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シナプス
細胞生物学において、シナプス(synapse)は、神経細胞間あるいは筋繊維(筋線維)、神経細胞と他種細胞間に形成される、シグナル伝達などの神経活動に関わる接合部位とその構造である。化学シナプス(小胞シナプス)と電気シナプス(無小胞シナプス)、および両者が混在する混合シナプスに分類される。シグナルを伝える方の細胞をシナプス前細胞、伝えられる方の細胞をシナプス後細胞という。 化学シナプスとは、細胞間に神経伝達物質が放出され、それが受容体に結合することによって細胞間の情報伝達が行われるシナプスのことを指す。化学シナプスは電気シナプスより広範に見られ、一般にシナプスとだけ言われるときはこちらを指すことが多い。 化学シナプスの基本的構造は、神経細胞の軸索の先端が他の細胞(神経細胞の樹状突起や筋線維)と20nm程度の隙間(シナプス間隙)を空けて、シナプス接着分子によって細胞接着している状態である。シナプス間隙は模式図では強調されて大きな隙間をあけて描かれることが多いが、実際にはかなりべったりと接合している。 情報伝達は一方向に行われ、興奮がシナプスに達するとシナプス小胞が細胞膜に融合しシナプス間隙に神経伝達物質が放出される。そして拡散した神経伝達物質がシナプス後細胞に存在する受容体に結合することで刺激が伝達されて行く。 化学シナプスにおける典型的な情報伝達機序は以下のように進む。 化学シナプスは、興奮性シナプス、抑制性シナプス(シナプス後抑制性とも呼ばれる)、シナプス前抑制性の3つに分けられる。 シナプスの活動状態などによってシナプスの伝達効率が変化するシナプス可塑性は、記憶や学習に重要な役割を持つと考えられている。 シナプス前細胞とシナプス後細胞がともに高頻度で連続発火すると、持続的なEPSPによりシナプスの伝達効率が増加する。これを長期増強(LTP; Long Term Potentiation)という。また、低頻度の発火や、抑制性シナプス後細胞の連続発火によるIPSPの持続によって、シナプスの伝達効率が低下する現象を長期抑圧(LTD; Long Term Depression)という。近年では、シナプス前細胞とシナプス後細胞の発火時間差のみによっても結合強度に変化が見られることが分かっている。これをスパイクタイミング依存シナプス可塑性(STDP; Spike Timing Dependent Plasticity)という。 また、一旦LTPやLTDを起こしたシナプスに対して適切な刺激を与えると、そのLTPやLTDが消失する事も知られており、それぞれ脱増強 (Depotentiation)、脱抑圧 (Dedepression) などと呼ばれる。 電気シナプスとは、細胞間がイオンなどを通過させる分子で接着され、細胞間に直接イオン電流が流れることによって細胞間のシグナル伝達が行われるシナプスのことを指す。網膜の神経細胞間や心筋の筋繊維間などで広範に見られる。 化学シナプスのように方向づけられた伝達はできないが、それよりも高速な伝達が行われ、多くの細胞が協調して動作する現象を引き起こす。 電気シナプスは無脊椎動物の神経系では一般的にみられるが、長らく脊椎動物の中枢神経系では見出されておらず、脊椎動物の脳での神経伝達は化学シナプスのみによるものと考えられていた。 後になって海馬や大脳皮質の抑制性介在神経細胞の樹状突起間や下オリーブ核そして視床などでも発見され、伝達の遅延が問題になる中枢情報の重要な伝達手段となっていることが見出された。これにより同期した活動が大脳皮質に投射することが脳波として観察されることが明らかになった。 電気シナプスは一般に、コネクソンというタンパク質6量体が2つの細胞の細胞膜を貫通し、ギャップ結合と呼ばれる細胞間結合を形成している構造を持つ。コネクソンはコネキシンというタンパク質が六角形に配列した6量体構造で、中央に小孔が存在する。この小孔はカルシウムイオン濃度によってコネクソンが変形することで開閉する。小孔が開いているときには分子量が1000程度以下の分子を通過させ、濃度勾配圧などによって拡散する。 化学シナプスが数十 nm の間隔を持つのに対して、電気シナプスではコネクソンが両細胞膜の間隔を数 nm まで接近させており、極めて近接している。 発生過程でのシナプスの形成は、伸長する軸索の先端に存在する成長円錐が標的に到達した時に開始する(軸索誘導、シナプス形成、神経回路形成)。 神経終末の末端(神経終末球)に神経インパルスが到達すると、神経伝達物質であるアセチルコリンが、筋形質膜と神経終末球の間に広がるシナプス間隙に放出される。筋形質膜の凹凸部を運動終板と呼ぶ。運動終板上にはアセチルコリン受容体が位置し、アセチルコリンを受け取ると、ナトリウムイオンチャネルが開き、ナトリウムイオンが流れ込む。すると筋活動電位が発生し、筋肉が収縮する。アセチルコリンはアセチルコリンエステラーゼによって急速に分解される。
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細胞生物学において、シナプス(synapse)は、神経細胞間あるいは筋繊維(筋線維)、神経細胞と他種細胞間に形成される、シグナル伝達などの神経活動に関わる接合部位とその構造である。化学シナプス(小胞シナプス)と電気シナプス(無小胞シナプス)、および両者が混在する混合シナプスに分類される。シグナルを伝える方の細胞をシナプス前細胞、伝えられる方の細胞をシナプス後細胞という。
{{otheruses}} {{出典の明記|date=2008年10月}} {{No footnotes|date=2018年8月}} [[細胞生物学]]において、'''シナプス'''(synapse)は、[[神経細胞]]間あるいは[[筋繊維]](筋線維)、神経細胞と他種[[細胞]]間に形成される、[[シグナル伝達]]などの[[神経]]活動に関わる接合部位とその構造である。'''化学シナプス'''(小胞シナプス)と'''電気シナプス'''(無小胞シナプス)、および両者が混在する混合シナプスに分類される。シグナルを伝える方の細胞を'''シナプス前細胞'''、伝えられる方の細胞を'''シナプス後細胞'''という。 [[Image:Complete neuron cell diagram ja.svg|thumb|350px|'''[[神経細胞]]の構造図''' [[:en:Dendrites]]=[[樹状突起]]、[[:en:Rough ER]] ([[:en:Nissl body]])=[[粗面小胞体]]([[ニッスル小体]])、[[:en:Polyribosomes]]=[[ポリリボソーム]]、[[:en:Ribosomes]]=[[リボソーム]]、[[:en:Golgi apparatus]]=[[ゴルジ体]]、[[:en:Nucleus]]=[[細胞核]]、[[:en:Nucleolus]]=[[核小体]]、[[:en:Membrane]]=[[膜]]、[[:en:Microtubule]]=[[微小管]]、[[:en:Mitochondrion]]=[[ミトコンドリア]]、[[:en:Smooth ER]]=[[滑面小胞体]]、[[:en:Synapse]] (Axodendritic)='''シナプス'''([[軸索]][[樹状突起]]) [[:en:Synapse]]='''シナプス'''、 [[:en:Microtubule]] [[:en:Neurofibrils]]=[[微小管]][[ニューロフィラメント]]、[[:en:Neurotransmitter]]=[[神経伝達物質]]、[[:en:Receptor]]=[[受容体]]、 [[:en:Synaptic vesicles]]=[[シナプス小胞]]、[[:en:Synaptic cleft]]='''シナプス'''間隙、 [[:en:Axon terminal]]=[[軸索末端]]、[[:en:Node of Ranvier]] =[[ランヴィエの絞輪]] 、[[:en:Myelin Sheath]]([[:en:Schwann cell]])=[[ミエリン鞘]]([[シュワン細胞]])、[[:en:Axon hillock]]=[[軸索小丘]]、 [[:en:Nucleus]] ([[:en:Schwann cell]])=[[細胞核]]([[シュワン細胞]])、[[:en:Microfilament]]=[[マイクロフィラメント]]、[[:en:Axon]]=[[軸索]] ]] == 化学シナプス == [[Image:Synapse_diag1.svg|right|300px|thumb|'''シナプス前細胞(A)からシナプス後細胞(B)への化学シナプスを経由した神経伝達の様子''' (1)[[ミトコンドリア]]、(2)[[神経伝達物質]]が詰まったシナプス小胞、(3)自己受容体、(4)シナプス間隙を拡散する神経伝達物質、(5)後シナプス細胞の受容体、(6)前シナプス細胞の[[カルシウム]][[イオンチャネル]]、(7)シナプス小胞の開口放出、(8)神経伝達物質の能動的再吸収]] 化学シナプスとは、細胞間に[[神経伝達物質]]が放出され、それが[[受容体]]に結合することによって細胞間の情報伝達が行われるシナプスのことを指す。化学シナプスは電気シナプスより広範に見られ、一般にシナプスとだけ言われるときはこちらを指すことが多い。 ===構造と機序=== 化学シナプスの基本的構造は、神経細胞の軸索の先端が他の細胞(神経細胞の樹状突起や筋線維)と20nm程度の隙間('''シナプス間隙''')を空けて、[[シナプス接着分子]]によって[[細胞接着]]している状態である。シナプス間隙は模式図では強調されて大きな隙間をあけて描かれることが多いが、実際にはかなりべったりと接合している。 情報伝達は一方向に行われ、興奮がシナプスに達すると[[シナプス小胞]]が[[細胞膜]]に融合しシナプス間隙に[[神経伝達物質]]が放出される。そして拡散した神経伝達物質がシナプス後細胞に存在する[[受容体]]に結合することで刺激が伝達されて行く。 化学シナプスにおける典型的な情報伝達機序は以下のように進む。 #前シナプス細胞の軸索を活動電位が伝わり、末端にある膨らみであるシナプス小頭に到達する。 #活動電位によりシナプス小頭の膜上に位置する電位依存性[[カルシウム]][[イオンチャネル]]が開く。 #するとカルシウムイオンがシナプス内に流入し、シナプス小胞が細胞膜に接して神経伝達物質が細胞外に開口放出される。 #神経伝達物質はシナプス間隙を拡散し、後シナプス細胞の細胞膜上に分布する[[神経伝達物質受容体]]に結合する。 #後シナプス細胞のイオンチャネルが開き、細胞膜内外の電位差が変化する。 ===分類=== 化学シナプスは、興奮性シナプス、抑制性シナプス(シナプス後抑制性とも呼ばれる)、シナプス前抑制性の3つに分けられる。 *興奮性シナプスは信号を受け取ると、興奮性シナプス後電位(EPSP; Excitatory PostSynaptic Potential)という信号を発生させる。EPSPは神経細胞の分極状態が崩れる電位となるため、[[脱分極]]と呼ばれる。 *抑制性シナプスは信号を受け取ると、抑制性シナプス後電位(IPSP; Inhibitory PostSynaptic Potential)という信号を発生させる。IPSPは神経細胞の分極状態が強化される電位となるため、過分極と呼ばれる。 *シナプス前抑制性は、興奮性シナプスが起こす興奮性シナプス後電位(EPSP)を減少させる働きを持つ。 ===可塑性=== シナプスの活動状態などによってシナプスの伝達効率が変化する'''シナプス可塑性'''は、[[記憶]]や[[学習]]に重要な役割を持つと考えられている。 シナプス前細胞とシナプス後細胞がともに高頻度で連続発火すると、持続的な[[EPSP]]によりシナプスの伝達効率が増加する。これを[[長期増強]](LTP; Long Term Potentiation)という。また、低頻度の発火や、抑制性シナプス後細胞の連続発火によるIPSPの持続によって、シナプスの伝達効率が低下する現象を[[長期抑圧]](LTD; Long Term Depression)という。近年では、シナプス前細胞とシナプス後細胞の発火時間差のみによっても結合強度に変化が見られることが分かっている。これをスパイクタイミング依存シナプス可塑性(STDP; Spike Timing Dependent Plasticity)という。 また、一旦LTPやLTDを起こしたシナプスに対して適切な刺激を与えると、そのLTPやLTDが消失する事も知られており、それぞれ脱増強 (Depotentiation)、脱抑圧 (Dedepression) などと呼ばれる。 ==電気シナプス== [[Image:Gap_cell_junction-en.svg|thumb|300px|電気シナプス(ギャップ結合)の模式図]] 電気シナプスとは、細胞間が[[イオン]]などを通過させる分子で[[細胞接着|接着]]され、細胞間に直接[[イオン]][[電流]]が流れることによって細胞間の[[シグナル伝達]]が行われるシナプスのことを指す。[[網膜]]の神経細胞間や[[心筋]]の筋繊維間などで広範に見られる。 化学シナプスのように方向づけられた伝達はできないが、それよりも高速な伝達が行われ、多くの細胞が協調して動作する現象を引き起こす。 電気シナプスは[[無脊椎動物]]の神経系では一般的にみられるが、長らく脊椎動物の[[中枢神経系]]では見出されておらず、[[脊椎動物]]の脳での神経伝達は化学シナプスのみによるものと考えられていた。 後になって[[海馬 (脳)|海馬]]や[[大脳皮質]]の抑制性介在神経細胞の[[樹状突起]]間や[[下オリーブ核]]<ref>Llinas, R., Baker, R. and Sotelo, C. (1974), Electrotonic coupling between neurons in cat inferior olive, J. Neurophysiol., 37: 560 – 571</ref>そして[[視床]]<ref>Condorelli D.F.Trovato-Salinaro A.Mudo G.Mirone M.B.Belluardo N.fCellular expression of connexins in the rat brain neuronal localization, effects of kainate-induced seizures and expression in apoptotic neuronal cells.Eur. J. Neurosci. 2003; 18: 1807-1827</ref>などでも発見され、伝達の遅延が問題になる中枢情報の重要な伝達手段となっていることが見出された。これにより同期した活動が大脳皮質に投射することが[[脳波]]として観察されることが明らかになった。 ===構造と機序=== 電気シナプスは一般に、[[コネクソン]]という[[タンパク質]]6量体が2つの細胞の[[細胞膜]]を貫通し、[[ギャップ結合]]と呼ばれる細胞間結合を形成している構造を持つ。コネクソンは[[コネキシン]]というタンパク質が[[六角形]]に配列した6量体構造で、中央に小孔が存在する。この小孔は[[カルシウム]]イオン濃度によってコネクソンが変形することで開閉する。小孔が開いているときには[[分子量]]が1000程度以下の分子を通過させ、濃度勾配圧などによって[[拡散]]する。 化学シナプスが数十 nm の間隔を持つのに対して、電気シナプスではコネクソンが両細胞膜の間隔を数 nm まで接近させており、極めて近接している。 ==形成== 発生過程でのシナプスの形成は、伸長する[[軸索]]の先端に存在する[[成長円錐]]が標的に到達した時に開始する([[軸索誘導]]、[[シナプス形成]]、[[神経回路形成]])。 ==分布とシグナル伝達== [[Image:Synapse diag3.png|right|300px|thumb|'''神経筋接合部''' (1)運動ニューロンの軸索、(2)神経筋接合部、(3)[[筋線維]]、(4)[[筋原線維]]]] [[Image:Synapse diag4.png|right|300px|thumb|'''神経筋接合部の拡大図''' (1)神経終末と神経終末球、(2)筋形質膜、(3)[[アセチルコリン]]を含んだシナプス小胞、(4)[[アセチルコリン受容体]]、(5)[[ミトコンドリア]]。]] 神経終末の末端(神経終末球)に神経インパルスが到達すると、神経伝達物質である[[アセチルコリン]]が、筋形質膜と神経終末球の間に広がるシナプス間隙に放出される。筋形質膜の凹凸部を運動終板と呼ぶ。運動終板上にはアセチルコリン受容体が位置し、アセチルコリンを受け取ると、[[ナトリウム]][[イオンチャネル]]が開き、[[ナトリウムイオン]]が流れ込む。すると筋活動電位が発生し、筋肉が収縮する。アセチルコリンは[[コリンエステラーゼ|アセチルコリンエステラーゼ]]によって急速に分解される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[神経科学]] *[[神経解剖学]] *[[ニューラルネットワーク]] *[[ヘッブの法則]] *[[動物のニューロンの数の一覧]] == 外部リンク == *{{脳科学辞典|シナプス}} *{{脳科学辞典|シナプス小胞|nolink=yes}} *{{脳科学辞典|神経筋接合部|nolink=yes}} 運動神経と筋肉との間のシナプスについての解説。 *{{脳科学辞典|放出可能プール|nolink=yes}} 神経伝達に関わるシナプス顆粒のうち、即座に放出できるプールについての解説。 *{{脳科学辞典|遅いシナプス後電位|nolink=yes}} 神経伝達のうち代謝型受容体に担われるおそい成分についての解説。 *{{脳科学辞典|FM1-43|nolink=yes}} シナプス顆粒の放出を可視化する色素であるFM1-43についての解説。 *{{脳科学辞典|シナプス前終末|nolink=yes}}  {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しなふす}} [[Category:細胞生物学]] [[Category:神経]] [[Category:認知科学]] [[Category:脳]]
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放火及び失火の罪
放火及び失火の罪(ほうかおよびしっかのつみ)は、日本の刑法第2編第9章、108条~118条に定められる犯罪である。放火行為など、火力その他により、住居などの財産を侵害した場合に成立する。財産犯としての性格と、公共危険犯 (Gemeingefährliches Delikt) の性格をあわせもつ。 本記事では日本における放火についても記述する。 この章に規定される罪は以下の通り。 森林法第202条から第204条にかけて、森林への放火及び失火罪に刑事罰が規定されている。 放火は古代の日本より重罪として処されてきた。 日本における火災の原因で最も多いものは放火であり、ここ数年はほぼ毎年のようにトップに挙がっている。平成15年以降おおむね減少傾向が続いており、平成25年中の放火による出火件数は5,093件で、前年(5,370件)に比べ、277件(5.2%)減少しているものの、全火災(4万8,095件)の10.6%を占め、17年連続して出火原因の第1位となっている。これに放火の疑いを加えると8,786件(全火災の18.3%、対前年度比1.1%減)となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "放火及び失火の罪(ほうかおよびしっかのつみ)は、日本の刑法第2編第9章、108条~118条に定められる犯罪である。放火行為など、火力その他により、住居などの財産を侵害した場合に成立する。財産犯としての性格と、公共危険犯 (Gemeingefährliches Delikt) の性格をあわせもつ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本記事では日本における放火についても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この章に規定される罪は以下の通り。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "森林法第202条から第204条にかけて、森林への放火及び失火罪に刑事罰が規定されている。", "title": "刑法以外の刑事罰" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "放火は古代の日本より重罪として処されてきた。", "title": "日本における放火" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本における火災の原因で最も多いものは放火であり、ここ数年はほぼ毎年のようにトップに挙がっている。平成15年以降おおむね減少傾向が続いており、平成25年中の放火による出火件数は5,093件で、前年(5,370件)に比べ、277件(5.2%)減少しているものの、全火災(4万8,095件)の10.6%を占め、17年連続して出火原因の第1位となっている。これに放火の疑いを加えると8,786件(全火災の18.3%、対前年度比1.1%減)となる。", "title": "日本における放火" } ]
放火及び失火の罪(ほうかおよびしっかのつみ)は、日本の刑法第2編第9章、108条~118条に定められる犯罪である。放火行為など、火力その他により、住居などの財産を侵害した場合に成立する。財産犯としての性格と、公共危険犯 の性格をあわせもつ。 本記事では日本における放火についても記述する。
{{Law}} {{日本の犯罪 | 罪名 = 放火及び失火の罪 | 法律・条文 = 刑法108条~118条 | 保護法益 = 公共の安全 | 主体 = 人 | 客体 = 各類型による | 実行行為 = 各類型による | 主観 = 各類型による | 結果 = 危険犯 | 実行の着手 = 各類型による | 既遂時期 = 各類型による | 法定刑 = 各類型による | 未遂・予備 = 未遂罪(112条) }} {{日本の刑法}} {{ウィキプロジェクトリンク|刑法 (犯罪)}} '''放火及び失火の罪'''(ほうかおよびしっかのつみ)は、日本の[[b:コンメンタール刑法#2-9|刑法第2編第9章]]、108条~118条に定められる[[犯罪]]である。放火行為など、火力その他により、[[住居]]などの[[財産]]を侵害した場合に成立する。[[財産犯]]としての性格と、[[公共危険犯]] (Gemeingefährliches Delikt) の性格をあわせもつ。 本記事では日本における放火についても記述する。 == 内容 == この章に規定される罪は以下の通り。 * [[b:刑法第108条|108条]] :[[現住建造物等放火罪]] * [[b:刑法第109条|109条]]1項 :[[非現住建造物等放火罪]] * 109条2項 :[[自己所有非現住建造物等放火罪]] * [[b:刑法第110条|110条]]1項 :[[建造物等以外放火罪]] * 110条2項 :[[自己所有建造物等以外放火罪]] * [[b:刑法第111条|111条]]1項 :自己所有物への放火による現住建造物または他人所有建造物への[[延焼罪]] * 111条2項 :自己所有の建造物以外の物への放火による他人所有の建造物以外の物への延焼罪 * [[b:刑法第112条|112条]] :現住建造物等放火罪の[[未遂]]、他人所有非現住建造物等放火罪の未遂 * [[b:刑法第113条|113条]] :現住建造物等放火罪の[[予備]]、他人所有非現住建造物等放火罪の予備 * [[b:刑法第114条|114条]] :[[消火妨害罪]] * [[b:刑法第116条|116条]]1項 :現住建造物[[b:刑法第116条|失火罪]]、他人所有非現住建造物失火罪 * 116条2項 :自己所有非現住建造物等失火罪、建造物等以外失火罪 * [[b:刑法第117条|117条]] :[[激発物破裂罪]] * 117条2項 :[[過失激発物破裂罪]] * 117の2条 :業務上失火等罪 * [[b:刑法第118条|118条]]1項 :[[ガス漏出等罪]] * 118条2項 :[[ガス漏出等致死傷罪]] ===主要放火、失火罪比較表=== {| class="wikitable" |+ |- !条文!!罪名!!客体!!公共の危険の要否 |- |108||現住建造物等放火罪||現住建造物等||不要 |- |109-1||非現住建造物等放火罪||他人所有非現住建造物||不要 |- |109-2||自己所有非現住建造物等放火罪||自己所有非現住建造物||必要 |- |110-1||建造物等以外放火罪||建造物以外の他人の物||必要 |- |110-2||自己所有建造物等以外放火罪||建造物以外の自己所有物||必要 |- |111-1||1項延焼罪||自己所有物から、現住建造物、他人所有非現住建造物||不要 |- |111-2||2項延焼罪||自己所有の建造物以外の物から他人所有の建造物以外の物||不要 |- |116-1||1項失火罪||現住建造物、他人所有非現住建造物||不要 |- |116-2||2項失火罪||自己所有非現住建造物、建造物以外の物||必要 |} == 刑法以外の刑事罰 == [[森林法]][[b:森林法第202条|第202条]]から第204条にかけて、森林への放火及び失火罪に刑事罰が規定されている。 == 日本における放火 == 放火は古代の日本より重罪として処されてきた。 日本における[[火災]]の原因で最も多いものは放火であり、ここ数年はほぼ毎年のようにトップに挙がっている。平成15年以降おおむね減少傾向が続いており、平成25年中の放火による出火件数は5,093件で、前年(5,370件)に比べ、277件(5.2%)減少しているものの、全火災(4万8,095件)の10.6%を占め、17年連続して出火原因の第1位となっている。これに放火の疑いを加えると8,786件(全火災の18.3%、対前年度比1.1%減)となる<ref>[http://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h26/h26/html/1-1a-0.html 平成26年版消防白書]</ref>。 === 放火対策 === * 総務省消防庁では、学識経験者、消防行政関係者などを中心に、平成9、10年度に「防火対象物の放火火災予防対策のあり方検討報告書」、平成14、15年度に「放火対策検討会(中間報告書)」をとりまとめるとともに、必要な対策をその都度講じてきている。また、有識者による検討を踏まえた対応のほか、春秋の全国火災予防運動において重点目標に取り上げ、消防機関のみならず個人、事業所、自治会などによる放火火災の防止に向けた取組みを継続的に行ってきている<ref>[http://www.fdma.go.jp/neuter/topics/fieldList4_6.html 放火火災防止対策(総務省消防庁ホームページ)]</ref>。 * 消防機関が放火件数の増加原因を調査した結果、自動車やオートバイ等のボディカバーへの放火が大きな要因となっており、消防機関からこれらの防炎化について強い要望があり、平成4年に新たに防炎製品に追加された。ボディカバーのほかにも広告幕、軒出しテント、デザインテントなど放火対策に役立つ様々なものが防炎製品として認定され、炎のマークが目印のラベルが付けられている<ref>{{PDFlink|[http://www.jfra.or.jp/member/pdf/seihin_pamphlet_etc.pdf 防炎製品いろいろ - (公財)日本防炎協会]}}</ref>。 * [[暴力団]]同士の対立[[抗争]]の中で、[[火炎瓶]]を用いて相手事務所に放火する事件が発生することがある。2013年以降は、[[暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律|暴対法]]の改正により全国の[[暴力追放運動推進センター]]が代理訴訟を起こせるようになっており、原因となる暴力団事務所の使用差し止めを求める[[仮処分]]の申し立て等を行うことが可能となっている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-10-30|url= https://www.sankei.com/article/20171030-FFCY5EZ45VNE5IVPGV6TCUASVU/2/|title= 本部事務所を閉鎖か、神戸山口組 住民代理訴訟受け|publisher= 産経新聞|accessdate=2018-03-31}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[放火罪]] * [[失火ノ責任ニ関スル法律]](失火責任法:しっかせきにんほう) * [[火炎びんの使用等の処罰に関する法律]] == 外部リンク == * [https://www.fdma.go.jp/ 消防庁ホームページ] * [http://www.jfra.or.jp/ (公財)日本防炎協会ホームページ] * [https://www.youtube.com/channel/UCGbON_n_oeTlScY8fhpwDnA 防炎品の燃えにくさ(YouTube動画)/防炎チャンネル] {{日本の刑法犯罪}} {{DEFAULTSORT:ほうかおよひしつかのつみ}} [[Category:日本の犯罪類型]] [[Category:日本の放火事件|*]] [[fr:Incendie#Incendies volontaires]]
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偏光
偏光(へんこう、英: polarization)は、電場および磁場の振動方向が規則的な光のこと。これに対して、無規則に振動している光は、非偏光あるいは自然光と呼ぶ。一部の結晶や光学フィルターを通すことによって、自然光から偏光を得ることができる。電波における同様の現象は偏波(へんぱ)と呼び、アンテナの形状などと関係する。 光は電磁波であり、光が発生させる電磁場は、進行方向と垂直に振動する横波である。横波の自由度は2であるため、光が発生させる電磁場は、面内を振動するベクトル波となる。このことはマクスウェルの方程式を解くことにより得られる。偏光には次のような種類がある。 電場(および磁場)の振動方向が一定である。歴史的経緯から、もともと直線偏光の方向とは磁場の方向を指していた。光の正体が電磁場であることが分かってからは、電場の方向を直線偏光の方向ということも多くなった。直線偏光の方向というのはあいまいな用語なので使用せずに、例えば電場の振動方向という表現で特定することが推奨されている。 電場(および磁場)の振動が伝播に伴って円を描く。回転方向によって、右円偏光と左円偏光がある。角運動量を持つ。 直線偏光と円偏光の一次結合で表現される、最も一般的な偏光状態。電場(および磁場)の振動が時間に関して楕円を描く。円偏光と同様に、右楕円偏光と左楕円偏光がある。位相のずれた2つの直線偏光の和と見なしたり、逆にUHFなどの適度な波長の電波などは設置角度の異なる隣接した2つのアンテナから位相のずれた2種類の偏波を同時に送信するなどして(楕)円偏波を合成することも出来る。楕円偏光を垂直な2種類の偏光に分解した時、その2種類の光の強さが等しいものは円偏光である。 自然光(非偏光)や円偏光から直線偏光を作り出すものを、偏光子(へんこうし)と呼ぶ。 直交する偏光成分の間に位相差を生じさせる複屈折素子のことである。位相板とも呼ばれる。位相差π(180度)を生じるものをλ/2板(にぶんのラムダばん)または半波長板と呼び、直線偏光の偏光方向を変えるために用いる。位相差π/2(90度)を生じるものをλ/4板(よんぶんのラムダばん、しぶんのラムダばん)または四分の一波長板と呼び、直線偏光を円偏光(楕円偏光)に変換、また逆に円偏光(楕円偏光)を直線偏光に変換するために用いる。これらは光を吸収せず、位相のみを変える。 物質の一部には、偏光を入射すると透過した光の偏光面が右ないし左によじれる性質を持つ物がある。この物性を旋光性とよび、旋光性をもつ化合物を光学活性であると言う。 偏光面のよじれ具合を旋光度と呼び、単位は角度(度)で右によじれる場合を + とする。旋光度は透過した距離と光学活性物質の濃度に比例し、旋光度を光路長と濃度で割って規格化した値を比旋光度と呼ぶ。比旋光度は温度、溶媒、光の波長が同じであれば、各物質に固有の値であるので、天然物などの化合物の同定にも用いられる。 偏光フィルターは、特定の方向に振動する電磁場の通過を抑制することができる光学素子である。反射光は偏光しているため、カメラに偏光フィルターを装着した上で、フィルターの向きを調整すると、水辺の撮影などにおいて、水面などの反射光を除去することにより、水面の影響を受けずに水中を撮影することなどができるようになる。 液晶ディスプレイの表面と裏面には、特定の直線偏光のみを通す「偏光フィルター」が貼られており、液晶によって各画素ごとに旋光性や複屈折性をコントロールすることで、映像を表示している。 光磁気ディスクには、磁気によって偏光面が回転する性質(磁気光学カー効果)を持った物質が含まれており、レーザー光を照射して反射してきた光の偏光面を検出してデータを読み取る。 立体映画の手法としても用いられる。左右の映像にそれぞれ縦横の偏光をかけて重ねて映写し、観客は偏光フィルターの付いたメガネを装着することで、左右の映像を分離して知覚できるため、立体像を鑑賞することが可能となる。比較的低コストでカラー映像を映写できる利点があるが、非平面スクリーンでは偏光がズレてしまうため映写できない。また直偏光では顔やメガネが傾くと正常に立体視できない事があり、近年は円偏光が用いられる方式が多い。 刑務所の扉の窓には、偏光板が貼られたものがある。これは、通路の両側にある部屋の窓の偏光を、片方は垂直、片方は水平に偏光させることにより、看守は両側の部屋の内部を見ることができるが、向かいの部屋の囚人同士は互いを見られなくすることができる。 テレビジョン放送においては、地上波では偏波面の直交する直線偏波はとりわけ短距離では混信・干渉しないという性質を利用して、複数の送信所での混信を抑制する手法の一つとして、垂直偏波と水平偏波を使い分けているが、遠距離受信を想定した大出力の送信所は、水平偏波になっている。 衛星放送では、以前より一部の有料放送において垂直偏波と水平偏波で、異なる放送局のチャンネルを割り当てていたが、放送衛星においても、4K・8K放送開始以降は、右旋と左旋の二種類の円偏波では混信が起きないため、別のチャンネルを割り当てている。一方で、ラジオのAM放送は波長が長いため、アンテナの設置に必要な土地の面積の制約から垂直偏波が用いられる。 人間の眼は光の強度と色を識別することはできるが、偏光はほとんど識別することができない。わずかに網膜の中心部に偏光特性があり、注意深く見ればハイディンガーのブラシとして知られるかすかな黄色と青色の筋が見えるが、これには個人差がある。 そのため一般には人間が偏光を識別するためには偏光子を通して見なければならない。 一方、昆虫は偏光を識別できる。昆虫の複眼の中には、特定の偏光方向に敏感な視細胞が色々な方位に規則正しく集合しているからである。昆虫は自然界の偏光をうまく利用している。例えば、ハチは天空の光の偏極を元にして太陽の見えない曇空であっても方向を間違えずに長距離を飛ぶことができる。また、ある種のカゲロウは生殖期になると水溜まりの反射光の偏光を頼りに集合する。カメムシやタマムシなどの一部の昆虫の体は液晶のような構造色を持っており、片方の円偏光のみを選択的に反射する。さらにシャコにいたっては、円偏光の回転方向を識別できる。また、カマキリに寄生したハリガネムシは、偏光を識別できるカマキリの視覚を利用して、宿主を水辺へと誘導している。 任意の偏極状態は球上の点で表現できる。左円偏光は+z極、右円偏光は−z極である。水平偏極を+xとすると鉛直偏極は−xであり、+yと−yは対角方位の偏極となる。赤道上の他の全ての点は他の方位の直線偏光である。二色性の波長板を通ることは球を回転することに等しい。偏極子のy軸を横切る偏極 xの振幅の大きさはx軸とy軸の鏡面との距離の1/2となり、すなわち強度は x y + 1 2 {\displaystyle {\tfrac {xy+1}{2}}} となる。 球による表現はアンリ・ポアンカレによって考えられたものであり、ウィリアム・シュルクリフ(William A. Shurcliff)によって英語で拡張されて論じられた。 偏光に関係する概念として、以上のような「光それ自体」に関するものとは別に、異なる物質間の境界面で光が反射するときの「入射面」と「電場または磁場の振動方向」によって定義される概念がある。光学では、s波(s偏光)とp波(p偏光)とに区別される。定義や他の呼称については下記の「偏光の呼称」の表を参照のこと。光が境界面に入射するときには、その光をs波成分とp波成分とに分けることができ、全体としての反射率は(s波成分の割合×s波の反射率)+(p波成分の割合×p波の反射率)で表される。円偏光の場合には常に、s波成分の割合が50%、p波成分の割合が50%となる。p波の反射率は、どの入射角でもs波よりも以下である。ブリュースター角において反射率が0になるのはp波のみである。 注意が必要なのは、s波p波の概念は、入射面が存在するときしたがって光が異なる物質間の境界に入射するときにのみ定義される概念だということである。空気中を進む直線偏光を、その電場の振動方向(重力に対して水平か垂直か)によってs波あるいはp波と呼ぶことがあるが、誤りである。また、境界面に対して光が垂直に入射するときには、s偏光とp偏光との区別はない。 s偏光とp偏光は、それぞれ垂直・平行な偏光という意味であるが、何を基準に垂直・平行と考えているのか注意する必要がある。回折格子に光を入射して分光する系では、格子の方向を基準とする定義が一般的であるため、入射面を基準とする定義とは、反対になり、しばしば混乱される。 電波を扱う電気工学と光を扱う光学が歴史的に別の学問として発展してきたため、同一の偏光に複数の名称があることがある。なお、導波管やFDTD法での偏光の名称は電気工学と同様であるが、その定義は逆である。
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Shurcliff)によって英語で拡張されて論じられた。", "title": "ポアンカレ球" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "偏光に関係する概念として、以上のような「光それ自体」に関するものとは別に、異なる物質間の境界面で光が反射するときの「入射面」と「電場または磁場の振動方向」によって定義される概念がある。光学では、s波(s偏光)とp波(p偏光)とに区別される。定義や他の呼称については下記の「偏光の呼称」の表を参照のこと。光が境界面に入射するときには、その光をs波成分とp波成分とに分けることができ、全体としての反射率は(s波成分の割合×s波の反射率)+(p波成分の割合×p波の反射率)で表される。円偏光の場合には常に、s波成分の割合が50%、p波成分の割合が50%となる。p波の反射率は、どの入射角でもs波よりも以下である。ブリュースター角において反射率が0になるのはp波のみである。", "title": "反射と偏光" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "注意が必要なのは、s波p波の概念は、入射面が存在するときしたがって光が異なる物質間の境界に入射するときにのみ定義される概念だということである。空気中を進む直線偏光を、その電場の振動方向(重力に対して水平か垂直か)によってs波あるいはp波と呼ぶことがあるが、誤りである。また、境界面に対して光が垂直に入射するときには、s偏光とp偏光との区別はない。", "title": "反射と偏光" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "s偏光とp偏光は、それぞれ垂直・平行な偏光という意味であるが、何を基準に垂直・平行と考えているのか注意する必要がある。回折格子に光を入射して分光する系では、格子の方向を基準とする定義が一般的であるため、入射面を基準とする定義とは、反対になり、しばしば混乱される。", "title": "反射と偏光" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "電波を扱う電気工学と光を扱う光学が歴史的に別の学問として発展してきたため、同一の偏光に複数の名称があることがある。なお、導波管やFDTD法での偏光の名称は電気工学と同様であるが、その定義は逆である。", "title": "偏光の用語" } ]
偏光は、電場および磁場の振動方向が規則的な光のこと。これに対して、無規則に振動している光は、非偏光あるいは自然光と呼ぶ。一部の結晶や光学フィルターを通すことによって、自然光から偏光を得ることができる。電波における同様の現象は偏波(へんぱ)と呼び、アンテナの形状などと関係する。
{{出典の明記|date=2018年2月}} {{物理学}} '''偏光'''(へんこう、{{Lang-en-short|polarization}})は、[[電場]]および[[磁場]]の[[振動]]方向が規則的な[[光]]のこと。これに対して、無規則に振動している光は、非偏光あるいは自然光と呼ぶ。一部の[[結晶]]や[[光学]]フィルターを通すことによって、自然光から偏光を得ることができる。[[電波]]における同様の現象は'''偏波'''(へんぱ)と呼び、[[アンテナ]]の形状などと関係する。 == 種類 == [[ファイル:Rising circular.gif|サムネイル|直線偏光と円偏光のアニメーション。円偏光は、直交する2つの直線偏光を合成したものと考えることができる。]] 光は[[電磁波]]であり、光が発生させる電磁場は、進行方向と垂直に振動する[[縦波と横波|横波]]である。横波の自由度は2であるため、光が発生させる電磁場は、面内を振動するベクトル波となる。このことは[[マクスウェルの方程式]]を解くことにより得られる。偏光には次のような種類がある。 === 直線偏光 === 電場(および磁場)の振動方向が一定である。歴史的経緯から、もともと直線偏光の方向とは磁場の方向を指していた。光の正体が電磁場であることが分かってからは、電場の方向を直線偏光の方向ということも多くなった。直線偏光の方向というのはあいまいな用語なので使用せずに、例えば電場の振動方向という表現で特定することが推奨されている。 === 円偏光 === 電場(および磁場)の振動が伝播に伴って円を描く。回転方向によって、右円偏光と左円偏光がある。角運動量を持つ。 === 楕円偏光 === 直線偏光と円偏光の一次結合で表現される、最も一般的な偏光状態。電場(および磁場)の振動が時間に関して[[楕円]]を描く。円偏光と同様に、右楕円偏光と左楕円偏光がある。位相のずれた2つの直線偏光の和と見なしたり、逆にUHFなどの適度な波長の電波などは設置角度の異なる隣接した2つのアンテナから位相のずれた2種類の偏波を同時に送信するなどして(楕)円偏波を合成することも出来る。楕円偏光を垂直な2種類の偏光に分解した時、その2種類の光の強さが等しいものは円偏光である。 <div style="float:left; width:170px"> [[Image:Linear polarization schematic.png|center|Linear polarization diagram]] <center>''直線偏光''</center> </div> <div style="float:left; width:170px"> [[Image:Circular polarization schematic.png|center|Circular polarization diagram]] <center>''円偏光''</center> </div> <div style="float:left; width:170px"> [[Image:Elliptical polarization schematic.png|center|Elliptical polarization diagram]] <center>''楕円偏光''</center> </div> {{clear}} == 偏光を作り出す光学素子 == === 偏光子 === [[ファイル:Wire-grid-polarizer.svg|thumb|300px|'''偏光子'''<br />'''左側''':偏光していない自然光。<br />'''中央''':偏光子が電場の水平方向成分を吸収する。<br />'''右側''':垂直方向成分のみを持った直線偏光が得られる。]] 自然光(非偏光)や円偏光から直線偏光を作り出すものを、'''偏光子'''(へんこうし)と呼ぶ。 ; 吸収型偏光子 : ある方位の電場を吸収し、それに垂直な方位の電場を透過することにより直線偏光を作り出すもの。[[鉱物]]では電気石([[トルマリン]])など。人工の物としては[[ポラロイド]]社などの[[ポリマー]]で作られたフィルム偏光子がある。これは廉価である。一般的に[[セロハンテープ]]などのように1方向に引き伸ばされて作られる[[高分子]]には偏光特性がある。 ; 結晶 : [[方解石]]などの[[複屈折性]]の結晶を利用したもの。古くから用いられている。これは高価である。 ; 反射式偏光子 : 反射面に対し角度を持って反射した光が部分的に偏光することを利用し、多段階の反射を用いて直線偏光を作り出すものである。反射光が一般に偏極するということは[[フレネルの式]]で記述される。 === 波長板 === 直交する偏光成分の間に位相差を生じさせる複屈折素子のことである。位相板とも呼ばれる。位相差π(180度)を生じるものを'''λ/2板'''(にぶんのラムダばん)または'''半波長板'''と呼び、直線偏光の偏光方向を変えるために用いる。位相差π/2(90度)を生じるものを'''λ/4板'''(よんぶんのラムダばん、しぶんのラムダばん)または'''四分の一波長板'''と呼び、直線偏光を円偏光(楕円偏光)に変換、また逆に円偏光(楕円偏光)を直線偏光に変換するために用いる。これらは光を吸収せず、位相のみを変える。 ; プラスチックフィルム : ポラロイド社などからプラスチックの薄い板を用いた波長板が市販されている。廉価であり、波長特性も可視光全域でほぼ一定になるように作られている。 ; 結晶 : [[水晶]]や[[雲母]]などの結晶を用いて位相を変える素子。素子の厚さによって特性が決まり、用いる光の波長によって特性が異なるため代表的なレーザー波長に対して専用の素子が市販されている。 ; 反射式 : 菱形プリズム内の全反射を利用した光学素子[[フレネルロム]]のような波長板も存在する。波長特性はプラスチックフィルムよりも良いが高価である。 == 物性としての偏光 == 物質の一部には、偏光を入射すると透過した光の偏光面が右ないし左によじれる性質を持つ物がある。この物性を[[旋光性]]とよび、旋光性をもつ化合物を光学活性であると言う。 偏光面のよじれ具合を旋光度と呼び、単位は角度(度)で右によじれる場合を + とする。旋光度は透過した距離と光学活性物質の濃度に比例し、旋光度を光路長と濃度で割って規格化した値を比旋光度と呼ぶ。比旋光度は温度、溶媒、光の波長が同じであれば、各物質に固有の値であるので、[[天然物]]などの化合物の同定にも用いられる。 == 偏光の工学的応用 == [[ファイル:Animation polariseur 2.gif|thumb|偏光フィルターを応用したシャッター]] [[ファイル:Cross linear polarization.gif|サムネイル|偏光フィルターを応用したシャッターの原理を表す図]] 偏光フィルターは、特定の方向に振動する電磁場の通過を抑制することができる[[光学素子]]である。反射光は偏光しているため、[[カメラ]]に[[レンズフィルター#偏光フィルター|偏光フィルター]]を装着した上で、フィルターの向きを調整すると、水辺の撮影などにおいて、水面などの反射光を除去することにより、水面の影響を受けずに水中を撮影することなどができるようになる。 [[液晶ディスプレイ]]の表面と裏面には、特定の直線偏光のみを通す「偏光フィルター」が貼られており、[[液晶]]によって各画素ごとに旋光性や複屈折性をコントロールすることで、映像を表示している。 [[光磁気ディスク]]には、磁気によって偏光面が回転する性質([[磁気光学カー効果]])を持った物質が含まれており、[[レーザー]]光を照射して反射してきた光の偏光面を検出してデータを読み取る。 [[立体映画]]の手法としても用いられる。左右の映像にそれぞれ縦横の偏光をかけて重ねて映写し、観客は偏光フィルターの付いたメガネを装着することで、左右の映像を分離して知覚できるため、立体像を鑑賞することが可能となる。比較的低コストでカラー映像を映写できる利点があるが、非平面スクリーンでは偏光がズレてしまうため映写できない。また直偏光では顔やメガネが傾くと正常に立体視できない事があり、近年は円偏光が用いられる方式が多い。 [[刑務所]]の扉の窓には、偏光板が貼られたものがある。これは、通路の両側にある部屋の窓の偏光を、片方は垂直、片方は水平に偏光させることにより、看守は両側の部屋の内部を見ることができるが、向かいの部屋の囚人同士は互いを見られなくすることができる。 [[テレビジョン放送]]においては、地上波では偏波面の直交する直線偏波はとりわけ短距離では[[混信]]・干渉しないという性質を利用して、複数の送信所での混信を抑制する手法の一つとして、垂直偏波と水平偏波を使い分けているが、遠距離受信を想定した大出力の送信所は、水平偏波になっている。 [[ファイル:MF TransmittingTower2.jpg|サムネイル|NHK甲府放送局のAMアンテナ。100m以上の高さがあり、これを水平に設置するのは容易ではない。]] [[衛星放送]]では、以前より一部の有料放送において垂直偏波と水平偏波で、異なる放送局のチャンネルを割り当てていたが、[[放送衛星]]においても、4K・8K放送開始以降は、右旋と左旋の二種類の円偏波では混信が起きないため、別のチャンネルを割り当てている。一方で、[[ラジオ]]の[[振幅変調|AM]]放送は波長が長いため、アンテナの設置に必要な土地の面積の制約から垂直偏波が用いられる。 {{Seealso|放送衛星#左旋と右旋}} == 生物の眼と偏光の認識 == 人間の眼は光の強度と色を識別することはできるが、偏光はほとんど識別することができない。わずかに[[網膜]]の中心部に偏光特性があり、注意深く見れば[[ハイディンガーのブラシ]]として知られるかすかな黄色と青色の筋が見えるが、これには個人差がある。 そのため一般には人間が偏光を識別するためには偏光子を通して見なければならない。 一方、[[昆虫]]は偏光を識別できる。昆虫の[[複眼]]の中には、特定の偏光方向に敏感な[[視細胞]]が色々な方位に規則正しく集合しているからである。昆虫は自然界の偏光をうまく利用している。例えば、[[ハチ]]は天空の[[光の偏極]]を元にして太陽の見えない曇空であっても方向を間違えずに長距離を飛ぶことができる。また、ある種の[[カゲロウ]]は生殖期になると水溜まりの反射光の偏光を頼りに集合する。[[カメムシ]]や[[タマムシ]]などの一部の昆虫の体は[[液晶]]のような[[構造色]]を持っており、片方の円偏光のみを選択的に反射する。さらに[[シャコ]]にいたっては、円偏光の回転方向を識別できる<ref>Tsyr-Huei Chiou et. al., Curr. Biol., '''18''', 429-434 (2008)</ref>。また、[[カマキリ]]に寄生した[[ハリガネムシ]]は、偏光を識別できるカマキリの視覚を利用して、宿主を水辺へと誘導している<ref>{{Citation|title=ハリガネムシは寄生したカマキリを操作し水平偏光に引き寄せて水に飛び込ませる|url=https://www.youtube.com/watch?v=DJiXN90862M|accessdate=2021-07-09|language=ja-JP}}</ref>。 == ポアンカレ球 == 任意の偏極状態は球上の点で表現できる。左円偏光は+''z''極、右円偏光は&minus;''z''極である。水平偏極を+''x''とすると鉛直偏極は&minus;''x''であり、+''y''と&minus;''y''は対角方位の偏極となる。赤道上の他の全ての点は他の方位の直線偏光である。[[二色性]]の[[波長板]]を通ることは球を回転することに等しい。偏極子の''y''軸を横切る偏極 ''x''の振幅の大きさは''x''軸と''y''軸の鏡面との距離の1/2となり、すなわち強度は<math>\tfrac{xy+1}{2}</math>となる。<!--The amount of amplitude of polarization x that passes through a polarizer that passes y is 1/2 the distance between x and the antipode of y; the intensity is (x·y+1)/2.--> 球による表現は[[アンリ・ポアンカレ]]によって考えられたものであり、ウィリアム・シュルクリフ(William A. Shurcliff)によって英語で拡張されて論じられた。 == 反射と偏光 == 偏光に関係する概念として、以上のような「光それ自体」に関するものとは別に、異なる物質間の境界面で光が反射するときの「入射面」と「電場または磁場の振動方向」によって定義される概念がある。光学では、s波(s偏光)とp波(p偏光)とに区別される。定義や他の呼称については下記の「偏光の呼称」の表を参照のこと。光が境界面に入射するときには、その光をs波成分とp波成分とに分けることができ、全体としての反射率は(s波成分の割合×s波の反射率)+(p波成分の割合×p波の反射率)で表される。円偏光の場合には常に、s波成分の割合が50%、p波成分の割合が50%となる。p波の反射率は、どの入射角でもs波よりも以下である。ブリュースター角において反射率が0になるのはp波のみである。 注意が必要なのは、s波p波の概念は、入射面が存在するときしたがって光が異なる物質間の境界に入射するときにのみ定義される概念だということである。空気中を進む直線偏光を、その電場の振動方向(重力に対して水平か垂直か)によってs波あるいはp波と呼ぶことがあるが、誤りである。また、境界面に対して光が垂直に入射するときには、s偏光とp偏光との区別はない。 s偏光とp偏光は、それぞれ垂直・平行な偏光という意味であるが、何を基準に垂直・平行と考えているのか注意する必要がある。回折格子に光を入射して分光する系では、格子の方向を基準とする定義が一般的であるため、入射面を基準とする定義とは、反対になり、しばしば混乱される。 == 偏光の用語 == [[電波]]を扱う[[電気工学]]と[[光]]を扱う[[光学]]が歴史的に別の学問として発展してきたため、同一の偏光に複数の名称があることがある。なお、[[導波管]]や[[FDTD|FDTD法]]での偏光の名称は電気工学と同様であるが、その定義は逆である。 {| class="wikitable" !電磁波の性質!![[電界]]成分が[[入射面]]に垂直な電磁波!!電界成分が入射面に平行な電磁波 |- |電気工学||{{Bulleted list|TE波(Transverse Electric Wave。電界成分が入射面に対し横向き)|H波([[磁界]] Hが入射面に平行な電磁波)|水平偏波(電界成分が[[反射面]]に水平)|直交偏波(電界成分が入射面と直交)}}||{{Bulleted list|TM波(Transverse Magnetic Wave。磁界成分が入射面に対し横向き)|E波(電界 Eが入射面に平行な電磁波)|垂直偏波(電界成分が反射面に垂直)|平行偏波(電界成分が入射面に平行)}} |- |光学||{{Bulleted list|s波(入射面に垂直、senkrecht(ドイツ語))|σ光}}||{{Bulleted list|p波(入射面に平行、parallel)|π光}} |- |電界成分の図||[[File:Polarisation s.png|200px]]||[[File:Polarisation p.png|200px]] |} {| class="wikitable" !電磁波の性質!!進む方向に向かって[[時計回り]]の電磁波!!進む方向に向かって[[反時計回り]]の電磁波 |- |電気工学||右旋偏波(進む方向に右回り)||左旋偏波(進む方向に左回り) |- |光学||左円偏光(受け止める側から見て左回り)||右円偏光(受け止める側から見て右回り) |} {{注|直交偏波と垂直偏波が異なり、また水平偏波と平行偏波が異なる点に注意}} <!-- == 参考文献 == --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == {{Commonscat|Polarization}} * [[旋光]] * [[光学異性体]] * [[フレネルの式]] * [[ブリュースター角]] * [[偏光顕微鏡]] * [[複屈折]] * [[ジョーンズ計算法]] * [[ミュラー計算法]] * [[放送衛星#左旋と右旋]] == 外部リンク == * [https://www.photonic-lattice.com/wp-content/uploads/2020/03/%E3%83%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E7%90%83%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf/ 偏光とポアンカレ球表示に関して] (株)フォトニックラティス * [https://www.photonic-lattice.com/topics/2-d-birefringence-measurement-system-introduction/ 複屈折を測定できるPA/WPAシリーズの測定原理、装置構成、測定事例について] (株)フォトニックラティス {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へんこう}} [[Category:偏光|*]] [[category:光]] [[category:光学]] [[Category:物理光学]] [[category:結晶]] [[Category:鉱物学]] [[Category:撮影技術]] [[Category:電気工学]] [[Category:電磁気学]] [[Category:無線工学]]
