月に[[公訴時効]]が成立、[[未解決事件]]となった。
* [[1982年]] - [[日本航空350便墜落事故]]。[[機長]]が飛行機のエンジンを[[逆噴射]]させ、機体は[[東京国際空港|羽田空港]]沖に[[墜落]]。乗員・乗客174人中24人が死亡。機長は[[業務上過失致死傷罪|業務上過失致死傷]]容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]されたが、[[責任能力#刑法上の責任能力|心神喪失]]として[[起訴#不起訴処分|不起訴処分]]になった。
* [[1986年]] - [[ハレー彗星]]が[[1910年]][[11月30日]]以来最接近。。
* [[1987年]] - 2年前に民営化した[[日本電信電話|NTT]]株が[[株式公開]]。2か月後に史上最高値の318万円まで高騰。
* [[1988年]] - [[富山・長野連続女性誘拐殺人事件]]([[1980年]]発生)で[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]などに問われた[[被告人]]の男女2人の[[審理|第一審]][[判決 (日本法)|判決]][[公判]]。[[富山地方裁判所|富山地裁]]は、2人のうち女1人の単独犯と[[事実認定|認定]]し、女に[[日本における死刑|死刑]]([[求刑]]:同)を言い渡した一方、[[共謀共同正犯]]として[[懲役#無期懲役|無期懲役]]を求刑された男性被告人に関しては「犯行に関与していない」として[[無罪]]を言い渡した<ref>『北日本新聞』1988年2月9日夕刊一面1頁「M被告に死刑 ○○被告無罪 共謀認めず 富山・長野連続誘拐 富山地裁で判決 2件とも単独実行 “罪なすりつけ”M供述」(北日本新聞社)</ref><ref>『北日本新聞』1988年2月10日朝刊一面1頁「M死刑 ○○被告は無罪 富山・長野連続誘拐殺人に判決 単独犯行、共謀ない 自白の信用性否定 M側控訴」(北日本新聞社)</ref>。
* [[1991年]] - [[福井県]]の[[関西電力]][[美浜発電所|美浜原子力発電所]]で[[原子炉]]が自動停止する[[原子力事故|事故]]が発生。
* 1991年 - [[リトアニア]]で[[独立をめぐるリトアニアの国民投票|独立の是非を問う国民投票]]が実施され、賛成票が9割を上回る。
* [[1994年]] - [[高橋久子]]元労働省婦人少年局長が、史上初の女性[[最高裁判所裁判官|最高裁判事]]に就任。
* [[1996年]] - [[コペルニシウム]]の発生がドイツで初めて確認される。
* [[2001年]] - [[えひめ丸事故]]。ハワイ沖で[[愛媛県立宇和島水産高等学校]]の実習船「えひめ丸」が米海軍の[[原子力潜水艦]][[グリーンヴィル (潜水艦)|グリーンヴィル]]と衝突して沈没、9人が行方不明に。(現地時間。日本時間では[[2月10日|翌日]])
* [[2009年]] - [[中央電視台電視文化センター火災]]。
* [[2014年]] - [[2014年東京都知事選挙]]の投開票が行われ、[[舛添要一]]が当選<ref>{{Cite web|和書|date=10 Feb 2014 |url=http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702303374704579373503011263422 |title=東京都知事に元厚生労働相の舛添氏-元首相チーム下す |work=THE WALL STREET JOURNAL. |publisher=Dow Jones & Company, Inc. |accessdate=14 Aug 2023}}</ref>。
* [[2017年]] - [[朝日新聞]]が[[森友学園問題|森友事件]]の第一報を報じる<ref>{{Cite web|和書|title=学校法人に大阪の国有地売却 価格非公表、近隣の1割か |url=https://www.asahi.com/articles/ASK264H4YK26PPTB00J.html?iref=ogimage_rek |website=[[朝日新聞デジタル]] |date=9 Feb 2017 |access-date=14 Aug 2023}}</ref>。
* 2017年 - 英中央銀行[[イングランド銀行]]が、[[三菱UFJ銀行|三菱東京UFJ銀行]]と[[三菱UFJモルガン・スタンレー証券|三菱UFJ証券ホールディングス]]の欧州法人に対し、計37億円強の罰金を科すと発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGC09H1J_Z00C17A2EE8000/ |title=英中銀、三菱UFJ銀に罰金 説明遅れで証券含め計37億円 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=9 Feb 2017}}</ref>。
* [[2018年]] - [[2018年平昌オリンピック|平昌オリンピック]]が開幕<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.ntv.co.jp/category/international/385236 |title=平昌五輪きょう開幕 92の国と地域が参加 |publisher=[[日テレNEWS24]] |date=9 Feb 2018 |accessdate=14 Aug 2023}}</ref>。
* 2020年 - [[フィギュアスケート]]四大陸選手権で、[[羽生結弦]]が初優勝。この優勝で羽生は、ジュニアの世界タイトル、シニアの世界選手権、五輪金メダル、グランプリファイナル、大陸選手権をすべて制する「スーパースラム」を、男子選手で初めて達成した<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/figureskating-mens-hanyu-idJPKBN2030U6 |title=フィギュア=四大陸選手権、羽生がスーパースラム達成 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=10 Feb 2020}}</ref>。
* [[2023年]] - [[警視庁]]が、無許可で臓器移植を斡旋したとして、NPO法人「難病患者支援の会」の理事を臓器移植法違反(無許可あっせん)の疑いで逮捕したと発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15551807.html |title=海外での臓器移植、初摘発 無許可あっせん容疑者「許可不要と思い」 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=9 Feb 2023}}</ref>。
== 誕生日 ==
[[Image:Natsume Soseki photo.jpg|thumb|180px|文豪[[夏目漱石]]誕生(1867年(旧暦[[慶応]]3年1月5日)]]
* [[1543年]]([[天文 (元号)|天文]]12年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[顕如]]、[[本願寺]]第11世門主(+ [[1592年]])
* [[1631年]]([[寛永]]8年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[土井利長]]、[[西尾藩]]主(+ [[1696年]])
* [[1689年]]([[元禄]]2年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[戸田忠余]]、[[宇都宮藩]]主(+ [[1746年]])
* [[1705年]]([[宝永]]2年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) - [[伊達村年]]、[[宇和島藩]]主(+ [[1735年]])
* [[1743年]]([[寛保]]8年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[松平頼前]]、[[常陸府中藩]]主(+ [[1824年]])
* [[1773年]] - [[ウィリアム・ハリソン|ウィリアム・ヘンリー・ハリソン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/topics/us-presidents/william-henry-harrison |title=William Henry Harrison |access-date=14 Aug 2023 |publisher=A&E Television Networks, LLC. |date=21 Aug 2018 |website=HISTORY}}</ref>、第9代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1841年]]<ref>{{cite book|洋書 |author=Freeman Cleaves |title=Old Tippecanoe: William Henry Harrison and His Time |publisher=C. Scribner's Sons |location=New York |year=1939 |pages=152}}</ref>)
* [[1775年]] - [[ボーヤイ・ファルカシュ]]、数学者、[[詩人]](+ [[1856年]])
* [[1788年]]([[天明]]8年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[松平斉孝]]、[[津山藩]]主(+ [[1838年]])
* [[1797年]]([[寛政]]9年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[細川斉樹]]、[[熊本藩]]主(+ [[1826年]])
* [[1829年]]([[文政]]12年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[仮名垣魯文]]、[[戯作|戯作者]]、[[新聞記者]](+ [[1894年]])
* [[1830年]] - [[アブデュルアズィズ]]、[[オスマン帝国]]第32代皇帝(+ [[1876年]])
* [[1837年]]([[天保]]8年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[佐竹義諶]]、[[岩崎藩]]主(+ [[1870年]])
* [[1845年]] - [[馬建忠]]、[[思想家]]、[[外交官]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1900年]])
* [[1859年]]([[安政]]6年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[秋山好古]]、[[軍人]]、[[秋山真之]]の兄(+ [[1930年]])
* [[1867年]]([[慶応]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[夏目漱石]]、[[小説家]]、英文学者(+ [[1916年]])
* [[1874年]] - [[フセヴォロド・メイエルホリド]]<ref>{{Cite web |title=Vsevolod Yemilyevich Meyerhold {{!}} Russian theatrical producer, director, and actor |url=https://www.britannica.com/biography/Vsevolod-Yemilyevich-Meyerhold |website=Britannica |access-date=14 Aug 2023}}</ref>、[[演出家]]、[[俳優]](+ [[1940年]])
* 1874年 - [[エイミー・ローウェル]]、[[詩人]](+ [[1925年]])
* [[1876年]] - [[マルティン・スティクスルート]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1964年]])
* [[1879年]] - [[ジャック・バンヴィル]]、[[アクション・フランセーズ]]指導者
* [[1885年]] - [[アルバン・ベルク]]、[[作曲家]](+ [[1935年]])
* [[1887年]] - [[土田麦僊]]、[[日本画家]](+ [[1936年]])
* 1887年 - [[ヘイニー・ジマーマン]]、元プロ野球選手(+ [[1969年]])
* [[1889年]] - [[谷正之]]、[[外交官]](+ [[1962年]])
* [[1891年]] - [[ロナルド・コールマン]]、俳優(+ [[1958年]])
* [[1894年]] - [[香山蕃]]、ラグビー指導者、[[日本ラグビーフットボール協会]]第3代会長、[[ラグビー日本代表]]初代監督(+[[1969年]])
* [[1896年]] - [[赤木桁平]]、[[評論家]]、[[政治家]](+ [[1949年]])
* [[1898年]] - [[ヘレーネ・エンゲルマン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1985年]])
* 1898年 - [[八木重吉]]、[[詩人]](+ [[1927年]])
* [[1909年]] - [[ディーン・ラスク]]、政治家(+ [[1994年]])
* [[1910年]] - [[ジャック・モノー]]、[[分子生物学|分子生物学者]](+ [[1976年]])
* 1910年 - [[ヴォルフ・フォン・エンゲルハート]]、[[地質学|地質学者]]、[[鉱物学|鉱物学者]](+ [[2008年]])
* [[1912年]] - [[双葉山定次]]、[[大相撲]]第35代[[横綱]]、第3代[[日本相撲協会]]理事長、年寄12代[[時津風部屋|時津風]](+ [[1968年]])
* [[1913年]] - [[市川春代]]、女優(+ [[2004年]])
* 1913年 - [[加賀邦男]]、[[俳優]](+ [[2002年]])
* [[1920年]] - [[鬼頭政一]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2008年]])
* [[1921年]] - [[庄野潤三]]、[[作家]](+ [[2009年]])
* 1921年 - [[コンスタンス・キーン]]、[[ピアニスト]]、音楽教師(+ [[2005年]])
* [[1925年]] - [[森本信男]]、[[地球科学者]](+ [[2010年]])
* 1925年 - [[常ノ山勝正]]、元大相撲[[力士]](+ [[1987年]])
* [[1927年]] - [[織本順吉]]、俳優(+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|title=俳優・織本順吉さん死去 |publisher=[[産業経済新聞]] |date=25 Mar 2019 |url=https://www.sankei.com/article/20190325-UXSJIBLWGRPDLPNLZTWOOOLB6U/ |accessdate=14 Aug 2023}}</ref>)
* [[1928年]] - [[リヌス・ミケルス]]、元[[サッカー|サッカー選手]]、監督(+ [[2005年]])
* 1928年 - [[フランク・フラゼッタ]]、[[イラストレーター]](+ [[2010年]])
* [[1930年]] - [[ハナ肇]]、俳優、[[コメディアン]]、[[ドラマー]](+ [[1993年]])
* [[1931年]] - [[トーマス・ベルンハルト]]、[[小説家]](+ [[1989年]])
* 1931年 - [[ロバート・モリス (芸術家)|ロバート・モリス]]、[[近代美術と現代美術|現代美術家]](+ [[2018年]])
* 1931年 - [[ヨゼフ・マソプスト]]、サッカー選手、監督(+ [[2015年]])
* [[1932年]] - [[広岡達朗]]、元プロ野球選手、元[[プロ野球監督]]、元[[ゼネラルマネージャー|GM]]
* 1932年 - [[高橋康也]]、英文学者(+[[2002年]])
* 1932年 - [[ゲルハルト・リヒター]]、[[画家]]
* [[1933年]] - [[沢田敬也]]、英語学者
* [[1934年]] - [[有賀秀子]]、[[農芸化学|農芸化学者]]
* 1934年 - [[山田知]]、[[政治家]](+ [[2011年]])
* 1934年 - [[千之赫子]]、女優(+ [[1985年]])
* [[1936年]] - [[上原英治]]、実業家
* 1936年 - [[三林清二]]、元プロ野球選手(+ [[2021年]])
* [[1937年]] - [[クリート・ボイヤー]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]])
* 1937年 - [[平田弘史]]、[[漫画家]](+ 2021年)
* [[1938年]] - [[道家豊]]、元フィギュアスケート選手
* 1938年 - [[ジャミラ・ブーパシャ]]、[[アルジェリア]]の[[社会運動|独立運動]]家
* [[1939年]] - [[式場壮吉]]、実業家、元レーシングドライバー(+[[2016年]])
* 1939年 - [[松下忠洋]]、政治家、官僚(+[[2012年]])
* 1939年 - [[前田川克郎]]、元大相撲力士(+ [[1998年]])
* [[1940年]] - [[ジョン・クッツェー]]、小説家、[[2003年]][[ノーベル文学賞]]受賞者
* 1940年 - [[ブライアン・ベネット]]、[[ミュージシャン]]、[[作曲家]]
* [[1942年]] - [[キャロル・キング]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1943年]] - [[大塚宗春]]、会計学者、[[早稲田大学]][[名誉教授]]、元[[会計検査院]]長
* 1943年 - [[松岡功祐]]、元プロ野球選手
* 1943年 - [[ジョセフ・E・スティグリッツ]]、[[経済学者]]
* 1943年 - [[ジョー・ペシ]]、俳優
* [[1944年]] - [[阿羅健一]]、作家
* 1944年 - [[山田勝国]]、元プロ野球選手
* 1944年 - [[アリス・ウォーカー]]、小説家
* [[1945年]] - [[斎藤英男]]、実業家
* 1945年 - [[ミア・ファロー]]、女優
* [[1946年]] - [[神野直彦]]、経済学者、[[東京大学]]名誉教授
* 1946年 - [[津山洋子]]、演歌歌手
* [[1947年]] - [[池田道孝]]、政治家
* 1947年 - [[池島和彦]]、元プロ野球選手
* [[1948年]] - [[近藤信司]]、官僚、元[[文化庁#歴代の文化庁長官|文化庁長官]]
* 1948年 - [[富士櫻栄守]]、元大相撲力士
* [[1949年]] - [[荒木しげる]]、俳優、[[ドラマー]](+ [[2012年]])
* [[1950年]] - [[伊集院静]]、小説家(+2023年)
* 1950年 - [[大滝信孝]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[あだち充]]、漫画家
* 1951年 - [[名高達男]]、俳優
* [[1952年]] - [[真野響子]]、女優
* 1952年 - [[土屋品子]]、政治家
* 1952年 - [[前田新作]]、プロゴルファー
* [[1953年]] - [[キアラン・ハインズ]]、俳優
* [[1954年]] - [[平田薫 (野球)|平田薫]]、元プロ野球選手
* 1954年 - [[谷川治恵]]、将棋棋士(+2002年)
* 1954年 - [[クリス・ガードナー]]、[[実業家]]
* [[1956年]] - [[ムーキー・ウィルソン]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[ラモス瑠偉]]、元[[プロサッカー選手]]、サッカー指導者
* [[1958年]] - [[堀井憲一郎]]、[[コラムニスト]]
* 1958年 - [[愛染恭子]]、女優
* 1958年 - [[稲津久]]、政治家
* [[1959年]] - [[丸山和範]]、作曲家、[[編曲家]]、[[ピアニスト]]
* 1959年 - [[宮城聰]]、演出家
* [[1960年]] - [[石川優吾]]、漫画家
* 1960年 - [[楠瀬誠志郎]]、シンガーソングライター
* [[1961年]] - [[さそうあきら]]、漫画家
* [[1962年]] - [[藤本匠]]、[[騎手]]
* [[1963年]] - [[木村祐一]]、[[お笑いタレント]]
* 1963年 - [[ブライアン・グリーン]]、[[物理学者]]
* [[1964年]] - [[野崎京子]]、化学者
* [[1965年]] - [[雲野右子]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1965年 - [[クリスチャン・シェンク]]、[[陸上競技]]選手
* [[1966年]] - [[うるし原智志]]、[[アニメーター]]、漫画家
* 1966年 - [[高橋邦典]]、写真家
* [[1967年]] - [[村上聡美]]、女優
* 1967年 - [[寺澤有]]、ジャーナリスト
* [[1968年]] - [[小山裕香]]、声優、タレント、ナレーター
* 1968年 - [[石井英明]]、俳優、声優
* 1968年 - [[江端英久]]、俳優、声優
* 1968年 - [[山川吉樹]]、アニメ監督
* 1968年 - [[野田浩司]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[山田勉 (投手)|山田勉]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[ロバート・エーンホーン]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[小山裕香]]、[[声優]]
* [[1969年]] - [[上泉雄一]]、[[毎日放送]][[アナウンサー]]
* 1969年 - [[KAORU (プロレスラー)|KAORU]]、元[[プロレスラー]]
* [[1970年]] - [[増田英彦]]、[[漫才師]]([[ますだおかだ]])
* 1970年 - [[マッコイ斎藤]]、演出家
* 1970年 - [[中村亘利]]、音楽家(元[[CHA-CHA]])
* 1970年 - [[阿部裕幸]]、総合格闘家
* [[1971年]] - [[古海裕子]]、声優
* 1971年 - [[なすじん]]、ミュージシャン
* 1971年 - [[今関勝]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[遠藤竜也]]、[[ニッポン放送]][[ディレクター]]
* 1972年 - [[深野悦子]]、元サッカー審判員
* [[1973年]] - [[谷佳知]]、元プロ野球選手
* 1973年 - 西本麻里、キーボーディスト([[MANISH]])
* 1973年 - [[増田ゆき]]、[[声優]]
* 1973年 - [[新海誠]]、[[映画監督]]、アニメーション作家
* 1973年 - [[松本剛彦]]、[[アニメ監督]]
* 1973年 - [[角田利之]]、作曲家
* [[1974年]] - [[アンバー・ヴァレッタ]]、[[スーパーモデル]]
* 1974年 - [[佐々木孫悟空]]、お笑い芸人
* [[1975年]] - [[藤重政孝]]、[[歌手]]
* 1975年 - [[DELI]]、[[MC (ヒップホップ)|MC]]([[NITRO MICROPHONE UNDERGROUND]])
* 1975年 - [[小田美智子]]、声優
* 1975年 - [[安藤正勝 (卓球選手)|安藤正勝]]、卓球選手
* 1975年 - [[ヴラディミール・ゲレーロ]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[高須洋介]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[LYOKI]]、[[ファッションモデル]]
* [[1977年]] - [[田中美里]]、女優、声優
* 1977年 - [[張玉峰]]、元野球選手
* [[1978年]] - [[武士沢友治]]、[[騎手]]
* [[1979年]] - [[安西ひろこ]]、タレント
* 1979年 - [[春日俊彰]]、お笑い芸人([[オードリー (お笑いコンビ)|オードリー]])
* 1979年 - [[大野由加里]]、司会者、タレント、女優、
* 1979年 - [[降谷建志]]、[[歌手]]([[Dragon Ash]])
* 1979年 - [[REN (ファッションモデル)|REN]]、ファッションモデル
* 1979年 - [[秋山真一郎]]、騎手
* 1979年 - [[藤井靖]]、心理学者
* 1979年 - [[岩村明憲]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[章子怡|チャン・ツィイー]]、女優
* 1979年 - [[イリーナ・スルツカヤ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1980年]] - [[金澤ダイスケ]]、ミュージシャン、キーボード奏者([[フジファブリック]])
* 1980年 - [[黒田美樹]]、元女優
* 1980年 - [[アンゲロス・ハリステアス]]、サッカー選手
* 1980年 - [[金東聖]]、元ショートトラックスピードスケート選手
* [[1981年]] - [[関本大介]]、プロレスラー
* 1981年 - [[知念里奈]]、歌手
* [[1982年]] - [[西村宜隆]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1982年 - [[鈴木亜美]]、歌手
* [[1983年]] - [[英玲奈]]、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1983年 - [[高橋大作]]、報道記者、元アナウンサー
* 1983年 - [[東京ウタカルタ]]、元お笑い芸人
* [[1984年]] - [[IVAN]]、ファッションモデル、ミュージシャン、タレント
* 1984年 - [[牧野紗弥]]、ファッションモデル
* 1984年 - {{仮リンク|佐藤明子 (射撃選手)|en|Akiko Sato}}、射撃競技選手
* 1984年 - [[松鳳山裕也]]、元大相撲力士
* 1984年 - [[ハンネ・ヴァトネ]]、シンガーソングライター
* 1984年 - [[ディオナー・ナバーロ]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[アンナ・ユルキェビッチ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1985年]] - [[元木あき]]、[[グラビアアイドル]]
* 1985年 - [[小林憲幸]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[深谷愛]]、元タレント、グラビアアイドル
* 1985年 - [[デヴィッド・ギャラガー]]、俳優
* 1985年 - [[レアンドロ・グリミ]]、サッカー選手
* [[1987年]] - [[山岸舞彩]]、元ファッションモデル、元タレント、元フリーアナウンサー
* 1987年 - [[戸田れい]]、グラビアアイドル、女優
* 1987年 - [[ローズ・レスリー]]、女優
* 1987年 - [[西村ヒロチョ]]、お笑い芸人
* 1987年 - [[山本優希]]、タレント、ファッションモデル
* [[1988年]] - [[鏡桜南二]]、大相撲力士
* 1988年 - [[T-岡田]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[大浦千佳]]、女優
* 1988年 - ソア、アイドル([[Brave Girls]])
* [[1989年]] - [[河崎愛美]]、[[作家]]
* 1989年 - 佐田淳、俳優
* 1989年 - [[水谷望愛]]、元タレント、モデル、レースクィーン
* 1989年 - [[高橋駿太]]、サッカー選手
* 1989年 - [[ジェイク・スモリンスキー]]、元プロ野球選手
* [[1990年]] - [[フョードル・スモロフ]]、サッカー選手
* 1990年 - アントニー、お笑い芸人([[マテンロウ]])
* [[1992年]] - [[中上貴晶]]、[[モーターサイクル]]・[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]ライダー
* 1992年 - [[北園涼]]、俳優
* [[1993年]] - [[遠藤航]]、サッカー選手
* 1993年 - [[和田篤紀]]、サッカー選手
* 1993年 - [[滝口成美]]、歌手、ファッションモデル、タレント
* 1993年 - [[ニクラス・フュルクルク]]、サッカー選手
* [[1994年]] - [[大山桃子]]、元ファッションモデル
* 1994年 - [[宮坂亜里沙]]、元ファッションモデル
* [[1995年]] - [[守山玲愛]]、女優
* 1995年 - [[佐藤梨那]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー
* 1995年 - [[若松佑弥]]、[[総合格闘家]]
* 1995年 - [[ジャニー (NCT)|ジャニー]]、歌手([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* 1995年 - [[文慶建]]、サッカー選手
* [[1996年]] - [[ジミー・ベネット]]、俳優
* 1996年 - [[金熊斌]]、プロ野球選手
* [[1998年]] - [[井上ほの花]]、声優
* 1998年 - [[三輪裕子 (野球)|三輪裕子]]、野球選手
* [[1999年]] - [[小田彩加]]、アイドル(元[[HKT48]])
* 1999年 - [[山田菜々美]]、元アイドル(元[[AKB48]])
* [[2000年]] - [[安居海渡]]、サッカー選手
* [[2001年]] - [[斎藤新]]、騎手
* 2001年 - 阿部芽唯、元アイドル([[AKB48]])
* [[2002年]] - [[中村輪夢]]、プロBMXライダー
* [[2004年]] - [[為永幸音]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/angerme/profile/shion_tamenaga/ |title=アンジュルム :為永幸音 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=DC FACTORY |website=HELLO!PROJECT オフィシャルサイト}}</ref>、歌手、アイドル([[アンジュルム]])
* 2004年 - [[金指一世]]、アイドル([[美 少年]])
* 2004年 - 飯塚瑠乃<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stardust.co.jp/talent/ploughmusic/iizukaruno/ |title=飯塚瑠乃 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[スターダストプロモーション]]}}</ref>、アーティスト、女優
* 2004年 - [[笹原操希]]、プロ野球選手
* 2004年 - [[ヤン・ジョンウォン|ジョンウォン]]、アイドル([[ENHYPEN]])
* [[2005年]] - [[月村有希]]、元アイドル([[虹のファンタジスタ]])
* [[2011年]] - [[松田芹香]]、女優、ファッションモデル
* 生年不明 - [[相川遥花]]、声優
* 生年不明 - [[伊藤麻菜美]]、声優
* 生年不明 - [[夏元雅人]]、漫画家、イラストレーター
== 忌日 ==
* [[954年]]([[天暦]]8年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[藤原穏子]]、[[醍醐天皇]]の[[中宮]](* [[885年]])
* [[967年]]([[康保]]3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - [[小野道風]]、[[書家]]、[[三跡|三蹟]]の1人(* [[894年]])
* [[1199年]]([[正治]]元年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[源頼朝]]、[[鎌倉幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1147年]])
* [[1200年]](正治2年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[三浦義澄]]、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]](* [[1127年]])
* [[1450年]] - [[アニェス・ソレル]]、[[フランス王国|フランス王]][[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の愛妾(* [[1421年]])
* [[1588年]] - サンタ・クルス侯爵[[アルバロ・デ・バサン]]、[[スペイン]]の[[軍人]](* [[1526年]])
* [[1640年]] - [[ムラト4世]]、[[オスマン帝国]]第17代[[スルタン]](* [[1612年]])
* [[1675年]] - [[ヘラルト・ドウ]]、[[画家]](* [[1613年]])
* [[1740年]] - [[ヴィンツェント・リューベック]]、[[作曲家]](* [[1654年]])
* [[1751年]] - [[アンリ・フランソワ・ダゲッソー]]、フランス大法官(* [[1668年]])
* [[1759年]] - [[ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン=コンティ]]、[[オルレアン公]][[ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ1世]]の妃(* [[1726年]])
* [[1777年]] - [[セス・ポメロイ]]、[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]准将(* [[1706年]])
* [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[鍋島治茂]]、第8代[[佐賀藩|佐賀藩主]](* [[1745年]])
* [[1811年]] - [[ネヴィル・マスケリン]]、[[天文学者]](* [[1732年]])
* [[1824年]] - [[アンナ・カタリナ・エンメリック]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[修道女]](* [[1774年]])
* [[1873年]] - [[ユーリウス・フュルスト]]、[[ユダヤ学|ユダヤ学者]](* [[1805年]])
* [[1874年]] - [[ジュール・ミシュレ]]、[[歴史家]](* [[1798年]])
* [[1881年]] - [[フョードル・ドストエフスキー]]、作家(* [[1821年]])
* [[1891年]] - [[ヨハン・ヨンキント]]、[[画家]](* [[1819年]])
* [[1895年]] - [[藤堂高猷]]、第11代[[津藩|津藩主]](* [[1813年]])
* [[1900年]] - [[リチャード・トンプソン (海軍長官)|リチャード・トンプソン]]、第27代[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1809年]])
* [[1901年]] - [[マックス・フォン・ペッテンコーファー]]、[[衛生学|衛生学者]]、[[化学者]](* [[1818年]])
* [[1916年]] - [[加藤弘之]]、[[政治学者]](* [[1836年]])
* [[1921年]] - [[村田経芳]]、[[銃|銃器]]設計者(* [[1838年]])
* [[1927年]] - [[チャールズ・ウォルコット]]、[[古生物学|古生物学者]](* [[1850年]])
* [[1929年]] - [[ヴァルター・グラマッテ]]、[[画家]](* [[1897年]])
* [[1932年]] - [[井上準之助]]、銀行家、[[財務大臣 (日本)|蔵相]]、[[日本銀行]]総裁(* [[1869年]])
* [[1936年]] - [[ジャック・バンヴィル]]、[[アクション・フランセーズ]]指導者
* [[1937年]] - [[金森又一郎]]、[[実業家]]、[[大阪電気軌道]](現・[[近畿日本鉄道]])創業者(* [[1873年]])
* [[1941年]] - [[エリザベス・フォン・アーニム]]、小説家(* [[1866年]])
* [[1951年]] - [[川田龍吉]]、実業家(* [[1856年]])
* 1951年 - [[鷲尾雨工]]、小説家(* [[1892年]])
* 1951年 - [[ネヴィル・ブルワー=リットン]]、画家(* [[1879年]])
* [[1957年]] - [[ホルティ・ミクローシュ]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[軍人]]、[[ハンガリー]][[摂政]](* [[1868年]])
* [[1960年]] - [[アレクサンドル・ベノワ]]、画家、舞台デザイナー(* [[1870年]])
* 1960年 - [[エルンスト・フォン・ドホナーニ]]、[[作曲家]](* [[1877年]])
* [[1963年]] - [[アブドルカリーム・カーシム]]、[[イラク]]首相(* [[1914年]])
* [[1972年]] - [[ニコライ・クルイロフ]]、[[ロシア戦略ロケット軍|ソ連戦略ロケット軍]]総司令官(* [[1903年]])
* [[1973年]] - [[円谷一]]、[[円谷プロダクション]]第2代社長(* [[1931年]])
* [[1976年]] - [[パーシー・フェイス]]、作曲家、[[指揮者]](* [[1908年]])
* [[1977年]] - [[安田臣]]、[[建築家]](* [[1911年]])
* [[1979年]] - [[ガーボル・デーネシュ]]、[[物理学者]](* [[1900年]])
* [[1981年]] - [[ビル・ヘイリー]]、[[ミュージシャン]](* [[1925年]])
* [[1982年]] - [[高橋誠一郎]]、[[経済学者]](* [[1884年]])
* 1982年 - [[ラウリ・ヴィルタネン]]、[[陸上競技選手一覧|陸上選手]](* [[1904年]])
* [[1984年]] - [[ユーリ・アンドロポフ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の指導者(* [[1914年]])
* [[1986年]] - [[有田喜一]]、政治家(* [[1901年]])
* [[1987年]] - [[貝塚茂樹]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1904年]])
* [[1989年]] - [[手塚治虫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://book.asahi.com/article/12165111 |title=マンガの神様が残したもの 手塚治虫の死を契機に育った国民文化 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞社]] |website=好書好日 |date=1 Mar 2019}}</ref>、[[漫画家]](* [[1928年]])
* [[1993年]] - [[大来佐武郎]]、[[官僚]]、[[エコノミスト]](* [[1914年]])
* [[1995年]] - [[J・ウィリアム・フルブライト]]、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]]、[[フルブライト・プログラム|フルブライト奨学金]]創設者(* [[1905年]])
* [[1996年]] - [[アドルフ・ガーランド]]、ドイツの[[エース・パイロット]](* [[1912年]])
* [[1999年]] - [[久野収]]、[[思想家]](* [[1910年]])
* [[2000年]] - [[荒井注]]、[[コメディアン]]、[[俳優]]、([[ザ・ドリフターズ]])(* [[1928年]])
* [[2001年]] - [[ハーバート・サイモン]]、[[経済学者]](* [[1916年]])
* [[2002年]] - [[池田恒雄]]、[[ジャーナリスト]]、[[ベースボール・マガジン社]]創業者(* [[1911年]])
* 2002年 - [[マーガレット (スノードン伯爵夫人)|マーガレット]]、[[イギリス王室|イギリス王女]](* [[1930年]])
* [[2003年]] - [[ヴェラ・ラルストン]]、[[フィギュアスケート]]選手、[[俳優|女優]](* [[1919年]])
* [[2005年]] - [[三富恒雄]]、[[プロ野球選手]](* [[1920年]])
* [[2006年]] - [[藤田元司]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](* [[1931年]])
* [[2007年]] - [[ベネディクト・カイリー]]、小説家(* [[1919年]])
* 2007年 - [[イアン・リチャードソン]]、[[俳優]](* [[1934年]])
* [[2008年]] - [[鈴木保巳]]、[[競輪選手]](* [[1931年]])
* [[2012年]] - [[大平シロー]]、[[コメディアン|喜劇役者]]、[[芸人]]、[[お笑いタレント]]、[[放送作家]](* [[1956年]])
* [[2013年]] - [[高野悦子 (映画運動家)|高野悦子]]、映画運動家(* [[1929年]])
* [[2014年]] - [[久保智史]]、声優(* [[1979年]])
* [[2016年]] - [[平田恒雄]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/02/10/kiji/K20160210012018550.html |title=元中日・平田恒男氏死去 60歳 79年入団、実働4年 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=10 Feb 2016}}</ref>、プロ野球選手(* [[1955年]])
* 2019年 - [[佐藤純彌]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM2K4RWWM2KUCLV002.html|title=映画監督の佐藤純彌さん死去 「新幹線大爆破」「敦煌」|publisher=[[朝日新聞デジタル]]|date=17 Feb 2019|accessdate=14 Aug 2023}}</ref>、[[映画監督]](* [[1932年]])
* [[2020年]] - [[松本勝也]]<ref>{{Cite web|和書|title=【ボート】兵庫のトップレーサーがレース中の事故で死亡 松本勝也選手|publisher=[[デイリースポーツ]]|date=9 Feb 2020|url=https://www.daily.co.jp/horse/2020/02/09/0013102960.shtml|accessdate=14 Aug 2023}}</ref>、[[競艇]]選手(* [[1971年]])
* [[2021年]] - [[チック・コリア]]、ジャズピアニスト、[[ミュージシャン]](* [[1941年]])
* [[2022年]] - [[とりいかずよし]]、[[漫画家]](* [[1946年]])
* 2022年 - [[ベティ・デイヴィス (歌手)|ベティ・デイヴィス]]、シンガーソングライター、モデル(* [[1944年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[初午]]({{JPN}}2004年)
* 河豚([[フグ]])の日({{JPN}})
*: 下関ふく連盟が[[1980年]]に29(ふく)の語呂合わせで制定。[[下関市|下関]]では、河豚は「ふく」と発音する<ref name="saito1997">{{cite book|和書 |title=366日誕生石の本 |author=斉藤貴子 |publisher=日本ヴォーグ社 |year=1997 |page=78}}</ref><ref name="kato1998">{{cite book|和書 |title=366日の話題事典 |author=加藤迪男 |publisher=東京堂出版 |year=1998 |page=48}}</ref><ref name="kondo1999">{{cite book|和書 |title=今日はどんな日? 雑学366日 |author=近藤道郎 |publisher=展望社 |year=1999 |page=30}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書 |title=すぐに役立つ 366日記念日事典 |author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著 |publisher=創元社 |year=2009 |page=26}}</ref><ref name="kato2006">{{cite book|和書 |title=記念日・祝日の事典 |author=加藤迪男 |publisher=東京堂出版 |year=2006 |page=22}}</ref><ref name="kato2010-1">{{cite book|和書 |title=衣・食・住の記念日事典 |author=加藤迪男 |publisher=日本地域社会研究所 |year=2010 |page=84}}</ref>。
* 服の日({{JPN}})
*: 全国服飾学校協会・日本ファッション教育振興協会等が[[1988年]]に制定。29(ふく)の語呂合わせに由来<ref name="kato1998"/><ref name="kondo1999"/><ref name="kase2009"/><ref name="kato2006"/><ref name="kato2010-2">{{cite book|和書 |title=衣・食・住の記念日事典 |author=加藤迪男 |publisher=日本地域社会研究所 |year=2010 |page=13}}</ref>。
* [[肉]]の日({{JPN}})
*: 日本食肉協議会が制定。肉(29)の語呂合わせ。このほか、[[毎月29日]]も肉の日としている<ref name="kato2010-3">{{cite book|和書 |title=衣・食・住の記念日事典 |author=加藤迪男 |publisher=日本地域社会研究所 |year=2010 |page=57}}</ref>。
* [[漫画]]の日({{JPN}})
*: 漫画家・手塚治虫の命日にちなみ、漫画本専門古書店「[[まんだらけ]]」が制定。
* [[風]]の日({{JPN}})
*: 風が吹く(29)に由来。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0209|date=Aug 2023}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1966年]] - トーマス・ローガン、ゲーム『[[ザ・ハウス・オブ・ザ・デッドシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite journal |和書 |title = ザ ハウス オブ ザ デッド オフィシャルガイド|series=Sega official books|date=1988-03-01|publisher =[[ソフトバンククリエイティブ]] |editor=セガサターンマガジン編集部、アミューズメント書籍編集部|isbn=978-4797306200}}</ref>
* 生年不明 - 湯河原伊露羽、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/yugawara_iroha |title=神奈川 湯河原伊露羽 |work=『温泉むすめ』 |accessdate=14 Aug 2023|publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref>
* 生年不明 - 阿蘇ほむら、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/aso_homura |title=熊本 阿蘇ほむら |work=『温泉むすめ』 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref>
* 生年不明 - バーソロミュー・くま、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Bartholomew_Kuma.html |title=バーソロミュー・くま |work=『ONE PIECE』 |accessdate=14 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 月詠、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 不破優月、漫画・アニメ『[[暗殺教室]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 肉倉精児、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group09/09-03/ |title=肉倉精児 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 山岸一司、漫画・アニメ『[[東京卍リベンジャーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|toman_game|1623486840476139521}}</ref>
* 生年不明 - りん、漫画・アニメ『[[ながされて藍蘭島]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 奥田永之助、漫画・アニメ『[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 南浦数絵、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=南浦 数絵(なんぽ かずえ) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 石田景吾、漫画・アニメ『[[はじめてのギャル]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 棘田恵那、漫画・アニメ『[[理系が恋に落ちたので証明してみた。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|rikeigakoini|1226279610888990721}}</ref>
* 生年不明 - [[如月塔子]]、[[推理小説]]『[[警視庁捜査一課十一係シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=麻見和史 |authorlink=麻見和史 |date=2016-11-09 |title=雨色の仔羊 警視庁捜査一課十一係 |series=講談社ノベルス |page=142 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4062990851}}</ref>
* 生年不明 - 沖田紗羽、アニメ『[[TARI TARI]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 本庄・美智、アニメ『[[戦翼のシグルドリーヴァ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sigururi|1358792708890841094}}</ref>
* 生年不明 - ケヴィン・グリーン、アニメ『[[無限のリヴァイアス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ギラギラっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |editor=講談社|editor-link=講談社|date=2010-01-20|title =Tamagotchi iD らくらく育て方ガイド|publisher = [[講談社]] |isbn =978-4063648140|page=90}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author1=ウィズ|authorlink1=ウィズ (玩具)|author2=バンダイ(監修)|authorlink2=バンダイ|date=2011-11-01|title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|publisher = [[小学館]] |isbn =978-4097510482|page=36}}</ref>
* 生年不明 - 木枯し番長、ゲーム『[[ときめきメモリアル2]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[プリパラ (アニメ)#NonSugar(ノンシュガー)|太陽ペッパー]]、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pripuzpri|961822211936940032}}</ref>
* 生年不明 - エイブラハム・ヴァン・ヘルシング、ゲーム・アニメ『[[Code:Realize ~創世の姫君~]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|cr_anime|961751870984409090}}</ref>
* 生年不明 - ランダ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=163&cate=name&cont=Randa |title=ランダ |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 夏目漱石、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BunAl_PR|829344105868070912}}</ref>
* 生年不明 - 夏目漱石、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1491245473608388608}}</ref>
* 生年不明 - アデル、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumekuro.com/character/meister/yumetsumugi/adel/ |title=アデル |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[bilibili]] [[ジークレスト|GCREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
* 生年不明 - 成瀬雪見、メディアミックス『[[らぶドル ~Lovely Idol~]]』に登場するキャラクター
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|9 February}}
{{新暦365日|2|8|2|10|[[1月9日]]|[[3月9日]]|[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]|0209|2|09}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%889%E6%97%A5 |
1,788 | 2月13日 | 2月13日(にがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から44日目にあたり、年末まであと321日(閏年では322日)ある。 | [
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== できごと ==
* [[1219年]] ([[承久]]1年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[鎌倉幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]]の[[源実朝]]が[[鶴岡八幡宮]]で甥の[[公暁]]により暗殺。公暁も即日殺害される。
* [[1542年]] - [[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が、5番目の妃だった[[キャサリン・ハワード]]を不義密通の疑いで処刑。
* [[1575年]] - [[フランス王国|フランス]]王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]が[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]で戴冠。同日、[[ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン]]と結婚。
* [[1633年]] - [[異端審問]]のため出頭を命じられた[[ガリレオ・ガリレイ]]が[[ローマ]]に到着。
* [[1668年]] - [[スペイン]]が[[ポルトガル王国|ポルトガル]]を独立した国として[[国家の承認|承認]]。
* [[1689年]] - イングランドで[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]と[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]が共同統治者に即位。権利の宣言に署名し、[[名誉革命]]が終結。([[ユリウス暦]]の日付。グレゴリオ暦1689年2月23日)
* [[1692年]] - [[スコットランド王国|スコットランド]]で[[グレンコーの虐殺]]事件。首謀者は[[ジョン・ダルリンプル (初代ステア伯爵)|ジョン・ダルリンプル]]。
* [[1820年]]([[文政]]2年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[小林一茶]]が『[[おらが春]]』を著す。
* [[1854年]]([[嘉永]]7年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) - [[マシュー・ペリー|ペリー]]米[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]司令長官が7隻の軍艦を率いて2度目の来航。
* [[1862年]]([[文久]]2年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[坂下門外の変]]:皇女[[和宮親子内親王|和宮]]の将軍[[徳川家茂]]への降嫁を実現させ、[[公武合体]]を推進した[[安藤信正]]が、尊王攘夷派の水戸浪士6名に江戸城坂下門外で襲われ負傷した。襲撃した浪士は全員その場で斬殺された。
* [[1868年]]([[慶応]]4年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[尾張藩]]で[[青松葉事件]]が起こり、5日間で14名の藩士が処刑される。
* [[1875年]] - 「[[平民苗字必称義務令]]」布告。平民に[[姓|苗字]]を名乗ることを義務付け。
* [[1895年]] - [[リュミエール兄弟]]が[[シネマトグラフ]]の特許を取得<ref>{{Cite web |url=https://artsandculture.google.com/story/zgWBKU2_7WzRLA |title=The Lumière Cinématographe |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[google]] Arts & Culture}}</ref>。
* [[1912年]] - [[米国作曲家作詞家出版者協会]] (ASCAP) 設立。
* [[1927年]] - [[新潟県]]中頚城郡寺野村(現在の[[上越市]][[板倉区]])で、8m18cmの積雪。人里での積雪としては日本最大の記録<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/538526a91fb2b72473076500c3841f9bc760a896 |title=人里での積雪記録は8メートル18センチ、多分世界記録 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[Yahoo! JAPAN]] ニュース |date=12 Feb 2017}}</ref>。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]・[[独ソ戦]]: [[ブダペスト包囲戦]]が終結。[[赤軍]]が[[ブダペスト]]を占領。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[イギリス空軍]]・[[アメリカ空軍]]が[[無防備都市]]宣言していた[[ドレスデン]]を[[空襲]]、2万人以上が犠牲に([[ドレスデン爆撃]])。
* [[1946年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が改正憲法草案([[マッカーサー草案]])を日本政府に手交。
* [[1950年]] - [[レッドパージ]]: 東京都教育庁が共産主義の教員246人に退職を勧告。
* [[1951年]] - [[地方公務員法]]施行。
* [[1958年]] - 南極観測船「[[宗谷]]」の乗組員が[[未確認生物]]「[[南極ゴジラ]]」を観測。
* [[1960年]] - [[ジェルボアーズ・ブルー]]: [[フランス]]がアルジェリアのサハラ砂漠で初の核実験を実施<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2694425 |title=フランス初の核実験から50年、今なお続く被爆者の苦しみ |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=13 Feb 2010}}</ref>。世界4番目の核保有国となる。
* 1960年 - [[ナッシュビル座り込み]]はじまる。
* [[1972年]] - [[2月3日]]から開催されていた[[1972年札幌オリンピック|第11回冬季オリンピック・札幌大会]]が閉幕。
* [[1974年]] - [[ソビエト連邦]]が[[国家反逆罪]]で[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン|ソルジェニーツィン]]を国外追放に。
* [[1977年]] - [[青酸コーラ無差別殺人事件#第3の事件(大阪)|青酸入りコーラ事件]]発生。
* [[1980年]] - [[1980年レークプラシッドオリンピック|第13回冬季オリンピック・レークプラシッド大会]]開幕。[[2月24日]]まで。
* [[1983年]] - [[ソニーオープン・イン・ハワイ|ハワイアン・オープン]]で[[青木功]]が日本人初のアメリカ[[PGAツアー]]優勝を果たす。
* [[1984年]] - 9日に死亡した[[ソビエト連邦|ソ連]]書記長[[ユーリ・アンドロポフ]]の後任に[[コンスタンティン・チェルネンコ|チェルネンコ]]政治局員が就任。
* [[1985年]] - 東京と愛知で青酸入りの菓子を発見。一連の[[グリコ・森永事件]]で実際に毒物入りの菓子がばらまかれた最後の事件。
* 1985年 - 大幅改正された[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風営法]]が施行される。対象業種が拡大し、営業時間が午前0時までに制限されるなど。
* [[1988年]] - [[1988年カルガリーオリンピック|第15回冬季オリンピック・カルガリー大会]]開幕。[[2月28日]]まで。
* [[1989年]] - [[リクルート事件]]: 東京地検[[特別捜査部|特捜部]]が[[リクルートホールディングス|リクルート]]前会長[[江副浩正]]ら4人を逮捕。
* 1989年 - [[大阪市]]の北区と大淀区が合区して現在の[[北区 (大阪市)|北区]]、東区と南区が合区して[[中央区 (大阪市)|中央区]]が誕生。
* [[1995年]] - [[アンドリュー・ワイルズ]]の[[フェルマーの最終定理]]の証明に誤りがないことが確認され、360年に渡る歴史に決着がつく。
* [[2000年]] - [[グリコ・森永事件]]の全ての事件が時効を迎える。
* 2000年 - 前日の作者・[[チャールズ・M・シュルツ]]の死去により、『[[ピーナッツ (漫画)|ピーナッツ]]』(日曜版)の連載が終了。
* [[2008年]] - [[オーストラリア]]の[[ケビン・ラッド]]首相が、[[アボリジニ]]と[[盗まれた世代]]に対して政府として初めて公式に謝罪<ref>{{Cite web|和書|date=13 Feb 2008 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2350297 |title=「ものすごい力が湧き出た」、200年を経てアボリジニに公式謝罪・豪政府 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |accessdate=16 Aug 2023}}</ref>。
* [[2016年]] - [[新東名高速道路]][[浜松いなさジャンクション|浜松いなさJCT]] - [[豊田東ジャンクション|豊田東JCT]]間開通<ref>{{Cite web|和書|date=13 Feb 2016 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFB13H03_T10C16A2AM1000/ |title=東京―名古屋 より近く 新東名の豊田―浜松が開通 |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=16 Aug 2023}}</ref>。
* [[2017年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)]]の最高指導者・[[金正恩]]の異母兄である[[金正男]]が[[マレーシア]]の[[クアラルンプール国際空港]]で[[金正男暗殺事件|暗殺]]される<ref>{{Cite web|和書|date=15 Feb 2017 |url=http://www.bbc.com/japanese/38977503 |title=北朝鮮の金正男氏、マレーシアで殺害 正恩委員長の異母兄 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |accessdate=16 Aug 2023}}</ref>。
* [[2018年]] - [[棋士 (将棋)|将棋棋士]]の[[羽生善治]]と[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]の[[井山裕太]]に[[国民栄誉賞]]授与<ref>{{Cite web|和書|date=13 Feb 2018 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26845670T10C18A2CR8000/ |title=天才2棋士、破顔 羽生・井山両氏に国民栄誉賞授与 |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=16 Aug 2023}}</ref>。
* [[2020年]] -[[習近平]][[中国共産党中央委員会総書記|党総書記]]指導部は新型コロナウイルスの感染拡大が最も深刻な[[湖北省]]と[[武漢市]]のそれぞれのトップを交代させた。交代させられたのは湖北省のトップ、[[蔣超良]]書記と武漢市のトップ、[[馬国強]]書記の2人。蔣超良同省党委員会書記の後任に[[応勇]]上海市長、武漢市トップの市党委員会書記には[[山東省]][[済南市]]トップの[[王忠林]]市党委員会書記を充てた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55560030T10C20A2MM0000/ 新型肺炎、湖北省のトップ更迭 後任に上海市長] 日本経済新聞 (2020年2月13日)</ref><ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200213/k10012283731000.html 中国 湖北省と武漢市のトップを交代 事実上の更迭か] NHKニュース (2020年2月13日)</ref>。{{seealso|中国本土における2019年コロナウイルス感染症の流行状況}}
* [[2021年]] - [[福島県沖地震 (2021年)|福島県沖地震]]: 福島県沖を震源とする深さ約60km、マグニチュード7.3の地震が発生し、96万2千戸が停電<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASP2G4GN1P2GUTIL01C.html |title=停電、14日午前にすべて解消 最大96万2千戸 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=14 Feb 2021}}</ref>。2011年に発生した[[東北地方太平洋沖地震の前震・本震・余震の記録|東日本大震災の余震]]とみられている<ref>{{Cite web|和書|date=14 Feb 2021 |url=https://weathernews.jp/s/topics/202102/130195/ |title=福島県沖 震度6強の地震で気象庁会見 東日本大震災の余震 |publisher=[[ウェザーニューズ|ウェザーニュース]] |accessdate=16 Aug 2023}}</ref>。
* [[2021年]] - [[イタリアの首相|イタリア閣僚評議会議長]]に[[マリオ・ドラギ]]が就任。
== 誕生日 ==
* [[紀元前711年|前711年]] - [[神武天皇]]、[[日本]]の[[天皇の一覧#一覧表|初代]][[天皇]](+ [[紀元前585年|前585年]])
* [[1258年]] - [[オスマン1世]]、[[オスマン帝国]]初代皇帝(+ [[1326年]])
* [[1457年]] - [[マリー・ド・ブルゴーニュ]]、[[ヴァロワ朝]][[ブルゴーニュ公国]]最後の君主(+ [[1482年]])
* [[1599年]] - [[アレクサンデル7世 (ローマ教皇)|アレクサンデル7世]]、第237代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1667年]])
* [[1641年]]([[寛永]]18年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[松平頼純]]、初代[[伊予国]][[西条藩|西条藩主]](+ [[1711年]])
* [[1723年]] - [[アントワーヌ・ルイ]]、[[外科医]](+ [[1792年]])
* [[1724年]]([[享保]]9年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[中川久貞]]、第8代[[豊後国]][[岡藩|岡藩主]](+ [[1790年]])
* [[1728年]] - [[ジョン・ハンター (外科医)|ジョン・ハンター]]、[[医学|医学者]](+ [[1793年]])
* [[1750年]]([[寛延]]3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[蔦屋重三郎]]、出版人(+ [[1797年]])
* [[1754年]] - [[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン=ペリゴール]]、[[フランスの首相]]、[[外交官]](+ [[1838年]])
* [[1756年]]([[宝暦]]6年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) - [[酒井忠言]]、第5代[[越前国]][[敦賀藩|敦賀藩主]](+ [[1799年]])
* [[1769年]] - [[イヴァン・クルィロフ]]、[[劇作家]]、[[文学者]](+ [[1844年]])
* [[1778年]] - [[フェルナンド・ソル]]、[[作曲家]]、[[ギタリスト|ギター奏者]](+ [[1839年]])
* [[1787年]]([[天明]]6年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[朽木綱方]]、第10代[[丹波国]][[福知山藩|福知山藩主]](+ [[1838年]])
* [[1791年]]([[寛政]]3年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[一柳頼親]]、第7代[[伊予国]][[小松藩|小松藩主]](+ [[1832年]])
* [[1799年]](寛政11年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[土方雄興]]、第10代[[伊勢国]][[菰野藩|菰野藩主]](+ [[1838年]])
* [[1805年]] - [[ペーター・グスタフ・ディリクレ]]、[[数学者]](+ [[1859年]])
* [[1813年]]([[文化 (元号)|文化]]10年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[松平勝道]]、第9代[[伊予国]][[今治藩|今治藩主]](+ [[1866年]])
* [[1849年]] - [[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]]、[[財務大臣 (イギリス)|イギリス大蔵大臣]](+ [[1895年]])
* [[1864年]] - [[フーゴ・ベッカー]]、[[チェリスト]]、音楽教師、[[作曲家]](+ [[1941年]])
* [[1870年]] - [[レオポルド・ゴドフスキー]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1938年]])
* [[1873年]] - [[フョードル・シャリアピン]]、[[オペラ歌手]](+ [[1938年]])
* [[1881年]] - [[エリナー・ファージョン]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1965年]])
* [[1882年]] - [[イグナーツ・フリードマン]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1948年]])
* [[1883年]] - [[ハル・チェイス]]、元プロ野球選手(+ [[1947年]])
* [[1887年]] - [[チャート・ゲーザ]]、[[作家]]、[[音楽家]]、[[医師]](+ [[1919年]])
* [[1888年]] - [[ゲオルギオス・パパンドレウ]]、[[ギリシャの首相|ギリシャ首相]](+ [[1968年]])
* [[1890年]] - [[豊田豊吉]]、政治家(+[[1943年]])
* [[1891年]] - [[河合栄治郎]]、社会思想家、経済学者(+ [[1944年]])
* [[1898年]] - [[安岡正篤]]、[[陽明学|陽明学者]](+ [[1983年]])
* [[1899年]] - [[宮本百合子]]、[[作家]](+ [[1951年]])
* [[1900年]] - [[神戸光]]、俳優、映画プロデューサー、新聞記者(+[[1992年]])
* 1900年 - [[徳安実蔵]]、政治家(+[[1988年]])
* [[1902年]] - [[平川唯一]]、[[アナウンサー]](+ [[1993年]])
* 1902年 - [[ハロルド・ラスウェル]]、[[政治学者]](+ [[1978年]])
* [[1903年]] - [[ジョルジュ・シムノン]]、[[推理作家]](+ [[1989年]])
* 1903年 - [[ゲオールギイ・ベリーエフ]]、[[航空エンジニア]](+ [[1979年]])
* [[1904年]] - [[唐木順三]]、文芸評論家、哲学者、思想家(+[[1980年]])
* [[1910年]] - [[ウィリアム・ショックレー]]、[[物理学者]](+ [[1989年]])
* [[1912年]] - [[マックス・シュトッツ]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1943年]])
* [[1914年]] - [[倉金章介]]、[[漫画家]](+ [[1973年]])
* [[1915年]] - [[アウン・サン]]、[[ミャンマー]]の独立運動家(+ [[1947年]])
* 1915年 - [[新富卯三郎]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1945年]])
* [[1917年]] - [[吉阪隆正]]、[[建築家]](+ [[1980年]])
* [[1918年]] - [[今岡謙次郎]]、元プロ野球選手
* [[1921年]] - [[ジャンヌ・ドゥメッシュー]](ドゥメシュ)、[[オルガニスト]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1968年]])
* [[1923年]] - [[イフラ・ニーマン]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2003年]])
* 1923年 - [[チャック・イェーガー]]、[[空軍]][[パイロット (航空)|パイロット]] (+ [[2020年]])
* [[1925年]] - [[坂東徹]]、[[政治家]](+ [[2010年]])
* [[1928年]] - [[与儀眞助]]、元プロ野球選手(+ [[1979年]])
* [[1929年]] - [[フランキー堺]]、[[俳優]](+ [[1996年]])
* [[1931年]] - [[藤江清志]]、元プロ野球選手
* [[1933年]] - [[辻静雄]]、[[料理研究家]](+ [[1993年]])
* 1933年 - [[エマニュエル・ウンガロ]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/people-ungaro-idJPKBN1YR09S |title=仏デザイナーのエマニュエル・ウンガロ氏が死去 86歳 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=23 Dec 2019}}</ref>)
* 1933年 - [[キム・ノヴァク]]、[[俳優|女優]]
* [[1937年]] - [[小林千登勢]]、女優(+ [[2003年]])
* 1937年 - [[二宮寛]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* [[1938年]] - [[オリヴァー・リード]]、俳優(+ [[1999年]])
* 1938年 - [[種茂雅之]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[ジグマー・ポルケ]]、[[画家]](+ [[2010年]])
* 1941年 - [[ボー・スヴェンソン]]、俳優
* [[1942年]] - [[グレート草津]]、[[プロレスラー]](+ [[2008年]])
* 1942年 - [[渡辺捷昭]]、実業家
* [[1943年]] - [[森本レオ]]、俳優
* 1943年 - [[中澤清]]、宇宙物理学者
* [[1944年]] - [[猪飼隆明]]、歴史学者、大阪大学名誉教授
* 1944年 - [[竹内次也]]、実業家
* 1944年 - [[井手峻]]、元プロ野球選手
* 1944年 - [[ストッカード・チャニング]]、女優
* [[1946年]] - [[児玉好弘]]、元プロ野球選手
* [[1947年]] - [[岩井克人]]、経済学者
* 1947年 - [[タチアナ・タラソワ]]、[[フィギュアスケート]]選手、指導者
* [[1948年]] - [[服部敏和]]、元プロ野球選手
* [[1949年]] - [[南こうせつ]]、[[シンガーソングライター]]
* 1949年 - [[川田悦子]]、政治家
* 1949年 - [[佐藤B作]]、[[コメディアン]]、[[タレント]]
* [[1950年]] - [[竹宮惠子]]、[[漫画家]]
* 1950年 - [[島田洋八]]、タレント(元[[B&B (お笑いコンビ)|B&B]])
* 1950年 - [[ピーター・ガブリエル]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* 1950年 - [[エヴァ・オーリン]]、女優
* [[1952年]] - [[松本芳之]]、元プロ野球選手
* 1952年 - [[伊藤早苗]]、物理学者(+ [[2019年]])
* [[1953年]] - [[栗本薫]]、[[SF作家]]、評論家(+ [[2009年]])
* [[1955年]] - [[矢野顕子]]、ミュージシャン
* 1955年 - [[小野秀昭]]、経済学者
* [[1956年]] - [[太刀掛秀子]]、漫画家
* 1956年 - [[高見裕一]]、政治家
* 1956年 - [[ピーター・フック]]、ミュージシャン([[ジョイ・ディヴィジョン]]、[[ニュー・オーダー]])
* 1957年 - [[山本博文]]<ref>『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.351</ref>、歴史学者(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN3Y62WXN3YUCLV001.html |title=東大史料編纂所教授の山本博文さん死去 テレビでも活躍 |access-date=16 Aug 2023 |date=29 Mar 2020 |website=[[朝日新聞デジタル]]}}</ref>)
* [[1958年]] - [[三反園訓]]、ジャーナリスト、政治家
* 1958年 - [[道原かつみ]]、漫画家
* [[1959年]] - [[わかぎえふ]]、[[演出家]]
* 1959年 - [[浅野祥之]]、ギター奏者(+[[2007年]])
* [[1960年]] - [[加藤純平]]、俳優
* 1960年 - [[山本百合子]]、[[声優]]
* 1960年 - [[ピエルルイジ・コッリーナ]]、[[審判員 (サッカー)|サッカー審判]]、投資アドバイザー
* [[1961年]] - [[田岡実千年]]、政治家
* 1961年 - [[三原徹司]]、声優、ナレーター、気象予報士
* 1961年 - [[青島利幸]]、[[放送作家]]、[[脚本家]]、[[作詞家]](+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20171109-HS73F52OFBP57EWU2V3TD3KZI4/ |title=青島幸男さんの長男、利幸氏が肺がんのため死去 テレビ番組の構成作家 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=9 Nov 2017}}</ref>)
* [[1963年]] - [[仲道郁代]]、[[ピアニスト]]
* 1963年 - [[深水黎一郎]]、小説家
* 1963年 - [[有森浩三]]、将棋棋士
* [[1964年]] - [[出川哲朗]]、タレント
* 1964年 - [[宮本和知]]、元プロ野球選手、タレント
* 1964年 - [[山塚アイ]]、ミュージシャン([[ボアダムス|BOREDOMS]])
* 1964年 - [[武野一起]]、[[テレビプロデューサー]]
* 1964年 - [[黒氏康博]]、アナウンサー
* [[1965年]] - [[ヒロミ]]、タレント
* 1965年 - [[南原清隆]]、お笑いタレント([[ウッチャンナンチャン]])
* 1965年 - [[優希比呂]]<ref>{{Cite book|和書|title=日本音声製作者名鑑2007|page=115|[[小学館]]|year=2007|ISBN=978-4-09-526302-1}}</ref>、声優
* [[1967年]] - [[生田智子]]、女優
* 1967年 - [[岡田忠之]]、[[オートバイ]]レーサー
* 1967年 - [[ランディ・マッスル]]、タレント
* [[1968年]] - [[秋山美紀]]、[[社会学者]]、元アナウンサー
* 1968年 - [[後藤俊哉]]、元アナウンサー
* 1968年 - [[岡田達也]]、俳優
* 1968年 - [[ケリー・ヒュー|ケリー・フー]]、女優
* [[1969年]] - [[上野聡一]]、編集技師
* 1969年 - [[古賀謙一]]、テレビディレクター、演出家
* 1969年 - [[オーランド・ミラー]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[湯沢薫]]、[[美術家]]、[[ファッションモデル]]
* 1971年 - [[今井トゥーンズ]]、[[イラストレーター]]
* [[1973年]] - [[松野有里巳]]、女優、[[歌手]]
* [[1974年]] - [[村越祐民]]、政治家
* 1974年 - [[ハリウッドザコシショウ]]、お笑い芸人
* 1974年 - [[ロビー・ウィリアムズ]]、ポップシンガー
* [[1975年]] - [[片岡千珠]]、声優、ナレーター
* [[1976年]] - [[大村直之]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[真木将樹]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[西岡孝洋]]、アナウンサー
* 1976年 - [[仲西環]]、声優、女優(+ [[2020年]])
* [[1977年]] - [[ランディ・モス]]、アメリカンフットボール選手
* [[1978年]] - [[フィリップ・ジャルスキー]]、[[カウンターテナー]]歌手
* [[1979年]] - [[近藤陽子]]、アイスホッケー選手
* 1979年 - [[ミーナ・スヴァーリ]]、女優
* 1979年 - [[ラファエル・マルケス (サッカー選手)|ラファエル・マルケス]]、元サッカー選手
* [[1980年]] - [[広橋佳以]]、女優、タレント
* 1980年 - [[三上卓哉]]、サッカー指導者、元サッカー選手
* 1980年 - [[セバスティアン・ケール]]、元サッカー選手
* 1980年 - [[ノマアキコ]]、ミュージシャン([[GO!GO!7188]])
* [[1981年]] - [[藤ヶ谷陽介]]、元サッカー選手
* 1981年 - [[鍋井まき子]]、声優
* [[1982年]] - [[阿部力]]、俳優
* 1982年 - [[奥田美和子]]、歌手
* 1982年 - [[野間れい]]、[[グラビアアイドル]]、女優
* [[1983年]] - [[飛永翼]]、お笑いタレント([[ラバーガール]])
* 1983年 - [[栗山絵美]]、女優、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1983年 - [[佐藤友和]]、競輪選手
* [[1984年]] - [[池端忍]]、モデル
* 1984年 - [[美名]]、声優
* 1984年 - [[芦沢央]]、作家
* [[1985年]] - [[小野愛]]、元グラビアアイドル
* 1985年 - [[佐野真彩]]、タレント
* 1985年 - [[ローガン・オンドルーセック]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[輝海]]、俳優、モデル
* 1986年 - [[小橋達也]]、声優
* [[1987年]] - [[エルイェロ・エリア]]、サッカー選手
* [[1988年]] - [[ライアン・ゴインズ]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[森なな子]]、声優、女優
* 1988年 - [[花村枝里]]、アナウンサー
* 1988年 - [[井口卓人]]、レーシングドライバー
* [[1989年]] - [[加島ちかえ]]、女優、タレント
* [[1990年]] - [[加藤諒]]、俳優、タレント
* 1990年 - [[ネイサン・イオバルディ]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[ママドゥ・サコー]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ケヴィン・ストロートマン]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ギェンツェン・ノルブ (僧)|ギェンツェン・ノルブ]]、[[僧侶]]
* [[1991年]] - [[伊勢みはと]]、タレント、グラビアアイドル
* [[1993年]] - [[有村架純]]、女優
* [[1994年]] - [[メンフィス・デパイ]]、サッカー選手
* [[1995年]] - [[彩夢]]、元女優
* [[1996年]] - [[中川愛理沙]]、ファッションモデル
* 1996年 - [[石橋桃]]、声優
* [[1997年]] - [[依田菜津]]、声優
* 1997年 - [[田北香世子]]、アイドル([[AKB48]])
* 1997年 - [[石田皓大]]、元サッカー選手
* [[1998年]] - [[忽滑谷こころ]]、[[日本テレビ]]アナウンサー
* [[1999年]] - [[葉月ひとみ]]、女優、モデル
* [[2000年]] - [[春咲暖]]、声優、元アイドル(元[[A応P]])
* 2000年 - [[戎嶋美有]]、野球選手
* [[2001年]] - [[岸みゆ]]、アイドル([[#ババババンビ]])
* 2001年 - [[土橋郁矢]]、ラグビー選手
* [[2002年]] - [[播磨かな]]、タレント、アイドル([[浪江女子発組合]]、元[[Awww!]]、元[[はちみつロケット]])
* 2002年 - 夢実あすか、アイドル([[MyDearDarlin']])
* 2002年 - [[ソフィア・リリス]]、女優
* [[2004年]] - [[溝口修平]]、プロサッカー選手
* [[2009年]] - [[外川燎]]、子役
* [[2010年]] - [[石崎珠里]]、アイドル([[RepiDoll]])
* 2010年 - [[斎藤汰鷹]]、俳優
* 生年不明 - [[鳴海じゅん]]、歌手、女優
* 生年不明 - [[華木ミヤ]]、女優
* 生年不明 - [[川田まみ]]、作詞家、元歌手
* 生年不明 - [[佳川紘子]]、声優
* 生年不明 - [[神谷けいこ]]、声優
* 生年不明 - [[名村幸太朗]]、声優
* 生年不明 - [[深田紗記子]]、声優、コスプレーヤー
* 生年不明 - [[森島亜梨紗]]、声優
* 生年不明 - [[旭凛太郎]]、漫画家
== 忌日 ==
* [[858年]] - [[ケネス1世 (スコットランド王)|ケネス1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド王]](* [[810年]])
* [[869年]]([[貞観 (日本)|貞観]]10年閏[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[源信 (公卿)|源信]]、[[公卿]]、初代[[源氏長者]](* [[810年]])
* [[1130年]] - [[ホノリウス2世 (ローマ教皇)|ホノリウス2世]] 、第163代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1060年]])
* [[1162年]]([[応保]]2年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[重仁親王]]、[[崇徳天皇]]の第一皇子(* [[1140年]])
* [[1219年]]([[建保]]7年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[源実朝]]、[[鎌倉幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1192年]])
* 1219年(建保7年1月27日) - [[公暁]]、源実朝の[[続柄|甥]]、[[鶴岡八幡宮]][[別当]](* [[1200年]])
* 1219年(建保7年1月27日) - [[源仲章]]、実朝の側近
* [[1332年]] - [[アンドロニコス2世パレオロゴス]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]](* [[1260年]])
* [[1539年]] - [[イザベラ・デステ]]、[[マントヴァ]]侯夫人(* [[1474年]])
* [[1542年]] - [[キャサリン・ハワード]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の5番目の妃(* [[1521年]]?)
* [[1571年]] - [[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]、[[美術家]](* [[1500年]])
* [[1583年]]([[天正]]11年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]<ref>{{Kotobank|足利義氏|朝日日本歴史人物事典|}}</ref>、第5代[[古河公方]](* [[1541年]])
* [[1660年]] - [[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]]、[[スウェーデン|スウェーデン王]](* [[1622年]])
* [[1662年]] - [[エリザベス・ステュアート]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]の妃(* [[1596年]])
* [[1787年]] - [[ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ]]、[[科学者]]、[[イエズス会]][[神父]](* [[1711年]])
* [[1818年]] - [[ジョージ・ロジャース・クラーク]]、[[アメリカ独立戦争]]期の米軍指揮官(* [[1752年]])
* [[1858年]] - [[ヘルマン・ハインリヒ・ゴッセン]]、[[経済学者]](* [[1810年]])
* [[1874年]] - [[ヨハン・ブルグミュラー]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](* [[1806年]])
* [[1883年]] - [[リヒャルト・ワーグナー]]、作曲家(* [[1813年]])
* [[1891年]] - [[アレクサンダー・ヒュー・ホームズ・スチュアート]]、第3代[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1807年]])
* [[1903年]] - [[高橋泥舟]]、[[幕臣]]、[[剣術|剣客]](* [[1835年]])
* [[1914年]] - [[ダニエル・スワロフスキー]]、[[ガラス]]製造業者、[[スワロフスキー]]創業者(* [[1862年]])
* [[1916年]] - [[ヴィルヘルム・ハンマースホイ]]、[[画家]](* [[1864年]])
* [[1924年]] - [[杉浦重剛]]、[[教育者]]、[[思想家]](* [[1855年]])
* 1924年 - [[吉本吉兵衛]]、[[吉本興業ホールディングス|吉本興業]]創業者(* [[1886年]])
* [[1926年]] - [[フランシス・イシドロ・エッジワース]]、[[経済学者]](* [[1845年]])
* [[1931年]] - [[小出楢重]]、[[洋画家]](* [[1887年]])
* [[1937年]] - [[山中直治]]、[[作曲家]](* [[1906年]])
* [[1945年]] - [[ドロテア・ケーリング]]、[[テニス選手]](* [[1880年]])
* [[1950年]] - [[ラファエル・サバチニ]]、[[小説家]](* [[1875年]])
* [[1952年]] - [[アルフレート・アインシュタイン]]<ref>{{Cite web |title=Alfred Einstein {{!}} German-American musicologist and critic |url=https://www.britannica.com/biography/Alfred-Einstein |website=Britannica |access-date=16 Aug 2023}}</ref>、音楽学者(* [[1880年]])
* 1952年 - [[ジョセフィン・テイ]]、[[推理作家]](* [[1896年]])
* [[1956年]] - [[ヤン・ウカシェヴィチ]]、[[論理学者]]、[[哲学|哲学者]](* [[1878年]])
* [[1958年]] - [[ジョルジュ・ルオー]]、画家(* [[1871年]])
* [[1959年]] - [[平沼亮三]]、[[実業家]]、[[政治家]]、[[スポーツ選手]]・指導者(* [[1879年]])
* [[1961年]] - [[村松梢風]]、[[小説家]]、[[随筆家]](* [[1889年]])
* [[1965年]] - [[ウィリアム・ヒアド・キルパトリック]]、[[教育学者]](* [[1871年]])
* [[1966年]] - [[マルグリット・ロン]]、[[ピアニスト]](* [[1874年]])
* [[1967年]] - [[鮎川義介]]、実業家(* [[1880年]])
* [[1972年]] - [[柏原兵三]]、小説家(* [[1933年]])
* [[1980年]] - [[本郷新]]、[[彫刻家]](* [[1905年]])
* [[1982年]] - [[江利チエミ]]、[[歌手]](* [[1937年]])
* [[1984年]] - [[植村直己]]、冒険家(* [[1941年]])(この日の交信を最後に消息を絶つ)
* [[1993年]] - [[青山杉雨]]、[[書家]](* [[1912年]])
* [[1996年]] - [[マーティン・バルサム]]、[[俳優]](* [[1919年]])
* [[1997年]] - [[ボビー・アダムズ]]、野球選手(* [[1921年]])
* [[2003年]] - [[ウォルト・ロストウ]]、経済学者(* [[1916年]])
* [[2004年]] - [[ゼリムハン・ヤンダルビエフ]]、[[チェチェン共和国|チェチェン]]独立派指導者(* [[1952年]])
* [[2005年]] - [[ルシア・ドス・サントス]]、カルメル会修道女、[[ファティマの聖母]]の目撃者(* [[1907年]])
* 2005年 - [[シクステン・エールリンク]]、[[指揮者]](* [[1918年]])
* [[2007年]] - [[エリアナ・ラモス]]、[[ファッションモデル]](* [[1988年]])
* [[2008年]] - [[市川崑]]、[[映画監督]](* [[1915年]])
* 2008年 - [[アンリ・サルヴァドール]]、[[シャンソン]]歌手(* [[1917年]])
* 2008年 - [[ミケーレ・グレコ]]、[[マフィア]]構成員(* [[1924年]])
* [[2012年]] - [[久島海啓太]]、元大相撲力士、年寄14代[[田子ノ浦 (相撲)|田子ノ浦]](* [[1965年]])
* 2012年 - [[三崎千恵子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1401Z_U2A210C1000000/ |title=(おくやみ)三崎千恵子さんが死去 「男はつらいよ」おばちゃん役 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=14 Feb 2012}}</ref>、女優 (* 1921年)
* [[2013年]] - [[東條由布子]]、[[作家]](* [[1939年]])
* [[2017年]] - [[鈴木清順]]<ref>{{Cite web|和書|title=訃報:鈴木清順さん93歳=映画監督「けんかえれじい」 |url=https://mainichi.jp/articles/20170222/k00/00e/040/281000c |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=22 Feb 2017}}</ref>、[[映画監督]](* [[1923年]])
* 2017年 - [[金正男]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の第二代最高指導者の[[金正日]]の[[長男]](* [[1971年]])
* [[2019年]] - [[張立 (卓球選手)|張立]]、卓球選手(* [[1951年]])
* [[2023年]] - [[松本零士]]、漫画家(* [[1938年]])
== 記念日・年中行事 ==
* 苗字制定記念日/名字の日({{JPN}})
*: [[1875年]]2月13日に、明治政府が[[平民苗字必称義務令]]という太政官布告を出し、すべての国民に[[姓]]を名乗ることを義務づけたことに由来<ref name="saito1997">{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=82}}</ref><ref name="kato1998">{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=52}}</ref><ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=32}}</ref><ref name="kato2006">{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=23}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=29}}</ref>。なお、「苗字必称義務令」公布に先立つ[[1870年]][[9月19日]]、平民苗字許可令(太政官布告第608号)が公布されており、9月19日が「苗字の日」とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.archives.go.jp/naj_news/11/anohi.html |title=あの日の公文書 9月19日 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>。
* NISAの日({{JPN}})
*: 2014年より[[少額投資非課税制度]](NISA)が始まることを記念し[[確定拠出年金教育協会]]が制定。2と13で「ニーサ」と読む語呂合わせから<ref>{{Cite web|和書|url=https://home.dcnenkin.jp/info-about/detail/post-5281/ |title=NISA標語コンテスト |publisher=確定拠出年金教育協会 |accessdate=16 Aug 2023 |date=17 Feb 2016}}</ref>。
* [[日本遺産]]の日({{JPN}})
*: [[文化庁]]と自治体の連盟である日本遺産連盟による制定。観光振興のため、GWや夏休みの旅行先選びに宣伝効果の高い2月のうちで「にほん(2)いさん(13)」と読む語呂合わせから選ばれた<ref>{{Cite web|和書|title=「日本遺産の日」等について |url=https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/news/article1212.html |accessdate=16 Aug 2023 |publisher=[[文化庁]] Agency for Cultural Affairs. |date=13 Dec 2019}}</ref>。
* 土佐文旦の日({{JPN}})
*: 高知県の特産果樹である[[土佐文旦]]を、より広くPRすることを目的に土佐文旦振興対策協議会が2015年に制定。日付は、土佐文旦が旬を迎え出荷量が増える2月、そして13を「土佐」と読む語呂合わせから<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sunsuntv.co.jp/news/2023/02/2733966 |title=2月13日は「土佐文旦の日」 今年もおかわりしたくなる味 【高知】 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[高知さんさんテレビ]] |date=10 Feb 2023}}</ref>。
* 塩澤寺厄除地蔵尊祭り({{JPN}})
*: [[山梨県]][[甲府市]]の[[塩澤寺]](えんたくじ)で、毎年2月13日から14日にかけて「厄除け地蔵尊まつり」が行なわれる。塩澤寺のお地蔵さんが1年に一度、24時間だけ耳を傾け、善男善女の願いを聞きいれ厄難を逃れることができるという祭礼<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kofu.yamanashi.jp/kanko/event/entakuji-matsuri.html |title=塩澤寺厄除地蔵尊大祭 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[甲府市]] |date=13 Feb 2023}}</ref>。
* 豊後高田市恋叶ロードの日({{JPN}})
*: [[豊後高田市]]が、海岸線を走る「[[国道213号]]」にちなんで、2月13日を恋が叶う「豊後高田市恋叶ロードの日」と命名。恋人同士はもちろん、多くの人に訪れてもらうことが目的<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.bungotakada.oita.jp/site/showanomachi/2056.html#:~:text=%E6%81%8B%E5%8F%B6%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5%E3%80%8C2%E6%9C%8813%E6%97%A5%E3%80%8D |title=恋叶ロードの記念日「2月13日」 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[豊後高田市]] |website=昭和の町・豊後高田市公式観光サイト}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0213|date=Aug 2023}}
* [[1982年]] - [[黒色矮星]]「ゴラス」が、通常軌道から移動した地球に最接近。(映画『[[妖星ゴラス]]』)
* [[2000年]] - 千年先の未来から逃亡してきた[[未来戦隊タイムレンジャー#ロンダーズファミリー|ドン・ドルネロファミリー]]がロンダーズファミリーとして行動開始。彼らを追ってきた時間保護局の新人隊員たち4人に20世紀人の浅見竜也を加えた5人で、[[未来戦隊タイムレンジャー#タイムレンジャー|タイムレンジャー]]が結成される。(特撮『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』)
* [[2004年]] - 日本の領空に超音速飛行体([[モスラ (ミレニアムシリーズ)#『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』|モスラ]])が侵入。緊急発進した[[F-15 (戦闘機)|F-15]]のミサイル攻撃をかわし、[[小笠原諸島]]上空でレーダーから消える。(映画『[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]』)
* [[3000年]] - 大物マフィア、ドン・ドルネロファミリーが千年前の過去へと逃亡。時間保護局の新人隊員たちが後を追う。(『未来戦隊タイムレンジャー』)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - 地球連邦軍、「[[V作戦]]」立案。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1981年]] - ルーナ・ラブグッド(Luna Lovegood)、『[[ハリー・ポッターシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://warnerbros.co.jp/franchise/wizardingworld/special/characters/luna-lovegood.html |title=ルーナ・ラブグッド |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[ワーナー ブラザース ジャパン|Warner Bros. Japan LLC]]}}</ref>
* 生年不明 - [[地獄先生ぬ〜べ〜の登場人物#童守小学校 5年3組|菊池静]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |editor=週刊少年ジャンプ特別|editor-link=週刊少年ジャンプ|date=1997-03-01|title = 地獄先生ぬ~べ~大百科(Jump comics deluxe) |page = 45 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス デラックス]] |isbn =978-4088588834}}</ref>
* 生年不明 - ネフェルタリ・コブラ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Nefeltari_Cobra.html |title=ネフェルタリ・コブラ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=16 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ノア・J・ドルギアス、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1227609577518247943}}</ref>
* 生年不明 - 森山由孝、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|1492520334872178692}}</ref>
* 生年不明 - 金山彦、漫画・アニメ『[[貧乏神が!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 大門忍、漫画・アニメ『貧乏神が!』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 天狐星ベヒーモスのバイオレート、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1492697959150112779}}</ref>
* 生年不明 - 水城冴子、漫画・アニメ『[[ガラスの仮面]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 桃乃恵、漫画・アニメ『[[まほらば]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ノエル、漫画・アニメ『[[ぴちぴちピッチ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 多賀敦史、漫画・アニメ『[[初恋モンスター]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 松山空音、漫画・アニメ『[[推しが武道館いってくれたら死ぬ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_oshibudo|1492619527196131332}}</ref>
* 生年不明 - 大村白菊、漫画・アニメ『[[球詠]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - マライ・ハイゼンベルク、小説・アニメ『[[シュヴァルツェスマーケン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 加藤葉月、小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tv2nd.anime-eupho.com/sp/character/hazuki/ |title=加藤 葉月 |publisher=[[武田綾乃]]・[[宝島社]]/『響け!』製作委員会 [[京都アニメーション]] |work=『響け! ユーフォニアム2』 |accessdate=16 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - 於鬼頭曜、小説・漫画・アニメ『[[りゅうおうのおしごと!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=[[りゅうおうのおしごと!]] |volume=6 |author=白鳥士郎 |authorlink=白鳥士郎 |date=2017-07-14 |publisher=[[SBクリエイティブ]] |page=143 |isbn=978-4-7973-9189-3}}</ref>
* 生年不明 - 日向マコト、アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 蓮花蓮、アニメ・漫画『[[宇宙のステルヴィア]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 辰己琉唯、アニメ・漫画『[[スタミュ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hstar-mu.com/character/tatsumi.html |title=辰己琉唯 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=ひなた凛/スタミュ製作委員会 |work=『スタミュ 高校星歌劇』}}</ref>
* 生年不明 - 辻堂みどり、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 東北きりたん、キャラクターコンテンツ『[[東北ずん子]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|nico_nico_info|1624786151654707201}}</ref>
* 生年不明 - シェルミー、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|KOF_ALLSTAR|1095336732986302464}}</ref>
* 生年不明 - ガチャ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m02.html |title=住民名簿 2月 ガチャ |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - ナイン、ゲーム『[[ファイナルファンタジー零式]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jp.square-enix.com/ff_reishiki/sp/character/nine.html |title=Nine ナイン |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO., LTD.]] |work=『ファイナルファンタジー零式』}}</ref>
* 生年不明 - 豊永日々喜、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1492513832694128647}}</ref>
* 生年不明 - コロレ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=63&cate=name&cont=Colorer |title=コロレ |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - ぴのん、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|idolland_arts|1426132556513103872}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{commons|Category:13 February}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8813%E6%97%A5 |
1,789 | 昭和 | 昭和()は、日本の元号の一つ。
大正の後、平成の前。大化以降230番目、246個目の元号である。昭和天皇の在位期間 である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。
日本史の時代区分上では、元号が昭和であった期間を昭和時代()といい、グレゴリオ暦(西暦)において20世紀の大半を占める。本項ではこの時代についても記述する。
大正天皇の崩御に伴い、皇太子裕仁親王が皇位を継承し、即日「昭和」と改元された。昭和天皇(裕仁親王)の崩御に伴い、皇太子明仁親王(現上皇)が皇位を継承し、「平成」と改元されることとなって幕を閉じた。
最も長く続いた日本の元号で64年を数えるが、「元年」と「64年」は共に7日間しか使用されなかったため実際の期間は62年と14日となる。外国のものを含めても最長の元号であり、歴史上60年以上を数えた元号は、昭和の他には、清の康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
最長の元号である上、この期間は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結した1945年(昭和20年)9月2日や終戦記念日の同年8月15日を境に、それ以前の約19年間は戦前(および戦中)、以後の43年余は戦後と、社会の価値観・諸制度や政治体制が大きく異なる時代に分かれ、世界史上の時代区分もそれぞれ近代・現代と別になっており、一体的に捉えることは難しい。
百姓昭明、協和萬邦→百姓昭明にして、萬邦を協和す
昭和は登極令(皇室令の一部)による制度での最後の元号であり、1979年(昭和54年)の元号法制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされた。
「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓昭明にして、萬邦を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である。なお、江戸時代に全く同一の出典で「明和」(1764年〜1772年)の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。
当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省(現:宮内庁)作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、同日に皇太子(摂政宮)裕仁親王の践祚を受けて直ちに改元の詔書が公布されて昭和に即日改元し、1926年の最後の1週間だけが昭和元年となった(西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある)。なお、この際に東京日日新聞が「新元号は光文」と誤報した(光文事件)。
昭和改元の詔書(1926年〔大正15年〕12月25日)
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御。これに伴い1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法及び皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の定めるところにより明仁親王(昭和天皇第1皇男子)が皇位を継承し、第125代天皇となった。そのため、1979年(昭和54年)に施行された「元号法(昭和54年法律第43号)」の規定に基き「元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)」が7日中に公布・翌8日に施行されて、平成と改元した。
元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日)
元号を平成に改める。
附則
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁を取り、当初の藩閥政治を脱して1920年代には政党が内閣を構成するようになり、大正デモクラシーの風潮を受け継ぐ形での政党政治が行われた。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。
第一次世界大戦では大戦景気による稀に見る好況を迎え、日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし、大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。
さらに関東大震災が起こり震災恐慌となり、震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が1927年(昭和2年)3月15日から生じ、4月20日前後には最高潮に達して昭和金融恐慌となった。昭和初期に東北地方が大凶作に見舞われて農家の女性達は養育能力がなかったため、間引きが盛んに行われた。冷害や貧困のために東北地方の農村では「娘の身売り(未婚女子の人身売買)」や「欠食児童」が社会問題となった。
第1次若槻内閣(若槻禮次郎首相)は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対にあい、総辞職した。
後を受けた田中義一内閣(田中義一首相)は高橋是清蔵相の下で、3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と日本銀行から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行(三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行・第一銀行)へ預金が集中した。
一方、中国(中華民国)では1925年(大正14年)に死去した孫文の後を蔣介石が継ぎ、1926年(大正15年)7月に中国国民党の国民政府軍は蔣介石を総司令として北伐を開始し、10月には武漢を占領し、ここに政府を移して、翌年の1927年(昭和2年)3月には上海を占領、ついで南京も手中に収めた。
田中内閣は、張作霖を動かして満蒙での諸懸案の解決を図ろうとして3回 に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は張作霖と交渉し、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を1928年(昭和3年)6月4日に爆破して暗殺した(満洲某重大事件)。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満洲某重大事件」として追及され、田中首相は上奏しようとしたが、昭和天皇から説明を聞きたくないと不快感を表明され、田中内閣はこのため1929年(昭和4年)7月2日に総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。
田中内閣は、第二次護憲運動で誕生した護憲三派の内閣である加藤内閣(加藤高明首相)とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中は自ら外相を兼任し中国での革命の進展に対して強く干渉した。
ところが、中国での武力行使に対する列国の批判を交わすためもあって1928年(昭和3年)、フランスのパリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただ、この不戦条約は第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、「国体をないがしろにするもの」とする批判が国内に生じた。このため、新聞紙上でも侃々諤々の論議が行われた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化を図ったことでも知られている。
昭和初期は大正デモクラシーの成果で二大政党制(政友会・憲政会)の時代となり、日本政府の積極的な公共投資による経済復興を主張する立憲政友会と、財政削減と民間活力の重視による経済復興を主張する憲政会(昭和2年から立憲民政党に改称した)の二大政党が交互で内閣を組閣する議院内閣制のもと「憲政の常道」とも呼ばれる政党政治の時代であった、特に日本国民の2割に当たる1200万人の男性有権者が投票した1928年(昭和3年)2月20日の男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)実施後、予想外の進出を示した無産政党や日本共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行った。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。
一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛し、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束していくこととなった。井上日召が血盟団を組織した。後に創価学会と公明党組織の基礎となる創価教育学会が誕生した。
1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークのウォール街での株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口内閣(濱口雄幸首相)が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。イギリス・フランス・アメリカ合衆国などは植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を所有しない日本などは深刻な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチスを生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。1930年(昭和5年)、アメリカやイギリスが中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年(昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日 = 10:10:7とするものであった。全権大使若槻禮次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。
1931年(昭和6年)4月、若槻礼次郎首班の立憲民政党内閣(第二次若槻内閣)が成立した。7月には長春付近で朝鮮移民と中国官憲・農民との衝突事件が起きて、一触即発の情勢が生まれていた。陸軍は8月に「満洲問題解決方針の大綱」を決定していた。
同年9月18日には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満洲事変が勃発した。関東軍は奉天、長春、公主嶺、四平街などの南満洲鉄道沿線の首都と主要都市で軍事行動を起こして、戦時体制に入った。このことが1945年(昭和20年)の敗戦までにわたる戦争の第一歩となった。政府は戦争不拡大の方針を採ったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。
日本の満洲国建国に前後して、国際連盟はイギリスのヴィクター・ブルワー=リットン率いるリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1 で可決した。日本は2月20日の閣議で同勧告案が可決された場合の脱退を決めていたので松岡洋右代表は退場(2月24日)し、3月27日には国際連盟脱退を通告した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなる。
また1932年(昭和7年)2月9日、第18回衆議院議員総選挙戦中に民政党の井上準之助(前蔵相)が選挙応援中に射殺され、3月5日には団琢磨(三井合名理事長)が三井銀行本店の入り口で射殺された。いわゆる血盟団事件である。続いて5月には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が起こり、犬養内閣総辞職の後、5月26日に斉藤実内閣が成立したが、帝人事件の贈収賄容疑が閣内に波及したため、1934年(昭和9年)7月3日に総辞職し、7月8日に岡田内閣(岡田啓介首相)が成立した。軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める「昭和維新」をスローガンとする右翼思想が唱えられ、この影響で1936年(昭和11年)には皇道派の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した二・二六事件が起こった。1936年(昭和11年)2月28日に岡田内閣は総辞職し、政党内閣は終焉に至った。
その後、同年3月9日に成立した廣田内閣(広田弘毅首相)は、二・二六事件に対する措置として大規模な粛軍を実行した一方で実質廃止となっていた軍部大臣現役武官制を復活させた。しかし、その制度は軍の協力なしでは組閣が難航する問題を内包しており、復活とともに軍部の政治介入と政治的優位が確立したため、後に議会はその役割を事実上停止する。8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相の五相会議が開かれ、対外問題を中心にする重要国策(国策の基準)を決定した。内容は公表されなかったが、戦争政策の見取図・計画書であった。また、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「陸軍は国防充実12か年計画、海軍は第二次補充計画 を立てた。
このため1937年(昭和12年度)の予算は、陸海軍両省合計で14億円に達した。11月末の予算閣議で30億円を超える巨額の予算案が短時間で決定された。前年度に比べ8億円を一挙に増額した。この膨大な歳出を賄うため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案が発表されると諸物価が高騰し始め、国民の生活に大きな影響を与えるものとなった。
同内閣は1936年(昭和11年)11月にベルリンで日独防共協定を調印した。1937年(昭和12年)1月29日に閣内不統一で総辞職して、2月2日に林内閣(林銑十郎首相)が成立するが5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛内閣(近衛文麿首相)が成立する。中国では西安事件で拉致された蔣介石と周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。
昭和12年には盧溝橋で日中両軍が衝突し、停戦協定後も通州事件、第二次上海事変などが続き、支那事変(日中戦争)が始まった。戦線の拡大に従って思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への協力を国民に求めるという「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるに伴って治安維持法による思想弾圧が目立ち、昭和12年には加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。
近衛内閣の後を受けて昭和14年1月5日平沼内閣が誕生する。平沼は内務・司法官僚の大御所で、枢密院議長でもあった。2月には軍部は海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島と名付けた。この軍事行動はイギリス・アメリカを大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した(天津事件)という。東京では、有田八郎外相とロバート・クレイギー英大使との会談が開かれた。7月になるとアメリカ政府が日米通商航海条約の破棄を通告したのでイギリス政府の対応も変わり日英会談は決裂した。満洲では日本とソ連は昭和14年5月12日のノモンハン事件などで衝突した。8月には第23師団を中軸とする第6軍を新編成して、満洲から集められるだけの飛行機と戦車を投入したが、一万数千人の死者が出た。第23師団は全滅に近い壊滅状態であった。機械化装備や火力、輸送力に格段の差を見せつけられての敗北であった。この事件後、陸軍当局は「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」と異例の談話を発表した。9月16日にノモンハン事件の停戦協定が結ばれた。
ヨーロッパ情勢は目まぐるしく変転し8月には独ソ不可侵条約が締結された。三国同盟問題を解決できなかった平沼内閣は昭和14年8月28日に総辞職した。「今回締結せられた独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので我が方はこれに鑑み、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」とその理由を説明している。この説明は、日本の支配層が国際情勢に順応しきれず外交政策を立てることができなくなっていたことを吐露したものと考えられる。
同年8月30日に阿部内閣が誕生、この後すぐに第二次世界大戦が始まった。内閣は9月4日に「今次欧州戦争勃発に際しては帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす」との声明を出した。ドイツとソ連ではイデオロギーが相容れず手を結ぶことはないと考えていた日本は、外交方針の見直しに迫られた。11月4日からは外相野村吉三郎はアメリカ大使ジョセフ・グルーと会談を始めた。また、決裂状態にあった日英会談再開の気運が生まれた。
日米交渉は進展せず、昭和15年1月には日米通商航海条約は失効した。1月の第75回帝国議会で276人の衆議院議員が阿部内閣の退陣を決議。軍部は反軍的気運の生まれることを恐れて政府不支持の態度をとったので昭和15年1月4日に阿部内閣は退陣した。
続く内閣に、海軍大将米内光政を首班とする米内内閣が1月16日に成立した。この内閣には、民政党・政友党から2名ずつ、財界からは藤原銀次郎が商相として入閣した。
昭和15年11月10日から11月14日に、同年が初代神武天皇が即位して2600年にあたるとして「紀元二千六百年式典」が全国で実施される。
ヨーロッパでは1939年(昭和14年)8月23日に突如、独ソ不可侵条約が発表された。9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵入して、9月3日にイギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が開始された。阿部内閣は「欧州戦争に介入せず」と声明した。1940年(昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏しドイツ、イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。大西洋憲章を制定したアメリカ、イギリスの連合国に対して、日本、ドイツ及びイタリアは枢軸国と呼称されるようになった。また、ソ連との間に日ソ中立条約が締結されて、満洲国・モンゴル人民共和国の尊重と相互不可侵が約束された。
支那事変(日中戦争)勃発後、陸軍は公然と倒閣運動に乗り出して、畑俊六陸相は国防国家建設のため人心一新を求め単独辞職し、後任の陸相が決まらず1940年(昭和15年)7月16日に米内内閣は総辞職した。
次期内閣には近衛文麿が第2次近衛内閣として組閣、1940年(昭和15年)7月22日に成立した。近衛を中心とする新体制運動が進められ、同年10月には、大政翼賛会が結成されて、既成政党は解党した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で支那事変(日中戦争)および大東亜戦争(太平洋戦争)の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当たった。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツの組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁の赤である、かつての武家政権・幕府の様に皇室を置物にするものであるという強い批判も出て、精神運動を中心に据えるように変わっていった。歴代総裁には近衛文麿、東條英機、小磯國昭、鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また、1941年(昭和16年)には平沼騏一郎内務大臣により公事結社とされて政治活動は禁止されて、有馬らの近衛グループが退陣して、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。
1940年(昭和15年)1月にアメリカ合衆国政府は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本は、ナチス・ドイツや率いるイタリアと1940年(昭和15年)9月に日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ政府の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ政府から石油禁輸を招くに至った。アメリカ・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。
一方、日本では陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンでソ連軍と衝突した。これによって北方進出を断念し、日ソ中立条約を締結し北の防衛を強固にするなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年(昭和16年)晩秋まで日米交渉を続け、同年10月18日には第3次近衛内閣が総辞職し、東條内閣(東條英機首相)が成立する。
しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったイギリスや中華民国によるアメリカの参戦の要望、および日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート、実際の草稿者はハリー・ホワイト財務次官補)を受ける。これを日清戦争・日露戦争以降に獲得した全植民地からの撤退要求と解釈した日本政府は、事実上の米国政府による最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。日本はこうして第二次世界大戦へ参戦することとなった。アメリカ、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本、ドイツ、イタリアの枢軸国と対抗した。
1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のイギリス領マレー侵攻の後、大日本帝国海軍は真珠湾攻撃を行った。同月12日、当時の東條内閣は「今次の対米英戦は、支那事変をも含め太平洋戦争と呼称す」とした。しかし太平洋戦争は生産力の弱さなどから戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から山本五十六連合艦隊司令長官は1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたといわれ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。日本海軍は開戦当初、航空母艦(空母)の艦載機を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。
1942年(昭和17年)、東條英機首相率いる東條内閣は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団・大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに町内会と部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活は隅々まで統制と監視に晒されることとなった。
当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアは欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年(昭和18年)10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかしながら実態は日本主導であり、未完成であった。
日本海軍は開戦当初は連戦連勝であったが、ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を損失し、開戦後初の大敗北を喫した。この敗北を機に日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まり、戦線は次第に後退していった。
この時から国民には虚偽の戦況が伝えられ、国民は日本海軍が敗北していることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころすでに、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともにアメリカの数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年(昭和20年)に解散し、国民義勇隊に改組された。
1944年(昭和19年)7月9日には、サイパン島が陥落しこの敗退の責任を取る形で、7月22日に東條内閣は総辞職し、小磯國昭首相率いる小磯内閣が成立する。日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり(日本本土空襲)、1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲が行われた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。同年4月7日に小磯内閣は総辞職し、元侍従長の鈴木貫太郎首相率いる鈴木内閣が成立する。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は全日本軍の無条件降伏以外は承認しない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。同年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答せず(黙殺)、結果戦争継続の意思を示した。
1945年(昭和20年)8月6日に広島市への原子爆弾投下が実施され、非戦闘員を含め十数万人が死傷した。8月9日には同様に長崎市への原子爆弾投下が実施され、さらに十数万人の死傷者が出た(以上、日本への原子爆弾投下)。これは、世界初の核兵器による爆撃であった。
日本は、主要な国で当時唯一、日ソ中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦政府の仲介での和平工作を試みたが、ソ連はヤルタ会談での申し合わせに従い8月8日の夜に宣戦布告した(ソ連対日参戦)。翌9日未明からソビエト連邦軍が満洲や朝鮮半島北部、樺太、千島列島に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。戦後も長らく解決を見なかった中国残留孤児問題は、この時に生じた。
ソ連の参戦により、講和の望みが絶たれ万策尽きた政府は、8月9日の最高戦争指導会議ではポツダム宣言が要求している日本軍の無条件降伏を問題とせず、「天皇の地位の保障」を条件とする外相案と、それに加え「自主的な武装解除、日本による戦争犯罪人の処罰、占領制限など」の条件を付けよとする軍部案とが対立した。9日深夜に開かれた御前会議でも両案が対立したが、昭和天皇の裁断によって「天皇の地位の保障のみ」を条件に付けることが決定された(昭和天皇自身が地位保障を求めたわけではない)。8月10日に「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受託するという申し入れをラジオと中立国を介して行われた。
8月14日の御前会議で、いわゆる「聖断」によってポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。この決定は翌8月15日、昭和天皇自ら「終戦の詔勅」を音読・録音し、同日正午に日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられた。その2日後の8月17日には鈴木貫太郎内閣は総辞職し東久邇宮内閣(日本の内閣史上、最短政権)が成立する。
こうして日本だけでも300万人、関係諸国を入れると2千万人から3千万人(実数不明)の死者を出したと言われる戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島や南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、8月23日のことだった。9月2日には、ポツダム宣言に調印し、日本は主権を制限され、連合軍 (GHQ) の占領下となった。またソ連軍の侵攻が終了したのは9月5日である(同日までに北方領土全てが占領される)。
太平洋戦争後、1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効まで連合国軍の軍事占領下に置かれたが、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) の軍政は布かれず、アメリカ政府による直接的な統治があった沖縄・奄美群島・トカラ列島の下7島・歯舞群島・小笠原諸島と、ソ連によって占領された歯舞群島・千島列島・樺太を除き日本国政府が行う間接統治が行われた。出版停止やプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。
第一復員省や第二復員省などの復員組織が設置された。日本人は占領地だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍占領地域となった内地(樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部はシベリア抑留され強制労働に従事した。外地から引き揚げは困難を極め、通化事件のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、中国残留日本人問題を後に残した。また、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争や国共内戦などに多くの日本人が加わった。旧満洲国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地側に管理が引き継がれた。
第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法は大日本帝国憲法の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。その内容は、象徴天皇制の下に主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、法の下の平等および自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力による威嚇または武力の行使によって解決しない「平和主義」を三大原理とした。このため現在の日本では自衛隊への徴兵制度は憲法違反として実施されない。また、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」とされ、立憲君主国として皇室は維持されたものの天皇の国政への関与は禁じられた(象徴天皇制)。1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月にかけて昭和天皇は沖縄県を除く46都道府県を訪問した。昭和天皇が回答する「あっ、そう」の言葉が1946年(昭和21年)の流行語となった。しかし、昭和天皇は1947年(昭和22年)9月19日にはGHQに対して「沖縄メッセージ」で沖縄の長期軍事占領を要望し、1975年(昭和50年)10月31日には「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが止むを得ない事と私は思ってます」と云う日本国憲法で禁止されている政治的な発言をした。
さらに、GHQの主導により以下の改革が断行された。
1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)の発効により日本国は主権を回復。GHQの進駐が終わった。
また、日本国憲法第9条では軍隊を保持しないことを定めたが、サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ軍の駐留を在日米軍としてそのまま継続するとともに、翌1952年(昭和27年)には警察予備隊から改称した保安隊(その後の自衛隊)も発足し、事実上の再軍備を行った。冷戦期にはアメリカと同盟してソ連に対抗した。
終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾・朝鮮・南洋群島、日本本土(内地)の一部であった南樺太・千島列島および色丹島・歯舞群島・小笠原諸島・南西諸島の北緯30度以南を失った。このうち、南西諸島と小笠原諸島は後にアメリカから返還された。千島列島については、樺太・千島交換条約によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は現時点では千島列島のうち、南千島の国後島・択捉島の2島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞群島および色丹島の2島は北海道に属すると説明している。
1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国 (GHQ) に占領され、最高司令官としてマッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義的な傾向があったが、戦後直後の民主化は東久邇宮内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は民主化の進展に対応できず総辞職し、歴代内閣の中で最短政権を記録している。アメリカの占領下で幣原内閣(幣原喜重郎首相)、次いで吉田内閣(吉田茂首相)を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放によって、社会の指導者層20万人が軍国主義者として公職からの追放処分となったことに加えて被選挙権が停止処分となった。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文部相(現在の文科相)であったことから、政治的活動が制約された。また、占領軍によって検閲が徹底され、連合国や朝鮮人について批判する報道は禁止された。また1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級・B級・C級とは罪の大小を表すものではなく、分類するものである)。
連合国の日本占領政策は、ソ連が自国領に編入した南樺太・千島列島を除き事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて政策が実施された。占領を巡って、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、スターリンは北海道の北半分のソ連占領を提案したが、トルーマンがこれを拒否した。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。
日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロバキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年(昭和26年)、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的にはソ連占領地域(南樺太、千島列島)およびアメリカ占領地域(琉球列島、小笠原諸島)を除く日本政府統治地域(北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島およびそれらの付属島嶼)では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して翌1952年(昭和27年)4月28日に日本は主権を回復した。しかし在日米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。
日本国憲法第9条は、国権の発動である戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する平和主義を定めている。そのため、日米安全保障条約や自衛隊の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。
大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが1949年10月1日に国共内戦に勝利した中国共産党により中華人民共和国が建国されたことと朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。朝鮮戦争には、占領軍の要請の下で官民8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、多くの犠牲者を出した。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中華人民共和国が成立すると対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置付け、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理も行われた。
1952年(昭和27年)1月18日に韓国が竹島の領有を主張する李承晩ラインを宣言すると、数千人に上る漁民が抑留され、翌年には竹島を軍事占領された。
文化面においては日本映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカを初めとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語のローマ字化は断念され、1946年(昭和21年)には現代かなづかい・当用漢字の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法を初めとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。
1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党が第1党となり片山哲が総理大臣となった。右翼過ぎず、左翼過ぎない内閣の性格から「中道政権」と呼ばれた。GHQのチャールズ・L・ケーディスも民主化推進の立場からこの中道路線を支持していた。昭和天皇は社会主義による急進的な変革は望まなかったが、キリスト教徒である片山の人柄に好感があり、労働問題で日本社会党が支持を得た民意に一定の理解を持っていたとする宮内庁の文書の記述がある。民主党・日本社会党・国民協同党の連立政権である片山内閣と芦田内閣が以下の経済政策 を実施した。
他に生活保護法を成立させて、1950年(昭和25年)に生活保護制度の運用を開始するなどの政策が行われた。
昭和20年代に全国水平社が改組して部落解放同盟となった。日本社会党と協力して部落解放運動を行い、格差改善と集落の改良事業を行った。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。しかし戦後混乱期の頃は、下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。独立回復後の1952年(昭和27年)5月1日には血のメーデー事件があった。同時にレッドパージが行われ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。芦田均が関与して逮捕された昭電疑獄で中道政権は崩壊する。
米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要の増大も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代に続く驚異的な高度経済成長(昭和30年代〜昭和40年代の名目経済成長率が世界1位の15.4%だった。昭和30年度の8兆5000億円だったGNP(国民総生産)は昭和45年度には70兆円となり、15年間に8.5倍以上の規模となり世界第2位の経済大国となる)を遂げるに至る。
都市部には高層ビルが立ち並び、鉄筋コンクリートのアパートや郊外の建売住宅に住む人が急増した。日本中から蒸気機関車が消えて、電車やディーゼルカーが走り回るようになった。主要道路はアスファルトで舗装された。新幹線(東海道新幹線)と高速道路(東名高速道路・名神高速道路)が完成した。平田佐矩(四日市市長)や大野伴睦(自民党の国会議員)などによって東海地方と日本海を結ぶ日本横断運河の建設が計画された。ほぼ全ての家庭にテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫・電話が普及して、自家用車も珍しくなくなった。デパートやホテルに行ったり、特急列車に乗れば冷房の恩恵を受けられるようになった。パンや肉・ケーキといった洋食や洋菓子も普段食べるようになった。平均寿命は世界有数となり、大学進学率も激増した。そのかわり大都市部では人口過密、農村部では過疎という現象が生じて、公害や交通戦争が社会問題となった。
敗戦直後にはインフレーション(戦後インフレ)に見舞われた。傾斜生産方式 を採用して、ドッジ・ライン(安定恐慌)が起こる。朝鮮戦争勃発で朝鮮特需(特需景気)が起こる。1954年(昭和29年)から高度経済成長が開始されて、ガチャマン景気による繊維産業の好景気があり、好景気と不景気を繰り返しながら日本経済は順調に成長した。1955年(昭和30年)に社会党右派と社会党左派にが再統一された日本社会党と自由党・日本民主党が合同した自由民主党が結成されたことで、55年体制が成立した。
昭和20年代には、以下の家電製品がヒット商品となった。
昭和元禄 と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。手塚治虫・石ノ森章太郎・藤子不二雄・長谷川町子・水木しげる・赤塚不二夫などの漫画を原作としたアニメなどの作品 や黒澤明・円谷英二が映画監督となった邦画などの昭和文化や大衆文化が生まれた。流行歌が普及して美空ひばり・藤山一郎などの歌手や石原裕次郎 や渥美清などの俳優がスターとなり芸能界で活躍した。漫画・映画と並んでテレビ放送も普及した。昭和40年代はプロ野球のV9時代であり、大相撲は昭和30年代から昭和50年代にかけて、力道山がプロレスで活躍するなど格闘技人気があった。「巨人・大鵬・卵焼き」などの流行語が 誕生した。東海道新幹線開業(1964年〔昭和39年〕)名神高速道路開通(1963年〔昭和38年〕)東京オリンピックの開催(1964年〔昭和39年〕)日本万国博覧会(1970年〔昭和45年〕の大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。
この奇蹟の復興は、アメリカの戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。その反面、日米安保条約と日米地位協定によってアメリカ軍が日本各地に残されており、駐留国負担(後の思いやり予算)の出費も大きく、アメリカ軍犯罪時の裁判や事故などを巡ってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄県ではこうした問題がしばしば起こった。また、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則が国是とされた一方で、日本政府とアメリカ政府との間で、有事における日本国内への核持ち込みを黙認する密約が結ばれたことも、明らかにされつつある。
若者の農家離れによって、農民(特に青壮年の男性)が農家から会社員になるようになり、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が急増して、機械化が進んで専業農家より兼業農家の方が多くなった。学校給食がパン食になって育った戦後世代の主食が米からパンとなり、米余りになると減反政策を行い、転作によって小麦の輸入が増加し、その結果日本の食料自給率が低下した。戦後期は捕鯨が盛んで鯨肉が主流の肉食であったが、昭和50年代以降、IWC(国際捕鯨委員会)で商業捕鯨が禁止されたことによって牛肉・豚肉・鶏肉が主流の肉食となった。高度経済成長期に調理の熱源が薪や炭から電気・ガスに変わった。昭和30年に東京芝浦電気が電気炊飯器を発売したことが発端となり、竈などを使用する炊飯方法から炊飯器を使用したものに変化した(当時は電気炊飯器とガス炊飯器がほぼ互角だった)。炊飯の調理から副食中心の料理に主婦の仕事が変化した。ガスコンロの普及で洋食や中華料理の調理が容易となった。昭和40年代の冷蔵庫の普及で生鮮食品が登場した。昭和35年ごろから米の消費量が減少してパン・麺類・肉・乳製品・魚介類・野菜の消費量が増加した。昭和42年から米余りになり昭和45年から米の生産調整が実施された、昭和40年頃に日清食品のインスタントラーメンなどインスタント食品が多数開発された。昭和43年には初のレトルト食品、昭和46年にはカップ麺が開発された。昭和45年以降ファーストフード店やファミリーレストランやコンビニエンスストアが普及した。ラーメンやコーヒーやコロッケやハンバーグが国民食となった。
戦後の住宅事情は、戦災による住宅焼失と復員や引揚げによる人口増加で住宅が不足する住宅難となっていた。1950年(昭和25年)には、持ち家建設を支援するために住宅金融公庫が創設された。1951年(昭和26年)には田中角栄を中心とする議員立法で地方自治体が住宅を建設する公営住宅法が成立した。1955年(昭和30年)には、第2次鳩山一郎内閣によって日本住宅公団が創設された。昭和31年から昭和33年頃にかけてアジア風邪が流行したが厚生省が創設された影響で国民の医療条件が改善された。戦後期に死亡要因1位が結核から癌になり、日本は1年間の死亡者が急減する少死社会になった。高度経済成長期には、昭和一桁世代の夫婦2人と新人類世代の子供2人の合計4人の家が平均家族モデルとなった。ダイニングキッチンと和室2つと水洗トイレが完備された団地で洋風生活をする団地族が出現した。都市部では銭湯が多かったが下町の銭湯が減少した。
1948年(昭和23年)に優生保護法が成立して人工妊娠中絶が合法化された。民法が改正されて遺産相続が男女平等となった。参政権を獲得した女性が、更なる地位向上を目指して女性解放運動が活発化した。1970年(昭和45年)にウーマンリブ運動が開始されたことに続いて、1975年(昭和50年)が国際婦人年とされて女性の地位向上が人類的な課題となった。1956年(昭和31年)に売春防止法が成立、1958年(昭和33年)4月1日にはが施行され公娼制度が完全に廃止、赤線が消滅した。1947年(昭和22年)10月26日の刑法の改正で姦通罪が廃止された。1947年(昭和22年)には民法の大幅な改正で家制度が廃止された。昭和20年代に主流だった産婆の補助による出産から、昭和30年代には産婦人科での出産が増加した。昭和45年頃にお見合い結婚が減少して急増した恋愛結婚と婚姻数が逆転して社内結婚が主流の社会となった。昭和50年代からバブル期に学生結婚が急増した。
ファッション面では、パンティーやブラジャーなどの洋風下着類やナプキンやタンポンなどの生理用品が普及した。昭和30年代にアッパッパと呼ばれる筒型のワンピースが普及した。昭和40年代には団塊の世代の女性を中心にミニスカートブームがあり、スカートや着物以外に女性がズボンを着用することが公認された。女性が肌を露出する水着の着用が認知されて、若い女性の間で水着が普及した。髪型ではショートカットが社会的に認知されて、化粧品や美容院・美容整形などの女性ビジネスが普及した。
生活面では、昭和30年代にミシンが普及して経済面では個人店や百貨店主流のショッピングから主婦が買い物しやすいスーパーマーケットが普及した。男女平等や高学歴化が進んでいなかった戦後世代の昭和一桁世代からしらけ世代の女性は、夫がサラリーマンで子供が平均2人の家族が平均的なモデル家庭とされた。戦後世代の女性は専業主婦が主流だった。高等教育を受ける女性が急増した新人類世代以降の20代の高学歴女性ではOLが増加するなどの変化があった。
急速な高度経済成長に合わせて高齢化の進行と乳児死亡率など病死の減少が進み、都市の人口の急増が進んで日本の人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、昭和40年代には日本の総人口がついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口の中で勝ち残るための競争に身を捧げることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは「金の卵」と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。
一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学して、高等教育の大衆化が進んだ。「60年安保」では国会議事堂にデモ隊が集結し岸内閣退陣運動があった。1960年代(昭和35年)頃に浅沼稲次郎暗殺事件など暴力事件による右翼テロが相次いだ。1970年(昭和45年)の70年安保闘争をピークとする左翼運動の高潮があり、欧米のベトナム戦争反対闘争や五月革命などと期を一にしていた。全共闘世代と言われる若者たちの一部は、「既成左翼」(日本共産党および日本社会党)の平和革命路線に反発した新左翼運動に身を投じ、機動隊や日本共産党系、右翼系の若者と衝突を繰り返した。日本の学生運動の挫折を経て、新左翼運動は孤立化し、日本赤軍・連合赤軍・よど号グループなどは過激化して内ゲバや一般市民を巻き込む日本赤軍事件・あさま山荘事件・成田空港管制塔占拠事件・連続企業爆破事件・よど号ハイジャック事件などのテロ活動へと追い込まれていった。彼らの起こした数々の事件は、それまで比較的同情的な面もあった世論の反発を引き起こした。若者たちの多くも東大紛争が失敗に終わると過激化した学生運動から距離を置くようになり、都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。
昭和30年代には、国民皆保険体制が整備されて、高度経済成長の弊害として、4つの公害裁判となった公害病を指す『四大公害病』と言う言葉が誕生した。 昭和30年代から昭和49年頃にかけて三重県四日市市で発生した四日市ぜんそく(別名は塩浜ぜんそく・四日市公害)・神奈川県川崎市で発生した川崎公害(主な公害病名は川崎ぜんそく)など工業地帯や都市部での大気汚染が深刻化した。熊本県水俣市で発生した水俣病(別名は熊本水俣病)・新潟県阿賀野川流域で発生した新潟水俣病(別名は第二水俣病・阿賀野川水銀中毒)などの水銀中毒が発生し、また、富山県神通川流域で発生したイタイイタイ病も問題化した。深刻な公害に対応するために公害対策基本法が成立した。鉄道中心の交通から自動車中心の社会となり日本国有鉄道はローカル線を中心に赤字経営となった。昭和30年代から昭和40年代にかけて鉄道の電化工事が行われて、蒸気機関車が全廃された。モータリゼーションにより交通事故による死者が激増して、交通戦争と 言われるようになった。こうした時代状況で野党は、日本社会党や日本共産党が社会主義革命を唱える労働者政党から都会住民を支持基盤とする革新政党に変化して、中道政治を唱える民社党や創価学会を支持基盤とする公明党は都市部で支持者を増やして、労働者の地位向上や公害対策や高齢者などの福祉政策に積極的に取り組んだ。野党は昭和40年代に主婦層や商工業者、サラリーマンなどの都市住民に支持を広げた。大企業優先の成長路線だった自由民主党も、佐藤栄作首相の強力なイニシアチブの下、1971年(昭和46年)に環境庁を新設した。
臨時北部南西諸島政庁が設置されていた南西諸島地域は、1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島が1953年(昭和28年)に12月25日アメリカから日本に返還された。1968年(昭和43年)6月28日に南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定により小笠原諸島が返還された。1972年(昭和47年)5月15日に、琉球政府が設置されていた沖縄県が日本に復帰した。県民の祖国復帰運動が実った結果だが、沖縄のアメリカ軍基地がそのまま残されたことは後に禍根を残した。
高度経済成長の進展とともに燃料が石炭から石油へ転換するエネルギー革命が開始されて、これまで有力産業の一つであった炭鉱業界の合理化が迫られて1959年(昭和34年)〜1960年(昭和35年)に三井三池争議があった。1973年(昭和48年)の第一次オイルショック(石油危機)に伴い、狂乱物価抑制のための総需要抑制策が執行されて、高度経済成長は終焉することとなった。田中角栄内閣は石油や天然ガスなど海外からの資源に依存する火力発電から脱却して原子力発電を推進するために、電源開発促進税法・特別会計に関する法律・発電用施設周辺地域整備法の電源三法を成立させた。
高度経済成長により日本は、過剰人口問題を解決して国民の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。2度のオイルショック後の急激なインフレーション(狂乱物価)と不況は短期間で終わり、素材産業など一部の重厚長大産業は没落したが、省エネルギー化を推進して、ハイテク産業・サービス業が成長して、安定成長へと順調に移行することができた。欧米諸国がスタグフレーションに苦しむ中、自動車や電化製品の生産を激増させ、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって貿易黒字は増大の一途を辿り、ついに日本の経済は昭和40年代にソ連・西ドイツを抜き世界第2位の経済大国となった。1980年(昭和55年)には、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国の経済に次ぐ規模を持うようになり、国民の生活レベルは一億総中流と呼ばれた。この間、コンビニ・ウォークマン・カラオケが普及して、日米貿易摩擦が問題となった。日本の人口の増加は戦後急速に進んでいたが、団塊の世代(特に女性)の結婚が増加した影響で(昭和46年度〜昭和49年度)に第2次ベビーブームが発生したのが日本の人口構造の転換点となった。出生数が一時的に増加した直後の1975年(昭和50年)以降はしらけ世代の女性の未婚率の上昇で出生率が2人を下回った。昭和50年代から日本国は少子高齢化社会へと移行していく。
都市部の人口流入と農村部の人口減少が続き過疎と過密が社会問題となった。昭和40年代には、大都市部を中心に革新勢力が台頭して、社会党と共産党の革新統一のための協定が結ばれ、東京都の美濃部亮吉を初めとして、京都府・大阪府・神奈川県などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。中でも京都府では、蜷川虎三が7期28年にわたり知事を務めた。こうした中、保守勢力(自由民主党)は三大都市圏や太平洋ベルトの工業地域で深刻化した過密と農村部で深刻化した過疎の人口問題や地域格差の解決と、革新勢力への対抗のため、都市部のインフラ整備を急ぐとともに、農村部にも道路や圃場整備などの公共事業投資を増加させ、農村部の保守層からの支持を取り付ける利益誘導政策を行った。社会保障面でも、1961年(昭和36年)に国民皆保険が実現して、1973年(昭和48年)には老人医療自己負担無料化が実現して、本格的な福祉国家実現への機運が高まった。こうしてGDPの約1割を占めるほどに膨れ上がった公共事業投資と高齢化に伴い増加した社会保障投資は、財政悪化の主な要因となった。
1972年(昭和47年)には、日本列島改造論を唱えた田中角栄内閣が成立した。ロッキード事件を経て、三角大福中の自由民主党の派閥争い の時代となった。保革伯仲国会で中道政党(公明党・民社党)と革新政党(日本社会党・日本共産党)が勢力を伸ばす中、田中角栄が闇将軍として君臨した。1976年(昭和51年)以降は自由民主党出身の政治改革派が分離した新自由クラブや日本社会党から構造改革派が分離した社会民主連合などの議員数が少数の新党が結成された。昭和30年代の自由民主党と日本社会党の保守・革新の二大政党制の時代から、昭和40年代から昭和50年代にかけて中道政党や都市型新党が勢力を伸ばして多党化が進んだ。1980年(昭和55年)のハプニング解散による衆参同日選挙で自由民主党が大勝して社共共闘が消滅したこともあり、保守勢力の巻き返しが顕著となる。昭和50年代になり政治的な思想面では靖国神社問題や歴史教科書問題で右翼と左翼の対立が激化して、赤報隊事件などの右翼によるテロ事件が起きた。昭和22年の時点で元号が法制度上廃止されていたが昭和元号の使用普及率は高い状態だった。1947年から1979年までの期間は昭和が慣習として広く国民全体に普及していただけで法制上の根拠が不明確な状態だったので、左翼の間で元号廃止の動きがあった。元号に法的根拠を与えるために1979年(昭和54年)6月6日に大平内閣が元号法を成立させて、改元の法的準備ができた。元号法は同6月12日に公布、即日施行された。
ビートルズ来日時に前座を務めたザ・ドリフターズのお笑いコント番組『8時だョ!全員集合』が1969年(昭和44年)から放送開始。最高視聴率50%を記録し、1985年(昭和60年)に最終回を迎えるまで約16年間続く国民的長寿番組となる。
昭和50年代に森昌子・桜田淳子・山口百恵の花の中三トリオやキャンディーズ・ピンク・レディー・松田聖子などの芸能人が国民の間で話題となった。バブル景気が始まった昭和60年代にはおニャン子クラブなどのアイドルブームがあった。
教育面では、受験競争・偏差値教育・学歴社会・管理教育が進行して、1986年(昭和61年)の中野富士見中学いじめ自殺事件で注目されたいじめによる自殺問題・少年犯罪・非行、歴史教科書問題、子供の間でのゲームセンターや「ファミリーコンピュータ」の流行まで、教育問題がマスコミから非難された。経済界の要望で高専設置の教育改革と、詰め込み教育から個性重視教育への転換とゆとり教育の必要性が盛んに唱えられた。
鈴木内閣から中曽根内閣時代に行政改革が叫ばれて臨調が設置された。中曽根内閣の行革路線を皮切りに、老人医療の無料化制度を廃止するなどの福祉の縮小が行われた。三公社民営化(日本専売公社 → 日本たばこ産業 。日本国有鉄道 → 日本国有鉄道清算事業団とJRグループ。日本電信電話公社 → NTTグループ)と消費税導入計画が構想されて、野党の猛反対があったが、1988年(昭和63年)に消費税法案が可決した。福祉国家路線は見直されて新自由主義路線へと舵が切られた。イギリスのサッチャリズム、アメリカのレーガノミクス、東側諸国のペレストロイカや改革開放政策、そしてアジアNIEs諸国の躍進などの世界経済の大転換期の中で、日本の経済はプラザ合意を発端とする円高の進行で日本銀行による円高不況対策が行われて内需拡大が続くバブル景気に突入した。1986年(昭和61年)に男女雇用機会均等法が執行されて、昭和60年代に女性の社会進出が進んだ。学生は就職売り手市場でありバブル世代と呼ばれた。好景気の中、昭和の時代は平成へと移り変わり、冷戦の終結を迎える。
革新政党などの反対の中、佐世保基地にエンタープライズが直航、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争発生。イタイイタイ病が公害病として認定。小笠原返還協定により、小笠原諸島などの南方諸島が返還される。川端康成が日本人初のノーベル文学賞受賞。東京都府中市で、三億円事件発生。漫画『ゴルゴ13』の連載開始。
など複数の世代で構成されている。
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"text": "最長の元号である上、この期間は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結した1945年(昭和20年)9月2日や終戦記念日の同年8月15日を境に、それ以前の約19年間は戦前(および戦中)、以後の43年余は戦後と、社会の価値観・諸制度や政治体制が大きく異なる時代に分かれ、世界史上の時代区分もそれぞれ近代・現代と別になっており、一体的に捉えることは難しい。",
"title": "概説"
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"text": "百姓昭明、協和萬邦→百姓昭明にして、萬邦を協和す",
"title": "改元"
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"paragraph_id": 7,
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"text": "昭和は登極令(皇室令の一部)による制度での最後の元号であり、1979年(昭和54年)の元号法制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされた。",
"title": "改元"
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{
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"text": "「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓昭明にして、萬邦を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である。なお、江戸時代に全く同一の出典で「明和」(1764年〜1772年)の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。",
"title": "改元"
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"text": "当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省(現:宮内庁)作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。",
"title": "改元"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、同日に皇太子(摂政宮)裕仁親王の践祚を受けて直ちに改元の詔書が公布されて昭和に即日改元し、1926年の最後の1週間だけが昭和元年となった(西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある)。なお、この際に東京日日新聞が「新元号は光文」と誤報した(光文事件)。",
"title": "改元"
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"text": "昭和改元の詔書(1926年〔大正15年〕12月25日)",
"title": "改元"
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"text": "1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御。これに伴い1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法及び皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の定めるところにより明仁親王(昭和天皇第1皇男子)が皇位を継承し、第125代天皇となった。そのため、1979年(昭和54年)に施行された「元号法(昭和54年法律第43号)」の規定に基き「元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)」が7日中に公布・翌8日に施行されて、平成と改元した。",
"title": "改元"
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"text": "元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日)",
"title": "改元"
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"text": "元号を平成に改める。",
"title": "改元"
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"text": "附則",
"title": "改元"
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{
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"text": "急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。",
"title": "第一次世界大戦後"
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"text": "日本は国内的には立憲君主制の体裁を取り、当初の藩閥政治を脱して1920年代には政党が内閣を構成するようになり、大正デモクラシーの風潮を受け継ぐ形での政党政治が行われた。",
"title": "第一次世界大戦後"
},
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。",
"title": "第一次世界大戦後"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦では大戦景気による稀に見る好況を迎え、日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし、大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。",
"title": "金融恐慌"
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"tag": "p",
"text": "さらに関東大震災が起こり震災恐慌となり、震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が1927年(昭和2年)3月15日から生じ、4月20日前後には最高潮に達して昭和金融恐慌となった。昭和初期に東北地方が大凶作に見舞われて農家の女性達は養育能力がなかったため、間引きが盛んに行われた。冷害や貧困のために東北地方の農村では「娘の身売り(未婚女子の人身売買)」や「欠食児童」が社会問題となった。",
"title": "金融恐慌"
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"text": "第1次若槻内閣(若槻禮次郎首相)は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対にあい、総辞職した。",
"title": "金融恐慌"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "後を受けた田中義一内閣(田中義一首相)は高橋是清蔵相の下で、3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と日本銀行から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行(三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行・第一銀行)へ預金が集中した。",
"title": "金融恐慌"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "一方、中国(中華民国)では1925年(大正14年)に死去した孫文の後を蔣介石が継ぎ、1926年(大正15年)7月に中国国民党の国民政府軍は蔣介石を総司令として北伐を開始し、10月には武漢を占領し、ここに政府を移して、翌年の1927年(昭和2年)3月には上海を占領、ついで南京も手中に収めた。",
"title": "金融恐慌"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "田中内閣は、張作霖を動かして満蒙での諸懸案の解決を図ろうとして3回 に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は張作霖と交渉し、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を1928年(昭和3年)6月4日に爆破して暗殺した(満洲某重大事件)。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満洲某重大事件」として追及され、田中首相は上奏しようとしたが、昭和天皇から説明を聞きたくないと不快感を表明され、田中内閣はこのため1929年(昭和4年)7月2日に総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。",
"title": "田中内閣と山東出兵"
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"text": "田中内閣は、第二次護憲運動で誕生した護憲三派の内閣である加藤内閣(加藤高明首相)とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中は自ら外相を兼任し中国での革命の進展に対して強く干渉した。",
"title": "田中内閣と山東出兵"
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"text": "ところが、中国での武力行使に対する列国の批判を交わすためもあって1928年(昭和3年)、フランスのパリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただ、この不戦条約は第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、「国体をないがしろにするもの」とする批判が国内に生じた。このため、新聞紙上でも侃々諤々の論議が行われた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化を図ったことでも知られている。",
"title": "田中内閣と山東出兵"
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"text": "昭和初期は大正デモクラシーの成果で二大政党制(政友会・憲政会)の時代となり、日本政府の積極的な公共投資による経済復興を主張する立憲政友会と、財政削減と民間活力の重視による経済復興を主張する憲政会(昭和2年から立憲民政党に改称した)の二大政党が交互で内閣を組閣する議院内閣制のもと「憲政の常道」とも呼ばれる政党政治の時代であった、特に日本国民の2割に当たる1200万人の男性有権者が投票した1928年(昭和3年)2月20日の男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)実施後、予想外の進出を示した無産政党や日本共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行った。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。",
"title": "普通選挙"
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"text": "一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛し、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束していくこととなった。井上日召が血盟団を組織した。後に創価学会と公明党組織の基礎となる創価教育学会が誕生した。",
"title": "普通選挙"
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{
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"text": "1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークのウォール街での株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口内閣(濱口雄幸首相)が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。イギリス・フランス・アメリカ合衆国などは植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を所有しない日本などは深刻な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチスを生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。1930年(昭和5年)、アメリカやイギリスが中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年(昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日 = 10:10:7とするものであった。全権大使若槻禮次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。",
"title": "普通選挙"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "1931年(昭和6年)4月、若槻礼次郎首班の立憲民政党内閣(第二次若槻内閣)が成立した。7月には長春付近で朝鮮移民と中国官憲・農民との衝突事件が起きて、一触即発の情勢が生まれていた。陸軍は8月に「満洲問題解決方針の大綱」を決定していた。",
"title": "満洲事変"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "同年9月18日には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満洲事変が勃発した。関東軍は奉天、長春、公主嶺、四平街などの南満洲鉄道沿線の首都と主要都市で軍事行動を起こして、戦時体制に入った。このことが1945年(昭和20年)の敗戦までにわたる戦争の第一歩となった。政府は戦争不拡大の方針を採ったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。",
"title": "満洲事変"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "日本の満洲国建国に前後して、国際連盟はイギリスのヴィクター・ブルワー=リットン率いるリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1 で可決した。日本は2月20日の閣議で同勧告案が可決された場合の脱退を決めていたので松岡洋右代表は退場(2月24日)し、3月27日には国際連盟脱退を通告した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなる。",
"title": "満洲事変"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "また1932年(昭和7年)2月9日、第18回衆議院議員総選挙戦中に民政党の井上準之助(前蔵相)が選挙応援中に射殺され、3月5日には団琢磨(三井合名理事長)が三井銀行本店の入り口で射殺された。いわゆる血盟団事件である。続いて5月には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が起こり、犬養内閣総辞職の後、5月26日に斉藤実内閣が成立したが、帝人事件の贈収賄容疑が閣内に波及したため、1934年(昭和9年)7月3日に総辞職し、7月8日に岡田内閣(岡田啓介首相)が成立した。軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める「昭和維新」をスローガンとする右翼思想が唱えられ、この影響で1936年(昭和11年)には皇道派の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した二・二六事件が起こった。1936年(昭和11年)2月28日に岡田内閣は総辞職し、政党内閣は終焉に至った。",
"title": "満洲事変"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その後、同年3月9日に成立した廣田内閣(広田弘毅首相)は、二・二六事件に対する措置として大規模な粛軍を実行した一方で実質廃止となっていた軍部大臣現役武官制を復活させた。しかし、その制度は軍の協力なしでは組閣が難航する問題を内包しており、復活とともに軍部の政治介入と政治的優位が確立したため、後に議会はその役割を事実上停止する。8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相の五相会議が開かれ、対外問題を中心にする重要国策(国策の基準)を決定した。内容は公表されなかったが、戦争政策の見取図・計画書であった。また、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「陸軍は国防充実12か年計画、海軍は第二次補充計画 を立てた。",
"title": "満洲事変"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "このため1937年(昭和12年度)の予算は、陸海軍両省合計で14億円に達した。11月末の予算閣議で30億円を超える巨額の予算案が短時間で決定された。前年度に比べ8億円を一挙に増額した。この膨大な歳出を賄うため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案が発表されると諸物価が高騰し始め、国民の生活に大きな影響を与えるものとなった。",
"title": "満洲事変"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "同内閣は1936年(昭和11年)11月にベルリンで日独防共協定を調印した。1937年(昭和12年)1月29日に閣内不統一で総辞職して、2月2日に林内閣(林銑十郎首相)が成立するが5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛内閣(近衛文麿首相)が成立する。中国では西安事件で拉致された蔣介石と周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。",
"title": "満洲事変"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "昭和12年には盧溝橋で日中両軍が衝突し、停戦協定後も通州事件、第二次上海事変などが続き、支那事変(日中戦争)が始まった。戦線の拡大に従って思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への協力を国民に求めるという「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるに伴って治安維持法による思想弾圧が目立ち、昭和12年には加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。",
"title": "支那事変(日中戦争)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "近衛内閣の後を受けて昭和14年1月5日平沼内閣が誕生する。平沼は内務・司法官僚の大御所で、枢密院議長でもあった。2月には軍部は海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島と名付けた。この軍事行動はイギリス・アメリカを大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した(天津事件)という。東京では、有田八郎外相とロバート・クレイギー英大使との会談が開かれた。7月になるとアメリカ政府が日米通商航海条約の破棄を通告したのでイギリス政府の対応も変わり日英会談は決裂した。満洲では日本とソ連は昭和14年5月12日のノモンハン事件などで衝突した。8月には第23師団を中軸とする第6軍を新編成して、満洲から集められるだけの飛行機と戦車を投入したが、一万数千人の死者が出た。第23師団は全滅に近い壊滅状態であった。機械化装備や火力、輸送力に格段の差を見せつけられての敗北であった。この事件後、陸軍当局は「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」と異例の談話を発表した。9月16日にノモンハン事件の停戦協定が結ばれた。",
"title": "支那事変(日中戦争)"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ情勢は目まぐるしく変転し8月には独ソ不可侵条約が締結された。三国同盟問題を解決できなかった平沼内閣は昭和14年8月28日に総辞職した。「今回締結せられた独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので我が方はこれに鑑み、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」とその理由を説明している。この説明は、日本の支配層が国際情勢に順応しきれず外交政策を立てることができなくなっていたことを吐露したものと考えられる。",
"title": "支那事変(日中戦争)"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "同年8月30日に阿部内閣が誕生、この後すぐに第二次世界大戦が始まった。内閣は9月4日に「今次欧州戦争勃発に際しては帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす」との声明を出した。ドイツとソ連ではイデオロギーが相容れず手を結ぶことはないと考えていた日本は、外交方針の見直しに迫られた。11月4日からは外相野村吉三郎はアメリカ大使ジョセフ・グルーと会談を始めた。また、決裂状態にあった日英会談再開の気運が生まれた。",
"title": "支那事変(日中戦争)"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日米交渉は進展せず、昭和15年1月には日米通商航海条約は失効した。1月の第75回帝国議会で276人の衆議院議員が阿部内閣の退陣を決議。軍部は反軍的気運の生まれることを恐れて政府不支持の態度をとったので昭和15年1月4日に阿部内閣は退陣した。",
"title": "支那事変(日中戦争)"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "続く内閣に、海軍大将米内光政を首班とする米内内閣が1月16日に成立した。この内閣には、民政党・政友党から2名ずつ、財界からは藤原銀次郎が商相として入閣した。",
"title": "支那事変(日中戦争)"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "昭和15年11月10日から11月14日に、同年が初代神武天皇が即位して2600年にあたるとして「紀元二千六百年式典」が全国で実施される。",
"title": "支那事変(日中戦争)"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "ヨーロッパでは1939年(昭和14年)8月23日に突如、独ソ不可侵条約が発表された。9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵入して、9月3日にイギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が開始された。阿部内閣は「欧州戦争に介入せず」と声明した。1940年(昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏しドイツ、イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。大西洋憲章を制定したアメリカ、イギリスの連合国に対して、日本、ドイツ及びイタリアは枢軸国と呼称されるようになった。また、ソ連との間に日ソ中立条約が締結されて、満洲国・モンゴル人民共和国の尊重と相互不可侵が約束された。",
"title": "第二次世界大戦"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "支那事変(日中戦争)勃発後、陸軍は公然と倒閣運動に乗り出して、畑俊六陸相は国防国家建設のため人心一新を求め単独辞職し、後任の陸相が決まらず1940年(昭和15年)7月16日に米内内閣は総辞職した。",
"title": "第二次世界大戦"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "次期内閣には近衛文麿が第2次近衛内閣として組閣、1940年(昭和15年)7月22日に成立した。近衛を中心とする新体制運動が進められ、同年10月には、大政翼賛会が結成されて、既成政党は解党した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で支那事変(日中戦争)および大東亜戦争(太平洋戦争)の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当たった。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とナチス・ドイツの組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁の赤である、かつての武家政権・幕府の様に皇室を置物にするものであるという強い批判も出て、精神運動を中心に据えるように変わっていった。歴代総裁には近衛文麿、東條英機、小磯國昭、鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また、1941年(昭和16年)には平沼騏一郎内務大臣により公事結社とされて政治活動は禁止されて、有馬らの近衛グループが退陣して、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。",
"title": "第二次世界大戦"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1940年(昭和15年)1月にアメリカ合衆国政府は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本は、ナチス・ドイツや率いるイタリアと1940年(昭和15年)9月に日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ政府の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ政府から石油禁輸を招くに至った。アメリカ・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。",
"title": "第二次世界大戦"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "一方、日本では陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンでソ連軍と衝突した。これによって北方進出を断念し、日ソ中立条約を締結し北の防衛を強固にするなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年(昭和16年)晩秋まで日米交渉を続け、同年10月18日には第3次近衛内閣が総辞職し、東條内閣(東條英機首相)が成立する。",
"title": "第二次世界大戦"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったイギリスや中華民国によるアメリカの参戦の要望、および日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート、実際の草稿者はハリー・ホワイト財務次官補)を受ける。これを日清戦争・日露戦争以降に獲得した全植民地からの撤退要求と解釈した日本政府は、事実上の米国政府による最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。日本はこうして第二次世界大戦へ参戦することとなった。アメリカ、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本、ドイツ、イタリアの枢軸国と対抗した。",
"title": "第二次世界大戦"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のイギリス領マレー侵攻の後、大日本帝国海軍は真珠湾攻撃を行った。同月12日、当時の東條内閣は「今次の対米英戦は、支那事変をも含め太平洋戦争と呼称す」とした。しかし太平洋戦争は生産力の弱さなどから戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から山本五十六連合艦隊司令長官は1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたといわれ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。日本海軍は開戦当初、航空母艦(空母)の艦載機を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。",
"title": "第二次世界大戦"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1942年(昭和17年)、東條英機首相率いる東條内閣は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団・大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに町内会と部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活は隅々まで統制と監視に晒されることとなった。",
"title": "第二次世界大戦"
},
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアは欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年(昭和18年)10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかしながら実態は日本主導であり、未完成であった。",
"title": "第二次世界大戦"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "日本海軍は開戦当初は連戦連勝であったが、ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を損失し、開戦後初の大敗北を喫した。この敗北を機に日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まり、戦線は次第に後退していった。",
"title": "第二次世界大戦"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "この時から国民には虚偽の戦況が伝えられ、国民は日本海軍が敗北していることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころすでに、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともにアメリカの数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年(昭和20年)に解散し、国民義勇隊に改組された。",
"title": "第二次世界大戦"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1944年(昭和19年)7月9日には、サイパン島が陥落しこの敗退の責任を取る形で、7月22日に東條内閣は総辞職し、小磯國昭首相率いる小磯内閣が成立する。日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり(日本本土空襲)、1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲が行われた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。同年4月7日に小磯内閣は総辞職し、元侍従長の鈴木貫太郎首相率いる鈴木内閣が成立する。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は全日本軍の無条件降伏以外は承認しない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。同年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答せず(黙殺)、結果戦争継続の意思を示した。",
"title": "第二次世界大戦"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)8月6日に広島市への原子爆弾投下が実施され、非戦闘員を含め十数万人が死傷した。8月9日には同様に長崎市への原子爆弾投下が実施され、さらに十数万人の死傷者が出た(以上、日本への原子爆弾投下)。これは、世界初の核兵器による爆撃であった。",
"title": "第二次世界大戦"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日本は、主要な国で当時唯一、日ソ中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦政府の仲介での和平工作を試みたが、ソ連はヤルタ会談での申し合わせに従い8月8日の夜に宣戦布告した(ソ連対日参戦)。翌9日未明からソビエト連邦軍が満洲や朝鮮半島北部、樺太、千島列島に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。戦後も長らく解決を見なかった中国残留孤児問題は、この時に生じた。",
"title": "第二次世界大戦"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ソ連の参戦により、講和の望みが絶たれ万策尽きた政府は、8月9日の最高戦争指導会議ではポツダム宣言が要求している日本軍の無条件降伏を問題とせず、「天皇の地位の保障」を条件とする外相案と、それに加え「自主的な武装解除、日本による戦争犯罪人の処罰、占領制限など」の条件を付けよとする軍部案とが対立した。9日深夜に開かれた御前会議でも両案が対立したが、昭和天皇の裁断によって「天皇の地位の保障のみ」を条件に付けることが決定された(昭和天皇自身が地位保障を求めたわけではない)。8月10日に「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受託するという申し入れをラジオと中立国を介して行われた。",
"title": "第二次世界大戦"
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "8月14日の御前会議で、いわゆる「聖断」によってポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。この決定は翌8月15日、昭和天皇自ら「終戦の詔勅」を音読・録音し、同日正午に日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられた。その2日後の8月17日には鈴木貫太郎内閣は総辞職し東久邇宮内閣(日本の内閣史上、最短政権)が成立する。",
"title": "第二次世界大戦"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "こうして日本だけでも300万人、関係諸国を入れると2千万人から3千万人(実数不明)の死者を出したと言われる戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島や南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、8月23日のことだった。9月2日には、ポツダム宣言に調印し、日本は主権を制限され、連合軍 (GHQ) の占領下となった。またソ連軍の侵攻が終了したのは9月5日である(同日までに北方領土全てが占領される)。",
"title": "第二次世界大戦"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "太平洋戦争後、1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効まで連合国軍の軍事占領下に置かれたが、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) の軍政は布かれず、アメリカ政府による直接的な統治があった沖縄・奄美群島・トカラ列島の下7島・歯舞群島・小笠原諸島と、ソ連によって占領された歯舞群島・千島列島・樺太を除き日本国政府が行う間接統治が行われた。出版停止やプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "第一復員省や第二復員省などの復員組織が設置された。日本人は占領地だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍占領地域となった内地(樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部はシベリア抑留され強制労働に従事した。外地から引き揚げは困難を極め、通化事件のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、中国残留日本人問題を後に残した。また、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争や国共内戦などに多くの日本人が加わった。旧満洲国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地側に管理が引き継がれた。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法は大日本帝国憲法の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。その内容は、象徴天皇制の下に主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、法の下の平等および自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力による威嚇または武力の行使によって解決しない「平和主義」を三大原理とした。このため現在の日本では自衛隊への徴兵制度は憲法違反として実施されない。また、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」とされ、立憲君主国として皇室は維持されたものの天皇の国政への関与は禁じられた(象徴天皇制)。1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月にかけて昭和天皇は沖縄県を除く46都道府県を訪問した。昭和天皇が回答する「あっ、そう」の言葉が1946年(昭和21年)の流行語となった。しかし、昭和天皇は1947年(昭和22年)9月19日にはGHQに対して「沖縄メッセージ」で沖縄の長期軍事占領を要望し、1975年(昭和50年)10月31日には「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが止むを得ない事と私は思ってます」と云う日本国憲法で禁止されている政治的な発言をした。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "さらに、GHQの主導により以下の改革が断行された。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)の発効により日本国は主権を回復。GHQの進駐が終わった。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また、日本国憲法第9条では軍隊を保持しないことを定めたが、サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ軍の駐留を在日米軍としてそのまま継続するとともに、翌1952年(昭和27年)には警察予備隊から改称した保安隊(その後の自衛隊)も発足し、事実上の再軍備を行った。冷戦期にはアメリカと同盟してソ連に対抗した。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾・朝鮮・南洋群島、日本本土(内地)の一部であった南樺太・千島列島および色丹島・歯舞群島・小笠原諸島・南西諸島の北緯30度以南を失った。このうち、南西諸島と小笠原諸島は後にアメリカから返還された。千島列島については、樺太・千島交換条約によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は現時点では千島列島のうち、南千島の国後島・択捉島の2島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞群島および色丹島の2島は北海道に属すると説明している。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国 (GHQ) に占領され、最高司令官としてマッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義的な傾向があったが、戦後直後の民主化は東久邇宮内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は民主化の進展に対応できず総辞職し、歴代内閣の中で最短政権を記録している。アメリカの占領下で幣原内閣(幣原喜重郎首相)、次いで吉田内閣(吉田茂首相)を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放によって、社会の指導者層20万人が軍国主義者として公職からの追放処分となったことに加えて被選挙権が停止処分となった。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文部相(現在の文科相)であったことから、政治的活動が制約された。また、占領軍によって検閲が徹底され、連合国や朝鮮人について批判する報道は禁止された。また1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級・B級・C級とは罪の大小を表すものではなく、分類するものである)。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "連合国の日本占領政策は、ソ連が自国領に編入した南樺太・千島列島を除き事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて政策が実施された。占領を巡って、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、スターリンは北海道の北半分のソ連占領を提案したが、トルーマンがこれを拒否した。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロバキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年(昭和26年)、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的にはソ連占領地域(南樺太、千島列島)およびアメリカ占領地域(琉球列島、小笠原諸島)を除く日本政府統治地域(北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島およびそれらの付属島嶼)では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して翌1952年(昭和27年)4月28日に日本は主権を回復した。しかし在日米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "日本国憲法第9条は、国権の発動である戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する平和主義を定めている。そのため、日米安全保障条約や自衛隊の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが1949年10月1日に国共内戦に勝利した中国共産党により中華人民共和国が建国されたことと朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。朝鮮戦争には、占領軍の要請の下で官民8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、多くの犠牲者を出した。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中華人民共和国が成立すると対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置付け、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理も行われた。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1952年(昭和27年)1月18日に韓国が竹島の領有を主張する李承晩ラインを宣言すると、数千人に上る漁民が抑留され、翌年には竹島を軍事占領された。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "文化面においては日本映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカを初めとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語のローマ字化は断念され、1946年(昭和21年)には現代かなづかい・当用漢字の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法を初めとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党が第1党となり片山哲が総理大臣となった。右翼過ぎず、左翼過ぎない内閣の性格から「中道政権」と呼ばれた。GHQのチャールズ・L・ケーディスも民主化推進の立場からこの中道路線を支持していた。昭和天皇は社会主義による急進的な変革は望まなかったが、キリスト教徒である片山の人柄に好感があり、労働問題で日本社会党が支持を得た民意に一定の理解を持っていたとする宮内庁の文書の記述がある。民主党・日本社会党・国民協同党の連立政権である片山内閣と芦田内閣が以下の経済政策 を実施した。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "他に生活保護法を成立させて、1950年(昭和25年)に生活保護制度の運用を開始するなどの政策が行われた。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "昭和20年代に全国水平社が改組して部落解放同盟となった。日本社会党と協力して部落解放運動を行い、格差改善と集落の改良事業を行った。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。しかし戦後混乱期の頃は、下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。独立回復後の1952年(昭和27年)5月1日には血のメーデー事件があった。同時にレッドパージが行われ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。芦田均が関与して逮捕された昭電疑獄で中道政権は崩壊する。",
"title": "戦後のGHQによる占領時代"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要の増大も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代に続く驚異的な高度経済成長(昭和30年代〜昭和40年代の名目経済成長率が世界1位の15.4%だった。昭和30年度の8兆5000億円だったGNP(国民総生産)は昭和45年度には70兆円となり、15年間に8.5倍以上の規模となり世界第2位の経済大国となる)を遂げるに至る。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
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"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "都市部には高層ビルが立ち並び、鉄筋コンクリートのアパートや郊外の建売住宅に住む人が急増した。日本中から蒸気機関車が消えて、電車やディーゼルカーが走り回るようになった。主要道路はアスファルトで舗装された。新幹線(東海道新幹線)と高速道路(東名高速道路・名神高速道路)が完成した。平田佐矩(四日市市長)や大野伴睦(自民党の国会議員)などによって東海地方と日本海を結ぶ日本横断運河の建設が計画された。ほぼ全ての家庭にテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫・電話が普及して、自家用車も珍しくなくなった。デパートやホテルに行ったり、特急列車に乗れば冷房の恩恵を受けられるようになった。パンや肉・ケーキといった洋食や洋菓子も普段食べるようになった。平均寿命は世界有数となり、大学進学率も激増した。そのかわり大都市部では人口過密、農村部では過疎という現象が生じて、公害や交通戦争が社会問題となった。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "敗戦直後にはインフレーション(戦後インフレ)に見舞われた。傾斜生産方式 を採用して、ドッジ・ライン(安定恐慌)が起こる。朝鮮戦争勃発で朝鮮特需(特需景気)が起こる。1954年(昭和29年)から高度経済成長が開始されて、ガチャマン景気による繊維産業の好景気があり、好景気と不景気を繰り返しながら日本経済は順調に成長した。1955年(昭和30年)に社会党右派と社会党左派にが再統一された日本社会党と自由党・日本民主党が合同した自由民主党が結成されたことで、55年体制が成立した。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "昭和20年代には、以下の家電製品がヒット商品となった。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "昭和元禄 と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。手塚治虫・石ノ森章太郎・藤子不二雄・長谷川町子・水木しげる・赤塚不二夫などの漫画を原作としたアニメなどの作品 や黒澤明・円谷英二が映画監督となった邦画などの昭和文化や大衆文化が生まれた。流行歌が普及して美空ひばり・藤山一郎などの歌手や石原裕次郎 や渥美清などの俳優がスターとなり芸能界で活躍した。漫画・映画と並んでテレビ放送も普及した。昭和40年代はプロ野球のV9時代であり、大相撲は昭和30年代から昭和50年代にかけて、力道山がプロレスで活躍するなど格闘技人気があった。「巨人・大鵬・卵焼き」などの流行語が 誕生した。東海道新幹線開業(1964年〔昭和39年〕)名神高速道路開通(1963年〔昭和38年〕)東京オリンピックの開催(1964年〔昭和39年〕)日本万国博覧会(1970年〔昭和45年〕の大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "この奇蹟の復興は、アメリカの戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。その反面、日米安保条約と日米地位協定によってアメリカ軍が日本各地に残されており、駐留国負担(後の思いやり予算)の出費も大きく、アメリカ軍犯罪時の裁判や事故などを巡ってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄県ではこうした問題がしばしば起こった。また、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則が国是とされた一方で、日本政府とアメリカ政府との間で、有事における日本国内への核持ち込みを黙認する密約が結ばれたことも、明らかにされつつある。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "若者の農家離れによって、農民(特に青壮年の男性)が農家から会社員になるようになり、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が急増して、機械化が進んで専業農家より兼業農家の方が多くなった。学校給食がパン食になって育った戦後世代の主食が米からパンとなり、米余りになると減反政策を行い、転作によって小麦の輸入が増加し、その結果日本の食料自給率が低下した。戦後期は捕鯨が盛んで鯨肉が主流の肉食であったが、昭和50年代以降、IWC(国際捕鯨委員会)で商業捕鯨が禁止されたことによって牛肉・豚肉・鶏肉が主流の肉食となった。高度経済成長期に調理の熱源が薪や炭から電気・ガスに変わった。昭和30年に東京芝浦電気が電気炊飯器を発売したことが発端となり、竈などを使用する炊飯方法から炊飯器を使用したものに変化した(当時は電気炊飯器とガス炊飯器がほぼ互角だった)。炊飯の調理から副食中心の料理に主婦の仕事が変化した。ガスコンロの普及で洋食や中華料理の調理が容易となった。昭和40年代の冷蔵庫の普及で生鮮食品が登場した。昭和35年ごろから米の消費量が減少してパン・麺類・肉・乳製品・魚介類・野菜の消費量が増加した。昭和42年から米余りになり昭和45年から米の生産調整が実施された、昭和40年頃に日清食品のインスタントラーメンなどインスタント食品が多数開発された。昭和43年には初のレトルト食品、昭和46年にはカップ麺が開発された。昭和45年以降ファーストフード店やファミリーレストランやコンビニエンスストアが普及した。ラーメンやコーヒーやコロッケやハンバーグが国民食となった。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "戦後の住宅事情は、戦災による住宅焼失と復員や引揚げによる人口増加で住宅が不足する住宅難となっていた。1950年(昭和25年)には、持ち家建設を支援するために住宅金融公庫が創設された。1951年(昭和26年)には田中角栄を中心とする議員立法で地方自治体が住宅を建設する公営住宅法が成立した。1955年(昭和30年)には、第2次鳩山一郎内閣によって日本住宅公団が創設された。昭和31年から昭和33年頃にかけてアジア風邪が流行したが厚生省が創設された影響で国民の医療条件が改善された。戦後期に死亡要因1位が結核から癌になり、日本は1年間の死亡者が急減する少死社会になった。高度経済成長期には、昭和一桁世代の夫婦2人と新人類世代の子供2人の合計4人の家が平均家族モデルとなった。ダイニングキッチンと和室2つと水洗トイレが完備された団地で洋風生活をする団地族が出現した。都市部では銭湯が多かったが下町の銭湯が減少した。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1948年(昭和23年)に優生保護法が成立して人工妊娠中絶が合法化された。民法が改正されて遺産相続が男女平等となった。参政権を獲得した女性が、更なる地位向上を目指して女性解放運動が活発化した。1970年(昭和45年)にウーマンリブ運動が開始されたことに続いて、1975年(昭和50年)が国際婦人年とされて女性の地位向上が人類的な課題となった。1956年(昭和31年)に売春防止法が成立、1958年(昭和33年)4月1日にはが施行され公娼制度が完全に廃止、赤線が消滅した。1947年(昭和22年)10月26日の刑法の改正で姦通罪が廃止された。1947年(昭和22年)には民法の大幅な改正で家制度が廃止された。昭和20年代に主流だった産婆の補助による出産から、昭和30年代には産婦人科での出産が増加した。昭和45年頃にお見合い結婚が減少して急増した恋愛結婚と婚姻数が逆転して社内結婚が主流の社会となった。昭和50年代からバブル期に学生結婚が急増した。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
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"text": "ファッション面では、パンティーやブラジャーなどの洋風下着類やナプキンやタンポンなどの生理用品が普及した。昭和30年代にアッパッパと呼ばれる筒型のワンピースが普及した。昭和40年代には団塊の世代の女性を中心にミニスカートブームがあり、スカートや着物以外に女性がズボンを着用することが公認された。女性が肌を露出する水着の着用が認知されて、若い女性の間で水着が普及した。髪型ではショートカットが社会的に認知されて、化粧品や美容院・美容整形などの女性ビジネスが普及した。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
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"text": "生活面では、昭和30年代にミシンが普及して経済面では個人店や百貨店主流のショッピングから主婦が買い物しやすいスーパーマーケットが普及した。男女平等や高学歴化が進んでいなかった戦後世代の昭和一桁世代からしらけ世代の女性は、夫がサラリーマンで子供が平均2人の家族が平均的なモデル家庭とされた。戦後世代の女性は専業主婦が主流だった。高等教育を受ける女性が急増した新人類世代以降の20代の高学歴女性ではOLが増加するなどの変化があった。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
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"tag": "p",
"text": "急速な高度経済成長に合わせて高齢化の進行と乳児死亡率など病死の減少が進み、都市の人口の急増が進んで日本の人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、昭和40年代には日本の総人口がついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口の中で勝ち残るための競争に身を捧げることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは「金の卵」と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
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"tag": "p",
"text": "一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学して、高等教育の大衆化が進んだ。「60年安保」では国会議事堂にデモ隊が集結し岸内閣退陣運動があった。1960年代(昭和35年)頃に浅沼稲次郎暗殺事件など暴力事件による右翼テロが相次いだ。1970年(昭和45年)の70年安保闘争をピークとする左翼運動の高潮があり、欧米のベトナム戦争反対闘争や五月革命などと期を一にしていた。全共闘世代と言われる若者たちの一部は、「既成左翼」(日本共産党および日本社会党)の平和革命路線に反発した新左翼運動に身を投じ、機動隊や日本共産党系、右翼系の若者と衝突を繰り返した。日本の学生運動の挫折を経て、新左翼運動は孤立化し、日本赤軍・連合赤軍・よど号グループなどは過激化して内ゲバや一般市民を巻き込む日本赤軍事件・あさま山荘事件・成田空港管制塔占拠事件・連続企業爆破事件・よど号ハイジャック事件などのテロ活動へと追い込まれていった。彼らの起こした数々の事件は、それまで比較的同情的な面もあった世論の反発を引き起こした。若者たちの多くも東大紛争が失敗に終わると過激化した学生運動から距離を置くようになり、都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "昭和30年代には、国民皆保険体制が整備されて、高度経済成長の弊害として、4つの公害裁判となった公害病を指す『四大公害病』と言う言葉が誕生した。 昭和30年代から昭和49年頃にかけて三重県四日市市で発生した四日市ぜんそく(別名は塩浜ぜんそく・四日市公害)・神奈川県川崎市で発生した川崎公害(主な公害病名は川崎ぜんそく)など工業地帯や都市部での大気汚染が深刻化した。熊本県水俣市で発生した水俣病(別名は熊本水俣病)・新潟県阿賀野川流域で発生した新潟水俣病(別名は第二水俣病・阿賀野川水銀中毒)などの水銀中毒が発生し、また、富山県神通川流域で発生したイタイイタイ病も問題化した。深刻な公害に対応するために公害対策基本法が成立した。鉄道中心の交通から自動車中心の社会となり日本国有鉄道はローカル線を中心に赤字経営となった。昭和30年代から昭和40年代にかけて鉄道の電化工事が行われて、蒸気機関車が全廃された。モータリゼーションにより交通事故による死者が激増して、交通戦争と 言われるようになった。こうした時代状況で野党は、日本社会党や日本共産党が社会主義革命を唱える労働者政党から都会住民を支持基盤とする革新政党に変化して、中道政治を唱える民社党や創価学会を支持基盤とする公明党は都市部で支持者を増やして、労働者の地位向上や公害対策や高齢者などの福祉政策に積極的に取り組んだ。野党は昭和40年代に主婦層や商工業者、サラリーマンなどの都市住民に支持を広げた。大企業優先の成長路線だった自由民主党も、佐藤栄作首相の強力なイニシアチブの下、1971年(昭和46年)に環境庁を新設した。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
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"paragraph_id": 92,
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"text": "臨時北部南西諸島政庁が設置されていた南西諸島地域は、1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島が1953年(昭和28年)に12月25日アメリカから日本に返還された。1968年(昭和43年)6月28日に南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定により小笠原諸島が返還された。1972年(昭和47年)5月15日に、琉球政府が設置されていた沖縄県が日本に復帰した。県民の祖国復帰運動が実った結果だが、沖縄のアメリカ軍基地がそのまま残されたことは後に禍根を残した。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
{
"paragraph_id": 93,
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"text": "高度経済成長の進展とともに燃料が石炭から石油へ転換するエネルギー革命が開始されて、これまで有力産業の一つであった炭鉱業界の合理化が迫られて1959年(昭和34年)〜1960年(昭和35年)に三井三池争議があった。1973年(昭和48年)の第一次オイルショック(石油危機)に伴い、狂乱物価抑制のための総需要抑制策が執行されて、高度経済成長は終焉することとなった。田中角栄内閣は石油や天然ガスなど海外からの資源に依存する火力発電から脱却して原子力発電を推進するために、電源開発促進税法・特別会計に関する法律・発電用施設周辺地域整備法の電源三法を成立させた。",
"title": "講和後・高度経済成長期"
},
{
"paragraph_id": 94,
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"text": "高度経済成長により日本は、過剰人口問題を解決して国民の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。2度のオイルショック後の急激なインフレーション(狂乱物価)と不況は短期間で終わり、素材産業など一部の重厚長大産業は没落したが、省エネルギー化を推進して、ハイテク産業・サービス業が成長して、安定成長へと順調に移行することができた。欧米諸国がスタグフレーションに苦しむ中、自動車や電化製品の生産を激増させ、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって貿易黒字は増大の一途を辿り、ついに日本の経済は昭和40年代にソ連・西ドイツを抜き世界第2位の経済大国となった。1980年(昭和55年)には、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国の経済に次ぐ規模を持うようになり、国民の生活レベルは一億総中流と呼ばれた。この間、コンビニ・ウォークマン・カラオケが普及して、日米貿易摩擦が問題となった。日本の人口の増加は戦後急速に進んでいたが、団塊の世代(特に女性)の結婚が増加した影響で(昭和46年度〜昭和49年度)に第2次ベビーブームが発生したのが日本の人口構造の転換点となった。出生数が一時的に増加した直後の1975年(昭和50年)以降はしらけ世代の女性の未婚率の上昇で出生率が2人を下回った。昭和50年代から日本国は少子高齢化社会へと移行していく。",
"title": "安定成長期とその後のバブル景気"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "都市部の人口流入と農村部の人口減少が続き過疎と過密が社会問題となった。昭和40年代には、大都市部を中心に革新勢力が台頭して、社会党と共産党の革新統一のための協定が結ばれ、東京都の美濃部亮吉を初めとして、京都府・大阪府・神奈川県などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。中でも京都府では、蜷川虎三が7期28年にわたり知事を務めた。こうした中、保守勢力(自由民主党)は三大都市圏や太平洋ベルトの工業地域で深刻化した過密と農村部で深刻化した過疎の人口問題や地域格差の解決と、革新勢力への対抗のため、都市部のインフラ整備を急ぐとともに、農村部にも道路や圃場整備などの公共事業投資を増加させ、農村部の保守層からの支持を取り付ける利益誘導政策を行った。社会保障面でも、1961年(昭和36年)に国民皆保険が実現して、1973年(昭和48年)には老人医療自己負担無料化が実現して、本格的な福祉国家実現への機運が高まった。こうしてGDPの約1割を占めるほどに膨れ上がった公共事業投資と高齢化に伴い増加した社会保障投資は、財政悪化の主な要因となった。",
"title": "安定成長期とその後のバブル景気"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "1972年(昭和47年)には、日本列島改造論を唱えた田中角栄内閣が成立した。ロッキード事件を経て、三角大福中の自由民主党の派閥争い の時代となった。保革伯仲国会で中道政党(公明党・民社党)と革新政党(日本社会党・日本共産党)が勢力を伸ばす中、田中角栄が闇将軍として君臨した。1976年(昭和51年)以降は自由民主党出身の政治改革派が分離した新自由クラブや日本社会党から構造改革派が分離した社会民主連合などの議員数が少数の新党が結成された。昭和30年代の自由民主党と日本社会党の保守・革新の二大政党制の時代から、昭和40年代から昭和50年代にかけて中道政党や都市型新党が勢力を伸ばして多党化が進んだ。1980年(昭和55年)のハプニング解散による衆参同日選挙で自由民主党が大勝して社共共闘が消滅したこともあり、保守勢力の巻き返しが顕著となる。昭和50年代になり政治的な思想面では靖国神社問題や歴史教科書問題で右翼と左翼の対立が激化して、赤報隊事件などの右翼によるテロ事件が起きた。昭和22年の時点で元号が法制度上廃止されていたが昭和元号の使用普及率は高い状態だった。1947年から1979年までの期間は昭和が慣習として広く国民全体に普及していただけで法制上の根拠が不明確な状態だったので、左翼の間で元号廃止の動きがあった。元号に法的根拠を与えるために1979年(昭和54年)6月6日に大平内閣が元号法を成立させて、改元の法的準備ができた。元号法は同6月12日に公布、即日施行された。",
"title": "安定成長期とその後のバブル景気"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "ビートルズ来日時に前座を務めたザ・ドリフターズのお笑いコント番組『8時だョ!全員集合』が1969年(昭和44年)から放送開始。最高視聴率50%を記録し、1985年(昭和60年)に最終回を迎えるまで約16年間続く国民的長寿番組となる。",
"title": "安定成長期とその後のバブル景気"
},
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"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "昭和50年代に森昌子・桜田淳子・山口百恵の花の中三トリオやキャンディーズ・ピンク・レディー・松田聖子などの芸能人が国民の間で話題となった。バブル景気が始まった昭和60年代にはおニャン子クラブなどのアイドルブームがあった。",
"title": "安定成長期とその後のバブル景気"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "教育面では、受験競争・偏差値教育・学歴社会・管理教育が進行して、1986年(昭和61年)の中野富士見中学いじめ自殺事件で注目されたいじめによる自殺問題・少年犯罪・非行、歴史教科書問題、子供の間でのゲームセンターや「ファミリーコンピュータ」の流行まで、教育問題がマスコミから非難された。経済界の要望で高専設置の教育改革と、詰め込み教育から個性重視教育への転換とゆとり教育の必要性が盛んに唱えられた。",
"title": "安定成長期とその後のバブル景気"
},
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"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "鈴木内閣から中曽根内閣時代に行政改革が叫ばれて臨調が設置された。中曽根内閣の行革路線を皮切りに、老人医療の無料化制度を廃止するなどの福祉の縮小が行われた。三公社民営化(日本専売公社 → 日本たばこ産業 。日本国有鉄道 → 日本国有鉄道清算事業団とJRグループ。日本電信電話公社 → NTTグループ)と消費税導入計画が構想されて、野党の猛反対があったが、1988年(昭和63年)に消費税法案が可決した。福祉国家路線は見直されて新自由主義路線へと舵が切られた。イギリスのサッチャリズム、アメリカのレーガノミクス、東側諸国のペレストロイカや改革開放政策、そしてアジアNIEs諸国の躍進などの世界経済の大転換期の中で、日本の経済はプラザ合意を発端とする円高の進行で日本銀行による円高不況対策が行われて内需拡大が続くバブル景気に突入した。1986年(昭和61年)に男女雇用機会均等法が執行されて、昭和60年代に女性の社会進出が進んだ。学生は就職売り手市場でありバブル世代と呼ばれた。好景気の中、昭和の時代は平成へと移り変わり、冷戦の終結を迎える。",
"title": "安定成長期とその後のバブル景気"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "革新政党などの反対の中、佐世保基地にエンタープライズが直航、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争発生。イタイイタイ病が公害病として認定。小笠原返還協定により、小笠原諸島などの南方諸島が返還される。川端康成が日本人初のノーベル文学賞受賞。東京都府中市で、三億円事件発生。漫画『ゴルゴ13』の連載開始。",
"title": "略年表"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "など複数の世代で構成されている。",
"title": "現代における昭和"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "他にも昭和町という地名は日本全国の至る所に存在している。",
"title": "昭和を冠するもの"
}
] | 昭和は、日本の元号の一つ。 大正の後、平成の前。大化以降230番目、246個目の元号である。昭和天皇の在位期間 である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。 日本史の時代区分上では、元号が昭和であった期間を昭和時代といい、グレゴリオ暦(西暦)において20世紀の大半を占める。本項ではこの時代についても記述する。 | {{Otheruses}}
{{日本の歴史|Emperor Showa.jpg|画像説明=[[昭和天皇]]}}
{{読み仮名|'''昭和'''|しょうわ}}は、[[日本]]の[[元号]]の一つ。
[[画像:TaroTokyo20110213-TokyoTower-01min.jpg|thumb|175px|1958年(昭和33年)に竣工した[[東京タワー]]。]]
[[大正]]の後、[[平成]]の前。[[大化]]以降230番目、246個目<ref group="注">[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[北朝 (日本)|北朝]]の元号を除くか含めるかによる。</ref>の[[元号]]である。'''[[昭和天皇]]'''の在位期間<ref group="注">昭和天皇は父・[[大正天皇]]の病状を受け[[1921年]](大正10年)11月25日に「[[摂政#近現代(戦前)|摂政宮]]」に就いている。</ref> である[[1926年]](昭和元年)[[12月25日]]から[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]まで<ref group="注">[[昭和天皇]]は[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]午前6時33分に崩御し、[[明仁|皇太子明仁親王]](現・上皇)が同時刻に直ちに[[皇位継承]]。同日中に元号を改める政令が新天皇の署名によって公布され、同政令の附則の施行期日の定めに基づき、昭和は同日午後12時を以て幕を閉じ、翌[[1月8日]]午前0時を以て[[平成]]と改元された。</ref>。
[[日本史時代区分表|日本史の時代区分]]上では、元号が昭和であった期間を{{読み仮名|'''昭和時代'''|しょうわじだい}}といい、[[グレゴリオ暦]]([[西暦]])において[[20世紀]]の大半を占める。本項ではこの時代についても記述する。
== 概説 ==
{{Double image aside|right|Hirohito in dress uniform.jpg|153|Empress Nagako.jpg|145|[[昭和天皇]]|[[香淳皇后]]}}
[[大正天皇]]の[[崩御]]に伴い、[[皇太子]]裕仁親王が[[皇位継承|皇位を継承]]し、即日「昭和」と[[改元]]された。昭和天皇(裕仁親王)の崩御に伴い、皇太子[[明仁|明仁親王]](現[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])が皇位を継承し、「平成」と改元されることとなって幕を閉じた。
最も長く続いた日本の元号で64年を数えるが、「元年」と「64年」は共に7日間しか使用されなかったため実際の期間は62年と14日となる。外国のものを含めても最長の元号であり、歴史上60年以上を数えた元号は、昭和の他には、[[清]]の[[康熙]](61年)と[[乾隆]](60年)しかない。
最長の元号である上、この期間は[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]])が終結した[[1945年]](昭和20年)[[9月2日]]や[[終戦記念日]]の同年[[8月15日]]を境に、それ以前の約19年間は戦前(および戦中)、以後の43年余は戦後と、社会の価値観・諸制度や政治体制が大きく異なる時代に分かれ、世界史上の[[時代区分]]もそれぞれ[[近代]]・[[現代 (時代区分)|現代]]と別になっており、一体的に捉えることは難しい。
== 改元 ==
{{枠の始まり|紫}}『[[書経]]』堯典
百姓'''昭'''明、協'''和'''萬邦<br/>→{{ruby|[[百姓]]|ひゃくせい}}{{ruby|'''昭'''明|せうめい}}にして、{{ruby|萬邦|ばんぱう}}を{{ruby|協'''和'''|けふわ}}す
{{枠の終わり}}
昭和は[[登極令]]([[皇室令]]の一部)による制度での最後の元号であり、[[1979年]](昭和54年)の[[元号法]]制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされた<ref group="注">[[1947年]](昭和22年)の[[旧皇室典範]]の廃止・[[日本国憲法]]及び現[[皇室典範]]の施行によって、元号に関する条文が削除され、元号は法的根拠を消失した。しかし、その後も慣習として昭和の年号は公私を問わず広く使用され続けた結果、[[1979年]](昭和54年)の[[元号法]]の制定に至った。</ref>。
「昭和」の由来は、[[四書五経]]の一つ[[書経]]堯典の「百姓'''昭'''明、協'''和'''萬邦」(百姓昭明にして、萬邦を協和す)による。漢学者・[[吉田増蔵]]の考案。「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である<ref>[https://web.archive.org/web/20190203024604/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019020200439&g=soc 「明治」は11度目の正直=選から漏れた元号案、最多は40回]、時事ドットコム、2019年2月2日15時19分。</ref>。なお、[[江戸時代]]に全く同一の出典で「'''[[明和]]'''」([[1764年]]〜[[1772年]])の元号が制定されている(「百姓昭'''明'''、協'''和'''萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。
当時[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長だった[[倉富勇三郎]]の日記によれば、[[宮内省]](現:[[宮内庁]])作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「[[同和]]」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「[[同和]]」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「[[光文事件|光文]]」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。
=== 開始 ===
{{Wikisource|昭和ト改元}}
[[1926年]]([[大正]]15年)[[12月25日]]、[[大正天皇]]が[[崩御]]し、同日に[[皇太子]]([[摂政#近現代(戦前)|摂政宮]])裕仁親王の[[践祚]]を受けて直ちに[[改元]]の[[詔|詔書]]が公布されて昭和に即日改元し、1926年の最後の1週間だけが昭和元年となった([[西暦]]の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある<ref group="注">「昭和改元の詔」の日付は大正15年12月25日であり、同じ日に公布された大喪使官制(昭和元年勅令第1号)の日付は昭和元年12月25日となっている。</ref>)。なお、この際に[[東京日日新聞]]が「新元号は光文」と[[誤報]]した([[光文事件]])。
昭和改元の詔書(1926年〔大正15年〕12月25日)
{{Quote|{{kyujitai|朕󠄂皇祖󠄁皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵󠄁ヒ元號ヲ建󠄁テ大正十五年十二月󠄁二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス}}(以下略)}}
=== 終了 ===
{{Wikisource|元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)|元号を改める政令}}
[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]午前6時33分、昭和天皇が崩御。<!--即日-->これに伴い[[1947年]](昭和22年)に施行された日本国憲法及び[[皇室典範]](昭和22年法律第3号)第4条の定めるところにより[[明仁親王]](昭和天皇第1皇男子)が[[皇位継承|皇位を継承]]し、第125代天皇となった。そのため、[[1979年]](昭和54年)に施行された「[[元号法]](昭和54年法律第43号)」の規定に基き「[[元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)]]」が7日中に公布・翌[[1月8日|8日]]に施行されて、[[平成]]と改元した。
元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日)
{{Quotation|内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
元号を平成に改める。
附則
この政令は、公布の日の翌日から施行する。}}
== 第一次世界大戦後 ==
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の[[世界大戦]]に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する[[国家総力戦|大規模近代戦争]]を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には[[立憲君主制]]の体裁を取り、当初の[[藩閥|藩閥政治]]を脱して[[1920年代]]には[[政党内閣|政党が内閣を構成]]するようになり、[[大正デモクラシー]]の風潮を受け継ぐ形での[[政党政治]]が行われた。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。[[1920年代]]末から独立性を強めた軍部は、[[1930年]](昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事[[クーデター]]により、ついには政党政治を葬り去った。
== 金融恐慌 ==
[[第一次世界大戦]]では[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]による稀に見る好況を迎え、[[日本の経済|日本経済]]は大きく急成長を遂げた。しかし、大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも[[戦後恐慌]]となった。
さらに[[関東大震災]]が起こり[[震災恐慌]]となり、震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする[[銀行]]への[[取り付け騒ぎ|取りつけ騒動]]が[[1927年]](昭和2年)[[3月15日]]から生じ、4月20日前後には最高潮に達して[[昭和金融恐慌]]となった。昭和初期に[[東北地方]]が大[[凶作]]に見舞われて農家の女性達は養育能力がなかったため、[[間引き]]が盛んに行われた。[[冷害]]や[[貧困]]のために東北地方の[[農村]]では「[[娘の身売り]](未婚女子の人身売買)」や「[[欠食児童]]」が[[社会問題]]となった。
[[第1次若槻内閣]]([[若槻禮次郎]]首相)は[[鈴木商店]]の[[不良債権]]を抱えた[[台湾銀行]]の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、[[枢密院 (日本)|枢密院]]の反対にあい、[[内閣総辞職|総辞職]]した。
後を受けた[[田中義一内閣]]([[田中義一]]首相)は[[高橋是清]][[財務大臣 (日本)|蔵相]]の下で、3週間の[[モラトリアム]](支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と[[日本銀行]]から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行([[三井銀行]]・[[三菱銀行]]・[[住友銀行]]・[[安田銀行]]・[[第一銀行]])へ預金が集中した。
一方、[[中国]]([[中華民国]])では[[1925年]](大正14年)に死去した[[孫文]]の後を[[蔣介石]]が継ぎ、[[1926年]](大正15年)7月に[[中国国民党]]の[[国民政府]]軍は蔣介石を総司令として[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始し、10月には[[武漢]]を占領し、ここに政府を移して、翌年の[[1927年]](昭和2年)3月には[[上海市|上海]]を占領、ついで[[南京市|南京]]も手中に収めた<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店〈岩波新書355〉1959年 32ページ</ref>。
== 田中内閣と山東出兵 ==
田中内閣は、[[張作霖]]を動かして満蒙での諸懸案の解決を図ろうとして3回<ref group="注">第1回は[[1927年]](昭和2年)[[5月28日]]「居留民保護」の名目で出兵。第一次大戦以来山東省には日本の各種の権益が多く、多くの日本人も居留していた。徐州に迫っていた国民政府軍(国民革命軍)の阻止が主目的で在った。第2回は[[1928年]](昭和3年)[[4月19日]]に一次出兵と同じ目的で一個師団を投入した。しかし、中国統一や民族運動に譲歩していた英米とは違って、日本は中国の民族運動を抑えるためであった。5月3日には居留民殺傷という理由で済南城を攻撃し占領した。第3回は9日後の[[1928年]](昭和3年)[[5月9日]]にさらに一個師団を増派し、合わせて15,000の大群で華北を抑えた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 39と44-45ページ)</ref> に及ぶ[[山東出兵]]を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて[[東方会議 (1927年)|東方会議]]を開き、[[満洲|満]][[内モンゴル自治区|蒙]]の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は[[張作霖]]と交渉し、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、[[関東軍]]は張の乗る列車を[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]に爆破して暗殺した([[満洲某重大事件]])。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀[[河本大作]]の仕業であった。このため国内の野党から「[[張作霖爆殺事件|満洲某重大事件]]」として追及され、田中首相は上奏しようとしたが、昭和天皇から説明を聞きたくないと不快感を表明され、[[田中義一内閣|田中内閣]]はこのため[[1929年]](昭和4年)[[7月2日]]に総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。
田中内閣は、[[護憲運動|第二次護憲運動]]で誕生した[[護憲三派]]の内閣である[[加藤内閣]]([[加藤高明]]首相)とりわけ、外相である[[幣原喜重郎]]が行った外交政策である中国内政不干渉政策([[幣原外交]])を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中は自ら外相を兼任し中国での革命の進展に対して強く干渉した。
ところが、中国での武力行使に対する列国の批判を交わすためもあって[[1928年]](昭和3年)、[[フランス]]の[[パリ]]で締結されたいわゆる[[不戦条約|パリ不戦条約]]には調印した。ただ、この不戦条約は第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、「[[国体]]をないがしろにするもの」とする批判が国内に生じた。このため、新聞紙上でも侃々諤々の論議が行われた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化を図ったことでも知られている。
== 普通選挙 ==
昭和初期は[[大正デモクラシー]]の成果で[[二大政党制]]([[政友会]]・[[憲政会]])の時代となり、[[日本政府]]の積極的な[[公共投資]]による経済復興を主張する[[立憲政友会]]と、財政削減と民間活力の重視による経済復興を主張する憲政会(昭和2年から[[立憲民政党]]に改称した)の二大政党が交互で内閣を組閣する[[議院内閣制]]のもと「[[憲政の常道]]」とも呼ばれる[[政党政治]]の時代であった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]20頁〜21頁</ref>、特に[[日本国民]]の2割に当たる1200万人の男性[[有権者]]が投票した[[1928年]](昭和3年)[[2月20日]]の男子[[普通選挙]]([[第16回衆議院議員総選挙]])実施後、予想外の進出を示した[[無産政党]]や[[日本共産党]]に対する[[弾圧]]を強め、1928年(昭和3年)に[[三・一五事件]]、翌年に[[四・一六事件]]を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行った。その間、[[勅令|緊急勅令]]により、[[治安維持法]]を改正して最高刑を[[死刑]]とした。
一方、文化や社会科学の研究では[[マルクス主義]]が隆盛し、[[1932年]](昭和7年)には、[[野呂栄太郎]]らによる『[[日本資本主義発達史講座]]』が[[岩波書店]]から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「[[講座派]]」と呼ばれたが、それに対して批判的な[[向坂逸郎]]らは雑誌『[[労農]]』により、「[[労農派]]」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、[[国家主義]]的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束していくこととなった。[[井上日召]]が[[血盟団]]を組織した。後に創価学会と公明党組織の基礎となる[[創価教育学会]]が誕生した。
[[1929年]](昭和4年)[[10月24日]]、[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]での[[ウォール街大暴落 (1929年)|株価の大暴落]]によって[[世界恐慌]]が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた[[濱口内閣]]([[濱口雄幸]]首相)が実行した[[金解禁]]を契機として[[昭和恐慌]]が引き起こされた。この[[恐慌]]は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。[[イギリス]]・[[フランス]]・[[アメリカ合衆国]]などは植民地囲い込みによる[[ブロック経済]]で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で[[天文学]]的[[戦争賠償|賠償金]]を負っていた[[ドイツ]]や、高収益な[[植民地]]を所有しない日本などは深刻な経済不況に陥った。このことは[[ファシズム]]の台頭を招き、ドイツでは[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]を生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。[[1930年]](昭和5年)、アメリカやイギリスが中心となり[[ロンドン海軍軍縮会議]]が開催された。これは第一に、主力艦を[[1936年]](昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日 = 10:10:7とするものであった。全権大使[[若槻禮次郎]]はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した([[統帥権|統帥権干犯問題]])。
== 満洲事変 ==
[[1931年]](昭和6年)4月、若槻礼次郎首班の[[立憲民政党]]内閣(第二次若槻内閣)が成立した。7月には[[長春市|長春]]付近で朝鮮移民と中国官憲・農民との衝突事件が起きて、一触即発の情勢が生まれていた。陸軍は8月に「満洲問題解決方針の大綱」を決定していた。
同年9月18日には関東軍の謀略により[[満洲事変|柳条湖事件]]を契機に[[満洲事変]]が勃発した。関東軍は[[瀋陽市|奉天]]、長春、[[公主嶺市|公主嶺]]、[[四平街]]などの[[南満洲鉄道]]沿線の[[首都]]と主要都市で軍事行動を起こして、戦時体制に入った。このことが[[1945年]](昭和20年)の敗戦までにわたる戦争の第一歩となった<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 78-79ページ</ref>。政府は戦争不拡大の方針を採ったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった([[塘沽協定]]で日中間は一旦停戦となる)。
日本の[[満洲国]]建国に前後して、[[国際連盟]]はイギリスの[[ヴィクター・ブルワー=リットン]]率いる[[リットン調査団]]を派遣し、その調査結果に基づいて、[[1933年]](昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1<ref>反対は日本のみ、ほかに[[タイ王国|シャム(タイ)]]のみが棄権</ref> で可決した。日本は2月20日の閣議で同勧告案が可決された場合の脱退を決めていたので[[松岡洋右]]代表は退場(2月24日)し、3月27日には国際連盟脱退を通告した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなる。
また[[1932年]](昭和7年)2月9日、[[第18回衆議院議員総選挙]]戦中に民政党の[[井上準之助]](前蔵相)が選挙応援中に射殺され、[[3月5日]]には[[団琢磨]](三井合名理事長)が[[三井銀行]]本店の入り口で[[射殺]]された。いわゆる[[血盟団事件]]である。続いて5月には海軍将校らが[[犬養毅]]首相を射殺した[[五・一五事件]]が起こり、[[犬養内閣]]総辞職の後、5月26日に斉藤実内閣が成立したが、[[帝人事件]]の贈収賄容疑が閣内に波及したため、[[1934年]](昭和9年)[[7月3日]]に総辞職し、[[7月8日]]に[[岡田内閣]]([[岡田啓介]]首相)が成立した。[[軍部]][[急進派]]や[[右翼団体]]を中心に、[[明治維新]]の精神の復興、[[天皇親政]]を求める「[[昭和維新]]」を[[スローガン]]とする[[右翼]]思想が唱えられ、この影響で[[1936年]](昭和11年)には[[皇道派]]の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した[[二・二六事件]]が起こった。[[1936年]](昭和11年)[[2月28日]]に[[岡田内閣]]は総辞職し、[[政党内閣]]は終焉に至った。
その後、同年3月9日に成立した[[廣田内閣]]([[広田弘毅]]首相)は、二・二六事件に対する措置として大規模な粛軍を実行した一方で実質廃止となっていた[[軍部大臣現役武官制]]を復活させた。しかし、その制度は軍の協力なしでは組閣が難航する問題を内包しており、復活とともに軍部の政治介入と政治的優位が確立したため、後に議会はその役割を事実上停止する。8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相の[[五相会議]]が開かれ、対外問題を中心にする重要国策(国策の基準)を決定した。内容は公表されなかったが、戦争政策の見取図・計画書であった。また、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「陸軍は国防充実12か年計画<ref>飛行機、戦車、火砲などの近代装備の大幅な充実</ref>、海軍は第二次補充計画<ref>武蔵、大和などの世界最大の戦艦や航空母艦の建艦</ref> を立てた<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 135-137ページ</ref>。
このため[[1937年]](昭和12年度)の予算は、陸海軍両省合計で14億円に達した。11月末の予算閣議で30億円を超える巨額の予算案が短時間で決定された。前年度に比べ8億円を一挙に増額した。この膨大な歳出を賄うため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案が発表されると諸物価が高騰し始め、国民の生活に大きな影響を与えるものとなった<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 136ページ</ref>。
同内閣は[[1936年]](昭和11年)[[11月]]に[[ベルリン]]で[[日独防共協定]]を調印した。[[1937年]](昭和12年)[[1月29日]]に閣内不統一で総辞職して、[[2月2日]]に[[林内閣]]([[林銑十郎]]首相)が成立するが[[5月31日]]には総辞職となり、6月4日に[[第一次近衛内閣]]([[近衛文麿]]首相)が成立する。中国では[[西安事件]]で拉致された[[蔣介石]]と[[周恩来]]の間で[[国共合作]]が成立して、抗日闘争が進められた([[国共合作|第二次国共合作]])。
== 支那事変(日中戦争) ==
昭和12年には[[盧溝橋事件|盧溝橋で日中両軍が衝突し]]、停戦協定後も[[通州事件]]、[[第二次上海事変]]などが続き、[[支那事変]]([[日中戦争]])が始まった。戦線の拡大に従って思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への協力を国民に求めるという「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して[[国家総力戦|総力戦]]を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果[[国家総動員法]]が成立した。国内の文化・思想に関しては、[[戦時体制]]が強化されるに伴って[[治安維持法]]による思想弾圧が目立ち、昭和12年には[[加藤勘十]]・[[鈴木茂三郎]]らの労農派の関係者が[[人民戦線]]の結成を企図したとして検挙される[[人民戦線事件]]が起こった。
近衛内閣の後を受けて昭和14年[[1月5日]][[平沼内閣]]が誕生する。平沼は内務・司法官僚の大御所で、枢密院議長でもあった。2月には軍部は[[海南島]]を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島と名付けた。この軍事行動はイギリス・アメリカを大きく刺激した。また6月には[[天津]]の英仏租界を封鎖した([[天津事件]])という。東京では、[[有田八郎]]外相と[[ロバート・クレイギー]][[駐日英国大使|英大使]]との会談が開かれた。7月になると[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]が[[日米通商航海条約]]の破棄を通告したのでイギリス政府の対応も変わり日英会談は決裂した<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 169ページ</ref>。満洲では日本とソ連は昭和14年[[5月12日]]の[[ノモンハン事件]]などで衝突した。8月には第23師団を中軸とする第6軍を新編成して、満洲から集められるだけの飛行機と戦車を投入したが、一万数千人の死者が出た。第23師団は全滅に近い壊滅状態であった。機械化装備や火力、輸送力に格段の差を見せつけられての敗北であった。この事件後、陸軍当局は「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」と異例の談話を発表した。[[9月16日]]にノモンハン事件の停戦協定が結ばれた<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 171ページ</ref>。
ヨーロッパ情勢は目まぐるしく変転し8月には[[独ソ不可侵条約]]が締結された。[[三国同盟]]問題を解決できなかった平沼内閣は昭和14年[[8月28日]]に総辞職した。「今回締結せられた独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので我が方はこれに鑑み、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」とその理由を説明している。この説明は、日本の支配層が国際情勢に順応しきれず外交政策を立てることができなくなっていたことを吐露したものと考えられる<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 172ページ</ref>。
同年[[8月30日]]に[[阿部内閣]]が誕生、この後すぐに[[第二次世界大戦]]が始まった。内閣は[[9月4日]]に「今次欧州戦争勃発に際しては帝国はこれに介入せず、もっぱら[[支那事変]]の解決に邁進せんとす」との声明を出した。ドイツとソ連ではイデオロギーが相容れず手を結ぶことはないと考えていた日本は、外交方針の見直しに迫られた。[[11月4日]]からは外相[[野村吉三郎]]はアメリカ大使[[ジョセフ・グルー]]と会談を始めた。また、決裂状態にあった日英会談再開の気運が生まれた。
[[日米交渉]]は進展せず、昭和15年1月には[[日米通商航海条約]]は失効した<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 172-174ページ</ref>。1月の第75回[[帝国議会]]で276人の衆議院議員が阿部内閣の退陣を決議。軍部は反軍的気運の生まれることを恐れて政府不支持の態度をとったので昭和15年[[1月4日]]に阿部内閣は退陣した。
続く内閣に、海軍大将[[米内光政]]を首班とする[[米内内閣]]が[[1月16日]]に成立した。この内閣には、民政党・政友党から2名ずつ、財界からは[[藤原銀次郎]]が[[商工大臣|商相]]として入閣した。
昭和15年[[11月10日]]から[[11月14日]]に、同年が初代[[神武天皇]]が即位して2600年にあたるとして「[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年]]式典」が全国で実施される。
== 第二次世界大戦 ==
ヨーロッパでは[[1939年]](昭和14年)[[8月23日]]に突如、[[独ソ不可侵条約]]が発表された。[[9月1日]]にナチス・ドイツが[[ポーランド]]に侵入して、[[9月3日]]にイギリス、フランスがドイツに宣戦布告して[[第二次世界大戦]]が開始された。[[阿部内閣]]は「欧州戦争に介入せず」と声明した。[[1940年]](昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏しドイツ、[[イタリア]]の勢力が拡大するに及んで[[日独伊三国軍事同盟|日独伊三国同盟]]を締結した。[[大西洋憲章]]を制定したアメリカ、イギリスの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対して、日本、ドイツ及びイタリアは[[枢軸国]]と呼称されるようになった。また、ソ連との間に[[日ソ中立条約]]が締結されて、[[満洲国]]・[[モンゴル人民共和国]]の尊重と相互不可侵が約束された。
[[支那事変]]([[日中戦争]])勃発後、陸軍は公然と倒閣運動に乗り出して、[[畑俊六]]陸相は国防国家建設のため人心一新を求め単独辞職し、後任の陸相が決まらず[[1940年]](昭和15年)[[7月16日]]に[[米内内閣]]は総辞職した。
=== 大東亜戦争前夜 ===
次期内閣には[[近衛文麿]]が[[第2次近衛内閣]]として組閣、[[1940年]](昭和15年)[[7月22日]]に成立した。近衛を中心とする[[新体制運動]]が進められ、同年10月には、[[大政翼賛会]]が結成されて、既成政党は解党した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・[[大日本産業報国会]]と並んで政治面で支那事変(日中戦争)および[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当たった。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これは[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)と[[ナチス・ドイツ]]の組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁の[[左翼|赤]]である、かつての武家政権・[[幕府]]の様に[[皇室]]を置物にするものであるという強い批判も出て、精神運動を中心に据えるように変わっていった。歴代総裁には[[近衛文麿]]、[[東條英機]]、[[小磯國昭]]、[[鈴木貫太郎]]が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の[[有馬頼寧]]が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また、[[1941年]](昭和16年)には[[平沼騏一郎]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]により公事結社とされて政治活動は禁止されて、有馬らの近衛グループが退陣して、[[内務省 (日本)|内務省]]および警察主導の行政補助機関となっていった。
1940年(昭和15年)1月に[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ合衆国政府]]は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本は、ナチス・ドイツや率いる[[イタリア王国|イタリア]]と1940年(昭和15年)9月に[[日独伊三国軍事同盟]]を締結することで対処しようとしたが、アメリカ政府の反発を招くだけだった。その上、南部[[仏印進駐]]によってアメリカ政府から[[石油]]禁輸を招くに至った。アメリカ・イギリス・[[中華民国]]・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとって[[ABCD包囲網]]と呼ぶ。
一方、日本では[[陸軍]]を中心として対ソ連戦争を目指す[[北進論]]と南方に進出することを目標とする[[南進論]]との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰と[[ノムンハン|ノモンハン]]でソ連軍と衝突した。これによって北方進出を断念し、[[日ソ中立条約]]を締結し北の防衛を強固にするなど対米戦争を準備する一方、[[外務省]]は1941年(昭和16年)晩秋まで[[日米交渉]]を続け、同年10月18日には[[第3次近衛内閣]]が総辞職し、[[東條内閣]]([[東條英機]]首相)が成立する。
しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったイギリスや[[中華民国]]によるアメリカの参戦の要望、および[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の動きに[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領]]が激怒したことにより[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称[[ハル・ノート]]、実際の草稿者は[[ハリー・ホワイト]]財務次官補)を受ける。これを[[日清戦争]]・[[日露戦争]]以降に獲得した全植民地からの撤退要求と解釈した日本政府は、事実上の米国政府による[[最後通牒]]と認識し、対英米蘭開戦が決定された。日本はこうして[[第二次世界大戦]]へ参戦することとなった。アメリカ、イギリスは[[大西洋憲章]]を制定し、自陣営を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と称し、日本、ドイツ、イタリアの[[枢軸国]]と対抗した。
=== 大東亜戦争 ===
{{See also|太平洋戦争}}
[[画像:USS West Virginia;014824.jpg|thumb|[[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]、[[大日本帝国海軍]]は[[ハワイ]]の[[真珠湾]]を奇襲攻撃し、[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|アメリカ太平洋艦隊]]に大損害を与えた。アメリカは、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を唱えて日本との戦争に突入した。写真は攻撃を受けて炎上するアメリカ戦艦。]]
1941年(昭和16年)[[12月8日]](現地時間[[12月7日]])、[[ハワイ・アリューシャン標準時|ハワイ時間]]午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、[[マレー作戦|日本のイギリス領マレー侵攻]]の後、[[大日本帝国海軍]]は[[真珠湾攻撃]]を行った。同月12日、当時の[[東條内閣]]は「今次の対米英戦は、[[支那事変]]をも含め太平洋戦争と呼称す」とした。しかし太平洋戦争は生産力の弱さなどから戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から[[山本五十六]][[連合艦隊司令長官]]は1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたといわれ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。日本海軍は開戦当初、[[航空母艦]](空母)の[[艦載機]]を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。
[[1942年]](昭和17年)、[[東條英機]]首相率いる[[東條内閣]]は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙([[第21回衆議院議員総選挙]])を実施し、翼賛政治体制を確立した。また[[大日本産業報国会]]・[[農業報国連盟]]・[[商業報国会]]・[[日本海運報国団]]・[[日本青年団協議会#第二次世界大戦以前|大日本青少年団]]・[[大日本婦人会]]の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに[[町内会]]と[[町内会|部落会]]に世話役を、[[隣組]]に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の[[配給 (物資)|配給]]機構をも兼ねていたので、国民生活は隅々まで統制と監視に晒されることとなった。
[[画像:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|left|300px|[[1943年]](昭和18年)、[[大東亜共栄圏]]の結束を図るため[[大東亜会議]]を東京で開催。参加国は日本を含め7カ国。左から[[バー・モウ|ビルマ]]、[[張景恵|満洲国]]、[[汪兆銘|中華民国]]、[[東條英機|日本]]、[[ナラーティップポンプラパン|タイ]]、[[ホセ・ラウレル|フィリピン]]、[[スバス・チャンドラ・ボース|自由インド]]の各国首脳。]]
当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、[[東南アジア]]は欧米諸国の[[植民地]]であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、[[1943年]](昭和18年)10月、東京で[[大東亜会議]]を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った[[大東亜共同宣言]]を発表した。これは[[東アジア]]で初めて開かれた国際的会議である。しかしながら実態は日本主導であり、未完成であった。
日本海軍は開戦当初は連戦連勝であったが、[[ミッドウェー海戦]]では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を損失し、開戦後初の大敗北を喫した。この敗北を機に日本海軍と[[アメリカ海軍]]による一進一退の攻防が始まり、戦線は次第に後退していった。
この時から国民には虚偽の戦況が伝えられ、国民は日本海軍が敗北していることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころすでに、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、[[制海権]]をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともにアメリカの数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、[[1945年]](昭和20年)に解散し、[[国民義勇隊]]に改組された。
[[1944年]](昭和19年)7月9日には、[[サイパン島]]が陥落しこの敗退の責任を取る形で、7月22日に[[東條内閣]]は総辞職し、[[小磯國昭]]首相率いる[[小磯内閣]]が成立する。日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり([[日本本土空襲]])、[[1945年]](昭和20年)[[3月10日]]には[[東京大空襲]]が行われた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。同年[[4月7日]]に[[小磯内閣]]は総辞職し、元[[侍従長]]の[[鈴木貫太郎]]首相率いる[[鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]]が成立する。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は全日本軍の無条件降伏以外は承認しない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。同年[[7月26日]]、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]は[[ポツダム宣言]]を発表するが、日本政府は直ちには正式回答せず(黙殺)、結果戦争継続の意思を示した。
=== 原子爆弾の投下と終戦 ===
[[画像:Nagasakibomb.jpg|right|thumb|200px|1945年8月6日に広島、同年8月9日に長崎に[[原子爆弾]]が投下された。]]
1945年(昭和20年)[[8月6日]]に[[広島市への原子爆弾投下]]が実施され、非戦闘員を含め十数万人が死傷した。[[8月9日]]には同様に[[長崎市への原子爆弾投下]]が実施され、さらに十数万人の死傷者が出た(以上、[[日本への原子爆弾投下]])。これは、世界初の[[核兵器]]による爆撃であった。
日本は、主要な国で当時唯一、[[日ソ中立条約]]により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦政府の仲介での和平工作を試みたが、ソ連は[[ヤルタ会談]]での申し合わせに従い[[8月8日]]の夜に宣戦布告した([[ソ連対日参戦]])。翌9日未明から[[ソビエト連邦軍]]が満洲や[[朝鮮半島]]北部、樺太、千島列島に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。戦後も長らく解決を見なかった[[中国残留日本人|中国残留孤児]]問題は、この時に生じた。
ソ連の参戦により、講和の望みが絶たれ万策尽きた政府は、8月9日の最高戦争指導会議ではポツダム宣言が要求している日本軍の無条件降伏を問題とせず、「天皇の地位の保障」を条件とする外相案と、それに加え「自主的な武装解除、日本による戦争犯罪人の処罰、占領制限など」の条件を付けよとする軍部案とが対立した。9日深夜に開かれた御前会議でも両案が対立したが、昭和天皇の裁断によって「天皇の地位の保障のみ」を条件に付けることが決定された(昭和天皇自身が地位保障を求めたわけではない)。[[8月10日]]に「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」[[ポツダム宣言]]を受託するという申し入れをラジオと中立国を介して行われた<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 239ページ</ref>。
[[8月14日]]の[[御前会議]]で、いわゆる「[[聖断]]」によって[[ポツダム宣言]]を受諾するとの結論に達した。この決定は翌[[8月15日]]、昭和天皇自ら「終戦の詔勅」を音読・録音し、同日正午に[[日本放送協会]]のラジオ放送(いわゆる[[玉音放送]])により内地・外地の国民に伝えられた。その2日後の[[8月17日]]には[[鈴木貫太郎内閣]]は総辞職し[[東久邇宮内閣]](日本の内閣史上、最短政権)が成立する。
{{See also|日本の降伏|日本の降伏文書}}
こうして日本だけでも300万人、関係諸国を入れると2千万人から3千万人(実数不明)の死者を出したと言われる戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の[[占守島]]や[[樺太#南樺太|南樺太]]では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、[[8月23日]]のことだった。[[9月2日]]には、ポツダム宣言に調印し、日本は主権を制限され、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合軍 (GHQ)]] の占領下となった。またソ連軍の侵攻が終了したのは[[9月5日]]である(同日までに[[北方地域|北方領土]]全てが占領される)。
== 戦後のGHQによる占領時代 ==
{{Main|戦後|冷戦下の日本}}
=== 概観 ===
[[太平洋戦争]]後、[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]の[[日本国との平和条約]]発効まで[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]の軍事占領下に置かれたが、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ / SCAP) の軍政は布かれず、アメリカ政府による直接的な統治があった[[沖縄諸島|沖縄]]・[[奄美群島]]・[[トカラ列島]]の下7島・[[歯舞群島]]・[[小笠原諸島]]と、ソ連によって占領された[[歯舞群島]]・[[千島列島]]・[[樺太]]を除き日本国政府が行う[[間接統治]]が行われた。出版停止や[[プレスコード]]と称される[[言論統制]]・[[検閲]]などを通じて[[軍国主義]]・[[反米]]・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。
{{See also|アメリカ合衆国による沖縄統治}}
[[第一復員省]]や[[第2復員省|第二復員省]]などの復員組織が設置された。日本人は[[占領地]]だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍占領地域となった内地(樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部は[[シベリア抑留]]され強制労働に従事した。外地から引き揚げは困難を極め、[[通化事件]]のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、[[中国残留日本人]]問題を後に残した。また、[[インドネシア独立戦争]]、[[ベトナム独立戦争]]や[[国共内戦]]などに多くの日本人が加わった。旧満洲国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地側に管理が引き継がれた。
[[第1次吉田内閣]]下の[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]に公布された[[日本国憲法]]は[[大日本帝国憲法]]の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。その内容は、[[象徴天皇制]]の下に[[主権]]は国民に存するとした「[[国民主権]](主権在民)」、[[法の下の平等]]および[[自由権]]・[[社会権]]・[[参政権]]・[[国務請求権]]などの権利を保障する「[[人権|基本的人権]]の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力による威嚇または武力の行使によって解決しない「[[平和主義]]」を三大原理とした<ref>もういちど読む山川日本戦後史18頁</ref>。このため現在の日本では[[自衛隊]]への[[徴兵制度]]は憲法違反として実施されない。また、[[天皇]]は「日本国および日本国民統合の象徴」とされ、立憲君主国として皇室は維持されたものの天皇の国政への関与は禁じられた([[象徴天皇制]])。[[1946年]](昭和21年)2月から[[1954年]](昭和29年)8月にかけて[[昭和天皇]]は[[沖縄県]]を除く46[[都道府県]]を訪問した。昭和天皇が回答する「あっ、そう」の言葉が[[1946年]](昭和21年)の[[流行語]]となった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]94頁</ref>。しかし、昭和天皇は[[1947年]](昭和22年)[[9月19日]]にはGHQに対して「沖縄メッセージ」で沖縄の長期軍事占領を要望し<ref>{{Cite web|和書
| url = https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4730
| title = 1947年9月19日 「天皇メッセージ」伝えられる
| publisher = [[沖縄県公文書館]]
| accessdate = 2019-4-23
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
| url = https://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20190423233342/https://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392
| title = 天皇メッセージ
| publisher = [[沖縄県公文書館]]
| date = 1947-9-19
| accessdate = 2019-4-23
| archivedate = 2019-4-23
}}
</ref>、[[1975年]](昭和50年)[[10月31日]]には「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが止むを得ない事と私は思ってます」と云う日本国憲法で禁止されている政治的な発言をした。
さらに、GHQの主導により以下の改革が断行された。
#[[農地改革]]の実施<ref>『図説 日本史通覧』291頁大型本2015年3月黒田 日出男(監修)帝国書院編集部(編集)</ref><ref>もういちど読む山川日本戦後史26頁</ref>。
#[[財閥解体]]の実施<ref>『図説 日本史通覧』290頁大型本2015年3月黒田 日出男(監修)帝国書院編集部(編集)</ref><ref>もういちど読む山川日本戦後史25頁</ref>。
#結党の自由・結社の自由を保証させた。
#[[日本共産党]]などの[[政治犯]]の釈放をする。
#保守政治家の[[公職追放]]を行う。
#[[レッドパージ]]などの政治介入の実施。
#[[神道指令]]の実施。
#[[特別高等警察]]が廃止される。代わりに内務省によって[[公安警察]]が設置される。
#[[内務省 (日本)|内務省]]の解体。
#[[労働組合]]の結成を促進する。
#[[女性解放運動|婦人の解放]]と[[婦人参政権]]の寄与。
#[[華族]]制度・[[家制度]]の廃止と[[貴族院 (日本)|貴族院]]([[帝国議会]]上院)の廃止など[[封建制度]]の撤廃。
#[[シャウプ勧告]]による税制改革。
#新しい[[教育制度]]の[[6・3制|6・3・3・4制]]を導入する[[アメリカ教育使節団報告書]]に基づいた[[学制改革]]の実施<ref>もういちど読む山川日本戦後史30頁</ref>。
#[[教育基本法|旧教育基本法]]の制定。
[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]に[[日本国との平和条約]](通称:サンフランシスコ講和条約)の発効により日本国は主権を回復。GHQの進駐が終わった。
また、[[日本国憲法第9条]]では[[軍隊]]を保持しないことを定めたが、サンフランシスコ講和条約と同時に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]を締結し、アメリカ軍の駐留を[[在日米軍]]としてそのまま継続するとともに、翌[[1952年]](昭和27年)には[[警察予備隊]]から改称した[[保安隊]](その後の[[自衛隊]])も発足し、事実上の再軍備を行った。[[冷戦]]期にはアメリカと同盟してソ連に対抗した。
=== GHQによる占領 ===
{{See also|連合国軍占領下の日本}}
[[画像:Macarthur hirohito.jpg|thumb|200px|left|駐日米大使館に連合国軍最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]元帥を訪問した[[昭和天皇]]。]]
終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、[[台湾]]・[[朝鮮]]・[[南洋諸島|南洋群島]]、日本本土([[内地]])の一部であった[[樺太|南樺太]]・[[千島列島]]および[[色丹島]]・[[歯舞群島]]・[[小笠原諸島]]・[[南西諸島]]の北緯30度以南を失った。このうち、南西諸島と小笠原諸島は後にアメリカから返還された。千島列島については、[[樺太・千島交換条約]]によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は現時点では千島列島のうち、南千島の[[国後島]]・[[択捉島]]の2島についてのみ日本固有の領土であると主張し、[[歯舞群島]]および[[色丹島]]の2島は北海道に属すると説明している。
1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国 ([[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]) に占領され、最高司令官としてマッカーサー[[元帥]]が着任した。マッカーサーは政治的には[[共和党 (アメリカ)|共和党]]右派で、本来[[反共主義]]的な傾向があったが、戦後直後の[[民主化]]は[[東久邇宮内閣]]の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は民主化の進展に対応できず総辞職し、歴代内閣の中で最短政権を記録している。アメリカの占領下で[[幣原内閣]]([[幣原喜重郎]]首相)、次いで[[吉田内閣]](吉田茂首相)を通じ、[[農地改革]]・[[財閥解体]]・[[労働改革]]の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また[[女性参政権|婦人参政権]]が認められる一方で、[[治安維持法]]が撤廃されるとともに二次にわたる[[公職追放]]によって、社会の指導者層20万人が[[軍国主義]]者として公職からの追放処分となったことに加えて[[被選挙権]]が停止処分となった。吉田茂と首相の座を争う位置にいた[[鳩山一郎]]の場合、戦前の京大[[滝川事件]]時の文部相(現在の[[文部科学大臣|文科相]])であったことから、政治的活動が制約された。また、占領軍によって検閲が徹底され、連合国や朝鮮人について批判する報道は禁止された。また[[1946年]](昭和21年)には、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された([[A級戦犯|A級]]・[[B級戦犯|B級]]・[[C級戦犯|C級]]とは罪の大小を表すものではなく、分類するものである)<ref>もういちど読む山川日本戦後史16頁</ref>。
[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の日本占領政策は、ソ連が自国領に編入した南樺太・千島列島を除き事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、[[直接統治]]方式による[[軍政]](アメリカの高等弁務官による統治)は[[沖縄県|沖縄]]に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて政策が実施された。占領を巡って、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、スターリンは北海道の北半分のソ連占領を提案したが、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]がこれを拒否した。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「[[トルーマン・ドクトリン]]」を発表して[[ギリシャ]]での内戦に介入し、チャーチルが「[[鉄のカーテン]]」演説で予測した東西「[[冷戦]]」が本格化した。
日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツや[[オーストリア]]([[ウィーン]])、ソ連の単独占領となった[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]]、[[チェコ]]、[[スロバキア]]などとは異なった占領形態が採られた。[[1951年]](昭和26年)、マッカーサーは[[朝鮮戦争]]で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任に[[マシュー・リッジウェイ]]中将が着任した。日本では、表面的にはソ連占領地域(南樺太、千島列島)およびアメリカ占領地域(琉球列島、小笠原諸島)を除く日本政府統治地域(北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島およびそれらの付属島嶼)では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。[[第1次吉田内閣]]下の1946年(昭和21年)11月3日に[[日本国憲法]]が公布、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印の[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して翌1952年(昭和27年)4月28日に日本は主権を回復した。しかし[[在日米軍]]はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に[[アメリカ軍|米軍基地]]が残された。
[[日本国憲法第9条]]は、国権の発動である戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する[[平和主義]]を定めている。そのため、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]や[[自衛隊]]の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の[[自衛権]]についても議論がある。
大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが[[1949年]][[10月1日]]に国共内戦に勝利した[[中国共産党]]により[[中華人民共和国]]が建国されたことと[[朝鮮戦争]]の勃発により事態は一変した。朝鮮戦争には、占領軍の要請の下で官民8000名以上を[[国連軍]]の作戦に参加させ、多くの犠牲者を出した<ref>{{PDFlink|[http://www.nids.mod.go.jp/publication/mh_tokushu/pdf/mh001_05.pdf 朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―]}} [[防衛研究所]]戦史部石丸安蔵</ref>。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東の[[スイス]]を建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、[[1949年]](昭和24年)に中華人民共和国が成立すると対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置付け、「[[逆コース]]」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは[[労働運動]]の盛り上がりで、[[日本国有鉄道|国鉄]]や[[読売新聞]]等では[[労働組合]]による[[自主管理]]も行われた。
[[1952年]](昭和27年)[[1月18日]]に韓国が[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]の領有を主張する[[李承晩ライン]]を宣言すると、数千人に上る漁民が抑留され<ref name=isibashigeru>[https://web.archive.org/web/20080801062054/http://www.jimin.jp/jimin/info/takeshima/index.html 竹島領有権問題について] 自民党領土に関する特別委員会委員長[[石破茂]] 2006年(平成18年)5月16日</ref>、翌年には竹島を軍事占領された。
文化面においては[[日本映画]]が全盛時代を迎え、[[東映]]・[[大映]]・[[松竹]]・[[東宝]]・[[日活]]のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する[[映画館]]は最大の娯楽施設となった。また[[ラジオ]]放送も広範に普及し、[[歌謡曲]]やバラエティ、[[相撲]]や[[野球]]の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカを初めとする外国映画や[[ジャズ]]・[[ポピュラー]]も急速に流入した。一方、[[ローマ字論|国語のローマ字化]]は断念され、[[1946年]](昭和21年)には[[現代仮名遣い|現代かなづかい]]・[[当用漢字]]の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法を初めとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。
=== 日本社会党政権による社会主義政策 ===
[[1947年]](昭和22年)の[[第23回衆議院議員総選挙]]で[[日本社会党]]が第1党となり[[片山哲]]が[[総理大臣]]となった<ref>もういちど読む山川日本戦後史40頁</ref>。[[右翼]]過ぎず、[[左翼]]過ぎない内閣の性格から「[[中道政治|中道]][[政権]]」と呼ばれた。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[チャールズ・L・ケーディス]]も[[民主化]]推進の立場からこの中道路線を支持していた<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]100頁〜101頁</ref>。[[昭和天皇]]は社会主義による急進的な変革は望まなかったが、[[キリスト教徒]]である片山の人柄に好感があり、労働問題で日本社会党が支持を得た民意に一定の理解を持っていたとする宮内庁の文書の記述がある。[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]・[[日本社会党]]・[[国民協同党]]の連立政権である[[片山内閣]]と[[芦田内閣]]が以下の[[経済政策]]<ref group="注">ビデオの『日本の記録の12巻〜映像100年史星条旗の下』説明→民主化の内容では[[アメリカ合衆国]]の[[ニューディール政策]]より[[大きな政府]]を目指す革新政策であった</ref> を実施した。
#[[労働組合法]]を成立させて、[[教育委員会]]の公選投票制度や[[日本教職員組合]]など複数の[[労働組合]]を結成させた。[[定時制高校]]や社会科学系公立短大夜間部の設置など社会人教育の充実。
#天皇の[[官吏]]から国民への奉仕者としての[[国家公務員法]]を制定させた。
#[[内務省 (日本)|内務省]]を解体させて、[[都道府県知事]]・[[市町村長]]の[[公選]]制度(直接選挙)や[[リコール (地方公共団体)|リコール]]制度を規定した。
#[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]を創設するなど警察制度の改革を実施。
#労働問題を扱う[[省庁]]として新たに[[労働省]]を設置。
#[[職業安定法]]を公布させた。
#[[社会保険制度]]として、[[失業保険法]]と失業手当法を成立させて[[失業保険]]を創設した。
#[[国民健康保険法]]を改正した。
#[[児童福祉法]]を公布させた<ref>『日本の記録の12巻〜映像100年史 星条旗の下での民主化』</ref>。
#[[戸主]]制度・[[家督]][[相続]]など封建的な家族制度の廃止や婚姻の自由、[[男女平等]]の相続の創設を目標とした改正[[民法 (日本)|民法]]の制定。
#夫婦平等の概念と夫婦共同財産制度の創設、妻の能力権と配偶者として相続する権利、子供全員が均等に相続する制度が新設されて、富裕層の[[相続税]]が増税されるなどの[[相続法]]改正<ref>もういちど読む山川日本戦後史21頁</ref>。
#既婚女性に対する[[姦通罪]]の廃止・皇室に対する[[大逆罪]]及び[[不敬罪]]の廃止など刑法の大幅改正。
#[[令状]]主義、[[黙秘権]]を認めるなど[[刑事訴訟法]]の改正。
#[[裁判所法]]を制定して、[[日本国憲法]]で定められた[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]や[[下級裁判所]]についての組織や権限を明記した。
#炭鉱の[[国有化]]を目的とする[[臨時石炭鉱業管理法]](通称「炭坑国家管理法」)を制定させた。
#[[優生保護法]]を成立させて[[人工妊娠中絶]]を[[合法化]]。
他に[[生活保護法]]を成立させて、[[1950年]](昭和25年)に[[生活保護]]制度の運用を開始するなどの[[政策]]が行われた<ref>『図説 日本史通覧』292頁大型本2015年3月黒田 日出男(監修)帝国書院編集部(編集)</ref>。
昭和20年代に[[全国水平社]]が改組して[[部落解放同盟]]となった。日本社会党と協力して[[部落解放運動]]を行い、格差改善と集落の改良事業を行った。[[東宝争議]]では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、[[三船敏郎]]、[[池部良]]、[[久我美子]]らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]88頁〜89頁</ref>。しかし[[戦後混乱期]]の頃は、[[下山事件]]、[[三鷹事件]]、[[松川事件]]などの怪事件が次々と起こり<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]102頁〜103頁</ref>、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。独立回復後の[[1952年]](昭和27年)[[5月1日]]には[[血のメーデー事件]]があった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]120頁〜121頁</ref>。同時に[[レッドパージ]]が行われ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだ[[マッカーシズム|マッカーシー旋風]]([[赤狩り]])に似ていた。[[芦田均]]が関与して逮捕された[[昭電疑獄]]で中道政権は崩壊する。
== 講和後・高度経済成長期 ==
米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、[[農地改革]]や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要の増大も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代に続く驚異的な[[高度経済成長]](昭和30年代〜昭和40年代の名目[[経済成長率]]が世界1位の15.4%だった。昭和30年度の8兆5000億円だった[[国民総生産|GNP]](国民総生産)は昭和45年度には70兆円となり、15年間に8.5倍以上の規模となり世界第2位の[[経済大国]]となる)を遂げるに至る<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]140頁上段</ref>。
都市部には[[高層建築物|高層ビル]]が立ち並び、[[鉄筋コンクリート]]の[[アパート]]や郊外の建売住宅に住む人が急増した。日本中から[[蒸気機関車]]が消えて、[[電車]]や[[ディーゼルカー]]が走り回るようになった。主要道路は[[アスファルト]]で舗装された。[[新幹線]]([[東海道新幹線]])と[[高速道路]]([[東名高速道路]]・[[名神高速道路]])が完成した。[[平田佐矩]](四日市市長)や[[大野伴睦]](自民党の国会議員)などによって[[東海地方]]と[[日本海]]を結ぶ[[日本横断運河]]の建設が計画された。ほぼ全ての家庭に[[テレビ]]・[[電気洗濯機]]・[[電気冷蔵庫]]・[[電話]]が普及して、[[自家用自動車|自家用車]]も珍しくなくなった。[[デパート]]や[[ホテル]]に行ったり、[[特別急行列車|特急列車]]に乗れば[[冷房]]の恩恵を受けられるようになった。[[パン]]や[[食肉|肉]]・[[ケーキ]]といった[[洋食]]や[[洋菓子]]も普段食べるようになった。[[平均寿命]]は世界有数となり、大学[[進学率]]も激増した。そのかわり[[大都市]]部では人口[[過密]]、農村部では[[過疎]]という現象が生じて、[[公害]]や[[交通戦争]]が[[社会問題]]となった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]140頁下段</ref>。
敗戦直後には[[インフレーション]](戦後インフレ)に見舞われた。[[傾斜生産方式]] を採用して、[[ドッジ・ライン]](安定恐慌)が起こる。[[朝鮮戦争]]勃発で[[朝鮮特需]]([[特需景気]])が起こる。[[1954年]](昭和29年)から[[高度経済成長]]が開始されて、[[ガチャマン景気]]による繊維産業の好景気があり、[[好景気]]と[[不景気]]を繰り返しながら[[日本経済]]は順調に成長した。[[1955年]](昭和30年)に[[社会党右派]]と[[社会党左派]]にが[[社会党再統一|再統一]]された[[日本社会党]]と[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]・[[日本民主党]]が合同した[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が結成されたことで、[[55年体制]]が成立した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]136頁</ref>。
=== 戦後経済史の流れ ===
# [[神武景気]]。[[1954年]](昭和29年)12月から〜[[1957年]](昭和32年)6月までの好景気を指す。
# [[なべ底不況]]。[[1957年]](昭和32年)7月から〜[[1958年]](昭和33年)6月までの不況を指す。
# [[岩戸景気]]。[[1958年]](昭和33年)7月から〜[[1961年]](昭和36年)12月までの好景気を指す。
# [[所得倍増計画]]。[[1961年]](昭和36年)から〜[[1971年]](昭和46年)までの経済計画を指す。
# [[オリンピック景気]]。[[1962年]](昭和37年)11月から〜[[1964年]](昭和39年)10月までの好景気を指す。
# [[証券不況]](構造不況)。[[1964年]](昭和39年)11月から〜[[1965年]](昭和40年)10月までの不況の時代。
# [[いざなぎ景気]]。[[1965年]](昭和40年)11月から〜[[1970年]](昭和45年)7月までの好景気を指す。
# [[日本万国博覧会]]は[[1970年]](昭和45年)の出来事で通称は大阪万博である。
# [[ニクソン・ショック]]([[円切上げ]]) は[[1971年]](昭和46年)の経済ショックを指す。
# [[日本列島改造論]](列島改造景気)によって[[1972年]](昭和47年)に大型[[公共事業]]と[[インフレーション]](物価上昇)があった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]140頁</ref>。
=== 家電ブーム ===
昭和20年代以降、以下の[[家庭用電気機械器具|家電製品]]がヒット商品となった。
* [[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]と呼ばれ、一般家庭の[[主婦]]たちの憧れの的となった。
*# [[白黒テレビ]]
*# 電気[[洗濯機]]
*# 電気[[冷蔵庫]](他に[[炊飯器]]・[[掃除機]])
* [[高度経済成長]]期には'''新三種の神器'''として以下の家電が'''3C'''と呼ばれて憧れのヒット商品となった。
*# [[カラーテレビ]]<ref>もういちど読む山川日本戦後史102頁</ref><ref>もういちど読む山川日本戦後史130頁</ref>。
*# [[冷房|クーラー]]
*# [[自家用自動車]](カー)
* 三種の神器以外に都市部を中心に普及した家電は以下である。
*# [[レコードプレイヤー]]
*# 電気[[炊飯器]]
*# [[トースター]]
*# 電気[[コタツ]]<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]142頁</ref>
=== 昭和元禄文化 ===
'''昭和元禄'''<ref>{{Cite news
|url = http://www.asahi.com/information/db/anotoki/2009_0307.html
|title = あのとき!1967年 非核の誓い、国会答弁
|newspaper = 朝日新聞
|publisher = 朝日新聞社
|date = 2009-03-07
|accessdate = 2011-04-03
}}</ref> と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。[[手塚治虫]]・[[石ノ森章太郎]]・[[藤子不二雄]]・[[長谷川町子]]・[[水木しげる]]・[[赤塚不二夫]]などの[[漫画]]を原作とした[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]などの作品<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]180頁〜181頁</ref> や[[黒澤明]]・[[円谷英二]]が[[映画監督]]となった[[邦画]]などの[[昭和文化]]や[[大衆文化]]が生まれた。[[流行歌]]が普及して[[美空ひばり]]・[[藤山一郎]]などの歌手や[[石原裕次郎]]<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]146頁〜147頁</ref> や[[渥美清]]などの俳優が[[wikt:スター|スター]]となり[[芸能界]]で活躍した。[[漫画]]・[[映画]]と並んで[[テレビ放送]]も普及した。昭和40年代は[[プロ野球]]の[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]時代であり、[[大相撲]]は昭和30年代から昭和50年代にかけて、[[力道山]]がプロレスで活躍するなど[[格闘技]]人気があった。「[[巨人・大鵬・卵焼き]]」などの[[流行語]]が<ref>もういちど読む山川日本戦後史139頁</ref><ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]194頁〜195頁</ref> 誕生した。[[東海道新幹線]]開業([[1964年]]〔昭和39年〕)[[名神高速道路]]開通([[1963年]]〔昭和38年〕)[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の開催([[1964年]]〔昭和39年〕)<ref>もういちど読む山川日本戦後史134頁</ref>[[日本万国博覧会]]([[1970年]]〔昭和45年〕の大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、[[中東戦争]]がもたらした[[オイルショック]]によって成長が終わる。
=== 防衛問題 ===
この奇蹟の復興は、アメリカの戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で[[警察予備隊]](後に[[自衛隊]])を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。その反面、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]と[[日米地位協定]]によってアメリカ軍が日本各地に残されており、駐留国負担(後の[[思いやり予算]])の出費も大きく、アメリカ軍犯罪時の裁判や事故などを巡ってトラブルも絶えず生じた。特に[[沖縄県]]ではこうした問題がしばしば起こった。また、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という[[非核三原則]]が国是とされた一方で、日本政府とアメリカ政府との間で、有事における日本国内への核持ち込みを黙認する密約が結ばれたことも、明らかにされつつある。
=== 食事 ===
若者の農家離れによって、[[農民]](特に青壮年の男性)が[[農家]]から[[会社員]]になるようになり、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「[[三ちゃん農業]]」が急増して、[[機械化]]が進んで[[専業農家]]より[[兼業農家]]の方が多くなった。[[学校給食]]がパン食になって育った戦後世代の[[主食]]が[[米]]から[[パン]]となり、米余りになると[[減反]]政策を行い、[[転作]]によって[[小麦]]の[[輸入]]が増加し、その結果日本の[[食料自給率]]が低下した。戦後期は[[捕鯨]]が盛んで[[鯨肉]]が主流の[[肉食]]であったが、昭和50年代以降、IWC([[国際捕鯨委員会]])で商業捕鯨が禁止されたことによって[[牛肉]]・[[豚肉]]・[[鶏肉]]が主流の肉食となった<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』104頁老川 慶喜【著】</ref>。高度経済成長期に調理の熱源が薪や炭から電気・ガスに変わった。昭和30年に[[東京芝浦電気]]が電気炊飯器を発売したことが発端となり、[[竈]]などを使用する炊飯方法から[[炊飯器]]を使用したものに変化した(当時は電気炊飯器とガス炊飯器がほぼ互角だった)<ref>[https://www.crs.or.jp/backno/old/No614/6141.htm 耐久財の変容]、[[中央調査社]]</ref><ref>[https://www.crs.or.jp/backno/old/No607/6071.htm 台所・厨房機器の保有率の推移]、[[中央調査社]]</ref>。炊飯の調理から副食中心の料理に主婦の仕事が変化した。[[ガスコンロ]]の普及で[[洋食]]や[[中華料理]]の調理が容易となった。昭和40年代の[[冷蔵庫]]の普及で[[生鮮食品]]が登場した。昭和35年ごろから米の消費量が減少してパン・麺類・肉・乳製品・魚介類・野菜の消費量が増加した。<ref>民俗学がわかる事典―読む・知る・愉しむ [単行本] 新谷 尚紀 (著)232頁</ref>昭和42年から米余りになり昭和45年から米の生産調整が実施された、昭和40年頃に[[日清食品]]の[[インスタントラーメン]]など[[インスタント食品]]が多数開発された。昭和43年には初の[[レトルト食品]]、昭和46年には[[カップ麺]]が開発された。昭和45年以降[[ファーストフード]]店や[[ファミリーレストラン]]や[[コンビニエンスストア]]が普及した。<ref>民俗学がわかる事典―読む・知る・愉しむ [単行本] 新谷 尚紀 (著)233頁</ref>[[ラーメン]]や[[コーヒー]]や[[コロッケ]]や[[ハンバーグ]]が[[国民食]]となった。
=== 住宅医療などの生活問題 ===
戦後の住宅事情は、[[戦災]]による住宅焼失と[[復員]]や[[引揚げ]]による人口増加で住宅が不足する住宅難となっていた。[[1950年]](昭和25年)には、持ち家建設を支援するために[[住宅金融公庫]]が創設された<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』121頁老川 慶喜【著】</ref>。[[1951年]](昭和26年)には[[田中角栄]]を中心とする[[議員立法]]で[[地方公共団体|地方自治体]]が住宅を建設する[[公営住宅法]]が成立した。[[1955年]](昭和30年)には、[[第2次鳩山一郎内閣]]によって[[日本住宅公団]]が創設された。昭和31年から昭和33年頃にかけて[[アジア風邪]]が流行したが[[厚生省]]が創設された影響で国民の医療条件が改善された。戦後期に死亡要因1位が[[結核]]から[[癌]]になり、日本は1年間の死亡者が急減する少死社会になった。[[高度経済成長]]期には、[[昭和一桁]]世代の[[夫婦]]2人と[[新人類|新人類世代]]の[[子供]]2人の合計4人の家が平均家族モデルとなった。[[ダイニングキッチン]]と[[和室]]2つと[[水洗トイレ]]が完備された団地で洋風生活をする団地族が出現した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]148頁〜149頁</ref>。都市部では[[銭湯]]が多かったが[[下町]]の銭湯が減少した。
=== 女性史 ===
[[1948年]](昭和23年)に[[優生保護法]]が成立して[[人工妊娠中絶]]が[[合法化]]された。[[民法]]が改正されて[[遺産]][[相続]]が[[男女平等]]となった。[[女性参政権|参政権]]を獲得した女性が、更なる地位向上を目指して[[女性解放運動]]が活発化した。[[1970年]](昭和45年)に[[ウーマンリブ]]運動が開始されたことに続いて、[[1975年]](昭和50年)が国際婦人年とされて女性の地位向上が人類的な課題となった<ref name="ReferenceA">時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]272頁〜273頁</ref>。[[1956年]](昭和31年)に売春防止法が成立、[[1958年]](昭和33年)[[4月1日]]にはが施行され[[公娼]]制度が完全に廃止、[[赤線]]が消滅した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]154頁〜155頁</ref>。[[1947年]](昭和22年)[[10月26日]]の[[刑法 (日本)|刑法]]の改正で[[姦通罪]]が廃止された。[[1947年]](昭和22年)には民法の大幅な改正で[[家制度]]が廃止された。昭和20年代に主流だった[[産婆]]の補助による出産から、昭和30年代には[[産婦人科]]での[[出産]]が増加した。昭和45年頃に[[お見合い結婚]]が減少して急増した[[恋愛結婚]]と婚姻数が逆転して社内結婚が主流の社会となった。昭和50年代から[[バブル期]]に学生結婚が急増した。
[[ファッション]]面では、[[パンティー]]や[[ブラジャー]]などの洋風[[下着]]類や[[ナプキン (生理用)|ナプキン]]や[[タンポン]]などの[[生理用品]]が普及した。昭和30年代に[[アッパッパ]]と呼ばれる筒型の[[ワンピース]]が普及した。昭和40年代には[[団塊の世代]]の女性を中心に[[ミニスカート]]ブームがあり<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]210頁〜211頁</ref>、スカートや着物以外に女性が[[ズボン]]を着用することが公認された<ref>民俗学がわかる事典―読む・知る・愉しむ [単行本] 新谷 尚紀 (著)218頁</ref>。女性が肌を露出する[[水着]]の着用が認知されて、若い女性の間で水着が普及した。[[髪型]]では[[ショートヘア|ショートカット]]が社会的に認知されて、[[化粧品]]や[[美容院]]・[[美容整形]]などの[[女性]]ビジネスが普及した。
生活面では、昭和30年代に[[ミシン]]が普及して経済面では個人店や[[百貨店]]主流の[[買物|ショッピング]]から主婦が買い物しやすい[[スーパーマーケット]]が普及した。男女平等や高学歴化が進んでいなかった戦後世代の[[昭和一桁]]世代から[[しらけ世代]]の女性は、夫が[[サラリーマン]]で子供が平均2人の家族が平均的なモデル家庭とされた。戦後世代の女性は[[専業主婦]]が主流だった。高等教育を受ける女性が急増した[[新人類]]世代以降の20代の高学歴女性では[[OL]]が増加するなどの変化があった。
=== 金の卵の時代 ===
急速な[[高度経済成長]]に合わせて高齢化の進行と[[乳児死亡率]]など[[病死]]の減少が進み、都市の人口の急増が進んで日本の人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次[[ベビーブーム]]を経て<ref name="『もういちど読む山川日本戦後史』120頁老川 慶喜【著】">『もういちど読む山川日本戦後史』120頁老川 慶喜【著】</ref>、昭和40年代には日本の総人口がついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は[[団塊の世代]]と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口の中で勝ち残るための競争に身を捧げることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ([[集団就職]])、彼らは「[[金の卵 (労働者)|金の卵]]」と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の[[中小企業]]に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]144頁〜145頁</ref>。
=== 左翼運動 ===
一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学して、高等教育の大衆化が進んだ。「60年安保」では国会議事堂にデモ隊が集結し岸内閣退陣運動があった。[[1960年代]](昭和35年)頃に[[浅沼稲次郎暗殺事件]]など暴力事件による右翼テロが相次いだ。[[1970年]](昭和45年)の70年安保闘争をピークとする[[左翼|左翼運動]]の高潮があり、欧米の[[ベトナム戦争]]反対闘争や[[五月革命 (フランス)|五月革命]]などと期を一にしていた。[[全共闘世代]]と言われる若者たちの一部は、「既成左翼」(日本共産党および日本社会党)の[[平和革命]]路線に反発した[[日本の新左翼|新左翼]]運動に身を投じ、機動隊や日本共産党系、[[右翼]]系の若者と衝突を繰り返した。[[日本の学生運動]]の挫折を経て<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]220頁〜221頁</ref>、新左翼運動は孤立化し、[[日本赤軍]]・[[連合赤軍]]・[[よど号グループ]]などは過激化して[[内ゲバ]]や一般市民を巻き込む[[日本赤軍事件]]・[[あさま山荘事件]]・[[成田空港管制塔占拠事件]]・[[連続企業爆破事件]]・[[よど号ハイジャック事件]]などの[[テロリズム|テロ]]活動へと追い込まれていった。彼らの起こした数々の事件は、それまで比較的同情的な面もあった世論の反発を引き起こした。若者たちの多くも東大紛争が失敗に終わると過激化した学生運動から距離を置くようになり、都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。
=== 社会問題(公害・福祉・交通戦争) ===
昭和30年代には、[[国民皆保険]]体制が整備されて<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』107頁老川 慶喜【著】</ref>、[[高度経済成長]]の弊害として、4つの公害裁判となった公害病を指す『四大[[公害病]]』と言う言葉が誕生した。<ref name="『もういちど読む山川日本戦後史』120頁老川 慶喜【著】"/><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』117頁老川 慶喜【著】</ref><ref name="『もういちど読む山川日本戦後史』119頁老川 慶喜【著】">『もういちど読む山川日本戦後史』119頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』118頁老川 慶喜【著】</ref> 昭和30年代から昭和49年頃にかけて[[三重県]][[四日市市]]で発生した[[四日市ぜんそく]](別名は塩浜ぜんそく・四日市公害)・[[神奈川県]][[川崎市]]で発生した[[川崎公害]](主な公害病名は川崎ぜんそく)など工業地帯や都市部での大気汚染が深刻化した。[[熊本県]][[水俣市]]で発生した[[水俣病]](別名は熊本水俣病)・[[新潟県]]阿賀野川流域で発生した[[新潟水俣病]](別名は第二水俣病・[[阿賀野川]]水銀中毒)などの水銀中毒が発生し、また、[[富山県]][[神通川]]流域で発生した[[イタイイタイ病]]も問題化した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]212頁〜213頁</ref>。深刻な公害に対応するために[[公害対策基本法]]が成立した。[[鉄道]]中心の[[交通]]から[[自動車]]中心の社会となり日本国有鉄道は[[ローカル線]]を中心に[[黒字と赤字|赤字]]経営となった。昭和30年代から昭和40年代にかけて[[鉄道の電化]]工事が行われて、[[蒸気機関車]]が全廃された。[[モータリゼーション]]により[[交通事故]]による死者が激増して<ref name="『もういちど読む山川日本戦後史』119頁老川 慶喜【著】"/>、[[交通戦争]]と<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]202頁〜203頁</ref> 言われるようになった。こうした時代状況で[[野党]]は、[[日本社会党]]や[[日本共産党]]が[[社会主義革命]]を唱える労働者政党から都会住民を支持基盤とする[[革新政党]]に変化して、[[中道政治]]を唱える[[民社党]]や[[創価学会]]を支持基盤とする[[公明党]]は都市部で支持者を増やして、労働者の地位向上や公害対策や高齢者などの福祉政策に積極的に取り組んだ。野党は昭和40年代に主婦層や商工業者、[[サラリーマン]]などの都市住民に支持を広げた。[[大企業]]優先の成長路線だった[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]も、[[佐藤栄作]]首相の強力なイニシアチブの下、[[1971年]](昭和46年)に[[環境庁]]を新設した。
=== 日本復帰 ===
[[臨時北部南西諸島政庁]]が設置されていた[[南西諸島]]地域は、[[1952年]](昭和27年)[[2月10日]]に[[トカラ列島]]が、[[奄美群島]]が[[1953年]](昭和28年)に[[12月25日]]アメリカから日本に返還された。[[1968年]](昭和43年)[[6月28日]]に[[南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定]]により[[小笠原諸島]]が返還された。[[1972年]](昭和47年)[[5月15日]]に、[[琉球政府]]が設置されていた[[沖縄返還|沖縄県が日本に復帰]]した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]246頁〜247頁</ref>。県民の[[本土復帰|祖国復帰]]運動が実った結果だが、沖縄のアメリカ軍基地がそのまま残されたことは後に禍根を残した。
=== エネルギー問題 ===
高度経済成長の進展とともに[[燃料]]が[[石炭]]から[[石油]]へ転換する[[エネルギー革命]]が開始されて、これまで有力産業の一つであった炭鉱業界の合理化が迫られて[[1959年]](昭和34年)〜[[1960年]](昭和35年)に[[三井三池争議]]があった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]168頁〜169頁</ref>。[[1973年]](昭和48年)の第一次[[オイルショック]](石油危機)に伴い、[[狂乱物価]]抑制のための総需要抑制策が執行されて、高度経済成長は終焉することとなった。[[田中角栄内閣]]は[[石油]]や[[天然ガス]]など[[海外]]からの[[資源]]に依存する[[火力発電]]から脱却して[[原子力発電]]を推進するために、[[電源開発促進税法]]・[[特別会計に関する法律]]・[[発電用施設周辺地域整備法]]の[[電源三法]]を成立させた<ref name="ReferenceB">時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]150頁〜151頁</ref>。
== 安定成長期とその後のバブル景気 ==
高度経済成長により日本は、[[過剰人口|過剰人口問題]]を解決して国民の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。2度のオイルショック後の急激な[[インフレーション]]([[狂乱物価]])と不況は短期間で終わり、素材産業など一部の[[重厚長大]]産業は没落したが、[[省エネルギー]]化を推進して、[[ハイテク産業]]・[[サービス業]]が成長して、[[安定成長期|安定成長]]へと順調に移行することができた。欧米諸国が[[スタグフレーション]]に苦しむ中、自動車や電化製品の生産を激増させ、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって貿易黒字は増大の一途を辿り、ついに日本の経済は昭和40年代にソ連・[[西ドイツ]]を抜き世界第2位の[[経済大国]]となった。[[1980年]](昭和55年)には、戦後わずか30数年にしてGNPレベルでは[[アメリカ合衆国の経済]]に次ぐ規模を持うようになり、国民の生活レベルは[[一億総中流]]と呼ばれた。この間、[[コンビニ]]・[[ウォークマン]]・[[カラオケ]]が普及して、[[日米貿易摩擦]]が問題となった。日本の[[人口増加|人口の増加]]は戦後急速に進んでいたが、[[団塊の世代]](特に女性)の結婚が増加した影響で(昭和46年度〜昭和49年度)に第2次[[ベビーブーム]]が発生したのが日本の人口構造の転換点となった。出生数が一時的に増加した直後の[[1975年]](昭和50年)以降は[[しらけ世代]]の女性の未婚率の上昇で出生率が2人を下回った。昭和50年代から[[日本国]]は[[少子化|少子]][[高齢化社会]]へと移行していく。
=== 公共事業によるケインズ政策の実施 ===
都市部の人口流入と農村部の人口減少が続き[[過疎]]と[[過密]]が社会問題となった。昭和40年代には、大都市部を中心に革新勢力が台頭して、社会党と共産党の[[革新統一]]のための協定が結ばれ、[[東京都]]の[[美濃部亮吉]]を初めとして、[[京都府]]・[[大阪府]]・[[神奈川県]]などの主要地方自治体で続々[[革新自治体]]が生まれた。中でも[[京都府]]では、[[蜷川虎三]]が7期28年にわたり知事を務めた。こうした中、保守勢力([[自由民主党 (日本)|自由民主党]])は[[三大都市圏]]や[[太平洋ベルト]]の[[工業地域]]で深刻化した[[過密]]と農村部で深刻化した[[過疎]]の人口問題や[[地域格差]]の解決と、革新勢力への対抗のため、都市部のインフラ整備を急ぐとともに、農村部にも道路や[[圃場整備]]などの[[公共事業]]投資を増加させ、農村部の保守層からの支持を取り付ける利益誘導政策を行った。[[社会保障]]面でも、[[1961年]](昭和36年)に[[国民皆保険]]が実現して、[[1973年]](昭和48年)には老人医療自己負担無料化が実現して、本格的な[[福祉国家]]実現への機運が高まった。こうしてGDPの約1割を占めるほどに膨れ上がった公共事業投資と高齢化に伴い増加した社会保障投資は、財政悪化の主な要因となった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]214頁〜215頁</ref>。
=== 派閥政治と保革の対立 ===
[[1972年]](昭和47年)には、[[日本列島改造論]]を唱えた[[田中角栄内閣]]が成立した<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]254頁〜257頁</ref>。[[ロッキード事件]]を経て、[[三角大福|三角大福中]]の[[自由民主党の派閥]]争い<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]288頁〜289頁</ref> の時代となった。保革[[伯仲国会]]で[[中道政治|中道]][[政党]]([[公明党]]・[[民社党]])と[[革新政党]]([[日本社会党]]・[[日本共産党]])が勢力を伸ばす中、[[田中角栄]]が'''闇将軍'''として君臨した。[[1976年]](昭和51年)以降は自由民主党出身の政治改革派が分離した[[新自由クラブ]]や日本社会党から構造改革派が分離した[[社会民主連合]]などの議員数が少数の[[新党]]が結成された。昭和30年代の自由民主党と日本社会党の保守・革新の[[二大政党制]]の時代から、昭和40年代から昭和50年代にかけて中道政党や都市型新党が勢力を伸ばして多党化が進んだ。[[1980年]](昭和55年)の[[ハプニング解散]]による[[衆参同日選挙]]で自由民主党が大勝して[[社共共闘]]が消滅したこともあり、保守勢力の巻き返しが顕著となる。昭和50年代になり政治的な思想面では[[靖国神社問題]]や[[歴史教科書問題]]で[[右翼]]と[[左翼]]の対立が激化して、[[赤報隊事件]]などの右翼によるテロ事件が起きた。昭和22年の時点で元号が法制度上廃止されていたが昭和元号の使用普及率は高い状態だった。[[1947年]]から[[1979年]]までの期間は昭和が慣習として広く国民全体に普及していただけで法制上の根拠が不明確な状態だったので、左翼の間で元号廃止の動きがあった。元号に法的根拠を与えるために[[1979年]](昭和54年)[[6月6日]]に大平内閣が[[元号法]]を成立させて、改元の法的準備ができた。元号法は同[[6月12日]]に[[公布]]、即日[[施行]]された。
=== 芸能史 ===
[[ビートルズ]]来日時に前座を務めた[[ザ・ドリフターズ]]のお笑いコント番組『[[8時だョ!全員集合]]』が[[1969年]](昭和44年)から放送開始。最高視聴率50%を記録し、[[1985年]](昭和60年)に最終回を迎えるまで約16年間続く国民的長寿番組となる。
昭和50年代に[[森昌子]]・[[桜田淳子]]・[[山口百恵]]の[[花の中三トリオ]]や[[キャンディーズ]]・[[ピンク・レディー]]・[[松田聖子]]などの[[芸能人]]が国民の間で話題となった。[[バブル景気]]が始まった昭和60年代には[[おニャン子クラブ]]などの[[アイドル]]ブームがあった<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]268頁〜269頁</ref>。
=== 教育問題 ===
教育面では、[[受験競争]]・[[学力偏差値|偏差値]]教育・[[学歴社会]]・[[管理教育]]が進行して、[[1986年]](昭和61年)の[[中野富士見中学いじめ自殺事件]]で注目された[[いじめ]]による自殺問題<ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]290頁〜291頁</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』161頁老川 慶喜【著】</ref>・[[少年犯罪]]・非行、[[歴史教科書問題]]、子供の間での[[ゲームセンター]]や「[[ファミリーコンピュータ]]」の流行まで、教育問題が[[マスメディア|マスコミ]]から非難された。経済界の要望で[[高専]]設置の[[教育改革]]と、[[詰め込み教育]]から個性重視教育への転換と[[ゆとり教育]]の必要性が盛んに唱えられた。
=== 新自由主義への移行とバブル時代 ===
[[鈴木善幸内閣|鈴木内閣]]から[[中曽根内閣]]時代に行政改革が叫ばれて[[第二次臨時行政調査会|臨調]]が設置された。中曽根内閣の[[行政改革|行革]]路線を皮切りに、老人医療の無料化制度を廃止するなどの福祉の縮小が行われた。[[三公社五現業|三公社]][[民営化]]([[日本専売公社]] → [[日本たばこ産業]] 。[[日本国有鉄道]] → [[日本国有鉄道清算事業団]]と[[JR]]グループ。[[日本電信電話公社]] → [[NTTグループ]])と[[消費税]]導入計画が構想されて<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』160頁老川 慶喜【著】</ref>、野党の猛反対があったが、[[1988年]](昭和63年)に[[消費税法]]案が可決した。福祉国家路線は見直されて[[新自由主義]]路線へと舵が切られた。[[イギリス]]の[[サッチャリズム]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[レーガノミクス]]、[[東側諸国]]の[[ペレストロイカ]]や[[改革開放]]政策、そして[[アジア四小龍|アジアNIEs]]諸国の躍進などの世界経済の大転換期の中で、日本の経済は[[プラザ合意]]を発端とする[[円高]]の進行で[[日本銀行]]による[[円高不況]]対策が行われて[[内需]]拡大が続く[[バブル景気]]に突入した<ref>『もういちど読む山川日本戦後史』164頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』165頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』166頁老川 慶喜【著】</ref><ref>『もういちど読む山川日本戦後史』167頁老川 慶喜【著】</ref><ref>時代の流れが図解で分かる。『早わかり昭和史』[[古川隆久]]302頁〜303頁</ref>。[[1986年]](昭和61年)に[[男女雇用機会均等法]]が執行されて、昭和60年代に女性の社会進出が進んだ<ref name="ReferenceA" />。学生は就職売り手市場であり[[バブル世代]]と呼ばれた。[[好景気]]の中、昭和の時代は[[平成]]へと移り変わり、[[冷戦]]の終結を迎える。
== 略年表 ==
=== 昭和初期から終戦まで ===
;[[1926年]]([[:Category:1926年の日本|大正15年/昭和元年]])
:[[12月25日]]に[[大正天皇]]が[[崩御]]したことを受けて、[[昭和天皇|裕仁親王]]が践祚、12月25日から昭和と[[改元]]。
;[[1927年]]([[:Category:1927年の日本|昭和2年]])
:[[昭和金融恐慌]]勃発。[[南京事件 (1927年)|南京事件]]。[[第1次若槻内閣]]総辞職。[[田中義一内閣]]([[政友会]]内閣)成立。緊急勅令で金銭債務の支払延期等公布施行([[モラトリアム]])。金融恐慌対策のため第53回臨時議会招集。[[山東出兵#第一次出兵]]。[[東方会議 (1927年)|東方会議]]。[[岩波文庫]]刊行開始。12月30日、上野・浅草間に日本最初の[[地下鉄]]が開通。
;[[1928年]]([[:Category:1928年の日本|昭和3年]])
:最初の男子[[普通選挙]]([[第16回衆議院議員総選挙]])が実施される<ref group="注">政友会217議席,民政党216議席,無産諸派8議席,[[実業同志会]]4議席,革新3議席,中立その他18議席</ref>。[[三・一五事件]]:1道3府27県に[[日本共産党|共産党]]・[[労働農民党|労農党]]・[[日本労働組合評議会|評議会]]・[[全日本無産青年同盟|無産青年同盟]]の関係者など千数百名を[[治安維持法]]違反容疑で検挙する。第55回帝国特別議会にて[[治安維持法]]の改正案を提出して審議未了となる。閣議で第2次山東出兵を決定。[[済南事件]]。[[張作霖爆殺事件]]・[[満洲某重大事件]]。緊急勅令で治安維持法改正公布施行(死刑罪・目的遂行罪追加)。[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]で[[織田幹雄]](三段跳び)・[[鶴田義行]](水泳200メートル平泳ぎ)が日本選手初めての金メダル、女子では[[人見絹枝]]が800メートルで銀メダルを獲得し女子初のメダリストとなる。[[昭和天皇]][[即位の礼]]。
;[[1929年]]([[:Category:1929年の日本|昭和4年]])
:[[世界恐慌]]の発生。[[田中義一内閣]]総辞職、[[浜口雄幸内閣]]([[立憲民政党|民政党]]内閣)成立。
;[[1930年]]([[:Category:1930年の日本|昭和5年]])
:[[昭和恐慌]]。[[金解禁|金輸出解禁]]。[[ロンドン海軍軍縮会議]]開催。[[第17回衆議院議員総選挙]]<ref group="注">民政党273,政友会174,国民同志会6,無産諸派5</ref>。婦人に公民権を認める市制・町村制改正案、衆議院で可決、[[貴族院 (日本)|貴族院]]で審議未了。10月、[[霧社事件]]。11月、[[濱口首相遭難事件]]。
;[[1931年]]([[:Category:1931年の日本|昭和6年]])
:[[中村大尉事件]]。[[柳条湖事件]]、[[満洲事変]]勃発。[[金解禁|金輸出再禁止]]。[[三月事件]]。[[十月事件]]。[[第2次若槻内閣]]成立。[[犬養内閣]]成立。
;[[1932年]]([[:Category:1932年の日本|昭和7年]])
:[[血盟団事件]]。[[第18回衆議院議員総選挙]]<ref group="注">政友会301議席,民政党146議席,無産諸派5議席</ref>。[[リットン調査団]]来日。3月1日、[[満洲国]]建国宣言。[[五・一五事件]]。[[犬養内閣]]総辞職。[[齋藤内閣]]成立。[[日満議定書]]締結、[[満洲国]]承認。[[第一次上海事変]]。
;[[1933年]]([[:Category:1933年の日本|昭和8年]])
:[[ヨーヨー]]が[[流行]]。[[東京音頭]]が[[ヒット]]。[[昭和三陸地震]]発生。[[12月23日]]に継宮[[明仁|明仁親王]](生まれながらの[[皇太子]]となり、後に第125代天皇)が誕生した。3月[[国際連盟脱退]]。5月[[滝川事件]]、[[塘沽停戦協定]](柳条湖事件に始まる満洲事変の軍事的衝突停止)。7月[[神兵隊事件]]。
;[[1934年]]([[:Category:1934年の日本|昭和9年]])
:[[室戸台風]]襲来。[[ベーブ・ルース]]ら米大リーグ選抜チームが来日。[[陸軍士官学校事件]]。[[帝人事件]]、斎藤内閣総辞職。7月[[岡田内閣]]成立。
;[[1935年]]([[:Category:1935年の日本|昭和10年]])
:[[天皇機関説事件]]。[[相沢事件]]。[[吉川英治]]『[[宮本武蔵 (小説)|宮本武蔵]]』連載開始(同14年に完結)。
;[[1936年]]([[:Category:1936年の日本|昭和11年]])
:1月15日、日本全権、ロンドン軍縮会議からの脱退を通告。[[第19回衆議院議員総選挙]]<ref group="注">民政党205議席,政友会171議席,[[昭和会]]22議席,[[社会大衆党]]18議席,[[国民同盟]]15議席</ref>。[[二・二六事件]]。[[岡田啓介]]内閣総辞職。[[広田弘毅]]に組閣命令下る。[[軍部大臣現役武官制]]が復活。[[日独防共協定]]締結。[[綏遠事件]]。[[西安事件]]。
;[[1937年]]([[:Category:1937年の日本|昭和12年]])
:広田内閣閣内不統一のため総辞職。[[林内閣|林銑十郎内閣]]成立。[[第20回衆議院議員総選挙]]<ref group="注">民政党179,政友会175,社会大衆等37,昭和会19,国民同盟11等</ref>。林内閣総辞職。[[第1次近衛内閣]]成立。7月7日、[[盧溝橋事件]]、[[日中戦争]]([[支那事変]])勃発。7月11日、現地停戦協定成立。政府河北派兵を声明。7月28日、日本軍、河北で総攻撃開始。8月13日、上海で日中両軍交戦([[第二次上海事変]])。8月15日、全面戦争に突入。9月「挙国一致・尽人報國・堅忍持久・八紘一宇」をスローガンに国民の戦争協力を促す[[国民精神総動員運動]]が始まる。10月6日、[[国際連盟]]総会、日本の行動非難の決定を採決。11月20日、大本営設置。11月[[日独伊防共協定]]締結。政府、朝鮮で[[皇国臣民ノ誓詞]]を配布する。内閣情報部が国民歌募集、「[[愛国行進曲]]」演奏発表会、レコード100万枚売れる。[[白白教事件]]。[[日本無産党]]が[[治安維持法]]により結社禁止(第一次[[人民戦線事件]])。12月13日、日本軍が南京を占領。[[南京事件]]。
;[[1938年]]([[:Category:1938年の日本|昭和13年]])
:[[近衛声明]]。4月[[国家総動員法]]制定。[[徐州会戦]]。7月、満洲国東南端で[[張鼓峰事件]]勃発。[[1940年東京オリンピック]]の中止決定。8月[[武漢作戦]]。
;[[1939年]]([[:Category:1939年の日本|昭和14年]])
:1月[[平沼内閣]]成立。[[重慶爆撃]]。5月ソ連・モンゴル連合軍と満蒙国境付近で軍事衝突、日本側大敗([[ノモンハン事件]])。7月[[国民徴用令]]制定。8月[[独ソ不可侵条約]]制定によって広田内閣以来の親独政策の根拠を失い、平沼は「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職。[[9月1日]]、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[ポーランド侵攻]]により[[第二次世界大戦]]始まる。[[阿部内閣]]成立。[[賃金統制令]]・[[価格等統制令]](九・一八停止令)公布。
;[[1940年]]([[:Category:1940年の日本|昭和15年]])
:[[米内内閣]]成立。紀元2600年記念祝典。3月[[汪兆銘政権]]成立(11月[[日華基本条約]]で政権を承認)。7月[[第二次近衛内閣]]成立。9月[[日独伊三国軍事同盟]]締結、北部[[仏印進駐]]。10月[[大政翼賛会]]結成。11月[[大日本産業報国会]]結成。
;[[1941年]]([[:Category:1941年の日本|昭和16年]])
:[[ゾルゲ事件]]。4月[[日ソ中立条約]]締結、[[日米交渉]]開始。7月、[[第3次近衛内閣|第三次近衛内閣]]成立、[[南部仏印進駐]]。[[ABCD包囲網]]によって対日石油輸出全面禁止。[[御前会議]]で[[帝国国策遂行要領]]決定。10月[[東條内閣]]成立。[[ハルノート|ハル・ノート]]が提示される。[[12月8日]]、[[南方作戦]]([[マレー作戦]]・[[真珠湾攻撃]])、[[太平洋戦争]]開戦。[[マレー沖海戦]]。[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]竣工。[[言論、出版、集会、結社等臨時取締法]]公布、施行。
{{See also|太平洋戦争の年表}}
;[[1942年]]([[:Category:1942年の日本|昭和17年]])
:[[シンガポールの戦い]]、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピンの戦い]]。4月18日、[[ドーリットル空襲]]で米陸軍機が[[東京府]][[東京市]]、[[神奈川県]][[川崎市]]、[[横須賀市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]、[[三重県]][[四日市市]]、[[兵庫県]][[神戸市]]を初[[空襲]]する。[[第21回衆議院議員総選挙]]<ref group="注">当選者、推薦381名,非推薦者85名</ref>。6月4日、[[ミッドウェー海戦]]。[[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]開業。[[武蔵 (戦艦)|戦艦武蔵]]竣工。[[ガダルカナル島の戦い]]。
;[[1943年]]([[:Category:1943年の日本|昭和18年]])
:[[山本五十六]]戦死([[海軍甲事件]])。[[東京市]]と[[東京府]]が廃止、[[東京都]]が設置。[[ガダルカナル島撤収作戦|日本軍ガダルカナル島撤退]]。[[アッツ島の戦い]]。[[ソロモン諸島の戦い]]。[[学徒出陣]]。
;[[1944年]]([[:Category:1944年の日本|昭和19年]])
:[[大陸打通作戦]]、[[インパール作戦]]、[[マリアナ沖海戦]]、[[グアムの戦い (1944年)|グアムの戦い]]、[[レイテ島の戦い]]、[[フィリピンの戦い (1944-1945年)]]。[[サイパン島]]陥落。[[小磯内閣]]成立。[[対馬丸事件]]。[[学童疎開]]。[[昭和東南海地震]]。[[B-29 (航空機)|B-29]]による[[東京]]への[[空襲]]が始まる。
;[[1945年]]([[1945年の日本|昭和20年]])
:[[ヤルタ会談]]。[[硫黄島の戦い]]、[[占守島の戦い]]。[[地方総監府]]を設置して[[本土決戦]]に備える。終戦まで各地で大規模な空襲が行われる。
:[[3月9日]]-[[3月10日|10日]] [[東京大空襲]]
:3月 [[名古屋大空襲]]、[[大阪大空襲]]、[[神戸大空襲]]
:[[4月1日]] 米軍が[[沖縄本島]]に上陸して地上戦となる([[沖縄戦]])。
:4月7日 [[鈴木貫太郎内閣]]成立。
:5月 [[横浜大空襲]]
:6月 [[静岡大空襲]]
:[[6月23日]] 沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わる([[慰霊の日]])。
:7月 [[北海道空襲]]
:8月 [[富山大空襲]]
:[[8月6日]] [[広島市への原子爆弾投下]]
:[[8月8日]] [[ソビエト連邦|ソ連]]が[[日ソ中立条約]]を破棄して[[ソ連対日宣戦布告|日本に宣戦布告]]。[[千島列島]]・[[樺太]]に侵攻。
:[[8月9日]] [[長崎市への原子爆弾投下]]
:[[8月10日]] [[ポツダム宣言]]受諾の決定
:[[8月14日]] ポツダム宣言受諾
:[[8月15日]] [[宮城事件]]。[[玉音放送]]により国民に[[終戦]]が告げられる([[終戦の日]])。
:[[9月2日]] [[日本の降伏文書|降伏文書]]調印
:[[9月17日]]被爆地の[[広島市]]などを中心に[[枕崎台風]]襲来
=== 昭和中期(終戦後と高度経済成長期まで)の年表 ===
;[[1946年]]([[:Category:1946年の日本|昭和21年]])
:[[1月1日]]に天皇が[[人間宣言]]。[[通化事件]]。[[飯米獲得人民大会|食糧メーデー]]。<ref>もういちど読む山川日本戦後史42頁</ref>[[11月3日]]、日本国憲法公布。[[農地改革]]。[[公職追放]]。[[12月21日]]、[[昭和南海地震]]。
;[[1947年]]([[1947年の日本|昭和22年]])
:[[二・一ゼネスト]](中止)。[[5月3日]]、'''[[日本国憲法]]施行。'''[[皇室典範]]及び[[皇室経済法]]施行、[[旧皇族]]の11宮家51人が[[皇籍離脱]]。[[地方自治法]]成立。[[伊豆諸島]]が[[本土復帰#伊豆諸島|本土復帰]]。
;[[1948年]]([[1948年の日本|昭和23年]])
:[[昭和電工事件]]。[[朝鮮]]の[[済州島]]で大量虐殺([[済州島四・三事件]])、島民が日本に多数流入。[[阪神教育事件]]。[[福井地震]]発生。[[帝銀事件]]。[[巣鴨拘置所]]で[[東条英機]]、[[広田弘毅]]ら7名の死刑執行。
;[[1949年]]([[1949年の日本|昭和24年]])
:[[ドッジ・ライン]]実施。[[下山事件]]。[[三鷹事件]]。[[松川事件]]が相次いで発生。<ref>もういちど読む山川日本戦後史59頁</ref> 韓国から[[対馬]]返還要求<ref>[https://web.archive.org/web/20110722135855/http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/01/07/0200000000AJP20081222003300882.HTML 今日の歴史(1月7日)] 聯合ニュース</ref>。[[湯川秀樹]]が日本人初の[[ノーベル賞]]を受賞。
;[[1950年]]([[1950年の日本|昭和25年]])
:[[朝鮮戦争]]勃発。[[海上保安庁]][[日本特別掃海隊|掃海部隊]]を[[朝鮮半島]]近海に派遣する<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20190607125058/https://www.mod.go.jp/msdf/mf/other/history/img/005.pdf 朝鮮戦争に出動した日本特別掃海隊]}} - [[防衛省]]</ref>。日本は[[朝鮮特需]]により[[経済]][[復興]]が加速。[[警察予備隊]](現・[[陸上自衛隊]])発足。
;[[1951年]]([[1951年の日本|昭和26年]])
:[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]、[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]調印。[[ラジオ]]の[[民間放送]]が開始。
;[[1952年]]([[1952年の日本|昭和27年]])
:[[トカラ列島]]が[[本土復帰#トカラ列島|本土復帰]]。[[日米地位協定|日米行政協定]]が締結される。[[李承晩ライン]]が引かれる。4月28日に[[日本国との平和条約]]が発効、[[日本国との平和条約|主権回復]]。[[インド]]と平和回復(後に[[インドネシア]]・[[ミャンマー|ビルマ]]も平和条約締結)。
;[[1953年]]([[:Category:1953年の日本|昭和28年]])
:[[1953年のテレビ (日本)|テレビ本放送開始]]。[[力道山]]らが[[日本プロレス]]を設立、[[プロレス]]ブーム到来。[[奄美群島]]が[[本土復帰#奄美群島|本土復帰]]。韓国に[[竹島 (島根県)|竹島]]が占拠される。
;[[1954年]]([[:Category:1954年の日本|昭和29年]])
:[[1月2日]][[二重橋事件]]。[[3月1日]]に[[ビキニ環礁]]で[[水素爆弾|水爆]]実験が行われ、[[第五福竜丸]]の乗組員が被曝。[[洞爺丸事故]]。[[自衛隊]]創設。
;[[1955年]]([[:Category:1955年の日本|昭和30年]])
:自由党と日本民主党が合同して[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]、右派と左派が合併した[[日本社会党]]の成立([[55年体制]]、[[保守合同]]<ref>もういちど読む山川日本戦後史89頁</ref>・[[社会党再統一]])。[[神武景気]]。[[原子力基本法]]成立。[[紫雲丸事故]]。[[トヨタ・クラウン]]発売開始。
;[[1956年]]([[:Category:1956年の日本|昭和31年]])
:[[原子力委員会]]設置。[[日本原子力研究所]]設置。[[ソビエト連邦]]と国交回復、[[日ソ共同宣言]]。[[国際連合と日本|国際連合加入]]。
;[[1957年]]([[:Category:1957年の日本|昭和32年]])
:[[なべ底不況]]。[[科学技術庁]]設置。[[五千円紙幣#C号券]]発行。
;[[1958年]]([[:Category:1958年の日本|昭和33年]])
:[[岩戸景気]]。[[東京タワー]]が竣工。[[長嶋茂雄]]が[[読売ジャイアンツ|読売巨人軍]]へ入団。[[一万円紙幣#C号券]]発行。[[南海丸遭難事故]]。[[チキンラーメン]]発売開始。[[スバル・360]]発売。
;[[1959年]]([[:Category:1959年の日本|昭和34年]])
:[[4月10日]]に[[明仁|皇太子明仁親王]](後の第125代天皇)が[[上皇后美智子|正田美智子]]と結婚([[ミッチー・ブーム]])。[[王貞治]]が読売巨人軍に入団。[[伊勢湾台風]]発生。[[新潟日赤センター爆破未遂事件]]。
;[[1960年]]([[:Category:1960年の日本|昭和35年]])
:[[2月23日]]に[[徳仁|浩宮徳仁親王]](後の天皇)誕生。[[6月19日]]に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|(新)日米安全保障条約]]改定発効。その反対勢力による[[安保闘争]]起こる。[[7月19日]]、[[池田勇人内閣]]発足し『[[所得倍増計画]]』を打ち出す。[[浅沼稲次郎暗殺事件]]。
;[[1961年]]([[:Category:1961年の日本|昭和36年]])
:[[農業基本法]]制定。[[嶋中事件]]。
;[[1962年]]([[:Category:1962年の日本|昭和37年]])
:[[オリンピック景気]]。[[三河島事故]]。[[司馬遼太郎]]『[[竜馬がゆく]]』連載開始(同41年完結)。
;[[1963年]]([[:Category:1963年の日本|昭和38年]])
:日本初の[[原子力発電所]]、[[東海発電所]]稼働。日本初の30分[[テレビアニメ]]シリーズ<ref group="注">テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』の放映開始。
;[[1964年]]([[:Category:1964年の日本|昭和39年]])
:[[名神高速道路]]・[[首都高速道路]]、そして世界初の[[高速鉄道]]である[[東海道新幹線]]開通。[[10月10日]]-[[10月24日]]、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開催。
;[[1965年]]([[:Category:1965年の日本|昭和40年]])
:[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]調印。[[証券不況]](構造不況)。[[朝永振一郎]]が[[ノーベル物理学賞]]受賞。
;[[1966年]]([[:Category:1966年の日本|昭和41年]])
:[[日本の人口統計|日本の総人口]]が1億人を突破。[[いざなぎ景気]]。[[ザ・ビートルズ日本公演|ビートルズ来日]](前座を[[ザ・ドリフターズ]]が務める)。[[三里塚闘争]]開始。
;[[1967年]]([[:Category:1967年の日本|昭和42年]])
:初の[[建国記念の日]]の適用。[[公害対策基本法]]公布。[[四日市ぜんそく]][[裁判]]が提訴される。
;[[1968年]]([[:Category:1968年の日本|昭和43年]])
[[革新政党]]などの反対の中、[[佐世保基地 (アメリカ海軍)|佐世保基地]]に[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]が直航、[[佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争]]発生。[[イタイイタイ病]]が[[公害病]]として認定。[[小笠原返還協定]]により、[[小笠原諸島]]などの[[南方諸島]]が返還される。[[川端康成]]が日本人初の[[ノーベル文学賞]]受賞。[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]で、[[三億円事件]]発生。漫画『[[ゴルゴ13]]』の連載開始。
;[[1969年]]([[:Category:1969年の日本|昭和44年]])
:テレビアニメ『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』の放映開始。お笑い番組『[[8時だョ!全員集合|8時だョ!全員集合]]』の放送開始。[[東名高速道路]]全線開通。[[東大安田講堂事件]]発生。日本の[[佐藤栄作]]首相と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[リチャード・ニクソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が面会。
;[[1970年]]([[1970年の日本|昭和45年]])
:[[3月14日]]-[[9月13日]]に[[日本万国博覧会]](大阪万博)開催。[[よど号ハイジャック事件]]。[[三島事件]]。
=== 昭和後期(ポスト高度経済成長期からバブルまで)の年表 ===
;[[1971年]]([[1971年の日本|昭和46年]])
:[[7月1日]]に[[環境省|環境庁]]設置。[[ニクソン・ショック]]。[[カップヌードル]]発売。[[円 (通貨)|円]]が[[変動相場制]]になり、日本の好景気に一時的な不況をもたらす。
;[[1972年]]([[1972年の日本|昭和47年]])
:[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]開催。[[あさま山荘事件]]。[[山陽新幹線]]の[[新大阪駅]]-[[岡山駅]]間が開通。[[テルアビブ空港乱射事件]]。[[千日デパート火災]]。[[沖縄返還協定]]により、[[沖縄]]([[琉球諸島]]及び[[大東諸島]])の[[施政権]]がアメリカ合衆国から日本に復帰する([[沖縄返還]])。[[奈良県]][[明日香村]]にある[[高松塚古墳]]で、極彩色の[[壁画]]が発見される。
* 1973年: 日本が[[五大国#G5|G5]](現在の[[G7]])の一部となる。[[日本列島改造論]]。[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明]](日中共同声明、[[台湾]]断交)。[[アントニオ猪木]]が[[新日本プロレス]]を、[[ジャイアント馬場]]が[[全日本プロレス]]をそれぞれ設立。
;[[1973年]]([[1973年の日本|昭和48年]])
:[[中東戦争]]による第一次[[オイルショック]]。[[金大中事件]]。[[大洋デパート火災]]。
;[[1974年]]([[1974年の日本|昭和49年]])
:[[連続企業爆破事件]]。[[田中金脈問題]]。[[セブン-イレブン]]日本第1号店開店。
;[[1975年]]([[1975年の日本|昭和50年]])
:[[3月10日]]に山陽新幹線の[[岡山駅]]-[[博多駅]]間が開通。[[沖縄国際海洋博覧会]]開催。
;[[1976年]]([[1976年の日本|昭和51年]])
:[[ロッキード事件]]。[[王貞治]]が[[ベーブ・ルース]]の本塁打記録を抜く。
;[[1977年]]([[1977年の日本|昭和52年]])
:[[北朝鮮による日本人拉致問題]]が盛んになる。[[王貞治#本塁打]]:[[ハンク・アーロン]]の本塁打記録を抜き世界一となる。[[ダッカ日航機ハイジャック事件]]。
;[[1978年]]([[1978年の日本|昭和53年]])
:[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]調印。新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])開港。第一回[[隅田川花火大会]]。
;[[1979年]]([[1979年の日本|昭和54年]])
:[[イラン]][[イスラム革命]]による第二次[[オイルショック]]。テレビアニメ『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』(第2期)の放送開始。[[第5回先進国首脳会議|東京サミット]]。[[インベーダーゲーム]]が流行<ref>懐かしの昭和・平成流行事典2001年〜1945年の56頁</ref>。[[日本坂トンネル火災事故]]。[[元号法]]成立。
;[[1980年]]([[1980年の日本|昭和55年]])
:[[ハプニング解散]]。[[大平正芳]]が[[急死]]。[[原宿]]で[[竹の子族]]が出現<ref>懐かしの昭和・平成流行事典2001年〜1945年の52頁</ref>。[[新宿西口バス放火事件]]。年間自動車生産数が千万台を超え、日本がアメリカに次ぐ自動車生産国となる。[[読売ジャイアンツ]]の[[王貞治]]引退。
;[[1981年]]([[1981年の日本|昭和56年]])
:[[中国残留日本人|中国残留孤児]]が初[[来日]]する。[[建築基準法]]の施行令改正(新しい[[耐震基準]])。[[神戸ポートアイランド博覧会]]。[[福井謙一]]がアジア人初の[[ノーベル化学賞]]受賞。
;[[1982年]]([[1982年の日本|昭和57年]])
:[[ホテルニュージャパン火災]]。[[東北新幹線]]([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]-[[盛岡駅]]間)、[[上越新幹線]]([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]-[[新潟駅]]間)開通。[[3月18日]]に[[川崎公害]]裁判が開始。
;[[1983年]]([[1983年の日本|昭和58年]])
:[[東京ディズニーランド]]開園。[[日本海中部地震]]発生。[[おしん]]ブーム。[[任天堂]]の[[テレビゲーム]]機「[[ファミリーコンピュータ]]」誕生。[[三宅島]]の雄山が噴火。奈良県明日香村にある[[キトラ古墳]]の石室内の彩色壁画に[[玄武]]が発見される。[[ロッキード事件]]の裁判で、[[田中角栄]]元首相に対し、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下る。
;[[1984年]]([[1984年の日本|昭和59年]])
:[[グリコ・森永事件]]が発生。新しい紙幣が発表され、[[一万円札]]の表面は[[福沢諭吉]]、 [[五千円札]]の表面は[[新渡戸稲造]]、そして[[千円札]]の表面は[[夏目漱石]]に変更された。[[高円宮]]家創設。
;[[1985年]]([[1985年の日本|昭和60年]])
:[[AIDS]]の患者が初めて公的に認知される。東北新幹線と上越新幹線・大宮駅-[[上野駅]]間が開通。[[4月1日]]、[[日本電信電話公社]]・[[日本専売公社]]が[[民営化]]されて、[[日本電信電話]](NTT)・[[日本たばこ産業]](JT)が発足。[[国際科学技術博覧会|つくば科学博]]開催。[[8月12日]]、[[日本航空123便墜落事故]]が発生し、乗客乗員524人中520人死亡で、単独機の航空事故の死亡者数として世界最多を記録。[[五大国#G5|G5]]で[[プラザ合意]](昭和60年の[[円高不況]])。任天堂ゲームソフト『[[スーパーマリオブラザーズ]]』発売、爆発的なヒットとなる。
;[[1986年]]([[1986年の日本|昭和61年]])
:[[男女雇用機会均等法]]執行。[[第12回先進国首脳会議|東京サミット]]開催。[[日本社会党]]の[[土井たか子]]が議会政党としては日本初の女性党首に就任。[[伊豆大島]]の[[三原山]]が噴火したが、住民は先に避難していた。
;[[1987年]]([[1987年の日本|昭和62年]])
:[[バブル景気]](平成景気)が本格化。[[国鉄分割民営化]]で[[日本国有鉄道|国鉄]]が[[民主化]]し、[[JR]]グループが発足され、[[JR]]として七つの会社に分かれる。[[石原裕次郎]]死去。
;[[1988年]]([[1988年の日本|昭和63年]])
:[[青函トンネル]]、[[瀬戸大橋]]が開業。[[リクルート事件]]が問題化。テレビアニメ『[[それいけ!アンパンマン]]』の放映開始。[[海上自衛隊]]の[[なだしお (潜水艦)|なだしお潜水艦]]が、遊漁船の第一富士丸と衝突し、遊漁船が沈没([[なだしお事件]])。
;[[1989年]]([[1989年の日本|昭和64年/平成元年]])
:[[女子高生コンクリート殺人事件|女子高生コンクリート詰め殺人事件]](発覚は[[1989年|1989年 (平成元年)]]3月)。[[1月7日]]に[[昭和天皇]]が[[崩御]]し、[[明仁|皇太子明仁親王]]の第125代天皇[[即位]]に伴い、翌[[1月8日|8日]]に[[平成]]と改元される。
== 西暦との対照表 ==
{|class="wikitable" style="text-align:center"
!昭和||元年||2年||3年||4年||5年||6年||7年||8年||9年||10年
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|[[1956年]]||[[1957年]]||[[1958年]]||[[1959年]]||[[1960年]]||[[1961年]]||[[1962年]]||[[1963年]]||[[1964年]]||[[1965年]]
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|}
;元年と最終年の期間
: 昭和元年(1926年): 12月25日〜12月31日〈7日間〉
: 昭和64年(1989年): 1月1日〜1月7日〈7日間〉
== 現代における昭和 ==
*[[国民の祝日に関する法律]]が一部改正され、[[2007年]](平成19年)から毎年[[4月29日]]は、[[昭和の日]]に変更された<ref group="注">元々は昭和天皇の誕生日。戦前・戦中は「天長節」、戦後は「[[天皇誕生日]]」という名称であったが、昭和天皇崩御を受け「[[みどりの日]]」と改められていた。</ref>。祝日法には「昭和の日-激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と定められている。
*「昭和ノスタルジー」、あるいは「昭和レトロ」という風潮が存在し、戦前期(昭和一桁・昭和10年代)の[[アール・デコ]]建築や、高度経済成長期(昭和30年代から昭和40年代)の古い町並みを活かして観光地化を進めている町もある。だがその一方で、ただの[[レトロ|懐古主義]]に浸っているだけという批判もある。また、[[平成]]末期以降は「古臭い」「時代遅れ」「前世紀の遺物」というネガティブな意味合いを込めた代名詞として「昭和」という言葉が使われるケースも出現している。
*昭和生まれの総人口は[[1984年]](昭和59年)に1億人を突破して、その後も1億人以上を維持していたが、昭和生まれが高齢化したことによって死亡が増加した影響で、[[2007年]](平成19年)に昭和生まれの日本の総人口が1億人割れをして、全人口比では78.2%(9997万人)となり、平成生まれが、全人口比で16.3%(2081万人)となり、平成生まれの人口が2000万人を突破した。
*昭和生まれは、以下の[[世代#日本の世代|世代]]に区分されている。<ref>『平成トレンド史』4頁〜5頁著者原田曜平</ref>
*#[[昭和一桁]]世代([[1926年]](昭和元年)生まれ〜[[1934年]](昭和9年)生まれ)
*#[[焼け跡世代]]([[1935年]](昭和10年)生まれ〜[[1946年]](昭和21年)生まれ)
*#[[全共闘世代]]([[1940年]](昭和15年)生まれ〜[[1949年]](昭和24年)生まれ)
*#[[団塊の世代]]([[1947年]](昭和22年)生まれ〜[[1949年]](昭和24年)生まれ)
*#[[しらけ世代]]([[1950年]](昭和25年)生まれ〜[[1964年]](昭和39年)生まれ)
*#[[新人類]]世代([[1955年]](昭和30年)生まれ〜[[1964年]](昭和39年)生まれ)
*#[[バブル世代]]([[1965年]](昭和40年)生まれ〜[[1969年]](昭和44年)生まれ)
*#[[就職氷河期|氷河期世代]]([[1970年]](昭和45年)生まれ〜[[1982年]](昭和57年)生まれ)
*# [[団塊ジュニア]]世代([[1971年]](昭和46年)生まれ〜[[1974年]](昭和49年)生まれ)
*#[[ポスト団塊ジュニア]]世代([[1975年]](昭和50年)生まれ〜[[1984年]](昭和59年)生まれ)
*#ミニマムライフ世代([[1982年]](昭和57年)〜[[1986年]](昭和61年)生まれ)
*#[[ゆとり世代]]([[1987年]](昭和62年)生まれ〜[[2003年]](平成15年)生まれ)
*#[[さとり世代]]([[1989年]](昭和64年)生まれ〜[[1997年]](平成9年)生まれ)
など複数の世代で構成されている。
*平成時代の[[流行語]]として、昭和専と呼ばれる昭和生まれ(主に団塊ジュニア世代の男性から昭和60年代生まれの男性)の年上の男性を好んでいる平成生まれの若い女性を指す言葉が誕生した。
*平成末期から[[令和]]初期にかけて日本における[[国会議員]]は全員昭和生まれであった<ref group="注">ただし、平成生まれの国政選挙立候補者は2名存在した。</ref>。地方議員は[[京都党]]の女性議員([[1990年]][[2月11日]]生まれ)など[[2015年]](平成27年)の[[第18回統一地方選挙]]で平成生まれの地方議員が14人誕生した<ref>{{Cite news|url= http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20150413000022 |title= 存在感増した京都党、平成生まれ市議も誕生 京都市議選 |newspaper= 京都新聞 |date= 2015-04-13 |accessdate= 2020-06-03 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20150413145806/http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20150413000022 |archivedate= 2015-04-13 }}</ref>。
*[[日本野球機構|日本プロ野球機構]]では、これに所属する球団の一つである[[阪神タイガース]]が[[糸井嘉男]](昭和56年7月31日生まれ)の2022年シーズンをもっての引退により、昭和生まれの選手がプロ野球機構に所属する12球団中で初めて0人のチームとなった。これにより、阪神タイガースでは2023年シーズンからは所属選手全員が1990年代以降の生まれとなり、同年には昭和生まれの現役選手不在チームでは初めての優勝と日本一を達成した球団となった。
== 昭和を冠するもの ==
=== 企業・団体 ===
*[[昭和電力]] - 昭和と改元された2日後([[1926年]](昭和元年)[[12月27日]])発足。
*[[昭和産業]]
*昭和電工 - [[レゾナック・ホールディングス|レゾナックホールディングス]]の旧社名。
*昭和電線電纜 - [[SWCC (日本の非鉄金属メーカー)|SWCC]]の旧社名。
*[[昭和飛行機工業]]
*[[ショーワ]]
*[[昭和シェル石油]] - 現在の[[出光興産]]の前身の一つ。
*[[昭和プロダクション]] - [[大阪市]]を本拠とする[[芸能事務所]]。
*[[昭和自動車]] - [[佐賀県]][[唐津市]]に本社を置く[[路線バス]]事業者。
*[[昭和リース]]
*[[ショウワノート]]
*[[昭和信用金庫]]
*昭和被服総業 - [[岡山市]][[東区 (岡山市)|東区]][[西大寺 (旧市域)|西大寺]]にある老舗[[アパレル]][[製造業|メーカー]]。
*[[昭和食堂]] - なつかし処をモチーフとする[[東海地方]]を中心に[[愛知県]][[名古屋市]]を拠点する[[居酒屋]][[チェーンストア|チェーン]]。
*[[昭和アルミニウム]]
*[[新昭和]]
*大昭和製紙 - 現在の[[日本製紙]]の前身の一つ。
*昭和無線工業 - [[SMK (企業)|SMK]]の旧社名。
=== 教育・学校 ===
{{seealso|昭和高等学校|昭和中学校|昭和小学校}}
*昭和高等学校(公立) - [[東京都立昭和高等学校|東京都立]]と[[愛知県立昭和高等学校|愛知県立]]がある
*[[昭和鉄道高等学校]]
*[[昭和第一高等学校]]
*[[昭和第一学園高等学校]]
*[[昭和大学]] - 2005年まで[[昭和大学医療短期大学]]を併設
*[[昭和音楽大学]] - [[昭和音楽大学短期大学部]]を併設
*[[昭和女子大学]] - [[昭和女子大学附属昭和中学校・高等学校]]、[[昭和女子大学短期大学部]](2014年まで)を併設
*[[昭和薬科大学]] - 同一学校法人運営で[[昭和薬科大学附属高等学校・中学校]]がある
*[[昭和学院短期大学]] - 同一学校法人運営で[[昭和学院中学校・高等学校]]、[[昭和学院秀英中学校・高等学校]]がある
*昭和中学校 - 全国各地にある
*昭和小学校 - 全国各地にある
*昭和幼稚園 - 全国各地にある
=== 地名 ===
*[[昭和基地]]
*[[愛知県]][[名古屋市]][[昭和区]]
*[[北海道]][[函館市]]昭和、昭和町
*[[広島県]][[呉市]]昭和町
*[[山梨県]][[中巨摩郡]][[昭和町]]
*[[秋田県]][[南秋田郡]][[昭和町 (秋田県)|昭和町]] - 現在の[[潟上市]]
*[[山形県]][[新庄市]][[昭和地区]]
*[[徳島県]][[徳島市]][[昭和町 (徳島市)|昭和町]]
*[[福島県]][[大沼郡]][[昭和村 (福島県)|昭和村]]
*[[群馬県]][[利根郡]][[昭和村 (群馬県)|昭和村]]
*[[栃木県]][[宇都宮市]][[昭和 (宇都宮市)|昭和]]
*[[岐阜県]][[高山市]]昭和町
*[[香川県]][[さぬき市]]昭和
*[[福岡県]][[北九州市]][[八幡東区]]昭和
*[[佐賀県]][[武雄市]]昭和
*[[東京都]][[昭島市]] - 昭和町と拝島村が合併して成立
*[[昭和島]](東京都ほか)
*[[昭和新山]]
他にも昭和町という地名は日本全国の至る所に存在している。
=== 交通 ===
*[[昭和駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[鶴見線]])
*昭和停留場
**現:昭和駅(上記)
**現:[[南大町駅]](JR東日本[[大糸線]])
**西鉄北九州線に1992年まで存在した停留場 - [[西鉄北九州線#電停一覧]]を参照。
*昭和駅(廃止、[[留萠鉄道]])
*[[昭和町駅 (大阪府)|昭和町駅]]([[大阪市高速電気軌道]](Osaka Metro)[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]])
*[[昭和町駅 (香川県)|昭和町駅]]([[四国旅客鉄道|JR四国]][[高徳線]])
*[[昭和町駅 (愛知県)|昭和町駅]]([[名古屋臨海鉄道]][[名古屋臨海鉄道昭和町線|昭和町線]]の[[貨物駅]]) - 以前は近傍に[[名古屋市電]][[名古屋市電大江線|大江線]]の昭和町停留場が存在
*<!--厳密には冠していませんが-->[[土佐昭和駅]](JR四国[[予土線]])
*<!--厳密には冠していませんが-->[[雄鉄昭和駅]](廃止、[[雄別鉄道]])
*[[昭和通り (曖昧さ回避)|昭和通り]](東京都ほか)
*昭和橋([[利根川]]ほか)
*[[昭和大橋 (桑折町)]]
*[[昭和大橋 (新潟市)]]
=== 公園 ===
* 昭和公園(北海道函館市)
* [[昭和の森]]公園([[千葉県]]ほか)
* [[国営昭和記念公園]](東京都[[立川市]]、昭島市)
* 日本昭和村-現在の[[ぎふ清流里山公園]]の旧称([[岐阜県]][[美濃加茂市]])
=== 曲 ===
*昭和おんなブルース([[青江三奈]]のシングル、1970年)
*[[昭和枯れすゝき]]([[さくらと一郎]]のシングル、1974年<!--7月-->)
*昭和ブルース([[天知茂]]のシングル、1974年<!--9月-->)
*昭和北前船([[鳥羽一郎]]のシングル、1987年)
*昭和舟歌([[小林旭]]のシングル、1988年)
*昭和([[長渕剛]]のアルバム『[[昭和 (アルバム)|昭和]]』収録、1989年)
*昭和夢つばめ([[石川さゆり]]のシングル、1996年)
*昭和残照([[杉良太郎]]のシングル、1999年<!--3月-->)
*[[昭和最後の秋のこと]]([[森進一]]・[[桂銀淑]]の競作シングル、ともに1999年<!--7月-->)
*昭和レジデンス([[クレイジーケンバンド]]のアルバム『グランツーリズモ』収録、2002年<!--8月-->)
*[[昭和の階段 Vol.1]]([[工藤静香]]のアルバム名、2002年<!--10月-->)
*[[雨上がり (レミオロメンの曲)|昭和]]([[レミオロメン]]のシングル「[[雨上がり (レミオロメンの曲)|雨上がり]]」、アルバム『[[朝顔 (アルバム)|朝顔]]』収録、2003年)
*[[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜#収録曲|昭和モダン]]([[山崎まさよし]]、『[[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜]]』収録、2007年)
*昭和の歌など聴きながら([[八代亜紀]]のシングル、2008年)
*ギリ昭和([[キュウソネコカミ]]のアルバム『ギリ平成』収録、2018年)
== その他昭和に関する事柄 ==
*大正天皇が崩御した際に、[[東京日日新聞]](現:[[毎日新聞]])が『新元号は光文』をスクープしたが、新元号は『昭和』と発表され(結果として)大誤報となってしまった。一説には「光文」がスクープされたために急遽「昭和」に差し替えられたとも言われている([[光文事件]])。しかし、「光文」は内閣の新元号案に提示されているのみであり、実際に新元号作成中心になっていた宮内省の最終第3案まで残っていたのは「昭和」「神化」「元化」の3案とされる。枢密院議長、倉富勇三郎の日記によれば、その後の調整で[[1926年]](大正15年)[[12月8日]]時点で「昭和」を最終候補とし「元化」「同和」を参考とする最終案が決定していたことが明らかになっている。「光文」は、内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎず、記者が検証できないまま飛びついたのが実情とされる(『昭和大礼記録』、石渡隆之『北の丸』第7号(1976年〔昭和51年〕9月)「公的記録上の「昭和」」、『倉富勇三郎日記』「倉富勇三郎関係文書」<ref>[https://www.ndl.go.jp/modern/column/06.html コラム 6 元号伝説 - ポスト「大正」は「光文」か?]、史料にみる日本の近代、[[国立国会図書館]]</ref>)。
*昭和の「'''昭'''」は今でこそポピュラーな[[漢字]]だが、当時はまれに人名で使われたりする以外は<ref group="注">[[室町幕府]]第15代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義昭]]が一例で、その[[偏諱]]を貰って名前に「昭」の字を用いた大名も各地に存在した。他には[[徳川斉昭]]、[[盛田昭夫]]も。</ref>、学者や一部の貴族以外は馴染みのない漢字であったという(元来は「照」の原字で、意味も「照」と同じ。)。そのため、「昭和」が最終案に選考された際には当時の一木喜徳郎宮内大臣から「'''章和'''」とすべきとの意見が出された。しかし、「[[章和]]」は過去[[漢]]と[[高昌]]で使用されていた元号であり、結局原案のまま「昭和」に確定した経緯がある。
*史上[[還暦]]を迎えた元号は日本の昭和と[[清]]の[[康熙]]だけである。(昭和は[[丙寅]]で「還暦」している。)
*1926年(大正15年)12月25日に出生した[[赤ちゃん|新生児]]は、その当日が大正天皇崩御のため役所が休みとなったこともあって、出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日が異なる(大部分が翌年(1927年)の昭和2年生)ケースが多発した。[[植木等]]、[[関根潤三]]らがこうしたケースに当たる。また、[[メリー喜多川]]は同じ日に生まれているが、出生地がアメリカであったためこの事例には含まれない<ref group="注">[[時差]]の都合で日付の差異が絡むため。</ref>。
*日本では、'''嘗て使用した元号は二度と使用しない'''という慣例がある。昭和も例外ではないが、[[鎌倉時代]]に「'''しょうわ'''」と読む同音異字の元号「[[正和]]」を使用した例がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author1=遠山茂樹|author2=今井清一|author3=藤原彰|authorlink3=藤原彰
|title = 『昭和史』[新版]〈岩波新書355〉
|publisher = [[岩波書店]]
|date = 1959-08-31
}}
*{{Cite book|和書
|author= 古川隆久|authorlink=古川隆久
|title = 時代の流れが図解でわかる!『早わかり昭和史』
|publisher = [[日本実業出版社]]
|date = 2006-07-21
}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
}}
*[[昭和一桁]]
*[[昭和の日]]
*[[昭和史論争]]
*[[昭和モダン]]
*[[昭和の町]]
*[[光文事件]]
*[[東京時代]]
* [[飽食の時代]]
*[[連続テレビ小説]]
*[[元号]]
**[[元号一覧 (日本)]]
***[[令和]]
***[[平成]](次年号)
***[[大正]](前年号)
***[[明治]]
**[[元号一覧 (台湾)]]
**[[康熙]]([[清]]の元号):ともに[[還暦]]を迎えた元号である。
*[[20世紀]]
**[[1920年代の日本|1920年代]]
**[[1930年代の日本|1930年代]]
**[[1940年代の日本|1940年代]]
**[[1950年代の日本|1950年代]]
**[[1960年代の日本|1960年代]]
**[[1970年代の日本|1970年代]]
**[[1980年代の日本|1980年代]]
*{{prefix}}
*{{intitle}}
== 外部リンク ==
{{Wikisource|昭和ト改元|元号を昭和と改元する詔書}}
{{Wikisource|元號ヲ昭和ト稱呼|昭和の称呼を定めた告示}}
{{Wiktionary}}
* {{NHK放送史|D0009030227_00000|昭和から平成へ}}
* {{YouTube|fv7j37GyEts|1937 TOKYO JAPAN TRAVELOGUE MOVIE "SYMPHONICAL SKETCH" 10374 PeriscopeFilm}}
{{日本の元号}}
{{日本の歴史一覧|1926年-1989年}}
{{戦前日本の経済史}}
{{日本の経済史}}
{{台湾の元号}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しようわ}}
[[Category:昭和時代|*]]
[[Category:日本の元号]]
[[Category:台湾の元号|日]]
[[Category:昭和天皇]]
[[Category:日本の歴史 (時代別)]]
[[Category:戦前の日本]]
[[Category:戦時下の日本]]
[[Category:占領下の日本]]
[[Category:戦後の日本]]
[[Category:20世紀]]
[[Category:1926年設立]]
[[Category:1989年廃止]]
[[Category:戦後日本の経済]] | 2003-02-15T12:38:10Z | 2023-12-18T01:38:54Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C |
1,790 | 2月18日 | 2月18日(にがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から49日目にあたり、年末まであと316日(閏年では317日)ある。 | [
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'''2月18日'''(にがつじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から49日目にあたり、年末まであと316日([[閏年]]では317日)ある。
== できごと ==
* [[1229年]] - {{仮リンク|ヤッファ条約 (1229年)|en|Treaty of Jaffa (1229)}}: [[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]と[[アイユーブ朝]]の[[スルタン]]・[[アル=カーミル]]が、10年間の休戦と十字軍側への[[エルサレム]]返還で合意。
* [[1559年]]([[永禄]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[少弐冬尚]]が[[龍造寺隆信]]に破れ自害し、[[少弐氏]]が滅亡。
* [[1587年]] - 元[[スコットランド王国|スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]が、[[イングランド王国|イングランド]]女王[[エリザベス1世]]の暗殺計画{{仮リンク|バビントン事件|en|Babington Plot}}に加担したことにより処刑される。
* [[1745年]] - [[マタラム王国]]の王都がソロに移され、[[スラカルタ]]に改称。
* [[1772年]]([[明和]]9年/[[安永]]元年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[田沼意次]]が[[老中]]に就任する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.makinohara.shizuoka.jp/site/kanko/1588.html |title=田沼意次 |access-date=9 Apr 2023 |publisher=[[牧之原市]] |date=7 Nov 2019}}</ref>。
* [[1800年]] - [[フランス革命戦争]]: [[マルタ護送船団の海戦]]でイギリスが勝利。
* [[1874年]] - [[佐賀の乱]]: [[江藤新平]]ら反乱軍が、佐賀城の佐賀県庁に籠もる佐賀県権令[[岩村高俊]]の部隊と戦闘し、政府軍が敗走。
* [[1885年]] - [[マーク・トウェイン]]の小説『[[ハックルベリー・フィンの冒険]]』が刊行<ref>{{Twitter status|Iwanamishoten|1229571264290926595}}</ref>。
* [[1908年]] - 日本からの移民を制限する[[排日移民法#日米紳士協約とその後|日米紳士協定]]締結。
* [[1911年]] - [[インド]]の万国博覧会の行事として、世界で初めて飛行機で郵便物が運ばれた<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/124379 |title=手紙が初めて飛んだ日-1911.2.18 世界初のエアメールが誕生した国とは 黎明期はウクライナも重要地に |access-date=9 Apr 2023 |publisher=mediavague Co., ltd. |website=乗りものニュース |date=18 Feb 2023}}</ref>。
* [[1913年]] - [[レイモン・ポアンカレ]]が[[フランスの大統領]]に就任。
* [[1930年]] - アメリカの天文学者[[クライド・トンボー]]が[[冥王星]]を発見<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/70358 |title=2月18日 冥王星の発見(1930年) |access-date=9 Apr 2023 |publisher=[[講談社]] |date=18 Feb 2020 |website=サイエンス365days}}</ref>。
* [[1932年]] - [[東北最高行政委員会]]が満洲の中国国民政府からの独立を宣言。[[3月1日]]に[[満州国|満洲国]]を建国。
* [[1935年]] - [[天皇機関説事件]]: [[貴族院 (日本)|貴族院]]本会議で[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]議員が[[美濃部達吉]]議員の[[天皇機関説]]を非難。
* [[1937年]] - [[宮崎県]][[延岡市]]役所にて火災。北隣にあった[[宮崎県立図書館]]にも延焼し、双方が全焼<ref>延岡で市役所と県立図書館が全焼『福岡日日新聞』(1937年2月19日).『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p703 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1938年]] - [[石川達三]]著の南京従軍記『[[生きてゐる兵隊]]』を掲載した雑誌『[[中央公論]]』3月号が発禁処分。石川と編集者の[[雨宮庸蔵]]および発行人の牧野武夫が検挙される。
* [[1942年]] - [[大東亜戦争]]戦勝祝賀第一次国民大会が[[日比谷公園]]で開催。日本軍が[[シンガポール]]を陥落させたことを受けてのもの。各地でも同様の祝賀式が開催<ref>富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(p1053)1960年4月 富山市史編纂委員会</ref>。
* 1942年 - [[シンガポール華僑粛清事件]]。
* [[1943年]] - [[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]独宣伝相が[[ベルリン]]の[[シュポルトパラスト]]で行った演説で[[総力戦]]を宣言([[総力戦演説]])。
* 1943年 - [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]によって「[[白いバラ]]」運動のメンバーが逮捕される。
* [[1950年]] - 第1回[[さっぽろ雪まつり]]開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.snowfes.com/about/history/ |title=さっぽろ雪まつりの歴史 |access-date=9 Apr 2023 |publisher=Sapporo Snow Festival.}}</ref>。
* [[1952年]] - [[陣屋事件]]: [[将棋]]の[[王将戦]]で[[升田幸三]]が[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]との対局を拒否。
* [[1954年]] - [[ロサンゼルス]]に最初の[[サイエントロジー]]教会が創設。
* [[1955年]] - アメリカ合衆国の第14次の[[核実験]]「[[ティーポット作戦]]」が始まる。
* [[1960年]] - 第8回[[冬季オリンピック]]、[[1960年スコーバレーオリンピック|スコーバレー大会]]開催。[[2月28日]]まで。
* [[1965年]] - [[ガンビア]]が[[イギリス]]から独立。
* [[1968年]] - [[イギリス]]が、大陸との1時間の時差を解消するため[[中央ヨーロッパ時間]]を採用。1971年に[[グリニッジ標準時]]に戻される。
* [[1969年]] - [[日大紛争|日大闘争]]:[[機動隊]]導入により[[日本大学]]の全学封鎖を解除。
* 1969年 - 岡山県[[西大寺市]]が[[岡山市]]に編入。
* [[1970年]] - [[リチャード・ニクソン]]米大統領が、条約遵守・自主防衛努力の強化と援助・「[[核の傘]]」提供の「平和三原則」を強調する外交教書を発表。
* [[1978年]] - 東京で「[[嫌煙#歴史|嫌煙権]]確立をめざす人びとの会」結成。
* 1978年 - 米海兵隊員らの発案によりハワイで世界初の[[トライアスロン]]大会開催。
* [[1979年]] - [[アルジェリア]]南部の[[サハラ砂漠]]で降雪。サハラ砂漠唯一の降雪の記録。
* [[1981年]] - [[ロナルド・レーガン]]米大統領が、「強いアメリカ」再生のための経済再建計画「[[レーガノミクス]]」を発表。
* [[2000年]] - [[マイクロソフト]]が[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]を発売。
* [[2003年]] - [[韓国]][[大邱地下鉄放火事件]]: 地下鉄車両に対する放火事件。死者192名、重軽傷者148名。
* [[2006年]] - [[福島県立大野病院事件]]:[[2004年]][[12月17日]]に[[福島県立大野病院]]で行われた[[帝王切開]]手術を受けた産婦が死亡したことから、執刀医を[[業務上過失致死]]と[[医師法]]違反の容疑で逮捕。翌日[[福島地方検察庁]]に[[起訴]]。
* [[2007年]] - 日本の運輸多目的衛星「[[MTSAT#運輸多目的衛星新2号(ひまわり7号)|MTSAT-2]]」([[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]7号)を打ち上げ。
* 2007年 - 第1回[[東京マラソン]]・[[東京マラソン2007]]開催。
* [[2010年]] - [[2010年バンクーバーオリンピック|バンクーバーオリンピック]]、[[2010年バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート競技|フィギュアスケート]]で、[[髙橋大輔 (フィギュアスケート選手)|髙橋大輔]]が同競技男子日本代表として初のメダル獲得となる[[銅メダル]]を獲得(現地時間)<ref>{{Cite web|和書|date=19 Feb 2010 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2697189|title=高橋が男子フィギュア初メダルの銅 優勝はライサチェク、バンクーバー冬季五輪|work=AFP BB News|publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=9 Apr 2023}}</ref>。
*2011年 - 弟爆誕
* 2010年 - [[ニジェール軍事クーデター (2010年)|ニジェールで軍事クーデター]]が起こり、軍部が実権を掌握<ref>{{Cite web|和書|date=19 Feb 2010 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2697873?pid=5357641 |title=ニジェールでクーデター、「民主主義の回復を」 |publisher=[[フランス通信社]]|work=AFP BB News |accessdate=9 Apr 2023}}</ref>。
* [[2018年]] - [[2018年平昌オリンピック|平昌オリンピック]]: [[スピードスケート]]女子500メートルで[[小平奈緒]]が同種目女子で初の金メダルを獲得<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iza.ne.jp/article/20180218-U57YQZGEZRPFFIBPM5Z26QBXIY/|title=小平奈緒、五輪新で日本女子スピード陣史上初の金メダル!3連覇狙った李相花は銀|publisher=[[産経デジタル]]|date=2018-02-18|accessdate=9 Apr 2023}}</ref>。
* [[2021年]] - [[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京オリンピック・パラリンピック組織委員会]]の理事会が開かれ、[[森喜朗]]会長の後任に[[橋本聖子]]が選任された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/54038.html |title=橋本聖子氏が新会長に就任 東京五輪・パラ組織委員会 |access-date=1 Aug 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |date=18 Feb 2021}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[File: Maria Tudor1.jpg|thumb|238x238px| [[イングランド王国|英国]]女王[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]](1516-1558)誕生。[[プロテスタント]]への迫害から“ブラッディ・メアリー”の異名で知られる。]]
[[File:Uesugi Kenshin Portrait from Uesugi Shrine.png|thumb|273x273px|[[戦国大名]][[上杉謙信]](1530-1578)誕生]]
[[File:Alessandro Volta.jpeg|thumb|222x222px|[[ボルタ電池]]を発明した[[イタリア]]の[[科学者]]、[[アレッサンドロ・ボルタ]](1745-1827)誕生]]
[[File:Ramakrishna 1883 image.jpg|thumb|210x210px|近代[[ヒンドゥー教]]を代表する聖人、[[ラーマクリシュナ]](1836-1886)誕生]]
[[File:Ernst Mach 01.jpg|thumb|250x250px|[[オーストリア]]の[[物理学者]]、[[エルンスト・マッハ]](1838-1916)誕生。[[音速]]を超える速度の単位[[マッハ数]]にその名を残す]]
{{multiple image
| image1 = Goro Fujita aka Hajime Saito.jpg
| width1 = 90
| caption1 =[[新選組]]三番隊組長、[[斎藤一]](1844-1915)誕生。画像は2016年に発見された明治30年の写真
| alt1 = 斎藤一
| image2 = Fenollosa.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[アメリカ合衆国]]の[[東洋美術史|東洋美術史家]]、[[アーネスト・フェノロサ]](1853-1908)誕生。日本美術を保護し、世界に紹介した
| alt2 = フェノロサ
}}
[[File:Sommarnöje (1886), akvarell av Anders Zorn.jpg|thumb|256x256px|[[スウェーデン]]の[[画家]]、[[アンデシュ・ソーン]](1860-1920)誕生。画像は《Sommarnöje》(1886)]]
{{multiple image
| image1 = Sadamichi Hirasawa photographed by Ishii Hakutei.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[画家]]、[[平沢貞通]](1892-1987)誕生
| alt1 = 平沢貞通
| image2 = Enzo Ferrari - Wheel of a racing car.jpg
| width2 = 90
| caption2 = [[フェラーリ]]創業者、[[エンツォ・フェラーリ]](1898-1988)誕生
| alt2 = フェラーリ
}}
{{multiple image
| image1 = The Life Of Oharu.1-15-03.624.jpg
| width1 = 90
| caption1 = [[俳優]]、[[加東大介]](1911-1975)誕生
| alt1 = 加東大介
| image2 = Koshiji Fubuki sings Boogie-Woogie Paris.JPG
| width2 = 90
| caption2 = [[俳優|女優]]、[[歌手]]、[[越路吹雪]](1924-1980)誕生
| alt2 = 越路吹雪
}}
[[File:John Lennon en echtgenote Yoko Ono vertrekken van Schiphol naar Wenen in de vert, Bestanddeelnr 922-2499.jpg|thumb|180x180px|[[オノ・ヨーコ]](1933-)誕生(左)]]
{{multiple image
| image1 = Presiden5a (cropped).jpg
| width1 = 90
| caption1 = 第11代[[中華民国総統]]、[[陳水扁]](1950-)誕生
| alt1 = 陳水扁
| image2 = John Travolta Deauville 2013 2.jpg
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| caption2 = [[俳優]]、[[ジョン・トラボルタ]](1954-)誕生
| alt2 = トラボルタ
}}
{{multiple image
| image1 = Roberto Baggio - Italia '90.jpg
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| caption1 = 元[[サッカーイタリア代表]]、[[ロベルト・バッジョ]](1967-)誕生
| alt1 = バッジョ
| image2 = Makélélé PSG.png
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| caption2 = 元[[サッカーフランス代表]]、[[クロード・マケレレ]](1973-)誕生
| alt2 = マケレレ
}}
* [[1201年]] - [[ナスィールッディーン・トゥースィー]]、[[神学者]]、[[哲学|哲学者]]、[[科学者]](+ [[1274年]])
* [[1516年]] - [[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]、[[イングランド王国|イングランド]]女王(+ [[1558年]])
* [[1530年]]([[享禄]]3年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[上杉謙信]]、[[越後国]]の[[戦国大名]](+ [[1578年]])
* [[1609年]]([[慶長]]14年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]])- [[佐竹義隆]]、第2代[[久保田藩|久保田藩主]](+ [[1672年]])
* [[1626年]] - [[フランチェスコ・レディ]]、[[医学|医学者]](+ [[1697年]])
* [[1631年]]([[寛永]]8年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]])- [[伊東祐由]]、第4代[[飫肥藩|飫肥藩主]](+ [[1661年]])
* [[1632年]] - [[ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィターリ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[歌手]]、[[作曲家]](+ [[1692年]])
* [[1638年]](寛永15年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]])- [[池田綱政]]、第2代[[岡山藩|岡山藩主]](+ [[1714年]])
* [[1665年]]([[寛文]]5年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]])- [[牧野忠辰]]、第3代[[越後長岡藩|越後長岡藩主]](+ [[1722年]])
* [[1677年]] - [[ジャック・カッシーニ]]、[[天文学者]]、[[測地学|測地学者]](+ [[1756年]])
* [[1708年]]([[宝永]]5年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]])- [[丹羽高寛]]、第5代[[二本松藩|二本松藩主]](+ [[1769年]])
* [[1740年]]([[元文]]5年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]])- [[真田幸弘]]、第6代[[松代藩|松代藩主]](+ [[1815年]])
* [[1745年]] - [[アレッサンドロ・ボルタ]]、科学者(+ [[1827年]])
* [[1791年]]([[寛政]]3年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]])- [[前田利和 (七日市藩主)|前田利和]]、第10代[[七日市藩|七日市藩主]]、(+ [[1839年]])
* [[1794年]](寛政6年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]])- [[立花種善]]、第7代[[三池藩|三池藩主]]、初代[[下手渡藩|下手渡藩主]](+ [[1833年]])
* [[1796年]](寛政8年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]])- [[相馬益胤]]、第11代[[相馬中村藩|相馬中村藩主]](+ [[1845年]])
* [[1803年]]([[享和]]3年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[伊藤圭介 (理学博士)|伊藤圭介]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1901年]])
* [[1836年]] - [[シュリ・ラーマクリシュナ]]、宗教家(+ [[1886年]])
* [[1838年]] - [[エルンスト・マッハ]]、[[物理学者]](+ [[1916年]])
* [[1844年]]([[天保]]15年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[斎藤一]]<ref> {{Kotobank|斎藤一| |title=斎藤一-192345}}</ref>、[[新選組]]隊士(+ [[1914年]])
* [[1847年]]([[弘化]]4年1月4日)- [[三浦顕次]]、第10代[[美作勝山藩|美作勝山藩主]]・[[子爵]](+ [[1895年]])
* [[1848年]] - [[ルイス・カムフォート・ティファニー]]、宝飾[[デザイナー]]、[[ガラス工芸|ガラス工芸家]](+ [[1933年]])
* [[1850年]] - [[ジョージ・ヘンシェル]]、[[音楽家]](+ [[1934年]])
* [[1853年]] - [[アーネスト・フェノロサ]]、[[東洋美術史|東洋美術史家]](+ [[1908年]])
* [[1857年]] - [[マックス・クリンガー]]、[[画家]](+ [[1920年]])
* [[1858年]] - [[三谷軌秀]]、政治家、実業家(+[[1934年]])
* [[1860年]] - [[アンデシュ・ソーン]]、画家、[[版画家]]、[[彫刻家]](+ [[1920年]])
* [[1866年]] - [[中川小十郎]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[立命館大学]]創設者(+ [[1944年]])
* [[1878年]] - [[男嶌舟藏]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1943年]])
* 1878年 - [[佐藤義亮]]、[[出版]]人、[[新潮社]]創業者(+ [[1951年]])
* [[1883年]] - [[ニコス・カザンザキス]]、[[小説家]]、[[詩人]](+ [[1957年]])
* [[1886年]] - [[市河三喜]]、[[英語学|英語学者]](+ [[1970年]])
* [[1889年]] - [[奥村土牛]]、[[日本画家]](+ [[1990年]])
* 1889年 - [[林豊洲]]、実業家、元新聞記者(+[[1935年]])
* [[1892年]] - [[平沢貞通]]、[[画家]](+ [[1987年]])
* [[1893年]] - [[大熊信行]]、[[経済学者]]、[[歌人]](+ [[1977年]])
* [[1895年]] - [[セミョーン・チモシェンコ]]、[[軍人]](+ [[1970年]])
* [[1897年]] - [[金関丈夫]]、[[解剖学|解剖学者]]、[[人類学|人類学者]](+ [[1983年]])
* [[1898年]] - [[エンツォ・フェラーリ]]、[[フェラーリ]]創設者(+ [[1988年]])
* [[1903年]] - [[岡田時彦]]、[[俳優]](+ [[1934年]])
* 1903年 - [[ニコライ・ポドゴルヌイ]]、[[政治家]](+ [[1983年]])
* [[1906年]] - [[ハンス・アスペルガー]]、[[小児科医]](+ [[1980年]])
* [[1906年]] - [[アマザスプ・ババジャニャン|アマザスプ・ハチャトゥロヴィチ・ババジャニャン]]、軍人(+ [[1977年]])
* [[1911年]] - [[加東大介]]、俳優(+ [[1975年]])
* [[1915年]] - [[ジョー・ゴードン]]、プロ野球選手(+ [[1978年]])
* [[1917年]] - [[柳宗玄]]、[[美術史|美術史家]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM5S5JHMM5SUCLV00G.html?ref=tw_asahi |title=美術史家の柳宗玄さん死去 父は柳宗悦氏、兄は宗理氏 |access-date=9 Apr 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=24 May 2019}}</ref>)
* [[1919年]] - [[ジャック・パランス]]、俳優(+ [[2006年]])
* [[1924年]] - [[越路吹雪]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]](+ [[1980年]])
* 1924年 - [[陳舜臣]]、[[小説家]](+ [[2015年]])
* [[1925年]] - [[ジョー・ルーツ]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督]](+ [[2008年]])
* 1925年 - [[ジョージ・ケネディ]]、俳優(+ [[2016年]])
* 1925年 - [[加藤一夫 (経済学者)|加藤一夫]]、経済学者(+ [[2012年]])
* [[1926年]] - [[酒井美意子]]、[[評論家]](+ [[1999年]])
* [[1927年]] - [[大下勝正]]、政治家
* 1927年 - [[野村孝]]、[[映画監督]](+ [[2015年]])
* [[1928年]] - [[大村和久]]、将棋棋士(+[[2023年]])
* 1928年 - [[ジョン・オストロム]]、[[古生物学|古生物学者]](+ [[2005年]])
* [[1929年]] - [[田沼武能]]、[[写真家]](+ [[2022年]])
* 1929年 - [[レン・デイトン]]、[[作家]]
* 1929年 - [[福島正実]]、[[編集者]]、[[SF作家]](+ [[1976年]])
* [[1930年]] - [[中村梅之助 (4代目)]]、[[歌舞伎]][[俳優]](+ [[2016年]])
* 1930年 - [[宮本徳蔵]]、小説家(+[[2011年]])
* 1930年 - [[Gamer Grandma]]、[[YouTuber]]、[[ギネス世界記録]]保持者
* [[1931年]] - [[トニ・モリスン]]、作家(+ [[2019年]])
* [[1932年]] - 佐々木行、歌手([[ダークダックス]])(+ [[2016年]])
* 1932年 - [[ミロス・フォアマン]]、[[映画監督]](+ [[2018年]])
* [[1933年]] - [[オノ・ヨーコ]]、芸術家
* 1933年 - [[ボビー・ロブソン]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者(+ [[2009年]])
* [[1938年]] - [[佐田の山晋松]]、[[大相撲]]第50代[[横綱]]、第7代[[日本相撲協会]]理事長(+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1816341.html |title=第50代横綱の佐田の山が死去 優勝6回、79歳 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=1 May 2017 |accessdate=9 Apr 2023}}</ref>)
* 1938年 - [[中村敏夫]]、[[テレビプロデューサー]]、[[フジクリエイティブコーポレーション]]顧問(+ [[2015年]])
* 1938年 - [[マニー・モタ]]、元プロ野球選手
* [[1939年]] - [[菅原貞敬]]、バレーボール選手
* 1939年 - [[マレク・ヤノフスキ]]、[[指揮者]]
* [[1940年]] - [[中村敦夫]]、俳優、政治家
* 1940年 - [[チャールズ・ジェンキンス]]、軍人(+ [[2017年]])
* [[1941年]] - [[瀧口政満]]、[[彫刻家]](+ [[2017年]])
* 1941年 - [[アーマ・トーマス]]、歌手
* [[1942年]] - [[江刺昭子]]、[[ノンフィクション作家]]、[[フェミニスト]]
* [[1946年]] - [[高階良子]]、漫画家
* 1946年 - [[深谷みさお]]、女優
* [[1947年]] - [[奥村チヨ]]、歌手
* 1947年 - [[吉田和憲]]、実業家
* 1947年 - [[カルロス・ロペス]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]]
* [[1948年]] - [[鈴木康博]]、[[音楽家|ミュージシャン]](元[[オフコース]])
* 1948年 - [[山本一力]]、作家
* [[1949年]] - [[吉川なよ子]]、プロゴルファー
* [[1950年]] - [[塩谷立]]、政治家
* 1950年 - [[ジョン・ヒューズ]]、映画監督、[[脚本家]](+ [[2009年]])
* 1950年 - [[シビル・シェパード]]、女優
* 1950年 - [[武藤順九]]、彫刻家
* [[1951年]] - [[千明初美]]、漫画家
* 1951年 - [[陳水扁]]、第11代[[中華民国総統]]
* [[1952年]] - [[大北敏博]]、元プロ野球選手
* 1952年 - [[小倉千加子]]、[[心理学者]]
* [[1954年]] - [[ジョン・トラボルタ]]、俳優
* [[1955年]] - [[小山和伸]]、政治家
* [[1956年]] - [[浅田孟]]、[[ベーシスト]]
* 1956年 - [[ポール・リード・スミス]]、PRS Guitars創業者
* [[1957年]] - [[マリタ・コッホ]]、陸上競技選手
* [[1958年]] - [[松原千明]]、女優(+ [[2022年]])
* [[1960年]] - [[ガゼボ (歌手)|ガゼボ]]、歌手
* [[1961年]] - [[影山ヒロノブ]]、歌手
* 1961年 - [[宮川彬良]]、[[作曲家]]
* [[1962年]] - [[佐野浩敏]]、[[アニメーター]]、[[イラストレーター]]
* 1962年 - [[竹田道弘]]、アクションコーディネイター
* 1962年 - [[亀井文行]]、実業家
* 1962年 - [[マリアン]]、[[タレント]]
* 1962年 - [[ジュリー・ストレイン]]、[[俳優|女優]]、[[モデル (職業)|モデル]] (+ [[2021年]])
* [[1963年]] - [[吉野秀]]、[[編集者]]、[[経営コンサルタント]]
* 1963年 - [[斎藤嘉隆]]、政治家
* 1963年 - [[本橋馨]]、フリーアナウンサー
* [[1964年]] - [[吉野志穂]]、漫画家
* 1964年 - [[大西証史]]、[[官僚]]
* 1964年 - [[マット・ディロン]]、[[俳優]]
* [[1965年]] - [[斎藤雅樹]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[馳星周]]、作家
* 1965年 - [[Dr.Dre]]、ラッパー
* 1965年 - [[ディリアナ・ゲオルギエバ]]、元新体操選手
* 1965年 - [[おーなり由子]]、[[絵本作家]]、[[漫画家]]
* 1965年 - [[石井ヒトシ]]、ミュージシャン([[THE SLUT BANKS]]、[[BAD SiX BABiES]])
* 1965年 - [[水沢薫]]、プロ野球選手(+ [[2014年]])
* [[1966年]] - [[田中哲司]]、俳優
* 1966年 - [[橘しんご]]、DJ、司会者
* [[1967年]] - [[柳澤千春]]、競艇選手
* 1967年 - [[十河章浩]]、元[[野球選手]]
* 1967年 - [[ロベルト・バッジョ]]、元[[サッカー|サッカー選手]]
* 1967年 - [[徳光雅英]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/1000003050/ |title=徳光雅英 |access-date=9 Apr 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=[[WEBザテレビジョン]]}}</ref>、アナウンサー
* [[1968年]] - [[カイル・アボット]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[モリー・リングウォルド]]、女優
* [[1969年]] - [[橋本恵子 (アナウンサー)|橋本恵子]]、アナウンサー
* 1969年 - [[秦由香里]]、女優、声優
* [[1970年]] - [[蒼樹山秀樹]]、元大相撲力士
* 1970年 - [[岩男潤子]]、[[声優]]、[[歌手]]
* 1970年 - [[渡辺あや]]、[[脚本家]]
* [[1971年]] - [[坂口岳洋]]、政治家
* 1971年 - [[皇司信秀]]、元大相撲力士
* 1971年 - [[トーマス・ビヨン]]、[[ゴルファー]]
* [[1972年]] - [[藤林聖子]]、作詞家
* 1972年 - [[喜多直毅]]、ヴァイオリニスト、作曲家
* 1972年 - [[木山隆之]]、元サッカー選手、指導者
* 1972年 - [[アレクサンドラ・ティモシェンコ]]、[[新体操]]選手
* [[1973年]] - [[クロード・マケレレ]]、元サッカー選手
* 1973年 - [[イリーナ・ロバチェワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1974年]] - [[飯田里樹]]、音響監督
* 1974年 - [[すし石垣]]、プロゴルファー
* 1974年 - [[エフゲニー・カフェルニコフ]]、[[テニス]]選手
* 1974年 - [[ジェイミー・キャロル]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[駒村多恵]]、[[リポーター]]
* 1975年 - [[中村一義]]、ミュージシャン
* 1975年 - [[ねづっち]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]](元[[Wコロン]])
* 1975年 - [[アイラ・ボーダーズ]]、[[野球選手]]
* 1975年 - [[ガリー・ネヴィル]]、元サッカー選手
* [[1977年]] - [[田中良和 (実業家)|田中良和]]、実業家
* [[1978年]] - [[熊谷俊人]]、政治家
* 1978年 - [[望月和磨]]、映像ディレクター
* 1978年 - [[しがの夷織]]、漫画家
* 1978年 - [[水嶋洋子]]、[[タレント]]
* 1978年 - [[城戸裕次]]、俳優
* [[1979年]] - [[高島彩]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1980年]] - [[美元智衣]]、歌手
* 1980年 - 大、お笑い芸人([[グランジ (お笑いトリオ)|グランジ]])
* 1980年 - [[レジーナ・スペクター]]、[[シンガーソングライター]]
* 1980年 - [[藤原美樹]]、[[料理研究家]]
* [[1981年]] - 池谷和志、お笑い芸人([[ジョイマン (お笑いコンビ)|ジョイマン]])
* 1981年 - [[アンドレイ・キリレンコ]]、バスケットボール選手
* 1981年 - [[アレックス・リオス]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[DEAN]]、ファッションモデル
* 1981年 - [[矢口哲朗]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[TETSUYA (ダンサー)|TETSUYA]]、パフォーマー([[EXILE]])
* 1981年 - [[カマシ・ワシントン]]、ジャズサックス奏者
* 1981年 - [[キム・ジェウォン]]、俳優
* [[1982年]] - [[中鉢明子]]、タレント
* [[1983年]] - [[ジャーメイン・ジェナス|ジャーメイン・ジーナス]]、元サッカー選手
* [[1984年]] - [[ブライアン・ボグセビッチ]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[イドリス・カルロス・カメニ]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[河西健吾]]、声優
* [[1986年]] - [[安藤サクラ]]、女優
* [[1987年]] - [[平山美春]]、ファッションモデル
* 1987年 - [[宝富士大輔]]、大相撲力士
* 1987年 - シン・アヨン、アナウンサー
* [[1988年]] - [[立石沙千加]]、歌手
* 1988年 - [[チャンミン]]、歌手、アイドル([[東方神起]])
* 1988年 - [[内藤大希]]、俳優
* 1988年 - [[田中泉 (アナウンサー)|田中泉]]、アナウンサー
* 1988年 - [[堀崎智恵美]]、バレーボール選手
* 1988年 - [[ノダリー・マイスラーゼ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1989年]] - [[河野安優美]]、女優
* 1989年 - [[妹川華]]、[[ファッションモデル]]、タレント
* 1989年 - [[クリスチーナ・ゴルシュコワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1989年 - [[アレクセイ・イオノフ]]、サッカー選手
* [[1990年]] - [[茨木菜緒]]、グラビアアイドル
* 1990年 - [[広岡ライアン勇輝]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ディディ・グレゴリウス]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[パク・シネ]]、女優、モデル
* 1990年 - [[カン・ソラ]]、女優
* 1990年 - [[マイコン・マルケス・ビテンコウト]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[井上翼久]]、俳優、モデル
* 1991年 - [[ヘンリー・サーティース]]、レーシングドライバー(+ [[2009年]])
* 1991年 - [[高橋昌美]]、バレーボール選手
* [[1992年]] - [[ハイジ (ラジオパーソナリティ)|ハイジ]]、[[ラジオパーソナリティー]]、イベントMC
* 1992年 - [[南昇佑|ナム・スンウ]]、サッカー選手
* 1992年 - [[小林礼奈]]、元ものまねタレント
* [[1993年]] - [[高久龍]]、陸上選手
* [[1994年]] - [[J-HOPE]]、アイドル、ダンサー([[BTS (音楽グループ)|BTS]])
* 1994年 - [[高橋里央]]、俳優
* [[1995年]] - [[清水晶大]]、ラグビー選手
* 1995年 - [[石井嘉穂]]、元アナウンサー
* 1995年 - [[和田瞳]]、女優、ファッションモデル
* 1995年 - [[田辺桃菜]]、[[北海道文化放送]]アナウンサー
* [[1996年]] - [[川井田夏海]]、声優
* 1996年 - [[久松郁実]]、グラビアアイドル、ファッションモデル、女優
* [[1997年]] - DK、アイドル([[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]])
* 1997年 - [[佐々木春香]]、女優
* 1997年 - [[水咲優美]]、グラビアアイドル
* [[1998年]] - VERNON、アイドル(SEVENTEEN)
* 1998年 - [[松谷比菜乃]]、プロ野球選手
* 1998年 - 佐藤歩夢<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tsukuba-fc.com/ladies/player/015014/ |title=DF #2 佐藤歩夢 |access-date=9 Apr 2023 |publisher=つくばFCレディース}}</ref>、サッカー選手
* [[1999年]] - 柴田倫佳、声優
* [[2000年]] - [[森中陽菜]]、サッカー選手
* [[2001年]] - [[柴田徹 (サッカー選手)|柴田徹]]、サッカー選手
* 生年不明 - [[高橋美由紀 (漫画家)|高橋美由紀]]、漫画家
* 生年不明 - [[杜野亜希]]、漫画家
* 生年不明 - [[にしまきとおる]]、漫画家
* 生年不明 - [[桜田雛]]、漫画家
* 生年不明 - [[昆童虫]]、漫画家
* 生年不明 - [[中島沙帆子]]、[[4コマ漫画|4コマ]]漫画家
* 生年不明 - [[riya]]、ミュージシャン([[eufonius]])
* 生年不明 - [[石塚公評]]、タレント
* 生年不明 - [[伊藤あすか]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rme.jp/talent/women/asuka-ito.html |title=伊藤あすか |publisher=RME株式会社 |accessdate=9 Apr 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[東久仁彦]]、声優
* 生年不明 - [[葉山ゆりか]]、声優
* 生年不明 - [[大谷恭代]]、声優
* 生年不明 - [[沢村真希]]、声優
* 生年不明 - [[川島やよい]]、声優
* 生年不明 - [[渡井奏斗]]、声優
* 生年不明 - [[こうち澪]]、声優
* 生年不明 - [[浅野るり]]、元声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1995年]] - [[グラスワンダー]]、[[種牡馬]]、[[競走馬]]
== 忌日 ==
* [[901年]] - [[サービト・イブン=クッラ]]、[[天文学者]]、[[数学者]](* [[826年]])
* [[1139年]] - [[ヤロポルク2世]]、[[キエフ大公国|キエフ大公]](* [[1082年]])
* [[1173年]]([[承安 (日本)|承安]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[藤原光頼]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1124年]])
* [[1221年]] - [[ディートリヒ (マイセン辺境伯)|ディートリヒ]]、[[マイセン辺境伯]](* [[1162年]])
* [[1294年]] - [[クビライ]]、[[モンゴル帝国|モンゴル]][[ハーン]](* [[1215年]])
* [[1455年]] - [[フラ・アンジェリコ]]、[[画家]](* [[1387年]])
* [[1478年]] - [[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|クラレンス公ジョージ]]、[[クラレンス公]](* [[1449年]])
* [[1546年]] - [[マルティン・ルター]]、キリスト教宗教改革者(* [[1483年]])
* [[1564年]] - [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、[[彫刻家]]、[[画家]](* [[1475年]])
* [[1582年]]([[天正]]10年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) - [[佐久間信盛]]、[[武将|戦国武将]]、織田家重臣(* [[1528年]])
* [[1590年]](天正18年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) - [[朝日姫]]、[[豊臣秀吉]]の妹、[[徳川家康]]の[[正室]](* [[1543年]])
* [[1673年]]([[寛文]]13年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[浅野綱晟]]、第3代[[広島藩|広島藩主]](* [[1637年]])
* [[1708年]]([[宝永]]5年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[田村建顕]]、[[一関藩|一関藩主]](* [[1656年]])
* [[1712年]] - [[ルイ (ブルゴーニュ公)|ルイ]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]]、[[フランス王国|フランス王太子]](* [[1682年]])
* [[1743年]] - [[アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ]]、[[メディチ家]]直系最後の人物(* [[1667年]])
* [[1788年]] - [[ジョン・ホワイトハースト]]、時計職人、[[科学者]](* [[1713年]])
* [[1831年]]([[天保]]2年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[良寛]]、[[曹洞宗]]の[[僧侶]]、[[歌人]](* [[1758年]])
* [[1834年]] - [[ウィリアム・ワート (司法長官)|ウィリアム・ワート]]、第9代[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1772年]])
* [[1848年]] - [[ヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニ]]、[[植物学|植物学者]](* [[1797年]])
* [[1851年]] - [[カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ]]、数学者(* [[1804年]])
* [[1856年]] - [[ヴィルヘルム・フォン・ビーラ]]、天文学者(* [[1782年]])
* [[1878年]] - [[ジョン・タンストール]]、[[リンカーン郡戦争]]のきっかけとなった[[牧場]]経営者(* [[1853年]])
* [[1887年]] - [[中山みき]]、宗教家、[[天理教]]教祖(* [[1798年]])
* [[1891年]] - [[三条実美]]、[[幕末]]の[[公卿]]、[[明治維新]]の[[元勲]](* [[1837年]])
* [[1897年]] - [[ウィリアム・ウォレス (哲学)|ウィリアム・ウォレス]]、[[思想家]](* [[1843年]])
* [[1899年]] - [[ソフス・リー]]、数学者(* [[1842年]])
* [[1901年]] - [[早矢仕有的]]、[[実業家]]、[[丸善雄松堂|丸善]]創業者(* [[1837年]])
* [[1902年]] - [[アルバート・ビアスタット]]、画家(* [[1830年]])
* [[1903年]] - [[尾上菊五郎 (5代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1844年]])
* [[1905年]] - [[フレデリック・イーストレイク]]、[[教育者]](* [[1856年]])
* [[1909年]] - [[橋本綱常]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[軍医]](* [[1845年]])
* [[1919年]] - [[大山捨松|山川捨松]]、[[大山巌]]の妻(* [[1860年]])
* [[1931年]] - [[山下源太郎]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[軍令部|軍令部長]](* [[1863年]])
* [[1932年]] - [[フリードリヒ・アウグスト3世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト3世]]、第7代[[ザクセン王国|ザクセン王]](* [[1865年]])
* [[1933年]] - [[アルノルト・メンデルスゾーン]]、[[作曲家]](* [[1855年]])
* 1933年 - [[ジェームス・J・コーベット]]、[[プロボクサー]](* [[1866年]])
* [[1937年]] - [[グリゴリー・オルジョニキーゼ]]、[[ソビエト連邦共産党]][[政治局員]](* [[1886年]])
* [[1939年]] - [[岡本かの子]]、[[小説家]](* [[1889年]])
* [[1941年]] - [[徳川達孝]]、[[大正天皇]]の[[侍従|侍従長]](* [[1865年]])
* [[1944年]] - [[チャールズ・ダベンポート]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](* [[1866年]])
* [[1945年]] - [[建部遯吾]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1871年]])
* [[1947年]] - [[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト公)|ヨアヒム・エルンスト]]、[[アンハルト公国|アンハルト公]](* [[1901年]])
* [[1952年]] - [[本山白雲]]、彫刻家(* [[1871年]])
* [[1956年]] - [[ギュスターヴ・シャルパンティエ]]、[[作曲家]](* [[1860年]])
* [[1957年]] - [[ヘンリー・ノリス・ラッセル]]、天文学者(* [[1877年]])
* [[1959年]] - [[エーリッヒ・ツァイスル]]、作曲家(* [[1905年]])
* [[1960年]] - [[ルイス・シェルドン]]、[[陸上競技]]選手(* [[1874年]])
* [[1963年]] - [[徳川家正]]、[[徳川宗家]]第17代当主、最後の[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]](* [[1884年]])
* [[1965年]] - [[前田房之助]]、[[政治家]](* 1884年)
* [[1966年]] - [[ロバート・ロッセン]]、[[映画監督]](* [[1908年]])
* [[1967年]] - [[ロバート・オッペンハイマー]]、[[物理学者]](* [[1904年]])
* [[1971年]] - [[菅礼之助]]、[[実業家]](* [[1883年]])
* [[1973年]] - [[フランク・コステロ]]、[[マフィア]]、[[コーサ・ノストラ]]幹部(* [[1891年]])
* [[1975年]] - [[レイモンド・モーリー]]、アメリカ合衆国国務次官補(* [[1886年]])
* [[1981年]] - [[藤本定義]]、[[プロ野球監督]](* 1904年)
* 1981年 - [[ジャック・ノースロップ]]、[[ノースロップ]]創業者(* [[1895年]])
* [[1982年]] - [[ナイオ・マーシュ]]、[[推理作家]](* 1895年)
* [[1983年]] - [[和田夏十]]、[[脚本家]](* [[1920年]])
* [[1984年]] - [[平泉澄]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1895年]])
* [[1986年]] - [[ヴァーツラフ・スメターチェク]]、[[指揮者]](* [[1906年]])
* [[1992年]] - [[シルヴァン・アラン]]、天文学者(* [[1902年]])
* [[1993年]] - [[鈴木清 (プロレタリア作家)|鈴木清]]、小説家(* [[1907年]])
* 1993年 - [[ケリー・フォン・エリック]]、[[プロレスラー]](* [[1960年]])
* [[1997年]] - [[岩井章]]、[[労働運動|労働運動家]](* [[1922年]])
* [[1998年]] - [[河原崎権十郎 (3代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1918年]])
* 1998年 - [[福田豊土]]、[[俳優]](* [[1934年]])
* [[2001年]] - [[バルテュス]]、[[画家]](* [[1908年]])
* 2001年 - [[エディ・マシューズ]]、プロ野球選手(* [[1931年]])
* 2001年 - [[宮崎仁郎]]、[[プロ野球選手]](* [[1920年]])
* 2001年 - [[デイル・アーンハート|デイル・アーンハートSr.]]、レーシングドライバー([[1951年]])
* [[2003年]] - [[木村べん]]、[[イラストレーター]](* [[1947年]])
* [[2004年]] - [[ジャン・ルーシュ]]、映画監督(* [[1917年]])
* [[2007年]] - [[松田清]]、プロ野球選手(* [[1930年]])
* [[2010年]] - [[瀬川康男]]、[[絵本作家|絵本画家]](* [[1932年]])
* [[2012年]] - [[佐藤孝司]]、教育者(* [[1966年]])
* [[2013年]] - [[オトフリート・プロイスラー]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](* [[1923年]])
* 2013年 - [[本多知恵子]]、[[声優]](* [[1963年]])
* [[2014年]] - [[ネルソン・フレイジャー・ジュニア]]、[[プロレスラー]](* [[1971年]])
* [[2016年]] - [[津島佑子]]、作家(* [[1947年]])
* [[2017年]] - [[ローレンス・スノーデン]]、軍人(* [[1921年]])
* [[2020年]] - [[古井由吉]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20200227/k00/00m/040/117000c |title=「内向の世代」の作家 古井由吉さん死去 82歳 「杳子」で芥川賞、「栖」「白髪の唄」 |access-date=9 Apr 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=27 Feb 2020}}</ref>、小説家、[[ドイツ文学者]](* [[1937年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2023年]] ー [[ウイニングチケット]]、競走馬、[[種牡馬]](* [[1990年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[雨水]]({{JPN}}2005年・2009年・2013年)
*: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が330度の時で、雪が溶け始めるころに当たる。
* [[旧正月]]({{JPN}}{{CHN}}2007年)
* [[独立記念日]]({{GMB}})
*: [[1965年]]のこの日、ガンビアが[[イギリス]]から独立した。
* [[航空扱い|エアメール]]の日
*: [[1911年]]のこの日、[[インド]]で初めて[[飛行機]]によって郵便物が運ばれたことに由来<ref name=":0" />。[[イラーハーバード]]で開かれていた万国博覧会の行事として、会場から8km離れた駅まで6,000通の手紙が飛行機で運ばれた<ref name="saito1997">{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=87}}</ref>。
* [[嫌煙|嫌煙運動]]の日
*: [[1978年]]のこの日、東京・四谷で「嫌煙権確立をめざす人々の会」が設立されたことにちなむ<ref name="saito1997"/><ref>{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=57}}</ref><ref >{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=28}}</ref><ref>{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=31}}</ref>。
* [[冥王星]]の日
*: [[1930年]]のこの日、アメリカ・ローウェル天文台の[[クライド・トンボー]]が冥王星を発見したことにちなむ。
* 安眠の日
*:[[関東]]の一部地域で定められている睡眠時間の規定通りしっかりと休もうという日。
* [[奄美方言|方言]]の日
*: [[奄美群島]]の[[与論島]]方言で[[言葉]]を「ふ(2)とぅ(10)ば(8)」ということから、語呂合わせで、[[鹿児島県]][[大島支庁 (鹿児島県)|大島支庁]]が[[2007年]]に大島地区の[[方言]]の日に制定した。島毎の方言差が大きいため、[[奄美大島]]では「シマユムタの日」、「島口の日」、[[沖永良部島]]では「シマムニの日」、与論島では「ユンヌフトゥバの日」などと異なる別名も併用される<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[鹿児島県]] |date=4 Jan 2023 |url=https://www.pref.kagoshima.jp/aq01/chiiki/oshima/kyoiku/oosimatikuhougennnohi.html |title=大島地区「方言の日」 |work=大島地区文化協会連絡協議会 |accessdate=9 Apr 2023}}</ref>。
* [[プライヤ]]の日
*: 新潟県燕三条の日本唯一のプライヤ専業メーカーである[[五十嵐プライヤー]]が語呂合わせでプ(2)ライ(1)ヤ(8)の日として制定。全国に便利な工具「[[プライヤ]]」という工具を知ってもらいたいとの想いから。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0218|date=Apr 2023}}
* 昭和2×年 - 犬神佐兵衛が亡くなる。(小説『[[犬神家の一族]]』発端)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1844年]](天保15年) - 斎藤一、漫画・アニメ『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://rurouni-kenshin.com/character/chara7.html |title=斎藤一|work=『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』 |publisher=[[和月伸宏]]/[[集英社]]・「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」製作委員会|accessdate=18 Feb 2024}}</ref>
* [[1973年]] - ドゥーガ、[[スーパー戦隊シリーズ]]『[[王様戦隊キングオージャー]]』の登場人物<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toei.co.jp/tv/king-ohger/story/1232365_3346.html|title=第22話『シュゴッド大集合』 |access-date=2023-10-16 |publisher=[[東映株式会社]] |work=『王様戦隊キングオージャー』}}</ref>
* [[1978年]] - アヤセ、特撮『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tvarc.toei.co.jp/tv/programs/timeranger/profile/time-cast.html |title=未来戦隊タイムレンジャー <<キャラクター&キャスト紹介>> |access-date=1 Aug 2023 |publisher=[[テレビ朝日]]・[[東映]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20090504081949/http://tvarc.toei.co.jp/tv/programs/timeranger/profile/time-cast.html |archive-date=4 May 2009}}</ref>
* 1980年 - [[DEATH NOTEの登場人物#SPK|ハル・リドナー]](ハル・ブロック)、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ |coauthors = [[小畑健]] |date=2007-09-04|title=DEATH NOTE/A アニメーション公式解析ガイド |page =73 |publisher = [[集英社]] |isbn = 978-4088741970 |series=[[ジャンプコミックス]]}}※アニメ版では1983年生まれ</ref>
* 1994年 - [[バクマン。の登場人物#主要人物|真城最高]]、漫画・アニメ『[[バクマン。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=小畑健|authorlink1=小畑健|author2=大場つぐみ|authorlink2=大場つぐみ|date=2010-12-29 |title = バクマン。キャラクターブック キャラマン。|page =26 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4088748498 }}</ref>
* 2002年 - [[新世紀エヴァンゲリオンの登場人物#第壱中学校の生徒|洞木ヒカリ]]、アニメ・漫画『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author = 特務機関調査プロジェクトチーム |date=1997-07-01|title = 新世紀エヴァンゲリオン完全解体全書―新たなる謎と伝説 |page = 209 |publisher = [[青春出版社]] |isbn = 978-4413030731}}</ref>
* 生年不明 - 大間仁、漫画・アニメ『[[ハイスクール!奇面組]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ガンビア、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/gambia.html |title=ガンビア |work=『ONE PIECE』 |accessdate=9 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 桐原総一郎、漫画・アニメ『[[ホイッスル!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 風祭功、漫画・アニメ『ホイッスル!』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鬼灯水月、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|964877373224169472}}</ref>
* 生年不明 - 来馬辰也、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1362055469972525059}}</ref>
* 生年不明 - 庵歌姫、漫画・アニメ『[[呪術廻戦]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|jujutsu_pr|1494562934793838592}}</ref>
* 生年不明 - 押枝あつこ、漫画・アニメ『[[アホガール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ヒロユキ|authorlink=ヒロユキ|date=2013-10-17|title=アホガール|volume=2巻|page=20|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社コミックス]]|isbn=978-4063949544}}</ref>
* 生年不明 - ハウメア、漫画・アニメ『[[炎炎ノ消防隊]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|animatetimes|1362300912153296900}}</ref>
* 生年不明 - ヨルナミ、漫画・アニメ『[[アラタカンガタリ〜革神語〜|アラタカンガタリ~革神語~]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ハデス、漫画・アニメ『[[魔王城でおやすみ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|maoujo_anime|1362054194820128770}}</ref>
* 生年不明 - 北野深雪、漫画・アニメ『[[水色時代]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 明日香・R・バッジオ、漫画・アニメ『[[ARIA (漫画)|ARIA]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 宮永照、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=宮永 照(みやなが てる) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=9 Apr 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 環凛子、アニメ・漫画『[[夏色キセキ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|date=2012-3-24|title=TV アニメーション 「夏色キセキ」 オフィシャルフォトブック|page=42|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|isbn=978-4757535466}}</ref>
* 生年不明 - テラコマリ・ガンデスブラッド、小説・漫画・アニメ『[[ひきこまり吸血姫の悶々]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hikikomari.com/character/terakomari.html |title=テラコマリ・ガンデスブラッド |accessdate= 9 Apr 2023 |work=『ひきこまり吸血姫の悶々』 |publisher=[[小林湖底]]・[[SBクリエイティブ]]/ひきこまり製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - シャリ、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 目黒兼武、ゲーム・アニメ『[[ゲートキーパーズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 伊藤止、ゲーム・アニメ『[[School Days]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 上岡由佳里、ゲーム・アニメ『[[乙女はお姉さまに恋してる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.caramel-box.com/products/otoboku/chara/character_05.html |title=上岡由佳里(かみおか ゆかり) |access-date=9 Apr 2023 |publisher=[[キャラメルBOX|Caramel Box]] |work=『処女はお姉さまに恋してる』}}</ref>
* 生年不明 - 雲雀、ゲーム・アニメ『[[閃乱カグラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://senrankagura.marv.jp/shinovishoujyo/chara/?hibari&mode=2 |title=雲雀(ひばり) |access-date= 9 Apr 2023 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] HONEY PARADE GAMES Inc. |work=『閃乱カグラ』シノビ少女図鑑}}</ref>
* 生年不明 - 御影かすみ、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|700235960206757888}}</ref>
* 生年不明 - 雪野日陽、キャラクターソング企画『[[音楽少女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://ongaku-shoujo.jp/#character |title=CHARACTER 雪野日陽 |access-date= 9 Apr 2023 |publisher=音楽少女製作委員会 |work=『音楽少女』}}</ref>
* 生年不明 - 渡世千里、ゲーム・アニメ『[[ボーイフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|boyfriend_kari|964861995597123584}}</ref>
* 生年不明 - 末葉あおい、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/aoi.html |title=末葉 あおい |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]] |work=「スクールガールストライカーズ2」 |accessdate=1 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - 五十嵐望、ゲーム・アニメ『[[アイカツスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aikatsu.net/aikatsustars_02/character/chara_nozomu.html |title=五十嵐 望 |access-date= 9 Apr 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]],[[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツスターズ!』}}</ref>
* 生年不明 - バジル、 ゲーム 『[[OMORI]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|OMORI_GAME|1362572854793887748}}</ref>
* 生年不明 - グラスワンダー、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=grasswonder |title=グラスワンダー |publisher=[[Cygames]] |accessdate=9 Apr 2023 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|2|17|2|19|[[1月18日]]|[[3月18日]]|[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]|0218|2|18}}
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1,791 | 2月19日 | 2月19日(にがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から50日目にあたり、年末まであと315日(閏年では316日)ある。 | [
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'''2月19日'''(にがつじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から50日目にあたり、年末まであと315日([[閏年]]では316日)ある。
== できごと ==
<!-- 旧暦 * [[1185年]] - 源平、屋島の戦い。 -->
<!-- 旧暦 * [[1837年]] - [[大塩平八郎の乱]]。 -->
* [[1674年]] - 第3次[[ウェストミンスター条約]]が締結され第3次[[英蘭戦争]]が終結。
* [[1771年]] - [[シャルル・メシエ]]が[[楕円銀河]][[M49 (天体)|M49]]を発見。
* [[1819年]] - [[ウィリアム・スミス (船乗り)|ウィリアム・スミス]]が[[サウス・シェトランド諸島]]を発見。
* [[1833年]] - [[マルディグラ]]([[謝肉祭]]の最終日)。[[ヴィクトル・ユーゴー]]が女優[[ジュリエット・ドルーエ]]と[[愛人]]関係になる。([[2月16日#フィクションのできごと]]も参照)
* [[1846年]] - [[テキサス併合]]: [[テキサス共和国]]が[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]]に主権を公式に移管。
<!--ユリウス暦/ * [[1861年]] - [[ロシア帝国]]で[[農奴制]]を廃止。-->
* [[1865年]]([[元治]]2年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[長崎市|長崎]]に[[大浦天主堂]]が完成する。
* [[1877年]] - [[日本]]が[[万国郵便連合]]に加盟。
* [[1878年]] - [[トーマス・エジソン]]が[[レコードプレーヤー]]([[フォノグラフ]])の特許を取得。
* [[1890年]] - [[草津線]]が全通。
* [[1915年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ガリポリの戦い]]が始まる。
<!-- 2月18日 * [[1935年]] - 日本の[[貴族院 (日本)|貴族院]]本会議で[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]議員が[[美濃部達吉]]の[[天皇機関説]]を批判、[[天皇機関説事件]]に発展する。 -->
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[日本のオーストラリア空襲]]: [[大日本帝国海軍|日本海軍]]の艦載機が[[オーストラリア]]の[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]]を[[ダーウィン空襲|空襲]]、243名の死者を出す。
* 1942年 - 第二次世界大戦・[[日系人の強制収容]]: [[フランクリン・ルーズベルト]]米大統領が敵性外国人の強制収容を可能とする[[大統領令9066号]]に署名(追憶の日 (Day of Remenbrance))。
* 1942年 - [[カナダ]]において[[ナチス・ドイツ]]の侵攻を想定した演習『[[もしもの日]]』が実施される。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦: [[カセリーヌ峠の戦い]]。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[硫黄島の戦い]]: [[アメリカ海兵隊|海兵隊]]を主力とするアメリカ軍が、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]に上陸。
* [[1946年]] - [[昭和天皇の戦後巡幸]]が開始。
* 1946年 - [[部落解放全国委員会]]結成。
* [[1952年]] - [[青梅事件]]。
* [[1954年]] - [[蔵前国技館]]で、日本初の本格的な[[プロレス]]国際試合が開催。メインは[[力道山]]・[[木村政彦]]組対[[シャープ兄弟]]。
* [[1959年]] - [[イギリス]]・[[ギリシア]]・[[トルコ]]が「[[キプロス]]独立協定」に調印。
* [[1965年]] - [[日本サッカーリーグ]]が発足。
* [[1972年]] - [[連合赤軍]]メンバー5名が人質1名を取って浅間山荘に立てこもる[[あさま山荘事件]]が発生(9日後の[[2月28日]]に立てこもり犯全員を逮捕)。
* [[1976年]] - [[ジェラルド・R・フォード]]米大統領が[[大統領令9066号]]を廃止。
* [[1977年]] - [[宇宙科学研究所|東大宇宙航空研]]が試験衛星「[[たんせい3号]]」を打上げ。
* [[1978年]] - [[エジプト軍によるラルナカ国際空港襲撃]]。
* [[1981年]] - [[将棋]]の[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]において[[高橋道雄]]と[[山下カズ子]]の対局が指され、史上初めて[[棋士 (将棋)|男性棋士]]と[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]の公式戦が行なわれる。
* [[1985年]] - [[中華航空006便急降下事故]]。
* [[1986年]] - [[ソビエト連邦]]が[[宇宙ステーション]]「[[ミール]]」を打ち上げ。
* [[1993年]] - [[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が連合赤軍幹部の[[永田洋子]]と[[坂口弘]]の上告を棄却し、[[死刑]]が確定。
* [[1996年]] - [[甲府盆地]]に蔓延していた[[地方病 (日本住血吸虫症)|日本住血吸虫症]]の終息宣言が[[山梨県]]により行われた。
* [[1998年]] - 株取引に絡む利益要求疑惑を追及されていた[[新井将敬]]代議士が自殺。
* [[2002年]] - アメリカの[[火星探査機]]「[[2001マーズ・オデッセイ]]」が[[火星]]の観測を開始。
* [[2008年]] - [[キューバ]]の指導者[[フィデル・カストロ]]が国家評議会議長・軍最高司令官の辞任を表明。
* 2008年 - [[イージス艦衝突事故]]。イージス艦[[あたご (護衛艦)|あたご]]が漁船と衝突事故を起こす。漁船の船員2名が行方不明となる(5月20日に[[認定死亡]])。
* 2008年 - 日本の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が[[メイプルソープ事件]]の判決を出し、国側の敗訴が確定<ref>{{Cite web|和書|title=メイプルソープ写真集、最高裁がわいせつ性否定 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2353003 |publisher=AFP通信 |access-date=2022-10-22 |date=2008年2月19日}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
* [[1473年]] - [[ニコラウス・コペルニクス]]、[[天文学者]](+ [[1543年]])
* [[1645年]]([[正保]]2年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[森長武]]、[[津山藩|津山藩主]](+ [[1696年]])
* [[1653年]]([[承応]]2年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[増山正弥]]、[[長島藩|長島藩主]](+ [[1704年]])
* [[1673年]]([[寛文]]13年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[柳生俊方]]、[[柳生藩|柳生藩主]](+ [[1730年]])
* [[1697年]]([[正保]]2年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[伊東長丘]]、[[岡田藩|岡田藩主]](+ [[1782年]])
* [[1733年]] - [[ダニエル・ソランダー]]、植物学者 (+ [[1782年]])
* [[1743年]] - [[ルイジ・ボッケリーニ]]、[[作曲家]]、[[チェリスト]](+ [[1805年]])
* [[1792年]] - [[ロデリック・マーチソン]]、[[地質学|地質学者]](+ [[1871年]])
* [[1821年]] - [[アウグスト・シュライヒャー]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1868年]])
* [[1823年]]([[文政]]6年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[前田利豁]]、[[七日市藩|七日市藩主]](+ [[1877年]])
* [[1833年]] - [[エリー・デュコマン]]、[[ジャーナリスト]]、[[平和運動|平和運動家]](+ [[1906年]])
* [[1855年]]([[安政]]2年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[西ノ海嘉治郎 (初代)|西ノ海嘉治郎]]、第16代[[横綱]](+ [[1908年]])
* [[1859年]] - [[スヴァンテ・アレニウス]]、[[化学者]](+ [[1927年]])
* [[1863年]] - [[エマヌエル・モール]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、楽器発明家(+ [[1931年]])
* [[1864年]] - [[同慶帝]]、[[ベトナム|ベトナム皇帝]](+ [[1889年]])
* [[1865年]] - [[スヴェン・ヘディン]]、探検家(+ [[1952年]])
* [[1876年]] - [[コンスタンティン・ブランクーシ]]、[[彫刻家]](+ [[1957年]])
* [[1877年]] - [[ガブリエレ・ミュンター]]、[[芸術家]](+ [[1962年]])
* [[1885年]] - [[小畑敏四郎]]、[[陸軍軍人]](+ [[1947年]])
* [[1890年]] - [[橋本欣五郎]]、陸軍軍人(+ [[1957年]])
* [[1893年]] - [[セドリック・ハードウィック]]、[[俳優]](+ [[1964年]])
* 1893年 - [[南喜一]]、[[実業家]](+ [[1970年]])
* [[1896年]] - [[アンドレ・ブルトン]]、[[文学者]](+ [[1966年]])
* [[1899年]] - [[ルーチョ・フォンタナ]]、[[美術家]](+ [[1968年]])
* [[1902年]] - [[鶴田知也]]、[[小説家]](+ [[1988年]])
* 1902年 - [[土井虎賀寿]]、[[哲学|哲学者]]、[[文学者]](+ [[1971年]])
* [[1907年]] - [[武田文吾]]、[[騎手]]、[[調教師]](+ [[1986年]])
* [[1910年]] - [[西川鶴三]]、[[照明技師]](+ [[1970年]])
* [[1911年]] - [[マール・オベロン]]、[[俳優|女優]](+ [[1979年]])
* [[1912年]] - [[谷口千吉]]、[[映画監督]](+ [[2007年]])
* [[1912年]] - [[ヘルマン・フローン]]、[[地理学者]]、[[気候学|気候学者]](+ [[1997年]])
* [[1914年]] - [[内海五十雄]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1992年]])
* [[1917年]] - [[峠三吉]]、[[詩人]](+ [[1953年]])
* 1917年 - [[カーソン・マッカラーズ]]、[[作家]](+ [[1967年]])
* [[1919年]] - [[児玉利一]]、元プロ野球選手(+ [[2008年]])
* [[1921年]] - [[朝霧鏡子]]、女優(+ [[1999年]])
* 1921年 - [[アン・サヴェージ]]、女優(+ [[2008年]])
* [[1924年]] - [[長崎源之助]]、[[児童文学作家]](+ [[2011年]])
* 1924年 - [[リー・マーヴィン]]、[[俳優]](+ [[1987年]])
* [[1926年]] - [[クルターグ・ジェルジ]]、作曲家
* [[1929年]] - [[粟津潔]]、[[グラフィックデザイナー]](+ [[2009年]])
* [[1930年]] - [[ジョン・フランケンハイマー]]、[[映画監督]](+ [[2002年]])
* 1930年 - [[島田雄三]]、元プロ野球選手
* 1930年 - [[宮本憲一]]、[[経済学者]]
* [[1933年]] - [[八代駿]]、俳優、[[声優]](+ [[2003年]])
* [[1934年]] - [[吉岡治]]、作詞家(+ [[2010年]])
* [[1934年]] - [[ピエール・バルー]]、音楽家、俳優(+ [[2016年]])
* [[1935年]] - [[ジャン=ルイ・シェレル]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[2013年]])
* 1935年 - [[阿部謹也]]、歴史学者(+ [[2006年]])
* 1935年 - [[関口一郎 (野球)|関口一郎]]、元プロ野球選手
* 1935年 - [[難波昭二郎]]、元プロ野球選手、実業家(+ [[2009年]])
* [[1936年]] - [[伏見扇太郎]]、[[俳優]](没年不明)
* [[1937年]] - [[杉本清]]、[[アナウンサー]]、競馬ジャーナリスト
* [[1940年]] - [[サパルムラト・ニヤゾフ]]、[[トルクメニスタン]]初代大統領(+ [[2006年]])
* 1940年 - [[スモーキー・ロビンソン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* 1940年 - [[淡河弘]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[デイビッド・グロス]]、[[物理学者]]
* 1941年 - [[小川真司]]、俳優、声優(+ [[2015年]])
* [[1942年]] - [[園田博之]]、政治家(+ [[2018年]])
* 1942年 - [[ハワード・ストリンガー]]、[[ソニー]][[代表取締役]]会長兼[[最高経営責任者|CEO]]
* [[1943年]] - [[ティモシー・ハント]]、[[生化学|生化学者]]
* 1943年 - [[ロバート・トリヴァース]]、[[進化生物学|進化生物学者]]
* 1943年 - [[ゲイル・ホプキンス]]、元[[プロ野球選手]]、医師、牧師
* [[1946年]] - [[藤岡弘、]]、[[俳優]]
* [[1948年]] - [[財津和夫]]、[[ミュージシャン]]
* 1948年 - [[トニー・アイオミ]]、ミュージシャン([[ブラック・サバス]])
* [[1949年]] - [[益子修]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63240810R30C20A8I00000/|title=益子修氏死去 三菱自動車前会長、経営立て直し奔走|publisher=日本経済新聞|date=2020-08-31|accessdate=2020-12-16}}</ref>、[[三菱自動車工業]][[代表取締役]]社長(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/52379|title=三菱自動車前会長 益子修さん死去|publisher=東京新聞 TOKYO Web|date=2020-08-31|accessdate=2020-12-26}}</ref><ref>[https://www.mitsubishi-motors.com/jp/newsrelease/2020/detail5462.html 三菱自動車工業株式会社特別顧問(元取締役会長 代表執行役)益子修 逝去について]</ref>)
* [[1950年]] - [[貴ノ花健士]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄11代[[二子山 (相撲)|二子山]](+ [[2005年]])
* 1950年 - [[安井潤一郎]]、政治家
* [[1951年]] - [[アラン・メリル]]、[[ミュージシャン]]
* [[1951年]] - [[梅林茂]]、作曲家
* [[1951年]] - [[藤岡真]]、作家
* 1951年 - [[ホレス・アンディ]]、[[レゲエ]]歌手
* [[1952年]] - [[村上龍]]、作家
* 1952年 - [[笑福亭松鶴 (7代目)]]、[[落語家]](+ [[1996年]])
* [[1953年]] - [[クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル]]、政治家、[[アルゼンチンの大統領|アルゼンチン大統領]]
* 1953年 - [[有希俊彦]]、元俳優
* [[1956年]] - [[如月小春]]、[[劇作家]]、[[演出家]](+ [[2000年]])
* 1956年 - [[ロデリック・マキノン]]、[[分子生物学者]]
* [[1957年]] - [[ファルコ (ミュージシャン)|ファルコ]]、ミュージシャン(+ [[1998年]])
* 1957年 - [[デーブ・スチュワート (野球)|デーブ・スチュワート]]、元プロ野球選手
* 1957年 - [[沢田勝彦]]、[[高校野球]]指導者
* [[1958年]] - [[ヘレン・フィールディング]]、作家
* [[1959年]] - [[星野充昭]]、俳優、[[声優]]
* 1959年 - [[吉野朔実]]、[[漫画家]](+ [[2016年]])
* [[1960年]] - [[アンドルー王子]]、イギリス女王[[エリザベス2世]]の次男
* 1960年 - [[ジョン・ポールJr. (レーサー)|ジョン・ポールJr.]]、[[レーシングドライバー]] (+ [[2020年]])
* [[1961年]] - [[THE SEIJI]]、漫画家
* 1961年 - [[吉村萬壱]]、作家
* 1962年 - [[越智一裕]]、[[アニメーター]]、漫画家
* 1962年 - [[ハナ・マンドリコワ]]、[[テニス選手]]
* [[1963年]] - [[島朗]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* 1963年 - [[シール (歌手)|シール]]、ミュージシャン
* [[1964年]] - [[樋口雅子]]、声優
* 1964年 - [[和田ラヂヲ]]、[[漫画家]]
* 1964年 - [[月山栄珠]]、元プロ野球選手
* [[1965年]] - [[岡本久美子]]、テニス選手
* [[1966年]] - [[薬丸裕英]]、[[タレント]]
* [[1967年]] - [[ベニチオ・デル・トロ]]、俳優
* 1967年 - [[義田貴士]]、俳優、スポーツジャーナリスト
* [[1968年]] - [[小浜裕一]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[かとうれいこ]]、タレント
* [[1970年]] - [[ウ・ジョンシン]]、声優
* 1970年 - [[笠原弘子]]、声優、歌手
* 1970年 - [[松本隆 (野球)|松本隆]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[ギル・シャハム]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1971年 - [[三浦聡子]]、元[[ニュースキャスター|キャスター]]、元女優
* 1971年 - [[ミゲル・バティスタ]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[大森南朋]]、俳優
* 1972年 - [[中上雅巳]]、タレント
* [[1973年]] - [[河口正史]]、元[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1974年]] - [[坪井智哉]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[森且行]]、[[オートレース]]選手
* 1974年 - [[貴島サリオ]]、[[歌手]]
* 1974年 - [[ななじ眺]]、漫画家
* [[1975年]] - [[あべこうじ]]、お笑い芸人
* 1975年 - [[山本高広]]、[[ものまねタレント]]
* 1975年 - [[喜安浩平]]、声優
* [[1977年]] - 吉本峰之、[[お笑い芸人]](元[[ストリーク]])
* 1977年 - [[ジャンルカ・ザンブロッタ]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1977年 - [[武藤将吾]]、[[脚本家]]
* [[1978年]] - [[平田宏美]]、声優
* [[1979年]] - [[呂建剛]]、元プロ野球選手
* [[1980年]] - [[フリーディア・ニムラ]]、タレント
* 1980年 - [[マイク・ミラー]]、バスケット選手
* 1980年 - [[デヴィッド・ギャンディ]]、ファッションモデル
* 1980年 - [[外塚重喜]]、実業家、元[[プロボクサー]]
* [[1981年]] - [[森麻季 (アナウンサー)|森麻季]]、[[アナウンサー]]
* 1981年 - [[ヴィタス]]、歌手
* 1981年 - [[ニッキー・ショーリー]]、元サッカー選手
* [[1982年]] - [[阿部進之介]]、俳優
* 1982年 - [[伊藤久美子]]、[[俳優|女優]]
* 1982年 - [[R・O・N]]、作曲家、ギタリスト(元[[OLDCODEX]])
* [[1983年]] - [[琴欧洲勝紀]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄15代[[鳴戸]]
* 1983年 - [[ささきのぞみ]]、声優
* 1983年 - [[中島美嘉]]、[[歌手]]
* 1983年 - [[山口翔悟]]、俳優
* 1983年 - [[小林大悟]]、サッカー選手
* 1983年 - [[イワン・シェフェル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1983年 - [[ダニエル・フィゲロア]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[福田淳子]]、[[タレント]]、[[グラビアアイドル]]
* 1984年 - [[マリリン・プラ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1985年]] - [[アリエル・ケベル]]、女優
* 1985年 - [[浅見紘子]]、[[バレエ]]ダンサー
* 1985年 - [[新田雄史]]、[[競艇選手]]
* 1985年 - [[ダン・オテロ]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[かでなれおん]]、グラビアアイドル、タレント
* 1986年 - [[ガリガリガリクソン]]、お笑い芸人
* 1986年 - [[幸坂ゆか]]、タレント
* 1986年 - [[萬代宏樹]]、サッカー選手
* 1986年 - [[マルタ・ビエイラ・ダ・シルバ]]、サッカー選手
* [[1987年]] - [[アンナ・カッペリーニ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1987年 - [[MAI (歌手)|MAI]]、歌手
* 1987年 - [[ジョシュ・レディック]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[高橋真理恵]]、アナウンサー
* 1987年 - [[日野礼香]]、元モデル、元レースクイーン
* [[1988年]] - [[入野自由]]、声優
* 1988年 - [[宮城舞]]、ファッションモデル
* 1988年 - [[遠藤エミ]]、[[競艇]]選手
* 1988年 - [[齊藤晃義]]、[[サッカー]]選手
* 1988年 - ふるやいなや、お笑い芸人([[スーパーニュウニュウ]])
* [[1989年]] - [[マーク・カナ]]、プロ野球選手
* [[1990年]] - [[水本勝成]]、サッカー選手
* 1990年 - [[稲垣早織]]、[[新体操]]選手
* 1990年 - [[マリエル・ミラー]]、フィギュアスケート選手
* 1990年 - [[リャド・ブデブズ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ダビド・ロチェラ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[コスタ・バルバルセス]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[AMO (モデル)|AMO]]、ファッションモデル
* 1991年 - [[永瀬麻帆]]、元タレント
* [[1992年]] - [[桑原みずき]]、タレント、女優
* [[1993年]] - [[マウロ・イカルディ]]、サッカー選手
* 1993年 - [[キム・ミンソク (フィギュアスケート選手)|キム・ミンソク]]、フィギュアスケート選手
* 1993年 - [[ヴィクトリア・ジャスティス]]、女優、歌手
* 1993年 - [[波多野桃子]]、女優、声優
* 1993年 - 賀屋壮也、お笑い芸人([[かが屋]])
* [[1994年]] - [[岡田紗佳]]、ファッションモデル、グラビアアイドル
* 1994年 - [[降幡愛]]、声優
* [[1995年]] - [[生田目翼]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[キム・ユンドン]]、歌手([[HALO (音楽グループ)|HALO]]、[[ORβIT]])
* [[1996年]] - [[岸本淳希]]、元プロ野球選手
* [[1997年]] - [[亀井塔生]]、元プロ野球選手
* 1997年 - E-CHAN、アイドル、ミュージシャン([[DKB (音楽グループ)|DKB]])
* [[1998年]] - [[平岡拓真]]、元俳優
* 1998年 - [[ジョンウ]]、歌手([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* [[1999年]] - [[古谷優人]]、元プロ野球選手
* 1999年 - [[景井ひな]]、ファッションモデル
* [[2000年]] - 今村美月、アイドル([[STU48]])
* 2000年 - [[森戸知沙希]]、歌手(元[[モーニング娘。]]、元[[カントリー・ガールズ]])
* 2000年 - [[松本いちか]]、AV女優
* [[2001年]] - [[ダヴィード・マズーズ]]、俳優
* [[2003年]] - [[村山優香]]、女優
* [[2004年]] - [[田島櫻子]]、アイドル([[Onephony]]、元[[Peel the Apple]])、ファッションモデル、タレント
* 生年不詳 - [[深見じゅん]]、漫画家
* 生年不詳 - [[えれっと]]、[[イラストレーター]]、漫画家
* 生年不明 - [[兼政郁人]]、声優
* 生年不明 - [[郁原ゆう]]、声優
* 生年不明 - [[小島敬介]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.office-pac.jp/talent/profile/?id=kojima-k|title=小島敬介|publisher=オフィスPAC|accessdate=2021-01-06}}</ref>、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1985年]] - [[サクラチヨノオー]]、[[競走馬]]、[[種牡馬]](+ [[2012年]])
* [[2009年]] ‐ [[カレンブラックヒル]]、競走馬、種牡馬
== 忌日 ==
* [[197年]] - [[クロディウス・アルビヌス]]、[[ローマ帝国]]の[[ブリタンニア]]総督(* [[150年]])
* [[1445年]] - [[レオノール・デ・アラゴン (ポルトガル王妃)|レオノール・デ・アラゴン]]、[[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ポルトガル王ドゥアルテ1世]]の妃(* [[1402年]])
* [[1553年]] - [[エラスムス・ラインホルト]]、天文学者(* [[1511年]])
* [[1670年]] - [[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレデリク3世]]、[[デンマーク]]王(* [[1609年]])
* [[1671年]]([[寛文]]11年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[徳川頼宣]]、[[徳川家康]]の十男、[[水戸藩]]・[[駿府藩]]・[[紀州藩]][[藩主]]歴任、[[紀州徳川家]]の祖(* [[1602年]])
* [[1709年]]([[宝永]]6年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[徳川綱吉]]、[[江戸幕府]]第5代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1646年]])
* [[1837年]] - [[ゲオルク・ビュヒナー]]、[[劇作家]]、[[小説家]](* [[1813年]])
* [[1878年]] - [[シャルル・フランソワ・ドービニー]]、[[画家]](* [[1817年]])
* [[1897年]] - [[カール・ワイエルシュトラス]]、[[数学者]](* [[1815年]])
* [[1916年]] - [[エルンスト・マッハ]]、[[物理学者]](* [[1838年]])
* [[1927年]] - [[ゲーオア・ブランデス]]、[[文学史|文学史家]]、[[評論家]](* [[1842年]])
* 1927年 - [[ロベルト・フックス]]、[[作曲家]](* [[1847年]])
* [[1929年]] - [[ヴィルヘルム・ライン]]、[[教育学|教育学者]](* [[1847年]])
* [[1934年]] - [[伊東巳代治]]、官僚、政治家(* [[1857年]])
* 1934年 - [[野呂栄太郎]]、[[マルクス経済学|マルクス経済学者]]、[[日本共産党]]幹部(* [[1900年]])
* 1934年 - [[ケイレブ・デイビス・ブラッドハム]]、[[薬剤師]]、[[ペプシコーラ]]創案者
* [[1936年]] - [[ウィリアム・ミッチェル]]、[[アメリカ合衆国]]の[[軍人]](* [[1879年]])
* [[1938年]] - [[エトムント・ランダウ]]、数学者(* [[1877年]])
* [[1941年]] - [[ハミルトン・ハーティ]]、[[指揮者]](* [[1879年]])
* [[1951年]] - [[アンドレ・ジッド]]、小説家(* [[1869年]])
* [[1952年]] - [[クヌート・ハムスン]]、小説家(* [[1859年]])
* [[1953年]] - [[近藤信竹]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[大将]](* [[1886年]])
* [[1957年]] - [[モリス・ガラン]]、[[自転車競技]]選手(* [[1871年]])
* [[1963年]] - [[スヴャトスラフ・クヌシェヴィツキー]]、[[チェリスト]](* [[1908年]])
* [[1964年]] - [[尾崎士郎]]、小説家(* [[1898年]])
* [[1969年]] - [[ドク・ホワイト]]、元プロ野球選手(* [[1879年]])
* [[1970年]] - [[中野忠晴]]、[[歌手]]、[[作曲家]](* [[1909年]])
* [[1972年]] - [[リー・モーガン]]、[[ジャズ]][[トランペット|トランペッター]](* [[1938年]])
* [[1973年]] - [[ヨーゼフ・シゲティ|ヨゼフ・シゲティ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1892年]])
* [[1974年]] - [[宇野哲人]]、漢文学者(* [[1875年]])
* [[1975年]] - [[ルイージ・ダッラピッコラ]]、作曲家(* [[1904年]])
* [[1988年]] - [[アンドレ・フレデリック・クルナン]]、[[医学者]](* [[1895年]])
* 1988年 - [[ルネ・シャール]]、[[詩人]](* [[1907年]])
* [[1991年]] - [[小林一喜]]、[[ジャーナリスト]](* [[1934年]])
* [[1992年]] - [[大林辰蔵]]、[[天体物理学|宇宙物理学者]](* [[1926年]])
* [[1994年]] - [[デレク・ジャーマン]]、[[映画監督]](* [[1942年]])
* [[1996年]] - [[チャーリー・O・フィンリー]]、[[メジャーリーグ]]球団オーナー(* [[1918年]])
* [[1997年]] - [[鄧小平]]、政治家(* [[1904年]])
* 1997年 - [[埴谷雄高]]、小説家(* [[1909年]])
* 1997年 - [[ダヴィッド・アシュケナージ]]、[[ピアニスト]]、[[コンサートマスター]]、[[作曲家]](* [[1915年]])
* [[1998年]] - [[マンサー・オルソン]]、[[経済学者]](* [[1932年]])
* 1998年 - [[新井将敬]]、政治家(* [[1948年]])
* [[2000年]] - [[フリーデンスライヒ・フンダートヴァッサー]]、芸術家 (* [[1928年]])
* [[2001年]] - [[スタンリー・クレイマー]]、映画監督、プロデューサー(* [[1913年]])
* 2001年 - [[シャルル・トレネ]]、[[シャンソン]][[歌手]](* 1913年)
* [[2005年]] - [[岡本喜八]]、映画監督(* [[1924年]])
* [[2007年]] - [[ジャネット・ブレア]]、[[俳優|女優]](* [[1921年]])
* [[2008年]] - [[沈殿霞]]、[[香港]]電視藝員(* [[1945年]])
* [[2009年]] - [[前田隣]]、[[コメディアン]](元[[ナンセンストリオ]])(* [[1936年]])
* [[2010年]] - [[雨宮淳]]、[[彫刻家]](* [[1937年]])
* [[2015年]] - [[木村保久]]、元[[プロ野球選手]](* [[1924年]])
* [[2017年]] - [[林京子]]、小説家(* [[1930年]])
* 2017年 - [[ラリー・コリエル]]<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000138588 “フュージョンのゴッドファーザー”ラリー・コリエルが死去] BARKS 2017年2月21日</ref>、ジャズ・フュージョン・[[ギタリスト]](* [[1943年]])
* 2017年 - [[藤池昇]]<ref>[http://www.nikkansports.com/m/sports/golf/news/1781637_m.html?mode=all 元大洋 プロ野球からプロゴルフ 藤池昇龍氏が死去] 日刊スポーツ 2017年2月20日</ref>、元プロ野球選手、[[プロゴルファー]](* [[1953年]])
* [[2019年]] - [[カール・ラガーフェルド]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/47301566|title=カール・ラガーフェルド氏死去 「シャネル」など手がけた世界的デザイナー |publisher=BBCニュース|date=2019-02-20|accessdate=2020-10-28}}</ref>、[[ファッションデザイナー]](* [[1933年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[雨水]]({{JPN}}2010年・2011年・2012年・2014年・2015年・2016年)
*: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が330度の時で、雪が溶け始めるころに当たる。
* [[国旗の日]]({{TKM}})
*: 初代大統領[[サパルムラト・ニヤゾフ]]の誕生日を記念し、1997年に制定。
* 天地の日
*: [[地動説]]を主張した[[ニコラウス・コペルニクス]]の誕生日に由来<ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=32}}</ref>。
* 強制収容を忘れない日
*: [[1942年]]2月19日に[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領により署名された[[大統領令9066号]]に基づいて[[日系人の強制収容]]が行われたことに由来<ref>{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=25}}</ref>。
* 万国郵便連合加盟記念日({{JPN}})
*: [[1877年]]2月19日に日本が[[万国郵便連合]] (UPU) に加盟したことに由来<ref name="kase2009"/><ref>{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=58}}</ref><ref>{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=36}}</ref><ref>{{cite book|和書|title=366日の事典|publisher=東陽出版|year=1994|page=63}}</ref>。
* [[プロレス]]の日({{JPN}})
*: [[1954年]]のこの日、日本初のプロレスの本格的な国際試合、[[力道山]]・[[木村政彦]]組対[[シャープ兄弟]]の試合が開催されたことに由来<ref>{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=88}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0219|date=2011年6月}}
* [[2011年]] - 60発のミサイル事件。(アニメ『[[東のエデン]]』)
* [[2019年]] - イスラエルとイランで核兵器を用いた戦闘が起こる。世界オカルト連合が介入して世界大戦を防ぐ。(共同創作サイト『[[SCP財団]]』)<ref>{{Cite web|url=http://scp-jp.wikidot.com/scp-3519 |title=SCP-3519 |accessdate=2021-01-27 |website=[[SCP財団]]}}</ref>
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1986年]] - 岩倉(梅津)舞、[[連続テレビ小説]]『[[舞いあがれ!]]』の主人公<ref>第40回放送の「航空機操縦練習許可証」から。</ref>
* [[1998年]] - 雪村あおい、漫画・アニメ・舞台『[[ヤマノススメ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|yamanosusume|1230077183437066241}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=[[ヤマノススメ]]|volume=5巻|publisher=[[アース・スター エンターテイメント]]|page=118|isbn=978-4-8030-0508-0}}</ref>
* 生年不明 - 皇昴流、漫画・アニメ『[[東京BABYLON]]』の主人公
* 生年不明 - 皇北都、漫画・アニメ『東京BABYLON』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 磐梯熱海萩、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/bandaiatami_hagi |title=福島 磐梯熱海 萩 |access-date=2022-09-08 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref>
* 生年不明 - 鈴木康晴、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1362417857435467778}}</ref>
* 生年不明 - 千手扉間、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|832969262050447360}}</ref>
* 生年不明 - 池尻隼人、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2013|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870631-3|quote=|date=|volume=5巻|page=66}}</ref>
* 生年不明 - ドロレス、漫画・アニメ『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 神谷朝霞、漫画・アニメ『[[スケッチブック (漫画)|スケッチブック]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 室宿、漫画・ゲーム『[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 安福莉子、漫画・アニメ『[[咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=安福 莉子(やすふく りこ) |accessdate=2022-09-08 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 華本桃子、漫画・アニメ『片翼のラビリンス』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 七海燈子、漫画・アニメ『[[やがて君になる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=やがて君になる|date=2018|year=|publisher=KADOKAWA|author=仲谷鳰|authorlink=仲谷鳰|series=電撃コミックスNEXT|isbn=978-4-04-912047-9|volume=第6巻|quote=カバー下}}</ref>
* 生年不明 - [[恋する小惑星#森野 真理|森野真理]]、漫画・アニメ『[[恋する小惑星]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://koiastv.com/chara05.html |title=Character 森野真理 |accessdate=2022-09-08 |publisher=Quro・芳文社/星咲高校地学部 |website=TVアニメ「恋する小惑星」公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 本郷苺、漫画『[[ニチアサ以外はやってます!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 東金美沙子、アニメ『[[PSYCHO-PASS サイコパス|PSYCHO-PASS サイコパス 2]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 工藤叶、ゲーム・アニメ『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 東儀白、ゲーム・アニメ『[[FORTUNE ARTERIAL 赤い約束]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|august_soft|1097640656674140160}}</ref>
* 生年不明 - 桜華、ゲーム『[[ドリームクラブ|ドリームクラブGogo.]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=2014|title=ドリームクラブ Gogo. ビジュアルファンブック|page=62|publisher=[[KADOKAWA]]|ISBN=978-4-04-729693-0}}</ref>
* 生年不明 - 遊佐こずえ、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20181 |title=遊佐こずえ(ゆさ こずえ) |website=アイドルマスター OFFICIAL WEB |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |date= |accessdate=2022-09-08}}</ref>
* 生年不明 - クレト、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=55&cate=name&cont=Creto |title=クレト |access-date=2022-09-08 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 佐倉双葉、ゲーム・アニメ『[[ペルソナ5]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1097674401028296705}}</ref>
* 生年不明 - サクラチヨノオー、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=sakurachiyonoo |title=サクラチヨノオー |publisher=Cygames |accessdate=2022-09-08 |work=「ウマ娘 プリティーダービー」公式ポータルサイト}}</ref>
* 生年不明 - グランフレア、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumekuro.com/character/meister/tsukiwatari/grandflair/ |title=グランフレア |access-date=2023-01-22 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
* 生年不明 - [[BanG Dream!の登場人物#Morfonica|倉田ましろ]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/kurata-mashiro/ |title=CHARACTER 倉田ましろ |publisher=「BanG Dream!ガールズバンドパーティ!」公式サイト |accessdate=2022-09-08}}</ref>
<!--
* 生年不明 - 藤井一加、漫画『[[赤ちゃんと僕]]』に登場するキャラクター
-->
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{新暦365日|2|18|2|20|[[1月19日]]|[[3月19日]]|[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]|0219|2|19}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8819%E6%97%A5 |
1,792 | 2月20日 | 2月20日(にがつはつか、にがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から51日目にあたり、年末まであと314日(閏年では315日)ある。 | [
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'''2月20日'''(にがつはつか、にがつにじゅうにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から51日目にあたり、年末まであと314日([[閏年]]では315日)ある。
== できごと ==
* [[1547年]] - [[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]が戴冠。
* [[1564年]]([[永禄]]7年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - 第二次[[国府台合戦]]で[[後北条氏|北条氏]]が[[里見氏]]を破る。
* [[1582年]]([[天正]]10年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[天正遣欧少年使節]]が[[長崎港]]を出港。
* [[1862年]] - [[南北戦争]]: [[ヴァルヴァードの戦い]]。
* [[1872年]] - ニューヨークの[[メトロポリタン美術館]]が一般公開される<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/blogs/now-at-the-met/features/2012/this-weekend-in-met-history-february-20 |title=This Weekend in Met History: February 20 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=The Metropolitan Museum of Art. |date=February 17, 2012}}</ref>。
* [[1913年]] - 日本で[[山本権兵衛]]が第16代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第1次山本内閣]]が発足。
* 1913年 - 東京都[[神田 (千代田区)|神田]]三崎町を火元とする大火事が発生。2376戸が焼失する<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』295頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
* [[1923年]] - 東京駅前に[[丸ノ内ビルヂング|丸の内ビルディング]]が竣工<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mjd.co.jp/130th/mukashiima07.html |title=第7章 丸ビルの建設 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[三菱地所設計]]}}</ref>。
* [[1928年]] - [[第16回衆議院議員総選挙]]。男子25歳以上で実施された日本初の男子[[普通選挙]]。
* [[1932年]] - [[第18回衆議院議員総選挙]]。
* [[1933年]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第18条]](禁酒法)を撤廃するための[[アメリカ合衆国憲法修正第21条|憲法修正第21条]]が[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]で発議。
* 1933年 - 築地署事件: プロレタリア作家・[[小林多喜二]]が[[特別高等警察|特高警察]]の拷問により[[築地警察署]]で死亡<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM9L6FHCM9LPIHB02P.html |title=小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる 弁護士供述記録 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=23 Sep 2019}}</ref>。
* [[1935年]] - [[シャーリー・テンプル]]が6歳の史上最年少で[[アカデミー賞]]特別賞を受賞。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[バリ島沖海戦]]で[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]艦隊に勝利。
* [[1949年]] - [[能代大火#第一次能代大火|第一次能代大火]]: [[秋田県]][[能代市]]でストーブの残火の不始末が原因とする大火事が発生。死者3人、負傷者874人、住家1,296戸、非住家942棟を全焼する被害<ref>{{Cite web|和書|url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/302/ |title=能代大火(1949年) |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[Yahoo! JAPAN]] 天気・災害}}</ref>。
* [[1952年]] - [[東大ポポロ事件]]: 東大で開催された「劇団ポポロ」の演劇発表会に、私服警官が入場していた。これを発見した学生が、警官を取り囲んで、警察手帳を取り上げたところ、手帳に教授や学生らの監視活動が記録されていた。その後、警察は学生2人を暴力行為等処罰法で起訴。裁判では憲法が保障する学問の自由や大学の自治が争われた。
* [[1954年]] - [[熊本県]][[苓北町]]の志岐炭鉱で、坑道に海水が流入する事故が発生。死者36人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=97 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1962年]] - [[マーキュリー計画]]: アメリカで有人宇宙船「[[マーキュリー・アトラス6号]]」(フレンドシップ7)を打上げ。アメリカ初の有人地球周回飛行に成功し、ソ連の宇宙開発レベルに追いつく。
* 1962年 - [[土讃本線]][[土佐岩原駅]] - [[豊永駅]]間で大規模な土砂崩れ。作業員2人が死亡。同年3月26日まで復旧<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=158 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1965年]] - [[レインジャー計画]]: アメリカの月ロケット「[[レインジャー8号]]」が[[静かの海]]に着陸。月面の撮影に成功。
* [[1968年]] - [[金嬉老事件]]: 金嬉老が借金返済を求めた暴力団員2人を射殺。翌日、寸又峡の温泉旅館で経営者、宿泊客ら13人を人質に籠城した。[[2月24日]]、金は記者に変装した警察官に取り押さえられ、逮捕された。
* [[1976年]] - フィリピン・[[ルバング島]]で戦闘を継続していた[[小野田寛郎]]に冒険家・[[鈴木紀夫]]が接触し帰国を促す。
* [[1980年]] - [[大阪府]][[枚方市]]内の[[京阪電気鉄道]][[京阪本線]][[御殿山駅]] - [[枚方市駅]]間で、中学生5人組による置石による[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京阪電気鉄道置石脱線事故|列車脱線転覆事故]]が発生。104人が負傷した。
* [[1983年]] - [[宇宙科学研究所]]がX線天文観測衛星「[[てんま]]」を打上げ。
* [[1991年]] - [[アルバニア]]の首都[[ティラナ]]にあった[[エンヴェル・ホッジャ]]の巨大な像が民衆によって倒される。
* [[1993年]] - 文部省宇宙科学研究所がX線天文観測衛星「[[あすか (人工衛星)|あすか]]」を打上げ。
* [[1997年]] - [[大阪ドーム]]が完成。
* [[1998年]] - [[坂出送電塔倒壊事件]]。
* [[2005年]] - [[明治安田生命保険|明治安田生命]]が[[金融庁]]監査当局より、国内保険業界史上初の業務停止命令を受ける。
* [[2020年]] - [[新型コロナウイルス]]の集団感染が発生しているクルーズ船「[[ダイヤモンド・プリンセス (客船)|ダイヤモンド・プリンセス]]」の乗客で、80代の日本人の男女2人が死亡した。同船での死者は初めて<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55851130Q0A220C2MM0000/ |title=クルーズ船客の日本人男女2人が死亡 新型肺炎に感染 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=20 Feb 2020}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
* [[1586年]]([[天正]]14年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[蜂須賀至鎮]]、[[阿波国]][[徳島藩]]主(+ [[1620年]])
* [[1751年]] - [[ヨハン・ハインリッヒ・フォス]]、[[詩人]]、[[翻訳家]](+ [[1826年]])
* [[1758年]]([[宝暦]]8年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[柳沢里之]]、[[越後国]][[三日市藩]]主(+ [[1804年]])
* [[1776年]]([[安永]]5年1月2日) - [[石川総師]]、[[伊勢国]][[伊勢亀山藩|亀山藩]]主(+ [[1803年]])
* [[1779年]] - [[オーガスタス・ウォール・コールコット]]、[[画家]](+ [[1844年]])
* [[1781年]](安永10年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[酒井忠藎]]、[[越前国]][[敦賀藩]]主(+ [[1833年]])
* [[1789年]]([[寛政]]元年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[酒井忠寧]]、[[上野国]][[伊勢崎藩]]主(+ [[1817年]])
* [[1802年]] - [[シャルル=オーギュスト・ド・ベリオ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1870年]])
* [[1844年]] - [[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]、[[物理学者]](+ [[1906年]])
* [[1849年]]([[嘉永]]2年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[曾禰荒助]]、[[政治家]](+ [[1910年]])
* [[1882年]] - [[ニコライ・ハルトマン]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1950年]])
* 1882年 - [[エリー・ナーデルマン]]、[[彫刻家]](+ [[1946年]])
* [[1883年]] - [[志賀直哉]]、[[小説家]](+ [[1971年]])
* [[1884年]] - [[杉道助]]、[[実業家]](+ [[1964年]])
* [[1886年]] - [[石田礼助]]、第5代[[日本国有鉄道]]総裁(+ [[1978年]])
* 1886年 - [[石川啄木]]、歌人、詩人(+ [[1912年]])
* 1886年 - [[クン・ベーラ]]、[[政治家]](+ [[1939年]])
* [[1888年]] - [[マリー・ランバート]]、[[舞踏家]](+ [[1982年]])
* [[1889年]] - [[ラウレアーノ・ゴメス・カストロ]]、[[政治家]](+ [[1965年]])
* [[1890年]] - [[サム・ライス]]、元プロ野球選手(+ [[1974年]])
* [[1894年]] - [[左卜全]]、[[俳優]](+ [[1971年]])
* [[1895年]] - [[山本懸蔵]]、[[労働運動|労働運動家]]、戦前期の[[日本共産党]]党員(+ [[1939年]])
* [[1901年]] - [[ルイス・I・カーン|ルイス・カーン]]、[[建築家]](+ [[1974年]])
* 1901年 - [[ヘンリー・アイリング]]、[[化学者]](+ [[1981年]])
* [[1902年]] - [[アンセル・アダムス]]、[[写真家]](+ [[1984年]])
* [[1904年]] - [[武藤富男]]、[[官僚]]、[[牧師]]、[[教育者]](+ [[1998年]])
* [[1905年]] - [[本庄睦男]]、小説家(+ [[1939年]])
* [[1910年]] - [[山本幸一]]、政治家(+ [[1996年]])
* [[1912年]] - [[ピエール・ブール]]、[[小説家]](+ [[1994年]])
* [[1915年]] - [[水の江瀧子]]、[[俳優|女優]](+ [[2009年]])
* [[1917年]] - [[山本茂実]]、小説家(+ [[1998年]])
* 1917年 - [[マニー・ファーバー]]、[[画家]]、[[美術評論家]]、[[映画評論家]](+ [[2008年]])
* [[1919年]] - [[百瀬晋六]]、自動車技術者(+ [[1997年]])
* [[1920年]] - [[矢口洪一]]、[[裁判官]](+ [[2006年]])
* 1920年 - [[エフゲニー・F・ドラグノフ]]、[[銃器設計者]](+ [[1991年]])
* 1920年 - [[戸田与三郎]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1986年]])
* [[1921年]] - [[ルース・ギップス]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[オーボエ]]奏者(+ [[1999年]])
* 1921年 - [[バディ・ロジャース]]、プロレスラー(+ [[1992年]])
* [[1922年]] - [[熊耳武彦]]、元プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[1923年]] - [[秋枝寿一郎]]、元プロ野球選手
* [[1925年]] - [[ロバート・アルトマン]]、[[映画監督]](+ [[2006年]])
* 1925年 - [[栃錦清隆]]、[[大相撲]]第44代[[横綱]]、第5代[[日本相撲協会]]理事長(+ [[1990年]])
* 1925年 - [[藤野光久]]、元プロ野球選手(+ [[1991年]])
* [[1926年]] - [[リチャード・マシスン]]、小説家(+ [[2013年]])
* [[1927年]] - [[シドニー・ポワチエ]]、[[俳優]](+ [[2022年]])
* [[1928年]] - [[浅香光代]]、剣劇[[俳優#性別での分類|女優]](+ [[2020年]])
* 1928年 - [[広岡富夫]]、元プロ野球選手
* [[1929年]] - [[黛敏郎]]、[[作曲家]](+ [[1997年]])
* 1931年 - [[ジョン・ウィラード・ミルナー]]、[[数学者]]
* [[1933年]] - [[内井昭蔵]]、建築家(+ [[2002年]])
* 1933年 - [[山田吾一]]、俳優(+ [[2012年]])
* 1933年 - [[佐藤祐弘]]、政治家
* [[1936年]] - [[長嶋茂雄]]、元プロ野球選手、[[読売ジャイアンツ|読売巨人軍]]終身名誉監督
* [[1937年]] - [[小平桂一]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]]
* 1937年 - [[山藤章二]]、[[イラストレーター]]
* 1937年 - [[久保友之]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]])
* 1937年 - [[ロベルト・フーバー]]、[[生化学|生化学者]]
* [[1938年]] - [[稲垣美穂子]]、女優
* 1938年 - [[リチャード・ベイマー]]、俳優
* [[1940年]] - [[クリストフ・エッシェンバッハ]]、[[指揮者]]、[[ピアニスト]]
* 1940年 - [[百瀬博教]]、[[作家]]、[[詩人]]、[[格闘技]][[プロデューサー]](+ [[2008年]])
* [[1942年]] - [[若二瀬唯之]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1997年]])
* [[1943年]] - [[アントニオ猪木]]、[[プロレスラー]]、[[実業家]](+ [[2022年]])
* 1943年 - [[マイク・リー]]、映画監督
* 1943年 - [[クライド・ライト]]、元プロ野球選手
* [[1944年]] - [[岡本一雄 (実業家)|岡本一雄]]、実業家(+ [[2019年]])
* [[1945年]] - [[ドナルド・マクファーソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2001年]])
* 1945年 - [[ジョージ・スムート]]、[[物理学者]]
* [[1947年]] - [[広瀬宰]]、元プロ野球選手(+ [[1999年]])
* [[1948年]] - [[小山ゆう]]、[[漫画家]]
* [[1949年]] - [[柴田宋休]]、[[陶芸家]]、[[浄土宗]][[僧|僧侶]]、詩画作家、[[エッセイスト]]
* 1949年 - [[林望]]、[[作家]]、[[日本文学者]]
* 1949年 - [[大西譲治]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[石波義人]]、俳優、[[声優]]
* [[1950年]] - [[志村けん]]、[[タレント]]([[ザ・ドリフターズ]])(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=新型コロナで志村けんさん死去 急逝に驚きと悲しみ|publisher=[[テレビ朝日]]|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000180414.html|date=30 Mar 2020|accessdate=19 Aug 2023}}</ref>)
* 1950年 - [[ばんばひろふみ]]、[[日本のフォークシンガー|フォークシンガー]]
* 1950年 - [[土山しげる]]、漫画家(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|title=土山しげるが68歳で死去「喰いしん坊!」「極道めし」などで活躍 |url=https://natalie.mu/comic/news/284778 |website=コミックナタリー |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|Natasha, Inc. ]] |date=1 Jun 2018}}</ref>)
* [[1951年]] - [[ゴードン・ブラウン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]]
* 1951年 - [[ドス・カラス]]、[[プロレスラー]]
* 1951年 - [[美内すずえ]]、漫画家
* 1951年 - [[奥田和男]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[有田芳生]]、[[ジャーナリスト]]、政治家
* [[1953年]] - [[四方田犬彦]]、[[比較文学|比較文学者]]、[[映画史|映画史家]]
* 1953年 - [[リッカルド・シャイー]]、指揮者
* [[1957年]] - [[梨羽侑里]]、[[声優]]
* 1957年 - [[飯島三智]]、実業家
* [[1958年]] - [[かとうかず子]]、女優
* 1958年 - [[高塚哲広]]、[[気象予報士]]
* [[1959年]] - [[稲田朋美]]、政治家、弁護士
* 1959年 - [[ビル・ガリクソン]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[モロ師岡]]、俳優
* [[1960年]] - [[河森正治]]、[[アニメ監督]]、[[メカニックデザイン|メカニックデザイナー]]
* 1960年 - [[ビクトル・メサ]]、[[野球選手]]
* [[1961年]] - [[紅理子 (歌手)|紅理子]]、歌手
* [[1962年]] - [[真島昌利]]、[[ミュージシャン]]、[[ギタリスト]]([[THE BLUE HEARTS]]、[[THE HIGH-LOWS]]、[[ザ・クロマニヨンズ]])
* 1962年 - [[中島めぐみ (女優)|中島めぐみ]]、元タレント、元歌手
* [[1963年]] - [[イアン・ブラウン]]、ミュージシャン
* 1963年 - [[チャールズ・バークレー]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]]
* 1963年 - [[山越吉洋]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[清水ちなみ]]、[[コラムニスト]]
* 1963年 - [[崔永元]]、アナウンサー
* [[1964年]] - [[遊佐未森]]、シンガーソングライター
* [[1966年]] - [[シンディ・クロフォード]]、[[スーパーモデル]]、女優
* 1966年 - [[春日富士晃大]]、元大相撲力士
* [[1967年]] - [[カート・コバーン]]、[[ミュージシャン]]、[[ギタリスト]](+ [[1994年]])
* 1967年 - [[リリ・テイラー]]、女優
* 1967年 - [[田中ウルヴェ京]]、元[[アーティスティックスイミング]]選手
* [[1968年]] - [[いしのようこ]]、女優
* [[1969年]] - [[外道 (プロレスラー)|外道]]、プロレスラー
* 1969年 - [[渡辺梓]]、女優
* 1969年 - [[シニシャ・ミハイロビッチ]]、元[[サッカー]]選手、指導者
* [[1970年]] - [[忰田幸也]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[ヤリ・リトマネン]]、サッカー選手
* [[1972年]] - [[シェーン・スペンサー]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[田村香織]]、元[[AV女優]]
* 1972年 - [[スティーブ・ヤンセン]]、元野球選手、野球監督
* [[1975年]] - [[リバン・ヘルナンデス]]、元プロ野球選手
* 1975年 - ブライアン・リトレル、ミュージシャン([[バックストリート・ボーイズ]])
* [[1976年]] - [[エド・グラハム]]、[[ミュージシャン]]([[ザ・ダークネス]])
* [[1978年]] - [[コーリー・スピンクス]]、プロボクサー、第20代[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界[[スーパーウェルター級]]王者
* 1978年 - [[武内健]]、声優
* 1978年 - [[窪田淳]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[ジェイ・ヘルナンデス]]、俳優
* [[1979年]] - [[森田剛]]、俳優、元歌手、元アイドル(元[[V6 (グループ)|V6]])
* 1979年 - [[黄龍義]]、野球選手
* [[1980年]] - [[アルトゥール・ボルツ]]、サッカー選手
* 1980年 - [[石田明]]、[[お笑い芸人]]([[NON STYLE]])
* 1980年 - [[井澤健]]、元俳優
* 1980年 - [[高遠るい]]、漫画家
* 1980年 - [[中村悠一]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20230819160755/https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%82%A0%E4%B8%80/ |title=中村悠一 |publisher=[[NTTドコモ|NTT DOCOMO]] |accessdate=19 Aug 2023}}</ref>、声優
* 1980年 - [[今村夏子]]、小説家
* [[1981年]] - [[aika]]、歌手
* [[1982年]] - [[小西遼生]]、俳優、声優
* 1982年 - [[小林千紘]]、野球選手、[[ゴルファー]]
* [[1983年]] - [[上村和裕]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[ジャスティン・バーランダー]]、プロ野球選手
* 1983年 - [[ホセ・モラレス (捕手)|ホセ・モラレス]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[小出恵介]]、俳優
* 1984年 - [[矢部美希]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1984年 - [[ブライアン・マッキャン]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[ユーリャ・ヴォルコヴァ]]、歌手([[t.A.T.u.]])
* 1985年 - [[夏目理緒]]、タレント、元グラビアアイドル
* 1985年 - [[小川彩佳]]、[[アナウンサー]]
* 1985年 - [[ライアン・スウィーニー]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[山下良美]]、サッカー審判員
* [[1987年]] - [[GOLF (歌手)|GOLF]]、[[歌手]]([[GOLF&MIKE]]、[[GYM]])
* 1987年 - [[休日課長]]、ミュージシャン([[ゲスの極み乙女]] 、[[DADARAY]])
* [[1988年]] - [[スペンサー・パットン]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[リアーナ]]、[[歌手]]
* [[1989年]] - [[黒田真由]]、元[[体操選手]]
* [[1989年]] - [[清田のぞみ]] [[アナウンサー]]
* [[1990年]] - [[三戸なつめ ]]、ファッションモデル、歌手、タレント
* 1990年 - [[秋場まなと]]、元俳優
* 1990年 - [[小菅晴香]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1990年 - [[関舞]]、元バレーボール選手
* 1990年 - [[チーロ・インモービレ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[レオ・ヘルナンデス]]、元プロ野球選手
* 1990年 - 三原健司、ミュージシャン([[フレデリック (バンド)|フレデリック]])
* 1990年 - 三原康司、ミュージシャン(フレデリック)
* [[1991年]] - [[セバスチアン・イヴァサキ]]、フィギュアスケート選手
* [[1992年]] - [[東弘明]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[川北麗美]]、アイドル
* [[1993年]] - [[橋本奈々未]]、元アイドル(元[[乃木坂46]])
* [[1994年]] - [[ルイス・セベリーノ]]、プロ野球選手
* 1994年 - [[大泉健斗]]、[[ニッポン放送]]アナウンサー
* [[1995年]] - 高木祥太、ミュージシャン([[BREIMEN]]、[[エドガー・サリヴァン]])
* 1995年 - [[徳永ゆうき]]、演歌歌手
* 1995年 - [[李卓]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1996年]] - [[伊藤万理華]]、女優、元アイドル(元乃木坂46)
* 1996年 - [[伊藤梨沙子]]、ファッションモデル、女優
* 1996年 - 矢野晴人、ボーカリスト、[[YouTuber]]、バンドマン([[Non Stop Rabbit]])
* 1996年 - [[河北はるな]]、AV女優
* [[1997年]] - [[焚吐]]、シンガーソングライター、ミュージシャン、歌手
* 1997年 - 藤崎ふみ、アイドル、ピアニスト([[BANZAI JAPAN]]、[[NIRA_(音楽ユニット)|NIRA]])
* 1997年 - [[野本ほたる]]、女優
* [[1998年]] - [[藤田ニコル]]、ファッションモデル、タレント
* 1998年 - [[西銘駿]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/661608/ |title=西銘駿 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]]}}</ref>、俳優
* 1998年 - [[yunocy]]、グラビアアイドル
* [[1999年]] - [[藤林泰也]]、俳優
* [[2001年]] - [[坂口有望]]、シンガーソングライター
* [[2002年]] - [[吉田莉桜]]、ファッションモデル
* 2002年 - [[玉田志織]]、モデル、女優
* [[2003年]] - [[オリヴィア・ロドリゴ]]、シンガーソングライター
* [[2004年]] - [[飯島緋梨]]、女優、ファッションモデル
* 2004年 - [[島野愛友利]]、野球選手
* [[2006年]] - 竹内希来里、アイドル([[日向坂46]])
* 生年不詳 - [[高橋久美子 (アニメーター)|高橋久美子]]、[[キャラクターデザイナー]]
* 生年不詳 - [[あえか]]、シンガーソングライター
* 生年不明 - [[小野綾子 (声優)|小野綾子]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1937年]] - [[イエリユウ]]、[[競走馬]](+ [[1941年]])
* [[1991年]] - [[ウインドインハーヘア]]、競走馬
* [[1995年]] - [[カラジ]]、競走馬
* 1995年 - [[キョウワダイキチ]]、競走馬(+ [[2005年]])
* [[1999年]] - [[ウォーエンブレム]]、競走馬
* [[2001年]] - [[エアシェイディ]]、競走馬
* [[2005年]] - [[キングスゲイトネイティヴ]]、競走馬
* [[2008年]] - [[アドマイヤラクティ]]、競走馬
* [[2009年]] - [[ジェンティルドンナ]]、競走馬
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[784年]]([[延暦]]3年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[紀吉継]]、女官、[[紀広純]]の娘
* [[1194年]] - [[タンクレーディ (シチリア王)|タンクレーディ]]、[[シチリア王国|シチリア王]](* [[1139年]])
* [[1431年]] - [[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1368年]])
* [[1513年]] - [[ハンス (デンマーク王)|ハンス]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[1455年]])
* [[1618年]] - [[フィリップス・ウィレム (オラニエ公)|フィリップス・ヴィレム]]、[[オランジュ|オラニエ公]](* [[1554年]])
* [[1626年]] - [[ジョン・ダウランド]]、[[作曲家]](* [[1563年]])
* [[1762年]] - [[トビアス・マイヤー]]<ref>{{Cite web |title=Johann Tobias Mayer {{!}} German astronomer |url=https://www.britannica.com/biography/Johann-Tobias-Mayer |access-date=19 Aug 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[天文学者]](* [[1723年]])
* [[1773年]] - [[カルロ・エマヌエーレ3世]]<ref>{{Cite web |title=Charles Emmanuel III {{!}} king of Sardinia-Piedmont |url=https://www.britannica.com/biography/Charles-Emmanuel-III |access-date=19 Aug 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]](* [[1701年]])
* [[1778年]] - [[ラウラ・バッシ]]、[[物理学者]](* [[1711年]])
* [[1790年]] - [[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1741年]])
* [[1861年]] - [[ウジェーヌ・スクリーブ]]、[[劇作家]]、[[小説家]](* [[1791年]])
* [[1862年]] - [[ウィリー・リンカーン]]、[[エイブラハム・リンカーン]]の三男(* [[1850年]])
* [[1890年]] - [[P・G・T・ボーリガード]]、[[アメリカ連合国|南軍]]の[[大将]](* [[1818年]])
* [[1895年]] - [[フレデリック・ダグラス]]、奴隷解放運動家(* [[1818年]])
* [[1907年]] - [[アンリ・モアッサン]]、[[化学者]](* [[1852年]])
* [[1909年]] - [[ポール・ランソン]]、[[画家]](* [[1864年]])
* [[1915年]] - [[岩村通俊]]、官僚、政治家(* [[1840年]])
* [[1916年]] - [[ポントゥス・アルノルドソン]]、ジャーナリスト、政治家(* [[1844年]])
* [[1919年]] - [[村山槐多]]、[[洋画家]](* [[1896年]])
* [[1920年]] - [[ロバート・ピアリー]]、探検家(* [[1856年]])
* 1920年 - [[ジャシンタ・マルト]]、[[福者]](* [[1910年]])
* [[1933年]] - [[小林多喜二]]、[[小説家]](* [[1903年]])
* [[1947年]] - [[林古渓]]、[[歌人]]、[[作詞家]]、漢文学者(* [[1875年]])
* [[1952年]] - [[高田保]]、[[劇作家]]、[[随筆家]](* [[1895年]])
* [[1954年]] - [[セイディー・マクマホン]]、プロ野球選手(* [[1867年]])
* [[1960年]] - [[レオナード・ウーリー]]、[[考古学|考古学者]](* [[1880年]])
* [[1961年]] - [[パーシー・グレインジャー]]、[[作曲家]](* [[1882年]])
* [[1962年]] - [[鳥井信治郎]]、[[サントリー]]創業者(* [[1879年]])
* [[1963年]] - [[フェレンツ・フリッチャイ]]、[[指揮者]](* [[1914年]])
* [[1966年]] - [[チェスター・ニミッツ]]、[[アメリカ海軍]]の[[元帥]](* [[1885年]])
* [[1969年]] - [[エルネスト・アンセルメ]]、指揮者(* [[1883年]])
* [[1972年]] - [[マリア・ゲッパート=メイヤー]]、[[物理学者]](* [[1906年]])
* [[1973年]] - [[棚橋小虎]]、[[労働運動|労働運動家]]、[[政治家]](* [[1889年]])
* [[1976年]] - [[レネ・カサン]]、[[法学者]]、「[[世界人権宣言]]」起草者(* [[1887年]])
* [[1985年]] - [[中野好夫]]、[[イギリス文学者|英文学者]]、[[評論家]](* [[1903年]])
* [[1988年]] - [[ボブ・オファレル]]、プロ野球選手(* [[1896年]])
* [[1991年]] - [[賀原夏子]]、[[俳優|女優]](* [[1921年]])
* [[1993年]] - [[フェルッチオ・ランボルギーニ]]、実業家、[[ランボルギーニ]]設立(* [[1916年]])
* [[1994年]] - [[大和田夏希]]、[[漫画家]](* [[1953年]])
* [[1996年]] - [[武満徹]]、[[作曲家]](* [[1930年]])
* [[1999年]] - {{仮リンク|マッキー・フェアリー|en|Mackey Feary}}、[[歌手]](元[[カラパナ]])(* [[1955年]])
* [[2003年]] - [[エディ・トムソン]]、元[[サッカー]]監督(* [[1947年]])
* [[2004年]] - [[山中貞則]]、[[政治家]](* [[1921年]])
* [[2006年]] - [[角田達郎]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20060220000359 |title=角田達郎氏死去/元JR西日本社長 |publisher=[[四国新聞社]] |date=20 Feb 2006 |accessdate=19 Aug 2023}}</ref>、[[西日本旅客鉄道]]初代社長(* [[1928年]])
* [[2014年]] - [[榊米一郎]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2404W_V20C14A2CC0000/|title=榊米一郎氏が死去 豊橋技術科学大初代学長 |publisher=[[日本経済新聞]]|date=25 Feb 2014|accessdate=19 Aug 2023}}</ref>、[[工学者]](* [[1913年]])
* [[2021年]] - [[安田猛 (野球)|安田猛]]、元プロ野球選手(* [[1947年]])
* [[2022年]] - [[西郷輝彦]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202202210000350.html|title=西郷輝彦さんが前立腺がんで死去、75歳 「星のフラメンコ」 橋幸夫、舟木一夫と「御三家」|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=21 Feb 2022|accessdate=19 Aug 2023}}</ref>、俳優、歌手 (* [[1947年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2009年]] - [[ソックス (猫)|ソックス]]、[[ビル・クリントン]]元[[アメリカ合衆国大統領]]が在任中に一家で[[ホワイトハウス]]にて飼っていた猫(推定年齢18歳)
== 記念日・年中行事 ==
* [[世界社会正義の日]]({{World}})
*: [[2007年]]の[[国連総会決議]]で制定され、[[2009年]]から実施された[[国際デー]]。[[貧困]]削減や、[[国際労働機関]]の定める労働者の権利の促進を目的に制定。
* [[旅券]]の日({{JPN}})
*: [[1878年]]のこの日、[[外務省]]布達第1号「海外旅券規則」で「旅券」という用語が初めて使用されたことにちなみ、外務省が[[1998年]]に制定<ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=37}}</ref>。
* [[アレルギーの日]]({{JPN}})
*: 日本アレルギー協会が[[1995年]]に制定。[[1966年]]のこの日、免疫学者の[[石坂公成]]・照子夫妻が、[[ブタクサ]]による[[花粉症]]の研究からアレルギーを起こす原因となる[[免疫グロブリンE]]を発見したことを発表した<ref name="kondo1999"/><ref>{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=25}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=32}}</ref>。
* [[交通事故]]死ゼロを目指す日({{JPN}})
*: 日本政府が生活安心プロジェクトの一環として[[2008年]]から実施。2月20日と、春・秋の[[全国交通安全運動]]の期間中の[[4月10日]]・[[9月30日]]。
* [[歌舞伎]]の日({{JPN}})
*: [[慶長]]12年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]](旧暦)、[[出雲阿国]]が[[江戸城]]において将軍[[徳川家康]]や諸大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露したことにちなむ<ref>{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=59}}</ref><ref name="kase2009"/>。
* [[愛媛県]]政発足記念日({{JPN}})
*: 1873年のこの日に[[石鉄県]]と[[神山県]]が合併して愛媛県が誕生したことに由来。1973年に最初の記念行事が行われ、「[[愛媛県章]]」(1989年のデザイン変更に伴い廃止)と[[都道府県民歌|県民歌]]「[[愛媛の歌]]」が制定された<ref name="kase2009"/><ref>{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=26}}</ref>。
* 夫婦円満の日({{JPN}})
*: 「こいまろ茶」を飲んで夫婦の絆を深め、日本の夫婦に円満になってもらいたいという願いから、こいまろ茶を販売する[[京都府]][[宇治市]]の株式会社宇治田原製茶場が制定。日付は2と20で「ふう(2)ふ(2)円満(0)」の語呂合わせから。
* 湯の花祭り({{JPN}})
*: [[千葉県]][[市川市]]の白幡天神社で毎年この日に行なわれる神事。大釜に煮えたぎらせた熱湯を、宮司が[[クマザサ|熊笹]]の大束で参詣者に振りかけ、1年間の無病息災を願う。神事の後熊笹は参詣者によって持ち帰られ、一年間大切に祀られ、翌年の『湯の花祭り』で大釜の湯を沸かす火にくべられる。祭りでは、地元の女性たちによって、里芋の田楽や甘酒が参詣者にふるまわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shirahatatenjinsya.com/%E6%B9%AF%E3%81%AE%E8%8A%B1%E7%A5%AD%E3%82%8A/ |title=湯の花祭り(毎年2月20日) |access-date=19 Aug 2023 |publisher=白幡天神社}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0220|date=Aug 2023}}
* 1947年(昭和22年)- 椿英輔[[子爵]]が天銀堂事件の容疑をかけられ[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の取調べを受ける。椿美禰子は[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代|ウィルヘルム・マイステル]]を読了し書庫にしまう。(小説『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』<ref>第3章と第13章で美禰子が[[金田一耕助]]に語る。</ref>)
* 1997年 - オウルイマジンが現れる。電王ガンフォームに倒される。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
* 2011年 - 並行世界を研究している五色田功・美都子夫妻がトジテンドにさらわれ消息を絶つ。([[スーパー戦隊シリーズ]]『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』)
* 宇宙歴800年(新帝国歴002年) - 「冬バラ園の勅令」が公布され、自由惑星同盟が事実上滅亡する。(小説・アニメ『[[銀河英雄伝説]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1957年]] - ジェフリー・マクワイルド、ゲーム『[[バーチャファイター]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://vc.sega.jp/vc_vf2/w_jeffry.html |title=ジェフリー マクワイルド |access-date=19 Aug 2023 |publisher=Wii(R)バーチャルコンソール メガドライブ/マスターシステム 公式サイト・SEGA |work=バーチャファイター}}</ref>
* 1989年 - 鳩村真琴、漫画『[[僕はビートルズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=原作:藤井哲夫|author2=作画:[[かわぐちかいじ]]|authorlink2=|title=僕はビートルズ|volume=第6巻|publisher=講談社|series=モーニングKC|year=2011|page=124|isbn=978-4-06-387031-2}}</ref>
* 生年不明 - [[北島マヤ]]、漫画・アニメ『[[ガラスの仮面]]』の主人公<ref>{{Twitter status|miuchibell|1363126074570272768}}</ref>
* 生年不明 - [[シナモロール#キャラクター|モカ]]、『[[シナモロール]]』『シナモエンジェルス』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/characters/cinnamon/?relation |title=お友だち モカ |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[サンリオ]] |work=『シナモロール』}}</ref>
* 生年不明 - ケンタウルス星座のバベル、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=16 |title=ケンタウルス星座のバベル |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref>
* 生年不明 - 猟犬星座のアステリオン、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=18 |title=猟犬星座(ハウンド)のアステリオン |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref>
* 生年不明 - クマドリ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Kumadori.html |title=クマドリ |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - 小南、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref name="sha">{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2008|pages=75、173|isbn=978-4-08-874247-2}}</ref>
* 生年不明 - 弥彦、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref name="sha" />
* 生年不明 - [[リナリー・リー]]、漫画『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|year=2004|title=D.Gray-man|volume=第1巻|page=172|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=4-08-873691-5}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|page=30|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=66|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref>
* 生年不明 - ラル・ミルチ、漫画・アニメ『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|amano_akira_|700790262646222849}}</ref>
* 生年不明 - グレイ、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bclover.jp/character/ |title=黒の暴牛 グレイ |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会 |work=『ブラッククローバー』}}</ref>
* 生年不明 - 出雲阿国、漫画『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 大塚芽子、漫画・アニメ『[[山田くんと7人の魔女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yamajo_anime|567636237826007040}}</ref>
* 生年不明 - 新門紅丸、漫画・アニメ『[[炎炎ノ消防隊]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|FireForce_PR|1362778973277667336}}</ref>
* 生年不明 - 生駒みなみ、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=神のみぞ知るセカイ |date=21 Oct 2009 |publisher=[[小学館]] |page=188 |pages=188 |author=[[若木民喜]] |volume=6 |isbn=978-4-09-121788-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=若木民喜|authorlink=若木民喜|title=神のみぞ知るセカイ公式ガイドブック|year=2013|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-124451-2|page=62}}</ref>
* 生年不明 - 白石結、漫画・アニメ『[[お酒は夫婦になってから]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vap.co.jp/osakefufu-anime/character/yui.html |title=白石 結 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[クリスタルな洋介]]・[[小学館]]/「お酒は夫婦になってから」製作委員会 |work=『お酒は夫婦になってから』}}</ref>
* 生年不明 - 種村小依、漫画・アニメ『[[私に天使が舞い降りた!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://watatentv.com/chara05.html |title=種村小依 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[椋木ななつ]]・[[一迅社]]/わたてん製作委員会 |work=『私に天使が舞い降りた!』}}</ref>
* 生年不明 - ロン毛、アニメ『[[戦翼のシグルドリーヴァ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sigururi.com/chara/other/#chara_13 |title=ロン毛 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=戦翼倶楽部/909整備補給隊 |work=『戦翼のシグルドリーヴァ』}}</ref>
* 生年不明 - 私(杏子)、小説『[[博士の愛した数式]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=61623?site=nli |publisher=[[日本生命保険|ニッセイ]]基礎研究所 |title=友愛数や婚約数や社交数って知っていますか-数学の世界にも洒落た名称の概念があるんです- |date=27 May 2019 |accessdate=19 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - ロム爺、小説・アニメ『[[Re:ゼロから始める異世界生活]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|Rezero_official|1627503314085576707}}</ref>
* 生年不明 - 神室真澄、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/kamuro.html |publisher=[[MF文庫J]] [[衣笠彰梧]]・KADOKAWA刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会 |title=神室 真澄 |accessdate=19 Aug 2023 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』}}</ref>
* 生年不明 - 神岸あかり、ゲーム・アニメ『[[To Heart]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|AQUAPLUS_JP|1097873446728392712}}</ref>
* 生年不明 - 天宮静、ゲーム『[[金色のコルダ3]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|corda_official|965783063413141504}}</ref>
* 生年不明 - 江藤くるみ、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130628_183928/ |title=【ガールフレンド(仮)通信69】ふわふわポップなギタリスト 江藤くるみちゃん |date=28 Jun 2013 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |website=ファミ通App}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#箱崎星梨花|箱崎星梨花]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30027 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |title=箱崎 星梨花(はこざき せりか) |accessdate=19 Aug 2023 |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref><ref>{{Twitter status|imasml_theater|1097873446451773440}}</ref>
* 生年不明 - エヴァン、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kings-raid.com/characters/#character-2960 |title=エヴァン |publisher=Vespa Inc. |accessdate=19 Aug 2023 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=2960 |archivedate=4 Nov 2021 |work=『キングスレイド』}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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'''2月22日'''(にがつにじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から53日目にあたり、年末まであと312日([[閏年]]では313日)ある。
== できごと ==
* [[1371年]] - [[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]が[[スコットランド王国|スコットランド]]王に即位。[[ステュアート朝]]が始まる。
* [[1467年]]([[応仁]]元年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]) - [[上御霊神社]]周辺で[[御霊合戦]]が起こり、[[応仁の乱]]が始まる。
* [[1632年]] - [[ガリレオ・ガリレイ]]の『[[天文対話]]』が発刊。
* [[1689年]]([[ユリウス暦]][[2月13日]]) - [[名誉革命]]: [[イングランド王国|イングランド]][[イギリスの議会|議会]]の招請を受けた[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]と[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー]]夫妻が[[権利の章典]]を承認。
* [[1744年]] - [[オーストリア継承戦争]][[トゥーロンの海戦]]: 翌29日にかけて、南仏[[トゥーロン]]沖の[[地中海]]で、[[スペイン帝国|スペイン]]護送船団が[[グレートブリテン王国|英国]][[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]を退けた。
* [[1819年]] - [[アダムズ=オニス条約]]締結。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[スペイン]]に補償金500万ドルを支払い[[フロリダ]]の領土権を獲得。
* [[1847年]] - [[米墨戦争]]: [[ブエナ・ビスタの戦い]]が始まる。[[2月23日]]まで。
[[Image:Horace Vernet-Barricade rue Soufflot.jpg|thumb|180x180px|[[1848年革命|フランス二月革命]]はじまる。(1848年)]]
* [[1848年]] - 選挙改革宴会が政府の禁令を無視して強行、労働者・学生らのデモに発展。[[フランス]][[1848年革命|二月革命]]の始まり<ref>{{Kotobank|二月革命(フランス)}}</ref>。
* [[1853年]] - [[セントルイス・ワシントン大学]]創立。
* [[1856年]] - [[共和党 (アメリカ)|アメリカ共和党]]の第1回全国大会開催。
* [[1875年]] - [[板垣退助]]が大阪で政治団体・[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]を結成。
* [[1880年]] - [[横浜地震]]。日本における地震研究者の学会、[[日本地震学会]]が結成されるきっかけとなる。
* [[1886年]] - [[イギリス]]の『[[ザ・タイムズ]]』紙に初めて「尋ね人欄」が登場。(尋ね人欄の最初)
* [[1905年]] - [[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]が[[島根県]]に編入される。
* [[1907年]] - 前年結成の[[日本社会党 (1906)|日本社会党]]に対し結社禁止命令。
* [[1912年]] - 未成年者飲酒取締法公布。
* [[1915年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ドイツ海軍]]が[[無制限潜水艦作戦]]を開始。
* [[1918年]] - [[本多光太郎]]らが強力な永久磁石鋼「[[KS鋼]]」の特許を取得。
* [[1932年]] - [[爆弾三勇士]]: [[第一次上海事変]]で[[中華民国|中国]]軍の鉄条網突破のために3人の工兵が自爆。
* 1932年 - [[生田乃木次]]が日本軍初の空戦による敵機撃墜。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[フランクリン・ルーズベルト]]米大統領が[[ダグラス・マッカーサー]]にフィリピンからの撤退を命ずる。
* [[1943年]] - [[アメリカ海軍]]の戦艦「[[アイオワ (戦艦)|アイオワ]]」が就役。
* 1943年 - 反[[ナチス・ドイツ]]運動「[[白いバラ]]」のメンバーに対する裁判で、反逆罪により死刑判決、即日処刑。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[ウルグアイ]]が[[大日本帝国|日本]]に[[宣戦布告]]。
* [[1951年]] - [[築地八宝亭一家殺人事件]]: [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[築地]]の中華料理店「八宝亭」の一家4人が撲殺される。
* [[1953年]] - [[静岡県]][[石廊崎]]沖合で[[マルハ|大洋漁業]]所属の第11東丸が沈没。乗組員46人全員死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=90|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1958年]] - [[エジプト]]と[[シリア]]が連合協定に調印し、[[アラブ連合共和国]]が成立。
* [[1965年]] - [[北海道]][[夕張市]]の[[北炭夕張炭鉱]]第一砿でガス爆発が起こり、62人が死亡<ref>所長に懲役求刑 北炭夕張事故の論告公判「生産を優先、保安軽視」『朝日新聞』1970年(昭和45年)6月16日夕刊 3版 9面</ref>。
* [[1967年]] - [[インドネシア]]の[[スハルト]]閣僚会議議長が、[[スカルノ]]大統領の全権限委譲を発表。
* [[1971年]] - [[三里塚闘争]]: [[成田国際空港|成田空港]]建設予定地で[[成田空港予定地の代執行|第1回行政代執行]]開始。[[三里塚・芝山連合空港反対同盟|反対同盟]]と機動隊が衝突。
* [[1979年]] - [[セントルシア]]が[[イギリス]]から独立。
* [[1980年]] - [[1980年レークプラシッドオリンピック|レークプラシッドオリンピック]]の[[1980年レークプラシッドオリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]]で、[[アイスホッケーアメリカ合衆国代表|アメリカ]]がソ連を4-3で破る。([[氷上の奇跡]])
* [[1986年]] - [[フィリピン]]で[[エドゥサ革命]]が始まる。
* [[1989年]] - [[佐賀県]]の[[吉野ヶ里遺跡]]で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落を発見。
* 1989年 - 文部省[[宇宙科学研究所]]がオーロラ観測衛星「[[あけぼの (人工衛星)|あけぼの]]」を打上げ。
* [[1993年]] - 中学校での[[業者テスト|業者模擬テスト]]実施の禁止を文部省が通達。
* [[1995年]] - [[ロッキード事件]]: [[田中角栄]]の秘書官・[[榎本敏夫]]に対し[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]で有罪判決が確定。判決の中で田中角栄の5億円収受を認定する。
* [[1996年]] - [[ジャック・シラク]]仏大統領が地上発射核ミサイル基地閉鎖・戦術核ミサイル廃棄を発表。
* [[1997年]] - [[スコットランド]]の[[ロスリン研究所]]が、世界初の[[哺乳類]]の体細胞[[クローン]]である雌羊「[[ドリー (羊)|ドリー]]」の誕生を発表。
* [[1998年]] - [[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]が閉幕。
* [[1999年]] - [[NTTドコモ]]が[[iモード]]のサービスを開始。初号機は[[富士通]]製の[[mova]]F501i。
* [[2000年]] - [[東京証券取引所]]で[[ヤフー (企業)|ヤフージャパン]]が1億6790万円の最高値を記録。
* [[2001年]] - [[コロンビア邦人副社長誘拐事件]]。[[矢崎総業]]の現地合弁会社副社長が[[誘拐]]され、約2年9ヵ月後に遺体で発見。
* [[2002年]] - [[マイクロソフト]]が[[家庭用ゲーム機]]「[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]」を[[日本]]で発売。
* 2002年 - [[日本の鉄道事故 (2000年以降)#鹿児島線列車衝突事故|JR九州鹿児島本線海老津駅 - 教育大前駅間で列車衝突事故]]。
* [[2006年]] - イギリス・[[ケント州]]トンブリッジで[[イングランド銀行]]の警備会社の金庫から5300万[[スターリング・ポンド|ポンド]]の現金を強奪する事件が発生。英国犯罪史上最大の現金強盗事件。
* 2006年 - [[宇宙航空研究開発機構]]が赤外線天文衛星「[[あかり (人工衛星)|あかり]]」を打上げ。
* [[2009年]] - 『[[おくりびと]]』([[滝田洋二郎]]監督)が[[アカデミー外国語映画賞]]を<ref>{{Cite web|和書|date=22 Feb 2009 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPnTK838902320090223 |title=アカデミー賞、 「おくりびと」が外国語映画賞に |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |accessdate=28 Jun 2023}}</ref>、「[[つみきのいえ]]」([[加藤久仁生]]監督)が[[アカデミー短編アニメ賞]]を受賞する<ref>{{Cite web|和書|date=22 Feb 2009 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-36620020090223 |title=アカデミー賞、短編アニメ部門に加藤久仁生監督の「つみきのいえ」 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |accessdate=28 Jun 2023}}</ref>。
* [[2011年]] - [[ニュージーランド]]で[[カンタベリー地震 (2011年2月)|カンタベリー地震]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=24 Feb 2011 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2787309 |title=ニュージーランド地震、死者98人に |work=AFP BB News |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=28 Jun 2023}}</ref>。
* [[2014年]] - [[PlayStation 4]]が日本で発売される。
* [[2019年]] - [[宇宙探査機|小惑星探査機]][[はやぶさ2]]が[[地球近傍小惑星|小惑星]][[リュウグウ (小惑星)|リュウグウ]]への着地に成功<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/press/2019/02/20190222a_j.html |title=小惑星探査機「はやぶさ2」第1回目タッチダウン成功について |access-date=28 Jun 2023 |publisher=JAXA 宇宙航空研究開発機構 |date=22 Feb 2019}}</ref>。
* 2019年 - [[在スペイン北朝鮮大使館襲撃事件]]が発生<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/world/35134799.html |title=在スペイン北朝鮮大使館襲撃、脱北者の団体が関与認める FBIに接触 |access-date=28 Jun 2023 |publisher=CNN.co.jp |date=27 Mar 2019}}</ref>。後に[[自由朝鮮]]が犯行を認める。
* [[2022年]] - [[ロシア]]連邦下院は、[[ドネツク人民共和国]]および[[ルガンスク人民共和国]]との友好、協力、相互支援の条約を承認。
* [[2023年]] - [[警視庁]]は、2023年[[1月19日]]、[[東京都]][[狛江市]]で起きた強盗殺人事件に関与したとし、実行犯と見られる男4人を強盗殺人容疑などで逮捕した<ref>{{Cite web |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230222-OYT1T50219/ |title=狛江強盗殺人で4人逮捕、実行役と車手配役…「ルフィ」らの関与含め全容解明へ |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[讀賣新聞]]オンライン}}</ref>。
* 2023年 - [[アルシャー左旗炭鉱崩落事故]]が発生。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:George Washington dollar.jpg|thumb|204x204px|初代[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・ワシントン]](1732-1799)誕生。画像は1ドル札]]
[[Image:Baden Powell South Kensington.JPG|thumb|180px|[[ボーイスカウト]]設立者[[ロバート・ベーデン=パウエル]](1857-1941)]]
[[Image:Kyoshi Takahama.jpg|thumb|180px|「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」の俳人[[高浜虚子]](1874-1959)]]
*[[1161年]] - [[インノケンティウス3世]]、第[[176]]代[[ローマ教皇]](+ [[1216年]])
* [[1403年]] - [[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]、フランス王(+ [[1461年]])
* [[1440年]] - [[ラディスラウス・ポストゥムス]]、ハンガリー王、ボヘミア王(+ [[1457年]])
* [[1559年]]([[永禄]]2年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[伊東祐兵]]、初代[[飫肥藩|飫肥藩主]](+ [[1600年]])
* [[1714年]]([[正徳 (日本)|正徳]]4年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[分部光命]]、第6代[[大溝藩|大溝藩主]](+ [[1783年]])
* [[1732年]] - [[ジョージ・ワシントン]]、初代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1799年]])※[[グレゴリオ暦]]換算
* [[1744年]]([[寛保]]4年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[松平容頌]]、第5代[[会津藩|会津藩主]](+ [[1805年]])
* [[1785年]] - [[ジャン=シャルル・ペルティエ]]<ref>{{Cite web |title=Jean-Charles-Athanase Peltier {{!}} French physicist |url=https://www.britannica.com/biography/Jean-Charles-Athanase-Peltier |access-date=28 Jun 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[物理学者]](+ [[1845年]])
* [[1788年]] - [[アルトゥル・ショーペンハウアー]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1860年]])
* [[1796年]] - [[アドルフ・ケトレー]]、[[数学者]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[統計学|統計学者]](+ [[1874年]])
* [[1806年]] - [[アントワーヌ・ヴィールツ]]、[[画家]]、[[彫刻家]](+ [[1865年]])
* [[1810年]] - [[フレデリック・ショパン]]、[[作曲家]](+ [[1849年]])
* [[1811年]] - [[ウィリアム・バーンズ (言語学者)|ウィリアム・バーンズ]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1886年]])
* [[1817年]] - [[ニルス・ゲーゼ]]、作曲家、[[指揮者]](+ [[1890年]])
* [[1824年]] - [[ピエール・ジャンサン]]、[[天文学者]](+ [[1907年]])
* [[1839年]]([[天保]]10年1月9日) - [[松平直侯]]、第4代[[川越藩|川越藩主]](+ [[1862年]])
* [[1840年]] - [[アウグスト・ベーベル]]、[[ドイツ社会民主党]]幹部会議長(+ [[1913年]])
* [[1846年]] - [[エラ・アダイェフスカヤ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]]、[[民族音楽学]]研究家(+ [[1926年]])
* [[1857年]] - [[ロバート・ベーデン=パウエル]]、[[ボーイスカウト]]創立者(+ [[1941年]])
* 1857年 - [[ハインリヒ・ヘルツ]]、[[物理学者]](+ [[1894年]])
* [[1859年]]([[安政]]6年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[妻木頼黄]]、[[建築家]](+ [[1916年]])
* [[1862年]] - [[フルダ・ガルボルグ]]、[[作家]]、[[舞踏家]](+ [[1934年]])
* [[1863年]]([[文久]]3年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[坪井正五郎]]、[[自然人類学|自然人類学者]](+ [[1913年]])
* [[1864年]] - [[ジュール・ルナール]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[1910年]])
* [[1867年]]([[慶応]]3年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]) - [[宮武外骨]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1955年]])
* [[1869年]](明治2年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[岡田三郎助]]、[[洋画家]](+ [[1939年]])
* [[1874年]] - [[高浜虚子]]、[[俳人]](+ [[1959年]])
* 1874年 - [[ビル・クレム]]、[[メジャーリーグ]]審判(+ [[1951年]])
* [[1879年]] - [[ヨハンス・ブレンステッド]]、[[化学者]](+ [[1947年]])
* [[1881年]] - [[浜田耕作]]、[[考古学|考古学者]](+ [[1938年]])
* [[1882年]] - [[蓮沼門三]]、社会教育家(+ [[1980年]])
* [[1884年]] - [[三浦環]]、[[オペラ]][[歌手]](+ [[1946年]])
* [[1887年]] - [[松本泰]]、[[推理作家]](+ [[1939年]])
* [[1890年]] - [[日夏耿之介]]、[[詩人]]、[[イギリス文学者]](+ [[1971年]])
* 1890年 - [[ベンノ・モイセイヴィチ]]、[[ピアニスト]](+ [[1963年]])
* [[1892年]] - [[佐野学]]、[[社会主義]]運動家(+ [[1953年]])
* 1892年 - [[本告辰二]]、[[大陸浪人]](+ [[1916年]])
* [[1894年]] - [[杵屋栄左衛門]]、三味線奏者(+ [[1982年]])
* [[1900年]] - [[ルイス・ブニュエル]]、映画監督(+ [[1983年]])
* 1900年 - [[ジェームズ・シスネット]]、[[バルバドス]]の長寿の男性(+ [[2013年]])
* [[1902年]] - [[ヘルマ・サボー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1986年]])
* [[1903年]] - [[フランク・ラムゼイ (数学者)|フランク・ラムゼイ]]、[[数学者]](+ [[1930年]])
* [[1908年]] - [[ジョン・ミルズ]]、[[俳優]](+ [[2005年]])
* [[1901年]] - [[オルゴニシュタ・オルガ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1978年]])
* [[1912年]] - [[伊沢一郎]]、俳優(+ [[1995年]])
* 1912年 - [[勝田龍夫]]、[[銀行家]](+ [[1991年]])
* [[1913年]] - [[中村信一]]、[[プロ野球選手]](+ 没年不詳)
* [[1914年]] - [[レナート・ドゥルベッコ]]、[[ウイルス学|ウイルス学者]](+ [[2012年]])
* [[1918年]] - [[チャーリー・O・フィンリー]]、メジャーリーグ球団オーナー(+ [[1996年]])
* [[1919年]] - [[高品格]]、俳優(+ [[1994年]])
* [[1920年]] - [[中河美芳]]、元プロ野球選手(+ [[1944年]])
* [[1921年|1921年 -]] [[三宅宅三]]、元プロ野球選手(+ [[2006年]])
* 1921年 - [[山下元利]]、[[政治家]](+ [[1994年]])
* 1921年 - [[ジュリエッタ・マシーナ]]、女優(+ [[1994年]])
* 1921年 - [[ジャン=ベデル・ボカサ]]、[[中央アフリカの大統領|中央アフリカ大統領]]・[[皇帝]](+ [[1996年]])
* [[1925年]] - [[エドワード・ゴーリー]]、[[絵本作家]](+ [[2000年]])
* [[1927年]] - [[伊藤京子 (ソプラノ歌手)|伊藤京子]]、[[ソプラノ歌手]](+ [[2021年]])
* 1927年 - [[安田範]]、[[政治家]](+ [[2019年]]<ref name="ASAHI">{{Cite web|和書|title=安田範さん死去 |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14247335.html |website=[[朝日新聞デジタル]] |date=7 Nov 2019 |accessdate=28 Jun 2023}}</ref>)
* [[1930年]] - [[マーニ・ニクソン]]、[[オペラ]]歌手(+ [[2016年]])
* 1930年 - [[エドワード・D・ホック]]、[[推理作家]](+ [[2008年]])
* [[1932年]] - [[谷啓]]、[[俳優]]、[[コメディアン]]、[[トロンボーン]]奏者(+ [[2010年]])
* 1932年 - [[星野行男]]、政治家、[[弁護士]](+ [[2014年]])
* 1932年 - [[エドワード・ケネディ]]、政治家(+ [[2009年]])
* [[1933年]] - [[アーニー・ケイドー]]、歌手(+ [[2001年]])
* [[1934年]] - [[財津一郎]]、俳優(+ [[2023年]])
* 1934年 - [[スパーキー・アンダーソン]]、メジャーリーグ監督(+ [[2010年]])
* [[1935年]] - [[大藪春彦]]、小説家(+ [[1996年]])
* 1935年 - [[京田尚子]]、[[声優]]
* 1935年 - [[中田昌宏]]、元プロ野球選手
* [[1936年]] - [[J・マイケル・ビショップ]]、[[免疫学者]]
* 1936年 - [[沢田教一]]、[[写真家]](+ [[1970年]])
* [[1939年]] - [[吉増剛造]]、[[詩人]]
* [[1940年]] - [[ヤン・エルスター]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[政治学者]]
* [[1941年]] - [[沼田爆]]、俳優
* [[1942年]] - [[中村忠 (空手家)|中村忠]]、[[空手道|空手家]]
* 1942年 - [[加納典明]]、[[写真家]]
* [[1943年]] - [[松乃家扇鶴]]、三味線漫談家
* 1943年 - [[ホルスト・ケーラー]]、政治家、[[連邦大統領 (ドイツ)|ドイツ連邦大統領]]
* [[1944年]] - [[ジョナサン・デミ]]、[[映画監督]](+ [[2017年]])
* 1944年 - [[ロバート・カーダシアン]]、弁護士
* [[1945年]] - [[筒井頼子]]、絵本作家
* [[1946年]] - [[佐藤久美子]]、[[フィギュアスケート]]選手、コーチ
* [[1947年]] - [[吉川惣司]]、[[脚本家]]
* [[1948年]] - [[都はるみ]]、[[歌手]]
* [[1949年]] - [[ニキ・ラウダ]]、[[レーシングドライバー]] (+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|title=ニキ・ラウダ亡くなる。享年70歳 |url=https://jp.motorsport.com/f1/news/niki-lauda-passes-away-aged-70/4392741/ |date=21 May 2019 |access-date=28 Jun 2023 |publisher=motorsport.com}}</ref>)
* 1949年 - [[オルガ・モロゾワ]]、[[テニス選手]]
* 1949年 - [[浅野啓司]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[ジュリアス・アービング]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]]
* 1950年 - [[日高富明]]、歌手(元[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]])(+ [[1986年]])
* [[1951年]] - [[売野雅勇]]、[[作詞家]]
* [[1952年]] - [[イッセー尾形]]、俳優
* [[1953年]] - [[名香智子]]、[[漫画家]]
* [[1954年]] - [[うえやまとち]]、[[漫画家]]
* [[1955年]] - [[河内洋]]、元[[騎手]]、[[調教師]]
* [[1958年]] - [[遠藤桂一]]、政治家
* [[1959年]] - [[カイル・マクラクラン]]、[[俳優]]
* 1959年 - [[松木謙公]]、政治家
* [[1960年]] - [[ホッピー神山]]、ミュージシャン、[[キーボーディスト]]
* [[1961年]] - [[高崎晃]]、ミュージシャン
* [[1962年]] - [[スティーブ・アーウィン]]、タレント、動物園経営者(+ [[2006年]])
* [[1963年]] - [[ビジェイ・シン]]、[[ゴルファー]]
* [[1965年]] - [[キーレン・ファロン]]、[[騎手]]
* 1965年 - [[南海龍太郎]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[プロレスラー]]
* 1965年 - [[濱田のり子]]、女優、歌手(元[[セイントフォー]])
* [[1966年]] - [[椎名桜子]]、小説家、写真家
* [[1967年]] - [[柴田祐規子]]、アナウンサー
* 1967年 - [[飯塚昌明]]、[[作曲家]]、[[ギタリスト]]
* [[1968年]] - [[佐々木主浩]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[染谷俊]]、[[シンガーソングライター]]、ミュージシャン
* 1968年 - [[オルマリ・ロメロ]]、元野球選手
* [[1969年]] - [[古泉智浩]]、漫画家
* 1969年 - [[鈴木早智子]]、女優(元[[Wink]])
* 1969年 - [[渡瀬マキ]]、ミュージシャン([[LINDBERG|リンドバーグ]])
* 1969年 - [[菊地哲]]、ミュージシャン(元[[横須賀サーベルタイガー]]・[[CRAZE]]等)
* 1969年 - [[ブライアン・ラウドルップ]]、元サッカー選手
* [[1971年]] - [[石井恵三]]、実業家
* 1971年 - [[小桜エツコ]]、声優
* 1971年 - [[ラファエル・ガルシア]]、プロレスラー
* [[1972年]] - [[石津彩]]、声優
* 1972年 - [[菊池健一郎]]、俳優
* 1972年 - [[大暮維人]]、漫画家
* 1972年 - [[マイケル・チャン]]、元[[テニス]]選手
* [[1973年]] - [[小野寺麻理子]]、元声優
* 1973年 - [[細美武士]]、ミュージシャン
* 1973年 - [[モリナオヤ]]、ミュージシャン、[[イラストレーター]]
* [[1974年]] - [[ジェームス・ブラント]]、ミュージシャン
* 1974年 - [[陣内智則]]、[[お笑いタレント]]
* 1974年 - [[長塚京子]]、[[テニス選手]]
* 1974年 - [[久野和禎]]、実業家
* 1974年 - [[バンズラグチ・バヤルサイハン]]、実業家、外交官
* [[1975年]] - [[ドリュー・バリモア]]、女優
* 1975年 - [[武壮隆志]]、写真家
* 1975年 - [[西山哲平]]、サッカー選手
* 1975年 - [[エンジェリック乱世]]、ものまねタレント
* [[1976年]] - [[堂島孝平]]、シンガーソングライター
* 1976年 - [[フィフィ]]、タレント
* [[1977年]] - [[永田良輔]]、俳優
* 1977年 - [[宮川美保]]、声優
* 1977年 - [[永谷裕香]]、アナウンサー
* 1977年 - [[神原陽一]]、物理学者
* 1977年 - [[yuri]]、ミュージシャン([[m.o.v.e]])
* 1977年 - [[アレクサンデル・マジェタ]]、野球選手
* 1977年 - [[J・J・プッツ]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[マーチン・バルガス]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[高田保則]]、サッカー選手
* 1979年 - [[小林智仁]]、政治家
* [[1980年]] - [[克哉]]、ミュージシャン([[UVERworld]])
* 1980年 - [[野口英盛]]、元陸上選手
* [[1981年]] - [[井口祐一]]、声優
* 1981年 - [[高橋千代美]]、元女優、声優
* [[1982年]] - [[狩野英孝]]、お笑いタレント
* 1982年 - [[川野直輝]]、俳優、ミュージシャン、ドラマー
* 1982年 - [[本橋隼人]]、チューバ奏者
* 1982年 - [[中山慎也]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[スザンナ・ポイキオ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1982年 - [[ケリー・ジョンソン]]、元プロ野球選手
* [[1983年]] - [[ブライアン・ダンシング]]、プロ野球選手
* 1983年 - [[ケイシー・コッチマン]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[柴田あゆみ]]、歌手(元[[メロン記念日]])
* 1984年 - [[佐藤祐基]]、俳優
* 1984年 - [[庄司ゆうこ]]、実業家、タレント
* 1984年 - [[ブラニスラヴ・イヴァノヴィッチ]]、サッカー選手
* 1984年 - [[亜太]]、ベーシスト
* [[1985年]] - [[髙坂篤志]]、声優
* 1985年 - [[萩山竜馬]]、アメリカンフットボール選手
* [[1986年]] - [[青山敏弘]]、サッカー選手
* [[1987年]] - [[松本菜緒]]、ミュージカル俳優
* 1987年 - [[カルロス・ペゲーロ]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[セルヒオ・ロメロ]]、サッカー選手
* 1987年 - [[ハン・ヒョジュ]]、女優
* [[1988年]] - [[川崎龍一]]、元俳優
* 1988年 - [[喜山康平]]、サッカー選手
* 1988年 - [[後藤香南子]]、元[[アイドル]]
* 1988年 - [[コルビー・コヴィントン]]、総合格闘家
* 1988年 - [[五ヶ谷宏司]]、元陸上選手
* [[1989年]] - [[クリス・バシット]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[江宏傑]]、卓球選手
* [[1990年]] - [[中田祥多]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[水沼宏太]]、サッカー選手
* 1990年 - [[岸本セシル]]、モデル
* 1990年 - [[マリウス・アレクセ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ディオゴ・ヴィアナ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[タラス・ブルラク]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ペイジ・ローレンス]]、フィギュアスケート選手
* [[1991年]] - [[古性優作]]、マウンテンバイクレース選手
* 1991年 - [[渡辺未優]]、タレント
* 1991年 - [[ロビン・シェーンベリ]]、歌手
* [[1992年]] - [[福満隆貴]]、サッカー選手
* [[1993年]] - [[李昱鴻]]、元プロ野球選手
* 1993年 - [[岡野真也]]、女優
* 1993年 - [[越川友貴]]、モデル
* [[1994年]] - [[高野麻里佳]]、声優
* 1994年 - デン、お笑いタレント([[リンダカラー]])
* 1994年 - [[ナム・ジュヒョク]]、俳優
* 1994年 - [[山内優花]]、女優
* [[1996年]] - [[谷中田トキオ]]、元[[子役]]
* 1996年 - [[原風佳]]、タレント、モデル
* [[1997年]] - [[藤津摩衣]]、元子役
* 1997年 - 油布京子、アニメーター、キャラクターデザイナー
* 1997年 - [[西宮このみ]]、元AV女優
* [[2001年]] - [[横山玲奈]]、歌手([[モーニング娘。]])
* 2001年 - [[野田琴乃]]、タレント
* [[2002年]] - [[岡林勇希]]、プロ野球選手
* [[2004年]] - [[石山咲良]]、歌手([[Juice=Juice]])
* [[2005年]] - 髙橋舞、アイドル([[≒JOY]])
* 生年不明 - [[小林眞紀]]、声優
* 生年不明 - [[関山美沙紀]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.81produce.co.jp/actor_search/index.php/item?id=227 |title=関山 美沙紀 |publisher=[[81プロデュース]] |accessdate=28 Jun 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[永田昌康]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M14-0240 |title=永田 昌康 |access-date=28 Jun 2023 |publisher=株式会社 VIPタイムズ社 |website=日本タレント名鑑}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[三井好美]]、声優
* 生年不明 - [[村瀬克輝]]、声優
* 生年不明 - [[立川恵]]、漫画家
* 生年不明 - [[橋本花鳥]]、漫画家
=== 人物以外 ===
* 生年不明 - [[ぐんまちゃん]]、[[群馬県]][[マスコットキャラクター]]
== 忌日 ==
[[ファイル:武则天画像.jpg|サムネイル|248x248px|[[中国]]史上唯一の[[女帝]]、[[武則天]](623?705)没]]
[[Image:Jean-Baptiste Camille Corot - autoportrait.jpg|thumb|247x247px|画家[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]](1796-1875)没]]
[[Image:Warhol grave.jpg|thumb|180x180px|[[ポップアート]]の旗手[[アンディ・ウォーホル]](1928-1987)没。キャンベルのスープ缶が供えられた墓]]
* [[606年]] - [[サビニアヌス (ローマ教皇)|サビニアヌス]]、第64代[[ローマ教皇]]
* [[1371年]] - [[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1324年]])
* [[1512年]] - [[アメリゴ・ヴェスプッチ]]、航海者(* [[1454年]])
* [[1543年]]([[天文 (元号)|天文]]12年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[禰々]]、[[信濃国]]諏訪領主[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]の正室(* [[1528年]])
* [[1634年]]([[寛永]]11年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[稲葉正勝]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[小田原藩|小田原藩主]](* [[1597年]])
* [[1680年]]([[延宝]]8年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[太田資宗]]、元[[浜松藩|浜松藩主]](* [[1600年]])
* [[1690年]] - [[シャルル・ルブラン]]、[[画家]](* [[1619年]])
* [[1731年]] - [[フレデリクス・ルイシ]]、[[植物学者]]、[[解剖学|解剖学者]](* [[1638年]])
* [[1780年]] - [[フランチェスコ3世・デステ]]、[[モデナ]]・[[レッジョ・エミリア|レッジョ]]公(* [[1698年]])
* [[1784年]]([[天明]]4年[[閏]][[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[津軽信寧]]、第7代[[弘前藩|弘前藩主]](* [[1739年]])
* [[1797年]] - [[ミュンヒハウゼン男爵]]、[[ドイツ]]の[[貴族]](* [[1720年]])
* [[1827年]] - [[チャールズ・ウィルソン・ピール]]、[[画家]]、[[軍人]]、[[博物学|博物学者]](* [[1741年]])
* [[1832年]] - [[アセンシオ・フリア]]、画家(* [[1760年]])
* [[1875年]] - [[カミーユ・コロー]]、画家(* [[1796年]])
* 1875年 - [[チャールズ・ライエル]]、[[地質学|地質学者]](* [[1797年]])
* [[1878年]] - [[フランツ・ヒュンテン]]、[[作曲家]](* [[1792年]])
* [[1885年]] - [[ホーレス・ケプロン]]、元[[開拓使]]御雇教師頭取兼開拓顧問(* [[1804年]])
* [[1888年]] - [[ジャン・アラール]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1815年]])
* [[1890年]] - [[カール・ハインリッヒ・ブロッホ]]、画家(* [[1834年]])
* [[1898年]] - [[興宣大院君]]、[[李氏朝鮮]]の[[摂政]](* [[1820年]])
* [[1903年]] - [[フーゴー・ヴォルフ]]、[[作曲家]](* [[1860年]])
* [[1904年]] - [[レズリー・スティーヴン]]、[[文学史|文学史家]]、[[思想史家]](* [[1832年]])
* [[1913年]] - [[フェルディナン・ド・ソシュール]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](* [[1857年]])
* 1913年 - [[フランシスコ・マデロ]]、第38代[[メキシコの大統領|メキシコ大統領]](* [[1873年]])
* [[1923年]] - [[テオフィル・デルカッセ]]、元[[フランス]]外相(* [[1852年]])
* 1923年 - [[ダムディン・スフバートル]]、[[モンゴル]]の革命家(* [[1894年]])
* [[1925年]] - [[田中稲城]]、[[図書館学|図書館学者]]、[[帝国図書館]]初代館長(* [[1856年]])
* [[1938年]] - [[ミゲル・リョベート]]、[[ギタリスト]]、作曲家(* [[1878年]])
* [[1942年]] - [[シュテファン・ツヴァイク]]、[[小説家]]、[[評論家]](* [[1881年]])
* [[1943年]] - [[ハンス・ショル]]、[[白バラ抵抗運動]]のメンバー(* [[1918年]])
* 1943年 - [[ゾフィー・ショル]]、白バラ抵抗運動のメンバー(* [[1921年]])
* [[1951年]] - [[實川延若 (2代目)]]、[[歌舞伎]][[役者]](* [[1877年]])
* [[1965年]] - [[フェリックス・フランクファーター]]、[[法学者]](* [[1882年]])
* [[1967年]] - [[柳原白蓮]]、[[歌人]](* [[1885年]])
* [[1975年]] - [[ライオネル・ターティス]]、[[ヴィオリスト]](* [[1876年]])
* [[1976年]] - [[マイケル・ポランニー]]、[[物理化学|物理化学者]]、[[社会科学|社会科学者]]、[[科学哲学|科学哲学者]](* [[1891年]])
* 1976年 - [[薩摩治郎八]](バロン薩摩)、[[実業家]](* [[1901年]])
* [[1977年]] - [[宇野弘蔵]]、[[マルクス経済学|マルクス経済学者]](* [[1897年]])
* [[1980年]] - [[オスカー・ココシュカ]]、[[画家]](* [[1886年]])
* 1980年 - [[石川準十郎]]、[[国家社会主義]][[思想家]](* [[1899年]])
* [[1981年]] - [[ガイ・バトラー]]、[[陸上競技]]選手(* [[1899年]])
* [[1983年]] - [[エイドリアン・ボールト]]、[[指揮者]](* [[1889年]])
* [[1984年]] - [[門前眞佐人]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](* [[1917年]])
* [[1985年]] - [[エフレム・ジンバリスト]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1889年]])
* 1985年 - [[藤山愛一郎]]、元[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[経済企画庁長官]](* [[1897年]])
* 1985年 - [[米山正夫]]、[[作曲家]]、[[作詞家]](* [[1912年]])
* [[1987年]] - [[アンディー・ウォーホル]]、芸術家、[[画家]](* [[1928年]])
* [[1992年]] - [[三木淳]]、[[写真家]](* [[1919年]])
* [[1998年]] - [[荘司雅子]]、[[教育学者]](* [[1909年]])
* [[2000年]] - [[宮崎辰雄]]、元[[神戸市|神戸市長]](* [[1911年]])
* [[2002年]] - [[ジョナス・サヴィンビ]]、[[アンゴラ全面独立民族同盟]] (UNITA) の指導者(* [[1934年]])
* [[2003年]] - [[隅谷三喜男]]、[[経済学者]](* [[1916年]])
* [[2004年]] - [[東出剛]]、[[競輪選手]](* [[1964年]])
* [[2005年]] - [[シモーヌ・シモン]]、[[俳優|女優]](* [[1910年]])
* 2005年 - [[羽生未来]]、[[タレント]](* [[1974年]])
* 2005年 - [[イ・ウンジュ]]、女優(* [[1980年]])
* 2005年 - [[ズジスワフ・ベクシンスキー]]、画家(* [[1929年]])
* [[2007年]] - [[ロータル=ギュンター・ブーフハイム]]、小説家(* [[1918年]])
* 2007年 - [[フォンス・ラデメーカーズ]]、[[映画監督]](* [[1920年]])
* 2007年 - [[イアン・ウォレス]]、[[ドラマー]](* [[1946年]])
* [[2008年]] - [[豊永常代]]、長寿日本一であった女性(* [[1894年]])
* 2008年 - [[神田厚]]、元[[防衛庁長官]](* [[1941年]])
* 2008年 - [[山崎猛 (俳優)|山崎猛]]、俳優(* [[1944年]])
* [[2012年]] - [[北公次]]、歌手(フォーリーブス)(* [[1949年]])
* [[2013年]] - [[ヴォルフガング・サヴァリッシュ]]、[[指揮者]](* [[1923年]])
* 2013年 - [[光本幸子]]、女優(* [[1943年]])
* [[2016年]] - [[ダグラス・スローカム]]、[[撮影監督]](* [[1913年]])
* 2016年 - [[村田和人]]、[[シンガーソングライター]]、[[作曲家]](* [[1954年]])
* [[2019年]] - [[笑福亭松之助]]、[[落語家]](* [[1925年]])
* [[2020年]] - [[岸野一彦]]<ref>{{Cite web|和書| title = 岸野一彦さん、急性心不全で死去 86歳 『キン肉マン』キン肉大王役など | date = 4 Mar 2020 | url = https://www.oricon.co.jp/news/2156732/full/ |publisher-[[ORICON NEWS]] | accessdate =28 Jun 2023}}</ref>、声優(* [[1934年]])
* [[2021年]] - [[会田照夫]]、元プロ野球選手(* [[1947年]])
* [[2023年]] - [[笑福亭笑瓶]]、落語家、お笑いタレント(* [[1956年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Charline the cat and her kittens.jpg|thumb|180x180px|[[ネコ|猫]]の日]]
* [[エジプト]]の[[アブ・シンベル神殿]]の奥に陽が届く日。(年2回。もう1日は[[10月22日]])
*[[ボーイスカウト|スカウティング]]の創始者[[ロバート・ベーデン=パウエル]]とその妻[[オレブ・ベーデン=パウエル|オレブ]]の誕生日に関連する記念日
*: {{仮リンク|ワールド・シンキング・デイ|en|World Thinking Day}}({{World}})、ガールガイド・ガールスカウト世界連盟が制定し、1926年から実施された。
*: {{仮リンク|世界友情の日|en|Scouts'_Day}}({{World}})、ボーイスカウト世界会議で制定され、1965年から実施された<ref name="saito1997">{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=91}}</ref><ref name="kato1998">{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=61}}</ref><ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=38-39}}</ref><ref name="kato2006">{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=26-27}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=33}}</ref>。
*2枚目の[[名刺]]の日({{JPN}})
*: 社会人が本業以外に社会活動を行う2枚目の[[名刺]]を持つことを記念する日。象徴的な2の重なるこの日を特定非営利活動法人二枚目の名刺が記念日とした。
* [[ヘッドフォン|ヘッドホン]]の日({{JPN}})
*: ヘッドホンナビが制定。ヘッドホンは2チャンネルの出力で音楽を楽しめることから、2の重なるこの日を記念日とした<ref name="kase2009" />。
*ナマズの日 ({{JPN}})
*: [[カワスイ 川崎水族館]]が、ナマズが英語で「キャットフィッシュ」呼ばれていることにちなみ[[2022年]]に制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000033.000044842.html |title=『カワスイ「ナマズ」の日』が2月22日に認定されました!カワスイのナマズ全55種類が出馬!日本最大の「カワスイナマズ総選挙2022」が開催決定! |access-date=28 Jun 2023 |publisher=株式会社 PR TIMES |date=8 Feb 2022}}</ref>。なお、この日とは別に、「全国なまずサミット」が[[7月2日]]を「なまずの日」と定めている。
*[[EXILE THE SECOND]] DAY({{JPN}})
*: ユニット名に「SECOND」が「2」が3つ並ぶ2月22日を記念日に選んだのだという。日本記念日協会が[[2017年]]2月22日に認定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kinenbi.gr.jp/mypage/1157 |title=「EXILE THE SECOND DAY」(2月22日)の日本記念日協会の認定を受けたことが、大阪城ホール公演中にメンバーから発表され、1万2000人の観客から盛大な拍手が送られました。 |publisher=一般社団法人 日本記念日協会 |date=22 Feb 2017 |accessdate=28 Jun 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=乃木坂46、KREVA、JUJU、ドリカムも……“記念日協会”が認定したアーティストの「記念日」を探る |publisher=Real Sound|リアルサウンド |date=23 Fe b 2017 |url=https://realsound.jp/2017/02/post-11471.html |accessdate=28 Jun 2023}}</ref>。
*[[忍者の日]]({{JPN}})
*: [[滋賀県]][[甲賀市]]が[[2015年]]に制定。隣の[[三重県]][[伊賀市]]と併せて忍者の里として知られることから、数字の「2」と忍者の「にん」をかけ、日本の各地5か所でイベントが開催される<ref>{{Cite web|和書 |url=http://222.ninja-official.com/ |title=忍者の日 / NINJA DAY |access-date=28 Jun 2023 |publisher=日本忍者協議会}}</ref>。
*おでんの日({{JPN}})
*: おでんを[[新潟県|新潟]]の名物にしようと活動する「越乃おでん会」が、[[2007年]]に制定。 日付は、熱々のおでんを「ふー(2)ふー(2)ふー(2)」と息を吹きかけて食べる様子の語呂合わせから。
*[[竹島の日]]({{JPN}})
*: [[2005年]]3月16日に[[島根県議会]]が制定。[[1905年]]1月28日に竹島の島根県への編入を閣議決定し、同年2月22日に島根県知事が所属所管を明らかにする告示を行ったことに由来(明治38年島根県告示第40号)<ref name="kato2006" />。
*[[食器洗い乾燥機]]の日({{JPN}})
*: 社団法人日本電機工業会が[[1998年]]に制定。食器洗い乾燥機により食後のゆとりができ、夫婦だんらんの時間ができるとして、「夫婦(22)にっ(2)こり」の語呂合せでこの日を記念日とした<ref name="kato2006" />。
* [[猫の日]]({{JPN}})
*: 「猫の日制定委員会」が[[1987年]]に制定し、ペットフード工業会が主催。2月22日の「222」が[[ネコ|猫]]の鳴き声「ニャン・ニャン・ニャン」と読めることから<ref name="saito1997" /><ref name="kato1998" /><ref name="kondo1999" /><ref name="kato2006" /><ref name="kase2009" />。
*猫背改善の日({{JPN}})
*: 猫背改善専門スタジオ きゃっとばっくが制定。日付は、数字の「2」が猫背の人を横から見た状態と似ており、2月22日が1年で最も2が多く並ぶ日ということと、季節的にも寒く、首をすくめて猫背になりやすいことから。
*[[乃木坂46]]の日({{JPN}})
*: 乃木坂46のデビューシングル「[[ぐるぐるカーテン]]」の発売日である2012年2月22日を由来とする<ref>{{Cite web|和書 |title=7時間半完遂! 乃木坂46“3歳”記念日祝った西武ドーム全曲ライブ |website=音楽ナタリー |date=23 Feb 2015 |url=https://natalie.mu/music/news/139124 |accessdate=28 Jun 2023 |publisher=ナターシャ}}</ref>。所属事務所である乃木坂46合同会社が制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kinenbi.gr.jp/mypage/797 |title=2015年に認定登録された記念日の問い合わせ件数ランキング。1位は「乃木坂46の日」。2位はあの飲み物の記念日です。 |accessdate=28 Feb 2023 |date=2 Dec 2015 |publisher=一般社団法人 日本記念日協会}}</ref>。
*[[駅すぱあと]]の日({{JPN}})
*: 日本初の交通機関の最適な経路及び運賃情報を案内する検索ソフト「駅すぱあと」。これを開発・販売するソフトウェア会社である株式会社ヴァル研究所が制定。「駅すぱあと」が初めて発売された1988年2月22日からこの日を記念日とした。
* [[行政書士]]記念日({{JPN}})
*: [[1951年]]のこの日に[[行政書士法]]が施行されたことを記念して[[日本行政書士会連合会]]が制定<ref name="kase2009"/>。
*温泉マークの日({{JPN}})
*: [[江戸時代]]の磯部の古文書に温泉マークが記されており「日本最古の温泉記号の地」であることを知ってもらうために、[[群馬県]][[安中市]]の磯部温泉組合が制定。日付は、温泉マークの湯気が逆から見ると数字の2が3つ並んでいるように見えることと、温泉地らしい「風情」、「風景」、「風味」の頭文字である「ふ=2」を3つ並べたことから。
*[[聖徳太子#太子信仰|太子会]]({{JPN}})
*: 『[[上宮聖徳法王帝説]]』によると、推古天皇30年[[旧暦2月22日]]([[622年]][[4月8日]])に[[聖徳太子]]が[[斑鳩宮]]で薨去された(亡くなられた)。聖徳太子は、大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「[[叡福寺北古墳]]」に埋葬され<ref>{{Cite web|和書 |url=https://eifukuji-taishi.jp/about.php |title=聖徳太子御廟所 叡福寺縁起 |access-date=28 Jun 2023 |publisher=聖徳太子御廟所 上之太子 叡福寺}}</ref>、この日は各地で法会が行われる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shitennoji.or.jp/太子会-3/ |title=太子会(聖徳太子忌) |access-date=28 Jun 2023 |publisher=和宗総本山 四天王寺}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0222|date=Jun 2023}}
* [[2002年]] - スコーピオンイマジンが現れ、電王アックスフォームによって倒される。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
* [[2006年]] - 東京卍會と天竺による抗争「[[東京卍リベンジャーズ#関東事変|関東事変]]」が起きる。(漫画『[[東京卍リベンジャーズ]]』<ref>{{Cite book|和書 |author=和久井健 |authorlink=和久井健 |title=東京卍リベンジャーズ |publisher=[[講談社]] |date=2020-07-17 |isbn=978-4-06-520106-0 |url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000342939 |page=3 |volume=18}}</ref>)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0088年 - [[ティターンズ]]艦隊が壊滅し、[[グリプス戦役]]が終結。クワトロ・バジーナこと[[シャア・アズナブル]]が行方不明となる。(アニメ『[[機動戦士Ζガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[2003年]] - 日高昴、ゲーム・漫画『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author = 淺川圭司(漫画) |coauthors = [[5pb.]](原作) |year = 2012 |title = ROBOTICS;NOTES |volume = 第1巻 |page = 133 |publisher= [[マッグガーデン]] |series = [[ブレイドコミックス]] |isbn = 978-4-8000-0020-0 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |year = 2012 |title = ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams |page = 82 |publisher = [[アスキー・メディアワークス]] |isbn = 978-4-04-886756-6 }}</ref>
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]30年 - ペリシー、ゲーム『[[スターオーシャン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=39|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* [[未来世紀|F.C.10年]] - [[東方不敗マスター・アジア]]、テレビアニメ『[[機動武闘伝Gガンダム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1582139773 |title=【アニメ今日は何の日?】2月22日は『機動武闘伝Gガンダム』東方不敗 マスター・アジアの誕生日! ドモン・カッシュの師匠であり、ネオホンコン代表のガンダムファイター! |work=animateTimes |publisher=ANIMATE CORPORATION |date=22 Feb 2020 |accessdate=19 Oct 2023}}</ref>
* 生年不明 - 木幡真琴、漫画・アニメ『[[ふらいんぐうぃっち]]』の主人公<ref>{{Twitter status|flying_tv|727849905591488514}}</ref>
* 生年不明 - 西表島八重夏、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/iriomotejima_yaeka |title=沖縄 西表島 八重夏 |access-date=19 Oct 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 志摩茉莉也、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/shima_mariya |title=三重 志摩茉莉也 |access-date=19 Oct 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 光月おでん、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/character/Kozuki_Oden/index.html |title=光月 おでん |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - ラルフ・ラインハート、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1628048152010928128}}</ref>
* 生年不明 - ルル=ベル、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|year=2008|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|page=154|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=89|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref>
* 生年不明 - 山本猛虎、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=古舘春一 |authorlink=古舘春一 |year=2013 |title=ハイキュー!! |publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉 |location= |isbn=978-4-08-870555-2 |quote= |date= |volume=4巻 |page=134}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://haikyu.jp/season1/ |title=SEASON1 CHARACTER 音駒高校 山本 猛虎 |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・[[毎日放送|MBS]] |work=『ハイキュー!!』}}</ref>
* 生年不明 - エッジショット、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-18/ |title=エッジショット |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 武田尚虎、漫画・アニメ『[[オリエント (漫画)|オリエント]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|orient_pr|1495956520265265164}}</ref>
* 生年不明 - 池田華菜、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=2010|title=咲 Saki ラブじゃん♥ マホちゃんの必殺技完成!|page=100|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=ガイドブック|isbn=978-4-7575-2634-1}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://sciasta.com/characters.html |title=池田 華菜(いけだ かな) |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 平沢憂、漫画・アニメ『[[けいおん!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yone_mado|304618429225263104}}</ref>
* 生年不明 - ヒロ、漫画・アニメ『[[ひめゴト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=佃煮のりお|authorlink=佃煮のりお|year=2014|title=ひめゴト|volume=2|page=141|publisher=一迅社|isbn=978-4-7580-1368-0}}</ref>
* 生年不明 - 柿本一麻、小説『[[女子大生会計士の事件簿]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=山田真哉|authorlink=山田真哉|year=2008|title=女子大生会計士の事件簿 DX.5 とびっきり推理なバースデー|page=56|publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|isbn=978-4-04-376706-9}}</ref>
* 生年不明 - にゃん太、小説・漫画・アニメ『[[ログ・ホライズン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 桃乃今日子、アニメ『[[セイレン (アニメ)|セイレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/seiren/chara/tono_kyoko.html |title=桃乃今日子(とうのきょうこ) |publisher=[[高山箕犀]]/セイレン製作委員会 [[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television, Inc. ]] |accessdate=19 Oct 2023 |work=『セイレン』}}</ref>
* 生年不明 - 御国鷹司、アニメ『[[Butlers〜千年百年物語〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|butlers_anime|957146154810183680}}</ref>
* 生年不明 - ニャトラン、アニメ『[[ヒーリングっど♥プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=ニャトラン |url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/healingood_precure/character/chara6.php#charaarea |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[朝日放送テレビ|ABC]]-A・[[東映アニメーション]] |work=『ヒーリングっど♥プリキュア』}}</ref>
* 生年不明 - MC LION(猫澤奈々)、アニメ『[[WIXOSS DIVA(A)LIVE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|wb_anime|1496037544311492610}}</ref>
* 生年不明 - ちゃまめっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|editor=講談社|editor-link=講談社|title=Tamagotchi iD らくらく育て方ガイド|year=2010|page=44|isbn=978-4-06-364814-0}}</ref><ref>{{Cite book|和書|others=[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]、[[バンダイ]](監修)|title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|publisher=[[小学館]]|year=2011|page=24|isbn=978-4-09-751048-2}}</ref>
* 生年不明 - マロン、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=201 |title=マロン |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[コナミアミューズメント|Konami Amusement]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref>
* 生年不明 - 西崎紀子、ゲーム・アニメ『[[つよきす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.candysoft.jp/ohp/01_products/tuyokiss/chara/sub_character.html#noriko |title=西崎 紀子 |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[きゃんでぃそふと]] |work=『つよきす』}}</ref>
* 生年不明 - 村田洋平、ゲーム・アニメ『つよきす』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.candysoft.jp/ohp/01_products/tuyokiss/chara/sub_character.html#murata |title=村田 洋平 |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[きゃんでぃそふと]] |work=『つよきす』}}</ref>
* 生年不明 - 吹雪アツヤ、ゲーム・アニメ『[[イナズマイレブン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=22 Aug 2019 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=19 Oct 2023 |work=『イナズマイレブン』}}</ref>
* 生年不明 - タオカカ、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/taokaka.html |title=タオカカ |publisher= [[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |accessdate=19 Oct 2023|work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』}}</ref>
* 生年不明 - 天羽みう、ゲーム・アニメ『[[ましろ色シンフォニー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|info_palette|1495775443081121806}}</ref>
* 生年不明 - 鳥留メイ、ゲーム『[[L@ve once]]』に登場するキャラクター<ref name="Comptiq201101280">{{Cite journal |和書 |date = 2011-01 |publisher = 角川書店 |journal = [[コンプティーク]] |page = 280 }}</ref>
* 生年不明 - 鳥留メル、ゲーム『L@ve once』に登場するキャラクター<ref name="Comptiq201101280" />
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#前川みく|前川みく]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20147 |title=前川 みく(まえかわ みく) |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 猫塚みけ、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|569800419800535042}}</ref>
* 生年不明 - 神城スイ、ゲーム・映画『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|michiiharu|1363736207365005314}}</ref>
* 生年不明 - チェシャ猫、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=96&cate=name&cont=Cheshire_Cat |title=チェシャ猫 |access-date=19 Oct 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 高遠丞、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=〔冬組〕高遠 丞 |accessdate=19 Oct 2023 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=『A3!(エースリー)』}}</ref>
* 生年不明 - 阿佐田あおい、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/asada |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]]|title=阿佐田 あおい |accessdate=19 Oct 2023 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
* 生年不明 - ソルル、ゲーム『[[キラッとプリ☆チャン]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|prettyseriespr|1353153041852063745}}</ref>
* 生年不明 - ルルナ、ゲーム『キラッとプリ☆チャン』に登場するキャラクター<ref name=":0" />
* 生年不明 - 高浜虚子、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BunAl_PR|1098598293066731521}}</ref>
* 生年不明 - 神崎アーデルハイド、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/31c/kanzaki-adelheid/ |title=神崎アーデルハイド |website=『ヘブンバーンズレッド』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=19 Oct 2023}}</ref>
* 生年不明 - 三門バンリ、メディアミックス『[[PROJECT SCARD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://project-scard.com/news/0401banri/ |title=新キャラクター、バンリを公開! |access-date=19 Oct 2023 |publisher=PROJECT SCARD GoHands , [[フロンティアワークス|Frontier Works]] / Praeter-Project |work=『PROJECT SCARD』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|2|21|2|23|[[1月22日]]|[[3月22日]]|[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]|0222|2|22}}
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'''2月23日'''(にがつにじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から54日目にあたり、年末まであと311日([[閏年]]では312日)ある。
== できごと ==
[[ファイル:Lar9 philippo 001z.jpg|400px|thumb|フランス二月革命]]
[[File:Suribachi flag NYWTS edited.jpg|thumb|200px|[[1945年]]、[[硫黄島の星条旗]]]]
[[File:HST SN 1987A 20th anniversary.jpg|thumb|200px|[[1987年]]、超新星[[SN 1987A]]]]
[[Image:Shin-Meishin Expressway06.jpg|thumb|200px|[[2008年]]、[[新名神高速道路]] [[亀山ジャンクション|亀山JCT]]-[[草津田上インターチェンジ|草津田上IC]]部分開通]]
* [[990年]]([[正暦]]元年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[藤原道隆]]の娘である[[藤原定子|定子]]が[[一条天皇]]に入内{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1455年]] - [[グーテンベルク聖書]]の印刷が開始される。
* [[1660年]]([[ユリウス暦]][[2月13日]]) - [[カール11世 (スウェーデン王)|カール11世]]が[[スウェーデン]]王に即位。
* [[1623年]] - [[アンボイナ事件]]起こる。
* [[1689年]](ユリウス暦2月13日) - [[イングランド王国|イングランド]]で[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]と[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]が共に国王に即位。権利の宣言に署名し、[[名誉革命]]が終結。
* [[1778年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン|シュトイベン男爵]]が[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]に参加。
* [[1836年]] - [[テキサス革命|テキサス独立戦争]]: [[アラモの戦い]]が始まる。
* [[1848年]] - [[1848年のフランス革命]]が始まる。
* [[1852年]] - [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー]]がイギリスの33代首相に就任し、第1次ダービー内閣が発足。
* [[1886年]] - [[チャールズ・マーティン・ホール]]が[[アルミニウム]]の電気分解法([[ホール・エルー法]])を発明。
* [[1903年]] - [[キューバ]]が[[アメリカ合衆国]]に[[グァンタナモ米軍基地]]の永久租借を承認。
* [[1904年]] - [[日韓議定書]]締結。
* [[1905年]] - [[シカゴ]]で弁護士ポール・ハリスらが、後に[[ロータリークラブ]]となる相互扶助クラブの最初の会合を開く。
* [[1918年]] - [[第一次世界大戦]]で[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]へ進む[[ドイツ軍]]の侵攻に赤軍が抵抗し、[[赤軍]]が[[ドイツ帝国]]軍に初めて勝利(ソ連の陸海軍記念日)。
* [[1929年]] - 説教強盗・[[妻木松吉]]を東京で逮捕。
<!-- 確認できず * [[1932年]] - 全国一斉に婦人選挙権獲得の為の「[[婦選デー]]」運動を実施。 -->
* [[1934年]] - [[レオポルド3世 (ベルギー王)|レオポルド3世]]が[[ベルギー]]王に即位。
* [[1939年]] - [[理化学研究所]]が原子実験室を設置。
* [[1941年]] - [[グレン・シーボーグ]]らが、94番[[元素]]の[[プルトニウム]] ([[プルトニウム|<sup>238</sup>Pu]]) を世界で初めて合成。
* [[1942年]] - 税務代理士法公布。([[税理士]]記念日)
* 1942年 - [[翼賛政治体制協議会]]結成。
* [[1944年]] - [[竹槍事件]]がおこる。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]: [[硫黄島の戦い]]にて米兵が擂鉢山山頂に[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]を掲揚。([[硫黄島の星条旗]])
* 1945年 - 第二次世界大戦: [[イギリス空軍]]が[[プフォルツハイム]]を空襲、17,000人以上が死亡。
* [[1947年]] - [[国際標準化機構]](ISO)発足。
* [[1955年]] - [[東南アジア条約機構]] (SEATO) の最初の会議が開催。
* [[1956年]] - 東京中日新聞(現:[[東京中日スポーツ]])創刊。
* [[1962年]] - [[山口県]][[防府市]]の山林に東西航空の[[デ・ハビランド DH.114 ヘロン]]機が墜落。乗員3人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=158 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1964年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]の電子式座席予約システム[[マルス (システム)|MARS101]]が稼動開始。
* [[1966年]] - [[シリア]]で[[バアス党]]左派の軍事クーデターが成功。
* [[1970年]] - [[英連邦王国]]内のギアナが共和制に移行し、[[ガイアナ]]に改称。
* [[1977年]] - [[宇宙開発事業団]]が技術試験衛星「[[きく2号]]」を打上げ。日本初の[[静止衛星]]。
* [[1981年]] - スペインで[[アントニオ・テヘーロ]]がクーデターに失敗。([[23-F]])
* 1981年 - [[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]が来日。ローマ教皇として初の来日。
* [[1987年]] - [[大マゼラン雲]]内に[[超新星]][[SN 1987A]]を初観測。[[カミオカンデ]]で[[ニュートリノ]]を検出。
* [[1991年]] - [[徳仁|浩宮徳仁親王]]の[[立太子の礼]]が行われる。
* [[1994年]] - [[藤田小女姫殺害事件]]。
<!-- enによれば2月22日 * [[1997年]] - [[イギリス]]の研究所で[[クローン]]羊の開発に成功したことが判明。 -->
* [[1999年]] - [[オーストリア]]・ガルチュールで大きな雪崩が発生。 31人が死亡。
* [[2002年]] - [[コロンビア]]で[[イングリッド・ベタンクール]]が誘拐される。ベタンクールは6年半後の[[2008年]]7月2日に救出。
* [[2003年]] - [[ノラ・ジョーンズ]]が第45回[[グラミー賞]]の主要4部門を含む8部門で受賞(現地時間)。
* [[2006年]] - [[トリノオリンピック]]第14日目、女子フィギュアスケートにて[[荒川静香]]がアジア初の金メダルに輝く。
* [[2007年]] - [[鹿児島地方裁判所]]で[[志布志事件]]の被告人12名全員に無罪判決が下される。
* [[2008年]] - [[新名神高速道路]]の[[亀山JCT]] - [[草津田上インターチェンジ|草津田上IC]]49.7kmが部分開通。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Tsunyaoshi.jpg|thumb|120px|[[徳川綱吉]](1646-1709)]]
[[Image:Haendel.jpg|thumb|120px|[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]](1685-1759)]]
[[File:Liang-Qichao.jpg|thumb|120px|[[梁啓超]](1873-1929)]]
[[File:Naruhito-2008-3-editado.jpg|thumb|120px|[[徳仁]](第126代[[天皇]])(1960-)]]
[[File:Michael Dell 2010.jpg|thumb|120px|[[マイケル・デル]](1965-)]]
[[File:Dakota Fanning cropped 2009.jpg|thumb|120px|[[ダコタ・ファニング]](1994-)]]
* [[1417年]] - [[パウルス2世 (ローマ教皇)|パウルス2世]]、第211代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1471年]])
* 1417年 - [[ルートヴィヒ9世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ9世]]、[[バイエルン・ランツフート公国|下バイエルン=ランツフート公]](+ [[1479年]])
* [[1443年]] - [[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ1世]]、[[ハンガリー王]](+ [[1490年]])
* [[1583年]] - [[ジャン=バチスト・モラン]]、数学者、[[占星術|占星術師]](+ [[1656年]])
* [[1646年]]([[正保]]3年1月8日) - [[徳川綱吉]]、[[江戸幕府]]第5代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1709年]])
* [[1648年]] - [[アラベラ・チャーチル]]、[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の愛妾(+ [[1730年]])
* [[1685年]] - [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]、作曲家(+ [[1759年]])
* [[1689年]] - [[サミュエル・ベラミー]]、[[海賊]](+ [[1717年]])
* [[1744年]] - [[マイアー・アムシェル・ロートシルト]]、[[銀行家]](+ [[1812年]])
* [[1817年]] - [[ジョージ・フレデリック・ワッツ]]、[[画家]]、[[彫刻家]](+ [[1904年]])
* [[1818年]] - [[アントニオ・フォンタネージ]]、画家(+ [[1882年]])
* [[1823年]] - [[グスタフ・ナハティガル]]、[[探検家]](+ [[1885年]])
* [[1840年]] - [[カール・メンガー]]、[[経済学者]](+ [[1921年]])
* [[1842年]] - [[エドゥアルト・フォン・ハルトマン]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1906年]])
* [[1855年]] - [[モーリス・ブルームフィールド]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1928年]])
* [[1863年]] - [[フランツ・フォン・シュトゥック]]、芸術家(+ [[1928年]])
* [[1868年]] - [[W・E・B・デュボイス]]、アメリカの[[公民権運動]]指導者(+ [[1963年]])
* [[1872年]]([[明治]]5年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[平櫛田中]]、彫刻家(+ [[1979年]])
* [[1873年]] - [[アンシ]]、[[絵本作家]]、[[画家]](+ [[1951年]])
* 1873年([[清]][[同治]]12年1月26日) - [[梁啓超]]、[[政治家]]、[[ジャーナリスト]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1929年]])
* [[1876年]] - [[林銑十郎]]、政治家、第33代[[内閣総理大臣]](+ [[1943年]])
* [[1878年]] - [[カジミール・マレーヴィチ]]、[[芸術家]](+ [[1935年]])
* [[1882年]] - [[田渕豊吉]]、[[政治家]](+ [[1943年]])
* [[1883年]] - [[カール・ヤスパース]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1969年]])
* [[1884年]] - [[関操]]、[[俳優]](+ [[没年不詳]])
* 1884年 - [[カシミール・フンク]]、[[生化学|生化学者]](+ [[1967年]])
* [[1885年]] - [[内田祥三]]、[[建築家]](+ [[1972年]])
* [[1886年]] - [[三島弥彦]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]](+ [[1954年]])
* [[1889年]] - [[ヴィクター・フレミング]]、[[映画監督]](+ [[1949年]])
* [[1891年]] - [[倉田百三]]、[[劇作家]]・[[評論家]](+ [[1943年]])
* [[1892年]] - [[アグネス・スメドレー]]、ジャーナリスト(+ [[1950年]])
* [[1899年]] - [[エーリッヒ・ケストナー]]、[[作家]](+ [[1974年]])
* [[1901年]] - [[北島忠治]]、[[ラグビーユニオン]]監督(+ [[1996年]])
* 1901年 - [[エドガー・エンデ]]、[[画家]]、作家(+ [[1965年]])
* [[1904年]] - [[テレンス・フィッシャー]]、映画監督(+ [[1980年]])
* [[1905年]] - [[生方たつゑ]]、[[歌人]](+ [[2000年]])
* [[1906年]] - [[藤井丙午]]、[[実業家]]、[[財界人]](+ [[1980年]])
* [[1907年]] - [[李孝石]]、[[小説家]](+ [[1942年]])
* [[1908年]] - [[レイ・ブラウン (野球)|レイ・ブラウン]]、[[野球選手]](+ [[1965年]])
* [[1913年]] - [[青山光二]]、小説家(+ [[2008年]])
* [[1914年]] - [[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[2011年]])
* [[1915年]] - [[ポール・ティベッツ]]、[[アメリカ空軍]]将校(+ [[2007年]])
* 1915年 - [[野間宏]]、[[作家]](+ [[1991年]])
* [[1916年]] - [[小林斗盦]]、[[書家]]、[[篆刻|篆刻家]](+ [[2007年]])
* [[1920年]] - [[前川誠郎]]、[[美術史|美術史家]](+ [[2010年]])
* [[1924年]] - [[クロード・ソーテ]]、映画監督(+ [[2000年]])
* 1924年 - [[アラン・コーマック]]、[[物理学者]](+ [[1998年]])
* [[1926年]] - [[中田勝]]、[[漢学者]](+ [[2015年]])
* [[1926年]] - [[若国一男]]、元大相撲力士(+ [[1998年]])
* [[1927年]] - [[ロバート・ニーリー・ベラー]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[2013年]])
* [[1930年]] - [[志村五郎]]、[[数学者]](+ [[2019年]])
* 1930年 - [[大脇照夫]]、プロ野球選手(+ [[2013年]])
* [[1932年]] - [[永井康雄]]、元プロ野球選手
* [[1933年]] - [[白簱史朗]]、[[写真家]](+ [[2019年]])
* [[1934年]] - [[池田満寿夫]]、画家、作家(+ [[1997年]])
* 1934年 - [[安念山治]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄6代[[立浪]](+ [[2021年]])
* [[1935年]] - [[新野新]]、[[放送作家]]
* [[1936年]] - [[内海好江]]、[[漫才師]](+ [[1997年]])
* 1936年 - [[桑原和男]]、喜劇俳優(+ [[2023年]])
* [[1937年]] - [[白木万理]]、女優
* [[1940年]] - [[ピーター・フォンダ]]、俳優
* [[1941年]] - [[大宅映子]]、評論家
* 1941年 - [[矢ノ浦国満]]、元プロ野球選手
* 1941年 - [[多田護]]、アナウンサー(+ [[2017年]])
* [[1942年]] - [[的川泰宣]]、[[宇宙工学|宇宙工学者]]
* [[1943年]] - [[北大路欣也]]、俳優
* 1943年 - [[麿赤兒]]、[[舞踏家]]、俳優
* [[1944年]] - [[バーナード・コーンウェル]]、[[小説家]]
* 1944年 - [[ジョニー・ウィンター]]、[[ミュージシャン]](+ [[2014年]])
* 1944年 - [[岩井宏]]、[[ミュージシャン]](+ [[2000年]])
* [[1945年]] - [[苑田聡彦]]、元プロ野球選手
* 1945年 - [[木村皓一]]、実業家
* [[1946年]] - [[宇崎竜童]]、ミュージシャン
* [[1947年]] - [[水島藤一郎]]、[[実業家]]
* [[1948年]] - [[月亭八方]]、[[落語家]]
* [[1949年]] - [[岩沢二弓]]、[[歌手]]([[ブレッド&バター]])
* [[1950年]] - [[石塚博昭]]、実業家
* [[1951年]] - [[森重文]]、[[数学者]]
* [[1952年]] - [[中島みゆき]]、歌手
* [[1953年]] - [[中嶋悟]]、[[レーシングドライバー]]
* 1953年 - [[フレッド・クハウルア]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[もとはしまさひで]]、[[漫画家]]
* [[1954年]] - [[ヴィクトル・ユシチェンコ]]、政治家、第3代[[ウクライナの大統領|ウクライナ大統領]]
* [[1955年]] - [[斉藤明夫]]、元プロ野球選手
* 1955年 - [[新堀和男]]、俳優、[[殺陣師]]、[[アクション監督]]
* 1955年 - [[吉崎栄泰]]、[[プログラマ]]
* 1955年 - [[ハワード・ジョーンズ]]、ミュージシャン
* 1955年 - [[石田芳雄]]、元プロ野球選手
* 1955年 - [[金谷祐子]]、[[脚本家]]
* [[1956年]] - [[酒井美羽]]、漫画家
* 1956年 - [[野口五郎]]、歌手、俳優
* 1956年 - [[ブラザートム]]、ミュージシャン、お笑いタレント
* 1956年 - [[武藤浩]]、官僚
* 1956年 - [[百田尚樹]]、作家、小説家
* [[1958年]] - [[とり・みき]]、漫画家
* 1958年 - [[林マヤ]]、[[モデル (職業)|モデル]]、[[タレント]]
* 1958年 - [[若林健治]]、[[アナウンサー]]
* 1958年 - [[デヴィッド・シルヴィアン]]、ミュージシャン(元[[ジャパン (バンド)|ジャパン]])
* [[1959年]] - [[遠藤雅伸]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1959年 - [[小川美潮]]、音楽家
* [[1960年]] - [[徳仁]]、第126代[[天皇]]
* 1960年 - [[タック・ハーシー]]、[[ラジオパーソナリティ|ラジオDJ]]
* [[1963年]] - [[飯星景子]]、タレント、エッセイスト
* 1963年 - [[ロブ・コリンズ]]、ミュージシャン([[ザ・シャーラタンズ]])(+ [[1996年]])
* 1963年 - [[ボビー・ボニーヤ]]、元プロ野球選手
* [[1964年]] - [[坂本英三]]、ミュージシャン
* 1964年 - [[ジョン・ノーラム]]、[[ギタリスト]]([[ヨーロッパ (バンド)|ヨーロッパ]])
* 1964年 - [[エドガー・F・コッド]]、ソフトウェア技術者
* [[1965年]] - [[マイケル・デル]]、[[デル]]創始者
* 1965年 - [[クリスティン・デイヴィス]]、[[俳優|女優]]
* 1965年 - [[ヘレナ・スコバ]]、元[[テニス選手]]
* [[1967年]] - [[浅野哲也]]、[[サッカー選手]]、指導者
* 1967年 - [[西野七海]]、[[ニュースキャスター|キャスター]]、[[リポーター]]
* [[1968年]] - [[山本圭壱]]、[[お笑いタレント]]
* 1968年 - [[横山典弘]]、[[騎手]]
* 1968年 - [[加藤寛規]]、[[レーシングドライバー]]
* [[1969年]] - [[後藤ひろひと]]、俳優、[[脚本家]]
* 1969年 - [[小川悦司 (漫画家)|小川悦司]]、漫画家
* 1969年 - [[鬼ノ仁]]、漫画家、[[イラストレーター]]
* 1969年 - [[竹内明]]、[[TBSテレビ]]報道局記者
* 1969年 - [[宮川一彦]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[平山ユージ]]、[[フリークライミング|フリークライマー]]
* [[1970年]] - [[相田翔子]]、タレント([[Wink]])
* [[1971年]] - [[小田井涼平]]、俳優
* 1971年 - [[福岡晶]]、元プロレスラー
* [[1972年]] - [[私市淳]]、声優
* [[1974年]] - [[ステファン・ベルナディス]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1975年]] - [[永田亮子]]、声優
* 1975年 - [[佐藤麻美]]、アナウンサー
* [[1976年]] - きょうくん、お笑いタレント([[チョップリン]]、[[ザ・プラン9]])
* 1976年 - [[ケリー・マクドナルド]]、女優
* [[1977年]] - [[田中秀太]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[天野和明]]、 [[アルプス山脈|アルパイン]]クライマー
* [[1978年]] - [[杉上佐智枝]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[アナウンサー]]
* 1978年 - [[ぶんけかな]]、歌手
* 1978年 - [[本橋由香]]、女優、タレント
* [[1979年]] - [[中嶋愛]]、[[ファッションモデル]]、タレント、[[ファッションデザイナー]]
* 1979年 - [[太田有美]]、タレント、女優
* 1979年 - [[クリス・アギーラ]]、元プロ野球選手
* [[1980年]] - [[虹歩]]、[[ストリッパー一覧|ストリッパー]]
* [[1981年]] - [[中原麻衣]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=637|title=中原麻衣のアニメキャラ・最新情報まとめ|work=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-10}}</ref>、声優
* 1981年 - [[ホセ・アンヘル・ガルシア]]、[[野球選手]]
* 1981年 - [[ラファエル・ジョゼ・ボッティ・ザカリアス・セナ|ボッティ]]、サッカー選手
* 1981年 - [[ギャレス・バリー]]、サッカー選手
* 1981年 - [[インナ・コロブキナ]]、女優
* [[1982年]] - [[dorlis]]、[[歌手]]
* 1982年 - [[七園未梨]]、[[グラビアアイドル]]
* [[1983年]] - [[笹川美和]]、[[シンガーソングライター]]
* 1983年 - [[近藤春菜]]、[[お笑いタレント]]([[ハリセンボン (お笑いコンビ)|ハリセンボン]])
* 1983年 - [[黒沢ダイスケ]](96)、ギタリスト、作曲家(軌道共鳴 Orbital Resonance)
* 1983年 - [[エミリー・ブラント]]、女優
* 1983年 - [[アーメド・ホッサム|ミド]]、元サッカー選手
* 1983年 - [[コンスタンチン・メンショフ]]、フィギュアスケート選手
* [[1984年]] - YUKI、歌手([[BENNIE K]])
* 1984年 - [[岩井堂聖子]]、女優
* 1984年 - [[丸居沙矢香]]、タレント
* 1984年 - 清水誠、お笑い芸人([[キュウ]])
* [[1985年]] - [[神戸拓光]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[穐田和恵]]、歌手、タレント(元[[SDN48]])
* [[1986年]] - [[亀梨和也]]、タレント([[KAT-TUN]])
* 1986年 - 三倉茉奈、女優、タレント([[マナカナ]])
* 1986年 - 三倉佳奈、女優、タレント(マナカナ)
* 1986年 - [[相内優香]]、[[テレビ東京]][[アナウンサー]]
* 1986年 - [[ベラ・セシナ]]、新体操選手
* 1986年 - [[オーラ・スヴェンソン]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1987年]] - [[高橋徹 (野球)|高橋徹]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[梅崎司]]、サッカー選手
* 1987年 - [[臥牙丸勝]]、元大相撲力士
* 1987年 - [[潤音]]、グラビアアイドル
* 1987年 - [[東塚菜実子]]、タレント
* [[1989年]] - [[エヴァン・ベイツ]]、[[フィギュアスケート]][[アイスダンス]]選手
* 1989年 - [[中川美樹]]、グラビアアイドル
* 1989年 - [[ウィリン・ロサリオ]]、プロ野球選手
* [[1990年]] - [[藤井翼]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[美濃部ゆう]]、元体操選手
* [[1991年]] - [[森下宗]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[大沢美加]]、元AV女優
* [[1992年]] - [[コーリー・アダムソン]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[石川佳純]]、卓球選手
* 1993年 - [[村山謙太]]、陸上選手
* 1993年 - [[村山紘太]]、陸上選手
* [[1994年]] - [[ダコタ・ファニング]]、女優
* 1994年 - [[ジョー・マッカーシー (1994年生の外野手)|ジョー・マッカーシー]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[ささの堅太]]、俳優
* [[1997年]] - 近藤里奈、アイドル(元[[NMB48]])
* [[1998年]] - [[バンダリ亜砂也]]、モデル、俳優
* [[2000年]] - [[大出菜々子]]、女優
* 2000年 - [[髙松智美ムセンビ]]、陸上競技選手
* [[2001年]] - [[久間田琳加]]、ファッションモデル、女優
* 2001年 - [[前川歌音]]、女優、歌手
* [[2004年]] - [[絵森彩]]、声優([[Liella!]])、元アイドル(元[[ハコイリ♡ムスメ]])
* 2004年 - [[大西風雅]]、アイドル([[ジャニーズJr.|関西ジャニーズjr.]]、Lilかんさい)
* 2004年 - [[森本茉莉]]、アイドル([[日向坂46]])
* 2004年 - [[山口陽世]]、アイドル(日向坂46)
* [[2012年]] - [[エステル (エステルイェートランド公)|エステル]]、[[スウェーデン]]王女
* 生年不詳 - [[浅野りん]]<ref>浅野りん「4コマ劇場楽屋裏」(エニックス出版局編『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』第10巻、エニックス、1995年 {{ISBN2|4-87025-791-2}}、 57頁)。</ref>、漫画家
* 生年不明 - [[岩川拓吾]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2003年]] - [[アドマイヤムーン]]、元[[競走馬]]、[[種牡馬]]
* 2011年 - [[ワンアンドオンリー]]、競走馬
== 忌日 ==
* [[749年]]([[天平]]21年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[行基]]、[[僧正|大僧正]](* [[668年]])
* [[1442年]] - [[グムンデンのヨハネス]]、[[天文学者]]、[[数学者]]
* [[1447年]] - [[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]、第207代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1383年]])
* [[1507年]] - [[ジェンティーレ・ベリーニ]]、[[画家]](* [[1429年]])
* [[1525年]]([[大永]]5年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[実如]]、[[浄土真宗]]の[[僧]](* [[1458年]])
* [[1572年]] - [[ピエール・セルトン]]、[[作曲家]]
* [[1594年]]([[文禄]]3年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[曲直瀬道三|曲直瀬正盛(道三)]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[医師]](* [[1507年]])
* [[1632年]] - [[ジャンバティスタ・バジーレ]]、[[詩人]](* [[1575年]]?)