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小田原駅
小田原駅(おだわらえき)は、神奈川県小田原市栄町一丁目および城山一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・小田急電鉄・箱根登山鉄道・伊豆箱根鉄道の駅である。 古くから城下町、東海道の宿場町(小田原宿)として栄えた小田原市の中心駅である。神奈川県西部(西湘地区)のターミナル駅であり、箱根観光の拠点ともなっている。近年は外国人旅行者(インバウンド)も多い。 当駅は、1920年10月に国府津駅を起点とする熱海線(現在の東海道本線)の終着駅として開業した。その後、1927年に小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)、1935年に大雄山鉄道(現・伊豆箱根鉄道)と箱根登山鉄道(箱根登山電車)が乗り入れており、小田急小田急線と箱根登山鉄道線は直通運転を行っている。さらに1964年には東海道新幹線の開業と同時に駅が設置され、現在は1日約15万人の利用がある。1987年4月の国鉄分割民営化によって、日本国有鉄道(国鉄)の路線であった東海道新幹線と東海道本線は前者がJR東海、後者がJR東日本と別会社による運営となり、また貨物営業はJR貨物に継承された。 1956年まで、駅前で箱根登山鉄道の小田原市内線が接続していた。 現在は、JR東日本・JR貨物の東海道本線(JR東日本が第一種鉄道事業者、JR貨物が第二種鉄道事業者)、JR東海の東海道新幹線、小田急電鉄の小田原線、箱根登山鉄道の鉄道線、そして伊豆箱根鉄道の大雄山線が乗り入れている。このうち小田急と箱根登山鉄道は直通運転を行っている。旅客駅のみであるが同一駅構内の乗り入れ鉄道事業者数5社はかつて日本最多であった。各線とも2003年に完成した橋上駅舎によって結ばれている。 JR東日本の東海道線の駅には、東京駅発着系統と、新宿駅経由で高崎線に直通する湘南新宿ライン、東京駅・上野駅経由で宇都宮線・高崎線に直通する上野東京ラインが停車する。湘南新宿ラインは原則として当駅までの運転である。なお、運転形態の詳細については「東海道線 (JR東日本)」を参照。東海道新幹線は一部の「ひかり」と「こだま」が停車する。その他はいずれの路線も当駅終着・始発の列車が多い。 またJR東日本が発行するフリー切符のうち、休日おでかけパスは東海道線内当駅までがフリーエリアとなる。 JR小田原駅の事務管コードは、▲460126となっている。 もともと、小田原は東海道五十三次9番目の宿場「小田原宿」が設けられるなど、古くから交通の要所として栄えた町であった。だが、東海道本線が1889年(明治22年)に小田原~熱海間の地形が険しいといった理由で現在の御殿場線のルートを取って開業すると、その地位から滑り落ち、110軒を数えたとされる宿が次々と廃業に追い込まれるという衰退を見せた。そのため小田原では、これ以降必死な鉄道誘致が行われることになる。 まず、小田原駅が開業する前の1888年(明治21年)に、当時東海道線の終着駅であった国府津駅前より小田原・湯本の間に小田原馬車鉄道が開業した。これは、1900年(明治33年)に小田原電気鉄道の路面電車となったが、その後1920年(大正9年)の熱海線国府津駅 - 小田原駅間開業に伴い、並行区間を廃止して小田原駅前に乗り入れるようになり、1956年(昭和31年)まで存続した。詳しくは箱根登山鉄道小田原市内線の記事を参照。 熱海線は、丹那トンネル開削によって勾配のきつい御殿場経由から熱海経由へ東海道本線のルートを切り替え、輸送力の増強を目指したものの内、一部区間が暫定開業したといえるものであった。小田原へ東京・横浜から直接列車が乗り入れるようになったことで、箱根観光や湯治客の拠点として、町は地位を回復するに至ったのである。そのため熱海線の開業日は町を上げて祝賀行事が催され、路線の一部区間が廃線に追い込まれた小田原電気鉄道でさえも、花電車を走らせてその開業を祝った。 昭和に入り、小田原急行鉄道(現、小田急電鉄)小田原線が開業し、さらに丹那トンネルの開通で熱海線が東海道本線に昇格すると、その地位は更に高まった。 小田原駅ホームの番号設定は、乗り入れている鉄道事業者すべてに通しで振られている。南側から次のようになっている。 高架駅の新幹線以外は地上駅である。JR東日本・小田急・箱根登山鉄道は地上3階、JR東海は地上1階、伊豆箱根鉄道は地上2階にそれぞれ改札口・駅事務室がある。小田急と箱根登山鉄道は同一改札内である。 2003年3月に橋上駅舎が完成し、同年12月に「アークロード」の愛称を持つ東西連絡通路が完成した。これにより連絡通路が完成し、東口・西口間の通行が可能になった。東西自由通路は16メートルの広い幅の通路でエスカレーター・エレベーターが設置されている。自由通路内には小田原市の観光案内所がある。なお、その時にJR東日本の改札口付近に巨大な小田原提灯が市民団体により設置された。この提灯は令和元年東日本台風(台風19号)で破損したため、市側により一時撤去されたが、修復され2020年8月29日に再設置された。 2005年6月には旧東口JR駅舎の跡地に地上5階地下1階の駅ビルが完成し、地上1 - 5階は「小田原ラスカ」としてオープンした。駅ビルの完成に合わせて、東西バスターミナルのレイアウトが変わり、東口にはペデストリアンデッキが設置された。エスカレータ・エレベーター・多目的トイレが構内に設置されている。 頭端式ホーム2面2線(うち1面は未使用)を使用している。ダイヤ上、列車は1番線と2番線を交互に発着している。駅番号はID01。 駅舎は独立した建物になっており、駅の2階に当たる。自動改札機設置駅。コンコース内に多目的トイレがある。売店は改札内にあり、駅3階には系列の旅行会社がある。東西自由通路との連絡通路がある。 直営駅(駅長配置)で国府津駅、小田原駅、真鶴駅、湯河原駅、熱海駅、伊東駅、熱海運輸区を合併した小田原・伊豆統括センターの所在駅であり、東海道線の二宮駅 - 熱海駅 と伊東線内の全駅を統括し、伊東線の運行管理及び旧熱海運輸区の乗務も担当している。地上にある島式ホーム2面4線を使用している。その外側に貨物線2線と留置線2線がホームに平行して通っている。留置線は熱海方にも設置されている。鶴見駅から続く東海道貨物線との複々線区間の終端であり、当駅以西は旅客列車・貨物列車とも同一線路を走行する。駅番号はJT 16。 当駅が始発・終着になる列車が多い。朝は当駅始発の特急「湘南」の通勤列車が運行され、夜間は特急「湘南」・快速「アクティー」の終点となっている。熱海発の上り普通列車が当駅始発の湘南新宿ライン特別快速との接続を取る場合や当駅で先行していた熱海方面の普通列車に後の列車が接続する場合がある。一部の普通列車は特急「踊り子」の待避を行う。 かつては、当駅で下り普通列車の付属編成切り離しや、上り普通列車の車両連結が行われていた。東京方に、付属編成用の引き上げ線2線が存在するが、使用停止となっている。 当駅始発の列車に乗車する場合は、ドアの横にあるボタンで開ける必要がある(空調の関係などのため)。なお、発車1分位前になるとすべてのドアが開く。ただし、当駅折り返し列車において遅延が発生している場合など、停車時間が短い場合やその他、車掌などの判断でドアを閉めない場合もある。 発車メロディは2014年11月に一般的な電子音のものから『お猿のかごや』に変更された。 (出典:JR東日本:駅構内図) エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。売店は、3・4番線の東京方にNewDays KIOSK、5・6番線の東京方にNewDaysがある。JR東海東海道新幹線との連絡通路がある。ホーム有効長は15両編成対応である。 JR貨物の駅は車扱臨時取扱駅となっている。 1984年1月までは小田急電鉄との貨物列車の連絡があり、それ以降も、1994年まで小田急電鉄や箱根登山鉄道の車両の搬入や搬出が当駅で行われていた(その後松田駅 - 新松田駅を結ぶ連絡線に変更)。 2018年現在、定期での貨物列車の発着はないが、伊豆箱根鉄道大雄山線で使用されている車両を検査などで大場工場との間で回送させるため、当駅と三島駅の間で東海道本線を経由して甲種輸送列車が年に数回運行される。三島駅では、大場工場へ通ずる駿豆線に接続している。 特筆すべき点として、当駅にはJR線と大雄山線を介する授受線がなく、直接東海道貨物線の本線と大雄山線の線路が渡り線で繋がっているだけである。この間には無架線地帯が存在するため、甲種輸送の際に電気機関車と輸送車両との間に控車となる空のコンテナ車3両(2012年までは有蓋車)を連結し、輸送車両を相手方の線路に押し込み、相手方の機関車もしくは電車がそれを受ける形で授受が行われる。これにより、電気機関車および電車が無架線地帯に侵入することなく授受を行うことができる。ただし、東海道貨物線および大雄山線の線路を長時間ともに支障するため、JR側では貨物列車の時刻変更、伊豆箱根鉄道側では小田原駅を発着する列車の着発線変更および一部運休が実施される。 なお、東海道貨物線の上りから大雄山線へ通ずる東海道貨物線下り本線への転線は不可能なため、大場工場を出場して当駅まで輸送される列車については一度相模貨物駅まで運行され、機関車を反対に付け替えたあとに当駅まで輸送される。このため、控車となる貨車は相模貨物駅からの連結となる。小田原駅までの輸送完了後はやはり東海道貨物線上り本線へ転線が不可能なため、沼津駅まで控車を輸送する。 小田急電鉄・箱根登山鉄道の共同使用駅で、小田急の管理駅である。駅番号はOH 47。なお両社で通しの駅番号を用いているが、案内表示でのデザインが当駅を境に異なっており(小田急は青色、箱根登山鉄道は赤茶色)、当駅では2種類のデザインが併存している。 2008年3月より、2面3線の島式ホームとなる7 - 10番ホームが組み合わさっており、ホームに平行して北側に留置線が1線ある。ホーム4線のうち中側2線(8・9番および11番ホーム)は行き止まりの頭端式で、特に箱根登山側の11番ホームにかかる線路は7・8番ホームに入り込んでおり、このため7番ホームの一部は切り欠きホームという特殊な構造となっている。これによりすべてのホームは地上でつながって乗換えが容易になっている。 ホームの発車合図音は、7・11番ホームの箱根湯本行では『箱根八里』の発車メロディが流される(放送システム上、フルコーラスは流れない)。9・10番ホーム全列車と7番ホームの新宿方面は発車ベルが使用されていたが、2018年1月現在発車ベル等は省略されている。7番ホームから留置線への入替列車は合図音は省略される。 2006年3月18日以降、当駅 - 箱根湯本駅間の営業列車はすべて小田急電鉄所属車両で運転されている。したがって、強羅方面に行くには箱根湯本駅での乗換が必要となる。また、一部の特急ロマンスカーについては当駅で連結・切り離しが行われる。以前は新宿方面から箱根湯本に直通する料金不要の一般列車も多数運転されていたが、2008年3月15日ダイヤ改正より、小田原線から箱根登山線への直通列車は4両編成の各駅停車および特急ロマンスカーのみとなり、数度の変遷を経て2018年3月17日ダイヤ改正以降、各駅停車による直通列車は上り1本を残すのみとなった。 かつては箱根登山線に乗り入れる特急ロマンスカーには、当駅から箱根湯本までの区間のみを乗車することはできなかったが、2005年10月1日より駅ホームで乗車時に「座席券」を購入することで、座席への着席が可能となった。ただし、対象列車が満席又は満席が想定される場合は「座席券」は発売されない。これは箱根湯本駅から当駅まで特急ロマンスカーを利用する場合も同じである。現在では「特急券」という扱いになり、小田原駅 - 箱根湯本駅間に特急料金が設定されているが、予約購入はできず座席も指定されない。 管区長・駅長所在駅であり、「小田原管区」として鶴巻温泉駅 - 当駅間の各駅を、「小田原管区小田原管内」として開成駅 - 当駅間の各駅を管理している。 箱根登山鉄道の表示看板やパンフレットでは各駅の標高が示されており、当駅はかつて26 mと表記されていたが、2013年の再調査で14 mに訂正されている。 なお、2006年3月までは、以下の通りであった。 エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。売店は、ホームと改札前にセブンイレブンがある。自由通路・コンコースいずれにも面した場所に、系列飲食店がある。待合室は各ホーム箱根板橋寄りにある。ちなみに待合室はドーム屋根下に位置するが、瓦屋根となっており城下町をイメージさせる。以前の狭隘であった改札口も、新駅舎になり広くなった。 7 - 10番ホームはすべて10両対応。改札内に自動体外式除細動器 (AED) が設置されている。 前述の通り当駅は小田急の管理駅であり、案内サインも多くが小田急仕様となっているが、7・10番ホーム付近には箱根登山線仕様の案内サインが設置されている。 高架上にある相対式ホーム2面2線を使用している。ホームの間に2線の通過線がある。「こだま」号の大半は、当駅で通過列車を待避する。 (出典:JR東海:駅構内図) エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置されている。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。各ホーム中央部と東京寄りにKIOSKが、またコンコース2階にある待合室にも売店がある。改札の外(アスティ小田原)には飲食店・コンビニエンスストア・書店がある。JR東日本との連絡通路がある。 自由通路の完成前は、JR東海管理の在来線近距離きっぷの自動券売機が設置されていたため、金額式乗車券はJR東海地紋で「海」表記の一方「東日本会社線」表記がある様式だった。 東華軒などが販売している。主な駅弁は下記の通り。 小田原市の中心駅。各社局の利用状況は以下の通りである。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通り(小田急・箱根登山鉄道のみ)。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。 近年の年間発着トン数は下記の通り。 駅周辺は、神奈川県の西湘地区を代表する市街地であるが、商業施設の撤退が相次ぎ、市街地の発展に陰りが出ている。市はお城通り地区にて地上8階・地下1階の複合ビル建設を主体とした再開発事業を進めていたが、事業施工者(アーバンコーポレイション)が経営破たんしたことにより、計画は頓挫していた。その後、2016年12月に再開発の事業者を万葉倶楽部に再度選定し、新たな計画が進められることとなった。万葉倶楽部は図書館・コンベンション・ホテルなどが入る地上14階・地下1階の広域交流施設に加えて、宿場町の賑わいを再現した和風の大規模広場を整備する提案を行い、2018年5月の着工後、2020年12月に複合商業施設「ミナカ小田原」として開業を迎えた。 東口のバスロータリー地下には地下街の小田原地下街「HaRuNe小田原」がある。この地下街は1976年11月にアミーおだちかとして開業し、2007年6月に一度閉鎖したが、小田原市と地元の経済団体により再生が検討され、2009年4月に「地域資源や情報発信機能などを備える施設として再生を図る」という方針を小田原市が決定し、再生の為の計画・事業を経た上で2014年11月に再開業した。 駅開設前の1901年に、この付近に神奈川県第二中学校が開校した。同校は駅開設に伴って、1914年に北西の八幡へ移転し、現在の神奈川県立小田原高等学校となった。駅東口には「小田原高等学校発祥之地」の石碑が建っている。 東口発着路線のうち箱根地区へ乗り入れるバスは、当駅に「101」の停留所番号(バス停ナンバリング)を設定している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "小田原駅(おだわらえき)は、神奈川県小田原市栄町一丁目および城山一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・小田急電鉄・箱根登山鉄道・伊豆箱根鉄道の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古くから城下町、東海道の宿場町(小田原宿)として栄えた小田原市の中心駅である。神奈川県西部(西湘地区)のターミナル駅であり、箱根観光の拠点ともなっている。近年は外国人旅行者(インバウンド)も多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当駅は、1920年10月に国府津駅を起点とする熱海線(現在の東海道本線)の終着駅として開業した。その後、1927年に小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)、1935年に大雄山鉄道(現・伊豆箱根鉄道)と箱根登山鉄道(箱根登山電車)が乗り入れており、小田急小田急線と箱根登山鉄道線は直通運転を行っている。さらに1964年には東海道新幹線の開業と同時に駅が設置され、現在は1日約15万人の利用がある。1987年4月の国鉄分割民営化によって、日本国有鉄道(国鉄)の路線であった東海道新幹線と東海道本線は前者がJR東海、後者がJR東日本と別会社による運営となり、また貨物営業はJR貨物に継承された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1956年まで、駅前で箱根登山鉄道の小田原市内線が接続していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在は、JR東日本・JR貨物の東海道本線(JR東日本が第一種鉄道事業者、JR貨物が第二種鉄道事業者)、JR東海の東海道新幹線、小田急電鉄の小田原線、箱根登山鉄道の鉄道線、そして伊豆箱根鉄道の大雄山線が乗り入れている。このうち小田急と箱根登山鉄道は直通運転を行っている。旅客駅のみであるが同一駅構内の乗り入れ鉄道事業者数5社はかつて日本最多であった。各線とも2003年に完成した橋上駅舎によって結ばれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "JR東日本の東海道線の駅には、東京駅発着系統と、新宿駅経由で高崎線に直通する湘南新宿ライン、東京駅・上野駅経由で宇都宮線・高崎線に直通する上野東京ラインが停車する。湘南新宿ラインは原則として当駅までの運転である。なお、運転形態の詳細については「東海道線 (JR東日本)」を参照。東海道新幹線は一部の「ひかり」と「こだま」が停車する。その他はいずれの路線も当駅終着・始発の列車が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "またJR東日本が発行するフリー切符のうち、休日おでかけパスは東海道線内当駅までがフリーエリアとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "JR小田原駅の事務管コードは、▲460126となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "もともと、小田原は東海道五十三次9番目の宿場「小田原宿」が設けられるなど、古くから交通の要所として栄えた町であった。だが、東海道本線が1889年(明治22年)に小田原~熱海間の地形が険しいといった理由で現在の御殿場線のルートを取って開業すると、その地位から滑り落ち、110軒を数えたとされる宿が次々と廃業に追い込まれるという衰退を見せた。そのため小田原では、これ以降必死な鉄道誘致が行われることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "まず、小田原駅が開業する前の1888年(明治21年)に、当時東海道線の終着駅であった国府津駅前より小田原・湯本の間に小田原馬車鉄道が開業した。これは、1900年(明治33年)に小田原電気鉄道の路面電車となったが、その後1920年(大正9年)の熱海線国府津駅 - 小田原駅間開業に伴い、並行区間を廃止して小田原駅前に乗り入れるようになり、1956年(昭和31年)まで存続した。詳しくは箱根登山鉄道小田原市内線の記事を参照。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "熱海線は、丹那トンネル開削によって勾配のきつい御殿場経由から熱海経由へ東海道本線のルートを切り替え、輸送力の増強を目指したものの内、一部区間が暫定開業したといえるものであった。小田原へ東京・横浜から直接列車が乗り入れるようになったことで、箱根観光や湯治客の拠点として、町は地位を回復するに至ったのである。そのため熱海線の開業日は町を上げて祝賀行事が催され、路線の一部区間が廃線に追い込まれた小田原電気鉄道でさえも、花電車を走らせてその開業を祝った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "昭和に入り、小田原急行鉄道(現、小田急電鉄)小田原線が開業し、さらに丹那トンネルの開通で熱海線が東海道本線に昇格すると、その地位は更に高まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "小田原駅ホームの番号設定は、乗り入れている鉄道事業者すべてに通しで振られている。南側から次のようになっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "高架駅の新幹線以外は地上駅である。JR東日本・小田急・箱根登山鉄道は地上3階、JR東海は地上1階、伊豆箱根鉄道は地上2階にそれぞれ改札口・駅事務室がある。小田急と箱根登山鉄道は同一改札内である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2003年3月に橋上駅舎が完成し、同年12月に「アークロード」の愛称を持つ東西連絡通路が完成した。これにより連絡通路が完成し、東口・西口間の通行が可能になった。東西自由通路は16メートルの広い幅の通路でエスカレーター・エレベーターが設置されている。自由通路内には小田原市の観光案内所がある。なお、その時にJR東日本の改札口付近に巨大な小田原提灯が市民団体により設置された。この提灯は令和元年東日本台風(台風19号)で破損したため、市側により一時撤去されたが、修復され2020年8月29日に再設置された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2005年6月には旧東口JR駅舎の跡地に地上5階地下1階の駅ビルが完成し、地上1 - 5階は「小田原ラスカ」としてオープンした。駅ビルの完成に合わせて、東西バスターミナルのレイアウトが変わり、東口にはペデストリアンデッキが設置された。エスカレータ・エレベーター・多目的トイレが構内に設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "頭端式ホーム2面2線(うち1面は未使用)を使用している。ダイヤ上、列車は1番線と2番線を交互に発着している。駅番号はID01。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "駅舎は独立した建物になっており、駅の2階に当たる。自動改札機設置駅。コンコース内に多目的トイレがある。売店は改札内にあり、駅3階には系列の旅行会社がある。東西自由通路との連絡通路がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "直営駅(駅長配置)で国府津駅、小田原駅、真鶴駅、湯河原駅、熱海駅、伊東駅、熱海運輸区を合併した小田原・伊豆統括センターの所在駅であり、東海道線の二宮駅 - 熱海駅 と伊東線内の全駅を統括し、伊東線の運行管理及び旧熱海運輸区の乗務も担当している。地上にある島式ホーム2面4線を使用している。その外側に貨物線2線と留置線2線がホームに平行して通っている。留置線は熱海方にも設置されている。鶴見駅から続く東海道貨物線との複々線区間の終端であり、当駅以西は旅客列車・貨物列車とも同一線路を走行する。駅番号はJT 16。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当駅が始発・終着になる列車が多い。朝は当駅始発の特急「湘南」の通勤列車が運行され、夜間は特急「湘南」・快速「アクティー」の終点となっている。熱海発の上り普通列車が当駅始発の湘南新宿ライン特別快速との接続を取る場合や当駅で先行していた熱海方面の普通列車に後の列車が接続する場合がある。一部の普通列車は特急「踊り子」の待避を行う。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "かつては、当駅で下り普通列車の付属編成切り離しや、上り普通列車の車両連結が行われていた。東京方に、付属編成用の引き上げ線2線が存在するが、使用停止となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "当駅始発の列車に乗車する場合は、ドアの横にあるボタンで開ける必要がある(空調の関係などのため)。なお、発車1分位前になるとすべてのドアが開く。ただし、当駅折り返し列車において遅延が発生している場合など、停車時間が短い場合やその他、車掌などの判断でドアを閉めない場合もある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "発車メロディは2014年11月に一般的な電子音のものから『お猿のかごや』に変更された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。売店は、3・4番線の東京方にNewDays KIOSK、5・6番線の東京方にNewDaysがある。JR東海東海道新幹線との連絡通路がある。ホーム有効長は15両編成対応である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "JR貨物の駅は車扱臨時取扱駅となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1984年1月までは小田急電鉄との貨物列車の連絡があり、それ以降も、1994年まで小田急電鉄や箱根登山鉄道の車両の搬入や搬出が当駅で行われていた(その後松田駅 - 新松田駅を結ぶ連絡線に変更)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2018年現在、定期での貨物列車の発着はないが、伊豆箱根鉄道大雄山線で使用されている車両を検査などで大場工場との間で回送させるため、当駅と三島駅の間で東海道本線を経由して甲種輸送列車が年に数回運行される。三島駅では、大場工場へ通ずる駿豆線に接続している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "特筆すべき点として、当駅にはJR線と大雄山線を介する授受線がなく、直接東海道貨物線の本線と大雄山線の線路が渡り線で繋がっているだけである。この間には無架線地帯が存在するため、甲種輸送の際に電気機関車と輸送車両との間に控車となる空のコンテナ車3両(2012年までは有蓋車)を連結し、輸送車両を相手方の線路に押し込み、相手方の機関車もしくは電車がそれを受ける形で授受が行われる。これにより、電気機関車および電車が無架線地帯に侵入することなく授受を行うことができる。ただし、東海道貨物線および大雄山線の線路を長時間ともに支障するため、JR側では貨物列車の時刻変更、伊豆箱根鉄道側では小田原駅を発着する列車の着発線変更および一部運休が実施される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、東海道貨物線の上りから大雄山線へ通ずる東海道貨物線下り本線への転線は不可能なため、大場工場を出場して当駅まで輸送される列車については一度相模貨物駅まで運行され、機関車を反対に付け替えたあとに当駅まで輸送される。このため、控車となる貨車は相模貨物駅からの連結となる。小田原駅までの輸送完了後はやはり東海道貨物線上り本線へ転線が不可能なため、沼津駅まで控車を輸送する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "小田急電鉄・箱根登山鉄道の共同使用駅で、小田急の管理駅である。駅番号はOH 47。なお両社で通しの駅番号を用いているが、案内表示でのデザインが当駅を境に異なっており(小田急は青色、箱根登山鉄道は赤茶色)、当駅では2種類のデザインが併存している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2008年3月より、2面3線の島式ホームとなる7 - 10番ホームが組み合わさっており、ホームに平行して北側に留置線が1線ある。ホーム4線のうち中側2線(8・9番および11番ホーム)は行き止まりの頭端式で、特に箱根登山側の11番ホームにかかる線路は7・8番ホームに入り込んでおり、このため7番ホームの一部は切り欠きホームという特殊な構造となっている。これによりすべてのホームは地上でつながって乗換えが容易になっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ホームの発車合図音は、7・11番ホームの箱根湯本行では『箱根八里』の発車メロディが流される(放送システム上、フルコーラスは流れない)。9・10番ホーム全列車と7番ホームの新宿方面は発車ベルが使用されていたが、2018年1月現在発車ベル等は省略されている。7番ホームから留置線への入替列車は合図音は省略される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2006年3月18日以降、当駅 - 箱根湯本駅間の営業列車はすべて小田急電鉄所属車両で運転されている。したがって、強羅方面に行くには箱根湯本駅での乗換が必要となる。また、一部の特急ロマンスカーについては当駅で連結・切り離しが行われる。以前は新宿方面から箱根湯本に直通する料金不要の一般列車も多数運転されていたが、2008年3月15日ダイヤ改正より、小田原線から箱根登山線への直通列車は4両編成の各駅停車および特急ロマンスカーのみとなり、数度の変遷を経て2018年3月17日ダイヤ改正以降、各駅停車による直通列車は上り1本を残すのみとなった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "かつては箱根登山線に乗り入れる特急ロマンスカーには、当駅から箱根湯本までの区間のみを乗車することはできなかったが、2005年10月1日より駅ホームで乗車時に「座席券」を購入することで、座席への着席が可能となった。ただし、対象列車が満席又は満席が想定される場合は「座席券」は発売されない。これは箱根湯本駅から当駅まで特急ロマンスカーを利用する場合も同じである。現在では「特急券」という扱いになり、小田原駅 - 箱根湯本駅間に特急料金が設定されているが、予約購入はできず座席も指定されない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "管区長・駅長所在駅であり、「小田原管区」として鶴巻温泉駅 - 当駅間の各駅を、「小田原管区小田原管内」として開成駅 - 当駅間の各駅を管理している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "箱根登山鉄道の表示看板やパンフレットでは各駅の標高が示されており、当駅はかつて26 mと表記されていたが、2013年の再調査で14 mに訂正されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、2006年3月までは、以下の通りであった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。売店は、ホームと改札前にセブンイレブンがある。自由通路・コンコースいずれにも面した場所に、系列飲食店がある。待合室は各ホーム箱根板橋寄りにある。ちなみに待合室はドーム屋根下に位置するが、瓦屋根となっており城下町をイメージさせる。以前の狭隘であった改札口も、新駅舎になり広くなった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "7 - 10番ホームはすべて10両対応。改札内に自動体外式除細動器 (AED) が設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "前述の通り当駅は小田急の管理駅であり、案内サインも多くが小田急仕様となっているが、7・10番ホーム付近には箱根登山線仕様の案内サインが設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "高架上にある相対式ホーム2面2線を使用している。ホームの間に2線の通過線がある。「こだま」号の大半は、当駅で通過列車を待避する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "(出典:JR東海:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置されている。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。各ホーム中央部と東京寄りにKIOSKが、またコンコース2階にある待合室にも売店がある。改札の外(アスティ小田原)には飲食店・コンビニエンスストア・書店がある。JR東日本との連絡通路がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "自由通路の完成前は、JR東海管理の在来線近距離きっぷの自動券売機が設置されていたため、金額式乗車券はJR東海地紋で「海」表記の一方「東日本会社線」表記がある様式だった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "東華軒などが販売している。主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "小田原市の中心駅。各社局の利用状況は以下の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通り(小田急・箱根登山鉄道のみ)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "近年の年間発着トン数は下記の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "駅周辺は、神奈川県の西湘地区を代表する市街地であるが、商業施設の撤退が相次ぎ、市街地の発展に陰りが出ている。市はお城通り地区にて地上8階・地下1階の複合ビル建設を主体とした再開発事業を進めていたが、事業施工者(アーバンコーポレイション)が経営破たんしたことにより、計画は頓挫していた。その後、2016年12月に再開発の事業者を万葉倶楽部に再度選定し、新たな計画が進められることとなった。万葉倶楽部は図書館・コンベンション・ホテルなどが入る地上14階・地下1階の広域交流施設に加えて、宿場町の賑わいを再現した和風の大規模広場を整備する提案を行い、2018年5月の着工後、2020年12月に複合商業施設「ミナカ小田原」として開業を迎えた。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "東口のバスロータリー地下には地下街の小田原地下街「HaRuNe小田原」がある。この地下街は1976年11月にアミーおだちかとして開業し、2007年6月に一度閉鎖したが、小田原市と地元の経済団体により再生が検討され、2009年4月に「地域資源や情報発信機能などを備える施設として再生を図る」という方針を小田原市が決定し、再生の為の計画・事業を経た上で2014年11月に再開業した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "駅開設前の1901年に、この付近に神奈川県第二中学校が開校した。同校は駅開設に伴って、1914年に北西の八幡へ移転し、現在の神奈川県立小田原高等学校となった。駅東口には「小田原高等学校発祥之地」の石碑が建っている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "東口発着路線のうち箱根地区へ乗り入れるバスは、当駅に「101」の停留所番号(バス停ナンバリング)を設定している。", "title": "バス路線" } ]
小田原駅(おだわらえき)は、神奈川県小田原市栄町一丁目および城山一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・小田急電鉄・箱根登山鉄道・伊豆箱根鉄道の駅である。
{{出典の明記|date=2021-04}} {{Mergefrom|ラスカ小田原|ラスカ|date=2023年12月}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 小田原駅 |画像 = 161223 Odawara Station Odawara Japan01s3.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東口[[駅ビル]]([[ラスカ小田原]]、[[2016年]]12月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|type4=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|marker4=rail |coord={{coord|35|15|21.0|N|139|9|20.0|E}}|title=JR東日本 小田原駅 |coord2={{coord|35|15|23.0|N|139|9|17.5|E}}|title2=JR東海 小田原駅 |coord3={{coord|35|15|23.0|N|139|9|19.5|E}}|title3=小田急・箱根登山鉄道 小田原駅 |coord4={{coord|35|15|22.5|N|139|9|22.5|E}}|title4=伊豆箱根鉄道 小田原駅 |marker-color=008000|marker-color2=f77321|marker-color3=2288CC|marker-color4=0000ff}} |よみがな = おだわら |ローマ字 = Odawara |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東海旅客鉄道]](JR東海・[[#JR東海|駅詳細]]) * [[日本貨物鉄道]](JR貨物) * [[小田急電鉄]]([[#小田急・箱根登山鉄道|駅詳細]]) * [[箱根登山鉄道]]([[#小田急・箱根登山鉄道|駅詳細]]) * [[伊豆箱根鉄道]]([[#伊豆箱根鉄道|駅詳細]])}} |所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]] }} {{座標一覧}} [[File:Odawara Sta west.jpg|thumb|西口([[2008年]]2月)]] '''小田原駅'''(おだわらえき)は、[[神奈川県]][[小田原市]]栄町一丁目および城山一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東海旅客鉄道]](JR東海)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)・[[小田急電鉄]]・[[箱根登山鉄道]]・[[伊豆箱根鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 古くから[[城下町]]、[[東海道]]の[[宿場町]]([[小田原宿]])として栄えた小田原市の中心駅である。神奈川県西部([[西湘]]地区)の[[ターミナル駅]]であり、[[箱根]]観光の拠点ともなっている。近年は外国人旅行者([[訪日外国人旅行|インバウンド]])も多い。 当駅は、[[1920年]]10月に[[国府津駅]]を起点とする熱海線(現在の[[東海道本線]])の[[終着駅]]として開業した。その後、[[1927年]]に小田原急行鉄道(現・[[小田急電鉄]])、[[1935年]]に大雄山鉄道(現・[[伊豆箱根鉄道]])と[[箱根登山鉄道]](箱根登山電車)が乗り入れており、[[小田急小田原線|小田急小田急線]]と[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道線]]は[[直通運転]]を行っている。さらに[[1964年]]には[[東海道新幹線]]の開業と同時に駅が設置され、現在は1日約15万人の利用がある。[[1987年]]4月の[[国鉄分割民営化]]によって、[[日本国有鉄道]](国鉄)の路線であった東海道新幹線と東海道本線は前者がJR東海、後者がJR東日本と別会社による運営となり、また貨物営業はJR貨物に継承された。 [[1956年]]まで、駅前で箱根登山鉄道の[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原市内線]]が接続していた。 現在は、JR東日本・JR貨物の[[東海道本線]](JR東日本が[[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]、JR貨物が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])、JR東海の[[東海道新幹線]]、小田急電鉄の[[小田急小田原線|小田原線]]、箱根登山鉄道の[[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]]、そして伊豆箱根鉄道の[[伊豆箱根鉄道大雄山線|大雄山線]]が乗り入れている。このうち小田急と箱根登山鉄道は[[直通運転]]を行っている。旅客駅のみであるが同一駅構内の乗り入れ[[鉄道事業者]]数5社はかつて日本最多であった<ref group="注釈">2004年2月以降は[[横浜駅]]の6社局が日本最多。</ref>。各線とも[[2003年]]に完成した[[橋上駅|橋上駅舎]]によって結ばれている<ref name="JRC608">{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳2003年3月 |journal = RAIL FAN |date = 2003-06-01 |issue = 6 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 18 }}</ref>。 JR東日本の[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]の駅には、[[東京駅]]発着系統と、[[新宿駅]]経由で[[高崎線]]に直通する[[湘南新宿ライン]]、東京駅・[[上野駅]]経由で[[宇都宮線]]・高崎線に直通する[[上野東京ライン]]が停車する。湘南新宿ラインは原則として当駅までの運転である。なお、運転形態の詳細については「[[東海道線 (JR東日本)]]」を参照。東海道新幹線は一部の「[[ひかり (列車)|ひかり]]」と「[[こだま (列車)|こだま]]」が停車する。その他はいずれの路線も当駅[[終着駅|終着]]・[[始発]]の[[列車]]が多い。 またJR東日本が発行するフリー切符のうち、[[休日おでかけパス]]は東海道線内当駅までがフリーエリアとなる。 JR小田原駅の事務管コードは、▲460126となっている。 == 歴史 == [[File:Odawara Station.1967.jpg|thumb|駅周辺の白黒空中写真(1967年3月)。北(上)から新幹線、小田急線、JR在来線。<br />{{国土航空写真}}]] もともと、小田原は[[東海道五十三次]]9番目の[[宿場]]「[[小田原宿]]」が設けられるなど、古くから交通の要所として栄えた町であった。だが、[[東海道本線]]が[[1889年]](明治22年)に小田原~熱海間の地形が険しいといった理由で現在の[[御殿場線]]のルートを取って開業すると、その地位から滑り落ち、110軒を数えたとされる宿が次々と廃業に追い込まれるという衰退を見せた。そのため小田原では、これ以降必死な鉄道誘致が行われることになる。 まず、小田原駅が開業する前の[[1888年]](明治21年)に、当時東海道線の終着駅であった国府津駅前より小田原・湯本の間に小田原[[馬車鉄道]]が開業した。これは、[[1900年]](明治33年)に小田原電気鉄道の[[路面電車]]となったが、その後1920年(大正9年)の熱海線国府津駅 - '''小田原駅'''間開業に伴い、並行区間を廃止して小田原駅前に乗り入れるようになり、1956年(昭和31年)まで存続した。詳しくは[[箱根登山鉄道小田原市内線]]の記事を参照。 熱海線は、[[丹那トンネル]]開削によって勾配のきつい[[御殿場市|御殿場]]経由から[[熱海市|熱海]]経由へ東海道本線のルートを切り替え、輸送力の増強を目指したものの内、一部区間が暫定開業したといえるものであった。小田原へ[[東京都|東京]]・[[横浜市|横浜]]から直接列車が乗り入れるようになったことで、[[箱根町|箱根]]観光や湯治客の拠点として、町は地位を回復するに至ったのである。そのため熱海線の開業日は町を上げて祝賀行事が催され、路線の一部区間が廃線に追い込まれた小田原電気鉄道でさえも、花電車を走らせてその開業を祝った。 [[昭和]]に入り、小田原急行鉄道(現、小田急電鉄)[[小田急小田原線|小田原線]]が開業し、さらに丹那トンネルの開通で熱海線が東海道本線に昇格すると、その地位は更に高まった。 === 年表 === * [[1920年]]([[大正]]9年)[[10月21日]]:熱海線[[国府津駅]] - 当駅間開通と同時に開業。[[旅客]]・貨物の取扱を開始。 * [[1923年]](大正12年)[[9月1日]]:[[関東大震災]]により駅舎一部倒壊。 * [[1925年]](大正14年)[[3月25日]]:熱海線が[[熱海駅]]まで全線開通。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月1日]]:小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)新宿駅 - 当駅間が開通。 * [[1934年]](昭和9年)[[12月1日]]:国鉄駅を東海道本線所属に変更。 * [[1935年]](昭和10年) ** [[6月16日]]:大雄山鉄道線(現・伊豆箱根鉄道大雄山線)が当駅に乗り入れ。 ** [[10月1日]]:箱根登山鉄道が当駅に乗り入れ。 * [[1948年]](昭和23年)10月:[[小田急ロマンスカー]]運行開始。 * [[1950年]](昭和25年)[[3月1日]]:[[湘南電車]]運行開始。 * [[1956年]](昭和31年)[[5月31日]]:箱根登山鉄道小田原市内線廃止。 * [[1964年]](昭和39年)10月1日:東海道新幹線の停車駅となる。 * [[1970年]](昭和45年):新幹線のホームが16両対応に延伸される<ref>{{Cite news |title=ホーム延伸工事進む 「こだま」の一部16両化で |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-01-13 |page=2 }}</ref>。 * [[1973年]](昭和48年) ** [[5月20日]]:新設の[[西湘貨物駅]]に貨物取扱業務を集約、当駅での取扱を廃止。 ** [[11月1日]]:新幹線の上下線ホーム熱海寄りにエスカレーターが1基ずつ設置され、供用開始<ref>{{Cite news |title=エスカレーターがおめみえ 新幹線新横浜、小田原両駅に |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1973-11-02 |page=2 }}</ref>。 * [[1976年]](昭和51年)11月:東口広場整備と地下街が完成<ref>[http://www.city.odawara.kanagawa.jp/public/detail.php?id=10320 広報おだわらアーカイブ-広報おだわらNo.320] - 小田原市役所広報課、1976年12月1日発行</ref>。 * [[1979年]](昭和54年)10月1日:[[大船駅]] - 小田原駅間[[複々線]]化([[東海道貨物線]])完成。 * [[1980年]](昭和55年)10月1日:東海道新幹線「ひかり」が停車開始。 * [[1986年]](昭和61年)11月1日:国鉄駅での[[チッキ|荷物]]取扱を廃止。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[3月31日]]:国鉄駅での貨物取扱を再開。 ** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東海道本線はJR東日本、東海道新幹線はJR東海、貨物取扱業務はJR貨物が継承。 * [[1995年]]([[平成]]7年)[[11月13日]]:JR在来線の[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=182 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。 * [[1998年]](平成10年)[[3月14日]]:新幹線に自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=184 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。 * [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:湘南新宿ライン運行開始。 * [[2003年]](平成15年) ** [[3月30日]]:新駅舎へ切り替え・東西自由通路暫定開通<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=653&info_kubun=d-cue&mode=online|archiveurl=https://web.archive.org/web/20031216143405/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=653&info_kubun=d-cue&mode=online|language=日本語|title=小田急線 小田原駅の橋上駅舎が完成 平成15年3月30日(日)初電より使用開始|publisher=小田急電鉄|date=2003-03-05|accessdate=2021-05-04|archivedate=2003-12-16}}</ref>{{R|"JRC608"}}。エレベーター・エスカレーター・多目的トイレが事業者ごとに設置される。 ** [[12月20日]]:東西自由通路完全開通。開通に伴い、新幹線高架下も再整備され飲食店など出店。 * [[2005年]](平成17年)[[6月25日]]:東口に駅ビル([[ラスカ小田原|小田原ラスカ]])オープン。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:箱根登山鉄道の車両による小田原駅乗り入れが廃止。全列車が小田急の車両による[[箱根湯本駅|箱根湯本]]行きに統一。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:急行の箱根登山鉄道への乗り入れを廃止。準急の新松田以西運行廃止に伴い準急停車駅から外れる。新11番ホーム使用開始。 * [[2013年]](平成25年)[[8月19日]]:東海道線のうち、当駅始発列車において、乗車の際ドアの脇にあるボタンを押して扉を開閉する方式に変更(ただし、遅延等で停車時間が短い場合等、車掌等の判断で実施しない場合もある)。 * [[2014年]](平成26年)11月1日:JR東日本の発車メロディが「[[お猿のかごや]]」に変更される。 * [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:小田急小田原線からの下り各駅停車の箱根登山鉄道への乗り入れを廃止。 == 駅構造 == 小田原駅ホームの番号設定は、乗り入れている鉄道事業者すべてに通しで振られている。南側から次のようになっている。 * 1・2番線:伊豆箱根鉄道 * 3 - 6番線:JR東日本 * 7 - 11番ホーム:小田急・箱根登山鉄道 ** (12番ホームは欠番) * 13・14番線:JR東海 [[高架駅]]の新幹線以外は[[地上駅]]である。JR東日本・小田急・箱根登山鉄道は地上3階、JR東海は地上1階、伊豆箱根鉄道は地上2階にそれぞれ[[改札|改札口]]・駅事務室がある。小田急と箱根登山鉄道は同一改札内である。 2003年3月に[[橋上駅|橋上駅舎]]が完成し、同年12月に「アークロード」の愛称を持つ東西連絡通路が完成した。これにより連絡通路が完成し、東口・西口間の通行が可能になった。東西自由通路は16メートルの広い幅の通路で[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]が設置されている。自由通路内には小田原市の観光案内所がある。なお、その時にJR東日本の改札口付近に巨大な[[小田原提灯]]が市民団体により設置された。