* [[1641年]]([[寛永]]18年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) - [[諏訪頼水]]、初代[[諏訪藩|諏訪藩主]](* [[1571年]])
* [[1704年]] - [[ゲオルク・ムッファト]]、作曲家(* [[1653年]])
* [[1717年]] - [[マグヌス・ステンボック]]、[[スウェーデン]]の[[軍人]](* [[1665年]])
* [[1730年]] - [[ベネディクトゥス13世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス13世]]、第245代ローマ教皇(* [[1649年]])
* [[1766年]] - [[スタニスワフ・レシチニスキ]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]](* [[1677年]])
* [[1792年]] - [[ジョシュア・レノルズ]]、画家(* [[1723年]])
* [[1821年]] - [[ジョン・キーツ]]、[[詩人]](* [[1795年]])
* [[1830年]] - [[ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ]]、[[画家]]、[[彫刻家]](* [[1745年]])
* [[1848年]] - [[ジョン・クィンシー・アダムズ]]、第6代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1767年]])
* [[1855年]] - [[カール・フリードリヒ・ガウス]]、[[数学者]](* [[1777年]])
* [[1857年]]([[安政]]4年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]) - [[姉小路公遂]]、[[公卿]](* [[1794年]])
* [[1897年]] - [[ヴォルデマール・バルギール]]、作曲家(* [[1828年]])
* [[1903年]] - [[フリードリヒ・グリュッツマッハー]]、[[チェリスト]](* [[1832年]])
* [[1917年]] - [[ジャン・ガストン・ダルブー]]、数学者(* [[1842年]])
* [[1918年]] - [[ゾフィー・メンター]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1846年]])
* [[1926年]] - [[淡島寒月]]、[[小説家]]、[[画家]](* [[1859年]])
* [[1933年]] - [[近藤勇五郎]]、[[剣術|剣術家]](* [[1851年]])
* [[1934年]] - [[エドワード・エルガー]]、作曲家(* [[1857年]])
* 1934年 - [[岡本連一郎]]、[[軍人]]、(* [[1878年]])
* [[1940年]] - [[市川左團次 (2代目)]]、[[歌舞伎役者]](* [[1880年]])
* [[1944年]] - [[レオ・ベークランド]]、[[化学者]](* [[1863年]])
* [[1945年]] - [[アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ]]、[[小説家]](* [[1883年]])
* [[1946年]] - [[山下奉文]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[大将]](* [[1885年]])
* [[1950年]] - [[野上豊一郎]]、[[イギリス文学者|英文学者]](* [[1883年]])
* [[1955年]] - [[ポール・クローデル]]、[[劇作家]]、[[詩人]]、[[外交官]](* [[1868年]])
* [[1958年]] - [[ユリアン・シトコヴェツキー]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1925年]])
* [[1962年]] - [[川口為之助]]、[[政治家]](* [[1881年]])
* [[1969年]] - [[サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ]]、第2代[[サウジアラビアの国王一覧|サウジアラビア国王]](* [[1902年]])
* 1969年 - [[コンスタンティン・シルヴェストリ]]、[[指揮者]](* [[1913年]])
* [[1974年]] - [[ジョージ・ファン・ビースブルック]]、天文学者(* [[1880年]])
* 1974年 - [[ウィリアム・F・ノーランド]]、[[政治家]](* [[1908年]])
* [[1975年]] - [[ハンス・ベルメール]]、画家、[[写真家]](* [[1902年]])
* [[1983年]] - [[ハーバート・ハウエルズ]]、作曲家(* [[1892年]])
* [[1984年]] - [[ウーヴェ・ヨーンゾン]]、[[小説家]](* [[1934年]])
* [[1994年]] - [[藤田小女姫]]、[[占い|占い師]](* [[1938年]])
* [[1995年]] - [[ジェイムズ・ヘリオット]]、[[著作家]]、[[獣医師]](* [[1916年]])
* [[1996年]] - [[小坂徳三郎]]、[[実業家]]、[[政治家]](* [[1916年]])
* 1996年 - [[ジョセフ・W・バー]]、第59代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1918年]])
* [[1997年]] - [[トニー・ウィリアムス]]、[[ジャズ]][[ミュージシャン]](* [[1945年]])
* [[1999年]] - [[カルロス・ハスコック]]、[[アメリカ合衆国]]の軍人、狙撃手(* [[1942年]])
* 1999年 - [[ルース・ギップス]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[オーボエ]]奏者(* [[1921年]])
* [[2000年]] - [[スタンリー・マシューズ]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]](* [[1915年]])
* [[2003年]] - [[ロバート・キング・マートン]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1910年]])
* [[2006年]] - [[ロバート・ミラー]]、[[疫学|疫学者]]
* 2006年 - [[ルナ・レオポルド]]、[[地形学|地形学者]]、[[水文学|水文学者]](* [[1915年]])
* [[2007年]] - [[鳥居滋夫]]、[[アナウンサー]](* [[1933年]])
* 2007年 - [[高森邦夫]]、アナウンサー、実業家(* [[1936年]])
* 2007年 - [[パスカル・ヨアジマナジ]]、[[チャドの首相一覧|チャド首相]](* [[1950年]])
* 2007年 - [[池田晶子 (文筆家)|池田晶子]]、文筆家(* [[1960年]])
* [[2008年]] - [[ポール・フレール]]、[[自動車評論|自動車評論家]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1917年]])
* 2008年 - [[ヤネス・ドルノウシェク]]、第2代[[スロベニアの大統領|スロベニア大統領]](* [[1950年]])
* [[2011年]] - [[堀田弥一]]、[[登山家]](* [[1909年]])
* 2011年 - [[鈴木圭一郎]]、元[[プロ野球選手]](* [[1922年]])
* [[2012年]] - [[中村雀右衛門 (4代目)|中村雀右衛門]]、[[歌舞伎役者]]、[[映画俳優]](* [[1920年]])
* 2012年 - [[田中美一]]、アマチュア野球審判員(* [[1938年]])
* [[2017年]] - [[リオン・ウェア]]、ミュージシャン(* [[1940年]])
* [[2020年]] - [[渡邉智哲]]、国内男性最高齢者(* [[1907年]])
* 2020年 - [[松島茂]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN2S6JFSN2SUCLV00F.html|title=文化放送アナウンサーの松島茂さん死去 五輪実況を担当|publisher=朝日新聞デジタル|date=2020-02-24|accessdate=2020-11-19}}</ref>、アナウンサー(* [[1972年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Mashramani-in-Guyana-2007-by-GuyaneseTavern.jpg|thumb|240px|[[ガイアナ]]の「共和国の日」]]
* [[天皇誕生日]]({{JPN}})、[[2020年]]([[令和]]2年) - :日本の[[国家の日]](ナショナル・デー)。
*: [[今上天皇]](第126代天皇[[徳仁]]:[[1960年]]〈[[昭和]]35年〉生まれ)の誕生日を祝うための[[国民の祝日]]。[[2019年]]([[平成]]31年)[[4月30日]]の天皇明仁(第125代天皇→[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])の[[譲位]]に伴い、明仁の誕生日である[[12月23日]](即ち平成時代の天皇誕生日)に代わって、2020年(令和2年)から祝日となる。
* {{仮リンク|祖国防衛の日|en|Defender of the Fatherland Day}}({{RUS}})
*: [[1918年]]の[[第一次世界大戦]]下のこの日、[[ソビエト連邦]]の[[赤軍]](→[[ソ連地上軍]]→[[ロシア陸軍]])が[[ドイツ帝国]]軍(→[[ヴァイマル共和国軍]]→[[ドイツ国防軍]]→[[ドイツ連邦軍]])に初めて勝利したことを記念。当初は赤軍の日で、[[1949年]]に[[陸軍記念日]]となり、[[ソビエト連邦の崩壊]]後の[[1991年]]に現在の名称になった。
* {{仮リンク|共和国の日 (ガイアナ)|en|Mashramani|label=共和国の日}}({{GUY}})
*: [[1970年]]のこの日、 [[英連邦王国]]内のギニアが共和制に移行し、[[ガイアナ]]に改称した。
* [[建国記念日]]({{BRN}})
* ロータリー設立記念日({{World}})
*: [[1905年]]のこの日、米国[[イリノイ州]][[シカゴ]]で弁護士[[ポール・ハリス]]と友人3人が、後に[[ロータリークラブ]]となる相互扶助クラブの最初の会合を開いた。
* [[税理士]]記念日({{JPN}})
*: [[1942年]](昭和17年)2月23日に「税理士法」の前身である「税務代理士法」が制定されたことを記念して、[[日本税理士会連合会]]が[[1969年]](昭和44年)に制定<ref>{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=91}}</ref><ref name="kato1998">{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=61}}</ref><ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=40}}</ref><ref name="kato2006">{{cite book|和書|title=記念日・祝日の事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=2006|page=27}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=32}}</ref>。
* [[富士山]]の日({{JPN}})
*: [[1996年]](平成8年)1月1日、[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大学附属高等学校]]の地理教諭[[田代博]]が運営責任者を務めるパソコン通信「[[ニフティサーブ|NIFTY-Serve]]」内のフォーラム「[http://fyamap.folomy.jp/ 山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)]」が制定<ref name="kondo1999"/><ref name="kato2006"/><ref name="kase2009"/>。その後に[[山梨県]][[南都留郡]][[河口湖町]](→[[富士河口湖町]])が[[2001年]](平成13年)12月に同様の宣言をして、[[静岡県]]も2009年(平成21年)に県条例で制定している。
* [[風呂敷|ふろしき]]の日({{JPN}})
*: 「つ(2)つ(2)み(3)」の語呂合わせで京都ふろしき会が制定<ref name="kato2006"/>。
* 工場[[夜景]]の日({{JPN}})
*: [[2011年]]2月23日に[[神奈川県]][[川崎市]]で第1回全国工場夜景サミットが実施されたことを記念して、全国工場夜景都市協議会が制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kojoyakei.info/company.php |title=組織概要・沿革|publisher=全国工場夜景都市協議会|accessdate=2019-05-12}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0223|date=2011年6月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1973年]] - ジャック・ネイロン、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ |coauthors = [[小畑健]] |year = 2006 |title = DEATH NOTE |volume = 第13巻 |page = 33 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]]|isbn = 978-4-08-874095-9 }}</ref>
* [[1988年]] - 七尾リラ、特撮『[[仮面ライダードライブ]]』に登場するキャラクター<ref>第14話より</ref>
* 生年不明 - 和久津智、ゲーム『[[るいは智を呼ぶ]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|year=2011|title=女装少年ゲーム大全 2009-2011|page=37|publisher=[[ミリオン出版]]|isbn=978-4-8130-6501-2}}</ref>
* 生年不明 - 河口湖多佳美、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/kawaguchiko_takami |title=山梨 河口湖多佳美 |access-date=2023-01-28 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - マキノ、漫画『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Makino.html |title=マキノ |access-date=2023-01-28 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#宮崎千紗希|宮崎千紗希]]、漫画・アニメ『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year=2020|title=ゆらぎ荘の幽奈さん|volume=24巻|page=128|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-882496-3}}</ref>
* 生年不明 - 三尋木咏、漫画・アニメ『[[咲-Saki-|咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=三尋木 咏(みひろぎ うた) |accessdate=2023-01-28 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref><ref>『咲-Saki-阿知賀編』[[Blu-ray Disc|BD]]第2巻特典プロ麻雀せんべいカード。</ref>
* 生年不明 - 高梨修司、漫画・アニメ『[[お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://king-cr.jp/special/oniichan/introduction/character.html |title=自己紹介 Character 高梨 修司 |access-date=2023-01-28 |publisher=[[草野紅壱]]・[[双葉社]] / お人ちゃん観察隊 [[キングレコード]] |work=『お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!』}}</ref>
* 生年不明 - 久米川牡丹、漫画・アニメ『[[あんハピ♪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://anne-happy.com/character/3 |title=久米川 牡丹(くめがわ ぼたん) |publisher=[[琴慈]]・[[芳文社]]/あんハピ製作委員会 |accessdate=2023-01-28 |work=TVアニメ「あんハピ♪」}}</ref>
* 生年不明 - 白兎屋なえ、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=2023-01-28}}</ref>
* 生年不明 - ゾーヤ、アニメ『[[アキバ冥途戦争]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://akibamaidwar.com/character/detail/?character=zoya |title=ゾーヤ |access-date=2023-01-28 |publisher=「アキバ冥途戦争」製作委員会 |work=TVアニメ『アキバ冥途戦争』}}</ref>
* 生年不明 - 増長和南、アイドルプロジェクト『[[B-PROJECT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://bpro-official.com/artists/moons/ |title=MooNs|増長 和南 |accessdate=2023-01-28 |publisher=[[MAGES.]] B-PROJECT |work=『B-PROJECT』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター SideM#天道輝|天道輝]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40034 |title=天道 輝(てんどう てる) |access-date=2023-01-28 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - イリア、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=21&cate=name&cont=Ilia |title=イリア |access-date=2023-01-28 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - ミヤ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『夢王国と眠れる100人の王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=153&cate=name&cont=Miya |title=ミヤ |access-date=2023-01-28 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - ソニア、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://kings-raid.com/characters/#character-172 |title=ソニア|publisher=『キングスレイド』|accessdate=2023-01-28|archiveurl= https://web.archive.org/web/20200617125231/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=172 |archivedate=2020-06-17}}</ref>
* 生年不明 - アリシア シャーロット、ゲーム・アニメ『[[アイカツフレンズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aikatsu.net/aikatsufriends_02/character/alicia.html |title=アリシア シャーロット |access-date=2023-01-28 |publisher=BNP/BANDAI, DENTSU, TV TOKYO |work=『アイカツフレンズ! 』}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:23 February}}
{{新暦365日|2|22|2|24|[[1月23日]]|[[3月23日]]|[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]|0223|2|23}}
{{1年の月と日}} | 2003-02-15T12:41:43Z | 2023-12-29T00:46:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8823%E6%97%A5 |
1,796 | 2月25日 | 2月25日(にがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から56日目にあたり、年末まであと309日(閏年では310日)ある。 | [
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'''2月25日'''(にがつにじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から56日目にあたり、年末まであと309日([[閏年]]では310日)ある。
== できごと ==
[[Image:WLA metmuseum Sultan of Turkey Colt Dragoon revolver.png|thumb|240px|[[サミュエル・コルト]]、[[回転式拳銃|リボルバー]]の特許を取得(1836)]]
* [[50年]] - ローマ皇帝[[クラウディウス]]、[[ネロ]]を養子とし、帝位継承者とする。
* [[927年]]([[延長 (元号)|延長]]5年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[藤原忠平]]が[[延喜式]]を奏進する。
* [[1570年]] - ローマ教皇[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]がイングランド女王[[エリザベス1世]]を[[破門]]。
* [[1634年]] - [[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]が皇帝軍の将校により暗殺される。
* [[1836年]] - [[サミュエル・コルト]]が[[回転式拳銃]]の[[特許]]を取得する。
* [[1847年]] - [[アイオワ大学]]が創設される。
* [[1848年]] - [[フランス]]で、[[7月王政|七月王政]]を倒した[[1848年革命|二月革命]]によって[[フランス第二共和政|第二共和政]]が開始。
* [[1882年]] - [[偕行社]]附属遊就館が開館。
* [[1890年]] - 日本麦酒醸造会社が[[ヱビスビール]]発売。
* [[1898年]] - 大師電気鉄道(後の京浜急行電鉄)創立。
* [[1901年]] - [[J・P・モルガン]]が[[USスチール]]を創業。
* [[1912年]] - [[マリー=アデライド (ルクセンブルク大公)|マリー=アデライド]]が女性として初めて[[ルクセンブルク大公]]に即位する。
* [[1921年]] - [[グルジア民主共和国]]の首都[[トビリシ]]を[[ロシア・ソビエト社会主義共和国]]の[[赤軍]]が占領。
* [[1925年]] - 日本と[[ソビエト連邦|ソ連]]が国交を樹立。
* 1925年 - [[アラスカ]]にグレイシャーベイ国定公園(現 [[グレイシャーベイ国立公園]])を設置。
* [[1925年]] - 後の[[ロンドン海軍軍縮会議]]にて[[日本海軍]]初の重巡洋艦となる[[古鷹型重巡洋艦]]1番艦「[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]」が進水。
* [[1932年]] - [[アドルフ・ヒトラー]]が[[ドイツ]][[国籍]]を取得する。 [[暁型駆逐艦]]4番艦[[電]]が進水。
* [[1933年]] - [[アメリカ海軍]]の[[航空母艦|空母]]「[[レンジャー (CV-4)|レンジャー]]」が進水。
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]・[[冬戦争]]: [[ホンカニエミの戦い]]始まる。
* 1940年 - 第二次世界大戦: [[スウェーデン]]・[[デンマーク]]・[[ノルウェー]]の外相会談で、第二次世界大戦に対する中立を宣言。
* [[1941年]] - [[ナチス・ドイツ]]占領下の[[アムステルダム]]で市民が[[ユダヤ人]]政策に抗議する[[ゼネラル・ストライキ]]を行う。
* [[1942年]] - 第二次世界大戦: 「[[ロサンゼルスの戦い]]」。[[サンタモニカ]]上空を飛行する物体を米軍が日本軍機と誤認し対空砲火。ラジオで中継され、西海岸の住民がパニックになる。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦: 「[[フェザーストン事件]]」。[[ニュージーランド]][[北島 (ニュージーランド)|北島]]のフェザーストン捕虜収容所で発生した日本人捕虜殺傷事件。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[トルコ]]がドイツに宣戦布告。
* [[1946年]] - 日本で、[[金融緊急措置令]]に基づく[[新円切替|旧円と新円の交換]]が開始。
* [[1947年]] - [[八高線列車脱線転覆事故]]発生。
* 1947年 - [[ドイツ]]の[[プロイセン]]が廃止。
* [[1948年]] - [[チェコスロバキア]]で[[チェコスロバキア共産党|共産党]]が[[クーデター]]によって実権を掌握する([[1948年のチェコスロバキア政変|二月政変]])。
* [[1951年]] - [[ブエノスアイレス]]で第1回[[パンアメリカン競技大会]]が始まる。
* [[1956年]] - [[ソ連共産党第20回大会]]において、[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]第一書記が[[スターリン批判]]の演説を行う。
* [[1957年]] - [[岸信介]]が56代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第1次岸内閣]]が発足。
* [[1962年]] - [[東海道本線]][[鷲津駅]]構内で[[貨物列車]]が脱線。[[タンク車]]から濃硫酸が流出して[[浜名湖]]へ流入、養殖[[ノリ]]約40万枚が全滅<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=159 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1964年]] - カシアス・クレイ(後の[[モハメド・アリ]])が世界ヘビー級王者[[ソニー・リストン]]を7回[[ノックアウト|TKO]]で倒し新王者になる。
* 1964年 - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]で、[[封建制|封建的]]な土地所有制度を廃止し、全てを[[集団農場]]の所有とする。
* [[1968年]] - [[ベトナム戦争]]: [[ハミの虐殺]]。
<!-- * [[1968年]] - [[京都市]]など[[市外局番|電話市外局番]]075地域の[[市内局番]]が3桁に変更。 -->
* [[1969年]] - 日本初の駅売りタブロイド判[[夕刊紙]]『[[夕刊フジ]]』が創刊。
* 1969年 - [[テレビ大分]]設立。
* [[1971年]] - [[カナダ]]初の[[原子力発電所]]・[[ピカリング原子力発電所]]が商用発電を開始。
<!-- * [[1971年]] - [[アン・ルイス]]が[[シングル]]『白い週末』で[[歌手]]デビュー。 -->
* [[1973年]] - [[大阪ニセ夜間金庫事件]]が発生。
* <!-- 1973年 - [[桜田淳子]]がシングル『[[天使も夢みる]]』で歌手デビュー。 -->
* [[1977年]] - [[第二次世界大戦]]終結後、初めて日本が独自開発した戦闘機[[F-1 (航空機)|F-1]]の量産1号機がロールアウト。
* [[1978年]] - 映画『[[未知との遭遇]]』が日本で公開。
* [[1980年]] - [[スリナム]]で[[デシ・ボーターセ]]陸軍曹長が軍事クーデターを起こし、軍部が実権を掌握。
* [[1981年]] - 韓国で、前年に発効した[[第五共和国 (大韓民国)|第五共和国]]憲法に基づく[[1981年大韓民国大統領選挙|大統領選挙]]が行われ、[[全斗煥]]が当選。
* [[1986年]] - [[エドゥサ革命]]: [[フィリピン]]で[[コラソン・アキノ]]が大統領就任宣誓を行う。[[フェルディナンド・マルコス|マルコス]]前大統領は[[ハワイ]]に脱出。
* [[1988年]] - [[盧泰愚]]が第13代[[大韓民国|韓国]]大統領に就任。
* [[1991年]] - [[湾岸戦争]]: [[イラク]]軍が発射した[[スカッドミサイル]]が[[ダーラン]]の米軍兵舎に着弾、28名の死者が出る。
* [[1992年]] - [[ナゴルノ・カラバフ戦争]]: [[ホジャリ大虐殺]]。
* 1992年 - [[国際連合安全保障理事会]]が[[サンマリノ]]の[[国際連合]]加盟を総会に勧告する[[国際連合安全保障理事会決議744|決議]]を採択。サンマリノはのち[[3月2日]]に加盟。
* [[1993年]] - [[金泳三]]が第14代韓国大統領に就任。
* [[1994年]] - [[ヘブロン]]で[[マクペラの洞窟虐殺事件]]が起こる。
* [[1998年]] - [[金大中]]が第15代韓国大統領に就任。
* [[2003年]] - [[盧武鉉]]が第16代韓国大統領に就任。
* [[2004年]] - 行政機関、交通、報道、通信などで希望する機関に対し[[緊急地震速報]]の試験運用を開始。対象は、九州東岸から関東までの地域。
* [[2006年]] - [[世界人口]]が65億人に達する。
* [[2008年]] - [[李明博]]が第17代韓国大統領に就任。
* [[2009年]] - [[トルコ航空1951便墜落事故]]が起こる<ref>{{Cite web|和書|date=2009年2月25日 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-36685120090225 |title=トルコ航空機アムステルダムで墜落、9人が死亡=当局 |publisher=ロイター |accessdate=2018-10-14}}</ref>。
* [[2013年]] - [[朴槿恵]]が第18代韓国大統領に就任<ref>{{Cite web|和書|date=2013年2月26日 |url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/420572/1 |title=[社説]100年を見通して5年間の国政運営をしなければ |publisher=東亜日報 |accessdate=2018-10-14}}</ref>。
* [[2018年]] - [[2月9日]]から開催されていた[[平昌オリンピック]]がこの日、閉幕<ref>{{Cite web|和書|date=2018年02月26日 |url=https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=239013 |title=<平昌五輪>「韓国の美」閉幕式にサプライズ登場した韓国女優 |publisher=中央日報 |accessdate=2018-10-14}}</ref>。
* [[2019年]] - [[トヨタ自動車]]は、[[LEXUS]](レクサス)の世界累計販売台数が1000万台に達したと発表<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO41739360V20C19A2TJ2000/ レクサス販売、世界で1000万台] 日本経済新聞 朝刊(2019年2月26日) 2020年10月10日閲覧。</ref><ref>[https://www.nna.jp/news/show/1874165 レクサス世界累計販売1千万台、北米が6割超] NNA ASIA (2019年2月27日) 2020年10月10日閲覧。</ref>。
* [[2022年]] - [[ロシア]]軍は、[[ウクライナ]]の首都[[キエフ]]への侵攻開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20220225/k00/00m/030/311000c |title=ロシア軍、首都キエフの侵攻開始 北西部に侵入 英BBCなど報道|毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |accessdate=2022-03-08 }}</ref>。
* [[2023年]] - 五反田G6にて、iNTOYOUのお披露目ライブが開催された。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Renoir Self-Portrait 1910.jpg|thumb|200px|[[印象派]]の画家[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]](1841-1919)生誕。画像は自画像。]]
[[Image:Enrico Caruso VI.png|thumb|200px|20世紀最大の[[テノール]]、[[エンリコ・カルーソー]](1873-1921)生誕]]
* [[1398年]]([[洪武]]31年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[宣徳帝]]{{要出典|date=2021-02}}、[[中国]][[明|明朝]]の第5代[[皇帝]](+ [[1435年]])
* [[1638年]]([[寛永]]15年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]])- [[今出川公規]]、[[公家]](+ [[1697年]])
* [[1692年]]([[元禄]]5年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[京極高或]]、第3代[[丸亀藩|丸亀藩主]]、(+ [[1724年]])
* [[1707年]] - [[カルロ・ゴルドーニ]]、[[劇作家]](+ [[1793年]])
* [[1711年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[徳川五郎太]]、第5代[[尾張藩|尾張藩主]](+ [[1713年]])
* [[1764年]]([[宝暦]]14年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[本多忠典]]、第2代[[岡崎藩|岡崎藩主]]、(+ [[1790年]])
* [[1778年]] - [[ホセ・デ・サン・マルティン]]、軍人、[[ペルーの大統領|ペルーの国家元首]](+ [[1850年]])
* 1778年([[安永]]7年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]) - [[内藤政峻]]、第3代[[挙母藩|挙母藩主]]、(+ [[1822年]])
* [[1779年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[前田利考]]、第8代[[大聖寺藩|大聖寺藩主]](+ [[1806年]])
* [[1787年]]([[天明]]7年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[新庄直計]]、第12代[[麻生藩|麻生藩主]]、(+ [[1845年]])
* [[1800年]]([[元禄]]5年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[牧野康明]]、第7代[[小諸藩|小諸藩主]]、(+ [[1827年]])
* [[1820年]]([[文政]]3年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[板倉勝殷]]、第6代[[安中藩|安中藩主]]、(+ [[1873年]])
* [[1828年]]([[文政]]11年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[山本覚馬]]、[[会津藩|会津藩士]]、[[砲術|砲術家]](+ [[1892年]])
* [[1841年]] - [[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、画家、彫刻家(+ [[1919年]])
* [[1845年]] - [[リップ・パイク]]、[[プロ野球選手]](+ [[1893年]])
* [[1847年]]([[弘化]]4年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[野口小蘋]]、[[南画|南画家]]、[[日本画家]](+ [[1917年]])
* [[1861年]] - [[サンティアゴ・ルシニョール]]、画家(+ [[1931年]])
* [[1862年]] - [[ヘレン・バンナーマン]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1946年]])
* [[1866年]] - [[ベネデット・クローチェ]]、[[思想家]]、歴史家(+ [[1952年]])
* [[1873年]] - [[エンリコ・カルーソー]]、[[テノール]]歌手(+ [[1921年]])
* [[1877年]] - [[ノルベルト・ヨークル]]、[[アルバニア語]]学者(+ [[1942年]])
* [[1878年]] - [[松根東洋城]]、[[俳人]](+ [[1964年]])
* [[1879年]] - [[平沼亮三]]、[[実業家]]、[[政治家]](+ [[1959年]])
* [[1881年]] - [[アレクセイ・ルイコフ]]、[[革命家]]、[[政治家]](+ [[1938年]])
* [[1884年]] - [[安井武雄]]、[[建築家]](+ [[1955年]])
* [[1885年]] - [[アリス・オブ・バッテンバーグ]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]王子[[アンドレアス (ギリシャ王子)|アンドレアス]]の妃(+ [[1969年]])
* [[1888年]] - [[ジョン・フォスター・ダレス]]、[[政治家]](+ [[1959年]])
* [[1889年]] - [[ゴードン・ドブソン]]、[[物理学者]]、[[気象学者の一覧|気象学者]](+ [[1976年]])
* [[1890年]] - [[志摩清英]]、軍人(+ [[1973年]])
* 1890年 - [[マイラ・ヘス]]、[[ピアニスト]](+ [[1965年]])
* [[1892年]] - [[加藤勘十]]、政治家(+ [[1978年]])
* [[1894年]] - [[メハー・ババ]]、宗教家(+ [[1969年]])
* [[1895年]] - [[バート・ベル]]、[[アメリカンフットボール]]コーチ(+ [[1959年]])
* [[1900年]] - [[大塚敬節]]、[[医師]](+ [[1980年]])
* [[1901年]] - [[ゼッポ・マルクス]]、[[喜劇俳優]]、[[マルクス兄弟]]の五男(+ [[1979年]])
* [[1902年]] - [[正田建次郎]]、[[数学者]](+ [[1977年]])
* 1902年 - [[曾我廼家五郎八]]、[[喜劇俳優]](+ [[1998年]])
* [[1903年]] - [[ゲルハルト・シュラーダー]]、[[化学者|有機化学者]](+ [[1990年]])
* 1903年 - [[窪川鶴次郎]]、[[文芸評論家]](+ [[1974年]])
* [[1907年]] - [[市川右太衛門]]、[[俳優]](+ [[1999年]])
* [[1908年]] - [[宮川一夫]]、[[撮影技師]](+ [[1999年]])
* [[1910年]] - [[松島正幸]]、[[画家]](+ [[1999年]])
* [[1911年]] - [[伊達正男]]、元野球選手(+ [[1992年]])
* [[1913年]] - [[ゲルト・フレーベ]]、俳優(+ [[1988年]])
* 1913年 - [[内田義彦]]、[[経済学者]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1989年]])
* [[1917年]] - [[アンソニー・バージェス]]、[[小説家]](+ [[1993年]])
* 1917年 - [[茅野健一]]、プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[1918年]] - [[ボビー・リッグス]]、[[テニス選手一覧|テニス選手]](+ [[1995年]])
* [[1922年]] - [[田邊誠]]、[[政治家]](+ [[2015年]])
* [[1923年]] - [[梶原武雄]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](+ [[2009年]])
* [[1924年]] - [[黒岩重吾]]、[[小説家]](+ [[2003年]])
* [[1926年]] - [[多湖輝]]、[[心理学者]](+ [[2016年]])
* [[1927年]] - [[植木等]]、俳優、[[タレント]](+ [[2007年]])※実際の生年月日は[[1926年]][[12月25日]]
* 1927年 - [[谷村昌彦]]、俳優(+ [[2000年]])
* [[1928年]] - [[山本草二]]、国際法学者(+ [[2013年]])
* [[1930年]] - [[飯島耕一]]、[[詩人]](+ [[2013年]])
* [[1931年]] - [[島崎雪子]]、[[俳優|女優]]、[[シャンソン]]歌手
* [[1933年]] - [[ウイリー沖山]]、歌手(+ [[2020年]]<ref>{{Cite news|title=ウイリー沖山さん、老衰で亡くなっていた 87歳|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202007050000689.html|newspaper=日刊スポーツ新聞社|date=2020-7-6|accessdate=2020-12-18}}</ref><ref>[https://www.sanspo.com/article/20200706-3J3E5XBY35LVZAZIF3WJDDLYJQ/ “キング・オブ・ヨーデル”ウイリー沖山さん死去、87歳 「ひょうきん族」などでも活躍] - SANSPO.COM 2020年7月6日</ref>)
* [[1934年]] - [[ケーシー高峰]]、[[漫談|漫談家]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2019/04/10/0012228253.shtml |title=ケーシー高峰さん死去 1年前から肺気腫で闘病、85歳|accessdate=2020-11-17 |date=2019-4-10 |work=デイリースポーツ|publisher=神戸新聞社}}</ref>)
* [[1937年]] - [[エゴール・ストローエフ]]、政治家
* 1937年 - [[ボブ・シーファー]]、[[ジャーナリスト]]
* 1937年 - [[ジュラ・ジボツキー]]、[[陸上競技]]選手(+ [[2007年]])
* [[1938年]] - [[千葉吟子]]、元[[体操競技選手]]
* [[1939年]] - [[金山明博]]、[[アニメーター]]
* [[1940年]] - [[森田公一]]、[[歌手]]、[[作曲家]]
* [[1941年]] - [[鹿内孝]]、歌手、俳優
* [[1942年]] - [[カレン・グラッスル]]、女優
* [[1943年]] - [[河野ヨシユキ]]、[[歌手]]
* 1943年 - [[ジョージ・ハリスン]]、[[ミュージシャン]](+ [[2001年]])
* [[1945年]] - [[松岡利勝]]、[[政治家]](+ [[2007年]])
* 1945年 - [[山下智茂]]、高校野球指導者
* [[1946年]] - [[ジャン・トッド]]、自動車技術者
* [[1947年]] - [[エディ・トムソン]]、[[サッカー]]監督(+ [[2003年]])
* 1947年 - [[リー・エバンス]]、陸上競技選手
* 1947年 - [[ジョルジュ・ドン]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[1992年]])
* 1947年 - [[川崎燎]]、[[ジャズ]][[ギタリスト]]
* [[1949年]] - [[リック・フレアー]]、[[プロレスラー]]
* [[1950年]] - [[ニール・ジョーダン]]、[[映画監督]]
* 1950年 - [[ネストル・キルチネル]]、政治家、第55代[[アルゼンチン]]大統領
* [[1951年]] - [[近田春夫]]、[[ミュージシャン]]
* 1951年 - [[ドン・クォーリー]]、陸上競技選手
* [[1953年]] - [[キム・ヨンチョル (俳優)|キム・ヨンチョル]]、俳優
* 1953年 - [[坂田靖子]]、[[漫画家]]
* 1953年 - [[ホセ・マリア・アスナール・ロペス]]、政治家、第4代[[スペインの首相|スペイン首相]]
* [[1954年]] - [[石井苗子]]、女優、[[テレビキャスター]]
* 1954年 - [[波多野健 (プロデューサー)|波多野健]]、テレビプロデューサー
* [[1955年]] - [[赤坂尊子]]、[[保険外交員]]、元[[フードファイター]]
* [[1956年]] - [[佐藤和孝]]、ジャーナリスト
* [[1957年]] - [[吉目木晴彦]]、[[小説家]]
* [[1959年]] - [[都裕次郎]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[二宮清純]]、[[スポーツジャーナリスト]]
* 1960年 - [[あべさより]]、漫画家
* [[1961年]] - [[岡安由美子]]、女優
* [[1962年]] - [[寺脇康文]]、俳優
* 1962年 - [[ビルギット・フィッシャー]]、[[カヌー]]選手
* 1962年 - [[矢野きよ実]]、[[書家|書道家]]、[[ローカルタレント]]
* [[1963年]] - [[村山一弥]]、[[国土交通省|国土交通]][[技官]]
* [[1964年]] - [[橋本じゅん]]、俳優、声優
* 1965年 - [[重田康光]]、[[光通信 (企業)|光通信]]創業者
* 1965年 - [[栗生澤淳一]]、バレーボール選手
* 1965年 - [[シルヴィ・ギエム]]、[[バレエ]]ダンサー
* 1965年 - [[スザンナ・ラハカモ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1966年]] - [[梶原善]]、俳優
* 1966年 - [[ティア・レオーニ]]、女優
* 1966年 - [[神野三鈴]]、女優
* [[1968年]] - [[貫井徳郎]]、[[推理作家]]
* 1968年 - [[ウム・サンガレ]]、 歌手
* [[1970年]] - [[菅原加織]]、俳優(+ [[2001年]])
* [[1971年]] - [[玉木重雄]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[ダニエル・パウター]]、[[ミュージシャン]]
* 1971年 - [[ショーン・アスティン]]、俳優
* 1971年 - [[田中勝春]]、[[騎手]]
* 1971年 - [[高橋憲幸]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[中尾美穂]]、[[フリーアナウンサー]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* 1971年 - [[桂吉弥]]、落語家
* [[1972年]] - [[有野晋哉]]、お笑いタレント([[よゐこ]])
* 1972年 - [[野口裕司]]、元[[サッカー選手]]
* [[1973年]] - [[エレーヌ・ド・フジュロル]]、女優
* 1973年 - [[高野あゆ美]]、女優、タレント
* [[1974年]] - [[森久保祥太郎]]、声優
* 1974年 - [[北山たけし]]、[[演歌歌手]]
* 1974年 - [[シャノン・スチュワート]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[ドミニク・ラーブ]]、政治家
* [[1975年]] - [[千葉千恵巳]]、声優
* [[1976年]] - [[大翔山豪志]]、元大相撲力士
* 1976年 - [[フィフィ]]、タレント
* 1977年 - [[ラモン・ラミレス (左投手)|ラモン・ラミレス]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[伊与田一範]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[中澤佑二]]、元[[プロサッカー選手]]
* 1978年 - [[常田真太郎]]、ミュージシャン([[スキマスイッチ]])
* 1978年 - [[宮崎京]]、[[ファッションモデル]]、[[俳優#性別での分類|女優]]
* 1978年 - [[桜月舞]]、[[AV女優]]
* [[1981年]] - [[戸部洋子]]、[[アナウンサー]]
* 1981年 - [[朴智星]]、元サッカー選手
* [[1982年]] - [[大谷雅恵]]、歌手、女優
* 1982年 - [[野崎恵]]、元タレント
* 1982年 - [[葉川空美]]、元タレント
* 1982年 - [[阪本章史]]、[[自転車競技]]([[BMX]])選手
* 1982年 - [[中村愛 (タレント)|中村愛]]、タレント
* 1982年 - [[クリス・ベアード]]、サッカー選手
* 1982年 - [[フラビア・ペンネッタ]]、テニス選手
* [[1983年]] - [[三浦勇雄]]、[[ライトノベル]]作家
* 1983年 - [[小向杏奈]]、AV女優
* 1983年 - [[エドゥアルド・ダ・シルヴァ]]、サッカー選手
* 1983年 - [[八重樫東]]、[[プロボクサー]]
* [[1984年]] - [[安藤亜実]]、[[舞台]]女優
* 1984年 - [[松本若菜]]、女優
* 1984年 - 越智志帆、歌手([[Superfly]])
* 1984年 - [[w-shun]]、ボーカリスト
* 1984年 - [[草野華余子]]、[[シンガーソングライター]]、作詞家、作曲家
* [[1985年]] - [[YOKO (AV女優)|YOKO]]、元AV女優
* 1985年 - [[竹中愛]]、タレント
* [[1986年]] - [[手束真知子]]、歌手、タレント、元アイドル(元[[SKE48]]、元[[SDN48]])
* 1986年 - [[宮澤ケイト]]、元AV女優
* 1986年 - [[柳川洋平]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[ダニー・ソーシド]]、[[歌手]]
* 1986年 - [[エリック・コーディエ]]、元プロ野球選手
* [[1987年]] - [[アンドリュー・ポジェ]]、[[フィギュアスケート選手]]
* 1987年 - [[アンドリュー・ワーナー]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[フィル・アーウィン]]、元プロ野球選手
* [[1988年]] - [[小島由利絵]]、元タレント
* 1988年 - [[南しずか]]、AV女優
* 1988年 - [[シン・イェジ (1988年生)|シン・イェジ]]、フィギュアスケート選手
* [[1989年]] - [[花澤香菜]]<ref name="goo">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/花澤香菜/|title=花澤香菜|work=goo人名事典|accessdate=2019-10-29}}</ref>、タレント、声優、女優
* 1989年 - [[鹿沼憂妃]]、ファッションモデル
* 1989年 - [[最上もが]]、女優、元アイドル(元[[でんぱ組.inc]])
* [[1990年]] - [[金民友]]、サッカー選手
* 1990年 - [[王娜 (バレーボール)|王娜]]、バレーボール選手
* 1990年 - [[アレハンドラ・アンドレウ]]、モデル
* [[1991年]] - [[天野莉絵]]、[[ファッションモデル]]、タレント
* 1991年 - [[瀬尾有耶]]、バレーボール選手
* [[1992年]] - [[寉岡萌希]]、女優
* 1992年 - [[杉浦稔大]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[ホルヘ・ソレア]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[松山英樹]]、プロゴルファー
* [[1993年]] - [[津野彩華]]、[[バスケットボール選手]]
* 1993年 - [[金子丈]]、元プロ野球選手
* [[1994年]] - [[南のりか]]、AV女優
* 1994年 - [[ウージニー・ブシャール]]、テニス選手
* [[1995年]] - [[マリオ・ヘゾニャ]]、バスケットボール選手
* 1995年 - [[ペトル・ツォウファル]]、フィギュアスケート選手
* 1995年 - ダーマ、[[YouTuber]]([[フィッシャーズ (YouTuber)|フィッシャーズ]])
* 1995年 - [[稲葉曇]]、[[ボカロP]]
* 1995年 - [[あいきけんた]]、[[ものまねタレント]]
* [[1996年]] - [[ウルフ・アロン]]、[[柔道家]]
* [[1997年]] - [[相馬勇紀]]、サッカー選手
* 1997年 - [[クリスティーナ・アスタホワ]]、フィギュアスケート選手
* 1997年 - [[上村海成]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M12-0064 |title=上村海成 |work=日本タレント名鑑 |publisher=VIPタイムズ社 |accessdate=2021-01-22}}</ref>、俳優、モデル
* 1997年 - [[佐奈宏紀]]、俳優、モデル
* 1997年 - [[中西悠綺]]、女優、歌手(元[[Tokyo Cheer2 Party]])
* 1997年 - [[イザベル・ファーマン]]、女優
* [[1999年]] - [[ジャンルイジ・ドンナルンマ]]、サッカー選手
* 1999年 - [[一岡伶奈]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]])
* [[2000年]] - [[富田望生]]<ref name="jiji">{{Cite news|url=https://www.japanmusic.jp/talent/miu-tomita/|title=富田望生|newspaper=JAPAN MUSIC ENTERTAINMENT|accessdate=2021-04-17}}</ref>、女優
* [[2002年]] - 鈴木あんず、VRアイドル([[えのぐ]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2012年]] - [[シングウィズジョイ]]、競走馬(+ [[2017年]])
== 忌日 ==
[[Image:Paul Julius Reuter 1869.jpg|thumb|200px|通信社[[ロイター]]創業者[[ポール・ジュリアス・ロイター]](1816-1899)没]]
* [[1553年]]([[天文 (元号)|天文]]22年[[閏]]1月13日) - [[平手政秀]]、[[戦国時代 (日本)|戦国]][[武将]](* [[1492年]])
* [[1577年]] - [[エリク14世 (スウェーデン王)|エリク14世]]、[[スウェーデン]][[ヴァーサ朝]]第4代国王(* [[1533年]])
* [[1634年]] - [[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Albrecht-von-Wallenstein Albrecht von Wallenstein Bohemian military commander] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[三十年戦争]]期の[[ボヘミア]][[傭兵]]隊長(* [[1583年]])
* [[1682年]] - [[アレッサンドロ・ストラデッラ]]、[[作曲家]](* [[1644年]])
* [[1713年]] - [[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]、初代[[プロイセン国王]](* [[1657年]])
* [[1723年]] - [[クリストファー・レン]]、[[建築家]](* [[1632年]])
* [[1835年]] - [[フリードリヒ・マクシミリアン・クリンガー]]、[[作家]](* [[1752年]])
* [[1850年]]([[道光]]30年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) - [[道光帝]]、[[清]]の第8代[[皇帝]](* [[1782年]])
* [[1878年]] - [[タウンゼント・ハリス]]、[[外交官]](* [[1804年]])
* [[1899年]] - [[ポール・ジュリアス・ロイター]]、[[ロイター]]創業者(* [[1816年]])
* [[1901年]] - [[ヴォイチェフ・ゲルソン]]、[[画家]](* [[1831年]])
* [[1906年]] - [[アントン・アレンスキー]]、[[作曲家]](* [[1861年]])
* [[1912年]] - [[ギヨーム4世 (ルクセンブルク大公)|ギヨーム4世]]、[[ルクセンブルク大公]](* [[1852年]])
* [[1914年]] - [[ジョン・テニエル]]、[[イラストレーター]](* [[1820年]])
* [[1926年]] - [[オットー・ヘス (野球)|オットー・ヘス]]、[[プロ野球選手]](* [[1878年]])
* [[1934年]] - [[ジョン・マグロー]]、プロ野球選手(* [[1873年]])
* [[1947年]] - [[フリードリッヒ・パッシェン]]、[[物理学者]](* [[1865年]])
* [[1953年]] - [[斎藤茂吉]]、[[歌人]](* [[1882年]])
* 1953年 - [[桂春団治 (2代目)]]、[[落語家]](* [[1894年]])
* [[1965年]] - [[レオ・シロタ]]、[[ピアニスト]](* [[1885年]])
* [[1970年]] - [[マーク・ロスコ]]、[[画家]](* [[1903年]])
* [[1971年]] - [[テオドール・スヴェドベリ]]、[[化学者]](* [[1884年]])
* [[1979年]] - [[ハインリヒ・フォッケ]]、航空エンジニア(* [[1890年]])
* [[1982年]] - [[クリスチャン・シャド]]、画家(* [[1894年]])
* [[1983年]] - [[テネシー・ウィリアムズ]]、[[劇作家]](* [[1911年]])
* [[1993年]] - [[安房直子]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](* [[1943年]])
* [[1994年]] - [[バルバドス・ジョー・ウォルコット|ジョー・ウォルコット]]、[[プロボクサー]](* [[1914年]])
* 1994年 - [[バールーフ・ゴールドシュテイン]]、[[テロリズム|テロリスト]](* [[1956年]])
* [[1995年]] - [[城達也]]、[[声優]](* [[1931年]])
* 1995年 - [[呉振宇]]、[[軍人]](* [[1917年]])
* [[1996年]] - [[ハイン・S・ニョール]]、[[俳優]](* [[1940年]])
* [[1997年]] - [[カル・エイブラムス]]、元[[プロ野球選手]](* [[1924年]])
* [[1999年]] - [[グレン・シーボーグ]]、化学者、[[物理学者]](* [[1912年]])
* [[2000年]] - [[福島譲二]]、[[政治家]](* [[1927年]])
* [[2003年]] - [[上田藤夫]]、元プロ野球選手、[[プロ野球審判員|審判]](* [[1912年]])
* 2003年 - [[柏木敏夫]]、プロ野球審判員(* [[1931年]])
* [[2005年]] - [[ピーター・ベネンソン]]、[[アムネスティ・インターナショナル]]創立者(* [[1921年]])
* [[2006年]] - [[ダーレン・マクギャヴィン]]、俳優(* [[1922年]])
* [[2007年]] - [[飯田龍太]]、[[俳人]](* [[1920年]])
* [[2008年]] - [[塚越敏]]、[[ドイツ文学者]](* [[1917年]])
* 2008年 - ジェノア・ケアヴェ([[:en:Genoa Keawe|Genoa Keawe]])、[[ハワイの音楽|ハワイアン音楽]]のミュージシャン(* 1918年)
* 2008年 - 渡邊五郎、[[日本中央競馬会]]理事長(* 1926年)
* 2008年 - スタティック・メジャー([[:en:Static Major|Static Major]])、[[音楽プロデューサー]](* 1976年)
* [[2017年]] - [[ビル・パクストン]]<ref>『[http://www.dailymail.co.uk/news/article-4261440/Titanic-star-Bill-Paxton-dies-age-61.html 'Thanks for the good wishes. It will help me face this ordeal': Email from Apollo 13 actor Bill Paxton to director reveals he was nervous about heart surgery that led to his untimely death at 61]』2017年2月26日 [[デイリー・メール]]</ref>、俳優(* [[1955年]])
* 2017年 - [[中西俊夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/222329|title=PLASTICS中西俊夫、食道がんのため61歳で逝去|publisher=音楽ナタリー|accessdate=2020-10-25|date=2017-02-26}}</ref>、ミュージシャン・アーティスト(* [[1956年]])
* [[2020年]] - [[ホスニー・ムバーラク]]<ref>{{cite news |title=「現代のファラオ」エジプトのムバラク元大統領が死去…91歳 |newspaper=Yomiuri ONLINE |date=2020-02-25 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20200225-OYT1T50235/ |agency=読売新聞社|accessdate=2020-10-22}}</ref>、[[エジプト|エジプト・アラブ共和国]]の軍人、政治家、同国第2代[[エジプトの大統領|大統領]](* [[1928年]])
* [[2021年]] - [[菅谷政子]]、[[声優]](+ [[1937年]])
* [[2023年]] - [[千田光男]]、[[声優]](+ [[1940年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Yasuda Auditorium.jpg|thumb|240px|日本の[[国立大学]]の多くは2月25日に二次試験を行う]]
* [[エドゥサ革命]]記念日({{PHL}})
*: [[1986年]]のこの日、エドゥサ革命で[[コラソン・アキノ]]が大統領就任宣誓を行った。
* {{仮リンク|ソビエト占領記念日 (グルジア)|en|Soviet Occupation Day, Georgia|label=ソビエト占領記念日}}({{GEO}})
*: [[1921年]]のこの日、[[グルジア民主共和国]]の首都[[トビリシ]]を[[ロシア・ソビエト社会主義共和国]]の[[赤軍]]が占領した。
* [[ナショナルデー]]({{KWT}})
* [[夕刊紙]]の日({{JPN}})
*: [[1969年]]のこの日、日本初の駅売り専門の夕刊紙『[[夕刊フジ]]』が創刊したことにちなむ<ref>{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=94}}</ref><ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=35}}</ref><!-- 「夕刊フジ創刊記念日」として記載 -->。
* 毎年のこの日は日本全国のほとんどの[[国立大学]]で2次試験(前期)が開催される。
* 箱根用水完成の日({{JPN}})
*: [[1670年]](寛文10年)のこの日、日本の土木史上重要な意味を持つ箱根用水(昔は深良用水)が完成した。湖尻峠に約1200mのトンネルを掘って、芦ノ湖の水を富士山麓の村に導く用水で、深良村(現在の裾野市)の名主・大庭源之丞らが中心となって5年かけて完成させた<ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=41}}</ref>。
* [[新神学者シメオン]]祭([[正教会]])
*: ユリウス暦の[[3月12日]]
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0225|date=2011年6月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* 2011年 - [[さのまる]]、[[栃木県]][[佐野市]]ブランドキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sano.lg.jp/sanomaru/1030.html |title=さのまるって? |website=さのまるオフィシャルホームページ |publisher=佐野市 |accessdate=2022-09-08}}</ref>
* 生年不明 - 定春、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|gintamamovie|1497073875569496065}}</ref>
* 生年不明 - 樋口正太、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite journal|和書|journal=くろフェス! 黒子のバスケ オフィシャルファンブック|publisher=[[ジャンプコミックス]]}}</ref>
* 生年不明 - 堀千鶴子、漫画・アニメ『[[火ノ丸相撲]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hinomaru-zumou.com/character/堀千鶴子 |title=堀 千津子 |access-date=2022-09-08 |publisher=[[川田 (漫画家)|川田]]/[[集英社]]・「火ノ丸相撲」製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 宇佐美時重、漫画・アニメ『[[ゴールデンカムイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kamuy_official|1364772193280823298}}</ref>
* 生年不明 - [[ラブライブ!スーパースター!!#1期生|嵐千砂都]]、アニメ『[[ラブライブ!スーパースター!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/yuigaoka/member |title=メンバー紹介 嵐 千砂都 |publisher=プロジェクトラブライブ!スーパースター!! |accessdate=2022-09-08 |work=ラブライブ!スーパースター!!}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/yuigaoka/news/?id=7432 |title=セガコラボカフェにて『ラブライブ!スーパースター!! 』より嵐 千砂都のバースデーカードをプレゼント! |access-date=2022-09-08 |publisher=ラブライブ!スーパースター‼︎ |year=2021-02-17}}</ref>
* 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#如月千早|如月千早]]、ゲーム・アニメ『[[THE IDOLM@STER]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/10005 |title=如月 千早(きさらぎ ちはや) |access-date=2022-09-08 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |date=2010-11 |publisher=[[アスキー・メディアワークス]] |journal=電撃G's magazine |page = 110}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#三船美優|三船美優]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20160 |title=三船 美優(みふね みゆ) |access-date=2022-09-08 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 如月、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave|閃乱カグラNewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/kisaragi.php |title=如月 |access-date=2023-01-10 |publisher=Marvelous Inc. |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#月岡恋鐘|月岡恋鐘]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/50016 |title=月岡 恋鐘(つきおか こがね) |website=THE IDOLM@STERアイドル名鑑 |accessdate=2022-09-08 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - 織宮結衣、ゲーム・漫画『[[オルタナティブガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://lp.alterna.amebagames.com/character/ |title=TEAM01 FREESIA DOG 織宮 結衣 |access-date=2022-09-08 |publisher=QualiArts, Inc. CyberAgent, Inc. |work=オルタナティブガールズ}}</ref>
* 生年不明 - 椚章臣、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/kunugi_akiomi/ |title=椚 章臣 {{!}} CHARACTER {{!}} |accessdate=2022-09-08 |publisher=Happy Elements |work=あんさんぶるスターズ!!}}</ref>
<!--
* 生年不明 - 富家大、『[[ラストブロンクス -東京番外地-]]』に登場するキャラクター
-->
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commons|Category:25 February}}
{{新暦365日|2|24|2|26|[[1月25日]]|[[3月25日]]|[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]|0225|2|25}}
{{1年の月と日}} | 2003-02-15T12:42:24Z | 2023-12-29T22:27:35Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8825%E6%97%A5 |
1,798 | 2月27日 | 2月27日(にがつにじゅうななにち、にがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から58日目にあたり、年末まであと307日(閏年では308日)ある。
| [
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] | 2月27日(にがつにじゅうななにち、にがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から58日目にあたり、年末まであと307日(閏年では308日)ある。 | {{カレンダー 2月}}
'''2月27日'''(にがつにじゅうななにち、にがつにじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から58日目にあたり、年末まであと307日([[閏年]]では308日)ある。
== できごと ==
* 不明 - [[創世記]]によれば、ノアが[[ノアの箱舟|箱舟]]からでることを許され感謝祭を実施、神が契約の証しとして虹を顕した日<ref>{{Cite web|和書|title=神戸市北区 鈴蘭台教会|url=http://www.suzurandai-church.org/|website=www.suzurandai-church.org|accessdate=2020-09-04}}</ref>。
* [[1593年]]([[文禄]]2年/[[万暦]]21年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[碧蹄館の戦い]]
* [[1594年]] - [[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]が戴冠。
* [[1700年]] - [[ウィリアム・ダンピア]]が[[ニューブリテン島]]にヨーロッパ人で初めて到達。
* [[1814年]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第8番 (ベートーヴェン)|交響曲第8番]]が初演。
* [[1844年]] - [[ドミニカ共和国]]が[[ハイチ]]から独立。
* [[1868年]] - [[ベンジャミン・ディズレーリ]]がイギリスの40代首相に就任。
* [[1870年]]([[明治]]3年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[太政官]]が「蒸気郵船規則」と「商船規則」を布告。日本の商船は[[日本の国旗|日章旗]]を掲揚することとし、その規格を定める。
* [[1875年]] - 日本初の近代的[[植物園]]・[[小石川植物園]]が開園。
* [[1876年]]([[高宗 (朝鮮王)|高宗]]13年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - 日本と李氏朝鮮が[[日朝修好条規]]に調印。
* [[1879年]] - コンスタンチン・ファールバーグが[[サッカリン]]を合成。
* [[1890年]] - [[浅草区]]で大火。(焼失1469戸)
* [[1900年]] - [[イギリス]]で3政党と65労組が参加し、[[労働党 (イギリス)|労働党]]の前身となる労働代表委員会を結成。
* 1900年 - [[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]の[[FCバイエルン・ミュンヘン]]創設。
* [[1920年]] - ドイツで[[ロベルト・ヴィーネ]]監督の映画『[[カリガリ博士]]』が公開。
* [[1921年]] - [[第二半インターナショナル]](ウィーン・インターナショナル)創設。
* [[1933年]] - [[ドイツ国会議事堂放火事件]]が発生。
* [[1936年]] - [[二・二六事件]]で[[東京市]]に戒厳令発令。
* [[1939年]] - イギリス・フランスが[[スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]政権を承認。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[南方作戦]]: [[スラバヤ沖海戦]]。[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]艦隊に勝利する。
* [[1949年]] - 国宝の[[松山城 (伊予国)|松山城]]の一部が放火により焼失。
* [[1951年]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第22条]]の批准が成立。
* [[1955年]] - [[第27回衆議院議員総選挙]]。[[日本放送協会|NHK]]テレビが総選挙では初の[[NHKにおける選挙報道|開票速報]]を放送。
* [[1964年]] - [[富士航空機墜落事故]]。
* [[1966年]] - 春闘共闘委員会主催による第1回物価メーデー開催。
* 1966年 - [[日本大学理工学部・大学院理工学研究科|日本大学理工学部]]が制作した[[人力飛行機]]「リネットI」が日本初となる人力飛行に成功。
* [[1972年]] - [[ニクソン大統領の中国訪問]]: [[リチャード・ニクソン]]米大統領が国交正常化の共同声明([[上海コミュニケ]])を発表。[[中華人民共和国]]を事実上[[国家の承認|承認]]。
* [[1975年]] - [[日本共産党]]の機関紙「[[しんぶん赤旗|赤旗]]」にて[[4コマ漫画]]『[[まんまる団地]]』([[オダシゲ]]作)が連載開始。
* [[1976年]] - 旧[[スペイン領サハラ]]で[[ポリサリオ戦線]]が「[[サハラ・アラブ民主共和国]]」として独立を宣言。
* [[1980年]] - [[在コロンビア ドミニカ共和国大使館占拠事件]]。
* [[1981年]] - [[トヨタ自動車]]、スポーツ[[クーペ]]「[[トヨタ・ソアラ|ソアラ]]」を発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/vehicle_lineage/car/id60010493/ |title=トヨタ企業サイト |publisher=トヨタ自動車 |accessdate=2013-08-12}}</ref>。
* [[1985年]] - [[田中角栄]]元首相が脳梗塞で入院。事実上政界から引退。
* [[1988年]] - [[名古屋アベック殺人事件]]: [[2月23日|同月23日]]に[[大高緑地]]([[愛知県]][[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]])に壊れた車を残して消息を絶っていたアベックが、襲撃犯として[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された[[不良行為少年|不良少年]]たちの自供により、[[三重県]][[阿山郡]][[大山田村 (三重県)|大山田村]](現:[[伊賀市]])の山中から他殺体として発見される<ref>『[[中日新聞]]』1988年2月27日夕刊E版一面1頁「大高緑地ら致事件 アベック殺されていた 三重(大山田村)の山に遺体 愛知県警 男女5少年を逮捕 木刀で襲い現金奪う 名港事件も自供」([[中日新聞社]]) - 『中日新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1988年(昭和63年)2月号995頁。</ref>。
* [[1996年]] - [[任天堂]]が、[[ポケットモンスター (ゲーム)|ポケットモンスターシリーズ]]の第1作となる[[ゲームボーイ]]向けゲームソフト『[[ポケットモンスター 赤・緑]]』を発売。
<!-- * [[2004年]] - [[立川反戦ビラ配布事件]]で三名を[[令状]][[逮捕]]。 -->
<!-- * 2004年 - 東京地裁が[[麻原彰晃]](松本智津夫)に死刑判決を下す。 -->
* [[2005年]] - [[東北新幹線]]の[[八甲田トンネル]]が貫通。
* [[2006年]] - 熊本県[[合志市]]が市制施行。
* [[2010年]] - [[チリ地震 (2010年)|チリ地震]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=2010年2月27日 |url=https://jp.reuters.com/article/idJPnTK038329620100227 |title=再送:チリでM8.8の地震、南米の一部に津波警報 |publisher=ロイター |accessdate=2018-04-17}}</ref>。チリでは[[チリ地震 (1960年)|1960年に発生した地震]]以降の最も大きな地震。
* [[2012年]] - 日本唯一の[[DRAM]]メーカー、[[エルピーダメモリ]]が会社更生法の適用を申請<ref>{{Cite web|和書|date=2012-02-27 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFL270G8_X20C12A2000000/ |title=エルピーダ更生法申請、経産相「やむを得ない措置」 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-03-11}}</ref>。
* [[2019年]] - [[2019年2月米朝首脳会談]]第一日目。[[ドナルド・トランプ]]と[[金正恩]]による一対一の[[首脳会談]]と双方の閣僚が参加した夕食会が開催された。
* 2019年 - [[ネパール]]・[[タプレジュン郡]]でヘリコプターが墜落し、[[ラビンドラ・アディカリ]]観光相ら7名が死亡した<ref>[https://web.archive.org/web/20190228004443/https://www.jiji.com/sp/article?k=2019022701321&g=int ヘリ墜落、観光相ら7人死亡=ネパール] 時事通信 2019年2月27日</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://sputniknews.jp/20190227/5973382.html|title=ネパールで、文化相を乗せたヘリコプターが墜落|publisher=スプートニク日本|date=2019-02-27|accessdate=2020-10-23}}</ref>。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Rome-Capitole-StatueConstantin.jpg|thumb|200px|[[古代ローマ]]の大帝[[コンスタンティヌス1世]](272-337)誕生。[[キリスト教]]を公認した]]
[[ファイル:JohnSteinbeck crop.JPG|thumb|180px|[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の作家[[ジョン・スタインベック]](1902-1968)誕生。代表作『[[怒りの葡萄]]』]]
* [[272年]] - [[コンスタンティヌス1世]]{{要出典|date=2021-02}}、古代[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](+ [[337年]])
* [[1807年]] - [[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Henry-Wadsworth-Longfellow Henry Wadsworth Longfellow American poet] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[詩人]](+ [[1882年]])
* [[1828年]]([[文政]]11年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[狩野芳崖]]、日本画家(+ [[1888年]])
* [[1846年]] - [[フランツ・メーリング]]、[[社会主義|社会主義者]]、[[歴史家]](+ [[1919年]])
* [[1848年]] - [[チャールズ・ヒューバート・パリー]]、[[作曲家]](+ [[1918年]])
* 1848年 - [[エレン・テリー]]、[[俳優|女優]](+ [[1928年]])
* [[1861年]] - [[ルドルフ・シュタイナー]]、[[思想家]](+ [[1925年]])
* [[1863年]] - [[ジョージ・ハーバート・ミード]]、[[社会心理学|社会心理学者]](+ [[1931年]])
* [[1867年]] - [[ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル]]、作曲家(+ [[1942年]])
* 1867年 - [[アーヴィング・フィッシャー]]、[[経済学者]](+ [[1947年]])
* [[1881年]] - [[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー]]、[[数学者]](+ [[1966年]])
* [[1888年]] - [[ロッテ・レーマン]]、[[ソプラノ]]歌手(+ [[1976年]])
* [[1892年]] - [[佐伯達夫]]、元野球選手、[[日本高等学校野球連盟]]初代会長(+ [[1980年]])
* [[1895年]] - [[宮城山福松]]、元[[大相撲]][[力士]]、第29代[[横綱]](+ [[1943年]])
* [[1897年]] - [[ベルナール・リヨ]]、[[天文学者]](+ [[1952年]])
* [[1899年]] - [[森岩雄]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]](+ [[1979年]])
* [[1900年]] - [[西谷啓治]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1990年]])
* [[1901年]] - [[マリノ・マリーニ]]、[[画家]]、[[彫刻家]]、[[版画家]](+ 1980年)
* [[1902年]] - [[ジョン・スタインベック]]、[[小説家]](+ [[1968年]])
* 1902年 - [[ルシオ・コスタ]]、[[建築家]](+ [[1998年]])
* 1902年 - [[西川貞一]]、[[ジャーナリスト]]、[[政治家]](+ [[1991年]])
* [[1904年]] - [[アンドレ・ルデュック]]、[[自転車競技]]選手(+ 1980年)
* 1904年 - [[杉捷夫]]、[[フランス文学者]](+ 1990年)
* [[1907年]] - [[橋本宇太郎]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](+ [[1994年]])
* [[1908年]] - [[長谷川一夫]]、[[俳優]](+ [[1984年]])
* [[1910年]] - [[ジョーン・ベネット]]、女優(+ 1990年)
* 1910年 - [[久野忠治]]、[[政治家]](+ [[1998年]])
* [[1912年]] - [[ロレンス・ダレル]]、小説家(+ 1990年)
* [[1913年]] - [[ポール・リクール]]、哲学者(+ [[2005年]])
* [[1917年]] - [[朝吹登水子]]、[[フランス文学者]]、[[随筆家]](+ 2005年)
* [[1920年]] - [[ジュリアン・ジェインズ]]、[[心理学者]](+ [[1997年]])
* 1920年 - [[栗栖弘臣]]、[[陸上自衛官]]、第10代[[統合幕僚会議議長]](+ [[2004年]])
* 1920年 - [[石井豊 (野球)|石井豊]]、[[プロ野球選手]](+ 没年不詳)
* [[1922年]] - [[川島廣守]]、警察[[官僚]]、[[日本野球機構]]第10代[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]](+ [[2012年]])
* [[1923年]] - [[デクスター・ゴードン]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン|サックス]]奏者(+ [[1990年]])
* [[1924年]] - [[小口大八]]、[[和太鼓]]奏者(+ [[2008年]])
* [[1925年]] - [[豊田章一郎]]、[[トヨタ自動車]]名誉会長(+ [[2023年]])
* 1925年 - [[渋沢雅英]]、元[[軍人]]
* [[1926年]] - [[塩田晋]]、[[政治家]](+ [[2005年]])
* 1926年 - [[デイヴィッド・ヒューベル]]、神経生理学者(+ [[2013年]])
* 1926年 - [[鏑木創]]、作曲家(+ [[2014年]])
* [[1929年]] - [[ジャウマ・サントス]]、[[サッカー選手]](+ [[2013年]])
* [[1930年]] - [[ジョアン・ウッドワード]]、女優
* [[1931年]] - [[村上泰亮]]、[[経済学者]]、[[評論家]](+ [[1993年]])
* 1931年 - [[白石かずこ]]、[[詩人]]
* [[1932年]] - [[エリザベス・テーラー]]、女優(+ [[2011年]]<ref name=abc-death2>{{cite web|title=Elizabeth Taylor dies aged 79|url=http://www.abc.net.au/news/stories/2011/03/24/3172059.htm|work=ABC News Australia|publisher=Australian Broadcasting Corporation|accessdate=2020-11-18|date=2011-03-23}}</ref>)
* 1933年 - [[山川静夫]]、[[アナウンサー]]、[[歌舞伎]]評論家
* [[1934年]] - [[西尾慈高]]、元プロ野球選手(+ [[2017年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.shikoku-np.co.jp/bl/news/national/okuyami-detail.aspx?kid=20170506000507|title=西尾慈高氏死去/元阪神、中日投手|publisher=BUSINESS LIVE|date=2017-05-06|accessdate=2020-10-28}}</ref>)
* 1934年 - [[ラルフ・ネーダー]]、[[弁護士]]、[[社会運動家]]
* [[1935年]] - [[ミレッラ・フレーニ]]、[[ソプラノ]]歌手
* [[1936年]] - [[夏木陽介]]、俳優(+ [[2018年]]<ref name="Sponichi">{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/01/19/kiji/20180118s00041000404000c.html|date=2018-01-19|title=夏木陽介さん死去 81歳「青春とはなんだ」「Gメン'75」などで活躍|newspaper=Sponichi ANNEX|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2020-11-03}}</ref>)
* [[1937年]] - [[江戸京子]]、[[ピアニスト]]
* [[1939年]] - [[高田賢三]]、[[デザイナー]](+ [[2020年]])
* [[1940年]] - [[林紀子]]、政治家
* [[1942年]] - [[ロバート・グラブス]]、[[化学者]]
* [[1946年]] - [[坪井新三郎]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[大楠道代]]、女優
* [[1947年]] - [[杉本康雄]]、[[みちのく銀行]]頭取
* 1947年 - [[ギドン・クレーメル]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1947年 - [[アラン・グース]]、[[物理学者]]
* 1947年 - [[水沼四郎]]、元プロ野球選手
<!-- 特筆性は? * 1949年 - 榊原まさとし、歌手([[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]]) -->
* [[1950年]] - [[九条亜希子]]、女優
* 1950年 - [[成瀬正孝]]、俳優
* [[1952年]] - [[グッチ裕三]]、[[タレント]]
* [[1954年]] - [[ニール・ショーン]]、[[ギタリスト]]([[ジャーニー (バンド)|ジャーニー]])
* [[1955年]] - [[竹内義和]]、作家
* 1955年 - [[池田弘 (野球)|池田弘]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[新沼謙治]]、歌手
* [[1957年]] - [[エイドリアン・スミス]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[アイアン・メイデン]])
* 1957年 - [[ティモシー・スポール]]、俳優
* [[1958年]] - [[中村うさぎ]]、作家
* [[1959年]] - [[神保彰]]、[[ドラマー]]
* 1959年 - [[ケニー野村]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[田中幸雄 (投手)|田中幸雄]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[下村彰宏]]、俳優
* [[1960年]] - [[青木康直]]、[[アニメ監督]]
* 1960年 - [[山下芳生]]、政治家
* 1960年 - [[山田真美]]、作家
* [[1961年]] - [[徳永英明]]、[[シンガーソングライター]]
* 1961年 - [[遥洋子]]、[[タレント]]、作家、[[フェミニスト]]
* 1961年 - [[ジェームズ・ウォージー]]、[[バスケットボール選手]]
* [[1962年]] - [[藤野千夜]]、作家
* 1962年 - [[アダム・ボールドウィン]]、俳優
* [[1963年]] - [[かつみ♥さゆり|かつみ♥]]、[[漫才師]]
* 1963年 - [[山像かおり]]、女優、[[声優]]
* 1963年 - [[石坂智子]]、元歌手
* [[1964年]] - [[小林透]]、ベーシスト
* [[1965年]] - [[菅野宏紀]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]]
* 1965年 - [[フランク・ペーター・ツィンマーマン]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1965年 - [[西村啓太郎]]、[[インダストリアルデザイナー]]、エアロダイナミスト、レーシングカー・デザイナー
* [[1966年]] - [[よしもときんじ]]、[[アニメーション]][[演出家]](+ [[2021年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://arifureta.com/news/news-2325/ |title=おしらせ |website=ありふれた職業で世界最強 公式ポータルサイト |date=2021-11-10 |accessdate=2021-11-13}}</ref>)
* 1966年 - [[宮田佳代子]]、[[ニュースキャスター]]
* [[1967年]] - [[スコット・サービス]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[マット・ステアーズ]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[田畑一也]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[富田靖子]]、女優
* 1969年 - [[南ひろこ]]、漫画家
* [[1970年]] - [[稲森謙太郎]]、科学技術ジャーナリスト
* 1970年 - [[ツバキアンナ]]、漫画家、浮世絵師
* 1970年 - [[室井佑月]]、作家
* 1970年 - [[マーク・パンサー]]、ミュージシャン
* 1970年 - [[パトリシア・プティボン]]、[[コロラトゥーラ]][[ソプラノ|ソプラノ歌手]]
* 1970年 - [[ケント・デザーモ]]、[[騎手]]
* [[1971年]] - [[斉藤真由美]]、元[[バレーボール選手一覧|バレーボール選手]]
* [[1972年]] - [[藤田伸二]]、元騎手
* 1972年 - [[松岡俊介]]、俳優
* [[1973年]] - [[内ヶ﨑茂]]、コンサルタント
* [[1974年]] - [[清水宏保]]、元[[スピードスケート]]選手
* 1974年 - [[コーリン・エドワーズ]]、[[オートバイ競技|オートバイレーサー]]
* [[1975年]] - [[こげどんぼ*]]、[[漫画家]]
* [[1976年]] - [[田村ゆかり]]<ref name="animatetimes">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=664#02|title=田村 ゆかり|work=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-04}}</ref>、声優
* 1976年 - [[万城目学]]、[[作家]]
* 1976年 - [[セルゲイ・セマク]]、[[サッカー選手]]
* 1976年 - [[青山航士]]、[[ダンサー]]
* [[1977年]] - [[范暁萱]](メイヴィス・ファン)、歌手
* 1977年 - [[ジェームズ・ワン]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]
* 1977年 - [[チソン]]、俳優
* [[1978年]] - [[ジェームズ・ビーティー]]、元サッカー選手、指導者
* 1978年 - [[加藤慶之]]、歌手
* 1978年 - [[宮地眞理子]]、タレント、女優
* 1978年 - [[宮澤崇史]]、[[サイクルロードレース]]選手
* 1978年 - [[金子恵美 (1978年生の政治家)|金子恵美]]、タレント、元[[政治家]]
* [[1979年]] - [[myco]]、歌手、声優
* 1979年 - [[神田義英]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[平田弥里]]、女優
* 1979年 - のり、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[オテンキ]])
* [[1980年]] - [[向清太朗]]、お笑い芸人([[天津 (お笑い)|天津]])
* 1980年 - [[佐藤隆太]]、俳優
* 1980年 - [[ボビー・ヴァレンティノ]]、歌手
* 1980年 - [[チェルシー・クリントン]]、[[ビル・クリントン]]の一人娘
* [[1981年]] - [[横地愛]]、元新体操選手
* 1981年 - [[石川善樹]]、イノベーションディレクター
* 1981年 - [[ジョシュ・グローバン]]、歌手
* [[1982年]] - [[五十嵐浩子]]、声優
* 1982年 - [[中村風太]]、俳優、モデル
* 1982年 - [[笛木将也]]、元声優
* [[1983年]] - [[ルイス・ゴンザレス (1983年生の投手)|ルイス・ゴンザレス]]、プロ野球選手
* 1983年 - [[アンソニー・セラテリ]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[デナード・スパン]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[スコット・マシーソン]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[アニバル・サンチェス]]、プロ野球選手
* 1984年 - 小倉誠司、ミュージシャン([[flumpool]])
* [[1985年]] - [[安倍麻美]]、元タレント
* 1985年 - [[ディニャル・ビリャレトディノフ]]、サッカー選手
* 1985年 - [[ジェニファー・ウェスター]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1985年 - [[エレーナ・リアブチュク]]、フィギュアスケート選手
* 1985年 - [[坂元龍斗]]、アナウンサー
* [[1986年]] - [[清水まみ]]、漫画家
* 1986年 - [[ヨバニ・ガヤルド]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[田丸篤志]]、声優
* [[1987年]] - [[立花理香]]、タレント、モデル、声優
* [[1988年]] - [[横槍メンゴ]]、漫画家
* [[1989年]] - [[小塚崇彦]]、元フィギュアスケート選手
* 1989年 - [[篠原美紀]]、女優
* 1989年 - [[清水翔太]]、シンガーソングライター
* 1989年 - [[宮原健斗]]、[[プロレスラー]]
* [[1990年]] - [[アリーナ・マルティノワ]]、フィギュアスケート選手
* [[1991年]] - [[蓮佛美沙子]]、女優
* 1991年 - [[指宿洋史]]、サッカー選手
* 1991年 - [[ケヴィン (ファッションモデル)|KEVIN]]、ファッションモデル
* [[1992年]] - [[マッシモ・スタノ]]、陸上競技選手<ref>{{cite web|url=https://worldathletics.org/athletes/italy/massimo-stano-14327128|title=Massimo STANO|publisher=World Athletics|accessdate=2021-08-08}}</ref>
* 1992年 - [[アルチョム・グリゴリエフ]]、フィギュアスケート選手
* [[1993年]] - [[森谷まりん]]、[[ライブアイドル|地下アイドル]]
* 1993年 - [[田中太一]]、元プロ野球選手
* 1993年 - [[小林唯]]、ミュージカル俳優
* 1993年 - [[コン・スンヨン]]、女優
* 1993年 - [[濱矢廣大]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[凛 (プロレスラー)|凛]]、プロレスラー
* [[1994年]] - [[高橋李依]]<ref>{{Cite news |url= https://www.excite.co.jp/news/dictionary/person/UDAR10409922/ |title=高橋李依|newspaper= Excite News |date= |agency=エキサイト株式会社|accessdate= 2020-11-15}}</ref>、声優
* 1994年 - [[ハナエ]]、歌手
* 1994年 - [[竹内星菜]]、モデル、グラビアアイドル
* [[1995年]] - [[藤本七海]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://stardust.co.jp/profile/fujimotonanami.html |title=藤本七海 |publisher=スターダストプロモーション |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140704105357/http://stardust.co.jp/profile/fujimotonanami.html |archivedate=2014-07-04 |accessdate=2021-01-22}}</ref>、元[[子役]]
* 1995年 - [[中村航輔]]、サッカー選手
* 1995年 - リッキー、アイドル([[TEEN TOP]])
* [[1996年]] - [[荒木美裕]]、ファッションモデル
* 1996年 - [[小野寺太志]]、[[バレーボール選手]]
* 1996年 - [[熊井智津子]]、女優、ファッションモデル
* 1996年 - [[小泉萌香]]、女優、声優([[虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]、[[harmoe]])
* 1996年 - [[テン (NCT)|テン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]]、[[WayV]])
* [[1997年]] - [[瑞季]]、女優、アイドル(元[[私立恵比寿中学]])
* 1997年 - しにがみ、ゲーム実況者(日常組)
* [[1999年]] - [[松本龍憲]]、元プロ野球選手
* [[2000年]] - LUNE、アイドル、ミュージシャン([[DKB (音楽グループ)|DKB]])
* 2000年 - [[松井蓮之]]、サッカー選手
* [[2002年]] - [[浮所飛貴]]、アイドル、俳優([[ジャニーズJr.]]、[[美 少年]])
* [[2004年]] - 本田珠由記、アイドル ([[≠ME]])
* [[2005年]] - NINA、アイドル ([[NiziU]])
* 生年不詳 - [[綾川りの]]、声優、女優
* 生年不詳 - [[御苑生メイ]]、声優
* 生年不詳 - [[森本梢子]]、漫画家
* 生年不詳 - [[大野理絵]]<ref name="remax">{{Cite web|和書|url=http://www.remax-web.jp/woman/A/oono_r/index.htm|title=大野理絵 - REMAX|publisher=|accessdate=2020-11-11}}</ref>、声優
* 生年不詳 - [[河瀬詩]]、声優、アイドル ([[22/7 (アイドルグループ)|22/7]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1992年]] - [[アブクマポーロ]]、[[競走馬]](+ [[2021年]])
<!-- 特筆性は? * 1992年 - [[コクトジュリアン]]、競走馬 -->
* 1992年 - [[ヒシアケボノ]]、競走馬(+ [[2008年]])
* [[1996年]] - [[ハルウララ]]、競走馬
<!-- 特筆性は? * [[1998年]] - [[キタサンチャンネル]]、競走馬 -->
== 忌日 ==
=== 人物 ===
[[ファイル:Honami Kōetsu 100 Poets Anthology section.jpg|thumb|300px|[[琳派]]の創始者の1人[[本阿弥光悦]](1558-1637)没]]
* [[749年]]([[天平]]21年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[行基]]、[[僧|僧侶]](* [[668年]])
* [[1425年]] - [[ヴァシーリー1世]]、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]](* [[1371年]])
* [[1547年]]([[天文 (元号)|天文]]16年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[安東尋季]]、[[出羽国]]の[[戦国大名]]
* [[1637年]]([[寛永]]14年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[本阿弥光悦]]、[[書家]]、[[芸術家]](* [[1558年]])
* [[1666年]] - [[ルイサ・デ・グスマン]]、[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ポルトガル王ジョアン4世]]の妃(* [[1613年]])
* [[1720年]]([[享保]]5年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[近衛尚子]]、[[中御門天皇]]の[[女御]](* [[1702年]])
* [[1752年]]([[宝暦]]2年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[浅野吉長]]、第5代[[広島藩|広島藩主]](* [[1681年]])
* [[1795年]]([[寛政]]7年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助(2代目)]]、[[大相撲]]力士、[[横綱]](* [[1750年]])
* [[1802年]]([[享和]]2年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[木村兼葭堂]]、[[文人画|文人画家]]、[[博物学|本草学者]](* [[1736年]])
* [[1822年]]([[文政]]5年閏[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[式亭三馬]]、[[戯作者]](* [[1776年]])
* [[1874年]] - [[カルロス・マヌエル・デ・セスペデス]]、[[キューバ]]の[[革命家]](* [[1819年]])
* [[1877年]] - [[西郷小兵衛]]、[[西郷隆盛]]の末弟(* [[1847年]])
* [[1887年]] - [[アレクサンドル・ボロディン]]、[[作曲家]](* [[1833年]])
* [[1906年]] - [[サミュエル・ラングレー]]、[[天文学者]]、[[航空]]技術者(* [[1834年]])
* [[1908年]] - [[三遊亭遊輔]]、[[落語家]](* [[1865年]])
* [[1936年]] - [[イワン・パブロフ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Ivan-Pavlov Ivan Pavlov Russian physiologist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[生理学者]](* [[1849年]])
* [[1939年]] - [[ナデジダ・クルプスカヤ]]、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の妻、[[ボリシェビキ]]の運動家(* [[1869年]])
* [[1944年]] - [[金子直吉]]、[[実業家]](* [[1866年]])
* [[1950年]] - [[稲田龍吉]]、[[医学者]](* [[1874年]])
* [[1961年]] - [[プラット・アダムス]]、[[陸上競技]]選手(* [[1885年]])
* 1961年 - [[加藤春雄]]、[[プロ野球選手]](* [[1917年]])
* [[1970年]] - [[中谷準志]]、プロ野球選手(* [[1918年]])
* 1970年 - [[福原黎三]]、[[サッカー]]選手(* [[1931年]])
* 1970年 - マリー・ディオンヌ、[[ディオンヌ家の五つ子姉妹]]の1人(* [[1934年]])
* [[1972年]] - [[吉住慈恭]](4代目[[吉住小三郎]])、[[長唄]]の唄方(* [[1876年]])
* [[1977年]] - [[ジョン・ディクスン・カー]]、[[推理作家]](* [[1906年]])
* [[1978年]] - [[ワディム・サルマノフ]]、作曲家(* [[1912年]])
* [[1980年]] - [[久松真一]]、[[哲学|哲学者]]、[[仏教学者]](* [[1889年]])
* [[1981年]] - [[蜷川虎三]]、元[[京都府知事]](* [[1897年]])
* [[1983年]] - [[金関丈夫]]、[[人類学|人類学者]](* [[1897年]])
* 1983年 - [[井上光貞]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1917年]])
* [[1985年]] - [[ヘンリー・カボット・ロッジJr.]]、外交官、政治家、アメリカ合衆国国連大使、元[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]](* [[1902年]])
* [[1989年]] - [[コンラート・ローレンツ]]、[[動物行動学|動物行動学者]](* [[1903年]])
* [[1993年]] - [[リリアン・ギッシュ]]、[[俳優|女優]](* [[1893年]])
* [[1998年]] - [[ジョージ・ヒッチングス]]、[[薬理学|薬理学者]](* [[1905年]])
* 1998年 - [[増岡重昂]]、実業家、[[増岡組]]・[[鉄鋼ビルディング]]社長(* [[1927年]])
* 1998年 - [[J・T・ウォルシュ]]、俳優(* [[1943年]])
* [[2000年]] - [[伊賀上良平]]、元プロ野球選手(* [[1917年]])
* 2000年 - ハロルド・M・マルベイ、[[アメリカ合衆国]]コネチカット州司法長官(* [[1914年]])
* [[2004年]] - [[ポール・スウィージー]]、[[経済学者]](* [[1910年]])
* 2004年 - [[網野善彦]]、歴史学者(* [[1928年]])
* [[2005年]] - [[杉村升]]、[[脚本家]](* [[1948年]])
* 2005年 - [[那須博之]]、[[映画監督]](* [[1952年]])
* 2005年 - [[三木忠直]]、[[鉄道総合技術研究所|鉄道技術研究所]]技術者(* [[1909年]])
* [[2006年]] - [[ベネ・フェレンツ]]、元[[サッカー]]選手(* [[1944年]])
* [[2011年]] - [[デューク・スナイダー]]、元プロ野球選手(* [[1926年]])
* [[2012年]] - [[宇治みさ子]]、[[俳優|女優]](* [[1932年]])
* 2012年 - [[服部力 (野球)|服部力]]、元プロ野球選手(* [[1923年]])
* [[2013年]] - [[ヴァン・クライバーン]]、[[ピアニスト]](* [[1934年]])
* 2013年 - [[克美しげる]]、[[歌手]](* [[1937年]])
* [[2015年]] - [[レナード・ニモイ]]、俳優(* [[1931年]])
* 2015年 - [[後藤浩輝]]、騎手(* 1974年)
* [[2016年]] - [[高千穂ひづる]]、元女優(* [[1932年]])
* 2016年 - [[西田善夫]]<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ2X4TWNJ2XUCFI001.html 元NHKアナの西田善夫さん死去 五輪などスポーツ実況] [[朝日新聞]] 2020年11月28日閲覧</ref>、[[スポーツ]]評論家、元[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]](* [[1936年]])
* 2016年 - [[ちば拓]]、[[漫画家]](* [[1959年]])
* 2016年 - [[湯田伸子]]、漫画家(* [[1954年]])
* [[2020年]] - [[バウディール・エスピノーザ]]<ref name="jiji">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20200315054846/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020022800897&g=spo|title=V川崎元監督のエスピノーザ氏死去|newspaper=時事通信社|date=2020-02-28|accessdate=2020-11-19}}</ref>、サッカー指導者(* [[1947年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2021年]] - [[シーザリオ]]、競走馬(* [[2002年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[独立記念日]]({{DOM}})
*: [[1844年]]のこの日、ドミニカ共和国が[[ハイチ]]から独立した<ref name="izawa1994">{{cite book|和書|title=雑学366日 今日は何の日事典|author=井澤忠夫|publisher=大泉書店|year=1994|page=68}}</ref>。
* 冬の恋人の日({{JPN}})
*: [[2月14日]]のバレンタインデーと[[3月14日]]のホワイトデーの間に「恋人同士の絆を深める日」を設けようと、結婚カウンセラーなど<!-- 日本記念日協会のサイトにもこのように記載されている -->が制定した日。絆の「ずな」→「づな」→「ツー・ナナ」→「27」の語呂あわせから、2月27日が選ばれた<ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=36}}</ref>。
* Pokémon Day({{JPN}})
*: [[コンピュータゲーム|ゲーム]]『[[ポケットモンスター]]』シリーズの第1作『[[ポケットモンスター 赤・緑]]』が発売された[[1996年]]2月27日を記念し、[[2020年]]に[[ポケモン (企業)|株式会社ポケモン]]により制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pokemon.co.jp/info/2020/01/200131_cm01.html |title=2月27日(木)は「Pokémon Day」! ポケモンの最新情報が盛りだくさん! |publisher=ポケットモンスターオフィシャルサイト |date=2020-1-31|accessdate=2020-2-5}}</ref>。
<!-- 一部の記念日関連本に記載されているもの。おそらく『366日誕生石の本』が発端。東京都日野市観光協会が制定した「新選組の日」は3月13日。
* [[新選組]]の日
*: [[1863年]](文久3年)のこの日、[[清河八郎]]らと袂を分かち京都に残留することを決めた[[近藤勇]]、[[土方歳三]]、[[芹沢鴨]]らが、新選組の前身となる[[壬生浪士|壬生浪士組]]を結成した<ref name="saito1997">{{cite book|和書|title=366日誕生石の本|author=斉藤貴子|publisher=日本ヴォーグ社|year=1997|page=96}}</ref><ref name="kato1998">{{cite book|和書|title=366日の話題事典|author=加藤迪男|publisher=東京堂出版|year=1998|page=66}}</ref><ref name="kondo1999">{{cite book|和書|title=今日はどんな日? 雑学366日|author=近藤道郎|publisher=展望社|year=1999|page=42}}</ref>。
-->
<!-- 『366日誕生石の本』の6月27日のページ(222p)に記載されているが、『ザ・レディス・マーキュリー』の創刊日は正しくは2月27日(おそらく 『366日誕生石の本』の誤り)のため、jawpでは2月27日に掲載されたものと思われる。出典が誤っているもののため、掲載を見合わせ。
* 女性雑誌の日
*: [[1693年]](元禄6年)のこの日、[[イギリス]]・[[ロンドン]]で世界初の女性向けの週刊誌『[[:en:The Ladies' Mercury|ザ・レディス・マーキュリー]]』が創刊された。 -->
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0227|date=2011年6月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 赤井沢剛、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2014|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-880153-7|quote=|date=|volume=12巻|page=184}}</ref>
* 生年不明 - 岩田カナ(カナちゃん)、漫画・アニメ『[[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 野火マリエ、アニメ『[[革命機ヴァルヴレイヴ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.valvrave.com/character/#c7 |title=野火マリエ |access-date=2022-10-02 |work=『革命機ヴァルヴレイヴ』 |publisher=SUNRISE/VVV Committee,MBS}}</ref>
* 生年不明 - 美空綾斗、アニメ『[[リーマンズクラブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://rymansclub.com/character/unisics/ |title=UNISICS 美空綾斗 |access-date=2022-10-02 |publisher=Team RMC/サンライトビバレッジ広報部 |work=リーマンズクラブ}}</ref>
* 生年不明 - ブーケ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=島民名簿 ブーケ |url=https://www.nintendo.co.jp/switch/acbaa/namelist/m02.html |access-date=2022-10-02 |publisher=[[任天堂]] |work=あつまれ どうぶつの森}}</ref>
* 生年不明 - 水澤摩央、ゲーム『[[キミキス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=水澤摩央 |url=https://www.kimikiss-pure-rouge.jp/chara_mao.html |website=キミキス pure rouge |access-date=2022-10-02 |publisher=ENTERBRAIN, INC./ 「キミキス」製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - ヒシアケボノ、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=hishiakebono |title=ヒシアケボノ |publisher=Cygames |accessdate=2022-10-02 |website=「ウマ娘 プリティーダービー」公式ポータルサイト}}</ref>
* 生年不明 - ハルウララ、ゲーム・アニメ『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=haruurara |title=ハルウララ |publisher=Cygames |accessdate=2022-10-02 |website=「ウマ娘 プリティーダービー」公式ポータルサイト}}</ref>
<!--
* 2288年 - [[機動戦士ガンダム00の登場人物#アレルヤ・ハプティズム|アレルヤ・ハプティズム]]、アニメ『[[機動戦士ガンダム00]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2018年2月26日 (月) 16:10 (UTC)}}
2022年10月、4年半以上要出典のためコメントアウト
-->
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{commons|Category:27 February}}
{{新暦365日|2|26|2|28|[[1月27日]]|[[3月27日]]|[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]|0227|2|27}}
{{1年の月と日}} | 2003-02-15T12:42:52Z | 2023-11-13T19:31:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8827%E6%97%A5 |
1,800 | 2月29日 | 2月29日(にがつにじゅうくにち)は、太陽暦であるグレゴリオ暦の閏日。年始から60日目に当たり、年末まであと306日である。閏日が入れられる年を閏年といい、4の倍数である複偶数の年(子年、辰年、申年)は400で割り切れない100の倍数年を除き全てある(閏年と平年に関する詳細は「グレゴリオ暦#暦法」を参照)。
2月29日生まれの人の平年における誕生日の扱いについては閏日#平年における誕生日を参照。 | [
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'''2月29日'''(にがつにじゅうくにち)は、[[太陽暦]]である[[グレゴリオ暦]]の[[閏日]]<ref name="閏日" group="注釈">[[2月24日]]を閏日とする地域もある。</ref>。年始から60日目に当たり、年末まであと306日である。閏日が入れられる年を[[閏年]]といい、[[4]]の[[倍数]]である[[複偶数]]の年([[子年]]、[[辰年]]、[[申年]])は400で割り切れない100の倍数年を除き全てある(閏年と平年に関する詳細は「[[グレゴリオ暦#暦法]]」を参照)。
== できごと ==
[[File:Assembly Hall of the Legislature of the GRI.JPG|thumb|240px|[[琉球政府]]の設立を公布(1952年)。写真は1953年4月の琉球政府立法院]]
* [[1720年]] - [[スウェーデン]]女王[[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|ウルリカ・エレオノーラ]]が、王権を著しく制限した憲法の制定に反対して自ら退位。議会の決定により夫の[[フレドリク1世 (スウェーデン王)|フレドリク1世]]が即位。
* [[1896年]] - [[辰野金吾]]設計による[[日本銀行]]本店が竣工。
<!-- [[袁世凱]]・[[孫文]]の記述と相違。[[北京政変]]であれば1924年の別の事件。 * [[1912年]] - [[袁世凱]]配下の軍隊が(袁自身の指示で)暴動。これを受けて[[中華民国]][[中華民国大総統|臨時大総統]][[孫文]]の南下要請を袁は拒絶。([[北京政変]]) -->
* [[1932年]] - [[満州事変|日中問題]]の調査のため、[[国際連盟]]の[[リットン調査団]]が来日。
* [[1936年]] - [[二・二六事件]]の反乱部隊に原隊復帰勧告(「兵に告ぐ」)が出され、事件が収束。
<!-- 2月28日 * 1936年 - [[岡田内閣]]が[[総辞職]]。 -->
* [[1940年]] - [[冬戦争]]: [[フィンランド]]が[[ソビエト連邦]]との和平交渉を再開。
* 1940年 - アメリカの女優[[ハティ・マクダニエル]]が[[アフリカ系アメリカ人]]で初めて[[アカデミー賞]](助演女優賞)を受賞。
* 1940年 - [[大本事件#第二次大本事件|第二次大本事件]]: [[不敬罪]]・[[治安維持法]]違反で検挙された[[大本]]教主・[[出口王仁三郎]]に対し、第1審で無期懲役の判決。
* [[1944年]] - 高級劇場閉鎖令、個人演奏会禁止令の発布。[[歌舞伎座]]、[[東劇]]、[[京都南座]]などが対象となった。
* [[1952年]] - [[沖縄諸島|沖縄]]の[[琉球列島米国民政府]]が[[琉球政府]]の設立を公布。
* [[1960年]] - [[モロッコ]]で地震。3000人以上が死亡。
* [[1968年]] - 『[[ビッグコミック]]』創刊。
* [[1972年]] - [[八丈島]]でM7.2の[[地震]]。
* 1972年 - [[福井県]]の[[日本国有鉄道|国鉄]][[三国線]]、[[兵庫県]]の国鉄[[篠山線]]がこの日限りで廃止。
* [[1976年]] - [[宇宙開発事業団]]が[[電離層]]観測衛星「[[うめ (人工衛星)|うめ]]」を打上げ。日本初の[[人工衛星|実用衛星]]。
* [[1980年]] - [[大韓民国|韓国]]で、[[金大中]]が公民権を回復([[ソウルの春]])。
* 1980年 - [[長崎県]][[壱岐島]]で活動家デクスター・ケイトが、駆除のために囲われていた[[イルカ]]約300頭を網を切って逃がし逮捕。法廷で[[動物の権利]]を基に抗弁したが[[威力業務妨害]]で有罪。([[壱岐イルカ事件]])
* [[1992年]] - [[茨城カントリークラブ事件]]で、開発会社の社長を脱税容疑で逮捕。
* 1992年 - [[東京都]][[世田谷区]]の[[二子玉川園]]跡地に、テーマパーク「[[ナムコ・ワンダーエッグ]]」開園。
* [[2000年]] - [[2000年問題#2000年2月29日|2000年問題]](閏日問題)により、[[郵便貯金]][[現金自動預け払い機|ATM]]が停止するなど社会的に混乱が見られる。
* [[2004年]] - [[ハイチ]]で、反乱激化により[[ジャン=ベルトラン・アリスティド]][[大統領]]が国外へ脱出。
* 2004年 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が[[東京都]][[千代田区]][[二番町 (千代田区)|二番町]]の[[日本テレビ放送網麹町分室|麹町社屋]]からから同[[港区 (東京都)|港区]][[汐留]]の[[日本テレビタワー|汐留新社屋・日本テレビタワー]]へ移転し、本放送開始。
* [[2012年]] - [[東京スカイツリー]]が完成<ref>{{Cite web|和書|date=2012年3月1日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2861802 |title=東京スカイツリーが完成、世界一高い自立式電波塔 |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2018-05-11}}</ref>。
* [[2020年]] - [[トランプ]]政権とアフガニスタンの反政府勢力[[ターリバーン|タリバン]]が[[カタール]]の首都[[ドーハ]]で、駐留米軍の段階的撤収などを定めた和平合意([[ドーハ合意]])に調印した<ref>[https://web.archive.org/web/20200301160840/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020022900488&g=int 米とタリバンが和平合意 駐留米軍、14カ月以内完全撤収―アフガン戦争終結へ前進]</ref>。
== 誕生日 ==
2月29日生まれの人の平年における誕生日の扱いについては[[閏日#平年における誕生日]]を参照。
[[Image:Rossini1.jpg|thumb|200px|作曲家[[ジョアキーノ・ロッシーニ]](1792-1868)]]
* [[1468年]] - [[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]、第220代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1549年]])
* [[1660年]]([[万治]]3年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[松平定直]]、第4代[[伊予松山藩|松山藩主]](+ [[1720年]])
* [[1748年]]([[延享]]5年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[菅茶山]]、[[儒教|儒学者]]、[[漢詩|漢詩人]](+ [[1827年]])
* [[1792年]] - [[ジョアキーノ・ロッシーニ]]、[[作曲家]](+ [[1868年]])
* [[1820年]] - [[ルイス・スウィフト]]、[[天文学者]](+ [[1913年]])
* [[1828年]]([[文政]]11年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[島田魁]]、[[新選組]]隊士(+ [[1900年]])
* [[1840年]] - [[ジョン・フィリップ・ホランド]]、[[潜水艦]]技術者(+ [[1914年]])
* [[1860年]] - [[ハーマン・ホレリス]]、[[発明家]](+ [[1929年]])
* [[1880年]] - [[建畠大夢]]、[[彫刻家]](+ [[1942年]])
* [[1884年]] - [[マルセル・グラネ]]、[[東洋学|東洋学者]](+ [[1940年]])
* [[1892年]] - [[岸本水府]]、[[川柳]]作家(+ [[1965年]])
* [[1896年]] - [[ウィリアム・A・ウェルマン]]、[[映画監督]](+ [[1975年]])
* 1896年 - [[ウラディーミル・フォーゲル]]、作曲家(+ [[1984年]])
* 1896年 - モラルジ・デサイ ([[:en:Morarji Desai|Morarji Desai]])、第6代[[インドの歴代首相|インド首相]](+ [[1995年]])
* [[1904年]] - [[新海幸藏]]、[[大相撲]][[力士]]、年寄9代[[荒磯 (相撲)|荒磯]](+ [[1976年]])
* [[1908年]] - [[マキノ雅弘]]、[[映画監督]](+ [[1993年]])
* 1908年 - [[バルテュス]]、[[画家]] (+ [[2001年]])
* [[1912年]] - [[大野耐一]]、[[トヨタ自動車]]元副社長(+ [[1990年]])
* [[1916年]] - [[ダイナ・ショア]]、[[歌手]](+ [[1994年]])
* [[1920年]] - [[ミシェル・モルガン]]、[[俳優|女優]](+ [[2016年]])
* 1920年 - [[竹山広]]、[[歌人]](+[[2010年]])
* [[1924年]] - [[ウラジーミル・クリュチコフ]]、[[政治家]](+ [[2007年]])
* 1924年 - [[アル・ローゼン]]、[[プロ野球選手]](+ [[2015年]])
* [[1928年]] - [[ジョス・アクランド]]、[[俳優]](+ [[2023年]])
* 1928年 - [[シーモア・パパート]]、[[数学者]](+ [[2016年]])
* 1928年 - [[兼高かおる]]、[[ジャーナリスト]](+ [[2019年]])
* [[1936年]] - [[アレックス・ロッコ]]、俳優(+ [[2015年]])
* 1936年 - [[アンリ・リシャール]]、アイスホッケー選手(+ [[2020年]])
* [[1940年]]<ref group="注釈">戸籍上は1941年2月28日生まれ。</ref> - [[原田芳雄]]、俳優(+ [[2011年]])
* 1940年 - [[ヴァルソロメオス1世]]、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンディヌーポリ全地総主教]]
* [[1944年]] - [[丹野清志]]、[[写真家]]
* 1944年 - [[デニス・ファリーナ]]、俳優(+ [[2013年]])
* [[1948年]] - [[赤川次郎]]、[[推理作家]]
* 1948年 - [[中野正志]]、政治家
* 1948年 - [[パトリシア・A・マキリップ]]、[[作家]](+ [[2022年]])
* 1948年 - [[ケン・フォリー]]、俳優
* [[1952年]] - [[男鹿和雄]]、[[アニメーション]][[美術監督]]
* 1952年 - [[峰竜太]]、タレント、俳優<ref name="March1st" group="注釈">戸籍上は同年3月1日生まれ。</ref>
* 1952年 - [[佐久間正英]]、ミュージシャン、[[音楽プロデューサー]](+ [[2014年]])<ref name="March1st" group="注釈" />
* 1952年 - [[ティム・パワーズ]]、作家
* [[1956年]] - [[辻畑鉄也]]、[[ミュージシャン]]
* 1956年 - [[伊地知温子]]、[[エレクトーン]]奏者
* [[1960年]] - [[平松広和]]、[[声優]]
* 1960年 - [[ハレド]]、[[ライ]]歌手
* [[1964年]] - [[羽仁未央]]、メディアプロデューサー(+ [[2014年]])
* [[1968年]] - [[飯島直子]]、[[俳優|女優]]
* 1968年 - [[三代純歌]]、演歌歌手
* 1968年 - [[日下千帆]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1972年]] - [[小谷元彦]]、彫刻家
* 1972年 - [[内田朱美]]、アナウンサー
* 1972年 - [[ペドロ・サンチェス]]、政治家、[[スペインの首相|スペイン首相]]
* [[1976年]] - [[ジョゼ・レジナウド・ビタウ]]、元[[サッカー選手]]
* 1976年 - [[ジャ・ルール]]、[[ラッパー]]
* 1976年 - [[福岡竜馬]]、[[福岡放送]]アナウンサー
* 1976年 - [[田島裕也]]、声優
* [[1980年]] - [[井川絵美]]、[[タレント]]
* 1980年 - [[大崎なる美]]、元[[AV女優]]
* 1980年 - [[辻村深月]]、[[小説家]]
* 1980年 - [[松本江里子]]、タレント
* 1980年 - [[柳井久代]]、声優、[[ナレーター]]
* 1980年 - [[イ・ファソン]]、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1980年 - [[クリスティン・フレイザー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1984年]] - [[今井りか]]、モデル
* 1984年 - [[吉岡聖恵]]、ミュージシャン([[いきものがかり]])
* 1984年 - [[ダレン・アンブローゼ]]、元サッカー選手
* 1984年 - [[石井一彰]]、俳優
* [[1988年]] - [[鈴木達矢]]、元サッカー選手
* [[1992年]] - [[笠原織人]]、俳優
* 1992年 - [[小林珠莉]]、タレント、元子役、モデル
* 1992年 - [[立花あんな]]<ref>{{Cite web|和書|date=2014-12-4 |url=http://m.a-p.mobi/feature/alicenosu/index02.html |title=第2回目は仮面女子:アリス十番の、桜のどか・立花あんながお届けします! |work=アリスプロジェクト連載「仮面女子の素。」 |publisher=EMTG |accessdate=2021-1-22}}</ref>、元アイドル(元[[アリス十番]])
* [[2000年]] - [[小川涼]]、女優、モデル
* 2000年 - 堀井梨穂、アイドル([[ひめキュンフルーツ缶]])
* [[2008年]] - [[松本麗世]]、モデル
* 生年非公開 - [[知念明希保]]、声優
== 忌日 ==
[[Image:Honen.jpg|thumb|180px|[[浄土宗]]開祖、[[法然]](1133-1212)没]]
* [[1004年]]([[長保]]6年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[藤原綏子]]、[[三条天皇]]の後宮(* [[974年]])
* [[1212年]]([[建暦]]2年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[法然]]、[[浄土宗]]開祖(* [[1133年]])
* [[1528年]] - [[パトリック・ハミルトン]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]の[[宗教改革]]指導者(* [[1504年]])
* [[1592年]] - [[アレッサンドロ・ストリッジョ (作曲家)|アレッサンドロ・ストリッジョ]]、[[作曲家]](* [[1540年]])
* [[1744年]] - [[ジョン・デサグリエ]]、科学者(* [[1683年]])
* [[1852年]]([[嘉永]]5年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[松平容敬]]、第8代[[会津藩|会津藩主]](* [[1806年]])
* [[1868年]] - [[ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ1世]]、[[バイエルン王国|バイエルン王]](* [[1786年]])
* [[1904年]] - [[アンリ・J・ペロタン]]、天文学者(* [[1845年]])
* [[1928年]] - [[後藤勇吉]]、[[飛行機]][[パイロット (航空)|操縦士]](* [[1896年]])
* [[1932年]] - [[ラモン・カザス]]、[[画家]](* [[1866年]])
* [[1940年]] - [[頼母木桂吉]]、[[逓信省|逓信大臣]]、[[東京市|東京市長]](* [[1867年]])
* [[1944年]] - [[ペール・スヴィンヒュー]]、[[フィンランドの大統領|フィンランド大統領]](* [[1861年]])
* [[1968年]] - [[ヒューゴー・ベニオフ]]、[[地震学|地震学者]](* [[1899年]])
* 1968年 - [[西田天香]]、[[宗教家]](* [[1872年]])
* [[1992年]] - [[カリンティ・フェレンツ]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]]、[[翻訳家]](* [[1921年]])
* [[2000年]] - [[松本英彦]]、[[サクソフォーン|サックス]]奏者(* [[1926年]])
* 2000年 - [[浅野輔]]、[[ニュースキャスター]]、[[翻訳家]](* [[1933年]])
* [[2004年]] - [[鏡里喜代治]]、[[大相撲]]第42代[[横綱]](* [[1923年]])
* 2004年 - [[渡辺範彦]]、[[ギタリスト]](* [[1947年]])
* [[2008年]] - [[ヴィタリー・フェドルチュク]]、第5代[[ソ連国家保安委員会]]議長(* [[1918年]])
* 2008年 - [[山田晶]]、[[哲学者]](* [[1922年]])
* 2008年 - [[高橋達也]]、サックス奏者(* [[1931年]])
* [[2012年]] - [[デイビー・ジョーンズ]]、歌手、俳優、[[モンキーズ]]のメンバー(* [[1945年]])
* [[2016年]] - [[ギルバート・R・ヒル]]、[[警察官]]、[[俳優]]、[[デトロイト市]]議(* [[1931年]])
* 2016年 - 吉川みき、[[シンガーソングライター]](* [[1964年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[世界希少・難治性疾患の日]]
: 毎年2月の最終日に世界中で行われるイベント、2008年2月29日、スウェーデンで世界初のRDD(レアディジーズディ)が開催された。
: 閏日(2月29日)は"希少"であるため、この日を記念して開催されている。平年では2月28日に開催される。
[[Image:All Garlic Ail Ajo.jpg|thumb|280px|[[ニンニク]]の日]]
* [[閏日]]({{World}})
*: 日本などでは2月29日を閏日としている。伝統的に[[2月24日]]を閏日とする地域もある。
* [[ニンニク]]の日({{JPN}})
*: 「にん(2)に(2)く(9)」の語呂合せ。
* [[富士急行|富士急]]の日({{JPN}})
*: 「ふ(2)じ(2)きゅう(9)」の語呂合せ。富士急行が[[2003年]]に制定<ref name="kase2009">{{cite book|和書|title=すぐに役立つ 366日記念日事典|author=日本記念日協会 編、加瀬清志 著|publisher=創元社|year=2009|page=36}}</ref>。
<!-- (↓番組だけで作った記念日なのでは?)
*[[継続]]の日
つ(2)づ(2)く(9)の語呂合わせ。「継続は力なり」の言葉にならって、4年に一度訪れる2/29に自分の目標への『継続』を再確認/誓い/改める日。
川崎FM「azami×十空 ふにゃっと。ふらっと。」(2011年4月〜2012年3月放送)の番組内で制定。
-->
<!--
* 第1回[[キン肉マン]]の日({{JPN}})※[[2008年]]のみ 1回のみのものは主旨と異なるような…
: [[2008年]]2月29日が[[金曜日]]になり、金(きん)・29(にく)→キン肉となることから。
: 『キン肉マン』生誕29周年を記念して制定された。
: 当初は[[金曜日]]になる2月29日を「キン肉マンの日」とする予定だったが、金曜日の2月29日は28年に1回だけであり、かつ連載開始の1979年は平年であった(そもそも1979年には2月29日が存在しない)ため、'''29日の金曜日'''を「キン肉マンの日」とした。第2回は[[2008年]][[8月29日]]。
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== フィクションのできごと ==
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* [[宇宙世紀|U.C.]]0088年 - [[第一次ネオ・ジオン抗争]]が始まる。(アニメ『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』)
* 年不詳 - 2月29日に謀殺された後、4年ごとの2月29日に現れる[[山田長政]]の亡霊と戦う。(アニメ『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第2シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1956年]] - 隠球四郎、アニメ『[[逆転イッパツマン]]』に登場するキャラクター<ref>逆転イッパツマン 第49話 球四郎は死んでいた</ref>
* [[1989年]] - [[ポチャッコ]](POCHACCO)、『[[サンリオ]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/character/pochacco/#char_profile |title=ポチャッコ |work=[[サンリオ]] |accessdate=2022-09-02}}</ref><ref>{{Cite book|title=SANRIO MEMORIES|publisher=サンリオ|date=2010-09-15|page=126}}</ref>
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]350年 - プリシス・F・ノイマン、ゲーム『[[スターオーシャン セカンドストーリー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=44|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - バク、『[[サンリオ]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/character/kuromi/?relation |title=かぞくやなかまたち バク |accessdate=2022-09-02 |publisher=[[サンリオ]] |work=クロミ}}</ref>
* 生年不明 - 張々湖(ちゃんちゃんこ/006)、漫画・アニメ『[[サイボーグ009]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishimoripro|1233568341203120128}}</ref>
* 生年不明 - [[この素晴らしい世界に祝福を!#紅魔族(こうまぞく)|ゆんゆん]]、ライトノベル・アニメ『[[この素晴らしい世界に祝福を!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|konosubaanime|1101140739155648513}}</ref>
* 生年不明 - [[本田速人]]、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』(集英社、2001年)68頁</ref>
* 生年不明 - [[日暮熟睡男]]、漫画・アニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』(集英社、2001年)93頁</ref>
* 生年不明 - パンダマン、漫画『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/anime/character/characters/pandaman |title=パンダマン |work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |accessdate=2022-09-02 |publisher=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - 不二周助、漫画『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[テニスの王子様]]|volume=10.5巻|author=[[許斐剛]]|publisher=[[集英社]]|page=76|year=2001|isbn=4-08-873193-X}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/tenipuri_staff/status/1233407767823749122 |url=https://twitter.com/tenipuri_staff/status/1233407767823749122 |website=Twitter |access-date=2022-07-05 |language=ja}}</ref>
* 生年不明 - [[NARUTO -ナルト-の登場人物#薬師カブト|薬師カブト]]、漫画『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year = 2002 |title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |page = 128 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-873288-X }}</ref><ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK』 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス|year=2005|page=157|isbn =4-08-873734-2}}</ref>
* 生年不明 - 伊江村八十千和、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=久保帯人|authorlink=久保帯人|year = 2006 |title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page = 119 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 4-08-874079-3 }}</ref>
* 生年不明 - 虎(茶虎柔:ちゃとらやわら)、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-16/ |title=虎 |publisher=僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=2022-09-02}}</ref>
* 生年不明 - 旧多二福、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|title=東京喰種トーキョーグール:re|volume=5巻|publisher=集英社|year=2015|ISBN=978-4-08-890331-6}}</ref>
* 生年不明 - ツェッド・オブライエン(Zed O'brein)、漫画・アニメ『[[血界戦線]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kekkai_pr|1498312043761487875}}</ref>
* 生年不明 - 真田幸村、漫画・アニメ『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 七尾奈緒、漫画・アニメ『[[あひるの空]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 埴之塚光邦、漫画・アニメ『[[桜蘭高校ホスト部]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 薗部篠、漫画・アニメ『[[三者三葉]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 芦屋睦月、漫画・アニメ『[[曇天に笑う]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 小野塚ひかり、漫画・アニメ『[[ヤマノススメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yamanosusume|1233712306535559168}}</ref>
* 生年不明 - 萩田朔、漫画『[[orange (高野苺の漫画)|orange]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 姫宮アンシー、アニメ『[[少女革命ウテナ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 一条シン、アニメ『[[KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kinpri.com/character/detail.php |title=一条シン |accessdate=2022-09-02 |publisher= |website=KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-}}</ref>
* 生年不明 - 如月ルヰ、アニメ『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kinpri.com/character/detail.php#louis |title=如月ルヰ |accessdate=2022-09-02 |publisher= |website=KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-}}</ref>
* 生年不明 - 霧羽香澄、ゲーム『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜|D.C. ~ダ・カーポ~]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ユウキ=テルミ、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite tweet|user=BLAZBLUE_PR|number=1233587698020962305|title=BLAZBLUE_PRのツイート(1233587698020962305)|accessdate=2022-09-02}}</ref>
* 生年不明 - 鳶倉アキヲ、ゲーム・アニメ『[[アイ★チュウ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.i-chu.jp/unit/ars/akio/ |title=鳶倉アキヲ |access-date=2022-09-02 |publisher=アイ★チュウ 公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 香田澄あまり、ゲーム『[[アイドルランドプリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite tweet|user=idolland_arts|number=1498070446293483521|title=idolland_artsのツイート|accessdate=2022-09-02}}</ref>
*生年不明 - ベネット、ゲーム『[[原神]]』に登場するキャラクター
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[閏日]]
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* [[3月0日]]
* [[複偶数]]
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1,801 | 大戦隊ゴーグルファイブ |
『大戦隊ゴーグルファイブ』(だいせんたいゴーグルファイブ)は、1982年2月6日から1983年1月29日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:30(JST)に全50話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローチームの名称。「スーパー戦隊シリーズ」第6作目。『大戦隊ゴーグルV』とも表記される。
本作品では、前作『太陽戦隊サンバルカン』を上回るべく娯楽性が追求された。主人公たちが『サンバルカン』で3人だったのに対して本作品で従来と同じ女性を含めた5人に戻ったのは、スポンサーの後楽園ゆうえんちから「3人ではショーが盛り上がらない」との要望があったからであり、放送当時の東映テレビ部による実写特撮が堅実な保守的要素による安定が重視される中で冒険心に満ちた革新性にも目を配っていたため、その意図の中で安定の要素を一手に担うため、スーパー戦隊シリーズで導入された。
本作品では、5人の変身後のスーツに初めて「黒」が明確な色分けとして登場した。「悪」を連想させる黒をヒーローの色に採用したのは、画期的な試みである。『秘密戦隊ゴレンジャー』や『電子戦隊デンジマン』で使われていた「緑」という色は赤、青、黄、桃と比べて子供受けが良くなかったことから、本作品では緑以外の新しい色が検討され、「黒」と「紫」が残ったが、印刷では「紫」は見栄えが悪いということになり、「黒」が採用された。春田は次作『科学戦隊ダイナマン』でもブラック戦士を演じ、後年のインタビューでも「自分がブラックのイメージを確立した」ことを誇りとともに回想している。
ゴーグルファイブは古代文明をモチーフとしているが、そうした要素はイラストによる表現のみで、映像的にも作劇上もさほど強調はされていない。主人公たちが軍事組織に所属していた『サンバルカン』との差別化のため、本作品の主人公たちは民間組織所属となり、当時はまだ家庭に普及していなかったコンピューターを扱える少年少女コンボイを登場させることで、大人ばかりのドラマにならないようにしている。
アクションは新体操をモチーフとしている。ボールやリング、クラブ、リボンといった新体操の手具が武器として用いられ、アクロバティックな動きの追求が行われて派手な画面作りに貢献した。これは、それまでにない変わったアクションを導入しようという東映プロデューサー鈴木武幸の意向によるものであり、「女性のスポーツなんて」と反対したスタッフも国士舘大学へ見学に行くことで新体操が激しいスポーツだと理解したといい、特撮のアクションに新体操のアクションを応用したものが取り入れられても充分に魅力的な絵作りが可能であるというものとなった。また、立ち回りをスローモーションで表現し、技が当たる瞬間だけコマ落としで表現するという独特の演出で、アクションを印象づけている。人数は5人に戻っているが、個人のアクションは前作と同様の大きな動きとなっており、これを両立するためカット割りは細かくなり、同一画面での5人の動きもより動的になっている。さらに、ワイヤーアクションやマスク合成なども多用している。
シリーズ定番となっていたスーツに付属するマフラーは、本作品が最後となった。
ゴーグルファイブ5人の名乗りのシーンの時間は42秒あり、戦隊シリーズ史上最も長いとされる。
ストーリーは、敵味方の内情を描くよりも1話毎の盛り上がりに重点が置かれており、明快な内容が児童層の好評を得る要因になったとされる。
第1話のドイツでのシーンは、実際にドイツロケを予定していたが、本郷博士役の仲谷昇がスケジュールの都合をつけられなかったため、実現には至らなかった。
巨大ロボットの合体シーンは、一見すると電動による変型に見えるほどスムーズなものだが、実はメカのプロップは一切モーターによるギミックが仕込まれておらず、すべてワイヤーワークにより行われている。また、これらのプロップに合わせる形で球場基地を作成したため、その外見は直径3メートルにも及ぶ巨大なものとなっている。
前作までの怪人が巨大化する展開との差別化のため、怪人(モズー)がロボット(コング)に乗るというアイデアが導入された。当初は両者がまったく異なるデザインであったが、これは予算がかさむという理由で第4話までに留まり、第5話からのコングはモズーのスーツにズボン状のコングの脚部を履かせることで表現されている。初期企画では、巨大ロボットを開発するイガアナ博士とザゾリヤ博士の競争に重点が置かれる予定であった。
企画の最初期には『未来戦隊ミライマン』という名称案があったが、これは名前がないと困るために用意された仮称であり、その後に『大戦隊ゴーゴーファイブ』に決まりかけたものの、「ゴーゴー」の部分が当時のホンダ製品と被ったため、語感の似ている『大戦隊ゴーグルファイブ』に決定した。劇中では、3機のメカがゴーグルロボに合体変形する際の掛け声「ゴーゴーチェンジ!」にその名残が見られる。なお、これらの没案はホンダ製品の生産が終了した後のシリーズ作品(1999年の『救急戦隊ゴーゴーファイブ』や2000年の『未来戦隊タイムレンジャー』)で活かされた。
スーパー戦隊シリーズのタイトルコールは本作品から始まったが、本作品と次作『ダイナマン』までは「戦隊」の部分を除いてメインタイトルのみをコールしているほか、主人公たちを演じた役者たちではなく主題歌を歌ったコーラスグループが担当している。
日本人の若き冒険家赤間健一はドイツ山中の洞窟を探検中に奇妙な竪穴を発見する。それは近くの古城の中に通じており、赤間はそこで謎の集団に襲われる初老の日本人紳士を助け出す。
紳士は未来科学研究所の本郷博士と名乗り、自分を襲っていたのは、人類の歴史の背後で暗躍を続けてきた暗黒科学帝国デスダークの集団であると語る。
やがてデスダークはその姿を人類の前に現わし、世界征服への進撃を開始した。本郷博士は彼らの野望を打ち砕くべく、赤間を含む5人の若者を戦士に任命した。
本郷博士が開発したゴーグルブレスを装着し変身した赤・黒・青・黄・桃の5色の戦士。本郷博士が事前にリストアップしていた人材から、コンボイが導き出した5人の民間人により構成されている。
集合時の名乗りは「戦え! 大戦隊ゴーグルファイブ!」。
民間人から選び抜かれた戦隊ではあるが、特別に隠密に結成された戦隊ではなかったため、次第にその存在と強さは浸透していき、第16話では完全に世間から頼れる存在として認知されていた。
デスダークとの戦いを終えた後は、コンボイたちに未来科学の発展を託し、いずこかに旅立っていった。
デスダークとの戦いに備えて、本郷博士が密かに選抜した5名の少年少女部隊のオペレーターたち。通称コンボイ。全員がコンピューター操作を得意としている。ゴーグルファイブを一対一対応でフォローし、敵の攻撃や所在地などを分析する。第1話ではゴーグルファイブ適格者を割り出し、達也を除く4名はスカウトに赴いた。普段は普通の小学生として生活、遊園地の電話ボックスを研究所への出入口として使用し、シューターを通る際に瞬時にユニフォーム姿に変身する。ユニフォームは、胸・肩・腹中央・ベルト部が白、それ以外は水色で構成され、男性用は全身レオタード状と黒ブーツ、女性用はミニスカートと白ブーツとなっている。
それまでのスーパー戦隊シリーズではバイクなどの専用マシンを変身前後問わず常用していたが、本作品からは変身前には市販のバイクや車を使い、変身後に専用のマシンに搭乗するようになった。
大昔から科学技術を悪用した悪魔の科学を用いて人類史に多くの厄災を招き、過去にいくつもの文明を滅ぼしたと言われる暗黒科学者の集団。その歴史は5,000年に及ぶと言われ、総統タブーと呼ばれる謎の支配者の下に初めて勢力が統一され、1980年代になって本格的な世界征服に乗り出している。暗黒科学の技術を結集して造られた浮遊要塞暗黒巨大城デストピアを本拠地とし、モズーと呼ばれる合成怪獣やコングと呼ばれる巨大ロボット、戦闘機デスファイターを繰り出す。
各キャラクターの身長・体重などの設定はない。
桃園ミキ役には、当初早坂あきよが起用されたが、3話まで撮影した時点で都合により降板が決まり、急遽代役としてモデル出身の大川めぐみが抜擢された。
竹田道弘は『宇宙刑事シャリバン』への移動、伊藤勝功は負傷を理由にそれぞれ途中交替している。次々作『超電子バイオマン』でブルースリーを演じる大須賀昭人は本作品が撮影現場デビューだが、面付け担当が本職でスーツに入るのはその合間の仕事だった。
前作までの主要スタッフのうちプロデューサーの吉川進、それに上原正三や高久進といった脚本家が、本作品とほぼ同時期に立ち上げられた『宇宙刑事ギャバン』に移動。これに伴い本作品では曽田博久がメインライターに就任しており、これ以降『地球戦隊ファイブマン』までの長きに渡り、プロデューサーの鈴木武幸と共に二人三脚でスーパー戦隊シリーズに深く携わることになる。
演出陣では『サンバルカン』より引き続き参加の東条昭平がメイン監督を務め、パイロット作品、劇場版、地方ロケ編などの主要なストーリーを担当した。また『バトルフィーバー』から撮影技師を務めていたいのくままさおが、本作品の中盤より本格的にスーパー戦隊シリーズへと参加している。
企画には『仮面ライダースーパー1』を担当していた阿部征司が参加。本作品で志向した明るい作風は、後に阿部が手がけた『星雲仮面マシンマン』にも継承された。
本放送当時発売されたのはシングルレコードと「ヒット曲集」のみであり、劇伴のサウンドトラックは番組終了後の1996年に、CD『大戦隊ゴーグルファイブ MUSIC COLLECTION』として初めて音盤化された。
当時の子供たちから強い支持を受け、シリーズ後半では視聴率が常時20パーセント以上を記録していたとされる。本作品の放映された1982年は玩具業界が戦後初のマイナス成長に終わった年であり、関連玩具は総体的には不振に終わったが、ゴーグルロボとゴーグルシーザーの売り上げは好調であり、本作品以降のシリーズ作品のマーチャンダイズにおいては、巨大メカの玩具がさらに重要視されるようになる。
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"text": "それまでのスーパー戦隊シリーズではバイクなどの専用マシンを変身前後問わず常用していたが、本作品からは変身前には市販のバイクや車を使い、変身後に専用のマシンに搭乗するようになった。",
"title": "ゴーグルファイブの戦力"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "大昔から科学技術を悪用した悪魔の科学を用いて人類史に多くの厄災を招き、過去にいくつもの文明を滅ぼしたと言われる暗黒科学者の集団。その歴史は5,000年に及ぶと言われ、総統タブーと呼ばれる謎の支配者の下に初めて勢力が統一され、1980年代になって本格的な世界征服に乗り出している。暗黒科学の技術を結集して造られた浮遊要塞暗黒巨大城デストピアを本拠地とし、モズーと呼ばれる合成怪獣やコングと呼ばれる巨大ロボット、戦闘機デスファイターを繰り出す。",
"title": "暗黒科学帝国デスダーク"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "各キャラクターの身長・体重などの設定はない。",
"title": "暗黒科学帝国デスダーク"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "桃園ミキ役には、当初早坂あきよが起用されたが、3話まで撮影した時点で都合により降板が決まり、急遽代役としてモデル出身の大川めぐみが抜擢された。",
"title": "キャスト"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "竹田道弘は『宇宙刑事シャリバン』への移動、伊藤勝功は負傷を理由にそれぞれ途中交替している。次々作『超電子バイオマン』でブルースリーを演じる大須賀昭人は本作品が撮影現場デビューだが、面付け担当が本職でスーツに入るのはその合間の仕事だった。",
"title": "キャスト"
},
{
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"text": "前作までの主要スタッフのうちプロデューサーの吉川進、それに上原正三や高久進といった脚本家が、本作品とほぼ同時期に立ち上げられた『宇宙刑事ギャバン』に移動。これに伴い本作品では曽田博久がメインライターに就任しており、これ以降『地球戦隊ファイブマン』までの長きに渡り、プロデューサーの鈴木武幸と共に二人三脚でスーパー戦隊シリーズに深く携わることになる。",
"title": "スタッフ"
},
{
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"text": "演出陣では『サンバルカン』より引き続き参加の東条昭平がメイン監督を務め、パイロット作品、劇場版、地方ロケ編などの主要なストーリーを担当した。また『バトルフィーバー』から撮影技師を務めていたいのくままさおが、本作品の中盤より本格的にスーパー戦隊シリーズへと参加している。",
"title": "スタッフ"
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"text": "企画には『仮面ライダースーパー1』を担当していた阿部征司が参加。本作品で志向した明るい作風は、後に阿部が手がけた『星雲仮面マシンマン』にも継承された。",
"title": "スタッフ"
},
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"text": "本放送当時発売されたのはシングルレコードと「ヒット曲集」のみであり、劇伴のサウンドトラックは番組終了後の1996年に、CD『大戦隊ゴーグルファイブ MUSIC COLLECTION』として初めて音盤化された。",
"title": "音楽"
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"text": "当時の子供たちから強い支持を受け、シリーズ後半では視聴率が常時20パーセント以上を記録していたとされる。本作品の放映された1982年は玩具業界が戦後初のマイナス成長に終わった年であり、関連玩具は総体的には不振に終わったが、ゴーグルロボとゴーグルシーザーの売り上げは好調であり、本作品以降のシリーズ作品のマーチャンダイズにおいては、巨大メカの玩具がさらに重要視されるようになる。",
"title": "放送日程"
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"text": "いずれも発売元は東映ビデオ。",
"title": "他媒体展開"
}
] | 『大戦隊ゴーグルファイブ』(だいせんたいゴーグルファイブ)は、1982年2月6日から1983年1月29日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:30(JST)に全50話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローチームの名称。「スーパー戦隊シリーズ」第6作目。『大戦隊ゴーグルV』とも表記される。 | {{半保護}}
{{移動保護}}
{{Pathnav|スーパー戦隊シリーズ|frame=1}}
{{注意|クレジットなどで確認できない[[スーツアクター]]の役柄を記載する場合には、'''必ず[[Wikipedia:信頼できる情報源|信頼可能な情報源]]からの[[Wikipedia:出典を明記する|出典を示してください]]。'''出典の無い情報については、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]に基づき一定期間ののち除去されるおそれがあります([[プロジェクト:特撮/スーツアクターの役名記載について]]での議論に基づく)}}
{| style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap"
|-
|colspan="3" style="background-color:#ffccff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[スーパー戦隊シリーズ]]'''
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第5作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[太陽戦隊サンバルカン|太陽戦隊<br />サンバルカン]]
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1981年2月<br />- 1982年1月
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第6作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''大戦隊<br />ゴーグルファイブ'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1982年2月<br />- 1983年1月
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第7作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[科学戦隊ダイナマン|科学戦隊<br />ダイナマン]]
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1983年2月<br />- 1984年1月
|}
{{基礎情報 テレビ番組
|番組名=大戦隊ゴーグルファイブ
|ジャンル=[[特撮]][[テレビドラマ]]
|放送時間=土曜 18:00 - 18:30
|放送枠=スーパー戦隊シリーズ
|放送分=30
|放送期間=[[1982年]][[2月6日]] -<br />[[1983年]][[1月29日]]
|放送回数=全50
|放送国={{JPN}}
|制作局=[[テレビ朝日]]
|放送局=[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
|企画={{Plainlist|
* [[碓氷夕焼]](テレビ朝日)
* [[吉川進]]
* [[阿部征司]](東映)
}}
|製作総指揮=
|監督=[[東條昭平|東条昭平]] 他
|演出=
|原作=[[八手三郎]]
|脚本=[[曽田博久]] 他
|プロデューサー={{Plainlist|
* 加藤守啓(テレビ朝日)
* [[鈴木武幸]](東映)
}}
|出演者={{Plainlist|
* [[赤木良次]]
* [[春田純一]]
* [[石井茂樹]]
* [[伍代参平]]
* [[大川めぐみ]]
* [[中庸助]]
* [[高橋利道]]
* [[吉田真弓]]
* [[西口久美子]]
* [[きくち英一]]
* [[仲谷昇]] 他
}}
|声の出演=[[依田英助]]
|ナレーター=[[大平透]]
|音声={{Plainlist|
* [[モノラル放送]]
* [[シネテープ]]
}}
|字幕=
|データ放送=
|音楽=[[渡辺宙明]]
|OPテーマ=「大戦隊ゴーグルV」<br />歌:[[MoJo]]、[[こおろぎ'73]]、[[ザ・チャープス]]
|EDテーマ=「ストップ・ザ・バトル」<br />歌:MoJo、こおろぎ'73、ザ・チャープス
|言語=[[日本語]]
|外部リンク=
|外部リンク名=
|特記事項=「[[スーパー戦隊シリーズ]]」 第6作
}}
{{external media|align=right|image1=[[:en:File:Goggle-V Title Card.jpg|タイトルロゴ|英語版Wikipedia]]}}
『'''大戦隊ゴーグルファイブ'''』(だいせんたいゴーグルファイブ)は、[[1982年]][[2月6日]]から[[1983年]][[1月29日]]まで、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]で毎週土曜18:00 - 18:30([[日本標準時|JST]])に全50話が放送された、[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作中で主人公たちが変身するヒーローチームの名称。「[[スーパー戦隊シリーズ]]」第6作目{{efn|『[[バトルフィーバーJ]]』を第1作としていた時期では第4作として扱われる{{R|全怪獣394}}。}}。『'''大戦隊ゴーグルV'''』とも表記される{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集46|全怪獣394|画報|taizen10|21st1}}}}。
== 概要 ==
本作品では、前作『[[太陽戦隊サンバルカン]]』を上回るべく娯楽性が追求された{{R|全怪獣394}}。主人公たちが『サンバルカン』で3人だったのに対して本作品で従来と同じ女性を含めた5人に戻ったのは、スポンサーの[[東京ドームシティアトラクションズ|後楽園ゆうえんち]]から「3人ではショーが盛り上がらない」との要望があったからであり{{R|taizen76}}、放送当時の東映テレビ部による実写特撮が堅実な保守的要素による安定が重視される中で冒険心に満ちた革新性にも目を配っていたため、その意図の中で安定の要素を一手に担うため、スーパー戦隊シリーズで導入された{{R|特撮全史}}。
本作品では、5人の変身後のスーツに初めて「黒」が明確な色分けとして登場した{{R|21st1|20th5}}。「悪」を連想させる黒をヒーローの色に採用したのは、画期的な試みである{{efn|『バトルフィーバーJ』のバトルケニアもスーツの外観は黒がベースになっているが、同作品では色ではなく国によるキャラクター分けをしていたため、武器には緑色で文字が施され、後付で「緑の戦士」扱いされることもあった。}}。『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』や『[[電子戦隊デンジマン]]』で使われていた「緑」という色は赤、青、黄、桃と比べて子供受けが良くなかったことから、本作品では緑以外の新しい色が検討され、「黒」と「紫」が残ったが、印刷では「紫」は見栄えが悪いということになり、「黒」が採用された{{R|taizen76}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 21世紀 vol.1 百獣戦隊ガオレンジャー』では、男児間で黒が人気の高い色であったためと記述している{{R|21st1}}。書籍『25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 上巻』ではAV機器にも使用され始めるなど身近にも浸透し始め、赤と同等かそれ以上に強い色であったためと記述している{{R|material29}}。}}。春田は次作『[[科学戦隊ダイナマン]]』でもブラック戦士を演じ、後年のインタビューでも「自分がブラックのイメージを確立した」ことを誇りとともに回想している{{R|199P}}。
ゴーグルファイブは古代文明をモチーフとしているが、そうした要素はイラストによる表現のみで、映像的にも作劇上もさほど強調はされていない。主人公たちが軍事組織に所属していた『サンバルカン』との差別化のため、本作品の主人公たちは民間組織所属となり、当時はまだ家庭に普及していなかったコンピューターを扱える少年少女コンボイを登場させることで、大人ばかりのドラマにならないようにしている{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集168|超世紀157|画報|taizen11}}}}。
アクションは[[新体操]]をモチーフとしている{{Refnest|group="出典"|{{R|全怪獣394|20th81|20th5|20th93}}}}。ボールやリング、クラブ、リボンといった新体操の手具が武器として用いられ、アクロバティックな動きの追求が行われて派手な画面作りに貢献した{{R|画報}}{{efn|ゴーグルピンクのスーツアクターを務めた[[竹田道弘]]は、実際に新体操の技術を身につけるわけではなく、武器を使う延長線上としてそれっぽく見せることはできたと述べている{{R|20th93}}。}}。これは、それまでにない変わったアクションを導入しようという東映プロデューサー鈴木武幸の意向によるものであり、「女性のスポーツなんて」と反対したスタッフも[[国士舘大学]]へ見学に行くことで新体操が激しいスポーツだと理解したといい、特撮のアクションに新体操のアクションを応用したものが取り入れられても充分に魅力的な絵作りが可能であるというものとなった{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|pp=10 - 11}}{{R|20th5|material29}}}}。また、立ち回りをスローモーションで表現し、技が当たる瞬間だけコマ落としで表現するという独特の演出で、アクションを印象づけている{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=54}}。人数は5人に戻っているが、個人のアクションは前作と同様の大きな動きとなっており、これを両立するためカット割りは細かくなり、同一画面での5人の動きもより動的になっている{{R|20th81}}。さらに、[[ワイヤーアクション]]やマスク合成なども多用している{{R|20th81}}。
シリーズ定番となっていたスーツに付属するマフラーは、本作品が最後となった{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=16}}。
ゴーグルファイブ5人の名乗りのシーンの時間は42秒あり、戦隊シリーズ史上最も長いとされる{{R|KKD4}}。
ストーリーは、敵味方の内情を描くよりも1話毎の盛り上がりに重点が置かれており、明快な内容が児童層の好評を得る要因になったとされる{{R|大全集168}}。
第1話のドイツでのシーンは、実際にドイツロケを予定していたが、本郷博士役の[[仲谷昇]]がスケジュールの都合をつけられなかったため、実現には至らなかった{{R|大全集168}}。
=== 特撮 ===
巨大ロボットの合体シーンは、一見すると電動による変型に見えるほどスムーズなものだが、実はメカのプロップは一切モーターによるギミックが仕込まれておらず、すべてワイヤーワークにより行われている{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=34}}。また、これらのプロップに合わせる形で球場基地を作成したため、その外見は直径3メートルにも及ぶ巨大なものとなっている{{R|taizen11|20th5}}。
前作までの怪人が巨大化する展開との差別化のため、[[#合成怪獣|怪人(モズー)]]が[[#巨大ロボット|ロボット(コング)]]に乗るというアイデアが導入された{{R|大全集168}}。当初は両者がまったく異なるデザインであったが、これは予算がかさむという理由で第4話までに留まり、第5話からのコングはモズーのスーツにズボン状のコングの脚部を履かせることで表現されている{{R|大全集168}}{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=77}}。初期企画では、巨大ロボットを開発するイガアナ博士とザゾリヤ博士の競争に重点が置かれる予定であった{{R|大全集168}}。
=== タイトル ===
企画の最初期には『未来戦隊ミライマン』という名称案があったが{{R|大全集168|超世紀157}}、これは名前がないと困るために用意された仮称であり、その後に『大戦隊ゴーゴーファイブ』に決まりかけたものの、「ゴーゴー」の部分が当時の[[本田技研工業|ホンダ]]製品と被ったため、語感の似ている『大戦隊ゴーグルファイブ』に決定した{{R|taizen10}}。劇中では、3機のメカがゴーグルロボに合体変形する際の掛け声「ゴーゴーチェンジ!」にその名残が見られる。なお、これらの没案はホンダ製品の生産が終了した{{R|taizen10}}後のシリーズ作品([[1999年]]の『[[救急戦隊ゴーゴーファイブ]]』や[[2000年]]の『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』)で活かされた。
スーパー戦隊シリーズのタイトルコールは本作品から始まったが、本作品と次作『ダイナマン』までは「戦隊」の部分を除いてメインタイトルのみをコールしているほか、主人公たちを演じた役者たちではなく主題歌を歌ったコーラスグループが担当している。
== あらすじ ==
日本人の若き冒険家'''赤間健一'''はドイツ山中の洞窟を探検中に奇妙な竪穴を発見する。それは近くの古城の中に通じており、赤間はそこで謎の集団に襲われる初老の日本人紳士を助け出す。
紳士は未来科学研究所の'''本郷博士'''と名乗り、自分を襲っていたのは、人類の歴史の背後で暗躍を続けてきた'''暗黒科学帝国デスダーク'''の集団であると語る。
やがてデスダークはその姿を人類の前に現わし、世界征服への進撃を開始した。本郷博士は彼らの野望を打ち砕くべく、赤間を含む5人の若者を戦士に任命した。
== 登場人物 ==
=== 大戦隊ゴーグルファイブ ===
本郷博士が開発したゴーグルブレスを装着し変身した[[赤]]・[[黒]]・[[青]]・[[黄色|黄]]・[[桃色|桃]]の5色の戦士。本郷博士が事前にリストアップしていた人材から、'''コンボイ'''が導き出した5人の民間人により構成されている。
集合時の名乗りは「'''戦え! 大戦隊ゴーグルファイブ!'''」{{R|20th6}}。
民間人から選び抜かれた戦隊ではあるが、特別に隠密に結成された戦隊ではなかったため、次第にその存在と強さは浸透していき、第16話では完全に世間から頼れる存在として認知されていた。
デスダークとの戦いを終えた後は、コンボイたちに未来科学の発展を託し、いずこかに旅立っていった{{R|group="ep"|50話}}。
; {{Visible anchor|{{読み仮名|赤間 健一|あかま けんいち}}|赤間健一}}
: 強靭な精神力と冷静沈着さを兼ね備えた若き世界的な[[探検家]]{{R|20th8|学研の図鑑58}}。普段は遊園地でパトロールを務めている{{R|学研の図鑑58}}。未知なるものにも臆さない不撓不屈の精神の持ち主で、仲間から頼られるリーダーでもある{{R|学研の図鑑58}}。
: ドイツアルプスにある狼の穴でデスダークに襲われている本郷博士に遭遇し、彼を救出し帰国後に戦士になった{{R|group="ep"|1話}}。
: 昔、犬を飼っていた{{R|group="ep"|32話}}。ロッククライミングが得意で{{Sfn|赤の伝説|2012|p=35}}、空手の達人{{R|20th8}}。変身前にも、ロープを武器に戦うこともある。
: 普段はオンロードバイクや赤いスポーツカーを運転している{{Sfn|赤の伝説|2012|p=35}}。
:; {{Visible anchor|ゴーグルレッド}}
:: 赤間健一が変身する戦士{{R|20th8}}。額にあしらわれた[[ルビー]]と[[レリーフ]]は、[[アトランティス]]文明を象徴している{{R|20th8|学研の図鑑58}}。
:: 剣道の技やレッドロープを用いた立体的な攻撃を得意とする{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|完全超百科|2006|p=20}}{{R|20th8|学研の図鑑58}}}}。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|黒田 官平|くろだ かんぺい}}|黒田官平}}
: 優れた頭脳と卓越した身体能力を持つ東都大学[[将棋]]部部長{{R|20th10|学研の図鑑58}}。普段は遊園地の乗り物のメンテナンスを務めている{{R|学研の図鑑58}}。
: 理知的で沈着冷静な性格の作戦参謀を務めるサブリーダーだが{{R|20th10}}、時に悪に対して怒りをあらわにする恐れ知らずの熱血漢の一面も持っている{{R|20th10|学研の図鑑58}}。
: 劇中では変身不能の状況に陥ることが三度もあったが、生身でも諦めずに戦い抜いた{{R|group="ep"|26話|29話|42話}}。変身前は、[[将棋の駒]]を投擲用の武器として使うことも多い{{R|20th10}}。
:* 『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』の新命明 / アオレンジャーがクールでニヒルなキャラクターと設定されていたが、それをより現代的に進化させたキャラクターであったため、レッドを凌ぐ人気で視聴者に抵抗なく受け入れられた{{R|material29}}。
:; {{Visible anchor|ゴーグルブラック}}
:: 黒田官平が変身する戦士{{R|20th10}}。額の[[エメラルド]]とレリーフは、[[古代インド|古代アジア文明]]を象徴している{{R|20th10|学研の図鑑58}}。
:: 素早い動きの忍者的戦法とダイナミックなキック技やアクション攻撃を得意とする{{Refnest|group="出典"|{{R|20th10}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=23}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=14}}}}。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|青山 三郎|あおやま さぶろう}}|青山三郎}}
: ひ弱で泣き虫だった自分を不屈の精神力で鍛えてきた、努力家の[[アイスホッケー]]の花形選手{{R|20th12|学研の図鑑58}}。普段は遊園地の売店店員を務める{{R|20th12|学研の図鑑58}}。
: 明るく大らかな性格で、子供たちから兄貴分として慕われている{{R|20th12|学研の図鑑58}}。機械いじりが好きで{{R|学研の図鑑58}}、自動車の運転が上手い{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=23}}。
:; {{Visible anchor|ゴーグルブルー}}
:: 青山三郎が変身する戦士{{R|20th12}}。額の[[サファイア]]とレリーフは、[[古代エジプト|エジプト文明]]を象徴している{{R|20th12|学研の図鑑58}}。
:: 身軽で瞬発力を生かしたダッシュ戦法とジャンプ戦、キック技が得意{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=23}}{{R|20th12|学研の図鑑58}}}}。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|黄島 太|きじま ふとし}}|黄島太}}
: 鉱山師として全国を放浪していた経験もある、[[動物園]]の飼育係{{R|20th14}}。普段は遊園地のお化け屋敷などのアトラクションで働いている{{R|20th14|学研の図鑑58}}。遊園地のマスコットキャラ'''ドン・チャック'''に扮装することもある{{R|学研の図鑑82}}。
: 気さくでユーモアな性格のムードメーカー{{R|20th14}}。「動物が好きな人には悪い奴はいない」を信条としている{{R|学研の図鑑82}}。
: ゴーグルファイブで一番の力持ちである他、聴力が非常に優れている{{R|20th14|学研の図鑑58}}。大食漢であり{{R|学研の図鑑58}}、デスダークに食べ物で誘惑されレッドを攻撃したこともある{{R|20th14}}。
: 変身前はスクーターに乗っている{{R|20th14}}。
: 子供のころに行方不明となった父親・壮一を探すために父と同じ山師になり、20年ぶりの再会を果たすが、壮一が20年前にデスダークの調査を始めたころの本郷の唯一の理解者であり良き片腕であった事実を知り、デスダークを倒すまで、親子であることを隠し胸に秘める決意をした{{R|group="ep"|13話}}。
:; {{Visible anchor|ゴーグルイエロー}}
:: 黄島太が変身する戦士{{R|20th14}}。額の[[オパール]]とレリーフは、[[ムー大陸|ムー文明]]を象徴している{{R|20th14|学研の図鑑58}}。
:: 怪力を活かしたパンチとキックや投げ技などの肉弾アクションを得意とする{{R|20th14|学研の図鑑58}}。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|桃園 ミキ|ももぞの ミキ}}|桃園ミキ}}
: 紅一点で[[新体操]]の選手で{{R|20th16}}、チャンピオンのキャリアを持つ{{R|学研の図鑑58}}。普段は遊園地の園内[[アナウンス]]を担当{{R|20th16|学研の図鑑58}}。
: 芯が強さと清らかな心を併せ持った持ち主で、敵味方問わず困った人を放置出来ない優しさを見せる{{R|20th16|学研の図鑑58}}。
:; {{Visible anchor|ゴーグルピンク}}
:: 桃園ミキが変身する戦士{{R|20th16}}。額の[[ダイヤモンド|ダイヤ]]とレリーフは、[[マヤ文明|マヤ]]・[[インカ帝国|インカ文明]]を象徴している{{R|20th16|学研の図鑑58}}。
:: 新体操で培った柔軟な動きを得意とする{{R|20th16}}。
=== 研究所スタッフ ===
; {{Visible anchor|{{読み仮名|本郷博士|ほんごう はかせ}}|本郷博士}}
: 第1 - 2話、第49 - 50話に登場。未来科学研究所の最高責任者。
: 物語の始まる20年前からデスダークの存在に気付き、ゴーグルファイブ結成の準備を行っていた。ゴーグルファイブとコンボイに後を託して研究所を去り{{R|group="ep"|2話}}、世界中で研究を続けていたが、終盤に再登場し、基地を失ったゴーグルファイブを第二研究所に案内する{{R|group="ep"|49話}}。
:* 初期企画『大戦隊ゴーゴーV』では本郷秀樹というフルネームが設定されていた{{R|大全集168}}。資料によってはこの名称を用いている{{R|20th6|学研の図鑑58}}。
; {{読み仮名|若木 みどり|わかぎ みどり}}
: 本郷博士の助手。
: 第22話で本郷博士のもとに旅立つことになり、仲間たちに見送られながら旅立った{{R|group="ep"|22話}}。旅立つ前にはミキとさゆりと共に服を買いに行くシーンが描かれた{{R|group="ep"|22話}}。
; {{読み仮名|山本 さゆり|やまもと さゆり}}
: 本郷博士の助手。
: 本郷が旅立った後も研究所に残り、コンボイやみどりと共にゴーグルファイブをサポートする。
: さゆりとみどりは第1話から第5話までは研究所内でも私服を着用していたが、第6話からは制服(ブレザー・ネクタイ・ブラウスなど)を着用するようになった。
=== コンピューターボーイズ&ガールズ ===
デスダークとの戦いに備えて、本郷博士が密かに選抜した5名の少年少女部隊のオペレーターたち{{R|material24|学研の図鑑58}}。通称'''コンボイ'''。全員がコンピューター操作を得意としている。ゴーグルファイブを一対一対応でフォローし、敵の攻撃や所在地などを分析する。第1話ではゴーグルファイブ適格者を割り出し、達也を除く4名はスカウトに赴いた。普段は普通の小学生として生活、遊園地の電話ボックスを研究所への出入口として使用し、シューターを通る際に瞬時にユニフォーム姿に変身する。ユニフォームは、胸・肩・腹中央・ベルト部が白、それ以外は水色で構成され、男性用は全身レオタード状と黒ブーツ、女性用はミニスカートと白ブーツとなっている。
* 企画書では、ゴーグルファイブとの交流の中でコンボイたちの成長を描くことがシリーズの縦軸として想定されていたが、実際の作品ではゴーグルファイブ内での関係性やゲストの少年少女との交流が重視されていったため、ゴーグルファイブとコンボイの関わりが描かれることは少なかった{{R|超世紀157}}。
; {{読み仮名|上田 達也|うえだ たつや}}
: コンボイのリーダー格で、レッドをフォローする。12歳{{R|20th6}}。強い正義感と精神力の持ち主。
: 第40話では「記憶抽出回路」で記憶を引き出され、研究所へ行く途中に団子屋やおもちゃ屋に寄り道していたことが判明、大恥をかかされた。
; {{読み仮名|竹中 誠|たけなか まこと}}
: ブラックのフォロー役。10歳{{R|20th6}}。
: いたずら好きだが頭が良く、スカウトに赴いた黒田の前で鋭い将棋の手を打ち、黒田を感心させた。
: 同じコンボイの大介を始め、「ウソツキマーボー」こと正彦{{R|group="ep"|10話}}や井上マサル{{R|group="ep"|37話}}らと同級生。
; {{読み仮名|島田 春男|しまだ はるお}}
: ブルーのフォロー役。コンボイでは最年少の8歳で{{R|20th6}}、一番小柄。
: おしゃべりでしっかり者だが、ブルーがピンチになると泣き出すのが欠点。人なつっこい性格で正義感も強いが、少々思い込みが激しい。
; {{読み仮名|大山 大介|おおやま だいすけ}}
: イエローのフォロー役。10歳{{R|20th6}}。
: 黄島同様太り気味で、食べることが大好き。時々研究所内のキッチンに無断侵入して料理を作り、みどり・さゆりらに叱られることがある<ref group="ep">第10話など。</ref>。
: 第19話ではデスダークが作ったお化けに震え上がった。
; {{読み仮名|相沢 あかね|あいざわ あかね}}
: コンボイの紅一点で、ピンクのフォロー役。12歳{{R|20th6}}。
: 他人の苦しみを自分のこととして感じる、ミキ以上の優しい性格で、第4話ではフォローミスからミキを負傷させ、強いショックを受けた。
== ゴーグルファイブの戦力 ==
=== 共通の装備・能力 ===
; ゴーグルブレス{{R|gahou124|20th6}}
: 赤間たちが右腕に装備している変身兼通信用のブレスレット{{R|20th6}}。それぞれナンバリングが施されている。
: 一定のポーズとともに、5人同時の場合は「ゴーグルファイブ」、単独などの場合は自分のコードネームを発声することで、変身を完了する。破壊されても、基地で新しいブレスを作ることが可能。ブレスをつけた右腕を負傷すると変身できなくなる。また、変身者以外の者がこれを使用すると高圧電流が流れる仕組みになっている。
:* 当初の撮影用プロップは大きすぎたために作り直しとなり{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=77}}、第8話から小型化した{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=57}}。
:* 戦隊シリーズで初めて商品化された変身ブレスレットでもある{{R|RS}}。
; ゴーグルスーツ{{Refnest|group="出典"|name="goggles"|{{R|taizen30|gahou124|20th6}}}}
: 変身時に装着する強化服。鋼鉄よりも丈夫で、伸縮する特殊な材質を使っているため、動きやすくできている。
: スーツ各所に内蔵された装置や内線の働きで、スーツ装着者の体を1,000度以上の高熱や、マイナス200度以下の寒冷などの激しい温度変化から守り{{R|20th6}}、脚力とキック力を増強させるほか、左胸のシンボルマークのメタボライザーコントロールで10時間以上の連続潜水ができる。マスクには、過去に滅びた5つの古代文明の象徴である[[宝石]]とレリーフがある。
: ダメージを受けると、スーツに流れているエネルギーがスパークするという欠点もある。
; ゴーグルサーベル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|taizen30|gahou124|20th6}}}}
: メンバー全員が右腰に携帯している武器。伸縮自在の3段ロッド式{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=22}}。FSI合金製{{R|20th6}}。戦闘参加への前振りとしてモズーに向かって投げつけるのが、主な攻撃方法である。日本刀に変形可能{{R|20th6}}。青い発光を伴う'''スパークサーベル'''{{Refnest|group="出典"|name="goggles2"|{{R|taizen30|gahou124|20th22}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''フラッシュサーベル'''と表記している{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。}}は実体の無い敵や暗闇の敵を斬ることができるほか{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}、その強化版の'''電光サーベル'''{{R|group="出典"|goggles2}}は幻影世界を破ることができる。サーベルのグリップには、各人の専用武器がそれぞれ5人分圧縮収納されている{{R|20th6}}。
: 第34話でハイネオメタル製になり、改造強化された。
; ゴーグルロープ{{Refnest|group="出典"|name="goggles3"|{{R|大全集208|taizen30|gahou124|20th22}}}}
: ゴーグルレッドから渡されるロープ。
; ゴーグルクラブ{{R|group="出典"|goggles3}}
: ゴーグルブラックから渡されるクラブ。
; ゴーグルリング{{R|group="出典"|goggles3}}
: ゴーグルブルーから渡されるリング。
; ゴーグルボール{{R|group="出典"|goggles3}}
: ゴーグルイエローから渡されるボール。
; ゴーグルリボン{{R|group="出典"|goggles3}}
: ゴーグルピンクから渡されるリボン。
; ゴーグルアイ{{R|group="出典"|goggles}}
: 強化スーツのマスクが備える機能。透視能力や望遠能力を持つ{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。
; 隊員ヘルメット{{R|20th6}}
: 2クール目以降赤間たちが着用した。色は白を基調としており、変身者の色ごとに分けられている。劇中は赤間はオンロードバイクでパトロールに出向く時に着用し、他のメンバーに関しては青山と黄島が携帯ロケットの実験飛行時に着用したのみである。
; その他
: 変身した状態からさらにコスプレ姿の変身前の状態に一時的に変身して合成獣やマダラマンと戦う戦法を得意とし、サボテンモズー戦ではピンクがフラメンコダンサーのミキに変身し、ヤマアラシモズー戦ではガンマンに、テングモズー戦では天狗に扮している。いずれもゴーグルファイブの姿に戻る際は変身ポーズを取らず、瞬時に戻っている。
: バクモズー戦では、赤間が侍に、黒田が中国武術の達人に、青山がアメリカンフットボールの選手に、黄島がメキシコ風のガンマンに、桃園が婦人警官に扮している。
=== 個人武器・技 ===
; ゴーグルレッド
:; レッドロープ{{Refnest|group="出典"|name="red"|{{R|大全集46|taizen21|gahou126|30大229|20th8}}}}
:: ゴーグルレッドが使う縄。これを高所に巻きつけ、それにぶら下がってターザンのように敵にキックする'''クライミングアタック'''{{R|taizen21|gahou126|20th8}}(別名・クライミングキック{{R|taizen21|gahou126}}・ゴーグルクライミングでクライミングキック{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}})、ロープを釣り針にして敵を釣り上げる'''釣り針ロープ'''{{R|gahou126|20th8}}(シーラカンスモズーに使用)という技がある。
:; レッドルビームチ{{R|group="出典"|red}}{{efn|資料によっては、名称を'''レッドロープ'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}、'''レッドロープむち'''{{R|material24}}と表記している。}}
:: レッドロープをルビーエネルギーで強化させた[[鞭]]{{R|20th8}}。敵に巻き付けてサーベルのエネルギーをロープに走らせて、電撃によるダメージを与えることができる{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。
:; レッドパンチ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集208|taizen21|gahou126|20th8}}}}
:: ルビーエネルギーを拳に集中させ、敵に炸裂させるパンチ。三段階に分けて攻撃する'''トリプルパンチ'''{{R|20th8}}やジャンプしながら放つ'''レッドスカイパンチ'''{{R|group="ep"|50話}}もある。
:; レッドキック
:: 飛び蹴り。ゾウガメモズーに使用したが、効かなかった。
:; レッドルビー光線{{Refnest|group="出典"|name="red2"|{{R|taizen21|gahou126|20th8}}}}
:: 額から照射する治癒光線{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。第42話で黒田の腕の傷を治療した。完治はできない{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。
:; レッド風車{{R|group="出典"|red2}}
:: 空中で大の字になって回転しながらルビーのエネルギーを放出する{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。第46話で使用。
:
; ゴーグルブラック
:; ブラッククラブ{{Refnest|group="出典"|name="black"|{{R|大全集46|taizen23|gahou126|30大229|20th10}}}}
:: ゴーグルブラックが使う[[棍棒]]。2本1組の武器で、高速で敵の頭を連続攻撃する'''ブラッククラブ乱れ打ち'''が得意技。
:; ブラックエメラルドヌンチャク{{R|group="出典"|black}}
:: ブラッククラブをエメラルドエネルギーで強化させた[[ヌンチャク]]{{R|20th10}}。2本の棒を鎖でつないだヌンチャクの特性を活かして、敵の攻撃を受け止めたり、振り回して敵を打ち倒す。
:; アイアンアーム{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou126|30大229|20th10}}}}{{efn|書籍『ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全』では名称を'''ブラックアイアンアーム'''と記述している{{R|taizen23}}。}}
:: ゴーグルブラックが両腕に装着する、トゲ付きの篭手。これを装着した状態で両手を突き出して突進する'''アイアンアタック'''という技がある。
:; ブラックシャドウ{{Refnest|group="出典"|name="black2"|{{R|taizen23|gahou126|20th10}}}}(ブラックシャドー{{R|大全集46}})
:: 敵の影に隠れて奇襲をかける{{R|20th10}}。自分の影の中にも入り込める{{R|20th10}}。
:; ブラック闇走り{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集208|taizen23|gahou126|20th10}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''ブラックやみばしり'''と表記している{{Sfn|完全超百科|2006|p=20}}。}}
:: 周囲の光を吸収して闇に変え、敵を襲う{{R|20th10}}。
:; ブラック将棋拳法{{R|group="出典"|black2}}
:: 将棋を応用した拳法技。'''飛車突き'''・'''角突き'''・'''王手'''の順で攻撃する{{R|20th10}}。
:; スクリューキック{{R|group="出典"|black2}}
:: 体をねじらせながら飛び蹴りする。
:; ブラック風車蹴り{{R|20th10}}
:: 風車のように空中回転しながら敵を蹴る。
:; ブラック燕返し{{R|20th10}}
:: 宙返りしながら二人の敵に同時に飛び蹴りを食らわせ、その反動でさらに宙返りして着地する。
:; ブラック風車旋風{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集46|gahou126|20th10}}}}
:: 敵の懐にバック転しながら高速で駆け抜け、複数の敵を薙ぎ倒す。
:; ブラック分身{{R|taizen23|20th10}}
:: エメラルドの力で数人の黒子・ブラックジュニアを作り出し、敵を叩きのめす。第45話で使用。
:; エネルギー発信機{{R|20th10}}
:: 第16話で黒田が開発したエネルギー反応を発する発信機。あらゆるエネルギーを吸収するヒトデモズーのヒトデメカを引き付け、モズー自身に投げつけて同士討ちを誘った。
:; 音波発信機{{R|20th10}}
:: 7200ヘルツの特殊音波でハイエナ人間やハイエナ軍団を操るハイエナモズーに対抗して開発した発信機。ハイエナモズーの音波を無効化する。
:
; ゴーグルブルー
:; ブルーリング{{Refnest|group="出典"|name="blue"|{{R|大全集46|taizen25|gahou126|30大229|20th12}}}}
:: ゴーグルブルーが使う輪。敵の腰に引っ掛け、高速回転させて倒す'''リング腰砕け'''{{R|大全集46|gahou126|20th12}}{{efn|資料によっては、名称を'''リングこしくだけ'''と表記している{{Sfn|完全超百科|2006|p=20}}。}}、体に引っ掛けたまま前転して敵を倒していく'''ブルー大車輪'''{{R|20th12}}(別名・リング車輪)、リングをブーメランのように投げ付ける'''ブルーリング銀河回し'''(別名・リング回し)、リングを2つ投げつけて敵の両腕を封じる'''リング車輪'''{{R|gahou126}}(別名・ダブルリング{{R|taizen25|20th12}})、2つのリングを自分の首にかけながら回転して周囲の敵をなぎ倒す'''ダブルリングバタフライ'''{{R|20th12}}、リングを転がして前方の敵をなぎ倒す'''リングローリング'''{{R|20th12}}、フラミンゴの構えからリングをブーメランのように投げる'''リングフラミンゴ'''{{R|taizen25|20th12}}、リングを持ってブルー自ら高速回転する'''ブルードラゴン'''{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen25|gahou126|20th12}}}}といった多彩な技がある。
:; ブルーサファイヤジェットリング{{R|group="出典"|blue}}{{efn|資料によっては、名称を'''ブルーサファイアジェットリング'''と記述している{{Refnest|group="出典"|{{R|material24}}{{Sfn|完全超百科|2006|p=20}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=14}}}}。}}
:: ブルーリングをサファイヤエネルギーで強化させた特殊リング{{R|20th12}}。[[花火|ネズミ花火]]のように火を噴きながら高速回転で空中を飛び回り、敵を蹴散らす。
:; 携帯ロケット{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen25|gahou126|30大229}}}}
:: 青山が第38話で発明したバックパック型の小型噴射ロケット。リモコンで遠隔操作する。高度1,000メートル、時速200キロで飛行できる計算だったが、出力が不安定ですぐに墜落する。サイモズーに奪われて悪用されたが、2機目を開発してサイモズーとの再戦に使用した。事件解決後に実験を再開するも失敗、それ以降登場していない。
:; ブルージェットダッシュ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集46|taizen25|gahou126|20th12}}}}
:: 敵の間を超スピードで走り抜ける{{R|20th12}}。
:; ジェットキック{{R|gahou126|20th12}}
:: 体をねじらせながら、空中からキックする{{R|20th12}}。
:; ブルー風車旋風{{R|20th12}}
:: ブラック風車旋風のようにバック転をしながら高速で駆け抜けることで敵を薙ぎ倒す。
:; スピンキック{{R|taizen25|20th12}}
:: 敵の足元を狙った、高速スピンしながらのキック{{R|20th12}}。
:; カンガルーキック{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen25|gahou126|20th12}}}}
:: カンガルーの構えからスライディングしてキックを食らわす{{R|20th12}}。
:; フラミンゴキック
:: フラミンゴの構えでキックを食らわす。別名'''水平蹴り'''。
:
; ゴーグルイエロー
:; イエローボール{{Refnest|group="出典"|name="yellow"|{{R|大全集46|taizen27|gahou126|30大229|20th14}}}}
:: ゴーグルイエローが使う[[ボール]]。巨大化させて転がす'''スーパーボール'''{{Refnest|group="出典"|name="yellow2"|{{R|taizen27|gahou126|20th14}}}}という技がある。
:; イエローオパールメガトンボール{{R|group="出典"|yellow}}
:: イエローボールをオパールエネルギーで強化させたトゲ付きの巨大ボール。地面を叩いて地震を起こすことも可能{{R|group="ep"|13話}}。これを振り回して投げつける'''スクリュー投げ'''{{R|20th14}}という技があり、第44話で使用。
:; イエローハンマー{{R|大全集208|taizen27|gahou126|30大229|20th14}}
:: 巨大な黄色いトンカチ。地面を叩いて地震を起こすことも可能。地中の敵が出てきたところを攻撃する'''イエローもぐらたたき'''{{R|大全集46}}という技がある{{efn|劇場版では'''ジャイアントモグラ叩き'''と呼称している{{R|taizen27}}。}}。
:; イエロー穴掘り{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集46|taizen27|gahou126|20th14}}}}
:: 両手に装着したメリケンサック状の爪で地中を掘り進む{{R|20th14}}。
:; イエローアタック{{R|20th14}}
:: 加速しての体当たりを連続で食らわす{{R|20th14}}。
:; イエロータックル{{R|group="出典"|yellow2}}
:: 張り手をしながら突進する。第44話で使用。
:; 二段投げ{{R|gahou126}}(イエロー二段投げ{{R|20th14}})
:: 柔道の肩車のような投げ技を二連続で掛けて左右に叩き付ける。
:; イエロー風車投げ{{R|20th14}}
:: 巴投げを決める。複数の敵を投げられる。
:
; ゴーグルピンク
:; ピンクリボン{{Refnest|group="出典"|name="pink"|{{R|大全集46|taizen29|gahou126|30大229|20th16}}}}
:: ゴーグルピンクが使う[[リボン]]。敵を縛り上げる'''ピンクリボン締め'''{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集46|gahou126|20th16}}}}、波打たせてカーテンを作り、敵の攻撃を防ぐ'''リボンカーテン'''{{R|大全集208}}、なびかせて攻撃する'''リボンシャワー'''{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen29|gahou126|20th16}}}}、旋風を起こして飛び道具も跳ね返す'''リボン旋風'''{{R|taizen29}}、渦状に巻き、投げつけた煙幕を散布させる'''煙幕散らし'''{{R|大全集208}}、リボンを使用する際に舞って敵を威嚇する'''スカイハイ'''{{R|20th16}}、敵を締め付けて電撃を放つ'''ピンクリボンスパーク'''{{R|20th16}}、リボンを二つ持って攻撃する'''ピンクダブルリボン'''{{R|20th16}}(トラモズーに使用)、リボンを操りながら、リボンからのスパークで攻撃する'''ピンクフラワーリボン'''(トラモズーに使用)といった、多彩な技がある。
:; ピンクダイヤバトン{{R|group="出典"|pink}}
:: ピンクリボンをダイヤエネルギーで強化させた[[バトン]]。サーベルのように使う。最終回ではベラを倒した。サルモズーの若返りの薬放出を防いだ'''ゴーグルバトンシャワー返し'''という技がある。
:; ピンクミラー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集208|taizen29|gahou126|30大229|20th16}}}}
:: ゴーグルサーベルが変形した、敵の光線を反射する手鏡。第14話のみの登場。アンコウモズーのヒートビームに破られるが、世界的なレンズ磨きの名人の神谷鏡太郎が磨くことによって反射する力と輝きが強化され{{R|学研の図鑑58}}、ヒートビームを打ち破った。
:; ピンクハート催眠{{R|group="出典"|pink}}
:: 指から出すハート形の光線で、敵を眠らせたり、幻影を見せる。
:; ピンク旋風{{R|20th16}}
:: ピンク以外の4人が手を組み、ピンクを空中に放り投げ、空中でピンクが回転する。ヤドカリモズーの骨抜きガスを防いだ。
=== 必殺技・合体技 ===
; ゴーグルビクトリーフラッシュ{{Refnest|group="出典"|name="goggles4"|{{R|大全集50|taizen30|gahou124|30大230|20th22}}}}
: 5人がやぐらを組み、ゴーグルサーベルからV字状に宝石エネルギーを集中させ、強力光線を照射する{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|完全超百科|2006|p=19}}{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=15}}}}。シリーズ前半の決め技として使用された。
; ゴーグルゴールデンスピア{{R|group="出典"|goggles4}}
: 強化型ゴーグルサーベルを合体させた黄金の槍。ゴーグルサーベルを合体させて形成、5人でスピアを軸に[[大車輪]]した後、ゴーグルレッドが槍を持ち、他の4人が組んだやぐらを踏み台にジャンプして敵に投擲する。第34話で体がネオメタル金属原子で出来ているためにゴーグルビクトリーフラッシュの効かないワニモズーを倒して以後、決め技となった。最終話では、レッドがこれを持ったまま全員で連なって回転しながら敵に突進する'''スピア風車'''{{R|gahou124|20th22}}でデスマルク大元帥の暗黒剣を破って倒した。
; イナズマロープ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集46|taizen30|gahou124|30大230}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''レッドイナズマロープ'''と記述している{{Sfn|完全超百科|2006|p=20}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=22}}。}}
: 5本のゴーグルロープから電撃を放つ。
; ゴーグルクライム{{R|20th22}}
: 5本のゴーグルロープを高所に引っ掛け、ロープを短くして体を引き上げる。
; クライミングキック{{R|20th22}}
: 5本のゴーグルロープを引っ掛けてからターザンのように掴まり、同時にキックする。
; ダイナマイトクラブ{{Refnest|group="出典"|name="goggles5"|{{R|大全集46|taizen30|gahou124|30大230|20th22}}}}
: 5組10本のゴーグルクラブを敵に向かって投げつける。クラブは命中すると爆発する。クラブが爆発しない'''クラブアタック'''という技もある。
; リングスピンタイフーン{{Refnest|group="出典"|name="goggles6"|{{R|大全集208|taizen30|gahou124|30大230|20th22}}}}
: 5本のゴーグルリングを回転させながら投げつけ、敵の視覚を混乱させる。
; リングシャボン玉返し{{R|20th22}}
: 5本のゴーグルリングを高速回転させ、カニモズーの泡を跳ね返した。
; 電光ボール{{R|group="出典"|goggles5}}
: 5つのゴーグルボールを放電させながら投げつける。
; リボンスパーク{{R|group="出典"|goggles6}}
: 5本のゴーグルリボンで敵の動きを封じたのちにリボンを伝わらせて電撃を放つ。
; ゴーグルリボンくすぐり責め{{R|20th22}}
: 5本のゴーグルリボンで敵をくすぐる。サメモズーの涙爆弾を封じるために使用。
; リボンアタック
: 5本のゴーグルリボンでリボンシャワーを同時に放つ。
; リボンタイフーン{{R|20th22}}
: 5本のゴーグルリボンを振りかざし、突風を起こす。
; ゴーグルリボンシャワー返し{{R|20th22}}
: 5本のゴーグルリボンを振り回して突風を起こし、サルモズーのサルシャワーを跳ね返した。
; ゴーグルスカイ{{R|gahou124|20th22}}
: 5人で飛行する。
; サーベルアタック{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|taizen30|30大230|20th22}}}}
: 5人がゴーグルスカイで空を飛び、ゴーグルサーベルで敵の急所を5連続で突く。5人がVの字フォーメーションで突進飛行し{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=22}}、レッドだけがゴーグルサーベルで敵の急所を突く'''スカイサーベル'''{{efn|'''サーベルアタック'''と呼称される場合もある{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|taizen30|gahou124}}}}。}}という応用技もある。
; ゴーグルキック{{R|group="出典"|goggles2}}
: 5人で同時にジャンプして飛び蹴りする。一人で使用することもある。
; ゴーグルサーベル殺虫剤{{R|gahou124|20th22}}
: 5人のゴーグルサーベルを合わせて剣先から殺虫剤を噴射する。ハエモズーに使用。
; ゴーグルサーベルスイカ叩き{{R|20th22}}
: 5人が交互にゴーグルサーベルでスイカ割りをする。巨大スイカに化けたスイカモズーに使用。
; ゴーグルシャワー{{R|group="出典"|goggles2}}
: 5人が額の宝石から光線を放ち、それを融合させてリング状の光線にする。効果は様々で、実体の無い亡霊モズー軍団を追い払い、カメレオンモズーによって保護色にされた子供たちを元に戻し、スカンクモズーの幻影やデスギラーが手に入れた黄金魔剣の力を破ったほか、一点集中攻撃でゾウガメモズーのハイトロンバリヤーを破った。
; ゴーグルスパーク{{R|20th22}}
: 5人がスーツから高圧電流を逆流させる{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。
; ゴーグル大車輪旋風{{R|group="出典"|goggles2}}
: 5人が空中で輪を組み、高速回転して突風を起こしてから、そのまま急降下する。セイウチモズーの冷凍ガスを跳ね返した。
; ゴーグルハリケーンタイフーン{{R|group="出典"|goggles2}}
: 5人が空中で繋がり、高速回転して光線や突風を浴びせる。第37、39話で使用。
; ゴーグルファイヤー{{R|gahou124|20th22}}
: 5人のゴーグルサーベルを合わせて剣先から炎を放つ。第17話で使用。
; ファイヤーストーム{{R|taizen30|gahou124}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1982 大戦隊ゴーグルV』では、名称を'''ゴーグルファイヤーストーム'''と記述している{{R|20th22}}。}}
: 5人のゴーグルサーベルを合わせて剣先から水を放射する。第25話で使用。
; ゴーグルボンバー{{R|group="出典"|goggles6}}
: 巨大なクラッカーからテープを放って敵の動きを封じる。5人で1箇所に固まって放つタイプと、敵を囲って5方向から放つタイプがある。
; モグラたたき{{R|20th22}}
: 地中から現れるミミズモズーに対しイエロー以外の4人がそれぞれの色のハンマーで叩きつける。
; ゴーグルスクランブルステップ{{R|20th22}}
: 地中に潜むマダラマンに対し、5人が走り回って攻撃する。
=== 基地・メカニック ===
それまでのスーパー戦隊シリーズではバイクなどの専用マシンを変身前後問わず常用していたが、本作品からは変身前には市販のバイクや車を使い、変身後に専用のマシンに搭乗するようになった。
; 未来科学研究所{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen32|gahou129|20th6}}}}{{efn|書籍『超世紀全戦隊大全集』では、名称を'''ゴーグルファイブ基地'''と記述している{{R|超世紀172}}。}}
: 本郷博士を所長とする未来科学の研究所で、20年前に[[東京ドームシティアトラクションズ|後楽園ゆうえんち]]の地下に建設された{{R|学研の図鑑58}}。施設は地下40階からなり、2,000人の科学者や技術者、警備員らが勤務している。ゴーグルファイブの本拠地でもあり、司令室にはコンボイピューター{{R|大全集208}}が5台設置されている。この部屋へのアクセス方法は、遊園地内の電話ボックスからの滑り台式の地下通路と、ゴーグルファイブのマシーンが出入りする秘密の通路のみである。
: 巨大母艦ゴーグルシーザーの発進時は、後楽園球場が巨大エレベーターにリフトアップされる形で上昇する。発進時は、試合中であることが多く、「スリーボール・ナッシング」と球場に表示された後、「ただいまマイクのテスト中、本日は晴天なり」というアナウンスで警戒シグナルを発令し、秘密任務が開始される{{R|学研の図鑑58}}。
: 周辺道路には敵の侵入を防止するためのカメラが設置されており、チェックポイントとしてコンボイのメンバーが監視を行っている。物語終盤において、マズルカの体内に埋め込まれた爆弾により司令室は壊滅する{{R|group="ep"|48話}}。
:* 基地の商品化も検討されていたが、実現には至らなかった{{R|taizen32}}。
; 新秘密基地
: 司令室壊滅後に本郷博士が用意したゴーグルファイブの本拠地。洞窟内にあり、ゴーグルシーザーの格納庫も存在する。
; ゴーグルマシーン
: ゴーグルレッドの専用オフロードバイク{{R|material24|20th20}}。ジャンプ性能に優れ、高い機動性を持つ{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=15}}。劇中では使用されていないが、フロントカウルにマシンガン2門も装備している{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|超世紀172|taizen32|gahou129|30大230|20th20|material24}}}}。
; ゴーグルクーガー
: ゴーグルレッド以外の4人が乗るジープ。運転はゴーグルブルーが行う{{R|20th20}}。ゴーグルクーガージャンプというジャンプ移動機能を持つ{{R|group="ep"|5話}}。劇中では使用されていないがロケット砲も装備している{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE"|{{R|大全集208|超世紀172|taizen32|gahou129|20th20}}}}。
:* 劇用車は、[[トヨタ・ハイラックス]]をベースに、ノーズ部分に[[マツダ・RX-7]]のボディを組み合わせて使用{{R|mokei33}}。
:
; ゴーグルシーザー
: ゴーグルジェット・ゴーグルタンク・ゴーグルダンプを格納する巨大戦闘母艦。3機のマシンは艦中央のコンテナマシン{{R|material82}}{{efn|1号のジェットコンテナ、2号のタンクコンテナ、3号のダンプコンテナ{{R|material82}}。}}に格納されている。コンテナは3基に分離で、2号と3号は自走が可能。ロボ戦時はゴーグルブラックとゴーグルピンクが搭乗し、必要に応じて援護を行う。ミサイル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|taizen32|gahou129|20th20}}}}{{efn|書籍によっては、名称を'''ゴーグルミサイル'''{{R|超世紀172}}、'''巨大ミサイル'''{{R|学研の図鑑82}}と記述している。}}、ジェットロケット砲2門{{R|material24}}、熱光線{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE2"|{{R|taizen32|gahou129|20th20}}}}、冷凍光線{{R|group="出典"|MACHINE2}}、温度センサー、エネルギー感知器を装備。オートコントロールも可能。
:* 企画段階では、コンテナで攻撃を行うという設定も存在した{{R|大全集208}}。デザイン画では、機首に大きな目が描かれていた{{R|material29}}。
; ゴーグルジェット
: ゴーグルレッドが操縦する大型戦闘機。コンテナ「1」より発進する。ゴーグルロボの頭部、胸部になる{{R|material24}}。大型ながら、優れた旋回性能と機動性を持ち、ジェットミサイル{{R|group="出典"|MACHINE2}}{{efn|資料によっては、ホーミングミサイルと記述している{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=24}}。}}を装備。設定では20mmミサイル砲も2門装備している{{R|gahou129}}{{efn|資料によっては、ジェット砲{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=24}}、バルカン砲{{R|material24}}と記述している。}}。
; ゴーグルタンク
: ゴーグルブルーが操縦する戦車。コンテナ「2」より発進する。ゴーグルロボの腕部、胴体になる{{R|material24}}。タンクミサイル{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE3"|{{R|大全集208|taizen32|gahou129|20th20}}}}を発射するミサイルランチャー{{efn|資料によっては、ロケット砲{{R|material24}}と記述している。}}を上部に装備。強靭な車体で、水中・宇宙空間でも活動できる。
; ゴーグルダンプ
: ゴーグルイエローが操縦する巨大ダンプ。コンテナ「3」より発進する。ゴーグルロボの脚部になる{{R|material24}}。抜群のパワーを誇るマシンで、武器はダンプハンド{{R|group="出典"|MACHINE3}}{{efn|資料によっては、名称を'''ダブルハンド'''と記述している{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=24}}。}}。手錠型の'''パワーハンド'''{{R|group="出典"|MACHINE2}}も装備。短時間の飛行も可能。磁力吸着式ハンマーチェーン{{R|gahou129}}と作業用高機動シャベル{{R|gahou129}}も装備されており、災害救助や建築活動も行える。積載最大量は300t。
:* 玩具では初回生産のみ車輪がラバー製となっている{{R|TH4525}}。
:
; ゴーグルロボ
: ゴーグルジェット・ゴーグルタンク・ゴーグルダンプがマニュアル005の合体指令を受けて{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}「'''ゴーゴーチェンジ'''」のかけ声と共に合体した巨大ロボ。民間で初めて開発された合体式の巨大ロボットである{{R|学研の図鑑82}}。装甲はFSI合金製{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀172|20th20|学研の図鑑82}}}}。
:* デザインは上半身を[[村上克司]]、下半身を現・バンダイ社長の[[上野和典]]がそれぞれ担当している。デザインでは、耳部分の大きな羽がなかった{{R|material29}}。
:* 前2作品では変形・合体シーンは黒い背景で表現されていたが、本作品では現実的な空中や陸上での合体が描写され、以降の作品でも主流の表現となった{{Sfn|21st 6|2017|p=30|loc=「特集企画 スーパー戦隊その極意 Volume6 ロボ合体だ!」}}。
:* 書籍『スーパー戦隊 Official Mook 21世紀 vol.15 手裏剣戦隊ニンニンジャー』では、[[戦隊ロボ]]の基本的な造形技術はゴーグルロボの時点で完成したと評している{{R|21st15}}。
:* ポピー発売のDX超合金『クロスインボックス ゴーグルファイブ』{{efn|1982年度までの商品名{{R|TH4525}}。}}は1982年度年末商戦において、競合の『六神合体ゴッドマーズ』『機甲艦隊ダイラガーⅩⅤ』商品を押さえ、大ヒットとなったという<ref>メディアワークス『スーパー戦隊アートコレクション戦隊ロボ編』(2002)p124</ref>。
:; 武装
::; 地球剣{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集208|超世紀172|taizen34|20th20}}}}
::: ゴーグルロボの必殺武器。FSI合金製{{R|大全集208|20th20}}。
::; ゴーグルシールド{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|超世紀172|taizen34|gahou129|20th20}}}}
::: [[五芒星|星]]とVの字のような模様のついた[[盾]]。FSI合金製で3万5千度の高熱に耐え{{R|大全集208|20th20}}、コングからの光線やガス噴射をはね返すこともできる。
::; ゴーグルスピン{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集208|超世紀172|taizen34|gahou129|30大231|20th20}}}}
::: ロープの付いた[[独楽]]状の武器。投げると回転・発光しながら飛んでいき、コングの体に衝撃を与える。ポピーの「DX超合金」では名称が「ゴーグルスピンドル」<ref>内蓋と説明書に記載。</ref>。
::; ゴーグルハンド{{Refnest|group="出典"|name="ROBO"|{{R|大全集208|taizen34|gahou129|30大231|20th20}}}}
::: 巨大な鎖が付いた手錠{{efn|資料によっては、マジックハンドと記述している{{R|material24}}。}}型の武器{{R|大全集208}}。コングの体を捕まえ、動きを封じたり地面に叩きつけたりする。
::; ゴーグルハエ叩き{{Refnest|group="出典"|name="ROBO2"|{{R|taizen34|gahou129|20th20}}}}
::: ハエコングに使用したハエ叩き状の武器。
::; ゴーグルキャノン{{Sfn|大全集|1988|p=147|loc=「特写スチール全集」}}{{R|20th4}}
::: 『テレビマガジン』1983年1月号内の特写にのみ登場{{R|20th4}}。
::: 従来のロボの武器や装備ではデストピアを破壊できないというゴーグルファイブの見解から、強力なエネルギーを要する武器として開発された。ゴールデンスピアと同じくハイネオメタル製。サボテンコングのダミーを相手に実験をし破壊には成功したものの、砲身も砕け散ってしまい、実戦には投入されなかった{{R|20th4}}。
:; 必殺技
::; 地球剣・電子銀河斬り{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|taizen34|gahou129|30大231|20th20}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''地球剣・電子銀河切り'''と記述している{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。}}
::: 地球剣の刀身に地球と宇宙のエネルギーを取り込んで、相手を唐竹割りにする必殺技{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。第12話では直前に敵の胴体を横斬りするバリエーションを披露した。ゴーグルレッドの「地球剣・電子銀河斬り」の掛け声にゴーグルブルー・イエローも「電子銀河斬り」と復唱して発動。ゴーグルロボ自身が「地球剣・電子銀河斬り」と声を発した後、右腕だけで地球剣を円を描くように一回転させて地球を模した球体を形成し、球体は銀河に飛び立って宇宙のエネルギーをチャージした後舞い戻り、地球剣と一体となって刀身が発光。その状態で敵を両断する。第38話からはレッドが右レバーを下げる→左レバーを上げる順で操作して繰り出すようになり、ブルーとイエローによる掛け声は省略された。
::; 地球剣・電子銀河ミサイル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集208|taizen34|gahou129|20th20}}}}
::: 地球剣を逆手に持ち、エネルギーを込めて投げつける技。最終話で巨大タブーを倒した。電子銀河斬りの入力を逆再生する形で発動する。
:; その他の技
::; ハンドミサイル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|超世紀172|taizen34|gahou129|30大231|20th20}}}}
::: 刃を備えるサックをつけた右拳を飛ばす攻撃技。
::; ゴーグルフラッシュ{{R|group="出典"|ROBO}}
::: 全身を発光させて渦巻状の光を放ち、敵の攻撃を無力化する技。攻撃にも使用可能。
::; アイキャッチ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集208|taizen34|gahou129}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''ゴーグルロボ・アイキャッチ'''と記述している{{Sfn|赤の伝説|2012|p=33}}。}}
::: 目を光らせて、素早い相手の動きを見切ったり、煙幕に隠れた敵を探し出す技。
::; ゴーグルサンダー{{R|taizen34|20th20}}
::: 地球剣を体の正面に構え、周囲に電撃を放つ攻撃技。剣を地面に突き刺して電撃を走らせることも可能。
::; ビクトリーパンチ{{R|taizen34|gahou129}}(ゴーグルビクトリーパンチ{{R|taizen34|20th20}})
::: 両手でVの字を描いてから放つパンチ攻撃。
::; ゴーグルロボ大竜巻{{R|group="出典"|ROBO2}}
::: 空中で回転して竜巻を起こす攻撃技。ゴーグルフラッシュのバリエーションにあたる。終盤で多用された。
::; ゴーグルビーム{{R|taizen34|20th20}}
::: 全身を発光させて、体に張り付いたネズミコングのメカネズミを弾いた技。
::; トリプル攻撃
::: 一旦合体を解いて3機に分離、各機がミサイルやダンプハンド、ゴーグルシーザーミサイルを繰り出した後に再合体する撹乱戦法。25話のテラノコング戦で披露した。
; スペック
:{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1"
|-
! 名称 !! 全長 !! 全幅 !! 重量 !! スピード
|-
! ゴーグルシーザー
|120{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="SPEC"|{{R|超世紀172|taizen32|gahou129|20th20}}}}
|
|1,550{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|SPEC}}
|{{Plainlist|
* [[マッハ数|マッハ]]5(飛行){{R|group="出典"|MACHINE}}
* 200{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]](走行){{R|group="出典"|MACHINE2}}
}}
|-
! ゴーグルジェット
|25{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE}}
|15.5{{nbsp}}m{{R|gahou129|20th20}}
|30{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE}}
|マッハ10{{R|group="出典"|SPEC}}
|-
! ゴーグルタンク
|19{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE}}
|rowspan=4|
|285{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE}}
|250{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|SPEC}}
|-
! ゴーグルダンプ
|32.5{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE}}
|650{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE}}
|150{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|SPEC}}
|-
! ゴーグルマシーン
|2{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE2}}
|280{{nbsp}}kg{{R|group="出典"|MACHINE2}}
|350{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|SPEC}}
|-
! ゴーグルクーガー
|4.2{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE2}}
|750{{nbsp}}kg{{R|gahou129|20th20}}
|300{{nbsp}}km/h{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集50|超世紀172|taizen32|gahou129|30大230|20th20}}}}
|-
! 名称 !! 全高 !! 重量 !! スピード !! 出力
|-
! ゴーグルロボ
|55{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="SPEC2"|{{R|超世紀172|taizen34|gahou129|20th20}}}}
|965{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC2}}
|{{Plainlist|
* 100{{nbsp}}km/h(走行){{R|group="出典"|ROBO2}}
* マッハ10(飛行){{R|group="出典"|ROBO2}}
}}
|300万馬力{{R|group="出典"|ROBO2}}
|}
== 暗黒科学帝国デスダーク ==
大昔から科学技術を悪用した悪魔の科学を用いて人類史に多くの厄災を招き、過去にいくつもの文明を滅ぼしたと言われる暗黒科学者の集団。その歴史は5,000年に及ぶと言われ、総統タブーと呼ばれる謎の支配者の下に初めて勢力が統一され、1980年代になって本格的な世界征服に乗り出している。暗黒科学の技術を結集して造られた浮遊要塞'''暗黒巨大城デストピア'''を本拠地とし、[[#合成怪獣|モズーと呼ばれる合成怪獣]]や[[#巨大ロボット|コングと呼ばれる巨大ロボット]]、戦闘機デスファイターを繰り出す。
各キャラクターの身長・体重などの設定はない{{R|20th23}}。
* 初期企画での名称は暗黒科学帝国ダークマズーであった{{R|大全集168|超世紀157}}。幹部の名称はこの時点で決定していた{{R|大全集168}}。
; {{Visible anchor|総統タブー}}
: デスダークの支配者。太古の昔から群雄割拠していた暗黒科学者たちを統一して、5,000年前にデスダークを築き上げた存在と言われるが、その真の姿を見た者は最終決戦の時まで誰もいなかった。デストピアの内部にある謁見の間の曇りガラスの奥から黒い[[シルエット]]だけを見せて指令を下し、赤い巨大な一つ目を光らせて、幹部たちを威圧する。
: 一方でクマモズーの[[讒言]]で反逆者とされたデスギラー将軍に対し最後の出撃を許すなど、支配者としての度量を見せることもある。
: その正体は暗黒科学が生み出した複数の遺伝子が合成された「究極にして、最強の遺伝子」である超遺伝子{{R|material24}}であった。
:* デザインは久保宗雄が担当{{R|百化71}}。前2作の首領格がアクティブなキャラクターであったため、差別化として『バトルフィーバーJ』のサタンエゴスと同様に実態のわからないキャラクターとして位置づけられた{{R|百化71}}。
:; 巨大タブー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集233|全怪獣405|taizen53|gahou141|30大302}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''総統タブー(巨大化)'''と記述している{{R|20th23}}。}}
:: 最終話に登場。全ての部下を失い、デストピアを破壊された総統タブーが、ハイトロンエネルギーにより巨大化した姿。ゴーグルファイブの劇中では唯一、自ら巨大化した敵である{{efn|デスダークのメンバーたちは通常巨大化せず、コングと呼ばれる巨大ロボットに乗り込み、ゴーグルロボと闘っていた。}}。ゴーグルロボと最後の対決を行い、巨大な一つ目からのハイトロンビームでゴーグルロボを圧倒。電子銀河斬りで胴体を切られながらも上半身だけで襲い掛かるが、最後は唯一の弱点である一つ目に地球剣・電子銀河ミサイルを食らい、爆発四散した。
::* デザインは渡部昌彦が担当{{R|百化85}}。遺伝子の集合体という設定であるが、[[デオキシリボ核酸|DNA]]の二重螺旋は認知度が低かったため、[[神経細胞]]をモチーフとしている{{R|百化85}}。
:
; {{Visible anchor|デスギラー将軍}}
: 第1 - 49話に登場。[[髑髏|ドクロ]]を模した[[兜]]を被った、デスダークの指揮官。作戦立案を行うだけでなく、自らも前線に立って戦闘を行う。[[剣]]の達人でもあり、ゴーグルレッドを特にライバル視する。短気で冷酷ではあるもののデスダークへの忠誠心は厚く、武人としての一面も持っている。第15話でのゴーグルレッドとの一騎討ちの最中、マズルカの指示によるハチモズーの妨害に怒り、「邪魔をするな!」とハチモズーを突き飛ばして一騎討ちを続行、互角の勝負を繰り広げた(結局、双方乱入で引き分け)。第48話ではマズルカの自爆に巻き込まれ傷を負うが、赤間の「命の尊さに気付いてほしい」という願いから、ゴーグルファイブから手当てを受ける。その後、クマモズーを退けてゴーグルファイブへの借りを返した上で、クマコングに自ら乗り込み、最後の勝負を挑む。ゴーグルロボとの激闘の末、クマコング共々壮烈な最期を遂げた{{R|group="ep"|49話}}。作中では過去が描かれたことは無かったが、第34話の準備稿段階では、同話数のゲストキャラクターである河田ちえみを妹のように育てていた、という過去が描かれる予定であった{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=67}}。
:* デザインは赤坂徹朗が担当{{R|百化71}}。兜は骸骨とドイツ軍のヘルメットがモチーフとなっている{{R|百化71}}。
; {{Visible anchor|マズルカ}}
: 第1 - 48話に登場。デスダークの諜報部長。爆撃や麻酔ガスを放つスティックが武器。変装を得意とするが、第4・39話で変装して活動していた際、子供に「おばさん」扱いされ、怒ったこともある。
: 第48話でハイトロンエネルギーの力で透明になって未来科学研究所に潜入するが、その体にはデスマルク大元帥の手によって、[[爆弾]]が埋め込まれていた。衰弱していたマズルカは組織から切り捨てられたと知るや自暴自棄になり、デスギラー将軍から爆弾のコントローラーを奪い取り、将軍を道連れにするつもりで研究所と共に自爆した{{R|group="ep"|48話}}。
: イガアナ博士とザゾリヤ博士の存命中は2人よりも格が下であったが、不甲斐ない2人に皮肉を浴びせたこともある{{R|group="ep"|14話}}。
:* デザインは赤坂徹朗が担当{{R|百化71}}。準備段階ではデスギラー将軍と同じく骸骨と軍服をモチーフとしたデザインであったが、プロデューサーの[[吉川進]]から女性キャラクターに骸骨を用いることに苦言を呈され、女性のラインを活かした露出の多いデザインへ変更された{{R|百化71}}。
:
; {{Visible anchor|イガアナ博士}}
: 第1 - 15話に登場。爬虫類風の衣装を着た豪快な性格の男性科学者。怪獣的イメージのコングの製作を得意としており、ロボットは自分の手で製造すべきだという性格をしている{{R|taizen40|20th23}}。度重なる作戦の失敗により、総統タブーとデスギラー将軍の怒りを買い、デスマルク大元帥から「役立たず」と見做され、ザゾリヤ博士と共に処刑された{{R|group="ep"|14話|15話}}。
:* デザインは久保宗雄が担当{{R|百化73}}。当初はザゾリヤ博士とともにエスニック調の[[唐草模様]]が衣装にあしらわれていたが、ゴーグルファイブのデザインと被るために修正された{{R|百化73}}。
; {{Visible anchor|ザゾリヤ博士}}
: 第1 - 15話に登場。サソリの衣装を着た冷酷な女性科学者。メカの特性を生かしたコングを製作することを得意とし、大勢の助手に命じて設計図通りに製造させる{{R|taizen40}}{{efn|この対比は第2話の脚本にあって撮影もされたがカットされており、予告編でのみ確認可能{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=74-75}}。}}。劇場版で「度重なる失敗で身の危険を感じて逃げ出した」という嘘をついてゴーグルファイブを罠にはめたこともあったが、第15話で本当に作戦失敗を理由にイガアナ共々処刑された{{R|group="ep"|14話|15話}}。
: 前述のコングの設計について「ザゾリヤはメカ型・イガアナは怪獣型」というのは企画書にも明記されているが{{R|taizen16-17}}、作中では生物モチーフのマンモスコング(第3・4話登場)もザゾリヤが製造している{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=42}}。
:* デザインは久保宗雄が担当{{R|百化73}}。実際に作中に登場したザゾリヤは女性で、企画書がまとめられた時点ですでに女性設定だったが{{R|taizen16-17}}、企画当初は武闘派のイガアナ博士と対になる痩せた頭脳派の男性であった{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=77}}{{R|百化73}}。
:
; {{Visible anchor|デスマルク大元帥}}
: 第15 - 50話に登場。デスダークの最高幹部で、暗黒科学の伝説的英雄。南極の氷の下に埋められていた棺の中で、2000年の長い眠りについていたが、総統タブーの命令で蘇生された。2,000年の眠りの間、総統タブーから催眠教育を受けていたため、現在のデスダークについての情報は完全に把握している。性格は冷酷かつ残忍。総統タブー以外の幹部全員から恐れられる強大な暗黒パワーの持ち主で、[[天気|天候]]を自由に操り、物体を転送する[[稲妻]]状光線が使える。両手からは人間を消滅させる光線を出し、イガアナ、ザゾリヤ両博士をこれで処刑した{{R|group="ep"|15話}}。ゴーグルファイブには第15話の時点で名前だけは知られていたが、本人はデスギラー将軍が戦死するまでの間、デストピアの内部から指令を下し、ゴーグルファイブの前に姿を現したのは最終話が初めてであった{{efn|ただし、直接ではないが立体映像で一度だけ、ゴーグルファイブに姿を見せたことがある{{R|group="ep"|33話}}。}}。戦闘時には妖刀暗黒剣を振るい、ブラックサンダーなどの技を使い{{R|20th23}}、ゴーグルファイブを圧倒したが、スピア風車で暗黒剣を破壊され、自身も致命傷を負い、総統タブーの名前を呼びながら絶命した{{R|group="ep"|50話}}。
:* デザインは赤坂徹朗が担当{{R|百化73}}。初稿では[[司教]]や[[祈祷師]]をイメージしていたものから、最終的に[[ツタンカーメン]]の黄金マスク風のデザインでまとめられた{{R|百化73}}。
; {{Visible anchor|ベラ&ベス}}
: 第15 - 50話に登場。デスマルク大元帥に仕える2人の[[侍女]]で、デスマルクと共に復活した{{R|group="ep"|15話}}。デスマルクの命令にのみ忠実に従い、言葉は一切話さない。最終話では女剣士に変身し、短剣を武器に戦うが、ゴーグルブルーのブルーサファイアジェットリングとゴーグルピンクのピンクダイヤバトンを受けて倒された{{R|group="ep"|50話}}。
:* デザインは赤坂徹朗が担当{{R|百化73}}。当初はマダラマンにあわせて複雑な模様で考えられていたが、吉川からの要望によりシンプルなデザインとなった{{R|百化73}}。
:
; {{Visible anchor|合成怪獣}}
: 通称'''モズー'''{{R|大全集56}}。遺伝子マルチサイザーによって選ばれたデスダークが所有する動植物の特殊[[遺伝子]]をスーパーコンピューターのサイバネティクスプログラムに基づいて、スーパー増殖機で[[タンパク質]]と混合しながら増殖・培養し、金属原子と結合させることによって生成される怪物。動植物の能力と機械の能力を併せ持つ{{efn|天狗や河童といった、空想上の生物もモチーフとなったことがある。}}。当初は左右非対称{{efn|右半身が機械で左半身が生物。}}な姿だったが、中盤からは新金属ネオメタルで強化されたスーパー合成獣が登場し{{R|material24}}、機械と生物が均等に入り混じった姿になる。終盤では超エネルギー・ハイトロン{{R|material24}}によって、さらに強化された(47話以降、モズーの腹部ないし左胸にハイトロンカプセルが備わる{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=72}})。
:* デザインを担当した久保宗雄は、前作の機械生命体との差別化として半身がメカの左右非対称のデザインとしていたが{{R|百化73}}、プロデューサーの[[鈴木武幸]]からの要望により生物と機械の合成という大枠のみになった{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=77}}。
:
; {{Visible anchor|マダラマン}}
: デスダークの戦闘員。身体は機械で構成されており、名前の通り、マダラ模様の服で身を覆っている。基本的には無言だが、口がきけないわけではなく、たまに仲間同士で会話をしたり、人間に命令することがある。一部には白衣を着て合成怪獣・巨大ロボの製造や各種実験に携わる者もいる。また、指揮を執る合成怪獣に合わせた能力を持った特殊部隊や大元帥直属の鎧武者に似た戦闘員{{R|material24}}も存在する。
:* デザインは久保宗雄が担当{{R|百化73}}。JACの忍者映画に登場する迷彩柄の忍者装束がモデルとなっている{{R|百化73}}。
:* 初期企画での名称は兵士メカメカであった{{R|大全集168}}。
=== デスダークの戦力 ===
; 暗黒巨大城デストピア
: デスダークの拠点。外観は朽ちた古城を思わせるが、内部は暗黒科学の粋を集めた移動要塞となっている。海中航行も自在(14~15話冒頭にかけては日本近海から南極海底まで潜行した)。最終話でゴーグルシーザーのミサイルで破壊された。
:* デザインは赤坂徹朗が担当{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=94|loc=「DESIGNER'S INTERVIEW04 赤坂徹朗」}}。
; {{Visible anchor|巨大ロボット}}{{R|大全集56}}
: 通称'''コング'''。デスダークが造りだした戦闘用巨大ロボ。頭部から発射する'''リフレッシュパワー光線'''で、ゴーグルファイブに倒された合成怪獣を再生させ、搭乗者とする{{efn|リフレッシュパワーは合成怪獣以外にも効果があり、デスギラー将軍がクマコングに乗り込んだ時は、これにより将軍のダメージを回復させている。}}。当初はザゾリヤ博士とイガアナ博士が個々にコングを設計・製作し、お互いを戦わせて、強い方を実戦に投入していたが、第4話では失敗続きを理由に共同研究開発になり第3話で不採用になったマンモスコングを2人が強化(この時に右腕の形状が第3話と変化している)し、第5話以降は「コング開発が費用の割には効果が上がらない」と、作戦に投入されるモズーを元にその特長・能力が最も発揮できるようにする'''意志伝達システム'''を搭載させたコング(端的に言えば上半身がモズーと同じ形状のコング)が作られるようになった{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=40-42}}。
: ほとんどの機体が頭部に[[操縦席|コックピット]]を備えているが、第22話に登場したクジャクコングのみ胸部にコックピットがある{{efn|クジャクモズーの頭部デザインの関係上、頭部にコックピットを付けられなかったため。ただし、リフレッシュパワー光線は他のコングと同様に頭部から発射していた。}}。
: 下半身はファンコング型(甲冑風)・ヒカリコング型(脛が角ばっている)・ゴリラコング型(爬虫類風の尻尾と鱗がある)の3パターンがあるが、ファン・マンモス・カマキリ・ヤモリ・ネコのコングがファンコング型、ゴリラコングのみゴリラコング型で、他はすべてヒカリコングと同型である{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=75}}{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=134-141}}。
: これ以外に変化要素として、ドクガコング(第8話)以後のコング(劇場版のモグラコング含む)はデスダークのマークである赤い目の紋章が胴体に付くようになっている他、ネズミ・シシ・ナマズ・カニ・クジャクのコングは手の形状(カニコングは左手のみ)がモズーより大型化している。
: コックピット内は天井から2本の[[操縦桿]]が伸びており、搭乗者はこれを動かしてコングを操縦する。出撃時にはデスギラー将軍の号令で、デストピア側面の格納庫の壁面が開き、足の裏からの噴射により目的地まで自力で飛行してくる。
: コングの投入は第49話まで続いたが、第16話のヒトデモズーのみコングがなかった{{efn|この理由はキャラクターデザイン担当の久保宗雄によると「毎週ロボット戦を撮影していると、(『バトルフィーバーJ』『電子戦隊デンジマン』で前例が有ったように)たまには1回くらいロボット戦なしの話を作ってみたいといった思いがスタッフに出てくる」とのことで、シナリオにもヒトデコングは未登場{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=78}}。}}。
; {{Visible anchor|デスファイター}}
: デスダークの戦闘機。マダラマンが操縦し、巨大ロボットの援護をすることもある。
== キャスト ==
桃園ミキ役には、当初[[早坂あきよ]]が起用されたが、3話まで撮影した時点で都合により降板が決まり、急遽代役としてモデル出身の[[大川めぐみ]]が抜擢された{{R|大全集168|超世紀157}}。
=== レギュラー ===
* 赤間健一 / ゴーグルレッド - [[赤木良次]]
* 黒田官平 / ゴーグルブラック - [[春田純一]]
* 青山三郎 / ゴーグルブルー - [[石井茂樹]]
* 黄島太 / ゴーグルイエロー - [[伍代参平]]
* 桃園ミキ / ゴーグルピンク - [[大川めぐみ]]
* 若木みどり - 小林伊津子(第1 - 19、22話)
* 山本さゆり - 細矢智恵子
* 上田達也 - [[井浦秀知|井浦秀智]]
* 竹中誠 - 竹内実
* 島田春男 - [[大原和彦]]
* 大山大助 - [[水野智則]]
* 相沢あかね - 杉本華恵
* ナレーター - [[大平透]]
* デスマルク大元帥 - [[中庸助]](第15 - 50話)
* デスギラー - [[高橋利道]](第1 - 49話)
* マズルカ - [[吉田真弓]](第1 - 48話)
* ザゾリヤ博士 - [[西口久美子]](第1 - 15話)
* イガアナ博士 - [[きくち英一]](第1 - 15話)
* ベラ - 大木まり子(第15 - 27話)、[[中西典子]](第28 - 50話)
* ベス - 新保久美子(第15 - 50話)
* 総統タブーの声 - [[依田英助]]
* 本郷博士 - [[仲谷昇]](第1、2、49、50話)
=== ゲスト ===
* 魔術師 - 戸田真太郎(第2話)
* 梶祐介 - 不明(第3話){{efn|name="ep3"|ミスにより第2話と同じテロップが出たためにノンクレジット。}}
* 梶マリ子 - 原和美(第3話){{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=55}}{{efn|name="ep3"}}
* 通りかかった子供 - 徳石光浩(第4話)
* 昔話おじさん・岩田 - [[高杉哲平]](第5話)
* 春男の友達 - 本間俊洋、滝奈々(第5話)
* 電話ボックスの女性 - [[阿知波悟美]](第5話)
* ヘルマスク - [[大前均]](第6話)
* 宝石盗難事件の被害者 - [[木村修]](第6話)
* 保育園の先生 - 茜まり(第6話)
* 警備員 - 沢田祥二、[[長江英和]](第6話)
* 山倉アナウンサー - 小館良平(第6話)
* 成田博士 - [[石津康彦]](第7話)
* 成田幸子 - [[一柳みる]](第7話)
* 成田タケシ - [[谷村隆之]](現・加戸谷隆斗)(第7話)
* 東日本太陽熱発電所・研究員 - 神田武志、[[唐沢寿明|唐沢きよし]](第7話)
* 諜報部員108号 - 井出智子(第8話)
* ドクター・サリー - レイ・アントン(第8話)
* インターポール - R・ゲスマン(第8話)
* 御館様 - [[鈴木和夫]](第9話)
* 佐助 - [[長田恒義]](第9話)
* 工場長 - [[山田光一]](第9話)
* 御館様の側近 - [[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]]、[[遠矢孝信]](第9話)
* 村人 - 松下昌司、岩崎紀代子(第9話)
* 小沼秀夫 - [[沖田さとし|渡辺義之]](第10話)
* 小沼の妹 - 谷田川知恵(第10話)
* 小沼の弟 - [[佐藤たくみ]](第10話)
* 警備員 - 江口玄友、田波正則、[[辻井啓嗣]](第10話)
* 吾作 - [[八代康二]](第11話)
* タケル - 伊藤巧美(第11話)
* 村長 - [[中島元]](第11話)
* 正彦 - 森茂紘(第12話)
* トモ子 - [[富岡香織]](第12話)
* 黄島壮一 - [[森章二]](第13話)
* 登山客の一家 - [[岸本功]]、桐杏子、渡辺房江、羽山英治(第13話)
* 神谷鏡太郎 - [[市原清彦]](第14話)
* 神谷千鶴 - 寺井留美子(第14話)
* 野球少年 - 大導寺裕司(第14話)
* 未来科学研究所の医師 - [[大矢兼臣]](第15話)
* 若者 - [[岡本美登]](第15話)
* サトル - 五十嵐貴仁(第17話)
* 高田博士 - [[佐々木敏]](第18話)
* 高田エリカ - [[小川範子|谷本重美]](第18話)
* 勝男 - [[栗原敏]](第19話)
* 勝男の妻 - [[太地琴恵]](第19話)
* 医者 - [[岸野一彦]](第19話)
* オサム - 葛生征樹(第19話)
* テレサ - 永田エミ(第20話)
* 浜田良造 - [[丸岡奨詞]](第21話)
* 浜田の妻 - [[立石凉子]](第21話)
* フランス人形 - [[森永奈緒美]]{{efn|声は[[太地琴恵]]が担当した。}}(第22話)
* 女剣士人形 - 松岡真由(第22話)
* 女闘士人形 - [[志村忍]](第22話)
* フランケンシュタイン人形 - 清水朗(第22話)
* 魔女人形 - [[柴原孝典]](第22話)
* ガンマン人形 - 佐藤浩(第22話)
* 拳法使い人形 - [[喜多川2tom|喜多川務]](第22話)
* 忍者人形 - [[渡辺実 (俳優)|渡辺実]](第22話)
* ガイコツ人形 - [[辻井啓嗣]](第22話)
* 源太 - 塚本正雄(第23話)
* 源太の母 - [[藤山律子]](第23話)
* シャボン玉をしている兄弟 - 杉山弘之・杉山輝行{{efn|「シャボン玉兄弟」と言われたシャボン玉研究家の兄弟。}}(第23話)
* ワタル - 富井己則(第24話)
* ヒロシ - 三須志雄(第25話)
* 先生 - 朝丘あゆみ(第25話)
* 警官 - [[佐藤輝|佐藤輝昭]](第26話)
* 泥棒 - [[皆川衆]](第26話)
* なるみ - 金子成美(第26話)
* なるみの母親 - 竹下江里子(第26話)
* ひろ子先生 - 小坂るみ子(第27話)
* 横田 - [[横田誠]](第27話)
* 加藤 - 加藤剛(第27話)
* 大畠 - 大畠拓(第27話)
* 校長 - [[松尾文人]](第27話)
* 教頭 - [[木村修]](第27話)
* レポーター - [[森しん|広森信吾]](第27話)
* 村田和男 - 川辺太一朗(第28話)
* 村田洋子 - 永浜三千子(第28話)
* 鈴木一鉄 - [[田崎潤]](第30話)
* 鈴木美汐{{efn|名前の由来は当時脚本家の曽田博久と知り合いだった340プレゼンツ主催の[[鈴木美潮]]{{R|rissun}}。}} - [[吉田麻子]](第30話)
* 清作 - 貫井正浩(第30話)
* 浩太 - 青木英隆(第31話)
* 大川誠一郎 - [[三井恒]](第32話)
* 大川太郎 - 塩見健治(第32話)
* 水族館の館長 - [[相沢治夫]](第32話)
* はるみ - 新井備子(第32話)
* 山倉アナウンサー - [[山浦栄]](第32話)
* 由美 - 坂入公子(第33話)
* 和也 - [[岸本功]](第33話)
* ラムダス - 弘松三郎(第33話)
* 河田ちえみ - [[甲斐智枝美]](第34話)
* 河田博士 - [[平野稔]](第34話)
* 野口医院長 - [[野村昇史]](第34話)
* 吉沢 - [[横尾三郎]](第34話)
* 星野ヨウスケ - 藤田たけし(第35話)
* ヨウスケの父 - [[パンチョ加賀美]](第35話)
* ヨウスケの母 - [[門谷美佐]](第35話)
* 正康 - 工藤秀和(第35話)
* 正康の姉 - 牛崎照美(第35話)
* ボーイ - [[木村栄 (俳優)|木村栄]](第35話)
* 井上加平 - [[武内文平]](第37話)
* 井上マサル - 才用裕二(第37話)
* 誠の友達 - 金在勝利(第37話)
* OL - [[高橋美紀]](第37話)
* 飼育係 - [[名川貞郎]](第38話)
* オサム - [[柴田一幸]](第39話)
* オサムの母 - [[花悠子]](第39話)
* マダラマン人間態 - [[辻井啓嗣]](第39話)
* 大泉博士 - [[内山森彦]](第40話)
* 未来科学研究所の医師 - [[相原巨典]](第40話)
* 高山忠男 - [[中丸新将|中丸信]](第41話)
* 高山の妻 - [[澤井孝子|沢井孝子]](第41話)
* 記者 - [[市川勉]](第41話)
* リポーター - [[西尾徳]](第41話)
* 暴走族 - [[喜多川務]](第41話)
* さやか - [[仁和令子]](第42話)
* 運転手 - [[村上幹夫]](第42話)
* 野熊鹿三 - [[相馬剛三]](第43話)
* 八百屋の客 - [[田口主将|田口和政]](第44話)
* 女性 - [[志村忍]](第45話)
* 女の子 - 田中理恵子、三瓶美樹(第45話)
* 遠山 - 東山茂幸(第46話)
* 天体物理学の専門家 - [[入江正徳]](第46話)
* 釣人 - [[高杉哲平]](第46話)
* マサト - [[スープレックス (お笑いコンビ)|秋永和彦]](第47話){{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=72}}
* 作業員 - [[渡部猛]](第49話)
=== スーツアクター ===
竹田道弘は『[[宇宙刑事シャリバン]]』への移動{{R|taizen168}}、伊藤勝功は負傷を理由に{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=87|loc=辻井啓伺スペシャルインタビュー}}それぞれ途中交替している。次々作『[[超電子バイオマン]]』でブルースリーを演じる大須賀昭人は本作品が撮影現場デビューだが、面付け担当が本職でスーツに入るのはその合間の仕事だった{{R|taizen241}}。
* ゴーグルレッド{{R|大全集46|taizen266}} - [[新堀和男]]
* ゴーグルブラック{{R|大全集46|taizen266}} - 春田純一
* ゴーグルブラック{{R|taizen266}} - [[喜多川2tom|喜多川務]]
* ゴーグルブルー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集46|taizen266|20th83}}}} - [[柴原孝典]]{{efn|第45話にて、本物の黒田と格闘するシーンでの偽黒田{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=169}}、本物のピンクと対峙するシーンでの偽ピンクは{{R|taizen168}}それぞれ柴原孝典が演じている。}}
* ゴーグルブルー(第29・30話){{R|taizen168}} - 東山茂幸
* ゴーグルイエロー{{R|大全集46|taizen266}} - [[伊藤久二康|伊藤勝功]]
* ゴーグルイエロー(終盤){{R|taizen168}} - 卯木浩二
* ゴーグルピンク{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集46|taizen266|仮面俳優181|20th93}}}} - [[竹田道弘]]
* ゴーグルピンク{{R|大全集46|仮面俳優181}} - [[志村忍]]{{efn|第29話より参加{{R|taizen168}}、第34話からレギュラー登板{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=67}}。}}
* ゴーグルロボ{{R|taizen266|仮面俳優133}} - [[日下秀昭]]
* モズー - [[辻井啓伺]]{{efn|第5話より参加、第10話からレギュラー登板{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=86|loc=辻井啓伺スペシャルインタビュー}}。}}
* 悪の総統タブー{{R|ショッカーO野}}、マダラマン{{R|ショッカーO野}}、他{{R|ショッカーO野}} - [[ショッカーO野]]
* マダラマン - [[大須賀昭人]]{{R|taizen241}}、[[石垣広文]]{{R|dokuhon1|仮面俳優191}}
* その他 - [[的場耕二]]{{R|keibunsha}}、[[蜂須賀昭二]]{{R|keibunsha}}
== スタッフ ==
前作までの主要スタッフのうちプロデューサーの[[吉川進]]、それに[[上原正三]]や[[高久進]]といった脚本家が、本作品とほぼ同時期に立ち上げられた『[[宇宙刑事ギャバン]]』に移動{{R|大全集168|超世紀157}}。これに伴い本作品では[[曽田博久]]がメインライターに就任しており{{R|大全集168}}、これ以降『[[地球戦隊ファイブマン]]』までの長きに渡り、プロデューサーの[[鈴木武幸]]と共に二人三脚でスーパー戦隊シリーズに深く携わることになる。
演出陣では『サンバルカン』より引き続き参加の[[東條昭平|東条昭平]]がメイン監督を務め、パイロット作品、劇場版、地方ロケ編などの主要なストーリーを担当した。また『バトルフィーバー』から撮影技師を務めていた[[いのくままさお]]が、本作品の中盤より本格的にスーパー戦隊シリーズへと参加している。
企画には『[[仮面ライダースーパー1]]』を担当していた[[阿部征司]]が参加{{R|超世紀157}}。本作品で志向した明るい作風は、後に阿部が手がけた『[[星雲仮面マシンマン]]』にも継承された{{R|超世紀157}}。
* 企画 - [[碓氷夕焼]](テレビ朝日)、[[吉川進]]{{efn|第1話のみ。}}、[[阿部征司]](東映)
* 原作 - [[八手三郎]]
* 連載 - [[テレビマガジン]]、[[てれびくん]]、[[テレビランド]]、[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]
* 脚本 - [[曽田博久]]、[[筒井ともみ]]、松本功、[[酒井あきよし]]、[[鷺山京子]]、由起圭
* 音楽 - [[渡辺宙明]]
* アクション監督 - [[山岡淳二]]、横山稔([[ジャパンアクションクラブ|ジャパン・アクション・クラブ]])
* [[監督]] - [[東條昭平|東条昭平]]、服部和史、[[辻理]]、[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]、[[小西通雄]]
* 撮影 - 石橋英敏、[[いのくままさお]]
* 照明 - 斉藤久、石垣敏雄、吉岡伝吉
* 美術 - 森田ふみよし
* [[キャラクターデザイン]] - 久保宗雄、赤坂徹朗、渡部昌彦
* 録音 - 上出栄二郎
* 効果 - [[大泉音映]]
* 選曲 - 石川孝
* 編集 - 成島一城
* 制作担当 - 佐々木丸正、山本康郎
* 進行主任 - 塚本幸雄、奈良場稔、小原武羅夫
* 計測 - 黒須健雄、小泉貴一
* 記録 - 石川和枝、新藤京子
* 助監督 - 加島忠義、北本弘、南晃行、[[小中肇]]、樋口徹
* 制作デスク - 須田啓一
* 装置 - 東映美術センター
* 操演 - 船越幹雄
* 美粧 - サン・メイク
* 衣裳 - 鷹志衣裳
* 装飾 - [[装美社]]
* 企画協力 - [[企画者104]]
* キャラクター制作 - [[レインボー造型企画]]
* 視覚効果 - デン・フィルム・エフェクト
* 合成 - [[チャンネル16]]
* 音楽制作 - あんだんて
* 撮影協力 - [[後楽園スタヂアム]]
* 現像 - [[東映化学工業|東映化学]]
* 車輌製作 - マエダオートクラブ、十和モータース
* オートバイ協力 - [[スズキ (企業)|鈴木自動車工業]]
* 車輌協力 - [[トヨタ自動車]](21話まで)、[[マツダ|東洋工業→マツダ]](24話以降)
* (株)[[特撮研究所]]
** 操演 - [[鈴木昶]]
** 美術 - [[大澤哲三]]
** 撮影 - 高橋政千
** 照明 - 須崎文夫
* 技斗 - 斎藤一之
* 特撮監督 - [[矢島信男]]
* プロデューサー - 加藤守啓(テレビ朝日)、[[鈴木武幸]](東映)
* 制作 - [[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[東映エージエンシー]]
== 音楽 ==
本放送当時発売されたのはシングルレコードと「ヒット曲集」のみであり、劇伴のサウンドトラックは番組終了後の1996年に、[[コンパクトディスク|CD]]『大戦隊ゴーグルファイブ MUSIC COLLECTION』として初めて音盤化された。
; 主題歌
:; オープニングテーマ「大戦隊ゴーグルV」
:: 作詞:[[小池一夫]] / 作曲・編曲:[[渡辺宙明]] / 歌:[[MoJo]]、[[こおろぎ'73]]、[[ザ・チャープス]]
:: シンセサイザーによるSE風の音を挿入するなど、1970年代後半から1980年代前半にかけての新たな音楽性を取り入れている。また、こおろぎ'73とザ・チャープスという二つのグループを起用した厚みのあるコーラスをつけている。テレビサイズ版のみ、コーラス陣によるタイトルコールがイントロに被せられている。
:: 毎回のオープニングのみならず、全話の戦闘シーンでも挿入歌として使用された。
:: 本曲には「大戦隊ゴーグルV〜オルターネートヴァージョン〜」と題されたNG版が存在する。完成版との違いはイントロのシンセアレンジと、イントロと間奏にもコーラスが挿入されること。渡辺宙明は、コーラスにインパクトがなくむしろ邪魔になっているので使わなかったのではないかと語っている{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=82}}。主題歌としてはNGとなったが、挿入歌として劇中で使用されている。なお、現存する歌入りの音源はイントロが完成版に差し替えられているため、1996年発売の『大戦隊ゴーグルファイブ コンプリート・ソング・コレクション』に収録される際、イントロを[[器楽曲|インストゥルメンタル]]版のもの(音自体は歌入り版と同一)に再度差し替え、欠損していたイントロのコーラスは間奏のコーラスを代用して本来の形が復元された。
:: なお、[[藤井健]]([[ザ・ブレッスン・フォー|ブレッスンフォー]]名義)、[[宮内良]]、[[タイロン橋本|橋本俊一]]、鈴木康夫、[[福沢良一]]によるカバーバージョンが存在する(それぞれ、[[キングレコード]]、[[ビクター音楽産業]]、[[ポニー・キャニオン]]、[[アポロン音楽工業]]、[[CBSソニー]]の混載盤などに収録)。
:; エンディングテーマ「ストップ・ザ・バトル」
:: 作詞:小池一夫 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:MoJo、こおろぎ'73、ザ・チャープス
:: インストゥルメンタル版が5人そろっての名乗りのシーンに毎回のように使用されている。
:
; 挿入歌
:; 「ゴーグルVアクション!」
:: 作詞:[[保富康午]] / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:[[日高美子]]、こおろぎ'73、ザ・チャープス
:: 12・17・25・31・35・38・44・45話ではインストゥルメンタル版が使用された。
:; 「熱風シャドウ」
:: 作詞:[[さがらよしあき]] / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:[[久石譲]] / 歌:MoJo、須貝吏延、こおろぎ'73
:: 13・16話ではインストゥルメンタル版が使用された。
:; 「フラッシュ!ゴーグルV」(10・12・14・16・18・20・30・44・45話)
:: 作詞:[[曽田博久]] / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:久石譲 / 歌:MoJo
:: 10話ではカラオケ版、14話ではインストゥルメンタル版と併用され、13・17・21・23・25 - 27・29・31 - 34・36・40話ではインストゥルメンタル版のみ、28話では前奏、間奏部のみがそれぞれ使用された。
:; 「ゴーグルVのマーチ 〜We are Goggle V〜」
:: 作詞:さがらよしあき / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:MoJo、須貝吏延、こおろぎ'73
:: 24話ではインストゥルメンタル版が使用された。
:; 「エレクトリック・マジックコンボイ」
:: 作詞:さがらよしあき / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:久石譲 / 歌:新倉よしみ、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]]
:; 「ダンシングゴーグルV」(11話)
:: 作詞:保富康午 / 作曲・編曲:[[川辺真|風戸慎介]] / 歌:MoJo
:: 12・18・23・26・29・30・32・43話ではインストゥルメンタル版が使用された。
:; 「出撃! ゴーグルロボ」(10 - 15・17 - 47話)
:: 作詞:[[八手三郎]] / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:MoJo、こおろぎ'73
:: 18 - 20・23・26・28 - 32・35 - 37・39 - 41・43 - 45・47話ではインストゥルメンタル版と併用された。
:; 「燃える男ゴーグルレッド」(15・16話)
:: 作詞:保富康午 / 作曲・編曲:風戸慎介 / 歌:MoJo
:: 15・16話ではインストゥルメンタル版と併用。17・19・36・42・44・50話ではインストゥルメンタル版のみ、34話では前奏部のみが使用された。
:; 「花咲くゴーグルピンク」(11話)
:: 作詞:保富康午 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:[[武市昌久|いちひさし]] / 歌:[[日高美子]]
:: 22・39話ではインストゥルメンタル版のみが使用された。
:: 放送終了後の1983年10月に発売された企画LP『スーパーギャルズメモリー』には、桃園ミキ役の大川めぐみが歌ったアコースティックバージョンが収録されている。
== 放送日程 ==
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
|-
!放送日!!話数!!サブタイトル!!登場怪人、他!!登場コング!!脚本!!アクション監督!!監督
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1982年{{0}}2月{{0}}6日||1||暗黒科学の来襲
|style="text-align: left;"|
* [[貝類|カイ]]モズー(声 - [[丸山詠二]])
|style="text-align: left;"|
* [[送風機|ファン]]コング
|style="text-align: left;" rowspan="7"|曽田博久
|rowspan="31"|山岡淳二
|style="text-align: left;" rowspan="3"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|2月13日
|2||起て!未来の戦士
|style="text-align: left;"|
* [[鳥類|トリ]]モズー(声 - [[西尾徳]])
|style="text-align: left;"|
* ヒカリコング
* [[ゴリラ]]コング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|2月20日
|3||デストピアを撃て
|style="text-align: left;"|
* [[タコ]]モズー(声 - [[渡部猛]])
|style="text-align: left;"|
* ゴリラコング
* [[マンモス]]コング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|2月27日
|4||ムクムク暗黒地雷
|style="text-align: left;"|
* [[クモ]]モズー(声 - 丸山詠二)
|style="text-align: left;"|
* マンモスコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|3月{{0}}6日
|5||悪魔がひそむ昔話
|style="text-align: left;"|
* [[カマキリ]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* カマキリコング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|3月13日
|6||悪役レスラーの愛
|style="text-align: left;"|
* [[ヤモリ科|ヤモリ]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* ヤモリコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|辻理
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|3月20日
|7||幽霊になったパパ
|style="text-align: left;"|
* [[ネコ]]モズー(声 - 西尾徳)
* 幽霊人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* ネココング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|3月27日
|8||狙われた美人博士
|style="text-align: left;"|
* [[ドクガ]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* ドクガコング
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|4月{{0}}3日
|9||地獄のキノコ村
|style="text-align: left;"|
* [[獏|バク]]モズー(声 - 渡部猛)
* バクダケ{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* バクコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|4月10日
|10||珍種ポマトの秘密
|style="text-align: left;"|
* [[ネズミ]]モズー(声 - [[森しん|広森信吾]])
* 人食いヅタ{{efn|書籍によっては'''人喰いヅタ'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}。}}
|style="text-align: left;"|
* ネズミコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|4月17日
|11||恐怖のマグマ作戦
|style="text-align: left;"|
* [[狛犬|シシ]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* シシコング
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|4月24日
|12||嘘から出た砂地獄
|style="text-align: left;"|
* [[ウスバカゲロウ|アリジゴク]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* アリジゴクコング
|style="text-align: left;"|松本功
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月{{0}}1日
|13||大暴れ地底ナマズ
|style="text-align: left;"|
* [[ナマズ]]モズー(声 - 広森信吾)
|style="text-align: left;"|
* ナマズコング
|style="text-align: left;" rowspan="4"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月{{0}}8日
|14||大変だ!地球沈没
|style="text-align: left;"|
* [[アンコウ]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* アンコウコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月15日
|15||甦る悪魔の大元帥
|style="text-align: left;"|
* [[ハチ]]モズー(声 - [[岸野一彦]])
|style="text-align: left;"|
* ハチコング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月22日||16
|レッド!危機一髪
|style="text-align: left;"|
* [[ヒトデ]]モズー(声 - 渡部猛)
||-
|style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月29日
|17||カッパ少年の涙
|style="text-align: left;"|
* [[河童|カッパ]]モズー(声 - 丸山詠二)
* カッパ人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* カッパコング
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|6月{{0}}5日
|18||大人が消える日
|style="text-align: left;"|
* [[サル]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* サルコング
|style="text-align: left;"|酒井あきよし
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|6月12日
|19||お化け屋敷の秘密
|style="text-align: left;"|
* [[コウモリ]]モズー(声 - 広森信吾)
|style="text-align: left;"|
* コウモリコング
|style="text-align: left;"|松本功
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|6月19日
|20||死の花毒サボテン
|style="text-align: left;"|
* [[サボテン]]モズー(声 - 渡部猛)
* サボテン人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
* 毒サボテン{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* サボテンコング
|style="text-align: left;"|鷺山京子
|style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|6月26日
|21||恐怖!魚が化石に
|style="text-align: left;"|
* [[シーラカンス]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* シーラカンスコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|7月{{0}}3日
|22||呪い人形の攻撃!
|style="text-align: left;"|
* [[クジャク]]モズー(声 - 西尾徳)
* 呪い人形{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* クジャクコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|7月10日
|23||シャボン玉大作戦
|style="text-align: left;"|
* [[カニ]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* カニコング
|style="text-align: left;"|酒井あきよし
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|7月17日
|24||見えない敵を倒せ
|style="text-align: left;"|
* [[カメレオン科|カメレオン]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* カメレオンコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|松本功
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|{{efn|7月24日は休止。}}7月31日
|25||恐竜は悪魔の使者
|style="text-align: left;"|
* [[プテラノドン|テラノ]]モズー(声 - [[清川元夢]])
* テラノドン{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* テラノコング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|8月{{0}}7日
|26||ブラック!大逆転
|style="text-align: left;"|
* [[イノシシ]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* イノシシコング
|style="text-align: left;"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|8月14日
|27||人間ジャングル!
|style="text-align: left;"|
* [[スイカ]]モズー(声 - 西尾徳)
* 植物人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* スイカコング
|style="text-align: left;"|酒井あきよし
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|8月21日
|28||甦った亡霊モズー
|style="text-align: left;"|
* [[サメ]]モズー(声 - 丸山詠二)
* 亡霊モズ-軍団{{efn|シシモズー・イノシシモズー・バクモズー・サボテンモズー・ハチモズー・ドクガモズー・カニモズー・カマキリモズー・スイカモズーの9体。}}
|style="text-align: left;"|
* サメコング
|style="text-align: left;"|曽田博久
|style="text-align: left;"|小西通雄
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|8月28日
|29||眠りの街の恐怖
|style="text-align: left;"|
* [[ハエ]]モズー(声 - [[加地健太郎]])
|style="text-align: left;"|
* ハエコング
|style="text-align: left;"|松本功
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|9月{{0}}4日
|30||猪苗代の黄金魔剣
|style="text-align: left;"|
* [[天狗|テング]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* テングコング
|style="text-align: left;"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|9月11日
|31||ブルー!大突撃!
|style="text-align: left;"|
* [[ガラガラヘビ属|ガラガラヘビ]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* ガラガラコング
|style="text-align: left;"|鷺山京子
|style="text-align: left;"|小西通雄
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|9月18日
|32||ドキッ骨ぬき人間
|style="text-align: left;"|
* [[ヤドカリ]]モズー(声 - 丸山詠二)
* 骨ぬき人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* ヤドカリコング
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|rowspan="1"|山岡淳二<br />横山稔
|style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|9月25日
|33||シーザー大爆破?!
|style="text-align: left;"|
* [[トラ]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* トラコング
|style="text-align: left;"|鷺山京子
|rowspan="18"|山岡淳二
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月{{0}}2日
|34||出た!黄金必殺技
|style="text-align: left;"|
* [[ワニ]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* ワニコング
|style="text-align: left;" rowspan="3"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月{{0}}9日
|35||鉄喰い人間の襲撃
|style="text-align: left;"|
* [[ハイエナ]]モズー(声 - 渡部猛)
* 鉄喰い人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* ハイエナコング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月16日
|36||決闘!0・3秒!
|style="text-align: left;"|
* [[ヤマアラシ]]モズー(声 - [[大宮悌二]])
|style="text-align: left;"|
* ヤマアラシコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月23日
|37||謎の爆撃機を撃て
|style="text-align: left;"|
* [[ムササビ]]モズー(声 - 丸山詠二)
|style="text-align: left;"|
* ムササビコング
|style="text-align: left;"|松本功
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月30日
|38||友情のアタック!
|style="text-align: left;"|
* [[サイ]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* サイコング
|style="text-align: left;"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|11月{{0}}6日
|39||悪魔の人食い絵本
|style="text-align: left;"|
* [[ミミズク]]モズー(声 - 渡部猛)
* 人喰い絵本{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* ミミズクコング
|style="text-align: left;"|鷺山京子
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|11月13日
|40||秘密基地が危ない
|style="text-align: left;"|
* [[セイウチ]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* セイウチコング
|style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|11月20日
|41||変身パパの大冒険
|style="text-align: left;"|
* [[カイコ]]モズー(声 - 西尾徳)
* 変身パパ{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* カイココング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|11月27日
|42||暗殺!サソリの罠
|style="text-align: left;"|
* [[サソリ]]モズー(声 - 渡部猛)
* サソリ人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
|style="text-align: left;"|
* サソリコング
|style="text-align: left;"|酒井あきよし
|style="text-align: left;"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|12月{{0}}4日
|43||死闘!小判争奪戦
|style="text-align: left;"|
* [[ミミズ]]モズー(声 - 丸山詠二)
|style="text-align: left;"|
* ミミズコング
|style="text-align: left;"|由起圭
|style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|12月11日
|44||あ!食べ物が砂に
|style="text-align: left;"|
* [[コンドル]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* コンドルコング
|style="text-align: left;"|鷺山京子
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|12月18日
|45||二人のブラック!
|style="text-align: left;"|
* [[タヌキ]]モズー(声 - 西尾徳)
* デスダークファイブ
|style="text-align: left;"|
* タヌキコング
|style="text-align: left;"|松本功
|style="text-align: left;"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|12月25日
|46||超エネルギー出現
|style="text-align: left;"|
* [[スカンク]]モズー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;"|
* スカンクコング
|style="text-align: left;" rowspan="5"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1983年{{0}}1月{{0}}8日{{efn|1月1日は休止。}}
|47||これが最終兵器だ
|style="text-align: left;"|
* [[ゾウガメ]]モズー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|
* ゾウガメコング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1月15日
|48||秘密基地最後の日
|style="text-align: left;"|
* [[チーター]]モズー(声 - 渡部猛)
* マズルカ
|style="text-align: left;"|
* チーターコング
|style="text-align: left;" rowspan="3"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1月22日
|49||将軍!最後の挑戦
|style="text-align: left;"|
* [[クマ]]モズー(声 - 西尾徳)
* デスギラー将軍
|style="text-align: left;"|
* クマコング
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1月29日
|50||進め!輝く未来へ
|style="text-align: left;"|
* 総統タブー
** 巨大タブー{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=119}}
* デスマルク大元帥
* ベラ
* ベス
* 鎧武者軍団
||-
|}
=== 評価 ===
当時の子供たちから強い支持を受け{{R|画報}}、シリーズ後半では視聴率が常時20パーセント以上を記録していたとされる{{R|大全集168|20th5}}{{Sfn|全怪獣怪人 上|1990|p=395}}。本作品の放映された1982年は玩具業界が戦後初のマイナス成長に終わった年であり、関連玩具は総体的には不振に終わったが{{R|マーチャンダイジングライツレポート}}、ゴーグルロボとゴーグルシーザーの売り上げは好調であり、本作品以降のシリーズ作品のマーチャンダイズにおいては、巨大メカの玩具がさらに重要視されるようになる。
== 他媒体展開 ==
=== 映像ソフト化 ===
いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。
* [[DVD]]は[[2006年]][[9月21日]]から[[2007年]][[1月21日]]にかけて、全5巻が発売された。テレビシリーズの初ソフト化であり、各巻2枚組で10話収録。
* [[2021年]][[4月14日]]発売の「スーパー戦隊一挙見Blu-ray 1982 - 1986」に計6話{{efn|第1・15・26・34・49・50話。}}が収録されている<ref>[https://www.toei-video.co.jp/special/supersentai-ikkyo/ 東映ビデオ:「スーパー戦隊一挙見Blu-ray」特集]</ref>。
* 劇場版は[[2003年]][[7月21日]]発売のDVD-BOX「スーパー戦隊 THE MOVIE BOX」{{R|U106}}と、[[2004年]]7月21日発売の「スーパー戦隊 THE MOVIE VOl.2」、「スーパー戦隊 THE MOVIE Blu-ray BOX 1976-1995」(2011年6月21日)発売に収録されている。
=== 他テレビシリーズ ===
; 『[[高速戦隊ターボレンジャー]]』
: 第1話「10大戦隊集合 頼むぞ! ターボレンジャー」(特別編)で、ゴーグルファイブの5人が登場。
; 『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』
: 第51話「スーパー戦隊大集合」(特別総集編)で、タイムレンジャー5人がタイムジェットで本作品の世界を見に来たという設定で、本作品の映像が流用されている。
; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』
: 第1話などのレジェンド大戦を描いた箇所に、ゴーグルファイブの5人が登場するほか、ゴーカイジャーの二段変身としても登場。
=== 劇場版 ===
; 大戦隊ゴーグルファイブ
: 本作品の劇場版で、1982年3月13日公開。上映時間28分。[[東映まんがまつり]]の一編として上映された。当時の戦隊作品の劇場版では珍しく、テレビシリーズと同様にED曲と映像が流された(他の劇場公開用作品ではOPに集約されることの多いスタッフテロップも、テレビシリーズと同様にEDに流された)。
:* 監督:東条昭平
:* アクション監督 :山岡淳二
:* 脚本:曽田博久
:* 登場怪人:[[モグラ]]モズー(声:渡部猛)、モグラコング
; [[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]]
: 『ゴーカイジャー』と『[[天装戦隊ゴセイジャー]]』の映画作品。ゴーグルブラック/黒田およびゴーグルロボが登場。
; [[海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE 空飛ぶ幽霊船]]
: 『ゴーカイジャー』の映画作品。マダラマンが登場。
; [[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]
: スーパー戦隊シリーズと[[仮面ライダーシリーズ]]のクロスオーバー作品。ゴーグルファイブの5人が登場。
=== CS放送・ネット配信 ===
; CS放送
* [[東映チャンネル]]
**[[2002年]]2月 - 7月(「スーパー戦隊ワールド」枠)
**[[2003年]]10月 - 12月(「アンコールアワー」枠)
; ネット配信
* 東映特撮 [[YouTube]] Official
**[[2013年]][[5月6日]] - [[10月27日]]
**[[2017年]][[6月10日]] - [[11月25日]]
=== 漫画===
* [[テレビランド]]([[徳間書店]]) - 作画:細井雄二
* [[テレビマガジン]]([[講談社]])- 作画:[[津原義明]]
* [[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]([[秋田書店]])- 作画:大谷章
== 放送局 ==
{{節スタブ}}
* 関東広域圏:[[テレビ朝日]]:土曜 18:00 - 18:30 ※キーステーション
* 北海道:[[北海道テレビ放送]]
* 青森県:[[青森放送]]
* 岩手県:岩手放送(現・[[IBC岩手放送]]):水曜 17:00 - 17:30<ref>『[[日刊スポーツ]]』1982年10月20日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* 秋田県:[[秋田放送]]
* 山形県:[[山形放送]]:水曜 17:30 - 18:00<ref>『[[河北新報]]』1982年5月19日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* 宮城県:[[東日本放送]]:土曜 18:00 - 18:30<ref name="f8226">『[[福島民報]]』1982年2月6日 - 1983年1月29日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* 福島県:[[福島放送]]:土曜 18:00 - 18:30<ref name="f8226" />
* 新潟県:[[新潟放送]]:金曜 17:30 - 18:00<ref>『福島民報』1982年3月5日付朝刊、テレビ欄。</ref>(1983年2月11日まで放送)<ref>『[[北國新聞]]』1983年2月11日付朝刊12面、テレビ欄。</ref>
* 山梨県:[[山梨放送]]
* 富山県:[[北日本放送]]:月曜 17:00 - 17:30<ref>『北國新聞』1982年5月31日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* 石川県:[[北陸放送]]:水曜 17:30 - 18:00(1983年2月2日まで放送)<ref>『北國新聞』1983年2月2日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* 福井県:[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]:木曜 17:25 - 17:55(1983年2月10日まで放送)<ref>『北國新聞』1983年2月10日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* 長野県:[[テレビ信州]]
* 静岡県:静岡けんみんテレビ(現・[[静岡朝日テレビ]])
* 中京広域圏:[[名古屋テレビ放送|名古屋放送]](番組放送当時の局名・現メ〜テレ)
* 近畿広域圏:朝日放送(現・[[朝日放送テレビ]])
* 鳥取県・島根県:[[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]]
* 岡山県・香川県:[[瀬戸内海放送]]
* 広島県:[[広島ホームテレビ]]
* 山口県:[[テレビ山口]]
* 徳島県:[[四国放送]]
* 香川県:[[瀬戸内海放送]]
* 愛媛県:愛媛放送(現・[[テレビ愛媛]])
* 高知県:[[テレビ高知]]
* 福岡県:[[九州朝日放送]]
* 長崎県:[[長崎放送]]
* 熊本県:[[テレビ熊本]]
* 宮崎県:[[宮崎放送]] :木曜 17:25 - 17:55<ref>『宮崎日日新聞』1982年5月20日付朝刊テレビ欄</ref>
* 鹿児島県:[[鹿児島放送]](1982年10月 - 1983年1月{{efn|[[鹿児島放送]]では第34話から放送開始。第1話 - 第33話は鹿児島県では未放送。『[[太陽戦隊サンバルカン]]』までをネットしていた[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]](1982年9月までは[[フジネットワーク|フジ系]]・[[日本テレビネットワーク協議会|日テレ系]]・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレ朝系]]との[[クロスネット局|トリプルネット]]局)でも放送されていない。奄美地方で『[[スーパー戦隊シリーズ]]』の放送が再開されたのは、1989年の『[[高速戦隊ターボレンジャー]]』第4話からだった。}})
* 沖縄県:[[琉球放送]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 参照話数 ===
{{Reflist|group="ep"|2
|refs=
<ref name="1話">第1話。</ref>
<ref name="2話">第2話。</ref>
<ref name="5話">第5話。</ref>
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<ref name="32話">第32話。</ref>
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<ref name="49話">第49話。</ref>
<ref name="50話">第50話。</ref>
}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="マーチャンダイジングライツレポート">{{Cite journal|和書 |date=1983-03-01 |editor=平山亮三 |issue=1983年3月号 |journal=マーチャンダイジングライツレポート |page=24 |publisher=商品化権資料センター |title=12〜1月の玩具商戦はどうだったのか〈キャラクター玩具の現状を探る〉}}</ref>
<ref name="大全集46">{{Harvnb|大全集|1988|pp=46-47|loc=「大戦隊ゴーグルV」}}</ref>
<ref name="大全集50">{{Harvnb|大全集|1988|pp=50-51|loc=「ゴーグルパワー」}}</ref>
<ref name="大全集56">{{Harvnb|大全集|1988|pp=56-57|loc=「暗黒科学帝国デスダーク」}}</ref>
<ref name="大全集168">{{Harvnb|大全集|1988|pp=168-169|loc=「新たなる展開 大戦隊ゴーグルV」}}</ref>
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<ref name="大全集233">{{Harvnb|大全集|1988|p=233|loc=「スーパー戦隊・全放送リスト・ストーリーダイジェスト 大戦隊ゴーグルV」}}</ref>
<ref name="keibunsha">『総登場!クンフースター大百科』([[勁文社|ケイブンシャ]]・1983年){{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>
<ref name="全怪獣394">{{Harvnb|全怪獣怪人 上|1990|p=394|loc=「大戦隊ゴーグルV」}}</ref>
<ref name="全怪獣405">{{Harvnb|全怪獣怪人 上|1990|p=405}}</ref>
<ref name="超世紀157">{{Harvnb|大全集|1993|p=157|loc=「戦隊20年の戦い シリーズの変遷 ヒーロー性の集大成 大戦隊ゴーグルファイブ」}}</ref>
<ref name="超世紀172">{{Harvnb|大全集|1993|p=172|loc=「超世紀全戦隊メカニックファイル」}}</ref>
<ref name="画報">{{Cite book|和書|editor=竹書房/イオン編|date=1995-11-30|title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み|publisher=[[竹書房]]|pages=164|id=C0076|isbn=4-88475-874-9}}</ref>
<ref name="KKD4">柳田理科雄「第14章 戦隊ヒーローの28年 正義の戦隊たちの戦いは、どこまでパターン化されているか?」『[[空想科学読本]] 4』[[メディアファクトリー]]、2002年4月10日、ISBN 4-8401-0549-9、212頁。</ref>
<ref name="material24">{{Harvnb|完全マテリアルブック 上巻|2002|pp=24-27}}</ref>
<ref name="material29">{{Harvnb|完全マテリアルブック 上巻|2002|pp=29-31}}</ref>
<ref name="material82">{{Harvnb|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=82}}</ref>
<ref name="taizen10">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=10}}</ref>
<ref name="taizen11">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=11}}</ref>
<ref name="taizen16-17">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=16-17}}</ref>
<ref name="taizen21">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=21|loc=「メインキャラクター紹介 ゴーグルレッド」}}</ref>
<ref name="taizen23">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=23|loc=「メインキャラクター紹介 ゴーグルブラック」}}</ref>
<ref name="taizen25">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=25|loc=「メインキャラクター紹介 ゴーグルブルー」}}</ref>
<ref name="taizen27">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=27|loc=「メインキャラクター紹介 ゴーグルイエロー」}}</ref>
<ref name="taizen29">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=29|loc=「メインキャラクター紹介 ゴーグルピンク」}}</ref>
<ref name="taizen30">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|pp=30-31|loc=「大戦隊ゴーグルV」}}</ref>
<ref name="taizen32">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004\pp=32-33|loc=「ゴーグルVの超戦力」}}</ref>
<ref name="taizen34">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|pp=34-35|loc=「ゴーグルロボ」}}</ref>
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== 関連項目 ==
* [[オールスター番組対抗ボウリング大会]] - 1982年秋に放送されたテレビ朝日の期首特番で、ゴーグルファイブが『[[宇宙刑事ギャバン]]』と共に連合チームで出場。番組内では第1回戦9フレーム前の意気込みの時、ゴーグルファイブとギャバンが登場し握手をするシーンが放送された。
== 外部リンク ==
* [http://www.super-sentai.net/sentai/goggle.html 大戦隊ゴーグルファイブ](スーパー戦隊ネット内の紹介記事)
* [http://www.toei-video.co.jp/special/gogglev/ DVD 大戦隊ゴーグルV特集](東映ビデオ内にあるサイト)
{{前後番組
|放送局=[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]
|放送枠=土曜18:00 - 18:30([[スーパー戦隊シリーズ]])
|番組名=大戦隊ゴーグルファイブ<br />(1982年2月6日 - 1983年1月29日)
|前番組=[[太陽戦隊サンバルカン]]<br />(1981年2月7日 - 1982年1月30日)
|次番組=[[科学戦隊ダイナマン]]<br />(1983年2月5日 - 1984年1月28日)
|次番組備考=※1983年4月9日放送分より18:00 - 18:25に短縮
}}
{{スーパー戦隊シリーズ}}
{{DEFAULTSORT:たいせんたいこおくるふあいふ}}
[[Category:スーパー戦隊シリーズの特撮テレビドラマ]]
[[Category:1980年代の特撮作品]]
[[Category:1982年のテレビドラマ]]
[[Category:曽田博久脚本のテレビドラマ]]
[[Category:鷺山京子脚本のテレビドラマ]]
[[Category:ムー文明を題材としたテレビドラマ]]
[[Category:アトランティス文明を題材としたテレビドラマ]]
[[Category:巨大ロボットを題材としたテレビドラマ]]
[[Category:新体操を題材とした作品]]
[[Category:宝石を題材としたテレビドラマ]]
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[[Category:めばえ]]
[[Category:おともだち]]
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[[Category:テレビマガジン]] | 2003-02-15T12:46:04Z | 2023-12-29T23:11:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%88%A6%E9%9A%8A%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%96 |
1,802 | シンセサイザー | シンセサイザー(英語: synthesizer)は、一般的には主に電子工学的手法により楽音等を合成(英語: synthesize:シンセサイズ)する楽器「ミュージック・シンセサイザー」の総称。いろいろな音が作成・編集できる鍵盤楽器。電子楽器、音源と呼ばれることもある。
シンセサイザーの発明は、「ある時 誰かが 世界で初めて何かを発明し、その成果が後に世界中に広がった」という出来事ではない。100年以上にわたる電子楽器の歴史の中で、多くの人々が試行錯誤を繰り返し、時としてほぼ同じものがあちこちで再発明されながら、技術の蓄積と概念の洗練が進み、途中、戦争による停滞や技術者の世代交代を挟んで、1960年代以降マイクロ・エレクトロニクスと共に急速な発展を遂げて、現在の形になった。
最初に登場したのは19世紀半ばに登場したミュージック・テレグラフという発電機や電話を応用した機械で、次に有線音楽配信を狙ったテルハーモニウムが登場。20世紀初頭、真空管が発明されラジオやトーキーの実用化研究が本格化すると、ラジオ技術の一つであるヘテロダインを応用したテルミンや、トーキー技術 を応用したOptophonic pianoが登場した。遅くとも1920年代初頭には楽器用低周波オシレータが登場し、それをリボンコントローラや鍵盤で演奏するトラウトニウムやオンドマルトノが登場した。これらの楽器は後の改良の結果、現在ではシンセの祖先と見なされているが、登場当時は非常にシンプルでシンセと呼べる物ではなかった。
1930年代にはシンセサイザーの基本要素が出揃い、初期のシンセサイザー時代が開幕した。ただし当時のフィルターは、パッシブ回路が主流でその効果は緩やかなため (6dB/oct.)、1970年代アナログ・シンセのように強力な音作りの手段にはならず、むしろ他の補助的に使われる事が多かった。この時期に登場したミニモーグのような機能と外観を持つ楽器(コンサート・トラウトニウム、ミクスチュア・トラウトニウム)もその一例である。ポリフォニック楽器の分野では、当初はトーンホイール(英語版)方式や ピックアップ方式が有力で、特に倍音加算合成をトーンホイールで実現したハモンド・オルガン は一大勢力となり、この分野で40年以上勢力を維持した。電子楽器では「分周回路」と「フィルターによる減算合成」を組合せた新しい楽器が登場し、これ以降多くの電子オルガンが同方式をベースとした倍音加算合成を提供した。ただし当時のオルガンの多くが採用した全鍵発音方式は、当時の実装技術では規模が巨大化しがちなため、個々の音響合成回路はごくシンプルに抑えられ、音色表現能力は限定された。そこで高度な表現力を要するリード演奏専用に、小型の電子鍵盤楽器が登場した。これは オルガンやピアノの鍵盤近くに設置して合奏する小型楽器で、その演奏スタイルは後に、電子オルガンのソロ鍵盤や、電子オルガン上に置くプリセット・シンセに発展した。
このほか同時期、1939年のニューヨーク万国博覧会でヴォコーダ(1928年通信用途で実験開始)や鍵盤演奏型のスピーチシンセサイザー(Voder)が一般公開された 。しかし同年勃発した第二次世界大戦により各国は戦時体制へ移行し、ヴォコーダは軍の暗号通信装置(SIGSALY)に利用され、アメリカの電子楽器開発者は爆撃誘導装置やレーダーの開発に駆り出され、ドイツの電子楽器研究拠点ハインリヒ・ヘルツ研究所では、職場のユダヤ人排斥に反対した教授が職を追われ、そうして世界の電子楽器開発は停止した。1945年に戦争が終わると、ドイツの電子音楽スタジオが即座に活動を再開し、またドイツで実用化されたテープレコーダを使って音を切り貼りするミュージック・コンクレートがフランスに登場し、現代音楽という新しいキーワードの元、電子楽器が息吹を吹き返した。
1950年前後、軍事技術だったコンピュータが世界に広がると共に、コンピュータ音楽が登場した。当初は曲の自動演奏が試みられ、次に高い計算能力を生かして確率的作曲や音響合成に応用された。1957年マックス・マシューズのMUSIC-Nプログラムは、デジタル音源とソフトウェア音源の元祖と認識されており、後にその上でFM合成を含む多くの研究開発がなされた。同じ1957年には「シンセサイザー」という名を初めて使ったコンピュータ用音源「RCAマークIIサウンドシンセサイザー」も登場している。構成は現在のアナログ・シンセサイザーとほとんど同じで、出力される音は初期のアナログDTM音源のクオリティに到達していた。
1952-1958年、音楽家レイモンド・スコットが開発した「クラヴィヴォックス」は、鍵盤の他にR.A.Moog社のテルミンを流用したコントローラを装備し、後には電圧制御式シーケンサも追加された。後にモーグは、クラヴィヴォックスの回路や音が 60年代のモーグ・シンセサイザーとよく似ていたと語っている。
(以下要約中。詳細は各節参照)
シンセサイザーを含む電子楽器の歴史は、およそ19世紀末まで遡る事ができる。 それ以前にも電磁気学的効果を応用した電気楽器がいくつか登場していたが、
自由な音響合成を特徴とするシンセサイザーの祖先としては、19世紀末以降の下記を挙げるべきだろう。
1920年代には、エレクトロニクスの発達により、真空管式の電子楽器が登場した。
以上の3つは、しばしば一般向け解説書で「シンセサイザーの先祖」として言及され、中でもテルミンは、アナログ・シンセサイザーのルーツにあたる最初期の電子楽器 とされる事が多い。またトラウトニウムは、発明者の弟子オスカー・ザラが精力的な改良を行い、リボンコントローラ楽器としての本質を守りながら、後にモーグ・シンセサイザーと同様な機能や形に進化した。
一方日本では、1935年ヤマハの山下精一が「マグナオルガン」を発表している。これはドイツ留学経験のある山下がテルミン等の電子楽器にヒントを得て開発した、各種楽器音を再現可能な鍵盤楽器と伝えられているが、詳細は不明である。
1930年代には、既に前述のシンプルな電子楽器が登場していたが、ピアノやオルガンに匹敵する本格的電子楽器の実用化は疑問視されていた。例えば1936年Miessnerは、フィルターを使う減算合成も、倍音を重ねる倍音加算合成も、電子回路では機構が複雑になり過ぎ実用化が難しいので、生楽器の発音機構を併用した電気楽器こそ実用的だとする説を発表した。しかし減算合成は1936-1937年に相次いで実用化され、また倍音加算合成もパイプオルガンの再現目的で後に実用化された。
1936年、オスカー・ザラによる トラウトニウムの改良版 コンサート・トラウトニウム は、鐘の音を再現可能な(副倍音)加算合成と、フォルマント・フィルターによる音作りを併用した。この楽器は、パウル・ヒンデミットのトラウトニウムと弦楽の為の協奏曲 や、1940年リヒャルト・シュトラウスの日本の祝典に寄せる祝典曲 の1942年ドイツ・プレミア公演(鐘の音の再現)で使用された。
1937年、ドイツのハラルト・ボーデは、初期のキーアサイン方式による部分ポリフォニック・シンセサイザー「ワーボ・フォルマント・オーゲル」を開発、その後約50年間に渡って多数の発明と製品開発を継続して、モーグを始めとするアナログシンセサイザーの歴史に大きな影響を残した。
1937年頃、アメリカの発明家でハモンド・オルガンの開発者として知られるローレンス・ハモンドは、全鍵発音式の減算合成ポリフォニック・シンセサイザー ノバコードを開発、1939年に発売開始した。「一台でオーケストラやバンド・サウンドに匹敵する音を出せる」という触れ込みの最も初期の電子楽器で、1960年代まで数多くの映画/ラジオ/テレビのサウンドトラック に使用された。
1940年代になると、他のメーカも同様な方式に基づく電子オルガンを開発し発売した(なお戦争のため発売が戦後にずれた機種も多い)。登場当時の電子オルガンは、電球のような形とサイズの真空管を数十〜百本単位で使った物量勝負の電子機器であり、真空管の特性上、その動作は必ずしも安定しているとはいえなかった。また各メーカが自社の電子オルガンのモデルにした楽器は、教会用パイプオルガン (アーレンオルガン)、シアターオルガン (Wurlitzer、エレクトーン)、ハーモニウム/リードオルガン等と、明らかに差異があったが、総称的にすべて 電子オルガン と呼ばれた。
また電子オルガンとは別に、細かな音作りや表現が可能な小型の単音電子鍵盤楽器の系統も登場した。
1952年、アメリカの作曲家レイモンド・スコットが開発したシンセサイザーClavivoxは、鍵盤演奏式でオーディオ・エンベロープやビブラートを装備していた他、若きロバート・モーグが製造したテルミンをコントローラに採用し、3オクターヴにわたるポルタメントを実現していた。後期のモデルでは電圧制御式シーケンサ等が追加され、音程や音色の制御信号(CV)を映画フィルム上に光学的に記録・再生できた。後にロバート・モーグは、先行したClavivoxの回路や音が、60年代モーグ・シンセサイザーと類似していたと語った。 これらの楽器は、人気オルガン奏者がソロフレーズに活用して一時代を築いたり、電子音楽スタジオで現代音楽の作品や映画のサウンドトラック作成に使用され、後に登場したトランジスタ式シンセサイザーを受け入れる音楽的土壌を育んだ。
日本では1960年前後、同様な単音楽器が電子オルガンのプロトタイプ として開発・発売された。
「電子オルガンに載せて使うソロ楽器」というコンセプトは、アープやモーグのプリセット・シンセを経て、日本の初期シンセ製品にも引き継がれた。
1928年、ベル研究所のホーマー・ダッドリーは通信回線多重化のための音声符号化/同復調法の研究を行い、バンドパス・フィルター方式のヴォコーダーの実験を開始した。この技術は1935年特許出願され、1939年米国特許(US#2,151,091)が成立、同年開催のニューヨーク・ワールドフェアで一般公開された。また同技術を応用した鍵盤操作式スピーチシンセサイザー VODER (1938年米国特許(US#2,121,142)) も同時公開された。ただしこの時点では音楽的利用を図った形跡は見られない。そして戦争開始とともに軍事通信への利用が最優先になり、SIGSALY (1942)をはじめとする多くの軍事用音声暗号化システムが同技術を採用した。
なお同時期には軍事技術を民生転用して、音楽用ヴォコーダーとよく似た効果が得られる別の音楽用装置が誕生している。1939年アルヴィノ・レイが開発した Sonovox は、電子楽器というより1970年代のトーキング・モジュレーター (Talk box) を連想させる「任意の音を喋らせる」装置である。この装置は軍事用喉マイク を 喉スピーカに転用し、喉に当てて口を動かすと、あたかも効果音や楽器音が喋っているかのような効果が得られた。Sonovoxは1940年のケイ・カイザー楽団の映画や、アニメ映画の動物の声、ラジオ局のジングル等に使用されており、名称はともかくその効果と音は一般に広く認識されている。
1950年、オーストラリア最初のコンピュータCSIR Mk1上で、世界最初のコンピュータ音楽が演奏された。
1957年、ベル研究所のマックス・マシューズはMUSICと呼ばれる、デジタル信号の生成・処理プログラムを開発した。これはデジタルシンセサイザーやソフトウェア音源の元祖と言われており、そのほか潜在的にデジタル・サンプラーの元祖でもある可能性が高い。MUSICはその後進化を重ねてMUSIC Vで一旦完成し、マサチューセッツ工科大のバリー・ベゥコーに引き継がれて、現在オープンソースのCsound、CMusic、RTcmixの原型となった。1980年代IRCAMで開発された有名なグラフィカル音楽言語Max (1990年発売)は、マックス・マシューズの名前にちなんでいる。
1956年頃 (1955年説もある)、RCAプリンストン研究所の ハリー・オルソンとハーバード・ベラーが「RCA マークII サウンド・シンセサイザー」(RCA Mark II Sound Synthesizer) という真空管製でパンチテープ制御式のコンピュータ用音源を開発し、1957年コロンビア大学に同機は設置された。歴史上「シンセサイザー」(合成)という単語が用いられた初めての音響合成機器とされており、構成図 によれば 現在のアナログシンセサイザーの基本要素をほぼ備え、録音 によれば 初期DTM音源と同程度の演奏が可能だった事を確認できる。なお同機は、確率論に基づく音楽の数学的解析と音楽生成手法の研究のために開発された音源であり、音響合成の研究や楽器の確立は特に目的としていなかった。
このほか、コンピュータ連携の有無は不明だが、1955年頃ドイツの総合電機メーカー シーメンス が、英語で「Siemens synthesizer」と呼ばれる電子音響合成システム(ドイツ語名不詳) を開発して同社Siemens Studioに設置している。これは同社が当時制作中だったシーメンスグループの記録映画に、飛びぬけた音楽をつけようと若手作曲家Josef Anton Riedlに依頼をし、この作曲家に同社研究所が協力する形で開発された。システムの構成は、戦争中の通信用ヴォコーダを改造した音楽用ヴォコーダを中心に、その他の音源ソース(パルス波, ノイズ)、フィルター、テープレコーダ、ミキサー等からなり、RCAの装置と同様にパンチテープによる自動制御も装備していた。システムは同社Siemens Studioに設置されサウンドトラック制作に使用された後、1960-1963年には同機の有効活用を目的に多数の現代作曲家が招聘された。しかしこの文化活動は多額の費用がかかったため許容範囲を逸脱し、1963年同スタジオはUlm School of Design(独: Ulmer Hochschule fur Gestaltung)に譲渡され、そこで数年間の利用の後、閉鎖された。
1959-60年、ハラルト・ボーデはモジュラー・シンセサイザー と サウンド・プロセッサーを開発し、そのコンセプトをAES論文で発表した。また1961年には、トランジスター技術を使ったコンパクトで自己充足的なモジュラー・シンセサイザーを AES論文で提案し、そのアイデアはブックラ、モーグといった初期のシンセビルダーにより相次いで実現された。 1963年、アメリカのドン・ブックラは、おそらく世界初となる現代的なモジュラー・シンセサイザー Buchla 100 series を開発した。 1964年、アメリカのロバート・モーグ博士は、テルミンのトランジスター化とRCA・マークIIの改良に関する研究を通じて、楽器としての使用に足るシンセサイザーの試作を行い、モーグシンセサイザーの仕様を確立した。 1965年同博士による「モーグ・シンセサイザー」は、CM関係者のアルウィン・ニコラやレコード・エンジニアのウォルター・カルロスに納入され、1967年には製品版モジュラー・シンセサイザー(Moog modular synthersize I,II,III)を発売している。 なお同時期アメリカではアープの前身が電子楽器の特許出願を開始し、ロンドンでは後のエレクトロニック・ミュージック・スタジオ創設者が、電子音楽スタジオをコンピュータ制御する計画を開始した。
1968年、ウォルター・カルロスによる「スウィッチト・オン・バッハ (Switched-On Bach)」は、アメリカ・コロムビア・レコードよりリリースされ、全世界で累計100万枚を売り上げるヒット・アルバムとなった。さらにエマーソン・レイク・アンド・パーマーのキース・エマーソンを初め、1970年代には多くのロック系ミュージシャンに使用され、さらに冨田勲の「月の光」「惑星」などの作品が世界的なヒットをすることによって、一般的にも認知される楽器となった。 1970年前後には、「EMS」、「アープ」、「イー・ミュー (E-mu Systems)」といった比較的新しいメーカーも参入した。 日本では 1973年3月 コルグがミニコルグ700を発売、同7月 ローランドがSH-1000 を発売、同時期にヒルウッドもBlue Commets '73を発売、翌1974年にはヤマハがSY-1を発売し、70年代を代表する日本のシンセサイザー・メーカが勢ぞろいした。
なお1970年代までのシンセサイザーは、モノフォニック・シンセと呼ばれる1音しか音の出ないタイプが主流だったが、70年代中期にヤマハやオーバーハイムがポリフォニックシンセサイザーを発売し、さらに70年代後期にはシーケンシャル・サーキットが音色メモリーを搭載したProphet-5を発売、市販製品の制御部にもデジタル技術が浸透し始めた。 デジタル音源の普及と共に一時期廃れていたが、2000年代に入ってアナログシンセが見直され、各社から往年の名機の復刻や雑誌の特集でも取り上げられるなど、一部で復活の機運が高まりつつある。
前述のようにヴォコーダは 1928年最初の実験が行われ、1939年一般公開された。同時公開で応用技術による鍵盤式スピーチ・シンセサイザーも登場したが、当時はどちらも音楽利用された形跡は見当たらず、その後ヴォコーダは軍事暗号通信に広く利用された。なお同時期にはSonovoxが安価な喉スピーカで「喋る楽器」を実現して人気を博し、1960年代のトーキング・モジュレータに繋がる系譜を切り開いた。 1955年シーメンスが作曲家Josef Anton Riedlと共に開発した シーメンス・シンセサイザーは、通信用ヴォコーダを改造した音楽用ヴォコーダーを中心に構成されたと伝えられており、実物も現存しているがその詳細は不明である。
1969年、アメリカのブルース・ハークは最初の音楽用ヴォコーダ Farad を自作し、自身のアルバムthe Electronic Record for the Children (1969)で使用した。そしてFaradはたちまち追随者を生み出した。
1970年ウェンディ・カルロスとロバート・モーグはFaradにインスパイアされた10バンドのvocoder (元の名は spectrum encoder-decoder)を開発した。当初は発音を区切らないと声が不明瞭だったが、後にシビランス・コントローラ (Sibilance等の発音の高域ノイズをHPFで取り出し直接出力して、発音を明瞭化する機構) を追加し、通信用ヴォコーダとは別の「音楽用ヴォコーダ」が確立した。
以降各社からヴォコーダが相次いで登場し、70年代-80年代前半に最初のヴォコーダ・ブームが到来し、2000年代にはバーチャル・アナログ技術でコンパクト化されたヴォコーダが2度目のブームを巻き起こしている。
前述のようにデジタル音源は1957年Max MathewsのMUSIC登場以降、主に高価な大型コンピュータ上で研究が進められた。一方、同時期に誕生したマイクロ・エレクトロニクス技術は、1960年代の宇宙開発/軍需ニーズを背景に急速な発展を遂げ、1970年前後にはLSI技術の民生利用が本格化し、その中からマイクロプロセッサが誕生した。こうして1970年代には、大型コンピュータを専用ハードに置き換えた初期のデジタルシンセサイザーが登場し、一足早くデジタル音源時代が開幕した。
他方、国内楽器業界は 有名なデジタルオルガン特許係争 の影響もあり、デジタル音源開発への取り組み全般が滞りがちだった。そのような中、ヤマハは早くからデジタル音源開発に取り組み、また積極的な訴訟対策を行って、1977年同社初のデジタル系となるPASS音源を発売、更にスタンフォード大学からFM音源のライセンスを取得して万全を期していた。また電卓戦争の覇者カシオは、1979年VLSI技術を使った小型電子楽器やホーム・キーボードを発売し、デジタル楽器の低価格化競争の先鞭を付けた。
1980年、ヤマハはFMアルゴリズムを使った画期的なデジタルキーボード GS1を発売し、1983年には普及価格のDX7($1999)発売して、3年間に20万台と世界的ベストセラーとなり一大デジタル旋風を巻き起こした。FM音源は周波数変調を用い複雑な倍音を持った金属的な響きを特徴とし、多くのミュージシャンが積極活用した。更に1985年にDX21($795)、DX100($455)とDXシリーズを拡充した。
1980年代中盤には、それ以外のデジタルシンセサイザー や サンプラー も普及価格で登場し、オールインワンのワークステーション機種も登場して、一般ユーザ・レベルのデジタル音源時代が開始された。他方、1980年代初期に活躍したハイエンド・デジタル製品はその優位性を失い、徐々に事業を停止して独自技術の売却や技術移転をしたり、あるいは思い切った業態変更を余儀なくされた。
それまでのシンセサイザーは、メーカー毎に独自の制御方式を採用していたので、シンセサイザーの相互接続には大きな壁があった。MIDIは、異なるメーカー間であっても、複数の電子楽器を連動し演奏・操作可能にする事を目的として、1981年初春、Sequential Circuits/Oberheim/Rolandの3社で規格策定を開始した。1981年秋には他の日本メーカも参加して規格策定を進め、1982年MIDI基本仕様(ドラフト)が登場、初期製品で規格を実地検証した後、1983年「MIDI1.0詳細仕様」が正式に制定された。
1990年代に入ると、デジタル技術の発達により実際の楽器の音色をサンプリングしたPCM音源が一般的となり、昔ながらの音を合成する楽器というニュアンスは薄れていった。それでもこの時期にもコルグやヤマハなどから物理モデル音源といった新たな音源方式を採用したシンセサイザーも発売されている。
1995年、Clavia DMIがDSPによるバーチャルアナログ・シンセNord Leadを発売すると、高価で不安定なヴィンテージ・シンセに代わる新しい楽器として注目を集め、各メーカも同様な製品を発売し始めた。
ソフトウェア音源は前述のように1957年MUSICに始まり、その後継システム上で研究開発が続けられ、1970年代末デジタル音楽ワークステーションの形でポピュラー音楽製作現場に入り込んだ。1980年代末から1990年代初頭にはDSP搭載の研究用ワークステーション(IRCAMカードを搭載したNeXT,SGI Indigo等)やDAW系システム(digidesign製品等)で進化を続けた。そして1990年代前半、一般のパソコン上のソフトウェア音源利用が一般化し始めた。1990年代半ばにはDTM音源(Reality, VSC, Timidi)や各種シミュレーション音源(Rubberduck, ReBirth、Juno)が実用され、またDAW用プラグイン規格(VST規格, Direct Music(DXi)等)も登場した。
そして2000年代以降、高性能化したパーソナルコンピュータ上でDAW環境が安価に安定して利用可能になると、それまであまりコンピュータに手を出さなかった平均的な音楽製作現場でも、DAW上で動作するソフトウェア楽器を徐々に使用するようになった。なおソフトウェア・シンセサイザーとは、基本的にこれまでの各方式のシンセサイザーをコンピュータ上に再現したもので、新しい音源方式ではない。ソフトウェア・シンセサイザーではコンピュータの演算能力と記憶容量を利用し利便性の面が拡張されている事が多く、使い勝手の向上をもたらしている。
現在ではコンピュータ上に多くの音源方式がシミュレートされ、手軽に多くのタイプの音源方式にふれられる事から、一時下火となっていたアナログシンセのような、音を合成して音色を作成するような音作りにも目が向けられるようになっている。
演奏では、小室哲哉や浅倉大介が多用している。
加算合成、減算合成、・変調合成や、サンプリング音源、またはそれらの複合型など多数の方式が存在している。 アナログシンセサイザーの時代は減算合成が主流だったが、その後、デジタル技術の発展により、サンプリングしたデータを元に音を構築するPCM音源が主流となった。
当初は特殊な電子装置やキーボード (楽器)の一種として分類されていたが、その後、ギター型や笛型、打楽器型のコントローラーを備えたシンセサイザーが登場した。さらに演奏用のインターフェイスを分離したシンセサイザーモジュールと呼ばれる機材も登場している。
ここではシンセサイザーそのものに関する任意の業績があると評される者のみを、その業績も含めて列記している。 | [
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"text": "シンセサイザー(英語: synthesizer)は、一般的には主に電子工学的手法により楽音等を合成(英語: synthesize:シンセサイズ)する楽器「ミュージック・シンセサイザー」の総称。いろいろな音が作成・編集できる鍵盤楽器。電子楽器、音源と呼ばれることもある。",
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"text": "シンセサイザーの発明は、「ある時 誰かが 世界で初めて何かを発明し、その成果が後に世界中に広がった」という出来事ではない。100年以上にわたる電子楽器の歴史の中で、多くの人々が試行錯誤を繰り返し、時としてほぼ同じものがあちこちで再発明されながら、技術の蓄積と概念の洗練が進み、途中、戦争による停滞や技術者の世代交代を挟んで、1960年代以降マイクロ・エレクトロニクスと共に急速な発展を遂げて、現在の形になった。",
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"text": "最初に登場したのは19世紀半ばに登場したミュージック・テレグラフという発電機や電話を応用した機械で、次に有線音楽配信を狙ったテルハーモニウムが登場。20世紀初頭、真空管が発明されラジオやトーキーの実用化研究が本格化すると、ラジオ技術の一つであるヘテロダインを応用したテルミンや、トーキー技術 を応用したOptophonic pianoが登場した。遅くとも1920年代初頭には楽器用低周波オシレータが登場し、それをリボンコントローラや鍵盤で演奏するトラウトニウムやオンドマルトノが登場した。これらの楽器は後の改良の結果、現在ではシンセの祖先と見なされているが、登場当時は非常にシンプルでシンセと呼べる物ではなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1930年代にはシンセサイザーの基本要素が出揃い、初期のシンセサイザー時代が開幕した。ただし当時のフィルターは、パッシブ回路が主流でその効果は緩やかなため (6dB/oct.)、1970年代アナログ・シンセのように強力な音作りの手段にはならず、むしろ他の補助的に使われる事が多かった。この時期に登場したミニモーグのような機能と外観を持つ楽器(コンサート・トラウトニウム、ミクスチュア・トラウトニウム)もその一例である。ポリフォニック楽器の分野では、当初はトーンホイール(英語版)方式や ピックアップ方式が有力で、特に倍音加算合成をトーンホイールで実現したハモンド・オルガン は一大勢力となり、この分野で40年以上勢力を維持した。電子楽器では「分周回路」と「フィルターによる減算合成」を組合せた新しい楽器が登場し、これ以降多くの電子オルガンが同方式をベースとした倍音加算合成を提供した。ただし当時のオルガンの多くが採用した全鍵発音方式は、当時の実装技術では規模が巨大化しがちなため、個々の音響合成回路はごくシンプルに抑えられ、音色表現能力は限定された。そこで高度な表現力を要するリード演奏専用に、小型の電子鍵盤楽器が登場した。これは オルガンやピアノの鍵盤近くに設置して合奏する小型楽器で、その演奏スタイルは後に、電子オルガンのソロ鍵盤や、電子オルガン上に置くプリセット・シンセに発展した。",
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"text": "このほか同時期、1939年のニューヨーク万国博覧会でヴォコーダ(1928年通信用途で実験開始)や鍵盤演奏型のスピーチシンセサイザー(Voder)が一般公開された 。しかし同年勃発した第二次世界大戦により各国は戦時体制へ移行し、ヴォコーダは軍の暗号通信装置(SIGSALY)に利用され、アメリカの電子楽器開発者は爆撃誘導装置やレーダーの開発に駆り出され、ドイツの電子楽器研究拠点ハインリヒ・ヘルツ研究所では、職場のユダヤ人排斥に反対した教授が職を追われ、そうして世界の電子楽器開発は停止した。1945年に戦争が終わると、ドイツの電子音楽スタジオが即座に活動を再開し、またドイツで実用化されたテープレコーダを使って音を切り貼りするミュージック・コンクレートがフランスに登場し、現代音楽という新しいキーワードの元、電子楽器が息吹を吹き返した。",
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"text": "1950年前後、軍事技術だったコンピュータが世界に広がると共に、コンピュータ音楽が登場した。当初は曲の自動演奏が試みられ、次に高い計算能力を生かして確率的作曲や音響合成に応用された。1957年マックス・マシューズのMUSIC-Nプログラムは、デジタル音源とソフトウェア音源の元祖と認識されており、後にその上でFM合成を含む多くの研究開発がなされた。同じ1957年には「シンセサイザー」という名を初めて使ったコンピュータ用音源「RCAマークIIサウンドシンセサイザー」も登場している。構成は現在のアナログ・シンセサイザーとほとんど同じで、出力される音は初期のアナログDTM音源のクオリティに到達していた。",
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"text": "1952-1958年、音楽家レイモンド・スコットが開発した「クラヴィヴォックス」は、鍵盤の他にR.A.Moog社のテルミンを流用したコントローラを装備し、後には電圧制御式シーケンサも追加された。後にモーグは、クラヴィヴォックスの回路や音が 60年代のモーグ・シンセサイザーとよく似ていたと語っている。",
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"text": "(以下要約中。詳細は各節参照)",
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"text": "シンセサイザーを含む電子楽器の歴史は、およそ19世紀末まで遡る事ができる。 それ以前にも電磁気学的効果を応用した電気楽器がいくつか登場していたが、",
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"text": "自由な音響合成を特徴とするシンセサイザーの祖先としては、19世紀末以降の下記を挙げるべきだろう。",
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"text": "1920年代には、エレクトロニクスの発達により、真空管式の電子楽器が登場した。",
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"text": "以上の3つは、しばしば一般向け解説書で「シンセサイザーの先祖」として言及され、中でもテルミンは、アナログ・シンセサイザーのルーツにあたる最初期の電子楽器 とされる事が多い。またトラウトニウムは、発明者の弟子オスカー・ザラが精力的な改良を行い、リボンコントローラ楽器としての本質を守りながら、後にモーグ・シンセサイザーと同様な機能や形に進化した。",
"title": "歴史"
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"text": "一方日本では、1935年ヤマハの山下精一が「マグナオルガン」を発表している。これはドイツ留学経験のある山下がテルミン等の電子楽器にヒントを得て開発した、各種楽器音を再現可能な鍵盤楽器と伝えられているが、詳細は不明である。",
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"text": "1930年代には、既に前述のシンプルな電子楽器が登場していたが、ピアノやオルガンに匹敵する本格的電子楽器の実用化は疑問視されていた。例えば1936年Miessnerは、フィルターを使う減算合成も、倍音を重ねる倍音加算合成も、電子回路では機構が複雑になり過ぎ実用化が難しいので、生楽器の発音機構を併用した電気楽器こそ実用的だとする説を発表した。しかし減算合成は1936-1937年に相次いで実用化され、また倍音加算合成もパイプオルガンの再現目的で後に実用化された。",
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"text": "1936年、オスカー・ザラによる トラウトニウムの改良版 コンサート・トラウトニウム は、鐘の音を再現可能な(副倍音)加算合成と、フォルマント・フィルターによる音作りを併用した。この楽器は、パウル・ヒンデミットのトラウトニウムと弦楽の為の協奏曲 や、1940年リヒャルト・シュトラウスの日本の祝典に寄せる祝典曲 の1942年ドイツ・プレミア公演(鐘の音の再現)で使用された。",
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"text": "1937年、ドイツのハラルト・ボーデは、初期のキーアサイン方式による部分ポリフォニック・シンセサイザー「ワーボ・フォルマント・オーゲル」を開発、その後約50年間に渡って多数の発明と製品開発を継続して、モーグを始めとするアナログシンセサイザーの歴史に大きな影響を残した。",
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"text": "1937年頃、アメリカの発明家でハモンド・オルガンの開発者として知られるローレンス・ハモンドは、全鍵発音式の減算合成ポリフォニック・シンセサイザー ノバコードを開発、1939年に発売開始した。「一台でオーケストラやバンド・サウンドに匹敵する音を出せる」という触れ込みの最も初期の電子楽器で、1960年代まで数多くの映画/ラジオ/テレビのサウンドトラック に使用された。",
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"text": "1940年代になると、他のメーカも同様な方式に基づく電子オルガンを開発し発売した(なお戦争のため発売が戦後にずれた機種も多い)。登場当時の電子オルガンは、電球のような形とサイズの真空管を数十〜百本単位で使った物量勝負の電子機器であり、真空管の特性上、その動作は必ずしも安定しているとはいえなかった。また各メーカが自社の電子オルガンのモデルにした楽器は、教会用パイプオルガン (アーレンオルガン)、シアターオルガン (Wurlitzer、エレクトーン)、ハーモニウム/リードオルガン等と、明らかに差異があったが、総称的にすべて 電子オルガン と呼ばれた。",
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"text": "また電子オルガンとは別に、細かな音作りや表現が可能な小型の単音電子鍵盤楽器の系統も登場した。",
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"text": "1952年、アメリカの作曲家レイモンド・スコットが開発したシンセサイザーClavivoxは、鍵盤演奏式でオーディオ・エンベロープやビブラートを装備していた他、若きロバート・モーグが製造したテルミンをコントローラに採用し、3オクターヴにわたるポルタメントを実現していた。後期のモデルでは電圧制御式シーケンサ等が追加され、音程や音色の制御信号(CV)を映画フィルム上に光学的に記録・再生できた。後にロバート・モーグは、先行したClavivoxの回路や音が、60年代モーグ・シンセサイザーと類似していたと語った。 これらの楽器は、人気オルガン奏者がソロフレーズに活用して一時代を築いたり、電子音楽スタジオで現代音楽の作品や映画のサウンドトラック作成に使用され、後に登場したトランジスタ式シンセサイザーを受け入れる音楽的土壌を育んだ。",
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"text": "1959-60年、ハラルト・ボーデはモジュラー・シンセサイザー と サウンド・プロセッサーを開発し、そのコンセプトをAES論文で発表した。また1961年には、トランジスター技術を使ったコンパクトで自己充足的なモジュラー・シンセサイザーを AES論文で提案し、そのアイデアはブックラ、モーグといった初期のシンセビルダーにより相次いで実現された。 1963年、アメリカのドン・ブックラは、おそらく世界初となる現代的なモジュラー・シンセサイザー Buchla 100 series を開発した。 1964年、アメリカのロバート・モーグ博士は、テルミンのトランジスター化とRCA・マークIIの改良に関する研究を通じて、楽器としての使用に足るシンセサイザーの試作を行い、モーグシンセサイザーの仕様を確立した。 1965年同博士による「モーグ・シンセサイザー」は、CM関係者のアルウィン・ニコラやレコード・エンジニアのウォルター・カルロスに納入され、1967年には製品版モジュラー・シンセサイザー(Moog modular synthersize I,II,III)を発売している。 なお同時期アメリカではアープの前身が電子楽器の特許出願を開始し、ロンドンでは後のエレクトロニック・ミュージック・スタジオ創設者が、電子音楽スタジオをコンピュータ制御する計画を開始した。",
"title": "歴史"
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"text": "1968年、ウォルター・カルロスによる「スウィッチト・オン・バッハ (Switched-On Bach)」は、アメリカ・コロムビア・レコードよりリリースされ、全世界で累計100万枚を売り上げるヒット・アルバムとなった。さらにエマーソン・レイク・アンド・パーマーのキース・エマーソンを初め、1970年代には多くのロック系ミュージシャンに使用され、さらに冨田勲の「月の光」「惑星」などの作品が世界的なヒットをすることによって、一般的にも認知される楽器となった。 1970年前後には、「EMS」、「アープ」、「イー・ミュー (E-mu Systems)」といった比較的新しいメーカーも参入した。 日本では 1973年3月 コルグがミニコルグ700を発売、同7月 ローランドがSH-1000 を発売、同時期にヒルウッドもBlue Commets '73を発売、翌1974年にはヤマハがSY-1を発売し、70年代を代表する日本のシンセサイザー・メーカが勢ぞろいした。",
"title": "歴史"
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"text": "なお1970年代までのシンセサイザーは、モノフォニック・シンセと呼ばれる1音しか音の出ないタイプが主流だったが、70年代中期にヤマハやオーバーハイムがポリフォニックシンセサイザーを発売し、さらに70年代後期にはシーケンシャル・サーキットが音色メモリーを搭載したProphet-5を発売、市販製品の制御部にもデジタル技術が浸透し始めた。 デジタル音源の普及と共に一時期廃れていたが、2000年代に入ってアナログシンセが見直され、各社から往年の名機の復刻や雑誌の特集でも取り上げられるなど、一部で復活の機運が高まりつつある。",
"title": "歴史"
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"text": "前述のようにヴォコーダは 1928年最初の実験が行われ、1939年一般公開された。同時公開で応用技術による鍵盤式スピーチ・シンセサイザーも登場したが、当時はどちらも音楽利用された形跡は見当たらず、その後ヴォコーダは軍事暗号通信に広く利用された。なお同時期にはSonovoxが安価な喉スピーカで「喋る楽器」を実現して人気を博し、1960年代のトーキング・モジュレータに繋がる系譜を切り開いた。 1955年シーメンスが作曲家Josef Anton Riedlと共に開発した シーメンス・シンセサイザーは、通信用ヴォコーダを改造した音楽用ヴォコーダーを中心に構成されたと伝えられており、実物も現存しているがその詳細は不明である。",
"title": "歴史"
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"text": "1969年、アメリカのブルース・ハークは最初の音楽用ヴォコーダ Farad を自作し、自身のアルバムthe Electronic Record for the Children (1969)で使用した。そしてFaradはたちまち追随者を生み出した。",
"title": "歴史"
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"text": "1970年ウェンディ・カルロスとロバート・モーグはFaradにインスパイアされた10バンドのvocoder (元の名は spectrum encoder-decoder)を開発した。当初は発音を区切らないと声が不明瞭だったが、後にシビランス・コントローラ (Sibilance等の発音の高域ノイズをHPFで取り出し直接出力して、発音を明瞭化する機構) を追加し、通信用ヴォコーダとは別の「音楽用ヴォコーダ」が確立した。",
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"text": "以降各社からヴォコーダが相次いで登場し、70年代-80年代前半に最初のヴォコーダ・ブームが到来し、2000年代にはバーチャル・アナログ技術でコンパクト化されたヴォコーダが2度目のブームを巻き起こしている。",
"title": "歴史"
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"text": "前述のようにデジタル音源は1957年Max MathewsのMUSIC登場以降、主に高価な大型コンピュータ上で研究が進められた。一方、同時期に誕生したマイクロ・エレクトロニクス技術は、1960年代の宇宙開発/軍需ニーズを背景に急速な発展を遂げ、1970年前後にはLSI技術の民生利用が本格化し、その中からマイクロプロセッサが誕生した。こうして1970年代には、大型コンピュータを専用ハードに置き換えた初期のデジタルシンセサイザーが登場し、一足早くデジタル音源時代が開幕した。",
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"text": "他方、国内楽器業界は 有名なデジタルオルガン特許係争 の影響もあり、デジタル音源開発への取り組み全般が滞りがちだった。そのような中、ヤマハは早くからデジタル音源開発に取り組み、また積極的な訴訟対策を行って、1977年同社初のデジタル系となるPASS音源を発売、更にスタンフォード大学からFM音源のライセンスを取得して万全を期していた。また電卓戦争の覇者カシオは、1979年VLSI技術を使った小型電子楽器やホーム・キーボードを発売し、デジタル楽器の低価格化競争の先鞭を付けた。",
"title": "歴史"
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"text": "1980年、ヤマハはFMアルゴリズムを使った画期的なデジタルキーボード GS1を発売し、1983年には普及価格のDX7($1999)発売して、3年間に20万台と世界的ベストセラーとなり一大デジタル旋風を巻き起こした。FM音源は周波数変調を用い複雑な倍音を持った金属的な響きを特徴とし、多くのミュージシャンが積極活用した。更に1985年にDX21($795)、DX100($455)とDXシリーズを拡充した。",
"title": "歴史"
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"text": "1980年代中盤には、それ以外のデジタルシンセサイザー や サンプラー も普及価格で登場し、オールインワンのワークステーション機種も登場して、一般ユーザ・レベルのデジタル音源時代が開始された。他方、1980年代初期に活躍したハイエンド・デジタル製品はその優位性を失い、徐々に事業を停止して独自技術の売却や技術移転をしたり、あるいは思い切った業態変更を余儀なくされた。",
"title": "歴史"
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"text": "それまでのシンセサイザーは、メーカー毎に独自の制御方式を採用していたので、シンセサイザーの相互接続には大きな壁があった。MIDIは、異なるメーカー間であっても、複数の電子楽器を連動し演奏・操作可能にする事を目的として、1981年初春、Sequential Circuits/Oberheim/Rolandの3社で規格策定を開始した。1981年秋には他の日本メーカも参加して規格策定を進め、1982年MIDI基本仕様(ドラフト)が登場、初期製品で規格を実地検証した後、1983年「MIDI1.0詳細仕様」が正式に制定された。",
"title": "歴史"
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"text": "",
"title": "歴史"
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"text": "1990年代に入ると、デジタル技術の発達により実際の楽器の音色をサンプリングしたPCM音源が一般的となり、昔ながらの音を合成する楽器というニュアンスは薄れていった。それでもこの時期にもコルグやヤマハなどから物理モデル音源といった新たな音源方式を採用したシンセサイザーも発売されている。",
"title": "歴史"
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"text": "1995年、Clavia DMIがDSPによるバーチャルアナログ・シンセNord Leadを発売すると、高価で不安定なヴィンテージ・シンセに代わる新しい楽器として注目を集め、各メーカも同様な製品を発売し始めた。",
"title": "歴史"
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"text": "ソフトウェア音源は前述のように1957年MUSICに始まり、その後継システム上で研究開発が続けられ、1970年代末デジタル音楽ワークステーションの形でポピュラー音楽製作現場に入り込んだ。1980年代末から1990年代初頭にはDSP搭載の研究用ワークステーション(IRCAMカードを搭載したNeXT,SGI Indigo等)やDAW系システム(digidesign製品等)で進化を続けた。そして1990年代前半、一般のパソコン上のソフトウェア音源利用が一般化し始めた。1990年代半ばにはDTM音源(Reality, VSC, Timidi)や各種シミュレーション音源(Rubberduck, ReBirth、Juno)が実用され、またDAW用プラグイン規格(VST規格, Direct Music(DXi)等)も登場した。",
"title": "歴史"
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"text": "そして2000年代以降、高性能化したパーソナルコンピュータ上でDAW環境が安価に安定して利用可能になると、それまであまりコンピュータに手を出さなかった平均的な音楽製作現場でも、DAW上で動作するソフトウェア楽器を徐々に使用するようになった。なおソフトウェア・シンセサイザーとは、基本的にこれまでの各方式のシンセサイザーをコンピュータ上に再現したもので、新しい音源方式ではない。ソフトウェア・シンセサイザーではコンピュータの演算能力と記憶容量を利用し利便性の面が拡張されている事が多く、使い勝手の向上をもたらしている。",
"title": "歴史"
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"text": "現在ではコンピュータ上に多くの音源方式がシミュレートされ、手軽に多くのタイプの音源方式にふれられる事から、一時下火となっていたアナログシンセのような、音を合成して音色を作成するような音作りにも目が向けられるようになっている。",
"title": "歴史"
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"text": "演奏では、小室哲哉や浅倉大介が多用している。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "加算合成、減算合成、・変調合成や、サンプリング音源、またはそれらの複合型など多数の方式が存在している。 アナログシンセサイザーの時代は減算合成が主流だったが、その後、デジタル技術の発展により、サンプリングしたデータを元に音を構築するPCM音源が主流となった。",
"title": "シンセサイズ方式の分類"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "当初は特殊な電子装置やキーボード (楽器)の一種として分類されていたが、その後、ギター型や笛型、打楽器型のコントローラーを備えたシンセサイザーが登場した。さらに演奏用のインターフェイスを分離したシンセサイザーモジュールと呼ばれる機材も登場している。",
"title": "演奏方式による分類"
},
{
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"text": "ここではシンセサイザーそのものに関する任意の業績があると評される者のみを、その業績も含めて列記している。",
"title": "主なアーティスト"
}
] | シンセサイザーは、一般的には主に電子工学的手法により楽音等を合成する楽器「ミュージック・シンセサイザー」の総称。いろいろな音が作成・編集できる鍵盤楽器。電子楽器、音源と呼ばれることもある。 | {{Otheruses|楽器|電子回路|周波数シンセサイザ}}
{{出典の明記|date=2021年5月}}
[[ファイル:Minimoog.JPG|thumb|right|300px|シンセサイザーの古典的機種「[[モーグ・シンセサイザー#ミニモーグ|ミニモーグ]]」]]
'''シンセサイザー'''({{lang-en|synthesizer}})は、一般的には主に[[電子工学]]的手法により楽音等を合成({{lang-en|synthesize}}:シンセサイズ)する[[楽器]]「ミュージック・シンセサイザー」の総称。いろいろな[[音]]が作成・編集できる[[鍵盤楽器]]。[[電子楽器]]、[[音源]]と呼ばれることもある。
:<small>以降、記述の煩雑化を避けるため、正式名称「シンセサイザー」を適宜「シンセ」と略記する。</small>
== 歴史 ==
=== 概歴 ===
シンセサイザーの発明は、「ある時 誰かが 世界で初めて何かを発明し、その成果が後に世界中に広がった」という出来事ではない。100年以上にわたる[[電子音楽#歴史|電子楽器の歴史]]の中で、多くの人々が試行錯誤を繰り返し、時としてほぼ同じものがあちこちで再発明されながら、技術の蓄積と概念の洗練が進み、途中、戦争による停滞や技術者の世代交代を挟んで、1960年代以降マイクロ・エレクトロニクスと共に急速な発展を遂げて、現在の形になった。
最初に登場したのは19世紀半ばに登場したミュージック・テレグラフという発電機や電話を応用した機械で、次に有線音楽配信を狙った[[テルハーモニウム]]が登場。20世紀初頭、[[真空管]]が発明され[[ラジオ]]や[[トーキー]]の実用化研究が本格化すると、ラジオ技術の一つである[[ヘテロダイン]]を応用した[[テルミン]]や、トーキー技術 <!-- (光による音の記録/再生) -->を応用したOptophonic pianoが登場した。遅くとも1920年代初頭には楽器用低周波[[発振回路|オシレータ]]が登場し、それをリボンコントローラや鍵盤で演奏するトラウトニウムや[[オンド・マルトノ|オンドマルトノ]]が登場した。これらの楽器は後の改良の結果、現在ではシンセの祖先と見なされているが、登場当時は非常にシンプルでシンセと呼べる物ではなかった。
<!-- 要シンプル化 -->1930年代にはシンセサイザーの基本要素が出揃い、初期のシンセサイザー時代が開幕した。ただし当時のフィルターは、パッシブ回路が主流でその効果は緩やかなため <small>(6dB/oct.)</small>、1970年代アナログ・シンセのように強力な音作りの手段にはならず、むしろ他の補助的に使われる事が多かった。この時期に登場したミニモーグのような機能と外観を持つ楽器<small>(コンサート・トラウトニウム、ミクスチュア・トラウトニウム)</small>もその一例である。<br />[[ポリフォニック]]楽器の分野では、当初は{{仮リンク|トーンホイール|en|Tonewheel}}方式や [[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]方式が有力で、特に[[倍音加算合成]]をトーンホイールで実現した[[ハモンド・オルガン]] は一大勢力となり、この分野で40年以上勢力を維持した。電子楽器では「分周回路」と「フィルターによる減算合成」を組合せた新しい楽器が登場し、これ以降多くの[[電子オルガン]]が同方式をベースとした倍音加算合成を提供した。ただし当時のオルガンの多くが採用した[[ポリフォニックシンセサイザー#全鍵盤発振方式|全鍵発音方式]]は、当時の実装技術では規模が巨大化しがちなため、個々の音響合成回路はごくシンプルに抑えられ、音色表現能力は限定された。<br />そこで高度な表現力を要するリード演奏専用に、小型の電子鍵盤楽器が登場した。これは オルガンやピアノの鍵盤近くに設置して合奏する小型楽器で、その演奏スタイルは後に、電子オルガンのソロ鍵盤や、電子オルガン上に置くプリセット・シンセに発展した。
[[#ヴォコーダーの誕生|このほか同時期]]、<!-- ドイツでは分周回路による一種のデジタルオルガンが研究され、その成果が[[ベルリンオリンピック]](1936年)や政党の集会で使用され、またアメリカでは -->1939年の[[ニューヨーク万国博覧会 (1939年)|ニューヨーク万国博覧会]]で[[ヴォコーダ]](1928年通信用途で実験開始)や鍵盤演奏型のスピーチシンセサイザー(Voder)が一般公開された <ref name="120years HomerDudley">{{cite web |title=Homer Dudley's Speech Synthesisers, "The Vocoder" (1940) & "Voder"(1939) |url=http://120years.net/machines/vocoder/index.html |publisher= 120 Years of Electronic Music |accessdate=2009-10-14 }}</ref>。しかし同年勃発した第二次世界大戦により各国は戦時体制へ移行し、ヴォコーダは軍の暗号通信装置([[SIGSALY]])に利用され、アメリカの電子楽器開発者は爆撃誘導装置やレーダーの開発に駆り出され、ドイツの電子楽器研究拠点ハインリヒ・ヘルツ研究所では、職場のユダヤ人排斥に反対した[[:en:Karl Willy Wagner|教授]]が職を追われ、そうして世界の電子楽器開発は停止した。<br />1945年に戦争が終わると、ドイツの[[電子音楽]]スタジオが即座に活動を再開し、またドイツで実用化されたテープレコーダを使って音を切り貼りする[[ミュージック・コンクレート]]がフランスに登場し、[[現代音楽]]という新しいキーワードの元、電子楽器が息吹を吹き返した。
<!-- 要シンプル化 -->[[#コンピュータ音楽の誕生 (1950年代)|1950年前後]]、軍事技術だった[[コンピュータ]]が世界に広がると共に、[[コンピュータ音楽]]が登場した。当初は曲の自動演奏が試みられ、次に高い計算能力を生かして確率的作曲や音響合成に応用された。1957年[[マックス・ヴァーノン・マシューズ|マックス・マシューズ]]の[[MUSIC-N]]プログラムは、デジタル音源とソフトウェア音源の元祖と認識されており、後にその上で[[FM音源|FM合成]]を含む多くの研究開発がなされた。同じ1957年には「シンセサイザー」という名を初めて使ったコンピュータ用音源「[[:en:RCA MarkII Sound Synthesizer|RCAマークIIサウンドシンセサイザー]]」も登場している。構成は現在のアナログ・シンセサイザーとほとんど同じで、出力される音は初期のアナログDTM音源のクオリティに到達していた。
<!-- 要シンプル化&関連付け -->[[1952年|1952]]-[[1958年]]、音楽家[[:en:Raymond Scott|レイモンド・スコット]]が開発した「[[:en:Clavivox|クラヴィヴォックス]]」は、鍵盤の他にR.A.Moog社のテルミンを流用したコントローラを装備し、後には電圧制御式シーケンサも追加された。後にモーグは、クラヴィヴォックスの回路や音が 60年代のモーグ・シンセサイザーとよく似ていたと語っている。
''(以下要約中。詳細は各節参照)''
* [[#モジュラー・シンセ登場 (1960年代-)]]
** [[#シンセサイザーの誕生と発展 (1930-1950年代)]]
** [[#ヴォコーダの音楽利用]]
** [[#シンセサイザー・コントローラ]]
* 70年代 [[#デジタル楽器登場 (1970年代-)]]
** 80年代 [[#デジタル楽器の普及 (1980年代)]] と [[#MIDI規格誕生 (1981-1983)]]
** 90年代 [[#デジタル楽器の発達 (1990年代)]]
* 90年代 [[#ソフトウェア音源の普及 (1990年代-)]]
=== 黎明期 (1930年代以前) ===
{{Main|1=電子音楽#電子音楽の黎明期}}
[[ファイル:Teleharmonium1897.jpg|thumb|テレハーモニウム]]
{| class="wikitable" style="clear:right;float:right;border:0;margin:10px 0 0 15px;"
|-
|style="border-bottom-width:0;"|[[ファイル:Theremin At The Musical Museum, Brentford, London.jpg|88px]]
|style="border:0;"|
|style="border-bottom-width:0;"|[[ファイル:Ondes_martenot.jpg|none|160px]]
|-
|style="border-top-width:0;padding-left:5px;"|テルミン
|style="border:0;"|
|style="border-top-width:0;padding-left:5px;"|オンドマルトノ
|}
[[ファイル:Mixtur Trautonium.jpg|thumb|120px|トラウトニウム]]
シンセサイザーを含む電子楽器の歴史は、およそ19世紀末まで遡る事ができる。
それ以前にも電磁気学的効果を応用した電気楽器がいくつか登場していたが、
* [[1759年]] [[:en:Clavecin électrique|クラヴィサン・エレクトリィク]]
<div style="padding-left:3em;line-height:0.2ex;font-weight:bold;">.<br />.<br />.</div>
* [[1876年]][[イライシャ・グレイ]]<!-- (電話の先行発明者)-->のMusical Telegraph<!-- (1874年音源部原型の公開デモ)-->
自由な音響合成を特徴とするシンセサイザーの祖先としては、19世紀末以降の下記を挙げるべきだろう。
* [[1897年|1897]]-[[1906年]] [[:en:Teleharmonium|テルハーモニウム]] ([[倍音加算合成]]/[[電子オルガン]]/[[有線音楽放送|有線音楽配信]]の祖先)
* [[1916年|1916]]-[[1924年]] [[:en:Optophonic Piano|オプトフォニック・ピアノ]] ([[サンプリング音源]]/<!-- [[メロトロン]]/ -->[[ビデオジョッキー|VJ]]の祖先)
[[1920年代]]には、エレクトロニクスの発達により、真空管式の電子楽器が登場した。
* [[1917年|1917]]-[[1920年|20年]]頃 [[ロシア]] ([[ソビエト連邦|ソ連]]) の[[レオン・テルミン]]が開発した[[テルミン]]
* [[1928年]] [[フランス]]の[[モーリス・マルトノ]]が発表した鍵盤楽器[[オンド・マルトノ]]
* [[1929年]] [[ドイツ]]の[[:de:Friedrich Trautwein|フリードリヒ・トラウトヴァイン]]が開発した<!-- リボンコントローラ楽器 -->[[:en:Trautonium|トラウトニウム]]
以上の3つは、しばしば一般向け解説書で「シンセサイザーの先祖」として言及され<ref name="his">『スーパーロックマルチ・キーボードの全貌』, シンコーミュージック (1976年) <!-- 注:ISBNではありません --> 0073-61024-3129</ref>、中でもテルミンは、アナログ・シンセサイザーのルーツにあたる最初期の電子楽器 とされる事が多い。<ref name="his" />また[[:en:Trautonium|トラウトニウム]]は、発明者の弟子[[オスカー・ザラ]]が精力的な改良を行い、リボンコントローラ楽器としての本質を守りながら、後に[[モーグ・シンセサイザー]]と同様な機能や形に進化した。
一方日本では、1935年[[ヤマハ]]の山下精一が「マグナオルガン」を発表している。これはドイツ留学経験のある山下がテルミン等の電子楽器にヒントを得て開発した、各種楽器音を再現可能な鍵盤楽器と伝えられているが、詳細は不明である。<ref>{{cite news |title=一時代を畫する新樂器完成 – 濱松の靑年技師山下氏 |url={{新聞記事文庫|url|0100079441|title=一時代を画する新楽器完成 : 浜松の青年技師山下氏|oldmeta=00078861}} |newspaper=報知新聞 |date=1935-06-08}}</ref>
=== シンセサイザーの誕生と発展 (1930-1950年代) ===
{{Main|1=電子音楽#電子音楽の黎明期}}
====減算合成と倍音加算合成====
{{Main|1=加算合成|2=減算合成|3=en:Trautonium}}
1930年代には、既に前述のシンプルな電子楽器が登場していたが、ピアノやオルガンに匹敵する本格的電子楽器の実用化は疑問視されていた。例えば1936年Miessnerは、フィルターを使う[[減算合成]]も、倍音を重ねる[[倍音加算合成]]も、電子回路では機構が複雑になり過ぎ実用化が難しいので、生楽器の発音機構を併用した[[電気楽器]]こそ実用的だとする説を発表した<ref name="Miessner1936">{{cite journal |author=Miessner, Benjamin F. Miessner Inventions, Inc.|url=http://www.discretesynthesizers.com/archives/miessner/em1936.htm |title=ELECTRONIC MUSIC AND INSTRUMENTS |journal=Proceedings of the [[:en:Institute of Radio Engineers|Institute of Radio Engineers]] |volume=24 |issue=11 |year=1936 |pages=1427-63 }}</ref>。しかし減算合成は1936-1937年に相次いで実用化され、また倍音加算合成もパイプオルガンの再現目的で後に実用化された。
[[1936年]]、[[オスカー・ザラ]]による [[:en:Trautonium|トラウトニウム]]の改良版 コンサート・トラウトニウム は、鐘の音を再現可能な(副倍音)加算合成と、フォルマント・フィルターによる音作りを併用した。この楽器は、{{いつ|date=2009年10月}}[[パウル・ヒンデミット]]の''[[電子音楽#歴史|トラウトニウムと弦楽の為の協奏曲]]'' や、1940年[[リヒャルト・シュトラウス]]の''[[日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲|日本の祝典に寄せる祝典曲]]'' の1942年ドイツ・プレミア公演(鐘の音の再現)で使用された。
==== ポリフォニック化と電子オルガン ====
{{Main|1=ポリフォニック・シンセサイザー#方式|2=電子オルガン}}
[[1937年]]、ドイツの[[ハラルト・ボーデ]]は、初期の[[ポリフォニックシンセサイザー#キーアサイン方式|キーアサイン方式]]による部分ポリフォニック・シンセサイザー「ワーボ・フォルマント・オーゲル」を開発、その後約50年間に渡って多数の発明と製品開発を継続して、[[モーグ・シンセサイザー|モーグ]]を始めとするアナログシンセサイザーの歴史に大きな影響を残した。<ref name="120years HaraldBode">[http://120years.net/machines/melochord/index.html The "Warbo Formant Orgel" (1937), The "Melodium" (1938), The "Melochord" (1947-9), Bode Sound Co. (1963 -)], 120 Years of Electronic Music</ref>
[[1937年]]頃、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の発明家で[[ハモンド・オルガン]]の開発者として知られる[[ローレンス・ハモンド]]は、[[ポリフォニックシンセサイザー#全鍵盤発振方式|全鍵発音式]]の減算合成ポリフォニック・シンセサイザー [[ノバコード]]を開発、1939年に発売開始した。「一台でオーケストラやバンド・サウンドに匹敵する音を出せる」という触れ込みの最も初期の電子楽器で、1960年代まで数多くの映画/ラジオ/テレビのサウンドトラック <ref name="Novachord Sightings">[http://www.discretesynthesizers.com/nova/sightings.htm Novachord use in movies and TV], Phil Cirocco ([http://www.discretesynthesizers.com/ CMS])</ref>に使用された。<ref name="hammondwiki">[http://www.dairiki.org/HammondWiki/HammondNovachord Hammond Novachord], HammondWiki</ref>
<!-- 1948 - Hugh LeCaine - Electronic Sackbut - First voltage-controlled synthesizer -->
[[1940年代]]になると、他のメーカも同様な方式に基づく[[電子オルガン]]を開発し発売した(なお戦争のため発売が戦後にずれた機種も多い)。登場当時の電子オルガンは、電球のような形とサイズの真空管を数十〜百本単位で使った物量勝負の電子機器であり、真空管の特性上、その動作は必ずしも安定しているとはいえなかった。また各メーカが自社の電子オルガンのモデルにした楽器は、教会用パイプオルガン ([[アーレンオルガン]])、シアターオルガン ([[:en:Wurlitzer|Wurlitzer]]、[[エレクトーン]])、ハーモニウム/リードオルガン<!-- ([[:en:Estey Organ|Estey Organ]]?, [[:en:Lawrey Organ|Lawrey Organ]]?) -->等と、明らかに差異があったが、総称的にすべて [[電子オルガン]] と呼ばれた。
==== 単音電子鍵盤楽器 ====
また電子オルガンとは別に、細かな音作りや表現<!-- (preset, LPF, HPF, ENV, Vib.rate, Vib.depth) -->が可能な小型の単音電子鍵盤楽器の系統も登場した。
* [[1940年]] Hammond [[:sv:Solovox|Solovox]]
* [[1941年]] Georges Jenny の [[:en:Ondioline|Ondioline]]
* [[1947年]] [[:en:Constant Martin|Constant Martin]] の [[:en:Clavioline|Clavioline]] <!-- http://www.soundonsound.com/sos/feb07/articles/freemanstring.htm -->
* [[1952年]] [[:en:Raymond Scott|Raymond Scott]] の [[:en:Clavivox|Clavivox]]
[[1952年]]、アメリカの作曲家[[:en:Raymond Scott|レイモンド・スコット]]が開発したシンセサイザー[[:en:Clavivox|Clavivox]]は、鍵盤演奏式でオーディオ・エンベロープやビブラートを装備していた他、若き[[ロバート・モーグ]]が製造した[[テルミン]]をコントローラに採用し、3オクターヴにわたるポルタメントを実現していた。後期のモデルでは電圧制御式シーケンサ等が追加され、音程や音色の制御信号(CV)を映画フィルム上に光学的に記録・再生できた。後にロバート・モーグは、先行したClavivoxの回路や音が、60年代[[モーグ・シンセサイザー]]と類似していたと語った。<ref name="Memory of Raymond Scott">Bob Moog, [http://raymondscott.com/moog.html Memory of Raymond Scott by Bob Moog], RaymondScott.com</ref><br />
これらの楽器は、人気オルガン奏者がソロフレーズに活用して一時代を築いたり、電子音楽スタジオで現代音楽の作品や映画のサウンドトラック作成に使用され、後に登場したトランジスタ式シンセサイザーを受け入れる音楽的土壌を育んだ。
日本では1960年前後、同様な単音楽器が電子オルガンのプロトタイプ として開発・発売された。
* [[1958年]] [[テスコ (楽器メーカー)|テスコ]] スーパーエレガン
* [[1962年]] [[エース電子工業|エーストーン]] Canary S2 ([[w:en:Clavioline|Clavioline]]の一種)<ref name="1966book">
{{cite book
| year = 1966
| title = 電子楽器と電気楽器のすべて
| url = http://www.denhaku.com/mukasi/chomks/allthe.htm
| pages = 32–33
| publisher = [[誠文堂新光社]]
| id = {{ASIN|B000JAAXH6|country=jp}}
}}</ref>
「電子オルガンに載せて使うソロ楽器」というコンセプトは、[[アープ (電子楽器メーカー)|アープ]]や[[モーグ・シンセサイザー|モーグ]]のプリセット・シンセを経て、日本の初期シンセ製品にも引き継がれた。
[[ファイル:SIGSALY.jpg|thumb|<span style="font-size:90%;">1942年[[:en:Secure voice|秘話装置]] [[SIGSALY]]</span> <br/><small>初段エンコーダにヴォコーダ採用</small>]]
==== ヴォコーダーの誕生 ====
{{Main|ヴォコーダー}}
[[1928年]]、[[ベル研究所]]の[[:en:Homer Dudley|ホーマー・ダッドリー]]は通信回線多重化のための[[音声符号化]]/同復調法の研究を行い、バンドパス・フィルター方式の[[ヴォコーダー]]の実験を開始した。この技術は1935年特許出願され、1939年米国特許<small>(US#2,151,091)</small><ref name="US PAT 2151091">Dudley, Homer W., [https://patents.google.com/patent/US2151091A/en Signal transmission]”, 1935-10-30 filed, 1939-03-21 issued</ref>が成立、同年開催の[[ニューヨーク万国博覧会 (1939年)|ニューヨーク・ワールドフェア]]で一般公開された。また同技術を応用した鍵盤操作式スピーチシンセサイザー VODER (1938年米国特許<small>(US#2,121,142)</small>) <ref name="US PAT 2121142">Dudley, Homer W., [https://patents.google.com/patent/US2121142A/en U.S. Patent 2,121,142]: “[https://patents.google.com/patent/US2121142A/en System for the artificial production of vocal or other sounds]”, 1937-04-07 filed, 1938-06-21 issued</ref>も同時公開された。ただしこの時点では音楽的利用を図った形跡は見られない。そして戦争開始とともに軍事通信への利用が最優先になり、[[SIGSALY]] <small>(1942)</small>をはじめとする多くの軍事用[[音声暗号化|音声暗号化システム]]が同技術を採用した。
なお同時期には軍事技術を民生転用して、音楽用ヴォコーダーとよく似た効果が得られる別の音楽用装置が誕生している。[[1939年]]アルヴィノ・レイが開発した [[:en:Sonovox#History|Sonovox]] は、電子楽器というより1970年代の[[トーキング・モジュレーター]] ([[:en:Talk box|Talk box]]) を連想させる「任意の音を喋らせる」装置である。この装置は軍事用喉マイク を 喉スピーカに転用し、喉に当てて口を動かすと、あたかも効果音や楽器音が喋っているかのような効果が得られた。Sonovoxは[[1940年]]の[[:en:Kay Kyser|ケイ・カイザー楽団]]の映画や、アニメ映画の動物の声、ラジオ局のジングル等に使用されており、名称はともかくその効果と音は一般に広く認識されている。
<!-- [[ファイル:Mathews260.jpg|thumb|upright|マックス・マシューズ<br/><small>(リアルタイム・コンピュータ処理による打楽器の演奏)</small>]] -->
[[ファイル:Rca mk2.jpg|thumb|<span style="font-size:90%;">RCAマークII サウンド・シンセサイザー</span>]]
=== コンピュータ音楽の誕生 (1950年代) ===
{{Main|デスクトップミュージック}}
[[1950年]]、オーストラリア最初のコンピュータ[[CSIRAC|CSIR Mk1]]上で、世界最初のコンピュータ音楽が演奏された。
==== ソフトウェア音源とデジタル音源の誕生 ====
[[1957年]]、[[ベル研究所]]の[[:en:Max Mathews|マックス・マシューズ]]は[[:en:MUSIC|MUSIC]]と呼ばれる、デジタル信号の生成・処理プログラムを開発した。これはデジタルシンセサイザーやソフトウェア音源の元祖と言われており、そのほか潜在的にデジタル・サンプラーの元祖でもある可能性が高い。MUSICはその後進化を重ねて[[:en:MUSIC-N|MUSIC V]]で一旦完成し、[[MIT|マサチューセッツ工科大]]の[[:en:Barry Vercoe|バリー・ベゥコー]]に引き継がれて、現在オープンソースの[[Csound]]、[[:en:Cmusic|CMusic]]、[[:en:Real-time Cmix|RTcmix]]の原型となった。1980年代IRCAMで開発された有名なグラフィカル音楽言語[[Max/MSP|Max]] (1990年発売)は、マックス・マシューズの名前にちなんでいる。
==== シンセサイザーの命名 ====
[[1956年]]頃 (1955年説もある<ref name="his" />)、[[RCA]]プリンストン研究所の ハリー・オルソンとハーバード・ベラーが「RCA マークII サウンド・シンセサイザー」<small>([[:en:RCA Mark II Sound Synthesizer|RCA Mark II Sound Synthesizer]])</small> という真空管製でパンチテープ制御式のコンピュータ用音源を開発し、[[1957年]][[:en:Computer Music Center|コロンビア大学]]に同機は設置された。歴史上「シンセサイザー」(合成)という単語が用いられた初めての音響合成機器とされており、[http://120years.net/machines/rca/rca_diagram.gif 構成図] によれば 現在の[[アナログシンセサイザー]]の基本要素をほぼ備え、[http://120years.net/machines/rca/rca_blue.aiff 録音] によれば 初期DTM音源と同程度の演奏が可能だった事を確認できる<ref name="120years RCA">[http://120years.net/machines/rca/index.html The RCA Synthesiser I & II], 120 Years of Electronic Music</ref>。なお同機は、確率論に基づく音楽の数学的解析と音楽生成手法の研究のために開発された音源であり、音響合成の研究や楽器の確立は特に目的としていなかった。
[[ファイル:DM Recording Studio.jpg|thumb|シーメンス・シンセサイザー (1955)]]
このほか、コンピュータ連携の有無は不明だが、1955年頃ドイツの総合電機メーカー [[シーメンス]] が、英語で「{{lang|en|Siemens synthesizer}}」と呼ばれる電子音響合成システム(ドイツ語名不詳) を開発して同社Siemens Studioに設置している。これは同社が当時制作中だったシーメンスグループの記録映画に、飛びぬけた音楽をつけようと若手作曲家[[:en:Josef Anton Riedl|Josef Anton Riedl]]に依頼をし、この作曲家に同社研究所が協力する形で開発された。システムの構成は、戦争中の通信用ヴォコーダを改造した音楽用ヴォコーダを中心に、その他の音源ソース(パルス波, ノイズ)、フィルター、テープレコーダ、ミキサー等からなり、RCAの装置と同様にパンチテープによる自動制御も装備していた。システムは同社Siemens Studioに設置されサウンドトラック制作に使用された後、1960-1963年には同機の有効活用を目的に多数の現代作曲家が招聘された。しかしこの文化活動は多額の費用がかかったため許容範囲を逸脱し、1963年同スタジオは{{lang|en|Ulm School of Design}}({{lang-de-short|Ulmer Hochschule fur Gestaltung}})に譲渡され、そこで数年間の利用の後、閉鎖された<ref name="Siemens Synthesizer">{{cite web |title=Live Performance - In The Age Of Super Computing |url=http://www.monolake.de/interviews/supercomputing.html |publisher=Robert Henke (Monolake) |accessdate=2009-10-13}}<br />
独自のライブ用フィジカル・コントローラ開発で知られる Monolake の歴史解説ページ。{{lang-en|Siemens synthesizer}} と題した写真が掲載されているが、解説文は見当たらない。<br />
{{cite web |title=Das Siemens-Studio für elektronische Musik von Alexander Schaaf und Helmut Klein |url=http://www.deutsches-museum.de/sammlungen/ausgewaehlte-objekte/meisterwerke-vi/siemens-studio/ |publisher=Deutsches Museum |accessdate=2009-10-13}}<br />
ドイツの博物館[[:en:Deutsches Museum|Deutsches Museum]]に、Siemens Studioの機材一式が展示されており、その実態はSiemens synthesizerだと推測される。同博物館の紹介ページでは、Siemens Studioの沿革が解説されているものの、システム全体の名称やその開発年は今ひとつはっきりしない。</ref><ref name="Apple Logic Studio Instruments (2009) Vocoder">{{cite book |title=Logic Studio Instruments |url=http://manuals.info.apple.com/en_US/Logic_Studio_2009_Instruments.pdf |publisher=[[Apple]] |year=2009 }}<br />[[Apple]] [[Logic Studio]]のマニュアルに、音楽用ヴォコーダの歴史解説がある。個々の説明自体は短いものの、重要なイベントが網羅的にカバーされている。
* Siemens synthesizer: 1960年開発でヴォコーダ機能を含むという記述があるが、開発年と外部利用開始の年を混同している可能性が高い。</ref>。
{|class="wikitable" style="clear:right;float:right;border:0;margin:0 0 0 20px;"
|-
|[[ファイル:Buchla 100 (demo).jpg|180px]]<br /> Buchla 100 series
|-
|[[ファイル:Bob_Moog3.jpg|180px]]<br /> モーグ博士とモーグ・シンセ
|}
=== モジュラー・シンセ登場 (1960年代-) ===
{{Main|1=アナログ・シンセサイザー|2=ハラルト・ボーデ|3=[[:en:Buchla]]|4=モーグ・シンセサイザー}}
[[1959年|1959]]-[[1960年|60年]]、[[ハラルト・ボーデ]]はモジュラー・シンセサイザー と サウンド・プロセッサーを開発し、そのコンセプトを[[:en:Audio Engineering Society|AES]]論文で発表した。また[[1961年]]には、[[トランジスター]]技術を使ったコンパクトで自己充足的なモジュラー・シンセサイザーを AES論文で提案し<ref name="bode1961">H. Bode, "European electronic Music Instrument Design" , journal of the audio engineering society, {{U|ix}} (1961), 267</ref>、そのアイデアは[[:en:Buchla|ブックラ]]、[[モーグ・シンセサイザー|モーグ]]といった初期のシンセビルダーにより相次いで実現された。
[[1963年]]、アメリカの[[:en:Don Buchla|ドン・ブックラ]]は、おそらく世界初となる現代的なモジュラー・シンセサイザー [[:en:Buchla|Buchla]] 100 series <!-- Modular Electronic Music System --> を開発した。
[[1964年]]、アメリカの[[ロバート・モーグ]]博士は、テルミンのトランジスター化とRCA・マークIIの改良に関する研究を通じて、楽器としての使用に足るシンセサイザーの試作を行い、モーグシンセサイザーの仕様を確立した<ref name="his" />。
[[1965年]]同博士による「[[モーグ・シンセサイザー]]」は、CM関係者のアルウィン・ニコラやレコード・エンジニアの[[ウェンディ・カルロス|ウォルター・カルロス]]に納入され、[[1967年]]には製品版モジュラー・シンセサイザー(Moog modular synthersize I,II,III)を発売している。<br />
なお同時期アメリカでは[[アープ (電子楽器メーカー)|アープ]]の前身が電子楽器の特許出願を開始し、ロンドンでは後の[[エレクトロニック・ミュージック・スタジオ]]創設者が、電子音楽スタジオをコンピュータ制御する計画を開始した。
<!-- [[ファイル:Minimoog (Deutsches Museum).jpg|thumb|ミニモーグ Model D <small>(1971)</small>]] -->
==== アナログ・シンセの普及と発達 ====
{{Main|1=アナログ・シンセサイザー|2=モーグ・シンセサイザー|3=アープ (電子楽器メーカー)|4=エレクトロニック・ミュージック・スタジオ|5=ポリフォニック・シンセサイザー|6=オーバーハイム|7=シーケンシャル・サーキット}}
[[1968年]]、ウォルター・カルロスによる「スウィッチト・オン・バッハ ([[:en:Switched-On Bach|Switched-On Bach]])」は、アメリカ・コロムビア・レコードよりリリースされ、全世界で累計100万枚を売り上げるヒット・アルバムとなった。さらに[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]]の[[キース・エマーソン]]を初め、[[1970年代]]には多くのロック系ミュージシャンに使用され、さらに[[冨田勲]]の「[[月の光]]」「[[惑星]]」などの作品が世界的なヒットをすることによって、一般的にも認知される楽器となった。
[[1970年]]前後には、「[[エレクトロニック・ミュージック・スタジオ|EMS]]」、「[[アープ (電子楽器メーカー)|アープ]]」、「イー・ミュー ([[E-MU Systems|E-mu Systems]])」といった比較的新しいメーカーも参入した。
<!-- 1969 - EMS - Synthi VCS-3 - first non-modular mini-synth --><br />
日本では [[1973年]]3月 [[コルグ]]がミニコルグ700を発売、同7月 [[ローランド]]が[[:en:Roland SH-1000|SH-1000]] を発売、同時期に[[ヒルウッド]]もBlue Commets '73を発売、翌[[1974年]]には[[ヤマハ]]がSY-1を発売し、70年代を代表する日本のシンセサイザー・メーカが勢ぞろいした<ref name="KBM">雑誌『キーボードマガジン』記事、リットーミュージック ([http://matrixsynth.blogspot.com/2006/04/ace-tone-ps1000.html])</ref><ref name="sei">『シンセサイザーと電子楽器のすべて』、誠文堂新光社 (1980年)</ref>。
{|class="wikitable" style="clear:right;float:right;border:0;margin:0 0 0 20px;"
|-
|[[ファイル:Sequential_Circuits_Prophet_5.jpg|180px]]<br /> <span style="font-size:90%;">シーケンシャル・サーキット </span><small><br />Prophet-5</span> (1977)</small>
|}
なお1970年代までのシンセサイザーは、[[モノフォニックシンセサイザー|モノフォニック・シンセ]]と呼ばれる1音しか音の出ないタイプが主流だったが、70年代中期に[[ヤマハ]]や[[オーバーハイム]]が[[ポリフォニックシンセサイザー]]を発売し、さらに70年代後期には[[シーケンシャル・サーキット]]が音色メモリーを搭載したProphet-5を発売、市販製品の制御部にもデジタル技術が浸透し始めた。
<!-- mid 1970s (1971 ?) - Buchla - 500 - micro-controlled polyphonic analogue (in 1971 ?), it was also programmable as you could save patches to floppy. (too early)(prototype ?) -->デジタル音源の普及と共に一時期廃れていたが、2000年代に入ってアナログシンセが見直され、各社から往年の名機の復刻や雑誌の特集でも取り上げられるなど、一部で復活の機運が高まりつつある<ref>{{Cite journal |和書|author= | author2=|title=アナログシンセの復活 | publisher=寺島情報企画|journal=[[DTM magazine]]|asin=B00DC69PDW | date=2013年8月|volume=230 |pages=|url=}}</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=[[大須賀淳]] | author2=|title=アナログシンセの復活 | publisher=[[秀和システム]]|asin= | date=2015年4月 |pages=|url=|isbn=978-4798043586}}</ref>{{要ページ番号|date=2016年5月26日 (木) 02:15 (UTC)}}。
==== ヴォコーダの音楽利用 ====
{{Main|1=ヴォコーダー|2=[[:en:Talk box]]|3=モーグ・シンセサイザー#リスト補足}}
[[ファイル:Kraftwerk Vocoder custom made in early1970s.JPG|thumb|<span style="font-size:90%;">1969年音楽用ヴォコーダ登場</span> <small>(写真は1970年代初頭[[クラフトワーク]] がアルバム ''[[:en:Ralf und Florian|Ralf und Florian]]'' で使ったカスタムメイドの音楽用[[ヴォコーダ]])</small>]]
[[#ヴォコーダーの誕生|前述のようにヴォコーダは]] 1928年最初の実験が行われ、1939年一般公開された。同時公開で応用技術による鍵盤式スピーチ・シンセサイザーも登場したが、当時はどちらも音楽利用された形跡は見当たらず、その後ヴォコーダは軍事暗号通信に広く利用された。なお同時期には[[:en:Sonovox#History|Sonovox]]が安価な喉スピーカで「喋る楽器」を実現して人気を博し、1960年代の[[トーキング・モジュレータ]]に繋がる系譜を切り開いた。<br />
[[1955年]]シーメンスが作曲家Josef Anton Riedlと共に開発した シーメンス・シンセサイザーは、通信用ヴォコーダを改造した音楽用ヴォコーダーを中心に構成されたと伝えられており、実物も現存しているがその詳細は不明である。<ref name="Siemens Synthesizer" /><ref name="Apple Logic Studio Instruments (2009) Vocoder" />
[[1969年]]、アメリカの[[:en:Bruce Haack|ブルース・ハーク]]は最初の音楽用ヴォコーダ Farad を自作し、自身のアルバム''the Electronic Record for the Children'' (1969)で使用した。そしてFaradはたちまち追随者を生み出した。
[[1970年]][[ウェンディ・カルロス]]と[[ロバート・モーグ]]はFaradにインスパイアされた10バンドの[[ヴォコーダー|vocoder]] (元の名は spectrum encoder-decoder)を開発した。当初は発音を区切らないと声が不明瞭だったが、後にシビランス・コントローラ <small>([[:en:Sibilant|Sibilance]]等の発音の高域ノイズをHPFで取り出し直接出力して、発音を明瞭化する機構)</small> を追加し、通信用ヴォコーダとは別の「音楽用ヴォコーダ」が確立した。
以降各社からヴォコーダが相次いで登場し、70年代-80年代前半に最初のヴォコーダ・ブームが到来し、2000年代にはバーチャル・アナログ技術でコンパクト化されたヴォコーダが2度目のブームを巻き起こしている。
==== シンセサイザー・コントローラ ====
{{Main|1=ギターシンセサイザー|2=ショルダーキーボード|3=エレクトロニック・ドラム|4=ウインドシンセサイザー}}
{{節スタブ}}
{|class="wikitable" style="margin:auto;border:0;"
|- style="vertical-align:bottom;text-align:center;margin:auto;"
|rowspan="2"|[[ファイル:Roland_Divided_PickUP_GK-3.jpg|100px]]<br />[[ギターシンセサイザー|ギター・シンセ]]
|rowspan="2" style="border:0;"|
|rowspan="2"|[[ファイル:Simmons SDS5 Electric Drum.jpg|135px]]<br />[[エレクトロニック・ドラム]]
|rowspan="2" style="border:0;"|
|rowspan="2"|[[ファイル:Onyx The Digital Pied Piper.jpg|120px]]<br />[[ウインドシンセサイザー|ウィンド・シンセ]]
|rowspan="2" style="border:0;"|
|style="border-width:1px 0 0 1px;"|[[ファイル:Reactable Multitouch.jpg|85px]]<br />[[ファイル:Tenori-On.jpg|85px]]
|style="border-width:1px 1px 0 0;"|[[ファイル:Quintephone brainwave regen poster colour.jpg|80px]]
|- style="vertical-align:bottom;text-align:center;margin:auto;"
|colspan="2" style="border-width:0 1px 1px 1px;line-height:14px;"|その他
|}
===デジタル楽器登場 (1970年代-)===
{{Main|1=デジタルシンセサイザー|2=サンプリング|3=サンプラー|4=en:Electronic Music Studios|5=シンクラビア|6=フェアライトCMI|7=en:E-mu sysmtes|8=en:Kurzweil Music Systems}}
[[#コンピュータ音楽の誕生 (1950年代)|前述]]のようにデジタル音源は[[1957年]]Max Mathewsの[[:en:MUSIC-N|MUSIC]]登場以降、主に高価な大型コンピュータ上で研究が進められた。一方、同時期に誕生したマイクロ・エレクトロニクス技術は、[[1960年代]]の宇宙開発/軍需ニーズを背景に急速な発展を遂げ、[[1970年]]前後にはLSI技術の民生利用が本格化し、その中からマイクロプロセッサが誕生した。こうして[[1970年代]]には、大型コンピュータを専用ハードに置き換えた初期のデジタルシンセサイザーが登場し、一足早くデジタル音源時代が開幕した。
[[Image:EMS Synthi 100.jpg|thumb|180px|EMS Synthi 100]]
* [[1969年]]頃、[[:en:Electronic Music Studios|EMS]]の 電子音楽スタジオ用コンピュータ制御システム [[:en:Sampler (musical instrument)#Historical overview|EMS Musys III]]上で、世界初のサンプリング楽器が実現された。
:: <small>(ミニコン2台: [[デジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]] [[PDP-8|PDP-8/S]]、合計メモリ12KB。後に専用ハード DOB (Digital Oscillator Bank) を追加) <ref>[https://archive.is/20120714193341/surroundhead.blogspot.com/2008/10/complete-electronic-music-studio-in.html An electronic music studio in London, 1972], SURROUNDHEAD</ref></small>
* [[1971年]]-[[1972年]]、[[w:en:Triadex Muse|Triadex Muse]]発売。
:: <small>人工知能の父[[マービン・ミンスキー]]教授が[[エドワード・フレドキン]]と開発した、デジタル技術でメロディと音響を自動生成するエレクトロニクス・ガジェット。</small>
[[Image:Synclavier1_JB.jpg|thumb|135px|シンクラビア <small>(1977)</small>]]
* [[1973年]]、ダートマス大で「ダートマス・デジタル・シンセサイザ」開発。
:: <small>当初は処理に大型コンピュータを必要としたが、1975年専用プロセッサ(ABLEコンピュータ)が開発され、それと本体を組み合わせた[[シンクラビア]]が遅くとも1977年には発売された。</small>
* [[1974年]]、[[:en:Rocky Mount Instruments|RMI]]がHarmonic Synthesizerを発売。
:: (合成方式: デジタル[[倍音加算合成|倍音加算]]+[[VCF|フィルタ]])<ref name="RMI-HS">[http://www.synthmuseum.com/rmi/rmihar01.html Rocky Mount Instruments (RMI) Harmonic Synthesizer], Synthmuseum.com</ref>
* [[1976年]]、[[:en:Sampler (musical instrument)#Computer Music Melodian|Computer Music Melodian]]発売
:: <small>最初の[[サンプラー|サンプリング]]シンセ製品(ミニコン[[デジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]] [[PDP-8]]使用)。発音は単音のみで、後に[[ARP 2600]]と連携可能になった。1979年[[スティービー・ワンダー]]がサウンドトラックに使用</small>
* [[1976年]]頃、AT&T[[ベル研究所]]で[[ベルラボ・デジタルシンセサイザー|デジタルシンセサイザー]]試作。
:: <small>初期のソフトウェア実験に基づいて試作された「''最初の真のデジタル・[[アディティブ・シンセサイザー]]''」。<ref name=Chadabe97>{{citation
| last = Chadabe | first = Joel
| authorlink= w:en:Joel Chadabe
| year = 1997
| title = "Electric Sound"
| page = 178
| publisher = Prentice Hall
| isbn = 978-0-13-303231-4
}}</ref>[[1980年]][[クルーマー|Crumar]] GDS(General Development System)、[[1981年]]DKI Synergyとして商用化</small>
[[Image:Fairlight.JPG|thumb|180px|フェアライトCMI <small>(1979)</small>]]
* [[1979年]]、ニューイングランド・デジタル社が [[シンクラビア|シンクラビアII]]を発売。
:: <small>(合成方式: FM合成、倍音加算、サンプリング、分析/再合成。1985年Direct to Disk(DAW機能)を追加<ref>[http://www.500sound.com/synclavierhistory.html SYNCLAVIER EARLY HISTORY], 500sound.com</ref></small>)
* [[1979年]]、フェアライト社が [[フェアライト|フェアライトCMI]]を発売。
:: (合成方式: サンプリング、倍音加算、波形描画、分析/再合成(CMI IIxで追加<ref name="FairlightCMI">[http://www.fairlight.co.jp/intro5-1.html - フェアライトの歩み 誕生から現在、そして明日へ -], 株式会社フェアライトジャパン</ref><ref name="FairlightCMI-II">[http://synth.fool.jp/os_vsm_2/cn76/cn66/cn65/pg495.html Fairlight CMI-II], synth.fool.jp</ref>))
[[Image:PPG WAVE 2.2.jpg|thumb|180px|PPG WAVE 2.2]]
* [[1978年]]-[[1980年]]頃、[[:en:Palm Products GmbH|P.P.G.]]が Wavecomputer 340 / 380 および 同 360 を開発。
:: <small>(合成方式: [[:en:Wavetable synthesis|ウェーブテーブル・シンセシス]])</small>
:: <small>前者は[[トーマス・ドルビー|Thomas Dolby]]の使用で有名、後者はWave 2.0 (1981年)の前身。</small>
* [[1979年]]、[[カシオ|CASIO]]が世界初のVLSI化された電子楽器[[カシオ VL-1]]を発売。
<!-- [[Image:E-mu Emulator II+.png|thumb|180px|E-mu Emulator II+]] -->
* [[1982年]]、[[:en:E-mu sysmtes|E-muシステムズ]]社が[[:en:E-mu Emulator|イーミュレータ]]を発売。<small>(音源方式: サンプリング)</small>
* [[1984年]]、[[:en:Kurzweil Music Systems|Kurzweil Music System]]が K-250 synthesizerを発売。
:: <small>(音源方式: レイヤー化された大規模サンプル音源)</small>
:: <small>開発者は[[人工知能]]や不老不死の研究者として知られる[[レイ・カーツワイル]]で、K250開発にあたっては、[[スティービー・ワンダー]]、[[ライル・メイズ]]、[[ロバート・モーグ]] (元Moog Music) および 元[[アープ (電子楽器メーカー)|アープ]]の関係者(創立者Alan R. Pearlmanや元重役Philip Dodds) から広くアドバイスを受けた。後に[[ロバート・モーグ]]は新製品開発担当重役として同社経営にも参加した。</small>
{{multiple image |direction=vertical |width=180
|image1 = YAMAHA_DX7.jpg
|caption1 = ヤマハ DX7 <small>(1983)</small>
|image2 = Ensoniq Mirage DSK.jpg
|caption2 = Ensoniq Mirage <small>(1985)</small>
|image3 = Roland D-50.jpg
|caption3 = ローランド D-50 <small>(1987)</small>
|image4 = Korg M1.jpg
|caption4 = コルグ M1 <small>(1988)</small>
}}
====デジタル楽器の普及 (1980年代)====
{{Main|1=デジタルシンセサイザー}}
他方、国内楽器業界は<!-- [[1960年代]]より[[電子オルガン]]を主要ビジネスとしており、--> 有名なデジタルオルガン特許係争 <ref>[https://www.fundinguniverse.com/company-histories/Allen-Organ-Company-Company-History.html Allen Organ Company History], FundingUniverse - 1970年代アーレン・オルガンのデジタルオルガン特許訴訟に言及</ref>の影響もあり、デジタル音源開発への取り組み全般が滞りがちだった。そのような中、[[ヤマハ]]は早くからデジタル音源開発に取り組み、また積極的な訴訟対策を行って<ref>永井洋平(楽器創造館), 「[http://homepage3.nifty.com/mikms/page1019.html デジタル電子楽器の黎明期と特許係争]」, ミュージックトレード 2005年7月号</ref>、1977年同社初のデジタル系となるPASS音源を発売、更に[[スタンフォード大学]]から[[FM音源]]のライセンスを取得して万全を期していた。また電卓戦争の覇者[[カシオ]]は、1979年VLSI技術を使った小型電子楽器やホーム・キーボードを発売し、デジタル楽器の低価格化競争の先鞭を付けた。
[[1980年]]、[[ヤマハ]]は[[FM音源|FMアルゴリズム]]を使った画期的なデジタルキーボード GS1を発売し、1983年には普及価格の[[ヤマハ・DXシリーズ|DX7]]($1999)発売して、3年間に20万台と世界的ベストセラーとなり一大デジタル旋風を巻き起こした。[[FM音源]]は周波数変調を用い複雑な倍音を持った金属的な響きを特徴とし、多くのミュージシャンが積極活用した。更に1985年にDX21($795)、DX100($455)とDXシリーズを拡充した。
[[1980年代]]中盤には、それ以外の[[デジタルシンセサイザー]] や [[サンプラー]] も普及価格で登場し、オールインワンのワークステーション機種も登場して、一般ユーザ・レベルのデジタル音源時代が開始された。他方、[[1980年代]]初期に活躍したハイエンド・デジタル製品はその優位性を失い、徐々に事業を停止して独自技術の売却や技術移転をしたり、あるいは思い切った業態変更を余儀なくされた。
<!-- [[Image:MIDI_master_and_slave.JPG|thumb|MIDIを使った楽器接続]] -->
[[Image:Midiaansl.jpg|thumb|<span style="font-size:90%;">MIDI端子とMIDIケーブル</span>]]
<!-- [[Image:SCI Pro 600, DX7, CASIO DH.jpg|thumb|MIDI対応シンセ]] -->
=====MIDI規格誕生 (1981-1983)=====
{{Main|MIDI}}
それまでのシンセサイザーは、メーカー毎に独自の制御方式を採用していたので、シンセサイザーの相互接続には大きな壁があった。[[MIDI]]は、異なるメーカー間であっても、複数の[[電子楽器]]を連動し演奏・操作可能にする事を目的として、[[1981年]]初春、[[シーケンシャル・サーキット|Sequential Circuits]]/[[オーバーハイム|Oberheim]]/[[ローランド|Roland]]の3社で規格策定を開始した。1981年秋には他の日本メーカも参加して規格策定を進め、[[1982年]]MIDI基本仕様(ドラフト)が登場、初期製品で規格を実地検証した後、[[1983年]]「MIDI1.0詳細仕様」が正式に制定された。<ref name="MIDI">Joseph Rothstein, “[https://books.google.co.jp/books?id=ajDaXh-qgDUC&pg=PA11&dq=midi+standard+82&lr=&as_brr=3&as_pt=ALLTYPES#PPA11,M1 Midi: A Comprehensive Introduction (Computer Music and Digital Audio Series)]”, A-R Editions; 2 Sub edition (January 1995) ISBN 978-0895793096</ref><ref>[http://n-bz.sakura.ne.jp/around-the-music/essays/dtm-1sub.htm 平成8年度「電子化文書の動向に関する調査報告書」- 第6章], 社団法人 電子情報技術産業協会(JEITA) ''(リンク先は許可を得た写し)''</ref>
<!-- [[Image:Wall of KORGS.jpg|thumb|コルグの物理モデル音源 <small>Prophecy, Z1, Triton</small>]] -->
====デジタル楽器の発達 (1990年代)====
{{Main|デジタルシンセサイザー}}
[[1990年代]]に入ると、デジタル技術の発達により実際の楽器の[[音色]]を[[サンプリング]]した[[PCM音源]]が一般的となり、昔ながらの音を合成する楽器というニュアンスは薄れていった。それでもこの時期にも[[コルグ]]や[[ヤマハ]]などから[[物理モデル音源]]といった新たな音源方式を採用したシンセサイザーも発売されている。
[[Image:Clavia Nord Lead 2x front.jpg|thumb|180px|Clavia nord lead 2x]]
<!-- [[Image:Roland JP-8000.jpg|thumb|180px|ローランド JP-8000]] -->
[[1995年]]、[[クラビア (楽器メーカー)|Clavia DMI]]が[[デジタル・シグナル・プロセッサ|DSP]]による[[バーチャルアナログ音源|バーチャルアナログ・シンセ]][[:en:Nord Lead|Nord Lead]]を発売すると、高価で不安定なヴィンテージ・シンセに代わる新しい楽器として注目を集め、各メーカも同様な製品を発売し始めた。
[[Image:Mixingediting_Jennifer_Delano_at_home.jpg|thumb|180px|DAWを使った音楽制作]]
===ソフトウェア音源の普及 (1990年代-)===
{{Main|ソフトウェア・シンセサイザー}}
ソフトウェア音源は前述のように[[1957年]][[:en:MUSIC|MUSIC]]に始まり、その後継システム上で研究開発が続けられ、[[1970年代]]末デジタル音楽ワークステーションの形でポピュラー音楽製作現場に入り込んだ。[[1980年代]]末から[[1990年代]]初頭にはDSP搭載の研究用ワークステーション(IRCAMカードを搭載したNeXT,SGI Indigo等)やDAW系システム([[digidesign]]製品等)で進化を続けた。そして1990年代前半、一般のパソコン上のソフトウェア音源利用が一般化し始めた。1990年代半ばにはDTM音源(Reality, VSC, Timidi)や各種シミュレーション音源(Rubberduck, ReBirth、Juno)が実用され、またDAW用プラグイン規格(VST規格, Direct Music(DXi)等)も登場した。
<!-- [[ファイル:Fantasia.png|thumb|<span style="font-size:90%;">ソフトウェア音源</span> <small>(Linux Sampler)</small>]] -->
そして[[2000年代]]以降、高性能化した[[パーソナルコンピュータ]]上で[[デジタルオーディオワークステーション|DAW]]環境が安価に安定して利用可能になると、それまであまりコンピュータに手を出さなかった平均的な音楽製作現場でも、DAW上で動作する[[ソフトウェア・シンセサイザー|ソフトウェア楽器]]を徐々に使用するようになった。なお[[ソフトウェア・シンセサイザー]]とは、基本的にこれまでの各方式のシンセサイザーをコンピュータ上に再現したもので、新しい音源方式ではない。ソフトウェア・シンセサイザーではコンピュータの演算能力と記憶容量を利用し利便性の面が拡張されている事が多く、使い勝手の向上をもたらしている。
現在ではコンピュータ上に多くの音源方式がシミュレートされ、手軽に多くのタイプの音源方式にふれられる事から、一時下火となっていたアナログシンセのような、音を合成して音色を作成するような音作りにも目が向けられるようになっている。
{{clear|right}}
演奏では、[[小室哲哉]]や[[浅倉大介]]が多用している。
== 実装方式の分類 ==
{| class="wikitable"
!style="width:10em;"|名称
!|概要
|- style="vertical-align:top;"
|{{仮リンク|トーンホイール|en|Tonewheel|label=トーンホイール音源}}
|各種の回転体 <small>(発電機や金属円盤、光学ディスク等)</small> で波形を生成する方式の音源。
音色調整には、オルガンの伝統に従って [[倍音加算合成]]が使用される。電子楽器の黎明期〜電子オルガン実用化前後まで有力だった方式で、[[ハモンドオルガン]]は本方式の特徴を生かして大きな商業的成功を収めた。
|- style="vertical-align:top;"
|[[アナログ音源]]
|[[アナログ信号処理]]技術で実装された音源。
音作りは[[減算合成]]や[[加算合成]]で代表される。アナログシンセの名機ではこの他、[[FM合成]] / [[パルス幅変調]](PWM) / [[:en:Ring modulation|リング変調]](RM)といった各種の[[変調合成]]方式や[[:en:Oscillator sync|オシレータ・シンク]]も音作りに活用されている。
|- style="vertical-align:top;"
|[[ハイブリッド音源]]
|合成方式や実装方式その他に複数を併用した音源。実装方式のハイブリッドとしては、[[デジタル信号処理|デジタル]]生成波形を、[[アナログ信号処理]]するタイプのハイブリッド・シンセサイザーがよく知られている。なお合成方式のハイブリッドは、メーカー独自の方式として独自呼称で呼ばれる事が多い。
|- style="vertical-align:top;"
|[[デジタル音源]]
|[[デジタル信号処理]]技術([[デジタル信号処理|DSP技術]])で実装された音源。<br />
DSP技術の実装方法には、ディスクリート回路/カスタムLSI/DSPチップ/CPU等があり、専用ハードにはそれらを併用する物も多く、明確な区別は難しい。またCPU全般およびDSPチップの大半では、処理を入れ替え可能なプログラムで制御しており、これらはソフトウェア音源にも分類される。
|- style="vertical-align:top;"
|[[ソフトウェア音源]]
|音作りをソフトウェアで行うデジタル音源。<br />
ソフトウェアには、DSPチップ用とCPU用がある。実行プラットフォームには、専用ハード/DAW用拡張ハード/DAWソフトウェア/汎用PC 等がある。
|- style="vertical-align:top;"
|[[チップ音源]]
|初期のパソコン/アミューズメント機器/携帯電子機器 等に搭載された、1チップの簡易音源 <ref group="注" name="chip">チップ音源が提供するシンセサイズ方式は、矩形波のみ/基本波形のみ/[[波形メモリ音源|波形メモリ方式]]/簡易アナログシンセ/FM音源/PCM音源 と実に様々だが、PCM音源を除きビット深度が低くローファイな傾向がある。なおチップ音源の特殊な利用法として、音響合成は主にアプリケーション側でソフトウェア的に行い、チップ音源は単なるD/Aコンバータの一種として扱うケースもあり(典型的には声の再生等)、その場合システム全体としてはソフトウェア音源の一種と見なせる場合もある。</ref>。
'''例''': [[Programmable Sound Generator|PSG]]、[[:en:Sound Interface Device|SID]]、[[波形メモリ音源]]
|}
== シンセサイズ方式の分類 ==
[[加算合成]]、[[減算合成]]、<!-- ・[[乗算合成]] -->・変調合成や、[[PCM音源|サンプリング音源]]、またはそれらの複合型など多数の方式が存在している。
[[アナログシンセサイザー]]の時代は[[減算合成]]が主流だったが、その後、デジタル技術の発展により、[[サンプリング]]したデータを元に音を構築する[[PCM音源]]が主流となった。
{| class="wikitable"
!colspan="4"|<div style="width:13em;">名称</div>
!|概要
|- style="vertical-align:top;"
|colspan="4"|[[減算合成]]
|原波形の周波数スペクトルをフィルターで操作して音色合成する方式。<br />アナログシンセサイザーや、電子オルガンの多く、あるいはそれ以前の電子楽器の時代から多用されており、最新のデジタル音源/サンプリング音源/ソフトウェア音源でもこれを併用する事が多い。
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|<span style="font-size:90%;">減算型アナログ・シンセサイザー</span>
|[[減算合成]]方式を[[アナログ音源]]技術で実現したシンセサイザーの事。しばしば「アナログ・シンセサイザー」と呼ばれ、下記の処理フローを暗黙の共通認識としている事が多い。
:【典型的処理フロー】[[電圧制御発振器|オシレータ]]で基本波形を生成し、[[VCF|フィルター]]で[[倍音]]成分を操作して音色を変化させ、[[VCA|アンプ]]で音量の過渡的特性を操作する。
なおデジタルシンセサイザーでも、上記と同様な処理 (もしくは上記を連想させる操作インタフェース) を提供する製品がある。特にヴァーチャルアナログ音源では、回路特性や操作性も含めて上記処理のシミュレーションを提供している。
|- style="vertical-align:top;"
|colspan="4"|[[加算合成]]
|複数の波形を重ねて音色を合成する方式。
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|[[倍音加算合成]]
|倍音(整数次高調波)相当の正弦波を使った[[加算合成]]。<!-- フーリエシンセシス。周波数の異なる正弦波の集合体だけで音色を形成する方式。 -->
<!--
|- style="vertical-align:top;"
|colspan="4"|''ハイブリッド''
-->
|- style="vertical-align:top;"
| colspan="4"|[[変調方式|変調合成]]
| 各種の[[変調方式]]を応用した音響合成方式。<br />例えばFMシンセシスは[[周波数変調]](FM)、PDシンセシスは[[位相変調]](PM) の応用であり、両者を合わせ位相角変調と総称される。
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|[[FM音源|FMシンセシス]]
|正弦波を別の正弦波で[[周波数変調]]し、倍音を制御する方式。<!-- 波形を波形そのもので変調する方式。-->
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|''[[RCM音源]]''
|PCM音源(AWM2) と フィルター付きFM音源(AFM) の 複合音源 (メーカ独自呼称)。<br />PCM側波形でFM側オペレータを変調できるのが特徴。
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|''[[PD音源|PDシンセシス]]''
|任意波形の読出し速度を波形周期内で変化させ([[位相変調]])、倍音を変化させる方式 (メーカ独自呼称)。実装方式はFM合成と類似性があり、また得られる音はオシレータ・シンクと一部共通点を持つ。
|- style="vertical-align:top;"
|colspan="4"|[[サンプラー]]、<br /><span style="font-size:90%;">[[PCM音源|サンプリング音源/PCM音源]]</span>
|[[サンプリング]]した波形を基本音色として利用する方式。<!-- その一種として[[波形メモリ音源]]や[[ウェーブテーブル・シンセシス]]が存在する。-->
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|<span style="font-size:80%;">[[ウェーブテーブル・シンセシス]]</span><br /><small>([[:en:Wavetable synthesis|Wavetable synthesis]])</small>
|
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|[[ベクトル・シンセシス|ヴェクター・シンセシス]]
|
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|[[グラニュラー・シンセシス]]<br /><small>([[:en:Granular synthesis|Granular synthesis]])</small>
|
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|''[[LA音源]]''
|LA音源の"LA"とは Linear Arithmetic(線形演算式)の略(メーカ独自呼称) <ref group="注" name="LA_synthesis">LA音源とは、2系統トーンジェネレータの加算(内部的レイヤー)や乗算(リングモジュレーション)といった「線形演算」を標榜したデジタル音源だった。これらの演算はアナログ時代からよく使われていた処理だが、ローランドはフィルタを含む全処理をデジタル化し、短いサンプル波形の活用(アタック部やループ)、内蔵デジタルエフェクトによるトータルな音作り等を含めてこの音源の特徴として宣伝した。LA音源登場時、FM音源を除くデジタルシンセは、音色作成上の判断からアナログ・フィルタを追加した製品が多く(E-mu/Ensoniq/PPG/Waldorf等)、後発ながら[[デジタルフィルタ]]を採用するローランドの試みは画期的だったとも言える。ただしLA音源が採用したデジタルフィルタは、従来のアナログフィルタ最大の魅力である歪みによる色づけを再現しておらず、また最上位2機種(D-50, D-70)以外ではレゾナンス・パラメータも省略されたため、平板な音色変化しか得られなかった。LA音源の後には、音楽制作機能を統合した音楽ワークステーション(KORG M1)や、長いサンプル時間とリアルな音を特徴とする[[PCM音源]](ROMpler. E-mu Proteus等)が登場して市場を席巻しており、特に後者は完成度の高いデジタル・フィルタを搭載したので、LA音源はすぐに陳腐化し、ローランド自身もLA音源というマーケティング用語を二度と使わなくなった。</ref>。ごく短いPCMサンプル音源と減算合成音源のデジタル・ハイブリッドで、後に登場したPCM音源の機能限定先行版に相当する。
|- style="vertical-align:top;"
|colspan="4"|[[モデリング音源|モデリング合成]]
|
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|[[物理モデル音源]] <br /><small>([[:en:Physical modelling synthesis|Physical modelling synthesis]])</small>
|楽器の発音機構や共鳴機構の物理モデルを[[デジタル信号処理|DSP技術]]でシミュレートする方式。
|- style="vertical-align:top;"
|
|
|colspan="2"|<span style="font-size:90%;">[[:en:Karplus-Strong algorithm|Karplus-Strong algorithm]]</span>
|短いノイズを高速でディレイさせて[[弦楽器]]のような音色を生成する。
|- style="vertical-align:top;"
|
|
|colspan="2"|[[:en:Digital waveguide synthesis|Waveguide synthesis]]
|
|- style="vertical-align:top;"
|
|
|colspan="2"|[[:en:Formant synthesis|Formant synthesis]]
|
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|[[バーチャルアナログ音源]]
|<!-- [[モデリング音源]]の一種。--> アナログシンセサイザーを[[デジタル信号処理|DSP技術]]でシミュレートする方式。生楽器の再現を目的とした物理音源とは区別される。
|- style="vertical-align:top;"
|
|colspan="3"|[[クローンホイール]]
|[[ハモンドオルガン|Hammond B3]]に代表される{{仮リンク|トーンホイール|en|Tonewheel}}式オルガンをシミュレートした音源。広義には[[倍音加算合成|倍音加算]]型音源のシミュレーションとも言える。
|}
== デジタル信号処理技術 (DSP) ==
{|class="wikitable"
|- style="vertical-align:top;"
|style="width:13em;"|[[フーリエ変換]]
|
|- style="vertical-align:top;"
|[[短時間フーリエ変換]]
|
|- style="vertical-align:top;"
|[[コンボリューション]]([[畳み込み]])
|レスポンス特性のエミュレーション <small>(サンプリング・リバーブ、エフェクター・エミュレーション等)</small> に活用される。音源技術としては、[[RCM音源]]、TASCAM GigaStudio、[[:en:Allen organ|Allen Quantum organ]]等がコンボリューション技術の利用を強調している。
|}
== 演奏方式による分類 ==
当初は特殊な電子装置や[[キーボード (楽器)]]の一種として分類されていたが、その後、[[ギター]]型や[[ブレス・コントローラ|笛]]型、[[打楽器]]型のコントローラーを備えたシンセサイザーが登場した。さらに演奏用のインターフェイスを分離した[[音源モジュール|シンセサイザーモジュール]]と呼ばれる機材も登場している。
{| class="wikitable"
!style="width:13em;"|演奏情報入力方式
!|概要
|-
|鍵盤
|ピアノやオルガンと同様に鍵盤を使う方式。電子楽器の黎明期から採用されている。<br /><small>例: [[:en:Telharmonium|テルハーモニウム]](1897-1906)、[[オンド・マルトノ#第4世代|オンド・マルトノ]](第4世代,1932)、[[ハモンド・ノヴァコード]](1937)、[[:en:Clavivox|クラヴィヴォックス]](1962)、[[モーグ・シンセサイザー]](1964)等)</small>
|-
|[[ギターシンセサイザー|ギター]]
|ギター音で間接的にシンセサイザーをコントロールしたり(狭義)、ギター音を直接加工して通常のシンセサイザーや他の楽器の音をシミュレートする方式(広義)。
1970年、Innovex Condor GSM がギターシンセ製品として初めてリリースされた。<br /><small>(Innovex は [[ハモンドオルガン|ハモンド]] と [[オベーション]] の合弁会社)</small>
<!-- <br />1970年代初頭のギターシンセ登場時は広義の定義だったが、1980年代前後には狭義の製品が主流となった。その後1990年代半ば以降、広義の定義に近い[[モデリング・ギター]]が第三の勢力として登場している。-->
|-
|ドラムス <br />([[:en:Electronic drum|Electronic drum]])
|シモンズ([[:en:Simmons (electronic drum company)|Simmons]])の製品などが有名。この他過去にはモーグもパーカッション・コントローラを発売していた。
|-
|[[ウインドシンセサイザー]]
|[[管楽器]]式のインターフェイス。
|}
== おもな機種、型番 ==
=== 日本のメーカー ===
<!-- アイウエオ順 -->
{| class="wikitable"
!style="text-align: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; width: 9em;"|メーカー
!style="text-align: left; vertical-align: top; white-space: nowrap;"|代表的な機種 <ref name="SynthFoolJP">日本国内メーカーの初期製品については、“おとなのためのアナログシンセ秘密基地計画”の「[http://synth.fool.jp/os_vsm_c/cn74/ シンセ年表]」をリファレンスとし、その他 [http://www.sinrise.de/ SYNRISE] ([https://web.archive.org/web/20080705235525/http://www.synrise.de/docs/types/complete.htm archive])、[http://www.synthmuseum.com/ Synthemuseum.com]、[http://www.vintagesynth.com/ Vintage Synth Explorer]、[http://www.synthesizerdatabase.com/ Sequencer.de]、[http://www.keyboardmuseum.com/ The Audio Playground Synthesizer Museum] を補助資料として、製品、品名、年代の確認を行った。</ref> <span style="display:none;"><ref group="注" name="Japanese1stSynth">'''国内各社のシンセサイザ製品第1号モデル''':<br />
:1973/3: [[コルグ]] miniKORG 700 [http://www.korg.co.jp/SoundMakeup/Museum/miniKORG700/]
:1973/7: [[ローランド]] SH-1000 <sup>†</sup>
:1973: [[ヒルウッド]] Blue Comets 73
:1974: [[ヤマハ]] SY-1
:1974: ''[[エース電子工業]]/[[:en:Ace Tone|ACE TONE]] AP-100/SY 100''
:1974/5: [[ローランド]] SH-3 <sup>*†</sup>
:1975: [[ハモンド・オルガン|日本ハモンド]] Model 102200
:1976/10: [[エース電子工業]]/[[:en:Ace Tone|ACE TONE]] PS-1000 <sup>*†</sup>
:1977: [[河合楽器製作所|カワイ]]/[[テスコ (楽器メーカー)|テスコ]] S100F, [[パナソニック|松下]]/[[Technics]] SY-1010
:1978: [[日立製作所|日立]]/[[Lo-D]] HMS-30, [[Pax Electronica Japan|PAX ELECTRONICA]] Sygnus
:1979: ''([[パール (楽器メーカー)|パール]] SYS-950)'', ([[カシオ計算機|カシオ]] VL-Tone VL-1)
:1982: [[パール (楽器メーカー)|パール]] Polysensor PK-801/701<sup>*</sup>
:1983: [[セイコーホールディングス|セイコー]] DS-101/202/310/320
:1984: [[AKAI professional|アカイ]] AX80, [[カシオ計算機|カシオ]] CZ-101<sup>*</sup>
:2008: [[学研ホールディングス|学研]] SX-150
:2009: [[REON]] DRAFT BOX-S
[出典] おとなのためのアナログシンセ秘密基地計画 「[http://synth.fool.jp/os_vsm_c/cn74/ シンセ年表]」
:<sup>†</sup>印の発売年月は リットーミュージックの雑誌「キーボードマガジン」記事に基づいた. ([http://matrixsynth.blogspot.com/2006/04/ace-tone-ps1000.html])
[表記] 未確認製品は''斜体''、分類・年代が曖昧な製品は(カッコ)で表記し、確認可能な後続/関連製品を<sup>*</sup>印付きで追記した.
</ref></span>
|-
|[[AKAI professional|アカイ]]
|AX80、AX60、AX73、VX90(アナログ/ポリフォニック)、VX600(アナログ/ウィンドシンセ接続可能)、MINIAK(ヴァーチャルアナログ/ヴォコーダ内蔵)<ref>'''AKAI professional [http://www.akaipro.com/miniak MINIAK]'''</ref>
|-
|[[ローランド ディー. ジー.|AMDEK]] <ref group="注">'''AMDEK''' (1983年[[ローランド ディー. ジー.]]に社名変更)はローランドの関連会社で、設立当初には 電子楽器組立キット や PC用アナログシンセ・インタフェース(CV/GATE規格) CMU-800、CMU-810 等を扱っていた。現在はコンピュータ周辺機器(大型カラープリンタ、カッティングマシン、3Dスキャナ/3Dプロッタ等)を扱っている。</ref><br />([[ローランド ディー. ジー.|Roland DG]])
|'''AMDEK''': COMPU MUSIC CMU-800(PC用アナログシンセI/F、簡易音源)、<br />
Percussion Synthesizer PCK-100(シンセドラム、組立キット)、Hand Clapper HCK-100(ハンドクラップ、組立キット)<br />
'''Roland DG''': COMPU SYNTH CMU-810(PC用アナログシンセI/F、簡易音源+シンセ音源)
|-
|''[[WAVE KIT]]'' <ref group="注" name="WAVE KIT">'''WAVE KIT'''とは、1975,6年頃秋葉原にあったシンセサイザー自作キット専門店の名前だと言われている。製品名に関し、基板に記された型番と名称を参照した例はほとんど見当たらず、店頭や通販広告等では “Micro Wave Synthesizer” の呼称が一般的だったので、ここではそれを採用した。後にドイツで登場したPPG WAVEや Waldorf MicroWaveを連想させる呼称だが、波形テーブルは搭載していない。ドイツの [https://web.archive.org/web/20030511202518/http://www.synrise.de/docs/types/w/wavekit.htm SYNRISEデータベース] には「ネット上の情報は日本語サイトしかない」と書かれており、おそらく日本国内でのみ流通した製品だと推定される。当時は他にも下記の自作キットが日本国内で販売されていた。
* [[伸光電子]]のアドニス・シリーズ、
* [[ハヤマ技研]] SK307 [http://synth.fool.jp/os_vsm_c/cn74/]、
* エグモント 100 [https://web.archive.org/web/20050112145458/http://www.geocities.jp/mugcupsjp/ta2.html#C][http://www.synthmuseum.com/]</ref>
|Micro Wave Synthesizer SA12、SA-13 <ref>'''WAVE KIT SA-13''' “[http://www.mars.dti.ne.jp/~ogura/e_hobby/wavekit.html WAVEKIT アナログシンセのレストア]”</ref>(アナログ/モノフォニック、自作キット)<br />
Micro Wave Guitar Synthesizer(ギターシンセ)、Micro Wave Surf Synthesizer(環境音発生器)<ref group="注">'''Surf Synthesizer''' (環境音発生器)とは、海の波のようにゆったりとした周期的効果音を出す装置で、当時の怪し気な宣伝文句によれば「''脳波を波の周期に引き込み、α波へと誘導して深い瞑想状態(リラックス)を得る''」、という触れ込みのエレクトロニック・ガジェットだった。1970年代初頭に有名なエレクトロニクス・ホビー雑誌の記事(*)で好事家の知るところとなり、以降、各種ホビー雑誌や自作キット(WAVE KIT)、電子ブロック回路集等でバリエーションが繰り返し紹介された。
: * Popular Electronics誌 1972年2月号, John S. Simntonの記事
アポロが月と地球を往復し、ヒッピー文化の精神革命と、電卓由来のマイコン革命が同時進行していた70年代、この他にもいくつか似たようなトンガリ・ハイテク・ガジェットが発売された。この種の製品の子孫は、今でも雑多な電子ガジェットを扱う東急ハンズや王様のアイデア、あるいはマニアックな珍品を揃えたハイテクヴィンテージショップで、運がよければ見つける事ができるかもしれない。
* [http://matrixsynth.blogspot.com/search/label/Triadex%20(Muse) Triadex Muse] (1971年)
: つまみ操作で14兆パターンの音楽フレーズを生成する自動演奏装置。
: 人工知能の父[[マービン・ミンスキー]]教授とその弟子[[エドワード・フレドキン]]が開発、一般販売された。完全デジタル構成で音色とフレーズの自由度を備えたこの製品は、デジタルシンセサイザーとしてもデジタル・シーケンサとしても世界最初の製品と言われており [http://sequencer.de/synth/index.php/Synthesizer_History_Timeline][http://matrixsynth.blogspot.com/search/label/Triadex%20(Muse)]、歴史年表を作る上で非常に扱いに困る逸品である。
* [http://www.maltedmedia.com/people/bathory/ionic2.jpg IoniCamera] (1970年代)
: 広告によると、音に反応して画像パターンが変化しつづける一種のヴィデオ・シンセサイザー。
: EMSの米国代理店Ionic Industriesの製品。同社はEMS VCS3互換のシンセ [http://www.maltedmedia.com/people/bathory/killer.html ionic performer] も発売していた。
* [http://www.emsrehberg.de/VIDEOSIZER/videosizer.html EMS REHBERG VIDEOSIZER-L1] (1979年前後)
: EMSのドイツの関連会社 [http://www.emsrehberg.de/ EMS REHBERG] のミュージック・ビデオ・シンセサイザー。<br />1979年の [http://www.emsrehberg.de/VIDEOSIZER/Linz_1979/linz_1979.html 第1回ars electronicaのポスター] は同製品の生成画像らしい。
</ref>
|-
|[[東洋楽器]]
|ULT-SOUND DS-4(シンセドラム)
|-
|''[[:en:Ace Tone|ACE TONE]]'' <br />''([[エース電子工業]])'',
''[[日本ハモンド]]'' <ref group="注">'''日本ハモンド'''は、1970年に[[ハモンドオルガン|ハモンド]]と[[サカタインクス|阪田商会]]([[シークス|海外事業部門]])の提携により設立された合弁会社で、ヨーロッパの多くの地域と極東地域へのアメリカ製ハモンド製品供給と、日本製ハモンドOEM製品の製造/販売/輸出を行った [http://www.hammond.jp/hammond/hammond/story.html][http://www.bentonelectronics.com/hammondstory.html]。<br />
また1972年の梯退社後、1970年代のある時期エース電子工業の再編に伴い製造販売部門を日本ハモンドが引き継いだと考えられており [http://haku.sakura.ne.jp/metro/wordbook.html#ni]、以降日本ハモンドはACE TONEブランドの製造・販売も行うようになった。[http://sothis.blog.so-net.ne.jp/2006-03-26][https://blog.goo.ne.jp/span_21/e/1e0032b17689cf6298cb91d3cdb7fd2c] <br />
1970年代末にはコンパクトエフェクター [[Big Jam]] シリーズを発売した。この製品は同時期に発売されたローランドの[[ボス (企業)|BOSS]]シリーズの対抗製品と考えられ、アメリカの[[マルチボックス (楽器メーカー)|Multivox]](Sorkin Music)にもOEM供給されたが [http://acapella.harmony-central.com/archive/index.php/t-1437163.html][http://www.tonetoys.com/de/NOS_Big-Jam_Effekt.html]、結局2〜3年で消えたという。[http://haku.sakura.ne.jp/metro/wordbook.html#hi]<br />
その後1970年代末、ACE TONEブランドの後に新ブランド[[Jugg Box]](海外では[[阪田商会|SAKATA]])が登場し、真空管式ギター・アンプstuffシリーズ [https://web.archive.org/web/20160304232101/http://blogs.yahoo.co.jp/mb_avant_garde/28097702.html] や、日本最初期のPCMドラムマシンDPM-48 といった特徴ある製品を発売した。[http://brochures.yokochou.com/keyboard-and-effector/hammond/1983/index.html][http://haku.sakura.ne.jp/metro/wordbook.html#si]<br />
以上のように、日本ハモンドの主力はあくまでオルガン製品であり、ギターアンプ/エフェクタは70年代末期の追加、シンセ/ドラムマシンの発売はどちらかと言うと例外的だった事がわかる。なお1980年代にはイタリア[[:en:Crumar|CRUMAR]]社の高価なデジタルシンセ DK SYNERGYの輸入販売も行っていた。[http://brochures.yokochou.com/keyboard-and-effector/hammond/1983/index.html]<br />
以降の経緯は、阪田商会の脚注を参照。
</ref>,<br />
[[サカタインクス|阪田商会]] <ref group="注" name="SakataShoukai">'''[[サカタインクス|阪田商会]]'''(現[[サカタインクス]])は、1896年大阪で創業した印刷用インキ大手メーカ。<br />
同社はエース電子工業と日本ハモンドの出資者であり、両社製品の輸出入業務は 同社[[シークス|海外事業部門]]が担当した。
輸出品の製造プレートには「SAKATA SHOKAI」の文字が記されたので、海外ユーザはその製造元をエース電子工業ではなく阪田商会だと理解している。[http://www.combo-organ.com/AceTone/index.htm#GT-7] また後期製品の一部(例えば[[Jugg Box]] DPM-48等)は、実際に海外でSAKATAブランドで販売された [http://www.hollowsun.com/donations/sakata/index.html][http://matrixsynth.blogspot.com/2006/07/sakata-dpm48.html]。<br />
(1980年代には外国ブランド・シンセ(Oberheim/Ensoniq/Kurzweil(以上鈴木ハモンド), Chroma Polaris II(FenderJapan&エルク電子), SCI(モリダイラ楽器), ...等)の国内生産が急速に開始され海外輸出も行われた。この時期、日本製のOberheim/Ensoniqの輸出版製造プレートにも「SAKATA SHOKAI」の文字が確認されている [http://matrixsynth.blogspot.com/2006/01/oberheim-xpander-site.html][http://matrixsynth.blogspot.com/2008/09/oberheim-matrix-6r.html][http://blogs.dion.ne.jp/dub_stylee/archives/4694536.html])<br />
このように一見ミステリアスな「SAKATA SHOKAI」の目的と役割は、同社海外事業部門(現[[シークス]])の [http://www.siix.co.jp/jp/ir/pdf/library_080328_1.pdf 創業50年史] を参照。同資料に拠れば、年代を経るにつれ事業領域が下記のように変化・拡大していった事が確認できる。
* 1958年 大手インク会社貿易部の輸出係として誕生
* 1960年代 電子部品貿易(エース電子工業への出資と輸出)
* 1960年代 電子部品貿易(エース電子工業への出資と輸出)
* 1970年代 OEM事業(日本ハモンド)、他社の海外工場設立等
* 1970年代 OEM事業(日本ハモンド)、他社の海外工場設立等
* 1980年代 自社ブランド試行(SAKATAブランド)→EMS(委託生産事業)の本格化
* 1980年代 自社ブランド試行(SAKATAブランド)→EMS(委託生産事業)の本格化
そして1980年代後半〜90年代初頭、ハモンドオルガン事業に大きな転換が生じた。
* 1985,6年頃 ハモンド・オルガン・カンパニーが経営終息 (詳細不明)
* 1991年 [[鈴木楽器製作所|鈴木楽器]]が買収しHammond復活
* 1992年 サカタインクス(旧:阪田商会)海外事業部門が[[シークス|サカタインクスインターナショナル]](現[[シークス]])として分社独立
一連の流れの中、(おそらく1987年の阪田商会の商号変更前に)
関連事業は阪田商会から鈴木楽器へ事業譲渡 [http://erineko.txt-nifty.com/hammond/2009/03/43hkd-100-3997.html] され「鈴木ハモンド」となり、
最終的に「ハモンドスズキ」へと統合されたと一般に考えられている。
しかしこの間の詳しい経緯はあまりよく知られていない。<br />
総じて日本ハモンド/阪田商会/エース電子工業/ローランドの活動は、ハモンドの命運と市場に大きな影響を及ぼした。
* OEMビジネスによる 出荷数/モデル/価格レンジの拡大
* トーンホイール方式終了の追認(OEM生産拒絶)と後押し(電子オルガン開発)
* クローン・ホイール電子オルガン市場の立ち上げと、市場競争の激化<br />(ACE TONE GT-7/GT-5, Hammond X-5/X-2/B-200, Roland VK-9/VK-6, KORG BX-3/CX-3, etc)
<!-- * トーンホイール方式の独自性を捨てたハモンドは、(同時期の特許訴訟の影響でデジタル技術に充分踏み込めず、)競争力を失って1980年代半ばに経営終息 -->
しかし現在に至るまで、各社の正確な活動内容や関係者の真意は今ひとつ判然とせず、その功罪もあまり語られてこなかった。
その反面、各社の引き起こした結末を潔く引き受け、事態収拾の役目を果たした鈴木楽器については、なぜか曖昧な説明が繰り返されている(Wikipedia上の記述例: 「''[[ハモンドオルガン#衰退と再評価|商標は〜に買い取られ]]''」「''[[ハモンドオルガン#衰退と再評価|現在 商標を持っている〜]]''」<!-- 「[[ロータリースピーカー|現在は〜が商標権を取得し]]」-->「''単なる日本総代理店''」)。そのアンヴィバレンツな一般認識は、ヴィンテージ楽器とそのブランド解明に強い興味を抱く人々にチャレンジャブルな課題を突き付けている。
</ref>
|'''ACE TONE''': Multistrings SY-5 <ref group="注">'''Multistrings SY-5'''は、有名な [http://www.keyboardmuseum.com/ar/a/ace/multi.html Audio Play Ground Museum] に展示があり、また国内でも運がよければヴィンテージショップ等の店頭で現物を確認できる (たとえば2000年前後、FiveG店頭に並んでいた)。しかしネット上では、例えば安西のシンセ年表にも、PSE免除のヴィンテージ・リストにも記載が無い。発売時期も詳細仕様もほとんど知られておらず、極めて謎の多い製品と言える。<br />
製品名や写真から観察できる範囲では、おそらく2系統のアンサンブル音源(中央部、プリセット型ポリシンセ)を中心に、オルガンまたは簡単なソロシンセ(右側緑四角の下の多数のノブ)、モジュレーション系エフェクタ、幾つかのコントローラと入力(左端ジョイスティック) を備えた3系統複合キーボードと推定される。またデザイン的特徴として、筐体上面にARP製品と同様なブロックダイアグラムが印刷されている。<br />
以上より、製品の機能や世代は [http://www.proun.net/gallery/roland_rs-505.html Roland RS-505 Paraphonic Synth](1979年)[http://synth.fool.jp/os_vsm_5/cn78/cn69/cn82/pg818.html][http://brochures.yokochou.com/keyboard-and-effector/roland/1979/p0910.html] や、Roland VP-330(1979年,前期型)[http://www.proun.net/gallery/roland_vp330.html][http://brochures.yokochou.com/keyboard-and-effector/roland/1979/p0708.html] に近いと推測される。しかし機能ブロックの複雑さやノブの多さ、そして何よりデザインは、[http://www.proun.net/gallery/arp_quadra.html ARP Quadra](1978年)[http://synth.fool.jp/os_vsm_1/cn74/cn38/cn41/pg196.html] や [http://www.proun.net/gallery/roland_jupiter8.html Roland Jupiter-8](1981年) に通じるものがある。今後のACE TONE Multistrings SY-5の解明に期待したい。<br />
(追記: [http://guy-lian-music.be/synth/vroeger.htm Guy-Lianのシンセ紹介ページ] に短い説明が存在)
</ref>(アナログ/アンサンブル)、
''SH-3'' <ref group="注">'''ACE TONE SH-3'''とは、1974年Roland SH-3 のロゴが ACE TONEに張り替えられたという説 [http://www.vintagesynth.hu/index.php?m=gyarto&gyarto=47] に基づく製品名である。なおRoland SH-3は、Moog特許のMoogフィルター回路を無断コピーして問題となり、すぐに回路変更後のRoland SH-3Aに入れ替わったため、Roland SH-3自体存在が稀である。ドイツの [https://web.archive.org/web/20030116125836/http://www.synrise.de/docs/types/a/acetone.htm SYRISEデータベース] には「ACE TONE SH-3 (1974年): ブランド・ロゴ以外完全にRoland SH-3と同一」という記述があるが、写真証拠や出典の記載は一切ない。またSound On Sound 2004年11月の記事"[http://www.soundonsound.com/sos/nov04/articles/roland.htm The History of Roland Part1: 1930-1978]"に「Roland SH-3と類似したACE TONE SH-3」の記述がある。なお同誌記事は、ストーリー構築や取材源の都合に応じ時として未検証情報を交える傾向があり、デザインや仕様の若干異なるACE TONE PS-1000を取り違えたのではないかとする説 [http://matrixsynth.blogspot.com/2006/04/ace-tone-ps1000.html] もある。上記2件以外に ACE TONE SH-3の存在を示す出典は見つかっていない。
</ref>、''AP-100''、''SY 100'' <ref group="注">この他1974年にACE TONEがシンセを発売したとする別の2つの説がある。<br />
一つ目の'''AP-100'''は、2006年前後[[PSE問題]](2001年電気用品安全法(PSE法)の施行後2006年の猶予期限切れに伴い、国内のヴィンテージ機器流通に大きな支障が生じかけた問題)で、適用免除申請(特別承認)で提出され受理されたいわゆる [http://www.meti.go.jp/policy/consumer/seian/denan/tetsuduki_annai/vintage/list070604.pdf 公認ヴィンテージ・リスト] に記載のある型番である。有名なシンセシスト安西史孝の [http://synth.fool.jp/os_vsm_c/cn74/ シンセ年表] には、1974年の発売リストに記載がある。しかしこの2件以外、ネット上に製品情報は見当たらない。なおPSEの免除申請に、業者によっては大量の対象外製品を申請してしまった経緯もあり、必ずしもPSEのリストが100%の信頼性を持っているとは限らない。一つの可能性として、存在確認されている製品"AP-1000"の型番を誤って"AP-100"として申請し、そのまま免除対象となった可能性も否めない。<br />
二つ目の'''SY 100'''は、ドイツの [http://www.synrise.de/docs/types/a/ace.htm SYNRISEデータベース] に記載されている型番で、記述によれば登場時期と仕様は「1974年登場したステージ用モノフォニックシンセ(49鍵)。このアナログシンセは、シンセの全基本機能に加え、リングモジュレータとハイパスVCFを備えている。キーボードは上下1oct.のオクターブ・トランスポーズが可能」という事である。ただしこちらも、これ以外に製品情報がネット上に一切見当たらない。一つの可能性として、関連会社日本ハモンドのHammond Model 102200 (と同じ外観の製品)を、[http://www.synthmaster.de/mus.htm Hammond ''SY-100''と誤表記している例] があり、何らかの関係があるかもしれない。<!-- なお、本来の[http://theatreorgans.com/hammond/faq/pictures/chord.jpg Hammond SY-100]は全く別の製品(コードオルガン)だと一般には認識されている。--> また別の可能性として、広く存在確認済みの製品"Multistrings SY-5"と関係のある製品なのかもしれない。ただしSY-5は名称や画面からポリフォニック複合キーボードと推定され、上記仕様とは異なる。またSY-5の発売時期は確認できていないが、他社の同様な複合キーボード([http://www.soundonsound.com/sos/nov04/articles/roland.htm#9 Roland RS-505](1978)、[https://web.archive.org/web/20050221115521/http://www.synrise.de/docs/types/m/multivox.htm Multivox MX-3000](1978)、[http://synth.fool.jp/os_vsm_c/cn74/ YAMAHA SKシリーズ](1979-1981)、[http://www.korg.co.jp/SoundMakeup/Museum/TRIDENT/ KORG Trident](1980,8voice/メモリ付き)、)は70年代末〜80年代初頭に登場しており、仮に"SY 100"と"SY-5"に関係があるとしても、製品世代は大きく異なる可能性が高い。</ref>、
PS-1000 <ref group="注">'''Ace Tone PS-1000''' [http://matrixsynth.blogspot.com/2006/04/ace-tone-ps1000.html] の発売は1976年だが、その4年前創立者梯が退社し設立したローランドの製品と、仕様やデザイン面で深いつながりを感じさせる不思議な製品である。PS-1000の仕様や機能は、1974年発売のRoland SH-3(A)とほぼ同一だった。操作パネルのデザイン「黒地に白印刷でロゴはオレンジ」は、1975年頃までMultivoxにOEM供給していた製品(Rhythm Ace [http://www.keyboardmuseum.com/ar/m/multi/fr4.html FR-4], [http://www.keyboardmuseum.com/ar/m/multi/fr6m.html FR-6M], [http://www.keyboardmuseum.com/ar/m/multi/fr8l.html FR-8L])[http://www.keyboardmuseum.com/ar/m/multi/multi.html] と共通しており、1978年〜1981年にはローランドがその主力製品で同じデザインを多用している([http://www.vintagesynth.com/roland/cr78.php CR-78] , [http://www.proun.net/gallery/roland_csq600.html CSQ-600], [http://www.proun.net/gallery/roland_spv355.html SPV-355], [http://www.proun.net/gallery/roland_svc350.html SVC-350], [http://www.proun.net/gallery/roland_tr808.html TR-808], Jupiter-8)。1980年Roland TR-808の発売当時、店頭にTR-808と同期可能なシーケンサCSQ-600/CSQ-100と共に、発売時期の古いPS-1000を並べて展示した楽器店もあり、創立者が同じなら製品が似ても当然だと当時は受け止められていた。
<!-- <br />しかし1970年代アメリカのシンセメーカARPとの類似は、創立者を持ち出しても説明困難というものだろう。1978年ARPは製品デザインを統一し「黒地に白文字+オレンジ」の配色を採用しているが [http://www.proun.net/gallery/arp_odyssey_detail.html] (Odyssey MkIII [http://www.proun.net/gallery/arp_odyssey.html], Avatar [http://www.vintagesynth.com/arp/avatar.php], Quadra)、これは前述のローランドのデザイン変更と結果的にシンクロしている。またARP後期の一連の製品と、それをキャッチアップ(模倣)したと推定されるローランド製品の不思議なシンクロも説明が難しい。
<table class="wikitable">
<tr>
<td>1976 ギターシンセ
<td>ARP CENTAUR VI(1976プロトタイプ, 音源部はQuadra相等)[http://www.soundonsound.com/sos/Apr02/articles/retrozone0402.asp]
</tr><tr>
<td>1977
<td>ARP Avatar(CENTAUR簡易版)[http://www.soundonsound.com/sos/Apr02/articles/retrozone0402.asp]
<td>Roland GR-500 [http://www.soundonsound.com/sos/aug99/articles/rolandgr.htm]
</tr><tr>
<td>1978 複合キーボード
<td>ARP Quadra(CENTAUR音源部)[http://www.soundonsound.com/sos/Apr02/articles/retrozone0402.asp][http://www.soundonsound.com/sos/May02/articles/retrozone0502.asp]
</tr><tr>
<td>1980-82 ポリシンセ
<td>ARP/Rhodes Chroma(1980完成,1982発売) [http://www.vintagesynth.com/misc/chroma.php]
<td>Roland Jupiter-8(1981) [http://www.vintagesynth.com/roland/jup8.php]
</tr><tr>
<td>1983-84
<td>Fender/Chroma Polaris(1984) [http://www.vintagesynth.com/misc/chromapolaris.php]
</tr></table>
特に1978年発売の複合キーボード ARP Quadra [http://www.vintagesynth.com/arp/quadra.php][http://www.soundonsound.com/sos/May02/articles/retrozone0502.asp]と、1981年発売の Roland Jupiter-8 [http://www.vintagesynth.com/roland/jup8.php]は、そのデザインが酷似している。もし仮に、当時両社に何らかの協力関係や人的交流があったなら、もっともらしい説明が可能になるかもしれない。しかしARPのポリシンセ開発チームは、1981年ARP倒産の2ヵ月後にCBS/Fender Rhodesへ移籍し、Rhodes Chroma(1983)とその軽量版Fender/Chroma Polaris(1984)を発売した事が広く知られている。<br />
後にChroma Polarisは国内生産され、製造プレートにFender Japanアンプと同じ"ELK EI"(通称:エルク電子)の名が記された[http://www.flickr.com/photos/matrixsynth/2282992746/sizes/o/in/set-72157603956648406/]。ただし、よく知られている70年代のエルク楽器(旧 ミユキ産業)や、2000年社名変更したエルクコーポレーション(旧 西本産業)[http://www.elkc.co.jp/company/history.html]との関係は不明である。<br />
また、ARPの受け皿となったRhodesについても説明の追加が必要だろう。CBSは1984,5年頃Rhodesの商標を売却し、以降複数のメーカがRhodesピアノの電子化を試みたが失敗した。1989年ローランドが商標を買収し[http://www.soundonsound.com/sos/jan05/articles/roland.htm#4]、その後約7年間で計5機種のRoland Rhodes製品(RDピアノ系:MK-80 [http://www.sonicstate.com/synth/rhodes_mk80.cfm], MK-60 [http://synthony.com/vintage/mk60mk80.html]、VKオルガン系:VK-1000 [http://synthony.com/vintage/vk1000.html][http://www.sonicstate.com/synth/roland_vk-1000.cfm]、U20-ROMpler:660 [http://www.sonicstate.com/synth/roland_rhodes660.cfm], 760 [http://synthony.com/vintage/m660m760.html])を発売した[http://www.fenderrhodes.com/models/post-cbs.php]。Rhodesの発明者[[Harold Rhodes|Harold B. Rhodes]]は、当時デジタルで名を馳せたローランドに当初は大きな期待を抱いたが発売された製品の音に失望、自らの手でRhodesを昔ながらの電気ピアノに戻す決意を固め、1996,7年頃商標を買い戻した[http://www.soundonsound.com/sos/feb05/articles/roland.htm#5][http://www.jazzhouse.org/gone/lastpost2.php3?edit=978788118]。待望のトーンジェネレータ式Rhodes Mark 7が登場したのは、Harold B. Rhodesの死から約8年を経た2008年の事だった。
--></ref>(アナログ/モノフォニック)、<br />
'''HAMMOND''': MODEL 102200 <ref group="注">'''HAMMOND MODEL 102200''' [http://matrixsynth.blogspot.com/search?q=102200] は、1975年日本ハモンドが発売したシンセサイザー。[http://blog.goo.ne.jp/span_21/e/2d6d75e2d439d29ff75bfc478e979a6f] 生産台数は200台程度とされるが [http://matrixsynth.blogspot.com/2007/09/hammond-102200.html]、その根拠は不明である。
音色はプリセット6種類とユーザ音色を選択可能で、
音作りは「オートパッチ方式」を採用、7×7=49個のプッシュボタン [http://www.denhaku.com/mukasi/76/102200.jpg] で行う。
この方式では、ボタン上に音色シート [http://4.bp.blogspot.com/_rScBRKlTdoE/SRpXYk-5WJI/AAAAAAAABPc/B5FmWeDPJiI/s1600/194877675_o.jpg] をかぶせる事で、シンセに不慣れなオルガン奏者でも素早い音色変更が可能だった。
このような楽器デザインは、同時期の国産シンセやACE TONE PS-1000とは大きく異なっており [http://www.urbanmusic.com/Ham-Synth.jpg]、むしろハモンド コードオルガンと同様な設計思想が感じられる [http://www.nycfarmboy.com/hammonds6/hammonds6.html][http://www.keyboardmuseum.com/soundsheet/ham_s6.html]。
(実際Model 102200は、Hammond SY-100コードオルガンとよく混同されている [http://www.synthmaster.de/mus.htm]。実際のSY-100はHammond S6コードオルガンの1バリエーションであり、外観はModel 102200と全く異なる [http://www.theatreorgans.com/hammond/faq/all_hammondss.html#SY100][http://theatreorgans.com/hammond/faq/pictures/chord.jpg])<br />
この他Hammond 102100 と呼ばれる、100番違いで外観がほぼ同じモデルが存在し [http://matrixsynth.blogspot.com/search?q=102100]、動画が公開され [http://www.youtube.com/watch?v=x5A7ADhNWPQ][http://www.youtube.com/watch?v=GL4BEVk5vHM][http://www.soundclick.com/util/getplayer.m3u?id=3928385&q=hi]、また業者からサービスマニュアルや回路図の入手も可能である [http://www.transanalog.com/manuals/Hammond][http://www.musicparts.com/products.asp?Company=Hammond]。しかし現時点ではこのモデルの製造元や、モデル間の関係/相違点等は一切不明なままである。</ref>
|-
|[[カシオ計算機|カシオ]]
|[[カシオ・CZシリーズ|CZ-101]]、[[カシオ・CZシリーズ|CZ-1000]]、[[カシオ・CZシリーズ|CZ-230s]]、[[カシオ・CZシリーズ|CZ-3000]]、[[カシオ・CZシリーズ|CZ-2000S]]、[[カシオ・CZシリーズ|CZ-5000]]、[[カシオ・CZシリーズ|CZ-1]]([[PD音源]])、XW-G1、XW-P1 <br />
FZ-1、FZ-10M(サンプリング)、HZ-600(SD音源)、VZ-1、VZ-10M、VZ-8M(iPD音源)<br />
PG-310、PG-380(MIDIギター)、[[デジタルホーン|DH-100/200/800/500/280]](ウィンドシンセ)
|-
|[[学研ホールディングス|学研]]<ref>学研『大人の科学マガジン』[http://otonanokagaku.net/magazine/index.html ラインナップ一覧]</ref>
|テルミンmini <ref>『[http://otonanokagaku.net/magazine/vol17/index.html 大人の科学マガジン No.17]』、学研、2007年
</ref>、テルミンPremium、SX-150 <ref>『[http://otonanokagaku.net/magazine/sx150/index.html 別冊大人の科学マガジン - シンセサイザークロニクル]』、学研、2008年</ref>
|-
|[[コルグ]]<ref>株式会社コルグ: http://www.korg.co.jp/
* コルグ・ミュージアム: http://www.korg.co.jp/SoundMakeup/Museum/</ref>
|<!-- ''試作一号機''(プロトタイプ)<ref>株式会社コルグ, "[http://www.korg.co.jp/SoundMakeup/Museum/Proto/ コルグ・ミュージアム「試作一号機」]"</ref>、-->miniKORG 700 <ref group="注" name="Japanese1stSynth" />、miniKORG 700S、770(アナログ/モノフォニック)、MaxiKORG 800DV(アナログ/デュオ)、MS-10、MS-20、MS-50(アナログ/パッチ)、900PS、M-500(SP)、Σ(アナログ/プリセット)、<br />
PS-3100、PS-3300、PS-3200、''Δ''、λ(アナログ/全音ポリフォニック)、MONO/POLY、PolySix、Poly-61、Poly-800、Trident、Trident mkII(アナログ/ポリフォニック)、DW-6000、DW-8000(DWGS音源)、DSS-1、DSM-1(サンプリング)、DS-8、707(FM)、<br />
[[コルグ・Mシリーズ|M1]]、[[コルグ・Tシリーズ|T1、T2、T3]]、[[コルグ・01/Wシリーズ|01/W]]、[[コルグ・Xシリーズ|X2、X3、X3R]](ワークステーション)、[[コルグ・Xシリーズ|X5、X5D、X5DR]]、[[コルグ・Nシリーズ|N1、N5、N264、N364]](AI2音源)、
[[コルグ・WAVESTATIONシリーズ|WAVESTATION]](ベクトルシンセシス)、[[コルグ・Prophecy|Prophecy]]、[[コルグ・Z1|Z1]](MOSS音源)、
[[コルグ・iシリーズ|i2、i3、i4S、i5S、i4M、ih]]、KARMA(オートアレンジャ)、
X-013(プロトタイプ)<ref group="注">'''KORG X-013'''とは、1997年頃マックワールドエクスポに展示されていたKORG のプロトタイプ機種(1997?)。Macと連携して使うDSP内蔵キーボードで、タッチパネル型液晶を装備しており、OASYSの祖先と推定される。
当時の配布資料によればこの他、[システム2]と呼ばれるMac用NuBus拡張ボード'''AudioMediaカード'''を併用するタイプも存在した。このカードの発音数は1枚あたり1音だったがMac内完結処理が可能であり、OASYS PCIの祖先にあたると推定される。<br />
拡張性については、キーボード型ではDSP追加、カード型ではカード増設で、発音数や処理機能の拡張(複雑なアルゴリズム等)が可能だった。<br />
Mac側ソフトは「'''音源/エフェクトアルゴリズムツール Synthkit Pro'''」と呼ばれ、MAX/MSPのように機能ブロックを配線してDSPアルゴリズムを開発できた。[システム1]はX-013+Mac用ソフトのモデルで、開発中の音色はMIDIもしくはFD経由でX-013へ転送して試奏するタイプ、[システム2]は前述のようにMac用NuBus拡張ボードを追加したモデルで、Mac内完結処理が可能な他、X-013本体では未対応の外部オーディオ入力が可能だった。<br />
出典: "[http://www.geocities.co.jp/Hollywood/8167/photo/photo04/photo04.html 珍品、名品?]"</ref>、OASYS-PCI(DSPボード)、[[コルグ・TRINITYシリーズ|TRINITY]]、[[コルグ・TRITONシリーズ|TRITON、TR]]、[[コルグ・OASYS|OASYS]]、KRONOS、KROSS(ワークステーション)、<br />
KORG Legacy Collection(PC/Mac用ソフト音源)、DS-10(Nintendo DS用ソフト音源+シーケンサ)、MS2000、MicroKORG(アナログ・モデリング)、MicroKorg XL、R3、RADIAS(マルチプル・モデリング)、microX、[[コルグ・Xシリーズ|X50]](HI音源)、[[コルグ・Mシリーズ|M3]](ワークステーション)、<br />
VC-1(アナログ/ヴォコーダ)、VPP-1(デジタル/ヴォイスプロセッサ)、SB-100(ベースシンセ)、X-911、Z3(ギターシンセ)、WAVEDRUM(ドラムシンセ)、Kaossilator(タッチパッド・シンセ)
|-
|''[[Seekers]]'' <ref group="注">'''Seekers''' (シーカーズ)とは、1990年代後半に突如登場した日本の電子楽器メーカ。SysEX対応の高機能MIDIコントローラ UMC1688、アナログ12バンド・ヴォコーダ VoiceSpectraといった特徴ある製品を発売し、またReBirth用コントローラの試作や、アナログシンセサイザー SMS-1000の企画・開発を行っていたが、後に倒産した。<br />
出典: Seekers元開発者Kirikaxの [https://web.archive.org/web/20080315051249/http://www.geocities.jp/kirikax/seekers/index.html Seekers製品情報ページ]<br />
この他 2006年頃から海外で Seekers SMS2000のプロトタイプと称する写真やビデオが話題となっているが [http://matrixsynth.blogspot.com/search?q=SMS2000]、元開発者はその存在を知らないとしている。</ref>
|''SMS1000'' <ref group="注">'''Seekers SMS-1000'''は [http://www.matrixsynth.com/blog/media/seekers/Seekers_SMS1000E.pdf 当初予告された製品仕様] によれば、プログラムメモリー付きでパッチ可能なアナログシンセで、MIDIや外部信号入力に対応し、波形スコープを備えた製品となる予定だった。Seekers元開発者 [https://web.archive.org/web/20080315051249/http://www.geocities.jp/kirikax/seekers/index.html] がMATRIXSYNTHに提供した資料によれば、正式名称は"ELEBUS-1" [http://www.matrixsynth.com/blog/media/seekers/kirikax/EB1PNL.pdf] で、構造的には 本体EB-1のバス上にボイスカードVB-1を追加する形 [http://www.matrixsynth.com/blog/media/seekers/kirikax/EB1CON.pdf] を予定していたという。しかし諸般の事情で開発は停止してSeekersは倒産し、開発再開の目処は立っていないという。</ref>(開発停止)
|-
|[[セイコーホールディングス|セイコー]]
|DS-101、DS-202、DS-310 <ref group="注">'''SEIKO DS-101'''、'''DS-202'''は1983年発売の拡張可能なデジタル・キーボード。[[倍音加算合成|倍音加算]]型デジタル・シンセサイザ(プログラマ) '''DS-310''' [http://matrixsynth.blogspot.com/2008/03/seiko-ds-310-digital-synthesizer.html][http://matrixsynth.blogspot.com/2007/11/seiko-ds-310-synthesizer-programmers.html] や、デジタル・シーケンサ '''DS-320'''を合体させて機能拡張するデザインだった [http://www.denhaku.com/83/83.htm]。</ref>、DS-250 <ref group="注">'''SEIKO DS-250'''は1985年発売のデジタル・キーボード。前機種と比較して、音色のレイヤーやキー・スプリットの追加、カートリッジによる音色追加、ピッチベンド・ホイールの追加、という特徴があった。[http://matrixsynth.blogspot.com/2007/09/seiko-ds-250.html][http://matrixsynth.blogspot.com/2005/10/seiko-ds-250.html]</ref>(デジタル[[倍音加算合成|加算型]]/ポリフォニック)
|-
|TAMA <br />([[星野楽器]]) <ref>'''TAMA''' (星野楽器)のシンセ一覧: SYNRISE https://web.archive.org/web/20030506145338/http://www.synrise.de/docs/types/t/tama.htm (ドイツ語)</ref>
|DS200 Snyper (シンセドラム)
|-
|[[Technics]]<br />([[パナソニック|松下]])
|SY-1010(アナログ/モノフォニック)<ref>synthmaster.de: [http://www.synthmaster.de/technicssy1010.htm Technics SY-1010]</ref>、SX-WSA1 (サンプル+物理モデル) <ref>http://www.sequencer.de: [http://www.sequencer.de/syns/technics/WSA1.html Technics SX-WSA1]</ref>
|-
|[[テスコ (楽器メーカー)|テスコ]]<br />[[河合楽器製作所|カワイ]]
|'''TEISCO''': S60P、S100P(アナログ/プリセット)、S60F、S110F(アナログ/モノフォニック)、SX-400(アナログ/ポリフォニック)<br />
'''TEISCO'''/'''KAWAI''': S100F(アナログ/モノフォニック)、SX-210、SX-240(アナログ/ポリフォニック)<br />
'''KAWAI''': K3、K3m(アナログ/ポリフォニック)、K1、K1m、K1r、K1 II、K11(VM音源)、K4、K4r(PCM音源)、K5、K5m(ARTS音源)、K5000S、K5000W、K5000S、K5000R(ARTS音源+PCM)、XD-5(ドラムシンセ)
|-
|[[パール (楽器メーカー)|パール]] <ref>'''パール楽器製造'''のシンセ一覧: SYNRISE https://web.archive.org/web/20031107061652/http://www.synrise.de/docs/types/p/pearl.htm (ドイツ語)</ref>
|ポリセンサー PK-801、PK-701(DWS-II/ポリフォニック)<ref group="注">'''パール ポリセンサー''' (PEARL POLYSENSOR)は、ドラムセットで有名な[[パール (楽器メーカー)|パール楽器製造]]が1982年発売したタッチレスポンス付き8音ポリフォニック・シンセサイザー。DWS-II音源方式とは、[https://web.archive.org/web/20031107061652/http://www.synrise.de/docs/types/p/pearl.htm 2系統Dynamic Wave Shaper] (もしくは [https://web.archive.org/web/20050212212646/homepage.mac.com/synth_seal/html/mk100c.html 2系統Digital Wave Shaper])の略。従来のアナログシンセのフィルターとは異なり、波形を直接変形(wave shaping)して音色を変化させるので、よりリアルな音が得られるという。</ref><br />
Syncussion SY-1、SC-2(アナログ/シンセドラム)、Syncussion-X SC-20、SC40(ハイブリッド/シンセドラム)
|-
|[[PAX ELECTRONICA]]<ref group="注">'''PAX ELECTRONICA''' (パックス・エレクトロニカ)とは、1978年東京に設立されたハードウェア・メーカ Pax Electronica Japan ([[パックス・エレクトロニカ・ジャパン]])の略称。シンセサイザー製品の開発/製造の他、[[Apple II]]互換製品/PC互換製品/PCクローン機を主に手がけ [http://www.linkedin.com/in/marchara]、後の音楽関連製品として 2種類の[[PC-8000シリーズ|NEC PC-8001]]用サウンドアダプタ([[Programmable Sound Generator|PSG]]音源)とその専用ソフト(ルンルンシンセ、テクノシンセ)の存在が確認されている [https://web.archive.org/web/20150501154350/http://www.geocities.jp/upd780c1/n80/list3/pcs8081.html][http://www.geocities.jp/upd780c1/pc-8001/j80-14.html]。</ref>
|Micro PAX <ref name=Synthmuseum>'''Micro PAX''': Synthmuseum.com http://www.synthmuseum.com/</ref>、SYGNUS-1、SYGNUS-8 <ref group="注" name="PAX-SYGNUS">'''SYGNUSシリーズ'''は、[[:en:Roland System-100|Roland System 100]]と同様、ユニット単位で機能拡張するシステム製品で、メインユニットSYGNUS-1、キーボードユニットSYGNUS-2、デジタルシーケンサSYGNUS-4、エキスパンダーSYGNUS-8 が基本セット構成だった。
出典: http://homepage1.nifty.com/ENTARO-KOYA/sygnus.htm
</ref>(アナログ/モノフォニック)、SYGNUS-4(デジタルシーケンサ)
|-
|[[I.G.S. BIAS]]<br />([[石橋楽器]])
|BS-1、BS-2(シンセドラム)、CLAPPY(ハンドクラップ)
|-
|''[[ヒルウッド]]'',<br />''[[ファーストマン]]'' <ref group="注">'''[[ヒルウッド]]''' (Hillwood) と '''[[ファーストマン]]''' (FIRSTMAN)は、楽器設計者で創業者の [[森岡一夫]]の名前にちなんで名付けられた楽器メーカ。[[ブルーコメッツ]]をはじめとする[[グループ・サウンズ]]時代の楽器や、[[モズライト]]ギターの国内生産品(モズライト・アベンジャー)、80年代初頭の中学生テクノ・バンド [[コズミック・インベンション]] の使用機材でその名を知られている。海外ではアメリカの[[マルチボックス (楽器メーカー)|Multivox]](ローランドの元米国代理店[[Peter Sorkin Music Company|Sorkin Music]]の関連会社)や、[https://web.archive.org/web/20030415212308/http://www.synrise.de/docs/types/p/pulser.htm Pulser]([https://web.archive.org/web/20030104005707/http://www.synrise.de/docs/types/s/solton.htm SOLTON] が流通)のOEM供給元として知られている。この他ドイツでは[[Technics]]関連の [https://web.archive.org/web/20030506145436/http://www.synrise.de/docs/types/t/taiyo.htm TAIYO] がFIRSTMAN製品を扱っていた。<br />
森岡はその後、アカイのスタジオ機器進出に協力し、[[AKAI professional]]最初のアナログシンセ [http://www.vintagesynth.com/akai/ax80.php AX80] や12トラックMTR [[wikipedia:AKAI#Akai Professional|MG1212]] を開発した。また [https://web.archive.org/web/20030104005707/http://www.synrise.de/docs/types/s/solton.htm SOLTON] のコンサルティングや、[[ホーナー (企業)|]]のアレンジャー・キーボード [http://www.legoluft.de/tech/repairs/pk-250.html Hohner PK250] の開発、ドラムメーカ[[wikipedia:Sonor|SONOR]]のデジタルドラム開発にも携わった。<br />
特にHohner PK250は、シンセと演奏支援を統合した簡易ワークステーションとして海外で人気を呼び、その後、他メーカも同種の製品を発売して、現在のアレンジャー市場が確立する一つのきっかけとなった。<!-- 1994年Hohnerが発売したアレンジャー・キーボード[http://till-kopper.de/hohner_adam.html Hohner ADAM](1994年, 開発元:[:en:Waldorf Music|Waldorf], デザイン:Axel Heartmann)は、[http://www.vintagesynth.com/waldorf/wald_wave.php Waldorf WAVE](1993年)と並ぶWaldorfの隠れた名機として知られている。--><br />
出典: "[https://web.archive.org/web/20070702040645/http://star.ap.teacup.com/firstman/ Kazzy Firstman & Mosrite Story]"</ref>,<br />
''[[マルチボックス (楽器メーカー)|Multivox]]'',<br />
''[[Pulser]]''
|'''Hillwood''': Blue Comets 73 <ref group="注" name="Japanese1stSynth" />、SY-1800(アナログMMSS方式/モノフォニック)、SY-2100(アナログ/デュオ)、SY-2500(アナログ/アンサンブル)、Basky、BaskyII(ベースシンセ)<br />
'''FIRSTMAN''': SQ-01(音源付きシーケンサ)、SQ-10(シーケンサ)、FS-10C(プログラマブル音源/モノフォニック)、FS-4V、PS-86(アナログ/ポリフォニック)、BS-999 (ベースシンセ)、Synpuls SD-1(シンセドラム)<br />
'''Multivox''': MX-75(アナログ/デュオ、プリセット)、MX-3000(アナログ/ポリフォニック、マルチ)、MX-450(ベースシンセ)<br />
'''Pulser''': M75(アナログ/デュオ、プリセット)<ref name="Pulser-M75">'''Pulser M75'''の写真: http://www.flickr.com/photos/bdu/47557993/in/set-1036641/</ref>
|-
|[[ヤマハ]]<ref>'''ヤマハ株式会社''': http://www.yamaha.co.jp/
* 歴史年表: http://www.yamaha.co.jp/about/corporate/history/
* 電子楽器年表(抜粋): http://www.yamaha.co.jp/manual/japan/chron.php
* 製品情報(音楽製作): http://www.yamaha.co.jp/product/syndtm/p/
* 製品情報サイト(音楽製作機器): http://yamaha.jp/product/music-production/
* ヤマハのデザイン: http://www.yamaha.co.jp/design/index.html
</ref>
|SY-1、SY-2 <ref name="SynthFoolJP" />、[[ヤマハ・CSシリーズ|CS01、CS-5、CS-10、CS-15、CS-20、CS-20M、CS-30、CS-30L]](アナログ/モノフォニック)、[[ヤマハ・CSシリーズ|CS-40M]](アナログ/デュオ)、<br />
[[ヤマハ・GX-1|GX-1]]、[[ヤマハ・CS-80|CS-80]]、[[ヤマハ・CSシリーズ|CS-70M、CS-60、CS-50]](アナログ/ポリフォニック)、[[ヤマハ・ANシリーズ|AN1x]](アナログ・フィジカル・モデリング)、<br />
GS-1 <ref group="注">'''GS-1音色作成用コンピュータ''': 当時、ヤマハ本社のある浜松に音色作成用のコンピュータ(YIS系)があり、公演で来日した[[TOTO (バンド)|TOTO]]のメンバーは浜松で追加パッチを作成した。<br />
出典: プレイヤー・コーポレーションの雑誌『Player』の1980年代前半の記事(掲載年月不詳)</ref>、
[[ヤマハ・DXシリーズ|DX7]]、[[ヤマハ・TXシリーズ|TX816]]、[[ヤマハ・Vシリーズ|V2]]、[[ヤマハ・Vシリーズ|V50]]([[FM音源]])、[[ヤマハ・SYシリーズ|SY99]]([[RCM音源]]/ワークステーション)、[[ヤマハ・Wシリーズ|W5、W7、QS300]]、[[ヤマハ・CSシリーズ|CS1x、CS2x]]([[ヤマハ・MUシリーズ|XG系音源]])、[[ヤマハ・CSシリーズ|CS-6x]](PCM + [[Modular Synthesis Plug-in System|プラグイン]])、[[ヤマハ・VL/VPシリーズ|VL1、VL7、VP1]](物理モデル)、[[ヤマハ・EOSシリーズ|EOS]]、[[ヤマハ・EXシリーズ|EX5]](PCM+FDSP+AN+VA/ワークステーション)、[[ヤマハ・Sシリーズ|S80、S90、S90ES]]、[[ヤマハ・MOTIFシリーズ|MOTIF、MX、MO]] (PCM + [[Modular Synthesis Plug-in System|プラグイン]]/ワークステーション)、<br />
[[ウインドシンセサイザー|WT11、VL70m]](ウィンドシンセ音源)
|-
|[[REON]] <ref group="注">'''REON'''(レオン)は、2009年大阪に登場したシンセメーカー。現在、最初のシンセ'''DRIFT BOX-S'''を発売し、以降シーケンサ/リズムシンセ/エフェクト/ボコーダ等の製品を開発中との事。([http://www.implant4.com/REON.htm 2009年6月11日更新情報])。</ref>
|DRIFT BOX-S(アナログ/モノフォニック)、
''リズムシンセサイザー''、ヴォコーダー、シーケンサー、エフェクト(開発中)、<br />
''フラッグシップ・モジュラーシンセサイザー''(デジタル/モジュラ、計画段階)
|-
|[[Lo-D]]([[日立製作所|日立]])<ref group="注">'''Lo-D'''(ローディー)は、[[日立製作所]]が1960年代後半から使っていた高級オーディオブランドで、Technicsと同様にオーディオ関連製品としてアナログシンセを発売していた。この他、日立製小型電子オルガン「[http://blog.goo.ne.jp/span_21/e/15d86b6694c01eff3254d4bef674f87c HMO-5 エレクトリックオルガン]」が最近再発見されている。</ref>
|Memory Synthesizer HMS-30<ref group="注">'''Lo-D Memory Synthesizer HMS-30'''は1978年発売のアナログシンセサイザーで、内蔵デジタルシーケンサによる演奏データの記録と、テープIF経由のデータ保存が可能だった。<br />
出典: MATRIXSYNTH: [http://matrixsynth.blogspot.com/2008/06/hitachi-lo-d-hms-30.html HITACHI Lo-D HMS-30] (国内Yahoo!オークション出品の引用記事)</ref>(アナログ/モノフォニック、シーケンサ内蔵)
|-
|[[ローランド]]
|SH-1000 <ref group="注" name="Japanese1stSynth" />、SH-2000、SH-3(A)、SH-5、SH-1、SH-09、SH-2、Promars(アナログ/モノフォニック)、SH-7(アナログ/デュオ)、System 100、System 100M、System 700(アナログ/モジュラ)、<br />
Jupiter-4/8/6、JUNO-6/60/106(S)、JX-3P/8P/10、αJUNO、αJUNO2(アナログ/ポリフォニック)、<br />
D-50/5/10/20/70([[LA音源]])、JX-1、[[ローランド・JDシリーズ|JD-800]](デジタル)、S-50/10、U-20(サンプリング)、W-30(ワークステーション)、MODEL 760/660(RS-PCM)、[[ローランド・JVシリーズ|JV-1000]]、[[ローランド・XPシリーズ|XP-50、XP-80]]、JX-305、[[ローランド・XVシリーズ|XV-5080、XV-88]]、RS-9(PCM)、<br />
JP-8000、SH-32、SH-201(アナログ・モデリング)、JUNO-D、JUNO-Di、JUNO-DS、JUNO-G、JUNO-Gi、JUNO-STAGE(デジタル)、VariOS(専用プロセッサ上のソフト音源)、VariPhrase、V-Synth (Articulative Phrase)、[[ローランド・Fantomシリーズ|Fantom]](ワークステーション)、JUPITER-80(super NATURAL)<br />
VP-330、SVC-350(アナログ/ヴォコーダ)、VP-550、VP-770(デジタル/ヴォコーダ)、[[ローランド・TB-303|TB-303]](ベースシンセ)、MC-202(音源付きシーケンサ)、[[ローランド・SH-101|SH-101]]、AX-Synth(ショルダーシンセ)、GR500、SPV-355、[[ローランド・GR-300|GR300]]、[[ローランド・GR-100|GR100]]、GR700、GR-50、GR-1、GR09、GR-30、GR20(ギターシンセ)、GR33B、GR77B(ベースギターシンセ)
|}
=== 海外のメーカー ===
<!-- ABC順 -->
{| class="wikitable"
!style="width:13em;"|メーカー
!|代表的な機種
|-
|[[:de:Access Music Electronics|アクセス]]
|Virus A、Virus B /Classic/Indigo、Virus C /Indigo II、Virus TI /Polar、Virus TI2/Polar/Snow
|-
|[[:en:Alesis|Alesis]]
|Quadra Synth、QS6/QS6.1、QS7/QS8、QS6.2/QS8.2、A6 Andromeda、ion、micron
|-
|[[アープ (電子楽器メーカー)|アープ]]
|ARP 2500、ARP 2600、ARP Odyssey、Quadra、Omni、Axxe
|-
|[[クラビア (楽器メーカー)|クラビア]]
|Nord Lead
|-
|[[ドイプファー|DOEPFER]]
|A-100BS/2、MS-404
|-
|[[デイブ・スミス・インストルメンツ|DSI]]
|Prophet'08、Evolver、Poly Evolver
|-
|[[エレクトロニック・ドリーム・プラント|EDP]]
|Wasp、Gnat、Spider
|-
|[[エレクトロニック・ミュージック・スタジオ|EMS]]
|VCS3、Synthi A、AKS
|-
|[[:en:Kurzweil Music Systems|Kurzweil]]
|250(K250)、K1000、K1200、K2000、K2000VP、K2VX、K2500/K2500X/K2500AES、[[カーツウェル・K2600|K2600/K2600X]]、K2661
|-
|[[モーグ・シンセサイザー|モーグ]]
|MiniMoog、Polymoog、Moog IIIc、TheSource、PRODIGY、MemoryMoog、
|-
|[[Oberheim]]
|8VOICE、OB-X、OB-8、OB-1、Expander、Matrix12、Matrix6、Matrix1000、OB-MX
|-
|[[シーケンシャル・サーキット]]
|[[シーケンシャル・サーキット プロフェット5|プロフェット5]]、Prophet-10、Prophet-T8、ProphetVS、Prophet600、sixtrack、MultiTrack
|-
|[[:en:Waldorf Music|Waldorf]]
|Pulse、The Wave、Microwave、Microwave II、Microwave XT / XTk、Q、Q+、Micro Q、Rack Attack、Blofeld、
|-
|[[E-mu]]
|Modular Systems、Audity
|-
|[[CHROMA]]
|RHODESクローマ、クローマPolaris、クローマPolarisII
|-
|[[PPG]]
|WAVE2.2、WAVE2.3
|-
|[[ensoniq]]
|ESQ-1、ESQ-m、SQ-80、VFX、TS-10
|-
|[[:en:Novation Digital Music Systems|Novation]]
|Xio 25、Xio 49、X-Station
|-
|[[teenage engineering]]
|OP-1, OP-Z, PO-14, PO-16, PO-20, PO-28, PO-32
|}
== 主なアーティスト ==
ここではシンセサイザーそのものに関する任意の業績があると評される者のみを、その業績も含めて列記している。
=== 日本 ===
{| class="wikitable"
!style="width:13em;"|名前
!|シンセサイザーに関する主な業績(詳細は各アーティストの項目を参照)
|-
|[[冨田勲]]
|1974年、アルバム「[[月の光 (冨田勲のアルバム)|月の光]]」が[[ビルボード]](クラシカル・チャート)で2位を獲得し、[[グラミー賞]]にもノミネートされる。続く「[[展覧会の絵 (冨田勲のアルバム)|展覧会の絵]]」はビルボードで1位を獲得。以降もクラシックの曲を次々とシンセサイザー音楽化した。
|-
|[[藤掛廣幸]] (Hiro Fujikake)
|[[ジェームズ・ゴールウェイ|ジェームス・ゴールウェイ]]とのアルバム「The Enchanted Forest」(作曲・編曲・シンセサイザー演奏)が[[ビルボード|全米ビルボード]]で5ヶ月間ベストテン入り。[[エリザベート王妃国際音楽コンクール]]で日本人として初めてグランプリを受賞した作曲家である。
|-
|[[ミッキー吉野]]
|1976年、[[ゴダイゴ]]のメンバーとしてデビュー。「[[Monkey Magic]]」等、シンセサイザーを多用したヒット曲を発表している。[[ローランド]]のアドバイザーとしてシンセサイザーの開発にも参加している。
|-
|[[喜多郎]]
|1980年、[[NHK特集 シルクロード]]の音楽を担当。以降、数多くのヒーリング音楽を手掛ける。2001年、アルバム「Thinking of You」で[[グラミー賞]]ベスト・ニューエイジ・アルバム賞を受賞。ほかノミネート13回。
|-
|[[坂本龍一]]([[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]])
|1978年に[[イエロー・マジック・オーケストラ (アルバム)|アルバム]]デビュー。日本における商業的な成功を収めた初の[[テクノポップ]]バンドとされている。坂本龍一はキーボード・作曲・編曲を担当。
|-
|[[松武秀樹]]
|YMOの[[マニピュレーター]]としてシンセサイザー・シーケンサーのプログラミングを担当。[[日本シンセサイザープログラマー協会]]代表理事。
|-
|[[井上鑑]]
|1970年代後半からフュージョングループ[[PARACHUTE]](パラシュート)や[[大瀧詠一]]のユニットに参加。また、[[ピンクレディー]]のヒット曲にキーボード奏者として参加。1980年代、在籍していた東芝EMIの「ニューウェーブ4人衆」の一角として注目を浴び、1981年、[[寺尾聰]]の『[[ルビーの指環]]』、同アルバム『REFLECTIONS』で第23回日本レコード大賞編曲賞受賞。1982年、『GRAVITATIONS』(ヨコハマタイヤASPEC TV-CM)でソロアーティストとしてデビュー。アレンジャー、プロデューサーとして様々なアーティストを手がける。
|-
|[[向谷実]]
|1979年に[[カシオペア (バンド)|CASIOPEA]]のメンバーとしてデビュー。日本シンセサイザープログラマー協会の名誉会員であるほか、鉄道ファンとしても知られ、日本のフュージョンシーンを牽引したグループの一員として音楽と[[鉄道]]の融合(発車メロディの作曲など)を図るなど新たな試みを行っている。
|-
|[[平沢進]]
|1979年に[[P-MODEL]]の「[[美術館であった人だろ]]」でデビュー。「テクノ御三家」の一つとして知られる。元はギタリストだが、キーボード・編曲なども担当。同時にプログラミング・CGも駆使している。シンセサイザーを多用し、民族音楽とテクノポップを融合させた「アジアン・テクノ」を多数発表している。
|-
|[[安西史孝]]
|10代の頃よりローランドにて電子楽器の制作に携わる傍ら、[[キティレコード]]系のセッションに参加。1983年に、自身が手がけたTVアニメ『[[うる星やつら]]』シリーズのレコードが[[キャニオンレコード]]で年間優秀ヒット賞と2本のヒット賞を受賞。同年、テクノユニットTPOの一員として『TPO1』でデビュー。1985年には[[国際科学技術博覧会|科学万博]]のテーマ曲も手がける。作編曲家として多くの作品に関わる傍ら、複数の楽器メーカーにて楽器開発・ソフト開発のオブザーバーとして参加し、海外の電子楽器の日本デモンストレーターも務める。
|-
|[[小室哲哉]]([[TM NETWORK]])
|1984年にデビュー。「[[Get Wild]]」等、シンセサイザーを多用したヒット曲を発表。小室哲哉はキーボード・作詞・作曲・編曲を担当。1990年代にはプロデューサーとして、[[TRF]]、[[華原朋美]]、[[安室奈美恵]]、[[globe]]などの「[[小室ファミリー]]」と称される一連のアーティストを手掛け、シンセサイザーを多用した数々のヒット曲を発表した。
|-
|[[蓜島邦明]]
|1990年に長寿番組となっている[[世にも奇妙な物語]]のテーマ曲(ガラモン・ソング)をシンセサイザーで生み出した。数々のドラマや映画の劇伴や100社を超えるCMソングを手掛けている。第40回[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]で最優秀映画音楽賞を受賞。
|-
|[[浅倉大介]]([[Access (音楽ユニット)|access]])
|1991年にデビュー。自身のユニットaccessや、[[T.M.Revolution]]、[[藤井隆]]等のプロデューサーとして、シンセサイザーを多用したヒット曲を発表している。デビュー前には[[ヤマハ]]でシンセサイザーの開発に携わっていた。日本シンセサイザープログラマー協会名誉会員。
|-
|[[五十嵐充]]
|1996年、[[Every Little Thing]]のメンバーとしてデビュー。「[[Time goes by (Every Little Thingの曲)|Time goes by]]」等、シンセサイザーを多用したヒット曲を発表している。
|-
|[[八木沼悟志]]([[fripSide]])
|2001年、fripSideのメンバーとしてデビュー。以後、[[IKU]]、[[ELISA (歌手)|ELISA]]等のアーティストの楽曲提供やプロデュースを手掛けている。
|-
|-
|[[中田ヤスタカ]]([[CAPSULE]])
|2001年、CAPSULEのメンバーとしてデビュー。以後、[[Perfume]]、[[きゃりーぱみゅぱみゅ]]等のアーティストのプロデュースを手掛けている。
|-
|[[前山田健一]] (ヒャダイン)
|2011年、「[[ヒャダインのカカカタ☆カタオモイ-C]]」にて、ソロ歌手としてヒャダイン名義でもデビュー。以後、[[ももいろクローバーZ]]、[[でんぱ組.inc]]等のアーティストの楽曲提供やプロデュースを手掛けている。
|}
=== 日本以外 ===
{| class="wikitable"
!style="width:13em;"|名前
!|シンセサイザーに関する主な業績(詳細は各アーティストの項目を参照)
|-
|[[キース・エマーソン]]
|[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー|ELP]]において、ロックにおいてシンセサイザーをどう使うかという方法論を提示した最初の人物。ミニ・モーグの開発に参加したほか、[[ヤマハ・GX-1]]の代表的な使い手。
|-
|[[ヴァンゲリス]]
|オリジナル作品及び「[[ブレードランナー (アルバム)|ブレードランナー]]」や「[[南極物語 (アルバム)|南極物語]]」等の映画音楽でシンセサイザーを多用した作品を発表。2002年には[[FIFAワールドカップ]]の[[アンセム-2002 FIFA World Cup 公式アンセム|公式アンセム]]を担当。
|-
|[[ジャン・ミッシェル・ジャール]]
|1976年(世界発売は翌年)に発表されたアルバム「[[幻想惑星]]」を初め数多くの[[シンセサイザー音楽]]を発表。実験性を排除した聞きやすいシンセサイザー音楽の確立に寄与したとされている。
|-
|[[クラフトワーク]]
|アルバム「[[アウトバーン (アルバム)|アウトバーン]]」や「[[人間解体]]」などで「[[テクノ・ポップ]]」の先駆的存在と評されている。
|-
|[[タンジェリン・ドリーム]]
|アルバム「フェードラ」や「ルビコン」などでシーケンサーの反復演奏機能を活用した「[[ミニマル・ミュージック]]」をヒットさせた。
|-
|[[リック・ウェイクマン]]
|[[イエス (バンド)|イエス]]を初め数多くの活動を手がける。「[[マルチ・キーボード]]」の使い手の代表的な存在。
|-
|[[ジョー・ザヴィヌル]]
|ジャズ・フュージョングループ[[ウェザー・リポート]](1971-1986)においてその初期からシンセサイザーによるオーケストレーションを多用した作品を発表。また解散後はMIDIシステムを用いソロツアーも敢行。即興性が重視されるジャンルとしては珍しいシーケンサー多用派。ヤマハの[[ヤマハ・GX-1|GX-1]]ユーザー。
|-
|[[スティーヴィー・ワンダー]]
|「Superstition」など、モータウン系でシンセサイザーを多用した作品を発表。
|-
|[[BT (ミュージシャン)|ブライアン・トランソー]]
|高度なプログラミング技術と独特のスタッター技術で知られ、「Synth Wizard(シンセサイザーの魔法使い)」と呼ばれる。
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|[[ハワード・ジョーンズ]]
|初期のライブでは多数のシンセサイザーを並べ、それらを一人で操りながら歌うという「一人ライブ」を行っていた。
|}
== その他 ==
* 日本においては、シンセサイザーに関わりを持つ人々の団体「[[日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ|日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ(旧称日本シンセサイザープログラマー協会)]]」(代表理事[[松武秀樹]])がある。
* [[日本放送協会|NHK]]の「[[みんなのうた]]」で1980年10月 - 11月に放映された曲の中に『[[ミスターシンセサイザー]]』という作品がある。詳細は当該項目を参照。
* [[超新星フラッシュマン]]には'''遺伝子シンセサイザー'''という架空の道具が登場する。これは名前通り対象者の遺伝子を改変することに用いる一方で楽器としての機能は持っていない。詳細はフラッシュマンの項目を参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 出典 ==
* {{Cite book |和書|author=相原耕治 | author2=|title=シンセサイザーがわかる本 | publisher=[[スタイルノート]]|asin= | date=2011年10月 |pages=|url=|isbn=978-4799801000}}
* {{Cite book |和書|author=山下 春生 | author2=|title=伝説のハンドメイドアナログシンセサイザー: 1970年代の自作機が蘇る | publisher=[[誠文堂新光社]]|asin= | date=2015年11月 |pages=|url=|isbn=978-4416115435}}
* {{Cite journal |和書|author= | author2=|title=シンセサイザー・クロニクル| publisher=[[学習研究社]]|journal=[[大人の科学マガジン|大人の科学マガジン別冊 シンセサイザー・クロニクル]]|asin= |isbn=9784056051834 | date=2008年7月|pages=|url=}}
* {{Cite journal |和書|author= | author2=|title=アナログシンセの復活 | publisher=寺島情報企画|journal=[[DTM magazine]]|asin=B00DC69PDW | date=2013年8月|volume=230 |pages=|url=}}
== 関連項目 ==
===機能・仕様===
* [[ADSR]]
* [[MIDI]]
* [[音源モジュール]]
* [[エンベロープ]]
* [[ミュージックシーケンサー]]
* [[アナログシンセサイザー]]
* [[デジタルシンセサイザー]]
* [[OpenSound Control]]
* [[ソフトウェアシンセサイザー]]
* [[モノフォニックシンセサイザー]]
* [[ポリフォニックシンセサイザー]]
===その他===
* [[シンセサイザー奏者]]
* [[シンセサイザー音楽]]
* [[ミュージックワークステーション]]
* [[デスクトップミュージック]]
* [[シンセベース]]
* [[シンセポップ]]
* [[ローズピアノ]]
* [[ボーカルシンセサイザー]]
* [[メロトロン]]
* [[ストップ (オルガン)]]
* [[KEYBOARDMANIA]] - シンセサイザーをモチーフとした[[音楽ゲーム|音楽シミュレーションゲーム]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jspa.gr.jp/ 日本シンセサイザープログラマー協会(JSPA)]
* [https://www.moogmusic.com/ moogmusic.com]
{{サウンド・シンセシス方式}}
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[[Category:電子楽器]]
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[[Category:コンピュータミュージック]]
[[Category:シンセサイザー|*しんせさいさあ]] | 2003-02-15T12:46:19Z | 2023-10-03T22:22:15Z | false | false | false | [
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1,803 | 明治 | 明治(めいじ)は元号の一つ。
慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目 の元号である。
明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日までの45年間を明治時代()と呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。
憲政体制に移行した時代であり、「明治」は憲政上最初の元号となる。また、「一世一元の制」による最初の元号である。
明治天皇が「一世一元の詔」を発布した西暦1868年10月23日(明治元年9月8日)から、明治天皇が崩御した1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本の元号の中では昭和に次いで2番目の長さであり、「一世一元の制」における最初の元号であるが、明治天皇は慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚しその1年8か月後に「一世一元の詔」を発布して改元された為、明治天皇の在位期間とは最初の1年8か月が一致しない。
日本史の時代区分上では、元号が明治であった期間を明治時代()という。時代区分名は江戸時代(最後の元号:慶応)までは中央政権の所在地に基づく名称で呼ばれているが、明治以降は一世一元の制により、元号に基づく名称となっている。
それまでの武士の時代から生活に変化が起き、近代の礎を築いていく。
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮ひて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回(「正長」「長享」「慶安」「承応」「天和」「正徳」「元文」「嘉永」「文久」「元治」改元時)候補として勘案されているが、通算11度目にして採用された。
岩倉具視が松平慶永に命じ、菅原家から上がった佳なる勘文を籤にして、宮中賢所で天皇が自ら抽選した。
「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味である。
1873年(明治6年)より、日本の暦は改暦され、新暦に太陽暦を採用した。従来の暦は太陰太陽暦に基づく天保暦で、以後、日本で単に旧暦と言えば天保暦を指す。
改暦は、具体的には、天保暦(旧暦)の明治5年12月2日の翌日を、新暦の明治6年1月1日とすることで実施した。これにより、西暦(グレゴリオ暦)と和暦の日付が一致することとなった。
明治天皇が即位し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指して江戸を東京と改め、天皇が東京に行幸し、明治2年(1869年)に政府機能が京都から東京に移された(東京奠都)。この明治天皇の治世が明治時代(めいじじだい)と呼ばれている。明治政府の樹立に大きな役割を果たした薩長土肥四藩(廃藩置県後現在の、鹿児島県・山口県・高知県・佐賀県、長崎県の一部)は新政府でも強大な権力を握った。なお、幕末には薩長と共に尊王攘夷運動を主導してきた水戸藩は「天狗党」と「諸生党」の藩内抗争で人材が失われ、明治新政府ではめぼしい人材は皆無となった。
尊皇思想に基づき、「天皇は親政を行い人民を直接統治する」とした。しかし、1890年(明治23年)に大日本帝国憲法(明治憲法)が施行されるまでは、明治天皇は青年期であり、憲政下となっても立憲君主制国家の成立により、三職制・太政官制や内閣官制の導入などで、天皇以外にも薩摩藩や長州藩の出身者が政治の実権を握っていた(藩閥政治)。明治改元の時には、明朝中国を模倣して一世一元の制を定め、天皇の名(厳密には追号)として元号を用い、それまでの陰陽五行思想的改元を廃止した。(以降、現在の令和に至るまでの改元はすべて代始改元となっている。)
この明治時代は、欧米列強の植民地化を免れるために近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば、日本の産業革命時代である。西洋化と近代化が幕末から始まって明治年間で達成されたことから、「幕末・明治」と括られることも多い。なお、「幕末・明治」という括りは、不平等条約の締結(1854年〈安政元年〉)から完全撤廃(1911年〈明治44年〉)までの時代とほぼ一致する。中央集権的な王政復古の過程から「王政維新」ともいわれる。また、1870年代(明治初期)は文明開化を略し「開化期」とも呼ばれている。
1867年(慶応3年)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を行った。これにより、朝廷は玉松操と大久保利通らが作成した「王政復古の大号令」を宣言。薩摩・越前・土佐・尾張・芸州の五藩がこのクーデターに与した。1868年(明治元年)1月、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利を収めた新政府軍は慶喜を朝敵として追討し、二条城に退去していた会津藩・桑名藩・旗本は辞官納地の命令により、慶喜と共に大坂城に退いた。慶喜は薩摩藩の罪状を弾劾した「討薩表」を提出して京都に進軍したが朝敵となって討伐され、大坂城を軍艦・開陽丸で脱出し、江戸城へ逃亡。新政府軍は江戸へ軍を進めた。大久保一翁や山岡鉄舟の尽力もあって新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府軍を代表する勝海舟との交渉が成功し、同年4月11日(新暦5月3日)、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された(江戸開城)。東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を助けたが次々に新政府軍に敗れ、7月29日に越後長岡城落城、同年9月22日には激しい戦闘の末に会津若松城が落城して会津藩も降伏した。次いで庄内藩が降伏すると、1869年6月27日(明治2年5月18日)には旧幕府海軍を率いて箱館を占領していた榎本武揚らが五稜郭の戦いに敗れて降伏し、ここに戊辰戦争は終結した。
賞典禄を受けた「四賢侯」を中心とする討幕派大名および「維新の十傑」に代表される下級藩士や三条実美・東久世通禧ら七卿落ち事件に連座していた開明派の公家を中心として発足した新政府は封建的支配制度を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固めていった。幕府や摂政、関白、征夷大将軍、内覧、議奏、京都守護職、所司代などは廃止され、それに代わり九条家に太政官代が置かれ、総裁・有栖川宮熾仁親王、議定、参与の三職および神祇・内国・外国・陸海軍・会計・刑法・制度の行政七科、徴士・貢士が置かれたが、下級藩士の実力者達は公家や雄藩の大名たちと並んで新政府に加わった。薩摩藩・土佐藩・安芸藩・尾張藩・越前藩五藩軍隊の京都御所警備の下、成立当日の夜の小御所会議で激論の末、慶喜に内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることを決めた。ここに700年の武家政治の諸法度は終焉した。
戊辰戦争のさなかの1868年(慶応4年)3月には、由利公正・福岡孝弟の起草により天皇が群臣を従えて神々に誓うという形式で「五箇条の御誓文」を定め、公議輿論の尊重、開国親和など新しい政治理念の基本を宣言した。翌日に「五榜の掲示」を掲げた。その内容は五倫の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道徳)を説き、徒党・強訴・キリスト教を禁止するなど旧幕府の政策を引き継いだものであったが、数年以内に廃止された。閏4月21日には五箇条の御誓文を受けて「政体書」を公布。太政官の下に上局と下局からなる二院制の議定官が置かれ、上局は議定と参与から、下局は各藩と藩から送られた貢士で構成した。次いで政府は太政官・神祇官と呼ぶ官吏制度を整えた。天皇親政の下に、公家や藩主に並んで参与に任じられた9藩士、小松帯刀(薩摩藩)・大久保利通(薩摩藩)・木戸孝允(長州藩)・広沢真臣(長州藩)・後藤象二郎(土佐藩)・福岡孝弟(土佐藩)・副島種臣(佐賀藩)・横井小楠(熊本藩)・由利公正(福井藩)の9名は「朝臣」となり、藩主から独立した地位を得た。
人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には年号を「明治」(読み:めいじ)と改めて、天皇一代の間に一年号とする「一世一元の制」を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、東征大総督府軍監・江藤新平は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と岩倉具視に建言。これに前内大臣・久我建通ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、大久保利通が「大坂遷都論」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、大坂に行幸するという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった。これに、京都市民や神道家が反発し、伊勢神宮祠官・山田大路陸奥守親彦が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は東京と改称され、鎮将府、東京府設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の三条実美が駿河以東の13ヶ国を管轄し、京都と東京に2つの政府が並立する形となった。
江戸の東京への改称後、8月27日に即位式を挙げた明治天皇が京都から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を皇居とし、東京城と改称した。。12月7日には、東京城に宮殿を造営すると布告されるなど、東京奠都の準備も着々と進められた。天皇は8日に東京を発って京都に帰ったが、この東幸に平行する形で、外交事務を執る外国掛である議定・松平慶永、浅野長勲、山内豊信、正親町三条実愛、外国公使・正親町公董、烏丸光徳、参与・三岡八郎(由利公正)、後藤象二郎、岩下佐次右衛門(方平)らは各国公使に国書を手渡す必要性から先だって東京、大坂、神戸を往来した。同年11月、姫路藩主酒井忠邦が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」 という案を出してきた他、木戸孝允が此の案を取り上げた。12月22日京都還幸(翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時御一新と呼ばれた。
新政府は未だ財政的・軍事的・制度的基礎が固まっておらず、大久保・木戸らの策謀に強い憤りを抱いていた土佐藩主・山内容堂や自らを出し抜いた家臣に反感を抱いていた薩摩藩主の島津久光、長州藩主の毛利敬親らは早々に所領に引き篭もった。特に、朱子学の教養と水戸学の歴史観を持つ保守思想家の島津久光の下には、武士階級の復活を願う全国の士族が集まり封建党など様々な士族結社が結成されていた。この状況から新政府は大久保利通らを薩摩藩に派遣して説得に当たらせたが、明治3年(1870年)2月24日に久光は明治政府を「洋夷の属国」として罵倒し、内閣顧問に任命される明治6年(1873年)まで上京に応じなかった。
そんな中で、新政府は諸大名の反発を買わぬように、版籍奉還、廃藩置県と段階を踏んで郡県制に移行することを目指した。1869年(明治2年)1月14日、京都で薩摩・長州・土佐三藩の会合が京都円山で持たれ、薩摩から大久保、長州から広沢真臣、土佐から板垣退助が出席した。そして三藩主連名で土地・人民を朝廷に返上する旨の建白書を提出することで合意した。また薩長土の三藩は副島種臣に働きかけて、肥前佐賀藩主・鍋島直正を動かした 結果、同20日に薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の藩主から版籍奉還の上表が朝廷に提出された。これが呼び水となって、諸藩は領地と領民を天皇に返上する上表を次々と提出した(版籍奉還)。
これに伴い、各藩主の処遇が新政府内で話し合われ、大久保ら薩摩の官吏は藩主を藩知事とし、世襲制にするべきだと主張したのに対し、木戸ら長州の官吏はこれに反対した。最終的に両者の主張を折衷する形で、藩主はそのまま藩知事に任命されたが、世襲制は否定された。また、この機に公卿・諸侯の呼称を廃して華族と改称し、上・中・下士の区別をやめ全て士族としたほか、知事の家禄を石高の十分の一に限定し、藩政と知事家政を分離した。これにより、建前として知事と士族の間の君臣関係が消滅し、各藩は済し崩し的に自立性を奪われて明治政府の地方行政単位に転化した。また、新政府内においても、王政復古時の五藩から、版籍奉還を真っ先に上表した薩長土肥の四藩が主導権を握るようになり、越前・尾張・芸州の影響力は低下した。
版籍奉還直後の7月8日に、職員令により管制を改革し、祭政一致を建前に神祇官、太政官を置いて前者を上位とし、太政官に左大臣と右大臣、大納言、参議、顧問として待詔院を置いた。人選は大久保の発案で、三条実美(右大臣)、岩倉具視(大納言)、副島種臣(参議)、前原一誠(参議)、待詔院学士は大久保利通、木戸孝允、板垣退助の3名を選出し、薩長土三藩の維新の功臣を激務から外して木戸派官吏の追い出しを図った が、その後長州派官吏も廣澤真臣を参議に推して対抗し内政の主導権争いが続いた。その後、政体書の規定を以て高官公選の互選も行われ、輔相には三条実美(公家)、議定には岩倉具視(公家)、鍋島直正(佐賀藩主)、徳大寺実則(公卿)、参与には大久保利通(薩摩藩士)、木戸孝允(長州藩士)、副島種臣(佐賀藩士)、東久世通禧(公家)、後藤象二郎(土佐藩士)、板垣退助(土佐藩士)の10名を選出した。これにより、議定だった諸大名や公卿の多くは免職となり、麝香間祗候か他職に追いやられ、薩長土肥以外の参与も、越前の由利以外は免職となった。9月に入ると王政復古の論功行賞として「賞典禄」を与えた。
新政府が外交方針として開国を決めたことは尊王攘夷派の怒りを買った。明治2年のうちに横井小楠・大村益次郎が早々に暗殺され、長州藩においては同年12月1日に大楽源太郎率いる奇兵隊や遊撃隊等の諸隊が乱を起こし、木戸が鎮圧に当たる始末となり、1870年(明治3年)5月には米沢藩士・雲井龍雄の反政府陰謀事件が発覚した。1871年(明治4年)には二卿事件や久留米藩難事件、征韓を企画した外務権大丞・丸山作楽の逮捕事件が勃発した。このように新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。ましてや静岡藩をはじめとする親藩・譜代の諸藩の動静には過敏になっていた。その結果、雲井龍雄処刑の責任者であった広沢が1871年(明治4年)1月9日に暗殺されるなど片翼飛行を始めた。また、国政を薩長土肥が牛耳っていたことも批判を浴び、明治3年7月26日には薩摩藩士・横山正太郎が集議院門前で抗議の切腹を行った。政府内では薩長土肥の対立に加え、太政官と民部省、大蔵省をめぐって大久保と木戸が対立し、薩長間で抗争が繰り広げられており、世情は不安定だった。
こうした中で、政府は9月に「藩制」を公布し、藩への統制をさらに強めた。藩に共通する職制、財政の規定を示し、重要な賞罰は政府の許可を得ることや、藩士身分の単純化、藩債、藩札の整理を命じたのだ。他方、政府への不満を抑えるため、11月29日、全国諸藩の注視を集め、藩地に帰郷した島津久光と藩政改革を通して薩摩藩の軍備強化に努め、全国から集結した士族約1万2000人の兵士大軍団を束ね、政府への無言の威圧となっていた薩摩藩士・西郷隆盛を説得するため、岩倉具視を勅使、随員として大久保利通と木戸孝允が島津久光と西郷隆盛の上京を求めて鹿児島に向かい、西郷隆盛の受諾を得てようやく政権を安定させた。
こうして世情が安定すると、政府は1871年(明治4年)7月にまず薩長土の3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に廃藩置県を断行した。全国の261藩は廃止され、3府302県に変わり、日本は中央集権的統一国家となった。藩知事と士族の禄は保障され、藩債を肩代わりした。身分制度の改革を行い、大名・公家を華族とする華族制度(日本国憲法が施行されるまで存在した、西洋式に倣った日本の貴族制度)の創設と、武士身分を士族として、農工商民(百姓・町人)などを平民とし、日本人(大和民族)は皆「国民」(明治憲法下では「臣民」とも呼ばれた)とされ、日本国民全員に苗字の公称を認めた四民(士農工商)平等政策を取った。戸籍法を制定し、華族・士族の散髪、脱刀並びに華士族平民間通婚を自由にし、田畑勝手作りを認め、府県官制制定を行い華士族の農工商従事を許可した。なおこれらとは区別して、天皇と血縁関係のある皇族(皇室構成員)の地位もまた定められた。1871年(明治4年)には、いわゆる解放令によってこれまでえた、ひにんとされていた賎民の人々も平民に編入された。ただし、その後も部落問題として余韻は残したままとなった。
1869年(明治2年)に、律令制度の行政機構を復活させ、役所機構を整備して宮内省・民部省・大蔵省・刑部省・兵部省・外務省の六省を設置したが、律令体制時代に存在した中務省・式部省・治部省の三省は復活設置されなかった。しかし、戸籍、土木、租税、駅逓、通商、鉱山を管轄する民部省と出納、秩禄、造幣、営繕を管轄する大蔵省の民蔵両省の官吏は、財政及び貿易問題で外国人と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、1870年(明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、官僚社会に強固な勢力を築き上げた。
軍事上の改革では民部省大輔兼軍務官副知事の大村益次郎(長州藩士)が「農民を募り親兵」とする国民皆兵による政府軍を作る計画を進め、1873年(明治6年)1月10日、陸軍卿山縣有朋を中心に徴兵令を公布し身分に関わり無く満20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、徴兵制度の例外として戸主は徴兵を免除され、主として戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、血税一揆が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男子はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦までの72年間、人々の生活を支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった。治安面では1874年(明治7年)東京に警視庁を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、1876年(明治9年)金禄公債を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した(秩禄処分)。これにより士族の地位は著しく下がった。
外交では1871年(明治4年)11月12日、江戸幕府政権時に西洋諸国間と結んだ不平等条約改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、岩倉具視を全権大使、大久保と木戸を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この岩倉使節団には伊藤博文、山口尚芳ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった不平等条約の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ日本の近代化を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため李氏朝鮮に外交使節を送ったが、李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、大院君政府は何らの回答もよこさなかった。次いで、釜山にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が発生。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「征韓論」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った。そこで、政府は8月17日の閣議で西郷隆盛の朝鮮派遣使節任命を決めた。
欧米諸国の朝鮮進出を警戒して、西郷隆盛・板垣退助らは朝鮮の開国を迫り征韓論を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した(明治六年政変)。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、江華島事件が勃発して1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。また、清国に対しては1871年(明治4年)日清修好条規を結んで琉球藩を置き、1874年(明治7年)台湾に出兵した(征台の役)。次いで1879年(明治12年)沖縄県を設置した。ロシアに対しては1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。また小笠原諸島・尖閣諸島・竹島も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。
内国行政では留守政府が1872年(明治5年)2月に田畑永代売買解禁、4月に庄屋、名主を戸長と改称、7月に全国一般に地券発行を行い、帰国した大久保は1873年(明治6年)に内務省を設置、殖産興業の育成に力を入れてお雇い外国人らを用いて富岡製糸場など多くの官営工場を設立した。財政面では、民部省を統合した大蔵省の大蔵卿・大久保と大蔵大輔・井上馨が改正局を設立して、井上直属の部下の渋沢栄一を掛長に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の藩札等を廃止して新貨条例を制定、貨幣の単位を円・銭・厘に統一した。1872年(明治5年)に国立銀行条例を制定し国立銀行を各地に作らせた。
蝦夷地は北海道と改められて開拓使を置き、屯田兵などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の飛脚制度にかわり、まず三府(東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)郵便事業が開始され、電信も1869年(明治2年)に東京-横浜間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)新橋-横浜間で官営の鉄道が開通した。海運事業は政府の保護の下に三菱商会を中心に発達した。
建築等も煉瓦造の建物が見られるようになり、都心部では家々には石油ランプがともされて街灯にはガス灯が登場、馬車や人力車が走るようになった。軍服には洋服が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。また、西洋化する日本市場を狙いスタンダードチャータード銀行やフリードリヒ・バイエル、大北電信会社など外資の進出が東京や横浜、神戸などで相次ぎ、また欧米で1850年頃に普及しはじめたトイレットペーパーが、この頃新聞の普及とともに都心部で急速に普及したが、地方ではまだまだであった。
司法面では法治主義と司法権の自立、三権分立を推進するため、初代司法卿・江藤新平がその任に当たったが、留守中の長州藩の首領・近衛都督山縣有朋が、陸軍省御用商人・山城屋和助の公金費消事件に関わったとされる山城屋事件、大蔵大輔・井上馨(長州藩士)が職権を濫用して民間人から尾去沢銅山を巻き上げた事件(尾去沢銅山事件)、長州藩出身の京都府参事・槇村正直の人民への圧政などを激しく追及、裁判所設立予算を巡る対立も絡んで3人を一時的に辞職に追い込むなどして長州閥を一掃したことで江藤は次第に政府内から煙たがられる存在となり、留守政府の五参議(西郷・江藤・板垣・後藤・副島)免職の発端の一つになった。
1873年(明治6年)7月28日には新政府の費用を作り出すため「地租改正」条例を公布し、農地の値段を定めて豊作・凶作に関係なく地租を地価の3%と定め、土地所有者に現金で納めさせることにした。地主は土地所有を法的に認められるようになった。しかし地主と小作人の関係は変わらず、小作人はこれまで通り小作料を現物で地主に納めさせた。自作と小作農は負担がそれまでより軽くならないで苦しい立場に置かれることになった。地主は他の農民の土地を買い、それらの土地をお金に換えて資産を増やしていった。そして一部は土地を処分して資本家に変わっていった。やがて土地を耕すことはすべて小作人に任せ、お金だけ受け取って都市部で暮らす不在地主が増えていった。徴兵令に対する不満と地租改正に反対して百姓一揆がしばしば起こり、1876年(明治9年)に三重県で発生した伊勢暴動(東海大一揆)、茨城県などの地租改正反対一揆などを受けて翌年地租率を2.5%に引き下げざるを得なかった。その結果、地租を納める農民の負担は江戸時代のおおよそ20%減ることになった。
文化面では1872年(明治5年)11月に太陽暦を採用、文明開化の風潮が高まり、福澤諭吉・西周・森有礼・中村正直らが明六社を結成し、著作や講演会を通じて近代的な学問・知識を日本国内に広めたほか、中江兆民ら新しい思想を説く啓蒙思想家も現れた。印刷技術の進歩により、日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を始め新聞が次々と創刊された。全ての国民が教育を受けられるよう学校制度が整備され、1872年(明治5年)「学制」を公布して全国に学校が設立された。新政府では寺島宗則・神田孝平・柳川春三といった学者を招聘して運営に当たらせた。教育機関の整備では大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道らに命じて起草させた。
宗教の面では神道の国民教化を図ろうとして神仏分離令を出した。これを受け、日本の仏教に根付いていた寺請制度に不満を持っていた者も加わり、廃仏毀釈が行われる事態となる。1870年(明治3年)大経宣布を行い祝祭日を制定した。1873年(明治6年)には天皇の誕生日を天長節(現在の天皇誕生日)、神武天皇が即位した日(紀元前660年2月11日)を紀元節(現在の建国記念の日)とした。1873年(明治6年)にキリスト教を解禁。後の大日本帝国憲法で定められた政教分離という制度的要請から、国家神道(神社非宗教論)に基づく宗教行政に転換していった。
明治新政府の近代化のための変革はあまりにも性急で、国民生活の実情を無視していた点も多かった。特に、廃藩置県と徴兵令は士族の武力独占を破り、御親兵は近衛兵と改称され、中央集権を企図した地方行政制度である大区小区制は、従来の地方自治を無視して中央の命令の伝達と施行しかしない機関を設けたため極めて不評で、地方自治をある程度尊重した郡区町村制に短期間で改められている。新政府の枢要な地位はほとんど薩長土肥の藩閥人物で構成されていたため全国の士族は特権を奪われ、経済的にも行き詰った。政府に対する士族の不満が高まった結果、民撰議院設立建白書を発端に士族反乱・自由民権運動が起こり、ついには1874年(明治7年)に岩倉具視暗殺未遂事件(喰違の変)が勃発した。
喰違の変の後、大久保利通は、征韓派士族に不満の捌け口を与えるため、台湾征討に手を付けた。台湾蕃地事務都督に西郷従道を任命し、「台湾出兵」を行った。1874年(明治7年)5月に征台軍は蕃地を平定。大久保利通は、特命弁理大臣となり清国の北京にて会談し、清国は日本国に償金50万両を支払うとの条件で合意した。台湾問題を片づけた大久保は、西南戦争中にもかかわらず、内務省主導で総裁・大久保利通、副総裁・松方正義の下で、第一回内国勧業博覧会を開催。製鉄所や紡績所を経営して士族授産事業と殖産興業が進み、それと並行して秩禄処分が進められたため、士族反乱に乗じなかった士族は、次第にブルジョアジーとプロレタリアートに分解した。
1873年(明治6年)の征韓論政変により下野した板垣退助は翌1874年(明治7年)後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らと愛国公党を結成、由利公正らと民撰議院設立建白書 を明治7年(1874年)1月政府左院に提出し、高知に立志社を設立する。この建白書が各地の新聞に掲載されたことで、政府に不満を持つ士族を中心に運動が進められるようになった。一方、民選議院を設立すべきか否かの議論も新聞雑誌紙上で盛んに交わされるようになった。翌1875年(明治8年)には愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰して漸次立憲政体樹立の詔を出すとともに、官選の元老院を設け大審院を置いて裁判制度を整備し、地方官会議を開いて地方議会の開設について討議した。また一方で、政府は新聞紙条例や讒謗律を制定して急進的な反政府の言論活動を取り締まった。後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。
民撰議院設立建白書に名を連ねた江藤新平は1874年(明治7年)郷里の佐賀で島義勇と共に不平士族の首領となって反乱を起こした(佐賀の乱)。政府はこれを鎮圧したが、廃刀令や家禄制度の廃止などによって士族の不満はいっそう高まった。1876年(明治9年)熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱と一連の士族反乱が起こり、翌1877年(明治10年)ついに西郷隆盛を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に対して兵を挙げた(西南戦争)。西南戦争は政府にとっても大きな試練で、新しい軍隊を総動員して約8ヶ月に渡って九州各地で激しい戦闘が展開された。戦争のさなか木戸が病死、西郷も自刃し、翌1878年(明治11年)には大久保が東京で不平士族の島田一郎ら6名により暗殺された(紀尾井坂の変)。こうして明治政府の「維新三傑」体制は終わりを告げ、薩長元老による官僚藩閥政権が確立した。
自由民権運動の共通の目的は国会開設であった。次第に農民の間にも支持層が広がり、1880年(明治13年)全国の民権派団体が大阪に集まって愛国社の大会を開き、国会期成同盟を結成し8万7千名余の署名を連ねた。私擬憲法が草案され始め、40編以上が発表された。イギリス流の二院制の議会政治(交詢社、嚶鳴社)、人民主権と一院制(立志社、植木枝盛)、君権主義(五日市憲法)などのように民権派から発表されたものが多かった。1881年(明治14年)開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治十四年の政変で、井上毅・伊藤博文・岩倉具視らドイツ流憲法の支持者は即時国会開設を唱えていた急進派官吏を政府から追放する一方「国会開設の詔勅」を発し、1890年(明治23年)に議会を開設することを国民に約束した。その結果、明治政府から追放されることとなった板垣退助は自由党を、福地源一郎は立憲帝政党を、大隈重信は立憲改進党を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。
1882年(明治15年)道路造成事業に反対した農民や自由党員らが検挙され(福島事件)、続いて加波山事件・秩父事件など東日本各地で自由党員らによる暴発事件が起こった。こうして自由民権運動は衰退していき、1887年(明治20年)大同団結運動を起こしに政府に迫ったが、政府は保安条例を発して多くの民権運動家を東京から追放した。財政面では、西南戦争後のインフレーションの整理を図るため、大蔵卿松方正義を中心に1882年(明治15年)に日本銀行を創立し、1885年(明治18年)から正貨である銀貨と引き換えのできる兌換紙幣を発行させた(銀本位制)。また官営工場を民間に払い下げた影響から政商が生まれ、のちにこれらは財閥を形成していった。
1882年(明治15年)、政府内で実権を握った伊藤は憲法調査のためヨーロッパを訪問。帰国後1884年(明治17年)華族令を制定して国家の功労者にも爵位を与えて華族とし、貴族院を作るための華族制度を整えた。1885年(明治18年)には太政官制を廃止して内閣制を導入し、初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任、1888年(明治21年)新設された枢密院の議長にも就任した。1888年(明治21年)には市制、町村制、府県制、郡制が公布され地方自治制が実施された。1889年(明治22年)大日本帝国憲法、翌1890年(明治23年)教育勅語が発布された。
伊藤以降の初期内閣の構成はいずれも薩摩藩(黒田清隆、松方正義)と長州藩(伊藤博文、山縣有朋)を中心にして組閣され、1890年(明治23年)11月25日帝国議会の幕が開いた。以後激しい選挙干渉にて民党を抑えようとしたが、1892年(明治25年)に成立した第2次伊藤内閣の時には政府と自由党が次第に歩み寄りを進め、協力して政治を運用するようになった。
19世紀後半にアジアの多くの国々は欧米諸国の植民地となっていたが、幕末以来の不平等条約を改正して関税自主権の確立(税権回復)と領事裁判制度の撤廃(法権回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためには何よりも重要であった。1871年(明治4年)、日本と清国は日清修好条規に調印。1873年(明治6年)に外務卿・副島種臣は、清国皇帝に謁見し日清修好条規批准書の交換を行った。
1878年(明治11年)に外務卿・寺島宗則の下でアメリカとの間で税権回復の交渉が成立したが、イギリスなどの反対により新しい条約は発効しなかった。後を継いだ外務卿・井上馨は欧化政策を取り、風俗や生活様式を西洋化して交渉を有利に運ぼうとした。1883年(明治16年)に日比谷に建てられた「鹿鳴館」では、政府高官や外国公使などによる西洋風の舞踏会がしきりに開かれた。井上の改正案は外国人に日本国内を開放(内地雑居)するかわりに税権の一部を回復し、領事裁判制度を撤廃するというものであったが、国権を傷つけるものだとして政府内外から強い反対が起こり、1887年(明治20年)交渉は中止され、井上は辞職した。
これに続いて、1889年(明治22年)大隈重信外相がアメリカ・ドイツ・ロシアとの間に新条約を調印したが、大審院(現在の最高裁判所に相当)に限り外国人裁判官の任用を承認していたので、『新聞日本』を基盤に持つ東邦協会メンバーを皮切りに国民協会を率いる保守派の品川弥二郎や鳥尾小弥太、民権派の星亨を中心として再び国内に反対運動が起きた。大隈は玄洋社の活動家に爆弾を投げつけられて負傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、またその後も青木周蔵外相の交渉が1891年(明治24年)に訪日したロシア帝国皇太子(当時、後のニコライ2世皇帝)が滋賀・大津で警護の警察官に襲われて負傷(大津事件)したことにより挫折するなど、条約改正は難航した。
その後、イギリスは東アジアにおけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。1894年(明治27年)に外務大臣陸奥宗光は駐英公使青木周蔵に交渉を進めさせ、イギリスとの間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした「日英通商航海条約」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。
日本は1882年(明治15年)の壬午事変と1884年(明治17年)の甲申政変を契機に朝鮮を巡って清と対立し、甲午農民戦争を契機に1894年(明治27年)日清戦争が勃発した。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが、士気と訓練度で勝った日本は勝利し下関条約によって以下の内容を清に認めさせた。
下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えた(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立した)。しかし、遼東半島はロシア、フランス、ドイツの三国干渉により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え報復心が煽られた(臥薪嘗胆)。
結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方「眠れる獅子」といわれた清が敗戦したことから、諸列強による中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。加えて、日清戦争の賠償金は1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、官営八幡製鉄所造営(1901年(明治34年)開設)の資金となるなど戦果は経済的にも影響を与えた。一方、日本は外国との間にある不平等条約の廃棄を公然と要求しうるようになった。
日清戦争終了後、ロシア帝国は清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借した。また、シベリア鉄道およびその支線である東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。とりわけ、義和団の乱(義和団事件)以降、ロシアは満洲に軍隊を駐留させて利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、1902年(明治35年)イギリスとの間に日英同盟を締結した。当時、世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていたイギリスが初めて同盟を締結したということとアジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満洲、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発した。
陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。一方、海軍は最終的には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。
ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相小村壽太郎はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を依頼して講和に持ち込んだ。日露戦争を終結させたポーツマス条約の内容は以下の通りである。
しかし、賠償金は全く取れなかったため、国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。
後の大東亜戦争時に比べると反戦的な主張も比較的許容されており、萬朝報によった堺利彦・片山潜らの反戦運動や、キリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。
日露戦争における日本の勝利は白色人種大国に対する有色人種小国の勝利であり、世界史上の意義も大きかった。第一次エチオピア戦争でエチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例はあるが、これはイギリス、フランスの全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は有色人種国家独自の軍隊による白色人種国家に対する近代初の勝利といえる。
1905年(明治38年)、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命されたが、1908年(明治41年)に辞任した。また、1906年(明治39年)のポーツマス条約で獲得した遼東半島南部(関東州)および長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設置された。その後1909年(明治42年)7月、第2次桂内閣が韓国併合を閣議決定、10月26日に伊藤はロシアとの会談を行うため渡満したが、ハルビンに到着した際に大韓帝国の独立運動家安重根から撃たれて暗殺された。1910年(明治43年)には日韓併合条約を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。
1911年(明治44年)、日本はアメリカ合衆国と新しい日米通商航海条約を締結、イギリス、ドイツ、フランスおよびイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣小村壽太郎は関税自主権の全面回復に成功し、これにより、かつて江戸幕府の政権時に西洋列強と結んだ不平等条約を対等な国家間条約に改善する条約改正の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後に目指した西欧列強と並ぶ近代国家作りは一応達成された。
その後、第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、日本は1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加、明治維新から約50年という速さで列強国の一つに数えられることになった。
植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、1894年(明治27年)には英国と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに幕末以来の不平等条約の解消を進めた。これを完全に達成したのは韓国併合以降である。
明治時代で特徴的な点が、西洋式文物の大量輸入による産業革命である。
しかし明治維新が起こった時には神仏分離令により廃仏毀釈運動が起こった。1870年代(明治3年〜12年)中期になると、西洋文明の輸入が本格化。1872年(明治5年)の「殖産興業」による鉄道開業と富岡製糸場設立は、これを象徴する出来事である。
松方デフレによる不況、内国勧業博覧会の実施を経て、日清戦争の勝利によって軽工業を中心とする産業革命が本格化した。1901年(明治34年)には、日本初の西洋式製鉄所である官営八幡製鉄所が開業し、重工業の勃興を告げた。
※明治5年までは旧暦を使用していたため、西暦(グレゴリオ暦)の年とはずれが生じる。
※は小の月を示す。
総務省統計局の推計では、2009年(平成21年)10月1日の時点では、日本における明治生まれの人口は16万6千人で、総人口の0.1%となった。
2011年(平成23年)10月1日の時点では、日本における明治生まれの人口は7万1千人で総人口の0.1%。以降の統計では大正生まれの人口と合算して発表されている(2011年の大正生まれの人口は417万人で総人口の3.3% )。
2012年(平成24年)7月30日で明治生まれは全員100歳以上となる。9月発表の百歳以上高齢者(9月15日時点、大正元年7月31日~9月15日生まれを除いて明治生まれである)は5万1千376人。
2017年(平成29年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は170万7千人で総人口の1.3%。
明治生まれで令和改元の日(2019年5月1日)まで生きた人はおおよそ2600人程度。
2019年(令和元年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は114万1千人で総人口の0.9%。
2020年頃より、47都道府県のうち、それぞれの都道府県内に明治生まれの存命者が一人となったりゼロとなるケースが出てきている。岩手県、栃木県、富山県の各県では、最高齢者の生年が大正元年や二年となっており、明治生まれの存命者が既にいなくなっている。
2021年10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は67万7千人で総人口の0.5%。
2022年7月30日で明治生まれは全員110歳以上となる。
2000年代初め頃から、生年月日記入欄で元号を選択させる場合は明治が省かれる(すなわち、大正・昭和・平成の3つから選択させる。)ようになる。ただし、行政機関の申請・届出書類やJR各社の定期券購入申込書などでは、2010年(平成22年)の時点では、明治が入っている場合が多かった。
これらのうち、明治グループ・明治大学の略として「明治」を用いることが多い。 | [
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"text": "日本史の時代区分上では、元号が明治であった期間を明治時代()という。時代区分名は江戸時代(最後の元号:慶応)までは中央政権の所在地に基づく名称で呼ばれているが、明治以降は一世一元の制により、元号に基づく名称となっている。",
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"text": "改暦は、具体的には、天保暦(旧暦)の明治5年12月2日の翌日を、新暦の明治6年1月1日とすることで実施した。これにより、西暦(グレゴリオ暦)と和暦の日付が一致することとなった。",
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"text": "尊皇思想に基づき、「天皇は親政を行い人民を直接統治する」とした。しかし、1890年(明治23年)に大日本帝国憲法(明治憲法)が施行されるまでは、明治天皇は青年期であり、憲政下となっても立憲君主制国家の成立により、三職制・太政官制や内閣官制の導入などで、天皇以外にも薩摩藩や長州藩の出身者が政治の実権を握っていた(藩閥政治)。明治改元の時には、明朝中国を模倣して一世一元の制を定め、天皇の名(厳密には追号)として元号を用い、それまでの陰陽五行思想的改元を廃止した。(以降、現在の令和に至るまでの改元はすべて代始改元となっている。)",
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"text": "この明治時代は、欧米列強の植民地化を免れるために近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば、日本の産業革命時代である。西洋化と近代化が幕末から始まって明治年間で達成されたことから、「幕末・明治」と括られることも多い。なお、「幕末・明治」という括りは、不平等条約の締結(1854年〈安政元年〉)から完全撤廃(1911年〈明治44年〉)までの時代とほぼ一致する。中央集権的な王政復古の過程から「王政維新」ともいわれる。また、1870年代(明治初期)は文明開化を略し「開化期」とも呼ばれている。",
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"text": "1867年(慶応3年)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を行った。これにより、朝廷は玉松操と大久保利通らが作成した「王政復古の大号令」を宣言。薩摩・越前・土佐・尾張・芸州の五藩がこのクーデターに与した。1868年(明治元年)1月、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利を収めた新政府軍は慶喜を朝敵として追討し、二条城に退去していた会津藩・桑名藩・旗本は辞官納地の命令により、慶喜と共に大坂城に退いた。慶喜は薩摩藩の罪状を弾劾した「討薩表」を提出して京都に進軍したが朝敵となって討伐され、大坂城を軍艦・開陽丸で脱出し、江戸城へ逃亡。新政府軍は江戸へ軍を進めた。大久保一翁や山岡鉄舟の尽力もあって新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府軍を代表する勝海舟との交渉が成功し、同年4月11日(新暦5月3日)、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された(江戸開城)。東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を助けたが次々に新政府軍に敗れ、7月29日に越後長岡城落城、同年9月22日には激しい戦闘の末に会津若松城が落城して会津藩も降伏した。次いで庄内藩が降伏すると、1869年6月27日(明治2年5月18日)には旧幕府海軍を率いて箱館を占領していた榎本武揚らが五稜郭の戦いに敗れて降伏し、ここに戊辰戦争は終結した。",
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"text": "賞典禄を受けた「四賢侯」を中心とする討幕派大名および「維新の十傑」に代表される下級藩士や三条実美・東久世通禧ら七卿落ち事件に連座していた開明派の公家を中心として発足した新政府は封建的支配制度を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固めていった。幕府や摂政、関白、征夷大将軍、内覧、議奏、京都守護職、所司代などは廃止され、それに代わり九条家に太政官代が置かれ、総裁・有栖川宮熾仁親王、議定、参与の三職および神祇・内国・外国・陸海軍・会計・刑法・制度の行政七科、徴士・貢士が置かれたが、下級藩士の実力者達は公家や雄藩の大名たちと並んで新政府に加わった。薩摩藩・土佐藩・安芸藩・尾張藩・越前藩五藩軍隊の京都御所警備の下、成立当日の夜の小御所会議で激論の末、慶喜に内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることを決めた。ここに700年の武家政治の諸法度は終焉した。",
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"text": "戊辰戦争のさなかの1868年(慶応4年)3月には、由利公正・福岡孝弟の起草により天皇が群臣を従えて神々に誓うという形式で「五箇条の御誓文」を定め、公議輿論の尊重、開国親和など新しい政治理念の基本を宣言した。翌日に「五榜の掲示」を掲げた。その内容は五倫の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道徳)を説き、徒党・強訴・キリスト教を禁止するなど旧幕府の政策を引き継いだものであったが、数年以内に廃止された。閏4月21日には五箇条の御誓文を受けて「政体書」を公布。太政官の下に上局と下局からなる二院制の議定官が置かれ、上局は議定と参与から、下局は各藩と藩から送られた貢士で構成した。次いで政府は太政官・神祇官と呼ぶ官吏制度を整えた。天皇親政の下に、公家や藩主に並んで参与に任じられた9藩士、小松帯刀(薩摩藩)・大久保利通(薩摩藩)・木戸孝允(長州藩)・広沢真臣(長州藩)・後藤象二郎(土佐藩)・福岡孝弟(土佐藩)・副島種臣(佐賀藩)・横井小楠(熊本藩)・由利公正(福井藩)の9名は「朝臣」となり、藩主から独立した地位を得た。",
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"text": "人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には年号を「明治」(読み:めいじ)と改めて、天皇一代の間に一年号とする「一世一元の制」を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、東征大総督府軍監・江藤新平は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と岩倉具視に建言。これに前内大臣・久我建通ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、大久保利通が「大坂遷都論」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、大坂に行幸するという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった。これに、京都市民や神道家が反発し、伊勢神宮祠官・山田大路陸奥守親彦が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は東京と改称され、鎮将府、東京府設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の三条実美が駿河以東の13ヶ国を管轄し、京都と東京に2つの政府が並立する形となった。",
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"text": "江戸の東京への改称後、8月27日に即位式を挙げた明治天皇が京都から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を皇居とし、東京城と改称した。。12月7日には、東京城に宮殿を造営すると布告されるなど、東京奠都の準備も着々と進められた。天皇は8日に東京を発って京都に帰ったが、この東幸に平行する形で、外交事務を執る外国掛である議定・松平慶永、浅野長勲、山内豊信、正親町三条実愛、外国公使・正親町公董、烏丸光徳、参与・三岡八郎(由利公正)、後藤象二郎、岩下佐次右衛門(方平)らは各国公使に国書を手渡す必要性から先だって東京、大坂、神戸を往来した。同年11月、姫路藩主酒井忠邦が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」 という案を出してきた他、木戸孝允が此の案を取り上げた。12月22日京都還幸(翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時御一新と呼ばれた。",
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"text": "新政府は未だ財政的・軍事的・制度的基礎が固まっておらず、大久保・木戸らの策謀に強い憤りを抱いていた土佐藩主・山内容堂や自らを出し抜いた家臣に反感を抱いていた薩摩藩主の島津久光、長州藩主の毛利敬親らは早々に所領に引き篭もった。特に、朱子学の教養と水戸学の歴史観を持つ保守思想家の島津久光の下には、武士階級の復活を願う全国の士族が集まり封建党など様々な士族結社が結成されていた。この状況から新政府は大久保利通らを薩摩藩に派遣して説得に当たらせたが、明治3年(1870年)2月24日に久光は明治政府を「洋夷の属国」として罵倒し、内閣顧問に任命される明治6年(1873年)まで上京に応じなかった。",
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"text": "そんな中で、新政府は諸大名の反発を買わぬように、版籍奉還、廃藩置県と段階を踏んで郡県制に移行することを目指した。1869年(明治2年)1月14日、京都で薩摩・長州・土佐三藩の会合が京都円山で持たれ、薩摩から大久保、長州から広沢真臣、土佐から板垣退助が出席した。そして三藩主連名で土地・人民を朝廷に返上する旨の建白書を提出することで合意した。また薩長土の三藩は副島種臣に働きかけて、肥前佐賀藩主・鍋島直正を動かした 結果、同20日に薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の藩主から版籍奉還の上表が朝廷に提出された。これが呼び水となって、諸藩は領地と領民を天皇に返上する上表を次々と提出した(版籍奉還)。",
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"text": "これに伴い、各藩主の処遇が新政府内で話し合われ、大久保ら薩摩の官吏は藩主を藩知事とし、世襲制にするべきだと主張したのに対し、木戸ら長州の官吏はこれに反対した。最終的に両者の主張を折衷する形で、藩主はそのまま藩知事に任命されたが、世襲制は否定された。また、この機に公卿・諸侯の呼称を廃して華族と改称し、上・中・下士の区別をやめ全て士族としたほか、知事の家禄を石高の十分の一に限定し、藩政と知事家政を分離した。これにより、建前として知事と士族の間の君臣関係が消滅し、各藩は済し崩し的に自立性を奪われて明治政府の地方行政単位に転化した。また、新政府内においても、王政復古時の五藩から、版籍奉還を真っ先に上表した薩長土肥の四藩が主導権を握るようになり、越前・尾張・芸州の影響力は低下した。",
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"text": "版籍奉還直後の7月8日に、職員令により管制を改革し、祭政一致を建前に神祇官、太政官を置いて前者を上位とし、太政官に左大臣と右大臣、大納言、参議、顧問として待詔院を置いた。人選は大久保の発案で、三条実美(右大臣)、岩倉具視(大納言)、副島種臣(参議)、前原一誠(参議)、待詔院学士は大久保利通、木戸孝允、板垣退助の3名を選出し、薩長土三藩の維新の功臣を激務から外して木戸派官吏の追い出しを図った が、その後長州派官吏も廣澤真臣を参議に推して対抗し内政の主導権争いが続いた。その後、政体書の規定を以て高官公選の互選も行われ、輔相には三条実美(公家)、議定には岩倉具視(公家)、鍋島直正(佐賀藩主)、徳大寺実則(公卿)、参与には大久保利通(薩摩藩士)、木戸孝允(長州藩士)、副島種臣(佐賀藩士)、東久世通禧(公家)、後藤象二郎(土佐藩士)、板垣退助(土佐藩士)の10名を選出した。これにより、議定だった諸大名や公卿の多くは免職となり、麝香間祗候か他職に追いやられ、薩長土肥以外の参与も、越前の由利以外は免職となった。9月に入ると王政復古の論功行賞として「賞典禄」を与えた。",
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"text": "新政府が外交方針として開国を決めたことは尊王攘夷派の怒りを買った。明治2年のうちに横井小楠・大村益次郎が早々に暗殺され、長州藩においては同年12月1日に大楽源太郎率いる奇兵隊や遊撃隊等の諸隊が乱を起こし、木戸が鎮圧に当たる始末となり、1870年(明治3年)5月には米沢藩士・雲井龍雄の反政府陰謀事件が発覚した。1871年(明治4年)には二卿事件や久留米藩難事件、征韓を企画した外務権大丞・丸山作楽の逮捕事件が勃発した。このように新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。ましてや静岡藩をはじめとする親藩・譜代の諸藩の動静には過敏になっていた。その結果、雲井龍雄処刑の責任者であった広沢が1871年(明治4年)1月9日に暗殺されるなど片翼飛行を始めた。また、国政を薩長土肥が牛耳っていたことも批判を浴び、明治3年7月26日には薩摩藩士・横山正太郎が集議院門前で抗議の切腹を行った。政府内では薩長土肥の対立に加え、太政官と民部省、大蔵省をめぐって大久保と木戸が対立し、薩長間で抗争が繰り広げられており、世情は不安定だった。",
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"text": "こうした中で、政府は9月に「藩制」を公布し、藩への統制をさらに強めた。藩に共通する職制、財政の規定を示し、重要な賞罰は政府の許可を得ることや、藩士身分の単純化、藩債、藩札の整理を命じたのだ。他方、政府への不満を抑えるため、11月29日、全国諸藩の注視を集め、藩地に帰郷した島津久光と藩政改革を通して薩摩藩の軍備強化に努め、全国から集結した士族約1万2000人の兵士大軍団を束ね、政府への無言の威圧となっていた薩摩藩士・西郷隆盛を説得するため、岩倉具視を勅使、随員として大久保利通と木戸孝允が島津久光と西郷隆盛の上京を求めて鹿児島に向かい、西郷隆盛の受諾を得てようやく政権を安定させた。",
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"text": "こうして世情が安定すると、政府は1871年(明治4年)7月にまず薩長土の3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に廃藩置県を断行した。全国の261藩は廃止され、3府302県に変わり、日本は中央集権的統一国家となった。藩知事と士族の禄は保障され、藩債を肩代わりした。身分制度の改革を行い、大名・公家を華族とする華族制度(日本国憲法が施行されるまで存在した、西洋式に倣った日本の貴族制度)の創設と、武士身分を士族として、農工商民(百姓・町人)などを平民とし、日本人(大和民族)は皆「国民」(明治憲法下では「臣民」とも呼ばれた)とされ、日本国民全員に苗字の公称を認めた四民(士農工商)平等政策を取った。戸籍法を制定し、華族・士族の散髪、脱刀並びに華士族平民間通婚を自由にし、田畑勝手作りを認め、府県官制制定を行い華士族の農工商従事を許可した。なおこれらとは区別して、天皇と血縁関係のある皇族(皇室構成員)の地位もまた定められた。1871年(明治4年)には、いわゆる解放令によってこれまでえた、ひにんとされていた賎民の人々も平民に編入された。ただし、その後も部落問題として余韻は残したままとなった。",
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"text": "1869年(明治2年)に、律令制度の行政機構を復活させ、役所機構を整備して宮内省・民部省・大蔵省・刑部省・兵部省・外務省の六省を設置したが、律令体制時代に存在した中務省・式部省・治部省の三省は復活設置されなかった。しかし、戸籍、土木、租税、駅逓、通商、鉱山を管轄する民部省と出納、秩禄、造幣、営繕を管轄する大蔵省の民蔵両省の官吏は、財政及び貿易問題で外国人と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、1870年(明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、官僚社会に強固な勢力を築き上げた。",
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"paragraph_id": 28,
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"text": "軍事上の改革では民部省大輔兼軍務官副知事の大村益次郎(長州藩士)が「農民を募り親兵」とする国民皆兵による政府軍を作る計画を進め、1873年(明治6年)1月10日、陸軍卿山縣有朋を中心に徴兵令を公布し身分に関わり無く満20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、徴兵制度の例外として戸主は徴兵を免除され、主として戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、血税一揆が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男子はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦までの72年間、人々の生活を支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった。治安面では1874年(明治7年)東京に警視庁を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、1876年(明治9年)金禄公債を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した(秩禄処分)。これにより士族の地位は著しく下がった。",
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"text": "外交では1871年(明治4年)11月12日、江戸幕府政権時に西洋諸国間と結んだ不平等条約改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、岩倉具視を全権大使、大久保と木戸を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この岩倉使節団には伊藤博文、山口尚芳ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった不平等条約の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ日本の近代化を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため李氏朝鮮に外交使節を送ったが、李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、大院君政府は何らの回答もよこさなかった。次いで、釜山にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が発生。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「征韓論」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った。そこで、政府は8月17日の閣議で西郷隆盛の朝鮮派遣使節任命を決めた。",
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"text": "欧米諸国の朝鮮進出を警戒して、西郷隆盛・板垣退助らは朝鮮の開国を迫り征韓論を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した(明治六年政変)。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、江華島事件が勃発して1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。また、清国に対しては1871年(明治4年)日清修好条規を結んで琉球藩を置き、1874年(明治7年)台湾に出兵した(征台の役)。次いで1879年(明治12年)沖縄県を設置した。ロシアに対しては1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。また小笠原諸島・尖閣諸島・竹島も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。",
"title": "明治時代"
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"text": "内国行政では留守政府が1872年(明治5年)2月に田畑永代売買解禁、4月に庄屋、名主を戸長と改称、7月に全国一般に地券発行を行い、帰国した大久保は1873年(明治6年)に内務省を設置、殖産興業の育成に力を入れてお雇い外国人らを用いて富岡製糸場など多くの官営工場を設立した。財政面では、民部省を統合した大蔵省の大蔵卿・大久保と大蔵大輔・井上馨が改正局を設立して、井上直属の部下の渋沢栄一を掛長に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の藩札等を廃止して新貨条例を制定、貨幣の単位を円・銭・厘に統一した。1872年(明治5年)に国立銀行条例を制定し国立銀行を各地に作らせた。",
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"text": "蝦夷地は北海道と改められて開拓使を置き、屯田兵などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の飛脚制度にかわり、まず三府(東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)郵便事業が開始され、電信も1869年(明治2年)に東京-横浜間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)新橋-横浜間で官営の鉄道が開通した。海運事業は政府の保護の下に三菱商会を中心に発達した。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "建築等も煉瓦造の建物が見られるようになり、都心部では家々には石油ランプがともされて街灯にはガス灯が登場、馬車や人力車が走るようになった。軍服には洋服が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。また、西洋化する日本市場を狙いスタンダードチャータード銀行やフリードリヒ・バイエル、大北電信会社など外資の進出が東京や横浜、神戸などで相次ぎ、また欧米で1850年頃に普及しはじめたトイレットペーパーが、この頃新聞の普及とともに都心部で急速に普及したが、地方ではまだまだであった。",
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"text": "司法面では法治主義と司法権の自立、三権分立を推進するため、初代司法卿・江藤新平がその任に当たったが、留守中の長州藩の首領・近衛都督山縣有朋が、陸軍省御用商人・山城屋和助の公金費消事件に関わったとされる山城屋事件、大蔵大輔・井上馨(長州藩士)が職権を濫用して民間人から尾去沢銅山を巻き上げた事件(尾去沢銅山事件)、長州藩出身の京都府参事・槇村正直の人民への圧政などを激しく追及、裁判所設立予算を巡る対立も絡んで3人を一時的に辞職に追い込むなどして長州閥を一掃したことで江藤は次第に政府内から煙たがられる存在となり、留守政府の五参議(西郷・江藤・板垣・後藤・副島)免職の発端の一つになった。",
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"text": "1873年(明治6年)7月28日には新政府の費用を作り出すため「地租改正」条例を公布し、農地の値段を定めて豊作・凶作に関係なく地租を地価の3%と定め、土地所有者に現金で納めさせることにした。地主は土地所有を法的に認められるようになった。しかし地主と小作人の関係は変わらず、小作人はこれまで通り小作料を現物で地主に納めさせた。自作と小作農は負担がそれまでより軽くならないで苦しい立場に置かれることになった。地主は他の農民の土地を買い、それらの土地をお金に換えて資産を増やしていった。そして一部は土地を処分して資本家に変わっていった。やがて土地を耕すことはすべて小作人に任せ、お金だけ受け取って都市部で暮らす不在地主が増えていった。徴兵令に対する不満と地租改正に反対して百姓一揆がしばしば起こり、1876年(明治9年)に三重県で発生した伊勢暴動(東海大一揆)、茨城県などの地租改正反対一揆などを受けて翌年地租率を2.5%に引き下げざるを得なかった。その結果、地租を納める農民の負担は江戸時代のおおよそ20%減ることになった。",
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"paragraph_id": 36,
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"text": "文化面では1872年(明治5年)11月に太陽暦を採用、文明開化の風潮が高まり、福澤諭吉・西周・森有礼・中村正直らが明六社を結成し、著作や講演会を通じて近代的な学問・知識を日本国内に広めたほか、中江兆民ら新しい思想を説く啓蒙思想家も現れた。印刷技術の進歩により、日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を始め新聞が次々と創刊された。全ての国民が教育を受けられるよう学校制度が整備され、1872年(明治5年)「学制」を公布して全国に学校が設立された。新政府では寺島宗則・神田孝平・柳川春三といった学者を招聘して運営に当たらせた。教育機関の整備では大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道らに命じて起草させた。",
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"paragraph_id": 37,
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"text": "宗教の面では神道の国民教化を図ろうとして神仏分離令を出した。これを受け、日本の仏教に根付いていた寺請制度に不満を持っていた者も加わり、廃仏毀釈が行われる事態となる。1870年(明治3年)大経宣布を行い祝祭日を制定した。1873年(明治6年)には天皇の誕生日を天長節(現在の天皇誕生日)、神武天皇が即位した日(紀元前660年2月11日)を紀元節(現在の建国記念の日)とした。1873年(明治6年)にキリスト教を解禁。後の大日本帝国憲法で定められた政教分離という制度的要請から、国家神道(神社非宗教論)に基づく宗教行政に転換していった。",
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"paragraph_id": 38,
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"text": "明治新政府の近代化のための変革はあまりにも性急で、国民生活の実情を無視していた点も多かった。特に、廃藩置県と徴兵令は士族の武力独占を破り、御親兵は近衛兵と改称され、中央集権を企図した地方行政制度である大区小区制は、従来の地方自治を無視して中央の命令の伝達と施行しかしない機関を設けたため極めて不評で、地方自治をある程度尊重した郡区町村制に短期間で改められている。新政府の枢要な地位はほとんど薩長土肥の藩閥人物で構成されていたため全国の士族は特権を奪われ、経済的にも行き詰った。政府に対する士族の不満が高まった結果、民撰議院設立建白書を発端に士族反乱・自由民権運動が起こり、ついには1874年(明治7年)に岩倉具視暗殺未遂事件(喰違の変)が勃発した。",
"title": "明治時代"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "喰違の変の後、大久保利通は、征韓派士族に不満の捌け口を与えるため、台湾征討に手を付けた。台湾蕃地事務都督に西郷従道を任命し、「台湾出兵」を行った。1874年(明治7年)5月に征台軍は蕃地を平定。大久保利通は、特命弁理大臣となり清国の北京にて会談し、清国は日本国に償金50万両を支払うとの条件で合意した。台湾問題を片づけた大久保は、西南戦争中にもかかわらず、内務省主導で総裁・大久保利通、副総裁・松方正義の下で、第一回内国勧業博覧会を開催。製鉄所や紡績所を経営して士族授産事業と殖産興業が進み、それと並行して秩禄処分が進められたため、士族反乱に乗じなかった士族は、次第にブルジョアジーとプロレタリアートに分解した。",
"title": "明治時代"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1873年(明治6年)の征韓論政変により下野した板垣退助は翌1874年(明治7年)後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らと愛国公党を結成、由利公正らと民撰議院設立建白書 を明治7年(1874年)1月政府左院に提出し、高知に立志社を設立する。この建白書が各地の新聞に掲載されたことで、政府に不満を持つ士族を中心に運動が進められるようになった。一方、民選議院を設立すべきか否かの議論も新聞雑誌紙上で盛んに交わされるようになった。翌1875年(明治8年)には愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰して漸次立憲政体樹立の詔を出すとともに、官選の元老院を設け大審院を置いて裁判制度を整備し、地方官会議を開いて地方議会の開設について討議した。また一方で、政府は新聞紙条例や讒謗律を制定して急進的な反政府の言論活動を取り締まった。後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。",
"title": "明治時代"
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"text": "民撰議院設立建白書に名を連ねた江藤新平は1874年(明治7年)郷里の佐賀で島義勇と共に不平士族の首領となって反乱を起こした(佐賀の乱)。政府はこれを鎮圧したが、廃刀令や家禄制度の廃止などによって士族の不満はいっそう高まった。1876年(明治9年)熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱と一連の士族反乱が起こり、翌1877年(明治10年)ついに西郷隆盛を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に対して兵を挙げた(西南戦争)。西南戦争は政府にとっても大きな試練で、新しい軍隊を総動員して約8ヶ月に渡って九州各地で激しい戦闘が展開された。戦争のさなか木戸が病死、西郷も自刃し、翌1878年(明治11年)には大久保が東京で不平士族の島田一郎ら6名により暗殺された(紀尾井坂の変)。こうして明治政府の「維新三傑」体制は終わりを告げ、薩長元老による官僚藩閥政権が確立した。",
"title": "明治時代"
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"text": "自由民権運動の共通の目的は国会開設であった。次第に農民の間にも支持層が広がり、1880年(明治13年)全国の民権派団体が大阪に集まって愛国社の大会を開き、国会期成同盟を結成し8万7千名余の署名を連ねた。私擬憲法が草案され始め、40編以上が発表された。イギリス流の二院制の議会政治(交詢社、嚶鳴社)、人民主権と一院制(立志社、植木枝盛)、君権主義(五日市憲法)などのように民権派から発表されたものが多かった。1881年(明治14年)開拓使官有物払下げ事件に端を発した明治十四年の政変で、井上毅・伊藤博文・岩倉具視らドイツ流憲法の支持者は即時国会開設を唱えていた急進派官吏を政府から追放する一方「国会開設の詔勅」を発し、1890年(明治23年)に議会を開設することを国民に約束した。その結果、明治政府から追放されることとなった板垣退助は自由党を、福地源一郎は立憲帝政党を、大隈重信は立憲改進党を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。",
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"text": "1882年(明治15年)道路造成事業に反対した農民や自由党員らが検挙され(福島事件)、続いて加波山事件・秩父事件など東日本各地で自由党員らによる暴発事件が起こった。こうして自由民権運動は衰退していき、1887年(明治20年)大同団結運動を起こしに政府に迫ったが、政府は保安条例を発して多くの民権運動家を東京から追放した。財政面では、西南戦争後のインフレーションの整理を図るため、大蔵卿松方正義を中心に1882年(明治15年)に日本銀行を創立し、1885年(明治18年)から正貨である銀貨と引き換えのできる兌換紙幣を発行させた(銀本位制)。また官営工場を民間に払い下げた影響から政商が生まれ、のちにこれらは財閥を形成していった。",
"title": "明治時代"
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"text": "1882年(明治15年)、政府内で実権を握った伊藤は憲法調査のためヨーロッパを訪問。帰国後1884年(明治17年)華族令を制定して国家の功労者にも爵位を与えて華族とし、貴族院を作るための華族制度を整えた。1885年(明治18年)には太政官制を廃止して内閣制を導入し、初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任、1888年(明治21年)新設された枢密院の議長にも就任した。1888年(明治21年)には市制、町村制、府県制、郡制が公布され地方自治制が実施された。1889年(明治22年)大日本帝国憲法、翌1890年(明治23年)教育勅語が発布された。",
"title": "明治時代"
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"text": "伊藤以降の初期内閣の構成はいずれも薩摩藩(黒田清隆、松方正義)と長州藩(伊藤博文、山縣有朋)を中心にして組閣され、1890年(明治23年)11月25日帝国議会の幕が開いた。以後激しい選挙干渉にて民党を抑えようとしたが、1892年(明治25年)に成立した第2次伊藤内閣の時には政府と自由党が次第に歩み寄りを進め、協力して政治を運用するようになった。",
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"text": "19世紀後半にアジアの多くの国々は欧米諸国の植民地となっていたが、幕末以来の不平等条約を改正して関税自主権の確立(税権回復)と領事裁判制度の撤廃(法権回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためには何よりも重要であった。1871年(明治4年)、日本と清国は日清修好条規に調印。1873年(明治6年)に外務卿・副島種臣は、清国皇帝に謁見し日清修好条規批准書の交換を行った。",
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"text": "1878年(明治11年)に外務卿・寺島宗則の下でアメリカとの間で税権回復の交渉が成立したが、イギリスなどの反対により新しい条約は発効しなかった。後を継いだ外務卿・井上馨は欧化政策を取り、風俗や生活様式を西洋化して交渉を有利に運ぼうとした。1883年(明治16年)に日比谷に建てられた「鹿鳴館」では、政府高官や外国公使などによる西洋風の舞踏会がしきりに開かれた。井上の改正案は外国人に日本国内を開放(内地雑居)するかわりに税権の一部を回復し、領事裁判制度を撤廃するというものであったが、国権を傷つけるものだとして政府内外から強い反対が起こり、1887年(明治20年)交渉は中止され、井上は辞職した。",
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"text": "これに続いて、1889年(明治22年)大隈重信外相がアメリカ・ドイツ・ロシアとの間に新条約を調印したが、大審院(現在の最高裁判所に相当)に限り外国人裁判官の任用を承認していたので、『新聞日本』を基盤に持つ東邦協会メンバーを皮切りに国民協会を率いる保守派の品川弥二郎や鳥尾小弥太、民権派の星亨を中心として再び国内に反対運動が起きた。大隈は玄洋社の活動家に爆弾を投げつけられて負傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、またその後も青木周蔵外相の交渉が1891年(明治24年)に訪日したロシア帝国皇太子(当時、後のニコライ2世皇帝)が滋賀・大津で警護の警察官に襲われて負傷(大津事件)したことにより挫折するなど、条約改正は難航した。",
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"text": "その後、イギリスは東アジアにおけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。1894年(明治27年)に外務大臣陸奥宗光は駐英公使青木周蔵に交渉を進めさせ、イギリスとの間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした「日英通商航海条約」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。",
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"text": "日本は1882年(明治15年)の壬午事変と1884年(明治17年)の甲申政変を契機に朝鮮を巡って清と対立し、甲午農民戦争を契機に1894年(明治27年)日清戦争が勃発した。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが、士気と訓練度で勝った日本は勝利し下関条約によって以下の内容を清に認めさせた。",
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"text": "下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えた(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立した)。しかし、遼東半島はロシア、フランス、ドイツの三国干渉により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え報復心が煽られた(臥薪嘗胆)。",
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"text": "結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方「眠れる獅子」といわれた清が敗戦したことから、諸列強による中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。加えて、日清戦争の賠償金は1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、官営八幡製鉄所造営(1901年(明治34年)開設)の資金となるなど戦果は経済的にも影響を与えた。一方、日本は外国との間にある不平等条約の廃棄を公然と要求しうるようになった。",
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"text": "日清戦争終了後、ロシア帝国は清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借した。また、シベリア鉄道およびその支線である東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。とりわけ、義和団の乱(義和団事件)以降、ロシアは満洲に軍隊を駐留させて利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、1902年(明治35年)イギリスとの間に日英同盟を締結した。当時、世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていたイギリスが初めて同盟を締結したということとアジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満洲、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に日露戦争が勃発した。",
"title": "明治時代"
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"text": "陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。一方、海軍は最終的には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。",
"title": "明治時代"
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"text": "ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相小村壽太郎はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに仲介を依頼して講和に持ち込んだ。日露戦争を終結させたポーツマス条約の内容は以下の通りである。",
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},
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"text": "しかし、賠償金は全く取れなかったため、国民の怒りが爆発し、日比谷焼打事件が起こった。",
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"text": "後の大東亜戦争時に比べると反戦的な主張も比較的許容されており、萬朝報によった堺利彦・片山潜らの反戦運動や、キリスト教の立場からする内村鑑三の非戦論も唱えられた。",
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"text": "日露戦争における日本の勝利は白色人種大国に対する有色人種小国の勝利であり、世界史上の意義も大きかった。第一次エチオピア戦争でエチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例はあるが、これはイギリス、フランスの全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は有色人種国家独自の軍隊による白色人種国家に対する近代初の勝利といえる。",
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},
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"text": "1905年(明治38年)、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命されたが、1908年(明治41年)に辞任した。また、1906年(明治39年)のポーツマス条約で獲得した遼東半島南部(関東州)および長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設置された。その後1909年(明治42年)7月、第2次桂内閣が韓国併合を閣議決定、10月26日に伊藤はロシアとの会談を行うため渡満したが、ハルビンに到着した際に大韓帝国の独立運動家安重根から撃たれて暗殺された。1910年(明治43年)には日韓併合条約を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。",
"title": "明治時代"
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"text": "1911年(明治44年)、日本はアメリカ合衆国と新しい日米通商航海条約を締結、イギリス、ドイツ、フランスおよびイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣小村壽太郎は関税自主権の全面回復に成功し、これにより、かつて江戸幕府の政権時に西洋列強と結んだ不平等条約を対等な国家間条約に改善する条約改正の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後に目指した西欧列強と並ぶ近代国家作りは一応達成された。",
"title": "明治時代"
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"text": "その後、第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、日本は1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加、明治維新から約50年という速さで列強国の一つに数えられることになった。",
"title": "明治時代"
},
{
"paragraph_id": 62,
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"text": "植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、1894年(明治27年)には英国と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに幕末以来の不平等条約の解消を進めた。これを完全に達成したのは韓国併合以降である。",
"title": "明治時代"
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"text": "明治時代で特徴的な点が、西洋式文物の大量輸入による産業革命である。",
"title": "産業の変化"
},
{
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"text": "しかし明治維新が起こった時には神仏分離令により廃仏毀釈運動が起こった。1870年代(明治3年〜12年)中期になると、西洋文明の輸入が本格化。1872年(明治5年)の「殖産興業」による鉄道開業と富岡製糸場設立は、これを象徴する出来事である。",
"title": "産業の変化"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "松方デフレによる不況、内国勧業博覧会の実施を経て、日清戦争の勝利によって軽工業を中心とする産業革命が本格化した。1901年(明治34年)には、日本初の西洋式製鉄所である官営八幡製鉄所が開業し、重工業の勃興を告げた。",
"title": "産業の変化"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "※明治5年までは旧暦を使用していたため、西暦(グレゴリオ暦)の年とはずれが生じる。",
"title": "西暦との対照表"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "※は小の月を示す。",
"title": "西暦との対照表"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "総務省統計局の推計では、2009年(平成21年)10月1日の時点では、日本における明治生まれの人口は16万6千人で、総人口の0.1%となった。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2011年(平成23年)10月1日の時点では、日本における明治生まれの人口は7万1千人で総人口の0.1%。以降の統計では大正生まれの人口と合算して発表されている(2011年の大正生まれの人口は417万人で総人口の3.3% )。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2012年(平成24年)7月30日で明治生まれは全員100歳以上となる。9月発表の百歳以上高齢者(9月15日時点、大正元年7月31日~9月15日生まれを除いて明治生まれである)は5万1千376人。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2017年(平成29年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は170万7千人で総人口の1.3%。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "明治生まれで令和改元の日(2019年5月1日)まで生きた人はおおよそ2600人程度。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2019年(令和元年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は114万1千人で総人口の0.9%。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2020年頃より、47都道府県のうち、それぞれの都道府県内に明治生まれの存命者が一人となったりゼロとなるケースが出てきている。岩手県、栃木県、富山県の各県では、最高齢者の生年が大正元年や二年となっており、明治生まれの存命者が既にいなくなっている。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2021年10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は67万7千人で総人口の0.5%。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2022年7月30日で明治生まれは全員110歳以上となる。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2000年代初め頃から、生年月日記入欄で元号を選択させる場合は明治が省かれる(すなわち、大正・昭和・平成の3つから選択させる。)ようになる。ただし、行政機関の申請・届出書類やJR各社の定期券購入申込書などでは、2010年(平成22年)の時点では、明治が入っている場合が多かった。",
"title": "現代における明治"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "これらのうち、明治グループ・明治大学の略として「明治」を用いることが多い。",
"title": "明治を冠するもの"
}
] | 明治(めいじ)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目 の元号である。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日までの45年間を明治時代と呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。 | {{Otheruses}}
{{参照方法|date=2019年12月}}
{{日本の歴史|Meiji tenno3.jpg|180px|画像説明=日本国第122代[[天皇]]・睦仁([[明治天皇]])[[1872年]](明治5年)}}
'''明治'''(めいじ)は[[元号]]の一つ。
[[慶応]]の後、[[大正]]の前。[[大化]]以降228番目、244個目<ref group = "注釈">[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[北朝 (日本)|北朝]]の[[元号]]を除くか含めるかによる。</ref> の元号である。
明治の元号下にあった[[1868年]][[10月23日]]([[明治元年]][[9月8日 (旧暦)|9月8日]])から[[1912年]](明治45年)[[7月30日]]までの45年間を{{読み仮名|'''明治時代'''|めいじじだい}}と呼ぶ<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3-1210721#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典「明治時代」]</ref>。本項ではこの時代についても記述する。
== 概要 ==
[[憲政]]体制に移行した時代であり、「明治」は憲政上最初の元号となる。また、「'''[[一世一元の制]]'''」による最初の元号である。
'''[[明治天皇]]'''が「'''[[一世一元の詔]]'''」を発布した[[西暦]][[1868年]][[10月23日]]([[明治元年]][[9月8日 (旧暦)|9月8日]])から、明治天皇が[[崩御]]した[[1912年]](明治45年)[[7月30日]]までの期間を指す<ref>改元の[[詔書]]による開始時期については[[#改元|後節]]参照</ref>。[[日本]]の元号の中では[[昭和]]に次いで2番目の長さであり、「一世一元の制」における最初の元号であるが、明治天皇は慶応3年1月9日([[1867年]][[2月13日]])に[[践祚]]しその1年8か月後に「一世一元の詔」を発布して改元された為、明治天皇の在位期間とは最初の1年8か月が一致しない。
[[日本史時代区分表|日本史の時代区分]]上では、元号が明治であった期間を{{読み仮名|'''明治時代'''|めいじじだい}}という。時代区分名は[[江戸時代]](最後の元号:慶応)までは中央[[政権]]の所在地に基づく名称で呼ばれているが、明治以降は一世一元の制により、元号に基づく名称となっている。
それまでの武士の時代から生活に変化が起き、[[近代]]の礎を築いていく。
== 改元 ==
{{Wikisource|今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書}}
* [[1868年]][[10月23日]]([[慶応]]4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])- [[皇太子]]睦仁親王(後の[[明治天皇]])の[[即位]]による[[改元]]。
** ただし、改元の[[詔|詔書]]には「吉凶之象兆ニ隨ヒ」(吉凶の象兆に随ひ)「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから。また、[[一世一元の詔]]も併せて出され、天皇在位中の改元は行わないものとした。
** 『元号 全247総覧』{{sfn|元号全247総覧}}によると、[[松平春嶽]]に新元号の考案が委ねられ、複数の案を出し、最終的に明治天皇自身による[[くじ]]引きで「明治」が選定されたとされる。
* [[1912年]](明治45年)[[7月30日]]([[1873年]]〈明治6年〉に[[太陽暦]]を施行)- 明治天皇の[[崩御]]と皇太子嘉仁親王(後の[[大正天皇]])の[[践祚]](即位)により、'''[[大正]]'''(たいしょう)と改元。同日施行され、大正元年7月30日となった。
== 典拠 ==
{{Cquote|聖人南面而聴天下、嚮'''明'''而'''治'''
→{{ruby|聖人|せいじん}}{{ruby|南面|なむめん}}して{{ruby|天下|てんか}}を{{ruby|聴|き}}き、{{ruby|'''明'''|めい}}に{{ruby|嚮|むか}}ひて{{ruby|'''治'''|おさ}}む
|||『[[易経]]』}}
「聖人南面して天下を聴き、'''明'''に嚮ひて'''治'''む」というこの言葉は、過去の改元の際に[[江戸時代]]だけで8回、計10回(「[[正長]]」「[[長享]]」「[[慶安]]」「[[承応]]」「[[天和 (日本)|天和]]」「[[正徳 (日本)|正徳]]」「[[元文]]」「[[嘉永]]」「[[文久]]」「[[元治]]」改元時<ref>[https://web.archive.org/web/20190203024604/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019020200439&g=soc 「明治」は11度目の正直=選から漏れた元号案、最多は40回]、時事ドットコム、2019年02月02日15時19分。</ref>)候補として勘案されているが、通算11度目にして採用された。
[[岩倉具視]]が[[松平春嶽|松平慶永]]に命じ、[[半家 (公家)#菅原氏(6家)|菅原家]]から上がった佳なる勘文を[[籤]]にして、宮中[[賢所]]で天皇が自ら抽選した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917908/207 維新史 第5巻(維新史料編纂事務局)]</ref>。
「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は'''明'''るい方向に向かって'''治'''まる」という意味である<ref>[https://web.archive.org/web/20070219165121/http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/07.html 「明治」の由来は何ですか?] 明治神宮 Q&A</ref>。
== 新暦の実施 ==
{{main|グレゴリオ暦}}
[[1873年]](明治6年)より、[[和暦|日本の暦]]は[[改暦]]され、[[新暦]]に[[太陽暦]]を採用した。従来の暦は[[太陰太陽暦]]に基づく[[天保暦]]で、以後、日本で単に[[旧暦]]と言えば天保暦を指す<ref group="注釈">厳密には、天保暦による日付と現在一般に「旧暦」として流布する日付は、わずかにずれる。詳しくは、[[旧暦#日本]]を参照。</ref>。
改暦は、具体的には、天保暦(旧暦)の明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]の翌日を、'''新暦の明治6年1月1日'''とすることで実施した。これにより、'''[[西暦]]'''(グレゴリオ暦)'''と[[和暦]]の日付が一致'''することとなった<ref group="注釈">ただし、[[西暦]]についても、[[ユリウス暦]]からグレゴリオ暦への移行は国ごとに異なっていることを念頭に置く必要がある。例えば、[[ヨーロッパ]]でも、[[ロシア]]が[[グレゴリオ暦]]を実施したのは[[1918年]](大正7年)[[2月14日]]、同じく[[ギリシャ]]は[[1923年]](大正12年)[[3月1日]]など、[[アジア]]の日本よりも遅い。なお、日本の1873年(明治6年)1月の太陽暦採用において置閏法に不備があったため、厳密にはグレゴリオ暦採用ではなく、1873年(明治6年)1月から1898年(明治31年)5月まではグレゴリオ暦とは一致するものの「ユリウス暦と同じ置閏法を採用した日本独自の暦」であり、置閏法を含めた厳密なグレゴリオ暦採用は1898年(明治31年)5月以降のことである。</ref>。
{|class=wikitable
|+日付対応表
!colspan="2"|[[和暦]]!!colspan="2"|[[西暦]]!!rowspan="2"|[[ユリウス通日]]
|-
![[天保暦]]<br />([[旧暦]])!!現行暦<ref group="注釈">法令上、日本の現行暦はグレゴリオ暦そのものではなく、[[神武天皇即位紀元]](皇紀)を元にした暦である([[1898年]]「[[wikisource:ja:閏年ニ關スル件|閏年ニ關スル件]]」明治31年勅令第90号)。もっとも、グレゴリオ暦の特長である[[閏年]]の計算は、神武天皇即位紀元年から660を減じた年数(グレゴリオ暦の年数に等しい)を元に行う。そのため、日本の現行暦はグレゴリオ暦と実質的に同じ暦となる。</ref><br />([[新暦]])!![[ユリウス暦]]<br />(旧暦)!![[グレゴリオ暦]]<br />(新暦)
|-
|align="center"|明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]||align="center"|なし
|1872年12月19日(火曜日)||1872年12月31日(火曜日)||2405159
|-
|align="center"|([[12月3日 (旧暦)|12月3日]])||明治6年1月1日(水曜日)||1872年12月20日(水曜日)||1873年1月1日(水曜日)||2405160
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|align="center"|([[12月4日 (旧暦)|12月4日]])||明治6年1月2日(木曜日)||1872年12月21日(木曜日)||1873年1月2日(木曜日)||2405161
|}
== 明治時代 ==
[[明治天皇]]が即位し、新政府は[[天皇]]を中心とした新しい国家体制を築くことを目指して[[江戸]]を[[東京]]と改め、天皇が東京に[[行幸]]し、明治2年(1869年)に政府機能が[[京都]]から[[東京]]に移された('''[[東京奠都]]''')。この明治天皇の治世が'''明治時代'''(めいじじだい)と呼ばれている。明治政府の樹立に大きな役割を果たした[[薩長土肥]]四藩(廃藩置県後現在の、[[鹿児島県]]・[[山口県]]・[[高知県]]・[[佐賀県]]、[[長崎県]]の一部)は新政府でも強大な権力を握った。なお、[[幕末]]には薩長と共に[[尊王攘夷]]運動を主導してきた[[水戸藩]]は「[[天狗党]]」と「[[諸生党]]」の藩内抗争で人材が失われ、明治新政府ではめぼしい人材は皆無となった。
[[尊皇思想]]に基づき、「天皇は[[親政]]を行い人民を直接統治する」とした。しかし、[[1890年]](明治23年)に[[大日本帝国憲法]](明治憲法)が施行されるまでは、明治天皇は青年期であり、憲政下となっても[[立憲君主制]]国家の成立により、三職制・[[太政官]]制や[[内閣官制]]の導入などで、天皇以外にも[[薩摩藩]]や[[長州藩]]の出身者が政治の実権を握っていた([[藩閥政治]])。明治改元の時には、[[明]]朝中国を模倣して[[一世一元の制]]を定め、天皇の名(厳密には[[諡|追号]])として[[元号]]を用い、それまでの[[陰陽五行思想]]的改元を廃止した。(以降、現在の令和に至るまでの改元はすべて[[改元#改元の理由|代始改元]]となっている。)
この明治時代は、欧米[[列強]]の[[植民地]]化を免れるために[[近代化]]を推進した時代であり、[[世界史]]的に見れば、日本の'''[[産業革命]]時代'''である。西洋化と[[近代化]]が[[幕末]]から始まって明治年間で達成されたことから、「'''幕末・明治'''」と括られることも多い。なお、「幕末・明治」という括りは、[[不平等条約]]の締結([[1854年]]〈[[安政]]元年〉)から完全撤廃([[1911年]]〈明治44年〉)までの時代とほぼ一致する。[[中央集権]]的な[[王政復古]]の過程から「'''王政維新'''」ともいわれる。また、[[1870年代]](明治初期)は[[文明開化]]を略し「'''開化期'''」とも呼ばれている。
=== 明治維新 ===
{{See also|明治維新}}
[[画像:Taisehokan.jpg|thumb|大政奉還|332x332ピクセル]]
[[1867年]](慶応3年)に[[江戸幕府]]15代将軍・[[徳川慶喜]]が朝廷に対し[[大政奉還]]を行った。これにより、朝廷は[[玉松操]]と[[大久保利通]]らが作成した「'''[[王政復古の大号令]]'''」を宣言。[[薩摩藩|薩摩]]・[[福井藩|越前]]・[[土佐藩|土佐]]・[[尾張藩|尾張]]・[[広島藩|芸州]]の五藩がこのクーデターに与した。[[1868年]](明治元年)1月、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧[[幕臣]]や会津・[[桑名藩]]兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった([[鳥羽・伏見の戦い]])。これに勝利を収めた新政府軍は慶喜を[[朝敵]]として追討し、[[二条城]]に退去していた[[会津藩]]・[[桑名藩]]・[[旗本]]は辞官納地の命令により、慶喜と共に[[大坂城]]に退いた。慶喜は[[薩摩藩]]の罪状を弾劾した「[[討薩表]]」を提出して京都に進軍したが朝敵となって討伐され、大坂城を軍艦・[[開陽丸]]で脱出し、[[江戸城]]へ逃亡。新政府軍は[[江戸]]へ軍を進めた。[[大久保一翁]]や[[山岡鉄舟]]の尽力もあって新政府軍を代表する[[西郷隆盛]]と旧幕府軍を代表する[[勝海舟]]との交渉が成功し、同年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]](新暦[[5月3日]])、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された([[江戸開城]])。東北諸藩も[[奥羽越列藩同盟]]を結成して[[会津藩]]を助けたが次々に新政府軍に敗れ、[[7月29日]]に[[越後]][[長岡城]]落城、同年9月22日には激しい戦闘の末に[[会津若松城]]が落城して会津藩も降伏した。次いで[[庄内藩]]が降伏すると、[[1869年]][[6月27日]](明治2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]])には旧[[幕府海軍]]を率いて[[箱館]]を占領していた[[榎本武揚]]らが[[箱館戦争|五稜郭の戦い]]に敗れて降伏し、ここに[[戊辰戦争]]は終結した。
[[賞典禄]]を受けた「'''[[幕末の四賢侯|四賢侯]]'''」を中心とする[[討幕]]派[[大名]]および「'''[[維新の十傑]]'''」に代表される下級藩士や[[三条実美]]・[[東久世通禧]]ら[[七卿落ち]]事件に連座していた開明派の[[公家]]を中心として発足した新政府は[[封建制|封建的支配制度]]を解体し、天皇を中心とした'''[[中央集権]]的国家体制'''の基礎を固めていった。幕府や[[摂政]]、[[関白]]、[[征夷大将軍]]、[[内覧]]、[[議奏]]、[[京都守護職]]、[[京都所司代|所司代]]などは廃止され、それに代わり[[九条家]]に太政官代が置かれ、[[総裁]]・[[有栖川宮熾仁親王]]、[[議定]]、[[参与]]の三職および神祇・内国・外国・陸海軍・会計・刑法・制度の行政七科、徴士・[[貢士]]が置かれたが、下級藩士の実力者達は公家や雄藩の大名たちと並んで新政府に加わった。[[薩摩藩]]・[[土佐藩]]・[[安芸藩]]・[[尾張藩]]・[[越前藩]]五藩軍隊の[[京都御所]]警備の下、成立当日の夜の[[小御所会議]]で激論の末、慶喜に[[内大臣]]の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることを決めた。ここに700年の[[武家政治]]の諸法度は終焉した。
戊辰戦争のさなかの1868年(慶応4年)3月には、[[由利公正]]・[[福岡孝弟]]の起草により天皇が群臣を従えて神々に誓うという形式で「'''[[五箇条の御誓文]]'''」を定め、[[公議輿論]]の尊重、開国親和など新しい政治理念の基本を宣言した。翌日に「[[五榜の掲示]]」を掲げた。その内容は[[五倫]]の道(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道徳)を説き、徒党・強訴・[[キリスト教]]を禁止するなど旧幕府の政策を引き継いだものであったが、数年以内に廃止された。閏4月21日には五箇条の御誓文を受けて「[[政体書]]」を公布。[[太政官]]の下に上局と下局からなる二院制の[[議定官]]が置かれ、上局は[[議定]]と[[参与]]から、下局は各藩と藩から送られた[[貢士]]で構成した<ref group="注釈">幕府直轄領は新政府の支配下に置き、大名領は藩のまま。[[福澤諭吉]]の『[[西洋事情]]』や米国憲法を参考にした。</ref>。次いで政府は[[太政官]]・[[神祇官]]と呼ぶ[[官吏]]制度を整えた。天皇親政の下に、公家や藩主に並んで参与に任じられた9藩士、[[小松清廉|小松帯刀]]([[薩摩藩]])・[[大久保利通]](薩摩藩)・[[木戸孝允]]([[長州藩]])・[[広沢真臣]](長州藩)・[[後藤象二郎]]([[土佐藩]])・[[福岡孝弟]](土佐藩)・[[副島種臣]]([[佐賀藩]])・[[横井小楠]]([[熊本藩]])・[[由利公正]]([[福井藩]])の9名は「'''[[朝臣]]'''」となり、藩主から独立した地位を得た{{sfn|維新前夜の群像5|p=140}}。
<gallery class="center">
Komatu Tatewaki.jpg|{{center|[[小松清廉|小松帯刀]]}}
Toshimichi Okubo 4.jpg|{{center|[[大久保利通]]}}
Takayoshi Kido suit.jpg|{{center|[[木戸孝允]]}}
Hirosawa Saneomi.jpg|{{center|[[広沢真臣]]}}
Goto Shojiro.jpg|{{center|[[後藤象二郎]]}}
Fukuoka Takachika.jpg|{{center|[[福岡孝弟]]}}
Soeji Taneo 1.jpg|{{center|[[副島種臣]]}}
Portrait of Yokoi Shonan.jpg|{{center|[[横井小楠]]}}
Kimimasa Yuri 3.jpg|{{center|[[由利公正]]}}
</gallery>
=== 東京奠都・版籍奉還・廃藩置県 ===
[[画像:Emperor Arriving in Tokyo by Kobori Tomoto (Meiji Memorial Picture Gallery).jpg|230px|thumb|明治天皇の東京行幸]]
[[画像:Magokoro10-1-4.jpg|230px|thumb|廃藩置県]]
人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には[[年号]]を「'''明治'''」(読み:めいじ)と改めて、'''天皇一代の間に一年号'''とする「'''[[一世一元の制]]'''」を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、[[東征大総督府]]軍監・[[江藤新平]]は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と[[岩倉具視]]に建言。これに前[[内大臣]]・[[久我建通]]ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、[[大久保利通]]が「'''大坂遷都論'''」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、[[大坂]]に行幸するという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった{{sfn|維新前夜の群像5|p=134}}。これに、京都市民や[[神道家]]が反発し、[[伊勢神宮]]祠官・山田大路陸奥守親彦が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は[[東京]]と改称され、鎮将府、[[東京府]]設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の[[三条実美]]が[[駿河]]以東の13ヶ国を管轄し、京都と東京に2つの政府が並立する形となった{{sfn|維新前夜の群像5|p=142}}。
江戸の東京への改称後、[[即位の礼#明治の即位の礼|8月27日に即位式]]を挙げた[[明治天皇]]が[[京都]]から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を[[皇居]]とし、東京城と改称した。<ref group="注釈">天皇東幸の際、新政府は、東京市民および近郊の農民にご祝儀として酒・土器・錫製の瓶子・鯣などを下賜し、徳川贔屓の江戸っ子に天皇の恩沢を浴させ、人心収攬に努めた</ref><ref name=":0"/>。12月7日には、東京城に宮殿を造営すると布告されるなど、東京奠都の準備も着々と進められた<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=明治維新 隠された真実|year=2019|publisher=日本経済新聞出版社|page=41|author=安藤優一郎}}</ref>。天皇は8日に東京を発って京都に帰ったが、この東幸に平行する形で、外交事務を執る[[外国掛]]である[[議定]]・[[松平春嶽|松平慶永]]、[[浅野長勲]]、[[山内豊信]]、[[正親町三条実愛]]、[[外国公使]]・[[正親町公董]]、[[烏丸光徳]]、[[参与]]・[[三岡八郎]](由利公正)、[[後藤象二郎]]、[[岩下方平|岩下佐次右衛門]](方平)らは各国公使に国書を手渡す必要性から先だって東京、[[大坂]]、[[神戸]]を往来した<ref name=":0" /><ref>{{Cite journal|和書|author=三上昭美 |title=外務省設置の経緯-わが国外政機構の歴史的研究 (1)-:日本外交史の諸問題 I |journal=国際政治 |ISSN=0454-2215 |publisher=日本国際政治学会 |year=1964 |volume=1964 |issue=26 |pages=1-21 |naid=130004302047 |doi=10.11375/kokusaiseiji1957.26_1 |url=https://doi.org/10.11375/kokusaiseiji1957.26_1 |accessdate=2022-01-12}}</ref>。同年11月、[[姫路藩]]主[[酒井忠邦]]が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」<ref group="注釈">藩が持っているものを全部朝廷に返し、それをうまく利用して新しい国家作りに役立てて貰いたい。</ref> という案を出してきた他、木戸孝允が此の案を取り上げた{{sfn|半藤.幕末史|p=373}}。12月22日京都[[還幸]](翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時'''御一新'''と呼ばれた<ref group="注釈">1869年(明治2年)春には、議定は16人、参与は14人に増加したが後に整理が行われた。当時の狂歌に「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」と謳われ、非常に惨憺たる調子で明治政府は始まった。</ref>{{sfn|半藤.幕末史|p=370-371}}。
新政府は未だ財政的・軍事的・制度的基礎が固まっておらず、大久保・木戸らの策謀に強い憤りを抱いていた土佐藩主・[[山内容堂]]や自らを出し抜いた家臣に反感を抱いていた薩摩藩主の[[島津久光]]、[[長州藩主]]の[[毛利敬親]]らは早々に[[所領]]に引き篭もった。特に、[[朱子学]]の教養と[[水戸学]]の歴史観を持つ保守思想家の[[島津久光]]の下には、武士階級の復活を願う全国の士族が集まり封建党など様々な士族結社が結成されていた<ref>{{Cite book|和書|title=『九州と明治維新』第2巻|year=1985|publisher=国書刊行会|page=440|author=藤野保}}</ref>。この状況から新政府は大久保利通らを薩摩藩に派遣して説得に当たらせたが、明治3年([[1870年]])[[2月24日]]に久光は明治政府を「'''洋夷の属国'''」として罵倒し、[[内閣顧問]]に任命される明治6年([[1873年]])まで上京に応じなかった<ref>{{Cite book|和書|title=日本の戦史|year=1965|publisher=徳間書店|page=29|author=陸軍参謀本部}}</ref>。
そんな中で、新政府は諸大名の反発を買わぬように、[[版籍奉還]]、[[廃藩置県]]と段階を踏んで郡県制に移行することを目指した。1869年(明治2年)1月14日、[[京都]]で薩摩・長州・土佐三藩の会合が[[京都]][[円山]]で持たれ、薩摩から大久保、長州から[[広沢真臣]]、土佐から[[板垣退助]]が出席した。そして三藩主連名で土地・人民を朝廷に返上する旨の建白書を提出することで合意した<ref>{{Cite book|和書|title=明治維新 隠された真実|year=2019|publisher=日本経済新聞出版社|page=101|author=安藤優一郎}}</ref>。また薩長土の三藩は[[副島種臣]]に働きかけて、肥前佐賀藩主・[[鍋島直正]]を動かした<ref>{{Cite book|和書|title=『佐賀県史』下巻(近代編)|year=1697|publisher=佐賀県史編纂委員会|page=29|author=佐賀県史料刊行会}}</ref> 結果、同20日に薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の藩主から版籍奉還の上表が朝廷に提出された<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=明治維新 隠された真実|year=2019|publisher=日本経済新聞出版社|page=102|author=安藤優一郎}}</ref>。これが呼び水となって、諸藩は領地と領民を天皇に返上する上表を次々と提出した('''[[版籍奉還]]''')。
これに伴い、各[[藩主]]の処遇が新政府内で話し合われ、大久保ら薩摩の官吏は藩主を藩知事とし、[[世襲]]制にするべきだと主張したのに対し、木戸ら長州の官吏はこれに反対した。最終的に両者の主張を折衷する形で、'''藩主はそのまま[[藩知事]]に任命'''されたが、世襲制は否定された。また、この機に[[公卿]]・諸侯の呼称を廃して[[華族]]と改称し、上・中・下士の区別をやめ全て[[士族]]としたほか、知事の[[家禄]]を石高の十分の一に限定し、藩政と知事家政を分離した。これにより、建前として知事と士族の間の君臣関係が消滅し、各藩は済し崩し的に自立性を奪われて明治政府の地方行政単位に転化した{{sfn|維新前夜の群像5|p=159}}。また、新政府内においても、王政復古時の五藩から、版籍奉還を真っ先に上表した薩長土肥の四藩が主導権を握るようになり<ref group="注釈">だが、薩摩・長州と土佐・肥前の間には溝があり、政府内で一つにまとまっていたわけではなかった。</ref>、越前・尾張・芸州の影響力は低下した<ref name=":1" />。
版籍奉還直後の[[7月8日]]に、[[職員令]]により管制を改革し、'''[[祭政一致]]'''を建前に[[神祇官]]、[[太政官]]を置いて前者を上位とし、太政官に[[左大臣]]と[[右大臣]]、[[大納言]]、[[参議]]、顧問として[[待詔院]]を置いた。人選は大久保の発案で、[[三条実美]]([[右大臣]])、[[岩倉具視]]([[大納言]])、[[副島種臣]]([[参議]])、[[前原一誠]](参議)、待詔院学士は大久保利通、木戸孝允、[[板垣退助]]の3名を選出し、[[薩長土]]三藩の維新の功臣を激務から外して木戸派官吏の追い出しを図った{{sfn|維新前夜の群像5|p=151}} が、その後長州派官吏も[[廣澤真臣]]を参議に推して対抗し内政の主導権争いが続いた。その後、政体書の規定を以て高官公選の互選も行われ、輔相には[[三条実美]]([[公家]])、[[議定]]には[[岩倉具視]](公家)、[[鍋島直正]]([[佐賀藩]]主)、[[徳大寺実則]]([[公卿]])、[[参与]]には大久保利通([[薩摩藩]]士)、[[木戸孝允]]([[長州藩]]士)、[[副島種臣]](佐賀藩士)、[[東久世通禧]](公家)、[[後藤象二郎]]([[土佐藩]]士)、[[板垣退助]](土佐藩士)の10名を選出した。これにより、議定だった諸大名や公卿の多くは免職となり、[[麝香間祗候]]か他職に追いやられ、薩長土肥以外の参与も、越前の由利以外は免職となった<ref>{{Cite book|和書|title=明治維新 隠された真実|year=2019|publisher=日本経済新聞出版社|pages=106-107|author=安藤優一郎}}</ref>。9月に入ると王政復古の論功行賞として「'''[[賞典禄]]'''」を与えた。
新政府が外交方針として開国を決めたことは[[尊王攘夷]]派の怒りを買った。明治2年のうちに[[横井小楠]]・[[大村益次郎]]が早々に暗殺され、長州藩においては同年[[12月1日]]に[[大楽源太郎]]率いる[[奇兵隊]]や[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]等の諸隊が乱を起こし、木戸が鎮圧に当たる始末となり、[[1870年]](明治3年)5月には[[米沢藩]]士・[[雲井龍雄]]の反政府陰謀事件が発覚した。[[1871年]](明治4年)には[[二卿事件]]や[[久留米藩難事件]]、征韓を企画した外務権大丞・[[丸山作楽]]の逮捕事件が勃発した<ref>毛利敏彦著 『江藤新平』 <急進的改革者の悲劇> 中央公論新社 1987年 106ページ</ref>。このように新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。ましてや[[静岡藩]]をはじめとする[[親藩]]・[[譜代]]の諸藩の動静には過敏になっていた。その結果、雲井龍雄処刑の責任者であった広沢が1871年(明治4年)[[1月9日]]に暗殺されるなど片翼飛行を始めた。また、国政を薩長土肥が牛耳っていたことも批判を浴び、明治3年7月26日には[[薩摩藩]]士・[[横山安武|横山正太郎]]が[[集議院]]門前で抗議の[[切腹]]を行った。政府内では薩長土肥の対立に加え、[[太政官]]と[[民部省]]、[[大蔵省]]をめぐって大久保と木戸が対立し、薩長間で抗争が繰り広げられており、世情は不安定だった<ref>{{Cite book|和書|title=明治維新 隠された真実|year=2019|publisher=日本経済新聞出版社|author=安藤優一郎|pages=117-130}}</ref>。
こうした中で、政府は9月に「[[藩制]]」を公布し、藩への統制をさらに強めた<ref>{{Cite book|和書|title=明治維新 隠された真実|year=2019|publisher=日本経済新聞出版社|page=160|author=安藤優一郎}}</ref>。藩に共通する職制、財政の規定を示し、重要な賞罰は政府の許可を得ることや、藩士身分の単純化、藩債、[[藩札]]の整理を命じたのだ。他方、政府への不満を抑えるため、[[11月29日]]、全国諸藩の注視を集め、藩地に帰郷した[[島津久光]]と藩政改革を通して[[薩摩藩]]の軍備強化に努め、全国から集結した[[士族]]約1万2000人の兵士大軍団を束ね、政府への無言の威圧となっていた薩摩藩士・[[西郷隆盛]]を説得するため、[[岩倉具視]]を勅使、随員として[[大久保利通]]と[[木戸孝允]]が島津久光と西郷隆盛の上京を求めて鹿児島に向かい、西郷隆盛の受諾を得てようやく政権を安定させた{{sfn|維新前夜の群像5|p=172}}。
こうして世情が安定すると、政府は1871年(明治4年)7月にまず[[薩長土]]の3藩から[[御親兵]]を募って中央の軍事力を固め、次いで一挙に'''[[廃藩置県]]'''を断行した。全国の261藩は廃止され、3[[府]]302[[県]]に変わり、日本は'''中央集権的統一国家'''となった。[[藩知事]]と[[士族]]の[[禄]]は保障され、藩債を肩代わりした。身分制度の改革を行い、[[大名]]・[[公家]]を[[華族]]とする華族制度([[日本国憲法]]が施行されるまで存在した、西洋式に倣った日本の貴族制度)の創設と、[[武士]]身分を[[士族]]として、農工商民([[百姓]]・[[町人]])などを[[平民]]とし、[[日本人]]([[大和民族]])は皆「[[国民]]」(明治憲法下では「臣民」とも呼ばれた)とされ、[[日本国民]]全員に[[苗字]]の公称を認めた[[士農工商|四民(士農工商)平等]]政策を取った。[[戸籍法]]を制定し、華族・士族の[[散髪]]、脱刀並びに華士族平民間通婚を自由にし、[[田畑]]勝手作りを認め、府県官制制定を行い華士族の農工商従事を許可した。なおこれらとは区別して、[[天皇]]と血縁関係のある[[皇族]]([[皇室]]構成員)の地位もまた定められた。[[1871年]](明治4年)には、いわゆる[[解放令]]によってこれまで[[穢多|えた]]、[[非人|ひにん]]とされていた[[賎民]]の人々も平民に編入された<ref group="注釈">一方、[[家族制度]]については、それまでの武士階級の慣習に則り、[[1876年]](明治9年)に「婦女は結婚してもなお所生の氏(婚姻前の氏)を用いること」、すなわち[[夫婦別姓]]が原則とされるなど、現代とは異なる。夫婦同氏の原則に移行したのは[[1898年]](明治31年)に明治[[民法]]が制定されてからである。</ref>。ただし、その後も[[部落問題]]として余韻は残したままとなった。
=== 明治国家の形成 ===
[[1869年]](明治2年)に、[[律令制度]]の行政機構を復活させ、役所機構を整備して[[宮内省]]・[[民部省]]・[[大蔵省]]・[[刑部省]]・[[兵部省]]・[[外務省]]の六省を設置したが、律令体制時代に存在した[[中務省]]・[[式部省]]・[[治部省]]の三省は復活設置されなかった。しかし、[[戸籍]]、[[土木]]、[[租税]]、[[駅逓]]、[[通商]]、[[鉱山]]を管轄する[[民部省]]と[[出納]]、秩禄、[[造幣]]、[[営繕]]を管轄する[[大蔵省]]の民蔵両省の[[官吏]]は、[[財政]]及び[[貿易]]問題で[[外国人]]と接する機会が多く、また職務が実質的合理的思考を必要としたので、[[1870年]](明治3年)4月に太政官が旧朝敵藩の贖罪金免除に大蔵省が反発するなど、しばしば両省の争いが政府内の紛乱の種となった{{sfn|維新前夜の群像5|p=168}}。しかし、後に民部省が大蔵省に統合されると、大蔵省に産業、財政の強大な権力権限が集中し、[[官僚]]社会に強固な勢力を築き上げた。
軍事上の改革では[[民部省]]大輔兼[[軍務官]]副知事の[[大村益次郎]](長州藩士)が「農民を募り親兵」とする[[国民皆兵]]による政府軍を作る計画を進め、[[1873年]](明治6年)1月10日、[[陸軍卿]][[山縣有朋]]を中心に[[徴兵令]]を公布し身分に関わり無く[[満年齢|満]]20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、[[徴兵制度]]の例外として[[戸主]]は徴兵を免除され、主として[[戸主]]以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、[[血税一揆]]が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男子はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)の[[第二次世界大戦]]敗戦までの72年間、人々の生活を支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった{{sfn|御一新の嵐|p=238}}。治安面では[[1874年]](明治7年)東京に[[警視庁 (内務省)|警視庁]]を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、[[1876年]](明治9年)[[金禄公債]]を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した([[秩禄処分]])。これにより[[士族]]の地位は著しく下がった。
外交では1871年(明治4年)11月12日、江戸幕府政権時に西洋諸国間と結んだ[[不平等条約]]改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、[[岩倉具視]]を全権大使、大久保と木戸を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この[[岩倉使節団]]には[[伊藤博文]]、[[山口尚芳]]ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった[[不平等条約]]の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ[[近代化#日本の近代化|日本の近代化]]を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため[[李氏朝鮮]]に外交使節を送ったが、李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、[[大院君]]政府は何らの回答もよこさなかった。次いで、[[釜山]]にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が発生。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「[[征韓論]]」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った<ref group="注釈">征韓論はこの時期に突然起こったのではなく幕末からあった。学者や政治家では国防論の元祖[[林子平]]、[[会沢正志斎]]、吉田松陰、橋本左内、藤田東湖なども大いに関心をもっていた。そして、幕末の志士といわれる人たちの共通の課題であった。だから大君院国家に厳重抗議し、いざとなったら叩き潰すくらいの覚悟を持たなくてはならないという共通意識が前々から定着しつつあった。そのような考えを踏まえて[[西郷隆盛]]は、自分が行って厳重抗議してこよう。それでも言うこと聞かないなら戦いも辞さないという強硬論を唱えた。</ref>{{sfn|半藤.幕末史|p=414-42}}。そこで、政府は8月17日の閣議で[[西郷隆盛]]の朝鮮派遣使節任命を決めた。
[[画像:1873_Seikanron_Debate_Saigo_Takamori_Ukiyo-e_by_Suzuki_Toshimoto.png|300px|thumb|征韓議論図
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{{small|中央左に[[岩倉具視]]、中央右に[[西郷隆盛]]、右に[[江藤新平]]}}。]]
欧米諸国の[[朝鮮]]進出を警戒して、[[西郷隆盛]]・[[板垣退助]]らは朝鮮の開国を迫り'''[[征韓論]]'''を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した([[明治六年政変]])<ref group="注釈">明治維新の年、天皇は16歳だった。新政府の建設は、年少天皇が自ら指揮を執ることのないままに、天皇の名前によって進められていった。1873年(明治6年)10月24日の征韓論不採用の決定は、明治天皇が自らの意見で決定を下した最初の例だといわれる。</ref>{{sfn|御一新の嵐|p=262}}。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、[[江華島事件]]が勃発して1876年(明治9年)[[日朝修好条規]](江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。また、[[清|清国]]に対しては1871年(明治4年)[[日清修好条規]]を結んで[[琉球藩]]を置き、1874年(明治7年)[[台湾]]に出兵した([[征台の役]])。次いで[[1879年]](明治12年)[[沖縄県]]を設置した。ロシアに対しては[[1875年]](明治8年)に[[樺太・千島交換条約]]を結び、[[樺太]]をロシア領、[[千島列島]]を日本領と定めた。また[[小笠原諸島]]・[[尖閣諸島]]・[[竹島 (島根県)|竹島]]も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。
内国行政では[[留守政府]]が1872年(明治5年)2月に[[田畑永代売買禁止令|田畑永代売買]]解禁、4月に[[庄屋]]、[[名主]]を[[戸長]]と改称、7月に全国一般に[[地券]]発行を行い、帰国した大久保は1873年(明治6年)に[[内務省 (日本)|内務省]]を設置、[[殖産興業]]の育成に力を入れて[[お雇い外国人]]らを用いて[[富岡製糸場]]など多くの[[官営工場]]を設立した。財政面では、[[民部省]]を統合した[[大蔵省]]の大蔵卿・大久保と大蔵大輔・[[井上馨]]が改正局を設立して、井上直属の部下の[[渋沢栄一]]を掛長に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の[[藩札]]等を廃止して[[新貨条例]]を制定、貨幣の単位を[[円 (通貨)|円]]・[[銭]]・[[厘]]に統一した。[[1872年]](明治5年)に[[国立銀行条例]]を制定し[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]を各地に作らせた。
[[蝦夷地]]は[[北海道]]と改められて'''[[開拓使]]'''を置き、[[屯田兵]]などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の[[飛脚]]制度にかわり、まず[[三府]](東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)[[郵便]]事業が開始され、[[電信]]も1869年(明治2年)に東京-[[横浜市|横浜]]間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]-横浜間で官営の[[鉄道]]が開通した。海運事業は政府の保護の下に[[三菱商会]]を中心に発達した。
建築等も[[煉瓦造]]の建物が見られるようになり、都心部では家々には石油ランプがともされて街灯には[[ガス灯]]が登場、[[馬車]]や[[人力車]]が走るようになった。軍服には[[洋服]]が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。また、西洋化する日本市場を狙い[[スタンダードチャータード銀行]]や[[バイエル (企業)|フリードリヒ・バイエル]]、[[大北電信会社]]など外資の進出が東京や横浜、神戸などで相次ぎ、また欧米で1850年頃に普及しはじめた[[トイレットペーパー]]が、この頃新聞の普及とともに都心部で急速に普及したが、地方ではまだまだであった。
[[司法]]面では[[法治主義]]と[[司法権]]の自立、[[三権分立]]を推進するため、初代[[司法卿]]・[[江藤新平]]がその任に当たったが、留守中の長州藩の首領・[[近衛都督]][[山縣有朋]]が、[[陸軍省]][[御用商人]]・[[山城屋和助]]の公金費消事件に関わったとされる[[山城屋事件]]、[[大蔵省|大蔵大輔]]・[[井上馨]](長州藩士)が職権を濫用して民間人から尾去沢銅山を巻き上げた事件([[尾去沢鉱山#尾去沢銅山事件|尾去沢銅山事件]])、長州藩出身の[[京都府]]参事・[[槇村正直]]の人民への圧政などを激しく追及、[[裁判所]]設立予算を巡る対立も絡んで3人を一時的に辞職に追い込むなどして[[長州]]閥を一掃したことで江藤は次第に政府内から煙たがられる存在となり、[[留守政府]]の五[[参議]]([[西郷隆盛|西郷]]・[[江藤新平|江藤]]・[[板垣退助|板垣]]・[[後藤象二郎|後藤]]・[[副島種臣|副島]])免職の発端の一つになった。
1873年(明治6年)7月28日には新政府の費用を作り出すため「[[地租改正]]」条例を公布し、[[農地]]の値段を定めて豊作・凶作に関係なく[[地租]]を[[地価]]の3%と定め、土地所有者に現金で納めさせることにした。[[地主]]は土地所有を法的に認められるようになった。しかし地主と[[小作人]]の関係は変わらず、小作人はこれまで通り小作料を現物で地主に納めさせた。自作と小作農は負担がそれまでより軽くならないで苦しい立場に置かれることになった。地主は他の農民の土地を買い、それらの土地をお金に換えて資産を増やしていった。そして一部は土地を処分して資本家に変わっていった。やがて土地を耕すことはすべて小作人に任せ、お金だけ受け取って都市部で暮らす不在地主が増えていった{{sfn|御一新の嵐|p=237-238}}。徴兵令に対する不満と地租改正に反対して百姓一揆がしばしば起こり、1876年(明治9年)に[[三重県]]で発生した[[伊勢暴動]](東海大一揆)、茨城県などの[[地租改正反対一揆]]などを受けて翌年地租率を2.5%に引き下げざるを得なかった。その結果、[[地租]]を納める[[農民]]の負担は江戸時代のおおよそ20%減ることになった。
文化面では1872年(明治5年)11月に[[太陽暦]]を採用、[[文明開化]]の風潮が高まり、[[福澤諭吉]]・[[西周 (啓蒙家)|西周]]・[[森有礼]]・[[中村正直]]らが'''[[明六社]]'''を結成し、著作や講演会を通じて近代的な学問・知識を日本国内に広めたほか、[[中江兆民]]ら新しい思想を説く[[啓蒙思想]]家も現れた。[[印刷]]技術の進歩により、日本最初の日刊新聞「[[横浜毎日新聞]]」を始め[[新聞]]が次々と創刊された。全ての国民が教育を受けられるよう学校制度が整備され、1872年(明治5年)「[[学制]]」を公布して全国に学校が設立された。新政府では[[寺島宗則]]・[[神田孝平]]・[[柳川春三]]といった学者を招聘して運営に当たらせた。教育機関の整備では[[大学寮]]をモデルにした「学舎制」案を[[玉松操]]・[[平田鐵胤]]・[[矢野玄道]]らに命じて起草させた。
[[宗教]]の面では[[神道]]の国民教化を図ろうとして[[神仏分離令]]を出した。これを受け、[[日本の仏教]]に根付いていた[[寺請制度]]に不満を持っていた者も加わり、[[廃仏毀釈]]が行われる事態となる。[[1870年]](明治3年)大経宣布を行い祝祭日を制定した。1873年(明治6年)には天皇の誕生日を[[天長節]](現在の[[天皇誕生日]])、[[神武天皇]]が即位した日([[紀元前660年]][[2月11日]])を[[紀元節]](現在の[[建国記念の日]])とした。1873年(明治6年)に[[キリスト教]]を解禁。後の大日本帝国憲法で定められた[[政教分離原則|政教分離]]という制度的要請から、[[国家神道]](神社非宗教論)に基づく宗教行政に転換していった。
明治新政府の近代化のための変革はあまりにも性急で、国民生活の実情を無視していた点も多かった。特に、[[廃藩置県]]と[[徴兵令]]は士族の武力独占を破り、[[御親兵]]は[[近衛兵]]と改称され、中央集権を企図した地方行政制度である[[大区小区制]]は、従来の地方自治を無視して中央の命令の伝達と施行しかしない機関を設けたため極めて不評で、地方自治をある程度尊重した[[郡区町村編制法|郡区町村制]]に短期間で改められている。新政府の枢要な地位はほとんど[[薩長土肥]]の[[藩閥]]人物で構成されていたため全国の[[士族]]は特権を奪われ、経済的にも行き詰った。政府に対する士族の不満が高まった結果、[[民撰議院設立建白書]]を発端に[[士族反乱]]・[[自由民権運動]]が起こり、ついには1874年(明治7年)に[[岩倉具視]]暗殺未遂事件([[喰違の変]])が勃発した。
[[喰違の変]]の後、[[大久保利通]]は、征韓派士族に不満の捌け口を与えるため、[[台湾]]征討に手を付けた。台湾蕃地事務都督に[[西郷従道]]を任命し、「'''[[台湾出兵]]'''」を行った。[[1874年]](明治7年)5月に征台軍は蕃地を平定。大久保利通は、特命弁理大臣となり[[清国]]の[[北京]]にて会談し、清国は日本国に償金50万[[両]]を支払うとの条件で合意した。台湾問題を片づけた大久保は、西南戦争中にもかかわらず、[[内務省 (日本)|内務省]]主導で総裁・大久保利通、副総裁・[[松方正義]]の下で、第一回[[内国勧業博覧会]]を開催。[[製鉄所]]や紡績所を経営して士族授産事業と[[殖産興業]]が進み、それと並行して[[秩禄処分]]が進められたため、士族反乱に乗じなかった士族は、次第に[[ブルジョアジー]]と[[プロレタリアート]]に分解した{{sfn|維新前夜の群像5|p=191}}。
=== 士族反乱(自由民権運動) ===
[[画像:Eto Shimpei and Shima as fugitives 1874.jpg|thumb|[[佐賀の乱]]の首謀者。[[江藤新平]]と[[島義勇]]。]]
[[画像:Kagoshima battle.jpg|300px|thumb|[[西南戦争]]。鹿児島付近の衝突。]]
1873年(明治6年)の'''[[征韓論]]'''政変により下野した[[板垣退助]]は翌1874年(明治7年)[[後藤象二郎]]・[[江藤新平]]・[[副島種臣]]らと[[愛国公党]]を結成、[[由利公正]]らと[[民撰議院設立建白書]]<ref group="注釈">この建白書を起草したのは古沢滋である。その最初に「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而も独り有司に帰す」で始まる。</ref>{{sfn|丸山真男|1976|p=309}} を明治7年(1874年)1月政府左院に提出し、[[高知県|高知]]に[[立志社 (政治団体)|立志社]]を設立する。この建白書が各地の新聞に掲載されたことで、政府に不満を持つ士族を中心に運動が進められるようになった。一方、民選議院を設立すべきか否かの議論も新聞雑誌紙上で盛んに交わされるようになった<ref group="注釈">尚早論を唱えたのは[[加藤弘之]]で、これに反駁したのは[[大井憲太郎]]である。新聞では[[朝野新聞]]、曙新聞、[[郵便報知新聞]]などが民選議院論を唱え、これに対して[[福地源一郎]]が主筆の[[東京日日新聞]]が、民選議員尚早論を唱え大いに論争した。</ref>{{sfn|丸山真男|1976|p=310}}。翌1875年(明治8年)には[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]が結成されるが、[[大阪会議]]で板垣が[[参議]]に復帰して[[立憲政体の詔書|漸次立憲政体樹立の詔]]を出すとともに、官選の[[元老院 (日本)|元老院]]を設け[[大審院]]を置いて裁判制度を整備し、[[地方官会議]]を開いて地方議会の開設について討議した。また一方で、政府は[[新聞紙条例]]や[[讒謗律]]を制定して急進的な反政府の言論活動を取り締まった。後になり立志社が[[西南戦争]]に乗じて挙兵しようとしたとする[[立志社の獄]]が発生して幹部が逮捕されている。
民撰議院設立建白書に名を連ねた[[江藤新平]]は1874年(明治7年)郷里の佐賀で[[島義勇]]と共に不平士族の首領となって反乱を起こした('''[[佐賀の乱]]''')。政府はこれを鎮圧したが、[[廃刀令]]や[[家禄]]制度の廃止などによって[[士族]]の不満はいっそう高まった<ref group="注釈">佐賀の乱を受けて、政府では[[内閣顧問]]の[[島津久光]]が帰郷。近衛局長官[[陸軍少将]]・[[篠原国幹]]や陸軍少将・[[桐野利秋]]といった将官が[[鶴丸城]]下で「[[私学校]]」を創設して士族を教育した。</ref>。1876年(明治9年)熊本で[[神風連の乱]]、福岡で[[秋月の乱]]、山口で[[萩の乱]]と一連の士族反乱が起こり、翌[[1877年]](明治10年)ついに[[西郷隆盛]]を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に対して兵を挙げた('''[[西南戦争]]''')。西南戦争は政府にとっても大きな試練で、新しい軍隊を総動員して約8ヶ月に渡って[[九州]]各地で激しい戦闘が展開された。戦争のさなか木戸が病死、西郷も自刃し、翌[[1878年]](明治11年)には大久保が東京で不平士族の[[島田一郎]]ら6名により暗殺された([[紀尾井坂の変]])。こうして明治政府の「[[維新三傑]]」体制は終わりを告げ、[[薩長]][[元老]]による官僚[[藩閥]]政権が確立した。
[[自由民権運動]]の共通の目的は国会開設であった。次第に[[農民]]の間にも支持層が広がり、[[1880年]](明治13年)全国の民権派団体が[[大阪]]に集まって[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]の大会を開き、[[国会期成同盟]]を結成し8万7千名余の[[署名]]を連ねた。[[私擬憲法]]が草案され始め、40編以上が発表された。[[イギリス]]流の二院制の議会政治([[交詢社]]、[[嚶鳴社]])、人民主権と一院制(立志社、[[植木枝盛]])、君権主義([[五日市憲法]])などのように民権派から発表されたものが多かった。[[1881年]](明治14年)[[開拓使官有物払下げ事件]]に端を発した[[明治十四年の政変]]で、[[井上毅]]・[[伊藤博文]]・[[岩倉具視]]らドイツ流憲法の支持者は即時国会開設を唱えていた急進派[[官吏]]を政府から追放する一方「[[国会開設の詔勅]]」を発し、[[1890年]](明治23年)に議会を開設することを国民に約束した。その結果、明治政府から追放されることとなった[[板垣退助]]は[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]を、[[福地源一郎]]は[[立憲帝政党]]を、[[大隈重信]]は[[立憲改進党]]を結成し、来る国会開設の準備を図ろうとした。
[[1882年]](明治15年)道路造成事業に反対した農民や[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]員らが検挙され([[福島事件]])、続いて[[加波山事件]]・[[秩父事件]]など東日本各地で自由党員らによる暴発事件が起こった。こうして自由民権運動は衰退していき、[[1887年]](明治20年)[[大同団結運動]]を起こしに政府に迫ったが、政府は[[保安条例]]を発して多くの民権運動家を東京から追放した。財政面では、西南戦争後の[[インフレーション]]の整理を図るため、[[財務大臣 (日本)#民部・大蔵卿|大蔵卿]][[松方正義]]を中心に1882年(明治15年)に[[日本銀行]]を創立し、[[1885年]](明治18年)から正貨である銀貨と引き換えのできる[[兌換紙幣]]を発行させた([[銀本位制]])。また[[官営工場]]を民間に払い下げた影響から[[政商]]が生まれ、のちにこれらは[[財閥]]を形成していった。
1882年(明治15年)、政府内で実権を握った伊藤は憲法調査のためヨーロッパを訪問<ref group="注釈">出発前に、伊藤博文は、右大臣岩倉具視から5条の憲法制定の綱領を示されていた。
#我が国の憲法は欽定憲法とする。
#国会の構成と運営は、イギリス流を廃し、プロシャ流のそれによる。
#国務大臣は、天皇の親任による。
#大臣は天皇に対し、おのおの責任を負い、連帯責任としない。
#5予算が国会で成立しないときは、前年度の予算を施行できるようにする。
この岩倉の基本方針には、伊藤も賛成であった。</ref><ref>長部日出雄著 『マックス・ヴェーバー物語 -二十世紀を見抜いた男- 』 新潮社 《新潮選書》 2008年 132ページ)</ref>。帰国後[[1884年]](明治17年)[[華族令]]を制定して国家の功労者にも[[爵位]]を与えて[[華族]]とし、[[貴族院 (日本)|貴族院]]を作るための華族制度を整えた。1885年(明治18年)には太政官制を廃止して[[内閣 (日本)|内閣制]]を導入し、初代[[内閣総理大臣]]には伊藤博文が就任、[[1888年]](明治21年)新設された[[枢密院 (日本)|枢密院]]の議長にも就任した。1888年(明治21年)には[[市制]]、[[町村制]]、[[府県制]]、[[郡制]]が公布され地方自治制が実施された。1889年(明治22年)[[大日本帝国憲法]]、翌1890年(明治23年)[[教育勅語]]が発布された。
伊藤以降の初期内閣の構成はいずれも[[薩摩藩]]([[黒田清隆]]、松方正義)と[[長州藩]](伊藤博文、[[山縣有朋]])を中心にして組閣され、1890年(明治23年)11月25日[[帝国議会]]の幕が開いた。以後激しい選挙干渉にて[[民党]]を抑えようとしたが、[[1892年]](明治25年)に成立した[[第2次伊藤内閣]]の時には政府と[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]が次第に歩み寄りを進め、協力して政治を運用するようになった。
<gallery class="center">
ITŌ Hirobumi.jpg|{{center|[[伊藤博文]]}}
Kiyotaka Kuroda formal.jpg|{{center|[[黒田清隆]]}}
Yamagata Aritomo.jpg|{{center|[[山縣有朋]]}}
Masayoshi Matsukata posing.jpg|{{center|[[松方正義]]}}
</gallery>
=== 条約改正問題 ===
{{seealso|外国人司法官任用問題}}
[[画像:Rokumei-kan ni okeru kifujin jizenkai no zu.jpg|200px|thumb|[[鹿鳴館]]]]
[[画像:Aoki Shuzo.jpg|150px|thumb|[[青木周蔵]]]]
[[19世紀]]後半に[[アジア]]の多くの国々は欧米諸国の[[植民地]]となっていたが、[[幕末]]以来の不平等条約を改正して[[関税自主権]]の確立(税権回復)と[[領事裁判権|領事裁判制度]]の撤廃(法権回復)とを実現することが、日本にとって欧米諸国と対等の地位に立つためには何よりも重要であった。[[1871年]](明治4年)、日本と[[清国]]は[[日清修好条規]]に調印。[[1873年]](明治6年)に[[外務卿]]・[[副島種臣]]は、清国皇帝に謁見し日清修好条規批准書の交換を行った。
[[1878年]](明治11年)に[[外務卿]]・[[寺島宗則]]の下で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との間で税権回復の交渉が成立したが、[[イギリス]]などの反対により新しい条約は発効しなかった。後を継いだ[[外務卿]]・[[井上馨]]は[[欧化政策]]を取り、風俗や生活様式を[[西洋化]]して交渉を有利に運ぼうとした。[[1883年]](明治16年)に[[日比谷]]に建てられた「[[鹿鳴館]]」では、政府高官や外国公使などによる西洋風の[[舞踏会]]がしきりに開かれた。井上の改正案は外国人に日本国内を開放([[内地雑居]])するかわりに税権の一部を回復し、[[領事裁判権|領事裁判制度]]を撤廃するというものであったが、[[国権]]を傷つけるものだとして政府内外から強い反対が起こり、[[1887年]](明治20年)交渉は中止され、井上は辞職した。
これに続いて、[[1889年]](明治22年)大隈重信外相がアメリカ・[[ドイツ帝国|ドイツ]]・[[ロシア帝国|ロシア]]との間に新条約を調印したが、[[大審院]](現在の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に相当)に限り外国人[[裁判官]]の任用を承認していたので、『[[日本 (新聞)|新聞日本]]』を基盤に持つ[[東邦協会]]メンバーを皮切りに[[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]を率いる保守派の[[品川弥二郎]]や[[鳥尾小弥太]]、民権派の[[星亨]]を中心として再び国内に反対運動が起きた。大隈は[[玄洋社]]の活動家に爆弾を投げつけられて負傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、またその後も[[青木周蔵]]外相の交渉が[[1891年]](明治24年)に訪日したロシア帝国皇太子(当時、後の[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]皇帝)が滋賀・[[大津市|大津]]で警護の[[日本の警察官|警察官]]に襲われて負傷([[大津事件]])したことにより挫折するなど、条約改正は難航した。
その後、イギリスは[[東アジア]]におけるロシアの勢力拡張に警戒心を深め、日本との条約改正に応じるようになった。[[1894年]](明治27年)に[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[陸奥宗光]]は駐英公使[[青木周蔵]]に交渉を進めさせ、[[イギリス]]との間で[[領事裁判権]]の撤廃と[[関税自主権]]の一部回復を内容とした「[[日英通商航海条約]]」の調印に成功した。関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。
=== 大日本帝国憲法 ===
[[画像:Ceremony for the Promulgation of the Constitution by Wada Eisaku.jpg|225px|thumb|大日本帝国憲法の発布式]]
[[画像:Inoue Kowashi.jpg|150px|thumb|[[井上毅]]]]
{{main|大日本帝国憲法}}
;憲法制定に至るまで
:[[伊藤博文]]は[[井上毅]]、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]、[[ヘルマン・ロエスレル]]らと憲法制定の準備を開始し、1888年(明治21年)[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置した。そして、1889年(明治22年)[[黒田清隆]]内閣の時に君主権が強い[[プロイセン王国|プロイセン]]憲法を模倣した[[大日本帝国憲法]]が明治天皇から臣下に授ける形で制定された。
;大日本帝国憲法の内容
:同憲法は[[天皇]]を[[大日本帝国憲法第3条|第3条]]で神聖不可侵と規定し、[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]で統治権を総攬する[[元首]]と規定した。つまり形式上は天皇が権力の総元締ということになった。
:三権に関しては以下の通りである。第1に[[立法]]権であるが天皇は第5条において[[帝国議会]]の協賛を以って行使すると規定された。天皇の立法権は概ね法律の裁可が中心で、またその裁可には国務大臣の[[連署・副署|副署]]が必要とされた。つまり、大臣の副署を経てから天皇が裁可し法案が成立する、という形式である。また、帝国議会は[[選挙]]で選ばれる国会議員からなる[[衆議院]](下院)と[[華族]]や[[皇族]]などからなる[[貴族院 (日本)|貴族院]](上院)の[[二院制|二院]]で構成された。第2に[[行政]]権であるが、後の[[日本国憲法]]と異なり[[議院内閣制]]に基づく連帯責任ではなく、第55条で各国務大臣は天皇を輔弼し個別に責任を負うものであった。第3に[[司法権]]であるが、第57条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うものであった。
:この憲法の問題は主なものに以下の2つが挙げられる。第1は第11条に規定されている「天皇は陸海軍([[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍]])を統帥する」という規定であった。[[陸軍省]]・[[海軍省]]を有する内閣や帝国議会は軍部(陸軍:[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]、海軍:[[軍令部]])に対して直接関与できなかった。第2は第21条で規定された「法律の範囲内において自由である」という[[臣民]](国民)の権利であった。
:また、[[黒田清隆]]首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢」を示し、議会と対立した。
:その後1889年(明治22年)の[[大日本帝国憲法]]公布に伴い「[[衆議院]][[議員]][[選挙]]」法が公布され、「直接国税15円以上を納税した満25歳以上の男子のみ」に[[選挙権]]を与えた制限選挙を実施し、1890年(明治23年)に最初の第1回[[帝国議会]]が開会された。
;発布
:憲法の発布により天皇中心の国家体制が確立されるとともに国民の権利と自由が認められ、国政参加への道が開かれた。不十分であったとはいえ、他のアジア諸国に先駆けて憲法と議会を持つ近代国家への道を歩み始めた。
:[[日本法]]において[[民法]]・[[商法]]などの諸法典も制定された。民法はフランスの[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]の助言を受け、[[フランス民法典]]と日本の[[慣習法]]を折衷したものであったが、特に「家族制度についての規定が[[家父長制]]に基づく日本の美風に背く」として非難が起こり実施が一時延期された。
=== 日清戦争 ===
{{main|日清戦争}}
[[画像:Mutsu_Munemitsu.jpg|150px|thumb|外相[[陸奥宗光]]]]
日本は[[1882年]](明治15年)の[[壬午事変]]と[[1884年]](明治17年)の[[甲申政変]]を契機に[[朝鮮]]を巡って[[清]]と対立し、[[甲午農民戦争]]を契機に[[1894年]](明治27年)[[日清戦争]]が勃発した。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて[[清]]の方が優位であったが、士気と訓練度で勝った日本は勝利し'''[[下関条約]]'''によって以下の内容を清に認めさせた。
*[[朝鮮]]の'''独立'''の承認
*領土として'''[[遼東半島]]'''、'''[[台湾]]'''、[[澎湖諸島]]の割譲
*[[戦争賠償|賠償金]](2億[[両|両(テール)]]、日本円で3億1千万円)を獲得
*[[重慶市|重慶]]・[[沙市|長沙]]・[[蘇州市|蘇州]]・[[杭州市|杭州]]の4港開港
下関条約の結果、清の朝鮮に対する[[宗主権]]は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった'''[[冊封体制]]'''は終焉を迎えた([[李氏朝鮮]]は[[1897年]](明治30年)[[大韓帝国]]として独立した)。しかし、[[遼東半島]]はロシア、フランス、ドイツの'''[[三国干渉]]'''により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え報復心が煽られた([[臥薪嘗胆]])。
結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方「眠れる獅子」といわれた[[清]]が敗戦したことから、諸列強による中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。加えて、日清戦争の賠償金は[[1897年]](明治30年)の[[金本位制]]施行の源泉となり、[[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]造営([[1901年]](明治34年)開設)の資金となるなど戦果は経済的にも影響を与えた。一方、日本は外国との間にある不平等条約の廃棄を公然と要求しうるようになった。
=== 日露戦争 ===
{{main|日露戦争}}
[[日清戦争]]終了後、[[ロシア帝国]]は清に圧力をかけ、遼東半島の[[旅順]]、[[大連市|大連]]を租借した。また、[[シベリア鉄道]]およびその支線である[[東清鉄道]]を建設し[[南下政策]]を進めていった。とりわけ、[[義和団の乱]](義和団事件)以降、ロシアは[[満洲]]に軍隊を駐留させて利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、[[1902年]](明治35年)イギリスとの間に'''[[日英同盟]]'''を締結した。当時、世界第一の大帝国で「[[栄光ある孤立]]」を貫いていたイギリスが初めて同盟を締結したということとアジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾わせようとするものとする風刺も見られた。その後、満洲、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に[[日露戦争]]が勃発した。
陸軍は遼東半島上陸後、[[旅順攻囲戦]]、[[奉天会戦]]と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。一方、海軍は最終的には[[日本海海戦]]でロシアの[[バルチック艦隊]]を撃滅した。
[[画像:Jutaro Komura.jpg|150px|thumb|外相[[小村壽太郎]]]]
ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、外相[[小村壽太郎]]はアメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]に仲介を依頼して講和に持ち込んだ。日露戦争を終結させた[[ポーツマス条約]]の内容は以下の通りである。
*ロシアは日本の韓国においての政治・軍事・経済の優先権を認める。
*清領内の旅順、大連の租借権および、[[長春]]以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡する。
* [[北緯]]50度以南の[[樺太]](すなわち[[南樺太]])とその付属の諸島を譲渡する。
* [[オホーツク海]]、[[ベーリング海]]の[[漁業権]]を日本に認める。
しかし、[[戦争賠償|賠償金]]は全く取れなかったため、国民の怒りが爆発し、[[日比谷焼打事件]]が起こった。
後の[[大東亜戦争]]時に比べると反戦的な主張も比較的許容されており、[[萬朝報]]によった[[堺利彦]]・[[片山潜]]らの[[反戦運動]]や、[[キリスト教]]の立場からする[[内村鑑三]]の[[非戦論]]も唱えられた。
日露戦争における日本の勝利は[[白人|白色人種]]大国に対する[[有色人種]]小国の勝利であり、[[世界史]]上の意義も大きかった。[[第一次エチオピア戦争]]で[[エチオピア帝国]]が[[イタリア王国]]に勝利した先例はあるが、これはイギリス、フランスの全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は有色人種国家独自の軍隊による白色人種国家に対する近代初の勝利といえる。
=== 条約改正の実現と帝国主義国家への道 ===
[[1905年]](明治38年)、[[韓国統監府]]初代統監には[[伊藤博文]]が任命されたが、[[1908年]](明治41年)に辞任した。また、[[1906年]](明治39年)の[[ポーツマス条約]]で獲得した[[遼東半島]]南部([[関東州]])および[[長春]]以南の[[東清鉄道]]に対し、それぞれ[[関東都督府]]、[[南満洲鉄道|南満洲鉄道株式会社]](満鉄)が設置された。その後[[1909年]](明治42年)7月、[[第2次桂内閣]]が[[韓国併合]]を閣議決定、[[10月26日]]に伊藤は[[ロシア帝国|ロシア]]との会談を行うため渡満したが、[[ハルビン]]に到着した際に[[大韓帝国]]の独立運動家[[安重根]]から撃たれて暗殺された。[[1910年]](明治43年)には[[日韓併合条約]]を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ[[帝国主義]]国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。
[[1911年]](明治44年)、日本はアメリカ合衆国と新しい[[日米通商航海条約]]を締結、イギリス、ドイツ、フランスおよびイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣[[小村壽太郎]]は関税自主権の全面回復に成功し、これにより、かつて江戸幕府の政権時に西洋列強と結んだ不平等条約を対等な国家間条約に改善する[[条約改正]]の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。[[嘉永]]年間以来の[[黒船]]の衝撃と、その後に目指した西欧列強と並ぶ近代国家作りは一応達成された<ref group="注釈">政治・軍事面では西洋と表面上対等になっても、社会的・文化的な近代化が課題として残された。また、表面的かつ性急な西欧列強の模倣に走った明治日本を冷ややかにとらえ、日本の末路に悲観的な見解を示す[[夏目漱石]]のような知識人も少数ながら存在した。</ref>。
その後、[[第一次世界大戦]]の講和により完成した[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ体制]]の世界で、日本は[[1920年]](大正9年)に設立された[[国際連盟]]に[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]として参加、明治維新から約50年という速さで列強国の一つに数えられることになった。
==== 明治年間の条約改正交渉年表 ====
{{main|条約改正|外国人司法官任用問題}}
植民地化されずに自力で[[近代化]]への改革をなした日本は、[[1894年]](明治27年)には[[イギリス|英国]]と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに[[幕末]]以来の[[不平等条約]]の解消を進めた。これを完全に達成したのは[[韓国併合]]以降である。
[[画像:Iwakura mission.jpg|200px|thumb|[[岩倉使節団]]。右から[[大久保利通]]、[[伊藤博文]]、[[岩倉具視]]、[[山口尚芳]]、[[木戸孝允]]。]]
* [[日墺修好通商航海条約]]([[1869年]]〔明治2年〕):欧米諸国の、日本に対する不平等条約体制が完成する。
* [[岩倉使節団]]を派遣([[1871年]]〔明治4年〕):条約改正交渉失敗。
* 外務卿[[寺島宗則]]による交渉([[1876年]]〔明治9年〕- [[1878年]]〔明治11年〕):税権の回復にアメリカは賛成するが英独が反対し頓挫。
* 外相[[井上馨]]による交渉([[1882年]]〔明治15年〕- [[1888年]]〔明治21年〕):[[鹿鳴館]]の建設による[[欧化政策]]、裁判所に外国人判事を採用など→[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]や[[谷干城]]、[[国粋主義者]]の反発、[[ノルマントン号事件]]に対する不首尾もあり、井上辞任。
* 外相大隈重信による交渉(1888年〔明治21年〕- [[1889年]]〔明治22年〕):大審院にのみ外国人判事を採用することがロンドンタイムズ紙にリークされる→[[玄洋社]]の[[来島恒喜]]のテロに遭遇し、辞任。
* 外相[[青木周蔵]]による交渉(1889年〔明治22年〕- [[1891年]]〔明治24年〕):法権回復にイギリスは賛成したが、[[大津事件]]で頓挫。
* [[日英通商航海条約]]([[1894年]]〔明治27年〕):外相[[陸奥宗光]]、イギリスに[[治外法権]]の撤廃([[領事裁判権]]の撤廃)を認めさせる。
* [[日米通商航海条約]]([[1911年]]〔明治44年〕):外相[[小村壽太郎|小村寿太郎]]、アメリカに日本の[[関税自主権]]を認めさせる。
== 産業の変化 ==
[[Image:Jintan 12kai.jpg|thumb|[[1889年]](明治22年)に竣工した東京・浅草の[[凌雲閣]]([[関東大震災]]の影響で[[1923年]]解体)。]]
明治時代で特徴的な点が、[[西洋]]式文物の大量輸入による[[産業革命]]である。
しかし[[明治維新]]が起こった時には[[神仏分離令]]により[[廃仏毀釈]]運動が起こった。[[1870年代]](明治3年〜12年)中期になると、西洋文明の輸入が本格化。[[1872年]](明治5年)の「[[殖産興業]]」による[[日本の鉄道開業|鉄道開業]]と[[富岡製糸場]]設立は、これを象徴する出来事である。
[[松方デフレ]]による不況、[[内国勧業博覧会]]の実施を経て、[[日清戦争]]の勝利によって[[軽工業]]を中心とする[[産業革命]]が本格化した。[[1901年]](明治34年)には、日本初の西洋式製鉄所である[[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]が開業し、[[重工業]]の勃興を告げた。
== 年表 ==
;[[1868年]]([[明治元年]])
:[[明治維新]]、[[神仏分離令]]、7月江戸は[[東京]]と改称、鎮将府が置かれ、[[江戸府]]は[[東京府]]となった。[[東京行幸]]([[9月20日]]発駕〜[[10月12日]]東京着)、[[京都]]還幸(11月)。この年、現在の長野・栃木などの諸県で農民騒擾。
;[[1869年]]([[明治2年]])
:[[東京奠都]]。:[[戊辰戦争]]の終結、[[箱館戦争|五稜郭の戦い]]。[[版籍奉還]](3月)。[[太政官制]]導入。蝦夷地、[[北海道]]と改称、[[開拓使]]設置(8月)。
;[[1870年]]([[明治3年]])
:[[日章旗]]が国旗となる(商船規則)。[[樺太開拓使]]設立。[[庚午事変]]。[[苗字]]許可令(庶民苗字差許)。[[横浜毎日新聞]]発刊。
;[[1871年]]([[明治4年]])
:[[新貨条例]]制定。[[廃藩置県]]、全国の[[府県]]を改廃(3府72県となる)。[[戸籍法]]を定める(翌[[1872年]][[2月1日]]より実施:[[壬申戸籍]])、[[日清修好条規]]、[[新貨条例]]。この年、現在の岡山・島根などの諸県で旧藩主の東京移住に反対して騒擾。[[岩倉使節団]]派遣。[[宮古島島民遭難事件]]。
;[[1872年]]([[明治5年]])
:[[学制]]。[[琉球藩]]設置、[[尚泰王|琉球国王]]の実質的廃位。初めて全国の戸籍調査を実施(総人口3311万825人)。太陽暦の採用(十一月九日の改暦詔書)。[[2月15日]]、[[田畑永代売買禁止令]]を解く、明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]の翌日を明治6年[[1月1日]]とした)。<!--旧暦の日付は漢数字で。-->
;[[1873年]](明治6年)
:[[神武天皇]]の即位日を[[2月11日]]に改めて、[[紀元節]]を制定する。[[徴兵令]]。[[地租改正]]。[[征韓論]]問題([[明治六年政変]]:[[西郷隆盛]]・[[板垣退助]]等が下野)。
;[[1874年]](明治7年)
:[[民選議院設立建白書]]。[[佐賀の乱]]。[[台湾出兵]]。この年、秋田・高知などの諸県で地租改正反対などの農民騒擾約21件。
;[[1875年]](明治8年)
:[[2月13日]]、[[平民]]の称姓布告。[[4月14日]]、[[左院]]・[[右院]]を廃し、[[元老院 (日本)|元老院]]・[[大審院]]・[[地方官会議]]を設置し、暫時立憲政体を建てるとの詔勅出る。[[樺太・千島交換条約]]。[[6月20日]]、第1回地方官会議開く。[[6月28日]]、[[讒謗律]]・[[新聞紙条例]]を定める。[[9月30日]]、[[江華島事件]]起こる。この年、福岡・島根などで農民騒擾約15件。[[大阪会議]]、[[秩禄処分]]、[[国立銀行条例]]。
;[[1876年]](明治9年)
:[[日朝修好条規]](江華条約)、帯刀を禁止([[廃刀令]])、[[筑摩県]]以下の14県を廃合(3府35県)、[[神風連]]の乱・[[秋月の乱]]・[[萩の乱]]・[[思案橋事件]]起こる。茨城県農民一揆・[[伊勢暴動]](三重県農民一揆)。[[小笠原諸島]]を[[日本]]の[[領有]]とする。
;[[1877年]](明治10年)
:[[地租]]を100分の2.5へ軽減、2月15日、[[西南戦争]]始まる(9月24日、西郷隆盛自刃)。[[東京大学]]創設。
;[[1878年]](明治11年)
:[[地方三新法]]、[[紀尾井坂の変]]、1876年1月1日調査の戸籍表を発表(戸数7,293,110人、人口34,338,400)。[[竹橋事件]]。
;[[1879年]](明治12年)
:[[8月31日]]、明宮嘉仁親王([[大正天皇]])誕生。[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]、[[沖縄県]]を設置、[[琉球王国]]滅亡。
;[[1880年]](明治13年)
:[[国会期成同盟]]が結成される。'''[[君が代]]'''に曲がつけられる。
;[[1881年]](明治14年)
:[[開拓使官有物払下げ事件]]→[[明治十四年の政変]]。[[国会開設の詔勅]]出される。→[[大隈重信]]失脚後、[[財務大臣 (日本)#民部・大蔵卿|大蔵卿]][[松方正義]]による[[松方デフレ]])。[[ハワイ王国]]の[[カラカウア]]王来日。
;[[1882年]](明治15年)
:[[福島事件]]。[[壬午事変]]
;[[1883年]](明治16年)
:[[陸軍大学校]]開設。[[鹿鳴館]]開館。
;[[1884年]](明治17年)
:[[群馬事件]]、[[加波山事件]]、[[秩父事件]]、[[甲申政変]]、[[大同団結運動]]
;[[1885年]](明治18年)
:[[大阪事件]]、[[銀本位制]]、[[天津条約 (1885年4月)|天津条約 (日清)]]、[[内閣]]制度が発足。
;[[1886年]](明治19年)
:[[ノルマントン号事件]]
;[[1887年]](明治20年)
:[[保安条例]]
;[[1888年]](明治21年)
:[[海軍大学校]]開設。[[枢密院 (日本)|枢密院]]創設。[[日墨修好通商条約]]締結。[[香川県]]が[[愛媛県]]より独立。[[市制]]・[[町村制]]が公布。
;[[1889年]](明治22年)
:[[大日本帝国憲法]]発布。衆議院議員選挙法・[[貴族院令]]など公布。[[市制]]・[[町村制]]が施行開始。
;[[1890年]](明治23年)
:[[第1回衆議院議員総選挙]](翌1891年3月7日閉会)、第1回[[帝国議会]]召集、『[[教育ニ関スル勅語]]』発布。[[府県制]]・[[郡制]]公布。
;[[1891年]](明治24年)
:[[大津事件]]、[[足尾銅山鉱毒事件]]、[[濃尾地震]]。[[内村鑑三不敬事件|内村鑑三不敬事件。]]
;[[1892年]](明治25年)
:[[第2回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]94議席、後の[[中央交渉部]]83議席、[[改進党]]38議席、選挙干渉で各地に騒擾、死者25人、負傷者388人</ref>。<!--
;[[1893年]](明治26年)-->
;[[1894年]](明治27年)
:[[第3回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">自由党119議席, 改進党48議席, [[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]26議席</ref>、[[第4回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">自由党105議席,改進党45議席, [[革新倶楽部]]40議席, 国民協会30議席</ref>、[[甲午農民戦争]](東学党の乱)。[[日英通商航海条約]]。[[日清戦争]] (- 1895年〔明治28年〕)。
;[[1895年]](明治28年)
:[[下関条約]]で日本が[[台湾]]・[[澎湖諸島]]・[[遼東半島]]を獲得、[[三国干渉]]で遼東半島を領土剥奪。
;[[1896年]](明治29年)
:[[明治三陸地震]]
;[[1897年]](明治30年)
:[[貨幣法]]制定
;[[1898年]](明治31年)
:[[第5回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">自由党98議席、[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]91議席、国民協会26議席</ref>、[[第6回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">[[憲政党]]260議席, [[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]20議席</ref>。<!--
;[[1899年]](明治32年)-->
;[[1900年]](明治33年)
:[[義和団の乱]](義和団事件)。[[治安警察法]]
;[[1901年]](明治34年)
:[[4月29日]]、迪宮裕仁親王([[昭和天皇]])誕生。[[足尾銅山鉱毒事件]]、[[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]の操業が開始される。
;[[1902年]](明治35年)
:[[日英同盟]]締結。[[第7回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">[[政友会]]190議席, [[憲政本党]]95議席,[[帝国党]]17議席</ref>。
;[[1903年]](明治36年)
:[[第8回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">政友会175議席,[[憲政本党]]85議席、帝国党17議席</ref>。
;[[1904年]](明治37年)
:[[日露戦争]](- [[1905年]]〔明治38年〕)、[[第9回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">政友会133議席、憲政本党90議席, 帝国党19議席</ref>。
;[[1905年]](明治38年)
:[[日本海海戦]]。[[ポーツマス条約]]。[[日比谷焼打事件]]。[[第二次日韓協約]]。
;[[1906年]](明治39年)
:[[鉄道国有法]]公布。[[南満洲鉄道]]設立。
;[[1907年]](明治40年)
:[[ハーグ密使事件]]
;[[1908年]](明治41年)
:[[赤旗事件]]。[[第10回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">政友会187議席, 憲政本党70議席, 大同娯楽部29議席, [[猶興会]]29議席</ref>。
;[[1909年]](明治42年)
:[[伊藤博文暗殺事件]]
;[[1910年]](明治43年)
:[[韓国併合]]。[[大逆事件]]([[幸徳事件]]ほか)。
;[[1911年]](明治44年)
:[[関税自主権]]の回復により、[[幕末]]以来の[[不平等条約]]が完全撤廃される。
;[[1912年]](明治45年/大正元年)
:[[国際]][[スポーツ]][[柔道]]を広めた[[嘉納治五郎]]により[[1912年ストックホルムオリンピック]]に日本が初出場。[[第11回衆議院議員総選挙]]<ref group="注釈">政友会211議席, 国民党95議席, 中央娯楽部31議席</ref>。第一次[[護憲運動]](憲政擁護運動)。[[7月30日]]、明治天皇崩御、[[大正天皇|皇太子嘉仁親王]]が天皇に践祚、[[大正]]に改元される。
== 西暦との対照表 ==
※[[明治5年]]までは[[旧暦]]を使用していたため、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])の年とはずれが生じる。<!--詳細は[[明治元年]]〜[[明治5年|5年]]の各年の項目を参照。-->
※は小の月を示す。
{|class=wikitable style="font-size:small"
!nowrap="nowrap"|[[明治元年]]([[戊辰]])!!nowrap="nowrap"|九月※!!nowrap="nowrap"|十月!!nowrap="nowrap"|十一月!!nowrap="nowrap"|十二月※
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|西暦||[[1868年|1868]]/10/23<ref>1868年10月23日(慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])明治に改元。</ref>||11/14||12/14||[[1869年|1869]]/1/13
|-
!nowrap="nowrap"|[[明治2年]]([[己巳]])!!nowrap="nowrap"|一月!!nowrap="nowrap"|二月!! nowrap="nowrap"|三月!! nowrap="nowrap"|四月※!!nowrap="nowrap"|五月※!!nowrap="nowrap"|六月!!nowrap="nowrap"|七月※!!nowrap="nowrap"|八月※!!nowrap="nowrap"|九月!!nowrap="nowrap"|十月※!!nowrap="nowrap"|十一月!!nowrap="nowrap"|十二月
|-
|西暦||[[1869年|1869]]/2/11||3/13||4/12||5/12||6/10||7/9||8/8||9/6||10/5||11/4||12/3||[[1870年|1870]]/1/2
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!nowrap="nowrap"|[[明治3年]]([[庚午]])!!nowrap="nowrap"|一月※!!nowrap="nowrap"|二月!!nowrap="nowrap"|三月!!nowrap="nowrap"|四月※!!nowrap="nowrap"|五月!!nowrap="nowrap"|六月※!!nowrap="nowrap"|七月!!nowrap="nowrap"|八月※!!nowrap="nowrap"|九月!!nowrap="nowrap"|十月※!!nowrap="nowrap"|閏十月※!!nowrap="nowrap"|十一月!!nowrap="nowrap"|十二月※
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|西暦||[[1870年|1870]]/2/1||3/2||4/1||5/1||5/30||6/29||7/28||8/27||9/25||10/25||11/23||12/22||[[1871年|1871]]/1/21
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!nowrap="nowrap"|[[明治4年]]([[辛未]])!!nowrap="nowrap"|一月!!nowrap="nowrap"|二月!!nowrap="nowrap"|三月※!!nowrap="nowrap"|四月!!nowrap="nowrap"|五月!!nowrap="nowrap"|六月※!!nowrap="nowrap"|七月!!nowrap="nowrap"|八月※!!nowrap="nowrap"|九月!!nowrap="nowrap"|十月※!!nowrap="nowrap"|十一月※!!nowrap="nowrap"|十二月
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|西暦||[[1871年|1871]]/2/19||3/21||4/20||5/19||6/18||7/18||8/16||9/15||10/14||11/13||12/12||[[1872年|1872]]/1/10
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!nowrap="nowrap"|[[明治5年]]([[壬申]])!!nowrap="nowrap"|一月※!!nowrap="nowrap"|二月!!nowrap="nowrap"|三月※!!nowrap="nowrap"|四月!!nowrap="nowrap"|五月!!nowrap="nowrap"|六月※!!nowrap="nowrap"|七月!!nowrap="nowrap"|八月!!nowrap="nowrap"|九月※!!nowrap="nowrap"|十月!!nowrap="nowrap"|十一月※!!nowrap="nowrap"|十二月
|-
|西暦||[[1872年|1872]]/2/9||3/9||4/8||5/7||6/6||7/6||8/4||9/3||10/3||11/1||12/1||12/30–12/31<ref>[[旧暦]]は1872年12月31日(明治5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]])まで使われていた。その翌日の1873年(明治6年)1月1日に改められ、[[太陽暦]]に改暦された。</ref>
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{|class=wikitable style="font-size:small"
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== 現代における明治 ==
[[総務省]][[統計局]]の推計では、[[2009年]](平成21年)[[10月1日]]の時点では、日本における明治生まれの[[人口]]は16万6千人で、総人口の0.1[[パーセント|%]]となった<ref>{{PDFlink|[https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2009np/pdf/2009np.pdf 人口推計(平成21年10月1日現在)]}} 総務省統計局ホームページ 2010年4月19日閲覧</ref>。
[[2011年]](平成23年)[[10月1日]]の時点では、日本における明治生まれの[[人口]]は7万1千人で総人口の0.1%<ref>{{PDFlink|[https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2011np/pdf/2011np.pdf 人口推計(平成23年10月1日現在)]}} 総務省統計局ホームページ 2015年9月5日閲覧</ref>。以降の統計では大正生まれの人口と合算して発表されている(2011年の大正生まれの人口は417万人で総人口の3.3[[パーセント|%]]
)。
2012年(平成24年)7月30日で明治生まれは全員[[センテナリアン|100歳以上]]となる。9月発表の百歳以上高齢者(9月15日時点、大正元年7月31日~9月15日生まれを除いて明治生まれである)は5万1千376人<ref>{{Cite web|和書|title=百歳高齢者に対するお祝い状及び記念品の贈呈について |報道発表資料|厚生労働省 |url=https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002ju6v.html |website=www.mhlw.go.jp |access-date=2022-04-23}}</ref>。
[[2017年]](平成29年)[[10月1日]]の時点では、日本における明治・大正生まれの[[人口]]は170万7千人で総人口の1.3%<ref>{{PDFlink|[https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2017np/index.html 人口推計(平成29年10月1日現在)]}} 総務省統計局ホームページ 2018年5月28日閲覧</ref>。
明治生まれで令和改元の日(2019年5月1日)まで生きた人はおおよそ2600人程度<ref>{{Cite news|title=4人に1人が平成生まれ 5代生きる人2千人超か|newspaper=産経ニュース|date=2019年4月2日|url=https://www.sankei.com/life/amp/190402/lif1904020006-a.html|access-date=2022-05-05|archive-url=https://web.archive.org/web/20220506155324/https://www.sankei.com/life/amp/190402/lif1904020006-a.html|archive-date=2022-05-06}}</ref>。
[[2019年]](令和元年)[[10月1日]]の時点では、日本における明治・大正生まれの[[人口]]は114万1千人で総人口の0.9%<ref>{{PDFlink|[https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2019np/index.html 人口推計(令和元年10月1日現在)]}} 総務省統計局ホームページ 2020年10月23日閲覧</ref>。
2020年頃より、47都道府県のうち、それぞれの都道府県内に明治生まれの存命者が一人となったりゼロとなるケースが出てきている<ref>{{Cite web|和書|title=県内最高齢者110歳死去、甘いものと郷土芸能好き:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ286Q6XQ1VULUC00S.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=109歳「ありがとう」忘れず 明治生まれ、県内最高齢達田さんを祝う 敬老の日|社会|石川のニュース|北國新聞 |url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/530315 |website=北國新聞 |accessdate=2022-02-09 |language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210919230614/https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/530315|archivedate=2021-09-19}}</ref><ref>足利の近藤さん県内最高齢に/108歳 2021.05.26 下野新聞朝刊 2頁 社会</ref>。岩手県、栃木県、富山県の各県では、最高齢者の生年が大正元年や二年となっており、明治生まれの存命者が既にいなくなっている<ref>県内最高齢唯一の明治生まれ 鴨野チヨノさん死去/岩手日報 2022年1月26日 2頁 社会</ref><ref>{{Cite web|和書|title=令和3年度 百歳以上の高齢者の状況等について |url=https://www.pref.toyama.jp/1211/houdou/r3/20210914.html |website=富山県 |accessdate=2022-02-09 |language=ja |last=富山県|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210915100325/https://www.pref.toyama.jp/1211/houdou/r3/20210914.html|archivedate=2021-09-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県内最高齢者について |url=https://www.pref.tochigi.lg.jp/e03/houdou/2021saikoureisya.html |website=栃木県 |accessdate=2022-02-09 |language=ja |last=栃木県|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220209064916/https://www.pref.tochigi.lg.jp/e03/houdou/2021saikoureisya.html|archivedate=2022-02-09}}</ref>。
2021年10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの[[人口]]は67万7千人で総人口の0.5%。
2022年7月30日で明治生まれは全員[[スーパーセンテナリアン|110歳以上]]となる。
[[2000年代]]初め頃から、[[誕生日|生年月日]]記入欄で元号を選択させる場合は明治が省かれる(すなわち、大正・昭和・平成の3つから選択させる。)ようになる。ただし、[[行政機関]]の申請・届出書類や[[JR]]各社の[[定期乗車券|定期券]]購入申込書<ref>{{PDFlink|[https://www.jr-odekake.net/icoca/pdf/covenant_iccard.pdf ICカード乗車券取扱約款]}} [[西日本旅客鉄道]]ウェブサイト 2010年4月19日閲覧</ref><!--ICカード以外の定期券申込書は、生年月日記入欄がないようだ-->などでは、[[2010年]](平成22年)の時点では、明治が入っている場合が多かった。
== 明治を冠するもの ==
{{See also|{{前方一致ページ一覧}}|明治 (曖昧さ回避)}}
これらのうち、明治グループ・明治大学の略として「明治」を用いることが多い。
;企業
* [[明治安田生命保険|明治安田生命]](旧明治生命)
* [[明治ホールディングス]](明治グループ)
** [[明治 (企業)|明治]](旧[[明治乳業]]、旧[[明治製菓]])ほか、明治グループ傘下各社
* [[大日本明治製糖]]
* [[明治機械]]
* [[明治屋]]
* [[明治書院]]
* [[明治鉱業]]
* [[明治海運]]
;学校
* [[明治大学]]
* [[明治学院大学]]
* [[明治国際医療大学]]
* [[明治薬科大学]]
;その他
* [[博物館明治村]]
* [[明治館 (曖昧さ回避)]]
* [[明治用水]]
* [[明治治水]]
* [[大日本帝国憲法|明治憲法]]
* [[明治通り (曖昧さ回避)]]
* [[明治会堂]]
;架空の事物
* 関東明治組(コンピューターゲーム『[[探偵 神宮寺三郎シリーズ]]』に登場する暴力団組織)
: また、[[通話表#和文通話表|通話表]]で「[[め]]」を送る際に「'''明治のメ'''」という。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
==参考文献==
* {{Cite book|和書|author=山本博文 |title=元号 : 全247総覧 |publisher=悟空出版 |year=2017 |NCID=BB24631969 |ISBN=9784908117398 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I028478054-00 |ref={{harvid|元号全247総覧}} }}
* {{Cite book|和書|author=毛利敏彦 |title=大久保利通 |publisher=中央公論社 |year=1969 |series=中公新書 |issue=190 . 維新前夜の群像 ; 5 |NCID=BN01804905 |id={{JP番号|73000263}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001209234-00 |ref={{harvid|維新前夜の群像5}} }}
* {{Cite book|和書|author=半藤一利 |title=幕末史 |publisher=新潮社 |year=2008 |NCID=BA88352877 |ISBN=9784103132714 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009987482-00 |ref={{harvid|半藤.幕末史}}}}
* {{Cite book|和書|author=鶴見俊輔 |title=御一新の嵐 |publisher=筑摩書房 |year=2001 |series=鶴見俊輔集 / 鶴見俊輔著 ;続2 |NCID=BA50224375 |ISBN=4480747222 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002971271-00 |ref={{harvid|御一新の嵐}} }}
* {{Cite book|和書|author=丸山真男 |title=戦中と戦後の間 : 1936-1957 |publisher=みすず書房 |year=1976 |NCID=BN01196016 |id={{JP番号|72006837}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I023369325-00 |ref=harv}}
== 関連書籍 ==
* [[宮地正人]]・[[佐々木隆 (歴史学者)|佐々木隆]]・[[木下直之]]『ビジュアル・ワイド 明治時代館』[[小学館]]、2005年、ISBN 978-4096230312
* [[湯沢雍彦]]・[[奥田都子]]・中原順子・佐藤裕紀子 『百年前の家庭生活』クレス出版、2006年、ISBN 4877333363
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
}}{{Wikisource|今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書|一世一元ノ詔}}
*{{prefix}}
*{{intitle}}
* [[明治の人物一覧]]
* [[幕末]]
* [[明治維新]]
* [[大日本帝国]]
* [[東京時代]]
* [[産業革命]]
* [[1860年代]]
* [[1870年代]]
* [[1880年代]]
* [[1890年代]]
* [[1890年代]]
* [[1900年代の日本|1900年代]]
* [[1910年代の日本|1910年代]]
== 外部リンク ==
<!-- 閉鎖 * [http://1868.fc2web.com/links/index.html 明治史研究のためのリンク集] -->
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215200/14 明治政史] - 『[[明治文化全集]]』o9
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB |
1,804 | 園芸学 | 園芸学(えんげいがく、英語: horticultural science)は、農業における園芸のための技術向上と、自然現象の理解、また文化や芸術的な見地から植物を利用した研究や開発を目的とする農学の一分野である。当用漢字制定以前は旧字体で「園藝學」と表記された。
花及び観賞植物、野菜、果樹、庭園を中心にさまざまな植物を扱い、植物学、生物学、自然科学などと深く関連する。そのなかの専門分野としては、果樹園芸学、蔬菜園芸学、花卉園芸学、園芸利用学、造園学がある。野菜、果樹、花及び観賞植物、庭園を中心にさまざまな植物を扱う。
また園芸学を科学的に研究する学者を園芸学者といい、園芸そのものを営みとする者を園芸家という。
日本での研究は、西は南九州大学、香川大学、大阪府立大学、西日本短期大学、東は千葉大学、東京農業大学をはじめ、テクノ・ホルティ園芸専門学校など、各地の大学や農業試験場などにおいて研究が盛んである。また、それら研究機関を横断する学術研究団体として園芸学会が活動している。
都市園芸学(urban horticulture、としえんげいがく)とは、都市環境における園芸植物の栽培やそれに関連する事項の科学と研究を行う学問。都市園芸は、都市化の世界的傾向とともに注目度が高まり、同学問は都市環境における植物栽培と作物収穫のみならず美観、建築や娯楽との関係、心理的目的および効果を研究するためにも活用している。
園芸や自然を人間の文明に取り込むことは、都市の成立に大きく関わってきた。新石器革命の時代、都市はしばしば青果市場や農場を交易拠点として建設されてきたが、数世紀にわたって、栽培は家庭や公共施設などの建築環境と庭園、農場、放牧地、キッチンガーデン、農場、共同放牧地などの形で統合されていった。そのため、園芸は都市の日常生活の一部としても定着していたのであったが、都市化が進行すると、次第に途絶えていく。
ところで、学問としての都市園芸の研究については、産業革命で都市が大きく成長するにつれて、急速に進む。産業革命とそれに伴う人口の増加により、都市景観は急速に変化し、都市緑地はレンガやアスファルトに取って代わられた。19世紀以降、工場地帯の不健康な状況への対応として、一部の都市部で園芸栽培熱が復活すると、都市に公園が整備されるようになる。
初期の都市園芸運動は、不況期の短期的な福祉、「大衆」を高揚させるための人道支援/慈善事業、あるいは愛国心の救済という目的が主だった 。都市園芸の伝統は、第二次世界大戦後、住宅や商業の成長の中心が郊外になっていくにつれ徐々に衰退。経済的に安定を求め、人口のほとんどが都市から郊外に移動し、都市の中心部にはスラムやゲットーだけが残された。ところで、1950年代から1960年代にかけて、公共住宅当局が美化と入居者の誇りを目的に始めた庭園プロジェクトなど、いくつかの例外があった。しかしこれも、多くの場合企業も大都市圏から撤退していくので、荒れ地や分離された貧困地域が発生しだした。特にアメリカ合衆国では、大都市中心部の非投資化が進み、空き地が激増することになる。既存の建物は住めなくなり、家は放棄され、生産性の高い工業用地も空き地になった。
その後に誕生したコミュニティ・ガーデニング、都市農業、フードセキュリティなどの運動体は、上記の問題に地域レベルで立ち向かうための一形態であった。実際、1960年代と1970年代の平和運動、環境運動、女性運動、公民権運動、「都市回帰運動」、1980年代と1990年代の「環境正義運動」など、当時の社会運動は、学校やコミュニティの庭、ファーマーズ・マーケット、都市農業を通じてコミュニティを再生する方法として、これらの空き地に機会を見出していた。
さらに、21世紀に入ってから、地域のコミュニティガーデンや緑地の必要性が認識されるようになり、状況は一変する。都市園芸はコンセプトではなく、その目的が目新しかったのである。こうした運動体の主な目的は、近隣の清掃、空き地で行われる麻薬取引の排除、消費用の食料の栽培と保存、工業地帯への自然の回復、都市部への農業の伝統の導入などであった。本来コミュニティ・ガーデニングとは、社会的・物理的関与を通じて人々と場所の関係を作り出す方法と考えられている。つまり、多くのアーバンガーデンは、さまざまな大きさの空き地に作られ、一般に地域住民によって個々の区画としてガーデニングされるが、このような場所は、社会的、文化的、芸術的なイベントをサポートし、地域のコミュニティ精神の再構築に貢献することができうるとみられたのである。
その後のコミュニティガーデン運動は、行政や非営利団体の支援とともに、近隣住民によって開始されている。公営住宅や学校、教会、社会福祉施設と連携しているところもあり、中には投獄されていた人たちを雇用しているところもある。こうした都市園芸運動の大きな部分を占めるコミュニティ・ガーデンは、以前の大規模な公園開発とは異なり、工業産業主義から人々を解放するためのものであったし、また、コミュニティ・ガーデンは、単なる芝生や公園よりも有益で魅力的であり、原生林がない場所でも自然に触れることができる貴重な存在である。この運動は、都市住民と土との関係を作り、維持することに役立ち、改革的慈善事業の特徴を持たない、異なる種類の都市環境主義にも貢献した。
ただし、アメリカで最初のコミュニティガーデンが誕生してから30年が経過しているにもかかわらず、現在のアーバンガーデンとその組織について、具体的な学術分析がなされていないのが現状である。米国コミュニティ・ガーデニング協会(ACGA)は、約250の市町村で自治体や非営利団体がガーデニング・プログラムを運営していると推定しているが、実際にはこの2倍の規模になる可能性があると、この団体のスタッフは認めている。また、全米ガーデニング協会が1994年に行った調査では、ガーデニングをしていない世帯のうち670万世帯が、近くに区画があればガーデニングに興味を持つと回答している。最近の調査では、経済発展とともにそれらが失われるのではなく、むしろ都市に多くの庭園ができていることが示されている。
今日の都市園芸は、マーケットガーデン、小規模農場、ファーマーズ・マーケットなど、コミュニティガーデン以外にもいくつかの構成要素を持ち、コミュニティ開発の重要な側面となっていることが知られる。都市園芸のもう一つの成果は、いくつかのプロジェクトやプログラムを通じて、地元で栽培された食品が優先され、低コストで栄養価の高い食品を提供する食の安全保障運動へと導いたことである。都市型コミュニティガーデンやフードセキュリティ運動は、工業的農業の問題への対応であり、価格インフレ、スーパーマーケットの不足、食糧不足など、関連する問題を解決するためのものとなっていったのである。
国連食糧農業機関の報告書「アフリカの緑豊かな都市の成長」では、「市場園芸」(「Growing greeners in Africa」) は、「灌漑された商業的な果物や野菜を、その目的のために指定された場所やその他の都市のオープンスペースで生産する」ことは、地元の最も重要な供給源であると述べている。この目的のために指定された場所やその他都市のオープンスペースで灌漑による果物や野菜の商業生産が、データがあるアフリカ27カ国のうち10カ国において、地元で栽培された新鮮な農産物の最も重要な供給源ともなっている。アクラ、ダカール、バンギ、ブラザビル、イバダン、キンシャサ、ヤウンデで消費される葉物野菜のほとんどは、市場用園芸として生産され、アディスアベバ、ビサウ、リーブルヴィルでは、マーケットガーデンが葉物野菜供給の約半分を担っている。報告書によると、アフリカの都市部の大部分では、市場用園芸は非公式で、しばしば違法な活動であり、公式な認識や規制、支援がほとんどないまま発展してきたとされており、そうした園芸人の多くは自分の土地に正式な所有権を持たず、一夜にして土地を失うことも少なくない。園芸に適した土地は、住宅、産業、インフラのために奪われており、不安定な生活から得られる収益を最大化するために、多くの園芸人が農薬や都市廃水の過剰使用が行われているとの報告もなされている。
園芸/ガーデニングには食費や光熱費の節約など、さまざまな経済効果があるとされている。発展途上国では収入の60から80パーセントを食料の購入に費やしていると言われているが、心理学ジャーナルにおいても記事「都市のガーデニングに対する心理社会的要因の相対的影響」(バーバラ・レイク、ミルフロント・タシアーノ、ギャビン・マイケルズ著)では、食料品の購入にお金を節約する一方で、屋上庭園を持つことも人気が高まっていると述べている。屋上緑化は、冬の暖房費を減らし、夏には涼しく過ごすことが可能でまた、屋根の葺き替え等修繕費用を削減する効果もあることから、建物の屋上緑化は都市型園芸学のテーマのひとつともなっており、人々が健康的な食生活を送ると同時に、資産価値も向上させることが知られる。その他にも、商業目的でない雇用の拡大、生産者の食費の削減など、さまざまな経済的効果も分析されている
園芸学は、それ自体が実用的で応用的な科学であるため、私たちの日常生活の中でも重要な意味を持つことができているが、コミュニティガーデンは市場原理に基づく土地利用とは競合しないため、社会的、人間的、経済的な幸福への貢献など、そのさまざまなメリットを理解するための別の方法を見つけることが不可欠であったのである。ニューヨークのセントラルパークを設計したフレデリック・ロー・オルムステッドは、樹木、草地、池、野生動物が都市生活のストレスを静めることも注視しているが、長年の様々な研究によると、自然は人間の健康に非常に良い影響を与えるなど、感情的・心理的な意味では特筆され、樹木や芝生、花畑は、その存在感や視認性から、疲労やイライラを軽減し、穏やかな感覚を取り戻すことで人々の生活満足度を高めることが研究されている。実際、ハニーマン(1992)は都市環境における自然風景の回復価値をテストし、都市環境における植生は、植生のない地域と比較して、より精神回復をもたらすことを発見している。
ガーデニングの健康効果として、野菜や果物の摂取量が増えることは明らかであるが、ガーデニングという行為自体が大きな健康効果をもたらす。ガーデニングは負荷の少ない運動であり、日常生活に取り入れることで、体重を減らし、ストレスを軽減し、健康全般を向上させることが可能であることが知られる。21世紀以降の研究では、コミュニティガーデンをしている人は、していない人に比べて肥満度が低く、体重が少ないことが示された。この研究成果では、ガーデニングをしている男性は、隣人と比べて肥満度が2.36低く、太りすぎである可能性が62パーセント低かったのに対し、女性は隣人と比べて肥満度が1.88低く、太りすぎである可能性は46パーセント低かった。アーバンガーデンへのアクセスは、栄養価の高い食用の植栽を通して健康を改善し、また、人々が外に出て、環境での活動を促進することが可能なのである。
都心の学校でのガーデニングプログラムは、子どもたちに健康的な食習慣を教えるだけでなく、生徒が積極的に学習する事を促す方法として人気が高まっている。
外に出て動くように促す以外にも、生徒を積極的に動かすことができ、また子どもたちは、批判的・創造的思考スキルに加えて、リーダーシップ、チームワーク、コミュニケーション、コラボレーションのスキルも学ぶことが可能。学校でガーデニングを行うことで、子どもたちは新鮮な野菜や果物を食べることによる健康や栄養面でのメリットを家族と共有することができ、また、天候や土壌の状態は常に変化しているため、状況に応じて考え方を変え、創造的に問題を解決すること、学生同士や大人のボランティアなど、多様な人々との交流やコミュニケーションも学びうる。こうしたプログラムは、学生の健康に役立ち、周囲の世界で積極的に貢献できるようになるのである。
庭園やその他の緑地は、社会的な活動を活発化させ、場所の感覚を作り出すのに役立ち、特に貧困、公共交通機関の不足、スーパーマーケットの撤退などの問題を抱える都心部では、栄養価が高く手頃な価格の食品を提供する供給源に大きな格差があるため、都心のコミュニティガーデンは、最も簡単にアクセスできる方法で、手頃な価格で栄養を摂取できる貴重なソースとなり得るのである。
都市園芸のメリットを理解し、それによって最大化するためには、園芸活動の効果を記録し、政府や民間産業が適切な行動を行えるようにそのメリットを定量化することが不可欠である。園芸家は、園芸の植物的、物理的な側面に常に関与してきたが、社会的、感情的な要素に関与することも、地域社会、都市、園芸の分野とその専門家にとって非常に有益なのである。1970年代に国際園芸学会は、都市における植物の機能的な利用に関する研究の必要性と、この分野の研究者と植物を利用する人々のコミュニケーション改善の必要性を認識しており、1982年に都市園芸委員会が設立される。
これは都市部で栽培される植物、管理技術、これらの植物の機能的利用、そしてこの分野に関する現在の知識不足の欠点を扱う委員会である。
都市園芸での作物はおもに植木鉢で栽培されるほか、栽培袋(en:Growbag)や、小さな庭かもしくは都市内の大きな場所に設けた畑で、伝統的もしくはハイテクで革新的な手法を使って栽培される。また、都市の状況に適応し、都市の規制限界に取り組む新しい技術もいくつか開発され散見されている。これには、さまざまな種類の基材を用いた建築地での園芸生産手法もみられる(例:屋上、有機生産、水耕栽培/空中栽培生産)。トレリスやトマトケージを使用するような垂直農法の適応も、都市園芸手法として選択される。こうした園芸は、屋上菜園・園芸、コンテナ菜園・園芸などとも呼ばれることとなり、学術成果として開発が行われていくのである。 | [
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"text": "花及び観賞植物、野菜、果樹、庭園を中心にさまざまな植物を扱い、植物学、生物学、自然科学などと深く関連する。そのなかの専門分野としては、果樹園芸学、蔬菜園芸学、花卉園芸学、園芸利用学、造園学がある。野菜、果樹、花及び観賞植物、庭園を中心にさまざまな植物を扱う。",
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"text": "また園芸学を科学的に研究する学者を園芸学者といい、園芸そのものを営みとする者を園芸家という。",
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"text": "日本での研究は、西は南九州大学、香川大学、大阪府立大学、西日本短期大学、東は千葉大学、東京農業大学をはじめ、テクノ・ホルティ園芸専門学校など、各地の大学や農業試験場などにおいて研究が盛んである。また、それら研究機関を横断する学術研究団体として園芸学会が活動している。",
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"text": "都市園芸学(urban horticulture、としえんげいがく)とは、都市環境における園芸植物の栽培やそれに関連する事項の科学と研究を行う学問。都市園芸は、都市化の世界的傾向とともに注目度が高まり、同学問は都市環境における植物栽培と作物収穫のみならず美観、建築や娯楽との関係、心理的目的および効果を研究するためにも活用している。",
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"text": "園芸や自然を人間の文明に取り込むことは、都市の成立に大きく関わってきた。新石器革命の時代、都市はしばしば青果市場や農場を交易拠点として建設されてきたが、数世紀にわたって、栽培は家庭や公共施設などの建築環境と庭園、農場、放牧地、キッチンガーデン、農場、共同放牧地などの形で統合されていった。そのため、園芸は都市の日常生活の一部としても定着していたのであったが、都市化が進行すると、次第に途絶えていく。",
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"text": "ところで、学問としての都市園芸の研究については、産業革命で都市が大きく成長するにつれて、急速に進む。産業革命とそれに伴う人口の増加により、都市景観は急速に変化し、都市緑地はレンガやアスファルトに取って代わられた。19世紀以降、工場地帯の不健康な状況への対応として、一部の都市部で園芸栽培熱が復活すると、都市に公園が整備されるようになる。",
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"text": "初期の都市園芸運動は、不況期の短期的な福祉、「大衆」を高揚させるための人道支援/慈善事業、あるいは愛国心の救済という目的が主だった 。都市園芸の伝統は、第二次世界大戦後、住宅や商業の成長の中心が郊外になっていくにつれ徐々に衰退。経済的に安定を求め、人口のほとんどが都市から郊外に移動し、都市の中心部にはスラムやゲットーだけが残された。ところで、1950年代から1960年代にかけて、公共住宅当局が美化と入居者の誇りを目的に始めた庭園プロジェクトなど、いくつかの例外があった。しかしこれも、多くの場合企業も大都市圏から撤退していくので、荒れ地や分離された貧困地域が発生しだした。特にアメリカ合衆国では、大都市中心部の非投資化が進み、空き地が激増することになる。既存の建物は住めなくなり、家は放棄され、生産性の高い工業用地も空き地になった。",
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"text": "その後に誕生したコミュニティ・ガーデニング、都市農業、フードセキュリティなどの運動体は、上記の問題に地域レベルで立ち向かうための一形態であった。実際、1960年代と1970年代の平和運動、環境運動、女性運動、公民権運動、「都市回帰運動」、1980年代と1990年代の「環境正義運動」など、当時の社会運動は、学校やコミュニティの庭、ファーマーズ・マーケット、都市農業を通じてコミュニティを再生する方法として、これらの空き地に機会を見出していた。",
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"text": "さらに、21世紀に入ってから、地域のコミュニティガーデンや緑地の必要性が認識されるようになり、状況は一変する。都市園芸はコンセプトではなく、その目的が目新しかったのである。こうした運動体の主な目的は、近隣の清掃、空き地で行われる麻薬取引の排除、消費用の食料の栽培と保存、工業地帯への自然の回復、都市部への農業の伝統の導入などであった。本来コミュニティ・ガーデニングとは、社会的・物理的関与を通じて人々と場所の関係を作り出す方法と考えられている。つまり、多くのアーバンガーデンは、さまざまな大きさの空き地に作られ、一般に地域住民によって個々の区画としてガーデニングされるが、このような場所は、社会的、文化的、芸術的なイベントをサポートし、地域のコミュニティ精神の再構築に貢献することができうるとみられたのである。",
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"text": "その後のコミュニティガーデン運動は、行政や非営利団体の支援とともに、近隣住民によって開始されている。公営住宅や学校、教会、社会福祉施設と連携しているところもあり、中には投獄されていた人たちを雇用しているところもある。こうした都市園芸運動の大きな部分を占めるコミュニティ・ガーデンは、以前の大規模な公園開発とは異なり、工業産業主義から人々を解放するためのものであったし、また、コミュニティ・ガーデンは、単なる芝生や公園よりも有益で魅力的であり、原生林がない場所でも自然に触れることができる貴重な存在である。この運動は、都市住民と土との関係を作り、維持することに役立ち、改革的慈善事業の特徴を持たない、異なる種類の都市環境主義にも貢献した。",
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"text": "ただし、アメリカで最初のコミュニティガーデンが誕生してから30年が経過しているにもかかわらず、現在のアーバンガーデンとその組織について、具体的な学術分析がなされていないのが現状である。米国コミュニティ・ガーデニング協会(ACGA)は、約250の市町村で自治体や非営利団体がガーデニング・プログラムを運営していると推定しているが、実際にはこの2倍の規模になる可能性があると、この団体のスタッフは認めている。また、全米ガーデニング協会が1994年に行った調査では、ガーデニングをしていない世帯のうち670万世帯が、近くに区画があればガーデニングに興味を持つと回答している。最近の調査では、経済発展とともにそれらが失われるのではなく、むしろ都市に多くの庭園ができていることが示されている。",
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"text": "今日の都市園芸は、マーケットガーデン、小規模農場、ファーマーズ・マーケットなど、コミュニティガーデン以外にもいくつかの構成要素を持ち、コミュニティ開発の重要な側面となっていることが知られる。都市園芸のもう一つの成果は、いくつかのプロジェクトやプログラムを通じて、地元で栽培された食品が優先され、低コストで栄養価の高い食品を提供する食の安全保障運動へと導いたことである。都市型コミュニティガーデンやフードセキュリティ運動は、工業的農業の問題への対応であり、価格インフレ、スーパーマーケットの不足、食糧不足など、関連する問題を解決するためのものとなっていったのである。",
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"text": "国連食糧農業機関の報告書「アフリカの緑豊かな都市の成長」では、「市場園芸」(「Growing greeners in Africa」) は、「灌漑された商業的な果物や野菜を、その目的のために指定された場所やその他の都市のオープンスペースで生産する」ことは、地元の最も重要な供給源であると述べている。この目的のために指定された場所やその他都市のオープンスペースで灌漑による果物や野菜の商業生産が、データがあるアフリカ27カ国のうち10カ国において、地元で栽培された新鮮な農産物の最も重要な供給源ともなっている。アクラ、ダカール、バンギ、ブラザビル、イバダン、キンシャサ、ヤウンデで消費される葉物野菜のほとんどは、市場用園芸として生産され、アディスアベバ、ビサウ、リーブルヴィルでは、マーケットガーデンが葉物野菜供給の約半分を担っている。報告書によると、アフリカの都市部の大部分では、市場用園芸は非公式で、しばしば違法な活動であり、公式な認識や規制、支援がほとんどないまま発展してきたとされており、そうした園芸人の多くは自分の土地に正式な所有権を持たず、一夜にして土地を失うことも少なくない。園芸に適した土地は、住宅、産業、インフラのために奪われており、不安定な生活から得られる収益を最大化するために、多くの園芸人が農薬や都市廃水の過剰使用が行われているとの報告もなされている。",
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"text": "園芸/ガーデニングには食費や光熱費の節約など、さまざまな経済効果があるとされている。発展途上国では収入の60から80パーセントを食料の購入に費やしていると言われているが、心理学ジャーナルにおいても記事「都市のガーデニングに対する心理社会的要因の相対的影響」(バーバラ・レイク、ミルフロント・タシアーノ、ギャビン・マイケルズ著)では、食料品の購入にお金を節約する一方で、屋上庭園を持つことも人気が高まっていると述べている。屋上緑化は、冬の暖房費を減らし、夏には涼しく過ごすことが可能でまた、屋根の葺き替え等修繕費用を削減する効果もあることから、建物の屋上緑化は都市型園芸学のテーマのひとつともなっており、人々が健康的な食生活を送ると同時に、資産価値も向上させることが知られる。その他にも、商業目的でない雇用の拡大、生産者の食費の削減など、さまざまな経済的効果も分析されている",
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"text": "園芸学は、それ自体が実用的で応用的な科学であるため、私たちの日常生活の中でも重要な意味を持つことができているが、コミュニティガーデンは市場原理に基づく土地利用とは競合しないため、社会的、人間的、経済的な幸福への貢献など、そのさまざまなメリットを理解するための別の方法を見つけることが不可欠であったのである。ニューヨークのセントラルパークを設計したフレデリック・ロー・オルムステッドは、樹木、草地、池、野生動物が都市生活のストレスを静めることも注視しているが、長年の様々な研究によると、自然は人間の健康に非常に良い影響を与えるなど、感情的・心理的な意味では特筆され、樹木や芝生、花畑は、その存在感や視認性から、疲労やイライラを軽減し、穏やかな感覚を取り戻すことで人々の生活満足度を高めることが研究されている。実際、ハニーマン(1992)は都市環境における自然風景の回復価値をテストし、都市環境における植生は、植生のない地域と比較して、より精神回復をもたらすことを発見している。",
"title": "都市園芸学"
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"text": "ガーデニングの健康効果として、野菜や果物の摂取量が増えることは明らかであるが、ガーデニングという行為自体が大きな健康効果をもたらす。ガーデニングは負荷の少ない運動であり、日常生活に取り入れることで、体重を減らし、ストレスを軽減し、健康全般を向上させることが可能であることが知られる。21世紀以降の研究では、コミュニティガーデンをしている人は、していない人に比べて肥満度が低く、体重が少ないことが示された。この研究成果では、ガーデニングをしている男性は、隣人と比べて肥満度が2.36低く、太りすぎである可能性が62パーセント低かったのに対し、女性は隣人と比べて肥満度が1.88低く、太りすぎである可能性は46パーセント低かった。アーバンガーデンへのアクセスは、栄養価の高い食用の植栽を通して健康を改善し、また、人々が外に出て、環境での活動を促進することが可能なのである。",
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"text": "都心の学校でのガーデニングプログラムは、子どもたちに健康的な食習慣を教えるだけでなく、生徒が積極的に学習する事を促す方法として人気が高まっている。",
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"text": "外に出て動くように促す以外にも、生徒を積極的に動かすことができ、また子どもたちは、批判的・創造的思考スキルに加えて、リーダーシップ、チームワーク、コミュニケーション、コラボレーションのスキルも学ぶことが可能。学校でガーデニングを行うことで、子どもたちは新鮮な野菜や果物を食べることによる健康や栄養面でのメリットを家族と共有することができ、また、天候や土壌の状態は常に変化しているため、状況に応じて考え方を変え、創造的に問題を解決すること、学生同士や大人のボランティアなど、多様な人々との交流やコミュニケーションも学びうる。こうしたプログラムは、学生の健康に役立ち、周囲の世界で積極的に貢献できるようになるのである。",
"title": "都市園芸学"
},
{
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"text": "庭園やその他の緑地は、社会的な活動を活発化させ、場所の感覚を作り出すのに役立ち、特に貧困、公共交通機関の不足、スーパーマーケットの撤退などの問題を抱える都心部では、栄養価が高く手頃な価格の食品を提供する供給源に大きな格差があるため、都心のコミュニティガーデンは、最も簡単にアクセスできる方法で、手頃な価格で栄養を摂取できる貴重なソースとなり得るのである。",
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"text": "都市園芸のメリットを理解し、それによって最大化するためには、園芸活動の効果を記録し、政府や民間産業が適切な行動を行えるようにそのメリットを定量化することが不可欠である。園芸家は、園芸の植物的、物理的な側面に常に関与してきたが、社会的、感情的な要素に関与することも、地域社会、都市、園芸の分野とその専門家にとって非常に有益なのである。1970年代に国際園芸学会は、都市における植物の機能的な利用に関する研究の必要性と、この分野の研究者と植物を利用する人々のコミュニケーション改善の必要性を認識しており、1982年に都市園芸委員会が設立される。",
"title": "都市園芸学"
},
{
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"text": "これは都市部で栽培される植物、管理技術、これらの植物の機能的利用、そしてこの分野に関する現在の知識不足の欠点を扱う委員会である。",
"title": "都市園芸学"
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"text": "都市園芸での作物はおもに植木鉢で栽培されるほか、栽培袋(en:Growbag)や、小さな庭かもしくは都市内の大きな場所に設けた畑で、伝統的もしくはハイテクで革新的な手法を使って栽培される。また、都市の状況に適応し、都市の規制限界に取り組む新しい技術もいくつか開発され散見されている。これには、さまざまな種類の基材を用いた建築地での園芸生産手法もみられる(例:屋上、有機生産、水耕栽培/空中栽培生産)。トレリスやトマトケージを使用するような垂直農法の適応も、都市園芸手法として選択される。こうした園芸は、屋上菜園・園芸、コンテナ菜園・園芸などとも呼ばれることとなり、学術成果として開発が行われていくのである。",
"title": "都市園芸学"
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] | 園芸学は、農業における園芸のための技術向上と、自然現象の理解、また文化や芸術的な見地から植物を利用した研究や開発を目的とする農学の一分野である。当用漢字制定以前は旧字体で「園藝學」と表記された。 | {{出典の明記|date=2011年12月|ソートキー=学}}
'''園芸学'''(えんげいがく、{{lang-en|horticultural science}})は、[[農業]]における[[園芸]]のための技術向上と、[[自然現象]]の理解、また[[文化_(代表的なトピック)|文化]]や[[芸術]]的な見地から[[植物]]を利用した[[研究]]や[[開発]]を目的とする[[農学]]の一分野である。[[当用漢字]]制定以前は[[旧字体]]で「園藝學」と表記された<ref>{{Cite web|和書|url= https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000229272 |title=昭和20年当時、「藝」の漢字が当用漢字だったかどうか知りたい。また、「芸」は「藝」の略字なのか、「ウン」という読みを持つ別字なのか確認したい。 |author=東京都立中央図書館 |website=レファレンス協同データベース |publisher=国立国会図書館 |date=2015-06-10 |accessdate=2023-06-28}}</ref>。
== 概要 ==
花及び観賞植物、野菜、果樹、庭園を中心にさまざまな植物を扱い、植物学、生物学、自然科学などと深く関連する。そのなかの専門分野としては、[[果樹園芸学]]、[[蔬菜園芸学]]、[[花卉園芸学]]、園芸利用学、[[造園学]]がある。[[野菜]]、[[果樹]]、[[花]]及び観賞植物、庭園を中心にさまざまな[[植物]]を扱う。
また園芸学を科学的に研究する[[学者]]を[[園芸学者]]といい、園芸そのものを営みとする者を[[園芸家]]という。
日本での研究は、西は[[南九州大学]]、[[香川大学]]、[[大阪府立大学]]、[[西日本短期大学]]、東は[[千葉大学]]、[[東京農業大学]]をはじめ、[[テクノ・ホルティ園芸専門学校]]など、各地の[[大学]]や[[農業試験場]]などにおいて研究が盛んである。また、それら研究機関を横断する学術研究団体として[[園芸学会]]が活動している。
== 都市園芸学 ==
都市園芸学(urban horticulture、としえんげいがく)とは、[[都市環境]]における[[園芸植物]]の栽培やそれに関連する事項の科学と研究を行う学問<ref name="Human Issues in Hort">{{cite web|last1=Relf|first1=Diane|title=Human Issues In Horticulture|url=http://www.hort.vt.edu/HUMAN/hihart.htm|website=Virginia Tech. Department of Horticulture|access-date=6 October 2014}}</ref><ref name="HortScience tukey">{{cite journal|last1=Tukey|first1=HB Jr. |title=Urban horticulture: horticulture for populated areas|journal=HortScience|date=1983|pages=11-13}}</ref>。都市園芸は、[[都市化]]の世界的傾向とともに注目度が高まり、同学問は都市環境における植物栽培と作物[[収穫]]のみならず美観、建築や娯楽との関係、心理的目的および効果を研究するためにも活用している。
[[File:Urban salad growing-London.jpg|thumb|250px|北ロンドン、クラプトンのスプリングフィールド・パークにあるグローイング・コミュニティーズの都市型プロットでサラダレタスを栽培。]]
[[File:Ravenets 14 gener11.JPG|thumb|[[バルセロナ]]市のバルコニーで栽培された小さなラディッシュ。]]
[[File:Indoor garden.jpg|thumb|メタルハライドランプで栽培されたさまざまな花や野菜。]]
=== 都市園芸の歴史 ===
園芸や[[自然]]を人間の[[文明]]に取り込むことは、都市の成立に大きく関わってきた。[[新石器革命]]の時代、都市はしばしば青果市場や農場を交易拠点として建設されてきたが、数世紀にわたって、栽培は家庭や公共施設などの建築環境と庭園、農場、放牧地、キッチンガーデン、農場、共同放牧地などの形で統合されていった。そのため、園芸は都市の日常生活の一部としても定着していたのであったが、都市化が進行すると、次第に途絶えていく<ref name="HortScience tukey"/>。
ところで、学問としての都市園芸の研究については、[[産業革命]]で都市が大きく成長するにつれて、急速に進む<ref name="Jane Jacobs 1969">{{cite book|last1=Jacobs|first1=Jane|title=The Economy of Cities|date=January 1, 1969|publisher=Random House|location=New York}}</ref>。産業革命とそれに伴う人口の増加により、都市景観は急速に変化し、都市緑地は[[レンガ]]や[[アスファルト]]に取って代わられた。19世紀以降、工場地帯の不健康な状況への対応として、一部の都市部で園芸栽培熱が復活すると、都市に公園が整備されるようになる<ref name="Benefits and History">{{cite book|last1=Hynes|first1=H.P|last2=Howe|first2=G|title=Urban Horticulture in the Contemporary United States: Personal and Community Benefits|date=2004|publisher=Acta Hort. (ISHS) 643|pages=171–181|url=http://www.actahort.org/books/643/643_21.htm}}</ref>。
初期の都市園芸運動は、不況期の短期的な福祉、「大衆」を高揚させるための[[人道支援]]/[[慈善事業]]、あるいは[[愛国心]]の救済という目的が主だった <ref name="Bassett 1981">{{cite journal|last1=Bassett|first1=Thomas J.|title=Reaping on the Margins: A Century of Community Gardening in America|date=1981|volume=25|issue=2|pages=1-8}}</ref>。都市園芸の伝統は、[[第二次世界大戦]]後、住宅や商業の成長の中心が[[郊外]]になっていくにつれ徐々に衰退。経済的に安定を求め、人口のほとんどが都市から郊外に移動し、都市の中心部には[[スラム]]や[[ゲットー]]だけが残された。ところで、1950年代から1960年代にかけて、公共住宅当局が美化と入居者の誇りを目的に始めた庭園プロジェクトなど、いくつかの例外があった<ref name="Benefits and History"/>。しかしこれも、多くの場合企業も大都市圏から撤退していくので、荒れ地や分離された貧困地域が発生しだした{{Cn|date=May 2021}}。特に[[アメリカ合衆国]]では、大都市中心部の非投資化が進み、空き地が激増することになる。既存の建物は住めなくなり、家は放棄され、生産性の高い工業用地も空き地になった<ref name="Benefits and History"/>。
その後に誕生した[[コミュニティ・ガーデニング]]、[[都市農業]]、[[フードセキュリティ]]などの運動体は、上記の問題に地域レベルで立ち向かうための一形態であった。実際、1960年代と1970年代の[[平和運動]]、[[環境運動]]、[[女性運動]]、[[公民権運動]]、「都市回帰運動」、1980年代と1990年代の「環境正義運動」など、当時の[[社会運動]]は、学校やコミュニティの庭、ファーマーズ・マーケット、都市農業を通じてコミュニティを再生する方法として、これらの空き地に機会を見出していた<ref name="Benefits and History"/>。
さらに、21世紀に入ってから、地域のコミュニティガーデンや緑地の必要性が認識されるようになり、状況は一変する。都市園芸はコンセプトではなく、その目的が目新しかったのである。こうした運動体の主な目的は、近隣の清掃、空き地で行われる麻薬取引の排除、消費用の食料の栽培と保存、工業地帯への自然の回復、都市部への農業の伝統の導入などであった<ref name="Patch of Eden Hynes 1996">{{cite book|last1=Hynes|first1=Patricia|title=A Patch of Eden: Date=May 1, 1996|publisher=Chelsea Green Publishing Company|location=Vermont|edition=First}}</ref>。本来[[コミュニティ・ガーデニング]]とは、社会的・物理的関与を通じて人々と場所の関係を作り出す方法と考えられている。つまり、多くのアーバンガーデンは、さまざまな大きさの空き地に作られ、一般に地域住民によって個々の区画としてガーデニングされるが、このような場所は、社会的、文化的、芸術的なイベントをサポートし、地域のコミュニティ精神の再構築に貢献することができうるとみられたのである。
その後のコミュニティガーデン運動は、行政や非営利団体の支援とともに、近隣住民によって開始されている。[[公営住宅]]や学校、[[教会]]、[[社会福祉施設]]と連携しているところもあり、中には投獄されていた人たちを雇用しているところもある。こうした都市園芸運動の大きな部分を占めるコミュニティ・ガーデンは、以前の大規模な公園開発とは異なり、工業産業主義から人々を解放するためのものであったし、また、コミュニティ・ガーデンは、単なる芝生や公園よりも有益で魅力的であり、[[原生林]]がない場所でも自然に触れることができる貴重な存在である。この運動は、都市住民と土との関係を作り、維持することに役立ち、改革的慈善事業の特徴を持たない、異なる種類の都市環境主義にも貢献した<ref name="Benefits and History"/>。
ただし、アメリカで最初のコミュニティガーデンが誕生してから30年が経過しているにもかかわらず、現在のアーバンガーデンとその組織について、具体的な学術分析がなされていないのが現状である。米国コミュニティ・ガーデニング協会(ACGA)は、約250の市町村で自治体や非営利団体がガーデニング・プログラムを運営していると推定しているが、実際にはこの2倍の規模になる可能性があると、この団体のスタッフは認めている。また、全米ガーデニング協会が1994年に行った調査では、ガーデニングをしていない世帯のうち670万世帯が、近くに区画があればガーデニングに興味を持つと回答している<ref name="Monograph 1995">{{cite book|last1=American Community Gardening Association|title=Monograph on the 1994 National Gardening Association Survey|date=1995|location=Philadelphia}}</ref>。最近の調査では、経済発展とともにそれらが失われるのではなく、むしろ都市に多くの庭園ができていることが示されている{{Cn|date=May 2021}}。
今日の都市園芸は、マーケットガーデン、小規模農場、[[ファーマーズ・マーケット]]など、コミュニティガーデン以外にもいくつかの構成要素を持ち、コミュニティ開発の重要な側面となっていることが知られる。都市園芸のもう一つの成果は、いくつかのプロジェクトやプログラムを通じて、地元で栽培された食品が優先され、低コストで栄養価の高い食品を提供する[[食の安全保障]]運動へと導いたことである。都市型コミュニティガーデンやフードセキュリティ運動は、工業的農業の問題への対応であり、価格インフレ、スーパーマーケットの不足、食糧不足など、関連する問題を解決するためのものとなっていったのである<ref name="Benefits and History"/>。
=== アフリカにおける都市園芸と都市近郊園芸 ===
国連[[食糧農業機関]]の報告書「アフリカの緑豊かな都市の成長」<ref>{{cite book |url = http://www.fao.org/docrep/016/i3002e/i3002e.pdf |title=Growing greener cities in Africa |year=2012 |publisher=FAO |location=Rome |isbn=978-92-5-107286-8}}</ref>では、「市場園芸」(「Growing greeners in Africa」) は、「灌漑された商業的な果物や野菜を、その目的のために指定された場所やその他の都市のオープンスペースで生産する」ことは、地元の最も重要な供給源であると述べている。この目的のために指定された場所やその他都市の[[オープンスペース]]で[[灌漑]]による果物や野菜の商業生産が、データがある[[アフリカ]]27カ国のうち10カ国において、地元で栽培された新鮮な農産物の最も重要な供給源ともなっている。[[アクラ]]、[[ダカール]]、[[バンギ]]、[[ブラザビル]]、[[イバダン]]、[[キンシャサ]]、[[ヤウンデ]]で消費される葉物野菜のほとんどは、市場用園芸として生産され、[[アディスアベバ]]、[[ビサウ]]、[[リーブルヴィル]]では、マーケットガーデンが葉物野菜供給の約半分を担っている。報告書によると、アフリカの都市部の大部分では、市場用園芸は非公式で、しばしば違法な活動であり、公式な認識や規制、支援がほとんどないまま発展してきたとされており、そうした園芸人の多くは自分の土地に正式な所有権を持たず、一夜にして土地を失うことも少なくない。園芸に適した土地は、住宅、産業、インフラのために奪われており、不安定な生活から得られる収益を最大化するために、多くの園芸人が農薬や都市廃水の過剰使用が行われているとの報告もなされている。
=== 都市園芸の経済的効果 ===
園芸/ガーデニングには食費や光熱費の節約など、さまざまな経済効果があるとされている。[[発展途上国]]では収入の60から80パーセントを食料の購入に費やしていると言われているが、心理学ジャーナルにおいても記事「都市のガーデニングに対する心理社会的要因の相対的影響」(バーバラ・レイク、ミルフロント・タシアーノ、ギャビン・マイケルズ著)では、食料品の購入にお金を節約する一方で、[[屋上庭園]]を持つことも人気が高まっていると述べている。[[屋上緑化]]は、冬の暖房費を減らし、夏には涼しく過ごすことが可能でまた、屋根の葺き替え等修繕費用を削減する効果もあることから、建物の屋上緑化は都市型園芸学のテーマのひとつともなっており、人々が健康的な食生活を送ると同時に、資産価値も向上させることが知られる。その他にも、商業目的でない雇用の拡大、生産者の食費の削減など、さまざまな経済的効果も分析されている<ref>Lake, Barbara, Taciano L. Milfront C. Gavin. "The Relative Influence of Psycho-Social Factors on Urban Gardening." Academic Search Premier. Web. 10 June 2013.</ref>
=== 都市園芸学の成果・貢献 ===
園芸学は、それ自体が実用的で応用的な科学であるため、私たちの日常生活の中でも重要な意味を持つことができているが、コミュニティガーデンは市場原理に基づく土地利用とは競合しないため、社会的、人間的、経済的な幸福への貢献など、そのさまざまなメリットを理解するための別の方法を見つけることが不可欠であったのである。[[ニューヨーク]]の[[セントラルパーク]]を設計した[[フレデリック・ロー・オルムステッド]]は、[[樹木]]、[[草地]]、[[池]]、[[野生動物]]が都市生活のストレスを静めることも注視しているが<ref name="Benefits and History"/>、長年の様々な研究によると、自然は人間の健康に非常に良い影響を与えるなど、感情的・心理的な意味では特筆され、樹木や[[芝|芝生]]、[[花畑]]は、その存在感や[[視認性]]から、[[疲労]]やイライラを軽減し、穏やかな感覚を取り戻すことで人々の[[生活満足度]]を高めることが研究されている<ref name="Kaplan and Kaplan 1990">{{cite book|last1=Kaplan|first1=R|last2=Kaplan|first2=S|title=Restorative experience: date=1990|publisher=イン: Francis and R.T. Hoster (eds)|location=Cambridge, Massachusetts|pages=238-244}}</ref>。実際、ハニーマン(1992)は都市環境における自然風景の回復価値をテストし、都市環境における植生は、植生のない地域と比較して、より精神回復をもたらすことを発見している<ref name="Honeyman 1992">{{cite book|last1=Honeyman|first1=M|title=Vegetation and stress: A comparison study of varying amount of vegetation in countryside and urban scenes|date=1992|publisher=In: 人間の幸福と社会的発展における園芸の役割: 全国シンポジウム "A National Symposium. Timber Press|location=Portland|pages=143-145}}</ref>。
ガーデニングの健康効果として、野菜や果物の摂取量が増えることは明らかであるが、ガーデニングという行為自体が大きな健康効果をもたらす。ガーデニングは負荷の少ない運動であり、日常生活に取り入れることで、体重を減らし、ストレスを軽減し、健康全般を向上させることが可能であることが知られる。21世紀以降の研究では、コミュニティガーデンをしている人は、していない人に比べて肥満度が低く、体重が少ないことが示された<ref name="Zick, C.D., et al.">{{cite book|last1=Zick|first1=C |display-authors=etal |title=Harvesting More Than Vegetables: The Potential Weight Control Benefits of Community Gardening|publisher=American Journal of Public Health|year=2013|pages=1110-1115}}</ref>。この研究成果では、ガーデニングをしている男性は、隣人と比べて肥満度が2.36低く、太りすぎである可能性が62パーセント低かったのに対し、女性は隣人と比べて肥満度が1.88低く、太りすぎである可能性は46パーセント低かった<ref name="Zick, C.D., et al."/>。アーバンガーデンへのアクセスは、栄養価の高い食用の植栽を通して健康を改善し、また、人々が外に出て、環境での活動を促進することが可能なのである。
都心の学校でのガーデニングプログラムは、子どもたちに健康的な食習慣を教えるだけでなく、生徒が積極的に学習する事を促す方法として人気が高まっている<ref name="Ausherman">{{cite book|last1=Ausherman|first1=J|last2=Ubbes|first2=V|last3=Kowalski|first3=J|title=Using School Gardening as a Vehicle for Critical and Creative Thinking in Health Education|publisher=Health Educator|year=2014|pages=41-48}}</ref>。
外に出て動くように促す以外にも、生徒を積極的に動かすことができ、また子どもたちは、批判的・創造的思考スキルに加えて、[[リーダーシップ]]、[[チームワーク]]、[[コミュニケーション]]、[[コラボレーション]]の[[スキル]]も学ぶことが可能<ref name="Ausherman"/>。学校でガーデニングを行うことで、子どもたちは新鮮な野菜や果物を食べることによる健康や栄養面でのメリットを家族と共有することができ、また、天候や土壌の状態は常に変化しているため、状況に応じて考え方を変え、創造的に問題を解決すること<ref name="Ausherman"/>、学生同士や大人のボランティアなど、多様な人々との交流やコミュニケーションも学びうる。こうしたプログラムは、学生の健康に役立ち、周囲の世界で積極的に貢献できるようになるのである{{Cn|date=May 2021}}。
{{Also|教材園}}
庭園やその他の緑地は、社会的な活動を活発化させ、場所の感覚を作り出すのに役立ち、特に貧困、公共交通機関の不足、スーパーマーケットの撤退などの問題を抱える都心部では、栄養価が高く手頃な価格の食品を提供する供給源に大きな格差があるため、都心のコミュニティガーデンは、最も簡単にアクセスできる方法で、手頃な価格で栄養を摂取できる貴重なソースとなり得るのである。
都市園芸のメリットを理解し、それによって最大化するためには、園芸活動の効果を記録し、政府や民間産業が適切な行動を行えるようにそのメリットを定量化することが不可欠である。園芸家は、園芸の植物的、物理的な側面に常に関与してきたが、社会的、感情的な要素に関与することも、地域社会、都市、園芸の分野とその専門家にとって非常に有益なのである。1970年代に[[国際園芸学会]]は、都市における植物の機能的な利用に関する研究の必要性と、この分野の研究者と植物を利用する人々のコミュニケーション改善の必要性を認識しており、1982年に都市園芸委員会が設立される。
これは都市部で栽培される植物、管理技術、これらの植物の機能的利用、そしてこの分野に関する現在の知識不足の欠点を扱う委員会である<ref name="Robinson purpose and prospects">{{cite web|last1=Robinson|first1=Muriel|title=Urban Horticulture- Purpose and Prospects|url=http://www.earlscliffe.com/urban_horticulture_(1).htm|website=The Robinson Garden at Earlscliffe,Baily,Co. Dublin, Ireland|access-date=6 November 2014}}</ref>。
=== 都市園芸学の活用 ===
[[File:Tomato plants growing July 2013 in garbage cans.JPG|thumb|220px|[[ニュージャージー州]]の小さな家で[[ポット]]ファーミングと並行して育てたトマト苗。2013年の夏、15個のゴミ箱に[[土]]を詰めて700個以上のトマトを栽培。]]
都市園芸での作物はおもに[[植木鉢]]で栽培される<ref>例えば、[https://www.amazon.com/Flowerpot-Farming-Creating-Kitchen-Garden/dp/1904871313 植木鉢農法: 都市型キッチンガーデンを作る (Flowerpot Farming: Creating your own Urban Kitchen Garden)]など</ref>ほか、栽培袋([[:en:Growbag]])や、小さな庭かもしくは都市内の大きな場所に設けた[[畑]]で、伝統的もしくは[[ハイテク]]で[[革新的]]な手法を使って栽培される。また、都市の状況に適応し、都市の規制限界に取り組む新しい技術もいくつか開発され散見されている。これには、さまざまな種類の基材を用いた建築地での園芸生産手法もみられる(例:屋上、[[有機生産]]、[[水耕栽培]]/[[空中栽培]]生産)。[[トレリス]]やトマトケージを使用するような[[垂直農法]]の適応も、都市園芸手法として選択される<ref>{{Cite book |last=Puchalski |first=Matt |title=A Pandemic Gardening Journal: My Story of Perseverance through Gardening |publisher=Matt Puchalski |year=2023 |isbn=9798987899403 |edition=1st |location=Pennsylvania, USA |pages=32-70 |language=en}}</ref>。こうした園芸は、屋上菜園・園芸、コンテナ菜園・園芸などとも呼ばれることとなり、学術成果として開発が行われていくのである。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=今西英雄, 小池 安比古 編著 |year=2019 |title=園芸学入門 |edition=第2版 |date=2019-04 |publisher=[[朝倉書店]] |series=見てわかる農学シリーズ 2 |isbn=978-4-254-40550-7 |ref={{SfnRef|今西・小池|2019}} }}
* {{Cite book|和書|editor=南 基泰, 上野 薫, 山木昭平 |year=2015 |title=環境生物学序論 |edition=改訂版 |date=2015-03|publisher=[[風媒社]] |series= |isbn=978-4-8331-4121-5 |ref={{SfnRef|南・上野・山木|2015}} }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Horticulture}}
* [[園芸学科]] / [[園芸学部]]
* [[園芸学会]] - 園芸の科学と技術の進歩を目的に掲げる日本の学術研究団体
* [[園芸農業]]
* [[栽培品種]] - 園芸品種
* [[園芸作物]]
* [[蔬菜]]([[野菜]]) - 蔬菜園芸学
* [[花卉園芸]] - 花卉園芸学
* [[果実学]] - 果樹園芸学
* [[園芸利用学]]
* [[造園学]]
* [[古典園芸植物]]
* [[園芸用語]]
* [[植物の繁殖方法一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.jshs.jp/ 園芸学会ホームページ] - 公式ウェブサイト
* [https://studyu.jp/feature/theme/horticultural-science/ サステナブル社会に有望な【園芸学】。植物を通じて、人の暮らし、社会、環境をより良くする研究!|スタディラボ]
{{庭と庭園、園芸とガーデニング}}
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[[Category:植物学の分野]] | 2003-02-15T12:52:04Z | 2023-11-17T05:39:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E8%8A%B8%E5%AD%A6 |
1,805 | 大正 | 大正()は、日本の元号の一つ。
明治の後、昭和の前。大化以降229番目、245個目の元号である。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。
日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間グレゴリオ暦が用いられた。日本史の時代区分上では、元号が大正であった期間を大正時代()という。本項ではこの時代についても記述する。
大正時代(1912年-1926年)は、大正天皇の在位した期間を指している。
日本史の時代区分は通常(一世一元の制以前)、古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は1912年〜1926年の14年間)日本史で一番短い時代区分である。
大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の超然内閣の政治体制が揺らいで、政党勢力が進出することになった。それらは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。
大正デモクラシー時代は1918年(大正7年)の米騒動の前と後で区別されることが多いが、米騒動の同年に初めて爵位を持たない非華族階級であり、衆議院に議席を有する原敬(「平民宰相」とあだ名された)が本格的な政党内閣(=原内閣)を組織した。
原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり、「教育制度の改善」、「交通機関の整備」、「産業および通商貿易の振興」、「国防の充実」の4大政綱を推進したが、普通選挙法に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、1921年(大正10年)大塚駅員だった中岡艮一により東京駅構内で暗殺された(原敬暗殺事件)。
この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発だった。
1925年(大正14年)には加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命の勃発による国内での社会主義・共産主義思想の台頭への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、皇室を有する君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。
1921年(大正10年)11月25日に皇太子裕仁親王が大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。明治時代を見直す機運から明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が大正9年(1920年)11月1日創建された。
1923年(大正12年)に加藤友三郎首相が在任中に死去して8日後に関東大震災が起こり、首都東京が壊滅的な打撃を受けた。放火デマや鮮人差別意識で自警団が結成及び組織されて関東大震災朝鮮人虐殺事件が起きた。後藤新平による帝都東京復興計画が実施された関東大震災後、山本権兵衛元首相が再度政権に返り咲き、第2次山本内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。
日本も連合国として勝者の側につき、列強「五大国」の一員となった第一次世界大戦後には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原喜重郎外相による幣原外交(加藤高明内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。
大正時代は藩閥的な超然内閣を主導していた江戸時代生まれの元勲たちが政界から引退したり他界して、高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった。
国外では第一次世界大戦の結果として、王政打倒の革命が起きた。敗戦国のドイツやオーストリアや連合国からドイツと和解して戦線から離脱したロシアなどで君主制が廃止された。ロシア革命では世界初の社会主義国のソビエト連邦が成立した。ドイツではワイマール憲法のもとドイツ共和国(ヴァイマル共和政)が誕生した。共和制国家の成立は、デモクラシーの勝利とされた。
しかし、日本において共和制の誕生は天皇制・皇室廃止の意味があり、労働運動の高まりを利用して共産主義が広まることを警戒して治安維持法が制定された。多くの国で君主制が廃止されたことが口実となった。共産主義思想は日本のインテリ層に影響を与え、大正期の知識人は、改造・革新・革命・維新の4種類を政治運動のスローガンに掲げた。
文化風俗面の特徴としては、近代都市の発達や経済の拡大に伴い都市文化、大衆文化が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた。女性の就労も増え、それまでの女工などに代わって、電話交換手や女子事務員など「職業婦人」と呼ばれる層が現れ、カフェの女給、バスガール、デパート店員、女医、映画女優といった新しい職業も人気となり、東京や横浜、大阪や神戸などでは大企業や外資系企業に勤める大学卒で高収入なホワイトカラーが登場し、断髪で洋装のモガ(モダンガールの略。男性はモボ)が登場した。
大正年間を通じて、都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。
1911年(明治44年)に第2次西園寺内閣が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国の辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策も兼ねて、前年に併合した朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府に迫った。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また1912年(明治45年/大正元年)7月30日に明治天皇が崩御して大正天皇が即位したり、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説や政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。
1912年(大正元年)の末、2個師団増設が閣議で承認されなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣と侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった。
立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄を先頭とする野党勢力や新聞に、商工業者や都市部の知識人階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので1913年(大正2年)、民衆が議会を包囲するなか在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。
桂のあとは、薩摩出身の海軍大将である山本権兵衛が立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚・軍部に対する政党の影響力拡大に努めたが1914年(大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入を巡る海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した。
これを見た山縣有朋ら元老は庶民の間で人気のある大隈重信を急遽後継首相に推薦し、第2次大隈内閣が成立した。大隈は立憲同志会を少数与党として出発したが、1915年(大正4年)の総選挙で立憲同志会などの与党が立憲政友会に圧勝した。この結果、懸案の2個師団増設案は議会を通過した。また同内閣下で第一次世界大戦が勃発しており、同盟国イギリスがドイツ帝国に宣戦すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地青島、山東省、南洋諸島の一部を占領した。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。
続く寺内政権では、袁政権の後継となった北方軍閥の段祺瑞内閣に巨額の借款を与えて(西原借款)、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため第4次日露協約、イギリスとの覚書、特派大使石井菊次郎の石井・ランシング協定を締結した。1917年(大正6年)のロシア革命を好機とみた寺内内閣は北満州・沿海州まで勢力を広げようとした(シベリア出兵)。
寺内正毅の超然内閣に対抗して憲政会が結成されると、寺内首相は1917年(大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果、立憲政友会が憲政会に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激なインフレーションとシベリア出兵を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、1918年(大正7年)8月には富山県の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると米騒動が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった。
政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は1918年(大正7年)9月21日に退陣した。
民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、立憲政友会総裁の原敬を首相に推薦し、1918年(大正7年)9月29日には初の本格的な政党内閣である原内閣が成立した。華族でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した。
しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では1919年(大正8年)に満州で日中両軍が衝突する寛城子事件が起きる。1920年(大正9年)の尼港事件では在留邦人と駐留日本軍が赤軍と中国軍に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。1921年(大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者の中岡艮一に暗殺された(原敬暗殺事件)。
続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となり、高橋内閣は経済不況に対応して積極政策を試みたがそのことで内紛が起こったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭にワシントン会議があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将加藤友三郎が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行い、さらに山梨半造陸軍大臣によって山梨軍縮と呼ばれる陸軍軍縮も断行して選挙権拡大の検討に入った。
加藤の病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、再度政権に返り咲いた山本は挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが政友会の協力が得られず、虎の門事件の責任を取り総辞職に追い込まれた。続いて貴族院を母体とした清浦内閣が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、第二次護憲運動を起こした。1924年(大正13年)の総選挙では護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相を務めるのが風習化した(憲政の常道)。
加藤内閣は、宇垣軍縮と呼ばれる高田陸軍師団・豊橋陸軍師団・岡山陸軍師団・久留米陸軍師団の4個の陸軍師団を削減して大量の将校の人員削減など陸軍軍縮を行い、兵力を削減した経費で戦車・自動車・航空機など20世紀に導入された軍事装備を大量配置して陸軍の近代化を行い、中等学校(現在の高等学校課程にほぼ相当)以上の男子学校のカリキュラムに軍事教練を設けて過剰となった将校を教官にした。
1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、納税額によらず25歳以上の成人男子全員に選挙権を与える男子普通選挙が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように「革命の発火点」になる恐れも考えられたため、普選法と同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった。また、勅令175号1925年(大正14年)5月8日により、朝鮮、台湾、樺太にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ、1926年(大正15年)には労働農民党が発足した。また同年治安警察法第17条も廃止された。外交面では、日ソ基本条約を結んで世界史上初の社会主義国家ソビエト連邦との国交を樹立した。
同年12月25日に大正天皇が47歳で崩御し、その長男で摂政を務めていた皇太子裕仁親王が25歳で践祚し、15年程続いた大正時代は終わり、63年間に及ぶ昭和の時代へと突入した。
1914年(大正3年)には、第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。
発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本とアメリカ合衆国の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で繊維(紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業や造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツ帝国及びオーストリア=ハンガリー帝国との交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。
しかし、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生した。さらに戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量の金が滞留して金本位制による通貨調整の機能を失った。さらに関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌・世界恐慌を迎えることになる。
パリ講和会議では、「人種差別撤廃案」を主張し、大多数の国の支持を得たがアメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反対によって否決された。当時アジアの中で数少ない独立国であった日本は、国際連盟に加盟し、アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの5カ国と並ぶ世界の1等国として国際連盟の常任理事国となる。国際連盟事務次長には新渡戸稲造が就任している。しかしドイツ植民地であったマーシャル諸島(日本は南洋諸島に南洋庁を設置した)が日本に委任統治された結果、日本の太平洋地域への進出が進み、フィリピンやハワイ諸島を領有するアメリカと直接的に領土・領海の境域が接するようにもなり、日米の対立関係は深まり、アメリカの圧力で日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争(大東亜戦争)への伏線が芽生えることにもなった。
1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に首都東京は甚大な損害を受ける。震災後、元首相の山本権兵衛が再び政権を担い、第2次山本内閣が成立した。新内閣の内務大臣となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して手腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。
江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は下水道整備やラジオ放送が本格的に始まるなど近代都市へと大きな進化を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の建設は諸事情により行われなかった。これによって培われた経験が戦後の首都高速道路の建設に繋がる。
日本初のレコードでヒットした歌謡曲とされる松井須磨子の「カチューシャの唄」をはじめとする数々の歌謡曲が誕生した。ジャズもこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。落語・講談・能・文楽・歌舞伎・新派劇・新国劇などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する新劇運動(芸術座・築地小劇場)が盛んになり、昭和時代に発展する芸能界の基礎となる俳優・女優・歌手などの職業が新しく誕生して、その後の大衆文化の原型が生まれた。活動写真(現在の映画)や少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)が登場した。
日露戦争頃から、経済文化の中心地であった大阪・神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。一方、東京では1915年(大正4年)に浮世絵版画の復刻をしつつ、新しい伝統木版画を創造しようとしていた渡辺庄三郎の主導によってフリッツ・カペラリの水彩画を錦絵風の木版画にしたのを機に橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水、吉田博、名取春仙らによる新版画の活動が開始された。この動きは1923年(大正12年)の関東大震災後には新興の版元を多く巻き込んで全国的に広まり、昭和時代まで続いていった。
道路や交通機関が整備された。路面電車や青バス(東京乗合自動車)や円太郎バスなどの乗合バスが市内を走行した。大正後期から昭和初期までの大大阪時代に大阪府では、東京府よりも先におびただしい私鉄網が完成し、とりわけ小林一三が主導した阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。
一方、日清戦争(1894年〜1895年〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化は衛星都市の富裕層に受け入れられ広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「文化住宅」が一般向け住宅として流行をした。
東京府(東京市)では、関東大震災で火災による被害が甚大だった影響で下町が江戸時代の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、大企業や外資系企業の一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。
1918年(大正7年)に専門学校から昇格する形で私立大学を中心に旧制大学を認可する大学令と高等学校令が公布されて高等教育機関が整備され、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、大企業や外資系企業に勤める大卒の「サラリーマン」が大衆の主人公となった。
明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。井戸やまきによるかまどの使用や明治時代の石油ランプが廃れて、上水道・ガス・電気が普及する。神前結婚や大本教や霊友会など新宗教が盛んになる。家庭電気器具では扇風機・電気ストーブ・電気アイロン・電気コンロが普及した。ブリキやセルロイド製のおもちゃなど新素材のおもちゃが登場した。
箱根駅伝大会が金栗四三の尽力で開始されて、オリンピック競技が盛んになった。1920年(大正9年)のアントワープオリンピックでは、日本人初のメダルとしてテニスで銀メダルを獲得した。朝日新聞社と毎日新聞社による中等学校野球などのスポーツが開始された。明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが1926年(大正15年)で、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛を極めるようなる。
東京に拠点を置いていた『時事新報』、『國民新聞』、『萬朝報』の主要紙が関東大震災の被災で凋落し、取って代って大阪に本社を置いていた『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した『讀賣新聞』も成長を果たして、今の「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。
1925年(大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋の主要三大都市でラジオ放送が始まり、新しいマスメディアが社会に刺激を与えるようになる。
大正前期、新聞について書かれた記事によると、『風俗書報』第四六七号(一九一六[大正五]年一月)の「新聞紙」にて柏拳生は「新聞紙は斯く重宝なるものとして貴ばるゝと共に、群衆心理を左右する恐るべき魔力を有す。」と述べている。また、光本悦三郎『鞍上と机上:続東京馬米九里』(一九一四[大正三]年一二月 無星神叢書)の「新聞の裏面」にて「群盲は新聞の裏面を知らないで、表面に現れた文字だけよりかは何も知らない。」とあるように、大正期の新聞は人々に多大な影響を与えた。
震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」などタクシーの登場もあって、旅客か貨物かを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。また、これまでのような上流階級や富裕層のみならず、中流階級を中心にオースチンなどの輸入車を中心とした自家用車の普及も始まった。
都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長して、飲食店のあり方に変革をもたらした。カレーライス・とんかつ・コロッケは大正の三大洋食と呼ばれた。特にコロッケは益田太郎冠者作詞の楽曲のコロッケの唄 (1917年(大正6年)にヒット)の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。米騒動による米価高騰対策として原敬内閣は積極的にパンの代用食運動を展開した。パンは昭和の戦後期になって普及するが、和製洋食に米の御飯と云う、戦後の日本人の食事の主流は大正時代に定着して、中華料理の中華そばの普及や和食の復権運動があった。ロシアパンがロシア革命で日本に亡命して来た白系ロシア人によって紹介されて広まった。1919年(大正8年)7月7日 に日本で初めての乳酸菌飲料カルピスが発売される。人造氷が発達した。アイスクリーム・パン・チキンライス・コーヒー・ラムネ・紅茶・サイダー・ビール・キャラメル・チョコレートなど洋食品が普及した。喫茶店やレストランが増加した。昭和一桁にかけて、麺類や缶詰類など簡易食品が発達した。
女性の間で洋髪が流行して、七三分け・髪の毛の耳隠しなどが行われた。女学生に制服が使用された。男子はセルの袴が良く使用された。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、モダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)の男女など、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった。
西田幾多郎などの京都学派が学問の主流だった。東洋史では内藤湖南が唱えた唐宋変革論が盛んに論議された。 1915年(大正4年)に北里柴三郎設立の北里研究所が設立された。1917年(大正6年)に財界からの寄付金と国庫補助金、皇室下賜金などのを財源に、半官半民の財団法人として理化学研究所が設立された。その他航空研究所(東京帝国大学付属研究所で航空科学を研究)・金属材料研究所(本多光太郎の提案で東北帝国大学に設立)・地震研究所(関東大震災の教訓から地震と地震予知研究)が大正時代に設立される。
文学界には新現実主義の芥川龍之介、耽美派の谷崎潤一郎、さらに武者小路実篤・志賀直哉ら人道主義(ヒューマニズム)を理想とした白樺派が台頭した。この頃までに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。詩・和歌では萩原朔太郎が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当たった菊池寛などの文芸作品が登場した。
出版業界においては1冊1円の「円本」が爆発的に売れた。1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『ホトトギス』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。柳宗悦が朝鮮美術を薦めて民藝運動を提唱した。
大正時代末期には鏑木清方が「展覧会芸術」などに対して、版画等のことを「卓上芸術」として提唱した。
社会事業を巡る議論が盛んとなり、国家経営政策として第1回国勢調査が1920年(大正9年)に実施された。米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。
東京府・大阪府などの都市部で上水道が普及した。明治期まで非常に多かった乳児死亡率が大正期に減少した。世界中にパンデミックを引き起こしたスペイン風邪は日本国内で2380万人(当時の対人口比:約43%)が感染し、島村抱月や大山捨松、皇族では竹田宮恒久王が死去するなど約39万人の日本人が死亡した
また、1919年(大正8年)には第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。
こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。
鈴木文治によって友愛会が設立されて、第一次世界大戦期間中にインフレが進行したことによって米騒動が発生した。成金が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した労働争議に友愛会などの労働組合が深く関係した。
大正デモクラシーによって様々な社会運動が行われた。
明治期に四民平等となった後も、被差別部落出身者に対する差別が残った。明治政府の貧困対策や身分解放政策の不備、また賎民専用の皮革産業などの生業を失い貧困層となったことや、旧百姓身分の農民層からの偏見があった。西光万吉や阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された。
女性の解放が叫ばれ、ウェートレス・デパートの店員・バスガール・電話交換手・劇場の案内人・美容師・事務員・和文や英文のタイピスト・通訳・保母・看護婦・医師など社会に進出して働く職業婦人が増加した。
普通選挙運動の対象が男性のみであったことから、女性の地位向上を目指す女性運動家が出現し、新婦人協会が設立された。また、高等女学校や大学へ進学する女子生徒も増えた。
三・一運動によって朝鮮総督府がこれまでの憲兵警察制度による武断統治を見直し、内鮮一体と朝鮮半島の近代化を目的とする文化政治に改めた。貧困から逃れるため朝鮮人の外地から内地への密航が多発して、在日朝鮮人の増加に伴う内地人との軋轢や社会不安が社会問題となった。
西洋思想の影響を受けて仏教が近代化し、仏教思想と西洋哲学を統合する仏教近代化政策が実施された。僧侶の参政権運動が明治末期から大正期かけてあった。僧侶の政治活動が盛んで妹尾義郎が新興仏教青年同盟を結成した。仏教関係の政治団体が盛んに社会運動を行うが昭和戦前期に軍部によって弾圧された。東京帝国大学でインド哲学の専門学科が1917年(大正6年)に開設された。井上円了を中心に仏教の迷信を否定する妖怪研究があった。1924年(大正13年)に大正新脩大蔵経の編纂が開始された。
2019年(令和元年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は114万1千人で総人口の0.9%。
2020年頃より都道府県の最高齢者が大正生まれとなるケースが出てきている。男性の最高齢者は過半数の都道府県で大正生まれが最高齢で大正5年が最高齢となる県も出てきている。人口の少ない町村によっては大正生まれが1人~5人の自治体もある。大正元年生まれは2022年で110歳を迎えた。 | [
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"text": "大正()は、日本の元号の一つ。",
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"text": "明治の後、昭和の前。大化以降229番目、245個目の元号である。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。",
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"text": "日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間グレゴリオ暦が用いられた。日本史の時代区分上では、元号が大正であった期間を大正時代()という。本項ではこの時代についても記述する。",
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"text": "大正時代(1912年-1926年)は、大正天皇の在位した期間を指している。",
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"text": "日本史の時代区分は通常(一世一元の制以前)、古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は1912年〜1926年の14年間)日本史で一番短い時代区分である。",
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"text": "大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の超然内閣の政治体制が揺らいで、政党勢力が進出することになった。それらは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。",
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"text": "大正デモクラシー時代は1918年(大正7年)の米騒動の前と後で区別されることが多いが、米騒動の同年に初めて爵位を持たない非華族階級であり、衆議院に議席を有する原敬(「平民宰相」とあだ名された)が本格的な政党内閣(=原内閣)を組織した。",
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"text": "原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり、「教育制度の改善」、「交通機関の整備」、「産業および通商貿易の振興」、「国防の充実」の4大政綱を推進したが、普通選挙法に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、1921年(大正10年)大塚駅員だった中岡艮一により東京駅構内で暗殺された(原敬暗殺事件)。",
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"text": "この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発だった。",
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"text": "1925年(大正14年)には加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命の勃発による国内での社会主義・共産主義思想の台頭への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、皇室を有する君主制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。",
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"text": "1921年(大正10年)11月25日に皇太子裕仁親王が大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。明治時代を見直す機運から明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が大正9年(1920年)11月1日創建された。",
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"text": "1923年(大正12年)に加藤友三郎首相が在任中に死去して8日後に関東大震災が起こり、首都東京が壊滅的な打撃を受けた。放火デマや鮮人差別意識で自警団が結成及び組織されて関東大震災朝鮮人虐殺事件が起きた。後藤新平による帝都東京復興計画が実施された関東大震災後、山本権兵衛元首相が再度政権に返り咲き、第2次山本内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。",
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"text": "日本も連合国として勝者の側につき、列強「五大国」の一員となった第一次世界大戦後には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原喜重郎外相による幣原外交(加藤高明内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。",
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"text": "大正時代は藩閥的な超然内閣を主導していた江戸時代生まれの元勲たちが政界から引退したり他界して、高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった。",
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"text": "国外では第一次世界大戦の結果として、王政打倒の革命が起きた。敗戦国のドイツやオーストリアや連合国からドイツと和解して戦線から離脱したロシアなどで君主制が廃止された。ロシア革命では世界初の社会主義国のソビエト連邦が成立した。ドイツではワイマール憲法のもとドイツ共和国(ヴァイマル共和政)が誕生した。共和制国家の成立は、デモクラシーの勝利とされた。",
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"text": "しかし、日本において共和制の誕生は天皇制・皇室廃止の意味があり、労働運動の高まりを利用して共産主義が広まることを警戒して治安維持法が制定された。多くの国で君主制が廃止されたことが口実となった。共産主義思想は日本のインテリ層に影響を与え、大正期の知識人は、改造・革新・革命・維新の4種類を政治運動のスローガンに掲げた。",
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"text": "文化風俗面の特徴としては、近代都市の発達や経済の拡大に伴い都市文化、大衆文化が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた。女性の就労も増え、それまでの女工などに代わって、電話交換手や女子事務員など「職業婦人」と呼ばれる層が現れ、カフェの女給、バスガール、デパート店員、女医、映画女優といった新しい職業も人気となり、東京や横浜、大阪や神戸などでは大企業や外資系企業に勤める大学卒で高収入なホワイトカラーが登場し、断髪で洋装のモガ(モダンガールの略。男性はモボ)が登場した。",
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"text": "大正年間を通じて、都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。",
"title": "概要"
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"text": "1911年(明治44年)に第2次西園寺内閣が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国の辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策も兼ねて、前年に併合した朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府に迫った。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また1912年(明治45年/大正元年)7月30日に明治天皇が崩御して大正天皇が即位したり、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説や政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。",
"title": "護憲運動と政治"
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"text": "1912年(大正元年)の末、2個師団増設が閣議で承認されなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣と侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった。",
"title": "護憲運動と政治"
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"text": "立憲国民党の犬養毅と立憲政友会の尾崎行雄を先頭とする野党勢力や新聞に、商工業者や都市部の知識人階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので1913年(大正2年)、民衆が議会を包囲するなか在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。",
"title": "護憲運動と政治"
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"text": "桂のあとは、薩摩出身の海軍大将である山本権兵衛が立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚・軍部に対する政党の影響力拡大に努めたが1914年(大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入を巡る海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した。",
"title": "護憲運動と政治"
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"text": "これを見た山縣有朋ら元老は庶民の間で人気のある大隈重信を急遽後継首相に推薦し、第2次大隈内閣が成立した。大隈は立憲同志会を少数与党として出発したが、1915年(大正4年)の総選挙で立憲同志会などの与党が立憲政友会に圧勝した。この結果、懸案の2個師団増設案は議会を通過した。また同内閣下で第一次世界大戦が勃発しており、同盟国イギリスがドイツ帝国に宣戦すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地青島、山東省、南洋諸島の一部を占領した。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。",
"title": "護憲運動と政治"
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"text": "続く寺内政権では、袁政権の後継となった北方軍閥の段祺瑞内閣に巨額の借款を与えて(西原借款)、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため第4次日露協約、イギリスとの覚書、特派大使石井菊次郎の石井・ランシング協定を締結した。1917年(大正6年)のロシア革命を好機とみた寺内内閣は北満州・沿海州まで勢力を広げようとした(シベリア出兵)。",
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"text": "寺内正毅の超然内閣に対抗して憲政会が結成されると、寺内首相は1917年(大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果、立憲政友会が憲政会に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激なインフレーションとシベリア出兵を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、1918年(大正7年)8月には富山県の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると米騒動が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった。",
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"text": "政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は1918年(大正7年)9月21日に退陣した。",
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"text": "民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、立憲政友会総裁の原敬を首相に推薦し、1918年(大正7年)9月29日には初の本格的な政党内閣である原内閣が成立した。華族でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した。",
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"text": "しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では1919年(大正8年)に満州で日中両軍が衝突する寛城子事件が起きる。1920年(大正9年)の尼港事件では在留邦人と駐留日本軍が赤軍と中国軍に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。1921年(大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者の中岡艮一に暗殺された(原敬暗殺事件)。",
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"text": "続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となり、高橋内閣は経済不況に対応して積極政策を試みたがそのことで内紛が起こったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭にワシントン会議があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将加藤友三郎が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行い、さらに山梨半造陸軍大臣によって山梨軍縮と呼ばれる陸軍軍縮も断行して選挙権拡大の検討に入った。",
"title": "護憲運動と政治"
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"text": "加藤の病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、再度政権に返り咲いた山本は挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが政友会の協力が得られず、虎の門事件の責任を取り総辞職に追い込まれた。続いて貴族院を母体とした清浦内閣が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、第二次護憲運動を起こした。1924年(大正13年)の総選挙では護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相を務めるのが風習化した(憲政の常道)。",
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"text": "加藤内閣は、宇垣軍縮と呼ばれる高田陸軍師団・豊橋陸軍師団・岡山陸軍師団・久留米陸軍師団の4個の陸軍師団を削減して大量の将校の人員削減など陸軍軍縮を行い、兵力を削減した経費で戦車・自動車・航空機など20世紀に導入された軍事装備を大量配置して陸軍の近代化を行い、中等学校(現在の高等学校課程にほぼ相当)以上の男子学校のカリキュラムに軍事教練を設けて過剰となった将校を教官にした。",
"title": "護憲運動と政治"
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"text": "1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、納税額によらず25歳以上の成人男子全員に選挙権を与える男子普通選挙が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように「革命の発火点」になる恐れも考えられたため、普選法と同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった。また、勅令175号1925年(大正14年)5月8日により、朝鮮、台湾、樺太にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ、1926年(大正15年)には労働農民党が発足した。また同年治安警察法第17条も廃止された。外交面では、日ソ基本条約を結んで世界史上初の社会主義国家ソビエト連邦との国交を樹立した。",
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"text": "同年12月25日に大正天皇が47歳で崩御し、その長男で摂政を務めていた皇太子裕仁親王が25歳で践祚し、15年程続いた大正時代は終わり、63年間に及ぶ昭和の時代へと突入した。",
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1914年(大正3年)には、第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。",
"title": "第一次世界大戦と景気"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本とアメリカ合衆国の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で繊維(紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業や造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツ帝国及びオーストリア=ハンガリー帝国との交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。",
"title": "第一次世界大戦と景気"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "しかし、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生した。さらに戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量の金が滞留して金本位制による通貨調整の機能を失った。さらに関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌・世界恐慌を迎えることになる。",
"title": "第一次世界大戦と景気"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "パリ講和会議では、「人種差別撤廃案」を主張し、大多数の国の支持を得たがアメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反対によって否決された。当時アジアの中で数少ない独立国であった日本は、国際連盟に加盟し、アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの5カ国と並ぶ世界の1等国として国際連盟の常任理事国となる。国際連盟事務次長には新渡戸稲造が就任している。しかしドイツ植民地であったマーシャル諸島(日本は南洋諸島に南洋庁を設置した)が日本に委任統治された結果、日本の太平洋地域への進出が進み、フィリピンやハワイ諸島を領有するアメリカと直接的に領土・領海の境域が接するようにもなり、日米の対立関係は深まり、アメリカの圧力で日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争(大東亜戦争)への伏線が芽生えることにもなった。",
"title": "第一次世界大戦と景気"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に首都東京は甚大な損害を受ける。震災後、元首相の山本権兵衛が再び政権を担い、第2次山本内閣が成立した。新内閣の内務大臣となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して手腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。",
"title": "震災復興"
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"tag": "p",
"text": "江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は下水道整備やラジオ放送が本格的に始まるなど近代都市へと大きな進化を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の建設は諸事情により行われなかった。これによって培われた経験が戦後の首都高速道路の建設に繋がる。",
"title": "震災復興"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "日本初のレコードでヒットした歌謡曲とされる松井須磨子の「カチューシャの唄」をはじめとする数々の歌謡曲が誕生した。ジャズもこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。落語・講談・能・文楽・歌舞伎・新派劇・新国劇などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する新劇運動(芸術座・築地小劇場)が盛んになり、昭和時代に発展する芸能界の基礎となる俳優・女優・歌手などの職業が新しく誕生して、その後の大衆文化の原型が生まれた。活動写真(現在の映画)や少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)が登場した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "日露戦争頃から、経済文化の中心地であった大阪・神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。一方、東京では1915年(大正4年)に浮世絵版画の復刻をしつつ、新しい伝統木版画を創造しようとしていた渡辺庄三郎の主導によってフリッツ・カペラリの水彩画を錦絵風の木版画にしたのを機に橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水、吉田博、名取春仙らによる新版画の活動が開始された。この動きは1923年(大正12年)の関東大震災後には新興の版元を多く巻き込んで全国的に広まり、昭和時代まで続いていった。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "道路や交通機関が整備された。路面電車や青バス(東京乗合自動車)や円太郎バスなどの乗合バスが市内を走行した。大正後期から昭和初期までの大大阪時代に大阪府では、東京府よりも先におびただしい私鉄網が完成し、とりわけ小林一三が主導した阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "一方、日清戦争(1894年〜1895年〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化は衛星都市の富裕層に受け入れられ広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「文化住宅」が一般向け住宅として流行をした。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "東京府(東京市)では、関東大震災で火災による被害が甚大だった影響で下町が江戸時代の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、大企業や外資系企業の一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1918年(大正7年)に専門学校から昇格する形で私立大学を中心に旧制大学を認可する大学令と高等学校令が公布されて高等教育機関が整備され、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、大企業や外資系企業に勤める大卒の「サラリーマン」が大衆の主人公となった。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。井戸やまきによるかまどの使用や明治時代の石油ランプが廃れて、上水道・ガス・電気が普及する。神前結婚や大本教や霊友会など新宗教が盛んになる。家庭電気器具では扇風機・電気ストーブ・電気アイロン・電気コンロが普及した。ブリキやセルロイド製のおもちゃなど新素材のおもちゃが登場した。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "箱根駅伝大会が金栗四三の尽力で開始されて、オリンピック競技が盛んになった。1920年(大正9年)のアントワープオリンピックでは、日本人初のメダルとしてテニスで銀メダルを獲得した。朝日新聞社と毎日新聞社による中等学校野球などのスポーツが開始された。明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが1926年(大正15年)で、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛を極めるようなる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "東京に拠点を置いていた『時事新報』、『國民新聞』、『萬朝報』の主要紙が関東大震災の被災で凋落し、取って代って大阪に本社を置いていた『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した『讀賣新聞』も成長を果たして、今の「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 48,
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"text": "1925年(大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋の主要三大都市でラジオ放送が始まり、新しいマスメディアが社会に刺激を与えるようになる。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 49,
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"text": "大正前期、新聞について書かれた記事によると、『風俗書報』第四六七号(一九一六[大正五]年一月)の「新聞紙」にて柏拳生は「新聞紙は斯く重宝なるものとして貴ばるゝと共に、群衆心理を左右する恐るべき魔力を有す。」と述べている。また、光本悦三郎『鞍上と机上:続東京馬米九里』(一九一四[大正三]年一二月 無星神叢書)の「新聞の裏面」にて「群盲は新聞の裏面を知らないで、表面に現れた文字だけよりかは何も知らない。」とあるように、大正期の新聞は人々に多大な影響を与えた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」などタクシーの登場もあって、旅客か貨物かを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。また、これまでのような上流階級や富裕層のみならず、中流階級を中心にオースチンなどの輸入車を中心とした自家用車の普及も始まった。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長して、飲食店のあり方に変革をもたらした。カレーライス・とんかつ・コロッケは大正の三大洋食と呼ばれた。特にコロッケは益田太郎冠者作詞の楽曲のコロッケの唄 (1917年(大正6年)にヒット)の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。米騒動による米価高騰対策として原敬内閣は積極的にパンの代用食運動を展開した。パンは昭和の戦後期になって普及するが、和製洋食に米の御飯と云う、戦後の日本人の食事の主流は大正時代に定着して、中華料理の中華そばの普及や和食の復権運動があった。ロシアパンがロシア革命で日本に亡命して来た白系ロシア人によって紹介されて広まった。1919年(大正8年)7月7日 に日本で初めての乳酸菌飲料カルピスが発売される。人造氷が発達した。アイスクリーム・パン・チキンライス・コーヒー・ラムネ・紅茶・サイダー・ビール・キャラメル・チョコレートなど洋食品が普及した。喫茶店やレストランが増加した。昭和一桁にかけて、麺類や缶詰類など簡易食品が発達した。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 52,
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"text": "女性の間で洋髪が流行して、七三分け・髪の毛の耳隠しなどが行われた。女学生に制服が使用された。男子はセルの袴が良く使用された。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、モダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)の男女など、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "西田幾多郎などの京都学派が学問の主流だった。東洋史では内藤湖南が唱えた唐宋変革論が盛んに論議された。 1915年(大正4年)に北里柴三郎設立の北里研究所が設立された。1917年(大正6年)に財界からの寄付金と国庫補助金、皇室下賜金などのを財源に、半官半民の財団法人として理化学研究所が設立された。その他航空研究所(東京帝国大学付属研究所で航空科学を研究)・金属材料研究所(本多光太郎の提案で東北帝国大学に設立)・地震研究所(関東大震災の教訓から地震と地震予知研究)が大正時代に設立される。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "文学界には新現実主義の芥川龍之介、耽美派の谷崎潤一郎、さらに武者小路実篤・志賀直哉ら人道主義(ヒューマニズム)を理想とした白樺派が台頭した。この頃までに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。詩・和歌では萩原朔太郎が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当たった菊池寛などの文芸作品が登場した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "出版業界においては1冊1円の「円本」が爆発的に売れた。1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『ホトトギス』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。柳宗悦が朝鮮美術を薦めて民藝運動を提唱した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "大正時代末期には鏑木清方が「展覧会芸術」などに対して、版画等のことを「卓上芸術」として提唱した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "社会事業を巡る議論が盛んとなり、国家経営政策として第1回国勢調査が1920年(大正9年)に実施された。米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "東京府・大阪府などの都市部で上水道が普及した。明治期まで非常に多かった乳児死亡率が大正期に減少した。世界中にパンデミックを引き起こしたスペイン風邪は日本国内で2380万人(当時の対人口比:約43%)が感染し、島村抱月や大山捨松、皇族では竹田宮恒久王が死去するなど約39万人の日本人が死亡した",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "また、1919年(大正8年)には第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "鈴木文治によって友愛会が設立されて、第一次世界大戦期間中にインフレが進行したことによって米騒動が発生した。成金が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した労働争議に友愛会などの労働組合が深く関係した。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "大正デモクラシーによって様々な社会運動が行われた。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "明治期に四民平等となった後も、被差別部落出身者に対する差別が残った。明治政府の貧困対策や身分解放政策の不備、また賎民専用の皮革産業などの生業を失い貧困層となったことや、旧百姓身分の農民層からの偏見があった。西光万吉や阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "女性の解放が叫ばれ、ウェートレス・デパートの店員・バスガール・電話交換手・劇場の案内人・美容師・事務員・和文や英文のタイピスト・通訳・保母・看護婦・医師など社会に進出して働く職業婦人が増加した。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "普通選挙運動の対象が男性のみであったことから、女性の地位向上を目指す女性運動家が出現し、新婦人協会が設立された。また、高等女学校や大学へ進学する女子生徒も増えた。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "三・一運動によって朝鮮総督府がこれまでの憲兵警察制度による武断統治を見直し、内鮮一体と朝鮮半島の近代化を目的とする文化政治に改めた。貧困から逃れるため朝鮮人の外地から内地への密航が多発して、在日朝鮮人の増加に伴う内地人との軋轢や社会不安が社会問題となった。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "西洋思想の影響を受けて仏教が近代化し、仏教思想と西洋哲学を統合する仏教近代化政策が実施された。僧侶の参政権運動が明治末期から大正期かけてあった。僧侶の政治活動が盛んで妹尾義郎が新興仏教青年同盟を結成した。仏教関係の政治団体が盛んに社会運動を行うが昭和戦前期に軍部によって弾圧された。東京帝国大学でインド哲学の専門学科が1917年(大正6年)に開設された。井上円了を中心に仏教の迷信を否定する妖怪研究があった。1924年(大正13年)に大正新脩大蔵経の編纂が開始された。",
"title": "社会問題"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2019年(令和元年)10月1日の時点では、日本における明治・大正生まれの人口は114万1千人で総人口の0.9%。",
"title": "現代における大正"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2020年頃より都道府県の最高齢者が大正生まれとなるケースが出てきている。男性の最高齢者は過半数の都道府県で大正生まれが最高齢で大正5年が最高齢となる県も出てきている。人口の少ない町村によっては大正生まれが1人~5人の自治体もある。大正元年生まれは2022年で110歳を迎えた。",
"title": "現代における大正"
}
] | 大正は、日本の元号の一つ。 明治の後、昭和の前。大化以降229番目、245個目の元号である。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。 日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間グレゴリオ暦が用いられた。日本史の時代区分上では、元号が大正であった期間を大正時代という。本項ではこの時代についても記述する。 | {{Otheruses}}
{{日本の歴史|Emperor Taisho of Japan.jpg|画像説明=[[大正天皇]]}}
{{読み仮名|'''大正'''|たいしょう}}は、[[日本]]の[[元号]]の一つ。
[[明治]]の後、[[昭和]]の前。[[大化]]以降229番目、245個目<ref group="注">[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[北朝 (日本)|北朝]]の元号を除くか含めるかによる。</ref>の元号である。'''[[大正天皇]]'''の在位期間である[[1912年]](大正元年)[[7月30日]]から[[1926年]](大正15年)[[12月25日]]まで。
日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間[[グレゴリオ暦]]が用いられた。[[日本史時代区分表|日本史の時代区分]]上では、元号が大正であった期間を{{読み仮名|'''大正時代'''|たいしょうじだい}}という<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%99%82%E4%BB%A3-1181922 世界大百科事典 第2版「大正時代」]</ref>。本項ではこの時代についても記述する。
== 改元 ==
{{Wikisource|明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス}}
*[[1912年]]([[明治]]45年)[[7月30日]] - [[明治天皇]]が[[崩御]]して[[皇太子]]嘉仁親王(後の[[大正天皇]])が[[践祚]]([[即位]])したため、[[登極令]]([[1909年]]〈明治42年〉公布)に基づき[[改元]]の[[詔|詔書]]を公布、即日施行して同日は「大正元年7月30日」となった。
: 大正改元の詔書(1912年(明治45年)7月30日)
{{Quotation|{{kyujitai|朕󠄂菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖󠄁宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝󠄁ノ定制ニ遵󠄁ヒ明󠄁治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者󠄁施行セヨ}}(以下略)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m45_1912_01.html|title=明治45年(1912)7月|大正と改元:日本のあゆみ|accessdate=2020-8-30}}</ref>}}
{{Wikisource|昭和ト改元}}
*[[1926年]](大正15年)[[12月25日]] - 大正天皇が47歳で崩御し、その長男である皇太子裕仁親王(後の[[昭和天皇]])が25歳で践祚したため[[昭和]]に改元。同日は「昭和元年12月25日」となった。なお、皇太子裕仁親王は[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]以降、持病が篤くなった大正天皇の[[摂政]]を務めている。
== 出典 ==
大正の由来は『[[易経]]』彖伝・臨卦の「'''大'''亨以'''正'''、天之道也({{ruby|大|おほ}}いに{{ruby|亨|とほ}}りて{{ruby|以|もっ}}て{{ruby|正|ただ}}しきは、{{ruby|天|てん}}の{{ruby|道|みち}}なり)」から。「大正」は過去に4回(「[[元弘]]」「[[承応]]」「[[万治]]」「[[貞享]]」改元時<ref>[https://web.archive.org/web/20190203024604/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019020200439&g=soc 「明治」は11度目の正直=選から漏れた元号案、最多は40回]、時事ドットコム、2019年02月02日15時19分。</ref>)候補に上がったが、5回目で採用された。
なお、「大正天皇実録」によれば、明治に代わる新元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により大正に決定した。
[[森鴎外]]が『元号考』の執筆にあたり、[[賀古鶴所]]に宛てた書簡で「『[[大正 (莫朝)|大正]]』は[[莫朝|ベトナム]]で使用があり、御幣を担ぐわけではないが中国では『正』の字の元号を嫌う。『正』の字は『一而ニシテ止ル』と読めるので、『正』の字を付けて滅びた例を調べるべきなのに不確認である」と不満を述べている<ref>{{Cite web|和書|publisher=講談社|work=現代ビジネス|url=https://gendai.media/articles/-/64179|title=「昭和」を考案した男と「令和」にまで影響した森鷗外の執念|date=2019-05-02|accessdate=2021-02-10}}</ref>。
== 概要 ==
大正時代(1912年-1926年)は、[[大正天皇]]の在位した期間を指している。
[[日本史時代区分表|日本史の時代区分]]は通常([[一世一元の制]]以前)、[[古墳時代|古墳]]・[[飛鳥時代|飛鳥]]・[[奈良時代|奈良]]・[[平安時代|平安]]・[[鎌倉時代|鎌倉]]・[[室町時代|室町]]・[[安土桃山時代|安土桃山]]・[[江戸時代|江戸]]と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は[[1912年]]〜[[1926年]]の14年間)[[日本の歴史|日本史]]で一番短い時代区分である。
大正年間には、2度<ref>第一次は[[1912年]](大正元年)12月から翌年にかけて[[第3次桂内閣]]打倒運動が東京を中心にして各地で憲政擁護大会が開かれた。第二次は[[1924年]](大正13年)1月[[清浦内閣]]打倒運動を起こし、政党内閣、普通選挙、貴族院改革を要求した。</ref>に及ぶ[[護憲運動]](憲政擁護運動)が起こり、明治以来の[[超然内閣]]の政治体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出することになった。それらは[[大正デモクラシー]]と呼ばれて、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]ら<ref>政党側の闘志であるこの二人は、[[中華民国]]に対する「21か条要求」には日本の特権を肯定していた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 15ページ)</ref>がその指導層となった。
[[大正デモクラシー]]時代は[[1918年]](大正7年)の[[1918年米騒動|米騒動]]の前と後で区別されることが多いが、米騒動の同年に初めて[[爵位]]を持たない非[[華族]]階級であり、[[衆議院]]に議席を有する[[原敬]](「平民宰相」とあだ名された)が本格的な政党内閣(=[[原内閣]])を組織した。
原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり、「[[教育]]制度の改善」、「[[交通]]機関の整備」、「[[産業]]および[[通商]][[貿易]]の振興」、「[[国防]]の充実」の4大政綱を推進したが、[[普通選挙法]]に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、[[1921年]](大正10年)[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]員だった[[中岡艮一]]により[[東京駅]]構内で[[暗殺]]された([[原敬暗殺事件]])。
この前後の時期は[[普選運動]]が活発化して、[[平塚らいてう|平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権]]運動も活発だった。
[[1925年]](大正14年)には[[加藤高明内閣]]下で[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[ロシア革命]]の勃発による国内での[[社会主義]]・[[共産主義]]思想の台頭への警戒感から[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈して、皇室を有する[[君主制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の[[民本主義]]<ref>デモクラシーの訳語(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 14ページ)</ref>や[[美濃部達吉]]の[[天皇機関説]]などが現れた。
[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]に皇太子裕仁親王が大正天皇の病状悪化によって[[摂政#近現代(戦前)|摂政宮]]となった。[[明治]]時代を見直す機運から[[明治天皇]]と[[昭憲皇太后]]を祀る[[明治神宮]]が大正9年(1920年)11月1日創建された<ref name="創建">{{Cite web|和書|url= https://meijijingusukeikai.or.jp/sukeikai/about/47.html |title=明治神宮の鎮座と戦後復興|publisher=明治神宮崇敬会|accessdate=2020-11-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201021221514/https://meijijingusukeikai.or.jp/sukeikai/about/47.html|archivedate=2020-10-21}}</ref>。
[[1923年]](大正12年)に[[加藤友三郎]]首相が在任中に死去して8日後に[[関東大震災]]が起こり、首都東京が壊滅的な打撃を受けた。[[放火]][[デマ]]や鮮人差別意識で[[自警団]]が結成及び組織されて[[関東大震災朝鮮人虐殺事件]]が起きた。[[後藤新平]]による帝都東京復興計画が実施された関東大震災後、[[山本権兵衛]]元首相が再度政権に返り咲き、[[第2次山本内閣]]が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として加藤高明内閣が成立した。
日本も[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として勝者の側につき、[[列強]]「[[五大国]]」の一員となった[[第一次世界大戦]]後には、[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ]]・[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン体制]]に順応的な[[幣原喜重郎]]外相による[[幣原外交]](加藤高明内閣)が展開され、[[中華民国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦]]との国交樹立など、一定の[[ハト派]]・国際協調的な色彩を示した。
大正時代は[[藩閥]]的な超然内閣を主導していた[[江戸時代]]生まれの[[元勲]]たちが政界から引退したり他界して、[[高等教育]]機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった<ref>皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目</ref>。
国外では[[第一次世界大戦]]の結果として、王政打倒の革命が起きた。敗戦国の[[ドイツ帝国|ドイツ]]や[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]や連合国からドイツと和解して戦線から離脱した[[ロシア帝国|ロシア]]などで君主制が廃止された。[[ロシア革命]]では世界初の[[社会主義国]]の[[ソビエト連邦]]が成立した。ドイツでは[[ワイマール憲法]]のもと[[ドイツ共和国]]([[ヴァイマル共和政]])が誕生した。共和制国家の成立は、[[デモクラシー]]の勝利とされた。
しかし、日本において共和制の誕生は天皇制・皇室廃止の意味があり、労働運動の高まりを利用して共産主義が広まることを警戒して[[治安維持法]]が制定された。多くの国で君主制が廃止されたことが口実となった。[[共産主義]]思想は日本の[[インテリ]]層に影響を与え、大正期の[[知識人]]は、[[改造]]・[[革新]]・[[革命]]・[[維新]]の4種類を政治運動の[[スローガン]]に掲げた。
文化風俗面の特徴としては、[[近代都市]]の発達や経済の拡大に伴い都市文化、[[大衆文化]]が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた<ref name=pola>『化粧文化』8号「大正モダン」ポーラ文化研究所、2015</ref>。女性の就労も増え、それまでの[[女工]]などに代わって、電話交換手や女子事務員など「[[職業婦人]]」と呼ばれる層が現れ、カフェの女給、バスガール、デパート店員、女医、映画女優といった新しい職業も人気となり、東京や[[横浜市|横浜]]、[[大阪]]や[[神戸]]などでは[[大企業]]や[[外資系企業]]に勤める[[大学]]卒で高収入な[[ホワイトカラー]]が登場し、断髪で洋装の[[モガ]](モダンガールの略。男性はモボ)が登場した<ref name=pola/>。
大正年間を通じて、都市にこうした享楽的な文化が生まれる反面、[[スラム]]の形成、民衆騒擾の発生、[[労働組合]]と小作人組合が結成されて、[[労働争議]]が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。
== 護憲運動と政治 ==
{{see also|護憲運動|大正政変|大正デモクラシー}}
[[画像:YukioOzaki TaroKatsura.jpg|thumb|250px|1913年(大正2年)2月5日、[[尾崎行雄]]の[[第3次桂内閣|桂内閣]]弾劾演説([[大正政変]])
-----
{{small|1913年(大正2年)2月5日、[[桂太郎]]首相の施政方針演説に対する質問に立った尾崎行雄は桂首相を激しく糾弾した。}}]]
[[画像:Nikolayevsk Incident-1.jpg|thumb|250px|1920年(大正9年)、[[赤軍]]の攻撃により燃え落ちた日本領事館([[尼港事件]])
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{{small|ニコラエフスク住民数千人と共に、日本人700人余りが殺害された。}}]]
[[1911年]]([[明治]]44年)に[[第2次西園寺内閣]]が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、[[中国]]の[[辛亥革命]]に刺激された[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は、抗日運動対策も兼ねて、前年に併合した[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]に駐屯させる[[二個師団増設問題|2個師団の増設]]を強く政府に迫った。[[緊縮財政]]方針の[[西園寺公望]]がこれを拒否し、政府・与党([[立憲政友会]])と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また[[1912年]](明治45年/大正元年)[[7月30日]]に[[明治天皇]]が崩御して[[大正天皇]]が即位したり、[[美濃部達吉]]が『憲法講話』を刊行して、[[天皇機関説]]や政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。
[[1912年]](大正元年)の末、2個師団増設が閣議で承認されなかったことに抗議して、[[上原勇作]]陸相が単独で辞表を[[大正天皇]]に提出し、陸軍が[[軍部大臣現役武官制]]を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって[[長州]]閥と陸軍の長老である[[桂太郎]]が、就任したばかりの[[内大臣]]と[[侍従長]]を辞して[[第3次桂内閣]]を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して[[宮中]]の職から首相に転じたことが、[[藩閥]]勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)190頁</ref>。
[[立憲国民党]]の[[犬養毅]]と[[立憲政友会]]の[[尾崎行雄]]を先頭とする野党勢力や[[新聞]]に、商工業者や都市部の知識人階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった([[第一次護憲運動]])。桂は[[立憲同志会]]を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので[[1913年]](大正2年)、民衆が議会を包囲するなか在職わずか50日余で退陣した([[大正政変]])。
桂のあとは、[[薩摩藩|薩摩]]出身の[[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]]である[[山本権兵衛]]が[[立憲政友会]]を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、[[文官任用令]]を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の[[将官]]にまで資格を拡げ、[[官僚]]・[[軍部]]に対する政党の影響力拡大に努めたが[[1914年]](大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入を巡る海軍高官の汚職事件([[シーメンス事件]])が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)193頁</ref>。
これを見た[[山縣有朋]]ら[[元老]]は庶民の間で人気のある[[大隈重信]]を急遽後継首相に推薦し、[[第2次大隈内閣]]が成立した。大隈は[[立憲同志会]]を少数与党として出発したが、[[1915年]](大正4年)の[[第12回衆議院議員総選挙|総選挙]]で立憲同志会などの与党が[[立憲政友会]]に圧勝した。この結果、懸案の[[二個師団増設問題|2個師団増設案]]は議会を通過した。また同内閣下で[[第一次世界大戦]]が勃発しており、同盟国[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]が[[ドイツ帝国]]に宣戦すると、日本は[[日英同盟]]を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地[[青島市|青島]]、[[山東省]]、[[南洋諸島]]の一部を占領した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)196頁</ref>。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、[[1915年]](大正4年)に[[袁世凱]]政府に、[[加藤高明]]外相が二十一か条の要求を提出した([[対華21ヶ条要求]])。
続く寺内政権では、袁政権の後継となった北方軍閥の[[段祺瑞]]内閣に巨額の借款を与えて([[西原借款]])、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため[[日露協約#第四次日露協約|第4次日露協約]]、イギリスとの覚書、[[特派大使]][[石井菊次郎]]の[[石井・ランシング協定]]を締結した。[[1917年]](大正6年)の[[ロシア革命]]を好機とみた[[寺内内閣]]は[[北満州]]・[[沿海州]]まで勢力を広げようとした([[シベリア出兵]])。
[[寺内正毅]]の超然内閣に対抗して[[憲政会]]が結成されると、寺内首相は[[1917年]](大正6年)に衆議院を解散、[[第13回衆議院議員総選挙|総選挙]]の結果、立憲政友会が[[憲政会]]に代わって[[衆議院]]の第一党となった。大戦による急激な[[インフレーション]]と[[シベリア出兵]]を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、[[1918年]](大正7年)8月には[[富山県]]の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると[[1918年米騒動|米騒動]]が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)202頁</ref>。
政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は[[1918年]](大正7年)[[9月21日]]に退陣した。
[[画像:Takashi Hara posing.jpg|thumb|left|200px|[[原敬]]]]
民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、[[立憲政友会]]総裁の[[原敬]]を首相に推薦し、[[1918年]](大正7年)[[9月29日]]には初の本格的な政党内閣である[[原内閣]]が成立した。[[華族]]でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した。
しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 16ページ
</ref>、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、[[小選挙区制]]を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では[[1919年]](大正8年)に満州で日中両軍が衝突する[[寛城子事件]]が起きる。[[1920年]](大正9年)の[[尼港事件]]では在留邦人と駐留日本軍が[[赤軍]]と[[中国軍]]に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。[[1921年]](大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者の中岡艮一に暗殺された([[原敬暗殺事件]])。
続いて政友会総裁となった[[高橋是清]]が首相となり、[[高橋内閣]]は経済不況に対応して積極政策を試みたがそのことで内紛が起こったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭に[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将[[加藤友三郎]]が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行い、さらに[[山梨半造]]陸軍大臣によって[[山梨軍縮]]と呼ばれる陸軍軍縮も断行して選挙権拡大の検討に入った<ref name="平凡">『世界大百科事典』(平凡社)「大正」の項目</ref>。
加藤の病死後、関東大震災の危機の中で[[第2次山本内閣]]が立てられ、再度政権に返り咲いた山本は挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが政友会の協力が得られず、[[虎の門事件]]の責任を取り総辞職に追い込まれた<ref name="平凡"/>。続いて[[貴族院 (日本)|貴族院]]を母体とした[[清浦内閣]]が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の[[憲政会]]・[[革新倶楽部]]・[[政友会]]の三派は、[[第二次護憲運動]]を起こした。[[1924年]](大正13年)の[[第15回衆議院議員総選挙|総選挙]]では[[護憲三派]](憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、[[護憲三派内閣]]として[[加藤高明内閣]]が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相を務めるのが風習化した([[憲政の常道]])<ref name="平凡"/>。
加藤内閣は、[[宇垣軍縮]]と呼ばれる[[第13師団 (日本軍)|高田陸軍師団]]・[[第15師団 (日本軍)|豊橋陸軍師団]]・[[第17師団|岡山陸軍師団]]・[[第18師団|久留米陸軍師団]]の4個の陸軍師団を削減して大量の将校の人員削減など陸軍軍縮を行い、兵力を削減した経費で[[戦車]]・[[自動車]]・[[航空機]]など[[20世紀]]に導入された軍事装備を大量配置して[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の近代化を行い、中等学校(現在の[[高等学校]]課程にほぼ相当)以上の男子学校のカリキュラムに軍事教練を設けて過剰となった将校を教官にした<ref>『図説日本史通覧』253頁</ref>。
[[1925年]](大正14年)、[[普通選挙法]]を成立させ、納税額によらず25歳以上の成人男子全員に[[選挙権]]を与える男子[[普通選挙]]が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)225頁</ref>。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前の[[ロシア革命]]のように「革命の発火点」になる恐れも考えられたため、普選法と同時に[[治安維持法]]を成立させ、「[[国体]]の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった<ref>[[1925年]](大正14年)の新聞は治安維持法に批判的な論評を掲載するとともに、社説でも正面から反対した。「社説」では同法は「[[人権蹂躙]]・人権抑圧」であり、国民の生活や思想まで取り締まりの対象になり、集会結社の自由はなきに至ると論じた。同法成立の背景として、第一次世界大戦とロシア革命以後の社会運動や社会主義運動の盛り上がりを抑制する政策として考えられてきたものであったが、また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の無政府主義取締法を初めとする世界的な治安立法の動きが影響したと考えられる。(成田)龍一『大正デモクラシー』シリーズ日本近代史④ 岩波書店 〈岩波新書1045〉 2007年 210-211ページ</ref>。また、勅令175号[[1925年]](大正14年)[[5月8日]]により、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[日本統治時代の台湾|台湾]]、[[樺太庁|樺太]]にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ、1926年(大正15年)には[[労働農民党]]が発足した。また同年[[治安警察法]]第17条も廃止された。外交面では、[[日ソ基本条約]]を結んで世界史上初の社会主義国家[[ソビエト連邦]]との国交を樹立した<ref name="平凡" />。
同年12月25日に大正天皇が47歳で崩御し、その長男で摂政を務めていた皇太子裕仁親王が25歳で践祚し、15年程続いた大正時代は終わり、63年間に及ぶ[[昭和]]の時代へと突入した。
== 第一次世界大戦と景気 ==
{{see also|大戦景気 (日本)|戦後恐慌|第一次世界大戦下の日本}}
[[画像:Inazo Nitobe.jpg|thumb|200px|[[新渡戸稲造]]]]
[[1914年]](大正3年)には、[[第一次世界大戦]]が勃発した。元老の[[井上馨]]はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。
発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時[[恐慌]]寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と[[アメリカ合衆国]]の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、[[日本経済]]は空前の[[好景気]]となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で[[繊維]]([[紡績]]産業・[[漁網]]製造産業)などの[[軽工業]]や[[造船業]]・[[製鉄業]]など[[重工業]]が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった[[化学工業]]も最大の[[輸入]]先である[[ドイツ帝国]]及び[[オーストリア=ハンガリー帝国]]との交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に[[近代化]]が進んだ。こうした中で多数の「[[成金]]」が出現する。また、政府財政も[[日露戦争]]以来続いた財政難を克服することに成功する<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)200頁</ref>。
しかし、[[1918年]](大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生した。さらに戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「[[金解禁]]」)の時期を逸したために、[[日本銀行]]に大量の[[金]]が滞留して[[金本位制]]による通貨調整の機能を失った。さらに関東大震災による[[京浜工業地帯]]の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、[[震災手形]]とその[[不良債権]]化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに[[昭和金融恐慌]]・[[世界恐慌]]を迎えることになる。
[[パリ講和会議]]では、「[[人種差別撤廃案]]」を主張し、大多数の国の支持を得たがアメリカ、[[イギリス]]、[[オーストラリア]]などの反対によって否決された。当時[[アジア]]の中で数少ない[[独立国]]であった日本は、[[国際連盟]]に加盟し、アメリカ・イギリス・[[フランス]]・[[イタリア]]の5カ国と並ぶ世界の1等国として[[国際連盟]]の[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]となる。国際連盟事務次長には[[新渡戸稲造]]が就任している。しかしドイツ植民地であった[[マーシャル諸島]](日本は[[南洋諸島]]に[[南洋庁]]を設置した)が日本に[[委任統治]]された結果、日本の[[太平洋]]地域への進出が進み、[[フィリピン]]や[[ハワイ諸島]]を領有するアメリカと直接的に[[領土]]・[[領海]]の境域が接するようにもなり、日米の対立関係は深まり、アメリカの圧力で[[日英同盟]]が解消されるなど、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])への伏線が芽生えることにもなった。
== 震災復興 ==
{{see also|関東大震災}}
[[画像:Shimpei Gotō 2.jpg|thumb|200px|[[後藤新平]]]]
[[1923年]](大正12年)9月1日には[[関東大震災]]が生じた<ref name="9月1日">{{Cite web|和書|url= https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00526/ |title= 人的被害の9割が東京・横浜に集中 : 関東大震災を振り返る|accessdate=2020-11-29|date=2019-8-30|work=ニッポンドットコム}}</ref>。この未曾有の大災害に首都[[東京]]は甚大な損害を受ける<ref name="9月1日"/>。震災後、元首相の山本権兵衛が再び政権を担い、[[第2次山本内閣]]が成立した。新内閣の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]となった[[後藤新平]]が震災復興で大規模な都市計画を構想して手腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行い[[インフラストラクチャー|インフラ]]が整備され、大変革を遂げた。
江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は[[下水道]]整備や[[ラジオ]]放送が本格的に始まるなど近代都市へと大きな進化を遂げた。しかし、一部に計画された[[パリ]]や[[ロンドン]]を参考にした環状道路や放射状道路等の建設は諸事情により行われなかった。これによって培われた経験が戦後の[[首都高速]]道路の建設に繋がる。
== 文化 ==
{{see also|大正ロマン}}
=== 芸能文化 ===
日本初の[[レコード]]でヒットした[[歌謡曲]]とされる[[松井須磨子]]の「[[カチューシャの唄]]」をはじめとする数々の歌謡曲が誕生した。[[ジャズ]]もこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。[[落語]]・[[講談]]・[[能]]・[[文楽]]・[[歌舞伎]]・[[新派劇]]・[[新国劇]]などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する[[新劇|新劇運動]]([[芸術座]]・[[築地小劇場]])が盛んになり<ref>大正から昭和へ少年少女日本の歴史202頁〜207頁</ref>、[[昭和|昭和時代]]に発展する[[芸能界]]の基礎となる[[俳優]]・[[俳優|女優]]・[[歌手]]などの職業が新しく誕生して、その後の[[大衆文化]]の原型が生まれた。[[活動写真]](現在の[[映画]])や[[少女歌劇]](現在の[[宝塚歌劇団]])が登場した<ref>日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正71頁</ref>。
=== 都市文化 ===
[[画像:Ichizo Kobayashi young.jpg|thumb|200px|[[小林一三]]]]
[[画像:Yamamura house07n4272.jpg|thumb|left|250px|大正時代の洋風住宅([[兵庫県]][[芦屋市]]・[[旧山邑家住宅]])]]
[[日露戦争]]頃から、経済文化の中心地であった[[大阪市|大阪]]・[[神戸市|神戸]]において都市を背景にした大衆文化が成立し([[阪神間モダニズム]])、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。一方、東京では1915年(大正4年)に[[浮世絵]]版画の復刻をしつつ、新しい[[伝統木版画]]を創造しようとしていた[[渡辺庄三郎]]の主導によって[[フリッツ・カペラリ]]の[[水彩画]]を[[錦絵]]風の[[木版画]]にしたのを機に[[橋口五葉]]、[[伊東深水]]、[[川瀬巴水]]、[[吉田博]]、[[名取春仙]]らによる[[新版画]]の活動が開始された。この動きは[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]後には新興の版元を多く巻き込んで全国的に広まり、昭和時代まで続いていった。
[[道路]]や[[交通機関]]が整備された。[[路面電車]]や[[東京乗合自動車|青バス(東京乗合自動車)]]や[[円太郎バス]]<ref>「明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化」14ページ、汐文社</ref>などの[[乗合バス]]が市内を走行した。大正後期から昭和初期までの[[大大阪時代]]に[[大阪府]]では、[[東京府]]よりも先におびただしい私鉄網が完成し、とりわけ[[小林一三]]が主導した[[阪急阪神ホールディングス|阪神急行電鉄]]の巧みな経営術により、[[阪神間]]に多くの[[ベッドタウン|住宅衛星都市群]]が出現した。
一方、[[日清戦争]]([[1894年]]〜[[1895年]]〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の[[貿易港]]となっていた[[神戸港]]に夥しく流入する最新の欧米文化は衛星都市の富裕層に受け入れられ広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「[[文化住宅]]」が一般向け住宅として流行をした。
[[東京府]]([[東京市]])では、関東大震災で[[火災]]による被害が甚大だった影響で[[下町]]が[[江戸時代]]の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった[[丸の内]]、[[大手町 (千代田区)|大手町]]地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、大企業や外資系企業の一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「'''副都心'''」へと成長させた。
[[1918年]](大正7年)に[[専門学校]]から昇格する形で[[私立大学]]を中心に[[旧制大学]]を認可する[[大学令]]と[[高等学校令]]が公布されて[[高等教育]]機関が整備され、[[東京大学|東京帝大]]の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、大企業や外資系企業に勤める大卒の「[[サラリーマン]]」が大衆の主人公となった。
明治時代まで[[呉服]]屋であった[[老舗]]が次々に「'''百貨店'''」に変身を遂げ、[[銀座]]は[[デパート]]街へと変貌した。[[井戸]]やまきによるかまどの使用や[[明治時代]]の[[石油]][[ランプ (照明器具)|ランプ]]が廃れて、[[上水道]]・[[ガス燃料|ガス]]・[[電気]]が普及する。[[神前結婚]]や[[大本教]]や[[霊友会]]など[[新宗教]]が盛んになる。家庭電気器具では[[扇風機]]・[[電気ストーブ]]・電気アイロン・[[電気コンロ]]が普及した<ref>集英社学習漫画日本の歴史大正時代大正デモクラシー125頁</ref>。[[ブリキ]]や[[セルロイド]]製の[[おもちゃ]]など新素材のおもちゃが登場した。
=== スポーツの開始 ===
[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝大会]]が[[金栗四三]]の尽力で開始されて、[[オリンピック競技]]が盛んになった。[[1920年]](大正9年)の[[アントワープオリンピック]]では、日本人初のメダルとしてテニスで[[銀メダル]]を獲得した。[[朝日新聞社]]と[[毎日新聞社]]による[[日本の高校野球|中等学校野球]]などのスポーツが開始された。[[明治神宮]]外苑に「[[明治神宮野球場|神宮外苑野球場]]」ができたのが[[1926年]](大正15年)で、その前年出発した「[[東京六大学野球]]」が愈々隆盛を極めるようなる。
=== マスコミの発達 ===
東京に拠点を置いていた『[[時事新報]]』、『[[國民新聞]]』、『[[萬朝報]]』の主要紙が関東大震災の被災で凋落し、取って代って[[大阪]]に本社を置いていた『'''[[大阪朝日新聞]]'''』、『'''[[大阪毎日新聞]]'''』が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した『'''[[讀賣新聞]]'''』も成長を果たして、今の「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。
[[1925年]](大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋の主要三大都市で'''[[ラジオ]]放送'''が始まり、新しいマスメディアが社会に刺激を与えるようになる。
大正前期、新聞について書かれた記事によると、『風俗書報』第四六七号(一九一六[大正五]年一月)の「新聞紙」にて柏拳生は「新聞紙は斯く重宝なるものとして貴ばるゝと共に、群衆心理を左右する恐るべき魔力を有す。」と述べている。また、光本悦三郎『鞍上と机上:続東京馬米九里』(一九一四[大正三]年一二月 無星神叢書)の「新聞の裏面」にて「群盲は新聞の裏面を知らないで、表面に現れた文字だけよりかは何も知らない。」とあるように、大正期の新聞は人々に多大な影響を与えた。
=== 自動車の登場 ===
震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「'''[[自動車]]'''」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「[[日本のタクシー#歴史|円タク]]」など[[タクシー]]の登場もあって、旅客か貨物かを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。また、これまでのような上流階級や富裕層のみならず、中流階級を中心に[[オースチン・モーター・カンパニー|オースチン]]などの輸入車を中心とした[[自家用自動車|自家用車]]の普及も始まった。
=== 食文化 ===
都市部では新たに登場した中産階級を中心に“[[洋食]]”が広まり「'''カフェ'''」「'''レストラン'''」が成長して、飲食店のあり方に変革をもたらした。[[カレーライス]]・[[豚カツ|とんかつ]]・[[コロッケ]]は'''大正の三大洋食'''と呼ばれた<ref>{{cite journal|和書|author=[[江原絢子]]・[[石川寛子]]|title=家事教科書からみた調理教育の営的研究(その2)―大正期―|date=1986|journal=家政学雑誌|publisher=日本家政学会|volume=37|issue=1|pages=67-75}}(72ページより)</ref><ref>進藤健一"どんな揚げ物にはまってますか? 思わずパクつく「背徳のグルメ」"[[朝日新聞]]2014年8月30日付朝刊、[[be (朝日新聞)|週末be]]2ページ</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mealtime.jp/shokublog/naohashi/2016/04/post-229.html|title=変わり行く日本食 6 「洋食」物語|author=[[橋本直樹 (農学者)|橋本直樹]]|date=2016-04-14|work=大人のための食育 食育博士の辛口レクチャー|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170320115954/http://www.mealtime.jp/shokublog/naohashi/2016/04/post-229.html|archivedate=2017年3月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ja.kyoto.travel/glossary/single.php?glossary_id=1275|title=洋食|publisher=[[京都市観光協会]]|author=長友麻希子|accessdate=2020-08-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kwatanab/Ztaikai/2013/chap-5.htm|title=第5章 近代(明治から昭和の戦前)―洋食と和食|work=2013年経済学部ゼミナール大会報告論文 日本の食文化の歴史|publisher=[[松山大学]]|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160801055523/http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kwatanab/Ztaikai/2013/chap-5.htm|archivedate=2016年8月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.naniwa.ed.jp/message/2338.html|title=本校の歴史その8 大正時代と旧制中学|publisher=[[浪速高等学校・中学校]]|author=木村智彦|date=2011-05-24|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160811071016/http://naniwa.ed.jp/message/2338.html|archivedate=2016年8月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.croquette.jp/c_kentei/kentei|title=コロッケ検定|publisher=日本コロッケ協会|accessdate=2017-03-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160609131232/http://www.croquette.jp/c_kentei/kentei|archivedate=2016年6月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。特にコロッケは[[益田太郎冠者]]<ref>[https://1000ya.isis.ne.jp/0696.html]</ref>作詞の楽曲の'''コロッケの唄''' ([[1917年]](大正6年)に[[ヒット曲|ヒット]])の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。米騒動による[[米価]]高騰対策として[[原内閣|原敬内閣]]は積極的に[[パン]]の[[節米料理|代用食]]運動を展開した。パンは昭和の戦後期になって普及するが、和製洋食に[[米]]の[[飯|御飯]]と云う、戦後の日本人の食事の主流は大正時代に定着して、[[中華料理]]の[[ラーメン|中華そば]]の普及や[[日本料理|和食]]の[[復興|復権]]運動があった<ref>皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年148ページから〜151ページの大正時代の3大洋食-『明日もコロッケ』だった時代の項目</ref>。[[ロシアパン]]が[[ロシア革命]]で日本に亡命して来た[[白系ロシア人]]によって紹介されて広まった<ref>「教科書に載っていない戦前の日本」55頁</ref>。[[1919年]](大正8年)[[7月7日]] に日本で初めての[[乳酸菌飲料]][[カルピス]]が発売される。人造氷が発達した。[[アイスクリーム]]・パン・[[チキンライス]]・[[コーヒー]]・[[ラムネ (清涼飲料)|ラムネ]]・[[紅茶]]・[[サイダー]]・[[ビール]]・[[キャラメル]]・[[チョコレート]]など洋食品が普及した<ref>日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正74頁</ref>。[[喫茶店]]や[[レストラン]]が増加した。[[昭和一桁]]にかけて、[[麺類]]や[[缶詰]]類など簡易食品が発達した<ref>少年少女日本の歴史大正から昭和へ224頁</ref>。
=== ファッション ===
[[画像:Moga1.jpg|サムネイル|モガ(1923年)]]
女性の間で洋髪が流行して、七三分け・髪の毛の耳隠しなどが行われた。女学生に制服が使用された。男子はセルの[[袴]]が良く使用された。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式'''[[美容所|美容室]]'''」、「'''[[ダンスホール]]'''」が都市では珍しい存在ではなくなり、[[モボ・モガ|モダンボーイ・モダンガール]](モボ・モガ)の男女など、男性の'''洋装'''が当たり前になったのもこの時代である<ref>日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正152頁</ref>。一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった<ref>大正から昭和へ少年少女日本の歴史224頁〜225頁</ref>。
=== 学術研究史 ===
[[西田幾多郎]]などの[[京都学派]]が学問の主流だった。[[東洋史]]では[[内藤湖南]]が唱えた[[唐宋変革]]論が盛んに論議された。
[[1915年]](大正4年)に[[北里柴三郎]]設立の[[北里研究所]]が設立された。[[1917年]](大正6年)に[[財界]]からの寄付金と[[国庫補助金]]、[[皇室下賜金]]などのを財源に、[[半官半民]]の[[財団法人]]として[[理化学研究所]]が設立された。その他[[航空研究所]](東京帝国大学付属研究所で航空科学を研究)・[[金属材料研究所]]([[本多光太郎]]の提案で[[東北帝国大学]]に設立)・[[地震研究所]](関東大震災の教訓から地震と地震予知研究)が大正時代に設立される。
===大正文学史===
文学界には[[新現実主義]]の[[芥川龍之介]]、[[耽美派]]の[[谷崎潤一郎]]、さらに[[武者小路実篤]]・[[志賀直哉]]ら[[ヒューマニズム|人道主義]](ヒューマニズム)を理想とした[[白樺派]]が台頭した。この頃までに近代[[日本語]]が多くの文筆家らの努力で形成された。[[詩]]・[[和歌]]では[[萩原朔太郎]]が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、[[中里介山]]の『[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]』や『[[文藝春秋]]』の経営にも当たった[[菊池寛]]などの文芸作品が登場した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)228頁</ref>。
出版業界においては1冊1[[円 (通貨)|円]]の「[[円本]]」が爆発的に売れた<ref>明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化の37ページ。汐文社が出版社である</ref>。[[1921年]](大正10年)には、[[小牧近江]]らによって雑誌『[[種蒔く人]]』が創刊され、昭和初期にかけて[[プロレタリア文学]]運動に発展した。また[[1924年]](大正13年)には、[[小山内薫]]が[[築地小劇場]]を創立し、[[新劇]]を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「'''活動写真'''」と呼ばれた[[映画]]などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。[[柳宗悦]]が朝鮮美術を薦めて[[民藝運動]]を提唱した<ref>日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正153頁</ref>。
大正時代末期には[[鏑木清方]]が「展覧会芸術」などに対して、[[版画]]等のことを「[[卓上芸術]]」として提唱した。
== 社会問題 ==
=== 社会事業 ===
社会事業を巡る議論が盛んとなり、国家経営政策として第1回[[国勢調査]]が[[1920年]](大正9年)に実施された。米騒動後には政府・地方で[[社会局]]および[[方面委員制度]]の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や[[公設市場]]の設置などが進められていった。
===医療衛生問題===
[[東京府]]・[[大阪府]]などの都市部で[[上水道]]が普及した。明治期まで非常に多かった[[乳児死亡率]]が大正期に減少した。世界中に[[パンデミック]]を引き起こした[[スペイン風邪]]は日本国内で2380万人(当時の対人口比:約43%)が感染し、[[島村抱月]]や[[大山捨松]]、皇族では[[竹田宮恒久王]]が死去するなど約39万人の日本人が死亡した<ref>『「スペイン風邪」大流行の記録』平凡社東洋文庫、2008年、p.104。国会デジタルライブラリー『流行性感冒』</ref>
=== 教化総動員運動 ===
また、[[1919年]](大正8年)には[[第一次世界大戦]]を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による[[民力涵養運動]]が開始されており、後の[[教化総動員運動]]の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。
=== 労働運動 ===
こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、[[小作争議]]の頻発や[[労働運動]]の大規模化など、[[地方改良運動]]に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。
[[鈴木文治]]によって[[友愛会]]が設立されて、[[第一次世界大戦]]期間中に[[インフレ]]が進行したことによって[[米騒動]]が発生した。[[成金]]が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した[[労働争議]]に友愛会などの労働組合が深く関係した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)212頁</ref>。
=== 部落解放運動 ===
[[大正デモクラシー]]によって様々な社会運動が行われた。
明治期に[[四民平等]]となった後も、被差別部落出身者に対する差別が残った。[[明治政府]]の貧困対策や身分解放政策の不備、また賎民専用の[[皮革]]産業などの[[生業]]を失い[[貧困層]]となったことや、旧百姓身分の農民層からの偏見があった。[[西光万吉]]や[[阪本清一郎]]らが中心となり[[1922年]](大正11年)に[[全国水平社]]が結成された<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)215頁</ref>。
=== 女性解放運動 ===
[[画像:Jogakusei in Taisho period.JPG|サムネイル|大正時代の女学生]]
女性の解放が叫ばれ、[[ウェートレス]]・[[デパート]]の店員・[[バス (交通機関)|バス]]ガール・[[電話交換手]]・[[劇場]]の案内人・[[美容師]]・[[事務員]]・[[和文]]や[[英文]]の[[タイピスト]]・[[通訳]]・[[保育士|保母]]・[[看護婦]]・[[医師]]など社会に進出して働く[[職業婦人]]が増加した。
[[普通選挙]]運動の対象が男性のみであったことから、女性の地位向上を目指す女性運動家が出現し<ref> 松尾尊兊『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』118ページ〜120ページの復興する都市と女性の進出の項目</ref>、[[新婦人協会]]が設立された。また、[[高等女学校]]や[[大学]]へ進学する女子生徒も増えた<ref name=pola/>。
=== 朝鮮併合問題 ===
[[三・一運動]]によって[[朝鮮総督府]]がこれまでの[[憲兵警察制度 (朝鮮総督府)|憲兵警察制度]]による[[武断統治]]を見直し、[[内鮮一体]]と[[朝鮮半島]]の[[近代化]]を目的とする[[日本統治時代の朝鮮|文化政治]]に改めた。貧困から逃れるため朝鮮人の[[外地]]から[[内地]]への密航が多発して、[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の増加に伴う内地人との軋轢や社会不安が社会問題となった。
===大正仏教運動===
西洋思想の影響を受けて仏教が近代化し、仏教思想と[[西洋哲学]]を統合する仏教近代化政策が実施された。僧侶の参政権運動が明治末期から大正期かけてあった。僧侶の政治活動が盛んで[[妹尾義郎]]が[[新興仏教青年同盟]]を結成した。仏教関係の政治団体が盛んに社会運動を行うが昭和戦前期に軍部によって弾圧された。東京帝国大学で[[インド哲学]]の専門学科が[[1917年]](大正6年)に開設された。[[井上円了]]を中心に仏教の[[迷信]]を否定する[[妖怪]]研究があった。[[1924年]](大正13年)に[[大正新脩大蔵経]]の編纂が開始された。
<ref>『一冊でわかるイラストでわかる図解仏教』成美堂発行の73頁</ref>
== 年表 ==
;[[:Category:1912年の日本|1912年(大正元年)]]
:[[7月30日]]、[[明治天皇]]崩御、[[大正天皇|皇太子嘉仁親王]]が第123代天皇に践祚。明治から大正に改元される。明治天皇の[[大喪の礼]]。[[乃木希典]][[陸軍大将]][[夫妻]]が[[殉死]]する。[[桂太郎]]、[[第3次桂内閣]]成立。憲政擁護会が結成。[[火力発電]]を抜いて[[水力発電]]量が第1位になる。[[友愛会]]結成<ref>マンガ日本の歴史現代編大戦とデモクラシー。石ノ森章太郎執筆の200頁</ref>。
;[[:Category:1913年の日本|1913年(大正2年)]]
:[[大正政変]]([[第3次桂内閣|第3次桂太郎内閣]][[内閣総辞職|総辞職]])、[[第1次山本内閣|第1次山本権兵衛内閣]]成立。[[アメリカ合衆国]]の[[カリフォルニア州]]で[[排日土地法]]成立。宝塚唄歌隊(後の[[宝塚歌劇団]])誕生。
;[[:Category:1914年の日本|1914年(大正3年)]]
:[[鹿児島県]]の[[桜島]]が大[[噴火]]して[[大隅半島]]と陸続きになる([[桜島の大正大噴火]])。外電により[[シーメンス事件]]発覚。大正天皇即位奉祝「[[東京大正博覧会]]」始まる。「[[カチューシャの唄]]」の流行。日本初の[[日本車|国産車]]登場。[[第一次世界大戦]]勃発、[[日英同盟]]を理由に[[ドイツ帝国]]に[[宣戦布告]]、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一員に加わる。[[東京駅]]開業。[[三越]]呉服店が日本初の[[デパートメントストア]]宣言を行い、エレベーター・エスカレーター付きの近代的店舗を建築。
;[[:Category:1915年の日本|1915年(大正4年)]]
:[[日本]]が[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に[[対華21ヶ条要求|対華21ヶ条]]を要求。[[第12回衆議院議員総選挙]]で[[与党]]が圧勝<ref>[[同志会]]153議席,政友会108議席,[[中正会]]33議席、国民党27議席、[[大隈伯後援会]]12議席,無所属48議席</ref>。選挙干渉などが起きる。[[第1回全国中等学校優勝野球大会]]開催。[[大正天皇]][[即位の礼]]。[[東京証券取引所]]で空前の出来高。
;[[:Category:1916年の日本|1916年(大正5年)]]
:[[吉野作造]]が「[[中央公論]]」で「[[民本主義]]」を提案。[[夏目漱石]]死去。
;[[:Category:1917年の日本|1917年(大正6年)]]
:[[4月20日]]、[[第13回衆議院議員総選挙]](政友会165議席,憲政会121議席,国民党35議席,無所属60議席)。[[ロシア革命]]。中国での日本権益に関する米国との[[石井・ランシング協定]]締結。
[[画像:Kaijo building.jpg|サムネイル|東京海上ビル(日本最初期の本格的高層オフィスビル)]]
;[[:Category:1918年の日本|1918年(大正7年)]]
:[[シベリア出兵]]。[[1918年米騒動]]。[[松下幸之助]]が[[二股ソケット]]を売り出す。[[鈴木三重吉]]が「[[赤い鳥]]」創刊。[[第一次世界大戦]]終結。[[スペインかぜ]]流行拡大(第1波)。[[武者小路実篤]]が[[宮崎県]]に「[[新しき村]]」を建設。[[大学令]]公布。[[東京海上ビル]]完成。
;[[:Category:1919年の日本|1919年(大正8年)]]
:[[パリ講和会議]]開催。[[3月1日]]に[[朝鮮半島]]で[[三・一運動]]。
:[[モスクワ]]で[[コミンテルン]]創立大会。[[7月13日]]、[[寛城子事件]]。[[カルピス]]発売。選挙法改正。全国普選期成大会開催。「[[パイノパイノパイ]](東京節)」の流行。
;[[:Category:1920年の日本|1920年(大正9年)]]
:[[国際連盟]]設立。[[尼港事件]]。[[新婦人協会]]設立。大正天皇の第1回病状発表がされる。[[上野恩賜公園|上野公園]]で日本初の[[メーデー]]。[[5月10日]]、[[第14回衆議院議員総選挙]](政友会278議席,憲政会110議席,[[立憲国民党|国民党]]29議席、,無所属47議席)、第1回[[国勢調査]](総人口7698万8379人、内地5596万3053人)。[[明治神宮]]造営工事が施工。[[11月4日]]、尾崎行雄・犬養毅島田三郎ら、政界革新普選同盟会を結成。
;[[:Category:1921年の日本|1921年(大正10年)]]
:[[安田善次郎]]暗殺。[[原敬暗殺事件]]。[[皇太子裕仁親王の欧州訪問]]の実施と[[摂政]]への就任。[[羽仁もと子]]の[[自由学園]]が創立。[[スペインかぜ]]感染終焉。
;[[:Category:1922年の日本|1922年(大正11年)]]
:[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]開催、([[四カ国条約]]、[[九カ国条約]]、[[ワシントン海軍軍縮条約]])。
:[[山縣有朋]]・[[森鷗外]]死去。[[大阪市]]・[[名古屋市]]・[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]で官業[[労働者]]が[[デモ]]。
:[[ソビエト連邦]]が成立する。
:[[コミンテルン]]日本支部として[[堺利彦]]・[[山川均]]が[[日本共産党]]結成。
:[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]来日。
;[[:Category:1923年の日本|1923年(大正12年)]]
:[[関東大震災]]、『[[国民精神作興ニ関スル詔書]]』が発布される。「[[船頭小唄]]」の流行。[[丸の内ビルヂング]]完成。[[亀戸事件]]。[[甘粕事件]]。[[虎の門事件]]。
;[[:Category:1924年の日本|1924年(大正13年)]]
:[[排日移民法]]が[[アメリカ合衆国議会|米国連邦議会]]で成立。皇太子裕仁親王が[[久邇宮]]良子女王(のち[[香淳皇后]])と成婚、良子女王は[[皇太子妃]]となる。[[第15回衆議院議員総選挙]]([[護憲三派]]大勝、[[憲政会]]151議席、[[政友会]]105議席、[[革新倶楽部]]30議席、[[政友本党]]109議席、[[無所属]]69議席)、[[メートル法]]実施。[[甲子園球場]]完成。[[婦人参政権]]獲得期成同盟会が結成。第二次護憲運動。
;[[:Category:1925年の日本|1925年(大正14年)]]
:[[治安維持法]]制定。
:[[普通選挙法]]制定。
:[[日ソ基本条約]]締結。
:日本政府が[[ソビエト連邦]]を国家承認する。
:[[ラジオ#日本初のラジオ放送|日本初のラジオ放送]]。
;[[:Category:1926年の日本|1926年(大正15年/昭和元年)]]
:[[1月30日]][[第1次若槻内閣]]([[若槻禮次郎]]首相、[[憲政会]]内閣)成立。[[労働農民党]]結成。[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]で[[6・10万歳運動]]。[[日本放送協会]]設立。[[12月25日]]、大正天皇崩御、それに伴い皇太子裕仁親王が第124代天皇に践祚。[[光文事件]]。同日[[昭和]]に改元。
== 西暦との対照表 ==
{|class=wikitable
!大正||元年||2年||3年||4年||5年||6年||7年||8年||9年||10年
|-
|西暦||[[1912年]]||[[1913年]]||[[1914年]]||[[1915年]]||[[1916年]]||[[1917年]]||[[1918年]]||[[1919年]]||[[1920年]]||[[1921年]]
|-
|[[干支]]||[[壬子]]||[[癸丑]]||[[甲寅]]||[[乙卯]]||[[丙辰]]||[[丁巳]]||[[戊午]]||[[己未]]||[[庚申]]||[[辛酉]]
|}
{|class=wikitable
!大正||11年||12年||13年||14年||15年
|-
|西暦||[[1922年]]||[[1923年]]||[[1924年]]||[[1925年]]||[[1926年]]
|-
|干支||[[壬戌]]||[[癸亥]]||[[甲子]]||[[乙丑]]||[[丙寅]]
|}
; 元年と最終年の期間
: 大正元年(1912年): 7月30日〜12月31日〈155日間〉
: 大正15年(1926年): 1月1日〜12月25日〈359日間〉
== 大正時代の評価 ==
*[[松尾尊兊]]の自著で「教育が普及していきわたり、都市に住む人が増加して、[[都市化]]で[[住民]]の[[都市問題]]が誕生して、[[和食]]や[[和服]]から[[洋食]]や[[洋服]]となり、[[政治]]に関心がある[[国民]]が増加して[[民本主義]]思想や[[社会運動]]が活発となった」としている<ref> 松尾尊兊『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』15ページの上段の2コマ 集英社</ref>。
*皿木喜久が自著紹介する[[山本夏彦]]の[[エッセー]]集では「[[大正デモクラシー]]をひと口で言うと『猫なで声』と答える」とした。恋愛が謳歌されて、[[儒教]]と断絶して[[挨拶]]の口上が言えなくなり、[[新聞]]の[[社説]]が[[文語文]]から[[口語文]]となった。のびのびとした[[大正ロマン]]文化が花開き、[[大正自由教育運動]]などの[[教育]]や[[大正期新興美術運動]]など[[芸術]]で自由な考え方や自由を尊重する試みが行われた。大正時代は[[日本史]]上の他の[[政治制度]]より一番ましな[[民本主義]]が誕生して、欠陥があったが戦後日本の[[政治哲学|政治思想]]の基本となっている。[[デモクラシー]]が、[[社会主義]]思想や[[平和主義]]思想と解釈されて、[[天皇制]]([[天皇]]・[[皇室]]制度)など日本の[[伝統]]を否定する考え方と混同されたのが、大正時代であった<ref> 皿木喜久『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』216ページ10行目から〜17行目</ref>。
== 現代における大正 ==
[[2019年]](令和元年)[[10月1日]]の時点では、日本における明治・大正生まれの[[人口]]は114万1千人で総人口の0.9%<ref>https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2019np/index.html</ref>。
2020年頃より都道府県の最高齢者が大正生まれとなるケースが出てきている。男性の最高齢者は過半数の都道府県で大正生まれが最高齢で大正5年が最高齢となる県も出てきている<ref>県男性最高齢者死亡/南日本新聞 2022.2.1 社会 1頁</ref>。人口の少ない町村によっては大正生まれが1人~5人の自治体もある。大正元年生まれは2022年で110歳を迎えた。
== 大正を冠するもの ==
=== 企業 ===
*[[大正製薬]]
*大正海上火災保険(後に三井海上火災保険。現[[三井住友海上火災保険]])
*大正薬品工業
*大正薬化工業
*[[大正銀行]] - 2020年に[[徳島銀行]]との合併で[[徳島大正銀行]]になった。
*[[家具の大正堂]](ルームズ大正堂)
=== 地名(公共施設) ===
*[[大阪市]][[大正区]]
*[[大正橋 (曖昧さ回避)|大正橋]]
*[[大正駅 (曖昧さ回避)|大正駅]]
**[[大正駅 (大阪府)]]
**[[大正駅 (北海道)]]
**[[大正駅 (長崎県)]]
*[[大正内港]]
*[[大正運河]]
*[[大正警察署]]
*[[大正消防署]]
*[[大正 (八尾市)]]
*[[大正町]]
*[[大正町 (曖昧さ回避)]]
*[[大正村 (曖昧さ回避)]]
**[[大正村 (北海道)]]
**[[大正村 (神奈川県)]]
=== テーマパーク ===
*[[日本大正村]]
=== 文化作品名 ===
*[[大正九年]](ミュージシャン)
*[[大正野球娘。]]
*[[大正琴]]
=== 商品 ===
*[[大正海老]](タイショウエビ)
=== 学校 ===
*[[大正大学]]
*[[大阪府立大正高等学校]] - 2018年度から[[大阪府立大正白稜高等学校]]に統合・移行。
*[[呉港高等学校]](旧称大正中学)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*皿木喜久『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』
*[[松尾尊兊]]『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』
*成田龍一『大正デモクラシー』
*学習院大学史料館『絵葉書で読み解く大正時代』
*[[肥後和男]]『少年少女日本の歴史大正から昭和へ』
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Taishō era}}
{{colbegin}}
*[[大正デモクラシー]]
*[[大正ロマン]](大正浪漫)
*[[大正自由教育運動]]
*[[大正期新興美術運動]]
*[[大正政変]]
*[[維新|大正維新]]
*[[大正世代]]
*[[東京時代]]
*[[元号一覧 (台湾)]]
*[[辛亥革命]]
*[[民国紀元]]・[[主体暦]] - 元年が大正と同じ。
*[[第一次世界大戦]]
*[[ヴァイマル共和国]]
*[[護憲運動]]
*[[昭和モダン]]
*[[1910年代の日本|1910年代]]
*[[1920年代の日本|1920年代]]
*{{prefix}}
*{{intitle}}
{{colend}}
{{日本の元号}}
{{日本の歴史一覧|1912年-1926年}}
{{戦前日本の経済史}}
{{台湾の元号}}
{{Normdaten}}
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[[Category:大正時代|*たいしよう]]
[[Category:日本の元号]]
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[[Category:台湾の元号|日]]
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[[Category:20世紀]]
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1,806 | 易経 | 『易経』(えききょう、正字体:易經、拼音: Yì Jīng)は、古代中国の書物。著者は伏羲とされている。
商の時代から蓄積された卜辞(ぼくじ)を集大成したものとして易経は成立した。 『卜』(ぼく)が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』(めどき/めどぎ)は植物である『蓍』(シ、めどぎ)の茎の本数を用いた占いである。 現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。
易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。 「玄学」の立場からは『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄(の書)」と呼ばれる。 また、中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。
儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典であり、『周易』(しゅうえき、Zhōu Yì)または単に『易』(えき)とも呼ぶ。通常は、基本の「経」の部分である『周易』に儒教的な解釈による附文(十翼または伝)を付け加えたものを一つの書とすることが多く、一般に『易経』という場合それを指すことが多いが、本来的には『易経』は卦の卦画・卦辞・爻辞部分の上下二篇のみを指す。
三易の一つであり、太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。今日行われる易占法の原典であるが、古代における占いは現代にしばしば見られる軽さとは大いに趣きを異にし、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。
古来、占いを重視する象数易と哲理を重視する義理易があり、象数易は漢代に、義理易は宋代に流行した。
『史記』日者列伝で長安の東市で売卜をしていた楚人司馬季主と博士賈誼との議論において、易は「先王・聖人の道術」であるという記述がある。
この書物の本来の書名は『易』または『周易』である。『易経』というのは宋以降の名称で、儒教の経書に挙げられたためにこう呼ばれる。
なぜ『易』という名なのか、古来から様々な説が唱えられてきた。ただし、「易」という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、何らかの点で “変化” と関連すると考える人が多い。
有名なものに「易」という字が蜥蜴に由来するという “蜥蜴説” があり、蜥蜴が肌の色を変化させることに由来するという。
また、「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする “日月説” があり、太陽と太陰(月)で陰陽を代表させているとする説もあり、太陽や月、星の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいる。
伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』が引く『易緯乾鑿度』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「易簡(簡易)」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “三易説” を採っている。
また、『周易』の「周」は中国王朝の周代の易の意であると言われることが多いが、鄭玄などは「周」は「あまねく」の意味であると解している。しかし、『史記』日者列伝には、「周代において最も盛んであった」という記述がある。
現行『易経』は、本体部分とも言うべき(1)「経」(狭義の「易経」。「上経」と「下経」に分かれる)と、これを注釈・解説する10部の(2)「伝」(「易伝」または「十翼(じゅうよく)」ともいう)からなる。
「経」には、六十四卦のそれぞれについて、図像である卦画像と、卦の全体的な意味について記述する卦辞と、さらに卦を構成している6本の爻位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。
「伝」(「易伝」、「十翼」)は、「彖伝(たんでん)上・下」、「象伝(しょうでん)上・下」、「繋辞伝(けいじでん)上・下」、「文言伝(ぶんげんでん)」、「説卦伝(せっかでん)」、「序卦伝(じょかでん)」、「雑卦伝(ざっかでん)」の計10部である。これらの中で繋辞伝には小成八卦の記述はあるものの、大成卦の解説では大成卦を小成八卦の組み合わせとしては解しておらず、繋辞伝が最初に作られた「伝」と推測される。
1973年、馬王堆漢墓で発見された帛書『周易』写本に「十翼」は無く、付属文書は二三子問・繋辞・易之義・要・繆和・昭力の六篇で構成されていた。
現代出版されている易経では、一つの卦に対して、卦辞、彖、象、爻辞の順でそれぞれが並べられていることが多く、「経」、「彖」、「象」を一体のものとして扱っている。たとえば「易―中国古典選10」では、一つの卦は、王弼・程頤にならい以下のように編集されている。
(のこり5爻の爻辞・小象)
易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれており、儒家によって後に伝説が作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。 まず伏羲が八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした(一説に神農が重卦したとも)。次に周の文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作った(一説に爻辞も文王の作とする)。そして、孔子が「伝」を書いて商瞿(しょうく)へと伝え、漢代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『史記』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており、「韋編三絶」の故事として名高い。 このような伝説は儒家が『易』を聖人の作った経典としてゆく過程で形成された。伏羲画卦は「易伝」の繋辞下伝の記述に基づいており、庖犧(伏羲)が天地自然の造型を観察して卦を作り、神明の徳に通じ、万物の姿を類型化したとあり、以後、庖犧-神農-黄帝-堯-舜と続く聖人たちが卦にもとづき人間社会の文明制度を創造したとある。
しかしながら、この伝説は古くから疑問視されていた。易の文言が伝承と相違している点が多いためである。宋の欧陽脩が、「十翼は複数の人間の著作物だろう」と疑問を呈したのに始まり、宋代以降易経の成立に関する研究が進めば進むほど、上記の伝説が信じがたいことが明らかになった。朱熹は「六十四卦はただ上経だけが整った形になっているが、下経は乱雑な記述になっており、繋辞上伝は整っているが繋辞下伝は彖伝・象伝と整合性が取れない」といい、「彖伝・象伝はよく出来ているので聖人の著作だろう」と考えたが、他の伝は聖人の著作ではないと考えていたのではないか、と内藤湖南は論文『易疑』で述べている。内藤は更に「商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。」(『易疑』)と述べ、易が聖人の著作であることを否定した。後には孔子と易との関わりまでも疑問視されたが、これは高田眞治・白川静らによって逆に否定された。現代では以下のように考えられている。
古代中国、殷代には、亀甲を焼き、そこに現れる亀裂の形(卜兆)で、国家的な行事の吉凶を占う「亀卜」が、神事として盛んに行われていたことが、殷墟における多量の甲骨文の発見などにより知られている。西周以降の文の、「蓍亀」や「亀策」(策は筮竹)などの語に見られるように、その後、亀卜と筮占が併用された時代があったらしい。両者の比較については、『春秋左氏伝』僖公4年の記に、亀卜では不吉、占筮では吉と、結果が違ったことについて卜人が、「筮は短にして卜(亀卜)は長なり。卜に従うに如かず(占筮は短期の視点から示し、亀卜は長期の視点から示します。亀卜に従うほうがよいでしょう)」と述べた、という記事が見られる。『春秋左氏伝』には亀卜や占筮に関するエピソードが多く存在するが、それらの記事では、(亀卜の)卜兆と、(占筮の)卦、また、卜兆の形につけられた占いの言葉である繇辞(ちゅうじ)と、卦爻につけられた占いの言葉である卦辞・爻辞が、それぞれ対比的な関係を見せている。こうして占われた結果が朝廷に蓄積され、これが周易のもとになったと考えられている。周易のもとになった書物が各地に普及すると、難解な占いの文の解釈書が必要になり、戦国末期から前漢の初期に彖伝・象伝以外の「十翼」が成立したのであろう...というのが丸山松幸による現在の通説のまとめである。
また周代の理想的な官制を描いた『周礼』の春官宗伯には大卜という官吏が三兆・三易・三夢の法を司ったとされ、三兆(玉兆・瓦兆・原兆)すなわち亀卜に関しては「その経兆の体は皆な百有二十、その頌は皆な千有二百」とあり、後漢の鄭玄は卜兆が120体に分類され、1体ごとに10ずつの繇があったと解している。一方、三易(連山・帰蔵・周易)すなわち占筮に関しては「その経卦は皆な八、その別は皆な六十有四」と述べ、卦に八卦があり、それを2つ組み合わせた六十四卦の卦辞がある『易』に対応した記述となっている。なお三易の「連山」「帰蔵」を鄭玄はそれぞれ夏代・殷代の易と解している。「連山」「帰蔵」は後世に伝わっていない。
1993年、郭店一号墓より竹簡に記された『易』が発見された。これは現存最古の秦代の『易』の写本である。
『易』にはこれまでさまざまな解釈が行われてきたが、大別すると象数易(しょうすうえき)と義理易(ぎりえき)に分けられる。「象数易」とは卦の象形や易の数理から天地自然の法則を読み解こうとする立場であり、「義理易」とは経文から聖人が人々に示そうとした義理(倫理哲学)を明らかにしようという立場である。
漢代には天象と人事が影響し、君主の行動が天に影響して災異が起こるとする天人相関説があり、これにもとづいて易の象数から未来に起こる災異を予測する神秘主義的な象数易(漢代の易学)が隆盛した。ここで『易』はもっぱら政治に用いられ、預言書的な性格をもった。特に孟喜・京房らは戦国時代以来の五行と呼ばれる循環思想を取り込み、十二消息卦など天文律暦と易の象数とを結合させた卦気説と呼ばれる理論体系を構築した。前漢末の劉歆はこのような象数に基づく律暦思想の影響下のもと漢朝の官暦太初暦を補正した三統暦を作っており、また劉歆から始まる古文学で『易』は五経のトップとされた。
一方、魏の王弼は卦象の解釈に拘泥する「漢易」のあり方に反対し、経文が語ろうとしている真意をくみ取ろうとする「義理易」を打ち立てた。彼の注釈では『易』をもっぱら人事を取り扱うものとし、老荘思想に基づきつつ、さまざまな人間関係のなかにおいて個人が取るべき処世の知恵を見いだそうとした。彼の『易注』は南朝において学官に立てられ、唐代には『五経正義』の一つとして『周易正義』が作られた。
こうして王弼注が国家権威として認定されてゆくなかで「漢易」の系譜は途絶えた。そのなかにあって李鼎祚が漢易の諸注を集めて『周易集解』を残し、後代に漢易の一端を伝えている。
宋代になると、従来の伝ならびに漢唐訓詁学の諸注を否定する新しい経学が興った。易でもさまざまな注釈書が作られたが、「義理易」において王弼注と双璧と称される程頤の『程氏易伝』がある。また「象数易」では数理で易卦の生成原理を解こうとする『皇極経世書』や太極や陰陽五行による周敦頤の『通書』、張載の『正蒙』などがある。ここで太極図や先天図、河図洛書といった図像をが用いられ、図書先天の学という易図学が興った。南宋になると、義理易と象数易を統合しようとする動きが現れ、朱震の『漢上易伝』、朱熹の『周易本義』がある。
周敦頤から二程子を経て後の朱子学に連なる儒教の形而上学的基礎は、『易経』に求められる。
筮竹を操作した結果、得られる記号である卦は6本の「爻」と呼ばれる横棒(─か- -の2種類がある)によって構成されているが、これは3爻ずつのものが上下に2つ重ねて作られているとされる。この3爻の組み合わせによってできる8つの基本図像は「八卦」と呼ばれる。
『易経』は従来、占いの書であるが、易伝においては卦の象形が天地自然に由来するとされ、社会事象にまで適用された。八卦の象はさまざまな事物・事象を表すが、特に説卦伝において整理して示されており、自然現象に配当して、乾=天、坤=地、震=雷、巽=風、坎=水、離=火、艮=山、兌=沢としたり(説卦伝3)、人間社会(家族成員)に類推して乾=父、坤=母、震=長男、巽=長女、坎=中男、離=中女、艮=少男、兌=少女としたり(説卦伝10)した。一方、爻については陰陽思想により─を陽、--を陰とし、万物の相反する性質について説明した。このように戦国時代以降、儒家は陰陽思想や黄老思想を取り入れつつ天地万物の生成変化を説明する易伝を作成することで『易』の経典としての位置を確立させた。
なお八卦の順序には繋辞上伝の生成論(太極-両儀-四象-八卦)による「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と説卦伝5の生成論による「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を伏羲先天八卦、後者を文王後天八卦と呼び、前者によって八卦を配置した図を「先天図」、後者によるものを「後天図」という。しかし、実際は11世紀の北宋の邵雍の著作『皇極経世書(中国語版)』において初めて伏羲先天八卦、文王後天八卦として図と結びつけられたのであり、先天諸図は邵雍の創作と推測されている。
「経」における六十四卦の並び方がどのように決定されたのかは現代では不明である。また六十四卦の卦辞や爻辞を調べる場合、「経」における六十四卦の並べ方そのままでは不便であり、六十四卦を上下にわけることで、インデックスとなる小成八卦の組み合わせによって六十四卦が整理された。その後、小成八卦自体が世界の構成要素の象徴となって、様々な意味が付与されることとなった。
具体例をしめすと、乾は以下のとおりである。
乾、元亨。利貞。初九、潜竜勿用。九二、...。九三、...。九四、...。九五、...。上九、...。用九、...。
陰陽を示す横線(爻)が6本が重ねられた卦のシンボルがある。次に卦辞が続き卦の名前(乾)と卦全体の内容を様々な象徴的な言葉で説明する。 次に初九、九二、九三、九四、九五、上九(、用九)で始まる爻辞があり、シンボル中の各爻について説明する。6本線(爻)の位置を下から上に、初二三四五上という語で表し、九は陽()を表している。(陰()は六で表す。) 爻辞は卦辞と似ているが、初から上へと状況が遷移する変化をとらえた説明がされる。象徴的なストーリーと一貫した主題で説明されることも多い。乾では、陽の象徴である龍が地中から天に登るプロセスを描き判断を加えている。
一般に「占筮」といえば、『易経』に基づいて筮竹を用いて占をすることを言う(太古には「蓍」という植物の茎を乾燥させたものを使っていた。「蓍」とはキク科多年草であるノコギリソウのこと。なお、日本語で「蓍」(和名「メドギ」)は、ノコギリソウではなくてメドハギという豆科の別の植物)。この占においては、50本の筮竹を操作して卦や爻を選び定め、それによって吉凶その他を占う。「卜筮」と同義。
『易』の経文には占法に関する記述がなく、繋辞上伝に簡単に記述されているのみである。繋辞上伝をもとに唐の孔穎達『周易正義』や南宋の朱熹『周易本義』筮儀によって復元の試みがなされ、現在の占いはもっぱら朱熹に依っている。
易で占うために卦を選ぶことを立卦といい、筮竹をつかう、正式な本筮法、煩雑を避けた中筮法、略筮法(三変筮法)や、コイン(擲銭法)、サイコロなどを利用する簡略化した方法も用いられる。これらによって占いを企図した時点の偶然で卦が選択され、大別すると選ばれた1爻を6回重ねる方法(本筮法、中筮法など)と、選ばれた八卦を2回重ねる方法(略筮法など)がある。さらに各方法には変爻(極まって陰陽が反転しようとしている爻)の有無や位置を選ぶ操作があり状況変化を表現する。このとき選ばれた元の卦を本卦、変化した卦を之卦という。こうして卦が得られた後、卦や変爻について易経の判断を参照し当面する課題や状態をみて解釈し占断をおこなう。
朱熹の本筮法を筮竹あるいは蓍の使用に限って説明すれば以下のようである。
繋辞上伝には「四営して易を成し、十有八変して卦を成す」とあり、これを四つの営みによって一変ができ、三変で1爻が得られ、それを6回繰り返した18変で1卦が得られるとした。さらに4営は伝文にある「分かちて二と為し以て両に象る」を第1営、「一を掛け以て三に象る」を第2営、「これを揲(かぞ)うるに四を以てし以て四時に象る」を第3営、「奇を扐に帰し以て閏に象る(「奇」は残余、「扐」は指の間と解釈される)」を第4営とした。
上記本筮法は18変を必要とし、しかも第1変の陰陽に偏りがあるため、偏りの無い筮法として、6変筮法である中筮法がある。これは第1変第3営において天策を8本ずつ数えその残余(割り切れる場合は0本)に人策の1本を加えた1〜8本によって次のように初爻を決定する。
同様のことを6回繰り返して本卦を得る。
さらに簡略化した3変の略筮法もある。これは中筮法の第1変の結果をそのまま内卦(初爻から第3爻)とし、同様に第2変で外卦(第4爻から第6爻)を求めて本卦を得た後、第3変は6本ずつ数えて人策を加えた残余の1〜6本によって変爻の位置(1→初爻〜6→第6爻)を決定するという方法である。
また筮竹を用いずに卦を立てる占法もあり、3枚の硬貨を同時に投げて、3枚裏を老陽(□)、2枚裏・1枚表を少陰(- -)、2枚表・1枚裏を少陽(─)、3枚表を老陰(×)とする擲銭法が唐の賈公彦『儀礼正義』に記されている。これは、硬貨の表裏で本筮法の残余の多少を表すとするものであり、他に、硬貨の表裏を以て中筮法の乾兌離震巽坎艮坤を表すとして四象を決める方法や表の枚数の多少をそのまま四象に反映する方法、6枚の硬貨の表裏をそのまま陰陽として並べて本卦にする方法もある。
易卦は二進法で数を表していると解釈でき、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。
本筮法の第1変においては49本の筮竹を天策(x本)と地策(49-x本)に分け、地策から1本を人策として分ける。よって地策は48-x本となる。第4営後に9本残るのは天策地策ともに4本ずつ残る場合のみであり、これはxが4の倍数の時に限られる。第2変、第3変では4本残る(天地人1−2−1または2−1−1)か8本残る(同3−4−1または4−3−1)かは半々となり偏りはない。(なお、50本から太極として1本除いた49本を使うのではなく、最初に7×7=49本から太極として1本除いた48本を使うとするなら第1変の偏りはなくなる。) | [
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"text": "易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれており、儒家によって後に伝説が作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。 まず伏羲が八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした(一説に神農が重卦したとも)。次に周の文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作った(一説に爻辞も文王の作とする)。そして、孔子が「伝」を書いて商瞿(しょうく)へと伝え、漢代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『史記』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており、「韋編三絶」の故事として名高い。 このような伝説は儒家が『易』を聖人の作った経典としてゆく過程で形成された。伏羲画卦は「易伝」の繋辞下伝の記述に基づいており、庖犧(伏羲)が天地自然の造型を観察して卦を作り、神明の徳に通じ、万物の姿を類型化したとあり、以後、庖犧-神農-黄帝-堯-舜と続く聖人たちが卦にもとづき人間社会の文明制度を創造したとある。",
"title": "易の成立と展開"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、この伝説は古くから疑問視されていた。易の文言が伝承と相違している点が多いためである。宋の欧陽脩が、「十翼は複数の人間の著作物だろう」と疑問を呈したのに始まり、宋代以降易経の成立に関する研究が進めば進むほど、上記の伝説が信じがたいことが明らかになった。朱熹は「六十四卦はただ上経だけが整った形になっているが、下経は乱雑な記述になっており、繋辞上伝は整っているが繋辞下伝は彖伝・象伝と整合性が取れない」といい、「彖伝・象伝はよく出来ているので聖人の著作だろう」と考えたが、他の伝は聖人の著作ではないと考えていたのではないか、と内藤湖南は論文『易疑』で述べている。内藤は更に「商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。」(『易疑』)と述べ、易が聖人の著作であることを否定した。後には孔子と易との関わりまでも疑問視されたが、これは高田眞治・白川静らによって逆に否定された。現代では以下のように考えられている。",
"title": "易の成立と展開"
},
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"text": "古代中国、殷代には、亀甲を焼き、そこに現れる亀裂の形(卜兆)で、国家的な行事の吉凶を占う「亀卜」が、神事として盛んに行われていたことが、殷墟における多量の甲骨文の発見などにより知られている。西周以降の文の、「蓍亀」や「亀策」(策は筮竹)などの語に見られるように、その後、亀卜と筮占が併用された時代があったらしい。両者の比較については、『春秋左氏伝』僖公4年の記に、亀卜では不吉、占筮では吉と、結果が違ったことについて卜人が、「筮は短にして卜(亀卜)は長なり。卜に従うに如かず(占筮は短期の視点から示し、亀卜は長期の視点から示します。亀卜に従うほうがよいでしょう)」と述べた、という記事が見られる。『春秋左氏伝』には亀卜や占筮に関するエピソードが多く存在するが、それらの記事では、(亀卜の)卜兆と、(占筮の)卦、また、卜兆の形につけられた占いの言葉である繇辞(ちゅうじ)と、卦爻につけられた占いの言葉である卦辞・爻辞が、それぞれ対比的な関係を見せている。こうして占われた結果が朝廷に蓄積され、これが周易のもとになったと考えられている。周易のもとになった書物が各地に普及すると、難解な占いの文の解釈書が必要になり、戦国末期から前漢の初期に彖伝・象伝以外の「十翼」が成立したのであろう...というのが丸山松幸による現在の通説のまとめである。",
"title": "易の成立と展開"
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"text": "また周代の理想的な官制を描いた『周礼』の春官宗伯には大卜という官吏が三兆・三易・三夢の法を司ったとされ、三兆(玉兆・瓦兆・原兆)すなわち亀卜に関しては「その経兆の体は皆な百有二十、その頌は皆な千有二百」とあり、後漢の鄭玄は卜兆が120体に分類され、1体ごとに10ずつの繇があったと解している。一方、三易(連山・帰蔵・周易)すなわち占筮に関しては「その経卦は皆な八、その別は皆な六十有四」と述べ、卦に八卦があり、それを2つ組み合わせた六十四卦の卦辞がある『易』に対応した記述となっている。なお三易の「連山」「帰蔵」を鄭玄はそれぞれ夏代・殷代の易と解している。「連山」「帰蔵」は後世に伝わっていない。",
"title": "易の成立と展開"
},
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"text": "1993年、郭店一号墓より竹簡に記された『易』が発見された。これは現存最古の秦代の『易』の写本である。",
"title": "易の成立と展開"
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"text": "『易』にはこれまでさまざまな解釈が行われてきたが、大別すると象数易(しょうすうえき)と義理易(ぎりえき)に分けられる。「象数易」とは卦の象形や易の数理から天地自然の法則を読み解こうとする立場であり、「義理易」とは経文から聖人が人々に示そうとした義理(倫理哲学)を明らかにしようという立場である。",
"title": "易の注釈史"
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"text": "漢代には天象と人事が影響し、君主の行動が天に影響して災異が起こるとする天人相関説があり、これにもとづいて易の象数から未来に起こる災異を予測する神秘主義的な象数易(漢代の易学)が隆盛した。ここで『易』はもっぱら政治に用いられ、預言書的な性格をもった。特に孟喜・京房らは戦国時代以来の五行と呼ばれる循環思想を取り込み、十二消息卦など天文律暦と易の象数とを結合させた卦気説と呼ばれる理論体系を構築した。前漢末の劉歆はこのような象数に基づく律暦思想の影響下のもと漢朝の官暦太初暦を補正した三統暦を作っており、また劉歆から始まる古文学で『易』は五経のトップとされた。",
"title": "易の注釈史"
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"text": "一方、魏の王弼は卦象の解釈に拘泥する「漢易」のあり方に反対し、経文が語ろうとしている真意をくみ取ろうとする「義理易」を打ち立てた。彼の注釈では『易』をもっぱら人事を取り扱うものとし、老荘思想に基づきつつ、さまざまな人間関係のなかにおいて個人が取るべき処世の知恵を見いだそうとした。彼の『易注』は南朝において学官に立てられ、唐代には『五経正義』の一つとして『周易正義』が作られた。",
"title": "易の注釈史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "こうして王弼注が国家権威として認定されてゆくなかで「漢易」の系譜は途絶えた。そのなかにあって李鼎祚が漢易の諸注を集めて『周易集解』を残し、後代に漢易の一端を伝えている。",
"title": "易の注釈史"
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{
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"text": "宋代になると、従来の伝ならびに漢唐訓詁学の諸注を否定する新しい経学が興った。易でもさまざまな注釈書が作られたが、「義理易」において王弼注と双璧と称される程頤の『程氏易伝』がある。また「象数易」では数理で易卦の生成原理を解こうとする『皇極経世書』や太極や陰陽五行による周敦頤の『通書』、張載の『正蒙』などがある。ここで太極図や先天図、河図洛書といった図像をが用いられ、図書先天の学という易図学が興った。南宋になると、義理易と象数易を統合しようとする動きが現れ、朱震の『漢上易伝』、朱熹の『周易本義』がある。",
"title": "易の注釈史"
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"text": "周敦頤から二程子を経て後の朱子学に連なる儒教の形而上学的基礎は、『易経』に求められる。",
"title": "易の注釈史"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "筮竹を操作した結果、得られる記号である卦は6本の「爻」と呼ばれる横棒(─か- -の2種類がある)によって構成されているが、これは3爻ずつのものが上下に2つ重ねて作られているとされる。この3爻の組み合わせによってできる8つの基本図像は「八卦」と呼ばれる。",
"title": "主要概念"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "『易経』は従来、占いの書であるが、易伝においては卦の象形が天地自然に由来するとされ、社会事象にまで適用された。八卦の象はさまざまな事物・事象を表すが、特に説卦伝において整理して示されており、自然現象に配当して、乾=天、坤=地、震=雷、巽=風、坎=水、離=火、艮=山、兌=沢としたり(説卦伝3)、人間社会(家族成員)に類推して乾=父、坤=母、震=長男、巽=長女、坎=中男、離=中女、艮=少男、兌=少女としたり(説卦伝10)した。一方、爻については陰陽思想により─を陽、--を陰とし、万物の相反する性質について説明した。このように戦国時代以降、儒家は陰陽思想や黄老思想を取り入れつつ天地万物の生成変化を説明する易伝を作成することで『易』の経典としての位置を確立させた。",
"title": "主要概念"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "なお八卦の順序には繋辞上伝の生成論(太極-両儀-四象-八卦)による「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と説卦伝5の生成論による「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を伏羲先天八卦、後者を文王後天八卦と呼び、前者によって八卦を配置した図を「先天図」、後者によるものを「後天図」という。しかし、実際は11世紀の北宋の邵雍の著作『皇極経世書(中国語版)』において初めて伏羲先天八卦、文王後天八卦として図と結びつけられたのであり、先天諸図は邵雍の創作と推測されている。",
"title": "主要概念"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "「経」における六十四卦の並び方がどのように決定されたのかは現代では不明である。また六十四卦の卦辞や爻辞を調べる場合、「経」における六十四卦の並べ方そのままでは不便であり、六十四卦を上下にわけることで、インデックスとなる小成八卦の組み合わせによって六十四卦が整理された。その後、小成八卦自体が世界の構成要素の象徴となって、様々な意味が付与されることとなった。",
"title": "主要概念"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "具体例をしめすと、乾は以下のとおりである。",
"title": "主要概念"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "乾、元亨。利貞。初九、潜竜勿用。九二、...。九三、...。九四、...。九五、...。上九、...。用九、...。",
"title": "主要概念"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "陰陽を示す横線(爻)が6本が重ねられた卦のシンボルがある。次に卦辞が続き卦の名前(乾)と卦全体の内容を様々な象徴的な言葉で説明する。 次に初九、九二、九三、九四、九五、上九(、用九)で始まる爻辞があり、シンボル中の各爻について説明する。6本線(爻)の位置を下から上に、初二三四五上という語で表し、九は陽()を表している。(陰()は六で表す。) 爻辞は卦辞と似ているが、初から上へと状況が遷移する変化をとらえた説明がされる。象徴的なストーリーと一貫した主題で説明されることも多い。乾では、陽の象徴である龍が地中から天に登るプロセスを描き判断を加えている。",
"title": "主要概念"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "一般に「占筮」といえば、『易経』に基づいて筮竹を用いて占をすることを言う(太古には「蓍」という植物の茎を乾燥させたものを使っていた。「蓍」とはキク科多年草であるノコギリソウのこと。なお、日本語で「蓍」(和名「メドギ」)は、ノコギリソウではなくてメドハギという豆科の別の植物)。この占においては、50本の筮竹を操作して卦や爻を選び定め、それによって吉凶その他を占う。「卜筮」と同義。",
"title": "主要概念"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "『易』の経文には占法に関する記述がなく、繋辞上伝に簡単に記述されているのみである。繋辞上伝をもとに唐の孔穎達『周易正義』や南宋の朱熹『周易本義』筮儀によって復元の試みがなされ、現在の占いはもっぱら朱熹に依っている。",
"title": "占法"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "易で占うために卦を選ぶことを立卦といい、筮竹をつかう、正式な本筮法、煩雑を避けた中筮法、略筮法(三変筮法)や、コイン(擲銭法)、サイコロなどを利用する簡略化した方法も用いられる。これらによって占いを企図した時点の偶然で卦が選択され、大別すると選ばれた1爻を6回重ねる方法(本筮法、中筮法など)と、選ばれた八卦を2回重ねる方法(略筮法など)がある。さらに各方法には変爻(極まって陰陽が反転しようとしている爻)の有無や位置を選ぶ操作があり状況変化を表現する。このとき選ばれた元の卦を本卦、変化した卦を之卦という。こうして卦が得られた後、卦や変爻について易経の判断を参照し当面する課題や状態をみて解釈し占断をおこなう。",
"title": "占法"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "朱熹の本筮法を筮竹あるいは蓍の使用に限って説明すれば以下のようである。",
"title": "占法"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "繋辞上伝には「四営して易を成し、十有八変して卦を成す」とあり、これを四つの営みによって一変ができ、三変で1爻が得られ、それを6回繰り返した18変で1卦が得られるとした。さらに4営は伝文にある「分かちて二と為し以て両に象る」を第1営、「一を掛け以て三に象る」を第2営、「これを揲(かぞ)うるに四を以てし以て四時に象る」を第3営、「奇を扐に帰し以て閏に象る(「奇」は残余、「扐」は指の間と解釈される)」を第4営とした。",
"title": "占法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "上記本筮法は18変を必要とし、しかも第1変の陰陽に偏りがあるため、偏りの無い筮法として、6変筮法である中筮法がある。これは第1変第3営において天策を8本ずつ数えその残余(割り切れる場合は0本)に人策の1本を加えた1〜8本によって次のように初爻を決定する。",
"title": "占法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "同様のことを6回繰り返して本卦を得る。",
"title": "占法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "さらに簡略化した3変の略筮法もある。これは中筮法の第1変の結果をそのまま内卦(初爻から第3爻)とし、同様に第2変で外卦(第4爻から第6爻)を求めて本卦を得た後、第3変は6本ずつ数えて人策を加えた残余の1〜6本によって変爻の位置(1→初爻〜6→第6爻)を決定するという方法である。",
"title": "占法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また筮竹を用いずに卦を立てる占法もあり、3枚の硬貨を同時に投げて、3枚裏を老陽(□)、2枚裏・1枚表を少陰(- -)、2枚表・1枚裏を少陽(─)、3枚表を老陰(×)とする擲銭法が唐の賈公彦『儀礼正義』に記されている。これは、硬貨の表裏で本筮法の残余の多少を表すとするものであり、他に、硬貨の表裏を以て中筮法の乾兌離震巽坎艮坤を表すとして四象を決める方法や表の枚数の多少をそのまま四象に反映する方法、6枚の硬貨の表裏をそのまま陰陽として並べて本卦にする方法もある。",
"title": "占法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "易卦は二進法で数を表していると解釈でき、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。",
"title": "数学との関連性"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "本筮法の第1変においては49本の筮竹を天策(x本)と地策(49-x本)に分け、地策から1本を人策として分ける。よって地策は48-x本となる。第4営後に9本残るのは天策地策ともに4本ずつ残る場合のみであり、これはxが4の倍数の時に限られる。第2変、第3変では4本残る(天地人1−2−1または2−1−1)か8本残る(同3−4−1または4−3−1)かは半々となり偏りはない。(なお、50本から太極として1本除いた49本を使うのではなく、最初に7×7=49本から太極として1本除いた48本を使うとするなら第1変の偏りはなくなる。)",
"title": "数学との関連性"
}
] | 『易経』は、古代中国の書物。著者は伏羲とされている。 商の時代から蓄積された卜辞(ぼくじ)を集大成したものとして易経は成立した。
『卜』(ぼく)が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』(めどき/めどぎ)は植物である『蓍』(シ、めどぎ)の茎の本数を用いた占いである。
現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。 易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。
「玄学」の立場からは『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄(の書)」と呼ばれる。
また、中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。 | {{複数の問題
| 参照方法 = 2016年4月
| 脚注の不足 = 2016年4月
|言葉を濁さない=2021-11-18
}}
{{道教}}
{{儒家経典}}
『'''易経'''』(えききょう、[[正字|正字体]]:易經、{{ピン音|Yì Jīng}})は、古代[[中国]]の書物。著者は[[伏羲]]とされている<ref group="注釈">あくまで伝説である。</ref>。
[[殷|商]]の時代から蓄積された卜辞(ぼくじ)を集大成したものとして易経は成立した。
『卜』(ぼく)が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』(めどき/めどぎ)は植物である『蓍<ref group="注釈">[[ノコギリソウ]]の一種であるメドキ。</ref>』(シ、めどぎ)の茎の本数を用いた占いである。
現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、[[陰陽]]二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。
易経は[[儒家]]である[[荀子]]の学派によって儒家の経典として取り込まれた。
「[[玄学]]」の立場からは『[[老子道徳経]]』・『[[荘子 (書物)|荘子]]』と合わせて「'''三玄'''(の書)」と呼ばれる。
また、中国では『[[黄帝内経|黄帝内經]]』・『[[山海経|山海經]]』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。
[[File:I-Ching-chinese-book.jpg|right|250px]]
== 概要 ==
[[儒教]]の基本書籍である[[五経]]の筆頭に挙げられる経典であり、『'''周易'''』(しゅうえき、Zhōu Yì)または単に『'''易'''』(えき)とも呼ぶ。通常は、基本の「経」の部分である『[[周易]]』に儒教的な解釈による附文([[十翼]]または伝)を付け加えたものを一つの書とすることが多く、一般に『易経』という場合それを指すことが多いが、本来的には『易経』は[[六十四卦|卦]]の卦画・卦辞・爻辞部分の上下二篇のみを指す。
[[三易]]の一つであり、太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。今日行われる易占法の原典であるが、古代における占いは現代にしばしば見られる軽さとは大いに趣きを異にし、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。
古来、占いを重視する象数易と哲理を重視する義理易があり、象数易は漢代に、義理易は宋代に流行した。
『[[史記]]』日者列伝で[[長安]]の東市で売卜をしていた楚人司馬季主と博士[[賈誼]]との議論において、易は「先王・聖人の道術」であるという記述がある。<ref name=":0">{{Cite book|title=中国古典文学大系 史記下|date=1971,1.6|year=1971|publisher=平凡社|author=野口定男|series=中国古典文学大系}}</ref>
== 書名 ==
この書物の本来の書名は『易』または『周易』である。『易経』というのは[[宋 (王朝)|宋]]以降の名称で、儒教の[[経書]]に挙げられたためにこう呼ばれる。
なぜ『易』という名なのか、古来から様々な説が唱えられてきた。ただし、「易」という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、何らかの点で “変化” と関連すると考える人が多い。
有名なものに「易」という字が[[トカゲ|蜥蜴]]に由来するという “蜥蜴説” があり、蜥蜴が肌の色を変化させることに由来するという。
また、「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする “日月説” があり、[[太陽]]と[[太陰]]([[月]])で[[陰陽]]を代表させているとする説もあり、[[太陽]]や[[月]]、[[天体|星]]の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいる。
伝統的な[[儒教]]の考えでは、『[[周易正義]]』が引く『[[緯書|易緯乾鑿度]]』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「易簡(簡易)」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “三易説” を採っている。
また、『周易』の「周」は中国王朝の[[周代]]の易の意であると言われることが多いが、[[鄭玄]]などは「周」は「あまねく」の意味であると解している。しかし、『史記』日者列伝には、「周代において最も盛んであった」という記述がある。<ref name=":0" />
== 『易経』の構成 ==
現行『易経』は、本体部分とも言うべき(1)「経」(狭義の「易経」。「'''上経'''」と「'''下経'''」に分かれる)と、これを注釈・解説する10部の(2)「[[伝]]」(「'''易伝'''」または「'''十翼'''(じゅうよく)」ともいう)からなる。
{{anchors<!--|経-->|「経」|上経|下経}}
=== 経 ===
「経」には、[[六十四卦]]のそれぞれについて、図像である卦画像と、卦の全体的な意味について記述する[[卦辞]]と、さらに卦を構成している6本の[[爻]]位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。
{{anchors<!--||伝(十翼、易伝)-->|「伝」|伝|易伝|十翼}}
=== 伝(十翼、易伝) ===
「伝」(「易伝」、「十翼」)は、「'''彖伝'''(たんでん)上・下」、「'''象伝'''(しょうでん)上・下」、「'''繋辞伝'''(けいじでん)上・下」、「'''文言伝'''(ぶんげんでん)」、「'''説卦伝'''(せっかでん)」、「'''序卦伝'''(じょかでん)」、「'''雑卦伝'''(ざっかでん)」の計10部である。これらの中で繋辞伝には小成八卦の記述はあるものの、大成卦の解説では大成卦を小成八卦の組み合わせとしては解しておらず、繋辞伝が最初に作られた「伝」と推測される。
* {{anchors|彖伝}}「彖伝上・下」には、「周易上・下経」それぞれの卦辞の注釈が収められている。
* {{anchors|象伝}}「象伝上・下」には、各卦の象形の意味についての短い解説と、その爻辞の注釈が収められている。易占家の間では、前者部分を「大象」、後者部分を「爻伝」、というふうに呼称を区別していることがある。
* {{anchors|文言伝}}「文言伝」では、[[六十四卦]]のうち最も重要かつ基本の位置づけにある二卦である、乾(けん)および坤(こん)について、詳しい訓詁的な解説がなされる。
* {{anchors|繋辞伝}}「繋辞伝上・下」には、易の成り立ち、易の思想、占いの方式、など、『易』に関する包括的な説明が収められている。
* {{anchors|説卦伝}}「説卦伝」では、大成[[六十四卦]]のもととなる小成[[八卦]]の概念、森羅万象をこの八種の象に分類するその分類のされ方が、詳説される。
* {{anchors|序卦伝}}「序卦伝」には、現行の「周易上・下経」での[[六十四卦]]の並び方の理由が説明されている。
* {{anchors|雑卦伝}}「雑卦伝」では、占いにあたって卦象を読み解く際の、ちょっとしたヒントが、各卦ごとに短い言葉で述べられる。着目ヒント集である。
1973年、[[馬王堆漢墓]]で発見された帛書『周易』[[写本]]に「十翼」は無く、付属文書は二三子問・繋辞・易之義・要・繆和・昭力の六篇で構成されていた。
=== 現代 ===
現代出版されている易経では、一つの卦に対して、卦辞、彖、象、爻辞の順でそれぞれが並べられていることが多く、「経」、「彖」、「象」を一体のものとして扱っている。たとえば「易―中国古典選10」<ref>{{Cite book|和書 | author= 本田済 | year = 1997 | title = 易 | publisher = 朝日新聞社 | isbn =978-4022590107 }}</ref>では、一つの卦は、王弼・程頤にならい以下のように編集されている。
{{Quotation|
*'''卦''':(経)卦のシンボルイメージ。伏羲作とされる。
*'''卦辞''':(経)卦の名前と説明。文王作とされる。
**'''彖伝''':(伝)卦辞の注釈。
**'''大象''':(伝)象伝中の卦の説明部分。
*'''爻辞''':(経)初爻の説明。周公作とされる。
**'''小象''':(伝)初爻に関する、象伝中の爻の説明部分。
(のこり5爻の爻辞・小象)
*'''文言伝''':(伝)乾坤の卦のみ。
}}
== 易の成立と展開 ==
[[画像:Creation-of-bagua.png|thumb|left|380px|八卦の生成]]
=== 易占の成立 ===
易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれており、儒家によって後に伝説が作られた。古来の伝承によれば、易の成立は以下のようなものであったという。
まず[[伏羲]]が[[八卦]]を作り、さらにそれを重ねて[[六十四卦]]とした(一説に[[神農]]が重卦したとも)。次に[[周]]の[[文王 (周)|文王]]が卦辞を作り、[[周公]]が爻辞を作った(一説に爻辞も文王の作とする)。そして、[[孔子]]が「伝」を書いて[[商瞿]](しょうく)へと伝え、[[漢]]代の田何(でんか)に至ったものとされる。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『[[史記]]』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており<ref>[https://ctext.org/shiji/kong-zi-shi-jia/zh#n6979 『史記』孔子世家] - 中國哲學書電子化計劃</ref>、「韋編三絶」の故事として名高い。
このような伝説は[[儒家]]が『易』を[[聖人]]の作った経典としてゆく過程で形成された。伏羲画卦は「易伝」の繋辞下伝の記述に基づいており、庖犧(伏羲)が天地自然の造型を観察して卦を作り、神明の徳に通じ、万物の姿を類型化したとあり、以後、庖犧-[[神農]]-[[黄帝]]-[[堯]]-[[舜]]と続く[[聖人]]たちが卦にもとづき人間社会の文明制度を創造したとある。
しかしながら、この伝説は古くから疑問視されていた。易の文言が伝承と相違している点が多いためである。[[宋 (王朝)|宋]]の[[欧陽脩]]が、「十翼は複数の人間の著作物だろう」と疑問を呈したのに始まり、宋代以降易経の成立に関する研究が進めば進むほど、上記の伝説が信じがたいことが明らかになった。[[朱熹]]は「六十四卦はただ上経だけが整った形になっているが、下経は乱雑な記述になっており、繋辞上伝は整っているが繋辞下伝は彖伝・象伝と整合性が取れない」といい、「彖伝・象伝はよく出来ているので聖人の著作だろう」と考えたが、他の伝は聖人の著作ではないと考えていたのではないか、と[[内藤湖南]]は論文『易疑』で述べている。内藤は更に「商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。」(『易疑』)と述べ、易が聖人の著作であることを否定した。後には孔子と易との関わりまでも疑問視されたが、これは[[高田眞治]]・[[白川静]]らによって逆に否定された。現代では以下のように考えられている。
古代中国、[[殷]]代には、[[亀甲]]を焼き、そこに現れる亀裂の形(卜兆)で、国家的な行事の吉凶を占う「[[亀卜]]」が、神事として盛んに行われていたことが、[[殷墟]]における多量の[[甲骨文]]の発見などにより知られている。[[周|西周]]以降の文の、「蓍亀」や「亀策」(策は筮竹)などの語に見られるように、その後、亀卜と筮占が併用された時代があったらしい。両者の比較については、『[[春秋左氏伝]]』僖公4年の記に、亀卜では不吉、占筮では吉と、結果が違ったことについて卜人が、「筮は短にして卜(亀卜)は長なり。卜に従うに如かず(占筮は短期の視点から示し、亀卜は長期の視点から示します。亀卜に従うほうがよいでしょう)」と述べた、という記事が見られる。『春秋左氏伝』には亀卜や占筮に関するエピソードが多く存在するが、それらの記事では、(亀卜の)卜兆と、(占筮の)卦、また、卜兆の形につけられた占いの言葉である繇辞(ちゅうじ)と、卦爻につけられた占いの言葉である卦辞・爻辞が、それぞれ対比的な関係を見せている。こうして占われた結果が朝廷に蓄積され、これが周易のもとになったと考えられている。周易のもとになった書物が各地に普及すると、難解な占いの文の解釈書が必要になり、[[戦国時代 (中国)|戦国]]末期から[[前漢]]の初期に彖伝・象伝以外の「十翼」が成立したのであろう…というのが[[丸山松幸]]による現在の通説のまとめである。
また周代の理想的な官制を描いた『[[周礼]]』の春官宗伯には大卜という官吏が三兆・三易・三夢の法を司ったとされ、三兆(玉兆・瓦兆・原兆)すなわち亀卜に関しては「その経兆の体は皆な百有二十、その頌は皆な千有二百」とあり、[[後漢]]の[[鄭玄]]は卜兆が120体に分類され、1体ごとに10ずつの繇があったと解している。一方、[[三易]](連山・帰蔵・周易)すなわち占筮に関しては「その経卦は皆な八、その別は皆な六十有四」と述べ、卦に[[八卦]]があり、それを2つ組み合わせた[[六十四卦]]の卦辞がある『易』に対応した記述となっている。なお三易の「連山」「帰蔵」を鄭玄はそれぞれ[[夏 (三代)|夏代]]・殷代の易と解している。「連山」「帰蔵」は後世に伝わっていない。
[[1993年]]、[[郭店一号楚墓|郭店一号墓]]より[[竹簡]]に記された『易』が発見された。これは現存最古の[[秦|秦代]]の『易』の[[写本]]である。
== 易の注釈史 ==
『易』にはこれまでさまざまな解釈が行われてきたが、大別すると'''象数易'''(しょうすうえき)と'''義理易'''(ぎりえき)に分けられる。「象数易」とは[[卦]]の象形や易の数理から天地自然の法則を読み解こうとする立場であり、「義理易」とは経文から[[聖人]]が人々に示そうとした義理(倫理哲学)を明らかにしようという立場である。
[[漢代]]には天象と人事が影響し、君主の行動が天に影響して災異が起こるとする[[天人相関]]説があり、これにもとづいて易の象数から未来に起こる災異を予測する神秘主義的な象数易(漢代の易学)が隆盛した。ここで『易』はもっぱら政治に用いられ、預言書的な性格をもった。特に[[孟喜]]・[[京房]]らは[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]以来の[[五行思想|五行]]と呼ばれる循環思想を取り込み、[[十二消息卦]]など[[天文]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}[[律]][[暦]]と易の象数とを結合させた[[卦気]]説と呼ばれる理論体系を構築した。[[前漢]]末の[[劉歆]]はこのような象数に基づく律暦思想の影響下のもと漢朝の官暦[[太初暦]]を補正した[[三統暦]]を作っており、また劉歆から始まる[[古文学]]で『易』は[[五経]]のトップとされた。
一方、[[魏 (三国)|魏]]の[[王弼 (三国)|王弼]]は卦象の解釈に拘泥する「漢易」のあり方に反対し、経文が語ろうとしている真意をくみ取ろうとする「義理易」を打ち立てた。彼の注釈では『易』をもっぱら人事を取り扱うものとし、[[老荘思想]]に基づきつつ、さまざまな人間関係のなかにおいて個人が取るべき処世の知恵を見いだそうとした。彼の『易注』は[[南北朝時代 (中国)|南朝]]において学官に立てられ、[[唐代]]には『[[五経正義]]』の一つとして『周易正義』が作られた。
こうして王弼注が国家権威として認定されてゆくなかで「漢易」の系譜は途絶えた。そのなかにあって[[李鼎祚]]が漢易の諸注を集めて『周易集解』を残し、後代に漢易の一端を伝えている。
[[宋 (王朝)|宋代]]になると、従来の[[伝]]ならびに[[訓詁学|漢唐訓詁学]]の諸注を否定する新しい[[経学]]が興った。易でもさまざまな注釈書が作られたが、「義理易」において王弼注と双璧と称される[[程頤]]の『[[程氏易伝]]』がある。また「象数易」では数理で易卦の生成原理を解こうとする『[[皇極経世書]]』や[[太極]]や[[陰陽五行]]による[[周敦頤]]の『[[通書]]』、[[張載]]の『[[正蒙]]』などがある。ここで[[太極図]]や[[先天図]]、[[河図洛書]]といった図像をが用いられ、[[図書先天の学]]という易図学が興った。[[南宋]]になると、義理易と象数易を統合しようとする動きが現れ、[[朱震]]の『[[漢上易伝]]』、[[朱熹]]の『[[周易本義]]』がある。
周敦頤から二程子を経て後の[[朱子学]]に連なる儒教の[[形而上学]]的基礎は、『易経』に求められる。
== 主要概念 ==
=== 八卦 ===
{{main|八卦}}
筮竹を操作した結果、得られる記号である[[卦]]は6本の「[[爻]]」と呼ばれる横棒(─か- -の2種類がある)によって構成されているが、これは3爻ずつのものが上下に2つ重ねて作られているとされる。この3爻の組み合わせによってできる8つの基本図像は「[[八卦]]」と呼ばれる。
『易経』は従来、占いの書であるが、易伝においては卦の象形が天地自然に由来するとされ、社会事象にまで適用された。八卦の象はさまざまな事物・事象を表すが、特に説卦伝において整理して示されており、自然現象に配当して、乾=天、坤=地、震=雷、巽=風、坎=水、離=火、艮=山、兌=沢としたり(説卦伝3)、人間社会(家族成員)に類推して乾=父、坤=母、震=長男、巽=長女、坎=中男、離=中女、艮=少男、兌=少女としたり(説卦伝10)した。一方、爻については[[陰陽思想]]により─を陽、--を陰とし、万物の相反する性質について説明した。このように[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]以降、[[儒家]]は陰陽思想や[[黄老思想]]を取り入れつつ天地万物の生成変化を説明する易伝を作成することで『易』の経典としての位置を確立させた。
なお八卦の順序には繋辞上伝の生成論([[太極]]-[[両儀]]-[[四象 (易)|四象]]-[[八卦]])による「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と説卦伝5の生成論による「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を伏羲先天八卦、後者を文王後天八卦と呼び、前者によって八卦を配置した図を「[[先天図]]」、後者によるものを「後天図」という。しかし、実際は11世紀の[[北宋]]の[[邵雍]]の著作『{{仮リンク|皇極経世書|zh|皇極經世}}』において初めて伏羲先天八卦、文王後天八卦として図と結びつけられたのであり、先天諸図は邵雍の創作と推測されている。
=== 六十四卦 ===
{{main|六十四卦}}
「経」における六十四卦の並び方がどのように決定されたのかは現代では不明である。また六十四卦の卦辞や爻辞を調べる場合、「経」における六十四卦の並べ方そのままでは不便であり、六十四卦を上下にわけることで、インデックスとなる小成[[八卦]]の組み合わせによって六十四卦が整理された。その後、小成八卦自体が世界の構成要素の象徴となって、様々な意味が付与されることとなった。
具体例をしめすと、乾は以下のとおりである。
{{Quotation|
[[画像:Iching-hexagram-01.svg|18px]] 乾、元亨。利貞。初九、潜竜勿用。九二、…。九三、…。九四、…。九五、…。上九、…。用九、…。
}}
陰陽を示す横線(爻)が6本が重ねられた卦のシンボルがある。次に卦辞が続き卦の名前(乾)と卦全体の内容を様々な象徴的な言葉で説明する。
次に初九、九二、九三、九四、九五、上九(、用九)で始まる爻辞があり、シンボル中の各爻について説明する。6本線(爻)の位置を下から上に、初二三四五上という語で表し、九は陽([[ファイル:TXJ 1.svg|24px]])を表している。(陰([[ファイル:TXJ 2.svg|24px]])は六で表す。) 爻辞は卦辞と似ているが、初から上へと状況が遷移する変化をとらえた説明がされる。象徴的なストーリーと一貫した主題で説明されることも多い。乾では、陽の象徴である龍が地中から天に登るプロセスを描き判断を加えている。
=== 占筮の定義 ===
一般に「占筮」といえば、『易経』に基づいて[[筮竹]]を用いて占をすることを言う(太古には「蓍」という植物の茎を乾燥させたものを使っていた。「蓍」とは[[キク科]][[多年草]]である[[ノコギリソウ]]のこと。なお、日本語で「蓍」(和名「メドギ」)は、ノコギリソウではなくて[[メドハギ]]という[[豆科]]の別の植物)。この占においては、50本の筮竹を操作して[[卦]]や[[爻]]を選び定め、それによって吉凶その他を占う。「卜筮」と同義。
== 占法 ==
[[File:Photograph of Fortune teller in Japan, by Herbert Ponting.jpg|thumb|筮竹を使って占う男(1907年、日本、[[ハーバート・ポンティング]]撮影)]]
『易』の経文には占法に関する記述がなく、繋辞上伝に簡単に記述されているのみである。繋辞上伝をもとに[[唐]]の[[孔穎達]]『[[周易正義]]』や[[南宋]]の[[朱熹]]『[[周易本義]]』筮儀<ref>[http://ctext.org/library.pl?if=en&file=7089&page=161 原本周易本義巻末下] Chinese Text Project </ref>によって復元の試みがなされ、現在の占いはもっぱら朱熹に依っている。
易で占うために卦を選ぶことを立卦といい、筮竹をつかう、正式な本筮法、煩雑を避けた中筮法、略筮法(三変筮法)や、コイン(擲銭法)、サイコロなどを利用する簡略化した方法も用いられる。これらによって占いを企図した時点の偶然で卦が選択され、大別すると選ばれた1爻を6回重ねる方法(本筮法、中筮法など)と、選ばれた八卦を2回重ねる方法(略筮法など)がある。さらに各方法には変爻(極まって陰陽が反転しようとしている爻)の有無や位置を選ぶ操作があり状況変化を表現する。このとき選ばれた元の卦を本卦、変化した卦を之卦という。こうして卦が得られた後、卦や変爻について易経の判断を参照し当面する課題や状態をみて解釈し占断をおこなう<ref>「易の話」 ISBN 4061596160 </ref>。
=== 本筮法 ===
朱熹の本筮法を[[筮竹]]あるいは蓍の使用に限って説明すれば以下のようである。
繋辞上伝には「四営して易を成し、十有八変して卦を成す」とあり、これを四つの営みによって一変ができ、三変で1爻が得られ、それを6回繰り返した18変で1卦が得られるとした。さらに4営は伝文にある「分かちて二と為し以て両に象る」を第1営、「一を掛け以て三に象る」を第2営、「これを{{lang|zh|揲}}(かぞ)うるに四を以てし以て四時に象る」を第3営、「奇を{{lang|zh|扐}}に帰し以て閏に象る(「奇」は残余、「{{lang|zh|扐}}」は指の間と解釈される)」を第4営とした。
* 第1変
** 50本の筮竹の中から1本を取り、筮筒に戻す。この1本は使用せず、49本を用いる。この1本は[[太極]]に象る。
** 第1営 - 残りの筮竹を無心で左手と右手で2つに分ける。これは[[天]][[地]]に象る。
** 第2営 - 右手の中から1本を抜き、左手の小指と薬指の間に挟む。この1本は[[人]]に象り、あわせて天地人の三才に象る。
** 第3営(1) - 左手分(天策)の本数を右手で4本ずつ数える。これは[[四季|四時]]に象る。
** 第4営(1) - その余り(割り切れる場合には4本)を薬指と中指の間に挟む。これは[[閏月]]に象る。
** 第3営(2) - 右手分(地策)の本数を左手で4本ずつ数える。
** 第4営(2) - 残った余り(割り切れる場合は4本)を中指と人差し指の間に挟む。第2営からここまでの5操作のうちに閏月を象る残余を挟む操作が2度あることは五歳二閏(5年に約2回閏月があること)に象る。
** 左手の指の間に挟みこんだ残余の筮竹の総和を求める。必ず9本か5本になる。(なお、第1変では後述のように陰陽に大きな偏りが出るため占いに使うのは適当ではない。偏りを避けるため、占筮には簡略化した中筮法・略筮法・擲銭法を使うべきである。ただし、占いの結果が均等であるべきとの決まりがある訳ではない。結果の偏りも含めて、それが本来の筮法であると解釈する事も可能である。)
* 第2変 - 49本から第1変の結果の9本か5本を抜いた44本または40本の筮竹で四営を行う。すると左手の指に挟みこまれた筮竹の総和は8本か4本になる。
* 第3変 - 第2変の結果の8本か4本を抜いた40本か、36本か、32本の筮竹で四営を行う。すると左手の指に挟みこまれた筮竹の総和は8本か4本になる。
* 画[[爻]] - ここで第1変・第2変・第3変の残数により初爻が決まり、それを記録する作業が行われる。これは筆で板に4種類の記号を書き込むが、卦木([[算木]])で表すこともできる。残余の数は9本か5本、8本か4本であり、これを多いか少ないかによって区別すると、3変とも多い「三多」、2変が少なく1変が多い「二少一多」、2変が多く1変が少ない「二多一少」、3変とも少ない「三少」となる。これらの総和をそれぞれ最初の49本から引くと数えた筮竹の総数に当たるが、これは四時の4と[[陰陽]]の数を相乗じることによって得られるとされる。すなわち老陽の9、少陰の8、少陽の7、老陰の6である。ここで導かれた陰陽の属性を表す記号(重・折・単・交)を初爻の位置に記録する。ここで少陽・老陽は陽爻であるが、少陽が不変爻であるのに対し、老陽は陰への変化の可能性をもった変爻である。また少陰・老陰は陰爻であるが、少陰が不変爻であるのに対し、老陰は陽への変化の可能性をもった変爻である。
:{| class="wikitable"
|-
!colspan=2|筮竹!!colspan=3|爻
|-
!残余の多少!!数の意味!!属性!!数!!記号
|-
|三少||5+4+4=13<br />49-13=36=4*9||老陽||9||align="center"|□<br />(重)
|-
|二少一多||5+4+8または5+8+4または9+4+4=17<br />49-17=32=4*8||少陰||8||align="center"|- -<br />(折)
|-
|二多一少||9+4+8または9+8+4または5+8+8=21<br />49-21=28=4*7||少陽||7||align="center"|─<br />(単)
|-
|三多||9+8+8=25<br />49-25=24=4*6||老陰||6||align="center"|×<br />(交)
|}
* 第4変〜第18変 - 上記と同様の操作を続け、初爻の上に下から上への順に第2爻から上爻までを記録し、6爻1[[卦]]が定まる。
* 占断 - 以上の操作で定まった[[卦]]を「本卦(ほんか)」といい、さらに本卦の変爻(老陰・老陽)を相対する属性に変化させた卦を求め、これを「之卦(しか)」という。ここではじめて『易経』による占断がなされる。占いの結果は本卦と之卦の卦辞を踏まえたうえで、本卦の変爻の爻辞に求められる。なお2つ以上の変爻がある場合には本卦の卦辞によれ(『[[春秋左氏伝]]』)あるいは2変爻であれば本卦のその2爻辞(上位を主とする)により、3爻辞であれば本卦と之卦の各卦辞によれ(朱熹『[[易学啓蒙]]』)とされる。<br />例えば、左手の指に挟んだ残数が第3変までで9・8・4、第6変までで9・4・8、第9変までで5・8・8、第12変までで9・8・8、第15変までで9・4・4、第18変までで5・8・4であったとすると、¦¦×||| と記録され、本卦は¦¦¦|||[[周易上経三十卦の一覧#泰|泰]]、之卦は¦¦||||[[周易下経三十四卦の一覧#大壮|大壮]]となる。これを「泰の大壮に之(ゆ)く」といい、占断は泰・大壮の卦辞を参考にしつつ泰卦の変爻、六四の爻辞によって行われる。
===中筮法===
上記本筮法は18変を必要とし、しかも第1変の陰陽に偏りがあるため、偏りの無い筮法として、6変筮法である中筮法がある。これは第1変第3営において天策を8本ずつ数えその残余(割り切れる場合は0本)に人策の1本を加えた1〜8本によって次のように初爻を決定する。
*1本ならば乾 [[ファイル:Ken.png]] → 老陽(□)
*2本ならば兌 [[ファイル:Trigram duì of I Ching.png]] → 少陰(- -)
*3本ならば離 [[ファイル:Trigram lí of I Ching.png]] → 少陰(- -)
*4本ならば震 [[ファイル:Shin.png]] → 少陽(─)
*5本ならば巽 [[ファイル:Xun.png]] → 少陰(- -)
*6本ならば坎 [[ファイル:Kan.png]] → 少陽(─)
*7本ならば艮 [[ファイル:Gon.png]] → 少陽(─)
*8本ならば坤 [[ファイル:Kon.png]] → 老陰(×)
同様のことを6回繰り返して本卦を得る。
===略筮法===
さらに簡略化した3変の略筮法もある。これは中筮法の第1変の結果をそのまま内卦(初爻から第3爻)とし、同様に第2変で外卦(第4爻から第6爻)を求めて本卦を得た後、第3変は6本ずつ数えて人策を加えた残余の1〜6本によって変爻の位置(1→初爻〜6→第6爻)を決定するという方法である。
===その他===
また筮竹を用いずに卦を立てる占法もあり、3枚の硬貨を同時に投げて、3枚裏を老陽(□)、2枚裏・1枚表を少陰(- -)、2枚表・1枚裏を少陽(─)、3枚表を老陰(×)とする擲銭法が[[唐]]の[[賈公彦]]『[[儀礼正義]]』に記されている。これは、硬貨の表裏で本筮法の残余の多少を表すとするものであり、他に、硬貨の表裏を以て中筮法の乾兌離震巽坎艮坤を表すとして四象を決める方法や表の枚数の多少をそのまま四象に反映する方法、6枚の硬貨の表裏をそのまま陰陽として並べて本卦にする方法もある。
== 数学との関連性 ==
易卦は[[二進法]]で数を表していると解釈でき、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。
* [[ファイル:Kon.png]] 0 000
* [[ファイル:Shin.png]] 1 001
* [[ファイル:Kan.png]] 2 010
* [[ファイル:Trigram duì of I Ching.png]] 3 011
* [[ファイル:Gon.png]] 4 100
* [[ファイル:Trigram lí of I Ching.png]] 5 101
* [[ファイル:Xun.png]] 6 110
* [[ファイル:Ken.png]] 7 111
本筮法の第1変においては49本の筮竹を天策(x本)と地策(49-x本)に分け、地策から1本を人策として分ける。よって地策は48-x本となる。第4営後に9本残るのは天策地策ともに4本ずつ残る場合のみであり、これはxが4の倍数の時に限られる。第2変、第3変では4本残る(天地人1−2−1または2−1−1)か8本残る(同3−4−1または4−3−1)かは半々となり偏りはない。(なお、50本から太極として1本除いた49本を使うのではなく、最初に7×7=49本から太極として1本除いた48本を使うとするなら第1変の偏りはなくなる。)
== 参考文献 ==
=== 現代 ===
*『[[新釈漢文大系]] 易経(上)』([[今井宇三郎]]訳注・解説/[[明治書院]]) ISBN 978-4-625-57023-0
*『[[新釈漢文大系]] 易経(中)』([[今井宇三郎]]/[[明治書院]]) ISBN 978-4-625-57024-7
*『[[新釈漢文大系]] 易経(下)』([[今井宇三郎]]・[[堀池信夫]]・[[間嶋潤一]]/[[明治書院]]) ISBN 978-4-625-67314-6
**『[[新書漢文大系]] 易経』(今井宇三郎/辛賢編、明治書院) - 上記の抜粋新書版。{{ISBN2|978-4-625-66431-1}}
*『易経(上)』([[高田眞治]]・[[後藤基巳]]訳注/[[岩波文庫]]) ISBN 978-4003320112
*『易経(下)』([[高田眞治]]・[[後藤基巳]]訳注/[[岩波文庫]]) ISBN 978-4003320129
*『易―中国古典選10』([[本田済]]訳著/[[朝日選書]]) ISBN 978-4022590107
*『易経講座―程氏易伝を読む』(上・下、[[本田済]]/[[斯文会]]) ISBN 978-4896191806 / ISBN 978-4896191813
*『易学 成立と展開 』([[本田済]]著/講談社学術文庫)ISBN 978-4065250112
*『易経 中国の思想Ⅶ』([[丸山松幸]]訳/[[徳間書店]]) ISBN 978-4198605919 - 改訂版はKindle版。2016年3月
*『増訂 易経』([[三浦國雄]]訳著/東洋書院) ISBN 978-4885944086
*『易経 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典』([[三浦國雄]]/[[角川ソフィア文庫]]:[[角川学芸出版]]) ISBN 978-4044072155
*『全釈 易経』(上・中・下、[[黒岩重人]]/[[藤原書店]]) ISBN 978-4894349315 / ISBN 978-4894349360 / ISBN 978-4894349384
*『易を読むために 易学基礎講座』([[黒岩重人]]/[[藤原書店]]) ISBN 978-4894348615
*『易を読む 伊藤東涯「周易経翼通解」全訳』(濱久雄訳/[[明徳出版社]])ISBN 4896199790
=== 近代 ===
*『易と人生哲学』(著:[[安岡正篤]]/[[致知出版社]])
*『易学の研究』(著:[[上野清]]/歴史図書出版)
*『易学概観』(著:[[兼坂晋]]/博文館)
*『易と中庸の研究』(著:[[武内義雄]]/[[岩波書店]])
*『易の話』(著:[[金谷治]]/[[講談社現代新書]]、改訂版・[[講談社学術文庫]]) ISBN 978-4061596160
*『上代中国陰陽五行思想の研究』(著:[[小林信明]])
*『宋代易学の研究』(著:[[今井宇三郎]]/明治図書)
*『易経と老子の比較研究』(著:[[山縣初男]])
*『周公と其の時代』(著:[[林泰輔]])
*『支那古代史論』『支那天文学の組織と起原』(著:[[飯島忠夫]])
*『東洋天文学研究』(著:[[新城新蔵]])
*『殷虚卜辞研究』(著:[[島那男]])
*『殷周革命』(著:[[佐野学]])
*『古代殷帝国』(編著:[[貝塚茂樹]]/[[みすず書房]])
*『支那上代思想史研究』(著:[[出石誠彦]])
*『易の研究』(著:[[津田左右吉]])
*『周漢思想研究』(著:[[重澤俊郎]])
*『支那封建社会史』(著:[[陶希聖]]、野原四郎訳/四海書房)
*『易学大講座』(講:[[加藤大岳]]/紀元書房(全8巻)) 、易学者による易経講義録
*『[[中国古典文学大系]]12 史記(下)』(訳著:野口定男ほか/[[平凡社]])
*『[https://www.amazon.co.jp/%E5%91%A8%E6%98%93%E8%AC%9B%E7%BE%A9%EF%BC%88%E4%B8%80%EF%BC%89-%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E9%80%9A%E6%98%8E-ebook/dp/B07TGSQHXG/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=BW7V6JSJWJQ6&keywords=%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E9%8 周易講義]』(講:[[根本通明]])
=== 古代から近世 ===
*『周易正義』(著:[[孔穎達]])
*『周易虞氏義』(著:[[張恵言]])
*『易傳』(著:[[程伊川]])
*『[[周易]]集註』(著:[[来知徳]])
*『周易経翼通解』(著:[[伊藤東涯]])
*『周易欄外書』(著:[[佐藤一斎]])
*『玄語』『贅語』『敢語』(著:[[三浦梅園]])
*『周易本義拙解』(著:[[平住専安]])
*『易学啓蒙索驥編』(著:平住専安)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|zh|周易|易経}}
{{Wikiquote|易経}}{{commons|I Ching}}
* 他の思想、占い
** [[道教]]
** [[太極図]]
** [[風水]]
** 『[[太玄経]]』 - [[揚雄]]が易を模してを著した。
** [[占星術]]
** [[ジオマンシー]]
** [[ピタゴラス]]
*** [[ピタゴラス教団]]
* 易経から取られた語句
** [[観光]] -「観国之光,利用賓于王」の節に由来する。
* [[易の音楽]] - 易経を用いた操作によって作曲された[[ピアノ]]曲。アメリカの作曲家、[[ジョン・ケージ]]が作曲した。
== 外部リンク ==
* [http://ctext.org/book-of-changes/yi-jing/zh 易経(中文)] - [[中国哲学書電子化計画]] (ctext.org)
* [https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008043/explanation/ekikyo#:~:text=%E3%80%8E%E6%98%93%E7%B5%8C%E3%80%8F%E3%81%AF%E3%80%81%E5%9B%9B,%E7%BF%BC%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%90%E3%82%8A%E7%AB%8B%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 易経] - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
* [https://hayaron.kyukyodo.work/fuki/eki_keijiden-tentihi.html 周易|易経|現代語訳] -「九去堂」ブログ{{信頼性要検証|date=2022-06}}
* {{Kotobank}}
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1,807 | 四書五経 | 四書五経(ししょごきょう)は、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称。ただしこのうち『大学』『中庸』はもともと『礼記』の一篇を独立させたものである。
君子が国家や政治に対する志を述べる大説として日常の出来事に関する意見・主張や噂話など虚構・空想の話を書く小説と区別される。
四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいい、五経を以て四書よりも高しとする(「礼記」の成立受容史については「三礼」の項を参照)。「楽経」を含めて四書六経ともいう。
中国本国だけでなく、日本や朝鮮でも広く講義された。朝鮮では『礼記』と『春秋』を省いて「四書三経」ともいった。
『荘子』や『語叢』においては、下記の六種類の経書が列挙されている。
当時の儒家らはこれらの経典を重視したが、『楽』は早くに失われたとされる。
唐の太宗は、以下の経典を「五経」とし、『五経正義』という解釈を孔穎達らに定めさせた。唐代以前の注釈類は殆んど現存しないため、唐代以前の経学研究の基本書とされている。
宋代には唐代までに集成された五経研究(古注)に対して、批判的な厖大な注釈書(新注)を生み出した。これは宋・元の二王朝を通じて行われ、明の永楽年間に『五経大全』として結実した。『五経大全』は科挙のテキストとしても利用され世上に流行したが、即席的に編纂された書物であったこと、しかも『五経大全』の種本の殆んどが現存すること、また明朝そのものの経学研究が低調であったこと等から、『五経大全』そのものの学術的評価は低い。『五経大全』の注釈書は朱熹とその弟子の蔡沈、朱熹の先駆者程頤の私淑の弟子の胡安国と、比較的簡潔な注釈を行った陳澔が選ばれている。
『礼記』のうち「中庸」「大学」を重視する立場は、韓愈など宋代以前の学者にも見られた傾向であるが、北宋の二程子は特にこれらを重視した。
南宋の朱熹が『礼記』の一篇であった『大学』と『中庸』をそれぞれ独立させ、『論語』『孟子』と合わせ「四書」として五経以前に読むべき入門の学として顕彰し、その注釈書として『四書章句集注』(『大学章句』・『中庸章句』・『論語集注』・『孟子集注』)を著した。四書は元代以降、科挙の科目に採用され、五経よりも広く読まれるようになった。 | [
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] | 四書五経(ししょごきょう)は、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称。ただしこのうち『大学』『中庸』はもともと『礼記』の一篇を独立させたものである。 | '''四書五経'''(ししょごきょう)は、[[儒教]]の[[経書]]の中で特に重要とされる[[四書]]と[[五経]]の総称。ただしこのうち『大学』『中庸』はもともと『礼記』の一篇を独立させたものである。
== 要綱 ==
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[[四書]]は『[[論語]]』『[[大学 (書物)|大学]]』『[[中庸]]』『[[孟子 (書物)|孟子]]』、[[五経]]は『[[易経]]』『[[書経]]』『[[詩経]]』『[[礼記]]』『[[春秋]]』をいい、五経を以て四書よりも高しとする(「礼記」の成立受容史については「[[三礼]]」の項を参照)。「[[楽経]]」を含めて'''四書六経'''ともいう。
中国本国だけでなく、日本や朝鮮でも広く講義された。朝鮮では『礼記』と『春秋』を省いて「四書三経」ともいった<ref>{{Citation|和書|title=朝鮮王朝時代の科挙答案 : 正祖元年 (一七七七) 金顕運「送子朝塗山賦」試券を例として|year=2021|last=金|first=文京|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00069467-00000052-0203|journal=慶應義塾大学言語文化研究所紀要|number=52|naid=120007031618|author-link=金文京}}207f頁。</ref>。
== 戦国時代の六経 ==
『[[荘子 (書物)|荘子]]』や『[[郭店一号楚墓|語叢]]』においては、下記の六種類の経書が列挙されている。
*[[詩経|詩]]
*[[書経|書]]
*[[儀礼|礼]]
*[[楽経|楽]]
*[[易経|易]]
*[[春秋]]
当時の儒家らはこれらの経典を重視したが、『楽』は早くに失われたとされる。
== 前漢の五経 ==
*[[易経|易]](施氏([[施讎]])・孟氏([[孟喜]])・梁丘氏([[梁丘賀]])・京氏([[京房]]))
*[[書経|書]](大夏侯氏([[夏侯勝]])・小夏侯氏([[夏侯建]])・欧陽氏)
*[[詩経|詩]](斉詩・韓詩・魯詩)
*[[儀礼 (経書)|士礼]](后氏([[后蒼]])・戴氏([[戴徳]]・[[戴聖]])・慶氏([[慶普]]))
*[[春秋]]([[春秋公羊伝|公羊氏]]・[[春秋穀梁伝|穀梁氏]])
== 唐代の五経 ==
[[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]]は、以下の経典を「五経」とし、『[[五経正義]]』という解釈を[[孔穎達]]らに定めさせた。唐代以前の注釈類は殆んど現存しないため、唐代以前の経学研究の基本書とされている。
*[[易経|易]]……『周易正義』([[王弼 (三国)|王弼]]・韓康伯注、孔穎達等疏)
*[[書経|書]]……『尚書正義』(偽古文尚書。[[孔安国]]伝(偽孔伝と呼ばれる)、孔穎達等疏)
*[[詩経|詩]]……『毛詩正義』(毛伝、[[鄭玄]]箋、孔穎達等疏)
*[[礼記]]……『礼記正義』(小戴礼記。鄭玄注、孔穎達等疏)
*[[春秋]]……『春秋正義』([[春秋左氏伝]]をテキスト、[[杜預]]注、孔穎達等疏)
== 宋代以降の五経 ==
宋代には唐代までに集成された五経研究([[古注]])に対して、批判的な厖大な注釈書([[新注]])を生み出した。これは[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]の二王朝を通じて行われ、明の永楽年間に『[[五経大全]]』として結実した。『五経大全』は[[科挙]]のテキストとしても利用され世上に流行したが、即席的に編纂された書物であったこと、しかも『五経大全』の種本の殆んどが現存すること、また明朝そのものの経学研究が低調であったこと等から、『五経大全』そのものの学術的評価は低い。『五経大全』の注釈書は朱熹とその弟子の蔡沈、朱熹の先駆者程頤の私淑の弟子の胡安国と、比較的簡潔な注釈を行った陳澔が選ばれている。
*[[易経|易]]([[朱熹]]の『'''周易本義'''』)
*[[書経|書]](蔡沈の『'''書集伝'''』)
*[[詩経]](朱熹の『'''詩集伝'''』)
*[[礼記]](陳澔の『'''礼記集説'''』)
*[[春秋]]([[胡安国]]の『'''春秋伝'''』)
== 宋代以降の四書 ==
『礼記』のうち「中庸」「大学」を重視する立場は、[[韓愈]]など宋代以前の学者にも見られた傾向であるが、[[北宋]]の[[二程子]]は特にこれらを重視した。
[[南宋]]の[[朱熹]]が『[[礼記]]』の一篇であった『[[大学 (書物)|大学]]』と『[[中庸]]』をそれぞれ独立させ、『[[論語]]』『[[孟子 (書物)|孟子]]』と合わせ「四書」として五経以前に読むべき入門の学として顕彰し、その注釈書として『[[四書章句集注]]』(『[[大学章句]]』・『[[中庸章句]]』・『[[論語集注]]』・『[[孟子集注]]』)を著した。四書は[[元 (王朝)|元]]代以降、[[科挙]]の科目に採用され、五経よりも広く読まれるようになった。
== 関連項目 ==
*[[四書]]
*[[五経]]
*[[十三経]]
== 脚注 ==
<references />
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[[Category:経書]] | 2003-02-15T13:09:19Z | 2023-08-05T07:59:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9B%B8%E4%BA%94%E7%B5%8C |
1,808 | 論語 | 『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ)は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。
その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた。
『論語』という名称が定着するのは、前漢の宣帝・元帝の頃からであり、『史記』仲尼弟子列伝の司馬遷の賛に用いられるほか、戴聖の『礼記』などに使用例がある。それ以前は、単に「伝」(『史記』封禅書・『漢書』宣帝紀)や「語」(『塩鉄論』)という呼称例がある。
『論語』の書名の由来は諸説あり、定説はない。最も古い説は班固の『漢書』芸文志に見える説である。
皇侃の『論語義疏』では、「論」の字の解釈について、音が共通する「倫」字の意味とする説、「論」の意味とする班固説、論・倫に相違はないとする三説を紹介している。このうち「倫」字の意味とする場合、更に以下の四つの説があるという。
合わせて、「語」は単なる言葉ではなく、相手の議論に対する批判や問答を表す言葉であるとする。
一般には、『漢書』芸文志に記載されているように孔子の門人が孔子の死後に集まって編纂したとされているが、この門人が誰なのかという点には様々な異説がある。比較的古くからある説には、以下の例がある。
唐代の学者の柳宗元は、『論語』には孔子の弟子の曾参の死が描かれていることから、『論語』は曾参の弟子が編纂したものであると考えた。北宋の程子は、孔子の弟子の有若・曾参が『論語』では「子」の敬称をつけて呼ばれることから、この二人の門人が編纂したと考えた。また、江戸時代の学者である太宰春台は、『論語』は前後十篇ずつで内容や体裁に差があることを見出し、前半は子張、後半は原憲の編纂であると推論した。
『論語集解』によれば、漢代の武帝の頃には三種のテキストの『論語』があった。
前漢の張禹が「魯論」と「斉論」を校正して『張侯論』を作ると、後漢の包咸・周氏がこれに対して注釈を作った。そののち、後漢の鄭玄が「魯論」を中心にしながら「斉論」「古論」を統一し『論語』の注釈書を作った。また、後漢の熹平4年(175年)には、経書を石に刻んで保存する事業(「石経」)によって『論語』の石経が作られた。これもわずかながら現存している。
三国時代に入り、陳羣・王粛・周生烈らによって多くの注釈が作られた。これらを集大成したのが何晏らによって編纂された『論語集解』で、これが現在まで完全な形で存在している最古の注釈である。
『論語』は非常に簡潔な記述で書かれており、儒学の入門書として古くから広く普及した。一方で、簡潔すぎるためはっきり意味が定めがたく、後世に多くの解釈が生まれることとなった。したがって、時代や文化に応じて様々な受容の様相が見られ、注釈も数多く作られた。
漢代以来、儒教の第一の経典は五経(『易』・『書』・『詩』・『礼』・『春秋』)であったが、『論語』や『孝経』も別格扱いで同時に尊重されていた。前漢の昭帝・宣帝・元帝らは幼くして『論語』と『孝経』を学んでおり、この頃には『論語』は基礎教養として受け入れられていた。
経書研究が進むに従い、後漢の鄭玄は他の経書と共に『論語』を解釈し、経書全体に統一的な解釈を与えることを試みた。魏の何晏らの『論語集解』は先人の解釈を引用して編纂された。鄭玄注の経学的要素は排除され、他の経書とは切り離し、『論語』の本文から読み取れる一般的な意味を示した。これに基づいて梁の皇侃が『論語義疏』を作り、さらに北宋の時代には官製の注釈書として『論語正義』が作られた。
南宋に入り、朱子学が勃興すると、五経と合わせて四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)も重視されるようになり、『論語』はより重要な地位を担うこととなった。朱熹は『論語集注』を作り、朱子学の立場から新たな解釈を施した。清の考証学の時代には、劉宝楠の『論語正義』など、実証的な観点による解釈が試みられた。
3世紀の終わりごろ、応神天皇の時代に百済が招聘した漢人博士である王仁が『論語』十巻と『千字文』一巻を倭国に貢上(貢上=「貢ぎ物を差し上げる」)したことが『古事記』に記載されている。しかし、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に貢上したとされる王仁や『論語』『千字文』などの歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、王仁が『論語』『千字文』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、事実とは認め難いとする指摘は多数存在する。
718年に編纂が始められた『養老律令』においては、教授の際に用いるべき注釈として『論語』の鄭玄注・何妟注が挙げられており、既に大学での教授や官吏登用の際の必読書とされていたことが分かる。
藤原佐世の『日本国見在書目録』にも、「論語十巻鄭玄注」「論語十巻何晏注」「論語義疏皇侃撰」などが著録されている。『論語集解』は、正平19年(1364年)に初めて木版出版され、いっそう普及した。
江戸時代に入ると、伊藤仁斎や荻生徂徠らによって優れた注釈が作られ、一部は中国に逆輸入されて受容された。また、吉田篁墩や市野迷庵のように『論語』や『論語集解』の校勘によって業績を上げた者もいた。
カトリック布教のために中国に来訪したイエズス会の宣教師により、徐々に中国古典の翻訳が試みられるようになった。1660年、アンドレ・フェランが『大学』と『論語』をラテン語に訳し、1662年にプロスペル・イントルチェッタ(英語版)が孔子の伝記を附して出版した。1687年、ルイ14世の認可のもと、フィリップ・クプレがパリで『中国の哲学者孔子』を刊行し『孟子』を除く「四書」の翻訳がなされた。さらに、1711年、フランソワ・ノエルによって「四書」の完訳がなされ、プラハで刊行された。クプレ訳は明の張居正の解釈によるものであり、ノエル訳は朱熹と張居正の解釈の両方を受けたものである。
イエズス会士を通じて伝わった古代中国の哲学は、17世紀から18世紀にはシノワズリの一部として流行した。フランスではヴォルテール、ディドロ、モンテスキュー、ケネーといった思想家に注目され、啓蒙思想の発展に寄与した。ドイツではクリスティアン・ヴォルフが理神論的立場から、キリスト教が無くても道徳が成立し得る実例として孔子を喧伝した。
一方で19世紀のヘーゲルは、孔子の教えは哲学ではなく平凡な通俗道徳でしかないと酷評、道徳ならキケロ『義務について(英語版)』の方が優れているとし、イエズス会士の翻訳も原文からかけ離れた意訳であるとした。
『論語』の言葉は短く断片的で、読者をしてさまざまな想像を掻き立てるものであり、その解釈は読者の数だけ存在するといえる。たとえば、橋本秀美は、金谷治の『論語』解釈が、無意識のうちに、当時の日本社会であるべきとされた知識人の姿と孔子を重ね合わせる場合があることを指摘する。そして、人々が『論語』を読み『論語』を解釈するのは、あたかも人が鏡を覗き込むようなものであり、その解釈は解釈者自身の心そのものを示していると述べた。
ここでは、古くから相反する解釈があることで知られる『論語』の章として、子罕篇の「川上の嘆」の一節を具体例として示す。
この一節に対する漢唐の時代の注釈である「古注」系統の解釈と、宋代以降の「新注」系統の解釈は大きく異なっている。たとえば、後漢の鄭玄は、本節を「川の流れのように時が過ぎ去り、君主に任用されることなく空しく年老いていく我が身の不遇を嘆いたもの」と解釈する。これは「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という悲しみや儚さを表現するものであり、鄭玄・皇侃・六朝の詩文などでは、この解釈を採用する。
一方、新注では「宇宙の運行は川の流れのように止まることないものであり、これと同じように、学問を志す者も常に我が身を振り返るべきだ」との意味に取る。この解釈は、古注とは逆に、力強い自己改革の精神を読み取るもので、伊藤仁斎の説もこれと一致する。この新注の解釈は朱子学的な色彩の強い解釈ではあるが、古くは『孟子』における議論と内容が一致するものでもあり、その由来は古い。『孟子』の他に、漢代の揚雄も同様の解釈を取っている。また東洋哲学の研究者の井筒俊彦は、この一節から『方丈記』に代表される「物事の普遍的な変化」を悲観的に捉える仏教と、これを楽観的に捉える宋学の対比を読み取っている。
1906年、フランスのポール・ペリオ、イギリスのオーレル・スタインらの探検隊が、敦煌の千仏洞から敦煌文献の一つとして鄭玄注『論語』の写本の一部を発見した。これは南北朝時代から唐代の写本である。また、1969年にはトルファン地域のアスターナ地区で、再び鄭玄注『論語』が発見された。これは唐の景龍4年(710年)に卜天寿という少年によって書写された本である。
1973年、河北省定州市の前漢の中山懐王劉脩の墓から、『論語』の一部が書かれた竹簡が発見された。劉脩は紀元前55年に没したため、これより以前のものであることが分かる。この竹簡に記された『論語』の内容は、現行本との間に異同は多いが、内容は類似しており、現行本の祖本の一つであると考えられる。
1990年代の初頭、朝鮮民主主義人民共和国の平壌直轄市楽浪地域の領域にある貞柏洞364号墳から、『論語』の一部が書かれた竹簡が発見された。この出来事は、2009年頃から国際的に知られるようになった。この墓には紀元前45年の戸籍簿が副葬されており、前漢の頃には『論語』が辺境地域にまで伝播していたことが明らかになった。
2016年、江西省南昌市にある遺跡海昏侯墓(中国語版)(前漢の劉賀の墓)から、漢代当時の『斉論語』と推定される竹簡の断片(『論語』知道篇)が出土した。
2020年、注釈書の一つ『論語義疏』について6〜7世紀初めに中国で書かれたとみられる最古級の写本が日本で見つかった。
512に区切られる短文・長文が、全10巻20篇の中にまとめられる形で収録されている。前10篇を「上論」、後10篇を「下論」と呼んで区別したりもする。篇の名称は(「子曰」を除く)各篇の最初の二文字(または三文字)を採ったものであり、章によってはその章の内容のことをいう。
『論語』に由来する故事成語には、以下の例がある。
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"text": "『論語』という名称が定着するのは、前漢の宣帝・元帝の頃からであり、『史記』仲尼弟子列伝の司馬遷の賛に用いられるほか、戴聖の『礼記』などに使用例がある。それ以前は、単に「伝」(『史記』封禅書・『漢書』宣帝紀)や「語」(『塩鉄論』)という呼称例がある。",
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"text": "『論語』の書名の由来は諸説あり、定説はない。最も古い説は班固の『漢書』芸文志に見える説である。",
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"text": "皇侃の『論語義疏』では、「論」の字の解釈について、音が共通する「倫」字の意味とする説、「論」の意味とする班固説、論・倫に相違はないとする三説を紹介している。このうち「倫」字の意味とする場合、更に以下の四つの説があるという。",
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"text": "合わせて、「語」は単なる言葉ではなく、相手の議論に対する批判や問答を表す言葉であるとする。",
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"text": "一般には、『漢書』芸文志に記載されているように孔子の門人が孔子の死後に集まって編纂したとされているが、この門人が誰なのかという点には様々な異説がある。比較的古くからある説には、以下の例がある。",
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"text": "唐代の学者の柳宗元は、『論語』には孔子の弟子の曾参の死が描かれていることから、『論語』は曾参の弟子が編纂したものであると考えた。北宋の程子は、孔子の弟子の有若・曾参が『論語』では「子」の敬称をつけて呼ばれることから、この二人の門人が編纂したと考えた。また、江戸時代の学者である太宰春台は、『論語』は前後十篇ずつで内容や体裁に差があることを見出し、前半は子張、後半は原憲の編纂であると推論した。",
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"text": "『論語集解』によれば、漢代の武帝の頃には三種のテキストの『論語』があった。",
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"text": "前漢の張禹が「魯論」と「斉論」を校正して『張侯論』を作ると、後漢の包咸・周氏がこれに対して注釈を作った。そののち、後漢の鄭玄が「魯論」を中心にしながら「斉論」「古論」を統一し『論語』の注釈書を作った。また、後漢の熹平4年(175年)には、経書を石に刻んで保存する事業(「石経」)によって『論語』の石経が作られた。これもわずかながら現存している。",
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"text": "三国時代に入り、陳羣・王粛・周生烈らによって多くの注釈が作られた。これらを集大成したのが何晏らによって編纂された『論語集解』で、これが現在まで完全な形で存在している最古の注釈である。",
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"text": "『論語』は非常に簡潔な記述で書かれており、儒学の入門書として古くから広く普及した。一方で、簡潔すぎるためはっきり意味が定めがたく、後世に多くの解釈が生まれることとなった。したがって、時代や文化に応じて様々な受容の様相が見られ、注釈も数多く作られた。",
"title": "受容"
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"text": "漢代以来、儒教の第一の経典は五経(『易』・『書』・『詩』・『礼』・『春秋』)であったが、『論語』や『孝経』も別格扱いで同時に尊重されていた。前漢の昭帝・宣帝・元帝らは幼くして『論語』と『孝経』を学んでおり、この頃には『論語』は基礎教養として受け入れられていた。",
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"text": "経書研究が進むに従い、後漢の鄭玄は他の経書と共に『論語』を解釈し、経書全体に統一的な解釈を与えることを試みた。魏の何晏らの『論語集解』は先人の解釈を引用して編纂された。鄭玄注の経学的要素は排除され、他の経書とは切り離し、『論語』の本文から読み取れる一般的な意味を示した。これに基づいて梁の皇侃が『論語義疏』を作り、さらに北宋の時代には官製の注釈書として『論語正義』が作られた。",
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"text": "南宋に入り、朱子学が勃興すると、五経と合わせて四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)も重視されるようになり、『論語』はより重要な地位を担うこととなった。朱熹は『論語集注』を作り、朱子学の立場から新たな解釈を施した。清の考証学の時代には、劉宝楠の『論語正義』など、実証的な観点による解釈が試みられた。",
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"text": "3世紀の終わりごろ、応神天皇の時代に百済が招聘した漢人博士である王仁が『論語』十巻と『千字文』一巻を倭国に貢上(貢上=「貢ぎ物を差し上げる」)したことが『古事記』に記載されている。しかし、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に貢上したとされる王仁や『論語』『千字文』などの歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、王仁が『論語』『千字文』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、事実とは認め難いとする指摘は多数存在する。",
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"text": "718年に編纂が始められた『養老律令』においては、教授の際に用いるべき注釈として『論語』の鄭玄注・何妟注が挙げられており、既に大学での教授や官吏登用の際の必読書とされていたことが分かる。",
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"text": "藤原佐世の『日本国見在書目録』にも、「論語十巻鄭玄注」「論語十巻何晏注」「論語義疏皇侃撰」などが著録されている。『論語集解』は、正平19年(1364年)に初めて木版出版され、いっそう普及した。",
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"text": "江戸時代に入ると、伊藤仁斎や荻生徂徠らによって優れた注釈が作られ、一部は中国に逆輸入されて受容された。また、吉田篁墩や市野迷庵のように『論語』や『論語集解』の校勘によって業績を上げた者もいた。",
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"text": "カトリック布教のために中国に来訪したイエズス会の宣教師により、徐々に中国古典の翻訳が試みられるようになった。1660年、アンドレ・フェランが『大学』と『論語』をラテン語に訳し、1662年にプロスペル・イントルチェッタ(英語版)が孔子の伝記を附して出版した。1687年、ルイ14世の認可のもと、フィリップ・クプレがパリで『中国の哲学者孔子』を刊行し『孟子』を除く「四書」の翻訳がなされた。さらに、1711年、フランソワ・ノエルによって「四書」の完訳がなされ、プラハで刊行された。クプレ訳は明の張居正の解釈によるものであり、ノエル訳は朱熹と張居正の解釈の両方を受けたものである。",
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"text": "イエズス会士を通じて伝わった古代中国の哲学は、17世紀から18世紀にはシノワズリの一部として流行した。フランスではヴォルテール、ディドロ、モンテスキュー、ケネーといった思想家に注目され、啓蒙思想の発展に寄与した。ドイツではクリスティアン・ヴォルフが理神論的立場から、キリスト教が無くても道徳が成立し得る実例として孔子を喧伝した。",
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"text": "一方で19世紀のヘーゲルは、孔子の教えは哲学ではなく平凡な通俗道徳でしかないと酷評、道徳ならキケロ『義務について(英語版)』の方が優れているとし、イエズス会士の翻訳も原文からかけ離れた意訳であるとした。",
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"text": "『論語』の言葉は短く断片的で、読者をしてさまざまな想像を掻き立てるものであり、その解釈は読者の数だけ存在するといえる。たとえば、橋本秀美は、金谷治の『論語』解釈が、無意識のうちに、当時の日本社会であるべきとされた知識人の姿と孔子を重ね合わせる場合があることを指摘する。そして、人々が『論語』を読み『論語』を解釈するのは、あたかも人が鏡を覗き込むようなものであり、その解釈は解釈者自身の心そのものを示していると述べた。",
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"text": "ここでは、古くから相反する解釈があることで知られる『論語』の章として、子罕篇の「川上の嘆」の一節を具体例として示す。",
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"text": "この一節に対する漢唐の時代の注釈である「古注」系統の解釈と、宋代以降の「新注」系統の解釈は大きく異なっている。たとえば、後漢の鄭玄は、本節を「川の流れのように時が過ぎ去り、君主に任用されることなく空しく年老いていく我が身の不遇を嘆いたもの」と解釈する。これは「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という悲しみや儚さを表現するものであり、鄭玄・皇侃・六朝の詩文などでは、この解釈を採用する。",
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"text": "一方、新注では「宇宙の運行は川の流れのように止まることないものであり、これと同じように、学問を志す者も常に我が身を振り返るべきだ」との意味に取る。この解釈は、古注とは逆に、力強い自己改革の精神を読み取るもので、伊藤仁斎の説もこれと一致する。この新注の解釈は朱子学的な色彩の強い解釈ではあるが、古くは『孟子』における議論と内容が一致するものでもあり、その由来は古い。『孟子』の他に、漢代の揚雄も同様の解釈を取っている。また東洋哲学の研究者の井筒俊彦は、この一節から『方丈記』に代表される「物事の普遍的な変化」を悲観的に捉える仏教と、これを楽観的に捉える宋学の対比を読み取っている。",
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"text": "1906年、フランスのポール・ペリオ、イギリスのオーレル・スタインらの探検隊が、敦煌の千仏洞から敦煌文献の一つとして鄭玄注『論語』の写本の一部を発見した。これは南北朝時代から唐代の写本である。また、1969年にはトルファン地域のアスターナ地区で、再び鄭玄注『論語』が発見された。これは唐の景龍4年(710年)に卜天寿という少年によって書写された本である。",
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"text": "1973年、河北省定州市の前漢の中山懐王劉脩の墓から、『論語』の一部が書かれた竹簡が発見された。劉脩は紀元前55年に没したため、これより以前のものであることが分かる。この竹簡に記された『論語』の内容は、現行本との間に異同は多いが、内容は類似しており、現行本の祖本の一つであると考えられる。",
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"text": "1990年代の初頭、朝鮮民主主義人民共和国の平壌直轄市楽浪地域の領域にある貞柏洞364号墳から、『論語』の一部が書かれた竹簡が発見された。この出来事は、2009年頃から国際的に知られるようになった。この墓には紀元前45年の戸籍簿が副葬されており、前漢の頃には『論語』が辺境地域にまで伝播していたことが明らかになった。",
"title": "新出文献"
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"text": "2016年、江西省南昌市にある遺跡海昏侯墓(中国語版)(前漢の劉賀の墓)から、漢代当時の『斉論語』と推定される竹簡の断片(『論語』知道篇)が出土した。",
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"text": "2020年、注釈書の一つ『論語義疏』について6〜7世紀初めに中国で書かれたとみられる最古級の写本が日本で見つかった。",
"title": "新出文献"
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{
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"text": "512に区切られる短文・長文が、全10巻20篇の中にまとめられる形で収録されている。前10篇を「上論」、後10篇を「下論」と呼んで区別したりもする。篇の名称は(「子曰」を除く)各篇の最初の二文字(または三文字)を採ったものであり、章によってはその章の内容のことをいう。",
"title": "構成"
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"text": "『論語』に由来する故事成語には、以下の例がある。",
"title": "故事成語"
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"text": "小説",
"title": "『論語』を題材にした作品"
}
] | 『論語』は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。 その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた。 | {{Wikisource|論語}}{{儒家経典}}
[[File:Analects.JPG|thumb|論語 衛霊公]]
[[ファイル:Rongo Analects 02.jpg|thumb|[[朱熹]]『[[論語集注]]』八佾]]
『'''論語'''』(ろんご、{{ピン音|Lúnyǔ}})は、[[孔子]]とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の[[経典]]である[[経書]]の一つで、[[朱子学]]における「[[四書]]」の一つに数えられる。
その内容の簡潔さから[[儒教]]入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである{{Sfn|吉川|1978a|p=5}}。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた{{Sfn|吉川|1978a|p=5}}。
== 名称 ==
『論語』という名称が定着するのは、[[前漢]]の[[宣帝 (漢)|宣帝]]・[[元帝 (漢)|元帝]]の頃からであり、『[[史記]]』仲尼弟子列伝の[[司馬遷]]の賛に用いられるほか、[[戴聖]]の『[[礼記]]』などに使用例がある{{Sfn|影山|2016|pp=25-26}}。それ以前は、単に「伝」(『史記』封禅書・『[[漢書]]』宣帝紀)や「語」(『[[塩鉄論]]』)という呼称例がある{{Sfn|影山|2016|pp=25-26}}。
『論語』の書名の由来は諸説あり、定説はない。最も古い説は[[班固]]の『[[漢書]]』[[芸文志]]に見える説である{{Sfn|影山|2016|pp=25-26}}。
{{Quotation|弟子たちはそれぞれ孔子の言葉を記憶していた。孔子が亡くなると、一門の人々は一緒に孔子の言葉('''語''')を寄せ集め、論議('''論''')したうえで編纂した。|[[班固]]|『[[漢書]]』[[芸文志]]{{Sfn|影山|2016|pp=25-26}}}}
[[皇侃]]の『[[論語義疏]]』では、「論」の字の解釈について、音が共通する「倫」字の意味とする説、「論」の意味とする班固説、論・倫に相違はないとする三説を紹介している。このうち「倫」字の意味とする場合、更に以下の四つの説があるという{{Sfn|影山|2016|p=27}}。
# 「倫」は「次」の意味で、順序次第が整っていて理屈が乱れないさまを示す{{Sfn|影山|2016|p=27}}。
# 「倫」は「理」の意味で、ものごとの道理を示す{{Sfn|影山|2016|p=27}}。
# 「倫」は「綸」の意味で、国家の統治に役立つことを示す{{Sfn|影山|2016|p=27}}。
# 「倫」は「輪」の意味で、あらゆる意味が備わり、永遠に回る車輪を示す{{Sfn|影山|2016|p=27}}。
合わせて、「語」は単なる言葉ではなく、相手の議論に対する批判や問答を表す言葉であるとする{{Sfn|影山|2016|p=27}}。
== 成立 ==
=== 門人による編纂 ===
一般には、『漢書』芸文志に記載されているように孔子の門人が孔子の死後に集まって編纂したとされているが、この門人が誰なのかという点には様々な異説がある{{Sfn|影山|2016|pp=29-30}}。比較的古くからある説には、以下の例がある。
# 弟子の[[子夏]]ら64人が編纂した(『[[文選 (書物)|文選]]』[[李善]]注引『論語讖』){{Sfn|影山|2016|pp=29-30}}。
# [[冉雍]]・[[子游]]・子夏らが編纂した(『[[経典釈文]]』引[[鄭玄]]説){{Sfn|影山|2016|pp=29-30}}。
# 七十弟子が編纂した(『[[論語義疏]]』){{Sfn|影山|2016|pp=29-30}}。
[[唐|唐代]]の学者の[[柳宗元]]は、『論語』には孔子の弟子の[[曾参]]の死が描かれていることから、『論語』は曾参の弟子が編纂したものであると考えた{{Sfn|影山|2016|pp=30-32}}。[[北宋]]の[[二程子|程子]]は、孔子の弟子の[[有若]]・曾参が『論語』では「子」の敬称をつけて呼ばれることから、この二人の門人が編纂したと考えた{{Sfn|湯浅|2012|pp=30-31}}。また、[[江戸時代]]の学者である[[太宰春台]]は、『論語』は前後十篇ずつで内容や体裁に差があることを見出し、前半は[[子張]]、後半は[[原憲]]の編纂であると推論した{{Sfn|影山|2016|pp=33-37}}。
=== 現在の形の『論語』の成立 ===
[[ファイル:Analects LunYu Rongo2.JPG|thumb|[[何晏]]『論語集解』 学而]]
『[[論語集解]]』によれば、漢代の[[武帝 (漢)|武帝]]の頃には三種のテキストの『論語』があった{{Sfn|影山|2016|pp=42-43}}。
;魯論 : 孔子の祖国の魯で伝えられた。計20篇。[[夏侯勝]]・[[蕭望之]]・[[韋賢]]・[[韋玄成]]らによって伝えられた{{Sfn|影山|2016|pp=42-43}}。
;斉論 : 問王篇・知道篇の2篇が多く、計22篇。王卿・[[庸生]]・王吉らによって伝えられた{{Sfn|影山|2016|pp=42-43}}。
;古論(古文論語) : 魯の共王の[[劉余]]が孔子の旧宅を壊した際に発見された『論語』で、漢代以前の古い文字で書かれていた{{Sfn|影山|2016|pp=42-43}}。堯曰篇が二つに分かれており、計21篇{{Sfn|湯浅|2012|p=81}}。[[孔安国]]によって[[注釈]]が作られた{{Sfn|影山|2016|pp=42-43}}。
[[前漢]]の[[張禹]]が「魯論」と「斉論」を校正して『張侯論』を作ると、[[後漢]]の包咸・周氏がこれに対して注釈を作った{{Sfn|影山|2016|pp=42-43}}{{Sfn|湯浅|2012|p=81}}。そののち、後漢の[[鄭玄]]が「魯論」を中心にしながら「斉論」「古論」を統一し『論語』の注釈書を作った{{Sfn|影山|2016|p=44}}{{Sfn|湯浅|2012|p=83}}。また、後漢の熹平4年([[175年]])には、[[経書]]を石に刻んで保存する事業(「[[石経]]」)によって『論語』の石経が作られた。これもわずかながら現存している{{Sfn|湯浅|2012|pp=84-85}}。
[[三国時代 (中国)|三国時代]]に入り、[[陳羣]]・[[王粛]]・周生烈らによって多くの注釈が作られた{{Sfn|影山|2016|p=45}}。これらを集大成したのが[[何晏]]らによって編纂された『[[論語集解]]』で、これが現在まで完全な形で存在している最古の注釈である{{Sfn|影山|2016|p=45}}。
== 受容 ==
『論語』は非常に簡潔な記述で書かれており、儒学の入門書として古くから広く普及した{{Sfn|橋本|2009|p=7}}。一方で、簡潔すぎるためはっきり意味が定めがたく、後世に多くの解釈が生まれることとなった{{Sfn|橋本|2009|p=7}}。したがって、時代や文化に応じて様々な受容の様相が見られ、注釈も数多く作られた。
=== 中国 ===
[[ファイル:Commentaries of the Analects of Confucius.jpg|thumb|[[邢昺]]『論語注疏』]]
{{main|論語の注釈}}
漢代以来、儒教の第一の経典は'''[[五経]]'''(『[[易経|易]]』・『[[書経|書]]』・『[[詩経|詩]]』・『[[礼]]』・『[[春秋]]』)であったが、『論語』や『[[孝経]]』も別格扱いで同時に尊重されていた{{Sfn|湯浅|2012|p=95}}。[[前漢]]の[[昭帝 (漢)|昭帝]]・[[宣帝 (漢)|宣帝]]・[[元帝 (漢)|元帝]]らは幼くして『論語』と『孝経』を学んでおり、この頃には『論語』は基礎教養として受け入れられていた{{Sfn|橋本|2009|p=15}}{{Efn|林泰輔『論語年譜』には、古代の人物が『論語』を学んだ例や『論語』を引用した例を示す歴史書の記述などが全て整理されている{{Sfn|橋本|2009|p=16}}。}}。
[[経書]]研究が進むに従い、[[後漢]]の[[鄭玄]]は他の経書と共に『論語』を解釈し、経書全体に統一的な解釈を与えることを試みた{{Sfn|橋本|2009|pp=47-48}}。[[魏 (三国)|魏]]の[[何晏]]らの『[[論語集解]]』は先人の解釈を引用して編纂された。鄭玄注の経学的要素は排除され、他の経書とは切り離し、『論語』の本文から読み取れる一般的な意味を示した{{Sfn|橋本|2009|p=60}}。これに基づいて[[梁 (南朝)|梁]]の[[皇侃]]が『[[論語義疏]]』を作り、さらに[[北宋]]の時代には官製の注釈書として『論語正義』が作られた{{Sfn|湯浅|2012|pp=89-92}}。
[[南宋]]に入り、[[朱子学]]が勃興すると、五経と合わせて'''[[四書]]'''(『論語』・『[[孟子 (書物)|孟子]]』・『[[大学 (書物)|大学]]』・『[[中庸]]』)も重視されるようになり、『論語』はより重要な地位を担うこととなった。[[朱熹]]は『[[論語集注]]』を作り、朱子学の立場から新たな解釈を施した{{Sfn|湯浅|2012|pp=94-97}}。[[清]]の[[考証学]]の時代には、[[劉宝楠]]の『論語正義』など、実証的な観点による解釈が試みられた{{Sfn|湯浅|2012|pp=98-99}}。
=== 日本 ===
[[File:日本国見在書目録.jpg|thumb|[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540620/10 国立国会図書館デジタルコレクション]<br />『[[日本国見在書目録]]』の「[[孝経]]家」「'''論語'''家」の頁。]]
{{main|論語の注釈#日本人儒者による注}}
{{See also|日本の儒教|朱子学#日本への影響}}
[[3世紀]]の終わりごろ、[[応神天皇]]の時代に[[百済]]が招聘した漢人博士である[[王仁]]が『論語』十巻と『[[千字文]]』一巻を倭国に貢上(貢上=「貢ぎ物を差し上げる」)したことが『[[古事記]]』に記載されている。しかし、『[[日本書紀]]』に読まれる百済が倭国に貢上したとされる[[王仁]]や『論語』『[[千字文]]』などの歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、[[王仁]]が『論語』『千字文』などの典籍をもたらしたという[[王仁]][[伝説]]や、[[継体天皇|継体]][[欽明天皇|欽明朝]]に[[五経博士]]が百済から交代派遣されたとする[[伝承]]は、事実とは認め難いとする指摘は多数存在する<ref>{{Cite book|和書|editor1=田中健夫|editor1-link=田中健夫|editor2=石井正敏|editor2-link=石井正敏|date=2009-01-01|title=対外関係史辞典|series=|publisher=[[吉川弘文館]]|ISBN=978-4642014496|page=356}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=斎藤正二|authorlink=斎藤正二|date=2006-07-01|title=日本的自然観の研究 変容と終焉|series=[[斎藤正二著作選集]]4|publisher=[[八坂書房]]|ISBN=978-4896947847|page=129}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=中村新太郎|authorlink=中村新太郎|date=1972-01-01|title=日本と中国の二千年〈上〉―人物・文化交流ものがたり|series=|publisher=[[東邦出版社]]|page=53}}</ref><ref>{{Cite news|author=[[浜田耕策]]|date=2005-06|title=4世紀の日韓関係|publisher=[[日韓歴史共同研究]]|newspaper=日韓歴史共同研究報告書(第1期)|url=http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-01-hamada_j.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151018092951/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-01-hamada_j.pdf|format=[[PDF]]|archivedate=2015-10-18|page=6}}</ref>。
[[718年]]に編纂が始められた『[[養老律令]]』においては、教授の際に用いるべき注釈として『論語』の鄭玄注・何妟注が挙げられており、既に大学での教授や官吏登用の際の必読書とされていたことが分かる{{Sfn|湯浅|2012|p=100}}。
[[藤原佐世]]の『[[日本国見在書目録]]』にも、「論語十巻鄭玄注」「論語十巻何晏注」「論語義疏皇侃撰」などが著録されている。『論語集解』は、[[正平 (日本)|正平]]19年([[1364年]])に初めて木版出版され、いっそう普及した{{Sfn|湯浅|2012|p=100}}。
[[江戸時代]]に入ると、[[伊藤仁斎]]や[[荻生徂徠]]らによって優れた注釈が作られ、一部は中国に逆輸入されて受容された{{Sfn|湯浅|2012|pp=100-105}}。また、[[吉田篁墩]]や[[市野迷庵]]のように『論語』や『論語集解』の校勘によって業績を上げた者もいた<ref>古勝隆一『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、P156.</ref>。
=== 西洋 ===
[[カトリック]]布教のために中国に来訪した[[イエズス会]]の[[宣教師]]により、徐々に中国古典の翻訳が試みられるようになった。[[1660年]]、アンドレ・フェランが『大学』と『論語』を[[ラテン語]]に訳し、[[1662年]]に{{仮リンク|プロスペル・イントルチェッタ|en|Prospero Intorcetta}}が[[孔子]]の伝記を附して出版した。[[1687年]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の認可のもと、[[フィリップ・クプレ]]が[[パリ]]で『中国の哲学者孔子』を刊行し『[[孟子 (書物)|孟子]]』を除く「[[四書]]」の翻訳がなされた{{Sfn|井川|2009|pp=29-33}}。さらに、[[1711年]]、[[フランソワ・ノエル]]によって「四書」の完訳がなされ、[[プラハ]]で刊行された{{Sfn|井川|2009|pp=215-219}}。クプレ訳は明の[[張居正]]の解釈によるものであり、ノエル訳は[[朱熹]]と張居正の解釈の両方を受けたものである{{Sfn|井川|2009|pp=215-219}}。
イエズス会士を通じて伝わった古代中国の哲学は、[[17世紀]]から[[18世紀]]には[[シノワズリ]]の一部として流行した。フランスでは[[ヴォルテール]]、[[ディドロ]]、[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]、[[ケネー]]といった[[思想家]]に注目され、[[啓蒙思想]]の発展に寄与した<ref>{{Cite book|title=中国思想のフランス西漸|year=1969|publisher=平凡社東洋文庫|author=[[後藤末雄]]}}</ref>。ドイツでは[[クリスティアン・ヴォルフ]]が[[理神論]]的立場から、[[キリスト教]]が無くても道徳が成立し得る実例として孔子を喧伝した<ref>{{Cite journal|和書|author=後藤正英|year=2000|title=自然的宗教論の再考--現代の比較宗教論にとっての意義|url=http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/2000_27_hikaku_05_goto.pdf|journal=比較思想研究|volume=27|page=37f}}</ref><ref>{{Cite book|title=宋学の西遷―近代啓蒙への道|date=|year=2009|publisher=人文書院|author=井川義次}}</ref>。
一方で[[19世紀]]の[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]は、孔子の教えは哲学ではなく平凡な通俗道徳でしかないと酷評、道徳なら[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]『{{仮リンク|義務について|en|De Officiis}}』の方が優れているとし、イエズス会士の翻訳も原文からかけ離れた意訳であるとした<ref>{{Cite journal|和書|author=井川義次|year=2001|title=十七世紀西洋人による『論語』理解|url=https://hdl.handle.net/20.500.12000/36965|journal=人間科学|volume=8|page=11|publisher=琉球大学法文学部}}</ref>。
=== 解釈の多様性 ===
『論語』の言葉は短く断片的で、読者をしてさまざまな想像を掻き立てるものであり、その解釈は読者の数だけ存在するといえる{{Sfn|福谷|2019|pp=4-9}}。たとえば、橋本秀美は、[[金谷治]]の『論語』解釈が、無意識のうちに、当時の日本社会であるべきとされた知識人の姿と孔子を重ね合わせる場合があることを指摘する{{Sfn|橋本|2009|153-154}}。そして、人々が『論語』を読み『論語』を解釈するのは、あたかも人が鏡を覗き込むようなものであり、その解釈は解釈者自身の心そのものを示していると述べた{{Sfn|橋本|2009|164-167}}。
ここでは、古くから相反する解釈があることで知られる『論語』の章として、子罕篇の「川上の嘆」の一節を具体例として示す{{Sfn|吉川|1978a|pp=307-310}}{{Sfn|福谷|2019|pp=4-9}}{{Sfn|井筒|2019|pp=290-291}}。
{{Quotation|'''子在川上、曰「逝者如斯夫、不舍晝夜。」'''<br />
川のほとりに佇みながら、先生は次のように言われた。「あらゆるものは、これと同じように流れていく、止むことなく、昼も夜も」と{{Sfn|井筒|2019|pp=290-291}}。|『論語』子罕篇}}
この一節に対する漢唐の時代の注釈である「古注」系統の解釈と、宋代以降の「新注」系統の解釈は大きく異なっている。たとえば、後漢の鄭玄は、本節を「川の流れのように時が過ぎ去り、君主に任用されることなく空しく年老いていく我が身の不遇を嘆いたもの」と解釈する{{Sfn|福谷|2019|pp=4-9}}。これは「あらゆるものは移ろい、変化していずれは失われる」という悲しみや儚さを表現するものであり、鄭玄・皇侃・六朝の詩文などでは、この解釈を採用する{{Sfn|吉川|1978a|pp=307-310}}。
一方、新注では「宇宙の運行は川の流れのように止まることないものであり、これと同じように、学問を志す者も常に我が身を振り返るべきだ」との意味に取る{{Sfn|吉川|1978a|pp=307-310}}{{Sfn|福谷|2019|pp=4-9}}。この解釈は、古注とは逆に、力強い自己改革の精神を読み取るもので、[[伊藤仁斎]]の説もこれと一致する{{Sfn|吉川|1978a|pp=307-310}}。この新注の解釈は[[朱子学]]的な色彩の強い解釈ではあるが、古くは『孟子』における議論と内容が一致するものでもあり、その由来は古い{{Efn|『孟子』離婁下「徐子は言った。「孔子はしばしば水に譬えて「水よ、水よ」と言ったそうです。何を譬えたのでしょうか。」孟子は言った。「泉はその源からこんこんと湧き出て、昼も夜も休むことがない。その流れは、窪みがあればまずその穴を満たしたのち、初めて溢れ出して四海に進む。根本があるものはこのようだ、ということを比喩で言い表した。」(徐子曰「仲尼亟稱於水、曰「水哉、水哉」、何取於水也」。孟子曰「原泉混混、不舍昼夜。盈科而後進、放乎四海、有本者如是、是之取爾」。{{Sfn|福谷|2019|pp=4-9}})}}。『孟子』の他に、漢代の[[揚雄]]も同様の解釈を取っている{{Sfn|吉川|1978a|pp=307-310}}。また[[東洋哲学]]の研究者の[[井筒俊彦]]は、この一節から『[[方丈記]]』{{Efn|「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」(『方丈記』本文冒頭)}}に代表される「物事の普遍的な変化」を悲観的に捉える[[仏教]]と、これを楽観的に捉える宋学の対比を読み取っている{{Sfn|井筒|2019|pp=290-291}}。
== 新出文献 ==
[[ファイル:Analects from Dunhuang.jpg|thumb|[[莫高窟]]出土の『論語』]]
[[1906年]]、フランスの[[ポール・ペリオ]]、イギリスの[[オーレル・スタイン]]らの探検隊が、敦煌の千仏洞から[[敦煌文献]]の一つとして鄭玄注『論語』の[[写本]]の一部を発見した。これは南北朝時代から唐代の写本である。また、[[1969年]]にはトルファン地域のアスターナ地区で、再び鄭玄注『論語』が発見された。これは唐の[[景龍 (唐)|景龍]]4年([[710年]])に卜天寿という少年によって書写された本である{{Sfn|湯浅|2012|pp=87-88}}。
[[1973年]]、[[河北省]][[定州市]]の[[前漢]]の中山懐王劉脩の墓から、『論語』の一部が書かれた[[竹簡]]が発見された。劉脩は[[紀元前55年]]に没したため、これより以前のものであることが分かる<ref>{{Cite journal|和書|author=高橋均|year=1999|title=「定州漢墓竹簡『論語』」試探 (一)|url=https://doi.org/10.15068/00150294|journal=中国文化 : 研究と教育|volume=57|page=2}}</ref>。この竹簡に記された『論語』の内容は、現行本との間に異同は多いが、内容は類似しており、現行本の祖本の一つであると考えられる{{Sfn|湯浅|2012|pp=50-51}}。
1990年代の初頭、[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[平壌直轄市]][[楽浪地域]]の領域にある貞柏洞364号墳から、『論語』の一部が書かれた竹簡が発見された<ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=[[李成市]]|year=2015|title=平壌楽浪地区出土『論語』竹簡の歴史的性格|url=https://doi.org/10.15024/00002216|journal=国立歴史民俗博物館研究報告|volume=194|page=201}}</ref>。この出来事は、[[2009年]]頃から国際的に知られるようになった<ref name=":1" />。この墓には[[紀元前45年]]の戸籍簿が副葬されており、前漢の頃には『論語』が辺境地域にまで伝播していたことが明らかになった{{Sfn|湯浅|2012|pp=64-66}}。
[[2016年]]、[[江西省]][[南昌市]]にある遺跡{{仮リンク|海昏侯墓|zh|海昏侯墓|label=}}(前漢の[[劉賀]]の墓)から、漢代当時の『斉論語』と推定される竹簡の断片(『論語』知道篇)が出土した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=1800年前に消えた幻の「論語」、海昏侯墓から出土か―中国|url=https://www.recordchina.co.jp/b149957-s0-c30-d63.html|website=[[Record China]]|date=2016-09-09|accessdate=2020-10-11}}</ref>。
[[2020年]]、注釈書の一つ『[[論語義疏]]』について6〜7世紀初めに中国で書かれたとみられる最古級の写本が日本で見つかった<ref>{{Cite news|url=https://digital.asahi.com/articles/ASN9V5S7FN9HULZU002.html|title=最古級の「論語」写本を発見 中国でも消失、古書店から |newspaper= 朝日新聞デジタル |publisher= 朝日新聞社 |date=2020-09-26|accessdate=2020-09-27}}</ref>。
== 構成 ==
512に区切られる短文・長文が、全10巻20篇の中にまとめられる形で収録されている。前10篇を「上論」、後10篇を「下論」と呼んで区別したりもする。篇の名称は(「子曰」を除く)各篇の[[インキピット|最初の二文字(または三文字)を採ったもの]]であり、章によってはその章の内容のことをいう{{Sfn|湯浅|2012|p=4}}。
* '''巻一'''
** '''学而(がくじ)第一'''
**:「学んで時に之を習う」という孔子の言葉に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。「学」についての記述、孔子の根本思想についての立件が多いため、熟読すると良いと朱熹は言う(集注)。凡そ十六章<ref name="新釈漢文大系1論語">{{Cite book|和書|title=論語|date=1960-05-25|publisher=明治書院|author=吉田賢抗|series=新釈漢文大系|isbn=9784625570018}}</ref><ref name="四書章句集注">{{Cite book|和書|title=四書章句集注|year=2006|publisher=中華書局|author=朱熹|series=新編諸子集成|isbn=978-7-101-08169-5|volume=}}</ref>。
** '''為政(いせい)第二'''
**:「政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て、衆星之に共するが如し」という孔子の徳治論に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。政治についての記述が多いとされる。凡そ二十四章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻二'''
** '''八佾(はちいつ)第三'''
**:孔子が魯の家老の季孫氏の不遜な態度を批判する言葉から始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。礼楽に関する記述が多く、この「八佾」も礼楽の行列の名前である。凡そ二十六章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''里仁(りじん)第四'''
**:「仁に里(お)るを美しと為す」という孔子の言葉に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。「仁徳」に関する記述が多いとされる。朱熹は凡そ二十六章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻三'''
** '''公冶長(こうやちょう)第五'''
**:孔子の弟子の公冶長との問答より始まることから公冶長篇と名付けられたとされる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。名の通り孔子の弟子の公冶長との問答より始まることから公冶長篇と名付けられたとされる。この章の殆ど(最後の三章)が孔子と弟子との問答や人物評価が書かれている。凡そ二十七章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''雍也(ようや)第六'''
**:孔子が弟子の[[冉雍]]を「雍や南面せしむるべし」と絶賛した章に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。人物評論や「仁」と「知」の論が目立つとされる。凡そ二十八章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻四'''
** '''述而(じゅつじ)第七'''
**:「述べて作らず」という孔子の言葉に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。孔子の自身言葉や容態、行動に関した記述が多いとされる。凡そ三十七章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''泰伯(たいはく)第八'''
**:「泰伯は其れ至徳と謂うべきのみ」という孔子の言葉に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。泰伯への称賛から、礼楽など、終盤には聖人などの構成とされる。凡そ二十一章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻五'''
** '''子罕(しかん)第九'''
**:「子、罕(まれ)に利と命と仁とを言う」という章に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。孔子の言行や孔子の出処進退に関する門人の記録が多いとされる。凡そ三十章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''郷党(きょうとう)第十'''
**:郷里における孔子の様子を記す章で構成されている特異な一篇{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。篇首が「孔子」で始まり、「子曰」という記述がないとされる。吉田(1960)は朱熹の集注をもとに十八章に分けた<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻六'''
** '''先進(せんしん)第十一'''
**:「先進の礼楽に於けるや、野人なり」という孔子の言葉に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。門人などの人物評論が多く、孔子が祖国の魯に帰国してからの門人との言行の記述があることから孔子晩年期がわかる。凡そ二十五章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''顔淵(がんえん)第十二'''
**:孔子と門人、君主が「仁」や「政」に関する問答は多く、篇首には[[顔回]]との「仁」についての問答から始まる。凡そ二十四章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻七'''
** '''子路(しろ)第十三'''
**:「子路政を問う」という政治に関する孔子と[[子路]]の問答から始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。前半は政治について、後半は善人や士君子や道徳についての問答が多いとされる。凡そ三十章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''憲問(けんもん)第十四'''
**:「憲、恥を問う」という弟子の原憲が恥について孔子に尋ねる章から始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。この篇首、[[原憲]]が孔子に「恥」について問いたが、これ以降の篇では「原憲」のことを「原思」と字を用いていることからこの篇はは原憲が書いたのではないか,または魯の国で編集したのではないかと吉田(1960)は考察した。凡そ四十六章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻八'''
** '''衛霊公(えいれいこう)第十五'''
**:「衛の霊公、陳(陣)を孔子に問う」という章から始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。この篇は修身出処に関する雑言が多いとされる。凡そ四十一章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''季氏(きし)第十六'''
**:魯の家老である季孫氏が魯の属国を討伐しようとしたことをめぐって、孔子と冉雍・子路が問答を交わす章から始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。この篇は「下論」でも体裁が異なっているとし、「子曰く」とあったところが「孔子曰」となっている。凡そ十四章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻九'''
** '''陽貨(ようか)第十七'''
**:「陽貨孔子を見んと欲す」、季孫氏の家臣の楊貨が孔子を政治に誘おうとする場面から始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。この篇は孔子の出処進退に関する章が数章ある。世の中が衰え、道が行われないことを嘆いたり、当局者や門人に与えた警告も多いとされる。凡そ二十六章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''微子(びし)第十八'''
**:「微子、之を去る」、孔子が殷に三仁ありと論評する章に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。この篇は他の逸民の話が多いが、孔子に関係を持った人達の出処進退などが記されているとされる。凡そ十一章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
* '''巻十'''
** '''子張(しちょう)第十九'''
**:子張の「士は危うきを見ては命を致す」という言葉に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。この篇の大体が孔子の門人たちの言葉のみ記されている。特に高弟の言が多く、孔子に類するような言葉などが多いとされる。凡そ二十五章<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
** '''堯曰(ぎょうえつ)第二十'''
**:「堯曰く、咨(ああ)、爾(なんじ)舜」という堯の言葉に始まる{{Sfn|湯浅|2012|pp=5-12}}。この篇は凡そ三章であるが、聖人の政治や為政者にとっての政治的訓誡、君子の要訣など論語全篇に照応させたように見られると吉田(1960)は言う<ref name="新釈漢文大系1論語" /><ref name="四書章句集注" />。
== 故事成語 ==
『論語』に由来する故事成語には、以下の例がある。
* '''故きを温ねて(たずねて)新しきを知る''' - 為政篇「 子曰、温故而知新」
*: 過去の事跡や先人の知恵に学んで現在の問題を考え、新しい知識や道理を生み出すこと。「温故知新」とも<ref>{{Cite web|和書|title=故きを温ねて新しきを知るとは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%95%85%E3%81%8D%E3%82%92%E6%B8%A9%E3%81%AD%E3%81%A6%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B-376397 |website=コトバンク |access-date=2022-11-16 |language=ja |last=故事成語を知る辞典,ことわざを知る辞典}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=温故知新とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B8%A9%E6%95%85%E7%9F%A5%E6%96%B0-455768 |website=コトバンク |access-date=2022-11-16 |language=ja |first=四字熟語を知る辞典,デジタル大辞泉,精選版 |last=日本国語大辞典,とっさの日本語便利帳}}</ref>。
* '''一を聞いて十を知る''' - 公冶長篇「賜也何敢望回、回也聞一以知十、賜也聞一以知二」
*: 一端を聞いただけで全体を理解すること。理解が早く聡明であること{{Sfn|北原|2002|p=100}}。
* '''牛刀をもって鶏を割く''' - 陽貨篇「割雞焉用牛刀」
*: 小さなことを処理するのに大げさな手段を用いること{{Sfn|北原|2002|p=414}}。
* '''過ちて改めざるをこれ過ちという''' - 衛霊公篇「過而不改、是謂過矣」
*: 過ちを犯しても改めないことこそが、真の過ちである{{Sfn|戸川|佐藤|濱口|2006|p=1419}}。
* '''過ぎたるは猶お及ばざるが如し''' - 先進篇「過猶不及」
*: 適当な程度を超えているのは、不足と同じ。中庸が大切であるたとえ{{Sfn|戸川|佐藤|濱口|2006|p=1419}}。
* '''憤せずんば啓せず''' - 述而篇「不憤不啓、不悱不発、挙一隅不以三隅反、則不復也」
*: 心に理解できなくて、憤り奮い立つほどでなければ、教え導かない。自発的にやろうとしない者には教えない{{Sfn|戸川|佐藤|濱口|2006|p=22}}。
* '''径(こみち)によらず''' - 雍也篇「有澹臺滅明者、行不由径」
*: 小道を通らないで、大道を行く。人生においては近道をしないで、正直にしたがい歩む{{Sfn|戸川|佐藤|濱口|2006|p=22}}。
* '''性相い近し、習い相い遠し''' - 陽貨篇「性相近也、習相遠也」
*: 人間は生まれつきの天性はたいして差がないが、後天的な習慣によって大きく違ってくる{{Sfn|戸川|佐藤|濱口|2006|p=516}}。
* '''徳は孤ならず''' - 里仁篇「徳不孤、必有鄰」
*: 徳のあるものは、決して孤立することはなく、必ず従う者、助ける者がいる{{Sfn|戸川|佐藤|濱口|2006|p=503}}。
* '''和して同ぜず''' - 子路篇「君子和而不同、小人同而不和」
*: 人と仲良く打ち解けても、道理に背いてまで人にへつらわないこと{{Sfn|戸川|佐藤|濱口|2006|p=252}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 脚注 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=金谷治訳注|authorlink=金谷治|date=1999-11|title=論語|series=[[岩波文庫]]|publisher=[[岩波書店]]|isbn=400-3320212}}新訂版(原著1963年)
** 別版{{Citation|和書|author=|date=2001-01|title=論語|series=ワイド版岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=400-0071696}}
* {{Citation|和書|author=吉田賢抗 訳著|authorlink=吉田賢抗|date=1960-05|title=論語|series=[[新釈漢文大系]] 1|publisher=[[明治書院]]|isbn=4-625-57001-8}}
* {{Citation|和書|last=吉川|first=幸次郎|authorlink=吉川幸次郎|year=1978a|title=論語 上|series=[[朝日文庫]] 中国古典選|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=402-2601035}}
* {{Citation|和書|last=吉川|first=幸次郎|year=1978b|title=論語 中|series=朝日文庫 同|publisher=[[朝日新聞]]社|isbn=402-2601043}}
* {{Citation|和書|last=吉川|first=幸次郎|year=1978c|title=論語 下|series=朝日文庫 同|publisher=朝日新聞社|isbn=402-2601051}}
** {{Citation|和書|author=吉川幸次郎|date=1996-10|title=論語 上・下|series=[[朝日選書]] 中国古典選 1001・1002 |publisher=朝日新聞社|isbn=402-2590017}}ISBN 402-2590025
** {{Citation|和書|author=吉川幸次郎|date=2020-10|title=論語 上・下|series=[[角川ソフィア文庫]]|publisher=[[角川学芸出版]]|isbn=404-400627X}}ISBN 404-4006288
** 元版『論語 中国古典選 一・二』[[朝日新聞]]社、1959-63年、新版1965-66年。弟子[[尾崎雄二郎]]が筆記
** 別版{{Cite book|和書|author=|date=1971|title=論語|series=[[世界古典文学全集]] 4|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=4-480-20304-4}}復刊2005年ほか
* {{Citation|和書|last=井川|first=義次|title=宋学の西遷 : 近代啓蒙への道|publisher=[[人文書院]]|year=2009|ISBN=978-4409041000}}
* {{Citation|和書|title=東洋哲学の構造 : [[エラノス会議]]講演集|series=|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|year=2019|chapter=儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元|last=井筒|first=俊彦|authorlink=井筒俊彦|others=[[澤井義次]]・金子奈央・[[古勝隆一]]・[[西村玲]]訳|isbn=978-4-7664-24591}}
* {{Citation|和書|authorlink=|last=影山|first=輝國|year=2016|title=『論語』と孔子の生涯|series=中公叢書|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120048166}}
* {{Citation|和書|last=橋本|first=秀美|year=2009|title=論語-心の鏡|series=書物誕生-あたらしい古典入門|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-028294-9}}
* {{Citation|和書|title=南宋道学の展開|series=プリミエ・コレクション|url=https://www.worldcat.org/oclc/1091896530|publisher=京都大学学術出版会|date=2019|isbn=978-4-8140-02078|oclc=1091896530|first=彬|last=福谷|author=福谷彬}}
* {{Citation|和書|authorlink=湯浅邦弘|last=湯浅|first=邦弘|title=論語:真意を読む|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|year=2012|isbn=978-4121021533}}
=== 辞書 ===
*{{Citation|和書|last=戸川|first=芳郎|last2=佐藤|first2=進|last3=濱口|first3=富士雄|title=全訳漢辞海|publisher=三省堂|year=2006|edition=2|ISBN=9784385140469}}
*{{Citation|和書|last=北原|first=保雄|title=明鏡国語辞典|edition=1|publisher=大修館書店|year=2002|ISBN=4469021067}}
=== 中国語文献 ===
*朱熹『[[四書集注|四書章句集注]]』、[[中華書局]]〈新編諸子集成〉、2006年。{{ISBN2|9787101081695}}
== 関連文献 ==
=== 『論語』の翻訳 ===
* {{Cite book|和書|author=井波律子|authorlink=井波律子|date=2016-6|title=完訳 論語|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-061116-9}}
* {{Cite book|和書|author=宇野哲人|authorlink=宇野哲人|date=1980-01|title=論語新釈|series=[[講談社学術文庫]]|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-158451-0}}
**別版『論語 上・下』[[明徳出版社]]〈中国古典新書〉、新装版2010年
* {{Cite book|和書|others=[[貝塚茂樹]]訳注|edition=改版2020年3月(原著1973年7月)|title=論語|series=[[中公文庫]]|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-206848-7}}
** {{Cite book|和書|others=貝塚茂樹訳|date=2002-12|title=論語 Ⅰ|series=[[中公クラシックス]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-160043-6}}
** {{Cite book|和書|others=貝塚茂樹訳|date=2003-02|title=論語 Ⅱ|series=中公クラシックス|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-160048-7}}
* {{Cite book|和書|others=[[加地伸行]]全訳注|date=2009-09|edition=増補版(原著2004年3月)|title=論語|publisher=講談社学術文庫|isbn=4-06-291962-1}}
* {{Cite book|和書|author=[[下村湖人]]|date=2022-06|title=現代訳 論語|publisher=興陽館|isbn=978-4-87723-292-4}}新版再刊、原文完全対訳。
* {{Cite book|和書|author=[[土田健次郎]]訳注 |date=2023-11|title=論語|publisher=筑摩書房|series=[[ちくま学芸文庫]]|isbn=978-4-480-51195-9}}
* {{Cite book|和書|author=穂積重遠|authorlink=穂積重遠|date=1981-08|title=新訳 論語|series=講談社学術文庫|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-158549-5}}
* {{Cite book|和書|author=宮崎市定|authorlink=宮崎市定|date=2000-05|title=現代語訳 論語|series=[[岩波現代文庫]]|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-600017-0}}
** {{Cite book|和書|date=1993-08|title=論語の新研究 宮崎市定全集 第4巻|publisher=岩波書店|isbn=4-00-091674-2}}(初刊・岩波書店、1974年6月)
===『論語』の注釈の訳注 ===
* {{Cite book|和書|author=荻生徂徠|authorlink=荻生徂徠|others=[[小川環樹]]訳注|year=1994|title=論語徴 1|publisher=[[平凡社]]|series=東洋文庫|isbn=4582805752}}ワイド版2009年
* {{Cite book|和書|author=荻生徂徠|others=小川環樹訳注|date=1994|title=論語徴 2|publisher=平凡社|series=東洋文庫|isbn=4582805760}}ワイド版2009年
** 元版『荻生徂徠全集 3・4 経学』[[みすず書房]]、1977-78年。原文収録
* [[朱熹]]『[[論語集注]]』全4巻、[[土田健次郎]]訳注、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社〈東洋文庫〉]]、2013-2015年
*『論語 [[朱熹]]の本文訳と別解』 石本道明・青木洋司訳著、明徳出版社、2017年12月
* [[子安宣邦]]『仁斎論語 『論語古義』現代語訳と評釈』上・下、[[ぺりかん社]]、2017年12月
*『[[伊藤仁斎]]「論語古義」 [[日本の名著]]13』 [[貝塚茂樹]]責任編集、中央公論社(初版1972年)- 現代語訳(2段組み表記)収録。
* 渡邉義浩主編『全譯 論語集解』上・下、[[汲古書院]]、2020年5月-9月
* [[渡邉義浩]]訳『[[論語集解]] 魏・[[何晏]]〈集解〉』上・下、[[早稲田大学]]出版部〈早稲田文庫〉、2021年12月 - ※上記の文庫普及版
=== 概説書・専門書 ===
*{{Cite book|和書|author=荒川健作|date=2007-06|title=論語大成 全訳 最高の徳「中庸」とは何か?|publisher=三恵社|isbn=978-4-88361-552-0}}
*{{Cite book|和書|author=簡野道明|authorlink=簡野道明|date=2003-02|title=補註 論語集註|publisher=明治書院|isbn=4-625-73301-4}}新版再刊
*{{Cite book|和書|author=加地伸行|date=2009-03|title=「論語」再説|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-205136-2}}新版再刊
*{{Cite book|和書|author=武内義雄|authorlink=武内義雄|year=1939|title=論語之研究|publisher=岩波書店}}
**{{Cite book|和書|author=武内義雄|date=1978-07|title=武内義雄全集 第1巻|publisher=[[角川書店]]}}
*{{Cite book|和書|author=津田左右吉|authorlink=津田左右吉|year=1946|title=論語と孔子の思想|publisher=岩波書店}}
**{{Cite book|和書|author=津田左右吉|date=1987-10|title=津田左右吉全集 第14巻|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-091124-5}}
*{{Cite book|和書|author=宮崎市定|others=[[礪波護]] 編・解説|date=2000-07|title=論語の新しい読み方|series=[[岩波現代文庫]]|publisher=岩波書店|isbn=4-00-600022-7}}新版再刊
*{{Cite book|和書|author=安岡正篤|authorlink=安岡正篤|date=2002-10|title=論語に学ぶ|series=PHP文庫|publisher=PHP研究所|isbn=4-569-57813-6}}新版再刊
*{{Cite book|和書|author=吉川幸次郎|authorlink=吉川幸次郎|date=2008-01|title=「論語」の話|series=[[ちくま学芸文庫]]|publisher=筑摩書房|isbn=978-4480091215}}新版再刊
*{{Cite book|和書|title=論語 孔子の言葉はいかにつくられたか|author=渡邉義浩|authorlink=渡邉義浩|year=2021|publisher=講談社選書メチエ|ISBN=978-4065223796}}
*{{Cite book|和書|title=『論語』の形成と古注の展開|author=渡邉義浩|year=2021|publisher=[[汲古書院]]|ISBN=978-4-7629-6672-9}}
**「孔子は易を読んだのか」
**「『論語』の成立過程と定州『論語』」
**「儒教に見る形と心」等、従来の学説を覆す『三国志』研究の権威・渡邉史学の核心を成す『論語』研究。
==== 入門書 ====
*{{Cite book|和書|author=狩野直禎|authorlink=狩野直禎|date=2001-07|title=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] 論語|publisher=ナツメ社|isbn=4-8163-3046-1}}
*{{Cite book|和書|author=呉智英|authorlink=呉智英|date=2015-08|title=現代人の論語|series=[[ちくま文庫]]|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-43254-4}}新版再刊
*{{Cite book|和書|author=齋藤孝|authorlink=齋藤孝 (教育学者)|date=2016-10|title=論語|series=ちくま文庫|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-43386-2}}新版再刊
*{{Cite book|和書|author=陳舜臣|authorlink=陳舜臣|date=2009-08|title=論語抄|series=中公文庫|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-205189-8}}新版再刊
*{{Cite book|和書|author=三谷幸広・竹内貴久雄|date=2014年4月1日 -|title=[[論語くん]]|publisher=毎日小学生新聞|isbn=978-4-620-32313-8}}
*{{Cite book|和書|author=緑川佑介|date=2007-02|title=孔子の一生と論語|publisher=明治書院|isbn=978-4-625-68403-6}}総ルビ付き。
== 『論語』を題材にした作品 ==
'''小説'''
* [[古林青史]] 『宰予 一 孔子から不仁な者と呼ばれた弟子の物語』 [[埼玉新聞社]]、[[2021年]]、ISBN 978-4-87889-528-9
== 関連項目 ==
{{Wikiquote|孔子|論語}}
{{Wikisource|論語}}
{{wikisourcelang|zh|论语|論語}}
{{Wikibooks|論語}}
{{Wiktionary|カテゴリ:由来 論語}}
* [[論語の注釈]]
* [[儒教]]、[[経学]]
**[[日本の儒教]]
* [[孔門十哲]] - 孔子の弟子の中で特に優秀とされる十人
* [[儒学者]]
* [[道徳]]
** [[道徳教育]]
** [[修身]]
* [[諸子百家]]
== 外部リンク ==
* [http://ctext.org/analects/zh 論語全文]{{Zh-smpl icon}}・{{Zh-hk icon}}・{{En icon}}の表示変換ができる
* {{国立国会図書館デジタルコレクション|954020|論語年譜|format=EXTERNAL}}
{{儒家経書}}
{{経書と注釈書}}
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[[Category:論語|*]]
[[Category:紀元前1千年紀の書籍]]
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[[Category:政治書]]
[[Category:政治思想書]]
[[Category:古代哲学の文献]]
[[Category:孔子]] | 2003-02-15T13:11:52Z | 2023-12-12T06:08:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E |
1,809 | カードゲーム | カードゲーム(Card Game)は、広義にはカードを使って行うゲームの総称。狭義にはいわゆるトランプを使ったゲームのこと。歴史的には麻雀やドミノなどのタイル(牌)を使うゲーム(タイルゲーム)と起源を同じくしており、タイルゲーム・カードゲームは手札(手牌)という要素によって、囲碁、リバーシ、将棋といったボードゲームと区別される。以下では、タイルゲームを除くカードゲームについて解説する。
ヨーロッパにこの種のゲームが現れたのは、14世紀のイタリアではないかと推測されている。その後、遊びの範囲を広くするため、ある特定のゲームを遊びやすくするため、今までの形式とは違った遊びをするため等の理由で専門のカードデッキが生まれた。
1993年発売のマジック:ザ・ギャザリングの流行以降、個人ごとに決められた範囲内で自由にカードデッキを作り、その内容を元に勝負に臨むトレーディングカードゲームが生まれ、独自の分化が築かれている。
カードゲームは大別して、1人で遊ぶもの(ソリティア)と、2人以上で遊ぶものに分けられる。また2人用のゲームは3人以上のゲームとくらべて特殊な構造をしていることが多い。たとえばすべてのカードを手札として配ってしまうと、2人の場合は相手が何を持っているのかが完全にわかってしまうので、カードの一部を配らないなどの工夫が必要になる。
3人以上のゲームでは、中心になる競技者(あるいは競技者のチーム)に対して、それ以外の競技者が協力して対抗するゲームと、各競技者がそれぞれ独立して戦うゲーム(カットスロート)がある。
4人以上のゲームでは、複数の競技者がチームを組んで競技するゲームもある。4人では向かい合った2人ずつが固定したチームを組み、5人では中心になるひとりの競技者がパートナーを指名するなどの方法が一般的に行われる。
多くのゲームではカードを各競技者に配る。カジノゲームなど、誰が配るかがあらかじめ決まっていることもあるが、何らかの方法でゲーム参加者の中からディーラー(配り手)を決める必要がある場合も多い。ディーラーはじゃんけんなどで決めることも可能だが、より本格的には、カットによる方法が用いられる。すなわち、カードを裏向きに積んであるカードを、各競技者が適当なところで上下に二分し、その上半分の一番下のカードを見せてから元に戻す。一番高い(ゲームによっては一番低い)ランクのカードを選んだ競技者がディーラーになる。複数の競技者が同じランクのカードを選んだ場合は、該当する競技者だけでもう一度カットを行う。
ディーラーをこの方法で決定しなければならないのは最初の一回だけで、以降はディーラーが順番に次の競技者に移動するのが普通である。
通常はディーラーはカードをシャッフルし、ディーラー以外の競技者がカットしてからカードを配る。ゲームによってはシャッフルを禁止しているものや、配り方が細かく定められているものもある。
カードゲームではしばしば各競技者が(あるいは各競技者に対して)順番にある行動をする場合がある(カードを1枚ずつ出すなど)。このとき、最初に行動した競技者から見て左へ左へと行われるのを「時計回り(または右回り)」といい、逆に右へ右へと行われるのを「反時計回り(または左回り)」という。
アジアでは全般的に反時計回りが多い。日本では時計回りはしばしば「泥棒回り」と言って嫌われる。
これに対して、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアなどでは時計回りが多い。同じヨーロッパでもイタリア・スペイン・ポルトガル・スイス・バルカン半島などでは反時計回りが多い。北アメリカとオーストラリア・ニュージーランドでは時計回り、ラテンアメリカでは反時計回りが普通である。近代の日本は時計回りの国の影響が強かったため、トランプの場合は時計回りに競技することも多い。 | [
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] | カードゲームは、広義にはカードを使って行うゲームの総称。狭義にはいわゆるトランプを使ったゲームのこと。歴史的には麻雀やドミノなどのタイル(牌)を使うゲーム(タイルゲーム)と起源を同じくしており、タイルゲーム・カードゲームは手札(手牌)という要素によって、囲碁、リバーシ、将棋といったボードゲームと区別される。以下では、タイルゲームを除くカードゲームについて解説する。 ヨーロッパにこの種のゲームが現れたのは、14世紀のイタリアではないかと推測されている。その後、遊びの範囲を広くするため、ある特定のゲームを遊びやすくするため、今までの形式とは違った遊びをするため等の理由で専門のカードデッキが生まれた。 1993年発売のマジック:ザ・ギャザリングの流行以降、個人ごとに決められた範囲内で自由にカードデッキを作り、その内容を元に勝負に臨むトレーディングカードゲームが生まれ、独自の分化が築かれている。 | {{出典の明記|date=2023年3月}}
[[ファイル:Playing uta garuta.jpg|thumb|250px|[[かるた]]をする女性ら(1900年頃)]]
[[ファイル:Magic_The_Gathering_players.JPG|thumb|250px|[[マジック:ザ・ギャザリング]]のプレイ風景]]
'''カードゲーム'''(Card Game)は、広義には[[カード]]を使って行う[[ゲーム]]の総称。狭義にはいわゆる[[トランプ]]を使ったゲームのこと。歴史的には[[麻雀]]や[[ドミノ]]などのタイル(牌)を使うゲーム([[タイルゲーム]])と起源を同じくしており、タイルゲーム・カードゲームは手札(手牌)という要素によって、[[囲碁]]、[[オセロ (ボードゲーム)|リバーシ]]、[[将棋]]といった[[ボードゲーム]]と区別される<ref name="masukawa1978">{{Cite book |author=増川宏一 |title=盤上遊戯 |publisher=法政大学出版 |series=ものと人間の文化史 29 |year=1978}}</ref>。以下では、タイルゲームを除くカードゲームについて解説する。
ヨーロッパにこの種のゲームが現れたのは、14世紀の[[イタリア]]ではないかと推測されている。その後、遊びの範囲を広くするため、ある特定のゲームを遊びやすくするため、今までの形式とは違った遊びをするため等の理由で専門のカード[[デッキ]]が生まれた。
1993年発売の[[マジック:ザ・ギャザリング]]の流行以降、個人ごとに決められた範囲内で自由にカード[[デッキ]]を作り、その内容を元に勝負に臨む[[トレーディングカードゲーム]]が生まれ、独自の分化が築かれている。
== 方式 ==
=== 人数 ===
カードゲームは大別して、1人で遊ぶもの([[ソリティア]])と、2人以上で遊ぶものに分けられる。また2人用のゲームは3人以上のゲームとくらべて特殊な構造をしていることが多い。たとえばすべてのカードを手札として配ってしまうと、2人の場合は相手が何を持っているのかが完全にわかってしまうので、カードの一部を配らないなどの工夫が必要になる。
3人以上のゲームでは、中心になる競技者(あるいは競技者のチーム)に対して、それ以外の競技者が協力して対抗するゲームと、各競技者がそれぞれ独立して戦うゲーム([[トランプ用語一覧#カットスロート|カットスロート]])がある。
4人以上のゲームでは、複数の競技者がチームを組んで競技するゲームもある。4人では向かい合った2人ずつが固定したチームを組み、5人では中心になるひとりの競技者がパートナーを指名するなどの方法が一般的に行われる。
=== カードを配る ===
多くのゲームではカードを各競技者に配る。カジノゲームなど、誰が配るかがあらかじめ決まっていることもあるが、何らかの方法でゲーム参加者の中からディーラー(配り手)を決める必要がある場合も多い。ディーラーは[[じゃんけん]]などで決めることも可能だが、より本格的には、カットによる方法が用いられる。すなわち、カードを裏向きに積んであるカードを、各競技者が適当なところで上下に二分し、その上半分の一番下のカードを見せてから元に戻す。一番高い(ゲームによっては一番低い)ランクのカードを選んだ競技者がディーラーになる。複数の競技者が同じランクのカードを選んだ場合は、該当する競技者だけでもう一度カットを行う。
ディーラーをこの方法で決定しなければならないのは最初の一回だけで、以降はディーラーが順番に次の競技者に移動するのが普通である。
通常はディーラーはカードを[[シャッフル (カード)|シャッフル]]し、ディーラー以外の競技者がカットしてからカードを配る。ゲームによってはシャッフルを禁止しているものや、配り方が細かく定められているものもある。
=== 競技方向 ===
カードゲームではしばしば各競技者が(あるいは各競技者に対して)順番にある行動をする場合がある(カードを1枚ずつ出すなど)。このとき、最初に行動した競技者から見て左へ左へと行われるのを「時計回り(または右回り)」といい、逆に右へ右へと行われるのを「反時計回り(または左回り)」という。
[[アジア]]では全般的に反時計回りが多い。日本では時計回りはしばしば「泥棒回り」と言って嫌われる。
これに対して、[[イギリス]]・[[フランス]]・[[ドイツ]]・[[ロシア]]などでは時計回りが多い。同じヨーロッパでも[[イタリア]]・[[スペイン]]・[[ポルトガル]]・[[スイス]]・[[バルカン半島]]などでは反時計回りが多い。北アメリカとオーストラリア・ニュージーランドでは時計回り、ラテンアメリカでは反時計回りが普通である。近代の日本は時計回りの国の影響が強かったため、トランプの場合は時計回りに競技することも多い。
== トランプゲーム ==
{{Multicol}}
{{see also|Category:トランプ}}
* [[ポーカー]]
* [[アルカナ40]]
* [[コントラクトブリッジ]]
* [[ジン・ラミー]]
* [[スペード (トランプゲーム)|スペード]]
* [[ナポレオン (日本のトランプゲーム)|ナポレオン]]
* [[ババ抜き]]
* [[7並べ]]
* [[セブンブリッジ]]
{{Multicol-break}}
* [[神経衰弱 (トランプゲーム)|神経衰弱]]
* [[ダウト]]
* [[ページワン]]
* [[大富豪]](大貧民)
* [[ゴニンカン]]
* [[ツーテンジャック]]
* [[ハーツ (トランプゲーム)|ハーツ]]
* [[ブラックジャック]]
* [[51 (トランプゲーム)|51]]
* [[フリーセル]]
{{Multicol-end}}
== 専用カードゲーム ==
<!--トレーディングカードゲームは一種の専用カードゲームだが、次節に記載する-->
{{Multicol}}
=== ア行 ===
* アイバンホ
* [[悪代官 (カードゲーム)|悪代官]]
* [[:en:Up Front (game)|Up Front]]
* [[アップルトゥアップル]]
* [[あやつり人形 (カードゲーム)|あやつり人形]]
* アルゴ
* [[イコールカード]]
* インカの黄金
* [[ウィザード (カードゲーム)|ウィザード]]
* [[UNO (ゲーム)|UNO]]
* [[うんすんカルタ]]
* [[お邪魔者]]
* [[O'NO 99]]
* [[俺のケツをなめろ!]]