この提灯は[[令和元年東日本台風]](台風19号)で破損したため、市側により一時撤去されたが<ref>{{Cite web|和書|title=【台風19号】小田原駅通路に暴風、大ちょうちん破る|url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-201795.html|website=カナロコ|publisher=[[神奈川新聞]]|accessdate=2019-12-23|language=ja|date=2019年10月13日}}</ref>、修復され2020年8月29日に再設置された<ref>{{Cite web|和書|title=小田原駅の大ちょうちん復活 台風で破損、巻き上げ機追加|url=https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-458434.html|website=カナロコ|publisher=[[神奈川新聞]]|accessdate=2022-04-04|language=ja|date=2020-08-31}}</ref>。 2005年6月には旧東口JR駅舎の跡地に地上5階地下1階の[[駅ビル]]が完成し、地上1 - 5階は「[[ラスカ小田原|小田原ラスカ]]」としてオープンした。駅ビルの完成に合わせて、東西[[バスターミナル]]のレイアウトが変わり、東口には[[ペデストリアンデッキ]]が設置された。エスカレータ・エレベーター・多目的[[便所|トイレ]]が構内に設置されている。 === 伊豆箱根鉄道 ===<!-- 順番はホームの番号順 --> {{駅情報 |社色 = #0000ff |文字色 = |駅名 = 伊豆箱根鉄道 小田原駅 |画像 = Odawara-STA Izuhakone-Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2021年8月) |よみがな = おだわら |ローマ字 = ODAWARA |前の駅 = |駅間A = |駅間B = 0.4 |次の駅 = [[緑町駅|緑町]] ID02 |所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]]栄町一丁目1-5 |座標 = {{coord|35|15|22.5|N|139|9|22.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=伊豆箱根鉄道 小田原駅}} |電報略号 = |駅番号 = '''ID01''' |所属事業者 = [[伊豆箱根鉄道]] |所属路線 = {{Color|blue|■}}[[伊豆箱根鉄道大雄山線|大雄山線]] |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 小田原 |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1935年]]([[昭和]]10年)[[6月16日]] |乗車人員 = |乗降人員 = 12,796 |統計年度 = 2020年 |備考 = }} [[頭端式ホーム]]2面2線(うち1面は未使用)を使用している。[[ダイヤグラム|ダイヤ]]上、列車は1番線と2番線を交互に発着している。駅番号は'''ID01'''。 ==== のりば ==== <!-- 伊豆箱根鉄道公式サイトの表記に準拠。 --> {|class="wikitable" rules="rows" !番線!!路線!!行先 |- !1・2 |[[File:Number prefix Daiyuzan.svg|15px|ID]] 大雄山線 |[[大雄山駅|大雄山]]方面 |} ==== 駅構内設備 ==== 駅舎は独立した建物になっており、駅の2階に当たる。[[自動改札機]]設置駅。[[コンコース]]内に[[便所|多目的トイレ]]がある。[[売店]]は改札内にあり、駅3階には系列の[[旅行会社]]がある。東西自由通路との連絡通路がある。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Odawara-eki-2005-5-4 11.jpg|ホーム(2005年5月) </gallery> {{-}} === JR東日本 === <!-- 順番はホームの番号順 --> {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR東日本 小田原駅 |画像 = Odawara-STA JRE-Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2021年8月) |よみがな = おだわら |ローマ字 = Odawara |所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]]栄町一丁目1-9 |座標 = {{coord|35|15|21.0|N|139|9|20.0|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR東日本 小田原駅}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |前の駅 = JT 15 [[鴨宮駅|鴨宮]] |駅間A = 3.1 |駅間B = 2.1 |次の駅 = [[早川駅|早川]] JT 17 |駅番号 = {{駅番号r|JT|16|#f68b1e|1}} |所属路線 = {{Color|#f68b1e|■}}[[東海道本線]] |キロ程 = 83.9 |起点駅 = [[東京駅|東京]] |電報略号 = オタ←ヲタ |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面4線 |開業年月日 = [[1920年]]([[大正]]9年)[[10月21日]] |乗車人員 = 29,261 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有}} }} [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]配置)で国府津駅、小田原駅、真鶴駅、湯河原駅、熱海駅、伊東駅、熱海運輸区を合併した小田原・伊豆統括センターの所在駅であり、東海道線の[[二宮駅]] - [[熱海駅]] と伊東線内の全駅を統括し、伊東線の運行管理及び旧熱海運輸区の乗務も担当している<ref>{{Cite news |title=JR東労組横浜地本No.197号 |date=2022-05-02|url=http://www.jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/627085a6ce355ece6dc23b49.pdf |accessdate=2023-02-08|format=PDF |publisher=JR 東日本労働組合横浜地方本部}}</ref>。地上にある[[島式ホーム]]2面4線を使用している。その外側に[[東海道貨物線|貨物線]]2線と留置線2線がホームに平行して通っている。留置線は熱海方にも設置されている。[[鶴見駅]]から続く東海道貨物線との複々線区間の終端であり、当駅以西は旅客列車・貨物列車とも同一線路を走行する。[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は'''JT 16'''。 当駅が始発・終着になる列車が多い<ref>熱海方向からの当駅止まりも数本運転されているが、終着後は国府津駅まで回送され、国府津車両センターに入庫する。またダイヤ乱れ時に熱海方向から下りの副本線へ入線し、熱海へ折り返す形となっている。</ref>。朝は当駅始発の特急「[[湘南ライナー|湘南]]」の通勤列車が運行され、夜間は特急「湘南」・[[快速列車|快速]]「[[快速アクティー|アクティー]]」の終点となっている。熱海発の上り普通列車が当駅始発の[[湘南新宿ライン]][[特別快速]]との接続を取る場合や当駅で先行していた熱海方面の普通列車に後の列車が接続する場合がある。一部の普通列車は特急「踊り子」の待避を行う。 かつては、当駅で下り普通列車の付属編成切り離しや、上り普通列車の車両連結が行われていた。東京方に、付属編成用の引き上げ線2線が存在するが、使用停止となっている。 当駅始発の列車に乗車する場合は、ドアの横にあるボタンで開ける必要がある(空調の関係などのため)。なお、発車1分位前になるとすべてのドアが開く。ただし、当駅折り返し列車において遅延が発生している場合など、停車時間が短い場合やその他、車掌などの判断でドアを閉めない場合もある。 [[発車メロディ]]は2014年11月に一般的な電子音のものから『[[お猿のかごや]]』に変更された<ref>{{Cite news|和書 |title=「お猿のかごや」で発車 JR小田原駅で 11月から駅メロ導入へ |newspaper=[[神奈川新聞]] |date=2014-09-26 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190511020649/https://www.kanaloco.jp/article/entry-52161.html |archive-date=2019-05-11 |access-date=2023-06-17 |url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-52161.html}}</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" rules="rows" !番線!!路線!!方向!!行先 |- ! 3・4 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 |style="text-align:center"|下り |[[熱海駅|熱海]]・[[伊東駅|伊東]]・[[沼津駅|沼津]]方面 |- ! rowspan="3" |5・6 |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 | rowspan="3" |上り | rowspan="3" |[[横浜駅|横浜]]・[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[上野駅|上野]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]方面 |- |[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] [[上野東京ライン]] |- |[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[湘南新宿ライン]] |} (出典:JR東日本:駅構内図<ref>[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/382.html JR東日本:駅構内図]</ref>) * 3・6番線が[[停車場#本線|本線]]、4・5番線が[[停車場#本線|副本線]]である。 * 上り方面の列車が4番線を利用することがある。 * [[夜間滞泊]]設定駅である。 ==== 駅構内設備 ==== エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。売店は、3・4番線の東京方に[[NewDays|NewDays KIOSK]]、5・6番線の東京方に[[NewDays]]がある。JR東海東海道新幹線との連絡通路がある。ホーム[[有効長]]は15両編成対応である。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR Odawara Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2019年6月) JR Odawara Station Platform 5・6.jpg|5・6番線ホーム(2019年6月) </gallery> ==== 貨物取扱 ==== JR貨物の駅は[[車扱貨物|車扱]][[臨時駅|臨時]]取扱駅となっている。 1984年1月までは小田急電鉄との[[貨物列車]]の連絡があり、それ以降も、1994年まで小田急電鉄や箱根登山鉄道の車両の搬入や搬出が当駅で行われていた(その後[[松田駅]] - [[新松田駅]]を結ぶ[[連絡線]]に変更)。 2018年現在、定期での貨物列車の発着はないが、伊豆箱根鉄道大雄山線で使用されている車両を[[日本の鉄道車両検査|検査]]などで[[伊豆箱根鉄道大場工場|大場工場]]との間で回送させるため、当駅と[[三島駅]]の間で東海道本線を経由して[[車両輸送|甲種輸送列車]]が年に数回運行される。三島駅では、大場工場へ通ずる[[伊豆箱根鉄道駿豆線|駿豆線]]に接続している。 特筆すべき点として、当駅にはJR線と大雄山線を介する授受線がなく、直接東海道貨物線の本線と大雄山線の線路が渡り線で繋がっているだけである。この間には無[[架線]]地帯が存在するため、甲種輸送の際に電気機関車と輸送車両との間に[[控車]]となる空のコンテナ車3両(2012年までは[[有蓋車]])を連結し、輸送車両を相手方の線路に押し込み、相手方の[[機関車]]もしくは[[電車]]がそれを受ける形で授受が行われる。これにより、電気機関車および電車が無架線地帯に侵入することなく授受を行うことができる。ただし、東海道貨物線および大雄山線の線路を長時間ともに支障するため、JR側では貨物列車の時刻変更、伊豆箱根鉄道側では小田原駅を発着する列車の着発線変更および一部運休が実施される。 なお、東海道貨物線の上りから大雄山線へ通ずる東海道貨物線下り本線への転線は不可能なため、大場工場を出場して当駅まで輸送される列車については一度[[相模貨物駅]]まで運行され、[[機回し|機関車を反対に付け替え]]たあとに当駅まで輸送される。このため、控車となる貨車は相模貨物駅からの連結となる。小田原駅までの輸送完了後はやはり東海道貨物線上り本線へ転線が不可能なため、[[沼津駅]]まで控車を輸送する。 === 小田急・箱根登山鉄道 ===<!-- 順番はホームの番号順 --> {{駅情報 |社色 = #2288CC |文字色 = |駅名 = 小田急・箱根登山鉄道 小田原駅 |画像 = Odawara-STA Odakyu-Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2021年8月) |よみがな = おだわら |ローマ字 = Odawara |所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]]城山一丁目1-1 |座標 = {{coord|35|15|23.0|N|139|9|19.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=小田急 小田原駅}} |所属事業者 = {{Plainlist| * [[小田急電鉄]] * [[箱根登山鉄道]]}} |ホーム = 3面4線 |開業年月日 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月1日]] |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |乗降人員 = {{Smaller|(小田急電鉄)-2022年-}}<br /><ref group="小田急" name="odakyu2022" />53,079人/日<hr />{{Smaller|(箱根登山鉄道)-2021年-}}<br /><ref group="#" name="hakone2021" />10,783 |統計年度 = |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{Color|#2288CC|■}}[[小田急小田原線]]{{Refnest|group="*"|name="direct"|両線で[[直通運転]]実施。}} |前の駅1 = OH 46 [[足柄駅 (神奈川県)|足柄]] |駅間A1 = 1.7 |駅間B1 = |次の駅1 = |電報略号1 = |駅番号1 = {{駅番号r|OH|47|#2288CC|4||#2288CC}} |キロ程1 = 82.5 |起点駅1 = [[新宿駅|新宿]] |所属路線2 = {{Color|#f04a00|■}}[[箱根登山鉄道鉄道線]]<ref group="*" name="direct" /><br/>(箱根登山電車) |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 1.7 |次の駅2 = [[箱根板橋駅|箱根板橋]] OH 48 |電報略号2 = |駅番号2 = {{駅番号r|OH|47|#f04a00|4||#6a3906}} |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 小田原 |備考 = {{Plainlist| * 標高14&nbsp;m<ref name="hakone-tozan20131129"/> * [[共同使用駅]](小田急の管轄駅)}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }}<!--箱根登山の電車は小田原から東側には来ませんので「相互乗り入れ」ではありません--> 小田急電鉄・箱根登山鉄道の[[共同使用駅]]で、小田急の管理駅である。駅番号は'''OH 47'''。なお両社で通しの駅番号を用いているが、案内表示でのデザインが当駅を境に異なっており(小田急は青色、箱根登山鉄道は赤茶色)、当駅では2種類のデザインが併存している。 2008年3月より、2面3線の[[島式ホーム]]となる7 - 10番ホームが組み合わさっており、ホームに平行して北側に留置線が1線ある。ホーム4線のうち中側2線(8・9番および11番ホーム)は行き止まりの頭端式で、特に箱根登山側の11番ホームにかかる線路は7・8番ホームに入り込んでおり、このため7番ホームの一部は切り欠きホームという特殊な構造となっている。これによりすべてのホームは地上でつながって乗換えが容易になっている。 ホームの発車合図音は、7・11番ホームの箱根湯本行では『[[箱根八里]]』の発車メロディが流される(放送システム上、フルコーラスは流れない)。9・10番ホーム全列車と7番ホームの新宿方面は[[発車ベル]]が使用されていたが、2018年1月現在発車ベル等は省略されている。7番ホームから留置線への入替列車は<!--2018年1月以前から-->合図音は省略される。 2006年3月18日以降、当駅 - 箱根湯本駅間の営業列車はすべて小田急電鉄所属車両で運転されている。したがって、[[強羅駅|強羅]]方面に行くには箱根湯本駅での乗換が必要となる。また、一部の[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]については当駅で連結・切り離しが行われる。以前は新宿方面から箱根湯本に直通する料金不要の一般列車も多数運転されていたが、2008年3月15日ダイヤ改正より、小田原線から箱根登山線への直通列車は4両編成の[[各駅停車]]および特急ロマンスカーのみとなり、数度の変遷を経て2018年3月17日ダイヤ改正以降、各駅停車による直通列車は上り1本を残すのみとなった。 かつては箱根登山線に乗り入れる特急ロマンスカーには、当駅から箱根湯本までの区間のみを乗車することはできなかったが、2005年10月1日より駅ホームで乗車時に「座席券」を購入することで、座席への着席が可能となった。ただし、対象列車が満席又は満席が想定される場合は「座席券」は発売されない。これは箱根湯本駅から当駅まで特急ロマンスカーを利用する場合も同じである。現在では「特急券」という扱いになり、小田原駅 - 箱根湯本駅間に特急料金が設定されているが、予約購入はできず座席も指定されない。 管区長・[[駅長]]所在駅であり、「小田原管区」として[[鶴巻温泉駅]] - 当駅間の各駅を、「小田原管区小田原管内」として[[開成駅]] - 当駅間の各駅を管理している<ref name="RP976_13">{{Cite journal|和書|author=藤田雄介(小田急電鉄CSR・広報部)|title=総説:小田急電鉄|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2020-08-10|volume=70|issue=第8号(通巻976号)|page=13|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 箱根登山鉄道の表示看板やパンフレットでは各駅の標高が示されており、当駅はかつて26&nbsp;[[メートル|m]]と表記されていたが、2013年の再調査で14&nbsp;mに訂正されている<ref name="hakone-tozan20131129">{{Cite web|和書|date=2013-11-29|url = http://www.hakone-tozan.co.jp/dat/pdf/%C9%B8%B9%E2%C9%BD%BC%A8%BD%A4%C0%B5%A5%EA%A5%EA%A1%BC%A5%B9%A1%CA20131129%BA%C7%BD%AA%A1%CB.pdf|title = 各駅における標高表示の修正について|format=PDF|publisher = 箱根登山鉄道|accessdate = 2013-11-30}}</ref>。 ==== のりば ==== <!-- 各事業者公式サイト「駅構内図」や「時刻表」の表記に準拠 --> {|class="wikitable" rules="rows" !nowrap="nowrap"|ホーム!!路線!!方向!!行先!!備考 |- ! 7 |rowspan="2"| [[File:Odakyu_Hakone_StaNo.svg|15px|HakoneTozan]] 箱根登山電車 |rowspan="2" style="text-align:center"|下り |rowspan="2"| [[箱根湯本駅|箱根湯本]]・[[強羅駅|強羅]]方面 | |- ! 11 |折り返しのみ |- ! 8 |rowspan="3"|[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田急小田原線 |colspan="2"|(9番ホーム列車の降車ホーム) |rowspan="2"|折り返しのみ |- ! 9 |rowspan="2" style="text-align:center"|上り |rowspan="2"|[[新宿駅|新宿]]・[[相模大野駅|相模大野]]・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/station/odawara/ |title=小田原駅のご案内 駅立体図 |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 10 |上りの一部は7番のりばに発着 |} * 小田原線と箱根登山線を直通する列車については、箱根湯本行きが7番ホーム、新宿方面行きが10番ホームを使用する。 * 7番ホームに到着する小田原線の当駅止まり列車は、原則として箱根湯本駅寄りの留置線で折り返し10番ホームに進入するが、そのまま折り返し足柄駅の留置線に回送される列車がある。 * 2022年3月12日のダイヤ改正以降、当駅に乗り入れる快速急行は早朝の下り1本のみとなっている。このほかの快速急行は[[新松田駅]]で種別を変更し、新松田駅 - 当駅間を急行として運転する列車([[開成駅]]停車)のみの設定となっている。 * 旧11・12番ホームは1面2線の島式ホームで箱根登山線車両用の[[標準軌]]専用ホームであったが、2006年3月18日より使用停止(閉鎖)となり改良工事が行われた。これは12番ホームを撤去した上で11番ホームの線路を標準軌から狭軌に改軌するとともに線路を新宿方面へ延伸し、20メートル級車両4両の発着を可能(有効長91メートル)にするもので、延伸にあたっては11番ホームの延長上にあった7・8番ホームの駅長事務室が支障となるために撤去された。11番ホームは2008年3月15日のダイヤ改正から運用を開始し、4両編成の小田急車による当駅 - 箱根湯本駅間の往復運転電車の発着に使用されている。 * かつては箱根登山線に乗り入れる急行・準急も存在したが(いずれも最大6両で、大半が小田原線内の途中駅で分割・併合を行い新宿方では10両編成で運行していた)、快速急行は10両編成での運行であるため、登場当初から箱根登山線には乗り入れていない。 * 10番ホームに隣接して10両編成対応の側線が1本ある。 なお、2006年3月までは、以下の通りであった。 {|class="wikitable" rules="rows" !nowrap="nowrap"|ホーム!!路線!!方向!!行先!!備考 |- ! 7 |箱根登山電車 |style="text-align:center"|下り |箱根湯本・強羅方面 |7番ホームは小田急車両 |- ! 8 |colspan="3"|(9番ホーム列車の降車ホーム) |rowspan="2"|当駅折返し専用 |- ! 9 |rowspan="2"|小田急小田原線 |style="text-align:center" rowspan="2"|上り |rowspan="2"|新宿・相模大野・[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]]千代田線方面 |- ! 10 | |- ! 11 |rowspan="2"|箱根登山電車 |rowspan="2" style="text-align:center"|下り |rowspan="2"|箱根湯本・強羅方面 |rowspan="2"|11・12番ホームは箱根登山鉄道車両 |- ! 12 |} ==== 駅構内設備 ==== エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。売店は、ホームと改札前に[[セブン-イレブン|セブンイレブン]]がある。自由通路・コンコースいずれにも面した場所に、系列[[飲食店]]がある。[[待合室]]は各ホーム箱根板橋寄りにある。ちなみに待合室はドーム屋根下に位置するが、[[瓦葺き|瓦屋根]]となっており[[城下町]]をイメージさせる。以前の狭隘であった改札口も、新駅舎になり広くなった。 7 - 10番ホームはすべて10両対応。改札内に[[自動体外式除細動器]] (AED) が設置されている。 前述の通り当駅は小田急の管理駅であり、[[サインシステム|案内サイン]]も多くが小田急仕様となっているが、7・10番ホーム付近には箱根登山線仕様の案内サインが設置されている。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Odawara Sta platform OER 2009.jpg|ホーム(2009年) Tozan Odawara Sta platform.jpg|かつての箱根登山鉄道線11番・12番ホーム(2006年) DualgaugeHakonetozanJP14.jpg|駅付近にあった[[三線軌条]]レール </gallery> {{-}} === JR東海 === {{駅情報 |社色 = #f77321 |文字色 = |駅名 = JR東海 小田原駅 |画像 = Odawara-STA Shinkansen-Gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 新幹線改札口(2021年8月) |よみがな = おだわら |ローマ字 = Odawara |所在地 = [[神奈川県]][[小田原市]]城山一丁目1-1 |座標 = {{coord|35|15|23.0|N|139|9|17.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR東海 小田原駅}} |前の駅 = [[新横浜駅|新横浜]] |駅間A = 55.1 |駅間B = 20.7 |次の駅 = [[熱海駅|熱海]] |電報略号 = オタ |駅番号 = |所属事業者 = [[東海旅客鉄道]](JR東海) |所属路線 = {{Color|mediumblue|■}}[[東海道新幹線]] |キロ程 = 83.9 |起点駅 = [[東京駅|東京]] |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[10月1日]] |乗車人員 = <ref group="!" name="odawara2022" />6,682 |乗降人員 = |統計年度 = 2021年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<!--←JR東海の表記--> * [[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]] 有 * [[指定席券売機#アシストマルス|サポートつき指定席券売機]]設置駅<ref name="jrc/faq000262">{{Cite web|和書|url=https://faq.jr-central.co.jp/detail/faq000262.html|title=駅の設備などについて|よくいただくご質問|JR東海|publisher=東海旅客鉄道|accessdate=2023-03-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230301084242/https://faq.jr-central.co.jp/detail/faq000262.html|archivedate=2023-03-01}}</ref>}} }} [[高架駅|高架上]]にある[[相対式ホーム]]2面2線を使用している。ホームの間に2線の通過線がある。「こだま」号の大半は、当駅で通過列車を待避する。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東海の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先 |- !13 |rowspan="2"|[[File:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線 |style="text-align:center"|下り |[[新大阪駅|新大阪]]方面 |- !14 |style="text-align:center"|上り |[[東京駅|東京]]方面 |} (出典:JR東海:駅構内図<ref>[https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/odawara/map.html JR東海:駅構内図]</ref>) ==== 駅構内設備 ==== エレベーター・エスカレーターはすべてのホームに設置されている。トイレはコンコース内に多目的トイレがある。各ホーム中央部と東京寄りにKIOSKが、またコンコース2階にある待合室にも売店がある。改札の外([[新横浜ステーション開発|アスティ小田原]])には飲食店・[[コンビニエンスストア]]・[[書店]]がある。JR東日本との連絡通路がある。 自由通路の完成前は、JR東海管理の在来線近距離きっぷの自動券売機が設置されていたため、金額式乗車券はJR東海地紋で「海」表記の一方「東日本会社線」表記がある様式だった。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Odawara-STA Shinkansen Tokaido-line Transfer.jpg|東海道線のりかえ口(2021年8月) JR Central Odawara Station Shinkansen Platform.jpg|新幹線ホーム(2022年7月) </gallery> {{-}} == 駅弁 == [[File:東華軒の「金目鯛炙り寿司」 Pcs34560 IMG4240.jpg|thumb|金目鯛炙り寿司]] [[東華軒]]などが販売している。主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=39-40,151-153}}</ref>。 {{Div col||20em}} * 炙り金目鯛と小鰺押寿司 * うなぎ、金目鯛と銀鮭のあいのせ御膳 * 箱根山麓豚弁当カルビ&ロース * やまゆり牛しぐれ煮弁当 * 小鰺押寿司 * しらす弁当 * 金目鯛西京焼弁当 * デラックスこゆるぎ弁当 * おたのしみ弁当 * こゆるぎ茶めし * 鯛めし * 伝承 鰺の押寿し * 神奈川牛肉弁当 * 鰺の押寿し * 大和軒ハムサンドイッチ {{Div col end}} == 利用状況 == 小田原市の中心駅。各社局の利用状況は以下の通りである。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均乗車人員は'''29,261人'''である<ref> [https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 * '''JR東海''' - 2021年度の1日平均乗車人員は'''6,682人'''である<ref group="!" name="odawara2022" />。 * '''小田急電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''53,079人'''である<ref group="小田急" name="odakyu2022" />。小田急線全70駅中17位。 * '''箱根登山鉄道''' - 2021年度の1日平均乗降人員は'''10,783人'''である<ref group="#" name="hakone2021" />。 *: 箱根登山の駅の中では第1位である。 * '''伊豆箱根鉄道''' - 2020年度の1日平均の利用者数は'''12,796人'''である<ref>{{PDFlink|[http://www.izuhakone.co.jp/railway/files/railway_idotouenkatuka_station_202107.pdf 伊豆箱根鉄道グループ 駿豆線・大雄山線 移動等円滑化取組報告書]}}</ref>。 *: 伊豆箱根の駅の中では第1位である。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り(小田急・箱根登山鉄道のみ)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref>[http://www.train-media.net/report/index.html 各種報告書] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|小田急電鉄 !colspan=2|箱根<br/>登山鉄道<!--統計はこねより--> |- !1日平均<br/>乗降人員 !増加率 !1日平均<br/>乗降人員 !増加率 |- |1928年(昭和{{0}}3年) |2,343|| |rowspan=2 colspan=2 style="text-align:center"|未開業 |- |1930年(昭和{{0}}5年) |2,210|| |- |1935年(昭和10年) |2,241|| | || |- |1940年(昭和15年) |4,025|| | || |- |1946年(昭和21年) |12,475|| | || |- |1950年(昭和25年) |12,104|| | || |- |1955年(昭和30年) |18,933|| | || |- |1960年(昭和35年) |29,742|| | || |- |1965年(昭和40年) |48,521|| | || |- |1970年(昭和45年) |60,676|| | || |- |1975年(昭和50年) |64,657|| | || |- |1980年(昭和55年) |71,344|| | || |- |1985年(昭和60年) |78,789|| | || |- |1990年(平成{{0}}2年) |84,469|| | || |- |1991年(平成{{0}}3年) |<ref>乗降人員最高値年度</ref>84,543||0.1% | || |- |1995年(平成{{0}}7年) |77,300|| | || |- |1999年(平成11年) | || |19,536<!--7,150,112÷366-->|| |- |2000年(平成12年) |66,220|| |19,358<!--7,065,630÷365-->||&minus;0.9% |- |2001年(平成13年) | || |18,962<!--6,921,171÷365-->||&minus;2.0% |- |2002年(平成14年) | || |18,574<!--6,779,395÷365-->||&minus;2.0% |- |2003年(平成15年) |64,246||0.2% |18,899<!--6,917,030÷366-->||1.7% |- |2004年(平成16年) |62,960||&minus;2.0% |18,065<!--6,593,703÷365-->||&minus;4.4% |- |2005年(平成17年) |63,600||1.0% |18,274<!--6,670,076÷365-->||1.2% |- |2006年(平成18年) |63,897||0.5% |18,204<!--6,644,285÷365-->||&minus;0.4% |- |2007年(平成19年) |<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0811/odakyu.pdf 小田急電鉄の平成19年度1日平均乗降人員・通過人員]|関東交通広告協議会のレポート一覧による}}</ref>64,970||1.7% |19,263<!--7,050,203÷366-->||5.8% |- |2008年(平成20年) |65,555||0.9% |18,897<!--6,897,468÷365-->||&minus;1.9% |- |2009年(平成21年) |<ref>[https://web.archive.org/web/20100908061709/http://www.odakyu.jp/company/business/railways/jyokou.html 小田急電鉄1日平均乗降人員]</ref>65,031||&minus;0.8% |18,514<!--6,757,623÷365-->||&minus;2.0% |- |2010年(平成22年) |64,685||&minus;0.5% |17,972<!--6,559,879÷365-->||&minus;2.9% |- |2011年(平成23年) |63,886||&minus;1.2% |16,619<!--6,082,655÷366-->||&minus;7.5% |- |2012年(平成24年) |65,799||3.0% |17,855<!--6,517,054÷365-->||7.4% |- |2013年(平成25年) |66,951||1.8% |18,227<!--6,652,917÷365-->||2.1% |- |2014年(平成26年) |66,498||&minus;0.7% |18,501<!--6,752,831÷365-->||1.5% |- |2015年(平成27年) |64,580||&minus;2.9% |16,299<!--5,965,373÷366-->||&minus;11.9% |- |2016年(平成28年) |66,612||3.1% |18,032<!--6,581,658÷365-->||10.6% |- |2017年(平成29年) |66,983||0.6% |<ref group="#" name="hakone2017">{{Cite web|和書|url=https://www.town.hakone.kanagawa.jp/www/contents/1100000002212/simple/20190419-143256.pdf|title=統計はこね(平成30年版)9 .交通・運輸・通信 2 .箱根登山鉄道各駅乗降客数|format=|publisher=箱根町|accessdate=2023-07-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref>18,692<!--6,822,645÷365-->||3.7% |- |2018年(平成30年) |65,927||&minus;1.6% |<ref group="#" name="hakone2018">{{Cite web|和書|url=https://www.town.hakone.kanagawa.jp/www/contents/1100000000344/simple/20200331-154129.pdf|title=統計はこね(令和元年版)9 .交通・運輸・通信 2 .箱根登山鉄道各駅乗降客数|format=|publisher=箱根町|accessdate=2023-07-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref>18,172<!--6,632,686÷365-->||&minus;2.8% |- |2019年(令和元年) |<ref group="小田急" name="odakyu2019">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ |title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか |website= |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-07-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210430015156/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ |archivedate=2021-04-30 |deadlinkdate=}}</ref>62,396||&minus;5.4% |<ref group="#" name="hakone2019">{{Cite web|和書|url=https://www.town.hakone.kanagawa.jp/www/contents/1100000000775/simple/20210924-162631.pdf|title=統計はこね(令和2年版)9 .交通・運輸・通信 2 .箱根登山鉄道各駅乗降客数|format=|publisher=箱根町|accessdate=2023-07-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref>16,040<!--5,870,519÷366-->||&minus;11.5% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="小田急" name="odakyu2020">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ |title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか |website= |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-07-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220526114129/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ |archivedate=2022-05-26 |deadlinkdate=}}</ref>41,803||&minus;33.0% |<ref group="#" name="hakone2020">{{Cite web|和書|url=http://www.town.hakone.kanagawa.jp/index.cfm/11,28440,c,html/28440/20220804-092946.pdf|title=統計はこね(令和3年版)9 .交通・運輸・通信 2 .箱根登山鉄道各駅乗降客数|format=|publisher=箱根町|accessdate=2023-07-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220827131434/http://www.town.hakone.kanagawa.jp/index.cfm/11,28440,c,html/28440/20220804-092946.pdf|archivedate=2022-08-27}}</ref>9,335<!--3,407,520÷365-->||&minus;42.0% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="小田急" name="odakyu2021">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ |title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか |website= |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-07-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230314213654/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ |archivedate=2023-03-14 |deadlinkdate=}}</ref>46,299||10.8% |<ref group="#" name="hakone2021">{{Cite web|和書|url=https://www.town.hakone.kanagawa.jp/www/contents/1680137550284/simple/09.pdf|title=統計はこね(令和4年版)9 .交通・運輸・通信 2 .箱根登山鉄道各駅乗降客数|format=|publisher=箱根町|accessdate=2023-07-01|archiveurl=|archivedate=}}</ref>10,783<!--3,935,968÷365-->||15.5% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="小田急" name="odakyu2022">{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ |title=鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか |website= |publisher=小田急電鉄 |accessdate=2023-07-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230701061413/https://www.odakyu.jp/company/railroad/users/ |archivedate=2023-07-01 |deadlinkdate=}}</ref>53,079||14.6% | || |} === 年度別1日平均乗車人員 === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="県勢">{{Cite web|和書|title=県勢要覧 - 神奈川県ホームページ|url=http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f160349/|website=www.pref.kanagawa.jp|accessdate=2020-01-13}}</ref><ref>[http://www.city.odawara.kanagawa.jp/municipality/statistics/ 小田原市統計書]</ref> !年度!!JR東日本!!JR東海!!小田急電鉄!!箱根登山鉄道!!伊豆箱根鉄道!!出典 |- |1995年(平成{{0}}7年) |35,059||13,384||38,286||11,792||10,381 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/784899.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}}</ref> |- |1998年(平成10年) |33,395||9,593|| ||11,162||9,945 |<ref group="県勢">神奈川県県勢要覧(平成12年度)</ref> |- |1999年(平成11年) |32,406||9,370|| ||10,777||9,805 |<ref group="県勢" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>32,060 |9,399||32,579||10,606||9,588 |<ref group="県勢" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}}</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>31,681 |9,428||32,342||10,401||9,470 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 神奈川県県勢要覧(平成14年度)]}}</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>30,870 |9,232||31,704||11,141||8,901 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 神奈川県県勢要覧(平成15年度)]}}</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>32,444 |9,397||32,297||11,202||9,092 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 神奈川県県勢要覧(平成16年度)]}}</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>31,732 |9,790||31,313||10,812||9,012 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 神奈川県県勢要覧(平成17年度)]}}</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>31,992 |10,036||31,642||10,772||9,107 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 神奈川県県勢要覧(平成18年度)]}}</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>32,160 |10,223||31,851||10,606||8,914 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 神奈川県県勢要覧(平成19年度)]}}</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>32,857 |10,574||32,337||11,386||8,869 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 神奈川県県勢要覧(平成20年度)]}}</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>32,897 |10,523||32,620||11,383||8,891 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 神奈川県県勢要覧(平成21年度)]}}</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>32,767 |9,922||32,371||11,040||8,793 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 神奈川県県勢要覧(平成22年度)]}}</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>32,503 |10,052||32,218||10,758||8,600 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 神奈川県県勢要覧(平成23年度)]}}</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>32,469 |10,008||31,838||9,788||8,554 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 神奈川県県勢要覧(平成24年度)]}}</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>33,835 |10,257||32,776||10,671||8,738 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 神奈川県県勢要覧(平成25年度)]}}</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>34,602 |10,596||33,311||10,956||9,047 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/762227.pdf 神奈川県県勢要覧(平成26年度)]}}</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>34,196 |10,446||33,143||11,086||8,846 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/821923.pdf 神奈川県県勢要覧(平成27年度)]}}</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>34,183 |10,495||32,178||9,433||8,858 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[https://megalodon.jp/ref/2018-0524-2239-06/www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 神奈川県県勢要覧(平成28年度)]}}</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>34,484 |10,787||33,197||10,641||8,858 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成29年度)]}}</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>34,363 |11,139||33,353 |11,043||8,824 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成30年度)]}}</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>34,260 |11,245||32,847 |10,638||8,773 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 神奈川県県勢要覧(令和元年度)]}}</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>33,460 |<ref group="!" name="odawara2020">{{Cite web|和書|url=https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/487397/1-20210729175131.pdf|title=令和2年版小田原市統計要覧|format=pdf|publisher=小田原市|accessdate=2023-07-01|archiveurl=|archivedate=|page=109}}</ref>10,817<!