=== カ行 ===
* [[かるた]]
** [[百人一首]]
** [[上毛かるた]]
** 幻聴妄想かるた
* キングス・コート
* クーハンデル
* クク
* グラス
* [[クロノノーツ]]
* [[ごきぶりサラダ]]
* [[ごきぶりスープ]]
* [[ごきぶりポーカー]]
* コヨーテ
* [[コロレット]]
* コンチェルト・グロッソ、うさぎのコンサート
=== サ行 ===
* [[三国殺]]
* [[サンファン (カードゲーム)|サンファン]]
* [[シェフィ]]
* [[水道管ゲーム]]
* [[スティッヒルン]]
* そっとおやすみ
* STUN
* SUPER大戦略
* [[セット (カードゲーム)|セット]]
* [[XENO (カードゲーム)|XENO]]
* ゼロ
=== タ行 ===
* ダイナマイト・ナース
* [[たった今考えたプロポーズの言葉を君に捧ぐよ。]]
* 「たべちゃうぞ!!」陸のなかまたち
* 「たべちゃうぞ!!」海のなかまたち
* [[タロット #ゲームとしての現在のタロット|タロット]]
* [[ディクシット]]
* 電車でGOゲーム
* ドブル
* [[ドミニオン (カードゲーム)|ドミニオン]]
=== ナ行 ===
* ナンジャモンジャ
* [[ニムト]]
* [[ノイ]]
{{Multicol-break}}
=== ハ行 ===
* [[はぁって言うゲーム]]
* バカカード
* [[ハゲタカのえじき]]
* バケツくずし
* バトルライン
* [[花札]]
* ハリガリ、ハリガリジュニア
* [[バーンレート (カードゲーム)|バーンレート]]
* ビッグチーズ
* [[ぴっぐテン]]
* [[ピット (カードゲーム)|ピット]]
* [[ピラミッド・カードゲーム]]
* [[ブクブク]]
* [[フラックス (ゲーム)|フラックス]]
* フリンケピンケ
* フロカティサーカス
* [[プロ野球ゲーム]]
* ペンギンパーティー
* [[ボーナンザ]]
* 北海道旅人ゲーム
=== マ行 ===
* [[マンチキン (カードゲーム)|マンチキン]]
* マンマミーア!
* [[ミールボーンズ]]
* [[迷宮キングダム#関連ゲーム|迷宮コンクエスト]]
* [[迷宮キングダム#関連ゲーム|迷宮牧場の決闘]]
* [[モンスターメーカー]]
=== ラ行 ===
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1,810 | 孟子 | 孟子(もうし、簡体字: 孟子、拼音: Mèngzǐ、紀元前372年? - 紀元前289年?)は、中国戦国時代の儒学思想家。姓は孟、諱は軻、字は子輿と伝わる。「子」は先生という意味で尊称で、後世に亞聖とも称される。孔子の孫である子思の門人に学業を受けたとされ、朱子学では孔子に次いで重要な人物とされる。そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。
言行は『孟子』に纏められている。性善説を主張し、仁義と民本による王道政治を目指した。
孟子は鄒国(現在の山東省済寧市鄒城市)の人で、その母が孟子を育てた時の話が有名である。最初は墓地の近くに住んでいたが、やがて孟子が葬式の真似事を始めたので母は家を移した。移った所は市場の近くで、やがて孟子が商人の真似事を始めたので母は再び家を移した。次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心したという。この話は孟母三遷として知られ、史実ではないとされているが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出され、鄒城市には孟母三遷祠が建てられている。孟子の母は、他にも孟母断機の故事で知られている。孟子が学業を途中で辞めて家に帰って来たとき、母はちょうど機を織っていたが、その織物を刀で切断し「お前が学問を途中で辞めるのは私が織物を断ち切るのと同じことだ」と言って諫めた。孟子は再び勉学に励んだ。以上の話は漢代の『韓詩外伝』巻9や『列女伝』巻1に見える伝説である。
『史記』孟子荀卿列伝によれば、孟子は孔子の孫である子思の門人に学んだ。子思に直接学んだという説もあるが、年代が合っていない。
彼は、自分のことを王の師匠であり、賓客である、と考えていたので、遊歴するときには数十台の車と数百人の従者を従えていた。諸侯と同等である、というプライドを持っていたのである。
かつて魏の恵王が秦や斉に奪われた土地を回復する方法を孟子に質問した時、孟子は仁者無敵を説いた。それは、国土は小さくても、仁政を施せば、誰にも負けない、ということである。仁政とは、刑罰を簡単にして、税を軽くし、丁寧に耕作して、若者には孝悌忠信の道徳教育を行うことである。そのような仁政を受けた民は、戦いでも勇敢で、仁政のない国の民は、主君に協力せず背いたりもする。ゆえに、仁者無敵である、というのである。
論語に載せられている孔子の弟子の有子の言葉とされているものに、
がある。孝とは親に対する愛情、弟とは兄に対する尊敬のことである。
という言葉が『孟子「離婁篇」』にある。これは、孔子の説いた仁を拡大した孟子の説く仁義のことを示している。孟子は自分のことを孔子の正統な継承者だと自負していた。
その後、恵王が死んでその子の襄王が即位すると、孟子はこの襄王を
と評していたため、失望して斉に行った。斉では宣王が即位していた。ここでも孟子は国士扱いを望み、好きに論争するだけで給料のもらえる稷下の学士と同等にされたくない、というプライドがあった。
と『孟子「萬章伝」』にある。門番から夜警に至るまで、皆定職があって給料をもらっているのに、定職もないのに給料をもらうのは、人生に対して真面目な態度とは言えない、と主張した。故、宣王に呼び出されて参内することを拒否して宣王自ら来てほしいと要請して、自分が王宮に行くのは何か進言したいことができたときだけ、ということにした。孟子は自分のことを「所不召之臣(召さざる所の臣)」と思っていた。
と述べている。管仲は桓公を補佐して春秋の覇者にした人物である。桓公は管仲のことを決して呼びつけにしなかった。そして、管仲すら、と述べていることで、孟子は自分を管仲や殷の湯王を補佐して湯王にも呼びつけにされなかった伊尹以上の人物であると確信していた。
とある日、宣王が孟子に向い、殷の臣であった武王が主君である殷の紂王を伐って周を打ち立てたことについて、質問した。すると、孟子は
と答えた。これの意味は、
「仁を失った者は賊であり、義を失った者は残であり、仁義を失った者は君主である資格がなく、残賊、つまり、ただの男である。ただの男の紂を殺したとは言えても、君主である王を殺したとは言えない。」
ということである。要するに、これほど君主の位は軽い、と言いたいのである。
また、宣王が卿の態度を質問した時、孟子は、王室と関係がある貴戚の卿と、王室と関係のない異姓の卿では、王に対する態度も違う、と言った。まず、貴戚の卿は、
と説いた。つまり、
「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、追放して別の君主に変える。」
ということである。貴戚の卿は、君主と血がつながっているので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておけないので王族の中から仁義にかなうものを選ぶ必要がある。これを聞いて宣王は驚いて顔色を変えたが、孟子は過度のますらおであり、自分の発言に王がどんなに顔色を変えても堂々としていた。自分の思想を全く疑わずに説くのである。次に、異姓の卿は
と説いた。つまり、
「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、その君主の下を去っていく。」
ということである。異姓の卿は、君主と血がつながっていないので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておいてその君主の下を離れる。戦国時代の君臣関係は極めて自由であり、自分の出身地に仕えないことはもちろん、数国に仕えることもある。この際も、君主の廃立など考えずに気に入った国に仕官する、といったことを基にして発言している。
しかし、孟子が斉に仕えてから七、八年か経つと、宣王は病気を理由に孟子の家に使者を派遣して
「あなたと話したいことがありますが、運悪く風邪のためそちらに行けません。いかがですか?あなたの方から来てはいただけないでしょうか?」
と伝えて呼び出そうとした。しかし、孟子も病気という口実で拒否した。
たった今、参内しようとしていたのに、仮病を使って拒否した。「召さざる所の臣」である孟子はこのような事情でも行くわけには行かない。翌日、東郭氏に不幸なことがあったので、家まで行って弔問することにした。それに対して弟子の公孫丑が
「昨日、病気を理由に参内を断ったのに、今日改めて外出するのはいかがなるものでしょうか? およしなさい」
と出掛けないことを勧めたが、孟子は
「昨日は病気だったが今日は治った。行かなければ」
と言って行ってしまった。そのようなことで自分の行動を制限されることを孟子は良しとしない。ところが孟子が出かけている間、宣王が病気見舞いの使者と医師を派遣してきたので、家で留守番をしていた弟子の孟仲子は慌てて、先程少し調子が良くなりまして、参内に参りました、とその場を取り繕った。そして、孟子の通りそうな場所に使者を派遣して、どうかご帰宅せずに、そのまま参内して下さい、と伝えた。それを聞いた孟子は、帰宅も参内もしないで友人の景丑の家に泊まった。景丑は王命に従わなかった孟子を非難した。これによって、孟子と宣王の関係がしっくりこなくなった。孟子はこの事件によって、斉を立ち去る気持ちを固めた。その後、とうとう孟子は斉を去ることにした。それを聞いた宣王は急いで孟子の家まで出向き、また会えるでしょうか? と聞いた。それに対して孟子は
と答えた。
「また会いたいと、こちらからは望みませんが、王とお会いするのは私としても嫌ではありません」
それで、宣王はまだ希望がある、と思った。数百人もの稷下の学士を抱えている宣王にしても、孟子のその激しい理想主義には辟易するが、現実的な政策で役に立ちそうではないとしても、この優れた人物を他国に持っていかれることも残念だと思った。そこで、孟子の弟子の陳子を通じて
「都心の大邸宅を与え、門弟養成のために一万鍾の俸禄を支給し、大臣をはじめ廷臣たちに孟子を尊敬させるようにする」
と伝えた。鍾は穀物を図る単位で、約五十リットルだと言われている。当時の一万鍾は、通説によれば、日本の江戸時代の禄高で千五百石足らずだという。しかし、孟子にはこれが少額だったと見え、
と断った。これは
「もし私の力で国を興したければ、十万鍾の俸禄を約束するべきです。私はそれを辞退して、一万鍾を受けましょう。これでは私のことを、冨貴を願っている、とは言えないはずです。」
という意味である。
と孟子は言った。
「昔、市では物々交換によって、お互いの納得する交易を行って、生活に必要な物を手に入れる場所でした。ところが、卑しい欲張りがいて、壟断(切り立ったような高い位置)に登って左右を見まわしたのです。普通は地面に自分の売り物を並べて交換するのですが、高所から見ると、良い物を売っている人をいち早く発見できます。そのような連中は、生活に必要な物を仕入れに来たのではなく、営利を上げるために来ているのです。何と嫌らしいことかと人々がこれを非難し、政府もこれに征(税のこと)を掛けることにしたのです。」
という意味だ。つまり、孟子は、自分はこんな卑しい欲張りではない、と言いたいのだ。「利益を壟断する」という用法はここからきている。
そして、孟子はいよいよ斉を去る旅に出た。その折、孟子は昼という場所に三日も留まった。一度宣王の申し出をきっぱりと断っておきながら、まるで宣王の使いが来るのを待つかのようにゆっくり進むことが、孟子の評判を下げたようであった。斉の尹子と言う人物は孟子に憧れており、自分のことをますらおだと自負していた。だからこそ、昼に三日も逗留した、という話を聞いて、大きく失望した。
「俺は孟子を見損なった。面白くもない」
と尹子は言った。その話を弟子の高子から聞いた孟子は
「尹子という者は、俺を理解できていないのだ」
と言った。そして、
と言った。
「三日で昼を出たのは早すぎるくらいだ。もしも宣王があの後思い直して使者を送ってくれば、私は喜んで引き返す。すると、斉の民は豊かになる。もしも、あの後使者が来なくても、私は宣王を捨てない。それを考えると、王の使者が来るのが待ちどうしい」
という意味である。それを聞いた尹子は
と嘆いた。
孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物を適切に扱うことである。
孟子はその時代までにいた全ての君主を「王者」と「覇者」として、それらが行った政治を「王道」と「覇道」として分類した。
孟子によれば、覇者とは武力によって一時的な仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの、「五覇は三王(夏の禹、殷の天乙、周の文王または武王)の罪人(出来損ない)なり。諸侯は五覇の罪人なり。大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて当時群雄割拠していた諸侯たちを批判し、古の堯・舜や三王が行ったような「先王の道」(王道政治)に回帰すべきと唱えた。
孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いた。王道によって自国の人民だけでなく、他国の人民からも王者と仰がれるようになれば諸侯もこれを侵略することはできないという。
梁の恵王から利益によって国を強くする方法について問われると、孟子は、君主は利益でなく仁義によって国を治めるべきであり、そうすれば小国であっても大国に負けることはないと説いた。孟子によれば、天下を得るためには民を得ればよく、民を得るためにはその心を得ればよい。では民の心を得るための方法は何かといえば、それは民に利するものを与え、民に害するものを押し付けないことである。民は安心した暮らしを求め、人を殺したり殺されたりすることを嫌うため、もし王者が仁政を行えば天下の民は誰も敵対しようとせず、それどころか自分の父母のように仰ぎ慕うようになるという。故に孟子は「仁者敵無し」(梁恵王章句上)と言い、また「天下に敵無き者は天吏(天の使い)なり。然(かくのごと)くにして王たらざる者は、未だ之(これ)有らざるなり」(公孫丑章句上)と言ったのである。
孟子によれば、僅か百里四方の小国の君主でも天下の王者となることができる。覇者の事績について斉の宣王から問われたときも、孟子は、君主は覇道でなく王道を行うべきであり、そうすれば天下の役人は皆王の朝廷に仕えたがり、農夫は皆王の田野を耕したがり、商人は皆王の市場で商売したがり、旅人は皆王の領内を通行したがり、自国の君主を憎む者は皆王のもとへ訴えたがるだろう。そうなれば誰も王を止めることはできない、と答えている。もちろん農夫からは農業税、商人からは商業税、旅人からは通行税を得て国は豊かになり、また人民も生活が保障されてはじめて孝悌忠信を教え込むことができるようになる。孟子の民本思想はその経済思想とも密接に関連している。
しかし、これは当時としては非常に急進的な主張であり、当時の君主たちに孟子の思想が受け入れられない原因となった。孟子は「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)、つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分たちの地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。
当時の有名な思想家の一人である告子は、人の行動は川の水が堤防の決壊がいずれの方向でも起こりうるように、原理がなく予測不可能なものである。人の行動がそれぞれの時代において大きく異なるように見えるのも、国の頂点に立つ統治者による影響であり、たまたま文王や武王のような善人が即位したゆえ正義を信じて団結し、たまたま厲王や幽王のような悪人が即位したゆえ道徳を無視して乱暴を働くようになっただけにすぎない。すなわち人間の心には生まれながらして持った共通な性質(本性)なるものは存在しない(あるいは知り得ない)と唱えた。
「水信まことに東西とうざいを分つこと無し。上下を分つこと無からんや。(川の水は堤防を越えて東西に流れることがあっても、地面を括り抜いて地下に流れることはないのではないか)」
孟子はこのように反論した。人の行動は確かに様々であって統一性のある原理がないように見えるが、それらはあくまで立場や周りの影響(外物)による一時的なものにすぎない。人間には「本性」なるものが存在するのである。
井戸に転び堕ちそうになった子供を見て、誰もが思わずに助けようとするのは、子供の父母から財貨を得るためでもなければ、社会で良い名声を得るためでもない。人間は誰しも利他的な行為を良しとする生来の性質(善)を備わっている。かつての聖王であろうと小人であろうと、その本性には本質的な違いはなく、利己的な行為に走るのは天災や人害など外界の脅威(外物)から身を守るために元々の善性を手放せざるを得なくなってしまったゆえである。
そのため孟子は、「大人とは其の赤子の心を失わざる者なり(徳に優れた人というのは赤子のような純粋な心を保ちつづける人である)」、「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ(学問とは他でない、失われてしまった純粋な心を取り戻すのみである」とも主張した。
孟子の対立思想として、荀子の性悪説が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(社会性を持たない動物)同然の存在だと言ったように、人間を持つ善性を絶対的に肯定していたわけではない。また、それゆえに学問を深め道徳を身につけた君子は人民を指導する資格があるとする。一方、荀子は人間の本性とは無限なる欲望であり、欲望に従順なままでは他人を思いやることも譲り合って争いを避けることもできない。そのため学問や礼儀といった「偽」(こしらえもの、人為の意)を身に付けるようになり、それらの後天的な努力によって公共善に向うことができると主張した。
教育を通じて良き徳を身に付けると説く点では、実に両者とも同じであり、「人間の持つ可能性への信頼」がそれらの思想の根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な唯心主義であったに対して、荀子は統治者がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによって法家思想へと発展していった。
孟子は人の性が善であることを主張した上、その善性の核心となる四つの心得(四端)の存在を説いた。
「四端」とは「四つの始まり」という意味であり、それぞれ「惻隠」(弱者を同情する心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(謙って譲り合う心)・「是非」(正悪を判断する能力)と定義される。この四つの心得を常に遵守することによって、孔子の主張する聖人に備わるべき四つ性質である「四徳」を身につければ、誰しもが統治者に相応しい人材になれると言う。
孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の易姓革命説の原型をなしている。
孟子によれば、舜は天下を天から与えられて天子となったのであり、堯から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下をやりとりすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断される。
また、殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を征伐したことも、臣下による君主への弑逆には当たらないとした。なぜなら桀紂がいくら天子の家系であったとはいえ、天子が果すべき責務を果たさずに暴政を行ったためであり、すでに統治者としての正当性(天命)がないためである。
天子の位は、かつては代々賢者から賢者へと禅譲されていたが、禹が崩ずると賢者の益でなくその子啓が位を継ぎ、以後今日まで世襲が続いている。これは禹の時代になって徳が衰えたからなのではないか、という弟子の萬章の問いに対し、孟子は明確にこれを否定している。孟子によれば、位を賢者が継ぐか子が継ぐかはすべて天命によるものであり、両者に優劣の差はない。孟子は孔子の言を引いて「唐の虞は禅(ゆず)り、夏后・殷・周は継ぐも、其の義は一なり」(萬章章句上)と述べている。そのため、位を世襲しながら天によって廃されてしまうのは、必ず桀紂のような「残賊」だけだとされる。
この論理は当時の宗教権威を論証に介しているものの、意義と目的という面において2000年後のヨーロッパで提唱された社会契約論と同一であると言える。
以下は、中国語版ウィキペディアからの引用。
孟子は儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、中国において、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の「道統」を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗の熙寧4年(1071年)、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。元豊6年(1083年)、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。元代の至順元年(1330年)、孟子は加えて「亜聖公」に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。
孔子(武人の子)や、後代の朱熹・王陽明らと異なり、孟子は武人ではなく、兵学を修めず、軍事指揮経験がなく、著作には六芸など実学的教養への言及がない。「孟母三遷」の伝承は、それが事実なら、孔子が君子の教養として弟子たちに修養を勧めた「六芸」を著しく侮辱するものであり(墓地における礼は六芸の第一、市場における数は六芸の第六だが、孟母はこれを賤業と見下した)、孟子は孔子たちがもっとも嫌悪したであろうステレオタイプの差別主義者・出世主義者の母親によって育てられたことになる。
上述のように、孟子の天命説(革命説)そのものは、孔子の著作にもその萌芽があって、それを発展させて論となしたことは必ずしも孔子の道統を逸脱するものではなかったが、日本の一姓相伝(万世一系)的な国体観と合致しない。そのため、中国の航海者たちの間には、明代の「有携其書(孟子)往者舟即覆溺」(五雑俎)などのように、孟子を積んで日本に向かう船は沈むという伝承があった。
日本においても、孟子の地位は江戸時代以前はあまり高くなく、むしろ忌避されていた。日本の元号は宗教上・産業上の瑞祥を除き、基本的に四書五経を出典とするが、四書五経の中の『孟子』に由来する元号はまだ存在しない。
日本では、林羅山、徳川家康、伊藤仁斎、上田秋成、佐藤一斎、吉田松陰、西郷隆盛、北一輝らが熱読したことで知られる。
孟子の出身地である山東省鄒城市の南郊には、孟子を祭祀する孟廟が建てられている。別名を亜聖廟ともいい、南北に長い長方形で、五進の門を持ち、殿宇は64間あり、敷地面積は4万平方メートルを超える。正殿を亜聖殿といい、現存のものは清の康熙年間に地震で傾いた後に再建されたもので、7間あり、高さ17m、幅27m、奥行き20mある。「曲阜の孔廟、孔林、孔府の拡大」として2008年3月にユネスコの世界遺産の暫定リストに入れられている。
朝鮮では、孟子は氏族の新昌孟氏の始祖とされる。日本においても、中国(または朝鮮)における孟子の子孫で医官であった孟二寛が、秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜として日本に連行されて毛利氏・浅野氏に仕え、渡辺治庵と名乗り、その孫の武林唯七(隆重)が赤穂浪士に参加したという伝承がある。
書としての『孟子』は、上述のとおり儒教正典の四書の一つである。孟子が一生行った遊説や論争、弟子たちとの問答、及び語録の集成である。
書名は『毛詩』と区別するため「もうじ」と発音し、人名は「もうし」と発音するのが日本での習慣であったが、近年は書名の場合でも「もうし」と発音することが多い。
『孟子』の注を書いた後漢の趙岐は、『孟子』は孟子の引退後に、彼が弟子の公孫丑・萬章らと共に問答を集め、また規則の言葉を選んで編集したと記載している。武内義雄は孟子自撰説に反対し、孟子の門弟または再伝の弟子くらいの手記をあつめて編纂されたものとする。
の七篇よりなる。
儒教倫理説の根本教義のひとつとされ、社会秩序の維持のため守るべき5つの徳として有名な「五倫の道」は滕文公上篇に記載されており、性善説の根拠たるべき道徳学説として知られる四端説は、公孫丑上篇に記されている。
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"text": "と述べている。管仲は桓公を補佐して春秋の覇者にした人物である。桓公は管仲のことを決して呼びつけにしなかった。そして、管仲すら、と述べていることで、孟子は自分を管仲や殷の湯王を補佐して湯王にも呼びつけにされなかった伊尹以上の人物であると確信していた。",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "とある日、宣王が孟子に向い、殷の臣であった武王が主君である殷の紂王を伐って周を打ち立てたことについて、質問した。すると、孟子は",
"title": "経歴"
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"text": "と答えた。これの意味は、",
"title": "経歴"
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"text": "「仁を失った者は賊であり、義を失った者は残であり、仁義を失った者は君主である資格がなく、残賊、つまり、ただの男である。ただの男の紂を殺したとは言えても、君主である王を殺したとは言えない。」",
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{
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"text": "ということである。要するに、これほど君主の位は軽い、と言いたいのである。",
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"text": "また、宣王が卿の態度を質問した時、孟子は、王室と関係がある貴戚の卿と、王室と関係のない異姓の卿では、王に対する態度も違う、と言った。まず、貴戚の卿は、",
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},
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"text": "と説いた。つまり、",
"title": "経歴"
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"text": "「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、追放して別の君主に変える。」",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ということである。貴戚の卿は、君主と血がつながっているので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておけないので王族の中から仁義にかなうものを選ぶ必要がある。これを聞いて宣王は驚いて顔色を変えたが、孟子は過度のますらおであり、自分の発言に王がどんなに顔色を変えても堂々としていた。自分の思想を全く疑わずに説くのである。次に、異姓の卿は",
"title": "経歴"
},
{
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"text": "と説いた。つまり、",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "「君主が道理から外れていることをしていれば諫言をするが、聞き入れられなければ、その君主の下を去っていく。」",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ということである。異姓の卿は、君主と血がつながっていないので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておいてその君主の下を離れる。戦国時代の君臣関係は極めて自由であり、自分の出身地に仕えないことはもちろん、数国に仕えることもある。この際も、君主の廃立など考えずに気に入った国に仕官する、といったことを基にして発言している。",
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"text": "しかし、孟子が斉に仕えてから七、八年か経つと、宣王は病気を理由に孟子の家に使者を派遣して",
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"text": "「あなたと話したいことがありますが、運悪く風邪のためそちらに行けません。いかがですか?あなたの方から来てはいただけないでしょうか?」",
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"text": "と伝えて呼び出そうとした。しかし、孟子も病気という口実で拒否した。",
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"text": "たった今、参内しようとしていたのに、仮病を使って拒否した。「召さざる所の臣」である孟子はこのような事情でも行くわけには行かない。翌日、東郭氏に不幸なことがあったので、家まで行って弔問することにした。それに対して弟子の公孫丑が",
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"text": "「昨日、病気を理由に参内を断ったのに、今日改めて外出するのはいかがなるものでしょうか? およしなさい」",
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"text": "と出掛けないことを勧めたが、孟子は",
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"text": "「昨日は病気だったが今日は治った。行かなければ」",
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"text": "と言って行ってしまった。そのようなことで自分の行動を制限されることを孟子は良しとしない。ところが孟子が出かけている間、宣王が病気見舞いの使者と医師を派遣してきたので、家で留守番をしていた弟子の孟仲子は慌てて、先程少し調子が良くなりまして、参内に参りました、とその場を取り繕った。そして、孟子の通りそうな場所に使者を派遣して、どうかご帰宅せずに、そのまま参内して下さい、と伝えた。それを聞いた孟子は、帰宅も参内もしないで友人の景丑の家に泊まった。景丑は王命に従わなかった孟子を非難した。これによって、孟子と宣王の関係がしっくりこなくなった。孟子はこの事件によって、斉を立ち去る気持ちを固めた。その後、とうとう孟子は斉を去ることにした。それを聞いた宣王は急いで孟子の家まで出向き、また会えるでしょうか? と聞いた。それに対して孟子は",
"title": "経歴"
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"text": "と答えた。",
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"text": "「また会いたいと、こちらからは望みませんが、王とお会いするのは私としても嫌ではありません」",
"title": "経歴"
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"text": "それで、宣王はまだ希望がある、と思った。数百人もの稷下の学士を抱えている宣王にしても、孟子のその激しい理想主義には辟易するが、現実的な政策で役に立ちそうではないとしても、この優れた人物を他国に持っていかれることも残念だと思った。そこで、孟子の弟子の陳子を通じて",
"title": "経歴"
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"text": "「都心の大邸宅を与え、門弟養成のために一万鍾の俸禄を支給し、大臣をはじめ廷臣たちに孟子を尊敬させるようにする」",
"title": "経歴"
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"text": "と伝えた。鍾は穀物を図る単位で、約五十リットルだと言われている。当時の一万鍾は、通説によれば、日本の江戸時代の禄高で千五百石足らずだという。しかし、孟子にはこれが少額だったと見え、",
"title": "経歴"
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"text": "と断った。これは",
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"text": "「もし私の力で国を興したければ、十万鍾の俸禄を約束するべきです。私はそれを辞退して、一万鍾を受けましょう。これでは私のことを、冨貴を願っている、とは言えないはずです。」",
"title": "経歴"
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{
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"text": "という意味である。",
"title": "経歴"
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"text": "と孟子は言った。",
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"text": "「昔、市では物々交換によって、お互いの納得する交易を行って、生活に必要な物を手に入れる場所でした。ところが、卑しい欲張りがいて、壟断(切り立ったような高い位置)に登って左右を見まわしたのです。普通は地面に自分の売り物を並べて交換するのですが、高所から見ると、良い物を売っている人をいち早く発見できます。そのような連中は、生活に必要な物を仕入れに来たのではなく、営利を上げるために来ているのです。何と嫌らしいことかと人々がこれを非難し、政府もこれに征(税のこと)を掛けることにしたのです。」",
"title": "経歴"
},
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"text": "という意味だ。つまり、孟子は、自分はこんな卑しい欲張りではない、と言いたいのだ。「利益を壟断する」という用法はここからきている。",
"title": "経歴"
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"text": "そして、孟子はいよいよ斉を去る旅に出た。その折、孟子は昼という場所に三日も留まった。一度宣王の申し出をきっぱりと断っておきながら、まるで宣王の使いが来るのを待つかのようにゆっくり進むことが、孟子の評判を下げたようであった。斉の尹子と言う人物は孟子に憧れており、自分のことをますらおだと自負していた。だからこそ、昼に三日も逗留した、という話を聞いて、大きく失望した。",
"title": "経歴"
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"text": "「俺は孟子を見損なった。面白くもない」",
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"text": "と尹子は言った。その話を弟子の高子から聞いた孟子は",
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"text": "「尹子という者は、俺を理解できていないのだ」",
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"text": "と言った。そして、",
"title": "経歴"
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"text": "と言った。",
"title": "経歴"
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"text": "「三日で昼を出たのは早すぎるくらいだ。もしも宣王があの後思い直して使者を送ってくれば、私は喜んで引き返す。すると、斉の民は豊かになる。もしも、あの後使者が来なくても、私は宣王を捨てない。それを考えると、王の使者が来るのが待ちどうしい」",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "という意味である。それを聞いた尹子は",
"title": "経歴"
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"text": "と嘆いた。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物を適切に扱うことである。",
"title": "孟子の思想"
},
{
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"tag": "p",
"text": "孟子はその時代までにいた全ての君主を「王者」と「覇者」として、それらが行った政治を「王道」と「覇道」として分類した。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "孟子によれば、覇者とは武力によって一時的な仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの、「五覇は三王(夏の禹、殷の天乙、周の文王または武王)の罪人(出来損ない)なり。諸侯は五覇の罪人なり。大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて当時群雄割拠していた諸侯たちを批判し、古の堯・舜や三王が行ったような「先王の道」(王道政治)に回帰すべきと唱えた。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いた。王道によって自国の人民だけでなく、他国の人民からも王者と仰がれるようになれば諸侯もこれを侵略することはできないという。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "梁の恵王から利益によって国を強くする方法について問われると、孟子は、君主は利益でなく仁義によって国を治めるべきであり、そうすれば小国であっても大国に負けることはないと説いた。孟子によれば、天下を得るためには民を得ればよく、民を得るためにはその心を得ればよい。では民の心を得るための方法は何かといえば、それは民に利するものを与え、民に害するものを押し付けないことである。民は安心した暮らしを求め、人を殺したり殺されたりすることを嫌うため、もし王者が仁政を行えば天下の民は誰も敵対しようとせず、それどころか自分の父母のように仰ぎ慕うようになるという。故に孟子は「仁者敵無し」(梁恵王章句上)と言い、また「天下に敵無き者は天吏(天の使い)なり。然(かくのごと)くにして王たらざる者は、未だ之(これ)有らざるなり」(公孫丑章句上)と言ったのである。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "孟子によれば、僅か百里四方の小国の君主でも天下の王者となることができる。覇者の事績について斉の宣王から問われたときも、孟子は、君主は覇道でなく王道を行うべきであり、そうすれば天下の役人は皆王の朝廷に仕えたがり、農夫は皆王の田野を耕したがり、商人は皆王の市場で商売したがり、旅人は皆王の領内を通行したがり、自国の君主を憎む者は皆王のもとへ訴えたがるだろう。そうなれば誰も王を止めることはできない、と答えている。もちろん農夫からは農業税、商人からは商業税、旅人からは通行税を得て国は豊かになり、また人民も生活が保障されてはじめて孝悌忠信を教え込むことができるようになる。孟子の民本思想はその経済思想とも密接に関連している。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "しかし、これは当時としては非常に急進的な主張であり、当時の君主たちに孟子の思想が受け入れられない原因となった。孟子は「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)、つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分たちの地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "当時の有名な思想家の一人である告子は、人の行動は川の水が堤防の決壊がいずれの方向でも起こりうるように、原理がなく予測不可能なものである。人の行動がそれぞれの時代において大きく異なるように見えるのも、国の頂点に立つ統治者による影響であり、たまたま文王や武王のような善人が即位したゆえ正義を信じて団結し、たまたま厲王や幽王のような悪人が即位したゆえ道徳を無視して乱暴を働くようになっただけにすぎない。すなわち人間の心には生まれながらして持った共通な性質(本性)なるものは存在しない(あるいは知り得ない)と唱えた。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "「水信まことに東西とうざいを分つこと無し。上下を分つこと無からんや。(川の水は堤防を越えて東西に流れることがあっても、地面を括り抜いて地下に流れることはないのではないか)」",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "孟子はこのように反論した。人の行動は確かに様々であって統一性のある原理がないように見えるが、それらはあくまで立場や周りの影響(外物)による一時的なものにすぎない。人間には「本性」なるものが存在するのである。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "井戸に転び堕ちそうになった子供を見て、誰もが思わずに助けようとするのは、子供の父母から財貨を得るためでもなければ、社会で良い名声を得るためでもない。人間は誰しも利他的な行為を良しとする生来の性質(善)を備わっている。かつての聖王であろうと小人であろうと、その本性には本質的な違いはなく、利己的な行為に走るのは天災や人害など外界の脅威(外物)から身を守るために元々の善性を手放せざるを得なくなってしまったゆえである。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "そのため孟子は、「大人とは其の赤子の心を失わざる者なり(徳に優れた人というのは赤子のような純粋な心を保ちつづける人である)」、「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ(学問とは他でない、失われてしまった純粋な心を取り戻すのみである」とも主張した。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "孟子の対立思想として、荀子の性悪説が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(社会性を持たない動物)同然の存在だと言ったように、人間を持つ善性を絶対的に肯定していたわけではない。また、それゆえに学問を深め道徳を身につけた君子は人民を指導する資格があるとする。一方、荀子は人間の本性とは無限なる欲望であり、欲望に従順なままでは他人を思いやることも譲り合って争いを避けることもできない。そのため学問や礼儀といった「偽」(こしらえもの、人為の意)を身に付けるようになり、それらの後天的な努力によって公共善に向うことができると主張した。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "教育を通じて良き徳を身に付けると説く点では、実に両者とも同じであり、「人間の持つ可能性への信頼」がそれらの思想の根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な唯心主義であったに対して、荀子は統治者がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによって法家思想へと発展していった。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "孟子は人の性が善であることを主張した上、その善性の核心となる四つの心得(四端)の存在を説いた。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "「四端」とは「四つの始まり」という意味であり、それぞれ「惻隠」(弱者を同情する心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(謙って譲り合う心)・「是非」(正悪を判断する能力)と定義される。この四つの心得を常に遵守することによって、孔子の主張する聖人に備わるべき四つ性質である「四徳」を身につければ、誰しもが統治者に相応しい人材になれると言う。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の易姓革命説の原型をなしている。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "孟子によれば、舜は天下を天から与えられて天子となったのであり、堯から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下をやりとりすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断される。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "また、殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を征伐したことも、臣下による君主への弑逆には当たらないとした。なぜなら桀紂がいくら天子の家系であったとはいえ、天子が果すべき責務を果たさずに暴政を行ったためであり、すでに統治者としての正当性(天命)がないためである。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "天子の位は、かつては代々賢者から賢者へと禅譲されていたが、禹が崩ずると賢者の益でなくその子啓が位を継ぎ、以後今日まで世襲が続いている。これは禹の時代になって徳が衰えたからなのではないか、という弟子の萬章の問いに対し、孟子は明確にこれを否定している。孟子によれば、位を賢者が継ぐか子が継ぐかはすべて天命によるものであり、両者に優劣の差はない。孟子は孔子の言を引いて「唐の虞は禅(ゆず)り、夏后・殷・周は継ぐも、其の義は一なり」(萬章章句上)と述べている。そのため、位を世襲しながら天によって廃されてしまうのは、必ず桀紂のような「残賊」だけだとされる。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "この論理は当時の宗教権威を論証に介しているものの、意義と目的という面において2000年後のヨーロッパで提唱された社会契約論と同一であると言える。",
"title": "孟子の思想"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "以下は、中国語版ウィキペディアからの引用。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "孟子は儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、中国において、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の「道統」を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗の熙寧4年(1071年)、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。元豊6年(1083年)、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。元代の至順元年(1330年)、孟子は加えて「亜聖公」に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "孔子(武人の子)や、後代の朱熹・王陽明らと異なり、孟子は武人ではなく、兵学を修めず、軍事指揮経験がなく、著作には六芸など実学的教養への言及がない。「孟母三遷」の伝承は、それが事実なら、孔子が君子の教養として弟子たちに修養を勧めた「六芸」を著しく侮辱するものであり(墓地における礼は六芸の第一、市場における数は六芸の第六だが、孟母はこれを賤業と見下した)、孟子は孔子たちがもっとも嫌悪したであろうステレオタイプの差別主義者・出世主義者の母親によって育てられたことになる。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "上述のように、孟子の天命説(革命説)そのものは、孔子の著作にもその萌芽があって、それを発展させて論となしたことは必ずしも孔子の道統を逸脱するものではなかったが、日本の一姓相伝(万世一系)的な国体観と合致しない。そのため、中国の航海者たちの間には、明代の「有携其書(孟子)往者舟即覆溺」(五雑俎)などのように、孟子を積んで日本に向かう船は沈むという伝承があった。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "日本においても、孟子の地位は江戸時代以前はあまり高くなく、むしろ忌避されていた。日本の元号は宗教上・産業上の瑞祥を除き、基本的に四書五経を出典とするが、四書五経の中の『孟子』に由来する元号はまだ存在しない。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "日本では、林羅山、徳川家康、伊藤仁斎、上田秋成、佐藤一斎、吉田松陰、西郷隆盛、北一輝らが熱読したことで知られる。",
"title": "後世の評価"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "孟子の出身地である山東省鄒城市の南郊には、孟子を祭祀する孟廟が建てられている。別名を亜聖廟ともいい、南北に長い長方形で、五進の門を持ち、殿宇は64間あり、敷地面積は4万平方メートルを超える。正殿を亜聖殿といい、現存のものは清の康熙年間に地震で傾いた後に再建されたもので、7間あり、高さ17m、幅27m、奥行き20mある。「曲阜の孔廟、孔林、孔府の拡大」として2008年3月にユネスコの世界遺産の暫定リストに入れられている。",
"title": "孟廟"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "朝鮮では、孟子は氏族の新昌孟氏の始祖とされる。日本においても、中国(または朝鮮)における孟子の子孫で医官であった孟二寛が、秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜として日本に連行されて毛利氏・浅野氏に仕え、渡辺治庵と名乗り、その孫の武林唯七(隆重)が赤穂浪士に参加したという伝承がある。",
"title": "孟廟"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "書としての『孟子』は、上述のとおり儒教正典の四書の一つである。孟子が一生行った遊説や論争、弟子たちとの問答、及び語録の集成である。",
"title": "書物としての『孟子』"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "書名は『毛詩』と区別するため「もうじ」と発音し、人名は「もうし」と発音するのが日本での習慣であったが、近年は書名の場合でも「もうし」と発音することが多い。",
"title": "書物としての『孟子』"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "『孟子』の注を書いた後漢の趙岐は、『孟子』は孟子の引退後に、彼が弟子の公孫丑・萬章らと共に問答を集め、また規則の言葉を選んで編集したと記載している。武内義雄は孟子自撰説に反対し、孟子の門弟または再伝の弟子くらいの手記をあつめて編纂されたものとする。",
"title": "書物としての『孟子』"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "の七篇よりなる。",
"title": "書物としての『孟子』"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "儒教倫理説の根本教義のひとつとされ、社会秩序の維持のため守るべき5つの徳として有名な「五倫の道」は滕文公上篇に記載されており、性善説の根拠たるべき道徳学説として知られる四端説は、公孫丑上篇に記されている。",
"title": "書物としての『孟子』"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "なお『論語』は孔子が登場しない章も含まれていて、孔子本人と弟子たちの言行録となっているが、『孟子』は全章に孟子本人が登場する。",
"title": "書物としての『孟子』"
}
] | 孟子は、中国戦国時代の儒学思想家。姓は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)と伝わる。「子」は先生という意味で尊称で、後世に亞聖(あせい)とも称される。孔子の孫である子思の門人に学業を受けたとされ、朱子学では孔子に次いで重要な人物とされる。そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 言行は『孟子』に纏(まと)められている。性善説を主張し、仁義と民本による王道政治を目指した。 | {{Otheruses|人名としての孟子|書名としての『孟子』|孟子 (書物)}}
{{Infobox_哲学者
<!-- 分野 -->
|地域 = [[東洋哲学]]
|時代 = 中国・戦国時代
|color = #B0C4DE
<!-- 画像 -->
|image_name = Half Portraits of the Great Sage and Virtuous Men of Old - Meng Ke (孟軻).jpg|thumb|孟子
|image_caption = [[元 (王朝)|元代]]に書かれた孟子の想像図
<!-- 人物情報 -->
|名前 = 孟軻
|生年月日 = [[紀元前372年]]?
|没年月日 = [[紀元前289年]]?
|学派 = [[儒教]]
|研究分野 = [[政治哲学]]<br/>[[倫理学]]<br/>他多数
|影響を受けた人物 = [[孔子]]<br/>[[曽子]]<br/>[[子思]]
|影響を与えた人物 = [[近代]]までの[[東洋]]思想家ほぼ全て
|特記すべき概念 = [[仁義]]<br/>[[性善説|性善]]<br/>[[四端説|四端]]<br/>[[孟子#王覇|王覇]]<br/>[[孟子#民本|民本]]
|
}}
{{儒教}}
'''孟子'''(もうし、{{簡体字|孟子}}、{{ピン音|Mèngzǐ}}、[[紀元前372年]]? - [[紀元前289年]]?)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の'''[[儒学]]'''思想家。[[姓]]は'''[[孟]]'''、[[諱]]は'''{{Ruby|軻|か}}'''、[[字]]は'''{{Ruby|子輿|しよ}}'''と伝わる。「子」は先生という意味で尊称で、[[宋 (王朝)|後世]]に'''{{Ruby|亞聖|あせい}}'''とも称される。孔子の孫である[[子思]]の門人に学業を受けたとされ、[[朱子学]]では[[孔子]]に次いで重要な人物とされる。そのため儒教は別名「'''孔孟の教え'''」とも呼ばれる。
言行は『[[孟子 (書物)|孟子]]』に{{Ruby|纏|まと}}められている。[[性善説]]を主張し、'''[[利他主義|仁]][[理性|義]]'''と'''[[ポピュリズム|民本]]'''による[[理想主義|'''王道''']][[国家|政治]]を目指した。
== 経歴 ==
孟子は[[邾|鄒国]](現在の[[山東省]][[済寧市]][[鄒城市]])の人で、その母が孟子を育てた時の話が有名である。最初は[[墓地]]の近くに住んでいたが、やがて孟子が[[葬式]]の真似事を始めたので母は家を移した。移った所は市場の近くで、やがて孟子が[[商人]]の真似事を始めたので母は再び家を移した。次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心したという。この話は'''孟母三遷'''として知られ、史実ではないとされているが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出され、鄒城市には孟母三遷祠が建てられている。孟子の母は、他にも孟母断機の[[故事]]で知られている。孟子が学業を途中で辞めて家に帰って来たとき、母はちょうど機を織っていたが、その織物を刀で切断し「お前が学問を途中で辞めるのは私が織物を断ち切るのと同じことだ」と言って諫めた。孟子は再び勉学に励んだ。以上の話は[[漢]]代の『[[韓詩外伝]]』巻9や『[[列女伝]]』巻1に見える伝説である。
『[[史記]]』孟子荀卿列伝によれば、孟子は[[孔子]]の孫である[[子思]]の門人に学んだ。子思に直接学んだという説もあるが、年代が合っていない。
彼は、自分のことを王の師匠であり、賓客である、と考えていたので、遊歴するときには数十台の車と数百人の従者を従えていた。[[諸侯]]と同等である、というプライドを持っていたのである。
かつて[[魏 (戦国)|魏]]の[[恵王 (魏)|恵王]]が[[秦]]や[[田斉|斉]]に奪われた土地を回復する方法を孟子に質問した時、孟子は仁者無敵を説いた。それは、国土は小さくても、仁政を施せば、誰にも負けない、ということである。仁政とは、[[刑罰]]を簡単にして、[[税]]を軽くし、丁寧に[[耕作]]して、若者には孝悌忠信の道徳教育を行うことである。そのような仁政を受けた民は、戦いでも勇敢で、仁政のない国の民は、主君に協力せず背いたりもする。ゆえに、仁者無敵である、というのである。
[[論語]]に載せられている[[孔子]]の弟子の[[有子]]の言葉とされているものに、
:;孝弟なる者は、それ仁の本為るか。
がある。孝とは親に対する愛情、弟とは兄に対する尊敬のことである。
:;仁の実は親に事うること是なり。義の実は兄に従うこと是なり。
という言葉が『孟子「離婁篇」』にある。これは、[[孔子]]の説いた仁を拡大した孟子の説く仁義のことを示している。孟子は自分のことを孔子の正統な継承者だと自負していた。
その後、[[恵王 (魏)|恵王]]が死んでその子の[[襄王 (魏)|襄王]]が即位すると、孟子はこの襄王を
:;之を望みたるに人君に似ず
と評していたため、失望して[[田斉|斉]]に行った。斉では[[宣王 (斉)|宣王]]が即位していた。ここでも孟子は国士扱いを望み、好きに論争するだけで給料のもらえる[[稷下の学士]]と同等にされたくない、というプライドがあった。
:;抱関(門番)、撃柝(夜警)の者も、皆、常職有りて上(君主)より食む。常職無くして而も上より賜るは、不恭と為すなり。
と『孟子「萬章伝」』にある。門番から夜警に至るまで、皆定職があって給料をもらっているのに、定職もないのに給料をもらうのは、人生に対して真面目な態度とは言えない、と主張した。故、[[宣王 (斉)|宣王]]に呼び出されて参内することを拒否して宣王自ら来てほしいと要請して、自分が王宮に行くのは何か進言したいことができたときだけ、ということにした。孟子は自分のことを「所不召之臣(召さざる所の臣)」と思っていた。
:;[[管仲]]すら且つ召す可からず。而るを況や管仲為らざらん者をや。
と述べている。管仲は[[桓公 (斉)|桓公]]を補佐して[[春秋時代|春秋]]の[[覇者]]にした人物である。桓公は管仲のことを決して呼びつけにしなかった。そして、管仲すら、と述べていることで、孟子は自分を管仲や[[殷]]の[[天乙|湯王]]を補佐して湯王にも呼びつけにされなかった[[伊尹]]以上の人物であると確信していた。
とある日、[[宣王 (斉)|宣王]]が孟子に向い、[[殷]]の臣であった[[武王 (周)|武王]]が主君である殷の[[帝辛|紂王]]を伐って[[周]]を打ち立てたことについて、質問した。すると、孟子は
:;<ref name=":0">『孟子「離婁篇」』</ref>仁を賊ふ者は之を賊と謂ひ、義を賊ふ者は之を残と謂ひ、残賊の人は之を一夫と謂ふ。一夫の紂を誅せりとは聞けども、未だ君を弑したりとは聞かず。
と答えた。これの意味は、
「仁を失った者は賊であり、義を失った者は残であり、仁義を失った者は君主である資格がなく、残賊、つまり、ただの男である。ただの男の紂を殺したとは言えても、君主である王を殺したとは言えない。」
ということである。要するに、これほど君主の位は軽い、と言いたいのである。
また、[[宣王 (斉)|宣王]]が[[大臣|卿]]の態度を質問した時、孟子は、王室と関係がある貴戚の卿と、王室と関係のない異姓の卿では、王に対する態度も違う、と言った。まず、貴戚の卿は、
:;君に大過有れば則ち諫め、之を反覆して聴かれざれば、則ち位を易う。
と説いた。つまり、
「君主が道理から外れていることをしていれば[[諫言]]をするが、聞き入れられなければ、追放して別の君主に変える。」
ということである。貴戚の[[大臣|卿]]は、君主と血がつながっているので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておけないので王族の中から仁義にかなうものを選ぶ必要がある。これを聞いて[[宣王 (斉)|宣王]]は驚いて顔色を変えたが、孟子は過度の[[丈夫|ますらお]]であり、自分の発言に王がどんなに顔色を変えても堂々としていた。自分の[[性善説|思想]]を全く疑わずに説くのである。次に、異姓の卿は
:;君に大過有れば則ち諫め、之を反覆して聴かざれば、則ち去る。
と説いた。つまり、
「君主が道理から外れていることをしていれば[[諫言]]をするが、聞き入れられなければ、その君主の下を去っていく。」
ということである。異姓の[[大臣|卿]]は、君主と血がつながっていないので、君主が仁義にかなわない場合には、放っておいてその君主の下を離れる。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の君臣関係は極めて自由であり、自分の出身地に仕えないことはもちろん、数国に仕えることもある。この際も、君主の廃立など考えずに気に入った国に仕官する、といったことを基にして発言している。
しかし、孟子が[[田斉|斉]]に仕えてから七、八年か経つと、[[宣王 (斉)|宣王]]は病気を理由に孟子の家に使者を派遣して
「あなたと話したいことがありますが、運悪く風邪のためそちらに行けません。いかがですか?あなたの方から来てはいただけないでしょうか?」
と伝えて呼び出そうとした。しかし、孟子も病気という口実で拒否した。
:;不幸にして、疾有り。朝に造る能わず。
たった今、参内しようとしていたのに、仮病を使って拒否した。「召さざる所の臣」である孟子はこのような事情でも行くわけには行かない。翌日、[[東郭]]氏に不幸なことがあったので、家まで行って弔問することにした。それに対して弟子の[[公孫丑]]が
「昨日、病気を理由に参内を断ったのに、今日改めて外出するのはいかがなるものでしょうか? およしなさい」
と出掛けないことを勧めたが、孟子は
「昨日は病気だったが今日は治った。行かなければ」
と言って行ってしまった。そのようなことで自分の行動を制限されることを孟子は良しとしない。ところが孟子が出かけている間、[[宣王 (斉)|宣王]]が病気見舞いの使者と医師を派遣してきたので、家で留守番をしていた弟子の[[孟仲子]]は慌てて、先程少し調子が良くなりまして、参内に参りました、とその場を取り繕った。そして、孟子の通りそうな場所に使者を派遣して、どうかご帰宅せずに、そのまま参内して下さい、と伝えた。それを聞いた孟子は、帰宅も参内もしないで友人の[[景丑]]の家に泊まった。景丑は王命に従わなかった孟子を非難した。これによって、孟子と[[宣王 (斉)|宣王]]の関係がしっくりこなくなった。孟子はこの事件によって、[[田斉|斉]]を立ち去る気持ちを固めた。その後、とうとう孟子は斉を去ることにした。それを聞いた宣王は急いで孟子の家まで出向き、また会えるでしょうか? と聞いた。それに対して孟子は
:;敢へて請はざるのみ。固より願ふ所なり
と答えた。
「また会いたいと、こちらからは望みませんが、王とお会いするのは私としても嫌ではありません」
それで、[[宣王 (斉)|宣王]]はまだ希望がある、と思った。数百人もの[[稷下の学士]]を抱えている宣王にしても、孟子のその激しい理想主義には辟易するが、現実的な政策で役に立ちそうではないとしても、この優れた人物を他国に持っていかれることも残念だと思った。そこで、孟子の弟子の[[陳子]]を通じて
「都心の大邸宅を与え、門弟養成のために一万鍾の俸禄を支給し、大臣をはじめ廷臣たちに孟子を尊敬させるようにする」
と伝えた。鍾は穀物を図る単位で、約五十リットルだと言われている。当時の一万鍾は、通説によれば、日本の[[江戸時代]]の禄高で千五百石足らずだという。しかし、孟子にはこれが少額だったと見え、
:;如し予をして富まむと欲せしむれば、十万を辞して万を受けんこと、是れ富まむと欲すると為さんや。
と断った。これは
「もし私の力で国を興したければ、十万鍾の俸禄を約束するべきです。私はそれを辞退して、一万鍾を受けましょう。これでは私のことを、冨貴を願っている、とは言えないはずです。」
という意味である。
:;<ref>『孟子「公孫丑篇」』による</ref>賤丈夫有り。必ず壟断を求めて之に登り、もつて左右望して市利を罔せり。人皆以て賤しと為す。故に従つて之を征せり。
と孟子は言った。
「昔、市では物々交換によって、お互いの納得する交易を行って、生活に必要な物を手に入れる場所でした。ところが、卑しい欲張りがいて、壟断(切り立ったような高い位置)に登って左右を見まわしたのです。普通は地面に自分の売り物を並べて交換するのですが、高所から見ると、良い物を売っている人をいち早く発見できます。そのような連中は、生活に必要な物を仕入れに来たのではなく、営利を上げるために来ているのです。何と嫌らしいことかと人々がこれを非難し、政府もこれに征(税のこと)を掛けることにしたのです。」
という意味だ。つまり、孟子は、自分はこんな卑しい欲張りではない、と言いたいのだ。「利益を壟断する」という用法はここからきている。
そして、孟子はいよいよ[[田斉|斉]]を去る旅に出た。その折、孟子は昼という場所に三日も留まった。一度[[宣王 (斉)|宣王]]の申し出をきっぱりと断っておきながら、まるで宣王の使いが来るのを待つかのようにゆっくり進むことが、孟子の評判を下げたようであった。斉の[[尹子]]と言う人物は孟子に憧れており、自分のことを[[丈夫|ますらお]]だと自負していた。だからこそ、昼に三日も逗留した、という話を聞いて、大きく失望した。
「俺は孟子を見損なった。面白くもない」
と尹子は言った。その話を弟子の[[高子]]から聞いた孟子は
「尹子という者は、俺を理解できていないのだ」
と言った。そして、
:;<ref>『孟子「公孫丑篇」』</ref>予、三宿して昼を出づるも、予が心に於ては猶お速しと以為へり。王よ庶幾はくは之を改めよ。王如し諸を改むれば、則ち必ず予を反さん。夫れ昼を出ずるも王は予を追わざりなり。予、然る後に浩然として帰るの志有り。予、然ると雖も豈に王を舎てんや。
と言った。
「三日で昼を出たのは早すぎるくらいだ。もしも[[宣王 (斉)|宣王]]があの後思い直して使者を送ってくれば、私は喜んで引き返す。すると、[[田斉|斉]]の民は豊かになる。もしも、あの後使者が来なくても、私は宣王を捨てない。それを考えると、王の使者が来るのが待ちどうしい」
という意味である。それを聞いた[[尹子]]は
:;士は誠に小人なり
と嘆いた。
== 孟子の思想 ==
=== [[利他主義|仁]][[理性主義|義]] ===
孔子は[[仁]]を説いたが、孟子はこれを発展させて'''仁義'''を説いた。仁とは「忠恕」([[利他主義|真心と思いやり]])であり、「義とは宜なり」(『[[中庸]]』)というように、[[義]]とは[[理性|事物を適切に扱うこと]]である。
=== [[王道|王]][[覇者|覇]] ===
孟子は[[戦国時代 (中国)|その時代]]までにいた全ての君主を「'''王者'''」と「'''覇者'''」として、それらが行った政治を「[[理想主義|王道]]」と「[[覇権主義|覇道]]」として分類した。
孟子によれば、覇者とは[[武力]]によって一時的な仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、[[効果的利他主義|徳]]によって本当の[[民本主義|仁政]]を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの、「[[春秋五覇|五覇]]は三王(夏の[[禹]]、殷の[[天乙]]、周の[[文王 (周)|文王]]または[[武王 (周)|武王]])の罪人(出来損ない)なり。[[諸侯]]は五覇の罪人なり。大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて当時群雄割拠していた[[戦国七雄|諸侯]]たちを批判し、古の[[堯]]・[[舜]]や三王が行ったような「先王の道」(王道政治)に回帰すべきと唱えた。
=== [[民本主義|民本]] ===
孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、'''[[ポピュリズム|人民の心]]'''を得ることによって天下を取ればよいと説いた。王道によって自国の[[大衆|人民]]だけでなく、他国の[[大衆|人民]]からも王者と仰がれるようになれば諸侯もこれを侵略することはできないという。
[[魏 (戦国)|梁]]の[[恵王 (魏)|恵王]]から利益によって[[富国強兵|国を強くする方法]]について問われると、孟子は、君主は利益でなく仁義によって国を治めるべきであり、そうすれば小国であっても大国に負けることはないと説いた。孟子によれば、天下を得るためには民を得ればよく、民を得るためにはその心を得ればよい。では民の心を得るための方法は何かといえば、それは民に利するものを与え、民に害するものを押し付けないことである。民は安心した暮らしを求め、人を殺したり殺されたりすることを嫌うため、もし王者が[[福祉国家論|仁政]]を行えば天下の民は誰も敵対しようとせず、それどころか自分の父母のように仰ぎ慕うようになるという。故に孟子は「仁者敵無し」(梁恵王章句上)と言い、また「天下に敵無き者は天吏(天の使い)なり。然(かくのごと)くにして王たらざる者は、未だ之(これ)有らざるなり」(公孫丑章句上)と言ったのである。
孟子によれば、僅か百里四方の小国の君主でも天下の王者となることができる。覇者の事績について[[田斉|斉]]の[[宣王 (斉)|宣王]]から問われたときも、孟子は、君主は覇道でなく王道を行うべきであり、そうすれば天下の役人は皆王の朝廷に仕えたがり、農夫は皆王の田野を耕したがり、商人は皆王の市場で商売したがり、旅人は皆王の領内を通行したがり、自国の君主を憎む者は皆王のもとへ訴えたがるだろう。そうなれば誰も王を止めることはできない、と答えている。もちろん農夫からは農業税、商人からは商業税、旅人からは通行税を得て国は豊かになり、また人民も生活が保障されてはじめて孝悌忠信を教え込むことができるようになる。孟子の民本思想はその経済思想とも密接に関連している。
しかし、これは当時としては非常に急進的な主張であり、当時の君主たちに孟子の思想が受け入れられない原因となった。孟子は「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)、つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分たちの地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。
=== [[性善説と性悪説|性善]] ===
当時の有名な思想家の一人である[[告子]]は、人の[[行動]]は[[黄河|川]]の[[洪水|水]]が[[堤防]]の[[決壊]]がいずれの方向でも起こりうるように、[[原理]]がなく[[シュレーディンガーの猫|予測不可能]]なものである。人の行動が[[周#歴史|それぞれの時代]]において大きく異なるように見えるのも、国の頂点に立つ[[統治者]]による影響であり、たまたま[[文王 (周)|文王]]や[[武王 (周)|武王]]のような善人が即位したゆえ[[正義]]を信じて[[連帯|団結]]し、たまたま[[厲王]]や[[幽王 (周)|幽王]]のような悪人が即位したゆえ[[道徳]]を無視して乱暴を働くようになっただけにすぎない。すなわち人間の[[心]]には生まれながらして持った共通な性質([[本性]])なるものは存在しない(あるいは[[不可知論|知り得ない]])と唱えた。
「水信まことに東西とうざいを分つこと無し。上下を分つこと無からんや。(川の水は堤防を越えて東西に流れることがあっても、地面を括り抜いて[[地下]]に流れることはないのではないか)<ref name=":1">『孟子「告子篇」』</ref>」
孟子はこのように反論した。人の行動は確かに様々であって統一性のある原理がないように見えるが、それらはあくまで立場や周りの影響(外物)による一時的なものにすぎない。人間には「本性」なるものが存在するのである。
井戸に転び堕ちそうになった子供を見て、誰もが思わずに助けようとするのは、子供の父母から[[利益|財貨]]を得るためでもなければ、[[社会]]で良い[[名声]]を得るためでもない。人間は誰しも[[利他的行動|利他的な行為]]を良しとする生来の性質([[善]])を備わっている。かつての[[聖人|聖王]]であろうと小人であろうと、その本性には本質的な違いはなく、[[利己主義|利己的な行為]]に走るのは[[自然災害|天災]]や人害など[[他者|外界]]の脅威(外物)から身を守るために元々の善性を手放せざるを得なくなってしまったゆえである。
そのため孟子は、「[[大人]]とは其の赤子の心を失わざる者なり(徳に優れた人というのは赤子のような純粋な心を保ちつづける人である)<ref name=":0" />」、「[[学問]]の道は他無し、其の放心を求むるのみ(学問とは他でない、失われてしまった純粋な心を取り戻すのみである<ref name=":1" />」とも主張した。
==== 「性善説」に関する誤解 ====
孟子の対立思想として、荀子の[[性悪説]]が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「[[#四端|四端]]」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸([[社会性]]を持たない[[動物]])同然の存在だと言ったように、人間を持つ善性を絶対的に肯定していたわけではない。また、それゆえに学問を深め道徳を身につけた[[聖人|君子]]は人民を指導する資格があるとする。一方、荀子は人間の本性とは無限なる[[欲|欲望]]であり、欲望に従順なままでは他人を[[仁|思いやる]]ことも譲り合って争いを避けることもできない。そのため学問や[[礼|礼儀]]といった「偽」(こしらえもの、[[人間活動|人為]]の意)を身に付けるようになり、それらの後天的な努力によって[[共通善|公共善]]に向うことができると主張した。
[[教育]]を通じて良き[[徳]]を身に付けると説く点では、実に両者とも同じであり、「人間の持つ可能性への信頼」がそれらの思想の根底にある。両者の違いは、孟子が人間の[[能動|主体的]]な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な[[唯心主義]]であったに対して、荀子は[[君主|統治者]]がまず社会に[[制度]]を制定して型を作らなければ人間はよくならないという[[社会体制|社会システム]]重視の考えに立ったところにある。前者は後世に[[朱子学]]のような[[主観]]中心主義への道を開き、後者は荀子の[[韓非|弟子]]たちによって[[法家]]思想へと発展していった。
=== [[四端説|四端]] ===
孟子は人の性が善であることを主張した上、その善性の核心となる四つの心得(四端)の存在を説いた。
「四端」とは「四つの始まり」という意味であり、それぞれ「惻隠」([[社会的弱者|弱者]]を同情する心)・「羞悪」([[不正行為|不正]]や悪を憎む心)・「辞譲」(謙って譲り合う心)・「是非」(正悪を判断する能力)と定義される。この四つの心得を常に遵守することによって、[[孔子]]の[[論語|主張]]する[[聖人]]に備わるべき四つ性質である「[[四徳]]」を身につければ、誰しもが[[統治者]]に相応しい[[人材]]になれると言う。
=== [[人民主権|天命]] ===
孟子自身は「[[革命]]」という言葉を用いていないものの、その[[天人相関説|天命説]]は明らかに後の[[易姓革命]]説の原型をなしている。
孟子によれば、[[舜]]は天下を[[天]]から与えられて天子となったのであり、[[堯]]から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下をやりとりすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断される。
また、[[殷]]の[[湯王]]が[[夏 (三代)|夏]]の[[桀|桀王]]を追放し、[[周]]の[[武王 (周)|武王]]が殷の[[帝辛|紂王]]を征伐したことも、臣下による[[君主]]への弑逆には当たらないとした。なぜなら桀紂がいくら[[天子]]の家系であったとはいえ、天子が果すべき責務を果たさずに[[暴政]]を行ったためであり、すでに統治者としての正当性(天命)がないためである。
天子の位は、かつては代々[[賢者]]から賢者へと[[禅譲]]されていたが、[[禹]]が崩ずると賢者の[[益 (中国神話)|益]]でなくその子[[啓]]が位を継ぎ、以後今日まで[[世襲]]が続いている。これは禹の時代になって徳が衰えたからなのではないか、という弟子の[[万章|萬章]]の問いに対し、孟子は明確にこれを否定している。孟子によれば、位を賢者が継ぐか子が継ぐかはすべて天命によるものであり、両者に優劣の差はない。孟子は孔子の言を引いて「唐の虞は禅(ゆず)り、夏后・殷・周は継ぐも、其の義は一なり」(萬章章句上)と述べている。そのため、位を世襲しながら天によって廃されてしまうのは、必ず桀紂のような「残賊」だけだとされる。
この論理は当時の[[天人相関説|宗教権威]]を[[論証]]に介しているものの、意義と目的という面において[[啓蒙時代|2000年後]]の[[ヨーロッパ]]で提唱された'''[[社会契約]]'''論と同一であると言える。
== 後世の評価 ==
''以下は、中国語版ウィキペディアからの引用。''
孟子は儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、中国において、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に[[韓愈]]が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の「道統」を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。[[北宋]]時代、[[神宗 (宋)|神宗]]の[[熙寧]]4年([[1071年]])、『孟子』の書は初めて[[科挙]]の試験科目の中に入れられた。[[元豊 (宋)|元豊]]6年([[1083年]])、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、[[南宋]]時代の[[朱熹]]はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。[[元 (王朝)|元]]代の[[至順]]元年([[1330年]])、孟子は加えて「亜聖公」に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。
孔子(武人の子)や、後代の朱熹・王陽明らと異なり、孟子は武人ではなく、兵学を修めず、軍事指揮経験がなく、著作には六芸など実学的教養への言及がない。「孟母三遷」の伝承は、それが事実なら、孔子が君子の教養として弟子たちに修養を勧めた「六芸」を著しく侮辱するものであり(墓地における礼は六芸の第一、市場における数は六芸の第六だが、孟母はこれを賤業と見下した)、孟子は孔子たちがもっとも嫌悪したであろうステレオタイプの差別主義者・出世主義者の母親によって育てられたことになる。
上述のように、孟子の天命説(革命説)そのものは、孔子の著作にもその萌芽があって、それを発展させて論となしたことは必ずしも孔子の道統を逸脱するものではなかったが、日本の一姓相伝(万世一系)的な国体観と合致しない。そのため、中国の航海者たちの間には、明代の「有携其書(孟子)往者舟即覆溺」(五雑俎)などのように、孟子を積んで日本に向かう船は沈むという伝承があった。
日本においても、孟子の地位は江戸時代以前はあまり高くなく、むしろ忌避されていた。日本の元号は[[宗教|宗教上]]・[[産業|産業上]]の瑞祥を除き、基本的に四書五経を出典とするが、四書五経の中の『孟子』に由来する元号はまだ存在しない。
日本では、[[林羅山]]、[[徳川家康]]、[[伊藤仁斎]]、[[上田秋成]]、[[佐藤一斎]]、[[吉田松陰]]、[[西郷隆盛]]、[[北一輝]]らが熱読したことで知られる<ref>[https://1000ya.isis.ne.jp/1567.html 孟子][[松岡正剛]]の千夜千冊、1567夜、2014年12月25日</ref>。
== 孟廟 ==
[[ファイル:孟庙牌楼.JPG|thumb|right|270px|孟廟]]
孟子の出身地である山東省鄒城市の南郊には、孟子を祭祀する孟廟が建てられている。別名を亜聖廟ともいい、南北に長い長方形で、五進の門を持ち、殿宇は64間あり、敷地面積は4万平方メートルを超える。正殿を亜聖殿といい、現存のものは[[清]]の[[康熙]]年間に地震で傾いた後に再建されたもので、7間あり、高さ17m、幅27m、奥行き20mある。「[[曲阜]]の[[孔廟]]、孔林、孔府の拡大」として[[2008年]]3月に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]の暫定リストに入れられている。
[[朝鮮]]では、孟子は[[氏族]]の[[新昌孟氏]]の始祖とされる。日本においても、中国(または朝鮮)における孟子の子孫で医官であった[[渡辺士式|孟二寛]]が、秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜として日本に連行されて毛利氏・浅野氏に仕え、渡辺治庵と名乗り、その孫の武林唯七(隆重)が赤穂浪士に参加したという伝承がある。
== 書物としての『孟子』 ==
{{Main|[[孟子_(書物)|孟子]]}}
書としての『[[孟子 (書物)|孟子]]』は、上述のとおり儒教正典の[[四書]]の一つである。孟子が一生行った遊説や論争、弟子たちとの問答、及び語録の集成である。
書名は『[[毛詩]]』と区別するため「'''もうじ'''」と発音し、人名は「'''もうし'''」と発音するのが日本での習慣であったが、近年は書名の場合でも「もうし」と発音することが多い<ref>現代[[中国語]]では、「孟子」は「モンズー Mèngzǐ」、『毛詩』は「マオシー Máoshī」と発音するため、混同はない。</ref>。
{{Wikiquote|孟子}}
『孟子』の注を書いた後漢の[[趙岐]]は、『孟子』は孟子の引退後に、彼が弟子の公孫丑・萬章らと共に問答を集め、また規則の言葉を選んで編集したと記載している<ref>趙岐『孟子題辭』「是ニ於テ退キテ高弟弟子公孫丑・萬章ノ徒ト、疑ヲ難キ問ニ答ヘシ所ヲ論集シ、又自ラ其ノ法度ノ言ヲ撰ビ、書七篇二百六十一章・三萬四千六百八十五字ヲ著ハス。」</ref>。[[武内義雄]]は孟子自撰説に反対し、孟子の門弟または再伝の弟子くらいの手記をあつめて編纂されたものとする<ref>{{cite book|和書|author=[[小林勝人]]|title=孟子|volume=下|year=1972|publisher=[[岩波文庫]]}}に引く[[武内義雄]]「孟子について」pp.454-457。</ref>。
*「梁恵王章句上・下」
*「公孫丑章句上・下」
*「滕文公章句上・下」
*「離婁章句上・下」
*「萬章章句上・下」
*「告子章句上・下」
*「盡心章句上・下」
の七篇よりなる。
儒教倫理説の根本教義のひとつとされ、[[社会]][[秩序]]の維持のため守るべき5つの[[徳]]として有名な「[[五倫|五倫の道]]」は滕文公上篇に記載されており、[[性善説]]の根拠たるべき道徳学説として知られる[[四端説]]は、公孫丑上篇に記されている。
なお『論語』は孔子が登場しない章も含まれていて、孔子本人と弟子たちの言行録となっているが、『孟子』は全章に孟子本人が登場する。
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=1602&if=gb 『孟子』] (原文、現代中国語版、英語版)
* [http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius.html 孟子を読む(『孟子』の原文と訳の電子化プロジェクト)](白文、現代語訳、解説)
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1,811 | バンダイ | 株式会社バンダイ(英: BANDAI CO., LTD.)は、子供向け玩具、模型、既製服(アパレル)、生活用品等の企画・開発・製造・販売を行う日本の企業。株式会社バンダイナムコホールディングスの完全子会社。コーポレート・メッセージは「夢・クリエイション~楽しいときを創る企業~」。「変身」や「妖怪」を商標登録している。
かつては三和グループのメンバーであり三和系企業で設立されたみどり会のメンバーだったが、2005年、ナムコとの経営統合後にみどり会を退会した。
バンダイグループは、日本国外において、現地の人気キャラクターを盛んに玩具化し、「新 キャプテン・スカーレット」や「バットマン」、「ベン10」などの玩具が現地の子会社を通じて発売されている。
1990年代にスーパー戦隊シリーズを日本国外向けにした作品である「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の玩具をアメリカを始めとする日本国外で発売し、大成功を収めた。以後、『ニンジャスティール』までのパワーレンジャーシリーズの玩具を毎年、発売していたが、2019年4月1日をもってサバン・ブランドとの契約終了により『ビーストモーファーズ』以降の同シリーズの玩具販売はハズブロへ移行した。
2000年代以後はそれらに加えて、現地のキャラクターをアニメ化して展開している。アメリカではアメリカングリーティング社が開発したグリーティングカードのキャラクターである「ストロベリーショートケーキ」を、ヨーロッパではフランスの絵本を題材とした「ベルフラワーバニーズ」などをアニメ化している。
2010年代はアジアでのメディアミックス戦略にも力を入れ、インドネシア向けに石森プロと共同開発した等身大特撮ヒーロー「ガルーダの戦士ビマ」を展開している。これを受け2014年には現地法人BANDAI NAMCO INDONESIAを設立した。この他「アイカツ!」も韓国や台湾、香港、インドネシアでアニメと関連玩具を展開している。
「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の成功に合わせて、ガンダムシリーズなどの日本のキャラクターの玩具も日本国外で発売を行っている。
創業者、山科直治の義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」の玩具部門を譲り受け玩具問屋「萬代屋」として浅草にて創業。「萬代」(万代)とは武経七書の一つに数えられる兵法書「六韜」に登場する語の「萬代不易」(永久不変の意)に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。
当初は萬代産業の余りの布切れで作った人形を販売。その後、1950年初の自社製品のゴムまり「リズムボール」発売、「B26ナイトプレイン」が50万個以上のヒットになり、これ以降、金属玩具を主力とするようになる。輸出が中心で国内には輸出の余りを販売しており、玩具業界では評判が悪かったが国内向けの玩具開発をてがけるようになる。創業〜1960年代当時は、教育のバンダイと言われた。
1961年、社名を萬代屋からバンダイに変更する。玩具メーカーとしては後発であり旧来の玩具業界から反発が強かったため、同じく後発のタカラ(現・タカラトミー)とエポック社と組んで1961年に「玩具三社会」を設立。三社共同の玩具見本市を開催したり、新入社員の研修を合同で行うようになる。後にトミー(現・タカラトミー)とニチガンと学習研究社(現・学研ホールディングス)が加わり「玩具六社会」になる。
1960年代半ばより「クレイジーフォーム」「わんぱくフリッパー」「サンダーバード」などのヒットにより大手に成長する。しかし1968年に提唱した「無返品取引」が「バンダイは返品負担を問屋に押しつけるんだ!」と玩具流通業界の反発にあう。さらに「キャプテンスカーレット」の失敗により、「バンダイ倒産近し」という「黒い噂」が生まれる。それと共にバンダイ不買運動が起こる。
こうした騒動は「無返品取引」を撤回し、さらに「キャプテンスカーレット」の売上不振で倒産した今井科学(イマイ)の業務をバンダイが引き継ぐことで終息した。
1960年代の版権違反問題で大失敗し版権協会から追放され、業績が落ち込んでいたところ、東映の渡邊亮徳が『仮面ライダー』を作る際にバンダイの救済も兼ねる形で、バンダイに子会社を設立させた。それが1971年発足のポピーである。以後ポピーがキャラクター玩具を担う形となり、東映と関係を深めて行きキャラクタービジネスを主軸としたマーチャンダイジングを推進していった。1970年代にポピーは急成長し、売上でバンダイ本社を抜くようになり、ポピー社員はバンダイ社員の羨望をうけることになる。ポピーがバンダイ本社に合併されるまではバンダイ本社はほとんどキャラクター玩具を扱っていなかったため、現在のバンダイのキャラクター玩具はポピーが基盤となっている。
1967年に経営破綻した模型メーカーのコグレのプラモデルの金型を買い取ったことから本社内に模型部を発足。前述の今井科学の静岡工場と金型と社員を買収して、1971年に子会社のバンダイ模型を設立。静岡県の清水工場を拠点にバンダイ模型が企画開発と生産を行い、本社の模型部が営業と販売を行う体制となる。
旧今井製品の再版を土台にスタートしたため「バンダイは倒産した会社の金型を使っている」と業界内での評価は悪く、新製品の開発が急がれミリタリーや自動車の模型などを開発する。特に1/48機甲師団シリーズは手頃な価格と内部構造の再現で、1970年代前半は田宮模型の1/35ミリタリーミニチュアシリーズと並ぶ人気商品となる。また1970年代中頃の一時期、米国モノグラム社の販売代理店となり、同社の優れた1/48航空機キットを全国に低価格で供給した。同じ頃東映の大ヒット映画「トラック野郎」の版権を取得し、主人公の乗った11tトラック「一番星」をモデル化。当初得意の1/48スケールの販売だけだったが、後に全長55センチの超大型1/20スケールのものを発売、25年以上経った現在も販売を継続している。
1977年冬に発売した宇宙戦艦ヤマトでは1/500、1/700等キャラクター系キットに対する初のスケール表示の導入や、艦首を広げたディフォルメモデル、主役メカだけでなく脇役メカや悪役側メカもシリーズに加えるなどの商品展開のディスプレイキットが大ヒットした。それまではゼンマイやモーター駆動による「玩具」色が強かったキャラクター系キットがディスプレイキット主体に転換される結果となった。その商品展開は機動戦士ガンダム関連キット(通称「ガンプラ」)に継承されて1980年代以降の爆発的ヒットにつながり、プラモデルの取扱はキャラクター系キットに特化され、数多くのヒット商品を産み出した。
1978年には、宇宙戦艦ヤマトと超合金ブームの人気を受け、ブルマァクの倒産により商品ライセンスを失った円谷プロダクションのウルトラシリーズ商品ライセンスを獲得する。以後、バンダイのウルトラシリーズは大ヒットしていった。
ポピーは東宝のゴジラシリーズ等の特撮怪獣映画、ウルトラシリーズ等の円谷プロの特撮、そして仮面ライダーシリーズ・スーパー戦隊シリーズ・80年代に始まるメタルヒーローシリーズ等の東映の特撮・アニメをはじめとした、作品の世界観やキャラクターを使用した玩具・雑貨・既製服などを商品化する「キャラクターマーチャンダイジング」ビジネスを得意としていた。仮面ライダーとスーパー戦隊とメタルヒーローでは当初から玩具を手がけていた。
番組企画当初より登場キャラクターのデザイン等への参加および介入することでおよそ1年間の商品販売計画を策定しており、現在のキャラクター玩具ビジネスの基本ラインは、同社のスタイルを踏襲したものが多い。
1980年に山科直治は35歳の長男・山科誠に社長職を譲り会長職に退いた。この時期、バンダイグループは玩具業界一位にまで成長しており、山科直治は「勝負はついた」という趣旨の発言をしている。
山科誠は出版社の編集者を志望していたが、その志望が叶えられなかったことと前述の「黒い噂」の払拭に努めていた時期の山科直治の「長男を入社させるくらいだからバンダイは大丈夫なんだ」というアピールとしてバンダイに入社した。このため玩具事業には興味を持たず、文房具、アパレル、菓子、映像、音楽、パソコン、アミューズメントなど事業の多角化に進むことになる。これは表面上は少子化で玩具事業の成長が見込めないためとされたが、山科誠が玩具事業にいる古参社員を煙たがったためともされている。
一方、1980年代の玩具業界は成長が頭打ちになり、限られたパイを巡って競争が激化、玩具メーカーの倒産も相次ぎ、前述の「玩具六社会」は1984年に解散した。その中でゲーム会社は急成長し任天堂やセガはバンダイの売上を追い抜いた。
この流れに対応し1980年代中盤には独自のテレビゲーム機の販売を行うもファミリーコンピュータ(ファミコン)をはじめとする他社ハードのサードパーティーとしてソフトの製造・販売を手がけるようになる。「なぜ、ファミコンをするのか?」と言われたものの、ファミコン参入第1弾「キン肉マン マッスルタッグマッチ」のヒットで軌道に乗った。
1982年にガンプラの販売において「ヤミ再販」(メーカーが価格を決め、流通業者にそれを守らせること)と「抱き合わせ販売」(ガンダム以外の商品も買わないとガンダムを売らない)を行い守らなかった場合には出荷停止を行ったことが独占禁止法違反にあたるとしてバンダイとポピーは公正取引委員会の立入検査を受けた。1983年に公正取引委員会のヤミ再販排除の勧告を受諾する。しかしもう一つの問題である「抱き合わせ販売」については不問となった。
1983年に株式上場に向けバンダイ本社を存続会社としてグループ8社の合併を行った。
1986年に玩具メーカーとして初めて東証2部上場を果たした。これにより社員たちの中にあった「所詮、俺たちは下町のおもちゃメーカーじゃないか」という卑下する気持ちが払拭できたとある。
なお山科直治は第二次世界大戦で中国に出征しており、「戦時中の贖罪」として1985年に中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。ビジネス上の狙いとしては、円高で日本国内での玩具製造のコストが上がったため、円高の影響がない中国で製造しようということである。これ以降、バンダイは海外生産の比率を上げていくことになり、現在では9割が海外生産である。
1989年の第39回創立記念式典で山科誠は「バンダイランド」の構想を語った。これは、ディズニーを手本としたレジャー施設の構想である。また多角化を一層押し進め、玩具会社から脱皮し、ディズニーのような総合エンタテインメント企業を目指すことも語られた。この「日本のディズニー」という目標は現在のバンダイでも継承されている。同年、提携していたコアランドテクノロジー株式会社を子会社化し、商号を株式会社「バンプレスト」に変更、杉浦幸昌が初代社長になった。ただしこの際に、人的に相当な流出入の変化があったため、バンプレストとコアランドテクノロジーの関係は法人格を引き継いだだけの関係にすぎないと捉える向きもある。
海外では1993年にアメリカ版スーパー戦隊のパワーレンジャーが大ヒットをとばす。しかし前述のようにゲーム機で任天堂やセガに後れをとったと考えたバンダイは1994年に「プレイディア」、1996年に「ピピンアットマーク」を販売するも失敗。これに加え、同時期の玩具事業の不振、スーパーファミコン用ソフトの不振により1997年3月期の連結決算は上場以来初の赤字となる見通しになった。
こうした経営不振から1997年、セガとの間で「セガバンダイ」として合併を行うと発表された。これに関してセガの中山社長は「ピピンが成功していたら合併はなかったろう」としている。逆にセガが弱い低年齢向けのキャラクターで強みがあるバンダイとの合併はセガにとってはメリットがあった。また当時、セガはライバルのSCEにゲーム機戦争で負けつつあり、この合併は「敗者連合」とされた。
しかしバンダイのたまごっちの大ヒットや、バンダイ社内からの反発も強く構想は破談になった。ただこの2要素が破談の「決定的要因ではない」としている。
セガの方が企業規模が大きいうえに「社風が米国流でドライ」であったため、合理化の名の下にリストラ(解雇)の懸念があったのである。またバンダイ系列の問屋を統合して誕生したハピネットでは存続会社のトウショウ社員ばかりが優遇されていた「ハピネットの悪夢」も強く想起され、合併の存続会社がセガである以上、リストラされなかったとしてもバンダイ社員は不遇になるものと思われた。さらに、かつてのバンダイでは考えられなかったが、一流上場企業の社員としての誇りが「セガバンダイ」の名前に強く反発した。また合併反対派が山科直治を取り込んだことも影響した。
この時の責任を取り、山科誠は社長職を辞任して会長に退くも後任の茂木隆は山科誠派で、「山科体制」は維持された。
セガとは合併破談後も業務提携が続けられ、バンダイはしばらくの間、セガのゲーム機向けのソフトを優先的に開発することとなる。
ピピンの事業はその後も続けられたが1998年に撤退、同事業をてがけていたBDE(バンダイ・デジタル・エンタテインメント)は解散する。これに伴って特別損失270億円を計上。このためたまごっちのヒットにより1998年3月期の連結決算は2882億円と過去最高であったにもかかわらず、単独決算では赤字に転落した。
さらにたまごっちの大ブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。単独決算は2期連続の赤字である。この責任を取り、茂木隆は退職。山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。
1999年に山科誠が推進した多角化を放棄し、赤字事業を清算するためにバンダイ入社三年目の高須武男が社長に就任。高須が「泥をかぶった」形で事業の整理が始まる。彼の就任中に音楽、映像、海外販社などの事業は撤退ないし縮小することになる。玩具事業に不慣れな高須武男を山科直治時代からの「大番頭」である杉浦幸昌が会長職から支援した。
同年には携帯ゲーム機市場における任天堂の一強体制を打破すべく、携帯ゲーム機「ワンダースワン」を投入して、一定の成功を収める。
2002年に長さ方向の寸法を短縮した鉄道車両のショーティーモデルの塗装済みキットである「Bトレインショーティー」を発売。同様の鉄道模型に近い商品としてNゲージと同じ縮尺で先頭車両をリアルに模型化した食玩「スタートレイン」やレール幅がZゲージより小さい電池駆動のスケールモデル「ZZ TRAIN」も「Bトレインショーティー」と前後して発売されている。
2003年3月期の連結決算で営業利益と経常利益が過去最高を達成。本物のドラえもんを作る「リアル・ドリーム・ドラえもん・プロジェクト」を開始。一方、2000年に「ワンダースワン」の後継機として登場した「ワンダースワンカラー」は「ファイナルファンタジーシリーズ」が携帯ゲーム機で初めての投入もあってそこそこの人気を得るも、人気ソフトの不足や、任天堂の「ゲームボーイアドバンス」による攻勢によってジリ貧に陥り、2003年に携帯ゲーム機のハード開発から事実上の撤退を表明している。
杉浦幸昌は定年65歳の内規に従い会長職を辞した。彼の引退を記念して以前社長を務めたバンプレストの本社があった千葉県松戸市にあるビルを改装し、バンダイミュージアムとして開館。前述の「バンダイランド」の構想を持っていた同社としては不満の残るものだったものの、特撮ヒーロー関連の展示やガンダムの世界観に基づいた博物館とバーを運営するなどした。2006年8月31日に閉館。2007年4月28日、栃木県壬生町におもちゃのまちバンダイミュージアムとして装いも新たに開館。
また文化事業にも熱心な所を見せ、バブル崩壊後各社が活動を縮小する中で、世界有数のトイ・コレクションを藤田文化財団から譲り受け、軽井沢ワールドトイミュージアム(現在閉館)と栃木県壬生町の新バンダイミュージアムで公開している。同ミュージアムでは19世紀の蒸気機関模型や20世紀初頭の炭鉱模型が展示されている。また、バンダイミュージアムでは玩具だけでなく、エジソンの発明品が一堂に展示されている。
2004年4月、本社ビルを現在の場所へ移転する。この新社屋のエレベーターは4基あり、それぞれバンダイが商品化しているキャラクターの声(まめっち、仮面ライダー1号、アンパンマン、アムロ・レイ)がアナウンスするというユニークな作りになっている。
2005年9月、それまで業務提携などを行ってきたナムコと共同で持株会社を設立し経営統合。前述の高須武男の手腕により「経営は万全」とした上での統合である。持株会社・バンダイナムコホールディングスの子会社となった。この経営統合で誕生した総合アミューズメント(AM)事業グループバンダイナムコグループは、現在ゲーム業界ではソニー、任天堂に次ぐ第3位の事業規模を誇り日本のゲームソフトメーカーでは国内最大手となるまでに成長している。この時は「セガバンダイ」の時と違い、「バンダイナムコ」の名前に対する反発はほとんどなかった。
2006年3月1日、旧イマイ時代からプラモデルを生産していた静岡市清水区の静岡ワークスから静岡市葵区の新工場に移転し、「バンダイホビーセンター」として稼動を開始。開発・設計・金型・生産という、ガンプラに関わる営業とプロモーション以外の分野をまとめて担当し、開発から生産までを施設内に一括することで生産効率と品質の向上が図られている。3月31日、バンダイナムコグループの事業再編の一環として、家庭用ビデオゲーム事業部門をナムコを母体としたゲーム事業部門「バンダイナムコゲームス」へ統合(旧・バンダイゲーム事業部門が手がけるゲームは、2014年まで「バンダイ」レーベルで発売していた)。ちなみに、「アドバンスピコ・ビーナ」(セガトイズ)のサードパーティに関しては、電子玩具としているため、引き続き当社が担当している。それ以降、バンダイは主にトイホビー事業専門の会社組織となった。6月、ウィルコムのW-SIMを使い、子供向けPHS、「キッズケータイpapipo!」を発売した。1997年発売の「たまぴっち」以来のPHS端末の発売であり、これまで発売してきた「メルプチ」の発展版になる。
2008年4月1日、バンダイナムコゲームスがバンプレストを吸収合併しゲームソフト事業とアミューズメント機器事業を継承、プライズ事業(UFOキャッチャーなどの景品の開発・販売)は新会社バンプレストを設立し継承。
2009年4月1日、当社運営のバンダイレーベル専用サイトは、バンダイナムコゲームス公式サイトに統合され、統合前に発売されたゲームタイトルだけは知的財産権も自社で管理していたが、それと同時にバンダイナムコゲームスに引き継がれた。また、バンダイレーベルのゲームタイトルのCMは企業としてのバンダイのCMで製作されていたが、それ以降からバンダイレーベルもバンダイナムコゲームスの自社CMに移行したため、ゲーム事業を完全にバンダイナムコに統合した。4月20日、公式ショッピングサイト「プレミアムバンダイ」を開設。一般流通では販売しづらい商品や大人用アパレル商品などを中心にさまざまな商品展開を実施している。
2018年2月9日、バンダイナムコグループの再編が発表され、ホビー事業部並びにコレクターズ事業部が手がけているハイターゲット向けの玩具、プラモデルの企画・開発・製造・販売などの事業を同年4月1日付で新会社BANDAI SPIRITSへ移管したため、バンダイはトイ事業カンパニー(トイ戦略室、ボーイズ事業部、ガールズ事業部、プリスクール事業部)、ベンディング事業カンパニー(ベンダー事業部、カード事業部)、ライフ事業カンパニー(キャンディ事業部、アパレル事業部、ライフ事業部)の社内カンパニー制を導入した。これにより、コーポレートロゴに関しても差別化が図られ、BANDAI SPIRITSは青色を模ったバンダイロゴ(通称、青バンダイ)を採用した。
トレーディングカードアーケードゲームもここへ置く。
主にバンダイアメリカ製品。
90秒以上の筆頭提供番組でのスポンサー読みは、ポピー時代としては「お子さまに夢と勇気をと願う ポピー」(男児向け)、または「小さな心に夢とロマンをと願う ポピー」(女児向け)のいずれかで、バンダイグループが体制移行した際は「新しい子供文化を創造する バンダイグループ」で、ポピーと合併した1983年から2018年3月までは「楽しいときを創る企業 バンダイ」、2018年度以降は「夢・クリエイション バンダイ」、クレジット表示は「夢・クリエイション BANDAI」。
本項では、1983年に旧ポピーとの合併後に提供した(している)番組を記載。なお便宜上、BANDAI SPIRITS(2018年以降)が「BANDAI」名義でスポンサーについている番組についても記載する。⭐︎があるものは旧ポピー時代から続行の番組(現在終了したものも含む)。なお、2023年9月現在一部製品のCMの最後には、バンダイナムコグループの「BANDAI NAMCO」吹きだしロゴが画面右上もしくは左上に表示されている。
また、特記事項のない不定期での提供や再放送の番組は本項では省略している。
2023年4月現在。
他多数
1995年度から「バンダイこども電話サービス」がスタート。2009年度より「バンダイテレフォンサービス」に改称。2022年現在、男児向け特撮作品(スーパー戦隊シリーズ)や女児向けアニメ(プリキュアシリーズ)作品を中心に主人公が電話で登場している。かつては女児向けアニメとして、「美少女戦士セーラームーンシリーズ」や「夢のクレヨン王国」、「おジャ魔女どれみシリーズ」、「明日のナージャ」の主人公も電話で登場したことがある。 | [
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"text": "1960年代の版権違反問題で大失敗し版権協会から追放され、業績が落ち込んでいたところ、東映の渡邊亮徳が『仮面ライダー』を作る際にバンダイの救済も兼ねる形で、バンダイに子会社を設立させた。それが1971年発足のポピーである。以後ポピーがキャラクター玩具を担う形となり、東映と関係を深めて行きキャラクタービジネスを主軸としたマーチャンダイジングを推進していった。1970年代にポピーは急成長し、売上でバンダイ本社を抜くようになり、ポピー社員はバンダイ社員の羨望をうけることになる。ポピーがバンダイ本社に合併されるまではバンダイ本社はほとんどキャラクター玩具を扱っていなかったため、現在のバンダイのキャラクター玩具はポピーが基盤となっている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1967年に経営破綻した模型メーカーのコグレのプラモデルの金型を買い取ったことから本社内に模型部を発足。前述の今井科学の静岡工場と金型と社員を買収して、1971年に子会社のバンダイ模型を設立。静岡県の清水工場を拠点にバンダイ模型が企画開発と生産を行い、本社の模型部が営業と販売を行う体制となる。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "旧今井製品の再版を土台にスタートしたため「バンダイは倒産した会社の金型を使っている」と業界内での評価は悪く、新製品の開発が急がれミリタリーや自動車の模型などを開発する。特に1/48機甲師団シリーズは手頃な価格と内部構造の再現で、1970年代前半は田宮模型の1/35ミリタリーミニチュアシリーズと並ぶ人気商品となる。また1970年代中頃の一時期、米国モノグラム社の販売代理店となり、同社の優れた1/48航空機キットを全国に低価格で供給した。同じ頃東映の大ヒット映画「トラック野郎」の版権を取得し、主人公の乗った11tトラック「一番星」をモデル化。当初得意の1/48スケールの販売だけだったが、後に全長55センチの超大型1/20スケールのものを発売、25年以上経った現在も販売を継続している。",
"title": "歴史"
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"text": "1977年冬に発売した宇宙戦艦ヤマトでは1/500、1/700等キャラクター系キットに対する初のスケール表示の導入や、艦首を広げたディフォルメモデル、主役メカだけでなく脇役メカや悪役側メカもシリーズに加えるなどの商品展開のディスプレイキットが大ヒットした。それまではゼンマイやモーター駆動による「玩具」色が強かったキャラクター系キットがディスプレイキット主体に転換される結果となった。その商品展開は機動戦士ガンダム関連キット(通称「ガンプラ」)に継承されて1980年代以降の爆発的ヒットにつながり、プラモデルの取扱はキャラクター系キットに特化され、数多くのヒット商品を産み出した。",
"title": "歴史"
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"text": "1978年には、宇宙戦艦ヤマトと超合金ブームの人気を受け、ブルマァクの倒産により商品ライセンスを失った円谷プロダクションのウルトラシリーズ商品ライセンスを獲得する。以後、バンダイのウルトラシリーズは大ヒットしていった。",
"title": "歴史"
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"text": "ポピーは東宝のゴジラシリーズ等の特撮怪獣映画、ウルトラシリーズ等の円谷プロの特撮、そして仮面ライダーシリーズ・スーパー戦隊シリーズ・80年代に始まるメタルヒーローシリーズ等の東映の特撮・アニメをはじめとした、作品の世界観やキャラクターを使用した玩具・雑貨・既製服などを商品化する「キャラクターマーチャンダイジング」ビジネスを得意としていた。仮面ライダーとスーパー戦隊とメタルヒーローでは当初から玩具を手がけていた。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "番組企画当初より登場キャラクターのデザイン等への参加および介入することでおよそ1年間の商品販売計画を策定しており、現在のキャラクター玩具ビジネスの基本ラインは、同社のスタイルを踏襲したものが多い。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1980年に山科直治は35歳の長男・山科誠に社長職を譲り会長職に退いた。この時期、バンダイグループは玩具業界一位にまで成長しており、山科直治は「勝負はついた」という趣旨の発言をしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "山科誠は出版社の編集者を志望していたが、その志望が叶えられなかったことと前述の「黒い噂」の払拭に努めていた時期の山科直治の「長男を入社させるくらいだからバンダイは大丈夫なんだ」というアピールとしてバンダイに入社した。このため玩具事業には興味を持たず、文房具、アパレル、菓子、映像、音楽、パソコン、アミューズメントなど事業の多角化に進むことになる。これは表面上は少子化で玩具事業の成長が見込めないためとされたが、山科誠が玩具事業にいる古参社員を煙たがったためともされている。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "一方、1980年代の玩具業界は成長が頭打ちになり、限られたパイを巡って競争が激化、玩具メーカーの倒産も相次ぎ、前述の「玩具六社会」は1984年に解散した。その中でゲーム会社は急成長し任天堂やセガはバンダイの売上を追い抜いた。",
"title": "歴史"
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"text": "この流れに対応し1980年代中盤には独自のテレビゲーム機の販売を行うもファミリーコンピュータ(ファミコン)をはじめとする他社ハードのサードパーティーとしてソフトの製造・販売を手がけるようになる。「なぜ、ファミコンをするのか?」と言われたものの、ファミコン参入第1弾「キン肉マン マッスルタッグマッチ」のヒットで軌道に乗った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1982年にガンプラの販売において「ヤミ再販」(メーカーが価格を決め、流通業者にそれを守らせること)と「抱き合わせ販売」(ガンダム以外の商品も買わないとガンダムを売らない)を行い守らなかった場合には出荷停止を行ったことが独占禁止法違反にあたるとしてバンダイとポピーは公正取引委員会の立入検査を受けた。1983年に公正取引委員会のヤミ再販排除の勧告を受諾する。しかしもう一つの問題である「抱き合わせ販売」については不問となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "1983年に株式上場に向けバンダイ本社を存続会社としてグループ8社の合併を行った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1986年に玩具メーカーとして初めて東証2部上場を果たした。これにより社員たちの中にあった「所詮、俺たちは下町のおもちゃメーカーじゃないか」という卑下する気持ちが払拭できたとある。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお山科直治は第二次世界大戦で中国に出征しており、「戦時中の贖罪」として1985年に中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。ビジネス上の狙いとしては、円高で日本国内での玩具製造のコストが上がったため、円高の影響がない中国で製造しようということである。これ以降、バンダイは海外生産の比率を上げていくことになり、現在では9割が海外生産である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1989年の第39回創立記念式典で山科誠は「バンダイランド」の構想を語った。これは、ディズニーを手本としたレジャー施設の構想である。また多角化を一層押し進め、玩具会社から脱皮し、ディズニーのような総合エンタテインメント企業を目指すことも語られた。この「日本のディズニー」という目標は現在のバンダイでも継承されている。同年、提携していたコアランドテクノロジー株式会社を子会社化し、商号を株式会社「バンプレスト」に変更、杉浦幸昌が初代社長になった。ただしこの際に、人的に相当な流出入の変化があったため、バンプレストとコアランドテクノロジーの関係は法人格を引き継いだだけの関係にすぎないと捉える向きもある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "海外では1993年にアメリカ版スーパー戦隊のパワーレンジャーが大ヒットをとばす。しかし前述のようにゲーム機で任天堂やセガに後れをとったと考えたバンダイは1994年に「プレイディア」、1996年に「ピピンアットマーク」を販売するも失敗。これに加え、同時期の玩具事業の不振、スーパーファミコン用ソフトの不振により1997年3月期の連結決算は上場以来初の赤字となる見通しになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "こうした経営不振から1997年、セガとの間で「セガバンダイ」として合併を行うと発表された。これに関してセガの中山社長は「ピピンが成功していたら合併はなかったろう」としている。逆にセガが弱い低年齢向けのキャラクターで強みがあるバンダイとの合併はセガにとってはメリットがあった。また当時、セガはライバルのSCEにゲーム機戦争で負けつつあり、この合併は「敗者連合」とされた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "しかしバンダイのたまごっちの大ヒットや、バンダイ社内からの反発も強く構想は破談になった。ただこの2要素が破談の「決定的要因ではない」としている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "セガの方が企業規模が大きいうえに「社風が米国流でドライ」であったため、合理化の名の下にリストラ(解雇)の懸念があったのである。またバンダイ系列の問屋を統合して誕生したハピネットでは存続会社のトウショウ社員ばかりが優遇されていた「ハピネットの悪夢」も強く想起され、合併の存続会社がセガである以上、リストラされなかったとしてもバンダイ社員は不遇になるものと思われた。さらに、かつてのバンダイでは考えられなかったが、一流上場企業の社員としての誇りが「セガバンダイ」の名前に強く反発した。また合併反対派が山科直治を取り込んだことも影響した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "この時の責任を取り、山科誠は社長職を辞任して会長に退くも後任の茂木隆は山科誠派で、「山科体制」は維持された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "セガとは合併破談後も業務提携が続けられ、バンダイはしばらくの間、セガのゲーム機向けのソフトを優先的に開発することとなる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ピピンの事業はその後も続けられたが1998年に撤退、同事業をてがけていたBDE(バンダイ・デジタル・エンタテインメント)は解散する。これに伴って特別損失270億円を計上。このためたまごっちのヒットにより1998年3月期の連結決算は2882億円と過去最高であったにもかかわらず、単独決算では赤字に転落した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "さらにたまごっちの大ブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。単独決算は2期連続の赤字である。この責任を取り、茂木隆は退職。山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1999年に山科誠が推進した多角化を放棄し、赤字事業を清算するためにバンダイ入社三年目の高須武男が社長に就任。高須が「泥をかぶった」形で事業の整理が始まる。彼の就任中に音楽、映像、海外販社などの事業は撤退ないし縮小することになる。玩具事業に不慣れな高須武男を山科直治時代からの「大番頭」である杉浦幸昌が会長職から支援した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "同年には携帯ゲーム機市場における任天堂の一強体制を打破すべく、携帯ゲーム機「ワンダースワン」を投入して、一定の成功を収める。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2002年に長さ方向の寸法を短縮した鉄道車両のショーティーモデルの塗装済みキットである「Bトレインショーティー」を発売。同様の鉄道模型に近い商品としてNゲージと同じ縮尺で先頭車両をリアルに模型化した食玩「スタートレイン」やレール幅がZゲージより小さい電池駆動のスケールモデル「ZZ TRAIN」も「Bトレインショーティー」と前後して発売されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "2003年3月期の連結決算で営業利益と経常利益が過去最高を達成。本物のドラえもんを作る「リアル・ドリーム・ドラえもん・プロジェクト」を開始。一方、2000年に「ワンダースワン」の後継機として登場した「ワンダースワンカラー」は「ファイナルファンタジーシリーズ」が携帯ゲーム機で初めての投入もあってそこそこの人気を得るも、人気ソフトの不足や、任天堂の「ゲームボーイアドバンス」による攻勢によってジリ貧に陥り、2003年に携帯ゲーム機のハード開発から事実上の撤退を表明している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "杉浦幸昌は定年65歳の内規に従い会長職を辞した。彼の引退を記念して以前社長を務めたバンプレストの本社があった千葉県松戸市にあるビルを改装し、バンダイミュージアムとして開館。前述の「バンダイランド」の構想を持っていた同社としては不満の残るものだったものの、特撮ヒーロー関連の展示やガンダムの世界観に基づいた博物館とバーを運営するなどした。2006年8月31日に閉館。2007年4月28日、栃木県壬生町におもちゃのまちバンダイミュージアムとして装いも新たに開館。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また文化事業にも熱心な所を見せ、バブル崩壊後各社が活動を縮小する中で、世界有数のトイ・コレクションを藤田文化財団から譲り受け、軽井沢ワールドトイミュージアム(現在閉館)と栃木県壬生町の新バンダイミュージアムで公開している。同ミュージアムでは19世紀の蒸気機関模型や20世紀初頭の炭鉱模型が展示されている。また、バンダイミュージアムでは玩具だけでなく、エジソンの発明品が一堂に展示されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2004年4月、本社ビルを現在の場所へ移転する。この新社屋のエレベーターは4基あり、それぞれバンダイが商品化しているキャラクターの声(まめっち、仮面ライダー1号、アンパンマン、アムロ・レイ)がアナウンスするというユニークな作りになっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2005年9月、それまで業務提携などを行ってきたナムコと共同で持株会社を設立し経営統合。前述の高須武男の手腕により「経営は万全」とした上での統合である。持株会社・バンダイナムコホールディングスの子会社となった。この経営統合で誕生した総合アミューズメント(AM)事業グループバンダイナムコグループは、現在ゲーム業界ではソニー、任天堂に次ぐ第3位の事業規模を誇り日本のゲームソフトメーカーでは国内最大手となるまでに成長している。この時は「セガバンダイ」の時と違い、「バンダイナムコ」の名前に対する反発はほとんどなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2006年3月1日、旧イマイ時代からプラモデルを生産していた静岡市清水区の静岡ワークスから静岡市葵区の新工場に移転し、「バンダイホビーセンター」として稼動を開始。開発・設計・金型・生産という、ガンプラに関わる営業とプロモーション以外の分野をまとめて担当し、開発から生産までを施設内に一括することで生産効率と品質の向上が図られている。3月31日、バンダイナムコグループの事業再編の一環として、家庭用ビデオゲーム事業部門をナムコを母体としたゲーム事業部門「バンダイナムコゲームス」へ統合(旧・バンダイゲーム事業部門が手がけるゲームは、2014年まで「バンダイ」レーベルで発売していた)。ちなみに、「アドバンスピコ・ビーナ」(セガトイズ)のサードパーティに関しては、電子玩具としているため、引き続き当社が担当している。それ以降、バンダイは主にトイホビー事業専門の会社組織となった。6月、ウィルコムのW-SIMを使い、子供向けPHS、「キッズケータイpapipo!」を発売した。1997年発売の「たまぴっち」以来のPHS端末の発売であり、これまで発売してきた「メルプチ」の発展版になる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2008年4月1日、バンダイナムコゲームスがバンプレストを吸収合併しゲームソフト事業とアミューズメント機器事業を継承、プライズ事業(UFOキャッチャーなどの景品の開発・販売)は新会社バンプレストを設立し継承。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2009年4月1日、当社運営のバンダイレーベル専用サイトは、バンダイナムコゲームス公式サイトに統合され、統合前に発売されたゲームタイトルだけは知的財産権も自社で管理していたが、それと同時にバンダイナムコゲームスに引き継がれた。また、バンダイレーベルのゲームタイトルのCMは企業としてのバンダイのCMで製作されていたが、それ以降からバンダイレーベルもバンダイナムコゲームスの自社CMに移行したため、ゲーム事業を完全にバンダイナムコに統合した。4月20日、公式ショッピングサイト「プレミアムバンダイ」を開設。一般流通では販売しづらい商品や大人用アパレル商品などを中心にさまざまな商品展開を実施している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2018年2月9日、バンダイナムコグループの再編が発表され、ホビー事業部並びにコレクターズ事業部が手がけているハイターゲット向けの玩具、プラモデルの企画・開発・製造・販売などの事業を同年4月1日付で新会社BANDAI SPIRITSへ移管したため、バンダイはトイ事業カンパニー(トイ戦略室、ボーイズ事業部、ガールズ事業部、プリスクール事業部)、ベンディング事業カンパニー(ベンダー事業部、カード事業部)、ライフ事業カンパニー(キャンディ事業部、アパレル事業部、ライフ事業部)の社内カンパニー制を導入した。これにより、コーポレートロゴに関しても差別化が図られ、BANDAI SPIRITSは青色を模ったバンダイロゴ(通称、青バンダイ)を採用した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "トレーディングカードアーケードゲームもここへ置く。",
"title": "主な商品"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "主にバンダイアメリカ製品。",
"title": "展開終了した商品"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "90秒以上の筆頭提供番組でのスポンサー読みは、ポピー時代としては「お子さまに夢と勇気をと願う ポピー」(男児向け)、または「小さな心に夢とロマンをと願う ポピー」(女児向け)のいずれかで、バンダイグループが体制移行した際は「新しい子供文化を創造する バンダイグループ」で、ポピーと合併した1983年から2018年3月までは「楽しいときを創る企業 バンダイ」、2018年度以降は「夢・クリエイション バンダイ」、クレジット表示は「夢・クリエイション BANDAI」。",
"title": "提供番組"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "本項では、1983年に旧ポピーとの合併後に提供した(している)番組を記載。なお便宜上、BANDAI SPIRITS(2018年以降)が「BANDAI」名義でスポンサーについている番組についても記載する。⭐︎があるものは旧ポピー時代から続行の番組(現在終了したものも含む)。なお、2023年9月現在一部製品のCMの最後には、バンダイナムコグループの「BANDAI NAMCO」吹きだしロゴが画面右上もしくは左上に表示されている。",
"title": "提供番組"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "また、特記事項のない不定期での提供や再放送の番組は本項では省略している。",
"title": "提供番組"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2023年4月現在。",
"title": "提供番組"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "他多数",
"title": "提供番組"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1995年度から「バンダイこども電話サービス」がスタート。2009年度より「バンダイテレフォンサービス」に改称。2022年現在、男児向け特撮作品(スーパー戦隊シリーズ)や女児向けアニメ(プリキュアシリーズ)作品を中心に主人公が電話で登場している。かつては女児向けアニメとして、「美少女戦士セーラームーンシリーズ」や「夢のクレヨン王国」、「おジャ魔女どれみシリーズ」、「明日のナージャ」の主人公も電話で登場したことがある。",
"title": "電話サービス"
}
] | 株式会社バンダイは、子供向け玩具、模型、既製服(アパレル)、生活用品等の企画・開発・製造・販売を行う日本の企業。株式会社バンダイナムコホールディングスの完全子会社。コーポレート・メッセージは「夢・クリエイション~楽しいときを創る企業~」。「変身」や「妖怪」を商標登録している。 | {{Otheruseslist|玩具事業などを行う日本の企業|その他のバンダイブランドを用いる企業|バンダイナムコグループ|その他|ばんだい}}
{{Pathnav|バンダイナムコホールディングス|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社バンダイ
| 英文社名 = BANDAI CO., LTD.
| ロゴ = [[ファイル:Logo Bandai.svg|100px]]
| 画像 = [[ファイル:Bandai head office building Asakusa 20170519.jpg|250px]]
| 画像説明 = バンダイ本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません -->
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 111-8081
| 本社所在地 = [[東京都]][[台東区]]駒形一丁目4番8号
| 本社緯度度 = 35
| 本社緯度分 = 42
| 本社緯度秒 = 26.2
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139
| 本社経度分 = 47
| 本社経度秒 = 41.2
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 本社地図国コード = JP-13
| 設立 = [[1950年]][[7月5日]](株式会社萬代屋)
| 業種 = その他製品
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = キャラクター事業を根幹とした[[玩具]]、[[模型]]、玩具菓子、[[自動販売機]]用商品、カード、[[アパレル]]、生活用品、文具等の製造販売
| 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] [[竹中一博]]
| 資本金 = 100億円
| 売上高 =
* 1491億5500万円
(2023年3月期)<ref name="fy">{{Cite web |url=https://www.bandai.co.jp/corporate/regal/ |title=第75期(2023年3月期)計算書類 |publisher=株式会社バンダイ |accessdate=2023-11-22}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 =
* 122億4100万円
(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 =
* 134億4600万円
(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 =
* 99億4700万円
(2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 =
* 511億0000万円
(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 =
* 932億3000万円
(2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 =
* 876人
(2023年6月19日現在)
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = 株式会社[[バンダイナムコホールディングス]] 100%
| 主要子会社 = [[メガハウス]] 100%<br />[[プレックス]] 100%
| 関係する人物 = [[山科直治]]<br />[[山科誠]]
| 外部リンク = https://www.bandai.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''株式会社バンダイ'''({{Lang-en-short|BANDAI CO., LTD.}})は、子供向け[[玩具]]、[[模型#概要|模型]]、[[アパレル|既製服]](アパレル)、生活用品等の[[企画]]・[[開発]]・[[製造]]・[[販売]]を行う[[日本]]の[[企業]]。株式会社[[バンダイナムコホールディングス]]の[[完全子会社]]。コーポレート・メッセージは「'''夢・クリエイション~楽しいときを創る企業~'''」。「[[変身]]」や「[[妖怪]]」を[[商標登録]]している。
== 概要 ==
=== 企業系列 ===
かつては[[三和グループ]]のメンバーであり三和系企業で設立された[[みどり会]]のメンバーだったが<ref>[https://web.archive.org/web/20000510211428/http://www.midorikai.co.jp/member.html 2000年5月10日現在のみどり会のメンバー会社一覧]</ref>、2005年、[[バンダイナムコエンターテインメント|ナムコ]]との経営統合後にみどり会を退会した。
=== 日本国外での展開 ===
バンダイグループは、日本国外において、現地の人気キャラクターを盛んに玩具化し、「[[新 キャプテン・スカーレット]]」や「[[バットマン]]」、「[[ベン10]]」などの玩具が現地の子会社を通じて発売されている。
1990年代にスーパー戦隊シリーズを日本国外向けにした作品である「[[マイティ・モーフィン・パワーレンジャー]]」の玩具をアメリカを始めとする日本国外で発売し、大成功を収めた。以後、『[[パワーレンジャー・ニンジャスティール|ニンジャスティール]]』までのパワーレンジャーシリーズの玩具を毎年、発売していたが、2019年4月1日をもって[[サバン・ブランド]]との契約終了により『[[パワーレンジャー・ビーストモーファーズ|ビーストモーファーズ]]』以降の同シリーズの玩具販売は[[ハズブロ]]へ移行した<ref>"[https://www.nydailynews.com/newswires/entertainment/saban-brands-picks-hasbro-power-rangers-toy-licensee-article-1.3825036 Saban Brands picks Hasbro as Power Rangers toy licensee]" (英語). [[デイリーニューズ (ニューヨーク)|デイリーニューズ]]. 2018年2月16日. 2018年4月21日閲覧。</ref>。
2000年代以後はそれらに加えて、現地のキャラクターをアニメ化して展開している。アメリカでは[[:en:American Greetings|アメリカングリーティング]]社が開発した[[グリーティングカード]]のキャラクターである「[[:en:Strawberry Shortcake|ストロベリーショートケーキ]]」を、[[ヨーロッパ]]ではフランスの絵本を題材とした「[[:en:The Bellflower Bunnies|ベルフラワーバニーズ]]」などをアニメ化している。
2010年代はアジアでのメディアミックス戦略にも力を入れ、[[インドネシア]]向けに[[石森プロ]]と共同開発した等身大特撮ヒーロー「[[ガルーダの戦士ビマ]]」を展開している。これを受け2014年には現地法人BANDAI NAMCO INDONESIAを設立した。この他「[[アイカツ!]]」も韓国や台湾、香港、インドネシアでアニメと関連玩具を展開している。
「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の成功に合わせて、[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]などの日本のキャラクターの玩具も日本国外で発売を行っている。
== 歴史 ==
=== 1950年代 ===
創業者、[[山科直治]]の義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」の玩具部門を譲り受け玩具問屋「萬代屋」として浅草にて創業<ref>[https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20210508013/ バンダイ・山科 誠伝 前編 キャラクター商品という“魔物”への賭け 「ビデオゲームの語り部たち」:第22部] [[4Gamer.net]](2021年7月16日)</ref>。「萬代」(万代)とは[[武経七書]]の一つに数えられる[[兵法書]]「[[六韜]]」に登場する語の「'''萬代不易'''」(永久不変の意)に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。
当初は萬代産業の余りの布切れで作った[[人形]]を販売。その後、1950年初の自社製品のゴムまり「リズムボール」発売、「B26ナイトプレイン」が50万個以上のヒットになり、これ以降、金属玩具を主力とするようになる。輸出が中心で国内には輸出の余りを販売しており、玩具業界では評判が悪かったが、国内向けの玩具開発も手がけるようになる。創業から1960年代当時は「教育のバンダイ」と呼ばれた。
=== 1960年代 ===
1961年、社名を萬代屋からバンダイに変更する。玩具メーカーとしては後発であり旧来の玩具業界から反発が強かったため、同じく後発の[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]](現・[[タカラトミー]])と[[エポック社]]と組んで1961年に「玩具三社会」を設立。三社共同の玩具見本市を開催したり、新入社員の研修を合同で行うようになる。後に[[トミー (企業)|トミー]](現・タカラトミー)とニチガンと学習研究社(現・[[学研ホールディングス]])が加わり「玩具六社会」になる。
1960年代半ばより「クレイジーフォーム」「[[わんぱくフリッパー]]」「[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]」などのヒットにより大手に成長する。しかし1968年に提唱した「無返品取引」が「バンダイは返品負担を問屋に押しつける」と玩具流通業界からの反発に遭う。さらに「[[キャプテンスカーレット]]」の失敗により「バンダイ倒産近し」という「黒い噂」が生まれる。それと共にバンダイ不買運動が起こる。こうした騒動は「無返品取引」を撤回し、さらに「キャプテンスカーレット」の売上不振で倒産した[[今井科学]](イマイ)の業務をバンダイが引き継ぐことで終息した。
=== 1970年代 ===
1960年代の版権違反問題で大失敗し版権協会から追放され、業績が落ち込んでいたところ、[[東映]]の[[渡邊亮徳]]が『[[仮面ライダー]]』を作る際にバンダイの救済も兼ねる形で、バンダイに子会社を設立させた。それが[[1971年]]発足の[[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]]である。以後ポピーがキャラクター玩具を担う形となり、東映と関係を深めて行きキャラクタービジネスを主軸としたマーチャンダイジングを推進していった。1970年代にポピーは急成長し、売上でバンダイ本社を抜くようになり、ポピー社員はバンダイ社員の羨望をうけることになる。ポピーがバンダイ本社に合併されるまではバンダイ本社はほとんどキャラクター玩具を扱っていなかったため、現在のバンダイのキャラクター玩具はポピーが基盤となっている。
1967年に経営破綻した模型メーカーのコグレの[[プラモデル]]の金型を買い取ったことから本社内に模型部を発足。前述の今井科学の静岡工場と金型と社員を買収して、1971年に子会社のバンダイ模型を設立。静岡県の清水工場を拠点にバンダイ模型が企画開発と生産を行い、本社の模型部が営業と販売を行う体制となる。
旧今井製品の再版を土台にスタートしたため「バンダイは倒産した会社の金型を使っている」と業界内での評価は悪く、新製品の開発が急がれミリタリーや自動車の模型などを開発する。特に[[機甲師団シリーズ|1/48機甲師団シリーズ]]は手頃な価格と内部構造の再現で、1970年代前半は[[田宮模型]]の1/35[[ミリタリーミニチュアシリーズ]]と並ぶ人気商品となる。また1970年代中頃の一時期、米国[[モノグラム (模型メーカー)|モノグラム]]社の販売代理店となり、同社の優れた1/48航空機キットを全国に低価格で供給した。同じ頃東映の大ヒット映画「[[トラック野郎]]」の版権を取得し、主人公の乗った11tトラック「一番星」をモデル化。当初得意の1/48スケールの販売だけだったが、後に全長55センチの超大型1/20スケールのものを発売、25年以上経った現在も販売を継続している。
1977年冬に発売した[[宇宙戦艦ヤマト]]では1/500、1/700等キャラクター系キットに対する初のスケール表示の導入や、艦首を広げたディフォルメモデル、主役メカだけでなく脇役メカや悪役側メカもシリーズに加えるなどの商品展開のディスプレイキットが大ヒットした。それまでは[[ぜんまいばね|ゼンマイ]]や[[電動機|モーター]]駆動による「[[玩具]]」色が強かったキャラクター系キットがディスプレイキット主体に転換される結果となった<ref group="注">宇宙戦艦ヤマトシリーズも、本放送当時はゼンマイ走行するヤマトやコスモゼロといった旧来のキャラクター系キットのままだったが、その後のブームを支えた高い年齢層のファンの要望に従い、ディスプレイモデルが数多く発売された。</ref>。その商品展開は機動戦士ガンダム関連キット(通称「[[ガンプラ]]」)に継承されて[[1980年代]]以降の爆発的ヒットにつながり、プラモデルの取扱はキャラクター系キットに特化され、数多くのヒット商品を産み出した。
[[1978年]]には、[[宇宙戦艦ヤマト]]と[[超合金 (玩具)|超合金]]ブームの人気を受け、[[ブルマァク]]の倒産により商品ライセンスを失った[[円谷プロダクション]]の[[ウルトラシリーズ]]商品ライセンスを獲得する。以後、バンダイのウルトラシリーズは大ヒットしていった。
ポピーは[[東宝]]の[[ゴジラ]]シリーズ等の[[特撮]][[怪獣映画]]、[[ウルトラシリーズ]]等の[[円谷プロダクション|円谷プロ]]の特撮、そして[[仮面ライダーシリーズ]]・[[スーパー戦隊シリーズ]]・80年代に始まる[[メタルヒーローシリーズ]]等の東映の特撮・アニメをはじめとした、作品の世界観やキャラクターを使用した玩具・雑貨・既製服などを商品化する「キャラクターマーチャンダイジング」ビジネスを得意としていた。仮面ライダーとスーパー戦隊とメタルヒーローでは当初から玩具を手がけていた。
番組企画当初より登場キャラクターのデザイン等への参加および介入することでおよそ1年間の商品販売計画を策定しており、現在のキャラクター玩具ビジネスの基本ラインは、同社のスタイルを踏襲したものが多い。
=== 1980年代 ===
1980年に山科直治は35歳の長男・[[山科誠]]に社長職を譲り会長職に退いた。この時期、バンダイグループは玩具業界一位にまで成長しており、山科直治は「勝負はついた」という趣旨の発言をしている。
山科誠は出版社の編集者を志望していたが、その志望が叶えられなかったことと前述の「黒い噂」の払拭に努めていた時期の山科直治の「長男を入社させるくらいだからバンダイは大丈夫なんだ」というアピールとしてバンダイに入社した。このため玩具事業には興味を持たず、文房具、アパレル、菓子、映像、音楽、パソコン、アミューズメントなど事業の多角化に進むことになる。これは表面上は少子化で玩具事業の成長が見込めないためとされたが、山科誠が玩具事業にいる古参社員を煙たがったためともされている。
一方、1980年代の玩具業界は成長が頭打ちになり、限られたパイを巡って競争が激化、玩具メーカーの倒産も相次ぎ、前述の「玩具六社会」は1984年に解散した。その中でゲーム会社は急成長し[[任天堂]]や[[セガ]]はバンダイの売上を追い抜いた。
この流れに対応し1980年代中盤には独自の[[テレビゲーム]]機の販売を行うも[[ファミリーコンピュータ]](ファミコン)をはじめとする他社ハードの[[サードパーティー]]としてソフトの製造・販売を手がけるようになる。「なぜ、ファミコンをするのか?」と言われたものの、ファミコン参入第1弾「[[キン肉マン マッスルタッグマッチ]]」のヒットで軌道に乗った。
1982年にガンプラの販売において「ヤミ再販」(メーカーが価格を決め、流通業者にそれを守らせること)と「[[抱き合わせ商法|抱き合わせ販売]]」(ガンダム以外の商品も買わないとガンダムを売らない)を行い守らなかった場合には出荷停止を行ったことが独占禁止法違反にあたるとしてバンダイとポピーは公正取引委員会の立入検査を受けた。1983年に公正取引委員会のヤミ再販排除の勧告を受諾する。しかしもう一つの問題である「抱き合わせ販売」については不問となった。
1983年に株式上場に向けバンダイ本社を存続会社としてグループ8社の合併を行った。
1986年に玩具メーカーとして初めて東証2部上場を果たした。これにより社員たちの中にあった「所詮、俺たちは下町のおもちゃメーカーじゃないか」という卑下する気持ちが払拭できたとある。
なお山科直治は第二次世界大戦で中国に出征しており、「戦時中の贖罪」として1985年に中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。ビジネス上の狙いとしては、[[円相場|円高]]で日本国内での玩具製造のコストが上がったため、円高の影響がない中国で製造しようということである。これ以降、バンダイは海外生産の比率を上げていくことになり、現在では9割が海外生産である。
1989年の第39回創立記念式典で山科誠は「バンダイランド」の構想を語った。これは、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]を手本としたレジャー施設の構想である。また多角化を一層押し進め、玩具会社から脱皮し、ディズニーのような総合エンタテインメント企業を目指すことも語られた。この「日本のディズニー」という目標は現在のバンダイでも継承されている。同年、提携していたコアランドテクノロジー株式会社を子会社化し、商号を株式会社「[[バンプレスト]]」に変更、杉浦幸昌が初代社長になった。ただしこの際に、人的に相当な流出入の変化があったため、バンプレストとコアランドテクノロジーの関係は法人格を引き継いだだけの関係にすぎないと捉える向きもある。
=== 1990年代 ===
海外では1993年にアメリカ版[[スーパー戦隊]]の[[パワーレンジャー]]が大ヒットをとばす。しかし前述のようにゲーム機で任天堂やセガに後れをとったと考えたバンダイは1994年に「[[プレイディア]]」、1996年に「[[ピピンアットマーク]]」を販売するも失敗。これに加え、同時期の玩具事業の不振、[[スーパーファミコン]]用ソフトの不振により1997年3月期の連結決算は上場以来初の赤字となる見通しになった。
こうした経営不振から1997年、セガとの間で「セガバンダイ」として[[合併 (企業)|合併]]を行うと発表された<ref>"[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970123/bandai.htm セガとバンダイ、10月1日に合併することを発表、新社名は「セガバンダイ」]". PC Watch. 1997年1月23日. 2012年8月20日閲覧。</ref>。これに関してセガの中山社長は「ピピンが成功していたら合併はなかったろう」としている。逆にセガが弱い低年齢向けのキャラクターで強みがあるバンダイとの合併はセガにとってはメリットがあった。また当時、セガはライバルの[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|SCE]]にゲーム機戦争で負けつつあり、この合併は「敗者連合」とされた。
しかしバンダイの[[たまごっち]]の大ヒットや、バンダイ社内からの反発も強く構想は破談になった。ただこの2要素が破談の「決定的要因ではない」としている。
セガの方が企業規模が大きいうえに「社風が米国流でドライ」であったため、合理化の名の下にリストラ(解雇)の懸念があったのである。またバンダイ系列の問屋を統合して誕生したハピネットでは存続会社のトウショウ社員ばかりが優遇されていた「[[ハピネット]]の悪夢」も強く想起され、合併の存続会社がセガである以上、リストラされなかったとしてもバンダイ社員は不遇になるものと思われた。さらに、かつてのバンダイでは考えられなかったが、一流上場企業の社員としての誇りが「セガバンダイ」の名前に強く反発した。また合併反対派が山科直治を取り込んだことも影響した。
この時の責任を取り、山科誠は社長職を辞任して会長に退くも後任の茂木隆は山科誠派で、「山科体制」は維持された。
セガとは合併破談後も業務提携が続けられ、バンダイはしばらくの間、セガのゲーム機向けのソフトを優先的に開発することとなる。
ピピンの事業はその後も続けられたが1998年に撤退、同事業をてがけていたBDE(バンダイ・デジタル・エンタテインメント)は解散する<ref>"[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980227/bandai.htm バンダイ、ピピンから撤退。BDE清算]". PC Watch. 1998年2月27日. 2012年8月30日閲覧。</ref>。これに伴って特別損失270億円を計上。このためたまごっちのヒットにより1998年3月期の連結決算は2882億円と過去最高であったにもかかわらず、単独決算では赤字に転落した。
さらにたまごっちの大ブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。単独決算は2期連続の赤字である。この責任を取り、茂木隆は退職。山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。
1999年に山科誠が推進した多角化を放棄し、赤字事業を清算するためにバンダイ入社三年目の[[高須武男]]が社長に就任。高須が「泥をかぶった」形で事業の整理が始まる。彼の就任中に音楽、映像、海外販社などの事業は撤退ないし縮小することになる。玩具事業に不慣れな高須武男を山科直治時代からの「大番頭」である杉浦幸昌が会長職から支援した。
同年には[[携帯ゲーム機]]市場における任天堂の一強体制を打破すべく、携帯ゲーム機「[[ワンダースワン]]」を投入して、一定の成功を収める。
=== 2000年代以降 ===
[[ファイル:Mibu Bandai Museum Appearance 1.JPG|thumb|300px|right|おもちゃのまちバンダイミュージアム(壬生町)]]
[[画像:Bandai-Shizuoka.jpg|thumb|300px|right|バンダイホビーセンター(静岡市)]]
2002年に長さ方向の寸法を短縮した[[鉄道車両]]の[[ショーティー]]モデルの塗装済みキットである「[[Bトレインショーティー]]」を発売。同様の鉄道模型に近い商品としてNゲージと同じ縮尺で先頭車両をリアルに模型化した食玩「スタートレイン」やレール幅が[[Zゲージ]]より小さい電池駆動の[[スケールモデル]]「[[ZZ TRAIN]]」も「Bトレインショーティー」と前後して発売されている。
2003年3月期の連結決算で営業利益と経常利益が過去最高を達成。本物の[[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]]を作る「[[リアル・ドリーム・ドラえもん・プロジェクト]]」を開始。一方、2000年に「ワンダースワン」の後継機として登場した「[[ワンダースワンカラー]]」は「[[ファイナルファンタジーシリーズ]]」が携帯ゲーム機で初めての投入もあってそこそこの人気を得るも、人気ソフトの不足や、任天堂の「[[ゲームボーイアドバンス]]」による攻勢によってジリ貧に陥り、2003年に携帯ゲーム機のハード開発から事実上の撤退を表明している。
杉浦幸昌は定年65歳の内規に従い会長職を辞した。彼の引退を記念して以前社長を務めた[[バンプレスト]]の本社があった千葉県松戸市にあるビルを改装し、[[バンダイミュージアム]]として開館。前述の「バンダイランド」の構想を持っていた同社としては不満の残るものだったものの、特撮ヒーロー関連の展示やガンダムの世界観に基づいた博物館とバーを運営するなどした。[[2006年]]8月31日に閉館。[[2007年]]4月28日、栃木県壬生町に[[おもちゃのまちバンダイミュージアム]]として装いも新たに開館。
また文化事業にも熱心な所を見せ、[[バブル崩壊]]後各社が活動を縮小する中で、世界有数のトイ・コレクションを藤田文化財団から譲り受け、[[軽井沢ワールドトイミュージアム]](現在閉館)と栃木県壬生町の新[[おもちゃのまちバンダイミュージアム|バンダイミュージアム]]で公開している。同ミュージアムでは19世紀の[[蒸気機関]]模型や20世紀初頭の炭鉱模型が展示されている。また、バンダイミュージアムでは玩具だけでなく、[[トーマス・エジソン|エジソン]]の発明品が一堂に展示されている。
2004年4月、本社ビルを現在の場所へ移転する。この新社屋のエレベーターは4基あり、それぞれバンダイが商品化しているキャラクターの声([[まめっち]]、[[仮面ライダー#仮面ライダー1号・2号|仮面ライダー1号]]、[[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]]、[[アムロ・レイ]])がアナウンスするというユニークな作りになっている。
2005年9月、それまで業務提携などを行ってきた[[バンダイナムコアミューズメント|ナムコ]]と共同で持株会社を設立し経営統合。前述の高須武男の手腕により「経営は万全」とした上での統合である。[[持株会社]]・[[バンダイナムコホールディングス]]の子会社となった。この経営統合で誕生した総合アミューズメント(AM)事業グループ[[バンダイナムコグループ]]は、現在ゲーム業界ではソニー、任天堂に次ぐ第3位の事業規模を誇り日本のゲームソフトメーカーでは国内最大手となるまでに成長している。この時は「セガバンダイ」の時と違い、「バンダイナムコ」の名前に対する反発はほとんどなかった。
2006年3月1日、旧イマイ時代からプラモデルを生産していた[[静岡市]][[清水区]]の静岡ワークスから静岡市[[葵区]]の新工場に移転し、「[[バンダイホビーセンター]]」として稼動を開始。開発・設計・金型・生産という、ガンプラに関わる営業とプロモーション以外の分野をまとめて担当し、開発から生産までを施設内に一括することで生産効率と品質の向上が図られている。3月31日、バンダイナムコグループの事業再編の一環として、家庭用ビデオゲーム事業部門をナムコを母体としたゲーム事業部門「[[バンダイナムコエンターテインメント|バンダイナムコゲームス]]」へ統合(旧・バンダイゲーム事業部門が手がけるゲームは、2014年まで「バンダイ」レーベルで発売していた)。ちなみに、「[[アドバンスピコ・ビーナ]]」([[セガトイズ]])の[[サードパーティ]]に関しては、電子玩具としているため、引き続き当社が担当している。それ以降、バンダイは主にトイホビー事業専門の会社組織となった。6月、[[ウィルコム]]の[[W-SIM]]を使い、子供向け[[PHS]]、「[[キッズケータイpapipo!]]」を発売した。1997年発売の「たまぴっち」以来のPHS端末の発売であり、これまで発売してきた「メルプチ」の発展版になる。
2008年4月1日、バンダイナムコゲームスがバンプレストを吸収合併しゲームソフト事業とアミューズメント機器事業を継承、プライズ事業(UFOキャッチャーなどの景品の開発・販売)は新会社バンプレストを設立し継承。
2009年4月1日、当社運営のバンダイレーベル専用サイトは、バンダイナムコゲームス公式サイトに統合され、統合前に発売されたゲームタイトルだけは[[知的財産権]]も自社で管理していたが、それと同時にバンダイナムコゲームスに引き継がれた。また、バンダイレーベルのゲームタイトルのCMは企業としてのバンダイのCMで製作されていたが、それ以降からバンダイレーベルもバンダイナムコゲームスの自社CMに移行したため、ゲーム事業を完全にバンダイナムコに統合した。4月20日、公式[[オンラインショッピング|ショッピングサイト]]「プレミアムバンダイ」を開設。一般流通では販売しづらい商品や大人用[[アパレル]]商品などを中心にさまざまな商品展開を実施している。
2018年2月9日、バンダイナムコグループの再編が発表され、ホビー事業部並びにコレクターズ事業部が手がけているハイターゲット向けの玩具、プラモデルの企画・開発・製造・販売などの事業を同年4月1日付で新会社[[BANDAI SPIRITS]]へ移管したため、バンダイはトイ事業カンパニー(トイ戦略室、ボーイズ事業部、ガールズ事業部、プリスクール事業部)、ベンディング事業カンパニー(ベンダー事業部、カード事業部)、ライフ事業カンパニー(キャンディ事業部、アパレル事業部、ライフ事業部)の社内カンパニー制を導入した。これにより、コーポレートロゴに関しても差別化が図られ、BANDAI SPIRITSは青色を模ったバンダイロゴ(通称、'''青バンダイ''')を採用した。
== 沿革 ==
* [[1950年]] - [[山科直治]]が株式会社萬代屋を設立し、社長に就く。
* [[1961年]] - 商号を株式会社バンダイに変更。バンダイ、[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]、[[エポック社]]で「玩具三社会」設立。1965年まで「三社会見本展示会」を東京都内で開催。
* [[1963年]] - バンダイ運輸を設立。玩具三社会に[[トミー (企業)|トミー工業]]と日本玩具株式会社(ニチガン)が加わり、「玩具五社会」になる。運輸部がバンダイ運輸(後の[[バンダイロジパル]])として分社化。バンダイ初のテレビキャラクター商品[[鉄腕アトム]]を発売。
* [[1965年]] - バンダイ創立15周年。会社創立時の「B」ロゴから祝意をモチーフにした『バンザイ』ロゴを導入。<ref>玩具商報1966年1月号</ref>
* [[1967年]] - 経営破綻した模型メーカーのコグレの製品金型を買い取って模型市場へ参入。玩具五社会に[[学研ホールディングス|学習研究社]]が加わり「玩具六社会」になる。
* [[1969年]] - 経営不振に陥った模型メーカーの今井科学の工場と金型を譲り受ける。
* [[1970年]] - バンダイ創立20周年。ジャパン・トンカ設立。
* [[1971年]] - [[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]](ボーイズトイ事業部およびコレクターズ事業部の源流)、バンダイ模型(ホビー事業部の源流)を設立。[[仮面ライダー]]『[[変身ベルト]]』発売。この変身ベルトは、現在以降も継続されている。
* [[1972年]] - 『[[超合金 (玩具)|超合金]][[マジンガーZ]]』発売。
* [[1975年]] - バンダイ創立25周年。
* [[1976年]] - 「うごく絵本」で出版事業に進出。
* [[1977年]] - 『[[ガシャポン]]』発売(カプセル玩具自販機に参入)
* [[1978年]] - バンダイ出版設立。『[[ウルトラシリーズ]]』の商品ライセンスを獲得。玩具自動販売機事業に進出。
* [[1980年]] - バンダイ創立30周年。山科直治が会長に退き、長男の山科誠(現:[[日本BS放送]]社長)が社長に就任。プラスチック製のガンダムプラモデル([[ガンプラ]])を発売し大ブームになる。ジャパン・トンカをマミートに名称変更。
* [[1981年]] - 玩具菓子事業に進出。
* 1981年〜[[1982年]] - 世界各国に相次いで支社を設立する。
* 1982年 - 乗り物変形ロボット玩具シリーズ『[[マシンロボ]]』発売。エモーション ビデオ課設立(後の[[バンダイビジュアル]])。
* [[1983年]] - バンダイを存続会社として、ポピー、バンダイ模型、バンダイ工業、バンダイオーバーシーズ、マミート、セレンテ、バンダイ出版の7社を吸収合併した新生バンダイがスタートする。これをきっかけにして[[コーポレートアイデンティティ|CI]]と、キャッチコピー「夢・クリエイション 楽しいときを創る企業(2018年3月末までメインスポンサーにおける提供時の読み)」<ref>"[https://www.bandai.co.jp/corporate/message/ トップメッセージ]". バンダイ. 2012年12月2日閲覧。</ref>を掲げる。映像ソフト販売子会社としてAE企画(Account Executive Planning、後のバンダイビジュアル)設立。アパレル事業部を設立。
* [[1984年]] - 『[[タマゴラス]]』が発売。ビデオ課がネットワーク フロンティア事業部として分社化。玩具六社会が解散。
* [[1985年]] - バンダイ創立35周年。ファミコンソフト『キン肉マン マッスルタッグマッチ』がミリオンセラーを記録。中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。中国市場に進出。
* [[1986年]] - [[東京証券取引所|東証]]2部に上場。資本金107億9600万円。[[ファミリートレーナー]]を発売。『[[子象物語 地上に降りた天使]]』で映画分野に進出。米玩具大手[[マテル]]社との共同出資でマーバ・コーポレーションを設立。バービーを販売。
* [[1987年]] - [[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]と映像ソフト販売契約を結ぶ([[1989年]]に契約終了)。『[[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]]』聖闘士聖衣大系(セイントクロスシリーズ)がヒットする。タイに合併会社 BANDAI AND K.C. CO., LTD.を設立。[[ミサワホーム]]、[[日本公文教育研究会]]と共同で小型コンピューターの開発会社「コンピュータープレゼンス」を設立。
* [[1988年]] - 東証1部に上場。ネットワーク フロンティア事業部を吸収し、メディア事業部が発足。「[[森は生きている|森は生きている/12カ月のニーナ]]」でミュージカル事業に進出。
* [[1989年]] - AE企画がバンダイビジュアル販売と社名を変更。[[ビートたけし|北野武]]監督のデビュー作『[[その男、凶暴につき]]』を制作。
* [[1990年]] - バンダイ創立40周年。[[文化放送]]からレコード会社、アポロン音楽工業を譲受し『株式会社アポロン』に社名変更
* [[1991年]] - バンダイビジュアル販売がバンダイビジュアルと社名を変更。バンダイ系列の玩具卸3社(トウショウ、セイコー、ダイリン)が合併、トウショウを存続会社にし[[ハピネット]]に社名変更。
* [[1992年]] - メディア事業部の映像ソフト事業をバンダイビジュアルに統合。バンダイ運輸をバンダイロジパルに社名変更。[[クリスマスおもちゃプレゼント大賞]]が12月24日に毎年開催される。
* [[1993年]] - アメリカで『パワーレンジャー』関連商品が大ヒット。
* [[1994年]] - サンライズがグループ企業となる。プレイディアを発売。[[アニメシアターX|バンダイキャラネットTV]]を配信。
* [[1995年]] - バンダイ創立45周年。アメリカに慈善事業であるThe Bandai Foundationを設立。
* [[1996年]] - 公式サイトを開設。ピピンアットマーク、『[[たまごっち]]』発売。バンダイ・シンガポール設立。株式会社アポロンを'''[[バンダイ・ミュージックエンタテインメント]]'''に社名変更(その後2000年に解散、音源はエモーションミュージックに承継し、現在は[[バンダイナムコミュージックライブ]]が管理)
* [[1997年]] - [[ハイパーヨーヨー]]、[[デジタルモンスター]]を発売。[[たまごっち]]の爆発的ヒットにより多くの人々の労働時間を空費させることができたことに対して、企画・開発元の[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]と共同で[[イグノーベル賞]]の経済学賞を受賞。
* [[1998年]] - たまごっちが社会現象にまでなり売上高を大幅に伸ばしたが、機を逸した大増産で供給過多に陥り、ピピンアットマークの販売不振も重なったことで126億円に上る損失を計上し上場以来初の赤字となる。大人向けフィギュア[[S.I.C.]]発売。
* [[1999年]] - [[高須武男]](三和銀行・現[[三菱UFJ銀行]]出身)が社長に就任。携帯ゲーム機[[ワンダースワン]]を発売。
* [[2000年]] - バンダイ創立50周年。[[ワンダースワンカラー]]を発売。キャラクター研究所を設立。[[セイカノート]](現・[[サンスター文具]])がグループ会社になる。
* [[2001年]] - [[葦プロダクション]]がグループ企業となる。※現在は資本関係を解消。
* [[2002年]] - [[ツクダオリジナル]](後の[[パルボックス]]、現在は[[メガハウス]]に統合)がグループ企業に、『[[出撃!マシンロボレスキュー]]』としてマシンロボ復活。ガンダムコレクション(1/400スケール完成品フィギュア)発売。キャラクター研究所が開発した第1号キャラクター『[[くまのがっこう]]』の絵本がブロンズ新社から出版される。同年6月には、[[iモード]]開発者の[[松永真理]]を[[社外取締役]]に迎える。
* [[2003年]] - バンダイ初の[[企業博物館]]『バンダイミュージアム』を[[千葉県]][[松戸市]]に開業(2007年に[[栃木県]][[下都賀郡]][[壬生町]]に移転)
* [[2004年]] - 新本社ビルに移転する。旧本社はバンダイ第2ビルに改称。「[[リアル・ドリーム・ドラえもん・プロジェクト|ドラえもん・ザ・ロボット]]」を発売。子会社のバンプレストが[[遊園地]]「[[浅草花やしき]]」を当時の運営会社トーゴから譲受。
* [[2005年]] - バンダイ創立55周年。社長に[[上野和典]]が就任。[[ピープル (玩具メーカー)|ピープル]]が株式公開([[ジャスダック|JASDAQ]]証券取引所に株式上場)を契機に、資本提携を行いグループ会社入りへ。ナムコと共同持株会社バンダイナムコホールディングスを設立、経営統合。[[データカードダス]]第1号『[[データカードダス ドラゴンボールZ]]』稼働。『[[神羅万象チョコ]]』発売。
* [[2006年]] - ビデオゲーム事業部をバンダイナムコゲームスへ移管。ウルトラシリーズ40周年、たまごっち10周年。
* [[2007年]] - データカードダス『[[大怪獣バトル ULTRA MONSTERS]]』稼働。
* [[2008年]] - [[ティー・ワイ・オー|TYO]]から円谷プロダクションの株式33.4%を取得。翌[[2009年]]には同社から株式15.6%を追加取得、持ち株比率49.0%になる。大人向けアクションフィギュア『[[S.H.Figuarts]]』発売。
* [[2010年]] - バンダイ創立60周年。変身するミニカー『[[ブーブ (玩具)|ブーブ]]』発売。ネットカードダス第1号『[[プロ野球オーナーズリーグ]]』発売。子供向けキャラクターTシャツ『TPETS!』発売。
* [[2011年]] - [[東日本大震災]]により、仙台工場が一時閉鎖。
* [[2012年]] - 新筐体「データカードダスNEO」をリリースし、同年にこの筐体を使用した『[[百獣大戦グレートアニマルカイザー]]』『[[アイカツ!]]』が稼働。『アイカツ!』はメディアミックスを展開し、人気コンテンツとなる。
* [[2013年]] - カード事業部、ベンダー事業部、ライフ事業部の3部門が[[東京スカイツリーイーストタワー]]に移転。
* [[2014年]] - [[レベルファイブ]]開発のゲーム『[[妖怪ウォッチ]]』関連商品を発売し、大ヒットする。
* [[2015年]] - バンダイ創立65周年。社長に[[川口勝]]が就任。
* [[2018年]] - 社内カンパニー制を導入。同時にフィギュア・プラモデル等のハイターゲット向け事業を分割し、[[BANDAI SPIRITS]]に事業譲渡<ref>[https://www.bandainamco.co.jp/files/HP20180221E59084E383A6E3838BE38383E38388E4B8BBE5B9.pdf バンダイナムコグループ主要会社の機構改革及び執行役員・部長職人事について] バンダイナムコホールディングス 2018年2月21日</ref><ref>[https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/6083?entry_id=5501 子会社の組織再編について] バンダイナムコホールディングス 2018年2月9日</ref><ref>[https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/file/view/6081?entry_id=5499 バンダイナムコグループ中期計画(2018年4月~2021年3月) CHANGE for the NEXT 挑戦・成長・進化] バンダイナムコホールディングス 2018年2月9日</ref>。
* [[2020年]] - バンダイ創立70周年。
* [[2021年]] - 社長に[[竹中一博]]が就任。カンパニー制を廃止しディビジョン制に移行<ref>[https://www.bandainamco.co.jp/cgi-bin/releases/index.cgi/press/10191?entry_id=7084 バンダイナムコグループ主要会社の機構改革および執行役員・部長職の人事について] バンダイナムコホールディングス 2021年2月19日</ref>。
* [[2025年]] - バンダイ創立75周年(予定)。
== 商品 ==
=== 主な現行商品 ===
==== キャラクター玩具 ====
* ガンダムシリーズ関連の玩具
* ソフトビニール人形
** [[ライダーヒーローシリーズ]]
** [[ムービーモンスターシリーズ]]
** [[ウルトラ怪獣シリーズ]]
** ウルトラヒーローシリーズ
* [[変身ベルト]]
* [[超合金 (玩具)|超合金]] - 現在はトイ事業カンパニー取扱の製品のみ。
* [[S.I.C.]]
* [[マスクコレクション]]
* [[ポケモンキッズ]]
==== オリジナル玩具 ====
* [[マシンロボ]]シリーズ
** ユニトロボーン
* [[タマゴラス]]シリーズ
* [[たまごっち]]シリーズ
* [[デジタルモンスター]]シリーズ
* [[プリモプエル]]
* [[∞にできるシリーズ]]
==== トレーディングカード ====
[[トレーディングカードアーケードゲーム]]も含む。
* [[カードダス]]
** [[データカードダス]] - 現在稼働中のタイトルについては[[データカードダス#稼働中タイトル]]を参照。
* [[バトルスピリッツ]]
* [[ONE PIECE#玩具|ワンピーストレーディングカードゲーム]]
==== その他 ====
* [[ガシャポン]] - カプセル自販機
* スマートパンツ
* [[化粧品]]
** Creer Beaute(クレアボーテ)- [[ベルサイユのばら]]や[[ルパン三世]]とのコラボ化粧品を販売している。
** [[トロピカル〜ジュ!プリキュア#コスメ商品・食品・その他|Pretty Holic]](プリティホリック) - 『[[プリキュアシリーズ]]』の子ども向けコスメを販売している。
=== BANDAI SPIRITSへ移管された部門 ===
; キャラクター玩具
* [[ガンプラ]]
* [[ROBOT魂]]
* [[S.H.Figuarts]]
* [[聖闘士聖衣神話]]
* [[超合金 (玩具)|超合金]] - 旧ホビー事業部取扱の製品のみ。
* [[PROPLICA]]
; 鉄道模型
* [[Bトレインショーティー]]
=== 展開終了した商品 ===
==== 玩具 ====
* エアポートシリーズ
* [[ポピニカ]]シリーズ
* [[ジャンボマシンダー]]シリーズ
* ピースメーカー
* プラデラシリーズ
* [[マシンロボ]]シリーズ
** [[マシンロボ 600]]
** [[CGロボ]]
** [[出撃!マシンロボレスキュー|マシンロボレスキュー]]
** [[マシンロボ ムゲンバイン]]シリーズ
** [[ムゲンバインビルド合体]]シリーズ
* デジロボ・トキマ
* 機甲錠人メタルジョー
* ロボット電卓・ロボロイド
* パズルカル(パズル電卓。1988年グッドデザイン賞・受賞。)
* テレビパワーシリーズ
* [[リアルロボットレボリューション]]
* レボルト
* [[装着変身]]シリーズ - 現在は[[S.H.Figuarts]]へ移行
* [[ウルトラコイン伝説]]
* [[聖闘士聖衣大系]] - 現在は[[聖闘士聖衣神話]]シリーズへ移行。
* [[京本コレクション]] - [[京本政樹]]監修のウルトラマン・仮面ライダーの巨大フィギュア
* ソフビ魂シリーズ
* [[ナックルファイター]]
* ディスクファイター
* [[パームトップウォーカー]]
* ワンダーボーグ
* B TRAIN(ビートレイン)、B TRAIN MINI(ビートレインミニ) - [[ダイキャスト]]成形の鉄道玩具
* [[ミニミニレール]]
* [[トレジャーガウスト]]
* [[ヨーカイザー]]
* キーボッツ
* 超機甲爆走ロボトライ
* [[クラッシュギア]]
* [[バクシード]]
* 化石錬成ゼルゲノム
* [[20Q]]
* [[スペースワープ]]
* [[VARSX]]
* スタートレイン
* Press Hard
* [[ant's life studio]]
* モービルタウン
* [[ハイパーヨーヨー]]
* [[超造形魂]]
* [[ケンダマクロス]]
* もじバケる
* [[ブーブ (玩具)|ブーブ]]
* [[バトルブレイク]]
* ホンモノピラフレッスン
* あわ曜日
* 破幻のジスタ
* [[ここたま|ここたまシリーズ]]
* [[ラディアン]]
* メガブロック
* アニマギア
* ガンダムシリーズ玩具
** [[元祖SDガンダム]]
** [[タマロイド 超Cガンダム]]
** [[SDガンダムフルカラー]]
** [[MOBILE SUIT IN ACTION!!]] - 現在は「ROBOT魂」シリーズへ移行
* [[リンキーココ]]
==== テレビゲーム機 ====
* [[インテレビジョン]]([[マテル|マテル社]]からの輸入販売)
* [[アルカディア (ゲーム機)|アルカディア]]
* [[光速船]]
* [[RX-78 (パソコン)|RX-78 GUNDAM]]([[ゲームパソコン]])
* [[てれびっこ]]
* [[プレイディア]]
* [[ピピンアットマーク]]
; ゲームソフト
* [[ファミリーコンピュータ|FC]]、[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|FCD]]、[[ゲームボーイ|GB]]、[[バーチャルボーイ|VB]]、[[ゲームボーイアドバンス|GBA]]、[[ニンテンドーDS|DS]]、[[スーパーファミコン|SFC]]、[[NINTENDO64|N64]]、[[ニンテンドーゲームキューブ|GC]]、[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]、[[メガドライブ|MD]]、[[ゲームギア|GG]]、[[セガサターン|SS]]、[[ドリームキャスト|DC]]、[[PlayStation 2|PS2]]、[[3DO]]、[[Microsoft Windows|Win]]など
; ゲーム周辺機器
* スーパーコントローラー(FC)
* スーパーコントローラー2(FC)
* [[ファミリートレーナー]](FC)
* ファミリートレーナー吸音マット(FC)
* [[スーファミターボ]](SFC)
* キッズステーション(PS)
; 電子ゲーム
* コンピュータ・ウォーゲームシリーズ - 複雑な計算を瞬時に判定する[[マイコン]](専用の自動判定機)を使用した誰にでも手軽にシミュレーションを楽しめるタイプのゲームシリーズ。
** 01
** 02
** 03 ゴジラ GODZILLA
* LCD GAME DIGITALシリーズ
* テクトロンシリーズ
* サウンドバトラー
* [[ワンダースワン]]
** [[ワンダースワンカラー]]
** [[スワンクリスタル]]
* デジタルペット系ゲーム
** [[レジェンズ (ウィズ)|レジェンズ]]
** [[陰陽闘神機]]
==== トレーディングカードゲーム ====
{{Main2|データカードダスの稼働終了タイトルについては「[[データカードダス#稼働終了タイトル]]」を}}
* ネットカードダス
** [[プロ野球オーナーズリーグ]]
** [[Panini Football League]]
** ガンダムデュエルカンパニー
* [[ガンダムウォー]]
**[[ガンダムウォーネグザ]]
* [[クルセイドシステムカードシリーズ]]
* [[ミラクルバトルカードダス]]
* [[レンジャーズストライク]]
* [[妖怪ウォッチ#TCG|妖怪ウォッチ とりつきカードバトル]]
* [[神羅万象チョコ]] - 食玩(カード入り菓子)であるが便宜的にここへ置く。
* [[超獣戯牙ガオロードチョコ]] - 同上。
==== 輸入玩具 ====
主にバンダイアメリカ製品。
* [[獣旋バトル モンスーノ]]
* キャプテンパワー([[マテル]])
==== その他 ====
* [[レコード#その他|8盤]]
* デチョンパシリーズ - キャラクター型腕時計。
* [[バンダイifシリーズ]] - [[ウォーシミュレーションゲーム]]
* バンダイDoシリーズ - [[テーブルトークRPG]]
* バンダイHOゲージ - [[HOゲージ]][[鉄道模型]]のトータルセット。
* [[ハコビジョン]]
=== コンピュータゲームソフト ===
{{Main|Category:バンダイのゲームソフト}}
== 提供番組 ==
90秒以上の筆頭提供番組でのスポンサー読みは、ポピー時代としては「お子さまに夢と勇気をと願う ポピー」(男児向け)、または「小さな心に夢とロマンをと願う ポピー」(女児向け)のいずれかで、バンダイグループが体制移行した際は「新しい子供文化を創造する バンダイグループ」で、ポピーと合併した1983年から2018年3月までは「楽しいときを創る企業 バンダイ」、2018年度以降は「夢・クリエイション バンダイ」、クレジット表示は「'''{{color|red|夢}}{{color|navy blue|・}}{{color|red|クリ}}{{color|orange|エ}}{{color|lime|イ}}{{color|green|シ}}{{color|blue|ョ}}{{color|navy blue|ン}} {{color|red|BANDAI}}'''」<ref group="注">大半の作品は無地だが、[[日本BS放送|BS11]]『[[アニメ+]]』ではキャッチコピーが黒文字、ロゴがカラー表記、『[[ウルトラマンティガ]]』『[[ウルトラマンダイナ]]』『[[ウルトラマンガイア]]』の地上波本放送ではロゴとキャッチコピーが全てカラー表記となる。但し「・」についてはティガとダイナ、ガイアで表記が異なる。</ref>。
本項では、1983年に旧ポピーとの合併後に提供した(している)番組を記載。なお便宜上、[[BANDAI SPIRITS]](2018年以降)が「BANDAI」名義でスポンサーについている番組についても記載する。⭐︎があるものは旧ポピー時代から続行の番組(現在終了したものも含む)。なお、2023年9月現在一部製品のCMの最後には、バンダイナムコグループの「BANDAI NAMCO」吹きだしロゴが画面右上もしくは左上に表示されている<ref group="注">玩具パッケージでは2022年度以降発売の一部製品より表記されている。</ref>。
また、特記事項のない不定期での提供や再放送の番組は本項では省略している。
=== 現在 ===
2023年4月現在。
* [[日本テレビ]]系列
** [[それいけ!アンパンマン]](一部地域除く)
* [[テレビ朝日]]系列
<!--- /** [[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]、不定期提供なので、コメントアウト。--->
** [[ニチアサキッズタイム]]
*** [[プリキュアシリーズ]]([[朝日放送テレビ]]制作)
*** [[仮面ライダーシリーズ]]([[仮面ライダークウガ]]以降)
*** [[スーパー戦隊シリーズ]]☆
* [[TBSテレビ|TBS]]系列
** [[毎日放送制作日曜夕方5時枠のアニメ|日5]]([[毎日放送]]製作、一部の作品のみ)
* [[テレビ東京]]系列
** [[おはスタ]]
** [[ウルトラシリーズ]]([[ウルトラマン列伝]]以降)
* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列
** [[逃走中 グレートミッション]]
** [[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]]
* [[テレビ神奈川|tvk]]
** [[関内デビル]]
=== 過去 ===
* 日本テレビ系列
** [[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]]
** [[ぴえろ魔法少女シリーズ]]
** [[星雲仮面マシンマン]]
** [[兄弟拳バイクロッサー]]
** [[蒼き流星SPTレイズナー]]
** [[星銃士ビスマルク]]
** [[忍者戦士飛影]]
** [[結界師 (アニメ)|結界師]](読売テレビ制作)
* テレビ朝日系列
** [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]](番組自体は第2期として継続中)<ref group="注">1990年初頭にスポンサーから撤退。ただし、現在も不定期にスペシャル版の場合のみ後半のメインスポンサーとなる場合がある。</ref>☆
** [[メタルヒーローシリーズ]]☆
** [[チンプイ]]
** [[藤子不二雄ワイド]]→[[藤子不二雄ワールド]]
** [[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]]
** [[悪魔くん]]
** [[キャプテンパワー]]
** [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]シリーズ
** [[SLAM DUNK]]
** [[キューティーハニーF]]
** [[マシュランボー]]<ref group="注">番組休止時は、[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|プロ野球中継]]や「[[わらいのじかん|わらいのじかん2]]」の2時間スペシャルの18時台後半のパートなどに振替提供したケースがあった。</ref>
** [[スティッチ!]]
** [[デジモンクロスウォーズ]]
** [[のたり松太郎|暴れん坊力士!!松太郎]]
** [[ワールドトリガー]](第1期のみ)
** [[機動戦士Vガンダム]]
** [[機動武闘伝Gガンダム]]
** [[新機動戦記ガンダムW]]
** [[機動新世紀ガンダムX]]
** [[朝日放送テレビ]]制作のアニメ
*** [[とんがり帽子のメモル]]
*** [[まじかる☆タルるートくん]]
*** [[夢のクレヨン王国]]
*** [[おジャ魔女どれみ]]シリーズ
*** [[明日のナージャ]]
** [[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]制作のアニメ
*** [[戦闘メカ ザブングル]]
*** [[聖戦士ダンバイン]]<ref group="注">後半以降は筆頭提供。前半の筆頭提供だったクローバーの倒産により、同社の筆頭提供枠を受け継ぐ形で緊急参入。</ref>
*** [[重戦機エルガイム]]
*** [[機動戦士Zガンダム]]
*** [[機動戦士ガンダムZZ]]
*** [[機甲戦記ドラグナー]]
*** [[かいけつゾロリ]]→[[まじめにふまじめ かいけつゾロリ]]
*** [[古代王者 恐竜キング Dキッズ・アドベンチャー]]
*** [[バトルスピリッツ]]シリーズ
*** [[トライブクルクル]]
*** [[ヘボット!]]
* TBS系列
** [[ウルトラシリーズ]]([[ウルトラマンメビウス]]まで)☆
** [[仮面ライダーシリーズ]]([[毎日放送]]制作、[[仮面ライダーBLACK RX]]まで)☆
** [[コジコジ|さくらももこ劇場 コジコジ]]
** [[毎日放送]]制作のアニメ
*** [[3丁目のタマ うちのタマ知りませんか?]]
*** [[超時空騎団サザンクロス]]
*** [[超獣機神ダンクーガ]]
*** [[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]
**** [[機動戦士ガンダムSEED]]
**** [[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]
**** [[機動戦士ガンダム00]]
**** [[機動戦士ガンダムAGE]]
**** [[ガンダム Gのレコンギスタ]]
**** [[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ]]
**** [[機動戦士ガンダム 水星の魔女]]
*** [[交響詩篇エウレカセブン]]
*** [[呪術廻戦 (アニメ)|呪術廻戦]]
* テレビ東京系列
** [[ぐリンちょリンぱリン]]
** [[ハローキティとバッドばつ丸]]→[[キティズパラダイス]]シリーズ
** [[NG騎士ラムネ&40]]
** [[VS騎士ラムネ&40炎]]
** [[疾風!アイアンリーガー]]
** [[遊☆戯☆王デュエルモンスターズ]](一時期のみ)
** [[ラブひな]]
** [[しあわせソウのオコジョさん]]
** [[NARUTO -ナルト- (アニメ)|NARUTO -ナルト-]]
** [[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]]
** [[BLEACH (アニメ)|BLEACH]]
** [[焼きたて!!ジャぱん]]
** [[ギャラリーフェイク]]
** [[うえきの法則]]
** [[甲虫王者ムシキング|甲虫王者ムシキング〜森の民の伝説〜]]
** [[創聖のアクエリオン]]
** [[ふしぎ星の☆ふたご姫]]→[[ふしぎ星の☆ふたご姫 Gyu!]]
** [[武装錬金]]
** [[.hack//Roots]]
** [[ゼーガペイン]]
** [[銀魂 (アニメ)|銀魂]]
** [[出ましたっ!パワパフガールズZ]]
** [[デルトラクエスト]]([[テレビ愛知]]制作)
** [[ケータイ捜査官7]]
** [[ジュエルペット|ジュエルペットシリーズ]]
** [[たまごっち!]]シリーズ
** [[アイカツ!]]シリーズ
** [[ガイストクラッシャー]]→[[ガイストクラッシャー|ガイストクラッシャー ゴッド編]]
** [[妖怪ウォッチ (アニメ)|妖怪ウォッチ]]
*** [[妖怪ウォッチ シャドウサイド]]
*** [[妖怪ウォッチ!]]
*** [[妖怪学園Y 〜Nとの遭遇〜]]
*** [[妖怪ウォッチ♪]]
** [[ディスク・ウォーズ:アベンジャーズ]]
** [[マジンボーン]]
** [[かみさまみならい ヒミツのここたま]]→[[キラキラハッピー★ ひらけ!ここたま]]
** [[デジモンユニバース アプリモンスターズ]]
** [[ポチっと発明 ピカちんキット|ピカっと解決 ピカちんハンター]]→[[ポチっと発明 ピカちんキット]]
** [[SPY×FAMILY]]
* フジテレビ系列
** [[Dr.スランプ アラレちゃん]]☆
** [[東映不思議コメディーシリーズ]](一部の作品除く)☆
** [[未来警察ウラシマン]]
** [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]
** [[∀ガンダム]]
** [[ドラゴンボール (アニメ)|ドラゴンボール]]
*** [[ドラゴンボールZ]]
*** [[ドラゴンボールGT]]
*** [[ドラゴンボール改]]
*** [[ドラゴンボール超]]
** [[デジタルモンスター|デジモンシリーズ]]
*** [[デジモンアドベンチャー]]
*** [[デジモンアドベンチャー02]]
*** [[デジモンテイマーズ]]
*** [[デジモンフロンティア]]
*** [[デジモンセイバーズ]]
*** [[デジモンアドベンチャー:]]
** [[HUNTER×HUNTER]](1999年版)
** [[金色のガッシュベル!!]]
** [[トリコ]]
** [[のだめカンタービレ]]
** [[鬼滅の刃 (アニメ)|鬼滅の刃]]([[FNN]]全国ネットのみ)
** [[レ・ミゼラブル 少女コゼット]]([[BSフジ]])
** [[+Ultra]]
*** [[BEASTARS]]
*** [[BNA ビー・エヌ・エー]]
*** [[空挺ドラゴンズ]]
*** [[キャロル&チューズデイ]]
*** [[INGRESS THE ANIMATION]]
他多数
== VTuber ==
; DJマロンとMCズイミー
: 2019年3月12日よりYouTubeバンダイ公式チャンネルとワンダースクールで活動を開始した[[バーチャルYouTuber]]。おもちゃ紹介やミニアニメも配信している。2019年12月3日より新キャラクターの声優オーディション募集<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=000001926.000001594&g=prt チャンネル登録60万人の「バンダイ公式Youtubeチャンネル」で声優デビュー!新キャラクター声優オーディションをLINE LIVEで開催] 時事ドットコム 2019年12月3日{{リンク切れ|date=2020年8月}}</ref>。
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">ミニアニメ</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{| class="wikitable" style="font-size:small" border="1"
!話数!!サブタイトル!!配信日
|-
!colspan="3"|おちゃのこシャインシャイン
|-
|第1話||夏休みが終わっちゃった||2019年9月20日
|-
|第2話||寝れない||9月27日
|-
|第3話||学校でうんち||10月4日
|-
|第4話||国語の授業で…||10月11日
|-
|第5話||メロンが食べたい!||10月18日
|-
|第6話||門限がはやい||10月25日
|-
|第7話||消えた栗||11月1日
|-
|第8話||足が速くなりたい||11月9日
|-
|第9話||好きな人を…||11月15日
|-
|第10話||大人になりたい||11月22日
|-
|第11話||大きな夢||11月29日
|-
|第12話||せいでんきが怖い||12月6日
|-
|第13話||クリスマスプレゼント||12月13日
|-
|第14話||おちゃのこクリスマス||12月20日
|-
|第15話||冬休みって最高じゃん||12月27日
|-
|第16話||2020年もよろしく!!||2020年1月3日
|-
|第17話||カレーがたべたい!!!||1月10日
|-
|第18話||トイレの奥に誰かいる…||1月17日
|-
|第19話||わすれもの||1月24日
|-
|第20話||けんか||1月31日
|-
|第21話||かわいいペンケースがほしい||2月7日
|-
|第22話||あげぱんの砂糖||2月14日
|-
|第23話||アイスがたべたい||2月21日
|-
|第24話||遅刻||2月28日
|-
|第25話||引越し||3月6日
|-
|第26話||好きな人へのプレゼント||3月13日
|-
|第27話||コーヒー||3月20日
|-
|第28話||おちゃのこシャインシャイン||3月27日
|-
!colspan="3"|やるシカ!
|-
|第1話||早起き||6月5日
|-
|第2話||明日の準備がめんどくさい||6月12日
|-
|第3話||手洗いがめんどくさい||6月19日
|-
|第4話||喧嘩の仲直り||6月26日
|-
|第5話||ドラキュラがいたら…||7月3日
|-
|第6話||フルーツあめ||7月10日
|-
|第7話||恐竜に追われたら||7月17日
|-
|第8話||夜に口笛を吹くと?||7月24日
|-
|第9話||夏休みの自由研究||7月31日
|-
!colspan="3"|すいきんちかもく!
|-
|第1話||ラーメン星人の夢||8月7日
|-
|第2話||かき氷がたべたい||8月14日
|-
|第3話||人気者になりたい||8月21日
|-
|第4話||アイドルの夢||8月26日
|-
|第5話||恐竜さん、首が長くて困ってます||9月4日
|-
|第6話||ビッグになりたい!||9月11日
|-
|第7話||地味で弱いのはもう嫌だ!||9月18日
|-
|第8話||イメチェンしたい!||9月25日
|-
|第9話||海はとても寒い||10月2日
|}
</div></div>
== 電話サービス ==
1995年度から「'''バンダイこども電話サービス'''」がスタート。2009年度より「'''バンダイテレフォンサービス'''」に改称。2022年現在、男児向け特撮作品([[スーパー戦隊シリーズ]]<ref group="注">「[[超力戦隊オーレンジャー]]」以降。</ref>)や女児向けアニメ([[プリキュアシリーズ]])作品を中心に主人公が電話で登場している。かつては女児向けアニメとして、「[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]シリーズ<ref group="注">「SuperS」より</ref>」や「[[夢のクレヨン王国]]」、「[[おジャ魔女どれみ]]シリーズ」、「[[明日のナージャ]]」の主人公も電話で登場したことがある。
=== 現在サービスを実施するキャラクター ===
* [[王様戦隊キングオージャー]]
* [[ひろがるスカイ!プリキュア]]
=== 過去にサービスを実施していたキャラクター ===
; 1995年度
* [[超力戦隊オーレンジャー]]
* [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーンSuperS]]
; 1996年度
* [[激走戦隊カーレンジャー]]
* [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーンセーラースターズ]]
; 1997年度
* [[電磁戦隊メガレンジャー]]
* [[キューティーハニー#テレビアニメ「キューティーハニーF」|キューティーハニーF]]
; 1998年度
* [[星獣戦隊ギンガマン]]
* [[夢のクレヨン王国]]
; 1999年度
* [[救急戦隊ゴーゴーファイブ]]
* [[おジャ魔女どれみ#『おジャ魔女どれみ』|おジャ魔女どれみ]]
; 2000年度
* [[未来戦隊タイムレンジャー]]
* [[おジャ魔女どれみ#『おジャ魔女どれみ♯(しゃーぷっ)』|おジャ魔女どれみ#]]
; 2001年度
* [[百獣戦隊ガオレンジャー]]
* [[おジャ魔女どれみ#『も〜っと! おジャ魔女どれみ』|も〜っと!おジャ魔女どれみ]]
; 2002年度
* [[忍風戦隊ハリケンジャー]]
* [[おジャ魔女どれみ#『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』|おジャ魔女どれみドッカ〜ン!]]
; 2003年度
* [[爆竜戦隊アバレンジャー]]
* [[明日のナージャ]]
; 2004年度
* [[特捜戦隊デカレンジャー]]
* [[ふたりはプリキュア]]
; 2005年度
* [[魔法戦隊マジレンジャー]]
* [[ふたりはプリキュア|ふたりはプリキュアMax Heart]]
; 2006年度
* [[轟轟戦隊ボウケンジャー]]
* [[ふたりはプリキュアSplash Star]]
; 2007年度
* [[獣拳戦隊ゲキレンジャー]]
* [[Yes!プリキュア5]]
; 2008年度
* [[炎神戦隊ゴーオンジャー]]
* [[Yes!プリキュア5|Yes!プリキュア5GoGo!]]
; 2009年度
* [[侍戦隊シンケンジャー]]
* [[フレッシュプリキュア!]]
; 2010年度
* [[天装戦隊ゴセイジャー]]
* [[ハートキャッチプリキュア!]]
; 2011年度
* [[海賊戦隊ゴーカイジャー]]
* [[スイートプリキュア♪]]
; 2012年度
* [[特命戦隊ゴーバスターズ]]
* [[スマイルプリキュア!]]
; 2013年度
* [[獣電戦隊キョウリュウジャー]]
* [[ドキドキ!プリキュア]]
; 2014年度
* [[烈車戦隊トッキュウジャー]]
* [[ハピネスチャージプリキュア!]]
; 2015年度
* [[手裏剣戦隊ニンニンジャー]]
* [[Go!プリンセスプリキュア]]
; 2016年度
* [[動物戦隊ジュウオウジャー]]
* [[魔法つかいプリキュア!]]
; 2017年度
* [[宇宙戦隊キュウレンジャー]]
* [[キラキラ☆プリキュアアラモード]]
; 2018年度
* [[快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー]]
* [[HUGっと!プリキュア]]
; 2019年度
* [[騎士竜戦隊リュウソウジャー]]
* [[スター☆トゥインクルプリキュア]]
; 2020年度
* [[魔進戦隊キラメイジャー]]
* [[ヒーリングっど♥プリキュア]]
; 2021年度
* [[機界戦隊ゼンカイジャー]]
* [[トロピカル〜ジュ!プリキュア]]
; 2022年度
* [[暴太郎戦隊ドンブラザーズ]]
* [[デリシャスパーティ♡プリキュア]]
== 関連会社等 ==
=== 関連会社 ===
* [[バンダイナムコグループ]]
* [[BANDAI SPIRITS]]
* [[バンダイナムコエンターテインメント]]
* [[東映]]
* [[創通]]
* [[バンダイナムコフィルムワークス]]([[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]])
=== 関連施設等 ===
* [[おもちゃのまちバンダイミュージアム]]
* [[軽井沢ワールドトイミュージアム]]
* [[ガンプラビルダーズワールドカップ]]
* [[Side-B]]
* バンダム牧場 - 創業者の山科直治は、生前[[馬主]]としても活動し、また、[[北海道]][[浦河町]]に牧場を開設し、[[オーナーブリーダー]]としても活動していた。
* [[道の駅ばんだい]] - 2007年に[[福島県]][[磐梯町]]の町長が同名のよしみで社長を訪問したことをきっかけに官民交流が行われたことから、館内にBANDAI製品のコーナーが設置され、大型のガンダムの立像も設置されている。
=== 提携企業等 ===
* [[三和銀行]]
* [[円谷プロダクション]]
* [[小学館]]
* [[マッグガーデン]]
* [[横浜フリューゲルス]] - 1993年から1998年にユニフォーム背番号スポンサー
* [[Q ENTERTAINMENT]]
* [[劇団飛行船]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 猪俣謙次、加藤智『ガンプラ開発真話 そして市場勢力図は塗り替えられた』[[メディアワークス]]、[[2006年]]
* 松本悟、仲吉昭治『俺たちのガンダム・ビジネス』[[日本経済新聞出版社]]、[[2007年]]
== 関連項目 ==
* [[小松崎茂]]
* [[王立宇宙軍 オネアミスの翼]] - 山科誠がスポンサー
* [[イグノーベル賞]]
== 外部リンク ==
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1,812 | 書経 | 『書経』(しょきょう)は、中国古代の歴史書で、伝説の聖人である堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている。『尚書』または単に『書』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある。
内容に違いがある2種類の本文が伝わっており、それぞれを「古文尚書」・「今文尚書」と呼んで区別する。現代に伝わっている「古文尚書」は由来に偽りがあることが断定されているので「偽古文尚書」とも呼ばれる。もともとの「古文尚書」は失われており、現代には伝わっていない。
『書経』は、先秦時代には単に「書」と呼ばれるか、その内容の時代の名を冠して「夏書」「商書」「周書」と呼ばれるのが通例である。漢代に入って『尚書』の名が生じ、広く用いられるようになった。「尚」は「上」に通じる語であるが、その示す意味には古来以下の説がある。
『書経』の名は、南宋に生じたもので、劉欽『書経衍義』や趙若燭『書経箋註精通』といった例がある。明代以後、『書経』という呼び名が普及した。現在は、『書経』と『尚書』の名が併用されている。
『書経』は、現在の形として成立するまでに、非常に複雑な道筋を辿っている。古くから儒教の中で伝統的に唱えられてきた説がある一方で、「疑古」の風潮の中で近年の研究からも様々な説が生まれており、その成立の事情に関しては確固たる決着は見ていない。
『書経』のうち、最も古く成立したと考えられるのは、「周書」のうち西周の文王・周公の訓辞を記録した「五誥」(大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥)の部分である。これらは金文学・考古学の研究から、記録としての確実性も比較的高いことが示されている。但し、金文資料には見えない語句も多く、西周期の同時代資料とみなすことができるわけではない。また、「周書」以前の篇については、周代以後に創作(または脚色)されて作られたものであり、成立自体は先秦に遡るが、史実としての信頼性には欠けるとされる。この説は「加上説」と呼ばれ、顧頡剛・内藤湖南らによって唱えられた。
飯島忠夫は、「堯典」に四つの星、「鳥」「火」「虚」「昴」の記述があることに注目し、天体の位置を計算したところあてはまるのは堯の時代ではなく紀元前4世紀頃の戦国時代初期であると推測した。
『書経』には秦の穆公の記載があるため、全体が一書として成立したのは、早くても秦の穆公が在位を開始した紀元前659年以降である。
古来の通説では、儒教の聖人である孔子が唐虞から秦の穆公までの記録を編纂し、100篇からなる『書経』を作ったとされる。近年の研究では、これは史実であるとは認められないが、『論語』に『書経』の引用が見えることや、孔子の教学として「詩・書・礼・楽」が重視されたことから、孔子の時には何らかの原初的な『書経』は存在していたと考えられる。
『書経』の引用は、先秦の成立とされる書物(『国語』『春秋左氏伝』『孟子』『墨子』『荀子』など)に広く見受けられ、どのような形のものであるかは不明であるが、多くの学者によって『書経』が読まれていたことは確実である。特に、堯・舜・禹に関わる「堯典」「皋陶謨」「禹貢」の三篇は、儒教的古代観を形作る上で大きな役割を果たした。今文二十九篇の全体が、現在と似た形で成書した時期については、『孟子』より後、紀元前3世紀ごろであると考えられる。
先秦時代までに伝えられてきた『書経』は、秦の始皇帝の焚書によって一度失われた。その後、漢代に入り、「今文尚書」と「古文尚書」の二種が再発見され、再び『書経』が世に出ることとなる。
漢代になると儒教が復興し、経書の一つである『書経』も再び重視されるようになった。そのきっかけとなったのは、秦の博士であった伏生(伏勝)が、壁中に隠されていた29篇の『書経』を発見したことである。この『書経』は、漢代の通行字体である隷書体(今文)で書かれていたため、「今文尚書」と呼称される。伏生の一派による『書経』の解釈を示した書として『尚書大伝』があり、その一部が現在に伝わっている。
「今文尚書」は、斉魯において伏生から欧陽生(中国語版)(字は和伯)・張生に伝えられ、欧陽生から兒寛、張生から夏侯都尉に伝えられた。以後も博士の間で伝授され、宣帝の時には欧陽高(中国語版)・夏侯勝(大夏侯)・夏侯建(中国語版)(小夏侯)の三家が学官として立てられた。
漢代、「今文尚書」以外にも『書経』が発見されることがあったが、これらはしばしば漢代の通行字体ではなく、秦代以前の文字で書かれたものであった。これを「古文尚書」と呼ぶ。「今文尚書」は学官に立てられた公的な学問であったため、その師授系統は比較的明白であるが、「古文尚書」は漢代を通して民間で研究が進んだ書であり、歴史書の記述も錯綜している。以下の例がある:
それぞれの本の関係は定かではないが、一般には孔子家伝本・中古文本・孔子壁中本が同一であるとされ、一般に前漢の「古文尚書」というと孔安国・劉向・劉歆に関わるこの本のことを指す。
前漢の宣帝のとき、劉歆が「古文尚書」を学官に立てるよう要求したが、退けられた。この要求は、新の王莽の時に実現したが、その後、後漢の光武帝のときに再度廃された。
後漢においては、「今文尚書」の三家は変わらず学官に立てられ、博士の間で授受された。そのため、代々欧陽氏の学を受けた桓栄・桓郁や鮑永・鮑昱(中国語版)のほか、数多くの学者が「今文尚書」を学んだ。
一方、「古文尚書」も徐々に普及し、学者の間で用いられるようになった。前漢と同様、その授受関係ははっきりしておらず、以下の二つの系統がある:
杜林漆書古文本は「今文尚書」と同じ篇しかなく、実際に馬融・鄭玄が作った注釈は「今文尚書」と同じ篇に対してのみ附されている。ここから、杜林本は実際には孔安国に由来する「古文尚書」そのものではなく、伏生以来の「今文尚書」を古文の字体によって書き直したものではないか、という説もある。
後漢になり、経学がますます盛んになると、今文を主として研究する博士を中心とする学者と、古文を主として研究する民間を中心とする学者に分かれた。それぞれを今文学・古文学と呼ぶ。今文・古文は、もとは字体の差異によるものであるが、学説にも大きな差異が生じるようになった。今文・古文の対立は『詩経』『春秋』などにも存在するが、「今文尚書」と「古文尚書」の対立はその象徴的なものである。こうした学説の分岐を受けて、章帝の建初4年(79年)には、白虎観会議が開催され、白虎通義が編纂されて経義の統一が図られた。また、許慎といった学者は、古文学の立場から『五経異議』を著し、今文説・古文説の学説の相違を整理した。
結局、後漢の末期には馬融・鄭玄らの学問が盛んになり、徐々に古文学が発展した。ただし、孔安国由来の逸書16篇を含んだ「古文尚書」は、いつの間にか伝来を絶ち、西晋の永嘉の乱の頃に失われてしまった。
古文尚書は失われてしまったが、東晋時代の元帝(在位317年 - 323年)の時に豫章内史の梅賾(ばいさく)という人物が、「古文尚書」を発見したとして朝廷に献上した。後に偽作であることが判明しているので、現在ではこの『書経』は「偽古文尚書」(ぎこぶんしょうしょ)と呼ばれる。
この本は「今文尚書」のうち「舜典」を除く28篇(篇を分けると33篇)と、新出の偽作部分である25篇からなるものであり、合計すると劉歆や桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致する。また、注釈として孔安国伝が付され、孔安国の大序と百篇書序が各篇頭につけられているが、これも梅賾による偽作であり、現在では「偽孔伝」と呼ばれる。なお、梅賾本のうち「今文尚書」と重なる28篇(「舜典」を除く)に関しては、漢代から引き継がれた系統のテキストであり、新たに偽作されたものではない。
梅賾本には「舜典」が存在しなかったため、魏の王粛注の「堯典」を二つに分け、後半の「慎徽五典」以下の部分が「舜典」として用いられた。「舜典」には孔伝が存在しないため、王粛注・范寧注が代わりに用いられた。その後、南朝の斉の姚方興がその闕を補う「孔安国伝古文舜典」を献上したが、この本には「慎徽五典」の手前に二十八字が加えられていた。
この梅賾本は、東晋で学官に立てられ、その後も南朝において継続して受容された。北朝では鄭玄注の『尚書』が用いられていたが、梅賾本に注釈をつけた梁の費甝(ひかん)の義疏が隋の劉炫によって受容されると、北朝においても広まった。このとき、劉炫は梅賾本と姚方興本を合わせた本を用い、このテキストが徐々に広がるようになった。唐の『尚書正義』(『五経正義』の一つ)がこの梅賾本と姚方興本を合わせた本を用いたことで、以後はこのテキストの『尚書』が一般的なものとなる。
梅賾本は、それに付された尚書序(孔安国作とされた)によれば、古い科斗文を隸古定によって改めた字体で書かれていたと考えられる。梅賾本は唐の『尚書正義』の材料となったが、天宝3年(744年)、玄宗は古い字体が伝写に誤りが生じやすいとして楷書に改めるよう詔を発し 、これを受けて衛包が改めた 。これを天宝改字あるいは衛包改字と呼ぶ。現在通行のテキストは天宝改字以降のものである。
これ以前の偽古文尚書がうかがえる資料としては、敦煌出土の残巻や、日本に残る唐写本残巻、あるいは後述の日本で書き写された古鈔本がある。これらの資料はその字体の違いから「隷古定尚書」と呼ばれることがある。開成石経以降の刊本を比較すると、単なる文字の置き換えではなく、文章面でも違いがあることが分かっている。
小林信明は、現存する古文尚書に見える字体は説文解字や三体石経と符合する割合が少なく、むしろ郭夢星『漢書古字類』にみえる漢代の字体に似るとして、唐以前の一般通行の字体と考えた。
『書経』に対する文献学的な研究は、特に宋代以後に活発になる。例えば、程頤が金滕篇を、蘇軾が胤征篇・顧命篇を疑った例がある。梅賾によって献上された本が偽作ではないかという説は、南宋の呉棫『書稗伝』によって初めて提唱された。これを承けて、朱熹も書序・孔伝への疑問を示している。
その後、梅賾本が偽作であることについては、元代の呉澄、明代の梅鷟(中国語版)が論証を行った。そして、清の閻若璩が20年の考証の結果を『尚書古文疏証』全八巻にまとめ、25篇は偽古文であると証明した 。
ただし偽作と考えられている25編についても、吉川幸次郎が 「[......]それが僞作であるといふことは、それが何等の意義ももたぬといふことではない。いかにも古代史の資料としては、これは全く無價値のものである。しかし中世以後の社會はこの二十五篇を眞のものと認めて來たのであつて、[......]これらの僞「經」は、或種の學説の根據ともなつてゐる。たとへば「大禹謨」篇の「道心惟微、人心惟危」は宋の「理學」の原理となつた。また「周官」篇は官制に、「胤征」篇は曆法に影響を與へてゐる。 」 と評するように、一定の価値を認める研究者も少なくない。
現行の『書経』は58篇からなる。この各篇は、1書かれた内容の時代によるもの、2書かれた体裁によるもの、3文献学的見地によるもの、の三つの方法による分類が可能である。
「今文尚書」には後に「太誓(泰誓)」が加えられ29篇となった。この「太誓」は漢代に作られた偽書とされる。「偽古文尚書」にある「泰誓」3篇はまたこれとは別の偽書である。
「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅獒」、16.「冏命」であった。
「偽古文尚書」の構成は複雑であるが、その最たるものが「舜典」であり、もともと梅賾本には「舜典」がなく、魏の王粛注本の「堯典」の後半部「慎徽五典...」以下が当てられ、注も王粛注が付けられたという。その後、南朝斉の姚方興が孔安国伝古文「舜典」なるものを献上したが、「慎徽五典」以前に「曰若稽古...」の十二字が多くあったという。現在のものはその後にさらに「濬哲文明...」の十六字が加えられている。他には「皋陶謨」(こうようぼ)の後半部から「益稷」が作られ、「盤庚」は三篇に分けられ、「顧命」後半部から「康王之誥」が作られた。
『書経』のうち「周書」は特に文章が難解であることで知られており、唐の韓愈や清末の王国維といった大学者でさえ、その難解さを嘆いている。このことは、逆に「周書」が『書経』の中で比較的古い姿を留めていることを示す。
『書経』に付けられた注釈としては、以下の例がある。
2008年7月、清華大学は2000枚あまりの戦国時代の竹簡を得た。これは実業家の趙偉国が海外から購入して清華大学に寄贈したもので、「清華簡」と呼ばれる。専門家の鑑定によれば、この竹簡は戦国時代中期から晩期(今から2300-2400年前)の楚のものである。清華簡には『尚書』の多くの篇が含まれており、焚書坑儒以前の写本である。その中のあるものは現行の『尚書』にも存在する篇だが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり 、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば『尚書』の名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文「説命」とはまったく異なる 。
2009年4月現在、清華簡はその1⁄3が初歩的な解読を終えている。2009年までに内容が発表されたものは2種類で、「保訓」と周の武王の時代の楽詩である。「保訓」にはもと題がついておらず、専門家によって本文内容をもとに題がつけられた。内容は周の文王が臨終の際にその子の発(武王)に述べた遺言である。楽詩は周の武王が文王の宗廟で「飲至」の典礼を行うに際し、酒を飲むときにうたう歌で、『楽経』の原文の疑いがある。
今までに整理された清華簡のうち、古代の『尚書』の佚篇の疑いのあるものには「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」がある。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『孟子』に『書』からの引用として引かれている。しかし、『偽古文尚書』ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている。
書経が日本に伝来した年代は明らかではないが、継体天皇の時代に五経博士の段楊爾・高安茂が相次いで来朝したという記録があるため、この際伝来したものといわれる。
「昭和」や「平成」といった日本の元号は、『書経』の中の言葉に典拠がある。「昭和」は『書経』堯典「百姓昭明、協和万邦」に由来し、「平成」は『書経』大禹謨「地平天成」に由来する。但し、『書経』大禹謨は偽作の篇であり、「地平天成」の語はもともと『春秋左氏伝』に基づく言葉である。
これらは同系の写本であり、広橋家が所蔵していた広橋本の一つである。唐の太宗李世民(在位626年 - 649年)の諱を避けていないため、それ以前の伝本をもとに写本したと考えられる。
所々隷書体が使われており、前述の「隷古定尚書」と考えられている。他の唐鈔本や敦煌本に比べて隷書が使われている箇所が多く、現存する最古の鈔本とされている。なお紙背には高辻長成の『元秘抄』が室町時代に書写されている。
南宋刊本のいわゆる越州八行本。淳熙(1174年 - 1189年)前後の両浙東路茶塩司刻本。 | [
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"paragraph_id": 23,
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"text": "この本は「今文尚書」のうち「舜典」を除く28篇(篇を分けると33篇)と、新出の偽作部分である25篇からなるものであり、合計すると劉歆や桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致する。また、注釈として孔安国伝が付され、孔安国の大序と百篇書序が各篇頭につけられているが、これも梅賾による偽作であり、現在では「偽孔伝」と呼ばれる。なお、梅賾本のうち「今文尚書」と重なる28篇(「舜典」を除く)に関しては、漢代から引き継がれた系統のテキストであり、新たに偽作されたものではない。",
"title": "伝来"
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"text": "梅賾本には「舜典」が存在しなかったため、魏の王粛注の「堯典」を二つに分け、後半の「慎徽五典」以下の部分が「舜典」として用いられた。「舜典」には孔伝が存在しないため、王粛注・范寧注が代わりに用いられた。その後、南朝の斉の姚方興がその闕を補う「孔安国伝古文舜典」を献上したが、この本には「慎徽五典」の手前に二十八字が加えられていた。",
"title": "伝来"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "この梅賾本は、東晋で学官に立てられ、その後も南朝において継続して受容された。北朝では鄭玄注の『尚書』が用いられていたが、梅賾本に注釈をつけた梁の費甝(ひかん)の義疏が隋の劉炫によって受容されると、北朝においても広まった。このとき、劉炫は梅賾本と姚方興本を合わせた本を用い、このテキストが徐々に広がるようになった。唐の『尚書正義』(『五経正義』の一つ)がこの梅賾本と姚方興本を合わせた本を用いたことで、以後はこのテキストの『尚書』が一般的なものとなる。",
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"text": "梅賾本は、それに付された尚書序(孔安国作とされた)によれば、古い科斗文を隸古定によって改めた字体で書かれていたと考えられる。梅賾本は唐の『尚書正義』の材料となったが、天宝3年(744年)、玄宗は古い字体が伝写に誤りが生じやすいとして楷書に改めるよう詔を発し 、これを受けて衛包が改めた 。これを天宝改字あるいは衛包改字と呼ぶ。現在通行のテキストは天宝改字以降のものである。",
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"paragraph_id": 27,
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"text": "これ以前の偽古文尚書がうかがえる資料としては、敦煌出土の残巻や、日本に残る唐写本残巻、あるいは後述の日本で書き写された古鈔本がある。これらの資料はその字体の違いから「隷古定尚書」と呼ばれることがある。開成石経以降の刊本を比較すると、単なる文字の置き換えではなく、文章面でも違いがあることが分かっている。",
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"text": "小林信明は、現存する古文尚書に見える字体は説文解字や三体石経と符合する割合が少なく、むしろ郭夢星『漢書古字類』にみえる漢代の字体に似るとして、唐以前の一般通行の字体と考えた。",
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"text": "『書経』に対する文献学的な研究は、特に宋代以後に活発になる。例えば、程頤が金滕篇を、蘇軾が胤征篇・顧命篇を疑った例がある。梅賾によって献上された本が偽作ではないかという説は、南宋の呉棫『書稗伝』によって初めて提唱された。これを承けて、朱熹も書序・孔伝への疑問を示している。",
"title": "伝来"
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"text": "その後、梅賾本が偽作であることについては、元代の呉澄、明代の梅鷟(中国語版)が論証を行った。そして、清の閻若璩が20年の考証の結果を『尚書古文疏証』全八巻にまとめ、25篇は偽古文であると証明した 。",
"title": "伝来"
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"text": "ただし偽作と考えられている25編についても、吉川幸次郎が 「[......]それが僞作であるといふことは、それが何等の意義ももたぬといふことではない。いかにも古代史の資料としては、これは全く無價値のものである。しかし中世以後の社會はこの二十五篇を眞のものと認めて來たのであつて、[......]これらの僞「經」は、或種の學説の根據ともなつてゐる。たとへば「大禹謨」篇の「道心惟微、人心惟危」は宋の「理學」の原理となつた。また「周官」篇は官制に、「胤征」篇は曆法に影響を與へてゐる。 」 と評するように、一定の価値を認める研究者も少なくない。",
"title": "伝来"
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"text": "現行の『書経』は58篇からなる。この各篇は、1書かれた内容の時代によるもの、2書かれた体裁によるもの、3文献学的見地によるもの、の三つの方法による分類が可能である。",
"title": "内容"
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{
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"text": "「今文尚書」には後に「太誓(泰誓)」が加えられ29篇となった。この「太誓」は漢代に作られた偽書とされる。「偽古文尚書」にある「泰誓」3篇はまたこれとは別の偽書である。",
"title": "内容"
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"text": "「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅獒」、16.「冏命」であった。",
"title": "内容"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "「偽古文尚書」の構成は複雑であるが、その最たるものが「舜典」であり、もともと梅賾本には「舜典」がなく、魏の王粛注本の「堯典」の後半部「慎徽五典...」以下が当てられ、注も王粛注が付けられたという。その後、南朝斉の姚方興が孔安国伝古文「舜典」なるものを献上したが、「慎徽五典」以前に「曰若稽古...」の十二字が多くあったという。現在のものはその後にさらに「濬哲文明...」の十六字が加えられている。他には「皋陶謨」(こうようぼ)の後半部から「益稷」が作られ、「盤庚」は三篇に分けられ、「顧命」後半部から「康王之誥」が作られた。",
"title": "内容"
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"text": "『書経』のうち「周書」は特に文章が難解であることで知られており、唐の韓愈や清末の王国維といった大学者でさえ、その難解さを嘆いている。このことは、逆に「周書」が『書経』の中で比較的古い姿を留めていることを示す。",
"title": "内容"
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"text": "『書経』に付けられた注釈としては、以下の例がある。",
"title": "注釈"
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"text": "2008年7月、清華大学は2000枚あまりの戦国時代の竹簡を得た。これは実業家の趙偉国が海外から購入して清華大学に寄贈したもので、「清華簡」と呼ばれる。専門家の鑑定によれば、この竹簡は戦国時代中期から晩期(今から2300-2400年前)の楚のものである。清華簡には『尚書』の多くの篇が含まれており、焚書坑儒以前の写本である。その中のあるものは現行の『尚書』にも存在する篇だが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり 、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば『尚書』の名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文「説命」とはまったく異なる 。",
"title": "近年の再発見"
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"text": "2009年4月現在、清華簡はその1⁄3が初歩的な解読を終えている。2009年までに内容が発表されたものは2種類で、「保訓」と周の武王の時代の楽詩である。「保訓」にはもと題がついておらず、専門家によって本文内容をもとに題がつけられた。内容は周の文王が臨終の際にその子の発(武王)に述べた遺言である。楽詩は周の武王が文王の宗廟で「飲至」の典礼を行うに際し、酒を飲むときにうたう歌で、『楽経』の原文の疑いがある。",
"title": "近年の再発見"
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"text": "今までに整理された清華簡のうち、古代の『尚書』の佚篇の疑いのあるものには「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」がある。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『孟子』に『書』からの引用として引かれている。しかし、『偽古文尚書』ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている。",
"title": "近年の再発見"
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"text": "書経が日本に伝来した年代は明らかではないが、継体天皇の時代に五経博士の段楊爾・高安茂が相次いで来朝したという記録があるため、この際伝来したものといわれる。",
"title": "日本との関係"
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"text": "「昭和」や「平成」といった日本の元号は、『書経』の中の言葉に典拠がある。「昭和」は『書経』堯典「百姓昭明、協和万邦」に由来し、「平成」は『書経』大禹謨「地平天成」に由来する。但し、『書経』大禹謨は偽作の篇であり、「地平天成」の語はもともと『春秋左氏伝』に基づく言葉である。",
"title": "日本との関係"
},
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"text": "これらは同系の写本であり、広橋家が所蔵していた広橋本の一つである。唐の太宗李世民(在位626年 - 649年)の諱を避けていないため、それ以前の伝本をもとに写本したと考えられる。",
"title": "日本との関係"
},
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "所々隷書体が使われており、前述の「隷古定尚書」と考えられている。他の唐鈔本や敦煌本に比べて隷書が使われている箇所が多く、現存する最古の鈔本とされている。なお紙背には高辻長成の『元秘抄』が室町時代に書写されている。",
"title": "日本との関係"
},
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"text": "南宋刊本のいわゆる越州八行本。淳熙(1174年 - 1189年)前後の両浙東路茶塩司刻本。",
"title": "日本との関係"
}
] | 『書経』(しょきょう)は、中国古代の歴史書で、伝説の聖人である堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている。『尚書』または単に『書』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある。 内容に違いがある2種類の本文が伝わっており、それぞれを「古文尚書」・「今文尚書」と呼んで区別する。現代に伝わっている「古文尚書」は由来に偽りがあることが断定されているので「偽古文尚書」とも呼ばれる。もともとの「古文尚書」は失われており、現代には伝わっていない。 | {{特殊文字}}
[[File:(付釈音)尚書注疏 20巻.jpg|thumb|400px|[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00009783 京都大学附属図書館蔵]<br />『尚書正義』(唐の『五経正義』の一つ)の「堯典」の冒頭「曰若稽古帝堯」が見える。[[孔安国]]伝・[[経典釈文]]が附される。宋版または元版、明修本。]]
{{儒家経典}}
『'''書経'''』(しょきょう)は、[[中国]]古代の歴史書で、伝説の聖人である[[堯]]・[[舜]]から[[夏 (三代)|夏]]・[[殷]]・[[周]]王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている{{Sfn|土屋|1989|p=58}}。『'''尚書'''』または単に『'''書'''』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である[[五経]]の一つでもある{{Sfn|土屋|1989|p=58}}。
内容に違いがある2種類の本文が伝わっており、それぞれを「'''古文尚書'''」・「'''今文尚書'''」と呼んで区別する{{Sfn|土屋|1989|p=58}}。現代に伝わっている「古文尚書」は由来に偽りがあることが断定されているので「'''偽古文尚書'''」とも呼ばれる{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=6}}。もともとの「古文尚書」は失われており、現代には伝わっていない{{Sfn|土屋|1989|p=58}}。
== 名称 ==
『書経』は、先秦時代には単に「書」と呼ばれるか、その内容の時代の名を冠して「夏書」「商書」「周書」と呼ばれるのが通例である{{Sfn|平岡|1946|p=68}}。漢代に入って『尚書』の名が生じ、広く用いられるようになった。「尚」は「上」に通じる語であるが、その示す意味には古来以下の説がある{{Sfn|平岡|1946|p=66-68}}。
# [[後漢]]の[[馬融]]は、上古の[[虞|有虞氏]]の書であることから、「尚書」の名がついたとする。
# 後漢の[[鄭玄]]は、天上・至上の書であることから、「尚書」の名がついたとする。
# [[魏 (三国)|魏]]の[[王粛]]は、上(帝王)の言動を史官が記録した書であることから「尚書」の名がついたとする。
『書経』の名は、[[南宋]]に生じたもので、劉欽『書経衍義』や趙若燭『書経箋註精通』といった例がある。[[明|明代]]以後、『書経』という呼び名が普及した。現在は、『書経』と『尚書』の名が併用されている{{Sfn|平岡|1946|p=63-64}}。
== 成立 ==
『書経』は、現在の形として成立するまでに、非常に複雑な道筋を辿っている。古くから儒教の中で伝統的に唱えられてきた説がある一方で、「[[疑古]]」の風潮の中で近年の研究からも様々な説が生まれており、その成立の事情に関しては確固たる決着は見ていない。
=== 原資料 ===
『書経』のうち、最も古く成立したと考えられるのは、「周書」のうち西周の[[文王 (周)|文王]]・[[周公]]の訓辞を記録した「五誥」(大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥)の部分である{{Sfn|吉本|1996|p=27}}{{Sfn|池田|1984|p=218}}。これらは[[金文学]]・[[考古学]]の研究から、記録としての確実性も比較的高いことが示されている{{Sfn|池田|1984|p=218}}。但し、[[金文|金文資料]]には見えない語句も多く、西周期の同時代資料とみなすことができるわけではない{{Sfn|吉本|1996|p=27}}。また、「周書」以前の篇については、周代以後に創作(または脚色)されて作られたものであり、成立自体は先秦に遡るが、史実としての信頼性には欠けるとされる{{Sfn|池田|1984|p=218}}。この説は「[[加上説]]」と呼ばれ、[[顧頡剛]]・[[内藤湖南]]らによって唱えられた{{Sfn|野間|2014|p=80}}。
飯島忠夫は、「堯典」に四つの星、「鳥」「火」「虚」「昴」の記述があることに注目し、天体の位置を計算したところあてはまるのは堯の時代ではなく紀元前4世紀頃の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]初期であると推測した{{Sfn|飯島|1946|p=82}}。
=== 全体の成立 ===
『書経』には[[秦]]の[[穆公 (秦)|穆公]]の記載があるため、全体が一書として成立したのは、早くても秦の穆公が在位を開始した紀元前659年以降である。
古来の通説では、[[儒教]]の[[聖人]]である'''[[孔子]]'''が唐虞から秦の穆公までの記録を編纂し、100篇からなる『書経』を作ったとされる。近年の研究では、これは史実であるとは認められないが、『論語』に『書経』の引用が見えることや、孔子の教学として「詩・書・礼・楽」が重視されたことから、孔子の時には何らかの原初的な『書経』は存在していたと考えられる{{Sfn|池田|1984|p=218}}。
『書経』の引用は、先秦の成立とされる書物(『[[国語 (歴史書)|国語]]』『[[春秋左氏伝]]』『[[孟子 (書物)|孟子]]』『[[墨子]]』『[[荀子]]』など)に広く見受けられ{{Sfn|劉|1989|p=11-25}}、どのような形のものであるかは不明であるが、多くの学者によって『書経』が読まれていたことは確実である。特に、[[堯]]・[[舜]]・[[禹]]に関わる「堯典」「皋陶謨」「禹貢」の三篇は、[[儒教]]的古代観を形作る上で大きな役割を果たした{{Sfn|劉|1989|p=65-66}}。今文二十九篇の全体が、現在と似た形で成書した時期については、『孟子』より後、[[紀元前3世紀]]ごろであると考えられる{{Sfn|吉本|1996|p=27}}。
== 伝来 ==
[[ファイル:書経伝来.png|書経の伝来。各書経の関係。|600px]]
[[先秦|先秦時代]]までに伝えられてきた『書経』は、[[秦]]の[[始皇帝]]の[[焚書]]によって一度失われた{{Sfn|小林|1938|p=5}}{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=5}}。その後、[[漢|漢代]]に入り、「今文尚書」と「古文尚書」の二種が再発見され、再び『書経』が世に出ることとなる。
=== 今文尚書 ===
漢代になると[[儒教]]が復興し、[[経書]]の一つである『書経』も再び重視されるようになった。そのきっかけとなったのは、秦の博士であった[[伏生]](伏勝)が、壁中に隠されていた29篇の『書経』を発見したことである。この『書経』は、漢代の通行字体である隷書体([[今文]])で書かれていたため、「今文尚書」と呼称される。伏生の一派による『書経』の解釈を示した書として『[[尚書大伝]]』があり、その一部が現在に伝わっている{{Sfn|劉|1989|p=67-74}}。
「今文尚書」は、[[斉郡|斉]][[魯郡|魯]]において伏生から{{仮リンク|欧陽生|zh|歐陽生}}(字は和伯)・張生に伝えられ、欧陽生から兒寛、張生から夏侯都尉に伝えられた。以後も博士の間で伝授され、[[宣帝 (漢)|宣帝]]の時には{{仮リンク|欧陽高|zh|歐陽高}}・[[夏侯勝]](大夏侯)・{{仮リンク|夏侯建|zh|夏侯建}}(小夏侯)の三家が学官として立てられた{{Sfn|劉|1989|p=67-74}}。
=== 古文尚書 ===
漢代、「今文尚書」以外にも『書経』が発見されることがあったが、これらはしばしば漢代の通行字体ではなく、秦代以前の文字で書かれたものであった。これを「古文尚書」と呼ぶ。「今文尚書」は学官に立てられた公的な学問であったため、その師授系統は比較的明白であるが、「古文尚書」は漢代を通して民間で研究が進んだ書であり、歴史書の記述も錯綜している。以下の例がある{{Sfn|劉|1989|p=105-114}}:
; 孔子家伝本 : 孔子の十世の孫である[[孔安国]]が「古文尚書」を今文に写定すると、「今文尚書」にない十余篇があった(『[[史記]]』儒林伝)。
; 中古文本 : [[劉向]]が欧陽氏・大小夏侯氏の「今文尚書」と校訂する際に用いた、宮中の図書館が所蔵していた「古文尚書」のこと(『[[漢書]]』[[芸文志]])。
; 河間献王本 : 古典収集を好んだ河間献王[[劉徳]]が伝えた「古文尚書」のこと。
; 張覇百両篇本 : [[張覇]]が伝えた102篇の「古文尚書」が世間に伝わっていた。[[成帝 (漢)|成帝]]のとき、これを宮中の書と比べたところ偽書であると分かった(『漢書』儒林伝)。
; 劉歆が宣揚した孔子壁中本 : [[劉歆]]の「移太常博士書」に、[[景帝 (漢)|景帝]]のとき、魯恭王[[劉余]]が孔子の旧宅を壊して宮殿としようとしたところ、壁の中から「古文尚書」を得た。これは「今文尚書」には存在しない16篇を含んでおり、後に孔安国がこれを伝えたが、巫蠱の獄のため普及しなかった、とある(『漢書』楚元王伝)。
それぞれの本の関係は定かではないが、一般には孔子家伝本・中古文本・孔子壁中本が同一であるとされ、一般に前漢の「古文尚書」というと孔安国・劉向・劉歆に関わるこの本のことを指す。
前漢の[[宣帝 (漢)|宣帝]]のとき、劉歆が「古文尚書」を学官に立てるよう要求したが、退けられた。この要求は、[[新]]の[[王莽]]の時に実現したが、その後、後漢の[[光武帝]]のときに再度廃された{{Sfn|劉|1989|p=114-115}}。
=== 後漢の『尚書』受容 ===
後漢においては、「今文尚書」の三家は変わらず学官に立てられ、博士の間で授受された。そのため、代々欧陽氏の学を受けた[[桓栄]]・[[桓郁]]や[[鮑永]]・{{仮リンク|鮑昱|zh|鲍昱}}のほか、数多くの学者が「今文尚書」を学んだ{{Sfn|劉|1989|p=121-122}}。
一方、「古文尚書」も徐々に普及し、学者の間で用いられるようになった。前漢と同様、その授受関係ははっきりしておらず、以下の二つの系統がある{{Sfn|劉|1989|p=124-130}}:
; 徐惲・劉歆門徒の壁中古文本 : [[徐惲]]が[[桑欽]]・[[賈徽]]に「古文尚書」を伝え、賈徽が[[賈逵]]に伝えると、賈逵は章帝の勅令で『欧陽大小夏侯尚書古文同異』(欧陽氏・大小夏侯氏の「今文尚書」と「古文尚書」の異同を記録した書)を作った(『[[後漢書]]』賈逵伝)。また、[[鄭興]]・[[鄭衆]]も古文を治めたが、この学は劉歆に淵源する(『後漢書』鄭興伝)。以下、彼らの学は[[馬融]]・[[鄭玄]]らに受け継がれた。
; 杜林漆書古文本 : [[杜林]]は西州にて漆で書かれた「古文尚書」を得た。この本は古文で書かれてはいたが、篇は「今文尚書」と同じ部分しか残っていなかった。杜林本には、[[衛宏]]が『古文尚書訓旨』を、[[徐巡]]が『古文尚書音』を、賈逵が『古文尚書訓』を、馬融が『古文尚書伝』を、[[盧植]]が『尚書章句』を、鄭玄が『古文尚書注』を作った(『後漢書』杜林伝)。
杜林漆書古文本は「今文尚書」と同じ篇しかなく、実際に馬融・鄭玄が作った注釈は「今文尚書」と同じ篇に対してのみ附されている。ここから、杜林本は実際には孔安国に由来する「古文尚書」そのものではなく、伏生以来の「今文尚書」を古文の字体によって書き直したものではないか、という説もある{{Sfn|劉|1989|p=129-130}}。
後漢になり、経学がますます盛んになると、[[今文]]を主として研究する博士を中心とする学者と、[[古文]]を主として研究する民間を中心とする学者に分かれた。それぞれを今文学・古文学と呼ぶ。今文・古文は、もとは字体の差異によるものであるが、学説にも大きな差異が生じるようになった。今文・古文の対立は『詩経』『春秋』などにも存在するが、「今文尚書」と「古文尚書」の対立はその象徴的なものである。こうした学説の分岐を受けて、[[章帝 (漢)|章帝]]の[[建初]]4年([[79年]])には、白虎観会議が開催され、[[白虎通義]]が編纂されて経義の統一が図られた。また、[[許慎]]といった学者は、古文学の立場から『五経異議』を著し、今文説・古文説の学説の相違を整理した{{Sfn|劉|1989|p=133-140}}。
結局、後漢の末期には馬融・鄭玄らの学問が盛んになり、徐々に古文学が発展した。ただし、孔安国由来の逸書16篇を含んだ「古文尚書」は、いつの間にか伝来を絶ち、[[西晋]]の[[永嘉の乱]]の頃に失われてしまった。
=== 偽古文尚書 ===
古文尚書は失われてしまったが、東晋時代の[[元帝 (東晋)|元帝]](在位[[317年]] - [[323年]])の時に[[豫章郡|豫章]]内史の[[梅サク (東晋)|梅賾]](ばいさく)という人物が、「古文尚書」を発見したとして朝廷に献上した{{Sfn|土屋|1989|p=59}}。後に偽作であることが判明しているので、現在ではこの『書経』は「'''偽古文尚書'''」(ぎこぶんしょうしょ)と呼ばれる{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=6}}。
この本は「今文尚書」のうち「舜典」を除く28篇(篇を分けると33篇)と、新出の偽作部分である25篇からなるものであり、合計すると[[劉歆]]や[[桓譚]]のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致する。また、注釈として[[孔安国]][[伝]]が付され、孔安国の大序と百篇書序が各篇頭につけられているが、これも[[梅サク (東晋)|梅賾]]による偽作であり、現在では「偽孔伝」と呼ばれる。なお、梅賾本のうち「今文尚書」と重なる28篇(「舜典」を除く)に関しては、漢代から引き継がれた系統のテキストであり、新たに偽作されたものではない。
梅賾本には「舜典」が存在しなかったため、[[魏 (三国)|魏]]の[[王粛]]注の「堯典」を二つに分け、後半の「慎徽五典」以下の部分が「舜典」として用いられた。「舜典」には孔伝が存在しないため、王粛注・[[范寧]]注が代わりに用いられた。その後、南朝の斉の姚方興がその闕を補う「孔安国伝古文舜典」を献上したが、この本には「慎徽五典」の手前に二十八字が加えられていた{{Sfn|劉|1989|p=179-186}}。
この梅賾本は、[[東晋]]で学官に立てられ、その後も南朝において継続して受容された{{Sfn|劉||p=186-188}}。北朝では鄭玄注の『尚書』が用いられていたが、梅賾本に注釈をつけた梁の費甝(ひかん)の義疏が[[隋]]の[[劉炫]]によって受容されると、北朝においても広まった。このとき、劉炫は梅賾本と姚方興本を合わせた本を用い、このテキストが徐々に広がるようになった。唐の『尚書正義』(『[[五経正義]]』の一つ)がこの梅賾本と姚方興本を合わせた本を用いたことで、以後はこのテキストの『尚書』が一般的なものとなる{{Sfn|劉|1989|p=201-215}}。
=== 天宝の改字 ===
梅賾本は、それに付された尚書序(孔安国作とされた)によれば、古い[[科斗文]]を[[隷定|隸古定]]によって改めた字体<ref>隷古定字、隷古奇字などと呼ばれる。</ref>で書かれていたと考えられる。梅賾本は唐の『尚書正義』の材料となったが、[[天宝 (唐)|天宝]]3年(744年)、[[玄宗_(唐)|玄宗]]は古い字体が伝写に誤りが生じやすいとして楷書に改めるよう詔を発し
<ref>
[https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%8A%E6%96%87%E7%B9%95%E5%AF%AB%E5%B0%9A%E6%9B%B8%E8%A9%94 全唐文、巻32、以今文繕寫尚書詔]に「但以古先所制,有異於當今,傳寫浸訛,轉疑於後學。……《尚書》應是古體文字,並依今字繕寫施行。」とある。
</ref>
<ref>
[https://archive.org/details/06065224.cn/page/n110/mode/2up 冊府元亀、巻50、崇儒術2]ではこの詔が天宝3年7月とされている。
</ref>、これを受けて[[衛包]]が改めた
<ref>
[https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B7057 新唐書 巻57、志第47、芸文1]の「今文尚書十三巻」に「天寶三載,又詔集賢學士衞包改古文從今文」と注されている。
</ref>。これを天宝改字あるいは衛包改字と呼ぶ。現在通行のテキストは天宝改字以降のものである。
これ以前の偽古文尚書がうかがえる資料としては、敦煌出土の残巻や、日本に残る唐写本残巻、あるいは後述の[[#日本の国宝|日本で書き写された古鈔本]]がある{{Sfn|小林|1959|loc=2.2 隷古定書資料考|pages=32-51}}。これらの資料はその字体の違いから「隷古定尚書」と呼ばれることがある。[[石経#儒教|開成石経]]以降の刊本を比較すると、単なる文字の置き換えではなく、文章面でも違いがあることが分かっている{{Sfn|小林|1959|loc=3.1 衛包改字に於ける文章面の考察|pages=136-142}}。
[[小林信明]]は、現存する古文尚書に見える字体は[[説文解字]]や[[三体石経]]と符合する割合が少なく、むしろ郭夢星『漢書古字類』にみえる漢代の字体に似るとして、唐以前の一般通行の字体と考えた{{Sfn|小林|1959|loc=4 梅賾本古文尚書考|pages=222-312}}。
=== 偽古文尚書への疑い ===
『書経』に対する文献学的な研究は、特に[[宋 (王朝)|宋代]]以後に活発になる。例えば、[[程頤]]が金滕篇を、[[蘇軾]]が胤征篇・顧命篇を疑った例がある。梅賾によって献上された本が偽作ではないかという説は、[[南宋]]の[[呉棫]]『'''書稗伝'''』によって初めて提唱された。これを承けて、[[朱熹]]も書序・孔伝への疑問を示している{{Sfn|劉|1989|p=279-285}}。
その後、梅賾本が偽作であることについては、[[元 (王朝)|元代]]の[[呉澄]]、[[明代]]の{{仮リンク|梅鷟|zh|梅鷟}}が論証を行った。そして、[[清]]の[[閻若璩]]が20年の考証の結果を『[[尚書古文疏証]]』全八巻にまとめ、25篇は偽古文であると証明した
{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=6}}。
ただし偽作と考えられている25編についても、吉川幸次郎が
「{{Interp|……|この二十五篇の「經」が僞作であることも、朱子以後の學者によつてしつかりと論證し盡されてゐることである。しかし}}それが僞作であるといふことは、それが何等の意義ももたぬといふことではない。いかにも古代史の資料としては、これは全く無價値のものである。しかし中世以後の社會はこの二十五篇を眞のものと認めて來たのであつて、{{Interp|……|その生活にはこれらの僞篇が、他の「經」同様に織り込まれてゐるのである。少數の識者はその僞を論證し續けたけれども、しかし社會一般の認識を改めることはなかなか困難であつた。のみならず、}}これらの僞「經」は、或種の學説の根據ともなつてゐる。たとへば「大禹謨」篇の「道心惟微、人心惟危」は宋の「理學」の原理となつた。また「周官」篇は官制に、「胤征」篇は曆法に影響を與へてゐる。 」
{{Sfn|吉川|1940|p=19-20}}
と評するように、一定の価値を認める研究者も少なくない。
== 内容 ==
=== 構成 ===
現行の『書経』は58篇からなる。この各篇は、①書かれた内容の時代によるもの、②書かれた体裁によるもの、③文献学的見地によるもの、の三つの方法による分類が可能である。
# 『書経』58篇は時代順に並べられており、時代によって「虞書」「夏書」「商書」「周書」の四つに区別される。
# 各篇は、その体裁によって「誥」([[君主]]が臣下に下す訓辞)・「謨」(臣下が君主に述べる訓辞)・「誓」(君主の民衆への宣誓)・「命」(君主による命令の言葉)といった種類に分けられる{{Sfn|平岡|1946|p=152}}。
# 『書経』に対する文献学的研究が進むにつれて、現行の『書経』のうちの38篇は、魏晋の頃に「古文尚書」が奏上された際に付加された偽作であることが明らかになった。これを「偽古文尚書」と呼び、漢代以来の各篇を引き継いでいた「今文尚書」と区別する。
=== 篇目 ===
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" style="text-align:center"
|-style="background:#efefef;"
!-||colspan=2|偽古文尚書||colspan=2|今文尚書
|-
|rowspan=5|虞書||1||堯典||rowspan=2|1||rowspan=2|堯典
|-
|2||舜典
|-
|3||大禹謨||-||-
|-
|4||皋陶謨||rowspan=2|2||rowspan=2|皋陶謨
|-
|5||益稷
|-
|rowspan=4|夏書||6||禹貢||3||禹貢
|-
|7||甘誓||4||甘誓
|-
|8||五子之歌||-||-
|-
|9||胤征||-||-
|-
|rowspan=17|商書||10||湯誓||5||湯誓
|-
|11||仲虺之誥||-||-
|-
|12||湯誥||-||-
|-
|13||伊訓||-||-
|-
|14||太甲上||-||-
|-
|15||太甲中||-||-
|-
|16||太甲下||-||-
|-
|17||咸有一徳||-||-
|-
|18||盤庚上||rowspan=3|6||rowspan=3|盤庚
|-
|19||盤庚中
|-
|20||盤庚下
|-
|21||説命上||-||-
|-
|22||説命中||-||-
|-
|23||説命下||-||-
|-
|24||高宗肜日||7||高宗肜日
|-
|25||西伯戡黎||8||西伯戡黎
|-
|26||微子||9||微子
|-
|rowspan=32|周書||27||泰誓上||-||-
|-
|28||泰誓中||-||-
|-
|29||泰誓下||-||-
|-
|30||牧誓||10||牧誓
|-
|31||武成||-||-
|-
|32||洪範||11||洪範
|-
|33||旅獒||-||-
|-
|34||金縢||12||金縢
|-
|35||大誥||13||大誥
|-
|36||微子之命||-||-
|-
|37||康誥||14||康誥
|-
|38||酒誥||15||酒誥
|-
|39||梓材||16||梓材
|-
|40||召誥||17||召誥
|-
|41||洛誥||18||雒誥
|-
|42||多士||19||多士
|-
|43||無逸||20||毋逸
|-
|44||君奭||21||君奭
|-
|45||蔡仲之命||-||-
|-
|46||多方||22||多方
|-
|47||立政||23||立政
|-
|48||周官||-||-
|-
|49||君陳||-||-
|-
|50||顧命||rowspan=2|24||rowspan=2|顧命
|-
|51||康王之誥
|-
|52||畢命||-||-
|-
|53||君牙||-||-
|-
|54||冏命||-||-
|-
|55||呂刑||26||呂刑
|-
|56||文侯之命||27||文侯之命
|-
|57||費誓||25||鮮誓
|-
|58||秦誓||28||秦誓
|}
「今文尚書」には後に「太誓(泰誓)」が加えられ29篇となった。この「太誓」は[[漢代]]に作られた偽書とされる。「偽古文尚書」にある「泰誓」3篇はまたこれとは別の偽書である。
「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅獒」、16.「冏命」であった。
「偽古文尚書」の構成は複雑であるが、その最たるものが「舜典」であり、もともと梅賾本には「舜典」がなく、[[魏 (三国)|魏]]の[[王粛]]注本の「堯典」の後半部「慎徽五典…」以下が当てられ、注も王粛注が付けられたという。その後、[[斉 (南朝)|南朝斉]]の姚方興が孔安国伝古文「舜典」なるものを献上したが、「慎徽五典」以前に「曰若稽古…」の十二字が多くあったという。現在のものはその後にさらに「濬哲文明…」の十六字が加えられている。他には「皋陶謨」(こうようぼ)の後半部から「益稷」が作られ、「盤庚」は三篇に分けられ、「顧命」後半部から「康王之誥」が作られた。
=== 文章の特徴 ===
『書経』のうち「周書」は特に文章が難解であることで知られており、[[唐]]の[[韓愈]]や[[清]]末の[[王国維]]といった大学者でさえ、その難解さを嘆いている。このことは、逆に「周書」が『書経』の中で比較的古い姿を留めていることを示す{{Sfn|野間|2014|p=81}}。
== 注釈 ==
{{節スタブ|date=2021年4月4日 (日) 16:30 (UTC)}}
『書経』に付けられた注釈としては、以下の例がある。
*『尚書』孔安国伝
*: 先述したように、偽作されたもの。
*『尚書』鄭玄注
*: 亡佚。他書に引用からされた文章から復元されたものがある。
*『尚書正義』
*: 孔安国伝に基づき、唐の[[孔穎達]]らによって疏が作られた。唐の『[[五経正義]]』の一つ。13巻58篇。後に『[[十三経注疏]]』に入れられた。
*『書集伝』
*: [[南宋]]の{{仮リンク|蔡沈|zh|蔡沉}}撰。6巻58篇。蔡沈は[[朱熹]]の弟子であり、序には「堯典」「舜典」「皋陶謨」「大禹謨」に朱熹の校閲を受けたとある。[[元 (王朝)|元]]・[[明]]・[[清]]と[[科挙]]試験の教科書として取りあげられ、広く読まれた。「蔡伝」とも呼ばれる。
*『尚書後案』
*: [[清]]の[[王鳴盛]]撰。
*『尚書今古文注疏』
*: 清の[[孫星衍]]撰。もっぱら今文29篇について注釈し、偽孔伝を退け、[[漢代]][[今文学]]・[[古文学]]の注釈を集め[[清朝考証学]]の成果を集めて疏をつけたもの。22年もの時間を費やし完成させた。
*『古文尚書撰異』
*: 清の[[段玉裁]]撰。
== 近年の再発見 ==
{{main|清華簡}}
2008年7月、[[清華大学]]は2000枚あまりの[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[竹簡]]を得た。これは実業家の趙偉国が海外から購入して清華大学に寄贈したもので、「清華簡」と呼ばれる。専門家の鑑定によれば、この竹簡は戦国時代中期から晩期(今から2300-2400年前)の[[楚 (春秋)|楚]]のものである。清華簡には『尚書』の多くの篇が含まれており、[[焚書坑儒]]以前の写本である。その中のあるものは現行の『尚書』にも存在する篇だが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり
<ref>
{{citation|和書|author=金城未来|first=未来|last=金城|title=清華簡『周武王有疾周公所自以代王之志(金縢)』の思想史的特質|journal=中国研究集刊|year=2011|volume=53|pages=213-228|doi=10.18910/60955}}
</ref>
、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば『尚書』の名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文「説命」とはまったく異なる
<ref>
{{citation|和書|author=金城未来|first=未来|last=金城|title=清華簡『説命』の文献的特質 : 天の思想を中心に|journal=待兼山論叢|year=2013|volume=47|pages=1-16|hdl=11094/54394}}
</ref>
。
2009年4月現在、清華簡はその{{分数|1|3}}が初歩的な解読を終えている。2009年までに内容が発表されたものは2種類で、「保訓」と周の[[武王 (周)|武王]]の時代の楽詩である。「保訓」にはもと題がついておらず、専門家によって本文内容をもとに題がつけられた。内容は周の[[文王 (周)|文王]]が臨終の際にその子の発(武王)に述べた遺言である。楽詩は周の武王が文王の宗廟で「飲至」の典礼を行うに際し、酒を飲むときにうたう歌で、『楽経』の原文の疑いがある。
今までに整理された清華簡のうち、古代の『尚書』の佚篇の疑いのあるものには「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」がある。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『[[孟子]]』に『書』からの引用として引かれている。しかし、『偽古文尚書』ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている<ref>{{citation|url=http://paper.jyb.cn/zgjyb/html/2014-09/05/content_422682.htm|author=李学勤|title=清華簡再現《尚書》佚篇|publisher=中国教育報|date=2014-09-05}}</ref>。
== 日本との関係 ==
[[File:尚書 2巻(清原宣賢筆).jpg|thumb|400px|[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008045 京都大学附属図書館蔵]<br />[[清原宣賢]]の自筆による『尚書』、[[永正]]11年([[1514年]])書写。]]
書経が日本に伝来した年代は明らかではないが、[[継体天皇]]の時代に五経博士の[[段楊爾]]・[[漢高安茂|高安茂]]が相次いで来朝したという記録があるため、この際伝来したものといわれる{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=6}}。
=== 日本の元号 ===
「[[昭和]]」や「[[平成]]」といった日本の元号は、『書経』の中の言葉に典拠がある。「昭和」は『書経』堯典「百姓'''昭'''明、協'''和'''万邦」に由来し、「平成」は『書経』大禹謨「地平天成」に由来する。但し、『書経』大禹謨は偽作の篇であり、「地平天成」の語はもともと『[[春秋左氏伝]]』に基づく言葉である{{Sfn|野間|2014|pp=103-106}}。
=== 日本の国宝 ===
*'''古文尚書巻第六'''<ref>[https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100231&content_part_id=0&content_pict_id=0 古文尚書巻第六] e国宝</ref> - 1巻/紙本墨書/縦26.0cm 全長328.0cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/[[東京国立博物館]]蔵
*'''古文尚書巻第三、第五、第十二''' - 1巻/紙本墨書/縦26.7cm 全長1138cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/[[東洋文庫]]蔵
これらは同系の写本であり、広橋家が所蔵していた広橋本の一つである。[[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]]李世民(在位[[626年]] - [[649年]])の[[避諱|諱を避]]けていないため、それ以前の伝本をもとに[[写本]]したと考えられる。
所々隷書体が使われており、前述の「隷古定尚書」と考えられている。他の唐鈔本や敦煌本に比べて隷書が使われている箇所が多く、現存する最古の鈔本とされている。なお紙背には[[高辻長成]]の『元秘抄』が室町時代に書写されている。
*'''[http://www.tochigi-c.ed.jp/bunkazai/bunkazai/list/15.htm 宋版尚書正義]''' - 12世紀(南宋)/[[足利学校遺蹟図書館]]蔵
[[南宋]][[刊本]]のいわゆる越州八行本。[[淳熙]]([[1174年]] - [[1189年]])前後の両浙東路茶塩司刻本。
== 全訳版 ==
*『[[新釈漢文大系]]25・26 書経』 [[明治書院]]、1983年・1985年、上巻は[[加藤常賢]]、下巻は小野沢精一、[[宇野精一]]による詳細な訳注・解説。
*『[[全釈漢文大系]]11 尚書』 [[池田末利]]訳注、[[集英社]]、1976年 詳細な訳注書
*『[[中国古典文学大系]]1 書経』 [[赤塚忠]]訳、[[平凡社]]、1972年、復刊1994年、現代語訳文のみ
*『[[世界古典文学全集]]2 書経・[[詩経]]国風』 [[尾崎雄二郎]]ほか訳、[[筑摩書房]]、1969年
== 参考文献 ==
===日本語文献===
*{{Citation|和書|last=飯島|first=忠夫|author=飯島忠夫|authorlink=飯島忠夫|title=古代世界文化と儒教|publisher=中文館書店|year=1946|doi=10.11501/1038718}}
*{{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|publisher=研文出版|author=池田末利|chapter=書経|editor=日原利国|isbn=9784876360437}}
*{{Citation|和書|author=宮内庁書陵部|title=図書寮典籍解題 第5 (漢籍篇)|publisher=[[大蔵省印刷局]]|year=1960|doi=10.11501/2937029}}
*{{Citation|和書|author=小林一郎|last=小林|first=一郎|year=1938|title=経書大講 第4巻 書經上|publisher=[[平凡社]]|accessdate=2022-06-14|doi=10.11501/1047048}}
*{{Citation|和書|author=土屋裕史|last=土屋|first=裕史|chapter=当館所蔵漢籍の「宋版」及び「元版」の解題①|title=北の丸|volume=43|publisher=[[国立公文書館]]|year=2011|url=https://www.archives.go.jp/publication/kita/pdf/kita43_p053.pdf}}
*{{Citation|和書|title=五経入門 : 中国古典の世界|last1=野間|first1=文史|series=研文選書|publisher=[[研文出版]]|year=2014|ISBN=9784876363742}}
*{{Citation|和書|author=林英吉|chapter=書経講義|title=易経書経講義(少年叢書漢文学講義 ; 20編)|publisher=興文社|year=1913|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/911202/156|doi=10.11501/911202}}
*{{Citation|和書|last=平岡|first=武夫|author=平岡武夫|authorlink=平岡武夫|title=経書の成立|publisher=全国書房|year=1946}}創文社、1983年。{{NCID|BN02456156}}。
*{{Citation|和書|last=吉川|first=幸次郎|author=吉川幸次郎|authorlink=吉川幸次郎|title=尚書正義|publisher=[[岩波書店]]|year=1940|ncid=BN02584735}}
*{{Citation|和書|title=史記を探る|last1=吉本|first1=道雅|author=吉本道雅|authorlink=吉本道雅|year=1996|publisher=東方書店|series=東方選書|isbn=4-497-96483-3}}
*{{Citation|和書|author=小林信明|title=古文尚書乃研究|last=小林|first=信明|year=1959|publisher=[[大修館書店]]|ncid=BN07739351|authorlink=小林信明}}
===中国語文献・洋書===
*{{Citation|和書|last=劉|first=起釪|title=尚書学史|publisher=中華書局|year=1989}}
*{{Citation|洋書|author=Martin Kern (editor) and Dirk Meyer (editor)|title=Origins of Chinese Political Philosophy: Studies in the Composition and Thought of the Shangshu|publisher=Brill|year=2017}}
=== 脚注 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|colwidth=30em|3}}
==関連項目==
* [[経書]]
* [[十三経]]
* [[儒教]]
* [[孔子]]
* [[注釈]]
* [[疑古]]
* [[朱子学]]
* [[今文]]
== 外部リンク ==
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*[http://ctext.org/shang-shu/zh 書経(中文)]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E7%B5%8C |
1,813 | ババ抜き | ババ抜き(、英: Old Maid、英: Lose with the Joker)とは、複数人で行うトランプゲームのひとつ。始めに同数のカードを人数分配り、一枚ずつ他者から抜き取り同じ札があれば捨て、最後にジョーカーを持っている者が負け。
ストップ系のゲーム で、ジョーカーを1枚加えた53枚のカードを使って行うトランプゲーム。そして、ローカルルールが数少なく存在する。人数は3人以上が好ましい(2人の場合だと、互いにジョーカー含めどのカードを相手が持っているのかわかってしまうため)。
基本ルールでは、ゲームの進行のみ記載する。
元々はジョーカーを加えるのではなく、クイーンを1枚抜いて51枚のカードを使って行われていた。古い書物にはこの形で紹介されている。
「Old Maid」は、1枚のクイーンが「Match」の相手がおらず、独り売れ残ることから名付けられた。日本では1907年(明治40年)に書かれた『世界遊戯法大全』にこれの和訳として「お婆抜き」の名前で紹介されている。
派生して、クイーンではなくランダムにカードを1枚抜いてそれを確認せずに行う方法をジジ抜きという。ババ抜きと違い、1枚残るカードが誰にもわからないのでゲーム終盤まで予想できない。世界遊戯法大全ではこちらは「お爺抜き」として紹介されている。 また、ジョーカーを加え任意の1枚を抜いて行う「ジジババ抜き」という遊びもある。
最後に悪い物を持ったまま損害を被る事、運悪く損害を被る事を「ババを引く」などと、ババ抜きに例えて表現する事がある。また、掴まされた偽札を他人に回す事の隠喩としても使われる。 | [
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] | ババ抜き(ババぬき、とは、複数人で行うトランプゲームのひとつ。始めに同数のカードを人数分配り、一枚ずつ他者から抜き取り同じ札があれば捨て、最後にジョーカーを持っている者が負け。 | {{Infobox card game
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| subtitle = 最後にジョーカーを持っている人が負けの上がりゲーム
| image_link = [[File:Joker black 02.svg|150px]]
| image_caption = [[ジョーカー_(トランプ)|ジョーカー]]は特別なカードでババとも呼ばれる
| alt_names = 英:Lose with the Joker、Old Maid
| type = 上がりゲーム(Going-out game)
| players = 2人以上(3人以上が好ましい)<ref>{{cite book|和書|title=トランプゲーム|date=1996-12-30|publisher=西東社|isbn=4-7916-0719-8|author=本間正夫|page=29}}</ref>
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{{読み仮名|'''ババ抜き'''|ババぬき|{{lang-en-short|Old Maid}}、{{lang-en-short|Lose with the Joker}}}}とは、複数人で行う[[トランプ]]ゲームのひとつ。始めに同数のカードを人数分配り、一枚ずつ他者から抜き取り同じ札があれば捨て、最後にジョーカーを持っている者が負け。
== 概要 ==
ストップ系のゲーム<ref>{{Cite web|和書|title=ババ抜きの無料ゲーム - トランプスタジアム - |url=https://playingcards.jp/game/babanuki/ |website=playingcards.jp |access-date=2023-02-10 |language=ja}}</ref> で、[[ジョーカー (トランプ)|ジョーカー]]を1枚加えた53枚のカードを使って行うトランプゲーム。そして、[[ローカルルール]]が数少なく存在する。人数は3人以上が好ましい(2人の場合だと、互いにジョーカー含めどのカードを相手が持っているのかわかってしまうため)。
== 遊び方 ==
=== 基本ルール ===
基本ルールでは、ゲームの進行のみ記載する。
# プレイヤーに全てのカードを伏せたまま均等に配る。
#プレイヤーは各々手札を確認し、同位の札を2枚ずつペアにして場に捨てる({{cards|kd}}と、{{cards|ks}}というように)。
#(※ここで手札がなくなった者は勝ち抜けとなる。)
#手元にペアとなる同位の札がなくなったところで、最初のプレイヤー(カードを配った人の左隣の人)が右隣の人の手札を裏に見たまま、任意の1枚を取る。札を取った時、手札に同位の札があったらペアにして場に捨て、無ければそのまま手札に加える。
#時計回りの順に、各プレイヤーは右隣の人の手札を一枚取っていく。
#順に手札を取ってペアを捨てていき、手札がなくなった者から順に勝ち抜けていく。
# 最後まで手札、すなわちジョーカーを持っていた者が負け。
== ローカルルール ==
* 続けてゲームを行う場合、前のゲームの敗者が次のゲームで最初にジョーカーを持つ。
* 続けてゲームを行う場合、前回最初に上がった者は不要なカードを2枚、前回の敗者に渡すことができる、[[大富豪]]に近い要素を取り入れたルール。
== 備考 ==
元々はジョーカーを加えるのではなく、クイーンを1枚抜いて51枚のカードを使って行われていた。古い書物にはこの形で紹介されている。
「Old Maid」は、1枚のクイーンが「Match」の相手がおらず、独り売れ残ることから名付けられた。日本では[[1907年]](明治40年)に書かれた『[[世界遊戯法大全]]』にこれの和訳として「お婆抜き」の名前で紹介されている。
派生して、クイーンではなくランダムにカードを1枚抜いてそれを確認せずに行う方法を[[ジジ抜き]]という。ババ抜きと違い、1枚残るカードが誰にもわからないのでゲーム終盤まで予想できない。世界遊戯法大全ではこちらは「お爺抜き」として紹介されている。
また、ジョーカーを加え任意の1枚を抜いて行う「ジジババ抜き」という遊びもある。
== 比喩 ==
最後に悪い物を持ったまま損害を被る事、運悪く損害を被る事を「ババを引く」などと、ババ抜きに例えて表現する事がある。また、掴まされた[[偽札]]を他人に回す事の隠喩としても使われる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[トランプ]]
* [[ジジ抜き]]
* [[カードゲーム]]
{{トランプ}}
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1,814 | ジジ抜き | ジジ抜き(、爺抜き)は、複数人で遊ぶトランプゲームである。ババ抜きのバリエーションルールのひとつ。
『遊びの大事典』で紹介されている「ジジ抜き」のルール
除かれたカードと同位のカードは3枚しかなく、1組が捨てられると残りの1枚は捨てられなくなる。この余った1枚が「ジジ」となり、これを最後まで持っていたプレイヤーが敗者となる。そのためババ抜きと違い、ある程度ゲームが進まなければどのカードが「ジジ」か分からないのがジジ抜きの特徴といえる。
また、ババ抜きの原型とも言える「Old Maid」では4枚のクイーンから1枚を除外した51枚でプレイするが、これを4枚のキングから1枚を除外して遊ぶ方法を「ジジ抜き」と呼ぶこともある。
1907年発行の『世界遊戯法大全』では「お爺抜き(英語: old bachelor)」として、このキング1枚を除外するルールが紹介されている。
ドイツでは4枚のジャックから1枚を抜いたバリエーションを「兵士抜き」「黒いピーター(ドイツ語: Schwarzer Peter)」と呼んでおり、「敗者の顔を黒く塗る」という罰則もあった。
以下に「変形ジジ抜き」のルールを示す。
どのカードが最後の1枚になるかは、ジョーカーを手札にしたプレイヤーの任意となる。
以下に「ジジババ抜き」のルールを示す。
最大の違いは、最後まで手札(ジョーカーまたは抜いた1枚に対応するカード)を持っていた者が勝ちという点にある。勝利条件となる札が2枚あるため、勝者は1人(手札2枚)のときもあれば、2人のときもある。 | [
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] | ジジ抜き(ジジぬき、は、複数人で遊ぶトランプゲームである。ババ抜きのバリエーションルールのひとつ。 | {{Otheruses|トランプのジジ抜き|[[藤子・F・不二雄]]の[[漫画作品]]|じじぬき}}
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== 遊び方 ==
『遊びの大事典』で紹介されている「ジジ抜き」のルール{{Sfn|遊びの大事典|page={{要ページ番号|date=2018-04-26}}}}
# [[ジョーカー (トランプ)|ジョーカー]]を除いた[[トランプ]]52枚を用意する。
# 52枚から、プレイヤー全員に内容が判らないように1枚を除く。
# 残った51枚をプレイヤーの手札として配る。以降のルールはババ抜きと同じ。
除かれたカードと同位のカードは3枚しかなく、1組が捨てられると残りの1枚は捨てられなくなる。この余った1枚が「ジジ」となり、これを最後まで持っていたプレイヤーが敗者となる。そのためババ抜きと違い、ある程度ゲームが進まなければどのカードが「ジジ」か分からないのがジジ抜きの特徴といえる。
また、ババ抜きの原型とも言える「Old Maid」では4枚の[[クイーン (トランプ)|クイーン]]から1枚を除外した51枚でプレイするが、これを4枚の[[キング (トランプ)|キング]]から1枚を除外して遊ぶ方法を「ジジ抜き」と呼ぶこともある<ref>{{Cite book|和書|title=ニュー・フェミニズム・レビュー|volume=第4巻|author=上野千鶴子|authorlink=上野千鶴子|publisher=[[学陽書房]]|year=1992|isbn=978-4313840447|page=35}}</ref>。
[[1907年]]発行の『[[世界遊戯法大全]]』では「お爺抜き({{lang-en|old bachelor}})」として、このキング1枚を除外するルールが紹介されている{{R|藤井}}。
[[ドイツ]]では4枚の[[ジャック (トランプ)|ジャック]]から1枚を抜いたバリエーションを「兵士抜き」「黒いピーター({{lang-de|Schwarzer Peter}})」と呼んでおり、「敗者の顔を黒く塗る」という罰則もあった{{R|藤井}}。
=== ローカルルール ===
* 続けてゲームを行う場合、第2ゲーム以降は前回のゲームで最初に上がった者が、最初に抜く1枚を選べる。
*ジョーカーが2枚以上含まれるトランプを使用する場合に、最初に用意するトランプにジョーカーを偶数枚(例えば2枚)含めた状態にする。
*ジョーカーも他のカードと同じ様に扱われ、2枚揃えば捨てる事ができる。
=== 変形ジジ抜き ===
以下に「変形ジジ抜き」のルールを示す{{R|藤井}}。
# ジョーカー1枚を加えたトランプ53枚を用意する。
# 53枚をプレイヤーに配る。
# ジョーカーは任意の1枚とペアにできる。
# ペアのカードを捨てるときは、カードを裏返しにして内容が判らないようにして捨てる。
どのカードが最後の1枚になるかは、ジョーカーを手札にしたプレイヤーの任意となる。
=== ジジババ抜き ===
以下に「ジジババ抜き」のルールを示す{{R|神奈川}}。
# ジョーカー1枚とトランプ52枚を用意する。
# 52枚から、プレイヤー全員に内容が判らないように1枚を除外する。
# 51枚にジョーカー1枚を加えて52枚とし、プレイヤーに配る。
# 以後のルールはババ抜きと同じだが、勝利条件が異なる。
最大の違いは、最後まで手札(ジョーカーまたは抜いた1枚に対応するカード)を持っていた者が'''勝ち'''という点にある。勝利条件となる札が2枚あるため、勝者は1人(手札2枚)のときもあれば、2人のときもある。
== 参考書籍 ==
*{{Cite book|和書|title=遊びの大事典|author=日本レクリエーション協会監修|publisher=[[東京書籍]]|year=1989|isbn=4487731461|ref=遊びの大事典}}
== 出典 ==
{{Reflist|refs=
<ref name="藤井">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2014102500002.html|title=ランプのジョーカー~どうして「ババ」と呼ぶように?|author=[[藤井秀樹]]|date=2014-10-30|publisher=[[朝日新聞]]デジタル|accessdate=2018-04-16}}</ref>
<ref name="神奈川">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.pref.kanagawa.jp/docs/ch3/cnt/f531226/documents/710980.pdf|title=「遊びのタネ・ネタ」(机上編)|publisher=[[神奈川県立青少年センター]]|accessdate=2018-04-26}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
*[[トランプ]]
*[[ババ抜き]]
{{トランプ}}
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1,815 | ハドソン | 株式会社ハドソン(英: Hudson Soft Company, Limited)はかつて存在した北海道を発祥とするゲームソフト開発・販売会社。
ゲームソフトのパッケージ裏面やその説明書の裏表紙などに正式社名ロゴを記載していないゲームソフトメーカーの一つでもあった。
2012年3月1日をもって当時親会社であったコナミデジタルエンタテインメント (KDE) に吸収され、2013年12月31日まで同社のブランドとなっていた。
1973年5月18日、工藤裕司とその弟工藤浩により札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした「有限会社ハドソン」として創業。同年9月にはアマチュア無線ショップCQハドソンを開店。
1970年代後半にパソコンのソフトウェアの制作で頭角を現し、1978年には日本で初めてパソコン用のゲームソフトウェアを販売した。1980年代初頭には高い技術力でパソコンソフトメーカーの大手となる。シャープのパソコン用のHu-BASICと呼ばれるBASICインタープリタや、X68000のOSであるHuman68kやそのグラフィカルのシェルであるビジュアルシェル等を開発していた。
任天堂がファミリーコンピュータを発表した際、まだブームになっていない時点から接近を図り、任天堂初のサードパーティとなった。以降家庭用ゲーム機向けソフト開発がメインとなる。自由な社風の元、独自の企画を行っていた。特に「ハドソン全国キャラバン」や「高橋名人」は人気児童誌で積極的にタイアップされたことから、当時の子供世代にとっては抜群の知名度を誇る。
一方で自社でのハード開発にも乗り出しており、日本電気ホームエレクトロニクス株式会社(現:日本電気株式会社)と組み、1987年にはハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載した家庭用ゲーム機『PCエンジン』を発表、ソフトメーカーながら高い技術力の片鱗を見せた。1992年には将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門として、芸術の森アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所」を設立。1994年12月に発売した後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットもPCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。
1997年にはトレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出し、同年4月にパイロットショップ「フューチャービー」を開店する。
1998年11月にメインバンクである北海道拓殖銀行が破綻して以降は資金繰りが難航して経営が悪化した。2001年にコナミ(現:コナミグループ)が筆頭株主になり、2005年には子会社化。その後2011年にコナミの完全子会社になり、翌2012年にはコナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、グループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併され、法人としてのハドソンは解散した。その後はブランド名としてハドソンの名が残されていたが、2013年年末に同ブランドが名実共に消滅する事となり、2014年1月よりコナミブランドに統一されている。
創業者の工藤裕司は北海道ニセコ町出身であり、日本大学理工学部卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。
1973年5月18日、札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした、有限会社ハドソンとして創業。同年9月にアマチュア無線ショップCQハドソンを開店。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。
なお、上記のトラブルを踏まえ信用できる人間を使うという意味で、当時北海学園大学法学部2年生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。
工藤が最も気に入っていた蒸気機関車「C-62(シーロクニ、シロクニ)」の車軸配置「車輪配置 4-6-4」の愛称、"ハドソン"がそのまま社名になった。また、ハドソンの代表電話の下4ケタは4622。ハドソン東京営業所の入り口が駅風の看板がある事も似たような理由がある。
1970年代末、工藤裕司がアメリカでのホビーパソコンのブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコン「POLY88」を購入し持ち帰った。無線機器の販売だけではなく、付加価値をつけた商売の必要性を感じたためであった。
その後、パソコンの販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだソフトウェアの制作・販売を手掛けるようになり、1978年には日本で初めてパソコン用パッケージゲームソフトの開発・販売業務を行うようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。
ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の自転車操業を行っていたこともある。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。
一方で、ショップは次第に、北海道大学の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。後にハドソンに入社してボンバーマンの生みの親となる中本伸一など、一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになったが、「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった。
しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた。
以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主にシャープのMZシリーズ、X1シリーズ用のBASIC(Hu-BASIC)などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があったNECのPC-8000シリーズ用のソフトを開発していなかった。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。
1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結び、上新電機を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない。なお、日本ソフトバンクのソフトウェア流通部門はその後紆余曲折を経て、2020年現在はSB C&Sの一部となっている。
1983年に任天堂が家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータを発売。ハドソンはこの時期にファミコン向けBASIC言語「ファミリーベーシック」を共同開発した。これを契機にファミリーコンピュータ用ゲームソフト開発に乗り出す。
主にパソコンソフトの開発者をそのままファミコンソフトの開発担当としたため、ハドソンのパソコン事業は徐々に規模を縮小していくことになったが、この方針転換は、当時専務だった工藤浩がデパートの丸井今井札幌店(当時はハドソンのアンテナショップも置かれていた)にてファミコンの『ドンキーコング』を遊んでいる子供たちを見て、このゲーム機はいずれパソコンでのゲームを追い抜くと判断したことによるもので、創業者の工藤裕司もその判断を支持したためである。
事実上、初のサードパーティーとなったことで、初期参入会社と同様に、任天堂からソフトの年間発売制限数の緩和やロイヤリティなどの優遇措置を受けることになり、ハドソンはファミコン黎明期にヒット作を連発し、ファミコンのソフトメーカーとして一躍名を馳せる。
他会社と決定的に違ったのは、社内に自由な空気があり、積極的に独自の企画を生み出したことである。全国各地を巡業するゲーム大会「ハドソン全国キャラバン」や、16連打でスイカを割る「高橋名人」は小学館の『コロコロコミック』を筆頭に児童誌でも大々的に取り上げられ、高橋を題材にした『高橋名人の冒険島』の他にも『忍者ハットリくん』や『ドラえもん』『ロードランナー』『桃太郎伝説』などが100万本以上のミリオンセラーを記録するなど、ファミコン人気を決定的なものにした。
PCエンジンには『原人シリーズ』や『桃太郎シリーズ』『天外魔境シリーズ』『ボンバーマンシリーズ』等の代表的な作品・シリーズだけでなく『R-TYPE』『イースI・II』など極めて完成度の高い移植も手掛けている。初めての分野や技術にも積極的に挑戦し、1988年12月には世界で初めてCD-ROMを媒体としたゲームソフトを開発・発売した他、2000年8月にはコンシューマーゲーム初のMORPG『ルーンジェイド』を発売した。
その他にも『スーパー桃太郎電鉄III』や『桃太郎電鉄7』がミリオンを達成したり、1998年の時点でボンバーマンシリーズが累計販売本数1000万本を突破するなど、様々なプラットフォームでゲームソフトを供給するソフトメーカーの雄として存在を示した。
2005年にコナミの子会社となった以後も吸収されるまでゲームソフトの供給を続けており、2008年発売のWii用ゲームソフト『DECA SPORTA Wiiでスポーツ"10"種目!』は全世界累計約277万本を販売し、以後シリーズ化された。
ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。
1987年に日本電気ホームエレクトロニクス(NEC HE)と共同開発した家庭用ゲーム機PCエンジンは、ハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載しており、実質ハドソンが開発したゲーム機である。
PCエンジンは、当時のライバル機である任天堂のスーパーファミコン(全世界累計4,910万台)やセガのメガドライブ(全世界累計3,075万台)と、日本を含め世界市場で覇権争いを展開した。全世界累計の販売台数は1000万台を記録しており、ライバル機の売上には及ばないものの、競合をはるかに凌駕する「美麗なグラフィック」「高音質な楽曲・音声セリフ」「CD-ROMドライブによる大容量ゲーム」などを実現するなど、一時代を築いた名機として成功といえる結果を残した。
1994年12月に発売された、後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットも、PCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。しかし当時、次々と発表された競合ハードであるPlayStation、セガサターン、NINTENDO64の3D性能に対抗すべく急遽PC-FXに搭載する予定だった3Dポリゴン用チップの開発が間に合わず、結果としてPCエンジンの延長線上である従来型の2Dゲーム路線のソフト開発がメインになってしまうなど、急速に発展する3Dゲーム市場からは後塵を拝してしまう。
本機を最後に、ハドソンはハード開発から撤退する事になったものの、長年NEC HE系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。
1991年にコンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社」を設立し同スクールを開校、コンピュータゲームに関わる人材を養成していたが、1997年に同社を「株式会社フューチャービー(後に株式会社未来蜂歌留多商会に商号変更)」とし、トレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出した。同年4月には東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にトレーディングカードを扱うパイロットショップ「フューチャービー」を開店し、後に全国に展開された。
また1991年から札幌の老舗デパート丸井今井のデータウェアハウス構築に協力しており、その流通向けデータベース・マーケティングシステム開発のノウハウを活かしてデータウェアハウス用パッケージソフト「P2/S」を開発した。
1992年には札幌芸術の森アートビレッジ内に、将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門であるハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)を設立し、ゲーム機用半導体開発、ゲーム開発環境の整備などを行っていた。その一方同研究所は1997年に育成散歩計「てくてくエンジェル」を開発し、日経産業新聞優秀賞を受賞。その他にも筑波大学の徳永隆治らと共同で画像圧縮技術「Hybrid Vector Quantization(HVQ)」及び動画圧縮技術「HVQM」を開発した。
さらに2002年には、日本ビクターと共同でCD-ROMコピー防止技術「ROOT」を開発する、株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共同で独自のフォーマット形式の電子書籍を閲覧するソフトウェア「ebi.BookReader」を開発するなど、ゲーム業界だけではなく様々な業界に関わる技術開発を行っていた。
1990年代末、メインバンクだった北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りが悪化。2000年3月よりiモード用のゲームコンテンツ配信を開始するなど、携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入ってコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。同時に特徴的であった「自由な社風」も社内から無くなった。
2007年に本社を東京ミッドタウンに移すがヒット作がほとんどなく、2008年には社長を退任した遠藤やマリオパーティシリーズのスタッフがエヌディーキューブに移籍。コナミの完全子会社になった2011年は、開発ラインナップに家庭用ゲーム機向けタイトルが無くなったことで高橋名人が退社。
さらに、『桃太郎シリーズ』のゲーム監督さくまあきらも、長年付き合いのあった桃太郎電鉄の開発チーム「Team Kawada」に在籍するハドソン社員の多くが退社したり、ハドソンを吸収合併したKDE-Jに在籍する社員との間に発生したトラブルにより、コナミとの確執を経て決別。事実上、桃太郎シリーズ打ち切りと同シリーズの著作権をコナミと他社に譲渡せず、一旦「永久に封印する」という事態が起きた。
そして翌2012年3月1日に、コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併する形で法人としてのハドソンが消滅した。
なお、法人消滅後も当初は体裁上ハドソンブランドのサービスは継続されていたが、バーチャルコンソールでのラインナップの追加以外には目立った動きはあまりなく、2013年末をもってハドソンブランドが消滅。これらのアーカイブも全てコナミブランドに統一され、翌年の2014年元日付けでハドソンブランドの公式ホームページも閉鎖され、名実共に40年7か月の歴史に幕を下ろした。
2014年にコナミブランドに統一された後から現在に至るまで、旧ハドソンブランドのシリーズ作品が新たに発売されている。ただし、ハドソンが開発・販売をしていた時とは携わっているスタッフが異なる場合が多く、現時点(2022年6月現在)ではいずれの作品も従来のシリーズとは路線の異なる部分が少なくない。
コナミブランド統一後(2014年以降)の各シリーズの展開については、各シリーズの記事を参照。
ハドソンの社名の由来は、熱狂的な鉄道ファンでもあった創業者・工藤裕司が、国鉄C62形蒸気機関車のハドソン形という車軸配置から取ったものである。
工藤は大学在学中からサラリーマン時代にかけて、サイドビジネスとして自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売しており、その際に用いていた社名も「グループハドソンプロダクション」だった。
工藤の鉄道趣味は留まることを知らず、社名のみならずハドソンの社内にも鉄道関連のトリビアが溢れていた。社長室には常時組み立て中の鉄道模型が置かれ、工藤がC62形の2号機が好きだったことから、本社の入口にもC62の部品の一部が飾られていた。また、会社の代表電話番号の末尾4桁は4622で、さらには郵便番号をC62にちなんだ「062」にするため、本社をわざわざ北海道札幌市豊平区に置くという独特の拘りぶりだった。また、かつて札幌芸術の森に隣接したアートビレッジにあったハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)の屋上にはライブスチームの線路が敷設され、専属のメカニックが配置されていたほか、研究所の大会議室ではテーブル中央に鉄道模型のジオラマが置かれC62の模型が走っていた。その模様はNHKスペシャル『新・電子立国』でも取り上げられた。
1988年から1995年までC62ニセコ号を運行していた北海道鉄道文化協議会(通称:鉄文協)ではスポンサーの一社を務めていた。C62運行のスポンサーが集まらず、鉄文協が「おたくの社名のハドソンというのは、C62の車軸配置の通称なんですよ。その縁で協力してもらえませんか?」と依頼したところ、そこで初めて工藤もC62好きであることを知り、二つ返事で協力に至ったという。
また、他の趣味として古銭の収集があり、社内に「東洋鋳造貨幣研究所」という古銭専門の研究所を設け、ハドソンの文化事業の一環として中央研究所の建物内に庶民の穴銭資料館「方泉處(ほうせんか)」という古銭博物館を開設していた他、博物館名と同じ「方泉處」という季刊の研究誌(1992年 - 1998年)も発行していたが、1990年代末に経営難に陥って以降はこれらの活動は順次的に廃止されていった。方泉處という名前は、展示の元になっていた工藤のコレクションの保管箱に付けられた名前「方穿貨(ほうせんか)」が由来となっている。
1980年代半ばのハドソン関係者が口々に言う「会社の自由な空気」は社員のみならず、社長自身もそれを体現していた。中でも1986年当時の社員旅行はバブル景気(バブル経済)の過度期であったこともあり、「貸切ジェット機でハワイ旅行」という、一般企業ではあまり類のないものであった。
『迷宮組曲 ミロンの大冒険』を制作し、後に同社のサウンド部門のプロデューサーとなった笹川敏幸は「自由な空気」について「とっても些細なことに、とことんこだわってみる。究極までやりつくしてみる。」という遊び心があったと語っている。
社章は蜂で、「ハチ助」とも呼ばれている。ハドソンのゲームソフトにボーナスキャラ・隠れキャラとして古くから数多く登場している。由来は、北海道のアマチュア無線のエリア番号が「8(はち)」であるため、同音である「蜂」を採用したと言われている。高橋名人によると当初は「CQハチ助」と呼ばれていた(これは高橋の勘違いであり、実際は「JA8スケ」である。理由は当時のアマチュア無線の北海道のコールサインがJA8で始まっていたことによるものである)。
1996年5月18日よりハドソンのCIロゴの表記が「HUDSON GROUP HUDSON SOFT」から「HUDSON」に変更された。高橋名人によるとその理由は「HUDSONのみの表記にすることで、全体的なCIロゴサイズを変更しなくてもハチ助を大きくレイアウト出来るから」だという。
2007年にはハチ助をモチーフとしたアーバンライフスタイルブランド「8SK(ハチスケ)」が立ち上げられ、Tシャツやキャップが公式サイトなどで販売されていた。
「ハドソン全国キャラバン」とは、ハドソンが国内大手の電子部品メーカーのTDKとの協賛で1985年から行っていたゲーム大会のこと。
最大の特徴は「キャラバン」の名にふさわしく、北海道から沖縄まで全国各地を巡業していた事である。各都道府県の政令指定都市にとどまらず、他の都市でも行われた。最大は第2回の40都道府県・65会場である。
2009年4月から2011年4月末まで、2本社体制となっていた(登記上本店は東京本社)。かつては、大阪、名古屋、福岡等にも事業所を設置していた。市谷田町に札幌市時計台を模した東京支社ビルを擁していた時期もある。
これらは、HuC62シリーズとしてPCエンジンのチップセットとして使われた。
実用ソフト
プログラミング言語、OS
任天堂製ファミコンソフトの移植(アレンジ移植を含む)
16ビットパソコン用ソフト
ゲーム
日本電気ホームエレクトロニクス(NECホームエレクトロニクス)との共同開発。
(★は筆頭提供番組、それ以外は複数社提供)
工藤裕司(1947年4月6日 - )北海道ニセコ町生まれ:ハドソン創業者。現在のペンネームは三遊亭あほまろ。趣味については#社長の趣味と企業風土を参照。 | [
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"text": "株式会社ハドソン(英: Hudson Soft Company, Limited)はかつて存在した北海道を発祥とするゲームソフト開発・販売会社。",
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"text": "ゲームソフトのパッケージ裏面やその説明書の裏表紙などに正式社名ロゴを記載していないゲームソフトメーカーの一つでもあった。",
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"text": "2012年3月1日をもって当時親会社であったコナミデジタルエンタテインメント (KDE) に吸収され、2013年12月31日まで同社のブランドとなっていた。",
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"text": "1973年5月18日、工藤裕司とその弟工藤浩により札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした「有限会社ハドソン」として創業。同年9月にはアマチュア無線ショップCQハドソンを開店。",
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"text": "1970年代後半にパソコンのソフトウェアの制作で頭角を現し、1978年には日本で初めてパソコン用のゲームソフトウェアを販売した。1980年代初頭には高い技術力でパソコンソフトメーカーの大手となる。シャープのパソコン用のHu-BASICと呼ばれるBASICインタープリタや、X68000のOSであるHuman68kやそのグラフィカルのシェルであるビジュアルシェル等を開発していた。",
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"text": "任天堂がファミリーコンピュータを発表した際、まだブームになっていない時点から接近を図り、任天堂初のサードパーティとなった。以降家庭用ゲーム機向けソフト開発がメインとなる。自由な社風の元、独自の企画を行っていた。特に「ハドソン全国キャラバン」や「高橋名人」は人気児童誌で積極的にタイアップされたことから、当時の子供世代にとっては抜群の知名度を誇る。",
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"text": "一方で自社でのハード開発にも乗り出しており、日本電気ホームエレクトロニクス株式会社(現:日本電気株式会社)と組み、1987年にはハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載した家庭用ゲーム機『PCエンジン』を発表、ソフトメーカーながら高い技術力の片鱗を見せた。1992年には将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門として、芸術の森アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所」を設立。1994年12月に発売した後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットもPCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。",
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"text": "1997年にはトレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出し、同年4月にパイロットショップ「フューチャービー」を開店する。",
"title": "概要"
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"text": "1998年11月にメインバンクである北海道拓殖銀行が破綻して以降は資金繰りが難航して経営が悪化した。2001年にコナミ(現:コナミグループ)が筆頭株主になり、2005年には子会社化。その後2011年にコナミの完全子会社になり、翌2012年にはコナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、グループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併され、法人としてのハドソンは解散した。その後はブランド名としてハドソンの名が残されていたが、2013年年末に同ブランドが名実共に消滅する事となり、2014年1月よりコナミブランドに統一されている。",
"title": "概要"
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"text": "創業者の工藤裕司は北海道ニセコ町出身であり、日本大学理工学部卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。",
"title": "歴史"
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"text": "1973年5月18日、札幌市豊平区に通信機器と美術写真の販売を目的とした、有限会社ハドソンとして創業。同年9月にアマチュア無線ショップCQハドソンを開店。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、上記のトラブルを踏まえ信用できる人間を使うという意味で、当時北海学園大学法学部2年生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。",
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"text": "工藤が最も気に入っていた蒸気機関車「C-62(シーロクニ、シロクニ)」の車軸配置「車輪配置 4-6-4」の愛称、\"ハドソン\"がそのまま社名になった。また、ハドソンの代表電話の下4ケタは4622。ハドソン東京営業所の入り口が駅風の看板がある事も似たような理由がある。",
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"text": "1970年代末、工藤裕司がアメリカでのホビーパソコンのブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコン「POLY88」を購入し持ち帰った。無線機器の販売だけではなく、付加価値をつけた商売の必要性を感じたためであった。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、パソコンの販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだソフトウェアの制作・販売を手掛けるようになり、1978年には日本で初めてパソコン用パッケージゲームソフトの開発・販売業務を行うようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。",
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"text": "ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の自転車操業を行っていたこともある。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。",
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"text": "一方で、ショップは次第に、北海道大学の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。後にハドソンに入社してボンバーマンの生みの親となる中本伸一など、一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになったが、「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった。",
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"text": "しかし1979年、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元シャープの勧めで、「月刊マイコン」(電波新聞社)昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「サンタクロース」と呼んでいた。",
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"text": "以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主にシャープのMZシリーズ、X1シリーズ用のBASIC(Hu-BASIC)などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があったNECのPC-8000シリーズ用のソフトを開発していなかった。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1981年には孫正義率いるパソコンソフトの流通会社である日本ソフトバンクと独占契約を結び、上新電機を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない。なお、日本ソフトバンクのソフトウェア流通部門はその後紆余曲折を経て、2020年現在はSB C&Sの一部となっている。",
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"text": "1983年に任天堂が家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータを発売。ハドソンはこの時期にファミコン向けBASIC言語「ファミリーベーシック」を共同開発した。これを契機にファミリーコンピュータ用ゲームソフト開発に乗り出す。",
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"text": "主にパソコンソフトの開発者をそのままファミコンソフトの開発担当としたため、ハドソンのパソコン事業は徐々に規模を縮小していくことになったが、この方針転換は、当時専務だった工藤浩がデパートの丸井今井札幌店(当時はハドソンのアンテナショップも置かれていた)にてファミコンの『ドンキーコング』を遊んでいる子供たちを見て、このゲーム機はいずれパソコンでのゲームを追い抜くと判断したことによるもので、創業者の工藤裕司もその判断を支持したためである。",
"title": "歴史"
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"text": "事実上、初のサードパーティーとなったことで、初期参入会社と同様に、任天堂からソフトの年間発売制限数の緩和やロイヤリティなどの優遇措置を受けることになり、ハドソンはファミコン黎明期にヒット作を連発し、ファミコンのソフトメーカーとして一躍名を馳せる。",
"title": "歴史"
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"text": "他会社と決定的に違ったのは、社内に自由な空気があり、積極的に独自の企画を生み出したことである。全国各地を巡業するゲーム大会「ハドソン全国キャラバン」や、16連打でスイカを割る「高橋名人」は小学館の『コロコロコミック』を筆頭に児童誌でも大々的に取り上げられ、高橋を題材にした『高橋名人の冒険島』の他にも『忍者ハットリくん』や『ドラえもん』『ロードランナー』『桃太郎伝説』などが100万本以上のミリオンセラーを記録するなど、ファミコン人気を決定的なものにした。",
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"text": "PCエンジンには『原人シリーズ』や『桃太郎シリーズ』『天外魔境シリーズ』『ボンバーマンシリーズ』等の代表的な作品・シリーズだけでなく『R-TYPE』『イースI・II』など極めて完成度の高い移植も手掛けている。初めての分野や技術にも積極的に挑戦し、1988年12月には世界で初めてCD-ROMを媒体としたゲームソフトを開発・発売した他、2000年8月にはコンシューマーゲーム初のMORPG『ルーンジェイド』を発売した。",
"title": "歴史"
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"text": "その他にも『スーパー桃太郎電鉄III』や『桃太郎電鉄7』がミリオンを達成したり、1998年の時点でボンバーマンシリーズが累計販売本数1000万本を突破するなど、様々なプラットフォームでゲームソフトを供給するソフトメーカーの雄として存在を示した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "2005年にコナミの子会社となった以後も吸収されるまでゲームソフトの供給を続けており、2008年発売のWii用ゲームソフト『DECA SPORTA Wiiでスポーツ\"10\"種目!』は全世界累計約277万本を販売し、以後シリーズ化された。",
"title": "歴史"
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"text": "ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。",
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"text": "1987年に日本電気ホームエレクトロニクス(NEC HE)と共同開発した家庭用ゲーム機PCエンジンは、ハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれるHuC62シリーズを搭載しており、実質ハドソンが開発したゲーム機である。",
"title": "歴史"
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"text": "PCエンジンは、当時のライバル機である任天堂のスーパーファミコン(全世界累計4,910万台)やセガのメガドライブ(全世界累計3,075万台)と、日本を含め世界市場で覇権争いを展開した。全世界累計の販売台数は1000万台を記録しており、ライバル機の売上には及ばないものの、競合をはるかに凌駕する「美麗なグラフィック」「高音質な楽曲・音声セリフ」「CD-ROMドライブによる大容量ゲーム」などを実現するなど、一時代を築いた名機として成功といえる結果を残した。",
"title": "歴史"
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"text": "1994年12月に発売された、後継機種である次世代ゲーム機『PC-FX』の音源や動画処理などのチップセットも、PCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。しかし当時、次々と発表された競合ハードであるPlayStation、セガサターン、NINTENDO64の3D性能に対抗すべく急遽PC-FXに搭載する予定だった3Dポリゴン用チップの開発が間に合わず、結果としてPCエンジンの延長線上である従来型の2Dゲーム路線のソフト開発がメインになってしまうなど、急速に発展する3Dゲーム市場からは後塵を拝してしまう。",
"title": "歴史"
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"text": "本機を最後に、ハドソンはハード開発から撤退する事になったものの、長年NEC HE系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "1991年にコンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社」を設立し同スクールを開校、コンピュータゲームに関わる人材を養成していたが、1997年に同社を「株式会社フューチャービー(後に株式会社未来蜂歌留多商会に商号変更)」とし、トレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出した。同年4月には東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にトレーディングカードを扱うパイロットショップ「フューチャービー」を開店し、後に全国に展開された。",
"title": "歴史"
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"text": "また1991年から札幌の老舗デパート丸井今井のデータウェアハウス構築に協力しており、その流通向けデータベース・マーケティングシステム開発のノウハウを活かしてデータウェアハウス用パッケージソフト「P2/S」を開発した。",
"title": "歴史"
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"text": "1992年には札幌芸術の森アートビレッジ内に、将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門であるハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)を設立し、ゲーム機用半導体開発、ゲーム開発環境の整備などを行っていた。その一方同研究所は1997年に育成散歩計「てくてくエンジェル」を開発し、日経産業新聞優秀賞を受賞。その他にも筑波大学の徳永隆治らと共同で画像圧縮技術「Hybrid Vector Quantization(HVQ)」及び動画圧縮技術「HVQM」を開発した。",
"title": "歴史"
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"text": "さらに2002年には、日本ビクターと共同でCD-ROMコピー防止技術「ROOT」を開発する、株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共同で独自のフォーマット形式の電子書籍を閲覧するソフトウェア「ebi.BookReader」を開発するなど、ゲーム業界だけではなく様々な業界に関わる技術開発を行っていた。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "1990年代末、メインバンクだった北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りが悪化。2000年3月よりiモード用のゲームコンテンツ配信を開始するなど、携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入ってコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。同時に特徴的であった「自由な社風」も社内から無くなった。",
"title": "歴史"
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"text": "2007年に本社を東京ミッドタウンに移すがヒット作がほとんどなく、2008年には社長を退任した遠藤やマリオパーティシリーズのスタッフがエヌディーキューブに移籍。コナミの完全子会社になった2011年は、開発ラインナップに家庭用ゲーム機向けタイトルが無くなったことで高橋名人が退社。",
"title": "歴史"
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"text": "さらに、『桃太郎シリーズ』のゲーム監督さくまあきらも、長年付き合いのあった桃太郎電鉄の開発チーム「Team Kawada」に在籍するハドソン社員の多くが退社したり、ハドソンを吸収合併したKDE-Jに在籍する社員との間に発生したトラブルにより、コナミとの確執を経て決別。事実上、桃太郎シリーズ打ち切りと同シリーズの著作権をコナミと他社に譲渡せず、一旦「永久に封印する」という事態が起きた。",
"title": "歴史"
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"text": "そして翌2012年3月1日に、コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い、KDEに吸収合併する形で法人としてのハドソンが消滅した。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、法人消滅後も当初は体裁上ハドソンブランドのサービスは継続されていたが、バーチャルコンソールでのラインナップの追加以外には目立った動きはあまりなく、2013年末をもってハドソンブランドが消滅。これらのアーカイブも全てコナミブランドに統一され、翌年の2014年元日付けでハドソンブランドの公式ホームページも閉鎖され、名実共に40年7か月の歴史に幕を下ろした。",
"title": "歴史"
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"text": "2014年にコナミブランドに統一された後から現在に至るまで、旧ハドソンブランドのシリーズ作品が新たに発売されている。ただし、ハドソンが開発・販売をしていた時とは携わっているスタッフが異なる場合が多く、現時点(2022年6月現在)ではいずれの作品も従来のシリーズとは路線の異なる部分が少なくない。",
"title": "歴史"
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"text": "コナミブランド統一後(2014年以降)の各シリーズの展開については、各シリーズの記事を参照。",
"title": "歴史"
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"text": "ハドソンの社名の由来は、熱狂的な鉄道ファンでもあった創業者・工藤裕司が、国鉄C62形蒸気機関車のハドソン形という車軸配置から取ったものである。",
"title": "社長の趣味と企業風土"
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"text": "工藤は大学在学中からサラリーマン時代にかけて、サイドビジネスとして自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売しており、その際に用いていた社名も「グループハドソンプロダクション」だった。",
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"text": "工藤の鉄道趣味は留まることを知らず、社名のみならずハドソンの社内にも鉄道関連のトリビアが溢れていた。社長室には常時組み立て中の鉄道模型が置かれ、工藤がC62形の2号機が好きだったことから、本社の入口にもC62の部品の一部が飾られていた。また、会社の代表電話番号の末尾4桁は4622で、さらには郵便番号をC62にちなんだ「062」にするため、本社をわざわざ北海道札幌市豊平区に置くという独特の拘りぶりだった。また、かつて札幌芸術の森に隣接したアートビレッジにあったハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)の屋上にはライブスチームの線路が敷設され、専属のメカニックが配置されていたほか、研究所の大会議室ではテーブル中央に鉄道模型のジオラマが置かれC62の模型が走っていた。その模様はNHKスペシャル『新・電子立国』でも取り上げられた。",
"title": "社長の趣味と企業風土"
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"text": "1988年から1995年までC62ニセコ号を運行していた北海道鉄道文化協議会(通称:鉄文協)ではスポンサーの一社を務めていた。C62運行のスポンサーが集まらず、鉄文協が「おたくの社名のハドソンというのは、C62の車軸配置の通称なんですよ。その縁で協力してもらえませんか?」と依頼したところ、そこで初めて工藤もC62好きであることを知り、二つ返事で協力に至ったという。",
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"text": "また、他の趣味として古銭の収集があり、社内に「東洋鋳造貨幣研究所」という古銭専門の研究所を設け、ハドソンの文化事業の一環として中央研究所の建物内に庶民の穴銭資料館「方泉處(ほうせんか)」という古銭博物館を開設していた他、博物館名と同じ「方泉處」という季刊の研究誌(1992年 - 1998年)も発行していたが、1990年代末に経営難に陥って以降はこれらの活動は順次的に廃止されていった。方泉處という名前は、展示の元になっていた工藤のコレクションの保管箱に付けられた名前「方穿貨(ほうせんか)」が由来となっている。",
"title": "社長の趣味と企業風土"
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"text": "1980年代半ばのハドソン関係者が口々に言う「会社の自由な空気」は社員のみならず、社長自身もそれを体現していた。中でも1986年当時の社員旅行はバブル景気(バブル経済)の過度期であったこともあり、「貸切ジェット機でハワイ旅行」という、一般企業ではあまり類のないものであった。",
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"text": "『迷宮組曲 ミロンの大冒険』を制作し、後に同社のサウンド部門のプロデューサーとなった笹川敏幸は「自由な空気」について「とっても些細なことに、とことんこだわってみる。究極までやりつくしてみる。」という遊び心があったと語っている。",
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"text": "社章は蜂で、「ハチ助」とも呼ばれている。ハドソンのゲームソフトにボーナスキャラ・隠れキャラとして古くから数多く登場している。由来は、北海道のアマチュア無線のエリア番号が「8(はち)」であるため、同音である「蜂」を採用したと言われている。高橋名人によると当初は「CQハチ助」と呼ばれていた(これは高橋の勘違いであり、実際は「JA8スケ」である。理由は当時のアマチュア無線の北海道のコールサインがJA8で始まっていたことによるものである)。",
"title": "社章・CIロゴ"
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"text": "1996年5月18日よりハドソンのCIロゴの表記が「HUDSON GROUP HUDSON SOFT」から「HUDSON」に変更された。高橋名人によるとその理由は「HUDSONのみの表記にすることで、全体的なCIロゴサイズを変更しなくてもハチ助を大きくレイアウト出来るから」だという。",
"title": "社章・CIロゴ"
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"text": "2007年にはハチ助をモチーフとしたアーバンライフスタイルブランド「8SK(ハチスケ)」が立ち上げられ、Tシャツやキャップが公式サイトなどで販売されていた。",
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"text": "「ハドソン全国キャラバン」とは、ハドソンが国内大手の電子部品メーカーのTDKとの協賛で1985年から行っていたゲーム大会のこと。",
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] | 株式会社ハドソンはかつて存在した北海道を発祥とするゲームソフト開発・販売会社。 ゲームソフトのパッケージ裏面やその説明書の裏表紙などに正式社名ロゴを記載していないゲームソフトメーカーの一つでもあった。 2012年3月1日をもって当時親会社であったコナミデジタルエンタテインメント (KDE) に吸収され、2013年12月31日まで同社のブランドとなっていた。 | {{Pathnav|コナミホールディングス|コナミデジタルエンタテインメント|frame=1}}
{{Otheruses|日本のゲームソフト製作会社}}
{{画像提供依頼|北海道本社の写真、東京事業所が新宿区市谷田町にあった頃の写真|date=2010年6月|cat=札幌市|cat2=新宿区}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 株式会社ハドソン
|英文社名 = Hudson Soft Company, Limited
|ロゴ =
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 = {{上場情報 | JASDAQ | 4822 | 2000年12月20日 | 2011年3月29日}}
|略称 =
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 107-6288
|本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]九丁目7番1号 [[東京ミッドタウン|ミッドタウン・タワー]]
|設立 = [[1973年]]([[昭和]]48年)[[5月18日]]<br />(有限会社ハドソン)
|業種 = 情報・通信業
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = [[コンシューマ]][[コンテンツ]]の開発・製造・販売<br />[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]コンテンツの開発・運営・配信<br />{{Efn|この他にも、コア・テクノロジー事業<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/hursc/index.html|title=ハドソン中央研究所|date=20020804120616}}</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/ct/btob.html|title=CT事業本部|date=20040603162538}}</ref>、流通向けデータベース・マーケティングシステム事業<ref name="marketing">{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/co/company/game.html|title=事業内容1|date=20000115201759}}</ref>、[[トレーディングカード]]の企画・開発・販売事業<ref name="tradelicense">{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp/co/company/game2.html|title=事業内容2|date=20000115211409}}</ref>
、ライセンス事業<ref name="tradelicense" />などを行っていた時期がある。}}
|代表者 = [[上原和彦]](代表取締役社長)
|資本金 = 3億円<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hudson.co.jp/koukoku/bn2011/110704.pdf |title=電子公告『資本金の額の減少について』 |accessdate=2011-07-05 |date=2011-07-04 |publisher=ハドソン |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110813213441/http://www.hudson.co.jp/koukoku/bn2011/110704.pdf |archivedate=2011-8-13 }}</ref>
|発行済株式総数 = 2881万2986株
|売上高 = 連結:143億2460万6千円<br />単独:122億8337万1千円<br />(2011年3月期)
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|主要株主 = [[コナミホールディングス|コナミ(株)]] 100%
|主要子会社 =
|関係する人物 = [[#工藤裕司|工藤裕司]](創業者)<br />[[工藤浩 (ハドソン)|工藤浩]](創業者)<br />[[高橋名人|高橋利幸]](高橋名人)<br />[[中本伸一]]<br />[[大里幸夫]]<br />[[藤原茂樹 (ゲームクリエイター)|藤原茂樹]]<br />[[遠藤英俊]]<br />[[辻尚之]]<br />[[川田忠之]](川田名人)
|特記事項='''上記は[[2011年]]([[平成]]23年)[[4月]]時点の情報。'''後に吸収合併を経て[[コナミデジタルエンタテインメント|KDE]]のブランド(『ハドソンブランド』)となり、2013年12月31日をもってブランド消滅。
}}
'''株式会社ハドソン'''({{Lang-en-short|''Hudson Soft Company, Limited''}})はかつて存在した[[北海道]]を発祥とする[[ゲームソフト]]開発・販売会社。
ゲームソフトのパッケージ裏面やその説明書の裏表紙などに正式社名ロゴを記載していないゲームソフトメーカーの一つでもあった。
[[2012年]][[3月1日]]をもって当時親会社であった[[コナミデジタルエンタテインメント]] (KDE) に吸収され{{Efn|倒産(経営破綻)したと言われることがあるが、これは誤りである。}}、[[2013年]][[12月31日]]まで同社のブランドとなっていた{{Efn|権利自体は現在もKDEがすべて保有している。}}。
== 概要 ==
[[File:Formerly known as the Hudson Central Laboratory.jpg|thumb|250px|旧・ハドソン中央研究所]]
[[1973年]]{{sfn|佐々木|2013|p=8}}5月18日、[[#工藤裕司|工藤裕司]]とその弟工藤浩により[[札幌市]][[豊平区]]に通信機器と美術写真の販売を目的とした「有限会社ハドソン」として創業<ref name="sogyo">{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/coinfo/history.html|title=沿革 - HUDSON SOFT|date=20001211040400}}</ref>。同年9月にはアマチュア無線ショップ[[CQハドソン]]を開店<ref name="sogyo" /><ref name=":0">{{Cite book|title=新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防|date=1997-01-20|year=|publisher=日本放送出版協会|author=相田洋|author2=大墻敦|pages=|page=215}}</ref>。
1970年代後半に[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の[[ソフトウェア]]の制作で頭角を現し、1978年には日本で初めてパソコン用のゲームソフトウェアを販売した<ref>{{Wayback|date=19961106034210|url=http://www.hudson.co.jp:80/company/game.html|title= ゲームとともに...(株式会社ハドソン)}}</ref>。1980年代初頭には高い技術力でパソコンソフトメーカーの大手となる。主に[[シャープ]]のパソコン用にリリースされたBASICインタープリタ[[Hu-BASIC]]や、[[X68000]]のOSである[[Human68k]]やそのグラフィカルのシェルであるビジュアルシェル等を開発していた。
[[任天堂]]が[[ファミリーコンピュータ]]を発表した際、まだブームになっていない時点から接近を図り、任天堂初のサードパーティとなった。以降家庭用ゲーム機向けソフト開発がメインとなる。自由な社風の元、独自の企画を行っていた。特に「ハドソン全国キャラバン」や「[[高橋名人]]」は人気児童誌で積極的にタイアップされたことから、当時の子供世代にとっては抜群の知名度を誇る。
一方で自社でのハード開発にも乗り出しており、[[日本電気ホームエレクトロニクス|日本電気ホームエレクトロニクス株式会社]](現:[[日本電気|日本電気株式会社]])と組み、1987年にはハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれる[[HuC62]]シリーズを搭載した家庭用ゲーム機『[[PCエンジン]]』を発表、ソフトメーカーながら高い技術力の片鱗を見せた。1992年には将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門として、[[札幌芸術の森|芸術の森]]アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所」を設立。1994年12月に発売した後継機種である次世代ゲーム機『[[PC-FX]]』の音源や動画処理などの[[チップセット]]もPCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。
1997年にはトレーディングカードの企画・開発・販売事業に乗り出し、同年4月にパイロットショップ「フューチャービー」を開店する。
1998年11月にメインバンクである[[北海道拓殖銀行]]が破綻して以降は資金繰りが難航して経営が悪化した。2001年にコナミ(現:[[コナミグループ]])が筆頭株主になり、2005年には子会社化。その後2011年にコナミの完全子会社になり、翌2012年にはコナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、グループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い<ref name="Kyusyu">[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1201/17/news114.html ハドソンが解散へ コナミデジタルエンタテインメントが吸収合併 - ITmedia NEWS]</ref>、KDEに吸収合併され、法人としてのハドソンは解散した。その後はブランド名としてハドソンの名が残されていたが、2013年年末に同ブランドが名実共に消滅する事となり、2014年1月よりコナミブランドに統一されている。
== 歴史 ==
=== 創業 ===
創業者の[[#工藤裕司|工藤裕司]]は北海道ニセコ町出身であり、[[日本大学]][[理工学部]]卒業後、名古屋でサラリーマンをしていた。しかし在学中から行っていた、自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売するサイドビジネス「グループハドソンプロダクション」で、資金管理に関して無知だったために信頼していた人間に金を持ち逃げされるなどトラブルを多く抱え、本業も退社し、失意の内に帰郷していた。
1973年5月18日、[[札幌市]][[豊平区]]に通信機器と美術写真の販売を目的とした、有限会社ハドソンとして創業<ref name="sogyo" />。同年9月に[[アマチュア無線]]ショップ[[CQハドソン]]を開店<ref name=":0" />。当初は喫茶店を開業するつもりだったが、同一建物内で別の借り主が喫茶店を開業したため、急遽無線ショップに変更したとも言われている。
なお、上記のトラブルを踏まえ信用できる人間を使うという意味で、当時[[北海学園大学]]法学部2年生だった実弟の工藤浩を中退させ、経営サイドに引き込んでいる。ただし、アマチュア無線販売時代のハドソンはほぼ毎月赤字だった。
工藤が最も気に入っていた蒸気機関車「[[国鉄C62形蒸気機関車|C-62]](シーロクニ、シロクニ)」の車軸配置「[[車輪配置 4-6-4]]」の愛称、"'''ハドソン'''"がそのまま社名になった<ref name=":0" />。また、ハドソンの代表電話の下4ケタは4622<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp/corp/coinfo/map.html|title=会社案内 - 会社所在地・地図|date=20050601034732}}</ref>。{{要出典範囲|date=2020年2月|ハドソン東京営業所の入り口が駅風の看板がある事も似たような理由がある}}。
=== パソコンのソフトメーカー時代 ===
1970年代末、工藤裕司がアメリカでの[[ホビーパソコン]]のブームを伝える雑誌記事を目にし、米国への視察旅行を行い、そこで高額なパソコン「POLY88」を購入し持ち帰った<ref name=":1">{{Cite book|title=新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防|date=1997-01-20|year=|publisher=日本放送出版協会|author=相田洋|author2=大墻敦|pages=218-219|page=}}</ref>。無線機器の販売だけではなく、付加価値をつけた商売の必要性を感じたためであった<ref name=":1" />。
その後、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の販売はもとより、アメリカ視察で購入したパソコンで組んだ[[ソフトウェア]]の制作・販売を手掛けるようになり、1978年には日本で初めてパソコン用パッケージゲームソフトの開発・販売業務を行うようになる。当時は、同じ電子機器を扱っているからという理由で多くのアマチュア無線ショップがパソコン販売会社に鞍替えしていた。
ソフトウェアに関しては、当初はパソコンを購入した客が自力でプログラムを開発できない場合のおまけとしての存在だった。この時点のハドソンにはまだ開発用の機材がほとんど無く、顧客に販売するコンピュータを納品の前日にこっそり開梱しプログラムを打ち込み、当日朝には再度梱包して納品するという、ある種の[[自転車操業]]を行っていたこともある<ref>『新・電子立国』第4巻 pp.226 - 233</ref>。なお、ソフトは店頭販売も行っていたが、ローカル都市の1ショップであり広告宣伝もさほど行っていなかったため、知る人ぞ知るという状況だった。
一方で、ショップは次第に、[[北海道大学]]の学生などを主とした札幌市内のパソコンマニアの溜まり場となった。後にハドソンに入社して[[ボンバーマン]]の生みの親となる[[中本伸一]]など、一部の学生はアルバイトとして自らソフトを開発し、それらのソフトも店頭で販売するようになったが<ref>{{Cite book|title=新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防|date=1997-01-20|year=|publisher=日本放送出版協会|author=相田洋|author2=大墻敦|pages=226-235|page=}}</ref>、「いつ潰れてもおかしくない資金繰り」だった<ref name=":2">{{Cite book|title=新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防|date=1997-01-20|year=|publisher=日本放送出版協会|author=相田洋|author2=大墻敦|pages=235-241|page=}}</ref>。
しかし[[1979年]]、ハドソンが扱っていたパソコンの販売元[[シャープ]]の勧めで、「[[月刊マイコン]]」([[電波新聞社]])昭和54年7月号にオリジナルソフトウェアの通信販売広告を掲載すると一転、郵便局員が毎日のように現金書留の詰まった白い袋を担いで来る状況になり、莫大な利益を得ることになった。当時のハドソン社内では郵便局員を「[[サンタクロース]]」と呼んでいた<ref name=":2" />。
以降、パソコンソフト開発で高い技術力を発揮し精力的に作品を発表し、一躍ハドソンは日本を代表するパソコンソフトメーカーとしての認知を得る。ただし、当初は主に[[シャープ]]の[[MZ (コンピュータ)|MZ]]シリーズ、[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズ用のBASIC([[Hu-BASIC]])などを手掛けており、日本で圧倒的な人気があった[[日本電気|NEC]]の[[PC-8000シリーズ]]用のソフトを開発していなかった<ref>赤木哲平『セガVS.任天堂―マルチメディア・ウォーズのゆくえ』(日本能率協会マネジメントセンター、1992年)p.126</ref>。そのため、ハドソンの名前は当時のパソコンのライトユーザーには浸透していなかった。
[[1981年]]には[[孫正義]]率いるパソコンソフトの流通会社である[[ソフトバンクグループ|日本ソフトバンク]]と独占契約を結び、[[上新電機]]を始めとする全国の主なパソコン販売店の店頭でソフトウェアが販売される体制を確立した。なおソフトバンクの歴史でハドソンの存在は必要不可欠と言われており、現在も孫は工藤兄弟を「恩人」と呼び、事ある毎に礼を欠かしていない<ref>[http://president.jp/articles/-/8203 恩人が告白!なぜ私は「裸の孫正義」に賭ける気になったのか] - PRESIDENT Online・2013年1月11日</ref>。なお、日本ソフトバンクのソフトウェア流通部門はその後紆余曲折を経て、2020年現在は[[SB C&S]]の一部となっている。
=== 家庭用ゲームソフトの開発 ===
1983年に[[任天堂]]が[[家庭用ゲーム機]][[ファミリーコンピュータ]]を発売。ハドソンはこの時期にファミコン向け[[BASIC|BASIC言語]]「[[ファミリーベーシック]]」を共同開発した。これを契機にファミリーコンピュータ用ゲームソフト開発に乗り出す。
主にパソコンソフトの開発者をそのままファミコンソフトの開発担当としたため、ハドソンのパソコン事業は徐々に規模を縮小していくことになったが、この方針転換は、当時専務だった工藤浩がデパートの[[丸井今井]]札幌店(当時はハドソンの[[アンテナショップ]]も置かれていた)にてファミコンの『[[ドンキーコング]]』を遊んでいる子供たちを見て、このゲーム機はいずれパソコンでのゲームを追い抜くと判断したことによるもので、創業者の工藤裕司もその判断を支持したためである。
事実上、初の[[サードパーティー]]となったことで、初期参入会社と同様に、任天堂からソフトの年間発売制限数の緩和やロイヤリティなどの優遇措置を受けることになり<ref>{{Cite web|和書|date =2012年1月18日|url=https://twitter.com/meijin_sakurada/status/159860227204845569|title=元ハドソンの桜田名人のツイッターでの発言「初期から参入していた会社は任天堂の定めた『ソフトの年間発売制限数』が多く、優遇されていた」|accessdate=2013年4月1日}}</ref>、ハドソンはファミコン黎明期にヒット作を連発し、ファミコンのソフトメーカーとして一躍名を馳せる。
他会社と決定的に違ったのは、社内に自由な空気があり、積極的に独自の企画を生み出したことである。全国各地を巡業するゲーム大会「[[#ハドソン全国キャラバン|ハドソン全国キャラバン]]」や、16連打でスイカを割る「[[高橋名人]]」は[[小学館]]の『[[コロコロコミック]]』を筆頭に児童誌でも大々的に取り上げられ、高橋を題材にした『[[高橋名人の冒険島]]』の他にも『[[忍者ハットリくん]]』や『[[ドラえもん]]』『[[ロードランナー]]』『[[桃太郎伝説]]』などが100万本以上の[[ミリオンセラー]]を記録するなど、ファミコン人気を決定的なものにした。
[[PCエンジン]]には『[[原人シリーズ]]』や『桃太郎シリーズ』『[[天外魔境|天外魔境シリーズ]]』『[[ボンバーマンシリーズ]]』等の代表的な作品・シリーズだけでなく『[[R-TYPE]]』『[[イースI・II]]』など極めて完成度の高い移植も手掛けている。初めての分野や技術にも積極的に挑戦し、1988年12月には世界で初めてCD-ROMを媒体としたゲームソフトを開発・発売した他、2000年8月にはコンシューマーゲーム初の[[MORPG]]『[[ルーンジェイド]]』を発売した。
その他にも『[[スーパー桃太郎電鉄III]]』や『[[桃太郎電鉄7]]』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kouenirai.com/profile/5175.htm |title=講演依頼.com さくまあきらプロフィール |accessdate=2014/11/4}}</ref>がミリオンを達成したり、1998年の時点でボンバーマンシリーズが累計販売本数1000万本を突破する{{Efn|1998年に『ボンバーマンシリーズ やったぞ1000万本キャンペーン すごいぞ1000人プレゼント』が実施された。}}など、様々なプラットフォームでゲームソフトを供給するソフトメーカーの雄として存在を示した。
2005年にコナミの子会社となった以後も吸収されるまでゲームソフトの供給を続けており、2008年発売の[[Wii]]用ゲームソフト『[[DECA SPORTA#DECA SPORTA Wiiでスポーツ"10"種目!|DECA SPORTA Wiiでスポーツ"10"種目!]]』は全世界累計約277万本<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hudson.co.jp/corp/investors/pdf/100510.pdf |title=2010年3月期 決算説明会資料 |accessdate=2010-5-10 |date=2010-5-10 |publisher=ハドソン |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101217153549/http://hudson.co.jp/corp/investors/pdf/100510.pdf |archivedate=2010-12-17 }}</ref>を販売し、以後シリーズ化された。
=== 家庭用ゲーム機「PCエンジン」の開発 ===
ハドソンは本来、技術者の集団ということもあり、任天堂のサードパーティーとして、ファミコンブームの立役者としての立場に甘んじる事無く、独自のハード作りにも乗り出した。
1987年に[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NEC HE)と共同開発した家庭用ゲーム機[[PCエンジン]]は、ハドソンが独自に設計開発したCPU、サウンドチップ、画像処理チップなどC62システムと呼ばれる[[HuC62]]シリーズを搭載しており、実質ハドソンが開発したゲーム機である。
PCエンジンは、当時のライバル機である[[任天堂]]の[[スーパーファミコン]](全世界累計4,910万台)や[[セガ]]の[[メガドライブ]](全世界累計3,075万台)と、日本を含め世界市場で覇権争いを展開した。全世界累計の販売台数は1000万台を記録しており、ライバル機の売上には及ばないものの、競合をはるかに凌駕する「美麗なグラフィック」「高音質な楽曲・音声セリフ」「CD-ROMドライブによる大容量ゲーム」などを実現するなど、一時代を築いた名機として成功といえる結果を残した。
1994年12月に発売された、後継機種である次世代ゲーム機『[[PC-FX]]』の音源や動画処理などの[[チップセット]]も、PCエンジンと同様にHuC62シリーズが採用された。しかし当時、次々と発表された競合ハードである[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、[[セガサターン]]、[[NINTENDO64]]の3D性能に対抗すべく急遽PC-FXに搭載する予定だった3Dポリゴン用チップの開発が間に合わず、結果としてPCエンジンの延長線上である従来型の2Dゲーム路線のソフト開発がメインになってしまうなど、急速に発展する3Dゲーム市場からは後塵を拝してしまう。
本機を最後に、ハドソンはハード開発から撤退する事になったものの、長年NEC HE系列のファーストパーティー的な存在であり続けた。
=== ゲーム関連分野や、それ以外の分野への進出 ===
1991年にコンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社{{Efn|name="school"|ハドソンコンピューターデザイナーズスクールとも表記される。}}」を設立し同スクールを開校、コンピュータゲームに関わる人材を養成していたが、1997年に同社を「株式会社フューチャービー(後に株式会社[[未来蜂歌留多商会]]に商号変更)」とし、[[トレーディングカード]]の企画・開発・販売事業に乗り出した。同年4月には東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にトレーディングカードを扱う[[アンテナショップ|パイロットショップ]]「フューチャービー」を開店し、後に全国に展開された。
また1991年から札幌の老舗デパート丸井今井のデータウェアハウス構築に協力しており、その流通向けデータベース・マーケティングシステム開発のノウハウを活かしてデータウェアハウス用パッケージソフト「P2/S」を開発した<ref name="marketing" />。
1992年には[[札幌芸術の森]]アートビレッジ内に、将来を担う最新テクノロジーの研究開発部門である'''ハドソン中央研究所'''(コア・テクノロジー事業部)を設立し、ゲーム機用半導体開発、ゲーム開発環境の整備などを行っていた。その一方同研究所は1997年に育成散歩計「[[てくてくエンジェル]]」を開発し、日経産業新聞優秀賞を受賞。その他にも[[筑波大学]]の徳永隆治らと共同で画像圧縮技術「[[Hybrid Vector Quantization]](HVQ)」及び動画圧縮技術「HVQM」を開発<ref name="HVQ">{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/hursc/jirei.html|title=現在の研究開発内容 - ハドソン中央研究所|date=20020805170055}}</ref><ref name="ChaosLab">[http://www.chaos.cs.tsukuba.ac.jp/products/index.html#1 筑波大学 システム情報工学研究科 カオス研究室|製品紹介]</ref>した。
さらに2002年には、[[日本ビクター]]と共同でCD-ROMコピー防止技術「[[コピーガード#ROOT|ROOT]]」を開発する<ref name="ROOT">{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/ct/root/root.html|title=ROOT - Copy Protection Technology|date=20040414083434}}</ref>、株式会社[[イーブックイニシアティブジャパン]]と共同で独自のフォーマット形式の電子書籍を閲覧するソフトウェア「ebi.BookReader」を開発する<ref name="ebi.Book">[https://corp.ebookjapan.jp/about/history 沿革 | 企業情報 - 株式会社イーブックイニシアティブジャパン]</ref>など、ゲーム業界だけではなく様々な業界に関わる技術開発を行っていた。
=== コナミの子会社化 ~ ハドソンブランドの終焉 ===
1990年代末、メインバンクだった[[北海道拓殖銀行]]の破綻により資金繰りが悪化。2000年3月より[[iモード]]用のゲームコンテンツ配信を開始するなど、携帯電話向けの事業に乗り出すが、経営状態は好転せず、2000年代に入ってコナミの資本が入るようになり、2004年には創業者が経営から完全に手を引き、2005年にはコナミの子会社となる。同時に特徴的であった「自由な社風」も社内から無くなった。
2007年に本社を[[東京ミッドタウン]]に移すがヒット作がほとんどなく、2008年には社長を退任した遠藤や[[マリオパーティシリーズ]]のスタッフが[[エヌディーキューブ]]に移籍。コナミの完全子会社になった2011年は、開発ラインナップに家庭用ゲーム機向けタイトルが無くなったことで高橋名人が退社。
さらに、『桃太郎シリーズ』のゲーム監督[[さくまあきら]]も、長年付き合いのあった桃太郎電鉄の開発チーム「Team Kawada」に在籍するハドソン社員の多くが退社したり、ハドソンを吸収合併したKDE-Jに在籍する社員との間に発生したトラブルにより、コナミとの確執を経て決別。事実上、桃太郎シリーズ打ち切りと同シリーズの著作権をコナミと他社に譲渡せず、一旦「永久に封印する」という事態が起きた。
そして翌2012年3月1日に、コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い<ref name="Kyusyu" />、KDEに吸収合併する形で法人としてのハドソンが消滅した。
なお、法人消滅後も当初は体裁上ハドソンブランドのサービスは継続されていたが<ref name=hudson20120120>{{Cite web|和書|date=2012-01-20|url=http://www.hudson.co.jp/osirase00.html|title=株式会社コナミデジタルエンタテインメントとの合併について|publisher=ハドソン|accessdate=2012-01-20}}</ref>、[[バーチャルコンソール]]でのラインナップの追加以外には目立った動きはあまりなく、2013年末をもってハドソンブランドが消滅。これらのアーカイブも全てコナミブランドに統一され、翌年の2014年元日付けでハドソンブランドの公式ホームページも閉鎖され、名実共に40年7か月の歴史に幕を下ろした。
=== その後の旧ハドソンブランドのシリーズ展開 ===
2014年にコナミブランドに統一された後から現在に至るまで、旧ハドソンブランドのシリーズ作品が新たに発売されている。ただし、ハドソンが開発・販売をしていた時とは携わっているスタッフが異なる場合が多く、現時点(2022年6月現在)ではいずれの作品も従来のシリーズとは路線の異なる部分が少なくない{{efn|特に版権元であるKDEからリリースされたものについては、世界観の設定や登場キャラクターのデザイン、BGM等の方針変更が顕著である。}}。
コナミブランド統一後(2014年以降)の各シリーズの展開については、各シリーズの記事を参照。
== 沿革 ==
*[[1973年]]([[昭和]]48年)
**5月18日 - [[#工藤裕司|工藤裕司]]・[[工藤浩 (ハドソン)|工藤浩]]が、[[札幌市]][[豊平区]]にて通信機器の販売、美術写真の販売を目的に有限会社ハドソンを設立。
**9月 - アマチュア無線機器の販売店「CQハドソン」を開店。
*[[1975年]](昭和50年)9月 - パソコン用機器の販売を開始。
*[[1978年]](昭和53年)3月 - 日本で初めてパソコン用パッケージゲームソフトの開発・販売を開始。
*[[1982年]](昭和57年) 3月 - 東京事業所(東京都[[千代田区]][[麹町]])開設。
*[[1984年]](昭和59年)
**7月 - 初の[[サードパーティー#ゲームソフト|サードパーティ]]として[[ファミリーコンピュータ]]用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
**10月 - 株式会社メディアを買収、同社を「株式会社ハドソン販売」に商号変更<ref name="Yuho">[http://www.uforeader.com/v1/se/E05158_S0008GUX_4_2.html##E0004 株式会社ハドソン有価証券報告書 - 沿革 (その他サービス業) - 有報リーダー]{{リンク切れ|date=2020年10月}}</ref>。
**11月 - 有限会社ハドソンから株式会社ハドソンへ組織変更。
*[[1985年]](昭和60年)
**6月 - 東京事業所、[[新宿区]][[市谷田町]]へ移転。
**7~8月 - 第1回[[TDK]][[#ハドソン全国キャラバン|ファミコン全国キャラバン大会]]開催。
**12月20日 - ファミコン用ソフト『[[ボンバーマン (ファミリーコンピュータ)|ボンバーマン]]』を発売。以後シリーズ化。
*[[1986年]](昭和61年)
**3月 - 株式会社ハドソン(法律上の消滅会社、実質上の存続会社)、株式会社ハドソン(法律上の存続会社、本店札幌市北区、休眠会社を合併し商号変更したもの)及び株式会社ハドソン販売の三社合併<ref name="Yuho" />。
**9月12日 - ハドソン所属のファミコン名人・[[高橋名人]]をキャラクターに起用した『[[高橋名人の冒険島]]』を発売。以後シリーズ化。
**10月3日 - 高橋名人を題材にしたテレビアニメ『[[Bugってハニー]]』が[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]他にて放送開始。
*[[1987年]](昭和62年)
**7月 - 「[[シュウォッチ]]」発売。
**7月 - 独自のLSIを含む「C62システム」を開発。NECホームエレクトロニクスとゲーム機「[[PCエンジン]]」を共同開発。
**9月 - PCエンジン用ソフトの開発・販売を開始。
**10月26日 - ハドソン初の[[コンピュータRPG|RPG]]であるファミコン用ソフト『[[桃太郎伝説]]』を発売。以後桃太郎シリーズとしてシリーズ化。
*[[1988年]](昭和63年)
**7月 - コンピュータソフトの商標権・版権管理を目的に「ハニービー音楽出版株式会社」を設立。
**12月 - [[研究開発|R&D業務]]と[[マーチャンダイジング|MD業務]](ライセンス管理等)を目的に「[[ディーライツ|未来計画株式会社]]」を設立。
**12月2日 - 前年に発売された『桃太郎伝説』の派生作品として、ファミコン用ソフト『[[桃太郎電鉄]]』を発売。以後シリーズ化。
**12月4日 - CD-ROMを媒体とした世界初のゲームソフト『No・Ri・Ko』『ファイティングストリート』を発売。
*[[1989年]]([[平成]]元年)
**3月31日 - コンピュータゲームにおける初の[[デジタルコミック]]『[[コブラ (PCエンジン)|コブラ 黒竜王の伝説]]』を発売。
**6月30日 - CD-ROMを媒体とした世界初のRPG『[[天外魔境 ZIRIA]]』を発売。以後シリーズ化。
**10月2日 - 「桃太郎伝説」を題材にしたテレビアニメ『[[桃太郎伝説 (アニメ)|桃太郎伝説 PEACHBOY LEGEND]]』が[[TXN|テレビ東京系列]]他にて放送開始。
*[[1990年]]([[平成]]2年)
**8月 - [[ゲームボーイ]]用ソフトの開発・販売を開始。
**10月8日 - 「桃太郎伝説 PEACHBOY LEGEND」の続編である『[[桃太郎伝説_(アニメ)#PEACH_COMMAND_新桃太郎伝説|PEACH COMMAND 新桃太郎伝説]]』がテレビ東京系列他にて放送開始。
*[[1991年]](平成3年)4月 - コンピュータプログラマー、デザイナーの養成を目的に「ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社{{Efn|name="school"}}」を設立。
*[[1992年]](平成4年)
**1月 - [[スーパーファミコン]]用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
**9月 - 札幌市南区、[[札幌芸術の森|芸術の森]]アートビレッジ内に「ハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)」を設立。
**9月 - ハドソン創業20周年を記念し、中央研究所内に庶民の穴銭資料館「方泉處」を開設<ref>{{Wayback|url=http://www.ufo.co.jp/hosenka/anasen.html|title=庶民の穴銭資料館「方泉處」|date=20010410010845}}</ref>。
*[[1993年]](平成5年)7月 - 世界初のハイビジョンゲーム『HI-TEN ボンバーマン』を開発、イベントに使用。
*[[1994年]](平成6年)
**3月 - 32ビット半導体チップセット「HuC62シリーズ」を開発。
**5月 - 創業者の弟・工藤浩が代表取締役社長に就任。
**12月 - NECホームエレクトロニクスと共同開発したゲーム機「[[PC-FX]]」が同社より発売される。
**12月 - PC-FX用ソフトの開発・販売を開始。
*[[1996年]](平成8年)
**[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]のオフィシャルパートナー。
**5月18日<ref name="CIChange">[https://twitter.com/QuinMogu/status/1479388957414936583?cxt=HHwWjsDSteWa7IcpAAAA もぐさんはTwitterを使っています 「ハドソンのCIが変わったのは'96年5月18日の模様。'96年はユーモアネットワークのリニューアル、ホームページ開設ほか、ラジオ、サッカー方面でも色々やり出しているので広報体制に変化があったぽい。 https://t.co/8aWlRlEHKw」 / Twitter]</ref> - [[コーポレートアイデンティティ|CI]]ロゴの表記を「HUDSON GROUP HUDSON SOFT」から「HUDSON」に変更。
**6月 - [[セガサターン]]用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
*[[1997年]](平成9年)
**コンサドーレ札幌のオフィシャルパートナー撤退。
**2月 - ハドソンコンピュータデザイナーズスクール株式会社{{Efn|name="school"}}を「株式会社フューチャービー」に商号変更。会社目的も未来の玩具の企画・デザイン及び販売、トレーディングショップの管理運営に変更。
**4月 - 東京都千代田区にあるサンポウ水道橋ビルの2階にパイロットショップ「フューチャービー」を開店。[[トレーディングカード]]を扱い、102名を収容可能な本格的なデュエルルームを備える<ref>{{Wayback|url=http://www.ufo.co.jp/FB/fb/tokyo/index.html|title=フューチャービー東京|date=20010410170310}}</ref>。フューチャービーの店舗は後に全国に展開される<ref>{{Wayback|url=http://www.ufo.co.jp/FB/maker/index_fb.html|title=フューチャービー 加盟店募集|date=20010219211139}}</ref>。
**8月 - [[NINTENDO64]]用ソフト・周辺機器の開発・販売を開始。
**11月 - [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ソフトの開発・販売を開始。
**12月 - 世界初の育成散歩計「[[てくてくエンジェル]]」を発売。
*[[1998年]](平成10年)
**2月7日 - 「[[ボンバーマンシリーズ|ボンバーマン]]」と[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]社の「[[ビーダマン]]」を題材としたテレビアニメ『[[Bビーダマン爆外伝]]』が[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]にて放送開始。
**3月 - 株式会社フューチャービーを「株式会社[[未来蜂歌留多商会]]」に商号変更。フューチャービーはパイロットショップの名前として存続<ref>{{Wayback|url=http://www.ufo.co.jp/FB/main.html|title=未来蜂歌留多紹介トピックス|date=19980524152219}}</ref>。
**5月 - 任天堂ゲーム機の開発環境整備等を目的に任天堂と合弁で「[[招布|招布株式会社]]」を設立。
**12月18日 - 開発を手掛けたNINTENDO64用ソフト『[[マリオパーティ]]』が[[任天堂]]から発売される。以後シリーズ化。
*[[1999年]](平成11年)
**2月 - てくてくエンジェルが「日経産業新聞優秀賞」を受賞。
**2月7日 - 「Bビーダマン爆外伝」の続編である『[[Bビーダマン爆外伝V]]』がテレビ朝日系列にて放送開始。
**3月 - [[ドリームキャスト]]用ソフトの開発・販売を開始。
**5月 - 東京事業所、新宿区市谷田町から[[中央区 (東京都)|中央区]][[築地]]に移転。
**5月29日 - 自社が著作権を保有する「ボンバーマン」「桃太郎」などのキャラクターイラストについて、教育関係及び福祉関係団体等の非営利目的での使用の場合の無償使用許可、同一目的用のキャラクター線画配布を[[朝日新聞]]紙面上で発表<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/info/illust/index.html|title=ハドソンキャラクターのご使用についてのご案内|date=20000116025532}}</ref>。
*[[2000年]](平成12年)
**2月 - 保有していた未来計画株式会社の全株式を[[三菱商事]]に売却。
**3月 - 招布株式会社の[[第三者割当増資]]を引き受け、子会社化。
**3月 - 携帯電話「[[iモード]]」向けゲーム配信サービスを開始。
**7月~8月15日 - 「[[ボンバーマンシリーズ]]」と[[でんすけすいか]]のタイアップキャンペーンを実施。
**10月3日 - 次世代ゲーム機向けソフトの開発・販売を行なうための合弁会社の設立について、フランスの[[インフォグラム|アンフォグラム]]社と合意<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp/news/bn2000/infogrames.html|title=仏・アンフォグラム社と合弁会社設立 - ハドソンニュースリリース|date=20020421145151}}</ref>。
**11月 - アンフォグラム社と合弁で「アンフォグラムハドソン株式会社」を設立。
**12月 - [[大阪証券取引所|大証]][[ヘラクレス (有価証券市場)|ナスダックジャパン・スタンダード]]に上場。
*[[2001年]](平成13年)
**1月 - [[iアプリ]]対応コンテンツサービスを開始。
**3月 - [[PlayStation 2]]用ソフトの開発・販売を開始。
**3月 - [[富士通]]他4社とASP事業の本格展開に際し、ジェイビートゥビー株式会社の第三者割当増資を引受。
**3月 - [[ゲームボーイアドバンス]]用ソフトの開発・販売を開始。
**3月 - ゲームソフトの長期開発資金として[[融資#貸付人|シンジケートローン]]を実施。
**5月 - CQハドソン閉店。
**5月 - 庶民の穴銭資料館「方泉處」を閉館<ref>[http://kosenmaru.sub.jp/kannei06-1.html 新寛永通寶分類譜【泉家・収集家覚書】]</ref>。
**8月 - コナミが第三者割当増資を引き受け筆頭株主となる。
**12月 - [[コナミコンピュータエンタテインメントスタジオ|コナミコンピュータエンタテインメント]]の札幌事業を「ハドソンスタジオ」として分割、継承。企業体質強化及び収益の向上を図るため、組織を大幅に変更、[[社内カンパニー|社内カンパニー制]]を導入。
*[[2002年]](平成14年)
**1月 - 前年12月発売の『[[桃太郎電鉄X ~九州編もあるばい~]]』が発売1ヵ月で50万本を出荷。
**4月 - [[ニンテンドーゲームキューブ]]用ソフトの開発・販売を開始。
**5月 - 株式会社[[イーブックイニシアティブジャパン]]と共同開発した、独自のフォーマット形式の電子書籍の閲覧ソフトウェア「ebi.BookReader」が同社よりリリースされる<ref name="ebi.Book" />。
**6月 - 台湾におけるiモードサービスを開始。
**6月 - [[筑波大学]]の徳永隆治らと共同で開発した<ref name="HVQ" /><ref name="ChaosLab" />独自の画像圧縮技術「HVQ」の提供により、株式会社イーブックイニシアティブジャパンと共に岩見沢市立図書館における岩波文庫電子書籍化サービスに参入。
**7月 - 中央研究所を「コア・テクノロジーセンター」に、東京事業所を東京支社に改称。
**8月 - CD-ROMコピー防止技術「[[コピーガード|ROOT]]」を[[日本ビクター]](現・[[JVCケンウッド]])と共同開発<ref name="ROOT" />。
**9月 - 当初の目的を達成・終了したため招布株式会社を清算。
**10月 - パソコン用地図ソフト「MaPiVi」を株式会社[[ゼンリン]]と共同開発<ref>{{wayback|url=|http://www.hudson.co.jp:80/ct/mapivi/|title=3D地図ソフト MaPiVi|date=20040603145626}}</ref>。
**10月2日 - 「ボンバーマン」を題材としたテレビアニメ『[[ボンバーマンジェッターズ]]』がテレビ東京系にて放送開始。
**12月 - 携帯電話用アクセサリー「チョ~!ワイドレンズ」(広角レンズ)を発売。
*[[2003年]](平成15年)
**10月14日 - [[東京都]][[台東区]]の妙泉寺に桃太郎シリーズの登場キャラクター「貧乏神」をモチーフとした「貧乏が去る(猿)像」を設置、10月14日以降一般公開される<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp/corp/news/bn2003/031014.pdf|title=「桃鉄」15周年記念!看板ソフトの更なる拡販を目指しプロモーションを本格稼動(ハドソンニュースリリース)|date=20050817033354}}</ref>。
**11月 - アメリカ・カリフォルニア州サンマテオに100%子会社「Hudson Entertainment, Inc.」を設立{{Efn|サンフランシスコ州と書かれている資料もある。}}。
*[[2004年]](平成16年)11月 - [[遠藤英俊]]が代表取締役社長に就任。創業者である工藤兄弟が経営から退く。
*[[2005年]](平成17年)
**1月 - [[PlayStation Portable]]用ソフトの開発・販売を開始。
**4月 - 第三者割当増資をコナミ(後の[[コナミホールディングス]])が引き受け、コナミの連結子会社となる。
**5月 - ハニービー音楽出版(連結子会社)を吸収合併。
**5月 - [[ニンテンドーDS]]用ソフトの開発・販売を開始。
**7月 - 本社を創業の地・札幌市豊平区から東京都中央区に移転する。
*[[2006年]](平成18年)
**3月 - 株式会社未来蜂歌留多商会(連結子会社)を清算。
**3月 - [[Xbox 360]]用ソフトの開発・販売を開始。
**8月4日~8日 - 「[[桃太郎電鉄シリーズ]]」と[[五所川原立佞武多]]がタイアップ。「桃太郎電鉄 立佞武多」が制作・運行された。
**12月 - [[Wii]]用ソフトの開発・販売を開始。
*[[2007年]](平成19年)
**4月 - 「桃太郎電鉄シリーズ」と[[銚子電気鉄道|銚子電鉄]]がタイアップ<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20070426/tyoushi.htm ハドソン、「桃太郎電鉄」のラッピング電車が銚子電鉄に登場。「桃太郎電鉄20周年記念車両 出発式」レポート]</ref>。「桃太郎電鉄 ラッピング車両」が運行され、[[犬吠駅]]、[[仲ノ町駅]]、[[笠上黒生駅]]に同タイトルの登場キャラクターをモチーフとした「しあわせ三像」が設置された。
**6月 - 本社を東京都港区赤坂のミッドタウン・イーストに移転。
*[[2008年]](平成20年)
**3月 - 音楽レーベル「[[ハドソン・ミュージックエンタテインメント]]」を設立(2013年末までに[[清算]])。
**3月19日 - Wii用ソフト『[[DECA SPORTA#DECA SPORTA Wiiでスポーツ"10"種目!|DECA SPORTA Wiiでスポーツ"10"種目!]]』を発売。以後シリーズ化。
**6月 - 石塚通弘(元KDE経営本部長)が代表取締役社長に就任。
*[[2009年]](平成21年)
**4月 - 札幌支社を北海道本社に改称。
**5月 - 東京本社を赤坂ミッドタウン・タワーに移転。
*[[2011年]](平成23年)
**3月末 - 完全子会社化に伴いアメリカにおける子会社「Hudson Entertainment, Inc.」を解散。
**4月1日 - コナミとの間で[[簡易株式交換]]を実施し、コナミの完全子会社となる。[[上原和彦]](KDE執行役員)が代表取締役社長に就任する。
**5月 - 北海道本社を札幌事業所に改称。
**7月 - 東京本社、かつてあったミッドタウン・イーストに再移転。
*[[2012年]](平成24年) 3月1日 - コナミの「SNS分野におけるビジネスチャンス拡大に向け、コナミグループのデジタルエンタテインメント事業の中核会社であるKDEに経営資源を集中し、より一層の連携強化を図る」という方針に伴い<ref name="Kyusyu" />、KDEに[[合併 (企業)|吸収合併]]され、法人としてのハドソンが解散した<ref name=hudson20120120 />。
*[[2014年]](平成26年)1月1日 - ハドソンブランドの公式ホームページが消滅した。
== 社長の趣味と企業風土 ==
ハドソンの社名の由来は、熱狂的な鉄道ファンでもあった創業者・工藤裕司が、'''[[国鉄C62形蒸気機関車]]の[[車輪配置 4-6-4|ハドソン形]]という[[車軸配置]]から取った'''ものである{{Efn|この呼称は[[ニューヨークセントラル鉄道]]が[[ハドソン川]]沿いの線で、この車輪配置の機関車を走らせたことに由来する。}}。
工藤は大学在学中からサラリーマン時代にかけて、サイドビジネスとして自ら撮影した蒸気機関車の写真を販売しており、その際に用いていた社名も「グループハドソンプロダクション」だった。
工藤の鉄道趣味は留まることを知らず、社名のみならずハドソンの社内にも鉄道関連のトリビアが溢れていた。社長室には常時組み立て中の鉄道模型が置かれ、工藤がC62形の2号機{{Efn|同機は同型機の中で唯一、[[除煙板|デフレクター]]に[[影|シルエット]]になった[[ツバメ|燕]]のマークがあしらわれ、ファンの間から'''「スワローエンジェル」'''という愛称がつけられていた。}}が好きだったことから、本社の入口にもC62の部品の一部が飾られていた。また、会社の代表電話番号の末尾4桁は4622<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20131019123659/http://www.nicovideo.jp/watch/1294310308 |title=『ナッツ&ミルク』 - 高橋名人世代 |accessdate=2011-1-5 |date=2011-1-5 |work=電人☆ゲッチャ! |publisher=MAGES }}2分30秒頃から。</ref>で、さらには郵便番号をC62にちなんだ「062」にするため、本社をわざわざ北海道札幌市豊平区に置くという独特の拘りぶりだった。また、かつて[[札幌芸術の森]]に隣接したアートビレッジにあったハドソン中央研究所(コア・テクノロジー事業部)の屋上には[[ライブスチーム]]の線路が敷設され、専属のメカニックが配置されていたほか、研究所の大会議室ではテーブル中央に鉄道模型の[[ジオラマ]]が置かれC62の模型が走っていた。その模様は[[NHKスペシャル]]『[[新・電子立国]]』でも取り上げられた{{要出典|date=2018-08}}。
[[1988年]]から[[1995年]]まで[[C62ニセコ号]]を運行していた[[北海道鉄道文化協議会]](通称:鉄文協)ではスポンサーの一社を務めていた<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/company/birth.html|title=沿革|date=19961106034156}}</ref>。C62運行のスポンサーが集まらず、鉄文協が「おたくの社名のハドソンというのは、C62の車軸配置の通称なんですよ。その縁で協力してもらえませんか?」と依頼したところ、そこで初めて工藤もC62好きであることを知り、二つ返事で協力に至ったという{{要出典|date=2018-08}}。
また、他の趣味として[[古銭]]の収集があり、社内に「東洋鋳造貨幣研究所」という古銭専門の研究所を設け、ハドソンの文化事業の一環として中央研究所の建物内に庶民の穴銭資料館「方泉處(ほうせんか)」という古銭博物館を開設していた他、博物館名と同じ「方泉處」という季刊の研究誌(1992年 - 1998年)も発行していた<ref>{{Wayback |url=http://www.ufo.co.jp:80/hosenka/index.html |title=方泉處 |date=20010405013056 }}</ref>が、1990年代末に経営難に陥って以降はこれらの活動は順次的に廃止されていった。方泉處という名前は、展示の元になっていた工藤のコレクションの保管箱に付けられた名前「方穿貨(ほうせんか){{Efn|四角い穴が開いたお金の意。}}」が由来となっている<ref>{{Wayback|url=http://www.ufo.co.jp/hosenka/KG2.html|title=庶民の穴銭資料館「方泉處」へ行ってみよう!その2|date=20010923202359}}</ref>。
1980年代半ばのハドソン関係者が口々に言う「会社の自由な空気」は社員のみならず、社長自身もそれを体現していた。中でも1986年当時の社員旅行は[[バブル景気]]([[バブル経済]])の過度期であったこともあり、「貸切ジェット機でハワイ旅行」{{要出典|date=2018-08}}という、一般企業ではあまり類のないものであった。
『迷宮組曲 ミロンの大冒険』を制作し、後に同社のサウンド部門のプロデューサーとなった[[笹川敏幸]]は「自由な空気」について「とっても些細なことに、とことんこだわってみる。究極までやりつくしてみる。」という遊び心があったと語っている<ref>[http://blog.livedoor.jp/m9concert/archives/50321471.html 懐古主義・ファミコンゲームデザイナーの過去ブログ:ボンバーマンシリーズのBGMのこと(2)]</ref>。
== 社章・CIロゴ ==
[[File:ハドソン札幌本社1.jpg|thumb|かつてハドソン本社のビルの看板に描かれていたハチ助]]
[[コーポレートアイデンティティ|社章]]は[[蜂]]で、「'''ハチ助'''」とも呼ばれている。ハドソンのゲームソフトにボーナスキャラ・隠れキャラとして古くから数多く登場している。由来は、北海道のアマチュア無線のエリア番号が「8(はち)」であるため、同音である「蜂」を採用したと言われている。高橋名人によると当初は「CQハチ助」と呼ばれていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20131019123659/http://www.nicovideo.jp/watch/1294310308 |title=『ナッツ&ミルク』 - 高橋名人世代 |accessdate=2011-1-5 |date=2011-1-5 |work=電人☆ゲッチャ! |publisher=MAGES }}5分頃から。</ref>(これは高橋の勘違いであり、実際は「JA8スケ」である{{要出典|date=2019年4月}}。理由は当時のアマチュア無線の北海道のコールサインがJA8で始まっていたことによるものである{{要出典|date=2019年4月}})。
1996年5月18日<ref name="CIChange" />{{Efn|ゲームパッケージの[[コーポレートアイデンティティ|CI]]ロゴが「HUDSON」に変更された初のソフトは同年6月1日に発売された『Jリーグ'96ドリームスタジアム』。}}よりハドソンの[[コーポレートアイデンティティ|CI]]ロゴの表記が「HUDSON GROUP HUDSON SOFT」から「HUDSON」に変更された{{Efn|ゲームタイトル画面などの権利表記は「HUDSON SOFT」のままになっている。}}。高橋名人によるとその理由は「HUDSONのみの表記にすることで、全体的なCIロゴサイズを変更しなくてもハチ助を大きくレイアウト出来るから<ref>[https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-12719926969.html 「HUDSON SOFT」が「HUDSON」に変わったわけ | 高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」Powered by Ameba]</ref>」だという。
2007年にはハチ助をモチーフとしたアーバンライフスタイルブランド「8SK(ハチスケ)」が立ち上げられ、Tシャツやキャップが公式サイトなどで販売されていた<ref>[https://www.inside-games.jp/article/2007/07/26/22339.html ハドソン、アーバンライフスタイルブランド「8SK」を展開 | インサイド]</ref>。
== ハドソン全国キャラバン ==
「'''ハドソン全国キャラバン'''」とは、ハドソンが国内大手の電子部品メーカーの[[TDK]]{{Efn|この当時、TDKは電子部品の製造のみならず、[[磁気テープ]]([[オープンリール]]、[[コンパクトカセット]]、[[マイクロカセット]]、[[DAT]]、[[デジタルコンパクトカセット|DCC]]等)や[[ビデオテープ]]([[VHS]]、[[ベータマックス]]等)、記録用[[光学ディスク]]([[CD-R]]、[[CD-RW]]、[[DVD-R]]、[[DVD-RW]]、[[BD-R]]、[[BD-RE]])、[[光磁気ディスク]]([[光磁気ディスク|MO]]、[[ミニディスク|MD]])、[[フロッピーディスク]]等の記録用メディアの製造も手掛けていた。}}との協賛で[[1985年]]から行っていたゲーム大会のこと。
最大の特徴は「[[キャラバン]]」の名にふさわしく、北海道から沖縄まで全国各地を巡業していた事である。各[[都道府県]]の[[政令指定都市]]にとどまらず、他の都市でも行われた。最大は第2回の40都道府県・65会場である。
*1985年 - [[1997年]]のキャラバンでは毎回「公式ソフト」としてハドソン製のゲームソフトが1本製作され、そのゲームを用いた大会が行われた。
*[[1990年]] - [[1992年]]の3回は「ワールドカップ」として、会場を日本だけでなく海外にも拡大した。
*1993年からは「ハドソンスーパーキャラバン」の題に改題された<ref>[https://ja-jp.facebook.com/hudsonpaintityellow/photos/a.273395312749524/442141779208209/?type=3&eid=ARBMU5q-UVnA6zf1mA_K73wjBAHfwaZt2dpWpwZRqj6qP14qQRXCw61z8tGkbSW2unlTy_hFKwk2NXbL&__xts__%5B0%5D=68.ARBaZiVmvPSJbvR575fA64GFiLSk2YkCRzfOBlIE7ec1N14dMkw33QXXufydMM0RNZIwy0ZL05c7wCOQs9bOjWsn7sj-yAts-3pwSR_3JVDswG88bljLuKVweiU6gecaYA9Re6vBFTduV1tA_rtSBRNpbcdBiVDVsfh9nHRyyM75vclDKVmyLeGM_zSsf_YGOiZ9fY-Q7LQStzST24ZesjDnHxTSqRlXrSrYTJJthU4PJmioEcIw76ONZhte_rz7bztALALv9OP1fRGRMLTA0hERZPfbyLtT1OMx0Zw14ONA2RGMt1EHysVht7ecTZFYgx2nZDXqFPdGkwLcOUEEZNI&__tn__=EHH-R ハドソン全国キャラバン備忘録 - 1993年キャラバン「参加整理券」... | Facebook]</ref>。
*[[1998年]] - [[2000年]]の3回はコンピュータゲームではなくカードゲームの大会が行われ、2000年をもっていったん「キャラバン」の名を冠したイベントは終了した。
*[[2006年]]、「ハドソン全国キャラバン'06」で「キャラバン」の名が復活し、このときの公式ソフトには[[ニンテンドーDS]]の『[[Touch!ボンバーマンランド]]』の他、[[シュウォッチ]]も使われた。
===公式ソフト===
*1985年:[[スターフォース]]
*1986年:[[スターソルジャー]]
*1987年:[[ヘクター'87]]
*1988年:[[パワーリーグ]]
*1989年:[[ガンヘッド (PCエンジン)|ガンヘッド]]
*1990年:[[スーパースターソルジャー]]
*1991年:[[ファイナルソルジャー]]
*1992年:[[ソルジャーブレイド]]
*1993年:Hi-TENボンバーマン
*1994年:Hi-TENキャラBOM
*1995年:[[天外魔境ZERO]]{{Efn|このソフトではゲーム大会は行われず、「[[ミュージカル天外魔境夢まつり|劇場空間天外ごっこ 誰がハドソン夢まつり’95]]」と題したイベントが開催。}}
*1996年:[[サターンボンバーマン]]{{Efn|「にこボンピック'96」と題してイベントが開催され、同作のバトルゲームによる10人対戦の大会や、キャラバン用にチューニングされた段位認定ゲーム「マスターゲーム(にこボンピック'96仕様)」などが行われた。}}
*1997年:[[スーパービーダマン ファイティングフェニックス]]
*2006年:Touch!ボンバーマンランド
===トレーディングカードゲーム===
*1998年:大貝獣物語 THE MIRACLE OF THE ZONE
*1999年:大貝獣物語 THE MIRACLE OF THE ZONE 青の章
*2000年:パワーリーグ 夢のスタジアム2000<ref>[https://ja-jp.facebook.com/hudsonpaintityellow/photos/a.304028473019541/443113842444336/?type=3&eid=ARB2UMrJ6g4AqCb4HaPDA8aorSnMLt9OgdjJMCkUMoKEKJ00i5XFsASdQA6Tm73TayPRlNk4__5-Nbz6&__xts__%5B0%5D=68.ARAMTLAuTY4_wTx1E7R0-aHVoVK0aIbOLhHX5f1ifkqL3tUIbyo2LB9_WEy_i3c1KIGGvNrBZcxwVr0QoiCEWK_ejMhXJizbIgn7scK4mjuWG_iyOHJaG0J5AdFySpvaRIeVxSVlhMP3qLJY0wOfEEzNi6WAc0j0e0BbTndizWooJq6U_etbT_d79Nr3U1vfeOjuQJXHLw6_PmiSXXiaTUl_AtFirfJu8FyMHpNbXCuFT9rlkhmbnQIKjSrHnbYJQ0ziMHUm88WYgGWegyI9qxGpEbaFAfOZyo0EK4mr9hBbH_eYJOlHV3V2nYuRdmhM6h9vdEqgm8lHEZy4WIUcjf4&__tn__=EHH-R ハドソン全国キャラバン備忘録 - 2000年のキャラバンは、『パワーリーグ 夢のスタジアム』のイベントでした。... | Facebook]</ref>
== 事業拠点 ==
[[File:Tokyo Midtown East.jpg|thumb|150px|本社のあったミッドタウン・イースト]]
[[2009年]]4月から[[2011年]]4月末まで、2本社体制となっていた(登記上本店は東京本社)<ref>{{Cite web|和書|date=2009-02-04|url=http://www.hudson.co.jp/corp/investors/pdf/090204.pdf|format=PDF|title=本社の移転及び組織変更に関するお知らせ|publisher=ハドソン|accessdate=2009-02-05|deadlinkdate=2014-1-1}}</ref>。かつては、[[大阪]]、[[名古屋市|名古屋]]、[[福岡県|福岡]]等にも事業所を設置していた。市谷田町に[[札幌市時計台]]を模した東京支社ビルを擁していた時期もある。
*本社
:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]9丁目7番2号 ミッドタウン・イースト
*札幌事業所
:[[札幌市]][[豊平区]][[平岸 (札幌市)|平岸]]3条5丁目4番22号 ハドソンビル (現・平岸グランドビル新館)
:ハドソン創業の地であり、2005年に東京に本社を移転した時は札幌支社となるが、その時点で北海道にも拠点があったことから、2009年4月より北海道本社に改称。2011年5月からは札幌事業所に改称され、KDEへの吸収後も残ったが、2014年10月に閉鎖。
== 製品 ==
=== ハードウェア・デバイス ===
*HuC6202 VPC (Video Priority Controller) [[PCエンジンスーパーグラフィックス]]に搭載されているチップ
*HuC6230 音源チップ、HuC6280の[[波形メモリ音源]]部に[[ADPCM]]を追加
*HuC6260 VCE (Video Color Encoder)
*HuC6261 ビデオ管理機能を持つ。HuC6260の次世代チップ
*HuC6270 VDC (Video Display Controller)
*HuC6271 [[Motion JPEG]][[デコーダ]]
*HuC6272 [[メモリコントローラ]]
*HuC6280 高速の8bit[[CPU]] [[6502]]互換の[[マイクロプロセッサ]]と波形メモリ音源を搭載
これらは、HuC62シリーズとしてPCエンジンのチップセットとして使われた。
*POEMS(Portable Entertainment Mixed Solution) 32ビットシングルチップLSIで、動画表示、3D/3D描画エンジン、サウンドエンジン、拡張メモリインターフェイス、ネットワーク機能を搭載したSoC。採用例としては、コナミから発売された[[PLAY-POEMS]]等が有る。
=== パソコン用ソフトウェア ===
'''実用ソフト'''
*PALL CAI
*PALL LIFE
*DATA BASE
*QSO整理
*株式売買
*アペンド10
*アペンド20
*RAM TEST
*テンキー&ファンクションキー
*英会話レッスン
*[[価値判断]]
*金種計算
*[[姓名判断]]
*[[占星術]]
'''プログラミング言語、OS'''
*[[FORM]](Tiny Fortran)
*PALL(Tiny PASCAL)
*[[MZ (コンピュータ)#サードパーティによる供給|GAL]](ASCIIのGAMEの拡張版,クレームにて回収)
*[[Hu-BASIC]](MZ,X1用のBASICインタープリタ、韓国三星のSPC-1000にも採用実績がある)
*Hu G-BASIC(グラフィック重視のBASIC)
*mini Hu BASICコンパイラ(整数型BASICコンパイラ)
*[[ファミリーベーシック|NS-Hu BASIC]](ファミリーベーシックに内蔵された整数型BASICインタープリタ)
*HuCAL(簡易言語)
*HuVOICE(パソコンのPSGを使った音声発生ソフト)
*H-DOS
'''任天堂製ファミコンソフトの移植(アレンジ移植を含む)'''
*[[マリオブラザーズ|マリオブラザーズ スペシャル]]
*パンチボール マリオブラザーズ
*[[スーパーマリオブラザーズ|スーパーマリオブラザーズスペシャル]]
*[[アイスクライマー]]
*[[バルーンファイト]]
*[[エキサイトバイク]]
*[[ゴルフ (任天堂)|任天堂のゴルフ]]
*[[テニス (任天堂)|任天堂のテニス]]
*[[ドンキーコング3]]
'''16ビットパソコン用ソフト'''
*[[Human68k]] [[シャープ]][[X68000]]用オペレーティングシステム (開発のみ)
*[[X-BASIC]] シャープX68000用BASIC (開発のみ)
*[[パワーリーグ]]
*[[桃太郎伝説]]
*全略ハードディスク殿[[PC-9801]] ハードディスクユーティリティー
'''ゲーム'''
{{columns-list|2|
*ポケットファミリー 幸せ家族計画
*殿様ゲーム
*バリケード
*水泳
*[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]
*ブロッククズシ
*アニマルレッスン
*[[マージャン]]
*[[陣取りゲーム]]
*さるも木から落ちる
*[[チェッカー]]
*[[ポーカー]]
*月面着陸
*カンニング大作戦
*スクランブル
*モンタージュ
*スタートレック
*ボーリング
*[[スロットマシン]]
*[[雀球]]
*[[野球拳 (ハドソンのゲーム)|野球拳]]
*[[ブラックジャック]]
*スーパーゴルフ
*[[ハングマン (ゲーム)|ハングマン]]
*D-DAY
*アルデバラン#1
*アルデバラン#2
*ヤシの実落し
*[[パチンコ]]
*ベースボール
*ダービー
*モンタージュ
*医は算術なり
*頭の体操No.1
*ビンゴ25
*ICBM迎撃作戦
*[[将棋]]
*サメうちゲーム
*大戦車突破作戦
*夢のプロ野球
*リアルゴルフ
*エスケープ大作戦
*戦国軍団
*めぐみちゃん三惑
*リバース
*緊急発進
*スペースハンバーガー
*ベジタブルクラッシュ
*来なさい!
*スーパーゴルフ2
*グルグル
*クレイジースパイ
*カエルシューター
*ミスターバタフライ
*ゾンビパニック
*スペーストラブル
*[[爆弾男 (ゲーム)|爆弾男]]
*[[ガンマン]]
*サブマリンパニック
*[[詰将棋]]
*アタックUFO
*酒泥棒
*ぐしゃ
*キャノンボール
*ピラミッド・アドベンチャー
*ひつじや~い
*MJ-05
*HELP!
*華麗な怪盗
*Justice Knight
*明るい農園
*フィールドウォーズ
*スーパードアーズ
*バブルクンド1999
*スカイダイバー
*パワーフェイル
*スラローム
*[[ゼロファイター]]
*[[ミステリーマウンテン]]
*[[ヒヨコファイター]]
*[[3びきの子ぶたの大冒険 STEP1]]
*[[3びきの子ぶたの大冒険 STEP2]]
*[[3びきの子ぶたの大冒険 STEP3]]
*[[ポリスドッグ|?ポリスドッグ]]
*[[キラーステーション]]
*[[イタサンドリアス]]
*[[ディッシュキャリア]]
*ファイヤーボール
*[[雨の日は大忙し]]
*カラーボール
*[[STAR STREAM]]
*[[BEAN'S JACK]]
*[[シーボンバー]]
*[[ディメンジョナルウォーズ]]
*[[サブマリン・シューター]]
*めだかの兄妹
*[[スクウェアーガーデン]]
*[[ザ・スパイダー]]
*[[バイナリィランド]]
*[[ギャングマン]]
*[[THEえんま大王]]
*ディオーネ
*[[忍者 影]]
*ねずみとり
*[[暴走特急SOS]]
*[[マハリト]]
*[[ミミタン]]
*[[ローディボール]]
*[[アタックシーモンスター]]
*[[インディアンの冒険]]
*[[ゴルフ狂 (ゲーム)|ゴルフ狂]]
*[[デゼニランド]]
*[[三次元ボンバーマン]]
*[[ナッツ&ミルク]]
*[[銀行強盗]]
*[[ファイヤーレスキュー]]
*[[サラダの国のトマト姫]]
*[[ジャン狂]]
*[[花札狂]]
*[[野球狂]]
*[[トランプ狂]]
*[[デゼニワールド]]
*タイムパラドックス
*[[ヒラニプラ]]
}}
=== 家庭用ゲーム機 ===
[[日本電気ホームエレクトロニクス]](NECホームエレクトロニクス)との共同開発。
*[[PCエンジン]]
**[[PCエンジンシャトル]]
**[[PCエンジンコアグラフィックス]]
**PCエンジンコアグラフィックスII
**[[PCエンジンGT]]
**[[PCエンジンLT]]
*[[PCエンジンスーパーグラフィックス]]
*[[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]
*[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]
*[[PCエンジンDuo]]
**PCエンジンDuo-R
**PCエンジンDuo-RX
*[[PC-FX]]
=== ゲーム以外のゲーム機向けソフトウェア ===
*Hu-VIDEO - PCエンジン用アニメーション再生技術(動画圧縮技術)
*Hybrid Vector Quantization(HVQ) - 筑波大学の徳永隆治らと「[[マリオパーティシリーズ]]」のために共同開発した画像圧縮技術(画像圧縮エンジン)
*HVQM - 筑波大学の徳永隆治らと共同開発した動画圧縮技術(動画圧縮エンジン)
=== 主な家庭用ゲーム作品(移植作品を含む) ===
{{columns-list|2|
*[[ボンバーマンシリーズ]]
*桃太郎シリーズ([[桃太郎伝説シリーズ]]・[[桃太郎電鉄シリーズ]]・[[桃太郎活劇]]・[[桃太郎電劇]]、[[桃太郎電劇2]]・[[桃太郎道中記]])
*[[天外魔境|天外魔境シリーズ]]
*[[DECA SPORTA|DECA SPORTAシリーズ]]
*[[ブラッディロア|ブラッディロアシリーズ]]
*[[原人シリーズ]]
*[[高橋名人の冒険島]]シリーズ
*[[銀河お嬢様伝説ユナ|銀河お嬢様伝説ユナシリーズ]]
*[[ダンジョンエクスプローラー]]シリーズ
*[[ネクタリス|ネクタリスシリーズ]]
*[[パズルシリーズ]]
*[[コロリンパ]]シリーズ
*ミロンのシリーズ([[迷宮組曲 ミロンの大冒険]]・[[ドレミファンタジー ミロンのドキドキ大冒険]]等)
*[[スターソルジャー|ソルジャー]]シリーズ
*[[パワーシリーズ]]
*[[ニュートピア]]シリーズ
*[[エルファリア]]シリーズ
*[[邪聖剣ネクロマンサー]]シリーズ
*[[北へ。|北へ。シリーズ]]
*ピノビィーのシリーズ([[ピノビィーの大冒険]]・[[ピノビィー&フィービィー]])
*[[アースライト]]シリーズ
*[[大貝獣物語]]シリーズ
*[[ロボットポンコッツ|ロボットポンコッツシリーズ]]
*[[ポケットファミリーGB]]シリーズ
*[[めざせ!!釣りマスターシリーズ]]
*[[Jリーグスーパーサッカー|Jリーグスーパーサッカーシリーズ]]
*[[ブルーオアシス 〜魚の癒し空間〜|ブルーオアシス]]シリーズ
*[[ロードランナー]]シリーズ
*[[イースシリーズ]]([[PCエンジン]])
*[[鮫亀 (スーパーファミコン)]]を始めとした、[[さめがめ]]のアレンジ移植
*[[ドラえもん (ファミコン)|ドラえもん]]([[ファミリーコンピュータ]])を始めとした、[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]を題材とした作品群
*[[コブラ (PCエンジン)|コブラ 黒竜王の伝説]]を始めとした、[[コブラ (漫画)|コブラ]]を題材とした作品群
*[[百物語〜ほんとにあった怖い話〜]]を始めとした、[[百物語]]を題材とした作品群
*鬼神童子ZENKI 烈闘雷伝を始めとした、[[鬼神童子ZENKI]]を題材とした作品群
*[[爆球連発!!スーパービーダマン (ゲーム)]]を始めとした、[[爆球連発!!スーパービーダマン]]を題材とした作品群
*[[ベイブレード 次世代ベーゴマバトル]]を始めとした、[[ベイブレード]]を題材とした作品群
*[[ボボボーボ・ボーボボ 爆闘ハジケ大戦]]を始めとした、[[ボボボーボ・ボーボボ]]を題材とした作品群
*[[ナッツ&ミルク]]
*[[バンゲリング ベイ]]
*[[スターフォース]]
*[[プーヤン]](ファミリーコンピュータ)
*[[チャレンジャー (ゲーム)|チャレンジャー]]
*[[バイナリィランド]]
*[[忍者ハットリくん (ゲーム)|忍者ハットリくん]]
*[[ミッキーマウス 不思議の国の大冒険]]
*[[高橋名人のBUGってハニー]]
*[[ヘクター'87]]
*[[ビックリマンワールド]]
*[[ファザナドゥ]]
*[[THE 功夫]]
*[[ビクトリーラン]]
*[[R-TYPE|R-TYPEI・II]](PCエンジン)
*[[サラダの国のトマト姫]]
*[[亀の恩返し〜ウラシマ伝説〜]]
*[[ガンヘッド (PCエンジン)|ガンヘッド]]
*[[バトルエース]]
*[[星霊狩り]]
*[[ビーボール]]
*[[クラックス]](ファミリーコンピュータ・[[ゲームボーイ]])
*[[ジャッキー・チェン#ゲーム|ジャッキー・チェン]]
*[[オルディネス]]
*[[時空戦記ムー]]
*[[雷電 (シューティングゲーム)|雷電 / SUPER雷電]]
*[[ゲート オブ サンダー]]
*[[コットン (ゲーム)|コットン]](PCエンジン)
*[[ウィンズ オブ サンダー]]
*[[鋼 HAGANE]]
*[[TEAM INNOCENT -The Point of No Return-]]
*[[バトルヒート]]
*[[空想科学世界ガリバーボーイ]]
*[[銀河婦警伝説サファイア]]
*[[聖夜物語 AnEarth Fantasy Stories]]
*[[Jリーグ'96ドリームスタジアム]]
*[[ウィリーウォンバット]]
*[[バルクスラッシュ]]
*[[イライラ棒#コンシューマゲーム版イライラ棒|ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー 電流イライラ棒]]
*[[b.l.u.e. Legend of water]]
*[[ゲッターラブ!! ちょー恋愛パーティーゲーム]]
*[[ウェルトオブ・イストリア]]
*[[ルーンジェイド]]
*[[ハテナサテナ]]
*[[ドリームミックスTV ワールドファイターズ]]
* [[脳内覚醒ハニカムビート]]
*[[ウィングアイランド]]
*[[絶対音感オトダマスター]]
*[[エイリアンクラッシュ#エイリアンクラッシュ・リターンズ|エイリアンクラッシュ・リターンズ]]{{Efn|もともと[[エイリアンクラッシュ]]は[[加賀電子|ナグザット]]の発売だが、後にハドソンに商標登録等の権利を所有することになった。そのため、開発・発売ともにハドソンである。}}
*[[スパイダーライダーズ 〜オラクルの勇者たち〜|スパイダーライダーズ 〜転生の章〜]]{{Efn|2006年9月16日発売の[[Wii]]用ソフト。過去には[[タカラトミー]](旧:[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]])の『[[冒険遊記プラスターワールド]]』のキャラも登場している(但し、声優は同じキャストが演じている)。}}
*[[テトリスパーティ|テトリスパーティ / テトリスパーティプレミアム]]
*[[はたらくヒト]]
*[[ヒミツの大奥]]
*[[CALLING 〜黒き着信〜]]
*[[影の塔]]
*[[ハドソンベストコレクション]]
*[[PC Engine Best Collection]]
*[[魔境伝説]](開発の担当。発売は[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]])
*[[マリオパーティシリーズ]](『[[マリオパーティDS|-DS]]』までの開発を担当。発売は[[任天堂]])
*[[ソニックシャッフル]](開発の担当。発売は[[セガ]])
*[[伝説のクイズ王決定戦]](開発の担当。発売は任天堂)
}}
=== 周辺機器 ===
;ゲームコントローラー
*ハドソン[[ジョイスティック]]([[ファミリーコンピュータ|FC]]用、1985年、定価3,500円、黄色) - スティック型。
*ジョイカード(FC用、赤) - 色は、任天堂純正コントローラー色と同じ。連射コントローラー。
*ジョイカードMK.2(FC用、1986年6月、定価1,980円、赤) - 15連射コントローラー。
**ジョイカードMK.2 [[ヘクター'87]]バージョン(1987年、1,980円)
**ジョイカードMK.2 サンスイバージョン1(1990年、定価2,980円)
**ジョイカードMK.2 サンスイバージョン2(定価2,980円)
**ジョイカード サンスイSSS(定価2,980円、灰色)
*:かつての[[音響機器]]メーカーであった[[山水電気]]の子会社・福島サンスイと共同開発した(1980年代当時)製品で、音量ボリュームとイヤホン出力端子を装備した15連射コントローラー。<br />独自開発のサウンドシフト機能を搭載した事により、十字キーの左右入力とステレオ音声のLRが連動して聞こえるため、臨場感のある独特なステレオサウンド(実質的にはテクニカル(擬似)ステレオ扱い)がモノラル出力のファミコンでも堪能出来る仕様になっている。
**ジョイカードmkⅡ(透明色、非売品) - Bugってハニーの懸賞品。ゲーム内のパスワードを応募。
*ジョイカード([[MSX]]用) - 色は、灰色。
*ジョイカード スーパーX(MSX、[[X1 (コンピュータ)|X1]]、[[X68000]]用)
*ジョイカード スーパーII(MSX用)
*スーパージョイカード([[スーパーファミコン|SFC]]用、1991年、定価2,980円)
*ジョイカード64([[NINTENDO64|N64]]用)
**ジョイカード64 J(N64用、緑色) - Jリーグ イレブンビート1997の懸賞品。応募券を送ると抽選で1000名に当選。
**ジョイカード64 P(N64用、青色) - パワーリーグ64の懸賞品。応募券を送ると抽選で1000名に当選。
*S<sub>BOM</sub>ジョイカード([[セガサターン|SS]]用)- 『[[サターンボンバーマン]]』、『[[銀河お嬢様伝説ユナ|銀河お嬢様伝説ユナ3]]』などに対応。
;外部記憶装置
*天の声バンク([[PCエンジン|PCE]]用、[[1991年]][[9月6日]]、定価3,880円) - [[HuCARD]]型の外部記憶カード。
*天の声2(PCE用、[[1989年]][[8月8日]]、定価2,600円) - PCエンジン本体に接続する外部記憶ユニット。
;メモリーカード・ソフトカード
*[[BEE CARD]] - カード型のメモリーカード。MSXで使用するには別途BEE PACKが必要。
*[[HuCARD]] - PCエンジン用メモリーカード。PCエンジン用ソフトメディアの主流がCD-ROMに移行するまではソフトとしても発売され、その後は周辺機器として(CD-ROM<sup>2</sup>用システムカード、[[アーケードカード]]、天の声バンクなど)のHuCARDも発売された。
;その他
*ファミコンシステムラック(FC用、1,500円)
:ファミコン本体とディスクシステムを固定するラック。
=== その他の商品 ===
*[[シュウォッチ]]
*ビースピ(Bee Spi) - [[ビーダマン]](によって射出されたビー玉)や[[チョロQ]]、[[ミニ四駆]]用の速度測定器。通常の速度測定機能に加え、ラップタイム測定機能、時計機能も内蔵している
*[[てくてくエンジェル]]
*てくてくエンジェルDue
*てくてくエンジェルPocket
*チョ~!ワイドレンズ - 携帯電話用広角レンズ
*[[コピーガード#ROOT|ROOT]] - [[日本ビクター]]と共同開発したCD-ROMのコピーガード技術
*MaPiVi - [[ゼンリン]]と共同開発したパソコン用地図ソフト。発売はゼンリン
*ebi.BookReader - 電子書籍閲覧ソフトウェア。リリースは[[イーブックイニシアティブジャパン]]
== 主な提供番組 ==
(★は筆頭提供番組、それ以外は複数社提供)
*[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系
**[[Bugってハニー]](1986年10月3日 - 1987年9月25日)★一社提供
**[[DOKIドキDO!]](1987年10月2日 - 1988年3月25日)★
**[[魔神英雄伝ワタル]](途中で[[ピープル (玩具メーカー)|ピープル]]に交代)★
**[[魔動王グランゾート]]
*[[テレビ朝日]]系
**[[藤子不二雄ワイド]](1985年 - 1987年、『[[忍者ハットリくん]]』パート提供)
**[[時空戦士スピルバン]]
**[[ボボボーボ・ボーボボ]]
**[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]
** [[ビックリマン]]シリーズ
***[[ビックリマン (アニメ)|ビックリマン]]
***[[新ビックリマン]]
** [[Bビーダマン爆外伝]]シリーズ
***Bビーダマン爆外伝
***[[Bビーダマン爆外伝V]]
*[[フジテレビ]]系
**[[空想科学世界ガリバーボーイ]] ★
**[[ドラゴンボールZ]]
** [[キテレツ大百科 (アニメ)|藤子不二雄のキテレツ大百科]]★
*[[テレビ東京]]系
**[[おはようスタジオ]](提供時期不明)
**ゲームバラエティ([[高橋名人]]出演番組→[[PCエンジン]]宣伝番組)
***[[高橋名人の面白ランド]](1986年10月7日 - 1987年9月29日)★
***[[冒険!テレビ遊び塾]](1988年4月19日 - 9月20日)
***[[さきどり!PC遊び塾]](1988年10月4日 - 1989年3月21日)
***[[大竹まことのただいま!PCランド]](1989年4月4日 - 1992年3月31日)
***[[聖PCハイスクール]](1992年4月7日 - 9月29日)★
***[[そのまんま東のバーチャル情報局]](1992年10月6日 - 1993年7月6日)
***[[そのまんま東のバーチャルZ]](1993年7月13日 - 9月28日)
**[[ボンバーマンジェッターズ]]★
**[[阿貴的家族|アークエとガッチンポー]]
**[[ネットゴーストPIPOPA]]
**[[メタルファイト ベイブレード]]シリーズ
***メタルファイト ベイブレード
***メタルファイト ベイブレード爆
**[[FAIRY TAIL]] (事実における最後の提供番組)
**[[桃太郎伝説 (アニメ)|桃太郎伝説シリーズ]]
***桃太郎伝説 PEACHBOY LEGEND(1989年10月2日 - 1990年10月1日)★
***PEACH COMMAND 新桃太郎伝説(1990年10月8日 - 1991年4月1日)★
**[[Dr.リンにきいてみて!]]
**[[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]]
**[[炎の闘球児 ドッジ弾平]]
**[[鬼神童子ZENKI]]
** [[魁!!クロマティ高校]]
** [[ぴたテン#アニメ|ぴたテン]]
** [[ギャラクシーエンジェル (アニメ)#第3期|ギャラクシーエンジェルA]]
*その他
**[[強殖装甲ガイバー|強殖装甲ガイバー(TVアニメ版)]]([[WOWOW]])
=== 提供番組における補足 ===
*『藤子不二雄のキテレツ大百科』『Bugってハニー』などの筆頭提供番組での提供読みは「'''キミたちのいい脇役。HUDSON SOFT'''」で、クレジットは白バックに「提供」の文字の下にカラーの「ハチ助」が大きく表示され、その下に「キミたちのいい脇役になりたいな。(改行){{Smaller|HUDSON GROUP}}(改行)'''HUDSON SOFT'''」と表示されていた。但し、キテレツのみブルーバック。
*『高橋名人の面白ランド』では映像をバックに黒の縁取りに白文字で「提供(改行、ハチ助、改行){{Smaller|HUDSON GROUP}}(改行)'''HUDSON SOFT'''」とだけ表示していた。
*2005年の『[[強殖装甲ガイバー]]』にて、ゲーム販売には関わらないTVCMを放送し、提供読みはメインキャラクター4名{{efn|[[野島健児 (声優)|野島健児]](深町晶役)、[[水樹奈々]](瀬川瑞紀役)、[[高口公介]](瀬川哲郎役)、[[小西克幸]](巻島顎人役)。}}が担当していた。
*晩年は、「'''HUDSON'''」の提供クレジット表示となっていた。但し、『ぴたテン』、『ギャラクシーエンジェルA』などの一部の番組は、「'''ハドソン'''」とカタカナの社名フォントの提供クレジット表示となっていた。
*『[[メタルファイト ベイブレード]]』では、第2シリーズ(爆)までの提供に参加しており、第3シリーズ(4D)と[[メタルファイト ベイブレード ZEROG|ZEROG]]では提供には参加していなかった{{efn|これは、[[コナミ]]が吸収合併したことにより、ハドソンブランドが存在していたことによって解散したことから。}}。
== 工藤裕司 ==
'''工藤裕司'''([[1947年]][[4月6日]] - )[[北海道]][[ニセコ町]]生まれ:ハドソン創業者。現在のペンネームは三遊亭あほまろ{{Efn|命名は[[三遊亭圓歌 (3代目)|三代目三遊亭圓歌]]。}}。趣味については[[#社長の趣味と企業風土]]を参照。
== 関連項目 ==
* [[ハドソン・ミュージックエンタテインメント]] - ハドソンの音楽レーベル。
* [[高橋名人]] - ファミコン全盛期にハドソン所属の“ ファミコン名人 ”として一世を風靡した。
* [[毛利名人]] - 同上。
* [[中本伸一]] - 初期の中心人物のひとりで元副社長。
* [[大里幸夫]] - ゲームプロデューサー。取締役を務める。
* [[辻尚之]] - 元専務取締役。
* [[川田忠之]] - 「川田名人」としてハドソンのプロモーションに関わっていたが、後にゲーム制作を手掛けるようになり『[[スーパースターソルジャー]]』『[[ドレミファンタジー ミロンのドキドキ大冒険]]』などを手掛ける。また開発チーム「Team Kawada」のリーダーとして『[[桃太郎電鉄シリーズ]]』の制作指揮を担当する。
* [[藤原茂樹 (ゲームクリエイター)|藤原茂樹]] - ゲームデザイナー。『[[ボンバーマンシリーズ]]』プロデューサー。ゲームディレクターやスーパーバイザーなどとしてボンバーマンシリーズに携わる。
* [[笹川敏幸]] - 『[[迷宮組曲 ミロンの大冒険]]』の作者。後に同社のサウンドプロデュースを手掛けるようになり、『[[天外魔境ZERO]]』『[[天外魔境 第四の黙示録]]』では作曲を担当している。
* [[猪狩寛]] - ゲームプロデューサー。元執行役員
* [[油布賢一]] - 音楽事業部のゼネラルマネージャーとして「ハドソン・ミュージックエンタテインメント」を設立。前職は[[エクシング]]([[JOYSOUND]]運用元)の第一制作G・統括プロデューサーであり、ハドソン在籍中に『[[カラオケJOYSOUND Wii]]』や音楽CD『[[エブリバディー]]』のプロデュースなどを手掛ける。
* [[ロケットスタジオ]] - 初期の中心人物のひとりである竹部隆司が1999年に設立。
* [[エヌディーキューブ]] - 元社長の遠藤英俊やマリオパーティーシリーズ開発スタッフが移籍。
* [[ヴァルハラゲームスタジオ]] - 元専務取締役の[[辻尚之]]や[[川田忠之]](川田名人)など桃太郎電鉄シリーズ開発スタッフの一部が移籍。
* [[ハ・ン・ド]] - 藤原茂樹などのスタッフが移籍。
* [[i-revo]] - 「i-revoミュージック&ムービーICE」を運営。
* [[新・電子立国]] - 第4回「ビデオゲーム〜巨富の攻防〜」にてハドソンの創業から発展までのエピソードが紹介されている。
* [[ディーライツ]] - ハドソンの子会社であった未来計画株式会社を前身とする会社。
* [[ハムスター (ゲーム会社)]] - 元研究スタッフが札幌開発室へ移籍し、[[アーケードアーカイブス]]シリーズタイトルの移植作業に携わる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 赤木哲平『セガVS.任天堂―マルチメディア・ウォーズのゆくえ』(日本能率協会マネジメントセンター、1992年)
* {{Citation|last=佐々木|first=潤| year = 2013 | title = 80年代マイコン大百科 | publisher = 総合科学出版}}
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20131208204740/http://www.hudson.jp/index.html ハドソン 公式サイト] 2013年12月8日時点の[http://www.hudson.jp/index.html オリジナル]よりアーカイブ
* {{Wayback|url=http://hudson.co.jp/corp/coinfo/history_1970.html|title=沿革(ハドソン公式サイト)|date=20101217110841}}
* {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/index.html|title=HUDSON HOME PAGE!!|date=19961106045210}}
* {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/index.html|title=ハドソンゲームナビ|date=20040807121800}}
* {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/index.html|title=ハドソンゲームナビ|date=20070902040014}}
* {{Wayback|url=http://www.webbee.net:80/|title=webbee - ハドソンゲームポータルサイト|date=20020802163438}}
* [https://web.archive.org/web/20131027124356/http://dothehudson.net/en/ Do the Hudson!! for iPod touch and iPhone] 2013年10月27日時点の[http://dothehudson.net/en/ オリジナル]よりアーカイブ
* {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/hursc/index.html|title=HUDSON SOFT ハドソン中央研究所/Hu-LAB|date=20020804120616}}
* {{Wayback|url=http://hudsong.jp/|title=♪HUDSON MUSIC ENTERTAINMENT ハドソン・ミュージックエンタテインメント|date=20120120094611}}
* {{Wayback|url=http://www.ufo.co.jp:80/hosenka/index.html|title=方泉處のホームページ|date=20010405013056}}
* {{Wayback|url=http://www.ufo.co.jp:80/FB/|title=株式会社未来蜂歌留多商会|date=20000816184507}}
* {{Wayback|url=http://www.ufo.co.jp:80/FB/|title=株式会社フューチャービー|date=19971010092346}}
* {{Twitter|AhomaroS|三遊亭あほまろ}}(創業者である工藤裕司のTwitterアカウント)
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[[Category:北海道発祥の企業]] | 2003-02-15T13:59:16Z | 2023-12-19T07:41:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%B3 |
1,817 | ダウト | ダウトは、複数人で遊ぶトランプゲームの一つ。各々がカードの数字を読み上げながら裏返しに出していき、それがウソである(読み上げられた数字が出したカードの数字と違う)と思った参加者が「ダウト!」と叫んでウソを暴くのが特徴のゲームである。
西洋のカードゲームBullshitが日本に伝わったもので、日本語のゲーム名「ダウト」は、英語でのゲームの別名 "I Doubt It" のDoubt(ダウト)の単語に由来する。大阪、兵庫などの関西圏ではダウトが訛った座布団の名称で呼ばれる。その名前から由来して座布団の上にカードを出す遊び方をする。
各プレイヤーの手札が少なくなるにつれて、順番に対応するカードを出せる確率が低くなっていくので、他のプレイヤーに「ダウト」をかけられやすくなる。しかし、プレイヤー全員の手札が少なくなった状態で自ら「ダウト」をかけることは既に出された札が多いわけであり、出された札をすべて引っ込めなければならなくなった時の敗戦の危険性が高くなる。途中「ダウト」が迫っても出す順番は一定であることを利用して、順番に対応するカードがどれになるのかを各プレイヤーが瞬時に予測し、いつダウトのカードを出すか、いつ「ダウト」とコールするのか、などの戦略がこのゲームの勝敗において重要な鍵を握る。
以下のようなルールも存在する。
等のバリエーションルールもある。
ゼロ和ゲームなので理論上はいつまでも続けることができ、「終わらないゲーム」の代名詞として使われることがある。特に、3人以下でするとなかなか終わらないため、ダウトをして実際に正しくない場合、相手が自分の手札から2枚引き、正しい場合は自分が相手の手札から2枚引くという方法を使う場合がある。
4枚手札に揃っている数字は絶対にダウトが成功するので、確実にカードを押し付けることができる。
また「ダウト」宣言で数字を持ち越すルールでは使えないが、A~Kを全て手札に揃えると13ターンの間に相手が上がらない限り勝つことができる。
欧米ではこれに似たゲーム「チート」がある。こちらは基本的なルールはダウトと一緒だが、出したカードが対応していないと思っても自分の前の人にしかコールすることができない。
なおこのゲームのコールは「チート」である。
日本では1907年(明治40年)に書かれた書物である世界遊戯法大全にDoubt It!の和訳として「そうですか」の名前で紹介されている。この遊びでは「ダウト」ではなく「そうですか」の掛け声を掛ける。
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] | ダウトは、複数人で遊ぶトランプゲームの一つ。各々がカードの数字を読み上げながら裏返しに出していき、それがウソである(読み上げられた数字が出したカードの数字と違う)と思った参加者が「ダウト!」と叫んでウソを暴くのが特徴のゲームである。 西洋のカードゲームBullshitが日本に伝わったもので、日本語のゲーム名「ダウト」は、英語でのゲームの別名 "I Doubt It" のDoubt(ダウト)の単語に由来する。大阪、兵庫などの関西圏ではダウトが訛った座布団の名称で呼ばれる。その名前から由来して座布団の上にカードを出す遊び方をする。 | {{otheruses|トランプゲーム|その他}}
{{出典の明記|date=2017-08-16}}
'''ダウト'''は、複数人で遊ぶ[[トランプ]]ゲームの一つ。各々が[[カード]]の数字を読み上げながら裏返しに出していき、それがウソである(読み上げられた数字が出したカードの数字と違う)と思った参加者が「ダウト!」と叫んでウソを暴くのが特徴のゲームである。
西洋のカードゲーム[[:en:Cheat (game)|'''Bullshit''']]が日本に伝わったもので、[[日本語]]のゲーム名「ダウト」は、英語でのゲームの別名 "'''I Doubt It"''' のDoubt(ダウト)の単語に由来する。[[大阪府|大阪]]、[[兵庫県|兵庫]]などの[[近畿地方|関西圏]]ではダウトが訛った'''座布団'''の名称で呼ばれる。その名前から由来して[[座布団]]の上にカードを出す遊び方をする。
== 遊び方 ==
=== 準備 ===
# 使用するカードは、ジョーカーを除く1組52枚のトランプである。
# 全てのプレイヤーに均等にカードを配り、プレイ順を決める。
=== 一般的なルールと勝敗決定 ===
# 決められたプレイ順に従い、プレイヤーはカードを1枚ずつ'''裏向き'''に出していく。
# 最初のプレイヤーからA, 2, 3, … J, Q, Kの順で、自分の番に対応するカードをその数字をコールしながら場に出していく。[[スート]]はどれでもよい。繰り返してまたA, 2, 3, … J, Q, Kと順番に出していく。パスは不可。
# プレイヤーは自分の順番に対応する数字以外のカードを出すこともできる。これは手札がない場合に限らず、戦略的に出すことも認められる。
# 他のプレイヤーは、もし出されたカードがその人の順番に対応してないカードであると思ったら「'''ダウト'''」とコールすることができる。2人以上が同時に「ダウト」をかけたら、先に「ダウト」とコールしたプレイヤーが「ダウト」をかけたものとする。
# 出されたカードに対して「ダウト」をかけられたら、そのカードを表向きにする。結果の責任は以下のように取らされる。
## もし、そのカードが順番に対応していなければ(虚偽が見抜かれた場合)、カードを出したプレイヤーが今まで出されたカードを全て手札に加えなければならない。
## 逆に、そのカードが順番に対応しているものであったら、「ダウト」をかけたプレイヤーが今まで出されたカードを全て手札に加えなければならない。
# 「ダウト」が成功したか否か関係なく、「ダウト」されたプレイヤーの次のプレイヤーはそのまま次の数字に対応するカードから出し始める。例えば「2」で「ダウト」をかけられたら、「ダウト」の結果が成功でも失敗でも次のプレイヤーは「3」のカードを出すことになる。
#以上のようにしてゲームを進めていき、'''誰か1人の手札がなくなった時点でゲームを終了'''し、手札をなくしたプレイヤーの優勝となる。他のプレーヤーは現在の手札の数が少ない順に2位、3位…と順位をつけるルールもある。
各プレイヤーの手札が少なくなるにつれて、順番に対応するカードを出せる確率が低くなっていくので、他のプレイヤーに「ダウト」をかけられやすくなる。しかし、プレイヤー全員の手札が少なくなった状態で自ら「ダウト」をかけることは既に出された札が多いわけであり、出された札をすべて引っ込めなければならなくなった時の敗戦の危険性が高くなる。途中「ダウト」が迫っても出す順番は一定であることを利用して、順番に対応するカードがどれになるのかを各プレイヤーが瞬時に予測し、いつダウトのカードを出すか、いつ「ダウト」とコールするのか、などの戦略がこのゲームの勝敗において重要な鍵を握る。
== 追加ルールなど ==
以下のようなルールも存在する。
* 人数が多い場合はカードデッキを複数使う。
* 一度に出せるカードの数は複数(2~4枚)でもよい。ただし、対応していないカードが1枚でも交ぜて出し、ダウトのコールをかけられると、出されたカードをすべて手札に加えなければならない。
*ダウトの時に数字が一致していなかった場合は、次の番の人がその数字から再開する。(例:AのときにAでないカードを出してダウトをかけられると、次の番の人がAのカードと思われるカードを出す)
* カードを引き取る代わりに自分の手札をすべて捨て、その人を負けとする。
* ダウトに成功した場合、成功した人が次の番になる。
* 1回もダウトを成功させずに上がることを禁止する。ダウトを成功させずに手札がなくなった場合、出したカードの真偽等に関わらず今まで出されたカードを全て引き取らなければならない。
* ジョーカーを、[[ワイルドカード_(トランプ)|どの数字としても使えるカード]]としてゲームで使用する。ジョーカーを最後の手札として出すことも可能。
等のバリエーションルールもある。
[[ゼロ和]]ゲームなので理論上はいつまでも続けることができ、「終わらないゲーム」の代名詞として使われることがある。特に、3人以下でするとなかなか終わらないため、ダウトをして実際に正しくない場合、相手が自分の手札から2枚引き、正しい場合は自分が相手の手札から2枚引くという方法を使う場合がある。
== 戦略 ==
4枚手札に揃っている数字は絶対にダウトが成功するので、確実にカードを押し付けることができる。
また「ダウト」宣言で数字を持ち越すルールでは使えないが、A~Kを全て手札に揃えると13ターンの間に相手が上がらない限り勝つことができる。
== チート ==
欧米ではこれに似たゲーム「[[:en:Cheat (game)|'''チート''']]」がある。こちらは基本的なルールはダウトと一緒だが、出したカードが対応していないと思っても自分の前の人にしかコールすることができない。
なおこのゲームのコールは「チート」である。
== 日本での歴史 ==
日本では[[1907年]](明治40年)に書かれた書物である[[世界遊戯法大全]]にDoubt It!の和訳として「そうですか」の名前で紹介されている。この遊びでは「ダウト」ではなく「そうですか」の掛け声を掛ける。
1981年版の[[開隆堂出版]]発行の中学英語教科書[[New Prince]]1年で取り上げられた。
== 関連項目 ==
* [[トランプ]]
* [[カードゲーム]]
* [[:en:Cheat (game)]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nintendo.co.jp/others/playing_cards/howtoplay/doubt/index.html ダウト|トランプの歴史・遊びかた] - [[任天堂]]
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{{DEFAULTSORT:たうと}}
[[Category:トランプゲーム]] | null | 2023-05-09T12:39:31Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%88 |
1,818 | さらば国分寺書店のオババ | 『さらば国分寺書店のオババ』(さらばこくぶんじしょてんのオババ)は、椎名誠のエッセイ。椎名の作家としてのデビュー作であり、また昭和軽薄体を用いたスーパーエッセイの代表作である。
この本は当時情報センター出版局に勤務していた星山佳須也の依頼によって、シリーズ「Century press」(センチュリープレス)の一冊として書かれた。星山が三五館という出版社を立ち上げると、義理と人情によって版元をそちらに移した。椎名と星山はこの本は文庫化しないと約束していたが、1996年に、二人の義理を壊さない形で新潮文庫に収められた。
また、この本が出て3、4年後に、椎名は『帰ってきたオババの逆襲』という本を書き下ろそうとし、少し書き始めたが、結局完成には至らなかった。
ちなみに、椎名はこの本の出版以前に『クレジットとキャッシュレス社会』『クレジットカードの実務知識』『大規模小売店と流通戦争』という3冊の本を書いている。しかし、いずれも椎名の前職である流通業界に関連する実用書であるため、デビュー作としては本書が紹介されることが多い。また、椎名自身も本書を「モノカキとしての実質的なデビュー作」と認識している。 | [
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] | 『さらば国分寺書店のオババ』(さらばこくぶんじしょてんのオババ)は、椎名誠のエッセイ。椎名の作家としてのデビュー作であり、また昭和軽薄体を用いたスーパーエッセイの代表作である。 | 『'''さらば国分寺書店のオババ'''』(さらばこくぶんじしょてんのオババ)は、[[椎名誠]]の[[随筆|エッセイ]]。椎名の[[作家]]としてのデビュー作であり、また[[昭和軽薄体]]を用いた[[随筆|スーパーエッセイ]]の代表作である。
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|画像サイズ =
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|作者 = [[椎名誠]]
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|言語 = [[日本語]]
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|刊行の出版年月日 = 1979年11月
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== 内容 ==
; 国鉄はいま わしらの眼をまともに見ることができるか
:[[検札]]を待つ時の微妙な気分、[[鉄道駅|駅]]で聞く何だかよくわからない業務連絡、[[地下鉄]]のやたらと大きい車内放送などの[[鉄道]]に関する疑問や怒りを綴る。また、[[カラオケ]]は人々の「超人願望」を叶えるものでないか、とも指摘する。
; 日本の“本官”たちはいったい何を話しておるのか
:自身が[[留置場]]に入れられた経験をもとに、[[警察官]]の居丈高な態度の理由について言及する。厳しいオババが店番をする国分寺書店に[[本]]を売りに行った体験も綴る。
; 死ね! そこいら中の制服関係の皆様
:自分が嫌う人々の共通項として、濃紺色の[[制服]]を着ていることを発見する。さらに[[バス (交通機関)|バス]]の[[運転手]]、[[高校野球]]を作り上げる大人たち、店員が大声で叫ぶ[[寿司]]屋、子供をやたらと管理する[[幼稚園]]についても怒りを向ける。
; うに寿司のジャーナリズム的摂取方法
:[[公務員]]のもらう金について試算し、おかしさを指摘する。「[[噂の真相]]」創刊記念パーティで、場にある[[うに]][[寿司]]をどんどん食べていく恐るべき男を見かけ、そこからマスコミの不要性を説く。
; 夕陽にむかい背を丸め痛恨のチーズケーキ九六〇円の春
:ふたたび国分寺書店に本を売りに行こうとしたが、そこは[[陶器]]の専門店となっていた。毎日厳しく客を指導し、本を美しく保っていたオババ。店を畳んだオババの人生に思いを馳せる。
== 解説 ==
この本は当時[[情報センター出版局]]に勤務していた[[星山佳須也]]の依頼によって、シリーズ「Century press」(センチュリープレス)の一冊として書かれた。星山が[[三五館]]という出版社を立ち上げると、義理と人情によって版元をそちらに移した。椎名と星山はこの本は[[文庫]]化しないと約束していたが、1996年に、二人の義理を壊さない形で[[新潮文庫]]に収められた<ref name=atogaki>『さらば国分寺書店のオババ』文庫版のためのあとがきより</ref>。
また、この本が出て3、4年後に、椎名は『帰ってきたオババの逆襲』という本を書き下ろそうとし、少し書き始めたが、結局完成には至らなかった<ref name=atogaki/>。
ちなみに、椎名はこの本の出版以前に『クレジットとキャッシュレス社会』『クレジットカードの実務知識』『大規模小売店と流通戦争』という3冊の本を書いている。しかし、いずれも椎名の前職である[[流通業|流通業界]]に関連する実用書であるため、デビュー作としては本書が紹介されることが多い。また、椎名自身も本書を「モノカキとしての実質的なデビュー作」と認識している<ref>椎名誠『自走式漂流記 1944-1996』[[新潮社]]([[新潮文庫]])、1996年、372-373頁。ISBN 4-10-144818-3。[https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/1369 椎名誠 旅する文学館 » Blog Archive » さらば国分寺書店のオババ] - 2021年6月22日閲覧。</ref>。
== 当時の反響 ==
{{節スタブ|date=2019年7月}}
== 書籍情報 ==
* 情報センター出版局 (1979年11月、全234頁)
* 三五館(1993年3月、全269頁)
* 新潮文庫(1996年9月、全253頁)
* クリーク・アンド・リバー社(2014年5月、全263頁)電子書籍
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Portal 文学}}
* [[ストアーズ社]]
* [[高田榮一]]
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[[Category:椎名誠]]
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[[Category:多摩地域を舞台とした作品]] | null | 2023-04-19T14:04:45Z | false | false | false | [
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"Template:基礎情報 文学作品",
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"Template:Reflist",
"Template:Portal 文学"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%B0%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E6%9B%B8%E5%BA%97%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%90 |
1,819 | 宇多田ヒカル |
宇多田 ヒカル(うただ ヒカル、1983年〈昭和58年〉1月19日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。本名:宇多田 光(読み同じ)。愛称はヒッキー。音楽プロデューサーの父・宇多田照實と歌手の母・藤圭子の下、アメリカ合衆国ニューヨークで生まれた。所属芸能事務所はU3MUSIC。所属レーベルはエピックレコードジャパン。ロンドン在住。
1998年末に15歳でCDデビューし、デビューシングル「Automatic/time will tell」は、ダブルミリオンの大ヒットを記録。1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え(オリコン調べ)、日本国内の歴代アルバムセールス1位になっているほか、2ndアルバム『Distance』では初週売上枚数が歴代1位となる300万枚(オリコン調べ)を記録している。2007年発表の「Flavor Of Life」は当時のデジタル・シングルのセールスにおいて世界1位を記録した。また、『日本ゴールドディスク大賞』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を、2000年と2003年に受賞している。
2010年に「人間活動」として翌年以降の音楽活動休止を発表。結婚・出産を経て、2016年に活動を再開し、復帰作『Fantome』はその年の『Billboard JAPAN年間総合アルバムチャート』で1位を獲得したほか、『第9回CDショップ大賞』で「大賞」を、『第58回日本レコード大賞』で「最優秀アルバム賞」を受賞した。また、2018年に発売した7thアルバム『初恋』とその他の成果により、第69回芸術選奨で大衆芸能部門にて「新人賞」を受賞している。
2018年現在までに、『First Love』『Distance』『DEEP RIVER』『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』『Fantome』の5作品がオリコンまたはBillboard Japanの年間アルバムチャートで1位になっている。
1983年1月19日に、アメリカ合衆国ニューヨークに生まれた。親の仕事の関係で、小さい頃から東京とニューヨークを頻繁に行き来していたという。家族の生活は音楽を中心に回っていたといい、宇多田は小学校低学年の頃からスタジオで宿題をしたりご飯を食べたりソファーで寝たりしていた。その中で、「光、ここちょっと歌ってくれない?」と頼まれ、親の楽曲で歌ったりすることもあった。
1990年に藤圭子(RA U)、宇多田照實(SKING U)、宇多田ヒカル(HIKASO U)の家族3人ユニット「U」を結成。1993年9月17日に当時10歳の宇多田ヒカルもボーカルとして参加し、ニューセンチュリーレコードの前身であるセンチュリーレコードからUとしてロック曲を収録したスタジオ・アルバム『STAR』を発売して日本デビューしている。またこの頃、「自分で作ってみたら」と言われて「I'll Be Stronger」という楽曲で初めて作詞作曲した(英語詞)。
1995年になると宇多田ヒカルが母親の代わりにメインボーカルとなり、「cubic U」名義としてインディーズのレコードレーベルから作品をヨーロッパやアメリカ合衆国で発売し、翌年にかけて合計3枚のレコードと1枚のマキシシングルを発表。日本では1996年9月26日には日本クラウンから藤圭子 with cubic Uとしてシングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を発売。1997年1月、アメリカで「Cubic U」としてシングル「Close To You」(「遙かなる影」のカバー)、次いでアルバム『Precious』を発売。
同年秋、東京のスタジオでレコーディングしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目に留まり、「日本語でやってみない?」という誘いにより日本デビューが決まった。なお、Cubic Uの日本盤として1998年1月16日にシングル、1月28日にアルバムを発売しているほか、NHK-BS2の『新・真夜中の王国』でテレビ初出演している。
1998年10月、FMラジオレギュラー番組『Hikki's Sweet&Sour』と『WARNING HIKKI ATTACK!!』が放送開始(いずれも1999年3月放送終了)。
12月9日、「宇多田ヒカル」として1stシングル「Automatic/time will tell」発売。当時は(J-POPにおいて)8cmシングルから12cmシングルへと移行し始めた過渡期にあったため、8cm盤と12cm盤の2形態で発売した。また、当時のオリコンチャートも8cm盤と12cm盤を個別に集計していたため、12cm盤が12位、8cm盤が20位であった。ところが、ラジオ放送局へのプロモーションが功を奏して日本国内各地のFMラジオ局がヘヴィー・ローテーションしたことや外資系CDショップがプッシュしたこと、作詞作曲を手掛ける15歳の帰国子女が藤圭子の娘であることがマスメディアに大々的に取り上げられたことなどによって瞬く間に人気を得て、社会現象と化した。1stシングルは1999年2月8日付のオリコンチャートで売上枚数100万枚を突破してミリオンセラーとなった。その後、8cm盤・12cm盤を合わせた売上枚数は200万枚を突破した。1999年2月17日に2ndシングル「Movin' on without you」を発売し、3月1日付オリコンチャートにおいて12cm盤が初の1位となった。
1999年3月10日、1stアルバム『First Love』を発売。初週売上枚数は200万枚を突破し、その後も数十万単位で売れ続けて日本国内の歴代アルバムチャート1位となる。売上枚数は日本国内のみでおよそ765万枚、日本国外も含めるとおよそ990万枚と言われている。4月28日にはアルバムからタイトル曲「First Love」をリカットした。
新人ながらこのような爆発的なヒットを達成した背景として、当時流行していた「だんご3兄弟」の影響で普段レコード店に足を運ばない層が多数CDを買い求めたとも理由の一つと報じられている。
ここまで本人のメディア出演は学業と両立させていくためラジオや雑誌に限られていたが、6月18日の『ミュージックステーション』を皮切りに『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』、『SMAP×SMAP』などのテレビ番組に出演し、いずれも番組最高視聴率を記録した。11月10日にジャム&ルイス(Jam & Lewis)プロデュースによる4thシングル「Addicted To You」を発売。オリコンシングルチャートの初週売上枚数106.8万枚は当時歴代2位の記録であった。
2000年、NHK放送文化研究所が実施した「好きなタレント調査」において調査開始以来初のケースとなる圏外からの一気に1位(女性タレント部門)を獲得した。『第72回選抜高等学校野球大会』入場行進曲に「First Love」が使用された。5月に発表された1999年度の高額納税者において納税額2億6564万円で全国89位、芸能人では1位となった。本業の収入で全国100位以内に登場した10代は、史上初である。5thシングル「Wait & See 〜リスク〜」、6thシングル「For You/タイム・リミット」を発表(「タイム・リミット」はTAKURO(GLAY)との共作)。7月から8月にかけて初の全国ツアー『BOHEMIAN SUMMER 〜宇多田ヒカル Circuit Live 2000〜』を開催。9月にはコロンビア大学へ入学した。
2001年、7thシングル「Can You Keep A Secret?」を発表し、主題歌となったドラマ『HERO』にカメオ出演した。3月28日に発売した2ndアルバム『Distance』は浜崎あゆみのベスト・アルバム『A BEST』と同日発売であったことから大きな話題を呼んだ。初週売上枚数はオリコンアルバムチャート歴代1位となる300万枚を記録した。7月25日にはアルバム『Distance』の表題曲をアレンジした8thシングル「FINAL DISTANCE」を発売。映画『ラッシュアワー2』(Rush Hour 2)サウンドトラックに「Hikaru Utada feat. Foxy Brown」名義で「Blow My Whistle」を提供。MTVジャパン初制作となる『MTVアンプラグド』に出演した。TezukaOsamu@Cinemaで配信されたインターネットアニメ『ブラック・ジャック』においてピノコ役に起用された。アメリカのニュース雑誌『TIME』アメリカ版の2001年9月15日特別増刊号「Music Goes Global」でU2のボノ(Bono)、ビョーク(Björk)らとともに表紙を飾り、アジア版12月17日号では単独で表紙を飾った。11月28日には9thシングル「traveling」とライヴDVD『Utada Hikaru Unplugged』を同時発売した。
2002年1月31日、『世界経済フォーラム』のオープニングセレモニーでクインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)とフィル・ラモーン(Phil Ramone)指揮のもとライヴパフォーマンスを披露し、2月18日には総理大臣官邸で開かれたジョージ・W・ブッシュ(George Walker Bush) 大統領(当時)来日を歓迎するレセプションに招待された。また、アメリカのレコードレーベルであるアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループ(The Island Def Jam Music Group)と専属契約を結んだことを発表、同時に2001年からコロンビア大学を休学していることが明かされた。3月20日に10thシングル「光」を発売。
11thシングル「SAKURAドロップス/Letters」発売直前にシングルと3rdアルバムのプロモーション活動中止を発表。理由は4月に行った卵巣腫瘍(良性)摘出手術後の治療による副作用が予想以上にあったことである。なお、シングル及びアルバム『DEEP RIVER』は予定通り発売した。アルバムは初週売上枚数235万枚(プラネットは189万枚)を記録してトリプルミリオンを達成し、オリコン年間アルバムチャート1位を獲得した。9月6日にはミュージック・ビデオやディスクジャケットをともに製作してきた紀里谷和明との結婚を発表した。
自身20歳の誕生日となる2003年1月19日にライヴ・ストリーミング『20代はイケイケ!』を開催。トークとミニライヴが行われ、当日にはおよそ100万件のアクセスを記録し、DVD化した。1月29日には12thシングル「COLORS」を発売。3月26日発売の『くずアルバム』にはコーラスで参加した。3月29日発売のコズミック・デブリ(Cosmic Debris)による絵本『エミリー・ザ・ストレンジ』(Emily The Strange)では翻訳を担当している。
2004年、日本武道館5日間公演となるライヴ『Utada Hikaru in BudoKan 2004 「ヒカルの5」』を開催。3月24日に発売された尾崎豊のトリビュート・アルバム『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』では「I LOVE YOU」をカバーした。3月31日に『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』を発売、4月21日には映画『CASSHERN』主題歌となった13thシングル「誰かの願いが叶うころ」を発売して日本国内の活動に一区切りをつけた。
「Utada」として全米デビュー前に、アテネオリンピックのオフィシャル・アルバム『UNITY』に参加。「ティンバランド&カイリー・ディーン&UTADA」(TIMBALAND & KILEY DEAN & UTADA)として「By Your Side」を提供した。ティンバランドやジョン・セオドア(Jon Theodore、当時のマーズ・ヴォルタメンバー)がプロディース参加した全米デビュー・アルバム『エキソドス』(EXODUS)は9月8日に日本盤が先行発売し、オリコンチャート初登場1位を獲得してミリオンセラーにもなった。アメリカ盤は10月5日に発売した。
2005年、日本国内の活動再開となる14thシングル「Be My Last」を9月28日に発売し、15thシングル「Passion」を12月14日に発売した。また、ライヴとトークを期間限定でネット配信した。
2006年、16thシングル「Keep Tryin'」を発売。6月14日には4thアルバム『ULTRA BLUE』を発売し、7月から9月にかけて全国ツアー『UTADA UNITED 2006』を開催。期間限定のブログも開設した。『ULTRA BLUE』はオリコンチャート初登場1位を獲得、1stアルバムから5作連続で初動セールスが50万枚を突破した。また、台湾のJ-POPチャートでも初となるアルバム5作連続1位になっている。11月22日にはNHK『みんなのうた』10月〜11月のうたに使用された「ぼくはくま」をシングル発売し、pom ponetteとコラボレーションしたチャリティー企画『「ぼくはくま」オリジナルT-シャツコンテスト』を開催し、グランプリに輝いたTシャツを商品化。すべてのTシャツ収益は世界の子どもにワクチンを日本委員会に寄付された。
2007年、ドラマ『花より男子2(リターンズ)』イメージソングを収録した18thシングル「Flavor Of Life」を発売。オリコンチャートは3週連続1位となったほか、音楽配信では当時の邦楽新記録を樹立し、9月までには当時のデジタル・シングル世界一のセールスになった。一方、私生活では紀里谷和明との離婚を発表している。19thシングル「Beautiful World/Kiss & Cry」は映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』テーマソングと「This Is Love」に続き起用された日清食品カップヌードル「FREEDOM-PROJECT」CMソングを収録。また、ニーヨ(Ne-Yo)がUtadaをフィーチャーしたデジタル・シングル「ドゥ・ユー feat. Utada」が11月21日から配信開始。12月9日のデビュー記念日を迎えるにあたり、デビュー曲「Automatic」の着うたを4日間限定で無料配信し、50万ダウンロードを記録した。
2008年2月20日には20thシングル「HEART STATION/Stay Gold」を発売、全国のFMラジオ局とのコラボレーション企画を行った。3月には無料ダウンロード企画第2弾となる「First Love」の着うたを4日間限定で無料配信し、前回を上回る70万ダウンロードを記録した。5thアルバム『HEART STATION』は3月19日に発売となり、6作連続となるオリコンアルバムチャート1位となり、ミリオンセラーになった。5月21日にはアルバムからドラマ『ラスト・フレンズ』主題歌の「Prisoner Of Love」をリカットした。10月20日からはドラマ『イノセント・ラヴ』主題歌になった2ndアルバム『Distance』収録の「Eternally」を新たにミキシングした「Eternally -Drama Mix-」の着うた・RBTを配信開始した(着うたフル・PC配信は10月31日から配信開始)。
2009年、Utada名義でMyspaceにオフィシャル・ページを開設。スターゲイト(Stargate)がプロデュースし、トリッキー・スチュワート(Tricky Stewart)も参加したアルバム『ディス・イズ・ザ・ワン』(This Is The One)は3月14日に日本先行発売した。
3月19日には初のオフィシャル・ブック『点 -ten-』『線 -sen-』を発売。これを記念して、かつてのFMレギュラー番組『宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン』がスペシャル番組として復活した。
3月24日に全米配信した『ディス・イズ・ザ・ワン』(This Is The One)は日本人アーティストとしては最高位となる総合アルバム・チャート19位、POPアルバム・チャート2位を記録し、5月12日のCD発売後はBillboard 200において日本人アーティストとして23年ぶりにチャート100位以内にランクインした。ところが、アメリカでのプロモーション活動は扁桃周囲炎の再発により中止となる。
6月27日には映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』公開に合わせて「Beautiful World」をリミックスした「Beautiful World -PLANiTb Acoustica Mix-」を配信開始した。2009年春には、Myspace主催によるUtadaカラオケ・コンテストを日米で開催。日米双方から優勝を選出し、都内で宇多田と優勝者によるカラオケ・パーティーが開催された。
2010年1月から2月にかけては、初の北米ツアー『Utada "In The Flesh" 2010 Tour』を開催し、ロンドン公演含む全10公演を行った。
2010年8月9日、来年以降のアーティスト活動を止めて「人間活動」に専念することを告げ、同時に秋から冬にかけてシングル・コレクションvol.2や新曲を発売することも発表した。9月28日にはTwitter公式アカウントを開設し(当初は期間限定の予定であった)、CM出演やライヴ開催を発表した。
ところが、11月24日の『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』発売日にアイランド・デフ・ジャムがUtada名義のベスト・アルバム『Utada The Best』を発売することが発覚し、本人の意向とは異なるアルバム発売に不快感を露わにした。そのため、今後の日本国外の活動においてもEMI MUSICと契約し、アーティスト名を「宇多田ヒカル」に統一することを発表した。
12月8日・9日に横浜アリーナで開催したライブ『WILD LIFE』では、8日の公演を日本国内の映画館で生中継し、Ustreamで世界配信した。
東日本大震災の被災者のために義援金を送り、自ら献血を行ったことを公表。2012年11月17日には映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』公開に合わせて、テーマソング「桜流し」を配信開始し、DVDシングルを12月26日に発売した。
2013年4月からは月1回のラジオレギュラー番組『KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru』の放送がスタート(2014年3月終了)。2013年12月9日のデビュー日には『Utada/Utada Hikaru: In The Flesh 2010』と過去のライヴ作品をiTunesで配信開始。
2014年3月10日は1stアルバム『First Love』発売から15年を記念した『15th Anniversary Edition』を製作、ハイレゾリューションオーディオも配信開始した。
人間活動中の2013年には母親(藤圭子)の死もあったが、翌2014年にイタリア人男性と再婚(2018年に離婚が判明)、2015年には第1子となる男児を出産した。
2016年、NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』主題歌を担当することが決定。また、ニュース番組『NEWS ZERO』エンディングテーマも担当することを発表すると同時に、初披露となる4月4日からアーティスト活動を再開することを発表した。
「花束を君に」「真夏の通り雨」は4月15日に配信開始となった。「花束を君に」をリスナーにとって大切な人に贈ることを目的とした「ギフトキャンペーン」を開催し、売上の一部は熊本地震災害義援金に寄付された。
9月28日には椎名林檎、小袋成彬、KOHHが参加したおよそ8年ぶりとなる6thアルバム『Fantôme』を発売した。『Fantôme』は各配信サイトにおいて日本を含む世界31か国(地域)でランクインし、CDセールスにおいてもオリコンチャート4週連続1位になった。10月に単独アーティスト初となる民放ラジオ101局による特別番組『サントリー天然水 presents 宇多田ヒカルのファントーム・アワー』がオンエアになった。
12月9日のデビュー記念日には2003年の『20代はイケイケ!』以来となるネットイベント『サントリー天然水PRESENTS「30代はほどほど。」』を開催し、KOHHとPUNPEEがゲスト出演した。また、小田和正によるコラボレーション・ライヴ番組『クリスマスの約束』に初出演して「Automatic」などを披露したほか、『第67回NHK紅白歌合戦』にロンドンからの中継で初出場した。
2017年、THE BACK HORNとの共同プロデュースとなったシングル曲「あなたが待ってる」に作詞、編曲、ピアノ、バックグラウンドボーカルで参加した。
2月9日にはソニー・ミュージックレーベルズ内のレーベルであるエピックレコードジャパンに移籍することをオフィシャルサイトで発表した。
7月には移籍後初となる新曲「大空で抱きしめて」と「Forevermore」を配信開始した。12月には「あなた」を配信開始したほか、初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を発売した。
2018年になると、アルバム『Fantôme』収録曲「ともだち」に参加した小袋成彬のメジャー・デビューとなるアルバム『分離派の夏』のプロデュースを手掛けたことを発表し、「Lonely One feat. 宇多田ヒカル」を先行ストリーミング配信した。
椎名林檎のトリビュート・アルバム『アダムとイヴの林檎』に宇多田ヒカル&小袋成彬として参加し、「丸ノ内サディスティック」をカバーした。
6月27日には「大空で抱きしめて」「Forevermore」「あなた」のほか、「誓い」「Play A Love Song」「初恋」「Good night」のタイアップ曲を収録した7thアルバム『初恋』を発売した。
アルバム発売にあわせて、かつてのFMレギュラー番組が一夜限りに復活して『宇多田ヒカルのTRÈS BIEN! BOHEMIAN! SPECIAL』として放送したほか、同年年末には、12年ぶりとなる全国ツアー『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』を開催した。
2019年1月には、世界的エレクトロミュージシャンSkrillexとのコラボ曲で、ゲームソフト『キングダム ハーツIII』に書き下ろした「Face My Fears」を11年ぶりにCDシングルとしてリリースした。
また、11月にリリースされた椎名林檎のベストアルバム『ニュートンの林檎 〜初めてのベスト盤〜』に収録された楽曲「浪漫と算盤」で椎名林檎と3年ぶりの共演を果たしたほか、同月リリースの井上陽水のトリビュートアルバム『井上陽水トリビュート』では『少年時代 (井上陽水の曲)』をカバーした。
2020年に入ると、ドラマ『美食探偵 明智五郎』の主題歌として新曲「Time」を書き下ろし、「サントリー天然水」のTVCMには新曲「誰にも言わない」が採用された。新曲2曲がリリースされた5月には、自宅から1か月限定で毎週日曜日にインスタライブを行い、ファンからの様々な質問に答えたほか、中村倫也やTAKA、KOHHがゲストとして出演した。
2021年には、アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のテーマソングに新曲「One Last Kiss」が起用され、また、これまでに宇多田が『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズに提供してきた関連楽曲全曲が収録されるEP『One Last Kiss』のリリースも決定した。さらに、4月にNHKEテレにて放送開始のアニメ「不滅のあなたへ」の主題歌に、新曲「PINK BLOOD」が起用されることも発表された。7月には新曲「Find Love」が、資生堂の世界ブランド・SHISEIDOによる新グローバルキャンペーン「POWER IS YOU」(パワー・イズ・ユー)のキャンペーンソングに決定、またキャンペーンのブランドムービーに女優のウルスラ・コルベロ(英語版)、プロサッカー選手のミーガン・ラピノーとともに出演した。
2022年には、8枚目のオリジナルアルバム「BADモード」をリリース。1月19日に先行配信を開始し、2月23日にフィジカルCDを発売した。
4月16日(現地時間)には、アメリカ最大級の野外音楽フェスティバル「Coachella Valley Music and Arts Festival」のメインステージに88risingの一員として出演し、計5曲を披露した
宇多田家の祖先は山口県にあり、父親が子どもの頃に家系図を見せられた際、由緒ある家の跡継ぎである事を説明されたという。郷土資料によると、山口県山口市徳地島地(旧佐波郡徳地町島地)に宇多田という大庄屋があり、広大な土地を所有していたとの記述が残っている。先祖には、寺内正毅第18代内閣総理大臣が居り、ヒカルは寺内正毅の曾姪孫にあたる。
本人のツイートによると、予定を3週間以上も過ぎた後もなかなか産まれなかったため、医師の判断で帝王切開したものの、ほぼ死産の状態だったとのこと。この時父親は医師から「残念ですが...」と告げられるも、懸命に名前を呼ぶと、徐々に血の気が入り蘇生したという。2020年10月、Twitter上で「アメリカの大統領選の在外投票の登録ギリギリ間に合った」と発言しており、日本とアメリカの二重国籍を維持していると思われる。
名前に関して、漢字表記ではなく片仮名の「ヒカル」と名乗った理由は、漢字だと何か堅い感じがするという意見がEMI社内で出たため。画数にこだわったのは、よい画数の名前であると言われていることによる。ちなみに元々の名前の由来は、母親(藤圭子)が網膜色素変性症のため、徐々に視力を失っていた時に授かった子であることから「我が子から光が失われないように」という願いを込め命名したと言われている。この他にも「いちご」や「めろん」、「すいか」が候補に挙がっていたという。ニックネームは「ヒッキー」(Hikki)。
身長に関しては、ある時に病院で正確に測ったところ、158.9cmであることが判明。今まで158cm(15歳当時の記録)であると公言してきたことから、2017年3月に出演したラジオ番組内で各所プロフィールの更新を求めた。2019年5月に過剰運動症候群と診断されたことを公表。本人は「病気とかじゃないよ!」と投稿している。
2002年、19歳の時に紀里谷和明と結婚、2007年に離婚。2014年2月にイタリア人男性と再婚。2015年7月に第1子となる男児を出産したことを報告したが、2018年4月に離婚していたことが明らかになった(公式発表ではない)。
2021年6月26日、自身がノンバイナリーであることをインスタライブにて公表している。
2006年の23歳の誕生日に大きなテディベア(くまのぬいぐるみ)をプレゼントされ、以来大のくま好きであることを公言。ちなみにそのテディベアには「くまちゃん」という名前がついており(宇多田が自ら命名)、『ぼくはくま』のモデルになった。その後も、宇多田のSNSアカウントやミュージックビデオなど、様々なところに「くまちゃん」が登場している。
テトリスの腕前について広く知られており、2006年には任天堂のクラブニンテンドー会員限定イベント『宇多田ヒカルとテトリス対戦!!』が開催され、一般ユーザーや任天堂開発チームとテトリスDSの1対1対戦を行った。ちなみに、テトリスDSでカウンターストップとなる99999999点を達成している。
自身のインスタグラムアカウントでは、度々地面に落ちている「落とし物」の写真をアップロードしている。2020年1月のマツコの知らない世界の正月SPに出演した際には、それらが「落とし物の世界」として紹介された。
宇多田は読書家でも知られており、自ら次のように語っている。
「とにかく文学は永遠に私の情熱であるでしょう! 本は財産です。読んだ本は全部とっておく。服よりほんの占めるスペースが多い。」
2018年の雑誌のインタビューでは、物心がついた頃から「他者と、世界と繋がるための方法、手段」として読書を始めていたと語っており、それは小説に限らず、子供向けの絵本や、詩、短編など、様々だった。また、その「繋がっている」という感覚が、宇多田の作家としての原点だったという。2020年の文學界での又吉直樹との対談では、自身の子どものころについて、「自分にとって唯一自由で、自分であることが許された、安心していられる場所」「現実で自由にならないこと、耐えられないことから、いつでも逃げられる場所」が「本の世界」だったと明かした。2017年12月に全国の38書店で展開された「宇多田書店」では、以下の人物の作品を推薦書籍として選出している。開高健、宮沢賢治、中上健次、芥川龍之介、川端康成、森鴎外、夏目漱石、三島由紀夫、稲垣足穂、谷崎潤一郎、埴谷雄高、大岡昇平、遠藤周作、ヘルマン・ヘッセ、オスカー・ワイルド、アン・クラーク・アモール、シェル・シルヴァスタイン、エドガー・アラン・ポー、エリ・ヴィーゼル、F・スコット・フィッツジェラルド、ジョージ・オーウェル、ダニエル・キイス、司馬遼太郎、アンリ・ベルクソン、ロアルド・ダール、田村隆一、J・D・サリンジャー、有吉佐和子、家永三郎、ゲーテ、中西進、白州正子、エリザベート・バダンテール、中原中也など。また、1999年に当時16歳の宇多田は、講演で来日したダニエル・キイス(「アルジャーノンに花束を」などの著者、当時72歳)と文藝春秋で対談している。
また、特に好きな作家には中上健次や宮沢賢治の名前を挙げており、中上健次の娘で作家の中上紀と対談した際には『異族』『紀州弁』(『鳥のように獣のように』所収)を好きな作品として挙げ、宇多田にとって初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を出版する際に行なった本人による選書企画『宇多田書店』において、中上の作品群から最多の9作品を選んでいる。
宇多田はまた大の漫画好きでもある。小説が漫画よりも「高尚なイメージ」があることについて、「くだらないものはくだらないし、いいものはいい」「くだらない小説読むんだったら良質の漫画の方がよっぽど有益」と、自身のブログで語っている。子供の頃は、漫画家を目指していて、漫画雑誌「りぼん」に投稿したこともあるという。2017年に開催された「宇多田書店」では、以下の作品を推薦書籍として選出した。「バガボンド」、「リアル」、「SLAM DUNK」、「HUNTER×HUNTER」、「レベルE」、「幽☆遊☆白書」、「うる星やつら」、「らんま1/2」、「キャッツ・アイ」、「シティーハンター」、「ベルサイユのばら」、「攻殻機動隊」、「バイオメガ」、「はじめの一歩」、「MONSTER」、「20世紀少年」、「ゴルゴ13」、「鬼平犯科帳」(さいとうたかを)、「ブラック・ジャック」、「七色いんこ」、「ブッダ」、「AKIRA」、「サーカス・ワンダー」、「鬼切丸伝」、「ピアノの森」、「北斗の拳」、「サラリーマン金太郎」、「ぼくの地球を守って」など。
また宇多田は、2006年5月号の「Invitation」で、漫画家・浦沢直樹と対談している。
2010年に活動休止を発表したことについて、「(休養中の行動を『人間活動』と表現したのは)思っていることを長く書こうとしても伝わらないことが多くて、短い言葉を使おうと思った。」「自分の力で生きたい。色々と知らないことがあるまま生活しているので、1人でも生きられるようになりたい。」「得意なことばっかりやっても成長がないと思って。もし私と同じく、自分の中の苦手なこと、避けようとしている部分に向き合っていきたいと考えている人がいるなら、一緒に頑張りましょう!」と発言しているほか、「有名人(見られる側)になってからの十数年、どんどん自分が見えなくなっていってた。全然自分のこと理解できてなかったし周りの人たちのことも「知ろう」としてなかった。苦しい、さびしい生き方をしてました。まだ若いうちに気付けてよかったです。みんなに感謝」とツイートしている。
作詞・作曲・編曲を手掛け、自らプログラミングも行っている(2018年現在もApple Logic Pro Xを使用)。絶対音感を持っていると噂されたことがあるが、本人がこれを否定している。曲作りに関しては曲先であり、「桜流し」配信開始時には「基本、コード→メロディー→歌詞という流れ。アレンジャーも私です。」とツイートしている。母親の藤圭子は、ヒカルが演歌の陰鬱や悲しさに影響されないように心掛けていたとしている。
デビュー当初から宇多田ヒカルを担当している三宅彰は、デビュー10周年の際に受けたインタビューで宇多田の変化についてコメントしており、『First Love』から『ULTRA BLUE』までのアルバム4枚は誰に向けて書いたのか具体的に見える曲が多かったが、『HEART STATION』は顔の見えない不特定多数に向いていると述べている。さらに、「10代は内面に向かいがちだったのが、20代半ばになり社会と自分というものを結びつけることができるようになったのかなと思う」とも評している。
デビューアルバム『First Love』と続く『Distance』の楽曲はR&B色が強く、「Addicted To You」や「Wait & See ~リスク~」では、ジャム&ルイスがプロデューサーとして迎えられた。自らも編曲に参加するようになった3rdアルバム『DEEP RIVER』では、R&Bの域を越え、ロックやダンスなどのジャンルを包含した普遍的なポップスとなり、またジャケット写真や遠藤周作の小説にインスパイアされたタイトルからも窺える、暗く内省的な世界観を打ち出すようになった。自身が完全に音作りをするようになったUtada名義でのアルバム『Exodus』は、R&Bからオルタナティブ、ポップ、ダンス、エレクトロニカなどをミックスした、今まで以上にジャンルレスな作風となっており、また内数曲では、ヒップホップ/R&Bシーンに革新的なビート旋風を巻き起こしたティンバランドなどがプロデューサーに迎えられた。『ULTRA BLUE』になると、ほぼ全曲の作詞作曲編曲、プログラミングまでを自らが行うようになり、次作『HEART STATION』にかけて打ち込み主体の楽曲が多くなった。『ULTRA BLUE』では内省的で私小説のような趣をみせ、メロディも主旋律が強めで高音を多用した独創的なものとなる。そして、同作や『Exodus』での技巧的・実験的な作風への反動で、『HEART STATION』と続く『This is The One』では、比較的ポップな楽曲が多くを占めるようになった。『HEART STATION』では、ヒップホップとハウスを練り込んだようなビートの上に優しいメロディがのった、しっとりとした洋楽ポップスのようなモードへ入る。Utada名義の2ndアルバム『This is The One』では、トラックメイカーにスターゲイトやトリッキー・スチュワートを迎え、前作『Exodus』とは一転し、USのメインストリームを意識したR&Bにシフトチェンジした。
母・藤圭子の死、結婚、初の出産を経て、2016年にリリースした復帰作『Fantome』は、宇多田が母の死と向き合ったもので、「日本語で歌うこと」をテーマに制作され、プライベートな喪失の痛みを普遍的なポップソングに昇華している点などが評価された。音楽的には、『Fantome』と次作『初恋』ともに、打ち込み主体の活動休止以前とうってかわって、ほぼ全曲が生バンドによるプロダクションとなり、エンジニアにはグラミー賞受賞経験のあるスティーヴ・フィッツモーリスを起用した。両作とも「日本語のポップス」であることを貫きながらも、世界的なポップスのトレンドである緻密にしてシンプルなアレンジを基礎構造にもつ仕上がりとなっている。『初恋』では、現代ジャズシーン最高峰ドラマーの呼び声高いクリス・デイヴを起用しており、また私小説的な歌詞や、リズム・譜割りに対する新たなアプローチが評価されている。
2013年放送の自身のラジオでは、「トータルでいうとソングライターとしてとか、歌手としてとか,アーティストとして生きてる人たちの中で一番憧れるアーティスト」としてPJ ハーヴェイを挙げている。 世界一好きな歌手は、ディス・モータル・コイルのエリザベス・フレイザー。 「他のアーティストと一日入れ替われるんだったらPJ ハーヴェイかトム・ヨークになってみたい」とも語っている。 フレディ・マーキュリー、コクトー・ツインズ、ナイン・インチ・ネイルズ、ジミ・ヘンドリックス、プリンス、エディット・ピアフ、チック・コリア、ブルー・ナイル、ビョーク、 レニー・クラヴィッツ、バルトーク・ベーラ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ジェフ・バックリー、井上陽水、尾崎豊、美空ひばり、THE BACK HORN、フランク・オーシャン、庄司紗矢香、カサンドラ・ウィルソンなどをお気に入りのアーティストとして挙げており、アリーヤやメアリー・J. ブライジなどのR&Bアーティストからも影響を受けたという。子供の頃、母から「ヒカルの声はすばらしいわ。もう、何かもうシャーデーみたいに」と言われたこと以来シャーデーの大ファンでもある。
宇多田は井上陽水の書く詩と自身の書く詩がとても似ていると公言しており、井上陽水から受けた音楽的な影響の大きさについても度々発言している。
また、これまでの宇多田の作品には文学作品に影響されたものが多くある。3rdアルバム『DEEP RIVER』(2002)ならびにその収録曲「Deep River」のタイトルは、遠藤周作の小説「深い河」にインスピレーションを得ている。2004年の世界進出時のアルバム『EXODUS』の収録曲「Kremlin Dusk」には、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーの物語詩「大鴉」からの引用が幾つか見られる。5thアルバム『HEART STATION』の収録曲「テイク5」の歌詞は、本人がインタビューで「宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」みたいにしたかった。」と語っている。また同作品については、2018年に出演したNHKの「SONGS」にてその一節を引用し、「幸せ」についての自論を語った。2008年にはブログで「唯識三十頌」の写経をしていることを綴った。三島由紀夫の遺作「豊饒の海」で知って以来の写経のお気に入りだという。なお宇多田は、2005年に三島の同作の第一部を映画化した「春の雪」の主題歌に「Be My Last」を書き下ろしていた。6thアルバム『Fantome』の収録曲「荒野の狼」の曲名は、ヘルマン・ヘッセの同名の小説からとったという。2018年に開催された12年ぶりの全国ツアー「Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018」の題名は、ロシアの詩人・ナボコフの長編小説「カメラ・オブスクーラ」の英題から引用されている。また、その年に自身が出演したNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」では、楽曲「夕凪」の制作中に同じくナボコフの小説「青白い炎」に出てくる詩を読みながら涙するシーンが映る。2019年12月に発売された「文學界1月号」では、作家で芸人の又吉直樹と「創作」をテーマに対談した。なお、宇多田と又吉はそれまでにもSONGSや宇多田のツアーで共演していた。2020年に自身が出演したサントリー天然水のTVCMでは、自身が選んだというイギリスの詩人・ワーズワースの詩の一節(国木田独歩訳)を朗読している。
MacBook Pro(15-inch, 2017)とLogic Pro Xを使って曲作りを行なっている。マイクロフォンはNEUMANN TLM 67、NEUMANN TLM 102、オーディオインターフェースはRME Babyface Pro、MIDIキーボードはM-AUDIO Keystation 61es、モニターヘッドフォンはSONY MDR-7506、マイクスタンドはQuiklok、スタジオモニターはFocal CMS50、スピーカースタンドはIsoAcousticsを使用している。なお、以前住んでいたアパートでは壊れた機材はトイレに積んでいたという。
10歳で作詞作曲を始めているが、編曲に関して当初は外部に任せていた。アルバム制作を重ねるにつれ、アレンジからプログラミングに至るまで、すべての音を統括するようになった。まず2ndアルバム『Distance』収録の「DISTANCE」およびそれをアレンジした8thシングル「FINAL DISTANCE」から編曲においても大きく関わるようになり、2004年の13thシングル「誰かの願いが叶うころ」以降は、ほぼすべての楽曲の編曲を単独で行うようになる。宇多田の楽曲においては、バックコーラスの声も多重録音によりすべて本人が歌っている。歌詞のインスピレーションは毎日の生活から得る。日本では抽象的なことを歌詞にする書き手が多いが、宇多田自身はヴィジュアルコンセプトから入るので映画のシナリオを書くように言葉にした情景はすべて映像として見ることが出来ると語っている。作曲では、まずパソコンソフトやシンセサイザーなどで流したサウンドに合わせてコードを付け、それにメロディをのせる。歌詞を作るのはそれらの作業が終わった後。
音楽活動再開以降は、自らの住んでいるロンドンで一連の楽曲制作が行われている。とりわけ活動休止前は、常に単独で制作しており、他のアーティストとのコラボレーションも少なかったことから、周りからは「密室系アーティスト」と呼ばれていたというが、復帰後は他アーティストとの共演も増え、サウンド面においても主に生楽器が用いられるようになった。アルバム『Fantome』『初恋』のレコーディング、ミックスを担当したスティーブ・フィッツモーリスによると、宇多田のいないところでレコーディングが行われることはないといい、その点が他アーティストとの違う点だと語った。またスティーブによれば、「僕はこれまで大勢の人の作品を手掛けてきたけど、中でも宇多田さんは最も断固とした態度の持ち主の一人」という。その中でも印象的なエピソードとして、レコーディングにてミュージシャンたちが宇多田の要望に「ちょっとこれできない、難しい」と言ったときに、宇多田が「それは、不可能なの? 難しいの?」(英語:“Is it impossible? Or is it difficult?”)と聞き返したことを挙げている。いきものがかりのリーダー・水野良樹は、2016年放送の関ジャム 完全燃SHOWにて、宇多田の「レコーディングのこだわり」を語り、「宇多田のレコーディングにやってきた日本有数のミュージシャンが、宇多田の指摘のスゴさに、落ち込んで帰っていく」という逸話を紹介した。
「メロディーは、誰かの心の原風景。 懐かしい場所からのメッセージ。
リズムは、死へ向かう生命の行進の音。
歌は祈り、願い、誓い。
音楽は、慈悲。」
自身のメロディに関して宇多田は、活動休止以前は「音楽の表面的な意味でのいいメロディを、こう行くとなんか気持ちいいなっていうメロディを、探って探ってつないでいた」という。一方、活動再開(アルバム『Fantome』)以降のメロディは、「マグマが湧いて出てくるみたいな、うねりのようなもの」「ゆっくり、べたべた、地を這う、蛇のようなもの」だと話した。また、そのようなメロディには「日本語がほんとに合う」としており、「沈んでいくタイプの心の残り方をする」とも語っている。また、宇多田はメロディ自体をリズムと捉えているといい、「私からしたら(メロディとは)リズムにピッチついてるみたいな感じ。」とも語るなど、楽曲におけるリズムに対するこだわりを話している。また、アルバム『HEART STATION』リリース時のインタビューでは「音楽のジャンルは、キックとスネアの音で決まる」と語っている。その他にも、子供は大人よりも「変拍子も癖のあるリズムの取り方も素直に受け入れることができて尚且つおもしろがる」ので、「子供と一緒に音楽を聴くのが楽しい」とツイートしている。
作詞は、宇多田が楽曲制作において最後に取りかかる作業である。歌詞集「宇多田ヒカルの言葉」(2017)の序文では、「『誰か』の気持ちを描くことで、自分の意識下にあった気持ちに触れる」ことが宇多田にとっての作詞だと綴っている。そこではまた、それまでの自身の歌詞を次のように3期に分けている。
自身の考える日本語表現については、萩原朔太郎の『詩の原理』で語り尽くされているという。また宇多田は、2018年の小袋成彬と酒井一途との座談会で、デビュー曲「Automatic」に関して「言葉の途中の一瞬に間が空くことへの評論があって、『?? だって音楽じゃん? 言葉?』ってなった。」と語っている。「言葉に対して、ここが良い切れ目とか、ここが切っちゃいけないとかが自分にない」という。「音楽が第一言語」とも語っており、作詞は「音楽を日本語に翻訳する」ような作業だという。また宇多田は、2008年の雑誌のインタビューで「悪いポップはコビだけど、いいポップは思いやり」だと述べているほか、別の場所では「"媚び"は音楽自体の終焉を招く」と、自らの音楽に対する姿勢を表明している。
HMVは、2003年の「Top 100 Japanese pops Artists」で第24位に、2005年の「日本のシンガーTOP30」で第10位に宇多田ヒカルを選出している。2022年に行われた、タレントパワーランキング「女性歌手の人気ランキング」では、第1位に選ばれている。
宇多田のデビューは日本中に大きな衝撃を与えた。音楽プロデューサーの小室哲哉は、宇多田について、デビュー曲『Automatic』の衝撃や宇多田の"自由さ"を指摘しており、"自らの引退を考えさせたアーティスト"と評している。また、「宇多田ヒカルをきっかけに、プロデューサーやレコード会社の人の言葉に耳を傾けつつという、音楽業界の暗黙の了解みたいなものがなくなった。」とも指摘している。音楽ジャーナリストの宇野維正もまた、宇多田の登場によってそれまでレコード会社や大手プロダクションが握っていた日本の音楽シーンをアーティスト自身が手にする時代が来たと語る。また、宇多田がデビュー当初にすでに"音楽家としての権利"を保持していたことを指摘し、これは「世界中を見渡しても異例の契約条件」と語った。同じく音楽ジャーナリストの柴那典は、宇多田の歌はデビュー以来、徹底して「個」の表現であり続けてきたとし、多数の『アムラー』を生み出した安室奈美恵や『女子高生のカリスマ』として同年にデビューした浜崎あゆみのように女性たちの憧れの対象としてのアイコンにはならず、どれだけ沢山のCDが売れようと、聴き手は『一対一』の親密でパーソナルな関係の中で宇多田の歌を受け取ってきたのだと指摘。柴はさらに、「そういうタイプのアーティストが登場し、そのデビュー作が最も大きなヒットとなったことが、後に続く時代の変化の一つのうねりのようなものにつながったのではないか」と考えている。ロッキング・オン・グループの代表取締役社長で音楽評論家の渋谷陽一は、宇多田ヒカルの登場によって、「日本人の持つポップミュージックのDNAが変わった。」とコメント。また、宇多田の「革命性と大衆性の両立」を指摘してその衝撃を語った。ミュージシャンで音楽評論家の近田春夫は、宇多田のデビュー後のJ-POPを「宇多田ヒカルというB-29による空爆後の焼野原」と表現。宇多田の登場によって日本の音楽シーンが一変したと語った。写真家の藤原新也は五木寛之との対談で、当時の"宇多田ブーム"について、「マーケティングによって成り立った乾いた小室産業から宇多田的な個的な情感に時代がシフトした」と分析した。吉本隆明は自著「現代日本の詩歌」(2003)で宇多田のデビュー曲「Automatic」を取り上げ、「口語でできた、すぐれた歌詞で、純粋詩人の作品」「きわめて個性的に女の子の気持ちを歌っている」と評価した。
宇多田のデビュー当時、しばしば宇多田の歌詞における"字切り"の特徴が指摘されていた。トレモロイドの小林侑太は、「Automatic」に代表される宇多田の楽曲が、リズムのアクセントと音自体の発音の強弱の一致によって"心地よいグルーブ感"を生んでいると指摘。「細かな発音の強弱や譜割りに対する鋭敏な感覚を持っていれば歌でグルーヴを表現できる」という感覚が宇多田の登場によって当時の日本の音楽シーンに持ち込まれたとも考察している。作曲家の筒美京平は、宇多田の楽曲に関して「コード進行の上にのせるメロディーの作り方が新しい」と評価。またそのメロディーも"和のテイスト"を感じさせるとコメントした。ミュージシャン/音楽プロデューサーの玉井健二は、また『traveling』などの楽曲を挙げ、コンポーズの素晴らしさを指摘。「日本語が乗る前提の主旋律に日本語じゃないグルーブを的確に融合させられている」点などを高く評価している。
また、アーティストとしての宇多田にも様々な指摘、評価がなされてきた。上述の渋谷陽一は、宇多田について、「その存在と才能の巨大さのためか、どこか透明な印象がある」と言う。また、「すべてのエモーションのベースに悲しみがある」とも評している。宇野維正は、宇多田のこれまでのライブ活動の少なさから、「人気ポップアーティストとしては、世界的にも稀な『スタジオの音楽家』」と指摘。また宇多田の編曲家としての側面にも注目し、"All Songs Written and Arranged by Utada Hikaru" という「日本の他の女性アーティストの作品ではまず目にすることがない」クレジットが、宇多田の音楽家としての本質を表わしていると語った。ジャズミュージシャンで宇多田の楽曲のプロデュースを手掛けたこともある菊池成孔は、2006年のネット記事の連載にて宇多田に関して次のように指摘する。
「〈日本に帰化した、日本人以上に日本人である外国人選手〉という、本来ならば日本人では着任不可能な任務を遂行しているという意味で、完全なオリジナルである。」
そして、宇多田のライブに集まる観客が圧倒的に〈日本人の集団〉であるとし、そこに「無意識や無作為が国民性を掴んだ強さ」を見出している。いきものがかりのリーダー・水野良樹は、宇多田の作品には「宇多田さんの持つ強烈な"個"の匂いがたちこめている」と指摘。また、こういった性格の作品が「とてつもなく多くの人々に、熱狂の中で、すんなりと受け入れられていく」ことに驚きを示している。糸井重里は宇多田の歌詞、言葉に注目し、宇多田が「『だれよりも、われ』であるがゆえに『だれよりも、それぞれ』に変態していける」と評価した。ミュージシャンの井上陽水は、宇多田が特殊な環境で生まれ育ってるゆえにアウトサイダー(外部の人、部外者)のような雰囲気を感じさせるとコメント。楽曲に関しては「もう1回聴くとどういう発見があるんだろうと思わせるような数少ないアーティストの1人」と評価した。また、陽水は宇多田が多くの日本人をひきつけている要因として、宇多田の声に代表される"切なさ"を挙げている。宇多田の声質については、松任谷由実や平井堅も"フラジャイル(か弱い、壊れやすい)"な歌声が聴く人をひきつけると評している。映画監督の河瀨直美は、宇多田の歌詞集に寄稿した際、宇多田の創作のあり方について、「自らの声に力があることを本能的に知っていて、その力にはどんな言葉を用いればより人々にその想いが届くのか...を客観的に見つめている」と評価している。桑田佳祐は自身のラジオ番組で、宇多田の復帰作『Fantome』を「革命的なものをお作りになった」と絶賛。「平成の『ジョンの魂』、次元が違う、ほとんどビョーキ、もう私はレコーディングも年越しライブもやめます!」と冗談交じりに語った。シンガーソングライターの小田和正は同じく宇多田の歌詞集への寄稿で、宇多田の復帰作『真夏の通り雨』の一節"降り止まぬ 真夏の通り雨"に衝撃を受けたといい、復帰後の宇多田について「あの頃のみずみずしさを失うことなく、感性は圧倒的にその深みを増した。」と評価した。宇多田は活動休止中の2013年に、当時InterFMの執行役員だったピーター・バラカンの提案でラジオ番組のパーソナリティを1年間務めていた。バラカンは、その提案の理由について「ああ、この人(宇多田)ラジオの喋り手として面白いな」と感じていたといい、「単純に言えば月並みではないということ」「他の人があまり注目していない音楽を独自のアンテナで捉えて紹介してくれる。あるいは有名な曲だとしてもその取り上げ方や紹介の仕方にもセンスのある人。」と、音楽の聴き手としての宇多田を評価した。
『日本ゴールドディスク大賞』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を2度、『CDショップ大賞』などを受賞している。 | [
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"text": "宇多田 ヒカル(うただ ヒカル、1983年〈昭和58年〉1月19日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。本名:宇多田 光(読み同じ)。愛称はヒッキー。音楽プロデューサーの父・宇多田照實と歌手の母・藤圭子の下、アメリカ合衆国ニューヨークで生まれた。所属芸能事務所はU3MUSIC。所属レーベルはエピックレコードジャパン。ロンドン在住。",
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"text": "1998年末に15歳でCDデビューし、デビューシングル「Automatic/time will tell」は、ダブルミリオンの大ヒットを記録。1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え(オリコン調べ)、日本国内の歴代アルバムセールス1位になっているほか、2ndアルバム『Distance』では初週売上枚数が歴代1位となる300万枚(オリコン調べ)を記録している。2007年発表の「Flavor Of Life」は当時のデジタル・シングルのセールスにおいて世界1位を記録した。また、『日本ゴールドディスク大賞』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を、2000年と2003年に受賞している。",
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"text": "2010年に「人間活動」として翌年以降の音楽活動休止を発表。結婚・出産を経て、2016年に活動を再開し、復帰作『Fantome』はその年の『Billboard JAPAN年間総合アルバムチャート』で1位を獲得したほか、『第9回CDショップ大賞』で「大賞」を、『第58回日本レコード大賞』で「最優秀アルバム賞」を受賞した。また、2018年に発売した7thアルバム『初恋』とその他の成果により、第69回芸術選奨で大衆芸能部門にて「新人賞」を受賞している。",
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"text": "2018年現在までに、『First Love』『Distance』『DEEP RIVER』『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』『Fantome』の5作品がオリコンまたはBillboard Japanの年間アルバムチャートで1位になっている。",
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"text": "1983年1月19日に、アメリカ合衆国ニューヨークに生まれた。親の仕事の関係で、小さい頃から東京とニューヨークを頻繁に行き来していたという。家族の生活は音楽を中心に回っていたといい、宇多田は小学校低学年の頃からスタジオで宿題をしたりご飯を食べたりソファーで寝たりしていた。その中で、「光、ここちょっと歌ってくれない?」と頼まれ、親の楽曲で歌ったりすることもあった。",
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"text": "1990年に藤圭子(RA U)、宇多田照實(SKING U)、宇多田ヒカル(HIKASO U)の家族3人ユニット「U」を結成。1993年9月17日に当時10歳の宇多田ヒカルもボーカルとして参加し、ニューセンチュリーレコードの前身であるセンチュリーレコードからUとしてロック曲を収録したスタジオ・アルバム『STAR』を発売して日本デビューしている。またこの頃、「自分で作ってみたら」と言われて「I'll Be Stronger」という楽曲で初めて作詞作曲した(英語詞)。",
"title": "来歴"
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"text": "1995年になると宇多田ヒカルが母親の代わりにメインボーカルとなり、「cubic U」名義としてインディーズのレコードレーベルから作品をヨーロッパやアメリカ合衆国で発売し、翌年にかけて合計3枚のレコードと1枚のマキシシングルを発表。日本では1996年9月26日には日本クラウンから藤圭子 with cubic Uとしてシングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を発売。1997年1月、アメリカで「Cubic U」としてシングル「Close To You」(「遙かなる影」のカバー)、次いでアルバム『Precious』を発売。",
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"text": "同年秋、東京のスタジオでレコーディングしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目に留まり、「日本語でやってみない?」という誘いにより日本デビューが決まった。なお、Cubic Uの日本盤として1998年1月16日にシングル、1月28日にアルバムを発売しているほか、NHK-BS2の『新・真夜中の王国』でテレビ初出演している。",
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"text": "1998年10月、FMラジオレギュラー番組『Hikki's Sweet&Sour』と『WARNING HIKKI ATTACK!!』が放送開始(いずれも1999年3月放送終了)。",
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"text": "12月9日、「宇多田ヒカル」として1stシングル「Automatic/time will tell」発売。当時は(J-POPにおいて)8cmシングルから12cmシングルへと移行し始めた過渡期にあったため、8cm盤と12cm盤の2形態で発売した。また、当時のオリコンチャートも8cm盤と12cm盤を個別に集計していたため、12cm盤が12位、8cm盤が20位であった。ところが、ラジオ放送局へのプロモーションが功を奏して日本国内各地のFMラジオ局がヘヴィー・ローテーションしたことや外資系CDショップがプッシュしたこと、作詞作曲を手掛ける15歳の帰国子女が藤圭子の娘であることがマスメディアに大々的に取り上げられたことなどによって瞬く間に人気を得て、社会現象と化した。1stシングルは1999年2月8日付のオリコンチャートで売上枚数100万枚を突破してミリオンセラーとなった。その後、8cm盤・12cm盤を合わせた売上枚数は200万枚を突破した。1999年2月17日に2ndシングル「Movin' on without you」を発売し、3月1日付オリコンチャートにおいて12cm盤が初の1位となった。",
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"text": "1999年3月10日、1stアルバム『First Love』を発売。初週売上枚数は200万枚を突破し、その後も数十万単位で売れ続けて日本国内の歴代アルバムチャート1位となる。売上枚数は日本国内のみでおよそ765万枚、日本国外も含めるとおよそ990万枚と言われている。4月28日にはアルバムからタイトル曲「First Love」をリカットした。",
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"text": "新人ながらこのような爆発的なヒットを達成した背景として、当時流行していた「だんご3兄弟」の影響で普段レコード店に足を運ばない層が多数CDを買い求めたとも理由の一つと報じられている。",
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"text": "ここまで本人のメディア出演は学業と両立させていくためラジオや雑誌に限られていたが、6月18日の『ミュージックステーション』を皮切りに『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』、『SMAP×SMAP』などのテレビ番組に出演し、いずれも番組最高視聴率を記録した。11月10日にジャム&ルイス(Jam & Lewis)プロデュースによる4thシングル「Addicted To You」を発売。オリコンシングルチャートの初週売上枚数106.8万枚は当時歴代2位の記録であった。",
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"text": "2000年、NHK放送文化研究所が実施した「好きなタレント調査」において調査開始以来初のケースとなる圏外からの一気に1位(女性タレント部門)を獲得した。『第72回選抜高等学校野球大会』入場行進曲に「First Love」が使用された。5月に発表された1999年度の高額納税者において納税額2億6564万円で全国89位、芸能人では1位となった。本業の収入で全国100位以内に登場した10代は、史上初である。5thシングル「Wait & See 〜リスク〜」、6thシングル「For You/タイム・リミット」を発表(「タイム・リミット」はTAKURO(GLAY)との共作)。7月から8月にかけて初の全国ツアー『BOHEMIAN SUMMER 〜宇多田ヒカル Circuit Live 2000〜』を開催。9月にはコロンビア大学へ入学した。",
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"text": "2001年、7thシングル「Can You Keep A Secret?」を発表し、主題歌となったドラマ『HERO』にカメオ出演した。3月28日に発売した2ndアルバム『Distance』は浜崎あゆみのベスト・アルバム『A BEST』と同日発売であったことから大きな話題を呼んだ。初週売上枚数はオリコンアルバムチャート歴代1位となる300万枚を記録した。7月25日にはアルバム『Distance』の表題曲をアレンジした8thシングル「FINAL DISTANCE」を発売。映画『ラッシュアワー2』(Rush Hour 2)サウンドトラックに「Hikaru Utada feat. Foxy Brown」名義で「Blow My Whistle」を提供。MTVジャパン初制作となる『MTVアンプラグド』に出演した。TezukaOsamu@Cinemaで配信されたインターネットアニメ『ブラック・ジャック』においてピノコ役に起用された。アメリカのニュース雑誌『TIME』アメリカ版の2001年9月15日特別増刊号「Music Goes Global」でU2のボノ(Bono)、ビョーク(Björk)らとともに表紙を飾り、アジア版12月17日号では単独で表紙を飾った。11月28日には9thシングル「traveling」とライヴDVD『Utada Hikaru Unplugged』を同時発売した。",
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"text": "2002年1月31日、『世界経済フォーラム』のオープニングセレモニーでクインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)とフィル・ラモーン(Phil Ramone)指揮のもとライヴパフォーマンスを披露し、2月18日には総理大臣官邸で開かれたジョージ・W・ブッシュ(George Walker Bush) 大統領(当時)来日を歓迎するレセプションに招待された。また、アメリカのレコードレーベルであるアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループ(The Island Def Jam Music Group)と専属契約を結んだことを発表、同時に2001年からコロンビア大学を休学していることが明かされた。3月20日に10thシングル「光」を発売。",
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"text": "11thシングル「SAKURAドロップス/Letters」発売直前にシングルと3rdアルバムのプロモーション活動中止を発表。理由は4月に行った卵巣腫瘍(良性)摘出手術後の治療による副作用が予想以上にあったことである。なお、シングル及びアルバム『DEEP RIVER』は予定通り発売した。アルバムは初週売上枚数235万枚(プラネットは189万枚)を記録してトリプルミリオンを達成し、オリコン年間アルバムチャート1位を獲得した。9月6日にはミュージック・ビデオやディスクジャケットをともに製作してきた紀里谷和明との結婚を発表した。",
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"text": "自身20歳の誕生日となる2003年1月19日にライヴ・ストリーミング『20代はイケイケ!』を開催。トークとミニライヴが行われ、当日にはおよそ100万件のアクセスを記録し、DVD化した。1月29日には12thシングル「COLORS」を発売。3月26日発売の『くずアルバム』にはコーラスで参加した。3月29日発売のコズミック・デブリ(Cosmic Debris)による絵本『エミリー・ザ・ストレンジ』(Emily The Strange)では翻訳を担当している。",
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"text": "2004年、日本武道館5日間公演となるライヴ『Utada Hikaru in BudoKan 2004 「ヒカルの5」』を開催。3月24日に発売された尾崎豊のトリビュート・アルバム『\"BLUE\" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』では「I LOVE YOU」をカバーした。3月31日に『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』を発売、4月21日には映画『CASSHERN』主題歌となった13thシングル「誰かの願いが叶うころ」を発売して日本国内の活動に一区切りをつけた。",
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"text": "「Utada」として全米デビュー前に、アテネオリンピックのオフィシャル・アルバム『UNITY』に参加。「ティンバランド&カイリー・ディーン&UTADA」(TIMBALAND & KILEY DEAN & UTADA)として「By Your Side」を提供した。ティンバランドやジョン・セオドア(Jon Theodore、当時のマーズ・ヴォルタメンバー)がプロディース参加した全米デビュー・アルバム『エキソドス』(EXODUS)は9月8日に日本盤が先行発売し、オリコンチャート初登場1位を獲得してミリオンセラーにもなった。アメリカ盤は10月5日に発売した。",
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"text": "2005年、日本国内の活動再開となる14thシングル「Be My Last」を9月28日に発売し、15thシングル「Passion」を12月14日に発売した。また、ライヴとトークを期間限定でネット配信した。",
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"text": "2006年、16thシングル「Keep Tryin'」を発売。6月14日には4thアルバム『ULTRA BLUE』を発売し、7月から9月にかけて全国ツアー『UTADA UNITED 2006』を開催。期間限定のブログも開設した。『ULTRA BLUE』はオリコンチャート初登場1位を獲得、1stアルバムから5作連続で初動セールスが50万枚を突破した。また、台湾のJ-POPチャートでも初となるアルバム5作連続1位になっている。11月22日にはNHK『みんなのうた』10月〜11月のうたに使用された「ぼくはくま」をシングル発売し、pom ponetteとコラボレーションしたチャリティー企画『「ぼくはくま」オリジナルT-シャツコンテスト』を開催し、グランプリに輝いたTシャツを商品化。すべてのTシャツ収益は世界の子どもにワクチンを日本委員会に寄付された。",
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"text": "2007年、ドラマ『花より男子2(リターンズ)』イメージソングを収録した18thシングル「Flavor Of Life」を発売。オリコンチャートは3週連続1位となったほか、音楽配信では当時の邦楽新記録を樹立し、9月までには当時のデジタル・シングル世界一のセールスになった。一方、私生活では紀里谷和明との離婚を発表している。19thシングル「Beautiful World/Kiss & Cry」は映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』テーマソングと「This Is Love」に続き起用された日清食品カップヌードル「FREEDOM-PROJECT」CMソングを収録。また、ニーヨ(Ne-Yo)がUtadaをフィーチャーしたデジタル・シングル「ドゥ・ユー feat. Utada」が11月21日から配信開始。12月9日のデビュー記念日を迎えるにあたり、デビュー曲「Automatic」の着うたを4日間限定で無料配信し、50万ダウンロードを記録した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2008年2月20日には20thシングル「HEART STATION/Stay Gold」を発売、全国のFMラジオ局とのコラボレーション企画を行った。3月には無料ダウンロード企画第2弾となる「First Love」の着うたを4日間限定で無料配信し、前回を上回る70万ダウンロードを記録した。5thアルバム『HEART STATION』は3月19日に発売となり、6作連続となるオリコンアルバムチャート1位となり、ミリオンセラーになった。5月21日にはアルバムからドラマ『ラスト・フレンズ』主題歌の「Prisoner Of Love」をリカットした。10月20日からはドラマ『イノセント・ラヴ』主題歌になった2ndアルバム『Distance』収録の「Eternally」を新たにミキシングした「Eternally -Drama Mix-」の着うた・RBTを配信開始した(着うたフル・PC配信は10月31日から配信開始)。",
"title": "来歴"
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"text": "2009年、Utada名義でMyspaceにオフィシャル・ページを開設。スターゲイト(Stargate)がプロデュースし、トリッキー・スチュワート(Tricky Stewart)も参加したアルバム『ディス・イズ・ザ・ワン』(This Is The One)は3月14日に日本先行発売した。",
"title": "来歴"
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"tag": "p",
"text": "3月19日には初のオフィシャル・ブック『点 -ten-』『線 -sen-』を発売。これを記念して、かつてのFMレギュラー番組『宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン』がスペシャル番組として復活した。",
"title": "来歴"
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"tag": "p",
"text": "3月24日に全米配信した『ディス・イズ・ザ・ワン』(This Is The One)は日本人アーティストとしては最高位となる総合アルバム・チャート19位、POPアルバム・チャート2位を記録し、5月12日のCD発売後はBillboard 200において日本人アーティストとして23年ぶりにチャート100位以内にランクインした。ところが、アメリカでのプロモーション活動は扁桃周囲炎の再発により中止となる。",
"title": "来歴"
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"text": "6月27日には映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』公開に合わせて「Beautiful World」をリミックスした「Beautiful World -PLANiTb Acoustica Mix-」を配信開始した。2009年春には、Myspace主催によるUtadaカラオケ・コンテストを日米で開催。日米双方から優勝を選出し、都内で宇多田と優勝者によるカラオケ・パーティーが開催された。",
"title": "来歴"
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"text": "2010年1月から2月にかけては、初の北米ツアー『Utada \"In The Flesh\" 2010 Tour』を開催し、ロンドン公演含む全10公演を行った。",
"title": "来歴"
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"tag": "p",
"text": "2010年8月9日、来年以降のアーティスト活動を止めて「人間活動」に専念することを告げ、同時に秋から冬にかけてシングル・コレクションvol.2や新曲を発売することも発表した。9月28日にはTwitter公式アカウントを開設し(当初は期間限定の予定であった)、CM出演やライヴ開催を発表した。",
"title": "来歴"
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"text": "ところが、11月24日の『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』発売日にアイランド・デフ・ジャムがUtada名義のベスト・アルバム『Utada The Best』を発売することが発覚し、本人の意向とは異なるアルバム発売に不快感を露わにした。そのため、今後の日本国外の活動においてもEMI MUSICと契約し、アーティスト名を「宇多田ヒカル」に統一することを発表した。",
"title": "来歴"
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{
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"text": "12月8日・9日に横浜アリーナで開催したライブ『WILD LIFE』では、8日の公演を日本国内の映画館で生中継し、Ustreamで世界配信した。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "東日本大震災の被災者のために義援金を送り、自ら献血を行ったことを公表。2012年11月17日には映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』公開に合わせて、テーマソング「桜流し」を配信開始し、DVDシングルを12月26日に発売した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2013年4月からは月1回のラジオレギュラー番組『KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru』の放送がスタート(2014年3月終了)。2013年12月9日のデビュー日には『Utada/Utada Hikaru: In The Flesh 2010』と過去のライヴ作品をiTunesで配信開始。",
"title": "来歴"
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"text": "2014年3月10日は1stアルバム『First Love』発売から15年を記念した『15th Anniversary Edition』を製作、ハイレゾリューションオーディオも配信開始した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "人間活動中の2013年には母親(藤圭子)の死もあったが、翌2014年にイタリア人男性と再婚(2018年に離婚が判明)、2015年には第1子となる男児を出産した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2016年、NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』主題歌を担当することが決定。また、ニュース番組『NEWS ZERO』エンディングテーマも担当することを発表すると同時に、初披露となる4月4日からアーティスト活動を再開することを発表した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "「花束を君に」「真夏の通り雨」は4月15日に配信開始となった。「花束を君に」をリスナーにとって大切な人に贈ることを目的とした「ギフトキャンペーン」を開催し、売上の一部は熊本地震災害義援金に寄付された。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "9月28日には椎名林檎、小袋成彬、KOHHが参加したおよそ8年ぶりとなる6thアルバム『Fantôme』を発売した。『Fantôme』は各配信サイトにおいて日本を含む世界31か国(地域)でランクインし、CDセールスにおいてもオリコンチャート4週連続1位になった。10月に単独アーティスト初となる民放ラジオ101局による特別番組『サントリー天然水 presents 宇多田ヒカルのファントーム・アワー』がオンエアになった。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "12月9日のデビュー記念日には2003年の『20代はイケイケ!』以来となるネットイベント『サントリー天然水PRESENTS「30代はほどほど。」』を開催し、KOHHとPUNPEEがゲスト出演した。また、小田和正によるコラボレーション・ライヴ番組『クリスマスの約束』に初出演して「Automatic」などを披露したほか、『第67回NHK紅白歌合戦』にロンドンからの中継で初出場した。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2017年、THE BACK HORNとの共同プロデュースとなったシングル曲「あなたが待ってる」に作詞、編曲、ピアノ、バックグラウンドボーカルで参加した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "2月9日にはソニー・ミュージックレーベルズ内のレーベルであるエピックレコードジャパンに移籍することをオフィシャルサイトで発表した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "7月には移籍後初となる新曲「大空で抱きしめて」と「Forevermore」を配信開始した。12月には「あなた」を配信開始したほか、初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を発売した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "2018年になると、アルバム『Fantôme』収録曲「ともだち」に参加した小袋成彬のメジャー・デビューとなるアルバム『分離派の夏』のプロデュースを手掛けたことを発表し、「Lonely One feat. 宇多田ヒカル」を先行ストリーミング配信した。",
"title": "来歴"
},
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "椎名林檎のトリビュート・アルバム『アダムとイヴの林檎』に宇多田ヒカル&小袋成彬として参加し、「丸ノ内サディスティック」をカバーした。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "6月27日には「大空で抱きしめて」「Forevermore」「あなた」のほか、「誓い」「Play A Love Song」「初恋」「Good night」のタイアップ曲を収録した7thアルバム『初恋』を発売した。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "アルバム発売にあわせて、かつてのFMレギュラー番組が一夜限りに復活して『宇多田ヒカルのTRÈS BIEN! BOHEMIAN! SPECIAL』として放送したほか、同年年末には、12年ぶりとなる全国ツアー『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』を開催した。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2019年1月には、世界的エレクトロミュージシャンSkrillexとのコラボ曲で、ゲームソフト『キングダム ハーツIII』に書き下ろした「Face My Fears」を11年ぶりにCDシングルとしてリリースした。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "また、11月にリリースされた椎名林檎のベストアルバム『ニュートンの林檎 〜初めてのベスト盤〜』に収録された楽曲「浪漫と算盤」で椎名林檎と3年ぶりの共演を果たしたほか、同月リリースの井上陽水のトリビュートアルバム『井上陽水トリビュート』では『少年時代 (井上陽水の曲)』をカバーした。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2020年に入ると、ドラマ『美食探偵 明智五郎』の主題歌として新曲「Time」を書き下ろし、「サントリー天然水」のTVCMには新曲「誰にも言わない」が採用された。新曲2曲がリリースされた5月には、自宅から1か月限定で毎週日曜日にインスタライブを行い、ファンからの様々な質問に答えたほか、中村倫也やTAKA、KOHHがゲストとして出演した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2021年には、アニメ映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のテーマソングに新曲「One Last Kiss」が起用され、また、これまでに宇多田が『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズに提供してきた関連楽曲全曲が収録されるEP『One Last Kiss』のリリースも決定した。さらに、4月にNHKEテレにて放送開始のアニメ「不滅のあなたへ」の主題歌に、新曲「PINK BLOOD」が起用されることも発表された。7月には新曲「Find Love」が、資生堂の世界ブランド・SHISEIDOによる新グローバルキャンペーン「POWER IS YOU」(パワー・イズ・ユー)のキャンペーンソングに決定、またキャンペーンのブランドムービーに女優のウルスラ・コルベロ(英語版)、プロサッカー選手のミーガン・ラピノーとともに出演した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2022年には、8枚目のオリジナルアルバム「BADモード」をリリース。1月19日に先行配信を開始し、2月23日にフィジカルCDを発売した。",
"title": "来歴"
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"tag": "p",
"text": "4月16日(現地時間)には、アメリカ最大級の野外音楽フェスティバル「Coachella Valley Music and Arts Festival」のメインステージに88risingの一員として出演し、計5曲を披露した",
"title": "来歴"
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{
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"text": "宇多田家の祖先は山口県にあり、父親が子どもの頃に家系図を見せられた際、由緒ある家の跡継ぎである事を説明されたという。郷土資料によると、山口県山口市徳地島地(旧佐波郡徳地町島地)に宇多田という大庄屋があり、広大な土地を所有していたとの記述が残っている。先祖には、寺内正毅第18代内閣総理大臣が居り、ヒカルは寺内正毅の曾姪孫にあたる。",
"title": "人物"
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"text": "本人のツイートによると、予定を3週間以上も過ぎた後もなかなか産まれなかったため、医師の判断で帝王切開したものの、ほぼ死産の状態だったとのこと。この時父親は医師から「残念ですが...」と告げられるも、懸命に名前を呼ぶと、徐々に血の気が入り蘇生したという。2020年10月、Twitter上で「アメリカの大統領選の在外投票の登録ギリギリ間に合った」と発言しており、日本とアメリカの二重国籍を維持していると思われる。",
"title": "人物"
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"text": "名前に関して、漢字表記ではなく片仮名の「ヒカル」と名乗った理由は、漢字だと何か堅い感じがするという意見がEMI社内で出たため。画数にこだわったのは、よい画数の名前であると言われていることによる。ちなみに元々の名前の由来は、母親(藤圭子)が網膜色素変性症のため、徐々に視力を失っていた時に授かった子であることから「我が子から光が失われないように」という願いを込め命名したと言われている。この他にも「いちご」や「めろん」、「すいか」が候補に挙がっていたという。ニックネームは「ヒッキー」(Hikki)。",
"title": "人物"
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"text": "身長に関しては、ある時に病院で正確に測ったところ、158.9cmであることが判明。今まで158cm(15歳当時の記録)であると公言してきたことから、2017年3月に出演したラジオ番組内で各所プロフィールの更新を求めた。2019年5月に過剰運動症候群と診断されたことを公表。本人は「病気とかじゃないよ!」と投稿している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2002年、19歳の時に紀里谷和明と結婚、2007年に離婚。2014年2月にイタリア人男性と再婚。2015年7月に第1子となる男児を出産したことを報告したが、2018年4月に離婚していたことが明らかになった(公式発表ではない)。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "2021年6月26日、自身がノンバイナリーであることをインスタライブにて公表している。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "2006年の23歳の誕生日に大きなテディベア(くまのぬいぐるみ)をプレゼントされ、以来大のくま好きであることを公言。ちなみにそのテディベアには「くまちゃん」という名前がついており(宇多田が自ら命名)、『ぼくはくま』のモデルになった。その後も、宇多田のSNSアカウントやミュージックビデオなど、様々なところに「くまちゃん」が登場している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "テトリスの腕前について広く知られており、2006年には任天堂のクラブニンテンドー会員限定イベント『宇多田ヒカルとテトリス対戦!!』が開催され、一般ユーザーや任天堂開発チームとテトリスDSの1対1対戦を行った。ちなみに、テトリスDSでカウンターストップとなる99999999点を達成している。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "自身のインスタグラムアカウントでは、度々地面に落ちている「落とし物」の写真をアップロードしている。2020年1月のマツコの知らない世界の正月SPに出演した際には、それらが「落とし物の世界」として紹介された。",
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"text": "宇多田は読書家でも知られており、自ら次のように語っている。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "「とにかく文学は永遠に私の情熱であるでしょう! 本は財産です。読んだ本は全部とっておく。服よりほんの占めるスペースが多い。」",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "2018年の雑誌のインタビューでは、物心がついた頃から「他者と、世界と繋がるための方法、手段」として読書を始めていたと語っており、それは小説に限らず、子供向けの絵本や、詩、短編など、様々だった。また、その「繋がっている」という感覚が、宇多田の作家としての原点だったという。2020年の文學界での又吉直樹との対談では、自身の子どものころについて、「自分にとって唯一自由で、自分であることが許された、安心していられる場所」「現実で自由にならないこと、耐えられないことから、いつでも逃げられる場所」が「本の世界」だったと明かした。2017年12月に全国の38書店で展開された「宇多田書店」では、以下の人物の作品を推薦書籍として選出している。開高健、宮沢賢治、中上健次、芥川龍之介、川端康成、森鴎外、夏目漱石、三島由紀夫、稲垣足穂、谷崎潤一郎、埴谷雄高、大岡昇平、遠藤周作、ヘルマン・ヘッセ、オスカー・ワイルド、アン・クラーク・アモール、シェル・シルヴァスタイン、エドガー・アラン・ポー、エリ・ヴィーゼル、F・スコット・フィッツジェラルド、ジョージ・オーウェル、ダニエル・キイス、司馬遼太郎、アンリ・ベルクソン、ロアルド・ダール、田村隆一、J・D・サリンジャー、有吉佐和子、家永三郎、ゲーテ、中西進、白州正子、エリザベート・バダンテール、中原中也など。また、1999年に当時16歳の宇多田は、講演で来日したダニエル・キイス(「アルジャーノンに花束を」などの著者、当時72歳)と文藝春秋で対談している。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "また、特に好きな作家には中上健次や宮沢賢治の名前を挙げており、中上健次の娘で作家の中上紀と対談した際には『異族』『紀州弁』(『鳥のように獣のように』所収)を好きな作品として挙げ、宇多田にとって初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を出版する際に行なった本人による選書企画『宇多田書店』において、中上の作品群から最多の9作品を選んでいる。",
"title": "人物"
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"tag": "p",
"text": "宇多田はまた大の漫画好きでもある。小説が漫画よりも「高尚なイメージ」があることについて、「くだらないものはくだらないし、いいものはいい」「くだらない小説読むんだったら良質の漫画の方がよっぽど有益」と、自身のブログで語っている。子供の頃は、漫画家を目指していて、漫画雑誌「りぼん」に投稿したこともあるという。2017年に開催された「宇多田書店」では、以下の作品を推薦書籍として選出した。「バガボンド」、「リアル」、「SLAM DUNK」、「HUNTER×HUNTER」、「レベルE」、「幽☆遊☆白書」、「うる星やつら」、「らんま1/2」、「キャッツ・アイ」、「シティーハンター」、「ベルサイユのばら」、「攻殻機動隊」、「バイオメガ」、「はじめの一歩」、「MONSTER」、「20世紀少年」、「ゴルゴ13」、「鬼平犯科帳」(さいとうたかを)、「ブラック・ジャック」、「七色いんこ」、「ブッダ」、「AKIRA」、「サーカス・ワンダー」、「鬼切丸伝」、「ピアノの森」、「北斗の拳」、「サラリーマン金太郎」、「ぼくの地球を守って」など。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 68,
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"text": "また宇多田は、2006年5月号の「Invitation」で、漫画家・浦沢直樹と対談している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "2010年に活動休止を発表したことについて、「(休養中の行動を『人間活動』と表現したのは)思っていることを長く書こうとしても伝わらないことが多くて、短い言葉を使おうと思った。」「自分の力で生きたい。色々と知らないことがあるまま生活しているので、1人でも生きられるようになりたい。」「得意なことばっかりやっても成長がないと思って。もし私と同じく、自分の中の苦手なこと、避けようとしている部分に向き合っていきたいと考えている人がいるなら、一緒に頑張りましょう!」と発言しているほか、「有名人(見られる側)になってからの十数年、どんどん自分が見えなくなっていってた。全然自分のこと理解できてなかったし周りの人たちのことも「知ろう」としてなかった。苦しい、さびしい生き方をしてました。まだ若いうちに気付けてよかったです。みんなに感謝」とツイートしている。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "作詞・作曲・編曲を手掛け、自らプログラミングも行っている(2018年現在もApple Logic Pro Xを使用)。絶対音感を持っていると噂されたことがあるが、本人がこれを否定している。曲作りに関しては曲先であり、「桜流し」配信開始時には「基本、コード→メロディー→歌詞という流れ。アレンジャーも私です。」とツイートしている。母親の藤圭子は、ヒカルが演歌の陰鬱や悲しさに影響されないように心掛けていたとしている。",
"title": "音楽性"
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"tag": "p",
"text": "デビュー当初から宇多田ヒカルを担当している三宅彰は、デビュー10周年の際に受けたインタビューで宇多田の変化についてコメントしており、『First Love』から『ULTRA BLUE』までのアルバム4枚は誰に向けて書いたのか具体的に見える曲が多かったが、『HEART STATION』は顔の見えない不特定多数に向いていると述べている。さらに、「10代は内面に向かいがちだったのが、20代半ばになり社会と自分というものを結びつけることができるようになったのかなと思う」とも評している。",
"title": "音楽性"
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"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "デビューアルバム『First Love』と続く『Distance』の楽曲はR&B色が強く、「Addicted To You」や「Wait & See ~リスク~」では、ジャム&ルイスがプロデューサーとして迎えられた。自らも編曲に参加するようになった3rdアルバム『DEEP RIVER』では、R&Bの域を越え、ロックやダンスなどのジャンルを包含した普遍的なポップスとなり、またジャケット写真や遠藤周作の小説にインスパイアされたタイトルからも窺える、暗く内省的な世界観を打ち出すようになった。自身が完全に音作りをするようになったUtada名義でのアルバム『Exodus』は、R&Bからオルタナティブ、ポップ、ダンス、エレクトロニカなどをミックスした、今まで以上にジャンルレスな作風となっており、また内数曲では、ヒップホップ/R&Bシーンに革新的なビート旋風を巻き起こしたティンバランドなどがプロデューサーに迎えられた。『ULTRA BLUE』になると、ほぼ全曲の作詞作曲編曲、プログラミングまでを自らが行うようになり、次作『HEART STATION』にかけて打ち込み主体の楽曲が多くなった。『ULTRA BLUE』では内省的で私小説のような趣をみせ、メロディも主旋律が強めで高音を多用した独創的なものとなる。そして、同作や『Exodus』での技巧的・実験的な作風への反動で、『HEART STATION』と続く『This is The One』では、比較的ポップな楽曲が多くを占めるようになった。『HEART STATION』では、ヒップホップとハウスを練り込んだようなビートの上に優しいメロディがのった、しっとりとした洋楽ポップスのようなモードへ入る。Utada名義の2ndアルバム『This is The One』では、トラックメイカーにスターゲイトやトリッキー・スチュワートを迎え、前作『Exodus』とは一転し、USのメインストリームを意識したR&Bにシフトチェンジした。",
"title": "音楽性"
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "母・藤圭子の死、結婚、初の出産を経て、2016年にリリースした復帰作『Fantome』は、宇多田が母の死と向き合ったもので、「日本語で歌うこと」をテーマに制作され、プライベートな喪失の痛みを普遍的なポップソングに昇華している点などが評価された。音楽的には、『Fantome』と次作『初恋』ともに、打ち込み主体の活動休止以前とうってかわって、ほぼ全曲が生バンドによるプロダクションとなり、エンジニアにはグラミー賞受賞経験のあるスティーヴ・フィッツモーリスを起用した。両作とも「日本語のポップス」であることを貫きながらも、世界的なポップスのトレンドである緻密にしてシンプルなアレンジを基礎構造にもつ仕上がりとなっている。『初恋』では、現代ジャズシーン最高峰ドラマーの呼び声高いクリス・デイヴを起用しており、また私小説的な歌詞や、リズム・譜割りに対する新たなアプローチが評価されている。",
"title": "音楽性"
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"text": "2013年放送の自身のラジオでは、「トータルでいうとソングライターとしてとか、歌手としてとか,アーティストとして生きてる人たちの中で一番憧れるアーティスト」としてPJ ハーヴェイを挙げている。 世界一好きな歌手は、ディス・モータル・コイルのエリザベス・フレイザー。 「他のアーティストと一日入れ替われるんだったらPJ ハーヴェイかトム・ヨークになってみたい」とも語っている。 フレディ・マーキュリー、コクトー・ツインズ、ナイン・インチ・ネイルズ、ジミ・ヘンドリックス、プリンス、エディット・ピアフ、チック・コリア、ブルー・ナイル、ビョーク、 レニー・クラヴィッツ、バルトーク・ベーラ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ジェフ・バックリー、井上陽水、尾崎豊、美空ひばり、THE BACK HORN、フランク・オーシャン、庄司紗矢香、カサンドラ・ウィルソンなどをお気に入りのアーティストとして挙げており、アリーヤやメアリー・J. ブライジなどのR&Bアーティストからも影響を受けたという。子供の頃、母から「ヒカルの声はすばらしいわ。もう、何かもうシャーデーみたいに」と言われたこと以来シャーデーの大ファンでもある。",
"title": "音楽性"
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"text": "宇多田は井上陽水の書く詩と自身の書く詩がとても似ていると公言しており、井上陽水から受けた音楽的な影響の大きさについても度々発言している。",
"title": "音楽性"
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"text": "また、これまでの宇多田の作品には文学作品に影響されたものが多くある。3rdアルバム『DEEP RIVER』(2002)ならびにその収録曲「Deep River」のタイトルは、遠藤周作の小説「深い河」にインスピレーションを得ている。2004年の世界進出時のアルバム『EXODUS』の収録曲「Kremlin Dusk」には、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーの物語詩「大鴉」からの引用が幾つか見られる。5thアルバム『HEART STATION』の収録曲「テイク5」の歌詞は、本人がインタビューで「宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」みたいにしたかった。」と語っている。また同作品については、2018年に出演したNHKの「SONGS」にてその一節を引用し、「幸せ」についての自論を語った。2008年にはブログで「唯識三十頌」の写経をしていることを綴った。三島由紀夫の遺作「豊饒の海」で知って以来の写経のお気に入りだという。なお宇多田は、2005年に三島の同作の第一部を映画化した「春の雪」の主題歌に「Be My Last」を書き下ろしていた。6thアルバム『Fantome』の収録曲「荒野の狼」の曲名は、ヘルマン・ヘッセの同名の小説からとったという。2018年に開催された12年ぶりの全国ツアー「Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018」の題名は、ロシアの詩人・ナボコフの長編小説「カメラ・オブスクーラ」の英題から引用されている。また、その年に自身が出演したNHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」では、楽曲「夕凪」の制作中に同じくナボコフの小説「青白い炎」に出てくる詩を読みながら涙するシーンが映る。2019年12月に発売された「文學界1月号」では、作家で芸人の又吉直樹と「創作」をテーマに対談した。なお、宇多田と又吉はそれまでにもSONGSや宇多田のツアーで共演していた。2020年に自身が出演したサントリー天然水のTVCMでは、自身が選んだというイギリスの詩人・ワーズワースの詩の一節(国木田独歩訳)を朗読している。",
"title": "音楽性"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "MacBook Pro(15-inch, 2017)とLogic Pro Xを使って曲作りを行なっている。マイクロフォンはNEUMANN TLM 67、NEUMANN TLM 102、オーディオインターフェースはRME Babyface Pro、MIDIキーボードはM-AUDIO Keystation 61es、モニターヘッドフォンはSONY MDR-7506、マイクスタンドはQuiklok、スタジオモニターはFocal CMS50、スピーカースタンドはIsoAcousticsを使用している。なお、以前住んでいたアパートでは壊れた機材はトイレに積んでいたという。",
"title": "音楽性"
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"text": "10歳で作詞作曲を始めているが、編曲に関して当初は外部に任せていた。アルバム制作を重ねるにつれ、アレンジからプログラミングに至るまで、すべての音を統括するようになった。まず2ndアルバム『Distance』収録の「DISTANCE」およびそれをアレンジした8thシングル「FINAL DISTANCE」から編曲においても大きく関わるようになり、2004年の13thシングル「誰かの願いが叶うころ」以降は、ほぼすべての楽曲の編曲を単独で行うようになる。宇多田の楽曲においては、バックコーラスの声も多重録音によりすべて本人が歌っている。歌詞のインスピレーションは毎日の生活から得る。日本では抽象的なことを歌詞にする書き手が多いが、宇多田自身はヴィジュアルコンセプトから入るので映画のシナリオを書くように言葉にした情景はすべて映像として見ることが出来ると語っている。作曲では、まずパソコンソフトやシンセサイザーなどで流したサウンドに合わせてコードを付け、それにメロディをのせる。歌詞を作るのはそれらの作業が終わった後。",
"title": "音楽性"
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"text": "音楽活動再開以降は、自らの住んでいるロンドンで一連の楽曲制作が行われている。とりわけ活動休止前は、常に単独で制作しており、他のアーティストとのコラボレーションも少なかったことから、周りからは「密室系アーティスト」と呼ばれていたというが、復帰後は他アーティストとの共演も増え、サウンド面においても主に生楽器が用いられるようになった。アルバム『Fantome』『初恋』のレコーディング、ミックスを担当したスティーブ・フィッツモーリスによると、宇多田のいないところでレコーディングが行われることはないといい、その点が他アーティストとの違う点だと語った。またスティーブによれば、「僕はこれまで大勢の人の作品を手掛けてきたけど、中でも宇多田さんは最も断固とした態度の持ち主の一人」という。その中でも印象的なエピソードとして、レコーディングにてミュージシャンたちが宇多田の要望に「ちょっとこれできない、難しい」と言ったときに、宇多田が「それは、不可能なの? 難しいの?」(英語:“Is it impossible? Or is it difficult?”)と聞き返したことを挙げている。いきものがかりのリーダー・水野良樹は、2016年放送の関ジャム 完全燃SHOWにて、宇多田の「レコーディングのこだわり」を語り、「宇多田のレコーディングにやってきた日本有数のミュージシャンが、宇多田の指摘のスゴさに、落ち込んで帰っていく」という逸話を紹介した。",
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"text": "「メロディーは、誰かの心の原風景。 懐かしい場所からのメッセージ。",
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"text": "リズムは、死へ向かう生命の行進の音。",
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"text": "歌は祈り、願い、誓い。",
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"text": "音楽は、慈悲。」",
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"text": "自身のメロディに関して宇多田は、活動休止以前は「音楽の表面的な意味でのいいメロディを、こう行くとなんか気持ちいいなっていうメロディを、探って探ってつないでいた」という。一方、活動再開(アルバム『Fantome』)以降のメロディは、「マグマが湧いて出てくるみたいな、うねりのようなもの」「ゆっくり、べたべた、地を這う、蛇のようなもの」だと話した。また、そのようなメロディには「日本語がほんとに合う」としており、「沈んでいくタイプの心の残り方をする」とも語っている。また、宇多田はメロディ自体をリズムと捉えているといい、「私からしたら(メロディとは)リズムにピッチついてるみたいな感じ。」とも語るなど、楽曲におけるリズムに対するこだわりを話している。また、アルバム『HEART STATION』リリース時のインタビューでは「音楽のジャンルは、キックとスネアの音で決まる」と語っている。その他にも、子供は大人よりも「変拍子も癖のあるリズムの取り方も素直に受け入れることができて尚且つおもしろがる」ので、「子供と一緒に音楽を聴くのが楽しい」とツイートしている。",
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"text": "作詞は、宇多田が楽曲制作において最後に取りかかる作業である。歌詞集「宇多田ヒカルの言葉」(2017)の序文では、「『誰か』の気持ちを描くことで、自分の意識下にあった気持ちに触れる」ことが宇多田にとっての作詞だと綴っている。そこではまた、それまでの自身の歌詞を次のように3期に分けている。",
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"text": "自身の考える日本語表現については、萩原朔太郎の『詩の原理』で語り尽くされているという。また宇多田は、2018年の小袋成彬と酒井一途との座談会で、デビュー曲「Automatic」に関して「言葉の途中の一瞬に間が空くことへの評論があって、『?? だって音楽じゃん? 言葉?』ってなった。」と語っている。「言葉に対して、ここが良い切れ目とか、ここが切っちゃいけないとかが自分にない」という。「音楽が第一言語」とも語っており、作詞は「音楽を日本語に翻訳する」ような作業だという。また宇多田は、2008年の雑誌のインタビューで「悪いポップはコビだけど、いいポップは思いやり」だと述べているほか、別の場所では「\"媚び\"は音楽自体の終焉を招く」と、自らの音楽に対する姿勢を表明している。",
"title": "音楽性"
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"text": "HMVは、2003年の「Top 100 Japanese pops Artists」で第24位に、2005年の「日本のシンガーTOP30」で第10位に宇多田ヒカルを選出している。2022年に行われた、タレントパワーランキング「女性歌手の人気ランキング」では、第1位に選ばれている。",
"title": "評価"
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"text": "宇多田のデビューは日本中に大きな衝撃を与えた。音楽プロデューサーの小室哲哉は、宇多田について、デビュー曲『Automatic』の衝撃や宇多田の\"自由さ\"を指摘しており、\"自らの引退を考えさせたアーティスト\"と評している。また、「宇多田ヒカルをきっかけに、プロデューサーやレコード会社の人の言葉に耳を傾けつつという、音楽業界の暗黙の了解みたいなものがなくなった。」とも指摘している。音楽ジャーナリストの宇野維正もまた、宇多田の登場によってそれまでレコード会社や大手プロダクションが握っていた日本の音楽シーンをアーティスト自身が手にする時代が来たと語る。また、宇多田がデビュー当初にすでに\"音楽家としての権利\"を保持していたことを指摘し、これは「世界中を見渡しても異例の契約条件」と語った。同じく音楽ジャーナリストの柴那典は、宇多田の歌はデビュー以来、徹底して「個」の表現であり続けてきたとし、多数の『アムラー』を生み出した安室奈美恵や『女子高生のカリスマ』として同年にデビューした浜崎あゆみのように女性たちの憧れの対象としてのアイコンにはならず、どれだけ沢山のCDが売れようと、聴き手は『一対一』の親密でパーソナルな関係の中で宇多田の歌を受け取ってきたのだと指摘。柴はさらに、「そういうタイプのアーティストが登場し、そのデビュー作が最も大きなヒットとなったことが、後に続く時代の変化の一つのうねりのようなものにつながったのではないか」と考えている。ロッキング・オン・グループの代表取締役社長で音楽評論家の渋谷陽一は、宇多田ヒカルの登場によって、「日本人の持つポップミュージックのDNAが変わった。」とコメント。また、宇多田の「革命性と大衆性の両立」を指摘してその衝撃を語った。ミュージシャンで音楽評論家の近田春夫は、宇多田のデビュー後のJ-POPを「宇多田ヒカルというB-29による空爆後の焼野原」と表現。宇多田の登場によって日本の音楽シーンが一変したと語った。写真家の藤原新也は五木寛之との対談で、当時の\"宇多田ブーム\"について、「マーケティングによって成り立った乾いた小室産業から宇多田的な個的な情感に時代がシフトした」と分析した。吉本隆明は自著「現代日本の詩歌」(2003)で宇多田のデビュー曲「Automatic」を取り上げ、「口語でできた、すぐれた歌詞で、純粋詩人の作品」「きわめて個性的に女の子の気持ちを歌っている」と評価した。",
"title": "評価"
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"text": "宇多田のデビュー当時、しばしば宇多田の歌詞における\"字切り\"の特徴が指摘されていた。トレモロイドの小林侑太は、「Automatic」に代表される宇多田の楽曲が、リズムのアクセントと音自体の発音の強弱の一致によって\"心地よいグルーブ感\"を生んでいると指摘。「細かな発音の強弱や譜割りに対する鋭敏な感覚を持っていれば歌でグルーヴを表現できる」という感覚が宇多田の登場によって当時の日本の音楽シーンに持ち込まれたとも考察している。作曲家の筒美京平は、宇多田の楽曲に関して「コード進行の上にのせるメロディーの作り方が新しい」と評価。またそのメロディーも\"和のテイスト\"を感じさせるとコメントした。ミュージシャン/音楽プロデューサーの玉井健二は、また『traveling』などの楽曲を挙げ、コンポーズの素晴らしさを指摘。「日本語が乗る前提の主旋律に日本語じゃないグルーブを的確に融合させられている」点などを高く評価している。",
"title": "評価"
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"text": "また、アーティストとしての宇多田にも様々な指摘、評価がなされてきた。上述の渋谷陽一は、宇多田について、「その存在と才能の巨大さのためか、どこか透明な印象がある」と言う。また、「すべてのエモーションのベースに悲しみがある」とも評している。宇野維正は、宇多田のこれまでのライブ活動の少なさから、「人気ポップアーティストとしては、世界的にも稀な『スタジオの音楽家』」と指摘。また宇多田の編曲家としての側面にも注目し、\"All Songs Written and Arranged by Utada Hikaru\" という「日本の他の女性アーティストの作品ではまず目にすることがない」クレジットが、宇多田の音楽家としての本質を表わしていると語った。ジャズミュージシャンで宇多田の楽曲のプロデュースを手掛けたこともある菊池成孔は、2006年のネット記事の連載にて宇多田に関して次のように指摘する。",
"title": "評価"
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"text": "「〈日本に帰化した、日本人以上に日本人である外国人選手〉という、本来ならば日本人では着任不可能な任務を遂行しているという意味で、完全なオリジナルである。」",
"title": "評価"
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"tag": "p",
"text": "そして、宇多田のライブに集まる観客が圧倒的に〈日本人の集団〉であるとし、そこに「無意識や無作為が国民性を掴んだ強さ」を見出している。いきものがかりのリーダー・水野良樹は、宇多田の作品には「宇多田さんの持つ強烈な\"個\"の匂いがたちこめている」と指摘。また、こういった性格の作品が「とてつもなく多くの人々に、熱狂の中で、すんなりと受け入れられていく」ことに驚きを示している。糸井重里は宇多田の歌詞、言葉に注目し、宇多田が「『だれよりも、われ』であるがゆえに『だれよりも、それぞれ』に変態していける」と評価した。ミュージシャンの井上陽水は、宇多田が特殊な環境で生まれ育ってるゆえにアウトサイダー(外部の人、部外者)のような雰囲気を感じさせるとコメント。楽曲に関しては「もう1回聴くとどういう発見があるんだろうと思わせるような数少ないアーティストの1人」と評価した。また、陽水は宇多田が多くの日本人をひきつけている要因として、宇多田の声に代表される\"切なさ\"を挙げている。宇多田の声質については、松任谷由実や平井堅も\"フラジャイル(か弱い、壊れやすい)\"な歌声が聴く人をひきつけると評している。映画監督の河瀨直美は、宇多田の歌詞集に寄稿した際、宇多田の創作のあり方について、「自らの声に力があることを本能的に知っていて、その力にはどんな言葉を用いればより人々にその想いが届くのか...を客観的に見つめている」と評価している。桑田佳祐は自身のラジオ番組で、宇多田の復帰作『Fantome』を「革命的なものをお作りになった」と絶賛。「平成の『ジョンの魂』、次元が違う、ほとんどビョーキ、もう私はレコーディングも年越しライブもやめます!」と冗談交じりに語った。シンガーソングライターの小田和正は同じく宇多田の歌詞集への寄稿で、宇多田の復帰作『真夏の通り雨』の一節\"降り止まぬ 真夏の通り雨\"に衝撃を受けたといい、復帰後の宇多田について「あの頃のみずみずしさを失うことなく、感性は圧倒的にその深みを増した。」と評価した。宇多田は活動休止中の2013年に、当時InterFMの執行役員だったピーター・バラカンの提案でラジオ番組のパーソナリティを1年間務めていた。バラカンは、その提案の理由について「ああ、この人(宇多田)ラジオの喋り手として面白いな」と感じていたといい、「単純に言えば月並みではないということ」「他の人があまり注目していない音楽を独自のアンテナで捉えて紹介してくれる。あるいは有名な曲だとしてもその取り上げ方や紹介の仕方にもセンスのある人。」と、音楽の聴き手としての宇多田を評価した。",
"title": "評価"
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"text": "『日本ゴールドディスク大賞』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を2度、『CDショップ大賞』などを受賞している。",
"title": "受賞歴"
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] | 宇多田 ヒカルは、日本の歌手、シンガーソングライター、ミュージシャン、音楽プロデューサー。本名:宇多田 光(読み同じ)。愛称はヒッキー。音楽プロデューサーの父・宇多田照實と歌手の母・藤圭子の下、アメリカ合衆国ニューヨークで生まれた。所属芸能事務所はU3MUSIC。所属レーベルはエピックレコードジャパン。ロンドン在住。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox Musician
| 名前 = 宇多田 ヒカル
| 画像 = Utada Hikaru.jpg
| 画像サイズ = 280px<!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| 画像説明 = 『[[UTADA UNITED 2006]]』での宇多田ヒカル
| 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| 背景色 = singer
| 出生名 = 宇多田 光<ref name="一字">{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002757/ |title=一字 |date=2007-07-12 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-16}}</ref>
| 別名 = Hikaru Utada
| 学歴 = [[コロンビア大学]]中退<ref>{{Cite tweet|author=宇多田ヒカル|user=utadahikaru|number=671459174316965890|title=毎朝六時半起きの生活なんて大学中退して以来、15年ぶりだ。「親」業には週末も休日も体調不良による欠勤もないと自分が親になるまで気付かなんだ、、、かあちゃんになって初のおはようございくまぼんじゅーる|date=2015-12-01|accessdate=2022-07-02|language=ja}}</ref>
| 出生 = {{生年月日と年齢|1983|01|19}}
| 出身地 = {{USA}} [[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]
| 死没 =
| 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ピアノ]]|[[キーボード (楽器)|キーボード]]|[[ギター]]}}
| ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]<ref name="allmusic">{{AllMusic |first=David |last=Jeffries |title=Hilkaru Utada Biography, Songs, & Albums |class=artist |id=hikaru-utada-mn0000435885/biography |accessdate=2020-06-20 }}</ref><ref name="The World">{{cite web |last= Gingold |first= Naomi |date= 2016-04-15 |title= Utada Hikaru upended the Japanese music scene like no one before — or since |url= https://theworld.org/stories/2016-04-15/utada-hikaru-upended-japanese-music-scene-no-one-or |website= The World |publisher= PRX |accessdate= 2023-03-22 }}</ref>|[[コンテンポラリー・R&B|R&B]]<ref name="音楽CD検定公式ガイドブック">{{cite book |和書 |title= 音楽CD検定公式ガイドブック(下) |year= 2007 |location= 東京都千代田区 |publisher= [[音楽出版社 (企業)|音楽出版社]] |page= 99 |isbn= 978-4-861-71030-8 }}</ref><ref name="The World" /><ref>{{Cite web|和書|title=宇多田ヒカル楽曲の変遷 3つの音楽的ポイントから探る |url=https://realsound.jp/2018/11/post-283077.html |website=[[リアルサウンド]] |publisher=blueprint |date=2018-11-24 |accessdate=2020-06-20 }}</ref>|[[オルタナティヴ・ロック]]<ref name="allmusic" />|[[エレクトロニカ]]<ref name="音楽CD検定公式ガイドブック" />|[[ダンス・ポップ]]<ref name="allmusic" />}}
| 職業 = {{Hlist-comma|[[歌手]]|[[シンガーソングライター]]|[[編曲家]]|[[音楽プロデューサー]]}}
| 活動期間 = {{plainlist|
* 1998年 - 2010年
* 2016年 -
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| レーベル = {{plainlist|
* [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]→[[EMIミュージック・ジャパン]](1998年 - 2013年)
* [[ユニバーサルミュージック (日本)|EMI R]]→[[Virgin Music|Virgin Records]](2014年 - 2017年)
* [[エピックレコードジャパン]](2017年 - )
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| 事務所 = U3MUSIC
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{{Infobox YouTube personality
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'''宇多田 ヒカル'''(うただ ヒカル、[[1983年]]〈[[昭和]]58年〉[[1月19日]]<ref>{{Cite web |url=https://www.utadahikaru.jp/profile/index_j.htm|title=Profile|date=|work=Message From Hikki|accessdate=2017-03-29}}</ref> - )は、[[日本]]の[[歌手]]、[[シンガーソングライター]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[音楽プロデューサー]]。本名:宇多田 光(読み同じ)<ref name="一字" />。愛称はヒッキー。音楽プロデューサーの父・[[宇多田照實]]と歌手の母・[[藤圭子]]の下、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク]]で生まれた。所属芸能事務所はU3MUSIC。所属レーベルは[[エピックレコードジャパン]]。[[ロンドン]]在住<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/newszero/photos/pb.155460631192758.-2207520000.1477317109./1204131862992291/?type=3 |title=NEWS ZERO 公式Facebookページ |date=2016-10-20 |publisher=[[news zero|NEWS ZERO]] |accessdate=2017-04-06}}</ref>。
== 概要 ==
1998年末に15歳でCDデビューし、デビューシングル「[[Automatic/time will tell]]」は、ダブルミリオンの大ヒットを記録。1stアルバム『[[First Love (宇多田ヒカルのアルバム)|First Love]]』は累計売上枚数765万枚を超え([[オリコンチャート|オリコン]]調べ)、日本国内の歴代アルバムセールス1位になっているほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2034862/full/ |title=『First Love』発売から15年、宇多田ヒカルの色あせない輝き |date=2014-03-07 |work=ORICON STYLE |publisher=[[オリコン]] |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref name="oricon2016.9.22">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2078731/full/ |title=宇多田ヒカルが音楽業界に与えた衝撃 |date=2016-09-22 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-12-26}}</ref>、2ndアルバム『[[Distance (宇多田ヒカルのアルバム)|Distance]]』では初週売上枚数が歴代1位となる300万枚([[オリコン]]調べ)を記録している<ref name="oricon2016.9.22"/><ref name="oricon2010.11.30">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/82527/full/ |title=宇多田ヒカル、史上初の1stから7作連続アルバム首位 |date=2010-11-30 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-13}}</ref>。2007年発表の「[[Flavor Of Life]]」は当時のデジタル・シングルのセールスにおいて世界1位を記録した<ref name="barks2002.10.4">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000034667 |title=宇多田ヒカル、1,000万ダウンロード突破! |date=2007-10-04 |work=[[BARKS]] |accessdate=2016-07-13}}</ref>。また、『[[日本ゴールドディスク大賞]]』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を、[[2000年]]と[[2003年]]に受賞している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.golddisc.jp/award/14/ |title=第14回日本ゴールドディスク大賞 |year=2000 |publisher=[[日本レコード協会]] (RIAJ) |accessdate=2016-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.golddisc.jp/award/17/ |title=第17回日本ゴールドディスク大賞 |year=2003 |publisher=日本レコード協会 (RIAJ) |accessdate=2016-07-18}}</ref>。
2010年に「人間活動」として翌年以降の音楽活動休止を発表<ref group="注釈">当人曰く「[[引退]]宣言」でもなければ「休養」でも「充電期間」でも無いとしていた。</ref><ref name="MFH2010.8.9">{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2010/003237/ |title=久しぶりの大事なお知らせ |date=2010-08-09 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref name="SD2010.8.10">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000063300 |title=宇多田ヒカル、「“人間活動”に専念しようと思います」 |date=2010-08-10 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref>。結婚・出産を経て、2016年に活動を再開し<ref name="BARKS2016.3.10">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000125036 |title=おかえりなさい!宇多田ヒカル |date=2016-03-10 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref name="T-SITE NEWS 2016.4.4">{{Cite web|和書|url=https://tsutaya.tsite.jp/news/j-pop/i/28396188/?sc_int=tcore_entertainment_news_vingow-news |title=宇多田ヒカル、音楽活動再開!「とと姉ちゃん」OP、「NEWS ZERO」EDで新曲が続々聞ける! |date=2016-04-04 |work=T-SITE NEWS |accessdate=2016-07-16}}</ref>、復帰作『[[Fantome]]』はその年の『[[Billboard Japan Hot Albums|Billboard JAPAN年間総合アルバムチャート]]』で1位を獲得したほか<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.hmv.co.jp/newsdetail/article/1612071044/|title= Billboard JAPAN年間チャート発表 アルバムは宇多田ヒカル|date= 2016-12-08|work= HMV&BOOKS-online-|accessdate=2020-09-08}}</ref>、『[[CDショップ大賞|第9回CDショップ大賞]]』で「大賞」を、『[[第58回日本レコード大賞]]』で「最優秀アルバム賞」を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cdshop-kumiai.jp/?page_id=8196 |title=第9回CDショップ大賞2017 |publisher=全日本CDショップ店員組合 |accessdate=2017-03-13}}</ref><ref name="BARKS2016.11">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000135203 |title=『第58回輝く!日本レコード大賞』、各賞受賞者が発表に |date=2016-11-08 |work=[[BARKS]] |accessdate=2018-06-01}}</ref>。また、2018年に発売した7thアルバム『[[初恋 (宇多田ヒカルのアルバム)|初恋]]』とその他の成果により、[[芸術選奨|第69回芸術選奨]]で大衆芸能部門にて「[[芸術選奨新人賞|新人賞]]」を受賞している。
2018年現在までに、『First Love』『Distance』『[[DEEP RIVER]]』『[[Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1]]』『Fantome』の5作品がオリコンまたは[[Billboard Japan]]の年間アルバムチャートで1位になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/rank/ja/y/2004/ |title=年間 CDアルバムランキング |year=2004 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-19}}</ref>。
== 来歴 ==
=== 日本でのデビュー以前 ===
1983年1月19日に、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク]]に生まれた。親の仕事の関係で、小さい頃から[[東京]]と[[ニューヨーク]]を頻繁に行き来していたという。家族の生活は音楽を中心に回っていたといい、宇多田は小学校低学年の頃からスタジオで宿題をしたりご飯を食べたりソファーで寝たりしていた。その中で、「光、ここちょっと歌ってくれない?」と頼まれ、親の楽曲で歌ったりすることもあった<ref name="ten1" >{{Cite ||author = 宇多田ヒカル|title = 点 -ten-|date = 2009|publisher = U3MUSIC|page = 15|isbn = 978-4-930774-22-4}}</ref>。
1990年に[[藤圭子]](RA U)、[[宇多田照實]](SKING U)、宇多田ヒカル(H<sup>。</sup>IKASO U)<ref group="注釈">Hの右肩に半濁点(マル)で ”ピカソ” と発音。</ref>の家族3人ユニット「U<sup>3</sup>」を結成<ref name="Top 100 Japanese pops Artists">{{Cite web |url=https://www.hmv.co.jp/news/article/310200001/? |title=Top 100 Japanese pops Artists - No.24 |date=2003-11-07 |publisher=[[ローソンHMVエンタテイメント]] |accessdate=2016-07-15}}</ref>。1993年9月17日に当時10歳の宇多田ヒカルも[[ボーカル]]として参加し、[[ニューセンチュリーレコード]]の前身であるセンチュリーレコードからU<sup>3</sup>として[[ロック (音楽)|ロック]]曲を収録した[[スタジオ・アルバム]]『[[STAR (U3のアルバム)|STAR]]』を発売して日本デビューしている。またこの頃、「自分で作ってみたら」と言われて「I'll Be Stronger」という楽曲で初めて作詞作曲した(英語詞)<ref name="ten1" />。
1995年になると宇多田ヒカルが母親の代わりにメインボーカルとなり、「cubic U」名義として[[インディーズ]]の[[レコードレーベル]]から作品を[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国]]で発売し、翌年にかけて合計3枚の[[レコード]]と1枚の[[シングル|マキシシングル]]を発表<ref name="Top 100 Japanese pops Artists" />。日本では1996年9月26日には[[日本クラウン]]から藤圭子 with cubic Uとしてシングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を発売<ref name="Top 100 Japanese pops Artists" />。1997年1月、アメリカで「Cubic U」としてシングル「Close To You」(「[[遙かなる影]]」の[[カバー]])、次いでアルバム『[[Precious (Cubic Uのアルバム)|Precious]]』を発売<ref name="Top 100 Japanese pops Artists" />。
同年秋、東京のスタジオでレコーディングしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目に留まり、「日本語でやってみない?」という誘いにより日本デビューが決まった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/2002/001062/ |title="もうひとつの旅立ち"に贈る |date=2002-02-22 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-19}}</ref>。なお、Cubic Uの日本盤として1998年1月16日にシングル、1月28日にアルバムを発売しているほか<ref name="Top 100 Japanese pops Artists" />、[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]]の『[[真夜中の王国|新・真夜中の王国]]』でテレビ初出演している。
=== 1998年 - 2003年:日本でメジャーデビュー、『First Love』、『Distance』、『DEEP RIVER』 ===
1998年10月、FMラジオレギュラー番組『Hikki's Sweet&Sour』と『WARNING HIKKI ATTACK!!』が放送開始(いずれも1999年3月放送終了)。
12月9日、「宇多田ヒカル」として1stシングル「[[Automatic/time will tell]]」発売。当時は([[J-POP]]において)8cmシングルから12cmシングルへと移行し始めた過渡期にあったため、8cm盤と12cm盤の2形態で発売した<ref name="90s チョベリー (1/4)">{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1452568124761/ |title=音楽シーンを一変させた宇多田ヒカル デビュー当時の衝撃とは (1/4) |date=2016-01-15 |work=[[エキサイト]] |accessdate=2016-07-15}}</ref>。また、当時の[[オリコンチャート]]も8cm盤と12cm盤を個別に集計していたため、12cm盤が12位、8cm盤が20位であった<ref name="90s チョベリー (1/4)" />。ところが、[[ラジオ放送局]]へのプロモーションが功を奏して日本国内各地のFMラジオ局が[[ヘヴィー・ローテーション]]したことや外資系[[CDショップ]]がプッシュしたこと、作詞作曲を手掛ける15歳の[[帰国子女]]が[[藤圭子]]の娘であることが[[マスメディア]]に大々的に取り上げられたことなどによって瞬く間に人気を得て、[[社会現象]]と化した<ref name="90s チョベリー (2/4)">{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1452568124761/?p=2 |title=音楽シーンを一変させた宇多田ヒカル デビュー当時の衝撃とは (2/4) |date=2016-01-15 |work=エキサイト |accessdate=2016-07-15}}</ref><ref name="90s チョベリー (3/4)">{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1452568124761/?p=3 |title=音楽シーンを一変させた宇多田ヒカル デビュー当時の衝撃とは (3/4) |date=2016-01-15 |work=エキサイト |accessdate=2016-07-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/2014/03/first-love15.html |title=宇多田ヒカルの歴史的名盤はこうして生まれた 関係者が語る15年目の『First Love』 |date=2014-03-11 |work=Real Sound |accessdate=2016-07-15}}</ref>。1stシングルは1999年2月8日付のオリコンチャートで売上枚数100万枚を突破して[[ミリオンセラー]]となった<ref name="90s チョベリー (2/4)" />。その後、8cm盤・12cm盤を合わせた売上枚数は200万枚を突破した<ref name="90s チョベリー (3/4)" />。1999年2月17日に2ndシングル「[[Movin' on without you]]」を発売し、3月1日付オリコンチャートにおいて12cm盤が初の1位となった<ref name="90s チョベリー (2/4)" />。
1999年3月10日、1stアルバム『[[First Love (宇多田ヒカルのアルバム)|First Love]]』を発売。初週売上枚数は200万枚を突破し<ref name="90s チョベリー (2/4)" />、その後も数十万単位で売れ続けて日本国内の歴代アルバムチャート1位となる。売上枚数は日本国内のみでおよそ765万枚<ref name="90s チョベリー (3/4)" />、日本国外も含めるとおよそ990万枚と言われている<ref name="Musicman-NET 斉藤正明">{{Cite web|和書|url=https://www.musicman.co.jp/interview/19620 |title=4. モンスター=宇多田ヒカルの凄まじいセールス舞台裏 |date=2011-10-04 |work=Musicman-NET |publisher=エフ・ビー・コミュニケーションズ |accessdate=2021-08-28}}</ref>。4月28日にはアルバムからタイトル曲「[[First Love (宇多田ヒカルの曲)|First Love]]」を[[リカット]]した。
新人ながらこのような爆発的なヒットを達成した背景として、当時流行していた「[[だんご3兄弟]]」の影響で普段レコード店に足を運ばない層が多数CDを買い求めたとも理由の一つと報じられている<ref>[https://web.archive.org/web/20001008190527/http://www.zakzak.co.jp/geino/n_April99/nws3672.html 宇多田、“棚からダンゴ”で1000万枚!]、ZAKZAK、1999年4月28日。(インターネットアーカイブ)。</ref>。
ここまで本人のメディア出演は学業と両立させていくため[[ラジオ]]や[[雑誌]]に限られていたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/1999/001006/ |title=宇多田ヒカルのプロモーション現状及び今後についての東芝EMIの考え方 |date=1999-03-08 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/1999/002026/ |title=テレビの国 |date=1999-03-22 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-18}}</ref>、6月18日の『[[ミュージックステーション]]』を皮切りに『[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]]』、『[[SMAP×SMAP]]』などの[[テレビ番組]]に出演し、いずれも番組最高視聴率を記録した<ref group="注釈">『[[SMAP×SMAP]]』は当時の最高視聴率。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.fujitv.co.jp/HEY/rating2.html |title=RATING |work=[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]] |publisher=[[フジテレビジョン]] |accessdate=2016-09-16}}</ref>。11月10日に[[ジャム&ルイス]](''Jam & Lewis'')プロデュースによる4thシングル「[[Addicted To You]]」を発売。オリコンシングルチャートの初週売上枚数106.8万枚は当時歴代2位の記録であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/88249/full/ |title=AKB48新曲、“シングル史上最高”の初週売上133.4万枚 |date=2011-05-31 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-15}}</ref>。
2000年、[[NHK放送文化研究所]]が実施した「[[好きなタレント調査]]」において調査開始以来初のケースとなる圏外からの一気に1位(女性タレント部門)を獲得した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/enter/music/m0001/0112top3.html |title=宇多田一気に「好きなタレント」1位 |date=2000-01-12 |work=[[サンケイスポーツ]] |publisher=[[産経新聞社]] |accessdate=2016-07-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010304205501/http://www.sanspo.com/enter/music/m0001/0112top3.html |archivedate=2001年3月4日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。『[[第72回選抜高等学校野球大会]]』入場行進曲に「First Love」が使用された。5月に発表された1999年度の[[高額納税者公示制度|高額納税者]]において納税額2億6564万円で全国89位、芸能人では1位となった。本業の収入で全国100位以内に登場した10代は、史上初である<ref>[https://web.archive.org/web/20001203104200/http://www.chunichi.co.jp/geinou/2000/0517gn1.htm 宇多田ヒカル 100傑入り 芸能界史上初の最年少長者]、[[中日スポーツ]]、2000年5月17日。(インターネットアーカイブ)</ref>。5thシングル「[[Wait & See 〜リスク〜]]」、6thシングル「[[For You/タイム・リミット]]」を発表(「タイム・リミット」は[[TAKURO]](GLAY)との共作)。7月から8月にかけて初の全国ツアー『BOHEMIAN SUMMER 〜宇多田ヒカル Circuit Live 2000〜』を開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=52207495 |title=力強くて優しくて、エキサイティングなんだけど安心できる空間 |date=2000-08-24 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。9月には[[コロンビア大学]]へ入学した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2000/002267/ |title=セ〜ェ〜ラァふっくっをっ♪ |date=2000-09-06 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-15}}</ref>。
2001年、7thシングル「[[Can You Keep A Secret?]]」を発表し、主題歌となったドラマ『[[HERO (テレビドラマ)|HERO]]』に[[カメオ出演]]した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2001/002326/ |title=宇多田、女優デビュー?? |date=2001-03-02 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-15}}</ref>。3月28日に発売した2ndアルバム『[[Distance (宇多田ヒカルのアルバム)|Distance]]』は[[浜崎あゆみ]]のベスト・アルバム『[[A BEST]]』と同日発売であったことから大きな話題を呼んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/2001/001050/ |title=応援、声援ありがとうございます |date=2001-04-03 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-15}}</ref>。初週売上枚数はオリコンアルバムチャート歴代1位となる300万枚を記録した<ref name="oricon2010.11.30" />。7月25日にはアルバム『Distance』の表題曲をアレンジした8thシングル「[[FINAL DISTANCE]]」を発売。映画『[[ラッシュアワー2]]』(''Rush Hour 2'')[[サウンドトラック]]に「Hikaru Utada feat. Foxy Brown」名義で「Blow My Whistle」を提供<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=52240899 |title=宇多田ヒカル、映画サントラでFoxy Brownと共演! |date=2001-07-04 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。[[MTVジャパン]]初制作となる『[[MTVアンプラグド]]』に出演した<ref>{{Cite web |url=https://www.mtvjapan.com/onair/program/123/episode/4473 |title=MTV Unplugged: Utada Hikaru |work=[[MTVジャパン]] |publisher=バイアコム・ネットワークス・ジャパン |accessdate=2016-07-15}}</ref>。TezukaOsamu@Cinemaで配信されたインターネットアニメ『[[ブラック・ジャック]]』において[[ピノコ]]役に起用された<ref name="手塚プロ">{{Cite web|和書|url=https://tezukaosamu.net/jp/anime/121.html |title=ブラック・ジャック(インターネット版) |publisher=[[手塚プロダクション]] |accessdate=2016-07-15}}</ref>。アメリカのニュース雑誌『[[タイム (雑誌)|TIME]]』アメリカ版の2001年9月15日特別増刊号「Music Goes Global」で[[U2]]の[[ボノ]](''Bono'')、[[ビョーク]](''Björk'')らとともに表紙を飾り<ref>{{Cite web |url=http://content.time.com/time/magazine/0,9263,7601010915,00.html?iid=sr-link4 |title=September 15, 2001 {{!}} Vol.158 No. 14 |language=英語 |work=[[タイム (雑誌)|TIME]] |accessdate=2016-07-15}}</ref>、アジア版12月17日号では単独で表紙を飾った<ref>{{Cite web |url=http://content.time.com/time/magazine/asia/0,9263,501011217,00.html?iid=sr-link5 |title=December 17, 2001 |language=英語 |work=TIME |accessdate=2016-07-15}}</ref>。11月28日には9thシングル「[[traveling (宇多田ヒカルの曲)|traveling]]」とライヴDVD『[[Utada Hikaru Unplugged]]』を同時発売した。
2002年1月31日、『[[世界経済フォーラム]]』のオープニングセレモニーで[[クインシー・ジョーンズ]](''Quincy Jones'')と[[フィル・ラモーン]](''Phil Ramone'')指揮のもとライヴパフォーマンスを披露し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2002/002355/ |title=我が人生の中で最も短い三分(今んとこ) |date=2002-02-10 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-15}}</ref>、2月18日には[[総理大臣官邸]]で開かれた[[ジョージ・W・ブッシュ]](''George Walker Bush)'' 大統領(当時)来日を歓迎するレセプションに招待された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2002/002357/ |title=19歳の首相官邸潜入レポ!さあいってみよ〜! |date=2002-02-22 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-15}}</ref>。また、アメリカの[[レコードレーベル]]である[[アイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループ]](''The Island Def Jam Music Group'')と専属契約を結んだことを発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/2002/001061/ |title=突然ですが・・・・・ |date=2002-02-21 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-15}}</ref>、同時に2001年からコロンビア大学を休学していることが明かされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/2002/001063/ |title=言葉が足りなかった? |date=2002-02-27 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-15}}</ref>。3月20日に10thシングル「[[光 (宇多田ヒカルの曲)|光]]」を発売。
11thシングル「[[SAKURAドロップス/Letters]]」発売直前にシングルと3rdアルバムのプロモーション活動中止を発表。理由は4月に行った[[卵巣腫瘍]](良性)摘出手術後の治療による副作用が予想以上にあったことである{{Refnest|group="注釈"|後に[[卵巣嚢腫]]とブログで公表している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2008/003092/ |title=女であること |date=2008-10-31 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-16}}</ref>。}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/2002/001075/ |title=緊急のお知らせです |date=2002-05-05 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/j/2002/004366/ |title=みんなへ |date=2002-05-10 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160923052754/http://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/j/2002/004366/|archivedate=2016-09-23}}</ref>。なお、シングル及びアルバム『[[DEEP RIVER]]』は予定通り発売した。アルバムは初週売上枚数235万枚(プラネットは189万枚)を記録してトリプルミリオンを達成し、オリコン年間アルバムチャート1位を獲得した。9月6日には[[ミュージック・ビデオ]]や[[ディスクジャケット]]をともに製作してきた[[紀里谷和明]]との結婚を発表した<ref name="MFH2002.9.6" /><ref name="SD2002.9.6" />。
自身20歳の誕生日となる2003年1月19日にライヴ・ストリーミング『20代はイケイケ!』を開催。トークとミニライヴが行われ、当日にはおよそ100万件のアクセスを記録し、DVD化した<ref name="イケイケ">{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/news/2003/03/25/100000998 |title=宇多田ヒカルDVD「20代はイケイケ!」ダイジェスト公開中! |date=2003-03-25 |publisher=[[タワーレコード]] |accessdate=2016-07-15}}</ref>。1月29日には12thシングル「[[COLORS (宇多田ヒカルの曲)|COLORS]]」を発売。3月26日発売の『[[くずアルバム]]』には[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]で参加した<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/news/2003/03/06/100000921 |title=宇多田ヒカル、佐野元春など、くずのアルバムに参加! |date=2003-03-06 |publisher=タワーレコード |accessdate=2016-07-14}}</ref>。3月29日発売のコズミック・デブリ(''Cosmic Debris'')による[[絵本]]『[[エミリー・ザ・ストレンジ]]』(''Emily The Strange'')では翻訳を担当している。
=== 2004年 - 2005年:世界進出、『Exodus』 ===
[[File:Utada Hikaru 2004.jpg|thumb|180px|right|宇多田ヒカル、2004年]]
2004年、[[日本武道館]]5日間公演となるライヴ『Utada Hikaru in BudoKan 2004 「ヒカルの5」』を開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=52336081 |title=宇多田ヒカル、涙と感激でMCができないほど歌に全精神を注ぎ込んだ日本武道館公演 |date=2004-02-13 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。3月24日に発売された[[尾崎豊]]の[[トリビュート・アルバム]]『[["BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI]]』では「[[I LOVE YOU (尾崎豊の曲)|I LOVE YOU]]」をカバーした<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/news/2004/01/19/100002445 |title=尾崎豊トリビュート盤にミスチル、宇多田ヒカル、岡村靖幸他参加 |date=2004-01-20 |publisher=タワーレコード |accessdate=2016-07-14}}</ref>。3月31日に『[[Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1]]』を発売、4月21日には映画『[[CASSHERN]]』主題歌となった13thシングル「[[誰かの願いが叶うころ]]」を発売して日本国内の活動に一区切りをつけた。
「Utada」として全米デビュー前に、[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]のオフィシャル・アルバム『UNITY』に参加。「[[ティンバランド]]&カイリー・ディーン&UTADA」(''TIMBALAND & KILEY DEAN & UTADA'')として「By Your Side」を提供した<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/news/2004/05/25/100003149 |title=宇多田ヒカル、UtadaとしてTIMBALAND、KILEY DEANと共演。五輪コンピに参加 |date=2004-05-25 |publisher=タワーレコード |accessdate=2016-07-15}}</ref>。ティンバランドやジョン・セオドア(''Jon Theodore''、当時の[[マーズ・ヴォルタ]]メンバー)がプロディース参加した全米デビュー・アルバム『[[エキソドス (アルバム)|エキソドス]]』(''EXODUS'')は9月8日に日本盤が先行発売し<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/news/2004/07/07/100003404 |title=Utada、いよいよ全米デビュー・アルバム発表。TIMBALANDがプロデュース参加 |date=2004-07-07 |publisher=タワーレコード |accessdate=2016-07-14}}</ref>、オリコンチャート初登場1位を獲得してミリオンセラーにもなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/5078/full/ |title=Utadaが洋楽史上最高のスタートで首位! |date=2004-09-14 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-15}}</ref>。アメリカ盤は10月5日に発売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000003027 |title=Utada、全米デビュー |date=2004-10-07 |work=BARKS |accessdate=2016-07-15}}</ref>。
=== 2005年 - 2008年:日本での活動、『Ultra Blue』、『Heart Station』 ===
2005年、日本国内の活動再開となる14thシングル「[[Be My Last]]」を9月28日に発売し、15thシングル「[[Passion (宇多田ヒカルの曲)|Passion]]」を12月14日に発売した。また、ライヴとトークを期間限定で[[ネット配信]]した<ref name="ネットイベント1">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000014324 |title=宇多田ヒカル、インターネットでライヴ&トーク配信 |date=2005-11-10 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref><ref name="ネットイベント2">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000016444 |title=宇多田ヒカル、ネットライヴ&トーク2回目はこのバンドのカヴァー曲も披露 |date=2005-12-21 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。
2006年、16thシングル「[[Keep Tryin']]」を発売。6月14日には4thアルバム『[[ULTRA BLUE]]』を発売し、7月から9月にかけて全国ツアー『UTADA UNITED 2006』を開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000026299 |title=宇多田ヒカル/Utadaの魅力が満載!ツアーレポ |date=2006-08-23 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。期間限定の[[ブログ]]も開設した<ref>{{Cite web |url=https://blog.goo.ne.jp/ultrablueunited |title="ULTRA BLUE UNITED" BLOG |accessdate=2016-07-16}}</ref>。『ULTRA BLUE』はオリコンチャート初登場1位を獲得、1stアルバムから5作連続で初動セールスが50万枚を突破した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/25390/full/ |title=宇多田ヒカル、2年1ヶ月ぶりのアルバム首位獲得で史上初の快挙! |date=2006-06-20 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-16}}</ref>。また、[[台湾]]のJ-POPチャートでも初となるアルバム5作連続1位になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000025019 |title=宇多田ヒカル、台湾で新記録を達成! |date=2006-06-29 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref>。11月22日には[[日本放送協会|NHK]]『[[みんなのうた]]』10月〜11月のうたに使用された「[[ぼくはくま]]」をシングル発売し、pom ponetteとコラボレーションしたチャリティー企画『「ぼくはくま」オリジナルT-シャツコンテスト』を開催し、グランプリに輝いたTシャツを商品化。すべてのTシャツ収益は[[世界の子どもにワクチンを日本委員会]]に寄付された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.narumiya-net.co.jp/bokuhakuma/report.html |title=宇多田ヒカル & pom ponette presents 「ぼくはくま」オリジナルTシャツコンテスト ファイナル選考会レポート |publisher=[[ナルミヤ・インターナショナル]] |accessdate=2016-07-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000032443 |title=宇多田ヒカル“ぼくはくま”Tシャツが商品化 |date=2007-06-25 |work=BARKS |accessdate=2016-07-19}}</ref>。
[[File:Utada United 2006 Outfits.jpg|thumb|right|『Utada United 2006』での宇多田ヒカルのドレス。]]
2007年、ドラマ『花より男子2(リターンズ)』イメージソングを収録した18thシングル「[[Flavor Of Life]]」を発売。オリコンチャートは3週連続1位となったほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/43072/full/ |title=宇多田ヒカル、女性4年5ヶ月ぶりの3週連続1位! |date=2007-03-20 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-13}}</ref>、[[音楽配信]]では当時の邦楽新記録を樹立し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000031135 |title=宇多田ヒカルが新記録を樹立!さらに新曲も発表 |date=2007-04-20 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>、9月までには当時のデジタル・シングル世界一のセールスになった<ref name="barks2002.10.4"/>。一方、私生活では紀里谷和明との離婚を発表している<ref name="MFH2007.3.3"/><ref name="SD2007.3.3"/>。19thシングル「[[Beautiful World/Kiss & Cry]]」は映画『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』テーマソングと「This Is Love」に続き起用された[[日清食品]][[カップヌードル]]「[[FREEDOM-PROJECT]]」CMソングを収録。また、[[ニーヨ]](''Ne-Yo'')がUtadaをフィーチャーしたデジタル・シングル「ドゥ・ユー feat. Utada」が11月21日から配信開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000035581 |title=音楽業界震撼! Ne-YoとUtadaがコラボシングルを配信! |date=2007-11-14 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。12月9日のデビュー記念日を迎えるにあたり、デビュー曲「[[Automatic/time will tell|Automatic]]」の[[着うた]]を4日間限定で無料配信し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000036231 |title=宇多田ヒカル、デビュー10周年記念のビッグ・プレゼント |date=2007-12-07 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>、50万ダウンロードを記録した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000036392 |title=宇多田ヒカル、「Automatic」着うた(R)が4日で50万ダウンロード |date=2007-12-14 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。
2008年2月20日には20thシングル「[[HEART STATION/Stay Gold]]」を発売、全国のFMラジオ局との[[コラボレーション]]企画を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000038048 |title=宇多田ヒカルが全国のFM局とコラボレーション |date=2008-02-21 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。3月には無料ダウンロード企画第2弾となる「[[First Love (宇多田ヒカルの曲)|First Love]]」の着うたを4日間限定で無料配信し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000038416 |title=宇多田ヒカル、着うた(R)無料ダウンロード第2弾実施 |date=2008-03-10 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>、前回を上回る70万ダウンロードを記録した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000038630 |title=宇多田ヒカル、無料DL企画で70万DL突破 |date=2008-03-17 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。5thアルバム『[[HEART STATION]]』は3月19日に発売となり、6作連続となるオリコンアルバムチャート1位となり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/53138/full/ |title=【オリコン】宇多田ヒカル、08年No.1スタートで6作連続1位! |date=2008-03-25 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-13}}</ref>、ミリオンセラーになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000039775 |title=宇多田ヒカル、デビュー以来全アルバムがミリオン達成 |date=2008-05-13 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000041422 |title=宇多田ヒカル、10周年目にして初の記録達成 |date=2008-07-03 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000046172 |title=宇多田ヒカル、最新アルバムの実売数がミリオン突破 |date=2009-01-06 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。5月21日にはアルバムからドラマ『[[ラスト・フレンズ]]』主題歌の「[[Prisoner Of Love]]」をリカットした。10月20日からはドラマ『[[イノセント・ラヴ]]』主題歌になった2ndアルバム『[[Distance (宇多田ヒカルのアルバム)|Distance]]』収録の「[[Eternally (宇多田ヒカルの曲)|Eternally]]」を新たに[[ミキシング]]した「Eternally -Drama Mix-」の着うた・RBTを配信開始した([[着うたフル]]・PC配信は10月31日から配信開始)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000043748 |title=宇多田ヒカル“隠れた名曲”の新ヴァージョンが月9主題歌に |date=2008-09-29 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。
=== 2009年 - 2010年:二度目の世界進出、『This is The One』 ===
[[File:Hikaru Utada in New York 20090325.jpg|thumb|180px|right|宇多田ヒカル、2009年、ニューヨーク]]
2009年、Utada名義で[[Myspace]]にオフィシャル・ページを開設<ref>{{MySpace|utada|Utada}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/12380 |title=UTADA、2ndアルバムに先駆けMySpaceで新曲フル試聴 |date=2009-01-07 |work=ナタリー |accessdate=2016-07-13}}</ref>。[[スターゲイト (プロダクション・チーム)|スターゲイト]](''Stargate'')がプロデュースし、[[トリッキー・スチュワート]](''Tricky Stewart'')も参加したアルバム『[[ディス・イズ・ザ・ワン]]』(''This Is The One'')は3月14日に日本先行発売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/news/2009/01/22/100016997 |title=Utadaのニュー・アルバムに、STARGATE、TRICKY STEWARTら海外の大物プロデューサーが参加していることが判明 |date=2009-01-23 |publisher=タワーレコード |accessdate=2016-07-14}}</ref>。
3月19日には初のオフィシャル・ブック『点 -ten-』『線 -sen-』を発売。これを記念して、かつてのFMレギュラー番組『宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン』がスペシャル番組として復活した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000047551 |title=宇多田ヒカル、伝説のラジオ番組が限定復活 |date=2009-03-04 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。
3月24日に全米配信した『ディス・イズ・ザ・ワン』(''This Is The One'')は日本人アーティストとしては最高位となる総合アルバム・チャート19位、POPアルバム・チャート2位を記録し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000048189 |title=Utada、全米iTunesチャートで快挙 |date=2009-03-27 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>、5月12日のCD発売後は[[Billboard 200]]において日本人アーティストとして23年ぶりにチャート100位以内にランクインした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000049564 |title=Utada、23年ぶりの快挙、7組目の栄えあるアーティストに |date=2009-05-22 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>。ところが、アメリカでのプロモーション活動は扁桃周囲炎の再発により中止となる<ref>{{Cite web |url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2009/003154/ |title=To my fans in America! |language=英語 |date=2009-05-12 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-37949020090512 |title=宇多田ヒカル、病気で米国プロモーション延期 |date=2009-05-12 |work=REUTERS([[ロイター]]) |publisher=[[トムソン・ロイター]] |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/16369 |title=宇多田ヒカル急病で全米プロモーション活動が中止に |date=2009-05-12 |work=ナタリー |accessdate=2016-07-13}}</ref>。
6月27日には映画『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』公開に合わせて「Beautiful World」を[[リミックス]]した「[[Beautiful World/Kiss & Cry|Beautiful World -PLANiTb Acoustica Mix-]]」を配信開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/18091 |title=ヱヴァ新主題歌は「Beautiful World」リミックス版 |date=2009-06-27 |work=ナタリー |accessdate=2016-07-16}}</ref>。2009年春には、[[Myspace]]主催によるUtadaカラオケ・コンテストを日米で開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/20135 |title=Utada、My Spaceでカラオケコンテスト開催! |work=RO69 |date=2009-04-28 |publisher=[[ロッキング・オン]] |accessdate=2016-11-08}}</ref>。日米双方から優勝を選出し、都内で宇多田と優勝者によるカラオケ・パーティーが開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/68093/ |title=Utada、カラオケパーティーの動画公開 |work=ORICON STYLE |date=2009-07-31 |publisher=オリコン |accessdate=2014-05-08}}</ref>。
2010年1月から2月にかけては、初の北米ツアー『Utada "In The Flesh" 2010 Tour』を開催し、ロンドン公演含む全10公演を行った。
=== 2010年 - 2015年:「人間活動」期、母・藤圭子の死、結婚、出産 ===
2010年8月9日、来年以降のアーティスト活動を止めて「人間活動」に専念することを告げ、同時に秋から冬にかけてシングル・コレクションvol.2や新曲を発売することも発表した<ref name="MFH2010.8.9"/><ref name="SD2010.8.10"/>。9月28日には[[Twitter]]公式アカウントを開設し(当初は期間限定の予定であった)、CM出演やライヴ開催を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/80453/full/ |title=宇多田ヒカルが公式Twitter開始 4年ぶりコンサートも決定 |date=2010-09-28 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-16}}</ref>。
ところが、11月24日の『[[Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2]]』発売日にアイランド・デフ・ジャムがUtada名義の[[ベスト・アルバム]]『[[Utada The Best]]』を発売することが発覚し、本人の意向とは異なるアルバム発売に不快感を露わにした<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/39446 |title=Utada&宇多田、ベストアルバム日米同時リリース決定 |date=2010-10-22 |work=ナタリー |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2010/003248/ |title=今の気持ち |date=2010-10-25 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-16}}</ref>。そのため、今後の日本国外の活動においてもEMI MUSICと契約し、アーティスト名を「宇多田ヒカル」に統一することを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000065537 |title=宇多田ヒカル、EMI MUSICと全世界における契約に合意 |date=2010-11-08 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref>。
12月8日・9日に[[横浜アリーナ]]で開催したライブ『WILD LIFE』では、8日の公演を日本国内の映画館で生中継し、[[Ustream]]で世界配信した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000066404 |title=宇多田ヒカル、ライブ・ビューイング in シアター/Ustream記録更新 |date=2010-12-13 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000066585 |title=宇多田ヒカル、Ustream生中継では100ヵ国(地域)からのアクセスを記録 |date=2010-12-21 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref>。
[[東日本大震災]]の被災者のために義援金を送り、自ら[[献血]]を行ったことを公表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/86065/full/ |title=宇多田ヒカル、義援金8000万円寄付&人生初の献血も |date=2011-03-28 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-16}}</ref>。2012年11月17日には映画『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]]』公開に合わせて、テーマソング「[[桜流し]]」を配信開始し、DVDシングルを12月26日に発売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000085868 |title=宇多田ヒカル、楽曲総ダウンロード数が3600万DL突破 |date=2012-12-26 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref>。
2013年4月からは月1回のラジオレギュラー番組『[[KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru]]』の放送がスタート(2014年3月終了)<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/2014/03/post-353.html |title=宇多田ヒカル、ラジオ最終回で藤圭子とのデュエット曲オンエア「こういうのが残ってるのは素晴らしい」 |date=2014-03-19 |work=Real Sound |accessdate=2016-07-16}}</ref>。2013年12月9日のデビュー日には『Utada/Utada Hikaru: In The Flesh 2010』と過去のライヴ作品を[[iTunes]]で配信開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000097035 |title=宇多田ヒカル、“Utada”全米ツアー<In The Flesh 2010>映像&過去全ライブビデオをiTunesで一挙配信 |date=2013-12-09 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref>。
2014年3月10日は1stアルバム『[[First Love (宇多田ヒカルのアルバム)|First Love]]』発売から15年を記念した『15th Anniversary Edition』を製作、[[ハイレゾリューションオーディオ]]も配信開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000100420 |title=宇多田ヒカル、日本ポップス界の金字塔、ついにハイレゾ化 |date=2014-02-20 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref>。
人間活動中の2013年には母親([[藤圭子]])の死もあったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2027987/full/ |title=宇多田ヒカル、亡き母への思い告白「娘であることを誇りに思う」 |date=2013-08-26 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2028358/full/ |title=宇多田ヒカル、両親の深い絆綴る 母は「阿部ではなく、宇多田純子です」 |date=2013-09-05 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-16}}</ref>、翌2014年にイタリア人男性と再婚(2018年に離婚が判明)、2015年には第1子となる男児を出産した<ref name="ナタリー2014.2.3" /><ref name="ナタリー2015.7.3" />。
=== 2015年 - 2016年:活動再開、『Fantôme』 ===
2016年、NHK[[連続テレビ小説]]『[[とと姉ちゃん]]』主題歌を担当することが決定<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/173129 |title=宇多田ヒカル、連続テレビ小説「とと姉ちゃん」に主題歌提供 |date=2016-01-20 |work=ナタリー |accessdate=2016-07-16}}</ref>。また、ニュース番組『[[news zero|NEWS ZERO]]』エンディングテーマも担当することを発表すると同時に、初披露となる4月4日からアーティスト活動を再開することを発表した<ref name="BARKS2016.3.10"/><ref name="T-SITE NEWS 2016.4.4"/>。
「[[花束を君に]]」「[[真夏の通り雨]]」は4月15日に配信開始となった。「花束を君に」をリスナーにとって大切な人に贈ることを目的とした「ギフトキャンペーン」を開催し、売上の一部は[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]災害義援金に寄付された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/gift/ |title=宇多田ヒカル「花束を君に」ギフトキャンペーン特設サイト |accessdate=2016-07-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160421134244/https://www.utadahikaru.jp/gift/|archivedate=2016-04-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000126376 |title=宇多田ヒカル、「花束を君に」を大切な人に贈るキャンペーン。売上の一部は義援金に |date=2016-04-20 |work=BARKS |accessdate=2016-07-16}}</ref>。
9月28日には[[椎名林檎]]、[[小袋成彬]]、[[KOHH]]が参加したおよそ8年ぶりとなる6thアルバム『[[Fantome|Fantôme]]』を発売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2074729/full/ |title=宇多田ヒカル、9月に8年半ぶり新アルバム |date=2016-07-08 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/148602 |title=宇多田ヒカル×椎名林檎のコラボが実現! ニューアルバムに収録&共演MV公開 |date=2016-09-16 |work=RO69 |publisher=ロッキング・オン |accessdate=2016-09-16}}</ref>。『Fantôme』は各配信サイトにおいて日本を含む世界31か国(地域)でランクインし<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/42529/2 |title=全米6位! 宇多田ヒカル『Fantome』日本人女性ソロアーティストとして初の快挙 |date=2016-09-29 |work=Billboard JAPAN |accessdate=2016-12-26}}</ref>、CDセールスにおいてもオリコンチャート4週連続1位になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2080464/full/ |title=【オリコン】宇多田、復帰作がV4達成 女性オリジナル作品9年ぶり |date=2016-10-25 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-12-26}}</ref>。10月に単独アーティスト初となる民放ラジオ101局による特別番組『サントリー天然水 presents 宇多田ヒカルのファントーム・アワー』がオンエアになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001211.000000664.html |title=宇多田ヒカル『宇多田ヒカルのファントーム・アワー』 全国AM/FM/短波 民放ラジオ101局にて10月11日よりオンエア! |date=2016-09-26 |work=PR TIMES |accessdate=2016-12-26}}</ref>。
12月9日のデビュー記念日には2003年の『20代はイケイケ!』以来となるネットイベント『サントリー天然水PRESENTS「[[30代はほどほど。]]」』を開催し<ref name="ほどほど">{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/hodohodo/ |title=サントリー天然水PRESENTS「30代はほどほど。」特設サイト |accessdate=2016-12-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000135922 |title=宇多田ヒカル、ネットイベント〈30代はほどほど。〉で初生パフォーマンス披露 |date=2016-12-10 |work=BARKS |accessdate=2016-12-26}}</ref>、KOHHと[[PUNPEE]]がゲスト出演した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000135176 |title=宇多田ヒカル〈〈〉30代はほどほど。〈〉ゲストにKOHH&PUNPEE |date=2016-11-18 |work=BARKS |accessdate=2016-12-26}}</ref>。また、[[小田和正]]によるコラボレーション・ライヴ番組『[[クリスマスの約束]]』に初出演して「Automatic」などを披露したほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/news/detail/153151 |title=小田和正の『クリスマスの約束』に宇多田ヒカル、スキマスイッチら出演 |date=2016-12-19 |work=RO69 |publisher=ロッキング・オン |accessdate=2016-12-26}}</ref>、『[[第67回NHK紅白歌合戦]]』に[[ロンドン]]からの中継で初出場した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2083283/full/ |title=【紅白】宇多田ヒカル、福山雅治、氷川きよし中継で出演 |date=2016-12-19 |work=ORICON STYLE |publisher=オリコン |accessdate=2016-12-26}}</ref>。
=== 2017年 - 2018年:レーベル移籍、『初恋』 ===
2017年、[[THE BACK HORN]]との共同プロデュースとなったシングル曲「[[あなたが待ってる]]」に作詞、編曲、ピアノ、バックグラウンドボーカルで参加した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000137123 |title=THE BACK HORN、宇多田ヒカルとの共同プロデュースによる新作「あなたが待ってる」発売 |date=2017-01-17 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref>。
2月9日には[[ソニー・ミュージックレーベルズ]]内のレーベルである[[エピックレコードジャパン]]に移籍することをオフィシャルサイトで発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2017-02-09 |url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/both/ |title=<nowiki>[</nowiki>2017/02/09<nowiki>]</nowiki> お引越しのお知らせ |work=Hikki's WEBSITE |accessdate=2017-02-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170211025813/http://www.utadahikaru.jp/from-hikki/both/ |archivedate=2017-02-11 |deadlinkdate=2017-10}}</ref><ref>{{Cite news |title=宇多田ヒカル ソニー移籍発表「一人の人間として転機を迎えた実感」 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/02/09/kiji/20170209s00041000178000c.html |newspaper=Sponichi ANNEX |date=2017-2-9 |publisher=スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2017-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000138100 |title=宇多田ヒカル、ソニー・ミュージックレーベルズへ移籍。年内には新作も |date=2017-02-19 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref>。
7月には移籍後初となる新曲「[[大空で抱きしめて]]」と「[[Forevermore (宇多田ヒカルの曲)|Forevermore]]」を配信開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/237121 |title=宇多田ヒカル移籍第1弾楽曲の発売日決定、水の山登る「サントリー天然水」CMソングに |date=2017-06-16 |work=ナタリー |accessdate=2017-06-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/238223 |title=宇多田ヒカル、ソニー移籍第2弾楽曲は9年ぶり民放ドラマ主題歌 |date=2017-06-26 |work=ナタリー |accessdate=2017-06-26}}</ref>。12月には「[[あなた (宇多田ヒカルの曲)|あなた]]」を配信開始したほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/250006 |title=宇多田ヒカル、堺雅人&高畑充希出演のファンタジー映画に主題歌「あなた」書き下ろし |date=2017-09-25 |work=ナタリー |accessdate=2017-09-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000149734 |title=宇多田ヒカル、「あなた」MV公開+2018年にはニューアルバムと12年ぶりツアーも |date=2017-12-08 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref>、初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を発売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000147400 |title=宇多田ヒカル、初の歌詞集をデビュー記念日にリリース |date=2017-10-02 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000148486 |title=宇多田ヒカル、初の歌詞集に著名人8名が寄稿+特番『24時間 宇多田ヒカル』放送 |date=2017-11-01 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref>。
[[File:Utada_Hikaru_2018.png|thumb|宇多田ヒカル(Laughter in the Dark Tour 2018にて)|170px]]
2018年になると、アルバム『Fantôme』収録曲「ともだち」に参加した小袋成彬の[[メジャー・デビュー (音楽家)|メジャー・デビュー]]となるアルバム『[[分離派の夏]]』のプロデュースを手掛けたことを発表し、「[[Lonely One|Lonely One feat. 宇多田ヒカル]]」を先行ストリーミング配信した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000150914 |title=宇多田ヒカル、小袋成彬をプロデュース「この人の声を世に送り出す手助けをしなきゃいけない」 |date=2018-01-17 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref>。
椎名林檎の[[トリビュート・アルバム]]『[[アダムとイヴの林檎]]』に宇多田ヒカル&小袋成彬として参加し、「[[丸ノ内サディスティック]]」を[[カバー]]した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000152448 |title=椎名林檎20周年トリビュートに宇多田&小袋、三浦大知、LiSA、井上陽水ら |date=2018-03-02 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref>。
6月27日には「大空で抱きしめて」「Forevermore」「あなた」のほか、「誓い」「[[Play A Love Song]]」「[[初恋 (宇多田ヒカルの曲)|初恋]]」「Good night」の[[タイアップ]]曲を収録した7thアルバム『[[初恋 (宇多田ヒカルのアルバム)|初恋]]』を発売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000154373 |title=宇多田ヒカル、7thアルバム『初恋』を6月発売+ツアー日程発表も |date=2018-04-25 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/279587 |title=宇多田ヒカル1年9カ月ぶりアルバムは「初恋」ツアー日程も明らかに |date=2018-04-25 |work=ナタリー |accessdate=2018-06-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000155094 |title=宇多田ヒカル、7thアルバム『初恋』全容を発表+『ペンギン・ハイウェイ』主題歌決定 |date=2018-05-16 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref>。
アルバム発売にあわせて、かつてのFMレギュラー番組が一夜限りに復活して『[[宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン#宇多田ヒカルのTRÈS BIEN! BOHEMIAN! SPECIAL|宇多田ヒカルのTRÈS BIEN! BOHEMIAN! SPECIAL]]』として放送したほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000156166 |title=宇多田ヒカル、“一夜限り復活する伝説的レギュラー番組”放送は7月に2時間枠 |date=2018-06-12 |work=BARKS |accessdate=2018-06-12}}</ref>、同年年末には、12年ぶりとなる全国ツアー『[[Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018]]』を開催した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000162586 |title=【ライブレポート】宇多田ヒカル、12年ぶりの国内ツアー完走「これは素直に喜んでおきます」 |date=2018-12-10 |work=BARKS |accessdate=2019-06-01}}</ref>。
=== 2019年 - 2022年 『BADモード』 ===
2019年1月には、世界的エレクトロミュージシャン[[スクリレックス|Skrillex]]とのコラボ曲で、ゲームソフト『[[キングダム ハーツIII]]』に書き下ろした「[[Face My Fears]]」を11年ぶりにCDシングルとしてリリースした<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/301523 |title=宇多田ヒカルとスクリレックスが「KINGDOM HEARTS III」OPテーマでコラボ |date=2018-09-28 |work=音楽ナタリー |accessdate=2020-8-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/news/2018/10/26/tg004 |title=宇多田ヒカル、来年1月18日リリースの11年ぶりニュー・シングル『Face My Fears』収録内容発表 |date=2018-10-26 |work=TOWER RECORDS ONLINE |accessdate=2020-08-30}}</ref>。
また、11月にリリースされた[[椎名林檎]]のベストアルバム『[[ニュートンの林檎 〜初めてのベスト盤〜]]』に収録された楽曲「浪漫と算盤」で[[椎名林檎]]と3年ぶりの共演を果たしたほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000173907 |title=椎名林檎と宇多田ヒカル、3年ぶり共演実現。新曲「浪漫と算盤」MV公開 |date=2019-11-01 |work=BARKS |accessdate=2020-08-30}}</ref>、同月リリースの井上陽水のトリビュートアルバム『[[井上陽水トリビュート]]』では『[[少年時代 (井上陽水の曲)]]』をカバーした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000173342 |title=『井上陽水トリビュート』ジャケット公開+ファン参加企画〈私が陽水〉スタート |date=2019-10-21 |work=BARKS |accessdate=2020-08-30}}</ref>。
2020年に入ると、ドラマ『[[美食探偵 明智五郎]]』の主題歌として新曲「[[Time (宇多田ヒカルの曲)|Time]]」を書き下ろし<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000180877 |title=宇多田ヒカル、ドラマ「美食探偵 明智五郎」主題歌に新曲「Time」書き下ろし。5月配信リリース |date=2020-04-06 |work=BARKS |accessdate=2020-08-30}}</ref>、「[[サントリー天然水]]」のTVCMには新曲「[[誰にも言わない]]」が採用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000181380 |title=宇多田ヒカル、新曲が聴ける「サントリー天然水」新CM |date=2020-04-17 |work=BARKS |accessdate=2020-08-30}}</ref>。新曲2曲がリリースされた5月には、自宅から1か月限定で毎週日曜日にインスタライブを行い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000181792 |title=宇多田ヒカル、インスタ生番組「自宅隔離中のヒカルパイセンに聞け!」1か月毎週配信 |date=2020-04-27 |work=BARKS |accessdate=2020-08-24}}</ref>、ファンからの様々な質問に答えたほか<ref>{{Cite news|title=「すごい感性」「ハッとした」 宇多田ヒカルの『別れに対する考え方』が話題に!|newspaper=grape|date=2020-5-12|url=https://grapee.jp/822295/|access-date=2022-9-7|publisher=株式会社グレイプ}}</ref>、[[中村倫也 (俳優)|中村倫也]]や[[Taka (ONE OK ROCKのメンバー)|TAKA]]、[[KOHH]]がゲストとして出演した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000182276 |title=宇多田ヒカル、インスタ生番組ゲストに中村倫也が登場 |date=2020-05-08 |work=BARKS |accessdate=2020-08-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000182380 |title=宇多田ヒカル、インスタ生番組ゲストにTAKA(ONE OK ROCK) |date=2020-05-11 |work=BARKS |accessdate=2020-08-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000182922 |title=宇多田ヒカル、インスタ生番組ゲストにKOHH |date=2020-05-21 |work=BARKS |accessdate=2020-08-30}}</ref>。
[[2021年]]には、アニメ映画『[[シン・エヴァンゲリオン劇場版]]』のテーマソングに新曲「[[One Last Kiss]]」が起用され、また、これまでに宇多田が『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版]]』シリーズに提供してきた関連楽曲全曲が収録される[[コンパクト盤|EP]]『[[One Last Kiss (EP)|One Last Kiss]]』のリリースも決定した<ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/music/news/418013|title= 「エヴァ」公開日と宇多田ヒカルの新曲発売日が決定|date= 202/02/26|work= 音楽ナタリー|accessdate=2021/02/01}}</ref>。さらに、4月にNHK[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]にて放送開始のアニメ「[[不滅のあなたへ#テレビアニメ|不滅のあなたへ]]」の主題歌に、新曲「[[PINK BLOOD]]」が起用されることも発表された<ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/music/news/418419|title= 宇多田ヒカルの新曲「PINK BLOOD」、Eテレ放送のアニメ「不滅のあなたへ」主題歌に決定|date= 20201/03/0|work= 音楽ナタリー|accessdate=2021/02/01}}</ref>。7月には新曲「Find Love」が、[[資生堂]]の世界ブランド・SHISEIDOによる新グローバルキャンペーン「POWER IS YOU」(パワー・イズ・ユー)のキャンペーンソングに決定、またキャンペーンのブランドムービーに女優の{{仮リンク|ウルスラ・コルベロ|en|Úrsula Corberó}}、プロサッカー選手の[[ミーガン・ラピノー]]とともに出演した<ref name="natalie20210701">{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/music/news/434954|title= 宇多田ヒカルの新曲「Find Love」がSHISEIDOのグローバルキャンペーンソングに決定|date= 2021/07/01|work= 音楽ナタリー|accessdate=2021/07/01}}</ref>。
[[2022年]]には、8枚目のオリジナルアルバム「[[BADモード]]」をリリース。1月19日に先行配信を開始し、2月23日にフィジカルCDを発売した<ref>{{Cite news|title=宇多田ヒカル本日配信アルバム「BADモード」の特設サイトオープン|newspaper=音楽ナタリー|date=2022-1-19|url=https://natalie.mu/music/news/462175/|access-date=2022-9-7}}</ref>。
4月16日(現地時間)には、アメリカ最大級の野外音楽フェスティバル「[[コーチェラ|Coachella Valley Music and Arts Festival]]」のメインステージに[[88rising]]の一員として出演し、計5曲を披露した<ref>{{Cite web|和書|title= 宇多田ヒカルがコーチェラ出演、88risingのステージでパフォーマンス|url= https://natalie.mu/music/news/474181|date=2022-04-17|website=音楽ナタリー|accessdate=2022-02-18}}</ref>
== 人物 ==
宇多田家の祖先は[[山口県]]にあり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002778/ |title=ソックスコレクション |date=2007-07-29 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-16}}</ref>、父親が子どもの頃に家系図を見せられた際、由緒ある家の跡継ぎである事を説明されたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002796/ |title=宇多田さ~ん |work=Utada Hikaru Official Website |date=2007-08-12 |accessdate=2022-07-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160923052231/http://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002796/ |archivedate=2016-09-23}}</ref>。郷土資料によると、山口県山口市徳地島地(旧[[佐波郡]][[徳地町]]島地)に宇多田という大庄屋があり、広大な土地を所有していたとの記述が残っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002797/ |title=山口県佐波郡徳地島地 |work=Utada Hikaru Official Website |date=2007-08-12 |accessdate=2022-07-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160923051123/http://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002797/ |archivedate=2016-09-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002838/ |title=おはようごぜぇます |work=Utada Hikaru Official Website |date=2007-09-13 |accessdate=2022-07-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160923050715/http://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002838/ |archivedate=2016-09-23}}</ref>。先祖には、[[寺内正毅]]第18代内閣総理大臣が居り、ヒカルは寺内正毅の[[続柄|曾姪孫]]にあたる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0606/2019/03/08/472510.html |title=明治150年記念連載 大磯歴史語り 第18回「寺内正毅【1】」文・武井久江 |publisher =タウンニュース社 |date=2019-03-08 |accessdate=2023-03-20}}</ref>。
本人のツイートによると、予定を3週間以上も過ぎた後もなかなか産まれなかったため、[[医師]]の判断で[[帝王切開]]したものの、ほぼ[[死産]]の状態だったとのこと。この時父親は医師から「残念ですが…」と告げられるも<ref>{{Twitter status|utadahikaru|24103177733279744}}</ref>、懸命に名前を呼ぶと、徐々に血の気が入り[[蘇生]]したという<ref>{{Twitter status|utadahikaru|24106480932225025}}</ref>。[[2020年]]10月、Twitter上で「アメリカの大統領選の在外投票の登録ギリギリ間に合った」と発言しており<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/utadahikaru/status/1313979277843537921|url=https://twitter.com/utadahikaru/status/1313979277843537921|website=Twitter|accessdate=2020-10-07|language=ja}}</ref>、日本とアメリカの二重国籍を維持していると思われる。
名前に関して、漢字表記ではなく[[片仮名]]の「ヒカル」と名乗った理由は、漢字だと何か堅い感じがするという意見がEMI社内で出たため。画数にこだわったのは、よい画数の名前であると言われていることによる。ちなみに元々の名前の由来は、母親([[藤圭子]])が[[網膜色素変性症]]のため、徐々に視力を失っていた時に授かった子であることから「我が子から光が失われないように」という願いを込め命名したと言われている<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20130906_209787.html?PAGE=1#container 視力低下の病に悩んだ藤圭子「光が失われないで」と娘を命名] NEWSポストセブン 2013年9月6日</ref>。この他にも「いちご」や「めろん」、「すいか」が候補に挙がっていたという<ref>{{Twitter status|utadahikaru|7831461465956353}}</ref>。ニックネームは「'''ヒッキー'''」(Hikki)。
身長に関しては、ある時に病院で正確に測ったところ、158.9cmであることが判明。今まで158cm(15歳当時の記録)であると公言してきたことから、2017年3月に出演したラジオ番組内で各所プロフィールの更新を求めた<ref>{{Cite news|title=宇多田ヒカル「恥ずい」ウィキペディア記載身長修正|newspaper=日刊スポーツ|date=2017-3-28|access-date=2022-9-7|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1798843.html}}</ref>。[[2019年]][[5月]]に過剰運動症候群と診断されたことを公表<ref>{{Twitter status|utadahikaru|1131303522174197760}}</ref>。本人は「[[病気]]とかじゃないよ!」と投稿している<ref>{{Twitter status|utadahikaru|1131304690463989760}}</ref>。
[[2002年]]、19歳の時に[[紀里谷和明]]と[[結婚]]<ref name="MFH2002.9.6">{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/j/2002/004375/ |title=大事なお知らせ |date=2002-09-06 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-15}}</ref><ref name="SD2002.9.6">{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/2002/001083/ |title=いつもヒカルを応援してくれている皆さんへ: マスコミ各位殿: |date=2002-09-06 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-15}}</ref>、2007年に[[離婚]]<ref name="MFH2007.3.3">{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2007/002640/ |title=大事なお知らせ |date=2007-03-03 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-16}}</ref><ref name="SD2007.3.3">{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/2007/001120/ |title=僕からも報告が… |date=2007-03-03 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-16}}</ref>。2014年2月にイタリア人男性と[[再婚]]<ref name="ナタリー2014.2.3">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/109126 |title=宇多田ヒカルが再婚、相手は一般のイタリア人男性 |date=2014-02-03 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |accessdate=2016-07-16}}</ref>。2015年7月に第1子となる男児を出産したことを報告したが<ref name="nikkansports">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201804060001013.html |title=15年7月に第1子長男出産/宇多田ヒカル波乱人生 |date=2018-04-06 |work=日刊スポーツ |publisher=日刊スポーツ新聞社 |accessdate=2018-04-07}}</ref><ref name="ナタリー2015.7.3">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/152684 |title=宇多田ヒカルが第1子を出産「良くお乳を飲んで良く寝る男の子」 |date=2015-07-03 |work=ナタリー |accessdate=2016-07-16}}</ref>、2018年4月に離婚していたことが明らかになった(公式発表ではない)<ref name="nikkansports"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201804070000001.html |title=宇多田ヒカル、8歳下イタリア人男性と離婚していた |date=2018-04-06 |work=日刊スポーツ |publisher=日刊スポーツ新聞社 |accessdate=2018-04-07}}</ref>。
2021年6月26日、自身が[[ノンバイナリー]]であることを[[Instagram|インスタライブ]]にて公表している<ref>{{Cite web|和書|title=宇多田ヒカル、「ノンバイナリー」をカミングアウト!|url=https://genxy-net.com/post_theme04/626121ll/|website=genxy-net.com|date=2021-06-26|accessdate=2021-06-26|language=ja}}</ref>。
=== 趣味・嗜好 ===
2006年の23歳の誕生日に大きな[[テディベア]]([[クマ|くま]]の[[ぬいぐるみ]])をプレゼントされ、以来大のくま好きであることを公言。ちなみにそのテディベアには「[[くまちゃん (宇多田ヒカルのぬいぐるみ)|くまちゃん]]」という名前がついており(宇多田が自ら命名)、『[[ぼくはくま]]』のモデルになった。その後も、宇多田のSNSアカウントやミュージックビデオなど、様々なところに「くまちゃん」が登場している。{{seealso|くまちゃん (宇多田ヒカルのぬいぐるみ)}}
[[テトリス]]の腕前について広く知られており、2006年には[[任天堂]]の[[クラブニンテンドー]]会員限定イベント『宇多田ヒカルとテトリス対戦!!』が開催され、一般ユーザーや任天堂開発チームと[[テトリスDS]]の1対1対戦を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/game/news/2006/08/12/103,1155380343,58627,0,0.html |title=宇多田ヒカルは本気で『テトリス』超人だった! "宇多田ヒカルとテトリス対戦"開催! |date=2006-08-12 |work=ファミ通.com |accessdate=2016-07-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20060812/nin.htm |title=その腕前はホンモノだった! 任天堂、「宇多田ヒカルさんとテトリス対戦!!」イベントで怒涛の快進撃 |date=2006-08-12 |work=GAME Watch |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2016-07-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/2006/002605/ |title=たかがテトリスされどテトリス |date=2006-08-12 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-19}}</ref>。ちなみに、テトリスDSで[[カウンターストップ]]となる99999999点を達成している。
自身の[[インスタグラム]]アカウントでは、度々地面に落ちている「落とし物」の写真をアップロードしている。2020年1月の[[マツコの知らない世界]]の正月SPに出演した際には、それらが「落とし物の世界」として紹介された<ref>{{Cite web|和書|url= https://grapee.jp/777896|title= 宇多田ヒカルが明かした『趣味』に、驚きの声 「感性が常人じゃない」|date= 2020/01/04|work= grape|accessdate=2020/10/05}}</ref>。
宇多田は読書家でも知られており、自ら次のように語っている。<blockquote>「とにかく文学は永遠に私の情熱であるでしょう! 本は財産です。読んだ本は全部とっておく。服よりほんの占めるスペースが多い。」</blockquote>2018年の雑誌のインタビューでは、物心がついた頃から「他者と、世界と繋がるための方法、手段」として読書を始めていたと語っており、それは小説に限らず、子供向けの絵本や、詩、短編など、様々だった。また、その「繋がっている」という感覚が、宇多田の作家としての原点だったという<ref name="名前なし-1">{{Cite journal|title = ピーター・バラカン「選曲者のセンス」|journal = SWITCH |volume = 36|issue = 5|page = 34|publisher = スイッチ・パブリッシング|date = 2018/04/20|isbn = 978-4-88418-504-6 }}</ref>。2020年の[[文學界]]での[[又吉直樹]]との対談では、自身の子どものころについて、「自分にとって唯一自由で、自分であることが許された、安心していられる場所」「現実で自由にならないこと、耐えられないことから、いつでも逃げられる場所」が「本の世界」だったと明かした<ref>{{Cite journal|和書| author = 又吉直樹| author2 = 宇多田ヒカル| date = 2019| title = 深淵から生みだされるもの| journal = 文學界 | issue = 1| volume = 74| publisher = 文藝春秋| ref = harv }}</ref>。2017年12月に全国の38書店で展開された「宇多田書店」では、以下の人物の作品を推薦書籍として選出している<ref name="宇多田書店">{{Cite web|和書|url= https://www.cinra.net/news/20171128-utadahikaru|title= 宇多田ヒカルの推薦書籍が並ぶ「宇多田書店」再び 全国38書店で展開|date= 2017/11/28|work= CINRA.NET|accessdate=2020/10/04}}</ref>。[[開高健]]、[[宮沢賢治]]、[[中上健次]]、[[芥川龍之介]]、[[川端康成]]、[[森鴎外]]、[[夏目漱石]]、[[三島由紀夫]]、[[稲垣足穂]]、[[谷崎潤一郎]]、[[埴谷雄高]]、[[大岡昇平]]、[[遠藤周作]]、[[ヘルマン・ヘッセ]]、[[オスカー・ワイルド]]、アン・クラーク・アモール、[[シェル・シルヴァスタイン]]、[[エドガー・アラン・ポー]]、[[エリ・ヴィーゼル]]、[[F・スコット・フィッツジェラルド]]、[[ジョージ・オーウェル]]、[[ダニエル・キイス]]、[[司馬遼太郎]]、[[アンリ・ベルクソン]]、[[ロアルド・ダール]]、[[田村隆一]]、[[J・D・サリンジャー]]、[[有吉佐和子]]、[[家永三郎]]、[[ゲーテ]]、[[中西進]]、[[白州正子]]、[[エリザベート・バダンテール]]、[[中原中也]]など。また、1999年に当時16歳の宇多田は、講演で来日したダニエル・キイス(「[[アルジャーノンに花束を]]」などの著者、当時72歳)と[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]で対談している<ref>{{Cite journal|和書| date = 2001| title = ダニエルキイスの世界| issue = ダニエル・キイス文庫| publisher = [[早川書房]]| pages = 60 - 96 | ref = harv }}</ref>。
また、特に好きな作家には中上健次や宮沢賢治の名前を挙げており、中上健次の娘で作家の[[中上紀]]と対談した際には『異族』『紀州弁』(『鳥のように獣のように』所収)を好きな作品として挙げ<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/news/94727/a/ |title= まさか作家デビュー!? 宇多田ヒカルと熊野の“深い縁” |work=ダ・ヴィンチニュース|accessdate=2022/01/20}}</ref>、宇多田にとって初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』を出版する際に行なった本人による[[選書]]企画『宇多田書店』において、中上の作品群から最多の9作品を選んでいる<ref> {{Cite web|和書|url=https://twitter.com/HmvBooksShibuya/status/939324759032053761 |title=宇多田書店 Twitter|publisher=HMV &books|date=2017-12-09|accessdate=2022-01-28}}</ref><ref name="宇多田書店" />。
宇多田はまた大の漫画好きでもある。小説が漫画よりも「高尚なイメージ」があることについて、「くだらないものはくだらないし、いいものはいい」「くだらない小説読むんだったら良質の漫画の方がよっぽど有益」と、自身のブログで語っている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_115.html|title= 絵本|date= 1999/05/21|work= message from hikki|accessdate=2020/10/05}}</ref>。子供の頃は、漫画家を目指していて、漫画雑誌「[[りぼん]]」に投稿したこともあるという<ref>{{Cite web|和書|url= https://smart-flash.jp/entame/44549/|title= 宇多田ヒカル「子供の頃は漫画家めざして『りぼん』に応募も」|date= 2018/07/10|work= Smart FLASH|accessdate=2020/10/05}}</ref>。2017年に開催された「宇多田書店」では、以下の作品を推薦書籍として選出した<ref name="宇多田書店" />。「[[バガボンド]]」、「[[リアル (漫画)|リアル]]」、「[[SLAM DUNK]]」、「[[HUNTER×HUNTER]]」、「[[レベルE]]」、「[[幽☆遊☆白書]]」、「[[うる星やつら]]」、「[[らんま1/2]]」、「[[キャッツ・アイ]]」、「[[シティーハンター]]」、「[[ベルサイユのばら]]」、「[[攻殻機動隊]]」、「[[バイオメガ]]」、「[[はじめの一歩]]」、「[[MONSTER (漫画)|MONSTER]]」、「[[20世紀少年]]」、「[[ゴルゴ13]]」、「鬼平犯科帳」([[さいとうたかを]])、「[[ブラック・ジャック]]」、「[[七色いんこ]]」、「[[ブッダ (漫画)|ブッダ]]」、「[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]」、「サーカス・ワンダー」、「[[鬼切丸伝]]」、「[[ピアノの森]]」、「[[北斗の拳]]」、「[[サラリーマン金太郎]]」、「[[ぼくの地球を守って]]」など。
また宇多田は、2006年5月号の「[[Invitation (雑誌)|Invitation]]」で、漫画家・[[浦沢直樹]]と対談している<ref>{{Cite web|和書|url= https://forbesjapan.com/articles/detail/32539/2/1/1|title= 小6の宇多田ヒカルも突破できなかった、お〜いお茶新俳句大賞の超難関|date= 2020/02/24|work= Forbes JAPAN|accessdate=2020/10/05}}</ref>。
=== 人間活動 ===
2010年に活動休止を発表したことについて、「(休養中の行動を『人間活動』と表現したのは)思っていることを長く書こうとしても伝わらないことが多くて、短い言葉を使おうと思った。」「自分の力で生きたい。色々と知らないことがあるまま生活しているので、1人でも生きられるようになりたい。」「得意なことばっかりやっても成長がないと思って。もし私と同じく、自分の中の苦手なこと、避けようとしている部分に向き合っていきたいと考えている人がいるなら、一緒に頑張りましょう!」と発言しているほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000066015 |title=宇多田ヒカル「得意なことばっかりやっても成長がない」 |date=2010-11-28 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>、「有名人(見られる側)になってからの十数年、どんどん自分が見えなくなっていってた。全然自分のこと理解できてなかったし周りの人たちのことも「知ろう」としてなかった。苦しい、さびしい生き方をしてました。まだ若いうちに気付けてよかったです。みんなに感謝」とツイートしている<ref>{{Twitter status|utadahikaru|168733093681836032}}</ref>。
== 音楽性 ==
[[作詞]]・[[作曲]]・[[編曲]]を手掛け、自ら[[打ち込み|プログラミング]]も行っている([[2018年]]現在も[[Logic Pro|Apple Logic Pro Ⅹ]]を使用<ref name="kizai"/>)。[[絶対音感]]を持っていると噂されたことがあるが、本人がこれを否定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/from-hikki-bn/both/1999/002039/ |title=「これでうちのコも宇多田ヒカルになれるっ!」 |date=1999-04-06 |work=Message From Hikki |accessdate=2016-07-18}}</ref>。曲作りに関しては曲先であり<ref name="bunshunbikkuri85">{{Cite web|和書|url=https://www.bunshun.co.jp/bikkuri85/rank01_01.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110121092633/http://www.bunshun.co.jp/bikkuri85/rank01_01.htm |title=あなたが選ぶ文藝春秋びっくり記事85 TOP5 第1位 「もうひとりの私 宇多田ヒカル ダニエル・キイス」 |publisher=[[文藝春秋]] |date=2000-01 |accessdate=2016-07-19 |archivedate=2011年1月21日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>、「[[桜流し]]」配信開始時には「基本、コード→メロディー→歌詞という流れ。アレンジャーも私です。」と[[ツイート]]している<ref name="utadatweet20121118">{{Twitter status|utadahikaru|270164982828777472}}</ref>。母親の藤圭子は、ヒカルが演歌の陰鬱や悲しさに影響されないように心掛けていたとしている<ref>{{Twitter status|utadahikaru|27111665985}}</ref>。
デビュー当初から宇多田ヒカルを担当している三宅彰は、デビュー10周年の際に受けたインタビューで宇多田の変化についてコメントしており、『First Love』から『ULTRA BLUE』までのアルバム4枚は誰に向けて書いたのか具体的に見える曲が多かったが、『HEART STATION』は顔の見えない不特定多数に向いていると述べている<ref name="日経エンタ2008">{{Cite journal|和書|year=2008 |month=4 |title=人気者の「賞味期限」 "旬"が続く理由(2) 宇多田ヒカル 育ての親が語る10年間トップを走れた秘訣 |journal=[[日経エンタテインメント!]] |volume=12 |issue=5 |pages=41 |publisher=[[日経BP社]]}}</ref>。さらに、「10代は内面に向かいがちだったのが、20代半ばになり社会と自分というものを結びつけることができるようになったのかなと思う」とも評している<ref name="日経エンタ2008"/>。
=== 作風 ===
デビューアルバム『[[First Love (宇多田ヒカルのアルバム)|First Love]]』と続く『[[Distance (宇多田ヒカルのアルバム)|Distance]]』の楽曲は[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]色が強く、「[[Addicted To You]]」や「[[Wait&See ~リスク~|Wait & See ~リスク~]]」では、[[ジャム&ルイス]]がプロデューサーとして迎えられた<ref>{{Cite web|和書|url= https://realsound.jp/2018/11/post-283077.html|title= 宇多田ヒカル楽曲の変遷 3つの音楽的ポイントから探る 初期…『First Love』『Distance』|date= 2018/11/24|work= Real Sound|accessdate=2020/10/17}}</ref>。自らも編曲に参加するようになった3rdアルバム『[[DEEP RIVER]]』では、R&Bの域を越え、[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ダンス・ミュージック|ダンス]]などのジャンルを包含した普遍的なポップスとなり、またジャケット写真や[[遠藤周作]]の小説にインスパイアされたタイトルからも窺える、暗く内省的な世界観を打ち出すようになった<ref>{{Cite web|和書|url= https://tower.jp/item/880199/DEEP-RIVER|title= 宇多田ヒカル DEEP RIVER|work= タワレコ オンライン|accessdate=2020/10/17}}</ref><ref name="中期">{{Cite web|和書|url= https://realsound.jp/2018/11/post-283077_2.html|title= 宇多田ヒカル楽曲の変遷 3つの音楽的ポイントから探る 中期…『DEEP RIVER』『ULTRA BLUE』『HEART STATION』|date= 2018/11/24|work= Real Sound |accessdate=2020/10/17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://artist.cdjournal.com/d/deep-river/3202040210|title= 宇多田ヒカル / DEEP RIVER|work= CD Journal|accessdate=2020/10/17}}</ref>。自身が完全に音作りをするようになったUtada名義でのアルバム『[[エキソドス (アルバム)|Exodus]]』は、R&Bから[[オルタナティヴ#概要|オルタナティブ]]、[[ポップ・ミュージック|ポップ]]、[[ダンス]]、[[エレクトロニカ]]などをミックスした、今まで以上にジャンルレスな作風となっており、また内数曲では、[[ヒップホップ]]/R&Bシーンに革新的なビート旋風を巻き起こした[[ティンバランド]]などがプロデューサーに迎えられた<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.hmv.co.jp/news/article/512080125/|title= 日本のシンガーTOP30 - 第10位|work= HMV&Books online|accessdate=2020/10/17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nippon.com/ja/column/g00409/|title= 宇多田ヒカル—新たな挑戦の幕開け|date= 2017/03/15|work= nippon.com|accessdate=2020/10/17}}</ref>。『[[ULTRA BLUE]]』になると、ほぼ全曲の作詞作曲編曲、プログラミングまでを自らが行うようになり、次作『[[HEART STATION]]』にかけて打ち込み主体の楽曲が多くなった<ref name="練りこみ">{{Cite web |url= https://tower.jp/item/2372087/HEART-STATION|title= HEART STATION|work= TOWER RECORDS ONLINE|accessdate=2020/10/17}}</ref>。『ULTRA BLUE』では内省的で私小説のような趣をみせ、メロディも主旋律が強めで高音を多用した独創的なものとなる<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.barks.jp/news/?id=1000023791&page=2|title= 次なるステージへ・・・新たな世界観を築いた大作『ULTRA BLUE』を語る|date= 2006/06/06|work= BARKS |accessdate=2020/10/17}}</ref><ref name="中期" />。そして、同作や『Exodus』での技巧的・実験的な作風への反動で、『HEART STATION』と続く『[[ディス・イズ・ザ・ワン|This is The One]]』では、比較的ポップな楽曲が多くを占めるようになった<ref name="ロキノン">{{Cite journal|author = 兵庫慎司|title = 宇多田ヒカル、新作のすべてを語る!|journal = ROCKIN'ON JAPAN|volume = 22|issue = 8|page = 51|publisher = 株式会社ロッキング・オン|date = 2008 }}</ref>。『HEART STATION』では、[[ヒップホップ]]と[[ハウス・ミュージック|ハウス]]を練り込んだようなビートの上に優しいメロディがのった、しっとりとした洋楽ポップスのようなモードへ入る<ref name="中期"/><ref name="練りこみ" />。Utada名義の2ndアルバム『This is The One』では、[[トラックメイカー]]に[[スターゲイト (プロダクション・チーム)|スターゲイト]]や[[トリッキー・スチュワート]]を迎え、前作『Exodus』とは一転し、[[アメリカ合衆国|US]]のメインストリームを意識したR&Bにシフトチェンジした<ref>{{Cite web|和書|url= https://music.apple.com/jp/album/this-is-the-one/1440791267|title= ディス・イズ・ザ・ワン Utada|work= Apple Music|accessdate=2020/10/17}}</ref>。
母・藤圭子の死、結婚、初の出産を経て、2016年にリリースした復帰作『[[Fantome]]』は、宇多田が母の死と向き合ったもので、「日本語で歌うこと」をテーマに制作され、プライベートな喪失の痛みを普遍的なポップソングに昇華している点などが評価された<ref name="realsound9393">{{Cite interview|和書|subject=新作『Fantôme』インタビュー|date=2016-09-28|interviewer=内田正樹|url=https://realsound.jp/2016/09/post-9393.html|title=宇多田ヒカル、新作『Fantôme』を大いに語る「日本語のポップスで勝負しようと決めていた」|work=Real Sound|accessdate=2018-07-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://music.apple.com/jp/album/fant%C3%B4me/1428766398|title= Fantome 宇多田ヒカル|work= Apple Music|accessdate=2020/10/17}}</ref>。音楽的には、『Fantome』と次作『[[初恋 (宇多田ヒカルのアルバム)|初恋]]』ともに、打ち込み主体の活動休止以前とうってかわって、ほぼ全曲が生バンドによるプロダクションとなり、[[レコーディング・エンジニア|エンジニア]]にはグラミー賞受賞経験のある[[スティーヴ・フィッツモーリス]]を起用した<ref name=realsound>{{Cite web|和書|url= https://realsound.jp/2019/08/post-397899.html|title= リズムから考えるJ-POP史 第9回:宇多田ヒカル『初恋』に見る「J」以後の「POP」|date= 2019-08-04|work= Real Sound|accessdate=2020-08-30}}</ref>。両作とも「日本語のポップス」であることを貫きながらも、世界的なポップスのトレンドである緻密にしてシンプルなアレンジを基礎構造にもつ仕上がりとなっている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.banzai-magazine.com/magazine/20170131|title= 宇多田ヒカル、2016年を代表する1枚となった復帰作|date= 2017/01/31|work= BANZAI|accessdate=2020/10/12}}</ref>。『初恋』では、[[コンテンポラリー・ジャズ|現代ジャズ]]シーン最高峰ドラマーの呼び声高い[[クリス・デイヴ]]を起用しており、また私小説的な歌詞や、リズム・譜割りに対する新たなアプローチが評価されている<ref name="リズムから考える">{{Cite|author = imdkm|title = リズムから考えるJ-POP史|publisher = blueprint|date = 2019|pages = 234 - 235|isbn =978-4-909852-03-8 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://music.apple.com/jp/album/%E5%88%9D%E6%81%8B/1386707378|title= 初恋 宇多田ヒカル|work= Apple Music |accessdate=2020/10/17}}</ref><ref name="aera">{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/114914?page=1|title= 宇多田ヒカルは半分、青い。新作『初恋』はデビュー作『First Love』とどう違う?|date= 2018-07-6|accessdate= 2018-07-07 |publisher= [[朝日新聞|AERA dot.]] }}</ref>。
=== 影響 ===
2013年放送の自身のラジオでは、「トータルでいうとソングライターとしてとか、歌手としてとか,アーティストとして生きてる人たちの中で一番憧れるアーティスト」として[[PJ ハーヴェイ]]を挙げている<ref>{{Cite web|和書|url= https://tower.jp/article/feature_item/2014/03/17/0702|title= InterFM「KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru」レコメンド特集<2>|date= 2014/03/17|work= TOWER RECORDS ONLINE|accessdate=2020/10/05}}</ref>。
世界一好きな歌手は、[[ディス・モータル・コイル]]の[[エリザベス・フレイザー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/article/feature_item/2014/03/17/0702 |title=InterFM「KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru」レコメンド特集<2> |publisher =タワーレコード株式会社 |accessdate=2023-03-22}}</ref>。
「他のアーティストと一日入れ替われるんだったらPJ ハーヴェイか[[トム・ヨーク]]になってみたい」とも語っている<ref>[https://sp.universal-music.co.jp/utadahikaru/paisen/ 「#ヒカルパイセンに聞け」]</ref>。
[[フレディ・マーキュリー]]、[[コクトー・ツインズ]]、[[ナイン・インチ・ネイルズ]]、[[ジミ・ヘンドリックス]]、[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]、[[エディット・ピアフ]]、[[チック・コリア]]、[[ブルー・ナイル (バンド)|ブルー・ナイル]]、[[ビョーク]]、 [[レニー・クラヴィッツ]]、[[バルトーク・ベーラ]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]、[[ジェフ・バックリー]]、[[井上陽水]]、[[尾崎豊]]、[[美空ひばり]]、[[THE BACK HORN]]、[[フランク・オーシャン]]、[[庄司紗矢香]]、[[カサンドラ・ウィルソン]]などをお気に入りのアーティストとして挙げており<ref>[https://www.universal-music.co.jp/hikki/profile/prof08.htm Hikki's WEB SITE]. Emimusic.jp. Retrieved on October 26, 2010.</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://tower.jp/article/feature_item/2014/03/17/0701|title= InterFM「KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru」レコメンド特集<1>|date= 2014/03/17|work= TOWER RECORDS ONLINE|accessdate=2020/10/05}}</ref><ref name="ロキノン17">{{Cite journal|和書| date = 2017| title = 宇多田ヒカル 8年間のすべてを語る| journal = ROCKIN'ON JAPAN| issue = 10| volume = 31| publisher = 株式会社ロッキング・オン| ref = harv }}</ref><ref>{{Twitter status|utadahikaru|844273980735442944}}</ref>、[[アリーヤ]]や[[メアリー・J. ブライジ]]などの[[R&B]]アーティストからも影響を受けたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/2021/09/post-863658_2.html|title=アリーヤ、サブスク解禁で再考する現代アーティストとの結び付き ジェネイ・アイコ、ティナーシェらへ与えた影響|accessdate=2023-08-06|publisher=Real Sound}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20090730-a085/|title=宇多田ヒカル「ママの歌も歌います」 - 貴重なカラオケ動画が公開 |accessdate=2023-08-06|publisher=マイナビ}}</ref><!-- <ref>[https://www.universal-music.co.jp/hikki/gallery/main02_e.htm]. Hikki's Website. Retrieved on November 26, 2011{{リンク切れ|date=2022-9}}</ref> -->。子供の頃、[[藤圭子|母]]から「ヒカルの声はすばらしいわ。もう、何かもうシャーデーみたいに」と言われたこと以来[[シャーデー]]の大ファンでもある。
宇多田は[[井上陽水]]の書く詩と自身の書く詩がとても似ていると公言しており、井上陽水から受けた音楽的な影響の大きさについても度々発言している<ref name="Professional2018"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/83060/2|title=井上陽水の軌跡をたどる特番、宇多田ヒカル、奥田民生、玉置浩二、松任谷由実、リリー・フランキーが語る |date= 2019/12/16|work=NHK |accessdate=2023/01/09}}</ref>。
また、これまでの宇多田の作品には文学作品に影響されたものが多くある。3rdアルバム『[[DEEP RIVER]]』(2002)ならびにその収録曲「Deep River」のタイトルは、[[遠藤周作]]の小説「[[深い河]]」にインスピレーションを得ている<ref name="新谷">Utadaとしてのデビューアルバム『[[EXODUS]]』日本盤ブックレットでの新谷洋子との対談より</ref>。2004年の世界進出時のアルバム『[[エキソドス (アルバム)|EXODUS]]』の収録曲「Kremlin Dusk」には、アメリカの作家[[エドガー・アラン・ポー]]の物語詩「[[大鴉]]」からの引用が幾つか見られる<ref name="新谷" /><ref name="stylus">{{cite web|url=http://www.stylusmagazine.com/reviews/utada/exodus.htm |title=Archived copy |accessdate=2015-02-21 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304203021/http://www.stylusmagazine.com/reviews/utada/exodus.htm |archivedate=2016-03-04 }}</ref>。5thアルバム『[[HEART STATION]]』の収録曲「テイク5」の歌詞は、本人がインタビューで「[[宮沢賢治]]の「[[銀河鉄道の夜]]」みたいにしたかった。」と語っている<ref>{{Cite ||author = 宇多田ヒカル|title = 点 -ten-|date = 2009|publisher = U3MUSIC|page = 223|isbn = 978-4-930774-22-4|ref = harv }}</ref>。また同作品については、2018年に出演した[[日本放送協会|NHK]]の「[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]」にてその一節を引用し、「幸せ」についての自論を語った<ref>{{Cite web|和書|url= https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_2dc1729e-5a77-4e29-8ebc-6310adc07f8c.html|title= 宇多田ヒカルが抱える“孤独”と“祈り” 「初恋」披露した『SONGS』から感じたこと|date= 2018/07/09|work= ぴあ|accessdate=2020/10/05}}</ref>。2008年にはブログで「[[唯識三十頌]]」の写経をしていることを綴った。[[三島由紀夫]]の遺作「[[豊饒の海]]」で知って以来の写経のお気に入りだという<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_17.html|title= 手のひらを太陽に|date= 2008/07/28|work= message from hikki
|accessdate=2020/10/05}}</ref>。なお宇多田は、2005年に三島の同作の第一部を映画化した「[[春の雪 (映画)|春の雪]]」の主題歌に「[[Be My Last]]」を書き下ろしていた<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.barks.jp/news/?id=1000010994|title= 宇多田ヒカルの新曲、試聴開始|date= 2005/08/27|work= BARKS|accessdate=2020/10/05}}</ref>。6thアルバム『[[Fantome]]』の収録曲「荒野の狼」の曲名は、[[ヘルマン・ヘッセ]]の[[荒野のおおかみ|同名の小説]]からとったという<ref>{{cite news|url=https://news.j-wave.co.jp/2017/03/fantme.html|title=宇多田ヒカル「Fantôme」幻の収録曲?|publisher=J-WAVE NEWS|date=2017-3-25}}</ref>。2018年に開催された12年ぶりの全国ツアー「[[Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018]]」の題名は、ロシアの詩人・[[ウラジミール・ナボコフ|ナボコフ]]の長編小説「[[カメラ・オブスクーラ (小説)|カメラ・オブスクーラ]]」の英題から引用されている<ref>{{Cite web|和書|url= https://meetia.net/music/utadahikaru-laughter/|title= 宇多田ヒカル『Laughter in the Dark』暗闇のなかの笑いとカメラ・オブスクーラ|date= 2018/12/14|work= ミーティア|accessdate=2020/10/05}}</ref>。また、その年に自身が出演したNHKの番組「[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]」では、楽曲「夕凪」の制作中に同じくナボコフの小説「青白い炎」に出てくる詩を読みながら涙するシーンが映る<ref name="Professional2018">{{Cite web|和書|url= https://wezz-y.com/archives/56628|title= 宇多田ヒカルが『プロフェッショナル 仕事の流儀』で号泣した理由とは?|date= 2018/07/19|work= WEZZY|accessdate=2020/10/05}}</ref>。2019年12月に発売された「[[文學界]]1月号」では、作家で芸人の[[又吉直樹]]と「創作」をテーマに対談した<ref>{{Cite web|和書|url= https://hon-hikidashi.jp/enjoy/98203/|title= 又吉直樹・宇多田ヒカルが「創作」を語る対談 2.5万字の大ボリュームで文學界1月号に掲載|date= 2019/11/26|work= ほんのひきだし|accessdate=2020/10/05}}</ref>。なお、宇多田と又吉はそれまでにも[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]や宇多田のツアーで共演していた。2020年に自身が出演した[[サントリー天然水]]のTVCMでは、自身が選んだというイギリスの詩人・[[ウィリアム・ワーズワース|ワーズワース]]の詩の一節([[国木田独歩]]訳)を朗読している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.advertimes.com/20200417/article312604/|title= 宇多田ヒカル、「サントリー天然水」のCMで自ら提案した国木田独歩の詩集を朗読|date= 2020/04/17|work= AdverTimes|accessdate=2020/09/23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/42202_48332.html|title= 小春|writer= 国木田独歩|work= 青空文庫|accessdate=2020/10/04}}</ref>。
=== 使用機材 ===
[[MacBook Pro]](15-inch, 2017)と[[Logic Pro|Logic Pro X]]を使って曲作りを行なっている<ref name="kizai">{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1807/18/news083.html |title=宇多田ヒカルさんの自宅スタジオ機材を特定 |accessdate=2018-09-17 |publisher=[[ITmedia]]}}</ref>。[[マイクロフォン]]はNEUMANN TLM 67、NEUMANN TLM 102、[[オーディオインターフェース]]はRME Babyface Pro、[[MIDIコントローラー|MIDIキーボード]]はM-AUDIO Keystation 61es、モニターヘッドフォンはSONY MDR-7506、[[マイクスタンド]]はQuiklok、スタジオモニターはFocal CMS50、スピーカースタンドはIsoAcousticsを使用している<ref name="kizai"/>。なお、以前住んでいたアパートでは壊れた機材はトイレに積んでいたという<ref>{{twitter status|utadahikaru|215814180895326209}}</ref>。
=== 楽曲制作 ===
10歳で作詞作曲を始めているが<ref name="ten1" />{{Refnest|group="注釈"|EMIの先輩・ユーミンこと[[松任谷由実]]も宇多田と同様14歳で作詞作曲を始めており、2018年4月7日放送の[[日本テレビ]]系『[[嵐にしやがれ]]』にユーミンが出演した際、[[ミッツ・マングローブ]]が宇多田らの名を挙げて「世の中の天才は14歳で何かが起きている」と言及した<ref>{{Cite news|title=ユーミン、安室、宇多田…天才たちに共通する“14歳の転機”|newspaper=女性自身|date=2018-4-9|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1615227/|access-date=2022-9-7}}</ref>。ちなみにユーミンと宇多田には誕生日が同じというもう一つの共通点もある<ref>{{Twitter status|@hikki_staff|274342031663439873}}</ref>。}}、編曲に関して当初は外部に任せていた。アルバム制作を重ねるにつれ、アレンジからプログラミングに至るまで、すべての音を統括するようになった。まず2ndアルバム『Distance』収録の「DISTANCE」およびそれをアレンジした8thシングル「[[FINAL DISTANCE]]」から編曲においても大きく関わるようになり、2004年の13thシングル「[[誰かの願いが叶うころ]]」以降は、ほぼすべての楽曲の編曲を単独で行うようになる<ref name="litera1927">{{Cite web|和書|url=https://lite-ra.com/2016/01/post-1927_2.html |title=宇多田ヒカルがNHK朝ドラでついに復帰! 1998年、15歳の宇多田は日本の音楽をどう変えたか? そしてこれから…(2ページ目) |date=2016-01-28 |accessdate=2017-10-06 |publisher=[[LITERA]]}}</ref>。宇多田の楽曲においては、バックコーラスの声も[[多重録音]]によりすべて本人が歌っている<ref name="litera1927"/>。歌詞のインスピレーションは毎日の生活から得る。日本では抽象的なことを歌詞にする書き手が多いが、宇多田自身はヴィジュアルコンセプトから入るので[[映画]]の[[シナリオ]]を書くように言葉にした情景はすべて映像として見ることが出来ると語っている<ref name="bunshunbikkuri85"/>。作曲では、まずパソコンソフトやシンセサイザーなどで流したサウンドに合わせてコードを付け、それにメロディをのせる。歌詞を作るのはそれらの作業が終わった後<ref name="hikarupaisen">{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/paisen/ |title=「#ヒカルパイセンに聞け」Q&Aサイト |accessdate=2016-09-28}}</ref><ref name="bunshunbikkuri85"/><ref name="utadatweet20121118"/>。
音楽活動再開以降は、自らの住んでいるロンドンで一連の楽曲制作が行われている。とりわけ活動休止前は、常に単独で制作しており、他のアーティストとのコラボレーションも少なかったことから、周りからは「密室系アーティスト」と呼ばれていたというが、復帰後は他アーティストとの共演も増え、サウンド面においても主に生楽器が用いられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url= https://rockinon.com/blog/ro69plus/149297|title= 宇多田ヒカル出演『Love music』を観た。そして『Fantôme』という作品を再考する |date= 2016/10/01|work= rockin'on.com|accessdate=2020/10/17}}</ref>。アルバム『Fantome』『初恋』の[[レコーディング]]、[[ミキシング|ミックス]]を担当した[[:en:Steve Fitzmaurice|スティーブ・フィッツモーリス]]によると、宇多田のいないところでレコーディングが行われることはないといい、その点が他アーティストとの違う点だと語った<ref>{{Cite web|和書|url= https://mora.jp/topics/interview/stevefitzmaurice_utadahatsukoi/|title= 宇多田ヒカルのニューアルバム『初恋』を手掛けたグラミー受賞エンジニア、スティーヴ・フィッツモーリスが語る『初恋』の音作り|date= 2018/06/27|work= mora|accessdate=2020/10/17}}</ref>。またスティーブによれば、「僕はこれまで大勢の人の作品を手掛けてきたけど、中でも宇多田さんは最も断固とした態度の持ち主の一人」という。その中でも印象的なエピソードとして、レコーディングにてミュージシャンたちが宇多田の要望に「ちょっとこれできない、難しい」と言ったときに、宇多田が「それは、不可能なの? 難しいの?」(英語:“Is it impossible? Or is it difficult?”)と聞き返したことを挙げている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.utadahikaru.jp/zadankai/s14.html |title= 「それこそ音楽が聖域である理由だから。人に気を遣う必要がない空間。だから音楽が好き。|work= 宇多田ヒカル 小袋成彬 酒井一途 座談会|accessdate=2020/10/17}}</ref>。[[いきものがかり]]のリーダー・[[水野良樹]]は、2016年放送の[[関ジャム 完全燃SHOW]]にて、宇多田の「レコーディングのこだわり」を語り、「宇多田のレコーディングにやってきた日本有数のミュージシャンが、宇多田の指摘のスゴさに、落ち込んで帰っていく」という逸話を紹介した<ref>{{Cite web|和書|url= https://kakaku.com/tv/channel=10/programID=56294/episodeID=1099126/|title= 真夏の通り雨|work= 価格.com|accessdate=2020/10/17}}</ref>。
=== 音楽観 ===
{{Quotation|
「メロディーは、誰かの心の原風景。
懐かしい場所からのメッセージ。
リズムは、死へ向かう生命の行進の音。
歌は祈り、願い、誓い。
音楽は、慈悲。」
|宇多田ヒカル|「点 -ten-」<ref>{{Cite ||author = 宇多田ヒカル|title = 点 -ten-|date = 2009|publisher = U3MUSIC|page = 23|isbn = 978-4-930774-22-4|ref = harv }}</ref>(2009年)}}
自身のメロディに関して宇多田は、活動休止以前は「音楽の表面的な意味でのいいメロディを、こう行くとなんか気持ちいいなっていうメロディを、探って探ってつないでいた」という。一方、活動再開(アルバム『[[Fantome]]』)以降のメロディは、「マグマが湧いて出てくるみたいな、うねりのようなもの」「ゆっくり、べたべた、地を這う、蛇のようなもの」だと話した。また、そのようなメロディには「日本語がほんとに合う」としており、「沈んでいくタイプの心の残り方をする」とも語っている<ref name="ロキノン17"/>。また、宇多田はメロディ自体をリズムと捉えているといい、「私からしたら(メロディとは)リズムにピッチついてるみたいな感じ。」とも語るなど、楽曲におけるリズムに対するこだわりを話している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.utadahikaru.jp/zadankai/s11.html|title= 「一つの世界観に融合させるために、なにか架け橋が必要だなって、両方録り終わった後に感じた」|work= 宇多田ヒカル 小袋成彬 酒井一途 座談会|accessdate=2020/10/17}}</ref>。また、アルバム『[[HEART STATION]]』リリース時のインタビューでは「音楽のジャンルは、キックとスネアの音で決まる」と語っている<ref name="ロキノン17"/>。その他にも、子供は大人よりも「変拍子も癖のあるリズムの取り方も素直に受け入れることができて尚且つおもしろがる」ので、「子供と一緒に音楽を聴くのが楽しい」とツイートしている<ref>{{Twitter status|utadahikaru|1026823203631575040}}</ref>。
作詞は、宇多田が楽曲制作において最後に取りかかる作業である<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.musicvoice.jp/news/47443/|title= 宇多田ヒカル「6年間歌っていなかった」曲作りを登山に例える|date= 2016/09/28|work= MusicVoice|accessdate=2020/10/05}}</ref>。歌詞集「宇多田ヒカルの言葉」(2017)の序文では、「『誰か』の気持ちを描くことで、自分の意識下にあった気持ちに触れる」ことが宇多田にとっての作詞だと綴っている<ref name="言葉">{{Cite ||author = 宇多田ヒカル|title = 宇多田ヒカルの言葉|date = 2017|publisher = エムオン・エンターテインメント|isbn = 978-4-7897-3681-7|at = まえがき|ref = harv }}</ref>。そこではまた、それまでの自身の歌詞を次のように3期に分けている<ref name="言葉" />。
#初期は「自分の無意識にあるものを表面にすくいあげる行為」を無意識にしていた。
#第二期ではそれを意識的に行うようになり、すくい上げるというより、潜りに行くようになった。
#活動休止を経た第三期では、自らに課していた様々な検閲を取り払うことで表現の幅が広がり、それまでになく己をさらけ出すような作品も、それまでになくフィクション性の高い作品も登場する。
自身の考える日本語表現については、[[萩原朔太郎]]の『詩の原理』で語り尽くされているという<ref name="言葉" />。また宇多田は、2018年の[[小袋成彬]]と酒井一途との座談会で、デビュー曲「[[Automatic/time will tell|Automatic]]」に関して「言葉の途中の一瞬に間が空くことへの評論があって、『?? だって音楽じゃん? 言葉?』ってなった。」と語っている。「言葉に対して、ここが良い切れ目とか、ここが切っちゃいけないとかが自分にない」という。「音楽が第一言語」とも語っており、作詞は「音楽を日本語に翻訳する」ような作業だという<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.utadahikaru.jp/zadankai/s1.html|title= 真実の追求が根底にあってね。ただただ綺麗で整ってたら、真実じゃない|date= 2018|work= 宇多田ヒカル 小袋成彬 酒井一途 座談会|accessdate=2020/10/05}}</ref>。また宇多田は、2008年の雑誌のインタビューで「悪いポップはコビだけど、いいポップは思いやり」だと述べているほか<ref name="ten1" />、別の場所では「"媚び"は音楽自体の終焉を招く」と、自らの音楽に対する姿勢を表明している<ref>{{Cite journal|title = 宇多田ヒカル [解き放たれていく私]|journal = SWITCH |volume = 36|issue = 5|page = 25|publisher = スイッチ・パブリッシング|date = 2018/04/20|isbn = 978-4-88418-504-6 }}</ref>。
== 評価 ==
[[HMV#日本|HMV]]は、2003年の「Top 100 Japanese pops Artists」で第24位に<ref>{{Cite web |url= https://www.hmv.co.jp/news/article/310200001/|title= Top 100 Japanese pops Artists|date= 2003/11/07|work= HMV|accessdate=2020/12/10}}</ref>、2005年の「日本のシンガーTOP30」で第10位に宇多田ヒカルを選出している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.hmv.co.jp/news/article/512080125/|title= 日本のシンガーTOP30 |date= 2005/12/21|work= HMV|accessdate=2020/12/10}}</ref>。2022年に行われた、[[タレントパワーランキング]]「女性歌手の人気ランキング」では、第1位に選ばれている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://tpranking.com/singer |title=タレントパワーランキング「女性歌手の人気ランキング」 |access-date=20230424 |publisher=タレントパワーランキング}}</ref>
<ref>{{Cite web|和書|url=https://tpranking.com/singer |title=タレントパワーランキング 歌手の人気ランキング(女性) |access-date=20230424 |publisher=タレントパワーランキング}}</ref>宇多田のデビューは日本中に大きな衝撃を与えた。[[音楽プロデューサー]]の[[小室哲哉]]は、宇多田について、デビュー曲『[[Automatic/time will tell|Automatic]]』の衝撃や宇多田の"自由さ"を指摘しており、"自らの引退を考えさせたアーティスト"と評している<ref name="Komuro1">{{Cite web|和書|url= https://style.nikkei.com/article/DGXMZO14642730Z20C17A3000000/|title= 小室哲哉「宇多田ヒカルとiPodが音楽界を変えた」|date= 2017/04/24|work= エンタメウォッチング|accessdate=2020/09/29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.musicvoice.jp/news/56587/|title= 小室哲哉、ライバルはつんく♂ 引退がよぎったのは宇多田ヒカル|date= 2017/01/12|work= MusicVoice|accessdate=2020/09/29}}</ref>。また、「宇多田ヒカルをきっかけに、プロデューサーや[[レコード会社]]の人の言葉に耳を傾けつつという、音楽業界の暗黙の了解みたいなものがなくなった。」とも指摘している<ref name="Komuro1" />。[[音楽ジャーナリスト]]の[[宇野維正]]もまた、宇多田の登場によってそれまでレコード会社や大手プロダクションが握っていた日本の音楽シーンをアーティスト自身が手にする時代が来たと語る。また、宇多田がデビュー当初にすでに"音楽家としての権利"を保持していたことを指摘し、これは「世界中を見渡しても異例の契約条件」と語った。同じく音楽ジャーナリストの[[柴那典]]は、宇多田の歌はデビュー以来、徹底して「個」の表現であり続けてきたとし、多数の『[[アムラー]]』を生み出した[[安室奈美恵]]や『女子高生のカリスマ』として同年にデビューした[[浜崎あゆみ]]のように女性たちの憧れの対象としてのアイコンにはならず、どれだけ沢山のCDが売れようと、聴き手は『一対一』の親密でパーソナルな関係の中で宇多田の歌を受け取ってきたのだと指摘。柴はさらに、「そういうタイプのアーティストが登場し、そのデビュー作が最も大きなヒットとなったことが、後に続く時代の変化の一つのうねりのようなものにつながったのではないか」と考えている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.bookbang.jp/heiseijpop/article/459|title= 台風の目としての孤独 平成11年の「First Love」(宇多田ヒカル)【柴那典 平成ヒット曲史】|date= 2020/05/14|work= ブックハン |accessdate=2021/04/01}}</ref>。[[ロッキング・オン|ロッキング・オン・グループ]]の代表取締役社長で[[音楽評論家]]の[[渋谷陽一]]は、宇多田ヒカルの登場によって、「日本人の持つポップミュージックのDNAが変わった。」とコメント。また、宇多田の「革命性と大衆性の両立」を指摘してその衝撃を語った<ref>{{Cite web|和書|url= https://style.nikkei.com/article/DGXBZO19847950T11C10A2BE0P00/|title= 革命性と大衆性両立 音楽評論家・渋谷陽一氏|date= 2010/12/24|work= NIKKEI STYLE|accessdate=2020/09/29}}</ref>。[[ミュージシャン]]で音楽評論家の[[近田春夫]]は、宇多田のデビュー後のJ-POPを「宇多田ヒカルという[[B-29 (航空機)|B-29]]による空爆後の焼野原」と表現<ref>{{Cite web|和書|url= https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167107109|title =考えるヒット 3|accessdate=2020/09/29}}</ref>。宇多田の登場によって日本の音楽シーンが一変したと語った<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.excite.co.jp/news/article/E1452568124761/|title= 音楽シーンを一変させた宇多田ヒカル デビュー当時の衝撃とは|date=2016/01/15 |work= exciteニュース|accessdate=2020/09/29}}</ref>。写真家の[[藤原新也]]は[[五木寛之]]との対談で、当時の"宇多田ブーム"について、「マーケティングによって成り立った乾いた小室産業から宇多田的な個的な情感に時代がシフトした」と分析した<ref>{{Cite journal|和書| author = [[五木寛之]]| author2 = [[藤原新也]]| date = 2000-01| title = ミレニアムビッグ対談 五木寛之vs藤原新也--宇多田ヒカル的情感に回帰する日本人の心| journal = 週刊朝日| issue = 3| volume = 105| publisher = 朝日新聞社| ref = harv }}</ref>。[[吉本隆明]]は自著「現代日本の詩歌」(2003)で宇多田のデビュー曲「[[Automatic/time will tell|Automatic]]」を取り上げ、「口語でできた、すぐれた歌詞で、純粋詩人の作品」「きわめて個性的に女の子の気持ちを歌っている」と評価した<ref>{{Cite|author = 吉本隆明|authorlink = 吉本隆明|title = 現代日本の詩歌 |publisher = 毎日新聞社 |date = 2003 }}</ref>。
宇多田のデビュー当時、しばしば宇多田の歌詞における"字切り"の特徴が指摘されていた。[[トレモロイド]]の小林侑太は、「Automatic」に代表される宇多田の楽曲が、リズムのアクセントと音自体の発音の強弱の一致によって"心地よいグルーブ感"を生んでいると指摘。「細かな発音の強弱や譜割りに対する鋭敏な感覚を持っていれば歌でグルーヴを表現できる」という感覚が宇多田の登場によって当時の日本の音楽シーンに持ち込まれたとも考察している<ref>{{Cite web|和書|url= https://realsound.jp/2015/01/post-2274_2.html|title= 宇多田ヒカルの楽曲はなぜ心地よいグルーヴを生む? 現役ミュージシャンが分析|date= 2015/01/19|work= Real Sound|accessdate=2020/09/29}}</ref>。作曲家の[[筒美京平]]は、宇多田の楽曲に関して「コード進行の上にのせるメロディーの作り方が新しい」と評価。またそのメロディーも"和のテイスト"を感じさせるとコメントした<ref>『HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜』筒美京平編 2006年発売 ジェネオン エンタテインメント</ref><ref>{{Cite web|和書|url= http://ibought.jp/entertainment/2751|title= 大根仁が購入して持っておきたい1本のDVD|date= 2016/03/01|work= i bought|accessdate=2020/09/29}}</ref>。ミュージシャン/音楽プロデューサーの[[玉井健二]]は、また『[[traveling (宇多田ヒカルの曲)|traveling]]』などの楽曲を挙げ、[[作曲|コンポーズ]]の素晴らしさを指摘。「日本語が乗る前提の主旋律に日本語じゃないグルーブを的確に融合させられている」点などを高く評価している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.youtube.com/watch?v=UcraK9DMZbk|title= MUSIC FUN! 玉井健二インタビュー#2『今、注目の若手アーティスト/槇原敬之、宇多田ヒカルの素晴らしさ』公開|date= 2020/07/28|work= MUSIC FUN!|accessdate=2020/09/29}}</ref>。
また、アーティストとしての宇多田にも様々な指摘、評価がなされてきた。上述の渋谷陽一は、宇多田について、「その存在と才能の巨大さのためか、どこか透明な印象がある」と言う。また、「すべてのエモーションのベースに悲しみがある」とも評している<ref>{{Cite journal|和書| author = 渋谷陽一| date = 2009-06| title = 宇多田ヒカル、その悲しみを解く| journal = Cut|issue = 6| volume = 20| publisher = 株式会社ロッキング・オン| ref = harv }}</ref>。宇野維正は、宇多田のこれまでのライブ活動の少なさから、「人気ポップアーティストとしては、世界的にも稀な『スタジオの音楽家』」と指摘。また宇多田の編曲家としての側面にも注目し、"All Songs Written and Arranged by Utada Hikaru" という「日本の他の女性アーティストの作品ではまず目にすることがない」クレジットが、宇多田の音楽家としての本質を表わしていると語った<ref>{{Cite ||author = 宇野維正|title = 1998年の宇多田ヒカル|date = 2016|publisher = 新潮社|isbn = 978-4-10-610650-7|page = 218|ref = harv }}</ref>。ジャズミュージシャンで宇多田の楽曲のプロデュースを手掛けたこともある[[菊池成孔]]は、2006年のネット記事の連載にて宇多田に関して次のように指摘する<ref name="Kikuchi">{{Cite web|和書|url= https://tower.jp/article/series/2006/12/28/100046516|title= 第10回 ─ 最終回! 宇多田ヒカルの“ぼくはくま”をチアー&ジャッジ|date= 2006/12/28|work= TOWER RECORDS ONLINE|accessdate=2020/09/29}}</ref>。<blockquote>「〈日本に帰化した、日本人以上に日本人である外国人選手〉という、本来ならば日本人では着任不可能な任務を遂行しているという意味で、完全なオリジナルである。」</blockquote>そして、宇多田のライブに集まる観客が圧倒的に〈日本人の集団〉であるとし、そこに「無意識や無作為が国民性を掴んだ強さ」を見出している<ref name="Kikuchi" />。[[いきものがかり]]のリーダー・[[水野良樹]]は、宇多田の作品には「宇多田さんの持つ強烈な"個"の匂いがたちこめている」と指摘。また、こういった性格の作品が「とてつもなく多くの人々に、熱狂の中で、すんなりと受け入れられていく」ことに驚きを示している<ref>{{Cite || author = 宇多田ヒカル| title = 宇多田ヒカルの言葉| date = 2017| publisher = エムオン・エンターテインメント| isbn = 978-4-7897-3681-7 |at = 15歳 水野良樹(シンガーソングライター) | ref = harv }}</ref>。[[糸井重里]]は宇多田の歌詞、言葉に注目し、宇多田が「『だれよりも、われ』であるがゆえに『だれよりも、それぞれ』に変態していける」と評価した<ref>{{Cite || author = 宇多田ヒカル| title = 宇多田ヒカルの言葉| date = 2017| publisher = エムオン・エンターテインメント| isbn = 978-4-7897-3681-7 |at = 少女は、少女であることを歌わなかった (初期の宇多田ヒカルの言葉をじっと見ていておもったこと) | ref = harv }}</ref>。ミュージシャンの[[井上陽水]]は、宇多田が特殊な環境で生まれ育ってるゆえにアウトサイダー(外部の人、部外者)のような雰囲気を感じさせるとコメント。楽曲に関しては「もう1回聴くとどういう発見があるんだろうと思わせるような数少ないアーティストの1人」と評価した<ref name="Yosui" />。また、陽水は宇多田が多くの日本人をひきつけている要因として、宇多田の声に代表される"切なさ"を挙げている<ref name="Yosui">{{Cite web|和書|url= https://www.rbbtoday.com/article/2016/09/23/145476.html|title= 井上陽水、宇多田ヒカルを絶賛!「どういう発見があるんだろうと思わせるアーティスト」|date= 2016/09/23|work= エンタメRBB|accessdate=2020/09/29}}</ref>。宇多田の声質については、[[松任谷由実]]や[[平井堅]]も"フラジャイル(か弱い、壊れやすい)"な歌声が聴く人をひきつけると評している<ref>{{Cite news|title=【エンタがビタミン♪】ユーミンが宇多田ヒカルと薬師丸ひろ子の声を絶賛。「“Wの悲劇”は最も好き」<動画あり>|newspaper=Techinsight|date=2014-4-29|author=真紀和泉|url=https://japan.techinsight.jp/2014/04/yakusimaru-iikoe-yuming20140425.html|access-date=2022-9-7}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.musicvoice.jp/news/44240/|title= 平井堅、宇多田ヒカルのブレイクをデビュー前に直感していた|date= 2016/07/25|work= MusicVoice|accessdate=2020/09/29}}</ref>。[[映画監督]]の[[河瀨直美]]は、宇多田の歌詞集に寄稿した際、宇多田の創作のあり方について、「自らの声に力があることを本能的に知っていて、その力にはどんな言葉を用いればより人々にその想いが届くのか...を客観的に見つめている」と評価している<ref>{{Cite || author = 宇多田ヒカル| title = 宇多田ヒカルの言葉| date = 2017| publisher = エムオン・エンターテインメント| isbn = 978-4-7897-3681-7 |at = 桜流し 河瀨直美(映画監督) | ref = harv }}</ref>。[[桑田佳祐]]は自身のラジオ番組で、宇多田の復帰作『[[Fantome]]』を「革命的なものをお作りになった」と絶賛。「平成の『ジョンの魂』、次元が違う、ほとんどビョーキ、もう私はレコーディングも年越しライブもやめます!」と冗談交じりに語った。[[シンガーソングライター]]の[[小田和正]]は同じく宇多田の歌詞集への寄稿で、宇多田の復帰作『[[真夏の通り雨]]』の一節"降り止まぬ 真夏の通り雨"に衝撃を受けたといい、復帰後の宇多田について「あの頃のみずみずしさを失うことなく、感性は圧倒的にその深みを増した。」と評価した<ref>{{Cite || author = 宇多田ヒカル| title = 宇多田ヒカルの言葉| date = 2017| publisher = エムオン・エンターテインメント| isbn = 978-4-7897-3681-7 |at = 「真夏の通り雨」 | ref = harv }}</ref>。宇多田は活動休止中の2013年に、当時[[InterFM]]の執行役員だった[[ピーター・バラカン]]の提案で[[KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru|ラジオ番組]]の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を1年間務めていた。バラカンは、その提案の理由について「ああ、この人(宇多田)ラジオの喋り手として面白いな」と感じていたといい、「単純に言えば月並みではないということ」「他の人があまり注目していない音楽を独自のアンテナで捉えて紹介してくれる。あるいは有名な曲だとしてもその取り上げ方や紹介の仕方にもセンスのある人。」と、音楽の聴き手としての宇多田を評価した<ref name="名前なし-1"/>。
== 受賞歴 ==
{{Main|宇多田ヒカルの受賞とノミネートの一覧}}
『[[日本ゴールドディスク大賞]]』「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を2度、『[[CDショップ大賞]]』などを受賞している。
== ディスコグラフィ ==
{{Main|宇多田ヒカルの作品}}
{{定義リスト2
| 日本語盤スタジオアルバム |
* [[First Love (宇多田ヒカルのアルバム)|First Love]](1999年)
* [[Distance (宇多田ヒカルのアルバム)|Distance]](2001年)
* [[DEEP RIVER]](2002年)
* [[ULTRA BLUE]](2006年)
* [[HEART STATION]](2008年)
* [[Fantome|Fantôme]](2016年)
* [[初恋 (宇多田ヒカルのアルバム)|初恋]](2018年)
* [[BADモード]](2022年)| 英語盤スタジオアルバム |
* [[Precious (Cubic Uのアルバム)|Precious]](1998年)※Cubic U名義
* [[エキソドス (アルバム)|エキソドス]](2004年)※Utada名義
* [[ディス・イズ・ザ・ワン]](2009年)※Utada名義
}}
== 出演 ==
=== ラジオ ===
{| class="wikitable" style="font-size: small"
! width="210"|放送日
! width="250"|番組名
! width="140"|放送局
! width="520"|備考
|-
|1998年10月4日 - 1999年3月28日<br />
!Hikki's Sweet&Sour
|[[InterFM]]
|メジャーデビューより前にスタート<br />再放送2014年2月1日 - 3月29日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000099444 |title=宇多田ヒカルの15年前のラジオレギュラー番組『HIKKI'S SWEET&SOUR』が再放送へ |date=2014-01-30 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>
|-
|1998年10月8日 - 1999年3月
!WARNING HIKKI ATTACK!!
|[[FM NORTH WAVE]]<br />[[CROSS FM]]
|
|-
|1999年10月1日 - 2000年9月22日
![[宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン]]
|[[J-WAVE]]<br />FM NORTH WAVE<br />[[ZIP-FM]]<br />[[FM802]]<br />CROSS FM
|* 2001年3月20日『宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアンスペシャル 〜FROM NY〜』<br />* 2001年7月20日『宇多田ヒカルのTres Bien! Bohemian Summer Special From Tokyo』<br />* 2003年1月13日『宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアンスペシャル FROM TOKYO』<br />* 2009年3月20日<ref group="注釈">FM802は3月22日放送。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/13943 |title=宇多田ヒカル、伝説のラジオ番組が一夜限りの復活 |date=2009-03-03 |work=ナタリー |accessdate=2016-07-20}}</ref>『宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン スペシャル』<br />* 2018年7月16日『宇多田ヒカルのTRÈS BIEN! BOHEMIAN! SPECIAL』<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/286249 |title=宇多田ヒカルのラジオ特番「TRES BIEN! BOHEMIAN! SPECIAL」オンエア日が決定 |date=2018-06-12 |work=ナタリー |accessdate=2018-11-23}}</ref>
|-
|2013年4月16日 - 2014年3月18日
![[KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru|KUMA POWER HOUR]]<br /><small>with Utada Hikaru</small>
|InterFM
|活動休止中<br />月1放送、全9回
|-
|2016年10月11日 - 10月17日<br />の期間に各局で放送<ref name="FantomeHour">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/203156 |title=宇多田ヒカル、全国民放101局でラジオ特番「ファントーム・アワー」OA |date=2016-09-26 |work=ナタリー |accessdate=2018-06-12}}</ref>
!<small>サントリー天然水 presents</small><br />
宇多田ヒカルのファントーム・アワー
|[[日本のラジオ放送局|全国民放ラジオ101局]]
|'''単独アーティストの番組では史上初となる全国101局での放送'''<ref name="FantomeHour" />
|-
|2022年1月19日 - 1月24日の期間に各局で放送<ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/music/news/460103|title= 宇多田ヒカルのラジオ特番「Liner Voice+」OA決定、Spotifyと連動したプレイリストも公開|date= 2021/01/01|work= 音楽ナタリー|accessdate=2022/01/09}}</ref>
!宇多田ヒカル Liner Voice+
|[[J-WAVE]]、[[ZIP-FM]]、[[FM802]]、[[CROSS FM]]、[[FM NORTH WAVE]]
|[[Spotify]]プレイリストとの連動企画。
|}
=== CM ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!企業
!製品・企画名
!楽曲
!出演年
!備考
|-
|rowspan="2"|[[ソニー]]
|Media & Battery RED HOTキャンペーン'99<ref group="注釈">当時所属していた[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]の親会社であった[[東芝]]はソニーのライバル企業であるため、CMに出演することを巡って東芝内部が対立したが、最終的にはイギリスの[[EMI]]本社が仲裁に入ったことで事なきを得たとのこと。</ref>
|[[Addicted To You]]
|1999年 - 2000年
|
|-
|ノイキャン・ワイヤレス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000149459 |title=宇多田ヒカル、Suchmos出演のソニーWEBムービー特別編公開。TVCM放送も |date=2017-11-30 |work=BARKS |accessdate=2018-06-01}}</ref>
|[[あなた (宇多田ヒカルの曲)|あなた]]
|2017年 - 2018年
|
|-
|[[NTTドコモ]]
|[[FOMA]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/6672.html |title=ドコモ、宇多田ヒカル出演のテレビCMを12月から放映 |date=2001-11-14 |work=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[Impress Watch]] |accessdate=2016-07-19}}</ref>
|[[traveling (宇多田ヒカルの曲)|traveling]]
|2001年 - 2002年
|
|-
|[[任天堂]]
|[[ニンテンドーDS]]
|[[イージー・ブリージー|Easy Breezy]]
|2004年 - 2005年
|
|-
|rowspan="7"|[[サントリー食品インターナショナル|サントリー]]
|rowspan="2"|[[ペプシコーラ|ペプシネックス]]<ref name="prtimes2010.9.28">{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000001946.html |title=「ペプシネックス」新TVCM 宇多田ヒカル 5年ぶりのTVCM出演! |date=2010-09-28 |work=PR TIMES |accessdate=2016-07-19}}</ref><ref name="prtimes2010.11.30">{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000005.000001946.html |title=「ペプシネックス」新TVCM「宇多田ヒカルクリスマス」篇 初めて書き下ろしたクリスマスソングを熱唱 |date=2010-11-30 |work=PR TIMES |accessdate=2016-07-19}}</ref>
|[[愛の讃歌#Hymne à l'amour 〜愛のアンセム〜|Hymne à l'amour 〜愛のアンセム〜]]
|rowspan="2"|2010年
|
|-
|[[Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2#収録曲解説とプロモーション|Can't Wait 'Til Christmas]]
|「宇多田ヒカルクリスマス」篇
|-
|rowspan="2"|[[サントリー天然水]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suntory.co.jp/softdrink/news/pr/article/SBF0459.html |title=「サントリー天然水」新TV-CM『水の山行ってきた 南アルプス』篇 オンエア開始 |date=2016-09-21 |publisher=[[サントリー食品インターナショナル]] |accessdate=2016-12-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suntory.co.jp/softdrink/news/pr/article/SBF0543.html |title=「サントリー天然水」新TV-CM『水の山行ってきた 奥大山』篇 オンエア開始 |date=2017-06-16 |publisher=サントリー食品インターナショナル |accessdate=2019-06-01}}</ref>
|[[道 (宇多田ヒカルの曲)|道]]
|2016年
|『水の山行ってきた 南アルプス』篇
|-
|[[大空で抱きしめて]]
|2017年
|『水の山行ってきた 奥大山』篇
|-
|サントリー 南アルプススパークリング<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suntory.co.jp/softdrink/news/pr/article/SBF0676.html |title=「サントリー 南アルプススパークリング」新TV-CM『SWITCH&SPARKLING!』篇 オンエア開始 |date=2018-04-19 |publisher=サントリー食品インターナショナル |accessdate=2019-06-01}}</ref>
|rowspan="2"|[[Play A Love Song]]
|2018年
|『SWITCH&SPARKLING!』篇
|-
|サントリー 天然水スパークリングレモン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suntory.co.jp/softdrink/news/pr/article/SBF0846.html |title= 「サントリー天然水」新TV-CM『スイッチ!なんてカンタンさ!』篇 オンエア開始 |date=2019-05-07 |publisher=サントリー食品インターナショナル |accessdate=2019-06-01}}</ref>
|2019年
|『スイッチ!なんてカンタンさ!』篇
|-
|サントリー天然水<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.suntory.co.jp/softdrink/news/pr/article/SBF0983.html?_ga=2.135725557.558884354.1605202025-505148478.1605014954|title= 宇多田ヒカルさん出演 「サントリー天然水」 新TV-CM 宇多田さんが訪ねたのは“活きた水”が躍動する巨大な「滝」|work= サントリー食品インターナショナル|accessdate=2020/10/17}}</ref>
|[[誰にも言わない]]
|2020年
|『光も風もいただきます。』篇
|-
|[[資生堂]]
|POWER IS YOU
|Find Love
|2021年
|世界ブランド・SHISEIDOによるグローバルキャンペーン
|}
=== テレビ ===
<!-- 単発の音楽番組出演などの記載は不要。「プロジェクト:芸能人」参照 -->
{|class="wikitable" sytle="font-size:small"
!出演日
!テレビ局
!番組名
|-
|2000年6月10日
|rowspan="2"|[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]
|[[ポップジャム]] 宇多田ヒカル完全密着取材!!
|-
|2000年6月17日
|ポップジャム 宇多田ヒカルの密着企画第2弾!
|-
|2001年2月26日
|[[フジテレビ系]]
|『[[HERO (テレビドラマ)|HERO]]』第8話<ref group="注釈">ウェイトレス役で[[カメオ出演]]。</ref>
|-
|2001年3月24日
|NHK総合
|宇多田ヒカル 〜true secret story〜
|-
|2008年3月23日
|[[日本テレビ系]]
|[[Music Lovers]] 特別編~宇多田ヒカル レコーディングスタジオ・スペシャルライブ~
|-
|2011年1月15日
|rowspan="2"|NHK総合
|宇多田ヒカル 〜今のわたし〜<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/43018 |title=宇多田ヒカルがNHKで「今のわたし」を語る特別番組 |date=2011-01-06 |work=ナタリー |accessdate=2016-07-13}}</ref>
|-
|2016年9月22日
|[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]スペシャル 宇多田ヒカル 〜人間・宇多田ヒカル 今「母」を歌う〜<ref>{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/songs/prog.html?fid=160922 |title=これまでの放送 |work=[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]] |publisher=[[日本放送協会]] (NHK) |accessdate=2016-12-26}}</ref>
|-
|2016年9月30日
|フジテレビ系
|rowspan="2"|[[Love music]] 特別編 宇多田ヒカル 〜ライナーノーツ〜<ref>{{Cite web |url=https://www.fujitv.co.jp/lovemusic/backnumber/backnumber.html |title=Back Number |work=[[Love music]] |publisher=フジテレビジョン |accessdate=2016-12-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/203857 |title=宇多田ヒカルのドキュメント番組「ライナーノーツ」CSで拡大版60分放送 |date=2016-10-01 |work=ナタリー |accessdate=2016-12-26}}</ref>
|-
|2016年11月12日<ref group="注釈">9月30日の番組での未放送部分を追加した60分の拡大版。</ref>
|[[フジテレビNEXT]]
|-
|2018年6月30日
|rowspan="2"|NHK総合
|SONGSスペシャル 宇多田ヒカル 〜時を超える言葉〜<ref>{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/songs/prog.html?fid=180630 |title=これまでの放送 |work=SONGS |publisher=日本放送協会 (NHK) |accessdate=2018-08-05}}</ref>
|-
|2018年7月16日
|[[プロフェッショナル 仕事の流儀]] 宇多田ヒカルスペシャル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.nhk.or.jp/professional/x/2018-07-16/21/17082/1669493/ |title=プロフェッショナル 仕事の流儀 宇多田ヒカルスペシャル |work=[[プロフェッショナル 仕事の流儀]] |publisher=日本放送協会 (NHK) |accessdate=2018-08-05}}</ref>
|}
=== NHK紅白歌合戦出場歴 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center"
!年度!!放送回!!回!!曲目!!備考
|-
|2016年||[[第67回NHK紅白歌合戦|第67回]]||初||[[花束を君に]]||トリ前
|}
=== NETFLIX ===
{|class="wikitable" sytle="font-size:small"
!配信開始日
!番組名
|-
|2019年6月26日
|『[[Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018#Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018 (映像作品)|Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018]]』<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.cinra.net/news/20190418-utadahikaru|title= 宇多田ヒカルの12年ぶり国内ツアーが映像作品化 Netflixで配信も|date= 2019/04/18|work= CINRA.NET|accessdate=2020/10/17}}</ref>
|}
=== アニメ ===
* インターネットアニメ『[[ブラック・ジャック]]』([[ピノコ]]役)(2001年<ref name="手塚プロ"/>、2007年11月30日 - <ref group="注釈">「Yahoo!動画」にて有料公開(現在は公開終了)。</ref>)
== ライブ ==
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
! width="280" |日程
! width="500" |タイトル
! width="550" |会場
|-
|1999年4月1日・2日
!LUV LIVE
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">2公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
04/01 梅田HEAT BEAT<br />04/02 [[Zepp|Zepp Tokyo]](ゲスト出演:[[スチャダラパー]])
</div></div>
|-
|1999年7月29日
!<small>[[マクドナルド|McDonald's]] Presents</small><br />宇多田ヒカル LUV LIVE REMIX 〜hello from new york〜{{Refnest|group="注釈"|同年4月に行った『LUV LIVE』の映像をメインとし、リハーサルなどのオフショット映像を加えたビデオ・コンサート<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/1999/001012/ |title=McDonald's Presents 宇多田ヒカル LUV LIVE REMIX〜hello from new york〜 について |date=1999-07-26 |work=Staff Diary |accessdate=2016-07-18}}</ref>。}}
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">7会場
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
07/29 [[Zepp|Zepp Sapporo]]、[[電力ビル|仙台電力ホール]]、[[東京国際フォーラム]] ホールA、[[愛知県勤労会館]]、[[オリックス劇場|大阪厚生年金会館]]、[[広島県立文化芸術ホール|広島郵便貯金ホール]]、[[Zepp|Zepp Fukuoka]]
</div></div>
|-
|1999年8月24日
![[爽健美茶]] Natural Breeze Concert '99<br />WWFチャリティーコンサート{{Refnest|group="注釈"|[[世界自然保護基金]](WWF)の[[チャリティー]]・コンサートとして行われ、抽選となったチケットは8,000人の募集に対する倍率が278倍になった<ref>{{Cite journal |title=16才にしてオリコン・チャート史上最高の記録を達成 宇多田ヒカル |date=1999-12 |journal=“オリコン”ウィーク The Ichiban 2000-Vol.22-No.1 |pages=11-14 |publisher=オリコン}}</ref>。}}
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">1公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
08/24 [[日本武道館]](共演:[[TLC (バンド)|TLC]]、[[モニカ (歌手)|モニカ]])
</div></div>
|-
|2000年6月26日
!BOHEMIAN SUMMER extra<br />〜宇多田ヒカル SECRET LIVE〜 in SHIBUYA
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">1公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
06/26 [[Shibuya O-EAST|渋谷on air east]]
</div></div>
|-
|2000年7月1日 - 8月29日
![[BOHEMIAN SUMMER 2000]]
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">22公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|
07/01 [[国立代々木競技場]]第一体育館<br />07/02 国立代々木競技場第一体育館<br />07/07 [[広島県立総合体育館|広島グリーンアリーナ]]<br />07/08 広島グリーンアリーナ<br />07/15 [[宮城県総合運動公園総合体育館|グランディ21 宮城県総合体育館]]<br />07/16 グランディ21 宮城県総合体育館<br />07/20 [[真駒内屋内競技場|真駒内アイスアリーナ]]<br />07/21 真駒内アイスアリーナ<br />07/26 [[石川県産業展示館]]4号館<br />07/27 石川県産業展示館4号館<br /><del>08/01 アスティとくしま</del><br />08/02 [[徳島県立産業観光交流センター|アスティとくしま]]<br />08/05 [[大阪城ホール]]<br />08/06 大阪城ホール<br />08/11 [[マリンメッセ福岡]]<br />08/12 マリンメッセ福岡<br />08/16 [[名古屋市総合体育館|名古屋レインボーホール]]<br />08/17 名古屋レインボーホール<br />08/21 [[千葉マリンスタジアム]](追加公演)<br />08/22 千葉マリンスタジアム(追加公演)<br />08/23 千葉マリンスタジアム(追加公演)<br />08/29 アスティとくしま(振替公演)<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160923052202/http://www.utadahikaru.jp/staff-d-bn/2000/001035/ |title=8月1日宇多田ヒカル徳島公演振替公演決定のお知らせ(インターネットアーカイブより)|date=2000-08-07 |work=Staff Diary |accessdate=2020-02-13}}</ref>
}}
</div></div>
|-
|2004年2月3日 - 2月10日
![[Utada Hikaru in BudoKan 2004 ヒカルの5|Utada Hikaru in BudoKan 2004 「ヒカルの5」]]
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">5公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
02/03 日本武道館<br />02/04 日本武道館<br />02/07 日本武道館<br />02/08 日本武道館<br />02/10 日本武道館
</div></div>
|-
|2006年7月1日 - 9月10日
![[UTADA UNITED 2006]]
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">22公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|
07/01 グランディ21 宮城県総合体育館<br />07/02 グランディ21 宮城県総合体育館<br />07/08 [[静岡県小笠山総合運動公園アリーナ|エコパアリーナ]]<br />07/09 エコパアリーナ<br />07/15 マリンメッセ福岡<br />07/16 マリンメッセ福岡<br />07/25 大阪城ホール<br />07/26 大阪城ホール<br />08/04 [[朱鷺メッセ]] 新潟コンベンションセンター<br />08/05 朱鷺メッセ 新潟コンベンションセンター<br />08/08 名古屋レインボーホール<br />08/09 名古屋レインボーホール<br />08/17 [[さいたまスーパーアリーナ]]<br />08/18 さいたまスーパーアリーナ<br />08/24 真駒内アイスアリーナ<br />08/25 真駒内アイスアリーナ<br />08/29 [[愛媛県武道館]]<br />08/30 愛媛県武道館<br />09/02 広島グリーンアリーナ<br />09/03 広島グリーンアリーナ<br />09/09 国立代々木競技場第一体育館<br />09/10 国立代々木競技場第一体育館
}}
</div></div>
|-
|2006年7月28日
!One Night Magic
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">1公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
07/28 [[Zepp|Zepp Osaka]]
</div></div>
|-
|2010年1月15日 - 2月12日
![[Utada/Utada Hikaru: In The Flesh 2010|Utada "In The Flesh" 2010 Tour]]
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">10公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|
01/15 Pipeline Cafe([[ホノルル]])<br />01/19 House Of Blues([[ロサンゼルス]])<br />01/21 The Showbox([[シアトル]])<br />01/24 The Fillmore([[サンフランシスコ]])<br />01/30 House Of Blues([[ラスベガス]])<br />02/02 House Of Blues([[シカゴ]])<br />02/05 Paradise Rock Club([[ボストン]])<br />02/08 Irving Plaza([[ニューヨーク]])<br />02/11 O2 Academy Islington([[ロンドン]])<br />02/12 O2 Academy Islington(ロンドン)
}}
</div></div>
|-
|2010年12月8日・9日
![[WILD LIFE (映像作品)|WILD LIFE]]
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">2公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
12/08 [[横浜アリーナ]]<br />12/09 横浜アリーナ
</div></div>
|-
|2018年11月6日 - 12月9日
! [[Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018]]
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">12公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
{{Columns-list|2|
11/06 横浜アリーナ<br />11/07 横浜アリーナ<br />11/14 マリンメッセ福岡<br />11/15 マリンメッセ福岡<br />11/22 [[名古屋市総合体育館|日本ガイシホール]]<br />11/23 日本ガイシホール<br />11/28 大阪城ホール<br />11/29 大阪城ホール<br />12/04 さいたまスーパーアリーナ<br />12/05 さいたまスーパーアリーナ<br />12/08 [[幕張メッセ]]国際展示場9〜11ホール<br />12/09 幕張メッセ国際展示場9〜11ホール
}}
</div></div>
|-
|2018年11月17日
!伯耆国『大山開山 1300年祭』記念 宇多⽥ヒカル スペシャルライブ<br /><small>supported by [[サントリー天然水]]</small>
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:left;">1公演
</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
11/17 [[鳥取県立県民文化会館|とりぎん文化会館]] 梨花ホール
</div></div>
|}
== ネットイベント ==
{| class="wikitable" style="font-size: small"
!width="150"|開催日
!width="240"|イベント名
!width="220"|披露曲
!width="200"|備考
|-
|2003年1月19日
![[20代はイケイケ!]]
|「[[COLORS (宇多田ヒカルの曲)|COLORS]]」<br />「[[少年時代 (井上陽水の曲)]]」(カバー)<br />「[[COLORS (宇多田ヒカルの曲)|Simple And Clean]]」
|宇多田の20歳の誕生日に開催された<ref name="イケイケ" />。
|-
|2005年11月11日{{Refnest|group="注釈"|ストリーミング生配信ではなく、ファイルをダウンロードする配信形式で行われ、ダウンロードは同月19日まで、ファイル再生はその翌日20日まで可能だった<ref name="ネットイベント1" />。}}
!Internet Live Talk & Live<br />“Be My Last”
|「[[Be My Last]]」
|
|-
|2005年12月22日{{Refnest|group="注釈"|前月開催のイベントと同じく、ダウンロード方式で行われた。ファイル再生可能期間は、翌年1月20日まで<ref name="ネットイベント2" />。}}
!Internet Live Talk & Live<br />['05以上 '06未満]
|「[[ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス|Boulevard of Broken Dreams]]」<br />(カバー)<br />「[[Passion (宇多田ヒカルの曲)|Passion ~after the battle~]]」
|
|-
|2016年12月9日
![[30代はほどほど。]]
|「[[忘却 (曲)|忘却]] featuring [[KOHH]]」<br />「[[Fantome#音楽性|人魚]]」
|宇多田のデビュー記念日に開催<br />KOHH、[[PUNPEE]]がゲスト参加した<ref name="ほどほど" />。
|-
|2022年1月19日
![[BADモード#Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios|Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios]]
|アルバム『[[BADモード]]』収録曲<ref name="natalie20211209">{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/music/news/456833|title= 本日デビュー23周年の宇多田ヒカルがニューアルバム詳細発表、「君に夢中」MV公開|date= 2021/12/09|work= 音楽ナタリー|accessdate=2021/12/08}}</ref>
|
|}
== タイアップ曲一覧 ==
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
!年
!曲名
!タイアップ先
|-
|rowspan="2"|{{Nowrap|1998年}}
|[[Automatic/time will tell|Automatic]]
|[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系『[[笑う犬|笑う犬の生活-YARANEVA!!-]]』エンディングテーマ
|-
|[[Automatic/time will tell|time will tell]]
|フジテレビ系『[[ライオンのごきげんよう]]』エンディングテーマ
|-
|rowspan="4"|1999年
|[[Movin' on without you]]
|[[日産自動車]]「[[日産・テラノ|テラノ]]」[[コマーシャルソング|CMソング]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nissan.co.jp/AP-CONTENTS/POSTOFFICE/ANSWERS/3438.html |title=テラノCM情報 |publisher=[[日産自動車]] |accessdate=2016-07-19}}</ref>
|-
|[[First Love (宇多田ヒカルの曲)|First Love]]
|[[TBSテレビ|TBS]]系ドラマ『[[魔女の条件]]』主題歌
|-
|Never Let Go
|TBS系ドラマ『魔女の条件』挿入歌
|-
|[[Addicted To You]]
|[[ソニー|Sony]]「Media & Battery RED HOTキャンペーン'99」CMソング
|-
|rowspan="3"|2001年
|[[Can You Keep A Secret?]]
|フジテレビ系ドラマ『[[HERO (テレビドラマ)|HERO]]』主題歌
|-
|[[FINAL DISTANCE]]
|[[NTTドコモ]]「[[M-stage]]」CMソング
|-
|[[traveling (宇多田ヒカルの曲)|traveling]]
|NTTドコモ「[[FOMA]]」CMソング
|-
|rowspan="5"|2002年
|rowspan="2"|[[光 (宇多田ヒカルの曲)|光]]
|[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]ゲームソフト『[[キングダム ハーツ|KINGDOM HEARTS]]』テーマソング
|-
|[[アサヒ飲料]]「[[三ツ矢サイダー]]キングダムハーツデザイン」CMソング
|-
|[[SAKURAドロップス/Letters|SAKURAドロップス]]
|TBS系ドラマ『[[First Love (テレビドラマ)|First Love]]』主題歌
|-
|[[SAKURAドロップス/Letters|Letters]]
|NTTドコモ「FOMA」CMソング
|-
|Simple And Clean
|スクウェアゲームソフト『[[キングダム ハーツ|KINGDOM HEARTS FINAL MIX]]』テーマソング
|-
|2003年
|[[COLORS (宇多田ヒカルの曲)|COLORS]]
|[[トヨタ自動車]]「[[トヨタ・ウィッシュ|WiSH]]」CMソング
|-
|rowspan="3"|2004年
|[[誰かの願いが叶うころ]]
|[[松竹]]映画『[[CASSHERN]]』主題歌
|-
|Easy Breezy
|[[任天堂]]「[[ニンテンドーDS]]」CMソング
|-
|光
|[[スクウェア・エニックス]]ゲームソフト『[[キングダム ハーツ チェイン オブ メモリーズ|KINGDOM HEARTS CHAIN OF MEMORIES]]』テーマソング
|-
|rowspan="2"|2005年
|[[Be My Last]]
|[[東宝]]系映画『[[春の雪 (映画)|春の雪]]』主題歌
|-
|[[Passion (宇多田ヒカルの曲)|Passion]]
|スクウェア・エニックスゲームソフト『[[キングダム ハーツII|KINGDOM HEARTS II]]』テーマソング
|-
|rowspan="4"|2006年
|[[Keep Tryin']]
|[[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]]「[[LISMO|LISMO!]] au LISTEN MOBILE SERVICE」CMソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000017818 |title=KDDIの新サービス「LISMO」と宇多田ヒカルがタッグ! |date=2006-01-20 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>
|-
|rowspan="2"|This Is Love
|[[日清食品]][[カップヌードル]]「[[FREEDOM-PROJECT]]」CMソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000022531 |title=宇多田ヒカル、SFアニメのテーマソングに決定 |date=2006-04-25 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>
|-
|[[OVA]]『FREEDOM』テーマソング
|-
|[[ぼくはくま]]
|[[日本放送協会|NHK]]『[[みんなのうた]]』2006年10月〜11月のうた
|-
|rowspan="6"|2007年
|[[Flavor Of Life|Flavor Of Life -Ballad Version-]]
|TBS系ドラマ『花より男子2(リターンズ)』イメージソング
|-
|Sanctuary
|スクウェア・エニックスゲームソフト『[[キングダム ハーツII|KINGDOM HEARTS II FINAL MIX+]]』テーマソング
|-
|[[Beautiful World/Kiss & Cry|Kiss & Cry]]
|日清食品カップヌードル「FREEDOM-PROJECT」CMソング
|-
|Fly Me To The Moon (In Other Words) -2007 MIX-
|クロックワークス/カラー映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』予告編テーマソング
|-
|[[Beautiful World/Kiss & Cry|Beautiful World]]
|[[クロックワークス]]/[[カラー (映像制作会社)|カラー]]映画『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』テーマソング
|-
|[[HEART STATION/Stay Gold|Stay Gold]]
|[[花王]]「[[アジエンス]]」CMソング
|-
|rowspan="6"|2008年
|[[HEART STATION/Stay Gold|HEART STATION]]
|レーベルモバイル「[[レコチョク|レコード会社直営♪]]」CMソング
|-
|rowspan="2"|Fight The Blues
|[[EMIミュージック・ジャパン]]「モバえみ」CMソング
|-
|TBS系『[[報道特集 (TBS)|報道特集NEXT]]』テーマソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000038718 |title=宇多田ヒカル、初の報道番組とのタイアップ決定 |date=2008-03-20 |work=BARKS |accessdate=2016-07-13}}</ref>
|-
|[[Prisoner Of Love]]
|フジテレビ系ドラマ『[[ラスト・フレンズ]]』主題歌
|-
|Prisoner Of Love -Quiet Version-
|フジテレビ系ドラマ『ラスト・フレンズ』挿入歌
|-
|Eternally -Drama Mix-
|フジテレビ系ドラマ『[[イノセント・ラヴ]]』主題歌
|-
|rowspan="2"|2009年
|Passion
|スクウェア・エニックスゲームソフト『[[キングダム ハーツ 358/2 Days|KINGDOM HEARTS 358/2 Days]]』テーマソング
|-
|[[Beautiful World/Kiss & Cry|Beautiful World -PLANiTb Acoustica Mix-]]
|クロックワークス/カラー映画『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』テーマソング
|-
|rowspan="6"|2010年
|rowspan="2"|光
|スクウェア・エニックスゲームソフト『[[キングダム ハーツ バース バイ スリープ|KINGDOM HEARTS Birth by Sleep]]』テーマソング
|-
|スクウェア・エニックスゲームソフト『[[キングダム ハーツ コーデッド|KINGDOM HEARTS Re:coded]]』テーマソング
|-
|Hymne à l'amour 〜愛のアンセム〜
|rowspan="2"|サントリー食品「[[ペプシコーラ|ペプシネックス]]」CMソング<ref name="prtimes2010.9.28"/><ref name="prtimes2010.11.30"/>
|-
|Can't Wait 'Til Christmas
|-
|[[Goodbye Happiness]]
|「レコチョク」TVCMソング
|-
|嵐の女神
|[[森永製菓]]「1チョコ for 1スマイル」キャンペーンソング<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.morinaga.co.jp/public/newsrelease/web/fix/20101122_02.pdf |title=宇多田ヒカルさんが「1 チョコ for 1 スマイル」を応援! 新曲「嵐の女神」がキャンペーンソングに決定 |date=2010-11-22 |format=PDF |publisher=[[森永製菓]] |accessdate=2016-07-13}}</ref>
|-
|2011年
|[[Show Me Love (Not A Dream)]]
|東宝系映画『[[あしたのジョー]]』主題歌
|-
|2012年
|[[桜流し]]
|[[ティ・ジョイ]]/カラー映画『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]]』テーマソング
|-
|2014年
|First Love
|[[東日本電信電話|NTT東日本]]企業広告「もっと深く篇」「もっと強く篇」CMソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000009499.html |title=「つなぐ、を、つよく。」NTT東日本の新CM |date=2014-03-10 |work=PR TIMES |accessdate=2016-07-19}}</ref>
|-
|rowspan="4"|2016年
|[[花束を君に]]
|NHK[[連続テレビ小説]]『[[とと姉ちゃん]]』主題歌
|-
|[[真夏の通り雨]]
|[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系『[[news zero|NEWS ZERO]]』エンディングテーマ
|-
|[[二時間だけのバカンス|二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎]]
|「レコチョク」TVCMソング
|-
|[[道 (宇多田ヒカルの曲)|道]]
|[[サントリー食品インターナショナル]]「[[サントリー天然水]]『水の山行ってきた 南アルプス』篇」CMソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/202556 |title=宇多田ヒカル「サントリー天然水」で6年ぶりCM出演、南アルプスで登山ロケ |work=ナタリー |date=2016-09-21 |accessdate=2016-09-21}}</ref>
|-
|rowspan="7"|2017年
|光 -Ray Of Hope MIX-
|スクウェア・エニックスゲームソフト『[[キングダム ハーツ HD 2.8 ファイナル チャプター プロローグ]]』テーマソング
|-
|Simple And Clean –Ray Of Hope MIX–
|スクウェア・エニックスゲームソフト『キングダム ハーツ HD 2.8 ファイナル チャプター プロローグ』(海外版)テーマソング
|-
|人魚
|『大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち』テーマソング
|-
|[[大空で抱きしめて]]
|サントリー食品インターナショナル「サントリー天然水『水の山行ってきた 奥大山』篇」CMソング
|-
|[[Forevermore (宇多田ヒカルの曲)|Forevermore]]
|TBS系ドラマ『[[ごめん、愛してる]]』主題歌
|-
|rowspan="2"|[[あなた (宇多田ヒカルの曲)|あなた]]
|東宝系映画『[[DESTINY 鎌倉ものがたり]]』主題歌
|-
|Sony「ノイキャン・ワイヤレス」CMソング
|-
|rowspan="3"|2018年
|[[初恋 (宇多田ヒカルの曲)|初恋]]
|TBS系ドラマ『[[花のち晴れ〜花男 Next Season〜]]』イメージソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/276812 |title=宇多田ヒカルが「花男」と約11年ぶりタッグ、ドラマ初回で新曲解禁 |date=2018-04-06 |work=ナタリー |accessdate=2018-06-01}}</ref>
|-
|[[Play A Love Song]]
|サントリー食品インターナショナル「サントリー 南アルプススパークリング『SWITCH & SPARKLING!』篇」CMソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/278708 |title=宇多田ヒカル「南アルプスの天然水スパークリング」新CMに出演、新曲配信決定 |date=2018-04-19 |work=ナタリー |accessdate=2018-06-01}}</ref>
|-
|Good Night
|東宝系映画『[[ペンギン・ハイウェイ]]』主題歌<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/282331 |title=宇多田ヒカル、アニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」主題歌を書き下ろし |date=2018-05-16 |work=ナタリー |accessdate=2018-11-23}}</ref>
|-
|rowspan="5"|2019年
|[[誓い (宇多田ヒカルの曲)|誓い]]
|スクウェア・エニックスゲームソフト『[[キングダム ハーツIII]]』テーマソング<ref name="ナタリー2018.2">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/269070 |title=宇多田ヒカル「キングダム ハーツ」最新作に新曲「誓い」、トレイラーが本日解禁 |date=2018-02-10 |work=ナタリー |accessdate=2018-06-01}}</ref><ref name="BARKS2018.6">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000156167 |title=宇多田ヒカル、新曲「誓い」がテーマ曲を務める『キングダム ハーツ3』最新トレーラー公開 |date=2018-06-12 |work=BARKS |accessdate=2018-06-12}}</ref>
|-
|[[誓い (宇多田ヒカルの曲)|Don't Think Twice]]
|スクウェア・エニックスゲームソフト『キングダム ハーツIII』(海外版)テーマソング<ref name="ナタリー2018.2"/><ref name="BARKS2018.6"/>
|-
|[[Face My Fears]]
|スクウェア・エニックスゲームソフト『キングダム ハーツIII』オープニングテーマ<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/301523 |title=宇多田ヒカルとスクリレックスが「KINGDOM HEARTS III」OPテーマでコラボ |date=2018-09-28 |work=ナタリー |accessdate=2018-11-23}}</ref>
|-
|嫉妬されるべき人生
|松竹映画『[[パラレルワールド・ラブストーリー]]』主題歌<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/321400 |title=宇多田ヒカル楽曲が玉森裕太主演「パラレルワールド・ラブストーリー」主題歌に |date=2019-02-26 |work=ナタリー |accessdate=2019-06-01}}</ref>
|-
|Play A Love Song
|サントリー食品インターナショナル「サントリー 天然水スパークリングレモン『スイッチ!なんてカンタンさ!』篇」CMソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/330371 |title=宇多田ヒカルが自転車に乗って風を切る「サントリー天然水」新CM |date=2019-05-07 |work=ナタリー |accessdate=2019-06-01}}</ref>
|-
|rowspan="2"|2020年
|[[Time (宇多田ヒカルの曲)|Time]]
|日本テレビ系ドラマ 『[[美食探偵 明智五郎]]』主題歌
|-
|[[誰にも言わない]]
|サントリー食品インターナショナル「[[サントリー天然水]] 『光も風もいただきます。』篇」CMソング
|-
|rowspan="5"|2021年
|[[One Last Kiss]]
|rowspan="2"|東宝/[[東映]]/カラー映画『[[シン・エヴァンゲリオン劇場版]]』テーマソング
|-
|Beautiful World (Da Capo Version)
|-
|[[PINK BLOOD]]
|NHK[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]アニメ『[[不滅のあなたへ#テレビアニメ|不滅のあなたへ]]』オープニングテーマ
|-
|Find Love
|[[資生堂]]「POWER IS YOU」キャンペーンソング
|-
|[[君に夢中]]
|TBS系ドラマ『[[最愛 (テレビドラマ)|最愛]]』主題歌<ref>{{Cite web|和書|url= https://natalie.mu/music/news/445560|title= 宇多田ヒカルが吉高由里子主演ドラマの主題歌担当、殺人事件の謎に迫るサスペンスラブストーリーを彩る|date= 2021/09/17|work= 音楽ナタリー|accessdate=2021/09/25}}</ref>
|-
|rowspan="2"|2022年
|Somewhere Near Marseilles ―マルセイユ辺り―
|"CARTIER TRINITY FOR CHITOSE ABE OF sacai"キャンペーンソング
|-
|PINK BLOOD
|NHKEテレアニメ『[[不滅のあなたへ#テレビアニメ|不滅のあなたへ シーズン2]]』オープニングテーマ
|-
|2023年
|Gold ~また逢う日まで~
|東宝/[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント (日本)|ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]映画『[[キングダム 運命の炎]]』主題歌<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/527020|title=宇多田ヒカル、映画「キングダム 運命の炎」主題歌担当「今の私が思う幸福とはなにかの歌ができました」|date=2023-06-02|website=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2023-06-02}}</ref>
|-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}}
* [[ニューヨーク州出身の人物一覧]]
* [[ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・個人)]]
* [[音楽に関する世界一の一覧]]
* [[日本一の一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Hikaru Utada}}
; 公式ウェブサイト
* {{Official website|https://www.utadahikaru.jp/|Hikaru Utada Official Website}}
* {{Official website|https://www.u3music.com/|U3MUSIC INC}}
; レコード会社ウェブサイト
* [https://www.sonymusic.co.jp/artist/utadahikaru/ 宇多田ヒカル] - [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|SonyMusic]]
* [https://www.universal-music.co.jp/utada-hikaru/ 宇多田ヒカル] - [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]および[[EMIミュージック・ジャパン]]
; SNS・YouTube
* {{Twitter|utadahikaru|宇多田ヒカル}}
* {{Twitter|hikki_staff|宇多田ヒカルSTAFF}}
* {{Instagram|kuma_power|Hikaru Utada}}
* {{YouTube|user=hikki|Hikaru Utada Official YouTube Channel}}
; 作品リスト・データベース
* {{allcinema name|292626}}
* {{kinejun name|195921}}
* {{IMDb name|id=0882483|name=Hikaru Utada}}
* {{Movie Walker name|id=181412|name=宇多田ヒカル}}
* {{Tvdrama-db name}}
{{宇多田ヒカル}}
{{日本ゴールドディスク大賞アーティスト・オブ・ザ・イヤー}}
{{スペースシャワーTV V.I.P.}}
{{CDショップ大賞}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:うたた ひかる}}
[[Category:宇多田ヒカル|*]]
[[Category:日系アメリカ人のミュージシャン]]
[[Category:日本の女性シンガーソングライター]]
[[Category:日本の女性ポップ歌手]]
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[[Category:英語と日本語のネイティブ]]
[[Category:在イギリス・アメリカ人]]
[[Category:日本の音楽プロデューサー]]
[[Category:ニューヨーク市出身の人物]]
[[Category:1983年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T14:09:16Z | 2023-12-31T14:19:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E7%94%B0%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%AB |
1,821 | 実空間法 | 実空間法()とは、実空間での波動関数を、FET(有限要素法)や、差分方程式を直接解いて求める方法。
これに対し、通常のバンド計算では、周期的境界条件の下に、逆格子空間での計算を必要とする。
実空間法には次のような利点が存在する。 | [
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] | 実空間法とは、実空間での波動関数を、FET(有限要素法)や、差分方程式を直接解いて求める方法。 これに対し、通常のバンド計算では、周期的境界条件の下に、逆格子空間での計算を必要とする。 | {{読み仮名|'''実空間法'''|じつくうかんほう}}とは、[[実空間]]での[[波動関数]]を、FET([[有限要素法]])や、[[差分方程式]]を直接解いて求める方法。
これに対し、通常の[[バンド計算]]では、[[周期的境界条件]]の下に、[[逆格子空間]]での計算を必要とする<ref>バンド計算において、電子間の[[クーロン相互作用]]によるクーロン項(ハートリー項)の計算は、逆格子空間で計算する場合、[[畳み込み]]の形にでき、この場合、FFTを利用して高速な計算ができる。実空間では、[[ポアソン方程式]]を解いて求めるが、逆格子空間における場合よりも多くの計算量を要する。</ref>。
== 利点 ==
実空間法には次のような利点が存在する。
#実空間のみで計算が行われるので、FFT([[高速フーリエ変換]])による計算を必要としない。FFTの計算部分は[[並列化]]が難しく、これを使用しないことは計算を並列化する上で有利となる。
#[[境界条件]]を自由に設定でき、周期的境界条件に縛られない。したがって[[電場]]のような外場を課した系に対しての電子状態計算も、外場に細工することなし<ref>周期的境界条件を前提とした、通常のバンド計算で電場のような外場を扱う場合は、電場(外場)の形をのこぎり状に変形し(無限の電場の傾きを周期的境界条件下では実現できないため)、無理に周期系でも矛盾が生じないようにさせて計算を行う。このため計算の信頼性が、外場のないバンド計算の場合より落ちてしまう。</ref>に可能となる。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[第一原理バンド計算]]
{{DEFAULTSORT:しつくうかんほう}}
[[Category:バンド計算]] | null | 2021-08-26T02:22:50Z | false | false | false | [
"Template:読み仮名"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E7%A9%BA%E9%96%93%E6%B3%95 |
1,822 | すごろく | すごろく(双六、槊)とは、サイコロを振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づける盤上遊戯(ボードゲーム)である。競争ゲームの一種。
すごろくには二人で対戦する盤双六(ばんすごろく)と複数人が競争して上がりを目指す絵双六(えすごろく)の2種類がある。江戸時代には盤双六と絵双六が共にすごろくと呼ばれていたため、混乱が生じた。盤双六は幕末期に廃れ、現在では、双六と言えばほぼ確実に絵双六を指す。
盤双六(ばんすごろく)は二人で遊ぶボードゲームであり、古い形のバックギャモンの一種である。盤上に配置された双方15個の石をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。片方のプレイヤーは黒い石を、もう一方のプレイヤーは白い石を使う。平安時代は上手が黒とされ、江戸時代には上手が白とされた。
盤双六の起源についてはバックギャモン#歴史を参照。中国にはシルクロードを経由して入ってきた。魏の曹植が盤双六を発明したというのは伝説にすぎない。日本には遅くとも7世紀には中国から伝来した。
盤双六は広く知られた文学作品にも登場している。
盤双六はゲームの進行に際してさいころによる偶然の要素が大きいため、賭博に用いられた。『日本書紀』によれば、689年12月に持統天皇によって初めての禁止令が出されている。正倉院宝物中には聖武天皇の遺愛品とされる木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)が納められている。
鎌倉時代の宮廷の実力者西園寺公衡や室町時代の伏見宮貞成親王、戦国時代の山科言継の日記にも盤双六の記録が残されている。
雛飾りの雛道具では碁盤・将棋盤・双六盤の三面を婚礼調度のミニチュアとして並べることがある。盤双六はかつて上流階級の婦女子のたしなみでもあった。
盤双六は文化文政時代には衰微していた。第二次世界大戦後、舶来のバックギャモンが遊ばれるようになる。
絵双六(えすごろく、繪雙六)というのは、上記の盤双六の影響を受けて発達した遊戯で、紙に絵を描いてさいころを振って絵の上のマスの中にある駒を進めて上がりを目指すものである。ただし、かなり早い段階で(賭博の道具でもあった)盤双六とは別箇の発展を遂げていった。
ただし、最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期(15世紀後半)には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は浄土宗系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の井原西鶴の作品(『好色一代男』など)には浄土双六がしばしば登場する。文政年間の曲亭馬琴の『耽奇漫録』によれば、当時浄土双六には大きく分けて4種類あったとする。ほぼ同時期に書かれた柳亭種彦の『還魂紙料』には、双六の起源について、
という3つの説を述べ、選仏図説が一番もっともらしいとしている。
江戸時代の元禄年間には、道中双六・野郎双六(芝居双六)などが絵入りの双六が遊ばれるようになり、後期になると勧善懲悪や立身出世などのテーマ性を持ったものや浮世絵師による豪華な双六も出現するようになる。その一方で、春画などを用いたり、賭博性を持たせた双六も存在したため、天保の改革などにおいては禁圧の対象となっている。
明治時代以後は文明開化・富国強兵をテーマにしたものも現れ、次第に国民教化の手段として用いられるようになっていった。また、児童雑誌の付録として欠かせないものとなった。
戦後、遊びの多様化や社会の変化から双六は衰退したと言われている。しかし、今日のボードゲームやテレビゲームの中にさいころ(あるいは代用品としてルーレット)を用いてゲームを進行させる作品が多く存在しており、これらを双六の進化・発展した姿であると考えることもできる。
なお、絵双六そのものは日本独自のものであるが、西洋にもバックギャモンの影響を受けたと見られる、鵞鳥のゲームと呼ばれる双六に近い趣旨のゲームが14世紀頃から行われており、20世紀に入ってこうしたゲームの影響を受けてモノポリーや人生ゲームが発明されることとなった。
さいころを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになった(「雙」・「双」は同じ意味を持つ)という説がある。しかし、日本の遊戯の歴史における先駆的な研究家である増川宏一は、江戸時代以前の日記などの記録類においては誤記と思われる少数例を除けば「雙六」と「双六」の使い分けがはっきりとしていること、日本語以外の言語でも盤双六系遊戯と絵双六系遊戯にはそれぞれ違う単語があてられているのがほとんどであることから、両者は同じ「すごろく」であっても全く別な遊戯であり、雙六(盤双六)に「双六」という表記を用いるのは不適切であると唱えている。
5世紀はじめに漢訳された『涅槃経』に見える「波羅塞戯」(はらそくぎ)が盤双六のことであるという。「波羅塞」はサンスクリットprāsaka(さいころ)の音訳。後に北魏では「握槊」(あくさく)と呼ばれ、南朝では「双六・双陸」(そうりく)と呼ばれた。唐以降は「双六・双陸」と呼ばれるようになった。(陸は六の大字。)日本語では古くは「すぐろく」と言った。これは「双六(または双陸)」の漢字音に由来すると考えられるが、「双」を「すぐ」と読むのは異例である(「す」の母音は上古音的であり、また /ŋ/ を「ぐ」のようにガ行で写すのは「愛宕(あたご・おたぎ)」などの固有名詞以外では珍しい)。 | [
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"text": "5世紀はじめに漢訳された『涅槃経』に見える「波羅塞戯」(はらそくぎ)が盤双六のことであるという。「波羅塞」はサンスクリットprāsaka(さいころ)の音訳。後に北魏では「握槊」(あくさく)と呼ばれ、南朝では「双六・双陸」(そうりく)と呼ばれた。唐以降は「双六・双陸」と呼ばれるようになった。(陸は六の大字。)日本語では古くは「すぐろく」と言った。これは「双六(または双陸)」の漢字音に由来すると考えられるが、「双」を「すぐ」と読むのは異例である(「す」の母音は上古音的であり、また /ŋ/ を「ぐ」のようにガ行で写すのは「愛宕(あたご・おたぎ)」などの固有名詞以外では珍しい)。",
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}
] | すごろく(双六、槊)とは、サイコロを振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づける盤上遊戯(ボードゲーム)である。競争ゲームの一種。 | {{otheruses||DVDレコーダー|スゴ録|劇団|劇団すごろく|[[テレビ山梨]]の情報番組|スゴろく}}
[[ファイル:WUL-bunko10 08489 明治少年双六.pdf|サムネイル|明治少年双六。[[巌谷小波]]案、[[武内桂舟]]画、1898年 ]]
'''すごろく'''('''双六、槊''')とは、[[サイコロ]]を振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づける[[盤上遊戯]](ボードゲーム)である。[[ボードゲーム|競争ゲーム]]の一種。
== 概要 ==
'''すごろく'''には二人で対戦する'''盤双六'''(ばんすごろく)と複数人が競争して上がりを目指す'''絵双六'''(えすごろく)の2種類がある。[[江戸時代]]には盤双六と絵双六が共に'''すごろく'''と呼ばれていたため、混乱が生じた。盤双六は[[幕末|幕末期]]に廃れ、現在では、双六と言えばほぼ確実に絵双六を指す。
{{Main2|また、「盤双六」|バックギャモン}}
== 盤双六 ==
{{File clip|Chouju_1st_scroll-06.jpg|width=200|0|5|0|85|w=3803|h=407|盤を担いで運ぶ猿(「[[鳥獣戯画]]」(12世紀)より)}}
{{File clip|Haseo-zoshi-1.jpg|width=200|0|0|5|30|w=600|h=300|[[朱雀門]]の鬼と双六を打つ[[紀長谷雄]](「[[長谷雄草紙]]」(14世紀)より)}}
[[ファイル:Hikone Sugoroku.jpg|thumb|200px|盤双六で遊ぶ様子(「[[彦根屏風]]」(17世紀前期)より)]]
'''盤双六'''(ばんすごろく)は二人で遊ぶ[[ボードゲーム]]であり、古い形の[[バックギャモン]]の一種である。盤上に配置された双方15個の石をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。片方のプレイヤーは黒い石を、もう一方のプレイヤーは白い石を使う。平安時代は上手が黒とされ、江戸時代には上手が白とされた。
* さいころの目に合わせて二つの石を動かすか、あるいは一つの石を二回進めることができる。後戻りはできない。相手の石が二つ以上あるマス目には進めない。
* 石をすべて内地(インナーボード)に入れた段階で勝ち(バックギャモンのベアリングイン相当)。これを「入勝(いりがち)」という。
* 相手の石が一つだけ存在するマス目に石を移動した場合、相手のその石(「端石」、ブロットに相当)を一時的にゲームから取り除くことができる。これを「切る」という。
* 切られた石はマス目の外に置かれる。石を切られたプレーヤーは自分の手番が来たとき、切られた石を動かしてマス目に戻さなければ他の石を動かせない。
* 相手が進めないマス目を六つ連続で作ることを「蒸す」といい、重要な戦術としていた。([[上田竹翁]]の『新撰雙陸独稽古』明治三十年、青木嵩山堂による[{{NDLDC|861508/1}}])
* [[バックギャモン#ダブルおよびダブリングキューブ|ダブリングキューブ]]はない。(ダブリングキューブは1920年代にアメリカで発明された)
=== 源流 ===
盤双六の起源については[[バックギャモン#歴史]]を参照。[[中国]]には[[シルクロード]]を経由して入ってきた。[[魏 (三国)|魏]]の[[曹植]]が盤双六を発明した<ref>『事物紀原』投子「『続事始』曰陳思王曹子建制双陸、投子二。」</ref>というのは伝説にすぎない。日本には遅くとも7世紀には中国から伝来した。
=== 文学 ===
盤双六は広く知られた文学作品にも登場している。
* [[清少納言]]『[[枕草子]]』第一三四段(11世紀)
{{Quote|つれづれなぐさむもの。碁。双六。物語。}}
* [[紫式部]]『[[源氏物語]]』[[常夏]](11世紀)
{{Quote|双六をぞ打ちたまふ。手をいと切におしもみて、「小賽、小賽」と斯ふ声ぞ、いと舌疾きや。}}
* 『[[平家物語]]』巻第一・願立(13世紀)
{{Quote|「[[鴨川 (淀川水系)|賀茂河]]の水、双六の賽、[[僧兵|山法師]]。是ぞわが心にかなはぬもの」と、[[白河院]]も仰せなりけるとかや。}}
* [[卜部兼好|吉田兼好]]『[[徒然草]]』第一一〇段(14世紀)
{{Quote|双六の上手といひし人に、その行を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手かとく負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」といふ。}}
=== 隆盛と衰退 ===
盤双六はゲームの進行に際してさいころによる偶然の要素が大きいため、[[賭博]]に用いられた。『[[日本書紀]]』によれば、[[689年]]12月に[[持統天皇]]によって初めての禁止令<ref>『日本書紀』、巻三十</ref>が出されている。[[正倉院]]宝物中には[[聖武天皇]]の遺愛品とされる木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)が納められている<ref>“[https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures/?id=0000010086 木画紫檀双六局]”、正倉院宝物紹介(宮内庁)</ref>。
[[鎌倉時代]]の宮廷の実力者[[西園寺公衡]]や[[室町時代]]の[[伏見宮貞成親王]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[山科言継]]の日記にも盤双六の記録が残されている。
[[雛飾り]]の雛道具では碁盤・将棋盤・双六盤の三面を婚礼調度のミニチュアとして並べることがある。盤双六はかつて上流階級の婦女子のたしなみでもあった。
盤双六は[[文化文政時代]]には衰微していた<ref>{{cite book|和書
|author=酒井欣
|title=日本遊戯史
|year=1934
|publisher=建設社
|url={{NDLDC|1466299/87}}
|page=165
}}</ref>。[[第二次世界大戦]]後、舶来のバックギャモンが遊ばれるようになる。
== 絵双六 ==
[[ファイル:Sugoroku2500.jpg|thumb|300px|日本地図を盤面にした絵すごろく([[大阪毎日新聞]]付録、大正14年)]]
[[ファイル:WUL-wo09 04021 0006 婦人風俗双六.pdf|サムネイル|婦人風俗双六。武内桂舟画、1909年]]
'''絵双六'''(えすごろく、'''繪雙六''')というのは、上記の盤双六の影響を受けて発達した遊戯で、[[紙]]に[[絵]]を描いてさいころを振って絵の上のマスの中にある駒を進めて上がりを目指すものである。ただし、かなり早い段階で(賭博の道具でもあった)盤双六とは別箇の発展を遂げていった。
ただし、最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに[[仏教]]の用語や教訓が書かれており、[[室町時代]]後期([[15世紀]]後半)には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は[[浄土宗]]系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の[[井原西鶴]]の作品(『[[好色一代男]]』など)には浄土双六がしばしば登場する。[[文政]]年間の[[曲亭馬琴]]の『[[耽奇漫録]]』によれば、当時浄土双六には大きく分けて4種類あったとする。ほぼ同時期に書かれた[[柳亭種彦]]の『[[還魂紙料]]』には、双六の起源について、
# 中国の[[陞官図]]の一種である選仏図に由来する
# [[天台宗]]で初学の僧侶の学習のために作成された「名目双六」に由来する
# 熊野比丘尼の[[絵解]]に由来する
という3つの説を述べ、選仏図説が一番もっともらしいとしている<ref>{{cite book|和書|author=柳亭種彦|authorlink=柳亭種彦|title=還魂紙料(すきかえし)|year=1826|url=http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-077702&IMG_NO=18|quote=此雙六の起に種々の説あり。まづ漢土に選仏図といふ者あり。それを写しゝ者といへり。[[伊藤東涯|長胤]]が『名物六帖』に『[[五雑組]]』を引て選仏図(じやうどすごろく)と仮字を附たり。まへに載し『潜蔵子』も此説によりて遷仏図の字を用ひし歟。又一説、往古より名目雙六といふ物あり。是は初学の僧に天台の名目を覚させん為に作る物にて、[[弘安]]中の或書に未学の僧を罵る詞に「名目雙六も知らずや」といふことありとぞ是を絵双六にひきなほしゝが起なりとも云。又異説、昔熊野比丘尼が地獄極楽の絵巻をひらき婦女子に投華させて[[絵解|絵説]]せしに思ひよせて製しとも伝聞り。(おそらくは選仏図に起るといふ説是ならん歟)}}</ref>。
江戸時代の[[元禄]]年間には、道中双六・野郎双六(芝居双六)などが絵入りの双六が遊ばれるようになり、後期になると勧善懲悪や立身出世などのテーマ性を持ったものや[[浮世絵師]]による豪華な双六も出現するようになる。その一方で、[[春画]]などを用いたり、賭博性を持たせた双六も存在したため、[[天保の改革]]などにおいては禁圧の対象となっている。
[[明治]]時代以後は[[文明開化]]・[[富国強兵]]をテーマにしたものも現れ、次第に国民教化の手段として用いられるようになっていった。また、[[児童雑誌]]の付録として欠かせないものとなった。
[[戦後]]、遊びの多様化や社会の変化から双六は衰退したと言われている。しかし、今日のボードゲームや[[テレビゲーム]]の中にさいころ(あるいは代用品として[[ルーレット]])を用いてゲームを進行させる作品が多く存在しており<ref group="注釈">例えば[[桃太郎電鉄シリーズ]]や[[マリオパーティシリーズ]]や[[いただきストリート]]シリーズなど。</ref>、これらを双六の進化・発展した姿であると考えることもできる。
なお、絵双六そのものは日本独自のものであるが、西洋にもバックギャモンの影響を受けたと見られる、[[鵞鳥のゲーム]]と呼ばれる双六に近い趣旨のゲームが[[14世紀]]頃から行われており、[[20世紀]]に入ってこうしたゲームの影響を受けて[[モノポリー]]や[[人生ゲーム]]が発明されることとなった。
== 名前の由来 ==
[[File:Zhou Fang. Court Ladies Playing Double-sixes.Detail.002.jpg|thumb|200px|唐代の画家・[[周昉]]による『内人雙陸図』。「雙陸」(雙六)で遊ぶ宮廷の女性たちを描く]]
[[File:Hyewon-Ssanguk.sammae.jpg|thumb|200px|[[朝鮮王朝]]時代後期の風俗画『[[蕙園伝神帖]]』より。[[妓生]]と客人が「雙六」(サンリュク)で遊ぶ風景]]
[[サイコロ|さいころ]]を2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになった(「[[wikt:雙|雙]]」・「[[wikt:双|双]]」は同じ意味を持つ)という説がある。しかし、日本の遊戯の歴史における先駆的な研究家である[[増川宏一]]は、江戸時代以前の[[日記]]などの記録類においては誤記と思われる少数例を除けば「雙六」と「双六」の使い分けがはっきりとしていること、[[日本語]]以外の言語でも盤双六系遊戯と絵双六系遊戯にはそれぞれ違う[[単語]]があてられているのがほとんどであることから、両者は同じ「すごろく」であっても全く別な遊戯であり、雙六(盤双六)に「双六」という表記を用いるのは不適切であると唱えている。
[[5世紀]]はじめに漢訳された『[[涅槃経]]』に見える「波羅塞戯」(はらそくぎ)が盤双六のことであるという<ref>章安・湛然『大般涅槃経疏』「波羅塞者、梁武云双陸、此起近代。」</ref>。「波羅塞」はサンスクリット{{unicode|prāsaka}}([[さいころ]])の音訳。後に[[北魏]]では「握槊」(あくさく)と呼ばれ<ref>『[[魏書]]』術芸列伝「[[孝文帝|高祖]]時(中略)趙国李幼序・洛陽丘何奴並工握槊。此蓋胡戯、近入中国云。胡王有弟一人遇罪、将殺之、弟従獄中為此戯以上之。意言孤則易死也。[[宣武帝|世宗]]以後、大盛於時。」</ref>、南朝では「双六・双陸」(そうりく)と呼ばれた<ref>『[[梁書]]』[[鮑泉]]列伝「賊騎至、百姓奔告、方諸与泉方双陸。」</ref>。唐以降は「双六・双陸」と呼ばれるようになった<ref name="仏教語豆辞典">辻本敬順 『くらしの仏教語豆辞典(下)』 [[本願寺出版社]]、2008年、12-13頁 ISBN 978-4894161252</ref>。(陸は六の[[大字 (数字)|大字]]。){{要出典範囲|日本語では古くは「すぐろく」と言った。これは「双六(または双陸)」の漢字音に由来すると考えられるが、「双」を「すぐ」と読むのは異例である(「す」の母音は[[上古音]]的であり、また {{ipa|ŋ}} を「ぐ」のようにガ行で写すのは「愛宕(あたご・おたぎ)」などの固有名詞以外では珍しい)|date=2015年11月}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[増川宏一]]『[{{Google books|1KRQEAAAQBAJ|plainurl=yes}} すごろく I]』ものと人間の文化史79-I([[法政大学出版局]]、1995年)ISBN 4-588-20791-1〔盤すごろくについて記述〕
* 増川宏一『[{{Google books|1qRQEAAAQBAJ|plainurl=yes}} すごろく II]』ものと人間の文化史79-II(法政大学出版局、1995年)ISBN 4-588-20792-X〔絵すごろくについて記述〕
== 関連項目 ==
* [[鵞鳥のゲーム]]
* [[蛇と梯子]]
* [[ユンノリ]]
* [[陞官図]]
* [[世界一周双六ゲーム]]
* [[ボードゲーム]]
* [[浮世絵]]
== 外部リンク ==
{{ウィキプロジェクトリンク|ボードゲーム|[[画像:10_sided_die.svg|none|34px]]}}
{{Commonscat|Sugoroku}}
* [http://www.sugoroku.net/ 双六ねっと]
* [https://library.u-gakugei.ac.jp/etopia/sugoroku.html 東京学芸大学双六コレクション]
* 『[https://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_GFRH-00264 双六独稽古]』(1811年)
* 『[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00012219 双陸錦嚢抄]』(1827年)
* 『[{{NDLDC|861508}} 新撰雙陸独稽古]』(1897年)
* 『[{{NDLDC|860315/109}} 世界遊戯法大全]』(1907年)
* [http://www.ffortune.net/play/bgame/sugoroku/ban3.htm 盤すごろくの遊び方]
* {{kotobank|すごろく}}
{{サイコロ}}
{{Tables games}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ボードゲーム]]
[[Category:伝統玩具]]
[[Category:日本の郷土玩具]]
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[[Category:新春の季語]] | 2003-02-15T14:25:35Z | 2023-11-27T11:44:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%94%E3%82%8D%E3%81%8F |
1,823 | スラブ近似 | スラブ近似(スラブきんじ、Slab approximation)は、周期的境界条件に縛られる通常のバンド計算手法(除く実空間法)において、表面などの周期的境界条件を満たさない系を扱うための一便法である。スラブモデル(Slab model)または、周期的スラブモデル(Repeated slab model)とも言うことがある。日本語では薄膜モデルとなる。
まず、表面を扱うためには、スーパーセルを考え、その中に表面層(スラブ)と真空層を考える。つまり、表面層-真空層-表面層-真空層...が無限に続く周期系と考える。表面層及び真空層が十分に厚ければ(このためスーパーセルが必要)、表面層(スラブ)同士及び、表面層の表面(おもてめん)と裏面との相互作用の影響を無視することができる。真空層の厚さは、場合によるが、だいたい10オングストローム程度取る。
表面層は、表裏両面を同等に計算する場合と、裏面を水素等で終端(大抵固定)して計算する場合がある。どちらも一長一短があり、両者の違いは論文などで議論されることもある。ただし、分子が表面吸着した系を計算する際には、表裏両面に吸着させる方が良いとされる。これは吸着によって表面付近に電気分極が生じるためで、表裏両面に吸着させることによって、スラブ同士が意図しない相互作用をすることを防ぐことができる。なお、片面に吸着させつつ、スラブ間の双極子相互作用を打ち消す外部電場を加える手法もある。 | [
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] | スラブ近似は、周期的境界条件に縛られる通常のバンド計算手法(除く実空間法)において、表面などの周期的境界条件を満たさない系を扱うための一便法である。スラブモデル(Slab model)または、周期的スラブモデル(Repeated slab model)とも言うことがある。日本語では薄膜モデルとなる。 まず、表面を扱うためには、スーパーセルを考え、その中に表面層(スラブ)と真空層を考える。つまり、表面層-真空層-表面層-真空層…が無限に続く周期系と考える。表面層及び真空層が十分に厚ければ(このためスーパーセルが必要)、表面層(スラブ)同士及び、表面層の表面(おもてめん)と裏面との相互作用の影響を無視することができる。真空層の厚さは、場合によるが、だいたい10オングストローム程度取る。 表面層は、表裏両面を同等に計算する場合と、裏面を水素等で終端(大抵固定)して計算する場合がある。どちらも一長一短があり、両者の違いは論文などで議論されることもある。ただし、分子が表面吸着した系を計算する際には、表裏両面に吸着させる方が良いとされる。これは吸着によって表面付近に電気分極が生じるためで、表裏両面に吸着させることによって、スラブ同士が意図しない相互作用をすることを防ぐことができる。なお、片面に吸着させつつ、スラブ間の双極子相互作用を打ち消す外部電場を加える手法もある。 | '''スラブ近似'''(スラブきんじ、Slab approximation)は、[[周期的境界条件]]に縛られる通常のバンド計算手法(除く[[実空間法]])において、[[表面]]などの周期的境界条件を満たさない系を扱うための一便法である。'''スラブモデル'''(Slab model)または、'''周期的スラブモデル'''(Repeated slab model)とも言うことがある。日本語では薄膜モデルとなる。
まず、表面を扱うためには、[[スーパーセル法|スーパーセル]]を考え、その中に表面層(スラブ)と真空層を考える。つまり、表面層-真空層-表面層-真空層…が無限に続く周期系と考える。表面層及び真空層が十分に厚ければ(このためスーパーセルが必要)、表面層(スラブ)同士及び、表面層の表面(おもてめん)と裏面との相互作用の影響を無視することができる。真空層の厚さは、場合によるが、だいたい10オングストローム程度取る。
表面層は、表裏両面を同等に計算する場合と、裏面を[[水素]]等で終端(大抵固定)して計算する場合がある。どちらも一長一短があり、両者の違いは論文などで議論されることもある。ただし、分子が表面吸着した系を計算する際には、表裏両面に吸着させる方が良いとされる。これは吸着によって表面付近に[[電気分極]]が生じるためで、表裏両面に吸着させることによって、スラブ同士が意図しない相互作用をすることを防ぐことができる。なお、片面に吸着させつつ、スラブ間の[[双極子相互作用]]を打ち消す外部[[電場]]を加える手法もある。
== 関連項目 ==
*[[第一原理バンド計算]]
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[[Category:バンド計算]] | null | 2019-12-03T08:58:38Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%96%E8%BF%91%E4%BC%BC |
1,824 | 1月19日 | 1月19日(いちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から19日目に当たり、年末まであと346日(閏年では347日)ある。 | [
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'''1月19日'''(いちがつじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から19日目に当たり、年末まであと346日([[閏年]]では347日)ある。
== できごと ==
* [[1419年]] - [[百年戦争]]: [[1418年]][[7月31日]]から始まったイングランド王[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]によるフランスの都市[[ルーアン]]の包囲戦でフランス軍が降伏<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/siege-of-Rouen |title=Battle of Rouen|French history [1418–1419] |access-date=19 Aug 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。
* [[1795年]] - [[バタヴィア共和国]]が成立。
* [[1829年]] - 戯曲『[[ファウスト 第一部]]』が初演。
* [[1853年]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ]]のオペラ『[[イル・トロヴァトーレ]]』が[[ローマ]]アポロ劇場で初演<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.chopin.co.jp/media/opera217/a2053 |title=トロヴァトーレ[全4幕]ヴェルディ作曲 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=ハンナ |date=23 May 2019}}</ref>。
* [[1862年]] - [[南北戦争]][[ミル・スプリングスの戦い]]: [[ケンタッキー州]]で[[ジョージ・ヘンリー・トーマス]]率いる北軍が、南軍に勝利。南北戦争における北軍の最初の大勝利で、北軍の[[テネシー州]]中部への進撃の道を開いた。
* [[1868年]]([[慶応]]3年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]])- [[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]が起こる。
* [[1897年]] - [[成田鉄道 (初代)|成田鉄道]]佐倉駅〜成田駅間が開業。総武鉄道と連絡して[[成田山新勝寺|成田山]]詣での新しい移動手段になる。
* [[1908年]] - [[日本天文学会]]が発足<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.gender.go.jp/c-challenge/kyouryoku/gakujutsu/053.html |title=公益社団法人 日本天文学会 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=男女共同参画局}}</ref>。
* [[1911年]] - [[南北朝正閏論#南北朝正閏問題|南北朝正閏問題]]: [[読売新聞]]が[[社説]]で[[国定教科書]]における[[南北朝時代 (日本)|南北朝並立]]の記述を批判、いずれの皇統が正当かをめぐり[[帝国議会]]での論争に発展。
* [[1927年]] - 前年12月に没した日本の[[大行天皇]]の[[諡|追号]]が[[大正天皇]]と決まる。
* [[1934年]] - [[エチオピア帝国|エチオピア皇帝]][[ハイレ・セラシエ1世]]の甥アラヤ・アベベの妃に黒田広志子爵の次女の黒田雅子が決定。4月にイタリアの干渉で破談。
* [[1940年]] - [[毛沢東]]が「[[新民主主義論]]」を発表。
* [[1942年]] - 抑留していた[[ドイツ人]]を護送中の[[オランダ]]貨物船「ファン・イムホフ」が[[インド洋]]上で[[日本軍]]によって撃沈、救助活動が充分に行われないままドイツ人非戦闘員多数が犠牲となる。([[ファン・イムホフ号事件]])
* [[1946年]] - [[極東国際軍事裁判|極東国際軍事裁判所条例]]制定。
* 1946年 - NHKラジオで『のど自慢素人音楽会』(現在の『[[NHKのど自慢]]』)が放送開始<ref>{{Cite web|和書 |url=http://kumonoue-lib.jp/index.php/kyono-issatsu/1126-1-70 |title=1月19日はのど自慢の日 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=ゆすはら雲の上の図書館 |date=19 Jan 2022}}</ref>。
* [[1950年]] - [[日本社会党]]が第5回党大会で左派・右派に分裂。
* [[1952年]] - [[フィリピン]]・[[モンテンルパ]]にある[[ニュー・ビリビッド刑務所]]で、[[BC級戦犯]]とされた元日本軍兵士17名の[[死刑]]が突如執行される。なお、この出来事がきっかけとなり、[[渡辺はま子]]のヒット曲「[[ああモンテンルパの夜は更けて]]」が作られた<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20230811-AH2K6CK5NJDLJD22Q46OV6PVMA/?outputType=theme_monthly-seiron |title=あゝモンテンルパの夜は更けて 作詞/代田銀太郎 作曲/伊藤正康 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=11 Aug 2023 |website=月刊正論 online}}</ref>。
* [[1960年]] - [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|改定日米安全保障条約]]に調印。
* [[1966年]] - [[インド]]首相に[[インディラ・ガンディー]]が選出される。
* [[1968年]] - [[原子力空母]][[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]が[[佐世保市|佐世保]]に寄港、[[1月23日]]まで停泊。
* [[1969年]] - [[東大安田講堂事件]]: [[警視庁]][[機動隊]]が[[東京大学|東大]][[安田講堂]]に篭城していた[[全学共闘会議]]の封鎖を解除。
* [[1977年]] - [[東京ローズ]]ことアイバ戸栗ダキノが、[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]米大統領の[[恩赦|特赦]]によりアメリカ国籍を回復。
* [[1978年]] - ドイツの[[フォルクスワーゲン]]が、42年のロングセラーだった小型車[[フォルクスワーゲン・タイプ1|ビートル]]の国内生産を打ち切り。
* 1978年 - 約12年間続いた[[TBSテレビ|TBS]]の[[音楽番組]]『[[ザ・ベストテン]]』が放送開始<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/05/29/kiji/20200529s00041000106000c.html |title=「ザ・ベストテン」まるごと再放送 若者にも昭和歌謡ブーム 「マツコ」で手応え |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex}}</ref>。
* [[1983年]] - 初の[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]環境を持った[[パーソナルコンピュータ]]「[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]」が[[Apple|Apple Computer]]から発売。
* [[1984年]] - 九州から関東の太平洋側各地で15年ぶりの大雪。
* [[1991年]] - [[登山家]]の[[田部井淳子]]が南極大陸最高峰[[ヴィンソン・マシフ]]登頂に成功し、女性で初めて世界六大陸の最高峰を征服。
* [[1993年]] - [[チェコ]]と[[スロバキア]]が[[国際連合|国連]]に加盟。
* 1993年 - [[皇室会議]]で[[徳仁|皇太子徳仁親王]]と外務省職員・[[皇后雅子|小和田雅子]]の婚約を正式決定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bunshun.jp/articles/-/11764 |title=雅子さまの心を打った、皇太子さま「僕が一生全力でお守りします」発言が生んだもの |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[文藝春秋]] |website=文春オンライン |date=27 Apr 2019}}</ref>。
* [[1995年]] - [[第一次チェチェン紛争]]: [[ロシア]]が[[チェチェン共和国]]の首都[[グロズヌイ]]の大統領府を占拠。
* [[1997年]] - [[京樽]]が[[東京地方裁判所]]に[[会社更生法]]の適用を申請。
* 1997年 - [[篠塚建次郎]]がパリ[[ダカール・ラリー]]の四輪部門にて日本人初の総合優勝。
* [[1999年]] - [[奈良県]][[明日香村]]の飛鳥池遺跡で、日本最古の通貨[[富本銭]]が発掘される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jiji.com/jc/daily?d=0119 |title=【今日は何の日?】1999年1月19日「富本銭」がわが国最古の通貨と確認 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[時事通信]]}}</ref>。
* [[2006年]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が史上初の[[冥王星]]無人[[探査機]]「[[ニュー・ホライズンズ]]」を打ち上げる。
* [[2008年]] - [[京都市]]内で初の[[都市高速道路]]となる[[阪神高速8号京都線]]が[[上鳥羽出入口]] - [[第二京阪道路]]接続部間で開通。
* [[2010年]] - [[日本航空 (持株会社)|日本航空]]と子会社2社が戦後最大の[[経営破綻]]で[[会社更生法]]を申請。
* [[2018年]] - 1995年の[[地下鉄サリン事件]]の殺人罪などに問われた[[オウム真理教]]元信者[[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]被告の上告審で、最高裁判証が、被告の上告を棄却する決定をした。これにより、教団による一連の事件で起訴された192人全員の刑事裁判が終結した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20180119-JDLB3HROZBNGFFZ5D47B6UOFQE/ |title=オウム裁判終結 高橋克也被告の無期懲役確定へ 最高裁が上告棄却 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=19 Jan 2018}}</ref>。
* [[2019年]] - 西日本一帯で1968年に表面化した食品公害[[カネミ油症事件|カネミ油症]]の患者らでつくる13団体が、「カネミ油症被害者連絡会」を設立したと発表<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40233200Z10C19A1ACYZ00/ |title=「被害者連絡会」を設立 カネミ油症、患者13団体 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=19 Jan 2019}}</ref>。
* 2021年 - [[東京]][[池袋]]で2019年、暴走した車により母子が死亡したほか9人が重軽傷を負った事故で、遺族らが、車を運転していた旧通産省工業技術院元院長などを相手に、損害賠償を求める民事訴訟を起こす<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP1M53H9P1MUTIL00T.html |title=池袋暴走、遺族が賠償求め提訴「加害者に直接聞きたい」 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=19 Jan 2021}}</ref>。
* [[2022年]] - [[テレビ東京]]の[[子供番組|子供向け生放送番組]]「[[おはスタ]]」が、「子供向け生放送テレビ番組の最多エピソード数」で[[ギネス世界記録]]に認定。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
* [[1544年]] - [[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]、[[フランス王国|フランス]]王(+ [[1560年]])
* [[1625年]]([[寛永]]元年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[北村季吟]]、[[歌人]]、[[俳句|俳人]](+ [[1705年]])
* [[1698年]]([[元禄]]10年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[森川俊常]]、第5代[[生実藩|生実藩主]](+ [[1734年]])
* [[1702年]](元禄14年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[島津継豊]]、第5代[[薩摩藩|薩摩藩主]](+ [[1760年]])
* [[1736年]] - [[ジェームズ・ワット]]、技術者(+ [[1819年]])
* [[1747年]] - [[ヨハン・ボーデ]]、[[天文学者]](+ [[1826年]])
* [[1787年]]([[天明]]6年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[木下利徽]]、第9代[[足守藩|足守藩主]](+ [[1851年]])
* [[1798年]] - [[オーギュスト・コント]]、[[社会学者]]、[[哲学|哲学者]]、[[数学者]](+ [[1857年]])
* [[1807年]] - [[ロバート・E・リー]]、[[軍人]](+ [[1870年]])
* [[1808年]] - [[ライサンダー・スプーナー]]、[[政治哲学者]](+ [[1887年]])
* [[1809年]] - [[エドガー・アラン・ポー]]、[[小説家]](+ [[1849年]])
* [[1813年]] - [[ヘンリー・ベッセマー]]、[[技術者]]、[[発明家]](+ [[1898年]])
* [[1819年]] - [[ウィリアム・フリス]]、[[画家]](+ [[1909年]])
* [[1832年]] - [[フェルディナント・ラウプ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1875年]])
* [[1835年]] - [[アウグスト・ケルクホフス]]、[[暗号]]研究者([[ケルクホフスの原理]])(+ [[1903年]])
* [[1839年]] - [[ポール・セザンヌ]]、画家(+ [[1906年]])
* [[1848年]] - [[マシュー・ウェッブ]]、航海士(キャプテン・ウェッブ、ウェッブ船長)(+ [[1883年]])
* [[1851年]] - [[ヨハン・エイクマン]]、[[薬学|薬学者]]、[[化学者]](+ [[1915年]])
* 1851年 - [[ヤコブス・カプタイン]]、[[天文学者]](+ [[1922年]])
* [[1863年]]([[文久]]2年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]) - [[牧野謙次郎]]、[[漢学|漢学者]](+ [[1937年]])
* 1863年 - [[ウェルナー・ゾンバルト]]、[[経済学者]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[1941年]])
* [[1864年]]([[文久]]3年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[小山作之助]]、[[作曲家]]、[[教育者]](+ [[1927年]])
* [[1867年]] - [[ジャン・デルヴィル]]、[[美術家]](+ [[1953年]])
* [[1868年]] - [[グスタフ・マイリンク]]、小説家(+ [[1932年]])
* [[1872年]] - [[上野英三郎]]、農学者、[[忠犬ハチ公]]の飼い主(+[[1925年]])
* [[1874年]] - [[常陸山谷右エ門]]、[[大相撲]]第19代[[横綱]](+ [[1922年]])
* [[1876年]] - [[若嶌權四郎]]、大相撲第21代横綱(+ [[1943年]])
* [[1878年]] - [[ハーバート・チャップマン]]、[[サッカー]]選手・指導者、[[WMフォーメーション]]開発者(+ [[1934年]])
* [[1879年]] - [[ボリス・サヴィンコフ]]、革命家、政治家(+ [[1925年]])
* [[1883年]] - [[ヘルマン・アーベントロート]]、指揮者(+ [[1956年]])
* [[1885年]] - [[大塚淳 (音楽家)|大塚淳]]、指揮者、音楽家(+[[1945年]])
* [[1887年]] - {{仮リンク|アレクサンダー・ウールコット|en|Alexander Woollcott}}、評論家(+ [[1943年]])
* [[1889年]] - 鴇田英太郎、[[劇作家]](+ [[1929年]])
* 1889年 - [[ゾフィー・トイバー=アルプ]]、[[芸術家]](+ [[1943年]])
* [[1890年]] - [[エルマー・ニクランダー]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1942年]])
* [[1893年]] - [[マグダ・タリアフェロ]]、ピアニスト(+ [[1986年]])
* [[1897年]] - [[青木孝義]]、[[政治家]](+ [[1962年]])
* [[1899年]] - 逸見広、[[小説家]](+ [[1971年]])
* [[1902年]] - [[小松均]]、[[日本画家]](+ [[1989年]])
* [[1903年]] - [[エルヴィン・ニレジハジ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1987年]])
* 1903年 - [[ボリス・ブラッハー]]、[[作曲家]](+ [[1975年]])
* [[1906年]] - [[リリアン・ハーヴェイ]]、[[俳優|女優]](+ [[1968年]])
* [[1907年]] - [[江藤智 (政治家)|江藤智]]、[[政治家]](+ [[1982年]])
* [[1908年]] - [[久世竜]]、[[殺陣師]]、[[俳優]](+ [[1985年]])
* 1908年 - [[高津春繁]]、言語学者、東京大学名誉教授(+[[1973年]])
* [[1909年]] - 山本庸一、[[雪印乳業]]社長、日本乳製品協会会長(+ [[1987年]])
* 1909年 - [[水原茂]]、[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](+ [[1982年]])
* 1909年 - [[ハンス・ホッター]]、[[バリトン|バスバリトン]]歌手(+ [[2003年]])
* [[1910年]] - [[高辻正己]]、[[官僚]]、[[裁判官]](+ [[1997年]])
* 1910年 - [[苅田久徳]]、プロ野球選手、監督、[[プロ野球審判員|審判員]](+ [[2001年]])
* [[1911年]] - [[藤牧義夫]]、版画家(+[[1935年]])
* 1911年 - [[チョール・シン]]、[[最高裁判所裁判官]](+ [[2009年]])
* [[1912年]] - [[クルト・ブレントル]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1943年]])
* 1912年 - [[レオニート・カントロヴィチ]]、[[数学者]]、[[経済学|経済学者]](+ [[1986年]])
* 1912年 - [[笠原良三]]、[[脚本家]](+ [[2002年]])
* [[1914年]] - [[アーミン・マイヤー]]、駐日アメリカ合衆国大使(+ 2006年)
* [[1916年]] - [[小倉朗]]、[[作曲家]](+ [[1990年]])
* [[1918年]] - [[ルチアーノ・エンメル]]、[[映画監督]](+ [[2009年]])
* [[1919年]] - [[アントニオ・ピエトランジェリ]]、映画監督(+ [[1968年]])
* 1919年 - [[風間完]]、[[挿絵画家]](+ [[2003年]])
* 1919年 - [[大久保婦久子]]、[[芸術家]](+ [[2000年]])
* [[1920年]] - [[ハビエル・ペレス・デ・クエヤル]]、第5代[[国際連合事務総長|国連事務総長]](+ [[2020年]])
* 1920年 - [[玉櫻八郎]]、[[相撲]][[力士]](+ [[1999年]])
* 1920年 - 竹下一記、郵政事務次官、[[熊本県民テレビ]]社長(+ [[2003年]])
* [[1921年]] - 古谷春雄、[[ホテルニューオータニ]]専務・総料理長、日本エスコフィエ協会会長(+ [[2006年]])
* 1921年 - [[パトリシア・ハイスミス]]、作家(+ [[1995年]])
* [[1922年]] - [[イェジー・カヴァレロヴィチ]]、[[映画監督]](+ [[2007年]])
* 1922年 - [[柳瀬睦男]]、[[物理学者]](+ [[2008年]])
* [[1923年]] - [[マルクス・ヴォルフ]]、[[ドイツ民主共和国]]国家保安省([[シュタージ]])対外諜報総局長(+ [[2006年]])
* 1923年 - [[江夏美好]]、[[作家]](+ [[1982年]])
* 1923年 - [[ジーン・ステイプルトン]]、女優(+ [[2013年]])
* [[1924年]] - [[森幹太]]、[[俳優]](+ [[2000年]])
* [[1925年]] - [[日沼頼夫]]、[[医学者]]、[[塩野義製薬]]副社長(+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H15_W5A200C1CC0000/ |title= 日沼頼夫氏が死去 ウイルス研究の権威 |publisher= [[日本経済新聞]] |date=6 Feb 2015 |accessdate= 19 Aug 2023}}</ref>)
* [[1926年]] - [[山口瞳]]、作家、エッセイスト(+[[1995年]])
* 1926年 - [[巖本真理]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1979年]])
* [[1929年]] - [[須賀敦子]]、イタリア文学者、随筆家(+[[1998年]])
* [[1927年]] - [[正森成二]]、[[政治家]](+ [[2006年]])
* [[1930年]] - [[平岡千之]]、[[外交官]]、[[迎賓館]]館長(+ [[1996年]])
* 1930年 - [[ティッピ・ヘドレン]]、[[俳優#性別での分類|女優]]
* [[1931年]] - [[明石康]]、[[国際公務員]]
* 1931年 - [[柴田俊治]]、[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]社長(+ [[2015年]])
* [[1932年]] - [[郷司裕]]、アマチュア野球審判員(+ [[2006年]])
* 1932年 - [[花井悠]]、プロ野球選手(+ [[2007年]])
* 1932年 - [[多田尋子]]、[[作家]]
* 1932年 - [[リチャード・レスター]]、[[映画監督]]
* [[1934年]] - [[小川誠二]]、[[物理学者]]
* 1934年 - [[佐江衆一]]、[[小説家]](+ [[2020年]])
* [[1935年]] - [[生田正治]]、[[商船三井]]社長、[[日本郵政公社]]初代総裁(+ [[2023年]])
* 1935年 - [[柴田翔]]、[[小説家]]
* 1935年 - [[フレッド・バレンタイン]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* [[1936年]] - [[操上和美]]、[[写真家]]
* [[1937年]] - [[櫻田慧]]、[[モスバーガー]]([[モスフードサービス]])創業者(+ [[1997年]])
* 1937年 - [[ビルギッタ (スウェーデン王女)|ビルギッタ]]、スウェーデン王女
* 1937年 - [[芳谷圭児]]、[[漫画家]](+ [[2021年]])
* [[1938年]] - [[馬場雄二]]、[[グラフィックデザイナー|ビジュアルデザイナー]]
* 1938年 - [[北村昭斎]]、[[漆芸家]](+ [[2023年]])
* [[1939年]] - フィリップ・エバリー、[[カントリー・ミュージック]]([[エヴァリー・ブラザース]])(+ [[2014年]])
* [[1940年]] - [[相沢邦昭]]、元プロ野球選手
* 1940年 - [[三瀬顕]]、[[弁護士]](+ [[2021年]])
* 1940年 - {{仮リンク|メアリー・ミルズ|en|Mary Mills (golfer)}}、[[ゴルフ]]選手
* 1940年 - [[パオロ・ボルセリーノ]]、反マフィア治安判事(+ [[1992年]])
* [[1941年]] - [[二葉由紀子・羽田たか志|二葉由紀子]]、漫才師(+ [[2017年]])
* 1941年 - [[パット・パターソン]]、[[プロレスラー]](+ [[2020年]])
* [[1942年]] - [[岩田安生]]、[[俳優]]、[[声優]](+ [[2009年]])
* 1942年 - [[ナラ・レオン]]、[[ボサノヴァ]]歌手(+ [[1989年]])
* 1942年 - [[渡辺康二]]、プロ[[テニス]]選手、[[日本テニス協会]]副会長
* 1942年 - [[マイケル・クロフォード]]、歌手、俳優
* 1942年 - [[パウル=エーリク・ルモ]]、政治家
* [[1943年]] - [[ジャニス・ジョプリン]]、[[歌手]](+ [[1970年]])
* 1943年 - [[安田春雄]]、[[プロゴルファー]]
* [[1944年]] - [[トム・メイン]]、[[建築家]]
* 1944年 - [[ピーター・リンチ]]、[[実業家]]
* [[1945年]] - [[佐高信]]、[[経済評論家]]
* [[1946年]] - [[マツシマススム]]、写真家
* 1946年 - [[ドリー・パートン]]、歌手
* 1946年 - [[ジュリアン・バーンズ]]、小説家
* [[1947年]] - 横山ひろし、[[漫才師]]([[横山たかし・ひろし]])
* 1947年 - [[田子冬樹]]、[[調教師]]
* 1947年 - [[三木千壽]]、工学者、大学教授
* 1947年 - [[松尾徹人]]、[[政治家]](+ [[2011年]])
* 1947年 - [[ロッド・エヴァンス]]、ミュージシャン(元[[ディープ・パープル]])
* 1947年 - [[ポーラ・ディーン]]、料理司会者
* [[1948年]] - [[丘みつ子]]、[[俳優|女優]]
* 1948年 - [[馬場滋]]、囲碁棋士
* 1948年 - 助川汎、俳優
* 1948年 - [[阿部道]]、[[競輪選手]]
* 1948年 - [[ナンシー・リンチ]]、情報工学者
* [[1949年]] - [[ロバート・パーマー]]、歌手(+ [[2003年]])
* 1949年 - [[堀高明]]、[[スターフライヤー]]創業者
* 1949年 - [[辻哲也]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[金子晴美]]、[[ジャズ・シンガー]]
* [[1951年]] - [[八木康行]]、[[日本マクドナルド]]社長
* 1951年 - [[有川正沙子]]、[[作詞家]]
* 1951年 - [[坂口志文]]、[[医学者]]([[免疫学]])
* [[1952年]] - [[中田章道]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* [[1953年]] - {{仮リンク|デジ・アナーズ・ジュニア|en|Desi Arnaz, Jr.}}、[[俳優]]
* [[1954年]] - [[松任谷由実]]、[[シンガーソングライター]]
* 1954年 - [[田所嘉徳]]、政治家
* 1954年 - [[シンディ・シャーマン]]、[[写真家]]
* 1954年 - [[リチャード・ゲイル]]、元プロ野球選手
* 1954年 - [[マーシャル・カーク・マキュージック]]、[[計算機科学|計算機科学者]]
* 1954年 - ティエリー・ジョンケ、[[小説家]](+ [[2009年]])
* 1954年 - [[今村俊一]]、舞台俳優
* [[1955年]] - [[田辺節子]]、女優
* 1955年 - [[サイモン・ラトル]]、[[指揮者]]、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]首席指揮者兼芸術監督
* 1955年 - [[谷一之]]、政治家
* [[1956年]] - [[平間正一]]、[[佐川急便]]代表取締役社長
* [[1957年]] - [[柴門ふみ]]、漫画家
* 1957年 - [[小林健二 (アーティスト)|小林健二]]、[[アーティスト]]
* 1957年 - {{仮リンク|オーティス・アンダーソン|en|Ottis Anderson}}、[[NFL]]選手
* [[1958年]] - [[高橋比奈子]]、政治家
* 1958年 - [[アレン・スティール]]、[[SF作家]]
* 1958年 - {{仮リンク|トーマス・キンケード|en|Thomas Kinkade}}、[[画家]]
* [[1959年]] - [[椎野茂]]、[[アナウンサー]]
* 1959年 - [[竹本泉]]、漫画家
* 1959年 - [[白井貴子 (歌手)|白井貴子]]、シンガーソングライター
* 1959年 - 新里玲乙奈、歌手([[EVE (歌手グループ)|EVE]])
* 1959年 - {{仮リンク|ダネーゼ・クーパー|en|Danese Cooper}}、ウィキメディア財団CTO
* 1959年 - {{仮リンク|ジェフ・ピルソン|en|Jeff Pilson}}、ベーシスト([[ドッケン]])
* [[1960年]] - [[岩崎文紀]]、作曲家、編曲家
* 1960年 - [[藤丸敏]]、政治家
* 1960年 - [[マウロ・タソッティ]]、元サッカー選手
* 1960年 - [[愛田真夕美]]、[[漫画家]]
* [[1961年]] - [[林芳正]]、政治家
* 1961年 - [[三井康浩]]、元プロ野球選手、スコアラー
* 1961年 - [[ポール・マクレーン]]、俳優
* 1961年 - {{仮リンク|ウィリアム・ラグズデール|en|William Ragsdale}}、俳優
* 1961年 - {{仮リンク|ウェイン・ヘミングウェイ|en|Wayne Hemingway}}、[[ファッションデザイナー]]
* [[1962年]] - [[中村力]]、政治家
* 1962年 - [[西司]]、シンガーソングライター
* 1962年 - [[福山哲郎]]、政治家
* 1962年 - [[高橋幸慈]]、漫画家
* 1962年 - 坂東三津之助、[[歌舞伎]]俳優(+ [[2013年]])
* 1962年 - [[クリス・セイボー]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[ジェフ・ヴァン・ガンディ]]、[[バスケットボール]]指導者、[[ESPN]]解説者
* [[1963年]] - [[松重豊]]、[[俳優]]
* 1963年 - [[キャロン・ウィーラー]]、歌手([[Soul II Soul]])
* 1963年 - [[マーティン・バシール]]、[[ジャーナリスト]]
* 1963年 - [[ジョン・バーコウ]]、政治家
* [[1964年]] - [[清水馨]]、舞台女優
* 1964年 - [[田中誠二 (厚生労働官僚)|田中誠二]]、厚生労働官僚
* 1964年 - 増田英治、俳優
* 1964年 - [[殊能将之]]、[[ミステリー作家]](+ [[2013年]])
* 1964年 - [[佐久間純子]]、[[声優]](+ [[2011年]])
* [[1965年]] - [[矢堀孝一]]、[[ギタリスト]]
* 1965年 - [[相沢まさき|相沢正輝]]<ref name="thetv">{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/0000069550/ |title=相沢正輝 |work=WEB[[ザテレビジョン]] |accessdate=19 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]]}}</ref>、声優
* [[1966年]] - 柴田啓、[[ベンチャーリパブリック]]創業者
* 1966年 - [[永田豊志]]、作家
* 1966年 - [[南翔子]]、歌手
* 1966年 - [[ステファン・エドベリ]]、[[テニス]]選手
* 1966年 - [[デューク・雪子]]、[[翻訳家]]
* [[1967年]] - [[白石禮子]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1967年 - [[笠原浩夫]]、俳優
* 1967年 - [[ねこぢる]]、[[漫画家]](+ [[1998年]])
* 1967年 - [[ハビエル・カマラ]]、俳優
* [[1968年]] - [[川井郁子]]、ヴァイオリニスト、[[作曲家]]
* 1968年 - [[斎藤有太]]、キーボーディスト
* 1968年 - [[庭野光祥]]、宗教家
* [[1969年]] - [[柴田博]]、[[朝日放送テレビ]]アナウンサー
* 1969年 - [[渡辺佳恵]]、実業家
* 1969年 - [[佐野信義]]、[[ゲームミュージック]][[作曲家]]
* 1969年 - [[加藤朋子]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]
* 1969年 - [[大熊裕司]]、サッカー選手
* 1969年 - 向山佳絵子、[[チェリスト]]、[[NHK交響楽団]]首席チェロ奏者
* 1969年 - [[エドウィージ・ダンティカ]]、作家
* 1969年 - [[プレドラグ・ミヤトヴィッチ]]、サッカー選手
* 1969年 - [[スティーヴ・ストーントン]]、サッカー選手
* 1969年 - [[ルーク・ロングリー]]、プロバスケットボール選手
* 1969年 - [[ショーン・ウェイアンズ]]、俳優、映画監督
* [[1970年]] - [[ウド鈴木]]、お笑いタレント([[キャイ〜ン]])
* 1970年 - [[大日ノ出崇揚]]、元[[大相撲力士]]
* 1970年 - [[火の竜清徳]]、タレント、元大相撲力士
* 1970年 - [[五味岡たまき]]、アイドル
* 1970年 - [[シュテファン・フロイント]]、サッカー選手
* 1970年 - [[井関佳子]]、声優、歌手
* [[1971年]] - [[丸川珠代]]、政治家、アナウンサー
* 1971年 - 佐伯晃、俳優
* 1971年 - [[栁澤哲]]、陸上競技選手
* 1971年 - [[渡邉英豊]]、元サッカー選手
* 1971年 - [[フィル・ネビン]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[中川礼二]]、[[漫才師]]([[中川家]])
* 1972年 - [[今井久美子]]、女優
* 1972年 - [[藤本恭子]]、女優、モデル、歌手
* 1972年 - [[安田佑子]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1972年 - [[村山ひとし]]、[[タレント]]、[[放送作家]]
* 1972年 - [[ドレア・ド・マッテオ]]、女優
* 1972年 - [[ジョン・フィッシャー (企業家)|ジョン・フィッシャー]] 、[[企業家]]
* 1972年 - [[サルバトーレ・ウルソー]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[ロン・キリングス]]、プロレスラー
* [[1973年]] - [[木村郁美]]、アナウンサー
* 1973年 - [[小林千晴]]、女優
* 1973年 - [[東城光志]]、声優
* 1972年 - 大井裕子、[[歌手]]、アイドル
* 1973年 - [[宮本泰介]]、政治家、[[習志野市]][[市町村長|長]]
* 1973年 - [[カレン・ランコム]]、女優
* 1973年 - [[王軍霞]]、陸上競技選手
* [[1974年]] - [[室町大助]]、俳優、殺陣師
* 1974年 - 中井英行、ミュージシャン([[オセロケッツ]])
* 1974年 - [[車谷啓介]]、[[ドラマー]](元[[三枝夕夏IN db]])
* 1974年 - [[川本真琴]]、シンガーソングライター
* 1974年 - {{仮リンク|フランク・カリエンド|en|Frank Caliendo}}、[[コメディアン]]
* 1974年 - [[マルセロ・バロン・ポランクジック]]、サッカー選手
* [[1975年]] - [[森宮隆]]、俳優
* 1975年 - [[福島里美]]、女優
* 1975年 - [[RIKKI]]、歌手
* 1975年 - [[柴山ヒデアキ]]、イラストレーター、絵本作家、漫画家
* 1976年 - 中川勝弥、プロゴルファー
* 1975年 - [[ナタリー・クック]]、[[ビーチバレー]]選手
* 1975年 - [[フェルナンド・セギノール]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[タルソ・マルケス]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー
* 1976年 - {{仮リンク|クリストフ・ズマン|en|Christoph Sumann}}、[[バイアスロン]]選手
* [[1977年]] - [[Cocco]]、シンガーソングライター
* 1977年 - [[林美穂]]、女優
* 1977年 - [[道下美里]]、陸上競技選手
* 1977年 - [[湯場忠志]]、[[プロボクサー]]
* 1977年 - [[キム・ソヨン (声優)|キム・ソヨン]]、声優
* 1977年 - [[ローレン・エタメ・マイヤー]]、サッカー選手
* [[1978年]] - [[井戸実]]、実業家
* 1978年 - [[林敬子]]、[[タレント]]
* 1978年 - [[石井俊也]]、サッカー選手
* [[1979年]] - [[平間美貴]]、女優
* 1979年 - 三田村勝典、タレント
* 1977年 - 荒畑潤一、プロスケーター
* 1979年 - [[孫英傑]]、陸上長距離選手
* 1979年 - [[金炳賢]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[パウロ・フェレイラ]]、サッカー選手
* 1979年 - [[スベトラーナ・ホルキナ]]、元[[体操競技]]選手、政治家
* [[1980年]] - [[望月章男]]、俳優
* 1980年 - [[木村ネネ]]、元プロレスラー
* 1980年 - [[ジェンソン・バトン]]、F1レーサー
* 1980年 - [[ルーク・マクファーレン]]、俳優
* 1980年 - [[アルヴィーダス・マツィヤウスカス]]、プロバスケットボール選手
* [[1981年]] - [[井口玲音]]、アナウンサー
* 1981年 - [[南綾子]]、作家
* 1981年 - [[市川貴之 (野球)|市川貴之]]、プロ野球審判員
* 1981年 - [[藤岡幹大]]、ギタリスト(+ [[2018年]])
* 1981年 - [[ルイス・ゴンサレス]]、サッカー選手
* 1981年 - [[アシエル・デル・オルノ]]、サッカー選手
* 1981年 - [[ビッツィー・トゥロック]]、女優
* [[1982年]] - [[森崎愛]]、タレント
* 1982年 - [[竹中知華]]、アナウンサー
* 1982年 - [[中曽根康隆]]、政治家
* 1982年 - [[中村裕司]]、[[騎手]]
* 1982年 - [[島田裕介]]、サッカー選手
* 1982年 - [[張韶涵]](アンジェラ・チャン)、歌手、女優
* 1982年 - [[ジョディ・スウィーティン]]、女優
* 1982年 - [[陳祚]]、[[競泳]]選手
* [[1983年]] - [[宇多田ヒカル]]、シンガーソングライター
* 1983年 - {{仮リンク|オイステイン・ペテルセン|en|Øystein Pettersen}}、[[ノルディックスキー]]選手
* 1983年 - [[グレン・モス]]、サッカー選手
* 1983年 - {{仮リンク|黄美珍|en|Jane Huang|zh|黃美珍}}(ジェーン・ホァン)、歌手
* 1983年 - [[三福エンターテイメント]]、お笑い芸人
* [[1984年]] - [[加藤未央]]、女優
* 1984年 - [[五十嵐衣里]]、政治家
* 1984年 - [[西野友子]]、元アナウンサー
* 1984年 - [[ジミー・ケベ]]、元サッカー選手
* 1984年 - [[アリオナ・サフチェンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1984年 - [[カルン・チャンドック]]、F1レーサー
* 1984年 - [[ニコラス・パレハ]]、元サッカー選手
* [[1985年]] - [[石川梨華]]、タレント(元[[モーニング娘。]]、元[[美勇伝]])
* 1985年 - [[木村美紀]]、タレント
* 1985年 - [[松橋周太呂]]、放送作家、お笑いタレント(元[[ジューシーズ]])
* 1985年 - 溜口佑太朗、お笑いタレント([[ラブレターズ]])
* 1985年 - [[船山祐二]]、元サッカー選手
* 1985年 - [[アルペル・ウチャル]]、フィギュアスケート選手
* 1985年 - [[シェイ・リリーホワイト]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[ベニー・ファイルハーバー]]、サッカー選手
* 1985年 - {{仮リンク|エリオット・ウォード|en|Elliott Ward}}、サッカー選手
* [[1986年]] - [[牧野由依]]、声優、女優、歌手
* 1986年 - [[定常菜都子]]、アナウンサー
* 1986年 - [[島川未有]]、アナウンサー
* 1986年 - [[クラウディオ・マルキジオ]]、サッカー選手
* 1986年 - [[ムサ・ソウ]]、サッカー選手
* [[1987年]] - [[金子有希]]、声優、舞台女優
* 1987年 - [[太田基裕]]、俳優
* 1987年 - 東野行恭、タレント
* 1987年 - 百瀬茉莉奈、タレント
* 1987年 - [[海空りく]]、作家
* 1987年 - [[ジャフェット・アマダー]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[ジョーダン・ブラウニンガー]]、フィギュアスケート選手
* 1987年 - [[エドガル・マヌチャリアン]]、サッカー選手
* [[1988年]] - [[落合由佳]]、アナウンサー
* 1988年 - [[宮嶋那帆]]、アナウンサー
* 1988年 - [[山本裕典]]、[[タレント]]、俳優
* 1988年 - [[渡辺早織]]、ファッションモデル、女優
* 1988年 - [[小松憲太]]、サッカー選手
* 1988年 - [[マティアス・クレメント]]、プロレスラー
* 1988年 - [[ショーン・トールソン]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[ジャベール・マギー]]、プロバスケットボール選手
* [[1989年]] - [[佐藤謙介]]、サッカー選手
* 1989年 - [[實藤友紀]]、サッカー選手
* 1989年 - [[藤満霞]]、プロボクサー
* 1989年 - [[玄也]]、俳優、[[スタントマン]](+ [[2012年]])
* 1989年 - [[ジェイムズ・ベレスフォード]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[ジェイク・リー]]、プロレスラー
* [[1990年]] - 池田智子、ミュージシャン(元[[Shiggy Jr.]])
* 1990年 - [[makimu]]、元ファッションモデル
* 1990年 - [[萩澤正太]]、元ラグビー選手
* 1990年 - [[リチャード・クレイン]]、プロ野球選手
* [[1991年]] - [[日向野祥]]、俳優、ミュージシャン([[HIROZ]]、[[HIROZ SEVEN+]])
* 1991年 - [[高橋ユウ]]、[[ファッションモデル]]
* 1991年 - [[前田佳美]]、ファッションモデル
* 1991年 - 蒼山幸子、ミュージシャン([[ねごと]])
* 1991年 - [[田中麻耶]]、アナウンサー
* 1991年 - [[宮城雅史]]、サッカー選手
* 1991年 - [[伊藤雅雪]]、元プロボクサー
* 1991年 - [[鈴木駿也]]、元プロ野球選手
* 1991年 - {{仮リンク|エリン・サンダース|en|Erin Sanders}}、女優
* 1991年 - [[ダリヤ・クリシナ]]、陸上競技選手
* 1991年 - [[ペトラ・マルティッチ]]、テニス選手
* [[1992年]] - [[KENTA (俳優)|KENTA]]、俳優
* 1992年 - [[ローガン・ラーマン]]、俳優
* 1992年 - [[ショーン・ジョンソン]]、[[体操選手]]
* 1992年 - [[ジャレル・コットン]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[マック・ミラー]]、ラッパー(+ [[2018年]])
* [[1993年]] - [[久野美咲]]、声優
* 1993年 - [[永野愛理]]、声優(元[[Wake Up, Girls! (声優ユニット)|Wake Up, Girls!]])
* 1993年 - [[金澤まい]]、声優
* 1993年 - [[エリック・トーレス]]、サッカー選手
* 1993年 - [[ガス・ルイス]]、俳優
* 1993年 - [[劉晏含]]、バレーボール選手
* [[1994年]] - [[小薗江愛理]]、女優
* 1994年 - [[長谷川真優]]、女優
* 1994年 - [[伊東大輝]]、タレント
* 1994年 - 千葉弘輝、タレント
* 1994年 - [[小池美由]]、アイドル、歌手
* 1994年 - [[澤本夏輝]]、歌手([[FANTASTICS from EXILE TRIBE]])
* 1994年 - [[マティアス・ギンター]]、サッカー選手
* [[1995年|1995年 -]] [[篠原和希]]、サッカー選手
* 1995年 - [[星奈々 (女優)|星奈々]]、元[[子役]]
* 1995年 - [[初川みなみ]]、元[[AV女優]]
* [[1996年]] - [[青葉ひなり]]、アイドル([[FES☆TIVE]])
* [[1997年]] - [[太田賢吾 (野球)|太田賢吾]]、プロ野球選手
* 1997年 - [[黒岩伶奈]]、女優
* 1997年 - [[山崎あみ]]、ファッションモデル
* 1997年 - バトルロボ、YouTuber、ミュージシャン(元[[夕闇に誘いし漆黒の天使達]])
* [[1998年]] - [[上原れな (1998年生)|上原れな]]、元タレント
* 1998年 - [[渡辺碧斗]]、俳優
* 1998年 - [[吉村貢司郎]]、プロ野球選手
* 1998年 - [[ハンビン (歌手)|ハンビン]]、アイドル([[TEMPEST (音楽グループ)|TEMPEST]])
* [[1999年]] - [[ジョナサン・テイラー (アメリカンフットボール)|ジョナサン・テイラー]]、アメリカンフットボール選手
* [[2000年]] - [[伊藤あさひ]]、俳優
* 2000年 - [[松岡はな]]、アイドル([[HKT48]])
* 2000年 - [[菊池柚花]]、タレント、キャスター
* 2000年 - 佐藤七海、アイドル(元[[AKB48]])
* [[2001年]] - [[髙松瞳]]、アイドル([[=LOVE]])
* 2001年 - [[藤井優衣]]、アイドル([[KissBee]])
* 2001年 - 人見古都音、アイドル(元[[AKB48]])
* [[2002年]] - [[亀田織音]]、元プロ野球選手
* [[2003年]] - [[佐竹桃華]]、女優
* [[2004年]] - [[黒見明香]]、アイドル([[乃木坂46]])
* 2004年 - [[伊勢鈴蘭]]、アイドル([[アンジュルム]])
* [[2005年]] - 住田悠華、アイドル([[アップアップガールズ(仮)]])
* 生年不明 - 田中美幸、声優
* 生年不明 - [[蜂須賀智隆]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kenproduction.co.jp/talent/92 |title=蜂須賀 智隆 |accessdate=19 Aug 2023 |publisher=賢プロダクション}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[大原かずみ]]、演歌歌手
* 生年不明 - keiji、ミュージシャン([[Mix Speaker's,Inc.]])
* 生年不明 - [[KOTOKO]]、シンガーソングライター
* 生年不明 - [[今川靜也]]、作曲家
* 生年不明 - [[笹倉綾人]]、漫画家
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1980年]] - ロコ、[[のぼりべつクマ牧場]]にいる日本最高齢の雄[[ヒグマ]](+ [[2014年]])
== 忌日 ==
* [[639年]] - [[ダゴベルト1世 (フランク王)|ダゴベルト1世]]、[[フランク王国|フランク王]](* [[603年]])
* [[969年]]([[康保]]3年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[藤原朝忠]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](* [[910年]])
* [[1202年]]([[建仁]]元年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[藤原多子]]、[[近衛天皇]]・[[二条天皇]]の后(* [[1140年]])
* [[1243年]]([[仁治]]3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - [[近衛家実]]、[[鎌倉時代]]の公卿(* [[1179年]])
* [[1283年]]([[弘安]]5年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[姉小路忠方]]、鎌倉時代の公卿(* [[1241年]])
* [[1361年]]([[正平 (日本)|正平]]15年/[[延文]]5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[関山慧玄]]、[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1277年]])
* [[1468年]]([[応仁]]元年12月24日) - [[佐竹義人]]、[[室町時代]]の[[守護大名]](* [[1400年]])
* [[1576年]] - [[ハンス・ザックス]]、[[劇作家]]、[[歌手]]、遍歴職人(* [[1494年]])
* [[1603年]]([[慶長]]7年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[勧修寺晴豊]]、[[安土桃山時代]]の公卿(* [[1544年]])
* [[1719年]]([[享保]]3年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[尭延法親王]]、[[江戸時代]]の[[法親王]](* [[1677年]])
* [[1786年]]([[天明]]5年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[米倉昌晴]]、第3代[[六浦藩|六浦藩主]]、[[江戸幕府]][[若年寄]](* [[1728年]])
* [[1793年]]([[寛政]]4年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[勝川春章]]、[[浮世絵|浮世絵師]](* [[1726年]])
* [[1833年]] - [[フェルディナン・エロルド]]、[[作曲家]](* [[1791年]])
* [[1865年]] - [[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]、[[アナキズム|アナーキスト]](* [[1809年]])
* [[1878年]] - [[アンリ・ヴィクトル・ルニョー]]、[[物理学者]]、[[化学者]](* [[1810年]])
* [[1881年]] - [[エルコレ・デンボウスキー]]、[[天文学者]](* [[1812年]])
* 1881年 - [[オギュスト・マリエット]]、[[エジプト]][[考古学|考古学者]](* [[1821年]])
* [[1888年]] - [[アントン・ド・バリー]]、[[植物学者]](* [[1831年]])
* [[1899年]] - [[勝海舟]]、[[幕臣]]、[[政治家]](* [[1823年]])
* [[1929年]] - [[梁啓超]]、政治運動家、[[ジャーナリスト]]、[[歴史家]](* [[1873年]])
* [[1900年]] - [[マーティ・バーゲン]]、プロ野球選手(* [[1871年]])
* [[1930年]] - [[フランク・ラムゼイ (数学者)|フランク・ラムゼイ]]、[[数学者]](* [[1903年]])
* [[1931年]] - [[森道伯]]、[[漢方]]一貫堂医学の創始者(* [[1867年]])
* [[1942年]] - [[猪俣津南雄]]、[[経済学者]](* [[1889年]])
* 1942年 - [[ヴァルター・シュピース]]、[[画家]](* [[1895年]])
* [[1946年]] - [[靉光]]、[[洋画家]](* [[1907年]])
* [[1947年]] - [[石原純]]、[[物理学者]]、歌人(* [[1881年]])
* [[1948年]] - [[トニー・ガルニエ]]、[[都市計画家]]、[[建築家]](* [[1869年]])
* 1948年 - [[出口王仁三郎]]、[[宗教家]](* [[1871年]])
* [[1951年]] - [[星一]]、[[実業家]](* [[1873年]])
* [[1956年]] - [[ニコライ・パニン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1871年]])
* [[1957年]] - [[ミゲル・コバルビアス]]、[[画家]](* [[1904年]])
* [[1962年]] - [[安井誠一郎]]、元[[東京都知事一覧|東京都知事]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[衆議院議員]](* [[1891年]])
* 1962年 - [[高登渉]]、[[大相撲]]の[[力士]]・元[[関脇]](* [[1908年]])
* [[1964年]] - [[アルノルト・シュヴァスマン]]、[[天文学者]](* [[1870年]])
* [[1969年]] - [[ヤン・パラフ]]、「[[プラハの春]]」の英雄として知られる[[大学生]](* [[1948年]])
* [[1972年]] - [[マイケル・レビン]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1936年]])
* 1972年 - [[田中照雄]]、[[プロ野球選手]](* [[1933年]])
* [[1976年]] - [[八木秀次]]、[[八木・宇田アンテナ]]開発者(* [[1886年]])
* [[1979年]] - [[唐牛敏世]]、[[みちのく銀行]]初代頭取(* [[1879年]])
* [[1980年]] - [[高橋信三]]、[[毎日放送]]元会長(* [[1901年]])
* 1980年 - [[穂積驚]]、[[小説家]](* [[1912年]])
* [[1982年]] - [[エリス・レジーナ]]、歌手(* [[1945年]])
* [[1988年]] - [[エフゲニー・ムラヴィンスキー]]、[[指揮者]](* [[1903年]])
* [[1989年]] - [[佐竹義利]]、[[実業家]](* [[1904年]])
* [[1990年]] - [[橋本登美三郎]]、[[政治家]](* [[1901年]])
* 1990年 - [[バグワン・シュリ・ラジニーシ|オショウ]]、[[神秘主義|神秘家]](* [[1931年]])
* [[1991年]] - [[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]、第2代[[宮内庁]]長官(* [[1903年]])
* [[1992年]] - [[高野鎮雄]]、[[日本ビクター]]元副社長(* [[1923年]])
* [[1999年]] - [[芳の里淳三]]、大相撲力士、[[プロレスラー]](* [[1928年]])
* [[2000年]] - [[ヘディ・ラマー]]、[[俳優|女優]]、[[発明家]](* [[1914年]])
* 2000年 - [[ベッティーノ・クラクシ]]、[[イタリアの首相|イタリア首相]](* [[1934年]])
* 2000年 - [[ジョージ・レドヤード・ステビンズ]]、[[植物学|植物学者]]、[[遺伝学|遺伝学者]](* [[1906年]])
* [[2002年]] - [[渡辺啓助]]、[[推理作家]](* [[1901年]])
* [[2003年]] - [[北出清五郎]]、[[アナウンサー]](* [[1922年]])
* 2003年 - [[田中明夫]]、俳優(* [[1926年]])
* [[2006年]] - [[有島重武]]、元[[公明党]][[国会議員|衆議院議員]](* [[1924年]])
* 2006年 - [[ウィルソン・ピケット]]、[[ソウルミュージック|ソウル]]・[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]歌手(* [[1941年]])
* [[2007年]] - [[スコット・ビガロー]]、プロレスラー(* [[1961年]])
* [[2008年]] - [[河林満]]、[[小説家]](* [[1950年]])
* [[2012年]] - [[サラ・バーク]]、女子スノーボーダー(* [[1982年]])
* [[2013年]] - [[スタン・ミュージアル]]、プロ野球選手(* [[1920年]])
* 2013年 - [[アール・ウィーバー]]、元メジャーリーグ監督(* [[1930年]])
* 2013年 - [[大鵬幸喜]]、元[[大相撲]][[力士]]、第48代[[横綱]](* [[1940年]])
* [[2014年]] - [[野中マリ子]]、女優(* [[1927年]])
* [[2015年]] - [[矢吹健]]、歌手(* [[1945年]])
* [[2016年]] - [[小出保太郎]]、世界最高齢の男性(* [[1903年]])
* 2016年 - [[エットーレ・スコラ]]、映画監督(* [[1931年]])
* [[2020年]] - [[重光武雄]]、実業家(* [[1922年]])
* 2020年 - [[奈良原一高]]、[[写真家]](* [[1931年]])
* 2020年 - [[原知佐子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.chibanippo.co.jp/newspack/20200120/660615 |title=俳優の原知佐子さん死去 「赤いシリーズ」のいびり役 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[千葉日報]]オンライン |date=20 Jan 2020}}</ref>、女優(* [[1936年]])
* [[2021年]] - [[伊藤英成]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14769673.html |title=伊藤英成さん死去 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=20 Jan 2021}}</ref>、政治家(* [[1941年]])
* 2021年 - [[鈴木重靖]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shikoku-np.co.jp/bl/news/national/okuyami-detail.aspx?kid=20210121000269 |title=鈴木重靖氏死去/山口大名誉教授 |publisher=[[四国新聞]] |date=21 Jan 2021 |accessdate=19 Aug 2023}}</ref>、[[経済学者]](* [[1925年]])
* 2021年 - [[長岡三重子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/93507 |title=国内最高齢スイマー 山口県の長岡三重子さん死去、106歳 |publisher=[[中國新聞]]デジタル |date=24 Jan 2021 |accessdate=19 Aug 2023}}</ref>、[[水泳]]選手、実業家、[[能楽師]](* [[1914年]])
* [[2023年]] - [[目黒考二]]、小説家(*[[1946年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[空気清浄機]]の日({{JPN}})
*: [[日本電機工業会]]が[[2006年]]に制定。「い(1)い(1)く(9)うき」の語呂合せ<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/226035 |title=きょうは何の日 1月19日 空気清浄機の日 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=19 Jan 2023}}</ref>。
* [[カラオケ]]の日/のど自慢の日({{JPN}})
*: [[1946年]]1月19日に[[日本放送協会|NHK]]ラジオで『のど自慢素人音楽会』(現在の『[[NHKのど自慢]]』)が放送開始されたことに由来。
* はっぴぃおかん・大阪いちじくの日({{JPN}})
*: [[大阪府]][[羽曳野市]]のはっぴぃおかんが制定。いちじくの商品を広め、大阪を代表する特産品・お土産にするのが目的。日付は、「いち(1)じく(19)」と読む語呂合わせから<ref name="jan19">{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=16|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
* 家庭[[消火器]]点検の日({{JPN}})
*: 全国消防機器販売業協会が[[1991年]]10月に制定。1と19で「[[119番|119]]」となることから。[[11月9日]]が消防庁が定めた「119の日」であるため、1月19日を記念日とした<ref name="jan19"/>。
* いちじく浣腸の日({{JPN}})
*: いちじく製薬株式会社が創業90周年を記念し2015年に制定。さらに多くの人にいちじく浣腸を知ってもらうのが目的。日付は、「いち(1)じく(19)」と読む語呂合わせから<ref name="jan19"/>。
* いいくちの日({{JPN}})
*: [[花王|花王株式会社]]が制定。歯のケアだけでなく、口内環境全般を健康な状態に保つことを意識してもらうのが目的。日付は、「いい(11)くち(9)」と読む語呂合わせから<ref name="jan19"/>。
* 明恵上人改開山忌({{JPN}})
*: 紀伊国有田郡石垣庄出身で、[[華厳宗]]中興の祖・明惠上人は、[[1232年]](寛喜4年)1月19日に遷化<ref>{{Cite web|和書 |url=https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4642 |title=明恵上人の生涯~華厳宗中興の祖 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[PHP研究所]] |date=25 Dec 2018 |website=WEB歴史街道}}</ref>。この日、明恵上人が開いた[[高山寺]]では、明恵上人を偲ぶ法要が営まれる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kosanji.com/blog/detail/72 |title=1月19日(木)開山忌法要のご案内 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=栂野山 高山寺}}</ref>。なお、明恵は[[明菴栄西|栄西]]からもらった茶の種子を栂尾や宇治・五ケ庄大和田の里に蒔き、茶の普及のきっかけを作ったことでも知られている<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ayataka.jp/story/otya/02.html |title=綾鷹物語 お茶の章 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[日本コカ・コーラ|Coca-Cola(Japan)Company, Limited]]}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0119|date=Aug 2023}}
* [[2003年]] - 城戸真司が「金色のカニ」を探しにいく。(特撮ドラマ『[[仮面ライダー龍騎]]』)
* [[2004年]] - 佐々岡コウジがセンター試験でカンニングをしたと疑われ、柿の木坂高校を退学処分となる。(ドラマ『[[ガチバカ!]]』)
* [[2006年]] - レオイマジンが現れる。電王ライナーフォームによって倒される。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
* [[2019年]] - SCP-3519の影響による自殺率が世界人口の約1%に達する。<ref>{{Cite web|url=http://scp-jp.wikidot.com/scp-3519 |title=SCP-3519 |accessdate=2021-01-27 |website=[[SCP財団]]}}</ref>
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1983年]] - 神崎優衣、特撮『[[仮面ライダー龍騎]]』のヒロイン<ref>仮面ライダー龍騎 第45話「20歳の誕生日」</ref>
* [[1998年]] - 林田藍里、アニメ『[[Wake Up, Girls!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://wakeupgirls.jp/character02.html |title=林田 藍里 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=Green Leaves Wake Up, Girls!製作委員会 |work=『Wake Up Girls!』}}</ref>
* 生年不明 - 小宮千尋、漫画・小説・アニメ『[[少年メイド]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/meido/chara/01chihiro.html |title=小宮千尋 |access-date=19 Aug 2023|publisher=[[乙橘]]・[[KADOKAWA]]/少年メイド製作委員会 [[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television, Inc.]] |work=『少年メイド』}}</ref>
* 生年不明 - 室戸亜岐、ゲーム・アニメ『[[フォトカノ]]』のヒロインのひとり<ref>{{Cite web|和書 |url=http://photokano.jp/maincharacter02.html |title=室戸亜岐 |access-date=19 Aug 2023 |work=『フォトカノ』 |publisher=[[エンターブレイン]]}}</ref>
* 生年不明 - ウィル・A・ツェペリ、漫画・アニメ『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - スパンダイン、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Spandine.html |title=スパンダイン |work=『ONE PIECE』 |accessdate=19 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - [[我愛羅]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2002-07-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=51|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088732886}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=63|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088737348}}</ref>
* 生年不明 - 五十嵐勝也、漫画『[[Romancers]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - コヨーテ・スターク、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - リリネット・ジンジャーバック、漫画・アニメ『BLEACH』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 姫川葵、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2017-08-04|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088811949|volume=27巻|page=146}}</ref>
* 生年不明 - ヒメコの母、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 田口たんぽぽ、漫画・アニメ『[[灼熱の卓球娘]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 佐藤栄樹、漫画・アニメ『[[DAYS (漫画)|DAYS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|days_anime|821913185892433920}}</ref>
* 生年不明 - 多磨レイカ、漫画・アニメ『[[風夏]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ジャック=ベザリウス、漫画・アニメ『[[PandoraHearts]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 大島千づる、漫画・アニメ『[[となりの怪物くん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 橘うらら、読者参加企画・アニメ『[[セラフィムコール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 安達妙子、アニメ『[[センチメンタルジャーニー (アニメ)|センチメンタルジャーニー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sunriseworld_pr|1483635324165128192}}</ref>
* 生年不明 - 八木原克己、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=19 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - 松原葵、ゲーム・アニメ『[[To Heart]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://aquaplus.jp/th/chr_prof.html |title=登場人物|松原 葵 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[アクアプラス|AQUAPLUS]] |work=『ToHeart(トゥハート)』}}</ref>
* 生年不明 - エテキチ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 エテキチ |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - メアリー・コクラン、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20168 |title=メアリー・コクラン(めありー こくらん) |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 吉光、ゲーム・アニメ『[[閃乱カグラ NewWave|閃乱カグラNewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/yoshimitsu.php |title=吉光 |access-date=19 Aug 2023 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』}}</ref>
* 生年不明 - 両奈、ゲーム・アニメ『[[閃乱カグラ -少女達の真影-|閃乱カグラ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://senrankagura.marv.jp/shinovishoujyo/chara/?ryona&mode=1 |title=両奈 |work=『閃乱カグラ』シノビ少女図鑑 |accessdate=19 Aug 2023 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]]/HONEY PARADE GAMES Inc.}}</ref>
* 生年不明 - 両備、ゲーム・アニメ『閃乱カグラ』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://senrankagura.marv.jp/shinovishoujyo/chara/?ryobi&mode=1 |title=両備 |work=『閃乱カグラ』シノビ少女図鑑 |accessdate=19 Aug 2023 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]]/HONEY PARADE GAMES Inc.}}</ref>
* 生年不明 - 金春貴之、ゲーム・アニメ『[[喧嘩番長 乙女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kbo_anime|821750161294536704}}</ref>
* 生年不明 - 逢坂ここ、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/aisaka |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |title=逢坂 ここ |accessdate=19 Aug 2023 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|1|18|1|20|[[12月19日]]|[[2月19日]]|[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]|0119|1|19}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8819%E6%97%A5 |
1,826 | セブンブリッジ | セブンブリッジは、7枚の手持ちカードで行う2~6人用の日本のトランプゲーム。
ラミーのバリエーションの一つであり、そのルールには同じラミー系のゲームである麻雀との関連性が見られる。
ブリッジと名はついているが、コントラクトブリッジ(いわゆるブリッジ)とは全く関係がない。 | [
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] | セブンブリッジは、7枚の手持ちカードで行う2~6人用の日本のトランプゲーム。 ラミーのバリエーションの一つであり、そのルールには同じラミー系のゲームである麻雀との関連性が見られる。 ブリッジと名はついているが、コントラクトブリッジ(いわゆるブリッジ)とは全く関係がない。 | <!--{{otheruses|トランプのゲーム|同名のアダルトゲーム|SEVEN BRIDGE}}再執筆時にコメントインしてください-->
'''セブンブリッジ'''は、7枚の手持ちカードで行う2~6人用の日本の[[トランプ]]ゲーム。
[[ラミー]]のバリエーションの一つであり、そのルールには同じ[[ラミー]]系のゲームである[[麻雀]]との関連性が見られる。
ブリッジと名はついているが、[[コントラクトブリッジ]](いわゆるブリッジ)とは全く関係がない。
== 主なルール ==
# 手札を7枚ずつ配り、残りは裏向きに山札とする。
# 順に、山札から1枚ずつ取って手札に加え、要らないカード1枚を表向きに捨てる。
## 可能であれば、同じ数字の札(同位札)3枚以上か、同じスートの連続する数字の札(シークエンス)3枚以上の組み合わせを手元に晒すことができる。これを'''メルド'''という。<br>ただし、'''7のカード'''は1枚だけでメルドすることができる。また、7を含むシークエンスは2枚(6-7または7-8)でもメルドすることができる。
## メルドしたプレイヤーは、可能であれば、自分または他人のメルドに手持ちの札をルールに従って付け足すことができる(付け札)。
##* 同位札のメルドには同じ数字のカードを、シークエンスのメルドには同じスートの連続する数字のカードを付け札することができる。
##* メルドをしていないプレイヤーは、付け札することはできない。
## 直前に他のプレイヤーが捨てたカードを用いればメルドできるときは、山札を取る代わりにそのカードを取ることができる。
### 捨てられたカードと同じ数字のカードを2枚以上持っているときは、誰でも「ポン」と言ってそのカードを取ることができる。
### 自分のすぐ前の人が捨てたカードと合わせて3枚以上のシークエンスができるときは、「チー」と言ってそのカードを取ることができる(チーは自分の前の人の番のみ可能である)。
##* 1巡目はポンやチーをすることができないとするのが一般的である。
##* ポンとチーが競合した場合は、ポンが優先される。
##* ポン・チーがされた後は、ポン・チーをした人の次の人の手番となる。
# 1人のプレイヤーが全ての札を晒し、最後にカードを1枚捨てて上がればラウンドが終了する。プレイヤーごとに手持ちのカードの合計点数を計算し、上がった人は0点となる。
#* 絵札とエースは10点、2~10はその数字を点数として計算することが多い<ref>DATT JAPANのGAMEPACK2001などにこのゲームが収録されているが、点数はエース15点、絵札と10が10点、2-9は5点とされている。</ref>。
#* 全くメルドや付け札をせずに、一度に手札全てを晒して上がった場合には、ボーナスが与えられる(他のプレイヤーの点数が高くなる)。
#* 上がるときは必ずカードを1枚捨てなければならないとするのが一般的であるが、捨て札を必要としないルールもある。
#* 直前の捨て札を用いて上がった場合、その捨て札を捨てた者の責任として点数を決める場合がある。
# 以上のラウンドを繰り返し、最も点数の少ないプレイヤーが勝者となる。
=== 特殊なルール ===
* 他のプレイヤーが上がったときに7を持っていた場合は、ペナルティとして点数が2倍になるルールがある。
* ジョーカーをオールマイティーとして加えるルールがある。
** この場合、ジョーカーを任意のカードの代わりとして用いてメルドを作ることができる(例:ハート4・ジョーカー・ハート6、ハート3・ジョーカー・スペード3)。
** その反面、他のプレイヤーが上がったときにジョーカーを持っていた場合は、ペナルティとして点数が5倍になるルールがある。
* なお、地域によっては、7やジョーカーでは上がれないというルールも存在する。
== 役名 ==
;同位札:同じ数字の札3枚以上(例:ハート3・ダイヤ3・スペード3)
;シークエンス:同じスートの連続する数字の札3枚以上(例:ハートの2-3-4)
:Q-K-A、A-2-3は連続するが、K-A-2は不可とされる(AとKは連続しないとするルールもある)。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[トランプ]]
*[[ラミー]]
*[[カナスタ]]
*[[ラミーキューブ]]
*[[ジン・ラミー]]
== 外部リンク ==
* [https://www.nintendo.co.jp/others/playing_cards/howtoplay/seven_bridge/ セブンブリッジ|トランプの歴史・遊びかた|トランプ] - [[任天堂]]
{{トランプ}}
{{DEFAULTSORT:せふんふりつし}}
[[Category:ラミー]]
[[Category:日本のトランプゲーム]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8 |
1,827 | スーパーセル法 | スーパーセル法 (スーパーセルほう、super-cell method) は、シミュレーション計算手法の一つである。(主にバンド計算時に)周期的境界条件を置いてシミュレーションするときのセル(周期的に繰り返される単位)を理論的に最小なユニットセル(単位胞・単位格子)より大きなスーパーセルとする方法である。
周期的境界条件は、無限に同じセルが繰り返された系を仮定する。セルにユニットセルを使った場合、それは無限に続く完全結晶ということになる。不純物や欠陥を扱う場合や、表面を扱う場合にはそれは成り立たず、スーパーセル法が必要になる。
フォノン(格子振動)を従来型の方法で計算する場合も、Γ点以外のk点でのフォノンを求めるためには、スーパーセルでの計算が必要である(DFPT法では必要ない)。 | [
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] | スーパーセル法 は、シミュレーション計算手法の一つである。(主にバンド計算時に)周期的境界条件を置いてシミュレーションするときのセル(周期的に繰り返される単位)を理論的に最小なユニットセル(単位胞・単位格子)より大きなスーパーセルとする方法である。 周期的境界条件は、無限に同じセルが繰り返された系を仮定する。セルにユニットセルを使った場合、それは無限に続く完全結晶ということになる。不純物や欠陥を扱う場合や、表面を扱う場合にはそれは成り立たず、スーパーセル法が必要になる。 フォノン(格子振動)を従来型の方法で計算する場合も、Γ点以外のk点でのフォノンを求めるためには、スーパーセルでの計算が必要である(DFPT法では必要ない)。 | {{出典の明記|date=2015年9月}}
'''スーパーセル法''' (スーパーセルほう、super-cell method) は、[[シミュレーション]]計算手法の一つである。(主に[[バンド計算]]時に)[[周期的境界条件]]を置いてシミュレーションするときのセル(周期的に繰り返される単位)を理論的に最小な[[単位胞|ユニットセル]]([[単位胞]]・[[単位胞|単位格子]])より大きなスーパーセルとする方法である。
周期的境界条件は、[[無限]]に同じセルが繰り返された系を仮定する。セルにユニットセルを使った場合、それは無限に続く[[完全結晶]]ということになる。[[不純物]]や[[格子欠陥|欠陥]]を扱う場合や、[[表面]]を扱う場合にはそれは成り立たず、スーパーセル法が必要になる。
[[フォノン]]([[格子振動]])を従来型の方法で計算する場合も、Γ点以外の[[ブリュアンゾーン#k点|k点]]でのフォノンを求めるためには、スーパーセルでの計算が必要である([[DFPT法]]では必要ない)。
== 関連項目 ==
* [[単位胞]]
* [[結晶]]
* [[並進対称性]]
* [[第一原理バンド計算]]
{{DEFAULTSORT:すはせる}}
[[Category:バンド計算]] | null | 2020-04-27T21:41:49Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%AB%E6%B3%95 |
1,828 | 雑誌 | 雑誌()とは、逐次刊行物であり、定期刊行物である出版物の一種。一般に流通している、漫画・小説を含む娯楽雑誌だけではなく、報道、それらを包含した総合雑誌、各種の趣味雑誌や専門雑誌、学術研究誌や官公庁誌なども含めた様々なジャンルに存在する。広義の本のうち雑誌は、単行本を中心とする書籍・図書と並ぶ二大情報源である。
雑誌の特徴としては以下のことが挙げられる。
こうした特徴により、速報性の点で日刊新聞には及ばないが、書籍・図書よりは優位にある。また書籍・図書に比べて刊行が容易であり、書籍・図書として発行するには難しい狭い専門分野の情報や娯楽情報の提供などに利用されている。
雑誌と書籍の中間的な存在としてムックがあり、流通上は雑誌として扱われている。
雑誌の刊行を始めることを「創刊」(第1号は「創刊号」)、刊行の中断は「休刊」、終了は「廃刊」と呼ぶ。休刊と称していても、実際には復刊せずそのまま廃刊となることも多い。
長期にわたって大部数で刊行が続く雑誌もあれば、流行の変化や出版不況などを背景に休廃刊したり、紙媒体ではなくオンライン配信に移行したりする雑誌もある。
日本の雑誌では、過去には雑誌によって号数の表記基準が異なり、中には実際の発売時期より数か月先の号数を表記する雑誌も現れるなどして、書店・読者の混乱を招いた。このため1986年11月に日本雑誌協会が制定した自主規程「雑誌作成上の留意事項」により、以下の範囲で発売日より先の日付・号数も付けることができるように決められた。その結果、現在は雑誌の新しさを演出するために発売日よりも前倒しで表記する雑誌が多い。なお発売日と同じ号数を表記しても構わない。
通常雑誌コードの下に L-mm/dd と表示されており発売年(年末の場合は翌年)のmm月dd日にまでが期限という意味である。しかし、大規模ではない書店では通常バックナンバーを保存する余裕がないため、新号発売前日の夜には全て回収され、箱詰めうえ翌朝に新号を納本にきた出版取次業者に渡されることが多い。
雑誌は、百科事典の誕生と同様、新しい知識や情報、視点を広く一般に開示、紹介するものとして出発した。世界で最初の本格的な雑誌は1665年に仏国パリで創刊された『ジュルナル・デ・サバン』(fr:Journal des sçavans)と、同年に英国ロンドンで創刊された『フィロソフィカル・トランザクションズ』(The Philosophical Transactions)だと言われている。初めて「magazine」の語を使用したのは1731年にロンドンで創刊された『ジェントルマンズ・マガジン』(en:The Gentleman's Magazine)である。日本で最初の本格的な雑誌は、1867年(慶應3年)10月に洋学者の柳河春三が創刊した『西洋雑誌』だと言われ、「Magazine」の訳語に「雑誌」を用いている。総合雑誌としては明六雑誌が初になる。
日本雑誌広告協会雑誌分類認定委員会が定めた、「雑誌ジャンル・カテゴリー区分」。 分類項目は2021年7月時点のもので、ジャンル名・カテゴリ・対象読者の性別・ビークル・雑誌発行社の順に並べてある。なお、ティーンズは19歳以下、ヤングは20-24歳、ヤングアダルトは25-39歳、ミドルエイジは40-59歳、シニアは60歳以上を対象の目安とされている。
上記以外にも、様々な分野・年齢に向けた雑誌が存在する。
小売店販売が最も一般的な流通方法である。宅配販売やデジタル販売といった方法もとられる。
取次を通して書店や駅売店、コンビニエンスストアなどで販売される一般的な流通方法である。この場合は雑誌コードの取得が不可欠だが入手が難しい。
刊行の間隔が短いものほど出版社への返品期限も短い傾向があるため、書店の棚に並ぶ日数は短くなる。雑誌によっては特約店や一部の書店で常備している場合もあり、書店在庫が数冊しかない場合には返品期限を過ぎても返品せずそのまま売り切るケースもあるが、それ以外での書店では過去に刊行された号(バックナンバー)の入手は難しい。また、いわゆるオンライン書店では流通システムの関係上バックナンバーは原則として返品せず、在庫を売り切るまで販売するケースが多い。
ヨーロッパでは、書店の他に雑誌と新聞のみを扱う専門店がある。一部、ペーパーバックも置いていたりする。新聞・雑誌店という類のもの。
専門的な分野の雑誌は、契約制で企業や個人宅に直接配送するものがある。専門的でなくても読者の便宜を配慮して、定期購読契約すれば宅配してくれる場合が多い。
小売販売と宅配を両方する雑誌が多いが、宅配専門の雑誌も存在する。小売販売と宅配を両方する雑誌の場合、定期購読契約すると送料が無料になり、さらにおまけなどの特典をくれる場合もある。
書籍や雑誌は、日本の文化政策の一環として郵便料金が安く抑えられており(ゆうメール)、特に第3種郵便に指定された定期刊行物の郵便料金は安い。学術刊行物(学会誌)の場合は第4種郵便としてさらに安い料金で送ることができる。郵便局以外の民間の宅配便業者でも、メール便の大口割引などで、比較的安い値段で宅配することができる。
これまでの紙の流通に加え、電子書籍の一種であるデジタル雑誌(aka 電子雑誌、デジタルマガジン)の発行が日本でも始まった。記事単位での販売や紹介ではなく、表紙から裏表紙までまるごと記事、広告ともに見せる形態である。これらデジタル雑誌はその特性を用いて、雑誌内が検索できたり、動画をみせたり、編集ページや広告ページからホームページへのリンクを飛ばしたりするなどの工夫がされているものもある。
2006年には主婦の友社が紙では休刊した『ef』を『デジタルef』としてデジタル版のみで発行。2007年初旬には『ニューズウィーク日本版』や『R25』がデジタル版での流通を本格的に開始している。 ここにきて、他にも多くの雑誌(フリーペーパー含む)がデジタル雑誌として発売や発行され始めている。
米国では2002年ごろからデジタル雑誌での販売が始まっていて、新たな流通手段として定着している。
読者の購入によって出版社が得る販売代金の他に、特に近年においては広告料金の比率が高まっている。有名雑誌のカラー広告の出稿料金にはページ単価が200万円を超えるものもあり、広告媒体としての存在感が増す一方で、スポンサーを向いた誌面作りの傾向が強まることなどの弊害もある。
純粋な広告の他に、スポンサーとのタイアップ記事、広告企画記事が掲載されることもある。本文記事と区別するために広告であることが明記されたり、該当記事のみページ数を省いて印刷することもある。
雑誌広告は、より高い効果を期待して、当該雑誌の主な購読者層をターゲットにしたものとなる場合がほとんどである。とりわけ、一部の専門分野を対象にした雑誌では、一般の小売店では入手しづらい商品の通信販売を行う業者の広告が多く掲載される。そのため「広告も情報のうち」として、広告の多い雑誌が重宝がられる雑誌も一部存在する。一例を挙げると、電気回路(エレクトロニクス)関連の専門誌の場合、半分以上が電子部品や工具などの広告で占められている。
雑誌は読者からの投稿欄を設けているところが多い。商業的な理由から相応な質を担保するために編集部の選別を通ったものが掲載される。このことが読者に一定水準以上の文章を書かなければいけないという規範を植えつけ、知的水準の底上げに役立つと言われる。
雑誌に掲載された記事や作品(小説・漫画など)は書籍化されることもあるが、雑誌の内容全体に比してごく一部である。
このため新品としての販売期間が過ぎたバックナンバーが読書・鑑賞や収集の対象になることもある。古書店の中には特定のジャンルの雑誌バックナンバーを専門または品揃えの一部として扱う店もあるほか、インターネットオークションやフリマアプリなどを介して個人間で売買されることがある。
バックナンバーを閲覧できる場としては、雑誌専門図書館の大宅壮一文庫(東京都世田谷区)。同様な雑誌専門図書館であった「六月社」(東京都新宿区)は2018年6月10日で閉館となった。 | [
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"text": "日本の雑誌では、過去には雑誌によって号数の表記基準が異なり、中には実際の発売時期より数か月先の号数を表記する雑誌も現れるなどして、書店・読者の混乱を招いた。このため1986年11月に日本雑誌協会が制定した自主規程「雑誌作成上の留意事項」により、以下の範囲で発売日より先の日付・号数も付けることができるように決められた。その結果、現在は雑誌の新しさを演出するために発売日よりも前倒しで表記する雑誌が多い。なお発売日と同じ号数を表記しても構わない。",
"title": "日本の雑誌の号数と発売日の関係"
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"text": "通常雑誌コードの下に L-mm/dd と表示されており発売年(年末の場合は翌年)のmm月dd日にまでが期限という意味である。しかし、大規模ではない書店では通常バックナンバーを保存する余裕がないため、新号発売前日の夜には全て回収され、箱詰めうえ翌朝に新号を納本にきた出版取次業者に渡されることが多い。",
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"text": "雑誌は、百科事典の誕生と同様、新しい知識や情報、視点を広く一般に開示、紹介するものとして出発した。世界で最初の本格的な雑誌は1665年に仏国パリで創刊された『ジュルナル・デ・サバン』(fr:Journal des sçavans)と、同年に英国ロンドンで創刊された『フィロソフィカル・トランザクションズ』(The Philosophical Transactions)だと言われている。初めて「magazine」の語を使用したのは1731年にロンドンで創刊された『ジェントルマンズ・マガジン』(en:The Gentleman's Magazine)である。日本で最初の本格的な雑誌は、1867年(慶應3年)10月に洋学者の柳河春三が創刊した『西洋雑誌』だと言われ、「Magazine」の訳語に「雑誌」を用いている。総合雑誌としては明六雑誌が初になる。",
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"text": "日本雑誌広告協会雑誌分類認定委員会が定めた、「雑誌ジャンル・カテゴリー区分」。 分類項目は2021年7月時点のもので、ジャンル名・カテゴリ・対象読者の性別・ビークル・雑誌発行社の順に並べてある。なお、ティーンズは19歳以下、ヤングは20-24歳、ヤングアダルトは25-39歳、ミドルエイジは40-59歳、シニアは60歳以上を対象の目安とされている。",
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"text": "取次を通して書店や駅売店、コンビニエンスストアなどで販売される一般的な流通方法である。この場合は雑誌コードの取得が不可欠だが入手が難しい。",
"title": "流通"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "刊行の間隔が短いものほど出版社への返品期限も短い傾向があるため、書店の棚に並ぶ日数は短くなる。雑誌によっては特約店や一部の書店で常備している場合もあり、書店在庫が数冊しかない場合には返品期限を過ぎても返品せずそのまま売り切るケースもあるが、それ以外での書店では過去に刊行された号(バックナンバー)の入手は難しい。また、いわゆるオンライン書店では流通システムの関係上バックナンバーは原則として返品せず、在庫を売り切るまで販売するケースが多い。",
"title": "流通"
},
{
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"text": "ヨーロッパでは、書店の他に雑誌と新聞のみを扱う専門店がある。一部、ペーパーバックも置いていたりする。新聞・雑誌店という類のもの。",
"title": "流通"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "専門的な分野の雑誌は、契約制で企業や個人宅に直接配送するものがある。専門的でなくても読者の便宜を配慮して、定期購読契約すれば宅配してくれる場合が多い。",
"title": "流通"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "小売販売と宅配を両方する雑誌が多いが、宅配専門の雑誌も存在する。小売販売と宅配を両方する雑誌の場合、定期購読契約すると送料が無料になり、さらにおまけなどの特典をくれる場合もある。",
"title": "流通"
},
{
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"text": "書籍や雑誌は、日本の文化政策の一環として郵便料金が安く抑えられており(ゆうメール)、特に第3種郵便に指定された定期刊行物の郵便料金は安い。学術刊行物(学会誌)の場合は第4種郵便としてさらに安い料金で送ることができる。郵便局以外の民間の宅配便業者でも、メール便の大口割引などで、比較的安い値段で宅配することができる。",
"title": "流通"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "これまでの紙の流通に加え、電子書籍の一種であるデジタル雑誌(aka 電子雑誌、デジタルマガジン)の発行が日本でも始まった。記事単位での販売や紹介ではなく、表紙から裏表紙までまるごと記事、広告ともに見せる形態である。これらデジタル雑誌はその特性を用いて、雑誌内が検索できたり、動画をみせたり、編集ページや広告ページからホームページへのリンクを飛ばしたりするなどの工夫がされているものもある。",
"title": "流通"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "2006年には主婦の友社が紙では休刊した『ef』を『デジタルef』としてデジタル版のみで発行。2007年初旬には『ニューズウィーク日本版』や『R25』がデジタル版での流通を本格的に開始している。 ここにきて、他にも多くの雑誌(フリーペーパー含む)がデジタル雑誌として発売や発行され始めている。",
"title": "流通"
},
{
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"text": "米国では2002年ごろからデジタル雑誌での販売が始まっていて、新たな流通手段として定着している。",
"title": "流通"
},
{
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"tag": "p",
"text": "読者の購入によって出版社が得る販売代金の他に、特に近年においては広告料金の比率が高まっている。有名雑誌のカラー広告の出稿料金にはページ単価が200万円を超えるものもあり、広告媒体としての存在感が増す一方で、スポンサーを向いた誌面作りの傾向が強まることなどの弊害もある。",
"title": "広告"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "純粋な広告の他に、スポンサーとのタイアップ記事、広告企画記事が掲載されることもある。本文記事と区別するために広告であることが明記されたり、該当記事のみページ数を省いて印刷することもある。",
"title": "広告"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "雑誌広告は、より高い効果を期待して、当該雑誌の主な購読者層をターゲットにしたものとなる場合がほとんどである。とりわけ、一部の専門分野を対象にした雑誌では、一般の小売店では入手しづらい商品の通信販売を行う業者の広告が多く掲載される。そのため「広告も情報のうち」として、広告の多い雑誌が重宝がられる雑誌も一部存在する。一例を挙げると、電気回路(エレクトロニクス)関連の専門誌の場合、半分以上が電子部品や工具などの広告で占められている。",
"title": "広告"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "雑誌は読者からの投稿欄を設けているところが多い。商業的な理由から相応な質を担保するために編集部の選別を通ったものが掲載される。このことが読者に一定水準以上の文章を書かなければいけないという規範を植えつけ、知的水準の底上げに役立つと言われる。",
"title": "読者投稿欄の役割"
},
{
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"text": "雑誌に掲載された記事や作品(小説・漫画など)は書籍化されることもあるが、雑誌の内容全体に比してごく一部である。",
"title": "雑誌の単行本化とバックナンバー"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "このため新品としての販売期間が過ぎたバックナンバーが読書・鑑賞や収集の対象になることもある。古書店の中には特定のジャンルの雑誌バックナンバーを専門または品揃えの一部として扱う店もあるほか、インターネットオークションやフリマアプリなどを介して個人間で売買されることがある。",
"title": "雑誌の単行本化とバックナンバー"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "バックナンバーを閲覧できる場としては、雑誌専門図書館の大宅壮一文庫(東京都世田谷区)。同様な雑誌専門図書館であった「六月社」(東京都新宿区)は2018年6月10日で閉館となった。",
"title": "雑誌の単行本化とバックナンバー"
}
] | 雑誌とは、逐次刊行物であり、定期刊行物である出版物の一種。一般に流通している、漫画・小説を含む娯楽雑誌だけではなく、報道、それらを包含した総合雑誌、各種の趣味雑誌や専門雑誌、学術研究誌や官公庁誌なども含めた様々なジャンルに存在する。広義の本のうち雑誌は、単行本を中心とする書籍・図書と並ぶ二大情報源である。 | [[File:Zeitschriften.JPG|thumb|right|220px|書店の書棚に並ぶ雑誌(フランス・[[フォルバック|フォルバッハ]])]]
{{読み仮名|'''雑誌'''|ざっし}}とは、[[逐次刊行物]]であり、定期刊行物である[[出版|出版物]]の一種。一般に流通している、[[漫画]]・[[小説]]を含む娯楽雑誌だけではなく、[[報道]]、それらを包含した[[総合雑誌]]、各種の[[趣味]]雑誌や[[専門雑誌]]、[[学問|学術]][[研究]]誌や官公庁誌なども含めた様々なジャンルに存在する。広義の[[本]]のうち雑誌は、[[単行本]]を中心とする書籍・図書<ref>[http://www.nihon-zassi.co.jp/02books.html 本の基礎知識]日本雑誌販売(2018年9月30日閲覧)。</ref>と並ぶ二大[[情報源]]である。
== 特徴 ==
[[File:Bundesarchiv B 145 Bild-F079099-0023, Göttingen, Schreibwarengeschäft.jpg|right|250px|]]
雑誌の特徴としては以下のことが挙げられる。
* [[逐次刊行物#刊行頻度|週刊、月刊、隔月刊、季刊、年刊]]などのように定期的に刊行される。
* 一定の編集者と[[読者]]を持つ。
* 複数の記事が一定の編集方法の元に同時に掲載されている。
* 仮綴じ冊子の形態をとることが多い。
こうした特徴により、速報性の点で日刊[[新聞]]には及ばないが、書籍・図書よりは優位にある。また書籍・図書に比べて刊行が容易であり、書籍・図書として発行するには難しい狭い専門分野の情報や娯楽情報の提供などに利用されている。
雑誌と書籍の中間的な存在として[[ムック (出版)|ムック]]があり、流通上は雑誌として扱われている。
== 創刊と休刊・廃刊 ==
雑誌の刊行を始めることを「創刊」(第1号は「創刊号」)、刊行の中断は「[[休刊]]」、終了は「廃刊」と呼ぶ。休刊と称していても、実際には[[復刊]]せずそのまま廃刊となることも多い<ref>[https://www.ajpea.or.jp/column/data/20061124.html 雑誌の「休刊」と「廃刊」、何が違う?]公益社団法人 全国出版協会(2006年11月24日)2018年9月30日閲覧。</ref>。
長期にわたって大部数で刊行が続く雑誌もあれば、流行の変化や[[出版不況]]などを背景に休廃刊したり、紙媒体ではなくオンライン配信に移行したりする雑誌もある。
== 日本の雑誌の号数と発売日の関係 ==
[[日本]]の雑誌では、過去には雑誌によって号数の表記基準が異なり、中には実際の発売時期より数か月先の号数を表記する雑誌も現れるなどして、書店・読者の混乱を招いた。このため[[1986年]]11月に[[日本雑誌協会]]が制定した自主規程「雑誌作成上の留意事項」により、以下の範囲で発売日より先の日付・号数も付けることができるように決められた。その結果、現在は雑誌の新しさを演出するために発売日よりも前倒しで表記する雑誌が多い。なお発売日と同じ号数を表記しても構わない。
*'''週刊誌''' - 発売日から15日先までの月日
*'''旬刊誌・隔週刊誌・月2回刊誌''' - 発売日から1か月先までの月日
*'''月刊誌・隔月誌''' - 16日発売以降は、2か月先までの月(45日先まで)
== 委託扱いの日本の雑誌の返本 ==
*'''週刊誌''' - 発売日から45日(増刊号は60日)
*'''月二回刊行誌・隔週誌・月刊誌''' - 発売から90日
*'''隔月誌''' - 発売から120日
*'''ムック・コミックス''' - 返品義務なし
通常雑誌コードの下に
'''L-mm/dd'''
と表示されており発売年(年末の場合は翌年)のmm月dd日にまでが期限という意味である。しかし、大規模ではない書店では通常バックナンバーを保存する余裕がないため、新号発売前日の夜には全て回収され、箱詰めうえ翌朝に新号を納本にきた[[出版取次]]業者に渡されることが多い。
<!-- ランク名も棚名も意味不明。どこか特定の書店のマニュアルの話でもしてるんでしょうか? -->
<!-- === 雑誌の返本までの棚の移動 ===
*7日ごとの雑誌の棚の移動の例(週刊誌は7日で入れかわる)
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!ランク!!発売初日!!7日後!!14日後!!21日後
|-
|特Aランク
|エンド平台
|エンド平台〜棚下平台
|棚下平台
|棚下平台〜面陳
|-
|Aランク
|エンド平台〜棚下平台
|棚下平台
|棚下平台〜面陳
|面陳
|-
|Bランク
|棚下平台〜面陳
|面陳
|面陳
|面陳
|-
|Cランク
|面陳
|面陳
|面陳
|背ざし
|-
|}
-->
== 歴史 ==
雑誌は、[[百科事典]]の誕生と同様、新しい知識や情報、視点を広く一般に開示、紹介するものとして出発した。世界で最初の本格的な雑誌は[[1665年]]に[[フランス|仏国]][[パリ]]で創刊された『[[ジュルナル・デ・サバン]]』([[:fr:Journal des savants|fr:Journal des sçavans]])と、同年に[[イギリス|英国]][[ロンドン]]で創刊された『[[フィロソフィカル・トランザクションズ]]』(The Philosophical Transactions)だと言われている。初めて「magazine」の語を使用したのは1731年にロンドンで創刊された『[[ジェントルマンズ・マガジン]]』([[:en:The Gentleman's Magazine]])である。日本で最初の本格的な雑誌は、[[1867年]]([[慶應]]3年)10月に[[蘭学|洋学者]]の[[柳河春三]]が創刊した『[[西洋雑誌]]』だと言われ、「Magazine」の訳語に「雑誌」を用いている。総合雑誌としては[[明六雑誌]]が初になる<ref>塩澤実信『出版界おもしろ豆事典』北辰堂出版</ref>。
== 種類 ==
; 一般誌
: 市販目的の雑誌全般を指し、その範囲は極めて広い([[#一般誌の分類]])。刊行頻度としては週刊から季刊程度までの間にほとんどが納まり、月刊のものが最も多い。
; [[学術雑誌]]
: [[論文|学術論文]]を主として掲載。自然科学分野では特に重要なメディアとなっている。
; 官公庁誌
: [[日本の行政機関|中央官庁]]や[[地方公共団体]]によって刊行されるもの。一部は市販もされるが、一般の[[出版取次]]には乗らないものが多い。
; 団体・協会誌
: 多くが会員への配布を目的とし、市販されない。[[機関紙]](機関誌)を参照。
; [[同人誌]]
: 同好者が自身の作品を発表するために発行するもの(同人誌の中には、シリーズ化や定期刊行がなされず、「雑誌」とは言えない刊行物も含まれる)。
; 企業誌
: [[PR誌]]、[[社内報]]、技報など。
== 一般誌の分類 ==
{{div col||15em}}
* 総合誌
** [[総合雑誌|総合月刊誌]]
** [[週刊誌|総合週刊誌]](男性週刊誌)
*** [[実話誌]]
** [[写真週刊誌]]
** [[女性週刊誌]]
* [[専門雑誌]]
** [[文芸雑誌]]
*** [[小説誌]]
** [[経済誌]](ビジネス誌)
** [[科学雑誌|科学誌]]
*** [[天文雑誌]]
*** [[医療雑誌]]
** [[パソコン雑誌]]
** [[歴史雑誌]]
* 趣味・娯楽
** [[ファッション雑誌]]
** [[日本の漫画雑誌|漫画雑誌]]
** [[スポーツ雑誌]]
*** [[サッカー専門誌]]
*** [[バスケットボール専門誌]]
** [[模型雑誌]]
** [[ゲーム雑誌]]
** [[アニメ雑誌]]
** [[自動車雑誌]]
** [[オートバイ雑誌]]
** [[カメラ記者クラブ#加盟誌|カメラ雑誌]]
** [[鉄道雑誌の一覧|鉄道雑誌]]
** [[音楽雑誌]]
** [[旅行雑誌]]
* 情報誌
** [[テレビ情報誌]]
** [[FM情報誌]]
** [[求人情報誌]]
** [[タウン情報誌]]
** [[パチンコ・パチスロ情報誌]]
** [[映画情報誌]]
* 子供誌
** [[少年雑誌]]
*** [[学年誌]]
{{div col end}}
=== 「雑誌ジャンル・カテゴリー区分」による分類 ===
[[日本雑誌広告協会]]雑誌分類認定委員会が定めた、「雑誌ジャンル・カテゴリー区分」<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.zakko.or.jp/subwin/genre.html| title = 「雑誌ジャンル・カテゴリ区分」最新表| publisher = 日本雑誌広告協会 | accessdate = 2021-11-09 }}</ref>。
分類項目は2021年7月時点のもので、ジャンル名・カテゴリ・対象読者の性別・ビークル・雑誌発行社の順に並べてある。なお、ティーンズは19歳以下、ヤングは20-24歳、ヤングアダルトは25-39歳、ミドルエイジは40-59歳、シニアは60歳以上を対象の目安とされている。
{{div col||12em}}
*総合月刊誌
*一般週刊誌
*写真週刊誌
*女性週刊誌
*男性ヤング誌
*男性ヤングアダルト誌
*男性ミドルエイジ誌
*女性ティーンズ誌
*女性ヤング誌
*女性ヤングアダルト誌
*女性ミドルエイジ誌
*女性シニア誌
*ビジネス・マネー誌
*モノ・トレンド情報誌
*スポーツ誌
*自動車誌
*オートバイ誌
*パソコン・コンピュータ誌
*生活実用情報誌
*食・グルメ情報誌
*ナチュラルライフ誌
*ビューティコスメ誌
*マタニティ子育て誌
*健康誌
*ブライダル情報誌
*旅行・レジャー誌
*エリア情報誌
*文芸・歴史誌
*テレビ情報誌
*エンターテインメント情報誌
*ゲーム・アニメ情報誌
*少年向けコミック誌
*男性向けコミック誌
*少女向けコミック誌
*女性向けコミック誌
*車内・機内・会員誌
*フリーマガジン
*建築・住宅誌
*業界・技術専門誌
*介護
*子供誌
*アウトドア
*住(インテリア・エクステリア・雑貨)
*手作り
*園芸
*ペット
*時計
*きもの
*美容(技術者)
*カメラ
*自然科学
*アート・デザイン
*クロスワードパズル
*ホビー
*ギャンブル・ロト
*語学
*教養
*教育(一般)
*教育(実務者)
*時刻表
*年鑑
*ムック
{{div col end}}
上記以外にも、様々な分野・年齢に向けた雑誌が存在する{{efn|特にページ数の少ないものは[[冊子]]と呼ばれることが多い。特定の[[漫画]]が載っているものは[[漫画|コミック]](コミックス)や[[単行本]]と呼ばれる。}}。
== 流通 ==
{{出典の明記|section=1|date=2008年12月}}
[[小売]]店販売が最も一般的な流通方法である。宅配販売やデジタル販売といった方法もとられる。
=== 小売店販売 ===
[[出版取次|取次]]を通して[[書店]]や駅[[売店]]、[[コンビニエンスストア]]などで販売される一般的な流通方法である。この場合は[[雑誌コード]]の取得が不可欠だが入手が難しい。
刊行の間隔が短いものほど出版社への返品期限も短い傾向があるため、書店の棚に並ぶ日数は短くなる。雑誌によっては特約店や一部の[[書店]]で常備している場合もあり、書店在庫が数冊しかない場合には返品期限を過ぎても返品せずそのまま売り切るケースもあるが、それ以外での書店では過去に刊行された号(バックナンバー)の入手は難しい。また、いわゆる[[オンライン書店]]では流通システムの関係上バックナンバーは原則として返品せず、在庫を売り切るまで販売するケースが多い。
ヨーロッパでは、書店の他に雑誌と新聞のみを扱う専門店がある。一部、ペーパーバックも置いていたりする。新聞・雑誌店という類のもの。
=== 宅配販売 ===
専門的な分野の雑誌は、契約制で企業や個人宅に直接配送するものがある。専門的でなくても読者の便宜を配慮して、定期購読契約すれば宅配してくれる場合が多い。
小売販売と宅配を両方する雑誌が多いが、宅配専門の雑誌も存在する。小売販売と宅配を両方する雑誌の場合、定期購読契約すると送料が無料になり、さらにおまけなどの特典をくれる場合もある。
書籍や雑誌は、日本の文化政策の一環として郵便料金が安く抑えられており([[ゆうメール]])、特に[[郵便|第3種郵便]]に指定された定期刊行物の郵便料金は安い。学術刊行物(学会誌)の場合は[[郵便|第4種郵便]]としてさらに安い料金で送ることができる。郵便局以外の民間の[[宅配便]]業者でも、メール便の大口割引などで、比較的安い値段で宅配することができる。
=== デジタル販売 ===
これまでの紙の流通に加え、[[電子書籍]]の一種であるデジタル雑誌(aka 電子雑誌、デジタルマガジン)の発行が日本でも始まった。記事単位での販売や紹介ではなく、表紙から裏表紙までまるごと記事、広告ともに見せる形態である。これらデジタル雑誌はその特性を用いて、雑誌内が検索できたり、動画をみせたり、編集ページや広告ページからホームページへのリンクを飛ばしたりするなどの工夫がされているものもある。
2006年には[[主婦の友社]]が紙では休刊した『ef』を『デジタルef』としてデジタル版のみで発行。2007年初旬には『[[ニューズウィーク]]日本版』や『[[R25 (雑誌)|R25]]』がデジタル版での流通を本格的に開始している。 ここにきて、他にも多くの雑誌([[フリーペーパー]]含む)がデジタル雑誌として発売や発行され始めている。
米国では2002年ごろからデジタル雑誌での販売が始まっていて、新たな流通手段として定着している。
== 広告 ==
{{出典の明記|section=2|date=2008年12月}}
読者の購入によって出版社が得る販売代金の他に、特に近年においては[[広告]]料金の比率が高まっている。有名雑誌のカラー広告の出稿料金にはページ単価が200万円を超えるものもあり<ref>[http://adweb.nikkeibp.co.jp/adweb/mad/nb_/nb__prc.html 広告料金の例(日経ビジネス) - 最も高額なページはページ単価(見開き)が500万円以上に設定されている。]</ref>、広告媒体としての存在感が増す一方で、[[スポンサー]]を向いた誌面作りの傾向が強まることなどの弊害もある。
純粋な広告の他に、スポンサーとのタイアップ記事、広告企画記事が掲載されることもある。本文記事と区別するために広告であることが明記されたり、該当記事のみページ数を省いて印刷することもある。
雑誌広告は、より高い効果を期待して、当該雑誌の主な購読者層をターゲットにしたものとなる場合がほとんどである。とりわけ、一部の専門分野を対象にした雑誌では、一般の小売店では入手しづらい商品の[[通信販売]]を行う業者の広告が多く掲載される。そのため「広告も情報のうち」として、広告の多い雑誌が重宝がられる雑誌も一部存在する。一例を挙げると、[[電気回路]]([[エレクトロニクス]])関連の専門誌の場合、半分以上が[[電子部品]]や[[工具]]などの広告で占められている。
== 読者投稿欄の役割 ==
雑誌は読者からの投稿欄を設けているところが多い。商業的な理由から相応な質を担保するために編集部の選別を通ったものが掲載される。このことが読者に一定水準以上の文章を書かなければいけないという規範を植えつけ、知的水準の底上げに役立つと言われる{{sfn|福間|2017|pp=27-28,301-302}}。
== 雑誌の単行本化とバックナンバー ==
雑誌に掲載された記事や作品(小説・漫画など)は書籍化されることもあるが、雑誌の内容全体に比してごく一部である。
このため新品としての販売期間が過ぎたバックナンバーが読書・鑑賞や収集の対象になることもある。[[古書店]]の中には特定のジャンルの雑誌バックナンバーを専門または品揃えの一部として扱う店もある<ref>一例として、[http://www.magnif.jp/ magnif:古本の街 神田神保町に店を構える、“雑誌”をテーマにした古書店です。](2018年9月30日閲覧)。</ref>ほか、[[インターネットオークション]]や[[フリマアプリ]]などを介して個人間で売買されることがある。
バックナンバーを閲覧できる場としては、雑誌[[専門図書館]]の[[大宅壮一文庫]]([[東京都]][[世田谷区]])。同様な雑誌専門図書館であった「六月社」(東京都[[新宿区]])は[[2018年]][[6月10日]]で閉館となった<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S13527545.html 「大宅文庫」に次ぐ規模--高田馬場の雑誌図書館 閉館へ「六月社」10万冊処分の危機]『朝日新聞』夕刊2018年6月5日(社会面)2018年9月30日閲覧</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://current.ndl.go.jp/node/36133 | title = 雑誌図書館「六月社」が閉館 | publisher = 国立国会図書館 | accessdate = 2021-11-09}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|24em}}
== 参考文献 ==
* [[平野英俊]]「第2章 図書館資料の種類と特質」『改訂図書館資料論』樹村房〈新・図書館シリーズ 7〉2004年3月15日改訂第1刷発行、ISBN 978-4883670796、23 - 57頁
* 社団法人[[日本図書館協会]] 図書館ハンドブック編集委員会 編集「第III章 図書館資料」『図書館ハンドブック 第5版』1998年3月25日第6刷発行、ISBN 978-4820490029、137 - 216頁
* [[津田良成]]編『図書館・情報学概論 第二版』[[勁草書房]]、1997年1月20日第2版第6刷発行、ISBN 978-4326000500
* {{Cite book ja-jp|author=福間良明|year=2017|title=「働く青年」と教養の戦後史 -「人生雑誌」と読者のゆくえ
|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480016485/|edition=初版第1刷|publisher=筑摩書房|series=筑摩選書|isbn=978-4-480-01648-5|ref={{sfnref|福間|2017}}}}
== 関連項目 ==
* [[専門雑誌]]
* [[雑誌の日]]
* [[日本雑誌協会]]
* [[カストリ雑誌]]
* [[フリーペーパー]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Magazines}}
* [http://www.j-magazine.or.jp/ 社団法人日本雑誌協会]
* [https://www.ndl.go.jp/jp/data/sakuin/sakuin_index.html 国立国会図書館 雑誌記事索引採録誌一覧]
* [https://web.archive.org/web/19980127195532/http://www.upunet.or.jp/UPU/magazine/index.html 雑誌インデックス]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さつし}}
[[Category:雑誌|*]]
[[Category:紙製品]]
[[Category:フォーマット別の出版物]]
[[Category:和製漢語]] | 2003-02-15T14:51:44Z | 2023-12-04T12:24:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%AA%8C |
1,829 | 7並べ | 7並べ(しちならべ、sevens)は、トランプゲームの一つ。多くのトランプゲームの解説本(ホイル)では、チルドレンズ・ゲーム(子供向けのゲーム)として扱われている。また、ファンタンドミノともいう。
ストップ系のゲーム(=ルールに従って場に手札を出し、早く手札をなくすことを競うゲーム)である。
理論上は1人でも20人以上でも可能だが、4 - 10人程度が望ましい。
トランプ一組からジョーカーを抜いた52枚だが、ジョーカーを加えることもある(ワイルドカードとしてのジョーカーは後述)。
ゲームが進むにつれて、場にカードが順に置かれていく。この際カードはスート毎に、ランク順に並べる(Aをランク最小のカードとみなし、以下2、3 ⋯ {\displaystyle \cdots } J、Q、K)。ゲームが終了して全てのカードが出揃うと、スート毎に揃ったAからKまでの列が4列できる。
カードを並べる際、同じスートのカード同士はカードの長辺が互いに接するように置く。また、各スートのカードの列は、カードの短辺側が互いに接するように置く。(図参照)
これはあくまでも基本ルールで、日本での公式大会ではこのルールで行っている。
各プレイヤーは、自分の番が来たら、次のいずれかの行動を取る。
手札から出せるカードには制限がある。カードを手札から出せるのは、そのカードと同スートで、ランク(数字)が一つ異なるカード、及びそのカードから7までのカードが全て場に出ている場合のみである。(J、Q、Kは11、12、13相当)
このため、場に出ているカードは7から同スートの隣り合うカードへと広がっていく形となる。
例えば今スペードの札が ♠ {\displaystyle \spadesuit } 5から ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9まで場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 4と ♠ {\displaystyle \spadesuit } 10だけである。
場に出せるカードを持っていない場合、プレイヤーはパスを宣言する。パスは事前に定められた回数(多くの場合3回)しかできない。(定められた回数)+1回のパスをした(3回パスしても出せるカードがない)時点で負けとなり、そのプレイヤーはゲームから脱落する(ルールの詳細は後述)。
ゲームの途中で脱落しなかったプレイヤーの中で、最初に手札を全て使い切ったプレイヤーが優勝である。以下順に、(ゲームの途中で脱落しなかったプレイヤーの中で)、2番目、3番目 ⋯ {\displaystyle \cdots } に手札を全て使い切ったプレイヤーが2位、3位 ⋯ {\displaystyle \cdots } になる。
ゲームの途中で脱落してしまったプレイヤーの順位は、脱落していないプレイヤーの順位よりも低い。最初に脱落してしまったプレイヤーの順位が最も低く、以下2番目、3番目 ⋯ {\displaystyle \cdots } に脱落したプレイヤーの順位が2番目、3番目 ⋯ {\displaystyle \cdots } に低い。
※順位付けも地方により様々でこの限りではない。
場に出せるカードがあるにもかかわらず戦略的な理由でわざとパスをしてもよい、というルールが一般的である。
♠ {\displaystyle \spadesuit } の札を持っているのに、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } の札をわざと出さずにパスすることを、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } を止めるという。
ゲームの途中でプレイヤーが脱落したら、そのプレイヤーの手札を全て、場の該当箇所に置いた後、残りのプレイヤーはゲームを続ける。この際脱落したプレイヤーの手札に、現時点では出せないはずの手札があっても、場に並べる。
例えば場にハートの札が ♡ {\displaystyle \heartsuit } 3から ♡ {\displaystyle \heartsuit } 8まで場に出ている段階で、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 10を持っているプレイヤーが脱落したとする。このプレイヤーが ♡ {\displaystyle \heartsuit } 9を持っていなければ、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 8の隣りに(将来 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 9を置くために)カード一つ分の間を空けて、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 10を置く。
誰かが脱落した後のプレイにおいても、手札から出せるカードのルールは変わらない。カードを手札から出せるのは、そのカードと同スートの7の札とそのカード自身とを結ぶ札がすでに場に出ている場合だけである。
例えば今スペードの札が ♠ {\displaystyle \spadesuit } 5~ ♠ {\displaystyle \spadesuit } 8と ♠ {\displaystyle \spadesuit } Jとが場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 4と ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9だけである。 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 10や ♠ {\displaystyle \spadesuit } Qは ♠ {\displaystyle \spadesuit } 7と結ばれていないので出すことはできない。(ローカルルールによっては出せる場合がある)
ジョーカーを一枚または二枚追加してゲームを行う。ジョーカーはワイルドカードとしての役目を果たす。ジョーカーを持っているプレイヤーは、自分の番であれば任意の時に、通常の札を出す代わりにジョーカーを場に置くことができる。ババ抜きと同じく、最後にジョーカーを持っていたプレイヤーは負けとなる(ジョーカーで上がったりジョーカーだけを残すと反則負けとなるルールもある。)が、前述の通り、プレイヤーの誰かが4回目のパスをして脱落した場合はジョーカーを持っているプレイヤーでも最下位ではない順位となる。
プレイヤー(以下Aと呼ぶ)がジョーカーを置いたら、ジョーカーが置かれた位置のカードを持っているプレイヤーはすぐにその位置のカードを出し、代わりにジョーカーを手札に加えなければならない。ただルールによってはジョーカーを受け取るか任意で選択できるようにしている場合もある。
例えば、プレイヤーAがジョーカーを ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 5の位置に置いたら、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 5を持っているプレイヤーはジョーカーの位置に ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 5を置き、ジョーカーを引き取らなければならない。
プレイヤーAがジョーカーを置くことができるのは、現時点でプレイできるカードの位置だけである。例えばハートのカードが ♡ {\displaystyle \heartsuit } 4から ♡ {\displaystyle \heartsuit } Jまでしか場に出ていなかった場合、プレイヤーAは ♡ {\displaystyle \heartsuit } 2の位置にジョーカーを置くことはできない。ハートでプレイヤーAがジョーカーを置けるのは、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 3か ♡ {\displaystyle \heartsuit } Qだけである。
ジョーカーの位置のカードが出されたら、プレイヤーAの左隣のプレイヤーの番に移る。
ルールによっては、ジョーカーは単独で使わず、場に出したいカードの間を埋める形で使用する。上記の例で言えば、プレイヤーAが ♡ {\displaystyle \heartsuit } 2を出したい場合に、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 4の隣にジョーカー・ ♡ {\displaystyle \heartsuit } 2の順に並べて配置する。 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 3を持っているプレイヤーはジョーカーの位置にカードを出し、代わりにジョーカーを手札に加えなければならない。このルールでは条件を満たすカードが無いとジョーカーを出せないため、場に出ているカードから一つ飛ばしたカードが無いような終盤にジョーカーを持っていると負けが確定する。
ローカルルールとして、2ゲーム以上続けて行う場合、2回目以降に最初にジョーカーを持つのは必ず前のゲームの敗者(最後までジョーカーを持っていたプレイヤー)とする場合がある。
A/Kは「隣り合った」ランクであるとみなす。すなわち♠の7からKまでが場に出ている時には♠のAを場に出すことが許されるし、♠の7からAまでが場に出ている時には♠のKを場に出すことが許される。
♠のAとKとが場に出ている時、♠のAとKとはつながっているという。
♠の7からKまでが場に出たら、以後順に♠の2,3,4 ⋯ {\displaystyle \cdots } を場に出すことができるし、♠の7からAまでが場に出たら、以後順に♠のQ,J,10 ⋯ {\displaystyle \cdots } を場に出すことができる。
♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4 ⋯ {\displaystyle \cdots } 側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10...側にカードをつなげたりする行為が許されるルールの方が一般的である。
AKリンク同様、A/Kは「隣り合った」ランクであるとみなす。とみなす。しかし、♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4 ⋯ {\displaystyle \cdots } 側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10...側にカードをつなげたりする行為を許さない場合、♠のAとKがつながった場合に、♠を止めているプレイヤーが逆に不利となるルールである。ハンゲームではこれをトンネルルールという。
ゴーストというゲームから入った、日本特有のオプショナル・ルールである。
ゲームからまだ脱落していないプレイヤーはゲームから脱落したプレイヤーと会話してはならない(脱落したプレイヤーはあの手この手で脱落していないプレイヤーとの会話を試みる)。もし脱落したプレイヤーと会話してしまったら、脱落したプレイヤーと会話してしまったプレイヤーとの立場が入れ替わる。脱落したプレイヤーは会話してしまったプレイヤーの手札を使ってゲームに復帰し、逆に会話してしまったプレイヤーはゲームから脱落したものとみなされる。
お化けのルールを採用した場合、どの時点でゲームから脱落したとみなすべきかは難しい。ゲームが終了していた段階で脱落したプレイヤー同士順位の決めに関して固定的なルールはない。
2~3人でのプレイ時に戦略性を持たせる為に採用される。
手番にカードを出した際、そこに隣接するカードを手札から連続で出しても良いとする。 例として、自分の手番にスペードの8を出し、更にスペードの9,10,Jを出すというもの。 2枚目以降は1コンボ、2コンボとカウントする。ターン終了時には、コンボ数と同枚数の任意の手札を次プレイヤーに譲渡できる。 (上記の例では、追加分スペードの9,10,J分=3コンボ=3枚譲渡)
手札を配り終えた時、各プレイヤーが一斉に7を場に出す代わりに、前のゲームで最下位だったプレイヤーはセンターにしたい数字を1つ選ぶ。そうしたのであれば各プレイヤーは指定された数字を一斉に場に出す。指定された数字の ♢ {\displaystyle \diamondsuit } を持っていたプレイヤーを先手とする。
ジョーカーを選択してはならない。
前のゲームが無い最初のゲームに限り、センターは7である。
日本の7並べは外国のファンタン(fantan)というゲームが元になっている。ファンタンのルールは日本の7並べとほとんど同じである。ただし、7並べでは事前に7を全て並べてからゲームを開始するのに対し、ファンタンでは場に一枚もカードがない状態からゲームを始める。7の札を持ったプレイヤーは、自分の番が来たときに7を場に出す権利を持っている。誰かが7を場に出したら、皆はその♠の札を7につなげることができる。
殺しの7並べという名称が一般的だが、陰険7並べ、封鎖の7並べと呼ぶ事もある。
以下、仮に ♠ {\displaystyle \spadesuit } 、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 、 ♣ {\displaystyle \clubsuit } の順に7のカードが並べられているとしてルールの説明をする。
主に以下の二点において通常の7並べと異なる:
殺しの7並べで出すことができる札は、通常の7並べで出せる札よりもずっと多い。各プレイヤーは自分の番が回ってきた時、以下の条件を満たすカードを出すことができる:
例えば ♡ {\displaystyle \heartsuit } 10を出すことができるのは、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 9、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } J、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 10、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 10、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } J、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 9、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } Jのいずれかの札がすでに場に出ている時に限る。
カードXがまだ場に出されていない状態で、カードXと上下左右に接する札が全て場に出ている時、カードXは死んでいるカードと呼ばれる。死んでしまったカードは場に出すことはできない。
手札が全て死んでしまったカードのみになったプレイヤーはゲームから抜ける。通常の7並べと同様、定められた回数以上にパスをしたプレイヤーはゲームから脱落する。全員がゲームから抜けるか脱落するかした段階でゲームは終了である。
脱落していないプレイヤーの中で、手札として持っている死んでしまったカードの枚数が最も少ないプレイヤーが優勝である。二人のプレイヤーが持っている死んでしまったカードの枚数が同じ時は、先にゲームから抜けたプレイヤーの方が順位が高い。
通常の7並べと異なり、(死んでしまったカードの枚数が同じでない時は)、いつゲームから抜けたのかにかかわらず順位が決まることに注意されたい。
ゲームから脱落してしまったプレイヤーの順位の決め方は、通常の7並べと同じである。
場の外側は「壁」で囲まれているものとみなし、隅や角にあるカードはそれぞれ3方向、2方向を囲まれたら死んだものとみなす。
例えば ♠ {\displaystyle \spadesuit } 8は、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 7、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 9、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 8が場に出そろった段階で死に、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } Aは、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 2、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } Aが出そろった段階で死ぬ。
死の定義に関して以下の2種類の地方ルールがある。
第2のルールを例で説明する。例えば ♡ {\displaystyle \heartsuit } A、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 4、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 2、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 3、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 2、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 3が出そろった段階で ♡ {\displaystyle \heartsuit } 2、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 3は両方とも死ぬ。
手札として保管せず、死んだ段階で、場の札とまざらないように自分の真下に置いておく。表向きに置く、というルールと裏向きに置くというルールとがある。
通常の7並べで8を持って邪魔する人から転じて、買う気もないのに物を無駄に取り置きしたり、大して興味のない他人に独占欲を抱く人のことを「エイトキーパー」と呼ぶ。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "7並べ(しちならべ、sevens)は、トランプゲームの一つ。多くのトランプゲームの解説本(ホイル)では、チルドレンズ・ゲーム(子供向けのゲーム)として扱われている。また、ファンタンドミノともいう。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "ストップ系のゲーム(=ルールに従って場に手札を出し、早く手札をなくすことを競うゲーム)である。",
"title": "ジャンル"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "理論上は1人でも20人以上でも可能だが、4 - 10人程度が望ましい。",
"title": "人数"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "トランプ一組からジョーカーを抜いた52枚だが、ジョーカーを加えることもある(ワイルドカードとしてのジョーカーは後述)。",
"title": "使用するもの"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ゲームが進むにつれて、場にカードが順に置かれていく。この際カードはスート毎に、ランク順に並べる(Aをランク最小のカードとみなし、以下2、3 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } J、Q、K)。ゲームが終了して全てのカードが出揃うと、スート毎に揃ったAからKまでの列が4列できる。",
"title": "レイアウト"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "カードを並べる際、同じスートのカード同士はカードの長辺が互いに接するように置く。また、各スートのカードの列は、カードの短辺側が互いに接するように置く。(図参照)",
"title": "レイアウト"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "これはあくまでも基本ルールで、日本での公式大会ではこのルールで行っている。",
"title": "基本ルール"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "各プレイヤーは、自分の番が来たら、次のいずれかの行動を取る。",
"title": "基本ルール"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "手札から出せるカードには制限がある。カードを手札から出せるのは、そのカードと同スートで、ランク(数字)が一つ異なるカード、及びそのカードから7までのカードが全て場に出ている場合のみである。(J、Q、Kは11、12、13相当)",
"title": "基本ルール"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "このため、場に出ているカードは7から同スートの隣り合うカードへと広がっていく形となる。",
"title": "基本ルール"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "例えば今スペードの札が ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 5から ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 9まで場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 4と ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 10だけである。",
"title": "基本ルール"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "場に出せるカードを持っていない場合、プレイヤーはパスを宣言する。パスは事前に定められた回数(多くの場合3回)しかできない。(定められた回数)+1回のパスをした(3回パスしても出せるカードがない)時点で負けとなり、そのプレイヤーはゲームから脱落する(ルールの詳細は後述)。",
"title": "基本ルール"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ゲームの途中で脱落しなかったプレイヤーの中で、最初に手札を全て使い切ったプレイヤーが優勝である。以下順に、(ゲームの途中で脱落しなかったプレイヤーの中で)、2番目、3番目 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } に手札を全て使い切ったプレイヤーが2位、3位 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } になる。",
"title": "順位"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ゲームの途中で脱落してしまったプレイヤーの順位は、脱落していないプレイヤーの順位よりも低い。最初に脱落してしまったプレイヤーの順位が最も低く、以下2番目、3番目 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } に脱落したプレイヤーの順位が2番目、3番目 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } に低い。",
"title": "順位"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "※順位付けも地方により様々でこの限りではない。",
"title": "順位"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "場に出せるカードがあるにもかかわらず戦略的な理由でわざとパスをしてもよい、というルールが一般的である。",
"title": "ルールの詳細"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "♠ {\\displaystyle \\spadesuit } の札を持っているのに、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } の札をわざと出さずにパスすることを、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } を止めるという。",
"title": "ルールの詳細"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ゲームの途中でプレイヤーが脱落したら、そのプレイヤーの手札を全て、場の該当箇所に置いた後、残りのプレイヤーはゲームを続ける。この際脱落したプレイヤーの手札に、現時点では出せないはずの手札があっても、場に並べる。",
"title": "ルールの詳細"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "例えば場にハートの札が ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 3から ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 8まで場に出ている段階で、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 10を持っているプレイヤーが脱落したとする。このプレイヤーが ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 9を持っていなければ、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 8の隣りに(将来 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 9を置くために)カード一つ分の間を空けて、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 10を置く。",
"title": "ルールの詳細"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "誰かが脱落した後のプレイにおいても、手札から出せるカードのルールは変わらない。カードを手札から出せるのは、そのカードと同スートの7の札とそのカード自身とを結ぶ札がすでに場に出ている場合だけである。",
"title": "ルールの詳細"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "例えば今スペードの札が ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 5~ ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 8と ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } Jとが場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 4と ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 9だけである。 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 10や ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } Qは ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 7と結ばれていないので出すことはできない。(ローカルルールによっては出せる場合がある)",
"title": "ルールの詳細"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ジョーカーを一枚または二枚追加してゲームを行う。ジョーカーはワイルドカードとしての役目を果たす。ジョーカーを持っているプレイヤーは、自分の番であれば任意の時に、通常の札を出す代わりにジョーカーを場に置くことができる。ババ抜きと同じく、最後にジョーカーを持っていたプレイヤーは負けとなる(ジョーカーで上がったりジョーカーだけを残すと反則負けとなるルールもある。)が、前述の通り、プレイヤーの誰かが4回目のパスをして脱落した場合はジョーカーを持っているプレイヤーでも最下位ではない順位となる。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "プレイヤー(以下Aと呼ぶ)がジョーカーを置いたら、ジョーカーが置かれた位置のカードを持っているプレイヤーはすぐにその位置のカードを出し、代わりにジョーカーを手札に加えなければならない。ただルールによってはジョーカーを受け取るか任意で選択できるようにしている場合もある。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "例えば、プレイヤーAがジョーカーを ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 5の位置に置いたら、 ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 5を持っているプレイヤーはジョーカーの位置に ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 5を置き、ジョーカーを引き取らなければならない。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "プレイヤーAがジョーカーを置くことができるのは、現時点でプレイできるカードの位置だけである。例えばハートのカードが ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 4から ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } Jまでしか場に出ていなかった場合、プレイヤーAは ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 2の位置にジョーカーを置くことはできない。ハートでプレイヤーAがジョーカーを置けるのは、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 3か ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } Qだけである。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ジョーカーの位置のカードが出されたら、プレイヤーAの左隣のプレイヤーの番に移る。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ルールによっては、ジョーカーは単独で使わず、場に出したいカードの間を埋める形で使用する。上記の例で言えば、プレイヤーAが ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 2を出したい場合に、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 4の隣にジョーカー・ ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 2の順に並べて配置する。 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 3を持っているプレイヤーはジョーカーの位置にカードを出し、代わりにジョーカーを手札に加えなければならない。このルールでは条件を満たすカードが無いとジョーカーを出せないため、場に出ているカードから一つ飛ばしたカードが無いような終盤にジョーカーを持っていると負けが確定する。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ローカルルールとして、2ゲーム以上続けて行う場合、2回目以降に最初にジョーカーを持つのは必ず前のゲームの敗者(最後までジョーカーを持っていたプレイヤー)とする場合がある。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "A/Kは「隣り合った」ランクであるとみなす。すなわち♠の7からKまでが場に出ている時には♠のAを場に出すことが許されるし、♠の7からAまでが場に出ている時には♠のKを場に出すことが許される。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "♠のAとKとが場に出ている時、♠のAとKとはつながっているという。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "♠の7からKまでが場に出たら、以後順に♠の2,3,4 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } を場に出すことができるし、♠の7からAまでが場に出たら、以後順に♠のQ,J,10 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } を場に出すことができる。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
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"tag": "p",
"text": "♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } 側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10...側にカードをつなげたりする行為が許されるルールの方が一般的である。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "AKリンク同様、A/Kは「隣り合った」ランクであるとみなす。とみなす。しかし、♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4 ⋯ {\\displaystyle \\cdots } 側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10...側にカードをつなげたりする行為を許さない場合、♠のAとKがつながった場合に、♠を止めているプレイヤーが逆に不利となるルールである。ハンゲームではこれをトンネルルールという。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ゴーストというゲームから入った、日本特有のオプショナル・ルールである。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ゲームからまだ脱落していないプレイヤーはゲームから脱落したプレイヤーと会話してはならない(脱落したプレイヤーはあの手この手で脱落していないプレイヤーとの会話を試みる)。もし脱落したプレイヤーと会話してしまったら、脱落したプレイヤーと会話してしまったプレイヤーとの立場が入れ替わる。脱落したプレイヤーは会話してしまったプレイヤーの手札を使ってゲームに復帰し、逆に会話してしまったプレイヤーはゲームから脱落したものとみなされる。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "お化けのルールを採用した場合、どの時点でゲームから脱落したとみなすべきかは難しい。ゲームが終了していた段階で脱落したプレイヤー同士順位の決めに関して固定的なルールはない。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2~3人でのプレイ時に戦略性を持たせる為に採用される。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "手番にカードを出した際、そこに隣接するカードを手札から連続で出しても良いとする。 例として、自分の手番にスペードの8を出し、更にスペードの9,10,Jを出すというもの。 2枚目以降は1コンボ、2コンボとカウントする。ターン終了時には、コンボ数と同枚数の任意の手札を次プレイヤーに譲渡できる。 (上記の例では、追加分スペードの9,10,J分=3コンボ=3枚譲渡)",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "手札を配り終えた時、各プレイヤーが一斉に7を場に出す代わりに、前のゲームで最下位だったプレイヤーはセンターにしたい数字を1つ選ぶ。そうしたのであれば各プレイヤーは指定された数字を一斉に場に出す。指定された数字の ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } を持っていたプレイヤーを先手とする。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ジョーカーを選択してはならない。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "前のゲームが無い最初のゲームに限り、センターは7である。",
"title": "オプショナル・ルール"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日本の7並べは外国のファンタン(fantan)というゲームが元になっている。ファンタンのルールは日本の7並べとほとんど同じである。ただし、7並べでは事前に7を全て並べてからゲームを開始するのに対し、ファンタンでは場に一枚もカードがない状態からゲームを始める。7の札を持ったプレイヤーは、自分の番が来たときに7を場に出す権利を持っている。誰かが7を場に出したら、皆はその♠の札を7につなげることができる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "殺しの7並べという名称が一般的だが、陰険7並べ、封鎖の7並べと呼ぶ事もある。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "以下、仮に ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 、 ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 、 ♣ {\\displaystyle \\clubsuit } の順に7のカードが並べられているとしてルールの説明をする。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "主に以下の二点において通常の7並べと異なる:",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "殺しの7並べで出すことができる札は、通常の7並べで出せる札よりもずっと多い。各プレイヤーは自分の番が回ってきた時、以下の条件を満たすカードを出すことができる:",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "例えば ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 10を出すことができるのは、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 9、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } J、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 10、 ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 10、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 9、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } J、 ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 9、 ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } Jのいずれかの札がすでに場に出ている時に限る。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "カードXがまだ場に出されていない状態で、カードXと上下左右に接する札が全て場に出ている時、カードXは死んでいるカードと呼ばれる。死んでしまったカードは場に出すことはできない。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "手札が全て死んでしまったカードのみになったプレイヤーはゲームから抜ける。通常の7並べと同様、定められた回数以上にパスをしたプレイヤーはゲームから脱落する。全員がゲームから抜けるか脱落するかした段階でゲームは終了である。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "脱落していないプレイヤーの中で、手札として持っている死んでしまったカードの枚数が最も少ないプレイヤーが優勝である。二人のプレイヤーが持っている死んでしまったカードの枚数が同じ時は、先にゲームから抜けたプレイヤーの方が順位が高い。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "通常の7並べと異なり、(死んでしまったカードの枚数が同じでない時は)、いつゲームから抜けたのかにかかわらず順位が決まることに注意されたい。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ゲームから脱落してしまったプレイヤーの順位の決め方は、通常の7並べと同じである。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "場の外側は「壁」で囲まれているものとみなし、隅や角にあるカードはそれぞれ3方向、2方向を囲まれたら死んだものとみなす。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "例えば ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 8は、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 7、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 9、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 8が場に出そろった段階で死に、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } Aは、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 2、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } Aが出そろった段階で死ぬ。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "死の定義に関して以下の2種類の地方ルールがある。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "第2のルールを例で説明する。例えば ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } A、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 4、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 2、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 3、 ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 2、 ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 3が出そろった段階で ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 2、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 3は両方とも死ぬ。",
"title": "ローカルルール"
},
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"text": "手札として保管せず、死んだ段階で、場の札とまざらないように自分の真下に置いておく。表向きに置く、というルールと裏向きに置くというルールとがある。",
"title": "ローカルルール"
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"title": "慣用句"
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] | 7並べ(しちならべ、sevens)は、トランプゲームの一つ。多くのトランプゲームの解説本(ホイル)では、チルドレンズ・ゲーム(子供向けのゲーム)として扱われている。また、ファンタンドミノともいう。 | {{出典の明記|date=2020年6月11日 (木) 08:18 (UTC)}}
{{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}}
'''7並べ'''(しちならべ、sevens)は、[[トランプ]]ゲームの一つ。多くのトランプゲームの解説本([[ホイル]])では、チルドレンズ・ゲーム(子供向けのゲーム)として扱われている。また、'''ファンタンドミノ'''ともいう。
== ジャンル ==
[[ストップ系]]のゲーム(=ルールに従って場に手札を出し、早く手札をなくすことを競うゲーム)である。
== 人数 ==
理論上は1人でも20人以上でも可能だが、4 - 10人程度が望ましい。
== 使用するもの ==
トランプ一組からジョーカーを抜いた52枚だが、ジョーカーを加えることもある(ワイルドカードとしてのジョーカーは[[#ワイルドカードとしてのジョーカー|後述]])。
== ゲームの目的 ==
* 定められた回数以上にパスをすることなく、誰よりも早く自分の手札をなくすこと。
* 札が全て揃っているかを確かめるため。
* 札をマーク別かつ番号順に揃えて片付けるため<ref>したがって遊びの最後に行なうことが多い。</ref>。
== レイアウト ==
ゲームが進むにつれて、場にカードが順に置かれていく。この際カードは[[スート]]毎に、[[ランク]]順に並べる(Aをランク最小のカードとみなし、以下2、3<math>\cdots</math>J、Q、K)。ゲームが終了して全てのカードが出揃うと、スート毎に揃ったAからKまでの列が4列できる。
カードを並べる際、同じスートのカード同士はカードの長辺が互いに接するように置く。また、各スートのカードの列は、カードの短辺側が互いに接するように置く。(図参照)
{| class="toccolours" cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin:0 auto;"
|+7並べ
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== 基本ルール ==
これはあくまでも基本ルールで、日本での公式大会ではこのルールで行っている。
*パスは3回まで。
*出せるカードがあっても出さなくても良い。(3回パスした人は出せるカードがあれば必ず出さなければならない。)
# 親は各プレイヤーにカードを一枚ずつ順に、カードがなくなるまで配る。<br />この際、ゲームに参加しているプレイヤー数によっては、プレイヤーによって枚数に差がでることがあるが、気にせずゲームを続ける。
# カードが配り終わったら、まず前準備として、ランクが7のカードを持っているプレイヤーは、手札からそのカードを取りだし、場に置く。4枚の7は一列に並べて置く。
# 7の札が並べ終ったら、ゲームを開始する。ダイヤの7を出した人から(もしくは[[ジャンケン]]、親から、親の隣からなど様々)順番にプレイする。以下左回り(時計回り)に各プレイヤーの番が回ってくる。
各プレイヤーは、自分の番が来たら、次のいずれかの行動を取る。
*手札から一枚カードを場に出す。
*パスを宣言する。
手札から出せるカードには制限がある。カードを手札から出せるのは、そのカードと同スートで、ランク(数字)が一つ異なるカード、及びそのカードから7までのカードが全て場に出ている場合のみである。(J、Q、Kは11、12、13相当)
このため、場に出ているカードは7から同スートの隣り合うカードへと広がっていく形となる。
例えば今スペードの札が<math>\spadesuit</math>5から<math>\spadesuit</math>9まで場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、<math>\spadesuit</math>4と<math>\spadesuit</math>10だけである。
場に出せるカードを持っていない場合、プレイヤーはパスを宣言する。パスは事前に定められた回数(多くの場合3回)しかできない。(定められた回数)+1回のパスをした(3回パスしても出せるカードがない)時点で負けとなり、そのプレイヤーはゲームから脱落する(ルールの詳細は[[#ゲームの途中で脱落したプレイヤーの手札の取り扱い|後述]])。
== 順位 ==
ゲームの途中で脱落しなかったプレイヤーの中で、最初に手札を全て使い切ったプレイヤーが優勝である。以下順に、(ゲームの途中で脱落しなかったプレイヤーの中で)、2番目、3番目<math>\cdots</math>に手札を全て使い切ったプレイヤーが2位、3位<math>\cdots</math>になる。
ゲームの途中で脱落してしまったプレイヤーの順位は、脱落していないプレイヤーの順位よりも低い。最初に脱落してしまったプレイヤーの順位が最も低く、以下2番目、3番目<math>\cdots</math>に脱落したプレイヤーの順位が2番目、3番目<math>\cdots</math>に低い。
※順位付けも地方により様々でこの限りではない。
== ルールの詳細 ==
=== 戦略的なパス ===
場に出せるカードがあるにもかかわらず戦略的な理由でわざとパスをしてもよい、というルールが一般的である。
<math>\spadesuit</math>の札を持っているのに、<math>\spadesuit</math>の札をわざと出さずにパスすることを、<math>\spadesuit</math>を'''止める'''という。
=== ゲームの途中で脱落したプレイヤーの手札の取り扱い ===
ゲームの途中でプレイヤーが脱落したら、そのプレイヤーの手札を全て、場の該当箇所に置いた後、残りのプレイヤーはゲームを続ける。この際脱落したプレイヤーの手札に、現時点では出せないはずの手札があっても、場に並べる。
例えば場にハートの札が<math>\heartsuit</math>3から<math>\heartsuit</math>8まで場に出ている段階で、<math>\heartsuit</math>10を持っているプレイヤーが脱落したとする。このプレイヤーが<math>\heartsuit</math>9を持っていなければ、<math>\heartsuit</math>8の隣りに(将来<math>\heartsuit</math>9を置くために)カード一つ分の間を空けて、<math>\heartsuit</math>10を置く。
誰かが脱落した後のプレイにおいても、手札から出せるカードのルールは変わらない。カードを手札から出せるのは、そのカードと同スートの7の札とそのカード自身とを結ぶ札がすでに場に出ている場合だけである。
例えば今スペードの札が<math>\spadesuit</math>5~<math>\spadesuit</math>8と<math>\spadesuit</math>Jとが場に出ている時、スペードの札で場に出せるのは、<math>\spadesuit</math>4と<math>\spadesuit</math>9だけである。<math>\spadesuit</math>10や<math>\spadesuit</math>Qは<math>\spadesuit</math>7と結ばれていないので出すことはできない。(ローカルルールによっては出せる場合がある)
== オプショナル・ルール ==
=== ワイルドカードとしてのジョーカー ===
[[ジョーカー (トランプ)|ジョーカー]]を一枚または二枚追加してゲームを行う。ジョーカーは[[ワイルドカード (トランプ)|ワイルドカード]]としての役目を果たす。ジョーカーを持っているプレイヤーは、自分の番であれば任意の時に、通常の札を出す代わりにジョーカーを場に置くことができる。[[ババ抜き]]と同じく、最後にジョーカーを持っていたプレイヤーは負けとなる(ジョーカーで上がったりジョーカーだけを残すと反則負けとなるルールもある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=STU48の7ならべ ヘルペディア |url=http://stu48sevens.jp/helpedia/ |website=stu48sevens.jp |access-date=2022-07-10 |language=ja}}</ref>。)が、前述の通り、プレイヤーの誰かが4回目のパスをして脱落した場合はジョーカーを持っているプレイヤーでも最下位ではない順位となる。
プレイヤー(以下Aと呼ぶ)がジョーカーを置いたら、ジョーカーが置かれた位置のカードを持っているプレイヤーはすぐにその位置のカードを出し、代わりにジョーカーを手札に加えなければならない。ただルールによってはジョーカーを受け取るか任意で選択できるようにしている場合もある<ref name=":0" />。
例えば、プレイヤーAがジョーカーを<math>\diamondsuit</math>5の位置に置いたら、<math>\diamondsuit</math>5を持っているプレイヤーはジョーカーの位置に<math>\diamondsuit</math>5を置き、ジョーカーを引き取らなければならない。
プレイヤーAがジョーカーを置くことができるのは、現時点でプレイできるカードの位置だけである。例えばハートのカードが<math>\heartsuit</math>4から<math>\heartsuit</math>Jまでしか場に出ていなかった場合、プレイヤーAは<math>\heartsuit</math>2の位置にジョーカーを置くことはできない。ハートでプレイヤーAがジョーカーを置けるのは、<math>\heartsuit</math>3か<math>\heartsuit</math>Qだけである。
ジョーカーの位置のカードが出されたら、プレイヤーAの左隣のプレイヤーの番に移る。
ルールによっては、ジョーカーは単独で使わず、場に出したいカードの間を埋める形で使用する。上記の例で言えば、プレイヤーAが<math>\heartsuit</math>2を出したい場合に、<math>\heartsuit</math>4の隣にジョーカー・<math>\heartsuit</math>2の順に並べて配置する。<math>\heartsuit</math>3を持っているプレイヤーはジョーカーの位置にカードを出し、代わりにジョーカーを手札に加えなければならない。このルールでは条件を満たすカードが無いとジョーカーを出せないため、場に出ているカードから一つ飛ばしたカードが無いような終盤にジョーカーを持っていると負けが確定する。
ローカルルールとして、2ゲーム以上続けて行う場合、2回目以降に最初にジョーカーを持つのは必ず前のゲームの敗者(最後までジョーカーを持っていたプレイヤー)とする場合がある。
=== AKリンク ===
A/Kは「隣り合った」ランクであるとみなす。すなわち♠の7からKまでが場に出ている時には♠のAを場に出すことが許されるし、♠の7からAまでが場に出ている時には♠のKを場に出すことが許される。
♠のAとKとが場に出ている時、♠のAとKとは'''つながっている'''という。
♠の7からKまでが場に出たら、以後順に♠の2,3,4<math>\cdots</math>を場に出すことができるし、♠の7からAまでが場に出たら、以後順に♠のQ,J,10<math>\cdots</math>を場に出すことができる。
♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4<math>\cdots</math>側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10…側にカードをつなげたりする行為が許されるルールの方が一般的である。
=== トンネル ===
AKリンク同様、A/Kは「隣り合った」ランクであるとみなす。とみなす。しかし、♠の7からKまでが場に出た状態で、♠の6,5,4<math>\cdots</math>側にカードをつなげたり、♠の7からAまでが場に出た状態で、♠の8,9,10…側にカードをつなげたりする行為を許さない場合、♠のAとKが'''つながった'''場合に、♠を'''止めて'''いるプレイヤーが逆に不利となるルールである。[[ハンゲーム]]ではこれを'''トンネル'''ルールという。
=== お化け ===
'''ゴースト'''というゲームから入った、日本特有のオプショナル・ルールである。
ゲームからまだ脱落していないプレイヤーはゲームから脱落したプレイヤーと会話してはならない(脱落したプレイヤーはあの手この手で脱落していないプレイヤーとの会話を試みる)。もし脱落したプレイヤーと会話してしまったら、脱落したプレイヤーと会話してしまったプレイヤーとの立場が入れ替わる。脱落したプレイヤーは会話してしまったプレイヤーの手札を使ってゲームに復帰し、逆に会話してしまったプレイヤーはゲームから脱落したものとみなされる。
お化けのルールを採用した場合、どの時点でゲームから脱落したとみなすべきかは難しい。ゲームが終了していた段階で脱落したプレイヤー同士順位の決めに関して固定的なルールはない。
=== コンボ ===
2~3人でのプレイ時に戦略性を持たせる為に採用される。
手番にカードを出した際、そこに隣接するカードを手札から連続で出しても良いとする。
例として、自分の手番にスペードの8を出し、更にスペードの9,10,Jを出すというもの。
2枚目以降は1コンボ、2コンボとカウントする。ターン終了時には、コンボ数と同枚数の任意の手札を次プレイヤーに譲渡できる。
(上記の例では、追加分スペードの9,10,J分=3コンボ=3枚譲渡)
=== センター変更 ===
手札を配り終えた時、各プレイヤーが一斉に7を場に出す代わりに、前のゲームで最下位だったプレイヤーはセンターにしたい数字を1つ選ぶ。そうしたのであれば各プレイヤーは指定された数字を一斉に場に出す<ref name="Hangame Fantan">{{Cite web
|date=2004-04-15
|url=http://gameinfo.hangame.co.jp/hgj/gamehelp/fantan/rule_fantan.htm
|title=ハンゲーム 7ならべ
|language=日本語
|accessdate=2023-10-12
}}</ref>。指定された数字の<math>\diamondsuit</math>を持っていたプレイヤーを先手とする。
ジョーカーを選択してはならない。
前のゲームが無い最初のゲームに限り、センターは7である。
== 歴史 ==
日本の7並べは外国の'''ファンタン'''('''fantan''')というゲームが元になっている。ファンタンのルールは日本の7並べとほとんど同じである。ただし、7並べでは事前に7を全て並べてからゲームを開始するのに対し、ファンタンでは場に一枚もカードがない状態からゲームを始める。7の札を持ったプレイヤーは、自分の番が来たときに7を場に出す権利を持っている。誰かが7を場に出したら、皆はその♠の札を7につなげることができる。
== ローカルルール ==
=== 殺しの7並べ ===
殺しの7並べという名称が一般的だが、陰険7並べ、封鎖の7並べと呼ぶ事もある。
以下、仮に<math>\spadesuit</math>、<math>\heartsuit</math>、<math>\diamondsuit</math>、<math>\clubsuit</math>の順に7のカードが並べられているとしてルールの説明をする。
主に以下の二点において通常の7並べと異なる:
#出す事を許されるカードの種類
#カードの「死」という概念
殺しの7並べで出すことができる札は、通常の7並べで出せる札よりもずっと多い。各プレイヤーは自分の番が回ってきた時、以下の条件を満たすカードを出すことができる:
*そのカードに上下左右もしくは斜めに接するカードがすでに場に出ている。
例えば<math>\heartsuit</math>10を出すことができるのは、<math>\heartsuit</math>9、<math>\heartsuit</math>J、<math>\spadesuit</math>10、<math>\diamondsuit</math>10、<math>\spadesuit</math>9、<math>\spadesuit</math>J、<math>\diamondsuit</math>9、<math>\diamondsuit</math>Jのいずれかの札がすでに場に出ている時に限る。
カードXがまだ場に出されていない状態で、カードXと上下左右に接する札が全て場に出ている時、カードXは'''死んでいる'''カードと呼ばれる。死んでしまったカードは場に出すことはできない。<!--死んでしまったカードを自分の前に表向きにして置かなければならないルールも存在する。-->
手札が全て死んでしまったカードのみになったプレイヤーはゲームから抜ける。通常の7並べと同様、定められた回数以上にパスをしたプレイヤーはゲームから脱落する。全員がゲームから抜けるか脱落するかした段階でゲームは終了である。
==== 勝敗 ====
脱落していないプレイヤーの中で、手札として持っている死んでしまったカードの枚数が最も少ないプレイヤーが優勝である。二人のプレイヤーが持っている死んでしまったカードの枚数が同じ時は、先にゲームから抜けたプレイヤーの方が順位が高い。
通常の7並べと異なり、(死んでしまったカードの枚数が同じでない時は)、いつゲームから抜けたのかにかかわらず順位が決まることに注意されたい。
ゲームから脱落してしまったプレイヤーの順位の決め方は、通常の7並べと同じである。
===== 隅や角にあるカードの取り扱い =====
場の外側は「壁」で囲まれているものとみなし、隅や角にあるカードはそれぞれ3方向、2方向を囲まれたら死んだものとみなす。
例えば<math>\spadesuit</math>8は、<math>\spadesuit</math>7、<math>\spadesuit</math>9、<math>\heartsuit</math>8が場に出そろった段階で死に、<math>\spadesuit</math>Aは、<math>\spadesuit</math>2、<math>\heartsuit</math>Aが出そろった段階で死ぬ。
==== 死の定義に関するもの ====
死の定義に関して以下の2種類の地方ルールがある。
*上下左右全てが囲まれなくとも、左右のみ出そろった段階で死んだとみなす。
*3枚以下のカードが一辺に囲まれた場合、囲まれたカードは全て死んだものとみなす。
第2のルールを例で説明する。例えば<math>\heartsuit</math>A、<math>\heartsuit</math>4、<math>\spadesuit</math>2、<math>\spadesuit</math>3、<math>\diamondsuit</math>2、<math>\diamondsuit</math>3が出そろった段階で<math>\heartsuit</math>2、<math>\heartsuit</math>3は両方とも死ぬ。
===== 死んだ札の取り扱いに関するもの =====
手札として保管せず、死んだ段階で、場の札とまざらないように自分の真下に置いておく。表向きに置く、というルールと裏向きに置くというルールとがある。
== 慣用句 ==
通常の7並べで8を持って邪魔する人から転じて、買う気もないのに物を無駄に取り置きしたり、大して興味のない他人に独占欲を抱く人のことを「エイトキーパー」と呼ぶ。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[トランプ]]
*[[カードゲーム]]
{{トランプ}}
{{DEFAULTSORT:しちならへ}}
[[Category:トランプゲーム]] | 2003-02-15T15:07:50Z | 2023-12-16T23:24:55Z | false | false | false | [
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1,830 | ニュース | ニュース(英: news)とは、珍しい出来事や新しい情報のことである。また、最近発生した政治や事件・事故・スポーツ・地域情報などの出来事や珍しい出来事などを伝えることである。
新聞やテレビ、ラジオ、電光掲示板、ウェブ(特にニュースサイト)などがメディアとして使われる。テレビが普及する以前には、映画(ニュース映画)も使われた。
1990年代以降、ウェブ(インターネット)の普及で個人などでもニュースを発信することができるようになった。この場合は専門的な情報のみのニュースが多い。
市場調査会社ピュー・リサーチセンターの2008年12月の調査によれば、ウェブを媒体としてニュースを知る人の割合が、ついに新聞を上回った。調査は2008年12月上旬にアメリカ国内の1,489名の成人に対して行われたもので、40%がウェブから国内外のニュースを得ることが多いと回答し、一方、新聞からという者は35%にとどまった。新聞を情報源としている人の割合は2005年からほぼ横ばいだが、ウェブを情報源としている人の率が高くなっており、2007年9月の前回調査では24%であった。 一方、テレビをニュース情報源としているしたのは回答者の70%であり、依然ウェブと新聞を上回っている。30歳以下の若年成人層に限定すれば、ウェブはすでに情報源としてテレビに追いつき、ともに59%となった。2007年ではテレビの割合は68%、ウェブの割合は34%であり、急速にウェブの割合が増えている。
英語の綴りは「news」であり、「ニューズ(英国)」「ヌーズ(北米)」と読む。これは「new」を複数形にしたものであり、「(複数の)新しいこと」という意味の、中世ラテン語やフランス語の単語から英訳された。
この語の語源が方角をあらわす「北」「東」「西」「南」のそれぞれを意味する英語「North」「East」「West」「South」の頭文字だという意味だといわれることがあるが、これは民間語源で間違いである。 | [
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'''ニュース'''({{lang-en-short|news}}<ref>{{Audio|News.ogg|聞く}}</ref>)とは、珍しい[[出来事]]や新しい[[情報]]のことである。また、最近発生した[[政治]]や[[事件]]・[[事故]]・[[スポーツ]]・地域情報などの出来事や珍しい出来事などを伝えることである。
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1990年代以降、ウェブ(インターネット)の普及で個人などでもニュースを発信することができるようになった。この場合は専門的な情報のみのニュースが多い。
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=== 歴史 ===
* [[アクタ・ディウルナ]] - ローマ時代に壁に貼られることでニュースを伝えた最古の新聞。
* [[瓦版]](読売、絵草紙、一枚摺とも) - 江戸時代に民間で出回った情報媒体。1684年(貞享1年)に読売禁止令が出される<ref>{{Cite book|和書|author=朝倉亀三 |year=1911 |title=本邦新聞史 |publisher=雅俗文庫 |series=附録: 日本新聞紙雑誌年表 |id={{全国書誌番号|41016795}} |doi=10.11501/897435 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897435}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=鎌田大資 |date=2015-09 |url=https://kinjo.repo.nii.ac.jp/records/768 |title=日本出版統制史再考 : 序説・江戸時代初期享保以前 |journal=金城学院大学論集. 社会科学編 |ISSN=1880036X |publisher=金城学院大学 |volume=12 |issue=1 |pages=54-70 |CRID=1050001202833440896}}</ref>。
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<!--== 健康 ==
2021年、ハーバード大学医学部は、過度に宣伝された健康ニュースが不必要な不安を助長し、健康に害を及ぼす可能性があると警告した<ref>{{Cite web|title=Careful! Scary health news can be harmful to your health|url=https://www.health.harvard.edu/blog/careful-scary-health-news-can-be-harmful-to-your-health-202106172474|website=Harvard Health|date=2021-06-17|accessdate=2021-06-19|language=en|first=Robert H. Shmerling|last=MD}}</ref>。-->
== 語源 ==
英語の綴りは「{{スペル|lang=en|news}}」であり、「ニューズ(英国)」「ヌーズ(北米)」と読む。これは「{{スペル|lang=en|new}}」を複数形にしたものであり、「(複数の)新しいこと」という意味の、[[中世ラテン語]]や[[フランス語]]の単語から英訳された<ref>
{{Cite web | title=Definition of news in English: | url=http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/news | work=Oxford dictionaries | publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] | year=2014 | accessdate=2014年3月14日 }}
</ref><ref>
{{Cite web | title=news | url=http://www.etymonline.com/index.php?term=news | work=[[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー|Online Etymology Dictionary]] | publisher=Douglas Harper | year=2001-2014 | accessdate=2014年3月14日 }}
</ref>。
この語の語源が方角をあらわす「北」「東」「西」「南」のそれぞれを意味する英語「{{lang|en|North}}」「{{lang|en|East}}」「{{lang|en|West}}」「{{lang|en|South}}」の頭文字だという意味だといわれることがあるが、これは[[民間語源]]で間違いである。
== 脚注 ==
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<references/>
== 関連項目 ==
* [[報道番組]]
* [[ニュース系列]]
* [[ニュースキャスター]](アンカーマン)
* [[ニュース映画]]
* [[ニュースサイト]]
* [[ネットニュース]]
** [[ニュースグループ]]
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[[Category:報道]]
[[Category:英語の語句]]
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[[Category:コミュニケーション]]
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[[pt:Jornalismo#Notícia]] | 2003-02-15T15:09:32Z | 2023-10-22T10:44:07Z | false | false | false | [
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1,831 | 天気予報 | 天気予報()とは、ある地域で天気がどう変化するか予測し、知らせること。気象予報()ともいう。
過去の天気や現況の天気、気圧、風向、風速、気温、湿度など大気の状態に関する情報を収集し、これをもとに、特定の地域あるいは広範囲な領域に対し、当日から数日後まで(種類によっては数か月後に及ぶものもある)の天気風、風、気温などの大気の状態と、それに関連する水域や地面の状態を予測して伝えるものである。
日常生活や業務に対して天気が与える影響は非常に大きく、19世紀に近代気象学が生まれると同時に科学的な天気予報の試みが行われてきた。現代における天気予報は、気象のメカニズムを解明する気象学の発達と並んで、多種多様で世界的な気象観測網の構築、コンピューターの発展に支えられた数値予報インフラストラクチャーの整備、そして情報を一般に広く伝えるマスメディアによって支えられ、運用されている。
地球の大気の挙動は、カオスそのものであるため、初期値鋭敏性が高く、大気シミュレーションの計算誤差が、反復計算により指数関数的に増大するため、長期間の予測は極めて難しい。また地形の影響が大きい山岳部は天気が急変しやすく、予報のアルゴリズム精度が落ちるなど正確な天気予報が外れることも多い。しかし、予測の初期値を得る大気計測、気象衛星による観測データやスーパーコンピュータの利用などにより、予報精度は向上している。
数値予報が台頭してくるまで、天気予報は観測記録をもとにした過去のノウハウや経験則の蓄積に頼る部分が大きく、予報官の経験に左右されるところが大きかった。数値予報の登場によって解析業務の負担が軽減されるとともに、精度が向上して予報の幅も広がってきている。また、観測の自動化・無人化も急速に進んでいる。
気象観測・情報収集・研究に関しては、世界気象機関(WMO)などの国際機関、世界各国の気象機関や防災担当の国家機関、研究機関や大学などによって連携して行われている。世界各国で法的な規定をもって責任機関を定め、気象に関する業務を担当させている。国によっては予報業務の自由化(民間開放)も進められているが、国際的には、国連の世界気象機関が、1995年の第12回世界気象会議議決事項40附属書3において、「関係する加盟国が認めた場合を除き、商業セクターの気象業務提供者は、その活動する国及び海域において、生命及び財産の安全に関わる予報及び警報を公表してはならない。商業セクターが公表する生命及び財産の安全に関わる予報及び警報は、国家気象・水文気象機関等の公的機関が公共的な業務に係る責務として実施するものと矛盾しないものでなければならない」との指針を示している。
現代の天気予報は、ゲリラ豪雨や激化する猛暑などに代表される気象災害の増加・変化やニーズの変化への対応、エルニーニョ・南方振動(ENSO)や北極振動(AO)等の最新知見を取り入れた予報精度の向上などが大きなテーマとされている。そのため、そういった豪雨などの異常気象、ENSOやAOなどの気候パターン、地球温暖化などの気候変動の解明が求められているほか、気象機関は市民に対して天気や気候変動に関する説明・解説を行う一定の責任も負っている。
一般的な天気予報の情報は、どこの(予報区域)、何を(予報要素)、いつからいつまで(予報期間)、どんな形式で(予報形式)予報するかという4つの大きな要素がある。
上の3形式が典型的な予報形式である。これ以外に分類できないものとして、最も可能性の高い1つの状態を表現するもの(天気図など)。
天気は多くの人々の生計と生活に大きな影響を与えるものであり、古代においてもこのことは今にもまして重要なことであった。およそ数千年の間、人々は一日が、もしくは一つの季節がどのような天気になるか予想しようとしてきた。紀元前650年に、バビロニア人は雲のパターンから天気を予測し、紀元前およそ340年には、アリストテレスが気象学に基づいた天候のパターンを描き出した。中国大陸の民族も少なくとも紀元前300年までに天気を予測していた。
通常、古代の天気予報の方法は、天候のパターンを見つけることに依存していたために全ては経験に頼ったものであった。例えば、日没時に空が際立って赤かったならば、翌日は晴れが予想される、などといった具合にである(「夕焼け#観天望気」参照)。この経験は、世代を越えて天気に関する知恵(たとえば諺など、観天望気)を蓄積することとなった。しかしながら、これらの予測全てが信頼できるものだと証明されるとは限らず、また、それら経験に頼った天気予報は後の研究により厳格な統計学的分析に依拠しないものもあるということが判明してきている。
特に漁師や廻船などの船乗りは荒れた海に出ると生命にかかわるため、天気の観測・予測を日本では「日和見」を重視した。日本各地に残る日和山(ひよりやま)等の地名は、そこから天気の具合を観察したことによる。
日本では1884年(明治17年)6月1日に近代的な天気予報の第一号が発表されたが、江戸時代には平戸藩で参勤交代など船の運航を担っていた山崎家は天気見様(てんきみよう)という天気観測・予報に力を入れていた。
1837年の電報の発明まで、近代的な天気予報の時代は到来しなかった。この発明までは蒸気機関車より少しでも早いリアルタイムの大気の状態についての情報は伝えることができなかったからである。しかし電報の発明は、ほぼ瞬時に広範囲から気象の状態に関する情報を収集することが可能となった。このことにより、はるか風上の天気の情報を元にした天気予報が可能となった。
クリミア戦争の際、暴風で黒海の英仏艦隊が壊滅したのを受けて、フランスのパリ天文台台長のユルバン・ルヴェリエが暴風雨を予測する研究を行い、天気予報の必要性をナポレオン3世に進言した。
1854年に設立されたイギリス気象庁は世界で最も早期に設立された気象機関の一つで、1870年代に天気図の作成を開始、1879年には新聞に対して情報提供を開始するなど先進的な試みを行っている。気象学の発達した欧米各国は、1873年に国際気象機関(IMO、後の世界気象機関)を設立して国際協力を推進した。一方で、軍事機密を伴う部分もあるため、予報のノウハウは各国が独自に培っていった部分が大きい。
科学的な天気予報の誕生に功績があったと最も信じられている人物は、フランシス・ボーフォート(ボーフォート風力階級で知られる)と彼の部下ロバート・フィッツロイ(the Fitzroy Barometerの開発者)である。2人はイギリスの海軍や政官界で影響力をもった人物で、当時新聞で嘲られていたが、彼らの仕事は、科学的信頼を獲得し、英国艦隊によって受け入れられ、今日の天気予報知識の全ての基礎を形成した。
20世紀の間に、大気変化の研究を取り入れた気象学は大きく進歩した。数値予報の考え方は1922年にルイス・フライ・リチャードソンによって提示された。しかしながら、天気予報を成り立たせるために必要な膨大な計算をこなすコンピュータはその当時存在しなかった。1970年に初めて、数値予報により世界中の天気予報業務を行うことが可能となった。
国際テレビ放送やインターネットの発達により天気予報のグローバル化が進んでいる。特に先進国の民間気象会社は、世界の気象機関や自社で観測したデータなどをもとに世界各国の天気予報をインターネットや各メディアでユーザーに届けるようになった。グローバルな天気予報は利便性を向上させる一方、情報源、予報技術、信頼性などが見えにくく、災害をもたらすような気象現象において責任国家機関の情報と各民間気象事業者の予報が異なる事態により受け手が混乱を招く問題も指摘されている。世界気象機関WMOでは情報の混乱の緩和を図るため、世界の主要都市の週間予報と災害の危険のある顕著現象について公式の情報提供を行っている。
一方で気象サービスの商業化とともに、各国の公共サービスの見直しや財政の緊縮化を背景に、国家が気象サービスを有料化する動きもある。その顕著な例がニュージーランドで、ニュージーランドでは政府が100%株式を保有する政府企業が有料で気象サービスを提供するようになっている。ヨーロッパでもこのような商業化の流れがみられるが、アメリカや日本では通信料だけで国の機関から気象サービスの提供を受けることができ商業化とは対極にある。気象サービスの商業化政策に対しては、気象情報の有効活用や開発意欲を阻む要因になるともいわれている。
現代の天気予報システムは5つの構成要素から成り立っている。
気象学は地道な観測から始まったように、天気予報においても不断の観測が予報を支えている。デジタル計器など存在せず有人観測が主流だった時代には、多数の観測点を設置して定期的に人の手により交代で観測を行っていた。自動観測が広く普及した現在、観測点数を増やすことも容易になり、無人化も進行してきている。
現在、世界的に主流な観測方法として、
観測の精度を一定に保つため、観測機器の仕様や運用についてはWMOが統一基準を定めており、それに基づき各国は細かい基準を定めている。日本では観測機器の気象測器検定、気象庁による「気象観測の手引き」などがこれに該当する。
観測要素の多い気象台を中心として、国際的に情報提供する観測点が定められており、全球気象通信システム(GTS)に載せられ世界中へ配信される。日本では、気象庁が構築しているネットワークであるADESSを経由してGTSへ接続されている。また、AMDAR等の情報ネットワークもある。この国際データはSYNOP、SHIP、METARなどのいわゆる国際気象通報式の形式をとり、WMOやICAOにより定められた統一基準に従って定時(SYNOP3時間毎、METAR1時間毎など)・臨時に情報を送信する。
天気予報には、情報の迅速な伝達と収集が重要である。気象庁では、COSMETSで情報の統合整理を行っている。国際データ、ブイやラジオゾンデ、気象台の観測データはADESS経由で、気象情報のデータは気象衛星センターのサーバ経由で、アメダスのデータは地域気象観測センター経由で、COSMETSに送信される。国際的には、全球通信システム(GTS)と呼ばれる世界規模の通信網を通して各国の気象機関の間で情報をやり取りしている。また途上国向けに、全球データ処理・予測システム(GDPFS)のもとで、各地域の主要気象機関がガイダンス資料(後述)までの作成も行い、提供している。
理論式で構成された数値予報モデルに観測値を入力する(データ同化)。観測値は観測点の偏りが原因でデータの分布はまばらであるため、推定(客観解析)を行ってデータを補正する。このデータを一次データとして、ガイダンスを作成する。
気象庁では、COSMETSの中の演算部分であるNAPSで数値予報の演算を行い、予報結果を気象庁本庁のほか、各地の気象台などへと送信する。演算には高性能のスーパーコンピュータの利用が不可欠であり、その性能が予報精度や速度を左右する。
数値予報モデルの演算結果はあくまで格子点形式で物理量を出力するのみであるため、これを予報に利用しやすい形に変換する必要がある。例えば、気圧配置データをもとに天気図を作成したり、湿度・気温・気圧のデータから雲量を割り出し更にそれから天気分布を割り出すなどの「翻訳作業」を行う。こうして作成した気象のパターン資料を天気予報ガイダンスという。ふつう、いくつかのパターンのガイダンス資料を出力しておき、それらの中から検討を行い、最適化や補正を行って、1つの値あるいは数値幅を決めたり、予報文の検討や警報の判断を行ったりする。
導き出された情報を予報の種類に合わせてまとめ、適切な形式で発表する。予報期間が長いほど精度が下がるため、天気・気温・降水確率などの一般的な天気予報は1週間後までしか行われていない。また、雨や雷、突風や集中豪雨などの局地現象の様子を提供するレーダー画像やナウキャスト、地図上で台風の進路を示す台風情報など、天気予報の形式は様々である。
また、航空管制、鉄道、バス、船舶などは、その分野に適した専門的情報を提供する必要がある。例えば、航空管制における飛行場予報や航空路の乱気流、着氷、火山灰の予測、船舶における波浪、海流、海水温の予測などが挙げられる。
天気予報の信頼性は、予報精度の高さに左右される。日本の気象庁における、適中率(1992年〜2019年の28年間全国平均)を挙げると、17:00発表の翌日予報で83%、翌々日で80%、11:00発表の週間天気7日後予報で67%となっている。適中率は、"降水の有無の適中率"とされており、晴れや曇りなどの天気概況の適中判定ではない。
予報精度の評価方法は、予報形式ごとにいくつかある。
カテゴリー予報では、実際と予報の両方において、各カテゴリ内の事象出現回数を表にまとめ、次のような指標を用いて表現する。この方法では、見逃し率と空振り率は、現象が発生するかしないかの2カテゴリ(計4区分)を用いるのが適切である。
量的予報では、以下の指標が用いられる。
確率予報では、以下の指標が用いられる。
気象に関する主要な国際機関として、国際連合の下部機関である世界気象機関(WMO、本部ジュネーブ)や国際民間航空機関(ICAO)がある。
WMOは天気予報の分野では、観測方法の国際的統一のための「技術規則」や「国際気象通報式」の採択、国際気象専用回線網の構築、世界気象センター (WMC)や特別地域責任センター(RSMC)など支援センターの設置を行っている。統一的な観測方法と国際回線の構築により、先進国では日々の数値予報モデルの運用が可能になっている。また、発展途上国では特別地域責任センターRSMCの提供する情報を国際回線やインターネットで入手することで自国の天気予報に役立てている。
アメリカでは1956年からアメリカ気象学会(AMS)が気象コンサルタントCCM(Certified Consulting Meteorologist)の資格試験を実施している(技能資格であり国家資格ではない)。CCMの取得要件は何度も改定されているが、高等教育機関で一定の気象学の学習と単位を取得していることが要件になっている。
また、ラジオやテレビに出演する天気キャスターの資格として、Seal of Approval Program for Radio and Television(AMSの科学者らによって1959年に創設)やNational Weather Association Broadcast Seal of Approval(1982年にNationalWeatherAssociation(全国気象協会)が創設)がある。
英国放送協会(BBC)では創立時から天気予報を放送していたが、日々の天気予報を放送するようになったのは1923年3月からである。BBCは1922年11月14日からイギリス気象庁の天気予報の提供を受けていたが、2015年に打ち切りが報じられた。
首都ロンドンのピカデリーサーカスの電光掲示板では2017年の改修後から天気予報も表示されることとなった。
アメリカとイギリスは世界空域予報センターを分担して運営しており国際線の飛行計画や航空機の運航のために必要な風や気温の情報を提供している。
日本の気象業務法は、気象に関する観測・情報収集から発表まで、および研究、それらに付帯する業務を「気象業務」と定めており、気象庁が中心となって執り行っている。
気象庁が発表する一般向けの予報の種類には、あらかじめ決められた予報区ごとの気象状態を予報するものと、地図上を一定の大きさの升目に区切った格子ごとの気象状態を予報するものとがある。
前者の例としては、
がある。また、警報・注意報や気象情報も予報区ごとに発表される。
以前は週間予報は週1回程度→後に週2回程度の発表であったが、現在は毎日発表されている。季節予報はおおむね月の下旬に3か月先の予報、毎週木曜日に翌月1か月分の予報を出すことが一般的である
予報区の種類には、「全般」(日本全国)、「地方」(全国で11)、「府県」(東京都を含む、広大な北海道は2〜3の振興局ごとに細分)などがあり、どの予報区について予報を発表するかは、予報の種類によって異なっている。
予報には、天気の予報以外に、最高・最低気温、降水確率の予報も含まれる。また、時系列予報および短期予報では、時間ごとの気温、風向・風速、降水量、波浪の高さなども含まれる。気温や風向風速、天気などは、予報区内の代表的地点(気象官署またはアメダス観測所のある地点)における予報値が発表される。
短期予報と地域時系列予報は原則として5時・11時・17時の3回発表している。週間予報は11時・17時の2回発表している。
2008年7月28日の都賀川水難事故や2014年8月20日に発生した広島土砂災害などのように、当初発表した予報が大雨に結びつかなくても(曇り時々晴れ)、突発的に積乱雲が発達して大雨になることがある。特に「雷を伴う」が発表されている場合は注意が必要である。
後者の例としては、
がある。
前者(予報区ごと)に比べると、過去の解析・現在の実況の経過を見ながら、予報を示していく種類の予報が多い。長期の予測が難しいという特徴があるため、短期の予報を迅速に伝えることで信頼性が増す。
大別して、日本列島を数〜数十kmの格子で区分したメッシュを用いて予報を図で示すメッシュ形式のものと、日本列島周辺の地図上に等圧線などを示して予報を表す天気図形式のもの2つがある。
一般向け予報とは別に提供されている船舶向け予報(天気図)では、気圧、流線、風。、渦度、気温、湿数、降水量などの予報を発表している。
このうち台風情報に関しては気象庁のみが発表することにしており、民間気象情報会社であっても、台風の進路図は気象庁のものを利用する(ただし見やすさや独自の表示に一部アレンジを施すことはある)
気象庁の天気予報では、誤解や混乱を防ぐため、予報に用いる用語を定めており、メディアに対してもそれに準じた用語を使用するよう指導している。独特の言い回しや、厳密に規定された表現などがある。以下に、よく用いられる用語の例を挙げる。
詳しくは「予報用語」を参照。
警報は、重大な災害の起こるおそれのある旨を警告して行う予報である。
警報が発表された場合は、NHK総合テレビジョンでは画面上にテロップで表示される。気象情報の番組中では赤字で表示される。NHKラジオ第1放送(FM放送は「ラジオ深夜便」放送時のみ。但し放送しない場合あり)では、放送中の番組内に割り込んで「番組(曲)の途中ですが気象関連のお知らせです。先ほど○時□分、△△地方に大雨洪水警報が発表されました」などとして警報が発表されたことが報じられる。
警報に準じて災害が起こるおそれがある場合に、あるいは社会・経済活動に広範囲な支障を及ぼす現象について注意喚起のために発表する予報を注意報という。
警報・注意報およびこれに関する情報には、気象庁が単独で発表するもののほか、個別の河川に対して河川管理者と共同で発表する共同洪水予報や、大雨警報を補足してがけ崩れなどへの警戒を呼びかけるために都道府県と共同で発表する土砂災害警戒情報もある。
現在では、気象庁だけではなく、気象業務法第17条に基づき気象庁長官の許可を受けた官民の予報業務許可事業者も独自の予報を提供している。なお、許可事業者が予報業務を行う場合は、事業所ごとに気象予報士を置かなければならない。
現在の予報業務許可事業者のリストは 気象庁の公式一覧 を参照されたい。ここには、気象予報を行っている民間企業以外に、日立市・羽曳野市といった地方自治体、数名の個人事業者(気象予報士)が含まれる。
許可事業者が行う天気予報の業務は、気象庁と重複する部分もあるが、様々な独自業務もある。代表されるものとしては桜前線があり、許可事業者3社が発表を行うようになったこと、またコア分野ではなく応用分野であったことから、大元の気象庁の方が2010年より発表を取りやめることになった経緯がある。なお、警報や注意報に関しては重要性が高く混乱を防ぐため、気象庁だけが行うこととなっている。
許可事業者が利用する一次資料にあたる、観測データや数値予報の根拠データ等は気象業務支援センターからも提供されており、どの事業者でも利用可能となっている。しかし、数値予報自体は自社設備で独自に行っているところもある。予報資料(ガイダンス)の中心部分は各社独自のものであり、これに基づいて各事業者が予報を発表している。
天気予報では、天気天候と密接にかかわる他の情報が合わせて伝えられることが多い。それらは季節や地域によって様々な特色がある。
人々が天気予報の情報を得る経路について、2017年にマクロミル社が日本の1000人を対象に調査した結果では、人々が天気予報を確認している媒体(情報源)の1位は「テレビ番組の天気予報コーナー」でおよそ8割、2位が「スマホ(携帯電話)の天気情報アプリ」でおよそ5割の人々が利用している。テレビ番組とスマホアプリの利用傾向は世代によって異なり、若い世代ほどスマートフォン(スマホ)から天気予報の情報を得ている傾向があり、20代の女性で75%がスマホのアプリから情報を得ている。
放送(テレビ・ラジオ)では気象情報番組や報道番組内の天気コーナーなどで定期的に放送を行う。取り扱う番組によって、気象庁発表のものをそのまま流用するもの、各社局が契約した気象業務許可事業者の天気情報を使用するもの、専属の気象予報士が提供情報を基に独自に加工するものがある。警報発表時(発令・解除)にはテロップで伝えられることがあるほか、台風・前線などによる豪雨などの広域災害が予想される場合やそれが発生した場合には報道特別番組(主にNHK)が放送される。衛星放送・ケーブルテレビでは天気のみを扱う専門チャンネルがある。東京メトロポリタンテレビジョンはまだインターネットが普及していなかった開局前、「101回天気予報」をうたっており、実際の開局後にはそこまでは多くなかったものの頻繁に天気予報を放送していた。これに影響されてか、テレビ東京も1997年から2003年まで各番組の終わりがけにネットワークぐるみで「ウェザーブレイク」を自動送出で放送していた。
一般にテレビ放送や新聞では、天気予報をイラストマークにより直感的に分かるよう表示している。テレビ放送では、ごく初期には地図ボード(天気図の場合もあり)に天気予報のイラストマークを貼り付けたものをテレビカメラが映し、アナウンサーが各地域の予報を読み上げる方法であった。やがて字幕テロップによる表示が現れ、現在では次のようなイラストマーク表示がほぼ主流となった。ニュースウオッチ9の天気コーナーのようにキャラクター化する場合もある。
これらのマークを1つまたは2つ組み合わせて表現するが、日本テレビほか一部地域では「晴れ時々雨か雪」などの時には3つのマークを使用する場合がある。
スマートフォン(AndroidフォンやiPhone)では、天気予報の情報を提供するアプリが非常に多種類、無料で提供されている。たとえばAndroidフォンならば、Google Playをクリックして検索欄にキーワードとして「天気予報」と入力して検索すると多数の(2021年時点で100を超える数の)天気予報アプリが表示されるので、その中から他の利用者からの評価やそれぞれの機能などを考慮して選んでインストールすれば、すぐに使い始めることができる。
PCなどのウェブブラウザを使って、気象機関や許可事業者のインターネット上のWebサイトで一次情報が得られる。ポータルサイトやマスコミなどメディア系サイトでは一次情報元と契約を結び天気のページを設けて提供しているほか、一部の一般サイトで天気情報を表示するツールを組み込んだものもある。
また、PCのデスクトップ上で使用するウィジェット(ガジェット)やアプリケーションソフトウェアの中にも天気情報を表示するものがある。インターネット放送においても、天気専門のチャンネルがある。
インターネットではAccuWeatherなど許可事業者ではない海外企業も日本の天気予報を発表している。
一部の許可事業者、ポータルサイト、自治体などでは、事前登録者に対して警報発表時に電子メールを一斉送信するサービスを提供している。
ほとんどの新聞では、天気欄に予報を記載している。
日本電信電話公社(電電公社)の電話情報サービス(テレホンサービス)の第一号として、1954年9月に試験開始され、1955年1月より全国展開された。1964年3月から全国統一の電話番号(3桁特番)「177」が導入され、後身の日本電信電話(NTT)およびNTT東日本・NTT西日本でもサービスが継続されている。
都市部を中心に予報を流す電光掲示板や車内案内ディスプレイが街頭の目立つ所に設置された。また、電車や航空機の中など、公共交通機関ではLCDで一次情報元から提供を受けた天気情報が流れることがよくあった。珍しいものとして、大阪通天閣の頂上ではネオンライトの色(晴=白、曇=橙、雨=青、雪=桃)で明日の大阪の天気を表していた。
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"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "日常生活や業務に対して天気が与える影響は非常に大きく、19世紀に近代気象学が生まれると同時に科学的な天気予報の試みが行われてきた。現代における天気予報は、気象のメカニズムを解明する気象学の発達と並んで、多種多様で世界的な気象観測網の構築、コンピューターの発展に支えられた数値予報インフラストラクチャーの整備、そして情報を一般に広く伝えるマスメディアによって支えられ、運用されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "地球の大気の挙動は、カオスそのものであるため、初期値鋭敏性が高く、大気シミュレーションの計算誤差が、反復計算により指数関数的に増大するため、長期間の予測は極めて難しい。また地形の影響が大きい山岳部は天気が急変しやすく、予報のアルゴリズム精度が落ちるなど正確な天気予報が外れることも多い。しかし、予測の初期値を得る大気計測、気象衛星による観測データやスーパーコンピュータの利用などにより、予報精度は向上している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "数値予報が台頭してくるまで、天気予報は観測記録をもとにした過去のノウハウや経験則の蓄積に頼る部分が大きく、予報官の経験に左右されるところが大きかった。数値予報の登場によって解析業務の負担が軽減されるとともに、精度が向上して予報の幅も広がってきている。また、観測の自動化・無人化も急速に進んでいる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "気象観測・情報収集・研究に関しては、世界気象機関(WMO)などの国際機関、世界各国の気象機関や防災担当の国家機関、研究機関や大学などによって連携して行われている。世界各国で法的な規定をもって責任機関を定め、気象に関する業務を担当させている。国によっては予報業務の自由化(民間開放)も進められているが、国際的には、国連の世界気象機関が、1995年の第12回世界気象会議議決事項40附属書3において、「関係する加盟国が認めた場合を除き、商業セクターの気象業務提供者は、その活動する国及び海域において、生命及び財産の安全に関わる予報及び警報を公表してはならない。商業セクターが公表する生命及び財産の安全に関わる予報及び警報は、国家気象・水文気象機関等の公的機関が公共的な業務に係る責務として実施するものと矛盾しないものでなければならない」との指針を示している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "現代の天気予報は、ゲリラ豪雨や激化する猛暑などに代表される気象災害の増加・変化やニーズの変化への対応、エルニーニョ・南方振動(ENSO)や北極振動(AO)等の最新知見を取り入れた予報精度の向上などが大きなテーマとされている。そのため、そういった豪雨などの異常気象、ENSOやAOなどの気候パターン、地球温暖化などの気候変動の解明が求められているほか、気象機関は市民に対して天気や気候変動に関する説明・解説を行う一定の責任も負っている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "一般的な天気予報の情報は、どこの(予報区域)、何を(予報要素)、いつからいつまで(予報期間)、どんな形式で(予報形式)予報するかという4つの大きな要素がある。",
"title": "天気予報の要素"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "上の3形式が典型的な予報形式である。これ以外に分類できないものとして、最も可能性の高い1つの状態を表現するもの(天気図など)。",
"title": "天気予報の要素"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "天気は多くの人々の生計と生活に大きな影響を与えるものであり、古代においてもこのことは今にもまして重要なことであった。およそ数千年の間、人々は一日が、もしくは一つの季節がどのような天気になるか予想しようとしてきた。紀元前650年に、バビロニア人は雲のパターンから天気を予測し、紀元前およそ340年には、アリストテレスが気象学に基づいた天候のパターンを描き出した。中国大陸の民族も少なくとも紀元前300年までに天気を予測していた。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "通常、古代の天気予報の方法は、天候のパターンを見つけることに依存していたために全ては経験に頼ったものであった。例えば、日没時に空が際立って赤かったならば、翌日は晴れが予想される、などといった具合にである(「夕焼け#観天望気」参照)。この経験は、世代を越えて天気に関する知恵(たとえば諺など、観天望気)を蓄積することとなった。しかしながら、これらの予測全てが信頼できるものだと証明されるとは限らず、また、それら経験に頼った天気予報は後の研究により厳格な統計学的分析に依拠しないものもあるということが判明してきている。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "特に漁師や廻船などの船乗りは荒れた海に出ると生命にかかわるため、天気の観測・予測を日本では「日和見」を重視した。日本各地に残る日和山(ひよりやま)等の地名は、そこから天気の具合を観察したことによる。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "日本では1884年(明治17年)6月1日に近代的な天気予報の第一号が発表されたが、江戸時代には平戸藩で参勤交代など船の運航を担っていた山崎家は天気見様(てんきみよう)という天気観測・予報に力を入れていた。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1837年の電報の発明まで、近代的な天気予報の時代は到来しなかった。この発明までは蒸気機関車より少しでも早いリアルタイムの大気の状態についての情報は伝えることができなかったからである。しかし電報の発明は、ほぼ瞬時に広範囲から気象の状態に関する情報を収集することが可能となった。このことにより、はるか風上の天気の情報を元にした天気予報が可能となった。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "クリミア戦争の際、暴風で黒海の英仏艦隊が壊滅したのを受けて、フランスのパリ天文台台長のユルバン・ルヴェリエが暴風雨を予測する研究を行い、天気予報の必要性をナポレオン3世に進言した。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1854年に設立されたイギリス気象庁は世界で最も早期に設立された気象機関の一つで、1870年代に天気図の作成を開始、1879年には新聞に対して情報提供を開始するなど先進的な試みを行っている。気象学の発達した欧米各国は、1873年に国際気象機関(IMO、後の世界気象機関)を設立して国際協力を推進した。一方で、軍事機密を伴う部分もあるため、予報のノウハウは各国が独自に培っていった部分が大きい。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "科学的な天気予報の誕生に功績があったと最も信じられている人物は、フランシス・ボーフォート(ボーフォート風力階級で知られる)と彼の部下ロバート・フィッツロイ(the Fitzroy Barometerの開発者)である。2人はイギリスの海軍や政官界で影響力をもった人物で、当時新聞で嘲られていたが、彼らの仕事は、科学的信頼を獲得し、英国艦隊によって受け入れられ、今日の天気予報知識の全ての基礎を形成した。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "20世紀の間に、大気変化の研究を取り入れた気象学は大きく進歩した。数値予報の考え方は1922年にルイス・フライ・リチャードソンによって提示された。しかしながら、天気予報を成り立たせるために必要な膨大な計算をこなすコンピュータはその当時存在しなかった。1970年に初めて、数値予報により世界中の天気予報業務を行うことが可能となった。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "国際テレビ放送やインターネットの発達により天気予報のグローバル化が進んでいる。特に先進国の民間気象会社は、世界の気象機関や自社で観測したデータなどをもとに世界各国の天気予報をインターネットや各メディアでユーザーに届けるようになった。グローバルな天気予報は利便性を向上させる一方、情報源、予報技術、信頼性などが見えにくく、災害をもたらすような気象現象において責任国家機関の情報と各民間気象事業者の予報が異なる事態により受け手が混乱を招く問題も指摘されている。世界気象機関WMOでは情報の混乱の緩和を図るため、世界の主要都市の週間予報と災害の危険のある顕著現象について公式の情報提供を行っている。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "一方で気象サービスの商業化とともに、各国の公共サービスの見直しや財政の緊縮化を背景に、国家が気象サービスを有料化する動きもある。その顕著な例がニュージーランドで、ニュージーランドでは政府が100%株式を保有する政府企業が有料で気象サービスを提供するようになっている。ヨーロッパでもこのような商業化の流れがみられるが、アメリカや日本では通信料だけで国の機関から気象サービスの提供を受けることができ商業化とは対極にある。気象サービスの商業化政策に対しては、気象情報の有効活用や開発意欲を阻む要因になるともいわれている。",
"title": "天気予報の歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "現代の天気予報システムは5つの構成要素から成り立っている。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "気象学は地道な観測から始まったように、天気予報においても不断の観測が予報を支えている。デジタル計器など存在せず有人観測が主流だった時代には、多数の観測点を設置して定期的に人の手により交代で観測を行っていた。自動観測が広く普及した現在、観測点数を増やすことも容易になり、無人化も進行してきている。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "現在、世界的に主流な観測方法として、",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "観測の精度を一定に保つため、観測機器の仕様や運用についてはWMOが統一基準を定めており、それに基づき各国は細かい基準を定めている。日本では観測機器の気象測器検定、気象庁による「気象観測の手引き」などがこれに該当する。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "観測要素の多い気象台を中心として、国際的に情報提供する観測点が定められており、全球気象通信システム(GTS)に載せられ世界中へ配信される。日本では、気象庁が構築しているネットワークであるADESSを経由してGTSへ接続されている。また、AMDAR等の情報ネットワークもある。この国際データはSYNOP、SHIP、METARなどのいわゆる国際気象通報式の形式をとり、WMOやICAOにより定められた統一基準に従って定時(SYNOP3時間毎、METAR1時間毎など)・臨時に情報を送信する。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "天気予報には、情報の迅速な伝達と収集が重要である。気象庁では、COSMETSで情報の統合整理を行っている。国際データ、ブイやラジオゾンデ、気象台の観測データはADESS経由で、気象情報のデータは気象衛星センターのサーバ経由で、アメダスのデータは地域気象観測センター経由で、COSMETSに送信される。国際的には、全球通信システム(GTS)と呼ばれる世界規模の通信網を通して各国の気象機関の間で情報をやり取りしている。また途上国向けに、全球データ処理・予測システム(GDPFS)のもとで、各地域の主要気象機関がガイダンス資料(後述)までの作成も行い、提供している。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "理論式で構成された数値予報モデルに観測値を入力する(データ同化)。観測値は観測点の偏りが原因でデータの分布はまばらであるため、推定(客観解析)を行ってデータを補正する。このデータを一次データとして、ガイダンスを作成する。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "気象庁では、COSMETSの中の演算部分であるNAPSで数値予報の演算を行い、予報結果を気象庁本庁のほか、各地の気象台などへと送信する。演算には高性能のスーパーコンピュータの利用が不可欠であり、その性能が予報精度や速度を左右する。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "数値予報モデルの演算結果はあくまで格子点形式で物理量を出力するのみであるため、これを予報に利用しやすい形に変換する必要がある。例えば、気圧配置データをもとに天気図を作成したり、湿度・気温・気圧のデータから雲量を割り出し更にそれから天気分布を割り出すなどの「翻訳作業」を行う。こうして作成した気象のパターン資料を天気予報ガイダンスという。ふつう、いくつかのパターンのガイダンス資料を出力しておき、それらの中から検討を行い、最適化や補正を行って、1つの値あるいは数値幅を決めたり、予報文の検討や警報の判断を行ったりする。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "導き出された情報を予報の種類に合わせてまとめ、適切な形式で発表する。予報期間が長いほど精度が下がるため、天気・気温・降水確率などの一般的な天気予報は1週間後までしか行われていない。また、雨や雷、突風や集中豪雨などの局地現象の様子を提供するレーダー画像やナウキャスト、地図上で台風の進路を示す台風情報など、天気予報の形式は様々である。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "また、航空管制、鉄道、バス、船舶などは、その分野に適した専門的情報を提供する必要がある。例えば、航空管制における飛行場予報や航空路の乱気流、着氷、火山灰の予測、船舶における波浪、海流、海水温の予測などが挙げられる。",
"title": "天気予報システム"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "天気予報の信頼性は、予報精度の高さに左右される。日本の気象庁における、適中率(1992年〜2019年の28年間全国平均)を挙げると、17:00発表の翌日予報で83%、翌々日で80%、11:00発表の週間天気7日後予報で67%となっている。適中率は、\"降水の有無の適中率\"とされており、晴れや曇りなどの天気概況の適中判定ではない。",
"title": "天気予報の精度"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "予報精度の評価方法は、予報形式ごとにいくつかある。",
"title": "天気予報の精度"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "カテゴリー予報では、実際と予報の両方において、各カテゴリ内の事象出現回数を表にまとめ、次のような指標を用いて表現する。この方法では、見逃し率と空振り率は、現象が発生するかしないかの2カテゴリ(計4区分)を用いるのが適切である。",
"title": "天気予報の精度"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "量的予報では、以下の指標が用いられる。",
"title": "天気予報の精度"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "確率予報では、以下の指標が用いられる。",
"title": "天気予報の精度"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "気象に関する主要な国際機関として、国際連合の下部機関である世界気象機関(WMO、本部ジュネーブ)や国際民間航空機関(ICAO)がある。",
"title": "天気予報に関する機関"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "WMOは天気予報の分野では、観測方法の国際的統一のための「技術規則」や「国際気象通報式」の採択、国際気象専用回線網の構築、世界気象センター (WMC)や特別地域責任センター(RSMC)など支援センターの設置を行っている。統一的な観測方法と国際回線の構築により、先進国では日々の数値予報モデルの運用が可能になっている。また、発展途上国では特別地域責任センターRSMCの提供する情報を国際回線やインターネットで入手することで自国の天気予報に役立てている。",
"title": "天気予報に関する機関"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは1956年からアメリカ気象学会(AMS)が気象コンサルタントCCM(Certified Consulting Meteorologist)の資格試験を実施している(技能資格であり国家資格ではない)。CCMの取得要件は何度も改定されているが、高等教育機関で一定の気象学の学習と単位を取得していることが要件になっている。",
"title": "欧米における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、ラジオやテレビに出演する天気キャスターの資格として、Seal of Approval Program for Radio and Television(AMSの科学者らによって1959年に創設)やNational Weather Association Broadcast Seal of Approval(1982年にNationalWeatherAssociation(全国気象協会)が創設)がある。",
"title": "欧米における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "英国放送協会(BBC)では創立時から天気予報を放送していたが、日々の天気予報を放送するようになったのは1923年3月からである。BBCは1922年11月14日からイギリス気象庁の天気予報の提供を受けていたが、2015年に打ち切りが報じられた。",
"title": "欧米における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "首都ロンドンのピカデリーサーカスの電光掲示板では2017年の改修後から天気予報も表示されることとなった。",
"title": "欧米における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "アメリカとイギリスは世界空域予報センターを分担して運営しており国際線の飛行計画や航空機の運航のために必要な風や気温の情報を提供している。",
"title": "欧米における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "日本の気象業務法は、気象に関する観測・情報収集から発表まで、および研究、それらに付帯する業務を「気象業務」と定めており、気象庁が中心となって執り行っている。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "気象庁が発表する一般向けの予報の種類には、あらかじめ決められた予報区ごとの気象状態を予報するものと、地図上を一定の大きさの升目に区切った格子ごとの気象状態を予報するものとがある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "前者の例としては、",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "がある。また、警報・注意報や気象情報も予報区ごとに発表される。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "以前は週間予報は週1回程度→後に週2回程度の発表であったが、現在は毎日発表されている。季節予報はおおむね月の下旬に3か月先の予報、毎週木曜日に翌月1か月分の予報を出すことが一般的である",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "予報区の種類には、「全般」(日本全国)、「地方」(全国で11)、「府県」(東京都を含む、広大な北海道は2〜3の振興局ごとに細分)などがあり、どの予報区について予報を発表するかは、予報の種類によって異なっている。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "予報には、天気の予報以外に、最高・最低気温、降水確率の予報も含まれる。また、時系列予報および短期予報では、時間ごとの気温、風向・風速、降水量、波浪の高さなども含まれる。気温や風向風速、天気などは、予報区内の代表的地点(気象官署またはアメダス観測所のある地点)における予報値が発表される。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "短期予報と地域時系列予報は原則として5時・11時・17時の3回発表している。週間予報は11時・17時の2回発表している。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2008年7月28日の都賀川水難事故や2014年8月20日に発生した広島土砂災害などのように、当初発表した予報が大雨に結びつかなくても(曇り時々晴れ)、突発的に積乱雲が発達して大雨になることがある。特に「雷を伴う」が発表されている場合は注意が必要である。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "後者の例としては、",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "がある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "前者(予報区ごと)に比べると、過去の解析・現在の実況の経過を見ながら、予報を示していく種類の予報が多い。長期の予測が難しいという特徴があるため、短期の予報を迅速に伝えることで信頼性が増す。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "大別して、日本列島を数〜数十kmの格子で区分したメッシュを用いて予報を図で示すメッシュ形式のものと、日本列島周辺の地図上に等圧線などを示して予報を表す天気図形式のもの2つがある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "一般向け予報とは別に提供されている船舶向け予報(天気図)では、気圧、流線、風。、渦度、気温、湿数、降水量などの予報を発表している。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "このうち台風情報に関しては気象庁のみが発表することにしており、民間気象情報会社であっても、台風の進路図は気象庁のものを利用する(ただし見やすさや独自の表示に一部アレンジを施すことはある)",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "気象庁の天気予報では、誤解や混乱を防ぐため、予報に用いる用語を定めており、メディアに対してもそれに準じた用語を使用するよう指導している。独特の言い回しや、厳密に規定された表現などがある。以下に、よく用いられる用語の例を挙げる。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "詳しくは「予報用語」を参照。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "警報は、重大な災害の起こるおそれのある旨を警告して行う予報である。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "警報が発表された場合は、NHK総合テレビジョンでは画面上にテロップで表示される。気象情報の番組中では赤字で表示される。NHKラジオ第1放送(FM放送は「ラジオ深夜便」放送時のみ。但し放送しない場合あり)では、放送中の番組内に割り込んで「番組(曲)の途中ですが気象関連のお知らせです。先ほど○時□分、△△地方に大雨洪水警報が発表されました」などとして警報が発表されたことが報じられる。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "警報に準じて災害が起こるおそれがある場合に、あるいは社会・経済活動に広範囲な支障を及ぼす現象について注意喚起のために発表する予報を注意報という。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "警報・注意報およびこれに関する情報には、気象庁が単独で発表するもののほか、個別の河川に対して河川管理者と共同で発表する共同洪水予報や、大雨警報を補足してがけ崩れなどへの警戒を呼びかけるために都道府県と共同で発表する土砂災害警戒情報もある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "現在では、気象庁だけではなく、気象業務法第17条に基づき気象庁長官の許可を受けた官民の予報業務許可事業者も独自の予報を提供している。なお、許可事業者が予報業務を行う場合は、事業所ごとに気象予報士を置かなければならない。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "現在の予報業務許可事業者のリストは 気象庁の公式一覧 を参照されたい。ここには、気象予報を行っている民間企業以外に、日立市・羽曳野市といった地方自治体、数名の個人事業者(気象予報士)が含まれる。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "許可事業者が行う天気予報の業務は、気象庁と重複する部分もあるが、様々な独自業務もある。代表されるものとしては桜前線があり、許可事業者3社が発表を行うようになったこと、またコア分野ではなく応用分野であったことから、大元の気象庁の方が2010年より発表を取りやめることになった経緯がある。なお、警報や注意報に関しては重要性が高く混乱を防ぐため、気象庁だけが行うこととなっている。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "許可事業者が利用する一次資料にあたる、観測データや数値予報の根拠データ等は気象業務支援センターからも提供されており、どの事業者でも利用可能となっている。しかし、数値予報自体は自社設備で独自に行っているところもある。予報資料(ガイダンス)の中心部分は各社独自のものであり、これに基づいて各事業者が予報を発表している。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "天気予報では、天気天候と密接にかかわる他の情報が合わせて伝えられることが多い。それらは季節や地域によって様々な特色がある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "人々が天気予報の情報を得る経路について、2017年にマクロミル社が日本の1000人を対象に調査した結果では、人々が天気予報を確認している媒体(情報源)の1位は「テレビ番組の天気予報コーナー」でおよそ8割、2位が「スマホ(携帯電話)の天気情報アプリ」でおよそ5割の人々が利用している。テレビ番組とスマホアプリの利用傾向は世代によって異なり、若い世代ほどスマートフォン(スマホ)から天気予報の情報を得ている傾向があり、20代の女性で75%がスマホのアプリから情報を得ている。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "放送(テレビ・ラジオ)では気象情報番組や報道番組内の天気コーナーなどで定期的に放送を行う。取り扱う番組によって、気象庁発表のものをそのまま流用するもの、各社局が契約した気象業務許可事業者の天気情報を使用するもの、専属の気象予報士が提供情報を基に独自に加工するものがある。警報発表時(発令・解除)にはテロップで伝えられることがあるほか、台風・前線などによる豪雨などの広域災害が予想される場合やそれが発生した場合には報道特別番組(主にNHK)が放送される。衛星放送・ケーブルテレビでは天気のみを扱う専門チャンネルがある。東京メトロポリタンテレビジョンはまだインターネットが普及していなかった開局前、「101回天気予報」をうたっており、実際の開局後にはそこまでは多くなかったものの頻繁に天気予報を放送していた。これに影響されてか、テレビ東京も1997年から2003年まで各番組の終わりがけにネットワークぐるみで「ウェザーブレイク」を自動送出で放送していた。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "一般にテレビ放送や新聞では、天気予報をイラストマークにより直感的に分かるよう表示している。テレビ放送では、ごく初期には地図ボード(天気図の場合もあり)に天気予報のイラストマークを貼り付けたものをテレビカメラが映し、アナウンサーが各地域の予報を読み上げる方法であった。やがて字幕テロップによる表示が現れ、現在では次のようなイラストマーク表示がほぼ主流となった。ニュースウオッチ9の天気コーナーのようにキャラクター化する場合もある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "これらのマークを1つまたは2つ組み合わせて表現するが、日本テレビほか一部地域では「晴れ時々雨か雪」などの時には3つのマークを使用する場合がある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "スマートフォン(AndroidフォンやiPhone)では、天気予報の情報を提供するアプリが非常に多種類、無料で提供されている。たとえばAndroidフォンならば、Google Playをクリックして検索欄にキーワードとして「天気予報」と入力して検索すると多数の(2021年時点で100を超える数の)天気予報アプリが表示されるので、その中から他の利用者からの評価やそれぞれの機能などを考慮して選んでインストールすれば、すぐに使い始めることができる。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "PCなどのウェブブラウザを使って、気象機関や許可事業者のインターネット上のWebサイトで一次情報が得られる。ポータルサイトやマスコミなどメディア系サイトでは一次情報元と契約を結び天気のページを設けて提供しているほか、一部の一般サイトで天気情報を表示するツールを組み込んだものもある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "また、PCのデスクトップ上で使用するウィジェット(ガジェット)やアプリケーションソフトウェアの中にも天気情報を表示するものがある。インターネット放送においても、天気専門のチャンネルがある。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "インターネットではAccuWeatherなど許可事業者ではない海外企業も日本の天気予報を発表している。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一部の許可事業者、ポータルサイト、自治体などでは、事前登録者に対して警報発表時に電子メールを一斉送信するサービスを提供している。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
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"text": "ほとんどの新聞では、天気欄に予報を記載している。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "日本電信電話公社(電電公社)の電話情報サービス(テレホンサービス)の第一号として、1954年9月に試験開始され、1955年1月より全国展開された。1964年3月から全国統一の電話番号(3桁特番)「177」が導入され、後身の日本電信電話(NTT)およびNTT東日本・NTT西日本でもサービスが継続されている。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
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"tag": "p",
"text": "都市部を中心に予報を流す電光掲示板や車内案内ディスプレイが街頭の目立つ所に設置された。また、電車や航空機の中など、公共交通機関ではLCDで一次情報元から提供を受けた天気情報が流れることがよくあった。珍しいものとして、大阪通天閣の頂上ではネオンライトの色(晴=白、曇=橙、雨=青、雪=桃)で明日の大阪の天気を表していた。",
"title": "日本における天気予報"
},
{
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"tag": "p",
"text": "携帯電話・スマートフォンが普及したことから減少傾向であるが、液晶ディスプレイ(LCD)化して更新されていることもある。",
"title": "日本における天気予報"
}
] | 天気予報とは、ある地域で天気がどう変化するか予測し、知らせること。気象予報ともいう。 過去の天気や現況の天気、気圧、風向、風速、気温、湿度など大気の状態に関する情報を収集し、これをもとに、特定の地域あるいは広範囲な領域に対し、当日から数日後まで(種類によっては数か月後に及ぶものもある)の天気風、風、気温などの大気の状態と、それに関連する水域や地面の状態を予測して伝えるものである。 | {{Otheruses||[[シュノーケル (バンド)|シュノーケル]]の楽曲|天気予報 (シュノーケルの曲)|福島中央テレビの番組|天気予報 (福島中央テレビ)}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2012年5月
| 独自研究 = 2012年5月
}}
[[ファイル:Weather forecast by JMA 20230511.png|300px|サムネイル|日本の[[気象庁]]が発表する天気予報([[気象情報 (気象庁)|気象情報]]、これは過去のものです)]]
{{読み仮名|'''天気予報'''|てんきよほう}}とは、ある地域で天気がどう変化するか予測し、知らせること<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/jn/153212/meaning/m0u/ てん‐き【天気】の意味] [[goo]]辞書(2017年4月4日閲覧)</ref>。{{読み仮名|'''気象予報'''|きしょうよほう}}ともいう。
過去の天気や現況の[[天気]]、[[気圧]]、[[風向]]、[[風速]]、[[気温]]、[[湿度]]など[[地球の大気|大気]]の状態に関する情報を収集し、これをもとに、特定の地域あるいは広範囲な領域に対し、当日から数日後まで(種類によっては数か月後に及ぶものもある)の天気風、風、気温などの大気の状態と、それに関連する[[水域]]や[[地面]]の状態を予測して伝えるものである。
== 概要 ==
日常生活や業務に対して天気が与える影響は非常に大きく、[[19世紀]]に近代[[気象学]]が生まれると同時に科学的な天気予報の試みが行われてきた。現代における天気予報は、気象のメカニズムを解明する気象学の発達と並んで、多種多様で世界的な[[気象観測]]網の構築、[[コンピューター]]の発展に支えられた[[数値予報]]インフラストラクチャーの整備、そして情報を一般に広く伝える[[マスメディア]]によって支えられ、運用されている。
[[地球の大気]]の挙動は、[[カオス理論|カオス]]そのものであるため、初期値鋭敏性が高く、大気[[シミュレーション]]の計算誤差が、[[反復計算]]により[[指数関数]]的に増大するため、長期間の予測は極めて難しい。また[[地形]]の影響が大きい山岳部は天気が急変しやすく、予報の[[アルゴリズム]]精度が落ちるなど正確な天気予報が外れることも多い<ref name="日経20220704"/>。しかし、予測の初期値を得る大気計測、[[気象衛星]]による観測データや[[スーパーコンピュータ]]の利用などにより、予報精度は向上している<ref name="日経20220704">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC165HS0W2A610C2000000/ 【なるほど!ルーツ調査隊】天気予報、平戸藩に専門職 精度、衛星・スパコンで向上]『[[日本経済新聞]]』夕刊2022年7月4日くらしナビ面(2022年7月9日閲覧)</ref>。
数値予報が台頭してくるまで、天気予報は観測記録をもとにした過去の[[ノウハウ]]や[[経験則]]の蓄積に頼る部分が大きく、予報官の経験に左右されるところが大きかった。数値予報の登場によって解析業務の負担が軽減されるとともに、精度が向上して予報の幅も広がってきている。また、観測の自動化・無人化も急速に進んでいる。
気象観測・情報収集・研究に関しては、[[世界気象機関]](WMO)などの国際機関、世界各国の気象機関や[[防災]]担当の国家機関、[[研究機関]]や[[大学]]などによって連携して行われている。世界各国で法的な規定をもって責任機関を定め、気象に関する業務を担当させている。国によっては予報業務の自由化(民間開放)も進められているが、国際的には、国連の世界気象機関が、1995年の第12回世界気象会議議決事項40附属書3[https://web.archive.org/web/20130520124707/http://www.wmo.int/pages/about/AnnexIIItoRes40_en.html]において、「関係する加盟国が認めた場合を除き、商業セクターの気象業務提供者は、その活動する国及び海域において、生命及び財産の安全に関わる予報及び警報を公表してはならない。商業セクターが公表する生命及び財産の安全に関わる予報及び警報は、国家気象・[[水文気象学|水文気象]]機関等の公的機関が公共的な業務に係る責務として実施するものと矛盾しないものでなければならない」との指針を示している。
現代の天気予報は、[[ゲリラ豪雨]]や激化する[[猛暑]]などに代表される気象[[災害]]の増加・変化やニーズの変化への対応、[[エルニーニョ・南方振動]](ENSO)や[[北極振動]](AO)等の最新知見を取り入れた予報精度の向上などが大きなテーマとされている。そのため、そういった豪雨などの[[異常気象]]、ENSOやAOなどの[[テレコネクション|気候パターン]]、[[地球温暖化]]などの[[気候変動]]の解明が求められているほか、気象機関は市民に対して天気や気候変動に関する説明・解説を行う一定の責任も負っている。
== 天気予報の要素 ==
一般的な天気予報の情報は、どこの(予報区域)、何を(予報要素)、いつからいつまで(予報期間)、どんな形式で(予報形式)予報するかという4つの大きな要素がある。
;予報区域
*地点ごと - 主要な観測点・都市における予報値を発表する。
*予報区ごと - 予報区内における全観測点の平均、または代表観測点における予報値を発表する。
*格子点ごと - 予報領域内を細かく区切った、各格子点における予報値を発表する。
;予報要素
:[[気温]]・最高気温・最低気温、湿度、[[露点温度]]、風向・風速、[[降水]]([[降水量]]・[[降水確率]])、天気・[[波浪]]の高さ、[[海水温]]など。[[海氷]]、[[雷]]、[[突風]]などもある。[[気圧配置]]、[[前線 (気象)|前線]]や(一般向けではないが)気温、[[相当温位]]、[[渦度]]などの分布を示す[[天気図]]の予報、[[熱帯低気圧]]([[台風]]など)の勢力や進路を示す地図の予報もある。その他「[[#特色のある予報]]」も参照。
;予報期間
:日本の気象庁の場合、以下の4区分がある<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/yoho.html 予報用語 予報の名称] 気象庁</ref>。実際の期間については下記を参照。
:*短時間予報 - 3時間後まで
:*短期予報 - 3時間後を超え48時間後まで
:*中期予報 - 48時間後を超え7日後まで
:*[[長期予報]] - 8日後以後を含むもの
:天気や気温などを予報する場合、1時間ごと・3時間ごと・6時間ごとなど、必要性や情報量の制約からいくつか区分方法を使い分けている。[[雲画像]]やレーダー画像などは、5分ごと・10分ごと・30分ごと・1時間ごとなどより細かい区分を用いる。
;予報形式<ref>[https://web.archive.org/web/20090901192454/http://www.geocities.jp/tama_weather/text15-2.html 5-2.予報の分類] タマの気象学(2011年1月27日閲覧)</ref>
*カテゴリー予報 - いくつかの区分の中から1つを選んで発表する。天気(「[[晴れ]]」「[[曇り|くもり]]」「[[雨]]」)など。
*量的予報 - 予測値をそのまま、適切な位で丸めて発表する。気温、降水量、風向、風速<ref group="注">「弱い」「強い」「非常に強い」といった階級表現や[[風力]]による表現の場合、カテゴリー予報にも含められる。</ref>など。
*確率予報 - 予測値を[[確率]]として表現し、適切な値で丸めて発表する。降水確率など。
上の3形式が典型的な予報形式である。これ以外に分類できないものとして、最も可能性の高い1つの状態を表現するもの(天気図など)。
== 天気予報の歴史 ==
{{独自研究|section=1|date=2012年5月}}
=== 近代以前の予報 ===
天気は多くの人々の生計と生活に大きな影響を与えるものであり、古代においてもこのことは今にもまして重要なことであった。およそ数千年の間、人々は一日が、もしくは一つの季節がどのような天気になるか予想しようとしてきた。紀元前650年に、[[バビロニア]]人は[[雲]]のパターンから天気を予測し、紀元前およそ340年には、[[アリストテレス]]が気象学に基づいた天候のパターンを描き出した。[[中国大陸]]の民族も少なくとも紀元前300年までに天気を予測していた。
通常、古代の天気予報の方法は、天候のパターンを見つけることに依存していたために全ては経験に頼ったものであった。例えば、[[日没]]時に空が際立って赤かったならば、翌日は晴れが予想される、などといった具合にである(「[[夕焼け#観天望気]]」参照)。この経験は、世代を越えて天気に関する知恵(たとえば[[諺]]など、[[観天望気]])を蓄積することとなった。しかしながら、これらの予測全てが信頼できるものだと証明されるとは限らず、また、それら経験に頼った天気予報は後の研究により厳格な統計学的分析に依拠しないものもあるということが判明してきている。
特に[[漁師]]や[[廻船]]などの船乗りは荒れた海に出ると生命にかかわるため、天気の観測・予測を[[日本]]では「日和見」を重視した<ref name="日経20220704"/>。日本各地に残る[[日和山]](ひよりやま)等の地名は、そこから天気の具合を観察したことによる。
日本では1884年([[明治]]17年)6月1日に近代的な天気予報の第一号が発表されたが、[[江戸時代]]には[[平戸藩]]で[[参勤交代]]など船の運航を担っていた山崎家は天気見様(てんきみよう)という天気観測・予報に力を入れていた<ref name="日経20220704"/>。
=== 天気予報の近代化 ===
1837年の[[電報]]の発明まで、近代的な天気予報の時代は到来しなかった。この発明までは[[蒸気機関車]]より少しでも早いリアルタイムの大気の状態についての情報は伝えることができなかったからである。しかし電報の発明は、ほぼ瞬時に広範囲から気象の状態に関する情報を収集することが可能となった。このことにより、はるか風上の天気の情報を元にした天気予報が可能となった。
[[クリミア戦争]]の際、暴風で[[黒海]]の英仏艦隊が壊滅したのを受けて、[[フランス]]の[[パリ天文台]]台長の[[ユルバン・ルヴェリエ]]が暴風雨を予測する研究を行い、天気予報の必要性を[[ナポレオン3世]]に進言した。
1854年に設立された[[イギリス気象庁]]は世界で最も早期に設立された気象機関の一つで、[[1870年代]]に天気図の作成を開始、[[1879年]]には新聞に対して情報提供を開始するなど先進的な試みを行っている。気象学の発達した欧米各国は、[[1873年]]に国際気象機関(IMO、後の[[世界気象機関]])を設立して国際協力を推進した。一方で、[[軍事機密]]を伴う部分もあるため、予報のノウハウは各国が独自に培っていった部分が大きい。
科学的な天気予報の誕生に功績があったと最も信じられている人物は、[[フランシス・ボーフォート]]([[ボーフォート風力階級]]で知られる)と彼の部下[[ロバート・フィッツロイ]](the Fitzroy Barometerの開発者)である。2人は[[イギリス海軍|イギリスの海軍]]や政官界で影響力をもった人物で、当時新聞で嘲られていたが、彼らの仕事は、科学的信頼を獲得し、英国艦隊によって受け入れられ、今日の天気予報知識の全ての基礎を形成した。
=== 現代の天気予報 ===
20世紀の間に、大気変化の研究を取り入れた気象学は大きく進歩した。数値予報の考え方は[[1922年]]に[[ルイス・フライ・リチャードソン]]によって提示された。しかしながら、天気予報を成り立たせるために必要な膨大な計算をこなすコンピュータはその当時存在しなかった。[[1970年]]に初めて、数値予報により世界中の天気予報業務を行うことが可能となった。
国際テレビ放送やインターネットの発達により天気予報のグローバル化が進んでいる<ref name="furukawa" />。特に先進国の民間気象会社は、世界の気象機関や自社で観測したデータなどをもとに世界各国の天気予報をインターネットや各メディアでユーザーに届けるようになった<ref name="furukawa" />。グローバルな天気予報は利便性を向上させる一方、情報源、予報技術、信頼性などが見えにくく、災害をもたらすような気象現象において責任国家機関の情報と各民間気象事業者の予報が異なる事態により受け手が混乱を招く問題も指摘されている<ref name="furukawa" />。世界気象機関WMOでは情報の混乱の緩和を図るため、世界の主要都市の週間予報と災害の危険のある顕著現象について公式の情報提供を行っている<ref name="furukawa" />。
一方で気象サービスの商業化とともに、各国の公共サービスの見直しや財政の緊縮化を背景に、国家が気象サービスを有料化する動きもある<ref name="furukawa" />。その顕著な例が[[ニュージーランド]]で、ニュージーランドでは政府が100%株式を保有する政府企業が有料で気象サービスを提供するようになっている<ref name="furukawa" />。ヨーロッパでもこのような商業化の流れがみられるが、アメリカや日本では通信料だけで国の機関から気象サービスの提供を受けることができ商業化とは対極にある<ref name="furukawa" />。気象サービスの商業化政策に対しては、気象情報の有効活用や開発意欲を阻む要因になるともいわれている<ref name="furukawa" />。
== 天気予報システム ==
{{独自研究|section=1|date=2012年5月}}
現代の天気予報システムは5つの構成要素から成り立っている。
*情報収集
*情報の融合
*数値予報
*気象変化の型をたたきだす
*エンドユーザに対する予測の提供
=== 情報収集 ===
{{Main|気象観測}}
気象学は地道な観測から始まったように、天気予報においても不断の観測が予報を支えている。デジタル計器など存在せず有人観測が主流だった時代には、多数の観測点を設置して定期的に人の手により交代で観測を行っていた。自動観測が広く普及した現在、観測点数を増やすことも容易になり、無人化も進行してきている。
現在、世界的に主流な観測方法として、
*陸上では、[[温度計]]、[[湿度計]]、[[風向風速計]]、[[気圧計]]、[[雨量計]]、[[積雪計]]、[[蒸発計]]、[[日射計]]、[[日照計]]などをセット(効率を考え、温度計や雨量計など重要性の高い測器が高密度で設置されることが多い)で自動気象観測所(AWS)として設置することが多い。日本では[[アメダス]]がこれに当たる。一般的に、主要都市を含めた上で、国土を一定の密度でカバーするように設置される。予報業務等と観測を併せて行う気象台も、主要都市などに設置されている。また、先進国では国土をカバーできるように[[気象レーダー]]([[マイクロ波]]、[[ミリ波]]、デュアル[[ドップラー・レーダー|ドップラー]])が整備されている。[[アメリカ合衆国]]ではドップラー・レーダー網の[[:en:NEXRAD|NEXRAD]]が整備されている。
*海上では、気温や気圧等に加えて[[海水温]]や流速等を観測する[[海洋気象ブイ]]の設置が進んでいる。[[気象観測船]]による観測も各国が行っている。
*上空では、高層気象観測の一環として[[ラジオゾンデ]]([[レーウィンゾンデ]])、[[ロケットゾンデ]]、[[ドロップゾンデ]]等での観測が行われている。天気予報を行う上では地上〜[[対流圏]]上部付近までの上空の気温、気圧、湿度、風を知ることが非常に重要であり、これは衛星観測でもできないことから、無人化の流れの中でも人手と観測網は維持されている。航空機による観測も行われており、[[旅客機]]に搭載された機器も重要な情報源である<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200407/k10012371741000.html 「世界的な航空便の欠航で天気予報の精度低下も 世界気象機関」][[日本放送協会|NHK]]</ref>。新しい観測手法として、地上に設置された[[LIDAR]]や[[SODAR]]による上空風速の観測の利用が広まってきている。また、気象衛星によるリモートセンシング観測も行われ、[[雲]]画像や[[水蒸気]]分布、気温、風向・風速などが収集されている。
観測の精度を一定に保つため、観測機器の仕様や運用についてはWMOが統一基準を定めており、それに基づき各国は細かい基準を定めている。日本では観測機器の[[気象測器検定]]、気象庁による「気象観測の手引き」などがこれに該当する。
観測要素の多い気象台を中心として、国際的に情報提供する観測点が定められており、全球気象通信システム(GTS)に載せられ世界中へ配信される。日本では、気象庁が構築しているネットワークであるADESSを経由してGTSへ接続されている。また、[[AMDAR]]等の情報ネットワークもある。この国際データは[[SYNOP]]、[[気象通報式#海上実況気象通報式 (SHIP)|SHIP]]、[[METAR]]などのいわゆる国際[[気象通報式]]の形式をとり、WMOやICAOにより定められた統一基準に従って定時(SYNOP3時間毎、METAR1時間毎など)・臨時に情報を送信する。
=== 情報の融合 ===
天気予報には、情報の迅速な伝達と収集が重要である。気象庁では、[[COSMETS]]で情報の統合整理を行っている。国際データ、ブイやラジオゾンデ、気象台の観測データはADESS経由で、[[気象情報 (気象庁)|気象情報]]のデータは気象衛星センターのサーバ経由で、アメダスのデータは地域気象観測センター経由で、COSMETSに送信される。国際的には、全球通信システム(GTS)と呼ばれる世界規模の通信網を通して各国の気象機関の間で情報をやり取りしている。また途上国向けに、全球データ処理・予測システム(GDPFS)のもとで、各地域の主要気象機関がガイダンス資料(後述)までの作成も行い、提供している。
=== 数値予報 ===
{{Main|数値予報}}
理論式で構成された[[数値予報モデル]]に観測値を入力する([[データ同化]])。観測値は観測点の偏りが原因でデータの分布はまばらであるため、推定([[客観解析]])を行ってデータを補正する。このデータを一次データとして、ガイダンスを作成する。
気象庁では、COSMETSの中の演算部分であるNAPSで数値予報の演算を行い、予報結果を気象庁本庁のほか、各地の気象台などへと送信する。演算には高性能の[[スーパーコンピュータ]]の利用が不可欠であり、その性能が予報精度や速度を左右する。
=== 気象変化の型をたたきだす ===
数値予報モデルの演算結果はあくまで格子点形式で物理量を出力するのみであるため、これを予報に利用しやすい形に変換する必要がある。例えば、気圧配置データをもとに天気図を作成したり、湿度・気温・気圧のデータから雲量を割り出し更にそれから天気分布を割り出すなどの「翻訳作業」を行う。こうして作成した気象のパターン資料を天気予報ガイダンスという。ふつう、いくつかのパターンのガイダンス資料を出力しておき、それらの中から検討を行い、最適化や補正を行って、1つの値あるいは数値幅を決めたり、予報文の検討や警報の判断を行ったりする。
=== 一般利用者に対する予測の提供 ===
導き出された情報を予報の種類に合わせてまとめ、適切な形式で発表する。予報期間が長いほど精度が下がるため、天気・気温・降水確率などの一般的な天気予報は1週間後までしか行われていない。また、雨や雷、突風や集中豪雨などの局地現象の様子を提供するレーダー画像やナウキャスト、地図上で台風の進路を示す台風情報など、天気予報の形式は様々である。
また、[[航空管制]]、[[鉄道]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[船舶]]などは、その分野に適した専門的情報を提供する必要がある。例えば、航空管制における[[飛行場予報]]や航空路の[[乱気流]]、[[着氷]]、[[火山灰]]の予測、船舶における[[波浪]]、[[海流]]、[[海水温]]の予測などが挙げられる。
== 天気予報の精度 ==
天気予報の信頼性は、予報精度の高さに左右される。日本の気象庁における、適中率([[1992年]]〜[[2019年]]の28年間全国平均)を挙げると、17:00発表の翌日予報で83%、翌々日で80%、11:00発表の週間天気7日後予報で67%となっている<ref>[https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/kensho/reinen.html 降水の有無の適中率の例年値] 気象庁(2020年4月18日閲覧)</ref>。適中率は、"降水の有無の適中率"とされており、晴れや曇りなどの天気概況の適中判定ではない。
予報精度の評価方法は、予報形式ごとにいくつかある<ref>[https://web.archive.org/web/20090901192500/http://www.geocities.jp/tama_weather/text15-4.html 予報精度の評価] タマの気象学(2011年1月27日閲覧)</ref><ref>[https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/kensho/explanation.html 天気予報の精度検証結果 検証方法の説明] 気象庁、(2011年1月27日閲覧)</ref>。
カテゴリー予報では、実際と予報の両方において、各カテゴリ内の事象出現回数を表にまとめ、次のような指標を用いて表現する。この方法では、見逃し率と空振り率は、現象が発生するかしないかの2カテゴリ(計4区分)を用いるのが適切である。
;適中率(一致率)
:実際のカテゴリと予報のカテゴリが一致する事象の出現割合(%)。
:各予報カテゴリの適中率の場合、予報で対象カテゴリとした事象のうち、実際に発生した事象の割合(%)を求めればよい。
;見逃し率
:実際は発生したが、予報では発生しないとした事象の出現割合(%)。
;空振り率
:実際は発生しなかったが、予報では発生するとした事象の出現割合(%)。
;捕捉率
:実際に発生した事象のうち、予報でも発生するとした事象の割合(%)。
;[[スレットスコア]]
:実際でも予報でも発生となった事象/全事象-実際も予報も発生しなかった事象(%)…発生することが少ない事象に適している。
;スキルスコア
:1-(予報における二乗平均誤差/気候値予報<ref group="注">気候値予報とは、気候値(平年値)に完全に依存した予報のこと。</ref>における平均2乗誤差)<ref>[http://amsglossary.allenpress.com/glossary/search?id=skill1 skill] AMS Glossary(2011年1月27日閲覧)</ref>…1が完全予報であり、これに近いほど予報精度が高い。予報の難易度が除外されている。
;バイアススコア
:予報で発生するとした事象/実際に発生した事象(%)…1に近いほど、見逃し・空振り間の偏りが小さい。
量的予報では、以下の指標が用いられる。
;平均誤差(ME)
:<math>\frac{1}{N} \sum_{i=1}^N (F_i - A_i)</math> …予報の誤差の期間平均の偏りを示す。
;二乗平均平方根誤差([[:en:Root mean square deviation|RMSE]])
:<math>\sqrt{ \frac{1}{N} \sum_{i=1}^N (F_i - A_i)^2 \,}</math> …予報の誤差の標準的大きさを示す。
確率予報では、以下の指標が用いられる。
;ブライアスコア([[:en:Brier score|BS]])
:<math>\frac{1}{N} \sum_{i=1}^N (F_i - A_i)^2</math> …予報確率Fi、実際値Ai(発生した場合1、発生しなかった場合0などとする)としたときの確率誤差の総和を予報回数Nで割ったもの。値が0に近いほど精度が高い。
;ブライアスキルスコア(BSc-BSf)/BSc
:気候値予報のブライアスコア(BSc)と予報のブライアスコア(BSf)を比較したもの。値が大きいほど予報の意義が大きい。
== 天気予報に関する機関 ==
=== 国際機関 ===
気象に関する主要な国際機関として、国際連合の下部機関である[[世界気象機関]](WMO、本部[[ジュネーブ]])や[[国際民間航空機関]](ICAO)がある<ref name="furukawa">{{Cite journal |author=古川武彦|url=https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/2007/2007_05_0017.pdf |title=国境を越える天気予報 |journal=天気 54(5) |publisher=[[日本気象学会]] |accessdate=2021-01-31}}</ref>。
WMOは天気予報の分野では、観測方法の国際的統一のための「技術規則」や「国際気象通報式」の採択、国際気象専用回線網の構築、世界気象センター (WMC)や特別地域責任センター(RSMC)など支援センターの設置を行っている<ref name="furukawa" />。統一的な観測方法と国際回線の構築により、先進国では日々の数値予報モデルの運用が可能になっている<ref name="furukawa" />。また、発展途上国では特別地域責任センターRSMCの提供する情報を国際回線やインターネットで入手することで自国の天気予報に役立てている<ref name="furukawa" />。
=== 各国の機関 ===
{{See|Category:気象機関}}
== 欧米における天気予報 ==
=== アメリカにおける天気予報 ===
==== アメリカ海洋大気庁 ====
{{See|アメリカ海洋大気庁}}
==== 気象関連資格 ====
アメリカでは1956年からアメリカ気象学会(AMS)が気象コンサルタントCCM(Certified Consulting Meteorologist)の資格試験を実施している(技能資格であり国家資格ではない)<ref name="konishi" />。CCMの取得要件は何度も改定されているが、高等教育機関で一定の気象学の学習と単位を取得していることが要件になっている<ref name="konishi" />。
また、ラジオやテレビに出演する天気キャスターの資格として、Seal of Approval Program for Radio and Television(AMSの科学者らによって1959年に創設)やNational Weather Association Broadcast Seal of Approval(1982年にNationalWeatherAssociation(全国気象協会)が創設)がある<ref name="konishi" />。
=== イギリスにおける天気予報 ===
==== イギリス気象庁 ====
{{See|イギリス気象庁}}
==== 天気予報の提供媒体 ====
[[英国放送協会]](BBC)では創立時から天気予報を放送していたが、日々の天気予報を放送するようになったのは[[1923年]]3月からである。BBCは[[1922年]][[11月14日]]からイギリス気象庁の天気予報の提供を受けていたが、2015年に打ち切りが報じられた<ref>[https://srad.jp/story/15/08/28/0643204/ 「英BBC、93年続いた英国気象庁との天気予報の提供契約を打ち切りへ」]スラド(2015年08月28日)</ref>。
首都[[ロンドン]]の[[ピカデリーサーカス]]の電光掲示板では2017年の改修後から天気予報も表示されることとなった<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3114310 「英ピカデリーサーカス電光掲示板、改装工事で消灯 第2次大戦以来」][[フランス通信社|AFP]](2017年1月17日)</ref>。
=== 世界空域予報センター ===
アメリカとイギリスは世界空域予報センターを分担して運営しており国際線の飛行計画や航空機の運航のために必要な風や気温の情報を提供している<ref name="furukawa" />。
== 日本における天気予報 ==
日本の[[気象業務法]]は、気象に関する観測・情報収集から発表まで、および研究、それらに付帯する業務を「'''[[気象業務]]'''」と定めており、[[気象庁]]が中心となって執り行っている。
=== 気象庁の予報 ===
[[気象庁]]が発表する一般向けの予報の種類には、あらかじめ決められた'''予報区ごと'''の気象状態を予報するものと、地図上を一定の大きさの升目に区切った'''格子ごと'''の気象状態を予報するものとがある。
前者の例としては、
*時系列予報(3時間ごとに24時間先まで予報)
*短期予報(今日・明日・明後日の予報)
*週間予報(発表日翌日から7日先までの予報)
*季節予報(1か月・3か月先までのおよその天気の特徴)
がある。また、[[気象警報|警報]]・[[注意報]]や[[気象情報 (気象庁)|気象情報]]も予報区ごとに発表される。
{{いつ範囲|以前|date=2017年9月}}は週間予報は週1回程度→後に週2回程度の発表であったが、現在は毎日発表されている。季節予報はおおむね月の下旬に3か月先の予報、毎週木曜日に翌月1か月分の予報を出すことが一般的である
予報区の種類には、「全般」(日本全国)、「地方」(全国で11)、「府県」([[東京都]]を含む、広大な[[北海道]]は2〜3の振興局ごとに細分)などがあり、どの予報区について予報を発表するかは、予報の種類によって異なっている。
予報には、天気の予報以外に、最高・最低気温、[[降水確率]]の予報も含まれる。また、時系列予報および短期予報では、時間ごとの気温、風向・風速、降水量、波浪の高さなども含まれる。気温や風向風速、天気などは、予報区内の代表的地点(気象官署または[[アメダス]]観測所のある地点)における予報値が発表される。
短期予報と地域時系列予報は原則として5時・11時・17時の3回発表している。週間予報は11時・17時の2回発表している。
2008年7月28日の[[都賀川水難事故]]や2014年8月20日に発生した[[平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害|広島土砂災害]]などのように、当初発表した予報が大雨に結びつかなくても(曇り時々晴れ)、突発的に[[積乱雲]]が発達して大雨になることがある。特に「雷を伴う」が発表されている場合は注意が必要である。
後者の例としては、
*[[天気分布予報]]:天気、気温、降水量、降雪量(3時間ごとに24時間先まで予報)
*降水短時間予報(1時間ごとに6時間先まで予報)
*降水/雷/竜巻のナウキャスト(10分ごとに1時間先まで予報)
*黄砂情報予測(6時間ごとに4日先まで予報)
*紫外線情報(1時間ごとに翌日18時まで予報)
*予報天気図(24時間後および48時間後)
*[[台風情報]]{{refnest|group="注"|熱帯低気圧については進路予報は行われなかったが、台風に発達する可能性がある熱帯低気圧については、2020年9月9日から、進路予報が行われるようになった。<ref>[https://web.archive.org/web/20210522103356/https://www.jiji.com/sp/article?k=2020090700818&g=soc 熱帯低気圧も5日先まで予報 台風になる場合―気象庁][[時事通信]]</ref>}}(1時間または3時間ごとに24時間先まで、3日および5日先まで)
がある。
前者(予報区ごと)に比べると、過去の解析・現在の実況の経過を見ながら、予報を示していく種類の予報が多い。長期の予測が難しいという特徴があるため、短期の予報を迅速に伝えることで信頼性が増す。
大別して、日本列島を数〜数十kmの格子で区分したメッシュを用いて予報を図で示すメッシュ形式のものと、日本列島周辺の地図上に等圧線などを示して予報を表す天気図形式のもの2つがある。
一般向け予報とは別に提供されている船舶向け予報(天気図)では、気圧、[[流線]]、風。、[[渦度]]、気温、[[湿数]]、[[降水量]]などの予報を発表している。
このうち台風情報に関しては気象庁のみが発表することにしており、民間気象情報会社であっても、台風の進路図は気象庁のものを利用する(ただし見やすさや独自の表示に一部アレンジを施すことはある)
==== 予報用語 ====
気象庁の天気予報では、誤解や混乱を防ぐため、予報に用いる用語を定めており、メディアに対してもそれに準じた用語を使用するよう指導している。独特の言い回しや、厳密に規定された表現などがある。以下に、よく用いられる用語の例を挙げる。
*一時…連続的な現象で、予報期間の1/4未満のとき(予報文では時間細分を伴うものが多い)。
*時々…断続的(現象の切れ間が1時間以上ある)な現象で、予報期間の1/2未満のとき(予報文では時間細分を伴うものがある)。
*所により(ところどころ)…現象の発生する場所が散在していて特定の地域名で表現しにくく、かつその合計面積が予報区の50%未満のとき。
{{気象庁の時間細分|plain}}
詳しくは「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/mokuji.html 予報用語]」を参照。
==== 警報・注意報など ====
{{Main|気象警報|気象注意報}}
'''警報'''は、重大な[[災害]]の起こるおそれのある旨を警告して行う予報である。
警報が発表された場合は、[[NHK総合テレビジョン]]では画面上に[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]で表示される。気象情報の番組中では赤字で表示される。[[NHKラジオ第1放送]](FM放送は「[[ラジオ深夜便]]」放送時のみ。但し放送しない場合あり)では、放送中の番組内に割り込んで「番組(曲)の途中ですが気象関連のお知らせです。先ほど○時□分、△△地方に大雨洪水警報が発表されました」などとして警報が発表されたことが報じられる。
警報に準じて災害が起こるおそれがある場合に、あるいは社会・経済活動に広範囲な支障を及ぼす現象について注意喚起のために発表する予報を'''[[注意報]]'''という。
警報・注意報およびこれに関する情報には、気象庁が単独で発表するもののほか、個別の[[河川]]に対して河川管理者と共同で発表する'''[[洪水予報|共同洪水予報]]'''や、大雨警報を補足してがけ崩れなどへの警戒を呼びかけるために都道府県と共同で発表する[[土砂災害警戒情報]]もある。
=== 予報業務許可事業者 ===
{{main|予報業務許可事業者}}
現在では、気象庁だけではなく、気象業務法第17条に基づき気象庁長官の許可を受けた官民の'''[[予報業務許可事業者]]'''も独自の予報を提供している。なお、許可事業者が予報業務を行う場合は、事業所ごとに[[気象予報士]]を置かなければならない。
現在の予報業務許可事業者のリストは [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/minkan/minkan.html 気象庁の公式一覧] を参照されたい。ここには、気象予報を行っている民間企業以外に、[[日立市]]・[[羽曳野市]]といった地方自治体、数名の個人事業者([[気象予報士]])が含まれる。
許可事業者が行う天気予報の業務は、気象庁と重複する部分もあるが、様々な独自業務もある。代表されるものとしては[[桜前線]]があり、許可事業者3社が発表を行うようになったこと、また{{要出典範囲|1=コア分野ではなく応用分野であったことから|date=2012年5月}}、大元の気象庁の方が2010年より発表を取りやめることになった経緯がある。なお、警報や注意報に関しては重要性が高く混乱を防ぐため、気象庁だけが行うこととなっている。
許可事業者が利用する一次資料にあたる、観測データや数値予報の根拠データ等は[[気象業務支援センター]]からも提供されており、どの事業者でも利用可能となっている。しかし、数値予報自体は自社設備で独自に行っているところもある。予報資料(ガイダンス)の中心部分は各社独自のものであり、これに基づいて各事業者が予報を発表している。
=== 特色のある予報 ===
天気予報では、天気天候と密接にかかわる他の情報が合わせて伝えられることが多い。それらは季節や地域によって様々な特色がある。
{|style="border:none; width:97%"
|-valign="top"
|width="50%"|
*[[梅雨入り]]・[[梅雨明け]]、[[初冠雪]]、[[初霜]]、[[初氷]]、[[初雪]]
*[[ウグイス]]初鳴き、[[ツバメ]]初見、[[アブラゼミ|セミ]]初鳴き、[[ウメ]]開花や[[サクラ]]の開花・満開、[[ススキ]]開花、[[カエデ]]紅葉・落葉など([[生物季節観測]]の情報)
*海水対塩分比重情報
*[[黄砂]]情報
*[[桜島]]の風向き([[鹿児島県]])
*[[路面凍結]]情報
*[[水道管]]凍結予報
*降雪量予報([[青森県]])
*[[遅霜予報]]([[静岡県]])
|width="50%"|
*[[紫外線]]情報
*[[花粉]]飛散指数(→[[花粉症]])
*洗濯指数<!---この欄に記載があった桜開花・紅葉情報は上記に記載があり、重複となるため、削除しました。--->
*掛け布団指数
*重ね着指数
*[[鍋物]]指数
*芋煮天気予報([[山形県]]の『[[山形新聞]]』)
*[[不快指数]]
*[[ビール]]指数
*[[泡盛]]喉ごし指数([[沖縄県]]の[[石垣ケーブルテレビ]])
*[[流氷]]情報(北海道)
*[[でんき予報]](冷暖房の消費電力が増える夏季や、寒さが厳しい[[北日本]]地域では冬季も)
|}
=== 人々が天気予報情報を得る経路 ===
人々が天気予報の情報を得る経路について、2017年に[[マクロミル]]社が日本の1000人を対象に調査した結果では、人々が天気予報を確認している媒体(情報源)の1位は「'''テレビ番組の天気予報コーナー'''」でおよそ8割、2位が「'''スマホ(携帯電話)の天気情報[[アプリケーションソフトウェア|アプリ]]'''」でおよそ5割の人々が利用している<ref name='macroinfo'>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000362.000000624.html 天気予報の確認は「テレビ」が8割で「スマホ」を大きく上回る!(マクロミル調べ)][[PR TIMES]]</ref>。テレビ番組とスマホアプリの利用傾向は世代によって異なり、若い世代ほど[[スマートフォン]](スマホ)から天気予報の情報を得ている傾向があり、20代の女性で75%がスマホのアプリから情報を得ている<ref name='macroinfo' />。
==== 放送 ====
[[ファイル:NHK Osaka Weathergirl in 2008.jpg|サムネイル|テレビの天気予報の様子]]
[[放送]]([[テレビ]]・[[ラジオ]])では[[:Category:気象情報番組|気象情報番組]]や[[報道番組]]内の天気コーナーなどで定期的に放送を行う。取り扱う番組によって、気象庁発表のものをそのまま流用するもの、各社局が契約した[[気象業務許可事業者]]の天気情報を使用するもの、専属の[[気象予報士]]が提供情報を基に独自に加工するものがある。警報発表時(発令・解除)にはテロップで伝えられることがあるほか、台風・前線などによる豪雨などの広域災害が予想される場合やそれが発生した場合には[[報道特別番組]](主にNHK)が放送される。[[衛星放送]]・[[ケーブルテレビ]]では天気のみを扱う[[専門チャンネル]]がある。[[東京メトロポリタンテレビジョン]]はまだインターネットが普及していなかった開局前、「101回天気予報」をうたっており、実際の開局後にはそこまでは多くなかったものの頻繁に天気予報を放送していた。これに影響されてか、[[テレビ東京]]も1997年から2003年まで各番組の終わりがけにネットワークぐるみで「ウェザーブレイク」を自動送出で放送していた。
一般にテレビ放送や[[新聞]]では、天気予報を[[イラストレーション|イラスト]]マークにより直感的に分かるよう表示している。テレビ放送では、ごく初期には地図ボード(天気図の場合もあり)に天気予報のイラストマークを貼り付けたものをテレビカメラが映し、[[アナウンサー]]が各地域の予報を読み上げる方法であった。やがて字幕テロップによる表示が現れ、現在では次のようなイラストマーク表示がほぼ主流となった。[[ニュースウオッチ9天気予報キャラクター一覧|ニュースウオッチ9の天気コーナー]]のようにキャラクター化する場合もある。
*晴れ
:[[太陽]]で表示。今夜の天気(時系列予報での深夜も含む)が晴れという場合では、[[スター (記号)|星]]や[[月]]を使う場合が多い。視聴者の“夜なのに太陽マークはおかしい”という指摘から変えられた。
[[ファイル:Weather-clear.svg|thumb|right|100px|一般的な晴れのマーク]]
*くもり
:[[雲]]で表示。「[[Yahoo! JAPAN|Yahoo!]]天気」では、雨の確率が高い灰色のくもりと雨の降らない白いくもりの2種類を使い分ける(2018年11月以降)。
[[ファイル:Weather-heavy-overcast.svg|thumb|right|100px|一般的なくもりのマーク]]
*[[雨]]
:[[傘]]で表示される場合が多い。通常、傘は開いた状態で示し、「一時雨」の場合は傘は畳んだ状態で示す。
:[[雷]]を伴う場合、雷をイメージした稲光のマークを添える場合もある。また社によっては(TBS系列に多く見られる)雲マーク(雲の色が灰色)に雨粒や稲光のマークを添えていることもある。
:雷雨をアナウンスで説明する場合には、「雷雨でしょう」よりも、「雨で雷を伴うでしょう」と説明することが多い。
*暴風雨
:[[台風]]接近などにより、雨で[[暴風]]を伴う場合は“斜めにして開かれた傘”で雨粒が舞っているように見せている。かつては大木の幹が折れているイラストが用いられていたこともある。
:アナウンスで説明する場合、「暴風雨でしょう」よりも、「雨で暴風を伴うでしょう」と説明することが多い。これは「暴風」も「暴風雨」も発音が「ぼーふー」となるため、聞き間違いを誘発する可能性が高いことによる。
*雪
:[[雪だるま]](NHK・日テレ・フジテレビなど「一時雪」の場合は雪だるまを小さく表示)または、[[雪片|雪の結晶]](TBS系列・テレビ朝日など)で表示。アニメーションで表す場合、雪がゆっくりと降っているように見せていることもある。
*暴風雪
:暴風を伴って「[[風雪]]強い」状態となる場合は、これに雪が激しく舞っているように表示。
:こちらもアナウンスで説明する場合には「暴風雪でしょう」よりも、「雪で暴風を伴うでしょう」と説明することが多い
*雷
:[[稲妻]]で表示。1970年代はよく[[鬼]]様の鬼をマークとしていたが(TBS系[[キリンレモン]]の[[お天気ママさん]])、近年はより明瞭な稲妻を描写したものが多い。
これらのマークを1つまたは2つ組み合わせて表現するが、日本テレビほか一部地域では「晴れ時々雨か雪」などの時には3つのマークを使用する場合がある。
*「のち」「一時」など
:天気予報に使われる「のち」「時々・一時」の表現については手法がいくつかある。「のち」は、右向き[[矢印]](→)で表現するのが主流で(ほかには[[スラッシュ (記号)|スラッシュ]](/)など、マークを2つ並べ、その間、または下に矢印を置く。「時々」「一時」はマークを2つ並べる、マークを重ねる、「時々・一時」のあとのマークを小さく表示する、2つのマークの間に[[バーティカルバー|縦棒]](|)を置く、などがある。
==== スマートフォンのアプリ ====
スマートフォン([[Android (オペレーティングシステム)|Android]]フォンや[[iPhone]])では、天気予報の情報を提供する[[アプリケーションソフトウェア|アプリ]]が非常に多種類、無料で提供されている。たとえばAndroidフォンならば、[[Google Play]]をクリックして検索欄にキーワードとして「天気予報」と入力して検索すると多数の(2021年時点で100を超える数の)天気予報アプリが表示されるので、その中から他の利用者からの評価やそれぞれの機能などを考慮して選んでインストールすれば、すぐに使い始めることができる。
==== Webサイト ====
[[パーソナルコンピューター|PC]]などの[[ウェブブラウザ]]を使って、気象機関や許可事業者の[[インターネット]]上の[[Webサイト]]で一次情報が得られる。[[ポータルサイト]]やマスコミなどメディア系サイトでは一次情報元と契約を結び天気のページを設けて提供しているほか、一部の一般サイトで天気情報を表示するツールを組み込んだものもある。
また、PCの[[デスクトップ環境|デスクトップ]]上で使用する[[ウィジェットエンジン|ウィジェット]](ガジェット)や[[アプリケーションソフトウェア]]の中にも天気情報を表示するものがある。[[インターネット放送]]においても、天気専門のチャンネルがある。
インターネットでは[[AccuWeather]]など許可事業者ではない海外企業も日本の天気予報を発表している。
==== 電子メール ====
一部の許可事業者、ポータルサイト、自治体などでは、事前登録者に対して警報発表時に[[電子メール]]を一斉送信するサービスを提供している。
==== 新聞 ====
ほとんどの[[新聞]]では、天気欄に予報を記載している。
==== 電話(テレホンサービス) ====
===== NTT =====
[[ファイル:Weather forecast recording in NTT 1955.jpg|サムネイル|[[テープレコーダー]]を使った天気予報の収録(1950年代)]]
[[日本電信電話公社]](電電公社)の[[電話]]情報サービス(テレホンサービス)の第一号として、1954年9月に試験開始され、1955年1月より全国展開された<ref name="ntt-east">[https://www.ntt-east.co.jp/release/0412/041224b.html テレホンサービスの第1号「天気予報サービス 177」開始から半世紀~歴史とエピソードあれこれ~] NTT東日本</ref>。1964年3月<ref name="ntt-east"/>から全国統一の[[電話番号]](3桁特番)「[[177]]」が導入され、後身の[[日本電信電話]](NTT)および[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]]でもサービスが継続されている。
* 原則、概況(当日実績)および当日・翌日・翌々日<ref group="注">5時発表の天気予報を配信している時間帯は除く。</ref>の予報を詳細に案内する<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=177天気予報電話サービスについて |url=https://www.jma-net.go.jp/common/177jmh/telephon.html |website=気象庁 |access-date=2023-06-14}}</ref>。気象業務許可事業者である[[日本気象協会]]経由で各地の[[地方気象台]](東京は[[気象庁]])が地域ごとに発表した予報情報を受け、NTT側で自動生成した定型文に沿った[[合成音声]]([[自動音声応答装置]])で案内している。発表データに連動する形で、1日8回から11回程度更新されている。
** 各地では、7日後までの週間天気予報を案内するテレホンサービスも設けられている。3桁特番でなく加入者電話番号による(原則として、下4桁が0177となっているが、地域によって番号体系が異なる)ものであり、番号は各地の音声案内の最後に紹介される<ref name=":0" />。
** 1990年代前半までは発表ごとに女性ナレーター(地域によっては男性の場合もあり)の解説を収録したものがエンドレステープ類で再生される形態であった。このため、朝は「おはようございます」の挨拶から始まることもあった。
* 各地で単純に「177」をダイヤルした場合、電話をかけた地域の予報が流れる([[市内電話]]料金が適用)。番号の前に市外局番を付けた「市外局番+177」にかければ、その局番の地域の予報を聞くことができる([[市外電話]]料金が適用)。
** ただし、市外局番が3ケタの地域の「市外局番+177」を聞こうとすると、つながらなかったり、「***'''*'''-177」と4ケタで掛け直すようアナウンスが流れる局番がある。これは局番の上3ケタが県をまたいで使用されているためである<ref group="注">番号の詳細は'''[[日本の市外局番]]・各種分類'''内の複数の都道府県にまたがる上3桁の項目を参照(例・[[岐阜県]][[美濃国|美濃]]地方058{058'''2'''-177・0586と0587を[[愛知県]]西部で使用}[[静岡県]]西部地方053{053'''8'''-177・0531〜0533を愛知県東部で使用}[[山梨県]]中部地方055{055'''2'''-177・0550と0557〜055-9**を静岡県東部で使用}など)。</ref><ref name=":0" />。
** 「市外局番+177」では、発信元の住所どおりの都道府県ではなく、隣の都道府県の予報が流れることがある(例・[[兵庫県]]内の[[尼崎市]]の06、[[伊丹市]]・[[川西市]]・[[川辺郡]][[猪名川町]]の全域と[[宝塚市]]の一部地域の072)<ref name=":0" />。いずれも隣接地で使用されている市外局番であるため。該当する市町内の固定電話や[[公衆電話]]からの場合はこの限りではない。
** 2008年11月、気象庁の予報警報業務拡充により、それまで存在していなかった[[小笠原村]]地域を対象とした177(04998+177)が開始された。
* ネットワーク上発信地域の特定が困難である携帯電話([[PHS]]は除く<ref group="注">Y!mobileの機種で実際に確認した。</ref>)では、上記の「市外局番+177」でなければつながらない。[[IP電話]]・[[インターネット電話]]では提供事業者によって接続対象外となっている場合がある。
* [[中継電話]]([[マイライン]])や[[直収電話]]からの発信においては市内通話でもその回線経由で接続・課金される。
===== その他の電話事業者 =====
* かつて、[[パワードコム|東京通信ネットワーク]]([[KDDI]]に吸収され消滅)の[[アステル東京|東京電話アステル]]と[[楽天コミュニケーションズ|東京電話]]からの発信に限定した「'''ハロー天気'''」という独自の天気予報ダイヤルが2000年12月より提供されていた。これは許可事業者のウェザー・サービスの情報提供を基に177と同レベルの天気予報を、当時の東京電話のキャラクターである[[松坂慶子]]が案内するもの。[[国際電気通信基礎技術研究所]]の技術により松坂の声を[[サンプリング]]して生成した[[合成音声]]で発声するものだったが、時間に応じて「おはようございます」「こんばんは」と声かけするなど自然体で[[癒やし]]系的な語り口が特徴だった。電話番号は8610(市内)・市外局番+8610。東京電話アステルでは基地局の位置情報を基に現在地の天気予報を提供する155#8610という番号も運用された<ref>[https://web.archive.org/web/20191026045850/https://www.kddi.com/business/news/information/powered/ttnet_h12/h121226.html 東京電話・東京電話アステル新サービスお天気音声情報サービス「ハロー天気」開始について] TTNet(2000年12月26日)</ref><ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/894.html アステル電話で松坂慶子の音声による天気音声情報サービス] ケータイWatch(2000年12月27日16:40)</ref>。2001年後半頃にサービスを終了。
==== 電光掲示板等 ====
都市部を中心に予報を流す[[電光掲示板]]や[[車内案内表示装置#液晶ディスプレイ式(LCD式)|車内案内ディスプレイ]]が街頭の目立つ所に設置された。また、[[電車]]や[[航空機]]の中など、公共交通機関ではLCDで一次情報元から提供を受けた天気情報が流れることがよくあった。珍しいものとして、大阪[[通天閣]]の頂上ではネオンライトの色(晴=白、曇=橙、雨=青、雪=桃)で明日の大阪の天気を表していた。
携帯電話・スマートフォンが普及したことから減少傾向であるが<ref>[https://tetsudo-shimbun.com/article/trivia/entry-1548.html 【コレ知ってる!?】駅構内にある、昔ながらの電光掲示板の天気予報 | トリビア | 鉄道新聞]</ref>、[[液晶ディスプレイ]](LCD)化して更新されていることもある。
=== 日本の天気予報の年表 ===
*[[1875年]]([[明治]]8年):東京気象台([[気象庁]]の前身)が[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]で観測開始<ref name="日経20220704"/>。“[[春一番]]が吹いた日”など各種の観測データは[[1876年]]より蓄積されている。
*[[1883年]](明治16年):日本初の[[天気図]]作成と暴風警報発出<ref name="日経20220704"/>。
*[[1884年]](明治17年)[[6月1日]]:東京気象台から日本で最初の天気予報が発表され<ref name="日経20220704"/>、以降1941年の中断に至るまでの毎日3回日本全国の天気を予報し、[[東京市]]内の[[交番]]で掲示された。予報内容は日本全国を一文で表し第1号の予報は「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」と発表された。
*[[1888年]](明治21年)[[3月23日]]:『[[時事新報]]』が日本の新聞として初めて天気予報を掲載<ref name=keio>[https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2007/253.html [ステンドグラス]福澤諭吉の好奇心〜身近で意外な福澤先生の足跡〜]慶應義塾(2007年1月15日)</ref>。同年[[8月12日]]からは『[[東京朝日新聞]]』の朝刊に天気予報が掲載される<ref>[http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2013020300002.html 「所により」は英語から] [[朝日新聞デジタル]]「ことばマガジン」2013年2月12日</ref>。
*[[1893年]](明治26年)[[1月1日]]:時事新報がイラスト入りの天気予報の掲載を開始<ref name=keio />。
*[[1925年]]([[大正]]14年)[[3月22日]]:ラジオ放送による天気予報の開始(ラジオ放送開始日)。
*[[1941年]]([[昭和]]16年)[[12月8日]]:[[太平洋戦争]]の開戦により、[[軍事機密|機密保持]]のため発表が中断される。
*[[1945年]](昭和20年)[[8月17日]]:終戦の8月15日から2日後にラジオの天気予報が復活<ref name=baba>{{Cite book|和書|author=石井清司|title=日本の放送をつくった男 フランク馬場物語|date=1998-10-30|publisher=[[毎日新聞社]]|isbn=4-620-31247-9|pages=101}}</ref>。
*[[1953年]](昭和28年)[[2月1日]]:テレビ放映による天気予報の開始(テレビ放送開始日)。
*[[1955年]](昭和30年)[[1月1日]]:[[電話]]による天気予報案内サービスの開始(番号が「[[日本の電話番号#1XY 特番|177]]」に統一されたのは[[1964年]])<ref>[http://www.ntt-east.co.jp/release/0412/041224b.html テレホンサービスの第1号「天気予報サービス 177」開始から半世紀] NTT東日本(2004年12月24日)</ref>。
*[[1959年]](昭和34年):数値予報業務の開始<ref name="日経20220704"/>。
*[[1978年]](昭和53年):気象衛星「[[ひまわり (人工衛星)|ひまわり]]」による観測開始<ref name="日経20220704"/>。
*[[1980年]](昭和55年)[[6月1日]]:降水確率予報<ref name="日経20220704"/>を[[東京地方]]で開始。
*[[1980年代]]後半~[[1990年代]]前半:[[キャプテンシステム]]、[[データ放送]]などの[[ニューメディア]]が登場。天気予報も提供された。
*[[1994年]]([[平成]]6年):[[気象予報士]]試験実施<ref name="konishi">{{Cite journal |author=小西雅子|url=https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/2001/2001_03_0171.pdf |title=世界の気象資格事情について |journal=天気 48(3)|publisher=[[日本気象学会]] |accessdate=2021-01-31}}</ref>。
*[[1995年]](平成7年)[[4月1日]]:[[天気予報の自由化]]。[[予報業務許可事業者]]が独自の予報を発表できるようになった。これ以降、気象ビジネス市場が拡大。
*[[1990年代]]後半:[[インターネット]]の普及により、[[ウェブサイト]]で気象データや過去の気象データの入手が容易になった。
*[[2013年]](平成25年):[[特別警報]]の運用開始<ref name="日経20220704"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Weather forecast}}
{{Wikibooks|気象学}}
{{ウィキポータルリンク|気象と気候}}
*[[気象庁]] - [[防災気象情報]]
*[[気象予報士]]
*[[傾向推定]]
*[[桜井勉]] - 日本の天気予報の創始者
*[[気象学]]
*[[気象観測]]
*[[気象通報式]]
*[[宇宙天気予報]]
*[[お天気お姉さん]](曖昧さ回避)
== 外部リンク ==
* [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/mokuji.html 天気予報等で用いる予報用語] - 気象庁
* [https://tenki.jp/ 日本気象協会]
* [https://www.jma.go.jp/bosai/forecast/ 天気予報|気象庁]
* [https://www.nhk.or.jp/kishou-saigai/ あなたの天気・防災|NHK]
* [https://www.windy.com/ja/ Wind map & weather forecast|Windy]
* [http://weather-gpv.info/ GPV気象予報]
* [https://www.amagumo-radar.com/ 雨雲レーダーナビ]
* [https://swc.nict.go.jp/ 宇宙天気予報|国立研究開発法人情報通信研究機構]
{{気象現象}}
{{日本の防災}}
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{{DEFAULTSORT:てんきよほう}}
[[Category:気象事業]]
[[Category:気象情報]]
[[Category:分野別のジャーナリズム]] | 2003-02-15T15:14:11Z | 2023-12-22T07:02:44Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B0%97%E4%BA%88%E5%A0%B1 |
1,832 | テーブルゲーム | テーブルゲームは、プレイヤーが実際にテーブルを囲んで行うタイプのゲームの総称。狭義のボードゲームおよびカードゲームなどを含む。
コンピュータゲームに対して、実際の人間が行うゲームを指してこの語を用いる場合もあり、これらのテーブルゲームをコンピューターゲーム上で表現したものの総称を(コンピューターゲームの一分類として)指す場合もある。その際、TBLという略表記も用いられる。
アナログゲームと呼ばれることもあるが、こちらはテーブルゲームよりも更に広義である。
厳密な分類ではなく、これらの境界にあたるゲームも多数存在するが、便宜的によく使われる分類である。
「アブストラクトゲーム」を除き、ゲームで再現しようとするテーマは多岐に渡る。以下に主なものを挙げる。
その他、ゲームシステムや内容により、よく使われるジャンル名である。下記のそれぞれが対等に並列されるわけではない。 | [
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] | テーブルゲームは、プレイヤーが実際にテーブルを囲んで行うタイプのゲームの総称。狭義のボードゲームおよびカードゲームなどを含む。 コンピュータゲームに対して、実際の人間が行うゲームを指してこの語を用いる場合もあり、これらのテーブルゲームをコンピューターゲーム上で表現したものの総称を(コンピューターゲームの一分類として)指す場合もある。その際、TBLという略表記も用いられる。 アナログゲームと呼ばれることもあるが、こちらはテーブルゲームよりも更に広義である。 | {{出典の明記|date=2023年6月}}
[[File:Maler der Grabkammer der Nefertari 003.jpg|thumb|テーブルゲーム]]
'''テーブルゲーム'''は、プレイヤーが実際にテーブルを囲んで行うタイプの[[ゲーム]]の総称。狭義の[[ボードゲーム]]および[[カードゲーム]]などを含む。
[[コンピュータゲーム]]に対して、実際の人間が行うゲームを指してこの語を用いる場合もあり、これらのテーブルゲームをコンピューターゲーム上で表現したものの総称を(コンピューターゲームの一分類として)指す場合もある。その際、'''TBL'''という略表記も用いられる。
'''[[アナログゲーム]]'''と呼ばれることもあるが、こちらはテーブルゲームよりも更に広義である。
== 形式による分類 ==
厳密な分類ではなく、これらの境界にあたるゲームも多数存在するが、便宜的によく使われる分類である。
* [[ボードゲーム]] - ボード(盤)とコマ(駒)を主体とするゲーム。[[囲碁]]、[[将棋]]、[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]、[[チェス]]、[[バックギャモン]]、[[双六]]など。
* [[カードゲーム]] - カードを主体とするゲーム。[[トランプ]]、[[花札]]、[[UNO (ゲーム)|UNO]]など。
* タイルゲーム - タイル(牌)を使うゲーム。本質的にはカードゲームと同じである。[[麻雀]]、[[ドミノ]]など。
* ダイスゲーム - [[サイコロ]]を主体とするゲーム。[[ちんちろりん]]、[[丁半]]、[[ブラフ (ゲーム)|ブラフ]]、[[すごろく|スゴロク]]など。
* 立体ゲーム - 特定の形状をしたギミックが主体となるゲーム。[[ジェンガ]]、[[黒ひげ危機一発]]など。
== テーマによる分類 ==
「アブストラクトゲーム」を除き、ゲームで再現しようとするテーマは多岐に渡る。以下に主なものを挙げる。
* [[スポーツ]]ゲーム - 野球、サッカーなどのスポーツをテーマにしたゲーム。[[野球盤]]など。
* [[経済]]ゲーム - 会社経営などをテーマとし、ゲーム内でお金を稼ぐことを目的としたゲーム。[[モノポリー]]、[[人生ゲーム]]など。
* [[戦争]]ゲーム
* [[サイエンス・フィクション|SF]]ゲーム
* [[ファンタジー]]ゲーム
* [[鉄道]]ゲーム
* その他 - 探検、推理、建設、おとぎ話、などいろいろなテーマがありうる。
* [[アブストラクトゲーム]] - 具体的なテーマは無く、抽象性の高いゲーム。
== 内容による分類 ==
その他、ゲームシステムや内容により、よく使われるジャンル名である。下記のそれぞれが対等に並列されるわけではない。
* [[シミュレーションゲーム]] - 戦争などの状況を出来るだけ現実的に再現した上で勝敗を競うか、あるいは再現そのものを楽しむゲーム。
* [[ロールプレイングゲーム]]([[テーブルトークRPG|テーブルトーク・ロールプレイングゲーム]]) - 何らかの役目を課せられた仮想人物を操演し、司会・審判役を交えて対話によって進行するゲーム。[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]など。
* [[賭博|ギャンブル]]ゲーム - 偶然性を含み、賭けの要素の強いゲーム。[[ルーレット]]など。
* [[トレーディングカードゲーム]] - プレイヤーがそれぞれにカードを集め、集めたカードを使って対戦する形式のカードゲーム。
== テーブルゲームシミュレーター ==
* アソビ大全シリーズ
** [[だれでもアソビ大全]] ([[ニンテンドーDS]])
** [[世界のアソビ大全51]] ([[Nintendo Switch]])
* {{仮リンク|Tabletop Simulator|en|Tabletop Simulator}}
* {{仮リンク|Tabletopia|en|Tabletopia}}
== 関連項目 ==
*[[マインドスポーツ]]
*[[アナログゲーム]]
{{コンピュータゲームのジャンル}}
[[Category:ゲーム|てえふるけえむ]]
[[Category:コンピュータゲームのジャンル|てえふるけえむ]] | null | 2023-06-16T18:19:58Z | false | false | false | [
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"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0 |
1,833 | 1975年 | 1975年(1975 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。昭和50年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1975年について記載する。
※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。 | [
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] | 1975年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。昭和50年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1975年について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|1975年の日本}}
{{年代ナビ|1975}}
{{YearInTopic
| BC =
| 千年紀 = 2
| 世紀 = 20
| 年代 = 1970
| 年 = 1975
}}
{{year-definition|1975}}
この項目では、国際的な視点に基づいた1975年について記載する。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[乙卯]](きのと う)
* 日本(月日は一致)
** [[昭和]]50年
** [[皇紀]]2635年
* [[中華民国]](月日は一致)
** [[民国紀元|中華民国]]64年
* [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致)
** [[主体暦|主体]]64年
* [[仏滅紀元]]:2517年閏10月4日 - 2518年閏9月13日
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1394年12月17日 - 1395年12月27日
* [[ユダヤ暦]]:5735年4月18日 - 5736年4月27日
* [[Unix Time]]:157766400 - 189302399
* [[修正ユリウス日]](MJD):42413 - 42777
* [[リリウス日]](LD):143254 - 143618
<div style="font-size:smaller">
※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1975}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月17日]] - [[フランス]]で前年に成立した[[ヴェイユ法]]が施行され、[[人工妊娠中絶]]が合法化{{要出典|date=2021-04}}。
=== 2月 ===
* [[2月11日]] - [[イギリス]][[保守党 (イギリス)|保守党]]の党首に[[マーガレット・サッチャー]]を選出(同党初の女性党首誕生){{要出典|date=2021-05}}。
* [[2月18日]] - 世界的に活躍した[[双子]][[デュエット|デュオ]][[歌手]]、[[ザ・ピーナッツ]]が引退表明。
=== 3月 ===
=== 4月 ===
* 4月1日 - [[サザエさん (テレビアニメ)#まんが名作劇場 サザエさん|まんが名作劇場サザエさん]]放送開始
* [[4月4日]] - [[マイクロソフト]]設立。
* [[4月5日]] - [[特撮]]テレビ番組「[[スーパー戦隊シリーズ]]」最初の作品『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』が放送開始。
* [[4月30日]] - [[サイゴン陥落]]により[[ベトナム戦争]]終結<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202304290001878.html|title=ジョージ・ワシントンが米国初代大統領に就任/今日は?|publisher=日刊スポーツ|date=2023-04-30|accessdate=2023-04-30}}</ref>。
=== 5月 ===
* [[5月7日]] - イギリスの[[エリザベス2世]]夫妻が日本を訪問(イギリスの国家元首として初の来日)。
* [[5月16日]] - [[エベレスト]]日本女子登山隊の[[田部井淳子]]が女性として世界初の登頂に成功。
=== 6月 ===
* [[6月9日]] - [[フィリピン]][[フィリピンの大統領|大統領]][[フェルディナンド・マルコス|マルコス]]が[[中華人民共和国]][[国務院総理]][[周恩来]]と[[北京市|北京]]で共同声明を発表し[[中華人民共和国]]と国交を結び[[台湾]]を中国の一部と認める。
* [[6月25日]] - [[モザンビーク]]が[[モザンビーク人民共和国]]として完全独立。
=== 7月 ===
* [[7月5日]] - [[沢松和子]]・[[アン清村]]組が[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン・テニス]]女子ダブルスで優勝。
* [[7月12日]] - [[サントメ・プリンシペ]]が[[ポルトガル]]から独立。
* [[7月17日]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[宇宙船]][[ソユーズ]]19号と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の宇宙船[[アポロ計画|アポロ]]18号が地球を周回する軌道上で史上初の国際ドッキングに成功する([[アポロ・ソユーズテスト計画]])。
* [[7月19日]] - [[沖縄国際海洋博覧会]]開幕。
* [[7月30日]] - [[アメリカ合衆国]]の[[労働組合]]指導者[[ジミー・ホッファ]]がデトロイトの自宅を出た後失踪する。
=== 8月 ===
* [[8月4日]] - [[日本赤軍]]がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館等を占拠([[クアラルンプール事件]])。
* [[8月15日]]
** 三木武夫(当時)首相が現職首相としてはじめて[[終戦の日|終戦記念日]]に[[靖国神社]]を参拝<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20230820-DZOGNCURKRA3FEERQXT3UKAUHM/?outputType=theme_weekly-fuji|title=靖国神社 政治的パフォーマンスの参拝はやめよ 伊藤達美|publisher=産経ニュース|date=2023-08-20|accessdate=2023-08-20}}</ref>。
** [[バングラデシュ]]で[[クーデター]]。[[ムジブル・ラフマン]]大統領が暗殺される。
=== 9月 ===
* [[9月13日]] - [[警視庁警備部]]警護課に[[セキュリティポリス]]を創設<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/jidai/special/calendar/0913/ 9月13日の過去ニュース|NHKアーカイブス]</ref>。
=== 10月 ===
* [[10月8日]] - アメリカで空前のヒットを記録した映画『[[風と共に去りぬ]]』が[[日本テレビ]]の『[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]』で世界で初めてテレビで放映される(前後編に分けて放送された。10月8日に前編・10月15日に後編)。
* [[10月24日]] - [[ジョン・デロリアン]]が[[デロリアン]]・モーター・カンパニー(DMC)創業。
=== 11月 ===
* [[11月6日]] - [[緑の行進]]:[[スペイン領サハラ]]([[西サハラ]])の返還を求めて、35万人の非武装の[[モロッコ]]国民がスペイン領サハラに侵入し大規模なデモ行進を行う。
* [[11月15日]] - [[第1回先進国首脳会議]]が[[フランス]]の[[ランブイエ]]で開催。
* [[11月22日]] - [[大韓民国|韓国]]で「[[学園浸透スパイ団事件]]」。[[徐勝]]他18人の留学生が[[国家保安法]]違反容疑で逮捕される。
=== 12月 ===
*12月21日 - 第1回コミックマーケット開催
=== 日付不詳 ===
* [[底質暫定除去基準]]が定められる。
== 周年 ==
<!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください、また期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日-閉幕日起点で記述してください。 -->
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数([[周年]])を記す。
* [[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]関連、終結から30年。
** [[1月27日]] - [[ソビエト連邦]]軍による[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]解放。
** [[4月30日]] - [[アドルフ・ヒトラーの死|アドルフ・ヒトラーが自殺]]。
** [[8月6日]] - [[広島市への原子爆弾投下]]。
** [[8月9日]] - [[長崎市への原子爆弾投下]]。
** [[9月2日]] - [[日本の降伏文書]]調印により[[太平洋戦争]]終結。
* [[3月8日]] - [[血の日曜日事件 (1965年)|血の日曜日事件]]([[セルマ (アラバマ州)|セルマ]]の大行進)から10年。
* [[4月14日]] - [[リンカーン大統領暗殺事件]]から110年。
* [[10月10日]] - [[朝鮮労働党]]結党30周年。
* [[10月24日]] - [[国際連合]]発足30周年。
* [[12月18日]] - [[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓国交正常化]]10周年。
== 芸術・文化・ファッション ==
=== 音楽 ===
{{Main|1975年の音楽}}
* [[イーグルス]] 「[[呪われた夜 (曲)|呪われた夜]]」
* [[ヴァン・マッコイ]]「ハッスル」
* [[ジェファーソン・スターシップ]] 「ミラクルズ」
* [[グランド・ファンク・レイルロード|グランド・ファンク]]「オー・ワンダフル」
* [[オハイオ・プレイヤーズ]] 「ファイア」
* クール&ザ・ギャング 「ハリウッド・スウィンギング」
* [[KC&ザ・サンシャイン・バンド]] 「ゲットダウン・トゥナイト」「ザッツ・ザ・ウェイ」
* [[エルトン・ジョン]]「フィラデルフィア・フリーダム」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」
* [[カーペンターズ]]「[[オンリー・イエスタデイ]]」
* [[ジョン・レノン]]「[[スタンド・バイ・ミー (ベン・E・キングの曲)|スタンド・バイ・ミー]]」
* [[ウイングス]]「[[あの娘におせっかい (曲)|あの娘におせっかい]]」「[[ワインカラーの少女]]」
=== 映画 ===
* [[タワーリング・インフェルノ]](1974、アメリカ)
* [[ヤング・フランケンシュタイン]]
* [[ハリーとトント]]
* チャイナタウン
* [[アリスの恋]]
* [[レニー・ブルース]]
* [[ジョーズ]]
* [[ロッキー・ホラー・ショー]]
== スポーツ ==
* [[モハメド・アリ]]が、ジョー・フレイジャーに勝利し、世界ヘビー級タイトルを防衛した。試合は14ラウンドが終了した段階で、フレイジャー側が試合をストップさせた。アリも、試合の続行が難しいほど疲労困憊していたという。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1975年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 1月 ===
* 1月1日 - [[フェルナンド・タティス]]、元[[メジャーリーガー]]
* [[1月2日]] - [[孫敏漢]]、[[野球選手]]
* 1月2日 - [[ジェフ・スーパン]]、メジャーリーガー
* 1月3日 - [[ダフト・パンク|トーマ・バンガルテル]]、[[ミュージシャン]]([[ダフト・パンク]])
* [[1月6日]] - [[ゆかな]]、声優
* [[1月7日]] - [[伊藤舞子]]、声優
* [[1月8日]] - [[エレーナ・グルシナ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1月8日 - [[ジェレミー・ゴンザレス]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2008年]])
* 1月8日 - [[ダーク・ヴェルビューレン]]、ミュージシャン(ドラマー)
* 1月9日 - [[デイモン・マイナー]]、元プロ野球選手
* [[1月10日]] - [[祖堅正慶]]、作曲家、音響エンジニア
* [[1月11日]] - [[持田真樹]]、女優
* [[1月13日]] - [[ルネ・エリクセン]]、ミュージシャン
* [[1月16日]] - [[モストデンジャラス|Mr.X(モストデンジャラス)]]、お笑い芸人
* [[1月17日]] - [[スクエアプッシャー]]、テクノミュージシャン
* 1月17日 - [[スコット・マレン]]、元プロ野球選手
* [[1月19日]] - [[フェルナンド・セギノール]]、元プロ野球選手
* [[1月20日]] - [[デビッド・エクスタイン]]、元[[メジャーリーガー]]
* [[1月21日]] - [[ニッキー・バット]]、サッカー選手
* [[1月28日]] - [[神谷浩史]]、[[声優]]
* [[1月29日]] - [[杉本ゆう]]、声優
* [[1月29日]] - [[ガリト・チャイト]]、フィギュアスケート選手
=== 2月 ===
* [[2月4日]] - [[じゅんいちダビッドソン]]、お笑いタレント
* 2月6日 - [[チャド・アレン]]、元プロ野球選手
*2月6日 - [[川瀬智子]]、歌手
* 2月7日 - [[レミ・ガイヤール]]、イタズラ者
* [[2月8日]] - [[トニー・マウンス]]、元プロ野球選手
* 2月9日 - [[ブラディミール・ゲレーロ]]、元メジャーリーガー
* [[2月11日]] - [[レイニエル・ジェロ]]、野球選手
* [[2月14日]] - [[ダマソ・マルテ]]、元メジャーリーガー
* 2月16日 - [[セバスチアン・コラシンスキー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 2月18日 - [[アイラ・ボーダーズ]]、野球選手
* 2月18日 - [[ガリー・ネヴィル]]、元サッカー選手
* [[2月20日]] - [[リバン・ヘルナンデス]]、メジャーリーガー
* [[2月22日]] - [[ドリュー・バリモア]]、女優
* [[2月23日]] - [[永田亮子]]、声優
* [[2月25日]] - [[千葉千恵巳]]、声優
* [[2月25日]] - [[小松里歌]]、声優
* [[2月26日]] - [[マーク・デローサ]]、メジャーリーガー
* 2月26日 - [[ラトカ・コヴァジーコヴァー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[2月28日]] - [[茶山莉子]]、声優
=== 3月 ===
* 3月4日 - [[キルステン・ボルム]]、陸上競技選手
* 3月4日 - [[クラウディオ・リベルジャーニ]]、[[野球選手]]
* [[3月9日]] - [[フアン・セバスティアン・ベロン]]、元サッカー選手
* 3月9日 - [[ロイ・マカーイ]]、元サッカー選手
* [[3月13日]] - [[ケンジ・シラトリ]]、作家
* [[3月15日]] - [[ウィル・アイ・アム]]、ミュージシャン、[[ブラック・アイド・ピース]]
* 3月15日 - [[ピエール・ヌジャンカ]]、[[サッカー]]選手
* 3月15日 - [[ベセリン・トパロフ]]、[[チェス]]プレーヤー
* [[3月17日]] - [[ジャスティン・ホーキンス]]、ミュージシャン
* [[3月19日]] - [[ビビアン・スー]]、タレント
* [[3月20日]] - [[浅川悠]]、声優
* 3月25日 - [[ミゲル・メヒア (外野手)|ミゲル・メヒア]]、[[メジャーリーガー]]
* [[3月26日]] - [[ロベルト・ボッレ]]、[[バレエ]]ダンサー
* [[3月27日]] - [[ファーギー (歌手)|ファーギー]]、ミュージシャン、[[ブラック・アイド・ピース]]
* 3月28日 - [[フリオ・ズレータ]]、元メジャーリーガー
* [[3月31日]] - [[ライアン・ループ]]、元プロ野球選手
=== 4月 ===
* 4月4日 - [[スコット・ローレン]]、メジャーリーガー
* [[4月5日]] - [[ドミンゴ・グスマン]]、プロ野球選手
* 4月7日 - [[ロニー・ベリアード]]、元メジャーリーガー
* 4月8日 - [[オクサナ・カザコワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[4月9日]] - [[ロビー・ファウラー]]、サッカー選手
* [[4月10日]] - [[ミッツ・マングローブ]]、女装家、ドラァグクイーン、タレント、ナレーター
* 4月13日 - [[タチアナ・ナフカ]]、フィギュアスケート選手
* [[4月15日]] - [[李日韓]]、[[プロレス]]・レフェリー
* [[4月17日]] - [[トリフン・ジバノビッチ]]、フィギュアスケート選手
* [[4月19日]] - [[ユッシ・ヤースケライネン]]、サッカー選手
* 4月21日 - [[カルロス・カスティーヨ]]、元プロ野球選手
* 4月27日 - [[ペドロ・フェリス]]、メジャーリーガー
* [[4月29日]] - [[ラファエル・ベタンコート]]、メジャーリーガー
* 4月29日 - [[堀慶末]]、死刑囚
* [[4月30日]] - [[トミ・ヨーツセン]]、ミュージシャン
=== 5月 ===
* 5月1日 - [[マルク=ヴィヴィアン・フォエ]]、サッカー選手(+ [[2003年]])
* [[5月2日]] - [[デビッド・ベッカム]]、サッカー選手
* [[5月3日]] - [[マクシム・ムルヴィツァ]]、[[ピアニスト]]
* [[5月5日]] - [[沈正洙]]、野球選手
* 5月7日 - [[ジャン=セバスチャン・フェクトー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 5月12日 - [[ジョナ・ロムー]]、ラグビー選手(+ [[2015年]])
* [[5月15日]] - [[セルゲイ・サフノフスキー]]、フィギュアスケート選手
* 5月15日 - [[ピーター・イワース]]、ミュージシャン
* [[5月17日]] - [[スコット・シーボル]]、プロ野球選手
* 5月17日 - [[エリエル・サンチェス (捕手)|エリエル・サンチェス]]、野球選手
* 5月25日 - [[ランドール・サイモン]]、元プロ野球選手
* 5月25日 - [[趙寅成 (野球)|趙寅成]]、野球選手
* [[5月27日]] - [[ジェイミー・オリヴァー]]、[[シェフ]]
=== 6月 ===
* 6月3日 - [[ホセ・モリーナ]]、メジャーリーガー
* [[6月4日]] - [[アンジェリーナ・ジョリー]]、女優
* 6月5日 - [[ジードルナス・イルガスカス]]、バスケットボール選手
* 6月6日 - [[陳綺貞]](チアー・チェン)、[[台湾]]のシンガーソングライター
* [[6月7日]] - [[アレン・アイバーソン]]、バスケットボール選手
* [[6月8日]] - [[サラ・アビトボル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 6月11日 - [[チェ・ジウ]]、女優
* 6月11日 - [[デニス・マツーエフ]]、[[ピアニスト]]
* [[6月19日]] - [[アンソニー・パーカー]]、バスケットボール選手
* 6月22日 - [[エステバン・ジャン]]、元プロ野球選手
* [[6月23日]] - [[マイク・ジェームス]]、バスケット選手
* 6月25日 - [[ウラジーミル・クラムニク]]、[[チェス]]選手
* 6月25日 - [[リンダ・カーデリーニ]]、女優
* [[6月27日]] - [[トビー・マグワイア]]、俳優
* [[6月28日]] - [[ジョン・ノトヴェイト]]、ミュージシャン
* [[6月29日]] - [[マシュー・ゲイツ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[6月30日]] - [[ラルフ・シューマッハ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー
=== 7月 ===
* [[7月1日]] - [[スフィアン・スティーヴンス]]、[[ソングライター]]
* 7月5日 - [[エルナン・クレスポ]]、サッカー選手
* 7月6日 - [[50セント]]、ラッパー
* 7月14日 - [[ティム・ハドソン]]、元メジャーリーガー
* [[7月18日]] - [[トリー・ハンター]]、メジャーリーガー
* [[7月20日]] - [[レイ・アレン]]、バスケットボール選手
* [[7月22日]] - [[スコット・シールズ]]、元メジャーリーガー
* [[7月23日]] - [[ヴァレリー・サウレー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 7月23日 - [[桐井大介]]、声優
* 7月26日 - [[リズ・トラス]]、政治家
* 7月27日 - [[アレックス・ロドリゲス]]、メジャーリーガー
* 7月27日 - [[シェイ・ヒレンブランド]]、メジャーリーガー
* [[7月29日]] - [[セス・グライシンガー]]、プロ野球選手
* 7月31日 - [[ゲーブ・キャプラー]]、メジャーリーガー
=== 8月 ===
* [[8月2日]] - [[ジョー・ディロン]]、[[メジャーリーガー]]
* 8月3日 - [[ルーズベルト・ブラウン]]、元[[プロ野球選手]]
* 8月6日 - [[ビクター・ザンブラーノ]]、元メジャーリーガー
* 8月7日 - [[エドガー・レンテリア]]、メジャーリーガー
* [[8月9日]] - [[ブライアン・フエンテス]]、元メジャーリーガー
* 8月9日 - [[マヌエル・ベガ]]、[[野球選手]]
* 8月10日 - [[イルハン・マンスズ]]、サッカー選手
* 8月27日 - [[ビョーン・イエロッテ]]、ミュージシャン
* 8月30日 - [[マリナ・アニシナ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[8月31日]] - [[ゲーブ・キャプラー]]、メジャーリーガー
=== 9月 ===
* [[9月1日]] - [[河本邦弘]]、声優
* 9月4日 - [[マーク・ロンソン]]、シンガーソングライター
* 9月6日 - [[デレク・リー]]、[[メジャーリーガー]]
* 9月9日 - [[ドロタ・シュデク]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[9月13日]] - [[今野宏美]]、声優
* [[9月18日]] - [[ランディ・ウィリアムス (野球)|ランディ・ウィアリアムス]]、プロ野球選手
* [[9月20日]] - [[ファン・パブロ・モントーヤ]]、[[NASCAR]]レーサー、元F1ドライバー
* 9月20日 - [[アーシア・アルジェント]]、女優・[[映画監督]]
* [[9月28日]] - [[フアン・モレノ (内野手)|フアン・モレノ]]、元野球選手
* [[9月30日]] - [[カルロス・ギーエン]]、元メジャーリーガー
=== 10月 ===
* 10月1日 - [[ブランドン・ナイト (野球)|ブランドン・ナイト]]、元[[プロ野球選手]]
* 10月1日 - [[キム・ソナ]]、韓国の女優
* [[10月5日]] - [[ケイト・ウィンスレット]]、女優
* 10月9日 - [[マーク・ヴィドゥカ]]、元サッカー選手
* [[10月10日]] - [[イーサーン (ミュージシャン)|イーサーン]]、ミュージシャン
* 10月10日 - [[プラシド・ポランコ]]、元メジャーリーガー
* 10月17日 - [[ヘクター・アルモンテ]]、元プロ野球選手
* [[10月18日]] - [[ビョン・ホギル]]、ミュージカル俳優、歌手
* [[10月21日]] - [[エンリケ・イラーリオ]]、サッカー選手
* [[10月26日]] - [[小西寛子]]、声優
* [[10月29日]] - [[カリーム・ガルシア]]、プロ野球選手
* [[10月30日]] - [[マルコ・スクータロ]]、元メジャーリーガー
=== 11月 ===
* [[11月1日]] - [[メーガン・ウィング]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[11月6日]] - [[新谷真弓]]、声優
* [[11月7日]] - [[金本和起]]、ミュージカル俳優
* 11月10日 - [[ジェイソン・ターマン]]、元プロ野球選手
* 11月10日 - [[オユンナ]]、モンゴル出身の[[シンガーソングライター]]
* [[11月13日]] - [[ジョアキン・シルヴァ|キム]]、サッカー選手
* 11月18日 - [[デビッド・オルティーズ]]、[[メジャーリーガー]]
* 11月18日 - [[アール・アグノリー]]、元マイナーリーガー
* [[11月26日]] - [[パトリス・ローゾン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[11月28日]] - [[シロ・リセア]]、野球選手
* 11月28日 - [[キミーブラウニー]]、ミュージシャン、お笑いタレント
* 11月28日 - [[ムハンマド・スイスメズ]]、ミュージシャン
* 11月28日 - [[サティアー]]、ミュージシャン
=== 12月 ===
* [[12月2日]] - [[マーク・コッツェイ]]、[[メジャーリーガー]]
* [[12月4日]] - [[エド・ヤーナル]]、元プロ野球選手
* [[12月9日]] - [[アレクサンダー・カラカセビッチ]]、[[卓球選手]]
* [[12月12日]] - [[桑島法子]]、[[声優]]
* [[12月17日]] - [[ミラ・ジョヴォヴィッチ]]、女優
* 12月17日 - [[ニコライ・モロゾフ]]、[[フィギュアスケート]]選手・指導者
* [[12月18日]] - [[レイザーラモンHG|住谷正樹(レイザーラモンHG)]]、芸人
* [[12月27日]] - [[ヘザー・オルーク]]、[[子役]](+ [[1988年]])
* [[12月28日]] - [[B・J・ライアン]]、メジャーリーガー
* [[12月29日]] - [[ジャレット・ライト]]、メジャーリーガー
* [[12月30日]] - [[タイガー・ウッズ]]、[[プロゴルファー]]
== 死去 ==
{{See|訃報 1975年}}
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[オーゲ・ニールス・ボーア]]、[[ベン・モッテルソン]]、[[レオ・ジェームス・レインウォーター]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ジョン・コーンフォース]]、[[ウラジミール・プレローグ]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[レナト・ドゥルベッコ]]、[[ハワード・マーティン・テミン]]、[[デビッド・ボルティモア]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[エウジェーニオ・モンターレ]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[アンドレイ・サハロフ]]
* [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[レオニード・カントロビッチ]]、[[チャリング・クープマンス]]
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1975|date=2011年7月}}
* 3月16日 - ビッグ・ボス、キューバの米軍基地に潜入。その後、カリブの大虐殺に遭遇し、国境なき軍隊およびマザーベースは壊滅する。(『[[メタルギアソリッドV|メタルギアソリッドV グラウンド・ゼロズ]]』)
* 夏 - [[火星]]を根拠地とした[[地球防衛軍 (映画)#怪遊星人 ミステリアン|ミステリアン]]が、[[1960年|15年前]]に失敗した地球占領を再度計画し、総攻撃のために地球の空を人工衛星で覆う。(小説『[[地球防衛軍 (映画)#その他|ミステリアンまた来襲す!!]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 丘美丈二郎|authorlink=丘美丈二郎 |title = 論創ミステリ叢書 70 丘美丈二郎探偵小説選II |publisher = [[論創社]] |year = 2013 |page = 290 |isbn = 978-4-8460-1298-4}}</ref>
* 国際宇宙開発研究所所員・奥沢正人(後のドグマ帝国大幹部・メガール将軍)、惑星開発用改造人間に志願するも失敗し、失踪。(特撮テレビ番組『[[仮面ライダースーパー1]]』)
* 宇宙人の特別査定委員会によって散布された特殊宇宙フード「ノルスモ29号」を食べた鳥類が、知性を獲得するとともに知的生物としての進化を始め、世界各地で人類への大規模な襲撃を開始する。(漫画『[[鳥人大系]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 手塚治虫|authorlink=手塚治虫 |title = 手塚治虫漫画全集 94 鳥人大系1 |publisher = [[講談社]] |year = 1980 |pages = 7-97 |isbn = 978-4-06-108694-4}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 手塚治虫 |title = 手塚治虫漫画全集 95 鳥人大系2 |publisher = 講談社 |year = 1980 |pages = 147-153 |isbn = 978-4-06-108695-1}}</ref>
* 大知性体がロンドン地下鉄にて雪男を操り暴走させる。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
* ザイゴン、イギリスの権威者になりすまし侵略を始める。(ドラマ『ドクター・フー』)
* クラールが閑静な村を創り上げ、地球侵攻のデモンストレーションを行う。(ドラマ『ドクター・フー』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1975}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
{{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}}
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[[Category:1975年|*]] | 2003-02-15T15:20:23Z | 2023-12-14T08:19:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1975%E5%B9%B4 |
1,834 | ゲームボーイ | ゲームボーイ(GAME BOY)は、1989年4月21日に任天堂が発売した携帯型ゲーム機。略称は「GB」。これが、20世紀最後の任天堂の完全新規の携帯型ゲーム機となった。
日本において1,280万台以上を売り上げた携帯型ゲームであるゲーム&ウオッチの次世代ゲーム機器として発売した商品であり、任天堂の携帯ゲーム機としては2つ目にあたる。同社を玩具メーカーとして成長させた横井軍平が開発した。また、エポック社から発売されたゲームポケコンに次ぐROM交換方式の携帯型ゲーム機である。
開発当初はファミリーコンピュータよりも高画質なメガドライブやPCエンジンなどが発売されており、任天堂もこれらに対抗するスーパーファミコンの開発を進めていた状況で、本機は乾電池の持続性と価格面の兼ね合いからモノクロ型(4階調)を採用している。社内では「今さらモノクロで売れるのか」とあまり期待しない声があったが、世界累計で5,000万台近くを出荷した。
後のゲームボーイシリーズの初代機であり、このシリーズは2006年までの17年半に渡って同社から発売された。
ファミリーコンピュータと比較してCPU,RAM,VRAMの性能で優れている。『X(エックス)』(1992年5月発売)などでは、このCPU性能を活かし、低fpsではあるが隠面消去を行ったワイヤーフレームによる完全な3DCGを描画していた。ファミリーコンピュータにも同様に3DCGを用いた『スターラスター』があるが、点とスプライトのみの描画であった。
一方で、画面解像度と色数とスプライト表示性能はファミリーコンピュータの方が優れていた。特に、ファミリーコンピュータはカラー表示ができたが、ゲームボーイはモノクロであった。従って、キャラクターのアニメーションではゲームボーイの方が優れているが、静止画の質はファミリーコンピュータの方が優れていた。
音源の面では、ゲームボーイの音源のパルス波(矩形波)やノイズはファミリーコンピュータとほぼ同等の音だが、ファミリーコンピュータでは疑似三角波とDPCM音源を鳴らせたのに対し、ゲームボーイでは波形メモリ音源を鳴らすことができた。また、ファミリーコンピュータの音源は全てモノラルだったのに対し、ゲームボーイの音源は全てステレオ再生可能だった。ただし、本体のスピーカーは1つのためモノラル出力であり、ステレオで聴くにはイヤホンジャックの利用が必要だった。
音量レジスタの値を高速に変更することでPCM再生を行うことも可能で、『ポケットモンスター ピカチュウ』のゲームスタート画面などで利用していた。 しかし、音量レジスタ書き換え時に非線形に音量が変化してノイズが発生するため、初めからPCM再生を行うことを想定してDPCMを搭載していたファミリーコンピュータに比べると音質が著しく劣っていた。
1989年4月21日に12,500円(消費税3%税込)で発売後、1993年6月6日に『ゼルダの伝説 夢をみる島』発売と同時に9,800円(消費税3%税込)に価格改定(このとき専用ステレオイヤホンは別売に)が行われ、翌年1994年5月1日に8,000円(税別)に再度価格改定が行われた。型番はDMG-001。
1996年7月21日発売。型番はMGB-001
1998年4月14日発売。型番はMGB-101
製品コードのDMGは「Dot Matrix Game」が由来。
1994年後期 - 1995年初期にカセットラベルに書かれたコード「DMG-○○J(A)」から「DMG-○○○J-JPN」に変更された。
1989年4月21日に発売されたローンチタイトルは『スーパーマリオランド』『アレイウエイ』『ベースボール』『役満』の4本だった。同年6月に発売された『テトリス』の売上本数は最終的に423万本を数えるヒットとなった。
日本国内において、本機で動かせる最後の任天堂公式ソフトは2002年6月28日に発売されたバンプレストの『From TV animation ONE PIECE 幻のグランドライン冒険記!』であり、これはカラー・モノクロ兼用ソフトである。当時は本体発売から13年2か月経過しており、任天堂ハード全体では最も長寿であった。
2002年以降も非公式としてソフトのリリースは続いており、発売30周年となる2019年4月21日には、ゲームインパクトから『ドラキュラの城』が発売された。
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"text": "1989年4月21日に発売されたローンチタイトルは『スーパーマリオランド』『アレイウエイ』『ベースボール』『役満』の4本だった。同年6月に発売された『テトリス』の売上本数は最終的に423万本を数えるヒットとなった。",
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"text": "日本国内において、本機で動かせる最後の任天堂公式ソフトは2002年6月28日に発売されたバンプレストの『From TV animation ONE PIECE 幻のグランドライン冒険記!』であり、これはカラー・モノクロ兼用ソフトである。当時は本体発売から13年2か月経過しており、任天堂ハード全体では最も長寿であった。",
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] | ゲームボーイは、1989年4月21日に任天堂が発売した携帯型ゲーム機。略称は「GB」。これが、20世紀最後の任天堂の完全新規の携帯型ゲーム機となった。 日本において1,280万台以上を売り上げた携帯型ゲームであるゲーム&ウオッチの次世代ゲーム機器として発売した商品であり、任天堂の携帯ゲーム機としては2つ目にあたる。同社を玩具メーカーとして成長させた横井軍平が開発した。また、エポック社から発売されたゲームポケコンに次ぐROM交換方式の携帯型ゲーム機である。 開発当初はファミリーコンピュータよりも高画質なメガドライブやPCエンジンなどが発売されており、任天堂もこれらに対抗するスーパーファミコンの開発を進めていた状況で、本機は乾電池の持続性と価格面の兼ね合いからモノクロ型(4階調)を採用している。社内では「今さらモノクロで売れるのか」とあまり期待しない声があったが、世界累計で5,000万台近くを出荷した。 後のゲームボーイシリーズの初代機であり、このシリーズは2006年までの17年半に渡って同社から発売された。 | {{Otheruses|携帯ゲーム機|バリエーション|ゲームボーイシリーズ|マガジンボックスのゲーム雑誌|ゲームボーイ (ゲーム雑誌)}}
{{出典の明記|date=2016年7月}}
{{Infobox コンシューマーゲーム機
|名称 = ゲームボーイ
|ロゴ = [[File:gameboy logo.svg|200px]]
|画像 = [[File:Game-Boy-FL.png|200px]]
|画像コメント =
|メーカー = [[任天堂]]
|種別 = [[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機|携帯機第3世代]]
|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1989年]][[4月21日]]<br />{{Flagicon|USA}} 1989年[[7月31日]]<br />{{Flagicon|EU}}{{Flagicon|HK}} [[1990年]][[9月28日]]<br />{{Flagicon|KOR}} [[1990年]]<br />{{Flagicon|TW}} [[1992年]]
|CPU = LR35902(4MHz)
|GPU =
|メディア = [[ロムカセット]]
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ]]
|コントローラ = 内蔵
|外部接続端子 = 通信ポート
|オンラインサービス =
|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 1,242万台<br>{{Flagicon|USA}} 1,800万台<br>[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 4,942万台
|最高売上ソフト = {{Flagicon|JPN}} [[テトリス (ゲームボーイ)|テトリス]] /424万本(単独)<ref name="soft">『[[ミリオンセラーのゲームソフト一覧]]』より転載。</ref><br />[[ポケットモンスター 赤・緑]] /822万本(2本合計)<ref name="soft"/><br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] テトリス /3,500万本<ref name="soft"/>
|互換ハード = [[スーパーゲームボーイ]]<br />[[ゲームボーイポケット]]<br />[[ゲームボーイライト]]<br />[[ゲームボーイカラー]]<br />(ゲームボーイ&カラー共通ソフトのみ)
|前世代ハード = [[ゲーム&ウオッチ]]
|次世代ハード = [[ゲームボーイアドバンス]]
}}
'''ゲームボーイ'''(''GAME BOY'')は、[[1989年]][[4月21日]]に[[任天堂]]が発売した[[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]。略称は「'''GB'''」。
日本において1,280万台以上を売り上げた[[携帯型ゲーム]]である[[ゲーム&ウオッチ]]の次世代ゲーム機器として発売した商品であり、任天堂の携帯ゲーム機としては2つ目にあたる。同社を玩具メーカーとして成長させた[[横井軍平]]が開発した{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=4-5}}。また、[[エポック社]]から発売された[[ゲームポケコン]]に次ぐ[[ロムカセット|ROM]]交換方式の携帯型ゲーム機である。
開発当初は[[ファミリーコンピュータ]]よりも高画質な[[メガドライブ]]や[[PCエンジン]]などが発売されており、任天堂もこれらに対抗する[[スーパーファミコン]]の開発を進めていた状況で、本機は[[乾電池]]の持続性と価格面の兼ね合いから[[モノクロ]]型(4階調)を採用している。社内では「今さらモノクロで売れるのか」とあまり期待しない声があったが{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=4-5}}、世界累計で5,000万台近くを出荷した。
後の[[ゲームボーイシリーズ]]の初代機であり、このシリーズは[[2006年]]までの17年半に渡って同社から発売された。
== 沿革 ==
* [[1989年]]
** [[1月17日]] - 同年4月14日に発売と発表される。本体は月産30万台、ソフトは月産100万個のペースでの生産計画<ref>{{Cite news|和書|title=任天堂、液晶ゲーム「ゲームボーイ」発表 ソフト交換式で 他社からもカートリッジ許諾発売へ|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19890215p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=350|agency=アミューズメント通信社|date=1989-02-15|page=2}}</ref>。
** 3月 - 任天堂が[[コナミホールディングス|コナミ]]、[[バンダイ]]、[[カプコン]]、[[アスキー (企業)|アスキー]]、[[ジャレコ]]など21社とライセンス契約を結び、ライセンスは原則としてゲームソフトの種類ごとに契約する「タイトル契約」とした{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
** [[4月21日]] - ゲームボーイ発売{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
** 8月末 - 出荷台数が国内71万台、米国45万台でトータル100万台以上を突破。品薄状態のため、本体の月産を40万台、1990年8月までに月産100万台へ。サードパーティは約50社<ref>{{Cite news|和書|title=「ゲームボーイ」好調で 携帯用市場拡大 サードパーティーも参入|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19891101p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=367|agency=アミューズメント通信社|date=1989-11-01|page=2}}</ref>。
* [[1990年]]
** 1月 - 品薄状態のゲームボーイなどを人気のないゲームソフトと抱き合わせで小売店に販売していた玩具問屋6社、支店8ヶ所が[[独占禁止法]]違反の疑いで立入検査される{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
** 5月末 - 出荷台数が262万台、[[サードパーティー|サードパーティ]]は72社<ref>{{Cite news|和書|title=FC/GBソフトの評価情報を提供 「スーパーマリオクラブ」で|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19900801p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=385|agency=アミューズメント通信社|date=1990-08-01|page=3}}</ref>。
** [[7月31日]] - ビック東海が任天堂の許諾を得て、ゲームボーイ専用の拡大鏡『ライトボーイ』を日米同時発売、1991年3月までに50万個出荷予定<ref>{{Cite news|和書|title=GBの画面を 明るく拡大する ビック東海の「ライトボーイ」|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19900801p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=385|agency=アミューズメント通信社|date=1990-08-01|page=4}}</ref>。
** 8月 - 出荷台数が304万台、ソフトは74タイトルで1872万個出荷{{R|gamemachine19901001}}。
* [[1991年]]
** 2月 - [[ゲームギア]]や[[PCエンジンGT]]などの対抗機が出現したことによりいわゆる「携帯ゲーム機戦争」に突入{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
** 10月 - 玩具問屋業界、ゲームボーイソフトの在庫が深刻化{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
* [[1992年]]
** 5月 - 日本航空、国際線で機内用のゲームボーイ無料貸出し開始{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
** 12月 - アジアでゲームボーイの[[コピーソフト]]が出回る{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
* [[1993年]]12月 - 国内出荷台数が974万台、米国では1477万台、ソフトの出荷数は国内6105万個、米国6290万個<ref>{{Cite news |和書 |title=GBソフトが使える SFC周辺装置 任天堂が6月にも発売 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19940415p.pdf |newspaper=ゲームマシン |format=PDF |issue=470 |agency=アミューズメント通信社 |date=1994-04-15 |page=4}}</ref>。
* [[1994年]][[11月21日]] - 初のカラーバリエーションであるゲームボーイブロス発売。
* [[1995年]][[10月]] - [[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]がゲームボーイをモチーフにした「ゲームボーイシャンプー」を発売{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
* [[1996年]]2月 - 『[[ポケットモンスター 赤・緑|ポケットモンスター赤・緑]]』発売。このゲームが[[キラーソフト]]となり、完全に下火になっていたゲームボーイ業界が再加熱{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
* 1996年[[7月21日]] - [[ゲームボーイポケット]]発売。
* [[1997年]]
** 7月 - ハドソン全国キャラバンが、ゲームボーイ人気の急上昇を受け『スーパービーダマン ファイティングフェニックス』で開催{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
** 12月 - [[ポケモンショック]]が起こり、『ポケットモンスター赤・緑』でも画面の高速点滅による健康への問題の有無が取り沙汰された{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
* [[1998年]]7月 - バンダイがゲームボーイに接続して使用する魚群探知機「ポケットソナー」を発売{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=100-103}}。
* [[2000年]][[3月1日]] - [[ニンテンドウパワー]]でゲームソフトの書き換え開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/9910/|title=ゲームボーイ書き換え開始でますますパワフル! ニンテンドウパワー|publisher=任天堂|date=1999-10 |accessdate=2021-12-06}}</ref>。
* [[2003年]]9月 - 「[[ゲームボーイライト]]」「[[ゲームボーイポケット]]」を含めたモノクロシリーズの生産が終了。
* [[2007年]][[10月31日]] - 修理サポート終了。
== ハードウェア ==
; 名称
: プロジェクトリーダーの[[岡田智]]が、偶然目にした雑誌名「[[ゲームボーイ (ゲーム雑誌)|ゲームボーイ]]」を気に入り、ゲームボーイの商標を任天堂が取得し、商品名に使用することになった。
: 「ゲームボーイ」という名称が[[イギリス]]では性差別として問題となったこともある。これをコピーライターの[[糸井重里]]が名付けたという噂があるが誤り{{Efn2|サイト『[[ほぼ日刊イトイ新聞]]』[[2007年]][[7月10日]]付にて自ら「『ゲームボーイ』と『バーチャルボーイ』のネーミングは、ぼくじゃありません」と述べている。}}。
; デザイン
: パッケージのデザインは横井軍平が行っており、これはデザイン費用を軽減させるためでもあった。裏面を付属品の説明にしたのも横井のアイディアである。発注は、[[和多田印刷]]の北工場(当時)。
: 初代ゲームボーイの本体や初期の頃のゲームボーイソフトのパッケージに印刷されている、小さな四角は21個あり、本体の発売日の21日にちなんでいる。
: 初代ゲームボーイの配色や発売日を決めるのに使った花札は、任天堂の裏紙が赤の『都の花』である。
; 筐体
: 筐体デザインは、下部がアシンメトリーになっており、左側を軸にして本体を支えつつ十字キーを操作し、よく使うAボタン・Bボタンがある右側の下部は丸みをおびた曲線にして、本体が手首に当たらないように配慮している。
: 横井の発案で、当初はストラップホールの装着が提案されていたが、当時は[[ストラップ]]という存在がほとんど知られていなかったため装着が見送られた<ref group="注">ストラップホールは横井の死後、ゲームボーイカラーに付けられた</ref>。
: [[File:Game-Boy-Gulf-War-Damaged.jpg|thumb|160px|湾岸戦争で外装が破損したゲームボーイ。[[Nintendo New York]]展示。]]
: 子供が取り扱うものであるため、ゲームボーイ本体には厳しい耐久テストがあり、頑丈に設計されている。耐久テストとして本体を高いところから投げ落とし、壊れた場合には作り直し、投げられた後でもきちんと動作すると確認できてから発売が決定したとも言われ{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=4-5}}、具体的には「開発当時、任天堂の社長だった山内溥が完成したばかりの最終デモ機を床に叩きつけ、問題なく動作したため発売が決定された」という情報源の不明な[[逸話]]が流布している。これについて任天堂広報室は「いつの間にか、そのような話ができあがった」とコメントしている<ref>{{Wayback|url=http://www.zakzak.co.jp/top/200905/t2009052110_all.html|title=DS故障は無償交換!?任天堂の“神対応”は本当か - ZAKZAK |date=20090525083408}}</ref>。
: なお1991年に任天堂は「ゲーム会社にできる唯一の支援」として、クウェートに侵攻したイラクと戦うためにアメリカを中心に約30の国で多国籍軍が編成された[[湾岸戦争]]の際、日本からの支援物資として待機中の兵士の慰労のためにゲームボーイを提供した。その後、空爆で倒壊した兵舎から発見されたゲームボーイは、外装がひどく焼けていたが内部には問題はなく、正常に動作したというエピソードがある<ref>{{Cite web|url=https://www.esquire.com/lifestyle/a27183316/nintendo-game-boy-survived-gulf-war/ |title= This Game Boy Survived a Bombing in the Gulf War|author= CAMERON SHERRILL |date= |work= |publisher= Esquire.com|accessdate=2020-02-29 }}</ref>{{Sfn|マガジンボックス|2017|p=97}}。このゲームボーイは、その後ニューヨークの任天堂直営店「[[Nintendo New York]]」に保管展示されており、触ることは出来ないが、常時『[[テトリス (ゲームボーイ)|テトリス]]』のデモ画面が動いている{{Sfn|マガジンボックス|2017|p=97}}。
; 液晶
: [[シチズン時計|シチズン]]から[[薄型テレビ|液晶テレビ]]用のモノクロディスプレイの売り込みがあり、開発がスタートした。本機は[[シャープ]]と共同で開発し、シャープは40億円を投じゲームボーイの[[液晶]]開発用の工場を設立。液晶は同社のものを使用している。
: 画面は[[STN液晶|STN]]反射式モノクロ[[液晶ディスプレイ|液晶]]。異なるゲームのあらゆる表現に対応する液晶表示として、細かい表示セグメントを縦横に格子状に敷き詰めた[[ドットマトリクス]]式を採用した。開発時は[[TN液晶]]の採用が検討されていたが、当時任天堂の社長だった[[山内溥]]の「画面が見られない」との意見で[[STN液晶]]に変更された。[[STN液晶|STN型液晶]]は反射に弱いため、画面のコントラストを調節するダイヤルがついている。コントラストを弱くするほど電池の持ちが良くなる。ゲームボーイの液晶の寿命は短く、『[[スーパーマリオランド]]』や『[[アレイウエイ]]』などのようにプレイヤーの残り数が固定位置に表示されるソフトは、残り表示が見にくくなることがあった。また、液晶の反射板が黄色(金色)に近い色で、ドットの配置されているLCDの大部分では液晶の灰色みがわずかに混じった鈍い黄緑色になっており、視認性は悪かった。<ref group="注">なお、ゲームボーイポケット以降ではベースをやや白色に変えたり耐久性を見直したこともあり、かなり視認性が向上した。</ref>
: モノクロ液晶問題の際、横井軍平とは別に、[[山内溥]]社長(当時)と一緒に開発二課の[[上村雅之]]もシャープ総合開発センター(奈良県天理市)内にあった、液晶工場に出向きSTN液晶の調整に関わっている。最終調整は、横井軍平が行った。
: 液晶画面には経年とともに横線・縦線状の空ラインが発生してその部分が表示されなくなり、プレイに支障をきたす故障が多発した。湾岸戦争帰りのゲームボーイ写真では「LINES」の行で画面中央部を横切る白い横線がそれである(写真の例はまだ初期症状)。使用時間がさらに経過するとこの症状はさらに進行し、空線が幅広くなったり別の位置にも新たな空線が出現したりする。それゆえ現存する初代ゲームボーイで正常な画面のものはとても少ない。またこの不具合はゲームボーイブロス、同ポケット、同カラーへの買い替え需要の一因にもなった。多少は個体差もある。後にライン抜けの原因は特定されており、[[合成樹脂|熱可塑性樹脂]]を採用した信号ケーブルの接触不良である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tee-suzuki.com/gameboy_display_repair.html|title=初代ゲームボーイの液晶ライン抜け修理のこと | tee-suzuki.com|publisher=tee-suzuki.com|accessdate=2020-11-1}}</ref>。この伸び縮みする弾性部分に持ち歩く等の振動に繋がる行為を極力行わない個体は酷使されても画面故障の起こらない場合もある<ref group="注">腕時計に使われる防水用の円形ゴムも振動で劣化し弾性がなくなり防水の役割を果たさなくなるが、据え置いている品はゴム部の弾性がそれなりに長持ちする。</ref>。また、有志によりYouTubeなどで故障部に熱を与え修理する動画も公開されている{{要出典|date=2018年11月}}。
; 液晶保護カバー
: 液晶保護カバーのフレームの色は、花札の『藤に時鳥』にちなんで『藤色』。十字キーの『黒色』、Aボタン・Bボタンの『赤色』は、花札の裏紙の色を表している。
: 液晶保護カバーがついているために、中にゴミやホコリが入ると取り出せなくなり、非常に見づらくなるため、所有者の中には自らカバーを分解してホコリを取り除く者もいた。また、カバーの影が液晶に落ち、画面最上部の表示が見づらいといった難点も生じた<ref group="注">この点は後にゲームボーイポケットで改善している</ref>。
; 音声
:一般的にゲームボーイの音声チャンネルは本体のスピーカーでは、モノラルである。ステレオヘッドホンなどを使用すると、自動でステレオにチャンネルが切り換わる。最初の値下げの前まではゲームボーイにステレオイヤホン(外箱には「ステレオヘッドホン」と記載)が同梱されていた。
; 電源
: 電源には世界規格である[[乾電池]]を使っていて、かつ使用に際して本体とソフト以外の装置が不要で、[[開発途上国|発展途上国]]の一般家庭にまで広く普及している希有なハードでもある。4本の内蔵電源にアルカリ電池を使うことで最高30時間連続プレイが可能。<ref>{{Cite book|和書|title=PC ENGINE FAN|date=1989年4月1日|year=1989|publisher=徳間書店|page=82}}</ref>
:「外国人は充電してまで遊ばない」といった乾電池の搭載を指針する発言は、充電式アダプタに使用する世界各国の電圧やコンセント、プラグの形状を考慮したためである。また、持ち運んで携帯することに重点をおいたためでもある。
; 電池ランプ
: 初代ゲームボーイには「パイロットランプ」が採用されている。このランプを安定して点灯させるための電圧が電池から得られなくなると、次第にこのランプを点灯させる光が暗くなるので、これによって電池を交換するタイミングがわかる。もっとも、電池残量が少なくなると画面の映りが悪くなるので、こうした形でも電池の残量は把握できる{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=98-99}}。
; 電池の持続性
: ライバルメーカーであるセガや[[NEC-HE]]、[[アタリ (企業)|アタリ]]が本ゲーム機に対抗して発売した携帯ゲーム機(「[[ゲームギア]]」、「[[PCエンジンGT]]」、「[[Atari Lynx]]」)について横井軍平は「ライバルがカラーで出たらウチの勝ち」と最初から情勢を読み切っている(当時携帯ゲーム機のカラー化は高コストかつ消費電力が高かった。ゲームボーイはコストと消費電力を抑えることのできる白黒液晶を採用していた)。
: [[1990年]](平成2年)[[8月28日]]に行われた第2回初心会展にて、当時の任天堂社長の[[山内溥]]もカラー化すればモノクロと比較して「電池の寿命が十分の一しかない、これでは携帯型ゲーム機としてユーザーが満足しない」と発言している<ref name="gamemachine19901001">{{Cite news |和書|title=「スーパーファミコン」発売間近で 関心高めるソフト 初心会のSFC/FC/GB展 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19901001p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=389 |agency=アミューズメント通信社 |date=1990-10-01 |page=3}}</ref>。
; 通信
: 他のゲームボーイと[[通信ケーブル (ゲームボーイ)|通信ケーブル]]で通信できる。主に対戦やデータ交換に使われた。
: 可能な限り機能を削って費用削減を目指して開発されたが、後期における大躍進のきっかけとなった通信機能は、付けても大して生産費用が上がらず、何か面白いゲームができるかもしれないという漠然とした理由で、開発者の横井軍平曰く「深く考えずに付けた」などとする話が残されている。
: "RDY/ACK"信号(通信準備のための信号と、通信が正確に行われたことを証明する信号)が全くないために、通信を正確に行うにはトリッキーなプログラムが必要だった。通信中にケーブルを引き抜くとデータが破損するという注意書きもあったが、通信中に誤ってまたは悪ふざけでケーブルを引き抜く事故が絶えず、これを利用してバグ技に使用するものもいた。『[[ポケットモンスター (ゲーム)|ポケットモンスター]]』ではポケモンをコピーする裏技があった。
; カートリッジ交換
: カートリッジ交換は本体の電源を切ることで行うことができる。初代機(ブロスを含む)では電源スイッチに連動してカートリッジをロックする機構が採用されており、電源スイッチをOFFにしなければカートリッジを抜くことはできなくなっている。カートリッジ側についてもこのロックをかけるための切り欠きが存在したが、ゲームボーイカラー専用カートリッジには切り欠きが無く、初代機に差しても電源スイッチを入れることができなくなっている。スーパーゲームボーイやゲームボーイポケット以降ではこのギミックが廃止されているが、カラー非対応の本体ではカラー専用カートリッジが利用できないことに変わりは無い。
=== 仕様 ===
[[ファイル:Nintendo Game Boy DMG-01 - CPU-2.jpg|thumb|200px|DMG-CPU]]
* [[CPU]]:[[シャープ]]製のLR35902がサウンドなどの機能と共に組み込まれている。動作クロック周波数は、4.19MHz。[[Intel 8080]]に近似した機能を持つカスタム[[プロセッサ]]である。但しIntel 8080から一部の命令が削減され、[[Z80]]のフラグ処理の一部と電源制御に使われる独自命令及び仕様が追加されていることや、シャープがZ80の[[セカンドソース]]メーカーであることから、カスタムZ80とも表記される。<ref group="注">当初はファミコンと同じCPU「[[MOS 6502]]」を採用し、ファミコンより性能を上げたものを作ろうとしていたが、当時、スーパーファミコンの開発が始まっており、山内溥から、リコーのリソースは使うなと言われ、シャープ製CPUを採用することになった。</ref>
* [[Random Access Memory|RAM]]:8kバイト
* [[VRAM]]:8Kバイト
* [[Read only memory|ROM]]:256k - 32Mビット
* 画面:2.45インチSTN液晶(4階調モノクロ、160×144ドット)
* スプライト:8×8(最少)1画面中 最大40個表示 / 1水平ライン上に 最大10個表示
* BG:1面/256×256制御(32x32タイル)
* ウィンドウ機能(スクロール制限あり)
* サウンド:[[Programmable Sound Generator#ファミコン音源(pAPU)の仕様|パルス波]](矩形波)2ch+[[波形メモリ音源]]1ch+ノイズ1ch
: ステレオ出力可([[定位感|定位]]は左、中央、右の3つのみ)。[[イヤホン]]、または[[ヘッドフォン]]等の外部出力使用時のみステレオ音声。イヤホン未使用時は本体に登載のスピーカーが1つの関係で各チャンネルの音声は合成されてモノラル出力となる。
* 寸法:90mm×148mm×32mm(電池を除く)<ref>{{Cite book|和書|title=見学! 日本の大企業 任天堂|date=2012年11月20日|year=2012|publisher=株式会社ほるぷ出版|page=13}}</ref>
* 電源:単3形マンガン乾電池4本 (SUM-3 AA,R6) / 専用充電式アダプタ(初代機のみ対応) / 専用バッテリーケース(単二電池4本使用で約40時間使用可・初代機のみ対応)
* 通信ポート:シリアル通信ポート搭載(別売りの通信ケーブルにより対戦プレイが可能)
* 割込み機能:パッド入力割込み、シリアル通信割込み、タイマー割込み、LCDC割込み、Vブランク割込み
=== ファミリーコンピュータとの比較 ===
ファミリーコンピュータと比較してCPU,RAM,VRAMの性能で優れている。『[[X (ゲーム)|X(エックス)]]』([[1992年]]5月発売)などでは、このCPU性能を活かし、低fpsではあるが隠面消去を行ったワイヤーフレームによる完全な[[3DCG]]を描画していた。ファミリーコンピュータにも同様に3DCGを用いた『[[スターラスター]]』があるが、点とスプライトのみの描画であった。
一方で、画面解像度と色数とスプライト表示性能はファミリーコンピュータの方が優れていた。特に、ファミリーコンピュータはカラー表示ができたが、ゲームボーイはモノクロであった。従って、キャラクターのアニメーションではゲームボーイの方が優れているが、静止画の質はファミリーコンピュータの方が優れていた。
音源の面では、ゲームボーイの音源のパルス波(矩形波)やノイズはファミリーコンピュータとほぼ同等の音だが、ファミリーコンピュータでは疑似三角波と[[差分パルス符号変調|DPCM音源]]を鳴らせたのに対し、ゲームボーイでは波形メモリ音源を鳴らすことができた。また、ファミリーコンピュータの音源は全てモノラルだったのに対し、ゲームボーイの音源は全てステレオ再生可能だった。ただし、本体のスピーカーは1つのためモノラル出力であり、ステレオで聴くにはイヤホンジャックの利用が必要だった。
音量レジスタの値を高速に変更することでPCM再生を行うことも可能で、『[[ポケットモンスター 赤・緑#ポケットモンスター ピカチュウ|ポケットモンスター ピカチュウ]]』のゲームスタート画面などで利用していた。
しかし、音量レジスタ書き換え時に非線形に音量が変化してノイズが発生するため、初めからPCM再生を行うことを想定してDPCMを搭載していたファミリーコンピュータに比べると音質が著しく劣っていた。
== 本体 ==
1989年4月21日に12,500円(消費税3%税込)で発売後、1993年6月6日に『[[ゼルダの伝説 夢をみる島]]』発売と同時に9,800円(消費税3%税込)に価格改定(このとき専用ステレオイヤホンは別売に)が行われ<ref>{{Cite web|和書|title=ゲームボーイチラシ 【ゲームボーイ本体チラシ】|url=https://web.archive.org/web/20191214120332/https://blogs.yahoo.co.jp/kswff553/14210801.html|website=自転車|accessdate=2019-11-25|language=ja}}{{出典無効|date=2023-02}}{{リンク切れ|date=2023-02}}</ref>、翌年1994年5月1日に8,000円(税別)<ref>{{Cite web|和書|title=ゲームボーイ|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/hardware/gb/|publisher=任天堂|accessdate=2023-02-16}}</ref>に再度価格改定が行われた。型番はDMG-001。
; ゲームボーイブロス(ゲームボーイ ブラザーズ、''GAME BOY Bros.'')