--3,958,998/366-->||41,803 |9,121||9,146 |<ref group="県勢">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202015.pdf 神奈川県県勢要覧(令和2年度)]}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>23,768 |<ref group="!" name="odawara2021">{{Cite web|和書|url=https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/539070/1-20220609094217.pdf|title=令和3年版小田原市統計要覧|format=pdf|publisher=小田原市|accessdate=2023-07-01|archiveurl=|archivedate=|page=109}}</ref>5,867<!--2141382/365-->|| | || | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>26,130 |<ref group="!" name="odawara2022">{{Cite web|和書|url=https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/580037/1-20230428192955_b644ba02307de8.pdf|title=令和4年版小田原市統計要覧|format=pdf|publisher=小田原市|accessdate=2023-07-01|archiveurl=|archivedate=|page=109}}</ref>6,682<!--2439023/365-->|| | || | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>29,261 | || | || | |} === JR貨物 === 近年の年間発着トン数は下記の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" !年度!!発送トン数!!到着トン数!!出典 |- |1998年|| || || |- |1999年|| || || |- |2000年|| || || |- |2001年|| || || |- |2002年||800||800 |<ref group="県勢" name="youran2003">神奈川県県勢要覧(平成15年度版) 220,222,226-228ページ</ref> |- |2003年||800||1,200 |<ref group="県勢" name="youran2004">神奈川県県勢要覧(平成16年度版) 228ページ</ref> |- |2004年||800||800 |<ref group="県勢" name="youran2005">神奈川県県勢要覧(平成17年度版) 222,224,228-230ページ</ref> |- |2005年||800||800 |<ref group="県勢" name="youran2006">神奈川県県勢要覧(平成18年度版) 230ページ</ref> |- |2006年||800||800 |<ref group="県勢" name="youran2007">神奈川県県勢要覧(平成19年度版) 224,226,230-232ページ</ref> |- |2007年||800||800 |<ref group="県勢" name="youran2008">神奈川県県勢要覧(平成20年度版) 237ページ</ref> |- |2008年||800||800 |<ref group="県勢" name="youran2009">神奈川県県勢要覧(平成21年度版) </ref> |- |2020年||800||800 |<ref group="県勢" name="youran2020">神奈川県県勢要覧(令和2年度版) </ref> |} == 駅周辺 == [[File:Odawara station from the castle tower.jpg|thumb|駅周辺]] === 東口(表口) === 駅周辺は、神奈川県の[[西湘]]地区を代表する市街地であるが、商業施設の撤退が相次ぎ、市街地の発展に陰りが出ている。市はお城通り地区にて地上8階・地下1階の複合ビル建設を主体とした再開発事業を進めていたが、事業施工者([[アーバンコーポレイション]])が経営破たんしたことにより、計画は頓挫していた。その後、[[2016年]]12月に再開発の事業者を[[万葉倶楽部]]に再度選定し、[[万葉倶楽部#開発事業|新たな計画]]が進められることとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0607/2017/01/07/364826.html|title=お城通り地区再開発 整備事業者に万葉倶楽部|publisher=[[タウンニュース]]|date=2017-01-07|accessdate=2017-02-10}}</ref><!--(同年12月開業予定)-->。万葉倶楽部は図書館・コンベンション・ホテルなどが入る地上14階・地下1階の広域交流施設に加えて、[[宿場町]]の賑わいを再現した和風の大規模広場を整備する提案を行い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.decn.co.jp/?p=83711|title=神奈川県小田原市/お城通り地区広域交流施設整備/事業提案概要公表|publisher=[[日刊建設工業新聞]]|date=2017-01-25|accessdate=2017-02-10}}</ref>、[[2018年]]5月の着工後、[[2020年]]12月に[[複合商業施設]]「[[ミナカ小田原]]」<ref>[https://www.townnews.co.jp/0607/2019/11/30/508657.html 小田原駅東口再開発ビル 愛称は「ミナカ小田原」](タウンニュース 2019年11月30日号)</ref>として開業を迎えた。 東口のバスロータリー地下には[[地下街]]の[[ハルネ小田原|小田原地下街「HaRuNe小田原」]]がある。この地下街は1976年11月にアミーおだちかとして開業し、[[2007年]]6月に一度閉鎖したが、小田原市と地元の経済団体により再生が検討され、[[2009年]]4月に「地域資源や情報発信機能などを備える施設として再生を図る」という方針を小田原市が決定し、再生の為の計画・事業を経た上で2014年11月に再開業した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.harune-odawara.com/about-harune/|title=HaRuNeとは|HaRuNe小田原(ハルネおだわら)|publisher=小田原地下街 HaRuNe小田原|accessdate=2014-11-06}}</ref>。 駅開設前の[[1901年]]に、この付近に神奈川県第二中学校が開校した。同校は駅開設に伴って、[[1914年]]に北西の八幡へ移転し、現在の[[神奈川県立小田原高等学校]]となった。駅東口には「小田原高等学校発祥之地」の石碑が建っている。 ; 司法 * [[横浜地方裁判所]]小田原支部 * [[横浜家庭裁判所]]小田原支部 * [[小田原簡易裁判所]] ; 行政 {{columns-list|2| * [[横浜地方検察庁]]小田原支部 * 小田原区検察庁 * [[日本年金機構]]小田原年金事務所 * 小田原労働基準監督署 * 小田原公共職業安定所(ハローワーク小田原) |}} ; 学校 * [[小田原女子短期大学]] * [[旭丘高等学校 (神奈川県)|旭丘高等学校]] ; 観光 * [[小田原城址公園]] ** [[小田原城|小田原城天守閣]] ** 小田原城歴史見聞館 ** [[小田原市郷土文化館]] ** 小田原市立図書館 ; 商業施設 {{columns-list|2| * [[ラスカ小田原]]([[駅ビル]]) * [[ミナカ小田原]](上記駅ビルに直結) ** 温泉旅館「[[天成園]] 小田原駅 別館」 * EPO小田原 * 商店街 ** [[小田原錦通り商店街]] ** 小田原銀座商店会 ** お堀端商店街 ** 青物町商店会 ** ダイヤ街商店会 ** 小田原駅前東通り商店会 * 小田原地下街 [[ハルネ小田原|HaRuNe小田原]] * [[万葉倶楽部|小田原お堀端 万葉の湯]]([[温泉]]施設) |}} ; 郵便局・銀行・金融機関 {{columns-list|2| * [[小田原郵便局]] * 小田原本町郵便局 * 小田原浜町郵便局 * [[横浜銀行]]小田原支店 * [[みずほ銀行]]小田原支店 * [[りそな銀行]]小田原支店 * [[三井住友信託銀行]]小田原支店 * [[スルガ銀行]]小田原支店 * [[静岡銀行]]小田原支店 * [[静岡中央銀行]]小田原支店 * [[さがみ信用金庫]]駅前支店 * [[小田原第一信用組合]]本店 * [[野村證券]]小田原支店 * [[みずほ証券]]小田原支店 * [[三菱UFJモルガン・スタンレー証券]]小田原支店 |}} ; その他 * 東日本旅客鉄道小田原保線区 * [[松本駅長殉難碑]] - 1941年7月の台風で殉職した駅長のために建立された碑である<ref>島田 守家『ブルーバックス B-922 暴風・台風びっくり小事典 目には見えないスーパー・パワー』 p.104、p.105 講談社 1992年6月20日発行 {{ISBN2|4-06-132922-7}}</ref><!--島田 守家SHIMADA Moriya-->。 * [[北条氏政]]・[[北条氏照|氏照]]の墓所<ref>[http://www.odawara-taikyo.or.jp/imgs/info/200622/A-map.pdf 歴史と文化の香るまち散策コース] 神奈川県県西地域県政総合センター商工観光課、2021年11月18日閲覧</ref> === 西口(新幹線口) === ; 行政 {{columns-list|2| * [[小田原市役所]] * 小田原税務署 * [[小田原警察署|神奈川県小田原警察署]] * 神奈川県小田原県税事務所 * 神奈川県小田原合同庁舎 |}} ; 学校 * [[国際医療福祉大学]]小田原キャンパス * [[崎村調理師専門学校]] * [[神奈川県立小田原高等学校]] * [[相洋中学校・高等学校|相洋高等学校]] ; 郵便局 * 小田原城山郵便局 ; 企業 * [[小田急箱根ビル]](箱根登山鉄道・[[小田急箱根ホールディングス]]本社) ; その他 * [[小田原競輪場]] * [[国府津運輸区]]小田原乗務員宿泊所 == バス路線 == === 東口 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> 東口発着路線のうち箱根地区へ乗り入れるバスは、当駅に「'''101'''」の停留所番号(バス停ナンバリング)を設定している。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!(系統・)行先!!備考 |- !1 |style="text-align:center;"|[[箱根登山バス]] |{{Unbulleted list|[[箱根登山バス小田原営業所|城東車庫]]|[[箱根板橋駅|板橋]]|水之尾口 / 水之尾}} |&nbsp; |- !2 |style="text-align:center;"|[[伊豆箱根バス]] |{{Unbulleted list|船原 / 小田原フラワーガーデン|ミクニ|久野車庫}} |&nbsp; |- !3 |rowspan="2" style="text-align:center;"|箱根登山バス |{{Unbulleted list|[[箱根町港|箱根町]]|上畑宿}} |&nbsp; |- !4 |仙石案内所 / [[桃源台駅|桃源台]] / 湖尻 / ポーラ美術館 |&nbsp; |- !5 |style="text-align:center;"|伊豆箱根バス |{{Unbulleted list|関所跡 / 箱根町|湖尻 / [[箱根園]]}} |&nbsp; |- !rowspan="3"|6 |colspan="3"|小田原宿観光回遊バス(観光シーズンに運行) |- |style="text-align:center;"|[[富士急湘南バス]] |{{Unbulleted list|[[富士急湘南バス#松田から下曽我方面・小田原駅・国府津駅発着系統|'''小11'''・'''小14''']]:[[新松田駅]]|'''小15''':[[下曽我駅]]|'''小20''':成田工業循環}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|富士急湘南バス|[[近鉄バス]]}} |[[フジヤマライナー#小田原線「金太郎号」|'''高速夜行「金太郎号」''']]:[[京都駅]] / [[大阪駅周辺バスのりば|大阪駅(東梅田駅)]] / [[大阪シティエアターミナル|OCAT]] / [[天王寺駅・大阪阿部野橋駅バスのりば|あべの橋]] |&nbsp; |- !rowspan="2"|7 |style="text-align:center;"|箱根登山バス |{{Unbulleted list|[[国府津駅]]|[[ダイナシティ (ショッピングセンター)|ダイナシティ]]}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[神奈川中央交通西・平塚営業所|神奈川中央交通西]] |[[神奈川中央交通西・平塚営業所#平塚駅北口 -(国道1号)- 二宮駅方面|'''平45''']]:[[平塚駅]]北口 |&nbsp; |- !rowspan="2"|8 |style="text-align:center;"|箱根登山バス |石名坂 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[南海バス]]|[[和歌山バス]]}} |[[南海バス#夜行高速バス|'''高速夜行''']]:南海なんば高速バスターミナル |&nbsp; |} === 西口 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!(系統・)行先!!備考 |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|伊豆箱根バス |[[関東学院大学]] / 佐伯眼科 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[杉崎観光バス]]<br />([[杉崎観光バス|杉崎高速バス]]) |'''高速夜行''':[[大阪駅周辺バスのりば|大阪梅田]]プラザモータープール・[[天王寺駅]]前 / [[富山駅]]北口・[[金沢駅]]西口・[[福井駅 (福井県)|福井駅]]東口 |&nbsp; |- !2 |style="text-align:center;"|伊豆箱根バス |{{Unbulleted list|久野車庫|兎河原循環}} |&nbsp; |- !3 |rowspan="2" style="text-align:center;"|箱根登山バス |{{Unbulleted list|水之尾|いこいの森}} |&nbsp; |- !rowspan="2"|4 |'''臨時''':いこいの森 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|伊豆箱根バス |'''臨時''':いこいの森 / 久野霊園 |&nbsp; |- !5 |style="text-align:center;"|- |'''臨時''':小田原競輪場 |&nbsp; |- !小田原駅西口前 |style="text-align:center;"|富士急湘南バス |[[成田国際空港|成田空港]] |&nbsp; |} == 隣の駅 == ;東日本旅客鉄道(JR東日本) :[[File:JR JT line symbol.svg|15px|JT]] 東海道線 :*特急「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」一部停車駅(「サフィール踊り子」は通過) :*特急「[[湘南 (列車)|湘南]]」発着駅 ::{{Color|#0099ff|■}}特別快速(湘南新宿ライン経由) :::[[国府津駅]] (JT 14) - '''小田原駅 (JT 16)'''<!-- - ([[真鶴駅]] (JT 19) ※湘南新宿ライン特別快速の臨時便のみ)--> ::{{Color|#f68b1e|■}}快速(湘南新宿ライン経由、下り列車は戸塚駅から当駅まで「普通」扱い) :::[[鴨宮駅]] (JT 15) - '''小田原駅 (JT 16)''' ::{{Color|#18a629|■}}普通 :::鴨宮駅 (JT 15) - '''小田原駅 (JT 16)''' - [[早川駅]] (JT 17) :東海道貨物線 :::[[西湘貨物駅]] - '''小田原駅''' ;東海旅客鉄道(JR東海) :[[File:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線 :::[[新横浜駅]] - '''小田原駅''' - [[熱海駅]] ;小田急電鉄 :[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] 小田急小田原線 :*{{Color|#f64f4f|'''□'''}}特急ロマンスカー[[はこね (列車)|「スーパーはこね」「はこね」「メトロはこね」]]「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ]]」停車駅、「[[はこね (列車)|さがみ]]」発着駅、「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|モーニングウェイ]]」始発駅 ::{{Color|#f89c1c|■}}快速急行(早朝下りのみ運転) :::[[新松田駅]] (OH 41) → '''小田原駅 (OH 47)''' ::{{Color|#ef4029|■}}急行 :::[[開成駅]] (OH 42) - '''小田原駅 (OH 47)''' ::{{Color|#18469d|■}}各駅停車 :::[[足柄駅 (神奈川県)|足柄駅]] (OH 46) - '''小田原駅 (OH 47)''' ;箱根登山鉄道 :[[File:Odakyu_Hakone_StaNo.svg|15px|HakoneTozan]] 箱根登山鉄道鉄道線(箱根登山電車) :*{{Color|#f64f4f|'''□'''}}特急ロマンスカー「スーパーはこね」「はこね」「メトロはこね」「ホームウェイ」「モーニングウェイ」停車駅 ::{{Color|#18469d|■}}各駅停車 :::'''小田原駅 (OH 47)''' - [[箱根板橋駅]] (OH 48) ;伊豆箱根鉄道 :[[File:Number prefix Daiyuzan.svg|15px|ID]] 大雄山線 :::'''小田原駅 (ID01)''' - [[緑町駅]] (ID02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} === 利用状況 === ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|2}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="小田急"|22em}} ; 神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="県勢"|2}} ; 統計はこね {{Reflist|group="#"|22em}} ; 小田原市統計要覧 {{Reflist|group="!"|22em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Odawara Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=382|name=小田原}} * [https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/odawara/ 小田原駅] - JR東海 * [https://www.odakyu.jp/station/odawara/ 小田急電鉄 小田原駅] * [https://www.hakonenavi.jp/transportation/station/odawara/ 小田原] - 箱根ナビ Powered by [[小田急箱根ホールディングス|小田急箱根グループ]] * [http://www.izuhakone.co.jp/railway/station/daiyu01.html/ 伊豆箱根鉄道 小田原駅] {{鉄道路線ヘッダー}} {{東海道新幹線}} {{東海道本線 (JR東日本)}} {{東海道貨物線}} {{小田急小田原線}} {{箱根登山鉄道鉄道線}} {{伊豆箱根鉄道大雄山線}} {{鉄道路線フッター}} {{土木学会デザイン賞}} {{Gマーク環境}}[[Category:グッドデザイン賞]] {{DEFAULTSORT:おたわらえき}} 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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E9%A7%85
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サケ類
サケ類(サケるい)は、単にサケまたはシャケともいい、サケ目の唯一の科であるサケ科に属するものあるいはそのうちサケ属に属する魚類の総称。狭義にはサケ(鮭)は、サケ属のサケ(通称シロザケ、学名:Oncorhynchus keta)を指すが、広義にはシロザケ以外にも、タイセイヨウサケ(アトランティックサーモン)、ベニザケ、ギンザケ、キングサーモン などの仲間を総称する。 サケ科(Salmonidae)は、イトウ属 (Hucho)、イワナ属(サルベリヌス属 Salvelinus)、サルベティムス属(Salvethymus)、サケ属(タイヘイヨウサケ属、オンコリンクス属 Oncorhynchus)、タイセイヨウサケ属(サルモ属 Salmo、アカントリングア属 Acantholingua)、カワヒメマス属(グレイリング属、テュマルス属 Thymallus)、シロマス属(コレゴヌス属、ワカソ属 Coregonus)、ステノドゥス属(Stenodus)、コクチマス属(ブラキミスタクス属 Brachymystax)、プロソピウム属(ラウンドホワイトフィッシュ属 Prosopium)の11属、約66種以上に分類される。9属68種説もある。10属214種。 シロマス亜科 Coregoninae シロマス属(コレゴヌス属)(Coregonus) - Whitefishes - ホワイトフィッシュ、シナノユキマス、アイヅユキマス、オームリ 等 プロソピウム属 Prosopium - Round whitefishes ステノドゥス属 Stenodus - Inconnu カワヒメマス亜科 Thymallinae カワヒメマス属 (テュマルス属) (Thymallus) - Graylings サケ亜科 Salmoninae コクチマス属(ブラキミスタクス属) (Brachymystax) - Lenoks Hucho属 (Hucho) イトウ属(Parahucho) サケ属 (タイヘイヨウサケ属、オンコリンクス属) (Oncorhynchus) - Pacific salmon and Trout タイセイヨウサケ属 (サルモ属) (Salmo) - Atlantic salmon and Trout イワナ属 (サルベリヌス属) (Salvelinus) - Char and trout (e.g. Brook trout, Lake trout) - アメマス、オショロコマ、ミヤベイワナ、ブルックトラウト、イワナ サケの語源には諸説ある。 平安初期に編纂された現存する日本最古の漢和辞書『新撰字鏡(しんせんじきょう)』(898~901)で既に「鮭」という名称が記述されている一方、「しゃけ」という名称が出てくるのは、江戸後期の『喰物生類むり問答』(1833~44)であるので、蝦夷地との交易で「シャケ」と訛った名称が本土の交易地(主として江戸)でも広まり、鮭とシャケの呼び名の語源は別だとする意見もある。 硬骨魚類の魚の中では比較的原始的な外観を持つ。サケ科魚類の最初の化石は、ブリティッシュコロンビアの中間始新世地層で発見されているが、この化石が進化のどの段階にあるのかは分かっていない。 環太平洋で日本(16集団)、ロシア(10集団)、北米(21集団)、韓国(1集団)の計48集団のミトコンドリアDNA(mDNA)を解析した結果、塩基配列中の変異(30種ハプロタイプ)を分類し大きく3つのグループに分けることが出来た、また、遺伝的な多様性は日本が最も多く次いでロシア、北米の順であった。この結果から、広義サケ属「シロザケ」は古日本海を起源として、ロシアから北米へと分布範囲を広げていったと考えられる。Neaveによる研究でサケ属は東アジアを起源としているが、mDNAの解析結果もアジア起源を強く示唆している。より進化した種(シロザケやカラフトマス)ほど長距離の回遊を行っていると考えられる。 一般的にサケは川で産まれ海に下る。海で数年かけて大きくなり、また産まれた川に戻り(母川回帰)産卵した後死亡する。魚種によって回帰性には差があり、マスノスケ、ベニザケは回帰性が強いとされ支流まで突き止め遡上するが、シロザケやカラフトマスは回帰性が比較的弱く川を間違え遡上し「迷子ザケ」となる。回帰性があるため、同じ魚種でも母川あるいは海域で遺伝的特性が異なる。多くの種は一度の産卵活動で息絶えるが、ニジマス、イワナ、イトウなどでは数年に渡り複数回の産卵活動に参加する。シロザケなどでは孵化・浮上後直ちに降海するが、サクラマス、ベニザケ、マスノスケ、ギンザケなどでは一定期間を淡水で過ごし、ある程度成長した個体がスモルト化すると降海し海洋生活を送る。降海の目的は海洋の豊富な餌を捕食することで、より大きな体となり淡水で成熟した個体より多くの卵を産卵することにある。つまり、海洋での生活は必須ではなく淡水でも成熟し繁殖活動を行う。従って、通常は降海する魚種でも何らかの原因で陸封(河川残留)された場合は、淡水中でも成熟し産卵を行う。 水が通り十分な酸素のある砂礫質の河床に形成された産卵床に産み付けられた粘着性の無い卵は、親魚には保護されず産卵後1ヶ月程度砂礫中で成長(発眼卵)する。卵嚢を腹部に付けた稚魚は、浮上するまでの数ヶ月卵嚢中の栄養分のみで成長する。シロザケの場合、積算水温約480°C、(8°Cで60日)で孵化する。従来は、卵嚢中の栄養分だけで成長するとされてきたが、シロマス属のペリヤジではプランクトンを捕食している事が、孵化卵の養殖の過程で明らかとなっている。卵嚢が無くなった稚魚は3cmから5cm程度に成長すると砂礫から出て浮上する。 生後しばらくして体側面に斑点状の模様が1個または複数個あらわれた個体を、パー (parr) といい、斑点をパーマーク (parr mark) という。パーはさらに成長すると銀化(ぎんけ)してスモルト (smolt) になり、降海を開始する。銀化は一種の変態であり、皮膚にグアニンが沈着して体色が白くなるとともに、海水環境に適応するための器官が発達する。銀化は甲状腺ホルモンや成長ホルモン、コルチゾルによって引き起こされる。 多くの個体は銀化を経て海に下るが、中には銀化せずに川に留まる個体もいる。川を下り海に生活圏を求める個体を降海型、川(湖水)に生活圏を求めた個体を残留型と呼ぶ。かつては「陸封型」とも言われたが、同河川で降海するタイプもあるため川に残るタイプを「残留型」と呼ぶようになっている。ただし河川によってはダムなどの物理的要因や下流部の水温の問題で「陸封」されているものもある。有名なものではベニザケ Oncorhynchus nerka の残留型がヒメマスであり、サクラマス O. masou の残留型がヤマメである。ただ、全ての種に降海型と残留型が存在するわけではない。降海型は残留型よりもはるかに体が大きく、雄は産卵の際に有利である。しかし、残留型の雄が全く産卵に参加できないわけではない。降海型のペアが産卵しているところに小さな体を生かして忍び寄り、雌が卵を産んだ瞬間にペアの間に割り込んで、降海型の雄よりも先に卵に精子をかけるのである。たとえばサクラマスのそれにヤマメが割り込む例がよく知られる。従来は卵を食べる「子喰らい」として括られていた(実際に繁殖に参加していない産卵現場の卵を捕食することも知られる)。このような繁殖戦略をとる個体を、一般に生態学の言葉でスニーカーと呼ぶ。音を立てずに忍び寄ることを意味する英語スニーク(sneak)に由来する(靴のスニーカーと同じ語である)。 残留型となる要因は複数あるが、単独の要因だけが作用するのではなく複数の要因が作用する事もある。 降海後の母川回帰までの海洋での回遊経路は魚種により大きく異なる。古いサケ科魚類とされるサクラマス、サツキマスなどは主に沿岸域を回遊するが、新しいサケ科魚類とされるカラフトマスやマスノスケは広い海域を回遊する。回遊する海域は、日本海、オホーツク海、ベーリング海、北太平洋で海洋では、主に動物性プランクトンを食べて成長するが、イトウ、マスノスケなどは魚食性が強い。身(魚肉)のサーモンピンクと称される特有の色は、餌に含まれる色素に由来しているため、養殖魚で赤色色素を含まない餌を与えると、白身の魚肉となる。 サケ科魚類が「どの様に川を記憶し、帰ってきたことをどの様に判断しているのか?」は長年の謎で、遠洋では高精度な生体時計と地磁気コンパスと太陽コンパスにより自分の位置を割り出し回遊していると考えられている。母川の記憶と特定に関しては、最近の研究により徐々に解明されている。研究によれば、実際にベーリング海で捕獲・センサーを付け放流したシロザケは、直線的に根室まで回帰していた。また、網膜剥離による視覚妨害や鼻孔へのワセリン充填を行った放流魚の調査から、沿岸域を回遊するサクラマスでは視覚と嗅覚により各河川水に固有なアミノ酸成分(具体的な成分は不明)を識別し回帰し、遠洋を回遊するベニザケでは視覚により回帰していると考えられる。更に、このアミノ酸成分は河床の付着性微生物の集合体であるバイオフィルムが起源の一つであることが判明している。また、脳内の甲状腺刺激ホルモン放出ホルモンが母川のニオイの記銘に強く関与する可能性が示唆されている 種によって性的な成熟までの期間は異なるが、通常は2-6年の海洋生活で成熟し母川回帰する。しかし、通常の個体より早く1年の海洋生活で小型ながら性的に成熟し母川回帰する個体が現れる。この個体を英語では、ジャック(Jack)と呼ぶ。この早熟雄は河川での成長速度の速い個体から出現すると考えられる。一部の早熟雄は降海せず残留するが、同様な現象はサクラマス(降海型)-ヤマメ(残留型)だけでなく他のサケ科魚類でも起きている。また、性成熟によりスモルト化が阻害されることが実験的に確認されている。カラフトマスの遺伝的差異は、同じ回帰年の河川間の隔たりよりも回帰年による差異が大きいことが報告されているが、早熟雄の出現により遺伝的差異の大きな年産間の交流に役立っていると考えられる。 シロザケを始めとする多くの種の降海個体は成熟してから川を上って産卵するまで絶食状態にあり、筋肉のタンパク質を分解してエネルギーを得ている。この時期のサケの体内では糖新生を促進するホルモンであるコルチゾルを盛んに分泌して、タンパク質や脂肪からエネルギー源になるグリコーゲンをつくっている。そのためシロザケやベニザケなど大半の種は産卵に残りの全エネルギーを使い果たして息絶えてしまう。ただし、同じサケ科でも大西洋サケ属のタイセイヨウサケ S.salar や、外来魚のブラウントラウトなどは何回も川登りと海降りを繰り返せる。同様にシロマス属では、ホワイトフィッシュ(釣り対象として有名)、シスコ(Cisco 北米原産)、シナノユキマス(北欧原産だが、日本導入時に独自命名)。イワナ属では、アメマス。イトウ属のイトウも、複数回の降海・遡上を行う例である。タイヘイヨウサケ属でも、ニジマスの降海型のスチールヘッド(テツ)にこうした生態が知られている。 鮭児(ケイジ)やトキシラズとして知られる個体は、性的に未成熟であるにもかかわらず間違って遡上をしてしまった個体とされている。産卵床を形成する場所も種によって異なり、流れが弱い場所で湧水性を求めるものと、流れが速い場所で水通しを求めるものがある。 川に上る途中のサケや、産卵後の息絶えた魚体は、熊や狐など野生動物が冬を越すための貴重な栄養源となる。また川や湖、周囲の森に栄養分をもたらし、最終的には孵化後の稚魚が育つ助けとなる。このようにサケの定期的な遡上と死は、川周辺の生態系と一体化し、そのサイクルが成り立つための前提となっており、親個体の死は無駄になるわけではない(人間も、一部地方では死骸を肥料として利用することがあった。年によっては産卵後の死骸が多すぎて異臭を放ち、川浚いする必要があるためである)。 一部の河川では、ダム建設や近代の工業汚染によりサケが遡上しなくなったことから「カムバック・サーモン」キャンペーンが展開されたことがあった(豊平川などが有名)。 酸性雨や温暖化はサケ科魚類の種の存続に対し大きな影響を与えている。 魚種による差はあるが、サケ科魚類は浮上稚魚期のpH低下に弱い。河川生活性の高い魚種ほど耐酸性が高い傾向が報告されていて、魚種間では太平洋サケ属(ヒメマス、ホンマス、ニジマス)は耐酸性が低く、大西洋サケ属(イワナ、カワマス、ブラウントラウト)は耐酸性が高い。従って、酸性雨や酸性雪の融雪水による河川水のpH低下は、天然河川の生息数の減少だけでなく絶滅につながる深刻な問題となる可能性がある。同時に、養殖用水源にも影響を得る為、養殖業者への影響も懸念される。実際に、ヨーロッパやカナダでは、サケ科魚類が死滅した水域が多数報告されている。 魚種による差異はあるが、孵化浮上期は10°C程度、稚魚・成魚の生息には18°C以下の冷涼な水域が生存の必須条件であるため、地球温暖化は深刻な問題となる。特に台湾に生息するタイワンマスはサケ科魚類の南限である事から水温の上昇による絶滅が懸念されている。また、日本の在来イワナのうちキリクチ個体群やゴギにおいても、元々は彼らより下流域に生息していたヤマメ・アマゴが水温上昇により上流域へと生息域を広げていることで、イワナの生息域が狭められている。 今日の日本では辞書などにおいて日本語のサケに英語の salmon、日本語のマスに英語の trout が対応するとされている。しかし、この両者の概念の関係は複雑に錯綜している。例えば日本語でマスの部類として扱われているカラフトマスやサクラマスは英語ではそれぞれ Pink salmon(または Humpback salmon)、Cherry salmon と呼ばれ、salmon として扱われている。 この問題を解きほぐすには、両言語における初期の用例に遡る必要がある。 まず、日本語で元来サケとはシロザケ Oncorhynchus keta のみを指す概念であった。また、マスとは元来の日本語の使用空間であった本州、四国、九州及びその周辺島嶼において一般的に見られたもう一つの大型サケ科魚類、サクラマス O. masou masou 及びその亜種の降海型、降湖型であるサツキマス O. masou ishikawae、ビワマス O. masou rhodurus を指す概念だったのである。 それに対して、英語の salmon とは元来ブリテン諸島に分布するタイセイヨウサケ Salmo salar 1種のみを指していたし、trout とは同様にブリテン諸島に分布するブラウントラウト S.trutta に他ならなかったのである。これらタイセイヨウサケ属の魚類のうち、タイセイヨウサケは大半が降海し、ブラウントラウトやその亜種群ではごく少数しか降海しない魚であった。 しかし、英語を母語とする人々の世界への拡散と植民地建設、明治以降の日本人の認識する世界の拡大によって、それまでイギリス人や日本人が知らなかったサケ科魚類に salmon、trout、サケ、マスといった語が割り振られていったのである。 まず、英語圏のアメリカ大陸への拡大によって英語話者とたくさんの種を擁するタイヘイヨウサケ属 Oncorhynchus やブリテン島には見られなかったブラウントラウト並みに大型のイワナ属 Salvelinus との接触が起きた。そして、タイセイヨウサケ同様に降海性のタイヘイヨウサケ属の魚には salmon、河川残留性のタイヘイヨウサケ属の魚や一部のイワナ属の魚には trout の呼称を当てていったのである。 一方、日本では幕末以降日本人の活動領域が北海道、樺太、千島列島と広がっていくにつれ、接触するタイヘイヨウサケ属の種も増加していった。それ以前から日本近海で漁獲されることもある O.tschawytscha がマスノスケと呼ばれていたように、日本人が新たに接触する大型サケ科魚類は「マス」扱いで名称がつけられるのが原則であった。 その一方で、英語の salmon がサケ、英語の trout がマスと翻訳されるようになると、狭義のサケであるシロザケに加えて、日本人の活動領域であまり見られないタイヘイヨウサケ属の降海型大型種に対して、salmon の訳語として「サケ」扱いの名称が与えられることになった。 また、本来の英語の概念拡大の傾向からは salmon 扱いとなっておかしくないサクラマスを本義とする「マス」が trout の訳語とされると、英語の概念が日本語に逆流し、「マス」とは非降海性のサケ類の呼称であるとの概念が生じてしまった。 特に今日の都市部の日本人の多くには、漁獲が激減しているサクラマスは身近ではなくなり、マスと言えば観光地のニジマス釣りの方が想像しやすくなっていると言えよう。そのため「海から遡上してくる大きなサケ」に、「清流に住む小さなマス」という印象もまた、支配的になっている。 そのためであるのか、昔からマスノスケというれっきとした和名を持つ魚が、今日の日本の鮮魚市場ではキングサーモンの呼称で流通している。また、アメリカ大陸ではニジマスの降海型で大型化して遡上する個体を英語でSteelheadと呼び習わしてきたが、養殖ニジマスを海に降ろして降海型として育てたものがサーモントラウトの商品名で流通している。近年大衆的な寿司屋などで見かける「サーモン」というタネのほとんどはこれらのサーモン類であるため、「鮭の握り」というような呼び方はまずされることがない。 日本では、サーモンと総称されるサケ類の年間消費量は約10万トンに達している。「好きな回転寿司ネタ」で2017年まで6年連続で首位となるほどの人気(マルハニチロ調べ)で、東京にはサーモン丼専門店も開業している。こうした需要に対応するため、日本各地では内陸養殖されるニジマスやトラウトサーモンを含めて、100種類以上の「ご当地サーモン」(長野県の信州サーモンなど)が登場している。 なお肉の色に関して「サケは赤くて、マスは淡いピンクである」というのもよく言われる説である。上記のような商品としての名称の混乱は、見た目にわかりやすい肉の色を優先して名づけることが一因であろう。しかしこの特徴は後天的なもので、これはエビ・カニといった甲殻類が持つカロテノイド色素であるアスタキサンチンによるものである。ベニサケを白身の魚肉だけで育てた場合、ほとんど赤くない肉が得られる。ちなみにオームリやホワイトフィッシュ、シナノユキマスなどのコレゴヌス属は、ビワヒガイやワタカ等のコイ科に近い、サケ科とはかけ離れた外貌で、肉質もタラのように白い身である。 自然状態での産卵期と産卵場所の重複(有名なのはイワナとヤマメの交雑魚「カワサバ」)や、人工養殖の際に、耐病性向上、生産性向上などを目論見、異種交配により雑種を生じる。しかし、組合せによっては致死性の雑種を生じ、受精卵が孵化しなかったり、仔魚期に斃死する組合せがある。また、養殖の際は養殖魚が自然界に逃げ出し、さらなる交雑個体が生じないようにするため、不妊化処理を施した生殖能力を持たない3倍体メスを作出することが多い。 注記:同一種の組合せは生存。O - 生存性 (survivability) , X - 致死性 (Fatality) サケ類は北半球固有の種であり、かつて南半球には存在しなかった。アメリカ合衆国では、19世紀から北半球の国々と気候、地形が似通った地域を選定し導入を進めてきた経緯があるが、ニュージーランドでマスノスケ、ブラウントラウトが定着したほかは回帰率が極めて不良で、商業的な成功を観ることはなかった。こうした失敗の中で、チリは自然放流からニジマスを主とする海面養殖事業へ転換。2005年現在では世界第2位の養殖出荷高を誇る生産規模へ成長した。 薄紅色の肉、および卵である筋子は様々な料理に用いられる。日本では塩を用いてあらかじめ加工された塩鮭の形で消費されることが多いが、生のまま調理しても美味である。後述のように、刺身での利用も広がりつつある。また、日本でサケ(トラウトサーモン)として販売されている輸入品サケ類の一部は、元来は自然分布域ではなかった南アメリカ大陸のチリで、日本の国際協力機構(JICA)の支援により養殖されたものがあるが、シロザケではなく海面養殖されたニジマスやギンザケである。 元来は保存目的の塩漬けであるが、保存技術の発達した現在でも、風味などの点から塩で加工される。 なお、上記のブラウンマスはサケの「子喰らい」や「稚魚喰らい」のために害魚扱いされているが、サクラマスやビワマスには劣るとはいえ食味は悪くない。また北海道近海を回遊しているアムール川系のシロザケが、鮭児(けいじ)の名で流通することがある。これは魚齢が若く、精巣・卵巣が未成熟であるものが大半である。 海洋産のサケ類の肉には寄生虫(アニサキス幼虫)がいることがある。 アニサキスはクジラ・イルカ類を終宿主とする寄生虫であり、サケ類はアニサキス幼虫に寄生されたオキアミ類を捕食することで感染するため、通常は陸封型のサケ類にアニサキス幼虫は寄生していない。アニサキス幼虫は高温に弱く、摂氏60度以上で数分間加熱すれば死滅するとされる。また冷凍でも-20度以下で長時間保存すれば死滅するため、厚生労働省では、-20度以下で24時間以上冷凍することを指導している。 近年、チルド輸送技術の発達により、生に近い新鮮な状態のサケ類が入手できるため、アニサキス幼虫の感染の危険性は上昇したと考える識者もいる。摂氏2度程度では40-50日間生きつづけた記録がある。また、酢や塩で死滅させることはできず、ワサビもアニサキス幼虫一匹に対し100グラムほど使用しなければ効果がない。生食する際は十分な注意が必要である。 なお、アニサキス寄生による症状はアレルギー反応と考えられており、生きた虫体はもちろん、加熱して死んだ虫体にも抗原性が残っているので、食べるとアレルギー症を発生する可能性がある。 他にもサナダムシ(裂頭条虫類)の幼虫が寄生していることがある。 いずれにしても養殖技術が発達した現在においては、養殖で育ったものには寄生虫がいる可能性が少ないとはいえ、生食するのであれば一旦冷凍されたものであることを確認する方が安全である。 明治時代の画家高橋由一による油彩画。日本油彩画の金字塔として知られる。高橋由一は鮭の絵を好んで書いており、彼およびその弟子の手による「鮭図」は10点ほどが現存する。東京芸術大学所蔵のものは重要文化財に指定されている。このほかに、北海道大学に1点所蔵されている。 現在日本国内で遊漁としての鮭釣りが楽しめるのは、遡上数が国内最大で魚影も濃いとされる北海道地域の場合、河川内はもとより、大半が河口制限があるためこの制限範囲外の港湾や海岸等に限られる(一部許可された区域、期間を除く)が、豪快な引き味が楽しめる。河口制限の範囲は各都道府県の河川毎に異なるため、注意書きのある看板がある場合はこれに従う、国内ではいくつかの河川で『有効利用調査釣り』を実施している。これらの河川では行政が管理・運営をし、事前登録で許可された人が『有効利用調査』という名目で釣りが許されている。それ以外の者が河川でサケを捕獲すると罰せられる
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"一般的にサケは川で産まれ海に下る。海で数年かけて大きくなり、また産まれた川に戻り(母川回帰)産卵した後死亡する。魚種によって回帰性には差があり、マスノスケ、ベニザケは回帰性が強いとされ支流まで突き止め遡上するが、シロザケやカラフトマスは回帰性が比較的弱く川を間違え遡上し「迷子ザケ」となる。回帰性があるため、同じ魚種でも母川あるいは海域で遺伝的特性が異なる。多くの種は一度の産卵活動で息絶えるが、ニジマス、イワナ、イトウなどでは数年に渡り複数回の産卵活動に参加する。シロザケなどでは孵化・浮上後直ちに降海するが、サクラマス、ベニザケ、マスノスケ、ギンザケなどでは一定期間を淡水で過ごし、ある程度成長した個体がスモルト化すると降海し海洋生活を送る。降海の目的は海洋の豊富な餌を捕食することで、より大きな体となり淡水で成熟した個体より多くの卵を産卵することにある。つまり、海洋での生活は必須ではなく淡水でも成熟し繁殖活動を行う。従って、通常は降海する魚種でも何らかの原因で陸封(河川残留)された場合は、淡水中でも成熟し産卵を行う。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "水が通り十分な酸素のある砂礫質の河床に形成された産卵床に産み付けられた粘着性の無い卵は、親魚には保護されず産卵後1ヶ月程度砂礫中で成長(発眼卵)する。卵嚢を腹部に付けた稚魚は、浮上するまでの数ヶ月卵嚢中の栄養分のみで成長する。シロザケの場合、積算水温約480°C、(8°Cで60日)で孵化する。従来は、卵嚢中の栄養分だけで成長するとされてきたが、シロマス属のペリヤジではプランクトンを捕食している事が、孵化卵の養殖の過程で明らかとなっている。卵嚢が無くなった稚魚は3cmから5cm程度に成長すると砂礫から出て浮上する。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "生後しばらくして体側面に斑点状の模様が1個または複数個あらわれた個体を、パー (parr) といい、斑点をパーマーク (parr mark) という。パーはさらに成長すると銀化(ぎんけ)してスモルト (smolt) になり、降海を開始する。銀化は一種の変態であり、皮膚にグアニンが沈着して体色が白くなるとともに、海水環境に適応するための器官が発達する。銀化は甲状腺ホルモンや成長ホルモン、コルチゾルによって引き起こされる。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "多くの個体は銀化を経て海に下るが、中には銀化せずに川に留まる個体もいる。川を下り海に生活圏を求める個体を降海型、川(湖水)に生活圏を求めた個体を残留型と呼ぶ。かつては「陸封型」とも言われたが、同河川で降海するタイプもあるため川に残るタイプを「残留型」と呼ぶようになっている。ただし河川によってはダムなどの物理的要因や下流部の水温の問題で「陸封」されているものもある。有名なものではベニザケ Oncorhynchus nerka の残留型がヒメマスであり、サクラマス O. masou の残留型がヤマメである。ただ、全ての種に降海型と残留型が存在するわけではない。降海型は残留型よりもはるかに体が大きく、雄は産卵の際に有利である。しかし、残留型の雄が全く産卵に参加できないわけではない。降海型のペアが産卵しているところに小さな体を生かして忍び寄り、雌が卵を産んだ瞬間にペアの間に割り込んで、降海型の雄よりも先に卵に精子をかけるのである。たとえばサクラマスのそれにヤマメが割り込む例がよく知られる。従来は卵を食べる「子喰らい」として括られていた(実際に繁殖に参加していない産卵現場の卵を捕食することも知られる)。このような繁殖戦略をとる個体を、一般に生態学の言葉でスニーカーと呼ぶ。音を立てずに忍び寄ることを意味する英語スニーク(sneak)に由来する(靴のスニーカーと同じ語である)。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "残留型となる要因は複数あるが、単独の要因だけが作用するのではなく複数の要因が作用する事もある。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "降海後の母川回帰までの海洋での回遊経路は魚種により大きく異なる。古いサケ科魚類とされるサクラマス、サツキマスなどは主に沿岸域を回遊するが、新しいサケ科魚類とされるカラフトマスやマスノスケは広い海域を回遊する。回遊する海域は、日本海、オホーツク海、ベーリング海、北太平洋で海洋では、主に動物性プランクトンを食べて成長するが、イトウ、マスノスケなどは魚食性が強い。身(魚肉)のサーモンピンクと称される特有の色は、餌に含まれる色素に由来しているため、養殖魚で赤色色素を含まない餌を与えると、白身の魚肉となる。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "サケ科魚類が「どの様に川を記憶し、帰ってきたことをどの様に判断しているのか?」は長年の謎で、遠洋では高精度な生体時計と地磁気コンパスと太陽コンパスにより自分の位置を割り出し回遊していると考えられている。母川の記憶と特定に関しては、最近の研究により徐々に解明されている。研究によれば、実際にベーリング海で捕獲・センサーを付け放流したシロザケは、直線的に根室まで回帰していた。また、網膜剥離による視覚妨害や鼻孔へのワセリン充填を行った放流魚の調査から、沿岸域を回遊するサクラマスでは視覚と嗅覚により各河川水に固有なアミノ酸成分(具体的な成分は不明)を識別し回帰し、遠洋を回遊するベニザケでは視覚により回帰していると考えられる。更に、このアミノ酸成分は河床の付着性微生物の集合体であるバイオフィルムが起源の一つであることが判明している。また、脳内の甲状腺刺激ホルモン放出ホルモンが母川のニオイの記銘に強く関与する可能性が示唆されている", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "種によって性的な成熟までの期間は異なるが、通常は2-6年の海洋生活で成熟し母川回帰する。しかし、通常の個体より早く1年の海洋生活で小型ながら性的に成熟し母川回帰する個体が現れる。この個体を英語では、ジャック(Jack)と呼ぶ。この早熟雄は河川での成長速度の速い個体から出現すると考えられる。一部の早熟雄は降海せず残留するが、同様な現象はサクラマス(降海型)-ヤマメ(残留型)だけでなく他のサケ科魚類でも起きている。また、性成熟によりスモルト化が阻害されることが実験的に確認されている。カラフトマスの遺伝的差異は、同じ回帰年の河川間の隔たりよりも回帰年による差異が大きいことが報告されているが、早熟雄の出現により遺伝的差異の大きな年産間の交流に役立っていると考えられる。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "シロザケを始めとする多くの種の降海個体は成熟してから川を上って産卵するまで絶食状態にあり、筋肉のタンパク質を分解してエネルギーを得ている。この時期のサケの体内では糖新生を促進するホルモンであるコルチゾルを盛んに分泌して、タンパク質や脂肪からエネルギー源になるグリコーゲンをつくっている。そのためシロザケやベニザケなど大半の種は産卵に残りの全エネルギーを使い果たして息絶えてしまう。ただし、同じサケ科でも大西洋サケ属のタイセイヨウサケ S.salar や、外来魚のブラウントラウトなどは何回も川登りと海降りを繰り返せる。同様にシロマス属では、ホワイトフィッシュ(釣り対象として有名)、シスコ(Cisco 北米原産)、シナノユキマス(北欧原産だが、日本導入時に独自命名)。イワナ属では、アメマス。イトウ属のイトウも、複数回の降海・遡上を行う例である。タイヘイヨウサケ属でも、ニジマスの降海型のスチールヘッド(テツ)にこうした生態が知られている。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "鮭児(ケイジ)やトキシラズとして知られる個体は、性的に未成熟であるにもかかわらず間違って遡上をしてしまった個体とされている。産卵床を形成する場所も種によって異なり、流れが弱い場所で湧水性を求めるものと、流れが速い場所で水通しを求めるものがある。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "川に上る途中のサケや、産卵後の息絶えた魚体は、熊や狐など野生動物が冬を越すための貴重な栄養源となる。また川や湖、周囲の森に栄養分をもたらし、最終的には孵化後の稚魚が育つ助けとなる。このようにサケの定期的な遡上と死は、川周辺の生態系と一体化し、そのサイクルが成り立つための前提となっており、親個体の死は無駄になるわけではない(人間も、一部地方では死骸を肥料として利用することがあった。年によっては産卵後の死骸が多すぎて異臭を放ち、川浚いする必要があるためである)。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "一部の河川では、ダム建設や近代の工業汚染によりサケが遡上しなくなったことから「カムバック・サーモン」キャンペーンが展開されたことがあった(豊平川などが有名)。", "title": "生活史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "酸性雨や温暖化はサケ科魚類の種の存続に対し大きな影響を与えている。", "title": "環境変化の影響" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "魚種による差はあるが、サケ科魚類は浮上稚魚期のpH低下に弱い。河川生活性の高い魚種ほど耐酸性が高い傾向が報告されていて、魚種間では太平洋サケ属(ヒメマス、ホンマス、ニジマス)は耐酸性が低く、大西洋サケ属(イワナ、カワマス、ブラウントラウト)は耐酸性が高い。従って、酸性雨や酸性雪の融雪水による河川水のpH低下は、天然河川の生息数の減少だけでなく絶滅につながる深刻な問題となる可能性がある。同時に、養殖用水源にも影響を得る為、養殖業者への影響も懸念される。実際に、ヨーロッパやカナダでは、サケ科魚類が死滅した水域が多数報告されている。", "title": "環境変化の影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "魚種による差異はあるが、孵化浮上期は10°C程度、稚魚・成魚の生息には18°C以下の冷涼な水域が生存の必須条件であるため、地球温暖化は深刻な問題となる。特に台湾に生息するタイワンマスはサケ科魚類の南限である事から水温の上昇による絶滅が懸念されている。