: 1994年11月21日に発売されたカラーバリエーション。ブロスとは「brothers」の省略形「bros.」をカタカナにしたもの。商標としての提案者は[[糸井重里]]{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=6-7}}。任天堂発売のGBカートリッジ同梱(特に『[[マリオのピクロス]]』)の広告や雑誌などでは「ゲームボーイブラザーズ」と紹介されることもあった{{Efn2|当時の広告やチラシには、『とうとう、ゲームボーイに兄弟ができました。やんちゃで元気な弟の名前は、ゲームボーイ ブラザーズ(GAME BOY Bros.) 「ブロス!」とかニックネームで呼んでやってください。』の表記があったが、実際に製品の入った箱には『GAME BOY』の表記のみであった}}。
<!-- 電源に関して情報求む ←任天堂とHORIがACアダプタ・任天堂がバッテリーパックを発売。-->
;バリエーション{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=6-7}}
:ホワイト(AB両ボタンが赤紫ではなく黒)
:ブラック
:グリーン
:レッド
:イエロー
:スケルトン
<gallery>
File:Game Boy Play It Loud! Transparent American Edition.png|ゲームボーイブロス スケルトン
File:1995 Game Boy black (blank screen).jpg|ゲームボーイブロス ブラック
</gallery>
=== 派生機 ===
;[[ゲームボーイポケット]]
1996年7月21日発売。型番はMGB-001
;ゲームボーイライト
1998年4月14日発売。型番はMGB-101
=== 互換機 ===
;[[ゲームボーイアドバンス]]
:2001年3月21日発売。型番はAGB-001
;[[ゲームボーイアドバンスSP]]
:2003年2月14日発売。型番はAGS-001
;ゲームボーイアドバンスSP バックライト仕様
:日本未発売。型番はAGS-101
== 周辺機器 ==
<gallery>
File:Nintendo-Game-Boy-4-Player-Adapter.jpg|4人用アダプタ(DMG-07)
</gallery>
製品コードの'''DMG'''は「Dot Matrix Game」が由来。
1994年後期 - 1995年初期にカセットラベルに書かれたコード「DMG-○○J(A)」から「DMG-○○○J-JPN」に変更された。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!style="width:5.5em | 型番!!名称!!style="width:4.5em | 価格!!備考
|-
|DMG-02||ステレオヘッドホン<ref name=Peripheral>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/hardware/option/acce.html |title=ゲームボーイ アクセサリー |publisher=任天堂 |accessdate=2022-10-01}}</ref>||1,000円||イヤホン端子に接続して使用。本体スピーカーではモノラルだったサウンドをステレオで聴ける。本体同梱品でもあったが、価格改定時に別売りとなる。
|-
|DMG-03||充電式アダプタ{{R|Peripheral}}||3,800円||初代機用のACアダプタ兼用の充電式電池。フル充電時で約10時間使用可能。<br />本体強度はゲームボーイ本体並に強いが、表面のロゴが削れて消えやすく、配線のビニール素材がねじれに弱く断線不良を起こしやすい。<!--アダプタ側の配線付け根で断線した場合には分解・配線のやり直しで直る。ただし、-->特殊形状のネジが使用されている。
|-
|DMG-04A||[[通信ケーブル (ゲームボーイ)|通信ケーブル]]{{R|Peripheral}}||1,500円||2台の本体(それぞれソフトも必要)を接続して通信プレイが可能。<br>ゲームボーイポケット以降への使用は変換アダプタが必要。
|-
|DMG-05||バッテリーケース|| ||初代機用のバッテリー増設用のケース。単二電池4本使用で約40時間使用可能。<br>DMG-003ほど普及しなかった。
|-
|DMG-06||ソフトケース||{{0}}800円||本体やカートリッジを収納するケース。
|-
|DMG-07||4人用アダプタ{{R|Peripheral}}||3,000円||通信ケーブル経由で複数台の本体同士を接続して、最大4台での通信プレイが可能。
本アダプタ1台、プレイ人数分の本体と対応ソフト、および(プレイ人数−1)本の通信ケーブルが必要。<br>公式には初代機のみ使用可能。
|-
|DMG-08||クリーニングキット{{R|Peripheral}}||{{0}}800円||[[ゲームボーイアドバンスSP]]まで使用可能。
|-
|DMG-09||カートリッジ|| ||カートリッジのみの販売はない<br>ゲームボーイ用ソフトにはカートリッジケースが付属する。
|-
|DMG-13||振動カートリッジ|| ||『[[ポケモンピンボール]]』などに搭載。振動機能を使うには、単四乾電池1本必要。型番は「DMG」だがゲームボーイカラー専用/共通ソフトしか存在しない。
|-
|DMG-14||Universal Game Link Adapter|| ||MGB-004とは逆にMGB-008・CGB-003を初代GB対応にする。<br>CGB-004同等品。日本では未発売。
|-
|DMG-20||ジャイロセンサー<br>カートリッジ|| ||『[[コロコロカービィ]]』などに搭載。<br>型番は「DMG」だがゲームボーイカラー専用ソフトしか存在しない。
|-
|DMG-P-MMSA||GBメモリカートリッジ|| ||[[ニンテンドウパワー]]の書き換えに使用するカートリッジ。
|-
|GB-8||[[ACアダプタ]]||1,500円||[[ホリ電機]]の[[OEM]]製品であるため、任天堂純正と同じデザインのパッケージでありながら「DMG」の型番ではない。
|-
|VG-01||カーアダプタ|| ||ホリ電機のOEM製品。12V車のシガーアダプタソケットで本体に給電出来る。
|}
;ライセンス商品
<gallery>
File:Konami Hyper Boy (8559603971).jpg|ハイパーボーイ
</gallery>
; [[バーコードボーイ]] (ナムコ)
: バーコードリーダー。
; [[ライトボーイ]] (ビック東海)
: ライト付き拡大鏡。
; [[ワイドボーイ]] (SUNSOFT)
: 拡大鏡。
; [[サウンドボーイ]] (SUNSOFT)
: ステレオサウンドにするもの。
; [[ハイパーボーイ]] (コナミ)
: 拡張機能をほぼ全てまかなうもの。
== ソフトウェア ==
[[File:Nintendo-Game-Boy-Cartridge.jpg|thumb|200px|カートリッジ<br />通常は中央の白い部分にタイトルなどを示すラベルが貼付されている]]
;構成
:商品としてのソフト(カートリッジ)の構成は、紙製の外箱、真ん中にソフトを納めるためのくぼみが開いたプラ製の透明トレー、カートリッジケース、説明書を基本としている。ソフトによっては葉書やチラシなどがついたものもあった。ゲームボーイカラー専用ソフトになるとカートリッジ形状の変更による製造コストの関係からこの構成は変化し、トレーが紙製になり、さらにカートリッジケースがつかなくなり薄いビニール袋で代用された。モノクロ用の全ゲームボーイソフトにはケースがついていたため一部では「新品なのにケースがついていない」と勘違いするものもいた。この変化以降、任天堂のすべての携帯ゲーム機のソフトにソフトケースが付属しなくなった。
<!--:中古店などではソフトのみの状態を俗称でハダカと呼称していたが、これは箱やケースなどの付属品がすべてない状態を指す(着用品に例え、何も着ていないし何も持っていないので裸という意味)。←ゲームボーイカートリッジだけ?-->
:カートリッジの仕様として、ラベル面の右上にだけ切り欠き形状が見られるが、これは初代ゲームボーイに装備されていた、電源スイッチと連動したカートリッジロック機構のためのものである。電源スイッチをオンにすると連動して切り欠きの部分にロックバーが出っ張ってロックされ、カートリッジが抜けないようになる。カートリッジの挿入が浅いと、ロックバーがカートリッジに接触するため、電源を入れることすらできなかった。
;ライセンス表記
:日本の初期の[[サードパーティー#ゲームソフト|サード]]タイトルの多くのソフトには、タイトル画面の一番下に『LICENSED BY NINTENDO』が表記され、任天堂の許可を得てリリースされていることを示しており紙箱のイラストも任天堂のソフトと酷似しているが、[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]](後の[[スクウェア・エニックス]])などのメーカーや、後期のサードソフト作品では表記されていない。[[ハル研究所]]開発、任天堂発売の『[[星のカービィ]]』では、開発元が自社で発売される予定の『ティンクルポポ』の内容をアレンジしたものであるため、『LICENSED TO NINTENDO』の表記がある。
;リセット機能
:ゲームボーイは本体側にリセットスイッチが搭載されておらず、A・B・START・SELECTボタンを同時に押すことでリセットされる機能がソフト側に備わっていることが多い。任天堂のソフトではほとんど備わっており、初期のソフトには説明書にも表記されていた。これは本体の機能ではなくソフト側の実装に依存するため、コナミなどの[[サードパーティー#ゲームソフト|サード]]タイトルのソフトには必ずしも搭載されているわけではない。また、『[[ゼルダの伝説 夢をみる島]]』ではこの操作を行った場合にセーブされるなど、リセット以外に割り当てられているソフトもある。
:ゲームボーイアドバンス以降の任天堂携帯ゲーム機にもこの機能は引き継がれている。
=== ゲームタイトル ===
{{Main|ゲームボーイのゲームタイトル一覧}}
1989年4月21日に発売された[[ローンチタイトル]]は『[[スーパーマリオランド]]』『[[アレイウエイ]]』『[[ベースボール (ゲームボーイ)|ベースボール]]』『[[役満 (任天堂)|役満]]』の4本だった{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=4-5}}。同年6月に発売された『[[テトリス (ゲームボーイ)|テトリス]]』の売上本数は最終的に423万本を数えるヒットとなった。
日本国内において、本機で動かせる最後の任天堂公式ソフトは[[2002年]][[6月28日]]に発売された[[バンプレスト]]の『[[From TV animation ONE PIECE 幻のグランドライン冒険記!]]』であり、これはカラー・モノクロ兼用ソフトである。当時は本体発売から13年2か月経過しており、任天堂ハード全体では最も長寿であった{{Efn2|これより後にリリースされたゲームボーイシリーズの任天堂公式ソフトはカラー専用もしくはアドバンス用であり初代機では動かせないが、参考までにカラー専用ソフトを含めた任天堂公式ソフトは[[2003年]][[7月18日]]に発売された[[エポック社]]の『[[ドラえもんのスタディボーイ かんじよみかきマスター]]』が最後となり、こちらは旧ゲームボーイシリーズ発売から14年3か月後となる。}}。
2002年以降も非公式としてソフトのリリースは続いており、発売30周年となる[[2019年]]4月21日には、[[ゲームインパクト]]から『[[ドラキュラの城]]』が発売された。
== 広告 ==
数種類のCMが放映された。
; 日本発売時
: 3人の海外の少年がゲームボーイを持って初めて旅に出るというシチュエーションであった。2パターンあり、1つは家畜車の藁の上で寝て、夜はたき火を囲みながらゲームに興じ、便乗した貨物列車から原野に飛び出すがゲームボーイを忘れたことに少年たちは取りに戻るというシーンが描かれた{{Sfn|マガジンボックス|2017|p=116}}。もう1つは同じく海外の少年3人がヒッチハイクをするために路上で車を待つ間にゲームに興じていたら、車に意思表示をするのを忘れてしまい、通り抜けた車を走って追いかけるというものであった。2つのCMともに「君とならどこまでも」というフレーズで締めくくる。
; テトリス発売時
: ロボコップ風のキャラクターが指先から放った光線で成人男性を召喚しテトリスで対戦するというもの。
; ゲームボーイブロス発売時
: 当時[[SMAP]]のメンバーであった[[木村拓哉]]が仕事の合間にゲームに興じるというもの{{Sfn|マガジンボックス|2017|pp=6-7}}。CMの最後に木村が「君は何色?」と視聴者に問いかける。
== 復刻版 ==
; バーチャルコンソール
: {{Main|バーチャルコンソール}}
: 2011年発売の[[ニンテンドー3DS]]で、かつて発売された一部のゲームをダウンロード購入し、遊ぶことの出来るサービス。一部ソフトを除き通信機能は非対応。
; ゲームボーイ Nintendo Switch Online
: {{Main|ゲームボーイ Nintendo Switch Online}}
: [[Nintendo Switch]]ではオンラインサービス「[[Nintendo Switch Online]]」にて、[[2023年]][[2月9日]]より専用ソフト『ゲームボーイ Nintendo Switch Online』がオンラインサービスの加入者向けにダウンロード可能となっている。ゲームボーイ用ゲームが収録(サービス開始時は10本で順次追加)されている。画面配色はゲームボーイ、ゲームボーイポケット、ゲームボーイカラーから選ぶことが可能。
== その他 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section = 1|date = 2011年1月}}
* 任天堂より交通事故に遭ったある少年に、怪我をした少年の腕に合わせて、初代ゲームボーイの十字キーとAボタン・Bボタンの位置を入れ替えたゲームボーイが渡された事がある。このゲームボーイの基板の半田付けや筐体のボタン位置調整などは、当時開発部長だった横井軍平が当時の任天堂本社(京都市東山区福稲上高松町、後に京都リサーチセンターとなる場所)内で全て行った。なお、この行為は、山内溥社長(当時)に承諾を得ており、基板の半田付けの際に様子を見に来ている。
* 前述の旧任天堂本社には、初代ゲームボーイにちなんで藤の木が植えられている。
* 別冊宝島には1989年のサブカル・流行の1つとしてゲームボーイが紹介されている<ref>別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.93.</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 参考文献 ===
*{{Cite book |和書 |title=懐かしゲームボーイパーフェクトガイド 未来を切り開いた伝説の携帯ゲーム機 |publisher=マガジンボックス |series=M.B.MOOK |date=2017-02-25 |isbn=9784866400259 |oclc=1002831980 |ref={{SfnRef|マガジンボックス|2017}} }}
== 関連項目 ==
* [[コンピューターゲーム]]
* [[コンシューマーゲーム]]
* [[iCARD]]
* [[トモダチコレクション]] - 任天堂のニンテンドーDS用ソフト。ゲーム内でゲームボーイをお宝としている。
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/ ゲームボーイ公式サイト]
* [https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/hardware/gb/ ゲームボーイ]
* [https://www.nintendo.co.jp/nom/9903/ ゲームボーイファミリー10年間の足跡] - N.O.M 99年3月号(No.7)
* [https://www.nintendo.co.jp/nom/0005/ 1億台突破記念 ゲームボーイ特集] - N.O.M 2000年5月号(No.21)
{{任天堂}}
{{家庭用ゲーム機/任天堂}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けえむほおい}}
[[Category:ゲームボーイ|*]]
[[Category:1989年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:1980年代の玩具]]
[[Category:アセンブリ言語]]
[[Category:登録商標]] | 2003-02-15T15:27:14Z | 2023-11-22T06:17:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4 |
1,835 | D2-VTR | D-2 VTRとはコンポジットデジタル記録方式を採用したVTRの規格である。主に放送業務関連で用いられた。
ソニーとアンペックスが1988年に開発したもので、日本国内では日本民間放送連盟がNTSC放送用の番組およびCM素材の交換規準として採用したため素材の受け渡しや放送番組の送出に広く用いられた。
D-2 VTRに先行してコンポーネントデジタル記録方式のD-1 VTRが規格化・製品化(1987年)されたものの放送局では機器が高価なこと(VTRだけでなく編集設備もコンポーネント信号に対応させる必要がある、コンポジット信号用機器も残るので変換機器が必要など)、ビデオテープのランニングコストが高いことなどからD-2 VTRの方が普及した。このため、コンポジット映像を編集する映像編集スタジオでもD-2編集室を整備するに至り1990年代に普及が進んだ。
しかし輝度信号と色信号が合成されたコンポジット映像信号の記録方式のためにデジタル放送、DVD-Videoなど元々コンポーネント映像信号を用いる最近のデジタルメディアでD-2をマスターに使うとコンポーネント方式に変換する際にクロスカラーとドット妨害の発生が避けられず画質が劣化する。このためデジタル放送への転換が進むにつれ、送出用としては使用されなかった。2016年に機材修理のサポートが終了し、その後D-2テープメディアの販売も終了したため役目を終え、大部分の記録済みメディアはLTOやオプティカルディスク(アーカイバル・ディスク)に変換された。
NTSC:525/60、2:1インターレース方式の場合 | [
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] | D-2 VTRとはコンポジットデジタル記録方式を採用したVTRの規格である。主に放送業務関連で用いられた。 | {{出典の明記|date=2018年6月}}
'''D-2 VTR'''とは[[コンポジット映像信号|コンポジット]]デジタル記録方式を採用した[[ビデオテープレコーダ|VTR]]の規格である。主に[[放送]]業務関連で用いられた。
== 解説 ==
[[ソニー]]<ref>{{Cite web|和書|title=放送業務用制作機材の歴史 {{!}} 映像制作機材 {{!}} 法人のお客様 {{!}} ソニー|url=https://www.sony.jp/products/Professional/c_c/tracks/|website=Sony 映像制作機材|accessdate=2021-06-04|language=ja|first=Sony Marketing(Japan)|last=Inc}}</ref>と[[アンペックス]]が[[1988年]]に開発したもので、日本国内では[[日本民間放送連盟]]が[[NTSC]]放送用の番組およびCM素材の交換規準として採用したため素材の受け渡しや放送番組の送出に広く用いられた<ref>{{Cite journal|和書|title=第42回日本映画テレビ技術協会賞受賞技術報告 バーコード自動認識機構付の映写機とD2VTRによるCMバンク / 飴井保雄|journal=映画テレビ技術 = The motion picture & TV engineering|issue=442|publisher=[[日本映画テレビ技術協会]]|date=1989-06-01|pages=34 - 38|id={{NDLJP|4433223/21}}}}</ref>。
D-2 VTRに先行して[[コンポーネント映像信号|コンポーネント]]デジタル記録方式の[[D1-VTR|D-1 VTR]]が規格化・製品化([[1987年]])されたものの放送局では機器が高価なこと(VTRだけでなく[[映像編集|編集設備]]もコンポーネント信号に対応させる必要がある、コンポジット信号用機器も残るので変換機器が必要など)、ビデオテープのランニングコストが高いことなどからD-2 VTRの方が普及した。このため、コンポジット映像を編集する[[スタジオ (映像編集)|映像編集スタジオ]]でもD-2編集室を整備するに至り[[1990年代]]に普及が進んだ。
しかし輝度信号と色信号が合成されたコンポジット映像信号の記録方式のために[[デジタル放送の一覧|デジタル放送]]、[[DVD-Video]]など元々コンポーネント映像信号を用いる最近のデジタルメディアでD-2をマスターに使うとコンポーネント方式に変換する際にクロスカラーとドット妨害の発生が避けられず画質が劣化する。このためデジタル放送への転換が進むにつれ、送出用としては使用されなかった。[[2016年]]に機材修理のサポートが終了し、その後D-2テープメディアの販売も終了したため役目を終え、大部分の記録済みメディアは[[Linear Tape-Open|LTO]]やオプティカルディスク(アーカイバル・ディスク)<ref>{{Cite web|和書|title=オプティカルディスク・アーカイブ {{!}} 法人のお客様 {{!}} ソニー|url=https://www.sony.jp/oda/|website=ソニー製品情報・ソニーストア|accessdate=2021-06-04|language=ja|first=Sony Marketing (Japan)|last=Inc}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=光ディスクデータアーカイブシステム|url=https://biz.panasonic.com/jp-ja/products-services_archiver|website=Panasonic|accessdate=2021-06-04|language=ja}}</ref>に変換された。
== D-2 フォーマット概要 ==
[[NTSC]]:525/60、2:1インターレース方式の場合
* 記録方式:[[ヘリカルスキャン方式]]
* 記録ヘッド数:4
* ヘッドドラム径:75mm
* ヘッドドラム回転数:89.82Hz(約5400rpm)
* カセットテープサイズ: 254×150×33mm(M)、他にLとSがあり
* テープ磁性体:メタルテープ(塗布型)
* テープ幅:19mm(3/4インチ)
* テープ送り速度:約131.7mm/s
* 記録トラック幅:39.1μm(ガードバンド無しアジマス記録)
* 信号方式:デジタル
** 記録速度:総合 127Mbps
** 情報源[[符号化方式]]
*** 映像:14.318MHz(4×fsc)8ビット 非圧縮デジタル
*** 音声:非圧縮 48kHz/20ビット直線量子化×4ch
** 伝送路符号化方式:M<sup>2</sup>+RS誤り訂正符号
== 規格名称 ==
* [[SMPTE]] ST 245:記録方式<ref>{{Cite journal|date=1993-08|title=ST 245:1993 - SMPTE Standard - For Television Digital Recording — 19-mm Type D-2 Composite Format — Tape Record|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7291380|journal=ST 245:1993|pages=1–8|doi=10.5594/SMPTE.ST245.1993}}</ref>
* SMPTE ST 246:磁気テープ規格<ref>{{Cite journal|date=2003-02|title=ST 246:2003 - SMPTE Standard - For Television Digital Recording — 19-mm Type D-2 Composite Format — Magnetic Type|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7289937|journal=ST 246:2003|pages=1–2|doi=10.5594/SMPTE.ST246.2003}}</ref>
* SMPTE ST 226:テープカセット規格(D-1/D-2共通)<ref>{{Cite journal|date=1996-10|title=ST 226:1996 - SMPTE Standard - For Television Digital Recording — 19-mm Tape Cassettes|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7292025|journal=ST 226:1996|pages=1–26|doi=10.5594/SMPTE.ST226.1996}}</ref>
* SMPTE ST 247:テープへの記録フォーマット(映像データ)<ref>{{Cite journal|date=2003-02|title=ST 247:2003 - SMPTE Standard - For Television Digital Recording — 19-mm Type D-2 Composite Format — Helical Data and Control Records|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7291497|journal=ST 247:2003|pages=1–25|doi=10.5594/SMPTE.ST247.2003}}</ref>
* SMPTE ST 248:同上(タイムコード、制御、キューデータ)<ref>{{Cite journal|date=2003-02|title=ST 248:2003 - SMPTE Standard - For Television Digital Recording — 19-mm Type D-2 Composite Format — Cue Record and Time and Control Code Record|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7292187|journal=ST 248:2003|pages=1–3|doi=10.5594/SMPTE.ST248.2003}}</ref>
* SMPTE ST 244:パラレルインターフェース規格<ref>{{Cite journal|date=2003-02|title=ST 244:2003 - SMPTE Standard - For Television — System M/NTSC Composite Video Signals — Bit-Parallel Digital Interface|url=https://ieeexplore.ieee.org/document/7290873|journal=ST 244:2003|pages=1–19|doi=10.5594/SMPTE.ST244.2003}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[D1-VTR|D-1 VTR]]
* [[D3-VTR]]
* [[D6-VTR]]
{{Video storage formats}}
{{デフォルトソート:てつうふいていある}}
[[Category:ビデオテープ]]
[[Category:コンポジットビデオフォーマット]] | 2003-02-15T15:31:10Z | 2023-10-07T17:30:25Z | false | false | false | [
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"Template:Cite journal",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/D2-VTR |
1,837 | BETACAM | BETACAM(ベータカム)は、ソニーが開発したアナログコンポーネント記録のカセット式VTR。かつて放送用・業務用における撮影において、世界中で事実上の標準方式となっていた。ベータマックス(Betamax)と同規格のテープを、3〜6倍の速度で使うことで、記録密度を下げ見かけ上の磁界強度を上げて高周波記録を実現している。通称「ベーカム」。
それまでENG取材に用いる機材は、ビデオカメラ部と、U規格などのVTR部が別々になっていて、カメラを担いだカメラマンの後には、ケーブルで繋がれたVTRを持つビデオエンジニアが付いて回るという2人1組、もしくはカメラマン1人が両方を担ぐという機動性に欠ける取材を強いられていた。1982年にベータカム方式のカメラ一体型VTR「BVW-1」が登場。ビデオカメラとVTRが同体化(カムコーダ)されケーブルから解放されたカメラマンの機動力は飛躍的に向上する事となった。また、U規格のカラー低域変換方式に対しコンポーネント式のY-C別デュアルトラックを用いたダイレクト記録を採用して、より高画質化することができた。この成功を受けて自社でVTR製品を持たないカメラメーカーの数社がソニーとの提携によりBETACAMの録画機と一体型にできるカメラを発売し、ソニー以外のカメラを好む現場に対しても本フォーマットは浸透していった。
同時期に松下電器産業(現 パナソニック)が"Mビジョン"と呼ばれるVHSテープへコンポーネント記録を行うフォーマット(M規格)を開発したが振るわなかった。1986年にはBETACAM-SPに追随しメタルテープ化したフォーマット"MII"方式を投入したものの、再生互換性を確保したBETACAMグループが引き続き圧倒的なシェアを維持したことは民生用ビデオ規格ベータマックスの敗退と対照的である。テープはベータマックスと同じ1/2インチ幅のテープを使うが、走行スピードが異なるためにバックコーティングや磁性体などのテープ材質が若干異なる。
1983年には、編集機能付きのレコーダー「BVW-40」が発売され、収録から編集、送出に至るまでBETACAMによるシステムの構築が実現し、フレーム単位での編集精度が向上した。これらはキー局クラスでは報道部門で用いられ、取材先から持ち返ったテープを編集機で手早く編集し、ニュースサブ(副調整室)からニュース素材として生送出するなどの用途に重宝された。日本では番組やCMの送出にはD2-VTRが標準として用いられていたが、ケーブルテレビ局の番組送出用や、コスト重視の欧米の放送局では番組やCM送出用としても広く用いられた。カセット方式であることを生かしてカートシステム(オートチェンジャー)がアサカなど数社から提供され、CM編集や番組送出用として使用されたほか、SONY自身もD2用のカートであるLMSのローコスト版としてベータカートを発売、主に送出用として供給していた。
1990年代後半には、松下電器が中小プロダクションや企業向けに価格を大幅に落とした「MIIプロマインド」シリーズを発売したのに対抗し「2000PROシリーズ」(型番では「PVW-xxxx」)を発売。放送用のBVWシリーズに対して、オキサイドテープの録画機能を廃するなど機能を絞り、AFM音声2chやTBC(タイムベースコレクタ)のビット数などが仕様上省かれた事によって低コストでのBETACAM導入が可能となり、アナログコンポーネントVTRの裾野を大きく広めた。
さらに低廉な価格で文教・医療分野用も意識して投入された「UVWシリーズ」ではAFM音声2chに加え、VITC(垂直帰線期間内タイムコード)が省略されている。
BETACAM-SPで導入された「ラージカセット」が後にオリジナルのBETACAMへも引き継がれ、カセットサイズはSP同様「スモールカセット」(最大30分)と「ラージカセット」(最大90分)の2種類存在する。
放送・業務用として非常に普及し、膨大な撮影素材が存在することから、後継のデジタル記録版であるDigital BETACAM・BETACAM-SX・MPEG IMXやHDCAM等においてもBETACAM-SPの再生だけは可能としたモデルも設定され、素材の活用をはかれるように考えられていた。
オキサイドテープ
記録方式 輝度:FM方式 クロマ:時分割・時間圧縮クロマFM方式
記録帯域 輝度:30Hz〜4.1MHz R-Y,B-Y:30Hz〜1.5MHz
SN比 48dB以上
テープ速度 118.6mm/s
メタルテープ
記録帯域 輝度:30Hz〜4.5MHz(PVWシリーズ)30Hz〜4.0MHz(UVWシリーズ)色差信号はベータカムと同等
SN比 51dB以上(PVWシリーズメタルテープ)49dB以上(UVWシリーズ)
BETACAMでは、一般的なコンポジット映像信号の他独自のコンポーネント信号を用いるインターフェースやCTDM信号を用いるインターフェースを用いる。
BNCコネクタを3つ又は12pinコネクタを用いて接続する。
BVWシリーズのカメラ部は括弧内記載のカメラと同等性能であるが、リニアマトリクス回路非搭載であるので、表現力はやや劣る。 | [
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"text": "放送・業務用として非常に普及し、膨大な撮影素材が存在することから、後継のデジタル記録版であるDigital BETACAM・BETACAM-SX・MPEG IMXやHDCAM等においてもBETACAM-SPの再生だけは可能としたモデルも設定され、素材の活用をはかれるように考えられていた。",
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"text": "BNCコネクタを3つ又は12pinコネクタを用いて接続する。",
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"text": "BVWシリーズのカメラ部は括弧内記載のカメラと同等性能であるが、リニアマトリクス回路非搭載であるので、表現力はやや劣る。",
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}
] | BETACAM(ベータカム)は、ソニーが開発したアナログコンポーネント記録のカセット式VTR。かつて放送用・業務用における撮影において、世界中で事実上の標準方式となっていた。ベータマックス(Betamax)と同規格のテープを、3〜6倍の速度で使うことで、記録密度を下げ見かけ上の磁界強度を上げて高周波記録を実現している。通称「ベーカム」。 | {{出典の明記|date=2017年4月9日 (日) 10:25 (UTC)}}
{{右|
[[File:Betacam SP Camcorder 01 KMJ.jpg|thumb|none|250px|ソニー BETACAM-SP カムコーダー]]
[[ファイル:SONY_BVW_65.jpg|thumb|none|250px|ソニー BETACAM-SPデッキ BVW-65(再生専用機)]]
[[ファイル:SONY BCT 30G (brighter cropped).jpg|thumb|none|250px|BETACAMカセットテープ]]
}}
'''BETACAM'''(ベータカム)は、[[ソニー]]が開発した[[アナログ]][[コンポーネント映像信号|コンポーネント]]記録のカセット式[[ビデオテープレコーダ|VTR]]。かつて放送用・業務用における撮影において、世界中で[[デファクトスタンダード|事実上の標準方式]]となっていた。[[ベータマックス]](Betamax)と同規格のテープを、3〜6倍の速度で使うことで、記録密度を下げ見かけ上の磁界強度を上げて高周波記録を実現している。通称「'''ベーカム'''」。
== 概要 ==
それまで[[ENG (放送)|ENG]]取材に用いる機材は、[[ビデオカメラ]]部と、U規格などのVTR部が別々になっていて、カメラを担いだカメラマンの後には、ケーブルで繋がれたVTRを持つビデオエンジニアが付いて回るという2人1組、もしくはカメラマン1人が両方を担ぐという機動性に欠ける取材を強いられていた。[[1982年]]にベータカム方式のカメラ一体型VTR「BVW-1」が登場。ビデオカメラとVTRが同体化([[カムコーダ]])されケーブルから解放されたカメラマンの機動力は飛躍的に向上する事となった。また、[[Uマチック|U規格]]のカラー低域変換方式に対しコンポーネント式のY-C別デュアルトラックを用いたダイレクト記録を採用して、より高画質化することができた。この成功を受けて自社でVTR製品を持たないカメラメーカーの数社がソニーとの提携によりBETACAMの録画機と一体型にできるカメラを発売し、ソニー以外のカメラを好む現場に対しても本フォーマットは浸透していった。
同時期に松下電器産業(現 [[パナソニック]])が"Mビジョン"と呼ばれる[[VHS]][[磁気テープ|テープ]]へ[[コンポーネント映像信号|コンポーネント]]記録を行うフォーマット([[M規格]])を開発したが振るわなかった。[[1986年]]にはBETACAM-SPに追随し[[メタルテープ]]化した[[フォーマット]]"[[MII]]"方式を投入したものの、再生互換性を確保したBETACAMグループが引き続き圧倒的なシェアを維持したことは民生用ビデオ規格ベータマックスの敗退と対照的である。テープはベータマックスと同じ1/2[[インチ]]幅のテープを使うが、走行スピードが異なるためにバックコーティングや磁性体などのテープ材質が若干異なる。
1983年には、編集機能付きのレコーダー「BVW-40」が発売され、収録から編集、送出に至るまでBETACAMによるシステムの構築が実現し、フレーム単位での編集精度が向上した。これらはキー局クラスでは報道部門で用いられ、取材先から持ち返ったテープを編集機で手早く編集し、ニュースサブ(副調整室)からニュース素材として生送出するなどの用途に重宝された。日本では番組やCMの送出には[[D2-VTR]]が標準として用いられていたが、ケーブルテレビ局の番組送出用や、コスト重視の欧米の放送局では番組やCM送出用としても広く用いられた。カセット方式であることを生かしてカートシステム(オートチェンジャー)が[[アサカ (企業)|アサカ]]など数社から提供され、CM編集や番組送出用として使用されたほか、SONY自身もD2用のカートであるLMSのローコスト版としてベータカートを発売、主に送出用として供給していた。
1990年代後半には、松下電器が中小プロダクションや企業向けに価格を大幅に落とした「MIIプロマインド」シリーズを発売したのに対抗し「2000PROシリーズ」(型番では「PVW-xxxx」)を発売。放送用のBVWシリーズに対して、オキサイドテープの録画機能を廃するなど機能を絞り、AFM音声2chやTBC(タイムベースコレクタ)のビット数などが仕様上省かれた事によって低コストでのBETACAM導入が可能となり、アナログコンポーネントVTRの裾野を大きく広めた。
さらに低廉な価格で文教・医療分野用も意識して投入された「UVWシリーズ」ではAFM音声2chに加え、VITC(垂直帰線期間内タイムコード)が省略されている。
BETACAM-SPで導入された「ラージカセット」が後にオリジナルのBETACAMへも引き継がれ、カセットサイズはSP同様「スモールカセット」(最大30分)と「ラージカセット」(最大90分)の2種類存在する。
放送・業務用として非常に普及し、膨大な撮影素材が存在することから、後継のデジタル記録版である[[Digital BETACAM]]・[[BETACAM-SX]]・[[MPEG IMX]]や[[HDCAM]]等においてもBETACAM-SPの再生だけは可能としたモデルも設定され、素材の活用をはかれるように考えられていた。
==主な仕様==
===ベータカムフォーマット===
オキサイドテープ
記録方式 輝度:FM方式 クロマ:時分割・時間圧縮クロマFM方式
記録帯域 輝度:30Hz〜4.1MHz R-Y,B-Y:30Hz〜1.5MHz
SN比 48dB以上
テープ速度 118.6mm/s
===ベータカムSPフォーマット===
メタルテープ
記録帯域 輝度:30Hz〜4.5MHz(PVWシリーズ)30Hz〜4.0MHz(UVWシリーズ)色差信号はベータカムと同等
SN比 51dB以上(PVWシリーズメタルテープ)49dB以上(UVWシリーズ)
== インターフェース ==
BETACAMでは、一般的なコンポジット映像信号の他独自のコンポーネント信号を用いるインターフェースやCTDM信号を用いるインターフェースを用いる。
=== コンポーネント ===
BNCコネクタを3つ又は12pinコネクタを用いて接続する。
==== SETUP 0% ====
*Y:1.0Vp-p(同期286mVを含む) 75Ω
*B-Y/R-Y:0.756Vp-p 75Ω
==== SETUP 7.5% ====
*Y:1.0Vp-p(同期286mVを含む) 75Ω
*B-Y/R-Y:0.7Vp-p 75Ω
== 機器ラインアップ ==
=== 一体型カメラ ===
{| class="wikitable"
!型番!!名称・概要!!価格<br>(税抜き)
|-
|BVW-1||カメラ部BVP-1とVTR部BVV-1の組み合わせ||
|-
|BVW-2N||NHK向け特機。ベータムービー同様に高速読み出し間欠書き込みを行う<ref>{{Cite journal|和書|author = 鈴木哲夫・高柳繁・松田伸也・斎藤 哲也|year = 1984|title = 取材用小形VTR一体形カメラの開発|journal = テレビジョン学会誌|volume = 38|issue = 9|pages = 40 - 45|doi = 10.3169/itej1978.38.830}}</ref>||
|-
|BVW-3||カメラ部BVP-3とVTR部BVV-1の組み合わせ||
|-
|BVW-200||2/3インチ 27万画素IT型CCD 2000LUX/F5.6(BVP-5同等)||
|-
|BVW-200N||2/3インチ 27万画素IT型CCD 2000LUX/F5.6(BVP-5同等、NHK仕様)||
|-
|BVW-300||2/3インチ 38万画素IT型CCD 2000LUX/F5.6(BVP-7同等)||
|-
|BVW-300A||2/3インチ 38万画素IT型CCD 2000LUX/F8(BVP-7A同等)||460万円
|-
|BVW-400||2/3インチ 38万画素FIT型CCD 2000LUX/F5.6(BVP-70同等)||750万円
|-
|BVW-400A||2/3インチ 38万画素FIT型CCD 2000LUX/F8(BVP-70IS同等)||570万円
|-
|BVW-D600||2/3インチ 52万画素FIT型CCD 2000LUX/F8(カメラ部DVW-700同等)||650万円
|-
|UVW-100||1/2インチ 42万画素IT型CCD(業務用モデル)||170万円
|}
BVWシリーズのカメラ部は括弧内記載のカメラと同等性能であるが、リニアマトリクス回路非搭載であるので、表現力はやや劣る。
=== スタジオ/ポータブル VTR ===
{| class="wikitable"
!型番!!名称・概要!!価格<br>(税抜き)
|-
|BVW-10||BETACAM Sカセット スタジオプレイヤー||
|-
|BVW-11||BETACAM Sカセット BETACART搭載用プレイヤー||
|-
|BVW-15||BETACAM Sカセット DT再生付スタジオプレイヤー||
|-
|BVW-20||rowspan="2"|BETACAM Sカセット ポータブルプレイヤー||
|-
|BVW-21||
|-
|BVW-22||BETACAM-SP S/Lカセット 据え置き型オフィスビューワー||
|-
|BVW-25||BETACAM Sカセット ポータブルレコーダー||
|-
|BVW-35||BETACAM-SP Sカセット ポータブルレコーダー||
|-
|BVW-40||BETACAM Sカセット スタジオレコーダー||
|-
|BVW-50||BETACAM-SP S/Lカセット ポータブルレコーダー||245万円
|-
|BVW-60||BETACAM-SP S/Lカセット スタジオプレイヤー||
|-
|BVW-65||BETACAM-SP S/Lカセット DT再生付スタジオプレイヤー||
|-
|BVW-D265||BETACAM-SP S/Lカセット DT再生付スタジオプレーヤー(D2-SDI出力)||
|-
|BVW-70||BETACAM-SP S/Lカセット スタジオレコーダー||530万円
|-
|BVW-75||BETACAM-SP S/Lカセット DT再生付スタジオレコーダー||595万円
|-
|BVW-D75||BETACAM-SP S/Lカセット DT再生付スタジオレコーダー(D1-SDI入出力)||595万円
|-
|BVW-85||BETACAM-SP S/Lカセット DT再生付スタジオレコーダー(ガードバンド利用2chPCM音声録再対応機)||
|-
|BVW-95||rowspan="2"|BETACAM-SP S/Lカセット BETACART搭載用プレーヤー||
|-
|BVW-96||
|-
|BVW-9000||BETACAM-SP S/Lカセット スーパーモーション(3倍速)記録対応DT再生付スタジオレコーダー||
|-
|PVW-2600||BETACAM S/Lカセット スタジオプレイヤー(業務用モデル)||150万円
|-
|PVW-2650||BETACAM S/Lカセット DT再生付スタジオプレイヤー(業務用モデル)||220万円
|-
|PVW-2800||BETACAM S/Lカセット スタジオレコーダー(業務用モデル)||220万円
|-
|UVW-1200||BETACAM S/Lカセット スタジオプレイヤー(業務用モデル、TBCなし)||58万円
|-
|UVW-1400||BETACAM S/Lカセット RGB入出力対応スタジオレコーダー(業務用モデル、TBCなし)||78万円
|-
|UVW-1600||BETACAM S/Lカセット スタジオプレイヤー(業務用モデル)||100万円
|-
|UVW-1700||BETACAM S/Lカセット RGB入出力対応スタジオレコーダー(業務用モデル)||
|-
|UVW-1800||BETACAM S/Lカセット スタジオレコーダー(業務用モデル)||130万円
|}
=== ドッカブルVTR(カメラ一体型用) ===
{| class="wikitable"
!型番!!名称・概要!!価格<br>(税抜き)
|-
|BVV-1||BETACAM Sカセット ドッカブルレコーダー||
|-
|BVV-1A||BETACAM Sカセット ドッカブルレコーダー、タイムコード端子付き||
|-
|BVV-5||BETACAM-SP Sカセット ドッカブルレコーダー||167万円
|-
|PVV-1||rowspan="3"|BETACAM-SP Sカセット ドッカブルレコーダー(業務用モデル)||
|-
|PVV-1A||
|-
|PVV-3||105万円
|}
== 関連項目 ==
* [[BETACAM-SP]]
* [[BETACAM-SX]]
* [[Digital BETACAM]]
* [[MPEG IMX]]
* [[HDCAM]]
* [[XDCAM]]
== 外部リンク ==
* [https://www.sony.jp/products/Professional/c_c/tracks/index.html 放送業務用制作機材の歴史(映像制作機材)] - ソニー・法人向
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{{Video storage formats}}
[[Category:ビデオテープ]]
[[Category:ソニーの製品]] | null | 2022-07-22T14:31:13Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/BETACAM |
1,838 | PocketStation | PocketStation(ポケットステーション)は、1999年1月23日に発売された小型の携帯型ゲーム機。発売元はソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE) (現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント (SIE) )。型番は SCPH-4000 。通称「ポケステ」。
ビジネス用ではない個人用のPDAとして、ゲーム面ではPlayStationと連携する携帯型ゲーム機として開発され、周辺機器として販売された。
開発意図はプレイステーションで培ったソフトを携帯型ゲーム機でどのように共有していくかであり、開発時のイメージは任天堂のゲームボーイに近かった。
第三者からは開発当時人気を博していた『たまごっち』を意識したデザインと性能になっていると評価されるが、開発担当者の岡本伸一はそれを否定している。
ボディカラーはホワイトとスケルトンの2色で、開発当初はどのようなゲームが本機に対応するか予想つかなかったため、無機質な色が選ばれた。
詳細は公式サイトを参照。
発売当初は光沢のあるホワイトモデル (SCPH-4000) のみだったが、後にスケルトンボディのクリスタルモデル (SCPH-4000C) も発売された。また、『遊☆戯☆王 真デュエルモンスターズ 封印されし記憶』の限定版にはクリスタルブラック、『ときめきメモリアル2』の限定版にはクリアピンクのPocketStationが同梱された。
主にPlayStationのゲーム本編に付随するミニゲームを遊ぶ為に使用された。
PocketStation上でゲームをプレイするためには、まずゲームデータをPlayStationから転送する必要がある。そのためPocketStation単体での使用はできない。操作パネルを上に90度持ち上げ、PlayStation本体のメモリーカードスロットへ挿入する。挿入すると赤外線通信ポートに内蔵されたLEDが赤く光るとともに、電子メロディが鳴る。システム上、ミニゲームは通常のセーブデータと同じ扱いであり、最低1ブロックを利用してセーブを行う形式となる。当然ではあるが通常のPlayStation用メモリーカードとしての使用も可能。また、メモリーカードとしてセーブデータを記録している場合、PS上で表示されるセーブデータアイコンを表示できるのだが、タイトルによってはPocketStationでの表示用に用意されたアイコンが表示される。
また、ミニゲームはセーブ用の領域が許す限り、いくつでも導入することができる。メニューでプレイしたいゲームを選ぶ事で自由に変更することが出来た。
本体には時計が内蔵されておりアラーム機能付きの時計として利用できるほか、カードスロット経由でプレイステーションから時刻を参照することもできた。一部のソフトではゲーム内で時刻を連動させたり特定の日時にイベントを発生させるのに使用されている。
非公式に、インターネット上でPocketStation用ゲームソフトの開発ツールが出回っており、一部では自主制作ソフトも公開されていた。パソコン上で開発したゲームソフトをPocketStationに転送するためには、PlayStation用メモリカードのリーダー・ライターが必要となる。
開発者の岡本伸一は「"身につけられるコンピューター”をコンセプトに、わずか30グラムのボディーに機能を詰め込みました。さわるすべての人にエンターテイメントとは何かということを教えてくれるマシンです」と述べた。しかし『どこでもいっしょ』以降は目立ったヒット作も生まれず、ほとんどはPlayStationのおまけミニゲーム程度だった。 荒すぎたドットがユーザーの不評を買ったこともあり、やがて対応ソフトの開発も減少、発売から約3年半で生産終了となった。ゲームハードとして使わなくなってからはメモリーカードとして使用するプレーヤーもいた。
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"title": "反響"
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"text": "50音順に記載。",
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] | PocketStation(ポケットステーション)は、1999年1月23日に発売された小型の携帯型ゲーム機。発売元はソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE)。型番は SCPH-4000。通称「ポケステ」。 | {{Pathnav|PlayStation|PlayStation (ゲーム機)|frame=1}}
{{Infobox_コンシューマーゲーム機
| 名称 = PocketStation
| ロゴ = [[File:PocketStation logo.svg|250px]]
| 画像 = [[File:Sony-PocketStation.png|150px]]
| 画像コメント = PocketStation
| メーカー = [[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]] (SCE)
| 種別 = [[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]
| 世代 = [[ゲーム機|第5世代]]
| 発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1999年]][[1月23日]]
| 価格 =
| SoC =
| CPU = RISC CPU [[ARMアーキテクチャ|ARM7T]]
| GPU =
| ディスプレイ =
| メディア = [[CD-ROM XA]]
| ストレージ = [[フラッシュメモリ]]
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| 外部接続端子 = (メモリーカード互換)
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| 売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 490万台(累計出荷台数)<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/621769.html|title=約490万台を売り上げた「ポケステ」再び!? 謎の動画が緊急公開!|website=GAME Watch|publisher=[[インプレス]]|date=2013-11-01|accessdate=2019-05-12}}</ref>
| 最高売上ソフト =
| 互換ハード =
| 後方互換 =
| 前世代ハード =
| 次世代ハード =[[PlayStation Portable]]
}}
'''PocketStation'''(ポケットステーション)は、[[1999年]][[1月23日]]に発売された小型の[[携帯型ゲーム]]機。発売元はソニー・コンピュータエンタテインメント (SCE) (現・[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]] (SIE) )。型番は ''SCPH-4000'' 。通称「'''ポケステ'''」。
== 開発 ==
ビジネス用ではない個人用の[[携帯情報端末|PDA]]として<ref name="PressRelease19980219">{{Cite press release |和書 |title=プレイステーションのメモリーカードを発展させた超小型PDAを開発 |url=https://www.sie.com/content/dam/corporate/jp/corporate/release/pdf/980219.pdf |publisher=ソニー・コンピュータエンタテインメント |date=1998-02-19 |accessdate=2021-08-01}}</ref>、ゲーム面では[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]と連携する[[携帯型ゲーム]]機として<ref name="PocketStation">{{Cite interview|和書|subject=岡本伸一|interviewer=西川ゆずこ|date=1998-11-11|url=http://ascii.jp/elem/000/000/313/313620/|title=開発者インタビュー『プレイステーションと連携して楽しむ携帯ゲーム機です。』|work=ascii.jp|accessdate=2012-10-27}}</ref>開発され、[[周辺機器]]として販売された。
開発意図はプレイステーションで培ったソフトを携帯型ゲーム機でどのように共有していくかであり、開発時のイメージは任天堂の[[ゲームボーイ]]に近かった{{R|PocketStation}}。
第三者からは開発当時人気を博していた『[[たまごっち]]』を意識したデザインと性能になっている<ref name="playkuso3">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『プレイステーションクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2018年。ISBN 9784865118346 p57</ref>と評価されるが、開発担当者の岡本伸一はそれを否定している{{R|PocketStation}}。
ボディカラーはホワイトとスケルトンの2色で、開発当初はどのようなゲームが本機に対応するか予想つかなかったため、無機質な色が選ばれた{{R|PocketStation}}。
== 沿革 ==
* [[1998年]]
** [[2月19日]] - メモリーカードを発展させた超小型PDAを開発したと発表{{R|PressRelease19980219}}。
** [[10月8日]] - 12月23日に発売することを発表<ref>{{Cite press release |和書 |title=プレイステーションの楽しみをさらに広げるPocketStation12月23日に発売 |url=https://www.sie.com/content/dam/corporate/jp/corporate/release/pdf/981008_1.pdf |publisher=ソニー・コンピュータエンタテインメント |date=1998-10-08 |accessdate=2021-08-01}}</ref>。
** 10月9日~11日 - [[東京ゲームショウ]] '98秋で初公開。
** [[12月9日]] - 発売日延期を発表<ref>{{Cite press release |和書 |title=超小型PDA「PocketStation」1月23日に発売延期 |url=https://www.sie.com/content/dam/corporate/jp/corporate/release/pdf/981209.pdf |publisher=ソニー・コンピュータエンタテインメント |date=1998-12-09 |accessdate=2021-08-01}}</ref>。
* [[1999年]][[1月23日]] - 発売。
*: PocketStation用ミニゲームが付属するPlayStation用ゲームソフト『[[どこでもいっしょ]]』がヒット。ゲーム内にポケット・ピープルと呼ばれる5種類のキャラクターが登場する。その中で「[[井上トロ]]」が[[女子高生]]を中心に好評を得ていた<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=ファミ通 No.581|date=2000年2月4日|year=2000|publisher=アスキー|pages=189,190,191,}}</ref>。供給量の不足と重なり一時期は入手困難な状態となった<ref name="natsukashi"/>。
*[[1999年]][[2月11日]]
*: PocketStationにも対応するソフトとして、『[[ファイナルファンタジーVIII]]』が発売。99年の対応ソフトの中で売上が1位となった。本編で使用するアイテムの収集など、様々な要素が盛り込まれている<ref name=":0" />。
*[[1999年]][[7月]] - 累計販売個数が100万個突破。
*[[1999年]][[10月]] - 累計販売個数が200万個突破<ref name=":0" />。
* [[2002年]][[7月19日]] - PocketStation生産終了<ref>{{Cite web|和書|author=北村孝和 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20020719/poke.htm |title=SCEI、ポケットステーションの生産を終了 |website=GAME Watch |publisher=インプレス |date=2002-07-19 |accessdate=2021-03-13}}</ref>。
* [[2013年]]12月3日 - PS Vitaアプリとして復活<ref name="natsukashi"/>。
*:[[PlayStation Vita]]用無料アプリ『PocketStation for PlayStation Vita』を配信することを11月5日に発表。このアプリを使うことで[[ゲームアーカイブス]]で配信されているPocketStation対応ソフトをPS Vita上で楽しむことができるようになる。PocketStationがなくては動作しなかったためこれまでゲームアーカイブスで提供できなかった『どこでもいっしょ』も同日に配信開始となる<ref>[https://japan.cnet.com/article/35039449/ SCEJA、PS Vitaで動作するポケットステーションアプリを配信へ] - 2013年11月5日 Cnet JAPAN</ref>。
== ハードウェア ==
詳細は公式サイト<ref>{{Cite web |url=https://www.jp.playstation.com/psone/peripheral/scph4000.html |title=PocketStation |publisher=ソニー・インタラクティブエンタテインメント |accessdate=2021-08-01}}</ref>を参照。
; CPU
: PlayStation用[[メモリーカード]]とほぼ同じ大きさのボディに、[[32ビット]] [[RISC]] [[CPU]]を内蔵する。
; 画面
: 画面は32[[画面解像度|ドット]]四方の反射型[[モノクロ]][[液晶ディスプレイ]]で、PlayStationの[[ロゴタイプ]]がうっすらと浮かび上がっている。
; 操作系
: 操作ボタンは上・下・左・右の4つの方向ボタンと決定ボタンがひとつ付いているのみである。
; 通信
: 上部には[[IrDA|赤外線通信]]ポートを搭載し、PocketStation同士での通信が可能となっている。一部のサード製PSソフトでは、任天堂の[[ゲームボーイカラー]]やバンダイの[[ワンダースワン]]と本機を介した赤外線通信ができるものがある。注意点は2000年代までに生産されたテレビのリモコンなど、旧式の規格の赤外線発生装置にしか反応しない。
; 電源
: 電源として[[コイン型リチウム電池]]を1個必要とする。使用環境にもよるが電池の消耗が早く、頻繁に交換する必要があった<ref name="natsukashi">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、54ページ</ref>ため、電池のフタのネジを外せるドライバーと予備の電池が収納できるポケットドライバーが発売されていた<ref name="natsukashi"/>。
=== スペック ===
* CPU:32ビット RISC CPU '''ARM7T'''
* メモリ:[[Static Random Access Memory|SRAM]] 2キロ[[バイト (情報)|バイト]]、[[フラッシュメモリ]] 128キロバイト(PS1専用メモリーカード領域と兼用)
* 画面:32×32ドット 反射型モノクロ液晶ディスプレイ
*サウンド:小型スピーカー(10ビットPCM)
* 通信:赤外線方式(双方向・[[IrDA]]準拠)
* 電源:ボタン型電池(CR2032)×1
* 付属品:[[ストラップ]]
=== 発売モデル ===
発売当初は光沢のあるホワイトモデル (SCPH-4000) のみだったが、後に[[スケルトン (外殻)|スケルトン]]ボディのクリスタルモデル (SCPH-4000C) も発売された。また、『[[遊☆戯☆王 真デュエルモンスターズ 封印されし記憶]]』の限定版にはクリスタルブラック、『[[ときめきメモリアル2]]』の限定版にはクリアピンクのPocketStationが同梱された。
== 使用方法 ==
主に[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]のゲーム本編に付随するミニゲームを遊ぶために使用された。
PocketStation上でゲームをプレイするためには、まずゲームデータをPlayStationから転送する必要がある。そのためPocketStation単体での使用はできない。操作パネルを上に90度持ち上げ、PlayStation本体のメモリーカードスロットへ挿入する。挿入すると赤外線通信ポートに内蔵された[[発光ダイオード|LED]]が赤く光るとともに、[[電子メロディ]]が鳴る。システム上、ミニゲームは通常のセーブデータと同じ扱いであり、最低1ブロックを利用してセーブを行う形式となる。当然ではあるが通常のPlayStation用[[メモリーカード]]としての使用も可能。また、メモリーカードとしてセーブデータを記録している場合、PS上で表示されるセーブデータアイコンを表示できるのだが、タイトルによってはPocketStationでの表示用に用意されたアイコンが表示される。
また、ミニゲームはセーブ用の領域が許す限り、いくつでも導入することができる。メニューでプレイしたいゲームを選ぶ事で自由に変更することが出来た。
本体には時計が内蔵されておりアラーム機能付きの時計として利用できるほか、カードスロット経由でプレイステーションから時刻を参照することもできた。一部のソフトではゲーム内で時刻を連動させたり特定の日時にイベントを発生させるのに使用されている。
非公式に、[[インターネット]]上でPocketStation用ゲームソフトの開発ツールが出回っており、一部では自主制作ソフトも公開されていた。[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]上で開発した[[ゲームソフト]]をPocketStationに転送するためには、PlayStation用メモリカードのリーダー・ライターが必要となる。
=== 次世代ゲーム機での対応 ===
* PlayStation側 - PSと互換性がある[[PlayStation 2]]でも使用可能([[PSX]]は形状が本体に入らないため使用不可)。[[PlayStation 3|PlayStation3]]の互換機能では、エミュレーターがポケットステーションを認識できないため非対応。[[PlayStation Vita]]はポケットステーションに対応したPlayStationソフト(ただし、ゲームアーカイブス経由で購入したもののみ)に「PocketStation for PlayStation Vita」の無料アプリケーションを本体にダウンロードすることで再現が可能となる。[[PlayStation 4]]([[PlayStation 4#PlayStation 4 Pro|Pro]]を含む)・[[PlayStation 5]]ではPSの互換性を取り除いたため、使用できない。
== 反響 ==
開発者の岡本伸一は「"身につけられるコンピューター”をコンセプトに、わずか30グラムのボディーに機能を詰め込みました。さわるすべての人にエンターテイメントとは何かということを教えてくれるマシンです」と述べた<ref>{{Cite book|title=週刊ファミ通 No.515|date=1998年10月30日|publisher=株式会社アスキー|page=10}}</ref>。しかし『どこでもいっしょ』以降は目立ったヒット作も生まれず、ほとんどはPlayStationのおまけミニゲーム程度だった。
荒すぎたドットがユーザーの不評を買ったこともあり、やがて対応ソフトの開発も減少、発売から約3年半で生産終了となった。ゲームハードとして使わなくなってからはメモリーカードとして使用するプレーヤーもいた<ref name="natsukashi"/>。
== 対応ゲームソフト一覧 ==
50音順に記載。
=== PlayStation ソフト ===
{{Columns-list|30em|
* [[アークザラッドIII]](SCE)
* [[アーマード・コア マスターオブアリーナ]]([[フロム・ソフトウェア]])
* [[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]]([[ナムコ]])
* [[I.Q|I.Q FINAL]](SCE)
* [[封神演義 (ゲーム)|愛蔵版 封神演義]]([[コーエー]])
* [[iモードもいっしょ]](SCE)
* [[アクアノートの休日|アクアノートの休日2]]([[アートディンク]])
* [[カードキャプターさくら|アニメチックストーリーゲーム1 カードキャプターさくら]]([[アリカ]])
* [[家にポチがやってきた in my pocket]]([[コナミ]])
* [[一撃 鋼の人]]([[バンダイ]])
* [[ヴァンピール 吸血鬼伝説]](アートディンク)
* [[ウイニングポスト4|ウイニングポスト4 プログラム2000]](コーエー)
* [[SDガンダム英雄伝|SDガンダム英雄伝 大決戦!!騎士VS武者]](バンダイ)
* [[お見合いコマンドー バカップルにつっこみを]]([[エニックス]])
* [[お水の花道]]([[ポニーキャニオン]])
* [[おみせde店主]]([[テクノソフト (ゲーム会社)|テクノソフト]])
* [[カードキャプターさくら|カードキャプターさくら クロウカードマジック]](アリカ)
* [[CHAOS BREAK -Episode from "CHAOS HEAT"]]([[タイトー]])
* [[汽車でGO!]](タイトー)
* [[キャイ〜ン|キャイーンのたのしメール]]([[The SECOND]])
* [[ギャロップレーサー|ギャロップレーサー3]]([[テクモ]])
* [[キョロちゃん|キョロちゃんのプリクラ大作戦]]([[ヒューマン (ゲーム会社)|ヒューマン]])
* [[筋肉番付|筋肉番付 vol.3 〜最強のチャレンジャー誕生!〜]](コナミ)
* [[クラッシュ・バンディクー3 ブッとび!世界一周]](SCE)
* [[グランディア]]([[ゲームアーツ]])
* [[ケータイ・エディ]]([[インクリメントP]])
* [[K-1 王者になろう!]]([[エクシング]])
* [[ケロケロキング]]([[メディアファクトリー]])
* [[こねこもいっしょ]](SCE)
* [[こもっち]]([[マーベラスインタラクティブ|ビクターインタラクティブソフトウェア]])
* [[サイキックフォース|サイキックフォース2]](タイトー)
* [[西遊記 (ゲーム)|西遊記]](コーエー)
* [[サガ フロンティア2]]([[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]])
* [[サムライスピリッツ|サムライスピリッツ新章 〜剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃〜]](SNK)
* [[サルゲッチュ]](SCE)
* [[パチパラシリーズ|三洋パチンコパラダイス4 〜寿司屋だ源さん〜]]([[アイレムソフトウェアエンジニアリング|アイレム]])
* [[レイクライシス|THE ダブルシューティング]](タイトー/ディースリー・パブリッシャー)
* [[パワーショベルに乗ろう!!|THE パワーショベル]](タイトー/ディースリー・パブリッシャー)
* [[シーバス1-2-3|シーバス1-2-3 DESTINY! 運命を変える者!]]([[ジャレコ]])
* [[ジェットでGO!]](タイトー)
* [[シスター・プリンセス]]([[メディアワークス]])
* [[ジョジョの奇妙な冒険 (対戦型格闘ゲーム)|ジョジョの奇妙な冒険]]([[カプコン]])
* [[ジャスティス学園|私立ジャスティス学園 熱血青春日記2]](カプコン)
* [[水族館プロジェクト 〜フィッシュハンターへの道〜]]([[テイチク]])
* [[スーパーロボット大戦α]]([[バンプレスト]])
* [[進め!海賊]](アートディンク)
* [[ストリートファイターZERO|ストリートファイターZERO3]](カプコン)
* [[ポケラー|スノポケラー]]([[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]])
* [[スパイロ・ザ・ドラゴン]](SCE)
* [[スパイロ×スパークス トンでもツアーズ]](SCE)
* [[聖剣伝説 LEGEND OF MANA]](スクウェア)
* [[ダービースタリオン|ダービースタリオン99]]([[アスキー (企業)|アスキー]])
* [[太陽のお告げ]]([[プログレス]])
* [[玉繭物語]]([[元気 (ゲーム会社)|元気]])
* [[たれぱんだ|たれごろ -たれぱんだのいる日常-]](バンダイ)
* [[Dance Dance Revolution|Dance Dance Revolution 3rdMIX]](コナミ)
* Dance Dance Revolution 4thMIX(コナミ)
* [[チョコボコレクション]](スクウェア)
* [[チョコボスタリオン]](スクウェア)
* [[チョロQ (ゲーム)|チョロQワンダフォー!]]([[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]])
* [[テイルズ オブ エターニア]](ナムコ)
* [[テーマ アクアリウム]]([[エレクトロニック・アーツ]])
* [[テクノビービー]](コナミ)
* [[デジモンテイマーズ|デジモンテイマーズ ポケットクルモン]](バンダイ)
* [[デジモンワールド2]](バンダイ)
* [[デジモンワールド デジタルカードアリーナ]](バンダイ)
* [[デビルサマナー ソウルハッカーズ]](アトラス)
* [[電車でGO! プロフェッショナル仕様]](タイトー)
* [[電車でGO!|電車でGO! 名古屋鉄道編]](タイトー)
* [[モンスターコンプリワールド|伝説獣の穴 モンスターコンプリワールド ver.2]](アイディアファクトリー)
* [[トゥルーラブストーリー|トゥルーラブストーリー・ファンディスク]](アスキー)
* [[ときめきメモリアルドラマシリーズ|ときめきメモリアルドラマシリーズ Vol.3 旅立ちの詩]](コナミ)
* [[ときめきメモリアル2]](コナミ)
* [[どこでもいっしょ]](SCE)
* [[どこでもハムスター|どこでもハムスター2(ちゅー)]]([[ベック (ゲーム会社)|ベック]])
* [[賭博黙示録カイジ]]([[講談社]])
* [[ドラえもん3 魔界のダンジョン]]([[エポック社]])
* [[トロンにコブン]](カプコン)
* [[ナムコ・ナンジャタウン|ナジャヴの大冒険]](ナムコ)
* [[バーガーバーガー2]]([[ギャップス]])
* [[ハイパーバリュー2800|ハイパーバリュー2800 花札]](コナミ)
* ハイパーバリュー2800 麻雀(コナミ)
* ハイパーバリュー2800 ハイパーパチンコ(コナミ)
* [[PAQA]](SCE)
* [[バスライズ]](バンダイ)
* [[パチスロ完全攻略|パチスロ完全攻略 アルゼ公式ガイド4]]([[シスコン (ゲーム会社)|シスコン]])
* [[パチスロ帝王|パチスロ帝王 〜ビッグウェーブ・ピカ吾郎・BBジャンキー7〜]]([[メディアエンターテイメント]])
* パチスロ帝王Mini 〜Dr.A7〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王2 〜花月・ツーペア・ビーバーX〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王3 〜シーマスターX・イプシロンR・ワイワイパルサー2〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王4 〜おいちょカバX・マジカルポップス・レキオ30〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王5 〜コングダム・フライングモモンガ・スーパースターダスト2〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王6 〜カンフーレディ・バンバン・プレリュード2〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王W 〜アラベスクR・ホットロッドクィーン〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王 〜山佐Remix〜 花月・シーマスターX・マジカルポップス・アストロライナー7(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王7 メーカー推奨マニュアル1 〜ビートザドラゴン2・ルパン三世・ホットロッドクィーン〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王 ビートザドラゴン2(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王 〜バトルナイト・アトランチスドーム〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王 メーカー推奨マニュアル2 〜アイスストーリー〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王 メーカー推奨マニュアル3 アイムエンジェル〜ホワイト2&ブルー2〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王 メーカー推奨マニュアル4 〜エキゾースト・大江戸桜吹雪2〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王 〜バニーガールSP〜(メディアエンターテイメント)
* パチスロ帝王 メーカー推奨マニュアル5 〜レースクイーン2・トムキャット〜(メディアエンターテイメント)
* [[バトル昆虫伝]](ジャレコ)
* [[ハムスターのお出かけ]]([[加賀テック]])
* [[ハムスター物語]]([[カルチャーブレーン]])
* [[ハローキティ|ハローキティ ホワイトプレゼント]]([[ハドソン]])
* [[パワーショベルに乗ろう!!]](タイトー)
* [[Piとメール]](ハドソン)
* [[ファイナルファンタジーVIII]](スクウェア)
* [[ファイヤープロレスリング|ファイヤープロレスリングG]](ヒューマン)
* [[ピングー|fun!fun!Pingu 〜ようこそ!南極へ〜]](SCE)
* [[フィッシュアイズ|フィッシュアイズ2]](ビクターインタラクティブソフトウェア)
* [[ぷよぷよ〜ん|ぷよぷよ〜ん カーくんといっしょ]]([[コンパイル (企業)|コンパイル]])
* [[ぷよぷよBOX]](コンパイル)
* [[ブライティス]](SCE)
* [[プルムイ プルムイ]]([[ディースリー・パブリッシャー]])
* [[ブレンド×ブランド おでかけ合成RPG]]([[トンキンハウス]]/[[東京書籍]])
* [[プロ野球シミュレーション ダグアウト'99]]([[デジキューブ]])
* [[BOYS BE…|BOYS BE… 2nd Season]](講談社)
* [[牧場物語 ハーベストムーン]]([[ビクターエンタテインメント]])
* 牧場物語 ハーベストムーン for ガール([[マーベラスインタラクティブ|ビクターインタラクティブソフトウェア]])
* [[ぼくは航空管制官]](シスコン)
* [[ぽけかの|ぽけかの 〜愛田由美〜]]([[データム・ポリスター]])
* ぽけかの 〜宝条院静香〜(データム・ポリスター)
* ぽけかの 〜植野史緒〜(データム・ポリスター)
* [[ポケ単]](SCE)
* [[ポケットじまん]](SCE)
* [[ポケットダンジョン]](SCE)
* [[ポケットチューナー]]([[リバーヒルソフト]])
* [[ポケットデジモンワールド]](バンダイ)
* ポケットデジモンワールド ウィンドバトルディスク(バンダイ)
* ポケットデジモンワールド クール&ネイチャーバトルディスク(バンダイ)
* [[ポケットファミリー|ポケットファミリー〜しあわせ家族計画]](ハドソン)
* [[ジャンピングフラッシュ!|ポケットムームー]](SCE)
* [[ポケラー]](アトラス)
* ポケラーDXピンク(アトラス)
* ポケラーDXブラック(アトラス)
* [[Pop'n music|ポップンミュージック2]](コナミ)
* ポップンミュージック3 アペンドディスク(コナミ)
* ポップンミュージック4 アペンドディスク(コナミ)
* [[ポポローグ]](SCE)
* [[麻雀鳥頭紀行]]([[メディアリング]])
* [[ミスタープロスペクター ほりあてくん]](アスク)
* [[みんなのGOLF|みんなのGOLF2]](SCE)
* [[ポケラー|メカポケラー]](アトラス)
* [[めざせ!名門野球部]]([[ダズ]])
* [[メタルギアソリッド|メタルギアソリッド インテグラル]](コナミ)
* [[メダロット|メダロットR パーツコレクション]]([[イマジニア]])
* [[桃太郎電鉄V]](ハドソン)(初回版の付属CD-ROMのみ対応。)
* [[モンスターコンプリワールド]]([[アイディアファクトリー]])
* [[モンスターファーム2]](テクモ)
* [[もんすたあ★レース]](コーエー)
* [[遊☆戯☆王 真デュエルモンスターズ 封印されし記憶]](コナミ)
* [[悠久幻想曲|悠久組曲 All Star Project]](メディアワークス)
* [[ヨシモトムチッ子物語|ヨシモトムチッ子大決戦 〜南の島のゴロンゴ島〜]]([[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])
* [[ラーメン橋 (ゲームソフト)|ラーメン橋]]([[トミー (企業)|トミー]])
* [[ラグナキュール|ラグナキュール レジェンド]](アートディンク)
* [[ラブひな|ラブひな 愛は心の中に]](コナミ)
* ラブひな2 〜言葉は粉雪のように〜(コナミ)
* [[ランドメーカー]](タイトー)
* [[リモートコントロールダンディ]](ヒューマン)
* [[ROOMMATE|ルームメイト 〜井上涼子〜]](データム・ポリスター)
* [[ルナティックドーン|ルナティックドーン3]](アートディンク)
* [[レイクマスターズ|レイクマスターズPRO 日本縦断黒鱒紀行]](ダズ)
* [[レイクライシス]](タイトー)
* [[霊刻 -池田貴族心霊研究所-]](メディアファクトリー)
* [[レーシングラグーン]](スクウェア)
* [[レジェンド オブ ドラグーン]](SCE)
* [[ロックマン (ゲーム)|ロックマン]](カプコン)
* [[ロックマン2 Dr.ワイリーの謎]](カプコン)
* [[ロックマン3 Dr.ワイリーの最期!?]](カプコン)
* [[ロックマン4 新たなる野望!!]](カプコン)
* [[ロックマン5 ブルースの罠!?]](カプコン)
* [[ロックマン6 史上最大の戦い!!]](カプコン)
* [[ワールドスタジアムEX|ワールドスタジアム3]](ナムコ)
* ワールドスタジアム4(ナムコ)
* ワールドスタジアム5(ナムコ)
* [[ワールド・ネバーランド2 〜プルト共和国物語〜]](リバーヒルソフト)
* [[われら密林探検隊!!]]([[マーベラスインタラクティブ|ビクターインタラクティブソフトウェア]])
* [[ワンダーウェーブ]](バンダイ)
* [[ONE PIECE とびだせ海賊団!]](バンダイ)
}}
=== PlayStation 2ソフト ===
* [[電車でGO!3通勤編]](タイトー)
* 電車でGO!新幹線 山陽新幹線編(タイトー)
* [[東京バス案内]]([[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]])
== 関連項目 ==
* [[ビジュアルメモリ]] - [[セガ]]が発売した小型ゲーム機兼メモリーカード。
* [[トロとパズル]] - 2020年7月10日に、本機を再現したアイテムが登場。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:PocketStation}}
* [http://www.jp.playstation.com/psone/peripheral/scph4000.html PocketStation プレイステーション® オフィシャルサイト]
{{家庭用ゲーム機/ソニー}}
{{DEFAULTSORT:PocketStation}}
[[Category:コンピュータゲームの周辺機器]]
[[Category:PlayStation]]
[[Category:携帯型ゲーム機]]
[[Category:1990年代の玩具]] | 2003-02-15T15:49:49Z | 2023-12-25T08:28:24Z | false | false | false | [
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"Template:家庭用ゲーム機/ソニー",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/PocketStation |
1,839 | Digital BETACAM | Digital BETACAM(デジタルベータカム)とはSDTV対応の放送および映像制作用デジタルVTR規格の一つである。「デジベ」ないしは「デジベタ」と略される。
1993年にソニーが放送用ビデオ機器としてデファクトスタンダードになったBetacam、Betacam SPの後継を狙って開発、商品化された。10bit量子化のデジタルコンポーネント(YCbCr 4:2:2)記録方式を採用している。音声は4チャンネル。ビデオテープ上へは入力のデジタルコンポーネント映像信号のビットレートを約1/2に低減しDCT圧縮(不可逆圧縮)したのち記録されているが、視覚上の劣化は低く抑えられている。この圧縮方式は既存のビデオ編集機でフレーム単位の編集が行えるようイントラフレーム圧縮方式(フレーム内圧縮方式)で行われており、後継のBetacam SXなどのようなMPEG-2は採用されていない。
使用するビデオカセットの大きさはBetacamと同一であるが、Digital BETACAM対応カセットであることを識別するための検出孔が追加された。カセットのボディは青灰色、リッドは黒色である。BetacamとBetacam SPフォーマットの再生に対応した機種もある。
ソニーは「D-1、D-2」のようにDigital BETACAMをD-4と銘打ちをしたかったのだが、LTC(タイムコード)の記録方式がアナログであったためD-4という規格名にする事は許されなかった。D-4が欠番なのはこの為である。
実際の運用で言えばコンポーネント記録のためドラマの収録やクロマキー映像合成の素材送出、比較的予算の少ないCMの収録も多く、アニメのマスターテープとしては半ば標準フォーマットとして広く使われている。また、DVDのマスターテープとしても標準的といえる。送出では、メディアコストの高いD-2では地方局での制作実情にそぐわないため非常に運用が多い。またスカパー!でも加入者が多く予算のあるチャンネルで採用が多い。 | [
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[[1993年]]に[[ソニー]]が放送用ビデオ機器として[[デファクトスタンダード]]になった[[BETACAM|Betacam]]、Betacam SPの後継を狙って開発、商品化された。<ref>{{Cite web|和書|title=放送業務用制作機材の歴史 {{!}} 映像制作機材 {{!}} 法人のお客様 {{!}} ソニー|url=https://www.sony.jp/products/Professional/c_c/tracks/|website=Sony 映像制作機材|accessdate=2021-06-06|language=ja|first=Sony Marketing(Japan)|last=Inc}}</ref>10bit量子化のデジタル[[コンポーネント映像信号|コンポーネント]](YCbCr 4:2:2)記録方式を採用している。音声は4チャンネル。[[磁気テープ|ビデオテープ]]上へは入力の[[デジタル]][[コンポーネント映像信号]]のビットレートを約1/2に低減し[[離散コサイン変換|DCT圧縮(不可逆圧縮)]]したのち記録されているが、視覚上の劣化は低く抑えられている。この圧縮方式は既存のビデオ編集機でフレーム単位の編集が行えるよう[[イントラフレーム圧縮]]方式(フレーム内圧縮方式)で行われており、後継の[[BETACAM-SX|Betacam SX]]などのような[[MPEG-2]]は採用されていない。
使用するビデオカセットの大きさはBetacamと同一であるが、Digital BETACAM対応カセットであることを識別するための検出孔が追加された。カセットのボディは青灰色、リッドは黒色である。BetacamとBetacam SPフォーマットの再生に対応した機種もある。
[[ソニー]]は「[[D1-VTR|D-1]]、[[D2-VTR|D-2]]」のようにDigital BETACAMを''D-4''と銘打ちをしたかったのだが、[[タイムコード|LTC(タイムコード)]]の記録方式がアナログであったためD-4という規格名にする事は許されなかった。D-4が欠番なのはこの為である。
実際の運用で言えばコンポーネント記録のためドラマの収録やクロマキー映像合成の素材送出、比較的予算の少ないCMの収録も多く、アニメのマスターテープとしては半ば標準フォーマットとして広く使われている。また、DVDのマスターテープとしても標準的といえる。送出では、メディアコストの高いD-2では地方局での制作実情にそぐわないため非常に運用が多い。また[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]でも加入者が多く予算のあるチャンネルで採用が多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ITU-R601]]
* [[D1-VTR|D-1 VTR]]
* [[D2-VTR|D-2 VTR]]
* [[D3-VTR]]
* [[D5-VTR]]
* [[DVCAM]]
* [[DVCPRO]]
* [[BETACAM-SX|Betacam SX]]
* [[MPEG IMX]]
* [[MII]]
* [[HDCAM]]
* [[P2]]
* [[D-VHS]]
* [[W-VHS]]
{{Video storage formats}}
[[Category:ビデオテープ|てしたるへたかむ]]
[[Category:ソニーの製品]]
[[en:Betacam#Digital Betacam]]
[[no:Betacam#Digital Betacam]] | 2003-02-15T15:52:55Z | 2023-09-24T08:16:37Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Digital_BETACAM |
1,840 | 日本のアナウンサー | 日本のアナウンサー(にっぽんのアナウンサー)では、日本の放送局に勤めるアナウンサーについて述べる。
アナウンサーとは、放送するマスメディアが、収拾した情報を元に作った原稿を音読して、視聴者へ伝達する者である。
日本の放送メディアで最初のアナウンサーは、1925年(大正14年)に現在はNHKにあたる東京放送局のラジオ試験送信時に入局した京田武男(東京日日新聞から)、大羽仙外(報知新聞から)で、仮放送開始時さらに2人迎え4人、6月に翠川秋子(後藤新平の推薦)を迎え5人となって愛宕山時代を迎えた。のちにテレビのアナウンサーが登場し、旧来の放送圏域が広い地上波のラジオやテレビに加えて、ミニFMやイベント放送局やコミュニティ放送、ケーブルテレビや衛星放送、インターネットラジオやインターネットテレビなどが登場し、各々でアナウンサーがいる。下記の歴史に詳述がある。
欧米ではニュースは記者の取材活動が重要と広く認識され、取材から原稿の作成・編集、読み上げまで一連する作業や、マイクや録音などの音声担当者やカメラマン、ディレクター、アシスタントディレクターなども含めて組織的連携の全ての役割や人物が欠けても番組は成立しない、と広く認識されている。ニュースでマイクやカメラの前で原稿を読む役割を担う職業を、組織的な責任の最後を担う専門的職業の意味を込めた「アンカー」や「ニュース・プレゼンター」と称する概念が重要視されている。日本は欧米ほどの認識は醸成されておらず、放送で原稿を読む者を単に「アナウンサー」称している。民放では「アナ」と短縮形で呼ばれることも多い。2018年時点でNHKのアナウンサーはおよそ500人で男性の比率がやや高く、民放は局ごとに傾向が異なる。下記の雇用に詳述がある。
現在の日本のアナウンサーは、特定の放送局に社員として所属するアナウンサー(一般的に「局アナウンサー(略称:局アナ)」と呼ばれる)と、特定の放送局に所属しないフリーアナウンサーの2つに大別される。新卒で採用された組織で勤務する「生え抜き」と中途採用者がいる。アナウンサーの採用情報や求人情報は、各放送局のウェブサイトなどに掲載されている。アナウンサーの採用試験を受けるためには、大卒以上の学歴が必要である。アナウンサーという職種は枠が少ない上に一般人の間で知名度が極端に高く誰でも知っている職業なのでこの職業に就くことを夢見る若者が多く、民放キー局やNHKなどでは数名程度の採用枠に対して数千~数万倍の応募者が殺到する、というような状況になっている。#雇用、#採用
アナウンサーは視聴者からの好感度が重視されるが、ラジオのアナウンサーの場合、声や話し方だけでリスナーから評価されるのに対して、テレビ放送の場合視聴者は画面でアナウンサーの顔を見続けることになるので、テレビのアナウンサーは声や話し方に加えて顔立ち・容姿でも視聴者から好感されることが重視される。
民放では高視聴率獲得(およびスポンサー獲得)のためにアナウンサーのタレント・アイドル化を図るという技法も採用されている。
ラジオ放送開始時は経験者や手本になる資料などは存在せず、組織的な研修もできず、新聞記者や編集者から選抜された者が各自で話し言葉のスタイルを模索しつつ遂行した。
1925年(大正14年)3月22日、社団法人東京放送局によりラジオ放送が開始され、東京日日新聞の運動部記者出身の京田武男が第一声を発した。放送開始時のアナウンサーは他に、大羽涛(大羽仙外)、熊崎真吉、桐野音次郎の3名がいる。6月に翠川秋子が入局し、日本初の女性アナウンサーとなった。
日本初のスポーツ実況中継は、1927年(昭和2年)8月13日の第13回全国中等学校優勝野球大会の札幌一中対青森師範の試合を、社団法人日本放送協会元銀行員の魚谷忠が担当した。
1953年(昭和28年)2月1日、テレビ放送が始まる。第一声は志村正順アナウンサーによる局名アナウンスで、続いて当時NHK会長の古垣鐵郎が挨拶した。
1961年(昭和36年)にNHKを退職して独立して1962年(昭和37年)に民放番組の司会に抜擢された、高橋圭三が日本初のフリーアナウンサーである。
「自分の声・言葉」を用い「広く一般に事象を伝達する」ために、アナウンサーは正しい日本語能力を要し、文法・アクセントに加えて放送局が内規する放送用語も順守する。主たる業務を下記する。
上記の「視聴者・聴取者」向けの放送への出演や取材の職務のほか以下のような放送以外の業務もある。
NHKの全国のアナウンサーの人数は、2018年時点で、およそ500人である。
NHKの正局員における現役アナウンサーは東京本部・地域拠点局を含む地方放送局を問わず、古くから男性の方が女性より比較的多い。
民放の放送局における現役アナウンサーは、かつては性別に分けると男性の方が女性より多いという局が比較的多かったが、2018年現在は性別に分けると一つ目は男性も女性も人数が同数という局、二つ目は女性の方が男性より多いという局が増加傾向にある。また、民放の放送局での現役アナウンサーの性別での伸び率は女性の方が高い。
若手を中心に宿直・早番・遅番などの交代勤務があり、早朝や深夜の生放送を担当する場合も含め、勤務時間や生活サイクルが不規則になる例も多い。報道・情報番組は準備のため放送開始2時間前には出勤する必要があるため、早朝番組で生放送する出演者は深夜(2~3時)に自宅を出る(もちろん公共交通機関は一切動いていないので、局差し回しのタクシー、または許可を受けて自家用車で出社。自動車通勤は交通事故の懸念から通常は許されていないが、地方局では通勤のための交通機関がない場合もあり自動車通勤が認められている放送局もある)など、その勤務実態は過酷である。
職務の性格上、勤務は曜日が基準となり祝日も無関係であるが、一般に年に1回5日間程度のまとまった休みをとることが認められている。一部放送局では、労働組合との協定で週休2日制を強く守っている場合もある。(NHKの地方局ではその傾向が顕著である)社員であるため年次有給休暇も与えられるが、ほとんど消化できないのが現状で、1〜2か月まとめて消化してから退社する若しくは定年退職者は嘱託に移行といった例も多い。正職員アナウンサーが嘱託となって継続雇用される場合でも、同様の例が多い。(シニアスタッフは除く)但し、地方局では嘱託職員は勤務日数が正職員よりも少なくなることも近年では目立っている。さらに、嘱託を過ぎてからの再雇用制度であるシニアスタッフ(基本的には正社員としての雇用期間を満了した60歳以上の職員、場合によっては70歳以上の職員。NHKにおいては定年時に嘱託になるかシニアスタッフになるか選ぶことができるようになっている)においては、東京本部においても、多くても勤務日数は週4日程度に抑えられている。東京本部においては、中には週1日や週2日の勤務をしているシニアスタッフも極僅かではあるが存在している。地方局では週4日や週3日勤務が基本であるなど、近年では定年退職者を中心に柔軟な働き方も見られるようになっている。しかし、正職員の働き方は今現在も過酷であり、改善はあまり進んでいない現状がある。
曜日方式の場合、原則民放は年末年始を除く月曜~金曜と土曜日曜、NHKは月曜~金曜と土曜日曜祝日でシフトが分かれる。ただし、昭和時代は土曜日が平日の延長という意識の時代背景から週の後半の平日(木曜金曜もしくは金曜)と土曜もしくは土曜日曜までの2班方式で行う人事もあった。週休2日が定着したり平日のニュース枠がワイド化したあとはほとんど行われなくなっていたが、近年は働き方改革でこのような人事がNHKなどを中心に復活しつつある。
また、平成時代までは週末班のアナウンサーが平日班の夏休みになると代役で平日分もまとめて16連勤などをする勤務が見られたがこれも働き方改革により行われなくなってきている。一方土日の大きなニュースや国政選挙の開票特番は平日の担当者が休み返上で行うことが多い。
お盆が平日である場合はそのまま平日担当のアナウンサーが担当するが、年末年始は特別人事が採用され平日週末の担当どちらも冬休みや年末年始の特番、スポーツの実況に回ることが多い。
地方局の場合はスタッフの人員が少ないため、アナウンサーであっても報道記者やディレクターなどの裏方仕事を兼務する例が少なくなく、支局駐在となる例もある。
局アナウンサーは、編成部門のアナウンス部あるいは放送部、報道部(記者兼務や出向など)などに属している。労働条件については正社員のほか、契約社員として勤務している者もいる。局アナウンサーは「社員」なので、基本的に局内に机もあり、仮眠室・食堂・ネットワーク・保険など社内の施設・福利厚生を利用できる。
放送局の正社員・契約社員として所属している者のほか、芸能事務所・制作会社からの派遣社員も存在する。在京キー局ではTBSのTBSニュースバードのキャスターや、TBS954情報キャスター(ラジオのみの出演)などが派遣社員でほぼ派遣先の放送局の専属出演する。TBSの場合、これらのキャスターは地上波放送への出演は少なく、それぞれCS放送やラジオへの出演が中心となる。局によっては「リポーター」「パーソナリティ」と称する。なお、ラジオ局の場合は中継車の運転やディレクター業務などアナウンス業務以外の業務も担うことがある。
フジテレビは、かつて「専属リポーター・司会者募集」の名目でアナウンサーを募集していた。これは当時同局に存在していた「労組・第二労組」の2組織に対し、創業者の鹿内信隆が、組合所属のアナウンサーをそのまま“アナウンサー”と呼び、第二組合の所属者を“リポーター”(正式名は「報道局解説放送室付リポーター」)や「司会者」と呼んで差別化を図っていた、いわゆる会社の内紛に起因した事象である。どちらも業務内容は全く同じで、これがアナウンサー採用試験と知らずに受験した者もいた程だった。田丸美寿々や辛坊治郎らもその一員とされる。辛坊はこの事実を知りフジテレビに入社せず、読売テレビに入社した。
GyaOは「ギャオーディション」というオーディション番組でアナウンサーを募集した。これはGyaOでのアナウンス業務をはじめ、ドラマ・バラエティ・映画など、自社媒体の番組へ出演する者の公募であり、GyaOを運営していたUSENの社員としての募集ではないので、一般にいわれる局アナウンサーとは意味が異なる。
契約局員 (NHK) ・契約社員(民放など)は「契約アナウンサー」と呼ばれる。人件費削減の波を受け増加傾向にあるが、契約社員の直接雇用等、今後の課題が多く残されている。
契約アナウンサーは女性に多く、男性では少ない。
NHKは多くの場合、女性アナウンサーの事例にあてはまる。職員・契約を合わせたアナウンサーのうち、女性は職員アナウンサーが少なく、配属されていない地方放送局もある。そのため、各放送局が個別で契約アナウンサーを採用する例が比較的多い。
芸能事務所(東京・地方を問わず)に所属している放送局の契約アナウンサーも少なからず存在している。
契約アナウンサーをキャスターまたはリポーターと称している。そこからNHKの正職員・局アナウンサーとなったのは、現在までのところ森田美由紀と荒木美和の2人のみであり、非常に狭き門となっている。
民放ローカル局を中心に契約社員を採用する局が増加しており、非正規雇用がアナウンサーの分野にも広がっている。
この場合の「フリー」は、放送局と直接の雇用関係がないことを指す。完全なフリーランスでなく、人材派遣事務所や芸能事務所などに所属している者もこう呼ばれる。
局アナとフリーアナウンサーの仕事内容に実質的な違いはないが、雇用形態に大きな差がある。局アナは社員・職員としての給与と仕事の供与、労働三権が保証されている代わりに、社命である業務や異動を基本的に断れない。勤務地が大きく変わることはないが、別の分野を担当させられる。要は局アナは「会社員」(NHKのみ「団体職員」)であり、その権利と同時に組織の一員としての義務を負い、局の方針に反することはできない。一方、フリーアナウンサーは、雇用契約の契約書の形式や内容が異なり、仕事内容が明記・限定された形で契約書に署名する(つまりその特定の仕事限定、端的に言えば、特定の番組限定で出演する契約を結ぶ)。仕事の契約は、事務所や知り合いの紹介、オーディションなどを通じ自ら競争を勝ち抜いて獲得する必要があるが、別の角度から言えば、嫌な仕事に関しては契約を結ばなければよいので「仕事の内容を選ぶことができる」とも言える。逆に言うと、仕事内容や契約相手の局は選べるかわりに、どの局からも相手にしてもらえず、全く仕事が無い状態になり無収入になってしまう可能性もある、とも言える。つまりテレビ局の側にも、多数のフリーアナウンサーの中から自局に都合のいい人を選ぶ自由があり、契約を結ばない自由がある。
フリーになる人の動機はさまざまである。そもそも最初からフリーアナウンサーとして活動している人々もかなりの数いる。別業種からの転職者もいる。局アナがその局の番組に出演して獲得した知名度を活用して(その知名度を他局に高く売れるあいだに、と)フリーになる場合もあり、その場合、単純に高収入の可能性があることに惹かれてそれを選ぶ人もいる。「自分を試したい・仕事の幅を広げたい」という理由を挙げる人、つまり他局でフリーでならばもっと違う仕事で実力を発揮できるはず、と感じるから(あるいは、そういう建前で)フリーを選ぶ人もいる。もっと違う理由で、たとえばテレビ局が報道らしい報道を行っておらず権力者におもねったような腐った報道をするばかりで、おまけにテレビ局のプロデューサーがスタッフやアナウンサーに対してセクハラを連発していて、そういう問題だらけのテレビ局にうんざりして、別の局で仕事をするためにフリーになる場合もある。
フリーになった後の報酬の額は、一種の「運」や、自身のアナウンサーとしての実力、自身の世渡り術、そして外部の諸要因という大きな要素群など、さまざまな要因が影響する。成功できると思って退社してフリーになった途端に病気に罹ってしまい、無収入になってしまう場合もある。自分には実力があると信じ高収入を得られると期待してフリーになっても、ふたを開けてみたら収入が大幅減となってしまい、後になって自己評価と他者評価に大きな乖離があったことに気付かされる場合もある。運にも恵まれ、外部要因にも恵まれ、かつアナウンサーの実力もあり、世渡り術にもたけている場合は、フリーアナウンサーになることで局アナよりも高額の収入を得られる例もある。(ただしフリーアナウンサーは各種手当や福利厚生もなく、業務必需品は自分で揃える必要があり、実は単純に額面通りの差だけ豊かになるわけではない。正社員というのは、"見えない"形で様々な報酬を得られており、フリーになるとそれが消滅する、という面はある。)。仕事のミスに対する批判や視聴率の評価は、局アナウンサー以上にシビアであるとされる。(野球チームが雇う「助っ人外人」のように)即戦力扱いで実際に高視聴率という結果が出た場合は「便利なコマ」として扱かってもらえて高報酬を払ってもらえる可能性が高いが、一旦、何かの拍子に視聴率低迷などという現象が起きると、実力不足などと判断され、(「もはや用なし、と判断された 助っ人外人」のように)番組プロデューサーから簡単に見切られがちで、つまり一種の「使い捨てのコマ」扱いで、単純に契約解除となり、局アナ(正社員)のような「セーフティネット」は無く(他番組の仕事をあてがってもらえるわけでもなく、他部門に所属する形で給料を支払ってくれるわけもなく)、仕事も無くなり無収入になってしまう可能性もかなりある。つまり局アナからフリーアナウンサーになることは、わかりやすく言うと一種の《賭け》であり、博打(ばくち)を行うような状態、「イチかバチか」の状態になる。そんなわけで、フリーになると決め辞表を提出した時は平気だったのに、いざ退社の時期が迫って自身の境遇が変化することをひしひしと感じ始めると悪夢を見たり、辞めてしまった後になっても、辞表を出したこととか辞めたこととか全部ナシにならないかな...と思ったり、もう今さらしょうがない、と思うなどして、長期間気持が揺れ続ける人もいる。
なお、局アナが所属局を退職してフリーアナウンサーに転身する場合、古巣局への義理立ての意味もあり、フリー転身直後は一定期間他局への出演を控えるという慣例がある。明確に一定期間他局に出演しないと古巣局と取り決めを持つ場合もある。系列局制作番組や企業のコマーシャルへの出演はフリー転身直後でも可能の場合あり。
その一方で、大塚範一、小倉智昭、露木茂、羽鳥慎一、武田真一のようにフリー転身の翌月から他局でレギュラー番組を持つという例外もある。特に羽鳥は日本テレビ退職の数日後にテレビ朝日でレギュラーでの冠番組を開始させた。この時は日本テレビ・テレビ朝日両社上層部との話し合いがあったという。羽鳥のこの離れ業でフリー転身後の身でも他局からの仕事を請けやすくなったという向きもある。また、一時期の三雲孝江、小宮悦子、高島彩、ラジオ局の元アナウンサーなどのように、フリー転身後も他局ではほとんど仕事をせず、古巣局制作番組しかほぼ出演しないという人物も存在する。なお、羽鳥は退職後にレギュラー番組を持ったテレビ朝日系と古巣局である日本テレビ系の制作番組にしかほぼ出演していない。
NHKアナウンサーがフリーとなる場合、初めのうちは民放局と専属契約を結び、軌道に乗ったら完全フリーに、という傾向が多い。羽佐間正雄、久保純子のようにNHK退職直後にNHKと専属契約した人物もいる。ただし、専属契約となる形でのフリーだけではなく、在京キー局や在阪準キー局への移籍というパターンもある。また、民放局と違い、退職後にNHKの番組に出演することはほぼない(有働由美子、武田のような例外もあるが)。
新卒採用の場合、4年制大学卒業を必須としている局がほとんど(地方局では短期大学卒業者を採用対象とするところもある)で、さらに募集要領には年齢制限、留年制限を設けているところが圧倒的に多い。また、大学のコースは文系・理系は関係無く採用対象となる。また、NHKのみ毎月のNHK受信料を払っている事も条件である。また総務、制作などの部門とは採用枠が別に設けられていることも多い。前述の通り非常に人気の高い職種であるため、その競争率は非常に高くキー局アナウンサー試験の倍率は芸能オーデションの倍率をも凌駕する倍率である。居住地や出身地以外、さながら日本全国の放送局に対し応募書類を送ることも珍しくはなく、面接の度に日本全国を行脚する志望者もいる。学生時代にアルバイトでアナウンサーやリポーターの経験を積むか、アナウンススクールで指導を受けた方が有利であるとされる。
採用試験(面接試験を含む)では正しい日本語が話せるか、好印象を与える雰囲気・容姿を持つか、とっさの機転が利くかなどが重視される。語学やスポーツといった、業務に活かせる得意分野が求められる場合もある。
入社後は、数か月間の研修の後、短時間のナレーションや提供読み、スポットニュースのような難易度の低いとされる業務に就き、多くの場合、入社後半年から1年でレギュラー番組出演となる。初めての生放送出演は「初鳴き」と呼ばれることもある。稀に、研修と並行して4月の入社時からレギュラー番組を獲得する例もある。こういった例は人員の少ないローカル局がほとんどだったが、後にキー局でも見受けられるようになった。放送局などが直接運営するアナウンサースクールを実質研修の場と捉えていることがある。また災害対策基本法指定公共機関に指定されているNHKでは、深夜のニュースの放送終了後、全職員を対象にした災害発生時(特に緊急地震速報・津波警報発令時)の緊急報道訓練をほぼ毎日実施しており、アナウンス部所属局員もその訓練を受ける。
非大都市圏の放送局を中心に、コストダウンのため、新卒採用であっても正社員としてではなく、期間を区切った契約職として採用する事例が増えつつある。これらの場合、契約満了時に解雇するか、それとも契約延長または正社員転換で残留させるかは、それぞれの放送局の判断に委ねられている。
2001年10月1日にTBS(現・TBSホールディングス)がラジオ部門を分社化させたのを皮切りに、認定放送持株会社移行を含むラジオ・テレビ部門の分社化が相次いでいる。分社化したテレビ・ラジオ各局のアナウンサー募集・採用は人件費削減の観点からテレビ局側が行っており、ラジオ局に「アナウンサーの派遣業務」としてアナウンス業務を行っている。さらに、ラジオ局の送信所保守管理も経費削減の観点からテレビ局に委託している。
多くの放送局では、アナウンサーは専門職とされるため、業務内容が大幅に異なる部署への異動になることは少ない。ただし、業務内容が近い報道記者への異動や解説委員就任、国内外の拠点への異動、本人の強い希望がある場合の異動もある。また、報道記者に転出しても主にワイドニュースなどニュースキャスターとして出演を継続する元アナウンサーもいる。地方局の一部ではアナウンサーの肩書きを残したままで報道記者兼任という場合もある。また、現在は少なくなったが、放送局を新規に立ち上げる際、所属予定の系列局もしくは立地地域の既存の放送局から新設局のアナウンス部門の指導員として出向する例もある。
従来は異動の少ない業種だったため、一般部署への配置転換が否定的に報じられる事もある。しかし2000年代頃より、アナウンサー個人のスキャンダルに対する一種の懲罰や、テレビ放送の完全デジタル化による負担増に伴う人件費抑制策などで人事異動を全社規模化する放送局が増えており、アナウンス業務から外される事例は珍しくなくなっている。
NHKの女性職員アナウンサーも以前は東京本部(渋谷)に転勤になるとほとんど動かない例が圧倒的だったが、2010年代に入ると40歳代以上は管理職として、30歳代については男性局員との格差是正を主眼として、渋谷から強制的に転勤させる例が急増している。2011年は、年度替わりに30歳前後の2人が渋谷から出されたほか、6月24日付の幹部級人事では一気に5人が地域放送局のアナウンス統括職に起用され渋谷から転出、1人が渋谷内部で配置転換となった。なお、NHKの男性局員は全国各地を転々とするのが普通で(管理職クラスでも例外はなく、2021年には武田真一が大阪局に転勤した。)、その途中、人事でアナウンス部門から離れることも珍しくない。入局以来、渋谷で働いた経験がないという事例も少なくないほか、渋谷で長く残れる人もほんの一握りである。中にはその地方の土地柄や環境などを気に入り、家まで建ててその地方局に継続的に、または職歴の大半において在籍するアナウンサーも極く僅かではあるが存在する。(一例としてNHKでは盛岡局の上原康樹(現・岩手県議会議員)、佐賀局の三上たつ次など)
鈴木史朗(当時TBS)のように別部署に異動していた元アナウンサーが復帰する例があるほか、報道記者が転身する例もある。対して、他部署から新たにアナウンサーになる例は、1980-90年代のテレビ東京などに見られる程度で少ない。また、アナウンス部以外の部署に所属していても番組出演機会がある場合、「アナウンサー」の名称を用いる例もある。
キャリアを重ねて管理職や役員待遇になると「チーフアナウンサー」や「エグゼクティブアナウンサー」の肩書きを持つ例が多い(主にNHK)。管理職もしくはベテランアナウンサーとなると、後輩の指導を行うほか、部内のアナウンサーのスケジュール管理業務や経営・企画会議の参加が増えるため、番組出演がやや少なくなる傾向にある。ただし、労働争議によるストライキで組合員である若手アナウンサーが出演を見合わせた場合、彼らの代役として主に生放送番組に出演する例もある。主にスポットニュースやワイドニュースが該当する。ただし番組によってはワールドビジネスサテライトのように、元々担当しているフリー契約のアナウンサーやナレーターのみで乗り切る例もあれば、補いきれない場合は管理職のアナウンサーが出演する。ただ局によってテレビ東京のように人員が少なく補いきれないこともあり、その場合は同じ局で出演している同種番組のフリーアナウンサーが担当することもある。
アナウンサー現職のままの役員就任は、2003年に朝日放送取締役に就任した道上洋三(2007年に退任、現:常勤顧問)などの例はあるものの稀で、アナウンサー経験者の役員の多くは他部署への異動後に就任している。
仕事を求めて別の局へ移籍する例もある。地方局は契約社員であるなど身分が不安定なこともあってとくに多く、3社以上を渡り歩く者もいる。中途採用は経験者がほとんどであるが、異業種からの転職も見られる。
地方局を中心に複数の放送局に在籍している(していた)局のアナウンサーは多く存在している。また、1つの放送局の在籍期間は放送局を移籍した2局目か2局目以降に在籍した期間が最初に在籍した放送局よりも長いと言う例も多い。
該当者はCategory:スポーツアナウンサーを参照。スポーツ中継の実況担当は男性アナウンサーが務めることが圧倒的に多い。
中立且つ冷静な放送が求められるアナウンス職にあって、自らの興奮や感動をストレートに表現することが許される分野で、野球のホームランシーンなどを大声で伝える「絶叫型」アナウンスがある。しかし、これを良しとしない意見もあり、視聴者・聴取者(リスナー)の好みによる所が大きい。また、世相や試合状況にアナウンサーが応えられるかにもよる。
1936年のベルリンオリンピックで、水泳女子の前畑秀子が金メダルを獲得した際、ラジオ中継を担当していた河西三省は、激しいデッドヒートを受けて「前畑頑張れ!前畑頑張れ!」と38回連呼し、日本中に感動と興奮を伝えた。
一方で、2000年9月14日のシドニーオリンピック、サッカー日本代表の試合で得点の際「ゴール!」を20回以上(最大29回)叫んだ日本テレビの船越雅史(現在はアナウンス職から離脱)の実況には多くの批判・抗議が寄せられた。
そもそも使用例が少ないが、特に三大都市圏以外の道県において、放送局の放送圏域内で生まれ育って、同局でアナウンサーとして活動する者を指す(ただし、単に「地元の放送局所属のアナウンサー」という使用例もある)。
NHKは全国組織であるため、基本的に一定年数同じ地域に勤務した場合は、他の地域へ転勤となる。このため、出身地で勤務できる可能性はそれほど高くない。しかし逆に地元勤務となった場合は、そのことを最大限に利用して地域社会に貢献することができる。近年各放送局の役割再強化を図っているNHKに於いては、ご当地アナウンサーは重要な戦力となる。
富山では、山田重光が福岡を一旦離れてUターンして以降、アナウンスを統括する放送部副部長が3代続けて地元富山県出身者となっている。隣の新潟では、2009年8月の時点で6人いるアナウンサーの半分が地元新潟県出身者だった(後に転勤で1人出て2人に)。拠点局ではない一般放送局でこうした事例はまれである。山形県では、柴田徹がUターン後、山形弁でふるさとを語るバラエティ番組『今夜はなまらナイト』を立ち上げ、今や全国にファンを有する。拠点局でも、名古屋は単身赴任者を含め愛知県出身者が多く在籍している。
民放はNHKと異なり、特定地域だけをエリアとする。「キー局」と呼ばれる在京局も、本来は東京都または関東のローカル局であり、NHK以上に地域に根差した活動を行っている。
民放の中には、法令改正で差別的雇用が禁じられるまで、アナウンサーの採用にあたって、その放送局が所在する都道府県の出身者に限るという条件を付ける場合があった。
サガテレビでは、少なくとも1990年代までは正社員としてのアナウンサー採用を佐賀県出身者に限っていた。県外出身者については、あくまでもニュース番組のアシスタントとしての扱いだった。現在は特に女性アナウンサーを契約職採用中心に切り替えたため、こうした制限はなくなった。正社員アナウンサーは公式サイトに全員入社年が記されており、2010年に花田百合奈が初の県外出身正社員アナウンサーとして入るまで全員が佐賀県出身者だった。
テレビ大分では、現在でもアナウンサーの採用を大分県出身者に限っている模様である。しかし、小笠原正典アナウンサーと、田辺智彦アナウンサーは、県外生まれである。そのため、アナウンサープロフィールの出生地が、その他のアナウンサーと違う。
女子アナウンサーは、通称「女子アナ」として、その「タレント化」が顕著であるとされる者を特に指し、揶揄的に用いられる場合がある。特に民放、中でも東京キー局では「タレント化」の傾向が極めて著しい。
1980年代後半以降に採用された女子アナウンサーの大半が、俗に言う「ブランド大学」(東京六大学や関関同立など)の出身であり、またミス・コンテストの準グランプリやミスキャンパスに選出された経歴を持つ者も少なくない。また、業務上必要なアナウンス技術よりも、容姿を優先したり、誤読やトチリなど本来は許されないはずのミスを視聴率獲得のため珍重した結果、芸能人さながらの扱いを受ける例が多いと見る向きもある。さらに2000年代以降は平井理央、紺野あさ美、宮澤智、斎藤ちはる、市來玲奈など元アイドルが女子アナとなる事例が見られる。
「下手な芸能人を使うより、自局の女子アナを起用した方が視聴者受けがよく、しかも安価」と彼女らを「商品化」するのは、「とにかく視聴率ありき」という商業主義の民放テレビ局の姿勢も大きいと見られる。また、女子アナにコスプレをさせることも多い。
その結果、キャリアを積み、「読みの技術」が高まった中堅アナウンサーを、「若い方が良い」、「バラエティ番組で使いづらい」との理由で冷遇する傾向があり、これは「女子アナ30歳定年(限界)説」なる言葉をも生んでいる。ただ、NHKでは女性であっても入局後数年間は東京・渋谷以外の地方局に配属してアナウンサーとしての技量を磨きキャリアを積ませるという方針があり、「若さ」や「鮮度」よりもアナウンサーという「職業」として求められる技量を重視する傾向が強いので、民放とは全く事情が異なる。そのため、NHKでは逆に30歳を過ぎた中堅局員(和久田麻由子局員など)が重用される例が多い。
民放では「売れっ子」女子アナウンサーはその多くが20歳代で、30歳前後の年齢を一つの転機と見るのは一般的なOLと同じである。さらに「見られる職業」の最たるものであるため、その「鮮度」が露骨に求められ、30歳頃までに人気や実力を確立できなかった者は、容赦なく裏方に配置替えされ、次々に姿を消していく。「女子アナ30歳定年(限界)説」はこういった事象を背景にしており、女子アナウンサー本人がこれに言及している例もある。フジテレビジョンは1969年まで、女子社員にのみ25歳定年制を敷いていた。
女子アナは男性プロデューサーやバラエティ番組で共演する男性タレントからセクシャルハラスメントを受けることが多くあるほか、局の幹部から接待の相手役に繰り出されることも多いとされる。これらの行為にも女子アナは番組キャスティング権を持つ重役からの命令であるため、否定できないという。女子アナがフリー転身を決断する背景にはこの風潮も一因であるとの見方もある。
かつて女性アナウンサーの担当する分野は、料理、育児、手芸をテーマとする番組や、インタビューの聞き手などが主だった。
今日のようにタレント並みに注目を浴びる女子アナウンサーにつながる系譜は、1975年フジテレビに入社し、同局初の女性キャスターとなった後、女子アナウンサー史上初のスキャンダルを起こした田丸美寿々や、1978年NHKに入局し「TVガイド」の表紙を飾ったり、民放への大型移籍や玉の輿婚が話題になった頼近美津子らを端緒とする見方や、1980年代前半のフジテレビアナウンサーによる当時は異例だった「コント色の強いバラエティ番組への参加」からなど、いくつかの見方がある。1977年入社の益田由美は、なるほど!ザ・ワールドで体を張ったリポートで、「ひょうきん由美」と呼ばれ親しまれた。1980年入社の山村美智子、1984年入社の寺田理恵子、1985年入社の長野智子は、オレたちひょうきん族に「ひょうきんアナウンサー」と称され司会を務めた。
女子アナウンサーは「女子アナ」と略されることが多いが、この略語を誰が最初に作ったのかは定かではない。「女性アナ」という言い方ではこれ以前からあった。頼近のフジテレビ移籍を報じた1981年当時の週刊誌には「女性アナ」という表記が多く使われている。初出と見られるのは『週刊宝石』1982年10月29日号。記事の見出しに「フジテレビの女子アナの目立ちたがり戦争花盛り 再び野球拳で脱いだ田丸、連日ゲームセンター通いの頼近、フジの看板娘山村、益田......。人気女子アナの奮闘ぶりは? 」と2度も「女子アナ」という言葉を使用している。同記事は田丸美寿々、頼近美津子、山村美智子を取り上げた記事だったが、記事本文には「女子アナ」という言葉は1度も使われず、「女性アナ」が5度、「美人アナ」が2度使われている。この半年前の同じ『週刊宝石』1982年4月17日号は田丸と頼近の2人を取り上げた「第2の田丸・頼近を目指すテレビ局の新人美女を全角度品さだめ! ブラウン管に登場するフレッシュギャルを誌上紹介」というタイトルだったが、この号には「女子アナ」という言葉は使われていない。『週刊宝石』1982年10月29日号が初出か、或いは他のマスメディアが1982年春から秋にかけて使用して、それを『週刊宝石』が真似て使用したかは分からない。
1987年にフジテレビ出版から発行された同局アナウンサーを取り上げた書籍『アナ本』の中に「女子アナ」という表記が見受けられる。現在も「女性アナ」と表記することもある。「女子アナ」と「女性アナ」という表記が混在する記事もみられる。2001年には句点付きの『女子アナ。』と題するドラマまで制作された。
続編として1991年に発行された『アナ本2』では、当時「花の三人娘」と呼ばれた、有賀さつき、河野景子、八木亜希子に焦点が当てられた。1993年には、日本テレビの人気アナウンサー永井美奈子ら3人からなるユニット「DORA」が結成され、CDをリリースした。
女子アナウンサー路線はフジテレビ、次いで日本テレビが先行していたが、TBSには1993年に雨宮塔子が、1994年に進藤晶子が入社しそれぞれバラエティ番組とスポーツ番組で局の看板アナウンサーとなった。NHKには1994年に久保純子が入局し看板アナウンサーとなった。以後女子アナウンサー人気の定着とともに、各局とも女子アナウンサーと呼ばれるアナウンサーが増えていった。
1990年代後半から芸能事務所「セント・フォース」などは女性キャスター、リポーターに特化したマネージメント展開を行い、各局のニュース・ワイドショー番組に所属タレントを派遣。各局を退職したアナウンサーを所属タレントとして受け入れるほか、学生の所属タレントがその後、出演していた局のアナウンス職として採用される事例も存在し(本田朋子など)、さらには局との共同出資で芸能事務所(フォニックス)を設立するなど、局と事務所、相互の関係を深めている。
また、滝川クリステル(共同テレビ→フリー)、葉山エレーヌ→石田エレーヌ→葉山エレーヌ(日本テレビ)、加藤シルビアや小林悠(共にTBS)、ヒロド歩美(ABCテレビ)など、ハーフのアナウンサーが多く起用される傾向も見られる。外国人とのインタビューに際し通訳を介さず直接取材できる人材としての帰国子女や海外留学経験者と同等の理由で採用されているが、日本人のハーフに対するイメージから採用が多くなっているとも見られる。滝川、葉山(石田)などは当初は日本名で活動していたが、局のイメージ戦略のために意図的に外国名を名乗っており、タレント化の是非を巡る議論の一端となっている。
バラエティ番組やクイズ番組などで、社会的常識に欠ける発言や回答をするアナウンサーが時折見られる。これは「資質低下」だと厳しい指摘がされることが一般的だが、視聴率獲得目的の「演出」や一種のやらせも入っていることがある、と内幕が暴露されることもある。元日テレアナウンサーの石川牧子が「若者の読み書きの能力は年々低下している」「入社希望の学生の漢字テストの成績が良くない」と語っている他、日本テレビOBの福澤朗も自身のブログで、「非常に憂慮している」とした上で、「テレビはもうアナウンサーを必要としていない」と苦言を呈している。有賀さつきは、出演者の瞬間的なリアクションに、自分を含めた番組製作者らは台本にはない魅力を共有しており、自分もボケの役割をある程度進んで引き受けていたことや、社会的常識があるはずの局アナのイメージを逆手に取った、演出の一面があったことを明かしている。
日本の局アナウンサーは放送局の企画で歌手デビューをしたり、ドラマや映画にチョイ役の俳優として出演するという例も存在する(劇中の情報・報道番組に出演するキャスター役に起用されることもある)。
例外的ではあるが、局アナウンサーであっても、放送局同士のコラボレーション企画等により他局の番組に出演する例もある。この影響で局アナウンサーが裏番組と重複出演となる例もある(詳細は「小林麻耶」の項を参照)。その他、放送局同士の共同制作番組を放送する際、その広告に各局アナウンサーが勢揃いで出演することもある。また、東京オリンピックに向けて様々な局同士の連携がなされた。
本名で活動する者が多いが、中には芸名を用いる者も存在する(局アナ・フリーアナウンサー双方。ラジオの場合は「マイクネーム」と呼ばれることもある)。
局アナウンサーの中には会社への報告を行う事を条件として、講演会や結婚式の司会などの副業を行う者も存在する。有名になるに連れてだんだんとアルバイトでの収入も増え、所属局から貰う給料の倍以上の額を稼ぐ程になることもあるという。
テレビ局所属のアナウンサーはかつて水着着用で番組出演をする場面が見受けられたが、1990年代後半頃からは各局男女ともに水着姿での出演を規制するようになった(ただし、例外もある)。2015年現在、日本テレビの場合、アナウンサーを極めて高度な清廉性が求められる職種と位置づけている。
後述のように、放送メディア以外の分野でアナウンス活動を行うものも存在する。後述以外にも「ラジオパーソナリティ」、「ディスクジョッキー」、「声優」、「ナレーター」、「朗読家」なども求められる資質が似ていることから、アナウンサー業と掛け持ちする例がある。
選挙立候補者の応援演説や、選挙カーから候補者名や政策を連呼する活動が知られる。女性の場合、その声を鳥に例え「ウグイス嬢」と呼び、むしろ正式な呼称がない状態が生じている。男性の場合「カラス君」や「カラスボーイ」の俗称があるが、女性が一般的なのであまり使われない。
アナウンスは英 announce 、announcement であるが、場内アナウンスとは、催し物の会場の中や駅の構内の人などに放送で呼びかけること。競技場やホールなどで、選手交代や演目などの案内を観客に告げる職業。
用例でみられるのは、『風ふたたび』(1951、永井龍男)に、野分かな「ざわめき立った客席へ、場内アナウンスが道原の名を呼びかけた」、『星のない街路』(1958、北社夫) 「さまざまな人種の旅人がバッグをさげて行きかっている。合間を案内を告げる場内アナウンスが縫ってゆく」など、使用されている。
女性の場合「ウグイス嬢」の俗称が、男性の場合は「スタジアムDJ」と称される場合がある。これらと意味合いの異なる場内アナウンスとして、競馬などの公営競技における場内実況(中央競馬におけるグリーンチャンネル等の他媒体向けの実況と同じ)を担当する職業もある。
プロレス、ボクシングなどの格闘技において選手コール、進行業務などをするアナウンサー。実況アナウンサーとは異なる。
商品説明や司会進行を担当するイベントコンパニオン。
顔写真・生まれた月日(テレビ朝日は掲載していない。NHKに至っては生年も非公表)・大まかな出身地・血液型は掲載されている例が多く、対して放送局に入社した時期・生まれた年・出身大学・身長などは掲載されていない例も多い。なお、公式ウェブサイトの顔写真は公式プロフィール写真として、番組や放送局関連のイベントのウェブページや案内に使われる例が多い。 | [
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"text": "日本のアナウンサー(にっぽんのアナウンサー)では、日本の放送局に勤めるアナウンサーについて述べる。",
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"text": "アナウンサーとは、放送するマスメディアが、収拾した情報を元に作った原稿を音読して、視聴者へ伝達する者である。",
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"text": "日本の放送メディアで最初のアナウンサーは、1925年(大正14年)に現在はNHKにあたる東京放送局のラジオ試験送信時に入局した京田武男(東京日日新聞から)、大羽仙外(報知新聞から)で、仮放送開始時さらに2人迎え4人、6月に翠川秋子(後藤新平の推薦)を迎え5人となって愛宕山時代を迎えた。のちにテレビのアナウンサーが登場し、旧来の放送圏域が広い地上波のラジオやテレビに加えて、ミニFMやイベント放送局やコミュニティ放送、ケーブルテレビや衛星放送、インターネットラジオやインターネットテレビなどが登場し、各々でアナウンサーがいる。下記の歴史に詳述がある。",
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"text": "欧米ではニュースは記者の取材活動が重要と広く認識され、取材から原稿の作成・編集、読み上げまで一連する作業や、マイクや録音などの音声担当者やカメラマン、ディレクター、アシスタントディレクターなども含めて組織的連携の全ての役割や人物が欠けても番組は成立しない、と広く認識されている。ニュースでマイクやカメラの前で原稿を読む役割を担う職業を、組織的な責任の最後を担う専門的職業の意味を込めた「アンカー」や「ニュース・プレゼンター」と称する概念が重要視されている。日本は欧米ほどの認識は醸成されておらず、放送で原稿を読む者を単に「アナウンサー」称している。民放では「アナ」と短縮形で呼ばれることも多い。2018年時点でNHKのアナウンサーはおよそ500人で男性の比率がやや高く、民放は局ごとに傾向が異なる。下記の雇用に詳述がある。",
"title": "概要"
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"text": "現在の日本のアナウンサーは、特定の放送局に社員として所属するアナウンサー(一般的に「局アナウンサー(略称:局アナ)」と呼ばれる)と、特定の放送局に所属しないフリーアナウンサーの2つに大別される。新卒で採用された組織で勤務する「生え抜き」と中途採用者がいる。アナウンサーの採用情報や求人情報は、各放送局のウェブサイトなどに掲載されている。アナウンサーの採用試験を受けるためには、大卒以上の学歴が必要である。アナウンサーという職種は枠が少ない上に一般人の間で知名度が極端に高く誰でも知っている職業なのでこの職業に就くことを夢見る若者が多く、民放キー局やNHKなどでは数名程度の採用枠に対して数千~数万倍の応募者が殺到する、というような状況になっている。#雇用、#採用",
"title": "概要"
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"text": "アナウンサーは視聴者からの好感度が重視されるが、ラジオのアナウンサーの場合、声や話し方だけでリスナーから評価されるのに対して、テレビ放送の場合視聴者は画面でアナウンサーの顔を見続けることになるので、テレビのアナウンサーは声や話し方に加えて顔立ち・容姿でも視聴者から好感されることが重視される。",
"title": "概要"
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"text": "民放では高視聴率獲得(およびスポンサー獲得)のためにアナウンサーのタレント・アイドル化を図るという技法も採用されている。",
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"text": "ラジオ放送開始時は経験者や手本になる資料などは存在せず、組織的な研修もできず、新聞記者や編集者から選抜された者が各自で話し言葉のスタイルを模索しつつ遂行した。",
"title": "歴史"
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"text": "1925年(大正14年)3月22日、社団法人東京放送局によりラジオ放送が開始され、東京日日新聞の運動部記者出身の京田武男が第一声を発した。放送開始時のアナウンサーは他に、大羽涛(大羽仙外)、熊崎真吉、桐野音次郎の3名がいる。6月に翠川秋子が入局し、日本初の女性アナウンサーとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "日本初のスポーツ実況中継は、1927年(昭和2年)8月13日の第13回全国中等学校優勝野球大会の札幌一中対青森師範の試合を、社団法人日本放送協会元銀行員の魚谷忠が担当した。",
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"text": "1953年(昭和28年)2月1日、テレビ放送が始まる。第一声は志村正順アナウンサーによる局名アナウンスで、続いて当時NHK会長の古垣鐵郎が挨拶した。",
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"text": "1961年(昭和36年)にNHKを退職して独立して1962年(昭和37年)に民放番組の司会に抜擢された、高橋圭三が日本初のフリーアナウンサーである。",
"title": "歴史"
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"text": "「自分の声・言葉」を用い「広く一般に事象を伝達する」ために、アナウンサーは正しい日本語能力を要し、文法・アクセントに加えて放送局が内規する放送用語も順守する。主たる業務を下記する。",
"title": "アナウンサーの主な仕事"
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"text": "上記の「視聴者・聴取者」向けの放送への出演や取材の職務のほか以下のような放送以外の業務もある。",
"title": "アナウンサーの主な仕事"
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"text": "NHKの全国のアナウンサーの人数は、2018年時点で、およそ500人である。",
"title": "雇用"
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"text": "NHKの正局員における現役アナウンサーは東京本部・地域拠点局を含む地方放送局を問わず、古くから男性の方が女性より比較的多い。",
"title": "雇用"
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"text": "民放の放送局における現役アナウンサーは、かつては性別に分けると男性の方が女性より多いという局が比較的多かったが、2018年現在は性別に分けると一つ目は男性も女性も人数が同数という局、二つ目は女性の方が男性より多いという局が増加傾向にある。また、民放の放送局での現役アナウンサーの性別での伸び率は女性の方が高い。",
"title": "雇用"
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"text": "若手を中心に宿直・早番・遅番などの交代勤務があり、早朝や深夜の生放送を担当する場合も含め、勤務時間や生活サイクルが不規則になる例も多い。報道・情報番組は準備のため放送開始2時間前には出勤する必要があるため、早朝番組で生放送する出演者は深夜(2~3時)に自宅を出る(もちろん公共交通機関は一切動いていないので、局差し回しのタクシー、または許可を受けて自家用車で出社。自動車通勤は交通事故の懸念から通常は許されていないが、地方局では通勤のための交通機関がない場合もあり自動車通勤が認められている放送局もある)など、その勤務実態は過酷である。",
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"text": "職務の性格上、勤務は曜日が基準となり祝日も無関係であるが、一般に年に1回5日間程度のまとまった休みをとることが認められている。一部放送局では、労働組合との協定で週休2日制を強く守っている場合もある。(NHKの地方局ではその傾向が顕著である)社員であるため年次有給休暇も与えられるが、ほとんど消化できないのが現状で、1〜2か月まとめて消化してから退社する若しくは定年退職者は嘱託に移行といった例も多い。正職員アナウンサーが嘱託となって継続雇用される場合でも、同様の例が多い。(シニアスタッフは除く)但し、地方局では嘱託職員は勤務日数が正職員よりも少なくなることも近年では目立っている。さらに、嘱託を過ぎてからの再雇用制度であるシニアスタッフ(基本的には正社員としての雇用期間を満了した60歳以上の職員、場合によっては70歳以上の職員。NHKにおいては定年時に嘱託になるかシニアスタッフになるか選ぶことができるようになっている)においては、東京本部においても、多くても勤務日数は週4日程度に抑えられている。東京本部においては、中には週1日や週2日の勤務をしているシニアスタッフも極僅かではあるが存在している。地方局では週4日や週3日勤務が基本であるなど、近年では定年退職者を中心に柔軟な働き方も見られるようになっている。しかし、正職員の働き方は今現在も過酷であり、改善はあまり進んでいない現状がある。",
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"text": "曜日方式の場合、原則民放は年末年始を除く月曜~金曜と土曜日曜、NHKは月曜~金曜と土曜日曜祝日でシフトが分かれる。ただし、昭和時代は土曜日が平日の延長という意識の時代背景から週の後半の平日(木曜金曜もしくは金曜)と土曜もしくは土曜日曜までの2班方式で行う人事もあった。週休2日が定着したり平日のニュース枠がワイド化したあとはほとんど行われなくなっていたが、近年は働き方改革でこのような人事がNHKなどを中心に復活しつつある。",
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"text": "また、平成時代までは週末班のアナウンサーが平日班の夏休みになると代役で平日分もまとめて16連勤などをする勤務が見られたがこれも働き方改革により行われなくなってきている。一方土日の大きなニュースや国政選挙の開票特番は平日の担当者が休み返上で行うことが多い。",
"title": "雇用"
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"text": "お盆が平日である場合はそのまま平日担当のアナウンサーが担当するが、年末年始は特別人事が採用され平日週末の担当どちらも冬休みや年末年始の特番、スポーツの実況に回ることが多い。",
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"text": "地方局の場合はスタッフの人員が少ないため、アナウンサーであっても報道記者やディレクターなどの裏方仕事を兼務する例が少なくなく、支局駐在となる例もある。",
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"text": "局アナウンサーは、編成部門のアナウンス部あるいは放送部、報道部(記者兼務や出向など)などに属している。労働条件については正社員のほか、契約社員として勤務している者もいる。局アナウンサーは「社員」なので、基本的に局内に机もあり、仮眠室・食堂・ネットワーク・保険など社内の施設・福利厚生を利用できる。",
"title": "雇用"
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"text": "放送局の正社員・契約社員として所属している者のほか、芸能事務所・制作会社からの派遣社員も存在する。在京キー局ではTBSのTBSニュースバードのキャスターや、TBS954情報キャスター(ラジオのみの出演)などが派遣社員でほぼ派遣先の放送局の専属出演する。TBSの場合、これらのキャスターは地上波放送への出演は少なく、それぞれCS放送やラジオへの出演が中心となる。局によっては「リポーター」「パーソナリティ」と称する。なお、ラジオ局の場合は中継車の運転やディレクター業務などアナウンス業務以外の業務も担うことがある。",
"title": "雇用"
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"text": "フジテレビは、かつて「専属リポーター・司会者募集」の名目でアナウンサーを募集していた。これは当時同局に存在していた「労組・第二労組」の2組織に対し、創業者の鹿内信隆が、組合所属のアナウンサーをそのまま“アナウンサー”と呼び、第二組合の所属者を“リポーター”(正式名は「報道局解説放送室付リポーター」)や「司会者」と呼んで差別化を図っていた、いわゆる会社の内紛に起因した事象である。どちらも業務内容は全く同じで、これがアナウンサー採用試験と知らずに受験した者もいた程だった。田丸美寿々や辛坊治郎らもその一員とされる。辛坊はこの事実を知りフジテレビに入社せず、読売テレビに入社した。",
"title": "雇用"
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"text": "GyaOは「ギャオーディション」というオーディション番組でアナウンサーを募集した。これはGyaOでのアナウンス業務をはじめ、ドラマ・バラエティ・映画など、自社媒体の番組へ出演する者の公募であり、GyaOを運営していたUSENの社員としての募集ではないので、一般にいわれる局アナウンサーとは意味が異なる。",
"title": "雇用"
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"text": "契約局員 (NHK) ・契約社員(民放など)は「契約アナウンサー」と呼ばれる。人件費削減の波を受け増加傾向にあるが、契約社員の直接雇用等、今後の課題が多く残されている。",
"title": "雇用"
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"text": "契約アナウンサーは女性に多く、男性では少ない。",
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"text": "NHKは多くの場合、女性アナウンサーの事例にあてはまる。職員・契約を合わせたアナウンサーのうち、女性は職員アナウンサーが少なく、配属されていない地方放送局もある。そのため、各放送局が個別で契約アナウンサーを採用する例が比較的多い。",
"title": "雇用"
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"text": "芸能事務所(東京・地方を問わず)に所属している放送局の契約アナウンサーも少なからず存在している。",
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"text": "契約アナウンサーをキャスターまたはリポーターと称している。そこからNHKの正職員・局アナウンサーとなったのは、現在までのところ森田美由紀と荒木美和の2人のみであり、非常に狭き門となっている。",
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"text": "民放ローカル局を中心に契約社員を採用する局が増加しており、非正規雇用がアナウンサーの分野にも広がっている。",
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"text": "この場合の「フリー」は、放送局と直接の雇用関係がないことを指す。完全なフリーランスでなく、人材派遣事務所や芸能事務所などに所属している者もこう呼ばれる。",
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"text": "局アナとフリーアナウンサーの仕事内容に実質的な違いはないが、雇用形態に大きな差がある。局アナは社員・職員としての給与と仕事の供与、労働三権が保証されている代わりに、社命である業務や異動を基本的に断れない。勤務地が大きく変わることはないが、別の分野を担当させられる。要は局アナは「会社員」(NHKのみ「団体職員」)であり、その権利と同時に組織の一員としての義務を負い、局の方針に反することはできない。一方、フリーアナウンサーは、雇用契約の契約書の形式や内容が異なり、仕事内容が明記・限定された形で契約書に署名する(つまりその特定の仕事限定、端的に言えば、特定の番組限定で出演する契約を結ぶ)。仕事の契約は、事務所や知り合いの紹介、オーディションなどを通じ自ら競争を勝ち抜いて獲得する必要があるが、別の角度から言えば、嫌な仕事に関しては契約を結ばなければよいので「仕事の内容を選ぶことができる」とも言える。逆に言うと、仕事内容や契約相手の局は選べるかわりに、どの局からも相手にしてもらえず、全く仕事が無い状態になり無収入になってしまう可能性もある、とも言える。つまりテレビ局の側にも、多数のフリーアナウンサーの中から自局に都合のいい人を選ぶ自由があり、契約を結ばない自由がある。",
"title": "雇用"
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"text": "フリーになる人の動機はさまざまである。そもそも最初からフリーアナウンサーとして活動している人々もかなりの数いる。別業種からの転職者もいる。局アナがその局の番組に出演して獲得した知名度を活用して(その知名度を他局に高く売れるあいだに、と)フリーになる場合もあり、その場合、単純に高収入の可能性があることに惹かれてそれを選ぶ人もいる。「自分を試したい・仕事の幅を広げたい」という理由を挙げる人、つまり他局でフリーでならばもっと違う仕事で実力を発揮できるはず、と感じるから(あるいは、そういう建前で)フリーを選ぶ人もいる。もっと違う理由で、たとえばテレビ局が報道らしい報道を行っておらず権力者におもねったような腐った報道をするばかりで、おまけにテレビ局のプロデューサーがスタッフやアナウンサーに対してセクハラを連発していて、そういう問題だらけのテレビ局にうんざりして、別の局で仕事をするためにフリーになる場合もある。",
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"text": "フリーになった後の報酬の額は、一種の「運」や、自身のアナウンサーとしての実力、自身の世渡り術、そして外部の諸要因という大きな要素群など、さまざまな要因が影響する。成功できると思って退社してフリーになった途端に病気に罹ってしまい、無収入になってしまう場合もある。自分には実力があると信じ高収入を得られると期待してフリーになっても、ふたを開けてみたら収入が大幅減となってしまい、後になって自己評価と他者評価に大きな乖離があったことに気付かされる場合もある。運にも恵まれ、外部要因にも恵まれ、かつアナウンサーの実力もあり、世渡り術にもたけている場合は、フリーアナウンサーになることで局アナよりも高額の収入を得られる例もある。(ただしフリーアナウンサーは各種手当や福利厚生もなく、業務必需品は自分で揃える必要があり、実は単純に額面通りの差だけ豊かになるわけではない。正社員というのは、\"見えない\"形で様々な報酬を得られており、フリーになるとそれが消滅する、という面はある。)。仕事のミスに対する批判や視聴率の評価は、局アナウンサー以上にシビアであるとされる。(野球チームが雇う「助っ人外人」のように)即戦力扱いで実際に高視聴率という結果が出た場合は「便利なコマ」として扱かってもらえて高報酬を払ってもらえる可能性が高いが、一旦、何かの拍子に視聴率低迷などという現象が起きると、実力不足などと判断され、(「もはや用なし、と判断された 助っ人外人」のように)番組プロデューサーから簡単に見切られがちで、つまり一種の「使い捨てのコマ」扱いで、単純に契約解除となり、局アナ(正社員)のような「セーフティネット」は無く(他番組の仕事をあてがってもらえるわけでもなく、他部門に所属する形で給料を支払ってくれるわけもなく)、仕事も無くなり無収入になってしまう可能性もかなりある。つまり局アナからフリーアナウンサーになることは、わかりやすく言うと一種の《賭け》であり、博打(ばくち)を行うような状態、「イチかバチか」の状態になる。そんなわけで、フリーになると決め辞表を提出した時は平気だったのに、いざ退社の時期が迫って自身の境遇が変化することをひしひしと感じ始めると悪夢を見たり、辞めてしまった後になっても、辞表を出したこととか辞めたこととか全部ナシにならないかな...と思ったり、もう今さらしょうがない、と思うなどして、長期間気持が揺れ続ける人もいる。",
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"text": "なお、局アナが所属局を退職してフリーアナウンサーに転身する場合、古巣局への義理立ての意味もあり、フリー転身直後は一定期間他局への出演を控えるという慣例がある。明確に一定期間他局に出演しないと古巣局と取り決めを持つ場合もある。系列局制作番組や企業のコマーシャルへの出演はフリー転身直後でも可能の場合あり。",
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"text": "その一方で、大塚範一、小倉智昭、露木茂、羽鳥慎一、武田真一のようにフリー転身の翌月から他局でレギュラー番組を持つという例外もある。特に羽鳥は日本テレビ退職の数日後にテレビ朝日でレギュラーでの冠番組を開始させた。この時は日本テレビ・テレビ朝日両社上層部との話し合いがあったという。羽鳥のこの離れ業でフリー転身後の身でも他局からの仕事を請けやすくなったという向きもある。また、一時期の三雲孝江、小宮悦子、高島彩、ラジオ局の元アナウンサーなどのように、フリー転身後も他局ではほとんど仕事をせず、古巣局制作番組しかほぼ出演しないという人物も存在する。なお、羽鳥は退職後にレギュラー番組を持ったテレビ朝日系と古巣局である日本テレビ系の制作番組にしかほぼ出演していない。",
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"text": "NHKアナウンサーがフリーとなる場合、初めのうちは民放局と専属契約を結び、軌道に乗ったら完全フリーに、という傾向が多い。羽佐間正雄、久保純子のようにNHK退職直後にNHKと専属契約した人物もいる。ただし、専属契約となる形でのフリーだけではなく、在京キー局や在阪準キー局への移籍というパターンもある。また、民放局と違い、退職後にNHKの番組に出演することはほぼない(有働由美子、武田のような例外もあるが)。",
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"text": "新卒採用の場合、4年制大学卒業を必須としている局がほとんど(地方局では短期大学卒業者を採用対象とするところもある)で、さらに募集要領には年齢制限、留年制限を設けているところが圧倒的に多い。また、大学のコースは文系・理系は関係無く採用対象となる。また、NHKのみ毎月のNHK受信料を払っている事も条件である。また総務、制作などの部門とは採用枠が別に設けられていることも多い。前述の通り非常に人気の高い職種であるため、その競争率は非常に高くキー局アナウンサー試験の倍率は芸能オーデションの倍率をも凌駕する倍率である。居住地や出身地以外、さながら日本全国の放送局に対し応募書類を送ることも珍しくはなく、面接の度に日本全国を行脚する志望者もいる。学生時代にアルバイトでアナウンサーやリポーターの経験を積むか、アナウンススクールで指導を受けた方が有利であるとされる。",
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"text": "採用試験(面接試験を含む)では正しい日本語が話せるか、好印象を与える雰囲気・容姿を持つか、とっさの機転が利くかなどが重視される。語学やスポーツといった、業務に活かせる得意分野が求められる場合もある。",
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"text": "入社後は、数か月間の研修の後、短時間のナレーションや提供読み、スポットニュースのような難易度の低いとされる業務に就き、多くの場合、入社後半年から1年でレギュラー番組出演となる。初めての生放送出演は「初鳴き」と呼ばれることもある。稀に、研修と並行して4月の入社時からレギュラー番組を獲得する例もある。こういった例は人員の少ないローカル局がほとんどだったが、後にキー局でも見受けられるようになった。放送局などが直接運営するアナウンサースクールを実質研修の場と捉えていることがある。また災害対策基本法指定公共機関に指定されているNHKでは、深夜のニュースの放送終了後、全職員を対象にした災害発生時(特に緊急地震速報・津波警報発令時)の緊急報道訓練をほぼ毎日実施しており、アナウンス部所属局員もその訓練を受ける。",
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"text": "非大都市圏の放送局を中心に、コストダウンのため、新卒採用であっても正社員としてではなく、期間を区切った契約職として採用する事例が増えつつある。これらの場合、契約満了時に解雇するか、それとも契約延長または正社員転換で残留させるかは、それぞれの放送局の判断に委ねられている。",
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2001年10月1日にTBS(現・TBSホールディングス)がラジオ部門を分社化させたのを皮切りに、認定放送持株会社移行を含むラジオ・テレビ部門の分社化が相次いでいる。分社化したテレビ・ラジオ各局のアナウンサー募集・採用は人件費削減の観点からテレビ局側が行っており、ラジオ局に「アナウンサーの派遣業務」としてアナウンス業務を行っている。さらに、ラジオ局の送信所保守管理も経費削減の観点からテレビ局に委託している。",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "多くの放送局では、アナウンサーは専門職とされるため、業務内容が大幅に異なる部署への異動になることは少ない。ただし、業務内容が近い報道記者への異動や解説委員就任、国内外の拠点への異動、本人の強い希望がある場合の異動もある。また、報道記者に転出しても主にワイドニュースなどニュースキャスターとして出演を継続する元アナウンサーもいる。地方局の一部ではアナウンサーの肩書きを残したままで報道記者兼任という場合もある。また、現在は少なくなったが、放送局を新規に立ち上げる際、所属予定の系列局もしくは立地地域の既存の放送局から新設局のアナウンス部門の指導員として出向する例もある。",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "従来は異動の少ない業種だったため、一般部署への配置転換が否定的に報じられる事もある。しかし2000年代頃より、アナウンサー個人のスキャンダルに対する一種の懲罰や、テレビ放送の完全デジタル化による負担増に伴う人件費抑制策などで人事異動を全社規模化する放送局が増えており、アナウンス業務から外される事例は珍しくなくなっている。",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "NHKの女性職員アナウンサーも以前は東京本部(渋谷)に転勤になるとほとんど動かない例が圧倒的だったが、2010年代に入ると40歳代以上は管理職として、30歳代については男性局員との格差是正を主眼として、渋谷から強制的に転勤させる例が急増している。2011年は、年度替わりに30歳前後の2人が渋谷から出されたほか、6月24日付の幹部級人事では一気に5人が地域放送局のアナウンス統括職に起用され渋谷から転出、1人が渋谷内部で配置転換となった。なお、NHKの男性局員は全国各地を転々とするのが普通で(管理職クラスでも例外はなく、2021年には武田真一が大阪局に転勤した。)、その途中、人事でアナウンス部門から離れることも珍しくない。入局以来、渋谷で働いた経験がないという事例も少なくないほか、渋谷で長く残れる人もほんの一握りである。中にはその地方の土地柄や環境などを気に入り、家まで建ててその地方局に継続的に、または職歴の大半において在籍するアナウンサーも極く僅かではあるが存在する。(一例としてNHKでは盛岡局の上原康樹(現・岩手県議会議員)、佐賀局の三上たつ次など)",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "鈴木史朗(当時TBS)のように別部署に異動していた元アナウンサーが復帰する例があるほか、報道記者が転身する例もある。対して、他部署から新たにアナウンサーになる例は、1980-90年代のテレビ東京などに見られる程度で少ない。また、アナウンス部以外の部署に所属していても番組出演機会がある場合、「アナウンサー」の名称を用いる例もある。",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "キャリアを重ねて管理職や役員待遇になると「チーフアナウンサー」や「エグゼクティブアナウンサー」の肩書きを持つ例が多い(主にNHK)。管理職もしくはベテランアナウンサーとなると、後輩の指導を行うほか、部内のアナウンサーのスケジュール管理業務や経営・企画会議の参加が増えるため、番組出演がやや少なくなる傾向にある。ただし、労働争議によるストライキで組合員である若手アナウンサーが出演を見合わせた場合、彼らの代役として主に生放送番組に出演する例もある。主にスポットニュースやワイドニュースが該当する。ただし番組によってはワールドビジネスサテライトのように、元々担当しているフリー契約のアナウンサーやナレーターのみで乗り切る例もあれば、補いきれない場合は管理職のアナウンサーが出演する。ただ局によってテレビ東京のように人員が少なく補いきれないこともあり、その場合は同じ局で出演している同種番組のフリーアナウンサーが担当することもある。",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "アナウンサー現職のままの役員就任は、2003年に朝日放送取締役に就任した道上洋三(2007年に退任、現:常勤顧問)などの例はあるものの稀で、アナウンサー経験者の役員の多くは他部署への異動後に就任している。",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "仕事を求めて別の局へ移籍する例もある。地方局は契約社員であるなど身分が不安定なこともあってとくに多く、3社以上を渡り歩く者もいる。中途採用は経験者がほとんどであるが、異業種からの転職も見られる。",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "地方局を中心に複数の放送局に在籍している(していた)局のアナウンサーは多く存在している。また、1つの放送局の在籍期間は放送局を移籍した2局目か2局目以降に在籍した期間が最初に在籍した放送局よりも長いと言う例も多い。",
"title": "雇用"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "該当者はCategory:スポーツアナウンサーを参照。スポーツ中継の実況担当は男性アナウンサーが務めることが圧倒的に多い。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "中立且つ冷静な放送が求められるアナウンス職にあって、自らの興奮や感動をストレートに表現することが許される分野で、野球のホームランシーンなどを大声で伝える「絶叫型」アナウンスがある。しかし、これを良しとしない意見もあり、視聴者・聴取者(リスナー)の好みによる所が大きい。また、世相や試合状況にアナウンサーが応えられるかにもよる。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1936年のベルリンオリンピックで、水泳女子の前畑秀子が金メダルを獲得した際、ラジオ中継を担当していた河西三省は、激しいデッドヒートを受けて「前畑頑張れ!前畑頑張れ!」と38回連呼し、日本中に感動と興奮を伝えた。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "一方で、2000年9月14日のシドニーオリンピック、サッカー日本代表の試合で得点の際「ゴール!」を20回以上(最大29回)叫んだ日本テレビの船越雅史(現在はアナウンス職から離脱)の実況には多くの批判・抗議が寄せられた。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "そもそも使用例が少ないが、特に三大都市圏以外の道県において、放送局の放送圏域内で生まれ育って、同局でアナウンサーとして活動する者を指す(ただし、単に「地元の放送局所属のアナウンサー」という使用例もある)。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "NHKは全国組織であるため、基本的に一定年数同じ地域に勤務した場合は、他の地域へ転勤となる。このため、出身地で勤務できる可能性はそれほど高くない。しかし逆に地元勤務となった場合は、そのことを最大限に利用して地域社会に貢献することができる。近年各放送局の役割再強化を図っているNHKに於いては、ご当地アナウンサーは重要な戦力となる。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "富山では、山田重光が福岡を一旦離れてUターンして以降、アナウンスを統括する放送部副部長が3代続けて地元富山県出身者となっている。隣の新潟では、2009年8月の時点で6人いるアナウンサーの半分が地元新潟県出身者だった(後に転勤で1人出て2人に)。拠点局ではない一般放送局でこうした事例はまれである。山形県では、柴田徹がUターン後、山形弁でふるさとを語るバラエティ番組『今夜はなまらナイト』を立ち上げ、今や全国にファンを有する。拠点局でも、名古屋は単身赴任者を含め愛知県出身者が多く在籍している。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "民放はNHKと異なり、特定地域だけをエリアとする。「キー局」と呼ばれる在京局も、本来は東京都または関東のローカル局であり、NHK以上に地域に根差した活動を行っている。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "民放の中には、法令改正で差別的雇用が禁じられるまで、アナウンサーの採用にあたって、その放送局が所在する都道府県の出身者に限るという条件を付ける場合があった。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "サガテレビでは、少なくとも1990年代までは正社員としてのアナウンサー採用を佐賀県出身者に限っていた。県外出身者については、あくまでもニュース番組のアシスタントとしての扱いだった。現在は特に女性アナウンサーを契約職採用中心に切り替えたため、こうした制限はなくなった。正社員アナウンサーは公式サイトに全員入社年が記されており、2010年に花田百合奈が初の県外出身正社員アナウンサーとして入るまで全員が佐賀県出身者だった。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "テレビ大分では、現在でもアナウンサーの採用を大分県出身者に限っている模様である。しかし、小笠原正典アナウンサーと、田辺智彦アナウンサーは、県外生まれである。そのため、アナウンサープロフィールの出生地が、その他のアナウンサーと違う。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "女子アナウンサーは、通称「女子アナ」として、その「タレント化」が顕著であるとされる者を特に指し、揶揄的に用いられる場合がある。特に民放、中でも東京キー局では「タレント化」の傾向が極めて著しい。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半以降に採用された女子アナウンサーの大半が、俗に言う「ブランド大学」(東京六大学や関関同立など)の出身であり、またミス・コンテストの準グランプリやミスキャンパスに選出された経歴を持つ者も少なくない。また、業務上必要なアナウンス技術よりも、容姿を優先したり、誤読やトチリなど本来は許されないはずのミスを視聴率獲得のため珍重した結果、芸能人さながらの扱いを受ける例が多いと見る向きもある。さらに2000年代以降は平井理央、紺野あさ美、宮澤智、斎藤ちはる、市來玲奈など元アイドルが女子アナとなる事例が見られる。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "「下手な芸能人を使うより、自局の女子アナを起用した方が視聴者受けがよく、しかも安価」と彼女らを「商品化」するのは、「とにかく視聴率ありき」という商業主義の民放テレビ局の姿勢も大きいと見られる。また、女子アナにコスプレをさせることも多い。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "その結果、キャリアを積み、「読みの技術」が高まった中堅アナウンサーを、「若い方が良い」、「バラエティ番組で使いづらい」との理由で冷遇する傾向があり、これは「女子アナ30歳定年(限界)説」なる言葉をも生んでいる。ただ、NHKでは女性であっても入局後数年間は東京・渋谷以外の地方局に配属してアナウンサーとしての技量を磨きキャリアを積ませるという方針があり、「若さ」や「鮮度」よりもアナウンサーという「職業」として求められる技量を重視する傾向が強いので、民放とは全く事情が異なる。そのため、NHKでは逆に30歳を過ぎた中堅局員(和久田麻由子局員など)が重用される例が多い。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "民放では「売れっ子」女子アナウンサーはその多くが20歳代で、30歳前後の年齢を一つの転機と見るのは一般的なOLと同じである。さらに「見られる職業」の最たるものであるため、その「鮮度」が露骨に求められ、30歳頃までに人気や実力を確立できなかった者は、容赦なく裏方に配置替えされ、次々に姿を消していく。「女子アナ30歳定年(限界)説」はこういった事象を背景にしており、女子アナウンサー本人がこれに言及している例もある。フジテレビジョンは1969年まで、女子社員にのみ25歳定年制を敷いていた。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "女子アナは男性プロデューサーやバラエティ番組で共演する男性タレントからセクシャルハラスメントを受けることが多くあるほか、局の幹部から接待の相手役に繰り出されることも多いとされる。これらの行為にも女子アナは番組キャスティング権を持つ重役からの命令であるため、否定できないという。女子アナがフリー転身を決断する背景にはこの風潮も一因であるとの見方もある。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "かつて女性アナウンサーの担当する分野は、料理、育児、手芸をテーマとする番組や、インタビューの聞き手などが主だった。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "今日のようにタレント並みに注目を浴びる女子アナウンサーにつながる系譜は、1975年フジテレビに入社し、同局初の女性キャスターとなった後、女子アナウンサー史上初のスキャンダルを起こした田丸美寿々や、1978年NHKに入局し「TVガイド」の表紙を飾ったり、民放への大型移籍や玉の輿婚が話題になった頼近美津子らを端緒とする見方や、1980年代前半のフジテレビアナウンサーによる当時は異例だった「コント色の強いバラエティ番組への参加」からなど、いくつかの見方がある。1977年入社の益田由美は、なるほど!ザ・ワールドで体を張ったリポートで、「ひょうきん由美」と呼ばれ親しまれた。1980年入社の山村美智子、1984年入社の寺田理恵子、1985年入社の長野智子は、オレたちひょうきん族に「ひょうきんアナウンサー」と称され司会を務めた。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "女子アナウンサーは「女子アナ」と略されることが多いが、この略語を誰が最初に作ったのかは定かではない。「女性アナ」という言い方ではこれ以前からあった。頼近のフジテレビ移籍を報じた1981年当時の週刊誌には「女性アナ」という表記が多く使われている。初出と見られるのは『週刊宝石』1982年10月29日号。記事の見出しに「フジテレビの女子アナの目立ちたがり戦争花盛り 再び野球拳で脱いだ田丸、連日ゲームセンター通いの頼近、フジの看板娘山村、益田......。人気女子アナの奮闘ぶりは? 」と2度も「女子アナ」という言葉を使用している。同記事は田丸美寿々、頼近美津子、山村美智子を取り上げた記事だったが、記事本文には「女子アナ」という言葉は1度も使われず、「女性アナ」が5度、「美人アナ」が2度使われている。この半年前の同じ『週刊宝石』1982年4月17日号は田丸と頼近の2人を取り上げた「第2の田丸・頼近を目指すテレビ局の新人美女を全角度品さだめ! ブラウン管に登場するフレッシュギャルを誌上紹介」というタイトルだったが、この号には「女子アナ」という言葉は使われていない。『週刊宝石』1982年10月29日号が初出か、或いは他のマスメディアが1982年春から秋にかけて使用して、それを『週刊宝石』が真似て使用したかは分からない。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1987年にフジテレビ出版から発行された同局アナウンサーを取り上げた書籍『アナ本』の中に「女子アナ」という表記が見受けられる。現在も「女性アナ」と表記することもある。「女子アナ」と「女性アナ」という表記が混在する記事もみられる。2001年には句点付きの『女子アナ。』と題するドラマまで制作された。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "続編として1991年に発行された『アナ本2』では、当時「花の三人娘」と呼ばれた、有賀さつき、河野景子、八木亜希子に焦点が当てられた。1993年には、日本テレビの人気アナウンサー永井美奈子ら3人からなるユニット「DORA」が結成され、CDをリリースした。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "女子アナウンサー路線はフジテレビ、次いで日本テレビが先行していたが、TBSには1993年に雨宮塔子が、1994年に進藤晶子が入社しそれぞれバラエティ番組とスポーツ番組で局の看板アナウンサーとなった。NHKには1994年に久保純子が入局し看板アナウンサーとなった。以後女子アナウンサー人気の定着とともに、各局とも女子アナウンサーと呼ばれるアナウンサーが増えていった。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1990年代後半から芸能事務所「セント・フォース」などは女性キャスター、リポーターに特化したマネージメント展開を行い、各局のニュース・ワイドショー番組に所属タレントを派遣。各局を退職したアナウンサーを所属タレントとして受け入れるほか、学生の所属タレントがその後、出演していた局のアナウンス職として採用される事例も存在し(本田朋子など)、さらには局との共同出資で芸能事務所(フォニックス)を設立するなど、局と事務所、相互の関係を深めている。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "また、滝川クリステル(共同テレビ→フリー)、葉山エレーヌ→石田エレーヌ→葉山エレーヌ(日本テレビ)、加藤シルビアや小林悠(共にTBS)、ヒロド歩美(ABCテレビ)など、ハーフのアナウンサーが多く起用される傾向も見られる。外国人とのインタビューに際し通訳を介さず直接取材できる人材としての帰国子女や海外留学経験者と同等の理由で採用されているが、日本人のハーフに対するイメージから採用が多くなっているとも見られる。滝川、葉山(石田)などは当初は日本名で活動していたが、局のイメージ戦略のために意図的に外国名を名乗っており、タレント化の是非を巡る議論の一端となっている。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "バラエティ番組やクイズ番組などで、社会的常識に欠ける発言や回答をするアナウンサーが時折見られる。これは「資質低下」だと厳しい指摘がされることが一般的だが、視聴率獲得目的の「演出」や一種のやらせも入っていることがある、と内幕が暴露されることもある。元日テレアナウンサーの石川牧子が「若者の読み書きの能力は年々低下している」「入社希望の学生の漢字テストの成績が良くない」と語っている他、日本テレビOBの福澤朗も自身のブログで、「非常に憂慮している」とした上で、「テレビはもうアナウンサーを必要としていない」と苦言を呈している。有賀さつきは、出演者の瞬間的なリアクションに、自分を含めた番組製作者らは台本にはない魅力を共有しており、自分もボケの役割をある程度進んで引き受けていたことや、社会的常識があるはずの局アナのイメージを逆手に取った、演出の一面があったことを明かしている。",
"title": "様々なアナウンサー"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "日本の局アナウンサーは放送局の企画で歌手デビューをしたり、ドラマや映画にチョイ役の俳優として出演するという例も存在する(劇中の情報・報道番組に出演するキャスター役に起用されることもある)。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "例外的ではあるが、局アナウンサーであっても、放送局同士のコラボレーション企画等により他局の番組に出演する例もある。この影響で局アナウンサーが裏番組と重複出演となる例もある(詳細は「小林麻耶」の項を参照)。その他、放送局同士の共同制作番組を放送する際、その広告に各局アナウンサーが勢揃いで出演することもある。また、東京オリンピックに向けて様々な局同士の連携がなされた。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "本名で活動する者が多いが、中には芸名を用いる者も存在する(局アナ・フリーアナウンサー双方。ラジオの場合は「マイクネーム」と呼ばれることもある)。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "局アナウンサーの中には会社への報告を行う事を条件として、講演会や結婚式の司会などの副業を行う者も存在する。有名になるに連れてだんだんとアルバイトでの収入も増え、所属局から貰う給料の倍以上の額を稼ぐ程になることもあるという。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "テレビ局所属のアナウンサーはかつて水着着用で番組出演をする場面が見受けられたが、1990年代後半頃からは各局男女ともに水着姿での出演を規制するようになった(ただし、例外もある)。2015年現在、日本テレビの場合、アナウンサーを極めて高度な清廉性が求められる職種と位置づけている。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "後述のように、放送メディア以外の分野でアナウンス活動を行うものも存在する。後述以外にも「ラジオパーソナリティ」、「ディスクジョッキー」、「声優」、「ナレーター」、「朗読家」なども求められる資質が似ていることから、アナウンサー業と掛け持ちする例がある。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "選挙立候補者の応援演説や、選挙カーから候補者名や政策を連呼する活動が知られる。女性の場合、その声を鳥に例え「ウグイス嬢」と呼び、むしろ正式な呼称がない状態が生じている。男性の場合「カラス君」や「カラスボーイ」の俗称があるが、女性が一般的なのであまり使われない。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "アナウンスは英 announce 、announcement であるが、場内アナウンスとは、催し物の会場の中や駅の構内の人などに放送で呼びかけること。競技場やホールなどで、選手交代や演目などの案内を観客に告げる職業。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "用例でみられるのは、『風ふたたび』(1951、永井龍男)に、野分かな「ざわめき立った客席へ、場内アナウンスが道原の名を呼びかけた」、『星のない街路』(1958、北社夫) 「さまざまな人種の旅人がバッグをさげて行きかっている。合間を案内を告げる場内アナウンスが縫ってゆく」など、使用されている。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "女性の場合「ウグイス嬢」の俗称が、男性の場合は「スタジアムDJ」と称される場合がある。これらと意味合いの異なる場内アナウンスとして、競馬などの公営競技における場内実況(中央競馬におけるグリーンチャンネル等の他媒体向けの実況と同じ)を担当する職業もある。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "プロレス、ボクシングなどの格闘技において選手コール、進行業務などをするアナウンサー。実況アナウンサーとは異なる。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "商品説明や司会進行を担当するイベントコンパニオン。",
"title": "兼業、副業、他職種への進出"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "顔写真・生まれた月日(テレビ朝日は掲載していない。NHKに至っては生年も非公表)・大まかな出身地・血液型は掲載されている例が多く、対して放送局に入社した時期・生まれた年・出身大学・身長などは掲載されていない例も多い。なお、公式ウェブサイトの顔写真は公式プロフィール写真として、番組や放送局関連のイベントのウェブページや案内に使われる例が多い。",
"title": "公式サイトの掲載プロフィール"
}
] | 日本のアナウンサー(にっぽんのアナウンサー)では、日本の放送局に勤めるアナウンサーについて述べる。 | {{参照方法|date=2020-2-6}}
{{redirect|女子アナ|フジテレビ系列で放映していたテレビドラマ|女子アナ。}}
'''日本のアナウンサー'''(にっぽんのアナウンサー)では、[[日本]]の[[放送局]]に勤める[[アナウンサー]]について述べる。
== 概要 ==
アナウンサーとは、[[放送]]する[[マスメディア]]が、収拾した情報を元に作った[[原稿]]を音読して、視聴者へ伝達する者である。
日本の放送メディアで最初のアナウンサーは、[[1925年]](大正14年)に現在はNHKにあたる[[日本放送協会|東京放送局]]の[[ラジオ]]試験送信時に入局した京田武男(東京日日新聞から)、大羽仙外(報知新聞から)で、仮放送開始時さらに2人迎え4人、6月に翠川秋子(後藤新平の推薦)を迎え5人となって愛宕山時代を迎えた。のちに[[テレビ]]のアナウンサーが登場し、旧来の放送圏域が広い[[地上波]]のラジオやテレビに加えて、[[ミニFM]]や[[イベント放送局]]や[[コミュニティ放送]]、[[ケーブルテレビ]]や[[衛星放送]]、[[インターネットラジオ]]や[[インターネットテレビ]]などが登場し、各々でアナウンサーがいる。[[#歴史|下記の歴史]]に詳述がある。
欧米ではニュースは[[記者]]の[[取材]]活動が重要と広く認識され、取材から[[原稿]]の作成・編集、読み上げまで一連する作業や、マイクや録音などの[[音声]]担当者や[[カメラマン]]、[[ディレクター]]、[[アシスタントディレクター]]なども含めて組織的連携の全ての役割や人物が欠けても番組は成立しない、と広く認識されている。ニュースでマイクやカメラの前で原稿を読む役割を担う職業を、組織的な責任の最後を担う専門的職業の意味を込めた「[[アンカー]]」や「ニュース・プレゼンター」と称する概念が重要視されている。日本は欧米ほどの認識は醸成されておらず、放送で原稿を読む者を単に「アナウンサー」称している。民放では「アナ」と短縮形で呼ばれることも多い。[[2018年]]時点で[[日本放送協会|NHK]]のアナウンサーはおよそ500人で男性の比率がやや高く、民放は局ごとに傾向が異なる。[[#雇用|下記の雇用]]に詳述がある。
現在の日本のアナウンサーは、特定の放送局に社員として所属するアナウンサー(一般的に「'''局アナウンサー'''(略称:局アナ)」と呼ばれる)と、特定の放送局に所属しない'''[[フリーアナウンサー]]'''の2つに大別される。[[新卒]]で採用された組織で勤務する「生え抜き」と[[中途採用]]者がいる。アナウンサーの採用情報や求人情報は、各放送局のウェブサイトなどに掲載されている。アナウンサーの採用試験を受けるためには、大卒以上の学歴が必要である。アナウンサーという職種は枠が少ない上に一般人の間で知名度が極端に高く誰でも知っている職業なのでこの職業に就くことを夢見る若者が多く、民放キー局やNHKなどでは数名程度の採用枠に対して数千~数万倍の応募者が殺到する、というような状況になっている。[[#雇用]]、[[#採用]]
アナウンサーは視聴者からの好感度が重視されるが、ラジオのアナウンサーの場合、声や話し方だけでリスナーから評価されるのに対して、テレビ放送の場合視聴者は画面でアナウンサーの顔を見続けることになるので、テレビのアナウンサーは声や話し方に加えて顔立ち・容姿でも視聴者から好感されることが重視される。
民放では高視聴率獲得(およびスポンサー獲得)のためにアナウンサーの[[タレント]]・[[アイドル]]化を図るという技法も採用されている。
== 歴史 ==
ラジオ放送開始時は経験者や手本になる資料などは存在せず、組織的な研修もできず、新聞記者や編集者から選抜された者が各自で話し言葉のスタイルを模索しつつ遂行した。
[[1925年]](大正14年)[[3月22日]]、[[社団法人]][[日本放送協会の沿革#社団法人時代|東京放送局]]により[[ラジオ放送]]が開始され、[[東京日日新聞]]の運動部記者出身の京田武男が第一声を発した。放送開始時のアナウンサーは他に、大羽涛(大羽仙外)、熊崎真吉、桐野音次郎の3名がいる。6月に[[翠川秋子]]が入局し、日本初の女性アナウンサーとなった。
日本初のスポーツ実況中継は、[[1927年]](昭和2年)8月13日の[[第13回全国中等学校優勝野球大会]]の[[北海道札幌南高等学校|札幌一中]]対[[弘前大学|青森師範]]の試合を、社団法人[[日本放送協会]]元銀行員の[[魚谷忠]]が担当した。
[[1953年]](昭和28年)2月1日、[[テレビ放送]]が始まる。第一声は志村正順アナウンサーによる局名アナウンスで、続いて当時NHK会長の古垣鐵郎が挨拶した。
[[1961年]](昭和36年)にNHKを退職して独立して[[1962年]](昭和37年)に民放番組の司会に抜擢された、[[高橋圭三]]が日本初のフリーアナウンサーである。
== アナウンサーの主な仕事 ==
「自分の声・言葉」を用い「広く一般に事象を伝達する」ために、アナウンサーは正しい[[日本語]]能力を要し、[[文法]]・[[アクセント]]に加えて放送局が内規する放送用語も順守する。主たる業務を下記する。
* [[報道番組]]や[[情報番組]]で[[ニュース]]などを正しく伝える。「[[スタジオ]][[中継放送|中継]]」と「現地リポート」の場合がある。
* 各種スポーツの[[実況中継]]やリポート。
* 報道対象に対する取材や[[インタビュー]]。
* 番組の[[司会]]やアシスタント。タレント化が進んで以降は、タレントと同様に[[パネリスト]]やトークゲストとしての出演も多い。外部(スポーツ新聞等)が呼称するものを除き、NHKは職員にアシスタントの名称をつけない。
* [[ナレーター|ナレーション]]([[ビデオテープレコーダ|VTR]]や、スポンサー名読み、番組宣伝[[コマーシャルメッセージ|広告]]など)。
*所属する放送局の[[宣伝|プロモーション]]
上記の「視聴者・聴取者」向けの放送への出演や取材の職務のほか以下のような放送以外の業務もある。
*番組出演の前打ち合わせと準備([[化粧|メイク]]や[[衣装]]合わせ、原稿の下読みなど)および反省会。
*[[ディレクター]]を兼ねたり、[[編集]]作業の一部を担当([[ローカル局|地方局]]や[[ミニ番組]]では人員的制約によりこの傾向が強い)などの地味な作業もある。
*放送局関連のイベントの[[司会]]。
*放送局やアナウンサー自身の[[ブログ]]や[[twitter]]の管理。
== 雇用 ==
NHKの全国のアナウンサーの人数は、2018年時点で、およそ500人である。
=== 男女比 ===
NHKの正局員における現役アナウンサーは[[東京都|東京]]本部・地域拠点局を含む地方放送局を問わず、古くから男性の方が女性より比較的多い。
民放の放送局における現役アナウンサーは、かつては性別に分けると男性の方が女性より多いという局が比較的多かったが、2018年現在は性別に分けると一つ目は男性も女性も人数が同数という局、二つ目は女性の方が男性より多いという局が増加傾向にある。また、民放の放送局での現役アナウンサーの性別での伸び率は女性の方が高い。
=== 勤務内容 ===
若手を中心に宿直・早番・遅番などの[[シフト勤務|交代勤務]]があり、早朝や深夜の[[生放送]]を担当する場合も含め、勤務時間や生活サイクルが不規則になる例も多い。報道・情報番組は準備のため放送開始2時間前には出勤する必要があるため、早朝番組で生放送する出演者は深夜(2~3時)に自宅を出る(もちろん[[公共交通機関]]は一切動いていないので、局差し回しの[[タクシー]]、または許可を受けて[[自家用車]]で出社。自動車通勤は交通事故の懸念から通常は許されていないが、地方局では通勤のための交通機関がない場合もあり自動車通勤が認められている放送局もある)など、その勤務実態は過酷である。
職務の性格上、勤務は[[曜日]]が基準となり[[祝日]]も無関係であるが、一般に年に1回5日間程度のまとまった休みをとることが認められている。一部放送局では、[[労働組合]]との協定で週休2日制を強く守っている場合もある。(NHKの地方局ではその傾向が顕著である)社員であるため[[年次有給休暇]]も与えられるが、ほとんど消化できないのが現状で、1〜2か月まとめて消化してから退社する若しくは定年退職者は嘱託に移行といった例も多い。正職員アナウンサーが嘱託となって継続雇用される場合でも、同様の例が多い。(シニアスタッフは除く)但し、地方局では嘱託職員は勤務日数が正職員よりも少なくなることも近年では目立っている。さらに、嘱託を過ぎてからの再雇用制度であるシニアスタッフ(基本的には正社員としての雇用期間を満了した60歳以上の職員、場合によっては70歳以上の職員。NHKにおいては定年時に嘱託になるかシニアスタッフになるか選ぶことができるようになっている)においては、東京本部においても、多くても勤務日数は週4日程度に抑えられている。東京本部においては、中には週1日や週2日の勤務をしているシニアスタッフも極僅かではあるが存在している。地方局では週4日や週3日勤務が基本であるなど、近年では定年退職者を中心に柔軟な働き方も見られるようになっている。しかし、正職員の働き方は今現在も過酷であり、改善はあまり進んでいない現状がある。
地方局の場合はスタッフの人員が少ないため、アナウンサーであっても報道記者やディレクターなどの裏方仕事を兼務する例が少なくなく、支局駐在となる例もある。
=== 職場環境・福利厚生 ===
局アナウンサーは、編成部門の[[アナウンス部]]あるいは放送部などに属している。労働条件については正社員のほか、[[契約社員]]として勤務している者もいる。局アナウンサーは「社員」なので、基本的に局内に机もあり、仮眠室・食堂・ネットワーク・保険など社内の施設・福利厚生を利用できる。
=== 様々な雇用関係 ===
放送局の正社員・契約社員として所属している者のほか、[[芸能事務所]]・[[制作会社]]からの[[労働者派遣事業|派遣社員]]も存在する。在京キー局では[[TBSテレビ|TBS]]の[[TBSニュースバード]]のキャスターや、[[TBSラジオ#TBSラジオキャスター|TBS954情報キャスター]](ラジオのみの出演)などが派遣社員でほぼ派遣先の放送局の専属出演する。TBSの場合、これらのキャスターは地上波放送への出演は少なく、それぞれCS放送やラジオへの出演が中心となる。局によっては「リポーター」「パーソナリティ」と称する。なお、ラジオ局の場合は中継車の運転やディレクター業務などアナウンス業務以外の業務も担うことがある。
フジテレビは、かつて「専属リポーター・司会者募集」の名目でアナウンサーを募集していた。これは当時同局に存在していた「労組・第二労組」の2組織に対し、創業者の[[鹿内信隆]]が、組合所属のアナウンサーをそのまま“アナウンサー”と呼び、第二組合の所属者を“リポーター”(正式名は「報道局解説放送室付リポーター」)や「司会者」と呼んで差別化を図っていた、いわゆる会社の内紛に起因した事象である。どちらも業務内容は全く同じで、これがアナウンサー採用試験と知らずに受験した者もいた程だった。[[田丸美寿々]]や[[辛坊治郎]]らもその一員とされる。辛坊はこの事実を知りフジテレビに入社せず、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]に入社した。
[[GYAO!#GyaO|GyaO]]は「[[ギャオーディション]]」というオーディション番組でアナウンサーを募集した。これはGyaOでのアナウンス業務をはじめ、ドラマ・バラエティ・映画など、自社媒体の番組へ出演する者の公募であり、GyaOを運営していた[[USEN]]の社員としての募集ではないので、一般にいわれる局アナウンサーとは意味が異なる。
=== 契約アナウンサー ===
契約局員 (NHK) ・契約社員(民放など)は「契約アナウンサー」と呼ばれる。人件費削減の波を受け増加傾向にあるが、契約社員の直接雇用等、今後の課題が多く残されている。
契約アナウンサーは女性に多く、男性では少ない。
NHKは多くの場合、女性アナウンサーの事例にあてはまる。職員・契約を合わせたアナウンサーのうち、女性は職員アナウンサーが少なく、配属されていない地方放送局もある。そのため、各放送局が個別で契約アナウンサーを採用する例が比較的多い。
芸能事務所(東京・地方を問わず)に所属している放送局の契約アナウンサーも少なからず存在している。
契約アナウンサーをキャスターまたはリポーターと称している。そこからNHKの正職員・局アナウンサーとなったのは、現在までのところ[[森田美由紀]]と[[荒木美和]]の2人のみであり、非常に狭き門となっている。
民放ローカル局を中心に[[契約社員]]を採用する局が増加しており、[[非正規雇用]]がアナウンサーの分野にも広がっている。
=== フリーアナウンサー ===
{{main|フリーアナウンサー}}
この場合の「フリー」は、放送局と直接の雇用関係がないことを指す。完全な[[フリーランス]]でなく、[[日本の労働者派遣|人材派遣]]事務所や[[芸能事務所]]などに所属している者もこう呼ばれる。
局アナとフリーアナウンサーの仕事内容に実質的な違いはないが、雇用形態に大きな差がある。局アナは社員・職員としての給与と仕事の供与、[[労働三権]]が保証されている代わりに、社命である業務や異動を基本的に断れない。勤務地が大きく変わることはないが、別の分野を担当させられる。要は局アナは「会社員」(NHKのみ「団体職員」)であり、その権利と同時に組織の一員としての義務を負い、局の方針に反することはできない。一方、フリーアナウンサーは、[[雇用契約]]の[[契約書]]の形式や内容が異なり、仕事内容が明記・限定された形で契約書に署名する(つまりその特定の仕事限定、端的に言えば、特定の番組限定で出演する[[契約]]を結ぶ)。仕事の契約は、事務所や知り合いの紹介、[[オーディション]]などを通じ自ら競争を勝ち抜いて獲得する必要があるが、別の角度から言えば、嫌な仕事に関しては契約を結ばなければよいので「仕事の内容を選ぶことができる」とも言える。逆に言うと、仕事内容や契約相手の局は選べるかわりに、どの局からも相手にしてもらえず、全く仕事が無い状態になり無収入になってしまう可能性もある、とも言える。つまりテレビ局の側にも、多数のフリーアナウンサーの中から自局に都合のいい人を選ぶ自由があり、契約を結ばない自由がある。
フリーになる人の動機はさまざまである。そもそも最初からフリーアナウンサーとして活動している人々もかなりの数いる。別業種からの転職者もいる。局アナがその局の番組に出演して獲得した知名度を活用して(その知名度を他局に高く売れるあいだに、と)フリーになる場合もあり、その場合、単純に高収入の可能性があることに惹かれてそれを選ぶ人もいる<ref group="注">一説には「実力がある人ならば、フリーになれば10倍以上になる」ともいわれ、そういう話に心が動くのだろうと、つまりお金に惹きつけられることも多いのだろうと、容易に推察できる。</ref>。「自分を試したい・仕事の幅を広げたい」という理由を挙げる人、つまり他局でフリーでならばもっと違う仕事で実力を発揮できるはず、と感じるから(あるいは、そういう建前で)フリーを選ぶ人もいる。もっと違う理由で、たとえばテレビ局が報道らしい報道を行っておらず権力者におもねったような腐った報道をするばかりで、おまけにテレビ局のプロデューサーがスタッフやアナウンサーに対してセクハラを連発していて、そういう問題だらけのテレビ局にうんざりして、別の局で仕事をするためにフリーになる場合もある<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/159009 小川彩佳アナを追放した報ステCPセクハラ懲戒 10人以上が被害]東京スポーツ2019年9月5日。『[[ZAITEN]]』(旧『財界展望』)は、このチーフプロデューサーA氏を桐永洋と名指ししている。[https://www.zaiten.co.jp/blog/2019/09/post-5.html テレビ朝日・報道ステーション"キスセクハラ"プロデューサーの素顔(1)]</ref>。
フリーになった後の報酬の額は、一種の「運」や、自身のアナウンサーとしての実力、自身の世渡り術、そして外部の諸要因という大きな要素群<ref group="注">世の中の視聴者の大きな動向、当該テレビ局側の諸事情、テレビ局vsテレビ局の競争状況、裏番組の状況、競合フリーアナウンサーたちの動向 等々</ref>など、さまざまな要因が影響する。成功できると思って退社してフリーになった途端に[[病気]]に罹ってしまい、無収入になってしまう場合もある<ref>[https://www.aflac.co.jp/gan/yokuwakaru/article/page77.html]{{404|date=2022-11}}</ref>。自分には実力があると信じ高収入を得られると期待してフリーになっても、ふたを開けてみたら収入が大幅減となってしまい、後になって自己評価と他者評価に大きな乖離があったことに気付かされる場合もある<ref>[https://www.cyzo.com/2018/08/post_172714_entry.html 元テレ朝・佐々木正洋アナの“大誤算”フリー転身で収入半減の「深いワケ」]サイゾー2018年8月15日</ref>。運にも恵まれ、外部要因にも恵まれ、かつアナウンサーの実力もあり、世渡り術にもたけている場合は、フリーアナウンサーになることで局アナよりも高額の収入を得られる例もある。(ただしフリーアナウンサーは各種手当や福利厚生もなく、業務必需品は自分で揃える必要があり、実は単純に額面通りの差だけ豊かになるわけではない。正社員というのは、"見えない"形で様々な報酬を得られており、フリーになるとそれが消滅する、という面はある。)。仕事のミスに対する批判や視聴率の評価は、局アナウンサー以上にシビアであるとされる。(野球チームが雇う「助っ人外人」のように)即戦力扱いで実際に高[[視聴率]]という結果が出た場合は「便利なコマ」として扱かってもらえて高報酬を払ってもらえる可能性が高いが、一旦、何かの拍子に視聴率低迷などという現象が起きると、実力不足などと判断され、(「もはや用なし、と判断された 助っ人外人」のように)番組プロデューサーから簡単に見切られがちで、つまり一種の「使い捨てのコマ」扱いで、単純に契約解除となり、局アナ(正社員)のような「セーフティネット」は無く(他番組の仕事をあてがってもらえるわけでもなく、他部門に所属する形で給料を支払ってくれるわけもなく)、仕事も無くなり無収入になってしまう可能性もかなりある。つまり局アナからフリーアナウンサーになることは、わかりやすく言うと一種の《[[賭け]]》であり、[[博打]](ばくち)を行うような状態、「イチかバチか<ref name="udou">[https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/southern3 有働由美子が語る「一か八かの勝負時」 サザンの新曲に思い重ね]バズフィードジャパン2018年6月23日</ref>」の状態になる。そんなわけで、フリーになると決め[[辞表]]を提出した時は平気だったのに、いざ退社の時期が迫って自身の境遇が変化することをひしひしと感じ始めると[[悪夢]]を見たり、辞めてしまった後になっても、辞表を出したこととか辞めたこととか全部ナシにならないかな…と思ったり、もう今さらしょうがない、と思うなどして、長期間気持が揺れ続ける人<ref name="udou"/>もいる。
なお、局アナが所属局を退職してフリーアナウンサーに転身する場合、古巣局への義理立ての意味もあり、フリー転身直後は一定期間他局への出演を控えるという慣例がある。明確に一定期間他局に出演しないと古巣局と取り決めを持つ場合もある。系列局制作番組や企業のコマーシャルへの出演はフリー転身直後でも可能の場合あり。
その一方で、[[大塚範一]]、[[小倉智昭]]、[[露木茂]]、[[羽鳥慎一]]、[[武田真一]]のようにフリー転身の翌月から他局でレギュラー番組を持つという例外もある。特に羽鳥は日本テレビ退職の数日後にテレビ朝日でレギュラーでの[[冠番組]]を開始させた。この時は日本テレビ・テレビ朝日両社上層部との話し合いがあったという。羽鳥のこの離れ業でフリー転身後の身でも他局からの仕事を請けやすくなったという向きもある<ref>『[[週刊実話]]』2011年10月13日 特大号</ref>。また、一時期の[[三雲孝江]]、[[小宮悦子]]、[[高島彩]]、ラジオ局の元アナウンサーなどのように、フリー転身後も他局ではほとんど仕事をせず、古巣局制作番組しかほぼ出演しないという人物も存在する。なお、羽鳥は退職後にレギュラー番組を持ったテレビ朝日系と古巣局である日本テレビ系の制作番組にしかほぼ出演していない。
NHKアナウンサーがフリーとなる場合、初めのうちは民放局と[[局契約|専属契約]]を結び、軌道に乗ったら完全フリーに、という傾向が多い。[[羽佐間正雄]]、[[久保純子]]のようにNHK退職直後にNHKと専属契約した人物もいる。ただし、専属契約となる形でのフリーだけではなく、在京キー局や在阪準キー局への移籍というパターンもある<ref>代表例:[[TBSテレビ|TBS]]:[[土井敏之]]([[NHK佐賀放送局|NHK佐賀局]])、[[毎日放送|MBS]]:[[田丸一男]]([[NHK大津放送局|NHK大津局]])</ref>。また、民放局と違い、退職後にNHKの番組に出演することはほぼない([[有働由美子]]、武田のような例外もあるが)。
=== 採用 ===
新卒採用の場合、4年制[[大学]]卒業を必須としている局がほとんど(地方局では[[短期大学]]卒業者を採用対象とするところもある)で、さらに募集要領には年齢制限、[[留年|留年制限]]を設けているところが圧倒的に多い。また、大学のコースは文系・理系は関係無く採用対象となる。また、NHKのみ毎月の[[NHK受信料]]を払っている事も条件である<ref group="注">ただし、NHKの受信料が免除された場合を除く。</ref>。また総務、制作などの部門とは採用枠が別に設けられていることも多い。前述の通り非常に人気の高い職種であるため、その競争率は非常に高く[[キー局]]アナウンサー試験の倍率は芸能オーデションの倍率をも凌駕する倍率である。居住地や出身地以外、さながら日本全国の放送局に対し応募書類を送ることも珍しくはなく、面接の度に日本全国を行脚する志望者もいる。学生時代に[[アルバイト]]でアナウンサーや[[リポーター]]の経験を積むか、アナウンススクールで指導を受けた方が有利であるとされる<ref>一例として、NHK(当時)の[[三浦拓実]]アナウンサーは[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]主催[[レースアナウンサー養成講座]]第1期生としてアナウンス訓練を受けている(後にNHK退局後にラジオNIKKEIに転職)。一部の大学には「アナウンス研究会」というサークルまで存在する</ref>。
採用試験([[面接]]試験を含む)では正しい日本語が話せるか、好印象を与える雰囲気・容姿を持つか、とっさの機転が利くかなどが重視される。[[語学]]やスポーツといった、業務に活かせる得意分野が求められる場合もある。
入社後は、数か月間の研修の後、短時間の[[ナレーション]]や[[提供クレジット|提供読み]]、[[スポットニュース]]のような難易度の低いとされる業務に就き、多くの場合、入社後半年から1年でレギュラー番組出演となる。初めての[[生放送]]出演は「初鳴き」と呼ばれることもある。稀に、研修と並行して4月の入社時からレギュラー番組を獲得する例もある{{Efn2|入社時と同時期に行われる春の[[改編期]]に伴う新編成の都合上、中には[[入社式]]の前に番組に出演するケースもある<ref>{{Cite web|和書|title=テレ朝・斎藤ちはる、入社式前にアナウンサーデビュー「楽しかった」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2132696/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2021-04-02|date=2019-04-01}}</ref>。}}。こういった例は人員の少ないローカル局がほとんどだったが、後にキー局でも見受けられるようになった。放送局などが直接運営するアナウンサースクールを実質研修の場と捉えていることがある。また[[災害対策基本法]]指定公共機関に指定されているNHKでは、深夜のニュースの放送終了後、全職員を対象にした災害発生時(特に[[緊急地震速報]]・[[津波警報]]発令時)の緊急報道訓練をほぼ毎日実施しており、アナウンス部所属局員もその訓練を受ける。
非大都市圏の放送局を中心に、コストダウンのため、新卒採用であっても正社員としてではなく、期間を区切った契約職として採用する事例が増えつつある。これらの場合、契約満了時に解雇するか、それとも契約延長または正社員転換で残留させるかは、それぞれの放送局の判断に委ねられている。
2001年10月1日にTBS(現・[[東京放送ホールディングス|TBSホールディングス]])がラジオ部門を分社化させたのを皮切りに、[[認定放送持株会社]]移行を含むラジオ・テレビ部門の分社化が相次いでいる<ref group="注">かつて[[ラテ兼営]]だったTBS(現TBSホールディングス)は2001年10月1日よりラジオ部門を子会社に継承。その後テレビ部門も放送免許と現業全般を子会社に分割承継し、放送免許は「[[TBSテレビ]]」と「[[TBSラジオ]](分割承継当時の商号はTBSラジオ&コミュニケーションズ)」に分離(コールサインをラテ別々化)。STVは2005年10月1日よりラジオ部門を親会社の「[[札幌テレビ放送]]」より分社して子会社の「[[STVラジオ|株式会社STVラジオ]]」に継承(ただしコールサインは網走局を除き開局当初からラテ別々)。[[中部日本放送]]は2010年7月1日よりラジオ部門を子会社化。その後テレビ部門も放送免許と現業全般を子会社に分割承継し、放送免許は「[[CBCテレビ]]」と「[[CBCラジオ]]」に分離(コールサインをラテ別々化)。朝日放送(現・[[朝日放送グループホールディングス]])は2018年4月1日よりラジオ部門・テレビ部門を子会社に分割承継し、放送免許は「[[朝日放送テレビ]]」と「[[朝日放送ラジオ]]」に分離(コールサインをラテ別々化)。</ref>。分社化したテレビ・ラジオ各局のアナウンサー募集・採用は人件費削減の観点からテレビ局側が行っており、ラジオ局に「アナウンサーの派遣業務」としてアナウンス業務を行っている。さらに、ラジオ局の送信所保守管理も経費削減の観点からテレビ局に委託している。
=== 異動・転勤・昇進 ===
多くの放送局では、アナウンサーは専門職とされるため、業務内容が大幅に異なる部署への異動になることは少ない。ただし、業務内容が近い[[報道]][[記者]]への異動や[[解説委員]]就任、国内外の拠点への異動、本人の強い希望がある場合の異動もある。また、報道記者に転出しても主にワイドニュースなど[[ニュースキャスター]]として出演を継続する元アナウンサーもいる。地方局の一部ではアナウンサーの肩書きを残したままで報道記者兼任という場合もある。また、現在は少なくなったが、放送局を新規に立ち上げる際、所属予定の系列局もしくは立地地域の既存の放送局から新設局のアナウンス部門の指導員として出向する例もある。
従来は異動の少ない業種だったため、一般部署への配置転換が否定的に報じられる事もある<ref>[https://web.archive.org/web/20130806122713/http://gendai.net/articles/view/geino/143854 入社29年目で“左遷” フジ川端健嗣アナに何が…] 日刊ゲンダイ2013年8月6日掲載記事</ref><ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20120713_129066.html 中野美奈子と同時に卒業した2人の女子アナ“気の毒”な最後] 週刊ポスト2012年7月13日</ref>。しかし2000年代頃より、アナウンサー個人のスキャンダルに対する一種の懲罰や、テレビ放送の完全デジタル化による負担増に伴う人件費抑制策などで人事異動を全社規模化する放送局が増えており、アナウンス業務から外される事例は珍しくなくなっている。
[[日本放送協会|NHK]]の女性職員アナウンサーも以前は東京本部(渋谷)に転勤になるとほとんど動かない例が圧倒的だったが、2010年代に入ると40歳代以上は管理職として、30歳代については男性局員との格差是正を主眼として、渋谷から強制的に転勤させる例が急増している。[[2011年]]は、年度替わりに30歳前後の2人が渋谷から出されたほか、[[6月24日]]付の幹部級人事では一気に5人が地域放送局のアナウンス統括職に起用され渋谷から転出、1人が渋谷内部で配置転換となった。なお、NHKの男性局員は全国各地を転々とするのが普通で([[管理職]]クラスでも例外はなく、[[2021年]]には[[武田真一]]が[[NHK大阪放送局|大阪局]]に転勤した。)、その途中、人事でアナウンス部門から離れることも珍しくない。入局以来、渋谷で働いた経験がないという事例も少なくないほか、渋谷で長く残れる人もほんの一握りである。中にはその地方の土地柄や環境などを気に入り、[[家屋|家]]まで建ててその地方局に継続的に、または職歴の大半において在籍するアナウンサーも極く僅かではあるが存在する。(一例としてNHKでは[[NHK盛岡放送局|盛岡局]]の[[上原康樹]](現・[[岩手県議会|岩手県議会議員]])、[[NHK佐賀放送局|佐賀局]]の[[三上たつ次]]など)
[[鈴木史朗]](当時TBS)のように別部署に異動していた元アナウンサーが復帰する例があるほか、報道記者が転身する例もある。対して、他部署から新たにアナウンサーになる例は、1980-90年代のテレビ東京などに見られる程度で少ない。また、アナウンス部以外の部署に所属していても番組出演機会がある場合、「アナウンサー」の名称を用いる例もある。
キャリアを重ねて管理職や役員待遇になると「<nowiki>チーフアナウンサー</nowiki>」や「<nowiki>エグゼクティブアナウンサー</nowiki>」の肩書きを持つ例が多い(主にNHK)。管理職もしくはベテランアナウンサーとなると、後輩の指導を行うほか、部内のアナウンサーのスケジュール管理業務や経営・企画会議の参加が増えるため、番組出演がやや少なくなる傾向にある。ただし、労働争議によるストライキで組合員である若手アナウンサーが出演を見合わせた<ref group="注">2000年代以降の在京キー局だけ見るとTBSとテレビ東京が該当している</ref>場合、彼らの代役として主に生放送番組に出演する例もある。主にスポットニュースやワイドニュースが該当する。ただし番組によっては[[ワールドビジネスサテライト]]のように、元々担当しているフリー契約のアナウンサーやナレーターのみで乗り切る例もあれば、補いきれない場合は管理職のアナウンサーが出演する。ただ局によってテレビ東京のように人員が少なく補いきれないこともあり、その場合は同じ局で出演している同種番組のフリーアナウンサーが担当することもある<ref group="注">「本日は我々でお伝えします」あるいは「〇〇と××に変わって△△と□□でお伝えします」とだけ伝えられるだけで特段事情説明(夏休みや体調不良)されないまま番組は進行される</ref>。
アナウンサー現職のままの役員就任は、2003年に[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]取締役に就任した[[道上洋三]](2007年に退任、現:常勤顧問)などの例はあるものの稀で、アナウンサー経験者の役員の多くは他部署への異動後に就任している。
仕事を求めて別の局へ移籍する例もある。地方局は契約社員であるなど身分が不安定なこともあってとくに多く、3社以上を渡り歩く者もいる。中途採用は経験者がほとんどであるが、異業種からの転職も見られる。
=== 退職、他局への転職、フリー転身など ===
{{節スタブ|date=2021年1月}}
地方局を中心に複数の放送局に在籍している(していた)局のアナウンサーは多く存在している。また、1つの放送局の在籍期間は放送局を移籍した2局目か2局目以降に在籍した期間が最初に在籍した放送局よりも長いと言う例も多い。
== 様々なアナウンサー ==
=== スポーツアナウンサー ===
該当者は[[:Category:スポーツアナウンサー]]を参照。スポーツ中継の実況担当は男性アナウンサーが務めることが圧倒的に多い。
中立且つ冷静な放送が求められるアナウンス職にあって、自らの興奮や感動をストレートに表現することが許される分野で、[[野球]]のホームランシーンなどを大声で伝える「絶叫型」アナウンスがある。しかし、これを良しとしない意見もあり、視聴者・聴取者(リスナー)の好みによる所が大きい。また、世相や試合状況にアナウンサーが応えられるかにもよる。
1936年のベルリンオリンピックで、[[水泳]]女子の[[前畑秀子]]が金メダルを獲得した際、ラジオ中継を担当していた[[河西三省]]は、激しいデッドヒートを受けて「前畑頑張れ!前畑頑張れ!」と38回連呼し、日本中に感動と興奮を伝えた。
一方で、2000年9月14日のシドニーオリンピック、サッカー日本代表の試合で得点の際「ゴール!」を20回以上(最大29回)叫んだ日本テレビの[[船越雅史]](現在はアナウンス職から離脱)の実況には多くの批判・抗議が寄せられた。
=== ご当地アナウンサー ===
そもそも使用例が少ないが、特に[[三大都市圏]]以外の[[都道府県|道県]]において、放送局の放送圏域内で生まれ育って、同局でアナウンサーとして活動する者を指す(ただし、単に「地元の放送局所属のアナウンサー」という使用例もある<ref>[https://sp.rakuteneagles.jp/news/detail/6603.html 7/23(土)ご当地アナウンサー8人が集結!Koboスタ宮城で“わくわく夏まつり満喫対決”を開催!](楽天野球団)</ref>)。
NHKは全国組織であるため、基本的に一定年数同じ地域に勤務した場合は、他の地域へ転勤となる。このため、出身地で勤務できる可能性はそれほど高くない。しかし逆に地元勤務となった場合は、そのことを最大限に利用して地域社会に貢献することができる。近年各放送局の役割再強化を図っているNHKに於いては、ご当地アナウンサーは重要な戦力となる。
富山では、[[山田重光]]が福岡を一旦離れてUターンして以降、アナウンスを統括する放送部副部長が3代続けて地元富山県出身者となっている。隣の新潟では、2009年8月の時点で6人いるアナウンサーの半分が地元新潟県出身者だった(後に転勤で1人出て2人に)。拠点局ではない一般放送局でこうした事例はまれである。山形県では、[[柴田徹 (アナウンサー)|柴田徹]]がUターン後、山形弁でふるさとを語るバラエティ番組『[[今夜はなまらナイト]]』を立ち上げ、今や全国にファンを有する。拠点局でも、名古屋は単身赴任者を含め[[愛知県]]出身者が多く在籍している。
民放はNHKと異なり、特定地域だけをエリアとする。「キー局」と呼ばれる在京局も、本来は東京都または関東のローカル局であり、NHK以上に地域に根差した活動を行っている。
民放の中には、法令改正で差別的雇用が禁じられるまで、アナウンサーの採用にあたって、その放送局が所在する都道府県の出身者に限るという条件を付ける場合があった。
[[サガテレビ]]では、少なくとも1990年代までは正社員としてのアナウンサー採用を佐賀県出身者に限っていた。県外出身者については、あくまでもニュース番組のアシスタントとしての扱いだった。現在は特に女性アナウンサーを契約職採用中心に切り替えたため、こうした制限はなくなった。正社員アナウンサーは公式サイトに全員入社年が記されており、2010年に[[花田百合奈]]が初の県外出身正社員アナウンサーとして入るまで全員が佐賀県出身者だった。
[[テレビ大分]]では、現在でもアナウンサーの採用を大分県出身者に限っている模様である。しかし、[[小笠原正典]]アナウンサーと、田辺智彦アナウンサーは、県外生まれである。そのため、アナウンサープロフィールの出生地が、その他のアナウンサーと違う。
=== 女子アナウンサーとその背景 ===
女子アナウンサーは、通称「女子アナ」として、その「タレント化」が顕著であるとされる者を特に指し、揶揄的に用いられる場合がある。特に[[民間放送|民放]]、中でも東京キー局では「タレント化」の傾向が極めて著しい。
[[1980年代]]後半以降に採用された女子アナウンサーの大半が、俗に言う「ブランド大学」([[東京六大学]]や[[関関同立]]など)の出身であり、また[[ミス・コンテスト]]の準グランプリや[[ミスキャンパス]]に選出された経歴を持つ者も少なくない。また、業務上必要なアナウンス技術よりも、容姿を優先したり、誤読やトチリなど本来は許されないはずのミスを[[視聴率]]獲得のため珍重した結果、[[芸能人]]さながらの扱いを受ける例が多いと見る向きもある。さらに2000年代以降は[[平井理央]]、[[紺野あさ美]]、[[宮澤智]]、[[斎藤ちはる]]、[[市來玲奈]]など元[[アイドル]]が女子アナとなる事例が見られる。
「下手な芸能人を使うより、自局の女子アナを起用した方が視聴者受けがよく、しかも安価」と彼女らを「商品化」するのは、「とにかく視聴率ありき」という商業主義の民放テレビ局の姿勢も大きいと見られる。また、女子アナにコスプレをさせることも多い。
その結果、キャリアを積み、「読みの技術」が高まった中堅アナウンサーを、「若い方が良い」、「[[バラエティ番組]]で使いづらい」との理由で冷遇する傾向があり、これは「女子アナ30歳定年(限界)説」なる言葉をも生んでいる。ただ、NHKでは女性であっても入局後数年間は[[NHK放送センター|東京・渋谷]]以外の地方局に配属してアナウンサーとしての技量を磨きキャリアを積ませるという方針があり、「若さ」や「鮮度」よりもアナウンサーという「職業」として求められる技量を重視する傾向が強いので、民放とは全く事情が異なる。そのため、NHKでは逆に30歳を過ぎた中堅局員([[和久田麻由子]]局員など)が重用される例が多い。
民放では「売れっ子」女子アナウンサーはその多くが20歳代で、30歳前後の年齢を一つの転機と見るのは一般的な[[OL]]と同じである。さらに「見られる職業」の最たるものであるため、その「鮮度」が露骨に求められ、30歳頃までに人気や実力を確立できなかった者は、容赦なく裏方に配置替えされ、次々に姿を消していく。「女子アナ30歳定年(限界)説」はこういった事象を背景にしており、女子アナウンサー本人がこれに言及している例もある<ref>大橋未歩 『大橋未歩のミホちゃんねる!』 集英社、2006年、ISBN 978-4087804379、190頁 等</ref>。[[フジテレビジョン]]は1969年まで、女子社員にのみ25歳定年制を敷いていた<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/10/19/kiji/K20161019013559560.html フジテレビは25歳が定年だった それってホント!?]スポーツニッポン2016年10月19日、[[残間里江子]]の就職活動での実体験。</ref>。
女子アナは男性プロデューサーやバラエティ番組で共演する男性タレントから[[セクシャルハラスメント]]を受けることが多くあるほか、局の幹部から接待の相手役に繰り出されることも多いとされる。これらの行為にも女子アナは番組キャスティング権を持つ重役からの命令であるため、否定できないという。女子アナがフリー転身を決断する背景にはこの風潮も一因であるとの見方もある<ref>『[[週刊ポスト]]』2013年6月21日号</ref>。
==== 女子アナウンサーの系譜 ====
かつて女性アナウンサーの担当する分野は、[[料理]]、[[育児]]、[[手芸]]をテーマとする番組や、[[インタビュー]]の聞き手などが主だった。
今日のようにタレント並みに注目を浴びる女子アナウンサーにつながる系譜は、[[1975年]]フジテレビに入社し、同局初の女性キャスターとなった後、女子アナウンサー史上初のスキャンダルを起こした<ref>『[[週刊現代]]』 2008年8月23、30日号 25-27頁。</ref>[[田丸美寿々]]や<ref>[http://www.ewoman.co.jp/winwin/90tm/index.html ウィンウィン対談 田丸 美寿々さん 「報道特集」ニュースキャスター]、[http://www.news-postseven.com/archives/20111226_77215.html 逸見政孝氏 田丸美寿々を「20年に一人の逸材」と語っていた(NEWSポストセブン)]、[http://www.news-postseven.com/archives/20130129_168284.html 日本初の女子アナ 1年で退社し9年後年下男性と心中した(NEWSポストセブン)]、[http://www.kanto-ba.org/series/18/ 田丸美寿々さん: わたしと司法 | 関東弁護士会連合会]</ref><ref name="FLASH">{{Cite journal|和書|author=|date= 2013-9-10|title=女子アナ体張りすぎ!30年史|journal=[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]|volume=|issue=|pages=p.50|publisher=[[光文社]]||accessdate=2014-5-17}}</ref><ref name="asahinikkan">[http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200905200007.html asahi.com(朝日新聞社):元祖美人アナ頼近美津子さんが死去] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090523140444/http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200905200007.html |date=2009年5月23日 }}(新聞記事と内容は若干異なる)。[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090520-496657.html 元祖美人アナ頼近美津子さんが死去、53歳]</ref>、[[1978年]]NHKに入局し「[[TVガイド]]」の表紙を飾ったり、民放への大型移籍や[[玉の輿|玉の輿婚]]が話題になった[[頼近美津子]]らを端緒とする見方や<ref name="FLASH"/><ref name="asahinikkan"/><ref group="注">女子アナウンサーがタレント化するはしりとなった([[朝日新聞]]、2009年5月20日、35面)。</ref><ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20111223_77014.html 河野景子、八木亜希子ら80年代フジ女子アナ列伝 - NEWSポストセブン]<br />[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/05/20/03.html 美人女子アナの草分け…頼近美津子さん死去(芸能) ― スポニチ 2009年5月20日、20面] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090521170128/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/05/20/03.html |date=2009年5月21日 }}<br />[http://www.zakzak.co.jp/gei/200905/g2009052002.html 元祖アイドルアナ頼近美津子さん、食道がんで死去 - 芸能:ZAKZAK]<br />[http://www.sankei.jp.msn.com/entertainments/music/090524/msc0905240910000-n1.htm 追悼・頼近美津子さん 音楽を愛し、音楽に支えられ] サンケイスポーツ、2009年5月20日、21面{{リンク切れ|date=2011年10月}}<br />「[[週刊ポスト]]」2009年6月5日号 [[小学館]]、30頁。<br />「週刊ポスト」2012年1月1・6日号、58-61頁 「史上最強の女子アナは誰だ!!」<br />「[[女性自身]]」2009年6月9日号 [[光文社]]、50頁。<br />「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」、2009年7月号、[[文藝春秋]]、276頁。<br />『アナウンサーのすべて 女性編』[[共同通信社]]、[[1998年]]、60頁。</ref>、1980年代前半のフジテレビアナウンサーによる当時は異例だった「[[コント]]色の強いバラエティ番組への参加」からなど、いくつかの見方がある<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20111223_77014.html 河野景子、八木亜希子ら80年代フジ女子アナ列伝 - NEWSポストセブン]</ref>。[[1977年]]入社の[[益田由美]]は、[[なるほど!ザ・ワールド]]で体を張ったリポートで、「ひょうきん由美」と呼ばれ親しまれた。[[1980年]]入社の[[山村美智|山村美智子]]、[[1984年]]入社の[[寺田理恵子]]、[[1985年]]入社の[[長野智子]]は、[[オレたちひょうきん族]]に「ひょうきんアナウンサー」と称され司会を務めた。
女子アナウンサーは「女子アナ」と略されることが多いが、この略語を誰が最初に作ったのかは定かではない。「女性アナ」という言い方ではこれ以前からあった。頼近のフジテレビ移籍を報じた1981年当時の週刊誌には「女性アナ」という表記が多く使われている<ref>『[[週刊サンケイ]]』 1981年2月11日号 26頁。</ref><ref>『[[週刊朝日]]』 1981年2月23日号 37頁。</ref>。初出と見られるのは『[[週刊宝石]]』1982年10月29日号<ref name="W宝石821029">{{Cite journal |和書 |author= |title = フジテレビの女子アナの目立ちたがり戦争花盛り 再び野球拳で脱いだ田丸、連日ゲームセンター通いの頼近、フジの看板娘山村、益田……。人気女子アナの奮闘ぶりは? |journal = [[週刊宝石]] |issue = 1982年10月29日号 |publisher = [[光文社]] |pages = 214–217頁 }}</ref>。記事の[[見出し]]に「フジテレビの女子アナの目立ちたがり戦争花盛り 再び野球拳で脱いだ田丸、連日ゲームセンター通いの頼近、フジの看板娘山村、益田……。人気女子アナの奮闘ぶりは? 」と2度も「女子アナ」という言葉を使用している<ref name="W宝石821029"/>。同記事は田丸美寿々、頼近美津子、山村美智子を取り上げた記事だったが、記事本文には「女子アナ」という言葉は1度も使われず、「女性アナ」が5度、「美人アナ」が2度使われている<ref name="W宝石821029"/>。この半年前の同じ『週刊宝石』1982年4月17日号は田丸と頼近の2人を取り上げた「第2の田丸・頼近を目指すテレビ局の新人美女を全角度品さだめ! ブラウン管に登場するフレッシュギャルを誌上紹介」というタイトルだったが<ref name="W宝石820417">{{Cite journal |和書 |author= |title = 第2の田丸・頼近を目指すテレビ局の"新人美女"を全角度品さだめ! ブラウン管に登場するフレッシュギャルを誌上紹介 |journal = [[週刊宝石]] |issue = 1982年4月17日号 |publisher = [[光文社]] |pages = 200–203頁 }}</ref>、この号には「女子アナ」という言葉は使われていない。『週刊宝石』1982年10月29日号が初出か、或いは他のマスメディアが1982年春から秋にかけて使用して、それを『週刊宝石』が真似て使用したかは分からない。
[[1987年]]にフジテレビ出版から発行された同局アナウンサーを取り上げた書籍『アナ本』の中に「女子アナ」という表記が見受けられる。現在も「女性アナ」と表記することもある<ref>[http://mainichi.jp/enta/geinou/graph/200807/23/ 民放キー局:女性アナ5人が出演する北京五輪放送CMが完成]<br />[https://natalie.mu/owarai/news/31856 お笑いナタリー - 女芸人とテレ東女性アナがやりすぎ騎馬戦バトル]<br />[http://www.daily.co.jp/newsflash/2010/07/27/0003248546.shtml 日テレ女性アナが自殺か/主要ニュース速報/デイリースポーツonline]</ref>。「女子アナ」と「女性アナ」という表記が混在する記事もみられる<ref group="注">見出しが「女子アナ」で本文では「女性アナ」という表記([http://www.asahi.com/sports/update/0529/TKY201005280508.html 女子アナ行かぬW杯 治安に不安、TV各局派遣見送り])。</ref>。2001年には句点付きの『[[女子アナ。]]』と題するドラマまで制作された。
続編として[[1991年]]に発行された『アナ本2』では、当時「花の三人娘」と呼ばれた、[[有賀さつき]]、[[河野景子]]、[[八木亜希子]]に焦点が当てられた。[[1993年]]には、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の人気アナウンサー[[永井美奈子]]ら3人からなるユニット「[[DORA]]」が結成され、CDをリリースした。
女子アナウンサー路線はフジテレビ、次いで日本テレビが先行していたが、[[TBSテレビ|TBS]]には1993年に[[雨宮塔子]]が、[[1994年]]に[[進藤晶子]]が入社しそれぞれバラエティ番組とスポーツ番組で局の看板アナウンサーとなった。NHKには1994年に[[久保純子]]が入局し看板アナウンサーとなった。以後女子アナウンサー人気の定着とともに、各局とも女子アナウンサーと呼ばれるアナウンサーが増えていった。
1990年代後半から芸能事務所「[[セント・フォース]]」などは女性キャスター、リポーターに特化したマネージメント展開を行い、各局のニュース・ワイドショー番組に所属タレントを派遣。各局を退職したアナウンサーを所属タレントとして受け入れるほか、学生の所属タレントがその後、出演していた局のアナウンス職として採用される事例も存在し([[本田朋子]]など)、さらには局との共同出資で芸能事務所([[フォニックス (芸能プロダクション)|フォニックス]])を設立するなど、局と事務所、相互の関係を深めている。
また、[[滝川クリステル]](共同テレビ→フリー)、[[葉山エレーヌ|葉山エレーヌ→石田エレーヌ→葉山エレーヌ]](日本テレビ)、[[加藤シルビア]]や[[小林悠 (アナウンサー)|小林悠]](共にTBS)、[[ヒロド歩美]]([[朝日放送テレビ|ABCテレビ]])など、[[混血#日本国内における混血|ハーフ]]のアナウンサーが多く起用される傾向も見られる。外国人とのインタビューに際し[[通訳]]を介さず直接取材できる人材としての[[帰国子女]]や海外[[留学]]経験者と同等の理由で採用されているが、日本人のハーフに対するイメージから採用が多くなっているとも見られる。滝川、葉山(石田)などは当初は日本名で活動していたが、局のイメージ戦略のために意図的に外国名を名乗っており、タレント化の是非を巡る議論の一端となっている。
==== タレント化に関する論議 ====
バラエティ番組や[[クイズ番組]]などで、社会的常識に欠ける発言や回答をするアナウンサーが時折見られる。これは「資質低下」だと厳しい指摘がされることが一般的だが、視聴率獲得目的の「演出」や一種の[[やらせ]]も入っていることがある、と内幕が暴露されることもある。元日テレアナウンサーの[[石川牧子]]が「若者の読み書きの能力は年々低下している」「入社希望の学生の漢字テストの成績が良くない」と語っている<!--ただしこういう若者論は、[[俗流若者論]]も参照<ref>『ダカーポ』No.341 1996年1月17日号 マガジンハウス、17頁。</ref>-->他、日本テレビOBの[[福澤朗]]も自身のブログで、「非常に憂慮している」とした上で、「テレビはもうアナウンサーを必要としていない」と苦言を呈している。有賀さつきは、出演者の瞬間的なリアクションに、自分を含めた番組製作者らは[[台本]]にはない魅力を共有しており、自分も[[ボケ (漫才)|ボケ]]の役割をある程度進んで引き受けていたことや、社会的常識があるはずの局アナのイメージを逆手に取った、[[演出]]の一面があったことを明かしている<ref>有賀さつき 『さつき白書』 浪漫新社、1994年、ISBN 978-4847012020。</ref>。
== 兼業、副業、他職種への進出 ==
日本の局アナウンサーは放送局の企画で[[歌手]]デビューをしたり、ドラマや映画にチョイ役の俳優として出演するという例も存在する(劇中の情報・報道番組に出演するキャスター役に起用されることもある)。
例外的ではあるが、局アナウンサーであっても、放送局同士のコラボレーション企画等により他局の番組に出演する例もある。この影響で局アナウンサーが[[裏番組]]と重複出演となる例もある(詳細は「[[小林麻耶]]」の項を参照)。その他、放送局同士の共同制作番組を放送する際、その広告に各局アナウンサーが勢揃いで出演することもある。また、東京オリンピックに向けて様々な局同士の連携がなされた。
本名で活動する者が多いが、中には芸名を用いる者も存在する(局アナ・フリーアナウンサー双方。ラジオの場合は「マイクネーム」と呼ばれることもある)。
局アナウンサーの中には会社への報告を行う事を条件として、講演会や結婚式の司会などの副業を行う者も存在する。有名になるに連れてだんだんとアルバイトでの収入も増え、所属局から貰う給料の倍以上の額を稼ぐ程になることもあるという<ref>{{Cite web|和書|url=https://asagei.biz/excerpt/4464|title=アナウンサーの結婚式司会は闇営業なのか?|accessdate=2019年6月29日|publisher=アサ芸ビズ(2019年6月24日作成)}}</ref>。
テレビ局所属のアナウンサーはかつて[[水着]]着用で番組出演をする場面が見受けられたが、1990年代後半頃からは各局男女ともに水着姿での出演を規制するようになった(ただし、例外もある)。2015年現在、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の場合、アナウンサーを極めて高度な清廉性が求められる職種と位置づけている。{{main|笹崎里菜#入社内定取消訴訟}}
=== 放送メディア以外の職業 ===
後述のように、放送メディア以外の分野でアナウンス活動を行うものも存在する。後述以外にも「[[ラジオパーソナリティ]]」、「[[ディスクジョッキー]]」、「[[声優]]」、「[[ナレーター]]」、「[[朗読]]家」なども求められる資質が似ていることから、アナウンサー業と掛け持ちする例がある。
==== 司会業 ====
{{リンクのみの節|date=2013年11月28日 (木) 12:26 (UTC)}}
{{Main|司会}}
==== 選挙関連 ====
[[選挙]]立候補者の応援演説や、[[選挙カー]]から候補者名や政策を連呼する活動が知られる。女性の場合、その声を鳥に例え「ウグイス嬢」と呼び、むしろ正式な呼称がない状態が生じている。男性の場合「カラス君」や「カラスボーイ」の俗称があるが、女性が一般的なのであまり使われない。
==== 場内アナウンス ====
アナウンスは英 announce 、announcement であるが、場内アナウンスとは、催し物の会場の中や駅の構内の人などに放送で呼びかけること。[[競技場]]や[[ホール]]などで、選手交代や演目などの案内を観客に告げる職業。
用例でみられるのは、『風ふたたび』(1951、永井龍男)に、野分かな「ざわめき立った客席へ、場内アナウンスが道原の名を呼びかけた」、『星のない街路』(1958、北社夫) 「さまざまな人種の旅人がバッグをさげて行きかっている。合間を案内を告げる場内アナウンスが縫ってゆく」など、使用されている。
女性の場合「ウグイス嬢」の俗称が、男性の場合は「[[スタジアムDJ]]」と称される場合がある。これらと意味合いの異なる場内アナウンスとして、[[競馬]]などの公営競技における場内実況([[中央競馬]]における[[グリーンチャンネル]]等の他媒体向けの実況と同じ)を担当する職業もある。
==== リングアナウンサー ====
プロレス、ボクシングなどの格闘技において選手コール、進行業務などをするアナウンサー。実況アナウンサーとは異なる。
{{Main|リングアナウンサー}}
==== ナレーターコンパニオン ====
商品説明や司会進行を担当する[[イベントコンパニオン]]。
== 公式サイトの掲載プロフィール ==
顔写真・生まれた月日([[テレビ朝日]]は掲載していない。[[日本放送協会|NHK]]に至っては生年も非公表<ref group="注">ただし、番組やSNSで生年月日や年齢に触れられることもある。</ref>)・大まかな出身地・血液型は掲載されている例が多く、対して放送局に入社した時期・生まれた年・出身大学・身長などは掲載されていない例も多い。なお、公式ウェブサイトの顔写真は公式プロフィール写真として、番組や放送局関連のイベントのウェブページや案内に使われる例が多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* NHKアナウンサー史編集委員会 『アナウンサーたちの70年』 [[講談社]]、1992年、ISBN 978-4062032322。
* 日本放送協会 『20世紀放送史』 日本放送協会、2001年、ISBN 978-4140071991。
* 小松克彦、女子アナ愛好会 『新・女子アナ時代』 双葉社、2000年、ISBN 978-4575290769。
* 共同通信社 『アナウンサーのすべて[女性編]』 共同通信社、1998年、ISBN 978-4764130364。
* 岡野敏之 『女子アナぱこぱこ大図鑑』 讀賣新聞社、1993年
== 関連項目 ==
* [[ニュースキャスター]]
* [[気象キャスター]]。[[:Category:気象キャスター]]
* [[地上デジタル放送推進大使]]
* [[イベントコンパニオン]]
* [[ミスキャンパス]] - [[ミスターキャンパス]]
* [[日本のアナウンサー一覧]]
== 外部リンク ==
{{ウィキプロジェクトリンク|アナウンサー|[[画像:Female_singer_silhouette.png|38px|Project:アナウンサー]]}}
* [https://jobzukan.com/announcer.html アナウンサーになるには? 天職攻略大図鑑]
* [https://careergarden.jp/announcer/ キャリアガーデン]
*[https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/senpai/senpai122/ 桑子さん アナウンサーってどんな仕事ですか?]NHK就活応援ニュースゼミ「教えて先輩!」 「桑子」は[[桑子真帆]]
{{デフォルトソート:にほんのあなうんさあ}}
[[Category:日本のアナウンサー|*]] | 2003-02-15T15:59:57Z | 2023-12-29T09:49:00Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC |
1,842 | ピタゴラスイッチ | 『ピタゴラスイッチ』は、2002年4月9日(ミニは4月1日)からNHK教育→NHK Eテレで放送されている幼児向けの教育番組である。
国際的な放送番組のコンテストである日本賞(教育・教養番組)総理大臣賞、プリ・ジュネス(子供・青少年向けテレビ番組)最優秀賞を受賞した。
何気ない日常に隠れている不思議な構造や面白い考え方、法則があり、いろいろな事象や仕掛けなどのコーナーを通して「なるほど!」を紹介。子供たちの「考え方」を育成するテーマの番組である。
サブタイトルは前半の人形劇のテーマであり、車だん吉や井上順らが声優として出演している。内容の大部分は後半に放送するいくつかの小さなコーナーで占められる。
2006年にモバイルサイトが開設され、着信メロディなどがダウンロードできるようになった。2007年度から2010年度まで土曜日にアンコール放送が実施された(後述)。
番組名の由来は、日常生活の法則や定理を古代ギリシアの数学者「ピタゴラス」の定理に準え、発想する「スイッチ」を合わせた造語である。
通常版では、基本的に前半部では人形劇「きょうのトピック」または「地下ゴラスイッチ」、後半部では文房具などを使って、面白い道を作ってボールをゴールまで転がす「ピタゴラ装置」やその他のコーナーを数本放送する構成が取られている。
スペシャル版では、人形劇のキャラクターによる進行の下、あるいは人形劇自体を休止した上でミニコーナーの総集編や従来のコーナー・歌にちなんだ特集などを放送するケースがある。
監修(総合指導)は佐藤雅彦と内野真澄。佐藤雅彦が過去に制作した作品や、慶應義塾大学佐藤雅彦研究室(以下、佐藤研。佐藤は2005年度まで在籍)の学生がワークショップで作った作品が採用されている。
こうした作品は当番組のほか、書籍『ねっとのおやつ』(文庫版タイトル『四国はどこまで入れ替え可能か』)『任意の点P』などでも紹介されている。
また、近年は佐藤研の卒業生からなるクリエイティブ・グループ「ユーフラテス」もコーナーの企画・制作に携わっている。
各コーナーの映像には、過去にNHKで放送された番組やそれを模したもの(『NHKニュース』『NHK高校講座』やスポーツ中継など)が使用され、アテネ夏季五輪やソルトレイクシティ冬季五輪の映像などオリンピックの映像も使用されている。
通常版のほか、ミニコーナーや歌のコーナーを5分間に再編集した『ピタゴラスイッチ ミニ』がある(最初のタイトルロゴで「ミニ」と書かれた四角い体の虫が横切る演出がある)。2015年度より通常版・ミニ共に字幕放送に対応している。
NHK国際放送のチャンネルであるNHKワールド・プレミアムでは、この番組 "PythagoraSwitch" と、ミニの "PythagoraSwitch mini" が放映されている。
2015年度より、ミニの番組を再編集し英語吹き替え・英語字幕を付与した "PythagoraSwitch mini" が、ネット配信を含む「NHK国際放送 NHKワールド」で放送されている。なお、英語吹き替え版は番組のタイトルコールが日本の物とは異なる。
番組開始時は4:3標準画質映像による製作で放送されたが、2010年度よりハイビジョン化された。従来の4:3の映像を放送する場合は、画面左右の両端にサイドパネルを入れて放送する。ただし、ミニではその後も4:3で放送される回があり、16:9HDの映像も4:3HDで放送される。
※特記が無い限り、朝の放送は月曜日 - 金曜日。
百科おじさんがピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では片桐仁)に世の中の仕組みを解説する人形劇。人形操演は木ぐつの木。人形が登場しない放送回も存在する。「ミニ」では放送されない。劇中BGMの作曲は栗原正己。2021年度以降の10分版では、土曜日と月曜日のみ放送している(月曜日は土曜日放送分の再放送)。
ピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では片桐)の疑問に百科おじさんが「詳しくはわしの○○ページに書いてあーる」と答え該当するページを参照させるが、ピタとゴラは「じーっ、子供だから、読めませーん」と返し、更なる詳細の解説のためテレビのジョンが呼ばれる、というのが定番。『大人の-』では片桐が「じーっ、大人だから、読めまーす」と言うが、読んだだけでは難しくて意味が解らなかったので、更なる詳細の解説のため同様にテレビのジョンが呼ばれる。
ペンギンの「ピタ」と「ゴラ」、ネズミの「スー」の名前や百科おじさんの「イッチ」 (昔のあだ名)は番組タイトルの「ピタゴラスイッチ」に因んでいる。
2018年4月7日放送分以降、不定期に放送されているコーナー。ピタやゴラ達に代わって、モグラのキャラクターであるモグ郎やグラオ達が進行する。
番組のオープニング・エンディング・番組途中に放送される、番組を象徴するコーナーのひとつ。
「ピタゴラ装置」の愛称で親しまれているからくり装置(いわゆるルーブ・ゴールドバーグ・マシンだが、佐藤雅彦は「ピタゴラ装置=ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」という表現を嫌っており、かつ、両者は全く違うものだと主張している。また、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンは長い名前で、幼児には理解しづらいので、「ピタゴラ装置」という愛称が理解しやすい)を利用して番組タイトルを完成させる。この装置は、紙コップや定規やクリップなど身の回りのもので組み立てられているが、非常に複雑な仕掛けがなされており、最初のきっかけを人力で与えたあとはすべての動きが連鎖的に引き起こされる(ドミノ倒しに似ており、その発展といえる)。
15分版のオープニング・エンディングでは放送される装置が固定されており、オープニングは装置No.10「フライパン」、エンディングは装置No.9「レコードプレーヤー」であった。対照的に「ミニ」ではオープニング・エンディング共に毎回異なっており、放送回によっては「アルゴリズムたいそう・こうしん」や歌などが最後のコーナーになった場合、エンディングが省略されてそのまま番組が終了するケースもある。2021年度以降放送時間が10分に短縮されてからは毎回異なる装置が放送されるようになった。
ハイビジョン化以降、4:3放送時代の装置が流れる機会は年々減少したが、2021年度からは「名作選」と題し4:3の映像を含めた過去の装置も再び放送されるようになる。
ピタゴラ装置の部分のみをまとめたDVD付き書籍が発売された。詳細は関連映像作品・書籍を参照。
著名なプロのスポーツ選手が始動や中継・フィニッシュを行う、史上初の人力が絡んだピタゴラ装置。
2021年4月1日放送分で初登場のコーナー。ピタゴラ装置の手前にそれぞれグー・チョキ・パーのサインが付いたゴールが並べられており、装置ギミックとなるボールの軌道から視聴者がじゃんけんで出すべき手を予想する。1回目はナレーションがゴールまでの軌道を予想するが、より複雑さを増した2回目は「よそうタイム」が途中で時間切れとなるため視聴者自身で軌道を考える必要がある。時々「ちょいむず」や「かなりむず」と称し、装置の複雑化に加えてダミーのギミックも盛り込み予想をより困難にした難易度強化版が登場することもある。
いずれも出演はいつもここから(山田一成・菊地秀規)で、歌唱も2人が担当。漢字で「アルゴリズム体操」、「アルゴリズム行進」と表記される場合もある。
通常版の場合、たいそうとこうしんが続けて行われるケースもある。いつもここからの2人が、様々な人たちと体操するのが恒例となっている。また共通して複数でやる時は、他の参加者が2人目(菊池)の掛け声、「アルゴリズムたいそうー(こうしーん)」を斉唱し、同じく2人目(菊池)が「〇〇のみなさんといっしょ」と言って、たいそう・こうしんが始まる。さらに『たいそう』は本番後に、『こうしん』は練習後にサウンドロゴが表示され、このコーナーのみ彼らが歌う。「たいそう」では体操終了後に山田・菊池・他の参加者の順に「アルゴリズムたいそう、おわり」(練習版は山田・菊池のみ「アルゴリズムたいそう、練習おわり」)と言って締める。
2人1組で行う体操。アルゴリズムがテーマとなっており、1人では意味の無い動きが、2人並ぶと関連性のあるものとなる(『しゃがむ動作』が『腕を横に振る』動作と組み合わさることで『腕を避ける動作』になる、等)。体操が終わった後に、「1人で練習」をする場合があり、練習の形態は「やまだバージョン」と「きくちバージョン」がある。「○○のみなさんといっしょ」の後は、体操をした人数の半分の人数で練習する(半分以下の場合もある)。
過去に行われた体操の映像を繋ぎ合わせた「とくべつへん」も存在する。2016年3月5日に「ワシのみたい名作コーナー 第2弾〜アルゴリズムたいそう〜」として過去の放送の中から人気の回が一挙放送された。
2人で体操を行う場合は、白背景と住宅室内ロケの2種類がある。
また、ラジオの茨城放送『たかとりじゅんのビタミンJ!』ではBGMの一つとして使用されていたことがある。
これまでの参加者(人名の所属団体は撮影当時のもの)。
アルゴリズムたいそうを発展させた行進。2003年度から放送。出演と歌唱は同じく、いつもここからの2人。2人以上で縦一列になって輪唱のように1人ずつ動きをずらして行う。前の人の動きと後ろ人の動きが関連性を持ったものになっており、動きがかみ合うとぶつかりそうでぶつからない。外部の人達とコラボレーションをして行進するときは前から2番目の人が「〜といっしょ」、そうでないときは先頭の人が「歩幅は小さく」と号令を言うのがきまり。2010年以降の新作では、通常の1.5倍-2倍速のテンポで行進する『アルゴリズムこうしんMAX』のパターンが追加されている。
先頭から順に以下のような動きと一歩前進を繰り返す(最初のステップで先頭が1.を、次のステップで先頭が2.、次の人が1.を、その次のステップで先頭が3.、次の人が2.、その次の人が1.を、...の順)。これにより、同じ場所に誰がやってきても、その場所では全員が必ず同じ動きをすることになる。
行進の前に、山田・菊地のどちらかが「ひとりで行進」をする事もある。「ひとりで行進」は曲が1巡した所で、曲がフェードアウトして終了する。「○○のみなさんといっしょ」の前には、その場所で撮影した物が放送される。
フィリピンのとある刑務所では、囚人達の教育の一環で導入されている。
これまでの参加者(人名の所属団体は撮影当時のもの)。
この回から本番時に歌詞が表示されるようになる。
空き箱に50音のいずれかの行の文字5つが書かれた手作りの「おとうさんスイッチ」を子供が押し、そのおとうさん(2004年以降は祖父・ひいおじいちゃんのケースもある)がその文字から始まる動きをするという視聴者参加型コーナー。冒頭に出演者の自己紹介をした後、オープニングは、知久が「おとうさんスイッチ(2・おじいちゃんも可)いきますよ〜」と歌ってスタートする。香川真司が出演した「かがわスイッチ」放送時のみ、知久が「かがわスイッチ いきますよ〜」と本気モードで歌ってスタートした。
年度最初の放送はあ行、2回目の放送はか行、という放送順となっている。わ行まで行くと次回からは濁音となり(わ行は放送されない)、濁音が終わるとその後は拗音となる(濁音のた行(だぢづでど)は放送されない)。拗音が終わるとまたあ行に戻ってくる。スイッチを押す回数は最低で一周の5回だが、6回以上押されることがあり、6回目以降は子供が任意に選んだスイッチを押し、そのスイッチで指定された同じ動作を繰り返す。
出演する親子は基本的に一般人・視聴者だが、以下の著名人が本名を名乗り親子で出演したことがある。
前述の「おとうさんスイッチ」の作り方を歌で紹介する。映像はスイッチのみが登場し、スイッチの作り方とはボタンの向きが逆になっている。
前述の「おとうさんスイッチ」の派生コーナー。2010年度から放送。おかあさん(場合によってはおとうさん。この場合は完全なる「おとうさんスイッチ」の逆バージョン)がスイッチを押し、子供が扮する「おてつだいロボ」がその文字からはじまる動き(お手伝い)をするというコーナー。スイッチの構造や作り方はおとうさんスイッチと同じ。コーナーの最後に、おてつだいロボのアニメーション(曲はフルサイズまたは1番のみ)が流れる事がある。歌は栗原が担当。
13個の四角いフレームで構成された白い犬「フレーミー」のアニメ。モチーフはテリア。他のキャラクターも単純図形で構成されているが、透明ではない。So-net「ねっとのおやつ」作品から。
フレーミーには水玉模様のスポッティーと、真っ黒のペインティーという2匹の兄弟が居る。フレーミーは骨が好物で掃除機が苦手。スポッティーは赤ちゃんの世話を任されており、チーズが好物でネコが苦手。ペインティーはドーナツが好物でネズミが苦手、昔は隣の家に祖父がいた(現在は犬小屋の前に花が挿されていることから、亡くなっている)。
フレーミーは、驚いて飛び上がった後落ちたり、何かにぶつかったり、工事現場に入った時にブルドーザーで外に押し出された時などに胴体や足、頭、耳、尻尾がバラバラに分かれてしまう。しかし、簡単に元に戻せる。バラバラになった時に鳥などに鼻や目、尻尾をどこかへ持って行かれる事もある。スポッティーとペインティーとの喧嘩などで全身のパーツがバラバラになり、でたらめに合体したことで誰が誰だか分からなくなることがあるが、それぞれの好物、或いは苦手な物が出現することで元に戻れる。
一度、ストーリーが算数の問題出題になって終わった回があり、この時のみ番組エンディングがピタゴラ装置ではなく解答・解説のアニメーションになる。この話を放送した「ミニ」のエンディングでは解答・解説アニメーションは放映せず通常通りピタゴラ装置を放送、そこにテロップで解答を載せたのみであった。
オンエアでは「ミニ」を中心に、「フレーミーのうた」といういわばテーマソングの歌唱とその歌詞に合わせた映像で終わることもあった。
2005年度から放送。10本の棒が合体していろいろなものに変身するストーリー。佐藤研ワークショップからの派生。
2006年度から放送。
黄色いサイコロのキャラクター・ぼてじん(声 - 岩尾望)が、地面に描かれたマス目の中を前後左右に動いて、カメラに向かってぼてじんのサイコロの面に書かれたメッセージを披露するが、実はマス目から外れても移動可能である。マス目上で回転することもできる。毛虫が苦手。
同年10月に初登場した、オレンジ色の小さいサイズのいぬてん(声 - 後藤輝基)がたまに登場する。こちらには顔と「ワン」しか書いていない。いぬてんもマス目上で回転することができる。いぬてんの家としていえてん(声 - 後藤輝基)も存在する(犬小屋の形をしている関係上、歪な七面体の形である)。
2023年には久しぶりに新作が放送されている。
PlayStationのゲーム、『XI[sai]』が元ネタとなっている。
2019年1月5日の放送で初登場の『ぼてじん』からの派生コーナー。ぼてじんの前に現れる身近なモノをモチーフにしたキャラクター(声 - 後藤輝基)を軌道となるマス目の形から考える。
2020年7月25日の放送で初登場の『ぼてじん』からの派生コーナー。いぬてんが目的地に正しく到着するための道順(プログラム)を考察する。
2016年1月23日放送で初登場のアニメーションのコーナー。擬人化された巻き尺のジャックが、さまざまな日用品のキャラクター達とからむ。コーナーの最初の部分と最後の部分に歌が入る。
「ピタゴラ暗号棒」の歌に合わせてコーナーが進む。
ストーリーが存在するピタゴラ装置である。ビー玉の3兄弟が主人公で、長男は緑色のビータ、次男は赤色のビーすけ、三男は黄色のビーゴロー。この三人が、敵の黒玉軍から逃げるのがこのシリーズの内容。2018年7月28日に『ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル!』が放送され、これまでの3作が再放送された後に4作目である『~完結編~ 黒玉軍の野望』を初放送。これをもって、ストーリーが一旦完結した。
2003年に「第25回 みかたをかえてみる」が第30回日本賞「子ども番組の部」で最優秀賞(総務大臣賞)を受賞。
この「第25回 みかたをかえてみる」は、ミュンヘンで開催された「プリ・ジュネス2004」で「6歳までのノンフィクション部門」最優秀賞を受賞した。
2018年には「プリ・ジュネス2018」で「ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル! ~黒玉軍に気をつけろ~」が「6歳までのフィクション部門」最優秀賞を受賞している。
いずれもDVDの発売元は小学館、販売元はポニーキャニオン。CDの発売・販売元はワーナーミュージック・ジャパン。 | [
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"text": "『ピタゴラスイッチ』は、2002年4月9日(ミニは4月1日)からNHK教育→NHK Eテレで放送されている幼児向けの教育番組である。",
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"text": "国際的な放送番組のコンテストである日本賞(教育・教養番組)総理大臣賞、プリ・ジュネス(子供・青少年向けテレビ番組)最優秀賞を受賞した。",
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"text": "何気ない日常に隠れている不思議な構造や面白い考え方、法則があり、いろいろな事象や仕掛けなどのコーナーを通して「なるほど!」を紹介。子供たちの「考え方」を育成するテーマの番組である。",
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"text": "サブタイトルは前半の人形劇のテーマであり、車だん吉や井上順らが声優として出演している。内容の大部分は後半に放送するいくつかの小さなコーナーで占められる。",
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"text": "2006年にモバイルサイトが開設され、着信メロディなどがダウンロードできるようになった。2007年度から2010年度まで土曜日にアンコール放送が実施された(後述)。",
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"text": "番組名の由来は、日常生活の法則や定理を古代ギリシアの数学者「ピタゴラス」の定理に準え、発想する「スイッチ」を合わせた造語である。",
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"text": "通常版では、基本的に前半部では人形劇「きょうのトピック」または「地下ゴラスイッチ」、後半部では文房具などを使って、面白い道を作ってボールをゴールまで転がす「ピタゴラ装置」やその他のコーナーを数本放送する構成が取られている。",
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"text": "スペシャル版では、人形劇のキャラクターによる進行の下、あるいは人形劇自体を休止した上でミニコーナーの総集編や従来のコーナー・歌にちなんだ特集などを放送するケースがある。",
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"text": "監修(総合指導)は佐藤雅彦と内野真澄。佐藤雅彦が過去に制作した作品や、慶應義塾大学佐藤雅彦研究室(以下、佐藤研。佐藤は2005年度まで在籍)の学生がワークショップで作った作品が採用されている。",
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"text": "こうした作品は当番組のほか、書籍『ねっとのおやつ』(文庫版タイトル『四国はどこまで入れ替え可能か』)『任意の点P』などでも紹介されている。",
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"text": "また、近年は佐藤研の卒業生からなるクリエイティブ・グループ「ユーフラテス」もコーナーの企画・制作に携わっている。",
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"text": "各コーナーの映像には、過去にNHKで放送された番組やそれを模したもの(『NHKニュース』『NHK高校講座』やスポーツ中継など)が使用され、アテネ夏季五輪やソルトレイクシティ冬季五輪の映像などオリンピックの映像も使用されている。",
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"text": "通常版のほか、ミニコーナーや歌のコーナーを5分間に再編集した『ピタゴラスイッチ ミニ』がある(最初のタイトルロゴで「ミニ」と書かれた四角い体の虫が横切る演出がある)。2015年度より通常版・ミニ共に字幕放送に対応している。",
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"text": "NHK国際放送のチャンネルであるNHKワールド・プレミアムでは、この番組 \"PythagoraSwitch\" と、ミニの \"PythagoraSwitch mini\" が放映されている。",
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"text": "2015年度より、ミニの番組を再編集し英語吹き替え・英語字幕を付与した \"PythagoraSwitch mini\" が、ネット配信を含む「NHK国際放送 NHKワールド」で放送されている。なお、英語吹き替え版は番組のタイトルコールが日本の物とは異なる。",
"title": "概要"
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"text": "番組開始時は4:3標準画質映像による製作で放送されたが、2010年度よりハイビジョン化された。従来の4:3の映像を放送する場合は、画面左右の両端にサイドパネルを入れて放送する。ただし、ミニではその後も4:3で放送される回があり、16:9HDの映像も4:3HDで放送される。",
"title": "概要"
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"text": "※特記が無い限り、朝の放送は月曜日 - 金曜日。",
"title": "ピタゴラスイッチ ミニ"
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"text": "百科おじさんがピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では片桐仁)に世の中の仕組みを解説する人形劇。人形操演は木ぐつの木。人形が登場しない放送回も存在する。「ミニ」では放送されない。劇中BGMの作曲は栗原正己。2021年度以降の10分版では、土曜日と月曜日のみ放送している(月曜日は土曜日放送分の再放送)。",
"title": "コーナー"
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"text": "ピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では片桐)の疑問に百科おじさんが「詳しくはわしの○○ページに書いてあーる」と答え該当するページを参照させるが、ピタとゴラは「じーっ、子供だから、読めませーん」と返し、更なる詳細の解説のためテレビのジョンが呼ばれる、というのが定番。『大人の-』では片桐が「じーっ、大人だから、読めまーす」と言うが、読んだだけでは難しくて意味が解らなかったので、更なる詳細の解説のため同様にテレビのジョンが呼ばれる。",
"title": "コーナー"
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"text": "ペンギンの「ピタ」と「ゴラ」、ネズミの「スー」の名前や百科おじさんの「イッチ」 (昔のあだ名)は番組タイトルの「ピタゴラスイッチ」に因んでいる。",
"title": "コーナー"
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"text": "2018年4月7日放送分以降、不定期に放送されているコーナー。ピタやゴラ達に代わって、モグラのキャラクターであるモグ郎やグラオ達が進行する。",
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"text": "番組のオープニング・エンディング・番組途中に放送される、番組を象徴するコーナーのひとつ。",
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"text": "「ピタゴラ装置」の愛称で親しまれているからくり装置(いわゆるルーブ・ゴールドバーグ・マシンだが、佐藤雅彦は「ピタゴラ装置=ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」という表現を嫌っており、かつ、両者は全く違うものだと主張している。また、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンは長い名前で、幼児には理解しづらいので、「ピタゴラ装置」という愛称が理解しやすい)を利用して番組タイトルを完成させる。この装置は、紙コップや定規やクリップなど身の回りのもので組み立てられているが、非常に複雑な仕掛けがなされており、最初のきっかけを人力で与えたあとはすべての動きが連鎖的に引き起こされる(ドミノ倒しに似ており、その発展といえる)。",
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"text": "15分版のオープニング・エンディングでは放送される装置が固定されており、オープニングは装置No.10「フライパン」、エンディングは装置No.9「レコードプレーヤー」であった。対照的に「ミニ」ではオープニング・エンディング共に毎回異なっており、放送回によっては「アルゴリズムたいそう・こうしん」や歌などが最後のコーナーになった場合、エンディングが省略されてそのまま番組が終了するケースもある。2021年度以降放送時間が10分に短縮されてからは毎回異なる装置が放送されるようになった。",
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"text": "ハイビジョン化以降、4:3放送時代の装置が流れる機会は年々減少したが、2021年度からは「名作選」と題し4:3の映像を含めた過去の装置も再び放送されるようになる。",
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"text": "ピタゴラ装置の部分のみをまとめたDVD付き書籍が発売された。詳細は関連映像作品・書籍を参照。",
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"text": "著名なプロのスポーツ選手が始動や中継・フィニッシュを行う、史上初の人力が絡んだピタゴラ装置。",
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"text": "同年10月に初登場した、オレンジ色の小さいサイズのいぬてん(声 - 後藤輝基)がたまに登場する。こちらには顔と「ワン」しか書いていない。いぬてんもマス目上で回転することができる。いぬてんの家としていえてん(声 - 後藤輝基)も存在する(犬小屋の形をしている関係上、歪な七面体の形である)。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2023年には久しぶりに新作が放送されている。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "PlayStationのゲーム、『XI[sai]』が元ネタとなっている。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2019年1月5日の放送で初登場の『ぼてじん』からの派生コーナー。ぼてじんの前に現れる身近なモノをモチーフにしたキャラクター(声 - 後藤輝基)を軌道となるマス目の形から考える。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2020年7月25日の放送で初登場の『ぼてじん』からの派生コーナー。いぬてんが目的地に正しく到着するための道順(プログラム)を考察する。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2016年1月23日放送で初登場のアニメーションのコーナー。擬人化された巻き尺のジャックが、さまざまな日用品のキャラクター達とからむ。コーナーの最初の部分と最後の部分に歌が入る。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "「ピタゴラ暗号棒」の歌に合わせてコーナーが進む。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ストーリーが存在するピタゴラ装置である。ビー玉の3兄弟が主人公で、長男は緑色のビータ、次男は赤色のビーすけ、三男は黄色のビーゴロー。この三人が、敵の黒玉軍から逃げるのがこのシリーズの内容。2018年7月28日に『ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル!』が放送され、これまでの3作が再放送された後に4作目である『~完結編~ 黒玉軍の野望』を初放送。これをもって、ストーリーが一旦完結した。",
"title": "コーナー"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2003年に「第25回 みかたをかえてみる」が第30回日本賞「子ども番組の部」で最優秀賞(総務大臣賞)を受賞。",
"title": "受賞歴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "この「第25回 みかたをかえてみる」は、ミュンヘンで開催された「プリ・ジュネス2004」で「6歳までのノンフィクション部門」最優秀賞を受賞した。",
"title": "受賞歴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2018年には「プリ・ジュネス2018」で「ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル! ~黒玉軍に気をつけろ~」が「6歳までのフィクション部門」最優秀賞を受賞している。",
"title": "受賞歴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "いずれもDVDの発売元は小学館、販売元はポニーキャニオン。CDの発売・販売元はワーナーミュージック・ジャパン。",
"title": "関連映像作品・書籍"
}
] | 『ピタゴラスイッチ』は、2002年4月9日(ミニは4月1日)からNHK教育→NHK Eテレで放送されている幼児向けの教育番組である。 国際的な放送番組のコンテストである日本賞(教育・教養番組)総理大臣賞、プリ・ジュネス(子供・青少年向けテレビ番組)最優秀賞を受賞した。 | {{告知|提案|日本国内のバラエティ・情報・報道番組などの記事の放送リスト・ネット局の記述添削(テレビアニメ・ドラマは除く)による改訂案|プロジェクト‐ノート:放送または配信の番組#日本国内のバラエティ・情報・報道番組などの記事の放送リスト・ネット局の記述添削(テレビアニメ・ドラマは除く)による改訂案|date=2023年12月}}
{{基礎情報 テレビ番組
|画像=PythagoraSwitch.jpg
|ジャンル=教育番組
|放送国={{JPN}}
|制作局=[[NHK]]
|監修=[[佐藤雅彦 (メディアクリエーター)|佐藤雅彦]]、内野真澄
|出演者=[[#コーナー]]を参照
|音声=[[ステレオ放送]]
|映像形式=[[文字多重放送]]
|外部リンク=https://www.nhk.jp/p/pitagora/ts/WLQ76PGNW2/
|外部リンク名=公式サイト
|特記事項=*第30回 [[日本賞]] 子ども番組の部 最優秀賞(総務大臣賞)
*[[プリ・ジュネス]]2004「6歳までの[[ノンフィクション]]部門」最優秀賞
*プリ・ジュネス2018「6歳までのフィクション部門」最優秀賞
|番組名=ピタゴラスイッチ
|番組名1=ピタゴラスイッチ(15分版)
|番組名2=ピタゴラスイッチ(10分版)
|放送期間=[[2002年]][[4月9日]] - 放送中
|放送期間1=2002年4月9日 - [[2021年]][[3月27日]]
|放送期間2=2021年[[4月1日]] - 放送中
|放送時間=[[#放送時間の推移]]を参照
|放送時間1=[[#過去の放送時間]]を参照
|放送時間2=[[#現在の放送時間]]を参照
|放送チャンネル=NHK教育→NHK Eテレ
|放送チャンネル1=NHK教育→NHK Eテレ
|放送チャンネル2=NHK Eテレ
}}
『'''ピタゴラスイッチ'''』は、[[2002年]][[4月9日]](ミニは[[4月1日]])から[[NHK教育テレビジョン|NHK教育→NHK Eテレ]]で放送されている[[子供番組|幼児向け]]の[[教育番組]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A200204090915001300200|title=ピタゴラスイッチ<新>「なぜおなじかたち?のまき」|date=2002-04-09|accessdate=2023-07-20|website=NHKクロニクル}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A200204011655001300200|title=ピタゴラスイッチ|date=2002-04-01|accessdate=2023-08-22|website=NHKクロニクル}}</ref>。
国際的な放送番組のコンテストである[[日本賞]](教育・教養番組)総理大臣賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/jp-prize/2003/jyusyou_02.html|title=第30回日本賞<2003年>最優秀番組|accessdate=2023-09-04|publisher=[[NHK]]|website=JAPAN PRIZE International Contest For Educational Media}}</ref>、[[プリ・ジュネス]](子供・青少年向けテレビ番組)最優秀賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/kokusai/pdf/2004/06/koho040620.pdf|title=ドイツ「プリ・ジュネス2004」NHK「ピタゴラスイッチ」が部門最優秀賞を受賞|accessdate=2023-09-04|publisher=NHK広報局|date=2004-06-20|format=[[PDF]]}}</ref>。
== 概要 ==
何気ない日常に隠れている不思議な構造や面白い考え方、[[法則]]があり、いろいろな事象や仕掛けなどのコーナーを通して「なるほど!」を紹介。子供たちの「考え方」を育成するテーマの番組である<ref>[http://www.nhk.or.jp/kids/program/pitagora.html 公式サイト]より。</ref><ref>NHK放送文化研究所『NHK年鑑2003』日本放送出版協会、2003年10月31日、207頁。</ref><ref>{{Citation|title=ピタゴラスイッチ|last=日本放送協会|url=https://www.nhk.jp/p/pitagora/ts/ZZR21863JJ/|language=ja|accessdate=2023-06-05}}</ref>。
[[サブタイトル]]は前半の[[人形劇]]のテーマであり、[[車だん吉]]や[[井上順]]らが[[声優]]として出演している。内容の大部分は後半に放送するいくつかの小さなコーナーで占められる。
2006年に[[モバイルサイト]]が開設され、[[着信メロディ]]などが[[ダウンロード]]できるようになった。2007年度から2010年度まで土曜日にアンコール放送が実施された([[#アンコール放送|後述]])。
番組名の由来は、日常生活の法則や定理を[[古代ギリシア]]の数学者「[[ピタゴラス]]」の定理に準え、発想する「スイッチ」を合わせた造語である。
通常版では、基本的に前半部では人形劇「きょうのトピック」または「地下ゴラスイッチ」、後半部では文房具などを使って、面白い道を作ってボールをゴールまで転がす「ピタゴラ装置」やその他のコーナーを数本放送する構成が取られている。
スペシャル版では、人形劇のキャラクターによる進行の下、あるいは人形劇自体を休止した上でミニコーナーの総集編や従来のコーナー・歌にちなんだ特集などを放送するケースがある<ref group="注">この場合、番組ナレーションの[[徳田章]](NHKアナウンサー)をモデルにしたねずみのキャラクター「徳田ネズミ」、またはその弟「徳田ネズ次郎」が進行を行う。</ref>。
監修(総合指導)は[[佐藤雅彦 (メディアクリエーター)|佐藤雅彦]]と内野真澄。佐藤雅彦が過去に制作した作品や、[[慶應義塾大学]]佐藤雅彦研究室(以下、佐藤研。佐藤は2005年度まで在籍)の学生がワークショップで作った作品が採用されている。
こうした作品は当番組のほか、書籍『ねっとのおやつ』(文庫版タイトル『四国はどこまで入れ替え可能か』)『任意の点P』などでも紹介されている。
また、{{いつ範囲|date=2023年12月|近年}}は佐藤研の卒業生からなるクリエイティブ・グループ「[[ユーフラテス (グループ)|ユーフラテス]]」もコーナーの企画・制作に携わっている。
各コーナーの映像には、過去にNHKで放送された番組やそれを模したもの(『[[NHKニュース]]』『[[NHK高校講座]]』やスポーツ中継など)が使用され、[[アテネオリンピック (2004年)|アテネ夏季五輪]]や[[ソルトレイクシティオリンピック|ソルトレイクシティ冬季五輪]]の映像など[[オリンピック]]の映像も使用されている。
通常版のほか、ミニコーナーや歌のコーナーを5分間に再編集した『[[#ピタゴラスイッチ ミニ|ピタゴラスイッチ ミニ]]』がある(最初のタイトルロゴで「ミニ」と書かれた四角い体の虫が横切る演出がある)。2015年度より通常版・ミニ共に字幕放送に対応している<ref group="注">ピタのセリフが[[黄色]]、ゴラのセリフが[[水色]]、百科おじさんのセリフが[[緑色]]、その他のキャラクターのセリフは[[白色]]で表示される(ナレーションは<>の中にセリフが入る)。</ref>。
NHK国際放送のチャンネルである[[NHKワールド・プレミアム]]では、この番組 "PythagoraSwitch" と、ミニの "PythagoraSwitch mini" が放映されている<ref>[http://nhkworldpremium.com/guide/genre_e.aspx?genre=10&ssl=false&c=26 Children's Programs on NHK World Premium]</ref>。
2015年度より、ミニの番組を再編集し英語吹き替え・英語字幕を付与した "PythagoraSwitch mini" が、ネット配信を含む「NHK国際放送 NHKワールド」で放送されている。なお、英語吹き替え版は番組のタイトルコールが日本の物とは異なる。
番組開始時は[[画面アスペクト比|4:3]][[標準画質]]映像による製作で放送されたが、2010年度より[[ハイビジョン制作|ハイビジョン化]]された。従来の4:3の映像を放送する場合は、画面左右の両端にサイドパネル<ref group="注">緑色で、左側下の虫眼鏡の中にピ(番組ロゴの一部)がある。</ref>を入れて放送する。ただし、ミニではその後も4:3で放送される回があり、16:9HDの映像も4:3HDで放送される。
== 放送時間の推移 ==
{|class="wikitable sortable mw-collapsible" style="text-align:canter;white-space:nowrap;"
|+
! colspan="2" rowspan="3" |期 間
! colspan="8" |放送時間([[日本標準時]])
|-
! rowspan="2" |月
! rowspan="2" |火
! rowspan="2" |水
! rowspan="2" |木
! rowspan="2" |金
! colspan="2" |土
! rowspan="2" |他
|-
!朝
!夕
|-
!2002年<br>4月9日!!2007年<br>3月28日
| rowspan="5" |(放送なし)
| rowspan="3" |9:15 - 9:30
| rowspan="5" |10:30 - 10:45
| rowspan="5" |(放送なし)
| rowspan="6" |(放送なし)
| rowspan="2" |(放送なし)
|(放送なし)
| rowspan="10" |(放送なし)
|-
!2007年<br>4月3日!!2008年<br>3月29日
|17:25 - 17:40
|-
!2008年<br>4月1日!!2009年<br>3月28日
| rowspan="3" |7:00 - 7:15
| rowspan="4" |17:35 - 17:50
|-
!2009年<br>4月1日!!2010年<br>4月3日
|(放送なし)
|-
!2010年<br>4月6日!!2011年<br>3月26日
|9:15 - 9:30
|-
!2011年<br>4月2日!!2011年<br>9月24日
| rowspan="3" |15:45 - 16:00
| colspan="3" rowspan="5" |(放送なし)
| rowspan="2" |(放送なし)
|-
!2011年<br>9月26日!!2012年<br>3月30日
|17:25 - 17:40
| rowspan="9" |(放送なし)
|-
!2012年<br>4月2日!!2015年<br>3月30日
| rowspan="3" |(放送なし)
| rowspan="3" |7:45 - 8:00
|-
!2015年<br>4月4日!!2017年<br>4月1日
|(放送なし)
|-
!2017年<br>4月3日!!2021年<br>3月27日
|15:45 - 16:00
|-
!2021年<br>4月1日!!2021年<br>7月19日
|15:45 - 15:55
| colspan="2" |(放送なし)
| colspan="2" |8:35 - 8:45
| rowspan="4" |7:35 - 7:45
|(金)13:50 - 14:00
|-
!2021年<br>7月20日!!2022年<br>4月2日
| colspan="5" |8:35 - 8:45
|(月)15:45 - 15:55<br>(金)13:50 - 14:00<br>(金)23:45 - 23:55
|-
! rowspan="2" |2022年<br>4月4日!! rowspan="2" |2023年<br>4月1日
| colspan="2" |(放送なし)
| colspan="3" |8:35 - 8:45
| rowspan="3" |(放送なし)
|-
| colspan="3" rowspan="2" |18:40 - 18:50
| colspan="2" |(放送なし)
|-
!2023年<br>4月3日
!
| colspan="2" |8:35 - 8:45
|7:10 - 7:20
|}
*2010年度までは[[学校放送]]枠にて水曜日10:30 - 10:45に放送されたが、2011年度より[[幼稚園・保育所の時間]]枠廃止に伴い[[Eテレキッズ]]に併合。同年度上半期は土曜日17:35 - 17:50に放送された<ref>{{Cite web|和書|url=http://memo-do-ob.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/23-eddd.html|title=2011年度 Eテレキッズ時間割|date=2011-01-20|accessdate=2023-10-20|website=ココログ}}</ref>。
*2011年秋のEテレ改編で金曜日17:25 - 17:40に移動。2012年度 - 2020年度は土曜日7:45 - 8:00に放送された([[#過去の放送時間|後述]])。
*2021年度のEテレ改編に伴い、放送時間が15分から10分に縮小された<ref>{{Cite web|和書|url=https://e-telewatching.net/etele-kids-2021-zenhanki-guide|title=Eテレこども向け放送~2021年度前半期ガイド|date=2021-02-11|accessdate=2023-11-02|website=Eテレウォッチングkids}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://e-telewatching.net/e-tele-2021zenki-timetable-kids#weekday1|title=2021年度 前半期・Eテレこども向け放送番組表|date=2021-02-11|accessdate=2023-11-02|website=Eテレウォッチングkids}}</ref>。
**なお『[[デザインあ]]』が[[小山田圭吾]]の不祥事により休止となったため、2021年7月20日から2022年3月16日まで月曜日 - 水曜日の朝(放送時間は木曜日・金曜日と同じ)と金曜日23:45 - 23:55の放送を追加。週6回の[[帯放送]]を実施していた。
=== 現在の放送時間 ===
*2023年度のもの。
**月曜日・火曜日・水曜日 18:40 - 18:50
**木曜日・金曜日 8:35 - 8:45
**土曜日 7:10 - 7:20
=== 過去の放送時間 ===
*15分版時代(2002年度 - 2020年度)のもの。
==== レギュラー放送 ====
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!期 間!!本 放 送!!再 放 送
|-
|2002年度 - 2008年度|| rowspan="3" |水曜日 10:30 - 10:45||火曜日 9:15 - 9:30
|-
|2009年度||( 再放送なし )
|-
|2010年度||火曜日 9:15 - 9:30
|-
|2011年度(上半期)||土曜日 17:35 - 17:50|| rowspan="3" |月曜日 15:45 - 16:00
|-
|2011年度(下半期)||金曜日 17:25 - 17:40
|-
|2012年度 - 2014年度|| rowspan="3" |土曜日 7:45 - 8:00
|-
|2015年度・2016年度||( 再放送なし )
|-
|2017年度 - 2020年度||月曜日 15:45 - 16:00
|}
==== アンコール放送 ====
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!期 間!!本 放 送!!再 放 送
|-
|2007年度||土曜日 17:25 - 17:40||( 再放送なし )
|-
|2008年度 - 2010年度||土曜日 7:00 - 7:15||土曜日 17:35 - 17:50
|}
== ピタゴラスイッチ ミニ ==
*2002年4月1日から15分版よりも1週間先行して放送開始<ref name=":0" />。
*2020年度までは[[NHK教育テレビジョン|NHK教育→NHK Eテレ]]、2021年度以降は[[NHK総合]]で放送。
*2021年度以降、全国放送は月曜日の未明(日曜日の深夜)であるが、一部の地域では平日の昼前にも放送(いわゆる[[裏送り]]番組として放送)<ref group="注">平日の昼前の放送は、[[国民の祝日|祝日]]、[[国会中継]]時、[[高校野球]]などのスポーツ中継時は休止。</ref>。
=== 『ピタゴラスイッチ ミニ』の放送時間の推移 ===
※特記が無い限り、朝の放送は月曜日 - 金曜日。
{|class="wikitable sortable mw-collapsible" style="text-align:canter;white-space:nowrap;"
|+
! colspan="2" rowspan="3" |期 間!! colspan="8" |放送時間([[日本標準時]])
|-
! rowspan="2" |朝!! colspan="6" |夕!! rowspan="2" |他
|-
!月!!火!!水!!木!!金!!土
|-
!2002年<br>4月1日!!2003年<br>3月31日
| rowspan="3" |(放送なし)
|16:55 - 17:00
| colspan="6" |(放送なし)
|-
!2003年<br>4月7日!!2004年<br>3月30日
| colspan="2" |16:55 - 17:00
| colspan="5" |(放送なし)
|-
!2004年<br>4月5日!!2005年<br>4月1日
| colspan="5" rowspan="2" |17:35 - 17:40
| colspan="2" rowspan="2" |(放送なし)
|-
!2005年<br>4月4日!!2006年<br>3月31日
| rowspan="3" |8:10 - 8:15
|-
!2006年<br>4月3日!!2007年<br>3月31日
| colspan="6" |17:45 - 17:50
|(放送なし)
|-
!2007年<br>4月2日!!2010年<br>3月26日
| colspan="5" rowspan="3" |17:25 - 17:30
| colspan="2" rowspan="3" |(放送なし)
|-
!2010年<br>3月29日!!2011年<br>3月25日
|8:40 - 8:45
|-
!2011年<br>3月28日!!2011年<br>9月23日
| rowspan="3" |7:25 - 7:30
|-
!2011年<br>9月26日!!2012年<br>3月29日
| colspan="4" |17:25 - 17:30
| colspan="3" |(放送なし)
|-
!2012年<br>4月2日!!2013年<br>3月29日
| colspan="5" rowspan="2" |17:25 - 17:30
| colspan="2" rowspan="2" |(放送なし)
|-
!2013年<br>4月1日!!2014年<br>3月28日
| rowspan="1" |6:35 - 6:40
|-
!2014年<br>3月31日!!2015年<br>3月27日
| rowspan="4" |7:30 - 7:35
|(放送なし)
|16:15 - 16:20
|(放送なし)
|16:15 - 16:20
| colspan="3" |(放送なし)
|-
!2015年<br>3月30日!!2017年<br>3月31日
| colspan="2" rowspan="3" |(放送なし)
| rowspan="1" |17:40 - 17:45
| colspan="3" rowspan="3" |(放送なし)
| rowspan="2" |(金)10:10 - 10:15(隔週)<ref group="注" name="FRIDAY">『[[しぜんとあそぼ]]』の放送日、『[[テレビクラブ]]』の編成日を除く。</ref>
|-
!2017年<br>4月3日!!2020年<br>3月27日
| rowspan="2" |17:35 ‐ 17:40
|-
!2020年<br>3月30日!!2021年<br>3月27日
| rowspan="1" |(金)10:10 - 10:15(隔週)<ref group="注" name="FRIDAY" /><br>(土)21:55 ‐ 22:00
|-
! rowspan="2" |2021年<br>3月30日 !! rowspan="2" |現 在
| colspan="8" | '''※ここから、放送チャンネルがEテレから総合に移行。'''
|-
| colspan="7" | (放送なし)
| colspan="1" | (月 - 金)11:35 - 11:40(一部の地域を除く)<br>(月)0:20 - 0:25(不定期放送)
|}
== コーナー ==
===スタジオコーナー ===
百科おじさんがピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では[[片桐仁]])に世の中の仕組みを解説する[[人形劇]]。人形操演は[[木ぐつの木]]。人形が登場しない放送回も存在する。「ミニ」では放送されない。劇中BGMの作曲は[[栗原正己]]。2021年度以降の10分版では、土曜日と月曜日のみ放送している(月曜日は土曜日放送分の再放送)。
ピタとゴラ(『大人のピタゴラスイッチ』では片桐)の疑問に百科おじさんが「詳しくはわしの○○ページに書いてあーる」と答え該当するページを参照させるが、ピタとゴラは「じーっ、子供だから、読めませーん」と返し、更なる詳細の解説のためテレビのジョンが呼ばれる、というのが定番。『大人の-』では片桐が「じーっ、大人だから、読めまーす」と言うが、読んだだけでは難しくて意味が解らなかったので、更なる詳細の解説のため同様にテレビのジョンが呼ばれる。
==== 登場人物 ====
ペンギンの「ピタ」と「ゴラ」、ネズミの「スー」の名前や百科おじさんの「イッチ」 (昔のあだ名)は番組タイトルの「ピタゴラスイッチ」に因んでいる。
; ピタ
: [[声優|声]] - [[星河舞]]
: 知りたがりの灰色の[[ペンギン]]の男の子。字はまだ読めない。
:いつもかぶっている[[ニット帽]]は、昔住んでいた動物園でお世話になった飼育係のおじさんにもらった物。
; ゴラ
: 声 - [[西村朋紘]]
: 慌て者の紺色のペンギンの男の子。字はまだ読めない。
:ピタが言った言葉の要点を2回繰り返すことが多い。ピタの帽子の真似をして餌の[[イワシ]]が入っていた[[バケツ]]をかぶっている。
; 百科おじさん
: 声 - [[名古屋章]](初年度 - 2003年7月)→[[川久保潔]](2003年8月 - 2004年度)→[[車だん吉]](2005年度 - 2022年度)→[[中村梅雀 (2代目)|中村梅雀]](2023年度 - 現在)
: おじさんの顔をした[[百科事典]]。本名は、百科一之進(ひやっかいちのしん)。
:ピタとゴラには世の中のことについて教えてくれるが、曲がったことは大嫌いである。趣味は読書。イギリスに弟がいる。夢は[[大英図書館]]に所蔵されること。[[将棋]]クラブや[[陶芸]]教室に通っている。
: 各回の百科おじさんのページ数は放送内容に関連した[[語呂合わせ]]になっている(例えば、712ページで「[[ナイフ]]」、529ページで「[[呉服]]」など)。合計988ページ。
: 甥のディックは幼少期に「イチノシン」とうまく発音できなかった。そのため、彼から「'''イッチ'''」と呼ばれていたらしい。
: 2021年度以降は番組全体の進行を務めている。
; スー
: 声 - [[うえだゆうじ]]
: 黄色い[[セーター]]を着た、気の利く[[ネズミ|ねずみ]]。ねずみだけど、[[丑|丑年]]生まれ。
:リヤカー付きの赤い車に乗って、[[クラクション]]を鳴らしながら色々な物を運んで来る。ポキポキアニメのファン。初期はテレビのジョンのリモコンを忘れた百科おじさんに、[[リモコン]]を届けるのが定番だった。
: たまに愛車のメンテナンス(カーレースに出たりするらしい)や、編み物など、車から降りて出演することもある。ねずみだけに猫が大の苦手で、首輪を見ただけで怖がってしまう。地上と地下を行き来してモグ郎やグラオとも交流している。
; テレビのジョン
: 声 - [[井上順]]
: [[ブラウン管]][[テレビ]]の形をした、何でも映し出すテレビ[[犬]]。
:散歩は週に2回ぐらい。雨の日は外に出ない。パンよりもケーキが好物である。
: 映像を流しているときは、徳田章がナレーションを行っている。
; ディック・ショナリー
: 声 - [[デーブ・スペクター]]
: イギリス在住の、百科おじさんの甥。
:日本語の勉強をするために来日している。表紙は緑だが中身は英語で書かれているため、百科おじさんとは本の開き方が逆になっている。
: 彼の中身を見たピタとゴラは、「'''じーっ、子供だし、英語で書いてあるから、ますます読めませーん'''」と発言した。
; [[片桐仁]](元[[ラーメンズ]])
: 『大人のピタゴラスイッチ』・『大解説スペシャル』のみ登場。同シリーズで、ピタとゴラの役割を担当する。
: 数学が苦手である(『数ピタ』では、急用を理由に逃げ出そうとしたほど)。
==== 地下ゴラスイッチ ====
[[2018年]][[4月7日]]放送分以降、不定期に放送されているコーナー。ピタやゴラ達に代わって、モグラのキャラクターであるモグ郎やグラオ達が進行する。
; 地下田 モグ郎(ちかだ モグろう)
: 声 - [[飛田展男]]
: ピタやゴラ達が住む家の地下に暮らしている、モグラのおじさん。
: 妻がいる(現時点で、ストーリーには登場していない)。
; グラオ
: 声 - [[水橋かおり]]
: モグ郎の子供。
: 「地上あちこち潜望鏡(1回1円と書かれている)」で地上の世界を観察しており、観察した物事について疑問に思った事を父のモグ郎に尋ねる。
; タブレットン
: 声 - [[飯尾和樹]]([[ずん]])
: [[タブレット (コンピュータ)|タブレット端末]]の姿をした[[ブタ]]。常に敬語で話す。語尾に「ブ~」または「ヒ~」を付けることもある。
:普段は地下のトンネルで寝ており(本人は毎回『トンネル』と『豚(とん)寝る』をかけたギャグを飛ばすが、モグ郎達にスルーされている)、グラオが知りたがっている事柄についてさらなる解説を行う際に呼び出される。画面をスワイプする事で、画像や映像を映し出すことができる。テレビのジョンと同様、映像を映している間は徳田がナレーションを行う。また、テレビのジョンと異なりVTRの途中に登場人物らの相槌やコメントが挿入される。
=== ピタゴラ装置 ===
番組のオープニング・エンディング・番組途中に放送される、番組を象徴するコーナーのひとつ。
「[[ピタゴラ装置]]」の愛称で親しまれているからくり装置(いわゆる[[ルーブ・ゴールドバーグ・マシン]]だが、佐藤雅彦は「ピタゴラ装置=ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」という表現を嫌っており、かつ、両者は全く違うものだと主張している<ref name=":2" group="注">ピタゴラ装置DVDブック[2]のあとがき「ビー玉は、ちっともうまく転がってくれない-想像の自由、現実の不自由-」による。</ref>。また、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンは長い名前で、幼児には理解しづらいので、「ピタゴラ装置」という愛称が理解しやすい)を利用して番組タイトルを完成させる。この装置は、[[紙コップ]]や[[定規]]や[[クリップ]]など身の回りのもので組み立てられているが、非常に複雑な仕掛けがなされており、最初のきっかけを人力で与えたあとはすべての動きが連鎖的に引き起こされる([[ドミノ倒し]]に似ており、その発展といえる)。
15分版のオープニング・エンディングでは放送される装置が固定されており、オープニングは装置No.10「フライパン」、エンディングは装置No.9「レコードプレーヤー」であった<ref name=":22" group="注">ごく稀に尺の都合上、エンディングの装置が放送されなかったケースがあり、2019年度後期からはスペシャル回はエンディングの装置が放送されない場合が多い。</ref>。対照的に「ミニ」ではオープニング・エンディング共に毎回異なっており、放送回によっては「アルゴリズムたいそう・こうしん」や歌などが最後のコーナーになった場合、エンディングが省略されてそのまま番組が終了するケースもある。2021年度以降放送時間が10分に短縮されてからは毎回異なる装置が放送されるようになった。
ハイビジョン化以降、4:3放送時代の装置が流れる機会は年々減少したが、2021年度からは「名作選」と題し4:3の映像を含めた過去の装置も再び放送されるようになる。
ピタゴラ装置の部分のみをまとめたDVD付き書籍が発売された。詳細は[[#関連映像作品・書籍|関連映像作品・書籍]]を参照。
==== プロスポーツ選手とのコラボレーション ====
著名なプロのスポーツ選手が始動や中継・フィニッシュを行う、史上初の人力が絡んだピタゴラ装置。
; 香川しんじ装置
: プロサッカー選手・[[香川真司]]が、装置の始動役(ビー玉の設置)及び、装置のギミックのひとつとしてボールをリフティングしてゴールまで運ぶ役を務めた屋外型の装置。この回では最後に香川直筆または口頭によるメッセージが放送される。
; 桃田けんと装置
: プロバドミントン選手・[[桃田賢斗]]が装置の始動役([[シャトルコック]]の設置)及び、発射されたシャトルをターゲットやゴールへスマッシュで打ち返す役を務めた。最後に桃田によるメッセージが流れる。
==== ピタゴラじゃんけん装置 ====
2021年4月1日放送分で初登場のコーナー。ピタゴラ装置の手前にそれぞれグー・チョキ・パーのサインが付いたゴールが並べられており、装置ギミックとなるボールの軌道から視聴者が[[じゃんけん]]で出すべき手を予想する。1回目はナレーションがゴールまでの軌道を予想するが、より複雑さを増した2回目は「よそうタイム」が途中で時間切れとなるため視聴者自身で軌道を考える必要がある。時々「ちょいむず」や「かなりむず」と称し、装置の複雑化に加えてダミーのギミックも盛り込み予想をより困難にした難易度強化版が登場することもある。
=== アルゴリズムたいそう・こうしん ===
いずれも出演は[[いつもここから]](山田一成・菊地秀規)で、歌唱も2人が担当<ref group="注">衣装は体操着ではなく、[[スーツ]]を着用して行っている。また、『たいそう』の練習や『こうしん』の1人バージョンでは、山田か菊地がソロで歌った物になる。</ref>。漢字で「アルゴリズム体操」、「アルゴリズム行進」と表記される場合もある。
通常版の場合、たいそうとこうしんが続けて行われるケースもある。いつもここからの2人が、様々な人たちと体操するのが恒例となっている<ref group="注">多くは特定の企業で働く一般人だが、稀に著名人が出演するケースもある。</ref>。また共通して複数でやる時は、他の参加者が2人目(菊池)の掛け声、「アルゴリズムたいそうー(こうしーん)」を斉唱し、同じく2人目(菊池)が「〇〇のみなさんといっしょ」と言って、たいそう・こうしんが始まる。さらに『たいそう』は本番後に、『こうしん』は練習後に[[サウンドロゴ]]が表示され、このコーナーのみ彼らが歌う<ref group="注">後者は練習なしで本番が始まることもあるので、その時は本番後に流れる。</ref>。「たいそう」では体操終了後に山田・菊池・他の参加者の順に<ref group="注">場合によっては、菊池は他の参加者と一緒に言う時もある。</ref>「アルゴリズムたいそう、おわり」(練習版は山田・菊池のみ「アルゴリズムたいそう、練習おわり」)と言って締める。
==== アルゴリズムたいそう ====
2人1組で行う体操。[[アルゴリズム]]がテーマとなっており、1人では意味の無い動きが、2人並ぶと関連性のあるものとなる(『しゃがむ動作』が『腕を横に振る』動作と組み合わさることで『腕を避ける動作』になる、等)。体操が終わった後に、「1人で練習」をする場合があり、練習の形態は「やまだバージョン」と「きくちバージョン」がある。「○○のみなさんといっしょ」の後は、体操をした人数の半分の人数で練習する(半分以下の場合もある)。
過去に行われた体操の映像を繋ぎ合わせた「とくべつへん」も存在する。2016年3月5日に「ワシのみたい名作コーナー 第2弾〜アルゴリズムたいそう〜」として過去の放送の中から人気の回が一挙放送された<ref>[http://www.nhk.or.jp/kids/kyoiku/pitagora_dtl1.html#no48 ピタゴラスイッチ くわしい内容] - NHKオンライン幼稚園・保育所向け番組のひろば</ref>。
2人で体操を行う場合は、白背景と住宅室内ロケの2種類がある。
また、ラジオの[[茨城放送]]『[[たかとりじゅんのビタミンJ!]]』ではBGMの一つとして使用されていたことがある。
これまでの参加者(人名の所属団体は撮影当時のもの)。
* [[NHK]]の[[アナウンサー]]のみなさんといっしょ([[徳田章]]・[[松本和也]]・[[中川緑]]・[[小野文惠]])
* 田柄幼稚園のみんなといっしょ
* [[日本体育大学]]柔道部のみなさんといっしょ
* [[千葉県こども病院]]のみなさんといっしょ
* [[陸奥部屋]]の力士のみなさんといっしょ
* [[帆船]][[日本丸]]の乗組員のみなさんといっしょ
* 『[[おかあさんといっしょ]]』のお兄さん・お姉さんのみなさんといっしょ
** 2002年版([[杉田あきひろ]]・[[つのだりょうこ]]・[[佐藤弘道]]・[[タリキヨコ]]〈2002年当時の出演者〉)
** 2009年版([[坂田おさむ]]・[[神崎ゆう子]]・[[茂森あゆみ]]・[[速水けんたろう]]・杉田あきひろ・つのだりょうこ・[[三谷たくみ]]・[[横山だいすけ]]・[[小林よしひさ]]・[[いとうまゆ]])
*: 「おかあさんといっしょ」の番組50周年を記念して実施され、2009年当時のレギュラー4人と一部の歴代のうたのお兄さん・お姉さんが出演した(杉田・つのだは2002年版に続いて、2度目の出演)。2009年12月18日に「おかあさんといっしょ」内で先行放送され(番組宣伝は、山田による「『ピタゴラスイッチ』も見てね!」)、2010年1月20日にピタゴラスイッチで初放送された(こちらの番組宣伝は、おかあさんといっしょの歴代お兄さんお姉さんによる「『おかあさんといっしょ』も見てね!」)。
** 2018年版(小林よしひさ・[[花田ゆういちろう]]・[[小野あつこ]]・[[上原りさ]])(2018年1月当時の出演者)
*: 山田と菊地の代わりに、小野と花田が歌唱しながら体操を行った。小林は2009年版に続いて2度目の出演。2018年3月26日に「おかあさんといっしょ」内でも放送された。
** 2019年版(花田ゆういちろう・小野あつこ・[[福尾誠]]・[[秋元杏月]])(2019年12月当時の出演者)
*: 2018年版と同じく、小野と花田が歌唱を担当。小野・花田は2度目の出演。
* [[読売ジャイアンツ|ジャイアンツ]]のピッチャーのみなさんといっしょ([[内海哲也]]・[[木佐貫洋]]・[[久保裕也 (野球)|久保裕也]]・[[林昌範]])
* [[QRIO]]のみなさんといっしょ
*: QRIOにアルゴリズムたいそうの動きをプログラムさせて体操させている。
* [[埼玉県立浦和北高等学校|埼玉県立浦和北高校]]のみなさんといっしょ
*: 収録当時の在校生の生徒を中心に、最大規模となる922人(練習版は461人)で体操<!--2016年3月5日放送分の説明に基づく-->。
* [[南極地域観測隊]]のみなさんといっしょ
*: 南極で収録された映像と、いつもここからの2名による、衛星中継風の演出で行われた。
* バスガイドのみなさんといっしょ([[はとバス]]のバスガイド)
*: [[雷門]]・[[東京タワー]]・[[東京都庁舎]]・[[レインボーブリッジ]]の名所4ヵ所の前で体操を行った。練習の際には山田バージョンはレインボーブリッジで、菊地バージョンは雷門で行われた。
* 地下トンネル[[日比谷]][[共同溝]]の工事現場のみなさんといっしょ
*: 「共同溝」というものが一般にわかりにくかったこともあり、後日徳田のナレーションによる「共同溝」の解説を追加して再度放送された。
* [[ラジオ体操|テレビ体操]]のみなさんといっしょ
*: ピアノ伴奏により行われた。
* 京都の[[舞妓]]さんといっしょ
*: 最後に舞妓さん達が語尾に「どす」を付けている。
* [[サーカス]]団のみなさんといっしょ([[木下大サーカス]]の団員)
* [[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]のみなさんといっしょ([[宮間あや]]・[[阪口夢穂]]・[[大野忍]]・[[澤穂希]]・[[安藤梢]]・[[近賀ゆかり]]・[[鮫島彩]]・[[岩清水梓]])
*: 「子どもたちにも、ぜひ『なでしこジャパン』を知ってもらって応援してほしい」というチームからのオファーにより実現したもので<ref name="nhk20110719">{{Cite web|和書|url=http://www3.nhk.or.jp/news/nadeshiko_taiso0719/index.html |title=NHK NEWS WEB なでしこ “アルゴリズム体操”に挑戦 |accessdate=2014年3月18日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110903162135/http://www3.nhk.or.jp/news/nadeshiko_taiso0719/index.html |archivedate=2011年9月3日 }}</ref>、[[2011 FIFA女子ワールドカップ]]に向けた合宿中の[[愛媛県]][[松山市]]で撮影された<ref name="nhk20110719"/>。なでしこジャパンが同大会で初優勝すると一躍注目を集め、開催国のドイツで「世界チャンピオンのかわいい秘密」として取り上げられるほどになり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110722/enn1107221047010-n1.htm |title=【ワールドサッカー】なでしこ強さの秘密?「アルゴリズム体操」とは |accessdate=2011年7月27日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110724045610/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110722/enn1107221047010-n1.htm |archivedate=2011年7月24日 }}</ref>、NHKでは選手名のテロップなどを追加したものを[[YouTube]]の公式チャンネルで公開するに至った(既に公開終了)<ref>{{YouTube|F-EDlYSua54|なでしこジャパン「アルゴリズム体操」に挑戦}}</ref>。
* [[新幹線]]にかかわるみなさんといっしょ
*: [[JR西日本]][[博多総合車両所]]及び[[博多駅]]新幹線ホームで収録。冒頭に「特別に許可を得て撮影しています」のテロップが表示された。
* [[NHK交響楽団]]のメンバーのみなさんといっしょ
*: 2013年1月に放送された『大人のピタゴラスイッチちょいむず』で先行放送。団員が交代で体操をした他、伴奏演奏もNHK交響楽団が担当した。腕を横に振る運動のところで、打楽器奏者が[[バスドラム|大太鼓]]と[[タムタム]]をそれぞれ叩く。いつもここからは普段のスーツではなく、[[燕尾服]]を着用。
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]のみなさんといっしょ([[松井稼頭央]]・[[嶋基宏]]・[[聖澤諒]]・[[枡田慎太郎]]・[[小山伸一郎]]・[[青山浩二]]・[[田中将大]]・[[草野大輔]]アンバサダー・マスコットキャラクター「クラッチ」「クラッチーナ」)
*: 東日本大震災が発生した後であり、終了後に選手全員が「'''がんばろう、東北!'''」と掛け声を入れた。
* [[オーストラリア]]の小学生のみなさんといっしょ
*: オーストラリアの小学校で撮影されたバージョンとオーストラリアの観光スポットで撮影されたバージョン(いつもここからの2人のみで小学生は登場しない)がある。
* [[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]のみなさんといっしょ([[平川忠亮]]、[[鈴木啓太]]、[[阿部勇樹]]、[[那須大亮]]、[[西川周作]]、[[梅崎司]]、[[槙野智章]]、[[柏木陽介]])<ref>{{Cite news|url=http://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20150331/297287.html|title=浦和の8選手が「アルゴリズムたいそう」に挑戦…放送は4月4日|newspaper=[[Jリーグサッカーキング]]|date=2015-03-31|accessdate=2015-04-05}}</ref>
* [[文楽]]の[[人形遣い]]のみなさんといっしょ(人形浄瑠璃文楽座の座員)
*: 人形使いの6人と合わせて8人で行われた。このバージョンのみ途中で文楽についての解説VTRが挿入された後、文楽の人形が踊る「文楽の人形のみなさんといっしょ」バージョンが改めて行われる場合があり、いつもここからは中央ではなく両サイドで体操を行う。人形遣い達による体操と解説VTRが省略され初めから人形が体操を行う場合は、冒頭で山田が文楽について簡潔に説明する。
* [[King & Prince]]とハメハメハ大王([[佐藤二朗]])といっしょ
*: 2019年1月1日放送の特別番組「Eうた♪ココロの大冒険」のドラマパートで放送<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/music/news/312581|title=Eテレ元日特番にKing & Prince、クリープハイプ、高橋優、リトグリ、上白石萌歌|newspaper=音楽ナタリー|date=2018-12-17|accessdate=2019-01-04}}</ref>。
* 警察官のみなさんといっしょ([[富山西警察署]]の署員)
*: 終了後に警察署の署員らが「[[反射材]]をつけて 身を守ろう!」とメッセージを言う。
* 飛行機にかかわるみなさんといっしょ
* 貨物船ではたらくみなさんといっしょ
*: 本編後に貨物船に関する解説が放送される(いつもここからもVTR内に出演)。
* [[忍者]]のみなさんといっしょ
*: 2023年放送の男性6人と女性2人で最後に太鼓の音と爆竹の音が聞こえる。
==== アルゴリズムこうしん ====
アルゴリズムたいそうを発展させた行進。2003年度から放送。出演と歌唱は同じく、いつもここからの2人。2人以上で縦一列になって輪唱のように1人ずつ動きをずらして行う。前の人の動きと後ろ人の動きが関連性を持ったものになっており、動きがかみ合うとぶつかりそうでぶつからない。外部の人達とコラボレーションをして行進するときは前から2番目の人が「'''〜といっしょ'''」、そうでないときは先頭の人が「'''歩幅は小さく'''」と号令を言うのがきまり。2010年以降の新作では、通常の1.5倍-2倍速のテンポで行進する『アルゴリズムこうしんMAX』のパターンが追加されている。
先頭から順に以下のような動きと一歩前進を繰り返す(最初のステップで先頭が1.を、次のステップで先頭が2.、次の人が1.を、その次のステップで先頭が3.、次の人が2.、その次の人が1.を、…の順)。これにより、同じ場所に誰がやってきても、その場所では全員が必ず同じ動きをすることになる。
# 膝を曲げながら、前方に腕を伸ばす(いわゆる「前ならえ」)
# 腕を胴に当てて上体を後ろに反る(偉ぶって反り返る様子)
# 後方に向いて上体を前にかがめる(いわゆる「[[お辞儀]]」)
# 進行方向右を向いて手を額にかざし、右と前(進行方向に対して後と右)を見回す
# 膝を曲げながら大きく腕をかく(いわゆる「[[平泳ぎ]]」のポーズ)
# 大きくしゃがんで、地面に落ちているものを拾う所作をする(いわゆる「栗拾い」のポーズ)
# [[空気入れ]](フロアポンプ)を2回動作させるまねをする
# 腕を2回横に開く(これにより「体内に空気が入った」という所作になる)
# 2巡したら、「そろそろ終わりかな」と、手をぐるぐる回す。
# 先頭が「そろそろ終わりかな」を3回繰り返したら、全員が(直前にどの動作をしていても)片足を上げて終了。
行進の前に、山田・菊地のどちらかが「ひとりで行進」をする事もある。「ひとりで行進」は曲が1巡した所で、曲がフェードアウト<ref group="注">この時、山田・菊地はそのまま行進しながらフレームアウトする。</ref>して終了する。「○○のみなさんといっしょ」の前には、その場所で撮影した物が放送される。
[[フィリピン]]のとある刑務所では、囚人達の教育の一環で導入されている<ref>[[ロケットニュース24]]、[[2012年]][[10月3日]]の記事</ref>。
これまでの参加者(人名の所属団体は撮影当時のもの)。
* [[ロードレース (オートバイ)|レーシングチーム]]のみなさんといっしょ([[ダイドードリンコ|DyDo]][[miu]]レーシングチームの選手と整備士 = [[高橋裕紀]]、[[櫻井大幸]]ほか)
* [[横浜中華街]]のコックさんといっしょ
* [[忍者]]のみなさんといっしょ
*: 2023年に[[伊賀流]]忍者が当コーナーに出演し、リメイクされた。
*: 2004年放送と2023年放送の男性6人で最後に犬の音、2023年放送の天の声で[[岡本幸輔]]さんのセリフで「曲者じゃ」の音で忍者は去って行く。
この回から本番時に歌詞が表示されるようになる。
* [[千葉市消防局|千葉市緑消防署]]のみなさんといっしょ
*: 終了後、「火事と救急は[[119番]]!」と菊池、隊員達がいった後、全員で敬礼する。
* [[川崎フロンターレ]]のみなさんといっしょ([[我那覇和樹]]・[[鬼木達]]・[[寺田周平]]・[[今野章]]・[[アウグスト・ペドロ・デ・ソウザ|アウグスト]]・マスコットキャラクター「[[ふろん太]]」<ref>{{Cite news|url=http://www.frontale.co.jp/diary/2005/0918.html|title=アルゴリズム行進|newspaper=フロンターレ日記|date=2005-09-18|accessdate=2021-03-11}}</ref>)
* [[プロレスラー]]のみなさんといっしょ([[KAIENTAI-DOJO]]の選手達 = [[大石真翔]]・[[旭志織]]・[[PSYCHO (プロレスラー)|PSYCHO]]・[[房総ボーイ雷斗]]・[[小幡優作]]・[[YOSHIYA]])
* [[海上保安庁]] [[巡視艇]][[海上保安庁船艇一覧#巡視艇|まつなみ]]のみなさんといっしょ
* [[航空会社]]のみなさんといっしょ([[全日本空輸|全日空]]の操縦者・キャビンアテンダント・整備士)
*: NHKでは公共放送という立場上、企業名・商品名の露出が禁じられているため、前述の「アルゴリズムたいそう 飛行機にかかわるみなさんといっしょ」と異なり尾翼の「[[ANA]]」ロゴが伏せられていた。
* [[鉄道会社]]のみなさんといっしょ([[京王電鉄]]の乗務員と整備士)
*: ロケ地は[[京王競馬場線]]の[[府中競馬正門前駅]]。バックは[[京王8000系電車|8000系電車]]。最後に全員で[[敬礼]]をして締めくくる。
* [[水族館]]のみなさんといっしょ([[伊豆・三津シーパラダイス]]のスタッフ)
* [[安来節]]保存会のみなさんといっしょ
*: 田んぼ横のあぜ道を歩くバージョン(山田先頭)と、ステージ上の舞台を歩くバージョン(菊地先頭)がある。
* [[ウィーン少年合唱団]]のみなさんといっしょ
*: 8人が代表で行進して残りの団員がコーラスを担当、伴奏はピアノで行われた。練習はいつもここからのバージョンが用いられた。
* [[ブルーマン]]のみなさんといっしょ
* [[バレエ]]団のみなさんといっしょ([[東京シティ・バレエ団]]のバレエダンサー)
*: 途中で行進が2組加わる。最後にいつもここからの2人がダンサーらに取り囲まれるフィナーレがある。
* [[東京消防庁]][[消防救助機動部隊|ハイパーレスキュー]]のみなさんといっしょ
*: 終了後に、「火遊びは絶対しないように!」といつもここから、ハイパーレスキュー隊員たちが言う。
* [[宇宙航空研究開発機構|JAXA]][[宇宙科学研究所]]のみなさんといっしょ
*: 2010年12月28日に、[[JAXA相模原キャンパス|ISAS相模原キャンパス]]内の[[M-Vロケット]]実物大模型の前で撮影された。放映時には、本編の前にJAXA・ISASや小惑星探査機「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」の解説が挿入された<ref>[http://www.isas.jaxa.jp/j/mailmaga/backnumber/2011/back333.shtml ISASメールマガジン 第333号] - 宇宙科学研究所公式サイト2011年2月8日</ref>。
* [[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手のみなさんといっしょ([[パナソニック ワイルドナイツ]]の選手達 = [[霜村誠一]]、[[相馬朋和]]、[[三宅敬]]、[[北川智規 (ラグビー選手)|北川智規]]、[[木川隼吾]]、[[若松大志]]、[[ダニエル・ヒーナン]])
*: 終了後、霜村が飛んできた[[ラグビーユニオン#用具|ラグビーボール]]をキャッチし、パントキックした後、ラガーマン達は走りさっていく。MAX1.5倍バージョンは山田が「夢に向かって…」といって全員が左腕を上げて「トライ!!<ref group="注">英単語の「try」と「[[トライ (ラグビー)|ラグビーのトライ]]」をかけている。</ref>」と叫ぶ。
* [[アイスホッケー]]選手のみなさんといっしょ([[東北フリーブレイズ]]の選手達<ref>[http://www.freeblades.jp/news/2013/01/post-011.php NHK Eテレ「アルゴリズムこうしん」放映日のお知らせ] - 東北フリーブレイズ公式サイト2013年1月17日</ref> = [[田中豪 (アイスホッケー)|田中豪]]、菊池恭平、橋本三千雄、大久保智仁、篠原亨太、若林クリスヘッドコーチ)
*: [[新井田公園|テクノルアイスパーク新井田]]のリンク内(氷の上)で行進を行った。いつもここからは長靴を、選手は全員スケートシューズを履いて行った。終了後に、「いっぱい食べて たくましくなろう!」とメッセージを言う。
* [[ASIMO]]のみなさんといっしょ
*: ASIMO3体と行進した。通常より若干テンポを落として行われた。ASIMOはいつもここからの2人に続けて歌って行進した。
* [[バレーボール]]選手のみなさんといっしょ([[サントリーサンバーズ]]の選手達<ref>[http://www.suntory.co.jp/culture-sports/sunbirds/news/detail/20151029.html サンバーズ選手、NHKEテレ「ピタゴラスイッチ」に出演!] - サントリーサンバーズ公式サイト2015年10月28日</ref> = [[山本湧]]、[[栗山雅史]]、塩田達也、星谷健太朗、[[椿山竜介]]、[[山村宏太]])
*: 終了後に、「力を合わせて ボールをつなごう!」とメッセージを言う。
* [[日本舞踊]]のみなさんといっしょ(花柳寿太一郎、[[尾上紫]]、若柳吉優、若柳美香康)
*: [[国立劇場]]で、[[和楽器]]による演奏([[囃子]])と[[長唄]]による歌唱で行われた。最後にいつもここから以外の4人が舞踊を踊る。
* [[パッコロリン]]のみんなといっしょ(パックン、コロン、リン)
*: [[NHK BSプレミアム]]「[[ワンワンパッコロ!キャラともワールド]]」に山田と菊地がゲスト出演。2017年9月に放送された。
*おかあさんといっしょのお兄さん・お姉さんといっしょ
*: 先述のアルゴリズムたいそう(2018年版)に続いて実施。
*:* 2018年版(小林よしひさ・花田ゆういちろう・小野あつこ・上原りさ)(2018年1月当時の出演者)
*:: 先述のアルゴリズムたいそう(2018年版)に続いて実施。山田と菊地の代わりに、小野と花田が歌唱しながら行進を行った。
*:* 2019年版(花田ゆういちろう・小野あつこ・福尾誠・秋元杏月)(2019年12月当時の出演者)
*:: 先述のアルゴリズムたいそう(2019年版)に続いて実施。山田、菊地、小野、花田の史上初となる4人歌唱バージョンで行われた。
* [[ゴールボール]]選手のみなさんといっしょ
*: 選手は全員アイシェード(目隠し)をした状態で行う。冒頭でゴールボールについての解説が流される。
*: 終了後に「[[2020年東京パラリンピック|東京2020 パラリンピック]] 頑張るぞ!」とメッセージを言う。
=== おとうさんスイッチ ===
* 2002年度 = 「おとうさんスイッチ 1」(スイッチのピッという音がする)
* 2003年度 = 「おとうさんスイッチ 2」
* 2004年度〜 = 「おとうさんスイッチ おじいちゃんも(可)」
* 2007年度〜(突発的に) = 「おとうさんスイッチ おじいちゃんも(可) 方言も(可)」
* 2008年度〜(突発的に) = 「おとうさんスイッチ おじいちゃんも(可) ひいおじいちゃんも(可)」
** ナレーター - [[徳田章]]アナ
空き箱に50音のいずれかの行の文字5つが書かれた手作りの「おとうさんスイッチ」を子供が押し、その[[お父さん|おとうさん]](2004年以降は[[祖父母|祖父]]・[[続柄#曾祖父|ひいおじいちゃん]]のケースもある)がその文字から始まる動きをするという視聴者参加型コーナー。冒頭に出演者の自己紹介をした後、オープニングは、知久が「おとうさんスイッチ(2・おじいちゃんも可)いきますよ〜」<ref group="注">括弧内はピタとゴラが喋る。</ref>と歌ってスタートする。香川真司が出演した「かがわスイッチ」放送時のみ、知久が「かがわスイッチ いきますよ〜」と本気モードで歌ってスタートした。
年度最初の放送はあ行、2回目の放送はか行、という放送順となっている。わ行まで行くと次回からは[[濁音]]となり(わ行は放送されない)、濁音が終わるとその後は[[拗音]]となる(濁音のた行(だぢづでど)は放送されない)。拗音が終わるとまたあ行に戻ってくる。スイッチを押す回数は最低で一周の5回だが、6回以上押されることがあり、6回目以降は子供が任意に選んだスイッチを押し、そのスイッチで指定された同じ動作を繰り返す。
出演する親子は基本的に一般人・視聴者だが、以下の著名人が本名を名乗り親子で出演したことがある。
* [[横山剣]]([[クレイジーケンバンド]] ヴォーカル) - 「おとうさんスイッチ 2」ら行
* [[敷島勝盛]]([[大相撲]][[浦風|浦風親方]]・当時は[[錦島|錦島親方]]) - 「おとうさんスイッチ おじいちゃんも(可)」が行
* 浦野正樹([[勝手にしやがれ (ジャズバンド)|勝手にしやがれ]] [[コントラバス|ダブルベース]]) - 「おとうさんスイッチ おじいちゃんも(可)」ぎゃ行、バンドメンバーの[[福島忍]]と斉藤淳一郎もゲスト出演
* [[片桐仁]](当時・[[ラーメンズ]])-「おとうさんスイッチ おじいちゃんも(可)」さ行<ref group="注">この回で使われた「おとうさんスイッチ」は後の「大人のピタゴラスイッチ「デジむず」」で片桐が持参し、片桐の自作である事が判明した。</ref>
* [[徳田章]] - 「おとうさんスイッチ おじいちゃんも(可)ひいおじいちゃんも(可)」は行、ひいおじいちゃんスイッチ・おじいちゃんスイッチとして、自身の父親と一緒に動作をこなした。
* [[香川真司]] - この回のみ「'''おとうさんスイッチ'''」ではなく、「'''かがわスイッチ'''」として放送され、番組のロゴが描かれたユニフォームを着て、が行を担当した<ref group="注">スイッチを押す役は、サッカーユニフォームを着たエキストラの子供3人が担当。</ref>。
==== おとうさんスイッチの作り方 ====
* 作詞 - [[佐藤雅彦 (メディアクリエーター)|佐藤雅彦]]、内野真澄
* 作曲 - [[栗原正己]]
* 歌 - [[知久寿焼]](元[[たま (バンド)|たま]]) [[加藤千晶]]
前述の「'''おとうさんスイッチ'''」の作り方を歌で紹介する。映像はスイッチのみが登場し、スイッチの作り方とはボタンの向きが逆になっている。<!-- また、知久と加藤は、2014年12月~2015年1月に、[[みんなのうた]]で、知久は[[ゆきだるまかぞく]]、加藤は[[四つ角のメロディー]]を歌っていたことでも知られる。 -->
=== おてつだいロボ ===
前述の「おとうさんスイッチ」の派生コーナー。2010年度から放送。[[お母さん|おかあさん]](場合によっては[[お父さん|おとうさん]]。この場合は完全なる「おとうさんスイッチ」の逆バージョン)がスイッチを押し、子供が扮する「おてつだいロボ」がその文字からはじまる動き(お手伝い)をするというコーナー。スイッチの構造や作り方はおとうさんスイッチと同じ。コーナーの最後に、おてつだいロボのアニメーション(曲はフルサイズまたは1番のみ)が流れる事がある。歌は栗原が担当。
==== おてつだいロボのテーマ ====
* 作詞 - 佐藤雅彦、内野真澄
* 作曲 - 栗原正己
* 歌 - 栗原正己
=== アニメーション ===
==== フレーミー ====
* 声 - [[井上順]]
13個の四角いフレームで構成された白い犬「フレーミー」のアニメ。モチーフは[[テリア]]。他のキャラクターも単純図形で構成されているが、透明ではない。[[So-net]]「ねっとのおやつ」作品から。
フレーミーには水玉模様の'''スポッティー'''と、真っ黒の'''ペインティー'''という2匹の兄弟が居る。フレーミーは骨が好物で[[掃除機]]が苦手。スポッティーは赤ちゃんの世話を任されており、[[チーズ]]が好物で[[ネコ]]が苦手。ペインティーは[[ドーナツ]]が好物で[[ネズミ]]が苦手、昔は隣の家に祖父がいた(現在は犬小屋の前に花が挿されていることから、亡くなっている)。
フレーミーは、驚いて飛び上がった後落ちたり、何かにぶつかったり、工事現場に入った時に[[ブルドーザー]]で外に押し出された時などに胴体や足、頭、耳、尻尾がバラバラに分かれてしまう。しかし、簡単に元に戻せる。バラバラになった時に鳥などに鼻や目、尻尾をどこかへ持って行かれる事もある。スポッティーとペインティーとの喧嘩などで全身のパーツがバラバラになり、でたらめに合体したことで誰が誰だか分からなくなることがあるが、それぞれの好物、或いは苦手な物が出現することで元に戻れる。
一度、ストーリーが算数の問題出題になって終わった回があり、この時のみ番組エンディングがピタゴラ装置ではなく解答・解説のアニメーションになる。この話を放送した「ミニ」のエンディングでは解答・解説アニメーションは放映せず通常通りピタゴラ装置を放送、そこにテロップで解答を載せたのみであった。
オンエアでは「ミニ」を中心に、「フレーミーのうた」といういわばテーマソングの歌唱とその歌詞に合わせた映像で終わることもあった。
==== 10本アニメ ====
* 声 - [[片桐仁]](元・[[ラーメンズ]])、[[荒川良々]]、[[近藤公園]]、[[平野貴大]]、[[田中要次]]ほか
2005年度から放送。10本の棒が合体していろいろなものに変身するストーリー。佐藤研ワークショップからの派生。
==== ぼてじん ====
* 作 - 貝塚智子、うえ田みお
* 声 - [[フットボールアワー]]
2006年度から放送。
黄色いサイコロのキャラクター・ぼてじん(声 - '''[[岩尾望]]''')が、地面に描かれたマス目の中を前後左右に動いて、カメラに向かってぼてじんのサイコロの面に書かれたメッセージを披露するが、実はマス目から外れても移動可能である。マス目上で回転することもできる。毛虫が苦手。
同年10月に初登場した、オレンジ色の小さいサイズのいぬてん(声 - [[後藤輝基]])がたまに登場する。こちらには顔と「ワン」しか書いていない。いぬてんもマス目上で回転することができる。いぬてんの家としていえてん(声 - [[後藤輝基]])も存在する(犬小屋の形をしている関係上、歪な七面体の形である)。
2023年には久しぶりに新作が放送されている。
[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]のゲーム、『[[XI (ゲーム)|XI[sai]]]』が元ネタとなっている。
===== だれじん =====
* 作曲 - 栗原正己
* ナレーション - 徳田章
2019年1月5日の放送で初登場の『ぼてじん』からの派生コーナー。ぼてじんの前に現れる身近なモノをモチーフにしたキャラクター(声 - [[後藤輝基]])を軌道となるマス目の形から考える。
===== いぬてんプログラム =====
2020年7月25日の放送で初登場の『ぼてじん』からの派生コーナー。いぬてんが目的地に正しく到着するための道順(プログラム)を考察する。
==== まきじゃくのジャック ====
* 作詞・作曲 - 佐藤雅彦、内野真澄、堀江由朗
* 声・歌 - 堀江由朗
* アニメーション - 永迫志乃
2016年1月23日放送で初登場のアニメーションのコーナー。擬人化された[[巻き尺]]のジャックが、さまざまな日用品のキャラクター達とからむ。コーナーの最初の部分と最後の部分に歌が入る。
=== その他のコーナー ===
{{JIS2004|説明=「草なぎ剛」の「なぎ」(弓剪)}}
; 角砂糖アニメ
: [[角砂糖]]12個が並べ方を変えるだけで様々な形に変身する。佐藤研のワークショップ作品。
; 今日のスイッチ
:* ナレーション - 徳田章
: とある場所・施設にある機械の起動スイッチを押し、何かが起こる様子を紹介(例:[[噴水]]、[[観覧車]])。メインコーナーや歌以外では珍しくピタ、ゴラ、百科おじさんが出演する。
; 今日のロボット
:* ナレーション - 徳田章
: いろいろな[[ロボット]](主に作業用ロボット)を紹介する。
; 今日の手順
:* ナレーション - 徳田章
: とある事柄の一連の動作及び手順をまず文字のみで提示し、そのあとその一連の動作を行っている映像を流す。
; ○と△のしゅうだん
:* ナレーション - 徳田章
: ある映像で、一定の動きをする集団とそうでない集団とに分け、その動きを説明する(駅 ([[東日本旅客鉄道|JR]][[戸塚駅]]) のホームで電車を待っている人の頭上に○と△の記号テロップが挿入されている。△は電車がホームを通ってもカメラに収まり【電車の手前側のホームにいる】、○は電車に隠れて映らない【電車の奥側のホームにいる】、など)。主に今日の△が紹介される<ref>{{Cite web|和書|url=https://garden.tique.net/train/local/2258.html|title=ご近所からの旅立ち{{!}}Otis IV|accessdate=2021-07-06|date=2015-03-20}}</ref>。
; 何してるの?おじさん
:* 出演 - [[小林賢太郎]](当時[[ラーメンズ]])
:* 撮影 - [[ホンマタカシ]]
: ドラマ風のコーナー。公園で小林扮するおじさんが奇妙な動きをしている。それを見た少年達の内の一人が、「おじさん何してるの?」と尋ねると、実はあるものの形態模写だったことがわかる。(例・UFOキャッチャー、流しそうめん)2020年11月をもって小林は芸能界を引退し裏方へと転じたが、今後放送がどうなるかは現時点で不明。
; なんのあと?
:* 撮影 - ホンマタカシ
: 何らかの動きが終わった「跡」の様子を最初に見てから、物体の動きが逆戻りして始めに戻り、「何の跡」だったのかが分かる。ラーメンズ小林扮する「おじさん」がゲスト出演した時もあった([[水風船]]の回)(例・[[火]]のついた[[ろうそく]]、[[水]]に入った[[角砂糖]]など)。最後はそれをみた子供が驚愕するのが定番。
; なにしてる点? / なにしてるひと?
:* 歌 - 知久寿焼
: [[モーションキャプチャ]]のマーカーの部分の動きだけが表示され、何をしている所かを考える。
; ポキポキアニメ
:* 声 - [[草彅剛]]
: 1本の長い線をポキポキ折り曲げていろいろなものを作っていく。なお、どんな形になっても必ず最後は元の直線に戻り、「失礼しまーす」と言って退場する。稀に短い線とセットで出てくることもあり、このときは短い線も退場時に同じく高い声で挨拶する。2009年の草彅の不祥事による活動休止期間中は放送されなかった。
; 勝手なルール
:* ナレーション - [[岸部一徳]]
:* 撮影 - ホンマタカシ
: 子供たちが一風変わった行動をとるが、実は勝手に決めたあるルールにのっとって行動をしているというもの(例・中国のものを見かけたら手をパタパタする、赤いものを見たら手を上げる)。
; 走って文字
:* ナレーション - [[ユーフラテス_(グループ)|山本晃士ロバート]]
:* 撮影 - ホンマタカシ
: グラウンドを複数人が走る様子を上空から見る。すべての動きが終わったあともう一度同じ映像が流れるのだが、今度は走った姿がそのまま残像となり、軌跡を繋ぎ合わせると文字になっている。
; 数えてみよう<ref group="注">2021年度以前の表記は『'''かぞえてみよう'''』。</ref>
:* 作詞 - 佐藤雅彦、内野真澄
:* 作曲・歌 - 桜井秀俊
: 不確定な動きをする群集を対象にして数える(例・バレーボールの弾む回数を数えるなど)。他の学校放送で放送されたものやオリンピックの映像をそのまま切り取ってきたような映像が特徴。
: 2021年4月10日放送分で十数年ぶりに新作を放送し、[[製麺]]工程を例に[[2の冪]]を扱った。また、この回から歌詞テロップが表示されるようになる。
; なんだこれ?
:* 作詞 - 佐藤雅彦、内野真澄
:* 作曲 - 桜井秀俊
:* 歌 - 知久寿焼
: [[割り箸]]で構成された、ぱっと見ただけではよく分からない立体が、回転して違う方向から見てみると、平面的につじつまが合う物体として認識できる。
; 5秒でわかる
:* ナレーション - [[内藤勝人]]
: [[鉛筆]]はなぜ6角形か、[[醤油差し]]の空気穴の役目など、身近な豆知識を短い映像で解き明かす。
; がんばれ!製品テスト
:* ナレーション - 徳田章
: 工業製品の出荷前の製品テストの様子を紹介する。
; きょうのスレスレ
:* 作詞 - 佐藤雅彦
:* 作曲 - 栗原正己
:* 歌 - スレスレ合唱団
:* ナレーション - 内藤勝人
: ベルトコンベア上に、物の移動をさえぎるように立てた厚紙の型を抜いたようなものが置いてあり、そこをスレスレで物が通り過ぎる。型を見て何が通り過ぎるのか、その物の形を連想する(例:コーヒーカップ、本)。
; めかぬか、るかろか、ねかわか、はかけか
:* 作詞 - 内野真澄、佐藤雅彦
:* 作曲 - 栗原正己
:* 歌 - めかぬか合唱団
: ゆっくりと描き出される、ある一文字の[[平仮名]]が、最終的にどちらの平仮名になるかという歌。対照される二文字は、途中の筆跡まで形が似ているものが選ばれているため、答えはギリギリ最後まで分からない(「は」と「け」、「る」と「ろ」など)。
; 何の数字?
:* ナレーション - 和田源二
: まず数字だけが表示される。一見、ランダムな配置のように見えるが、その後、その数字と位置が何を意味する説明がある。
; ピタゴラ拳法だんだんだん!
:* 作詞 - 佐藤雅彦、内野真澄
:* 作曲 - 佐藤雅彦、菅俊一
:* 出演 - [[河相我聞]]
: 2009年度の放送より実施。粘土で出来た緑もしくは赤のキューブが登場。かけ声と同時にキューブが凹んだり分割したり、固まったりと変形する。河相の示す手本を真似て視聴者がかけ声に合わせて身振りをすると、まるで視聴者がキューブを変形させているように見える仕組みになっている。
; とうめい人間X(エックス)
:* 作曲 - 栗原正己
:* 声 - [[ほんこん]]
: 透明人間Xが登場、その後透明になって移動する。説明と効果音のみをヒントに移動先を想像する。
; 新しい生物
:* 声 - [[小野卓司]]
: ボルトとナットなど、家にある何の変哲もないモノが動きを持つ生物のようにふるまう様子を描いた実写アニメ。
: No.1 ケシゴムザウルス([[消しゴム]])
: No.2 ストロケラプス([[ストロー]])
: No.3 ワゴムヌス([[輪ゴム]])
: No.4 ボルトノドン([[ボルト (部品)|ボルト]]、[[ナット]])
: No.5 カクザザトン([[角砂糖]])
: No.6 フセンヌス([[付箋]])
: No.7 ハシノドン([[箸]])
: No.8 ブラシノドン([[ブラシ]])
: No.9 マッチバコヌス([[マッチ箱]])
: ゲストとしてクリップムシ([[クリップ]])が登場する。
: No.10 アルミホイルプス([[アルミホイル]])
: また、No.1 - No.6の生物をテーマにした歌、「新しい生物の歌」(歌:[[角田信朗]])がある([[ピタゴラスイッチ#番組内のオリジナルソング|後述]])。
; プチリョンコってなんだ
:* 音楽・歌 - 栗原正己
: 「[[カスタードプディング|プリン]]」と「[[チョコレート|チョコ]]」(プチリョンコ)、「[[歯磨き]]」と「[[虫歯]]」(はむみしがばき)、「[[キリン]]」と「[[ラクダ]]」(キラリクンダ)など、2つの単語を1字ずつ互い違いに組み合わせた、文字ブロックに書かれた単語が歌に合わせて[[ベルトコンベア]]を流れていく。ベルトコンベアには1字ずつに分ける[[分岐器]]があり、音楽の間にもとの単語を考える。最初に必ず「プチリョンコ」が流れ、その後に他の単語が流れるようになっている。
; ひとつとびぶったい パタトクカシー
:* ナレーション - [[徳田章]]
:* 協力 日本切断研究所
:* 音楽・歌 - 栗原正己
: 「プチリョンコってなんだ」の発展版。登場するのは「パタトクカシーー」だが、タイトルは「パタトクカシー」。内容はプチリョンコと同じだが、ムービーが文字ブロックではなく、実物を使ったものになっている。例:パタトクカシーー→[[パトロールカー|パトカー]]+[[タクシー]]→パトカーの模型とタクシーの模型を数個に切断したものを交互に並べ、合体させた状態で画面に登場→最後はそれぞれに分離し2つの言葉通りに合体しなおす。「サスンリダッルパ」([[サンダル]]+[[スリッパ]])、「ハペサンミチ」([[はさみ|ハサミ]]+[[ペンチ]])、「ブシャラモシジ」([[ブラシ]]+[[しゃもじ|シャモジ]])などのバリエーションがある。
; こんなことできません
:* 出演 - [[関根勤]]、岩井ジョニ男([[イワイガワ]])
: 2012年に初登場。人間にはできないとんでもない動きでも、[[ピクシレーション|写真をつないでみることで、できるように見えてしまう]]コーナー。「'''こんなことできません'''」という台詞の後に作品が流され、種明かしの模様(最初の映像とは異なる)を経て「'''こんなことできました'''」で終わる(タイトルも「'''こんなこと できま<del>せん</del><ref group="注">正確には二重取り消し線。</ref>した'''」に変わる。この時、岩井は何故かカメラの方を向いていることが多い)。最初に関根が実際に動作を行い、その後種明かしを兼ねて1コマずつ撮影する様子を早回しで見せる。岩井は基本的に傍観者だが、種明かしのシーンで関根の動作を模倣するか、(関根が単独で自身や道具の位置をずらす事が困難な場合)補助に当たる事がある。
: 「'''みなさんのこんなことできません'''」と題し、視聴者から投稿された作品を放映することもある。
; ブラックボックス人問題
:* 作 - [[ユーフラテス_(グループ)|うえ田みお]]
:* 作曲 - 栗原 正己
: 2013年1月3日放送の「大人のピタゴラスイッチ・かなりむず」で先行放送。顔の描かれた黒い箱とその左右にベルトコンベア風の板のついた「装置」に向かって、いろいろな形のものが右から左に動いて箱の右側から入る。すると、そのものの向きが変わったり整ったりして箱の左側から出てくるのをみて、箱の中のしくみがどうなっているかを想像することができる実写アニメで、最後に箱の中身を見せる(見せている時は何故かブラックボックス人の表情が変わらない)。「Eのかたち のまき」「◎のかたち のまき」「頭でっかちのかたち のまき」など。コーナー内で流れるBGMは、「とうめいにんげんX」のものと同一。
; どっちが本物?
: 2013年1月3日放送の「大人のピタゴラスイッチ・かなりむず」で先行放送。紙に描かれた偽物(いわゆる[[トリックアート|3Dトリックアート]])と紙に乗った本物を見分けるクイズ。
; ○○ソート
:* 作 - [[ユーフラテス_(グループ)|山本晃士ロバート]]
: 2013年1月2日放送の「大人のピタゴラスイッチ・ちょいむず」で先行放送。[[ソート]](きれいにならべかえること)のアルゴリズムを、長さ・重さの異なる10個程度のものをソートしながら説明する実写アニメ。「背のじゅんに ならべよう!の巻 [[シメジ|しめじ]]ソート([[マージソート]])」「重いじゅんにならべ! [[ジャガイモ|じゃがいも]]ソート([[クイックソート]])」など。
; どうぶつのアルゴリズム
: 2013年1月2日放送の「大人のピタゴラスイッチ・ちょいむず」で先行放送。あらゆる動物の習性を[[アルゴリズム]]の観点から取り上げる。
; ピタゴラ暗号棒
:* 作詞 - 佐藤雅彦、[[貝塚智子]]
:* 作曲・歌 - 栗原正己
: 親子2人(父と子供)(時には祖父と孫)の出演者が、子供がラップフィルムの芯棒や卒業証書用の丸筒(暗号棒)などに巻き付けた細長い紙に縦書きの文を書いて“暗号”メッセージを伝える。古代ギリシャ・[[スパルタ]]で使われた「[[スキュタレー]]」という暗号方式で、巻き付けた紙をほどくと、文字が飛び飛びになる。たとえば「にちようび_さっかー_やりたい」が「に__さちやっよりかうたーびい」となる。子供はその紙を家のどこかに置くが父以外(母である事が多い。祖父の場合は父や兄弟姉妹)は分からない。父が仕事から帰ってきて、紙を見つけるとそれが暗号文だと分かり、暗号棒に巻き付けて読む。そして最後には休みの日に暗号文の事を実行する映像が流れる。なお、子供が男の子か女の子かで歌詞の一部が異なる。
「ピタゴラ暗号棒」の歌に合わせてコーナーが進む。
; なんのどうぶつ?
:* ナレーション - [[和田源二]]
: モーションキャプチャのマーカー部分の動きだけで示された動物が何かを考える。
; ピタゴラスイッチおりたたみハンカチ劇場
:* 作詞 - 貝塚智子、内野真澄
:* 作曲 - 貝塚智子、栗原正己
:* 歌 - 栗原正己
:* 作 - ユーフラテス
: [[ハンカチ]]の表裏に折りたたむと向きが正しくなるイラストを描いておき、2つ折り→4→8→16と進めながらイラストを見るという漫画のコーナー。「おりたたみハンカチ劇場」の歌に合わせてコーナーが進む。
:* ピタとゴラ けんかのまき
:* みんなでやまのぼりのまき
:* ピタとゴラ しりとりのまき(この回からはピタとゴラとスーの声が吹き込まれる)
:* みんなでかくれんぼのまき
: これらのハンカチは実際に市販されている。また、「おうちでやってみなスペシャル」(2020年7月11日放送分)では「ピタとゴラ しりとりのまき」のようにしりとりの要素を取り入れた折り紙の作り方が紹介された。
; くねくね人まちがいさがし
:* 声 - [[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]]
: 2枚の絵にある3箇所の相違点を見つける[[間違い探し]]。絵は紙に印刷されており、重ねて[[パラパラマンガ]]の要領で答え合わせをする。何故か2つ目の間違いは通常ならば別々に数えるものが多い。
; スレスレ3D
:*ナレーション - 徳田章
: 上述「きょうのスレスレ」の3Dバージョン。回転台に置かれた物体がスレスレで通過できる穴の形状を考える。2015年1月の「大人のピタゴラスイッチ」で先行放送し、本家『ピタゴラ』では『'''きょうのスレスレ ~かいてん編~'''』と改題し放送。
: 2022年には『きょうのスレスレ ~かいてん編2~』が登場し、同じ物体でも位置を変えることによってスレスレで通過できる穴の形状がどのように変わるかを考える。また、穴の形状から通過する物体を考えることもある。
; ねんどれナンドレラッツの跡じまん
:* 声 - [[サンドウィッチマン (お笑いコンビ)|サンドウィッチマン]]
:* 歌 - 栗原正己
: 体が直方体の粘土でできた、ねんどれ(声‐[[富澤たけし]])・ナンドレ(声₋[[伊達みきお]])の2つのキャラクターが、「走っていたらコケてついた」という体の前面の跡を相手に自慢しあい、何の跡なのかを視聴者に考えてもらおうという[[クレイアニメ|クレイアニメーション]]のコーナー。ねんどれはいつも待ち合わせに遅刻しているが、先に着くナンドレも同じく遅刻しかけており一度だけ彼の方が遅れて来た事がある。
; ピタゴラ装置アカデミア
:* 作 - [[佐藤匡]]
: ピタゴラ装置に使われている様々なギミックの作り方を紹介する。「ピタゴラゴール1号」が実際に市販された。
; ピタゴラ装置 こうすると面白い
:* 作 - 石川将也
: ピタゴラ装置の動きをさらに面白く見せる工夫について解説する。「ピタゴラ装置 大解説スペシャル」で先行放送。
; もじもじ装置
:* 作 - 佐藤匡
: 2016年1月9日放送(#322)で初登場のアニメーションのコーナー。ひらがな(たとえば「い」「の」「し」)と書かれた正方形のブロックの上をボールが弾みながら進むとボールがブロックの上に乗ったときに「い」等と声がする。ボールが飛び石のようにブロックを弾んでいき、ブロック崩しのラケットのような動く壁が登場してボールを反射すると「し」のブロックに再び乗るため、「[[イノシシ|いのしし]]」と聞こえることばをつくる。
; そこで橋は考えた
:* 歌 - 栗原正己
:*ナレーション - 徳田章
: 2016年6月11日放送(#330)で初登場のコーナー。前半は共通のアニメーションと歌で、川がある→車が通れない→橋を架ける→船が通れない、に続いて「そこで橋は考えた」のナレーションが入る。橋の[[モノローグ]]により[[可動橋]]を提案、「出来んのかなこんな橋 ちょっと無理だろこんな橋 出来んのかなこんな橋 出来たらすごいぞこんな橋」という歌のあとに実在する同タイプの[[可動橋]]が紹介される。
:「出来んだなこんな橋 ほんとにあんだなこんな橋 ぶーん」という歌が流され、その後「今日の橋は○○橋(種類)でした。」というナレーションでコーナーは終わる。
:# [[可動橋#旋回橋|旋回橋]](2016年6月11日)- 京都府[[天橋立]]の廻旋橋
:# [[跳ね橋|跳開橋]](2016年6月18日)- 高知県の[[手結港可動橋]]
:# [[可動橋#昇開橋|昇開橋]](2016年8月27日)- 徳島県の[[加賀須野橋]]
:# [[運搬橋]](2016年10月8日)- スペインの[[ビスカヤ橋]]
:# [[可動橋#降開橋|降開橋]](2016年11月26日)- ギリシャのイスミア橋([[コリントス運河]])
:# [[可動橋#転造跳開橋|転造跳開橋]](2017年1月7日)- ニュージーランドの{{仮リンク|テ・マタウ・ア・ポヘ橋|cs|Silniční most (Whangarei)}}
:その5のみ「この橋はたまに魚も獲れてしまいます」と補足される。
; ウソだと思うなら、やってみな。
:* 歌 - [[奥田民生]]
: 2017年4月8日放送で初登場のコーナー。身近な物を使って実験が可能な科学の現象を紹介する。最初は歌に合わせて擬人化された物のキャラクターが登場するアニメーションが流れ、途中から実写で実験の手本が流される。歌の最後には実験を成功させやすくするためのアドバイスが付け加えられる。
: 「おうちでやってみなスペシャル」(2020年7月11日放送分)では「ミニ」と題して自宅にある身近なものだけでできる実験を3つ紹介した(アニメーション・歌はなく実写とナレーションのみによる解説)。
; トンカッチのそこのしくみがしりタイム
:* 作 - うえ田みお
: 2017年6月10日放送で初登場のコーナー。装置評論家のトンカッチが、冒頭で流れた装置の仕組みを解説する。
; かさねておえかき
: 2018年4月7日放送で初登場のコーナー。3枚のアクリル板に絵を書き、最後に板を重ねて絵を完成させる。
; もじもじコンベアー
: 2018年9月8日放送で初登場のコーナー。「プチリョンコってなんだ」と同じく文字ブロックを使っており、いずれかがのブロックが重なっている。
; 考えもしない
: 身近に存在しながらも考える機会の少ないあらゆる物の構造について解説するコーナー。「大人のピタゴラスイッチ 想像力としかくい穴」で先行放送。
; 現実ってこういうこと
: 「大人のピタゴラスイッチ 想像力としかくい穴」で先行放送。
; トンカッチのピタゴラ装置おなやみ相談室
:* 作 - 米本弘文
: 2020年1月11日放送で初登場のコーナー。トンカッチが視聴者から寄せられたピタゴラ装置に関する相談に答える。
; もんくたれぞう〜世の中のまちがい、指摘させてもらいます〜
: 2020年10月24日放送で初登場のコーナー。目が4つあるキャラクター「もんくたれぞう」が登場する。身近で見つけた物の仕組みについてたれぞうが間違いを指摘するが、ナレーションと映像からなる解説によってその仕組みが合理的なものである事を理解し、最後に文句をつけた事を謝罪する。
; 100グラムにちょうせん!
:* 作 - 貝塚智子
:* 声・歌 - [[石田明]]
: 2020年11月14日放送で初登場のコーナー。子供が家の中にある物を組み合わせ、「[[秤|はかり]]先生」でピッタリ100グラムの計量に挑戦する。総重量の微調整段階に入った場合は、「おたすけボックス」のアイテムとして[[一円硬貨|一円玉]](1枚=1グラム)を使うことができる。「ピーマン」という応援役のキャラクターが登場する。
: 2022年には1000グラムにちょうせん!が登場し、祖父が同じく「はかり先生」でピッタリ1000グラム(1キログラム)の計量に挑戦する。100グラムと同様に微調整段階で「おたすけボックス」を使うことが出来る。
; なんのプログラム?
: 「ピタゴラミングスイッチ」で初登場のコーナー。ある一連の行動をフローチャートで表現し、それがどのような行動であるかを考える。
; 想像してみよ
:* 作 - 佐藤匡、貝塚智子
: 「ピタゴラミングスイッチ」で初登場のコーナー。身の回りにある「変なもの」の正体を想像することによって考察する。
; 鉄琴階段プログラム
:* 作 - 米本弘文
: 「ピタゴラミングスイッチ」で初登場のコーナー。ミニチュアの階段におもちゃの[[鉄琴]]の音板を並べ、最上段からビー玉を転がすと特定の曲が演奏される仕掛けを作る。
; かくすと みえてくる
: 2021年4月1日放送で初登場のコーナー。「[[ハト]]は本当に首を前後に振りながら歩いているのか」など、動く物体の大部分を隠すことで部分的な動きの実態を解明する。
; 押し出しクイズ
: 2021年4月2日放送で初登場のコーナー。
; いま、なにがとおった?
: 2021年4月10日放送で初登場のコーナー。立て掛けられた2枚の板の裏側を横切る物体が何か当てるクイズ。板の間には僅かな隙間があり、この部分を1コマずつ切り取り横に並べることで正体が判明する。
; 紙の下はナンドレラ?合戦
: 2021年4月29日放送で初登場の『ねんどれナンドレラッツの跡じまん』からの派生コーナー。ねんどれが描かれた紙に[[フロッタージュ]]の要領で写し出した物が何であるかを当てる。兄弟という設定の人物2人が手と台詞のみで登場し互いに問題を出し合う。
;箱のすけ
:声 ー [[土屋礼央]]
:2021年10月2日放送で初登場のコーナー<ref>{{Citation|title=「そうぞうしてみようスペシャル」 - ピタゴラスイッチ|url=https://www.nhk.jp/p/pitagora/ts/WLQ76PGNW2/episode/te/VJJR3KZPM7/|accessdate=2021-11-27|language=ja|last=日本放送協会}}</ref>。箱から首を出し、様々な動きをする「箱のすけ」の箱の中はどうなっているのかを考察するコーナー<ref>{{Citation|title=「箱のすけ スペシャル!」 - ピタゴラスイッチ|url=https://www.nhk.jp/p/pitagora/ts/WLQ76PGNW2/episode/te/V2GL8XGVR9/|accessdate=2021-11-27|language=ja|last=日本放送協会}}</ref>。
:2023年から、いとこの「はこみ」が登場することがある。
;たまご会議
:「ピタゴラミングスイッチ2」で初登場のコーナー。[[卵]]が集まって会議をし、「割る・割らない」や「焼く・茹でる」などの二択の質問を聞いて、それぞれ最終的に違う卵料理になる、二分木構造の考え方を伝えるコーナー。
;ソセジ
:「ピタゴラミングスイッチ2」で初登場のコーナー。「ソセジ」や「キボド」という謎の文字が、[[伸ばし棒]]が来て間に入ると「[[ソーセージ]]」や「[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]」という言葉になる。この後に「しぶし」や「せめき」のように伸ばし棒が入っても言葉にならない文字が出てくるが、「[[ん]]」が来て入ることで「[[新聞紙]]」や「[[洗面器]]」という言葉になる。
:「ピタゴラミングスイッチ4」では『ソセジ2』が登場し、「ミトボル」や「ロルケキ」のように縦に伸ばし棒が入っても言葉にならないが、横に伸ばし棒が入ると「[[ミートボール]]」や「[[ロールケーキ]]」という言葉になる文字が出てくる。
;どうぶつのプログラム
:「ピタゴラミングスイッチ3」で初登場のコーナー。動物の習性を[[プログラミング]]の観点から取り上げる。
;たこたこピー
:「ピタゴラミングスイッチ3」で初登場のコーナー。[[粘土]]を[[タコ]]の足の本数(8本)に分けるのに、普通に分けると切る回数が多くなるが、半分に切って揃えることで回数を少なくできることを、歌に合わせて伝えるコーナー。通常のピタゴラスイッチでは1.5倍速バージョンが放送されることもある。
;どうしてこうなった?
:「ピタゴラとくばん 失敗にへこたれるなスイッチ」で初登場のコーナー。
;日常しっぱい劇場
:「ピタゴラとくばん 失敗にへこたれるなスイッチ」で初登場のコーナー。
;しかくろQ
:2023年7月6日放送で初登場のコーナー。
;じゃがいも会議
:「ピタゴラミングスイッチ4」で初登場のコーナー。「たまご会議」の[[ジャガイモ|じゃがいも]]バージョン。
;タテひことヨコひこ
:「ピタゴラミングスイッチ4」で初登場のコーナー。紙を縦に動かす「タテひこ」と、横に動いて[[鉛筆]]を下ろすことで線を書く「ヨコひこ」が登場する。ヨコひこだけが動くと横の直線、タテひこだけが動かすと縦の直線、同時に動かすと斜めの直線が書ける。これらのことを利用して協力して絵を描く。
;今日のみそしる
:「ピタゴラミングスイッチ4」で初登場のコーナー。[[味噌汁]]に入れる具材の切り方から、何の味噌汁かを予想するコーナー。
;ぼてじんをきりぬけ!・いえてんをきりぬけ!