また、日本の在来イワナのうちキリクチ個体群やゴギにおいても、元々は彼らより下流域に生息していたヤマメ・アマゴが水温上昇により上流域へと生息域を広げていることで、イワナの生息域が狭められている。", "title": "環境変化の影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "今日の日本では辞書などにおいて日本語のサケに英語の salmon、日本語のマスに英語の trout が対応するとされている。しかし、この両者の概念の関係は複雑に錯綜している。例えば日本語でマスの部類として扱われているカラフトマスやサクラマスは英語ではそれぞれ Pink salmon(または Humpback salmon)、Cherry salmon と呼ばれ、salmon として扱われている。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この問題を解きほぐすには、両言語における初期の用例に遡る必要がある。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "まず、日本語で元来サケとはシロザケ Oncorhynchus keta のみを指す概念であった。また、マスとは元来の日本語の使用空間であった本州、四国、九州及びその周辺島嶼において一般的に見られたもう一つの大型サケ科魚類、サクラマス O. masou masou 及びその亜種の降海型、降湖型であるサツキマス O. masou ishikawae、ビワマス O. masou rhodurus を指す概念だったのである。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "それに対して、英語の salmon とは元来ブリテン諸島に分布するタイセイヨウサケ Salmo salar 1種のみを指していたし、trout とは同様にブリテン諸島に分布するブラウントラウト S.trutta に他ならなかったのである。これらタイセイヨウサケ属の魚類のうち、タイセイヨウサケは大半が降海し、ブラウントラウトやその亜種群ではごく少数しか降海しない魚であった。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかし、英語を母語とする人々の世界への拡散と植民地建設、明治以降の日本人の認識する世界の拡大によって、それまでイギリス人や日本人が知らなかったサケ科魚類に salmon、trout、サケ、マスといった語が割り振られていったのである。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "まず、英語圏のアメリカ大陸への拡大によって英語話者とたくさんの種を擁するタイヘイヨウサケ属 Oncorhynchus やブリテン島には見られなかったブラウントラウト並みに大型のイワナ属 Salvelinus との接触が起きた。そして、タイセイヨウサケ同様に降海性のタイヘイヨウサケ属の魚には salmon、河川残留性のタイヘイヨウサケ属の魚や一部のイワナ属の魚には trout の呼称を当てていったのである。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一方、日本では幕末以降日本人の活動領域が北海道、樺太、千島列島と広がっていくにつれ、接触するタイヘイヨウサケ属の種も増加していった。それ以前から日本近海で漁獲されることもある O.tschawytscha がマスノスケと呼ばれていたように、日本人が新たに接触する大型サケ科魚類は「マス」扱いで名称がつけられるのが原則であった。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "その一方で、英語の salmon がサケ、英語の trout がマスと翻訳されるようになると、狭義のサケであるシロザケに加えて、日本人の活動領域であまり見られないタイヘイヨウサケ属の降海型大型種に対して、salmon の訳語として「サケ」扱いの名称が与えられることになった。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、本来の英語の概念拡大の傾向からは salmon 扱いとなっておかしくないサクラマスを本義とする「マス」が trout の訳語とされると、英語の概念が日本語に逆流し、「マス」とは非降海性のサケ類の呼称であるとの概念が生じてしまった。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "特に今日の都市部の日本人の多くには、漁獲が激減しているサクラマスは身近ではなくなり、マスと言えば観光地のニジマス釣りの方が想像しやすくなっていると言えよう。そのため「海から遡上してくる大きなサケ」に、「清流に住む小さなマス」という印象もまた、支配的になっている。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "そのためであるのか、昔からマスノスケというれっきとした和名を持つ魚が、今日の日本の鮮魚市場ではキングサーモンの呼称で流通している。また、アメリカ大陸ではニジマスの降海型で大型化して遡上する個体を英語でSteelheadと呼び習わしてきたが、養殖ニジマスを海に降ろして降海型として育てたものがサーモントラウトの商品名で流通している。近年大衆的な寿司屋などで見かける「サーモン」というタネのほとんどはこれらのサーモン類であるため、「鮭の握り」というような呼び方はまずされることがない。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本では、サーモンと総称されるサケ類の年間消費量は約10万トンに達している。「好きな回転寿司ネタ」で2017年まで6年連続で首位となるほどの人気(マルハニチロ調べ)で、東京にはサーモン丼専門店も開業している。こうした需要に対応するため、日本各地では内陸養殖されるニジマスやトラウトサーモンを含めて、100種類以上の「ご当地サーモン」(長野県の信州サーモンなど)が登場している。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお肉の色に関して「サケは赤くて、マスは淡いピンクである」というのもよく言われる説である。上記のような商品としての名称の混乱は、見た目にわかりやすい肉の色を優先して名づけることが一因であろう。しかしこの特徴は後天的なもので、これはエビ・カニといった甲殻類が持つカロテノイド色素であるアスタキサンチンによるものである。ベニサケを白身の魚肉だけで育てた場合、ほとんど赤くない肉が得られる。ちなみにオームリやホワイトフィッシュ、シナノユキマスなどのコレゴヌス属は、ビワヒガイやワタカ等のコイ科に近い、サケ科とはかけ離れた外貌で、肉質もタラのように白い身である。", "title": "サケとマス" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "自然状態での産卵期と産卵場所の重複(有名なのはイワナとヤマメの交雑魚「カワサバ」)や、人工養殖の際に、耐病性向上、生産性向上などを目論見、異種交配により雑種を生じる。しかし、組合せによっては致死性の雑種を生じ、受精卵が孵化しなかったり、仔魚期に斃死する組合せがある。また、養殖の際は養殖魚が自然界に逃げ出し、さらなる交雑個体が生じないようにするため、不妊化処理を施した生殖能力を持たない3倍体メスを作出することが多い。", "title": "異種交配" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "注記:同一種の組合せは生存。O - 生存性 (survivability) , X - 致死性 (Fatality)", "title": "異種交配" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "サケ類は北半球固有の種であり、かつて南半球には存在しなかった。アメリカ合衆国では、19世紀から北半球の国々と気候、地形が似通った地域を選定し導入を進めてきた経緯があるが、ニュージーランドでマスノスケ、ブラウントラウトが定着したほかは回帰率が極めて不良で、商業的な成功を観ることはなかった。こうした失敗の中で、チリは自然放流からニジマスを主とする海面養殖事業へ転換。2005年現在では世界第2位の養殖出荷高を誇る生産規模へ成長した。", "title": "南半球のサケ類" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "薄紅色の肉、および卵である筋子は様々な料理に用いられる。日本では塩を用いてあらかじめ加工された塩鮭の形で消費されることが多いが、生のまま調理しても美味である。後述のように、刺身での利用も広がりつつある。また、日本でサケ(トラウトサーモン)として販売されている輸入品サケ類の一部は、元来は自然分布域ではなかった南アメリカ大陸のチリで、日本の国際協力機構(JICA)の支援により養殖されたものがあるが、シロザケではなく海面養殖されたニジマスやギンザケである。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "元来は保存目的の塩漬けであるが、保存技術の発達した現在でも、風味などの点から塩で加工される。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、上記のブラウンマスはサケの「子喰らい」や「稚魚喰らい」のために害魚扱いされているが、サクラマスやビワマスには劣るとはいえ食味は悪くない。また北海道近海を回遊しているアムール川系のシロザケが、鮭児(けいじ)の名で流通することがある。これは魚齢が若く、精巣・卵巣が未成熟であるものが大半である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "海洋産のサケ類の肉には寄生虫(アニサキス幼虫)がいることがある。 アニサキスはクジラ・イルカ類を終宿主とする寄生虫であり、サケ類はアニサキス幼虫に寄生されたオキアミ類を捕食することで感染するため、通常は陸封型のサケ類にアニサキス幼虫は寄生していない。アニサキス幼虫は高温に弱く、摂氏60度以上で数分間加熱すれば死滅するとされる。また冷凍でも-20度以下で長時間保存すれば死滅するため、厚生労働省では、-20度以下で24時間以上冷凍することを指導している。", "title": "寄生虫" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "近年、チルド輸送技術の発達により、生に近い新鮮な状態のサケ類が入手できるため、アニサキス幼虫の感染の危険性は上昇したと考える識者もいる。摂氏2度程度では40-50日間生きつづけた記録がある。また、酢や塩で死滅させることはできず、ワサビもアニサキス幼虫一匹に対し100グラムほど使用しなければ効果がない。生食する際は十分な注意が必要である。 なお、アニサキス寄生による症状はアレルギー反応と考えられており、生きた虫体はもちろん、加熱して死んだ虫体にも抗原性が残っているので、食べるとアレルギー症を発生する可能性がある。", "title": "寄生虫" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "他にもサナダムシ(裂頭条虫類)の幼虫が寄生していることがある。", "title": "寄生虫" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "いずれにしても養殖技術が発達した現在においては、養殖で育ったものには寄生虫がいる可能性が少ないとはいえ、生食するのであれば一旦冷凍されたものであることを確認する方が安全である。", "title": "寄生虫" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "明治時代の画家高橋由一による油彩画。日本油彩画の金字塔として知られる。高橋由一は鮭の絵を好んで書いており、彼およびその弟子の手による「鮭図」は10点ほどが現存する。東京芸術大学所蔵のものは重要文化財に指定されている。このほかに、北海道大学に1点所蔵されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "現在日本国内で遊漁としての鮭釣りが楽しめるのは、遡上数が国内最大で魚影も濃いとされる北海道地域の場合、河川内はもとより、大半が河口制限があるためこの制限範囲外の港湾や海岸等に限られる(一部許可された区域、期間を除く)が、豪快な引き味が楽しめる。河口制限の範囲は各都道府県の河川毎に異なるため、注意書きのある看板がある場合はこれに従う、国内ではいくつかの河川で『有効利用調査釣り』を実施している。これらの河川では行政が管理・運営をし、事前登録で許可された人が『有効利用調査』という名目で釣りが許されている。それ以外の者が河川でサケを捕獲すると罰せられる", "title": "文化" } ]
サケ類(サケるい)は、単にサケまたはシャケともいい、サケ目の唯一の科であるサケ科に属するものあるいはそのうちサケ属に属する魚類の総称。狭義にはサケ(鮭)は、サケ属のサケを指すが、広義にはシロザケ以外にも、タイセイヨウサケ(アトランティックサーモン)、ベニザケ、ギンザケ、キングサーモン などの仲間を総称する。
{{Redirect|サーモン}} {{生物分類表 |名称 = サケ科 |色 = 動物界 |画像 = [[画像:Sockeye_salmon.jpg|270px]] |画像キャプション = 川を遡上するマスノスケの成熟個体 |界 = [[動物]]界 [[w:Animal|Animalia]] |門 = [[脊索動物]]門 [[w:Chordate|Chordata]] |亜門 = [[脊椎動物]]亜門 [[w:Vertebrata|Vertebrata]] |綱 = [[条鰭綱]] [[w:Actinopterygii|Actinopterygii]] |上目 = [[原棘鰭上目]] [[w:Protacanthopterygii|Protacanthopterygii]] |目 = '''サケ目''' {{sname||Salmoniformes}} |科 = '''サケ科''' {{sname||Salmonidae}} }} [[ファイル:Salmon (breeding color).jpg|thumb|250px|産卵期に他のオスとの争いや河川への遡上で傷だらけになり、皮が白く変色し、背と腹の肉の一部がむき出しになったサケ(シロザケ)のオス(上)]] '''サケ類'''(サケるい)は、単に'''サケ'''またはシャケともいい、サケ目の唯一の科であるサケ科に属するものあるいはそのうちサケ属に属する[[魚類]]の総称。狭義には'''サケ'''(鮭)は、サケ属の[[サケ]](通称シロザケ、学名:''Oncorhynchus keta'')を指すが、広義にはシロザケ以外にも、[[タイセイヨウサケ]](アトランティックサーモン)、[[ベニザケ]]、[[ギンザケ]]、[[マスノスケ|キングサーモン]] などの仲間を総称する。 == 種属 == [[サケ科]]({{sname||Salmonidae}})は、[[イトウ属]] ({{sname||Hucho}})、[[イワナ属]]([[サルベリヌス属]] Salvelinus)、[[サルベティムス属]]([[:en:Salvethymus_svetovidovi|Salvethymus]])、[[サケ属]]([[タイヘイヨウサケ属]]、[[オンコリンクス属]] {{sname||Oncorhynchus}})、[[タイセイヨウサケ属]]([[サルモ属]] {{sname||Salmo}}、[[アカントリングア属]] {{sname||Acantholingua}})、[[カワヒメマス属]]([[グレイリング属]]、[[テュマルス属]] {{sname||Thymallus}})、[[コレゴヌス属|シロマス属]]([[コクチマス属|コレゴヌス属]]、[[ワカソ属]] {{sname||Coregonus}})、[[ステノドゥス属]]({{sname||Stenodus}})、[[コクチマス属]]([[ブラキミスタクス属]] {{sname||Brachymystax}})、[[プロソピウム属]]([[ラウンドホワイトフィッシュ属]] {{sname||Prosopium}})の11属、約66種以上に分類される。9属68種説もある。10属214種<ref>{{FishBase_family|family=Salmonidae|year=2008|month=December}}</ref>。 == シロマス亜科 == [[コレゴヌス亜科|シロマス亜科]] {{sname||Coregoninae}} === シロマス属(コレゴヌス属) === [[コレゴヌス属|シロマス属]]([[コレゴヌス属]])({{sname||Coregonus}}) - {{sname||Whitefishes}} - [[ホワイトフィッシュ]]、[[シナノユキマス]]、[[アイヅユキマス]]、[[オームリ]] 等 === プロソピウム属 === [[プロソピウム属]] {{sname||Prosopium}} - {{sname||Round whitefishes}} === ステノドゥス属 === [[ステノドゥス属]] {{sname||Stenodus}} - {{sname||Inconnu}} == カワヒメマス亜科 == [[カワヒメマス亜科]] {{sname||Thymallinae}} === カワヒメマス属(テュマルス属) === [[カワヒメマス属]] ([[テュマルス属]]) ({{sname||Thymallus}}) - {{sname||Graylings}} *[[キタカワヒメマス]]'' [[:en:Arctic_grayling|Thymallus arcticus]]'' <small>(Pallas,1776)</small> (Arctic grayling)'' '' *[[ウオノハナ]]<ref>{{Cite journal|author=高安三次|year=1958|title=Grayling の産卵生態の観察|journal=魚と卵|volume=72|page=34}}</ref> ''Thymallus grubii'' <small>Dybowski, 1869</small> (Amur grayling) *[[ホンカワヒメマス]] ''[[:en:Grayling|Thymallus thymallus]]'' <small>(Linnaeus,1758)</small> (Grayling) *[[チョウセンウオノハナ]] ''[[:en:Thymallus_yaluensis|Thymallus yaluensis]]'' <small>Mori, 1928</small> (Yalu grayling) == サケ亜科 == [[サケ亜科]] {{sname||Salmoninae}} === コクチマス属(ブラキミスタクス属) === [[コクチマス属]]([[ブラキミスタクス属]]) ({{sname||Brachymystax}}) - {{sname||Lenoks}} *[[コクチマス]] ''[[:en:Brachymystax_lenok|Brachymystax lenok]]'' <small>(Pallas,1773)</small> (Sharp-snouted lenok) *[[ガイママス]] ''[[:en:Brachymystax_tumensis|Brachymystax tumensis]]'' <small>Mori, 1930</small> (Blunt-snouted lenok) *[[アムールマス]] ''[[Brachymystax savinovi]]'' <small>Mitrofanov, 1959</small> (Amur trout) === Hucho属 === [[イトウ属|Hucho属]] ({{sname||Hucho}}) * [[チョウコウイトウ]]'' [[w:Hucho bleekeri|Hucho bleekeri]]'' <small>[[w:Shigeru Kimura|Sh. Kimura]], 1934</small> (Sichuan taimen) * [[ドナウイトウ]] ''[[w:Hucho hucho|Hucho hucho]]'' <small>([[w:Carl Linnaeus|Linnaeus]], 1758)</small> (Huchen) * [[コウライイトウ]]'' [[w:Hucho ishikawae|Hucho ishikawae]]'' <small>[[w:Tamezo Mori|T. Mori]], 1928</small> (Korean taimen) * [[アムールイトウ]]'' [[w:Hucho taimen|Hucho taimen]]'' <small>([[w:Peter Simon Pallas|Pallas]], 1773)</small> (Taimen) === イトウ属 === [[Parahucho|イトウ属]](Parahucho) * [[イトウ]] ''[[:en:Sakhalin_taimen|Parahucho perryi]]'' <small>(Brevoort,1856)</small> (Sakhalin taimen) === サケ属 (オンコリンクス属) === [[サケ属]] ([[タイヘイヨウサケ属]]、[[オンコリンクス属]]) ({{sname||Oncorhynchus}}) - {{sname||Pacific salmon}} and {{sname||Trout}} * [[アパッチマス]] ''{{sname||Oncorhynchus apache}}'' <small>([[w:Robert Rush Miller|R. R. Miller]], 1972)</small> (Apache trout) * [[メキシカンゴールデントラウト]] ''{{sname||Oncorhynchus chrysogaster}}'' <small>([[w:Paul Robert Needham|Needham]] & [[w:Richard Gard|Gard]], 1964)</small> (Mexican golden trout) * [[ノドキレマス]] ''{{sname||Oncorhynchus clarkii}}'' <small>(J. Richardson, 1836)</small> (Cutthroat trout) * [[ギラトラウト]] ''{{sname||Oncorhynchus gilae}}'' <small>([[w:Robert Rush Miller|R. R. Miller]], 1950)</small> (Gila trout) * [[カラフトマス]] ''{{sname||Oncorhynchus gorbuscha}}'' <small>([[w:Johann Julius Walbaum|Walbaum]], 1792)</small> (Pink salmon) * [[クニマス]] ''{{sname||Oncorhynchus kawamurae}}'' <small>([[w:David Starr Jordan|D. S. Jordan]] & [[w:Ernest Alexander McGregor|E. A. McGregor]], 1925)</small> (Black kokanee) * [[サケ]] ''{{sname||Oncorhynchus keta}}'' <small>([[w:Johann Julius Walbaum|Walbaum]], 1792)</small> (Chum salmon) * [[ギンザケ]] ''{{sname||Oncorhynchus kisutch}}'' <small>([[w:Johann Julius Walbaum|Walbaum]], 1792)</small> (Coho salmon) * [[サクラマス]] ''{{sname||Oncorhynchus masou}}'' <small>(Brevoort, 1856)</small> (Masu salmon) * [[ニジマス]] ''{{sname||Oncorhynchus mykiss}}'' <small>([[w:Johann Julius Walbaum|Walbaum]], 1792)</small> (Rainbow trout/Steelhead) * [[ベニザケ]] ''{{sname||Oncorhynchus nerka}}'' <small>([[w:Johann Julius Walbaum|Walbaum]], 1792)</small> (Kokanee salmon/Sockeye salmon) * [[ビワマス]] ''{{sname||Oncorhynchus rhodurus}}'' <small>([[w:David Starr Jordan|D. S. Jordan]] & [[w:Ernest Alexander McGregor|E. A. McGregor]], 1925)</small> (Biwa trout) * [[マスノスケ]] ''{{sname||Oncorhynchus tshawytscha}}'' <small>([[w:Johann Julius Walbaum|Walbaum]], 1792)</small> (Chinook salmon) === タイセイヨウサケ属 (サルモ属) === [[タイセイヨウサケ属]] ([[サルモ属]]) ({{sname||Salmo}}) - {{sname||Atlantic salmon}} and {{sname||Trout}} * [[タイセイヨウサケ]] ''[[:en:Atlantic_salmon|Salmo salar]]'' <small>Linnaeus,1758</small> (Atlantic salmon) * [[ブラウントラウト]] ''[[:en:Brown_trout|Salmo trutta]]'' <small>Linnaeus,1758</small> (Brown trout) === イワナ属 (サルベリヌス属) === [[イワナ|イワナ属]] ([[サルベリヌス属]]) ({{sname||Salvelinus}}) - {{sname||Char}} and {{sname||trout}} (e.g. {{sname||Brook trout}}, {{sname||Lake trout}}) - [[アメマス]]、[[オショロコマ]]、[[ミヤベイワナ]]、[[ブルックトラウト]]、[[イワナ]] == 語源 == サケの語源には諸説ある<ref>{{cite journal|url=http://gogen-allguide.com/sa/sake_sakana.html |title= 鮭 |work= 語源由来辞典|publisher= ルックバイス|archiveurl= https://web.archive.org/web/20071005073438/http://gogen-allguide.com/sa/sake_sakana.html | archivedate= 2007-10-05|accessdate= 2018-01-14}}</ref>。 * [[アイヌ語]]で「夏」を意味する「シャク」(shak) が訛ったとされるもの。 * 肉に筋があるため「裂け」やすいことから転じたとされるもの。 * 肉の色が赤いため、「酒」に酔ったようにみえる、もしくは「朱」(アケ)の色であることから。 * 肴(さかな)として親しまれたことから。 平安初期に編纂された現存する日本最古の漢和辞書『新撰字鏡(しんせんじきょう)』(898~901)で既に「鮭」という名称が記述されている一方、「しゃけ」という名称が出てくるのは、江戸後期の『喰物生類むり問答』(1833~44)であるので<ref>[http://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=347 「鮭」を何と呼ぶか? JapanKnowledge]</ref>、蝦夷地との交易で「シャケ」と訛った名称が本土の交易地(主として江戸)でも広まり、鮭とシャケの呼び名の語源は別だとする意見もある。 == サケ科魚類の起源 == [[image:Eosalmo sp 1.jpg|left|thumb|200px|サケ科魚類の化石]] [[硬骨魚類]]の魚の中では比較的原始的な外観を持つ。サケ科魚類の最初の化石は、ブリティッシュコロンビアの中間[[始新世]]地層で発見されているが、この化石が進化のどの段階にあるのかは分かっていない。 環太平洋で日本(16集団)、ロシア(10集団)、北米(21集団)、韓国(1集団)の計48集団のミトコンドリアDNA(mDNA)を解析した結果、塩基配列中の変異(30種ハプロタイプ)を分類し大きく3つのグループに分けることが出来た、また、遺伝的な多様性は日本が最も多く次いでロシア、北米の順であった。この結果から、広義サケ属「シロザケ」は古日本海を起源として、ロシアから北米へと分布範囲を広げていったと考えられる。Neaveによる研究でサケ属は東アジアを起源としているが、mDNAの解析結果もアジア起源を強く示唆している<ref>[https://doi.org/10.5983/nl2001jsce.2004.113_18 佐藤俊平、ミトコンドリアDNAからみたサケのたどった道] 日本比較内分泌学会ニュース 2004年 2004巻 113号 p.113_18-113_21, {{doi|10.5983/nl2001jsce.2004.113_18}}</ref>。より進化した種(シロザケやカラフトマス)ほど長距離の回遊を行っていると考えられる。 == 生活史 == 一般的にサケは川で産まれ海に下る。海で数年かけて大きくなり、また産まれた川に戻り(母川回帰)産卵した後死亡する。魚種によって回帰性には差があり、マスノスケ、[[ベニザケ]]は回帰性が強いとされ支流まで突き止め遡上するが、シロザケや[[カラフトマス]]は回帰性が比較的弱く川を間違え遡上し「迷子ザケ」となる。回帰性があるため、同じ魚種でも母川あるいは海域で遺伝的特性が異なる。多くの種は一度の産卵活動で息絶えるが、[[ニジマス]]、[[イワナ]]、[[イトウ]]などでは数年に渡り複数回の産卵活動に参加する。シロザケなどでは孵化・浮上後直ちに降海するが、[[サクラマス]]、ベニザケ、マスノスケ、[[ギンザケ]]などでは一定期間を淡水で過ごし、ある程度成長した個体が[[スモルト]]化すると降海し海洋生活を送る。降海の目的は海洋の豊富な餌を捕食することで、より大きな体となり淡水で成熟した個体より多くの卵を産卵することにある。つまり、海洋での生活は必須ではなく淡水でも成熟し繁殖活動を行う。従って、通常は降海する魚種でも何らかの原因で陸封(河川残留)された場合は、淡水中でも成熟し産卵を行う<ref>[http://www.food.maruha-nichiro.co.jp/salmon/fishery/08.html サケの養殖事業] - サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)</ref>。 === 孵化・浮上 === [[image:Salmoneggskils.jpg|200px|thumb|right|初期の発眼卵]] [[Image:Salmon_newborn.jpg|200px|thumb|right|卵嚢を腹部に付けた稚魚]] 水が通り十分な酸素のある砂礫質の河床に形成された産卵床に産み付けられた粘着性の無い卵は、親魚には保護されず産卵後1ヶ月程度砂礫中で成長(発眼卵)する。卵嚢を腹部に付けた稚魚は、浮上するまでの数ヶ月卵嚢中の栄養分のみで成長する。シロザケの場合、積算水温約480℃、(8℃で60日)で孵化する。従来は、卵嚢中の栄養分だけで成長するとされてきたが、シロマス属のペリヤジではプランクトンを捕食している事が、孵化卵の養殖の過程で明らかとなっている<ref>[http://www.pref.nagano.jp/xnousei/suishi/yukimasu/story/story32.htm シナノユキマス物語-ふ化仔魚にアルテミアの利用-] 長野県水産試験場</ref>。卵嚢が無くなった稚魚は3cmから5cm程度に成長すると砂礫から出て浮上する。 === スモルト化と降海 === 生後しばらくして体側面に斑点状の模様が1個または複数個あらわれた個体を、'''パー''' (parr) といい、斑点を'''パーマーク''' (parr mark) という。パーはさらに成長すると'''銀化'''(ぎんけ)して'''[[スモルト]]''' (smolt) になり、降海を開始する。銀化は一種の変態であり、皮膚に[[グアニン]]が沈着して体色が白くなるとともに、海水環境に適応するための器官が発達する。銀化は[[甲状腺ホルモン]]や[[成長ホルモン]]、[[コルチゾル]]によって引き起こされる。 多くの個体は銀化を経て海に下るが、中には銀化せずに川に留まる個体もいる。川を下り海に生活圏を求める個体を'''降海型'''、川(湖水)に生活圏を求めた個体を'''残留型'''と呼ぶ。かつては「陸封型」とも言われたが、同河川で降海するタイプもあるため川に残るタイプを「残留型」と呼ぶようになっている。ただし河川によってはダムなどの物理的要因や下流部の水温の問題で「陸封」されているものもある。有名なものでは'''ベニザケ''' ''Oncorhynchus nerka'' の残留型が'''ヒメマス'''であり、'''サクラマス''' ''O. masou'' の残留型が'''ヤマメ'''である。ただ、全ての種に降海型と残留型が存在するわけではない。降海型は残留型よりもはるかに体が大きく、雄は産卵の際に有利である。しかし、残留型の雄が全く産卵に参加できないわけではない。降海型のペアが産卵しているところに小さな体を生かして忍び寄り、雌が卵を産んだ瞬間にペアの間に割り込んで、降海型の雄よりも先に卵に精子をかけるのである。たとえばサクラマスのそれにヤマメが割り込む例がよく知られる。従来は卵を食べる「子喰らい」として括られていた(実際に繁殖に参加していない産卵現場の卵を捕食することも知られる)。このような繁殖戦略をとる個体を、一般に生態学の言葉で'''スニーカー'''と呼ぶ。音を立てずに忍び寄ることを意味する英語スニーク(sneak)に由来する([[靴]]の[[スニーカー]]と同じ語である)。 ==== 残留の要因 ==== 残留型となる要因は複数あるが、単独の要因だけが作用するのではなく複数の要因が作用する事もある。 # '''物理的要因''':河道閉塞などによる物理的な遮断、湖水流出経路が狭い。<br />日本での典型的な例は、[[十和田湖]]、[[中禅寺湖]]、琵琶湖。 # '''水温的要因''':水温上昇により海に至る下流域での生存が不可能。<br />例として[[台湾]]に生息する[[タイワンマス]]、[[チミケップ湖]]と[[阿寒湖]]のヒメマス、[[田沢湖]]の[[クニマス]]。 # '''資源的要因''':河川生息環境内の個体密度が低く相対的に十分なエサがある。<br />十分なエサが無いと(貧栄養状態)スモルト化し降海する事がヤマメ、アマゴ、[[ヒメマス]]などで報告されている<ref>藤岡康弘、[https://doi.org/10.2331/suisan.53.253 ビワマスのパー・スモルト変態] 日本水産学会誌 Vol.53 (1987) No.2 P.253-260, {{doi|10.2331/suisan.53.253}}</ref><ref>帰山雅秀、[https://doi.org/10.2331/suisan.72.628 サケ科魚類の生活史戦略と個体群動態に関する研究] 日本水産学会誌 Vol.72 (2006) No.4 P.628-631, {{doi|10.2331/suisan.72.628}}</ref>。琵琶湖のビワマスが降海せず残留した理由は、流入河川では貧栄養状態であったが琵琶湖に十分なエサがあった事も重複した要因と考えられる。 === 海洋生活 === 降海後の母川回帰までの海洋での回遊経路は魚種により大きく異なる。古いサケ科魚類とされるサクラマス、サツキマスなどは主に沿岸域を回遊するが、新しいサケ科魚類とされるカラフトマスやマスノスケは広い海域を回遊する。回遊する海域は、日本海、オホーツク海、ベーリング海、北太平洋で海洋では、主に動物性プランクトンを食べて成長するが、イトウ、マスノスケなどは魚食性が強い。身(魚肉)のサーモンピンクと称される特有の色は、餌に含まれる色素に由来しているため、養殖魚で赤色色素を含まない餌を与えると、白身の魚肉となる。 === 母川回帰 === サケ科魚類が「どの様に川を記憶し、帰ってきたことをどの様に判断しているのか?」は長年の謎で、遠洋では高精度な生体時計と地磁気コンパスと太陽コンパスにより自分の位置を割り出し回遊していると考えられている。母川の記憶と特定に関しては、最近の研究により徐々に解明されている。研究によれば、実際にベーリング海で捕獲・センサーを付け放流したシロザケは、直線的に根室まで回帰していた。また、網膜剥離による視覚妨害や鼻孔への[[ワセリン]]充填を行った放流魚の調査から、沿岸域を回遊するサクラマスでは視覚と嗅覚により各河川水に固有なアミノ酸成分(具体的な成分は不明)を識別し回帰し、遠洋を回遊するベニザケでは視覚により回帰していると考えられる。更に、このアミノ酸成分は河床の付着性微生物の集合体である[[バイオフィルム]]が起源の一つであることが判明している<ref>上田宏、[https://doi.org/10.5983/nl2008jsce.37.5 サケの母川記銘・回帰機構に関する生理学的研究] 比較内分泌学 2011年 37巻 140号 p.5-13, {{doi|10.5983/nl2008jsce.37.5}}</ref>。また、脳内の甲状腺刺激ホルモン放出ホルモンが母川のニオイの記銘に強く関与する可能性が示唆されている<ref>上田宏、[https://doi.org/10.2331/suisan.81.864 太平洋サケの母川記銘・回帰行動の生理機構] 日本水産学会誌 Vol.81 (2015) No.5 p.864, {{doi|10.2331/suisan.81.864}}</ref> === 早熟雄 === 種によって性的な成熟までの期間は異なるが、通常は2-6年の海洋生活で成熟し母川回帰する。しかし、通常の個体より早く1年の海洋生活で小型ながら性的に成熟し母川回帰する個体が現れる。この個体を英語では、ジャック('''Jack''')と呼ぶ。この早熟雄は河川での成長速度の速い個体から出現すると考えられる。一部の早熟雄は降海せず残留する<ref>[https://hdl.handle.net/2115/23606 宇藤均:サクラマスOncorhynchus masou (Brevoort)の降海型と河川残留型の分化機構に関する研究:Ⅱ.早熟な河川残留型の体生長と性成熟(その2)] 北海道大學水産學部研究彙報 Jun. 1977 28巻 2号 p.66-73</ref>が、同様な現象はサクラマス(降海型)-ヤマメ(残留型)だけでなく他のサケ科魚類でも起きている。また、性成熟によりスモルト化が阻害されることが実験的に確認されている<ref>{{PDFlink|[http://salmon.fra.affrc.go.jp/kankobutu/tech_repo/tech_repo172_p39-44.pdf ベニザケ早熟雄の体成長と海水適応能]}} 独立行政法人水産総合研究センター さけますセンター</ref>。カラフトマスの遺伝的差異は、同じ回帰年の河川間の隔たりよりも回帰年による差異が大きいことが報告されている<ref>{{PDFlink|[http://kokushi.job.affrc.go.jp/H19/H19/H19_57.pdf カラフトマス]}} - 水産総合研究センター</ref>が、早熟雄の出現により遺伝的差異の大きな年産間の交流に役立っていると考えられる。 === 遡上と産卵 === [[ファイル:Black_bear_with_salmon.jpg|サムネイル|サケを捕食する[[アメリカグマ]]]] [[サケ|シロザケ]]を始めとする多くの種の降海個体は成熟してから川を上って産卵するまで絶食状態にあり、筋肉のタンパク質を分解してエネルギーを得ている。この時期のサケの体内では[[糖新生]]を促進するホルモンである[[コルチゾル]]を盛んに分泌して、[[タンパク質]]や[[脂肪]]からエネルギー源になる[[グリコーゲン]]をつくっている。そのためシロザケやベニザケなど大半の種は産卵に残りの全エネルギーを使い果たして息絶えてしまう。ただし、同じサケ科でも大西洋サケ属の[[タイセイヨウサケ]] ''S.salar'' や、外来魚の[[ブラウントラウト]]などは何回も川登りと海降りを繰り返せる。同様にシロマス属では、[[ホワイトフィッシュ]](釣り対象として有名)、[[シスコ (魚類)|シスコ]]([[w:Cisco (fish)|Cisco]] 北米原産)、[[シナノユキマス]](北欧原産だが、日本導入時に独自命名)。イワナ属では、[[アメマス]]。イトウ属の[[イトウ]]も、複数回の降海・遡上を行う例である。タイヘイヨウサケ属でも、[[ニジマス]]の降海型のスチールヘッド(テツ)にこうした生態が知られている。 * サケ科サケ属 : 河川と海洋間を1回行き来し、短命で産卵後はほぼ100%死亡、遡上後はエサを食わないと考えられている。 * サケ科イワナ属 : 河川と海洋を複数回往来し、産卵後も生存、長命、遡上後も餌を食う。 * サケ科イトウ属 : 河川と海洋を複数回往来し、産卵後も生存、長命、遡上後も餌を食う。 * サケ科タイセイヨウサケ属 : 河川と海洋を複数回往来し、産卵後も生存、長命、遡上後も餌を食う。 鮭児(ケイジ)やトキシラズとして知られる個体は、性的に未成熟であるにもかかわらず間違って遡上をしてしまった個体とされている<ref>{{PDFlink|[http://salmon.fra.affrc.go.jp/kankobutu/srhsh/data/srhsh345.pdf 産卵回遊期におけるサケの生物学的および化学的特性利]}}</ref>。産卵床を形成する場所も種によって異なり、流れが弱い場所で湧水性を求めるものと、流れが速い場所で水通しを求めるものがある。 川に上る途中のサケや、産卵後の息絶えた魚体は、[[クマ|熊]]や[[キツネ|狐]]など野生動物が冬を越すための貴重な栄養源となる。また川や湖、周囲の森に栄養分をもたらし、最終的には孵化後の稚魚が育つ助けとなる。このようにサケの定期的な遡上と死は、川周辺の生態系と一体化し、そのサイクルが成り立つための前提となっており、親個体の死は無駄になるわけではない(人間も、一部地方では死骸を肥料として利用することがあった。年によっては産卵後の死骸が多すぎて異臭を放ち、川浚いする必要があるためである)。 一部の河川では、ダム建設や近代の工業汚染によりサケが遡上しなくなったことから「カムバック・サーモン」キャンペーンが展開されたことがあった([[豊平川]]などが有名)。 == 環境変化の影響 == 酸性雨や温暖化はサケ科魚類の種の存続に対し大きな影響を与えている。 === 酸性雨 === 魚種による差はあるが、サケ科魚類は浮上稚魚期のpH低下に弱い<ref name="JASI50-1939">生田和正、鹿間俊夫 ほか、[https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010501939 サケ科魚類の発眼卵と稚魚の耐酸性評価] 養殖研究所研究報告 (21), p39-45, 1992</ref>。河川生活性の高い魚種ほど耐酸性が高い傾向が報告されていて、魚種間では太平洋サケ属(ヒメマス、ホンマス、ニジマス)は耐酸性が低く、大西洋サケ属(イワナ、カワマス、ブラウントラウト)は耐酸性が高い<ref name="JASI50-1939"/>。従って、[[酸性雨]]や酸性雪の融雪水による河川水のpH低下は、天然河川の生息数の減少だけでなく絶滅につながる深刻な問題となる可能性がある。同時に、養殖用水源にも影響を得る為、養殖業者への影響も懸念される。実際に、[[ヨーロッパ]]や[[カナダ]]では、サケ科魚類が死滅した水域が多数報告されている<ref>[http://www.nodai.ac.jp/sansei/higai.html 酸性雨の被害] 東京農業大学</ref>。 === 温暖化 === 魚種による差異はあるが、孵化浮上期は10℃程度、稚魚・成魚の生息には18℃以下の冷涼な水域が生存の必須条件であるため、[[地球温暖化]]は深刻な問題となる。特に台湾に生息するタイワンマスはサケ科魚類の南限である事から水温の上昇による絶滅が懸念されている。また、日本の在来[[イワナ]]のうち'''キリクチ'''個体群や'''ゴギ'''においても、元々は彼らより下流域に生息していたヤマメ・アマゴが水温上昇により上流域へと生息域を広げていることで、イワナの生息域が狭められている。 == サケとマス == {{出典の明記|date=2013年4月2日 (火) 03:38 (UTC)|section=1}} {{see also|サケ|マス}} 今日の[[日本]]では[[辞書]]などにおいて[[日本語]]の[[サケ]]に[[英語]]の salmon、日本語の[[マス]]に英語の trout が対応するとされている。しかし、この両者の概念の関係は複雑に錯綜している。例えば日本語でマスの部類として扱われている[[カラフトマス]]や[[サクラマス]]は英語ではそれぞれ Pink salmon(または Humpback salmon)、Cherry salmon と呼ばれ、salmon として扱われている。 この問題を解きほぐすには、両言語における初期の用例に遡る必要がある。 まず、日本語で元来サケとはシロザケ ''Oncorhynchus keta'' のみを指す概念であった。また、マスとは元来の日本語の使用空間であった[[本州]]、[[四国]]、[[九州]]及びその周辺島嶼において一般的に見られたもう一つの大型サケ科魚類、[[サクラマス]] ''O. masou masou'' 及びその亜種の降海型、降湖型である[[サツキマス]] ''O. masou ishikawae''、[[ビワマス]] ''O. masou rhodurus'' を指す概念だったのである。 [[画像:Atlantischer Lachs.jpg|thumb|right|335px|[[タイセイヨウサケ]](アトランティックサーモン)]] それに対して、英語の salmon とは元来[[ブリテン諸島]]に分布する[[タイセイヨウサケ]] ''Salmo salar'' 1種のみを指していたし、trout とは同様にブリテン諸島に分布する[[ブラウントラウト]] ''S.trutta'' に他ならなかったのである。これらタイセイヨウサケ属の魚類のうち、タイセイヨウサケは大半が降海し、ブラウントラウトやその亜種群ではごく少数しか降海しない魚であった。 しかし、英語を母語とする人々の世界への拡散と植民地建設、明治以降の日本人の認識する世界の拡大によって、それまで[[イギリス人]]や[[日本人]]が知らなかったサケ科魚類に salmon、trout、サケ、マスといった語が割り振られていったのである。 まず、英語圏の[[アメリカ大陸]]への拡大によって英語話者とたくさんの種を擁するタイヘイヨウサケ属 ''Oncorhynchus'' やブリテン島には見られなかったブラウントラウト並みに大型の[[イワナ]]属 ''Salvelinus'' との接触が起きた。そして、タイセイヨウサケ同様に降海性の[[タイヘイヨウサケ属]]の魚には salmon、河川残留性のタイヘイヨウサケ属の魚や一部のイワナ属の魚には trout の呼称を当てていったのである。 一方、日本では幕末以降日本人の活動領域が北海道、樺太、千島列島と広がっていくにつれ、接触するタイヘイヨウサケ属の種も増加していった。それ以前から日本近海で漁獲されることもある ''O.tschawytscha'' が[[マスノスケ]]と呼ばれていたように、日本人が新たに接触する大型サケ科魚類は「マス」扱いで名称がつけられるのが原則であった。 * salmon と呼ばれるようになったアメリカ大陸のタイヘイヨウサケ属で和名がマス扱いのもの ** ''O. gorbuscha'' → Pink salmon:[[カラフトマス]] ** ''O. tschawytscha'' → Chinook salmon:[[マスノスケ]] その一方で、英語の salmon がサケ、英語の trout がマスと翻訳されるようになると、狭義のサケであるシロザケに加えて、日本人の活動領域であまり見られないタイヘイヨウサケ属の降海型大型種に対して、salmon の訳語として「サケ」扱いの名称が与えられることになった。 * salmon と呼ばれるようになったアメリカ大陸のタイヘイヨウサケ属で和名がサケ扱いのもの ** ''O. keta'' → Chum salmon:[[サケ|シロザケ]] ** ''O. nerka '' → Sockeye salmon:[[ベニザケ]] ** ''O. kisutsh'' → Coho salmon:[[ギンザケ]] また、本来の英語の概念拡大の傾向からは salmon 扱いとなっておかしくないサクラマスを本義とする「マス」が trout の訳語とされると、英語の概念が日本語に逆流し、「マス」とは非降海性のサケ類の呼称であるとの概念が生じてしまった。 * trout と呼ばれるようになった主なアメリカ大陸のタイヘイヨウサケ属とその和名 ** ''O. mykiss'' → Rainbow trout:[[ニジマス]] * trout と呼ばれるようになった主なアメリカ大陸のイワナ属とその和名 ** ''S. fontinalis'' → Brook trout:[[カワマス]] 特に今日の都市部の日本人の多くには、漁獲が激減しているサクラマスは身近ではなくなり、マスと言えば観光地のニジマス釣りの方が想像しやすくなっていると言えよう。そのため「海から遡上してくる大きなサケ」に、「清流に住む小さなマス」という印象もまた、支配的になっている。 そのためであるのか、昔から[[マスノスケ]]というれっきとした和名を持つ魚が、今日の日本の鮮魚市場では[[マスノスケ|キングサーモン]]の呼称で流通している。また、アメリカ大陸ではニジマスの降海型で大型化して遡上する個体を英語でSteelheadと呼び習わしてきたが、養殖ニジマスを海に降ろして降海型として育てたものが[[サーモントラウト]]の商品名で流通している。近年大衆的な寿司屋などで見かける「サーモン」というタネのほとんどはこれらのサーモン類であるため、「鮭の握り」というような呼び方はまずされることがない。 日本では、サーモンと総称されるサケ類の年間消費量は約10万トンに達している。「好きな[[回転寿司]]ネタ」で2017年まで6年連続で首位となるほどの人気([[マルハニチロ]]調べ)で、東京にはサーモン丼専門店も開業している。こうした需要に対応するため、日本各地では内陸[[養殖]]されるニジマスやトラウトサーモンを含めて、100種類以上の「ご当地サーモン」(長野県の信州サーモンなど)が登場している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27359010U8A220C1905E00/ ご当地サーモン100種ピッチピチ/ネタ1番人気 内陸県でも養殖/鮮度・うまさで輸入品と勝負]『日本経済新聞』夕刊2018年2月24日(1面)</ref>。 なお肉の色に関して「サケは赤くて、マスは淡いピンクである」というのもよく言われる説である。上記のような商品としての名称の混乱は、見た目にわかりやすい肉の色を優先して名づけることが一因であろう。しかしこの特徴は後天的なもので、これはエビ・カニといった甲殻類が持つ[[カロテノイド]]色素である[[アスタキサンチン]]によるものである。ベニサケを白身の魚肉だけで育てた場合、ほとんど赤くない肉が得られる。ちなみに[[オームリ]]や[[ホワイトフィッシュ]]、[[シナノユキマス]]などの[[コレゴヌス属]]は、[[ビワヒガイ]]やワタカ等の[[コイ科]]に近い、サケ科とはかけ離れた外貌で、肉質もタラのように白い身である。 == 異種交配 == [[File:イワナ×ヤマメ(カワサバ).jpg|200px|thumb|right|カワサバ(イワナ×ヤマメ)]] 自然状態での産卵期と産卵場所の重複(有名なのは[[イワナ]]と[[ヤマメ]]の交雑魚「カワサバ」)や、人工養殖の際に、耐病性向上、生産性向上などを目論見、異種交配により雑種を生じる。しかし、組合せによっては致死性の雑種を生じ、受精卵が孵化しなかったり、仔魚期に斃死する組合せがある<ref>伊藤大一輔、藤原篤志、阿部周一:[https://doi.org/10.5924/abgri2000.34.65 サケ科魚類の致死性雑種と染色体異常] 動物遺伝育種研究 Vol.34 (2006) No.1 P.65-70, {{doi|10.5924/abgri2000.34.65}}</ref>。また、養殖の際は養殖魚が自然界に逃げ出し、さらなる交雑個体が生じないようにするため、不妊化処理を施した生殖能力を持たない3倍体メスを作出することが多い<ref>[http://www.fishexp.hro.or.jp/shikenima/151to200/183/183.htm 試験研究は今 NO.183 -先端技術開発研究(水産孵化場)のこれまでの成果] 北海道立総合研究機構水産研究本部</ref><ref>[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010712313 ニジマス四倍体との交雑による異質三倍体の作出] 長野県水産試験場研究報告 = Bulletin of Nagano Prefectural Fisheries Experimental Station (7), 1-9, 2005-03-00</ref>。 {| class="wikitable" style="width:50%; text-align:center" ! rowspan="4" colspan="3" | 主要種の交雑組合せ |- ! colspan="12" | オス(male) |- ! colspan="2" | イワナ属 (''Salvelinus'') ! colspan="8" | タイヘイヨウサケ属 (''Oncorhynchus'') ! colspan="2" | タイセイヨウサケ属 (''Salmo'') |- |''leucomaenis''<br />イワナ(white-spotted char) || ''fontinalis''<br />カワマス (Brook trout) || ''mykiss''<br />ニジマス (Rainbow trout) || ''masou masou''<br />サクラマス・ヤマメ (masu salmon) || ''masou ishikawae''<br />サツキマス・アマゴ (Amago Salmon) || ''gorbuscha''<br />カラフトマス (pink salmon) || ''nerka''<br />ベニザケ・ヒメマス (Sockeye salmon) || ''keta''<br />サケ (chum salmon) || ''kisutsh''<br />ギンザケ (coho salmon) || ''tshawytscha''<br />マスノスケ (king salmon) || ''trutta''<br />ブラウントラウト (Brown trout) || ''salar''<br />タイセイヨウサケ (Atlantic Salmon) |- ! rowspan="13" | メス (female) |- ! rowspan="2" |イワナ属 (''Salvelinus'') | ''leucomaenis''<br />イワナ(white-spotted char)||同一種||O||X||O||O|| ||X||X|| || ||O|| |- | ''fontinalis''<br />カワマス (Brook trout)||O||同一種||X||O||O|| ||X||X||O|| ||X||X |- ! rowspan="8" |サケ属 (''Oncorhynchus'') | ''mykiss''<br />ニジマス (Rainbow trout)||O||O||同一種||O||O||O||X||X||X|| ||X||X |- | ''masou masou''<br />サクラマス・ヤマメ (masu salmon)||O||X||X||同一種||O|| ||X||X||O||O||X|| |- | ''masou ishikawae''<br />サツキマス・アマゴ (Amago Salmon)||O||O||X||O||同一種|| ||X|| || || ||O|| |- | ''gorbuscha''<br />カラフトマス (pink salmon)||X|| || || || ||同一種||O||O|| ||O|| || |- | ''nerka''<br />ベニザケ・ヒメマス (Sockeye salmon)||X||X||X||X||X||O||同一種||O||O||O||X|| |- | ''keta''<br />サケ (chum salmon)||X||X||X||X|| ||O||O||同一種||O||X|| ||X |- | ''kisutsh''<br />ギンザケ (coho salmon)|| ||X||X|| || ||O||O||X||同一種||O||X||X |- | ''tshawytscha''<br />マスノスケ (king salmon)|| || || ||O|| ||O||O||X||O||同一種|| || |- ! rowspan="2" | タイセイヨウサケ属 (''Salmo'') | ''trutta''<br />ブラウントラウト (Brown trout)||O||O<br>[[タイガートラウト]]||X||O||O|| ||X|| ||X|| ||同一種||O |- |''salar''<br />タイセイヨウサケ (Atlantic Salmon)|| ||O||X|| || || || ||X||X|| ||O||同一種 |} 注記:同一種の組合せは生存。O - 生存性 (survivability) , X - 致死性 (Fatality) == 南半球のサケ類 == サケ類は[[北半球]]固有の種であり、かつて[[南半球]]には存在しなかった。[[アメリカ合衆国]]では、[[19世紀]]から北半球の国々と気候、地形が似通った地域を選定し導入を進めてきた経緯があるが、[[ニュージーランド]]でマスノスケ、ブラウントラウトが定着したほかは回帰率が極めて不良で、商業的な成功を観ることはなかった。こうした失敗の中で、[[チリ]]は自然放流からニジマスを主とする海面[[養殖]]事業へ転換。[[2005年]]現在では世界第2位の養殖出荷高を誇る生産規模へ成長した。 == 利用 == 薄紅色の肉、および卵である[[筋子]]は様々な料理に用いられる。日本では塩を用いてあらかじめ加工された'''塩鮭'''の形で消費されることが多いが、生のまま調理しても美味である。後述のように、刺身での利用も広がりつつある。また、日本でサケ(トラウトサーモン)として販売されている輸入品サケ類の一部は、元来は自然分布域ではなかった[[南アメリカ大陸]]の[[チリ]]で、日本の[[国際協力機構]](JICA)の支援により[[養殖]]されたものがある<ref>[https://www.jica.go.jp/60th/america/chile_01.html チリ水産養殖プロジェクト] JICA、2018年1月31日閲覧</ref>が、シロザケではなく海面養殖されたニジマスやギンザケである<ref>出村雅晴、[https://www.nochuri.co.jp/periodical/norin/contents/3650.html 魚粉価格の動向と養殖漁業への影響] 農林中金総合研究所</ref><ref>[http://id.nii.ac.jp/1136/00002275/ 北方圏におけるサケマスの栄養成分と料理] 浅井学園大学生涯学習研究所研究紀要 9巻 (2006) p.213-228, {{naid|110006181358}}</ref><ref>隆島史夫、[https://ci.nii.ac.jp/naid/40015570495/ トラウトサーモンとは] 水産週報 (1735), 8-9, 2007-09-15, {{naid|40015570495}}</ref>。 === 塩鮭 === 元来は保存目的の[[塩漬け]]であるが、保存技術の発達した現在でも、風味などの点から塩で加工される。 * [[新巻鮭]]:[[冷凍]]技術が発達していなかった頃、産卵期に川で大量に漁獲されるシロサケ(秋味)を保存するため、内臓を抜き塩をつめた。 * 山漬:内臓を抜き塩を詰めた鮭を、塩と交互に挟む形で脱水および熟成させたもの。山のように積むことから「山漬」と呼ばれる。美味だが、非常に手間がかかる上に脱水が強いため[[歩留まり]]が悪く、コスト高となる。そのため一時期は生産がほとんどなくなったが、高級食材として復活しつつある。 * 定塩法:店頭で販売されている塩鮭の多くはこの定塩法による。これは、鮭半身を塩水に浸け、塩分を滲み込ませることで塩味をつけるという加工法である。新巻、山漬と比較して塩分が均等になる(=定塩)、歩留まりが良いなどの長所があるが、新巻、山漬と違い味が熟成されず、水っぽいという短所も見られる。 === 料理 === * 切り身などを焼く。塩鮭を用いることが多い。 ** 焼いた身をほぐしたものは、[[おにぎり]]や[[お茶漬け]]の具としても用いる。 * [[石狩鍋]]:[[北海道]]の郷土料理。味噌仕立ての鍋。 * [[ちゃんちゃん焼き]]:北海道の郷土料理。鉄板で焼いたもの。グルメ番組の紹介で広まった、比較的新しい郷土料理。 * [[ムニエル]] * [[スモークサーモン]] ** [[ピザ]]などの具材としても利用される。 * [[マリネ]] * [[刺身]] ** 身をわざと凍らせたまま供する物は[[ルイベ]]と呼ばれる。元来は寄生虫対策(凍らせることにより寄生虫を殺す)である。 * [[寿司]] ** サケ類には寄生虫がいるため、日本にはもともと生食する習慣が無かったが、1985年にノルウェー王国のThor Listau漁業大臣が、マーケティング従事者のビョーン・エイリク・オルセンを中心とする「プロジェクトジャパン」を結成し、安心して生食できるノルウェーサーモンを日本に売り込んだ<ref>[http://www.suisankai.or.jp/topics/mailarchives/2015/12/1223_05.pdf サーモン寿司30周年に際してのご挨拶] 大日本水産会</ref>。日本でのサーモンの普及は、太平洋鮭との差別化を図るため「鮭」ではなく「'''サーモン'''」として提供することから始まった。1995年頃から日本で人気を集め始め、すしブームの波に乗って世界的に広がった。特に[[回転寿司]]を通じての普及が目立ち、ノルウェー産サーモンの認知度向上に大きく貢献した。ノルウェーの[[イェンス・ストルテンベルグ]]首相が2012年に来日し、東京の回転寿司店でサーモン寿司を振る舞うイベントも行われた。このような取り組みは、サーモンを日本の食文化の一部として定着させるのに大きく寄与した。また、ノルウェー産サーモンはその品質の高さで知られ、回転寿司だけでなく、高級寿司店でも使用されるようになった。 * 冬葉(とば):乾燥した身。通常のいわゆる[[干物]]と異なり、水分をほとんど残さない。 * 腹須(ハラス):脂ののった腹の肉。[[居酒屋]]の定番メニュー。 * 川煮:遡上したブナ入りを厚めに輪切りにし、醤油ベースの出汁で簡単に煮込んだもの。調理法が簡単なため、同様の料理が各地にある。 * [[筋子]]:卵を生食する。比較的高級な食材。 ** [[イクラ]]:卵を粒にほぐし、味をつけたものはイクラと呼ばれる。 *** イクラ丼:白い飯をイクラでおおったもの。 *** [[軍艦巻]]:[[寿司]]の高級ネタのひとつ。 なお、上記のブラウンマスはサケの「子喰らい」や「稚魚喰らい」のために害魚扱いされているが、サクラマスやビワマスには劣るとはいえ食味は悪くない。また北海道近海を回遊している[[アムール川]]系のシロザケが、鮭児(けいじ)の名で流通することがある。これは魚齢が若く、精巣・卵巣が未成熟であるものが大半である。 == 寄生虫 == 海洋産のサケ類の肉には[[寄生虫]]([[アニサキス]]幼虫)がいることがある。 アニサキスはクジラ・イルカ類を終宿主とする寄生虫であり、サケ類はアニサキス幼虫に寄生されたオキアミ類を捕食することで感染するため、通常は陸封型のサケ類にアニサキス幼虫は寄生していない。アニサキス幼虫は高温に弱く、[[セルシウス度|摂氏]]60度以上で数分間加熱すれば死滅するとされる。また冷凍でも-20度以下で長時間保存すれば死滅するため、厚生労働省では、-20度以下で24時間以上冷凍することを指導している。 近年、チルド輸送技術の発達により、生に近い新鮮な状態のサケ類が入手できるため、アニサキス幼虫の感染の危険性は上昇したと考える識者もいる。摂氏2度程度では40-50日間生きつづけた記録がある。また、酢や塩で死滅させることはできず、ワサビもアニサキス幼虫一匹に対し100グラムほど使用しなければ効果がない。生食する際は十分な注意が必要である。 なお、アニサキス寄生による症状はアレルギー反応と考えられており、生きた虫体はもちろん、加熱して死んだ虫体にも抗原性が残っているので、食べるとアレルギー症を発生する可能性がある。 他にも[[サナダムシ]](裂頭条虫類)の幼虫が寄生していることがある。 いずれにしても養殖技術が発達した現在においては、養殖で育ったものには寄生虫がいる可能性が少ないとはいえ、生食するのであれば一旦冷凍されたものであることを確認する方が安全である。 == 文化 == [[ファイル:Salmon by Takahashi Yuichi (Geidai Museum).jpg|thumb|left|160px|高橋 由一(鮭)]] ===「鮭」、または「鮭図」=== 明治時代の画家[[高橋由一]]による油彩画。日本油彩画の金字塔として知られる。高橋由一は鮭の絵を好んで書いており、彼およびその弟子の手による「鮭図」は10点ほどが現存する。[[東京芸術大学]]所蔵のものは[[重要文化財]]に指定されている。このほかに、[[北海道大学]]に1点所蔵されている。 === サケ釣り === 現在日本国内で遊漁としての鮭釣りが楽しめるのは、遡上数が国内最大で魚影も濃いとされる北海道地域の場合、河川内はもとより、大半が河口制限があるためこの制限範囲外の港湾や海岸等に限られる(一部許可された区域、期間を除く)が、豪快な引き味が楽しめる。河口制限の範囲は各都道府県の河川毎に異なるため、注意書きのある看板がある場合はこれに従う、国内ではいくつかの河川で『有効利用調査釣り』を実施している。これらの河川では行政が管理・運営をし、事前登録で許可された人が『有効利用調査』という名目で釣りが許されている。それ以外の者が河川でサケを捕獲すると罰せられる == ギャラリー == <gallery> ファイル:Salted salmond and mice.jpg|[[葛飾北斎]]画:肉筆画帖:『塩鮭と[[鼠]]』『[[鮎]]と[[紅葉]]』 </gallery> == 参考文献 == * {{cite book|和書|title= サケ・マス魚類のわかる本 |author1= [[井田斉|井田齊]] |author2= [[奥山文弥]] |publisher= [[山と渓谷社]] |date= 2000年10月 |series= ヤマケイFF “CLASS” シリーズ |isbn= 4635360644 |ncid= BA51308448}} * {{cite book|和書|title= 北アメリカ全野生鱒を追う : 全23種類に迫る探査釣行|author= 和田悟 |publisher= 山と渓谷社 |ncid= BA49044026 |isbn= 4635360814 |date= 2000年10月}}ー英文副題 “Native trout of North America” * {{cite book|和書|title= サクラマス、アマゴ、ビワマス、地方種 |author= 社団法人 [[日本水産資源保護協会]] [編] |date= 2009年4月 |series= 湖沼と河川環境の基盤情報整備事業 : 豊かな自然環境を次世代に引き継ぐために |ncid= BA89836890}} ** {{PDFlink|[http://www.fish-jfrca.jp/02/pdf/sakura/report20.pdf -豊かな自然環境を次世代に引き継ぐために-「サクラマス、ビワマス、地方種」]}}ー社団法人 日本水産資源保護協会 == 関連項目 == * [[魚の一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 外部リンク == {{Sisterlinks|wikt=no|b=no|q=no|s=no|commons=Salmonidae|n=no|v=no|species=Salmonidae}} * [https://salmoneel.com/ 鮭と鰻のWeb図鑑] * [http://salmon.fra.affrc.go.jp/ さけますセンター] - 独立行政法人 [[水産総合研究センター]] ** [http://salmon.fra.affrc.go.jp/kankobutu/srhsh/srhsh.htm 成長と食性や雌雄同体個体の自家受精、卵子・精子の保存における経時劣化など多数の貴重な実証データ] * 小倉未基、{{PDFlink|[http://fsf.fra.affrc.go.jp/bulletin/documents/kenpou31-1.pdf 北太平洋の沖合い水域におけるサケ属魚類の回帰回遊行動]}} 遠洋水産報 第31号 平成6年3月, {{naid|500000105314}} * [http://www.aa-fishing.com/salmon-fishing.html メジャーなサケとフィッシング情報](英語) * [https://www.biodic.go.jp/reports/4-05/f314.html サケ目] - [[環境省]] 生物多様性センター * [http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010520031 サケ科魚類の川下りの生態と生理学] 農林水産技術研究ジャーナル 17(2), p7-15, 1994-02, {{naid|40004294134}} {{-}} {{鮭}} {{食肉}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect1=塩鮭|1-1=日本の漬物|1-2=サケ|1-3=塩化ナトリウム|1-4=冬の季語}} {{DEFAULTSORT:さけるい}} [[Category:サケ目|*]] [[Category:サケ科|*]] [[Category:北米の食文化]] [[Category:ヨーロッパの食文化]] [[Category:アジアの食文化]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B1%E9%A1%9E
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電流計
電流計(でんりゅうけい、英語: ammeter)は、電流を測るための電気計器である。 デジタル電流計や自動車、オートバイに使用される電流計についても、この項目で説明する。 内部電気抵抗の小さな測定器であり、測定箇所の回路を開いてその2点間に直列に接続する。実際には、回路に低抵抗を挿入し、その抵抗の両端の電圧を測定することで電流値としている。測定範囲の拡大には分流器や変流器が使用される。 直流電流計の場合は電池もしくは安定化電源装置の+極側を電流計の+端子につなぎ、-端子側は負荷を直列に接続し-極側にもどす。(つなぎ方を参照) 交流電流計の場合極性はどちらでも良い。 測定したい値が不明な場合は一番大きな値の端子から接続する。逆に振れが小さい場合は振り切らないように測定端子を接続し直す。 電流計を電源に直接つなぐと大きな電流が流れ計器が破損する。定格が小さい場合特に注意が必要である。 電圧計と構成は同じであるが、内部抵抗を極力小さくするために太いコイルが巻かれる。右は可動コイル形、その下は可動鉄片形である。 直流においての電流を測定するのに使用される。構造は可動コイル型であり永久磁石およびコイルで構成される。電流計単体だけでは大きな電流を測れないので目的の電流にあわせて分流器を使用する。 商用周波数程度 (45 - 65Hz) の交流電流を測定するのに使用する。直流にも使用することは可能だが、電流が大きくなるにつれて誤差が大きくなるので注意が必要である。 構造的には電力計と同様だが内部配線が異なる。原理的には直流から商用周波数程度(DC - 1000Hzまで可能なものも)である。 一目盛りで10アンペア[A]以下の高感度の検出をする電流計である。ブリッジ回路(ホイートストンブリッジなど)の平衡を確かめるために使用される。 直流用のものは、強力な永久磁石を使用した可動コイル形計器である。また、電子回路を利用した簡易電子式検流計もある。 ガルバノメーターという名称は、イタリアの物理学者、ルイージ・ガルヴァーニにちなむ。 電流によるジュール熱を熱電対を用いて直流電流に変換し、それを可動コイル形計器で測定するものである。 熱電対に流れる電流の二乗に比例するので目盛りは二乗目盛りとなり実効値を表示する。交流および直流どちらでも使用可能であり、直流で校正した後に交流を測定すれば正しい値が得られる。 測定範囲はDC - 1MHzまでと非常に幅広い反面、電流の測定範囲は融通が利かず2 - 3倍程度の過電流により熱電対が簡単に焼損してしまう。測定範囲は1 - 1000mA程度までである。 分流器や電流検出抵抗器、交流電流センサなどを使用しデジタル電圧計を両端に接続する。 GND側に抵抗器を設置する。 Vcc側に抵抗器を設置する。 ADCとMCUの間に絶縁用ICを使用する。GNDの分離、ユーザーの感電防止、MCUや電子部品の破損防止など使用する理由は様々である。 トロイダルコアに巻線を施し、中心に測定対象の電線を通す。 電流計は電流を測定しようとするとき、接続端子部分の電圧降下及び発熱や磁界の発生による指示誤差などが生じてくるため、一定程度より大きい電流を測定しようとすると誤差が大きくなってしまう。そこで、電流の測定精度をあげるために、次のような機器が用いられる。 分流器(ぶんりゅうき,Shunt)は直流電流計の測定範囲拡大に使われる抵抗器で、電流計に並列に挿入する。 計器用変流器(けいきようへんりゅうき,Current Trans , CT)は交流電流の測定の測定範囲拡大に使われる変流器である。 自動車や、オートバイの一部には、メーターパネル内などに電流計を備えた車種が存在する。 この場合、計器の文字盤の表示はアンペアを数値的に示すのではなく、+と−で表記される。指針がプラス側のゾーンを示している場合にはオルタネーターやダイナモから発電される電流が、車体側の消費電流を上回っている事を示す。逆に、指針が中央線を横切ってマイナス側のゾーンを示している場合には、発電電流が車体側の消費電流を下回っており、バッテリーから電流が持ち出しの状態になっている事を示す。
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電流計は、電流を測るための電気計器である。 デジタル電流計や自動車、オートバイに使用される電流計についても、この項目で説明する。
'''電流計'''(でんりゅうけい、{{Lang-en|ammeter}})は、[[電流]]を測るための[[電気計器]]である。 デジタル電流計や[[自動車]]、[[オートバイ]]に使用される電流計についても、この項目で説明する。 [[File:Georgetown PowerPlant Museum - triple ammeter.jpg|thumb|300px|ゼネラル・エレクトリック社の電流計]] == 使用方法・接続方法 == [[File:Circuit(Ammeter).JPG|thumb|100px|つなぎ方]] 内部[[電気抵抗]]の小さな測定器であり、測定箇所の回路を開いてその2点間に直列に接続する。実際には、回路に低[[抵抗器|抵抗]]を挿入し、その抵抗の両端の電圧を測定することで電流値としている。測定範囲の拡大には[[分流器]]や[[変流器]]が使用される。 直流電流計の場合は電池もしくは安定化電源装置の+極側を電流計の+端子につなぎ、-端子側は'''負荷を直列に接続し'''-極側にもどす。(つなぎ方を参照) 交流電流計の場合極性はどちらでも良い。 測定したい値が不明な場合は一番大きな値の端子から接続する。逆に振れが小さい場合は振り切らないように測定端子を接続し直す。 '''電流計を電源に直接つなぐと大きな電流が流れ計器が破損する。定格が小さい場合特に注意が必要である。''' == アナログ電流計 == === 内部構造 === [[File:D.C.AMMETER(OPEN).JPG|thumb|100px|可動コイル形]] [[File:A.C.AMMETER(OPEN).JPG|thumb|100px|可動鉄片形]] [[電圧計]]と構成は同じであるが、内部抵抗を極力小さくするために太いコイルが巻かれる。右は可動コイル形、その下は可動鉄片形である。 === 直流電流計 === [[File:D.C.AMMETER.JPG|thumb|100px|直流電流計]] 直流においての電流を測定するのに使用される。構造は可動コイル型であり永久磁石およびコイルで構成される。電流計単体だけでは大きな電流を測れないので目的の電流にあわせて分流器を使用する。 === 交流電流計 === [[File:A.C.AMMETER.JPG|thumb|100px|交流電流計]] 商用周波数程度 (45 - 65Hz) の交流電流を測定するのに使用する。直流にも使用することは可能だが、電流が大きくなるにつれて誤差が大きくなるので注意が必要である。 === 電流力計型電流計 === 構造的には電力計と同様だが内部配線が異なる。原理的には直流から商用周波数程度(DC - 1000Hzまで可能なものも)である。 === 検流計(ガルバノメーター) === {{Main|検流計}} 一目盛りで10<sup>-6</sup>[[アンペア]][A]以下の高感度の検出をする電流計である。[[ブリッジ回路]]([[ホイートストンブリッジ]]など)の平衡を確かめるために使用される。 [[直流]]用のものは、強力な[[永久磁石]]を使用した[[指示電気計器|可動コイル形計器]]である。また、[[電子回路]]を利用した簡易電子式検流計もある。 ガルバノメーターという名称は、[[イタリア]]の[[物理学者]]、[[ルイージ・ガルヴァーニ]]にちなむ。 === 熱電形電流計 === [[File:Thermoelectric-Type(OPEN).JPG|thumb|100px|熱電対]] 電流による[[ジュール熱]]を[[熱電対]]を用いて直流電流に変換し、それを[[指示電気計器|可動コイル形計器]]で測定するものである。 熱電対に流れる電流の二乗に比例するので目盛りは二乗目盛りとなり実効値を表示する。交流および直流どちらでも使用可能であり、直流で校正した後に交流を測定すれば正しい値が得られる。 測定範囲はDC - 1MHzまでと非常に幅広い反面、電流の測定範囲は融通が利かず2 - 3倍程度の過電流により熱電対が簡単に焼損してしまう。測定範囲は1 - 1000mA程度までである。 == デジタル電流計 == 分流器や電流検出抵抗器、交流電流センサなどを使用しデジタル[[電圧計]]を両端に接続する。 === ローサイド電流検出 ===  GND側に抵抗器を設置する。 === ハイサイド電流検出 ===  Vcc側に抵抗器を設置する。 === アイソレーション(絶縁) ===  ADCとMCUの間に絶縁用ICを使用する。GNDの分離、ユーザーの感電防止、MCUや電子部品の破損防止など使用する理由は様々である。 === 交流電流センサ === トロイダルコアに巻線を施し、中心に測定対象の電線を通す。 == 測定範囲の拡大 == 電流計は電流を測定しようとするとき、接続端子部分の電圧降下及び発熱や磁界の発生による指示誤差などが生じてくるため、一定程度より大きい電流を測定しようとすると誤差が大きくなってしまう。そこで、電流の測定精度をあげるために、次のような機器が用いられる。 === 分流器 === [[File:Shunt resistor.JPG|thumb|100px|定格500A, 100mVの分流器]] {{main|抵抗器#分流器}} '''分流器'''(ぶんりゅうき,Shunt)は[[直流]]電流計の測定範囲拡大に使われる[[抵抗器]]で、電流計に並列に挿入する。 === 計器用変流器 === {{main|変流器}} '''計器用変流器'''(けいきようへんりゅうき,Current Trans , '''CT''')は交流電流の測定の測定範囲拡大に使われる[[変流器]]である。 == 自動車・オートバイにおける電流計 == 自動車や、オートバイの一部には、メーターパネル内などに電流計を備えた車種が存在する。 この場合、計器の文字盤の表示は[[アンペア]]を数値的に示すのではなく、+と−で表記される。指針がプラス側のゾーンを示している場合には[[オルタネーター]]や[[ダイナモ]]から発電される電流が、車体側の消費電流を上回っている事を示す。逆に、指針が中央線を横切ってマイナス側のゾーンを示している場合には、発電電流が車体側の消費電流を下回っており、[[二次電池|バッテリー]]から電流が持ち出しの状態になっている事を示す。 == 関連項目 == * [[指示電気計器]] * [[回路計]] * [[電圧計]] * [[電力計]] * [[力率計]] * [[周波数計]] * [[同期検定器]] * [[制御盤]] * [[絶縁抵抗計]] * [[接地抵抗計]] * [[架線電流計]] * [[直列回路と並列回路]] ==参考文献== {{Cite |和書 |author = 三好 正二 |title = 基礎テキスト 電気・電子計測 |date = 1995 |publisher = 東京電機大学出版局 |isbn = 4-501-10670-0 |ref = harv }} {{Cite |和書 |author = 西野 治 |title = 電気計測 |date = 1958 |publisher = コロナ社 |isbn = 978-4-339-00161-7 |ref = harv }} == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://rika-net.com/contents/cp0100a/contents/3330/3330.html |title=電流計 理科ねっとわーく(一般公開版) |date=20171005202211}} - 文部科学省 国立教育政策研究所 {{Commonscat|Ammeters}} {{電気電子計測機器}} {{DEFAULTSORT:てんりゆうけい}} [[Category:電気・電子計測機器]]
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回路計
回路計(かいろけい、英語:multimeter マルチメーター)とは、電圧・電流等々の量・値を、複数の機能を切り替えて測定・計測できる計測機器のこと。回路試験器(かいろしけんき)ともいう。JIS C1202 によって規格が定められている。 スイッチ(ロータリースイッチ、ダイヤルスイッチ、スライドスイッチ、ボタンスイッチ 等)で内部の計測回路を切り替えることによって、直流および交流の電圧・電流等々、さまざまな量を計測できる計測器である。「保守点検用電気計測器」として扱われることもある。 一般に馴染みの深い「テスター・テスタ」は回路計の一種で、直流の電圧・電流・抵抗、交流電圧のそれぞれを測定範囲を切り替えて測定できる計測機器である。1000V以下の回路の簡単な測定や調整に使用される。 指針でアナログ表示するアナログマルチメータと、アナログ-デジタル変換してモニタに数字で表示するデジタルマルチメータがある。 古いものでは、スイッチではなく、プラグで差し替えて回路を切り替えるものもあった。 アナログテスターとも呼ばれる。広範囲の直流電圧、直流電流、交流電圧、電気抵抗の測定が可能である。 多機能機種では、交流電流、トランジスタの電流増幅率、コンデンサの静電容量、温度などが測定できるものもある。 アナログマルチメータは一般に以下の部品から構成される。 大型・精密の用途を除き、平坦な場所に置いた筐体を上から覗きメーター(指針)の指示値を読むようになっている形状が一般的である。測定に際してはテストリードを端子に接続し、スイッチ切り換えまたはテストリードの挿入端子を変更して目的の測定回路を選択する。 一般に用いられているアナログマルチメータの測定範囲(レンジ)は、おおよそ次のようになっている。 異なるレンジで目盛りを共有するため、抵抗を除く各レンジは2.5, 5, 10または3, 6, 12の倍数、抵抗は10倍または100倍刻みに設定されている。ただし、交流電圧の最低のレンジに限り、整流器の特性の関係からゼロ付近が詰まった特別な目盛りになっていることが多い。後述のデジタルマルチメータのように自動でレンジが切り替わる製品も存在する。 電圧測定に関係する計器の内部抵抗(入力抵抗)はオーム毎ボルト(オームパーボルト) [Ω/V] で表し、目盛り板の片隅に標示されている。この値が大きいほど回路に及ぼす影響が小さく精密な測定が可能であるが、機械的に弱くなるため取扱いには注意を要する。一般には、2~50 kΩ/V 程度の製品がある。特に高い内部抵抗を必要とする場合には、入力段にFETを使用した高入力抵抗タイプのものか、デジタル式を使う方が望ましい。 測定するおおよその値が既知である場合(例えば乾電池)では、その値が測定可能で最も指針が大きく振れるレンジに切り換える(1.5Vの乾電池の電圧を測るならば2.5または3Vレンジ)。次に、直流であれば赤のテストリードを測定物の+側、黒のテストリードを-側に当てて、指針を読み取る。極性を誤ったり、電流レンジで誤って電圧を計測すると破損の原因になるので注意する(ほとんどの場合はその前に保護ヒューズが溶断する)。交流を計測する場合はテストリードのプラス・マイナスの区別は無い。 測定する値が未知である場合は、まず最大のレンジ(電圧ならば1000または1200V)で目安的に確認しておき、それに合った低いレンジに切り換えて測定する。 測定前に、レンジを「抵抗」に切り換え、2本のテストリードの先端を強く接触させゼロオーム調整つまみを回して指針が 0Ω を指すようにする。その後で測定物にテストリードを当て、指針を読み取る。電圧、電流と目盛りの向きが逆(右から左)であることに注意する。 指先で2本のテストリードの両方に測定物を直接押し当てるようにすると、並列接続された人体の抵抗とともに測るため正確な測定ができない。また、電子回路内の抵抗を測定するには、必ず電源を切っておき、抵抗器などの値を測定するには、その一端を回路から外しておく。 抵抗の場合は電圧、電流と違い、レンジの選択が適切でなくてもテスター本体が故障することは無い。ただし、低抵抗のレンジでは測定物に大電流が流れるため、一部の半導体素子などは破損する可能性がある。 ダイオード、トランジスタなどの導通試験を行うには、回路の都合上、黒のテストリードが内蔵電池の+、赤のテストリードが-に接続されている(極性が逆)ので注意を要する。 デジタルマルチメータ(digital multimeter、略称:DMM)は、アナログ-デジタル変換回路を用いて測定値をモニタにデジタル数字で表示する回路計である。デジタルテスタとも呼ばれる。 デジタルマルチメータは一般に以下の部品から構成される。 スイッチの切り換えにより、広範囲の直流電圧、直流電流、交流電圧、交流電流、抵抗の測定が可能である。高級機種では、コンデンサの静電容量、周波数、デューティ比などが測定できるものもある。小型化されカード形のものやペン形の製品も存在する。 アナログ式と比較して内部抵抗(入力抵抗)が非常に高く、低電圧、低抵抗、高抵抗などの測定に向いている。また、アナログ式では交流電流の測定は一部の高級機種に限られる機能であるが、デジタル式では低級機種でなければ交流電流の測定機能が付いていることが多い。 一方で、測定値が絶えず変動する場合には数字の読み取りが困難であるといった欠点がある。そこで測定値の保持機能や、モニタ上においてバーの点灯個数により測定値の大小を直感的に示すバーグラフ式表示機能などが設けられることがある。アナログ・デジタルを一つの本体に複合した製品も存在する。 オートレンジという機能があり、測定値の大小に応じて自動的にレンジが切り替わるのが一般的である。しかし、測定値が大きく変動するような場合はレンジが頻繁に切り替わると読み取りが困難になる。そこで、指定したレンジに固定するレンジホールドと呼ばれる機能も用意されている。機種によっては、直流信号と交流信号を自動識別してモードを切り替えるものもある。 なお、デジタル式で抵抗レンジを選択した場合、アナログ式とは異なり赤がプラスとなる。また、オートレンジ機能により流れる電流が変化するため、スピーカーなどにテストリードを当てるとレンジの切り替えにともなってプチプチという音が聞こえる。 使用方法は、アナログ式とほぼ同じであるので、その節を参照されたい。 ただし、直流電圧・電流レンジでの測定時に極性を逆に接続しても、-(マイナス記号)などの表示が出るだけで、本体が故障することは無い。また、抵抗の測定では、ゼロオーム調整が不要である。 岩崎通信機、エー・アンド・デイ、エーディーシー、カイセ、菊水電子工業、共立電気計器、三和電気計器、テクシオ・テクノロジー、日置電機、横河メータ&インスツルメンツ キーサイト・テクノロジー、ケースレー・インスツルメンツ、フルーク・コーポレーション、リゴル・テクノロジー
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回路計とは、電圧・電流等々の量・値を、複数の機能を切り替えて測定・計測できる計測機器のこと。回路試験器(かいろしけんき)ともいう。JIS C1202 によって規格が定められている。
'''回路計'''(かいろけい、[[英語]]:multimeter '''マルチメーター''')とは、[[電圧]]・[[電流]]等々の[[量]]・[[値]]を、複数の機能を切り替えて測定・計測できる計測機器のこと。'''回路試験器'''(かいろしけんき)ともいう。[[日本工業規格|JIS]] C1202 によって規格が定められている。 == 概説 == [[開閉器|スイッチ]](ロータリースイッチ、ダイヤルスイッチ、スライドスイッチ、ボタンスイッチ 等)で内部の計測回路を切り替えることによって、[[直流]]および[[交流]]の[[電圧]]・[[電流]]等々、さまざまな量を計測できる[[計測器]]である。「[[保守点検用電気計測器]]」として扱われることもある。 一般に馴染みの深い「'''[[テスター]]・テスタ'''」は回路計の一種で、直流の[[電圧]]・[[電流]]・[[電気抵抗|抵抗]]、交流[[電圧]]のそれぞれを測定範囲を切り替えて測定できる計測機器である<ref>世界大百科事典 第2版【マルチメーター】</ref><ref>テスターのなかには特殊な用途(例えば温度測定、低周波出力など)の機能を有するものもある。(出典:世界大百科事典 第2版【マルチメーター】)</ref>。1000V以下の回路の簡単な測定や調整に使用される。[[File:Voltmeter.jpg|thumb|200px|デジタルマルチメータ]] 指針で[[アナログ]]表示する[[#アナログマルチメータ|アナログマルチメータ]]と、[[アナログ-デジタル変換回路|アナログ-デジタル変換]]してモニタに[[数字]]で表示する[[#デジタルマルチメータ|デジタルマルチメータ]]がある。 古いものでは、スイッチではなく、[[プラグ]]で差し替えて回路を切り替えるものもあった。 == アナログマルチメータ == [[File:Analog Multimeter.jpg|thumb|200px|アナログマルチメータ]] [[File:Old-Tester.JPG|thumb|200px|アナログマルチメータ]] [[File:Old-Tester-inside.jpg|thumb|200px|アナログマルチメータの内部]] '''アナログテスター'''とも呼ばれる。広範囲の直流[[電圧]]、直流[[電流]]、交流電圧、[[電気抵抗]]の測定が可能である。 多機能機種では、[[交流]]電流、[[トランジスタ]]の電流[[増幅]]率、[[コンデンサ]]の[[静電容量]]、[[温度]]などが測定できるものもある。 === 構造 === アナログマルチメータは一般に以下の部品から構成される。 # メータ(指針) #* 値を表示する部分である。 # ロータリースイッチ #* 測定レンジの切り替えを行う。 # ゼロオーム調整つまみ #* 抵抗の測定を行なうとき、0Ωの位置を調整する。 # 測定用端子 #* プラス側およびマイナス側のテストリードを接続する。 # テストリード #* 接触用の金属棒・絶縁棒がセットになった[[リード線]]。 === 仕様 === 大型・精密の用途を除き、平坦な場所に置いた[[シャーシ|筐体]]を上から覗きメーター(指針)の指示値を読むようになっている形状が一般的である。測定に際してはテストリードを端子に接続し、スイッチ切り換えまたはテストリードの挿入端子を変更して目的の測定回路を選択する。 一般に用いられているアナログマルチメータの測定範囲(レンジ)は、おおよそ次のようになっている。 * 直流電圧: 0.1~1000(または0.12~1200)[[ボルト (単位)|V]] * 直流電流: 50[[マイクロ|μ]][[アンペア|A]]~10[[アンペア|A]](または60[[マイクロ|μ]][[アンペア|A]]~12[[アンペア|A]]) * 交流電圧: 2.5~1000(または3~1200)[[ボルト (単位)|V]] * 抵抗: 1[[キロ|k]][[オーム|Ω]]~20[[メガ|M]][[オーム|Ω]] 異なるレンジで目盛りを共有するため、抵抗を除く各レンジは2.5, 5, 10または3, 6, 12の倍数、抵抗は10倍または100倍刻みに設定されている。ただし、交流電圧の最低のレンジに限り、[[整流器]]の特性の関係からゼロ付近が詰まった特別な目盛りになっていることが多い。後述のデジタルマルチメータのように自動でレンジが切り替わる製品も存在する。 電圧測定に関係する計器の内部抵抗([[入力抵抗]])は'''オーム毎ボルト'''(オームパーボルト) [Ω/V] で表し、目盛り板の片隅に標示されている。この値が大きいほど回路に及ぼす影響が小さく精密な測定が可能であるが、機械的に弱くなるため取扱いには注意を要する。一般には、2~50 kΩ/V 程度の製品がある。特に高い内部抵抗を必要とする場合には、入力段に[[電界効果トランジスタ|FET]]を使用した高入力抵抗タイプのものか、デジタル式を使う方が望ましい。 === 使用方法 === ==== 電圧、電流の測定 ==== 測定するおおよその値が既知である場合(例えば[[乾電池]])では、その値が測定可能で最も指針が大きく振れるレンジに切り換える(1.5Vの乾電池の電圧を測るならば2.5または3Vレンジ)。次に、直流であれば赤のテストリードを測定物の[[正極|+]]側、黒のテストリードを[[負極|-]]側に当てて、指針を読み取る。極性を誤ったり、電流レンジで誤って電圧を計測すると破損の原因になるので注意する(ほとんどの場合はその前に保護[[ヒューズ]]が溶断する)。交流を計測する場合はテストリードのプラス・マイナスの区別は無い。 測定する値が未知である場合は、まず最大のレンジ(電圧ならば1000または1200V)で目安的に確認しておき、それに合った低いレンジに切り換えて測定する。 ==== 抵抗の測定 ==== 測定前に、レンジを「抵抗」に切り換え、2本のテストリードの先端を強く接触させ'''ゼロオーム調整つまみ'''を回して指針が 0Ω を指すようにする。その後で測定物にテストリードを当て、指針を読み取る。電圧、電流と目盛りの向きが逆(右から左)であることに注意する。 指先で2本のテストリードの両方に測定物を直接押し当てるようにすると、並列接続された人体の抵抗とともに測るため正確な測定ができない。また、電子回路内の抵抗を測定するには、必ず電源を切っておき、抵抗器などの値を測定するには、その一端を回路から外しておく。 抵抗の場合は電圧、電流と違い、レンジの選択が適切でなくてもテスター本体が故障することは無い。ただし、低抵抗のレンジでは測定物に大電流が流れるため、一部の[[半導体素子]]などは破損する可能性がある。 [[ダイオード]]、[[トランジスタ]]などの導通試験を行うには、回路の都合上、黒のテストリードが内蔵電池の+、赤のテストリードが-に接続されている(極性が逆<ref>アナログ式では電圧・電流レンジと同様 に+端子からメーターに電流が流れ込むようになっているため</ref>)ので注意を要する。 == デジタルマルチメータ == [[File:Digital Multimeter Aka.jpg|thumb|200px|ポータブル型デジタルマルチメータ]] '''デジタルマルチメータ'''(digital multimeter、略称:DMM)は、[[アナログ-デジタル変換回路]]を用いて測定値をモニタに[[デジタル数字]]で表示する'''回路計'''である。'''デジタルテスタ'''とも呼ばれる。 === 構造 === デジタルマルチメータは一般に以下の部品から構成される。 # メータ(モニタ) #* 値を表示する部分である。一般的に[[液晶ディスプレイ]]であり、バックライトを内蔵する製品もある。商用電源を使用する据え置き型では[[7セグメントディスプレイ|7セグメント]][[発光ダイオード|LED]]や[[蛍光表示管]](VFD)を用いたものもある。古くは[[ニキシー管]]を用いたものもあった。 # ロータリースイッチ #* 測定レンジの切り替えを行う。 # ブザー #* 導通状態を音によって示す。導通の有無が表示を見なくても音で判り作業性が良い。 # 測定用端子 #* プラス側およびマイナス側のテストリードを接続する。 # テストリード #* 接触用の金属棒・絶縁棒がセットになったリード線。 === 仕様 === [[開閉器|スイッチ]]の切り換えにより、広範囲の[[直流]][[電圧]]、[[直流]][[電流]]、[[交流]][[電圧]]、[[交流]][[電流]]、[[電気抵抗|抵抗]]の測定が可能である。高級機種では、コンデンサの[[静電容量]]、[[周波数]]、[[デューティ比]]などが測定できるものもある。小型化されカード形のものやペン形の製品も存在する。 アナログ式と比較して内部抵抗(入力抵抗)が非常に高く、低電圧、低抵抗、高抵抗などの測定に向いている。また、アナログ式では交流電流の測定は一部の高級機種に限られる機能であるが、デジタル式では低級機種でなければ交流電流の測定機能が付いていることが多い。 一方で、測定値が絶えず変動する場合には数字の読み取りが困難であるといった欠点がある。そこで測定値の保持機能や、モニタ上においてバーの点灯個数により測定値の大小を直感的に示すバーグラフ式表示機能などが設けられることがある。アナログ・デジタルを一つの本体に複合した製品も存在する。 オートレンジという機能があり、測定値の大小に応じて自動的にレンジが切り替わるのが一般的である。しかし、測定値が大きく変動するような場合はレンジが頻繁に切り替わると読み取りが困難になる。そこで、指定したレンジに固定するレンジホールドと呼ばれる機能も用意されている。機種によっては、直流信号と交流信号を自動識別してモードを切り替えるものもある。 なお、デジタル式で抵抗レンジを選択した場合、アナログ式とは異なり赤がプラスとなる。また、オートレンジ機能により流れる電流が変化するため、スピーカーなどにテストリードを当てるとレンジの切り替えにともなってプチプチという音が聞こえる。 === 使用方法 === 使用方法は、アナログ式とほぼ同じであるので、[[#使用方法|その節]]を参照されたい。 ただし、直流電圧・電流レンジでの測定時に極性を逆に接続しても、-(マイナス記号)などの表示が出るだけで、本体が故障することは無い。また、抵抗の測定では、ゼロオーム調整が不要である。 == 主なメーカー == ; 日本 [[岩崎通信機]]、[[エー・アンド・デイ]]、[[アドバンテスト|エーディーシー]]、[[カイセ]]、[[菊水電子工業]]、[[共立電気計器]]、[[三和電気計器]]、[[ケンウッド#設立経緯と事業遷移|テクシオ・テクノロジー]]、[[日置電機]]、[[横河メータ&インスツルメンツ]] ; 日本国外 [[キーサイト・テクノロジー]]、[[ケースレー・インスツルメンツ]]、[[フルーク・コーポレーション]]、[[蘇州普源精電科技|リゴル・テクノロジー]] == 関連項目 == * [[直流]] * [[交流]] * [[電圧]] * [[電流]] * [[電気抵抗]] * [[電圧計]] * [[電流計]] * [[保守点検用電気計測器]] ==参考文献== * {{Cite |和書 |author = 三好 正二 |title = 基礎テキスト 電気・電子計測 |date = 1995 |publisher = 東京電機大学出版局 |isbn = 4-501-10670-0 |ref = harv }} * {{Cite |和書 |author = 西野 治 |title = 電気計測 |date = 1958 |publisher = コロナ社 |isbn = 978-4-339-00161-7 |ref = harv }} == 出典・脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{電気電子計測機器}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいろけい}} [[Category:電気・電子計測機器]]
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2022-09-21T02:54:35Z
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スノーボード
スノーボード(snowboard)は、サーフィンやスケートボードのように横向きになって板に乗り、バインディング(ビンディング)と呼ばれる留め具で足を固定し雪の斜面を滑る遊び、スポーツである。ウィンタースポーツのひとつ。スノーボードをする人をスノーボーダーと言う。エクストリームスポーツととらえられることが多い。 サーフィンやスケートボード同様に、横乗り(サイド・ウェイ・スタンス)スポーツである。左足が前になるレギュラースタンス、右足が前になるグーフィースタンスがある。利き足の呼称なので、レギュラースタンスの人は右足を前にして滑ってもグーフィー・スタンスとは呼ばれずに、スイッチ・スタンスと呼ばれる。右利き手が多いように、グーフィーよりレギュラーの割合が多い。 「スノーボード」という名称は、アメリカとカナダを中心とした北米スノーボード協会が発足した時、新しいスポーツのジャンルとしてスノーボードという名称に統一したことに始まる。1,940年代まで、同じく「スノーボード」という名称の雪上を滑るボブスレーのような競技が存在していたが、一般には普及しなかった。 英語で"snowboard"は「スノーボードする」という動詞であるため、名詞として使う場合は"snowboarding"と言うことが多い。また、1980年代の一時期、アメリカの玩具会社が"Snowboard"の商標登録を持っていたため、"snoboard"という表記も当時よく見られた。 もともとはサーフィンやスケートボードを雪山でも、といった楽しみ方をされていたが、既にスキー場という娯楽施設が整備されていたため、その環境にも適応すべくスキー製造技術を取り入れていった。圧雪された斜面での滑走性能が上がり、現在では整備されたゲレンデで滑るのが一般的となったが、ゲレンデ外(オフピステ)の雪山を滑るバックカントリースノーボードも人気である。人工的に管理された範囲外での滑走となるため、より高度な滑走技術だけでなく、雪崩のリスクマネジメント、応急手当など、安全に関わる知識を学ぶことや、ビーコンなどの専用の装備が必要である。バックカントリースノーボードはビッグマウンテン、狭義にはエクストリームなどとも呼ばれる。 国内においてはオフでも気軽にジャンプを練習できる施設が多く、そこでは雪の代わりにブラシを使用し一年中スノーボードができる環境を提供している。人工雪によるインドア施設も多い日本では、外国よりもよりスノーボードが年間で楽しめる環境が整っている。 スノーボードとスキーは、雪の上を滑走する競技という意味では同列であるが、オリンピックや全日本スキー連盟のカテゴリーとしてはスキーの下位概念とされている。(スノーボードはスキーの一種という考え。) 雪山を1枚の板で滑ることは1800年代にはすでに行われていたとも言われているが、アメリカ合衆国で1963年にトム・シムスがスケートボードを加工して作った「スキーボード」や、1965年にシャーマン・ポッペン (Sherman Poppen) が作った「Snurfer(スナーファー:snow とsurfer の合成語)」と呼ばれる雪上サーフィンの玩具などが、現在につながるスノーボードの起原とされている。これは、非常に小さな合板の板に紐を取り付け、バランスを取りながら真っ直ぐに斜面を滑り降りるだけの乗り物であった。 その後派生した初期のスノーボードは、板の面積が大きく、降雪後に山に登り新雪をサーフィン感覚で滑り降りるもので、「スノーサーフィン」と呼ばれた。滑走面から飛び出したフィンが付いており、圧雪されたゲレンデでは上手く滑ることができなかった。 1970年代初め、ユタ州ソルトレイクでディミトリー・ミロビッチによって設立されたウインタースティック社のカタログには「30cm以上の深雪が必要」と記されている。スノーサーフィンは、その後派生する多くのスノーボードメーカーにも大きな影響を与える。 1971年 田沼進三によって設立されたパイオニア・モス社が、サーフボードのウレタンフォームとグラスファイバーを使用したプロトタイプを作成。フィンとエッジがあり、バインディングはないものであった。 1972年 ボブ・ウェバーが「スキーボード」デザインの特許を取得。これは1990年8月17日、ジェイク・バートン・カーペンターに売却される。 1975年 ディミトリー・ミロビッチがウィンタースティック社の工場を設立。初期のボードからメタルエッジを取り除き、ダブルエッジを開発し、特許を取得。 1976年 トム・シムスがシムス・スポーツ社を設立。 1977年 ジェイク・バートン・カーペンターが、バートン・スノーボード社を設立し、1980年代中頃ゲレンデを滑る事が出来る道具を開発すると同時に、大量生産の体制を築く。日本ではスポットビルトアジアが輸入を開始、ムラサキスポーツ、マリンプラスチック等が販売を始めた。 1979年 日本では1970年代後半からいくつかの小規模なメーカーが興されたが、パイオニア・モス社がスキーの解放型プレートを改良した固定式ハードバインディングを持つ「MOSS snowstick」の販売を開始。これはスキーブーツの使用を前提とし、世界で初めて固定式バインディングを採用したものであり、「MOSS SNOWBOARD」は現存する世界的古参メーカーとして知られている。 1981年 シムスがメタルエッジつきボードを開発。コロラド州で初めての大会が開催されたと言われている。 1983年 世界初の国協会として日本スノーボード協会が発足。「第一回全日本スノーサーフィンチャンピオンシップ」開催。 1985年 ヨーロッパと北アメリカでもスノーボード協会が発足。トム・シムスが、ロジャー・ムーアの代わりにスノーボードのスタントを務めた映画、ジェームズ・ボンドの「007 美しき獲物たち」が公開される。 1986年 スイスのスノーボードクラブが「インターナショナル・スイス・チャンピオンシップ」をサンモリッツで開催。 1987年 アメリカ・ブレッケンリッジとイタリア・モリッツで世界初の国際級大会「International World Championship」開催。競技種目はスラロームとハーフパイプであった。翌シーズン、ヨーロッパとアメリカでワールドカップシリーズ5戦開催。この頃から国協会も増えていく。 1989年 初めての国際協会として「国際スノーボード協会」が発足。ただし、ヨーロッパ内での活動。 1990年 初めてのプロ協会がスイスで発足。アジア、ヨーロッパ、北アメリカで、ワールドカップ大会16戦が再開される。 1990年代に入り、当時若者に人気があったスケートボードのイメージと重なり、爆発的ブームとなって産業として育ってゆく。 1991年 国際スノーボード連盟が発足。ワールドカップ大会3戦開催。 1998年 長野冬季オリンピックより、アルペンスタイルのパラレル大回転、フリースタイルのハーフパイプが正式種目となった。 2002年 国際スノーボード連盟が解散、世界スノーボード連盟が発足。 2006年 トリノ冬季オリンピックより、スノーボードクロスが正式種目となった。 2014年 ソチ冬季オリンピックよりアルペンスタイルのパラレル回転、フリースタイルのスロープスタイルが正式種目となった。 2018年 平昌冬季オリンピックよりビッグエアが正式種目となった。 表面と滑走面が一体となった一枚の板に、バインディングが直接取り付けられるようになっていて、進行方向に対してバインディングを、斜めまたは横向きに取り付けたもの。 大きく分けてフリースタイル(ソフト)とアルパイン(日本スノーボード協会ではアルパイン、全日本スキー連盟ではアルペンと日本語表記する、ハード)の2種類がある。この場合のソフト、ハードとは、それぞれの用途で使われるブーツがソフトブーツ、ハードブーツに分かれることからボードおよび滑走スタイルにまでその呼び方を拡張したものであり、日本では先のフリースタイル、アルパインの呼び分けが一般的である。93〜94年のフリースタイル:アルパインのバインディング販売比率統計では、ヨーロッパ 63%:37%、日本 85%:15%、アメリカ 93%:7%というデータがあり、現在はよりフリースタイルの比率が大きくなっている。 1980年代後半、スキー製造技術を取り入れてから技術的に急成長した。1990年代、逆にスキーはスノーボードに見られた特徴を取り入れ、従来のスキーにスノーボード並みのサイドカーブを持たせたカービングスキーや、前後ともに反り返った後ろ向きでも滑りやすいスキーが登場するなど、相互に発展を遂げている。 世界的にスキー・スノーボード製造工場が数社に集約されており、多くのブランドがそれらの工場に生産を委託し、大量生産されている。各工場が独自の技術でしのぎをけずっているが、それはスキーにおける各工場とメーカーの技術提携に見られるものと同じである。一般に流通するスノーボードにはほとんど性能の差はなく、乗り心地の好みによるところが大きい。一方、昔ながらの職人的技術で個性的な上級者向けスノーボードの少量生産を続けているメーカーも存在する。独自の製造技術を持っている場合もあるが、多くは職人の手工業的スキー製造技術で生産している。大量生産製品と違い、細かな改良が出来るといった小回りが得意なため、大手メーカーにはない独自な形状や性能を持ったスノーボードが生産され、マニアを中心に比較的高価な価格で流通している。 日本では、ヨネックスが独自の炭素繊維加工技術を持ち、オガサカスキーでは多くの日本産ブランドにおけるモデルを生産している。しかし国外メーカーが技術的優位に立ち、量的にも日本国内に流通するスノーボードのうち日本製は20%前後と言われている。 