:「ピタゴラミングスイッチ4」で初登場のコーナー。紙に印刷されたぼてじんやいえてんを、そのまま切り抜こうとすると[[はさみ]]で切る回数が多くなるが、紙を折ることで回数を少なくできることを伝えるコーナー。
=== 番組内のオリジナルソング ===
# ピタゴラスイッチ オープニングテーマ
#* 作曲 - [[栗原正己]]
#* 演奏 - [[栗コーダーカルテット]]、[[渋栗オーケストラ]](大人のピタゴラスイッチ)
# ピタゴラスイッチ エンディングテーマ
#* 作曲 - 栗原正己
#* 演奏 - 栗コーダーカルテット、[[NHK交響楽団]](大人のピタゴラスイッチ)
#** オープニングテーマと同じ曲だが、アレンジが異なっている。
# そっくり↓ひっくり↑かえしましょ(2002年度)
#* 作詞 - [[もりちよこ]]
#* 作曲 - 坂出雅海
#* 歌 - ピタ・ゴラ([[星河舞]]・[[西村朋紘]])
#** 擬態語を逆から言うと全く別の意味になる対比の歌(例・しずしず<>ずしずし(歩く)など)。
# あるくのどのあし?(2002年度)
#* 作詞・作曲 - 荒木尚美
#* 歌 - ピタ・ゴラ(星河舞・西村朋紘)
#** 両足を交互に出して歩くと、手が互い違いに出るのは体が知っていることで、「無理に逆にすると不自然になる」とわかる歌。
# おんなじとこちがうとこ(2002年度)
#* 作詞・作曲 - [[加藤千晶]]
#* 歌 - ピタ・ゴラ(星河舞・西村朋紘)
#** [[カレイ]]と[[ヒラメ]]、[[ブロッコリー]]と[[カリフラワー]]など、よく似たものを見分ける歌。
# ぼくのおとうさん(2002年度)
#* 作詞 - [[佐藤雅彦 (メディアクリエーター)|佐藤雅彦]]・内野真澄
#* 作曲・歌 - 栗原正己
#* 出演 - [[ふるごおり雅浩]]
#** 状況に応じて「ぼくのおとうさん(僕のお父さん・父親)」はなんと呼ばれるのか。[[会社]]へいくと「[[会社員]](かいしゃいん)」、仕事をする時「[[課長]]さん(かちょうさん)」の役職がつき、[[食堂]]に入ると「お客さん(おきゃくさん)」になり、[[歯医者]]に行くと「[[患者]]さん(かんじゃさん)」になり、歩いていると「通行人(つうこうにん)」、[[学校]](英会話の学校)に行けば「生徒さん(せいとさん)」、[[電車]]に乗ると「通勤客(つうきんきゃく)」になるなど、同じ人間でも場に応じて色々な役割や立場などがあることがわかる歌。お父さん役はふるごおり雅浩。
# …の中をよく見たら(2002年度)
#* 作詞 - 桑原永江
#* 作曲 - 悠木昭宏
#* 歌 - ピタ・ゴラ(星河舞・西村朋紘)
#** ことばのなかに隠れている別の言葉をさがす歌(例・「[[冷蔵庫]](れいゾウこ)」の中には『[[ゾウ]]』がいる)。
# 水はぐるぐる(2002年度)
#* 作詞 - [[日暮真三]]
#* 作曲・編曲 - [[岡村みどり]]
#* 歌 - ピタ・ゴラ(星河舞・西村朋紘)
#** 水は[[気体]]・[[液体]]・[[固体]]と形を変えても実は同じもの、という内容。ピタとゴラが歌に合わせて氷を作ったり熱いお茶を入れたり、湯気で曇ったガラスを見つけたりする。2002年度第3回「水もお湯も同じもの?のまき」の内容と類似。
# ピタゴラジョンマーチ(2003年度)
#* 作詞・作曲 - [[パラダイス山元]]
#* 編曲 - テディ熊谷
#* 歌 - ピタ・ゴラ(星河舞・西村朋紘)
#** そのまんま「マーチ」かと思いきや、ひとつのことについての、程度での名称の違いも絡めたうた(例・人に対して、「かおなじみ」、「みずしらず」、「(顔だけ知っているのは)かおみしり」)。
# んがなくちゃ、いか(2003年度)
#* 歌 - ピタ・ゴラ(星河舞・西村朋紘)
#* 作詞 - もりちよこ
#* 作曲 - 小杉保夫
#** 言葉からある文字(「ここでは「ん」)を抜くと全然別の意味になる対比のうた(例・「あんまん([[餡まん]])」<>「あま([[尼]]、[[海人|海女]])」)。
# ぞうのあしおと係(2004年度)
#* 作詞 - 佐藤雅彦、内野真澄
#* 作曲 - 栗原正己
#* 歌 - [[知久寿焼]]
#** 音響効果を果たす楽器を紹介(例・象の足音係は[[チューバ]]、その後に、シジミ→[[カスタネット]]、ヘビ→[[ヴァイオリン]]、ウサギ→[[シロフォン]]と続く)。
# ピタゴラそうち41番の歌(2004年度)
#* 作詞 - 佐藤雅彦・内野真澄
#* 作曲 - 栗原正己
#* 歌 - 日下好明
#** 2004年当時、ピタゴラ装置の中で「もっとも長い」と呼ばれていた41番の作品の動きを歌にしたもの。
# つながりうた もりのおく(2005年度)
#* 作詞 - 佐藤雅彦・内野真澄
#* 作曲・歌 - [[桜井秀俊]]
#** 森の小屋に住むクマの家族の日常を描く。[[小節]]毎に分けられた歌詞が[[しりとり]]のように繋がっている(一部2文字続きの歌詞もある)。
# フレーミーのうた(2005年度)
#* 作詞 - 佐藤雅彦・内野真澄
#* 作曲 - 渋谷毅
#* 歌 - [[井上順]]
#** 通常放送時のBGM(インストゥルメンタル)に歌詞を載せたもの。
# いたちのたぬき(2006年度)
#* 作詞 - 佐藤雅彦・内野真澄
#* 作曲・歌 - 栗原正己
#* アニメーション 植田美緒
#** 数字が答えとなる言葉遊びを歌詞にしている歌(例・「いたちのたぬき」は「いたち」から「た」を抜く(たぬき)と「1(いち)」)。
# オノマトペのうた(2007年度)
#* 作詞・アニメーション - 内野真澄・植田美緒
#* 作曲・歌 - 栗原正己
#** [[オノマトペ]](擬音語・擬態語)ばかりを並べた歌。最初に、オノマトペの文字のみが画面に表れ、一通り終わった後、再び歌を繰り返しながら絵が加わり、どんな動きがオノマトペになっているかが明らかになるという内容。
# スーのうた(2008年度)
#* 作詞 - 内野真澄・佐藤雅彦
#* 作曲・歌 - 栗原正己
#* コーラス - 杉並児童合唱団
#* 台詞 - スー(うえだゆうじ)、ピタ(星河舞)、ゴラ(西村朋紘)
#** スーを紹介する歌。気が利き、働き者で休まない、そしてたまに風邪をひくが、元気になればまた大活躍、そしてガンコ者、という歌(「ねずみですが丑年生まれでスー」等のセリフが入る)。
# なぞなぞうた いたちのたぬき2(2009年度)
#* 作詞 - 内野真澄
#* 作曲・歌 - 栗原正己
#* アニメーション - 植田美緒
#** 「いたちのたぬき」に2年ぶりに新しい歌詞を追加した第2弾。他に、不適切だった「3」の部分の歌詞が、「さんまのまぬけ」から「さんまのまつり」に変更されている。
# パパ ママ ぼく、 いぬ ネコ ぞう(2009年度)
#* 作詞 - 石川将也・内野真澄
#* 作曲・歌 - 栗原正己
#** 「パパ」「ママ」「ぼく」「いぬ」「ネコ」「ぞう」を5-6回繰り返す歌詞。映像では、「パパ」「ママ」「ぼく」「いぬ」「ネコ」「ぞう」の顔、食べ物、足跡、仕事、赤ちゃんの時の顔、寝ている時(「パパ」は寝る前)が登場した。
# こたつたこ(2009年度)
#* 作詞・作曲 - 内野真澄
#* 歌・編曲 - 栗原正己
#* アニメーション - 植田美緒
#** 歌詞が5文字の[[回文]]になっている(例・こたつたこ、いかとかい(イカと貝)、くらげらく(クラゲ楽)など)。
# こたつたこ2(2010年度)
#* 作詞・作曲 - 内野真澄
#* 歌・編曲 - 栗原正己
#* アニメーション - 植田美緒
#** 「こたつたこ」に、新しい歌詞を加えたバージョン。
# みんなでつくるこたつたこ(2010年度)
#* 作詞・作曲 - 内野真澄
#* 歌・編曲 栗原正己
#* アニメーション - 植田美緒
#* ナレーション - 宮岡和寛
#** 「こたつたこ」に、一般公募による新しい歌詞を加えたバージョン。募集・発表は「その1」から「その4」にかけて4度行われた。
# わしがイッチの唄
#* 作詞 - 内野真澄
#* 作曲 - 栗原正己
#* 歌 - 百科おじさん(車だん吉)
#** 百科おじさんの本名(百科一之進)がついに判明。立ち位置では左からピタ、ゴラ、スー、イッチの順に立っている。前述の理由上、オチの部分で番組のサウンドロゴを使用している。
# ぼてじんの唄
#* 作詞 - 内野真澄
#* 作曲 - 栗原正己
#* アニメーション - うえ田みお
#* 歌 - フットボールアワー(岩尾望、後藤輝基)
#** ぼてじんの紹介の歌。ぼてじんの性質、ともだち(いぬてん・いえてん)、毛虫が苦手なことが紹介されている。
# ぴきひきびきの歌
#* 歌 - 栗原正己
#** ものを数えるときの[[助数詞]]に、数によって[[濁音]]や[[半濁音]]がつくことを教える歌。[[カエル]]のキャラクターが登場し、飛び込み台から池に飛び込む。
# ぽんほんぼんの歌
#* 歌 - 栗原正己
#** 「ぴきひきびきの歌」の続編。[[助数詞]]の歌で、[[ニンジン]]のキャラクターが登場し、シャワーで泥を洗い木箱に入る。
# ねじねじの歌
#* 歌 - 栗原正己
#** [[鳥]][[小屋]]などに使われる[[金網]]の作り方を歌う歌。曲名の由来は原料の[[針金]]を「ねじねじ」して作ることから。特番「大人のピタゴラスイッチ ちょいむず」で先行放送。
# 新しい生物の歌
#* 作詞 - 佐藤雅彦、内野真澄
#* 作曲 - 栗原正己
#* 編曲 - 上柴はじめ
#* 歌 - [[角田信朗]]
#* 語り - [[小野卓司]]
#* アニメーション - ユーフラテス
#** 「新しい生物」のうちの「ケシゴムザウルス」「ストロケラプス」「ワゴムヌス」「ボルトノドン」「カクザザトン」「フセンヌス」を歌で紹介する。
# ビーバーのダム(2013年度)
#* 歌 - 栗原正己
#* 作詞 - 内野真澄、佐藤雅彦
#* 作曲 - 内野真澄、栗原正己
#** [[ビーバー]]の作るダムについて、映像に合わせて歌が流れる。本編後に「ビーバーミニ解説」と題してビーバーに関する補足説明を流す場合がある。
# デジタルウォーク
#* 歌・作曲 - 栗原正己
#* 作詞 - 内野真澄、佐藤雅彦
#** 「大人のピタゴラスイッチ デジむず」で先行放送。動画を1秒ごとに区切って静止画にしたものを繋いで、早回しにして見せるもの。歩いている人や犬が地面を滑っているように見える。情報を連続的に扱う「アナログ」と離散的に処理する「デジタル」の違いを視覚的に表している。歌詞は3番まであるが、放送回によっては3番のみカットされることがある。
# 対応の歌
#* 歌・作曲 - 栗原正己
#* 作詞 - 内野真澄、佐藤雅彦
#** 「大人のピタゴラスイッチ デジむず」で先行放送。みかんは[[Eテレ0655&2355]]の「みかんをむくのはどっちから?」、カラスは[[考えるカラス〜科学の考え方〜]]からの出典。みかんのへたをめくったときの筋の数と中身の房の数や、出席している幼稚園児の数と靴箱にある靴の数など、1対1[[対応 (数学)|対応]]を説明する。
# がんばれ!装置153番のマーチ
#* 歌 - [[デーモン閣下]]
#* 作詞 - 内野真澄、佐藤雅彦
#* 作曲 - 内野真澄、栗原正己
#** 2015年1月2日の「大人のピタゴラスイッチ 数ピタ!たのしい数学」で先行放送。うまく作動せずNGを繰り返した153番のピタゴラ装置が、最後に54テイク目で成功するところまでを歌でたどる。
# ピタゴラフィニッシュのうた
#* 作詞 - うえ田みお
#* 作曲 - 栗原正己
#* 歌 - 装置チーム選抜隊
#** 2015年8月の「ピタゴラ装置 大解説スペシャル~前半戦~」で先行放送。「わしがイッチの唄」の別バージョン。前述の理由上、オチの部分で番組のサウンドロゴを使用している。
# 針金ハンガーの歌
#* 歌 - 栗原正己
#** 2015年8月の「ピタゴラ装置 大解説スペシャル~後半戦~」で先行放送。針金[[ハンガー]]が工場で製造される過程に合わせた歌詞がついている。放送回によっては検査の工程などが歌われる後半が省略される場合がある。
# みえみえみえの歌
#* 歌 - 栗原正己
#** 2016年1月2日放送の「大人のピタゴラスイッチ」でエンディング曲として先行放送。普通なら見えない空気や、外からは見えないホースの中の水やチューブ滑り台の中の子供、地面の下を動くプレーリードッグ、地下鉄([[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] <ref group="注"> 当時主力車両だった[[営団02系電車|02系]]のB修繕未施工車が映った。 </ref>)を矢印でたどる。
# まきじゃくのジャックの歌
#* 作詞・作曲 - 堀江由朗、内野真澄、佐藤雅彦
#* 歌 - 堀江由朗、まきじゃく合唱団
#* アニメーション - 永迫志乃、石川将也
#** 「まきじゃくのジャック」のテーマソング。ジャックの全長や体重、磁石に付く性質などが紹介される。一部シーンでトンカッチが登場する。
# 10本アニメ音頭
#* 作詞 - 内野真澄、うえ田みお
#* 作曲 - 栗原正己
#* 歌 - [[三山ひろし]]
#* 合いの手 - 10本合唱団
#** 民謡風にアレンジされた10本アニメのテーマソングで1~6番まである。もともと「10本アニメスペシャル」のエンディングで使用されたもの。
# どうして ○○ みんな おなじ向き?
#* 作詞 - うえ田みお
#* 歌・作曲 - 栗原正己
#** 動物([[ミーアキャット]]、[[チンアナゴ]]、[[ハト]])の群れや[[豆苗]]の伸び方などが同じ向きを向く理由について説明した歌。
# クッキー型の型のうた
#* 作詞 - 石川将也、佐藤雅彦、内野真澄
#* 作曲・歌 - 栗原正己
#* ナレーション - 徳田章
#** [[クッキー]]の生地を抜き型で作る様子を流した後、その抜き型の製造工程を流し、クッキー型にも「型」があり、それがどのようにして作られているかを説明する。同じ形のたくさんのものには型があるということを説明した歌。冒頭では「クッキー型のうた」が曲名として表示されるが、ラストに上記の曲名が表示される。
# ハキリアリの行進
#* 作詞 - 内野真澄、佐藤匡
#* 作曲 - 栗原正己
#* 歌 - [[サンドウィッチマン (お笑いコンビ)|サンドウィッチマン]]
#** [[ハキリアリ]]の生態について説明した歌。歌詞は2番まで存在し、いずれかワンコーラスが流れるが、「やくわりをわけてばっちりスペシャル」(2020年6月6日放送回)ではフルバージョンで放送された(同時に歌詞テロップが新規に追加される)。
# ほんとはもっとおおきいぞ
#* 作詞 - [[米本弘史]]
#* 作曲 - 栗原正己
#* 歌 - [[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]]([[塙宣之]]・[[土屋伸之]])
#** [[トイレットペーパー]]、[[スポンジ]]、[[カステラ]]などの品物が、製造段階では大きなサイズで作られてから小さく切り分けられていることを説明した歌。
# くものすのプログラム
#:* 作 - 貝塚智子
#:* 歌 - 栗原正己
#:* アニメーション - 村本咲
#:** 「ピタゴラミングスイッチ」で初登場。[[クモ]]が巣作りをする様子をプログラミング的観点から詳細に解説した歌。冒頭ではアニメーションによるクモの営巣についての補足説明が入る。
# パーツフィーダーのうた
#:* 歌 - 栗原正己
#:** 「ピタゴラとくばん 失敗にへこたれるなスイッチ」で初登場。
==== 『ビーだま・ビーすけ』シリーズ ====
ストーリーが存在するピタゴラ装置である。ビー玉の3兄弟が主人公で、長男は緑色のビータ、次男は赤色のビーすけ、三男は黄色のビーゴロー。この三人が、敵の黒玉軍から逃げるのがこのシリーズの内容。2018年7月28日に『ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル!』が放送され、これまでの3作が再放送された後に4作目である『~完結編~ 黒玉軍の野望』を初放送。これをもって、ストーリーが一旦完結した。
# ビーだま・ビーすけの大冒険
#* 歌 - [[浜崎貴司]]、ピタゴラ少年少女合唱団
#** 2015年8月4日の『ピタゴラ装置 大解説スペシャル~前半戦~』で初放送。敵の一味に兄弟のビータとビーゴローを攫われたビーすけが救出のため敵の陣地に単身乗り込む。ナレーション(声 - [[佐藤匡]])が無線でビーすけに陣地の情報を与えている。
# ビーすけを救え! ビーだま兄弟の大冒険
#* 歌 - 浜崎貴司、ピタゴラ少年少女合唱団
#** 2017年1月2日の『大人のピタゴラスイッチ ピーマンとハトと数学』で初放送。前作の拉致事件により心に傷を負ったビータとビーゴローのために「勇気の出るドングリ」を探しに森へ向かったビーすけが敵に捕まってしまう。事態を知ったビータとビーゴローは彼の救出に立ち向かう。
# 一時休戦 ビーすけと黒玉王子の大脱出
#* 歌 - 浜崎貫司、ピタゴラ少年少女合唱団
#* 語り - [[パトリック・ハーラン]]
#** 2018年1月1日の『大人のピタゴラスイッチ 想像力としかくい穴』で初放送。暗黒の谷に迷い込んだビーすけと黒玉軍の王子が協力して谷を脱出する。
# ビーだま・ビーすけの大冒険~完結編~ 黒玉軍の野望
#* 歌 - 浜崎貫司、ピタゴラ少年少女合唱団
#** 2018年7月28日の『ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル!』で初放送。過去3作に新規のサイドストーリーを追加したシリーズの総集編にあたり、黒玉軍(声 - [[早川諄]])がビーだま兄弟を幾度と無く襲うようになった経緯にスポットを当てている。黒玉軍らによるピタゴラ装置も登場する。
== 受賞歴 ==
2003年に「第25回 みかたをかえてみる」が第30回[[日本賞]]「子ども番組の部」で最優秀賞(総務大臣賞)を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/jp-prize/more/2003.html|title=2003年 第30回「日本賞」|publisher=NHK|accessdate=2020-11-14}}</ref>。
この「第25回 みかたをかえてみる」は、[[ミュンヘン]]で開催された「[[プリ・ジュネス]]2004」で「6歳までの[[ノンフィクション]]部門」最優秀賞を受賞した<ref name="nhk-awards-2004">{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/awards/award/index.html?y=2004 |title=2004年|work=NHK コンクール受賞番組|publisher=NHK|accessdate=2020-5-29}}</ref><ref name="nhk_040620">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/kokusai/pdf/2004/06/koho040620.pdf|format=pdf|title=ドイツ「プリ・ジュネス2004」NHK「ピタゴラスイッチ」が部門最優秀賞を受賞|publisher=NHK|date=2004-6-20|accessdate=2020-5-30}}</ref>。
2018年には「プリ・ジュネス2018」で「ビーだま・ビーすけの大冒険スペシャル! ~黒玉軍に気をつけろ~」が「6歳までのフィクション部門」最優秀賞を受賞している<ref name="pji2018">{{cite web|url=https://prixjeunesse.de/prix-jeunesse-international-2018/|title=PRIX JEUNESSE INTERNATIONAL 2018|publisher=The PRIX JEUNESSE Foundation|accessdate=2020-5-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/awards/award/program.html?i=20180530_01 |title=プリ・ジュネスで受賞しました。|work=NHK コンクール受賞番組|publisher=NHK|date=2018-5-30|accessdate=2020-5-29}}</ref>。
== スタッフ ==
* 人形操演 - しみずひかる・島村真弓・多田順子・高橋奈巳・高椋士門・沼舘千佳子
* ナレーション - [[徳田章]]
* 音楽 - [[栗原正己]]
* ピタゴラ装置 - 慶応義塾大学 佐藤雅彦研究室→[[ユーフラテス (グループ)|ユーフラテス]]
* 総合指導 - 佐藤雅彦・内野真澄
* 制作 - NHKエデュケーショナル
* 制作・著作 - NHK
== パロディ ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2018年7月}}
* [[おはスタ]]第1部ムッシータウン([[テレビ東京]])内のコーナーで当番組の仕掛けをまねして、朝ごはんを食べたい仕掛けに。開発・出演は、[[くまだまさし]]。
* [[FNS地球特捜隊ダイバスター]] - ゴール地点でパチンコ玉が足の爪に落ちる「イタゴラスイッチ」(玉が当たると痛いので)、ゴール地点で蚊取り線香の灰が足の甲に落ちる「アツゴラスイッチ」(灰が落ちると熱いので)が放送された。
* [[ピラメキーノ]] 大人の喜ばせ方講座(テレビ東京)- ピタゴラ装置は登場しないが、コーナーロゴや音楽、演出などが「ピタゴラスイッチ」と似ている。
* [[べるぜバブ]] - 主人公・男鹿辰巳の必殺技に「お父さんスイッチ」というものがある。本家同様「お父さんスイッチ い」などと叫ぶ。ただし空き箱に文字5つが書かれた箱は登場しない。
* [[はねるのトびら]]([[フジテレビ]])- [[はねるのトびらの企画#塚っちゃんスイッチ|塚っちゃんスイッチ]]
* [[トリビアの泉]](フジテレビ)- 2010年2月27日放送の特番で、司会の[[高橋克実]]がピタゴラ装置のギネス世界記録を持っている事が発表された(但し、高橋は実際はギネス記録に挑戦していたグループの現場にたまたま居合わせただけである)。その際にピタゴラ装置のVTRが流れたが、最後のロゴが『ピタゴラスイッチ』ではなく『トリビア』になっていた。
* [[伊集院光 深夜の馬鹿力]]([[TBSラジオ]])- 不運の連続がまるでピタゴラ装置のような体験を投稿する「イタゴラスイッチ」というコーナーがある。
* [[魔界戦記ディスガイア4]] - 武器形態[[プリニー]]の攻撃の一つにピタゴラ装置をオマージュしたものがある。
* [[世界の果てまでイッテQ!]]([[日本テレビ]])-「ピタデガワスイッチ」と称して、[[出川哲朗]]や[[河北麻友子]]らが人間カラクリ装置に挑戦する内容<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/q/oa/20141026/02.html |title=Q.人間カラクリ装置に挑戦!inアメリカ |work=世界の果てまでイッテQ! |publisher=日本テレビ放送網 |accessdate=2014-12-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://datazoo.jp/tv/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%86Q%EF%BC%81/799256 |title=世界の果てまでイッテQ!|2014/10/26(日)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2014-12-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/q/oa/20150104/03.html |title=Q.ご意見番が挑む男の挑戦!人間カラクリ装置!inアメリカ |work=世界の果てまでイッテQ! |publisher=日本テレビ放送網 |accessdate=2015-01-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://datazoo.jp/tv/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%86Q%EF%BC%81/819072/2 |title=世界の果てまでイッテQ!|2015/01/04(日)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2015-01-08}}</ref>。
* [[オドロキ見たいテレビ びっくりぃむ]]([[テレビ朝日]])- 連動マシンで芸能人を[[ドッキリ]]にかける「ピタゴラどっきり」というコーナーがある。OPは当番組OPのパロディ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tv-asahi.co.jp/odoroki/backnumber/0005/ |title=バックナンバー |work=びっくりぃむ |publisher=テレビ朝日 |accessdate=2014-12-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://datazoo.jp/tv/%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%AD%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%81%84%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93+%E3%81%B3%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%81%83%E3%82%80/811559 |title=オドロキ見たいテレビ びっくりぃむ|2014/12/07(日)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2014-12-08}}</ref>。
* [[タイムボカン24]]([[読売テレビ]]) - 第15話「ピタゴラスは○○の天才だった!」で、ピタゴラスの「真歴史」が「からくり名人」という事になっており、連動マシンを使用したパロディが登場。BGMも当番組OPを流用。
* [[99.9-刑事専門弁護士-]](TBS)- 第6話で片桐仁<ref group="注">前述のとおり、片桐はピタゴラスイッチ内で「10本アニメ」の声や「大人のピタゴラスイッチ」の司会を担当している。</ref>が演じる明石が誤って転倒した際にBGMが流れた。
* [[超かわいい映像連発!どうぶつピース!!]] (テレビ東京)- 過去にアニマルからくり装置という企画があった。第2回までは[[犬]]しか出なかったが第3回では他の動物も登場した。第3回の後、しばらくピタゴラ装置の企画は無かったが、2021年11月18日の放送回で第4回ではピタゴラスイッチのBGMが使われた。
* [[ザ!鉄腕!DASH!!]] (日本テレビ)- 夏にからくり[[流しそうめん]]という企画がある。途中にピタゴラ装置を使っている。
* [[あさチャン!]](TBS)『[[ぐでたま]]さんぽ』- [[山口県]]編で[[元乃隅神社|鳥居に賽銭箱が神社]]を紹介。ぐでたまが転がって最後に鳥居から『ぐでたま』の垂れ幕が出て終了。BGMも本家に似せているものであった。
* [[妖怪ウォッチ♪]]『ヨウカイスイッチ』- ウィスパー(CV:[[関智一]])が起こした何らかの行動がトリガーとなり、ジバニャン(CV:[[小桜エツコ]])の声で「ヨウカイスイッチ」のコールがかかり、妖怪たちによるトラブルの連鎖がスタートする。ウィスパーがオチを担当する場合と、最後まで気づかずにコーナーが終了する場合がある。
*[[翔んで埼玉]]([[東映]]) - 2019年公開の映画。鶏が卵([[無精卵]])を産み、最終的に割れて目玉焼きになるシーンでピタゴラ装置を使用。
*[[有吉の壁]] - テレビ70年でNHKとコラボした際に[[チョコレートプラネット]]が『グダグダスイッチ』、[[トム・ブラウン (お笑いコンビ)|トム・ブラウン]]が[[NHK放送センター]]の喫茶室で『ピタ![[タコライス]]位置』として当番組をベースにしたネタが披露された。<ref group="注">しかしNHKがTwitterで『NHKの喫茶室にタコライスは販売していない』と訂正した。</ref><ref>https://twitter.com/nhk_pr/status/1635952574577688577?s=46 @NHK_PRさんからのツイート</ref>
*[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!]]([[日本テレビ]]) -『ピタゴラ ヒトッシ』7年ぶりの対決&罰ゲーム「チョロQアンルーレット」で[[松本人志]]が敗北し、21年ぶりに早朝罰ゲームが執行されることになり、視聴者に罰ゲームの募集をしたところ、多数の応募により、この番組をベースに罰ゲームが執行された。各所には「金タライ」「[[竹刀|スネ竹刀]]」「裸[[パイ]][[バズーカ]]」といった順に2023年8月9日(関東ローカル)に執行されたが、放送時間内に収まらなかった<ref group="注">21年前の罰ゲーム執行の際に、この時は[[アナログ放送]]でもあった為、新聞の番組表には「松本人志罰ゲーム」と記載されていたが、[[地上波デジタル放送]]にはEPG番組表があり、デジタル放送完全移行後の12年後に罰ゲームが21年ぶりに執行される際、「松本人志罰ゲーム」という記載がなかった</ref><ref> https://www.ntv.co.jp/gaki/articles/33029ie3l32q8nha4saa.html 3月12日の放送は「チョロQアンルーレット!」</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2023/09/04/0016774320.shtml|title=「ガキ使」還暦・松本に地獄罰ゲーム刑 生TV後もブリーフ1枚で刑執行されてた「ぶわああ!」 スネ竹刀は腫れが巨峰|publisher=デイリースポーツ|date=2023-9-4|accessdate=2023-12-23}}</ref>。
== 関連映像作品・書籍 ==
=== 書籍 ===
* NHKピタゴラスイッチアルゴリズムたいそう―おまけおとうさんスイッチ(2003年2月 [[日本放送出版協会]] ISBN 9784144071263)
*: おどりかた図解(モデルはいつもここから)。イラストでおとうさんスイッチの紹介も。
* ピタゴラブック(1)ぴったりはまるの本(2006年10月 [[ポプラ社]] ISBN 9784591094709)
*: 身近なもののシルエットとひとことヒント。そこから元の物体が何かを想像する。しっかりした厚手の紙の本なので、持ち歩いて実際に「はめて」みよう。
* ピタゴラブック(2)フレーミーとそうじき(2006年11月 [[ポプラ社]] ISBN 9784591094945)
*: フレーミーがそうじきを嫌いな理由。なるほど。
* ピタゴラブック(3)フレーミーともぐら(2007年4月 [[ポプラ社]] ISBN 9784591097663)
*:ほうこうおんちのもぐら親子のおはなし。
* ピタゴラブック(4)フレーミーとのみのノミー(2007年12月 [[ポプラ社]] ISBN 9784591100325)
*:本放送のノミー登場分とほぼ同内容。世界一小さい(?)「のみBOOK」つき。
* ピタゴラブック(5)フレーミーのあかいえさいれ(2010年4月 [[ポプラ社]] ISBN 9784591117873)
*:フレーミーのお気に入りの赤いえさ入れがある日…。フレーミーのオリジナル絵本。
=== CD, DVD ===
いずれもDVDの発売元は[[小学館]]、販売元は[[ポニーキャニオン]]。CDの発売・販売元は[[ワーナーミュージック・ジャパン]]。
* [[NHKピタゴラスイッチ アルゴリズムたいそう&こうしん]](2003年6月 [[ワーナーミュージック・ジャパン]]、ASIN: B000095YLG)
*: たいそう、こうしん共に練習バージョン(どちらかのカラオケ)やカラオケも含め全9曲収録。
* ピタゴラ装置[[DVD]]ブック1(2006年12月 ISBN 978-4-09-480311-2、[[小学館]]/[[ポニーキャニオン]]、DVD[[規格品番]]:PCBE-52408)
*: 33点のピタゴラ装置の映像とその解説本。書店・DVDショップの双方で取り扱う。
* ピタゴラ装置DVDブック2(2007年4月 ISBN 978-4-09-480312-9、小学館/ポニーキャニオン、DVD規格品番:PCBE-52422)
*: 「ピタゴラ装置史上最長(販売元Webサイトより)」として知られる「ピタゴラ装置41番のうた」ほか、全32作品+試作風景を所収。
* ピタゴラ装置DVDブック3(2011年11月 ISBN 978-4-09-480314-3、小学館/ポニーキャニオン、DVD規格品番:PCBE-53758)
*: 「どうぶつ装置」ほか、全42作品+試作風景を所収。
* ピタゴラスイッチ こたつたこDVDブック(2010年4月 ISBN 978-4-09-726414-9、小学館)
* ピタゴラスイッチ うたのCD (2010年8月 ワーナーミュージック・ジャパン、ASIN: B003O6KBZ6)
*: 「ピタゴラスイッチ オープニングテーマ」ほか、全22作品
* ピタゴラ装置はこうして生まれる DVDブック・Blu-rayブック (2016年12月 ISBN 978-4-09-480357-0、小学館)
*: 2015年夏に放送された「ピタゴラ装置 大解説スペシャル! 前半戦・後半戦」と、ピタゴラ装置全36作品+特典映像を所収。
* ピタゴラじゃんけん装置 QRブック ピタの巻(2022年10月 ISBN 978-4-09-725189-7、小学館)
* ピタゴラじゃんけん装置 QRブック ゴラの巻(2022年10月 ISBN 978-4-09-725190-3、小学館)
*: ピタゴラじゃんけん装置の映像を各17作品ずつ所収。[[QRコード]]を読み取り、[[合言葉]]を入力することで映像を見られる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[佐藤雅彦 (メディアクリエーター)]]
* [[ユーフラテス (グループ)]]
* [[ピタゴラ装置]] - [[ルーブ・ゴールドバーグ・マシン]]の愛称。
* [[Eテレ0655&2355]] - 佐藤雅彦・ユーフラテスが制作するNHK教育テレビの別番組。「ピタゴラスイッチ」の要素を含むコーナーがある。
* [[考えるカラス〜科学の考え方〜]] 佐藤が監修・ユーフラテスが制作に関与しているNHK教育テレビの理科・科学番組で、番組内に出てくるカラスが当番組にも登場している。
== 外部リンク ==
* [https://www.nhk.jp/p/pitagora/ts/WLQ76PGNW2/ ピタゴラスイッチ - NHK]
* [https://www.nhk.or.jp/school/youho/pitagora/ ピタゴラスイッチ | NHK for School]
* {{NHK放送史|D0009020048_00000|ピタゴラスイッチ}}
* [http://pita-gora.com/ ピタゴラスイッチ ケータイサイト]
*: ピタゴラスイッチのスタッフによる携帯サイト(有料)。ピタゴラスイッチの待ち受けやデコメール、着メロなどがある。[[NTTドコモ]] [[iモード]] とスマートフォン、 [[Au (携帯電話)|au]] [[EZweb]] 、[[ソフトバンクモバイル|ソフトバンク]] [[Yahoo!ケータイ]] に対応(2016年11月2日現在)。
*出典<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A200204101030001300200|title=ピタゴラスイッチ|date=2002-04-10|accessdate=2023-08-19|website=NHKクロニクル}}</ref>
{{前後番組
|放送局=[[NHK教育]]
|放送枠=水曜日 10:30 - 10:45
|番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2002年4月10日 - 2011年3月9日)
|前番組=[[ぼうけん!メカラッパ号]]<br />(2000年4月12日 - 2002年4月3日)
|次番組=[[あなたもアーティスト]](再放送)<br />(2011年3月30日 - 2012年3月28日)<br />※10:30 - 10:54<br />【2時間35分繰り上げ】
|2放送局=NHK Eテレ
|2放送枠=[[Eテレキッズ]] 土曜日 17:35 - 17:50
|2番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2011年4月2日 - 9月24日)
|2前番組=ピタゴラスイッチ(アンコール放送)<br />(2008年4月5日 - 2011年3月26日)
|2次番組=[[バクマン。 (アニメ)|バクマン。]](第2シリーズ)<br />(2011年10月1日 - 2012年3月24日)<br />※17:30 - 17:54
|3放送局=NHK Eテレ
|3放送枠=Eテレキッズ 金曜日 17:25 - 17:40
|3番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2011年10月7日 - 2012年3月30日)
|3前番組=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2007年4月6日 - 2011年9月30日)<br />※17:25 - 17:30<hr />[[はなかっぱ]](再放送)<br />(2010年4月2日 - 2011年9月30日)<br />※17:30 - 17:40
|3次番組=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2012年4月6日 - 2014年3月28日)<br />※17:25 - 17:30<hr />はなかっぱ(再放送)<br />(2012年4月6日 - 2015年3月27日)<br />※17:30 - 17:40
|4放送局=NHK Eテレ
|4放送枠=Eテレキッズ 土曜日 7:45 - 8:00
|4番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2012年4月7日 - 2021年3月27日)
|4前番組=[[しぜんとあそぼ]]<br />(2011年4月2日 - 2012年3月31日)<br />【火曜日 10:00 - 10:15に移動】
|4次番組=[[おかあさんといっしょ]]<br />(2021年4月3日 - )<br />※7:45 - 8:09<br />【15分繰り上げて継続】
}}
{{前後番組
|放送局=NHK教育
|放送枠=火曜日 9:15 - 9:30(再放送)
|番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2002年4月9日 - 2009年3月24日)
|前番組=ぼうけん!メカラッパ号(再放送)<br />(2000年4月11日 - 2002年4月2日)
|次番組=[[みいつけた!]]<br />(2009年3月31日 - 2010年3月23日)
|2番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2010年4月6日 - 2011年3月22日)
|2前番組=みいつけた!<br />(2009年3月31日 - 2010年3月23日)<br />【1時間35分繰り上げ】
|2次番組=[[ふしぎがいっぱい]](3年)<br />(2011年4月5日 - 2012年3月13日)<br />※9:15 - 9:25<hr />ふしぎがいっぱい(4年)<br />(2011年4月5日 - 2012年3月13日)<br />※9:25 - 9:35
|3放送局=NHK Eテレ
|3放送枠=Eテレキッズ 月曜日 15:45 - 16:00(再放送)
|3番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2011年4月4日 - 2015年3月30日)
|3前番組=[[NHK高校講座]](世界史)<br />(2004年4月5日 - 2011年2月28日)<br />※15:30 - 16:00<br />【木曜日 15:00 - 15:30に移動】
|3次番組=[[リトル・チャロ]](再放送)<br />(2015年4月13日 - 2017年3月27日)<br />※15:45 - 15:55<br />【6:15 - 6:25から移動】<hr />[[フックブックロー]]ミニ(再放送)<br />(2015年4月6日 - 2016年3月21日)<br />※15:55 - 16:00
|4番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2017年4月3日 - 2021年3月22日)
|4前番組=リトル・チャロ(再放送)<br />(2015年4月13日 - 2017年3月27日)<br />※15:45 - 15:55<br />【土曜日 11:20 - 11:30に移動】<hr />[[デザインあ]]5分版(アンコール放送)<br />(2016年4月4日 - 2017年3月27日)<br />※15:55 - 16:00
|4次番組=ピタゴラスイッチ(再放送)<br />(2021年4月5日 - 2022年3月21日)<br />※15:45 - 15:55【5分縮小】<hr />ブレイクッ!(再放送)<br />(2021年3月29日 - 2022年3月21日)<br />※15:55 - 16:00
}}
{{前後番組
|放送局=NHK Eテレ
|放送枠=Eテレキッズ 月曜日 8:35 - 8:45
|番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年7月26日 - 2022年3月14日)
|前番組=[[デザインあ]]<br />(2021年3月29日 - 7月19日)
|次番組=[[あおきいろ]]<br />(2022年4月4日 - 2023年3月27日)
|2放送局=NHK Eテレ
|2放送枠=Eテレキッズ 火曜日 8:35 - 8:45
|2番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年7月20日 - 2022年3月15日)
|2前番組=デザインあ<br />(2021年3月30日 - 7月13日)
|2次番組=【第1・2・5週】[[でこぼこポン!]]<br />(2022年4月5日 - 2023年3月14日)<hr />【第3・4週】[[えるえる]]<br />(2022年4月19日 - 8月23日)
|3放送局=NHK Eテレ
|3放送枠=Eテレキッズ 水曜日 8:35 - 8:45
|3番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年7月21日 - 2023年3月29日)
|3前番組=デザインあ<br />(2021年3月31日 - 7月14日)
|3次番組=[[MIXびじゅチューン!]]<br />(2023年4月5日 - )
|4放送局=NHK Eテレ
|4放送枠=Eテレキッズ 木曜日 8:35 - 8:45
|4番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年4月1日 - )
|4前番組=[[いないいないばあっ!]]<br />(2010年4月1日 - 2021年3月25日)<br />※8:25 - 8:40<br />【15分繰り上げて継続】<hr />[[オトッペ]]<br />(2017年4月6日 - 2021年3月25日)<br />※8:40 - 8:45<br />【2時間5分繰り上げて継続】
|5放送局=NHK Eテレ
|5放送枠=Eテレキッズ 金曜日 8:35 - 8:45
|5番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年4月2日 - )
|5前番組=いないいないばあっ!<br />(2010年4月2日 - 2021年3月26日)<br />※8:25 - 8:40<br />【15分繰り上げて継続】<hr />オトッペ<br />(2017年4月7日 - 2021年3月26日)<br />※8:40 - 8:45<br />【2時間5分繰り上げて継続】
|6放送局=NHK Eテレ
|6放送枠=Eテレキッズ 土曜日 7:35 - 7:45
|6番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年4月3日 - 2023年4月1日)
|6前番組=[[ノージーのひらめき工房]]<br />(2013年4月6日 - 2021年3月27日)<br />※7:30 - 7:45<br />【40分繰り下げ】
|6次番組=ノージーのひらめき工房<br />(2023年4月8日 - )<br />※7:30 - 7:45<br />【再び40分繰り上げて継続】
|7放送局=NHK Eテレ
|7放送枠=Eテレキッズ 土曜日 7:10 - 7:20
|7番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2023年4月8日 - )
|7前番組=[[スクる!]]<br />(2022年4月9日 - 2023年4月1日)<br />※7:10 - 7:15<hr />[[ギョふんでサカナ★スター]]<br />(2022年4月9日 - 2023年4月1日)<br />※7:15 - 7:20<br />【火曜日 6:20 - 6:25に移動して継続】
}}
{{前後番組
|放送局=NHK Eテレ
|放送枠=Eテレキッズ 月曜日 15:45 - 15:55(再放送)
|番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年4月5日 - 2022年3月21日)
|前番組=ピタゴラスイッチ(再放送)<br />(2017年4月3日 - 2021年3月22日)<br />※15:45 - 16:00
|次番組=[[NHKみんなの手話]]<br />(2022年4月4日 - 2023年3月20日)<br />※15:30 - 15:55<br />【日曜日 19:30 - 19:55から移動】
|2放送局=NHK Eテレ
|2放送枠=金曜日 13:50 - 14:00
|2番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年4月2日 - 2022年4月1日)
|2前番組=[[NHK映像ファイル あの人に会いたい]]<br />(2018年4月6日 - 2021年3月26日)
|2次番組=[[中国語!ナビ]](再放送)<br />(2022年4月8日 - )<br />※13:50 - 14:10
|3放送局=NHK Eテレ
|3放送枠=金曜日 23:45 - 23:55
|3番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2021年7月23日 - 2022年3月4日)
|3前番組=デザインあ<br />(2021年4月9日 - 7月16日)
|3次番組=[[no art, no life]]<br />(2022年4月15日 - 9月30日)<br />※23:45 - 23:50<br />【木曜日 5:55 - 6:00から移動】<hr />[[びじゅチューン!]](再放送)<br />(2022年4月8日 - )<br />※23:50 - 23:55<br />【15:55 - 16:00から移動して継続】
|4放送局=NHK Eテレ
|4放送枠=Eテレキッズ 月曜日 18:40 - 18:50
|4番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2022年4月4日 - )
|4前番組=[[天才てれびくん]]<br />(2014年4月7日 - 2022年3月21日)<br />※18:20 - 18:45<br />【45分繰り上げて継続】<hr />[[わらたまドッカ〜ン]]<br />(2017年4月3日 - 2022年3月28日)<br />※18:45 - 18:55<br />【木曜日 19:45 - 19:55に移動】
|5放送局=NHK Eテレ
|5放送枠=Eテレキッズ 火曜日 18:40 - 18:50
|5番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2022年4月5日 - )
|5前番組=天才てれびくん<br />(2014年4月1日 - 2022年3月29日)<br />※18:20 - 18:45<br />【45分繰り上げて継続】<hr />[[ふしぎ駄菓子屋 銭天堂]]<br />(2020年9月8日 - 2022年3月29日)<br />※18:45 - 18:55<br />【金曜日 18:40 - 18:50に移動して継続】
|6放送局=NHK Eテレ
|6放送枠=Eテレキッズ 水曜日 18:40 - 18:50
|6番組名=ピタゴラスイッチ<br />(2022年4月6日 - )
|6前番組=天才てれびくん<br />(2014年4月2日 - 2022年3月30日)<br />※18:20 - 18:45<br />【45分繰り上げて継続】<hr />[[宇宙なんちゃら こてつくん]]<br />(2021年4月7日 - 2022年3月30日)<br />※18:45 - 18:55<br />【木曜日 18:40 - 18:50に移動して継続】
}}
{{前後番組
|放送局=NHK教育
|放送枠=平日 8:10 - 8:15
|番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2005年4月4日 - 2010年3月26日)
|前番組=いないいないばあっ!<br />(2003年4月7日 - 2005年4月1日)<br />※8:10 - 8:25【5分繰り下げ】
|次番組=おかあさんといっしょ<br />(2010年3月29日 - 2021年3月26日)<br />※8:00 - 8:25【35分繰り上げ】
|2放送局=NHK教育
|2放送枠=平日 8:40 - 8:45
|2番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2010年3月29日 - 2011年3月25日)
|2前番組=おかあさんといっしょ<br />(2005年4月4日 - 2010年3月26日)<br />※8:35 - 9:00【35分繰り上げ】
|2次番組=[[プチプチ・アニメ]]<br />(2011年3月28日 - 2013年3月29日)<br />【45分繰り下げ】
|3放送局=NHK Eテレ
|3放送枠=平日 7:25 - 7:30
|3番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2011年3月28日 - 2013年3月29日)
|3前番組=[[にほんごであそぼ]]<br />(2010年3月29日 - 2011年3月25日)<br />※7:25 - 7:35【5分繰り下げ】
|3次番組=[[フックブックロー]]<br />(2013年4月1日 - 2014年3月28日)<br />※7:25 - 7:35【50分繰り下げ】
|4放送局=NHK Eテレ
|4放送枠=平日 6:35 - 6:40
|4番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2013年4月1日 - 2014年3月28日)
|4前番組=フックブックロー<br />(2011年3月28日 - 2013年3月29日)<br />※6:35 - 6:45【50分繰り下げ】
|4次番組=にほんごであそぼ<br />(2014年3月31日 - 2015年3月27日)<br />※6:35 - 6:45【2時間5分繰り上げ】
|5放送局=NHK Eテレ
|5放送枠=平日 7:30 - 7:35
|5番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2014年3月31日 - 2021年3月26日)
|5前番組=フックブックロー<br />(2013年4月1日 - 2014年3月28日)<br />※7:25 - 7:35<br />【10分繰り下げ】
|5次番組=みいつけた!<br />(2021年3月29日 - )<br />※7:30 - 7:45<br />【15分繰り上げて継続】
}}
{{前後番組
|放送局=NHK教育
|放送枠=平日 17:35 - 17:40
|番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2004年4月5日 - 2005年4月1日)
|前番組=にほんごであそぼ<br />(2003年4月7日 - 2004年4月2日)<br />※17:35 - 17:45【5分繰り下げ】
|次番組=ピタゴラスイッチ ミニ(再放送)<br />(2005年4月4日 - 2006年3月31日)
|2放送局=NHK教育
|2放送枠=平日 17:45 - 17:50
|2番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2006年4月3日 - 2007年3月30日)
|2前番組=にほんごであそぼ<br />(2004年4月5日 - 2006年3月31日)<br />※17:40 - 17:50【50分繰り上げ】
|2次番組=[[味楽る!ミミカ]]<br />(2007年4月2日 - 2009年3月27日)<br />※17:40 - 17:50【20分繰り上げ】
|3放送局=NHK教育→NHK Eテレ
|3放送枠=平日 17:25 - 17:30
|3番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2007年4月2日 - 2011年9月30日)
|3前番組=[[からだであそぼ]](再放送)<br />(2006年4月3日 - 2007年3月30日)<br />※17:15 - 17:30<br />【15分繰り上げ】
|3次番組=【月 - 木】ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2011年10月3日 - 2012年3月29日)<hr />【金】ピタゴラスイッチ<br />(2011年10月7日 - 2012年3月30日)<br />※17:25 - 17:40<br />【土曜日 17:35 - 17:50から移動】
|4番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2012年4月2日 - 2014年3月28日)
|4前番組=【月 - 木】ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2011年10月3日 - 2012年3月29日)<hr />【金】ピタゴラスイッチ<br />(2011年10月7日 - 2012年3月30日)<br />※17:25 - 17:40<br />【土曜日 7:45 - 8:00に移動】
|4次番組=[[ミニアニメ]]<br />(2014年3月31日 - 2015年3月27日)<br />【8:55 - 9:00から移動】
|5放送局=NHK Eテレ
|5放送枠=火曜日・木曜日 16:15 - 16:20
|5番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2014年4月1日 - 2015年3月26日)
|5前番組=デザインあ 5分版<br />(2013年4月2日 - 2014年3月27日)<br />【7:25 - 7:30に移動】
|5次番組=いないいないばあっ!(再放送)<br />(2015年3月31日 - 2017年3月30日)<br />※16:15 - 16:30【5分繰り上げ】
|6放送局=NHK Eテレ
|6放送枠=水曜日 17:40 - 17:45
|6番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2015年4月1日 - 2017年3月29日)
|6前番組=[[すすめ!キッチン戦隊クックルン]](再放送)<br />(2013年4月3日 - 2015年3月25日)<br />※17:40 - 17:50【5分繰り下げ】<br />『ゴー!ゴー!キッチン戦隊クックルン』に改題
|6次番組=[[ノージーのひらめき工房]]ミニ<br />(2017年4月5日 - 2021年3月17日)
|7放送局=NHK Eテレ
|7放送枠=水曜日 17:35 - 17:40
|7番組名=ピタゴラスイッチ ミニ<br />(2017年4月5日 - 2021年3月17日)
|7前番組=[[マリー&ガリー]]<br />(2015年4月1日 - 2017年3月29日)
|7次番組=[[ふしぎエンドレス]](再放送)<br />(2021年3月31日 - 2022年3月30日)<br />※17:35 - 17:45
}}
{{Eテレキッズ|幼保}}
{{NHK高校講座}}
{{関根勤}}
{{フットボールアワー}}
{{デフォルトソート:ひたこらすいつち}}
[[Category:NHK教育テレビジョンの科学教育番組]]
[[Category:NHK教育テレビジョンの人形劇]]
[[Category:NHK教育テレビジョンのミニ番組]]
[[Category:NHK教育テレビジョンの帯番組]]
[[Category:2002年のテレビ番組 (日本)]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%81 |
1,843 | 9月23日 | 9月23日(くがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から266日目(閏年では267日目)にあたり、年末まであと99日ある。 | [
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'''9月23日'''(くがつにじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から266日目([[閏年]]では267日目)にあたり、年末まであと99日ある。
== できごと ==
[[File:Capture of John andre.jpg|thumb|180x180px|[[1780年]]、[[ジョン・アンドレ]]逮捕]]
{{multiple image
| footer = [[1846年]]、[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ|ガレ]]による[[海王星]]発見
| image1 = JohannGalle.jpg
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| alt1 = ヨハン・ゴットフリート・ガレ
| image2 = Neptune - Voyager 2 (29347980845) flatten crop.jpg
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| alt2 = 海王星
}}
* [[1122年]] - [[叙任権闘争]]: [[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]と[[ローマ教皇]][[カリストゥス2世 (ローマ教皇)|カリストゥス2世]]が[[ヴォルムス協約]]を締結。
* [[1338年]] - [[アルネマイデンの戦い]]: 英国と仏蘭西で始まった[[百年戦争]]最初の海戦。英国船クリストファーが3門の大砲と1門の手銃を備えており、ヨーロッパにおける海戦で史上初めて大砲が使われた。
* [[1409年]] - {{仮リンク|ヘルレン(臚朐河)の戦い|en|Battle of Kherlen}}、[[明]]軍が[[モンゴル帝国|モンゴル]]軍に勝利。
* [[1459年]] - [[薔薇戦争]]: [[ブロア・ヒースの戦い]]が起こる。
* [[1543年]]([[天文 (元号)|天文]]12年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]) - [[種子島]]西村前之浜に[[ポルトガル人]]を乗せた船が漂着([[鉄砲伝来]])。
* [[1561年]] - [[スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が[[フロリダ]]での植民地化を停止するよう命ずる{{仮リンク|セドゥラ|en|Cédula de identidad}}を発布。
* [[1568年]] - {{仮リンク|サン・フアン・デ・ウルアの戦い|en|Battle of San Juan de Ulúa (1568)}}が起こる。英西間の貿易紛争。
* [[1597年]]([[慶長]]2年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]:[[南原城の戦い]]が始まる。
* [[1641年]] - 10万[[ポンド (通貨)|ポンド]]以上の金(今日では10億ポンド以上の価値がある)の宝物を運ぶ[[イギリス]]商船''{{仮リンク|マーチャント・ロイヤル|en|Merchant Royal}}が''[[ランズエンド岬]]沖の海で沈没する。
* [[1779年]] - [[アメリカ独立戦争]]: {{仮リンク|フランボルーヘッドの戦い|en|Battle of Flamborough Head}}。
* [[1780年]] - [[アメリカ独立戦争]]: イギリス人将校[[ジョン・アンドレ]]をスパイ容疑で逮捕。
* [[1803年]] - [[第二次マラーター戦争]]: [[アッサイェの戦い]]。
* [[1806年]] - [[ルイス・クラーク探検隊]]が[[北アメリカ大陸]]探検の後、出発地の[[セントルイス]]に帰還。
* [[1809年]] -英国のフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが金属製の軸内にインクを貯蔵できる筆記具を考案し特許を取得。[[万年筆]]の起源とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/279225 |title=きょうは何の日 9月23日 万年筆の日 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=[[東京新聞]] |date=23 Sep 2023}}</ref>。
* [[1821年]] - [[ギリシャ独立戦争]]: {{仮リンク|トリポリ包囲戦|en|Siege of Tripolitsa}}がギリシャの勝利に終わる。
* [[1846年]] - [[ベルリン天文台]]の[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ|J・ガレ]]が天文学者[[ユルバン・ルヴェリエ|U・ルベリエ]]の計算に基づき、[[海王星]]を発見<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei-science.com/page/magazine/0503/neptune.html |title=盗まれた名声 海王星発見秘話 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=日経サイエンス}}</ref>。
* [[1862年]] - [[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が[[プロイセン王国|プロイセン]]首相に就任。
* [[1868年]] - [[プエルト・リコ]]で[[スペイン]]の支配に対する{{仮リンク|ラレスの反乱|en|Grito de Lares}}が始まる。
* [[1871年]]([[明治]]4年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - 明治政府が[[散髪脱刀令]]を布告。
* [[1876年]] - [[サッポロビール]]の発祥の地である開拓使麦酒醸造所(現在の[[サッポロファクトリー]]となり)が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://sapporofactory.jp/beer_museum/ |title=03. 札幌産ビール発祥の地 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=サッポロ不動産開発株式会社 |work=開拓使麦酒醸造所ものがたり}}</ref>。
* [[1884年]] - [[加波山事件]]が発生。
* [[1884年]] - {{仮リンク|ヴィルへネス岬|en|Cape Virgenes}}にて座標した[[蒸気船]]アークティク(Arctique)により[[砂金]]が発見され、{{仮リンク|ティエラ・デル・フエゴのゴールドラッシュ|en|Tierra del Fuego gold rush}}が始まる。
* [[1889年]] - [[山内房治郎]]により[[京都府]][[京都市]][[下京区]]で[[花札]]製造・販売会社として[[任天堂]](当時の任天堂骨牌、または山内房治郎商店)が創業される。
* [[1895年]] - [[リモージュ]]でフランス最初の労働団体である[[フランス労働総同盟]]結成。
* [[1899年]] - [[米比戦争]]: {{仮リンク|オロンガポの戦い|en|Battle of Olongapo}}。
* [[1905年]] - [[ノルウェー]]と[[スウェーデン]]が{{仮リンク|カールスタード条約|en|Dissolution of the union between Norway and Sweden}}に調印し両国の連合が解散される。
* [[1908年]] - [[横浜線]]が開業。
* [[1909年]] - [[ガストン・ルルー]]の小説『[[オペラ座の怪人]]』が刊行。
* [[1911年]] - {{仮リンク|アール・オヴィントン|en|Earle Ovington}}によるアメリカ初の航空郵便配達が[[アメリカ合衆国郵政省|アメリカ郵政省]]の許可のもと行われる。
* [[1913年]] - [[ローラン・ギャロス]]が[[地中海]]横断飛行を達成。
* [[1920年]] - [[アレクサンドル・ミルラン]]が[[フランス第三共和政]]第12代[[フランスの大統領|大統領]]に就任。
* [[1926年]] - [[山陽本線特急列車脱線事故]]。[[山陽本線]][[安芸中野駅]] - [[海田市駅]]間で[[東京駅|東京]]発[[下関駅|下関]]行きの下り[[特別急行列車|特急]]列車が脱線転覆、34人が死亡。
* [[1932年]] - ヒジャーズ・ネジド王国とハッサ、カティフ、ナジュドが統一して[[サウジアラビア|サウジアラビア王国]]が成立。
* [[1936年]] - [[上海日本人水兵狙撃事件]]が発生。
* [[1938年]] - [[ミュンヘン会談#ズデーテン危機|ズデーテン危機]]: [[チェコスロヴァキア]]が[[動員]]令を発令。
* [[1939年]] - [[日中戦争]]:大本営が[[支那派遣軍]]総司令部を設置。
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]:日本軍が[[ヴィシー政権]]との協定に基づき北部[[フランス領インドシナ|仏印]]に[[仏印進駐|進駐]]。
* 1940年 - [[ダカール沖海戦]]:[[イギリス軍]]が[[フランス領西アフリカ]]に侵攻するがフランス軍に撃退される。
* [[1941年]] - [[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ]]でガス室実験が初めて行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4359 |title=ユダヤ人はなぜ、ナチス・ドイツの標的にされたのか |access-date=17 Oct 2023 |publisher=[[PHP研究所]] |website=WEB歴史街道 |date=16 Jun 2022}}</ref>。
* [[1943年]] - 北イタリアのナチス占領地に、[[ベニート・ムッソリーニ]]による[[イタリア社会共和国]](サロ共和国)が建国。
* [[1948年]] - [[帝国銀行]]から[[第一銀行]]が分離。
* [[1950年]] - [[松竹]]より映画『[[長崎の鐘]]』公開。
* 1950年 - 浅間山が大爆発。登山中の高校生1人が噴石により死亡。降灰は東京にも見られた<ref>「浅間山、作暁大爆発 死傷3名 茨城、埼玉まで降灰」『朝日新聞』昭和25年9月24日3面</ref>。
* 1950年 - [[朝鮮戦争]]: [[282高地の戦い]]。
* [[1952年]] - [[リチャード・ニクソン]]副大統領候補が「[[リチャード・ニクソン#「チェッカーズ・スピーチ」|チェッカーズ・スピーチ]]」を行い、政治資金の私的流用疑惑を否定。
* [[1957年]] - [[ダイエー]]第1号店が[[大阪市]]の[[千林駅]]前に開店<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/5288821.html |title=<あのころ>「ダイエー」1号店 主婦の店、大阪にオープン |access-date=26 Mar 2023 |publisher=Press Net Japan Co.,Ltd. |website=47NEWS |date=23 Sep 2020}}</ref>。
* [[1960年]] - [[永仁の壺事件]]:陶芸家・[[加藤唐九郎]]が[[重要文化財]]の「永仁銘瓶子」は自分が作ったものであると公表。
* [[1962年]] - [[リンカーン・センター]]が開館。
* [[1964年]] - [[王貞治]]が年間55[[本塁打]]の日本新記録(当時)を樹立。
* [[1972年]] - [[長野県]]で[[川中島バス#戸隠事故|戸隠高原バス事故]]が発生<ref>「連休行楽 真逆さま」『朝日新聞』昭和47年(1972年)9月24日朝刊、13版、23面</ref>。15人が死亡、67人が負傷。
* 1972年 - [[エクスプローラー計画]]の一環でIMP-Iが打ち上げられる。
* [[1973年]] - [[アルゼンチンの大統領|アルゼンチン大統領]]選挙で[[ファン・ペロン]]が18年ぶりに再選。
* [[1981年]] - [[新日本プロレス]]のリング上で[[ラッシャー木村]]が[[アントニオ猪木]]に「こんばんは」と挨拶して失笑を買った「こんばんは事件」が起きた。
* [[1983年]] - この年の[[9月19日]]に独立した[[セントクリストファー・ネイビス]]が[[国際連合|国連]]に加盟。
* 1983年 - [[ガルフエア771便爆破事件]]が発生。
* [[1984年]] - [[蔵前国技館]]がこの日の秋場所千秋楽をもって閉館<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/daily?d=0923 |title=蔵前国技館が閉館 |access-date=26 Mar 2023 |publisher=[[時事通信社]] |website=JIJI.COM}}</ref>。
* 1984年 - [[フランス]]ではじめて『Journées Du Patrimoine(文化遺産の日)』が実施される。この年以降、毎年9月の第3週の週末に、文化遺産の修復や保護に関わる人々の仕事をより多くの人に知ってもらうことを目的に、1万件を超える行政施設や教会が公開されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/seisaku/08/wg/bunkazai_02/pdf/shiryo_5_3.pdf |title=文化財の公開・活用について |access-date=26 Mar 2023 |publisher=[[文化庁]] |format=[[PDF]] |page=3}}</ref>。
* [[1986年]] - [[ジム・デシェイズ]]がこの日の[[ロサンゼルス・ドジャース]]戦では初回から8者連続三振を奪い[[メジャーリーグベースボール|MLB]]記録を樹立。
* [[1987年]] - [[沖縄県]]などで、日本では29年ぶり、[[1987年9月23日の日食|20世紀最後の金環日食]]が観測。
* [[1997年]] - 日米政府が「新たな日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)に合意。
* [[1999年]] - アメリカの[[火星探査機]]「[[マーズ・クライメイト・オービター]]」との通信が途絶。
* [[2000年]] - [[ブレット・J・グラドマン]]や[[ジョン・J・カヴェラーズ]]らの研究チームにより土星の第21衛星[[タルボス (衛星)|タルボス]]、第22衛星[[イジラク (衛星)|イジラク]]、第23衛星[[スットゥングル (衛星)|スットゥングル]]、第25衛星[[ムンディルファリ (衛星)|ムンディルファリ]]、第27衛星[[スカジ (衛星)|スカジ]]、第28衛星[[エリアポ (衛星)|エリアポ]]、第29衛星[[シャルナク (衛星)|シャルナク]]、第30衛星[[スリュムル (衛星)|スリュムル]]が発見される。
* [[2002年]] - [[Mozilla Firefox]]の初版が公開。
* [[2004年]] - [[ハリケーン・ジーン]]が発生。特に[[ハイチ]]には死者2826人、被災者約30万人以上の甚大な被害をもたらした<ref>{{Cite web|和書|url=https://amda.or.jp/old/journal/emergency/0411-16.html |title=ハイチ洪水緊急支援活動 |access-date=26 Mar 2023 |publisher=AMDA |work=AMDA Journal 2004年 11月号}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=2-2-2 2004年、世界の洪水被害 |url=https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/bousai/saigai/kiroku/suigai/suigai_2-2-2.html |accessdate=26 Mar 2023 |publisher=[[国土交通省]]}}</ref>。
* 2004年 - [[大牟田4人殺害事件]]: [[福岡県]][[大牟田市]]を流れる[[諏訪川 (九州)|諏訪川]]の川底に沈んでいた車から男女3人(58歳女性とその長男、長男の友人である少年)の他殺体が発見され<ref>『[[西日本新聞]]』2004年9月24日朝刊一面1頁「大牟田・死体遺棄 川底の車から3遺体 不明の母親らか 4人連続殺害の疑い」([[西日本新聞社]])</ref><ref>『[[有明新報]]』平成16年(2004年)9月25日付9頁「諏訪川の死体遺棄事件 川底の車から遺体発見 行方不明の母らと判明」(有明新報社)</ref>、[[9月21日|21日]]に他殺体で発見された次男と併せて4人が殺害されていたことが判明<ref>{{Cite news|和書 |title=ワードBOX > 大牟田4人殺害事件 |newspaper=西日本新聞 |date=2007-12-25 |url=http://nishinippon.co.jp/wordbox/word/3737 |publisher=西日本新聞社 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20121103145157/http://nishinippon.co.jp/wordbox/word/3737 |archive-date=2012年11月10日}}</ref>。[[2011年]]、犯人である[[暴力団]]組長一家4人の[[日本における死刑|死刑]]が[[確定判決|確定]]<ref>『西日本新聞』2011年10月18日朝刊第19版第一社会面(事件・人・話題)31頁「大牟田4人殺害 父、長男の上告棄却 最高裁 一家全員の死刑確定へ」(西日本新聞社)</ref>。
* [[2006年]] - 日本の[[太陽]]観測[[人工衛星|衛星]]「[[ひので (人工衛星)|ひので]]」打ち上げ。
* [[2008年]] - [[福岡ソフトバンクホークス]]の[[王貞治]][[プロ野球監督|監督]]が勇退を表明<ref>{{Cite web|和書|title=ソフトB王監督が退任発表「幸せでした」 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20080923-411635.html |access-date=26 Mar 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=23 Sep 2008}}</ref>。
* 2008年 - [[スマートフォン]]用[[オペレーティングシステム]]の初版 [[Android (オペレーティングシステム)|Android 1.0]] が公開。
* 2008年 - {{仮リンク|カウハヨキ学校銃撃事件|en|Kauhajoki school shooting}}。フィンランドのセイナヨキ応用科学大学で発生した銃撃事件。22歳の学生が自動拳銃で10 人を射殺した後に自殺した。
* [[2012年]] - [[富山県]][[射水市]]の[[富山新港]]に架る日本海側最大級の上下2層構造の斜張橋、新湊大橋が開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://goodlucktoyama.com/article/201306-kaioumaru-park |title=海王丸パークの海王丸と新湊大橋(射水市) |access-date=17 Oct 2023 |publisher=Good Luck, Inc. |website=月刊Good Luckとやま |date=28 Aug 2020}}</ref>。
* [[2019年]] - [[トーマス・クック・グループ]]がロンドンの裁判所に[[破産]]申請を行う。
* 2019年 - [[大韓民国|韓国]]の[[文在寅]]大統領の側近、[[曹国|曺国]]法相の家族の不正疑惑について、ソウル中央地検が、曺氏の自宅について初めて強制捜査を実施する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM9R3RGWM9RUHBI00F.html |title=文大統領側近、チョグク法相宅を家宅捜索 強制捜査は初 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=23 Sep 2019}}</ref>。
* [[2020年]] - [[横浜FC]]の[[三浦知良]]が、[[明治安田生命保険|明治安田生命]]J1リーグ第18節[[川崎フロンターレ]]戦に53歳6カ月28日で出場し、[[中山雅史]]が持っていた45歳2カ月1日のJ1最年長出場記録を大幅に更新した<ref>{{Cite web|和書|url=https://olympics.com/ja/news/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB-53%E6%AD%B3210%E6%97%A5%E3%81%A6j1%E5%87%BA%E5%A0%B4-%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%9F%A5%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%81%89%E6%A5%AD%E3%82%92fifa%E3%82%82%E7%A7%B0%E8%B3%9B-%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%A4-%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%AF-%E3%82%AB%E3%82%B9 |title=【サッカー】53歳210日でJ1出場、三浦知良の偉業をFIFAも称賛「バンザイ!キング・カズ」 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=The International Olympic Committee |date=24 Sep 2020}}</ref>。
* [[2022年]] - [[西九州新幹線]]が、全長66キロの[[武雄温泉駅]]-[[長崎駅]]間で開業。
== 誕生日 ==
[[File:Kublai Khan.jpg|thumb|224x224px|[[クビライ]](1215-1294)]]
[[File:Johann Franz Encke.jpg|thumb|241x241px|[[ヨハン・フランツ・エンケ|ヨハン・F・エンケ]](1791-1865)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 183-B24575, Friedrich Paulus.jpg|thumb|266x266px|[[フリードリヒ・パウルス]](1890-1957)]]
[[File:Romy Schneider BW.jpg|thumb|231x231px|[[ロミー・シュナイダー]](1938-1982)]]
[[File:CherieBooth.jpg|thumb|244x244px|[[シェリー・ブレア]](1954-)]]
[[ファイル:B'Z at Best Buy Theater NYC - 9-30-12 - 18.jpg|代替文=|サムネイル|257x257px|[[稲葉浩志]](1964-)]]
* [[紀元前63年]] - [[アウグストゥス]]、初代[[ローマ皇帝]](+ [[14年]])
* [[1158年]] - [[ジョフロワ2世 (ブルターニュ公)|ジョフロワ2世]]、[[ブルターニュ公]](+ [[1186年]])
* [[1161年]]([[応保]]元年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[高倉天皇]]、第80代天皇(+ [[1181年]])
* [[1215年]] - [[クビライ]]、[[モンゴル帝国]]第5代皇帝(+ [[1294年]])
* [[1439年]] - [[フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ]]、芸術家、建築家、軍事技術者(+ [[1501年]])
* [[1491年]] - [[ジャック・カルティエ]]、航海士(+ [[1557年]])
* [[1495年]] - {{仮リンク|バグラト3世|en|Bagrat III of Imereti}}、{{仮リンク|イメレティ王国|en|Kingdom of Imereti}}の君主(+ [[1565年]])
* [[1569年]]([[永禄]]12年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]) - [[立花誾千代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の女性当主(+ [[1602年]])
* [[1597年]] - {{仮リンク|フランチェスコ・バルベリーニ|en|Francesco Barberini (1597–1679)}}、カトリックの[[枢機卿]](+ [[1679年]])
* [[1598年]] - [[エレオノーラ・ゴンザーガ]]、神聖ローマ皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]后(+ [[1655年]])
* [[1640年]]([[寛永]]17年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[伊達綱宗]]、[[陸奥国]][[仙台藩]]第3代藩主(+ [[1711年]])
* [[1642年]] - [[ジョヴァンニ・マリア・ボノンチーニ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1678年]])
* [[1647年]] - [[ジョセフ・ダドリー]]、[[マサチューセッツ湾直轄植民地]]と[[ニューハンプシャー植民地]]の[[総督]](+ [[1720年]])
* [[1650年]] - {{仮リンク|ジェレミー・コリア|en|Jeremy Collier}}、司教(+ [[1726年]])
* [[1713年]] - [[フェルナンド6世 (スペイン王)|フェルナンド6世]]、スペイン王(+ [[1759年]])
* [[1728年]] - [[カルロ・アリオーニ]]、医師・[[植物学者]](+ [[1804年]])
* [[1740年]]([[元文]]5年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[後桜町天皇]]、第117代天皇(+ [[1813年]])
* [[1759年]] - [[クロティルデ・ディ・ボルボーネ=フランチア]]、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]王[[カルロ・エマヌエーレ4世]]妃(+ [[1802年]])
* [[1771年]]([[明和]]8年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[光格天皇]]、第119代天皇(+ [[1840年]])
* 1771年(明和8年8月15日) - [[稲垣長続]]、[[志摩国]][[鳥羽藩]]第4代藩主(+ [[1819年]])
* [[1781年]] - [[ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト|アンナ・フョードロヴナ]]、[[コンスタンチン・パヴロヴィチ]]大公妃(+ [[1860年]])
* 1781年 - [[ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト]](+ [[1860年]])
* [[1782年]] - {{仮リンク|ジャック・フェレオル・マザス|en|Jacques Féréol Mazas}}、ヴァイオリニスト(+ [[1849年]])
* 1782年 - {{仮リンク|マクシミリアン・ツー・ヴィート=ノイヴィート|en|Prince Maximilian zu Wied-Neuwied}}、博物学者、民族学者(+ 1867年)
* [[1791年]] - [[ヨハン・フランツ・エンケ]]、[[天文学者]](+ [[1865年]])
* 1791年 - {{仮リンク|テオドール・ケルナー|en|Theodor Körner (author)}}、作家、軍人(+ [[1813年]])
* 1791年([[寛政]]3年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]) - [[池田定興]]、[[因幡国]][[鳥取藩#若桜藩|若桜藩]]第6代藩主(+ [[1807年]])
* [[1799年]] - {{仮リンク|シャルル・ジャン=バティスト・アミョ|fr|Charles Jean-Baptiste Amyot}}、昆虫学者(+ [[1866年]])
* [[1800年]] - {{仮リンク|ウィリアム・ホームズ・マクガフィー|en|William Holmes McGuffey}}、作家(+ [[1873年]])
* [[1812年]]([[文化 (元号)|文化]]9年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]) - [[松平定和]]、[[伊勢国]][[桑名藩]]第2代藩主(+ [[1841年]])
* [[1814年]] - {{仮リンク|アンリ・ド・カステラーヌ|en|Henri de Castellane}}、政治家(+ [[1847年]])
* [[1814年]](文化11年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[一柳末延]]、[[播磨国]][[龍野藩]]第9代藩主(+ [[1855年]])
* [[1819年]] - [[アルマン・フィゾー]]、[[光速|光速度]]を測定した[[物理学者]](+ [[1896年]])
* [[1827年]]([[文政]]10年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[片桐貞中]]、[[大和国]][[小泉藩]]第9代藩主(+ [[1843年]])
* [[1838年]] - {{仮リンク|ヴィクトリア・ウッドハル|en|Victoria Woodhull}}、ジャーナリスト(+ [[1927年]])
* [[1841年]]([[天保]]12年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - [[石川総管]]、[[常陸国]][[下館藩]]第3代藩主(+ [[1899年]])
* [[1846年]] - [[アーサー・ヘスケス・グルーム]]、[[実業家]]、[[六甲山]]開発者(+ [[1918年]])
* [[1849年]] - [[フーゴ・フォン・ゼーリガー]]、天文学者(+ [[1924年]])
* [[1851年]] - {{仮リンク|エレン・ヘイズ|en|Ellen Hayes}}、数学者、物理学者(+ [[1930年]])
* [[1852年]] - [[ジェームズ・キャロル・ベックウィズ]]、画家(+ [[1917年]])
* [[1861年]] - ドラガ・マシン、セルビア王[[アレクサンダル1世 (セルビア王)|アレクサンダル1世]]妃(+ [[1903年]])
* [[1861年]] - [[ロバート・ボッシュ]]、発明家、[[ロバート・ボッシュ (企業)|ロバート・ボッシュ]]創業者(+ [[1942年]])
* [[1863年]] - {{仮リンク|メリー・チャーチ・テレル|en|Mary Church Terrell}}、作家(+ [[1954年]])
* [[1865年]] - [[シュザンヌ・ヴァラドン]]、[[画家]](+ [[1938年]])
* 1865年 - [[ルー・バイアーバウアー]]、プロ野球選手(+ [[1926年]])
* 1865年 - [[ペッカ・ハロネン]]、画家(+ [[1933年]])
* 1865年 - [[バロネス・オルツィ]]、作家(+ [[1947年]])
* [[1870年]] - {{仮リンク|ジャック・キャリウ|en|Jacques Cariou}}、[[馬術]]選手(+ [[1951年]])
* [[1871年]] - [[フランティセック・クプカ]]、画家(+ [[1957年]])
* [[1874年]] - [[フランシス・レーン]]、陸上競技選手(+ [[1927年]])
* [[1876年]] - {{仮リンク|モシェ・ツヴィ・シーガル|en|Moshe Zvi Segal}}、[[ラビ]]、学者(+ [[1968年]])
* [[1878年]] - [[青山士]]、土木技師(+ [[1963年]])
* [[1880年]] - [[ジョン・ボイド・オア]]、[[国際連合食糧農業機関]](FAO)の初代長官(+ [[1971年]])
* [[1882年]] - [[田中萬逸]]、政治家(+ [[1963年]])
* [[1885年]] - [[ロベール・リオッテル]]([[:en:Robert_Liottel|Robert Liottel]])、[[フェンシング]]選手(+ 1968年)
* [[1887年]] - [[下村定]]、陸軍軍人、政治家(+ [[1968年]])
* [[1889年]] - [[ウォルター・リップマン]]、「[[冷戦]]」「[[ステレオタイプ]]」の生みの親の一人(+ [[1974年]])
* [[1890年]] - [[フリードリヒ・パウルス]]、陸軍[[軍人]](+ [[1957年]])
* [[1894年]] - {{仮リンク|アルバート・リューイン|en|Albert Lewin}}、映画プロデューサー(+ 1968年)
* [[1895年]] - {{仮リンク|ジョニー・モカン|en|Johnny Mokan}}、野球選手(+ 1985年)
* [[1896年]] - [[森信三]]、[[哲学者]](+ [[1992年]])
* [[1897年]] - [[ポール・デルヴォー]]、[[画家]](+ [[1994年]])
* 1897年 - [[ウォルター・ピジョン]]、[[俳優]](+ [[1984年]])
* [[1899年]] - {{仮リンク|トム・C・クラーク|en|Tom C. Clark}}、第59代[[アメリカ合衆国司法長官]](+ [[1977年]])
* 1899年 - [[ルイーズ・ネヴェルソン]]、[[彫刻家]](+ [[1988年]])
* [[1900年]] - [[ビル・ストーン]]([[:en:Bill_Stone_(Royal_Navy_sailor)|Bill Stone (Royal Navy sailor)]])、[[王立海軍]]軍人(+ 2009年)
* [[1901年]] - [[細川一]]、[[医師]](+ [[1970年]])
* 1901年 - [[ヤロスラフ・サイフェルト]]、作家(+ [[1986年]])
* [[1902年]] - [[蘇歩青]]、数学者(+ [[2003年]])
* [[1904年]] - [[村田正志]]、歴史学者(+ [[2009年]])
* [[1906年]] - {{仮リンク|チャールズ・リッチー|en|Charles Ritchie (diplomat)}}、外交官、[[在米カナダ大使館|在米カナダ大使]](+ 1995年)
* 1906年 - {{仮リンク|モーリス・フォンブール|en|Maurice Fombeure}}、作家(+ [[1981年]])
* [[1907年]] - [[ドゥアルテ・ヌノ・デ・ブラガンサ]]、ブラガンサ公(+ [[1976年]])
* 1907年 - [[ドミニク・オーリー]]、小説家(+ [[1998年]])
* 1907年 - [[フィル・エドワーズ (陸上選手)|フィル・エドワーズ]]、陸上競技選手(+ [[1971年]])
* 1907年 - {{仮リンク|アルバート・アモンズ|en|Albert Ammons}}、ピアニスト(+ [[1949年]])
* [[1909年]] - {{仮リンク|ロレンツ・アントニ|en|Lorenc Antoni}}、作曲家(+ [[1991年]])
* [[1911年]] - {{仮リンク|フランク・モス|en|Frank Moss}}、政治家(+ [[2003年]])
* [[1910年]] - [[中山三郎平]]、実業家(+ [[1995年]])
* [[1912年]] - [[トニー・スミス (美術家)|トニー・スミス]]、美術家(+ [[1980年]])
* [[1913年]] - [[吉田秀和]]、[[クラシック音楽]][[評論家]](+ [[2012年]])
* 1913年 - [[田中朋次郎]]、[[騎手]]、[[調教師]](+ [[2003年]])
* 1913年 - {{仮リンク|カール=ヘニング・ペダーセン|en|Carl-Henning Pedersen}}、画家(+ [[2007年]])
* [[1914年]] - [[東條輝雄]]、航空技術者、[[実業家]](+ [[2012年]])
* [[1915年]] - [[クリフォード・シャル]]、[[物理学者]](+ [[2001年]])
* 1915年 - {{仮リンク|ジュリアス・ベイカー|en|Julius Baker}}、フルート奏者(+ [[2003年]])
* 1915年 - {{仮リンク|セルジオ・ベルトーニ|en|Sergio Bertoni}}、サッカー選手、監督(+ [[1995年]])
* [[1916年]] - [[アルド・モーロ]]、政治家、[[イタリアの首相|イタリア首相]]、法務大臣(+ [[1978年]])
* [[1917年]] - [[中西陽一]]、政治家、[[石川県知事一覧|石川県知事]](+ [[1994年]])
* 1917年 - [[エル・サント]]、[[プロレスラー]](+ [[1984年]])
* 1917年 - [[アシマ・チャタジー]]([[:en:Asima_Chatterjee|Asima Chatterjee]])、化学者(+ [[2006年]])
* 1917年 - [[ネーメト・イムレ]]、陸上競技選手(+ [[1989年]])
* [[1918年]] - [[平山菊二]]、元[[プロ野球選手]](+ 1998年)
* [[1919年]] - {{仮リンク|ピエール・ロラン・ジョット|fr|Pierre-Roland Giot}}、考古学者(+ [[2002年]])
* [[1920年]] - [[ミッキー・ルーニー]]、[[俳優]](+ [[2014年]])
* [[1921年]] - [[布施正]]、騎手、調教師(+ [[2001年]])
* 1921年 - [[佐藤利三郎]]、工学者、。[[東北大学]][[名誉教授]](+ [[2011年]])
* [[1922年]] - {{仮リンク|ルイーズ・ラサム|en|Louise Latham}}、女優(+ [[2018年]])
* [[1923年]] - {{仮リンク|モハメド・ハサネイン・ハイカル|en|Mohamed Hassanein Heikal}}、ジャーナリスト(+ [[2016年]])
* [[1924年]] - {{仮リンク|ジャン・ピア|en|Jean Piat}}、俳優(+ [[2018年]])
* [[1925年]] - [[エレオノラ・ロッシ=ドラゴ]]、女優(+ [[2007年]])
* 1925年 - [[デニス・C・トゥウィチェット]]、[[中国学|中国研究者]](+ [[2006年]])
* 1925年 - [[ジャン=シャルル・タケラ]]、脚本家
* [[1926年]] - [[ジョン・コルトレーン]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(+ [[1967年]])
* 1926年 - [[アンドレ・カサーニュ]]、[[発明家]]、[[電気技師]]、[[玩具]]制作者(+ [[2013年]])
* [[1929年]] - [[シャーンドル・コチシュ]]、サッカー選手(+ [[1979年]])
* [[1930年]] - [[レイ・チャールズ]]、[[歌手]](+ [[2004年]])
* 1930年 - {{仮リンク|コリン・ブレイクリー|en|Colin Blakely}}、俳優(+ [[1987年]])
* [[1931年]] - {{仮リンク|ヒリー・クリスタル|en|Hilly Kristal}}、クラブオーナー(+ [[2007年]])
* 1931年 - {{仮リンク|エドゥアール・J・モーニック|en|Édouard Maunick}}、[[ムラート]]の詩人(+ [[2021年]])
* 1931年 - [[ジェラルド・メリシュー]]([[:en:Gerald_Merrithew|Gerald Merrithew]])、政治家(+ [[2004年]])
* [[1934年]] - [[保利耕輔]]、政治家(+ [[2023年]])
* 1934年 - {{仮リンク|ペール・オーロフ・エンキスト|en|Per Olov Enquist}}、ジャーナリスト、作家(+ [[2020年]])
* [[1935年]] - [[御手洗冨士夫]]、実業家、[[キヤノン]]会長、第6代[[日本経済団体連合会|経団連]]会長
* 1935年 - [[フェントン・ロビンソン]]、[[ブルース]]ギタリスト、歌手(+ [[1997年]])
* 1935年 - {{仮リンク|プレム・チョプラ|en|Prem Chopra}}、俳優
* 1935年 - [[レス・マッキャン]]、[[ジャズ]]・ピアニスト、ボーカリスト
* 1935年 - {{仮リンク|ロン・ティンダル|en|Ron Tindall}}、サッカー選手(+ [[2012年]])
* 1935年 - [[マルガリータ・ニコラエワ]]、体操選手(+ [[1993年]])
* [[1936年]] - [[バレンティン・パニアグア]]、政治家、[[ペルーの大統領の一覧|ペルー大統領]](+ [[2006年]])
* 1936年 - {{仮リンク|ジョージ・イーストハム|en|George Eastham}}、サッカー選手
* [[1937年]] - {{仮リンク|ジャック・プーラン|en|Jacques Poulin}}、作家
* [[1938年]] - [[ロミー・シュナイダー]]、[[俳優|女優]](+ [[1982年]])
* 1938年 - [[ジャン=クロード・メジエール]]、[[漫画家]](+ [[2022年]])
* 1938年 - {{仮リンク|マリア・パーシー|en|Maria Perschy}}、女優
* [[1939年]] - [[ロイ・ブキャナン]]、[[ギタリスト]]、[[ブルース]]ミュージシャン(+ [[1988年]])
* [[1940年]] - [[沢田和猫]]、[[声優]]
* 1940年 - [[ゲルハルト・ヘンニゲ]]、陸上競技選手
* 1940年 - {{仮リンク|ディック・ソーネット|en|Dick Thornett}}、[[水泳選手一覧|水泳選手]]、[[ラグビーユニオン]]選手、[[ラグビーリーグ]]選手(+ [[2011年]])
* 1940年 - [[ミシェル・テメル]]、政治家、第37代[[ブラジル]][[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]]
* [[1941年]] - [[ジョージ・ジャクソン]]、[[共産主義者]]、[[ブラックパンサー党]]の指導者
* 1941年 - [[ノーマ・ウィンストン]]、ジャズ・シンガー
* [[1942年]] - {{仮リンク|シーラ・マリア・カルデロン|en|Sila María Calderón}}、プエルトリコ国務長官
* [[1943年]] - [[フリオ・イグレシアス]]、[[ミュージシャン]]
* 1943年 - [[マーティ・ショッテンハイマー]]、[[アメリカンフットボール]]選手、コーチ(+ 2021年)
* [[1944年]] - [[守屋武昌]]、官僚
* 1944年 - {{仮リンク|リチャード・ランバート|en|Richard Lambert}}、ジャーナリスト、[[大英博物館]]理事長
* 1944年 - {{仮リンク|ローレン・シュライヴァー|en|Loren Shriver}}、[[宇宙飛行士]]
* [[1945年]] - [[三井由美子]]、元演歌歌手
* 1945年 - [[イーゴリ・イワノフ]]、外交官、政治家、外務大臣
* 1945年 - {{仮リンク|アラン・オールド|en|Alan Old}}、ラグビー選手
* [[1946年]] - [[矢崎健治]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[五十嵐洋一]]、プロ野球審判員
* 1946年 - {{仮リンク|フランツ・フィッシュラー|en|Franz Fischler}}、政治家
* 1946年 - [[ベルナール・マリス]]、[[経済学者]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]]
* 1946年 - {{仮リンク|ダヴォリン・ポポヴィッチ|en|Davorin Popović}}、歌手
* [[1947年]] - [[清月輝]]、女優(+ [[1970年]])
* 1947年 - [[メアリー・ケイ・プレイス]]、女優
* 1947年 - {{仮リンク|クリスチャン・ボルデロー|en|Christian Bordeleau}}、アイスホッケー選手
* [[1948年]] - [[小野進也]]、[[俳優]]
* [[1949年]] - [[ブルース・スプリングスティーン]]、ミュージシャン
* 1949年 - [[畑野実]]、元プロ野球選手
* 1949年 - {{仮リンク|フロエラ・ベンジャミン|en|Floella Benjamin}}、女優
* [[1950年]] - [[ディートマー・ローレンツ]]、柔道家
* 1950年 - {{仮リンク|ジョージ・ガゾーン|en|George Garzone}}、[[サックス]]奏者
* [[1952年]] - {{仮リンク|デニス・ランプ|en|Dennis Lamp}}、野球選手
* 1952年 - {{仮リンク|ジム・モリソン (野球選手)|en|Jim Morrison (baseball)}}、野球選手
* [[1953年]] - [[ユセフ・アムラニ]]、外交官
* [[1954年]] - [[シェリー・ブレア]]、弁護士、[[トニー・ブレア]]首相夫人
* 1954年 - [[チャーリー・バーネット (1954年生)|チャーリー・バーネット]]、コメディアン(+ [[1996年]])
* [[1956年]] - [[パオロ・ロッシ]]、[[サッカー選手]](+ [[2020年]])
* 1956年 - {{仮リンク|ピーター・デヴィッド|en|Peter David}}、作家、ライター
* 1956年 - {{仮リンク|リリ・カラティ|en|Lilli Carati}}、女優(+ [[2014年]])
* [[1957年]] - [[石塚元章]]、[[記者|報道記者]]
* 1957年 - {{仮リンク|トニー・フォサス|en|Tony Fossas}}、野球選手
* [[1958年]] - {{仮リンク|ダニエル・ダックス|en|Danielle Dax}}、ミュージシャン
* 1958年 - [[ラリー・マイズ]]、プロゴルファー
* [[1959年]] - [[藤原カムイ]]、[[漫画家]]
* 1959年 - [[ロザリンド・チャオ]]、女優
* 1959年 - [[ジェイソン・アレクサンダー]]、俳優
* 1959年 - [[ハンス・ナイマン]]、[[総合格闘家]]
* 1959年 - [[エリザベス・ペーニャ]]、女優
* 1959年 - [[マーティン・ペイジ]]、歌手
* [[1960年]] - [[石山東吉]]、漫画家
* 1960年 - [[カート・ベイヤー]]、プロレスラー
* [[1962年]] - [[川平慈英]]、タレント
* [[1963年]] - [[勝呂壽統]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[山根ミチル]]、ゲーム音楽作曲家
* 1963年 - [[ハオ・モニラット]]、外交官
* 1963年 - [[ガブリエレ・ラインシュ]]、陸上競技選手
* [[1964年]] - [[イジリー岡田]]、タレント
* 1964年 - [[稲葉浩志]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[B'z]])
* 1964年 - [[床嶋佳子]]、女優
* [[1965年]] - [[アレカ・ハモンド]]、政治家
* 1965年 - [[小川睦彦]]、パラリンピック自転車競技選手
* 1965年 - [[川原尚行]]、医師、NPO法人[[ロシナンテス]]理事長
* 1965年 - [[佐藤俊彦]]、[[津軽三味線]]奏者
* 1965年 - [[藤井かほり]]、女優
* 1965年 - [[マーク・ウッドフォード]]、プロテニス選手
* 1965年 - [[益田明典]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[立川談笑]]、落語家
* [[1966年]] - [[北瀬佳範]]、ゲームプロデューサー
* [[1967年]] - [[中山雅史]]、サッカー選手
* 1967年 - [[高橋知裕]]、タレント
* 1967年 - [[叶美香]]、タレント、グラビアアイドル
* [[1968年]] - [[阿部和重]]、小説家
* 1968年 - [[h-wonder]]、作詞家、作曲家、編曲家
* 1968年 - [[島袋優]]、ミュージシャン([[BEGIN (バンド)|BEGIN]])
* [[1969年]] - [[鈴木杏樹]]、女優
* [[1970年]] - [[初田啓介]]、アナウンサー
* [[1971年]] - [[西村修]]、プロレスラー、政治家
* 1971年 - [[松田賢二]]、俳優
* 1971年 - [[出口雄大]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[渡部建]]、[[お笑いタレント]]([[アンジャッシュ]])
* 1972年 - [[加藤将之]]、 [[声優]]
* [[1973年]] - [[服部年宏]]、元サッカー選手
* 1973年 - [[布部陽功]]、元サッカー選手、指導者
* 1973年 - [[下山さおり]]、元アナウンサー
* 1973年 - [[普天間かおり]]、 [[シンガーソングライター]]
* 1973年 - [[レネ・ローゼ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1973年 - [[河井案里]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/2019san?d=16895 |title=河井 案里:立候補者情報:選挙区:広 島:参院選2019 |publisher=[[時事通信社|時事ドットコム]] |accessdate=26 Mar 2023}}</ref>、政治家
* [[1974年]] - [[エリック・ノット]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[井上晴美]]、女優
* [[1975年]] - [[先野久美子]]、元バレーボール選手
* 1975年 - [[みょーちゃん]]、お笑い芸人
* [[1976年]] - [[三浦しをん]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/492136/ |title=三浦しをん |access-date=17 Oct 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]]}}</ref>、小説家
* 1976年 - [[金丸義信]]、プロレスラー
* [[1977年]] - [[城咲仁]]、タレント
* [[1978年]] - [[ニッチロー]]、ものまねタレント
* 1978年 - [[小出美沙都]]、アーチェリー選手
* [[1979年]] - [[三遊亭律歌]]、落語家
* [[1980年]] - [[Syu (ギタリスト)|Syu]]、ギタリスト
* [[1982年]] - [[韓寒]]、作家
* [[1983年]] - [[鈴木歩]]、[[囲碁]][[棋士 (囲碁)|女流棋士]]
* 1983年 - [[アルビス・オヘイダ]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[相川友希]]、アイドル(元[[SDN48]])
* 1984年 - [[大西洋平 (アナウンサー)|大西洋平]]、アナウンサー
* [[1985年]] - [[うえむらちか]]、女優
* 1985年 - [[後藤真希]]、女優、歌手(元[[モーニング娘。]])
* 1985年 - [[ジョバ・チェンバレン]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[川澄奈穂美]]、サッカー選手
* 1985年 - [[くぼたみか]]、元[[グラビアアイドル]]
* [[1986年]] - [[廣田詩夢]]、元声優
* 1986年 - [[ミゲル・ゴンザレス (1986年生の投手)|ミゲル・ゴンサレス]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[皇風俊司]]、元大相撲力士
* [[1987年]] - [[谷内伸也]]、歌手
* 1987年 - [[小林悠 (サッカー選手)|小林悠]]、サッカー選手
* 1987年 - [[ゴンザレス・ヘルメン]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[木村了]]、俳優
* 1988年 - [[堂上直倫]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[KAIRI]]、プロレスラー
* [[1989年]] - [[トレバー・メイ]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[押谷祐樹]]、サッカー選手
* 1989年 - [[わたなべ麻衣]]、モデル、タレント、女優
* [[1990年]] - [[寺島咲]]、女優
* 1990年 - [[崇岡白]]、元俳優
* 1990年 - [[鍵谷陽平]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[武富孝介]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ローラン・アルヴァレス]]、フィギュアスケート選手
* [[1991年]] - [[朝倉あき]]、女優
* 1991年 - [[岩本乃蒼]]、[[アナウンサー]]、元[[ファッションモデル]]
* 1991年 - [[高田秋]]、タレント、ファッションモデル
* 1991年 - [[メラニー・ウダン]]、テニス選手
* 1991年 - [[ダニエル・ドッツァウアー]]、フィギュアスケート選手
* 1991年 - [[小林大紀]]、声優
* 1991年 - [[キー (SHINeeのメンバー)|キー]]、アイドル、俳優、タレント([[SHINee]])
* [[1992年]] - [[寺坂研人]]、漫画家
* 1992年 - [[ダイラン・アンスワース]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[三井梨紗子]]、元[[アーティスティックスイミング]]選手
* [[1994年]] - [[静実芽]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/497364/ |title=静実芽のプロフィール |access-date=26 Mar 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]]}}</ref>、元グラビアアイドル
* [[1995年]] - [[小林愛実]]、ピアニスト
* [[1997年]] - [[武井証]]、俳優
* 1997年 - [[兼子真衣]]<ref>{{Cite web|和書|title=兼子 真衣 |url=http://www.stv.jp/ana/profile/kaneko_mai/index.html |accessdate=26 Mar 2023 |publisher=STV [[札幌テレビ放送]]}}</ref>、アナウンサー
* 1997年 - [[ともやん]]、YouTuber、バスケットボール選手
* [[1998年]] - [[寺田蘭世]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nogizaka46.com/2kisei_profile/profile/teradaranze.html |title=寺田 蘭世|乃木坂46 2期生プロフィール大公開! |work=乃木坂46オフィシャルサイト |publisher=乃木坂46運営委員会 |accessdate=26 Mar 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130509165759/https://www.nogizaka46.com/2kisei_profile/profile/teradaranze.html |archive-date=9 May 2013}}</ref>、元アイドル(元[[乃木坂46]])
* [[1999年]] ‐ [[牧丈一郎]]、プロ野球選手
* 1999年 - ウギ、アイドル([[(G)I-DLE]])
* [[2000年]] - [[いよわ]]、[[ボカロP]]
* 2000年 - [[坂巻有紗]]、モデル
* [[2001年]] - [[ライ・グァンリン]]、アイドル(元[[Wanna One]])
* 生年不明 - [[眞水徳一]]、声優
* 生年不明 - [[羽柴麻央]]、漫画家
== 忌日 ==
* [[79年]] - [[ウェスパシアヌス]]、[[ローマ皇帝]](* [[9年]])
* [[788年]] - {{仮リンク|アルフワルド1世|en|Ælfwald I of Northumbria}}、[[ノーサンブリア王国|ノーサンブリア]]王(* [[759年]]または[[767年]])
* [[1173年]]([[承安 (日本)|承安]]3年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[藤原育子]]、[[二条天皇]][[中宮]](* [[1146年]])
* [[1267年]] - [[ベアトリス・ド・プロヴァンス]]、[[プロヴァンス伯|プロヴァンス女伯]](* [[1229年]]?)
* [[1281年]]([[弘安]]4年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - [[北条宗政]]、[[鎌倉幕府]][[評定衆]](* [[1253年]])
* [[1334年]]([[建武 (日本)|建武]]元年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]) - [[二条兼基]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1268年]])
* [[1386年]] - {{仮リンク| ダン1世 |en|Dan I of Wallachia}}、[[ワラキア]]の[[ヴォイヴォダ]](* [[1354年]])
* [[1455年]]([[康正]]元年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[千葉胤宣]]、[[室町時代]]の[[武将]](* [[1445年]])
* [[1461年]] - [[カルロス (ビアナ公)|カルロス]]、[[ピアナ公]](* [[1421年]])
* [[1465年]]([[寛正]]6年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[大内教弘]]、[[周防国]]の[[守護大名]](* [[1420年]])
* [[1484年]]([[文明 (日本)|文明]]16年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]) - [[一色義春]]、[[若狭国]]の守護大名(* [[1466年]])
* [[1508年]] - [[ベアトリーチェ・ダラゴーナ]]、[[ナポリ王国|ナポリ]]王女(* [[1457年]])
* [[1555年]]([[弘治 (日本)|弘治]]元年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]) - [[朝倉宗滴]]、[[武将|戦国武将]](* [[1477年]])
* [[1573年]]([[天正]]元年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]) - [[浅井久政]]、[[近江国]]の[[戦国大名]](* [[1526年]])
* [[1581年]](天正9年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]) - [[二階堂盛義]]、戦国武将(* [[1544年]]?)
* [[1715年]]([[正徳 (日本)|正徳]]5年8月26日) - [[森川許六]]、[[俳人]](* [[1656年]])
* [[1728年]] - [[クリスティアン・トマジウス]]、[[哲学|哲学者]](* [[1655年]])
* [[1738年]] - [[ヘルマン・ブールハーフェ]]、[[医学者]](* [[1668年]])
* [[1751年]]([[寛延]]4年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]) - [[荷田在満]]、[[国学|国学者]](* [[1706年]])
* [[1789年]] - [[サイラス・ディーン]]、[[外交官]]、[[スパイ|諜報員]](* [[1737年]])
* [[1803年]]([[享和]]3年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[大久保忠顕]]、[[小田原藩|小田原藩主]](* [[1760年]])
* [[1820年]] - [[フランソワ・クリストフ・ケレルマン]]、フランス軍の名誉元帥(* [[1735年]])
* [[1826年]]([[文政]]9年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) - [[神保綱忠]]、[[米沢藩|米沢藩士]]、[[儒学者]](* [[1743年]])
* [[1830年]] - [[エリザベス・モンロー]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](* [[1768年]])
* [[1835年]] - [[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]、[[作曲家]](* [[1801年]])
* [[1858年]]([[安政]]5年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[土岐村路]]、[[曲亭馬琴]]の筆記助手(* [[1806年]])
* [[1859年]](安政6年8月27日) - [[鵜飼吉左衛門]]、[[水戸藩|水戸藩士]](* [[1798年]])
* 1859年(安政6年8月27日) - [[安島帯刀]]、水戸藩[[家老]](* [[1811年]])
* 1859年(安政6年8月27日) - [[茅根伊予之介]]、水戸藩士(* [[1824年]])
* 1859年(安政6年8月27日) - [[鵜飼幸吉]]、水戸藩士(* [[1828年]])
* [[1864年]]([[元治]]元年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]) - [[立原朴二郎]]、水戸藩士(* [[1832年]])
* [[1870年]] - [[プロスペル・メリメ]]、[[小説家]](* [[1803年]])
* [[1873年]] - [[ジャン・シャコルナク]]、天文学者(* [[1823年]])
* [[1876年]] - [[安井息軒]]、儒学者(* [[1799年]])
* [[1877年]] - [[ユルバン・ルヴェリエ]]、天文学者(* [[1811年]])
* [[1881年]] - [[伊良子光順]]、[[典薬寮]]の[[医師]](* [[1823年]])
* [[1882年]] - [[フリードリヒ・ヴェーラー]]、[[化学者]](* [[1800年]])
* [[1889年]] - [[ウィルキー・コリンズ]]、小説家(* [[1824年]])
* [[1890年]] - [[ローレンツ・フォン・シュタイン]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[法学者]](* [[1815年]])
* [[1892年]] - [[ジョン・ポープ]]、[[アメリカ陸軍]]の[[少将]](* [[1822年]])
* [[1896年]] - [[イーヴァル・オーセン]]、[[言語学者]]、[[文献学者]]、[[詩人]](* [[1813年]])
* [[1904年]] - [[エミール・ガレ]]、[[ガラス工芸|ガラス工芸家]]、[[デザイナー]](* [[1846年]])
* [[1912年]] - [[横山作次郎]]、[[柔道家]](* [[1864年]])
* [[1919年]] - [[アンニーバレ・リッコ]]、天文学者(* [[1844年]])
* [[1920年]] - [[赤松則良]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中将]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]](* [[1841年]])
* [[1929年]] - [[リヒャルト・ジグモンディ]]、化学者(* [[1865年]])
* [[1938年]] - [[井上角五郎]]、政治家、[[実業家]](* [[1860年]])
* [[1939年]] - [[ジークムント・フロイト]]、精神科医(* [[1856年]])
* 1939年 - [[岡田三郎助]]、[[洋画家]](* [[1869年]])
* [[1951年]] - 2代目[[立花家花橘]]、[[落語家]](* [[1884年]])
* [[1952年]] - [[大井上康]]、[[農学者]](* [[1892年]])
* [[1968年]] - [[野田高梧]]、[[脚本家]](* [[1893年]])
* [[1970年]] - [[ブールヴィル]]、俳優、[[コメディアン]](* [[1917年]])
* [[1973年]] - [[A・S・ニイル]]、[[教育者]]、[[サマーヒル・スクール]]創設者(* [[1883年]])
* 1973年 - [[パブロ・ネルーダ]]、[[詩人]](* [[1904年]])
* [[1974年]] - [[花田清輝]]、[[評論家]](* [[1909年]])
* [[1976年]] - [[ロジェ・ブールダン]]、フルート奏者(* [[1923年]])
* [[1978年]] - [[ライマン・ボストック]]、プロ野球選手(* [[1950年]])
* [[1987年]] - [[ルイス・ケントナー]]、[[ピアニスト]](* [[1905年]])
* 1987年 - [[ボブ・フォッシー]]、[[映画監督]]、[[振付師]](* [[1927年]])
* [[1990年]] - [[徳永正利]]、[[参議院議長]](* [[1913年]])
* [[1992年]] - [[ジェームズ・ヴァン・フリート]]、アメリカ陸軍の将軍(* [[1892年]])
* [[1994年]] - [[マドレーヌ・ルノー]]、女優(* [[1900年]])
* 1994年 - [[ロバート・ブロック]]、小説家(* [[1917年]])
* 1994年 - [[京塚昌子]]、女優(* [[1930年]])
* [[1995年]] - [[松枝茂夫]]、[[中国文学者]](* [[1905年]])
* [[1996年]] - [[児玉三夫]]、[[教育学|教育学者]](* [[1915年]])
* 1996年 - [[藤子・F・不二雄]]、[[漫画家]](* [[1933年]])
* [[1997年]] - [[天城山猪太夫]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1906年]])
* [[2000年]] - [[工藤栄一]]、映画監督(* [[1929年]])
* [[2001年]] - [[ロバート・エイブル]]、[[映像作家]](* [[1937年]])
* [[2003年]] - [[松田博明]]、アマチュア野球指導者(* [[1926年]])
* [[2006年]] - [[マルコム・アーノルド]]、作曲家(* [[1921年]])
* 2006年 - [[梶本隆夫]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督]](* [[1935年]])
* 2006年 - [[アラダー・ペゲ]]、[[ジャズ]][[ベーシスト]](* [[1939年]])
* [[2007年]] - 阿部周司、[[日本カーリング協会]][[理事]]、旧[[常呂町]](現・[[北見市]])[[副市町村長|助役]](* [[1949年]]?)
* [[2008年]] - ウィリアム・ウッドラフ{{enlink|William Woodruff}}、[[歴史家]]、[[作家]](* [[1916年]])
* 2008年 - [[森田成美]]、経済学者、[[広島大学]][[名誉教授]](* [[1929年]])
* 2008年 - ソーニャ・サヴィッチ{{enlink|Sonja Savić}}、女優(* [[1961年]])
* [[2009年]] - [[中平幸典]]、[[信金中央金庫]][[理事]][[相談役]]・元理事長、元[[財務省|大蔵省]]国際金融局長(* [[1939年]])
* 2009年 - [[エルトゥールル・オスマン]]、[[オスマン家]]第43代家長(* [[1912年]])
* [[2010年]] - ジェラルド・S・レッサー{{enlink|Gerald S. Lesser}}、[[心理学者]]、幼児番組『[[セサミストリート]]』チーフアドバイザー(* 1926年)
* [[2011年]] - [[児玉輝代]]、俳人(* [[1926年]])
* 2011年 - [[五十嵐喜芳]]、[[声楽家]]、[[テノール|テノール歌手]](* [[1928年]])
* 2011年 - [[アキコ・カンダ]]、舞踏家、ダンサー、振付家(* [[1935年]])
* [[2013年]] - {{仮リンク|オスカル・エスピノサ|en|Oscar Espinosa Chepe}}、経済学者(* [[1940年]])
* 2013年 - 羽土力、実業家、[[日本経済新聞社]]顧問、元[[日本経済新聞出版社]]社長(* [[1947年]]?)
* [[2014年]] - 田中久夫、実業家、元[[名糖運輸]]社長(* [[1919年]])
* 2014年 - 古賀義根、実業家、元・東陶機器(現・[[TOTO (企業)|TOTO]])社長(* [[1925年]])
* [[2014年]] - [[ドン・マノキャン]]、プロレスラー(* [[1934年]])
* 2014年 - [[ヨーガン・レール]]、ファッションデザイナー(* [[1944年]])
* 2014年 - 宮沢光子、[[マネージャー]]、実業家、[[宮沢りえ]]の母、「エム・ツー企画」代表取締役(* [[1949年]])
* 2014年 - 高橋郁代、フラワーデザイナー(* [[1955年]])
* [[2015年]] - [[中村勝広]]、元プロ野球選手、監督(*[[1949年]])
* [[2016年]] - 稲村雲洞、[[書家]](* [[1924年]])
* [[2018年]] - [[宮田光]]、俳優、声優(* [[1930年]])
* 2018年 - [[チャールズ・K・カオ]]、[[物理学者]] (* [[1933年]])
* 2018年 - [[滝内弥瑞生]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/09/23/kiji/20180923s00001173218000c.html |title=元西鉄・滝内弥瑞生氏が死去 82歳 |access-date=26 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1935年]])
* [[2020年]] - [[ジュリエット・グレコ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN9S2H3GN9SUHBI004.html |title=ジュリエット・グレコさん死去 仏シャンソンの大御所 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=24 Sep 2020 |accessdate=26 Mar 2023}}</ref>、[[シャンソン]]歌手(* [[1927年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[秋分]]([[2015年]]・[[2017年]]・[[2018年]]・[[2019年]]・[[2021年]]・[[2022年]]・[[2023年]]など)
*: [[二十四節気]]のひとつ。昼と夜の長さがほぼ同じになる日。
* 秋の[[社日]]({{JPN}}、このころ)※[[秋分]]に最も近い[[戊]]の日
* [[秋分の日]]({{JPN}})※秋分の場合(2012年~2043年は4で割り切れない年が該当)
*: [[国民の祝日]]の一つ。「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日。
*[[テニス]]の日({{JPN}})
*: 日本テニス協会と日本プロテニス協会が[[1998年]]に制定。
* [[不動産]]の日({{JPN}})
*: [[全国宅地建物取引業協会連合会]](全宅連)が[[1984年]]に制定。秋は不動産取引が活発になる時期であることと、「ふ(二)どう(十)さん(三)」の語呂合せから。
*大原 はだか祭り({{JPN}})
*: [[千葉県]][[いすみ市]]で、毎年9月23日、24日の2日間に渡って行われる祭り。江戸時代に始まった五穀豊穣と大漁を祈願する祭事で、大原海岸で行われる神事「汐ふみ」が見どころの一つ。上半身裸の男衆に担がれた十数基の神輿が、太平洋の波の中でもみ合う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.isumi.lg.jp/soshikikarasagasu/suisanshokoka/kankopromotionhan/2/2/786.html |title=大原はだか祭り |access-date=17 Oct 2023 |publisher=いすみ市役所 |date=10 Sep 2021}}</ref>。
*福岡町つくりもんまつり({{JPN}})
*: [[富山県]][[高岡市]][[福岡町 (富山県)|福岡町]]で、毎年9月23日、24日の2日間に渡って行われる300年以上の歴史を持つ奇祭。「つくりもん」を作成し、五穀豊穣に感謝を表す。つくりもんとは、野菜、果物、草花を利用し、地元の風物や時節の話題をテーマに作成される庶民芸術作品のこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://f-kanko-tukurimon.jp/history/ |title=つくりもんまつりの歴史 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=福岡町観光協会}}</ref>。
*大峯山寺 戸閉式({{JPN}})
*: 「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」は[[世界遺産]]に登録されており、その一部を構成する[[吉野山]]から[[熊野本宮大社]]に至る80kmの「[[大峯奥駈道]]」は修験道の修行の道となっている。[[奈良県]][[吉野郡]][[天川村]]の[[山上ヶ岳]](1719.2m)の山頂近くに建つ[[大峯山寺]]では、毎年[[5月3日]]の戸開式から9月23日の戸閉式までの143日間、本堂の扉が開かれ、修験者の入峰期間となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://tabi-mag.jp/na0213/ |title=大峯山寺 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=一般社団法人プレスマンユニオン |website=ニッポン旅マガジン}}</ref>。
*{{仮リンク|Celebrate Bisexuality Day|en|Celebrate Bisexuality Day}}
*: 1990年、米国のバイセクシュアル団体「BiNet」が制定。バイセクシュアルの人々、コミュニティ、歴史を祝う。
*[[建国記念日]]({{SAU}})
*: [[1932年]]のこの日、ハッサ、カティフ、ナジュド、ヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立した。
* [[海王星]]の日
*: [[1846年]]のこの日、[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ]]が[[ユルバン・ルヴェリエ]]の予測を基にした観測によって海王星を発見した。
*[[万年筆]]の日
*: [[1809年]]のこの日、[[イギリス]]のフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが万年筆の原型となる軸内にインクを貯蔵できるペンを考案し、[[特許]]を取得したことから。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0923|date=2023年3月}}
* 年不明 - 木曜日、午後ジェイムズ・シェパード[[医師]]は[[エルキュール・ポアロ]]にアクロイド家の[[家政婦]]エリザベス・ラッセルの来訪(第20章)まで書いた手記を手渡す。手記を読んだポアロは夜に関係者をからまつ荘に集め事件の真相を明日ラグラン[[警部]]に告げると言う。(小説『[[アクロイド殺し]]』第23章から第24章)
* [[1970年代|197x年]] - 科学者、雨村征男が乗ったとされる[[YS-11|YS11A]]型旅客機が、北アルプス上空で自衛隊機[[F-104 (戦闘機)|F-104ジェット戦闘機]]と衝突し、墜落、遭難する。(テレビドラマ『[[腐蝕の構造#テレビドラマ|腐蝕の構造]]』。原作小説では[[7月18日]])
* 1975年 - 国道2号線で交通事故発生。(小説『[[博士の愛した数式]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1968年]] - アキラ(結城晶)、ゲーム・アニメ『[[バーチャファイター]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://vc.sega.jp/vc_vf2/w_akira.html |title=アキラ(結城晶) |access-date=27 Mar 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] |work=『バーチャファイター2 | Wii(R) 』}}</ref>
* 2016年 - ピーター・ラートリー、漫画・アニメ『[[約束のネバーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author1=白井カイウ |authorlink1=白井カイウ |author2=出水ぽすか |authorlink2=出水ぽすか |year=2020 |title=シークレットバイブル 約束のネバーランド 0 MYSTIC CODE |publisher=[[集英社]]〈ジャンプ・コミックス〉 |page=149 |isbn=978-4-08-882462-8}}</ref>(+ [[2047年]])
* [[2075年]] - クロウ・F・アルメディオ、ゲーム『[[スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=70|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - 國崎出雲、漫画・ドラマCD『[[國崎出雲の事情]]』の主人公
* 生年不明 - 神崎・H・アリア、小説・アニメ『[[緋弾のアリア]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=http://ariaaa.tv/character/ |title=CHARACTER 神崎・H・アリア |access-date=27 Mar 2023 |publisher=[[赤松中学]]・[[KADOKAWA]]刊 / ProjectAA |work=『緋弾のアリアAA』}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pachimaga.com/ads/b_calendar/detail.php?day=0923002 |title=神埼・H(ホームズ)・アリア |access-date=27 Mar 2023 |website=パチンコ攻略マガジン・パチスロ攻略マガジン公式サイト |publisher=PLANTOPIA}}</ref>
* 生年不明 - 加藤恵、ライトノベル・アニメ『[[冴えない彼女の育てかた]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.saenai.tv/character/ |title=CHARACTER 加藤恵 |work=『冴えない彼女の育てかた♭』 |accessdate=17 Oct 2023 |publisher=[[丸戸史明]]・[[深崎暮人]]・[[KADOKAWA]] ファンタジア文庫刊/冴えない♭な製作委員会}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://saenai-movie.com/character/megumi_kato/ |title=加藤恵 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=[[丸戸史明]]・[[深崎暮人]]・[[KADOKAWA]] ファンタジア文庫刊/映画も冴えない製作委員会 |work=『劇場版 冴えない彼女の育てかた Fine』}}</ref>
* 生年不明 - エミリア、ライトノベル・アニメ『[[Re:ゼロから始める異世界生活]]』のヒロイン<ref>
{{Cite web|和書|url=https://bushiroad-creative.com/pages/emilia_BD_2019 |title=Re:ゼロから始めるエミリアの誕生日生活2019 in 渋谷マルイ |publisher=[[ブシロードグループ|bushiroad creative]] |accessdate=27 Mar 2023}}</ref><ref>{{Twitter status|nezumiironyanko|911557585001578496}}</ref><ref>{{Twitter status|re_zero_rezelos|1307525826787774465}}</ref>
* 生年不明 ‐ 錦木千束、アニメ『[[リコリス・リコイル]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://lycoris-recoil.com/character/ |title=錦木千束 |access-date=17 Oct 2023 |work=『リコリス・リコイル』 |publisher=Spider Lily/[[アニプレックス]]・[[朝日放送テレビ|ABC]]アニメーション・[[日本BS放送|BS11]]}}</ref>
* 生年不明 - ルールー・アムール(愛のプリキュア:キュアアムール) 、アニメ『[[HUGっと!プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.co.jp/precure/hugtto/character/cureamour.html |title=キュアアムール(ルールーアムール) |work=『HUGっと!プリキュア』 |accessdate=27 Mar 2023 |publisher=[[朝日放送テレビ|ABC-A]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - チターナ、アニメ『[[ジュエルペット]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/jewelpet/ |title=マジカルレッド チターナ |access-date=17 Oct 2023 |publisher=[[サンリオ]] |work=『JEWELPET ジュエルペット』}}</ref>
* 生年不明 - [[ウーロン]]、漫画・アニメ『[[ドラゴンボール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 塩崎哲士、漫画・アニメ『[[SLAM DUNK]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=井上雄彦|authorlink=井上雄彦|title=[[SLAM DUNK]]|volume=23巻|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=1995|page=47|isbn=4-08-871843-7}}</ref>
* 生年不明 - 玉川よしお、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1175787091277623298}}</ref>
* 生年不明 - 本城狂死郎(黒板八郎)、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[山中いの]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year = 2002|title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-873288-X|page = 131 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=161|ISBN=4-08-873734-2}}</ref>
* 生年不明 - 奈良シカダイ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-|BORUTO-ボルト-NARUTO NEXT GENERSTION]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|nb_shinobizato|1308422562536357905}}</ref>
* 生年不明 - 高橋千秋(キャプテン)、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 奴良リクオ、漫画・アニメ『[[ぬらりひょんの孫]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 実渕玲央、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|911256110379569152}}</ref>
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* 生年不明 - 成海遥香、ゲーム・アニメ「[[バトルガールハイスクール]]」に登場するキャラクター<ref>電撃オンライン編集部『バトルガール ハイスクール 公式ビジュアルファンブック』KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2016年4月27日発売</ref><ref>{{Twitter status|bgirl_colopl|1043696455645646853}}</ref>
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* 生年不明 - 愛場純、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://idoljihen.jp/character/aiba-jun/ |title=福井県 愛馬 純 |access-date=27 Mar 2023 |publisher=[[MAGES.]] アイドル事変製作委員会 |work=『アイドル事変』}}</ref>
* 生年不明 - 初瀬麻里安、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/hase |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |title=初瀬 麻里安 |accessdate=27 Mar 2023 |website=公式サイト |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref>
* 生年不明 - クオ、ゲーム・アニメ『[[キラッとプリ☆チャン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#幽谷霧子|幽谷霧子]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinycolors.idolmaster.jp/idol/unit2/kiriko.html |title=幽谷霧子 (ゆうこくきりこ) |website=『THE IDOLM@STER シャイニーカラーズ』 |accessdate=27 Mar 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - エース・トラッポラ、ゲーム『[[ディズニー ツイステッドワンダーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://twisted-wonderland.aniplex.co.jp/character/ace |title=エース・トラッポラ |accessdate=17 Oct 2023 |publisher=[[Disney]] [[Aniplex]] |website=『Disney TWISTED WONDERLAND』}}</ref>
* 生年不明 - [[早坂絋平]]、ゲーム・アニメ『[[From ARGONAVIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://argo-bdp.com/character/fujin-rizing/#hayasaka |title=風神RIZIG! 早坂絋平 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=ARGONAVIS project [[ブシロード|bushiroad]] |work=『from ARGONAVIS』}}</ref>
* 生年不明 - 可憐、メディアミックス『[[シスター・プリンセス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.famitsu.com/news/201909/09182879.html |title=リリース 【シスプリ】『シスター・プリンセス』20周年! 可憐がVTuberとなって誕生日(9月23日)生配信を実施! |access-date=17 Oct 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |date=9 Sep 2019 |website=ファミ通.com}}</ref>
* 生年不明 - 管野直枝、メディアミックス『[[ストライクウィッチーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://w-witch.jp/brave_witches/character/ |title=CHARACTER 菅野直江 |access-date=17 Oct 2023 |publisher=[[島田フミカネ]]・[[KADOKAWA]]/第502統合戦闘航空団 |work=『第502統合戦闘航空団 ブレイブウィッチーズ』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8823%E6%97%A5 |
1,844 | 気象予報士 | 気象予報士(きしょうよほうし)は、日本の国家資格の一つで、気象業務法第3章の2に基づき、指定試験機関(気象業務法第24条の5、一般財団法人気象業務支援センター)が実施する知識及び技能についての試験(以下、気象予報士試験という)に合格した者(同法第24条の4)であって、気象庁長官による登録(同法第24条の20)を受けた者をいう。
1993年(平成5年)の気象業務法改正によって、気象庁以外の者に対する予報業務の許可が一般向け予報業務についても実施されることになった際、その予報業務の技術水準及び信頼性を担保するための予想担当者の技能試験として創設された。第1回試験は、1994年(平成6年)8月28日に実施されている。
気象庁長官の許可を受けて予報業務を行う予報業務許可事業者は、予報業務を行う事業所ごとに気象予報士を置かなければならず(同法19条の2)、予報業務のうち現象の予想については、気象予報士に行わせなければならない(同法19条の3)。
予報業務許可事業者は、一日当たりの現象の予想を行う時間に応じて、所要の人数の専任の気象予報士を置かなければならない(気象業務法施行規則第11条の2)。ただし、気象予報士と予報業務許可事業者との間に雇用などの専属の関係は必要ではなく、気象予報士は、複数の事業者のために現象の予想を行うこともできる。
ただし、2007年(平成19年)の気象業務法の改正により新たに許可されることになった地震動(緊急地震速報)および火山現象の予報業務については、気象予報士を置く必要はなく、これとは別に所定の技術基準に適合した方法により現象の予想を行うこととされている。
この資格が新設された当初、テレビの気象解説者が試験を受けて話題になったが、現象の予想を伴わない単なる天気解説(気象庁や気象予報会社の発表した予報を解説するだけ)には、気象予報士の資格は必要ないため、以前からお天気お姉さんと通称される女性キャスターが登用されることもあった(予報は日本気象協会の職員が行う)。NHK・民間放送とも、気象予報士の資格を持つアナウンサーもみられる。
自衛隊において気象予報士は、予報官として幹部任用資格となっている他、技術曹制度の対象でもある。
2021年(令和3年)3月12日現在、気象予報士名簿に登録された気象予報士の数は、10,840名となっている。男女比は男性 88%、女性12%。気象予報士のうち、予報業務許可事業者に就職している者は700名程度、そのうち現象の予想を担当しているのは400 - 450名程度とみられる。
一方、予報業務許可事業以外の業界において、多くの気象予報士が、経営判断のための気象情報の分析、報道・教育等用の気象コンテンツの作成等に携わっており、制度の目的外で活用される資格ともなっている。
気象予報士の団体として日本気象予報士会があるが、これは弁護士会などと違い、任意加入団体である。気象関連業務従事者の加入割合は少なく、また、活動のほとんどが同好会のような性格であることから、加入率は、4割を下回っている(詳しくは日本気象予報士会の項目参照)。
2021年(令和3年)4月現在の史上最年少合格者は、2017年(平成29年)に11歳11か月で合格した北海道北見市の小学6年生の女子で、4度目の受験で合格した。男性最年少は2021年(令和3年)に12歳0か月で合格した福岡市の小学6年生で、同じく4度目の受験での合格だった。最年長は1998年(平成10年)に74歳10か月で合格した元・高校教諭の男性。
上記のように保有資格者に対して、実際の民間気象業界で働いている割合はかなり低く、趣味性の高い資格という一面がある(介護福祉士や看護師のように所定課程や実務経験を必要とせずだれでも受験資格を得られるのもアマチュア要素を後押ししている)。また、合格率が低く、比較的難易度の高い資格ではあるものの、純粋に予報士として食べていく場合、業界の収入としては、けして芳しくない。これに関しては雇用形態が正社員より契約社員が一般的で、数少ない正社員雇用があったとしても、一般サラリーマンと比較しても待遇面で劣りやすい。
また、気象予報士資格創設当初は、気象庁の予報業務をなるべく民間気象会社(気象予報士)に譲り、気象庁は観測や調査に専念するという方向性を示していたが、依然として予報業務含めて、気象庁がほぼこの業界を独占的に扱っているため、民間気象業界の入る余地がほとんどない(民間気象会社も気象庁のデーターに頼り切りな部分がある≒気象予報士としての素養を生かしきれない。また、利用者も気象庁の情報のみで十分事足りてしまっている。)。さらに、昔から気象情報そのものが公益性が強く、テレビやラジオ(今はインターネットも)で無料で自由に情報を得て当然という背景がある。このため、わざわざ有料で気象情報を得ようとする顧客が少ない(収益化しにくい)というのも民間業界の業務・職場拡大や待遇向上しない一因となっている。以上の理由から、国家資格にもかかわらず、他の資格に比べて職業や生活の糧として結びつきづらい資格とも言われる。
前述した気象キャスターについては、気象予報士資格保有者もいるが、この資格すら保有していない者も一定数いる。気象業務法では、資格無保有者が独自で天気予報を立て、不特定多数に発表する事は禁じられているが、気象庁や民間気象会社が発表した予報を単に伝えたり解説をすることは資格がない者でもできるためである。このため、気象キャスターは気象のプロフェッショナルであるとは限らない。気象キャスターと気象予報士は、似て非なるものなので注意を要する。
気象予報士試験は8月と翌年1月の日曜日に一年度2回行われている。法律では年1回以上と定められているが、2020年(令和2年)現在、一年度2回が通例となっている。合格率は第1 - 4回頃まで現業の受験者が多かったことから高めに推移した(過去最高は第1回の18.0%)。その後は4 - 6%台で推移し、平均の合格率は約5%である。2012年(平成24年)8月の第38回(通回)試験において沖縄会場で実施予定の試験が台風15号の影響で同試験史上初の延期となった。
学科試験に合格して実技試験に不合格だった、または学科試験の一部のみ合格点を取った者は、その後1年間(試験2回)、合格点を取った試験が免除される。また、気象庁または自衛隊で予報の実務経験がある者などについても、学科試験の免除制度が用意されている。
(※ ただし、難易度により調整される場合がある)
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] | 気象予報士(きしょうよほうし)は、日本の国家資格の一つで、気象業務法第3章の2に基づき、指定試験機関(気象業務法第24条の5、一般財団法人気象業務支援センター)が実施する知識及び技能についての試験(以下、気象予報士試験という)に合格した者(同法第24条の4)であって、気象庁長官による登録(同法第24条の20)を受けた者をいう。 1993年(平成5年)の気象業務法改正によって、気象庁以外の者に対する予報業務の許可が一般向け予報業務についても実施されることになった際、その予報業務の技術水準及び信頼性を担保するための予想担当者の技能試験として創設された。第1回試験は、1994年(平成6年)8月28日に実施されている。 | {{law}}
{{資格
|名称 = 気象予報士
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|分野 = サービス・技能
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|特記事項 =
}}
'''気象予報士'''(きしょうよほうし)は、[[日本]]の[[資格#国家資格|国家資格]]の一つで、[[気象業務法]]第3章の2に基づき、指定試験機関([[気象業務法]]第24条の5、[[一般財団法人]][[気象業務支援センター]])が実施する知識及び技能についての試験(以下、'''[[気象予報士#国家試験|気象予報士試験]]'''という)に合格した者(同法第24条の4)であって、[[気象庁]]長官による登録(同法第24条の20)を受けた者をいう。
[[1993年]](平成5年)の気象業務法改正によって、気象庁以外の者に対する予報業務の許可が一般向け予報業務についても実施されることになった際、その予報業務の技術水準及び信頼性を担保するための予想担当者の技能試験として創設された。第1回試験は、[[1994年]](平成6年)[[8月28日]]に実施されている。
== 概要 ==
気象庁長官の[[許可]]を受けて予報業務を行う'''[[予報業務許可事業者]]'''は、予報業務を行う事業所ごとに気象予報士を置かなければならず(同法19条の2)、予報業務のうち現象の予想については、気象予報士に行わせなければならない(同法19条の3)。
予報業務許可事業者は、一日当たりの現象の予想を行う時間に応じて、所要の人数の専任の気象予報士を置かなければならない(気象業務法施行規則第11条の2)。ただし、気象予報士と予報業務許可事業者との間に雇用などの専属の関係は必要ではなく、気象予報士は、複数の事業者のために現象の予想を行うこともできる<ref group="注釈">[[2005年]](平成17年)[[12月]]の気象庁見解による。これに従うと、多人数の気象予報士を有する事業者が[[労働者派遣事業]]類似の行為を行いうるため、気象庁は、予報業務許可事業者が[[労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律|労働者派遣法]]の規制に抵触するような雇用形態をとらないよう指導している。</ref>。
ただし、[[2007年]](平成19年)の気象業務法の改正により新たに許可されることになった地震動([[緊急地震速報]])および火山現象の予報業務については、気象予報士を置く必要はなく、これとは別に所定の技術基準に適合した方法により現象の予想を行うこととされている。
この資格が新設された当初、テレビの気象解説者が試験を受けて話題になったが、現象の予想を伴わない単なる天気解説(気象庁や気象予報会社の発表した予報を解説するだけ)には、気象予報士の資格は必要ないため、以前からお天気お姉さんと通称される女性キャスターが登用されることもあった(予報は日本気象協会の職員が行う)。[[日本放送協会|NHK]]・[[民間放送]]とも、気象予報士の資格を持つ[[アナウンサー]]もみられる。
[[自衛隊]]において気象予報士は、予報官として幹部任用資格となっている他、[[技術曹]]制度の対象でもある。
[[2021年]](令和3年)3月12日現在、気象予報士名簿に登録された気象予報士の数は、10,840名となっている<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/minkan/yohoushi.html 気象庁|気象予報士について 2021年4月5日閲覧。]</ref>。男女比は男性 88%、女性12%<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/minkan/yohoushi_tyousakekka.pdf 気象予報士現況調査結果]</ref>。気象予報士のうち、予報業務許可事業者に就職している者は700名程度、そのうち現象の予想を担当しているのは400 - 450名程度とみられる<ref group="注釈">平成16年度の気象庁統計資料より推計。母集団に偏りがある可能性があり、許可事業者への就職者500名内外、予想の担当者300名弱、その他気象関連業務の従事者1,000名以下くらいではないかとの見方もある。</ref>。
一方、予報業務許可事業以外の業界において、多くの気象予報士が、経営判断のための気象情報の分析、報道・教育等用の気象コンテンツの作成等に携わっており、制度の目的外で活用される資格ともなっている。
気象予報士の団体として[[日本気象予報士会]]があるが、これは[[弁護士会]]などと違い、任意加入団体である。気象関連業務従事者の加入割合は少なく、また、活動のほとんどが同好会のような性格であることから、加入率は、4割を下回っている(詳しくは[[日本気象予報士会]]の項目参照)。
2021年(令和3年)4月現在の史上最年少合格者は、2017年(平成29年)に11歳11か月で合格した[[北海道]][[北見市]]の小学6年生の女子で、4度目の受験で合格した<ref>[https://web.archive.org/web/20180121222809/https://www.sanspo.com/geino/news/20171010/sot17101012300003-n1.html 11歳の女子、小学生で初の気象予報士合格 「雲はなぜ落ちてこない」がきっかけ]</ref>。男性最年少は2021年(令和3年)に12歳0か月で合格した[[福岡市]]の小学6年生で、同じく4度目の受験での合格だった<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/item/n/707540/ 気象予報士、12歳にサクラサク 小学生で九州初]</ref>。最年長は1998年(平成10年)に74歳10か月で合格した元・[[高等学校|高校]][[教諭]]の男性。
== 資格としての現状・実情 ==
上記のように保有資格者に対して、実際の民間気象業界で働いている割合はかなり低く、趣味性の高い資格という一面がある([[介護福祉士]]や[[看護師]]のように所定課程や実務経験を必要とせずだれでも受験資格を得られるのもアマチュア要素を後押ししている)。また、合格率が低く、比較的難易度の高い資格ではあるものの、純粋に予報士として食べていく場合、業界の収入としては、けして芳しくない。これに関しては雇用形態が正社員より契約社員が一般的で、数少ない正社員雇用があったとしても、賞与や昇給が望めなかったりなど一般サラリーマンと比較しても待遇面で劣りやすい。
また、気象予報士資格創設当初は、気象庁の予報業務をなるべく民間気象会社(気象予報士)に譲り、気象庁は観測や調査に専念するという方向性を示していたが、依然として予報業務含めて、気象庁がほぼこの業界を独占的に扱っているため、民間気象業界の入る余地がほとんどない(民間気象会社も気象庁のデーターに頼り切りな部分がある≒気象予報士としての素養を生かしきれない。また、利用者も気象庁の情報のみで十分事足りてしまっている。)。さらに、昔から気象情報そのものが防災・人命に関与するため公益性が強く、テレビやラジオ(今はインターネットも)で無料で自由に情報を得て当然という背景。あるいは、旧来の気象予報は技術精度が低く、人力で頼る部分があり、予報官が[[地上天気図]]、[[高層天気図]]、[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]などの[[気象衛星]]画像、気象専門知識を駆使し熟練性を要する気象を占う面があったが、今現在はGPVなどの[[スーパーコンピュータ|スーパーコンピューター]]がはじき出した多様な気象モデルや[[気象レーダー]]などの[[数値予報天気図|数値予報]]がネット上で多彩に無償提供されており<ref>{{Cite web |title=最新AIモデルで変わる気象予報、3時間先の豪雨も予測 |url=https://www.technologyreview.jp/s/311809/new-ai-systems-could-speed-up-our-ability-to-create-weather-forecasts/ |website=MITテクノロジーレビュー |access-date=2023-11-25 |language=ja}}</ref>、素人でも手軽にピンポイント予報さえ手に取れる時代となっている。気象予報も気象庁、民間気象会社関わらず、基本的にそれらのデーターを利用している。予報士の仕事は予報を練り上げる事より、数値予報やガイダンス予報で自動的にはじき出されたデーターを拾い上げ、整えて、利用者に提供するという橋渡し役割が大きくなっている。そのため、皮肉にも現業の気象予報は旧来に比べて気象予報士資格で獲得した気象知識を発揮する場が失われつつある<ref>{{Cite web |title=気象予報士 VS AI? ~AI時代の気象予報士~ {{!}} NHK |url=https://www.nhk.or.jp/matsuyama/lreport/article/000/31/ |website=NHK松山放送局 |access-date=2023-11-25 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。
これらの要素が作用し、わざわざ有料で気象情報を得ようとする顧客が少ない(収益化しにくい)というのも民間業界の業務・雇用拡大や待遇向上しない一因となっている。以上の理由から、国家資格にもかかわらず、他の資格に比べて職業や生活の糧として結びつきづらい資格とも言われる<ref>{{Cite web |title=超難関「気象予報士」は実際使える資格なのか |url=https://toyokeizai.net/articles/-/162015 |website=東洋経済オンライン |date=2017-03-10 |access-date=2023-09-28 |language=ja}}</ref>。
前述した気象キャスターについては、気象予報士資格保有者もいるが、この資格すら保有していない者も一定数いる。[[気象業務法]]では、資格無保有者が独自で天気予報を立て、不特定多数に発表する事は禁じられているが、気象庁や民間気象会社が発表した予報を単に伝えたり解説をすることは資格がない者でもできるためである。このため、気象キャスターは気象のプロフェッショナルであるとは限らない。気象キャスターと気象予報士は、似て非なるものなので注意を要する<ref>{{Cite web |title=気象予報士制度は必要か?「予報士1万人」時代の気象業界を考える(1)(片平敦) - エキスパート |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/27844dc072deb458a9a2752db37e34621c4b4cf3 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-11-25 |language=ja}}</ref>。
== 国家試験 ==
'''気象予報士試験'''は8月と翌年1月の日曜日に一年度2回行われている。法律では年1回以上と定められているが、2020年(令和2年)現在、一年度2回が通例となっている。合格率は第1 - 4回頃まで現業の受験者が多かったことから高めに推移した(過去最高は第1回の18.0%)。その後は4 - 6%台で推移し、平均の合格率は約5%である。2012年(平成24年)8月の第38回(通回)試験において沖縄会場で実施予定の試験が[[平成24年台風第15号|台風15号]]の影響で同試験史上初の延期となった。
=== 受験資格 ===
* 制限なし(年齢・学歴等に関係なく受験可能であるが、気象業務法による処分を受けた場合を除く)
=== 試験科目 ===
* 学科試験(多肢選択式)
*# 予報業務に関する一般知識(60分間)
*## 大気の構造
*## 大気の熱力学
*## 降水過程
*## 大気における放射
*## 大気の力学
*## 気象現象
*## 気候の変動
*## 気象業務法その他の気象業務に関する法規
*# 予報業務に関する専門知識(60分間)
*## 観測の成果の利用
*## 数値予報
*## 短期予報・中期予報<ref group="注釈" name="wp3">中期予報及び長期予報は、これらを予報業務許可事業者が行えるようにする[[規制緩和]]の実施後、[[2000年]]度第2回試験から追加された。</ref>
*## 長期予報<ref group="注釈" name="wp3" />
*## 局地予報
*## 短時間予報
*## 気象災害
*## 予想の精度の評価
*## 気象の予想の応用
* 実技試験1、2(記述式)…各75分間
*# 気象概況及びその変動の把握
*# 局地的な気象の予想
*# 台風等緊急時における対応
学科試験に合格して実技試験に不合格だった、または学科試験の一部のみ合格点を取った者は、その後1年間(試験2回)、合格点を取った試験が免除される。また、気象庁または[[自衛隊]]で予報の実務経験がある者などについても、学科試験の免除制度が用意されている。
=== 合格基準 ===
* 学科試験(予報業務に関する一般知識):15問中正解が11以上
* 学科試験(予報業務に関する専門知識):15問中正解が11以上
* 実技試験:総得点が満点の70%以上
(※ ただし、難易度により調整される場合がある)
=== 試験地 ===
[[北海道]]・[[宮城県]]・[[東京都]]・[[大阪府]]・[[福岡県]]・[[沖縄県]]の6都道府県で行われる。なお、一つの試験地で試験会場は複数ある場合がある。
=== 試験手数料 ===
* 免除科目なし - 11,400円
* 学科一科目が免除 - 10,400円
* 学科二科目が免除 - 9,400円
== 著名人の合格者 ==
{{seealso|Category:気象予報士}}
*[[石原良純]] - タレント
*[[三浦奈保子]] - タレント
*[[小林豊 (アナウンサー)|小林豊]] - TBS社員、元アナウンサー
*[[市川寛子]] - テレビ朝日社員、元アナウンサー
*[[窪塚俊介]] - 俳優
*[[片岡信和]] - 俳優
*[[清原博]] - [[渉外弁護士|国際弁護士]]
*[[泉麻人]] - コラム二スト
*[[桂文之助 (3代目)|3代目桂文之助]] - 落語家
*[[春風亭昇吉]] - 落語家
*[[春日萌花]] - プロレスラー
*[[武藤十夢]] - [[AKB48]]
*[[阿部亮平 (アイドル)|阿部亮平]] - ジャニーズ事務所「[[Snow Man]]」
*[[矢部太郎]] - お笑い芸人「[[カラテカ (お笑いコンビ)|カラテカ]]」
*藤井ペイジ - お笑い芸人「[[飛石連休 (お笑いコンビ)|飛石連休]]」
*[[白坂みあん]] - [[AV女優]]
*[[南雲穂波]] - 名古屋テレビアナウンサー
*[[桜沢信司]] - CBCテレビ社員、元アナウンサー
*[[沢朋宏]] - CBCテレビアナウンサー
*[[古川枝里子]] - CBCテレビアナウンサー
*[[磯貝初奈]] -フリーアナウンサー、 元・中京テレビアナウンサー
*[[福島智之]] - 東海テレビアナウンサー
*[[山岸愛梨]] - [[ウェザーニューズ]]キャスター
*[[緑川貴士]] - [[衆議院議員]]、元アナウンサー
*[[中本栞菜]] - 7代目[[有田みかん]]大使、元[[中部ケーブルネットワーク]]キャスター
* [[佐藤政樹]] - 人材育成トレーナー。『[[劇団四季]]』時代には『[[人間になりたがった猫]]』で主役のライオネル役を務める。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks|気象予報士試験}}
* [[天気予報]]
* [[予報業務許可事業者]]
* [[気象業務法]]
* [[気象学者]] - 予報ではなく研究に従事している
* [[日本の歴史・地理に関する資格一覧]]
* [[まんてん]]
* [[おかえりモネ]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jma.go.jp/jma/index.html 気象庁ホームページ]
* [http://www.jmbsc.or.jp/jp/ 一般財団法人気象業務支援センター]
* {{コトバンク}}
{{国土交通省所管の資格・試験}}
{{DEFAULTSORT:きしようよほうし}}
[[Category:気象庁]]
[[Category:気象事業]]
[[Category:気象予報士|*]]
[[Category:日本の国家資格]]
[[Category:名称独占資格]]
[[Category:地理の資格]] | 2003-02-15T16:26:13Z | 2023-11-26T02:05:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E8%B1%A1%E4%BA%88%E5%A0%B1%E5%A3%AB |
1,845 | 2100年代 | 2100年代(にせんひゃくねんだい)は、
この項目では、国際的な視点に基づいた2100年代について記載する。
現時点ではこの時代がどのようなものになるかを決定することは極めて困難である。よって確実に起こると予測される事象はごく限られたものとなっている。
21世紀初頭において、同世紀の最終年にあたる2100年頃を目安にした様々な予測が出されている。 | [
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] | 2100年代(にせんひゃくねんだい)は、 西暦(グレゴリオ暦)2100年から2109年までの10年間を指す十年紀。本項で詳述する。
西暦2100年から2199年までの100年間を指す。22世紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。 この項目では、国際的な視点に基づいた2100年代について記載する。 | {{出典の明記|date=2015-09}}
{{Decadebox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 22 | 年代 = 2100| 年 = 2100}}
'''2100年代'''(にせんひゃくねんだい)は、
# [[西暦]]([[グレゴリオ暦]])2100年から2109年までの10年間を指す[[十年紀]]。'''本項で詳述する'''。
# 西暦2100年から2199年までの100年間を指す。[[22世紀]]とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。<!--[[2101年]][[1月1日]]から[[2200年]][[12月31日]]までは、[[22世紀]]である。-->
この項目では、国際的な視点に基づいた2100年代について記載する。
== 予定・予測される主な出来事 ==
現時点ではこの時代がどのようなものになるかを決定することは極めて困難である。よって確実に起こると予測される事象はごく限られたものとなっている。
=== 2100年頃を目安にした予測 ===
{{seealso|21世紀#21世紀に関する予測}}
[[21世紀]]初頭において、同世紀の最終年にあたる2100年頃を目安にした様々な予測が出されている。
* [[人口]]に関する予測([[国際連合経済社会局]]による「世界人口推計2019年版」の中位推計値<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/33798/ |title=世界人口推計2019年版:要旨 10の主要な調査結果(日本語訳) |date=2019/07/02 |accessdate=2020/11/10 |website=[[国際連合]]広報センター}}</ref>)
** この頃の[[世界人口]]は約110億人となる。
** [[日本]]の人口が約7,500万人にまで減少する可能性がある<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM6J7JHXM6JUHBI018.html 日本の人口、2100年に7500万人 減少見通し加速] - 朝日新聞デジタル (2019年6月18日)</ref>。<!--[[高齢者]]の割合がピークの1%以上減少する。[[大韓民国]]、[[香港]]、[[台湾]]の高齢者の割合を下まわる。-->
* [[気候変動]]に関する予測([[気候変動に関する政府間パネル]](IPCC)の報告に基づくシミュレーション結果)
** [[地球]]の平均[[気温]]は21世紀初頭と比較して3℃上昇する([[地球温暖化]])。高[[緯度]]の地域ほど上昇幅が大きい。
** 日本では、[[東京]]・[[北陸地方|北陸]]の[[気温#気温に関する用語|真夏日]]が21世紀初頭よりも100日以上増加する。
** [[海面上昇|海水面の上昇]]により、[[ツバル]]や[[モルディブ]]が水没。多数の[[環境難民]]が発生する。
** [[アマゾン熱帯雨林]]の[[草原]]化が進行する。
=== その他 ===
* 2107年[[12月31日]] - [[FAT12]]から[[exFAT]]までの[[File Allocation Table|FAT]]シリーズの[[日付]]の許容範囲を超える。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
* [[十年紀の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
{{世紀と十年紀|千年紀=3|世紀=21|年代=2000}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2100%E5%B9%B4%E4%BB%A3 |
1,846 | 鮎川哲也 | 鮎川 哲也(あゆかわ てつや、1919年2月14日 - 2002年9月24日)は、日本の小説家。本名、中川 透(なかがわとおる)。東京府に生まれ、大連に育つ。拓殖大学商学部卒。
アリバイ崩しを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』『人それを情死と呼ぶ』など、鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。ほか『りら荘事件』『死者を笞打て』などの長編小説や多数の短編小説を執筆し、さらにはアンソロジーの編纂や、新人の育成などにも力を尽くした。
1919年2月14日、東京府巣鴨に生まれた。父が南満州鉄道地質調査所の測量技師となったため、小学3年生のときに一家で満州大連に移り住み、旧制中学を卒業するまでここで過ごした。東京の音楽関係の上級学校に進学するが、肋膜炎を患い退学し満州に戻る。1938年、拓殖大学予科に入り、商学部に進むが、病のため満州に戻ることが多かった。この間に推理小説を読み始め、クロフツの『ポンスン事件』に影響され、『ペトロフ事件』を書きあげたが、原稿は引き上げの際に紛失してしまった。1944年、父の定年退職に伴い東京に戻るが、戦禍に遭い九州に疎開。
戦後に上京し、GHQ勤務のかたわら、那珂川透、薔薇小路棘麿、青井久利、中河通、宇田川蘭子など多数の筆名で雑誌に投稿。1948年、『ロック』1月号に「月魄」(那珂川透名義)、8月号に「蛇と猪」(薔薇小路棘麿名義)を発表。1950年、『宝石』100万円懸賞の長篇部門に『ペトロフ事件』(本名の中川透名義)が第一席で入選し、本格デビューしたが、出版社との関係がこじれ、この作品は出版されなかった。1956年、公募で充てることになった講談社の『書下ろし長篇探偵小説全集』第13巻に、『黒いトランク』を応募し、当選。筆名を鮎川哲也に改める。この2作で探偵役を務める鬼貫警部は、主にアリバイ・トリックを主眼とした小説で活躍する。
1959年に、星影龍三が登場する『りら荘事件』を発表。 1960年には、『憎悪の化石』と『黒い白鳥』により、第13回日本探偵作家クラブ賞を受賞。社会派推理小説が主流となる中で、松本清張の『点と線』を意識して『人それを情死と呼ぶ』(1961年)を書くなど、寡作ながらも以後も一貫して本格推理小説を書き続ける。1972年から、銀座・三番館のバーテンを探偵役としたシリーズを開始。1964年に推理作家の芦川澄子と結婚、3年後に離婚したものの、のちに復縁した。
1955年発表(中川透名義、未完)の少年物『魔人鉄仮面』では、藤巻探偵と助手のアキラ君が登場。両者は以後鮎川作品の少年物では複数回登場する。鮎川名義での再デビュー初期には、鳥羽ひろし君シリーズ、三吉少年シリーズ、一夫と豪助シリーズなど少年物の執筆量が大人向けよりも多かった時期もある。
創作以外にも、アンソロジーの編纂を通して、戦前の作家・作品を発掘。また後進の育成にも力を入れ、1988年には自らのデビューに倣い、東京創元社から「鮎川哲也と十三の謎」と題したシリーズを刊行し、若手作家に発表の場を与えた。第12巻として予告された新作『白樺荘事件』の刊行が期待されていたが、未完となった。1990年に、東京創元社主催の長編推理小説新人賞である鮎川哲也賞が創設される。1993年からは、『本格推理』の編集長として、新人作家の発掘に尽力した。クラシックを中心に音楽にも造詣が深く、唱歌の作詞・作曲者を訪ねるエッセイ集『唱歌のふるさと』がある。
2001年に、本格推理小説への多大な貢献を評価され、第1回本格ミステリ大賞特別賞を受賞。翌年9月24日に、83歳で死去した。没後、第6回日本ミステリー文学大賞を贈られた。 | [
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] | 鮎川 哲也は、日本の小説家。本名、中川 透(なかがわとおる)。東京府に生まれ、大連に育つ。拓殖大学商学部卒。 アリバイ崩しを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』『人それを情死と呼ぶ』など、鬼貫警部を探偵役とする本格推理小説を発表。ほか『りら荘事件』『死者を笞打て』などの長編小説や多数の短編小説を執筆し、さらにはアンソロジーの編纂や、新人の育成などにも力を尽くした。 | {{出典の明記|date=2017年10月}}
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|birth_name=中川 透
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|caption = <small>『新日本文学全集 第2巻』([[集英社]]、1965年2月)</small>
|birth_date=[[1919年]][[2月14日]]
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{{読み仮名_ruby不使用|'''鮎川 哲也'''|あゆかわ てつや|[[1919年]][[2月14日]] - [[2002年]][[9月24日]]}}は、[[日本]]の[[小説家]]。本名、{{読み仮名_ruby不使用|中川 透|なかがわとおる}}。[[東京府]]に生まれ、[[大連市|大連]]に育つ。[[拓殖大学]]商学部卒。
アリバイ崩しを得意とし、『ペトロフ事件』『黒いトランク』『人それを情死と呼ぶ』など、[[鬼貫警部]]を探偵役とする本格推理小説を発表。ほか『りら荘事件』『死者を笞打て』などの長編小説や多数の短編小説を執筆し、さらには[[アンソロジー]]の編纂や、新人の育成などにも力を尽くした。
==経歴==
1919年2月14日、[[東京府]][[巣鴨]]に生まれた。父が[[南満州鉄道]]地質調査所の測量技師となったため、小学3年生のときに一家で[[満州]][[大連市|大連]]に移り住み、旧制中学を卒業するまでここで過ごした。東京の音楽関係の上級学校に進学するが、肋膜炎を患い退学し満州に戻る。1938年、[[拓殖大学]]予科に入り、商学部に進むが、病のため満州に戻ることが多かった。この間に推理小説を読み始め、[[F・W・クロフツ|クロフツ]]の『ポンスン事件』に影響され、『ペトロフ事件』を書きあげたが、原稿は引き上げの際に紛失してしまった。1944年、父の定年退職に伴い東京に戻るが、戦禍に遭い九州に疎開。
戦後に上京し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]勤務のかたわら、那珂川透、薔薇小路棘麿、青井久利、中河通、宇田川蘭子など多数の筆名で雑誌に投稿。1948年、『ロック』1月号に「月魄」(那珂川透名義)、8月号に「蛇と猪」(薔薇小路棘麿名義)を発表。1950年、『[[宝石 (雑誌)|宝石]]』100万円懸賞の長篇部門に『ペトロフ事件』(本名の中川透名義)が第一席で入選し、本格デビューしたが、出版社との関係がこじれ<ref group="注釈">『宝石』の発行元である岩谷書店の経営不振により賞金の支払いは棚上げされた。しかし鮎川は当時結核の治療費の支払いに窮していたため、頑強に賞金を請求。このことが岩谷満社長の怒りを買い、鮎川はその後長きにわたって『宝石』から締め出された([[山村正夫]]『推理文壇戦後史』による{{要ページ番号|date=2017年10月}})。</ref>、この作品は出版されなかった。1956年、公募で充てることになった[[講談社]]の『書下ろし長篇探偵小説全集』第13巻に、『黒いトランク』を応募し、当選。筆名を鮎川哲也に改める<ref group="注釈">鮎川は「この作品で受賞できなければ首を括ろうと思っていた」という([[有栖川有栖]]『有栖の乱読』による{{要ページ番号|date=2017年10月}})。</ref>。この2作で探偵役を務める[[鬼貫警部]]は、主にアリバイ・トリックを主眼とした小説で活躍する。
1959年に、星影龍三が登場する『りら荘事件』を発表。 1960年には、『憎悪の化石』と『黒い白鳥』により、第13回[[日本推理作家協会賞|日本探偵作家クラブ賞]]を受賞。社会派推理小説が主流となる中で、[[松本清張]]の『[[点と線]]』を意識して『人それを情死と呼ぶ』(1961年)を書くなど、寡作ながらも以後も一貫して本格推理小説を書き続ける。1972年から、銀座・三番館のバーテンを探偵役としたシリーズを開始。1964年に推理作家の芦川澄子と結婚、3年後に離婚したものの、のちに復縁した。
1955年発表(中川透名義、未完)の少年物『魔人鉄仮面』では、藤巻探偵と助手のアキラ君が登場。両者は以後鮎川作品の少年物では複数回登場する。鮎川名義での再デビュー初期には、鳥羽ひろし君シリーズ、三吉少年シリーズ、一夫と豪助シリーズなど少年物の執筆量が大人向けよりも多かった時期もある。
創作以外にも、アンソロジーの編纂を通して、戦前の作家・作品を発掘。また後進の育成にも力を入れ、1988年には自らのデビューに倣い、[[東京創元社]]から「[[鮎川哲也と十三の謎]]」と題したシリーズを刊行し、若手作家に発表の場を与えた。第12巻として予告された新作『白樺荘事件』の刊行が期待されていたが、未完となった。1990年に、東京創元社主催の長編推理小説新人賞である[[鮎川哲也賞]]が創設される。1993年からは、『[[本格推理 (光文社文庫)|本格推理]]』の編集長として、新人作家の発掘に尽力した。クラシックを中心に音楽にも造詣が深く、唱歌の作詞・作曲者を訪ねるエッセイ集『唱歌のふるさと』がある。
2001年に、本格推理小説への多大な貢献を評価され、第1回[[本格ミステリ大賞]]特別賞を受賞。翌年9月24日に、83歳で死去した。没後、第6回[[日本ミステリー文学大賞]]を贈られた。
==主要作品==
===全集===
*鮎川哲也長編推理小説全集(全6巻/1975年 - 1976年、[[立風書房]])<ref group="注釈" name="zenshu">「全集」と銘打っているが、実際には(刊行時までに発表された)全作品を収録しているわけではない。巻末に作者による「創作ノート」を収録。</ref>
#黒いトランク(ペトロフ事件 / 赤い密室 / 黒いトランク)
#憎悪の化石(りら荘事件 / 憎悪の化石)
#黒い白鳥(黒い白鳥 / 人それを情死と呼ぶ)
#砂の城(砂の城 / 偽りの墳墓)
#死のある風景(死のある風景 / 宛先不明)
#風の証言(積木の塔 / 風の証言 / 達也が嗤う:犯人当て小説)
*鮎川哲也短編推理小説選集(全6巻/1978年 - 1979年、[[立風書房]])<ref group="注釈" name="zenshu" />
#五つの時計
#青い密室
#プラスチックの塔
#黒い版画
#新赤髪連盟
#写楽が見ていた
===鬼貫警部もの===
====長編====
*[[ペトロフ事件]](1950年4月、『別冊宝石』/1960年11月、光風社) - 鮎川が影響を受けた作家・[[F・W・クロフツ|クロフツ]]の「ポンスン事件」を連想させる表題<ref group="注釈">「ペトロフ事件」(立風書房 1975){{要ページ番号|date=2017年10月}}解説など{{要説明|date=2017年10月}}</ref>。初出時は「中川透」名義
*黒いトランク(1956年7月、[[講談社]]〈書下ろし長篇小説全集〉) - 前作に続いて、クロフツ「[[樽 (推理小説)|樽]]」を思わせる趣向。
*黒い白鳥(1959年7月 - 12月、『宝石』/1960年2月、[[講談社]])
*憎悪の化石(1959年11月、[[講談社]]〈書下ろし長編推理小説シリーズ〉)
*人それを情死と呼ぶ(1961年6月、東都書房〈東都ミステリー〉)
*砂の城(1963年4月、[[中央公論社]])
*偽りの墳墓(1963年7月、[[文藝春秋|文藝春秋新社]]〈ポケット文春〉
*死のある風景(1965年1月、[[講談社]])
*宛先不明(1965年7月、[[学研ホールディングス|学習研究社]]〈ガッケン・ブックスミステリー〉)
*準急ながら(1966年6月、[[文藝春秋]]〈ポケット文春〉)
*積木の塔(1966年12月、[[読売新聞社]]〈新本格推理小説全集〉)
*鍵孔のない扉(1969年6月、[[光文社]]〈カッパ・ノベルス〉)
*風の証言(1971年11月、[[毎日新聞社]])
*戌神はなにを見たか(1976年2月、[[講談社]]〈推理小説特別書下ろしシリーズ〉)
*沈黙の函(1978年1月 - 5月、「蝋の鶯」として『小説宝石』/1979年3月、[[光文社]]〈カッパ・ノベルス〉)
*王を探せ(1979年4月、「王」として『野性時代』/1981年12月、[[角川書店]]〈カドカワ・ノベルズ〉)
*死びとの座(1982年10月 - 1983年5月、『[[週刊新潮]]』/1983年12月、[[新潮社]])
====中編====
*城と塔 1971
====短編====
*楡の木荘の殺人 1951
*悪魔が笑う 1951
*碑文谷事件 1955
*1時10分 (一時十分) 1956
*白昼の悪魔 1956
*誰の屍体か 1957 春陽文庫、1960
*五つの時計 1957
*早春に死す 1958
*愛に朽ちなん 1958
*見えない機関車 - 二ノ宮心中 1958
*不完全犯罪 1960
*急行出雲 1960
*死のある風景 1961
*下り"はつかり" 講談社 1962
*古銭 1962
*偽りの墳墓 1962
*わるい風 1963
*暗い穽 1964
*金貨の首飾りをした女 1966
*夜の訪問者 1967
*いたい風 1969
*殺意の餌 1970
*MF計画 1974
*まだらの犬 1975
====倒叙====
*青いエチュード 1956 - 最初の[[倒叙]]もの短編。数度にわたり映像化。
*首 1976 - テレビドラマ「[[チェックメイト78]]」の一作として映像化。
===星影龍三もの===
====長編====
*りら荘事件(1956年9月 - 1957年12月、『探偵実話』/1958年8月、光風社) - 星影龍三もの長編の代表作。{{要出典|date=2017年10月}}
*白の恐怖(1959年12月、[[桃源社]]〈書下ろし推理小説全集〉)
*朱の絶筆(1976年1月 - 1977年1月、『[[幻影城 (雑誌)|幻影城]]』/1979年7月、[[祥伝社]]〈ノン・ノベル〉)
====中短編====
*呪縛再現 1953
*赤い密室(「青い密室」雄山閣出版 1961)
*黄色い悪魔
*消えた奇術師
*白い密室、[[講談社]]、1958
*怪塔記
*道化師の檻
*薔薇荘殺人事件
*悪魔はここに
*青い密室
*砂とくらげと 1961
===三番館シリーズ===
*太鼓叩きはなぜ笑う(Wisdom of the Nameless Bartender) 徳間書店[[トクマ・ノベルズ]]、1974 のち文庫、[[創元推理文庫]]<ref group="注釈">創元推理文庫版では、「竜王氏の不吉な旅」を追加収録</ref>、2003年
**春の驟雨
**新ファントム・レディ
**白い手黒い手
**太鼓叩きはなぜ笑う
*サムソンの犯罪(Advice of the Nameless Bartender) 徳間書店トクマ・ノベルズ、1976 のち文庫、創元推理文庫、2003年
**中国屏風
**割れた電球
**菊香る
**屍衣を着たドンホァン
**走れ俊平
**分身
**サムソンの犯罪
*ブロンズの使者(Intelligence of the Nameless Bartender) 徳間書店トクマ・ノベルズ、1984 のち文庫、創元推理文庫、2003年
**ブロンズの使者 1984
**夜の冒険 1976
**百足
**相似の部屋
**マーキュリーの靴 1980
**塔の女 1982
*材木座の殺人 双葉書房フタバ・ノベルズ、1986、創元推理文庫、2003年
**棄てられた男
**人を呑む家
**同期の桜
**青嵐荘事件
**停電にご注意
**材木座の殺人
*クイーンの色紙 光文社文庫、1987、創元推理文庫、2003年
**秋色軽井沢
**X・X - ダイイングメッセージもの
**クイーンの色紙
**タウン・ドレスは赤い色
**鎌倉ミステリーガイド
*モーツァルトの子守歌 立風書房、1992、のち文庫、創元推理文庫、2003年
**クライン氏の肖像
**ジャスミンの匂う部屋
**写楽昇天
**人形の館
**死にゆく者の……
**風見氏の受難
**モーツァルトの子守歌
===その他===
====長編====
*翳ある墓標(1962年7月、早川書房〈日本ミステリ・シリーズ〉)
*死者を笞打て(1964年1月 - 5月、『宝石』/1965年8月、講談社)
====中短編====
*ポロさん 1943
*月魄 1948
*蛇と猪 1948
*地虫 1949
*雪姫 1951
*影法師 1954
*山荘の一夜 1954
*ダイヤルMを廻せ 1954
*朝めしご用心 1954
*アトランタ姫 1956
*甌 1956
*最後の接吻 1956
*退屈なエマ子 1956
*アドバルーン殺人事件 1956
*海辺の悲劇 弥生書房、1960
*達也が嗤う(「薔薇荘殺人事件」[[講談社]] 1960)
*矛盾する足跡 1969
*砂の時計 [[毎日新聞社]] 1974
*茜荘事件
*ブロンズの使者 - 同タイトルの三番館シリーズ「ブロンズの使者」のオリジナル短編。
====倒叙(鮎川哲也のチェックメイト)====
*黒い蹉跌 [[光文社]]
*白い陥穽 光文社
**北の女 1966 - テレビドラマ「チェックメイト78」の一作として映像化。
**小さな孔 1968 - 同上。
**蟻 1968 - 同上。
**わらべは見たり 1971 - 同上。
===ジュブナイル===
*魔人鉄仮面 1955 - 中川透名義、未完
*悪魔博士 1958 (1988年、光文社文庫) - 児童向けミステリの長編。
*鳥羽ひろし君の推理ノート 1959 - 短編集。
===リレー作品===
*ジュピター殺人事件(1954年5月、『密室』/他の執筆者は藤雪夫と[[狩久]])
*密室の妖光(「解決編」を担当、「問題編」は大谷洋太郎)
===編書・アンソロジー===
*こんな探偵小説が読みたい(1992年9月、[[晶文社]])
*怪奇探偵小説集全3巻(1983~84年[[双葉文庫]]、1998年に[[ハルキ文庫]]より復刊)
===エッセイ集===
====推理小説関係====
*幻の探偵作家を求めて(1985年10月、[[晶文社]])
*本格ミステリーを楽しむ法(1986年9月、[[晶文社]])
====音楽関係====
*唱歌のふるさと 花(1992年5月、[[音楽之友社]]〈music gallery〉)
*唱歌のふるさと 旅愁(1993年12月、[[音楽之友社]]〈music gallery〉)
*唱歌のふるさと うみ(1995年9月、[[音楽之友社]]〈music gallery〉)
===翻訳===
*C・デイリー・キング『鉄路のオベリスト』(1981年1月 - 7月、『EQ』/1983年、[[光文社]]〈カッパ・ノベルス〉)
==映像化作品==
===テレビドラマ===
;[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系
:*スリラー劇場 夜のプリズム
:**青いエチュード(1959年3月4日、主演:[[高木二朗]])
:*[[火曜サスペンス劇場]]
:**[[刑事・鬼貫八郎]](1993年3月9日 - 2005年9月20日、全18回、主演:[[大地康雄]])
:
;[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系
:*スリラー劇場
:**青いエチュード(1960年1月9日 - 1月16日、全2話、主演:千典子)
:**五つの時計(1960年2月6日 - 2月13日、全2話、主演:不破潤)
:**他殺にしてくれ(1961年3月30日 - 4月6日、全2話、主演:[[臼井正明]])
:**悪魔はここに(1961年7月20日 - 7月27日、全2話、主演:[[山本礼三郎]])
:*ライオン午後のサスペンス
:**疑惑の女(1983年10月31日 - 1983年12月2日、全25話、主演:[[早乙女愛]]、原作:人それを情死と呼ぶ)
:
;[[日本放送協会|NHK]]
:*灰色のシリーズ
:**急行出雲(1960年9月21日 - 9月28日、全2話、主演:[[安井昌二]])
:
;[[TBSテレビ|TBS]]系
:*[[グリーン劇場]]
:**人それを情死と呼ぶ(1961年3月11日、主演:[[三ツ矢歌子]])
:*[[月曜ドラマスペシャル]]
:**人それを情死と呼ぶ(1996年6月24日、主演:[[栗原小巻]])
:
;[[テレビ朝日]]系
:*[[ミステリーベスト21]]
:**人それを情死と呼ぶ(1962年10月26日、主演:中川弘子)
:*[[土曜ワイド劇場]]
:**人それを情死と呼ぶ(1977年11月12日、主演:[[佐久間良子]])
:**喪服を着た花嫁(1990年11月3日、主演:[[若村麻由美]]、原作:鍵孔のない扉)
:*[[チェックメイト78]](1978年10月6日 - 1979年3月9日、全22話、主演:[[松方弘樹]])
==参考文献==
*[[芦辺拓]]・[[有栖川有栖]]・[[二階堂黎人]]編『鮎川哲也読本』(1998年9月、[[原書房]])
*[[山前譲]]編『本格一筋六十年 想い出の鮎川哲也』(2002年12月、[[東京創元社]])
==脚注==
<references group="注釈"/>
==外部リンク==
*[http://www.tsogen.co.jp/wadai/0211_02.html 本格一筋六十年・想い出の鮎川哲也] - 東京創元社
*[http://www.tsogen.co.jp/ayukawasho/index.html 鮎川哲也賞]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あゆかわ てつや}}
[[Category:鮎川哲也|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の推理作家]]
[[Category:日本推理作家協会賞受賞者]]
[[Category:本格ミステリ大賞受賞者]]
[[Category:拓殖大学出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1919年生]]
[[Category:2002年没]] | 2003-02-15T16:35:19Z | 2023-11-10T03:23:49Z | false | false | false | [
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1,847 | 21エモン |
『21エモン』(にじゅういちエモン)は、藤子不二雄の藤本弘(独立後の名義は藤子・F・不二雄)による日本の少年SF漫画。
『週刊少年サンデー』(小学館)1968年1号から1969年6号まで、増刊掲載も含め全55話を連載。その後、映画化やテレビアニメ化など、各種メディアに展開された。
藤子不二雄の1人、藤本弘の単独執筆作品。
藤本は「これまで日常の舞台にオバケやスーパーマンなどの「非日常」が入り込むことで生まれるギャップの面白さを描いてきたが、ひとつその逆をやってみようと思い、この21エモンを描きました。つまり未来という「非日常」を舞台に、今に通じる日常を描くことで新たな面白さが生まれると思ったからです」と、本作のコンセプトを後日述懐している。
藤本が珍しく「楽しんで描いた」と語る作品だったが、ギャグで人気を博した当時の藤子作品とは異なり、連載当時の評価は芳しくなく、『オバケのQ太郎』から『ウメ星デンカ』までの『週刊少年サンデー』連載作品で唯一、連載中のアニメ化が実現しなかった。
『週刊少年サンデー』連載版は、1976年頃、『朝日小学生新聞』に再録連載されたが、いくつかの回の掲載順に混乱が見られる。
1977年、てんとう虫コミックスで単行本化された頃から、次第に再評価されるようになり、1981年にはアニメ映画化され、『月刊コロコロコミック』に新作漫画が読切掲載された。1991年には、連載から22年もの歳月を経てテレビアニメ化された。掲載誌の性格や連載終了で使えなかったアイデアのいくつかは、同じコンセプトの『モジャ公』へ流用されていたが、このアニメ化で逆流用されている。
2010年、小学館発行の藤子・F・不二雄大全集のラインナップとして全2巻で刊行された。
21世紀の地球は異星との交流が進み、国際連合ならぬ星間連合にも加盟して、多くの惑星からの観光客がひっきりなしに訪れる一大観光惑星となっていた。
そんな中、トウキョウシティーに居を構えるホテル「つづれ屋」は、江戸幕府の成立とほぼ同時に旅館として開業して以来、初代当主の市右衛門、二代目仁右衛門、三代目参右衛門...と二十代、四百数十年にわたって細々と続く老舗ホテルだが、利用客はサッパリで隣接する豪華なホテル・ギャラクシーやオリオンホテルなどに圧倒されて潰れる寸前であった。
現当主の20エモンは閑古鳥の経営状態を立て直そうと必死になるが、その跡取り息子21エモンはホテル経営に関心を持とうとせず、宇宙へと憧れパイロットになって大宇宙を冒険したいという夢を持っていた。家業に専念して欲しい父親に叱咤されて21エモンはしぶしぶボーイとして働くが、コツコツとチップを貯め、いつかは自分のロケットを手に入れたいという夢があったため続ける。「つづれ屋」に居候する宇宙生物モンガーやボーイとして働かされているイモ掘りロボットのゴンスケといった強烈な個性を持った家人たち、さらには宇宙からの風変わりな客が次々とホテルに押しかけて、21エモンと「つづれ屋」は毎日のように珍騒動に巻き込まれる。
外見も風俗習慣も全く異なる宇宙人の宿泊客や、進歩した宇宙文明に触れて様変わりした地球文明の様子なども描かれる。基本的に「つづれ屋」が舞台となるコメディーだが、連載中21エモンは3度宇宙への旅を決行しており、物語は宇宙を巡る冒険ものへとシフトしたこともあった。なおアニメでは、テレビ版・81年の劇場版とも、宇宙への夢とつづれ屋発展の夢を両立させる形で終了している。
アニメでの舞台は2051年→2071年。宇宙観光時代に突入したばかりの地球。
宇宙標準語として「共宙語」が使われはじめる。しかし完全に普及しているわけではなく、トウキョウシティー内でも日本語の文字、英字、共宙語の文字が混在している。宇宙では共宙語が主流だが、共宙語が使われていない星も存在するため、万能ではない。
20世紀の自動車は減少し、代わりにエアカーが主流となる。現代における自動車とは異なり、小学生であるエモンでも、ボード型、スクーター型、軽乗用車型を運転可能。個人用のほか、公共用のバス型もある。
鉄道はほとんどが廃止され、代わりにチューブトレインを開設している。トウキョウシティーからシズオカシティーまでは15分で移動することが可能である。
声の項は1981年アニメ映画版 / テレビアニメ版の順。1人しか記載されていない場合は特記ない限りテレビアニメ版のキャストとし、それ以外のものは別途記載する。
1991年5月2日から1992年3月26日にテレビ朝日系列で放送。全39話。
原作発表から23年余、映画「宇宙へいらっしゃい!」から10年を経てテレビアニメ化となった。キャラクターデザインや設定の一部が変更(詳細は後述)され、エピソードは原作および『モジャ公』から流用がある。
チーフディレクターを務めた原恵一によると、原作は古いもののため「そのままアニメにするのは難しい」という思いがスタッフ内にあり、内容をかなり脚色したという。またテンポ良くとがった演出をしようとしたため、「自分で苦手な部分を無理してやったのではないか」と語っている。
第1話ではサブタイトルにもあるとおり、ドラえもんがゲスト出演しているが、セリフが一切ない背景キャラクターとして数秒間のみの出演であり、21エモンとも一切絡んでいない。なお、新番組予告では21エモンを視聴者に紹介する役割でドラえもんが台詞付きで出演している。
第29話以降、エモンとモンガーゴンスケと3人による宇宙旅が始まり、第38話で一応の終わりを迎え、第39話は総集編と後日談的な内容になっている。
この作品のメインスタッフは『エスパー魔美』(初期は『藤子不二雄ワイド』に内包)『チンプイ』と本作まで長らく藤子作品を手掛けていたが、これを機に演出の安藤敏彦と脚本スタッフ(もとひら了は除く)以外は、当枠から月曜19:00に移動した『クレヨンしんちゃん』へと移行し、『ドラえもん』シリーズを除いたテレビ朝日・シンエイ動画による藤子・F原作のテレビアニメは本作で最後となっている。
※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1992年3月終了時点、放送系列は放送当時のものとする。
2003年よりCS放送のテレ朝チャンネルで「シンエイアニメシアター」の一作品として全話再放送が開始され、2007年頃まで断続的に再放送がリピートで行われている(現在はチャンネル内容が分割され2つになったうちのテレ朝チャンネル1)。2005年にはテレビ朝日の「アニメDEおめざめ」枠で1話から連続して再放送されたが、同年12月に打ち切られた。サイバーエージェントとテレビ朝日が運営しているインターネットテレビ局「AbemaTV」の家族アニメチャンネルにて2016年4月11日の本放送開始と同時に再放送を開始したが、オープニングとエンディングは割愛され、いきなり本編から放送している。
劇場版以外は長らく家庭用ビデオソフト発売はされていなかった。2010年6月にローソンで企画された「藤子・F・不二雄キャラクターズフェア」の一環として、ローソン店舗限定でヴィジョネアから販売されたDVD MAGIC(一部内容がPPVで収録されている)形態のDVDビデオ「藤子・F・不二雄 アニメキャラクター大集合!!(発売元:小学館)」第2巻に第17話が収録され初のソフト化となった。
2010年9月に藤子・F・不二雄ミュージアム開業記念企画として発売された「藤子・F・不二雄TVアニメアーカイブス」シリーズ(発売元:TCエンタテインメント・テレビ朝日 販売元:スーパー・ビジョン)のセレクション2と4に、それぞれ第14話、第35 - 36話が収録された。
2011年8月5日にDVD-BOX「21エモンComplete Box」(発売元:小学館・テレビ朝日 販売元:TCエンタテインメント)が発売された。放送から20年を経て初の全話パッケージソフト化となる。
2021年現在、Blu-ray版はリリースされていない。
『21エモン 宇宙へいらっしゃい!』(にじゅういちえもん うちゅうへいらっしゃい!)は、1981年8月1日に公開されたアニメ映画。上映時間は92分。同時上映は「ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ」。
映画ドラえもんが好評だったことから製作された藤子不二雄原作の「21エモン」の初アニメ作品。つづれ屋での騒動を描いた前半と宇宙冒険に繰り出す後半で構成され、全体的に原作の流れをコンパクトに纏めた作品である。ギャグタッチの物語が宇宙に飛び出すことで引き締まり、緊張感のある冒険物語に仕上がったことで、原作の持つ面白さがよく再現されている。本作はテレビアニメ化に対するパイロットフィルム的な意味合いも持たせてあったが、この時点では実現せず10年を要したため、独立した作品となった。併映の『ドラえもん』とリンクする場面が1カット入っている。
『21エモン 宇宙いけ!裸足のプリンセス』(にじゅういちえもん そらいけ!はだしのプリンセス)は、1992年3月7日に公開されたアニメ映画。上映時間は39分。同時上映は「ドラえもん のび太と雲の王国」。
テレビシリーズの2年後(第38話と最終回である第39話の間に位置)という設定の中編作品で、 前半は『ローマの休日』をモチーフにした物語展開が、後半は『モジャ公』の「アステロイドラリー」をベースにした宇宙レース「銀河ラリー」が繰り広げられる。アニメ作品としては最初にDVD化された。
2012年10月3日から2013年8月27日まで、藤子・F・不二雄ミュージアムのFシアターで上映。
つづれ屋再建をのび太が立て直そうとするが、うまくいかず、結局ドラえもんの道具でうまくいくという流れは、後述の「オンボロ旅館をたて直せ」(『ドラえもん』てんとう虫コミックス32巻)とも共通点がある。
『ドラえもん』と共演したのはこの作品が初めてではなく、何度か登場している。
本作の登場人物は他の藤子作品、およびアニメに出演したことがある。ドラえもんとの競演は#『ドラえもん』との関連を参照、ゴンスケのみの登場に関してはゴンスケを参照。
連載間もない「週刊少年サンデー」1968年2・3合併号で、藤子を始め、当時「少年サンデー」に漫画を連載していた漫画家8名が紅白に分かれ、「紅組」は手塚治虫の『どろろ』、「白組」は赤塚不二夫の『もーれつア太郎』の1頁パロディ漫画を発表する企画「紅白ものまねまんが合戦」で、藤子は紅組で『どろろ』のパロディを発表。内容は百鬼丸とどろろが旅をしていると、そこへ妖怪が現れたので百鬼丸が襲いかかるが、妖怪は突然泣き崩れ、そこへ21エモンが「御客さん、こちら」と登場、実は妖怪は宇宙人というオチであった。この作品は「藤子・F不二雄大全集」版「21エモン」第1巻ラストの特集記事や、2013年3月発刊の「手塚治虫トレジャー・ボックス どろろ」に収録されている。 | [
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"text": "『21エモン』(にじゅういちエモン)は、藤子不二雄の藤本弘(独立後の名義は藤子・F・不二雄)による日本の少年SF漫画。",
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"text": "『週刊少年サンデー』(小学館)1968年1号から1969年6号まで、増刊掲載も含め全55話を連載。その後、映画化やテレビアニメ化など、各種メディアに展開された。",
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"text": "藤子不二雄の1人、藤本弘の単独執筆作品。",
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"text": "藤本は「これまで日常の舞台にオバケやスーパーマンなどの「非日常」が入り込むことで生まれるギャップの面白さを描いてきたが、ひとつその逆をやってみようと思い、この21エモンを描きました。つまり未来という「非日常」を舞台に、今に通じる日常を描くことで新たな面白さが生まれると思ったからです」と、本作のコンセプトを後日述懐している。",
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"text": "藤本が珍しく「楽しんで描いた」と語る作品だったが、ギャグで人気を博した当時の藤子作品とは異なり、連載当時の評価は芳しくなく、『オバケのQ太郎』から『ウメ星デンカ』までの『週刊少年サンデー』連載作品で唯一、連載中のアニメ化が実現しなかった。",
"title": "概要"
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"text": "『週刊少年サンデー』連載版は、1976年頃、『朝日小学生新聞』に再録連載されたが、いくつかの回の掲載順に混乱が見られる。",
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"text": "1977年、てんとう虫コミックスで単行本化された頃から、次第に再評価されるようになり、1981年にはアニメ映画化され、『月刊コロコロコミック』に新作漫画が読切掲載された。1991年には、連載から22年もの歳月を経てテレビアニメ化された。掲載誌の性格や連載終了で使えなかったアイデアのいくつかは、同じコンセプトの『モジャ公』へ流用されていたが、このアニメ化で逆流用されている。",
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"text": "2010年、小学館発行の藤子・F・不二雄大全集のラインナップとして全2巻で刊行された。",
"title": "概要"
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"text": "21世紀の地球は異星との交流が進み、国際連合ならぬ星間連合にも加盟して、多くの惑星からの観光客がひっきりなしに訪れる一大観光惑星となっていた。",
"title": "あらすじ(週刊少年サンデー連載版を中心に)"
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"text": "そんな中、トウキョウシティーに居を構えるホテル「つづれ屋」は、江戸幕府の成立とほぼ同時に旅館として開業して以来、初代当主の市右衛門、二代目仁右衛門、三代目参右衛門...と二十代、四百数十年にわたって細々と続く老舗ホテルだが、利用客はサッパリで隣接する豪華なホテル・ギャラクシーやオリオンホテルなどに圧倒されて潰れる寸前であった。",
"title": "あらすじ(週刊少年サンデー連載版を中心に)"
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"text": "現当主の20エモンは閑古鳥の経営状態を立て直そうと必死になるが、その跡取り息子21エモンはホテル経営に関心を持とうとせず、宇宙へと憧れパイロットになって大宇宙を冒険したいという夢を持っていた。家業に専念して欲しい父親に叱咤されて21エモンはしぶしぶボーイとして働くが、コツコツとチップを貯め、いつかは自分のロケットを手に入れたいという夢があったため続ける。「つづれ屋」に居候する宇宙生物モンガーやボーイとして働かされているイモ掘りロボットのゴンスケといった強烈な個性を持った家人たち、さらには宇宙からの風変わりな客が次々とホテルに押しかけて、21エモンと「つづれ屋」は毎日のように珍騒動に巻き込まれる。",
"title": "あらすじ(週刊少年サンデー連載版を中心に)"
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"text": "外見も風俗習慣も全く異なる宇宙人の宿泊客や、進歩した宇宙文明に触れて様変わりした地球文明の様子なども描かれる。基本的に「つづれ屋」が舞台となるコメディーだが、連載中21エモンは3度宇宙への旅を決行しており、物語は宇宙を巡る冒険ものへとシフトしたこともあった。なおアニメでは、テレビ版・81年の劇場版とも、宇宙への夢とつづれ屋発展の夢を両立させる形で終了している。",
"title": "あらすじ(週刊少年サンデー連載版を中心に)"
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"text": "アニメでの舞台は2051年→2071年。宇宙観光時代に突入したばかりの地球。",
"title": "作品世界(テレビアニメを中心に)"
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"text": "宇宙標準語として「共宙語」が使われはじめる。しかし完全に普及しているわけではなく、トウキョウシティー内でも日本語の文字、英字、共宙語の文字が混在している。宇宙では共宙語が主流だが、共宙語が使われていない星も存在するため、万能ではない。",
"title": "作品世界(テレビアニメを中心に)"
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"text": "20世紀の自動車は減少し、代わりにエアカーが主流となる。現代における自動車とは異なり、小学生であるエモンでも、ボード型、スクーター型、軽乗用車型を運転可能。個人用のほか、公共用のバス型もある。",
"title": "作品世界(テレビアニメを中心に)"
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"text": "鉄道はほとんどが廃止され、代わりにチューブトレインを開設している。トウキョウシティーからシズオカシティーまでは15分で移動することが可能である。",
"title": "作品世界(テレビアニメを中心に)"
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"text": "声の項は1981年アニメ映画版 / テレビアニメ版の順。1人しか記載されていない場合は特記ない限りテレビアニメ版のキャストとし、それ以外のものは別途記載する。",
"title": "登場人物"
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"text": "1991年5月2日から1992年3月26日にテレビ朝日系列で放送。全39話。",
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"text": "原作発表から23年余、映画「宇宙へいらっしゃい!」から10年を経てテレビアニメ化となった。キャラクターデザインや設定の一部が変更(詳細は後述)され、エピソードは原作および『モジャ公』から流用がある。",
"title": "テレビアニメ"
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"text": "チーフディレクターを務めた原恵一によると、原作は古いもののため「そのままアニメにするのは難しい」という思いがスタッフ内にあり、内容をかなり脚色したという。またテンポ良くとがった演出をしようとしたため、「自分で苦手な部分を無理してやったのではないか」と語っている。",
"title": "テレビアニメ"
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"text": "第1話ではサブタイトルにもあるとおり、ドラえもんがゲスト出演しているが、セリフが一切ない背景キャラクターとして数秒間のみの出演であり、21エモンとも一切絡んでいない。なお、新番組予告では21エモンを視聴者に紹介する役割でドラえもんが台詞付きで出演している。",
"title": "テレビアニメ"
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"text": "第29話以降、エモンとモンガーゴンスケと3人による宇宙旅が始まり、第38話で一応の終わりを迎え、第39話は総集編と後日談的な内容になっている。",
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"text": "この作品のメインスタッフは『エスパー魔美』(初期は『藤子不二雄ワイド』に内包)『チンプイ』と本作まで長らく藤子作品を手掛けていたが、これを機に演出の安藤敏彦と脚本スタッフ(もとひら了は除く)以外は、当枠から月曜19:00に移動した『クレヨンしんちゃん』へと移行し、『ドラえもん』シリーズを除いたテレビ朝日・シンエイ動画による藤子・F原作のテレビアニメは本作で最後となっている。",
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"text": "※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1992年3月終了時点、放送系列は放送当時のものとする。",
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"text": "2003年よりCS放送のテレ朝チャンネルで「シンエイアニメシアター」の一作品として全話再放送が開始され、2007年頃まで断続的に再放送がリピートで行われている(現在はチャンネル内容が分割され2つになったうちのテレ朝チャンネル1)。2005年にはテレビ朝日の「アニメDEおめざめ」枠で1話から連続して再放送されたが、同年12月に打ち切られた。サイバーエージェントとテレビ朝日が運営しているインターネットテレビ局「AbemaTV」の家族アニメチャンネルにて2016年4月11日の本放送開始と同時に再放送を開始したが、オープニングとエンディングは割愛され、いきなり本編から放送している。",
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"text": "劇場版以外は長らく家庭用ビデオソフト発売はされていなかった。2010年6月にローソンで企画された「藤子・F・不二雄キャラクターズフェア」の一環として、ローソン店舗限定でヴィジョネアから販売されたDVD MAGIC(一部内容がPPVで収録されている)形態のDVDビデオ「藤子・F・不二雄 アニメキャラクター大集合!!(発売元:小学館)」第2巻に第17話が収録され初のソフト化となった。",
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"text": "『21エモン 宇宙へいらっしゃい!』(にじゅういちえもん うちゅうへいらっしゃい!)は、1981年8月1日に公開されたアニメ映画。上映時間は92分。同時上映は「ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ」。",
"title": "映画"
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"text": "映画ドラえもんが好評だったことから製作された藤子不二雄原作の「21エモン」の初アニメ作品。つづれ屋での騒動を描いた前半と宇宙冒険に繰り出す後半で構成され、全体的に原作の流れをコンパクトに纏めた作品である。ギャグタッチの物語が宇宙に飛び出すことで引き締まり、緊張感のある冒険物語に仕上がったことで、原作の持つ面白さがよく再現されている。本作はテレビアニメ化に対するパイロットフィルム的な意味合いも持たせてあったが、この時点では実現せず10年を要したため、独立した作品となった。併映の『ドラえもん』とリンクする場面が1カット入っている。",
"title": "映画"
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"text": "テレビシリーズの2年後(第38話と最終回である第39話の間に位置)という設定の中編作品で、 前半は『ローマの休日』をモチーフにした物語展開が、後半は『モジャ公』の「アステロイドラリー」をベースにした宇宙レース「銀河ラリー」が繰り広げられる。アニメ作品としては最初にDVD化された。",
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"text": "2012年10月3日から2013年8月27日まで、藤子・F・不二雄ミュージアムのFシアターで上映。",
"title": "Fシアター"
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"text": "つづれ屋再建をのび太が立て直そうとするが、うまくいかず、結局ドラえもんの道具でうまくいくという流れは、後述の「オンボロ旅館をたて直せ」(『ドラえもん』てんとう虫コミックス32巻)とも共通点がある。",
"title": "Fシアター"
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"text": "『ドラえもん』と共演したのはこの作品が初めてではなく、何度か登場している。",
"title": "『ドラえもん』との関連"
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"text": "本作の登場人物は他の藤子作品、およびアニメに出演したことがある。ドラえもんとの競演は#『ドラえもん』との関連を参照、ゴンスケのみの登場に関してはゴンスケを参照。",
"title": "他作品への出演"
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"text": "連載間もない「週刊少年サンデー」1968年2・3合併号で、藤子を始め、当時「少年サンデー」に漫画を連載していた漫画家8名が紅白に分かれ、「紅組」は手塚治虫の『どろろ』、「白組」は赤塚不二夫の『もーれつア太郎』の1頁パロディ漫画を発表する企画「紅白ものまねまんが合戦」で、藤子は紅組で『どろろ』のパロディを発表。内容は百鬼丸とどろろが旅をしていると、そこへ妖怪が現れたので百鬼丸が襲いかかるが、妖怪は突然泣き崩れ、そこへ21エモンが「御客さん、こちら」と登場、実は妖怪は宇宙人というオチであった。この作品は「藤子・F不二雄大全集」版「21エモン」第1巻ラストの特集記事や、2013年3月発刊の「手塚治虫トレジャー・ボックス どろろ」に収録されている。",
"title": "他作品への出演"
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|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
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『'''21エモン'''』(にじゅういちエモン)は、[[藤子不二雄]]の[[藤本弘]](独立後の名義は[[藤子・F・不二雄]])による[[日本]]の[[少年漫画|少年]][[SF漫画]]。
== 概要 ==
『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])[[1968年]]1号から[[1969年]]6号まで、増刊掲載も含め全55話を連載。その後、映画化やテレビアニメ化など、各種メディアに展開された。
[[藤子不二雄]]の1人、藤本弘の単独執筆作品。
藤本は「これまで日常の舞台に[[オバケのQ太郎|オバケ]]や[[パーマン|スーパーマン]]などの「非日常」が入り込むことで生まれるギャップの面白さを描いてきたが、ひとつその逆をやってみようと思い、この21エモンを描きました。つまり未来という「非日常」を舞台に、今に通じる日常を描くことで新たな面白さが生まれると思ったからです」と、本作のコンセプトを後日述懐している{{要出典|date=2017年12月}}。
藤本が珍しく「楽しんで描いた」と語る作品だったが、[[ギャグ漫画|ギャグ]]で人気を博した当時の藤子作品とは異なり、連載当時の評価は芳しくなく、『[[オバケのQ太郎|オバケのQ太郎]]』から『[[ウメ星デンカ]]』までの『週刊少年サンデー』連載作品で唯一、連載中のアニメ化が実現しなかった。
『週刊少年サンデー』連載版は、[[1976年]]頃、『[[朝日小学生新聞]]』に再録連載されたが、いくつかの回の掲載順に混乱が見られる。
[[1977年]]、[[てんとう虫コミックス]]で単行本化された頃から、次第に再評価されるようになり、[[1981年]]にはアニメ映画化され、『月刊[[コロコロコミック]]』に新作漫画が読切掲載された。[[1991年]]には、連載から22年もの歳月を経てテレビアニメ化された。掲載誌の性格や連載終了で使えなかったアイデアのいくつかは、同じコンセプトの『[[モジャ公]]』へ流用されていたが、このアニメ化で逆流用されている。
2010年、[[小学館]]発行の[[藤子・F・不二雄大全集]]のラインナップとして全2巻で刊行された。
== あらすじ(週刊少年サンデー連載版を中心に) ==
21世紀<ref group = "注釈">藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄大全集 21エモン 2巻』小学館の192頁には新聞記事に「2018.10」という日付が書かれている。一方で、藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄大全集 21エモン 1巻』小学館、461頁には「21エモン」のグラフ記事でモンガーが地球に来たのは2023年と書かれている。<!-- 一方、後述の映画版『21エモン 宇宙へいらっしゃい!』の終盤のセリフから推測すると2081年とされる。 --></ref>の地球は異星との交流が進み、国際連合ならぬ星間連合にも加盟して、多くの惑星からの観光客がひっきりなしに訪れる一大観光惑星となっていた。
そんな中、トウキョウシティーに居を構える[[ホテル]]「つづれ屋」は、[[江戸幕府]]の成立とほぼ同時に旅館として開業して以来、初代当主の市右衛門、二代目仁右衛門、三代目参右衛門…と二十代、四百数十年にわたって細々と続く老舗ホテルだが、利用客はサッパリで隣接する豪華なホテル・ギャラクシーやオリオンホテルなどに圧倒されて潰れる寸前であった。
現当主の20エモンは閑古鳥の経営状態を立て直そうと必死になるが、その跡取り息子21エモンはホテル経営に関心を持とうとせず、宇宙へと憧れパイロットになって大宇宙を冒険したいという夢を持っていた。家業に専念して欲しい父親に叱咤されて21エモンはしぶしぶボーイとして働くが、コツコツとチップを貯め、いつかは自分のロケットを手に入れたいという夢があったため続ける。「つづれ屋」に居候する宇宙生物モンガーやボーイとして働かされているイモ掘り[[ロボット]]のゴンスケといった強烈な個性を持った家人たち、さらには宇宙からの風変わりな客が次々とホテルに押しかけて、21エモンと「つづれ屋」は毎日のように珍騒動に巻き込まれる。
外見も風俗習慣も全く異なる宇宙人の宿泊客や、進歩した宇宙文明に触れて様変わりした地球文明の様子なども描かれる。基本的に「つづれ屋」が舞台となるコメディーだが、連載中21エモンは3度宇宙への旅を決行しており<ref group = "注釈">1日だけの旅も含めれば5度。</ref>、物語は宇宙を巡る冒険ものへとシフトしたこともあった。なおアニメでは、テレビ版・81年の劇場版とも、宇宙への夢とつづれ屋発展の夢を両立させる形で終了している。
=== コミックス ===
* 虫コミックス([[虫プロダクション|虫プロ商事]]) 全3巻([[1971年]]、絶版)
* [[てんとう虫コミックス]]([[小学館]]) 全4巻([[1977年]]、絶版)
* [[藤子不二雄ランド]]([[中央公論新社|中央公論社]]) 全5巻([[1984年]]、絶版)
* 小学館コロコロ文庫(小学館) 全3巻([[1997年]])
* [[藤子・F・不二雄大全集]](小学館) 全2巻([[2010年]]) 第2巻には、既存の単行本で未収録だったモンガーを主人公にした『モンガーちゃん』(『[[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]]』連載。全3話)も収録されている。
* てんとう虫コミックス(小学館) 全4巻([[2018年]]、新装版)「藤子・F・不二雄大全集」と同じ高画質の原画スキャンデータを使用。
== 作品世界(テレビアニメを中心に) ==
アニメでの舞台は[[2051年]]→[[2071年]]。宇宙観光時代に突入したばかりの地球。
=== 地理 ===
==== 地球 ====
;原作
:*1980年代前半‐[[第三次世界大戦|第3次世界大戦]]勃発の危機を迎えるが、宇宙人が停戦を呼びかけると共に全ての核兵器を不発にしたことによって回避される。
:*:この時期、つづれ屋(19エモンの代、20エモンが物心つく前)一家は[[信州]]の山奥へと[[疎開]]したが、帰ってみるとつづれ屋が全焼してしまっていた。
:*1980年代後半‐世界連邦政府が樹立。その後10年以上にわたって連邦政府への反乱が起こるも鎮圧される。
:*:つづれ屋再建のため、20年近くにわたって苦難の時期が続くが、どうにか再建に成功する(その直後に19エモンは病死し20エモンが後を継ぐ)。
:*2000年代‐星間連盟に加入し異星との交流が始まる。
:*:つづれ屋も宇宙人の宿泊を可能にするための改造を施す。
:
;アニメ
:*[[1999年]]7月‐[[恐怖の大王|ダイオー星人キョウフ]]が訪問。以降、外宇宙より注目を浴びる。
:*[[2001年]]‐[[地球連邦|地球連邦政府]](全36州)により、世界各国は統合され、従来の国家は[[州]]となった(例、日本国→日本州)。そして世界各地の首都以下はその州の区域化がなされる。カタカナ表記を用い、都道府県名は「――シティー」とする(例:東京都→トウキョウシティー、六本木→ロッポンギ)。ただし各州の自治には、従来通り首相や大統領制が残る。2052年にノーブル星の王室が訪問したときの日本州首相の名は鈴木。日本州首相とは別に日本州知事も存在する<ref group = "注釈">日本の[[皇室]]に関しては、作中でも設定上でも触れられておらず不明。</ref>。
:*2050年‐宇宙観光ブームが始まり、観光星として注目され始める。
=== 言語 ===
宇宙標準語として「共宙語」が使われはじめる。しかし完全に普及しているわけではなく、トウキョウシティー内でも日本語の文字、英字、共宙語の文字が混在している。宇宙では共宙語が主流だが、共宙語が使われていない星も存在するため、万能ではない。
=== 交通 ===
20世紀の自動車は減少し、代わりに[[エアカー]]が主流となる。現代における自動車とは異なり、小学生であるエモンでも、ボード型、スクーター型、軽乗用車型を運転可能。個人用のほか、公共用のバス型もある。
鉄道はほとんどが廃止され、代わりに[[真空チューブ列車|チューブトレイン]]を開設している。トウキョウシティーからシズオカシティーまでは15分で移動することが可能である。
=== 公共施設 ===
; 宇宙港(1話、3話など多くの回で登場)
: 旅客宇宙船、貨物宇宙船などの発着場。稀に行われる催し「客寄せサテライト」では、近隣ホテルが趣向を凝らした出し物を行う(7話)。
; シュミレーションクラブ<small>(原文ママ)</small>
: 通称「シュミクラ」。スペースシップでのレースを体験できる「スペースワールド」などがある。21エモンの世界ではこのようなレース・シューティング体感アトラクションで、女子も男子と同様・対等にプレイをして勝負をする。おもに、課外授業の時間(自宅学習中の午後3時より)に子どもが利用する。
; ノンエアースタジアム
: 通称「スタジアム」。キュービックテニスと呼ばれるいわゆる無重力状態下での立体テニス、スペースシミュレーショと呼ばれる月面体験などのノンエアースポーツを楽しむための施設。おもに、子どもの遊ぶ義務のために与えられたプレイタイムに子どもが利用する。
; 空中ホログラフィ・シアター
: 現代での街頭テレビに当たる。地球連邦の最先端都市であるシンジュクの街頭にある。ホテルギャラクシー出資(第6話)。
; 気象コントロールタワー
: 年間の気象スケジュールに合わせて天候を調節する施設(第6話)。
; 食料合成工場
: 水と[[バクテリア]]で食品を生産する工場(第6話)。
; 地球連邦日本州庁舎
: 地球連邦唯一の移動可能な庁舎。平時は旧[[国会議事堂]]跡地にある(第6話)。
; ネイチャー・ドーム
: 最新[[ホログラフィ]]と無重力装置でさまざまな自然を体験できる施設(第6話)。
; 昭和村
: [[昭和時代]]までの古い物がまとめられている[[レトロ]][[テーマパーク]]。つづれ屋の正面に位置する。作品の連載当時(昭和40年代)を再現した住宅街、ハチ公像、銭湯、走る[[新幹線0系電車|新幹線]]などがある(第6話)。
; 宇宙大使館
: つづれ屋に宿泊していた、宇宙からの要人を探す場面で登場(第7話)。
; 学校(小学校)
: 自宅学習の日以外に登校して授業を受ける。
; 子供センター
: アルバイト情報の検索、登録などができる(第9話)。工作室ではロケットを始めあらゆるものを製作することができる。子どもたちは一日に決められた時間、ここで遊ばなくてはいけない。
; 中央ゴミセンター
: ここへゴミを集め、ロケットで宇宙へ運ぶ。
; バイオファーム
: ドーム型農園。16番街32番地、現代の[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]のあたりにある。ホテル・ギャラクシーの食品部の開発農場でもある。
; 海底公園
: 潜水艇などで魚と戯れるための公園。現代の東京ベイにある。ライトフェンスと呼ばれる警戒ラインの先には立入禁止の海洋牧場があり、光に触れると警備艇が駆けつける。
; 自然野菜栽培温室
: ドーム型農園。芋畑などがある。課外授業で訪れる(13話)。
; ロボット刑務所
: 重大な犯罪を犯したロボットは、人間の刑務所とは別にここに送られる(4話)。
; 迎賓館
: 要人を[[晩餐会]]などで接待する場所。
; 地球連邦長官官邸
: 現在でいう[[首相官邸]]。
; 銀河連立図書館
: 原作では国立図書館。調べものをする際に通信回線により動画で調べることができる。
; 公営マンション
: 地下に設けられた比較的安い賃料で居住可能なマンション。
=== 天体 ===
; [[月]]
: 地球の衛星。ルナの出身地であるコペルニクスシティがある。
; [[火星]]
: エモンが修学旅行で訪れた。この作品での火星は、いわゆる「[[テラフォーミング]]」されており、地熱炉や表面の大部分を覆う「オキシロイア」という植物により、地球上とほぼ変わらない環境となっている。また、「客寄せ」のため、アニメ版では[[火星人]]型のロボット(原作では[[タコ]]を遺伝子操作で改造した生物)や「[[火星の運河|運河]]」が存在する(第11話・第12話)。
; [[水星]]・[[金星]]
: 原作では水星にルナの別荘がある。また、原作では金星に「ビーナス館」と呼ばれる高級ホテルがある。
; [[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]
: 木星の衛星の一つ。21エモンの幼馴染、ホシノハルカの一家が在住する。住人は地下都市に居住。賑わいはあるものの治安は良くない。また、天然の農作物は超高値(第22話)。
; [[イオ (衛星)|イオ]]・[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]・[[カリスト (衛星)|カリスト]]
: 木星の衛星の中でも特に大きいもので、ガニメデとともに[[ガリレオ衛星]]と呼ばれる。イオにはエモンが地上すれすれまで接近し、火山噴火の中を飛んだ(イオには実際に活動中の火山が存在する)。
; [[ケレス (準惑星)|ケレス]]
: 原作では、つづれ屋の親族が経営するホテル・くずれ屋が存在する。
: アニメ版では、違法採石業者の逮捕に協力したエモンがマスコミの取材を受けた(22話)。
; [[冥王星]]
: 原作ではガラの悪い飲食店街があり、ゴンスケがあり金を盗られてしまう。また冥王星に着いたエモンが「これから太陽系を飛び出す」と発言しており、連載当時、冥王星は惑星であり太陽系の最果ての地という扱いだった<ref group = "注釈">21エモンの「今、冥王星に着いたところだよ」との台詞を受けて、20エモンが「なに?太陽系の端っこか?」と答えている。なお、2006年IAU総会によって、冥王星は準惑星に再分類されている。また2010年現在、冥王星の外側にも太陽系に属する天体が多数確認されており、冥王星が太陽系の果てであるとの認識は過去のものとなっている</ref>。
: アニメ版ではスカンレーのセリフに登場するのみ。
; ササヤマ星
: ヘッコロダニ星雲タンバ星系にある星で、モンガーの出身星。貨幣制度が存在せず、つづれ屋に泊まったササヤマ星人は「宿代を払う」という概念を持たなかった。
; ミリオネヤ星
: 黒い球体のような姿をした住民の住む星。この星では一度もらった物を返す行為が一番の侮辱となっている<ref group = "注釈">ミリオネヤ星人曰く2番目に悪いのは人殺し</ref>。また、この星ではダイヤモンドがゴロゴロしているため値打ちがない(第3話・第4話)。
; ワンダラー星
: 地球に似た星で、住民は直立歩行する犬に似る。星間連合の最初の加盟星で、星間連合の中でも最高の力を有する。また科学技術の先端を誇り、ワープ航法を発明し、銀河系を初めて航行した(第6話)。
; ウキキラー星
: ワンダラー星大使であるワントナック公爵を銃撃しようとした暗殺者たちの出身星(第6話)。住民は猿のような姿である。
; コイケラス星
: ラーメンに酷似した食べ物を非常に好む人種の星。その星の宇宙人は[[藤子不二雄]]のキャラクターの[[小池さん]]に似ている。住人の頭に生えているヒラヒラは、最高進化の証として誇られる(アニメ第7話)。
; カネアマリ星
: 星間連合所属ナンバー73惑星。短時間で200万円が得られる仕事を提供する。地球からはあまりに遠いため、行くだけで何百万円もかかる(第9話)。
; レガナ星
: 自転速度が地球の3分の1という星。一日の長さは72時間(第9話)。
; ツイン星
: ドッチとトッヂの出身星であり、共通の恒星を公転している双子惑星である。互いの星は、恒星を挟んで反対側に位置しているため目視できない上、両方の惑星の間には強力な空間のねじれがあるため、同一の星系内にありながら、これまでほとんど直接的な交流が行われてこなかった。奇妙なことに両方の惑星では住民の名前・行動・性格などがほとんど一致している<ref group = "注釈">双子惑星というより、同一世界が二つの時空に投影された姿とみることもできる</ref>。
; レイダンボー星
: 極端に扁平な楕円軌道をもつ2つの惑星からなる星(兄弟星?)。一方の星が恒星(レイダンボー星系における「太陽」)に近い位置にあるときに、もう一方の星は恒星から遠い位置にある。レイダンボー星人は暑くないと生きられないため、二つの惑星を渡り鳥のように行き来している。住民は親切な人柄であり、他人の役に立つことを何よりの喜びとしている。
; バカデッカ・シティの惑星
: 原作にのみ登場する都市。バカデッカ・シティはエモンによると銀河系7番目の大都市である。ただし、この都市の位置する惑星の名称は登場せず、不明である。ウッシッシという[[大麻|ハッシシ]]に似た麻薬の密輸団が暗躍しており、エモンの宿泊したホテルがその密輸団の取引場所となってしまったため、モンガーやゴンスケがその騒動に巻き込まれた(エモンは手紙を書くのに夢中で気づかなかった)。
; オートマ星(原作ではボタンポン星)
: 宇宙屈指の科学文明の発展した惑星。原作では[[銀河系]]で2番目に発達しているという設定となっている。中枢をコンピュータによって管理されており、そのコンピュータによる恩恵で住人は医療発達で長寿を可能とし、また肉体を不要とするために感覚器官である眼、鼻、口を本体から切り離し行動して享楽に浸っている。外からの肉体を有する来訪者には野蛮人と呼称し差別的。また、生きるのに飽きて死を望む際にはベルトコンベアに乗って全てを消去するゼロ次元に向かうようになっている(第31話)。
; ボタンチラリ星
: 原作のみの登場。かつて銀河系で最も科学文明の発達した惑星であったが、科学が発達しすぎて技術自体の開発・維持までロボット任せとしていたため、恒星の異常によって星のメインコンピューターがダウンしても復旧することができず、住民は原始人に退化してしまった<ref group = "注釈">見た目はほぼ[[類人猿]]に近い。</ref>。知力も体力も大きく低下しており、細い枝も持ち上げられず簡単な足し算も解けないほど。街にはコントロール機能を失ったロボットや機械が暴走し続けている。アニメ版では登場しないが、オートマ星のエピソードにその影響を残している(第31話)。
; マジカル星
: アニメ版のみの登場。無限トランクの発明家、ポロロッコリーの出身星。手作りの発明品を特産としている。
; ナイナイ星
: アニメ版のみの登場。原因不明の伝染病が蔓延しているため、住民全員が衛星に避難している。さらに伝染病への対処法が見つからず、銀河パトロールによって星ごと破壊されることになっていた。自身を親の仇と狙うムエから逃れるためにエモンたちが逃れるものの、復讐心に取りつかれたムエとの決闘の場にさせられてしまう。紆余曲折の末にムエと婚約者のミエの誤解を解いたエモンたちとムエたちによって惑星はミサイル攻撃と伝染病から救われることになった。なお、この話は[[モジャ公]]のエピソードを原作としている。
; ハッピー星(原作ではデカンショ星)
: 脳にとりついて宿主をコントロールする人形のような姿の寄生生物パッピー(原作ではハッピー)に乗っ取られた星。原作・アニメともにエモンとモンガーがレジスタンスの援助で宇宙警察に助けを求め、パッピー(ハッピー)の脅威を取り除いた。原作では、ゴンスケがこの星で巨大なサツマイモを発見する。
; モアモア星
: アニメ版のみ登場。星全体が寒冷化によって[[氷河期]]となってしまい、住民は毛皮のような服を重ね着している。かつてモンガー族の一人(一匹)がこの星に人工太陽と文明をもたらしたという。
; シード星
: かつて存在した星。植物型宇宙人であるシード星人の故郷だったが、爆発により消滅。生き残った50億人が新たな故郷を求めて宇宙を当てなく彷徨っている(第37話)。
; トレジャー星
: 2071年にエモンとルナが探検した惑星。レアストーンを発見し新しい宇宙船を手に入れた(第39話)。
; ノーブル星
: ファナの出身星(映画第2作)。
; [[ばら星雲]]
: 銀河系のはずれにある、渦巻状アステロイドの星雲。小惑星がバラの花びらのように渦巻いている。小惑星の中にはいくつものテーマパークが集まっている。毎年開かれるアステロイドラリーが見もの(映画第2作)。実在の[[ばら星雲]]とは、やや天体の構成が異なる。
; ばら星雲・ユーエンチ星
: 緑に輝く星。バイオ植物のテーマパーク、バイオパークがある。アステロイドラリーではこの星が出発地となり、バラ星雲の中心部を目指して飛ぶ(映画第2作)。
; ばら星雲・雪の惑星
: 北半球はスノーパーク、南半球は恐竜パーク。原始パークとも(映画第2作)。
; ばら星雲・都会の星
: ギャンブルパークがある。ここでは低速運転が義務付けられている(映画第2作)。
; ばら星雲・アステロイドベルト
: 小惑星群。「悪夢の森」と呼ばれるアステロイドの密集地帯。迷い込むと動きが取れなくなることもある(映画第2作)。
; ばら星雲・暗黒星
: アステロイドベルトにおける最大の星。「鉄の死神」と呼ばれ恐れられる。光を反射しないため、近づくまでその存在を知ることはできず、数多くの宇宙船がその犠牲となっている。星の中心には「地獄の風穴」と呼ばれるトンネルが開いており、そこが唯一の抜け道(映画第2作)。
; ばら星雲・水の惑星
: ばら星雲の中心星でアステロイドラリーのゴール(映画第2作)。
== 登場人物 ==
声の項は1981年アニメ映画版 / テレビアニメ版の順。1人しか記載されていない場合は特記ない限りテレビアニメ版のキャストとし、それ以外のものは別途記載する。
=== つづれ屋 ===
; 21エモン(本名:つづれ屋21エモン)
: 声:[[井上和彦 (声優)|井上和彦]] / [[佐々木望]] / [[斎賀みつき]](Fシアター上映作「21エモン&ドラえもん ようこそ!ホテルつづれ屋へ」)<ref name="saiga">[http://blog.animate.tv/saiga/?itemid=10654 地球の子だもの。~斎賀みつきの日常~](斎賀みつき公式ブログ、2012年10月29日)</ref>
: 本作の主人公。通称“エモン”。江戸初期から続くホテル「つづれ屋」の跡取り息子(21代目)。ホテルのボーイのような服装を日常的にしている。
: 将来「宇宙パイロットになりたい」という夢を持ち、それに反対する父親への反発も根強い。家業の手伝いもするが、宿泊客からの[[チップ (サービス)|チップ]]を貯め、宇宙旅行の資金にすることが目的である。その一方ギャラクシーによるつづれ屋の買収に反対したり、リゲルにつづれ屋を馬鹿にされると取っ組み合いの喧嘩をしかけるなど、つづれ屋への愛着も強い。また宇宙旅行の資金をつづれ屋の改築用に置いていくなど、根が親孝行である。そのため、宇宙パイロットになるかつづれ屋を継ぐかの板挟みに悩み続けており、その葛藤が原作・アニメともにストーリーの軸になっている。
: 性格は一本気で頭に血が上りやすく、容姿とともに父親譲りである。正義感が強く、勇気も行動力もあるが、行き当たりばったりでもあるため、無茶をして周囲を心配させることもしばしばある。また、貧乏暮らしの影響から図々しいところもある<ref group = "注釈">カネアマリ星のアルバイトが不可能とわかった後でも楽して儲かるアルバイトを探していた(9話)。</ref>。原作ではややとぼけた少年であったが、アニメではかなりの切れ者と思わせる描写もある<ref group = "注釈">特撮映画を観て激怒した客の誤解を解くため、新しい映画を撮ることを思いつく(7話)、業務上横領をしていた商社マンの正体を疑う(8話)、探偵の助手として本職顔負けの活躍をする(13話)、ワープ中の超空間で遭遇した怪物ゴーストが誕生した経緯や、逃げ回る自分たちがすぐに見つかってしまう理由を察知する(30話)、自身を親の仇と狙う相手の誤解の理由を察知する、降り注ぐミサイルを爆破させないようにモンガーたちにミサイル内部の信管を超能力で取り除かせる(36話)など。</ref>。また、通信講座でナビゲーターの資格を取るなど(26話)、好きなものに関する勉強は得意な模様。
: ハルカによると「(幼稚園児のころから)無茶ばっかりしていたみたい」(22話)、ルナによると「すぐに怒るから心配」(1話)と評されている。
: アニメ版では小学6年生、原作では中学生<ref group = "注釈">藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄大全集 21エモン 1巻』小学館、461頁には「21エモン」のグラフ記事で、21エモンの誕生日は2010年1月1日と記載。</ref>。
; モンガー
: 声:[[杉山佳寿子]] / [[大谷育江]] / [[小林由美子]](Fシアター上映作「21エモン&ドラえもん ようこそ!ホテルつづれ屋へ」)<ref name="kobayasi">[https://twitter.com/shubi0618/status/273683755946885120 小林由美子 twitter](2012年11月28日)</ref>
: 原作では、つづれ屋に宿泊したササヤマ星人が連れていたペット<ref group = "注釈">飼いならされた後、交通手段として飼われていた。</ref>で、宿泊費代わりに置いていった。テレビアニメでは、ササヤマ星人のバッグに隠れて密航し地球へ訪れる。それ以来、つづれ屋を気に入り住んでいる。エモンを慕っており彼の夢を献身的に支援する。行き当たりばったりな面があるエモンと比較して、かなりのしっかり者である<ref group = "注釈">エモンが父親と将来のことで対立したばかりの時に、宇宙探検家のスカンレーをつづれ屋に案内しようとしているのを「(つづれ屋の人たちが)どうなっても知らないからね」と発言している。また、エモンの将来のことで家庭不和になっていた際の仲介をスカンレーに依頼するなど、しっかり者であることのエピソードは多い(共に第5話)。ただし年齢が高くないせいか、迂闊な行動を取ることもある。例としては、エモンとリゲルの言葉を真に受けて彼らとルナをテレポートしてしまったり(11話、12話)、うっかり海中にテレポートしてしまった上にエモンを岸にテレポートし忘れたり(14話)、エモンの初恋相手であるハルカの存在をうっかり口を滑らせてしまいルナに知られてしまう(19話)など。</ref>
: ヘッコロダニ星雲タンバ星系ササヤマ星出身の「絶対生物」。学術名ケイイチハラ<ref group = "注釈">テレビアニメ版のみの設定。チーフディレクターの原恵一に由来。</ref>。銀河連立図書館(原作では国立図書館。ただし[[国立国会図書館]]との関連は不明)によると、絶対生物であるため、[[真空]]や数万度の高熱<ref group = "注釈">ただしレイダンボー星にて暑さに参るシーンがある。</ref>、[[絶対零度]]に近い極寒に耐え、何を食べてもエネルギーにする生命力を持つという。[[瞬間移動|テレポーテーション]]や[[透視 (超心理学)|透視]](原作、映画1作目のみ)の能力もあるが、移動や透視の制限範囲は3キロメートル。テレポーテーションは「モンガー」との掛け声が必要。アニメ版でのみ、マジカル星の発明家・ポロロッコリー(後述)が宿代代りに残していった無限トランクを飲み込んだことから、アイテムを出す能力がある<ref group = "注釈">また、[[テレキネシス]]の能力を秘めていると言われている(36話)。</ref>。ただし、尻尾を強打または負傷すると超能力の使用に支障を来たし、無理に使おうとすると激痛を伴うのが弱点。
: 基本的には「モンガー」「モア」「ムイ」などが本来の言葉(鳴き声?)と思われるが、知能が高いので人語を理解し発することもできる<ref group = "注釈">アニメ版では語尾が「~モア」などになってしまう。原作では普通に喋っている。</ref>。すべての人語を理解できるわけではなく、古い共宙語の文字は解読できないらしい描写もある(34話)。原作では、種としての性質が無口であり、原作初期は人語を週に一言<ref group = "注釈">映画第一作では一日に一言になっている。</ref>しかしゃべることができないという設定だった。そのため、一言人語をしゃべってしまうと、一週間後まで人語は発することができない。後に、尻尾に相当する部分にある脳に衝撃を受けたおかげで、おしゃべりになる(他の副作用は見られない)。しかしテレビアニメではそのような制約はなく、また『[[別冊少年サンデー]]』に発表された21エモンの江戸時代の先祖のエピソードでは、別個体のモンガーが登場して自由にしゃべっていた。
: 原作では3歳で[[誕生日]]は[[10月11日]]<ref name="tan">てんとう虫コミックス第4巻、および小学館コロコロ文庫第3巻収録「オラニモ誕生日ガアルノダ」</ref>。<!-- アニメ版では作中の描写から、もう少し年齢が高いように思われる。 -->
; [[ゴンスケ]]
: 声:[[肝付兼太]] / [[龍田直樹]]
: 元イモ掘り用ロボットで、無断で掘ったイモを焼いて食べたせいでクビとなり廃棄されそうになったところを、正規のボーイロボットやメイドロボットを買えなかった20エモンに安く買われてつづれ屋でボーイとして働くことになった。
: 言葉に訛りがあり、口が悪い<ref group = "注釈">原作にてまだ週一言しか喋れない頃のモンガーとの口喧嘩で「バカ!!」の一言で終わってしまったモンガーに対し、その後一方的に罵詈雑言を畳み掛け、結果モンガーが泣きながら家出してしまう場面がある。アニメ版でもモンガーとの口げんかの際にあまりにも汚い言葉から音声が音楽に切り替えられたことがある(3話)。</ref>上に傍若無人な態度をとる典型的トラブルメーカーで、周囲もよく悩まされる<ref group = "注釈">それ故にモコラ(声:[[高乃麗]])の父親の弟子である小型レストアロボットたちに修理されて一時的に完全なボーイロボットになっている(25話)。</ref>。運転技術は荒く<ref group = "注釈">ルナの浴室に入り込んでしまい、激しい攻撃を受ける羽目にあう(10話)。</ref>、アニメでは女性ロボットを口説いては毎回すげなく振られている。
: ボーイの仕事にはまるで興味がなく怠けてばかりいて、常にイモ掘りのことばかり考えている。愛読書は「月刊イモ生活」と「月刊イモ掘り新聞」。夢はイモの星へ行き、宇宙でイモ畑を作ること。雨漏りで使っていないつづれ屋の客室の一室を勝手にイモ畑に改造してイモを栽培し、それを売って金銭を貯めている。
: また資産運用に才能がある模様で、イモの売上げ金、チップ、バイト代などを元手にかなりの小金を貯め込んでいる<ref group = "注釈">客室でのイモ栽培を20エモンに咎められた際には、「客として借りた部屋をどう使おうが勝手だ」と大金を突き出している。</ref>。アニメでは株や不動産取引にも手を出して成功させており、ユナイテッド・エクスプレス・プラチナカードを保持しており、それでリゲルを黙らせている(16話)。原作ではエモンはゴンスケの資金援助によってスペースシップを手に入れることができた。
: 性格に難はあるものの農作業用ロボットとしての性能は健在で、イモ栽培の特別講師のアルバイトをしたり(13話)、土の質などを的確に分析していた場面もあった(14話、37話)。また栽培したイモの味をつづれ屋の面々や宿泊客から絶賛され、結果イモ料理がつづれ屋の客寄せ材料として採用されている(16話)。基本的にサツマイモと戯れる描写がほとんどだが、アニメ版では長芋やジャガイモも栽培していた(16話)。またイモそのものよりもイモ栽培に執着しており、「イモは作ることに意義がある」と発言したり、栽培したイモを食べて良いか尋ねられた際には「好きなだけ持って行け」と返している(16話)。原作にて宇宙の墓場に漂着し食料が尽きた際にも、自身が栽培したイモを食べるよう促している。
: かなり型の古い旧型ロボットだが、それゆえに相手からの操作を受けないなどの利点を発揮することもある<ref group = "注釈">17話のウキキの木の脳波コントロールを受けない、29話のポロロッコリーのアイテムの透明偽装が利かない、33話にてパッピーが取りつかないなど</ref>。サルガッソー探検の際、サルガッソーを住処とするガウシーが発する電磁波の影響で一時的に高性能かつ聡明になったことがある(27話)<ref group = "注釈">[[モジャ公]]のドンモに近い。</ref>。また、スターターの回路が切断されたロケットのエンジンを元通りに修理するという離れ業を成し遂げたこともある(36話)。
: 動力源は原子力電池で背中の部分に入っており、電力が切れれば電池交換する必要がある。
: モンガーとは基本的に不仲であり、「宇宙だぬき」「フーセンだぬき」「水滴野郎」「ラッキョウだぬき」などと罵り、頻繁に衝突する。しかし21エモンの息子の22エモンの頃には「久しぶりにやるか」など、頻度が激減している模様。
: 原作では5歳で、誕生日は偶然にもモンガーと同じく10月11日<ref name="tan"/>。<!-- アニメ版では20エモンと「長い付き合い」であることや、ルナやファナがさん付けで呼んでいることなどから、エモンやルナなどより早くからこの世に存在していると思われる。 -->
: アニメ版ではガンスケというゴンスケによく似た赤色版が登場する。
: 藤本はゴンスケのキャラクターを相当気に入っていたようで、『[[ウメ星デンカ]]』など、他作品にもゴンスケを登場させている。
; パパ(本名:つづれ屋20エモン)
: 声:[[二見忠男]] / [[中庸助]](少年時代:[[菅原淳一]])
: 21エモンの父で、つづれ屋の20代目当主。歴史あるつづれ屋に誇りを持っている。
: 息子の21エモンにつづれ屋を継がせたいと強く願っており、エモンの宇宙行きに対して徹底的に反対する<ref group = "注釈">そのため、担任のヤマダ先生やルナに宇宙旅行をやめさせるための説得を依頼している(18話)。</ref>が、中古ロケットを買い与えたり<ref group = "注釈">ただしエンジンは無し。20エモンによると「真面目に家業を手伝い、稼いだお金で[[レストア]]できるなら21エモンの将来の希望を考えてもいい」とのことであり、教育上の観点から買い与えた模様。</ref>、エモンの旅立ちを素直に祝えずに悩むなど、実際には息子想いの父親である<ref group = "注釈">ママには「親ばかの見本」と言われている</ref>。
: 典型的な昔気質の頑固親父であり、善良かつ正直者で、曲がったことを嫌う<ref group = "注釈">つづれ屋を社員旅行の宿泊地にする代わりに[[賄賂]]を要求した客を追い出そうとしているなど(第8話)。「(20エモンの)頭の古さは21世紀の奇跡」と評するルナのパパのセリフ(第2話)もある(実際ルナは「褒めている」と語っている)。</ref>。また、古き良きものを愛し、つづれ屋の向かいにあるレトロな町並みの昭和村へよく散歩に行く。
: 年齢は40代半ば-後半<ref group = "注釈">35年前に小学6年生であった(28話)。</ref><ref group = "注釈">藤子・F・不二雄『藤子・F・不二雄大全集 21エモン 1巻』小学館、460頁に「21エモン」のグラフ記事で、20エモンの誕生は1970年代後半、父の19エモンは1949年生まれ(1968年に19歳)と記載。</ref>。アニメには父の19エモンと遥か祖先の5エモンも登場している。
; ママ
: 声:[[栗葉子]] / [[松島みのり]]
: 21エモンの母。つづれ屋の料理担当のほか、生存環境の異なる宇宙人宿泊客の部屋の環境設定も行う。
: 21エモンの将来を巡って夫と意見が衝突したこともあったが<ref group = "注釈">夫には「お前が(エモンを)甘やかすからだ」と言われている</ref>、概して夫婦仲はよい。
: 性格は温厚で、一本気で対立しやすい夫と息子、トラブルメーカーのゴンスケなどの間に立ち、なだめ役にまわることも多い。マスコミが押し掛けた際には、しっかりとつづれ屋の宣伝をしているなど、ちゃっかり者の一面もある。
: 容姿は美人で、スリット入りのスカートを身につけるなど、貧乏ながらそれなりにお洒落もしている。
; オナベ
: 声:[[丸山裕子]] / 肝付兼太
: メイドロボット。つづれ屋の清掃を主に担当し、料理の補助も行う。
: 原作では、中古ロボットバーゲンで11,000円で売られていたものを、苦心して購入資金を調達した20エモンが買ってきた。アニメでは、モンガーのテレポートサービスで急に増えた客に対応するために新たに20エモンが購入した中古ロボットである。
: よく気がつく働き者だが、おせっかいすぎるのが玉にキズ。
: 強い腕力を持ち、手から磁力を発生させることで、相手の拳銃を奪うなど、高い戦闘力も備えている。へらず口、暴言を吐くゴンスケを制裁する場面も多い。
: アニメ版ではオミソというオナベに似た金色版が登場している。
; 22エモン(本名:つづれ屋22エモン)
: 声:佐々木望
: 21エモンとルナの間に生まれた子供。テレビアニメ最終回に登場<ref group = "注釈">2071年春頃に初回時(20年前)の両親と同年代。</ref>。愛称は「マゴエモン」<ref group = "注釈">祖父母およびモンガー、スカンレーから呼ばれている。両親からどう呼ばれているかは不明。</ref>。
: 幼いころの父同様に宇宙にあこがれ、モンガーやゴンスケ<ref group = "注釈">22エモンは「ゴン爺」と呼ぶが、ゴンスケは「ゴンスケおじ様」と呼ぶように注意している(39話)。</ref>と行動を共にしている<ref group = "注釈">ほぼ同格の仲間だった父の少年時代と異なり、お目付け役の役割が強い(39話)。</ref>。
: 基本的に容姿と性格は父と似ている<ref group = "注釈">ゴンスケからはあきれられている。</ref>一方、両親にめったに会えないことを寂しがる側面を持つ。また父親の21エモンが少年時代に被っていた帽子と着ていた宇宙服をもらっている。
=== 21エモンの関係者 ===
; ルナ
: 声:[[潘恵子]] / [[冬馬由美]]
: つづれ屋の隣に建つ高級ホテル・ギャラクシーの社長の娘。2040年に、[[月]]のコペルニクスシティーで生まれる<ref group = "注釈">2051年現在で小学6年生。</ref>。21エモンの同級生でガールフレンドでもあるが、ビジネス面のライバルでもある。原作とテレビアニメ版では髪型も髪の色も異なり、原作では金髪、テレビアニメ版では緑になっている。
: ビジネス面でのドライで容赦ない面が描かれており<ref group = "注釈">ホテルを探す異星人を発見と同時に21エモンと客引き合戦を繰り広げながら、その客が金銭を払う習慣のないササヤマ星人だと知るとあっさり手を引きエモンに一杯食わせ、さらにはつづれ屋買収を持ちかけた際の21エモンたちに挑発行為を繰り返している(2話)</ref>、父や支配人の代理としてつづれ屋の買収に関わったこともある(2話)が、一個人としてはつづれ屋に友好的であり、20エモン夫妻からも好意的に受け入れられている。
: しっかり者で頭の回転が速く行動力もあり、周囲への気配りができる。頻繁に喧嘩をする21エモンとリゲルやモンガーとゴンスケの仲裁役もこなす<ref group = "注釈">時として、エモンとリゲルを制裁したこともある。</ref>。粘り強さや根気も兼ね備えており<ref group = "注釈">つづれ屋買収を21エモンに持ちかけた際にモンガーの不興を買ってテレポートで飛ばされた後(2話)も、堪えた様子もなく笑顔で21エモンたちのもとに現れたり(2話、3話、6話)、テレポートで逃げ回る21エモン一行を追跡して(14話)、マルスたちが変装した21エモン一行を訝しみ探りを入れて正体を暴いている(38話)。</ref>、物事への責任感も強い<ref group = "注釈">ガニメデ行きで無理が祟って倒れて入院するも、回復と同時に退院してエモンをサポートしている(21話、22話)。</ref>。また、かなりお転婆<ref group = "注釈">数々のマシン操作能力は非常に高い。また正体を知らなかったとはいえ、父の命令でガニメデに迎えにきたイオ支店の社員に抵抗して痣を作る怪我を負わせている(22話)</ref>。
: テレビ版では原作以上に21エモンに対し想いを寄せているように描写されている<ref group = "注釈">デートの誘いをすっぽかした21エモンを翻弄したり(14話)、ハルカと再会しに行く21エモンに対して複雑な表情を見せたり(19話-22話)、死んだと思われた21エモンの生存が確認された際には感極まって号泣している(38話)。</ref>。その一方、エモンはルナに対して好意をもってはいるものの恋愛感情についてはまだ自覚がないようである<ref group = "注釈">それどころかルナに対して疎ましく感じて邪険に扱ったり(14話)、ギャラクシーとの合併を提案されたとき、ルナにこき使われる様子を想像したり(劇場版第1作)、夢の中ではあるが一時的に敵意を表すこともあった(23話)。21エモンには根底にギャラクシー一族への不信感があり、それがルナへの好意を抑圧しているか無自覚にしているとも取れる。しかしリゲルがルナに馴れ馴れしくしているのを不快に感じてリゲルにいたずらを仕掛けたり(29話)と恋愛感情のようなものは僅かに存在しており、実際2年後にはルナからのデートの誘いを快諾している(劇場版第2作)など、かなりの進展を見せている<!--その後ルナと結婚したのはその不信感がなくなったためか、エモン自身が精神的に成長したためであろう-->。</ref>。
: 後に21エモンと結婚し、22エモンを出産した後、21エモンの宇宙探検に同行している<!-- <ref group = "注釈">また、息子22エモンの年齢から、かなり若い時期の結婚と思われる(おそらく20歳前後)。また、ギャラクシーのその後については描かれていないが、おそらく父が経営を続けており、エモンの宇宙探検にはルナの父からの援助もあったと思われる。</ref>。-->。
; ルナのパパ
: 声:[[塩見竜介]] / [[上田敏也]](少年時代:[[山崎たくみ]])
: ホテル・ギャラクシーの経営者。企業人としての冷徹さと良識ある思慮深い人格者ぶりを併せ持つ(娘・ルナにも多分に見られる)。
: ルナにはあまり小遣いを与えず、アルバイトをさせている。つづれ屋をトイレの増設用地として買収しようと企んだこともある<ref group = "注釈">相場を大きく上回る金額を提示しているため、悪意によるものではない</ref>。
: アニメでは20エモン、リゲルの父・マサカズとは同級生で、過去も現在も喧嘩の仲裁役である(28話)。
: なお、原作の裏設定<ref>『週刊少年サンデー』1968年10号に掲載。</ref>では、ギャラクシーが建設されたのはまだ10年ほど前のことで、つづれ屋が落ち目になったのはそれ以降とされている。アニメではその描写はなく、ギャラクシー建設は原作より古いようである<ref group = "注釈">ルナが「お爺さんのときからあったものを処分した」と言っているため(7話)、ギャラクシーはルナの祖父の代から存在していた可能性もある</ref>。
; カメキチ
: 声:[[はせさん治]](映画)
: 原作のみ登場のエモンやルナのクラスメイト。
: 金持ちの息子で、エモンを馬鹿にしている。しかし、本人は小柄で、大した才能も見受けられない。ルナに好意を持っていることもあり、何かとエモンをおとしめようとするが、やればやるほど墓穴を掘ってしまう。
; オリノ・リゲル
: 声:[[真柴摩利]]
: 原作でのカメキチに相当し、テレビアニメにのみ登場する人物。
: カメキチと異なり、容姿には恵まれており、才能もある模様。エモンやルナに比べてやや長身である。ゴージャスをモットーとするホテル・オリオン<ref group = "注釈">ホテル・オリオンは原作にも登場するホテルである。</ref>の社長の息子。
: 金持ちの息子<ref group = "注釈">ルナ同様にアルバイトをしている(9話)。</ref>ゆえにプライドが高く、エモンを馬鹿にしているのはカメキチと同じ。自らを「貴公子」と呼び<ref group = "注釈">宇宙各所から交信できるモデムボールで自己紹介する時に「宇宙の貴公子・リゲル」と自己紹介(17話)、「来週からはこの貴公子リゲルが主人公」と侵略者たちに啖呵を切った(38話)。</ref>、普段は強気な態度を見せているが、逆境には弱い<ref group = "注釈">それでもホテル・オリオンが携わっている事業の下で非人道的な行状があった時には、正義感から勇気を出して自身の身分を公表してやめるように身を持って説得したり(12話)、敵からの銃撃の際はとっさにルナの盾になっている(38話)。</ref>。
: ルナに好意を持つが、ルナがエモンに好意を持っているのを快く思っておらず、その反動でエモンにケンカを売っては、カメキチ同様墓穴を掘っているが、憎らしくも友情も抱く。
: 髪型から、しばしばゴンスケに「しいたけ」と呼称される。
; オリノ・マサカズ
: 声:[[矢田耕司]](少年時代:[[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]])
: リゲルの父親でテレビアニメにのみ登場する人物。
: 「あわてる二枚目はもらいが少ない」と息子に言い聞かせている。少年時代は息子同様かなり容姿に恵まれていた。
: 20エモンとは小学校時代に同級生であり、過去も現在も喧嘩相手である<ref group = "注釈">2016年度の卒業行事の宇宙へのメッセージビデオ収録の際も些細な理由で大喧嘩をしてその一部始終が収録されてしまい、息子たちを唖然とさせている。</ref>(28話)。
; スカンレー
: 声:[[飯塚昭三]] / [[玄田哲章]]
: 著名な宇宙探検家。片腕をロケットのエンジン爆発で吹き飛ばされ、片脚を[[冥王星]]での[[凍傷]]で切断し、わき腹を[[火星]]のモンスター(原作では大ダコ)に食われるなど、数々の冒険により体の部分部分を失い、その箇所を[[サイボーグ]]化している。
: 原作では1話のみの登場だが<ref group = "注釈">スカンレーは、元々、[[藤子不二雄]]合作の「海の王子」に登場したキャラクターである。</ref>、アニメ版では常連客となり<!-- <ref group = "注釈">原作での登場は「海の王子」のパロディであると思われる。しかし、アニメ版の21エモンで重要な脇役としてのポジションを与えられたため、「海の王子」のキャラクターというより、21エモンのキャラクターとしての方が有名になっている。なお「海の王子」の単行本は刊行されていないが、「藤子・F・不二雄論([[浜田祐介]]著、[[文芸社]])」などで、その存在を知ることができる。</ref> -->、つづれ屋を我が家のように愛する<ref group = "注釈">二度目につづれ屋を訪れた際には「ただいま」「つづれ屋は私の故郷」と発言している(21話)</ref>。
: 性格は豪快かつ剛毅だが、マスコミに追われてつづれ屋を騒がせたことを気遣うなど、周囲への気配りを忘れない一面も持つ。21エモンに自身のサイボーグ化された体を見せて宇宙冒険の厳しさや家業や家族の大切さを説く一方で、その宇宙冒険を許すよう20エモンに宇宙のすばらしさを説き、サルガッソーへの探検では21エモンと旅を共にした。<!--名前は、アフリカ探検家の[[ヘンリー・モートン・スタンリー|スタンリー]]に由来すると思われる。-->
; ジンゴロー
: 原作にのみ登場。エモンのクラスメイトであり、メカ好きの少年。<!--名前は[[左甚五郎]]から取ったものと思われ、その名のごとく-->何かを作らせた時の腕前は天下一品。
: 性格的にエモンやルナよりも大人だが、超大出力のステレオをテストしようとして、自宅の天井を吹き飛ばしたこともある。どうしても自分の宇宙船が欲しいエモンが、彼に子供センターの工作室で(本物の)宇宙船を作らせようとしたが、モンガーとゴンスケのわがままのせいで大失敗してしまった。
; ハルカ(本名:ホシノ・ハルカ)
: 声:[[江森浩子]]
: テレビアニメにのみ登場する。エモンが幼い頃、隣に住んでいた同世代の女の子。地球から引っ越す際、エモンに帽子をプレゼントした。[[木星]]の衛星である[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]に在住。[[月]]在住時には、コペルニクス・シティーのパレードで[[バトン]]ガールをやっていた。
; ホシノ(ハルカの父)
: 声:[[掛川裕彦]]
: ハルカの父で宇宙監察官<ref group = "注釈">宇宙監察官は原作にも登場しており、ガニメデの強制収容所を監察してエモンを救い出す一方、エモン・モンガーの協力によって監察を成功させた。ただし、原作の監察官は本名不明であり、エモンと幼なじみの娘がいるとの設定もないため、ホシノと同一人物ではないようである。</ref>。違法砕石者から追われているエモンを救い出した。エモンの行動によって長いこと追跡していた違法砕石者を逮捕できたために、お礼としてガニメデまで自家用ソーラーヨットでエモンたちを送っていった。
: エモン親子とも旧知の仲である。年齢は不詳だが40代半ば-後半の20エモンよりやや若年に見える。
; ホシノ夫人(ハルカの母)
: 声 :[[佐々木るん]]
: ガニメデの自宅を訪れたエモンたちを料理でもてなした。エモンについては「あのエモン君がこんなに大きくなってるなんてね」と言っていた。
; 先生(ヤマダ先生)
: 声:上田敏也/[[稲葉実]]
: エモンのクラスの担任。アニメではスカンレーの恩師でもある模様。<!--21エモンに対して「いないように見えるが…、いないと思うといつもいるんだ。彼はそういう人です」「つづれ屋君!××していていいのかね!」「ごまかそうと思っても無駄だ、つづれ屋君!」が口癖。-->
; ギャラクシーの支配人
: 声:[[加藤治]] / [[島香裕]]
: ホテル・ギャラクシーの支配人。つづれ屋買収の交渉に訪れたり、つづれ屋に苦情を言いに来たりする。
=== ゲストキャラ ===
; ワントナック公爵
: 声:[[古谷徹]]
: ワンダラー星の大使。テレビアニメでは第6話に登場。故郷の最新鋭の科学を好まず、レトロなものを愛好する趣味を持ち、先に泊ったギャラクシーの設備に難色を示し<ref group = "注釈">その一件でエモンたちと一緒にルナに翻弄されたことがある。</ref>、ギャラクシー隣接のつづれ屋に泊まる。つづれ屋の向かいにある昭和村でレトロなものを存分に味わっていた。
: 腕っ節が強く、自身の暗殺を試みたウキキラス星人を返り討ちにしている。
: 筒状の容器に入った電柱のような形の携帯トイレを所持していた。
; ジロ・ミケラン
: 声:[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]
: アニメ版のみ登場。全宇宙的に有名なファッションデザイナーで、後にエモンが着用する宇宙服をデザインした人物。
: 子どもの頃からの夢だった宇宙旅行をするためにデザインしたものをゴミ処理してもらうようにエモンたちに依頼。その時にエモンに宇宙服を無料で与えている。
: 相棒のガンスケ(声:龍田直樹)はゴンスケとほぼ同形式の芋掘りロボット。口の悪さはゴンスケと同様だが、奔放で子供っぽいジロとは対照的なしっかり者である。
; ガトミック
: 声:[[矢田稔]]
: アニメ版のみ登場。アニメ登場時には老齢だが、宇宙航行技術が未発展だった時代に活躍した名パイロットである。現役時代には数多くの航路を開拓し、その存在はパイロットの間では伝説となっている。ハンドルを握ると現役時代を思い出し、高揚する。スカンレーの師匠でもある模様。
: 妻は宇宙船の客室乗務員(声:[[原えりこ]])であったが、間もなく「宇宙のサルガッソー」と呼ばれる航行危険区域での事故により亡くなっている。後にガトミック自身がその宙域を探検し、条例によって航行禁止区域に指定した。エモンを気に入り、後にロケットのエンジンを提供した<ref group = "注釈">ガトミックのロケット・ビーグル号はエモン所有のロケットと同型で、換装が可能だった。</ref>。
: メイドとして「オミソ」(声:肝付兼太)という名のロボットがいる(オナベとほぼ同形式のメイドロボットで、金色に塗装された色違い版)。
; リッチマン
: 声:[[辻村真人]]
: 会社の経営者でその名の通りの大金持ち。ギャラクシーの常連客でもあるらしい。原作では木星行きのチケットと引き替えに、モンガーの買収をもちかけるなど、成金で嫌みな人物であったが、アニメ版では愛嬌のある性格になっている。
: 月で自家用ロケットを見物しているときに、モンガーのテレポートであちこちのロケットの乗り心地を味わわせてもらったことから、エモンたちを気に入る。その後、夕食やホンキートンクホッパーでの月面遊覧にエモンたちを誘い、過去に遺棄され廃墟となった月面都市で鉱物資源を発見した。だがその際に宇宙服を損傷し遭難しかけ、エモンたちに救われる。予定が変わり、木星にはエモンたちと同行できなくなったが、木星行きのチケットをプレゼントした。
: エモンたちの旅の目的を聞いて「青春しとるのう」と笑顔を見せた。また、かなりのスピード狂でもある。
; アケッチー
: 声:[[村山明 (声優)|村山明]]
: アケッチー探偵事務所のオーナーでテレビ版のみ登場する(13話)。事務所はあまり流行っている様子がなく、仕事がない<ref group = "注釈">アルバイトに応募したエモンにさえ「なにか仕事ない?」と持ちかけている</ref>。
: 普段はだらしない性格で、意地汚く、頼りなく、美女に弱い<ref group = "注釈">普段は下着姿であり、事務所に酒瓶やタバコの吸殻を放置している。農場で動物探し(仕事)をしている際にトマトをつまみ食いしたり、スプリンクラーの回転に巻き込まれている。また、依頼主の言葉をそっちのけで依頼主の水着姿に見とれているところを、エモンに肘でつつかれている。</ref>。しかし宇宙怪盗を追跡してからは、宙吊状態のまま単身で追い詰めるなど、いざという時の行動力は高い(ある意味エモンに似ている)。また、動物を捕らえる罠や、拳銃の先から吸盤を発射する装置を自作するなど、発明家としての才能も見せている。宇宙怪盗を捕らえてからは有名になった。
; ウキキの木
: ブッシュ星雲マングローブ星(原作では木星)出身の植物型宇宙生物。自我と知性を持ちながら自力では移動も会話もできず、脳波を放出して周囲の生物をコントロールすることで意思表示や様々な行動をする<ref group = "注釈">これで他人の口を借りる形で言葉を発する。ゴンスケなどロボットには効かない。</ref>。主食は水で、地球の植物のように根から吸収する。
: やや傍若無人だが宇宙各地に知人は多く、気に入った相手には協力を惜しまない。
: エモンを気に入り、その身を助けたり、金塊を生み出し宇宙旅行の資金として提供した。
; コイケラス星人(チャンフー閣下)
: 声:加藤治
: コイケラス星から来た宿泊客で、実はコイケラス星の最高[[司令官]]。
: つづれ屋でサービスの一環として見せた大昔の怪獣映画『怪獣キャプテン』の敵役「スズキラス」が自身とそっくりなことに激怒、地球のコイケラス星への敵対行動と誤解して宇宙艦隊まで呼び寄せる。
: モデルは藤子漫画の常連キャラクター「[[小池さん]]」。
; トッヂ、ドッチ
: 声:[[横山智佐]](トッヂ)、[[柳沢三千代]](ドッチ)
: それぞれツイン星人。双子星であるツイン星<ref group = "注釈">互いに存在は知っているものの、双方を行き来することができないので交流は無い。</ref>のそれぞれからやってきた。
: 2016年に地球から贈られたメッセージを受け取り、その返信と共にやってきた代表者。地球で対面後、大喧嘩を始めてしまい、エモンとリゲルの父親をも巻き込んでしまう。
; モコラ
: 声:[[高乃麗]]<ref group = "注釈">エンディングのテロップでは高野麗と誤記されていた</ref>
: モチ星雲モコモコ星から宇宙家出をし、地球へと密航してきて生き倒れになっていた所を21エモンと20エモンに助けられたモコモコ星人の子供。純真無垢だが世間知らず。
: [[金属]]を食料とする。ゴンスケの手を食べたりするなどしたためにゴンスケからは嫌われている。登場時は全長50cmほどだったが、モコモコ星人の第二次成長期で一気に巨大化したために本人の意図に反して大騒動を巻き起こしてしまう。最後は父・モゴランによって実家に連れ戻された。
; モゴラン
: 声:[[屋良有作]]
: モチ星雲モコモコ星人で、モコラの父。大型機械修理店を営んでいる。宇宙家出したモコラを連れ戻しに地球に来訪。モコラが迷惑をかけたお詫びに自身の弟子のレストアロボットたちをつづれ屋の客として来訪させた。
; グーパー・H・トロイ
: 声:[[堀内賢雄]]
: 連邦入国管理局の捜査官で、不法入国者を取り締まる仕事をしている。モコラの一件でつづれ屋に捜査に訪れる。捜査官としての用心深さと冷徹さと、一個人としての良識を併せ持っている。
: コーヒーが好物。
; ポロロッコリー
: 声:掛川裕彦
: マジカル星出身の発明家でテレビ版のみに登場する(29話、32話)。発明の才能はあるものの、それ以外は非常に不器用で気弱な性格。
: 同じ星の出身者のハリハリフラワー(声:[[岸野一彦]])に乗せられて地球で発明品の売り込みをしたが、うまくいかなかった。地球に滞在していた時につづれ屋に発明品を悪用して泊まっていたが、良心の呵責から自白、宿代代わりに発明品を置いて帰郷した。その中にモンガーが飲み込んだ無限トランクがある。
: その後はギャロット博士(声:[[宮内幸平]])の下で発明家の修行に励んでいる。
: ギャロットの下に部品を卸している業者の娘・チップル(声:[[小林優子]])と仲が良い<ref group = "注釈">恋人同士ともとれる描写もされているが、明言はされていない。</ref>。
; ムエ
: 声:[[塩屋翼]]
: [[瞬間移動|テレポート]]、[[テレキネシス]]、[[透視 (超心理学)|透視]]など、強力な[[超能力]]を持つ長命のクエ星人の青年(35話、36話)。クエ星人の外見は妖怪の[[鵺]]に酷似している。
: 900年前、地球探検に来ていた父・ヌエ(声:[[掛川裕彦]])を殺害した[[源頼政|源三位頼政]](声:[[加藤正之]])を[[仇討ち]]相手として追っていたが、偶然見かけたエモンを頼政と誤解<ref group = "注釈">異なる種族は皆同じ容姿に見えてしまうため、ムエにはエモンと頼政の区別がまったくつかなかった。</ref>し、仇として執拗に命を狙った。
: 根は礼儀正しく情け深い善良な性格であるが、思い込みが激しく頭に血が上りやすい(ある意味、エモンに似ている)。謎の[[伝染病]]に侵されたナイナイ星でエモンたちを苦しめ追い詰めたものの伝染病<ref group="注釈">正体は地球の[[インフルエンザ]]。</ref>に侵されたところをエモンに救われ、やがて誤解が解けて和解する。許婚であるミエ(後述)やモンガーとともにナイナイ星ごと伝染病を根絶しようとした[[ミサイル]]攻撃を阻止し、エモンたちの苦境を救った。
; ミエ
: 声:[[鈴木みえ]]
: ムエの婚約者であるクエ星人の女性。自身を置き去りにして900年もの間、仇を追い続けてきたムエに仇討ちを止めるように説得しにきた<ref group = "注釈">ムエが仇討ちに出た後に星間連合から仇討ちに関する法に対しての勧告があり仇討ちが禁止されたことと、仇を討った後にムエ自身が仇になることを阻止するため。</ref>。ムエ同様、根は礼儀正しい善人ではあるものの、思い込みが激しく血気盛んである<ref group = "注釈">ナイナイ星の伝染病に倒れたムエをみて、エモンたちのせいと思い込み攻撃を仕掛けている。その際エモンは「クエ星人ってこんなのばかりなのか?」と辟易している</ref>。
; マルス
: 声:江森浩子
: 故郷の惑星を爆発によって失い、新天地を求めて宛てのない旅をする植物型宇宙人・シード星人の少年。シード星人は本来は植物の姿をしている<ref group = "注釈">花の姿から種の姿まで自在に姿を変えることができる。</ref>が人型の姿も持ち、他の種族への変装能力も併せ持つ。
: 基本的には心優しく正義感が強い。地球侵略の手始めとしてエモンに擬態する。しかしエモンたちと接したことで情が移り、そのため同胞らの地球侵略計画との板挟みに苦悩するようになる。最終的には改心し、エモンとも和解。エモン一行が見つけた自然そのものの移動惑星に移住する。
; 演出家
: 声:[[徳丸完]]
: シード星人の指導者であり、旅周りの一座の時は演出家として振る舞っている。
: 指導者としての人格者の部分と狡猾な部分を併せ持ち、自ら率先してマルスや女性シード人と共にエモンたちに化け、自身はゴンスケに擬態。地球侵略の先鋒となった。最終的には改心。
; 女性シード星人
: 声:[[横山智佐]]
: シード星人の女性。マルスと演出家と共にエモン一行に擬態し、自身はモンガーに擬態した。マルスと同じく、地球侵略に罪悪感を抱くようになる。
== テレビアニメ ==
[[1991年]]5月2日から[[1992年]]3月26日に[[テレビ朝日]]系列で放送。全39話。
原作発表から23年余、映画「宇宙へいらっしゃい!」から10年を経てテレビアニメ化となった。キャラクターデザインや設定の一部が変更(詳細は後述)され、エピソードは原作および『[[モジャ公]]』から流用がある。
チーフディレクターを務めた[[原恵一]]によると、原作は古いもののため「そのままアニメにするのは難しい」という思いがスタッフ内にあり、内容をかなり脚色したという。またテンポ良くとがった演出をしようとしたため、「自分で苦手な部分を無理してやったのではないか」と語っている。
第1話ではサブタイトルにもあるとおり、ドラえもんがゲスト出演しているが、セリフが一切ない背景キャラクターとして数秒間のみの出演であり、21エモンとも一切絡んでいない<ref group = "注釈">ドラえもんは第24話にもゲスト出演しているが、第1話同様背景キャラクターとしての出演のみ。</ref>。なお、新番組予告では21エモンを視聴者に紹介する役割でドラえもんが台詞付きで出演している。
第29話以降、エモンとモンガーゴンスケと3人による宇宙旅が始まり、第38話で一応の終わりを迎え、第39話は総集編と後日談的な内容になっている。
この作品のメインスタッフは『[[エスパー魔美]]』(初期は『[[藤子不二雄ワイド]]』に内包)『[[チンプイ]]』と本作まで長らく藤子作品を手掛けていたが、これを機に演出の[[安藤敏彦]]と脚本スタッフ([[もとひら了]]は除く)以外は、当枠から月曜19:00に移動した『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』へと移行し、『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』シリーズを除いたテレビ朝日・シンエイ動画による藤子・F原作のテレビアニメは本作で最後となっている<ref group = "注釈">以後に制作された藤子・F原作のテレビアニメは他社による制作かつ他局で放送の『[[ポコニャン]]』と『[[モジャ公]]』のみである。ただし1993から1994年にかけて『[[ウメ星デンカ]]』をシンエイ動画により劇場版として製作したあと、テレビ放送する予定ではあったが、実現には至らなかった。{{main|ウメ星デンカ#概要}}</ref>。
=== スタッフ ===
* 原作:[[藤子・F・不二雄]]
* 作画監督(キャラクターデザイン):[[高倉佳彦]]
* 美術設定:川井憲
* 美術監督:星野直美
* 撮影監督:高橋秀子、斎藤秋男
* 録音監督:[[浦上靖夫]]、[[大熊昭]]
* 音楽:[[田中公平]]
* 音楽協力:[[テレビ朝日ミュージック]]、[[小学館プロダクション]]
* プロデューサー:木村純一([[テレビ朝日]])、亀山泰夫、高閑者清光([[ADKホールディングス|ASATSU]])、[[別紙壮一]]、[[茂木仁史]]([[シンエイ動画]])
* チーフディレクター:[[原恵一]]
* メカデザイン:[[荒川真嗣]]
* 色指定:野中幸子、松野由美、若菜陽子、大内裕智
* 特殊効果:土井通明、村上正博
* 背景:[[アトリエローク07|アトリエローク]]
* 撮影:[[旭プロダクション]]
* 効果:[[松田昭彦]]([[フィズサウンドクリエイション]])
* スタジオ:[[APU MEGURO STUDIO|APUスタジオ]]
* 整音:柴田信弘
* 録音制作:[[AUDIO PLANNING U|オーディオプランニングユー]]
* 編集:[[岡安肇]]、[[小島俊彦]]、村井秀明、中葉由美子、川崎晃洋
* タイトル:道川昭
* 現像:[[東京現像所]]
* シリーズ構成:[[桶谷顕]]
* 広報担当:森田兆基(テレビ朝日)
* 制作デスク:山川順一、大澤正享(25話-)
* 制作:テレビ朝日、ASATSU、シンエイ動画
=== 主題歌 ===
; オープニングテーマ - 『[[おーい!車屋さん]]』
* 作詞 - [[米山正夫]]・[[荒木とよひさ]] / 作曲 - 米山正夫・[[馬飼野康二]] / 編曲 - [[鷺巣詩郎]] / 歌 - [[忍者 (グループ)|忍者]] / レーベル - [[日本コロムビア]]
**[[美空ひばり]]の「[[ひばりのドドンパ/車屋さん|車屋さん]]」([[1958年]])をロック調にリメイクした忍者の曲。[[ミュージック・ビデオ]]用のイントロが長いリミックスバージョンが存在する。忍者のアルバム以外の収録は2018年発売の「鷺巣詩郎 アニソン録 プラス。」のみ。
; エンディングテーマ1 - 『21世紀の恋人』(第1話-第12話、第38話挿入歌)
* 作詞 - [[神沢礼江]] / 作曲 - [[柴矢俊彦]] / 編曲 - [[西脇辰弥]] / 歌 - [[谷村有美]] / レーベル - [[ソニーレコード]]
**※本放送時の提供クレジット・エンドタイトルでは最終回まで使用された。アルバム収録は1991年発売の「White Songs」でのリミックス版のみ。
; エンディングテーマ2 - 『ベートーベンだねRock'n'Roll』(第13話-第39話(最終話))
* 作詞・作曲 - [[川島だりあ]] / 編曲 - [[寺尾広]] / 歌 - [[シャドウ・リュウ|テンテン]] / レーベル - [[ワーナー・パイオニア]]
** ※番組では音源を早送りした状態で使用され、キーとテンポが上がっている。劇場版「宇宙いけ!裸足のプリンセス」公開告知の関係で、終盤はショートバージョンだった。2011年発売の「藤子・F・不二雄 アニメ主題歌・挿入歌集」で、初めてアルバムに収録された。
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
!話数!!サブタイトル!!脚本!!コンテ!!演出!!作画監督!!放送日
|-
|1||僕ドラえもん僕の友達 エモン君の宇宙大冒険!||rowspan="2"|[[桶谷顕]]||colspan="2" style="text-align:center;"|[[原恵一]]||[[高倉佳彦]]||'''1991年'''<br />5月2日
|-
|2||トウキョウシティ! 21代目エモンvsモンガー?||colspan="2" style="text-align:center;"|[[高柳哲司]]||[[堤規至]]||5月9日
|-
|3||あっと驚くゴンスケ! 不思議な客タイロック?||rowspan="2"|[[もとひら了]]||colspan="2" style="text-align:center;"|[[貞光紳也]]||[[樋口善法]]||5月16日
|-
|4||星雲間亜光速ロケット! ミリオネヤ星人の秘密||[[鴫野彰|義野利幸]]||市野文隆||高倉佳彦||5月23日
|-
|5||ハッピーレポート! 超人スカンレーの伝説秘話||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center;"|[[安藤敏彦]]||堤規至||5月30日
|-
|6||ハッピー昭和村? ワントナック公爵はレトロ好き||もとひら了||colspan="2" style="text-align:center;"|貞光紳也||樋口善法||6月13日
|-
|7||フラッシュポイント!! コイケラス星人怒りの攻撃||rowspan="2"|[[山本優]]||colspan="2" style="text-align:center;"|高柳哲司||高倉佳彦||6月20日
|-
|8||不思議ズタ袋? ハッピー商事の陰謀!||義野利幸||市野文隆||堤規至||6月27日
|-
|9||アルバイトで200万! スペーススーツ獲得大作戦||もとひら了||[[青山弘]]||安藤敏彦||高倉佳彦||7月11日
|-
|10||危機一髪!! 火炎地獄から脱出 謎の暗黒へワープ||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center;"|貞光紳也||樋口善法||7月18日
|-
|11||大気圏離脱もう戻れない!! エモン未知の世界へ?||rowspan="2"|もとひら了||原恵一||市野文隆||堤規至||7月25日
|-
|12||マジカルプラネット!! 観光用ロボットの反乱?||colspan="2" style="text-align:center;"|安藤敏彦||高倉佳彦||8月8日
|-
|13||オーチンが消えた! まるごとサスペンスパニック||山本優||colspan="2" style="text-align:center;"|高柳哲司||堤規至||8月15日
|-
|14||ワクワク冒険大活劇? 東京ベイブリッジ物語!!||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center;"|貞光紳也||樋口善法||8月22日
|-
|15||お江戸5エモンモーニング? 謎のジュゲム星人!!||もとひら了||義野利幸||市野文隆||高倉佳彦||8月29日
|-
|16||だるまさんがころんだ? ゴリダルマの五ツ星||山本優||colspan="2" style="text-align:center;"|安藤敏彦||堤規至||9月5日
|-
|17||ウッキッキー? ウキキの木のチャネリング!!||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center;"|[[本郷みつる]]||高倉佳彦||9月12日
|-
|18||ウハウハ3億円! おぼっちゃまの忘れ物||もとひら了||colspan="2" style="text-align:center;"|貞光紳也||樋口善法||9月19日
|-
|19||誘惑ワンダーランド? ホンキートンクホッパー!!||山本優||colspan="2" style="text-align:center;"|高柳哲司||高倉佳彦||10月17日
|-
|20||奇人変人悪人か! 不思議宇宙船から奇跡の生還?||rowspan="3"|桶谷顕||原恵一||市野文隆||堤規至||10月24日
|-
|21||木星異常接近!! 衝撃度99%のソーラーヨット?||colspan="2" style="text-align:center;"|本郷みつる||高倉佳彦||11月7日
|-
|22||ガニメデ到着! 出逢いはすてきな恋の始まりか?||colspan="2" style="text-align:center;"|貞光紳也||樋口善法||11月14日
|-
|23||地球消滅! 超人エモン異次元ポケットに迷う?||もとひら了||原恵一||市野文隆||堤規至||11月21日
|-
|24||突然変異か! 新能力か! モコラの世にも奇妙瞬間||山本優||colspan="2" style="text-align:center;"|本郷みつる||高倉佳彦||11月28日
|-
|25||スーパー超能力! レストアロボのどっきり恩返し||桶谷顕||寺東克己||安藤敏彦||[[小川博司 (アニメーター)|小川博司]]||12月5日
|-
|26||謎のサルガッソー! ロマンチックサルベージ?||rowspan="2"|もとひら了||colspan="2" style="text-align:center;"|貞光紳也||樋口善法||12月12日
|-
|27||魔物伝説! マグネットパワーで正体をあばけ||colspan="2" style="text-align:center;"|本郷みつる||高倉佳彦||12月19日
|-
|28||マルチ星雲ツインツイン? パパたちの少年時代||山本優||原恵一||市野文隆||堤規至||'''1992年'''<br />1月9日
|-
|29||無限トランクで大変身!! マジカルパワーモンガー||もとひら了||colspan="2" style="text-align:center;"|安藤敏彦||小川博司||1月16日
|-
|30||キャプテンは俺だ! 冷暖星・超空間ゴースト戦||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center;"|貞光紳也||樋口善法||1月23日
|-
|31||目玉と口が散歩する? エモン・ゼロ次元の恐怖!||山本優||原恵一||市野文隆||高倉佳彦||1月30日
|-
|32||モンガー大解剖! 不思議工場の発明実験室||rowspan="2"|もとひら了||colspan="2" style="text-align:center;"|寺東克己||堤規至||2月6日
|-
|33||7627番目の客 幸福の星はパッピーだらけ||義野利幸||安藤敏彦||小川博司||2月13日
|-
|34||太陽が復活する モアモア伝説モンガーの予言||山本優||colspan="2" style="text-align:center;"|貞光紳也||樋口善法||2月20日
|-
|35||決闘ナイナイ星! エモン親の仇と狙われる!!||rowspan="2"|もとひら了||原恵一||市野文隆||rowspan="3"|堤規至||2月27日
|-
|36||惑星爆破! エモン絶体絶命!! クエ星人の敵討ち||colspan="2" style="text-align:center;"|安藤敏彦||3月5日
|-
|37||エモンの遭難! シード星50億人の地球侵略!!||rowspan="2"|桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center;"|寺東克己||3月12日
|-
|38||異星人の宇宙センター 移動惑星が地球を救う!!||原恵一||市野文隆||堤規至<br/>高倉佳彦||3月19日
|-
|39||大冒険秘録!! 誘われてセンチュリーボーイ?||colspan="3" style="text-align:center;"|原恵一||堤規至||3月26日
|}
=== 放送局 ===
※放送日時は個別に出典が提示されているものを除き1992年3月終了時点、放送系列は放送当時のものとする<ref>『[[アニメディア]]』1992年4月号([[Gakken|学研]])テレビ局ネットワーク(117 - 119頁)。</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送地域!!放送局!!放送系列!!放送日時!!備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||テレビ朝日||rowspan="17"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]||rowspan="17"|木曜 19:30 - 19:58||'''制作局'''
|-
|[[北海道]]||[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]||
|-
|[[青森県]]||[[青森朝日放送]]||19話から放映<ref group = "注釈">1 - 18話は本放送終了後に1993年 - 1994年頃に火曜 17:30 - 18:00に改めて全話放映された。<!---『[[アニメージュ]] 1994年2月号』 1994年、[[徳間書店]]、全国主要都市放送リスト 82頁から---></ref>。
|-
|[[宮城県]]||[[東日本放送]]||
|-
|[[福島県]]||[[福島放送]]||
|-
|[[新潟県]]||[[新潟テレビ21]]||
|-
|[[長野県]]||[[長野朝日放送]]||
|-
|[[静岡県]]||静岡けんみんテレビ||現:[[静岡朝日テレビ]]。
|-
|[[石川県]]||[[北陸朝日放送]]||19話から放映。
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]||[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]||
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]||[[朝日放送テレビ|朝日放送]]||
|-
|[[広島県]]||[[広島ホームテレビ]]||<ref group = "注釈">ただし、19:30 - 20:54にプロ野球[[広島東洋カープ]]主催ゲームの[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|中継]]の関係上、月-金曜夕方の帯再放送枠(主に翌週月曜 17:00 - 17:30)に放映される場合があった。</ref>
|-
|[[岡山県・香川県の放送|香川県・岡山県]]||[[瀬戸内海放送]]||
|-
|[[福岡県]]||[[九州朝日放送]]||
|-
|[[長崎県]]||[[長崎文化放送]]||
|-
|[[熊本県]]||[[熊本朝日放送]]||
|-
|[[鹿児島県]]||[[鹿児島放送]]||
|-
|[[岩手県]]||岩手放送||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]||土曜 5:30 - 6:00||現:[[IBC岩手放送]]。
|-
|[[秋田県]]||[[秋田放送]]||[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]||日曜 11:00 - 11:30||
|-
|[[山形県]]||[[山形放送]]||日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列||金曜 19:00 - 19:30||
|-
|[[山梨県]]||[[山梨放送]]||日本テレビ系列||木曜 16:00 - 16:30||
|-
|[[福井県]]||[[福井放送]]||rowspan="2"|日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列||木曜 17:30 - 18:00||
|-
|[[山口県]]||[[山口放送]]||水曜 17:00 - 17:30||
|-
|[[徳島県]]||[[四国放送]]||日本テレビ系列||月曜 19:00 - 19:30||
|-
|[[沖縄県]]||[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]||[[フジテレビ系列]]||月曜 - 木曜 16:00 - 16:30||1992年に帯放送<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=1992年10月号 |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |title=TV STATION NETWORK |pages=109}}</ref>
|}
{{前後番組
|放送局=[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]
|放送枠=木曜19:30 - 19:58枠
|番組名=21エモン<br />【当番組でアニメ一旦休止】
|前番組=[[チンプイ]]
|次番組=[[アッコ・純次の平成TV事典 三匹の子ブタ|アッコ・純次の平成TV事典<br />三匹の子ブタ]]
}}
=== 再放送 ===
2003年よりCS放送の[[テレ朝チャンネル]]で「[[シンエイアニメシアター]]」の一作品として全話再放送が開始され、2007年頃まで断続的に再放送がリピートで行われている(現在はチャンネル内容が分割され2つになったうちの[[テレ朝チャンネル|テレ朝チャンネル1]])。2005年には[[テレビ朝日]]の「[[アニメDEおめざめ]]」枠で1話から連続して再放送されたが、同年12月に打ち切られた。[[サイバーエージェント]]と[[テレビ朝日]]が運営しているインターネットテレビ局「[[AbemaTV]]」の家族アニメチャンネルにて2016年4月11日の本放送開始と同時に再放送を開始したが、オープニングとエンディングは割愛され、いきなり本編から放送している。
=== ビデオソフト ===
劇場版以外は長らく家庭用[[ビデオソフト]]発売はされていなかった。2010年6月にローソンで企画された「藤子・F・不二雄キャラクターズフェア」の一環として、ローソン店舗限定でヴィジョネアから販売されたDVD MAGIC(一部内容が[[ペイ・パー・ビュー|PPV]]で収録されている)形態の[[DVDビデオ]]「藤子・F・不二雄 アニメキャラクター大集合!!(発売元:小学館)」第2巻に第17話が収録され初のソフト化となった。
2010年9月に[[藤子・F・不二雄ミュージアム]]開業記念企画として発売された「藤子・F・不二雄TVアニメアーカイブス」シリーズ(発売元:[[TCエンタテインメント]]・[[テレビ朝日]] 販売元:[[スーパー・ビジョン (企業)|スーパー・ビジョン]])のセレクション2と4に、それぞれ第14話、第35 - 36話が収録された。
2011年8月5日にDVD-BOX「21エモンComplete Box」(発売元:[[小学館]]・[[テレビ朝日]] 販売元:[[TCエンタテインメント]])が発売された。放送から20年を経て初の全話パッケージソフト化となる。
2021年現在、Blu-ray版はリリースされていない。
== 映画 ==
=== 21エモン 宇宙へいらっしゃい! ===
『'''21エモン 宇宙へいらっしゃい!'''』(にじゅういちえもん うちゅうへいらっしゃい!)は、[[1981年]][[8月1日]]に公開された[[アニメ映画]]。上映時間は92分。同時上映は「[[ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ]]」。
==== 解説 ====
映画ドラえもんが好評だったことから製作された[[藤子不二雄]]原作の「21エモン」の初アニメ作品。つづれ屋での騒動を描いた前半と宇宙冒険に繰り出す後半で構成され、全体的に原作の流れをコンパクトに纏めた作品である。ギャグタッチの物語が宇宙に飛び出すことで引き締まり、緊張感のある冒険物語に仕上がったことで、原作の持つ面白さがよく再現されている。本作はテレビアニメ化に対するパイロットフィルム的な意味合いも持たせてあったが、この時点では実現せず10年を要したため、独立した作品となった。併映の『ドラえもん』とリンクする場面が1カット入っている。
<!--
なお、本作のエンドロール前に「今日はちょうど100年前にスペースシャトルが打ち上げられた記念日」というセリフが入ることから、作中の西暦は2077年、もしくは2081年と推測される<ref>スペースシャトル初号機である[[スペースシャトル・エンタープライズ|エンタープライズ]]は1977年初飛行だが、滑空試験に使われたのみであり、実際に宇宙飛行を行なったのは1981年の2号機[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]が初。コロンビアは1981年4月12日に打ち上げられたので、本作公開の約4か月前の出来事にあたる。</ref>。
-->
==== キャスト ====
* 21エモン:井上和彦
* パパ:二見忠男
* ママ:栗葉子
* ゴンスケ:肝付兼太
* モンガー:杉山佳寿子
* オナベ:丸山裕子
* ルナ:潘恵子
* ギャラクシー社長:塩見竜介
* 支配人:加藤治
* 山田先生:上田敏也
* カメキチ:はせさん治
* カワサキ:[[鈴木清信]]
* ササヤマ星人:[[高田竜二]]
* スカンレー:飯塚昭三
* 船長:[[筈見純]]
* 航海士:[[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]]
* ガイド:[[川島千代子]]
* アナウンサー:[[松原雅子]]
* コンピューター:尾崎桂子
* バトンガール:[[一龍斎貞友]]
==== スタッフ ====
* 原作:[[藤子不二雄]]
* 脚本:[[辻真先]]
* 作画監督:[[山田みちしろ]]
* 美術監督:[[川本征平]]
* 美術設定:門野真理子
* 撮影監督:小山信夫、金子仁
* 録音監督:浦上靖夫
* 音楽:[[菊池俊輔]]
* プロデューサー:別紙壮一、菅野哲夫
* 監督:[[芝山努]]
* 絵コンテ:[[小林治 (1945年生のアニメ演出家)|小林治]]、[[河内日出夫]]、山田みちしろ
* 編集:井上和夫
* 色設計:若尾博司
* 仕上検査:堀籠知世美、三橋曜子
* 特殊効果:土井通明
* 演出助手:井上修
* 原画:河内日出夫、[[須田裕美子]]、吉本桂子、[[後藤真砂子]]、石井文子、後藤典子、若山佳幸、池ノ谷安夫、吉川文子、飯口悦子、[[大塚正実]]、木内良子、山崎勝彦、飯山嘉彦、[[森下圭介]]、原完治、[[川島彰|川島明]]、大嶋聡、宮尾岳、天野公子、小林左希子、高橋由美子
* 動画:若山佳治、志村延子、加藤鏡子、清水環、佐藤正人、[[大貫健一]]、[[洞沢由美子]]、上ノ山順子、阿久津智子、力石裕子、森島裕、原佳寿美、大久保修、[[奈須川充]]、川東桃代、小林幸、田口陽子、内山朱美、大久保洋子、隅田由美子、佐藤弘美、川島郁子、大沢真紀子、佐藤定雄、箕輪美恵子、鹿取真三子、田渕正二、山本実、花輪弘昌、小清水弘幸、荒井淳、奈良美津子、岩崎文子、金子道子、山田智子、渡辺理恵、伊藤一男、三沢かずまさ、鈴木美穂、中谷マリ、赤塚ひでお、内藤たかし、前田順子、佐藤由美子、関三恵子、新木寿子、幸田知子、森川明美、高橋奈緒子、矢萩智子、中川早苗、升谷弘子
* 美術補:工藤剛一
* 背景:高野正道、斉藤由美子、藤井美千代、川沼信平
* 撮影:角原幸枝、茂呂広幸、柏田享、前田努、小松寿一、笠間いずみ、中出三記夫
* 音響効果:[[赤塚不二夫 (音響技術者)|赤塚不二夫]]
* 整音:中戸川次男
* 録音スタジオ:APUスタジオ
* 録音制作:AUDIO PLANNING U
* 現像:東京現像所
* 文芸:山本有子
* 制作進行:川口亘、吉岡大、小沢一枝
* プロデューサー補:佐久間晴夫
* 制作協力:[[藤子スタジオ]]、旭通信社
* 制作:シンエイ動画、[[小学館]]、テレビ朝日
* 配給:[[東宝]]
==== 劇中歌 ====
{| class="wikitable"
|-
!使用形態||曲名||唄||作詞||作曲||編曲
|-
|オープニングテーマ|| 宇宙へいらっしゃい! ||井上和彦<br/>杉山佳寿子<br/>肝付兼太||藤子不二雄<br/>はばすすむ||colspan=2 rowspan=2|菊池俊輔
|-
|エンディングテーマ|| 遥かなる宇宙 ||井上和彦||はばすすむ
|-
|}
==== 映像ソフト化 ====
* {{cite video
| 和書
| people =
| date = 2000/3
| title = 21エモン 宇宙へいらっしゃい!
| url =
| format =
| medium = [[VHS]]
| language = [[日本語]]
| publisher = [[小学館]]
| location =
| archiveurl =
| archivedate =
| accessdate =
| time = 93分
| id =
| isbn = 4099043592
| oclc =
| quote =
| ref =
}}
* {{cite video
| 和書
| people =
| date = 2005/11/16
| title = [[ドラミ&ドラえもんズ ロボット学校七不思議!?]]/21エモン 宇宙へいらっしゃい!
| url =
| format =
| medium = [[DVD]]
| language = [[日本語]]
| publisher = [[小学館]]
| location =
| archiveurl =
| archivedate =
| accessdate =
| time = 125分
| id =
| isbn =
| oclc =
| quote =
| ref =
}}
{{芝山努監督作品}}
=== 21エモン 宇宙いけ! 裸足のプリンセス ===
『'''21エモン 宇宙いけ!裸足のプリンセス'''』(にじゅういちえもん そらいけ!はだしのプリンセス)は、[[1992年]][[3月7日]]に公開された[[アニメ映画]]。上映時間は39分。同時上映は「[[ドラえもん のび太と雲の王国]]」。
==== 解説 ====
テレビシリーズの2年後(第38話と最終回である第39話の間に位置)という設定の中編作品で、 前半は『[[ローマの休日]]』をモチーフにした物語展開が、後半は『モジャ公』の「アステロイドラリー」をベースにした宇宙レース「銀河ラリー」が繰り広げられる。アニメ作品としては最初にDVD化された。
===== ゲストキャラクター =====
* ファナ王女:[[久川綾]]
: ノーブル星王室の王女。
: 王族故の雁字搦めな生活に疲れ果て、宮廷を飛び出す。やがてつづれ屋へと行き着き、エモンたちと出会い行動を共にする。エモンとほのかな想いを寄せ合う。
* ノーブル王:[[宮内幸平]]
: ノーブル星王国国王。ファナの父親。
* 執事:[[西川幾雄]]
: ファナとノーブル王の執事。
* バウバウ:[[茶風林]]
: ファナの御守り役。青い体と翼、白い眉毛と髭が生えている。
* 親衛隊長:[[細井重之]]
: ノーブル星王国の親衛隊長。
* ヒロン:[[掛川裕彦]]
: アステロイドラリー参加者のひとり。
: 高飛車な面があるが正義感に厚く、正々堂々としたレースを信条としている。
* ガルガ:[[渡部猛]]
: [[オオトカゲ]]風の容姿をした宇宙人でアステロイドラリーの参加者のひとり。隻眼。
: レーサーとしての腕は優秀だが、それ以上に勝利のために手段を選ばない卑劣さも併せ持つ。
* 支配人:[[阪脩]]
* ピエロ:[[坂東尚樹]]
* アナウンサー:[[山崎たくみ]]
* テーマパークアナウンサー:[[真柴摩利]]
* マヌカンロボット:[[斉藤庄子]]
* 男:[[巻島直樹]]
* 子供:[[横山智佐]]
==== スタッフ ====
* 原作:藤子・F・不二雄
* 監督:[[本郷みつる]]
* 脚本:桶谷顕
* キャラクターデザイン・作画監督:高倉佳彦
* メカニックデザイン:[[西村博之 (イラストレーター)|西村博之]]
* 美術監督:天水勝
* 撮影監督:熊谷正弘
* 録音監督:大熊昭
* 音楽:田中公平
* 色指定:渡辺美菜子
* 動画チェック:小原健二、加来哲郎
* 特殊効果:土井通明
* エリ合成:古林一夫、渡辺由利夫
* 演出助手:市野隆文
* 編集:岡安肇、小島俊彦、中葉由美子、村井秀明、川崎晃洋、三宅圭貴
* 効果:松田昭彦(フィズサウンドクリエイション)
* 整音:柴田伸弘
* 録音スタジオ:APUスタジオ
* 録音制作:オーディオプランニングユー
* 技術協力:森幹生
* タイトル:道川昭
* 現像:東京現像所
* 制作デスク:山川順一、大澤正享
* プロデューサー:別紙壮一、茂木仁史、木村純一
* 制作協力:[[藤子・F・不二雄プロ|藤子プロ]]、ASATSU
* 制作:シンエイ動画、テレビ朝日
==== 映像ソフト化 ====
* {{cite video
| 和書
| people =
| date = 1999/11
| title = 21エモン 宇宙いけ! 裸足のプリンセス
| url =
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| medium = [[VHS]]
| language = [[日本語]]
| publisher = [[小学館]]
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| archiveurl =
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| time = 36分
| id =
| isbn = 4099043576
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| quote =
| ref =
}}
* {{cite video
| 和書
| people =
| date = 2004/03
| title = [[おばあちゃんの思い出]]/21エモン 宇宙いけ! 裸足のプリンセス/[[ザ☆ドラえもんズ ドキドキ機関車大爆走!]]
| url =
| format =
| medium = [[DVD]]
| language = [[日本語]]
| publisher = [[小学館]]
| location =
| archiveurl =
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| accessdate =
| time = 36分
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| isbn = 4099082202
| oclc =
| quote =
| ref =
}}
== Fシアター ==
=== 21エモン&ドラえもん ようこそ!ホテルつづれ屋へ ===
[[2012年]][[10月3日]]から[[2013年]][[8月27日]]まで、[[藤子・F・不二雄ミュージアム#短編アニメ作品|藤子・F・不二雄ミュージアムのFシアター]]で上映<ref name="saiga"/>。
つづれ屋再建をのび太が立て直そうとするが、うまくいかず、結局ドラえもんの道具でうまくいくという流れは、後述の「オンボロ旅館をたて直せ」(『[[ドラえもん]]』てんとう虫コミックス32巻)とも共通点がある。
==== キャスト ====
* 21エモン:斎賀みつき<ref name="saiga"/>
* モンガー:小林由美子<ref name="kobayasi"/>
* ゴンスケ:龍田直樹
== 『ドラえもん』との関連 ==
『ドラえもん』と共演したのはこの作品が初めてではなく、何度か登場している。
; 『[[ドラえもん]]』てんとう虫コミックス32巻収録「オンボロ旅館をたて直せ」
: 家出したのび太が20世紀の「つづれ屋」(当時の主人は18エモン)に泊まることになり、ドラえもんの協力で経営難を救う。その時家出していた19エモンも、客寄せに使った道具の効果で帰ってくる。
; 映画『[[ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ]]』(1981年)
: 『21エモン 宇宙へいらっしゃい』の同時上映作品。1シーンのみ双方の視点から描かれたリンクが存在する。
; 映画『[[ドラミちゃん ミニドラSOS!!!]]』(1989年)
: 宅配ロボットとしてゴンスケが登場。
; 特別番組『[[春一番!日本一のアニメ祭り]]』(1992年)
: 『[[水曜スペシャル|水曜特バン!]]』で放送。21エモンとモンガーが、ドラえもんとのび太を始めとするテレビ朝日系アニメのキャラクターと共演している。なお前回(1991年)放送分では、「紹介コーナー」で本作を紹介していた。
; 映画『[[トキメキソーラーくるまによん]]』(1992年)
: 馬車と蒸気機関の時代にゴンスケが登場。
; 大長編『[[ドラえもん のび太と銀河超特急]]』(1996年)
: 21エモン一家が銀河超特急に乗る乗客として1コマだけ登場。なおゴンスケのみ5エモン時代の従業員の姿で登場している。
; 映画『[[ドラミ&ドラえもんズ ロボット学校七不思議!?]]』(1996年)
: エンディングのドラミの卒業式に21エモン、モンガー、ゴンスケが登場する。
; 映画『[[ザ☆ドラえもんズ おかしなお菓子なオカシナナ?]]』(1999年)
: 21エモン、モンガー、ゴンスケが登場。オカシナナ王国のオカシナナ祭りに出場したが、ニガニガ一味の悪巧みによって失格になってしまう。
; 映画『[[ドラミ&ドラえもんズ 宇宙ランド危機イッパツ!]]』(2001年)
: 警備隊員ピノが探し物をするシーンで、ガラクタ(ぬいぐるみ)の1つとしてモンガーとゴンスケが登場する。
; 映画『[[ドラえもん のび太とロボット王国]]』(2002年)
: 未来デパートから送られてきたロボットとして、ゴンスケが登場(声は[[島田敏]])。
: ロボット王国に住むチャペック博士のロボットとして、オナベが登場する(声は[[愛河里花子]])。
; 映画『[[ドラえもん のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜]]』(2012年)
: ベレーガモンド島で働くロボットとしてゴンスケが登場。
; 映画『[[ドラえもん のび太のひみつ道具博物館]]』(2013年)
: ひみつ道具博物館のロボットとしてゴンスケが登場。
== 他作品への出演 ==
=== 藤子作品との出演 ===
本作の登場人物は他の藤子作品、およびアニメに出演したことがある。ドラえもんとの競演は[[#『ドラえもん』との関連]]を参照、ゴンスケのみの登場に関しては[[ゴンスケ]]を参照。
; 『[[エスパー魔美]]』
: 「サブローは鉄砲玉」の巻にて20世紀の「つづれ屋」が登場している。映画『21エモン 宇宙へいらっしゃい!』公開にあわせたタイアップ。
; 『[[忍者ハットリくん]]』(新忍者ハットリくん)
: [[藤子不二雄A|藤子不二雄Ⓐ]]の作品であるが、一部の作中でケン一の部屋に21エモンのポスターが貼られている(この他にもドラえもんや[[パーマン]]などの藤子作品がポスターで[[カメオ出演]]している)。
=== その他 ===
連載間もない「週刊少年サンデー」1968年2・3合併号で、藤子を始め、当時「少年サンデー」に漫画を連載していた漫画家8名が紅白に分かれ、「紅組」は[[手塚治虫]]の『[[どろろ]]』、「白組」は[[赤塚不二夫]]の『[[もーれつア太郎]]』の1頁パロディ漫画を発表する企画「紅白ものまねまんが合戦」で、藤子は紅組で『どろろ』のパロディを発表。内容は百鬼丸とどろろが旅をしていると、そこへ妖怪が現れたので百鬼丸が襲いかかるが、妖怪は突然泣き崩れ、そこへ21エモンが「御客さん、こちら」と登場、実は妖怪は宇宙人というオチであった。この作品は「藤子・F不二雄大全集」版「21エモン」第1巻ラストの特集記事や、[[2013年]][[3月]]発刊の「手塚治虫トレジャー・ボックス どろろ」に収録されている。
== ゲーム ==
; 21エモン 〜めざせ! ホテル王〜
: [[PCエンジン]]用ソフト。[[1994年]][[7月29日]]に[[NECホームエレクトロニクス]]より発売。
: すごろく形式の[[ボードゲーム]]。[[サイコロ]]でプレイヤー(駒)を進め、土地を買収しホテルを建設するという内容。また本作は、PCエンジンにおける[[HuCARD]]タイプのソフトとして発売された最終作品。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.shin-ei-animation.jp/2016/21emon/ 21エモン シンエイ動画公式サイト]
{{藤子不二雄}}
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1,848 | ギャラガ | 『ギャラガ』 (GALAGA) は、ナムコ(現・バンダイナムコアミューズメント)が1981年9月に発売したアーケードゲーム。
宇宙での戦いをイメージした固定画面型のシューティングゲームである。同社のゲーム『ギャラクシアン』(1979年)の後継として登場。ゲームデザイナーは横山茂。現在はUGSFシリーズの一作として扱われる。同社として初のスコアランキング(1位~5位、初期ハイスコア=20000)とネームエントリー(アルファベット3文字)を採用。
タイトルの「ギャラガ」とは、「ギャラクシー」+「蛾」の造語である。その名の通り、前作『ギャラクシアン』に比べ、敵キャラクターのデザインが蛾を連想させるものとなっている。
ファミリーコンピュータ等の家庭用ゲーム機や、電波新聞社により多くのパソコンにも移植された他、続編の『ギャラガ'88』(1987年)が発売されている。また、2007年3月にはTシャツブランドMARS16からオフィシャルのTシャツもリリースされた。
1981年登場以来、その人気は5年間も継続しており「『ギャラガ』ほど長く人々に愛されたシューティングゲームはないのではないか」との声もある。その人気どおり、前述のファミリーコンピュータ移植版も定番ゲームとして広く一般層に受け入れられた。
自機(ファイター)を操り、各ステージに現れる40機の敵機(ギャラガ)を倒して行く。ステージ数の表示がされてから暫く経つと、画面外(上・左下・右下)から敵の編隊が画面内に飛来し所定の位置に整列する。この時点では敵は積極的な攻撃はして来ないが、ステージ数が進むと数発の攻撃弾を自機にめがけて放って来たり、数機の編隊の余剰敵が自機にめがけて体当たりをして来たりすることがある。
全ての編隊が画面内に入ってから少しすると、自機にやや近い側の敵から順に降下攻撃を仕掛けてくる。単機で攻撃を仕掛けて来る敵も有れば、ボス・ギャラガと共に編隊を組んで向かって来る敵、分裂を起こして3機編隊で向かって来る敵も有り、編隊で向かって来る敵は順番、連続で撃破すると多めのボーナスが貰えるようになっている。このボーナスのシステムは前作『ギャラクシアン』を受け継いでいる。
また、敵機を倒した時の得点は待機時より降下攻撃中の方が点数が高くなっている。
以下の方法により自機がパワーアップし、デュアル・ファイターとなることができる。デュアル・ファイターとは自機を2機並列に合体させた状態のもので、1回の攻撃で弾を2発同時に発射できるようになる。結果として攻撃範囲が広くなるが、当たり判定も大きくなる。
ただし、あくまで「攻撃中」にボス・ギャラガを倒さなければならず、待機中に倒してしまうと、捕虜となった自機は敵として、ギャラガと同じ動きで攻撃してくる。しかし、それを打ち落とさずに画面外に逃がすと、そのステージでは出て来なくなり、次のステージの最後に現れ、左から2番目のボス・ギャラガの真上に整列する。その後、改めてボス・ギャラガが連れて来るので、改めて奪還可能となる。
捕虜となった自機を撃ち落としてしまうと「救出失敗」であり、1000点は獲得できるものの、結果的に自機を1機失うことになる。
自機のストックがない状態でボス・ギャラガのトラクタービームに引っかかって捕虜にされてしまうと、ゲームオーバーになる。デュアル・ファイターの時はボス・ギャラガはトラクタービームを放って来ない。
最初は2ステージをクリアした後、以降は3ステージをクリアする毎に「チャレンジングステージ」となる。いわゆる「ボーナスステージ」であり、様々な編隊飛行をする敵機を撃ち落として得点を稼ぐというものである。このステージでは敵は全く攻撃して来ず、自機と当たる位置まで降下することもないので、チャレンジングステージ自機を失うことはない。飛行の仕方は、ほぼ単純な直線を描くもの、大きな円を描くもの、階段状に動くもの、8の字に動くもの、二手に分かれるもの等がある。編隊飛行は各編隊8機ずつ5組あるが、2組目にはボス・ギャラガが含まれており、勿論2発撃ち込む必要がある。
チャレンジングステージのボーナスはパーフェクトを除き撃墜数×100点で、上手く全てを撃ち落としてパーフェクトを出すと、スペシャルボーナス10000点が得られる。他にも各編隊を全滅させた際にはボーナス点が入る。
チャレンジングステージは全部で8種類。各チャレンジングステージに登場するキャラクターやその動き方は一定なので、予めキャラクターの動きを覚えておくのがポイント。自機がデュアル・ファイターであれば、パーフェクトを目指すには有利である。
またエブリエクステンド設定であっても、100万点を超えると自機が増えなくなる。 なお1000万点超までプレイしたプレイヤーも複数存在する。マイコソBASICマガジソ別冊 ALL ABOUT ベーマガCHALLENGE HIGH SCORE!
ステージ255(チャレンジングステージ)をクリアすると、次はステージ0が始まり、開始後にギャラガが1匹だけ飛来してきて強制リセットが掛かったり、フリーズして、ゲームが続行できなくなる。(ランク設定によって挙動が異なる)
神田商会によりおもちゃを指定商品に含む「ギャラガー」の商標(登録番号1258022)が1974年に申請、1977年に登録されていた。1982年発売のm5版の名称はギャラックスに変更され、1983年発売のPV-2000版では神田商会の登録商標マークがつけられてギャラガのままリリースされた。その後、登録番号1258022の「ギャラガー」の商標はバンダイナムコエンターテインメントに移転している。
※ 下記表における社名「バンナム」は、ナムコの家庭用ゲーム事業社名が後に「バンダイナムコゲームス」→「バンダイナムコエンターテインメント」に変わった事により略記したもの。
1998年に刊行されたゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』では、「固定画面で自機が左右にしか移動できないことや、画面上に編隊を組んでいる敵を全滅させると面クリアとなるルールなどは『ギャラクシアン』からの流れであり、そのシンプルなゲーム性に新フューチャーを無理なく組み込んだのがこの『ギャラガ』である」、「一番大きな特徴としては、ボス的キャラクターが放つ『トラクタービーム』がある」、「デュアルファイターこそが自機パワーアップの起源とも言えるのではないだろうか」と紹介されている。
『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「『ギャラクシアン』を発展させたシューティングゲームの秀作」、「(デュアルファイターは)近頃のハデなパワーアップと異なり、合体した分、敵弾にあたりやすいというハンデを背負っているのが非常にシブイ」、「今でも十分に楽しめる内容を持っており、機会があればプレイしてもらいたい」と紹介されている。 | [
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] | 『ギャラガ』 (GALAGA) は、ナムコ(現・バンダイナムコアミューズメント)が1981年9月に発売したアーケードゲーム。 | {{Otheruses|コンピュータゲーム|アニメ映画|ギャラガ (アニメ映画)}}
{{コンピュータゲーム
| Title = ギャラガ
| image = Galaga logo.svg
| Genre = [[シューティングゲーム|固定画面シューティング]]
| Plat = [[アーケードゲーム|アーケード]] (AC){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[M5 (コンピュータ)|M5]]<br />[[SG-1000]] (SG)<br />[[PV-2000]] (PV)<br />[[MSX]]<br />[[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]] (PC98)<br />[[FM-7]]<br />[[MZ-1500]] (MZ15)<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[Atari 7800]] (A78)<br />[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] (FCD)<br />[[ゲームボーイ]] (GB)<br />[[iアプリ]]<br />[[EZアプリ]]<br />[[Wii]]<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS)<br />[[Wii U]]<br />[[PlayStation 4]] (PS4)<br />[[Xbox One]] (XO)<br />[[Nintendo Switch]] (NSW)}}
| Dev = ナムコ開発部
| Pub = {{vgrelease new|JP|[[ナムコ]]|NA|[[ミッドウェイゲームズ|ミッドウェイ]]}}
| producer =
| director =
| designer = 横山茂
| writer =
| programmer = 小川徹
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| Play = 1 - 2人(交互プレイ)
| Media = [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]<br />(39.03[[キロバイト]])
| Date = {{vgrelease new|JP|September 1981|NA|December 1981}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''M5'''<br />{{vgrelease new|JP|1982年}}'''SG'''<br />{{vgrelease new|JP|1983年}}'''PV'''<br />{{vgrelease new|JP|1983年}}'''MSX'''<br />{{vgrelease new|JP|1984-5-30}}'''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-2-15|NA|September 1988|EU|1988年}}'''PC98'''<br />{{vgrelease new|JP|April 1985}}'''FM-7,MZ15'''<br />{{vgrelease new|JP|July 1985}}'''X1'''<br />{{vgrelease new|JP|October 1985}}'''A78'''<br />{{vgrelease new|NA|1987年}}'''FCD'''<br />{{vgrelease new|JP|1990-06-22}}'''GB'''<br />{{vgrelease new|JP|1995-07-14|NA|September 1995|EU|1995年}}'''iアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2001-6-11}}'''EZアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2006-3-7}}'''Wii(FC版の移植)'''<br />{{vgrelease new|JP|2007-2-6}}'''Wii(AC版の移植)'''<br />{{vgrelease new|JP|2009-11-24|NA|2013-8-15}}'''3DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-5-22}}'''Wii U'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-7-24}}'''PS4,XO'''<br />{{vgrelease new|INT|2016-4-20}}'''PS4,NSW(アケアカ)'''<br />{{vgrelease new|JP|2023-01-05}}}}
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『'''ギャラガ'''』 (''GALAGA'') は、ナムコ(現・[[ナムコ|バンダイナムコアミューズメント]])が[[1981年]][[9月]]に発売した[[アーケードゲーム]]。
== 概要 ==
[[宇宙]]での戦いをイメージした固定画面型の[[シューティングゲーム]]である。同社のゲーム『'''[[ギャラクシアン]]'''』([[1979年]])の後継として登場。[[ゲームデザイナー]]は横山茂。現在は[[UGSF]]シリーズの一作として扱われる。同社として初のスコアランキング(1位~5位、初期ハイスコア=20000)とネームエントリー(アルファベット3文字)を採用。
タイトルの「'''ギャラガ'''」とは、「'''ギャラクシー'''」+「'''[[蛾]]'''」の造語である<ref>ゲームサイド vol.23 Mr.ドットマン氏インタビュー, 2010年5月1日発行, マイクロマガジン社</ref>。その名の通り、前作『[[ギャラクシアン]]』に比べ、敵キャラクターのデザインが[[蛾]]を連想させるものとなっている。
[[ファミリーコンピュータ]]等の家庭用ゲーム機や、[[電波新聞社]]により多くのパソコンにも移植された他、続編の『'''[[ギャラガ'88]]'''』([[1987年]])が発売されている。また、[[2007年]][[3月]]にはTシャツブランド[[MARS16]]からオフィシャルの[[Tシャツ]]もリリースされた。
1981年登場以来、その人気は5年間も継続しており「『ギャラガ』ほど長く人々に愛されたシューティングゲームはないのではないか」との声もある<ref name="田尻">{{Cite book|和書|author=田尻智他|authorlink=田尻智|editor=成沢大輔|editor-link=成沢大輔|title=The ナムコブック|year=1991|publisher=[[宝島社|JICC出版局]]|isbn=978-4-7966-0102-3 |page=134}}</ref>。その人気どおり、前述のファミリーコンピュータ移植版も定番ゲームとして広く一般層に受け入れられた<ref name="田尻" />。
== ゲーム内容 ==
=== システム ===
自機(ファイター)を操り、各ステージに現れる40機の敵機(ギャラガ)を倒して行く。ステージ数の表示がされてから暫く経つと、画面外(上・左下・右下)から敵の編隊が画面内に飛来し所定の位置に整列する<ref name="clafamiX"/>。この時点では敵は積極的な攻撃はして来ないが、ステージ数が進むと数発の攻撃弾を自機にめがけて放って来たり、数機の編隊の余剰敵が自機にめがけて体当たりをして来たりすることがある。
全ての編隊が画面内に入ってから少しすると、自機にやや近い側の敵から順に降下攻撃を仕掛けてくる<ref name="clafamiX"/>。単機で攻撃を仕掛けて来る敵も有れば、ボス・ギャラガと共に編隊を組んで向かって来る敵、分裂を起こして3機編隊で向かって来る敵も有り、編隊で向かって来る敵は順番、連続で撃破すると多めのボーナスが貰えるようになっている。このボーナスのシステムは前作『ギャラクシアン』を受け継いでいる。
;ボス・ギャラガと共に編隊を組んで向かって来る場合
:護衛している敵機の数が多い時(最大2機)にボス・ギャラガを倒す。最後に倒す必要はない。
;分裂を起こして3機編隊で向かって来る場合
:3機とも取り逃がさず倒す。因みにこの3機編隊は最後の1機のみ、取り逃しても上段から復帰するので、それから倒しても有効。ただし、編隊キャラに変身している敵が画面上に居る時に自機がやられると、再整列の際に変身前の状態に戻ってしまい、ボーナスが獲得出来なくなってしまう。
また、敵機を倒した時の得点は待機時より降下攻撃中の方が点数が高くなっている。
=== 自機パワーアップ ===
以下の方法により自機がパワーアップし、デュアル・ファイターとなることができる。デュアル・ファイターとは自機を2機並列に合体させた状態のもので、1回の攻撃で弾を2発同時に発射できるようになる<ref name="clafamiX"/>。結果として攻撃範囲が広くなるが、当たり判定も大きくなる。
#単機で向かってきたボス・ギャラガが自機の少し上でトラクタービームを放ってきた時、自機がそれに接触すると、回転しながら吸い上げられ、一旦敵の[[捕虜]]となる。捕虜となった自機は赤色に変わる。
#この後、捕虜となった自機を引き連れて再び攻撃して来たボス・ギャラガを倒すと、捕虜となった自機を取り返すことができ、デュアル・ファイターとなる<ref name="clafamiX"/>。
ただし、あくまで「攻撃中」にボス・ギャラガを倒さなければならず、待機中に倒してしまうと、捕虜となった自機は敵として、ギャラガと同じ動きで攻撃してくる。しかし、それを打ち落とさずに画面外に逃がすと、そのステージでは出て来なくなり、次のステージの最後に現れ、左から2番目のボス・ギャラガの真上に整列する。その後、改めてボス・ギャラガが連れて来るので、改めて奪還可能となる。
捕虜となった自機を撃ち落としてしまうと「救出失敗」であり、1000点は獲得できるものの、結果的に自機を1機失うことになる<ref name="clafamiX"/>。
自機のストックがない状態でボス・ギャラガのトラクタービームに引っかかって捕虜にされてしまうと、ゲームオーバーになる<ref name="clafamiX"/>。デュアル・ファイターの時はボス・ギャラガはトラクタービームを放って来ない。
=== チャレンジングステージ ===
最初は2ステージをクリアした後、以降は3ステージをクリアする毎に「チャレンジングステージ」となる。いわゆる「ボーナスステージ」であり、様々な編隊飛行をする敵機を撃ち落として得点を稼ぐというものである。このステージでは敵は全く攻撃して来ず、自機と当たる位置まで降下することもないので、チャレンジングステージ自機を失うことはない。飛行の仕方は、ほぼ単純な直線を描くもの、大きな円を描くもの、階段状に動くもの、8の字に動くもの、二手に分かれるもの等がある。編隊飛行は各編隊8機ずつ5組あるが、2組目にはボス・ギャラガが含まれており、勿論2発撃ち込む必要がある。
チャレンジングステージのボーナスはパーフェクトを除き撃墜数×100点で、上手く全てを撃ち落としてパーフェクトを出すと、スペシャルボーナス10000点が得られる。他にも各編隊を全滅させた際にはボーナス点が入る。
チャレンジングステージは全部で8種類。各チャレンジングステージに登場するキャラクターやその動き方は一定なので、予めキャラクターの動きを覚えておくのがポイント。自機がデュアル・ファイターであれば、パーフェクトを目指すには有利である。
=== 命中率 ===
*ゲームオーバーになると、発射ミサイル数、命中ミサイル数、命中率が表示される。ただし、これがスコア・ランキングに影響が出ることはない。
*ゲーム開始直後に出てくるザコを一発で2匹倒すことができる。その後、敵のミサイルのみに当たってゲームオーバーになると、命中率が200%になる。
=== バグ ===
*敵の整列後の左端のザコ(青い敵)の1匹、または2匹を残してそのまま長時間(早い時は5分、遅い時は1時間半、平均で20分程度)待機していると、敵機が全く弾を撃って来なくなる。敵が弾を撃たなくなる条件は不明であるが、敵を2匹残して待機を続けた場合は、1匹を残して待機をした場合よりも、敵が弾を撃たなくなるようになるまでの時間を大幅に短縮させることができる。敵が弾を撃たなくなる状態になってからステージをクリアすると、その後のステージでも敵機は全く弾を撃たないままゲーム進行が可能になる。ただし、日本版と海外版共にバージョンB(基板上にある純正のROMシールにBの刻印がある物)は、敵が弾を撃たなくなるバグは修正されている。
*デモプレイ中、自機をある程度操作することができる。これにより敵を全滅させてしまうことも可能で、本プレイ中には起きないバグ画面になることも有る。
=== テクニック ===
*自機がボス・ギャラガのトラクタービームに引っかかっても、完全に捕虜となる前(自機が赤い色になる前)は弾を発射することができる。これを使ってトラクタービームを発射しているボス・ギャラガを倒し、そこから逃れるというテクニックも有る。回転中の発射タイミングによって、斜めに弾が飛ぶことがある。
=== 得点・スコア ===
*ギャラガの1プレイヤー側のスコアは、10万の桁までしか表示されない為、100万点を超えるとスコアがゼロに戻る(ただし画面上部の「HIGH SCORE」欄には100万点を超える直前のスコアが残る)が、2プレイヤー側のスコアは100万点の桁が表示される。
またエブリエクステンド設定であっても、100万点を超えると自機が増えなくなる。
なお1000万点超までプレイしたプレイヤーも複数存在する。[http://www.north-wind.ne.jp/~yoshino/challehigh/database.cgi?keys4=%83M%83%83%83%89%83K&print=50 マイコソBASICマガジソ別冊 ALL ABOUT ベーマガCHALLENGE HIGH SCORE!]
=== ステージ数 ===
*ステージのカウントは最大255面である。
ステージ255(チャレンジングステージ)をクリアすると、次はステージ0が始まり、開始後にギャラガが1匹だけ飛来してきて強制[[リセット]]が掛かったり、フリーズして、ゲームが続行できなくなる。(ランク設定によって挙動が異なる)
*DIPスイッチの設定がDランクの場合のみ、255ステージクリア後に始まるステージ0は、上記の挙動にならず通常ステージと同様に進行し、0ステージをクリアするとステージ1に戻るので、実力次第で延々と続けられる。
=== 噂 ===
*以降の[[ナムコ]]のゲームで[[隠れキャラクター]]である「[[スペシャルフラッグ]]」が登場している事から、一部では「『ギャラガ』にもスペシャルフラッグがあるのでは?」と噂されることも有ったようだが、本ゲームにはスペシャルフラッグは登場しない(次作品の『[[ギャプラス]]』で登場する)。
== 敵キャラクター ==
;ザコ:[[ハチ]]の形をしている敵<ref name="clafamiX">{{Cite book|和書|title=ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータMagazine|publisher=[[アンビット]]|series=TOWN MOOK|date=2016-11-14|page=78|ISBN=9784197104789}}</ref>。派手には動かないものの、画面下で1回転する性質がある。通常のステージを中心に出現するが、ステージ3のチャレンジングステージ(一編隊全滅1000点)にも出現する。
;ゴエイ:[[チョウ]]若しくは[[ガ]]の形をしている敵<ref name="clafamiX"/>。左右に細かく動き、自機を狙ってくる。ボス・ギャラガと共に編隊を組んで攻撃してくることもある。なお、ザコ、ボス・ギャラガ、サソリ、ギャルボス以外は撃墜効果音はすべてゴエイと同じものである。通常のステージを中心に出現するが、ステージ7のチャレンジングステージ(一編隊全滅1000点)にも出現する。
;ボス・ギャラガ
:[[甲虫]]のような形態の敵。耐久力があり、2発撃ち込まなければ倒すことができない唯一のキャラ<ref name="clafamiX"/>。自機がデュアル・ファイターでない時、トラクタービームを放って自機を捕らえようとすることがある<ref name="clafamiX"/>。降下攻撃中のボスを破壊すると、敵が数秒間弾を撃ってこなくなる。通常のステージ及びすべてのチャレンジングステージに出現する。
;サソリ(オガワムシ)
:ステージ4〜6でザコかゴエイが変身して3機編隊となって降下してくる敵。縦一列に並んで向かってくる。3機倒すと1000点のボーナス。撃墜時の効果音はボス・ギャラガと同じ。ステージ15のチャレンジングステージ(一編隊全滅1500点)にも出現する。
;ミドリ(エイ)
:ステージ8〜10でザコかゴエイが変身して3機編隊となって降下してくる敵。横一列に並んで向かってくる。3機倒すと2000点のボーナス。ステージ23のチャレンジングステージ(一編隊全滅2000点)にも出現する。[[エイ]]のような姿をしている。
;ギャルボス
:ステージ12〜14でザコかゴエイが変身して3機編隊となって降下してくる敵。分身が高速で体当たりしてくる。3機倒すと3000点のボーナス。撃墜したときの効果音はボス・ギャラガへのショット1発目ヒットと同じ。ステージ27のチャレンジングステージ(一編隊全滅3000点)にも出現する。前作『[[ギャラクシアン]]』からのゲストキャラ。なお、ステージ16からはサソリに戻って再び繰り返し順に出現する。
;トンボ
:ステージ11のチャレンジングステージ(一編隊全滅1500点)の敵。
;モミジ
:ステージ19のチャレンジングステージ(一編隊全滅2000点)の敵。軸に4枚の[[プロペラ]]が付いた形態である。
;エンタープライズ
:ステージ31のチャレンジングステージ(一編隊全滅3000点)の敵。『[[スタートレック]]』の[[エンタープライズ (スタートレック)|エンタープライズ号]]がモデル。以後のチャレンジングステージはザコに戻って再び同じ順序で出現するが、一編隊全滅のボーナス点が全て3000点になる。
== 移植版 ==
[[神田商会]]によりおもちゃを指定商品に含む「ギャラガー」の商標(登録番号1258022)が1974年に申請、1977年に登録されていた<ref name="jplatpat">[https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-1974-062179/34EA5DA2C9F1C9BB7B71724D456E863F7D728BF540FF94661BE7C2EF3B4B2269/40/ja 商標出願昭49-062179] [[特許情報プラットフォーム]] 商標公告昭51-030932及び商標登録1258022を参照2023年6月16日閲覧</ref>。1982年発売のm5版の名称はギャラックスに変更され、1983年発売のPV-2000版では神田商会の[[登録商標マーク]]がつけられてギャラガのままリリースされた<ref>[https://www.suruga-ya.jp/product/detail/148012304 その他ソフト PV-2000専用ソフト ギャラガ] [[エーツー|駿河屋]] 2023年6月16日閲覧</ref>。その後、登録番号1258022の「ギャラガー」の商標はバンダイナムコエンターテインメントに移転している<ref name="jplatpat" />。
※ 下記表における社名「バンナム」は、ナムコの家庭用ゲーム事業社名が後に「バンダイナムコゲームス」→「バンダイナムコエンターテインメント」に変わった事により略記したもの。
{|class="wikitable" style="font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 売上本数
! 備考
|-
| style="text-align:right" | 1
! ギャラックス
| {{vgrelease new|JP|1982年}}
| [[M5 (コンピュータ)|M5]]
| [[東芝プラットフォームソリューション|ソード]]{{要出典|date=2023年6月}}
| ソード
| [[ロムカセット]]
| -
| -
| チャレンジングステージなどがカット<ref>[https://www.beep-shop.com/column_entry/16965/ No.4 ギャラックス(m5)ROMカセット] レトロPC・ゲーム専門店BEEP(2015年6月1日)2023年6月16日閲覧</ref>
|-
| style="text-align:right" | 2
! セガ・ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|1983年}}
| [[SG-1000]]
| ナムコ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202111/13240284.html|title=企画時のタイトルは『ポテト』!? 『リブルラブル』当時の開発陣へ一問一答11連発&秘蔵の企画書を大公開!|author=ででお|date=2021-11-13|website=[[ファミ通|ファミ通.com]]|publisher=[[KADOKAWA Game Linkage]]|accessdate=2021-11-14}}</ref>
| セガ
| ロムカセット
| G-1022
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 3
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|1983年}}
| [[PV-2000]]
| [[カシオ計算機|カシオ]]{{要出典|date=2023年6月}}
| カシオ
| ロムカセット
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 4
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|1984-5-30}}
| [[MSX]]
| ナムコ<ref>[[大森田不可止]]Twitter [https://twitter.com/omorita/status/495916766959136768 2014年8月13日] 2023年6月16日閲覧</ref>
| ナムコ
| 128[[キロビット]]ロムカセット
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 5
! {{vgrelease new|JP|ギャラガ|NA|Galaga - Demons of Death|EU|Galaga}}
| {{vgrelease new|JP|1985-3-14|NA|September 1988|EU|1988年}}
| [[ファミリーコンピュータ]]
| ナムコ<ref>大森田不可止Twitter [https://twitter.com/omorita/status/497342584767778819 2014年8月7日] 2023年6月16日閲覧</ref>
| ナムコ
| 192キロビットロムカセット<ref name="famimaga211">{{Cite journal |和書
|author =
|authorlink =
|title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ
|date = 1991-5-10
|publisher = [[徳間書店]]
|journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|volume = 7
|number = 9
|naid =
|pages = 211
|url =
|ref = harv}}</ref>
| {{vgrelease new|JP|NGG-4500|NA|NES-AG-USA|EU|NES-AG-EEC}}
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 6
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|April 1985}}
| [[PC-9800シリーズ|PC-9801]]
| [[電波新聞社]]{{要出典|date=2023年6月}}
| 電波新聞社
| [[フロッピーディスク]]
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 7
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|July 1985}}
| [[FM-7]]<br />[[MZ-1500]]
| 電波新聞社{{要出典|date=2023年6月}}
| 電波新聞社
| [[コンパクトカセット|カセットテープ]]<br />フロッピーディスク<br />[[クイックディスク]]
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 8
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|October 1985}}
| [[X1 (コンピュータ)|X1]]
| 電波新聞社{{要出典|date=2023年6月}}
| 電波新聞社
| カセットテープ<br />フロッピーディスク
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 9
! Galaga
| {{vgrelease new|NA|1987年}}
| [[Atari 7800]]
| [[アタリ (企業)|アタリ]]{{要出典|date=2023年6月}}
| アタリ
| ロムカセット
| CX7805
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 10
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|1990-06-22}}
| [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]
| ナムコ
| ナムコ
| [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム#ディスクカード|ディスクカード]]片面
| NDS-GAG
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 11
! {{vgrelease new|JP|ギャラガ&ギャラクシアン|NA|<small>Arcade Classic No. 3 - Galaga & Galaxian</small>|EU|<small>Arcade Classic No. 3 - Galaga & Galaxian</small>}}
| {{vgrelease new|JP|1995-07-14|NA|September 1995|EU|1995年}}
| [[ゲームボーイ]]
| ナムコ{{要出典|date=2023年6月}}
| ナムコ
| ロムカセット
| {{vgrelease new|JP|DMG-AGCJ|NA|DMG-AGCE-USA|EU|DMG-AGCP-NOE}}
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 12
! [[ナムコミュージアム]] VOL.1
| {{vgrelease new|JP|1995-11-22|NA|1996-7-31|EU|1996-8-17}}
| [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]
| [[ナウプロダクション]]
| ナムコ
| [[CD-ROM]]
| {{vgrelease new|JP|SLPS-00107|NA|SLUS-00215|EU|SCES-00243}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 13
! [[ナムコヒストリー]] VOL.4
| {{vgrelease new|JP|1998-12-4}}
| [[Microsoft Windows|Windows]]
| ナムコ{{要出典|date=2023年6月}}
| ナムコ
| CD-ROM
| -
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 14
! Namco Museum 64
| {{vgrelease new|NA|1999-10-31}}
| [[NINTENDO64]]
| [[:en:Mass Media Games|Mass Media]]
| ナムコ
| ロムカセット
| NUS-NNME-USA
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 15
! Namco Museum
| {{vgrelease new|NA|2000-6-25}}
| [[ドリームキャスト]]
| Mass Media
| ナムコ
| [[GD-ROM]]
| T-1403N
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 16
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|2001年6月11日<ref>{{Cite web|和書|author=佐伯憲司 |date=2001-6-11 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010611/namco.htm |title=ナムコ、iアプリコンテンツ「アプリキャロット」に「ニューラリーX」と「ギャラガ」を追加配信 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}}
| [[iアプリ]]
| ナムコ
| ナムコ
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(アプリキャロット)
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 17
! ナムコミュージアム
| {{vgrelease new|NA|2001-6-10|JP|2001-12-7|EU|2001-12-7}}
| [[ゲームボーイアドバンス]]
| Mass Media
| ナムコ
| ロムカセット
| {{vgrelease new|NA|AGB-ANME-USA|JP|AGB-ANMJ-JPN|EU|AGB-ANMP-EUR}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 18
! Namco Museum
| {{vgrelease new|NA|2002-10-9}}
| [[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]<br />[[ニンテンドーゲームキューブ|ゲームキューブ]]
| Mass Media
| ナムコ
| CD-ROM<br />8センチ光ディスク
| DOL-GNME-USA
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 19
! {{vgrelease new|JP|ナムコミュージアム|NA|Namco Museum Battle Collection|EU|Namco Museum Battle Collection}}
| {{vgrelease new|JP|2005-2-24|NA|2005-8-23|EU|2005-12-9}}
| [[PlayStation Portable]]
| [[ナムコ・テイルズスタジオ]]
| {{vgrelease new|NA|ナムコ|JP|ナムコ|EU|[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|SCE]]}}
| [[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]]
| {{vgrelease new|JP|ULJS-00012|NA|ULUS-10035|EU|UCES-00116}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 20
! {{vgrelease new|NA|Namco Museum: 50th Anniversary|JP|ナムコミュージアム アーケードHITS!|EU|Namco Museum: 50th Anniversary}}
| {{vgrelease new|NA|2005-8-30|JP|2006-1-26|EU|2006-3-31}}
| [[PlayStation 2]]<br />ゲームボーイアドバンス
| [[:en:Backbone Entertainment|Digital Eclipse]]
| {{vgrelease new|NA|ナムコ|JP|ナムコ|EU|[[エレクトロニック・アーツ|EA]]}}
| [[DVD-ROM]]<br />ロムカセット
| '''PS2;'''{{vgrelease new|NA|SLUS-21164|JP|SLPS-25590|EU|SLES-53957}}'''GBA:'''{{vgrelease new|NA|AGB-B5NE-USA|EU|AGB-B5NP-EUR}}
| -
| アーケード版の移植、日本ではPS2版のみ発売
|-
| style="text-align:right" | 21
! Namco Museum: 50th Anniversary
| {{vgrelease new|NA|2005-8-30|EU|2006-3-24}}
| [[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]
| Digital Eclipse
| {{vgrelease new|NA|ナムコ|EU|EA}}
| DVD-ROM
| {{vgrelease new|NA|NMO-2201A-NM}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 22
! Namco Museum: 50th Anniversary
| {{vgrelease new|NA|2005-8-30|EU|2006-5-5}}
| ゲームキューブ
| Digital Eclipse
| {{vgrelease new|NA|ナムコ|EU|EA}}
| 8センチ光ディスク
| {{vgrelease new|NA|DOL-G5NE-USA|EU|DOL-G5NP-EUR}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 23
! Namco Museum: 50th Anniversary
| {{vgrelease new|NA|2005-10-25|AU|2006-3-27|EU|2006-5-19}}
| [[Microsoft Windows|Windows]]
| Digital Eclipse
| {{vgrelease new|NA|ナムコ|EU|EA}}
| CD-ROM
| -
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 24
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|2006年3月7日<ref>{{Cite web|和書|author=太田亮三 |date=2003-3-9 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/28130.html |title=ナムコ、EZweb向けに「ギャラガ」配信 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}}
| [[BREW]]対応端末<br />([[EZアプリ]])
| ナムコ
| ナムコ
| ダウンロード<br />(ナムコEZゲームス)
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 25
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|2007年2月6日<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_gg/index.html |title=VC ギャラガ |website=任天堂ホームページ |publisher=[[任天堂]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>|EU|2007年3月9日<ref name="mobygames_Wiirelease">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/wii/galaga/release-info |title=Galaga (2007) Wii release dates |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>|NA|2007年4月9日<ref name="mobygames_Wiirelease"/>}}
| [[Wii]]
| ナムコ
| バンナム
| ダウンロード<br />([[バーチャルコンソール]])
| {{vgrelease new|JP|FBRJ|EU|FBRP|NA|FBRE}}
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植。<br />2019年1月31日 配信・販売終了。
|-
| style="text-align:right" | 26
! ナムコミュージアムDS
| {{vgrelease new|NA|2007-9-18|JP|2007-10-11|EU|2008-2-22}}
| [[ニンテンドーDS]]
| [[M2 (ゲーム会社)|M2]]
| バンナム
| DSカード
| {{vgrelease new|NA|NTR-YNME-USA|JP|NTR-YNMJ-JPN|EU|NTR-YNMP-EUR}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 27
! ナムコミュージアム バーチャルアーケード
| {{vgrelease new|NA|2008-11-4|EU|2009-5-15|AU|2009-6-3|JP|2009-11-5}}
| [[Xbox 360]]
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード<br />([[Xbox Live|Xbox Live Arcade]])
| {{vgrelease new|NA|21022}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 28
! {{vgrelease new|JP|ナムコミュージアム.comm|NA|Namco Museum Essentials|EU|Namco Museum Essentials}}
| {{vgrelease new|JP|2009-1-29|NA|2009-7-16|EU|2010-4-1}}
| [[PlayStation 3]]<br />([[PlayStation Network]])
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード
| {{vgrelease new|JP|NPJB-00012|NA|NPUB-30086|EU|NPEB-00104}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 29
! [[:en:Galaga Remix|Galaga Remix]]
| {{vgrelease new|NA|2009-3-31}}
| [[iPhone]]<br />[[iPod touch]]<br />([[iOS]])
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード
| 310662030
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 30
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|2009-11-24|NA|2013-8-15}}
| Wii
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソールアーケード)
| -
| -
| アーケード版の移植。<br />2019年1月31日 配信・販売終了。
|-
| style="text-align:right" | 31
! [[パックマンパーティ]]
| {{vgrelease new|NA|2010-11-16|EU|2010-11-26|AU|2010-12-2|JP|2010-12-16}}
| Wii
| バンナム
| バンナム
| Wii用12センチ光ディスク
| -
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 32
! Namco Museum Remix
| {{vgrelease new|NA|2010-11-26}}
| Wii
| [[トーセ]]
| バンナム
| Wii用12センチ光ディスク
| -
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 33
! [[:en:Galaga 30th Collection|Galaga 30th Collection]]
| {{vgrelease new|NA|2011-7-3}}
| iPhone<br />iPod touch<br />(iOS)
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード
| 413616338
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 34
! [[パックマン&ギャラガ ディメンションズ]]
| {{vgrelease new|JP|2011-6-23|NA|2011-7-26|AU|2011-8-25|EU|2011-8-26}}
| [[ニンテンドー3DS]]
| バンナム
| バンナム
| 3DSカード
| {{vgrelease new|JP|CTR-APGJ-JPN|NA|CTR-APGE-USA|AU|CTR-APGP-AUS|EU|CTR-APGP-EUR}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 35
! [[NAMCO ARCADE]]
| {{vgrelease new|INT|2012-1-26}}
| iPhone<br />iPod touch<br />(iOS)
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード
| 465606050
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 36
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|2013年5月22日<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000014474 |title=ギャラガ|ニンテンドー3DS |website=任天堂ホームページ |publisher=[[任天堂]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}}
| ニンテンドー3DS
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
| TCUJ
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植
|-
| style="text-align:right" | 37
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|2013年7月24日<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000001684 |title=ギャラガ|Wii U |website=任天堂ホームページ |publisher=[[任天堂]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>|EU|2013年8月8日|NA|2013年8月15日<ref name="mobygames_WiiUrelease">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/wii-u/galaga/release-info |title=Galaga (2007) Wii U release dates |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-12-22}}</ref>}}
| [[Wii U]]
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
| {{vgrelease new|JP|FA6J|EU|FA6P|NA|FA6E}}
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植
|-
| style="text-align:right" | 38
! NAMCO ARCADE
| {{vgrelease new|INT|2015-6-9}}
| [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード
| {{vgrelease new|JP|FA6J|EU|FA6P|NA|FA6E}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 39
! ギャラガ
| {{vgrelease new|INT|2016-4-20}}
| [[PlayStation 4]]<br />(PlayStation Network)<br />[[Xbox One]]<br />(XBOX Store)
| バンナム
| バンナム
| ダウンロード<br />(アーケードゲームシリーズ)
| '''PS4:'''{{vgrelease new|JP|CUSA-03668|NA|CUSA-03956|EU|CUSA-03865}}
| -
| アーケード版の移植
|-
| style="text-align:right" | 40
! [[ナムコットコレクション]]
| {{vgrelease new|JP|2020-06-18}}
| [[Nintendo Switch]]
| [[B.B.スタジオ]]<br />M2
| バンナム
| Switch専用ゲームカード<br />ダウンロード
|
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植
|-
| style="text-align:right" |41
! [[ナムコットコレクション|NAMCO MUSEUM ARCHIVES Vol.2]]
| {{vgrelease new|INT|2020-06-18}}
| Nintendo Switch(日本国外)<br />PlayStation 4<br />Xbox One<br />[[Windows]]([[Steam]])
| B.B.スタジオ<br />M2
| バンナム
| ダウンロード
| -
| -
| NES版を収録
|-
| style="text-align:right" |42
! ギャラガ
| {{vgrelease new|JP|2023年1月5日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202212/23287537.html |title=【アケアカ】ナムコの『ギャラガ』が1月5日に配信決定。デュアルファイターでの戦いが楽しい定番のクラシックタイトル |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |date=2022-12-23 |accessdate=2023-01-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Gamer編集部 |date=2023-01-04 |url=https://www.gamer.ne.jp/news/202301040019/ |title=シューティングゲーム「アーケードアーカイブス ギャラガ」がPS4/Switchで1月5日より配信開始! |website=Gamer |publisher=ixll |accessdate=2023-01-05}}</ref>}}
| PlayStation 4<br />Nintendo Switch
| ナムコ
| [[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]]
| ダウンロード<br />([[アーケードアーカイブス]])
| -
| -
| アーケード版の移植<br />初期バージョン、最終バージョンを収録
|}
;ゲームボーイ版『ギャラガ&ギャラクシアン』
:過去に他機種用に発売された二つの作品を、一本のソフトに収録した<ref>M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、57ページ</ref>。
;iPhone/iPod touch版
:『Galaga REMIX』のタイトルで発売。『ナムコカーニバル』収録ゲームとは関係なく、オリジナル版とアレンジ版(PSP版の移植)を収録。[[タッチパネル]](ボタンまたはスライド)、[[加速度センサー]]による操作に対応。
;Xbox Live Arcade版
:[[Xbox One]]のXbox 360後方互換に対応しており、既に[[Xbox Live Arcade]]版を購入していれば、無料で[[Xbox One]]上で遊ぶことができる。
;アーケードアーカイブス版
:[[アーケードアーカイブス]]の1作品として[[PlayStation 4]]と[[Nintendo Switch]]にて配信。初期バージョンと最終バージョンを収録。「こだわり設定」にて起動画面の表示、ゲームスピードの調整、ステージ255をクリア後のステージ0をスキップする、難易度の変更、1P側のスコア表記を1000万の位まで表示させる、といった事の設定が可能。
;その他
:[[X Window System]]向けのクローンである[http://rumsey.org/xgal.html XGalaga]が存在する。ソースコードも含め、[[GPL]]で提供されている。
== スタッフ ==
;アーケード版
*企画:横山茂
*ハードウェア、プログラム:小川徹
*サウンド:[[大野木宜幸]]
*筐体設計:大杉章
*グラフィックデザイン:[[小野浩]]
;MSX版
*プログラム:大森田不可止
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|Allgame = {{Rating|5|5}} (AC)<ref>{{cite web|url=http://www.allgame.com/game.php?id=412&tab=review|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141210124218/http://www.allgame.com/game.php?id=412&tab=review|title=Galaga|archivedate=10 December 2014|publisher=Rovi Corporation |accessdate=2018-01-08}}</ref>
|EuroG = 9/10点 (AC)<ref name="mobygames_AC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/8402/galaga/ |title=Galaga for Arcade (1981) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-1-8}}</ref><br />7/10点 (Wii)<ref name="mobygames_Wii">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/8402/galaga/ |title=Galaga for Wii (2007) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-1-8}}</ref>
|NLife = {{Rating|7|10}} (Wii)<ref name="mobygames_Wii"/>
|rev1 = [[:en:Aktueller Software Markt|Aktueller Software Markt]]
|rev1Score = 8/12点 (FC)<ref name="mobygames_FC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/8402/galaga/ |title=Galaga for NES (1985) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-1-8}}</ref>
}}
===アーケード版===
1998年に刊行されたゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』では、「固定画面で自機が左右にしか移動できないことや、画面上に編隊を組んでいる敵を全滅させると面クリアとなるルールなどは『ギャラクシアン』からの流れであり、そのシンプルなゲーム性に新フューチャー{{sic}}を無理なく組み込んだのがこの『ギャラガ』である」、「一番大きな特徴としては、ボス的キャラクターが放つ『トラクタービーム』がある」、「デュアルファイターこそが自機パワーアップの起源とも言えるのではないだろうか」と紹介されている<ref name="bestgame2_73">{{Cite journal |和書
|title = ザ・ベストゲーム
|date = 1998-1-17
|publisher = 新声社
|journal = GAMEST MOOK Vol.112 ザ・ベストゲーム2 アーケードビデオゲーム26年の歴史
|volume = 5
|number = 4
|naid =
|pages = 73
|isbn = 9784881994290
|url =
|ref = harv}}</ref>。
===ファミリーコンピュータ版===
『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「『ギャラクシアン』を発展させたシューティングゲームの秀作」、「(デュアルファイターは)近頃のハデなパワーアップと異なり、合体した分、敵弾にあたりやすいというハンデを背負っているのが非常にシブイ」、「今でも十分に楽しめる内容を持っており、機会があればプレイしてもらいたい」と紹介されている<ref name="famimaga211"/>。
{{Clear}}
== 関連作品 ==
=== 続編・リメイク ===
; [[ギャラクシアン]]
: 本作の前編。
; [[ギャプラス]]
: 本作の続編。敵ではなく自機がトラクタービームを撃てる逆転の発想。海外でのタイトルは『GALAGA 3』。
; [[ギャラガ'88]]
: ギャプラスの続編。デュアルファイターだけでなくトリプルファイターにもなれる。チャレンジングステージは「THAT'S GALACTIC DANCIN'」と題したものになっており、専用のBGMに合わせてギャラガが踊るような動きをする。
; [[コズモギャング・ザ・ビデオ]]
: シリーズ名を冠してはいないが、固定画面型シューティングゲームとして本作の影響下にある作品。(参考記載)
; ギャラガ・アレンジメント
: 同じタイトルを施した作品が以下二つ存在するが、内容はそれぞれで異なる。どちらもギャラガのリメイク作品となっている。
:* 1995年に登場したアーケード『[[ナムコクラシックコレクション|ナムコクラシックコレクション VOL.1]]』に収録されているのは、ギャプラスやギャラガ'88などのシリーズのキャラも登場し、デュアルファイターの種類も増えてさらに複数になった。最終ボスや倒すことで見られるエンディングの存在、タイムアタック要素の追加、二人同士での協力プレイも可能など、原作の基本部分を踏襲しつつゲーム性の幅を広げている。
:* [[PlayStation Portable]]版『[[ナムコミュージアム (PSP)|ナムコミュージアム]]』に収録されているのは、1つのワールドに5つのエリアが組み込まれている構成で、パワーアップや敵の数がかなり多い(デュアル及びトリプルはなし)。[[iPhone]]版や[[Xbox 360]]版『ナムコミュージアム バーチャルアーケード』にもPSPと同じアレンジ版が収録されている。
; ギャラガ REMIX
: [[2007年]][[12月6日]]発売の『[[みんなで遊ぼう!ナムコカーニバル]]』([[Wii]])に収録。レール上を移動する[[パックマン]]をギャラガから守る[[ファーストパーソン・シューティングゲーム|FPS]]。4人までの同時プレイが可能。
; [[ギャラガレギオンズ]]
: ギャラガのリメイク作品として、[[2008年]][[8月20日]]に[[Xbox Live Arcade]](Xbox 360)にて販売開始(要800[[マイクロソフトポイント]])。[[軍団兵|レギオン]]の名の通り、大量の敵機による編隊飛行が特徴。敵機の飛行ルートを線で描写したりと、音楽や光表現で陶酔感を生み出す仕様となっている。『ナムコミュージアム バーチャルアーケード』『パックマン&ギャラガ ディメンションズ』にも収録。
; ギャラガ 3Dインパクト
: [[2011年]][[6月23日]]発売の『[[パックマン&ギャラガ ディメンションズ]]』([[ニンテンドー3DS]])に収録。3DSのモーションセンサーとジャイロセンサーの機能を使い、3DSを持って動かすことで照準をつけるという3D立体視のFPS。
; スペース☆ギャラガ
: [[2014年]]より主に[[スマートフォン]]向けのアプリゲームとして配信。同年に放送を開始する連続テレビアニメーション作品『[[スペース☆ダンディ]]』とギャラガの[[コラボーレーション]]作品と位置づけられており、ギャラガをベースとしつつクエスト形式のステージや対戦要素など様々な新機軸を盛り込んでいる。
:後に『スーパースペース☆ギャラガ』と改題されリニューアル、現在は配信終了。
; ギャラガウォーズ
:シリーズ35周年として[[2016年]][[11月3日]]より[[スマートフォン]]向けのアプリゲームとして配信。
:アイテムによる一定時間攻撃力アップや合体によるパワーアップなどの要素があり、ゲーム内でコインを集め装備を強化する事も可能。
:ゲーム内で集めた勲章、もしくは課金でファイター(ギャラガ)以外の新たな機体を解放出来る。
:追加機体はFX-01ジオソード([[スターブレード]])、ソルバルウ([[ゼビウス]])、パックスター([[パックマン]])、ギャラクシップ([[ギャラクシアン]])、レッドバロン([[スカイキッド]])、大コスモの王子([[塊魂]])、ブレストファイター([[ギャラガ'88]])。
; 大量破壊VRシューティング ギャラガフィーバー
: 2018年3月9日よりVR ZONE SHINJUKU(閉店後はMAZARIAで継続)で稼働のVRアクティビティ。
=== その他 ===
*ギャラガの人気に伴い、多くのコピー版も登場した。名前も様々なものがあり、例えば『GALLAG(ギャラッグ)』『ギャンダ』『NEBULOUS BEE(ネブラスビー:星雲蜂)』等。更に『GATS BEE(ギャッツビー)』はゲーム内容そのものにもアレンジを加えており、自機の8方向移動を可能にした他、チャレンジングステージの編隊飛行パターンも変更している。21世紀になってもコピー基板が作られているという稀有なタイトルである(JAMMAハーネス対応)。ギャラガ全体の設置数が多かったため、今でも設置されている場所が見つかることがある。また、ダイソーのコンピューターゲームの中にかなり酷似したゲームがある。
*『[[ウォー・ゲーム (映画)|ウォー・ゲーム]]』([[1983年]]) - アメリカ映画。主人公がゲームアーケードでギャラガのチャレンジングステージをプレイする様子が映る。結果は敵機を何機か撃ち漏らし、パーフェクトならず。
*『[[スターラスター]]』([[1985年]])の続編『[[スターイクシオン]]』([[1999年]])では、ギャラガが敵キャラとして登場。
*同社の格闘ゲーム、PS版『[[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]]』([[1995年]])には、ゲーム起動時のローディング中限定でギャラガのチャレンジングステージが収録されており、ローディング中に遊ぶことが可能。なお、これを一定条件でクリアすることによって本編のある隠し要素も解禁される。
*同社のガンシューティングゲーム『[[ガンバレットシリーズ|ガンバァール]]』([[1998年]])にて、本作のチャレンジングステージを再現したステージが収録されており、敵キャラのギャラガ達も客演として出演。このステージでギャラガを全て撃破すると、画面に赤い文字で“PERFECT!”と表示され、原作と同じ音楽が鳴る。
*シューティングミニゲーム集『[[てんこもりシューティング]]』(1998年)に本作のチャレンジングステージをモチーフにした面が登場する。規定数の敵を撃ち落とすミッションとなっており、1人プレイではデュアルファイターを、2人同時プレイではそれぞれのシングルファイターを操作することになっている。
* 映画『[[アベンジャーズ (2012年の映画)|アベンジャーズ]]』([[2012年]])での1シーンには、飛行空母の指令室内で、乗組員の1人が『ギャラガ』で遊んでいるシーンがある。トニー・スターク役の[[ロバート・ダウニー・Jr]]が、「そこ、ギャラガやってるだろ?」と指摘するセリフもある。尚、このシーンに使われた『ギャラガ』は、映像はMSX版で音はファミコン版という構成になっている。
*[[任天堂]]と共同開発の同社のレースゲーム『[[マリオカート アーケードグランプリ|マリオカート アーケードグランプリDX]]』([[2013年]])にボス・ギャラガがアイテムとして登場。前に発射してトラクタービームで敵を捕獲する特殊系アイテム。
*任天堂のゲーム『[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U]]』([[2014年]])にボス・ギャラガがアイテムとして登場。ファイターを捕獲して上空に連れ去り、場外ミスにさせようとうする。
* 『[[ピクセル (2015年の映画)|ピクセル]]』([[2015年]]) - アメリカ映画。地球外生命体に向けて送った地球のメッセージを、宣戦布告と誤認した異星人が地球に飛来し攻撃を行う。その際、地球側がメッセージに同梱したコンピューターゲーム(『[[パックマン]]』、『[[ドンキーコング]]』など)のキャラクターを模した兵器のひとつに、「ギャラガ(1981年リリースの初期版)」が含まれている。
*韓国[[ソウル放送|SBS]]で放送されたアニメ『[[ハロージャドゥ]]』([[2011年]] - [[2016年]]、原題:안녕 자두야)の第1シーズンの第23話「ゲーム中毒」で、ゲームイントロのBGMや敵の飛来時、トラクタービームなどのSEが使用されている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* マイコンBASICマガジン編集部 『All about NAMCO』電波新聞社 1986年12月 ISBN 978-4885541070
== 外部リンク ==
{{commonscat|Galaga}}
* [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/Galaga.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ギャラガ(PS4版)]
* [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/Galaga.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ギャラガ(Nintendo Switch版)]
* {{Wiiバーチャルコンソール|gg|ギャラガ(ファミコン版)}}
* {{3DSバーチャルコンソール|tcuj|ギャラガ(ファミコン版)}}
* {{Wii Uバーチャルコンソール|fa6j|ギャラガ(ファミコン版)}}
* [https://www.bandainamcoent.co.jp/cs/download/virtual_consolearcade/detail/detail06/06.html バーチャルコンソール ギャラガ(アーケード版)]
* {{Imdb title|id=0302593|title=Galaga}}
* {{MobyGames|id=/8402/galaga/|name=Galaga}}
{{ギャラクシアン}}
{{ナムコット}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きやらか}}
[[Category:1981年のコンピュータゲーム]]
[[Category:1981年のアーケードゲーム]]
[[Category:Atari 7800用ソフト]]
[[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]]
[[Category:IPhone用ゲームソフト]]
[[Category:MSX/MSX2用ソフト]]
[[Category:MZ用ゲームソフト]]
[[Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]]
[[Category:PlayStation 4用ソフト]]
[[Category:SG-1000用ソフト]]
[[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:X1用ゲームソフト]]
[[Category:Xbox Live Arcade対応ソフト]]
[[Category:オールタイム100ビデオゲーム選出]]
[[Category:ギャラクシアン]]
[[Category:携帯電話アプリゲーム]]
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[[Category:ディスクシステム用ソフト]]
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[[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
[[Category:アーケードアーカイブス対応ソフト]] | 2003-02-15T16:52:47Z | 2023-12-19T03:23:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AC |
1,849 | コンパクトディスク | コンパクトディスク(Compact Disc; CD、シーディー)は、1970年代にソニーとフィリップスが共同開発し、1980年代初めに製品化された記憶媒体。金属の薄膜や有機色素材料をポリカーボネートやガラスなどの保護層で挟んだ光ディスクであり、レーザー光を使ってデータの読み出しや書き込みをする。もともとは、従来のレコードに代わり音楽を記録するための媒体として開発され、その後、コンピュータ用のデータを記録する派生規格も策定された。
光ディスクとしては最初の世代(第1世代光ディスク)に当たり、消費者向けのデジタル方式のオーディオ媒体としても最初のものである。
樹脂製の円盤に「ピット」と呼ばれる小さな凹凸が刻み込まれており、ディスクを回転させつつレーザー光を当てたときに、凹凸により反射率が異なることを利用して、データとして読み込む。直径が12 cmのものと8 cmのものがある。
1971年6月、ソニー創業者の井深大に誘われてソニーに入社した中島平太郎は、1973年にデジタルオーディオの開発を始め、1974年にソニー初のPCM音源を用いた録音機である「X-12DTC」を開発した。1974年のオーディオフェアに参考出品し、評価してくれる専門家もいたが、発売には至らなかった。1976年にはデジタルオーディオの開発に加わった土井利忠らとともに、前年に発売されたベータマックスを用いたデジタル音声の記録・再生機器である「PCM-1」を開発した。
一方「PCM-1」の開発とは別に、ソニーはフィリップスが開発した光学方式のビデオディスク(のちのレーザーディスク)の商品化に取り組んでおり、ディスクを使ったデジタルオーディオの録音・再生をする取り組みも始まっていた。土井は「PCM-1」の試作機を用いてビデオディスクにデジタル音声を記録してみるが、使用に堪えない結果となった。その結果「PCM-1」をビデオディスクのアダプターとすることは断念し、ベータマックス用のアダプターとしてオーディオフェアに出品すると、人だかりができるほど好評であり、「PCM-1」は1977年9月に商品化された。
また土井はディスクに関してはビデオ信号の形式を借りないで、デジタルオーディオ信号を直接光ディスクに記録することを決め、このころに誤り訂正符号を仕様に盛り込むことを決めた。こうして1977年のオーディオフェアに出品にすると、他社はビデオ信号を用いた形式を利用しているのにソニーだけは別方式をやっていると社内外から言われ、それに対して土井は「ビデオ信号で記録すると演奏時間は30分だけど、直接記録を使えば13時間20分記録できる」という内容の講演をするが、それを聞いた大賀典雄は「そんな長時間もの音楽の入ったソフトをつくるのは、コストがかかり過ぎてビジネスとして成り立たない」と苦言を呈した。
1978年6月、大賀はフィリップスを訪れると、フィリップスの幹部ルー・オッテンスは大賀にオーディオ専用の光ディスクを見せた。「オーディオ・ロング・プレイ」(ALP)とフィリップスでは呼ばれており、のちのレーザーディスクとなる光ディスクを開発している時に副産物として開発されたものだった。フィリップスからディスクの仕様を聞いた大賀はレコードからの置き換えができるものとの将来性を感じ、フィリップスと光ディスクの共同開発をすることを決断した。そしてデジタルオーディオディスクの規格統一の話し合いのために内外29社からなる「DAD(Digital Audio Disc)懇談会」に向けて両社で規格をまとめて提案することになった。
1979年8月末から共同開発が始まり、ソニー側の技術交渉に当たったのは技術研究所の中島、土井、ディスク開発部の宮岡千里らだった。
仕様について特にフィリップスとの意見が対立したのが、量子化ビット数、ディスクのサイズ、記録時間だった。
量子化ビット数に関してはフィリップスは14ビットを主張したが、土井は21世紀になっても通用するためには16ビットが必要であると主張し、ソニー側の意見が採用された。
ディスクのサイズに関してはフィリップスは11.5 cmを主張したが、これはコンパクトカセットの対角線の長さと同じで、 ドイツ工業規格に適合し、ヨーロッパ市場でのカー・オーディオとしての将来性を見込んでのことだった。一方でソニーは12 cmを主張したが、これは音楽家でもある大賀が「オペラ一幕分、あるいはベートーヴェンの第九が収まる収録時間がユーザーから見て合理性がある」と判断したことによる。この大賀の発言の大きな要因となったのが、かつて「PCM-1」から流れる自身の演奏の音の良さを実感した、指揮者のカラヤンである。開発当時、大賀は親交のあったカラヤンに、11.5 cm(60分)と12 cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーヴェンの交響曲第9番が1枚に収まったほうがいい」と提言した。それに対してフィリップスは「12 cmでは上着のポケットにも入らない」と反論したが、日・米・欧の上着のポケットのサイズを調べた結果、12 cmでも問題ないことが分かり、ソニーの主張が採用された。
こうして規格が定まった1980年6月、DAD懇談会ではソニー・フィリップスが提案した「光学式」、ドイツのテレフンケン提案の「機械式」、日本ビクター提案の「静電式」という3方式の評価が始まり、評価では光学式と静電式に集約された。ソニーはDAD懇談会への提案の一方でCD再生第1号機の商品化にも取り組み、1982年10月の商品化に向けて、大賀はCDを世界の標準規格にするため、フィリップスとともに世界中のソフトウェアメーカー、レコード会社、音楽団体の会合に出向き、内容の説明とCDの演奏を繰り返し行った。しかし「LPレコードが世界のスタンダードであり、その音に満足しているから余計なことをしないでくれ」とレコード関係者の反発は強かった。アメリカCBSとの合弁会社CBS・ソニーレコード(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の幹部もCDの生産に否定的であったが、大賀が説得した結果、CBS・ソニー単独資金で静岡の大井川にCDソフト工場を建設する許可を得た。
生産を始めるとCDの反りの問題が浮上したが、当時新素材であったポリカーボネートの使用を1982年8月に決定し、CD発売開始半年前の同年9月半ばにプレス生産が軌道に乗った。
1982年8月31日、ソニー、CBS・ソニー、フィリップス、ポリグラムの4社共同のCDシステム発表会が東京大手町の経団連会館で開かれ、当日の夕方から夜のテレビニュースと翌日の朝刊で一斉に報じられた。
同年10月1日、ソニーからは再生第1号機「CDP-101」およびCBS・ソニーからは世界初のCDソフト50タイトルが発売され、CDソフトの生産第1号はビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」となった。50タイトルの内訳はクラシックだけでなく、ポップスやロック、歌謡曲まで揃っており、その後年末までに100タイトル余りのソフトが発売された。
こうして1980年6月のDAD懇談会では日本ビクターの静電式も評価として残されていたが、CDが発売されたころには、ほとんどの会社がソニー・フィリップスによるCDシステムの採用を発表し、CDが事実上の世界統一規格となった。
1983年に入ると、他社からも次々にCDプレーヤーが発売され、CDソフトも同年末には約1000タイトルが店頭に並んだ。1984年11月になるとソニーは「CDP-101」の機能と変わらないまま本体サイズをCDジャケット4枚分の厚さにし、価格も49,800円に抑えたポータブルCDプレーヤー「D-50」を発売、これにより各社のCDプレーヤーの価格も下がり、業界全体のCDビジネスも本格的に立ち上がっていった。
デジタル音声に関しては当初、特にアナログオーディオ技術を駆使する録音スタジオのエンジニアたちによって、「アナログタイプの機器より1けた高い」「音質が硬く、音楽的でない」と評価された。その中でもアメリカのボーカリストのスティービー・ワンダーやジャズピアニストのハービー・ハンコックなどがデジタル音声を支持したことで、否定的だったミュージシャンらもデジタルオーディオに肯定的になっていった。そうしてクラシックの新譜はほとんどすべてがデジタル化され、マルチトラック録音が必要なポピュラー音楽も、次々とデジタル録音されるようになった。
CDソフトの日本国内生産枚数も1984年末頃は、 LPレコードと比べて10分の1程度の生産枚数だったが、2年後の1986年には年間4500万枚に達して、LPレコードを逆転した。そして1988年前後には、LPレコード最盛期の生産量の1億枚を超し、1992年には3億枚を突破した。中島はCDの生産枚数は「1989年ごろにLPレコードを追い越して、将来的には2億枚ぐらいにはなるだろう」と予測していたが、想定よりも早く、かつ想定以上の生産枚数に達する結果となった。
その後CDには音声・映像・文字用の「CD-ROM」(1985年規格化)、映像・音声両用の「ビデオCD」(1993年規格化)など、様々な規格が策定され「CDファミリー」を形成していった。
1990年代後半にCDと同じサイズでCDより高音質のSuper Audio CDやDVD-Audioなどの次世代オーディオメディアが登場したが、CDを置き換えるには至らなかった。
2000年代以降はインターネットによる音楽配信やストリーミング配信が増加し、2010年代以降はハイレゾなど配信データの高音質化やレコードの再評価により、音楽媒体としてのCDの売上は減少傾向となった。
またデータ用としてもDVDやBlu-rayなどの次世代規格のメディアやインターネットなどによるデータ通信が台頭したことから下火となった。
2022年、アメリカでは1987年以来初めてレコードに売上枚数で抜かれた。
コンパクトディスクの外形は一般的には、直径12 cmまたは8 cmで厚さ1.2 mmの円盤であり、中央に直径15mmの穴が空いている。
ただし一部には、通称で「名刺型CD」や「カード型CD」と呼ばれる、8 cm CDを長方形に切り取り周囲をコーティングしたものがある。同様の形状で書き込み可能なCD-Rも市販されていたが、書き込み可能な面積が小さいので、通常の8 cm CD-Rよりも容量が小さい。また長方形型以外にも特殊な形状のものもある。
下から順に、基盤(樹脂層)、反射層(記録層)、ラッカー層(保護層)、印刷層の4層構造になっている。
一番下の基盤(樹脂層)の一般的な材質はポリカーボネートであり、厚さは1.1 mm。ほかにAPO(非晶質ポリオレフィン)やガラスを使用したものもある。
反射層(記録層)は一般的には厚さ約80 nmのアルミニウム蒸着膜であるが、劣化防止などのためにアルミニウムのかわりに金を使用したものもあり、これは「ゴールドディスク」と呼ばれる。
蒸着膜によって彫られた細かい凹凸によってデジタル情報を表現している。この読み取り面から見れば出っ張りになるくぼみをピットといい、ピットのない部分をランドという。
読み取りには780 nmの赤外線レーザーが用いられ、ランドの部分に当ったレーザー光は反射してそのまま戻ってくるが、ピットがある部分に当ったレーザー光はランドからの反射波と1/2波長の位相差をもつため干渉して打ち消しあい暗くなる。この明暗によりデジタル信号を読み取り、これをアナログ信号に戻して音声として出力する。CDの虹色のような光沢は、この規則正しく並んだトラックで回折した光が、干渉することによる構造色である。
ピットの幅は0.5 μmで長さは0.83 μmから0.3 μm単位で3.56 μmまで9種類、ピットから次のピットまでの距離も同じ9種類である。またピットの列をトラックというが、このトラックは1.6 μm間隔で、内側から外側に向かって渦巻状に並んでいる。
ラッカー層(保護層)は厚さが約10 μmである。
印刷層はシルク印刷である。レーベルのデザインによるが、2012年現在では反射層と印刷層が穴の部分まで拡大されたものが主流となっている。
コンパクトディスクはセッション単位で記録され、セッションはリードイン、データ、リードアウトの3つの領域で構成される。CD-DAのセッションは1つであるが、CD-EXTRAはマルチセッションを採用している。
データ領域には1から99までのトラックを記録でき、トラックは複数のセクタで構成される。1セクタは1/75秒(約13.33ミリ秒)であり、1セクタあたりのデータは2,352バイト(24バイト×98フレーム)である。
フレームがデータの最小単位であり、1フレームは24バイトである。24バイトの内訳はビット深度が16 bit、チャンネル数が2.0 ch、サンプリングデータが6であることから、16×2×6で192ビットである。
コンパクトディスクは誤り訂正としてCIRCが使用されるため、訂正用に8バイト、サブコード用に1バイトが付与されて、24+8+1で合計33バイトになる。さらにデータをピット列として記録するにはEFMという変調方式が用いられるため、8ビットが14ビットに変換されることで、33×14で462ビットになる。
加えて、変換されたデータにはマージンビットと同期信号が付与される。マージンビットは3ビットであり、変換されたデータごとに付くため、33×(14+3)で561ビットとなる。そして同期信号は24ビットで同期信号にもマージンビットが付くため、最終的に1フレームは561+24+3で588ビットとなる。
CD-ROMの場合、12 cmディスクは約650から700 MiBの容量を持つ。800 MiBを超える容量のものもあるが、一部の機器では読み取れない場合がある。8 cmディスクは約155から300 MiBの容量を持つ。
セクタ数は12 cmディスクの650 MiBでは約333,000セクタ、700 MiBでは約360,000セクタになる。1セクタは2,352バイトで、1セクタあたりのデータ容量はCD-ROM MODE1およびMODE2/FORM1で2,048バイト、MODE2で2,336バイト、MODE2/FORM2で2,324バイト、CD-DAで2,352バイトである。CD-ROMはCD-DAよりも規格が後に作成され、その際にエラー訂正がより重視されたため、2,352バイトのうち304バイトをヘッダやエラー訂正などに割り当てていることからCD-DAより容量が少なくなる。これに加えて、以下のPからWまでのサブチャンネルが1セクタあたり96バイト存在するので、1セクタ当たり2,448バイトとなる。
容量は以下の計算式によって求められる。
CD-DAでの収録時間は12 cmディスクでは約74分から80分である。具体的には、規格上デジタルのPCM形式で最大79分57秒、99トラックの音楽が記録でき、また1トラック中には99インデックス(位置決め標識)を設けることができる。2000年頃までのプレーヤーは、インデックスサーチできるものが多数存在した。
記録トラックの幅を狭めれば容量は増やせるが、古い音楽CDプレーヤーには稀に74分記録されたCD-Rは再生できても80分以上は再生できないという互換性の問題が存在する。2003年に策定されたガイドラインHigh Capacity Recordable Disc 1.0に対応していないCDプレーヤーでは長時間CDは再生できない。MP3ファイルをデータとして書き込んだ場合、最大収録時間はファイルのサイズにもよるが概ね8時間前後となる。ただし、対応機器は限られる。
8 cmCD(CD SINGLE)の最大収録時間は約22分程度。これは、CDビデオのオーディオパートとビデオパートを分けそれぞれ開発した際に由来する。8 cmというサイズはケースに収納したときレコードのシングル盤ケースのちょうど半分のサイズとなるため、小売店でレコード用の棚を使いまわせるだろうと考えたためである。
現在の収録時間最長の音楽CDは、マーキュリー・レーベルにザンクト・フローリアン・アルトモンテ管弦楽団/レミ・バロー(指揮)が録音したブルックナー:交響曲第3番 (GRML99044)の89分03秒である。Eight-to-fourteen modulationが定めた規格上は97分まで可能であるが、YAMAHAほかのメーカーのドライブはすでに99分59秒まで対応し、100分収録を謳うCD-R商品もすでに発売されている。2019年現在までに990 MBのCD-Rまで開発されたので理論上は110分強がコンパクトディスクの最大収容量になるが、商用録音でこの収録時間はまだ出ていない。一時期にはソフトウェアにオーバーバーンモードまで設け、990 MBまで対応することを謳ったCD-Rドライブもあった。
現在市販されている最大の音楽用コンパクトディスクは台湾とポーランドで販売された99Min 870 MBとドイツで販売された100Min 900 MBであるが、両方とも頒布国が限定されているうえドライブ未対応といった問題が残っており、普及率は低い。CDを焼くソフトウェアはすでに90Min 800MBへ対応している。
2020年代は、90分CDがほぼ商用面で実用化しており、DECCAやNAXOSに90分CDを使用したクラシック音楽のためのコンパクトディスクがある。
音楽CD(CD-DA形式)の再生時のデータの転送速度は1倍速で約176 KB/s(150 KiB/s) であり、これを基準として最大記録時間は640 MiBのディスクで約72分強、650 MiBのディスクで約74分強、700 MiBのディスクで約80分強、最新の800 MiBのディスクで約90分強、非公式の900 MiBのディスクで約100分強、非公式の990 MiBのディスクで約110分強となる。この音楽CDの1倍速を基準として、ディスクのデータ転送速度を表すのに「○倍速」という言い方をする。
当初から音声・映像記録媒体として開発された。物理フォーマットは先に決まっており、音声記録ディスクの論理仕様が先行して策定された。少し遅れてビデオ記録用としてCDビデオが策定されたが、普及しなかった。後にデータ記録用としてCD-ROM、ビデオ記録用としてビデオCDなどの論理仕様が策定された。これらと対比して音声記録ディスクをCD-DAという。
また音声とデータを両方収録できるようにしたCD EXTRAおよびミックスモードCD、CD-ROM XAがある。
さらに記録にピットを用いずに、レーザーによる媒体の物理的変化を利用して同等なデジタルデータの書き込みを行う方式が開発された。CD-Rはエンドユーザがデータの追加記録ができる。また、記録してしまった領域を取り戻し、空き領域として記憶領域を再利用することができないCD-Rに対して、CD-RWはデータの消去を可能にし、書き換えができる。
コンパクトディスクの仕様・規格は対象とする範囲や目的によって複数の規格に分かれており、各規格基準書の表紙の色によってそれぞれが呼び分けられている。これら全てを総称してレインボーブック(英語版)と呼ぶ。
1990年代後半からはCDよりも容量の大きいディスクが開発された。データ分野ではDDCD、オーディオ分野ではSuper Audio CDが実用化されたが、いずれもCDを代替するまでの普及には至っていない。これら光ディスクはいずれも直径12 cmでCDの大きさを踏襲している。
以下の規格はいずれもCDとの互換はなく、再生には専用の光学ドライブおよびプレーヤーが必要である。
発売当初は劣化しないと言われていた。実際には、保存方法が悪いとメディアが劣化を起こす。具体的には、基盤(樹脂層)のポリカーボネートの変化、蒸着した反射膜の変化、そしてCD-Rの場合には色素の変化が劣化の要因となる。いずれでも直射日光や高温・多湿を嫌う。
基盤(樹脂層)のポリカーボネートは湿気に晒されると加水分解し徐々に白濁する欠点がある。これにより情報を読み取るレーザーが通らなくなり、情報を読めなくなる。
なお、この性質を利用しあえて開封後数週間程度で白濁するように製造された媒体もある。これにより、音楽や映像のソフトウェアを再生できる日数を制限する。
温度や湿度変化の影響が比較的少ないガラス製のCDが開発・発売され、寿命の改善が期待されている。2008年には液晶パネル用のポリカーボネートを使用したスーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)とハイ・クオリティCD(HQCD)が開発・発売。さらにブルーレイディスクの技術を応用したブルースペックCDも開発・発売されている。
現在、スパッタリング法によってアルミニウムの反射膜を形成する方法が主流となっているが、アルミニウムを用いるCDは環境にもよるが、20年から30年が限度と見積られており、現在長期的な保存を可能とした製品の開発が急務となっている。その一方で、メーカー側などでは80年前後保存が可能とする指摘もある。なお反射膜に金を用いた場合、100年前後保存が可能と見積られているが、コストの問題など解決しなければならない課題がある。安価なものは印刷・反射層が端からはがれてきたり、水分が反射膜に浸透してアルミニウムが錆びてしまい反射の機能を失うなど、短寿命のものが多い。
また記録層の部分は印刷面から10 μm (0.01 mm)、樹脂層から約1.2 mmの所にある。そのため、印刷面からの衝撃に弱く鉛筆やボールペンなど、フェルト以外の油性マーカーで記入を行うと記録層にダメージが加わり音飛びなどの症状が出ることもあり、最悪の場合読み込めなくなる可能性も考えられる。印刷層側に深い傷が入ったり湿度の高い場所に放置すると、反射層までがはがれることがある。
CD-Rでは記録面に直射日光を当て続けると色素が変化し読み込めなくなったり、質の悪い媒体の場合には蛍光灯に含まれる紫外線で変化するものもある。また高温・多湿の環境に置くと、ごく短時間でも印刷・反射層が端からはがれてくる事がある。
一部のマスメディアにおいて、コンパクトディスクを冷やすと音質が良くなると言われているが、CDに記録されている情報はデジタルであるため、ビットエラーがない限り記録内容が変質することはない。CDにおいて、ディスクの熱の影響により符号誤り率が増加することは考えにくいため、冷やしても音質には影響しない。もともと1993年にロンドンの新聞「サンデー・タイムズ」に紹介され、後に日本のテレビ番組にも紹介されそこから噂が広がってしまったのではないかとされている。 | [
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"text": "コンパクトディスク(Compact Disc; CD、シーディー)は、1970年代にソニーとフィリップスが共同開発し、1980年代初めに製品化された記憶媒体。金属の薄膜や有機色素材料をポリカーボネートやガラスなどの保護層で挟んだ光ディスクであり、レーザー光を使ってデータの読み出しや書き込みをする。もともとは、従来のレコードに代わり音楽を記録するための媒体として開発され、その後、コンピュータ用のデータを記録する派生規格も策定された。",
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"text": "光ディスクとしては最初の世代(第1世代光ディスク)に当たり、消費者向けのデジタル方式のオーディオ媒体としても最初のものである。",
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"text": "樹脂製の円盤に「ピット」と呼ばれる小さな凹凸が刻み込まれており、ディスクを回転させつつレーザー光を当てたときに、凹凸により反射率が異なることを利用して、データとして読み込む。直径が12 cmのものと8 cmのものがある。",
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"text": "1971年6月、ソニー創業者の井深大に誘われてソニーに入社した中島平太郎は、1973年にデジタルオーディオの開発を始め、1974年にソニー初のPCM音源を用いた録音機である「X-12DTC」を開発した。1974年のオーディオフェアに参考出品し、評価してくれる専門家もいたが、発売には至らなかった。1976年にはデジタルオーディオの開発に加わった土井利忠らとともに、前年に発売されたベータマックスを用いたデジタル音声の記録・再生機器である「PCM-1」を開発した。",
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"text": "一方「PCM-1」の開発とは別に、ソニーはフィリップスが開発した光学方式のビデオディスク(のちのレーザーディスク)の商品化に取り組んでおり、ディスクを使ったデジタルオーディオの録音・再生をする取り組みも始まっていた。土井は「PCM-1」の試作機を用いてビデオディスクにデジタル音声を記録してみるが、使用に堪えない結果となった。その結果「PCM-1」をビデオディスクのアダプターとすることは断念し、ベータマックス用のアダプターとしてオーディオフェアに出品すると、人だかりができるほど好評であり、「PCM-1」は1977年9月に商品化された。",
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"text": "また土井はディスクに関してはビデオ信号の形式を借りないで、デジタルオーディオ信号を直接光ディスクに記録することを決め、このころに誤り訂正符号を仕様に盛り込むことを決めた。こうして1977年のオーディオフェアに出品にすると、他社はビデオ信号を用いた形式を利用しているのにソニーだけは別方式をやっていると社内外から言われ、それに対して土井は「ビデオ信号で記録すると演奏時間は30分だけど、直接記録を使えば13時間20分記録できる」という内容の講演をするが、それを聞いた大賀典雄は「そんな長時間もの音楽の入ったソフトをつくるのは、コストがかかり過ぎてビジネスとして成り立たない」と苦言を呈した。",
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"text": "1978年6月、大賀はフィリップスを訪れると、フィリップスの幹部ルー・オッテンスは大賀にオーディオ専用の光ディスクを見せた。「オーディオ・ロング・プレイ」(ALP)とフィリップスでは呼ばれており、のちのレーザーディスクとなる光ディスクを開発している時に副産物として開発されたものだった。フィリップスからディスクの仕様を聞いた大賀はレコードからの置き換えができるものとの将来性を感じ、フィリップスと光ディスクの共同開発をすることを決断した。そしてデジタルオーディオディスクの規格統一の話し合いのために内外29社からなる「DAD(Digital Audio Disc)懇談会」に向けて両社で規格をまとめて提案することになった。",
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"text": "1979年8月末から共同開発が始まり、ソニー側の技術交渉に当たったのは技術研究所の中島、土井、ディスク開発部の宮岡千里らだった。",
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"text": "仕様について特にフィリップスとの意見が対立したのが、量子化ビット数、ディスクのサイズ、記録時間だった。",
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"text": "量子化ビット数に関してはフィリップスは14ビットを主張したが、土井は21世紀になっても通用するためには16ビットが必要であると主張し、ソニー側の意見が採用された。",
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"text": "ディスクのサイズに関してはフィリップスは11.5 cmを主張したが、これはコンパクトカセットの対角線の長さと同じで、 ドイツ工業規格に適合し、ヨーロッパ市場でのカー・オーディオとしての将来性を見込んでのことだった。一方でソニーは12 cmを主張したが、これは音楽家でもある大賀が「オペラ一幕分、あるいはベートーヴェンの第九が収まる収録時間がユーザーから見て合理性がある」と判断したことによる。この大賀の発言の大きな要因となったのが、かつて「PCM-1」から流れる自身の演奏の音の良さを実感した、指揮者のカラヤンである。開発当時、大賀は親交のあったカラヤンに、11.5 cm(60分)と12 cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーヴェンの交響曲第9番が1枚に収まったほうがいい」と提言した。それに対してフィリップスは「12 cmでは上着のポケットにも入らない」と反論したが、日・米・欧の上着のポケットのサイズを調べた結果、12 cmでも問題ないことが分かり、ソニーの主張が採用された。",
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"text": "こうして規格が定まった1980年6月、DAD懇談会ではソニー・フィリップスが提案した「光学式」、ドイツのテレフンケン提案の「機械式」、日本ビクター提案の「静電式」という3方式の評価が始まり、評価では光学式と静電式に集約された。ソニーはDAD懇談会への提案の一方でCD再生第1号機の商品化にも取り組み、1982年10月の商品化に向けて、大賀はCDを世界の標準規格にするため、フィリップスとともに世界中のソフトウェアメーカー、レコード会社、音楽団体の会合に出向き、内容の説明とCDの演奏を繰り返し行った。しかし「LPレコードが世界のスタンダードであり、その音に満足しているから余計なことをしないでくれ」とレコード関係者の反発は強かった。アメリカCBSとの合弁会社CBS・ソニーレコード(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の幹部もCDの生産に否定的であったが、大賀が説得した結果、CBS・ソニー単独資金で静岡の大井川にCDソフト工場を建設する許可を得た。",
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"text": "生産を始めるとCDの反りの問題が浮上したが、当時新素材であったポリカーボネートの使用を1982年8月に決定し、CD発売開始半年前の同年9月半ばにプレス生産が軌道に乗った。",
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"text": "1982年8月31日、ソニー、CBS・ソニー、フィリップス、ポリグラムの4社共同のCDシステム発表会が東京大手町の経団連会館で開かれ、当日の夕方から夜のテレビニュースと翌日の朝刊で一斉に報じられた。",
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"text": "同年10月1日、ソニーからは再生第1号機「CDP-101」およびCBS・ソニーからは世界初のCDソフト50タイトルが発売され、CDソフトの生産第1号はビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」となった。50タイトルの内訳はクラシックだけでなく、ポップスやロック、歌謡曲まで揃っており、その後年末までに100タイトル余りのソフトが発売された。",
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"text": "こうして1980年6月のDAD懇談会では日本ビクターの静電式も評価として残されていたが、CDが発売されたころには、ほとんどの会社がソニー・フィリップスによるCDシステムの採用を発表し、CDが事実上の世界統一規格となった。",
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"text": "1983年に入ると、他社からも次々にCDプレーヤーが発売され、CDソフトも同年末には約1000タイトルが店頭に並んだ。1984年11月になるとソニーは「CDP-101」の機能と変わらないまま本体サイズをCDジャケット4枚分の厚さにし、価格も49,800円に抑えたポータブルCDプレーヤー「D-50」を発売、これにより各社のCDプレーヤーの価格も下がり、業界全体のCDビジネスも本格的に立ち上がっていった。",
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"text": "デジタル音声に関しては当初、特にアナログオーディオ技術を駆使する録音スタジオのエンジニアたちによって、「アナログタイプの機器より1けた高い」「音質が硬く、音楽的でない」と評価された。その中でもアメリカのボーカリストのスティービー・ワンダーやジャズピアニストのハービー・ハンコックなどがデジタル音声を支持したことで、否定的だったミュージシャンらもデジタルオーディオに肯定的になっていった。そうしてクラシックの新譜はほとんどすべてがデジタル化され、マルチトラック録音が必要なポピュラー音楽も、次々とデジタル録音されるようになった。",
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"text": "CDソフトの日本国内生産枚数も1984年末頃は、 LPレコードと比べて10分の1程度の生産枚数だったが、2年後の1986年には年間4500万枚に達して、LPレコードを逆転した。そして1988年前後には、LPレコード最盛期の生産量の1億枚を超し、1992年には3億枚を突破した。中島はCDの生産枚数は「1989年ごろにLPレコードを追い越して、将来的には2億枚ぐらいにはなるだろう」と予測していたが、想定よりも早く、かつ想定以上の生産枚数に達する結果となった。",
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"text": "その後CDには音声・映像・文字用の「CD-ROM」(1985年規格化)、映像・音声両用の「ビデオCD」(1993年規格化)など、様々な規格が策定され「CDファミリー」を形成していった。",
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"text": "1990年代後半にCDと同じサイズでCDより高音質のSuper Audio CDやDVD-Audioなどの次世代オーディオメディアが登場したが、CDを置き換えるには至らなかった。",
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"text": "2000年代以降はインターネットによる音楽配信やストリーミング配信が増加し、2010年代以降はハイレゾなど配信データの高音質化やレコードの再評価により、音楽媒体としてのCDの売上は減少傾向となった。",
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"text": "2022年、アメリカでは1987年以来初めてレコードに売上枚数で抜かれた。",
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"text": "コンパクトディスクの外形は一般的には、直径12 cmまたは8 cmで厚さ1.2 mmの円盤であり、中央に直径15mmの穴が空いている。",
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"text": "ただし一部には、通称で「名刺型CD」や「カード型CD」と呼ばれる、8 cm CDを長方形に切り取り周囲をコーティングしたものがある。同様の形状で書き込み可能なCD-Rも市販されていたが、書き込み可能な面積が小さいので、通常の8 cm CD-Rよりも容量が小さい。また長方形型以外にも特殊な形状のものもある。",
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"text": "下から順に、基盤(樹脂層)、反射層(記録層)、ラッカー層(保護層)、印刷層の4層構造になっている。",
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"text": "CD-DAでの収録時間は12 cmディスクでは約74分から80分である。具体的には、規格上デジタルのPCM形式で最大79分57秒、99トラックの音楽が記録でき、また1トラック中には99インデックス(位置決め標識)を設けることができる。2000年頃までのプレーヤーは、インデックスサーチできるものが多数存在した。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "記録トラックの幅を狭めれば容量は増やせるが、古い音楽CDプレーヤーには稀に74分記録されたCD-Rは再生できても80分以上は再生できないという互換性の問題が存在する。2003年に策定されたガイドラインHigh Capacity Recordable Disc 1.0に対応していないCDプレーヤーでは長時間CDは再生できない。MP3ファイルをデータとして書き込んだ場合、最大収録時間はファイルのサイズにもよるが概ね8時間前後となる。ただし、対応機器は限られる。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "8 cmCD(CD SINGLE)の最大収録時間は約22分程度。これは、CDビデオのオーディオパートとビデオパートを分けそれぞれ開発した際に由来する。8 cmというサイズはケースに収納したときレコードのシングル盤ケースのちょうど半分のサイズとなるため、小売店でレコード用の棚を使いまわせるだろうと考えたためである。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "現在の収録時間最長の音楽CDは、マーキュリー・レーベルにザンクト・フローリアン・アルトモンテ管弦楽団/レミ・バロー(指揮)が録音したブルックナー:交響曲第3番 (GRML99044)の89分03秒である。Eight-to-fourteen modulationが定めた規格上は97分まで可能であるが、YAMAHAほかのメーカーのドライブはすでに99分59秒まで対応し、100分収録を謳うCD-R商品もすでに発売されている。2019年現在までに990 MBのCD-Rまで開発されたので理論上は110分強がコンパクトディスクの最大収容量になるが、商用録音でこの収録時間はまだ出ていない。一時期にはソフトウェアにオーバーバーンモードまで設け、990 MBまで対応することを謳ったCD-Rドライブもあった。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "現在市販されている最大の音楽用コンパクトディスクは台湾とポーランドで販売された99Min 870 MBとドイツで販売された100Min 900 MBであるが、両方とも頒布国が限定されているうえドライブ未対応といった問題が残っており、普及率は低い。CDを焼くソフトウェアはすでに90Min 800MBへ対応している。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2020年代は、90分CDがほぼ商用面で実用化しており、DECCAやNAXOSに90分CDを使用したクラシック音楽のためのコンパクトディスクがある。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "音楽CD(CD-DA形式)の再生時のデータの転送速度は1倍速で約176 KB/s(150 KiB/s) であり、これを基準として最大記録時間は640 MiBのディスクで約72分強、650 MiBのディスクで約74分強、700 MiBのディスクで約80分強、最新の800 MiBのディスクで約90分強、非公式の900 MiBのディスクで約100分強、非公式の990 MiBのディスクで約110分強となる。この音楽CDの1倍速を基準として、ディスクのデータ転送速度を表すのに「○倍速」という言い方をする。",
"title": "仕様"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "当初から音声・映像記録媒体として開発された。物理フォーマットは先に決まっており、音声記録ディスクの論理仕様が先行して策定された。少し遅れてビデオ記録用としてCDビデオが策定されたが、普及しなかった。後にデータ記録用としてCD-ROM、ビデオ記録用としてビデオCDなどの論理仕様が策定された。これらと対比して音声記録ディスクをCD-DAという。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また音声とデータを両方収録できるようにしたCD EXTRAおよびミックスモードCD、CD-ROM XAがある。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "さらに記録にピットを用いずに、レーザーによる媒体の物理的変化を利用して同等なデジタルデータの書き込みを行う方式が開発された。CD-Rはエンドユーザがデータの追加記録ができる。また、記録してしまった領域を取り戻し、空き領域として記憶領域を再利用することができないCD-Rに対して、CD-RWはデータの消去を可能にし、書き換えができる。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "コンパクトディスクの仕様・規格は対象とする範囲や目的によって複数の規格に分かれており、各規格基準書の表紙の色によってそれぞれが呼び分けられている。これら全てを総称してレインボーブック(英語版)と呼ぶ。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1990年代後半からはCDよりも容量の大きいディスクが開発された。データ分野ではDDCD、オーディオ分野ではSuper Audio CDが実用化されたが、いずれもCDを代替するまでの普及には至っていない。これら光ディスクはいずれも直径12 cmでCDの大きさを踏襲している。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "以下の規格はいずれもCDとの互換はなく、再生には専用の光学ドライブおよびプレーヤーが必要である。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "発売当初は劣化しないと言われていた。実際には、保存方法が悪いとメディアが劣化を起こす。具体的には、基盤(樹脂層)のポリカーボネートの変化、蒸着した反射膜の変化、そしてCD-Rの場合には色素の変化が劣化の要因となる。いずれでも直射日光や高温・多湿を嫌う。",
"title": "寿命関連の課題"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "基盤(樹脂層)のポリカーボネートは湿気に晒されると加水分解し徐々に白濁する欠点がある。これにより情報を読み取るレーザーが通らなくなり、情報を読めなくなる。",
"title": "寿命関連の課題"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "なお、この性質を利用しあえて開封後数週間程度で白濁するように製造された媒体もある。これにより、音楽や映像のソフトウェアを再生できる日数を制限する。",
"title": "寿命関連の課題"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "温度や湿度変化の影響が比較的少ないガラス製のCDが開発・発売され、寿命の改善が期待されている。2008年には液晶パネル用のポリカーボネートを使用したスーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)とハイ・クオリティCD(HQCD)が開発・発売。さらにブルーレイディスクの技術を応用したブルースペックCDも開発・発売されている。",
"title": "寿命関連の課題"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "現在、スパッタリング法によってアルミニウムの反射膜を形成する方法が主流となっているが、アルミニウムを用いるCDは環境にもよるが、20年から30年が限度と見積られており、現在長期的な保存を可能とした製品の開発が急務となっている。その一方で、メーカー側などでは80年前後保存が可能とする指摘もある。なお反射膜に金を用いた場合、100年前後保存が可能と見積られているが、コストの問題など解決しなければならない課題がある。安価なものは印刷・反射層が端からはがれてきたり、水分が反射膜に浸透してアルミニウムが錆びてしまい反射の機能を失うなど、短寿命のものが多い。",
"title": "寿命関連の課題"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また記録層の部分は印刷面から10 μm (0.01 mm)、樹脂層から約1.2 mmの所にある。そのため、印刷面からの衝撃に弱く鉛筆やボールペンなど、フェルト以外の油性マーカーで記入を行うと記録層にダメージが加わり音飛びなどの症状が出ることもあり、最悪の場合読み込めなくなる可能性も考えられる。印刷層側に深い傷が入ったり湿度の高い場所に放置すると、反射層までがはがれることがある。",
"title": "寿命関連の課題"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "CD-Rでは記録面に直射日光を当て続けると色素が変化し読み込めなくなったり、質の悪い媒体の場合には蛍光灯に含まれる紫外線で変化するものもある。また高温・多湿の環境に置くと、ごく短時間でも印刷・反射層が端からはがれてくる事がある。",
"title": "寿命関連の課題"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "一部のマスメディアにおいて、コンパクトディスクを冷やすと音質が良くなると言われているが、CDに記録されている情報はデジタルであるため、ビットエラーがない限り記録内容が変質することはない。CDにおいて、ディスクの熱の影響により符号誤り率が増加することは考えにくいため、冷やしても音質には影響しない。もともと1993年にロンドンの新聞「サンデー・タイムズ」に紹介され、後に日本のテレビ番組にも紹介されそこから噂が広がってしまったのではないかとされている。",
"title": "都市伝説"
}
] | コンパクトディスクは、1970年代にソニーとフィリップスが共同開発し、1980年代初めに製品化された記憶媒体。金属の薄膜や有機色素材料をポリカーボネートやガラスなどの保護層で挟んだ光ディスクであり、レーザー光を使ってデータの読み出しや書き込みをする。もともとは、従来のレコードに代わり音楽を記録するための媒体として開発され、その後、コンピュータ用のデータを記録する派生規格も策定された。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{pathnav|メディア (媒体)|記録媒体|光ディスク|frame=1}}
{{Redirect|CD}}
{{Redirect|Compact Disc|「Compact Disc」と称するアルバム|Compact Disc (曖昧さ回避)}}
{{ディスクメディア
|名称=コンパクトディスク
|略称=Compact Disc, CD
|画像= {{ubl|[[ファイル:Compact Disc wordmark.svg|200px]]|[[File:CompactDisc.jpg|200px]]|[[File:8cm CD single jacket.jpg|200px|]]}}
|画像コメント={{ubl|上:コンパクトディスクのロゴ|中央:直径が12 cmのコンパクトディスク|下:直径が8 cmのコンパクトディスク}}
|種類=[[光ディスク]]
|容量=12 cmディスク<br />650 [[メガバイト|MB]]・700 MB・800 MB<br />[[8センチCD|8 cmディスク]]<br />155 MB・185 MB・210 MB・300 MB
|フォーマット=
|コーデック=
|読み込み速度=1.2 Mbps<br />(1411.2 kbps、1倍速)<br />最高72倍速
|書き込み速度=
|回転速度=
|読み取り方法=780 [[ナノメートル|nm]] 近赤外線レーザー
|書き込み方法=
|回転制御=
|策定=[[フィリップス]]、[[ソニー]]
|用途=音声、映像、データ(ゲームソフトを含む)
|ディスク径=12 [[センチメートル|cm]]、8 cm
|大きさ=120×120×1.2 [[ミリメートル|mm]]<br />80×80×1.2 mm
|重さ=
|上位=[[Super Audio CD]]<br />[[DVDオーディオ]]<br />[[DVD]]
<!--|下位=[[アナログレコード]]<br />[[コンパクトカセット]]-->
|関連=[[CD-DA]]<br />[[CD-V]]<br />[[CD-ROM]]<br />[[CD-R]]<br />[[CD-RW]]<br />[[Video CD]]<br />[[DDCD]]
}}
'''コンパクトディスク'''({{en|Compact Disc}}; '''CD'''、シーディー)は、[[1970年代]]に[[ソニー]]と[[フィリップス]]が共同開発し<ref name="IT_YOUGO_WAKARU">{{Cite Kotobank|word=CD |encyclopedia=IT用語がわかる辞典 |access-date=2023-07-29}}</ref><ref name="CD_history">{{Cite web|url=https://www.philips.com/a-w/research/technologies/cd/beginning.htm |title=The history of the CD - The beginning - Research |publisher=Philips |language=en |access-date=2023-07-29 |archiveurl=https://archive.is/OvAxQ |archive-date=2023-07-29}}</ref>、[[1980年代]]初めに製品化された[[記憶媒体]]<ref name="IT_YOUGO_WAKARU" />。金属の薄膜や[[色素#由来による分類|有機色素]]材料を[[ポリカーボネート]]や[[ガラス]]などの保護層で挟んだ[[光ディスク]]であり<ref name="IT_YOUGO_WAKARU" />、[[レーザー]]光を使って[[データ]]の読み出しや書き込みをする<ref name="IT_YOUGO_WAKARU" />。もともとは、従来の[[レコード]]に代わり音楽を記録するための媒体として開発され<ref name="IT_YOUGO_WAKARU" /><ref name="CD_history" />、その後、[[コンピュータ]]用のデータを記録する派生規格<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.m-chemical.co.jp/products/departments/group/mcmedia/product/1200159_7040.html |title =データ用CD |publisher =三菱ケミカル |accessdate =2019-01-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170913092332/https://www.m-chemical.co.jp/products/departments/group/mcmedia/product/1200159_7040.html |archivedate=2017-09-13}}</ref>も策定された。
== 概説 ==
光ディスクとしては最初の世代(第1世代光ディスク)に当たり、消費者向けの[[デジタル]]方式のオーディオ媒体としても最初のものである。
樹脂製の円盤に「[[ピット]]」と呼ばれる小さな[[凹凸]]が刻み込まれており、ディスクを回転させつつレーザー光を当てたときに、凹凸により[[反射]]率が異なることを利用して、データとして読み込む<ref name="ASCII">{{Cite Kotobank|word=CD |encyclopedia=ASCII デジタル用語辞典 |access-date=2023-07-29}}</ref>。[[直径]]が12 cmのものと8 cmのものがある<ref name="ASCII" />。
;音楽用
:もともとは音楽用に開発されたため、単に「CD」と言うと一般的に音楽用のCD([[CD-DA]])を指す<ref name="ASCII" />。音楽の最大収録時間は74分から80分である<ref name="IT_YOUGO_WAKARU" />。
:CDに記録された音楽を再生するための装置は[[CDプレーヤー]]といい、CDの開発とCDプレーヤーの開発は並行的に行われた。
:CDを用いた最初の商用音楽ソフトは1982年に発売され、1986年にはCDの音楽ソフトの年間販売枚数が約4500万枚となり、LPレコードの販売枚数を抜いた(→[[#歴史]])。
;コンピュータ用
:コンピューターなどで使用するデータ類を記録したものは[[CD-ROM]]と呼ばれる<ref name="ASCII" />。1985年から使われている。CD-ROMはユーザにとっては読み出し専用である。記憶容量は、直径12 cmのものであれば、640 [[MB]]から700 MBなどである<ref name="IT_YOUGO_WAKARU" />。CD-ROMからデータを読み出すための装置はCD-ROMドライブと言い、[[光学ドライブ]]の一種である。
:また、ユーザが情報を記録するための媒体として、1989年ころ{{Efn2|業務用では1991年{{R|Philips_cd-family}}}}に[[CD-R]](1回限りの記録用)が実用化され、1997年ころに<ref name=Philips_cd-family>{{Cite web|url=https://www.philips.com/a-w/research/technologies/cd/cd-family.htm |title=The history of the CD - The CD family - Research |publisher=Philips |language=en |access-date=2023-07-29 |archiveurl=https://archive.is/fj3Lw |archive-date=2023-07-29}}</ref>[[CD-RW]](繰り返し記録用)が実用化された。
== 歴史 ==
{{Main2|年表形式の記述|#年表}}
=== 前史 ===
1971年6月、ソニー創業者の[[井深大]]に誘われてソニーに入社した[[中島平太郎]]{{Sfn|森|2016|p=365}}{{Efn2|のちに「CDの父」と呼ばれる、デジタルオーディオ技術の草分け的人物}}は、1973年にデジタルオーディオの開発を始め、1974年にソニー初の[[PCM音源]]を用いた録音機である「X-12DTC」を開発した<ref name=SonyHistory_2-07>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-07.html |title=Sony History 第7章 デジタルをものにしてみせる |publisher=ソニー |accessdate=2023-07-27}}</ref>。1974年のオーディオフェアに参考出品し、評価してくれる専門家もいたが、発売には至らなかった{{R|SonyHistory_2-07}}。1976年にはデジタルオーディオの開発に加わった[[土井利忠 (技術者)|土井利忠]]らとともに、前年に発売された[[ベータマックス]]を用いたデジタル音声の記録・再生機器である「PCM-1」を開発した{{R|SonyHistory_2-07}}。
一方「PCM-1」の開発とは別に、ソニーはフィリップスが開発した光学方式のビデオディスク(のちの[[レーザーディスク]])の商品化に取り組んでおり、ディスクを使ったデジタルオーディオの録音・再生をする取り組みも始まっていた{{R|SonyHistory_2-07}}。土井は「PCM-1」の試作機を用いてビデオディスクにデジタル音声を記録してみるが、使用に堪えない結果となった{{R|SonyHistory_2-07}}。その結果「PCM-1」をビデオディスクのアダプターとすることは断念し、ベータマックス用のアダプターとしてオーディオフェアに出品すると、人だかりができるほど好評であり、「PCM-1」は1977年9月に商品化された{{R|SonyHistory_2-07}}。
{{Main2|PCM機器|PCMプロセッサー}}
また土井はディスクに関してはビデオ信号の形式を借りないで、デジタルオーディオ信号を直接光ディスクに記録することを決め、このころに[[誤り訂正符号]]を仕様に盛り込むことを決めた{{R|SonyHistory_2-07}}。こうして1977年のオーディオフェアに出品にすると、他社はビデオ信号を用いた形式を利用しているのにソニーだけは別方式をやっていると社内外から言われ、それに対して土井は「ビデオ信号で記録すると演奏時間は30分だけど、直接記録を使えば13時間20分記録できる」という内容の講演をするが、それを聞いた[[大賀典雄]]{{Efn2|当時ソニー副社長}}は「そんな長時間もの音楽の入ったソフトをつくるのは、コストがかかり過ぎてビジネスとして成り立たない」と苦言を呈した{{R|SonyHistory_2-07}}。
1978年6月、大賀はフィリップスを訪れると、フィリップスの幹部[[ルー・オッテンス]]は大賀にオーディオ専用の光ディスクを見せた。「オーディオ・ロング・プレイ」(ALP)とフィリップスでは呼ばれており、のちのレーザーディスクとなる光ディスクを開発している時に副産物として開発されたものだった<ref name=SonyHistory_2-08>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-08.html |title=Sony History 第8章 「レコードに代わるものはこれだ」 |publisher=ソニー |accessdate=2023-07-27}}</ref>。フィリップスからディスクの仕様を聞いた大賀は[[レコード]]からの置き換えができるものとの将来性を感じ、フィリップスと光ディスクの共同開発をすることを決断した{{R|SonyHistory_2-08}}。そしてデジタルオーディオディスクの規格統一の話し合いのために内外29社からなる「DAD(Digital Audio Disc)懇談会」に向けて両社で規格をまとめて提案することになった{{R|SonyHistory_2-08}}。
=== 開発経緯 ===
1979年8月末から共同開発が始まり、ソニー側の技術交渉に当たったのは技術研究所の中島、土井、ディスク開発部の宮岡千里{{Efn2|のちのソニー常務<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG11H90_R11C14A2CZ8000/ |title=宮岡千里氏が死去 元ソニー常務 |website=日経電子版 |publisher=日本経済新聞社 |date=2014-12-11 |accessdate=2023-07-27}}</ref>}}らだった{{R|SonyHistory_2-08}}。
仕様について特にフィリップスとの意見が対立したのが、量子化ビット数{{Efn2|アナログ信号をデジタル信号に変換する際、信号の振幅の大きさを何段階で表すかを示した値<ref>{{Cite Kotobank|word=量子化ビット数 |encyclopedia=デジタル大辞泉 |access-date=2023-07-26}}</ref>}}、ディスクのサイズ、記録時間だった{{R|SonyHistory_2-08}}。
量子化ビット数に関してはフィリップスは14ビットを主張したが、土井は21世紀になっても通用するためには16ビットが必要であると主張し、ソニー側の意見が採用された{{R|SonyHistory_2-08}}。
ディスクのサイズに関してはフィリップスは11.5 [[センチメートル|cm]]を主張したが、これは[[コンパクトカセット]]の対角線の長さと同じで、 [[ドイツ工業規格]]に適合し、ヨーロッパ市場でのカー・オーディオとしての将来性を見込んでのことだった{{R|SonyHistory_2-08}}。一方でソニーは12 cmを主張したが、これは音楽家でもある大賀が「[[オペラ]]一幕分、あるいは[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]]が収まる収録時間がユーザーから見て合理性がある」と判断したことによる{{R|SonyHistory_2-08}}。この大賀の発言の大きな要因となったのが、かつて「PCM-1」から流れる自身の演奏の音の良さを実感した{{Sfn|森|2016|p=369}}、指揮者の[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]である{{Sfn|森|2016|p=371}}。開発当時、大賀は親交のあったカラヤンに、11.5 cm(60分)と12 cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーヴェンの交響曲第9番が1枚に収まったほうがいい」と提言した{{Efn2|指揮者によって変わるが、カラヤンの「第九」は約63 – 69分であり、ほとんどのヒストリカル指揮者による演奏時間は60分を超えていた。結果的に74分(最大80分も可能)という収録時間は、[[1951年]]にライヴ録音された[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]指揮のいわゆる「バイロイトの第九」(演奏時間およそ74分32秒)や、それに匹敵する長さである[[カール・ベーム]]や[[レナード・バーンスタイン]]の演奏も、コンパクトディスク1枚に収めることが可能である。}}。それに対してフィリップスは「12 cmでは上着のポケットにも入らない」と反論したが、日・米・欧の上着のポケットのサイズを調べた結果、12 cmでも問題ないことが分かり、ソニーの主張が採用された{{R|SonyHistory_2-08}}。
こうして規格が定まった1980年6月、DAD懇談会ではソニー・フィリップスが提案した「光学式」、ドイツの[[テレフンケン]]提案の「機械式」、[[日本ビクター]]提案の「静電式」という3方式の評価が始まり、評価では光学式と静電式に集約された{{R|SonyHistory_2-08}}。ソニーはDAD懇談会への提案の一方でCD再生第1号機の商品化にも取り組み{{R|SonyHistory_2-08}}、1982年10月の商品化に向けて、大賀はCDを世界の標準規格にするため、フィリップスとともに世界中のソフトウェアメーカー、レコード会社、音楽団体の会合に出向き、内容の説明とCDの演奏を繰り返し行った<ref name=SonyHistory_2-09>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-09.html |title=Sony History 第9章 「石もて追われる大賀」 |publisher=ソニー |accessdate=2023-07-27}}</ref>。しかし「LPレコードが世界のスタンダードであり、その音に満足しているから余計なことをしないでくれ」とレコード関係者の反発は強かった{{R|SonyHistory_2-09}}。アメリカCBSとの合弁会社CBS・ソニーレコード(現・[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])の幹部もCDの生産に否定的であったが、大賀が説得した結果、CBS・ソニー単独資金で静岡の大井川にCDソフト工場を建設する許可を得た{{R|SonyHistory_2-09}}。
生産を始めるとCDの反りの問題が浮上したが、当時新素材であった[[ポリカーボネート]]の使用を1982年8月に決定し、CD発売開始半年前の同年9月半ばにプレス生産が軌道に乗った{{R|SonyHistory_2-09}}。
=== 黎明期 ===
1982年8月31日、ソニー、CBS・ソニー、フィリップス、[[ポリグラム]]{{Efn2|レコード会社}}の4社共同のCDシステム発表会が東京大手町の[[経団連会館]]で開かれ、当日の夕方から夜のテレビニュースと翌日の朝刊で一斉に報じられた{{R|SonyHistory_2-09}}。
同年10月1日、ソニーからは再生第1号機「CDP-101」およびCBS・ソニーからは世界初のCDソフト50タイトルが発売され、CDソフトの生産第1号は[[ビリー・ジョエル]]の「[[ニューヨーク52番街]]」となった{{R|SonyHistory_2-09}}。50タイトルの内訳はクラシックだけでなく、ポップスやロック、歌謡曲まで揃っており、その後年末までに100タイトル余りのソフトが発売された{{R|SonyHistory_2-09}}。
こうして1980年6月のDAD懇談会では日本ビクターの静電式も評価として残されていたが、CDが発売されたころには、ほとんどの会社がソニー・フィリップスによるCDシステムの採用を発表し、CDが事実上の世界統一規格となった{{R|SonyHistory_2-09}}。
1983年に入ると、他社からも次々にCDプレーヤーが発売され、CDソフトも同年末には約1000タイトルが店頭に並んだ{{R|SonyHistory_2-09}}。1984年11月になるとソニーは「CDP-101」の機能と変わらないまま本体サイズをCDジャケット4枚分の厚さにし、価格も49,800円に抑えたポータブルCDプレーヤー「D-50」を発売、これにより各社のCDプレーヤーの価格も下がり、業界全体のCDビジネスも本格的に立ち上がっていった{{R|SonyHistory_2-09}}。
=== 普及期 ===
デジタル音声に関しては当初、特にアナログオーディオ技術を駆使する録音スタジオのエンジニアたちによって、「アナログタイプの機器より1けた高い」「音質が硬く、音楽的でない」と評価された<ref name=SonyHistory_2-10>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-10.html |title=Sony History 第10章 スタジオ録音もデジタルに |publisher=ソニー |accessdate=2023-07-27}}</ref>。その中でもアメリカのボーカリストの[[スティービー・ワンダー]]やジャズピアニストの[[ハービー・ハンコック]]などがデジタル音声を支持したことで、否定的だったミュージシャンらもデジタルオーディオに肯定的になっていった{{R|SonyHistory_2-10}}。そうしてクラシックの新譜はほとんどすべてがデジタル化され、マルチトラック録音が必要なポピュラー音楽も、次々とデジタル録音されるようになった{{R|SonyHistory_2-10}}。
CDソフトの日本国内生産枚数も1984年末頃は、 LPレコードと比べて10分の1程度の生産枚数だったが、2年後の1986年には年間4500万枚に達して、LPレコードを逆転した{{R|SonyHistory_2-10}}。そして1988年前後には、LPレコード最盛期の生産量の1億枚を超し、1992年には3億枚を突破した{{R|SonyHistory_2-10}}。中島はCDの生産枚数は「1989年ごろにLPレコードを追い越して、将来的には2億枚ぐらいにはなるだろう」と予測していたが、想定よりも早く、かつ想定以上の生産枚数に達する結果となった{{R|SonyHistory_2-10}}。
その後CDには音声・映像・文字用の「[[CD-ROM]]」(1985年規格化)、映像・音声両用の「[[ビデオCD]]」(1993年規格化)など、様々な規格が策定され「CDファミリー」を形成していった{{R|SonyHistory_2-10}}。
1990年代後半にCDと同じサイズでCDより高音質の[[Super Audio CD]]や[[DVD-Audio]]などの次世代オーディオメディアが登場したが、CDを置き換えるには至らなかった。
=== 衰退期 ===
2000年代以降は[[インターネット]]による[[音楽配信]]や[[ストリーミング]]配信が増加し、2010年代以降は[[ハイレゾリューションオーディオ|ハイレゾ]]など配信データの高音質化やレコードの再評価により、音楽媒体としてのCDの売上は減少傾向となった。
{{See also|CD不況}}
またデータ用としても[[DVD]]や[[Blu-ray]]などの次世代規格のメディアやインターネットなどによるデータ通信が台頭したことから下火となった。
2022年、アメリカでは1987年以来初めてレコードに売上枚数で抜かれた<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2023031200325&g=int 米でレコードがCDに勝利 売上枚数で1987年以来:時事ドットコム]</ref>。
== 仕様 ==
=== サイズ ===
コンパクトディスクの外形は一般的には、直径12 cmまたは[[8センチCD|8 cm]]で厚さ1.2 mmの円盤であり、中央に直径15mmの穴が空いている。
ただし一部には、通称で「名刺型CD」や「カード型CD」と呼ばれる、8 cm CDを長方形に切り取り周囲をコーティングしたものがある。同様の形状で書き込み可能な[[CD-R]]も市販されていたが、書き込み可能な面積が小さいので、通常の8 cm CD-Rよりも容量が小さい。また長方形型以外にも特殊な形状のものもある{{Efn2|[[ドリームキャスト]]版『[[GUILTY GEAR X]]』特典CDは盤面の絵柄によって形状が異なり、[[セガサターン]]用初回限定版『[[リフレインラブ|リフレインラブ ~あなたに逢いたい~]]』特典CDはハート型CDである。}}。
=== 構造と材質 ===
<!--[[ファイル:CompactDiscDraw1.png|thumb|300px|説明図]]-->
[[File:CD layers.svg|thumb|200px|left|4層構造。{{ubl|A:基盤(樹脂層)|B:反射層(記録層)|C:ラッカー層(保護層)|D:印刷層|E:[[CDプレーヤー]]や[[光学ドライブ]]のピックアップ}}]]
[[File:CD_Pits_at_6.25x_Magnification.jpg|thumb|200px|記録層表面の微細なピットとランドの顕微鏡写真(CD-ROMのもの)]]
[[ファイル:Compact disk data layer 2d 3d.PNG|thumb|200px|記録層表面のトラックやピット]]
下から順に、基盤(樹脂層)、反射層(記録層)、ラッカー層(保護層)、印刷層の4層構造になっている<ref name="富士通_CDメディアの構造">{{Cite web|和書|url=https://jp.fujitsu.com/family/familyroom/syuppan/family/webs/serial-comp2/index10.html |title=コンピュータ講座 応用編 第10回 |publisher=富士通 |access-date=2023-09-10}}</ref>。
一番下の基盤(樹脂層)の一般的な材質は[[ポリカーボネート]]であり、厚さは1.1 mm{{R|富士通_CDメディアの構造}}。ほかに[[APO]]([[アモルファス|非晶質]][[ポリオレフィン]])や[[ガラス]]を使用したものもある。
反射層(記録層)は一般的には厚さ約80 nmの[[アルミニウム]]蒸着膜であるが、劣化防止などのためにアルミニウムのかわりに[[金]]を使用したものもあり、これは「[[GOLD CD|ゴールドディスク]]」と呼ばれる。
蒸着膜によって彫られた細かい凹凸によってデジタル情報を表現している。この読み取り面から見れば出っ張りになるくぼみをピットといい、ピットのない部分をランドという{{R|富士通_CDメディアの構造}}。
[[ファイル:Interference-colors.jpg|thumb|200px|left|干渉による色の変化]]
読み取りには780 nmの[[半導体レーザー|赤外線レーザー]]が用いられ、ランドの部分に当ったレーザー光は反射してそのまま戻ってくるが、ピットがある部分に当ったレーザー光はランドからの反射波と1/2波長の[[位相]]差をもつため[[干渉 (物理学)|干渉]]して打ち消しあい暗くなる。この明暗により[[デジタル信号]]を読み取り、これをアナログ信号に戻して音声として出力する。CDの[[スペクトル|虹色]]のような光沢は、この規則正しく並んだトラックで[[回折]]した光が、[[干渉 (物理学)|干渉]]することによる[[構造色]]である。
ピットの幅は0.5 µmで長さは0.83 µmから0.3 µm単位で3.56 µmまで9種類、ピットから次のピットまでの距離も同じ9種類である。またピットの列をトラックというが、このトラックは1.6 µm間隔で、内側から外側に向かって渦巻状に並んでいる。
ラッカー層(保護層)は厚さが約10 [[マイクロメートル|µm]]である。
印刷層は[[シルクスクリーン|シルク印刷]]である{{R|富士通_CDメディアの構造}}。レーベルのデザインによるが、2012年現在では反射層と印刷層が穴の部分まで拡大されたものが主流となっている。
=== 記録 ===
コンパクトディスクはセッション単位で記録され、セッションはリードイン、データ、リードアウトの3つの領域で構成される{{R|富士通_CDメディアの構造}}。CD-DAのセッションは1つであるが、CD-EXTRAはマルチセッションを採用している{{R|富士通_CDメディアの構造}}。
データ領域には1から99までのトラックを記録でき、トラックは複数の[[ディスクセクタ|セクタ]]で構成される{{R|富士通_CDメディアの構造}}。1セクタは1/75秒(約13.33ミリ秒)であり、1セクタあたりのデータは2,352バイト(24バイト×98フレーム)である{{R|富士通_CDメディアの構造}}。
フレームがデータの最小単位であり、1フレームは24バイトである{{R|富士通_CDメディアの構造}}。24バイトの内訳は[[ビット深度 (音響機器)|ビット深度]]が16 bit、チャンネル数が2.0 ch、サンプリングデータが6であることから、16×2×6で192ビットである{{R|富士通_CDメディアの構造}}。
コンパクトディスクは[[誤り訂正]]として[[CIRC]]{{Efn2|短いバーストエラーからの誤り訂正を行う符号として「[[リード・ソロモン符号]]」を提案したのは、フィリップスのCD開発チーム責任者である。}}が使用されるため、訂正用に8バイト、サブコード用に1バイトが付与されて、24+8+1で合計33バイトになる{{R|富士通_CDメディアの構造}}。さらにデータをピット列として記録するには[[Eight-to-fourteen modulation|EFM]]という変調方式が用いられるため、8ビットが14ビットに変換されることで、33×14で462ビットになる{{R|富士通_CDメディアの構造}}。
加えて、変換されたデータにはマージンビットと同期信号が付与される{{R|富士通_CDメディアの構造}}。マージンビットは3ビットであり、変換されたデータごとに付くため、33×(14+3)で561ビットとなる。そして同期信号は24ビットで同期信号にもマージンビットが付くため、最終的に1フレームは561+24+3で588ビットとなる{{R|富士通_CDメディアの構造}}。
=== 容量 ===
CD-ROMの場合、12 cmディスクは約650から700 [[メビバイト|MiB]]の容量を持つ。800 MiBを超える容量のものもあるが、一部の機器では読み取れない場合がある。8 cmディスクは約155から300 MiBの容量を持つ。
セクタ数は12 cmディスクの650 MiBでは約333,000セクタ、700 MiBでは約360,000セクタになる。1セクタは2,352バイトで、1セクタあたりのデータ容量はCD-ROM MODE1およびMODE2/FORM1で2,048バイト、MODE2で2,336バイト、MODE2/FORM2で2,324バイト、CD-DAで2,352バイトである。CD-ROMはCD-DAよりも規格が後に作成され、その際にエラー訂正がより重視されたため、2,352バイトのうち304バイトをヘッダやエラー訂正などに割り当てていることからCD-DAより容量が少なくなる。これに加えて、以下のPからWまでのサブチャンネルが1セクタあたり96バイト{{Efn2|PからWに12バイトずつ割り当てられる。なお先頭の同期信号を含めれば98バイト。}}存在するので、1セクタ当たり2,448バイトとなる<ref>{{Cite web|url=https://www.ecma-international.org/publications-and-standards/standards/ecma-130/ |title=ECMA-130 Data interchange on read-only 120 mm optical data disks (CD-ROM) 2nd edition |language=en |publisher=Ecma International |year=1996 |accessdate=2022-02-20}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.cdfs.com/cdfs-subcode-channels.html |title=What about subcode (P, Q, R, S, T, U, V, W) channels? |language=en |website=CDFS.com |accessdate=2022-02-20}}</ref>。
; Pチャンネル
: 各トラックの開始点情報
; Qチャンネル
: [[国際標準レコーディングコード|ISRC]]コードやMCN(メディアカタログ番号)、アドレス情報
; R-Wチャンネル
: [[CD-TEXT]]や[[CD+G]]で使用
容量は以下の計算式によって求められる。
# CD-DAでは音楽データを[[サンプリング周波数]]44.1 kHz、ビット深度16 bit、チャンネル数2.0 ch[[ステレオ]]で記録している。つまり1秒分の音楽データを44,100回に分割し、1回あたり16 bitを費やして記録している。このため、1秒あたりのデータ量は44,100×16×2÷8=176,400バイト(1バイト=8 bit)である。
# これが74分だと176,400×60秒×74分=783,216,000バイトとなり、これは約747 MiBとなる。全領域に音楽データだけを記録するならこれだけの記録が可能だが、CD-ROMのMODE1およびMODE2/FORM1の場合はエラー訂正用データなどが入るため、使用できる容量は783,216,000÷2,352×2,048=681,984,000バイトとなり、これが約650 MiBとなる。
# 80分ディスクも同様の計算でCD-DAのみの場合は846,720,000バイトで約807 MiB、CD-ROMのMODE1およびMODE2/FORM1の場合は737,280,000バイトで約703 MiBとなる。
==== 最大収録時間 ====
CD-DAでの収録時間は12 cmディスクでは約74分から80分である。具体的には、規格上デジタルの[[PCM]]形式で最大79分57秒、99[[トラック (記録媒体)|トラック]]の[[音楽]]が記録でき、また1トラック中には99インデックス(位置決め標識)を設けることができる。[[2000年]]頃までのプレーヤーは、インデックスサーチできるものが多数存在した。
記録トラックの幅を狭めれば容量は増やせるが、古い音楽CDプレーヤーには稀に74分記録されたCD-Rは再生できても80分以上は再生できないという互換性の問題が存在する。[[2003年]]に策定されたガイドライン''High Capacity Recordable Disc 1.0''に対応していないCDプレーヤーでは長時間CDは再生できない。[[MP3]]ファイルをデータとして書き込んだ場合、最大収録時間はファイルのサイズにもよるが概ね8時間前後となる。ただし、対応機器は限られる。
8 cmCD([[シングル|CD SINGLE]])の最大収録時間は約22分程度。これは、[[CDビデオ]]のオーディオパートとビデオパートを分けそれぞれ開発した際に由来する。{{要出典範囲|8 cmというサイズはケースに収納したとき[[レコード]]の[[シングル盤]]ケースのちょうど半分のサイズとなるため、小売店でレコード用の棚を使いまわせるだろうと考えたためである|date=2023年9月}}。
現在の収録時間最長の音楽CDは、[[マーキュリー・レコード|マーキュリー・レーベル]]にザンクト・フローリアン・アルトモンテ管弦楽団/レミ・バロー(指揮)が録音した[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]:交響曲第3番 (GRML99044)の89分03秒である。''Eight-to-fourteen modulation''が定めた<ref>Tim Buthe and Walter Mattli, The New Global Rulers: The Privatization of Regulation in the World Economy, Princeton University Press, Feb. 2011.</ref>規格上は97分{{Efn2|文献によっては97分26秒と秒数を指示しているものもあるが、ドライブ側は97分33秒までゆとりをもたせてあることも少なくない。よって、''Eight-to-fourteen modulation''が定めたオレンジブックに準拠した最大収録時間は96分59秒になる。}}<ref>{{Cite web |url = https://www.researchgate.net/publication/322951358_Shannon_Beethoven_and_the_Compact_Disc|title = Beethoven_and_the_Compact_Disc|website = www.researchgate.net|publisher = www.researchgate.net|date = |accessdate = 2022-06-03}}</ref>まで可能であるが、YAMAHAほかのメーカーのドライブはすでに99分59秒まで対応し、100分収録を謳うCD-R商品もすでに発売されている<ref>[https://archive.is/ty83d 外部リンク] webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、21 Feb 2017 05:35:09 UTC閲覧。</ref><ref>[https://archive.is/t0lVc 外部リンク] webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、21 Feb 2017 05:37:08 UTC閲覧。</ref>。[[2019年]]現在までに990 MBのCD-Rまで開発されたので理論上は110分強がコンパクトディスクの最大収容量になるが、商用録音でこの収録時間はまだ出ていない。一時期にはソフトウェアにオーバーバーンモードまで設け、990 MBまで対応することを謳ったCD-Rドライブもあった。
現在市販されている最大の音楽用コンパクトディスクは台湾とポーランドで販売された99Min 870 MB<ref>{{Cite web |url =https://archive.is/xAWT4 |title =Banana disc large capacity 870 MB 99 min cd-r |publisher =web.archive.org |date = |accessdate =2019-01-25 }}</ref><ref>{{Cite web |url =https://web.archive.org/web/20080314172129/http://www.cdsklep.pl:80/cdr99min.htm |title =Esperanza CD-R 870MB/99min |publisher =www.cdsklep.pl |date = |accessdate =2019-01-25 }}</ref>とドイツで販売された100Min 900 MB<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20191204115245/https://www.media-range.com/en/products/cd_dvd_bluray/cd/cd_r_100/index.pmode/modul,detail,35/index.pmode|title = CD-R 900MB 100min 48x speed, inkjet fullsurface printable, Cake 25 |publisher = www.media-range.com |date = |accessdate = 2019-12-03}}</ref>であるが、両方とも頒布国が限定されているうえドライブ未対応といった問題が残っており、普及率は低い。CDを焼くソフトウェアはすでに90Min 800MBへ対応している。
2020年代は、90分CDがほぼ商用面で実用化しており、DECCA<ref>{{Cite web |url = https://www.prestomusic.com/classical/products/8120938--field-nocturnes-nos-1-18|title = Field: Nocturnes Nos. 1-18|website = www.prestomusic.com|publisher = www.prestomusic.com|date = |accessdate = 2021-01-26}}</ref>やNAXOS<ref>{{Cite web |url = https://www.naxos.com/catalogue/item.asp?item_code=8.574216|title = RUBINSTEIN, Anton: Bal (Le) (Warren Lee)|website = www.naxos.com|publisher = www.naxos.com|date = |accessdate = 2021-01-15}}</ref>に90分CDを使用したクラシック音楽のためのコンパクトディスクがある。
=== 転送速度 ===
音楽CD(CD-DA形式)の再生時のデータの転送速度は1倍速で約176 KB/s(150 KiB/s) であり、これを基準として最大記録時間は640 MiBのディスクで約72分強、650 MiBのディスクで約74分強、700 MiBのディスクで約80分強、最新の800 MiBのディスクで約90分強<ref>{{Cite web |url =https://web.archive.org/web/20161117021042/http://www.divxland.org/en/guide/33/800_mb_xcd_guide |title =800 MB XCD Guide |publisher =www.divxland.org |date = |accessdate =2019-01-30 }}</ref>、非公式の900 MiBのディスクで約100分強、非公式の990 MiBのディスクで約110分強となる。この音楽CDの1倍速を基準として、ディスクのデータ転送速度を表すのに「○倍速」という言い方をする。
== 規格 ==
当初から音声・映像記録媒体として開発された。物理フォーマットは先に決まっており、音声記録ディスクの論理仕様が先行して策定された。少し遅れて[[映像信号|ビデオ]]記録用として[[CDビデオ]]が策定されたが、普及しなかった。後にデータ記録用として[[CD-ROM]]、[[映像信号|ビデオ]]記録用として[[ビデオCD]]などの論理仕様が策定された。これらと対比して音声記録ディスクを[[CD-DA]]という。
また音声とデータを両方収録できるようにした[[CD EXTRA]]および[[CD EXTRA#ミックスモードCD|ミックスモードCD]]、[[CD-ROM XA]]がある。
さらに記録にピットを用いずに、レーザーによる媒体の物理的変化を利用して同等なデジタルデータの書き込みを行う方式が開発された。[[CD-R]]はエンドユーザがデータの追加記録ができる。また、記録してしまった領域を取り戻し、空き領域として記憶領域を再利用することができないCD-Rに対して、[[CD-RW]]はデータの消去を可能にし、書き換えができる。
コンパクトディスクの仕様・規格は対象とする範囲や目的によって複数の規格に分かれており、各規格基準書の表紙の色によってそれぞれが呼び分けられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cds21solutions.org/osj/j/record/malti.html |title=CDファミリーの系譜 |work=マルチセッションとTAO |publisher=CDs21ソリューションズ |accessdate=2022-02-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230731062034/http://www.cds21solutions.org/osj/j/record/malti.html |archivedate=2023-07-31}}</ref>。これら全てを総称して{{仮リンク|レインボーブック|en|Rainbow Books}}と呼ぶ。
; レッドブック
: CD-DA, CDビデオ, [[CD+G]], [[CD+G#Compact Disc + Extended Graphics|CD+EG]], [[CD-MIDI]], [[CD-TEXT]]
: 物理仕様を規定。音楽用CDであるが、アナログ映像を格納でき、また音楽データを格納しないサブチャンネル領域に画像や文字データも格納できる。
; イエローブック
: CD-ROM
: 主にコンピュータ・データ用のCD
; グリーンブック
: [[CD-i]]
: 家庭用マルチメディア媒体
; イエローブックMode2
: CD-ROM XA
: CD-ROMをマルチメディアデータにより特化したCD
; ブルーブック
: CD EXTRA
: CD-DA(音楽)とデータを共存させているマルチセッションCD
; ホワイトブック
: ビデオCD
: CD-ROMに動画や音声などを記録
; ベージュブック
: [[フォトCD]]
: [[コダック]]独自の符号化方式でデジタル化された画像のCD
; オレンジブック
: CD-WO, CD-MO, CD-R, CD-RW
: 記録型CD
=== 後継規格 ===
1990年代後半からはCDよりも容量の大きいディスクが開発された。データ分野では[[DDCD]]、オーディオ分野では[[Super Audio CD]]が実用化されたが、いずれもCDを代替するまでの普及には至っていない。これら光ディスクはいずれも直径12 cmでCDの大きさを踏襲している。
以下の規格はいずれもCDとの互換はなく、再生には専用の光学ドライブおよびプレーヤーが必要である。
; パープルブック
: [[DDCD]]
: 一般的なCDの2倍に当たる1.3GBの容量を持つディスク
; スカーレットブック
: Super Audio CD(SACD)
: CDの技術を踏まえて音質の向上、[[著作権]]管理機能が強化されたディスク。「次世代CD」と呼ばれることがある<ref>{{Cite web|和書|author=四本淑三 |url=https://tower.jp/article/series/2003/05/01/100044218 |title=第7回 ─ 次世代CD、SACDって従来のCDとどう違うの? |publisher=TOWER RECORDS |date=2003-05-01 |accessdate=2022-02-20}}</ref>。
=== 関連規格 ===
; [[コピーコントロールCD]](CCCD)
: 特定規格の名ではなく、同様の特徴を持つディスクの総称である。無保証ながらも通常のCDプレーヤーで再生できることが多いため、流通などではしばしばCDとして扱われた。
; [[DualDisc]]
: 片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面の再生専用ディスクで、2004年に[[アメリカ合衆国|米国]]の大手レコード会社が発売した(DVDフォーラムが定めた規格ではない)<ref name="AVWatch20040826">{{Cite web |title=片面CD/片面DVDの両面ディスク“DualDisc”発表 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040826/dualdisc.htm |website=AV Watch|publisher=インプレス|access-date=2023-11-19|date=2004年8月26日}}</ref>。CD面は正式な音楽CD規格(レッドブック)に準拠していないためCDロゴは付いておらず、メーカーは「音楽専用面」「非DVD面」など遠回しな呼び方をしている<ref name="CDJournal20051222">{{Cite web |title=DualDiscについて詳しく教えて!|url=https://www.cdjournal.com/main/research/-/1898 |website= CDJournal リサーチ |access-date=2023-11-19 |date=2005/12/22}}</ref>。一部機器では正常に再生できないなどの問題が生じている<ref name="CDJournal20051222"/>。
== 寿命関連の課題 ==
発売当初は劣化しないと言われていた<ref>{{Cite web|和書|author=岩見旦 |date=2019-02-23 |url=https://finders.me/articles.php?id=740 |title=ケースから取り出したらCDが劣化し白濁。30年前のCDが寿命を迎えているかもしれない件 |publisher=CNS MEDIA |accessdate=2022-01-04 }}</ref>。実際には<!--記録したデータは劣化しないが-->、保存方法が悪いとメディアが劣化を起こす。具体的には、基盤(樹脂層)のポリカーボネートの変化、蒸着した反射膜の変化、そしてCD-Rの場合には色素の変化が劣化の要因となる。いずれでも直射[[日光]]や高温・多湿を嫌う。
=== 基盤 ===
基盤(樹脂層)の[[ポリカーボネート]]は[[湿気]]に晒されると[[加水分解]]し徐々に白濁する欠点がある。これにより情報を読み取るレーザーが通らなくなり、情報を読めなくなる。
なお、この性質を利用しあえて開封後数週間程度で白濁するように製造された媒体もある。これにより、音楽や映像のソフトウェアを再生できる日数を制限する。
温度や湿度変化の影響が比較的少ない[[ガラスCD|ガラス製のCD]]が開発・発売され、寿命の改善が期待されている。[[2008年]]には液晶パネル用のポリカーボネートを使用した[[スーパー・ハイ・マテリアルCD]](SHM-CD)と[[ハイ・クオリティCD]](HQCD)が開発・発売。さらにブルーレイディスクの技術を応用した[[ブルースペックCD]]も開発・発売されている。
=== 反射膜 ===
現在、[[スパッタリング]]法によって[[アルミニウム]]の反射膜を形成する方法が主流となっているが、アルミニウムを用いるCDは環境にもよるが、20年から30年が限度と見積られており、現在長期的な保存を可能とした製品の開発が急務となっている。その一方で、メーカー側などでは80年前後保存が可能とする指摘もある<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/rensai/cul/026.html 気になるCDの寿命] - [[神戸新聞社]]</ref>。なお反射膜に[[金]]を用いた場合、100年前後保存が可能と見積られているが、コストの問題など解決しなければならない課題がある。安価なものは印刷・反射層が端からはがれてきたり、水分が反射膜に浸透してアルミニウムが錆びてしまい反射の機能を失うなど、短寿命のものが多い。
また記録層の部分は印刷面から10 µm (0.01 mm)、樹脂層から約1.2 mmの所にある{{Efn2|参考までに[[DVD]]の記録層は印刷面からも樹脂層からも0.6 mm、[[Blu-ray Disc]]では印刷面から1.1 mm、樹脂層から0.1 mmである。}}。そのため、印刷面からの衝撃に弱く鉛筆やボールペンなど、フェルト以外の油性マーカーで記入を行うと記録層にダメージが加わり音飛びなどの症状が出ることもあり、最悪の場合読み込めなくなる可能性も考えられる。印刷層側に深い傷が入ったり湿度の高い場所に放置すると、<!--記録層をのぞき-->反射層までがはがれることがある。
=== 色素 ===
CD-Rでは記録面に直射日光を当て続けると色素が変化し読み込めなくなったり、質の悪い媒体の場合には蛍光灯に含まれる紫外線で変化するものもある。また高温・多湿の環境に置くと、ごく短時間でも印刷・反射層が端からはがれてくる事がある。
== 都市伝説 ==
一部の[[マスメディア]]において、コンパクトディスクを冷やすと音質が良くなる<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.hifido.co.jp/merumaga/akiba/170106/index.html|title = ●CDを冷凍すると音質が良くなる?|website = www.hifido.co.jp|publisher = www.hifido.co.jp|date = |accessdate = 2022-06-03}}</ref>と言われているが、CDに記録されている情報は[[デジタル]]であるため、[[符号誤り|ビットエラー]]がない限り記録内容が変質することはない。CDにおいて、ディスクの熱の影響により[[符号誤り率]]が増加することは考えにくいため、冷やしても音質には影響しない。もともと1993年にロンドンの新聞「サンデー・タイムズ」に紹介され、後に日本のテレビ番組にも紹介されそこから噂が広がってしまったのではないかとされている。
== 年表 ==
{{See also|CDプレーヤー#歴史}}
* [[1965年]]、アメリカの発明家ジェームス・ラッセルが音楽用光学メディア・テクノロジーを発明。
* [[1970年代]]前半、[[フィリップス]]と[[ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ|MCA]]が[[レーザーディスク]]を開発。
* [[1975年]]、[[ソニー]]が光ディスクの開発を開始。
* [[1977年]]、フィリップスがCDの開発を開始。[[ソニー]]がオーディオフェアでの光デジタルオーディオディスクを実証。
* [[1979年]]、フィリップスがCDプロトタイプを示し、ソニーと共同開発を開始。
* [[1981年]]、ドイツでテストCDが製造。
* [[1982年]]
** [[8月17日]]、当時の西ドイツのハノーファー(ハノーバー)のランゲンハーゲンにある[[ポリグラム]]の工場で、世界で初めて音楽CDの生産が開始。(追って当時のCBSソニー、日本コロムビアが続く)<ref name=CDsoft>*[http://audiof.zouri.jp/y-cd-07.htm ポリグラム 最初のCD(初期・西独盤)(B級オーディオ・ファンのサイト内)]</ref>
** 10月1日、[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]・[[エピックレコードジャパン|EPIC・ソニー]]・[[日本コロムビア]]から、'''世界初の音楽CD'''が発売された。初回発売は、CBS・ソニー、EPIC・ソニーが合わせて約50タイトル、日本コロムビアが10タイトルだった。このうち最初に生産が行われたのは[[ビリー・ジョエル]]の『[[ニューヨーク52番街]]』(CBS・ソニー/35DP-1)<ref>[https://web.archive.org/web/20070305193627/http://www.sony.net/Fun/SH/1-20/h5.html Sony Global -Sony History-] - アーカイブ</ref>。
** [[10月15日]]、欧州で初めて、ポリグラム製の音楽CDが発売された。日本でも輸入販売され、ポリドールと日本フォノグラムから、欧州から5日遅れで同時に発売された<ref name=CDsoft />。
* [[1983年]]、[[アメリカ合衆国|米国]]およびその他の市場でも販売が開始された。
* [[1986年]]、販売枚数ベースでCDが[[レコード|LP]]を追い抜いた。これは、レコード会社が親会社であるオーディオメーカーに配慮してレコード生産を縮小したことも影響している。
* 同年末、CD発売当初から当時のデジタル録音の音質に疑問を持っていた[[キングレコード]]は、CD化の流れに反し、高音質重量盤仕様のアナログLPレコード「ザ・スーパー・アナログ・ディスク」を発売。マスターテープはすべてアナログ録音のものが使われ、マスタリング・カッティング工程でデジタル処理を介在させないことを特徴とした。[[デッカ・レコード]]の旧譜の再カッティングが主体だったが、自社製作音源では、CDではデジタル録音のマスターを、「ザ・スーパー・アナログ・ディスク」では同時に録音されたアナログマスターを使ったものもあった。これが「CDより音質が良い」と反響を受けてシリーズ化された。
* [[1987年]] 日本のウルテック社が開発した、反射膜に24Kの[[純金]]を使用した「[[GOLD CD]](24K純金CD)」が、{{lang|en|Mobile Fidelity Sound Lab}}、日本コロムビア等から発売された。他社もそれに追随したが、[[1995年]]に[[日本ビクター]]が発表した高音質仕様CD「[[Extended Resolution Compact Disc|XRCD]]」が登場してからはあまり発売されなくなった。
* [[1989年]]以降、CDは定価を次々と下げ低価格化が進み、[[規格品番]]に定価を思わせる数字を表記しなくなる。
* [[1990年代]]前半にかけ、[[LPレコード|LP]]は一般的には生産されなくなっていく。
* 1990年代中期頃からは、キングレコードの高音質[[アナログレコード]]のシリーズ化も影響し、[[欧米]]で[[ステレオ]]初期の米RCAビクターや英デッカを始めとするオリジナルの高音質復刻盤が続々と発売。また[[ディスコ|クラブ音楽]]の世界的流行もあり、アナログレコードが見直されて再燃する。
* [[2000年代]]に入り、[[音楽配信|音楽配信サービス]]の普及により、世界的にCDの売上が減少傾向となる([[CD不況]])。
* [[2006年]]、[[ガラス]]基板を用いた[[ガラスCD]]が発売。音質向上を謳う一方で、コスト上昇やプレーヤーの互換性について欠点も挙げられる。
* [[2008年]]、CDの基盤(樹脂層)に液晶パネル用の[[ポリカーボネート]]を採用した[[スーパー・ハイ・マテリアルCD]](SHM-CD)が登場。それが一定の評価を得たことを受け、追随する形で[[ハイ・クオリティCD]]と[[ブルースペックCD]]が同年に販売された。
* [[2010年]]以降、アナログレコードの再評価により、欧米だけでなく[[日本]]国内でもアナログ盤が再生産されるケースが増える。
* [[2014年]]、[[IFPI|国際レコード産業連盟]](IFPI)の調査で、全世界でのCD、レコードなどのパッケージ売上高が音楽配信の売上高を下回る<ref>{{Cite web|和書|title=音楽配信の世界売上高、昨年CD上回る|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKASGM15H4T_V10C15A4EA2000/|website=日本経済新聞|date=2015-04-16|accessdate=2021-07-29}}</ref>。
* [[2020年]]上半期の[[米国]]では、CDの売上がレコードの売上を下回る<ref>{{Cite news | title = 2020年1~6月の米レコード販売、CDを逆転 1980年来初 | newspaper = [[日本経済新聞]] | date = 2020-9-15 | accessdate = 2021-2-26 | url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63841280V10C20A9000000/}}</ref>。一方、[[2021年]]の米国では、[[2004年]]以来17年ぶりにCDの売り上げが上昇した。これは[[アデルの作品#スタジオ・アルバム|アデル「30」]]が大きく貢献していると見られる<ref>{{Cite web|和書|title=CD売上げがなんと17年振りに上昇。アデル、BTS、テイラー・スウィフトのおかげ。アナログ盤は50.4%も上昇。アメリカ人がフィジカルに戻ったのか? 懐古主義に?? TikTokは?2021年アメリカはどう音楽を買い聴いたのか。統計発表。 (中村明美の「ニューヨーク通信」)-rockinon.com|https://rockinon.com/blog/nakamura/201318 |url=https://rockinon.com/blog/nakamura/201318 |website=rockinon.com |access-date=2022-07-15 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* [[Ecma International]]. [http://www.ecma-international.org/publications/standards/Ecma-130.htm ''Standard ECMA-130: Data Interchange on Read-only 120 mm Optical Data Disks (CD-ROM)''], 2nd edition (June 1996).
* Pohlmann, Kenneth C. (1992). [https://books.google.com/books?id=GkIaGZ0HWcMC ''The Compact Disc Handbook'']. Middleton, Wisconsin: A-R Editions. ISBN 0-89579-300-8.
* Peek, Hans et al. (2009) [http://www.springer.com/engineering/electronics/book/978-1-4020-9552-8 ''Origins and Successors of the Compact Disc'']. Springer Science+Business Media B.V. ISBN 978-1-4020-9552-8.
* Peek, Hans B., ''The emergence of the compact disc'', IEEE Communications Magazine, Jan. 2010, pp. 10–17.
* [[中島平太郎|Nakajima, Heitaro]]; [[小川博司 (技術者)|Ogawa, Hiroshi]] (1992) [https://books.google.com/books?id=9G9Nu9n0DJQC''Compact Disc Technology''], Tokyo, Ohmsha Ltd. ISBN 4-274-03347-3.
* [[中島平太郎]]、 [[小川博司 (技術者)|小川博司]]、「図解 コンパクトディスク読本」、オーム社、[[1982年]]、ISBN 4274029654
* {{Cite book |和書 |author=森健二 |date=2016-04-21 |title=ソニー 盛田昭夫 "時代の才能"を本気にさせたリーダー |chapter=第4部 第12章 技術のカン・市場のツボ |isbn=978-4478028698 |publisher=[[ダイヤモンド社]] |ref={{SfnRef|森|2016}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Compact discs}}
* [[CDDB]]
* [[SDリピーター]]
* [[ディスクドライブ仮想化ソフト]]
* [[ディスクカメラ]](1982年に発表)
== 外部リンク ==
* [http://www.research.philips.com/technologies/projects/cd/index.html Philips Research The history of the CD - The beginning]
* [http://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/cd_dvd.html CDとDVD - CyberLibrarian]
{{音楽}}
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[[Category:コンパクトディスク|*]]
[[Category:日本の発明]] | 2003-02-15T17:01:21Z | 2023-12-10T13:47:32Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF |
1,850 | 出渕裕 | 出渕 裕(いづぶち ゆたか〈いずぶち ゆたか〉、1958年〈昭和33年〉12月8日 - )は、日本のアニメのメカニックデザイナー、特撮のキャラクターデザイナー、アニメ監督、イラストレーター、漫画家。東京都生まれ。
1974年放送の『宇宙戦艦ヤマト』のファンになり、アニメ業界に興味を持つようになる。「ヤマト・アソシエイション」というファンクラブの会員だった。
1978年、『闘将ダイモス』の敵ロボットデザイン担当でデビュー。同作でスタジオぬえのメンバーや東映のプロデューサー鈴木武幸とも知り合い、活動の場を拡げていった。
1980年代には、SF作家の豊田有恒が主宰した創作集団パラレル・クリエーションに所属。以後、漫画執筆、小説の挿絵など漫画家兼イラストレーターとしての活動も始める。その後、ガンダムシリーズや『機動警察パトレイバー』、スーパー戦隊シリーズなどの多くの作品でメカニックデザインを手がけ、2002年、テレビアニメ『ラーゼフォン』で初監督を務める。
アニメや特撮などの空想世界のみならず、川田工業株式会社の二足歩行ロボット、HRP-2の外形デザイン・イメージも担当した。2003年、第34回星雲賞自由部門を受賞。
特撮作品への初参加は『科学戦隊ダイナマン』だが、『大戦隊ゴーグルファイブ』のころからプロデューサーの鈴木武幸から声を掛けられており、この時は出渕がスケジュールの都合で断ったとのことである。『ダイナマン』から『超新星フラッシュマン』まで4年連続で敵側のキャラクターデザインを歴任(特に『フラッシュマン』では単独ですべての敵デザインを担当)、シリーズの降板は出渕自ら申し出たが、2012年『特命戦隊ゴーバスターズ』で25年ぶりにシリーズに参加した。
2012年、自身のファン作品である『宇宙戦艦ヤマト』のリメイク版、『宇宙戦艦ヤマト2199』の総監督を担当(他にもメカニックデザインや脚本なども兼任)している。
また、長年に亘って東放学園映画専門学校でアニメーション映像科の講師を務めており、「キャラクター表現ゼミ」を開催している。
友人のゆうきまさみが1987年に渋谷で行われた出渕の個展に寄せた漫画では、出渕は「僕は嫁さんよりも娘がほしい」と言っていたことがあるという。
デザイナーとして作品に参加する場合、自身がデザインした物の動かし方や見せ方については、その作品の作画監督や演出担当者が発言を行うべきであると考えており、デザイナーはあくまでもアニメータの手伝いとして、作品の世界観を構築する手助けをする立場であると述べている。 | [
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] | 出渕 裕は、日本のアニメのメカニックデザイナー、特撮のキャラクターデザイナー、アニメ監督、イラストレーター、漫画家。東京都生まれ。 | {{存命人物の出典明記|date=2010年1月}}
[[File:Yutaka Izubuchi 20080704 Japan Expo 01.jpg|thumb|250px|2008年の[[Japan Expo]]にて]]
'''出渕 裕'''(いづぶち ゆたか〈いずぶち ゆたか〉、[[1958年]]〈昭和33年〉[[12月8日]]{{R|完全超悪335|戦変万化335}} - )は、[[日本]]の[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の[[メカニックデザイナー]]、[[特撮]]の[[キャラクターデザイナー]]、[[アニメ監督]]、[[イラストレーター]]、[[漫画家]]。[[東京都]]生まれ。
== 人物 ==
=== 略歴 ===
[[1974年]]放送の『[[宇宙戦艦ヤマト]]』のファンになり、アニメ業界に興味を持つようになる。「ヤマト・アソシエイション」というファンクラブの会員だった。
[[1978年]]、『[[闘将ダイモス]]』の敵ロボットデザイン担当でデビュー{{R|百化|20th85}}。同作で[[スタジオぬえ]]のメンバーや[[東映]]の[[プロデューサー]][[鈴木武幸]]とも知り合い、活動の場を拡げていった{{R|百化}}。
1980年代には、[[SF作家]]の[[豊田有恒]]が主宰した創作集団パラレル・クリエーションに所属<ref>[[小黒祐一郎]]「この人に話を聞きたい 出渕裕」『[[アニメージュ]]』2008年7月号、p.116。</ref>。以後、漫画執筆、小説の挿絵など漫画家兼イラストレーターとしての活動も始める。その後、[[ガンダムシリーズ]]や『[[機動警察パトレイバー]]』、[[スーパー戦隊シリーズ]]などの多くの作品で[[メカニックデザイン]]を手がけ、[[2002年]]、[[テレビアニメ]]『[[ラーゼフォン]]』で初監督を務める。
アニメや特撮などの空想世界のみならず、[[川田工業|川田工業株式会社]]の二足歩行ロボット、[[HRP-2]]の外形デザイン・イメージも担当した。2003年、第34回[[星雲賞]]自由部門を受賞。
特撮作品への初参加は『[[科学戦隊ダイナマン]]』だが、『[[大戦隊ゴーグルファイブ]]』のころからプロデューサーの[[鈴木武幸]]から声を掛けられており、この時は出渕がスケジュールの都合で断ったとのことである{{R|百化|20th85}}。『ダイナマン』から『[[超新星フラッシュマン]]』まで4年連続で敵側のキャラクターデザインを歴任{{R|完全超悪335|戦変万化335}}(特に『フラッシュマン』では単独ですべての敵デザインを担当)、シリーズの降板は出渕自ら申し出たが{{R|百化}}、[[2012年]]『[[特命戦隊ゴーバスターズ]]』で25年ぶりにシリーズに参加した。
2012年、自身のファン作品である『宇宙戦艦ヤマト』のリメイク版、『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』の総監督を担当(他にもメカニックデザインや脚本なども兼任)している。
また、長年に亘って[[東放学園映画専門学校]]でアニメーション映像科の講師を務めており、「キャラクター表現ゼミ」を開催している。
=== 交友関係 ===
{{雑多な内容の箇条書き|date=2010年1月|section=1}}
* 親しい友人らには「ブッちゃん」との愛称で呼ばれる。
* 学生時代は一アニメファンとして『[[宇宙戦艦ヤマト]]』のファンクラブなどに所属し、自主アニメ企画を立てたりもしていた。当時ヤマトファンクラブの会長だった[[氷川竜介]]によれば、お互い住んでいるところが近かったため会報の手伝いなどをよくしてもらっているなど交友があり、出渕がデビューするきっかけについても以下のように回想している。
** 氷川は当時、ヤマト以外のアニメの情報も扱う総合的な会報も作っており、出渕も協力していた。『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』の特集および新番組『闘将ダイモス』の情報が掲載されていた号で、両作品の監督である[[長浜忠夫]]と出渕には、ファンレターをきっかけに交流があることが話題になり、サンライズで面会する機会が設けられた。
** その際に出渕が先の自主アニメ企画をまとめた同人誌を長浜に見せたところ、出渕のデザインを気に入った長浜からの依頼でダイモスの敵メカデザインを作成することになり、実際に作成したデザインもそのまま採用され、デビューすることとなった。
** [[東映]]のプロデューサー[[鈴木武幸]]ともここで知り合い、後の[[特撮]]デザイン進出へとつながっていく。
** 氷川の著作である『20年目の[[無敵超人ザンボット3|ザンボット3]]』に収録された1979年の富野由悠季へのインタビューの際、著者の氷川に同行した「友人」が登場するが、これは出渕のことである。
* 漫画家では[[ゆうきまさみ]]や[[とり・みき]]らと親交があり、彼らの漫画の登場人物として出演した。
** ゆうきに『[[機動警察パトレイバー]]』のプロットを見せられた出渕はこれを気に入り、[[火浦功]]に協力を求めたり、[[伊藤和典]]に企画を紹介するなどテレビ化に向けて奔走した。
=== 好み・趣味 ===
友人の[[ゆうきまさみ]]が1987年に渋谷で行われた出渕の個展に寄せた漫画では、出渕は「僕は嫁さんよりも娘がほしい」と言っていたことがあるという。
* 『[[アニメージュ]]』1980年10月号の座談会で自分は「[[源静香|しずかちゃん]]のヌードに感じるタイプだなァ」と語っている。また『[[ドラえもん]]』は「しずかちゃんのヌードシーンがあるからみなくっちゃイケナイナァとおもうもン」と語っている。この座談会で実写も悪くないとする周囲に「アニメのほうが、ゼッタイいいよ。ナマナマしいのはキライッ」と力説した<ref>{{Cite journal|和書 |journal=アニメージュ |issue=1980年10月号 |page=32-35 |publisher=[[徳間書店]] |date=1980-10-10 |id = 雑誌 01577-10}}</ref>。
*ゆうきやとりと同様、[[原田知世]]の熱烈なファンだった。原田知世の主演映画『[[天国にいちばん近い島]]』にも出演している。『[[ファンロード]]』誌において、レポートマンガを描く条件で原田知世にインタビュー。この時、握手した手を3日洗わなかったという。
* [[ジム・ヘンソン]]監督の映画『[[ダーククリスタル]]』に傾倒し、デザイン面でも同映画のデザイナー、ブライアン・フロードの影響を受けている。また来日したジム・ヘンソンが、雑誌『[[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]]』のインタビューを受けた際に、インタビュアーを務めている{{R|B-CLUB}}。
* 雑誌『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』vol.16に寄稿したイラストエッセイにて、『[[人造人間キカイダー]]』、『[[イナズマンF]]』『[[スーパーロボット レッドバロン]]』などの思い入れを綴った{{R|宇宙船}}。
* 大のドイツ軍フリークとしても知られ、ナチス軍装についての造詣も深い。また『[[新機動戦記ガンダムW]]』の衣装デザインなどでも見せたように、西洋の装飾的な礼服についてもかなりの知識を持っている。フリッツヘルメットや[[パンツァーファウスト]]などをモビルスーツのデザインに採用し、「ジオン軍=ドイツ風」のイメージを確立した。
* 出渕がデザインを担当した『電撃戦隊チェンジマン』に登場する敵幹部ブーバは、放送直後にハリウッドで[[プレデター (架空の生物)|プレデター]]のデザインとして翻案されていると言われる{{R|百化142}}。
*人形作家[[辻村寿三郎]]のデザインに傾倒していた時期があり{{R|百化142}}、特に『超新星フラッシュマン』などの悪役デザインにその影響が顕著である。
== デザインの特徴 ==
* デザイナー活動の初期にはロボットアニメの敵側メカ(いわゆる「やられメカ」)を担当。
* 特徴的なデザインの意匠として、複数の並んだ穴(基本は上段3個、下段2個の5つ穴)が描かれることが多く、「'''ブチ穴'''」と通称される{{R|百化116}}。出渕自身はこの意匠について「困ったときに穴を入れる」と述べている{{R|百化116}}。
* [[ケンプファー]]や[[サザビー (ガンダムシリーズ)|サザビー]]、[[ズワァース]]、[[イングラム (架空のロボット)|イングラム]]など、メカのボディが三次曲面で構成されたものが多いのが、大きな特徴である。また、ガルディーン、イングラム、[[ジェガン]]などでは頭部またはその周辺を左右非対称に描いており、左右対称の頭部がほとんどであるロボットデザインにおいて異色である(頭部に限らず、デザインをまとめたとされる[[νガンダム]]のフィン・ファンネル装備状態にもその傾向が見られる)。
* メカとして物理的・構造的に無理があるものや、劇中の設定・考証を無視したものが多く、[[押井守]]には「メカ音痴」と評されている{{R|osii}}。
== デザイナーとしての考え ==
デザイナーとして作品に参加する場合、自身がデザインした物の動かし方や見せ方については、その作品の作画監督や演出担当者が発言を行うべきであると考えており、デザイナーはあくまでもアニメータの手伝いとして、作品の世界観を構築する手助けをする立場であると述べている<ref>『ニュータイプ100%コレクション10 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』、1988年5月1日発行、株式会社角川書店 月刊ニュータイプ、P41</ref>。
== 作品リスト ==
=== 漫画 ===
* ときめいて! ビリンちゃん ♥(『戦闘メカ ザブングル大事典』)
* トラブル専科(いづぶちゆたか名義)(ザ・モーションコミック 1983年5月30日号)(読み切り)
* はっぴいえんどなんてくるわけない(いづぶちゆたか名義)(ザ・モーションコミック 1984年1月20日号、1984年6月1日号)
* ぬいぐるみ殺人事件 第9回(いづぶちゆたか名義)
* この世で一人の…(いづぶちゆたか名義)(ハイパー☆ゾーンIII)(読み切り)
* 秘密兵器D・A・K・K・O(いづぶちゆたか名義)(ザ・モーションコミック)(読み切り)
* 幻灯機(いづぶちゆたか名義)(ハイパー☆ゾーン)(読み切り)
* 機神幻想ルーンマスカー(月刊[[ドラゴンマガジン]]連載、未完)コミックス1巻 総集編(ムック)1
** 『ルーンマスカー』第1巻は、当時気鋭のデザイナー兼イラストレーターとして人気のあった出渕の初マンガ単行本ということもあって初版が(それまで出版で実績のない作家としては)異例の大部数となり、出渕のもとには高額の印税が舞い込むことになった。しかしこれまで手にしたこともない額をどう使えばいいのか分からない出渕は友人に使い道を相談して回り、相談された友人の間では「別荘を買わせよう」という企みが冗談半分で画策されていたという。
** これはその友人の面々が「どうせブッちゃんは忙しくて使う暇がないんから、彼に別荘を買わせて俺らが使わせてもらえば(出渕的には税金対策になるし、自分たちはタダ同然で使えるから)お互いに幸せじゃないか」とバカ話を交わしたことから出た。そんな冗談も通じるほど付き合いの深い仲ならではのエピソードである。
** 2009年3月19日にRYU COMICSより新装版を発売。『[[月刊COMICリュウ]]』2009年8月号より'''第二部'''として連載を再開した。
* 月刊COMICリュウ2009年5月号特別付録『出渕裕コミック短編集』
** 初期の読み切り作品を集めたもので、出渕の希望により、今後コミックス化されることは絶対ないとされている。
** 新書版、全112ページ。
=== 挿絵・イラスト ===
* [[ロードス島戦記]]
** 勘違いからヒロインの[[エルフ]]・[[ディードリット]]の耳を極端に長く描き(元となったエルフのデザインでは、エルフの耳は[[スポック|ミスター・スポック]]のような形状である)、特定年齢層の日本人に「エルフと言えば長い耳」のイメージを定着させたことになっている。現在でも、日本・韓国のファンタジー系RPGで登場するエルフやそれに類する亜人は、極端に耳が長いことが挙げられる。[[グループSNE]]関連の冊子などでは「笹耳」と表現される。出渕本人は「メカのアンテナのようなイメージで描いた」とインタビューで語っている。後年、元ネタとして映画「[[ダーククリスタル]]」に登場するゲルフリン族の耳をイメージしていたと語っている (季刊コミッカーズ 1999年7月号{{要ページ番号|date=2020年1月}})。
* [[聖戦士ダンバイン]](LD-BOX Part 1パッケージ、他)
* [[機甲界ガリアン]](BD-BOXパッケージ、月刊ニュータイプ1986年7月号付録ポスター、他)
* [[未来放浪ガルディーン]]
* [[オーラバトラー戦記]](カドカワノベルズ版の第3巻まで)
* [[嵩峰龍二#著作リスト|ソルジャー・クイーンシリーズ]]
=== メカニックデザイン ===
* [[闘将ダイモス]](1978年-1979年)- ノンクレジット
** 出渕の公式デビュー作品。敵メカを担当。浪人時代にスタジオ見学に訪れた際に、敵メカのアイデアを求めていた監督の[[長浜忠夫]]から誘われ、第16話ごろから参加した{{R|20th85}}。
* [[未来ロボ ダルタニアス]](1979年-1980年)- デザイン協力
** 敵メカを担当。
* [[宇宙大帝ゴッドシグマ]](1980年-1981年)- デザイン協力
** 敵メカを担当。
* [[無敵ロボ トライダーG7]](1980年-1981年)- メカニカルゲストデザイン
** 敵メカを担当。
* [[宇宙戦艦ヤマトIII]](1980年-1981年) - SF設定協力
** [[宇宙戦艦ヤマトシリーズの地球の戦闘艦#アリゾナ級戦艦|アリゾナ]]や[[宇宙戦艦ヤマトシリーズの航空機・宇宙艇#ゼーアドラーIII|ゼーアドラーIII]]など、少数のメカをデザインした。[[SFファンダム]]の先輩がSF考証の[[豊田有恒]]と親しくしていたことから誘われたという{{R|20th85}}。
* [[最強ロボ ダイオージャ]](1981年-1982年)- メカニカルゲストデザイン
** 敵メカを担当。
* [[戦闘メカ ザブングル]](1982年-1983年) - メカニカルゲストデザイン
** シリーズ当初より参加。前半の主役メカ・ザブングルと主人公たちの「家」となるランドシップ・アイアンギアー<!--は[[大河原邦男]]デザインで-->、後半の主役メカ・[[ウォーカー・ギャリア]]<!--は複数のスタッフによるアイデアを[[湖川友謙]]が最終的に纏め上げたもの。出渕はそれ-->以外の[[ウォーカーマシン]]などのサブメカや小物デザインを担当し、メカニカルな見地での世界観統一に貢献した。また[[高荷義之]]が児童誌に連載したイラストのラフ原画も手掛けた。
* [[宇宙戦艦ヤマト 完結編]]([[1983年]])
** [[ディンギル帝国]]のメカニックを辻忠直と共に担当。
* [[聖戦士ダンバイン]](1983年-1984年) - メカニカルゲストデザイン
** シリーズ序盤以降のメカデザインを担当。本作品は企画スタート時より[[スタジオぬえ]]の[[宮武一貴]]が監督の富野由悠季と共にビジュアル的な世界観を構築し、主役メカのダンバインやその僚機となるダーナ・オシー、前半の敵主力機ドラムロといった[[オーラバトラー]]や主人公たちが乗り組む[[オーラシップ]]・ゼラーナなどのデザインを手がけていたが、宮武がスタジオぬえの業務的事情(詳細は『[[超時空世紀オーガス]]』を参照)から同作を降板することとなったため、出渕はその後の作業を引き継ぐ形で参加することとなった。
** 宮武と出渕は直接の引継ぎを行っておらず、当初宮武が富野の意向に沿って確立しようとした「甲虫のような意匠を、極めて工業的・産業的な観点から作り上げたロボットのデザイン」というコンセプトは必ずしも受け継がれていない。むしろ生物や中世の[[甲冑]]のイメージが強くなっている。ビランビーは当初「マサラグ」の名称が与えられ宮武の手でラフデザインまで進んでいたので、そのラフを元に出渕がクリンナップを行った{{efn|なお後半の主役メカ・ビルバインについては湖川やスポンサーのバンダイ他のスタッフによるアイデアを最終的に湖川が纏めたもので、出渕は大きく関わっていない。}}。
* [[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]]([[1984年]])- メカニックデザイン協力
** [[ゼントラーディ]]の[[パワードスーツ]]、[[ゼントラーディ軍の兵器#ヌージャデル・ガー|ヌージャデル・ガー]]のデザインを担当{{efn|基本的にはテレビシリーズで宮武一貴がデザインした同名メカのリファインだが、顔に当たる部分にゼントラーディのワンマン戦闘ポッド・[[ゼントラーディ軍の兵器#リガード|リガード]]や[[ゼントラーディ軍の兵器#グラージ|グラージ]]と同様のモノアイカメラを配するなど、より統一感のあるデザインへとシフトさせている。}}。
* [[機甲界ガリアン]](1984年)
** 主役メカ・ガリアンとその強化改造型・アザルトガリアン<!--のデザインは大河原邦男。それ-->以外のメカを出渕が一手に引き受け、[[ケンタウロス]]型の人馬兵や折り畳み式の翼による飛行能力を持った飛甲兵{{efn|人馬兵、飛甲兵については酷似したデザインが先行していたことが指摘されている[http://blog.zige.jp/ecm-xr00/kiji/238553.html]。}}、水中戦に特化した水機兵{{efn|デザインモチーフはローマ神話に登場する海神[[ネプトゥヌス|ネプチューン]]。}}など、重厚かつ壮大なファンタジーSFの世界にぴったりのデザインを提供。これによって、「伝説の鉄巨人」という設定ながらロボット然としたデザインのガリアンが特殊な存在であるという説得力を出すことにも一役買った。
* [[機甲界ガリアン 鉄の紋章]]([[1986年]])
** 本編に登場するすべての機甲兵のデザインを担当。鉄巨神はテレビシリーズ版でのガリアンだが、そのシルエットと最低限のディテールは残しつつもロボット然とした印象を極力取り除き、テレビシリーズ以上にハードなヒロイックファンタジー(見方によってはダークファンタジーともいえる)となった物語に最適といえるデザインに仕立て上げた。邪神兵は本作品用の完全オリジナルデザインで、ヒロイックでマッシヴな鉄巨神とは対を成す禍々しさを持ったものとなっている。
* [[機動戦士ガンダムΖΖ]](1986年) - メカニカルベースデザイン
** 中盤まで{{efn|中盤以降のデザインはバンダイ主導のデザインコンペ(その趣旨は展開が遅れていたプラモデルのラインナップを強化するため、既に発売されているプラモデルにパーツを追加することで作品に新メカとして登場させるというものだった)で採用された[[モデルグラフィックス]]([[小田雅弘]]、かときすなお([[カトキハジメ]])、[[あさのまさひこ]]他)の原案を、明貴美加や[[佐山善則]]がクリンナップし、後に明貴がメインでデザインを担当した。}}の敵[[モビルスーツ]]、ガルスJやズサなどのラフデザインを担当{{efn|バウはフィニッシュまで出渕が担当。それ以外のクリンナップは[[伸童舎]]([[岡本英郎]]、[[明貴美加]])が担当した。また、ゲゼについては出渕は関与せず永野護の案を伸童舎がまとめた。}}。
** 元々は全てのメカデザインを[[永野護]]が担当する予定だったが、スポンサーであるバンダイの意向によって永野が降板したため、急遽主役メカ・[[ΖΖガンダム]]のデザイン原案は[[小林誠 (イラストレーター)|小林誠]]に依頼され(クリンナップは伸童舎)、敵メカのデザイン原案が出渕に発注された。
** 当初、『[[機動戦士Ζガンダム]]』の後番組には出渕デザインの新作が予定されていたが、ZZの企画が決定しペンディングとなった。
* [[ケルベロス・サーガ]](1987年-)
** 『[[紅い眼鏡/The Red Spectacles|紅い眼鏡]]』『[[人狼 JIN-ROH|人狼]]』など一連の映像・漫画作品に登場する、特機隊の装甲服「プロテクトスーツ」や車輌・航空機などのデザインを担当。出渕のドイツ軍装フリーク振りが遺憾なく発揮されている。
* [[New Story of Aura Battler DUNBINE]]([[1988年]])
* [[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]([[1988年]])
** [[νガンダム]]などモビルスーツのデザインを担当{{efn|デザイン作業はコンペ形式で行われ、監督の富野の意向を出渕や[[ヴィシャルデザイン]]、[[鈴木雅久]]、[[大畑晃一]]といったデザイナーがそれぞれラフデザインとして提出し、それを富野が取捨した上で最終的に出渕が纏めるという形だった。なお[[リ・ガズィ]]については[[佐山善則]]がクリンナップし、フィニッシュまで持っていっており、艦船などのデザインは[[ガイナックス]]の担当となる。}}。
* [[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争]]([[1989年]])
** MSだけでなく世界観構築のためのデザインワークスを担当しており、特に「ハイゴッグ」や「ケンプファー」は評価が高い。
* [[機動警察パトレイバー]](1988年-[[2002年]])
** ごく一部を除き、漫画からアニメに至るまでほとんどのレイバーやその他メカニックデザインを担当した。
** 元々この作品はゆうきまさみと共に作り始めた企画が元であるため、他作品に比べて関与の度合いは深く、劇場版第3作となる『[[WXIII 機動警察パトレイバー]]』ではスーパーバイザー、アニメでは一部のエピソードにおいて「いづぶちゆたか」名義で脚本(テレビシリーズ・後期OVAシリーズ)、絵コンテ(後期OVAシリーズ)を担当している。なお初期OVAシリーズ6話までと「[[機動警察パトレイバー 2 the Movie|劇場版第2作]]」の監督である[[押井守]]は、(出渕との仲が最も険悪だった時期に)従来のヒーローメカ然としたレイバーデザインに不満を持っていたと述べ、「メカ音痴のメカデザイナー」などと酷評している{{R|osii}}。
* [[アッセンブル・インサート]](1989年-1990年)
* [[ガサラキ]]([[1998年]])
* [[日本アニメ(ーター)見本市]]
**「世界の国からこんにちは」(2015年) - ロボットデザイン
**「[[機動警察パトレイバー#機動警察パトレイバーREBOOT|機動警察パトレイバーREBOOT]]」(2016年) - メカニカルデザイン・監修
=== キャラクターデザイン ===
==== 特撮 ====
* [[ロボット8ちゃん]]([[1981年]])
** エバポリスをデザイン{{R|完全超悪335|戦変万化335}}{{efn|警察ロボットである点に出渕曰く、パトレイバーとの因縁を感じるとのこと。}}。[[SFファンダム]]関連で知り合っていた[[石森プロ]]の青柳誠からの紹介であった{{R|20th85}}。
* [[科学戦隊ダイナマン]]([[1983年]])- キャラクターデザイン
** 実質的に初の特撮デザイン作品。敵キャラクターを担当。アニメーションのセンスを取り入れたシャープなデザインを多数輩出。
* [[超電子バイオマン]]([[1984年]])- キャラクターデザイン
** 新帝国ギアやバイオハンター・シルバのデザイン{{efn|バイオハンター・シルバのデザインは、当初違うイメージを検討していたが、鈴木からの要望により『[[人造人間キカイダー]]』の[[ハカイダー]]を念頭において制作したと語っている{{R|20th85}}。また、巨大戦の敵は(巨大化した怪人ではなく)巨大ロボットであったが、従来の流れから動物ベースのものを要求されることが多く、自身の創作イメージと異なり辛かったと述べている{{R|20th85}}。}}
* [[マイティレディ]]([[1984年]]・特撮オリジナルビデオ)- 初代マイティレディのコンセプトデザイン
* [[電撃戦隊チェンジマン]]([[1985年]])- キャラクターデザイン
** 電撃戦隊・大星団双方のメインデザイン。ゴズマは多様な宇宙人で構成されるという設定からあえて統一的なコンセプトは持たせず、円谷プロダクション作品や海外SFのイメージも取り入れている{{R|20th85}}。
* [[超新星フラッシュマン]]([[1986年]])- キャラクターデザイン
** 全てのデザインを一手に手掛けた
* バトルガール(1991年 大映 ビデオ作品) - [[キューティー鈴木]]が演じるキャラクターのコスチュームをデザイン
* [[仮面ライダーアギト]]([[2001年]])- 怪人であるアンノウン、および4人目の仮面ライダーであるアナザーアギトのデザイン
* [[劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4]](2001年) - アンノウンデザイン。[[草彅琢仁]]との連名
* [[キューティーハニー (映画)|キューティーハニー]]([[2004年]]・映画)
* [[劇場版 仮面ライダー響鬼と7人の戦鬼]]([[2005年]]) - 「魔化魍」デザイン
* [[キューティーハニー THE LIVE]]([[2007年]])
* [[仮面ライダーディケイド]]([[2009年]])- アギト編「バッファローロード」を担当
* [[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]](2009年)- [[キングダーク]]を担当
* [[仮面ライダーオーズ/OOO]](2010年)- [[篠原保]]との連名{{efn|メズール、カザリに関しては方眼紙のみのラフ画しか描かれておらずデザイン画が存在しない。}}
* [[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]](2011年) - ショッカーグリードを担当
* [[特命戦隊ゴーバスターズ]](2012年)- キャラクターデザイン
** 篠原保、[[原田吉朗]]、[[森木靖泰]]、[[K-SuKe]]との連名。25年ぶりのスーパー戦隊シリーズへの参加。
* [[仮面ライダージオウ]](2018年)- 篠原保との連名
* [[シン・仮面ライダー]](2023年) - [[山下いくと]]、[[前田真宏 (アニメ監督)|前田真宏]]との連名<ref>{{Cite web|和書| url = https://mantan-web.jp/article/20210930dog00m200042000c.html| title = シン・仮面ライダー:蜘蛛男が登場! デザインに出渕裕、前田真宏、山下いくと 庵野秀明監督「バッタと蜘蛛が出ます」| newspaper = MANTANWEB| accessdate = 2021-09-30}}</ref>
==== アニメ ====
* [[デルパワーX 爆発みらくる元気!!]](1986年)
* [[鉄腕バーディー]](漫画・[[ゆうきまさみ]] [[1996年]])
==== 漫画 ====
* [[クルクルくりん]](漫画・[[とり・みき]])- 作中の自主映画「学園戦隊トリカマン」のスーツデザインと、一部の話でモブキャラを描いている。本人もなぜか女子学生役で登場。
*[[風の戦士ダン]](作画:[[島本和彦]]/原作:[[雁屋哲]]) - メカニックや敵キャラクターなど多岐に及ぶがクレジットはされていない。当時デビュー間もない島本の画力では技術不足によりデザインの反映が困難であったことが島本の自叙伝『[[アオイホノオ]]』にて描かれている(出渕本人も登場)。また、一部シーンは作中にて現在の島本の画力で出渕のデザインに忠実に書き直して再現されている。
==== ゲーム ====
* [[ベルデセルバ戦記]]([[テンキー (ゲーム会社)|テンキー]] [[1997年]]) - キャラクターデザイン
*パンツァーフロント bis.([[エンターブレイン]] 2011年) - スーパーバイザー
* [[ソウルキャリバーIV]]([[バンダイナムコゲームス]] [[2008年]])- ボーナスキャラクターの一人、[[ソウルキャリバーの登場人物|シェラザード]]を担当
=== キャラクターリファインデザイン ===
* [[エイトマン]]([[1994年]])- [[月刊マンガボーイズ]]連載、[[末松正博]]版
* [[仮面ライダー THE FIRST]]([[2005年]])- 仮面ライダー1号、2号およびショッカー怪人を担当{{efn|特に怪人面では「人間が変化した怪物」を思わせるデザインではなく「超越した人間が着るスーツ」を思わせるデザインとなっている。そのためかショッカーのマークにはナチスを思わせるデザインになったり怪人の服装はドイツ軍装を思わせるデザインとなっている。}}
* [[スカルマン]]([[2007年]])- スカルマン・GROなどデザインの他、シリーズ構成・脚本など、全面に携わる
* [[仮面ライダー THE NEXT]](2007年)
* [[平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊]](2014年)- ヤマアラシロイドを担当
=== 服飾デザイン ===
* [[新機動戦記ガンダムW]]([[1996年]])- OZの華麗な制服を中心とした衣装デザインの協力。他にも『[[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争]]』の拳銃がそのまま流用されている。
* [[JUNK -RECORD OF THE LAST HERO-]](漫画・[[麻宮騎亜]] [[2004年]]-[[2007年]])- JUNKスーツデザイン{{efn|出渕設定ではモノアイは2つであったが、作者の取り違いにより、作中では1つになっている。}}
* [[ローレライ (映画)|ローレライ]]([[2005年]])- パウラ水密服デザイン
* [[劇場版 仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE]]([[2006年]])- ZECT制服デザイン
=== デザインワークス ===
* [[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争]]([[1989年]])- デザインワークスとして、MSや戦艦・軍服・銃器などのデザインにも関わった
* [[サイレントメビウス#劇場アニメ|サイレントメビウス(劇場版)]](1991年)
* [[装甲騎兵ボトムズ 赫奕たる異端]]([[1994年]])- 設定原案
* [[機動戦士ガンダム MS IGLOO]]([[2004年]]-[[2006年]])- スーパーバイザーを兼務
* [[交響詩篇エウレカセブン]]([[2005年]])
* [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]([[2007年]])- ゼーレのシンボルマークをリファイン
* [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]]([[2012年]])
* [[シン・ゴジラ]](2016年) - 特殊建機小隊エンブレムデザイン
=== コンセプトデザイン ===
* [[地球へ…]](2007年)
=== デザイン(その他) ===
* [[スケバン刑事II_少女鉄仮面伝説#劇場版|スケバン刑事(劇場版)]](1987年)メカ腕をデザイン
* [[宇宙の騎士テッカマンブレード]](1992年-1993年)「設定協力」
* [[無限のリヴァイアス]] (1999年-2000年)- 「デザイン協力」としてクレジット
* [[Ergo Proxy]] (2006年)- 「デザイン協力」
* [[ガラスの艦隊]](2006年)「コンセプトアドバイザー」
* [[機神大戦ギガンティック・フォーミュラ]](2007年)「ギガンティックデザイン」(「ディアーヌ7」を担当)
* [[メタリックルージュ]](2024年)「原作」、「総監修」、「シリーズ構成」(シリーズ構成を[[根元歳三]]と共同で担当)
=== クリエイティブプロデューサー ===
* [[鉄腕バーディー DECODE]](2008年)
* [[鉄腕バーディー DECODE|鉄腕バーディー DECODE:02]](2009年)
=== 監督作品 ===
* [[ラーゼフォン]](TV版:[[2002年]] 劇場版:[[2003年]])
* [[宇宙戦艦ヤマト2199]]([[2012年]]、総監督)
=== 脚本 ===
* [[シャングリ・ラ (池上永一の小説)|シャングリ・ラ]](2009年)
=== 画集 ===
* Neos―出渕裕デザインアート集([[朝日ソノラマ]]刊、1985年) {{ISBN2|4-257-03200-6}}
* イルジオン―幻影(角川書店、1996年) {{ISBN2|978-4-04-417501-6}}
* Anam―魂(角川書店、1999年) {{ISBN2|978-4-04-853065-1}}
* 出渕裕画業30周年記念画集 IIIX(徳間書店、2008年) {{ISBN2|978-4-19-862400-2}}
=== 連載記事 ===
* 「メカニカルおもちゃ箱」、他(月刊[[コミックボンボン]])
* 耽美雑誌「[[JUNE]]」誌上で自分のデザインした[[特撮]][[悪役]]キャラを紹介するイラストコラム「闇の紳士録」を連載していた。
* 出渕裕の酔いどれ人生相談([[月刊COMICリュウ]])
=== 出演 ===
* ビデオマガジン「BANDAI ANIRAMA PRESS 電影帝国」Vol.1~5(1988-1989年発売) - 声優の[[川村万梨阿]]と2人でメインキャスターを担当した。
* [[BSアニメ夜話]](NHK BS2) - 以下の回にゲスト出演。
** [[機動警察パトレイバー the Movie|機動警察パトレイバー(劇場版)]](2004年10月25日)
** [[勇者ライディーン]](2006年8月8日)
* [[X年後の関係者たち|X年後の関係者たち〜あのムーブメントの舞台裏〜]] #35「機動警察パトレイバー」(2023年3月7日、[[BS-TBS]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/515521|title=ゆうきまさみ、出渕裕ら集結!「パトレイバー」の誕生に迫る番組、BS-TBSで明日放送|work=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-03-06|accessdate=2023-03-08}}</ref>
=== その他 ===
* [[1998年]]の[[航空自衛隊]][[戦技競技会]]の特別塗装として、第204飛行隊の[[F-15 (戦闘機)|F-15J]]戦闘機に、出渕がデザインした[[ワルキューレ]]と[[グリフォン]]が描かれた
* [[HRP-2]]([[川田工業|川田工業株式会社]]) - 外形デザイン・イメージを担当。愛称名「Promet(プロメテ)」を考案
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="宇宙船">{{Cite journal|和書 |date=1983-11-20 |editor=村山実 |title=特撮グランドクロス |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |issue=vol.16 |page=33 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |id = 雑誌コード 01843-11}}</ref>
<ref name="B-CLUB">{{Cite journal|和書 |date = 1988-06-30 |editor = 加藤智 |isbn = 4-89189-412-1 |issue = NO.32 |journal = [[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]] |page = 46-49 |publisher = [[バンダイ]] |title = ジム・ヘンソン「ストーリーテラー」}}</ref>
<ref name="osii">押井守『映像機械論メカフィリア』大日本絵画、2004年、p.49.</ref>
<ref name="百化">{{Harvnb|百化繚乱 上之巻|2011|pp=228-230|loc=「DESIGNER'S INTERVIEW07 出渕裕」}}</ref>
<ref name="百化116">{{Harvnb|百化繚乱 上之巻|2011|pp=116-117}}</ref>
<ref name="百化142">{{Harvnb|百化繚乱 上之巻|2011|p=142}}</ref>
<ref name="20th85">{{Cite book|和書|date=2018-05-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1985 [[電撃戦隊チェンジマン]]|series=講談社シリーズムック|publisher=[[講談社]]|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 出渕裕|ISBN=978-4-06-509612-3}}</ref>
<ref name="完全超悪335">{{Harvnb|完全超悪|2020|p=335|loc=「デザイナー紹介/あとがき」}}</ref>
<ref name="戦変万化335">{{Harvnb|戦変万化|2022|p=335|loc=「デザイナー紹介/あとがき」}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|date=2011-12-15|title=東映スーパー戦隊シリーズ35作品記念公式図録 百化繚乱 [上之巻] 戦隊怪人デザイン大鑑 1975-1995|publisher=グライドメディア|isbn=978-4-8130-2163-6|ref={{SfnRef|百化繚乱 上之巻|2011}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2020-12-24<!--奥付表記-->|title = 平成仮面ライダー怪人デザイン大鑑 完全超悪|publisher = ホビージャパン|isbn = 978-4-7986-2338-2|ref = {{SfnRef|完全超悪|2020}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2022-11-30<!--奥付表記-->|title = スーパー戦隊怪人デザイン大鑑 戦変万化 2011-2021|publisher = ホビージャパン|isbn = 978-4-7986-3007-6|ref = {{SfnRef|戦変万化|2022}}}}
*{{Commons-inline|Yutaka Izubuchi}}
{{機動警察パトレイバー}}
{{ガンダムシリーズ}}
{{バイストン・ウェル}}
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いつふち ゆたか}}
[[Category:日本の漫画家]]
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1,851 | 井上雄彦 | 井上 雄彦(いのうえ たけひこ、本名:成合 雄彦(なりあい たけひこ)、1967年1月12日 - )は、日本の漫画家。鹿児島県伊佐市(旧・大口市)出身。血液型はB型。
代表作に『SLAM DUNK』・『バガボンド』・『リアル』など。スポーツや闘いを通じて青年の成長を描いた作品、現実的な人物描写やストイックな作風で知られる。
1988年、手塚賞入選の「楓パープル」でデビュー(この時は本名名義)。1990年、現在の名義である「井上雄彦」に変更して連載を開始した『SLAM DUNK』は日本におけるバスケットボールブームの火付け役となる。1998年からは宮本武蔵を題材にした『バガボンド』、1999年からは車椅子バスケットボールを題材にした『リアル』を連載。『バガボンド』による文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。2012年には平城遷都1300年記念アジアコスモポリタン賞文化賞を受賞。
小・中学校時代は剣道部に所属し、高校から当時まだマイナーだったバスケットボール部に入部し主将を務める。その一方で、子供の頃から絵を描くことを好み、高校の終わり頃より漫画家になることを意識するようになる。幼少期から特に好きだった漫画は水島新司『ドカベン』で、他にも影響を受けた漫画家に池上遼一(『男組』)、小林まこと等の名を挙げている。
鹿児島県立大口高等学校3年の時、芸大進学を前提に美術予備校の夏期講習を受けるが、「金がかかる」という理由で進路変更し、地元に近い熊本大学に進学する。20歳の時に週刊少年ジャンプに投稿した作品が編集者・中村泰造の目に止まり、本格的に漫画家の道を歩むために1987年大学を中退し上京。当時『シティーハンター』を連載中の北条司のアシスタントを10か月ほど務め、ここで漫画制作の基本的な技術を身につけた。1988年、投稿作品『楓パープル』が第35回手塚賞に入選、漫画家としてデビューする。
週刊少年ジャンプ上で原作付きの初連載『カメレオンジェイル』やバスケの読み切り作品等を経て、1990年より『SLAM DUNK』を連載開始する。当時国内でのバスケットボールの人気度はさほどでなかったが、回を重ねる毎に人気を増し、やがて空前の大ヒットとなる。1993年にはアニメ化もされた。また、連載終了後10年を経た2006年には、文化庁によるアンケート企画「日本のメディア芸術100選」においてマンガ部門1位に選出されている。
1996年、6年間続いた『SLAM DUNK』が連載終了する。いくつかの小品を経て、1998年より『モーニング』にて、吉川英治の小説『宮本武蔵』を原作とした『バガボンド』の連載を開始する。並行して1999年からは本人曰く「TVで観て興味を持った」車椅子バスケットボールを題材にした『リアル』の不定期連載を『週刊ヤングジャンプ』にて開始、2019年現在、バガボンドは休載中である。この2作品について井上は「漫画の先人が作り上げてきた『マンガ的な手法やマンガ的記号』を『バガボンド』では極力使わないようにし、逆に『リアル』ではそれらを最大限に発揮して描いている。」と語っている。
井上は中学までは剣道部で活動していたが、高校では球技を始めたかったことや剣道部に実兄がいて照れくさかったことなどからバスケットボール部に入部した。インタビューによれば当初はバスケットにそれほど興味を持っていたわけではなく、友達に誘われて「ふと入った」感じだった、と語っている。自身はそれほど背が高くなかったためガード的なポジションを務めることが多かったという。
漫画家を目指すようになってからは「とにかくバスケット」を描こうと決めており、当時バスケットを題材にした漫画はなかったため「(自分が描くまでは)誰もやらないでくれよ」と思っていたという 。『SLAM DUNK』連載時にもバスケットボールチーム「TAKECHANS」を結成しポイントガードを担った。また『SLAM DUNK』終了後はBS1放送のNBA中継にゲストとして何度か出演している。
2004年頃から井上は「バスケットボールそのものに対しての感謝の気持ちを形にしたい」との思いからスポーツ奨学金の設立を構想、2006年に「スラムダンク奨学金」を設立した。バスケットボールのプロ選手を目指す日本の高校生を対象にアメリカのプレップスクール(大学入学準備校)への留学を助け、プロスポーツ選手を目指す留学生も多い進学校での勉学の道を支えている。
ちなみに、『SLAM DUNK』において一部の登場人物の顔などは、自身の高校の部活仲間や大学のサークル仲間がモデルとなっている。
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] | 井上 雄彦は、日本の漫画家。鹿児島県伊佐市(旧・大口市)出身。血液型はB型。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 井上 雄彦
| ふりがな = いのうえ たけひこ
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| 画像サイズ =
| 脚注 =
| 本名 = {{ruby|成合|なりあい}} {{ruby|雄彦|たけひこ}}
| 生地 = {{JPN}}・[[鹿児島県]][[伊佐市]](旧・[[大口市]])
| 国籍 = {{JPN}}
| 生年 = {{生年月日と年齢|1967|1|12}}
| 没年 =
| 職業 = [[漫画家]]
| ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[青年漫画]]
| 活動期間 = [[1988年]] -
| 代表作 =
『[[SLAM DUNK]]』<br />『[[バガボンド]]』<br />『[[リアル (漫画)|リアル]]』
| 受賞 =
* 第35回:[[手塚賞]]入選(『楓パープル』)
* 第40回:[[小学館漫画賞]](『SLAM DUNK』)
* 第4回:[[文化庁メディア芸術祭|メディア芸術祭]]大賞
* 第24回:[[講談社漫画賞]]
* 第6回:[[手塚治虫文化賞]]大賞(以上『バガボンド』)
* 第5回:メディア芸術祭優秀賞(『リアル』)
* 第1回:[[平城遷都1300年記念アジアコスモポリタン賞]]文化賞<ref>[http://www.eria.org/Selection%20for%20Basis_Jp%20%28Web%29.pdf Selection for Basis_Japanese] - 受賞者プロフィールと受賞理由</ref>
* [[第46回日本アカデミー賞|第46回]]:[[日本アカデミー賞]]最優秀アニメーション作品賞(『[[THE FIRST SLAM DUNK]]』)<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20230310/27/ |title=【第46回日本アカデミー賞】「THE FIRST SLAM DUNK」が最優秀アニメーション作品賞 |website=[[映画.com]] |accessdate=2023-07-11}}</ref>
| 公式サイト = [https://itplanning.co.jp/ INOUE TAKEHIKO ON THE WEB]
}}
'''井上 雄彦'''(いのうえ たけひこ、本名:'''成合 雄彦'''(なりあい たけひこ)、[[1967年]][[1月12日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[鹿児島県]][[伊佐市]](旧・[[大口市]])出身。[[血液型]]はB型。
== 概略 ==
代表作に『[[SLAM DUNK]]』・『[[バガボンド]]』・『[[リアル (漫画)|リアル]]』など。[[スポーツ]]や闘いを通じて青年の成長を描いた作品、現実的な人物描写やストイックな作風で知られる<ref>{{Cite web|和書|url=http://archive.j-mediaarts.jp/interview/2007/inoue-takehiko/|title=井上 雄彦 インタビュー|work=文化庁メディア芸術祭|publisher=文化庁|date=2007|accessdate=2022-2-4}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35025105.html|title=世界に誇る日本の漫画家、井上雄彦氏インタビュー|work=CNN.co.jp|publisher=CNN|date=2012-11-30|accessdate=2022-2-4}}</ref>。
1988年、[[手塚賞]]入選の「楓パープル」でデビュー(この時は本名名義)。1990年、現在の名義である「井上雄彦」に変更して連載を開始した『SLAM DUNK』は[[日本]]における[[バスケットボール]]ブームの火付け役となる<!-- ref name="AER" -->{{sfn|朝日新聞社|2006 |pages=60-70}}。1998年からは[[宮本武蔵]]を題材にした『バガボンド』、1999年からは[[車いすバスケットボール|車椅子バスケットボール]]を題材にした『リアル』を連載。『バガボンド』による[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門大賞、[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞を受賞。2012年には[[平城遷都1300年記念アジアコスモポリタン賞]]文化賞を受賞。
== 来歴 ==
小・中学校時代は剣道部に所属し、高校から当時まだマイナーだったバスケットボール部に入部し主将を務める。その一方で、子供の頃から絵を描くことを好み、高校の終わり頃より漫画家になることを意識するようになる。幼少期から特に好きだった漫画は[[水島新司]]『[[ドカベン]]』で、他にも影響を受けた漫画家に[[池上遼一]](『[[男組]]』)、[[小林まこと]]等の名を挙げている<!-- ref name=MAS -->{{sfn|リーマン|2005|pages=113-128}}。
[[鹿児島県立大口高等学校]]3年の時、芸大進学を前提に美術予備校の夏期講習を受けるが、「金がかかる」という理由で進路変更し、地元に近い[[熊本大学]]に進学する。20歳の時に週刊少年ジャンプに投稿した作品が編集者・[[中村泰造]]の目に止まり<ref>{{Cite web|和書|date=2009-05-09|url=http://doraku.asahi.com/hito/runner2/100105_03.html|title=漫画家 井上雄彦(いのうえ・たけひこ)さん(3/3)|publisher=朝日新聞 DO楽|accessdate=2011-08-16}}</ref>、本格的に漫画家の道を歩むために1987年大学を中退し上京。当時『[[シティーハンター]]』を連載中の[[北条司]]のアシスタントを10か月ほど務め、ここで漫画制作の基本的な技術を身につけた<!-- ref name=MAS/ -->{{sfn|リーマン|2005|pages=113-128}}<ref>「井上雄彦が語る「師匠・北条司から学んだ事」」『CITY HUNTER COMPLETE EDITON VOLUME:02』2003年12月15日発行、ISBN 4197802145、210頁</ref>。1988年、投稿作品『楓パープル』が第35回[[手塚賞]]に入選、漫画家としてデビューする。
週刊少年ジャンプ上で原作付きの初連載『カメレオンジェイル』やバスケの読み切り作品等を経て、1990年より『SLAM DUNK』を連載開始する。当時国内でのバスケットボールの人気度はさほどでなかったが、回を重ねる毎に人気を増し、やがて空前の大ヒットとなる。1993年にはアニメ化もされた。また、連載終了後10年を経た2006年には、文化庁によるアンケート企画「[[日本のメディア芸術100選]]」においてマンガ部門1位に選出されている。
1996年、6年間続いた『SLAM DUNK』が連載終了する。いくつかの小品を経て、1998年より『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』にて、[[吉川英治]]の小説『宮本武蔵』を原作とした『バガボンド』の連載を開始する。並行して1999年からは本人曰く「TVで観て興味を持った」[[車いすバスケットボール|車椅子バスケットボール]]を題材にした『リアル』の不定期連載を『[[週刊ヤングジャンプ]]』にて開始、2019年現在、バガボンドは休載中である。この2作品について井上は「漫画の先人が作り上げてきた『マンガ的な手法やマンガ的記号』を『バガボンド』では極力使わないようにし、逆に『リアル』ではそれらを最大限に発揮して描いている。」と語っている<ref>{{cite journal|和書|title=大特集 井上雄彦『リアル』|journal=ダ・ヴィンチ|year=2007|number=12月号|publisher=メディアファクトリー|ref={{sfnref|ダ・ヴィンチ|2007}}|pages=15-33}}</ref>。
== バスケットボールとの関わり ==
井上は中学までは[[剣道|剣道部]]で活動していたが、高校では球技を始めたかったことや剣道部に実兄がいて照れくさかったことなどからバスケットボール部に入部した。インタビューによれば当初はバスケットにそれほど興味を持っていたわけではなく、友達に誘われて「ふと入った」感じだった、と語っている。自身はそれほど背が高くなかったためガード的なポジションを務めることが多かったという<!-- ref name=SW1 -->{{sfn|今井|2002|pages=40-51}}。
漫画家を目指すようになってからは「とにかくバスケット」を描こうと決めており、当時バスケットを題材にした漫画はなかったため「(自分が描くまでは)誰もやらないでくれよ」と思っていたという<!-- ref name=AER/ --> {{sfn|朝日新聞社|2006 |pages=60-70}}。『SLAM DUNK』連載時にもバスケットボールチーム「TAKECHANS」を結成し[[ポイントガード]]を担った。また『SLAM DUNK』終了後は[[NHK衛星第1テレビジョン|BS1]]放送の[[NBA]]中継にゲストとして何度か出演している。
2004年頃から井上は「バスケットボールそのものに対しての感謝の気持ちを形にしたい」<ref>[https://web.archive.org/web/20101006095507/http://bj.shueisha.co.jp/interview_inoue/page01.html ビジネスジャンプ・井上雄彦インタビュー](2010年10月6日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>との思いからスポーツ[[奨学金]]の設立を構想、2006年に「[[スラムダンク奨学金]]」を設立した<ref>{{Cite web|和書|url=http://slamdunk-sc.shueisha.co.jp/about/index.html |title=奨学金について |accessdate=2023-07-11}}</ref>。バスケットボールのプロ選手を目指す日本の高校生を対象にアメリカの[[プレップスクール]](大学入学準備校)への留学を助け、プロスポーツ選手を目指す留学生も多い進学校での勉学の道を支えている。
ちなみに、『SLAM DUNK』において一部の登場人物の顔などは、自身の高校の部活仲間や大学のサークル仲間がモデルとなっている{{要出典|date=2021年4月}}。
== 年譜 ==
* 1988年 - 「楓パープル」で第35回[[手塚賞]]入選(本名の成合雄彦名義)、デビュー。
* 1989年 - 『[[週刊少年ジャンプ]]』にて「カメレオンジェイル」を連載。
* 1990年 - 『週刊少年ジャンプ』で「[[SLAM DUNK]]」連載開始(1996年まで。この連載と前後する形で現在の名義に変更)。
* 1996年 - [[スポーツ・アイ ESPN]]のサイト上にて「[[BUZZER BEATER]]」連載開始(1998年まで)。
* 1998年 - 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』にて「[[バガボンド]]」連載開始<ref>『バガボンド』[[吉川英治]](原作)、[[講談社]]〈モーニングKC ; 2340〉、2014年7月、第9版、{{ISBN2|9784063883404}}、{{全国書誌番号|22447565}}。</ref>。
* 1999年 - 『[[週刊ヤングジャンプ]]』にて「[[リアル (漫画)|リアル]]」連載開始<ref>『リアル』第14巻、[[集英社]]〈YOUNG JUMP COMICS〉、2014年12月、{{ISBN2|9784088900773}}、{{全国書誌番号|22510174}}。</ref>。
* 2008 〜 2010年 - 「[[バガボンド#井上雄彦 最後のマンガ展|井上雄彦 最後のマンガ展]]」を全国4都市で開催。
* 2010年 - 日本バスケットボール協会から特別表彰。
* 2014 〜 2015年 - 「特別展 ガウディ×井上雄彦-シンクロする創造の源泉-」を国内5か所で開催。
* 2022年 - 「[[THE FIRST SLAM DUNK]]」の監督・脚本を務める<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/440833 |title=「SLAM DUNK」アニメ映画の監督・脚本は井上雄彦、2022年秋公開へ |newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|映画ナタリー]] |publisher=ナターシャ |date=2021-08-13 |accessdate=2023-07-11}}</ref>。
=== 受賞歴 ===
* 1995年 - 第40回 [[小学館漫画賞]](『SLAM DUNK』)
* 1996年 - [[グッドデザイン賞]] 受賞
* 2000年 - 第4回 [[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門大賞(『バガボンド』)
* 2000年 - 第24回 [[講談社漫画賞]](『バガボンド』)
* 2001年 - 第5回 文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『リアル』)
* 2002年 - 第6回 [[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞(『バガボンド』)
* 2008年 - 第2回 ASIAGRAPH Award 受賞
* 2009年 - 文化庁[[芸術選奨新人賞]]
* 2012年 - [[平城遷都1300年記念アジアコスモポリタン賞]]文化賞 受賞
* 2023年 - [[第46回日本アカデミー賞|第46回]] [[日本アカデミー賞]]最優秀アニメーション作品賞(『THE FIRST SLAM DUNK』)、第36回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞]] 新人賞(『THE FIRST SLAM DUNK』』)<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202312270000671.html|title=【映画大賞】井上雄彦監督が新人賞「『スラムダンク』としての正解は何か…と夢中で探した結果」|newspaper=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2023-12-27|accessdate=2023-12-27}}</ref>
== 作品リスト ==
=== 連載作品 ===
; カメレオンジェイル(『[[週刊少年ジャンプ]]』[[集英社]]、1989年33号 - 44号)渡辺和彦原作
: 初連載作品。自在に姿を変化させる「危険請負人」カメレオン・ジェイルを主人公とした探偵もの。
; [[SLAM DUNK]](『週刊少年ジャンプ』集英社、1990年42号 - 1996年27号)
: 不良青年だった主人公・[[桜木花道]]が、高校バスケットボールの世界に入り活躍する様を描く代表作。桜木たちがインターハイに挑戦する半年間の1シーズンが6年をかけて描かれた。
; HANG TIME(『週刊少年ジャンプ』集英社、1993年45号 - 48号)
: [[ボブ・グリーン]]の『マイケル・ジョーダン物語』を原作にした作品。『SLAM DUNK』連載中に短期集中連載された。
; [[BUZZER BEATER]](『[[月刊少年ジャンプ]]』集英社、1997年2月号 - 1998年8月号)
: バスケットの「宇宙リーグ」の模様を描いたSF・バスケット漫画。1996年よりオンラインコミックとして連載されたのち『月刊少年ジャンプ』に連載。[[WOWOW]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]でアニメ化された。
; [[バガボンド]](『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』講談社、1998年40号 - )
: [[吉川英治]]の小説『[[宮本武蔵 (小説)|宮本武蔵]]』を原作とした作品。佐々木小次郎を聾啞者として描くなど、原作にはない独自の視点で描かれる場面も多い。長期休載を挟み2016年時点も不定期で連載中。
; [[リアル (漫画)|リアル]](『[[週刊ヤングジャンプ]]』集英社、1999年48号 - )
: [[骨肉腫]]によって片足を失った戸川清春、自分の起こしたバイク事故で同乗者に障害を負わせてしまった野宮朋美、交通事故で半身不随となった高橋久信を中心に[[車いすバスケットボール|車椅子バスケットボール]]の世界を描く作品。『週刊ヤングジャンプ』に不定期連載され単行本が年1巻のペースで刊行されている。
=== 短編作品 ===
; 楓パープル(『週刊少年ジャンプ』集英社、1988年32号)
: 第35回手塚賞に入選したデビュー作。バスケットボールを題材にしており、主人公の[[流川楓]]のほか、後に『SLAM DUNK』に登場することになるキャラクターの原型が表れている。
; 華SHONEN(『週刊少年ジャンプ』集英社、1988年42号)
: 演劇部を舞台にした、女の子のような美少年(『楓パープル』の流川楓を流用)と活発な女の子とのラブコメディ。
; JORDANみてーに(コミックス『カメレオンジェイル』第2巻描き下ろし、1989年)
: 高校バスケットの日本選抜を題材にした読み切り作品。
; 赤が好き(『週刊少年ジャンプ増刊』集英社、1990年サマースペシャル)
: 『SLAM DUNK』のパイロット版的短編作品。主人公・桜木の人物像のほか、『SLAM DUNK』の主要人物がほぼそのまま登場する。この作品の直後に『SLAM DUNK』の連載が開始された。
; BABY FACE(『週刊少年ジャンプ』集英社、1992年3・4合併号)
: 23歳の孤独な殺し屋を描いた読み切り作品。『SLAM DUNK』連載中に掲載された。
; ピアス(『週刊少年ジャンプ』集英社、1998年9号)
: 海沿いの街を舞台に、小学6年生の少年[[宮城リョータ|りょうた]]と少女あやこをめぐる読み切り作品。後に『週刊ヤングジャンプ』2001年49号にもアンコールとして掲載された。
; JUMP少年(『トカイモン―トウキョウワカモノブック』小学館、1999年)
; I LOVE THIS GAME(『[[Adidas MANGA FEVER]]』、2002年)
: サッカーを題材にした読み切り作品。
; 『リアル×リオパラリンピック』(集英社、2016年)
: リオデジャネイロパラリンピックを取材して出版<ref>『リアル×リオパラリンピック』チームリアル(編)、2016年。{{全国書誌番号|22840984}}、別題『Takehiko Inoue, na animação da Paralimpíada Rio 2016! : 井上雄彦、熱狂のリオへ』。</ref>。
=== イラスト・デザイン他 ===
* 1995年、[[アシックス]]とのコラボレーションによりバスケットボールシューズ “HIGH TIME” を発表、1996年[[グッドデザイン賞]]受賞<ref>[http://www.g-mark.org/award/describe/21772 HIGH TIME紹介ページ]</ref>
* 「第1回JBL男子トーナメント大会」ポスター描き下ろし(1996年)
* 「NBA解体新書」 カバーイラスト描き下ろし(1996年)
* 「NBA雑学バイブル」 カバーイラスト描き下ろし(1997年)
* 「FILA素人GAMES」ポスター描き下ろし(1997年)
* 資生堂「Aleph」CM演出(1998年)
* 「[[1on1]]」([[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ソフト)キャラクターデザイン&ストーリコンセプト(1998年)
* 資生堂「[[uno (化粧品)|uno]]」CM演出(2005年)
* 「[[PRIDE 男祭り 2005]]-ITADAKI-」 イラスト・題字<ref>[https://web.archive.org/web/20070625135749/http://www.prideofficial.com/events/otokomatsuri2005/ 男祭り2005公式サイト]</ref>
* 2005年、[[ユニクロ]]のTシャツデザインコンテスト「UTGP」に審査員として参加、同時に自身もコラボレーションTシャツをデザインした。なお大賞には漫画家・内藤曜ノ介による作品「親父超え」が選ばれている<ref>[https://web.archive.org/web/20080820054556/http://ut.uniqlo.com/utgp/about/award2005 UTGP2005][https://archive.is/Njndf]</ref>。
* 「[[ロストオデッセイ]]」([[Xbox 360]]用ソフト)メインキャラクターデザイン(2007年)
* 『薩摩のキセキ 日本の礎を築いた英傑たちの真実』(2007年、総合法令出版、西郷吉太郎・[[西郷隆文]]・大久保利泰・[[島津修久]]著)表紙イラスト
* 「[[隠し砦の三悪人]]」、描き下ろしポスター(2007年)
* 2007年11月、紀伊国屋書店[[ニューヨーク]]店オープン記念の壁画を制作。
* 同年11月、集英社と講談社の共同による『バガボンド』『リアル』のリミックス広告を実地。このうち読売新聞朝刊に掲載された広告が第12回読売出版広告大賞を受賞。
* 2008年から2010年まで東京・熊本・大阪・仙台を巡回し、自ら「最後」と銘打った「[[バガボンド#井上雄彦 最後のマンガ展|井上雄彦 最後のマンガ展]]」が開催された。
* 2009年9月15日 [[NHK総合テレビ]]・[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]「闘いの螺旋、いまだ終わらず〜漫画家・井上雄彦」。
* 2011年5月、[[ナイキ]]とのコラボレーションによりバスケットボールシューズ “NIKE AIR ZOOM BRAVE IV IT” と「ナイキ DRI-FIT IT ブカツ S/S Tシャツ」を発表。
* 2012年3月、[[エキサイト]]と共同でスマートフォンアプリ「Smile by Inoue Takehiko」を発表。ダウンロードは無料で、[[iOS]]と[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]に対応している。
* 同年5月、『空白』を出版<ref>『空白』スイッチ・パブリッシング〈SWITCH LIBRARY〉2012年5月。{{全国書誌番号|22101871}}。別題『SWITCH INTERVIEW Apr. 2010-Mar. 2012』</ref>。
* 2013年、[[式年遷宮]]に合わせて[[伊勢神宮]]に[[絵巻]]「承(しょう)」([[水墨画]])を奉納、全国巡回展示後、2016年4月27日 - 6月27日に[[豊受大神宮#現地情報|せんぐう館]]で公開された<ref>{{Cite web|和書|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/122500032/030900016/ |title=日経トレンディネット「漫画家・井上雄彦が伊勢神宮に奉納した墨絵が公開」|accessdate=2016年5月30日}}</ref>。
* 2015年10月24日、スケッチ集『[[円空]]を旅する』([[美術出版社]])発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankei.com/economy/news/151023/prl1510230048-n1.html|title=漫画家・井上雄彦が "お師匠さん" と呼んだ、江戸の修行僧「円空さん」とは何者か?|publisher=産経ニュース|date=2015-10-23|accessdate=2015-10-23}}</ref>。
* 2017年4月、三原カズトによる漫画『巻物ザムライ』(ふんわりジャンプ連載)の題字を担当。
=== 共著 ===
* 井上雄彦、伊藤比呂美『漫画がはじまる』スイッチ・パブリッシング、2008年6月。{{全国書誌番号|21439355}}。
* 冲方丁、井上雄彦(述)「描きながら考え、道が見えてくる」『にすいです。 : 冲方丁対談集』角川グループパブリッシング、2013年。{{全国書誌番号|22203192}}。
* チームリアル(編)『リアル×リオパラリンピック』集英社、2016年。{{全国書誌番号|22840984}}。別題『Takehiko Inoue,na animação da Paralimpíada Rio 2016! : 井上雄彦、熱狂のリオへ』。
== アシスタント経験者 ==
* [[原泰久]]<ref>[https://news.nicovideo.jp/watch/nw147059 「キングダム」アニメ化決定!井上雄彦×原泰久の師弟対談も | ニコニコニュース]</ref>
* [[立沢克美]]<ref>[https://magazine.yanmaga.jp/c/poncho ヤングマガジン公式サイト|WEBヤンマガ]</ref>
* 和泉雄己<ref>[https://twitter.com/inouetake/status/587528590700363776 井上雄彦 Inoue Takehiko(@inouetake)さん | Twitter]</ref>
* 三原和人(三原カズト)<ref>[https://twitter.com/inouetake/status/856362555391959044 井上雄彦 Inoue Takehiko(@inouetake)さん | Twitter]</ref><ref>[https://twitter.com/inouetake/status/905669618391433217 井上雄彦 Inoue Takehiko(@inouetake)さん | Twitter]</ref>
* 高島正嗣<ref>[https://twitter.com/inouetake/status/1001981766951940101 井上雄彦 Inoue Takehiko(@inouetake)さん | Twitter]</ref>
== 関連番組 ==
* [[BSマンガ夜話]](NHK BS2)- いずれも本人出演なし
** 『[[SLAM DUNK]]』[[1997年]][[1月7日]] - ゲストは[[古田新太]]、[[一条ゆかり]]
** 『[[リアル (漫画)|リアル]]』[[2009年]][[12月21日]] - ゲストは[[柴田淳]]、[[石井正則]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
主な執筆者の姓の50音順
* {{Cite book|和書|title=ニッポンのマンガ 手塚治虫文化賞10周年記念|year=2006|publisher=朝日新聞社(編)|ref={{sfnref|朝日新聞社|2006}} |pages=60-70}}
* {{cite journal|和書|author=今井栄一|title=INTERVIEW『スラムダンク』から『バガボンド』へ|journal=SWITCH|year=2002|volume=20 |number=3|publisher=スイッチ・パブリッシング|ref={{sfnref|今井|2002}}|pages=40-51|}}
* {{cite book|和書|author=ティム・リーマン|title=マンガマスター|publisher=美術出版社|year=2005|ref={{sfnref|リーマン|2005}}|pages=113-128}}
== 関連資料 ==
発行年順
* 『井上雄彦ぴあ:武蔵、熊本へ』〈ぴあmook〉2009年4月。{{全国書誌番号|21728147}}。
* 「『スラムダンク 完全版 全24巻』井上雄彦 集英社 2002年」『[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=man_view&id=2000019709 最近の中高校生の日常を描いた本のリスト/2000年~2010年発行で登場人物が中高校生もの]』神奈川県学校図書館員研究会、2011年7月13日、国立国会図書館〈レファレンス協同データベース〉。
* 中村トオル『井上雄彦100+1』東京:雷鳥社、2012年。別題『人生を変える信念の言葉』。{{ISBN2|9784844136354}}。
* 金益見『贈りもの』講談社、2012年、{{全国書誌番号|22176809}}。別題『安野モヨコ・永井豪・井上雄彦・王欣太ー漫画家4人からぼくらへ』。
* Casa BRUTUS特別編集『ガウディと井上雄彦』〈マガジンハウスムック〉、2015年。{{全国書誌番号|22552514}}。別題『THE GAUDÍ PILGRIMAGE WITH TAKEHIKO INOUE』。
* 山脇智子「井上雄彦『バガボンド』」『わたしが魅せられた漫画』清水正(監修)、日本大学芸術学部図書館、2015年、333頁。{{全国書誌番号|22646600}}。
* 辻惟雄、泉武夫、山下裕二、板倉聖哲(編集委員)「展示風景 井上雄彦(いのうえたけひこ)」『日本美術全集』小学館、2016年。
** 第四章 80「井上雄彦(いのうえたけひこ)最後(さいご)のマンガ展(てん)」
** 第四章 81「エントランス・スペース・プロジェクト」
== 外部リンク ==
* [https://itplanning.co.jp/ INOUE TAKEHIKO ON THE WEB]
* {{Instagram|inouetake88|井上雄彦 INOUE Takehiko}}
* {{Twitter|inouetake|井上雄彦 Inoue Takehiko}}
* [http://slamdunk-sc.shueisha.co.jp/ スラムダンク奨学金公式サイト]
{{SLAM DUNK}}
{{日刊スポーツ映画大賞新人賞}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いのうえ たけひこ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本のバスケットボールに関する人物]]
[[Category:鹿児島県出身の人物]]
[[Category:1967年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T17:18:57Z | 2023-12-27T11:27:09Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%9B%84%E5%BD%A6 |
1,853 | 泡坂妻夫 | 泡坂 妻夫(あわさか つまお、本名:厚川 昌男(あつかわ まさお)、1933年5月9日 - 2009年2月3日)は、日本の推理作家、小説家。東京府・東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。東京都立九段高等学校卒。
筆名の"泡"の旁は正しくは"己"ではなく"巳"。筆名は本名のアナグラムである。
東京・神田で「松葉屋」の屋号を持つ紋章上絵師(もんしょううわえし・和服に家紋を描き入れる専門の絵師)の家に生まれる。定時制で高校に通いながら約5年の会社勤めを経て、家業を継いで上絵師として働く。家業の傍ら幻影城新人賞に応募した短篇『DL2号機事件』が佳作入選して1976年に43歳で作家デビューした。なお、デビュー当初は、筆名の由来について質問されると、本名のアナグラムであることが恥ずかしくて説明できず、「家の近くは元、鈴木阿波守の下屋敷があったところで、その前の坂を阿波坂といいます、姓はその阿波坂をとり名の方は妻の姓「妻野」の一字をもらいました」という嘘の説明をしていたという。
その逆説を多用する作風から「日本のチェスタトン」と呼ばれた。また、劇中で用いられているトリックのタネを書籍自体に施した『しあわせの書』や、袋綴じされているページを切り開くと内容が変化する『生者と死者』など、紙媒体でしか成立しない仕掛けを施した、遊び心と技巧が一体となった作品がある。 文章中に繰り返し符号「々」を使用しないことが知られている。
作中で活躍する探偵役としては、亜愛一郎、曾我佳城、ヨギ ガンジー等。作品世界はすべて繋がっているらしく、ある作品の登場人物が別シリーズの作品にチラリと登場したり、時代小説にも先祖らしき人物が現れたりする。シリーズを終了させる際にパーティ場面を設定して、これまでの全主要人物が一堂に会する恒例のパターンなど、こまかな遊びがファンを喜ばせている。
また、泉鏡花文学賞を受賞した『折鶴』、直木賞を受賞した『蔭桔梗』などは、職人の世界を舞台にした「人情もの」小説である。このころになると、初期のオフビートな、ユーモラスな文体は、しっとりと情趣の濃いものに変化している。
奇術愛好家兼奇術師としても有名であり、1968年に第2回石田天海賞を受賞している。また、自身の名を冠した奇術の賞に厚川昌男賞がある。
作家活動と並行して家業の紋章上絵師の仕事も続け、その経験・知識から、家紋についての本も著している。
2009年2月3日、急性大動脈解離のため東京都内の病院で75歳で他界した。15年ぶりのシリーズ再開で、死の前日まで執筆した『ヨギ ガンジー、最後の妖術』が絶筆となった。 | [
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] | 泡坂 妻夫は、日本の推理作家、小説家。東京府・東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。東京都立九段高等学校卒。 筆名の"泡"の旁は正しくは"己"ではなく"巳"。筆名は本名のアナグラムである。 | {{出典の明記|date=2014年6月3日 (火) 05:06 (UTC)}}
{{画像提供依頼|顔写真|date=2022年10月|cat=人物}}
{{Infobox 作家
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{{読み仮名_ruby不使用|'''泡坂 妻夫'''|あわさか つまお|本名:'''厚川 昌男'''(あつかわ まさお)、[[1933年]][[5月9日]] - [[2009年]][[2月3日]]}}は、[[日本]]の[[推理作家]]、[[小説家]]。[[東京府]]・[[東京市]][[神田区]](現・[[東京都]][[千代田区]])出身。[[東京都立九段高等学校]]卒。
[[ペンネーム|筆名]]の"泡"の旁は正しくは"己"ではなく"巳"。筆名は本名の[[アナグラム]]である。
==経歴==
東京・神田で「松葉屋」の[[屋号]]を持つ[[家紋|紋章]]上絵師(もんしょううわえし・[[和服]]に[[家紋]]を描き入れる専門の[[絵師]])の家に生まれる。[[定時制]]で高校に通いながら約5年の会社勤めを経て、家業を継いで上絵師として働く。家業の傍ら[[幻影城新人賞]]に応募した短篇『DL2号機事件』が佳作入選して1976年に43歳で作家デビューした<ref>{{Cite news
|title=直木賞の泡坂妻夫さんが死去 紋章上絵師の顔も
|newspaper=[[47NEWS]]
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|agency=[[共同通信]]
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}}</ref>。なお、デビュー当初は、筆名の由来について質問されると、本名のアナグラムであることが恥ずかしくて説明できず、「家の近くは元、鈴木阿波守の下屋敷があったところで、その前の坂を阿波坂といいます、姓はその阿波坂をとり名の方は妻の姓「妻野」の一字をもらいました」という嘘の説明をしていたという<ref>{{Cite | 和書 | last = 泡坂 | first = 妻夫 | title = ミステリーでも奇術でも | publisher = [[文藝春秋]] | series = [[文春文庫]] | date = 1992-10-10 | isbn = 4-16-737807-8 | contribution = ペンネームの由来 | page = 188}}</ref>。
その逆説を多用する作風から「日本の[[ギルバート・ケイス・チェスタートン|チェスタトン]]」と呼ばれた。また、劇中で用いられているトリックのタネを書籍自体に施した『しあわせの書』や、袋綴じされているページを切り開くと内容が変化する『生者と死者』など、紙媒体でしか成立しない仕掛けを施した<ref>{{Cite web|和書
|date=2013-12-08
|author=瀧井朝世
|url=http://book.asahi.com/reviews/column/2013120800002.html
|title=しあわせの書―迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術 [著]泡坂妻夫 紙の本ならではのトリック
|work=BOOK.asahi.com
|publisher=[[朝日新聞社]]
|accessdate=2014-01-04
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140722232259/https://book.asahi.com/reviews/column/2013120800002.html
|archivedate=2014-07-22
}}</ref>、遊び心と技巧が一体となった作品がある。
文章中に繰り返し符号「々」を使用しないことが知られている<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www.sanseido.net/Main/Words/Patio/Article.aspx?ai=370c6d61-5c22-45fd-a1ae-9c757ff83b5f
|title=三省堂 Web Dictionary
|publisher=三省堂
|accessdate=2014-6-3 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304135809/http://www.sanseido.net/Main/Words/Patio/Article.aspx?ai=370c6d61-5c22-45fd-a1ae-9c757ff83b5f
|archivedate=2016-03-04
|deadlinkdate=2017-08-22
}}</ref>。
作中で活躍する探偵役としては、[[亜愛一郎]]、[[曾我佳城シリーズ|曾我佳城]]、ヨギ ガンジー等。作品世界はすべて繋がっているらしく、ある作品の登場人物が別シリーズの作品にチラリと登場したり、時代小説にも先祖らしき人物が現れたりする。シリーズを終了させる際にパーティ場面を設定して、これまでの全主要人物が一堂に会する恒例のパターンなど、こまかな遊びがファンを喜ばせている。
また、[[泉鏡花文学賞]]を受賞した『折鶴』、[[直木賞]]を受賞した『蔭桔梗』などは、職人の世界を舞台にした「人情もの」小説である。このころになると、初期のオフビートな、ユーモラスな文体は、しっとりと情趣の濃いものに変化している。
[[奇術]]愛好家兼奇術師としても有名であり、1968年に第2回[[石田天海賞]]を受賞している。また、自身の名を冠した奇術の賞に厚川昌男賞がある。
作家活動と並行して家業の紋章上絵師の仕事も続け、その経験・知識から、家紋についての本も著している。
2009年2月3日、急性[[大動脈解離]]のため東京都内の病院で75歳で他界した。15年ぶりのシリーズ再開で、死の前日まで執筆した『ヨギ ガンジー、最後の妖術』が絶筆となった<ref>{{Cite | 和書
| magazine = [[オール讀物]]
| last = 泡坂 | first = 妻夫
| title = 遺稿 ヨギ ガンジー、最後の妖術
| publisher = [[文藝春秋]]
| volume = 64 | issue = 4 | year = 2009 | month = 4
| pages = 413-418}}
のち『泡坂妻夫引退公演』(東京創元社、2012年)所収。なお、題名は『オール讀物』編集部が掲載にあたり便宜的につけたものであり、シリーズ完結作として執筆されたものではない。</ref>。
==受賞==
*1975年 - 『DL2号機事件』で第1回[[幻影城新人賞]]に佳作入選。
*1978年 - 『[[乱れからくり]]』で第31回[[日本推理作家協会賞]]を受賞。
*1982年 - 『喜劇悲奇劇』で第9回[[角川小説賞]]を受賞。
*1988年 - 『折鶴』で第16回[[泉鏡花文学賞]]を受賞。
*1990年 - 『蔭桔梗』で第103回[[直木三十五賞|直木賞]]を受賞。
==作品リスト==
===小説===
====亜愛一郎シリーズ====
*亜愛一郎の狼狽(1978年5月 幻影城ノベルス / 1981年11月 [[角川書店]] / 1985年3月 [[角川文庫]] / 1994年8月 [[創元推理文庫]])
*亜愛一郎の転倒(1982年7月 角川書店 / 1997年6月 創元推理文庫)
*亜愛一郎の逃亡(1984年12月 角川書店 / 1997年7月 創元推理文庫)
{{Main|亜愛一郎}}
====曾我佳城シリーズ====
*天井のとらんぷ(1983年6月 [[講談社ノベルス]] / 1986年8月 [[講談社文庫]])
*花火と銃声(1988年6月 講談社ノベルス / 1992年8月 講談社文庫)
*奇術探偵 曾我佳城全集(2000年7月 [[講談社]] / 2020年1月 創元推理文庫【上・下】)
**上2冊の合本+数編の短編(本シリーズの完結編となる短編を含む)
*奇術探偵 曾我佳城全集 秘の巻(2003年6月 講談社文庫)
*奇術探偵 曾我佳城全集 戯の巻(2003年6月 講談社文庫)
**『奇術探偵 曾我佳城全集』の分冊文庫化。収録順が単行本及び創元推理文庫版と異なっている。
{{Main|曾我佳城シリーズ}}
====ヨギ ガンジーシリーズ====
*ヨギ ガンジーの妖術(1984年1月 [[新潮社]] / 1987年1月 [[新潮文庫]] / 2018年6月 新潮文庫[改版]) ※連作短編集
*しあわせの書〜迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術(1987年7月 新潮文庫)
*生者と死者〜酩探偵ヨギ ガンジーの透視術(1994年10月 新潮文庫)
**泡坂妻夫引退公演(東京創元社)、泡坂妻夫引退公演 手妻篇(創元推理文庫)に「カルダモンの匂い」「未確認飛行原人」「ヨギ ガンジー、最後の妖術」の3篇収録。
====海方・小湊シリーズ====
*死者の輪舞(1985年5月 講談社 / 1989年1月 講談社文庫 / 1993年5月 [[出版芸術社]] / 2019年2月 [[河出文庫]])
*毒薬の輪舞(1990年4月 講談社 / 1993年9月 講談社文庫 / 2019年4月 河出文庫)
====宝引の辰捕者帳====
*鬼女の鱗(1988年3月 [[実業之日本社]] / 1992年2月 [[文春文庫]])
*自来也小町(1994年6月 [[文藝春秋]] / 1997年6月 文春文庫)
*凧をみる武士(1995年5月 [[日本放送出版協会]] / 1999年8月 文春文庫)
*朱房の鷹(1999年4月 文藝春秋 / 2002年7月 文春文庫)
*鳥居の赤兵衛(2004年8月 文藝春秋 / 2007年8月 文春文庫)
*織姫かえる(2008年8月 文藝春秋)
*夜光亭の一夜 宝引の辰捕者帳ミステリ傑作選(2018年8月 創元推理文庫)
**上記6冊から作品13編を再収録。[[末國善己]]編。
{{Main|宝引の辰捕者帳}}
====夢裡庵先生捕物帳====
*びいどろの筆(1989年2月 [[徳間書店]] / 1992年11月 [[徳間文庫]])
*からくり富(1996年5月 徳間書店 / 1999年7月 徳間文庫)
*飛奴(2002年10月 徳間書店 / 2005年1月 徳間文庫)
*夢裡庵先生捕物帳(2017年12月 徳間文庫【上・下】)
**上記の3冊を上下巻2冊に合本
====その他の長編====
*11枚のとらんぷ(1976年10月 幻影城ノベルス / 1979年8月 角川文庫 / 1988年11月 [[双葉文庫]] / 1993年5月 創元推理文庫 / 2014年6月 角川文庫)
*[[乱れからくり]](1977年12月 幻影城ノベルス / 1979年4月 角川文庫 / 1988年2月 双葉文庫 / 1993年9月 創元推理文庫 / 1996年10月 角川文庫 / 1997年11月 双葉文庫)
*[[湖底のまつり]](1978年11月 幻影城ノベルス / 1980年4月 角川文庫 / 1989年11月 双葉文庫 / 1994年6月 創元推理文庫)
*花嫁のさけび(1980年1月 講談社 / 1983年8月 講談社文庫 / 1999年7月 [[ハルキ文庫]] / 2017年11月 河出文庫)
*迷蝶の島(1980年12月 文藝春秋 / 1987年2月 文春文庫 / 2018年3月 河出文庫)
*喜劇悲奇劇(1982年5月 [[カドカワノベルズ]] / 1985年10月 角川文庫 / 1999年5月 ハルキ文庫 / 2010年1月 創元推理文庫)
*妖女のねむり(1983年7月 新潮社 / 1986年1月 新潮文庫 / 1999年4月 ハルキ文庫 / 2010年6月 創元推理文庫)
*花嫁は二度眠る(1984年4月 [[カッパ・ノベルス]] / 1989年4月 [[光文社文庫]])
*猫女(1985年12月 [[フタバノベルス]] / 1990年7月 双葉文庫)
*斜光(1988年7月 カドカワノベルズ / 1991年5月 角川文庫 / 2001年6月 [[扶桑社文庫]]※「斜光―昭和ミステリ秘宝」として長編「黒き舞楽」、短編「かげろう飛車」が併録されている)
*黒き舞楽(1990年3月 [[白水社]] / 1993年12月 新潮文庫 / 2001年6月 [[扶桑社文庫]]※上記の「斜光―昭和ミステリ秘宝」収録)
*旋風(1992年5月 [[集英社]] / 1995年2月 [[集英社文庫]])
*写楽百面相(1993年7月 新潮社 / 1996年9月 新潮文庫 / 2005年12月 文春文庫)
*弓形の月(1994年4月 [[双葉社]] / 1996年8月 双葉文庫)
*からくり東海道(1996年9月 [[光文社]] / 1999年6月 光文社時代小説文庫)
*春のとなり(2006年4月 [[南雲堂]])
====その他の短編集====
*煙の殺意(1980年11月 講談社 / 1984年10月 講談社文庫 / 2001年11月 創元推理文庫)
*ゆきなだれ(1985年2月 文藝春秋 / 1988年4月 文春文庫)
*ダイヤル7をまわす時(1985年12月 光文社 / 1990年4月 光文社文庫 / 2023年2月 創元推理文庫)
*妖盗S79号(1987年7月 文藝春秋 / 1990年6月 文春文庫 / 2018年1月 河出文庫)
*奇跡の男(1988年2月 光文社 / 1991年2月 光文社文庫 / 2018年5月 徳間文庫)
*折鶴(1988年3月 文藝春秋 / 1991年1月 文春文庫 / 2023年5月 創元推理文庫)
*蔭桔梗(1990年2月 新潮社 / 1993年3月 新潮文庫 / 2023年8月 創元推理文庫)
** 収録作品:増山雁金「小説新潮」昭和63年8月号 / 遺影「野生時代」平成元年10月号 / 絹針「小説新潮」昭和61年4月号 / 簪「小説新潮」昭和60年10月号 / 蔭桔梗「小説新潮」昭和62年10月号 / 弱竹さんの字「小説新潮」平成元年1月増刊号 / 十一月五日「小説新潮」昭和62年2月号 / 竜田川「小説すばる」昭和63年8月臨時増刊号 / くれまどう「週刊小説」昭和60年12月20日号 / 色揚げ「小説新潮」昭和61年10月号 / 校舎惜別「小説新潮」平成元年9月号
*砂のアラベスク(1990年10月 文藝春秋 / 1993年10月 文春文庫)
** 収録作品:砂のアラベスク「オール讀物」平成元年7月号 / ソンブラの愛「別冊文藝春秋」平成元年夏号 / 夜の人形「オール讀物」昭和62年9月号 / 裸の真波(まなみ)「別冊文藝春秋」平成2年秋号
*ぼくたちの太陽(1991年1月 光文社)
**【改題】雨女(1997年3月 光文社文庫)
** 収録作品:雨女(あめおんな)「小説宝石」昭和63年10月 / 蘭(らん)の女「別冊小説宝石」平成元年 / 三人目の女「小説宝石」平成2年10月 / ぼくたちの太陽「EQ」昭和63年11月 / 危険なステーキ「小説宝石」平成元年9月 / 凶手(きょうしゅ)の影「EQ」平成2年10月
*夢の密室(1993年8月 光文社 / 1998年3月 光文社文庫)
*恋路吟行(1993年10月 集英社 / 1997年5月 集英社文庫)
*泡坂妻夫の怖い話(1995年5月 新潮社 / 1998年7月 新潮文庫)
*砂時計(1996年12月 光文社 / 2000年3月 光文社文庫)
*[[亜智一郎の恐慌]](1997年12月 双葉社 / 2000年7月 双葉文庫 / 2004年1月 創元推理文庫)
*鬼子母像(1998年12月 [[祥伝社]] / 2003年2月 光文社文庫)
*比翼(2001年2月 光文社 / 2003年8月 光文社文庫)
*蚊取湖殺人事件(2005年3月 光文社文庫)
*揚羽蝶(2006年11月 徳間書店)
*トリュフとトナカイ(2006年11月 [[岩崎書店]])
*泡坂妻夫引退公演(2012年8月 [[東京創元社]])
**泡坂妻夫引退公演 絡繰篇(2019年4月 創元推理文庫)
**泡坂妻夫引退公演 手妻篇(2019年4月 創元推理文庫)
====厚川昌男名義の短編====
*東洲斎写楽(1952年3月「九段」第4号)
**「九段」は、都立九段高校第二部生徒会雑誌。泡坂氏が同校の高校3年時に書いたもの。
===小説以外の著作===
*秘文字(1979年2月 [[社会思想社]] / 1983年3月 社会思想社)
**3人の作家(泡坂と[[中井英夫]]・[[日影丈吉]])による書き下ろし短編の全文を、暗号化した作品集。1979年版では、暗号化以前の[[平文]](原文)は収録されていなかった。泡坂の提供作「かげろう飛車」の原文は、後に扶桑社文庫版「斜光」に収録された。
*トリック交響曲(1981年2月 [[時事通信社]] / 1985年3月 文春文庫)※エッセイ集
*魔術館の一夜(1983年2月 社会思想社 / 1987年5月 [[現代教養文庫]])※奇術ショートショート集
*[[ミステリーでも奇術でも]](1989年10月 文藝春秋 / 1992年10月 文春文庫)※エッセイ集
*家紋の話 上絵師が語る紋章の美(1997年11月 [[新潮選書]])※エッセイ
*泡亭の一夜(1999年10月 新潮社 / 2002年7月 新潮文庫)※新作落語集とエッセイ
*大江戸奇術考 手妻・からくり・見立ての世界(2001年4月 [[平凡社新書]])※奇術エッセイ集
*泡坂妻夫 マジックの世界(2006年12月 [[東京堂出版]])※創作マジック集
*卍の魔力、巴の呪力 家紋おもしろ語り(2008年4月 新潮選書)
===編纂===
*[[日本の名随筆]] 別巻7 奇術(1991年9月 [[作品社]])
==海外への翻訳==
=== アメリカ ===
* Fox's Wedding("Ellery Queen's Mystery Magazine"July/August 2021)-DL2号機事件
* The Card on the Ceiling("Ellery Queen's Mystery Magazine"November/December 2022)-天井のとらんぷ
===中国(簡化字)===
*{{lang|zh|幸福之书 : 侦探甘地的读心术}}(2012年5月、新星出版社)-しあわせの書〜迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術
*{{lang|zh|湖底的祭典}} (2013年3月、吉林出版集团有限责任公司)-湖底のまつり
*{{lang|zh|十一张牌}} (2013年4月、吉林出版集团有限责任公司)-11枚のトランプ
*{{lang|zh|失控的玩具}} (2013年4月、吉林出版集团有限责任公司)-乱れからくり
*{{lang|zh|奇术侦探曾我佳城・秘之卷}} (2013年6月、吉林出版集团有限责任公司)-奇術探偵 曾我佳城全集(秘の巻)
*{{lang|zh|奇术侦探曾我佳城・戏之卷}} (2013年6月、吉林出版集团有限责任公司)-奇術探偵 曾我佳城全集(戯の巻)
*{{lang|zh|荫桔梗}} (2013年7月、吉林出版集团有限责任公司)-蔭桔梗
*{{lang|zh|亚爱一郎的狼狈}} (2014年9月、吉林出版集团有限责任公司)-亜愛一郎の狼狽
===台湾(正体字)===
*{{lang|zh|蔭桔梗}} (1991年、皇冠文化、許珀理訳)-蔭桔梗
*{{lang|zh|失控的玩具}} (1999年、台灣英文雜誌社有限公司、刘子倩訳)-乱れからくり
*{{lang|zh|亞愛一郎的狼狽}} (2010年1月、獨步文化、王華懋訳、ISBN 9789866562433)-亜愛一郎の狼
*{{lang|zh|亞愛一郎的慌乱}} (2010年9月、獨步文化、王華懋訳、ISBN 9789866562655)-亜愛一郎の転倒
*{{lang|zh|亞愛一郎的逃亡}} (2011年4月、獨步文化、王華懋訳、ISBN 9789866562914)-亜愛一郎の逃亡
*{{lang|zh|11張撲克牌}} (2011年9月、獨步文化、王華懋訳、ISBN 9789866562990)-11枚のトランプ
*{{lang|zh|幸福之書:迷偵探約吉・甘地之心靈術}} (2010年10月、新雨出版社、張嘉芬訳、ISBN 9789862270752)-しあわせの書〜迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術
===大韓民国===
*{{lang|ko|아 아이이치로의 낭패}} (2010年7月、出版:シゴンサ(Sigongsa)、訳:[[クォン・ヨンジュ]]、ISBN 9788952758743) - 亜愛一郎の狼狽
==映像化作品==
===映画===
*[[乱れからくり#映画|乱れからくり]](1979年4月28日公開、配給:[[東宝]]、監督:[[児玉進]]、主演:[[松田優作]])
===テレビドラマ===
;[[テレビ朝日]]系
:*[[土曜ワイド劇場]]
:**映画スター殺人事件(1981年6月6日、主演:[[島田陽子]]、原作:花嫁のさけび)
:**花嫁のさけび(2008年4月5日、主演:[[浅野ゆう子]])
;[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系
:*[[火曜サスペンス劇場]]
:**[[乱れからくり#テレビドラマ|乱れからくり ねじ屋敷連続殺人事件]](1982年3月23日、主演:[[古城都]]、原作:乱れからくり)
:**猫に憑かれた花嫁(1987年8月4日、主演:[[泉ピン子]]、原作:猫女)
:**新婚 団地妻殺人事件(1990年6月26日、主演:[[山口智子]]、原作:飛んでくる声)
;[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]系
:*[[現代恐怖サスペンス]]
:**赤の追想(1988年7月25日、主演:[[樋口可南子]])
;[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]
:*[[木曜時代劇 (NHK)|金曜時代劇]]
:**[[宝引の辰捕者帳]](1995年3月31日 - 1995年8月18日、全21話、主演:小林薫)
;[[TBSテレビ|TBS]]系
:*[[月曜ドラマスペシャル]]
:**斜光(1998年6月22日、主演:[[名取裕子]])
;[[テレビ東京]]系
:*[[水曜ミステリー9]]
:**[[カメラマン亜愛一郎の迷宮推理]](2013年11月13日、主演:[[市川猿之助 (4代目)|市川猿之助]])
==出典==
<references/>
{{直木賞|第103回}}
{{泉鏡花文学賞|第16回}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あわさか つまお}}
[[Category:泡坂妻夫|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の推理作家]]
[[Category:日本の奇術師]]
[[Category:直木賞受賞者]]
[[Category:泉鏡花文学賞受賞者]]
[[Category:日本推理作家協会賞受賞者]]
[[Category:東京都立九段高等学校出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1933年生]]
[[Category:2009年没]] | 2003-02-15T17:24:41Z | 2023-12-13T15:39:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A1%E5%9D%82%E5%A6%BB%E5%A4%AB |
1,854 | ひおあきら | ひお あきら(氷魚 章、1950年〈昭和25年〉6月7日 - )は日本の漫画家、同人作家。本名は菅野 誠。
高校時代に同人作家として、三鷹市内の中学の同級生の細井雄二、田村仁、近藤雅人と同人グループ「ミュータントプロ」を結成し、同人誌『墨汁三滴』を作成。のちに、河あきら、すがやみつるが参加した。
『宇宙戦艦ヤマト』などのアニメ作品の漫画版で知られる。竹宮惠子の『地球へ...』では、メカニックデザインやメカニック関係の作画担当として協力を行っている。 | [
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] | ひお あきらは日本の漫画家、同人作家。本名は菅野 誠。 | {{存命人物の出典明記|date=2017年9月}}
'''ひお あきら'''(氷魚 章、[[1950年]]〈[[昭和]]25年〉[[6月7日]]<ref name="日本著作権協議会2001">{{Cite book |和書 |editor=日本著作権協議会 |date=2001-10 |title=著作権台帳 文化人名録 第26版 |publisher=日本著作権協議会 |page=1327 }}</ref> - )は日本の[[漫画家]]、同人作家。本名は'''菅野 誠'''{{R|日本著作権協議会2001}}。[[東京都]]出身{{R|日本著作権協議会2001}}。
== 人物 ==
高校時代に同人作家として、[[三鷹市]]内の中学の同級生の[[細井雄二]]、[[田村仁]]、[[近藤雅人]]と同人グループ「ミュータントプロ」を結成し、同人誌『[[墨汁一滴|墨汁三滴]]』を作成。のちに、[[河あきら]]、[[すがやみつる]]が参加した<ref>{{Cite book |和書 |author=すがやみつる |date=2011-08-18 |title= 仮面ライダー青春譜 |publisher=ポット出版 |pages=108 |chapter=第三章 マンガ家への道 |isbn=978-4-7808-0163-7}}</ref>。
『[[宇宙戦艦ヤマト]]』などのアニメ作品の漫画版<!--アニメ版よりも早く執筆・出版されるケースを考慮し、「漫画化」ではなく「漫画版」に-->で知られる。[[竹宮惠子]]の『[[地球へ…]]』では、メカニックデザインやメカニック関係の作画担当として協力を行っている。
== 作品リスト ==
* [[愛の戦士レインボーマン]](原作:[[川内康範]]、[[テレビランド]] 1973年創刊号 - )「菅野誠」名義
* [[マジンガーZ]](原作:[[永井豪]]、テレビランド 1973年9月号 - 11月号)
* [[鋼鉄ジーグ]](原作:永井豪、[[安田達矢]]、別冊テレビランド 1975年12月号)
* [[未来救助隊アスガード7]](原作:石ノ森章太郎、3年の科学 1975年4月号-1976年3月号)
* 宇宙戦艦ヤマト シリーズ{{refnest|group="注釈"|ひお版『ヤマト』漫画が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズのアメリカ版公式サイトで紹介されている<ref>[https://web.archive.org/web/20121010211839/http://www.starblazers.com/html.php?page_id=174 ''Space Battleship Yamato'': the Hio Manga](2012年10月10日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。同ページ下方の黄色リンクをクリックすると、一部のページを読むことが可能。}}
** [[宇宙戦艦ヤマト]]
** [[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]
** [[宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち]]
** [[ヤマトよ永遠に]]
** [[宇宙戦艦ヤマト 完結編]]
* [[正義のシンボル コンドールマン]]
* [[超電磁ロボ コン・バトラーV]](原作:[[八手三郎]]、テレビランド 1976年)
* [[オーディーン 光子帆船スターライト]]
* [[ジキル博士とハイド氏]]
* [[白鯨]]
* [[一握の砂]]
* [[三船久蔵]]
* 未来騎士シリーズ
** 人類と正義を護るべく、天才科学者たちが創造した未来騎士と呼ばれる人間そっくりの[[人造人間|アンドロイド]]たちの物語。だが、誕生した未来騎士たちは己の存在について疑問を抱いて行く。
** 連続したシリーズではなく、読み切り短編が中心の[[オムニバス]]。単行本は『未来騎士シリーズ』として[[東京三世社]]から1982年にA5判ハードカバーが出版された。
** 1980年段階でソ連の崩壊と中央アジア諸国が独立している未来を予測していた。
* [[サイレン戦記]]
** 水惑星サイレンへ地球からの巨大移民船「アンティリア」が飛来し、海底都市国家「アモーロート」を皮切りにサイレン全土への侵略を開始する。サイレンの水棲人類はアンティリアに立ち向かう。
** 舞台が海洋惑星なので、空戦以外の戦いは主に[[潜水艦]]戦である。第一部「アモーロート編」(月刊コミックペケ連載)、第二部「ストーム帝国編」(月刊OUT連載)があるが、未完に終わっている。
* [[サイレン戦士]]
** 水惑星サイレンが登場するが『サイレン戦記』とは無関係。こちらでは、サイレン人たちが要塞宇宙船で地球(20世紀末)へ飛来して侵略を開始する(週刊少年キング連載)。
** サイレン人の設定が『サイレン戦記』のサッキュバス皇子同様の雌雄同体の卵生水棲生物となり、主要兵器は海中戦闘用のロボット型有人[[機動兵器]]となった。
== メカデザイン担当作品 ==
* [[宇宙からのメッセージ]]
* [[光速電神アルベガス]]
* [[ここは惑星0番地]]
* [[ビデオ戦士レザリオン]]
** 主にG1、G2、G5など地球連邦側のメカを担当。
* [[地球へ…]]
** 当初はメカデザインだけではなく竹宮との合作になる予定だった<ref>『[[月刊OUT]]』S53年5月号P32インタビューでひお本人が語っている。</ref>。
== 師匠 ==
* [[石ノ森章太郎]]
== アシスタント ==
* [[しげの秀一]]
* [[阿乱レイ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ひお あきら}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:同人作家]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:1950年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T17:27:04Z | 2023-10-24T10:07:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%8A%E3%81%82%E3%81%8D%E3%82%89 |
1,855 | 聖日出夫 | 聖 日出夫(ひじり ひでお、1946年12月8日 - 2016年3月10日)は、日本の漫画家。
北海道札幌市出身。本名:米浜裕暁(よねはま・ひろあき)。北海道札幌南高等学校卒業。
大学を受験するために上京するが、失敗。そのまま東京に居続け、1968年『一発野郎』で漫画家としてデビューした。
代表作に『なぜか笑介』『だから笑介』。両作品とも主人公の大原笑介の仕事ぶりを描いたサラリーマン漫画。連載のほぼ毎回、上司の高山課長が「あんたは...だからねーッ!」などと言うのに対して、「ズッ」と斜め後ろ45度の方向にコケて終わるのが特徴的で、当時は他の漫画にパロディとして使われたりした。
谷山浩子のバックバンドでベースを務めたミュージシャンの弟がいる。
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] | 聖 日出夫は、日本の漫画家。 | {{出典の明記|date=2016年3月15日 (火) 14:47 (UTC)|ソートキー=人2016年没}}
{{Infobox 漫画家
| 名前 = 聖 日出夫
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| 脚注 = <!-- 画像の説明文 -->
| 本名 = 米浜 裕暁
| 生年 = [[1946年]][[12月8日]]
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| 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1946|12|8|2016|3|10}}
| 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 -->
| 国籍 = {{JPN}}
| 職業 = [[漫画家]]
| 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 -->
| 活動期間 = [[1968年]] - [[2016年]]
| ジャンル = [[少年漫画]]・[[青年漫画]]
| 代表作 = 『[[なぜか笑介]]』<br />『[[だから笑介]]』
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'''聖 日出夫'''(ひじり ひでお、[[1946年]][[12月8日]] - [[2016年]][[3月10日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。
== 人物 ==
[[北海道]][[札幌市]]出身。本名:'''米浜裕暁'''(よねはま・ひろあき)。[[北海道札幌南高等学校]]卒業。
大学を受験するために上京するが、失敗。そのまま東京に居続け、[[1968年]]『一発野郎』で漫画家としてデビューした。
代表作に『なぜか笑介』『だから笑介』。両作品とも主人公の大原笑介の仕事ぶりを描いたサラリーマン漫画。連載のほぼ毎回、上司の高山課長が「あんたは…だからねーッ!」などと言うのに対して、「'''ズッ'''」と斜め後ろ45度の方向にコケて終わるのが特徴的で、当時は他の漫画にパロディとして使われたりした。
[[谷山浩子]]のバックバンドでベースを務めたミュージシャンの弟がいる。
[[2016年]][[3月10日]]、[[胃がん]]のため死去<ref>[https://natalie.mu/comic/news/179736 「なぜか笑介」「だから笑介」の聖日出夫が逝去] コミックナタリー 2016年3月14日閲覧</ref>。69歳没。
== 作品リスト ==
漫画
* [[なぜか笑介]] - [[小学館]]『[[ビッグコミックスピリッツ]]』に連載、単行本全29巻。
* [[だから笑介]] - 『なぜか笑介』の続編、[[小学館]]『[[ビッグコミックスペリオール]]』に連載、単行本全22巻。
* 社長大原笑介 - 『だから笑介』の続編、[[小学館]]『[[ビッグコミックスペリオール]]』に連載、単行本全1巻。
* サンデーパパ - 小学館『[[ビッグコミック]]』にシリーズ読切、単行本全1巻。
* くのまち商店街 - 小学館『[[ビッグコミック]]』に連載、単行本全2巻。
* ステップ - 光文社『コミックBE! 』に連載、単行本全1巻。
* まんが世界食の祭典―北斗クンのイベント学入門 - 東急エージェンシー、1988年5月 ISBN 978-4924664487
* 大冒険・ラブ - 小学館『[[週刊少年サンデー]]』に連載(1972年33号~1972年37・38号)。
* ドクター・ジュン - 原作:[[佐々木守]]。小学館『[[週刊少年サンデー]]』に連載(1973年36号~1974年2号)。
* 試験あらし(テストあらし) - 小学館『[[週刊少年サンデー]]』に不定期連載、単行本全5巻。
* 野球虫 - 小学館『[[週刊少年サンデー]]』に連載、単行本全2巻。
* ホーム・ルーム - 小学館『週刊サンデー増刊号』に連載、単行本全3巻。
* 生徒ドンマイ - 小学館『[[少年ビッグコミック]]』に連載、単行本全15巻。
* ボクら退屈族 - 小学館『[[少年ビッグコミック]]』に連載、単行本全3巻。
* ツー・スリー - 小学館『小学四年生』に連載(1975年度)、単行本全1巻。
* 初恋ノート - 小学館『小学四年生』に連載(1976年度)。
* 人生二勝一敗(作・[[梶原一騎]]) - [[集英社]]『[[週刊少年ジャンプ]]』に連載。
* ハチ屋のベンケイ - 秋田書店『[[週刊少年チャンピオン]]』に連載。
* 浪漫くん - 秋田書店『[[週刊少年チャンピオン]]』に連載。
* おいら熱血くん! - 少年画報社『[[週刊少年キング]]』に連載(1972年14号~24号)。
* お勉強クラブ - 少年画報社『[[週刊少年キング]]』に連載(1976年44号~1977年19号)。
* アッジェ - リイド社『[[リイドコミック]]』に連載(?~1976年7月1日号)。
* 秘伝食伝 - 小学館『[[女性セブン]]』に連載(1985年~1986年)。
ビジネス書
* うっちゃって社員の勝ち!―ヤングサラリーマンに贈る「人間関係学」 - 情報センター出版局、1991年9月 ISBN 978-4795801554
* ザ・飲ミュニケーション―出世する酒しない酒 - メディアファクトリー、1993年7月 ISBN 978-4889913026
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:ひしり ひてお}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:北海道札幌南高等学校出身の人物]]
[[Category:札幌市出身の人物]]
[[Category:1946年生]]
[[Category:2016年没]] | null | 2023-04-23T21:46:57Z | false | false | false | [
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"Template:Manga-artist-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%97%A5%E5%87%BA%E5%A4%AB |
1,856 | VHS | VHS(ブイ・エイチ・エス、Video Home System:ビデオ・ホーム・システム)は、日本ビクター(現:JVCケンウッド)が1976年(昭和51年)に開発した家庭用ビデオ規格で、同社の登録商標(日本第1399409号ほか)である。
当初は記録方式を表現したVertical Helical Scan(バーチカル・ヘリカル・スキャン)の略称だったが、後にVideo Home System(ビデオ・ホーム・システム)の略称として再定義された。
VHSの特徴として、ビデオの規格を原則として変えないことがあり、発売当初録画されたテープは現在流通している最新機種でも再生できる。テープは幅が1/2インチのカセットタイプで、標準録画時間が2時間だった。この形は現在では当たり前となったが、開発当時のVTRにはテープのリールが1つだけのカートリッジタイプがあったり、テープ幅やカセットのサイズもさまざまだったり、と互換性のない規格が氾濫していた。
技術の進歩によりテープの長尺化が進んだ結果、DF480を利用したときの現在は240分が最長となった。また、規格の範囲を大きく逸脱しないかたちでの改良を続けており、高画質化技術のHQ(High Quality)やHi-Fiオーディオ対応、ビデオカメラ規格のVHS-C、水平解像度400本以上の高画質機種S-VHSとそのビデオカメラ規格S-VHS-C、衛星放送などのPCMデジタルオーディオを劣化なく記録できるS-VHS DA(DigitalAudio)、アナログハイビジョン対応のW-VHS、デジタル放送対応のD-VHSなど幅広く展開している。全ての規格においてVHSテープの再生は基本的には対応している。なお、S-VHSの登場後は従来のVHSを識別のため「ノーマルVHS」または「コンベンショナルVHS」と呼ぶ場合がある。なお、上位規格であるデジタル記録のD-VHSでは地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送などの無劣化記録が可能となっている。
ベータ、8ミリ、LD、VHDなどさまざまなメディアとの競争の結果、家庭用ビデオ方式としてデファクトスタンダードとなった。特に、DVD-Videoの普及以前は単に「ビデオ」といえば通常はVHSのことを指すものであり、関連企業も商品説明等でVHSの意でビデオという単語を用いていた(「ビデオ版とDVD版の内容は同一です」という表記や、VHSデッキを指して「ビデオデッキ」と称するなど)。
VHSのハードの普及台数は全世界で約9億台以上、テープに至っては推定300億巻以上といわれている。このことを称え、VHS規格発表から30周年の2006年(平成18年)にはIEEEによってVHSの開発が「電気電子技術分野の発展に貢献した歴史的業績」として『IEEEマイルストーン』に認定された。
1956年(昭和31年)に開発されたアンペックス社の業務用2インチVTRはNTSC方式をそのまま録画可能であったが、巨大なシステムであった。ヘリカルスキャン技術は1955年(昭和30年)に東芝が基本特許を出願。1959年(昭和34年)に放送用1ヘッドヘリカルスキャン方式VTRを東芝が発表。回転2ヘッドヘリカルスキャンは同年に日本ビクターが開発している。それ以降、各社は比較的コンパクトなオープンリール式のVTRを発売、全てヘリカルスキャン方式であったが、各社バラバラで統一規格は制定されていなかった。
松下電器・日本ビクター・ソニーの3社は家庭用VTRも見据え、テープがカセットに収められたビデオレコーダー(VCR)の統一規格(Uマチック)に合意。発売したが高価なこともあり、オープンリール式と同様に企業の研修用途や教育機関、旅館・ホテルの館内有料放送などが主な販売先だった。
家庭用VTR機器が本格的に普及する時代を狙い、ソニーが各社に規格統一を呼びかけ先行して開発・発売されたベータマックスが、Uマチックの小型化を目指して開発された経緯から録画時間の延長よりカセットの小型化を優先し、最長60分の録画時間でU規格と同等の操作性を確保すべく開発されたのに対し、ビクターは民生用途としての実用性を重視し、カセットが若干大きくなることを承知で録画時間を最長120分として基本規格を開発。またメカ構造もU規格にとらわれずより量産化に適した構造を目指し、家庭用VTRというコンセプトを明確にして開発・発売された。
先に発表・発売されたのはソニーのベータマックス(1号機・SL-6300)で、1975年(昭和50年)4月16日に発表、5月10日に発売されている。
ソニーは、松下電器(現在:パナソニック)にベータ方式への参加を要請したが、松下の態度は不鮮明であった。
「VHSの父」と呼ばれる高野鎭雄が松下幸之助に直訴した、という経過が流布されたり、映画のストーリーで登場するが、史実に基づく経過は、松下電器は当初からVHS採用に動いていた。1975年当時、日本ビクター社長には、松野幸吉(元松下電器東京支社長)が就任していた。1975年8月、ビクターがVHSの試作機を完成させた情報が松下電器へもたらされ、同月、松下中央研究所の菅谷部長らがビクター横浜工場を訪問し、VHS試作機を見学した。NHK総合テレビ『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の第2話では、1975年9月3日には松下幸之助がビクター横浜工場でVHS試作機を見学し、「ベータマックスは100点満点の製品だ、しかしこのVHSは150点だ」「ええもん造ってくれたな」と発言したと、試作機を覗き込む松下幸之助の写真つきで紹介されている。
1976年4月3日、ビクター横浜工場で、松下電器は松下幸之助相談役と稲井副社長、菅谷部長、ソニーは盛田会長、岩間社長、大賀副社長、木原専務、ビクターは松野社長、徳光副社長、高野事業部長が一同に会し、ベータ、VHS、VXを前にして初めて意見を交換した。VXは初めから問題にならず、VHSとベータとの長短が論じ合われた。佐藤正明著『映像メディアの世紀』によると、その後、松下幸之助相談役は「盛田さんがあまりにも熱心なので、もしかしたらベータマックスの方が良いのかと思って、ソニーの研究所も見せてもらったし、幸田の工場も見せてもらった。しかしわしの考えは変わらなかったな。」とも発言している。
1976年5月7日、ソニーの盛田会長は木原専務を伴って松下電器東京支社を訪れ、盛田だけが相談役室に通されて、松下相談役は「規格統一は何としてもせなあかん。そこでうちのビデオ事業部にベータマックスとVHSの双方かかる機械の開発を頼んでみたんやがダメやった。そこで盛田はんの言う通り、どこかの機械に統一するしか道はない。わしの見るところ、ベータマックスは百点や......わしの見るところVHSは百五十点や。仮に百二十点やったらビクターにベータを押し付けることもできるんやが......これだけ差がある以上どうにもならん。盛田はん、率直に言います。VHSの規格を採用してもらうという訳にはいかんやろうか」と発言した。「ご迷惑をおかけしました」盛田氏は返事をしない代わりに一礼して、相談役室を後にしたとされる。通商産業省が規格分裂に対し難色を示していたこともあり、松下幸之助氏が、ソニーへVHS採用を働きかけたが、ソニーが拒否していた。幸之助がVHSを選んだ決め手になったのは前述に挙げた理由の他に、VHSデッキのほうが軽かったこともあった。「ベータだと販売店の配送を待たなければならないが、VHSはギリギリ持ち帰れる重さで、購入者が自分で自宅に持ち帰りすぐ見られる」といった幸之助らしい基準だった。
1976年(昭和51年)10月31日、日本ビクターがVHS第1号ビデオデッキ(品番:HR-3300)を発売、当時の金額で定価25万6000円。留守番録画のできる時計内蔵の専用取付式タイマーは別売1万円で、VHSの録画テープも当初は120分が6000円となっていた。また、シャープ、三菱電機も当初は日本ビクターの第1号機をOEMで発売していた。翌1977年(昭和52年)1月よりビクターが現在のロゴの使用を開始したため、VHSの1号機であるHR-3300の最初期(1976年10月 - 12月)に生産されたロットは戦前から使ってきた(書体は微妙に違う)旧ロゴ(「VICTOR」ロゴ)をつけた唯一のデッキとなった。1977年1月生産・出荷分からは「Victor」ロゴに変更された。
1977年(昭和52年)には松下電器が普及型のVHSビデオデッキ「ナショナルマックロード」を発売し、VHSヒットのきっかけにもなった。
長時間録画のユーザーのニーズにも応えるため、1977年(昭和52年)に米国市場向けの2倍モード(LP)が、日本国内向け機器にも1979年(昭和54年)に3倍モード(EP)が開発され、幅広い機種に搭載された。また規格外ではあるが標準モードで2つの番組を同時に録画できる機種も存在しており、VTR普及期にはメーカーから様々な提案がなされた。その後は5倍モードも開発され一部の機種に搭載された。
1972年(昭和47年)に松下電器のビデオ事業部長になった谷井昭雄(元社長)によると、VHS普及の最大の山場は1977年2月のRCAとの提携だった。条件が付いて8月の出荷までに録音時間を2倍の4時間にすることも求められ、村瀬通三(元松下電器副社長)などの技術陣が達成した。松下電器ではOEM供給していたアメリカのRCAより、アメリカンフットボールの録画のためさらに長い録画時間が必要という要望があり、2倍(LP)モードをつけたVHSデッキを開発。OEM供給したが日本ビクターの了承を得ないものだった。VHS標準(SP)モードより画質・音質が低下し、さらにVHS規格の互換性からも外れる事から日本ビクターは松下電器の勝手なふるまいに怒り、2倍(LP)モード録画対応機種を絶対に日本国内で発売しないよう松下電器へ強く要請していた。日本国内のVHS陣営各社も、標準(SP)モードの2時間もあれば十分で、4時間録画の2倍(LP)モード採用には、日本国内にはアメリカンフットボールのような長時間録画需要が当時は無かったため否定的で、VHS規格の互換性からも外れているために採用する動きは無かった。
当初、VHSの音声トラックはテープの隅に固定ヘッドでモノラル録音するものだったが、その幅はコンパクトカセットより狭く、テープスピードは3/4だった。3倍モードではテープスピードが標準モードの1/3になり、S/N比の劣化(ヒスノイズの増加)および周波数特性の劣化が顕著となる。なおワウフラッターはビデオではテープ走行は同期の乱れとなるために厳格に管理されていた。上位機種では音声トラックをステレオ化していたこともあり、各メーカーでは少しでも高音質化すべくドルビーノイズリダクションシステム(ドルビーB)、dbxなどの音声信号の圧縮伸張処理技術を採用していたが、S/N比の劣化に対しては若干の改善が見られたものの周波数特性には対応できなかった。その時代のノーマル固定ヘッドでステレオ再生可能なデッキを現在、持っていないと、ノーマル音声でステレオ録音されたVHSテープをステレオで聴くことは当然だが不可能である。さらに問題なのがノーマル音声トラックに2ヶ国語の洋画を録画した場合であり、日本語と外国語が同時に再生される。当然のことながらスピーカーの左右バランスを調整しても解決はしない。
1983年(昭和58年)1983年3月、谷井昭雄と高野鎮雄、RCAのジャック・ソーター副社長の3人の写真が、当時の世界最大の国際週刊誌『タイム』の表紙を飾った。
同年4月、ソニーがステレオHi-Fi音声記録方式(ベータHi-Fi)を採用した「SL-HF77」を家庭用1/2インチビデオとしては世界で初めて発売した。ベータHi-Fiは従来ベータ機と輝度信号が4.4MHzから4.8MHzへ高域へのキャリアシフトも伴っており厳密な意味で互換性が失われたが、ベータHi-Fi録画されたテープを従来ベータ機で再生してもほとんど問題にならなかった。
ベータ陣営のHi-Fi化に対抗し、同年5月には松下電器が音声専用ヘッドを搭載し、磁性体への深層帯記録を使用し、ノーマルVHSと互換性のあるHi-Fiステレオオーディオ機能を追加した「NV-800」を発売。この機能はVHS Hi-Fiステレオ標準規格として採用された。松下の独自規格によるVHS Hi-Fi機「NV-800」はHi-Fi音声トラックの信号処理にdbxを使っていた。「NV-800」が採用したHi-Fi音声の磁性体への深層帯記録を用いたHi-Fi方式をVHS規格化するにあたりdbx、ドルビー社のライセンス料回避のため、両社の特許に抵触しない信号処理技術が開発され採用された。そのため「NV-800」で録画されたビデオカセットを、ビクター「HR-D725」以降発売された正式なVHS Hi-Fi規格ビデオデッキで再生すると、厳密には正式なVHS Hi-Fi規格との互換性が無いため、音声が多少歪む可能性がある。
同年秋には、ビクターから初めて正式なVHS Hi-Fi規格に対応した「HR-D725」が発売されている。このD725などの機種は前述のノーマル音声方式での録画・再生も可能でドルビーBにも対応していた。ダイナミックレンジは当初80dB以上、1986年(昭和61年)以降の機種ではCDの音声のダイナミックレンジとほぼ同等の90dB以上に向上した。周波数特性は20 - 20,000 Hzと、こちらもCDの音声の周波数特性とほぼ同等である。
これにともない、ノンHi-Fiのステレオ機器は1980年代には生産終了した。ノンHi-Fiのステレオ音声に対応した最末期のモデルとしては1988年発売のHi-fiおよびS-VHS対応機『HR-S10000』(ビクター)などがあった。国内メーカーによるノンHi-FiのモノラルVCRは単体機は1990年代後半に生産を終了。テレビデオはしばらくノンHi-Fi機の生産が続いたが、2000年代初頭には終了した。
1992年(平成4年)に高野鎮雄が68歳で死去したとき、VHSビデオデッキの普及台数は3.7億台であった。
2008年(平成20年)、日本ビクターの初代VHSデッキ「HR-3300」が、国立科学博物館の定めた重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第0020号に登録された。
2016年(平成28年)、船井電機(日本国内では後に「DX BROADTEC」ブランドとして展開)が7月末日をもってVHSビデオテープレコーダーの生産を終了。VHSビデオテープに関しては複数メーカーが引き続き生産・販売している。主な理由として、一般家庭での編集や再生、小売量販店などの防犯カメラに使われているケースが多く、そのような顧客のニーズに応えるためである。
2021年(令和3年)、アットアイデアは2026年(令和8年)を目処にVHSテープの非接触再生が可能なビデオデッキの開発・販売を目指していることを発表した。
VHSは、1975年(昭和50年)にソニーが開発・発売した家庭用ビデオベータマックスの対抗規格として脚光を浴びた。約10年間も続いた規格争い(ビデオ戦争)を制してVHSが生き残った。その要因としてはいくつかある。
ビデオソフトのシェアは、1980年にVHSがベータを上回った。1989年(平成元年)頃まではメーカーはVHSとベータを併売していた(一部メーカーは8mmビデオソフトも供給)が、ベータファミリーが崩壊し各社がVHSへと移行した。ソニーも1988年(昭和63年)にVHS/Beta/8mmビデオデッキを併売するようになり、ベータは市場シェアを徐々に落としたことから、ビデオソフトメーカーはビデオソフトをVHSのみで発売するようになり、レンタルビデオ店でもVHSが標準となった。家電量販店などでもビデオデッキはVHSやS-VHSが主流となった。より高画質を求めたベータユーザーはベータソフト供給打ち切り前後を境にレーザーディスク(LD)へと流れて行った。
セルビデオやレンタルビデオのソフトの再生互換性を鑑みて、各社独自仕様のVHSビデオデッキの発売は基本的には許されなかったが、1996年にシャープがダブルチューナを搭載し同時二番組録画・再生対応した「VC-BF80」を発売した。同時二番組録画・再生はVHS方式には規格されておらずVHS方式とは互換性が無く、当該機種で録画されたテープはシャープ製を含め他社VHS機種での再生も当然不可能であった。S-VHS搭載機でも、VHSの録画・再生は可能である。
ベータでは、βI・βIs(5.6 MHz Hi-Band)・βIsSHB(6.0 MHz Hi-Band)・βII(X2)・βIII各モード、Hi-BandBeta(5.6 MHz/βII・βIII)、BetaHi-Fi、ED-Betaなどの規格があったが、VHSはSP(標準)・LP(2倍/日本国内仕様では再生のみ対応)・EP(3倍)、VHSHi-Fi、S-VHSの、録画スピード2種類、映像信号2種類、Hifi信号重畳の有無、の簡素な組み合わせとなっていた。末期には S-VHS-ET、S-VHSDigitalAudio、W-VHS、D-VHSが乱立したが、初号機HR-3300以来のVHS標準モードで録画されたテープは、最終生産機でも再生できた。ベータは初期の標準モード・βIモード専用機種等では、後に開発された長時間モードや高画質・高音質規格で録画されたテープが再生できない環境にあった。VHSではテープカートリッジを小型化した VHS-C、S-VHS-C規格があったが、アダプターを介して据え置き型レコーダーで録画再生が可能であった。
ベータのビデオソフトではハイグレードテープを使用して、磁気保磁力が強い総メタルテープのマスターをスレーブのテープに超高速磁気転写プリントする方式をソニーが1980年代に開発したが、商業的には成功しなかった。VHSでは、画質劣化の少ない等速でのソフトウェア生産作業のために、幅広ヘッド搭載のダビング専用機が発売された。ベータ、VHSともにLDやVHD等のビデオディスクよりも高価なビデオソフト価格であった。1990年代に入り、OTARIがTMD高速熱転写方式による「T-710ビデオ・デュプリケーター」を開発し、VHS・SP(標準)モードで300倍速の高速プリントを実現しソフト製造の高速化が図られたが、同装置は単価の高いクロームテープを使用、販売台数はわずかであった。いずれにしてもビデオソフトの低価格化が進んだ。
VHS対ベータ戦争の火ぶたが切られたとき、ビクターはVHSファミリーの中で技術的問題や生産能力でまだVHSデッキを製造できないメーカーにOEM供給していた。ときには自社ブランドよりOEM供給向けの生産を優先していたこともあるという。それは様々なメーカーで販売することにより他社の販売網を活用できる上、VHSが多数派であるという印象を持たせる狙いもあったと言われる。なお、ソニーもベータファミリー各社の生産体制が整わないうちには自社製品をOEM供給していた。
VHS対ベータ戦争では負けたといわれるソニーだが、VHSで使われる技術にもソニーの保有する特許が多数使われているため、少なからぬライセンス収入があった。これは1969年(昭和44年)のU規格策定時にソニー/日本ビクター/松下電器の3社が結んだクロスライセンス契約が関係している。
両方式の基本的な記録方式である、回転2ヘッドヘリカルスキャン記録は日本ビクターの特許であり、ベータ長時間化での信号処理技術は日本ビクターの特許であった。ソニーはUテープローディング技術を始めとする非常に多数のVTR特許技術を保有していたが、VHSはMローディングであり日本ビクターの特許であった。しかし色差信号漏話除去はソニーの特許のため、ソニーとクロスライセンスを契約を結んでいなかった日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機などのVHS陣営各社がVHSビデオデッキを発売した際、ソニーと特許利用契約を結ぶ必要があった。また、磁性材料から含め約28,000件にも達するビデオカセットテープに関する特許技術もソニーがほぼ掌握しており、ソニーとクロスライセンス契約を結んだ松下電器、日本ビクターはVHS方式発売当初、自社によるビデオカセットテープ生産設備を保有をしていなかったため、TDK・富士フイルム・住友スリーエムなどからのOEM供給で凌いでいた。ソニーと特許利用契約を結んだ日立製作所は日立マクセルのOEM供給によりVHSビデオカセットテープを発売。1978年(昭和53年)にソニーがクロスライセンス契約を結んでいないテープメーカーに対しても有償で特許を公開する方針としたため、テープメーカーが独自でVHSおよびBetaビデオカセットテープの発売が可能となった。
ビデオ戦争の末期には、ソニー製のVHSビデオデッキを望む声が市場から上がっていた。このことがソニーがVHS方式に参入する一つのきっかけとなっており、VHS・ベータ・8ミリのフルラインナップで「VTRの総合メーカー」を目指す方針に転換した。1988年(昭和63年)にソニーがVHS方式へ参入した際、障壁となるものは全くなかった。松下電器・日本ビクターとはクロスライセンス契約を結んでいたため、VHS参入時、松下電器・日本ビクターへVHS発売の了解を得る必要性すらなかった。実際、Uローディング準じた機構を採用したデッキでは「マッハドライブ」の愛称で出画時間の速さを売り物に宣伝するなど、自社の保有する特許を相当活用していた。
また、当時ソニーの子会社だったアイワ(初代法人)は親会社に先行してVHSに参入していた。最終的な販売台数は、VHS約9億台、ベータ約3500万台とされている。
1976年からテレビなどの録画媒体として使用されるVHSであったが、2000年代に入るとDVDやハードディスクレコーダ、パソコンの普及、高精細テレビ放送やBlu-ray Discの登場、多くの国でのデジタルテレビ放送の開始といった「デジタル時代」「ハイビジョン時代」の中で、それに対応できないVHSカセットやVHS単体機は次第に売れなくなっていった。デジタルレコーダーとの複合機も、過去のライブラリーをデジタル化することに重点が移り、テレビ番組の録画ができないタイプのものが増えた。
アナログ磁気テープはデジタルメディアに対して音・画質共に悪いうえに劣化が著しく、頭出しや巻き戻しも面倒で、再生装置も巨大になる。VHSの場合水平解像度が240本とアナログテレビ放送の330本より低い。画質面は、1987年に高画質版VHSであるS-VHS、1999年にはデジタル録画対応VHSであるD-VHSが発売されるもデッキが高価であり、同年にパイオニア(ホームAV機器事業部。現在:オンキヨーテクノロジー/ティアック)がDVDレコーダーを発表したこともありそれほど普及しなかった。また、DVDの普及に一役買ったのが、かつてのライバル・ソニーの関連会社であるソニー・コンピュータエンタテインメント(現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の家庭用ビデオゲーム機であるPlayStation 2であった。
こうした状況も重なり、日本ビクターは2007年(平成19年)5月30日、経営不振による事業再建策として、VHSビデオ事業からの撤退・清算を発表した。2008年(平成20年)1月15日にS-VHS単体機を全機種生産終了したと発表し、同年10月27日にはVHS方式単体機の生産を終了した。
ビクターの撤退により、日本国内メーカーのVHSビデオ単体機の製造は船井電機(以下、フナイ)のみとなったが、やがてフナイも完全撤退した。以降はDVD、HDDなどの複合機として展開されていたが、大幅に縮小された。
各社はテレビの完全デジタル化を考慮し、販売の主力をHDD併用のブルーレイレコーダーに移したことで、次第に商品ラインナップは縮小し、これにあわせ録画用ビデオテープから撤退する事業者も相次いだことで、現在はほぼ市場から消滅している。S-VHS用テープは既に販売終了となっており、2014年12月末で日立マクセル(現在:マクセル)も生産終了。2015年2月にはTDK(←イメーション〈現在:グラスブリッジ・エンタープライゼス〉のTDK Life on Recordブランド)も生産終了となり、2015年6月には録画用テープの在庫切れが目立ってきた。
2010年代に入っても、VHS一体型のDVDレコーダーないしBDレコーダーが製造されていたが、各社とも2011年末までに生産完了となった。2011年末までVHS一体型のDVDレコーダーを発売していたのは、フナイと当時の子会社DXアンテナ以外ではパナソニックのDIGA「DMR-XP25V」(パナソニック自社生産)と東芝「D-VDR9K」(フナイのOEM)であった。2012年2月10日、パナソニックが「VHSデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表した。
その後もビデオ判定など一部で使われていたが、2012年5月19日には横浜スタジアムで開催された横浜DeNAベイスターズ対千葉ロッテマリーンズでは、アレックス・ラミレスの本塁打性の飛球の判定に家庭用VHSデッキが使用され、映像では本塁打であることがわからなかったためにファウルと判定されたケースがあり物議を醸した。
2016年4月時点で新品として流通していたVHSデッキ(録画再生機・再生専用機)は以下の通り。
全機種がフナイのOEM。2016年7月末には部品の調達が困難となったため、全機種生産終了となった。
VHSが普及するにつれ量産効果が上がり、テープ価格が大幅に値段を下げた。オープンリールを多用していたコンピュータ業界はテープの安さからデータカートリッジとしての利用を推し進めた。富士通などは大型コンピュータの補助記憶装置として用い、数百本のVHSテープを筐体内ラックに納め、コンピューター制御によりジュークボックスさながらのオートローディングを行わせ大型磁気ディスク装置のバックアップ装置として活用した。この際使用したテープは市販のビデオ用テープと同じ規格の物を使用した。
「PCMプロセッサー」(ソニーSONY PCM-501ESなど)を使い、音楽CD等のデジタル音声信号を75Ωのコンポジットビデオ信号に変換し、PCMオーディオレコーダー(デジタルオーディオレコーダー)として活用することができた。記録時間は通常のVHSの長さと同じで三倍モードにも対応した(ただし、後発の5倍モードへの対応に関しては不明)。
1991年(平成3年)、米ALESIS社がS-VHSテープに8トラックのデジタル録音を可能にしたMTR、ADAT(ALESIS DIGITAL AUDIO TAPE)を発売。機器ばかりでなくメディアも安価、かつ、16台までの同期動作も可能ということで、中小のスタジオやホームスタジオで急速に広まった。いくつかのメーカーから互換機も発売されるなど、この規格は一定の普及を見、adat(エーダット)として、Hi8テープに同様の録音ができるティアック社のDTRS規格とともに、ユーザーの根強い支持を得ている。
初期の機種ではデジタルがゆえに事前にフォーマット作業が必要だった(後に録音と同時フォーマットが可能になる)。120分の録画テープに対し、約41分の録音が可能。デジタル記録はヘッドとの物理的接触などによる損耗に弱いため、ベース・フィルムを強化したADATロゴ入りの推奨S-VHSテープも存在する。当初のTypeIフォーマットでは、サンプリングレートは44.1kHzや48kHz、サンプリングビット16bitsであったが、後のTypeIIフォーマットで24bitsにも対応した。さらに、1チャンネルにつき通常の2トラック分を使って96kHzの記録・伝送を実現するS/MUXという規格もある。 一方、デジタル入出力インターフェイスは、これも普及している角型オプティカル(TOS-Link)のジャックとケーブルを用いて、8チャンネルまでの同時伝送が可能なものを搭載していた(ADAT Optical Interface:こちらも後にレコーディング機器のディジタル入出力用として一定の地位を築いた)。もちろん、民生機で広く普及しているデジタル音声インターフェイスであるS/PDIFとは、論理フォーマット上の互換性はない。 | [
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"text": "VHS(ブイ・エイチ・エス、Video Home System:ビデオ・ホーム・システム)は、日本ビクター(現:JVCケンウッド)が1976年(昭和51年)に開発した家庭用ビデオ規格で、同社の登録商標(日本第1399409号ほか)である。",
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"text": "当初は記録方式を表現したVertical Helical Scan(バーチカル・ヘリカル・スキャン)の略称だったが、後にVideo Home System(ビデオ・ホーム・システム)の略称として再定義された。",
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"text": "VHSの特徴として、ビデオの規格を原則として変えないことがあり、発売当初録画されたテープは現在流通している最新機種でも再生できる。テープは幅が1/2インチのカセットタイプで、標準録画時間が2時間だった。この形は現在では当たり前となったが、開発当時のVTRにはテープのリールが1つだけのカートリッジタイプがあったり、テープ幅やカセットのサイズもさまざまだったり、と互換性のない規格が氾濫していた。",
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"text": "技術の進歩によりテープの長尺化が進んだ結果、DF480を利用したときの現在は240分が最長となった。また、規格の範囲を大きく逸脱しないかたちでの改良を続けており、高画質化技術のHQ(High Quality)やHi-Fiオーディオ対応、ビデオカメラ規格のVHS-C、水平解像度400本以上の高画質機種S-VHSとそのビデオカメラ規格S-VHS-C、衛星放送などのPCMデジタルオーディオを劣化なく記録できるS-VHS DA(DigitalAudio)、アナログハイビジョン対応のW-VHS、デジタル放送対応のD-VHSなど幅広く展開している。全ての規格においてVHSテープの再生は基本的には対応している。なお、S-VHSの登場後は従来のVHSを識別のため「ノーマルVHS」または「コンベンショナルVHS」と呼ぶ場合がある。なお、上位規格であるデジタル記録のD-VHSでは地上デジタル放送・BSデジタル放送・CSデジタル放送などの無劣化記録が可能となっている。",
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"text": "ベータ、8ミリ、LD、VHDなどさまざまなメディアとの競争の結果、家庭用ビデオ方式としてデファクトスタンダードとなった。特に、DVD-Videoの普及以前は単に「ビデオ」といえば通常はVHSのことを指すものであり、関連企業も商品説明等でVHSの意でビデオという単語を用いていた(「ビデオ版とDVD版の内容は同一です」という表記や、VHSデッキを指して「ビデオデッキ」と称するなど)。",
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"text": "VHSのハードの普及台数は全世界で約9億台以上、テープに至っては推定300億巻以上といわれている。このことを称え、VHS規格発表から30周年の2006年(平成18年)にはIEEEによってVHSの開発が「電気電子技術分野の発展に貢献した歴史的業績」として『IEEEマイルストーン』に認定された。",
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"text": "1956年(昭和31年)に開発されたアンペックス社の業務用2インチVTRはNTSC方式をそのまま録画可能であったが、巨大なシステムであった。ヘリカルスキャン技術は1955年(昭和30年)に東芝が基本特許を出願。1959年(昭和34年)に放送用1ヘッドヘリカルスキャン方式VTRを東芝が発表。回転2ヘッドヘリカルスキャンは同年に日本ビクターが開発している。それ以降、各社は比較的コンパクトなオープンリール式のVTRを発売、全てヘリカルスキャン方式であったが、各社バラバラで統一規格は制定されていなかった。",
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"text": "松下電器・日本ビクター・ソニーの3社は家庭用VTRも見据え、テープがカセットに収められたビデオレコーダー(VCR)の統一規格(Uマチック)に合意。発売したが高価なこともあり、オープンリール式と同様に企業の研修用途や教育機関、旅館・ホテルの館内有料放送などが主な販売先だった。",
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"text": "家庭用VTR機器が本格的に普及する時代を狙い、ソニーが各社に規格統一を呼びかけ先行して開発・発売されたベータマックスが、Uマチックの小型化を目指して開発された経緯から録画時間の延長よりカセットの小型化を優先し、最長60分の録画時間でU規格と同等の操作性を確保すべく開発されたのに対し、ビクターは民生用途としての実用性を重視し、カセットが若干大きくなることを承知で録画時間を最長120分として基本規格を開発。またメカ構造もU規格にとらわれずより量産化に適した構造を目指し、家庭用VTRというコンセプトを明確にして開発・発売された。",
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"text": "先に発表・発売されたのはソニーのベータマックス(1号機・SL-6300)で、1975年(昭和50年)4月16日に発表、5月10日に発売されている。",
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"text": "ソニーは、松下電器(現在:パナソニック)にベータ方式への参加を要請したが、松下の態度は不鮮明であった。",
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"text": "「VHSの父」と呼ばれる高野鎭雄が松下幸之助に直訴した、という経過が流布されたり、映画のストーリーで登場するが、史実に基づく経過は、松下電器は当初からVHS採用に動いていた。1975年当時、日本ビクター社長には、松野幸吉(元松下電器東京支社長)が就任していた。1975年8月、ビクターがVHSの試作機を完成させた情報が松下電器へもたらされ、同月、松下中央研究所の菅谷部長らがビクター横浜工場を訪問し、VHS試作機を見学した。NHK総合テレビ『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の第2話では、1975年9月3日には松下幸之助がビクター横浜工場でVHS試作機を見学し、「ベータマックスは100点満点の製品だ、しかしこのVHSは150点だ」「ええもん造ってくれたな」と発言したと、試作機を覗き込む松下幸之助の写真つきで紹介されている。",
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"text": "1976年4月3日、ビクター横浜工場で、松下電器は松下幸之助相談役と稲井副社長、菅谷部長、ソニーは盛田会長、岩間社長、大賀副社長、木原専務、ビクターは松野社長、徳光副社長、高野事業部長が一同に会し、ベータ、VHS、VXを前にして初めて意見を交換した。VXは初めから問題にならず、VHSとベータとの長短が論じ合われた。佐藤正明著『映像メディアの世紀』によると、その後、松下幸之助相談役は「盛田さんがあまりにも熱心なので、もしかしたらベータマックスの方が良いのかと思って、ソニーの研究所も見せてもらったし、幸田の工場も見せてもらった。しかしわしの考えは変わらなかったな。」とも発言している。",
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1977年(昭和52年)には松下電器が普及型のVHSビデオデッキ「ナショナルマックロード」を発売し、VHSヒットのきっかけにもなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "長時間録画のユーザーのニーズにも応えるため、1977年(昭和52年)に米国市場向けの2倍モード(LP)が、日本国内向け機器にも1979年(昭和54年)に3倍モード(EP)が開発され、幅広い機種に搭載された。また規格外ではあるが標準モードで2つの番組を同時に録画できる機種も存在しており、VTR普及期にはメーカーから様々な提案がなされた。その後は5倍モードも開発され一部の機種に搭載された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1972年(昭和47年)に松下電器のビデオ事業部長になった谷井昭雄(元社長)によると、VHS普及の最大の山場は1977年2月のRCAとの提携だった。条件が付いて8月の出荷までに録音時間を2倍の4時間にすることも求められ、村瀬通三(元松下電器副社長)などの技術陣が達成した。松下電器ではOEM供給していたアメリカのRCAより、アメリカンフットボールの録画のためさらに長い録画時間が必要という要望があり、2倍(LP)モードをつけたVHSデッキを開発。OEM供給したが日本ビクターの了承を得ないものだった。VHS標準(SP)モードより画質・音質が低下し、さらにVHS規格の互換性からも外れる事から日本ビクターは松下電器の勝手なふるまいに怒り、2倍(LP)モード録画対応機種を絶対に日本国内で発売しないよう松下電器へ強く要請していた。日本国内のVHS陣営各社も、標準(SP)モードの2時間もあれば十分で、4時間録画の2倍(LP)モード採用には、日本国内にはアメリカンフットボールのような長時間録画需要が当時は無かったため否定的で、VHS規格の互換性からも外れているために採用する動きは無かった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "当初、VHSの音声トラックはテープの隅に固定ヘッドでモノラル録音するものだったが、その幅はコンパクトカセットより狭く、テープスピードは3/4だった。3倍モードではテープスピードが標準モードの1/3になり、S/N比の劣化(ヒスノイズの増加)および周波数特性の劣化が顕著となる。なおワウフラッターはビデオではテープ走行は同期の乱れとなるために厳格に管理されていた。上位機種では音声トラックをステレオ化していたこともあり、各メーカーでは少しでも高音質化すべくドルビーノイズリダクションシステム(ドルビーB)、dbxなどの音声信号の圧縮伸張処理技術を採用していたが、S/N比の劣化に対しては若干の改善が見られたものの周波数特性には対応できなかった。その時代のノーマル固定ヘッドでステレオ再生可能なデッキを現在、持っていないと、ノーマル音声でステレオ録音されたVHSテープをステレオで聴くことは当然だが不可能である。さらに問題なのがノーマル音声トラックに2ヶ国語の洋画を録画した場合であり、日本語と外国語が同時に再生される。当然のことながらスピーカーの左右バランスを調整しても解決はしない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1983年(昭和58年)1983年3月、谷井昭雄と高野鎮雄、RCAのジャック・ソーター副社長の3人の写真が、当時の世界最大の国際週刊誌『タイム』の表紙を飾った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "同年4月、ソニーがステレオHi-Fi音声記録方式(ベータHi-Fi)を採用した「SL-HF77」を家庭用1/2インチビデオとしては世界で初めて発売した。ベータHi-Fiは従来ベータ機と輝度信号が4.4MHzから4.8MHzへ高域へのキャリアシフトも伴っており厳密な意味で互換性が失われたが、ベータHi-Fi録画されたテープを従来ベータ機で再生してもほとんど問題にならなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ベータ陣営のHi-Fi化に対抗し、同年5月には松下電器が音声専用ヘッドを搭載し、磁性体への深層帯記録を使用し、ノーマルVHSと互換性のあるHi-Fiステレオオーディオ機能を追加した「NV-800」を発売。この機能はVHS Hi-Fiステレオ標準規格として採用された。松下の独自規格によるVHS Hi-Fi機「NV-800」はHi-Fi音声トラックの信号処理にdbxを使っていた。「NV-800」が採用したHi-Fi音声の磁性体への深層帯記録を用いたHi-Fi方式をVHS規格化するにあたりdbx、ドルビー社のライセンス料回避のため、両社の特許に抵触しない信号処理技術が開発され採用された。そのため「NV-800」で録画されたビデオカセットを、ビクター「HR-D725」以降発売された正式なVHS Hi-Fi規格ビデオデッキで再生すると、厳密には正式なVHS Hi-Fi規格との互換性が無いため、音声が多少歪む可能性がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "同年秋には、ビクターから初めて正式なVHS Hi-Fi規格に対応した「HR-D725」が発売されている。このD725などの機種は前述のノーマル音声方式での録画・再生も可能でドルビーBにも対応していた。ダイナミックレンジは当初80dB以上、1986年(昭和61年)以降の機種ではCDの音声のダイナミックレンジとほぼ同等の90dB以上に向上した。周波数特性は20 - 20,000 Hzと、こちらもCDの音声の周波数特性とほぼ同等である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "これにともない、ノンHi-Fiのステレオ機器は1980年代には生産終了した。ノンHi-Fiのステレオ音声に対応した最末期のモデルとしては1988年発売のHi-fiおよびS-VHS対応機『HR-S10000』(ビクター)などがあった。国内メーカーによるノンHi-FiのモノラルVCRは単体機は1990年代後半に生産を終了。テレビデオはしばらくノンHi-Fi機の生産が続いたが、2000年代初頭には終了した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1992年(平成4年)に高野鎮雄が68歳で死去したとき、VHSビデオデッキの普及台数は3.7億台であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)、日本ビクターの初代VHSデッキ「HR-3300」が、国立科学博物館の定めた重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第0020号に登録された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2016年(平成28年)、船井電機(日本国内では後に「DX BROADTEC」ブランドとして展開)が7月末日をもってVHSビデオテープレコーダーの生産を終了。VHSビデオテープに関しては複数メーカーが引き続き生産・販売している。主な理由として、一般家庭での編集や再生、小売量販店などの防犯カメラに使われているケースが多く、そのような顧客のニーズに応えるためである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)、アットアイデアは2026年(令和8年)を目処にVHSテープの非接触再生が可能なビデオデッキの開発・販売を目指していることを発表した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "VHSは、1975年(昭和50年)にソニーが開発・発売した家庭用ビデオベータマックスの対抗規格として脚光を浴びた。約10年間も続いた規格争い(ビデオ戦争)を制してVHSが生き残った。その要因としてはいくつかある。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ビデオソフトのシェアは、1980年にVHSがベータを上回った。1989年(平成元年)頃まではメーカーはVHSとベータを併売していた(一部メーカーは8mmビデオソフトも供給)が、ベータファミリーが崩壊し各社がVHSへと移行した。ソニーも1988年(昭和63年)にVHS/Beta/8mmビデオデッキを併売するようになり、ベータは市場シェアを徐々に落としたことから、ビデオソフトメーカーはビデオソフトをVHSのみで発売するようになり、レンタルビデオ店でもVHSが標準となった。家電量販店などでもビデオデッキはVHSやS-VHSが主流となった。より高画質を求めたベータユーザーはベータソフト供給打ち切り前後を境にレーザーディスク(LD)へと流れて行った。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "セルビデオやレンタルビデオのソフトの再生互換性を鑑みて、各社独自仕様のVHSビデオデッキの発売は基本的には許されなかったが、1996年にシャープがダブルチューナを搭載し同時二番組録画・再生対応した「VC-BF80」を発売した。同時二番組録画・再生はVHS方式には規格されておらずVHS方式とは互換性が無く、当該機種で録画されたテープはシャープ製を含め他社VHS機種での再生も当然不可能であった。S-VHS搭載機でも、VHSの録画・再生は可能である。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ベータでは、βI・βIs(5.6 MHz Hi-Band)・βIsSHB(6.0 MHz Hi-Band)・βII(X2)・βIII各モード、Hi-BandBeta(5.6 MHz/βII・βIII)、BetaHi-Fi、ED-Betaなどの規格があったが、VHSはSP(標準)・LP(2倍/日本国内仕様では再生のみ対応)・EP(3倍)、VHSHi-Fi、S-VHSの、録画スピード2種類、映像信号2種類、Hifi信号重畳の有無、の簡素な組み合わせとなっていた。末期には S-VHS-ET、S-VHSDigitalAudio、W-VHS、D-VHSが乱立したが、初号機HR-3300以来のVHS標準モードで録画されたテープは、最終生産機でも再生できた。ベータは初期の標準モード・βIモード専用機種等では、後に開発された長時間モードや高画質・高音質規格で録画されたテープが再生できない環境にあった。VHSではテープカートリッジを小型化した VHS-C、S-VHS-C規格があったが、アダプターを介して据え置き型レコーダーで録画再生が可能であった。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ベータのビデオソフトではハイグレードテープを使用して、磁気保磁力が強い総メタルテープのマスターをスレーブのテープに超高速磁気転写プリントする方式をソニーが1980年代に開発したが、商業的には成功しなかった。VHSでは、画質劣化の少ない等速でのソフトウェア生産作業のために、幅広ヘッド搭載のダビング専用機が発売された。ベータ、VHSともにLDやVHD等のビデオディスクよりも高価なビデオソフト価格であった。1990年代に入り、OTARIがTMD高速熱転写方式による「T-710ビデオ・デュプリケーター」を開発し、VHS・SP(標準)モードで300倍速の高速プリントを実現しソフト製造の高速化が図られたが、同装置は単価の高いクロームテープを使用、販売台数はわずかであった。いずれにしてもビデオソフトの低価格化が進んだ。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "VHS対ベータ戦争の火ぶたが切られたとき、ビクターはVHSファミリーの中で技術的問題や生産能力でまだVHSデッキを製造できないメーカーにOEM供給していた。ときには自社ブランドよりOEM供給向けの生産を優先していたこともあるという。それは様々なメーカーで販売することにより他社の販売網を活用できる上、VHSが多数派であるという印象を持たせる狙いもあったと言われる。なお、ソニーもベータファミリー各社の生産体制が整わないうちには自社製品をOEM供給していた。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "VHS対ベータ戦争では負けたといわれるソニーだが、VHSで使われる技術にもソニーの保有する特許が多数使われているため、少なからぬライセンス収入があった。これは1969年(昭和44年)のU規格策定時にソニー/日本ビクター/松下電器の3社が結んだクロスライセンス契約が関係している。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "両方式の基本的な記録方式である、回転2ヘッドヘリカルスキャン記録は日本ビクターの特許であり、ベータ長時間化での信号処理技術は日本ビクターの特許であった。ソニーはUテープローディング技術を始めとする非常に多数のVTR特許技術を保有していたが、VHSはMローディングであり日本ビクターの特許であった。しかし色差信号漏話除去はソニーの特許のため、ソニーとクロスライセンスを契約を結んでいなかった日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機などのVHS陣営各社がVHSビデオデッキを発売した際、ソニーと特許利用契約を結ぶ必要があった。また、磁性材料から含め約28,000件にも達するビデオカセットテープに関する特許技術もソニーがほぼ掌握しており、ソニーとクロスライセンス契約を結んだ松下電器、日本ビクターはVHS方式発売当初、自社によるビデオカセットテープ生産設備を保有をしていなかったため、TDK・富士フイルム・住友スリーエムなどからのOEM供給で凌いでいた。ソニーと特許利用契約を結んだ日立製作所は日立マクセルのOEM供給によりVHSビデオカセットテープを発売。1978年(昭和53年)にソニーがクロスライセンス契約を結んでいないテープメーカーに対しても有償で特許を公開する方針としたため、テープメーカーが独自でVHSおよびBetaビデオカセットテープの発売が可能となった。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ビデオ戦争の末期には、ソニー製のVHSビデオデッキを望む声が市場から上がっていた。このことがソニーがVHS方式に参入する一つのきっかけとなっており、VHS・ベータ・8ミリのフルラインナップで「VTRの総合メーカー」を目指す方針に転換した。1988年(昭和63年)にソニーがVHS方式へ参入した際、障壁となるものは全くなかった。松下電器・日本ビクターとはクロスライセンス契約を結んでいたため、VHS参入時、松下電器・日本ビクターへVHS発売の了解を得る必要性すらなかった。実際、Uローディング準じた機構を採用したデッキでは「マッハドライブ」の愛称で出画時間の速さを売り物に宣伝するなど、自社の保有する特許を相当活用していた。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、当時ソニーの子会社だったアイワ(初代法人)は親会社に先行してVHSに参入していた。最終的な販売台数は、VHS約9億台、ベータ約3500万台とされている。",
"title": "ベータマックスとの規格争い"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1976年からテレビなどの録画媒体として使用されるVHSであったが、2000年代に入るとDVDやハードディスクレコーダ、パソコンの普及、高精細テレビ放送やBlu-ray Discの登場、多くの国でのデジタルテレビ放送の開始といった「デジタル時代」「ハイビジョン時代」の中で、それに対応できないVHSカセットやVHS単体機は次第に売れなくなっていった。デジタルレコーダーとの複合機も、過去のライブラリーをデジタル化することに重点が移り、テレビ番組の録画ができないタイプのものが増えた。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "アナログ磁気テープはデジタルメディアに対して音・画質共に悪いうえに劣化が著しく、頭出しや巻き戻しも面倒で、再生装置も巨大になる。VHSの場合水平解像度が240本とアナログテレビ放送の330本より低い。画質面は、1987年に高画質版VHSであるS-VHS、1999年にはデジタル録画対応VHSであるD-VHSが発売されるもデッキが高価であり、同年にパイオニア(ホームAV機器事業部。現在:オンキヨーテクノロジー/ティアック)がDVDレコーダーを発表したこともありそれほど普及しなかった。また、DVDの普及に一役買ったのが、かつてのライバル・ソニーの関連会社であるソニー・コンピュータエンタテインメント(現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の家庭用ビデオゲーム機であるPlayStation 2であった。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "こうした状況も重なり、日本ビクターは2007年(平成19年)5月30日、経営不振による事業再建策として、VHSビデオ事業からの撤退・清算を発表した。2008年(平成20年)1月15日にS-VHS単体機を全機種生産終了したと発表し、同年10月27日にはVHS方式単体機の生産を終了した。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ビクターの撤退により、日本国内メーカーのVHSビデオ単体機の製造は船井電機(以下、フナイ)のみとなったが、やがてフナイも完全撤退した。以降はDVD、HDDなどの複合機として展開されていたが、大幅に縮小された。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "各社はテレビの完全デジタル化を考慮し、販売の主力をHDD併用のブルーレイレコーダーに移したことで、次第に商品ラインナップは縮小し、これにあわせ録画用ビデオテープから撤退する事業者も相次いだことで、現在はほぼ市場から消滅している。S-VHS用テープは既に販売終了となっており、2014年12月末で日立マクセル(現在:マクセル)も生産終了。2015年2月にはTDK(←イメーション〈現在:グラスブリッジ・エンタープライゼス〉のTDK Life on Recordブランド)も生産終了となり、2015年6月には録画用テープの在庫切れが目立ってきた。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2010年代に入っても、VHS一体型のDVDレコーダーないしBDレコーダーが製造されていたが、各社とも2011年末までに生産完了となった。2011年末までVHS一体型のDVDレコーダーを発売していたのは、フナイと当時の子会社DXアンテナ以外ではパナソニックのDIGA「DMR-XP25V」(パナソニック自社生産)と東芝「D-VDR9K」(フナイのOEM)であった。2012年2月10日、パナソニックが「VHSデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表した。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "その後もビデオ判定など一部で使われていたが、2012年5月19日には横浜スタジアムで開催された横浜DeNAベイスターズ対千葉ロッテマリーンズでは、アレックス・ラミレスの本塁打性の飛球の判定に家庭用VHSデッキが使用され、映像では本塁打であることがわからなかったためにファウルと判定されたケースがあり物議を醸した。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2016年4月時点で新品として流通していたVHSデッキ(録画再生機・再生専用機)は以下の通り。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "全機種がフナイのOEM。2016年7月末には部品の調達が困難となったため、全機種生産終了となった。",
"title": "VHSの需要低下と終焉"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "VHSが普及するにつれ量産効果が上がり、テープ価格が大幅に値段を下げた。オープンリールを多用していたコンピュータ業界はテープの安さからデータカートリッジとしての利用を推し進めた。富士通などは大型コンピュータの補助記憶装置として用い、数百本のVHSテープを筐体内ラックに納め、コンピューター制御によりジュークボックスさながらのオートローディングを行わせ大型磁気ディスク装置のバックアップ装置として活用した。この際使用したテープは市販のビデオ用テープと同じ規格の物を使用した。",
"title": "VHSテープを利用したシステム"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "「PCMプロセッサー」(ソニーSONY PCM-501ESなど)を使い、音楽CD等のデジタル音声信号を75Ωのコンポジットビデオ信号に変換し、PCMオーディオレコーダー(デジタルオーディオレコーダー)として活用することができた。記録時間は通常のVHSの長さと同じで三倍モードにも対応した(ただし、後発の5倍モードへの対応に関しては不明)。",
"title": "VHSテープを利用したシステム"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1991年(平成3年)、米ALESIS社がS-VHSテープに8トラックのデジタル録音を可能にしたMTR、ADAT(ALESIS DIGITAL AUDIO TAPE)を発売。機器ばかりでなくメディアも安価、かつ、16台までの同期動作も可能ということで、中小のスタジオやホームスタジオで急速に広まった。いくつかのメーカーから互換機も発売されるなど、この規格は一定の普及を見、adat(エーダット)として、Hi8テープに同様の録音ができるティアック社のDTRS規格とともに、ユーザーの根強い支持を得ている。",
"title": "VHSテープを利用したシステム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "初期の機種ではデジタルがゆえに事前にフォーマット作業が必要だった(後に録音と同時フォーマットが可能になる)。120分の録画テープに対し、約41分の録音が可能。デジタル記録はヘッドとの物理的接触などによる損耗に弱いため、ベース・フィルムを強化したADATロゴ入りの推奨S-VHSテープも存在する。当初のTypeIフォーマットでは、サンプリングレートは44.1kHzや48kHz、サンプリングビット16bitsであったが、後のTypeIIフォーマットで24bitsにも対応した。さらに、1チャンネルにつき通常の2トラック分を使って96kHzの記録・伝送を実現するS/MUXという規格もある。 一方、デジタル入出力インターフェイスは、これも普及している角型オプティカル(TOS-Link)のジャックとケーブルを用いて、8チャンネルまでの同時伝送が可能なものを搭載していた(ADAT Optical Interface:こちらも後にレコーディング機器のディジタル入出力用として一定の地位を築いた)。もちろん、民生機で広く普及しているデジタル音声インターフェイスであるS/PDIFとは、論理フォーマット上の互換性はない。",
"title": "VHSテープを利用したシステム"
}
] | VHSは、日本ビクターが1976年(昭和51年)に開発した家庭用ビデオ規格で、同社の登録商標(日本第1399409号ほか)である。 当初は記録方式を表現したVertical Helical Scan(バーチカル・ヘリカル・スキャン)の略称だったが、後にVideo Home System(ビデオ・ホーム・システム)の略称として再定義された。 | {{Otheruses|ビデオ規格}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2012年11月
| 独自研究 = 2012年11月
}}
{{ディスクメディア
|名称=Video Home System
|略称=VHS
|ロゴ=[[ファイル:VHS logo.svg|90px|VHS logo]]
|画像=[[ファイル:VHS-Video-Tape-Top-Flat.jpg|300px|VHSカセット]]
|画像コメント=
|種類=テープ
|容量=30分<br />60分<br />90分<br />120分<br />140分<br />160分<br />180分<br />210分
|フォーマット=
|コーデック=
|読み込み速度= 約33.34mm/s(SP)<br />16.76mm/s(LP)<br />11.18mm/s(EP)
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|読み取り方法=
|書き込み方法=
|回転制御=
|策定=[[日本ビクター]]<br />(現・[[JVCケンウッド]])
|用途=映像等
|ディスク径=
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|重さ=
|上位=[[S-VHS]]
|下位=[[VHS-C]]
|関連=
}}
'''VHS'''(ブイ・エイチ・エス、Video Home System:ビデオ・ホーム・システム)は、[[日本ビクター]](現:[[JVCケンウッド]])が[[1976年]](昭和51年)に開発した家庭用[[ビデオテープレコーダ|ビデオ]]規格で、同社の登録商標(日本第1399409号ほか){{efn|他社も、同じ商標を登録されている。}}である。
当初は記録方式を表現した'''Vertical Helical Scan'''(バーチカル・ヘリカル・スキャン)の略称だったが、後に'''Video Home System'''(ビデオ・ホーム・システム)の略称として再定義された。
== 概要 ==
VHSの特徴として、ビデオの規格を原則として変えないことがあり、発売当初録画されたテープは現在流通している最新機種でも再生できる。テープは幅が1/2インチの[[カセット]]タイプで、標準録画時間が2時間だった。この形は現在では当たり前となったが、開発当時のVTRにはテープのリールが1つだけの[[カートリッジ]]タイプがあったり、テープ幅やカセットのサイズもさまざまだったり、と互換性のない規格が氾濫していた。
技術の進歩によりテープの長尺化が進んだ結果、DF480を利用したときの現在は240分が最長となった。また、規格の範囲を大きく逸脱しないかたちでの改良を続けており、高画質化技術のHQ(High Quality)や[[Hi-Fi]]オーディオ対応、ビデオカメラ規格の[[VHS-C]]、[[水平解像度]]400本以上の高画質機種[[S-VHS]]とそのビデオカメラ規格[[S-VHS-C]]、衛星放送などのPCMデジタルオーディオを劣化なく記録できるS-VHS DA(DigitalAudio)、アナログハイビジョン対応の[[W-VHS]]、[[デジタル放送]]対応の[[D-VHS]]など幅広く展開している。全ての規格においてVHSテープの再生は基本的には対応している。なお、S-VHSの登場後は従来のVHSを識別のため「'''ノーマルVHS'''」または「コンベンショナルVHS」と呼ぶ場合がある。なお、上位規格であるデジタル記録の[[D-VHS]]では[[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]・[[BSデジタル放送]]・[[CSデジタル放送]]などの無劣化記録が可能となっている。
[[ベータマックス|ベータ]]、[[8ミリビデオ|8ミリ]]、[[レーザーディスク|LD]]、[[VHD]]などさまざまなメディアとの競争の結果、家庭用ビデオ方式として[[デファクトスタンダード]]となった。特に、[[DVD-Video]]の普及以前は単に「ビデオ」といえば通常はVHSのことを指すものであり、関連企業も商品説明等でVHSの意でビデオという単語を用いていた(「ビデオ版とDVD版の内容は同一です」という表記や、VHSデッキを指して「ビデオデッキ」と称するなど)。
VHSの[[ハードウェア|ハード]]の普及台数は全世界で約9億台以上、テープに至っては推定300億巻以上といわれている。このことを称え、VHS規格発表から30周年の[[2006年]](平成18年)には[[IEEE]]によってVHSの開発が「電気電子技術分野の発展に貢献した歴史的業績」として『[[IEEEマイルストーン]]』に認定された<ref>[http://www.jvc-victor.co.jp/press/2006/ieee.html 権威ある「IEEEマイルストーン」に認定] 日本ビクター [[2006年]](平成18年)[[10月11日]]</ref>。
== 歴史 ==
===開発===
[[1956年]](昭和31年)に開発された[[アンペックス]]社の業務用[[2インチVTR]]は[[NTSC]]方式をそのまま録画可能であったが、巨大なシステムであった。ヘリカルスキャン技術は1955年(昭和30年)に東芝が基本特許を出願。1959年(昭和34年)に放送用1ヘッドヘリカルスキャン方式VTRを東芝が発表{{sfn|日経新聞|1978|p=159}}。回転2ヘッドヘリカルスキャンは同年に日本ビクターが開発している。それ以降、各社は比較的コンパクトな[[オープンリール]]式のVTRを発売、全てヘリカルスキャン方式であったが、各社バラバラで統一規格は制定されていなかった。
[[松下電器産業|松下電器]]・[[日本ビクター]]・[[ソニー]]の3社は家庭用VTRも見据え、テープがカセットに収められたビデオレコーダー(VCR)の統一規格([[Uマチック]])に合意。発売したが高価なこともあり、オープンリール式と同様に企業の研修用途や教育機関、旅館・ホテルの館内有料放送などが主な販売先だった。
[[家庭用VTR機器]]が本格的に普及する時代を狙い、ソニーが各社に規格統一を呼びかけ先行して開発・発売された[[ベータマックス]]が、[[U規格|Uマチック]]の小型化を目指して開発された経緯から録画時間の延長よりカセットの小型化を優先し、最長60分の録画時間でU規格と同等の操作性を確保すべく開発されたのに対し、ビクターは[[民生用]]途としての実用性を重視し、カセットが若干大きくなることを承知で録画時間を最長120分として基本規格を開発。またメカ構造も[[U規格]]にとらわれずより量産化に適した構造を目指し、家庭用VTRというコンセプトを明確にして開発・発売された。
先に発表・発売されたのはソニーのベータマックス(1号機・SL-6300)で、[[1975年]](昭和50年)[[4月16日]]に発表、[[5月10日]]に発売されている。
===規格統一の争い===
ソニーは、松下電器(現在:[[パナソニック]])にベータ方式への参加を要請したが、松下の態度は不鮮明であった。
「VHSの父」と呼ばれる[[高野鎮雄|高野鎭雄]]が[[松下幸之助]]に直訴した、という経過が流布されたり、映画のストーリーで登場するが、史実に基づく経過は、松下電器は当初からVHS採用に動いていた。1975年当時、日本ビクター社長には、松野幸吉(元松下電器東京支社長)が就任していた。1975年8月、ビクターがVHSの試作機を完成させた情報が松下電器へもたらされ、同月、松下中央研究所の菅谷部長らがビクター横浜工場を訪問し、VHS試作機を見学した。[[NHK総合テレビ]]『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]』の[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜の放送一覧#2000年|第2話]]<ref name="projext-X">2000年4月4日放送 『窓際族が世界規格を作った VHS・執念の逆転劇』。さらに、2021年6月1日 プロジェクトX 4Kリストア版として放送された。 </ref>では、1975年9月3日には[[松下幸之助]]がビクター横浜工場でVHS試作機を見学し、「ベータマックスは100点満点の製品だ、しかしこのVHSは150点だ」「ええもん造ってくれたな」と発言したと、試作機を覗き込む松下幸之助の写真つきで紹介されている。
1976年4月3日、ビクター横浜工場で、松下電器は松下幸之助相談役と稲井副社長、菅谷部長、ソニーは盛田会長、岩間社長、大賀副社長、木原専務、ビクターは松野社長、徳光副社長、高野事業部長が一同に会し、ベータ、VHS、[[VX方式|VX]]を前にして初めて意見を交換した。VXは初めから問題にならず、VHSとベータとの長短が論じ合われた。佐藤正明著『映像メディアの世紀』によると、その後、松下幸之助相談役は「盛田さんがあまりにも熱心なので、もしかしたらベータマックスの方が良いのかと思って、ソニーの研究所も見せてもらったし、幸田の工場も見せてもらった。しかしわしの考えは変わらなかったな。」とも発言している。
1976年5月7日、ソニーの盛田会長は木原専務を伴って松下電器東京支社を訪れ、盛田だけが相談役室に通されて、松下相談役は「規格統一は何としてもせなあかん。そこでうちのビデオ事業部にベータマックスとVHSの双方かかる機械の開発を頼んでみたんやがダメやった。そこで盛田はんの言う通り、どこかの機械に統一するしか道はない。わしの見るところ、ベータマックスは百点や......わしの見るところVHSは百五十点や。仮に百二十点やったらビクターにベータを押し付けることもできるんやが......これだけ差がある以上どうにもならん。盛田はん、率直に言います。VHSの規格を採用してもらうという訳にはいかんやろうか」と発言した。「ご迷惑をおかけしました」盛田氏は返事をしない代わりに一礼して、相談役室を後にしたとされる。[[経済産業省|通商産業省]]が規格分裂に対し難色を示していたこともあり、松下幸之助氏が、ソニーへVHS採用を働きかけたが、ソニーが拒否していた。幸之助がVHSを選んだ決め手になったのは前述に挙げた理由の他に、VHSデッキのほうが軽かったこともあった。「ベータだと販売店の配送を待たなければならないが、VHSはギリギリ持ち帰れる重さで、購入者が自分で自宅に持ち帰りすぐ見られる」といった幸之助らしい基準だった<ref>[http://news.mynavi.jp/news/2015/11/13/466/ さよならベータ!日本の黒物家電を変えたVHSとの「ビデオ戦争」の顛末]</ref><!-- --><ref>{{Cite web|和書
| url = http://bizacademy.nikkei.co.jp/top-management/resume14/article.aspx?id=MMAC4i002030092015&page=2
| title = 日経Bizアカデミー 第23回 VHS対ベータ 規格統一思惑外れる 録音時間の短さもハンディ
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20180504225819/http://bizacademy.nikkei.co.jp/top-management/resume14/article.aspx?id=MMAC4i002030092015&page=2
| archivedate = 2018-05-04
| accessdate = 2021-06-12
}}</ref><!--{{リンク切れ|date=2019年11月}}-->。
===ビデオデッキの発売===
[[ファイル:JVC-HR-3300U.jpg|thumb|JVC HR-3300U VIDSTAR HR-3300の米国向け機種。日本の機種とほぼ同一だが、ロゴに"VIDSTAR"の名称を使用し、"Victor"は使われなかった。]]
[[1976年]](昭和51年)[[10月31日]]、日本ビクターがVHS第1号[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]](品番:HR-3300)を発売、当時の金額で定価25万6000円。留守番録画のできる時計内蔵の専用取付式タイマーは別売1万円で、VHSの録画[[磁気テープ|テープ]]も当初は120分が6000円となっていた。また、[[シャープ]]、[[三菱電機]]も当初は日本ビクターの第1号機を[[OEM]]で発売していた。翌[[1977年]](昭和52年)1月よりビクターが現在の[[ロゴ]]の使用を開始したため、VHSの1号機であるHR-3300の最初期(1976年10月 - 12月)に生産された[[ロット管理|ロット]]は戦前から使ってきた(書体は微妙に違う)旧ロゴ(「'''V<small>ICTOR</small>'''」ロゴ)をつけた唯一のデッキとなった。1977年1月生産・出荷分からは「'''Victor'''」ロゴに変更された。
[[1977年]](昭和52年)には松下電器が普及型のVHSビデオデッキ「ナショナル'''[[マックロード]]'''」を発売し、VHSヒットのきっかけにもなった。
長時間録画のユーザーのニーズにも応えるため、[[1977年]](昭和52年)に[[アメリカ合衆国|米国]]市場向けの2倍モード(LP)が、日本国内向け機器にも[[1979年]](昭和54年)に3倍モード(EP)が開発され、幅広い機種に搭載された。また規格外ではあるが標準モードで2つの番組を同時に録画できる機種も存在しており、VTR普及期にはメーカーから様々な提案がなされた。その後は5倍モードも開発され一部の機種に搭載された。
[[1972年]](昭和47年)に松下電器のビデオ事業部長になった[[谷井昭雄]](元社長)によると、VHS普及の最大の山場は1977年2月の[[RCA]]との提携だった。条件が付いて8月の出荷までに録音時間を2倍の4時間にすることも求められ、[[村瀬通三]](元松下電器副社長)などの技術陣が達成した<ref>「どん底事業部、世界一を生み出す」日本経済新聞2014年11月13日夕刊14面</ref>。松下電器ではOEM供給していたアメリカのRCAより、[[アメリカンフットボール]]の録画のためさらに長い録画時間が必要という要望があり、2倍(LP)モードをつけたVHSデッキを開発。OEM供給したが日本ビクターの了承を得ないものだった。VHS標準(SP)モードより画質・音質が低下し、さらにVHS規格の互換性からも外れる事から日本ビクターは松下電器の勝手なふるまいに怒り、2倍(LP)モード録画対応機種を絶対に日本国内で発売しないよう松下電器へ強く要請していた。日本国内のVHS陣営各社も、標準(SP)モードの2時間もあれば十分で、4時間録画の2倍(LP)モード採用には、日本国内にはアメリカンフットボールのような長時間録画需要が当時は無かったため否定的で、VHS規格の互換性からも外れているために採用する動きは無かった{{sfn|日経新聞|1978|p=85}}。
当初、VHSの音声トラックはテープの隅に固定ヘッドで[[モノラル]]録音するものだったが、その幅は[[コンパクトカセット]]より狭く、テープスピードは3/4だった。3倍モードではテープスピードが標準モードの1/3になり、[[S/N比]]の劣化([[ヒスノイズ]]の増加)および周波数特性の劣化が顕著となる。なお[[ワウフラッター]]はビデオではテープ走行は同期の乱れとなるために厳格に管理されていた。上位機種では音声トラックを[[ステレオ]]化していたこともあり、各メーカーでは少しでも高音質化すべく[[ドルビーノイズリダクションシステム]](ドルビーB)、[[dbx]]などの音声信号の圧縮伸張処理技術を採用していたが、S/N比の劣化に対しては若干の改善が見られたものの周波数特性には対応できなかった。その時代のノーマル固定ヘッドでステレオ再生可能なデッキを現在、持っていないと、ノーマル音声でステレオ録音されたVHSテープをステレオで聴くことは当然だが不可能である。さらに問題なのがノーマル音声トラックに2ヶ国語の洋画を録画した場合であり、日本語と外国語が同時に再生される。当然のことながら[[スピーカー]]の左右バランスを調整しても解決はしない。
===Hi-Fiデッキの普及など===
[[1983年]](昭和58年)1983年3月、谷井昭雄と高野鎮雄、RCAのジャック・ソーター副社長の3人の写真が、当時の世界最大の国際[[週刊誌]]『[[タイム (雑誌)|タイム]]』の表紙を飾った。
同年4月、ソニーがステレオ[[Hi-Fi]]音声記録方式(ベータHi-Fi)を採用した「SL-HF77」を家庭用1/2インチビデオとしては世界で初めて発売した。ベータHi-Fiは従来ベータ機と輝度信号が4.4MHzから4.8MHzへ高域へのキャリアシフトも伴っており厳密な意味で互換性が失われたが、ベータHi-Fi録画されたテープを従来ベータ機で再生してもほとんど問題にならなかった。
ベータ陣営のHi-Fi化に対抗し、同年5月には松下電器が音声専用ヘッドを搭載し、磁性体への深層帯記録を使用し、ノーマルVHSと互換性のあるHi-Fiステレオオーディオ機能を追加した「NV-800」を発売。この機能はVHS Hi-Fiステレオ標準規格として採用された。松下の独自規格によるVHS Hi-Fi機「NV-800」はHi-Fi音声トラックの信号処理に[[dbx]]を使っていた。「NV-800」が採用したHi-Fi音声の磁性体への深層帯記録を用いたHi-Fi方式をVHS規格化するにあたりdbx、[[ドルビーラボラトリーズ|ドルビー]]社の[[ライセンス]]料回避のため、両社の特許に抵触しない信号処理技術が開発され採用された。そのため「NV-800」で録画されたビデオカセットを、ビクター「HR-D725」以降発売された正式なVHS Hi-Fi規格ビデオデッキで再生すると、厳密には正式なVHS Hi-Fi規格との互換性が無いため、音声が多少歪む可能性がある。
同年秋には、ビクターから初めて正式なVHS Hi-Fi規格に対応した「HR-D725」が発売されている。このD725などの機種は前述のノーマル音声方式での録画・再生も可能でドルビーBにも対応していた。[[ダイナミックレンジ]]は当初80dB以上、[[1986年]](昭和61年)以降の機種では[[コンパクトディスク|CD]]の音声のダイナミックレンジとほぼ同等の90dB以上に向上した。[[周波数特性]]は20 - 20,000 Hz{{efn|ただし、一部の高価格帯の機種に関しては標準モード・3倍モードにかかわらず、実際の再生可聴周波数帯域が'''最高で22,000Hz'''([[DAT]]レコーダーの48kHz/16bitによる標準モードと同等)'''まで達していた'''ものも存在していた。}}と、こちらもCDの音声の周波数特性とほぼ同等である。
これにともない、ノンHi-Fiのステレオ機器は[[1980年代]]には生産終了した。ノンHi-Fiのステレオ音声に対応した最末期のモデルとしては1988年発売のHi-fiおよびS-VHS対応機『HR-S10000』(ビクター)などがあった。国内メーカーによるノンHi-Fiの[[モノラル]]VCRは単体機は[[1990年代]]後半に生産を終了{{要出典|date=2013年9月}}。[[テレビデオ]]はしばらくノンHi-Fi機の生産が続いたが、2000年代初頭には終了した。
[[1992年]]([[平成]]4年)に高野鎮雄が68歳で死去したとき、VHSビデオデッキの普及台数は3.7億台であった。
<!--===生産終了後のVHS===-->
[[2008年]](平成20年)、日本ビクターの初代VHSデッキ「HR-3300」が、[[国立科学博物館]]の定めた[[重要科学技術史資料]](通称:未来技術遺産)の第0020号に登録された。
[[2016年]](平成28年)、[[船井電機]](日本国内では後に「[[DXアンテナ|DX BROADTEC]]」ブランドとして展開)が7月末日をもってVHSビデオテープレコーダーの生産を終了<ref name="sankei20160726">{{Cite news |title=国内勢のVHSデッキ生産終了 最後の船井電機、時代に幕 |newspaper=産経新聞 |date=2016-07-26 |url=https://www.sankei.com/article/20160726-IXN63WSZCBKDFFWQW3L3SQA2BM/}}</ref><ref name="sankei20160817">{{Cite news |title=VHSのビデオデッキ、ついに生産終了…「続けて」とファンの声殺到、大切に撮りためた思い出ビデオはどうする? |newspaper=産経新聞 |date=2016-08-17 |url=https://www.sankei.com/article/20160817-ZBTJN2XZEROBDLKE4T36G6A6W4/}}</ref>。VHSビデオテープに関しては複数メーカーが引き続き生産・販売している。主な理由として、一般家庭での編集や再生、小売量販店などの防犯カメラに使われているケースが多く、そのような顧客のニーズに応えるためである。
[[2021年]](令和3年)、アットアイデアは[[2026年]](令和8年)を目処にVHSテープの非接触再生が可能なビデオデッキの開発・販売を目指していることを発表した<ref>{{cite news|title=今後5年をかけて新“VHSデッキ”を開発…どんな需要を想定しているのか開発企業に聞いた|url=https://www.fnn.jp/articles/-/222602|newspaper=FNNプライムオンライン|date=2021-08-11|accessdate=2021-08-14}}</ref>。
== ベータマックスとの規格争い ==
{{Main|ビデオ戦争}}
VHSは、[[1975年]](昭和50年)に[[ソニー]]が開発・発売した家庭用ビデオ[[ベータマックス]]の対抗規格として脚光を浴びた。約10年間も続いた[[規格争い]]([[ビデオ戦争]])を制してVHSが生き残った。その要因としてはいくつかある。
; 共同で規格の充実を図る体制にしたこと
: VHS陣営はファミリー形成を重視した展開を行った<ref name="SonyHistory-2">[http://www.sony.co.jp/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-02.html Sony History 第2部 第2章 規格戦争に巻き込まれた秘蔵っ子]、ソニー</ref>。これが功を奏し、VHSを採用するメーカーを多数獲得して、共同で規格の充実を図る体制を確立した。また、家電メーカーを獲得したことによりその販売網を利用できた。特に[[パナソニック|松下電器産業]]が採用したことが大きい。ベータマックス陣営には家電販売網を持つ[[東芝]]などの存在もあったが、松下の販売網の規模と緻密さは大きく影響したと言われている。
; 量産に適した構造だったこと
: VHSは量産に適した構造で、普及期に廉価機の投入など戦略的な商品ラインナップを実現できた<ref name="SonyHistory-2"/>。ベータはUマチックと同じUローディング方式をそのまま用いたのに対し、VHSは開発が難航したものの部品点数が少なく生産もしやすいMローディングを採用した{{efn|その後VHSでも、1980年代末期に入ると、中級以上の機種ではリニアタイムカウンターの搭載や操作性の改善のため、Uローディングに準じた方式が採用され、停止状態から再生開始時の出画時間の高速化を各社が競うようになった。}}。記録時間を最初から実用的な2時間に設定しその後も長時間化に成功したこと、欧州・米国市場での[[OEM]]供給先を獲得することに成功したこと<ref name="SonyHistory-2"/>、などが要因として挙げられる。
; 耐久性&互換性を重視した設計だったこと
: VHSは高画質化よりも長期耐久性や再生互換性を最重要視する設計の規格で、[[レンタルビデオ]]市場やセルビデオ市場を創造した。また関連会社の資金提供で映画やAV作品などのタイトルを豊富に作らせ、セルビデオソフト店が無かった黎明期は大手電器販売店の近所に作った[[アンテナショップ]]で販売した。
; ベータ側の広告戦略の失敗
: ベータ規格主幹のソニーによる広告戦略の失敗もあった。[[1984年]](昭和59年)[[1月25日]]から4日間、ソニーが主要新聞各紙に広告を連続で掲載し、見出しは「ベータマックスはなくなるの?」「ベータマックスを買うと損するの?」「ベータマックスはこれからどうなるの?」となっており、最終日に「ますます面白くなるベータマックス!」と締めくくる展開であった<ref name="SonyHistory-2"/>。これは当時の新製品を告知する逆説的アプローチだったのだが、消費者には理解されず『ベータ終了』と短絡的に捕らえ、これを機にベータ離れが加速された<ref name="SonyHistory-2"/>。
ビデオソフトのシェアは、1980年にVHSがベータを上回った。[[1989年]](平成元年)頃まではメーカーはVHSとベータを併売していた(一部メーカーは8mmビデオソフトも供給)が、ベータファミリーが崩壊し各社がVHSへと移行した。ソニーも1988年(昭和63年)にVHS/Beta/8mmビデオデッキを併売するようになり、ベータは市場シェアを徐々に落としたことから、ビデオソフトメーカーはビデオソフトをVHSのみで発売するようになり、レンタルビデオ店でもVHSが標準となった。家電量販店などでもビデオデッキはVHSやS-VHSが主流となった。より高画質を求めたベータユーザーはベータソフト供給打ち切り前後を境に[[レーザーディスク]](LD)へと流れて行った。
セルビデオやレンタルビデオのソフトの再生互換性を鑑みて、各社独自仕様のVHSビデオデッキの発売は基本的には許されなかったが、1996年にシャープがダブルチューナを搭載し同時二番組録画・再生対応した「VC-BF80」を発売した。同時二番組録画・再生はVHS方式には規格されておらずVHS方式とは互換性が無く、当該機種で録画されたテープはシャープ製を含め他社VHS機種での再生も当然不可能であった。S-VHS搭載機でも、VHSの録画・再生は可能である。
ベータでは、βI・βIs(5.6 MHz Hi-Band)・βIsSHB(6.0 MHz Hi-Band)・βII(X2)・βIII各モード、Hi-BandBeta(5.6 MHz/βII・βIII)、BetaHi-Fi、ED-Betaなどの規格があったが、VHSはSP(標準)・LP(2倍/日本国内仕様では再生のみ対応)・EP(3倍)、VHSHi-Fi、S-VHSの、録画スピード2種類、映像信号2種類、Hifi信号重畳の有無、の簡素な組み合わせとなっていた。末期には S-VHS-ET、S-VHSDigitalAudio、W-VHS、D-VHSが乱立したが、初号機HR-3300以来のVHS標準モードで録画されたテープは、最終生産機でも再生できた。ベータは初期の標準モード・βIモード専用機種等では、後に開発された長時間モードや高画質・高音質規格で録画されたテープが再生できない環境にあった。VHSではテープカートリッジを小型化した VHS-C、S-VHS-C規格があったが、アダプターを介して据え置き型レコーダーで録画再生が可能であった。
ベータのビデオソフトではハイグレードテープを使用して、磁気保磁力が強い総メタルテープのマスターをスレーブのテープに超高速磁気転写プリントする方式をソニーが1980年代に開発したが、商業的には成功しなかった。VHSでは、画質劣化の少ない等速でのソフトウェア生産作業のために、幅広ヘッド搭載のダビング専用機が発売された。ベータ、VHSともにLDやVHD等のビデオディスクよりも高価なビデオソフト価格であった。1990年代に入り、[[OTARI]]がTMD高速熱転写方式による「T-710ビデオ・デュプリケーター」を開発し、VHS・SP(標準)モードで300倍速の高速プリントを実現しソフト製造の高速化が図られたが、同装置は単価の高いクロームテープを使用<ref>[http://www.otari.co.jp/support/vintage/t710/index.html] オタリ株式会社 製品情報</ref>、販売台数はわずかであった。いずれにしてもビデオソフトの低価格化が進んだ。
VHS対ベータ戦争の火ぶたが切られたとき、ビクターはVHSファミリーの中で技術的問題や生産能力でまだVHSデッキを製造できないメーカーに[[OEM]]供給していた。ときには自社ブランドよりOEM供給向けの生産を優先していたこともあるという。それは様々なメーカーで販売することにより他社の販売網を活用できる上、VHSが多数派であるという印象を持たせる狙いもあったと言われる。なお、ソニーもベータファミリー各社の生産体制が整わないうちには自社製品をOEM供給していた。
VHS対ベータ戦争では負けたといわれるソニーだが、VHSで使われる技術にもソニーの保有する特許が多数使われているため、少なからぬ[[ライセンス]]収入があった。これは[[1969年]](昭和44年)の[[U規格]]策定時にソニー/日本ビクター/松下電器の3社が結んだクロスライセンス契約が関係している。
両方式の基本的な記録方式である、回転2ヘッドヘリカルスキャン記録は日本ビクターの特許であり、ベータ長時間化での信号処理技術は日本ビクターの特許であった。ソニーはUテープローディング技術を始めとする非常に多数のVTR特許技術を保有していたが、VHSはMローディングであり日本ビクターの特許であった{{efn|このため、ベータでも低価格機種ではMローディングが使われた事例がある。}}。しかし色差信号漏話除去はソニーの特許のため、ソニーとクロスライセンスを契約を結んでいなかった日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機などのVHS陣営各社がVHSビデオデッキを発売した際、ソニーと特許利用契約を結ぶ必要があった{{sfn|日経新聞|1978|p=64}}。また、磁性材料から含め約28,000件にも達するビデオカセットテープに関する特許技術もソニーがほぼ掌握しており、ソニーとクロスライセンス契約を結んだ松下電器、日本ビクターはVHS方式発売当初、自社によるビデオカセットテープ生産設備を保有をしていなかったため、TDK・富士フイルム・住友スリーエムなどからのOEM供給で凌いでいた。ソニーと特許利用契約を結んだ日立製作所は日立マクセルのOEM供給によりVHSビデオカセットテープを発売。1978年(昭和53年)にソニーがクロスライセンス契約を結んでいないテープメーカーに対しても有償で特許を公開する方針としたため、テープメーカーが独自でVHSおよびBetaビデオカセットテープの発売が可能となった{{sfn|日経新聞|1978|pp=180-184}}。
ビデオ戦争の末期には、ソニー製のVHSビデオデッキを望む声が市場から上がっていた。このことがソニーがVHS方式に参入する一つのきっかけとなっており、VHS・ベータ・8ミリのフルラインナップで「VTRの総合メーカー」を目指す方針に転換した。[[1988年]](昭和63年)にソニーがVHS方式へ参入した際、障壁となるものは全くなかった。松下電器・日本ビクターとはクロスライセンス契約を結んでいたため、VHS参入時、松下電器・日本ビクターへVHS発売の了解を得る必要性すらなかった。実際、Uローディング準じた機構を採用したデッキでは「マッハドライブ」の愛称で出画時間の速さを売り物に宣伝するなど、自社の保有する特許を相当活用していた。
また、当時ソニーの子会社だった[[アイワ]](初代法人)は親会社に先行してVHSに参入していた。最終的な販売台数は、VHS約9億台、ベータ約3500万台とされている。
== VHSの需要低下と終焉 ==
1976年からテレビなどの録画媒体として使用されるVHSであったが、[[2000年代]]に入ると[[DVD]]や[[ハードディスクレコーダ]]、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の普及、高精細テレビ放送や[[Blu-ray Disc]]の登場、多くの国での[[デジタルテレビ放送]]の開始といった「デジタル時代」「[[ハイビジョン]]時代」の中で、それに対応できないVHSカセットやVHS単体機は次第に売れなくなっていった{{efn|D-VHSではハイビジョン記録に対応したが、こちらも2008年までに全メーカーが生産を終了している。}}。デジタルレコーダーとの複合機も、過去のライブラリーをデジタル化することに重点が移り、テレビ番組の録画ができないタイプのものが増えた。
アナログ磁気テープはデジタルメディアに対して音・画質共に悪いうえに劣化が著しく、頭出しや巻き戻しも面倒で、再生装置も巨大になる。VHSの場合水平解像度が240本とアナログテレビ放送の330本より低い。画質面は、1987年に高画質版VHSである[[S-VHS]]、1999年にはデジタル録画対応VHSである[[D-VHS]]が発売されるもデッキが高価であり、同年に[[パイオニア]](ホームAV機器事業部。現在:[[オンキヨーテクノロジー]]/[[ティアック]])が[[DVDレコーダー]]を発表したこともありそれほど普及しなかった。また、DVDの普及に一役買ったのが、かつてのライバル・ソニーの関連会社であるソニー・コンピュータエンタテインメント(現・[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]])の家庭用ビデオ[[ゲーム機]]である[[PlayStation 2]]であった。
こうした状況も重なり、[[日本ビクター]]は[[2007年]](平成19年)[[5月30日]]、経営不振による事業再建策として、VHSビデオ事業からの[[撤退]]・[[清算]]を発表した<ref>{{PDFlink|[http://www.jvc-victor.co.jp/company/ir/pdf/presen-070530.pdf 2007年度業績見直しについて]}} 日本ビクター 2007年5月30日</ref>。[[2008年]](平成20年)[[1月15日]]にS-VHS単体機を全機種生産終了したと発表し<ref>[http://www.jvc-victor.co.jp/dvd/info.html S-VHSビデオデッキ販売終了のご案内] 日本ビクター 2008年1月15日</ref>、同年[[10月27日]]にはVHS方式単体機の生産を終了した。
ビクターの撤退により、日本国内メーカーのVHSビデオ単体機の製造は[[船井電機]](以下、フナイ)のみとなったが、やがてフナイも完全撤退した<ref name="sankei20160726"/>。以降はDVD、HDDなどの複合機として展開されていたが、大幅に縮小された<ref>[http://it.nikkei.co.jp/digital/news/index.aspx?n=NN001Y370%2024102008&landing=Nex 日本ビクター、ビデオデッキの生産終了] [[NIKKEI NET]]・[[日経産業新聞]] 2008年10月27日<br />[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20081027/victor.htm ビクター、単体VHSビデオデッキの生産を終了 -DVD/VHS複合機などを継続展開] [[Impress Watch|AV Watch]] 2008年10月27日</ref>。
各社はテレビの完全デジタル化を考慮し、販売の主力をHDD併用の[[Blu-ray Disc|ブルーレイ]][[BDレコーダー|レコーダー]]に移したことで、次第に商品ラインナップは縮小し、これにあわせ録画用ビデオテープから撤退する事業者も相次いだことで、現在はほぼ市場から消滅している。[[S-VHS]]用テープは既に販売終了となっており、2014年12月末で日立マクセル(現在:[[マクセル]])も生産終了。2015年2月には[[TDK]](←[[イメーション]]〈現在:[[グラスブリッジ・エンタープライゼス]]〉のTDK <small>Life on Record</small>ブランド)も生産終了となり、2015年6月には[[デッドストック|録画用テープの在庫]]切れが目立ってきた。
[[2010年代]]に入っても、VHS一体型の[[DVDレコーダー]]ないし[[BDレコーダー]]が製造されていたが、各社とも[[2011年]]末までに生産完了となった。2011年末までVHS一体型のDVDレコーダーを発売していたのは、フナイと当時の子会社[[DXアンテナ]]以外では[[パナソニック]]の[[DIGA]]「DMR-XP25V」(パナソニック自社生産)と[[東芝]]「D-VDR9K」(フナイのOEM)であった。[[2012年]]2月10日、パナソニックが「VHSデッキの日本国内向け生産を2011年限りで完全終了した」旨を公式発表した<ref>{{cite news|title=VHS録再機の国内向け生産終了 パナソニック|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD100BX_Q2A210C1TJ2000/|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2012-02-10|accessdate=2014-01-14}}</ref>。
その後も[[ビデオ判定]]など一部で使われていたが、[[2012年]][[5月19日]]には[[横浜スタジアム]]で開催された[[横浜DeNAベイスターズ]]対[[千葉ロッテマリーンズ]]では、[[アレックス・ラミレス]]の[[本塁打]]性の飛球の判定に家庭用VHSデッキが使用され、映像では本塁打であることがわからなかったために[[ファウル]]と判定されたケースがあり物議を醸した<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/20/kiji/K20120520003289570.html|title=テレビは16型、ビデオは家庭用 友寄塁審「確認できないので判定通り」|date=2012-05-20|accessdate=2012-05-20|newspaper=スポーツニッポン}}</ref>。
2016年4月時点で新品として流通していたVHSデッキ(録画再生機・再生専用機)は以下の通り。
;DXR170V(VHS一体型DVDレコーダー)
:[[2014年]][[7月1日]]にDXアンテナ(DX BROADTEC)から発売された。
:[[2012年]]5月に「お客様のご要望にお応えして新発売!」と発売された「DXR160V」の後継。
;RVP-100(再生専用VHSプレーヤー)
:[[2013年]]12月中旬に[[ドウシシャ]]([[山水電気|SANSUIブランド]])から発売された。
:4ヘッドHi-Fi音声対応で[[DRC|デジタルトラッキング]]を搭載した「再生専用」のVHS機であり、家庭に眠るVHS資産のDVD化やBD化、データ化に寄与する目的で商品化された<ref>[https://prw.kyodonews.jp/prwfile/release/M101005/201312036724/_prw_OR1fl_k3578QjQ.pdf RVP-100の公式発表リリースPDF]</ref>。
全機種がフナイのOEM。2016年7月末には部品の調達が困難となったため、全機種生産終了となった<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLZO04817850T10C16A7TI1000/ VHSビデオ機生産に幕 国内勢最後の船井電機、7月末で] 日本経済新聞 2016年7月14日</ref><ref name="sankei20160726"/><ref name="sankei20160817"/>。
== 規格一覧 ==
[[ファイル:VHS_cassette_tape_12.JPG|thumb|VHSカセット内側のテープ構造]]
[[File:VHS videocassette - back.jpg|thumb|VHSカセットの裏側]]
* 記録方式:[[ヘリカルスキャン方式|ヘリカルスキャンアジマス方式]]
* 記録ヘッド数:2
* ヘッドドラム径:62mm
* ヘッドドラム回転数
**[[NTSC]]:29.97 Hz{{efn|正確には30/1.001Hz}}(約1800[[rpm (単位)|rpm]])
**[[PAL]] / [[SECAM]]:25 Hz(1500rpm)
* カセットテープサイズ: 188×104×25mm
* テープ幅:12.65mm
* テープ送り速度:約33.34mm/s(SP)/16.76mm/s(LP)/11.18mm/s(EP)
* 記録トラック幅:約58μm(SP)/29μm(LP)/19μm(EP) ※LPモード対応機種は、[[日本]]国内ではほとんど普及していない。
* 音声トラック
** ノーマル1トラック(モノラル音声)
** ノーマル2トラック(ステレオ音声。[[1978年]](昭和53年)の[[音声多重放送]]開始に対応するために追加された。[[ヒスノイズ]]が増加したため、対策として[[ドルビーノイズリダクションシステム]]Bタイプを搭載した。なお、{{要出典範囲|ノーマル2トラックへの録音に|date=2015年5月}}対応する製品は[[1987年]](昭和62年)・日本ビクターのHR-S10000以降生産されていない{{efn|{{要出典範囲|録音に対応する|date=2015年5月}}民生用機種の生産は終了したが、再生のみ対応する機種や、いわゆる業務用機種で対応した製品は、その後も生産されている。}})
** Hi-Fi2トラック([[1983年]](昭和58年)に開発されたHi-Fi規格が主流になるまでは、ノーマル2トラック対応機種が各社から発売されていた)
**S-VHS DA(DigitalAudio・ [[パルス符号変調#種類|リニアPCM]])過去には[[日本ビクター]]製の[[1990年]](平成2年)発売の「HR-Z1」、パナソニック製「NV-DX1」、日立製作所製「VT-PCM1」、三菱電機製「HV-V3000」に対応する外付式DAプロセッサ「CX-P3000」など、国内のメーカーから対応する製品が発売された。[[衛星放送]]の[[エアチェック]][[ファン]]などから[[DAT]]と同等の高音質と高く評価されたが、[[バブル景気|1台あたり30万円 - 40万円台の高価格]]が災いし、わずか1世代で生産が終了した。
**CDやHi-Fi規格もない[[1980年代]]前半、VHSカセットを用いた高音質・非圧縮PCMデジタルオーディオデッキ[[テクニクス]]「SV-P100」が60万円。日立製作所[[Lo-D]]「PCM-V300」が498,000円と高額ではあるが発売されオーディオマニア層を中心に愛好されていた。1986年(昭和61年)に東芝より「A-900PCM」が248,000円で発売され[[グッドデザイン賞]]を受賞している。<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.g-mark.org/award/describe/12610 |title= ビデオテープレコーダー [A-900PCM] | 受賞対象一覧 | Good Design Award | publisher = 公益財団法人日本デザイン振興会|language=日本語 | accessdate = 2019-09-29 }}</ref>
* 信号方式
** 映像信号:[[周波数変調]](FM)シンクチップ:3.4 MHz/白ピーク:4.4 MHz:クロマ信号:低域変換方式(VHS方式)
** 映像信号:周波数変調(FM)シンクチップ:5.4 MHz/白ピーク:7.0 MHz:クロマ信号:低域変換方式(S-VHS方式)
** 音声信号:2チャンネル長手方向記録(ノーマル音声トラックの場合)
== VHSテープを利用したシステム ==
=== コンピュータ用ストレージ ===
VHSが普及するにつれ量産効果が上がり、テープ価格が大幅に値段を下げた。[[オープンリール]]を多用していたコンピュータ業界はテープの安さからデータカートリッジとしての利用を推し進めた。[[富士通]]などは大型コンピュータの[[補助記憶装置]]として用い、数百本のVHSテープを筐体内ラックに納め、コンピューター制御により[[ジュークボックス]]さながらのオートローディングを行わせ大型[[磁気ディスク装置]]のバックアップ装置として活用した。この際使用したテープは市販のビデオ用テープと同じ規格の物を使用した。
=== 家庭用オーディオ ===
「PCMプロセッサー」(ソニーSONY PCM-501ESなど)を使い、音楽CD等の[[デジタル音声]]信号を[[インピーダンス|75Ω]]のコンポジットビデオ信号に変換し、PCMオーディオレコーダー(デジタルオーディオレコーダー)として活用することができた。記録時間は通常のVHSの長さと同じで三倍モードにも対応した(ただし、後発の5倍モードへの対応に関しては不明)。
=== プロオーディオユース ===
[[1991年]](平成3年)、米ALESIS社がS-VHSテープに8トラックのデジタル録音を可能にした[[マルチトラックレコーダー|MTR]]、ADAT(ALESIS DIGITAL AUDIO TAPE)を発売。機器ばかりでなくメディアも安価、かつ、16台までの同期動作も可能ということで、中小のスタジオやホームスタジオで急速に広まった。いくつかのメーカーから互換機も発売されるなど、この規格は一定の普及を見、adat(エーダット)として、Hi8テープに同様の録音ができる[[ティアック]]社の[[DTRS]]規格とともに、ユーザーの根強い支持を得ている。
初期の機種ではデジタルがゆえに事前にフォーマット作業が必要だった(後に録音と同時フォーマットが可能になる)。120分の録画テープに対し、約41分の録音が可能。デジタル記録はヘッドとの物理的接触などによる損耗に弱いため、ベース・フィルムを強化したADATロゴ入りの推奨S-VHSテープも存在する。当初のTypeIフォーマットでは、サンプリングレートは44.1kHzや48kHz、サンプリングビット16bitsであったが、後のTypeIIフォーマットで24bitsにも対応した。さらに、1チャンネルにつき通常の2トラック分を使って96kHzの記録・伝送を実現するS/MUXという規格もある。
<!-- ADATがこの項目に転送されているようなので、以下についてもある程度書くしかないのでしょうか -->
一方、デジタル入出力インターフェイスは、これも普及している角型オプティカル([[トスリンク|TOS-Link]])のジャックとケーブルを用いて、8チャンネルまでの同時伝送が可能なものを搭載していた(ADAT Optical Interface:こちらも後にレコーディング機器のディジタル入出力用として一定の地位を築いた)。もちろん、民生機で広く普及しているデジタル音声インターフェイスである[[S/PDIF]]とは、論理フォーマット上の互換性はない。
== エピソード ==
* VHSカセットから派生されたものとして、[[PVC]](Premium Video Cassette)がある。プレミアムボックスという開閉できる透明な蓋がカセットの背ラベル部分に付いている。ここには[[セルビデオ]]の特典物の小物(模型やキーホルダーなど、重量40[[グラム|g]]まで)を収納することができる。ジャケットの背ラベルにも穴がくり抜かれていて、ボックス内が少し見えるようになっている。ボックスの開閉に支障となる物、その他同梱に不適当な物(粉類、水、油、磁気性のあるもの、溶けやすいもの、膨張するもの、液漏れしやすいもの、食品や菓子類、電池、壊れやすいもの)は収納できない。
* [[1990年]](平成2年)に[[任天堂]]が発売した家庭用ゲーム機「[[スーパーファミコン]]」は、そのゲームソフトのパッケージ寸法がVHSテープと全く同じであった。この時点ではすでに多くの一般家庭にVHSが普及しており、VHSのビデオテープ収納棚(ビデオラック)においても安価なものが出回っていたため、ゲームカセットの保管場所としてVHSのビデオラックが好まれた{{要出典|date=2020年9月}}。
* 1980年代 - 1990年代にかけて、映画や音楽ビデオテープの[[ダビング]]サービスが商売として横行していたが、現在は[[著作権]]の問題からそれらのダビングを{{要出典範囲|政府が法律で禁止|date=2019年11月}}している。
* 1990年代後半にDVDが発売された際、VHSをそのままDVDにしている作品が多かった{{要出典|date=2020年9月}}。
* [[ハロー!プロジェクト]]の最筆頭グループである[[モーニング娘。]]は2000年から2003年頃まではVHSとDVDを同時リリースしていた。
* VHSカセット裏面中央に短辺と平行して刻まれた溝は、VHSデッキにベータのカセットを誤挿入することを防ぐためのものとされている。VHSデッキに誤ってベータのカセットを挿入しようとしても、デッキ内部に設けられた突起が障害となって挿入できなくなっている。VHSカセットを挿入する際はカセットの溝に突起が勘合して挿入できる。
* 1990年代頃からのVHSソフトの中には、コピーミスや不正コピーがないかどうかの確認のため、映像の末尾に「品質管理用の信号」として[[正弦波]]が記録されていたものが存在した。
== 関連映像 ==
* 映画「[[陽はまた昇る (2002年の映画)|陽はまた昇る]]」(2002年)
* ドキュメンタリー映画「[[VHSテープを巻き戻せ!]]」(2013年、米国、原題:Rewind This!)
* NHK [[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|プロジェクトX]]:「窓際族が世界規格を作った〜VHS・執念の逆転劇〜」
* フジテレビ [[カノッサの屈辱 (テレビ番組)|カノッサの屈辱]]:「関ヶ原ビデオ合戦史 VHS対ベータ、そして8ミリへ」
* V/H/Sシリーズ - オムニバス・ホラー映画のシリーズ
** [[V/H/S シンドローム]] (2012年)
** V/H/S ネクストレベル (2013年)
** V/H/S ファイナル・インパクト (2014年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |editor=日本経済新聞社 |title=激突!ソニー対松下 : ビデオに賭ける総力戦 |publisher=日本経済新聞社 |date=1978-06-29 |asin=B000J8O2RA |id={{全国書誌番号|78023168}} {{NDLJP|12050815}}|ref={{sfnref|日経新聞|1978}}}}
* {{Cite book |和書 |author=ジェームズ・ラードナー |title=ファースト・フォワード―アメリカを変えてしまったVTR |translator=西岡幸一 |publisher=パーソナルメディア |date=1988-08-01 |isbn=9784893620392}}
* {{Cite book |和書 |author=中川靖造 |title=ドキュメント日本の磁気記録開発―オーディオとビデオに賭けた男たち |publisher=ダイヤモンド社 |date=1984-01-01 |isbn=9784478380055}}
* {{Cite jis|C|5581|name=VHS方式12.65mm(0.5 in)磁気テープヘリカル走査ビデオカセットシステム}}
== 関連項目 ==
{{Columns-list|3|
* [[S-VHS]]
* [[W-VHS]]
* [[D-VHS]]
* [[M規格]]
* [[MII]]
* [[D3-VTR]]
* [[D5-VTR]]
* [[D9-VTR]]
* [[ベータマックス]]
* [[RCA端子]]
* [[映像機器]]
* [[情報機器]]
* [[日本ビクター]]
* [[JVCケンウッド]]
* [[髙野鎮雄]]
* [[ダイカスト]]
* [[録画チャンネル4.5]]
* [[ビデオ戦争]]
* [[規格争い]]
* [[パナソニックのVTRの歴史]]
* [[BDレコーダー]]
* [[日本の地上デジタルテレビ放送]]
* [[CMスキップ]]
* [[レンタルビデオ]]
}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|VHS}}
* [https://www.jvckenwood.com/ 株式会社JVCケンウッド]
* {{Wayback|url=http://www.vhs-std.com/jpn/museum/museumTop.htm |title=日本ビクター「VHS博物館」 |date=20051231035019}}
* [http://www33.jvckenwood.com/pdfs/PU30424-55.pdf HR-3300ビデオカセッターご愛用のしおり(取扱説明書)]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/VHS |
1,858 | 平野仁 | 平野 仁(ひらの じん、本名:平野 仁(ひとし))は、日本の漫画家。福島県南会津郡出身。主に原作付きの劇画を手がけている。
21歳の時、テレビ動画の会社に入社し、2年間アニメーターとして活躍した。『がんばれ!マリンキッド』などで作画を手がけ、その傍ら小遣い稼ぎのつもりで劇画を出版社へ持ち込む。デビュー作は『漫画サンデー』増刊の原作つきの作品で、「H・ハンター」というペンネームであった(作品のタイトルは覚えていないという)。その後4ヵ月はアニメーターと劇画家の両方の仕事をしていたが、以後は劇画に専念し、主に芳文社の『週刊漫画TIMES』や『漫画パンチ』などにて作品を発表する。
1975年頃より少年誌に進出し、小学館の『週刊少年サンデー』や『ビッグコミック』などで、漫画原作者の小池一夫とのコンビにより代表作となる『青春の尻尾』、『少年の町ZF』、『サハラ 女外人部隊』などを手がけた。
1980年代前半より主な執筆の場を青年漫画誌に移し、双葉社の『漫画アクション』やリイド社の『リイドコミック』をはじめ多くの出版社で、主に漫画原作者とコンビを組み作品を発表している。 | [
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] | 平野 仁は、日本の漫画家。福島県南会津郡出身。主に原作付きの劇画を手がけている。 | '''平野 仁'''(ひらの じん、本名:平野 仁(ひとし)<ref name="all">『劇画・マンガ家オール名鑑』 p246 [[徳間書店]]</ref>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[福島県]][[南会津郡]]出身<ref name="all" />。主に原作付きの[[劇画]]を手がけている。
== 概要 ==
21歳の時、テレビ動画の会社に入社し、2年間[[アニメーター]]として活躍した。『[[海底少年マリン|がんばれ!マリンキッド]]』などで作画を手がけ、その傍ら小遣い稼ぎのつもりで劇画を出版社へ持ち込む<ref name="all" />。デビュー作は『[[漫画サンデー]]』増刊の原作つきの作品で、「'''H・ハンター'''」というペンネームであった(作品のタイトルは覚えていないという)<ref name="all" />。その後4ヵ月はアニメーターと劇画家の両方の仕事をしていたが、以後は劇画に専念し、主に[[芳文社]]の『[[週刊漫画TIMES]]』や『漫画パンチ』などにて作品を発表する。
[[1975年]]頃より[[少年誌]]に進出し、[[小学館]]の『[[週刊少年サンデー]]』や『[[ビッグコミック]]』などで、[[漫画原作者]]の[[小池一夫]]とのコンビにより代表作となる『青春の尻尾』、『[[少年の町ZF]]』、『[[サハラ 女外人部隊]]』などを手がけた。
1980年代前半より主な執筆の場を[[青年漫画]]誌に移し、[[双葉社]]の『[[漫画アクション]]』や[[リイド社]]の『[[リイドコミック]]』をはじめ多くの出版社で、主に漫画原作者とコンビを組み作品を発表している。
== 単行本リスト ==
<!-- 巻数後のカッコ内は単行本が発売された時期を記述。新装版その他は多数あるため省く。 -->
* 黒衣の妖女([[青林堂]])全1巻(1974年)
* 鮮血の墓標([[芸文社]])全1巻 ※初期短編集(1974年)
* 青春の尻尾(小学館)全6巻(1975年 - 1978年)原作:小池一夫
* 蒼い狙撃者([[桃園書房]])(1977年)全1巻
* [[少年の町ZF]](小学館)全9巻(1977年 - 1979年)原作:小池一夫
* [[サハラ 女外人部隊]](小学館)全8巻(1978年 - 1979年)原作:小池一夫
* アリサ!([[秋田書店]])全4巻(1979年 - 1980年)
* 隼人がいく(秋田書店)全2巻(1981年)
* ハードオン(双葉社)全2巻(1981年)
* メロス(双葉社)全4巻(1982年 - 1983年)原作:[[船戸与一|外浦吾朗]]
* B(双葉社)全2巻(1984年)原作:[[狩撫麻礼]]
* 凄春トライアングル(リイド社)全7巻(1984年 - 1985年)協力:やまざきせいや
* 哀シャドー(リイド社)全3巻(1985年)原作:[[工藤かずや]]
* 芝の貴婦人([[講談社]])全8巻(1989年 - 1990年)原作:[[牛次郎]]
* [[眠狂四郎]]円月殺法 剣の舞(講談社)全1巻(1992年)原作:[[柴田錬三郎]]
* TSURUGI(リイド社)全2巻(1993年)
* 魔人刑事(秋田書店)全2巻(1995年 - 1996年)原作:[[菊池秀行]]
* 飛ばしてなんボ 猛がチャージ(小池書院)全4巻(1998年 - 2000年)原作:小池一夫
* [[真田くノ一忍法伝 かすみ]](双葉社)全2巻(2004年 - 2005年)原作:神林洋司
* 実録極悪ヤクザ伝 仁義の墓場 石川力夫([[竹書房]])全1巻(2008年)原作:藤田五郎
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:ひらの しん}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本の男性アニメーター]]
[[Category:福島県出身の人物]]
[[Category:生年未記載]]
[[Category:存命人物]] | null | 2021-11-17T07:12:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E4%BB%81 |
1,861 | 平松伸二 | 平松 伸二(ひらまつ しんじ、1955年8月22日 - )は、日本の漫画家。岡山県高梁市出身、東京都葛飾区柴又在住。血液型はO型。代表作に『ドーベルマン刑事』『ブラック・エンジェルズ』『マーダーライセンス牙』など。妻は漫画原作者の安江うに。日本漫画家協会・参与。
中学生の頃から漫画を描き始める。岡山県立高梁高等学校1年生の時に描いた『勝負』(『週刊少年ジャンプ』1971年50号掲載)でデビュー。在学中に5~6本の読み切りが載り、編集者である後藤広喜にスカウトされて上京。中島徳博のアシスタントとして働いたのち、1974年『ドーベルマン刑事』で連載デビュー。
法で裁けない悪党・外道を徹底的に叩き潰す主人公たちの活躍を描いた作品が多い一方、『リッキー台風』(プロレス)や『どす恋ジゴロ』(相撲)といった格闘技漫画も少なからず描いており、両作品ともセクシー描写が多く導入されている。主人公は屈強ながらも中性的な美貌の主として描かれることが多く、『マーダーライセンス牙』ではついに両性具有ヒーローという大胆な趣向に挑んだ。
2015年、『ドーベルマン刑事』連載40周年と『ブラック・エンジェルズ』完結30周年を迎えるにあたり、ケンドーコバヤシが司会を務めるテレビ番組『漫道コバヤシ』(2015年7月21日放送、『祝!「ドーベルマン刑事」連載40周年&「ブラック・エンジェルズ」完結30周年!平松伸二SP』、フジテレビONE)に出演し、製作秘話などを多く語った。
2015年春頃から自身の代表作のイラストに書を融合させた作品を「漫書」と称して発表している。それらの作品は展示会の会場およびネット通販で購入が可能である。
現在在住している葛飾区とコラボし、葛飾区の『わたしの便利帳』表紙や、特殊詐欺警戒啓蒙ポスター・チラシ、特殊詐欺啓蒙ラッピングバスなどの仕事も手がけている。
趣味は格闘技観戦。60歳を超えてからも毎日トレーニングを欠かさず、ボランティア活動にも積極的に取り組むというストイックな一面がある。
デビュー後しばらくまで死神姿のイマジナリーフレンドがおり、外道マンと読んでいたとのこと。ただし、全く本人のためにはならず常にアシスタントや恋人(後の妻)の悪口などを言っていたらしい。 | [
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] | 平松 伸二は、日本の漫画家。岡山県高梁市出身、東京都葛飾区柴又在住。血液型はO型。代表作に『ドーベルマン刑事』『ブラック・エンジェルズ』『マーダーライセンス牙』など。妻は漫画原作者の安江うに。日本漫画家協会・参与。 | {{Infobox 漫画家
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'''平松 伸二'''(ひらまつ しんじ、[[1955年]][[8月22日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[岡山県]][[高梁市]]出身、[[東京都]][[葛飾区]][[柴又]]在住<ref>{{Cite news|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201710/CK2017101502000105.html|title=地元で活躍の漫画家・平松伸二さんと交流 葛飾会議企画、区民ら30人|newspaper=TOKYO Web|publisher=中日新聞東京本社|date=2018-01-20|accessdate=2021-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180620153317/http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201710/CK2017101502000105.html|archivedate=2018-06-20}}</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。代表作に『[[ドーベルマン刑事]]』『[[ブラック・エンジェルズ]]』『[[マーダーライセンス牙]]』など。妻は[[漫画原作者]]の安江うに<ref>{{Cite web|和書|url=https://katsushika.uwasa-no.com/2015/04/23/hito01/|title=ウワサの葛飾人(1人目) 柴又の外道漫画家「平松伸二」先生|website=ウワサの葛飾|publisher=じも研|date=2015-04-23|accessdate=2021-05-13}}</ref>。[[日本漫画家協会]]・参与。
== 来歴 ==
中学生の頃から漫画を描き始める。[[岡山県立高梁高等学校]]1年生の時に描いた『勝負』(『[[週刊少年ジャンプ]]』1971年50号掲載)でデビュー。在学中に5~6本の[[読み切り]]が載り、[[編集者]]である[[後藤広喜]]にスカウトされて上京。[[中島徳博]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]として働いたのち、[[1974年]]『ドーベルマン刑事』で連載デビュー。
法で裁けない悪党・外道を徹底的に叩き潰す主人公たちの活躍を描いた作品が多い一方、『[[リッキー台風]]』([[プロレス]])や『[[どす恋ジゴロ]]』([[相撲]])といった[[格闘技]]漫画も少なからず描いており、両作品ともセクシー描写が多く導入されている。主人公は屈強ながらも中性的な美貌の主として描かれることが多く、『マーダーライセンス牙』ではついに[[両性具有]]ヒーローという大胆な趣向に挑んだ。
[[2015年]]、『ドーベルマン刑事』連載40周年と『ブラック・エンジェルズ』完結30周年を迎えるにあたり、[[ケンドーコバヤシ]]が司会を務めるテレビ番組『[[漫道コバヤシ]]』(2015年7月21日放送、『祝!「ドーベルマン刑事」連載40周年&「ブラック・エンジェルズ」完結30周年!平松伸二SP』、[[フジテレビONE]])に出演し、製作秘話などを多く語った<ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.fujitv.co.jp/man-koba/E20150627001.html|title=【解禁】漫道コバヤシ#18は平松伸二先生!|publisher=「漫道コバヤシ」公式ブログ|date=2015-06-27|accessdate=2021-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161029004220/http://blog.fujitv.co.jp/man-koba/E20150627001.html|archivedate=2016-10-29}}</ref>。
2015年春頃から自身の代表作のイラストに[[書道|書]]を融合させた作品を「漫書」と称して発表している。それらの作品は展示会の会場およびネット通販で購入が可能である。
現在在住している葛飾区とコラボし、葛飾区の『わたしの便利帳』表紙<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.katsushika.lg.jp/information/kouho/1005538/1005694.html|title=「わたしの便利帳」・「かつしかの地図」の発行|publisher=東京都葛飾区|date=2018-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190115181907/https://www.city.katsushika.lg.jp/information/kouho/1005538/1005694.html|archivedate=2019-01-15|accessdate=2022-01-17}}</ref>や、[[特殊詐欺]]警戒啓蒙ポスター・チラシ<ref>[https://www.sankei.com/article/20220906-WRPACMRTPNJ5BO7L2RFQY62UHY/ 歌舞伎「暫」で特殊詐欺防止 葛飾在住の漫画家 平松伸二さんが描き下ろし「ATMで携帯電話の指示はサギ」]『[[産経新聞]]』朝刊2022年9月7日(東京面)同日閲覧</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000063/1004028/1004737.html|title=特殊詐欺の電話に注意しましょう!!|publisher=東京都葛飾区|date=2019-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004135403/http://www.city.katsushika.lg.jp:80/kurashi/1000063/1004028/1004737.html|archivedate=2019-10-04|accessdate=2022-01-17}}</ref>、特殊詐欺啓蒙ラッピングバス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000063/1004028/1024006.html|title=犯罪未然防止啓発ラッピングバスの出発式を実施します。|publisher=東京都葛飾区|date=2020-07-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200912223210/http://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000063/1004028/1024006.html|archivedate=2020-09-12|accessdate=2022-01-17}}</ref>などの仕事も手がけている。
趣味は格闘技観戦。60歳を超えてからも毎日トレーニングを欠かさず、ボランティア活動にも積極的に取り組むというストイックな一面がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/penhashi/2983|title=【田中圭一のペンと箸―漫画家の好物ー】第19話:『ドーベルマン刑事』平松伸二と水道橋の焼肉屋|website=みんなのごはん|publisher=ぐるなび|date=2016-03-17|accessdate=2021-05-13}}</ref>。
デビュー後しばらくまで死神姿の[[イマジナリーフレンド]]がおり、外道マンと読んでいたとのこと。ただし、全く本人のためにはならず常にアシスタントや恋人(後の妻)の悪口などを言っていたらしい。
== 作品リスト ==
* [[ドーベルマン刑事]](原作:[[武論尊]])全29巻
* 新ドーベルマン刑事(原案:武論尊)※『ドーベルマン刑事』の続編
* [[リッキー台風]] 全9巻
* リッキー・ザ・レディ ※『リッキー台風』の続編
* [[ブラック・エンジェルズ]] 全20巻
* [[ザ・松田 ブラックエンジェルズ]] ※『ブラック・エンジェルズ』の[[スピンオフ]]作品 全3巻
* [[ザ・松田 超人最強伝説]] ※『ザ・松田 ブラックエンジェルズ』の続編 全2巻
* 大江戸ブラック・エンジェルズ ※『ブラック・エンジェルズ』の[[時代劇]]版リブート作品<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/421989|title=平松伸二の異色野球マンガ「キララ」が復刻、「ブラック・エンジェルズ」の時代劇版も|newspaper=コミック[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]|publisher=ナターシャ|date=2021-03-27|accessdate=2021-12-29}}</ref> 既刊4巻
* ラブ&ファイヤー 全2巻
* キララ 全1巻、新装版全1巻
* [[マーダーライセンス牙]] 全22巻
* [[マーダーライセンス牙&ブラックエンジェルズ]] ※マーダーライセンス牙』と『ブラック・エンジェルズ』の[[クロスオーバー作品]] 全13巻
* 武闘マン餓王 全1巻
* 愛修羅 ザ レジェンド ※この作品のみ'''平松伸士'''名義 全3巻
* [[相場師 -シテ-]](原作:[[城アラキ|観月壌]]) 全5巻
* [[どす恋ジゴロ]] 全4巻
* [[どす恋ジゴロ|嗚呼どす恋ジゴロ]] ※『どす恋ジゴロ』の続編 全2巻
* M8 勇気ある決断(原作:[[高嶋哲夫]]) 全1巻
* [[東京UWF]] 全1巻
* [[外道坊]] 全6巻
* [[外道坊|外道坊&マーダーライセンス牙]] ※『外道坊』と『マーダーライセンス牙』のクロスオーバー作品。作品終盤に『ブラック・エンジェルズ』の雪藤洋士も登場 全5巻
* [[モンスターハンター (漫画)|モンスターハンター]](原作:飯塚幸弘)
* 戦国SANADA紅蓮隊
* 極ラクゴ(原作:安江うに)※初の「夫婦合作」作品
* ミスター★レディー 全1巻
* 男純情鯉太郎 全1巻
* [[そしてボクは外道マンになる]] ※自伝漫画 全4巻
=== 読切 ===
* モモタロー'87(単行本『モンスターハンター 平松伸二短編集』に収録)
=== イラスト提供 ===
* ALICE IN HELL『THOUSAND PEOPLE SWORD KILL』(2019年) - [[アルバム]]ジャケットを描く。
* [[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]](フジテレビ 2004年) - [[ジャン・アンリ・ファーブル|ファーブル]]および相撲のトリビアの解説にイラストを提供した。
== 師匠 ==
* [[中島徳博]]
== アシスタント ==
* [[猿渡哲也]]
* [[高橋陽一]]
* [[小栗かずまた]]
* [[佐藤智一]]
* [[池田文春]]
* 城谷間間
<!--
*さかこし憲周{{要出典|date=2015年5月}}
-->
* [[今谷鉄柱]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kizuna-pub.jp/book_author/tecyuimatani/|title=今谷鉄柱|publisher=きずな出版|accessdate=2021-02-17}}</ref>
== 脚注 ==
<references/>
== 外部リンク ==
* {{Twitter|shinzihiramatsu}}
* {{Facebook|shinji.hiramatsu.7|平松伸二}}
* [http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/penhashi/2983 【田中圭一のペンと箸―漫画家の好物ー】第19話:『ドーベルマン刑事』平松伸二と水道橋の焼肉屋] - 平松の長男が語るエピソードを掲載。漫画家の[[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]がインタビュアー&作画
* {{マンガ図書館Z作家|1027|平松伸二}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:岡山県出身の人物]]
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1,862 | 蛭田達也 | 蛭田 達也(ひるた たつや、1961年(昭和36年)3月16日 - )は、日本の漫画家。福島県いわき市出身。横浜商科大学高等学校卒業。
1981年(昭和56年)、第27回少年マガジン新人漫画賞を『コータローまかりとおる!』(読切版)で受賞し、デビュー。
代表作は、空手の達人で明るく女好きの主人公が活躍する学園コメディー『コータローまかりとおる!』。単行本未収録の読み切り作品『あいつがKYOKI』を除いて、作品はこのシリーズのみである。
1986年(昭和61年)、『コータローまかりとおる!』で第10回講談社漫画賞少年部門を受賞。
2004年(平成16年)、長年患っていた腰痛が悪化したため、病気療養と発表した。長期間の休載に入って以降、一般には消息が途絶えていたが、2011年(平成23年)発行の「マイケル教えて!被災猫応援の教科書」(ISBN 978-4063761542)において作品を寄稿。この時「失業中(サボリ中)」とコメント。既に20年近く漫画家としての活動履歴が無いため、現在においては、事実上の引退状態と言える。 | [
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] | 蛭田 達也は、日本の漫画家。福島県いわき市出身。横浜商科大学高等学校卒業。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 蛭田 達也
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| 生年 = {{生年月日と年齢|1961|03|16}}
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'''蛭田 達也'''(ひるた たつや、[[1961年]]([[昭和]]36年)[[3月16日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[福島県]][[いわき市]]出身。[[横浜商科大学高等学校]][[卒業]]。
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== 略歴 ==
[[1981年]](昭和56年)、第27回少年マガジン新人漫画賞を『'''[[コータローまかりとおる!#シリーズ解説|コータローまかりとおる!]]'''』(読切版)で受賞し、デビュー。
代表作は、空手の達人で明るく女好きの[[主人公]]が活躍する学園コメディー『'''コータローまかりとおる!'''』。単行本未収録の読み切り作品『あいつがKYOKI』を除いて、作品はこのシリーズのみである。
[[1986年]](昭和61年)、『コータローまかりとおる!』で第10回[[講談社漫画賞]]少年部門を受賞。
[[2004年]]([[平成]]16年)、長年患っていた腰痛が悪化したため、病気療養と発表した。長期間の休載に入って以降、一般には消息が途絶えていたが、[[2011年]](平成23年)発行の「マイケル教えて!被災猫応援の教科書」({{ISBN2|978-4063761542}})において作品を寄稿。この時「失業中(サボリ中)」とコメント。既に[[20年]]近く漫画家としての活動履歴が無いため、[[現在]]においては、事実上の引退状態と言える。
==人物==
* ヘヴィメタルを愛好する[[ヘヴィメタル|メタラー]]で、仲間内でバンドを組んでおり、『コータロー』でもメタルやハードロックを軸にした話(第六部)を描いている。
* 猫好きであり、自宅にて何匹もネコを飼っていたことから、『コータロー』の柔道編ではネコたちが登場していた。
* 当時、人気を博していたドラマ「古畑任三郎」をこよなく愛し、『コータロー』の柔道編ではパロディーとして、作品内でミステリー展開を入れていた。さらに欄外で『[[金田一少年の事件簿]]』のエピソードの一つである「魔犬の森の殺人」の真相当てに挑戦し、問題編が最後まで連載される前に正答を導き出した。
* 1984年に『コータロー』が実写映画化された際には、柔術部の百人組手でコータローが対戦する相手の一人として特別出演している。主演の[[黒崎輝]]の頬に強烈なキスをして「ヒルみたいな奴ちゃ」と押しのけられた際に「蛭田だ!」と名乗り、原作者と知ったコータローが土下座をするコントが繰り広げられた。
== 作品リスト ==
; [[コータローまかりとおる!]]([[1982年]] - [[1994年]]、[[週刊少年マガジン]]、[[講談社]]、全59巻、ワイド版全31巻、文庫版全16巻)
: 新人賞受賞作を設定を一新して連載化。学生2万人の超巨大学園を舞台に、学園一のスケベにして空手の達人新堂功太郎の繰り広げる騒動を描く。初期は単なるハチャメチャ学園ラブコメだったが、連載が長期化するにつれて格闘漫画としての色彩を強くしていき、学園を支配する不良集団「蛇骨会」との抗争を発端とする闇の世界との戦いがストーリーの根本に流れる伏線となった。しかし、ストーリーがシリアスになっても主人公の奔放さは最後まで貫かれている。
: 実写映画化もされた。『コータローまかりとおる!』([[1984年]]、[[東映]])、[[黒崎輝]]主演。
; [[コータローまかりとおる!#新 コータローまかりとおる! 柔道編|新・コータローまかりとおる! 柔道編]]([[1995年]] - [[2001年]]、週刊少年マガジン、全27巻)
: 上記作品の続編。気が弱いため実力を発揮できずにいる柔道少年西郷三四郎を実質的な主人公に、功太郎の巻き起こす騒動に巻き込まれつつ才能を開花させていく三四郎の成長を描く。
; [[コータローまかりとおる!#コータローまかりとおる! L|コータローまかりとおる! L]]([[2003年]] - [[2004年]]、週刊少年マガジン → [[マガジンSPECIAL]])
: 再び功太郎をメインにした続編。[[ニューヨーク]]から功太郎の母が突然帰国したことをきっかけに、新堂家に伝わる秘伝虎の巻を狙うアメリカンニンジャ軍団との抗争が開始される。最終章と言われているが、作者病気療養の為長期休載。その後、復帰することなく掲載誌のマガジンSPECIALも2017年に休刊。[[未完成作品|未完]]のまま事実上の連載終了になっている。
; あいつがKYOKI ([[1984年]]、[[週刊少年マガジン]])
: [[単行本]]未収録の[[読み切り]]。
== アシスタント ==
* [[森川ジョージ]]<ref>[http://www.moae.jp/comic/howtobeamangaartist/15 特別インタビュー「僕が“森川ジョージ”になるためにやってきたこと」] {{ja icon}} - モアイ、[[講談社]]、[[2016年]](平成28年)8月25日。</ref>
== 脚注 ==
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:横浜商科大学高等学校出身の人物]]
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1,864 | 美内すずえ | 美内 すずえ(みうち すずえ、本名:西尾 鈴恵(にしお すずえ)、1951年〈昭和26年〉2月20日 - )は、日本の漫画家。大阪府生まれ、大阪府大阪市出身。最終学歴:大阪成蹊女子高。既婚。アカルプロジェクトのオーナー。
実家は理髪店で、幼少時代はよく映画を見に行ったという。中学時代に貸本屋で手塚治虫などの漫画に熱狂するも母親に漫画を読むことを禁じられ、それならばと自分自身で漫画を描き始めるようになる。
1967年(昭和42年)、高校時代に『別冊マーガレット』10月号に「山の月と子だぬきと」でデビューした。さらに1976年(昭和51年)には『ガラスの仮面』が『花とゆめ』にて連載開始する。この作品は、1995年(平成7年)に第24回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞するなど、作者の代表作となった。
それ以外にも1982年(昭和57年)に『妖鬼妃伝』(『なかよし』、講談社)で、第6回講談社漫画賞を受賞している 。
1991年(平成3年)、山梨県甲府市にフレンチ料理とカフェの店Cafe du Crepuscule(カフェ・ド・クレプスキュール)を開店。2010年(平成22年)に吉祥寺に姉妹店開店。
2009年(平成21年)現在も「O-EN NETWORK」という精神世界を探求する団体を主宰しており、漫画家としての活動は10年近く停止状態だった時期があった。このことについて、作者側は漫画執筆意欲が失われたわけではなく、物語を構成するエピソードに非常に時間がかかり、単行本1冊のプロットだけでノート約10冊以上を必要とすること、さらに雑誌連載と単行本では描き下ろしがあることが理由であるとしている。『ガラスの仮面』以外にも『アマテラス』『聖アリス帝国』も未完結の作品とされている。なお、書店に赴いた際、居合わせた女子学生の「ガラスの仮面」最新刊に関する否定的な会話にショックを受け、考えに考えた展開への自信が揺らいだこともある。
2004年(平成16年)12月16日、読者待望の『ガラスの仮面』コミックス42巻が発売されたが、白泉社『花とゆめ』誌上で連載されていた原稿を一切使わずに全編描き下ろしされており、作品内容は大幅に改変されている。そのため、1989年(平成元年)から1997年(平成9年)まで連載された版(全75回)における複数のエピソードが宙に浮いた形となっている。
精神世界研究団体O-ENを主宰している他、2006年(平成18年)以降、『ガラスの仮面』内に登場する劇中劇「紅天女」を元にした新作能の監修も手掛けている。全国に公演回数が増加していることから、漫画制作がさらに遅れている。
2009年(平成21年)1月26日、約4年ぶりの『ガラスの仮面』コミックス43巻が発売された。これはコミックス42巻の続きとして、2008年(平成20年)7月から4ヶ月連続『別冊花とゆめ』に集中掲載された原稿が元となっているが、基本ストーリーに変更はないものの、様々な加筆修正・削除等改変がなされている。
2017年8月12日に宝島社「このマンガがすごい! Comics 妖鬼妃伝 美内すずえセレクション 黒の書」(同時収録「黒百合の系図」「ひばり鳴く朝」)、2018年1月12日に宝島社「このマンガがすごい! Comics 13月の悲劇 美内すずえセレクション 白の書」(同時収録「白い影法師」「孔雀色のカナリア」)が刊行された。 | [
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] | 美内 すずえは、日本の漫画家。大阪府生まれ、大阪府大阪市出身。最終学歴:大阪成蹊女子高。既婚。アカルプロジェクトのオーナー。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 美内 すずえ
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| 脚注 =
| 本名 = 西尾 鈴恵<ref name="Yomiuri2005">『[[読売年鑑]]2005年版 別冊 分野別人名録』p.393より,[[読売新聞東京本社]],(平成17年)[[2005年]]3月13日発行。{{ISBN|4643050012}}</ref><br />(旧姓:美内{{Efn2|p.852に本名・出身地・生年月日・血液型を記載{{Sfn|「日本漫画家名鑑500」編集委員会|1992|p=852-853}}。}})
| 生年 = {{生年月日と年齢|1951|2|20}}<ref name="Yomiuri2005"/>
| 生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]
| 没年 =
| 没地 =
| 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 -->
| 職業 = [[漫画家]]
| 活動期間 = [[1967年]] -
| ジャンル = [[少女漫画]]
| 代表作 = 『[[ガラスの仮面]]』
| 受賞 = 第6回[[講談社漫画賞]]少女部門<br />第24回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞
| サイン =
| 公式サイト = [http://miuchisuzue.com/ 美内すずえ公式ホームページ「オリーブの葉っぱ」]
}}
'''美内 すずえ'''(みうち すずえ、本名:西尾 鈴恵(にしお すずえ)<ref name="Yomiuri2005"/>、[[1951年]]〈昭和26年〉[[2月20日]]<ref name="Yomiuri2005"/> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[大阪府]]生まれ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hakusensha.co.jp/hbstation/selection/pdf/se27.pdf|title=白泉社文庫セレクション 美内すずえ特集|accessdate=2018-03-25|publisher=白泉社}}</ref>、大阪府[[大阪市]]出身<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20151009-ABXTTP7Z5ZPBVFRWAVQ6QGIAMU/|title=現代に合う文化を生み出したい エンタメ施設を大阪にオープン 漫画家、美内すずえさん|date=2015-10-09|accessdate=2018-03-25|publisher=産経WEST}}</ref>。血液型は[[ABO式血液型|O型]]{{Sfn|「日本漫画家名鑑500」編集委員会|1992|p=852-853}}。最終学歴:[[大阪成蹊女子高等学校|大阪成蹊女子高]]<ref name="Yomiuri2005"/>。既婚<ref name="毎日2017年4月">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170414/dde/012/070/034000c |title=人生は夕方から楽しくなる:漫画家 美内すずえさん|newspaper=毎日新聞 東京夕刊|publisher=[[毎日新聞社]]|author=藤原章生|date=2017-04-14|accessdate=2018-05-28}} "昨年1月からの看病について聞くと、「2月12日、夫が冠動脈をつまらせて倒れ、23分間心肺停止したんですが、運が良かったのは行きつけのお店で……」と説明を始めた。"</ref><ref name="朝日2019年1月">{{Cite web|和書|url=https://book.asahi.com/article/12039563 |title=「ガラスの仮面」創作の源はここにあった 美内すずえさん異業種対談集「見えない力」|website=好書好日|work=インタビュー|author=上田恵子|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2019-01-08|accessdate=2023-07-20}} "現在、主人は要介護5ですが、最近、半日も介護のお手伝いをしてくださる方が来てくれるようになって、ものすごく助かっています。(略)山梨県で経営していたレストランが火事になるなど、彼の人生は実にドラマチック。"</ref><ref name="文春2022年3月">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/52622?page=3 |title= (3ページ目)「お芝居について詳しい知識や関心があったわけでもなく、見切り発車でしたね(笑)」美内すずえが語る『ガラスの仮面』意外な“誕生秘話” |website=[[文春オンライン]]|work=少女漫画家「家」の履歴書より|author=吉田大助|publisher=[[文藝春秋]]|date=2022-03-24|accessdate=2023-07-20}} "31歳の時に結婚"</ref>。アカルプロジェクトのオーナー<ref>{{Cite web|和書|url=http://akaru-project.co.jp/?page_id=71|title=会社概要|アカルプロジェクト|accessdate=2020-01-13}}</ref>。
== 人物 ==
実家は[[理容所|理髪店]]で、幼少時代はよく映画を見に行ったという。中学時代に貸本屋で[[手塚治虫]]などの漫画に熱狂するも母親に漫画を読むことを禁じられ、それならばと自分自身で漫画を描き始めるようになる。
[[1967年]](昭和42年)、高校時代に『[[別冊マーガレット]]』10月号に「山の月と子だぬきと」でデビューした<ref>[[キネマ旬報社]]編 『[[BSマンガ夜話|マンガ夜話]]』vol.9、キネマ旬報社<キネ旬ムック>、2000年、p.186.</ref>。さらに[[1976年]](昭和51年)には『[[ガラスの仮面]]』が『[[花とゆめ]]』にて連載開始する。この作品は、[[1995年]](平成7年)に第24回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞を受賞するなど<ref>まんがseek・日外アソシエーツ編集部共編 『漫画家人名事典』 [[日外アソシエーツ]]、2003年、p.353.</ref><ref>「大澤一雄さんに大賞」 [[朝日新聞]]1995年4月27日付朝刊、14版、34面、第9段.</ref>、作者の代表作となった。
それ以外にも[[1982年]](昭和57年)に『[[妖鬼妃伝]]』(『[[なかよし]]』、[[講談社]])で、第6回[[講談社漫画賞]]を受賞している <ref>[[キネマ旬報社]]編 『[[BSマンガ夜話|マンガ夜話]]』vol.9、キネマ旬報社<キネ旬ムック>、2000年、p.180上段.</ref>。
1991年(平成3年)、山梨県甲府市にフレンチ料理とカフェの店Cafe du Crepuscule(カフェ・ド・クレプスキュール)を開店。2010年(平成22年)に吉祥寺に姉妹店開店。
2009年(平成21年)現在も「O-EN NETWORK」という精神世界を探求する団体を主宰しており、漫画家としての活動は10年近く停止状態だった時期があった。このことについて、作者側は漫画執筆意欲が失われたわけではなく、物語を構成するエピソードに非常に時間がかかり、単行本1冊のプロットだけでノート約10冊以上を必要とすること、さらに雑誌連載と単行本では描き下ろしがあることが理由であるとしている{{Efn2| ただし美内自身は子供の頃から不思議な体験を何度もしており、[[超自然]]的な現象に関心があったのは事実である。女性週刊誌『[[女性自身]]』1996年7月30日号では「霊が大事故から救ってくれた」と語ったこともあった。しかし、このことと執筆停止との関係は不明である。ノリアキラ、Peko、ヤマダトモコ 「美内すずえを読み解く45のキーワード」 『[[BSマンガ夜話|マンガ夜話]]』vol.9、キネマ旬報社<キネ旬ムック>、2000年、pp.204下段-205上段。}}。『ガラスの仮面』以外にも『[[アマテラス (漫画)|アマテラス]]』『[[聖アリス帝国]]』も未完結の作品とされている。なお、書店に赴いた際、居合わせた女子学生の「ガラスの仮面」最新刊に関する否定的な会話にショックを受け、考えに考えた展開への自信が揺らいだこともある<ref>『THE・少女マンガ 作者が語る名作の秘密』NHK-BS,2005年1月24回放送</ref>。
2004年(平成16年)12月16日、読者待望の『ガラスの仮面』コミックス42巻が発売されたが、白泉社『花とゆめ』誌上で連載されていた原稿を一切使わずに全編描き下ろしされており、作品内容は大幅に改変されている。そのため、1989年(平成元年)から1997年(平成9年)まで連載された版(全75回)における複数のエピソードが宙に浮いた形となっている。
精神世界研究団体O-ENを主宰している他、2006年(平成18年)以降、『ガラスの仮面』内に登場する劇中劇「紅天女」を元にした新作能の監修も手掛けている。全国に公演回数が増加していることから、漫画制作がさらに遅れている。
2009年(平成21年)1月26日、約4年ぶりの『ガラスの仮面』コミックス43巻が発売された。これはコミックス42巻の続きとして、2008年(平成20年)7月から4ヶ月連続『[[別冊花とゆめ]]』に集中掲載された原稿が元となっているが、基本ストーリーに変更はないものの、様々な加筆修正・削除等改変がなされている。
2017年8月12日に[[宝島社]]「このマンガがすごい! Comics 妖鬼妃伝 美内すずえセレクション 黒の書」(同時収録「黒百合の系図」「ひばり鳴く朝」)、2018年1月12日に宝島社「このマンガがすごい! Comics 13月の悲劇 美内すずえセレクション 白の書」(同時収録「白い影法師」「孔雀色のカナリア」)が刊行された。
== 作品リスト ==
* ナオは光の中で - 別冊マーガレット 1968年11月号
* 赤い女神 - 別冊マーガレット 1970年5月号 - 6月号
* 燃える虹 - 別冊マーガレット 1970年9月号 - 11月号
* 13本のキャンドル - 別冊マーガレット 1970年12月号
* 日本列島一万年 - 別冊マーガレット 1971年1月号 - 2月号
* ひばり鳴く朝 - [[別冊マーガレット]]1971年6月号
* 13月の悲劇(美内すずえ怪奇傑作集) - 集英社「別冊マーガレット」1971年(昭和46年)9月号 - 10月号
* バラ物語 - 別冊マーガレット 1972年1月号
* 雪の音 - 月刊セブンティーン 1972年2月号
* 炎のマリア - 別冊マーガレット 1972年6月号
* 泥棒シンデレラ - 花とゆめ 1972年24号
* アマランスの女王 - 別冊マーガレット 1972年4月号 - 5月号
* パンドラの秘密 - 別冊マーガレット 1972年9月号 - 10月号
* ジュリエッタの嵐 − 別冊マーガレット 1973年1月号 - 2月号
* みどりの炎 - 別冊マーガレット 1973年(昭和48年)9月号
* 人形の墓(美内すずえ作品集) - 週刊マーガレット 1973年37号
* はるかなる風と光 - 別冊マーガレット 1973年10月号 - 1974年10月号
* 孔雀色のカナリア - [[集英社]]「[[Seventeen (日本の雑誌)|月刊セブンティーン]]」1973年(昭和48年)12月号 - 1974年(昭和49年)2月号
* [[ガラスの仮面]] - 『[[花とゆめ]]』(1976年1号 - 1997年20号)、『[[別冊花とゆめ]]』(2008年9月号 - 2012年7月号)【当初連載中断理由はコミックス発行準備と告知され49巻発売するも連載再開せず、2018年に掲載誌休刊に至った】
* 帰らざる氷河 - 別冊マーガレット 1975年1月号
* 冬のひまわり - 別冊マーガレット 1975年(昭和50年)2月号
* 忍者屋敷に春がきた - 別冊マーガレット 1975年(昭和50年)4月号【単行本未収録】
* 金色の闇が見ている - 別冊マーガレット 1975年(昭和50年)5月号 - 6月号
* 白ゆりの騎士 - 花とゆめ 1974年6月創刊号 - 1975年5号
* 白い影法師 - [[講談社]]「[[mimi (雑誌)|月刊mimi]]」1975年(昭和50年)10月号
* 魔女メディア - 別冊マーガレット 1975年9月号 - 10月号
* ポリアンナの騎士 - 別冊マーガレット 1976年(昭和51年)5月号
* 虹の戦 - 月刊mimi 1976年5月号 - 6月号
* 聖(セント)アリス帝国 【未完】 - (1976年 - 1978年)
* 王女アレキサンドラ - 別冊マーガレット 1977年4月号
* 黒百合の系図 - [[LaLa|月刊LaLa]]1977年9月号 - 12月号
* 黒百合の系図 - 月刊LaLa 1977年9月号 - 12月号
* [[妖鬼妃伝]] - [[なかよし]]1981年9月号 - 11月号
* ダイナマイト・みるく・パイ - 花とゆめ 1982年2号
* [[アマテラス (漫画)|アマテラス]] 【未完】 - (1987年 - 2001年)
* 宇宙神霊記 - 1991年
== アシスタント経験者 ==
* [[魔夜峰央]]
* [[吉崎観音]]
* [[槇村さとる]]
* [[くらもちふさこ]]
* [[酒井美羽]]
*[[笹生那実]]
* [[日渡早紀]]
* [[立野真琴]]
* [[立花晶]]
== 関連番組 ==
* [[趣味百科]]『少女コミックを描く』第8回(1991年5月21日 NHK教育) - アトリエ訪問コーナーに登場
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[キネマ旬報社]]編 『[[BSマンガ夜話|マンガ夜話]]』vol.9(2000年9月1日号)、キネマ旬報社<[[キネ旬ムック]]>、2000年(平成12年)、ISBN 4-87376-549-8
** [[NHK衛星第2テレビジョン]]のトーク番組『[[BSマンガ夜話]]』にて、『[[ガラスの仮面]]』をテーマに取り上げた[[1999年]](平成11年)11月8日放送回を誌上で再現。
** 巻末に、「美内すずえ 完全保存版データ」として、単行本リスト(各作品の解説、あらすじ、書誌含む)や、[[1967年]](昭和42年)から1999年(平成11年)までの作品年表(掲載誌名・号数、単行本化・改稿の有無含む)を収録。ほかにも、ノリアキラ、Peko及び[[ヤマダトモコ]]による「美内すずえを読み解く45のキーワード」、『ガラスの仮面』の舞台、アニメ等の紹介などがある。
* 紅天女公演推進委員会編 『「ガラスの仮面」研究白書』 [[同文書院]]、1998年(平成10年)、ISBN 4-8103-7510-2
** 漫画『ガラスの仮面』についての解説本だが、巻末に、[[1967年]](昭和42年)から[[1986年]](昭和61年)までの美内すずえ作品一覧(掲載誌名・号数含む)を収録。
* インタビュー対談、阿川佐和子のこの人に会いたい第1240回「美内すずえ」、週刊文春、2019年1月3日・10日新年特大号、第198-202頁。
* {{Citation|和書|author=「日本漫画家名鑑500」編集委員会(委員長:[[石ノ森章太郎]])・[[加藤昇]] 編|date=1992-12-18 |title=日本漫画家名鑑500:[[1945]]-[[1992]] |pages=1069 |publisher=アクア・プランニング|id={{全国書誌番号|93037702}} |ref={{SfnRef|「日本漫画家名鑑500」編集委員会|1992}} }}<!--奥付及び編集後記より:1991年夏・東京池袋にて開催『まんが大博覧会:作家500人展』の一環で編纂された名鑑。限定5千部印刷し、協賛した漫画家・図書館・マスコミ各社等に無料配布との事。-->
== 外部リンク ==
<!-- {{Commonscat|Suzue Miuchi}} -->
<!-- (注意)美内すずえ主宰の勉強会「O-EN NETWORK」公式サイトへのリンクは許可制となっています。今のところ、Wikipediaはリンクの許可を得ていないので、注意してください。-->
* [http://miuchisuzue.com/ 美内すずえ オリーブの葉っぱ] (美内すずえ公式サイト)
* [http://www.hakusensha.co.jp/glass/ 『ガラスの仮面』公式サイト] (代表作『ガラスの仮面』公式サイト)
* {{Twitter|miuchibell}}
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の漫画家]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%86%85%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%88 |
1,865 | 三浦みつる | 三浦 みつる(みうら みつる、1954年11月25日 - )は、日本の元漫画家。神奈川県横浜市中区本牧間門出身。本名:三浦 満(読み同じ)。男性。血液型はO型。代表作に『The・かぼちゃワイン』など。
1971年、神奈川県立磯子工業高等学校在学中に「世にも不幸な男の話」で『週刊少年ジャンプ』(集英社)のヤングジャンプ賞を受賞。高校卒業後にサラリーマンを経て、手塚プロダクションのアシスタントを経験。1973年、『さまよう箱は』で第6回手塚賞佳作。1975年、『僕は狂わない』で第9回手塚賞佳作を受賞。
1983年、『The・かぼちゃワイン』で第7回(昭和58年度)講談社漫画賞少年部門受賞。
2017年12月、クラウドファンディング自主制作本『バック・トゥ・The♡かぼちゃワイン』発売。本作品をもって漫画家引退を宣言し、デビュー時から数えて45年以上に渡った漫画家活動に終止符を打った。
現在は絵本作家を目指して勉強中とのこと。2023年4月時点で日本漫画家協会常務理事。 | [
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] | 三浦 みつるは、日本の元漫画家。神奈川県横浜市中区本牧間門出身。本名:三浦 満(読み同じ)。男性。血液型はO型。代表作に『The・かぼちゃワイン』など。 | {{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}}
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|本名 = 三浦 満
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'''三浦 みつる'''(みうら みつる、[[1954年]][[11月25日]] - )は、[[日本]]の元[[漫画家]]。[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[本牧間門]]出身。本名:'''三浦 満'''(読み同じ)。[[男性]]。[[血液型]]はO型。代表作に『[[The・かぼちゃワイン]]』など。
== 概要 ==
[[1971年]]、[[神奈川県立磯子工業高等学校]]在学中に「世にも不幸な男の話」で『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])の[[週刊少年ジャンプの新人漫画賞#ヤングジャンプ賞|ヤングジャンプ賞]]を受賞。高校卒業後にサラリーマンを経て、[[手塚プロダクション]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経験。[[1973年]]、『さまよう箱は』で第6回[[手塚賞]]佳作。[[1975年]]、『僕は狂わない』で第9回手塚賞佳作を受賞。
[[1983年]]、『The・かぼちゃワイン』で第7回(昭和58年度)[[講談社漫画賞]]少年部門受賞。
[[2017年]]12月、[[クラウドファンディング]]自主制作本『バック・トゥ・The♡かぼちゃワイン』発売。本作品をもって漫画家引退を宣言し、デビュー時から数えて45年以上に渡った漫画家活動に終止符を打った<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/miura_mitsuru/status/940499165250908160|title=三浦みつるオフィシャルTwitter|date=2017-12-12|accessdate=2017-12-13}}</ref>。
現在は[[絵本作家]]を目指して勉強中とのこと。2023年4月時点で[[日本漫画家協会]]常務理事。
== 作品リスト ==
* もしもしこちらは(講談社『[[週刊少年マガジン]]』1977年21号掲載) - 第16回新人漫画賞入選作。
* [[ハウス (映画)|ハウス]](1977年6月、『[[月刊少年マガジン]]』、講談社) - [[大林宣彦]]監督による同名映画のコミカライズ。
* SFミステリー 森の鬼人(講談社『週刊少年マガジン増刊号』1977年8月15日号掲載)
* あいつはラプラス(講談社『週刊少年マガジン』1978年11号 - 16号連載) - 単行本未刊行。
* おもしろ倶楽部(全2巻、講談社『月刊少年マガジン』1978年5月号 - 1979年7月号連載)
* きまぐれザンボ(講談社『週刊少年マガジン』1979年34号 - 1980年1号連載) - 単行本未刊行。
* ガラスの狼(講談社『月刊少年マガジン』1979年9月号 - 1980年1月号連載) - 単行本未刊行。
* からくりパックス(全1巻、講談社『月刊少年マガジン』1980年2月号 - 7月号掲載)
* ケサランパサラン(全1巻、講談社『月刊少年マガジン』1980年9月号 - 1981年2月号連載)
* 恋のシャッターチャンス(講談社『週刊少年マガジン』1980年37号掲載) - 『コンビにまりあ』4巻に収録
* [[The・かぼちゃワイン]](全18巻、講談社『週刊少年マガジン』1981年4・5合併号 - 1984年26号連載)- 1982年にアニメ化された。
** The かぼちゃワインsequel(2001年 - 2002年、コミック伝説マガジン、[[実業之日本社]]) - 掲載紙の休刊に伴い中断を余儀なくされる。後、2006年に加筆を加えた完全収録版の単行本が発売される。
** The かぼちゃワイン Another(2006年 - 2009年、[[プレイコミック]]、[[秋田書店]])
** バック・トゥ・The♡かぼちゃワイン(2017年12月) - クラウドファンディング自主制作本にして、自身の漫画家生活最後の作品。店頭販売は[[書泉#店舗|書泉グランデ]]のみ。
* お日さま元気(講談社『月刊少年マガジン』1982年4月号 - 6月号連載) - 『The かぼちゃワイン』番外編第2巻に収録。
* ふたりでチェリー(1984年、[[月刊キャロル]]、講談社)
* [[レンズマン]](全3巻、原案:[[E・E・スミス]]、講談社『週刊少年マガジン』1984年41号 - 1985年18号連載) - アニメとのタイアップ。
* ココナッツAVE.(全6巻、講談社『週刊少年マガジン』1985年38号 - 1986年40号連載)
* 明日美(全1巻、講談社『モーニング』不定期連載、1987年刊) - 現代編。
** ASUMI(全1巻、講談社『アフタヌーン』1987年2月号 - 12月号連載) - 未来編。
* MR.DOZAEMON(全1巻、[[スコラ]]・講談社『[[コミックバーガー]]』1986年創刊号 - 1987年6号連載)
* いろはカルテ(全2巻、スコラ・講談社『コミックバーガー』1987年11号 - 1988年23号連載)
** ファーストメモリー(全3巻、ぶんか社、1990年刊) - 『いろはカルテ』完全版。
* [[春日局 (曖昧さ回避)|春日の局]](全3巻、スコラ)
* ピンクスパット(全2巻、講談社)
* 苺でパイナップリン(全1巻、ぶんか社、1990年刊)
* 浮世のふくろう(全1巻、ぶんか社、1990年刊)
* シンデレラの忘れ物 三浦みつる傑作集(全1巻、集英社、1991年刊)
* 緋牡丹市民(全1巻、スコラ、1992年刊)
* 愛しのタワリシチ(全1巻<ref name="1kan">1巻と巻数表記あり。</ref>、実業之日本社、1992年刊)
** 続・愛しのタワリシチ(全1巻)
* 愛しゃるリターン(全6巻、日本文芸社、1994年 - 1995年刊)
* トリガー(全1巻<ref name="1kan" />、原作:[[和泉聖治]]、日本文芸社、1996年刊)
* レディーQ(全1巻<ref name="1kan" />、日本文芸社、1997年刊)
* 涙を拭いて(原作:[[剣名舞]])
* Alohaストリート - [[SGS]]、パチンコ店の景品としてのみ配布された[[コミックブレイク]]にて連載。
* [[コンビにまりあ]] - 2001年にTVドラマ化。
* 天才調香師 宝条ミカ
* ワンダフル
* エロタン([[プレイコミック]]、[[秋田書店]])
* ミュウ - [[網地島ライン]]の就航船「マーメイド」に描いたオリジナルイラスト。
* 華姫レビュー
* セラピスト粧子
== 師匠 ==
* [[手塚治虫]]
== アシスタント ==
* 神谷一郎
* くさのあきひろ
== テレビ出演 ==
* [[教えてもらう前と後]](2018年3月6日、[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]]) - 手塚治虫の元アシスタントとして出演。[[源氏物語絵巻]]と手塚マンガの共通作画技法などについて語った。
== 関連作品 ==
* [[ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜]](2009年、秋田書店) - アシスタント時代の三浦が登場。
* ブラック・ジャックREAL~感動の医療体験談~(2013年、秋田書店) - 実話を元にしたストーリーに、手塚治虫のアシスタント経験者らが絵を描いた作品集。三浦も1編を担当。
== その他の活動 ==
* [[日本漫画家協会]]の常務理事を務めている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* {{twitter|miura_mitsuru}}
* [https://web.archive.org/web/20111015074846/http://www.manga-g.co.jp/interview/2005/int05-12.html 三浦みつる先生インタビュー/2005年12月号:日本漫画学院Web]
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1,867 | 水島新司 | 水島 新司(みずしま しんじ、1939年〈昭和14年〉4月10日 - 2022年〈令和4年〉1月10日)は、日本の漫画家。野球漫画の第一人者。代表作に『野球狂の詩』『ドカベン』『あぶさん』など。
新潟県新潟市出身。趣味は野球、将棋。血液型はB型。元タレント・俳優の水島新太郎は長男。
1939年、新潟市の魚屋の家に生まれる。父親がギャンブル好きで多額の借金を背負い、金銭的に困窮した少年時代を送る。
中学は新潟市立白新中学校に通っており、当時同校に隣接していた新潟明訓高等学校への進学を希望していたものの、家庭の経済状況を勘案して高校進学を断念した。中学卒業後、父親が借金をしていた水産問屋に丁稚奉公に出されるが、そこで漫画家になることを決意。仕事後に睡眠時間を削って漫画を執筆する。
1958年、大阪の貸本漫画出版社『日の丸文庫』の漫画短編誌『影』の新人漫画コンクールにデビュー作『深夜の客』を投稿する。評価としては次点であったが、審査員の一人だった佐藤まさあきがその才能を評価し、入選を強硬に主張。特別に特選二席として表彰される。その表彰式で社長の山田秀三に漫画家になりたい旨を直訴、「一年以内に漫画家になる」という条件で家族を説得し来阪する。
山田宅に住み込み、日の丸文庫の編集の下働きの仕事をしながら寝る間を削って漫画を執筆、人気貸本漫画家となる。日の丸文庫では主にコメディ漫画を執筆。短編集『オッス!』シリーズや『水島新司爆笑シリーズ』、大阪のTV局制作ドラマ『番頭はんと丁稚どん』や『てなもんや三度笠』の漫画化などで人気を博す。
1964年、日の丸文庫専属を経て独立、上京。
『週刊少年キング』で多くの短編作品を描くが、漫画家としての活動初期はサイクルサッカーなど野球以外のスポーツ漫画も多く手がけていた。野球漫画を描かなかった理由は、打つ・走る・投げるなど本物に近い絵を描きたかったが、絵が下手だったので、一番好きな野球のジャンルを描ける自信が付くまで10年かかったためであるという。
満を持して、本格的な野球漫画として1969年に『エースの条件』を発表。1970年からは『週刊少年サンデー』に『男どアホウ甲子園』、『週刊少年チャンピオン』に『銭っ子』を連載し、仕事の幅を広げる。特に『男どアホウ甲子園』は最初の大ヒットとなり、少年誌での人気を得る。
1972年からは『月刊少年マガジン』で『野球狂の詩』を読み切り不定期掲載、『週刊少年チャンピオン』で『ドカベン』を連載開始。1973年からは『ビッグコミックオリジナル』で『あぶさん』を連載開始。青年漫画にも進出する。『あぶさん』は2014年に完結するまで、41年にわたる長期連載となった。
水島自身やブレーンによる取材や資料集めの丁寧さを活かした「リアルな野球漫画」であった上記の連載作品はすべて人気を博し、野球漫画の第一人者の地位を確立する。特に柔道漫画として始まったが、『男どアホウ甲子園』終了に伴い、予定通り野球漫画へ転換した『ドカベン』は記録的大ヒットとなった。
以降、1975年に『男どアホウ甲子園』の続編『一球さん』を『週刊少年サンデー』に、1976年に『球道くん』を『マンガくん(少年ビッグコミック)』に発表。1977年には、当時、ブレーンを務めていた永谷脩と野球漫画専門誌『一球入魂』(新日本スポーツ企画)を創刊して編集長となり、『ある野球人の記録』(単行本では『白球の詩』)を連載する。
1977年ごろの、「知名人」(もしくは「著作家」)の所得番付で一位になったと、自ら語っている。
1981年、9年続いた『ドカベン』連載終了の直後に、プロ野球機構そのものをすべてオリジナルで作る壮大で野心的な作品『光の小次郎』を『週刊少年マガジン』に発表。
1983年には自身が今まで描いてきた高校野球漫画の集大成作品『大甲子園』を『週刊少年チャンピオン』に発表。『ドカベン』を中心に『野球狂の詩』『男どアホウ甲子園』『一球さん』『球道くん』『ダントツ』などの人気漫画から、それまで意識して描かなかった登場キャラクターを全員集めた高校3年の夏の大会を描いた。スター・システムを採用したクロスオーバー作品の先駆けでもあり、多くのヒット作品をもつ水島ならではの展開であった。
その一方で、ベテランの域に入った『あぶさん』が代打本塁打だけで落合博満と本塁打王争い(1982年)をするなど、架空の選手がプロ野球記録や日本新記録を更新する荒唐無稽な描写が目立つようになり、「リアルな野球漫画」から現実離れした作風へ変化したことを批判する読者も増えた。
以降は1984年に『極道くん』(週刊少年マガジン)、1987年に『へい!ジャンボ』のリメイク『虹を呼ぶ男』(週刊少年チャンピオン)、1988年に『野球狂の詩』の番外編的作品『ストッパー』(コミックバーガー)、1990年に高校野球漫画の総決算『おはようKジロー』(週刊少年チャンピオン)を、1993年の『平成野球草子』(ビッグゴールド)をそれぞれ連載するが、やや低迷期に入る。
清原和博の希望もあって、1995年に『ドカベン プロ野球編』(週刊少年チャンピオン)を、リメイクブームの風潮から1997年に『野球狂の詩 平成編』(ミスターマガジン)を連載開始。講談社との関係は『極道くん』連載終了前後に、たけし軍団によるフライデー襲撃事件が発生し、水島の息子である新太郎が連座していたことから、しばらく関係が途絶えていたが、本作で和解している。また、これらは2000年に『新・野球狂の詩』(モーニング)、2004年に『ドカベン スーパースターズ編』とタイトルを改め、長期連載となる。
2005年10月・11月に、8週連続(モーニングでは予告編含め9週)で『週刊少年チャンピオン』と『週刊モーニング』による、出版社を超えたコラボレーション企画として、『ドカベン スーパースターズ編』の東京スーパースターズと『新・野球狂の詩』の札幌華生堂メッツが日本シリーズで対決した。
2000年代に入ってから、連載は講談社の『野球狂の詩』、小学館の『あぶさん』、秋田書店の『ドカベン』だけになっていたが、上記の単行本化である『野球狂の詩VS.ドカベン』(2006年2月刊)を最後に、小学館と秋田書店だけになった。
2007年、漫画家生活50周年を迎え、『週刊少年チャンピオン』では漫画家生活50周年の企画として、連載中の『ドカベン』を巻頭カラーに、水島と同郷の高橋留美子の他、秋本治やさいとう・たかを、かわぐちかいじ、あだち充、井上雄彦、満田拓也、藤子不二雄A、森川ジョージ、高橋ヒロシなど沢山の漫画家からの寄せ書きとイラストが掲載された。また、王貞治、長嶋茂雄、ビートたけし、爆笑問題、松井秀喜、城島健司など野球関係者や芸能人からもメッセージが寄せられた。
2012年、『ドカベン』シリーズ40周年を記念し、最終章『ドカベン ドリームトーナメント編』連載開始。2018年に大団円を迎えた。週刊少年誌に連載する漫画家としてはあだち充を12歳も上回り、現役最長老であった。2014年2月には『あぶさん』も976回の連載を終了している。
2020年12月1日、同日付で63年間の漫画家生活から引退することを発表。最終作は2018年8月に発表した『あぶさん』の読み切り作品。
2022年1月10日、肺炎のため、東京都内の病院で死去。82歳没。喪主は妻・修子。『ドカベン』シリーズに登場した松坂大輔は水島の訃報について、「漫画『ドカベン』に自分が初めて出た時の喜びは今でも忘れません...。」とコメントした。
テレビアニメ化等のメディア展開や、CMなどのパロディといった作品の二次利用も多く見られたが、長男の新太郎がマネージャーを務めるようになった2010年代以降はそれらの利用にも消極的になっていった。また、現時点では作品の電子書籍化も行われていない。
五十音順。ただし、シリーズ物はそのシリーズ順。 | [
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"text": "五十音順。ただし、シリーズ物はそのシリーズ順。",
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] | 水島 新司は、日本の漫画家。野球漫画の第一人者。代表作に『野球狂の詩』『ドカベン』『あぶさん』など。 新潟県新潟市出身。趣味は野球、将棋。血液型はB型。元タレント・俳優の水島新太郎は長男。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 水島 新司
| ふりがな = みずしま しんじ
| 画像 = Shinji Mizushima 2009.jpg
| 画像サイズ = 150px
| 脚注 = 2009年
| 本名 =
| 生年 = {{生年月日と年齢|1939|4|10|没}}
| 生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[新潟市]]
| 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1939|4|10|2022|1|10}}
| 没地 = {{JPN}}・[[東京都]]
| 国籍 = {{JPN}}
| 職業 = [[漫画家]]
| 称号 = [[紫綬褒章]]<br />[[旭日小綬章]]
| 活動期間 = [[1958年]] - [[2020年]]
| ジャンル = [[野球漫画]]
| 代表作 = 『[[野球狂の詩]]』<br />『[[ドカベン]]』<br />『[[あぶさん]]』
| 受賞 = 第19回[[小学館漫画賞]](『[[男どアホウ甲子園]]』『出刃とバット』)<br />第4回[[講談社]]出版文化賞児童漫画部門(『[[野球狂の詩]]』)<br />第22回小学館漫画賞(『[[あぶさん]]』)<br />[[日本漫画家協会賞]]文部科学大臣賞
| 公式サイト =
}}
'''水島 新司'''(みずしま しんじ、[[1939年]]〈[[昭和]]14年〉[[4月10日]]<ref>[https://web.archive.org/web/20040703015117/http://www.segawow.com/gekito/ 激闘プロ野球公式サイト・水島新司オールスター]</ref> - [[2022年]]〈[[令和]]4年〉[[1月10日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[野球漫画]]の第一人者。代表作に『[[野球狂の詩]]』『[[ドカベン]]』『[[あぶさん]]』など。
[[新潟県]][[新潟市]]出身。趣味は[[野球]]、[[将棋]]。[[ABO式血液型|血液型]]はB型。元[[タレント]]・[[俳優]]の[[水島新太郎]]は長男。
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[1939年]]、新潟市の魚屋の家に生まれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220117-HEJHBWBFTJJ5LGU2CABRA5RP4Y/|title=漫画に生涯ささげた「野球狂」 水島新司さん死去|publisher=産経ニュース|date=2022-01-17|accessdate=2022-01-17}}</ref>。父親がギャンブル好きで多額の借金を背負い、金銭的に困窮した少年時代を送る。
中学は[[新潟市立白新中学校]]に通っており、当時同校に隣接していた[[新潟明訓中学校・高等学校|新潟明訓高等学校]]への進学を希望していたものの、家庭の経済状況を勘案して高校進学を断念した。中学卒業後、父親が借金をしていた水産問屋に[[丁稚|丁稚奉公]]に出されるが、そこで漫画家になることを決意。仕事後に睡眠時間を削って漫画を執筆する。
=== 漫画家デビュー ===
[[ファイル:Shinji Mizushima Machiko Satonaka Tetsuo Saito Tetsuya Chiba and Monkey Punch cropped 1 Shinji Mizushima Machiko Satonaka Tetsuo Saito Tetsuya Chiba and Monkey Punch 20090906.jpg|thumb|200px|[[2009年]][[9月6日]]、国際マンガサミットフェスタにて。水島は左端。[[マンガジャパン]][[代表理事]][[里中満智子]](左から2人目)、[[環境大臣]][[斉藤鉄夫]](中央)、[[日本漫画家協会]]常務[[理事]][[ちばてつや]](右から2人目)、[[デジタルマンガ協会]][[会長]][[モンキー・パンチ]](右端)と]]
[[1958年]]、大阪の[[貸本漫画]]出版社『[[日の丸文庫]]』の漫画短編誌『影』の新人漫画コンクールにデビュー作『深夜の客』を投稿する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202201170000238.html|title=「ドカベン」水島新司さん死去 82歳 10日に都内の病院で|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-17|accessdate=2022-01-17}}</ref>。評価としては次点であったが、審査員の一人だった[[佐藤まさあき]]がその才能を評価し、入選を強硬に主張。特別に特選二席として表彰される。その表彰式で社長の山田秀三に漫画家になりたい旨を直訴、「一年以内に漫画家になる」という条件で家族を説得し来阪する。
山田宅に住み込み、日の丸文庫の編集の下働きの仕事をしながら寝る間を削って漫画を執筆、人気貸本漫画家となる。日の丸文庫では主にコメディ漫画を執筆。短編集『オッス!』シリーズや『水島新司爆笑シリーズ』、大阪のTV局制作ドラマ『[[番頭はんと丁稚どん]]』や『[[てなもんや三度笠]]』の[[漫画化]]などで人気を博す。
[[1964年]]、日の丸文庫専属を経て独立、上京。
『[[少年キング|週刊少年キング]]』で多くの短編作品を描くが、漫画家としての活動初期は[[サイクルサッカー]]など野球以外のスポーツ漫画も多く手がけていた<ref group="注">この時代の短編作品の多くは、[[東考社]]ホームランコミックスに収録されている。</ref>。野球漫画を描かなかった理由は、打つ・走る・投げるなど本物に近い絵を描きたかったが、絵が下手だったので、一番好きな野球のジャンルを描ける自信が付くまで10年かかったためであるという。
===野球漫画で大ヒット===
満を持して、本格的な野球漫画として1969年に『[[エースの条件]]』を発表。1970年からは『[[週刊少年サンデー]]』に『[[男どアホウ甲子園]]』、『[[週刊少年チャンピオン]]』に『[[銭っ子]]』を連載し、仕事の幅を広げる。特に『[[男どアホウ甲子園]]』は最初の大ヒットとなり、少年誌での人気を得る。
1972年からは『[[月刊少年マガジン]]』で『野球狂の詩』を読み切り不定期掲載、『週刊少年チャンピオン』で『ドカベン』を連載開始。1973年からは『[[ビッグコミックオリジナル]]』で『あぶさん』を連載開始。青年漫画にも進出する。『あぶさん』は2014年に完結するまで、41年にわたる長期連載となった。
水島自身やブレーンによる取材や資料集めの丁寧さを活かした「リアルな野球漫画」であった上記の連載作品はすべて人気を博し、野球漫画の第一人者の地位を確立する。特に柔道漫画として始まったが、『[[男どアホウ甲子園]]』終了に伴い、予定通り野球漫画へ転換した『ドカベン』は記録的大ヒットとなった。
以降、1975年に『男どアホウ甲子園』の続編『[[一球さん]]』を『週刊少年サンデー』に、1976年に『[[球道くん]]』を『[[少年ビッグコミック|マンガくん(少年ビッグコミック)]]』に発表。1977年には、当時、ブレーンを務めていた[[永谷脩]]と野球漫画専門誌『一球入魂』(新日本スポーツ企画)を創刊して編集長となり、『ある野球人の記録』(単行本では『白球の詩』)を連載する。
1977年ごろの、「知名人」(もしくは「著作家」)の所得番付で一位になったと、自ら語っている<ref>磯山勉『水島新司マンガの魅力』(清山社、1978年)収録の磯山によるインタビューから、P.158-159。なお、その前年に六位、前々年に八位とのこと</ref>。
===クロスオーバー作品の連載===
1981年、9年続いた『ドカベン』連載終了の直後に、プロ野球機構そのものをすべてオリジナルで作る壮大で野心的な作品『[[光の小次郎]]』を『[[週刊少年マガジン]]』に発表。
1983年には自身が今まで描いてきた高校野球漫画の集大成作品『[[大甲子園]]』を『週刊少年チャンピオン』に発表。『ドカベン』を中心に『野球狂の詩』『男どアホウ甲子園』『一球さん』『球道くん』『[[ダントツ]]』などの人気漫画から、それまで意識して描かなかった登場キャラクターを全員集めた高校3年の夏の大会を描いた。[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スター・システム]]を採用した[[クロスオーバー作品]]の先駆けでもあり、多くのヒット作品をもつ水島ならではの展開であった。
その一方で、ベテランの域に入った『あぶさん』が代打本塁打だけで[[落合博満]]と本塁打王争い(1982年)をするなど、架空の選手がプロ野球記録や日本新記録を更新する荒唐無稽な描写が目立つようになり、「リアルな野球漫画」から現実離れした作風へ変化したことを批判する読者も増えた。
以降は1984年に『[[極道くん]]』(週刊少年マガジン)、1987年に『[[へい!ジャンボ]]』のリメイク『[[虹を呼ぶ男]]』(週刊少年チャンピオン)、1988年に『野球狂の詩』の番外編的作品『[[ストッパー_(漫画)|ストッパー]]』([[コミックバーズ|コミックバーガー]])、1990年に高校野球漫画の総決算『[[おはようKジロー]]』(週刊少年チャンピオン)を、1993年の『平成野球草子』([[ビッグゴールド]])をそれぞれ連載するが、やや低迷期に入る。
===プロ野球編の連載===
[[清原和博]]の希望もあって、1995年に『[[ドカベン プロ野球編]]』(週刊少年チャンピオン)を、リメイクブームの風潮から1997年に『[[野球狂の詩 平成編]]』([[ミスターマガジン]])を連載開始。講談社との関係は『極道くん』連載終了前後に、[[たけし軍団]]による[[フライデー襲撃事件]]が発生し、水島の息子である[[水島新太郎|新太郎]]が連座していたことから、しばらく関係が途絶えていた<ref group="注">ただし、子会社である[[スコラ]]の『[[コミックバーガー]]』では、『[[ストッパー (漫画)|ストッパー]]』を連載していた。</ref>が、本作で和解している。また、これらは2000年に『[[新・野球狂の詩]]』([[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]])、2004年に『[[ドカベン スーパースターズ編]]』とタイトルを改め、長期連載となる。
2005年10月・11月に、8週連続(モーニングでは予告編含め9週)で『週刊少年チャンピオン』と『週刊モーニング』による、出版社を超えたコラボレーション企画として、『ドカベン スーパースターズ編』の[[東京スーパースターズ]]と『新・野球狂の詩』の[[東京メッツ|札幌華生堂メッツ]]が日本シリーズで対決した。
2000年代に入ってから、連載は講談社の『野球狂の詩』、小学館の『あぶさん』、秋田書店の『ドカベン』だけになっていたが、上記の単行本化である『野球狂の詩VS.ドカベン』(2006年2月刊)を最後に、小学館と秋田書店だけになった。
2007年、漫画家生活50周年を迎え、『週刊少年チャンピオン』では漫画家生活50周年の企画として、連載中の『ドカベン』を巻頭カラーに、水島と同郷の[[高橋留美子]]の他、[[秋本治]]や[[さいとう・たかを]]、[[かわぐちかいじ]]、[[あだち充]]、[[井上雄彦]]、[[満田拓也]]、[[藤子不二雄A]]、[[森川ジョージ]]、[[高橋ヒロシ]]など沢山の漫画家からの寄せ書きとイラストが掲載された。また、[[王貞治]]、[[長嶋茂雄]]、[[ビートたけし]]、[[爆笑問題]]、[[松井秀喜]]、[[城島健司]]など野球関係者や芸能人からもメッセージが寄せられた。
2012年、『ドカベン』シリーズ40周年を記念し、最終章『[[ドカベン ドリームトーナメント編]]』連載開始。2018年に大団円を迎えた。週刊少年誌に連載する漫画家としてはあだち充を12歳も上回り、現役最長老であった。2014年2月には『あぶさん』も976回の連載を終了している。
=== 引退・死去 ===
2020年12月1日、同日付で63年間の漫画家生活から引退することを発表<ref>{{Cite news2|title=野球漫画「ドカベン」水島新司さん引退、81歳|newspaper=日刊スポーツ|date=2020-12-01|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202012010000221.html|agency=日刊スポーツNEWS|accessdate=2022-01-17}}</ref>。最終作は2018年8月に発表した『あぶさん』の読み切り作品。
[[2022年]][[1月10日]]、[[肺炎]]のため、東京都内の病院で死去<ref>{{Cite web2|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202201170000238.html|title=「ドカベン」水島新司さん死去 82歳 10日に都内の病院で|website=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツNEWS|date=2022-01-17|accessdate=2022-01-17}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/17/kiji/20220117s00041000176000c.html|title=「ドカベン」「あぶさん」「野球狂の詩」漫画家の水島新司さん死去 82歳|newspaper=Sponichi Annex|agency=スポーツニッポン新聞社|date=2022-1-17|accessdate=2022-1-17}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/17/kiji/20220117s00041000213000c.html|title=水島新司さん死去 「はじめの一歩」森川ジョージ氏が追悼「どれほどの人に影響を与えたのでしょうね」|newspaper=Sponichi Annex|agency=スポーツニッポン新聞社|date=2022-1-17|accessdate=2022-1-17}}</ref>。{{没年齢|1939|4|10|2022|1|10}}。喪主は妻・修子<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202201180000102.html|title=【水島新司さん死去】「ドカベン」明訓高校野球部、山田在学時のオーダー|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-18|accessdate=2022-01-18}}</ref>。『ドカベン』シリーズに登場した[[松坂大輔]]は水島の訃報について、「漫画『ドカベン』に自分が初めて出た時の喜びは今でも忘れません…。」とコメントした<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2022/01/17/post1176605/ |title=水島新司さんの訃報に松坂大輔氏も追悼「ドカベンに出た喜びは忘れられません」 |access-date=2022-12-14 |publisher=Full-Count |date=2022-01-17}}</ref>。
テレビアニメ化等のメディア展開や、CMなどのパロディといった作品の二次利用も多く見られたが、長男の新太郎がマネージャーを務めるようになった2010年代以降はそれらの利用にも消極的になっていった。また、現時点では作品の電子書籍化も行われていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://qjweb.jp/journal/40376/2/ |title=水島新司作品の露出が少ない……『水曜日のダウンタウン』でも扱えなかった現状を悲しむ |accessdate=2022-01-20 |publisher=QJweb}}</ref>。
== エピソード ==
{{出典の明記|date=2017年8月|section=1}}
=== 本人に関する逸話 ===
* 進学を希望していた[[新潟明訓中学校・高等学校|新潟明訓高等学校]]への思いから、のちに『ドカベン』で「明訓高校」を舞台にした。また、不知火が所属する「白新高校」の名称も通っていた中学校から取っている。なお、中学も家業の魚屋の手伝いのため欠席も多く、卒業が危ぶまれた事もあったという。
* 新潟市[[古町 (新潟市)|古町通]]には、水島の功績を顕彰し、漫画の登場人物の銅像を並べた「水島新司漫画ストリート」がある。しばしば岩鬼の銅像の咥えている葉っぱが盗難に遭い、問題となっている<ref>[http://niigata-repo.com/life/post-390/ 古町5番町の水島新司まんがストリートを歩く・にいがたれぽ公式サイト]</ref>。
* 1970年代は東京都小金井市の音楽喫茶「白鳥」に通い、執筆や構想を練るなどに費やしていた。『野球狂の詩』のヒロイン・[[水原勇気]]は、その名を決めるのに思案し、喫茶店マスターの娘「ユウキ」という名が気に入りもらった。
* 「あぶさん」と「ボッツ」という2つの草野球チームを主宰。漫画作品の執筆のかたわら年間60試合前後に出場し続け、[[投手]]として200勝を達成した時には自費で[[名球会]]入り記念パーティーを催した。若手時代、身内で野球チームを作ろうとしたが人数が足りず、たまたまアシスタント志望でやってきた[[本宮ひろ志]]に対して、作品を見る前に「お前、野球できるか?」と尋ね、「できます」と言われたために即採用したという逸話も残っている。
* 草野球チームが縁で[[田中寅彦]]ら将棋のプロ[[棋士 (将棋)|棋士]]と知人になり、将棋漫画『父ちゃんの王将』を描いたり、作中に将棋棋士から転向した野球選手や、将棋棋士の名前そのまま、もしくはもじった名前の野球選手を登場させたりしている。
* テレビ番組でのインタビューにて「最高の打者は誰か?」という質問に「[[山田太郎 (ドカベン)|山田太郎]]」(理由は甲子園大会通算打率7割5分を誇るから)と答えている。
* 選手個人としては「エンターテイナーとしてパ・リーグを大いに盛り上げてくれる存在」として、[[新庄剛志]](元・[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]])の大ファンであるという<ref>[http://eiga.com/news/20091029/20/ プロデューサー・新庄剛志が「僕たちのプレイボール」で劇場満員を口約]映画ニュース - 映画.com、2015年11月22日閲覧。</ref>。
* 1970年代から[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]を嫌っており、MLB入りした[[イチロー]]や[[松井秀喜]]らを非難している<ref group="注">但しイチローはその後も『あぶさん』に描かれた。</ref>。雑誌『[[月刊ホークス]]』内で[[2002年]]まで水島が連載を担当していたコラムでは、当時ダイエーに在籍していた[[井口資仁]]がメジャー移籍を球団に希望したニュースが流れた際、「何故日本で、日本のファンの前でプレーしてくれないのか」と疑問を呈し、「メジャーの選手が凄い凄いと言っても、漫画の世界ではそれ以上のものが描ける」と表現している。事実、後期の作品では、登場する架空の選手がプロ野球記録や日本新記録を更新する描写が顕著化している。
* 1980年代までは個人的に親交のある選手もいたが、1990年代以降は日本プロ野球の外国人選手に対しても「現役バリバリはほとんどいないで、年俸だけは現役並み」と評している。日本人選手の生活圏や若手の働き場を奪っていると批判しており、いつの日か日本人だけのプロ野球が見てみたいと言っている<ref>ドカベンプロ野球編第17巻作者コメント</ref>。
* MLB嫌いではあるものの、[[福岡ソフトバンクホークス]]オーナー・[[孫正義]]が考案する「世界一クラブ決定戦」の推進派である。理由としては、MLBの優勝決定戦が「[[ワールドシリーズ]]」と呼ばれることに不満を持っている為と言われる(「ワールド」の意味を理解しているのか、とのこと)。
*国際試合への言及、国際試合の描写は少なく、『ドカベン プロ野球編』で2003年[[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]予選にドカベン世代が参加したシーン、『[[あぶさん]]』で景浦景虎が2009年の第2回[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|ワールド・ベースボール・クラシック]]の代表候補として合宿に参加した様子など、ごくわずかなものにとどまっている。
* 今まで見てきた甲子園の試合では、1992年の[[松井秀喜5打席連続敬遠|松井の5打席連続敬遠]]が最も印象深いと語っている。
* 晩年のマネージャーを務めていた長男の[[水島新太郎]]は[[カルビー]][[プロ野球チップス]]カードの収集家としても有名で、水島はカードを参考にしながら登場人物の打撃フォームや投球フォームを描いたこともあるという。
* いわゆる「[[江川事件|空白の一日事件]]」で世間の大きな非難を浴び、おちおち外も歩けなくなった[[江川卓 (野球)|江川卓]]を一時かくまっていたことがあった。
* [[本宮ひろ志]]の『[[実録たかされ]]』によると、江川3年時の[[作新学院高等学校|作新学院]]が[[全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]2回戦で[[千葉県立銚子商業高等学校|銚子商]]に敗れた夜に作新学院の宿舎を訪れ、選手の述懐によると「水島新司さんが来て酒飲んじゃって、どんちゃん騒ぎをしていた」というエピソードが語られている(しかし水島は下戸であり、酒は飲まない<ref>[https://mantan-web.jp/article/20140204dog00m200046000c.html 水島新司:実は下戸「あぶさん」完結で意外な一面を告白]</ref>。本人の下戸の反面的に、水島作品には酒豪のキャラクターが多数、登場する)。
* 酒が飲めない一方でヘビースモーカーで知られ、[[煙草]]を手にした写真が多数残されている<ref>[https://webronza.asahi.com/photo/photo.html?photo=/S2010/upload/2020120800003_3.JPEG 水島新司引退宣言へ贈ることば 拡大写真 - |論座 - 朝日新聞社の言論サイト]</ref><ref>[https://hochi.news/articles/20201201-OHT1T50088.html?page=1 「ドカベン」の水島新司氏が殿堂候補辞退、「エール」のモデル古関裕而氏は2年連続…特別表彰候補者発表 : スポーツ報知]</ref>。
* 1986年6月1日、故郷・新潟の南海対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦で[[始球式]]を務めた際、通常は一球投げた時点で終わる所を、一打者に投げ終わるまで投げた事がある。ただしこの際に場内アナウンスで「これは真剣勝負です」と洒落で流したために、アウトカウントを勘違いするというハプニングが直後に起きている。
*また、通常空振りで終えるはずの始球式で、過去に二度打ち返されヒットとされたことがある。前述の南海対西武戦と、日本ハム対ダイエー戦(2003年9月4日)である。一度目は西武の[[石毛宏典]]に、二度目はダイエーの[[柴原洋]]に打ち返されヒットとなった。打たれた水島はグローブを投げつけるリアクションを取った。
* 2006年5月9日に設立が発表された、独立リーグ「[[ベースボール・チャレンジ・リーグ|北信越ベースボールチャレンジリーグ]](現:ベースボール・チャレンジ・リーグ)」のアドバイザーに就任している。
* 2008年、[[プロ野球マスターズリーグ]]の福岡ドンタクズに入団。登録名は「'''あぶさん'''」、背番号は'''90'''。「代走での出場ならあるかもしれない。できたら[[遊撃手]]として出場したい」とコメントした。
* 2018年より[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]の特別表彰候補者として名前が挙げられていた。2018年は3票、2019年は5票(候補者10人中3位)、2020年は3票(候補者10人中5位)だった。2020年12月1日、2021年の野球殿堂特別表彰候補者が発表されたが、水島新司本人の希望により候補者入りを辞退したことが分かった<ref>{{Cite web|和書|title=引退の漫画家水島新司氏は殿堂候補者入りを辞退 - プロ野球 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202012010000418.html|website=nikkansports.com|accessdate=2020-12-01|language=ja}}</ref><ref>{{Citenews|title=水島新司氏、殿堂入り候補辞退…佐伯達夫氏は選出されたのに殿堂入りを拒否していた|url=https://hochi.news/articles/20201221-OHT1T50015.html|newspaper=スポーツ報知|date=2020-12-21|accessdate=2020-12-21}}</ref>。
==== ホークス関連 ====
* [[1973年]]、『あぶさん』の連載にあたり、主人公・[[景浦安武]]の「入団交渉」のために当時の[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]選手兼任監督であった[[野村克也]]を訪ねた時に、好きな球団を聞かれ「セは[[阪神タイガース|阪神]]、パは南海です」と答えたところ、「好きな球団は1つでええ」と言われたためその後はホークス一筋であった。「のんべえは持久力は無いけど、瞬発力があるから代打専門」という契約条件で入団、以来、永きに渡り代打専門で活躍している。また、『[[野球狂の詩]]』でプロ初の女性投手である[[水原勇気]]にリアリティを持たせるため、多くのプロ球界関係者にアドバイスを求めたところ、唯一前向きなアドバイスを与えてくれたのが野村であった([[水原勇気]]の項目を参照)。
* 野村との親交を深め、映画『[[野球狂の詩]]』(1977年)では現実のチームとして南海ホークスを登場させ、野村が実際に打席に立ち水原([[木之内みどり]])と対戦した。尚、この映画には水島本人も出演している。
*『あぶさん』で[[杉浦忠]]を追悼する回では、南海OBと公の場では絶縁しているはずの野村を出演させていた(一部OBとの私的な交流は実際にも若干あった模様)。また、『ドカベン プロ野球編』で岩鬼が福岡ダイエーホークスに入団したのも、水島のホークス好きに依ると言われている。
* 南海ホークスを買収した直後の[[1988年]]、当時の[[中内㓛]]オーナーとお互いのマネージャー、秘書無しで一対一で会食した。中内が社員に「ホークスのことは誰に聞いたら一番よく分かるのか」と尋ねたところ、全員が水島の名を挙げたという。中内は水島の話を聞きながら、一生懸命にメモをしていたという。
* 上記のようにホークス一筋が長かったが、[[2007年]][[10月17日]]朝の[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ]]『[[きょうも元気でわくわくラジオ]]』のゲスト出演では「パはホークス、セは[[広島東洋カープ|広島カープ]]ですね」と答えた。理由は「本物の野球球団、一から育ていい野球をしている」と答えている。
* あるホークスの選手が起こしたふがいないプレーに激怒した水島は翌日、福岡に出向きその選手に説教をしたことがある。このエピソードは[[関口宏の東京フレンドパークII]]に水島が来園した際に明らかにされた。
=== 漫画に関する逸話 ===
* [[ニュースステーション]]にゲスト出演した際、あだち充の作品(『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』他)を「野球を恋愛の小道具として扱っている」と批判した。その一方で『ドカベン スーパースターズ編』ではマンネリ化の打破のためか、[[岩鬼正美]]と夏川夏子、[[殿馬一人]]と[[正岡華子|マドンナ]]、[[里中智]]と[[山田サチ子]]などの恋愛模様を「野球の小道具として」描いていた。この他、「あぶさん」(特に主人公の[[景浦安武]]が結婚する前)に於いて、景浦の女性関係が描かれることも少なからずあったが、これに先んじて女性描写のエッセンスを取り入れるべく、『野球狂の詩』で[[里中満智子]]と合作したこともある。なお、上記にあるように、あだちは週刊少年チャンピオンの漫画家生活50周年企画に寄稿している。
* [[伊集院光]]が水島にインタビューした際、「ドカベンを描いていて一番驚いた事はなんですか?」という質問で伊集院は「ファンの反響の多さ」等の答えを予想していたがそれに対しての水島の回答は「'''[[ネーム (漫画)|ネーム]]では岩鬼が三振するシーンを描いたのに、ペンを入れたら岩鬼がホームランを打ってしまった'''」と答え、伊集院を唖然とさせた。
** また、同じく伊集院光との対談内で「北海道の原野で育った野生児が高校野球で活躍する作品を描く構想があったが、北海道の学校が甲子園で優勝した実績が無い事から『流石にリアリティーが無い』と判断してお蔵入りにした」と語っていた<ref>球漫の神様、降臨す! <small>水島新司 対談</small> 「球漫 <small>野球漫画シャベリたおし!</small>」p130-169、[[実業之日本社]]刊、2003.7発行、ISBN:4-408-61233-2</ref><ref group="注">現実では[[第86回全国高等学校野球選手権大会]]で、[[駒大苫小牧]]が北海道勢初の全国優勝を達成している。</ref>。
*水島の漫画は後続の野球漫画にも大きな影響を与えたが、[[井上雄彦]]や[[高橋陽一]]ら他競技のスポーツ漫画の大御所も影響を受けた。少年チャンピオンの水島新司漫画生活60周年記念号では井上や高橋が水島に祝辞を送っている。
*上述の通り、2020年に漫画家を引退したが、[[社会人野球]]を舞台にした新作漫画の構想も検討していた<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/51744 印税30億円超え、自宅は13億円の価値…水島新司さんが描くことができなかった「最後の野球漫画」]</ref> 。
== 賞歴 ==
* 第19回(昭和48年度)[[小学館漫画賞]]受賞(『男どアホウ甲子園』『出刃とバット』)
* 第4回(昭和48年度)[[講談社出版文化賞]]児童漫画部門受賞(『野球狂の詩』)
* 第22回(昭和51年度)[[小学館漫画賞]]受賞(『あぶさん』)
* [[2005年]]4月 [[紫綬褒章]]受章<ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/list_hp/h_tokyo.pdf|title=平成17年春の褒章受章者 東京都|format=PDF|accessdate=2023-05-16|publisher=[[内閣府]]|date =2005-04-29|page=3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050525063544if_/http://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/list_hp/h_tokyo.pdf|archivedate=2005-05-25|deadlinkdate=2023-05}}</ref>
* 第37回(2007年度)[[日本漫画家協会賞]]文部科学大臣賞受賞(全作品に対して)
* [[2014年]]11月 [[旭日小綬章]]受章<ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/26aki/meibo_jokun/kyokujitsu-13tokyo.pdf|title=平成26年秋の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都|accessdate=2023-05-16|publisher=[[内閣府]]|date =2014-11-03|page=2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151106142018/http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/26aki/meibo_jokun/kyokujitsu-13tokyo.pdf|archivedate=2015-11-06|deadlinkdate=2023-05}}</ref>
== 作品一覧 ==
五十音順。ただし、シリーズ物はそのシリーズ順。
* I Love Baseball
* 朝子の野球日記
* [[あぶさん]](1973年 - 2014年)
* アルプスくん
* いただきヤスベエ(原作:[[牛次郎]])
* [[一球さん]]
* [[エースの条件]](原作:[[花登筺]])
* [[男どアホウ甲子園]](原作:[[佐々木守]])
* [[おはようKジロー]]
* [[がんばれドリンカーズ]]
* [[球道くん]]
*草野球の神様(原作:[[ビートたけし|北野武]])
* 草野球列伝
* ゴキブリ旋風
* [[極道くん]]
* 下町のサムライ
* 少年番外地(原作:[[真樹日佐夫]])
* [[ストッパー (漫画)|ストッパー]]
* [[銭っ子]](原作:[[花登筺]])-テレビドラマ化→[[つくしんぼ_(テレビドラマ)]]
* 先発完投
* [[大甲子園]]
* たそがれのキー太郎
* たちまち晴太(原作:[[勝鹿北星|きむらはじめ]])
* [[ダントツ]]
* でっかいチビ
* 父ちゃんの王将
* [[ドカベン]](1972年 - 1981年)
* [[ドカベン プロ野球編]](1995年 - 2003年)
* [[ドカベン スーパースターズ編]](2004年 - 2012年)
* [[ドカベン ドリームトーナメント編]](2012年 - 2018年)
* 泣き笑い番長(連載時は『ファイティング番長』)(原作:[[梶原一騎]])
* [[虹を呼ぶ男]]
* 白球の詩
* [[光の小次郎]]
* 平成野球草子
* [[へい!ジャンボ]]
* [[坊つちやん|坊ちゃん]](原作:[[夏目漱石]])
* 水島新司野球傑作選
* [[野球狂の詩]]
* [[野球狂の詩 平成編]]
* [[新・野球狂の詩]]
* [[野球大将ゲンちゃん]]
* [[野球どアホウ伝]]
* 輪球王トラ(原作:[[牛次郎]])
== 出演 ==
=== テレビ ===
* [[月曜ワイド劇場]]『サンデー兆治の妻・愛のカムバック』(1986年4月7日、[[テレビ朝日]])
* [[徹子の部屋]](テレビ朝日)
* [[テレビ探偵団]]([[TBSテレビ|TBS]])
=== 映画 ===
* 『[[ドカベン]]』(1977年 東映) - 徳川監督 役
*『[[野球狂の詩]]』(1977年 日活) - メッツのファン 役
== その他の仕事 ==
* [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]の[[少年ドラマシリーズ]]『叱られ人生』(1977年) - オープニングのイラストを提供した。原作者は[[サトウハチロー]]、脚本家は'''佐々木守'''であった。野球好きの主人公を「ドカベンの谷津」系の風貌で描いた。
* [[フィンガー5]]のレコードジャケットのイラストを提供していた(「[[個人授業 (曲) |個人授業]]」など)。1999年に発売されたCD『フィンガー王国』にも使われた。
* 前述の南海ホークス(現:[[福岡ソフトバンクホークス]])のファンであったことから、南海ホークス関連のレコードジャケットのイラストも提供した。[[斎藤努]](当時[[毎日放送]]アナウンサー)歌唱による「青春ドカベン/球場の鷹」([[香川伸行]]・南海ホークスの応援歌。[[ディスコメイトレコード]])と香川伸行・[[加藤伸一]]・[[吉田博之]]・[[畠山準]]・[[湯上谷宏]]ら当時南海の主力選手の歌唱による「鷹の爪/暴れダカ・ロックンロール」(水島プロデュースによる楽曲。[[日本クラウン|クラウンレコード]])のイラストを手掛けた。
* [[宮城県]][[石巻市]]にある[[石ノ森萬画館]]の初代館長([[2001年]]7月〜[[2003年]]3月)を務めた<ref>{{cite news|url=https://kahoku.news/articles/20220117khn000030.html|title =水島新司さん死去 ファンとの交流、熱心に 「石ノ森萬画館」初代館長務める|newspaper=[[河北新報]]|date=2022-01-18|access-date=2022-01-18}}</ref>。
*レコード『ああ野球狂の歌。』を吹き込んでいる。作詞も自らが行った。
== 関連本 ==
*磯山勉『水島新司マンガの魅力 [[マンガの魅力 漫画館シリーズ]]10』清山社 1978年 水島新司インタビューあり
*『水島新司の世界 ドカベン&大甲子園』 サンエイムック 2023年
*『水島新司 全仕事』サンエイムック 2023年
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
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* {{NHK人物録|D0009072662_00000}}
{{ドカベン}}
{{NHK紅白歌合戦審査員}}
{{Normdaten}}
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[[Category:水島新司|*]]
[[Category:日本の漫画家]]
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[[Category:1939年生]]
[[Category:2022年没]] | 2003-02-15T17:40:53Z | 2023-11-26T11:06:23Z | false | false | false | [
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1,868 | 三鷹公一 | 三鷹 公一(みたか こういち)は、兵庫県出身の日本の漫画家。
岡山大学出身。
1990年から1995年まで東京急行電鉄の夏のスタンプラリー『すたんぷポン』の漫画を担当していた。 | [
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] | 三鷹 公一は、兵庫県出身の日本の漫画家。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 三鷹 公一
| 国籍 = {{JPN}}
| 生年 =
| 没年 =
| 生地 = [[兵庫県]]
| 職業 = [[漫画家]]
| ジャンル = [[児童漫画]]
| 活動期間 =
| 代表作 = 『[[Bビーダマン爆外伝|ボンバーマンビーダマン爆外伝]]』
| 受賞 =
}}
'''三鷹 公一'''(みたか こういち)は、[[兵庫県]]出身の[[日本]]の[[漫画家]]。
== 経歴 ==
[[岡山大学]]出身。
[[1990年]]から[[1995年]]まで[[東急電鉄|東京急行電鉄]]の夏のスタンプラリー『すたんぷポン』の漫画を担当していた。
== 作品リスト ==
* どーでもエージェント
* おんりいyou
* 激走アニィ
* レディ・ドール
* ゴール!嵐(連載『[[月刊少年キャプテン]]』1991年)
* フリケン龍(連載『[[月刊コロコロコミック]]』1992年3月号 - 9月号)
* 格闘キッド ダイナマイト!蛮(連載『[[別冊コロコロコミック]]』1992年12月号 - 1993年10月号)
* Jリーガー シュート(連載『[[小学館の学年別学習雑誌|小学三年生]]』)
* [[ブルースワット]](連載『別冊コロコロコミック』1994年4月号 - 12月号)
* [[Bビーダマン爆外伝|ボンバーマンビーダマン爆外伝]]<ref>1997年4月号までのタイトルは『ビーダマン爆外伝』。</ref>(連載『別冊コロコロコミック』1996年10月号 - 1999年2月号)
** [[Bビーダマン爆外伝V|ボンバーマンビーダマン爆外伝V]](連載『別冊コロコロコミック』1999年4月号 - 12月号)
* [[超魔神英雄伝ワタル]](連載『月刊コロコロコミック』1997年10月号 - 1998年3月号)
* [[未来レーサーブイツイン]](連載『[[小学二年生]]』1999年4月号 - 2000年3月号)
* [[ゾイドバトルストーリー]](連載『小学二年生』2000年4月号 - 2001年2月号)
* ゾイドウォーズ・ゼロ(読切『小学二年生』2001年3月号)
* ゾイドウォーズ・ゼロ(連載『小学三年生』2001年4月号 - 2002年1月号)
* [[ゾイド新世紀スラッシュゼロ|ゾイド・ゼロ]](連載『小学二年生』2001年4月号 - 7月号)
* ドンと一本!(連載『[[ちゃぐりん]]』2001年5月号 - 2004年4月号)
* [[電脳冒険記ウェブダイバー]](『てれコロコミック』2001年9月号)
* へたっぴKICK!!(連載『ちゃぐりん』2004年5月号 - 2007年4月号)
* [[ジグザグ雷道]](連載『ちゃぐりん』2007年5月号 - 2011年4月号)
* 火の球ベース(連載『ちゃぐりん』2011年5月号 - 2014年4月号)
* シューティング流星(スター)(連載『ちゃぐりん』2016年5月号 - 2021年4月号)
* おてつきカルタ!(連載『ちゃぐりん』2021年5月号 - 連載中)
== 師匠 ==
* [[望月三起也]]
* [[吾妻ひでお]]
* [[みやたけし]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.mangaz.com/title/?query=%E4%B8%89%E9%B7%B9%E5%85%AC%E4%B8%80&submit= 絶版マンガ図書館無料配信中作品]
{{デフォルトソート:みたか こういち}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
[[Category:生年未記載]]
[[category:存命人物]] | null | 2021-09-28T15:25:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%B7%B9%E5%85%AC%E4%B8%80 |
1,869 | 見田竜介 | 見田 竜介(みた りゅうすけ、男性、1967年8月24日 - )は、日本の漫画家。代表作に『ドラゴンハーフ』など。本名同じ。他に花筺絢(はながたみ あや)、不敵万才の筆名もある。配偶者はマンガ家の御祇島千明。
幼少時、一年間メキシコで生活。自身の家庭を恵まれたものとは感じていなかった事を告白している。東京都立八王子北高等学校卒業後、アニメーターを志して東京アニメーター学院に進学。映画『天空の城ラピュタ』の仕上げに参加する。同校を中退後、有限会社スタジオ・ハードに就職する。不敵万才の筆名でゲーム雑誌のイラスト等を担当し、1988年、富士見書房発行の『月刊ドラゴンマガジン』創刊号にて漫画家デビュー。
作品は、韓国、タイ、イタリア、スペインなどでも翻訳されている。OVA化、ドラマCD化された作品も多数。
短期間、目を患っていたが2005年頃には全快し、作画をアナログからデジタルに移行した。2012年現在は、コミックスタジオ、イラストレーター、フォトショップなどを自在に使い、作品を発表している。
父親は社会学者の見田宗介。祖父はマルクス主義経済学者の見田石介。また、見田石介の父方の叔父が警察署長の甘粕春吉で、甘粕春吉の息子が陸軍軍人の甘粕正彦である。また、戦国時代の武将・甘粕景持は先祖にあたる。
弟は漫画家・イラストレーターでアシスタントの 見田航介。
デビュー当時はつけペンによる作画に慣れておらず、連載初期等は主人公・ミンクの尻尾の先が歪になるのをごまかす目的で黒く塗り潰していたりもしたが、アシスタント等で経験を積み、丸ペンによる繊細な描線を得意とするまでになる。
以下に示すように非常に特徴的な絵柄である(『ドラゴンハーフ』の後半に顕著になる)。極端にデフォルメを施した癖の大きい絵柄ながら、根強いファンを獲得している。
カラー画材はデビュー当初はカラーインクを使用していたが、それ以降はエアブラシ&アクリル⇒コピックへと変化。特にコピックで描かれたイラストの評価は高く、美術出版社発行のコピックイラスト教本『コピックワールド』にも取り上げられた。
作品は『ドラゴンハーフ』以来いわゆる娯楽活劇が中心で、異世界ものが多い。独特のギャグセンス、流麗な線によるアクション、時にハッとさせるシリアスを売りとする。作品により作風の振れ幅が大きく、救い難い悲劇へ落とし込む事もあるが、最後は概ねハッピーエンドである。
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] | 見田 竜介は、日本の漫画家。代表作に『ドラゴンハーフ』など。本名同じ。他に花筺絢、不敵万才の筆名もある。配偶者はマンガ家の御祇島千明。 | {{複数の問題|ソートキー=人
|存命人物の出典皆無=2011年8月
|独自研究=2012年3月
}}
'''見田 竜介'''(みた りゅうすけ、男性、[[1967年]][[8月24日]] - )は、日本の[[漫画家]]。代表作に『[[ドラゴンハーフ]]』など。本名同じ。他に'''花筺絢'''(はながたみ あや)、'''不敵万才'''の筆名もある。配偶者はマンガ家の[[御祇島千明]]。
== 人物 ==
幼少時、一年間[[メキシコ]]で生活。自身の家庭を恵まれたものとは感じていなかった事を告白している。[[東京都立八王子北高等学校]]卒業後、[[アニメーター]]を志して[[東京アニメーター学院]]に進学。映画『[[天空の城ラピュタ]]』の仕上げに参加する。同校を中退後、有限会社[[スタジオ・ハード]]に就職する。不敵万才の[[ペンネーム|筆名]]でゲーム雑誌のイラスト等を担当し、1988年、[[富士見書房]]発行の『[[ドラゴンマガジン (富士見書房)|月刊ドラゴンマガジン]]』創刊号にて漫画家デビュー。
作品は、韓国、タイ、イタリア、スペインなどでも翻訳されている。OVA化、ドラマCD化された作品も多数。
短期間、目を患っていたが2005年頃には全快し、作画をアナログからデジタルに移行した。2012年現在は、コミックスタジオ、イラストレーター、フォトショップなどを自在に使い、作品を発表している。
父親は社会学者の[[見田宗介]]。祖父はマルクス主義経済学者の[[見田石介]]。また、見田石介の父方の叔父が警察署長の[[甘粕春吉]]で、甘粕春吉の息子が陸軍軍人の[[甘粕正彦]]である。また、戦国時代の武将・[[甘粕景持]]は先祖にあたる。
弟は漫画家・イラストレーターで[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]の [http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~mita/ 見田航介]。
== 作風 ==
デビュー当時は[[つけペン]]による作画に慣れておらず、連載初期等は主人公・ミンクの尻尾の先が歪になるのをごまかす目的で黒く塗り潰していたりもしたが、アシスタント等で経験を積み、[[丸ペン]]による繊細な描線を得意とするまでになる。
以下に示すように非常に特徴的な絵柄である(『ドラゴンハーフ』の後半に顕著になる)。極端にデフォルメを施した癖の大きい絵柄ながら、根強いファンを獲得している。
* 登場人物の目が非常に大きい。また目の大部分は瞳で占められる。
* 女性キャラクターの場合、括れた腰、巨大な尻、細い脚が強調される。
* 細くて繊細な線が丁寧に描き込まれている。
カラー画材はデビュー当初は[[カラーインク]]を使用していたが、それ以降は[[エアブラシ]]&[[アクリル絵具|アクリル]]⇒[[コピック]]へと変化。特にコピックで描かれたイラストの評価は高く、[[美術出版社]]発行のコピックイラスト教本『コピックワールド』にも取り上げられた。
作品は『ドラゴンハーフ』以来いわゆる娯楽活劇が中心で、異世界ものが多い。独特のギャグセンス、流麗な線によるアクション、時にハッとさせるシリアスを売りとする。作品により作風の振れ幅が大きく、救い難い悲劇へ落とし込む事もあるが、最後は概ねハッピーエンドである。
== 作品目録 ==
=== アニメ ===
* 『天空の城ラピュタ』 仕上げ
=== ゲームブック ===
※は不敵万才名義での参加。
* [[冒険ゲームブックシリーズ|冒険ゲームブック]](双葉社)
** 『[[ルパン三世#ゲームブック|ルパン三世 Pファイルを奪え]]!』
** 『[[光神話 パルテナの鏡]] ~神殿の悪魔を倒せ!~』※
** 『[[高橋名人の冒険島]] ティナを救え!』 バブルン見田名義、[[有坂須美]]との共同担当。
** 『[[アルゴスの戦士]] 解かれたる封印』※
** 『[[悪魔城ドラキュラ]] 古城の死闘』※
** 『[[がんばれゴエモン!からくり道中]] 東海道五十三景』※
** 『[[スーパーマリオブラザーズ]] Vol.2 大魔王ネオクッパの挑戦』※
** 『[[スーパーマリオブラザーズ]] Vol.3 マリオ軍団出撃』※
** 『終末の惑星 遥かなる西の帝国』※
** 『アニマルタイフーン』
** 『アニマルタイフーン2 魔獣伝説』
* [[アドベンチャーヒーローブックス]]([[ケイブンシャ]])
** 『サラマンダ ラティス救出作戦』※
* 『げーむぶっく 元祖鬼が島』(ケイブンシャ)
=== 漫画作品 ===
* ファジーな昼下がり(小学館刊行の[[月刊PCエンジン]]創刊号より連載)
* [[ドラゴンハーフ]]
* [[朱玄白龍るびくら]]
* [[黒髪のキャプチュード]]
* [[愛天明王物語]]
* [[閃光華るびくら]]
* [[修験娘てんぐり]]
* [[改造少女 柚]]
==== 成人向け漫画 ====
いずれも[[富士美出版]][[富士美コミックス]]より発刊
* [[Rose Rosse]]
* [[ああっご主人様ぁ]]
* [[ハメられたい女]]
=== 絵 ===
* ナイトウィンドの影―[[ソード・ワールド]]短編集
* [[モンスターコレクション]]
==== ゲーム ====
* [[シェナン・ドラゴン]]([[テクノポリス]]開発。PC88・[[MSX]]用ゲーム。1990年6月28日発売。6800円)
* [[クイズアベニュー]]シリーズ([[PCエンジン]]用ゲーム。[[NECアベニュー]]より発売。)
*Astalon 地球の涙(DANGEN Entertainment。[[PlayStation 4]]・[[Nintendo Switch]]・[[Xbox One]]・PC)
==== オナホール ====
[[日暮里ギフト]]製
* 2007.0111 ローセロッセ みつ - 本人が描いた成年コミックの単行本「Rose Rosse」とのコラボ商品(みくり、灯も同様)
* 2007.0111 ローセロッセ みくり
* 2007.0111 ローセロッセ 灯(あかり)
== 外部リンク ==
* [http://www.mita-ryu.com/ 見田竜介の魔法] - 見田竜介オフィシャルサイト
* [http://club.pep.ne.jp/~mitaogi/ 見田竜介&御祗島千明「みたっち★おぎしまっち」]
* {{Wayback|url=http://naha.cool.ne.jp/mitaogi/ |title=おかず倶楽部 |date=20100101000000}}
* {{twitter|ryusukemita}}
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{{DEFAULTSORT:みた りゆうすけ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:帰国子女]]
[[Category:甘粕氏|りゆうすけ]]
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[[Category:存命人物]] | null | 2022-08-28T07:14:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E7%94%B0%E7%AB%9C%E4%BB%8B |
1,870 | 道原かつみ | 道原 かつみ(みちはら かつみ、1958年2月13日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。広島県三原市出身。
小学校の同級生で後に漫画家になる宮脇明子から、中学3年のときに漫画を描いてみないかと声をかけられたことが、漫画を描き出すきっかけになった。1979年に『花とゆめ増刊冬の号』に投稿した「かわいいジュリア」で努力賞を受賞し、掲載されたことでデビューする。しかし、その後はヒット作に恵まれず、父親から「遊んでいないで就職しろ」と叱責されたこともあって、三原市役所に勤める。
田中芳樹の同名小説を漫画化した『銀河英雄伝説』が売れ始めたことで市役所を退職し、漫画家専業となる。
漫画制作にパソコンを導入したのは早いほうで、自身のウェブページにデジタルで制作する際のノウハウを公開していた。
2009年時点では、三原市在住で福山市内の専門学校漫画コースの講師として後輩の指導にあたっている。
代表作には『銀河英雄伝説』の他、麻城ゆう原作の『ジョーカー』シリーズなど。漫画だけではなく、イラスト提供作品や版画作品もあり、1990年には第21回星雲賞アート部門を受賞した。
2009年、広島県三原市のふるさと大使に任命される。
太字はアニメ化された作品
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] | 道原 かつみは、日本の漫画家・イラストレーター。広島県三原市出身。 | '''道原 かつみ'''(みちはら かつみ、[[1958年]][[2月13日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/1000063752/ |title=道原かつみ |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]]}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[イラストレーター]]。[[広島県]][[三原市]]出身。
== 略歴 ==
小学校の同級生で後に漫画家になる[[宮脇明子]]から、中学3年のときに漫画を描いてみないかと声をかけられたことが、漫画を描き出すきっかけになった{{R|観光}}。[[1979年]]に『[[花とゆめ]]増刊冬の号』に投稿した「かわいいジュリア」で努力賞を受賞し、掲載されたことでデビューする。しかし、その後はヒット作に恵まれず、父親から「遊んでいないで就職しろ」と叱責されたこともあって、三原市役所に勤める{{R|観光}}。
[[田中芳樹]]の同名小説を漫画化した『[[銀河英雄伝説]]』が売れ始めたことで市役所を退職し、漫画家専業となる{{R|観光}}。
漫画制作にパソコンを導入したのは早いほうで、自身の[[ウェブページ]]にデジタルで制作する際のノウハウを公開していた{{R|儲かる}}。
2009年時点では、三原市在住で[[福山市]]内の専門学校漫画コースの講師として後輩の指導にあたっている{{R|観光}}。
代表作には『銀河英雄伝説』の他、[[麻城ゆう]]原作の[[ジョーカー・シリーズ (漫画)|『ジョーカー』シリーズ]]など。漫画だけではなく、イラスト提供作品や版画作品もあり、[[1990年]]には第21回[[星雲賞]]アート部門を受賞した。
[[2009年]]、[[広島県]][[三原市]]の[[ふるさと大使]]に任命される{{R|三原市}}。
== 作品リスト ==
'''太字'''はアニメ化された作品<ref>『銀河英雄伝説』はアニメ版とほぼ同時期のため、また、キャラクターデザインが異なるために除外</ref>
*[[パンドラの惑星]](1983年、徳間書店。1990年、徳間書店より新装版)
*[[ノリ・メ・タンゲレ (漫画)|ノリ・メ・タンゲレ]](麻城ゆう原案、1984年、徳間書店。1990年、徳間書店より新装版)
*[[キャウ・キャット・キャン]](1984年、徳間書店。1990年、徳間書店より新装版)
*'''銀河英雄伝説外伝 黄金の翼'''(1986年、[[田中芳樹]]原作、徳間書店。1992年にOVAとしてアニメ化)
<!--以上4冊。キャプテンコミックからキャラコミックに変わって新装版になってたはず-->
* '''[[ジョーカー・シリーズ (漫画)|ジョーカー・シリーズ]]'''(麻城ゆう原作、新書館)
**帝王の庭(1987年、新書館。1998年、文庫化)
**ムーン・ファンタジー(1)(1988年。1998年、1・2を合本文庫化)
**ムーン・ファンタジー(2)(1989年)
**ドリーム・プレイング・ゲーム(1989年。1999年、『グリーン・パラダイス』と合本文庫化)
**グリーン・パラダイス(1991年)
**シャーロキアン・コンピュータ(1993年)
**χの歌声(1997年)
**ファイナル・ミッション(2004年)
*空白の悲鳴(1988年、[[大陸書房]]。1994年、徳間書店で再版)
*銀河英雄伝説(1988年、田中芳樹原作、徳間書店。[[少年キャプテン]]1989年1月号より連載開始)
*'''[[アル・カラルの遺産]]'''(1990年、徳間書店。1992年にOVAとしてアニメ化)
*[[アルカライラ]](1993年、新書館)
*銀河英雄伝説 英雄たちの肖像(田中芳樹原作、徳間書店)
=== 画集 ===
*銀河英雄伝説道原かつみイラストレーションブック(1992年、徳間書店)
*JOKER―道原かつみ・画集(1993年、新書館)
*銀河英雄伝説画集―[英雄たちの肖像]ロマンアルバム(1995年、徳間書店)
=== 小説 ===
以下の小説に挿絵を描いている。
*[[間の楔]]([[吉原理恵子]]作、年、[[光風社出版]])
*[[ジョーカー・シリーズ (漫画)|JOKER外伝シリーズ]]([[麻城ゆう]]作、新書館)
**特捜司法官S-A(1)(1991年。2000年、文庫化)
**特捜司法官S-A(2)(1993年)
**新・特捜司法官S-A(1)(2005年)
**新・特捜司法官S-A(2)(2005年)
**新・特捜司法官S-A(3)(2006年)
*月光界秘譚シリーズ(麻城ゆう作、新書館)
**永の楽土(1992年)
**風舟の傭兵(2000年。新シリーズ開始)
**太陽の城(2001年)
**滅びの道標(2002年)
**いにしえの残照(2002年)
**逢魔が刻の聖地(1)(2003年。新シリーズ(月光界シリーズ)開始)
**逢魔が刻の聖地(2)(2004年)
*天界樹夢語りシリーズ(麻城ゆう作、新書館)
**妖魔の里(1994年)
**真逆の剣(1995年)
**裏切りの海(1996年)
**シンデレラの海(1997年)
**心臓に鎖(1998年)
**幻想迷宮(1999年)
**緑星(1999年)
*銀河英雄伝説(田中芳樹作、[[徳間デュアル文庫]])
*[[星虫]]([[岩本隆雄]]作、1990年、新潮文庫)
=== アンソロジー ===
*天下無敵あどりぶ銀英伝(田中芳樹・道原かつみ・[[高橋なの]]・[[高口里純|かちとみさする]]・[[戸山奥]]・[[TOKAI_(漫画家)|TOKAI]]・[[明智抄]]他、1994年、徳間書店)
*[[全艦出撃!!]]
==脚注・出典==
{{Reflist|refs=
<ref name="三原市">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.city.mihara.hiroshima.jp/uploaded/attachment/6652.pdf|title=三原にゆかりのある10人を三原市ふるさと大使に任命|publisher=[[三原市]]|date=2009-09-01|accessdate=2017-12-20}}</ref>
<ref name="観光">{{Cite web|和書|url=http://www.mihara-kankou.com/furusato/furusato-tegami/090501.html|title=三原が生んだ漫画家 道原かつみさん|publisher=三原観光協会|date=2009-05-01|accessdate=2017-12-20}}</ref>
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== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20010504021144/http://member.nifty.ne.jp/michihara/ ねこまたぎくらぶ]
* {{Twitter|michiharakatumi|道原かつみ}}
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1,871 | みつはしちかこ | みつはし ちかこ(女性、1941年1月30日 - )は、日本の漫画家。本名青木 千禾子。代表作は『小さな恋のものがたり』『ハーイあっこです』など。
茨城県石岡市生まれで、1歳の時から東京都中野区で育つ。1947年に中野区立鷺宮小学校に入学、1953年に中野区立第八中学校に入学。 1956年に東京都立武蔵丘高等学校に入学、美術部に所属後、放送劇部では脚本を書き上げるなどの活動を行った。同部における活動は、後の『小さな恋のものがたり』の原点となる。1959年に同校卒業後、皆川正インダストリアルデザイナーに1960年2月より入所。その後1961年4月よりヨーコーアニメーションに転職。同社倒産後は、日本アニメーション映画社などに勤務。
1959年12月に「イエスのカリタス修道女会」の新聞に「めいこちゃん」を連載後の1962年、代表作となる『小さな恋のものがたり』を『美しい十代』(学研)に連載開始。この間、学研を始めとした幾つかの雑誌に漫画を掲載。最初の単行本は幻余次郎との共著である『マンガ虎の巻』となった。その後1967年11月に『小さな恋のものがたり』の単行本を発売、1970年以降は毎年5月に新刊を刊行し、40集を超えるロングセラーとなっている(現在は不定期で2022年に最新46集を刊行)。1972年に日本テレビ系で実写ドラマ化(岡崎友紀主演)、1984年にはTBS系でアニメ化もされた他、1960年代後期から1970年代後期にかけて、幾つかの少女向け月刊雑誌に連載漫画や、エッセイを連載していた。
また、1980年から朝日新聞日曜版に連載された『ハーイあっこです』は『小さな恋のものがたり』と並ぶ代表作で、明るく朗らかな主婦とその家族の日常を描いた作品として、20年以上にわたる長期連載となり、1984年にフジテレビ系で実写ドラマ化(三田寛子主演)、1988年から1992年にかけてテレビ朝日系でアニメ化もされた。同時期である1982年からは、雑誌「Cobalt」にエッセイを掲載、1990年代まで連載が続いている。 その後、1999年7月から2008年3月にかけて、スーパーマーケット「サミット」の折込チラシに『アララさん』を連載。後に講談社から単行本化されている。
1977年、『小さな恋のものがたり』で日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。2015年、手塚治虫文化賞特別賞、日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。
2013年の時点では町田市の玉川学園に在住。その縁で、2006年よりみつはしのイラストがラッピングされたコミュニティバス(玉ちゃんバス)が玉川学園地区内で運行されている。この他にも1998年には伊予銀行に描いたイラストの掲載、2008年には赤い羽根のボランティアコミック『アクションガイド』Vol.6に漫画を掲載が行われた。 | [
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] | みつはし ちかこは、日本の漫画家。本名青木 千禾子。代表作は『小さな恋のものがたり』『ハーイあっこです』など。 | {{Infobox 漫画家
|名前=みつはし ちかこ
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|脚注=
|本名=青木 千禾子<ref name=asahi>宇佐美貴子「沈丁の初心貫く匂ひかな みつはしちかこが初句集」朝日新聞2011年12月28日[https://web.archive.org/web/20120106052515/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201112280326.html]</ref>
|生年={{生年月日と年齢|1941|1|30}}
|生地=[[茨城県]][[石岡市]]
|没年=
|没地=
|国籍={{JPN}}
|職業=[[漫画家]]
|活動期間=[[1962年]] -
|ジャンル=[[少女漫画]]、家庭漫画
|代表作=『[[小さな恋のものがたり]]』<br />『[[ハーイあっこです]]』<br />『[[わたがしふうちゃん]]』
|受賞=[[日本漫画家協会賞]]優秀賞([[1977年]])<br />[[手塚治虫文化賞]]特別賞<br />[[日本漫画家協会賞]]文部科学大臣賞([[2015年]])
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'''みつはし ちかこ'''([[女性]]、[[1941年]][[1月30日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。本名青木 千禾子<ref name=asahi/>。代表作は『[[小さな恋のものがたり]]』『[[ハーイあっこです]]』など。
== 人物・経歴 ==
[[茨城県]][[石岡市]]生まれで、1歳の時から[[東京都]][[中野区]]で育つ。1947年に中野区立鷺宮小学校に入学、1953年に[[中野区立第八中学校]]に入学。
1956年に[[東京都立武蔵丘高等学校]]に入学、美術部に所属後、放送劇部では脚本を書き上げるなどの活動を行った。同部における活動は、後の『[[小さな恋のものがたり]]』の原点となる。1959年に同校卒業<ref>[http://www.musashigaoka-h.metro.tokyo.jp/site/zen/entry_0000030.html 日本一賞 | 東京都立武蔵丘高等学校]</ref>後、皆川正インダストリアルデザイナーに1960年2月より入所<ref>「初恋のりりあん」に記載のプロフィール</ref>。その後1961年4月よりヨーコーアニメーションに転職。同社倒産後は、日本アニメーション映画社などに勤務。
1959年12月に「[[イエスのカリタス修道女会]]」の新聞に「めいこちゃん」を連載後の1962年、代表作となる『[[小さな恋のものがたり]]』を『美しい十代』([[Gakken|学研]])に連載開始。この間、学研を始めとした幾つかの雑誌に漫画を掲載。最初の単行本は幻余次郎との共著である『マンガ虎の巻』となった。その後1967年11月に『小さな恋のものがたり』の単行本を発売、1970年以降は毎年5月に新刊を刊行し、40集を超えるロングセラーとなっている(現在は不定期で2022年に最新46集を刊行)。1972年に日本テレビ系で実写ドラマ化(岡崎友紀主演)、1984年にはTBS系でアニメ化もされた他、1960年代後期から1970年代後期にかけて、幾つかの少女向け月刊雑誌に連載漫画や、エッセイを連載していた。
また、1980年から[[朝日新聞]]日曜版に連載された『[[ハーイあっこです]]』は『小さな恋のものがたり』と並ぶ代表作で、明るく朗らかな主婦とその家族の日常を描いた作品として、20年以上にわたる長期連載となり、1984年に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系で実写ドラマ化([[三田寛子]]主演)、1988年から1992年にかけて[[テレビ朝日]]系でアニメ化もされた。同時期である1982年からは、雑誌「[[Cobalt (雑誌)|Cobalt]]」にエッセイを掲載、1990年代まで連載が続いている。
その後、1999年7月から2008年3月にかけて、スーパーマーケット「[[サミット (チェーンストア)|サミット]]」の折込チラシに『アララさん』を連載。後に講談社から単行本化されている。
1977年、『小さな恋のものがたり』で[[日本漫画家協会賞]]優秀賞を受賞。2015年、[[手塚治虫文化賞]]特別賞、日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。
2013年の時点では[[町田市]]の[[玉川学園]]に在住<ref>[https://www.library.city.machida.tokyo.jp/reference/pdf/area/bungaku.pdf 図書資料情報紹介サービス「まちだを知ろう!」]町田市立図書館</ref>。その縁で、2006年よりみつはしのイラストがラッピングされたコミュニティバス([[玉川学園コミュニティバス|玉ちゃんバス]])が玉川学園地区内で運行されている。この他にも1998年には[[伊予銀行]]に描いたイラストの掲載、2008年には[[赤い羽根]]のボランティアコミック『アクションガイド』Vol.6に漫画を掲載が行われた。
== 作品リスト ==
=== 漫画 ===
* [[小さな恋のものがたり]](1〜46集、[[Gakken|学研]]/のち文庫化)
* 無題([[光文社]]の雑誌「マイホーム」にて1963年2月~3月に連載)<ref>出光永、[[多田ヒロシ]]とともに1ページに掲載</ref>。
* リトル・タイラント([[大和証券]]の冊子「ゴールド・プラン」にて1963年6月から同10月まで連載)
* つめたいつめたい少女の日記(「美しい十代」にて1964年掲載)
* アッコと先生(「美しい十代」にて1964~1965年連載)
* おしきり君(「平凡」にて1964年掲載)
* 気のいい彼(「女性明星」にて1965年掲載)
* アルプスのふしぎなランプ(「美しい十代」にて1967年掲載)
* 恋は大いそがし!(「女学生コースデラックス」にて1969年掲載)
*となりのケン(秋元書房)
**となりのケン(1967年頃描き下ろし)<ref>初出は1967年の「ファニイ・シリーズ マンガ虎の巻」</ref>
**クミコの青春ノート(ジュニア文芸にて1970~1971年連載)
*YOUのコイビト(成瀬書房)
**バラ色のめぐ(小説女学生コースにて1968年ごろ連載)
**一匹ブーチャン(中三時代にて1970~1971年連載)
**いじわるスカンポ(ファニーにて1969年ごろ連載)
**2階のヨースケ(ジュニア文芸にて1971年連載)
**片恋エレジー(女学生の友増刊号にて1970年掲載)
**YOUのコイビト(女学生の友にて1971~1972年連載)
*片思いから出発!!(秋元書房)
**クミコの青春ノート
**ただいま思春期 (小説女学生コースにて1969年ごろ連載)
**涙のブンタッタ(女学生の友にて1969~1970年連載)
*気になる小さな恋人クン(秋元書房)
**赤いマントの恋人クン
**結婚しちゃお…か(増刊微笑にて昭和47年11月20日号掲載)
**となりのケン
* わたしはみどり(秋元書房)<ref>後期の版では「結婚しちゃお…か」が「初恋のりりあん」に差し替えられている</ref>
**ただいま思春期
**涙のブンタッタ
**赤いマントの恋人クン
**結婚しちゃお…か
**みどりの世界
* ケイコとマッチン(成瀬書房)<ref>連載元は「女学生の友」昭和48年3月号~昭和50年8月号</ref>
* 初恋のりりあん([[講談社文庫]])<ref>連載元は週刊女性自身 昭和48年~昭和50年3月号</ref>
* ピンクのふうちゃん(成瀬書房)<ref>連載元は「Jotomo」昭和51年4月号~昭和52年12月号</ref>
* カッコイイコをネラッチャオ(小説ジュニアにて1966年9月号に掲載)
* まっくろな涙(小説ジュニアにて1968年1月号に掲載)
* 初恋のヒト(小説ジュニアにて1969年9月号に掲載)
* [[ハーイあっこです]](全20集、立風書房/のち[[朝日新聞社]]より文庫化)
* 危険なベンチ(増刊ヤングレディ 漫画特集号 1979年9月18日号に掲載)
* 孤島ロマン劇場(月刊ギャグダにて1983年3月号に掲載)
* 草むらのちいちゃん([[芳文社]])<ref>連載元はまんがタイムファミリー</ref>
* いのち短しいつでも花よ(「ビッグコミックオリジナル」にて1986年連載)
* ツキヨホシヨ物語([[光文社]])<ref>連載元は女性自身増刊 Comic VAL</ref>
* ネコフンジャッタ!! <ref>連載元は女性自身増刊 Comic VAL</ref>
* [[わたがしふうちゃん]](全6巻、[[ポプラ社]])<ref>連載元は毎日小学生新聞 平成4年4月~平成6年3月</ref>
*おはよう!!ちいちゃん([[家の光]]にて1993年ごろ連載)
* アララさん(全2巻、[[講談社]])
* 極楽とーさん([[まんがタイムファミリー]]にて1996年連載)<ref>連載開始時には、ペンネーム夕空光で連載</ref>
=== 漫画関連本 ===
* 詩画集 チッチとサリー(立風書房)
* チッチ愛の絵本(立風書房)
* 詩画集 続チッチとサリー(立風書房)
* 恋のおしゃべりノート(学研)
* 豪華記念保存版 小さな恋のものがたり(立風書房)
* チッチとサリー 四季(立風書房)
* チッチ恋占い(立風書房)
* 小さな恋のものがたり うちあけ話(立風書房)
* チッチとつくるお菓子のおくりもの(立風書房)
* 初恋の四季(学研)
* チッチのひみつ(学研)
* 片恋のときめき(学研)
* チッチのひとりごと(学研)
=== 詩集・画集 ===
* ある日のみみ(fair ladyにて1971年連載)
* ちいさな妹の部屋(fair ladyにて1969年連載)
* 詩画集 ポケットの星(立風書房)
* 花ものがたり(立風書房)
* 愛についてあなたと(立風書房)
* 愛のスケッチブック(立風書房)
* 小さなラブポエジー(成瀬書房)
* 野の花のように([[講談社]])
* 詩画集 愛のひとりごと(秋元書房)
* こんにちは!!愛(立風書房)
* 花と少女(講談社)
* ちいさな、ちいさな恋物語([[大和書房]])
* あした元気になあれ(中央法規)
* あなたの名を呼ぶだけで(立風書房)
* 涙のとなりに(立風書房)
* ときめきに呼ばれて(三心堂出版社)
* 恋の迷子になったら(JTBパブリッシング)
* あなたにめぐりあえてほんとうによかった(相田みつをと共著、[[ダイヤモンド社]])
* 野の花あかり [[俳句]]ノートより(深夜叢書社)
=== エッセイ ===
* あなたとミルクティーを([[集英社文庫]])
* じゃがいもの花が咲いたよ(立風書房)
* ふうちゃん窓をあけて([[三笠書房]])
* 親道こみち自然道(海田書房/のち[[角川書店]]より文庫化)
* ちかこの育児日記(立風書房)
* えんぴつコロリン([[小学館]]/のち角川書店より文庫化)
* たんぽぽ日記(家の光協会/のち角川書店より文庫化)
* ちかこのほっとタイム(いんなぁとりっぷ社)
* 片恋がステキ!(立風書房)
* そのうちいつかは自分流(PHP研究所)
* ひとりぼっちの幸せ([[イースト・プレス]])
* ちいさなひとり暮らしのものがたり(興陽館)
=== イラスト ===
* タイガース・ブック「小さなちいさなぼくたちのおはなし」<ref>1968年発行。渡辺音楽出版</ref>
* 十代の悩みに答えて (著:[[山主敏子]])
* どっちがどっち(著:[[大木圭]])
* レモンエイジのふたり(著:[[藤本義一 (作家)|藤本義一]])
* ラジオの時間(とき)(著:[[こんのひとみ]])
* マリコ シリーズ(著:[[高谷玲子]])
** 静かに自習せよ
** 涙で顔を洗おう
* メリークリスマス シリーズ(著:[[ヒラリー・ナイト]])
** クリスマスイブ物語
** クリスマスのくつ下物語
** クリスマスのかぞえ歌
** クリスマスのABC
* あなたにめぐりあえてほんとうによかった (絆シリーズ特別編) (著:[[相田みつを]])
* かわいい夫(著:[[山崎ナオコーラ]])
=== イラスト・カット絵 ===
*J子の撮影所訪問(美しい十代1962年7月号)<ref name="名前なし-1">無記名となっている</ref>
*もっと大人の知識を プラス・アルファ(美しい十代1965年)<ref name="名前なし-1"/>
*マンガ・コント おしゃべり青春日記(高1コース1964年2月号から同3月まで連載)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* {{Ameba ブログ|chich1941|小さな恋のダイアリー}} (公式ブログ)
* [https://studiopocket.stores.jp/ マルポン良品] - 公式オンラインストア
* [https://chich.jp/tsushin.html 『ちい恋通信』] - 定期講読誌
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みつはし ちかこ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:新聞連載の漫画家]]
[[Category:茨城県出身の人物]]
[[Category:1941年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%93 |
1,872 | 光原伸 | 光原 伸(みつはら しん、1964年(昭和39年)1月31日 - )は、日本の漫画家。広島県三原市出身。関西大学法学部卒。本名は原 伸光(はら のぶみつ)。代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載された『アウターゾーン』。妻は同じく漫画家であり、『週刊少年ジャンプ』に連載した『WILD HALF』などで知られる浅美裕子。
関西大学法学部を卒業。そのまま大阪に住み、アルバイトをしながら漫画の執筆・投稿を続けた。
1987年(昭和62年)、「処刑の密室」(さんげりあ名義)が第23回(1月期)ホップ☆ステップ賞で佳作に選出され、同年に「リボルバー・クイーン」(光原伸名義)が『週刊少年ジャンプ』1987年サマースペシャルに掲載されデビュー。
翌年、『週刊少年ジャンプ』1988年41号に読み切り作品「黒ヒゲクライシス」が掲載される。これが初のジャンプ本誌掲載作品となった。
その後『週刊少年ジャンプ』1989年(平成元年)サマースペシャルに読み切り作品の第5作「マジック・セラー 〜ラスト・コール〜」が掲載される。これは後の代表作『アウターゾーン』の原型ともいえる作品となる。この作品の好評を受け、担当編集者が光原の住む大阪まで来訪。この際に編集者に勧められ、上京を決めた。
上京後、『週刊少年ジャンプ』にて1991年(平成3年)14号より1994年(平成6年)15号まで代表作『アウターゾーン』を連載。全15巻に及ぶ長期連載となり、連載終了後の1995年(平成7年)には小説版(山田隆司著、全1巻)も刊行されている。また、1997年(平成9年)にはジャンプコミックスセレクション版全10巻、2005年(平成17年)には文庫版全10巻が刊行されたほか、コンビニコミックでも刊行されている。
『アウターゾーン』連載終了以降は、連作短編「ダークブレイカーズ」シリーズや読み切り短編を『週刊少年ジャンプ』や同誌増刊、青年誌の『スーパージャンプ』、『オースーパージャンプ』などで発表。2002年(平成14年)ごろにはある青年誌で『アウターゾーン』の新作をやっていいかと打診したが、違うものがほしいと却下され実現しなかった(『アウターゾーン』の新作は2011年(平成23年)に別の雑誌で実現する)。2002年(平成14年)の読み切り短編「絶対安全サーヴィス会社」(『オースーパージャンプ』2002年7月号)辺りが、紙原稿の最後の作品であった。
2005年(平成17年)11月には、災害小説を得意とする小説家・石黒耀の原案を元に、石黒の小説版と光原の漫画版を同時制作・同時刊行する仕事を引き受ける。石黒耀の小説は『昼は雲の柱』(後に『富士覚醒』に改題)のタイトルで2006年(平成18年)に刊行され、光原による漫画版は2008年(平成20年)に『SECTOR COLLAPSE(セクターコラプス) -富士山崩壊-』(後に『富士山崩壊』に改題)のタイトルで刊行された。ジャンプ・コミックス版『アウターゾーン』最終巻(第15巻、1994年(平成6年)9月発行)以来、約14年ぶりの新刊であり、光原の初の描き下ろし単行本であった。この作品は光原がデジタル作画ツール「コミックスタジオ」を使用してすべて1人で描いたもので、巻末のあとがきで「一人で全部描いたのは二十年ぶり位かも」、「もう永久に終わらないのかと思う事もありましたが、最終的には自分らしい漫画に仕上がったと思います」と述べている。
2010年(平成22年)には『サムケ』(竹書房)にて妻の浅美裕子との合作「めりこみおじさん」を発表。初の合作作品となる。
2011年(平成23年)10月の『コミック特盛 怖すぎて禁じられた怪談』2011年秋号(ホーム社発行・集英社発売)から新作『アウターゾーン リ:ビジテッド』の連載を開始した。『アウターゾーン』の新作を描いてほしいという編集者からの要望は2008年(平成20年)にはすでにあり、それが3年越しに実現したものであった。
樹崎聖のアシスタントを務めた経験がある。趣味はB級映画の鑑賞・収集。また、女子プロレスの大ファンでもある。
10代後半のころに映画『サンゲリア』と『ゾンビ』を見て以来のゾンビ映画好き。また、自身の作風とは異なり、一番好きな漫画は小学生のころに読んでいたギャグ漫画のとりいかずよし『トイレット博士』と山上たつひこ『がきデカ』だという。
★マーク=『サランドラの壺 光原伸短編集』に収録。 | [
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] | 光原 伸は、日本の漫画家。広島県三原市出身。関西大学法学部卒。本名は原 伸光。代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載された『アウターゾーン』。妻は同じく漫画家であり、『週刊少年ジャンプ』に連載した『WILD HALF』などで知られる浅美裕子。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 光原 伸
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| 本名 = 原 伸光<ref name="hopstep">『ホップ☆ステップ賞SELECTION』第1巻([[集英社]]、[[1988年]])、4頁</ref>
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'''光原 伸'''(みつはら しん、[[1964年]]([[昭和]]39年)[[1月31日]]<ref name="hopstep"/> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[広島県]][[三原市]]出身<ref name="hopstep"/>。[[関西大学]][[法学部]]卒<ref>光原伸『アウターゾーン』集英社文庫版、著者紹介より</ref>。本名は'''原 伸光'''(はら のぶみつ)<ref name="hopstep"/>。代表作は『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])に連載された『[[アウターゾーン]]』。妻は同じく漫画家であり、『週刊少年ジャンプ』に連載した『[[WILD HALF]]』などで知られる[[浅美裕子]]。
== 来歴 ==
[[関西大学]][[法学部]]を[[卒業]]。そのまま大阪に住み、[[アルバイト]]をしながら漫画の執筆・投稿を続けた<ref name="hopstep"/>。
[[1987年]](昭和62年)、「処刑の密室」('''さんげりあ'''名義)が第23回(1月期)[[ホップ☆ステップ賞]]で佳作に選出され<ref>「処刑の密室」に対する選評は『週刊少年ジャンプ』1987年13号に掲載されている。</ref>、同年に「リボルバー・クイーン」('''光原伸'''名義)が『週刊少年ジャンプ』1987年サマースペシャルに掲載され[[デビュー]]。
翌年、『週刊少年ジャンプ』1988年41号に[[読み切り]]作品「黒ヒゲクライシス」が掲載される。これが初のジャンプ本誌掲載作品となった。
その後『週刊少年ジャンプ』[[1989年]]([[平成]]元年)サマースペシャルに読み切り作品の第5作「マジック・セラー 〜ラスト・コール〜」が掲載される。これは後の代表作『アウターゾーン』の原型ともいえる作品となる。この作品の好評を受け、担当編集者が光原の住む大阪まで来訪。この際に編集者に勧められ、上京を決めた<ref>『サランドラの壺 光原伸短編集』(集英社、[[2014年]]〈平成26年〉)のおまけ漫画「上京物語」より。</ref>。
上京後、『週刊少年ジャンプ』にて1991年(平成3年)14号より[[1994年]](平成6年)15号まで代表作『[[アウターゾーン]]』を連載。全15巻に及ぶ長期連載となり、連載終了後の1995年(平成7年)には小説版([[山田隆司]]著、全1巻)も刊行されている。また、[[1997年]](平成9年)にはジャンプコミックスセレクション版全10巻、[[2005年]](平成17年)には文庫版全10巻が刊行されたほか、[[コンビニコミック]]でも刊行されている。
『アウターゾーン』連載終了以降は、連作短編「ダークブレイカーズ」シリーズや読み切り短編を『週刊少年ジャンプ』や同誌増刊、青年誌の『[[スーパージャンプ]]』、『[[オースーパージャンプ]]』などで発表。[[2002年]](平成14年)ごろにはある青年誌で『アウターゾーン』の新作をやっていいかと打診したが、違うものがほしいと却下され実現しなかった(『アウターゾーン』の新作は[[2011年]](平成23年)に別の雑誌で実現する)<ref name="revisited1">光原伸『アウターゾーン リ:ビジテッド』第1巻(ホーム社発行・集英社発売、2012年(平成24年))、68頁</ref>。2002年(平成14年)の[[読み切り]]短編「絶対安全サーヴィス会社」(『[[オースーパージャンプ]]』2002年7月号)辺りが、紙原稿の最後の作品であった<ref>『サランドラの壺 光原伸短編集』(集英社、2014年(平成26年))、作者自身による「作品解説」より(188頁)</ref>。
[[2005年]](平成17年)11月には、災害小説を得意とする[[小説家]]・[[石黒耀]]の原案を元に、石黒の小説版と光原の漫画版を同時制作・同時刊行する仕事を引き受ける<ref name="COLLAPSE">光原伸『SECTOR COLLAPSE -富士山崩壊-』(創美社発行・集英社発売、[[2008年]](平成20年))、270頁</ref>。石黒耀の小説は『昼は雲の柱』(後に『富士覚醒』に改題)のタイトルで[[2006年]](平成18年)に刊行され、光原による漫画版は[[2008年]](平成20年)に『SECTOR COLLAPSE(セクターコラプス) -富士山崩壊-』(後に『富士山崩壊』に改題)のタイトルで刊行された。ジャンプ・コミックス版『アウターゾーン』最終巻(第15巻、1994年(平成6年)9月発行)以来、約14年ぶりの新刊であり、光原の初の描き下ろし単行本であった。この作品は光原がデジタル作画ツール「[[ComicStudio|コミックスタジオ]]」を使用してすべて1人で描いたもので、巻末の[[エピローグ|あとがき]]で「一人で全部描いたのは二十年ぶり位かも」、「もう永久に終わらないのかと思う事もありましたが、最終的には自分らしい漫画に仕上がったと思います」と述べている<ref name="COLLAPSE"/>。
[[2010年]](平成22年)には『[[サムケ]]』([[竹書房]])にて妻の浅美裕子との[[コラボレーション|合作]]「めりこみおじさん」を発表。初の合作作品となる。
[[2011年]](平成23年)10月の『[[コミック特盛]] 怖すぎて禁じられた怪談』2011年秋号([[ホーム社]]発行・集英社発売)から新作『[[アウターゾーン|アウターゾーン リ:ビジテッド]]』の連載を開始した<ref>[http://www.homesha.jp/e/mag/p.php?tag=pc/sp/mag/kaidan コミック特盛秋号 怖すぎて禁じられた怪談|ホーム社]より。</ref>。『アウターゾーン』の新作を描いてほしいという編集者からの要望は2008年(平成20年)にはすでにあり、それが3年越しに実現したものであった<ref name="revisited1"/>。
== 人物 ==
[[樹崎聖]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務めた経験がある。趣味は[[B級映画]]の鑑賞・収集<ref>光原伸『SECTOR COLLAPSE -富士山崩壊-』(創美社発行・集英社発売、[[2008年]](平成20年))、著者紹介より</ref>。また、[[女子プロレス]]の大ファンでもある。
10代後半のころに映画『[[サンゲリア]]』と『[[ゾンビ (映画)#テレビ放送バージョン|ゾンビ]]』を見て以来の[[ゾンビ映画の一覧|ゾンビ映画]]好き<ref>光原伸『アウターゾーン リ:ビジテッド』第2巻(ホーム社発行・集英社発売、[[2014年]](平成26年))、100頁</ref>。また、自身の作風とは異なり、一番好きな漫画は小学生のころに読んでいたギャグ漫画の[[とりいかずよし]]『[[トイレット博士]]』と[[山上たつひこ]]『[[がきデカ]]』だという<ref>光原伸『アウターゾーン リ:ビジテッド』第3巻(ホーム社発行・集英社発売、[[2015年]](平成27年))、132頁</ref>。
== 主な作品 ==
; リボルバー・クイーン
: 商業誌デビュー作の読み切り作品。『週刊少年ジャンプ』1987年サマースペシャルに掲載。単行本『アウターゾーン』1巻に収録。その後、『サランドラの壺 光原伸短編集』(集英社、2014年〈平成26年〉)に収録。
: 舞台は[[ラスベガス]]。ギャンブルに敗れ全てを失った[[主人公]]は、彼に残された最後の財産である“命”を賭けて[[ロシアンルーレット]]に挑む。対戦相手は'''拳銃の女王(リボルバー・クイーン)'''と呼ばれる強運の持ち主。連戦無敗の彼女は、なぜ危険なゲームを続けているのか。緊迫した室内に乾いた撃鉄の音が響き続ける。
: ジャンプ・コミックス版『アウターゾーン』1巻(1991年(平成3年))の巻末に収録された際に加筆修正されており、雑誌掲載時とは物語のラスト付近の展開が異なっている。短編集『サランドラの壺』に収録されているのも加筆修正後のバージョンである。<ref>『サランドラの壺 光原伸短編集』(集英社、2014年(平成26年))、作者自身による「作品解説」より(48頁)</ref>
; マジック・セラー 〜ラスト・コール〜
: 『週刊少年ジャンプ』1989年(平成元年)サマースペシャルに掲載された読み切り作品。単行本『アウターゾーン』2巻に収録。その後、『サランドラの壺 光原伸短編集』に収録。
: 謎の老人「マジック・セラー」が案内人(ホスト)として登場する。彼の商品を買った者は必ず不可思議な体験をすることができるという。この話の主人公である高校生が[[蚤の市|フリーマーケット]]で老人から[[黒電話]]を購入する。その夜、回線につないでいないはずのその電話が鳴り響き、通話がつながる。相手の女性と話をしてみると、この電話は20年前からかかってきているものだということが判った。彼は不思議に思いながらも相手の女性に惹かれていくのだが……。後に連載作品となる『アウターゾーン』の原型とも言える作品。これが連載にならなかったのは、作者曰く「じじいより美女(ミザリィ)のほうがいいよね?」とのこと。
; [[アウターゾーン]]
: 代表作。『週刊少年ジャンプ』で1991年14号より連載され、同年24号で一旦終了。その後、同年51号に第2部として連載が再開され、1994年15号まで連載された。単行本は全15巻、ジャンプコミックスセレクション版全10巻、文庫版全10巻。ジャンルはミステリー、ホラー。[[パラレルワールド]]として存在する不思議な世界・アウターゾーンに巻き込まれた人々の姿を描く。基本的に各話完結で、ほぼ全話を通じて謎の美女ミザリィが案内人として登場する。
; [[アウターゾーン|アウターゾーン リ:ビジテッド]]
: アウターゾーンの続編。ホーム社の季刊誌『[[コミック特盛]]』2011年秋号から2015年冬号(終刊号)まで全20話連載されたのち、ホーム社のWebマンガサイト・画楽ノ杜(がらくのもり)に移籍した。最新話は[[2016年]](平成28年)9月27日公開の第22話。
== 作品リスト ==
=== 単行本 ===
* 『[[アウターゾーン]]』(ジャンプ・コミックス版全15巻、1991-1994年 / ジャンプコミックスセレクション版全10巻、1997年 - 1998年 / 集英社文庫版全10巻、2005年)
* 『SECTOR COLLAPSE(セクターコラプス) -富士山崩壊-』(監修:[[小山真人]]、描き下ろし、[[創美社]]発行、集英社発売、[[2008年]][[11月25日]]) ISBN 978-4-420-22050-7
**『富士山崩壊』(上記の本の改訂版 / 創美社発行、集英社発売、2012年7月5日) ISBN 978-4-420-22057-6
*** どちらもB6判ソフトカバー。光原のあとがきおよび監修者の小山真人による「解説」は『SECTOR COLLAPSE』にのみ収録されており、改訂版の『富士山崩壊』ではカットされている。
*** 原作は[[石黒耀]]の2006年の小説『昼は雲の柱』(文庫化の際に『富士覚醒』に改題)。『アウターゾーン』以来約14年ぶりの新刊となった。
* 『[[アウターゾーン|アウターゾーン リ:ビジテッド]]』(ホーム社発行、集英社発売、ホームコミックス、2012年- 、既刊3巻)
* 『サランドラの壺 光原伸短編集』(ホーム社発行、集英社発売、ホームコミックス、2014年2月発行) ISBN 978-4-8342-3210-3
** 収録:サランドラの壺 / 非情の標的 / 絶対安全サーヴィス会社 / マジック・セラー 〜ラスト・コール〜 / リボルバー・クイーン
*** 単行本描き下ろしのおまけ漫画「上京物語」「サランドラの挑戦」(各3ページ)も収録。
=== 雑誌掲載・アンソロジー収録短編 ===
★マーク=『サランドラの壺 光原伸短編集』に収録。
* 処刑の密室(『ホップ☆ステップ賞SELECTION』第1巻、集英社、1988年3月15日発行) - 1987年1月期(第23回)[[ホップ☆ステップ賞]]佳作('''さんげりあ'''名義)
* リボルバー・クイーン(週刊少年ジャンプ 1987年サマースペシャル) - デビュー作 ★
* フォーチュン・テラー(週刊少年ジャンプ 1988年ウィンタースペシャル)
* 殺人プロット(週刊少年ジャンプ 1988年スプリングスペシャル、1988年3月30日発行)<ref>この作品について光原は、2014年刊の『サランドラの壺 光原伸短編集』にて、原稿が行方不明で細かい内容も覚えていないと書いている(80頁)。</ref>
* 黒ヒゲクライシス(週刊少年ジャンプ 1988年41号、1988年9月19日発行)
* マジック・セラー 〜ラスト・コール〜(週刊少年ジャンプ 1989年サマースペシャル)★
* アウターゾーン スペシャル([[月刊少年ジャンプ]] 1995年1月号) - アウターゾーンで唯一の単行本未収録作
* ダーク・ブレイカーズ(週刊少年ジャンプ 1995年オータムスペシャル)
* ダークブレイカーズ(週刊少年ジャンプ 1996年サマースペシャル)
* サランドラの壺(週刊少年ジャンプ [[1998年]]6号)★
* 非情の標的([[スーパージャンプ]] [[2001年]]17号)★
* 絶対安全サーヴィス会社([[オースーパージャンプ]] [[2002年]]7月号)★
* 猫のおみやげ(『ねこまん 猫だらけコミック・アンソロジー』ホーム社発行、集英社発売、2008年6月発行)
* めりこみおじさん([[サムケ]] Vol.1、竹書房、2010年6月12日発行) - 妻の浅美裕子との合作。これとは別に単独でイラストも掲載。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[広島県出身の人物一覧]]
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:広島県出身の人物]]
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[[Category:1964年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T17:45:24Z | 2023-09-21T11:02:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%9F%E4%BC%B8 |
1,875 | 宮下あきら | 宮下 あきら(みやした あきら、1953年10月8日 - )は、日本の漫画家。血液型A型。代表作に『魁!!男塾』など。
東京都生まれ、三鷹市中原出身。小学生の頃より横山光輝の『伊賀の影丸』に影響を受け漫画を描き始める。
都立神代高校在学中にジミ・ヘンドリクスの影響を受け音楽にのめりこみ、卒業後はバンドマンとしてキャバレーなどで演奏をしていたが、音楽ではいつまで経っても食っていけないだろうと思い、自分が幼い頃に漫画家に憧れていたことを思い出し、漫画家を目指す。出版社に持ち込みを続けていたところ、編集者から高橋よしひろを紹介され、そのアシスタントになる。
第21回(78年度下期)少年マガジン新人漫画賞で『少年勝負師ケン』が佳作となり、1978年末の『少年マガジン増刊号』(1979/01/25号)に掲載され、デビューとなる。
1979年、高橋の師匠である本宮ひろ志からの紹介で集英社『週刊少年ジャンプ』に『私立極道高校』を連載開始。しかし滋賀県出身のアシスタントが、作中に無断で同県の実在する学校名などを出したことにより、滋賀県教育委員会などから抗議を受けた。宮下は監督不行届を問われる形となり、『私立極道高校』は『週刊少年ジャンプ』1980年11号で打ち切りとなった。なお、学帽政ら主要キャラクターは次作『激!!極虎一家』に引き続き登場している。
1985年より『週刊少年ジャンプ』で代表作となる『魁!!男塾』を連載開始。これが大ヒットとなり、連載は6年、単行本は34巻を刊行した。
2002年11月に発売されたヒップホップのコンピレーションアルバム『男塾伝説』のジャケット(中心人物である塾長シーモネーター(現・SEAMO)と元ネタである江田島平八が肩を組んでいる)を描いている。
2003年6月に発売された、ダンスグループ「PaniCrew」のグループ内ユニット「魁!ジョッパーズ(さきがけ!ジョッパーズ)」のデビューアルバムのジャケットに宮下が描いた、メンバーをモデルにしたキャラクターのイラストが使われている。
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] | 宮下 あきらは、日本の漫画家。血液型A型。代表作に『魁!!男塾』など。 | {{存命人物の出典明記|date=2017年9月}}
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|本名 = 宮下 晃{{要出典|date=2017年9月}}
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'''宮下 あきら'''(みやした あきら、[[1953年]][[10月8日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[ABO式血液型|血液型]][[ABO式血液型|A型]]。代表作に『[[魁!!男塾]]』など。
== 経歴 ==
東京都生まれ、[[三鷹市]][[中原 (三鷹市)|中原]]出身<ref name="playboy"/>。小学生の頃より[[横山光輝]]の『[[伊賀の影丸]]』に影響を受け漫画を描き始める。
[[東京都立神代高等学校|都立神代高校]]在学中に[[ジミ・ヘンドリクス]]の影響を受け音楽にのめりこみ、卒業後はバンドマンとして[[キャバレー (接待飲食店)|キャバレー]]などで演奏をしていたが、音楽ではいつまで経っても食っていけないだろうと思い、自分が幼い頃に漫画家に憧れていたことを思い出し、漫画家を目指す。出版社に持ち込みを続けていたところ、編集者から[[高橋よしひろ]]を紹介され、その[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]になる<ref group="注釈">高橋の師匠[[本宮ひろ志]]の作業にも携わったことがある(『[[やぶれかぶれ (漫画)|やぶれかぶれ]]』より抜粋)。</ref>。
第21回(78年度下期)[[週刊少年マガジン新人漫画賞|少年マガジン新人漫画賞]]で『少年勝負師ケン』が佳作となり、1978年末の『[[週刊少年マガジン増刊号|少年マガジン増刊号]]』(1979/01/25号)に掲載され、デビューとなる。
[[1979年]]、高橋の師匠である[[本宮ひろ志]]からの紹介で[[集英社]]『[[週刊少年ジャンプ]]』に『[[私立極道高校]]』を連載開始<ref name="saizu20160511">{{Cite book|和書|title=定本 消されたマンガ|author=赤田祐一|authorlink=赤田祐一|author2=ばるぼら|authorlink2=ばるぼら (ライター)|publisher=[[彩図社]]|date=2016-05-11|edition=第1刷|pages=112-114}}</ref><ref group="注釈">『定本 消されたマンガ』112ページによれば、原稿を読み終えた本宮が編集者を即座に呼び出したという。</ref>。しかし[[滋賀県]]出身のアシスタントが、作中に無断で同県の実在する学校名などを出したことにより、[[滋賀県教育委員会]]などから抗議を受けた<ref name="saizu20160511"/>。宮下は監督不行届を問われる形となり、『私立極道高校』は『週刊少年ジャンプ』[[1980年]]11号で打ち切りとなった<ref name="saizu20160511"/><ref name="FPD">『'80年まんがあたりの出来事』「Fusion Product 創刊号」ふゅーじょんぷろだくと、1981年7月。P86。</ref><ref group="注釈">詳細は[[週刊少年ジャンプ#週刊少年ジャンプ事件史|週刊少年ジャンプ事件史]]を参照。</ref>。なお、学帽政ら主要キャラクターは次作『[[激!!極虎一家]]』に引き続き登場している。
[[1985年]]より『週刊少年ジャンプ』で代表作となる『[[魁!!男塾]]』を連載開始。これが大ヒットとなり、連載は6年、単行本は34巻を刊行した。
2002年11月に発売されたヒップホップのコンピレーションアルバム『男塾伝説』のジャケット(中心人物である塾長[[SEAMO|シーモネーター(現・SEAMO)]]と元ネタである[[江田島平八]]が肩を組んでいる)を描いている。
2003年6月に発売された、ダンスグループ「[[PaniCrew]]」のグループ内ユニット「魁!ジョッパーズ(さきがけ!ジョッパーズ)」のデビューアルバムのジャケットに宮下が描いた、メンバーをモデルにしたキャラクターのイラストが使われている。
2012年1月20日に絶版となっていた『私立極道高校』が集英社より『復活版』として上下巻で刊行された。
== 人物 ==
* 情に篤いバンカラ硬派の学生がライバル、宿敵と大喧嘩を繰り広げるという作品を描き続けている。作品中には[[極道]]物が多い。その一方でごく初期の作品を除いてコミカルな描写も多く、宮下自身も「硬派な男のカッコ良さと馬鹿さ加減の両方を描きたいと思って描いている」と語っている<ref>[[フジテレビONE]]『[[漫道コバヤシ]]』第17回放送「祝!魁!!男塾30周年!宮下あきらSP」より。</ref>。他にも特筆すべき物として自分の作品内に、「[[魁!!男塾#民明書房|民明書房]]」などのいかにもありそうな出版社の書籍から引用した解説文を出しており、当時その出版社の本を求め本屋などに問い合わせる電話が急増。また宮下によれば、「民明書房」の内容は誤りであると編集部に抗議もあったという。それら解説を纏めた書籍『民明書房大全』(創業者・大河内民明丸の出生物語も収録)が発売された。後に宮下本人が架空の出版社であることを告白している。
* 宮下の父は捜査一課に所属していたこともある警視庁の[[刑事]]であり、これが[[ハードボイルド]]風の作品『[[ボギー THE GREAT]]』を生み出すことになったと単行本で述べている。
* [[ジミ・ヘンドリックス]]のファンであり、度々作中に登場させている。作中においては、ロックなどの現代西洋音楽を好む若者が悪役的立場であり、日本の伝統音楽愛好家が主人公側として描かれる場合も多い。
* [[ネーム (漫画)|ネーム]]を描かずに下描きに入り、本人もその方がアドリブ的な面白さがあると語る<ref name="otoko">TEAM MUSCLE編「作者殷沙毘幽」『魁!!男塾奥義の書 魁!!男塾である!!!』集英社、2000年3月22日、ISBN 4-8342-1686-1、9頁。</ref><ref name="otona"/>。
* 一時期音楽スタジオを所有していた。現在は音楽スタジオを潰して、ホームシアターとなっているが、元々音楽スタジオで防音のため、大好きなギターを弾くこともできるという。
* 非常に親思いの人物で、親がらみのことになると情に絆されやすい一面がある。[[荻野真]]は自身の作品『[[孔雀王]]』の後書にて、「宮下先生に(荻野がデビュー前の原稿を『[[週刊ヤングジャンプ]]』の賞に持ち込んだ時、宮下は選考委員の一人だった)、親に顔向けがしたいんですとお願いし予選を通してもらった」と述懐している。
* [[高橋よしひろ]]のアシスタントを務めていたときに、『[[白い戦士ヤマト]]』で闘犬場の観衆を描いたが、それが全員ヤクザのような姿だったため編集に描き直させられ、高橋は「二度と宮下に観衆を描かせるな」と言われた<ref>{{Cite web|和書|title=高橋よしひろ×宮下あきら、青春時代を語る。横手市増田まんが美術館リニューアル記念イベントレポート | マンバ通信 - マンバ|url=https://manba.co.jp/manba_magazines/8255 |accessdate=2020-05-19}}</ref>。
* 2015年、愛車のフェラーリをだまし取られる詐欺に遭う<ref>{{Cite web|和書|title=「男塾」宮下あきら氏のフェラーリだまし取る?男を逮捕|url=https://www.asahi.com/articles/ASN8N6KBFN8NULOB01D.html |accessdate=2020-08-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「男塾」宮下あきらさんの高級車代金横領で懲役4年|url= https://www.nikkansports.com/m/general/news/amp/202011160000718.html |accessdate=2020-11-22}}</ref>。
* 駆け出しのころの宮下にとって[[吉野家]]の牛丼はご馳走であり、「いつか好きなだけ食べられることを夢見て頑張っていた」という<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/435077|title=魁!!男塾と吉野家がコラボ、宮下あきら「食って、食って、食いまくるのである!!」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-07-02|accessdate=2021-07-02}}</ref>。
== 作品リスト ==
=== 連載 ===
* [[私立極道高校]](『[[週刊少年ジャンプ]]』1979年21号 - 1980年11号)
* [[激!!極虎一家]](『週刊少年ジャンプ』1980年35号 - 1982年44号)
* [[嗚呼!!毘沙門高校]](『週刊少年ジャンプ』1983年4号 - 1983年25号)
* [[ボギー THE GREAT]](『週刊少年ジャンプ』1983年52号 - 1984年30号)
* [[魁!!男塾]](『週刊少年ジャンプ』1985年22号 - 1991年35号)
* [[瑪羅門の家族]](『週刊少年ジャンプ』1992年25号 - 1993年12号)
* [[BAKUDAN]](『週刊少年ジャンプ』1994年42号 - 1995年8号)
* [[世紀末博狼伝サガ]](『[[スーパージャンプ]]』1995年10号 - 1998年18号)
* [[天より高く (宮下あきらの漫画)|天より高く]](『[[週刊プレイボーイ]]』1995年 - 2002年)
* [[曉!!男塾 青年よ、大死を抱け]](『スーパージャンプ』2001年11号 - 2010年10号)
* [[天下無双 江田島平八伝]](『[[オースーパージャンプ]]』2003年 - 2010年)
* [[私立極道高校2011]](『[[週刊漫画ゴラク]]』2011年7月8日号 - 2012年11月30日号)
* [[極!!男塾]](『週刊漫画ゴラク』2014年4月18日号 - 2016年11月25日号)
* [[真!!男塾]](『週刊漫画ゴラク』2016年12月9日号 - 2019年5月10・17日合併号)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/208848|title=宮下あきら「極!!男塾」完結!12月より「真!!男塾」がゴラクで始動|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-11-11|accessdate=2016-11-11}}</ref>
=== 読み切り ===
* 少年勝負師ケン(『[[週刊少年マガジン増刊号|少年マガジン増刊号]]』1979年1月25日号)
* 嗚呼 桜田門(『週刊少年ジャンプ』1980年11号)
* 学帽政 放浪編(『[[フレッシュジャンプ]]』1983年4月号)
* 菊一輪(『週刊少年ジャンプ』1983年37号)
* 空燃ゆる(『フレッシュジャンプ』1983年9月号)
* やばいYATSURA(『スーパージャンプ』1988年12月号)
* 任侠!!マスラオ部屋(『週刊少年ジャンプ』1993年36号)
* EDAJIMA -わしが江田島平八である-(『スーパージャンプ』1998年22号) - スーパージャンプ特別編集『天下無双 江田島平八伝 総集編』(2004年)に加筆版が掲載
* 大河内民明丸評伝 果てること未だ知らず(『民明書房大全』、2004年) - 『スーパージャンプ』2004年23号に加筆版が掲載
* 拳食同源 特級厨房師 王大人(『[[オースーパージャンプ]]』2010年4月号)
* HANZO(『スーパージャンプ』2011年4号)
* 魁!!俺の青春塾([[週刊ヤングジャンプ]]増刊『[[アオハル]] bitter』、2012年)
* どんばれ 〜どん兵衛物語〜([[どん兵衛]]公式サイト、2017年)
=== 原案協力 ===
いずれも『魁!!男塾』のスピンオフ作品。
* 男塾外伝 伊達臣人(作画:[[尾松知和]]、『別冊漫画ゴラク』2014年6月号 - 2015年2月号、『漫画ゴラクスペシャル』2015年4月号 - 2017年8月号、『ゴラクエッグ』2017年8月10日 - 2021年9月10日、全10巻)
* 男塾外伝 紅!!女塾(作画:サイトウミチ、『ゴラクエッグ』2015年1月23日 - 2017年8月30日、全5巻) - 女塾を舞台とした姉妹作
* 男塾外伝 大豪院邪鬼(作画:[[柳田東一郎]]、『ゴラクエッグ』2015年5月25日 - 2019年2月28日、『漫画ゴラクスペシャル』2019年6月号 - 2020年10月15日、全9巻)
* 男塾外伝 赤石剛次(作画:竹添裕史、『ゴラクエッグ』2016年5月25日 - 2019年5月30日、全5巻)
* 僕!!男塾(原作:[[宮川サトシ]]、作画:近藤和寿、『ゴラクエッグ』2017年4月10日 - 2019年3月20日、全2巻)
* 男塾外伝 死天王(作画:柳田東一郎、『ゴラクエッグ』2019年5月13日 - 2020年10月30日、全2巻)
* 男塾外伝 J(作画:近藤和寿、『マンガTOP』2020年6月18日 - 、全1巻)
== 関連書籍 ==
* [[魁!!男塾#民明書房|民明書房大全]]
== その他 ==
; 竜の子ファイター([[PCエンジン]] [[トンキンハウス]])
: [[1989年]]にトンキンハウスより発売されたPCエンジン用のゲームソフト。宮下ワールドに引き込まれた少年が漫画内の世界を冒険していくという内容のアクションゲーム。宮下はキャラクターデザインおよびパッケージイラストなどを担当。
; ももクロ男祭り2015 in 太宰府
: [[2016年]]5月11日発売。[[2015年]]に開催された[[ももいろクローバーZ]]同名イベントのライブ[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]&[[DVD]]。宮下はパッケージイラストを担当。男塾シリーズ同様ももクロメンバー5人を[[バンカラ]]学生に描いたデザインになっている。また、裏パッケージには男塾塾生が声を上げて歌う様子が描かれている<ref>[https://www.momoclo.net/pub/pc/information/?id=2835 「男祭り2015」のジャケットイラスト描き下ろしは「魁!!男塾」の宮下あきら先生!西武プリンスドームでは予約特典も!]</ref>。
== 関連人物 ==
* [[高橋よしひろ]] - アシスタントとして師事。
* [[本宮ひろ志]] - 高橋の師匠。宮下が慕う人物の一人。
* [[今泉伸二]] - 宮下のアシスタント。
* 吉村拓也 - 宮下のアシスタント。
* [[猿渡哲也]] - 同僚・友人。同じく格闘技を扱った作品が多い。
* [[原哲夫]] - 同僚・友人。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
* {{twitter|miyashita_akira}}
{{宮下あきら}}
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[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1953年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%8B%E3%81%82%E3%81%8D%E3%82%89 |
1,876 | みやたけし | みや たけし(1959年1月10日 - )は、日本の漫画家。香川県琴平町出身。血液型B型。
1978年、第15回手塚賞準入選(『マラソンハっちゃん』)。
代表作に『風のフィールド』など。 | [
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] | みや たけしは、日本の漫画家。香川県琴平町出身。血液型B型。 1978年、第15回手塚賞準入選(『マラソンハっちゃん』)。 代表作に『風のフィールド』など。 | {{存命人物の出典明記|date=2017-08}}
'''みや たけし'''([[1959年]][[1月10日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[香川県]][[琴平町]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]B型。
[[1978年]]、第15回[[手塚賞]]準入選(『マラソンハっちゃん』)。
代表作に『[[風のフィールド]]』など。
== 作品リスト ==
* Go☆シュート(1979年 - 1980年、『[[週刊少年ジャンプ]]』、[[集英社]])
* ブンの青シュン!(1980年 - 1981年、『週刊少年ジャンプ』)
* ミルク捜査日記(1983年 - 1984年、『[[月刊少年ジャンプ]]』、集英社)
* 夏の球児たち(『月刊少年ジャンプ』、[[集英社]])
* [[はしれ走]](『[[週刊少年サンデー]]』、[[小学館]])
* はるかなビシ(『週刊少年サンデー』)
* [[はしれ走#ストライカー列伝|ストライカー列伝]](1984年 - 1985年、『増刊少年サンデー』、小学館)
* [[わがまま空イブ]](『[[週刊少年チャンピオン]]』、[[秋田書店]]、1986年22号 - 1986年33号)
* 風のフィールド(『週刊少年チャンピオン』1986年45号 - 1989年48号)
* めざせ一等賞(『週刊少年チャンピオン』1990年1号 - 1992年49号)
* よろしくミスキック(『月刊少年チャンピオン』1993年5月号 - 1993年)
* Shuji-修二-(『週刊少年チャンピオン』1993年7号 - 1993年51号)
* 小料理屋みな子(原案:南たかゆき、『[[週刊漫画TIMES]]』、[[芳文社]]、 - 2012年11/2号)
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1,877 | 三山のぼる | 三山 のぼる(みやま のぼる、1956年1月7日 - 2007年12月2日)は、日本の漫画家。熊本県八代市出身。高卒後に上京してデザイン会社に勤務したのち、村野守美に師事し、池沢さとしのアシスタントを経て、1981年に週刊少年ジャンプにて「男文太」でデビュー。代表作に『メフィスト』など。2007年に急性心不全で急逝した。
山田貴敏などの後輩らから手早い筆致と高い画力を評価されていた。控えめで物静かな人柄だったという。
師匠
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] | 三山 のぼるは、日本の漫画家。熊本県八代市出身。高卒後に上京してデザイン会社に勤務したのち、村野守美に師事し、池沢さとしのアシスタントを経て、1981年に週刊少年ジャンプにて「男文太」でデビュー。代表作に『メフィスト』など。2007年に急性心不全で急逝した。 山田貴敏などの後輩らから手早い筆致と高い画力を評価されていた。控えめで物静かな人柄だったという。 | {{Infobox 漫画家
|名前 = 三山 のぼる
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|本名 = 三山 昇
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'''三山 のぼる'''(みやま のぼる、[[1956年]][[1月7日]]<ref name="requiem1">三山のぼる 『レクイエム -メモリアル未収録作品集-』 [[茜新社]]〈テンマコミックス〉、2008年、カバー袖。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=長谷邦夫|authorlink=長谷邦夫|title=ニッポン漫画家名鑑|date=1994-03-01|publisher=[[データハウス]]|isbn=978-4-887-18196-0|page= 331}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=日外アソシエーツ編集部|title=漫画家・アニメ作家人名事典|edition=初版|date=1997-04-21|publisher=[[日外アソシエーツ]]|isbn=978-4-816-91423-2|page= 418}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=まんがseek|coauthors=日外アソシエーツ編集部|title=漫画家人名事典|edition=初版|date=2003-02-25|publisher=[[日外アソシエーツ]]|isbn=978-4-816-91760-8|page= 368}}</ref> - [[2007年]][[12月2日]]<ref name="requiem1" />)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[熊本県]][[八代市]]出身<ref name="about">{{Cite web|和書|url=http://members3.jcom.home.ne.jp/miyamanoboru/about.html |title=漫画家 - 三山のぼる - 経歴 |work=三山のぼる公式サイト |accessdate=2015-03-23}}</ref>。高卒後に上京してデザイン会社に勤務したのち、[[村野守美]]に師事し<ref name="requiem1" />、[[池沢さとし]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て<ref name="requiem1" />、[[1981年]]に[[週刊少年ジャンプ]]にて「男文太」でデビュー<ref name="requiem1" />。代表作に『メフィスト』など。2007年に[[急性心不全]]で急逝した<ref name="about" />。
[[山田貴敏]]などの後輩らから手早い筆致と高い画力を評価されていた<ref name="yamamoto" />。控えめで物静かな人柄だったという<ref name="yamamoto" /><ref name="techo">{{Cite journal |和書 |author=中尊寺あつこ, 岸川浩利, 藤本孝人 |year=2008 |month=8 |title=追悼 三山のぼる |journal=漫画の手帖 |issue=55 |url=http://members3.jcom.home.ne.jp/miyamanoboru/eulogy.html |accessdate=2015-03-23}}</ref>。
== 作品 ==
=== 単行本 ===
* 臥龍恥記 (原作:[[小池一夫]]、全4巻)
* よろしくモナミ
* 明日もカイカン!!
* ノストラダムスの息子たち (全2巻)
* ブリキ細工のトタン屋根 (全5巻)
* 三山のぼる/傑作短編集 ミッドナイト・トリップ
* 探偵桃語 (原作:[[堀井雄二|本田一景]]、全1巻)
* 三山のぼる短編集1 [恋と青春譜] オームの法則
* 三山のぼる短編集2 [SF&ロマン] エヴァの時代
* メフィスト (全6巻)
* 幸福ブイヨン (全2巻)
* カンタリス (全2巻)
* ゴドー (全2巻)
* シャイ・ニング
* RAT(ラット) (全2巻)
* COMING SOON (原作:[[荒井涼助]])
* 風が吹いた日
* トップ・スピン (原作:荒井涼助、全4巻)
* 用心棒売ります (原作:[[黒土三男]]、全2巻)
* ピカイチ (原作:[[木内一雅]]、全8巻)
* 燃える秋 (全3巻)
* 骨董屋優子 (原作:[[佐和みずえ]]、全5巻)
* 古稀堂物語 (原作:佐和みずえ)
* カンブリアン (全3巻)
* メディア (原作:[[加藤万里子]])
* [[麗羅 (漫画)|麗羅]] (原案:[[山田ゴメス]]、全7巻)
* フォトガラ屋彦馬〜日本初のプロカメラマン (原作:[[壮野睦]]、全2巻)
* ファウストの女神 (原作:[[嶋本周]]、全2巻)
* [[紅嵐]] (原作:[[柊野陽]]、全2巻)
* 剣客情話(シナリオ:嶋本周)
* レクイエム―メモリアル未収録作品集
=== 単行本未収録作品 ===
* ゼウス ([[コミックトム]]掲載)
* イングリッシュマン・イン・エヴェレスト ジョージ・マロリー物語 ([[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]掲載)
* まんきんたん ([[テレビランド]]掲載)
== 関連人物 ==
'''師匠'''
* [[池沢早人師|池沢さとし]]
* [[村野守美]]
'''アシスタント'''
* [[山田貴敏]]<ref name="yamamoto">{{Cite web|和書|author=[[山本貴嗣]] |date=2007-12-07 |url=http://atsujiya.blog96.fc2.com/blog-entry-205.html |title=山田氏と語る三山のぼる先生の思い出 |work=あつじ屋日記 |accessdate=2015-03-23}}</ref><ref>『レクイエム -メモリアル未収録作品集-』136頁。</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://members3.jcom.home.ne.jp/miyamanoboru/ 漫画家 - 三山のぼる] - 遺族が運営する公式サイト(2014年-)
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みやま のほる}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:熊本県出身の人物]]
[[Category:1956年生]]
[[Category:2007年没]] | 2003-02-15T17:51:51Z | 2023-11-11T02:33:07Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
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"Template:Cite journal",
"Template:Normdaten",
"Template:Infobox 漫画家"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B1%B1%E3%81%AE%E3%81%BC%E3%82%8B |
1,878 | 宮脇明子 | 宮脇 明子(みやわき あきこ、1958年11月26日 - )は、日本の漫画家。広島県三原市出身。女性。代表作『ヤヌスの鏡』はテレビドラマ化された。同じく漫画家の道原かつみとは小学校の同級生である。
2009年、広島県三原市のふるさと大使に任命される。 | [
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] | 宮脇 明子は、日本の漫画家。広島県三原市出身。女性。代表作『ヤヌスの鏡』はテレビドラマ化された。同じく漫画家の道原かつみとは小学校の同級生である。 2009年、広島県三原市のふるさと大使に任命される。 | {{存命人物の出典明記|date=2023-03-04}}
'''宮脇 明子'''(みやわき あきこ、[[1958年]][[11月26日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[広島県]][[三原市]]出身。女性。代表作『[[ヤヌスの鏡]]』はテレビドラマ化された。同じく漫画家の[[道原かつみ]]とは小学校の同級生である。
[[2009年]]、[[広島県]][[三原市]]の[[ふるさと大使]]に任命される<ref name="三原市">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.city.mihara.hiroshima.jp/uploaded/attachment/6652.pdf|title=三原にゆかりのある10人を三原市ふるさと大使に任命|publisher=[[三原市]]|date=2009-09-01|accessdate=2017-12-20}}</ref>。
== 作品リスト ==
* [[ヤヌスの鏡]]
* [[名探偵保健室のオバさん]]
* [[運命の恋人]]
* [[金と銀のカノン]]
* 蒼い十字路
* ナービー-死霊の館-
* ブラディ・ローズ-血のバラ-
* イノセント
* 砂の方舟
* ケイコさんご用心!!
* バースディプレゼント
* 人魚伝説
* ダイエットは殺しの暗号!?
* ひみつのルミちゃん
* リー インカーネーション -さよなら平田くん-
* 黄昏舞踏倶楽部
* 流れ庭師仁和左衛門
* 橫花一朝の夢 - 昭和の天一坊と呼ばれた男
* [[ネロ〜Noir〜]](2012年、[[Bbmfマガジン]]、{{ISBN2|978-4766335781}})
** 『[[フランダースの犬]]』の主人公ネロ少年が一命を取りとめて成長し、自分らを追いつめた村人たちに復讐を行う[[ピカレスク]]漫画である。
== 出典 ==
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{{DEFAULTSORT:みやわき あきこ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:広島県出身の人物]]
[[Category:1958年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T17:52:44Z | 2023-11-19T02:50:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%98%8E%E5%AD%90 |
1,879 | 迎夏生 | 迎 夏生(むかい なつみ)は、日本の漫画家、イラストレーター、同人作家。千葉県出身。女性。
1989年、「宅急リプトン」でデビュー。 | [
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] | 迎 夏生は、日本の漫画家、イラストレーター、同人作家。千葉県出身。女性。 1989年、「宅急リプトン」でデビュー。 | '''迎 夏生'''(むかい なつみ)は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]、[[同人]]作家。[[千葉県]]出身。女性。
[[1989年]]、「宅急リプトン」でデビュー。
== 作品リスト ==
=== 連載終了 ===
* [[フォーチュン・クエスト]](原作:[[深沢美潮]]、小説版の挿絵も担当)
* ルーンワース
* サボテンロード(読切作品「珠色ファニードラゴン」の主人公兄弟の母・マーフの若き日を描いた作品)
* [[ワンダル・ワンダリング!]]([[月刊電撃コミックガオ!]]([[メディアワークス]])、全4巻)
* いただきっ春平!!
* [[+ANIMA]]([[月刊電撃コミックガオ!]]([[メディアワークス]])、全10巻)
* [[Nui!]]([[月刊コミックラッシュ]]([[ジャイブ]])、全3巻)
* 不老長寿の水 ([[角川書店]] [[ドラゴンコミックス]] [[ソーサリアン]]シリーズ4、全1巻、1989年)
=== 挿絵 ===
* [[天才推理 IQ探偵シリーズ#IQ探偵タクト|IQ探偵タクト]]
* フォーチュン・クエスト
* 神拳 李酔竜
=== 学習漫画 ===
* コミック版世界の伝記 [[ベートーベン]] (2011年)
* コミック版世界の伝記 [[クレオパトラ]] (2013年)
* コミック版世界の伝記 [[クララ・シューマン]] (2015年)
* コミック版世界の伝記 [[ルイ・ブライユ]] (2015年)
* コミック版世界の伝記 [[マイヤ・プリセツカヤ ]] (2016年)
* コミック版世界の伝記 [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]] (2017年)
=== 画集 ===
* 迎夏生画集1 フォーチュン・クエスト(1994年2月)
* 迎夏生画集2 ワンダル・ワンダリング!(1994年8月)
* Fortune Quest 迎夏生画集(2020年12月10日)
== 外部リンク ==
*[https://corgibeam.blog.ss-blog.jp/ む~む~通信] - 本人によるブログ。仕事、同人活動のお知らせ等。
*[https://mobile.twitter.com/mukai_wanokuni 迎夏生] (@mukai_wanokuni) - Twitter
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本の女性イラストレーター]]
[[Category:千葉県出身の人物]]
[[Category:存命人物]] | null | 2022-04-25T01:29:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%8E%E5%A4%8F%E7%94%9F |
1,880 | むつ利之 | むつ 利之( - としゆき、1955年10月10日 - )は、日本の漫画家。
青森県むつ市出身。青森県立田名部高等学校卒。1979年に「GOGO!ピンクソックス」にてデビュー。
代表作に、第13回講談社漫画賞少年部門を受賞した「名門!第三野球部」などがある。同作を執筆するまではお色気ギャグ漫画を中心として執筆していた。
「たたけよ、されば開かれん」が座右の銘で、作品中にたびたびこの言葉が使われている。 | [
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] | むつ 利之は、日本の漫画家。 | '''むつ 利之'''( - としゆき、[[1955年]][[10月10日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。
== 経歴 ==
[[青森県]][[むつ市]]出身。[[青森県立田名部高等学校]]卒。[[1979年]]に「[[GOGO!ピンクソックス]]」にてデビュー。
代表作に、第13回[[講談社漫画賞]]少年部門を受賞した「[[名門!第三野球部]]」などがある。同作を執筆するまではお色気ギャグ漫画を中心として執筆していた。
「たたけよ、されば開かれん」が座右の銘で、作品中にたびたびこの言葉が使われている。
== 作品リスト ==
* [[GOGO!ピンクソックス]]([[少年ビッグコミック]] 1979年 - 1981年)
* [[ポップコーンブギ]](少年ビッグコミック 1981年)
* [[1 1/2]]([[ビッグコミックスピリッツ]] 1983年)
* [[ぎゃんばるギャング]]([[週刊少年マガジン]] 1983年 - 1984年)
* [[バニラ37℃]](週刊少年マガジン 1985年)
* [[桃龍-DRAGON KISS-]](ビッグコミックスピリッツ 1986年)
* [[ガルルル]](ビッグコミックスピリッツ 1986年)
* [[激辛あどれなりん]](少年ビッグコミック 1987年)
* [[甲子園が好き!]]([[週刊少年サンデー]] 1987年)
* [[ゴッドシスター]]([[週刊漫画アクション]] 1987年)
* [[いちご組千代目]](ビッグコミック増刊 1987年)
* [[大相撲が好き!]]([[週刊少年サンデー]] 1987年)
* [[名門!第三野球部]](週刊少年マガジン 1987年 - 1993年)
* [[東京ティラノサウルス]](1988年)
* BIG([[ミスターマガジン]] 1991年)
* [[Dr.NOGUCHI 新解釈の野口英世物語]](週刊少年マガジン 1993年 - 1997年)
* [[名人列伝]](ミスターマガジン 1996年)
* [[名門!源五郎丸厩舎]](ミスターマガジン 1996年)
* [[上を向いて歩こう (漫画)|上を向いて歩こう]](週刊少年マガジン 1997年)
* [[パパは馬券師]](ミスターマガジン 1999年)
* [[天国への階段 (むつ利之)|天国への階段]](月刊少年マガジン→マガジンGREAT 1999年 - 2004年)
* [[龍馬へ]](週刊少年マガジン 2000年 - 2001年)
* [[GREAT SHOT]](月刊少年マガジン 2002年 - 2003年)
* [[速球の駿]]([[漫画サンデー|週刊漫画サンデー]] 2005年)
* [[復活!!第三野球部]]([[MiChao!]] 2007年 - 2008年)
== 師匠 ==
* [[永井豪]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:むつ としゆき}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:ダイナミックプロの人物]]
[[Category:1955年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:青森県出身の人物]] | null | 2022-06-30T01:23:08Z | false | false | false | [
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%80%E3%81%A4%E5%88%A9%E4%B9%8B |
1,881 | 村枝賢一 | 村枝 賢一(むらえだ けんいち、1967年9月5日 - )は、日本の漫画家。熊本県出身。男性。血液型はO型。妻は同じく漫画家の森真理。
代表作に『俺たちのフィールド』『RED』『仮面ライダーSPIRITS』など。
漫画家・吉田聡のアシスタントを経て、1987年に『アーム・ア・チャンピオン』(『週刊少年サンデー増刊号』11月号)でデビュー。
『仰天人間バトシーラー』のコミカライズを担当した立迫文明とは幼稚園時代からの幼馴染。河合克敏、久米田康治、椎名高志、藤田和日郎など『週刊少年サンデー』に連載経験のある漫画家たちとの交友関係が知られているほか、声優の関智一とも友人である。
2012年春には東京から故郷の熊本県芦北町へ移住している。
村枝は、日本漫画界初のクロスオーバー作品企画『ヒーロークロスライン』(通称:HXL)の中心人物でもある。この企画は村枝が『月刊マガジンZ』に掲載経験のある漫画家を中心に集め、2007年からさまざまな媒体や表現方法でオリジナルのヒーロー作品を発表しており、なおかつ前述の通りその作品のほぼすべてが同一世界観で展開されている。自身もヒーロー漫画作品『ジエンド』及び『Z-END』や『サンデー×マガジン クロスライン』などで参加しているほか、同人サークル「ヒーロークロスライン」として同人誌即売会に参加し、HXL公式同人誌『ヒーロークロスライン アフターミッション』を寄稿している。なお、同人サークル「Z-END」としても隣同士のブースで同時参加しており、自身のラフイラストやカラーイラストを収録した同人誌を配布していた。
これに関連し、ヒーローショーを中心に活動するアクション集団「Project ENJIN」の立ち上げにも関わっている。 | [
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] | 村枝 賢一は、日本の漫画家。熊本県出身。男性。血液型はO型。妻は同じく漫画家の森真理。 代表作に『俺たちのフィールド』『RED』『仮面ライダーSPIRITS』など。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 村枝 賢一
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 脚注 =
| 本名 =
| 生地 = {{JPN}}・[[熊本県]][[葦北郡]][[芦北町|葦北町]]
| 国籍 = [[日本]]
| 生年 = {{生年月日と年齢|1967|9|5}}
| 没年 =
| ジャンル = [[少年漫画]]・[[青年漫画]]
| 活動期間 = [[1987年]] -
| 代表作 = 『[[俺たちのフィールド]]』<br/>『[[RED (村枝賢一)|RED]]』<br/>『[[仮面ライダーSPIRITS]]』など
| 受賞 =
| 公式サイト = [http://plaza.rakuten.co.jp/muraeda/diary/ 村枝賢一のブログ]
}}
'''村枝 賢一'''(むらえだ けんいち、[[1967年]][[9月5日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[熊本県]]出身<ref name="kumanichi">[http://www.47news.jp/photo/664875.php 写真ニュース:芦北伽哩街道に助っ人 在住の漫画家・村枝さん] - [[47NEWS]] 2013年7月4日</ref>。男性。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。妻は同じく漫画家の[[森真理]]。
代表作に『[[俺たちのフィールド]]』『[[RED (村枝賢一)|RED]]』『[[仮面ライダーSPIRITS]]』など。
== 略歴 ==
漫画家・[[吉田聡]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て、[[1987年]]に『アーム・ア・チャンピオン』(『[[週刊少年サンデー増刊号]]』11月号)でデビュー。
『[[仰天人間バトシーラー]]』のコミカライズを担当した立迫文明とは幼稚園時代からの幼馴染<ref>『仰天人間バトシーラー』単行本第2巻、村枝のイラストのコメントより。</ref>。[[河合克敏]]、[[久米田康治]]、[[椎名高志]]、[[藤田和日郎]]など『[[週刊少年サンデー]]』に連載経験のある漫画家たちとの交友関係が知られているほか、声優の[[関智一]]とも友人である。
2012年春には東京から故郷の熊本県芦北町へ移住している<ref name="kumanichi" /><ref>[http://plaza.rakuten.co.jp/muraeda/diary/201203220000/ 西へ還る] - 村枝賢一のブログ 2012年3月22日</ref>。
== ヒーロークロスライン ==
村枝は、日本漫画界初の[[クロスオーバー作品]]企画『[[ヒーロークロスライン]]』(通称:'''HXL''')の中心人物でもある。この企画は村枝が『[[月刊マガジンZ]]』に掲載経験のある漫画家を中心に集め、[[2007年]]からさまざまな媒体や表現方法で'''オリジナルのヒーロー作品'''を発表しており、なおかつ前述の通りその作品のほぼすべてが同一世界観で展開されている。自身もヒーロー漫画作品『[[ジエンド]]』及び『[[ジエンド|Z-END]]』や『[[サンデー×マガジン クロスライン]]』などで参加しているほか、[[同人サークル]]「ヒーロークロスライン」として[[同人誌即売会]]に参加し、HXL公式[[同人誌]]『[[ヒーロークロスライン アフターミッション]]』を寄稿している。なお、同人サークル「Z-END」としても隣同士のブースで同時参加しており、自身のラフイラストやカラーイラストを収録した同人誌を配布していた。
これに関連し、ヒーローショーを中心に活動するアクション集団「Project ENJIN」の立ち上げにも関わっている。
== 作品リスト ==
=== 連載 ===
* [[サムライ銀]](『[[週刊少年サンデー]]』1988年25号 - 28号)
* BIBLE(『[[マシンヘッド (アンソロジー)|マシンヘッド]]』No.1(1989年6月) - No.7(1990年11月))
* [[光路郎]](『[[週刊少年サンデー増刊号]]』1989年11月号 - 1993年9月号)
** [[光路郎|妹先生 渚]](『[[ゲッサン]]』2010年5月号 - 2014年5月号)
* [[俺たちのフィールド]](『週刊少年サンデー』1992年3・4合併号 - 1998年45号)
* [[佃島パイレーツ]](『[[週刊少年サンデー超]]』1995年8月号 - 1996年8月号)
* [[RED (村枝賢一)|RED]](『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』1998年15号 - 2004年21号→『[[週刊ヤングマガジン]]』2005年10号 - 48号)
* [[機動公務員かもしか!]](『週刊少年サンデー』1999年22・23合併号 - 2000年35号)
* [[仮面ライダーSPIRITS]](『[[月刊マガジンZ]]』2001年1月号 - 2009年3月号) - 原作:[[石ノ森章太郎]]
** [[仮面ライダーSPIRITS|新 仮面ライダーSPIRITS]](『[[月刊少年マガジン]]』2009年8月号 - '''連載中''') - 原作:石ノ森章太郎
* [[仮面ライダーをつくった男たち]](『[[週刊少年マガジン]]』2006年43号,2007年6号 - 8号)
* [[ジエンド]](『[[ヒーロークロスライン]]』2007年10月31日 - 2009年3月11日) - 同人誌『[[ヒーロークロスライン アフターミッション]]』へ移籍
** [[Z-END]](『[[マガジンSPECIAL]]』2009年No.9 - 2010年No.6)
=== 読み切り ===
{{節スタブ}}
* アーム・ア・チャンピオン(『週刊少年サンデー増刊号』1987年11月号) - デビュー作
* 超純情症候群(『週刊少年サンデー増刊号』1989年2月号)
* [[中山雅史]]物語(『週刊少年サンデー』1993年)
* かみつけ!(『週刊少年サンデー増刊号』1994年11月号,1995年2月号)
* ウルフガン(『週刊少年サンデー超』1996年10月号,11月号)
* 美丈夫三四郎(『週刊少年サンデー超』1997年7月号)
* [[RED (村枝賢一)|RED SpecialMix]](『週刊ヤングマガジン』2001年48号)
* ジングルベルアーミー(『ヤングマガジンアッパーズ』2004年1号)
* 聖なる夜に散歩する(『週刊ヤングマガジン』2005年2・3合併号) - 『妹先生 渚』第5巻収録
* 鉄屑のニコル(『週刊少年マガジン』2005年4・5合併号)
* ホーリーナイトベースボール(『週刊ヤングマガジン』2005年52号)
* 海鮮オクトパシー(『[[月刊少年シリウス]]』2007年7月号付録小冊子)
* 彼女が泉で溺れたら(『月刊少年シリウス』2007年12月号)
* [[サンデー×マガジン クロスライン]]
** AUSDYN〜オースダイン〜(『週刊少年サンデー』2009年32号)
** MINEZAAG〜マインザーグ〜(『週刊少年マガジン』2009年32号)
* [[お憑かれさん|山吹神社さい銭泥棒事件]](『マガジンSPECIAL』2010年1月号) - 原作:[[島田英次郎]]、合作漫画
; 商業誌以外
* 讃岐職人屋本舗([[馬場民雄]]との共作)
* [[Z-END|Z-END 浸透迷宮編]](『[[ヒーロークロスライン アフターミッション]]』01(2009年12月))
* ジエンド(『ヒーロークロスライン アフターミッション』03(2010年8月))
=== 書籍 ===
==== 漫画単行本 ====
* 『[[BIBLE]]』、[[白夜書房]] 〈マシンヘッドコミックス〉 1990年、全1巻 - 初単行本
** (新装版)[[講談社]] 〈[[アッパーズKC]]〉 2000年、全1巻
* 『[[光路郎]]』、[[小学館]] 〈少年サンデーコミックス〉 1991年 - 1993年、全7巻
** (ワイド版)小学館 〈少年サンデーコミックスワイド版〉 1999年、全4巻
** (廉価版)[[嶋中書店]] 〈アイランド・コミックスprimo〉 2004年、全4巻
** (文庫版)小学館 〈[[小学館文庫]]〉 2010年、全4巻
* 『[[俺たちのフィールド]]』、小学館 〈少年サンデーコミックス〉 1992年 - 1998年、全34巻
** (ワイド版)小学館 〈少年サンデーコミックスワイド版〉 2000年 - 2003年、全18巻 - 最終巻は外伝を収録
** (文庫版)小学館 〈小学館文庫〉 2005年 - 2007年、全19巻 - 最終巻は外伝を収録
** (廉価版)小学館 〈[[コンビニコミック#My First WIDE|My first wide]]〉 2010年 - 2011年、全14巻 - 外伝および『中山雅史物語 ゴン!ゴン・ゴール』を収録
* 『[[佃島パイレーツ]]』、小学館 〈少年サンデーコミックス〉 1996年、全2巻
** (新装版)講談社 〈[[マガジンZKC]]〉 2007年、全2巻
* 『[[俺たちのフィールド|俺たちのフィールド外伝]]』、小学館 〈少年サンデーコミックス〉 1999年、全1巻
* 『[[RED (村枝賢一)|RED]]』、講談社 〈アッパーズKC〉→〈[[ヤンマガKC]]〉 1999年 - 2005年、全19巻
* 『[[機動公務員かもしか!]]』、小学館 〈少年サンデーコミックス〉 1999年 - 2000年、全6巻
** (文庫版)小学館 〈小学館文庫〉 2007年、全3巻
* 『[[仮面ライダーSPIRITS]]』、講談社 〈マガジンZKC〉 2001年 - 2009年、全16巻
** (廉価版)講談社 〈[[講談社プラチナコミックス|KPC]]〉 2007年、全2巻 - 第1部のみ
** (廉価版)『仮面ライダーSPIRITS THE BEGINNINGS』(廉価版)講談社 〈KPC〉 2011年、全1巻 - 上記廉価版の合本
* 『[[ウルフガン]]』、講談社 〈アッパーズKC〉 2002年、短編集
* 『[[かみつけ!]]』、講談社 〈アッパーズKC〉 2002年、短編集
* 『[[聖なる夜に散歩する]]』、講談社 〈ヤンマガKC〉 2005年、短編集
* 『[[仮面ライダーをつくった男たち]]』、講談社 〈[[講談社コミックス#関連レーベル|KCDX]]〉 2007年、全1巻 - 取材・脚本:[[小田克己]]
** (増補版)『[[仮面ライダーをつくった男たち|仮面ライダーをつくった男たち1971・2011]]』、講談社 〈KCDX〉 2011年、全1巻
* 『[[ジエンド]]』、講談社 〈[[ヒーロークロスライン#単行本 マガジンZKC HXL ヒーロークロスラインシリーズ|マガジンZKC HXL ヒーロークロスラインシリーズ]]〉 2008年 - 2009年、全4巻
* 『[[仮面ライダーSPIRITS|新 仮面ライダーSPIRITS]]』、講談社 〈KCDX〉 2009年 - 刊行中、既刊33巻
* 『[[Z-END]]』、講談社 〈KCDX〉 2010年、全2巻
* 『[[光路郎|妹先生 渚]]』、小学館 〈ゲッサン少年サンデーコミックス〉 2012年 - 2014年、全5巻
==== 関連書籍 ====
* 『[[仮面ライダーSPIRITS#公式ファンブック|仮面ライダーSPIRITS 受け継がれる魂]]』、講談社 〈KCDX〉 2002年 - 2003年、全2巻
* 『[[仮面ライダーSPIRITS#公式ガイド|仮面ライダーSPIRITS 超絶黙示録]]』、講談社 〈KCDX〉 2010年、全1巻
* 『魂の仮面ライダー爆談!! COMPLETE+』、[[辰巳出版]] 2011年、全1巻 - [[鴬谷五郎]]との共著
* 仮面ライダーSPIRITS画集『改造人間』、講談社、2012年
==== 小説挿絵 ====
* [[渋井猛]] 『[[ワイルド・ガーディアン]]』、発行:[[メディアワークス]]/発売:[[主婦の友社]] 〈[[電撃文庫]]〉 1997年、全1巻
* [[堀慎二郎]] 『[[サナダユキムラ ―真田幸村―]]』、[[ワニブックス]] 〈GUM ノベルズ historie〉 2010年、全1巻
* [[あらいりゅうじ|新井リュウジ]] 「[[ニードルアイ]]」、[[イーブックイニシアティブジャパン]]『[http://www.ebookjapan.jp/ebj/webmagazine/ KATANA]』第53号 - 連載中、書籍未刊行
==== イラストなど ====
* [[たかしげ宙]]『[[ゲッターロボ]]』(電撃文庫)ゲストイラスト
* 『[[仮面ライダー THE FIRST]]』パンフレット用トリビュートイラスト
* [[トレーディングカードゲーム]]「[[レンジャーズストライク]]」
: カード用に、[[秘密戦隊ゴレンジャー]]のヒーロー5人のイラストを描き下ろした。
* 舞台「[[仮面ライダー 戦闘員日記|仮面ライダー 戦闘員日記・仮面ライダー 戦闘員日記2]]」ポスターイラスト
* 『[[マップス#翼あるもの|マップス・シェアードワールド -翼あるもの-]]』カラーイラスト
* [[(有)チェリーベル]]放送300回記念オリジナルカルタ「邪カルタ」パッケージイラスト
* 「[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]」スタッフTシャツ
* 『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』([[ホビージャパン]])Vol.125より連載「英雄無限倉庫」イラスト及び本文
* 『ヒーロークロスライン アフターミッション』01 - 05表紙イラスト
* [[ラジオドラマ]]「[[ニードルアイ]]」イラスト
* [[松岡圭祐]]『[[人造人間キカイダー The Novel]]』(角川書店)表紙イラスト
* 『[[キカイダー REBOOT]]』キャラクターリファインデザイン
* 「麺太郎印 [[讃岐うどん]]」(有限会社 讃岐職人屋本舗) パッケージデザイン、封入特典イラスト
== その他実績 ==
* 『[[からくりサーカス]]』長崎編における方言指導<ref>『からくりサーカス』単行本 第43巻 p247</ref>
* 『仮面ライダー 資料写真集 1971-1973』(2023年2月、グラウンドワークス) - [[庵野秀明]]と対談
== 師匠 ==
* [[吉田聡]]
== アシスタント出身者 ==
* [[馬場民雄]]
* [[白井三二朗]]
* [[なかにしえいじ]]
* [[広石匡司]]
== 出演 ==
* [[出没!アド街ック天国]]「[[江古田]]」(2000年1月29日 テレビ東京) - 在住漫画家の1人として紹介。森真理も登場。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 外部リンク ==
* [http://plaza.rakuten.co.jp/muraeda/diary/ 村枝賢一のブログ] - 公式ブログ
* {{Twitter|K1muraeda}}
* [https://web.archive.org/web/20090422134250/http://www.heroxline.com/ ヒーロークロスライン公式サイト]
* [https://web.archive.org/web/20210122011517/http://project-enjin.com/ アクション集団project ENJIN公式サイト]
* [https://web.archive.org/web/20000307231040/http://www.geocities.co.jp/Playtown/7244/top.html PERFECT PERFORMER]
* [https://web.archive.org/web/20130615175135/http://sanuki-syokuninnya.com/ 讃岐職人屋本舗] - 漫画掲載サイト(インターネットアーカイブ2013年6月15日分キャッシュ)
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:文徳高等学校出身の人物]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E6%9E%9D%E8%B3%A2%E4%B8%80 |
1,882 | 村上たかし | 村上 たかし(むらかみ たかし、1965年4月8日 - )は、日本の男性漫画家。大阪府出身。甲陽学院中学校・高等学校卒業。京都大学経済学部中退。血液型はO型。2007年から広島県東広島市在住。妻はエッセイストの村上佳代。
1985年、京都大学在学中に集英社の青年向け雑誌『ヤングジャンプ』にて『ナマケモノが見てた』でデビューする。同作は、まず読み切りが『ヤングジャンプ』の増刊号などに数回掲載された。次いで1986年に『ヤングジャンプ』33号から37号まで5号連続で短期連載された後、47号より正式に連載開始された。
1992年、本人主宰の映像サークルに所属し、『ナマケモノが見てた』内でのメンバー募集以来一緒に活動していた「佳代」と結婚。夫婦やその娘との生活、また他のサークルメンバーなどとの交流などについては竹書房発行の『ほんまでっせお客さん』などにも描かれている。
2000年、『ヤングジャンプ』にて連載されていた『ぱじ』にて第4回文化庁メディア芸術祭優秀賞を受賞した。
2008年から双葉社『漫画アクション』に連載された初めてのストーリー漫画『星守る犬』が2008年文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品となった。また、2009年9月8日広島ホームテレビのニュース番組にて本人や同作品が紹介されたほか、雑誌や新聞などでも同作品などについて複数取り上げられたとのことが本人ブログになどで報告されていた。2010年夏、西田敏行主演にて同作品が映画化されることが発表された。
2013年7月現在、竹書房の実録系4コマ漫画誌『本当にあった愉快な話』、集英社の隔週誌『グランドジャンプ』などで執筆活動をしている。
2013年、米国図書館協会の若者向けサービス部門 (YALSA) が選出する「12歳から18歳向けの優秀なグラフィック・ノベル2013年 (2013 Great Graphic Novels for Teens)」のベスト10に、英訳版『星守る犬』(『Stargazing Dog』NBM Publishing、2011)が選ばれた。
作風としては、『ナマケモノが見てた』シリーズや、『ほんまでっせお客さん』などのように、主にその生態や身の回りに起こった出来事などを面白おかしく強調して執筆する少々毒のある作品と、『ぱじ』や『星守る犬』などのように家族やペットとの絆や交流などを主眼に置いた作品などがある。
NHK教育テレビの幼児向けアニメ『はりもぐハーリー』のキャラクター原案を手がけた。
伊集院光の大ファン。 | [
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] | 村上 たかしは、日本の男性漫画家。大阪府出身。甲陽学院中学校・高等学校卒業。京都大学経済学部中退。血液型はO型。2007年から広島県東広島市在住。妻はエッセイストの村上佳代。 | {{Infobox 漫画家
| 名前 = 村上 たかし
| ふりがな= むらかみ たかし
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| 脚注 =
| 本名 =
| 生年 = {{生年月日と年齢|1965|4|8}}
| 生地 = {{JPN}}・[[大阪府]]
| 没年 =
| 没地 =
| 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 -->
| 職業 = [[漫画家]]
| 活動期間 = [[1985年]] -
| ジャンル = [[青年漫画]]<br />[[ギャグ漫画]]<br />[[4コマ漫画]]
| 代表作 = 『天国でポン』{{R|natalie4272}}<br />『ナマケモノが見てた』シリーズ{{R|natalie4272}}<br />『[[はりもぐハーリー]]』{{R|natalie4272}}<br />『[[ぱじ]]』{{R|natalie4272}}<br />『ほんまでっせお客さん』{{R|natalie4272}}
| 受賞 =
| サイン =
| 公式サイト = [http://murakamike.com/ 村上家.com]
}}
'''村上 たかし'''(むらかみ たかし、[[1965年]][[4月8日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.home-tv.co.jp/5up/cast/ |title=出演者-みみよりライブ 5up!|広島ホームテレビ |publisher=広島ホームテレビ |accessdate=2018-07-20}}</ref> - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]。[[大阪府]]出身<ref name="natalie4272">{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/artist/4272|title=村上たかし|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2022-02-27}}</ref>。{{要出典範囲|date=2022年5月5日 (木) 01:56 (UTC)|[[甲陽学院中学校・高等学校]]卒業}}。[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|京都大学経済学部]]中退。[[ABO式血液型|血液型]]はO型<ref>本人単行本『ナマケモノがまた見てた』1巻折り返し ほか</ref>。[[2007年]]から[[広島県]][[東広島市]]在住<ref>[http://murakamiblog.blogspot.com/ 村上家日記]</ref><ref>[http://www.city.higashihiroshima.hiroshima.jp/soshiki/7/murakami.html 漫画家村上たかしさん - 東広島市公式ホームページ]</ref>。妻は[[エッセイスト]]の村上佳代。
== 来歴 ==
[[1985年]]、京都大学在学中に[[集英社]]の青年向け雑誌『[[ヤングジャンプ]]』にて『[[ナマケモノが見てた]]』でデビューする{{R|natalie4272}}。同作は、まず読み切りが『ヤングジャンプ』の増刊号などに数回掲載された。次いで[[1986年]]に『ヤングジャンプ』33号から37号まで5号連続で短期連載された後、47号より正式に連載開始された。
[[1992年]]、本人主宰の映像サークルに所属し、『ナマケモノが見てた』内でのメンバー募集以来一緒に活動していた「佳代」と結婚<ref>本人単行本『ほんまでっせお客さん』1巻3頁。</ref>。夫婦やその娘との生活、また他のサークルメンバーなどとの交流などについては[[竹書房]]発行の『ほんまでっせお客さん』などにも描かれている。
[[2000年]]、『ヤングジャンプ』にて連載されていた『[[ぱじ]]』にて第4回[[文化庁メディア芸術祭]]優秀賞を受賞した{{R|natalie4272}}。
[[2008年]]から[[双葉社]]『[[漫画アクション]]』に連載された初めてのストーリー漫画<ref>同単行本のあとがきにて明記。</ref>『星守る犬』が2008年[[文化庁]]メディア芸術祭審査委員会推薦作品となった<ref>[http://plaza.bunka.go.jp/festival/2008/recommend/manga.php 平成20年度(第12回)文化庁メディア芸術祭 マンガ部門 審査委員会推薦作品] 2009年10月1日閲覧。</ref>。また、[[2009年]][[9月8日]][[広島ホームテレビ]]のニュース番組にて本人や同作品が紹介された<ref>本人HPのブログ2009年9月7・8日記事参考。</ref>ほか、雑誌や新聞などでも同作品などについて複数取り上げられたとのことが本人ブログになどで報告されていた。[[2010年]]夏、[[西田敏行]]主演にて同作品が映画化されることが発表された<ref>[http://eiga.com/news/20100823/6/ 西田敏行主演で泣ける”コミック「星守る犬」映画化] 映画.COM 2010年11月24日閲覧。</ref>。
[[2013年]]7月現在、竹書房の実録系4コマ漫画誌『本当にあった愉快な話』、集英社の隔週誌『[[グランドジャンプ]]』などで執筆活動をしている。
2013年、[[アメリカ図書館協会|米国図書館協会]]の若者向けサービス部門 (YALSA) が選出する「12歳から18歳向けの優秀なグラフィック・ノベル2013年 (2013 Great Graphic Novels for Teens)」のベスト10に、英訳版『星守る犬』(『Stargazing Dog』NBM Publishing、2011)が選ばれた<ref name="yalsa2013">{{Cite press release |title=YALSA names 2013 Great Graphic Novels for Teens |publisher=[[アメリカ図書館協会|米国図書館協会]] |date=2013-02-04 |url=http://www.ala.org/news/pr?id=12351 |accessdate=2013-02-08}}</ref>。
作風としては、『ナマケモノが見てた』シリーズや、『ほんまでっせお客さん』などのように、主にその生態や身の回りに起こった出来事などを面白おかしく強調して執筆する少々毒のある作品と、『ぱじ』や『星守る犬』などのように家族やペットとの絆や交流などを主眼に置いた作品などがある。
[[日本放送協会|NHK]][[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]の幼児向けアニメ『[[はりもぐハーリー]]』のキャラクター原案を手がけた。
[[伊集院光]]の大ファン<ref>{{Cite web|和書|url=https://murakamiblog.blogspot.com/2009/10/blog-post_17.html |title=伊集院光さんのラジオで『星守る犬』のことを! |accessdate=2016-04-09}}</ref>。
== 連載作品 ==
* されど父になる(『本当にあった愉快な話』、[[竹書房]])
* コタおいで(『[[漫画アクション]]』、[[双葉社]])2017年8号 - 2018年19号
* 探偵見習い アキオ…(『[[ビッグコミックオリジナル増刊号]]』、[[小学館]])
* ピノ:PINO(『漫画アクション』、双葉社) 2020年12号<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/381580|title=「星守る犬」の村上たかし、新連載は人間とAIの絆を描く物語「ピノ:PINO」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-06-02|accessdate=2022-02-27}}</ref> - 2021年15号
== 単行本リスト ==
<!-- 基本的に初巻の発売日時順にソートしております -->
=== 一般向け ===
* ナマケモノが見てたシリーズ(『ヤングジャンプ』、集英社)
** ナマケモノが見てた 全11巻 ※文庫版集英社より全5巻
**# 1987年6月、{{ISBN2|4-08-861591-3}} / 文庫版 2004年5月、{{ISBN2|4-08-618196-7}}
**# 1987年12月、{{ISBN2|4-08-861592-1}} / 文庫版 2004年5月、{{ISBN2|4-08-618197-5}}
**# 1988年4月、{{ISBN2|4-08-861593-X}} / 文庫版 2004年7月、{{ISBN2|4-08-618198-3}}
**# 1988年8月、{{ISBN2|4-08-861594-8}} / 文庫版 2004年7月、{{ISBN2|4-08-618199-1}}
**# 1988年11月、{{ISBN2|4-08-861595-6}} / 文庫版 2004年8月、{{ISBN2|4-08-618200-9}}
**# 1989年4月、{{ISBN2|4-08-861596-4}}
**# 1989年7月、{{ISBN2|4-08-861597-2}}
**# 1989年10月、{{ISBN2|4-08-861598-0}}
**# 1990年1月、{{ISBN2|4-08-861599-9}}
**# 1990年2月、{{ISBN2|4-08-861600-6}}
**# 1990年4月、{{ISBN2|4-08-861558-1}}
** ナマケモノがまた見てた 全8巻
**# 1993年6月、{{ISBN2|4-08-861601-4}}
**# 1993年11月、{{ISBN2|4-08-861602-2}}
**# 1994年3月、{{ISBN2|4-08-861603-0}}
**# 1994年7月、{{ISBN2|4-08-861604-9}}
**# 1994年10月、{{ISBN2|4-08-861605-7}}
**# 1995年3月、{{ISBN2|4-08-861606-5}}
**# 1995年9月、{{ISBN2|4-08-861607-3}}
**# 1996年3月、{{ISBN2|4-08-861608-1}}
* 天国でポン(『ヤングジャンプ』、集英社)全4巻
*# 1991年7月、{{ISBN2|4-08-875041-1}}
*# 1991年11月、{{ISBN2|4-08-875042-X}}
*# 1992年4月、{{ISBN2|4-08-875043-8}}
*# 1992年6月、{{ISBN2|4-08-875044-6}}
* ちゃうちゃうちゃうんちゃう(『[[まんがくらぶ]]』、竹書房)全1巻、1996年9月、{{ISBN2|4-8124-5088-8}}
* [[はりもぐハーリー]]([[日本放送出版協会]])全2巻
*# はりもぐ大作戦 1996年12月、{{ISBN2|4-14-454018-9}}
*# はりもぐ大集合 1997年12月、{{ISBN2|4-14-454022-7}}
* ほんまでっせお客さん(『[[まんがライフ]]』・『本当にあった愉快な話』など、竹書房)全3巻
*# 1999年7月{{ISBN2|4-8124-5309-7}}
*# 2001年2月、{{ISBN2|4-8124-5481-6}}
*# 2003年5月、{{ISBN2|4-8124-5808-0}}
* [[ぱじ]](『ヤングジャンプ』、集英社)2000年 - 2005年、全9巻 ※愛蔵版コミックス、2011年、全1巻
*:* くうねるそだつ(『[[YOU (雑誌)|YOU]]』、集英社)全1巻、2003年4月、{{ISBN2|4-08-862549-8}} ※絵:村上たかし、文章:村上佳代担当のエッセイコミック
* ぎんなん(『漫画アクション』、双葉社)全2巻
*# 2007年8月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.futabasha.co.jp/booksdb/smp/book/bookview/978-4-575-94117-3/smp.html|title=ぎんなん 1|publisher=双葉社|accessdate=2022-02-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-94117-3}}
*# 2008年5月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.futabasha.co.jp/booksdb/smp/book/bookview/978-4-575-94171-5/smp.html|title=ぎんなん 2完|publisher=双葉社|accessdate=2022-02-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-94171-5}}
* 星守る犬シリーズ(『漫画アクション』、双葉社)全2巻
*: 星守る犬 2009年7月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.futabasha.co.jp/booksdb/smp/book/bookview/978-4-575-30143-4/smp.html|title=星守る犬|publisher=双葉社|accessdate=2022-02-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-30143-4}}
*: 続・星守る犬 2011年3月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.futabasha.co.jp/booksdb/smp/book/bookview/978-4-575-30300-1/smp.html|title=続・星守る犬|publisher=双葉社|accessdate=2022-02-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-30300-1}}
*: 完全版・星守る犬 2022年2月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.futabasha.co.jp/booksdb/smp/book/bookview/978-4-575-31702-2/smp.html|title=完全版・星守る犬|publisher=双葉社|accessdate=2022-02-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-575-31702-2}}
* 村上たかしのほんまかいな見聞録(『本当にあった愉快な話』、竹書房)1巻、2010年5月、{{ISBN2|978-4-8124-7274-3}}
* ぽいぽいさま(『グランドジャンプ』、集英社)全2巻
*# 2014年9月、{{ISBN2|978-4-087-82800-9}}
*# 2015年8月、{{ISBN2|978-4-087-92703-0}}
* 青い鳥〜わくらば〜(『[[ビッグコミックオリジナル]]』、小学館) 全1巻、2014年9月、{{ISBN2|978-4-09-179198-6}}
* アキオ…(『ビッグコミックオリジナル』、小学館) 全1巻、2016年8月、{{ISBN2|978-4-09-187817-5}}
* [[後妻業#映画|後妻業の女]](『ビッグコミックオリジナル』、小学館)全1巻 {{ISBN2|978-4-09-189477-9}}(2016年17号 - 22号)、[[黒川博行]]・著『後妻業』より、©2016『後妻業の女』製作委員会)<ref>{{Cite news |url=https://natalie.mu/eiga/news/196034 |title=大竹しのぶ×豊川悦司「後妻業の女」村上たかしがマンガ化、8月に連載スタート |newspaper=映画ナタリー |date=2016-07-27 |accessdate=2016-07-28}}</ref>
* 探偵見習い アキオ…(『ビッグコミックオリジナル増刊号』、小学館)既刊3巻
*# 2020年6月30日発売<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/385659|title=泣き虫な中年が探偵に転職、村上たかしの読み切り連作「探偵見習い アキオ…」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-06-30|accessdate=2022-02-27}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-860726-6}}
*# 2022年4月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09861296|title=探偵見習い アキオ… 2|publisher=小学館|accessdate=2022-04-30}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-861296-3}}
*# 2022年8月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09861440|title=探偵見習い アキオ… 3|publisher=小学館|accessdate=2022-08-30}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-861440-0}}
=== 成人向け ===
<!-- 分類上以下の2点の作品は念の為成人向けに分類します。 -->
* 老人の性(『[[みこすり半劇場]]』ぶんか社){{ISBN2|978-4-8211-9724-8}}(1999年1月)
* 村上の下(『みこすり半劇場』ぶんか社){{ISBN2|978-4-8211-9933-4}}(2002年3月)
== 映像作品 ==
=== アニメ ===
* ナマケモノが見てた(1988年 - 1989年)([[東映ビデオ]])
* [[はりもぐハーリー]](1996年 - 1997年)([[日本放送協会|NHK]])
=== 実写 ===
* [[星守る犬]](2011年)([[東宝]])
* [[ぱじ|ぱじ 〜ジイジと孫娘の愛情物語〜]](2013年)([[テレビ東京]]系列)
* [[後妻業の女]](2016年)(東宝&[[ロボット (企業)|ROBOT]])
== その他 ==
* 映画『星守る犬』公開記念対談 [[西田敏行]]×村上たかし(2011年6月3日、朝日新聞朝刊全面広告10面)
* 企業広告イラスト [[中国銀行 (日本)|中国銀行]] [広島市エリア](2013年3月 - )
* テレビドラマ『[[重版出来!#テレビドラマ|重版出来!]]』(2016年4月 - 6月、[[TBSテレビ|TBS系]]) - 作中使用漫画「タンポポ鉄道」(八丹カズオ)、執筆を担当
* [[広島ホームテレビ]]『[[みみよりライブ 5up!]]』火曜コメンテーター(2018年4月 - 2019年3月)妻:村上佳代と共に担当
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://murakamike.com/ 村上家.com]
* [https://murakamiblog.blogspot.com/ 村上家 日記]
* {{twitter|takayo_murakami|村上たかし(漫画家)}}
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{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:むらかみ たかし}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:大阪府出身の人物]]
[[Category:1965年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T17:55:58Z | 2023-11-24T11:07:31Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97 |
1,883 | MEIMU | MEIMU(めいむ、本名:内山 孝、1963年9月24日 - )は、日本の男性漫画家。神奈川県出身。本郷高校デザイン科卒業。大阪芸術大学在学中に商業誌にデビューする。妻は漫画家の佐々木みすず。漫画家の克・亜樹は大学時代の同級生。
代表作は『DEATH MASK』『ぷっぷくマロロン』『キカイダー02』など。小説などからの漫画化作品もある。『スターオーシャン』(第一作)のキャラクターデザインも務めた。 | [
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] | MEIMUは、日本の男性漫画家。神奈川県出身。本郷高校デザイン科卒業。大阪芸術大学在学中に商業誌にデビューする。妻は漫画家の佐々木みすず。漫画家の克・亜樹は大学時代の同級生。 代表作は『DEATH MASK』『ぷっぷくマロロン』『キカイダー02』など。小説などからの漫画化作品もある。『スターオーシャン』(第一作)のキャラクターデザインも務めた。 | '''MEIMU'''(めいむ、本名:'''内山 孝'''、[[1963年]][[9月24日]] - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]。[[神奈川県]]出身。[[本郷中学校・高等学校|本郷高校]]デザイン科卒業。[[大阪芸術大学]]在学中に商業誌にデビューする。妻は漫画家の[[佐々木みすず]]。漫画家の[[克・亜樹]]は大学時代の同級生<!--「克・亜樹は高校卒業後2年放浪している」は誤り-->。
代表作は『DEATH MASK』『ぷっぷくマロロン』『[[キカイダー02]]』など。小説などからの[[コミカライズ|漫画化]]作品もある。『[[スターオーシャン]]』(第一作)の[[キャラクターデザイン]]も務めた。
== 作品リスト ==
=== オリジナル ===
* DEATH
* [[SILK SCREEN]]
* FANCY
* [[スーパーコンプ]] Vol.1
* MEIMU IN THE WORLD MEIMU 初期作品集 1
* DEATH MASK
* [[天空伝説リニアタス]]
* [[DEATH SHADOW]]
* [[愛のエナジーハイパーミミ|愛のエナジーハイパーミミ!]]
* [[AVENUE・M]]
* [[レシーブ]]
* [[昆虫世紀コーカサス|ネオ昆虫世紀コーカサス]]
* [[ぱすてるぽいんと]]
* [[パワードミユちゃん]]
* [[CO-DOKU GAME]]
* 呪詛蛇
* MEIMU傑作集 卒業写真
* 魔導士スドウ
* ぷっぷくマロロン
=== 原案もの ===
* 愛と哀しみのバンパイア(ソーサリアンシリーズ)
* [[ラプラスの魔 (コンピュータゲーム)|ラプラスの魔]](原案:[[安田均]])
* KISS.(原作:今関あきよし)
=== コミカライズ ===
* [[鈴木光司]]原作
* [[リング2]]([[脚本]]:[[高橋洋 (映画監督)|高橋洋]])
* [[バースデイ (鈴木光司の小説)|バースデイ]]
* [[リング0 バースデイ]]
* [[仄暗い水の底から]]
* 貞子
* [[石ノ森章太郎|石森章太郎]]原作
* [[キカイダー02]]
* イナズマンVSキカイダー
* [[仮面ライダー龍騎 13 RIDERS THE COMIC]]
* [[スカルマン]]
* [[玩具修理者]]([[小林泰三]])
* [[呪怨]]/JUON
* 呪怨2
* [[ガサラキ]]
* [[機動戦士ガンダム MS IGLOO|機動戦士ガンダム MS IGLOO 603]]
* MS IGLOO 黙示録 0079
* MS IGLOO2 重力戦線
=== イラスト ===
*『トワイライトタイム 茉莉子冬物語』([[川本耕次]]著、[[富士見書房]]富士見美少女文庫。表紙、口絵、本文イラスト)
*『ハイスクール 八犬伝』([[橋本 治]]著、[[徳間書店]]トクマノベルズ ミオ。([冥夢]2巻~8巻表紙、本文イラスト)
=== キャラクターデザイン ===
* [[スターオーシャン]]
=== アニメーション ===
* [[ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド]](デザインワークス、絵コンテ、エンドカードイラスト)
== アシスタント ==
* [[えすのサカエ]]
== 外部リンク ==
[https://twitter.com/meimu12 MEIMU Twitter]
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:めいむ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:大阪芸術大学出身の人物]]
[[Category:本郷高等学校出身の人物]]
[[Category:神奈川県出身の人物]]
[[Category:1963年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T17:58:42Z | 2023-09-14T18:32:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/MEIMU |
1,884 | 目黒三吉 | 目黒 三吉(めぐろ さんきち、1976年6月14日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。愛媛県出身。A型。
その他、同人アダルトゲームなどでも原画を担当した。 | [
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] | 目黒 三吉は、日本の漫画家、イラストレーター。愛媛県出身。A型。 | {{出典の明記|date=2021年8月}}
'''目黒 三吉'''(めぐろ さんきち、[[1976年]][[6月14日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[愛媛県]]出身。A型。
== 作品リスト ==
=== 漫画 ===
* さんま([[シュベール出版]]※成年コミック・絶版)
* [[低俗霊DAYDREAM]]([[少年エース]]([[角川書店]])連載、原作:[[奥瀬サキ]])
* ぶっちゃけ? 庭子先生([[ヤングガンガン]]([[スクウェア・エニックス]])2007年vol.04 読み切り)
* [[どみなのド!]]([[チャンピオンRED]]([[秋田書店]])連載中、原作:[[雑破業]])
* [[どうなのっ河本さん!]]([[コミック アース・スター]]連載)
* おにぎりささ(コミック アース・スター連載)
** おにぎりちさ(コミック アース・スター連載)
* [[こころ オブ・ザ・デッド〜スーパー漱石大戦〜]](コミックアース・スター連載、原作:[[夏目漱石]]、アメイジング翻案:[[架神恭介]])
* そらと箒とトマトソース(WEBコミックガンマぷらす連載)
* 町人Aは悪役令嬢をどうしても救いたい 〜どぶと空と氷の姫君〜(コミック アース・スター連載、原作:一色孝太郎・Parum)
=== アンソロジー ===
* [[舞-乙HiME]]アンソロジーコミック(ノーラ出版)
=== 小説挿絵 ===
*飛鳥井全死は間違えない([[元長柾木]]、[[角川書店]])
*荻浦嬢瑠璃は敗北しない([[元長柾木]]、[[角川書店]])
*D/dレスキュー([[一条理希]]、[[集英社]])
*[[舞-HiME★DESTINY 龍の巫女]]([[伊吹秀明]]、[[ホビージャパン]])
**キャラクターデザインも担当
*万年島殺人事件――壊し屋翔子の事件帖――([[舞阪洸]]、[[幻冬舎]])
=== ゲーム原画・キャラクターデザイン ===
*[[東京九龍]]([[スペースプロジェクト#JANIS|JANIS]])
*[[わたしのありか。]]([[スペースプロジェクト#JANIS|JANIS]])
その他、同人アダルトゲームなどでも原画を担当した。
== 外部リンク ==
* [https://sanmasanma.hatenadiary.org/ 目黒三吉の お ひ や か し]
* [http://d.hatena.ne.jp/sanma_meguro/ 目黒三吉の血豆丼(御新香付き)](閉鎖)
{{Normdaten}}
{{Manga-artist-stub}}
{{DEFAULTSORT:めくろ さんきち}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本のイラストレーター]]
[[Category:愛媛県出身の人物]]
[[Category:1976年生]]
[[Category:存命人物]] | null | 2022-01-10T15:44:32Z | false | false | false | [
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"Template:Normdaten",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%BB%92%E4%B8%89%E5%90%89 |
1,885 | めるへんめーかー | めるへんめーかー(1957年6月15日 - )は、漫画家、イラストレーター。千葉県千葉市出身。血液型B型。
第二回アテナ大賞にて第3席に入選。1978年、白泉社『花とゆめ』夏の増刊号に掲載された『三日月(クレセント・ムーン)の夢を探して』でデビュー。代表作に『モダン・ホラー・タイムズ』など。ファンタジー漫画を多く手がけ、極端に線の細い独特の絵柄と、幻想的なストーリーを特徴とする。
イラストレーターとしても活躍。ハヤカワ文庫、コバルト文庫などでカバーイラストや挿絵を手がける(代表的な作品として少女小説「丘の家のミッキー」(久美沙織)が挙げられる)。
妹は作家の妹尾ゆふ子。テレビゲームとパソコン通信が趣味で、そこから生まれた作品もある。
2023年9月現在、ブログ、X(旧Twitter)、Instagramなど行っていないことを妹の妹尾が自身のXで代弁している。また、作家活動の他、1/6サイズドール用の服のデザイン・制作をしており、ドールショウなどの人形関連のイベントや展示即売会に参加することもあるという。 | [
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] | めるへんめーかーは、漫画家、イラストレーター。千葉県千葉市出身。血液型B型。 | '''めるへんめーかー'''([[1957年]][[6月15日]] - )は、[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[千葉県]][[千葉市]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]B型。
== 経歴・人物 ==
第二回[[白泉社アテナ新人大賞|アテナ大賞]]にて第3席に入選。[[1978年]]、[[白泉社]]『[[花とゆめ]]』夏の増刊号に掲載された『三日月(クレセント・ムーン)の夢を探して』でデビュー。代表作に『モダン・ホラー・タイムズ』など。[[ファンタジー漫画]]を多く手がけ、極端に線の細い独特の絵柄と、幻想的なストーリーを特徴とする。
イラストレーターとしても活躍。[[ハヤカワ文庫]]、[[コバルト文庫]]などでカバーイラストや挿絵を手がける(代表的な作品として[[少女小説]]「[[丘の家のミッキー]]」([[久美沙織]])が挙げられる)。
妹は作家の[[妹尾ゆふ子]]。テレビゲームと[[パソコン通信]]が趣味で、そこから生まれた作品もある。
2023年9月現在、ブログ、X(旧[[Twitter]])、[[Instagram]]など行っていないことを妹の妹尾が自身のXで代弁している。また、作家活動の他、1/6サイズ[[人形|ドール]]用の服のデザイン・制作をしており、[[人形#人形関連のイベント|ドールショウ]]などの人形関連のイベントや展示即売会に参加することもあるという<ref>[https://twitter.com/usagi_ya/status/1702526221479997483 うさぎ屋|妹尾ゆふ子 X 2023年9月15日付]</ref>。
== 作品リスト ==
=== 漫画 ===
====白泉社====
* 花とゆめコミックス
:{| class="wikitable" style="font-size: smaller;"
|-
!タイトル!!発行年月日!!収録作品!!備考
|-
|109ばんめのぼくの姫||1980年11月25日||109ばんめのぼくの姫<br />プリンセス・パンプキンのお嫁入り<br />かぼちゃ畑での日々<br />毛糸玉童話<br />黄昏色ろまん||初単行本
|-
|姫君と泥棒たち||1982年2月25日||姫君と泥棒たち<br />麦畑は黄金色<br />姫君の踊る足どり<br />月夜の晩にはフライング・トゥゲザー<br />ちょっぴり怪奇なハネムーン<br />サマー・フェスティバル<br />星みがき||
|-
|薔薇色ららばい||1982年7月25日||薔薇色ららばい<br />ベン&メリーコール<br />落葉のひとひら<br />みどりの夢を見ませんか<br />リトル・リトル・バニィ<br />ウィソラ・ウォードの森へおいで||
|-
|ふらいど・えっぐ・む〜ん||1983年2月25日||ふらいど・えっぐ・む〜ん<br />ふらいど・ちきん・さんでい<br />ふらいど・すぷりんぐ・どりーむ<br />ふらいど・ぽてと・ふらい<br />魔法使いの日曜日<br />ローリング・ワゴン 恋物語(ラブ・コメディ)<br />三日月(クレッセント・ムーン)の夢をさがして<br />魔法の森ろまんす||
|-
|風色のリフレイン||1983年7月24日||風色のリフレイン<br />とっても☆ファンタスティック!<br />オカルト・アワー<br />丘の館のリン<br />春風の魔女<br />魔法の森ろまんす<br />七つめの扉を開けたなら||
|-
|屋根裏の魔法使い||1984年2月23日||屋根裏の魔法使い<br />レーシィ・ムーンナイト<br />真夏の夜に見た夢は<br />あなたの背後(うしろ)にご用心<br />ふりむけばミステリアス<br />風変りなサンタクロース<br />風のシーズン<br />マジカル・フロスティング・ストーリー||
|-
|風のスクランブル||1984年10月24日||風のスクランブル<br />魔法の森らぷそでぃ<br />ぼくのシミュレーション・ラブ<br />不・思・議フライング<br />キング・ジョンはごきげんななめ<br />受難者のイブ<br />はぁと・バレンタイン||
|-
|お月様のシャワー||1985年9月25日||お月様のシャワー<br />聖・南瓜・戦争<br />ハートにリボンをかけて<br />ミス・マリリンにくびったけ<br />魔法の扉開けて<br />目覚めればE・S・P<br />眼狩都市||
|-
|黄金色の自転車乗り||1986年1月25日||黄金色の自転車乗り ※<br />不思議の国のミス・アリスン ※<br />緑の笛吹き ※<br />夢みる草原 ※<br />スイート・ドラゴン<br />シュガーピンクのシンデレラ||※印<br />グリーンゲイト・シリーズ
|-
|歌う竜||1986年6月25日||歌う竜<br />花冠のローレライ<br />聖少女の館<br />7人の貴婦人の館<br />Do it アブラカタブラ 1<br />Do it アブラカタブラ 2<br />魔法スクランブル<br />いつか王子さまが…||
|-
|ファンファーレ・ガール||1987年1月25日||ファンファーレ・ガール ※<br />古い館の見る夢は ※<br />マジカル・ベター・ハーフ ※<br />もうひとつの季節<br />ノース・フィールド<br />天翔るロマンス・ライター||※印<br />グリーンゲイト・シリーズ
|-
|海風骨董館||1987年6月25日||海風骨董館<br />浪漫てぃっく・ほりでぃ<br />夢売り人の優しい魔法<br />ひとりぼっちの森<br />姫君はどこ!?<br />都市の奏でる小夜曲||
|-
|時の国のアリス||1988年6月25日||星降る聖夜 ※<br />時の国のアリス ※<br />にんじん畑のミス・バニキン ※<br />グリーン・ゲイト探偵団 ※<br />ホーリー・ナイト・ラプソディ ※<br />スプリング・マジック ※<br />ハロウィン・ナイト||※印<br />グリーンゲイト・シリーズ
|-
|月光幻想庭園||1989年6月25日||月光幻想庭園<br />ランラビットラン<br />みつめていたい<br />ドリーム・タイム<br />迷路の国のアリス<br />ショート・タイム・トラベラー<br />月の入り江<br />時の向こうの月下美人<br />TWINKLE☆LIGHT||
|-
|丘の家のミッキー(1巻)||1990年9月25日||丘の家のミッキー||
|-
|丘の家のミッキー(2巻)||1991年2月25日||丘の家のミッキー<br />Good Taste Bad Taste<br />くえすと・もーど<br />おーぷん・うぃんど||全2巻
|}
;ジェッツ・コミックス
*夢幻の館(1985年3月4日)
;白泉社
*魔法の鍵(1991年9月30日)
:ニフティーサーブで接点を持った作家・漫画家などとの交流の中で、いわゆる「[[三題噺]]」のフォーマットで作家達に作品の執筆を依頼し、いったん[[集英社]][[コバルト文庫]]に作品として掲載された後に、それらの作品を原作として漫画に仕上げた作品集。
====秋田書店====
* プリンセスコミックス
:{|class="wikitable" style="font-size: smaller;"
|-
!タイトル!!発行年月日!!収録作品!!備考
|-
|もつれっ毛の姫君||1986年9月10日||魔法使いの弟子<br />もつれっ毛の姫君<br />血と薔薇の日々<br />昼下がりの王国で<br />魔法仕掛けの英雄譚||
|-
|永遠なる夢 永遠なるめざめ||1987/2/15||永遠なる夢 永遠なるめざめ<br />ひなぎく野原はいつも晴れ<br />ロールプレイング・ワンダーランド<br />ミッドナイト ティパーティ☆<br />あけてびっくり箱<br />想作雑景||「永遠なる夢 永遠なるめざめ」<br />作者初の100P長編。
|-
|夢狩人(1巻)||1987年6月1日||夢使い<br />夢狩人 第1話 - 第4話||
|-
|夢狩人(2巻)||1988年4月15日||夢狩人 第5話 - 第9話||
|-
|夢狩人(3巻)||1989年3月15日||夢狩人 第10話 - 第14話||全3巻
|-
|遠い呼び声||1987年12月30日||遠い呼び声<br />月明かりの精霊<br />風変わりな子守唄<br />ティム・チムニーのリバティーソング<br />香草ロマンス||
|-
|ペニントン館(1巻)||1988年12月15日||ペニントン館 第1話 - 第5話||
|-
|ペニントン館(2巻)||1989年11月15日||ペニントン館 第6話 - 第10話||
|-
|ペニントン館(3巻)||1990年10月15日||ペニントン館 第11話 - 第15話||
|-
|ペニントン館(4巻)||1991年11月5日||ペニントン館 第16話 - 第20話||全4巻
|-
|森にすむ人々(1巻)||1990年2月15日||森にすむ人々 第1話 - 第5話||
|-
|森にすむ人々(2巻)||1992年4月30日||森にすむ人々 第6話 - 第10話||全2巻
|-
|モダン・ホラー・タイムズ||1993年11月10日||モダン・ホラー・タイムズ 第1話<br />モダン・ホラー・タイムズ 第2話<br />幽霊屋敷のミラクル・少女<br />大いなる遺産<br />不思議な転校生||
|}
====実業之日本社====
* My Birthdayコミックス
:{|class="wikitable" style="font-size: smaller;"
|-
!タイトル!!発行年月日!!収録作品!!備考
|-
|〜空也&海シリーズ〜<br /> 空也in不思議の園(1巻)||1989年2月8日||空也in不思議の園 第1話 - 第4話<br />魔法の滴||
|-
|〜空也&海シリーズ〜<br /> 空也in不思議の園(2巻)||1989年9月8日||空也in不思議の園 第5話 - 第6話<br />ペパーミントガール<br />ハートフル ケーキ<br />目覚めれば不思議の国||全2巻
|-
|〜月の森童話シリーズ〜<br /> 迷い子たちのティー・タイム(1巻)||1990年9月8日||迷い子たちのティー・タイム 第1話 - 第5話||
|-
|〜月の森童話シリーズ〜<br /> 迷い子たちのティー・タイム(2巻)||1992年2月8日||迷い子たちのティー・タイム 第6話 - 第10話||全2巻
|-
|そして小さな世界||1993年8月8日||そして小さな世界 第1話 - 第4話<br />スウィート・リトル・クリスマス||
|}
====主婦と生活社====
* ミッシィコミックス
:{|class="wikitable" style="font-size: smaller;"
|-
!タイトル!!発行年月日!!収録作品!!備考
|-
|吸血鬼幻想譚(1巻)||1991年8月25日||吸血鬼幻想譚 ACT1 - ACT4<br />番外編 ホーンテッド・ハウスへようこそ||
|-
|吸血鬼幻想譚(2巻)||1989年9月8日||吸血鬼幻想譚 ACT5 - ACT8<br />僕はアリスになりたかった||
|-
|吸血鬼幻想譚(3巻)||1992年5月25日||吸血鬼幻想譚 ACT9 - ACT13||全3巻
|-
|〜グリーンゲイトシリーズ1〜<br /> グリーンゲイトへようこそ||1992年11月10日||グリーンゲイトへようこそ<br />笑わない男<br />金曜日のババロワ<br />Going Your Way<br />晴れた空にドードーの雨が降る||
|-
|〜グリーンゲイトシリーズ2〜<br /> リボンの魔術師||1993年9月10日||リボンの魔術師<br />Take Me Home<br />傘を持つ老婦人<br />美しい世界<br />クリスマス・ラプソディー<br />トゥーティー・エヴァンスの秘密||
|-
|〜グリーンゲイトシリーズ3〜<br /> 悲しきダジャラー||1994年6月10日||悲しきダジャラー<br />東の風に乗って<br />レッド・ホット・チリ・ペッパー<br />はるかなる緑の地へ -吸血の休日-<br />魔法使いになりたい<br />Forever<br />大好き!||
|-
|視線のむこうにいつも君がいた||1993年12月10日||廃園の天使<br />永遠の聖三角形<br />魔法使いの昼下がり<br />視線のむこうにいつも君がいた<br />恋する乙女たち<br />風の音||
|-
|ドリーム・ランド(1巻)||1995年1月10日||ドリーム・ランド STAGE1 - STAGE6||
|-
|ドリーム・ランド(2巻)||1995年9月10日||ドリーム・ランド STAGE7 - STAGE14||全2巻
|-
|ぼくたちの関係||1996年7月10日||ぼくたちの関係<br />ぼくがここにいる理由<br />即売会へ行こう!<br />ようこそガーデンパーティへ<br />棚橋先輩の優雅な日々<br />Lovely!<br />ま・いっか!<br />森の声||
|}
====角川書店====
* ASUKAコミックス
:{|class="wikitable" style="font-size: smaller;"
|-
!タイトル!!発行年月日!!収録作品!!備考
|-
|銀の竪琴 金の声||1990年9月17日||夢の天樹<br />銀の竪琴 金の声<br />風を売る店<br />Old English Garden||
|-
|光の回廊||1991年11月17日||光の回廊<br />フィオーナ・リリーの片想い<br />Miss Broomのお引越し<br />みどりの郷愁<br />DIARY of LONDON||
|-
|夢果つる国の物語||1995年8月1日||夢使いの谷<br />シーエン伝説 序章<br />覇王の影<br />街巡る悪夢||ASUKA DXコミックス
|}
====その他====
* 東の空からファンタジア(1984年4月10日、徳間書店・アニメージュ)
* ONCE UPON A TIME(1985年11月15日、早川書房)
* 星降る森のリトル魔女 第1巻 - 第6巻(偕成社)
* わんだりんぐ WONDERLAND(アスキー)全2巻
* ベイビー・ウィザード(1996年1月25日、アスキー)
* 古い扉の向こう側(1995年2月10日、大都社)
* マンガでわかるWindows 95(1995年12月6日、ソフトバンク)
* めるへんめーかー叙情名作集(1998年4月30日、双葉社・日本漫画家大全)
=== 漫画文庫 ===
* 不思議の森の物語(コバルト文庫)全3巻
:1987年コバルト春号から1993年コバルト12月号まで連載された作品を収録。
* 星降る森のリトル魔女(ソノラマ文庫)全4巻
:偕成社の漫画雑誌に連載されコミックスでは1巻 - 6巻まで発行された。未収録分も含め完全版として文庫版で発行。
* グリーンゲイト物語(2007年、ソノラマ文庫)全3巻
:「白泉社」と「主婦と生活社」のコミックスに収録されていたグリーンゲイト・シリーズを文庫でまとめて発行。
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0">
<div class="NavHead" style="text-align: left">グリーンゲイト物語</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left">
;1巻(2007年3月) ※初出コミックス
*黄金色の自転車乗り ※「黄金色の自転車乗り」
*不思議の国のミス・アリスン ※「黄金色の自転車乗り」
*緑の笛吹き ※「黄金色の自転車乗り」
*夢みる草原 ※「黄金色の自転車乗り」
*ファンファーレ・ガール ※「ファンファーレ・ガール」
*古い館の見る夢は ※「ファンファーレ・ガール」
*マジカル・ベター・ハーフ ※「ファンファーレ・ガール」
*星降る聖夜 ※「時の国のアリス」
*時の国のアリス ※「時の国のアリス」
*にんじん畑のミス・バニキン ※「時の国のアリス」
*グリーン・ゲイト探偵団 ※「時の国のアリス」
;2巻(2007年4月)
*ホーリー・ナイト・ラプソディ ※「時の国のアリス」
*スプリング・マジック ※「時の国のアリス」
*グリーンゲイトへようこそ ※「グリーンゲイトへようこそ」
*笑わない男 ※「グリーンゲイトへようこそ」
*金曜日のババロワ ※「グリーンゲイトへようこそ」
*Going Your Way ※「グリーンゲイトへようこそ」
*晴れた空にドードーの雨が降る ※「グリーンゲイトへようこそ」
*リボンの魔術師 ※「リボンの魔術師」
*Take Me Home ※「リボンの魔術師」
;3巻(2007年5月)
*傘を持つ老婦人 ※「リボンの魔術師」
*美しい世界 ※「リボンの魔術師」
*クリスマス・ラプソディー ※「リボンの魔術師」
*トゥーティー・エヴァンスの秘密 ※「リボンの魔術師」
*悲しきダジャラー ※「悲しきダジャラー」
*東の風に乗って ※「悲しきダジャラー」
*レッド・ホット・チリ・ペッパー ※「悲しきダジャラー」
*はるかなる緑の地へ -吸血の休日- ※「悲しきダジャラー」
*魔法使いになりたい ※「悲しきダジャラー」
*Forever ※「悲しきダジャラー」
</div></div>
=== 画集 ===
* 不思議庭園(1988年9月3日、白泉社)
* CD-ROM画集「不思議散歩」(GAINAX)
=== イラスト提供作品 ===
* [[丘の家のミッキー]](1983年 - 1988年、[[コバルト文庫]]、著:[[久美沙織]])
:少女小説。単行本全10巻の表紙イラスト及び挿絵を担当。また関連作品として「デュエット」(1985年)、「ミッキーのおしゃれ読本」(1987年)のイラストも担当。
: のちに1巻相当の内容を漫画作品として上梓。「花とゆめコミックス」より全2巻(1990年・1991年)が刊行された。
* 妖魔の騎士〈上・下〉(1983年、[[ハヤカワ文庫#ハヤカワ文庫FT|ハヤカワ文庫FT]]、著:フィリス・アイゼンシュタイン、訳:[[井辻朱美]]) - 表紙
* スターゲイザー・シリーズ(1984年 - 1987年、シャピオ、著:[[大和真也]]) - 表紙
* 幸せの妖精(フェアリー)たち(1984年、コバルト文庫、著:エミール・シェラザード) - 表紙
* [[ザ・キャッスル]](1985年、[[アスキー (企業)|アスキー]])
:[[PC-8801]]や[[MSX]]([[パーソナルコンピュータ]]用)[[アクションパズル]][[ゲーム]]。キャラクターデザイン及びパッケージイラスト
* 三つの魔法(1985年、ハヤカワ文庫FT、著:[[ジェイン・ヨーレン]]) - 表紙
* [[MSXマガジン]](1986年 - 1988年、アスキー)
:MSX専門[[コンピューター]]雑誌。「TECHNICAL AREA」コーナー扉絵担当。
* まぼろしの少年リック(1997年、[[金の星社]]、著:エマ・テナント、訳:井辻朱美) - 表紙
* トワイライト・レディ(1987年、コバルト文庫、著: [[菊池秀行]]) - 表紙及び挿絵
* ある湖につづく空(1989年、コバルト文庫、著:[[波多野鷹]]) - 表紙
* 不思議英国(1990年、[[白泉社]]、著:波多野鷹) - 表紙イラスト及び挿絵
* ヘルメ・ハイネの水晶の塔〈上・下〉(1991年、[[講談社X文庫ホワイトハート]]、著:井辻朱美) - 表紙
=== その他 ===
* [[ウィッチクエスト]]
:[[TRPG]]のリプレイ本に妹尾ゆふ子と共にプレイヤーとして参加。
* 『架空幻想都市』〈上・下〉(1994年、[[ログアウト冒険文庫]]) - めるへんめーかー企画・編纂の短編小説アンソロジー
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.wondergarden.jp/mar/ 公式サイト][https://web.archive.org/web/19991008070900/http://ux01.so-net.ne.jp/~paw/mar/]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:めるへんめえかあ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本のイラストレーター]]
[[Category:千葉市出身の人物]]
[[Category:1957年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T17:59:28Z | 2023-11-05T09:14:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%81%E3%82%8B%E3%81%B8%E3%82%93%E3%82%81%E3%83%BC%E3%81%8B%E3%83%BC |
1,886 | 望月玲子 | 望月 玲子(もちづき れいこ、6月20日 - )は、日本の漫画家。静岡県出身。國學院大學文学部文学科卒。
1983年、『LaLa』(白泉社)に掲載された「アバンGALど・ろーど」でデビュー。 現在は、長編のロマンス小説のコミック化などを手がける。
【長編ロマンスコミックス】 | [
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] | 望月 玲子は、日本の漫画家。静岡県出身。國學院大學文学部文学科卒。 1983年、『LaLa』(白泉社)に掲載された「アバンGALど・ろーど」でデビュー。
現在は、長編のロマンス小説のコミック化などを手がける。 | '''望月 玲子'''(もちづき れいこ、[[6月20日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[静岡県]]出身。[[國學院大學]][[文学部]]文学科卒。
[[1983年]]、『[[LaLa]]』([[白泉社]])に掲載された「アバンGALど・ろーど」でデビュー。
現在は、長編のロマンス小説のコミック化などを手がける。
== 作品リスト ==
* カレイドスコープ
* ベラドンナ
* Mr.G.Lを探して
* 花嵐
* 恋愛系青二才の冒険
* 七月はKierkegaard
* ムーンストーンの庭
* ロマンチック・バーバリアンズ
* [[優しい月]]
* HEAT EDGE(全3巻)
* 迷宮の香り
* LOVE ORDER 200X(全4巻)
* ガラスの回廊
* 裸足でお散歩(全2巻)
* [[ハートにタンブリング]]
* DONTO EXCUSE ME!(全3巻)
* カノちゃんのユーガな種(全4巻)
* Patient Flowers
* ハート・チャンネル
* ハートをクリック!
* HEART PARADOX
* [[麿の酩酊事件簿]](全2巻、原作:[[高田紫欄]])
* ヴァルダ 迷宮の貴婦人 望月玲子自選傑作集
* 魔性の螺旋 望月玲子自選ミステリー傑作集
* 幻の四重奏 赤川次郎ミステリーコレクション12(原作:[[赤川次郎]])
* タケコさんの恋人(全12巻・全6巻)
* 新・タケコさんの恋人(全5巻・文庫全3巻)
* タケコさんの恋人21(全5巻)
* 愛は勘定にいれません
* ダイヤモンド・ダスト
* BUB [BACK UP BROTHERS](全2巻)
* [[鳥類学者のファンタジア]](全2巻、原作:[[奥泉光]])
* はなびじん(全3巻)
【長編ロマンスコミックス】
* [[高慢と偏見]](全2巻、原作:[[ジェーン・オースティン]])
* ロイヤルウエディング
* 薔薇の恋 百合の恋 ~[[分別と多感]]~(原作:[[ジェーン・オースティン]])
* 黄金郷の伯爵(原作:[[アン・ハンプソン]])
* 紅のシークと囚われの美女(原作:ナーン・ライアン)
* 口づけはさりげなく(原作:ジョスリン・デイ)
* 公爵と愛の光(原作:[[バーバラ・カートランド]])
* 魔術師と花冠の姫
* 侯爵と秘密の恋
* 琥珀の王と首飾り
* 海賊王と竜紋章の姫/子爵と恋のクリノリン
* 翡翠の王と瑠璃の姫
=== 漫画以外の作品 ===
* 気むずかしい林檎 生きるリクツ(詩集)
* LOVE ENDROLL
== 外部リンク ==
* {{Wayback |url=http://www.reiko-mochizuki.com/ |title=RAIN TREE(公式サイト)|date=20040210044704}}
* {{Wayback |url=http://www.kisscomic.com/interview/0806_reiko_mochizuki/index.html |title=Kiss on Lineインタビュー|date=20111129030237}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:國學院大學出身の人物]]
[[Category:静岡県出身の人物]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:生年未記載]] | null | 2021-01-11T10:46:43Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E7%8E%B2%E5%AD%90 |
1,887 | 本島幸久 | 本島 幸久(もとしま ゆきひさ、1967年 - )は、日本の漫画家。福岡県出身。血液型はO型。
1987年、20歳の時に「喫茶店LaLa日記」(亜砂みえる名義)が『週刊少年マガジン』(講談社)に掲載されてデビュー。製作していた同人誌が当時の週刊少年マガジン編集長の目に留まっての抜擢であった。
『週刊少年マガジン』での初連載となった『風のシルフィード』は当時の少年漫画誌には珍しい競馬を主題とした漫画であり、騎手と競走馬を描いた物語は長期連載作品となった。後に続編となる『蒼き神話マルス』も『週刊少年マガジン』に連載されている。
ミステリーにも詳しく、ミステリー関連のムック本に、漫画や挿絵だけでなく書評なども掲載している。
ゴルフ雑誌『アルバトロス・ビュー』での連載など、ゴルフ漫画も多く、自身もプレーする。漫画の描写には、自身のゴルフ体験も活かされており、その描写には定評がある。 | [
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] | 本島 幸久は、日本の漫画家。福岡県出身。血液型はO型。 | {{複数の問題
|存命人物の出典明記=2018年3月14日 (水) 06:39 (UTC)
|単一の出典=2018年3月14日 (水) 06:39 (UTC)
}}
'''本島 幸久'''(もとしま ゆきひさ、[[1967年]]{{R|街}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。{{要出典範囲|date=2018年3月14日 (水) 06:39 (UTC)|[[福岡県]]出身。}}{{要出典範囲|date=2018年3月14日 (水) 06:39 (UTC)|[[血液型]]はO型。}}
== 略歴 ==
[[1987年]]、20歳の時に「喫茶店LaLa日記」(亜砂みえる名義)が『[[週刊少年マガジン]]』([[講談社]])に掲載されてデビュー{{R|街}}。製作していた[[同人誌]]が当時の週刊少年マガジン編集長の目に留まっての抜擢であった{{R|街}}。
『週刊少年マガジン』での初連載となった『[[風のシルフィード]]』は当時の少年漫画誌には珍しい[[競馬]]を主題とした漫画であり、騎手と競走馬を描いた物語は長期連載作品となった{{R|街}}。後に続編となる『[[蒼き神話マルス]]』も『週刊少年マガジン』に連載されている。
[[ミステリー]]にも詳しく、ミステリー関連のムック本に、漫画や挿絵だけでなく書評なども掲載している<ref>{{cite journal|和書|volume=別冊宝島1485|journal=僕たちの好きな京極夏彦 全小説徹底解析編|year=2007|isbn=978-4-7966-6147-8}}など</ref>。
ゴルフ雑誌『[[アルバトロス・ビュー]]』での連載など、ゴルフ漫画も多く、自身もプレーする。漫画の描写には、自身のゴルフ体験も活かされており、その描写には定評がある{{R|街}}。
== 作品リスト ==
=== 連載 ===
* [[風のシルフィード]]([[週刊少年マガジン]] 1989年 - 1993年、全23巻、愛蔵版全13巻、文庫版全13巻)
* [[MAYA 真夜中の少女]](週刊少年マガジン 1994年 - 1996年、全9巻)
* [[蒼き神話マルス]](週刊少年マガジン 1996年 - 1999年、全13巻、文庫版全4巻)
* [[空の昴]](原案協力:[[金谷多一郎]]、週刊少年マガジン→[[マガジンSPECIAL]] 2000年 - 2004年、全21巻)
* ちょっと探偵気分([[メフィスト (文芸誌)|小説現代増刊 メフィスト]](講談社) 2004年、全1巻)
* 冥宮ミステリーファイル VISIONZ(週刊少年マガジン 2005年、短期集中連載、全1巻)
* ナンクルナイサで行こう!! 漫画レッスン宮里道場(指導:宮里優、脚本:かわさき健、企画協力:宮里道場、[[アルバトロス・ビュー]]([[プレジデント社]]) 2006年 - 連載中)
* [[担ぎ屋どおも]](原作:[[七三太朗]]、[[週刊現代]](講談社) 2007年 - 2010年、全11巻)
* コーキューシュッセ(原作:濱口輝、[[ゴルフレッスンコミック]]([[日本文芸社]]) 2012年 - 2016年)
* 派遣ゴルファー明日美ちゃん([[GOLFコミック]]([[秋田書店]]) 2011年9月号 - 2014年4月号、全4巻)
* ジャンク―がらくたのゴルフ―(原案協力:金谷多一郎、GOLFコミック(秋田書店) 2014年5月号 - 2017年7月号、全5巻)
* 杏プレイヤブル 2017年8月号<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.akitashoten.co.jp/golfcomic/2017/8|title=GOLFコミック 2017年8月号|publisher=[[秋田書店]]|accessdate=2018-05-23}}</ref> - 2018年2月号(休刊)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/263296|title=GOLFコミックが休刊、ちばてつやが表紙を描くゴルフ専門月刊マンガ誌|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミック ナタリー]]|date=2017-12-28|accessdate=2018-05-23}}</ref>、全1巻)
* 哲先生のGolfラボ〜感育のススメ〜(指導:松本哲也、[[ゴルフレッスンコミック]]([[日本文芸社]]) 2017年 - 連載中)
* [[ダモクレスのゴルフ]](COMIC BULL、[[コミックDAYS]]([[講談社]]) 2020年 - 2021年、全3巻)
=== 読切 ===
* 喫茶店LaLa日記(週刊少年マガジン、1987年、読切連作)※亜砂みえる名義
* ヴァンパイラぴんく(マガジンFRESH、1999年)
* ティイング オフ 「空の昴」序章(原案協力:金谷多一郎、週刊少年マガジン、2000年)
* [[丸山茂樹]]物語(写真・取材協力:宮本卓、週刊少年マガジン、2004年)
* 金田一さん事件ですよ!〜THE MOVIE 2006〜(別冊宝島 僕たちの好きな金田一耕助([[宝島社]])、2006年、{{ISBN2|978-4-7966-5572-9}})
=== その他 ===
; 解説
:*{{Cite book|和書|title=沙羅は和子の名を呼ぶ|author=加納朋子|authorlink=加納朋子|isbn=4-08-747488-7|publisher=[[集英社文庫]]|year=2002}}
== 師匠 ==
* [[きくち正太]]{{R|街}}
== 出典 ==
{{Reflist|refs=
<ref name="街">{{Cite web|和書|url=http://www.manga-gai.net/column/shitumon/shitumon_motojima.html|title=プロのマンガ家さんに聞く30の質問/本島幸久|publisher=漫画街(銀杏社)|accessdate=2018-03-14}}</ref>
}}
== 外部リンク ==
*{{Twitter|1fRVu6tu7obQDkJ|ユッキー(本島幸久)}}
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
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[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T18:01:32Z | 2023-11-24T06:21:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B3%B6%E5%B9%B8%E4%B9%85 |
1,888 | 綾辻行人 | 綾辻 行人(あやつじ ゆきと、1960年12月23日 -)は、日本の小説家・推理作家。教育学修士(京都大学)。京都府京都市出身。妻は同じく小説家の小野不由美。代表作に「館シリーズ」、『Another』など。
本格ミステリ作家クラブ執行会議。日本推理作家協会会員、元本格ミステリ作家クラブ事務局長も兼ねる。
小学校6年生の夏休みに初期習作の『少年探偵団』のような短編推理小説を10篇書いた。
1979年に京都府立桂高等学校を卒業後、京都大学教育学部に入学。京大推理小説研究会に所属した。研究会の同期には後に結婚する小野不由美がおり、作家となる我孫子武丸や法月綸太郎も所属していた。大学4年生の冬に江戸川乱歩賞に、後の『十角館の殺人』の原型の作品で応募し、第1次選考に残った。
1984年に同大学大学院教育学研究科に進学し、逸脱行動論を専攻する。1986年に小野不由美と結婚。翌年、在学中に『十角館の殺人』で作家デビューする。講談社ノベルス編集部が「新本格ミステリー」と名付ける。大学院の修士課程を2年間で修了し、さらに博士後期課程に進み3年間在籍したものの、その後3年にわたって休学し、博士論文を書かずに単位取得退学している。1992年3月、専業作家となる。同年『時計館の殺人』で日本推理作家協会賞長編部門を受賞した。
綾辻の代表作でもある「館シリーズ」の累計発行部数は、2012年2月時点で409万部を超える。
数々のミステリー系文学賞の選考委員を歴任している。
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] | 綾辻 行人は、日本の小説家・推理作家。教育学修士(京都大学)。京都府京都市出身。妻は同じく小説家の小野不由美。代表作に「館シリーズ」、『Another』など。 本格ミステリ作家クラブ執行会議。日本推理作家協会会員、元本格ミステリ作家クラブ事務局長も兼ねる。 | {{DISPLAYTITLE:綾{{JIS2004フォント|辻}}行人}}
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{{Infobox 作家
|name = 綾辻 行人<br />(あやつじ ゆきと)
|image = <!--写真、肖像画等のファイル名-->
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|caption = <!--画像説明-->
|pseudonym = 綾{{JIS2004フォント|辻}} 行人<br />(あやつじ ゆきと)
|birth_name = 内田 直行<br />(うちだ なおゆき)
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|occupation = [[小説家]]
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|education = <!--受けた教育、習得した博士号など-->[[修士(教育学)|教育学修士]]([[京都大学]])
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|period = 1987年 -
|genre = [[ミステリ]]<br />[[推理小説]] <br />[[ホラー小説]]<br />[[随筆|エッセイ]]
|subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)-->
|movement = [[本格派推理小説#新本格ミステリ|新本格派ミステリー]]
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|notable_works = 『[[十角館の殺人]]』(1987年)<br />『[[霧越邸殺人事件]]』(1990年) <br />『[[時計館の殺人]]』(1991年)<br />『[[Another]]』(2009年)
|spouse = [[小野不由美]](1986年 - )
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|children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する-->
|relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する-->
|influences = [[江戸川乱歩]]、[[楳図かずお]]、[[ウルトラQ]]、[[エラリイ・クイーン]]<ref>『セッション 綾{{JIS2004フォント|辻}}行人対談集』P.128、1999年 集英社文庫</ref>
|influenced = [[奈須きのこ]]、[[辻村深月]] など
|awards = [[日本推理作家協会賞]](1992年)<br />[[日本ミステリー文学大賞]](2018年)
|debut_works = 『[[十角館の殺人]]』
|signature = Ayatsuji Yukito signature.png
|website = <!--本人の公式ウェブサイト-->
|footnotes = <!--脚注・小話-->
}}
{{読み仮名 ruby不使用|'''綾{{JIS2004フォント|辻}} 行人'''|あやつじ ゆきと|[[1960年]][[12月23日]] - }}は、[[日本]]の[[小説家]]・[[推理作家]]。[[修士(教育学)|教育学修士]]([[京都大学]])。[[京都府]][[京都市]]出身。妻は同じく小説家の[[小野不由美]]。代表作に「[[館シリーズ]]」、『[[Another]]』など。
[[本格ミステリ作家クラブ]]執行会議。[[日本推理作家協会]]会員、元[[本格ミステリ作家クラブ]]事務局長も兼ねる。
== 経歴 ==
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1984年に同大学大学院教育学研究科に進学し、[[逸脱|逸脱行動論]]を専攻する。1986年に[[小野不由美]]と結婚。翌年、在学中に『十角館の殺人』で作家デビューする。[[講談社ノベルス]]編集部が「[[本格派推理小説#新本格ミステリ|新本格ミステリー]]」と名付ける。大学院の[[修士課程]]を2年間で修了し<ref name="ayatsujiyukito20160531">https://twitter.com/ayatsujiyukito/status/737505164911775745</ref>、さらに[[博士後期課程]]に進み3年間在籍したものの<ref name="ayatsujiyukito20160531"/>、その後3年にわたって[[休学]]し<ref name="ayatsujiyukito20160531"/>、[[博士論文]]を書かずに単位取得退学している<ref name="ayatsujiyukito20160531"/>。1992年3月、専業作家となる<ref name="セッション" />。同年『時計館の殺人』で[[日本推理作家協会賞]]長編部門を受賞した。
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== 作風 ==
*物理トリックよりも叙述トリックを得意とし、多くの作品にストーリーの構図を大きく転換させる[[どんでん返し]]が見られる。
*ホラーや[[幻想文学]]の影響が色濃く、ミステリーだけではなくホラー作品を多く著している他、本領のミステリー作品においても心象描写の多い叙情的な文体を用いる。
== 人物 ==
*漫画家の[[楳図かずお]]のことを、「わが心の師」で一番大きな影響を受けたと表明している<ref>『セッション 綾{{JIS2004フォント|辻}}行人対談集』P.61、1999年 集英社文庫</ref>。
*エッセイなどで語っているが、かなりの[[ゲーム]]好きである。
*[[麻雀]]歴も長く、[[双葉社]]主催の「麻雀名人戦」第30期で名人位に就くなど、麻雀関係での交友も広い<ref>『セッション 綾{{JIS2004フォント|辻}}行人対談集』P.257-258、273-274、1999年 集英社文庫</ref>。
*[[欅坂46]]のファン<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keyakizaka46matomerabo.com/archives/mystery-ayatuzi.html |title=【欅坂46】ミステリー作家の綾辻行人先生、メンバーを覚えるほど欅にハマってしまう… |accessdate=2017-10-19 |date=2017-09-12 |publisher=欅坂46まとめラボ}}</ref>。
*子どもの頃からの[[広島東洋カープ]]ファン<ref>{{Twitter status2|ayatsujiyukito|751417405801271296|2016年7月8日7時7分}}<br />{{Twitter status2|ayatsujiyukito|746992356285521920|2016年6月26日2時3分}}</ref>。
*[[飛行機恐怖症]]でもある。
*夫婦共に『[[PUI PUI モルカー]]』のファン。妻の小野不由美は一期に登場した全台のモルカーを手作りで再現している。綾辻はモルカーを「ぷいぷい」と呼んで可愛がったり、小野が手作りしたモルカーを度々仕事場に連れて行くなど、その愛情の深さがうかがえる<ref>{{Twitter status2|ayatsujiyukito|1541218598097932289|2022年6月27日9時35分}}
</ref>。また『人間じゃない〈完全版〉』刊行時にはモルカーとの異色のコラボ動画も実現している<ref>{{Cite web|和書|url=https://tree-novel.com/sp/works/episode/e6d5b4225d19e9d336645da5cb75fdca.html |title=モルカーもわくわく!綾辻行人・著『人間じゃない〈完全版〉』刊行! |accessdate=2023-05-31}}</ref>。
*[[ずっと真夜中でいいのに。]]のファンでもあり、twitterではアルバムの写真をあげたりやライブに行ったことを写真付きでツイートしている<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/ayatsujiyukito/status/1602281908901400576?s=20 |url=https://twitter.com/ayatsujiyukito/status/1602281908901400576?s=20 |website=Twitter |access-date=2023-06-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/ayatsujiyukito/status/1668983208816390144?s=20 |url=https://twitter.com/ayatsujiyukito/status/1668983208816390144?s=20 |website=Twitter |access-date=2023-06-14 |language=ja}}</ref>。
=== エピソード ===
*ペンネームを考案したのはデビュー作『十角館の殺人』の推薦文を書いた[[島田荘司]]である。本来“{{JIS2004フォント|辻}}”の“しんにょう”の点は1つで、姓名判断上、完璧な画数であったが、綾{{JIS2004フォント|辻}}が点2つにした<ref>『[[本格ミステリベスト10|本格ミステリ・ベスト10]] 2008年版』探偵小説研究会編・著 原書房</ref>。
*「[[館シリーズ]]」の探偵役である島田潔の名前は島田とその作品に登場する名探偵、[[御手洗潔]]を合わせたものである。この命名について綾辻は、「こんなに長く続くシリーズになるとわかっていたら、もっとちゃんと考えてつけたのに」と述べている。
*[[ALI PROJECT]]とは懇意で、『[[Another]]』をアニメ化する際の唯一のリクエストが、主題歌をALI PROJECTが担当すること<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.dmkt-sp.jp/animestore/CP/CP00000297 |title=「Another」特集~綾辻行人先生 特別インタビュー |website=dアニメストア |publisher=株式会社NTTドコモ |accessdate=2019-07-10}}</ref>であった。後に実現し、『[[凶夢伝染]]』発売記念ライブ『凶夢伝染カルナバル』にてゲストとして出演を果たすとともに、『昭和恋々幻燈館』『阿芙蓉寝台』『共月亭で逢いましょう』をリクエスト<ref>{{Twitter status2|ayatsujiyukito|170925234378129408|2012年2月18日9:38}}</ref>した。なお、綾辻本人はカラオケではALI PROJECTを知らない人の前でALI PROJECTの曲を歌う、アリハラ(アリプロ・ハラスメント)を愉しんでいる<ref>http://aliproject.jp/blog/archives/20.html</ref>。
*[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用のゲーム『ナイトメア・プロジェクト YAKATA』・『[[黒ノ十三]]』製作にも深く関与する。
== 関連人物 ==
*[[小野不由美]] − 妻、同じく小説家。綾辻とは誕生日は1日違い。『迷路館の殺人』などの館シリーズや『霧越邸殺人事件』の図面は概要図は、綾辻が描いて正式な図面は小野が引く<ref name="セッション" />。
*[[我孫子武丸]] − 友人でもあり、綾辻とはゲームライバルでもある。
*[[宮部みゆき]] − 綾辻と生年月日・デビュー年月が同じミステリー作家。第45回[[日本推理作家協会賞]]で長編部門を同時受賞するなど、同じミステリー作家として交流がある。
*[[辻村深月]] − 小学生の頃から綾辻作品の大ファンであり、大学時代には連絡先を教え逢い交流がある。ペンネームの「辻」も、綾辻から取った。[[メフィスト賞]]受賞は、綾辻が打ち合わせの編集者に聞いて了解を得て携帯電話で連絡した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi130_tsujimura/ |title=作家の読書道 第130回:辻村深月さん - 作家の読書道 |accessdate=2017-10-19 |date=2012-10-17 |publisher=[[本の雑誌]]/[[博報堂]]}}</ref>。
*[[有栖川有栖]]- 「安楽椅子探偵シリーズ」で共演しており、経歴が綾辻とそっくりであることも知られている。また様々な著書で対談などをしている。
== 文学賞受賞・候補歴 ==
* 1990年 - 『霧越邸殺人事件』で第12回[[吉川英治文学新人賞]]候補。
* 1991年 - 『時計館の殺人』で第13回吉川英治文学新人賞候補。『霧越邸殺人事件』で第44回[[日本推理作家協会賞]](長編部門)候補。
* 1992年 - 『時計館の殺人』で'''第45回[[日本推理作家協会賞]](長編部門)'''受賞。
* 2005年 - 『暗黒館の殺人』で第5回[[本格ミステリ大賞]](小説部門)候補。
* 2008年 - 『深泥丘奇談』で第25回[[織田作之助賞]]候補。
* 2010年 - 『Another』で第10回本格ミステリ大賞(小説部門)候補、第1回[[山田風太郎賞]]候補。『ミステリ・ジョッキー2』([[有栖川有栖]]との共著)で第10回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)候補。
* 2018年 - '''第22回[[日本ミステリー文学大賞]]'''受賞。
== ミステリ・ランキング ==
* '''[[週刊文春ミステリーベスト10]]'''
** 1987年 - 『十角館の殺人』8位
** 1990年 - 『霧越邸殺人事件』'''1位'''
** 1991年 - 『時計館の殺人』4位
** 1999年 - 『どんどん橋、落ちた』18位
** 2004年 - 『暗黒館の殺人』3位
** 2009年 - 『Another』4位
** 2012年 - 『奇面館の殺人』7位
** 2020年 - 『Another2001』7位
* '''[[このミステリーがすごい!]]'''
** 1988年 - 『迷路館の殺人』7位
** 1991年 - 『霧越邸殺人事件』7位
** 1992年 - 『時計館の殺人』11位
** 2005年 - 『暗黒館の殺人』7位
** 2010年 - 『Another』3位
** 2013年 - 『奇面館の殺人』9位
** 2021年 - 『Another2001』3位
* '''[[本格ミステリ・ベスト10]]'''
** 2000年 - 『どんどん橋、落ちた』3位
** 2005年 - 『暗黒館の殺人』2位
** 2007年 - 『びっくり館の殺人』21位
** 2010年 - 『Another』3位
** 2013年 - 『奇面館の殺人』3位
** 2021年 - 『Another2001』21位
* '''[[ミステリが読みたい!]]'''
** 2011年 - 『Another』'''1位'''
** 2013年 - 『奇面館の殺人』8位
** 2021年 - 『Another 2001』5位
== 文学賞選考委員 ==
数々のミステリー系文学賞の選考委員を歴任している。
*[[鮎川哲也賞]]:1997年(第8回) - 1999年(第10回)
*[[横溝正史ミステリ大賞]]:1997年(第17回) - 2013年(第33回)
**横溝正史ミステリ&ホラー大賞:2019年(第39回) -
*[[創元推理短編賞]]:2000年(第7回) - 2003年(第10回)
*[[ホラーサスペンス大賞]]:2004年(第5回) - 2005年(第6回)
*[[江戸川乱歩賞]]:2004年(第50回) - 2007年(第53回)、2020年(第66回) -
*[[ミステリーズ!新人賞]]:2004年(第1回) - 2008年(第5回)
*[[小説推理新人賞]]:2008年(第30回) - 2010年(第32回)
*[[日本ミステリー文学大賞新人賞]]:2009年(第13回) - 2012年(第16回)、2015年(第19回) - 2018年(第22回)
*[[日本ホラー小説大賞]]:2014年(第21回) - 2018年(第25回)
== 作品リスト ==
=== 小説 ===
==== 館シリーズ ====
{{main2|シリーズ詳細|館シリーズ}}
*[[十角館の殺人]](1987年9月 [[講談社ノベルス]] / 1991年9月 [[講談社文庫]])
**新装改訂版(2007年10月 講談社文庫 / 2008年9月 [[講談社]] [[YA!ENTERTAINMENT]] / 2017年9月 講談社【限定愛蔵版】)
*[[水車館の殺人]](1988年2月 講談社ノベルス / 1992年3月 講談社文庫)
**新装改訂版(2008年4月 講談社文庫 / 2010年2月 YA!ENTERTAINMENT)
*[[迷路館の殺人]](1988年9月 講談社ノベルス / 1992年 講談社文庫)
**新装改訂版(2009年11月 講談社文庫)
*[[人形館の殺人]](1989年4月 講談社ノベルス / 1993年5月 講談社文庫)
**新装改訂版(2010年8月 講談社文庫)
*[[時計館の殺人]](1991年9月 講談社ノベルス / 1995年6月 講談社文庫 / 2006年6月 [[双葉文庫]])
**新装改訂版(2012年6月 講談社文庫【上・下】)
*[[黒猫館の殺人]](1992年4月 講談社ノベルス / 1996年6月 講談社文庫)
**新装改訂版(2014年1月 講談社文庫)
*[[暗黒館の殺人]](2004年9月 講談社ノベルス【上・下】 / 2007年10、11月 講談社文庫【全4巻】)
*[[びっくり館の殺人]](2006年3月 講談社 [[ミステリーランド]] / 2008年11月 講談社ノベルス / 2010年8月 講談社文庫)
*[[奇面館の殺人]](2012年1月 講談社ノベルス / 2015年4月 講談社文庫【上・下】)
*双子館の殺人(『メフィスト 2023 SUMMER VOL.8』2023年7月 - 連載中)
==== 囁きシリーズ ====
*緋色の囁き(1988年10月 [[祥伝社]] [[ノン・ノベル]] / 1993年7月 [[祥伝社文庫]] / 1997年11月 講談社文庫)
**新装改訂版(2020年12月 講談社文庫)
*暗闇の囁き(1989年9月 祥伝社 ノン・ノベル / 1994年7月 祥伝社文庫 / 1998年6月 講談社文庫)
**新装改訂版(2021年5月 講談社文庫)
*黄昏の囁き(1993年1月 祥伝社 ノン・ノベル / 1996年7月 祥伝社文庫 / 2001年6月 講談社文庫)
**新装改訂版(2021年8月 講談社文庫)
==== 殺人方程式シリーズ ====
*[[殺人方程式|殺人方程式 切断された死体の問題]](1989年5月 [[光文社]] [[カッパ・ノベルス]] / 1994年2月 [[光文社文庫]] / 2005年2月 講談社文庫)
*[[鳴風荘事件 殺人方程式II]](1995年5月 光文社 カッパ・ノベルス / 1999年3月 光文社文庫 / 2006年3月 講談社文庫)
==== 殺人鬼シリーズ ====
*殺人鬼(1990年1月 [[双葉社]] / 1994年10月 [[双葉ノベルズ]] / 1996年2月 [[新潮文庫]])
**殺人鬼 覚醒篇 【改訂決定版】(2011年8月 [[角川文庫]])
*殺人鬼II 逆襲篇(1993年10月 双葉社 / 1995年8月 双葉ノベルズ / 1997年2月 新潮文庫)
**殺人鬼 逆襲篇 【改訂決定版】(2012年2月 角川文庫)
==== 深泥丘シリーズ ====
*深泥丘奇談(2008年2月 [[メディアファクトリー]] [[幽ブックス]] / 2011年12月 [[MF文庫ダ・ヴィンチ]] / 2014年6月 角川文庫)
**収録作品:顔 / 丘の向こう / 長引く雨 / 悪霊憑き / サムザムシ / 開けるな / 六山の夜 / 深泥丘魔術団 / 声
*深泥丘奇談・続(2011年3月 メディアファクトリー 幽ブックス / 2013年2月 MF文庫ダ・ヴィンチ / 2014年9月 角川文庫)
**収録作品:鈴 / コネコメガニ / 狂い桜 / 心の闇 / ホはホラー映画のホ / 深泥丘三地蔵 / ソウ / 切断 / 夜蠢く / ラジオ塔
*深泥丘奇談・続々(2016年7月 [[KADOKAWA]] 幽ブックス / 2019年8月 角川文庫)
**収録作品:タマミフル / 忘却と追憶 / 減らない謎 / 死後の夢 / カンヅメ奇談 / 海鳴り / 夜泳ぐ / 猫密室 / ねこしずめ
==== Anotherシリーズ ====
*[[Another]](2009年10月 [[角川書店]] / 2011年11月 角川文庫【上・下】 / 2012年2月 [[角川スニーカー文庫]]【上・下】)
*Another エピソードS(2013年7月 角川書店 / 2014年12月 KADOKAWA【軽装版】 / 2016年6月 角川文庫)
*Another 2001(2020年9月 KADOKAWA / 2023年6月 角川文庫【上・下】)
==== その他 ====
*霧越邸殺人事件(1990年9月 [[新潮社]] / 1995年2月 新潮文庫 / 2002年6月 祥伝社 ノン・ノベル)
**完全改訂版(2014年3月 角川文庫【上・下】)
*眼球綺譚(1995年10月 [[集英社]] / 1998年1月 祥伝社 ノン・ノベル / 1999年9月 [[集英社文庫]] / 2009年1月 角川文庫)
**収録作品:再生 / 呼子池の怪魚 / 特別料理 / バースデー・プレゼント / 鉄橋 / 人形 / 眼球綺譚
*フリークス(1996年4月 光文社 カッパ・ノベルス / 2000年3月 光文社文庫 / 2011年4月 角川文庫)
**収録作品:夢魔の手─三一三号室の患者─ / 四〇九号室の患者 / フリークス─五六四号室の患者─
*げんだいミステリーワールド6 綾{{JIS2004フォント|辻}}行人集(1999年4月 リブリオ出版)
**収録作品:四〇九号室の患者 / 赤いマント / 呼子池の怪魚
*どんどん橋、落ちた(1999年10月 講談社 / 2001年11月 講談社ノベルス / 2002年10月 講談社文庫)
**新装改訂版(2017年2月 講談社文庫)
**収録作品:どんどん橋、落ちた / ぼうぼう森、燃えた / フェラーリは見ていた / 伊園家の崩壊 / 意外な犯人
*最後の記憶(2002年8月 角川書店 / 2006年1月 [[カドカワ・エンタテインメント]] / 2007年6月 角川文庫)
*怪談えほん(8) くうきにんげん (2015年9月 [[岩崎書店]])
*人間じゃない 綾{{JIS2004フォント|辻}}行人未収録作品集(2017年2月 講談社)
**【改題】人間じゃない 〈完全版〉(2022年8月 講談社文庫)
***収録作品:赤いマント<ref>『人形館の殺人』後日譚</ref> / 崩壊の前日<ref>『眼球奇譚』「バースデープレゼント」姉妹編</ref> / 洗礼<ref>『どんどん橋、落ちた』番外編</ref> / 蒼白い女<ref>『深泥丘奇談』番外編</ref> / 人間じゃない─B〇四号室の患者─<ref>『フリークス』番外編</ref> / 仮題・ぬえの密室(完全版のみ)
=== アンソロジー(収録) ===
「」内が綾{{JIS2004フォント|辻}}行人の作品
*日本ベストミステリー「珠玉集」 中(1992年7月 光文社 カッパ・ノベルス)「四〇九号室の患者」
**【改題】秘密コレクション 日本ベストミステリー選集23(1996年7月 光文社文庫)
*ミステリーの愉しみ5 奇想の復活(1992年8月 [[立風書房]])「どんどん橋、落ちた」
*亀裂(1993年7月 [[角川ホラー文庫]])「再生」
*見知らぬ私(1994年7月 角川ホラー文庫)「バースデー・プレゼント」
*「傑作推理(ベスト・オブ・ベスト)」大全集 上(1995年6月 光文社 カッパ・ノベルス)「赤いマント」
**【改題】仮面のレクイエム 日本のベストミステリー選集25(1998年6月 光文社文庫)
*短編で読む 推理傑作選50 下(1995年11月 光文社)「どんどん橋、落ちた」
*幻想ミッドナイト 日常を破壊する恐怖の断片(1997年10月 カドカワ・エンタテインメント)「四〇九号室の患者」
*最新「珠玉推理(ベスト・オブ・ベスト)」大全 中(1998年9月 光文社 カッパ・ノベルス)「特別料理」
**【改題】怪しい舞踏会 日本ベストミステリー選集29(2002年5月 光文社文庫)
*悲劇の臨時列車 鉄道ミステリー傑作編(1998年12月 光文社文庫)「鉄橋」
*異界への入口(2001年4月 リブリオ出版)「鉄橋」
*過去への幻想(2001年4月 リブリオ出版)「眼球綺譚」
*事件現場に行こう 最新ベスト・ミステリーカレイドスコープ編(2001年11月 光文社 カッパ・ノベルス)「崩壊の前日」
**【改題】事件現場に行こう 日本ベストミステリー選集33(2006年4月 光文社文庫)
*短編復活(2002年11月 集英社文庫)「特別料理」
*鉄路に咲く物語(2005年6月 光文社文庫)「鉄橋」
*川に死体のある風景(2006年5月 [[東京創元社]] / 2010年3月 [[創元推理文庫]])「悪霊憑き」
*京都魔界地図(2009年10月 [[PHP研究所]])「深泥丘三地蔵」
*Anniversary 50(2009年12月 光文社 カッパ・ノベルス)「深泥丘奇談─切断」
*量子回廊 年刊日本SF傑作選(2010年7月 [[創元SF文庫]])「心の闇」
*ミステリ・オールスターズ(2010年9月 角川書店 / 2012年9月 角川文庫)「かえれないふたり 第3章 増殖する影」
*0番目の事件簿(2012年11月 講談社)「遠すぎる風景」
*私がデビューしたころ ミステリ作家51人の始まり(2014年6月 東京創元社)※エッセイアンソロジー「宝物のようなもの」
*自薦 THE どんでん返し(2016年5月 双葉文庫)「再生」
*日本推理作家協会賞受賞作家傑作短編集4 妖異(2017年6月 双葉文庫)「人形」
*推理作家謎友録 日本推理作家協会70周年記念エッセイ(2017年8月 角川文庫)※エッセイアンソロジー<!-- タイトルなし -->
*7人の名探偵 新本格30周年記念アンソロジー(2017年9月 講談社ノベルス / 2020年8月 講談社文庫)「仮題・ぬえの密室」
*京都迷宮小路 傑作ミステリーアンソロジー(2018年11月 [[朝日文庫]])「長びく雨」
*絶対名作! 十代のためのベスト・ショート・ミステリー 謎解きミステリー(2021年12月 [[汐文社]])「意外な犯人」
*大逆転 ミステリーアンソロジー(2023年2月 朝日文庫)「四〇九号室の患者」
=== アンソロジー(編纂) ===
*綾{{JIS2004フォント|辻}}行人が選ぶ!楳図かずお怪奇幻想館(2000年11月 [[ちくま文庫]])
*贈る物語 Mystery(2002年11月 光文社 / 2006年10月 光文社文庫)
*綾{{JIS2004フォント|辻}}行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー1(2008年7月 講談社)
*綾{{JIS2004フォント|辻}}行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー2(2009年11月 講談社)
*綾{{JIS2004フォント|辻}}行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー3(2012年4月 講談社)
*スペシャル・ブレンド・ミステリー 謎009(2014年9月 講談社文庫)
*連城三紀彦レジェンド 傑作ミステリー集(2014年11月 講談社文庫)
*連城三紀彦レジェンド2 傑作ミステリー集(2017年9月 講談社文庫)
=== エッセイ・対談他 ===
*本格ミステリー館にて(1992年10月 森田塾出版 / 1997年12月 角川文庫) - 共著:[[島田荘司]]
*セッション 綾{{JIS2004フォント|辻}}行人対談集(1996年11月 集英社 / 1999年11月 集英社文庫)
*アヤツジ・ユキト1987-1995(1996年5月 講談社、1999年6月 講談社文庫 / 2007年8月 講談社)
*アヤツジ・ユキト1996-2000(2007年8月 講談社)
*アヤツジ・ユキト2001-2006(2007年8月 講談社)
*ナゴム、ホラーライフ 怖い映画のススメ(2009年6月 メディアファクトリー 幽ブックス) - 共著:[[牧野修]]
*アヤツジ・ユキト2007-2013(2014年8月 講談社)
*シークレット 綾辻行人ミステリ対談集 in 京都(2020年9月 光文社)
== メディア・ミックス ==
=== テレビドラマ ===
;[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系
:*[[火曜サスペンス劇場]]
:**湖畔の館殺人事件(1993年3月23日、主演:[[高樹沙耶]]、原作:霧越邸殺人事件)
;[[テレビ朝日]]系
:*[[土曜ワイド劇場]]
:**「月蝕の館」殺人事件(1996年8月17日、主演:[[佐野史郎]]、原作:鳴風荘事件)
:*[[幻想ミッドナイト]]
:**四〇九号室の患者(1997年11月29日、主演:[[伊藤洋三郎]])
:*[[安楽椅子探偵 (テレビドラマ)|安楽椅子探偵]]シリーズ([[朝日放送テレビ|朝日放送]]、1999年10月1日 - 2008年10月10日、2017年1月6日)
=== テレビアニメ ===
*[[Another#テレビアニメ|Another]](2012年1月9日 - 3月26日、全12話)
=== 映画 ===
*[[Another#映画|Another]](2012年8月4日公開、配給:[[東宝]]、監督:[[古澤健]]、主演:[[山﨑賢人]])
=== 漫画 ===
*YAKATA(画:[[田籠功次]] 1巻1998年、2巻1999年、3巻1999年 角川書店[[カドカワコミックス・エース]])
*眼球綺譚(画:[[児嶋都]] 2001年 角川書店、2009年 角川文庫)
*緋色の囁き(画:児嶋都 2002年 角川書店[[あすかコミックス|あすかコミックスDX]])
*[[月館の殺人]](画:[[佐々木倫子]] 上巻2005年、下巻2006年 IKKI COMICS / 新装版【上・下】2009年 KKI COMICS / 文庫版【上・下】2017年 [[小学館文庫]])
*Another(画:[[清原紘]] 1巻2010年10月 2巻2011年3月 3巻2011年9月 4巻2011年12月 角川書店カドカワコミックス・エース)
*[[十角館の殺人]](画:清原紘 『[[月刊アフタヌーン]]』 / 講談社)
=== ビデオゲーム ===
*[[黒ノ十三]](PlayStationソフト、トンキンハウス、1996年発売)監修
*ナイトメア・プロジェクト YAKATA(PlayStationソフト、アスク講談社、1998年発売)監修
*[[トリックロジック シーズン2]]([[PlayStation Portable]]ソフト、チュンソフト、2010年発売)「Yの標的」シナリオ
== 海外への翻訳 ==
=== 中国(簡化字) ===
*館シリーズ
**{{lang|zh|十角馆杀人预告}}(2004年4月、珠海出版社)- 十角館の殺人
**{{lang|zh|水车馆幻影}}(2004年4月、珠海出版社)- 水車館の殺人
**{{lang|zh|迷宫馆的诱惑}}(2004年4月、珠海出版社)- 迷路館の殺人
**{{lang|zh|偶人馆之谜}}(2004年4月、珠海出版社)- 人形館の殺人
**{{lang|zh|钟表馆幽灵}}(2004年4月、珠海出版社)- 時計館の殺人
**{{lang|zh|黑猫馆手记}}(2004年4月、珠海出版社)- 黒猫館の殺人
**{{lang|zh|黑暗馆不死传说}}(2005年10月、珠海出版社)- 暗黒館の殺人
*囁きシリーズ
**{{lang|zh|绯色杀人耳语}}(刊行予定、吉林出版集团有限责任公司)- 緋色の囁き
**{{lang|zh|黑暗杀人耳语}}(刊行予定、吉林出版集团有限责任公司)- 暗闇の囁き
**{{lang|zh|黄昏杀人耳语}}(刊行予定、吉林出版集团有限责任公司)- 黄昏の囁き
*殺人方程式シリーズ
**{{lang|zh|肢解尸体之谜}}(2010年5月、珠海出版社)- 殺人方程式 切断された死体の問題
**{{lang|zh|尸体长发之谜}}(2010年5月、珠海出版社)- 鳴風荘事件 殺人方程式II
*殺人鬼シリーズ
**{{lang|zh|杀人鬼}}(刊行予定、吉林出版集团有限责任公司)
**{{lang|zh|杀人鬼 II}}(刊行予定、吉林出版集团有限责任公司)
*雾越邸杀人事件(2007年11月、珠海出版社)
*咚咚吊桥 坠落(2007年11月、珠海出版社)- どんどん橋、落ちた
*{{lang|zh|替身}}(2012年3月、人民文学出版社)- Another
*怪胎 (刊行予定、吉林出版集团有限责任公司)- フリークス
=== 欧米(英語) ===
*The Decagon House Murders(2015年6月、Locked Room International、訳者:Ho-Ling Wong)- 十角館の殺人
*The Mill House Murders(2023年2月、Pushkin Vertigo、訳者:Ho-Ling Wong)- 水車館の殺人<ref name="The Mill House Murders">https://pushkinpress.com/books/the-mill-house-murders</ref>
== メディア出演 ==
=== 映画 ===
*[[アナザヘヴン]](2000年) - コメンテーター 役※[[京極夏彦]]と友情出演
=== テレビドラマ ===
*[[謎解きLIVE]] 第4弾 [四角館の密室]殺人事件(2016年1月23・24日、[[NHK BSプレミアム]]) - 堤源三朗 役(ドラマパート)※原作も担当
*[[安楽椅子探偵 (テレビドラマ)|安楽椅子探偵]] ON STAGE(2017年1月6日、朝日放送)
=== ラジオ ===
*[[東京ガベージコレクション]](2012年2月5・12日、[[エフエム東京]])
*[[ラジオ深夜便]](2012年5月18日、[[NHKラジオ第1放送]]・[[FMラジオ放送]])
*[[Berryz工房 嗣永桃子のぷりぷりプリンセス]](2012年7月1・15日、[[文化放送]][[超!A&G+]])※1日はコメントで出演、15日はゲスト出演
*冴沢鐘己のかしこTV(2017年11月30日、GIG TV MIX!!)
=== テレビ番組 ===
*[[クイズ!ヘキサゴン]](2004年8月25日、[[フジテレビジョン]]系列)
*[[爆笑問題のススメ]](2004年9月6日・2005年4月29日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列)
*[[情熱大陸]](2008年2月3日、[[TBSテレビ|TBS]]系列)
*CONTACT CAFE C(2012年2月14日、[[名古屋テレビ|メ~テレ]])
*[[MAG・ネット|MAG・ネット~マンガ・アニメ・ゲームのゲンバ]](2012年6月1日、[[NHK総合テレビ]])
*[[音龍門|音龍門 〜MUSIC DRAGON GATE〜]](2012年8月14日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
*偉大なるミステリー作家たち(2012年12月15日、[[チャンネル銀河]])
*麻雀 BATTLE ROYAL 2013(2012年12月31日 - 2013年1月3日、[[MONDO TV]])
*[[ザ・プロファイラー 〜夢と野望の人生〜|追跡者 ザ・プロファイラー]](2013年1月23日、[[NHK BSプレミアム]])
*[[SWITCHインタビュー 達人達]](2014年9月1日、[[NHK教育テレビ]])
*[[謎解きLIVE]] 第2弾 忍びの里殺人事件(2014年9月13日・14日、[[NHK BSプレミアム]])※スタジオゲスト
*[[宮崎美子のすずらん本屋堂]](2015年2月13日、[[BS11]])
*[[NHKアーカイブス]]「すべては乱歩から始まった~日本ミステリーの父 没後50年」(2015年4月19日、[[NHK BSプレミアム]])
*妖しい文学館(2015年7月30日、[[NHK BSプレミアム]])
*二十の顔を持つ男 ~没後50年・知られざる江戸川乱歩~(2015年8月1日、[[NHK教育テレビ]])
*久米書店(2016年8月14日、[[BS日テレ]])
*深読み読書会(2016年12月13日・2017年7月5日、[[NHK BSプレミアム]])
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[本格派推理小説]]
== 外部リンク ==
*[http://honkaku.com/ 本格ミステリ作家クラブ]
*{{Wayback |url=http://www.geocities.jp/y_ayatsuji/ |title={{lang|ja|綾辻行人データベースAyalist}} |date=20190326102112}}
*{{Twitter|ayatsujiyukito}}
* {{Instagram|ayatsujiyukito_another}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あやつし ゆきと}}
[[Category:綾辻行人|*]]
[[Category:20世紀日本の小説家]]
[[Category:21世紀日本の小説家]]
[[Category:日本の推理作家]]
[[Category:日本のホラー作家]]
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[[Category:日本推理作家協会賞受賞者]]
[[Category:小野不由美|+あやつし ゆきと]]
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[[Category:京都大学出身の人物]]
[[Category:京都市出身の人物]]
[[Category:1960年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T18:03:09Z | 2023-12-25T02:32:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E8%BE%BB%E8%A1%8C%E4%BA%BA |
1,890 | 森川ジョージ | 森川 ジョージ(もりかわ ジョージ、本名:森川 常次、1966年1月17日 - )は、日本の漫画家。血液型はO型。東京都足立区出身。越谷市立北陽中学校、埼玉県立松伏高等学校卒業。
講談社専属で少年漫画を執筆。代表作は『はじめの一歩』。2023年現在は日本漫画家協会所属。2023年4月時点で日本漫画家協会常務理事。
1983年、高校在学時に『シルエットナイト』で漫画家デビューを果たす。1989年から『週刊少年マガジン』にて『はじめの一歩』を連載。以降、漫画家歴の大半を同作の執筆に費やしている。
2012年には短期集中連載として22年ぶりの新作『会いにいくよ』(原作・のぶみ)の第1話を『週刊少年マガジン』2012年31号に発表したが、全5話と当初より告知されていたにもかかわらず『はじめの一歩』との同時連載に支障が生じたため休載が続き、完結したのは2014年7号だった。
子供時代には母親が家計を助けるためセル画彩色の内職を始めたが、トレス台の作業で目を悪くしたことから少年徳川家康(1975年放送)で使われる彩色を手伝ったことがあるという。
小学校時代にちばてつやの『ハリスの旋風』を読んで、漫画家を志すようになる。ボクシングは大好きであったが、尊敬するちばてつやがボクシング漫画を描いていたので、その分野は避けていたという。
デビュー後に連載した『一矢NOW』と『シグナルブルー』の2作品が相次いで打ち切りに遭う。いずれも編集サイドの意向を汲んで、いわば妥協の形でスタートさせた作品だっただけに、ショックも大きかったという。すでに妻子持ちで生活も苦しい状況でこれが駄目なら漫画家をやめようと決意し、本当に自分の好きな分野の作品を描こうとボクシングを題材とした『はじめの一歩』を執筆するきっかけになった。
ボクシングジム「JB SPORTSボクシングジム」のオーナーでもあり、現在は会長も兼任している。大の釣り好きで、週に一日は趣味に費やす日を確保するという。
同じマガジン連載の『もう、しませんから。』およびその続編『ちょっと盛りました。』では作者の西本英雄をいじめる傍若無人な人物として描かれている。森川は同作品4巻のカバーイラストも描いている。
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] | 森川 ジョージは、日本の漫画家。血液型はO型。東京都足立区出身。越谷市立北陽中学校、埼玉県立松伏高等学校卒業。 講談社専属で少年漫画を執筆。代表作は『はじめの一歩』。2023年現在は日本漫画家協会所属。2023年4月時点で日本漫画家協会常務理事。 | {{存命人物の出典明記|date=2018年4月}}
{{Infobox 漫画家
| 名前 = 森川 ジョージ
| ふりがな = もりかわ ジョージ
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| 本名 = 森川 常次
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'''森川 ジョージ'''(もりかわ ジョージ、本名:森川 常次、[[1966年]][[1月17日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。[[東京都]][[足立区]]出身<ref>{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/97362|title=「はじめの一歩」足立に在り 区内3カ所にマンホール蓋|newspaper=東京新聞|date=2021-4-11|accessdate=2023-7-8}}</ref>。[[越谷市立北陽中学校]]、[[埼玉県立松伏高等学校]]卒業。
[[講談社]]専属で[[少年漫画]]を執筆。代表作は『[[はじめの一歩]]』。2023年現在は[[日本漫画家協会]]所属<ref>{{Cite web|和書|url=https://nihonmangakakyokai.or.jp/member|title=会員一覧|website=漫画家協会WEB|publisher=日本漫画家協会|accessdate=2023-01-13}}</ref>。2023年4月時点で日本漫画家協会常務理事。
== 略歴 ==
[[1983年]]、高校在学時に『シルエットナイト』で漫画家デビューを果たす。[[1989年]]から『[[週刊少年マガジン]]』にて『はじめの一歩』を連載。以降、漫画家歴の大半を同作の執筆に費やしている。
2012年には短期集中連載として22年ぶりの新作『会いにいくよ』(原作・[[のぶみ]])の第1話を『週刊少年マガジン』2012年31号に発表したが、全5話と当初より告知されていたにもかかわらず『はじめの一歩』との同時連載に支障が生じたため休載が続き、完結したのは2014年7号だった<ref>2012年31号、32号、43号、2013年32号、2014年7号に掲載。</ref>。<!--https://www.itmedia.co.jp/ebook/articles/1206/15/news084.html 「心を込めて描きました」――「はじめの一歩」森川さん、22年ぶり新連載をTwitterで発表 - IT media eBook USER -->
== 人物 ==
子供時代には母親が家計を助けるため[[セル画]]彩色の内職を始めたが、[[トレス台]]の作業で目を悪くしたことから[[少年徳川家康]]([[1975年]]放送)で使われる彩色を手伝ったことがあるという<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/WANPOWANWAN/status/1714722591414644767 |url=https://twitter.com/WANPOWANWAN/status/1714722591414644767 |website=X (formerly Twitter) |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。
小学校時代に[[ちばてつや]]の『[[ハリスの旋風]]』を読んで、漫画家を志すようになる。ボクシングは大好きであったが、尊敬するちばてつやがボクシング漫画を描いていたので、その分野は避けていたという。
デビュー後に連載した『一矢NOW』と『シグナルブルー』の2作品が相次いで[[打ち切り]]に遭う。いずれも編集サイドの意向を汲んで、いわば妥協の形でスタートさせた作品だっただけに、ショックも大きかったという。すでに妻子持ちで生活も苦しい状況でこれが駄目なら漫画家をやめようと決意し、本当に自分の好きな分野の作品を描こうとボクシングを題材とした『はじめの一歩』を執筆するきっかけになった。
[[ボクシングジム]]「[[JB SPORTSボクシングジム]]」のオーナーでもあり、現在は会長も兼任している。大の釣り好きで、週に一日は趣味に費やす日を確保するという。
同じマガジン連載の『[[もう、しませんから。]]』およびその続編『[[ちょっと盛りました。]]』では作者の[[西本英雄]]をいじめる傍若無人な人物として描かれている。森川は同作品4巻のカバーイラストも描いている。
近年から{{いつ|date=2023年1月}}『マガジン』誌上での巻末コメントは[[川柳]]となっている。
[[埼玉県立戸田翔陽高等学校]]の校章をデザインした<ref>[https://shoyo-h.spec.ed.jp/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%A1%88%E5%86%85/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%9B%AE%E6%A8%99%E3%83%BB%E6%A0%A1%E9%95%B7%E6%8C%A8%E6%8B%B6%E3%83%BB%E7%89%B9%E8%89%B2%E3%83%BB%E6%A0%A1%E5%90%8D%E3%83%BB%E6%A0%A1%E7%AB%A0 学校案内 - 埼玉県立戸田翔陽高等学校]</ref>。
== 作品リスト ==
*インサイド・グラフィティー
*シルエットナイト
*一矢NOW(全2巻)
*シグナルブルー(全2巻)
*[[はじめの一歩]](週刊少年マガジン、連載中、既刊139巻)
*会いにいくよ(原作・のぶみ『上を向いて歩こう!』、全1巻)
=== その他 ===
* [[ダイヤのA]](第2期第6、7話エンドカード、2015年)
* [[アルスラーン戦記|アルスラーン戦記 風塵乱舞]](第5話エンドカード、2016年)
* [[UQ HOLDER!]](第11話エンドカード、2017年)
* [[リングマガジン]](2019年9月号表紙イラスト)<ref>[https://twitter.com/naoyainoue_410/status/1148401221792743424 井上尚弥のツイッターより]</ref>
* [[メイドインアビス 烈日の黄金郷]](第2話エンドカード、2022年)
== その他の活動 ==
* [[講談社漫画賞]]・選考委員 - 第30回(2006年)から第34回(2010年)まで
* [[日本漫画家協会]]・常務理事
== 関連番組 ==
* [[TVチャンピオン]]「少年マンガ王選手権」(1999年7月1日、テレビ東京) - 仕事場を訪れた選手たちに出題。
* [[出没!アド街ック天国]]「綾瀬」(2003年5月10日、テレビ東京) - 「JB SPORTSボクシングジム」(当時は「JB SPORTS CLUB」)を紹介。
== 関連人物 ==
*[[しげの秀一]](アシスタントとして師事)
*[[咲香里]](森川のアシスタント出身)
*[[高橋ナオト]]
*[[福島学]]
*[[西本英雄]]
*[[塀内夏子]]
*[[つくしあきひと]]
*[[三浦建太郎]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[http://jbsports.jp/ JBスポーツクラブ公式サイト]
*{{twitter|WANPOWANWAN}}
{{Normdaten}}
{{Manga-artist-stub}}
{{DEFAULTSORT:もりかわ しよおし}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本のプロボクシングプロモーター]]
[[Category:ボクシング解説者]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1966年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-15T18:03:56Z | 2023-11-25T18:43:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%B7%9D%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8 |
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