シムスやバートンのほか、1990年代からはロシニョール、サロモンなどのスキーメーカーも多くスノーボード業界に参入している。 スノーボードの表面をデッキやトップ、裏側の滑走面をベースやソール、外周の金属部分をエッジ、進行方向先端をノーズやフロント、反対側をテールやバックなどと呼ぶ。一般的には、何層かのファイバーグラスで覆われた木のコア(心材)、ポリエチレンプラスチックのベース、その両サイドに金属エッジという、スキーと同じ構造が主流になっている。 コア材には、ブナやポプラをはじめ、竹や樺などの木材が使われる。アルミニウム、アクリル、複合材ハニカム、フォーム、レジンなども木材と組み合わせて、あるいは単独で使われることがある。固さとねじれ剛性を出すため、コアは通常2層以上のファイバーグラスでラミネートされる。さらにアルミニウム、炭素繊維、アラミド(トワロンやケブラー)のストリンガーで弾力性と剛性を増してあるものもある。変わったところでは圧電衝撃吸収剤といった素材も使われている。 ベースは、大きく分けてエクストリュード(押し出し成形製法)とシンタード(焼結成形製法)がある。エクストリュードは、顆粒状のポリエチレンを溶かしてそのままシート状に押し出し成型する製法で、製造やリペアが比較的容易。製造コストを抑えることができ、手入れをしなくても滑走性能に影響が少ないため、初級者やレンタル用に多く使われる。シンタードは、顆粒状のポリエチレンを加熱し、さらに圧力を加えてかたまりになったものをシート状に切り出す製法。ワックスの吸収性が良く、汚れがつきにくいが、的確な手入れをしないと性能を発揮しないため、中上級向けと言える。ポリエチレンにカーボングラファイトを添加してあるグラファイトベースやエレクトラベース、金属分子のガリウムメタルを添加してあるガリウムベースなどがある。 エッジは固い雪面をターンするため、またはコアの保護のためにも重要。ソールに対しての角度とエッジ自体の角度で乗り味などが変わる。 デッキにはバインディングを取り付けるためのインサートホールが設けられている。4×4という規格のパターンが大半だが、バートンは独自の3Dパターンを使用している。 フリースタイルボードは、アルパインタイプに比べると、幅広で長さも短めのものが多い。どちらを前にしても滑りやすいよう、前後とも半円形状で反りがついている。形状、フレックス、インサートホールが前後対称のツインチップ、前後非対称のディレクショナル、前後対称形状でセットバックされていたり、フレックスがテール寄りだったりと、中間的な存在のディレクショナルツイン、セミディレクショナルなどに分類される。 アルパインボードは、フリースタイルに比べてスリムな形状で、トップは半円形状、テールは板に対して垂直にカットされている、外見ですぐに前後が認識できる完全なディレクショナルである。元々は旗門競技用に開発されたため、滑走安定性が高く、高速なターンを得意としている。 非対称ボードと言われる、左右のエッジがずれて取り付けられているボードがある。これは、切り替えし時のロスが少ないように開発されたもので、一時はフリースタイルボードにも見られたが、特性的にアルパインボードに多い。アルパインスタイルでは足の向きを進行方向に対し斜めにセットするため、踵よりも爪先の方が前方に位置する。これに合わせて爪先側のエッジ(レギュラースタンスでは進行方向右側)を前にずらしてある。全盛期には各社から発売されていたが、レギュラーとグーフィーと違うスタンス向けに生産しなければならず、生産量の調整も難しいことや、スノーボード自体の性能も良くなり、そこまで必要性が無くなったという背景もあり、現在はほとんど生産されていない。 バインディングはボードとブーツを固定する器具で、ボードに直接取り付ける。 バインディングは、ビンディングとも日本語表記される。日本では日本スノーボード協会が表記を英語発音に近い「バインディング」に統一、以来スノーボードだけを販売するメーカーは、たいていバインディングの表記を用いる。一方、スキーではドイツ語発音に近い「ビンディング」の表記を使用していたため、スキーも製造するメーカーや、全日本スキー連盟の登録選手しか出場できない冬季オリンピックでは、スキーと同じビンディングの名称が用いられる。二つの呼称に意味の差はないが、ビンディングの方が比較的古くから使われている。 フリースタイルバインディングは板の進行方向に対し、より横向きにセットされる。前足が15~21度前後、後ろ足が0~10度前後が一般的だが、後ろ足をマイナス角に取り付けるダックスタンスや、両足とも0度にセットするフラットなどもある。もっとも一般的で操作性が高いストラップインタイプ、踏み込むだけのステップインタイプ、その両者の利点を併せ持つリアエントリータイプがある。ベース、ブーツを固定するストラップ、ふくらはぎをサポートするハイバックで構成される。アングル角度調節がより細かく容易にできるようにベースを押さえるディスクが別にあったり、踵部分がヒールカップとして別になっていたり、ベースに衝撃吸収用パッドがついているものもある。ステップインタイプは登場当時は話題を集め、各社開発が盛んだった時期もあるが、ストラップインタイプよりレスポンスが悪い、雪が詰まりやすいなどの問題点が未だ完全に解決されているとは言えず、最近ではほとんど販売されていない。リアエントリータイプは、ハイバックが後方に倒れる構造を持ち、足を入れてからハイバックを起こして固定する仕組みになっている。 以前はブーツ底とデッキが密着するベースプレート(ディスク)レスバインディング、ブーツ上方に3本目のストラップをつけてレスポンスを良くした三点タイプ、足の可動範囲がより広くなるようハイバックを非常に低くしたローバック、フリースタイル用のカントなどもあった。 アルパインバインディングは、板の進行方向に対し、より前向きにセットされる。45〜60度弱が一般的だが、70度前後という場合もある。従来の手で締めるクリップタイプと、踏み込むだけのステップインタイプがある。リフトやカントを入れて角度をつけるのが一般的。 フリースタイルバインディングにはソフトブーツを使用する。素材は、昔は革を使用したものが多かったが、最近では剛性や耐久性の点から、化学繊維が多く用いられるようになった。一般的なアウターとインナーに分かれたタイプと、インナーレスタイプがある。紐で編み上げるタイプのほか、ダイヤルを回して金属ワイヤーで締め上げるタイプなどもある。 アルパインバインディングにはスキーブーツと同様の樹脂で成型されたハードブーツを使用する。スキーブーツと比較して前後方向に柔らかめに作られていたり、板を倒しこんだときに雪面と接触し難いよう、つま先と踵部分が斜めに削られているなどの違いがある。 インナーには、アウターと同様に編み上げタイプや一体成形タイプ、サーモタイプなどがある。サーモインナーは一度オーブンなどで熱を加え、足を入れて冷却し、自分の足にフィットするように成形したインナーとすることが出来る。 デッキの中ほど(前後バインディングの間)にはデッキパッドと言う滑り止めをつけることがある。平坦な場所やリフト乗降時、後ろ足を外して蹴って進む場合に、後ろ足を乗せても滑らないようにするためである。 スノーボードにはスキーのビンディングのような開放機能はなく、滑走中に外れることは少ない。しかし、脱着時などに板を単独で流してしまうことがあるので、ボードと足をつなぐリーシュコードという流れ止めの使用を推奨、または義務とする施設がある。なおチェアリフトの乗車時には、全国スキー安全対策協議会が定めている、スキー場内やリフト乗車停留場に掲示されている条文によって、流れ止め(リーシュコード)を使用するように喚起されている事が多い。 ウェアの下には、プロテクターを着用することが多い。 ヒップパッドの付いたインナーパンツや、バックプロテクターなどが付いたベストやジャケットタイプ、膝・肘用のプロテクターもある。技の練習時にアイテムや雪面での衝撃や、他人との衝突時における怪我を防止するためにするものである。プロテクター着用により、怪我の防止と転倒時の痛みの軽減が期待されるため、着用する者が増えている。 また最近ではヘルメットをするスノーボーダーも増えた。まだ日本では普及が弱いが、欧米のスキー場ではヘルメットをかぶるスノーボーダーの方がヘルメットをしないスノーボーダーよりも多い。なお、国際スキー連盟(FIS)が関連するスノーボード競技の場合は、FISによって定められた【スノーボード】国際競技規則(ICR) (PDF) 2010.6及び2607.2により、全競技においてヘルメットの装着義務がある。 大きく、アルパイン、フリースタイル、スノーボードクロス(ボーダークロス)に分けることができる。 旗門で規制されたコースを滑走してタイムや着順を競う種目。旗門競技。用具は主にアルパインスタイルを使用する。空気抵抗の少ない服や、特にスラロームでは旗門接触時の衝撃を和らげるために足にプロテクターを着用することが多い。スーパーG以上の高速種目はスノーボードの特性と合わないこともあり、ほとんど開催されていない。 日本国外ではフリーカーブ、ユーロカーブとも呼ばれる。 構造物を使用しないグラウンドトリックの競技会などもあるが、キッカーやハーフパイプ、クォーターパイプ、ジブアイテムなどを利用することがほとんど。用具は主にフリースタイルを使用する。 スノーボードクロスは、セクションやオブスタクルと呼ばれるキッカーやウェーブ、バンクなど複数の構造物のある、旗門で規制されたコースを滑走し、タイムを競ったり、同時にスタートする複数名による着順を競う種目。用具はアルパインスタイル、フリースタイルどちらでもかまわない。競技者同士の接触や転倒がよくあるため、通常、ヘルメットなどのプロテクター着用が規定されている。 滑りの完成度や美しさなどを競う、テクニカル、基礎系、技術系、フリーライド(FR)などと呼ばれる競技がある。用具はアルパインスタイル、フリースタイルどちらでもかまわないが、採点基準が異なるため、カテゴリー分けされていることが多い。 過去の国際大会や全日本スノーボード選手権において、モーグル(MO)が開催されたことがある。 1980年代初頭から、スキー場は相継いでスノーボードを滑走禁止にしてしまう。全面で滑走を認めていたスキー場もあるが、上級者コースを滑走禁止にし、一部開放というスキー場も多くなった。ターン孤の大きさや性質が違うスノーボードとスキーでの接触事故が多くみられたという理由や、初級者が多く、装着場所などのルールやマナーが整理されていなかったスノーボードが、スキーヤーにとっては危険で邪魔であったからという理由が大きい。 スノーボード禁止としたスキー場でも、登録や受講、スキー場が実施するテストを受検してライセンスを取得するなどの条件を満たせば滑走できるようにする所も増えていった。その後、スノーボーダーの技術向上などによりライセンス制の廃止が相継ぎ、現在では見られなくなった。バブル期から1990年代半ばにかけてのスキーブームの時期においては、日本国内の人気のウィンタースポーツのメインストリームはスキーであり、週末になると1台のリフトを数時間待つということもあったが、時代は移り変わり、21世紀以降になると国内のスキー人口が年々減り続ける中で、年々増加するスノーボード比率も受け入れなくてはならないという、スキー場の経営的側面も影響している。長野県の老舗スキー場などでは、事故が多いスノーボード解禁には消極的だったが、現在はスノーボードを全面滑走禁止にしているゲレンデはほとんどない。近年では、キッカーやレール、ハーフパイプといった施設を揃えたスノーボードパークを設置するリゾートも増え、多くのスノーボーダーの人気を集めている。 また、季節や降雪に関係なく楽しめる屋内施設もある。スノーヴァが有名。かつては、ららぽーとスキードームSSAWSという大型屋内施設があった。 北米、欧州と比較して用具の普及率が突出して高く、自前の用具を用意する人とレンタルを利用する比率は8:2と言われている。これは北米、欧州の全く逆。このため、レンタルスノーボードにおいては後進国といわれている。 国際競技団体が、WSF(世界スノーボード連盟)とFIS(国際スキー連盟)、日本の国内競技団体ではJSBA(日本スノーボード協会)とSAJ(全日本スキー連盟)に分かれており、長年にわたって対立している。対立の根源はスノーボードそのものの位置づけで、WSF/JSBAが「スキーとは違う単一スポーツ」としているのに対し、FIS/SAJは「スキーの一種目」としていることにある。冬季オリンピックにおいてスノーボードを採用する際、若者のスポーツ離れを懸念していてスーボードのような若者に人気のエクストリーム・スポーツの取り込みのため正式種目としての開催を急いでいたIOC(国際オリンピック委員会)は、すでに正式種目となっていたスキーの一部として開催するためにFISを国際競技団体と決定した。そのため、日本ではFISの国内競技団体となっているSAJに登録しなければオリンピックに出場できなくなった。これを皮切りに他のエクストリームスポーツであるスケートボード、3x3、ブレイキンやパルクールでも同じようなこと(新しい種目をすでにオリンピックの正式種目とされている類似の種目の一種として採用すること)が起き始めている。 略称NSA。 日本では主にJSBA、SAJ、SIAの3団体が各種資格を発行している。技術認定系、教師系の資格は3団体とも、SIA以外では競技役員資格や、JSBAではパトロール資格もある。
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"世界的にスキー・スノーボード製造工場が数社に集約されており、多くのブランドがそれらの工場に生産を委託し、大量生産されている。各工場が独自の技術でしのぎをけずっているが、それはスキーにおける各工場とメーカーの技術提携に見られるものと同じである。一般に流通するスノーボードにはほとんど性能の差はなく、乗り心地の好みによるところが大きい。一方、昔ながらの職人的技術で個性的な上級者向けスノーボードの少量生産を続けているメーカーも存在する。独自の製造技術を持っている場合もあるが、多くは職人の手工業的スキー製造技術で生産している。大量生産製品と違い、細かな改良が出来るといった小回りが得意なため、大手メーカーにはない独自な形状や性能を持ったスノーボードが生産され、マニアを中心に比較的高価な価格で流通している。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本では、ヨネックスが独自の炭素繊維加工技術を持ち、オガサカスキーでは多くの日本産ブランドにおけるモデルを生産している。しかし国外メーカーが技術的優位に立ち、量的にも日本国内に流通するスノーボードのうち日本製は20%前後と言われている。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "シムスやバートンのほか、1990年代からはロシニョール、サロモンなどのスキーメーカーも多くスノーボード業界に参入している。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スノーボードの表面をデッキやトップ、裏側の滑走面をベースやソール、外周の金属部分をエッジ、進行方向先端をノーズやフロント、反対側をテールやバックなどと呼ぶ。一般的には、何層かのファイバーグラスで覆われた木のコア(心材)、ポリエチレンプラスチックのベース、その両サイドに金属エッジという、スキーと同じ構造が主流になっている。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "コア材には、ブナやポプラをはじめ、竹や樺などの木材が使われる。アルミニウム、アクリル、複合材ハニカム、フォーム、レジンなども木材と組み合わせて、あるいは単独で使われることがある。固さとねじれ剛性を出すため、コアは通常2層以上のファイバーグラスでラミネートされる。さらにアルミニウム、炭素繊維、アラミド(トワロンやケブラー)のストリンガーで弾力性と剛性を増してあるものもある。変わったところでは圧電衝撃吸収剤といった素材も使われている。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ベースは、大きく分けてエクストリュード(押し出し成形製法)とシンタード(焼結成形製法)がある。エクストリュードは、顆粒状のポリエチレンを溶かしてそのままシート状に押し出し成型する製法で、製造やリペアが比較的容易。製造コストを抑えることができ、手入れをしなくても滑走性能に影響が少ないため、初級者やレンタル用に多く使われる。シンタードは、顆粒状のポリエチレンを加熱し、さらに圧力を加えてかたまりになったものをシート状に切り出す製法。ワックスの吸収性が良く、汚れがつきにくいが、的確な手入れをしないと性能を発揮しないため、中上級向けと言える。ポリエチレンにカーボングラファイトを添加してあるグラファイトベースやエレクトラベース、金属分子のガリウムメタルを添加してあるガリウムベースなどがある。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "エッジは固い雪面をターンするため、またはコアの保護のためにも重要。ソールに対しての角度とエッジ自体の角度で乗り味などが変わる。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "デッキにはバインディングを取り付けるためのインサートホールが設けられている。4×4という規格のパターンが大半だが、バートンは独自の3Dパターンを使用している。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "フリースタイルボードは、アルパインタイプに比べると、幅広で長さも短めのものが多い。どちらを前にしても滑りやすいよう、前後とも半円形状で反りがついている。形状、フレックス、インサートホールが前後対称のツインチップ、前後非対称のディレクショナル、前後対称形状でセットバックされていたり、フレックスがテール寄りだったりと、中間的な存在のディレクショナルツイン、セミディレクショナルなどに分類される。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "アルパインボードは、フリースタイルに比べてスリムな形状で、トップは半円形状、テールは板に対して垂直にカットされている、外見ですぐに前後が認識できる完全なディレクショナルである。元々は旗門競技用に開発されたため、滑走安定性が高く、高速なターンを得意としている。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "非対称ボードと言われる、左右のエッジがずれて取り付けられているボードがある。これは、切り替えし時のロスが少ないように開発されたもので、一時はフリースタイルボードにも見られたが、特性的にアルパインボードに多い。アルパインスタイルでは足の向きを進行方向に対し斜めにセットするため、踵よりも爪先の方が前方に位置する。これに合わせて爪先側のエッジ(レギュラースタンスでは進行方向右側)を前にずらしてある。全盛期には各社から発売されていたが、レギュラーとグーフィーと違うスタンス向けに生産しなければならず、生産量の調整も難しいことや、スノーボード自体の性能も良くなり、そこまで必要性が無くなったという背景もあり、現在はほとんど生産されていない。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "バインディングはボードとブーツを固定する器具で、ボードに直接取り付ける。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "バインディングは、ビンディングとも日本語表記される。日本では日本スノーボード協会が表記を英語発音に近い「バインディング」に統一、以来スノーボードだけを販売するメーカーは、たいていバインディングの表記を用いる。一方、スキーではドイツ語発音に近い「ビンディング」の表記を使用していたため、スキーも製造するメーカーや、全日本スキー連盟の登録選手しか出場できない冬季オリンピックでは、スキーと同じビンディングの名称が用いられる。二つの呼称に意味の差はないが、ビンディングの方が比較的古くから使われている。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "フリースタイルバインディングは板の進行方向に対し、より横向きにセットされる。前足が15~21度前後、後ろ足が0~10度前後が一般的だが、後ろ足をマイナス角に取り付けるダックスタンスや、両足とも0度にセットするフラットなどもある。もっとも一般的で操作性が高いストラップインタイプ、踏み込むだけのステップインタイプ、その両者の利点を併せ持つリアエントリータイプがある。ベース、ブーツを固定するストラップ、ふくらはぎをサポートするハイバックで構成される。アングル角度調節がより細かく容易にできるようにベースを押さえるディスクが別にあったり、踵部分がヒールカップとして別になっていたり、ベースに衝撃吸収用パッドがついているものもある。ステップインタイプは登場当時は話題を集め、各社開発が盛んだった時期もあるが、ストラップインタイプよりレスポンスが悪い、雪が詰まりやすいなどの問題点が未だ完全に解決されているとは言えず、最近ではほとんど販売されていない。リアエントリータイプは、ハイバックが後方に倒れる構造を持ち、足を入れてからハイバックを起こして固定する仕組みになっている。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "以前はブーツ底とデッキが密着するベースプレート(ディスク)レスバインディング、ブーツ上方に3本目のストラップをつけてレスポンスを良くした三点タイプ、足の可動範囲がより広くなるようハイバックを非常に低くしたローバック、フリースタイル用のカントなどもあった。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アルパインバインディングは、板の進行方向に対し、より前向きにセットされる。45〜60度弱が一般的だが、70度前後という場合もある。従来の手で締めるクリップタイプと、踏み込むだけのステップインタイプがある。リフトやカントを入れて角度をつけるのが一般的。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "フリースタイルバインディングにはソフトブーツを使用する。素材は、昔は革を使用したものが多かったが、最近では剛性や耐久性の点から、化学繊維が多く用いられるようになった。一般的なアウターとインナーに分かれたタイプと、インナーレスタイプがある。紐で編み上げるタイプのほか、ダイヤルを回して金属ワイヤーで締め上げるタイプなどもある。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アルパインバインディングにはスキーブーツと同様の樹脂で成型されたハードブーツを使用する。スキーブーツと比較して前後方向に柔らかめに作られていたり、板を倒しこんだときに雪面と接触し難いよう、つま先と踵部分が斜めに削られているなどの違いがある。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "インナーには、アウターと同様に編み上げタイプや一体成形タイプ、サーモタイプなどがある。サーモインナーは一度オーブンなどで熱を加え、足を入れて冷却し、自分の足にフィットするように成形したインナーとすることが出来る。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "デッキの中ほど(前後バインディングの間)にはデッキパッドと言う滑り止めをつけることがある。平坦な場所やリフト乗降時、後ろ足を外して蹴って進む場合に、後ろ足を乗せても滑らないようにするためである。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "スノーボードにはスキーのビンディングのような開放機能はなく、滑走中に外れることは少ない。しかし、脱着時などに板を単独で流してしまうことがあるので、ボードと足をつなぐリーシュコードという流れ止めの使用を推奨、または義務とする施設がある。なおチェアリフトの乗車時には、全国スキー安全対策協議会が定めている、スキー場内やリフト乗車停留場に掲示されている条文によって、流れ止め(リーシュコード)を使用するように喚起されている事が多い。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ウェアの下には、プロテクターを着用することが多い。 ヒップパッドの付いたインナーパンツや、バックプロテクターなどが付いたベストやジャケットタイプ、膝・肘用のプロテクターもある。技の練習時にアイテムや雪面での衝撃や、他人との衝突時における怪我を防止するためにするものである。プロテクター着用により、怪我の防止と転倒時の痛みの軽減が期待されるため、着用する者が増えている。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また最近ではヘルメットをするスノーボーダーも増えた。まだ日本では普及が弱いが、欧米のスキー場ではヘルメットをかぶるスノーボーダーの方がヘルメットをしないスノーボーダーよりも多い。なお、国際スキー連盟(FIS)が関連するスノーボード競技の場合は、FISによって定められた【スノーボード】国際競技規則(ICR) (PDF) 2010.6及び2607.2により、全競技においてヘルメットの装着義務がある。", "title": "用具" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "大きく、アルパイン、フリースタイル、スノーボードクロス(ボーダークロス)に分けることができる。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "旗門で規制されたコースを滑走してタイムや着順を競う種目。旗門競技。用具は主にアルパインスタイルを使用する。空気抵抗の少ない服や、特にスラロームでは旗門接触時の衝撃を和らげるために足にプロテクターを着用することが多い。スーパーG以上の高速種目はスノーボードの特性と合わないこともあり、ほとんど開催されていない。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本国外ではフリーカーブ、ユーロカーブとも呼ばれる。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "構造物を使用しないグラウンドトリックの競技会などもあるが、キッカーやハーフパイプ、クォーターパイプ、ジブアイテムなどを利用することがほとんど。用具は主にフリースタイルを使用する。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "スノーボードクロスは、セクションやオブスタクルと呼ばれるキッカーやウェーブ、バンクなど複数の構造物のある、旗門で規制されたコースを滑走し、タイムを競ったり、同時にスタートする複数名による着順を競う種目。用具はアルパインスタイル、フリースタイルどちらでもかまわない。競技者同士の接触や転倒がよくあるため、通常、ヘルメットなどのプロテクター着用が規定されている。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "滑りの完成度や美しさなどを競う、テクニカル、基礎系、技術系、フリーライド(FR)などと呼ばれる競技がある。用具はアルパインスタイル、フリースタイルどちらでもかまわないが、採点基準が異なるため、カテゴリー分けされていることが多い。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "過去の国際大会や全日本スノーボード選手権において、モーグル(MO)が開催されたことがある。", "title": "競技" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1980年代初頭から、スキー場は相継いでスノーボードを滑走禁止にしてしまう。全面で滑走を認めていたスキー場もあるが、上級者コースを滑走禁止にし、一部開放というスキー場も多くなった。ターン孤の大きさや性質が違うスノーボードとスキーでの接触事故が多くみられたという理由や、初級者が多く、装着場所などのルールやマナーが整理されていなかったスノーボードが、スキーヤーにとっては危険で邪魔であったからという理由が大きい。", "title": "日本のスキー場におけるスノーボード" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "スノーボード禁止としたスキー場でも、登録や受講、スキー場が実施するテストを受検してライセンスを取得するなどの条件を満たせば滑走できるようにする所も増えていった。その後、スノーボーダーの技術向上などによりライセンス制の廃止が相継ぎ、現在では見られなくなった。バブル期から1990年代半ばにかけてのスキーブームの時期においては、日本国内の人気のウィンタースポーツのメインストリームはスキーであり、週末になると1台のリフトを数時間待つということもあったが、時代は移り変わり、21世紀以降になると国内のスキー人口が年々減り続ける中で、年々増加するスノーボード比率も受け入れなくてはならないという、スキー場の経営的側面も影響している。長野県の老舗スキー場などでは、事故が多いスノーボード解禁には消極的だったが、現在はスノーボードを全面滑走禁止にしているゲレンデはほとんどない。近年では、キッカーやレール、ハーフパイプといった施設を揃えたスノーボードパークを設置するリゾートも増え、多くのスノーボーダーの人気を集めている。", "title": "日本のスキー場におけるスノーボード" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また、季節や降雪に関係なく楽しめる屋内施設もある。スノーヴァが有名。かつては、ららぽーとスキードームSSAWSという大型屋内施設があった。", "title": "日本のスキー場におけるスノーボード" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "北米、欧州と比較して用具の普及率が突出して高く、自前の用具を用意する人とレンタルを利用する比率は8:2と言われている。これは北米、欧州の全く逆。このため、レンタルスノーボードにおいては後進国といわれている。", "title": "日本のスキー場におけるスノーボード" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "国際競技団体が、WSF(世界スノーボード連盟)とFIS(国際スキー連盟)、日本の国内競技団体ではJSBA(日本スノーボード協会)とSAJ(全日本スキー連盟)に分かれており、長年にわたって対立している。対立の根源はスノーボードそのものの位置づけで、WSF/JSBAが「スキーとは違う単一スポーツ」としているのに対し、FIS/SAJは「スキーの一種目」としていることにある。冬季オリンピックにおいてスノーボードを採用する際、若者のスポーツ離れを懸念していてスーボードのような若者に人気のエクストリーム・スポーツの取り込みのため正式種目としての開催を急いでいたIOC(国際オリンピック委員会)は、すでに正式種目となっていたスキーの一部として開催するためにFISを国際競技団体と決定した。そのため、日本ではFISの国内競技団体となっているSAJに登録しなければオリンピックに出場できなくなった。これを皮切りに他のエクストリームスポーツであるスケートボード、3x3、ブレイキンやパルクールでも同じようなこと(新しい種目をすでにオリンピックの正式種目とされている類似の種目の一種として採用すること)が起き始めている。", "title": "関連団体" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "略称NSA。", "title": "関連団体" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "日本では主にJSBA、SAJ、SIAの3団体が各種資格を発行している。技術認定系、教師系の資格は3団体とも、SIA以外では競技役員資格や、JSBAではパトロール資格もある。", "title": "資格" } ]
スノーボード(snowboard)は、サーフィンやスケートボードのように横向きになって板に乗り、バインディング(ビンディング)と呼ばれる留め具で足を固定し雪の斜面を滑る遊び、スポーツである。ウィンタースポーツのひとつ。スノーボードをする人をスノーボーダーと言う。エクストリームスポーツととらえられることが多い。
{{出典の明記|date=2013年6月14日 (金) 19:10 (UTC)}} {{スポーツ | 画像 = Snowboarderpipe.jpg | 見出し = スノーボーダー | 競技統括団体 = | 通称 = | 起源 = [[1960年代]]<br />{{USA}} | 競技登録者 = | クラブ = | 身体接触 = | 選手 = | 男女 = | カテゴリ = 雪上競技 | ボール = | オリンピック = [[1998年長野オリンピック|1998年]] }} [[ファイル:Snowwboard riding photo.jpg|代替文=|サムネイル|300x300ピクセル|スノーボードの風景。]] '''スノーボード'''(snowboard)は、[[サーフィン]]や[[スケートボード]]のように横向きになって板に乗り、バインディング(ビンディング)と呼ばれる留め具で足を固定し雪の斜面を滑る遊び、スポーツである。[[ウィンタースポーツ]]のひとつ。スノーボードをする人をスノーボーダーと言う。[[エクストリームスポーツ]]ととらえられることが多い。 [[ファイル:Snowboarding-hakubagoryu-april2018.webm|サムネイル|300ピクセル|(動画) スノーボード、[[白馬五竜スキー場]]にて。]] == 概要 == サーフィンやスケートボード同様に、横乗り(サイド・ウェイ・スタンス)スポーツである。左足が前になるレギュラースタンス、右足が前になるグーフィースタンスがある。利き足の呼称なので、レギュラースタンスの人は右足を前にして滑ってもグーフィー・スタンスとは呼ばれずに、スイッチ・スタンスと呼ばれる。右利き手が多いように、グーフィーよりレギュラーの割合が多い。 「スノーボード」という名称は、アメリカとカナダを中心とした北米スノーボード協会が発足した時、新しいスポーツのジャンルとしてスノーボードという名称に統一したことに始まる。1,940年代まで、同じく「スノーボード」という名称の雪上を滑るボブスレーのような競技が存在していたが、一般には普及しなかった。 英語で"snowboard"は「スノーボードする」という動詞であるため、名詞として使う場合は"snowboarding"と言うことが多い。また、1980年代の一時期、アメリカの玩具会社が"Snowboard"の商標登録を持っていたため、"snoboard"という表記も当時よく見られた。 もともとはサーフィンやスケートボードを雪山でも、といった楽しみ方をされていたが、既にスキー場という娯楽施設が整備されていたため、その環境にも適応すべくスキー製造技術を取り入れていった。圧雪された斜面での滑走性能が上がり、現在では整備されたゲレンデで滑るのが一般的となったが、ゲレンデ外(オフピステ)の雪山を滑るバックカントリースノーボードも人気である。人工的に管理された範囲外での滑走となるため、より高度な滑走技術だけでなく、雪崩のリスクマネジメント、応急手当など、安全に関わる知識を学ぶことや、[[雪崩ビーコン|ビーコン]]などの専用の装備が必要である。バックカントリースノーボードはビッグマウンテン、狭義にはエクストリームなどとも呼ばれる。 国内においてはオフでも気軽にジャンプを練習できる施設が多く、そこでは雪の代わりにブラシを使用し一年中スノーボードができる環境を提供している。人工雪によるインドア施設も多い日本では、外国よりもよりスノーボードが年間で楽しめる環境が整っている。 スノーボードとスキーは、雪の上を滑走する競技という意味では同列であるが、オリンピックや全日本スキー連盟のカテゴリーとしてはスキーの下位概念とされている。(スノーボードはスキーの一種という考え。) == 歴史 == 雪山を1枚の板で滑ることは[[1800年代]]にはすでに行われていたとも言われているが、[[アメリカ合衆国]]で[[1963年]]にトム・シムスがスケートボードを加工して作った「スキーボード」や、[[1965年]]にシャーマン・ポッペン (Sherman Poppen) が作った「[[:en:Snurfer|Snurfer]](スナーファー:snow とsurfer の合成語)」と呼ばれる雪上[[サーフィン]]の玩具などが、現在につながるスノーボードの起原とされている。これは、非常に小さな合板の板に紐を取り付け、バランスを取りながら真っ直ぐに斜面を滑り降りるだけの乗り物であった。 その後派生した初期のスノーボードは、板の面積が大きく、降雪後に山に登り新雪をサーフィン感覚で滑り降りるもので、「スノーサーフィン」と呼ばれた。滑走面から飛び出したフィンが付いており、圧雪された[[スキー場|ゲレンデ]]では上手く滑ることができなかった。 [[1970年代]]初め、[[ユタ州]][[ソルトレイク]]でディミトリー・ミロビッチによって設立されたウインタースティック社のカタログには「30cm以上の深雪が必要」と記されている。スノーサーフィンは、その後派生する多くのスノーボードメーカーにも大きな影響を与える。 [[1971年]] 田沼進三によって設立されたパイオニア・モス社が、サーフボードのウレタンフォームとグラスファイバーを使用したプロトタイプを作成。フィンとエッジがあり、バインディングはないものであった。 [[1972年]] ボブ・ウェバーが「スキーボード」デザインの特許を取得。これは1990年8月17日、ジェイク・バートン・カーペンターに売却される。 [[1975年]] ディミトリー・ミロビッチがウィンタースティック社の工場を設立。初期のボードからメタルエッジを取り除き、ダブルエッジを開発し、特許を取得。 [[1976年]] トム・シムスがシムス・スポーツ社を設立。 [[1977年]] ジェイク・バートン・カーペンターが、[[バートン・スノーボード]]社を設立し、1980年代中頃ゲレンデを滑る事が出来る道具を開発すると同時に、大量生産の体制を築く。日本では[[スポットビルト]]アジアが輸入を開始、[[ムラサキスポーツ]]、マリンプラスチック等が販売を始めた。 [[1979年]] 日本では[[1970年代]]後半からいくつかの小規模なメーカーが興されたが、パイオニア・モス社がスキーの解放型プレートを改良した固定式ハードバインディングを持つ「MOSS snowstick」の販売を開始。これはスキーブーツの使用を前提とし、世界で初めて固定式バインディングを採用したものであり、「MOSS SNOWBOARD」は現存する世界的古参メーカーとして知られている。 [[1981年]] シムスがメタルエッジつきボードを開発。コロラド州で初めての大会が開催されたと言われている。 [[1983年]] 世界初の国協会として[[日本スノーボード協会]]が発足。「第一回全日本スノーサーフィンチャンピオンシップ」開催。 [[1985年]] ヨーロッパと北アメリカでもスノーボード協会が発足。トム・シムスが、[[ロジャー・ムーア]]の代わりにスノーボードのスタントを務めた映画、[[ジェームズ・ボンド]]の「[[007 美しき獲物たち]]」が公開される。 [[1986年]] スイスのスノーボードクラブが「インターナショナル・スイス・チャンピオンシップ」をサンモリッツで開催。 [[1987年]] アメリカ・ブレッケンリッジとイタリア・モリッツで世界初の国際級大会「International World Championship」開催。競技種目はスラロームとハーフパイプであった。翌シーズン、ヨーロッパとアメリカでワールドカップシリーズ5戦開催。この頃から国協会も増えていく。 [[1989年]] 初めての国際協会として「国際スノーボード協会」が発足。ただし、ヨーロッパ内での活動。 [[1990年]] 初めてのプロ協会がスイスで発足。アジア、ヨーロッパ、北アメリカで、ワールドカップ大会16戦が再開される。 [[1990年代]]に入り、当時若者に人気があった[[スケートボード]]のイメージと重なり、爆発的ブームとなって産業として育ってゆく。 [[1991年]] 国際スノーボード連盟が発足。ワールドカップ大会3戦開催。 [[1998年]] [[長野オリンピック|長野冬季オリンピック]]より、[[アルペン]]スタイルの[[大回転|パラレル大回転]]、[[フリースタイル]]の[[ハーフパイプ]]が正式種目となった。 [[2002年]] 国際スノーボード連盟が解散、世界スノーボード連盟が発足。 [[2006年]] [[トリノオリンピック|トリノ冬季オリンピック]]より、[[スノーボードクロス]]が正式種目となった。 [[2014年]] [[ソチオリンピック|ソチ冬季オリンピック]]よりアルペンスタイルの[[回転 (スキー)|パラレル回転]]、フリースタイルの[[スロープスタイル]]が正式種目となった。 [[2018年]] [[平昌オリンピック|平昌冬季オリンピック]]より[[ビッグエア]]が正式種目となった。 == 用具 == [[ファイル:White-Snowboard-With-Bindings.jpg|250px|thumb|スノーボード]] 表面と滑走面が一体となった一枚の板に、[[バインディング]]が直接取り付けられるようになっていて、進行方向に対してバインディングを、斜めまたは横向きに取り付けたもの。 大きく分けて[[フリースタイル]](ソフト)と[[アルペン|アルパイン]]([[日本スノーボード協会]]ではアルパイン、[[全日本スキー連盟]]ではアルペンと日本語表記する、ハード)の2種類がある。この場合のソフト、ハードとは、それぞれの用途で使われるブーツがソフトブーツ、ハードブーツに分かれることからボードおよび滑走スタイルにまでその呼び方を拡張したものであり、日本では先のフリースタイル、アルパインの呼び分けが一般的である。93〜94年のフリースタイル:アルパインのバインディング販売比率統計では、ヨーロッパ 63%:37%、日本 85%:15%、アメリカ 93%:7%というデータがあり、現在はよりフリースタイルの比率が大きくなっている。 === ボード === [[ファイル:Snowboard-sizing.jpg|150px|thumb|ボードの構造図。]] 1980年代後半、スキー製造技術を取り入れてから技術的に急成長した。1990年代、逆にスキーはスノーボードに見られた特徴を取り入れ、従来のスキーにスノーボード並みのサイドカーブを持たせた[[カービングスキー]]や、前後ともに反り返った後ろ向きでも滑りやすいスキーが登場するなど、相互に発展を遂げている。 世界的にスキー・スノーボード製造工場が数社に集約されており、多くのブランドがそれらの工場に生産を委託し、大量生産されている。各工場が独自の技術でしのぎをけずっているが、それはスキーにおける各工場とメーカーの技術提携に見られるものと同じである。一般に流通するスノーボードにはほとんど性能の差はなく、乗り心地の好みによるところが大きい。一方、昔ながらの職人的技術で個性的な上級者向けスノーボードの少量生産を続けているメーカーも存在する。独自の製造技術を持っている場合もあるが、多くは職人の手工業的スキー製造技術で生産している。大量生産製品と違い、細かな改良が出来るといった小回りが得意なため、大手メーカーにはない独自な形状や性能を持ったスノーボードが生産され、マニアを中心に比較的高価な価格で流通している。 日本では、[[ヨネックス]]が独自の[[炭素繊維]]加工技術を持ち、[[小賀坂スキー製作所|オガサカスキー]]では多くの日本産ブランドにおけるモデルを生産している。しかし国外メーカーが技術的優位に立ち、量的にも日本国内に流通するスノーボードのうち日本製は20%前後と言われている。 シムスやバートンのほか、1990年代からは[[ロシニョール]]、[[サロモン]]などの[[スキー]]メーカーも多くスノーボード業界に参入している。 スノーボードの表面をデッキやトップ、裏側の滑走面をベースやソール、外周の金属部分をエッジ、進行方向先端をノーズやフロント、反対側をテールやバックなどと呼ぶ。一般的には、何層かの[[ガラス繊維|ファイバーグラス]]で覆われた木のコア(心材)、[[ポリエチレン]]プラスチックのベース、その両サイドに金属エッジという、スキーと同じ構造が主流になっている。 コア材には、[[ブナ]]や[[ポプラ]]をはじめ、[[竹]]や樺などの[[木材]]が使われる。[[アルミニウム]]、[[アクリル樹脂|アクリル]]、[[複合材料|複合材]][[ハニカム構造|ハニカム]]、フォーム、レジンなども木材と組み合わせて、あるいは単独で使われることがある。固さとねじれ剛性を出すため、コアは通常2層以上のファイバーグラスでラミネートされる。さらにアルミニウム、[[炭素繊維]]、[[ポリアミド系樹脂#アラミド|アラミド]]([[トワロン]]や[[ケブラー]])のストリンガーで弾力性と剛性を増してあるものもある。変わったところでは圧電衝撃吸収剤といった素材も使われている。 ベースは、大きく分けてエクストリュード([[押し出し成形]]製法)とシンタード(焼結成形製法)がある。エクストリュードは、顆粒状のポリエチレンを溶かしてそのままシート状に押し出し成型する製法で、製造やリペアが比較的容易。製造コストを抑えることができ、手入れをしなくても滑走性能に影響が少ないため、初級者やレンタル用に多く使われる。シンタードは、顆粒状のポリエチレンを加熱し、さらに圧力を加えてかたまりになったものをシート状に切り出す製法。ワックスの吸収性が良く、汚れがつきにくいが、的確な手入れをしないと性能を発揮しないため、中上級向けと言える。ポリエチレンにカーボングラファイトを添加してあるグラファイトベースやエレクトラベース、金属分子の[[ガリウム|ガリウムメタル]]を添加してあるガリウムベースなどがある。 エッジは固い雪面をターンするため、またはコアの保護のためにも重要。ソールに対しての角度とエッジ自体の角度で乗り味などが変わる。 デッキにはバインディングを取り付けるためのインサートホールが設けられている。4×4という規格のパターンが大半だが、バートンは独自の3Dパターンを使用している。 フリースタイルボードは、アルパインタイプに比べると、幅広で長さも短めのものが多い。どちらを前にしても滑りやすいよう、前後とも半円形状で反りがついている。形状、フレックス、インサートホールが前後対称の[[ツインチップ]]、前後非対称のディレクショナル、前後対称形状でセットバックされていたり、フレックスがテール寄りだったりと、中間的な存在のディレクショナルツイン、セミディレクショナルなどに分類される。 アルパインボードは、フリースタイルに比べてスリムな形状で、トップは半円形状、テールは板に対して垂直にカットされている、外見ですぐに前後が認識できる完全なディレクショナルである。元々は旗門競技用に開発されたため、滑走安定性が高く、高速なターンを得意としている。 非対称ボードと言われる、左右のエッジがずれて取り付けられているボードがある。これは、切り替えし時のロスが少ないように開発されたもので、一時はフリースタイルボードにも見られたが、特性的にアルパインボードに多い。アルパインスタイルでは足の向きを進行方向に対し斜めにセットするため、踵よりも爪先の方が前方に位置する。これに合わせて爪先側のエッジ(レギュラースタンスでは進行方向右側)を前にずらしてある。全盛期には各社から発売されていたが、レギュラーとグーフィーと違うスタンス向けに生産しなければならず、生産量の調整も難しいことや、スノーボード自体の性能も良くなり、そこまで必要性が無くなったという背景もあり、現在はほとんど生産されていない。 === バインディング(ビンディング) === [[ファイル:Snowboard, K2 Clicker step-in binding.jpg|150px|thumb|バインディングの装着/脱着状態(一例)]] バインディングはボードとブーツを固定する器具で、ボードに直接取り付ける。 バインディングは、[[ビンディング]]とも日本語表記される。日本では[[日本スノーボード協会]]が表記を英語発音に近い「バインディング」に統一、以来スノーボードだけを販売するメーカーは、たいていバインディングの表記を用いる。一方、スキーではドイツ語発音に近い「ビンディング」の表記を使用していたため、スキーも製造するメーカーや、[[全日本スキー連盟]]の登録選手しか出場できない冬季オリンピックでは、スキーと同じビンディングの名称が用いられる。二つの呼称に意味の差はないが、ビンディングの方が比較的古くから使われている。 フリースタイルバインディングは板の進行方向に対し、より横向きにセットされる。前足が15~21度前後、後ろ足が0~10度前後が一般的だが、後ろ足をマイナス角に取り付けるダックスタンスや、両足とも0度にセットするフラットなどもある。もっとも一般的で操作性が高いストラップインタイプ、踏み込むだけのステップインタイプ、その両者の利点を併せ持つリアエントリータイプがある。ベース、ブーツを固定するストラップ、ふくらはぎをサポートするハイバックで構成される。アングル角度調節がより細かく容易にできるようにベースを押さえるディスクが別にあったり、踵部分がヒールカップとして別になっていたり、ベースに衝撃吸収用パッドがついているものもある。ステップインタイプは登場当時は話題を集め、各社開発が盛んだった時期もあるが、ストラップインタイプよりレスポンスが悪い、雪が詰まりやすいなどの問題点が未だ完全に解決されているとは言えず、最近ではほとんど販売されていない。リアエントリータイプは、ハイバックが後方に倒れる構造を持ち、足を入れてからハイバックを起こして固定する仕組みになっている。 以前はブーツ底とデッキが密着するベースプレート(ディスク)レスバインディング、ブーツ上方に3本目のストラップをつけてレスポンスを良くした三点タイプ、足の可動範囲がより広くなるようハイバックを非常に低くしたローバック、フリースタイル用のカントなどもあった。 アルパインバインディングは、板の進行方向に対し、より前向きにセットされる。45〜60度弱が一般的だが、70度前後という場合もある。従来の手で締めるクリップタイプと、踏み込むだけのステップインタイプがある。リフトやカントを入れて角度をつけるのが一般的。 === ブーツ === フリースタイルバインディングにはソフトブーツを使用する。素材は、昔は[[革]]を使用したものが多かったが、最近では剛性や耐久性の点から、化学繊維が多く用いられるようになった。一般的なアウターとインナーに分かれたタイプと、インナーレスタイプがある。紐で編み上げるタイプのほか、ダイヤルを回して金属ワイヤーで締め上げるタイプなどもある。 アルパインバインディングには[[スキー]]ブーツと同様の[[合成樹脂|樹脂]]で成型されたハードブーツを使用する。スキーブーツと比較して前後方向に柔らかめに作られていたり、板を倒しこんだときに雪面と接触し難いよう、つま先と踵部分が斜めに削られているなどの違いがある。 インナーには、アウターと同様に編み上げタイプや一体成形タイプ、サーモタイプなどがある。サーモインナーは一度オーブンなどで熱を加え、足を入れて冷却し、自分の足にフィットするように成形したインナーとすることが出来る。 === その他 === デッキの中ほど(前後バインディングの間)にはデッキパッドと言う滑り止めをつけることがある。平坦な場所やリフト乗降時、後ろ足を外して蹴って進む場合に、後ろ足を乗せても滑らないようにするためである。 スノーボードにはスキーの[[ビンディング]]のような開放機能はなく、滑走中に外れることは少ない。しかし、脱着時などに板を単独で流してしまうことがあるので、ボードと足をつなぐ[[リーシュコード]]という流れ止めの使用を推奨、または義務とする施設がある。なお[[チェアリフト]]の乗車時には、[http://www.nikokyo.or.jp/safety-snow/ 全国スキー安全対策協議会]が定めている、[[チェアリフト#チェアリフト利用時の注意|スキー場内やリフト乗車停留場に掲示されている条文]]<ref name="Safety Snow Criteria-01">{{PDFlink|[http://www.nikokyo.or.jp/safety-snow/safety_snow_criteria.pdf スノースポーツ安全基準 平成25年10月改訂版 全国スキー安全対策協議会]}}より。</ref>によって、流れ止め(リーシュコード)を使用するように喚起されている事が多い。 ウェアの下には、プロテクターを着用することが多い。 ヒップパッドの付いたインナーパンツや、バックプロテクターなどが付いたベストやジャケットタイプ、膝・肘用のプロテクターもある。技の練習時にアイテムや雪面での衝撃や、他人との衝突時における怪我を防止するためにするものである。プロテクター着用により、怪我の防止と転倒時の痛みの軽減が期待されるため、着用する者が増えている。 また最近では[[スキーヘルメット|ヘルメット]]をするスノーボーダーも増えた。まだ日本では普及が弱いが、欧米のスキー場ではヘルメットをかぶるスノーボーダーの方がヘルメットをしないスノーボーダーよりも多い。なお、[[国際スキー連盟|国際スキー連盟(FIS)]]が関連するスノーボード競技の場合は、FISによって定められた{{PDFlink|[http://saj-wp.appmlj.com/wp-content/uploads/d219e565e265bb04b4978aa45f5b2cb8.pdf 【スノーボード】国際競技規則(ICR)]}}2010.6及び2607.2により、全競技においてヘルメットの装着義務がある。 == 技術 == [[ファイル:Shakedown 2008 Figure 1a.jpg|thumb|300px|トリックを見せる選手]] === 用語 === ; トリック : 「トリック」とは技の総称である。たとえば下記の「スピン・トリック」は「回転技」という意味である。 === 主な技術 === ; スケーティング(skating) : 前足をバインディングにつけたまま、後ろ足を外して蹴って進む方法。平坦な場所やリフト乗降時には必須の技術。 ; ドリフト・ターン(drift turn) : 板をずらすことで減速しながら行うターン。(JSBAはドリフトターン、SAJはスライドと言い、呼び方と技術が違う) ; カービング・ターン(carving turn) : 板のサイド・カーブを利用した、ずれと減速の少ないターン。文字通り雪面を「彫る」ようなターンである。 ; ヴィテリー・ターン : 雪面に手を着きながら、体を極端に寝かせてするターン。フランスのセルジ・ヴィテリが考え出した。欧米では、ユーロカーブと呼ばれることが多い。 ; スイッチ(switch) : 利き足を前にして滑る技術。フェイキー(fakie)とも呼ぶ。 ; グランド・トリック(ground trick) : フラットなバーンや地形だけを利用して(構造物を使用せず)行うトリック全般。グラトリと略して言われるが、海外でグランド・トリックという言葉は通じなく、バター・トリックと呼ばれている。 ; プレス(press) : 板を押しつけることでノーズかテールを浮かせて滑る方法。グラウンド・トリックの一種で、ノーズ、テール共にフロントサイド、バックサイド、マニュアルの3種類ある。 ; オーリー(ollie) : 板の弾力を使い、テール部分で雪面を弾いて飛び上がるスケートボードから応用された技術。ノーズ部分を使う場合は「ノーリー」と呼ぶ。昨今では、オーリーの先行動作を強めにかけ、100cmを超えるオーリーのことをポーリーと呼ぶ。 正式記録では95cmの世界タイ記録を持っていたチャンピオンK2ライダーの高井隆司、そしてムラサキチームライダーである兄・康平、弟・勇希の元木兄弟以上3名がポーリーの世界新保持者である。 ; パンピング(pumping) : ワンメイクやパイプなどでリップを抜ける時、腰を微妙に振るなどし重心を移動させる技術。実際は物理学的に重心の移動は減速につながるため、板の運動と合わせた動きをする、と言うこと。 ; エア(air) : ジャンプ全般。ハーフパイプではエアーターンと同意。 ; シフティ(shifty) : ジャンプトリック中に上半身と下半身を逆方向に捻る技術。 ; {{Anchors|グラブ}}グラブ(grab) : ジャンプトリック中に板をつかむ技術。つかむ部位、つかむ手によって、名称が変わる。 :* インディーグラブ…後方の手でフロントサイド(体の前方)をつかむ。 :* メランコリーグラブ…前方の手でバックサイド(体の後方)をつかむ。メラン(あるいはメロン)と略することも多い。 :** メソッド…メランコリーグラブの状態から、上体を反らす。 :*** トゥイーク…メソッドの状態から更に前方へ下半身を捻る。 :* ミュートグラブ…前方の手でフロントサイドをつかむ。 :** ジャパンエア…ミュートグラブの状態からメソッドの様に体を反らす。 :* ステールフィッシュ…後方の手でバックサイドをつかむ。 :* ノーズグラブ…前方の手でノーズ(板の前方)をつかむ。 :* テールグラブ…後方の手でテール(板の後方)をつかむ。 :* カナディアンベーコン…後方の手で股の間を通してフロントサイドをつかむ。 :* スイスチーズ…前方の手で股の間を通してバックサイドをつかむ。 :* ローストビーフ…後方の手で股の間を通してバックサイドをつかむ。 :** チキンサラダ…ローストビーフと同じ手で同じ所を、手首をひねらせ肘が外側に向く様につかむ。 :* ポーク…グラブ中に体を伸ばすこと。 :* ボーニング(ボーン)…グラブ中に足を伸ばすこと。 :** インディノーズボーン…インディグラブの状態で前方の足を伸ばす。 :** クレイル…インディグラブをノーズ寄りにグラブして、その状態で後方の足を伸ばす。 :** シートベルト…ミュートグラブをテール寄りにグラブして、その状態で前方の足を伸ばす。 :* スティフィ…グラブ中に両足を伸ばすこと。ミュートグラブですることが多い。 :* ダブルグラブ…1エア中に2箇所グラブすること。 :** ゴリラ…インディグラブとミュートグラブを同時にするダブルグラブの一種。別名トラックドライバー。 :** ロケットグラブ…両手でノーズをつかむ。手を交差させるとクロスロケットという別のトリックになる。 ; スピン・トリック(spin trick) : 回転技。水平に回転する角度によって、半回転は180(ワン・エイティー)、一回転は360(スリー・シックスティー、スリー・シックス、スリー、サブ・ロク)と変化する。回転方向によってオープン(まず体が正面を向く回転方向、つまり前方の足と同じ方向に回転。フロントサイドとも呼ぶ)、ブラインド(まず体が背面を向く回転方向、つまり後方の足と同じ方向に回転。バックサイドとも呼ぶ)スピンと呼ぶ。また縦方向の回転は、前方回転はフロント・フリップ、後方回転はバック・フリップと呼び、2回転する場合はダブルを付加する(例:ダブル・バック・フリップ)。 ; キャブ(CAB) : スピントリックにおいてスイッチ・スタンスでアプローチし、レギュラー・スタンスで着地するトリック。[[スケートボード]]のキャバレリアル・トリックに由来する。半回転をハーフ・キャブと呼んだり、この回転を経て行ったトリックの頭に付けることがある。 例:CAB9(キャブ・ナイン。スイッチでジャンプし、オープンサイドに2回転半回転する技。スイッチ・オープン・ナインと同じ意味。) ; 3D回転 : 回転軸が斜面に対して垂直でない回転技。ロデオフリップ、マックツイストなど。 ; ジブ(jib) : ジビング。[[手すり|レール]]やボックス、丸太など、雪以外を滑走する(こする)技術。これに用いられる人工物をジブ系アイテムと呼び、近年日本の[[スノーボードパーク]]にも頻繁に見られる。 == 競技 == 大きく、アルパイン、フリースタイル、[[スノーボードクロス|スノーボードクロス(ボーダークロス)]]に分けることができる。 === アルパイン(AL) === 旗門で規制されたコースを滑走してタイムや着順を競う種目。旗門競技。用具は主にアルパインスタイルを使用する。空気抵抗の少ない服や、特にスラロームでは旗門接触時の衝撃を和らげるために足に[[レガース|プロテクター]]を着用することが多い。スーパーG以上の高速種目はスノーボードの特性と合わないこともあり、ほとんど開催されていない。 * [[スラローム (スノーボード)|スラローム]](SL) ** デュアルスラローム(DU) ** パラレルスラローム(PSL/PS) ** バンクドスラローム * [[ジャイアントスラローム]](GS) ** パラレルジャイアントスラローム(PGS) * スーパーG(SG) * ダウンヒル(DH) 日本国外ではフリーカーブ、ユーロカーブとも呼ばれる。 [[ファイル:Snowboarder in halfpipe.jpg|250px|right|thumb|ハーフパイプ]] === フリースタイル(FS) === 構造物を使用しないグラウンドトリックの競技会などもあるが、キッカーや[[ハーフパイプ|ハーフパイプ、クォーターパイプ]]、ジブアイテムなどを利用することがほとんど。用具は主にフリースタイルを使用する。 * ハーフパイプ(HP) * ストレートジャンプ(SJ)/ワンメイク(OM)/ビッグエア(BA) * クォーターパイプ(QP) * レール * [[スロープスタイル]](SS) * ダブルパイプ(DP) === スノーボードクロス/ボーダークロス(SX/SBX/BX) === [[スノーボードクロス]]は、セクションやオブスタクルと呼ばれる[[キッカー]]やウェーブ、[[バンク]]など複数の構造物のある、旗門で規制されたコースを滑走し、タイムを競ったり、同時にスタートする複数名による着順を競う種目。用具はアルパインスタイル、フリースタイルどちらでもかまわない。競技者同士の接触や転倒がよくあるため、通常、ヘルメットなどのプロテクター着用が規定されている。 === そのほか === 滑りの完成度や美しさなどを競う、テクニカル、基礎系、技術系、フリーライド(FR)などと呼ばれる競技がある。用具はアルパインスタイル、フリースタイルどちらでもかまわないが、採点基準が異なるため、カテゴリー分けされていることが多い。 過去の国際大会や全日本スノーボード選手権において、モーグル(MO)が開催されたことがある。 === 有名な競技会 === *[[冬季オリンピック]] : 1974年のブラジルIOC総会ではすでに協議されていた。1998年の長野大会からの正式種目化が決まったとき、[[国際オリンピック委員会]]は、[[国際スノーボード連盟]]ではなく[[国際スキー連盟]]を[[国際競技団体]]と決定した。現在もスキー競技としてのスノーボード種目となっている。当時3回のワールドチャンピオンに輝いていたテリエ・ハーコンセンをはじめとするスノーボーダーの中には「スキーヤーではない」との思いから出場をボイコットした者もいた。また、「国のために大会に出るのではない」とする意識から、ハーフパイプ競技はスノーボーダーから嫌忌されることもある。 * USオープン(正式名称:Burton Us Open) : 1982年からアメリカで開催されているスノーボード界では最も権威が高いと言われている大会でバートン・スノーボードが主催している。 :現在は、ハーフパイプとスロープスタイルの2種目が行われているが、特にハーフパイプは歴史があり、クレイグ・ケリーやテリエ・ハーコンセンなどスノーボード界でも最もリスペクトされて来た選手が優勝者として名を連ねた。日本人選手では、國母和宏が2011年に優勝。平野歩夢が2018年に優勝。 かつては、ヨーロッパ、日本、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどに渡るグローバルオープンシリーズだったが、他の地域では現在はUSオープンだけが残っている。 :http://events.burton.com/burton-us-open/ *[[エックスゲームズ]] : 1997年から開催されている、アメリカ合衆国で行われる賞金額の高いエクストリームスポーツ競技会。ほかの多くのスポーツでは「ワールドカップ」が世界最高レベルだが、スノーボードにおいてはこちらの大会の方が競技レベルは高いと言われる。 * JSBA[[全日本スノーボード選手権大会]] : 1983年から毎年開催されている、日本国内アマチュア最高峰の大会。各地区大会と[[全日本学生スノーボード選手権大会]]の上位入賞者などに出場資格が与えられている。 * SSBA[[全日本学生スノーボード選手権大会]] : 1989年から毎年開催されている。かつてはJSBA地区大会に準じた競技会であったが、参加者減により現在はJSBA G1競技会に準ずる扱いとなっている。 * JSBA[[全日本スノーボードテクニカル選手権大会]] : 1994年から毎年開催されている。各地区予選大会と[[全日本学生スノーボードテクニカル選手権大会]]の上位入賞者などに出場資格が与えられている。従来2年に1度併催されていたデモンストレーター選考会は、第18回以降、毎年選考されるようになった。 * [[プロスノーボーダーズ アソシエイション アジア|PSA ASIA]]スノーボードプロツアー : 1995年から毎年開催されている。ポイントレースであるCrown Eventは、1から4個のクラウンでランク付けされた競技会がある。JSBAのプロトライアル有資格アマチュア選手の参加を認めた競技会やプロアマオープン競技会もある。このほか、ノーポイントの特別競技会であるInvitational(国際級インビテーショナル)とAsia Open(エキジビション)によって構成される。 * SAJ[[全日本スキー選手権大会スノーボード競技]] : 1995年から開催。冬季オリンピック出場を目指す選手の登竜門となる。 * [[TOYOTA BIG AIR]] : 1997年、日本初のISF公認ストレートジャンプコンテストとして開催。歴史ある大会で、毎年[[北海道テレビ放送]]が主催、冠スポンサーは[[トヨタ自動車]]。2014年大会後、休止。 * [[スノーボード世界選手権]](英語表記:FIS Snowboard World Championships) : 国際スキー連盟主催。 * スノーボード世界選手権(英語表記:World Championships of Snowboarding) : 国際スノーボード連盟とTTRワールドスノーボードツアーが共同で2012年から4年に1に開催。 * [[The Slope]] : 2000年に[[上越国際スキー場]]で、日本初のスロープスタイルの大会として「SLOPESTYLE Y2K」開催、2008年に「SlopeStyle」から現在の名称に変更。[http://オフィシャルサイト http://sbn.japaho.com/sbn/the_slope/] * [[X-TRAIL JAM]] : 2001年から12月に東京ドームで行われている世界最大級の屋内スノーボード競技会。「音楽とスノーボードの融合」を掲げ、クォーターパイプ、ストレートジャンプを連日で二日間開催する。アーティストのライブも同時に実施。2008年大会後、休止。 * スウォッチ[[TTRワールドスノーボードツアー]] : 正統性、オープン性、革新性を基本理念とし、世界最高級のスノーボード競技環境を創造することを使命とするライダー中心の非営利組織で、現在もっとも大きなフリースタイルイベントのツアーとなっている。TTRはThe Ticket to Rideの略。[[2002年]]の国際スノーボード連盟の破綻を受け、[[ミュンヘン]]で行われた[[ISPO]](国際スポーツ用品見本市)で[[テリエ・ハーコンセン]]と業界のイノベーター達によって創設された。[[アメリカ合衆国]]、[[ノルウェー]]、[[大韓民国]]、[[中華人民共和国]]、[[オーストリア]]、[[スイス]]、[[イングランド]]、[[日本]]、[[ロシア]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[トルコ]]、[[フィンランド]]、[[スウェーデン]]、[[アンドラ]]、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ドイツ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]ほかの国で、1から6個の星によってランクづけされたイベントを開催している。1シーズンにおける個人成績の高い方から8大会を取って平均し、その平均成績トップの男女1名ずつがチャンピオンとなる。 * [[エアーミックス]] : 2003年から開催されている。 * JSBA[[ナショナルチャンピオンシップ]] : 2007年から2012年まで開催。全日本選手権の上位者とPSA ASIAのトッププロしか出場が認められていない、真の日本一を決めるイベント。 * ISA[[全日本学生スノーボード大会]] : 社団法人全日本学生スキー連盟が開催。 * [[ワールドスノーボーディングチャンピオンシップ]](WSC) : TTRとWSFにより、2012年2月10-19日、ノルウェーのオスロで開催された。 * [[Air & Style]] : ビックエアのイベント1994年から開催。 * [[アークティックチャレンジ]] : [[テリエ・ハーコンセン]]らによってスタートさせたイベント、現在はノルウェーで開催されている。 * [[ホンダセッション]] * [[USスノーボーディンググランプリ]] : * [[デューツアー]] : エックスゲームズと並ぶエクストリームスポーツのイベント。 * USASA全米選手権 : * ザ・マイルハイ : 日本が夏の8月に南半球のオーストラリアで開催されているスロープスタイルの大会。 * そのほか == 日本のスキー場におけるスノーボード == [[1980年代]]初頭から、スキー場は相継いでスノーボードを滑走禁止にしてしまう。全面で滑走を認めていたスキー場もあるが、上級者コースを滑走禁止にし、一部開放というスキー場も多くなった。ターン孤の大きさや性質が違うスノーボードとスキーでの接触事故が多くみられたという理由や、初級者が多く、装着場所などのルールやマナーが整理されていなかったスノーボードが、スキーヤーにとっては危険で邪魔であったからという理由が大きい。 スノーボード禁止としたスキー場でも、登録や受講、スキー場が実施するテストを受検してライセンスを取得するなどの条件を満たせば滑走できるようにする所も増えていった。その後、スノーボーダーの技術向上などによりライセンス制の廃止が相継ぎ、現在では見られなくなった。[[バブル期]]から1990年代半ばにかけての[[スキーブーム]]の時期においては、日本国内の人気のウィンタースポーツのメインストリームはスキーであり、週末になると1台のリフトを数時間待つということもあったが、時代は移り変わり、[[21世紀]]以降になると国内のスキー人口が年々減り続ける中で、年々増加するスノーボード比率も受け入れなくてはならないという、スキー場の経営的側面も影響している。[[長野県]]の老舗スキー場などでは、事故が多いスノーボード解禁には消極的だったが、現在はスノーボードを全面滑走禁止にしているゲレンデはほとんどない。近年では、[[キッカー]]や[[レール]]、[[ハーフパイプ]]といった施設を揃えた[[スノーボードパーク]]を設置するリゾートも増え、多くのスノーボーダーの人気を集めている。 また、季節や降雪に関係なく楽しめる屋内施設もある。[[スノーヴァ]]が有名。かつては、[[ららぽーとスキードームSSAWS]]という大型屋内施設があった。 北米、欧州と比較して用具の普及率が突出して高く、自前の用具を用意する人とレンタルを利用する比率は8:2と言われている。これは北米、欧州の全く逆。このため、レンタルスノーボードにおいては後進国といわれている。 ; スノーボード全面滑走禁止のスキー場 * 北海道 ** [[札幌藻岩山スキー場]] * 山形県 ** [[蔵王猿倉スキー場]] * 福島県 ** [[会津高原高畑スキー場]] * 新潟県 ** [[NASPAスキーガーデン]] ** [[苗場スキー場]] 浅貝ゲレンデ ** [[一本杉スキー場]] * 群馬県 ** [[かたしな高原スキー場]] * 長野県 ** [[白樺高原国際スキー場]] ** [[ブランシュたかやまスキーリゾート]] ** [[ヘブンスそのはらSNOW WORLD]] ** [[きそふくしまスキー場]] * 愛知県 ** [[茶臼山高原スキー場]](年末年始を除く平日のみ滑走可能) * 三重県 ** [[御在所スキー場]] * 兵庫県 ** [[六甲山人工スキー場]](デイタイムの16時まで滑走禁止 ナイターのみ滑走可能) * 鳥取県 ** [[安蔵公園スキー場]] == 関連団体 == [[国際競技団体]]が、'''WSF'''(世界スノーボード連盟)と'''FIS'''(国際スキー連盟)、日本の[[国内競技団体]]では'''JSBA'''(日本スノーボード協会)と'''SAJ'''(全日本スキー連盟)に分かれており、長年にわたって対立している。対立の根源はスノーボードそのものの位置づけで、WSF/JSBAが「スキーとは違う単一スポーツ」としているのに対し、FIS/SAJは「スキーの一種目」としていることにある。[[冬季オリンピック]]においてスノーボードを採用する際、若者のスポーツ離れを懸念していてスーボードのような若者に人気の[[エクストリーム・スポーツ]]の取り込みのため正式種目としての開催を急いでいたIOC([[国際オリンピック委員会]])は、すでに正式種目となっていたスキーの一部として開催するためにFISを[[国際競技団体]]と決定した。そのため、日本ではFISの[[国内競技団体]]となっているSAJに登録しなければオリンピックに出場できなくなった。これを皮切りに他のエクストリームスポーツである[[スケートボード]]、[[3x3]]、[[ブレイキン]]や[[パルクール]]でも同じようなこと(新しい種目をすでにオリンピックの正式種目とされている類似の種目の一種として採用すること)が起き始めている。 === 国際競技団体 === * ヨーロッパスノーボード協会({{Lang-en-short|Europe Snowboard Association}}) : 1985年発足。ヨーロッパ各国のスノーボード協会が集まった協会。 * 国際スノーボード協会({{Lang-en-short|International Snowboard Association}}、'''ISA''') : 1989年3月、フランスのアボリアで発足。ヨーロッパ各国のスノーボード協会が集まった協会。ISFとほぼ同時期に消滅。 * [[国際スノーボード連盟]]({{Lang-en-short|International Snowboard Federation}}、'''ISF''') : 1991年発足。スノーボード協会、プロ協会、産業団体、リゾート団体の集合体。2002年6月22日解散。 * [[世界スノーボード連盟]]({{Lang-en-short|World Snowboard Federation}}、'''WSF''') : 2002年8月10日、ISF破綻の穴を埋めるために日本とノルウェーが主体となって発足。 * [[国際スキー連盟]]({{Lang-fr-short|Fédération Internationale de Ski}}、'''FIS''') === 国内競技団体 === ==== ISF,WSF加盟団体 ==== 略称NSA。 * オーストリアスノーボード協会({{Lang-en-short|Austrian Snowboard Association}}、'''ASA''') : ISFメンバーであった。 * 新オーストリアスノーボード協会({{Lang-en-short|-New Austrian Snowboard Association}}、'''NASA''') : WSFメンバー。 * カナダスノーボード連盟({{Lang-en-short|Canadian Snowboard Federation}}、'''CSF''') : ISFメンバーであった。WSFメンバー。 * チェコ共和国スノーボード協会({{Lang-en-short|Asociace ceského snowboardingu}}、'''ACS''') : ISFメンバーであった。WSFメンバー。 * イタリアスノーボード協会({{Lang-en-short|Federazione Snowboard Italia}}、'''FSI''') : ISFメンバーであった。WSFメンバー。 * [[日本スノーボード協会]]({{Lang-en-short|Japan Snowboarding Association}}、'''JSBA''') : 1982年発足。世界で最初の国協会。ISFメンバーであった。WSFメンバー。 * 韓国スノーボード協会({{Lang-en-short|Korean Snowboard Association}}、'''KSBA''') : 1995年発足。ISFメンバーであった。 * ノルウェイスノーボード協会({{Lang-en-short|Norges Snowboard Forbundet}}、'''NSBF''') : ISFメンバーであった。WSFメンバー。 * アメリカスノーボード協会({{Lang-en-short|United States of America Snowboard Association}}、'''USASA''') : ISFメンバーであった。WSFメンバー。 ==== そのほか ==== * [[全日本スキー連盟]]({{Lang-en-short|Ski Association of Japan}}、'''SAJ''') : FISメンバー。 * [[日本職業スキー教師協会]]({{Lang-en-short|Professional Ski Instructors Association of Japan}}、'''SIA''') : スキーのインストラクターを職業としている団体。国際団体のISIAに加盟しているのはこちら。 * 全米スキー&スノーボード協会({{Lang-en-short|U.S. Ski and Snowboard Association}}、'''USSA''') : 1905年、アメリカスキー協会が1997年に名称を変更。FISメンバー。 === プロ・インストラクター団体 === * [[プロスノーボーダーズアソシエイション]]({{Lang-en-short|Pro Snowboarders Association}}、'''PSA''') : ヨーロッパのプロ団体。NSAのスポンサーがプロの大会のみを管理することを望んだため、1990年にスイスのレンツァーハイドで発足。ISFメンバーであった。 * プロスノーボーダーズアソシエイション ノースアメリカ({{Lang-en-short|Pro Snowboarders Association North America}}、'''PSA NA''') : 北アメリカのプロ団体。1990年代に発足。ISFメンバーであった。 * [[プロスノーボーダーズ アソシエイション アジア]]({{Lang-en-short|Pro Snowboarders Association Asia}}、'''PSA ASIA''') : 1995年に発足、アジアのプロ団体(現在はJSBA公認プロのみ)。ISFメンバーであった。 * プロスノーボーダーズアソシエイション コリア({{Lang-en-short|Pro Snowboarders Association Korea}}、'''PSA KOERA''') : 韓国のプロ団体。1997年発足。ISFメンバーであった。 * アメリカスノーボードインストラクター協会({{Lang-en-short|American Association of Snowboard Instructors}}、'''AASI''') * カナダスノーボードインストラクター協会({{Lang-en-short|Canadian Association of Snowboard Instructors}}、'''CASI''') === リゾート団体 === * 国際スノーボードリゾート協会({{Lang-en-short|International Snowboard Resort Association}}、'''ISRA''') : 1994年4月、オーストリアの[[インスブルック]]で発足。 * 全国スキーエリア協会({{Lang-en-short|National Ski Areas Association}}、'''NSAA''') === 産業団体 === * ヨーロッパスノーボード産業連盟({{Lang-en-short|European Snowboard Industry Federation}}、'''ESIF''') * 全国スキー・スノーボード小売店協会({{Lang-en-short|National Ski and Snowboard Retailers Association}}、'''NSSRA''') * [[日本スノーボード産業振興会]]({{Lang-en-short|Snowboard Industrial Federation of Japan}}、'''SBJ''') * アメリカスノースポーツ産業協会({{Lang-en-short|SnowSports Industries America}}、'''SIA''') == 資格 == 日本では主にJSBA、SAJ、SIAの3団体が各種資格を発行している。技術認定系、教師系の資格は3団体とも、SIA以外では競技役員資格や、JSBAではパトロール資格もある。 === JSBA === * [[公認デモンストレーター (スノーボード)|公認デモンストレーター]] * [[スノーボード公認インストラクター]] * [[スノーボードバッジテスト]] * [[スノーボード公認検定員]] * [[公認スノーボードパトロール]] * [[公認セイフティパトロール]] === SAJ === * [[公認スノーボード指導員]] * [[公認スノーボード準指導員]] * [[公認スノーボード検定員]] * [[公認スノーボードバッジテスト]] === SIA === * スノーボード教師 * スノーボードバッジテスト検定 == スノーボーダー == *[[スノーボード選手一覧]]を参照。 <!-- 単なる一覧なら一覧記事への誘導だけでいいのでは? * [[相内康夫]] * [[相沢盛夫]] * [[会田二郎]] * [[青野令]] * [[荒川祥範]] * [[荒井daze善正]] * [[石川敦士]] * [[石原崇裕]] * [[今井メロ]] * [[岡田良菜]] * [[工藤洸平]] * [[國母和宏]] * [[佐藤秀平]] * [[鈴木伯]] * [[千村格]] * [[チョコバニラボール新井]] * [[鶴岡剣太郎]] * [[豊田悟]] * [[中井孝治]] * [[成田童夢]] * [[西田崇]] * [[平岡暁史]] * [[平野英樹]] * [[平野歩夢]] * [[布施忠]] * [[松井克師]] * [[村上大輔]] * [[山岡聡子]] * [[家根谷依里]] * [[山根俊樹]] * [[吉川由里]] * [[ライオ・田原]] * [[平岡卓]] * [[シモン・チェンバレン]] * [[テリエ・ハーコンセン]] * [[ロス・パワーズ]] * [[アンディ・フィンチ]] * [[ショーン・ホワイト]] * [[スコット・ラゴ]] * [[クレイグ・ケリー]] ([[:en:Craig Kelly (snowboarder)|Craig Kelly]]) * [[ショーン・パーマー]] ([[:en:Shaun Palmer|Shaun 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P. ウォーカー]] ([[:en:J. P. Walker|J. P. 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賀茂真淵
賀茂 真淵(かもの まぶち、元禄10年3月4日〈1697年4月24日〉- 明和6年10月30日〈1769年11月27日〉)は、江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した。 荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を県居の号から「県居学派(あがたい)」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。 賀茂真淵は荷田春満を師とし、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿であるとして、古道説を確立した。 弟子の加藤千蔭の伝えるところによれば「外見は普通の人とかなり異なっており、ややもすると明敏さに欠ける頭の回転の鈍い人とも見受けられそうだったが、時々彼の言葉には日本人の真の心が突如として迸(ほとばし)りでた。その時には非の打ちどころのないほど雄弁になった。」という。 主な著書に『歌意考』、『万葉考』、『国意考』、『祝詞考』、『にひまなび』、『文意考』、『語意考』、『冠辞考』、『神楽考』、『源氏物語新釈』、『ことばもゝくさ』などがある。全集として、明治期に『賀茂真淵全集』(6巻、國學院編、吉川弘文館)、昭和初期に『増訂 賀茂真淵全集』(12巻、佐佐木信綱監修、吉川弘文館)および『校本 賀茂真淵全集』(思想編上下、弘文堂)、昭和後期に『賀茂真淵全集』(28巻ただし7巻分は未刊、久松潜一監修、続群書類従完成会)が刊行されている。 元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)に岡部政信の三男として生まれた。岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で、父政信は分家筋で農を業とした。 宝永4年(1707年)、10歳のときに杉浦国頭(くにあきら)のもとで手習いを受ける。国頭は江戸の国学者・荷田春満の弟子で、春満の姪真崎(まさき)を妻とし浜松で私塾を開いていた。真淵は享保8年(1723年)に結婚するが翌年に妻を亡くし、翌享保10年には浜松宿脇本陣梅谷(うめや)家の養子になる。30歳をすぎたころ、家を捨てて京都に移り荷田春満を師として学んだ。元文元年(1736年)に春満が死去すると浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎える。翌元文2年(1737年)には江戸に移り、師として遇せられ国学を講じた。延享3年(1746年)、50歳となっていた真淵は御三卿田安徳川家の和学御用掛となって徳川宗武に仕えた。 宝暦13年(1763年)、本居宣長が、伊勢神宮の旅の途中伊勢松阪の旅籠に宿泊していた真淵を訪れ、生涯一度限りの教えを受けた(「松阪の一夜」)。宣長はのちに入門し、以後文通(『万葉集問目』)が続いた。1769年死去。享年73。 真淵は教育者としても長じ、門下には本居宣長、荒木田久老、加藤千蔭、村田春海、楫取魚彦、塙保己一、内山真龍(うちやままたつ)、栗田土満、森繁子などがおり、県居学派と呼ばれる。 高名な弟子として特に優れた女性3人を県門の三才女(けんもんのさんさいじょ)、特に優れた男性4人を県門の四天王(けんもんのしてんのう)と称した。 また、県門の四天王に8人を加え、県門十二大家(けんもんじゅうにたいか)と称される。 江戸の住居跡は賀茂真淵県居の跡として東京都中央区(日本橋久松町9先)に説明書きが立っている。また、墓は東海寺大山墓地(東京都品川区北品川三丁目)にある。浜松の生家の側には「賀茂真淵記念館」(静岡県浜松市中区東伊場一丁目22-2)がある。
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賀茂 真淵は、江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した。 荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を県居の号から「県居学派(あがたい)」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。
{{Infobox_学者 |名前 = 賀茂 真淵 |画像 = Kamo_no_Mabuchi.jpg |画像のサイズ = 200px |画像の説明 = 弟子による肖像画 |別名 = 三四、衛士(通称)<br>県居(号)<br>春栖、淵満 |生年月日 = [[元禄]]10年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]<br>({{生年月日と年齢|1697|4|24|no}}) |生誕地 = {{JPN}}・[[遠江国]][[敷知郡|敷智郡]]浜松庄伊庭村 |没年月日 = [[明和]]6年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]]<br>({{死亡年月日と没年齢|1697|4|24|1769|11|27}})<ref>{{Cite web|和書|url=http://mabuchi-kinenkan.jp/history/index.html|title=賀茂真淵について|publisher=賀茂真淵記念館|accessdate=2021-05-03}}</ref> |死没地 = {{JPN}}・[[武蔵国]][[江戸]] |居住 = |配偶者 = |両親 = 父:[[岡部政信]] |子供 = |時代 = [[江戸時代]]中期 |学派 = |研究分野 = [[国学]] |特筆すべき概念 = [[ますらをぶり]]<br />[[たをやめぶり]]<br />[[からくにぶり]] |主要な作品 =『歌意考』<br />『万葉考』<br />『[[国意考]]』 |影響を受けた人物 = [[杉浦国頭]]<br />[[荷田春満]] |影響を与えた人物 = [[本居宣長]]<br />[[塙保己一]]<br />[[橘千蔭]]<br />[[村田春海]]<br />[[楫取魚彦]]<br />[[加藤宇万伎]]<br />[[平賀源内]]<br />[[内山真龍]]<br />[[栗田土満]]<br />[[石塚龍麿]]<br />[[高林方朗]]<br />[[夏目甕麿]] |主な受賞歴 = 贈[[正四位]]、贈[[従三位]]<ref>明治38年11月12日に従三位に追陞({{アジア歴史資料センター|A10110212900|故賀茂真淵外一名贈位ノ件}})</ref> }} '''賀茂 真淵'''(かもの まぶち、[[元禄]]10年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]〈[[1697年]][[4月24日]]〉- [[明和]]6年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]]〈[[1769年]][[11月27日]]〉)は、[[江戸時代]]中期の[[国学者]]、[[歌人]]。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ[[雅号]]で、淵満(ふちまろ)とも称した<ref name=inoue399/>。 [[荷田春満]]、[[本居宣長]]、[[平田篤胤]]とともに「'''国学の四大人'''(しうし)」の一人とされ<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E4%BA%BA/|title=国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味|publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-07-22}}</ref>、その門流を'''県居'''の号から「'''県居学派'''(あがたい)」<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 11頁。</ref>、あるいは「'''県門'''(けんもん)」と称した。 == 概要 == 賀茂真淵は荷田春満を師とし、『[[万葉集]]』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する[[朱子学]]の道徳を否定し、日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿であるとして、[[古道]]説を確立した<ref name=yougo />。 弟子の[[加藤千蔭]]の伝えるところによれば「外見は普通の人とかなり異なっており、ややもすると明敏さに欠ける頭の回転の鈍い人とも見受けられそうだったが、時々彼の言葉には日本人の真の心が突如として迸(ほとばし)りでた。その時には非の打ちどころのないほど雄弁になった。」{{Sfn|庄田|2006|p=29|ps=(原文は『賀茂翁家集』「序文」(新編[[国歌大観]] 第9巻1 所収)。)}}という。 主な著書に『歌意考』、『万葉考』、『[[国意考]]』、『祝詞考』、『[[にひまなび]]』、『文意考』、『語意考』、『冠辞考』、『神楽考』、『[[源氏物語新釈]]』、『ことばもゝくさ』などがある。全集として、明治期に『賀茂真淵全集』(6巻、[[國學院]]編、[[吉川弘文館]])、昭和初期に『増訂 賀茂真淵全集』(12巻、[[佐佐木信綱]]監修、吉川弘文館)および『校本 賀茂真淵全集』(思想編上下、[[弘文堂]])、昭和後期に『賀茂真淵全集』(28巻ただし7巻分は未刊、[[久松潜一]]監修、続[[群書類従]]完成会)が刊行されている。 == 生涯 == [[Image:Kamo no Mabuchi in Hamamatsu.JPG|thumb|left|200px|賀茂真淵]] 元禄10年(1697年)[[遠江国]][[敷知郡|敷智郡]]浜松庄伊庭村(現在の[[静岡県]][[浜松市]])<ref name=inoue399/>に岡部政信の三男{{Sfn|三枝康高|1962|p=19}}として生まれた。岡部家は[[賀茂神社]]の末社の[[神職]]を代々務める旧家で<ref name=inoue399/>、父政信は分家筋で農を業とした{{Efn|「岡部家は代々加茂神社の禰宜(ねぎ)となり、『賀茂県主(あがたぬし)』と呼ばれていた」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=43}})。「真淵の実父の政信は、分家筋」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=60}})。「農事をもっぱらにした実父政信」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=74}})。「政信(中略)家の生計は、もっぱら農事によってたてられていた」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=63}})。「賀茂真淵県主(あがたぬし)は百姓の子なり」(小山田与清 『擁書漫筆』、{{Harvnb|三枝康高|1962|p=17}}より孫引き)。}}。 [[宝永]]4年([[1707年]])、10歳のときに[[杉浦国頭]](くにあきら)のもとで手習いを受ける<ref name=inoue399/>{{Efn|「宝永四年は真淵大人(うし)十一歳になれり、(中略)手習ひ始めなるべし」(杉浦比隅満 『古学始祖略年譜』、{{Harvnb|三枝康高|1962|pp=67&ndash;68}}より孫引き。資料に関しては同書309頁参照)。}}。国頭は[[江戸]]の国学者・荷田春満の弟子{{Sfn|三枝康高|1962|p=69}}で、春満の姪真崎(まさき)<ref name=inoue399/>を妻とし浜松で私塾を開いていた。真淵は[[享保]]8年{{Sfn|三枝康高|1962|p=100}}(1723年)に結婚する{{Efn|「岡部政長の養子となる」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=312}})。}}が翌年に妻を亡くし{{Sfn|三枝康高|1962|p=103}}、翌享保10年には[[浜松宿]]脇本陣{{Efn|「梅谷脇本陣がすなわち真淵の養家にあたり、」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=120}})。「脇本陣の若主人になったことが真淵にとって」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=122}})}}梅谷(うめや)家の養子になる{{Efn|「浜松宿の脇本陣、梅谷方良の養子になった」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=117}})}}。30歳をすぎたころ<ref name=inoue399/>{{Efn|「いくつかの説(中略)享保十八年、三十七歳のとき京へのぼり、春満を師とした(中略)これにたいして(中略)真淵自らも『学びのあげつろひ』において、「三十に余りて京へおりおり行て、荷田うしに学びつるも」という。(中略)享保十三年(中略)ならば真淵も三十二歳であり、(中略)上京したとしても不審は無く、(後略)」({{Harvnb|三枝康高|1962|pp=139&ndash;140}})。「享保十三年(一七二八)に三十二歳で春満に入門してから」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=165}})。}}、家を捨てて[[京都]]に移り[[荷田春満]]を師として学んだ。[[元文]]元年(1736年)に春満が死去する{{Sfn|三枝康高|1962|pp=179&ndash;180}}と浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎える{{要出典|date=2011年9月}}。翌元文2年([[1737年]])<ref name=inoue399/>{{Efn|「元文二年(一七三七)(中略)江戸の土をふみ、信名のもとに身を寄せた。」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=182}})。}}には[[江戸]]に移り、師として遇せられ[[国学]]を講じた{{Efn|「師たるべき位置を与えられた」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=184}})。「古典についての共同研究を、飽かずにおこなってゆく」({{Harvnb|三枝康高|1962|p=187}})。}}。[[延享]]3年([[1746年]])、50歳となっていた真淵は御三卿[[田安徳川家]]の和学御用掛となって[[徳川宗武]]に仕えた{{Sfn|三枝康高|1962|p=224}}。 [[宝暦]]13年([[1763年]])、本居宣長が、伊勢神宮の旅の途中[[伊勢国|伊勢]][[松阪市|松阪]]の旅籠に宿泊していた真淵を訪れ、生涯一度限りの教えを受けた(「松阪の一夜」)。宣長はのちに入門し、以後文通(『万葉集問目』)が続いた。1769年死去。享年73。 == 門下 == [[画像:Kamono Mabuchi Museum.JPG|thumb|250px|right|賀茂真淵記念館(静岡県浜松市)]] 真淵は教育者としても長じ、門下には[[本居宣長]]、[[荒木田久老]]、[[加藤千蔭]]、[[村田春海]]、[[楫取魚彦]]<ref name=inoue399/>、[[塙保己一]]、[[内山真龍]](うちやままたつ)、[[栗田土満]]、[[森繁子]]などがおり、[[県居学派]]と呼ばれる{{Sfn|内田宗一|2016|pp=42-43}}。 高名な弟子として特に優れた女性3人を'''県門の三才女'''(けんもんのさんさいじょ)<ref name=inoue399/>、特に優れた男性4人を'''県門の四天王'''(けんもんのしてんのう)と称した。 === 県門の三才女 === * [[油谷倭文子]](ゆやしずこ)<ref>内野吾郎 「油谷倭文子」({{Harvnb|日本古典文学大辞典編集委員会|1986|p=1875}})</ref> * [[土岐筑波子]](ときつくばこ、進藤茂子)<ref>内野吾郎 「土岐筑波子」({{Harvnb|日本古典文学大辞典編集委員会|1986|p=1322}})</ref> * [[鵜殿余野子]](うどのよのこ)<ref>内野吾郎 「鵜殿余野子」({{Harvnb|日本古典文学大辞典編集委員会|1986|p=175}})</ref> === 県門の四天王 === * [[加藤千蔭]](橘千蔭) * [[村田春海]] * [[楫取魚彦]] * [[加藤美樹|河津美樹]](かわづうまき、加藤宇万伎)<ref name=inoue399/> また、県門の四天王に8人を加え、'''県門十二大家'''(けんもんじゅうにたいか)と称される<ref name=inoue399/>。 === 県門十二大家 === * [[本居宣長]] * [[荒木田久老]] * [[加藤千蔭]] * [[村田春海]] * [[河津美樹]] * [[楫取魚彦]] * [[村田春郷]](むらたはるさと)<ref name=inoue399/> * [[栗田土満]] * [[小野古道]](おのふるみち、長谷川謙益)<ref name=inoue399/> * [[橘常樹]] * [[日下部高豊]] * [[三島自寛]](景雄) == ゆかりの地 == 江戸の住居跡は賀茂真淵県居の跡として[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]](日本橋久松町9先)に説明書きが立っている。また、墓は[[東海寺 (品川区)|東海寺]]大山墓地(東京都[[品川区]][[北品川]]三丁目)にある{{Sfn|内田宗一|2016|p=40}}。浜松の生家の側には「賀茂真淵記念館」(静岡県浜松市[[中区 (浜松市)|中区]][[伊場|東伊場]]一丁目22-2)がある。 *[[縣居神社]]:真淵を祭っている神社。境内に真淵の歌碑がある。 *[[賀茂神社]]:真淵の先祖をまつっている神社。 *[[賀茂真淵翁顕彰碑]]:真淵生誕の地に建てられた。「賀茂真淵生誕の跡」碑がある。 *[[五社公園]]:真淵生誕300年を記念して、万葉歌碑が建てられた。歌碑の文字は、真淵直筆の「万葉集遠江歌考」より転写した。 == 著書 == *『賀茂真淵全集』増訂 全12巻 賀茂百樹増訂、吉川弘文館、1927-32 *『賀茂真淵集』[[与謝野鉄幹|与謝野寛]]、[[与謝野晶子]]、[[正宗敦夫]]編纂校訂(1912)、現代思潮社「日本古典全集」、1983 *「歌意考」-『[[日本古典文学大系]] 近世文学論集』[[中村幸彦]]校注、岩波書店、1966   *「歌意考」「邇飛麻那微」「国意考」「語意考」-『[[日本思想大系]] 近世神道論・前期国学』[[阿部秋生]]校注、岩波書店、1972  *「歌意考」-『[[日本古典文学全集]] 歌論集』橋本不美男・有吉保・藤平春男校注・訳、小学館、1975  *『賀茂真淵全集』全27巻 [[続群書類従完成会]]、1977-92、新版・[[八木書店]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name=yougo>{{Cite book|和書|author=日本史用語研究会|authorlink=|title=必携日本史用語|origdate=2009-2-2|accessdate=|edition=四訂版|publisher=[[実教出版]]|series=|isbn=9784407316599}}</ref> <ref name=inoue399>井上豊 「賀茂真淵」({{Harvnb|日本古典文学大辞典編集委員会|1986|pp=399-401}})</ref> |3}} == 参考文献 == ;著書 * {{Cite book|和書|author=三枝康高|authorlink=三枝康高|title=賀茂真淵|year=1962|publisher=[[吉川弘文館]]|series=[[人物叢書]]|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=庄田元男 編訳|authorlink=|title=[[アーネスト・サトウ]] 神道論|year=2006|publisher=[[平凡社]]|series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]|isbn=4582807569|ref={{SfnRef|庄田|2006}}}} * {{Cite book|和書|editor=日本古典文学大辞典編集委員会|title=日本古典文学大辞典簡約版|year=1986|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4000800671|ref=harv}} ;論文 *{{Cite journal|和書|author=内田宗一|title=賀茂真淵|journal=[[日本語学 (雑誌)|日本語学]]|volume=35|issue=4|publisher=[[明治書院]]|year=2016|pages=40-43|ref=harv}} === 関連文献 === *[[佐佐木信綱]]『賀茂真淵と本居宣長』廣文堂書店、1917年 *[[小山正]]『賀茂真淵伝』春秋社、1938年 *山本嘉将『賀茂真淵論』初音書房、1963年 *田林義信『賀茂真淵歌集の研究』風間書房、1966年 *井上豊『賀茂真淵の業績と門流』風間書房、1966年 *[[武島又次郎]]『賀茂真淵』クレス出版、1995年。{{ISBN|487733002X}}(復刻:近世文芸研究叢書) *[[奥村晃作]]『賀茂真淵:伝と歌』短歌新聞社、1996年。{{ISBN|4803908079}} *中澤伸弘『やさしく読む国学』[[戎光祥出版]]、2006年。{{ISBN|4900901709}} *原雅子『賀茂真淵攷』和泉書院、2011年。{{ISBN|9784757605992}} *片山武『賀茂真淵門流の万葉集研究』万葉書房〈万葉叢書11〉、2014年。{{ISBN|9784944185153}} *[[高野奈未]]『賀茂真淵の研究』青簡舎、2016年。{{ISBN|9784903996912}} *[[田中康二]]『真淵と宣長:「松坂の一夜」の史実と真実』[[中央公論新社]]〈中公叢書〉、2017年。{{ISBN|9784120049484}} *國學院大學日本文化研究所編『歴史で読む国学』[[ぺりかん社]]、2022年。{{ISBN|9784831516114}} *[[今野真二]]『日本とは何か:日本語の始源の姿を追った国学者たち』[[みすず書房]]、2023年。{{ISBN|9784622095972}} == 関連項目 == * [[契沖]] * [[塙保己一]] * [[万葉学者]] * [[古事記]] * [[漢字廃止論]] == 外部リンク == {{commonscat|Kamo no Mabuchi}} * [http://mabuchi-kinenkan.jp/ 賀茂真淵記念館] * [http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/shinagawa/mabuchi.htm 賀茂真淵(かものまぶち)の墓 (PDD図書館内)] * [http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mabuti.html 賀茂真淵 千人万首 (やまとうた 内)] * [http://mabuchisensei.hamazo.tv/ マンガで読む浜松の偉人 賀茂真淵先生] - 賀茂真淵先生編集委員会 * [http://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/nihonbashi/nihonbashi_02.html 賀茂真淵県居の跡] - 東京都中央区観光協会 {{神道 横}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かも の まふち}} [[Category:賀茂県主氏|まふち]] [[Category:江戸時代の歌人]] [[Category:神道に関連する人物]] [[Category:日本語学者]] [[Category:江戸時代の学者]] [[Category:従三位受位者]] [[Category:遠江国の人物]] [[Category:17世紀の歌人]] [[Category:18世紀の歌人]] [[Category:18世紀の国学者]] [[Category:18世紀日本の言語学者]] [[Category:1697年生]] [[Category:1769年没]]
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桜木町駅
桜木町駅(さくらぎちょうえき)は、神奈川県横浜市中区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・横浜市交通局(横浜市営地下鉄)・泉陽興業(YOKOHAMA AIR CABIN)の駅である。 1872年(明治5年)、日本で最初に鉄道が開通した時に初代の横浜駅として開業した。その後、東海道本線の延伸に伴い「横浜駅」の名称を2代目横浜駅(国道1号高島町交差点付近に所在)に譲り、1915年に「桜木町駅」に改称された。2004年1月30日までは東京急行電鉄東横線も乗り入れていた。 JR東日本の根岸線、横浜市営地下鉄のブルーライン(3号線)、泉陽興業のYOKOHAMA AIR CABIN(索道)が乗り入れている。YOKOHAMA AIR CABINは、他社局での乗り換え案内は行われていない。 JRと地下鉄は各路線ごとに駅番号が付与されている。なお、当駅におけるJRと横浜市営地下鉄との連絡運輸は設定されていない(隣の横浜駅と関内駅が指定されている。ただし乗り換え案内は実施)。 JR東日本の駅には、根岸線と直通運転を行っている京浜東北線の電車のほか、東神奈川駅から直通している横浜線の電車も日中の多くの電車と朝晩の一部電車が当駅へ乗り入れを行っている。当駅からは東海道本線支線(高島線)が分岐しているが、この高島線は基本的に貨物列車専用であり、定期旅客列車の運行はない。 横浜線の昼間時の根岸線直通電車は全列車が当駅折り返しであり、横浜線快速電車も平日は全ての電車が当駅折り返しで運行されている。 かつての横浜駅であり、品川駅と並ぶ日本初の鉄道の駅である。その説明板が駅構内および関内方のガード沿い(旧駅前広場)にある。 2004年1月30日までは東京急行電鉄(現:東急電鉄)東横線の終着駅だったが、2日後の2月1日の横浜高速鉄道みなとみらい線の開業により東横線が横浜駅からみなとみらい線への相互直通運転を開始したため、廃止された。 島式ホーム2面3線を有する高架駅で、折返し用の中線を2本のホームで共用している。この中線(2・3番線)は関内・磯子方面とはつながっておらず、横浜・東神奈川方面への折り返ししかできないため、2番線を降車専用、3番線を乗車専用としている。2015年3月時点におけるダイヤでは、折り返しは朝時間帯の一部列車とデータイム時(6 - 17時台〈土休日は18時台〉)に横浜線直通列車が、その他の時間帯は京浜東北線直通列車が使用している。夜間留置の列車もこの中線を使用する。 2018年3月19日から、平日22時台の八王子駅発の横浜線電車1本が、東神奈川止まりから当駅止まりに延長され、折返しの当駅始発(23時台)に横浜線直通最終八王子行が設定された。 当駅は高島線と根岸線の合流点に当たるため、両ホーム横浜方の上には遺失物取り扱い所を兼ねた信号扱い所が設けられ、終日運転取扱者がここに常駐する。 直営駅であり桜木町営業統括センターの所在駅である。管内には直営駅である関内駅、根岸駅、磯子駅と業務委託駅である石川町駅、山手駅、新杉田駅があり、これらすべての駅を管理する。 エレベーターは改札内と上下各ホームを結ぶものが存在する。改札口はこれまで関内方面の一つだけであったが、2014年7月1日に横浜方面に「北改札」が新設され、これに伴い、従来の改札口には「南改札」という名称が付された(なお、南改札口周辺もリニューアル工事が実施されている)。同時に東西通路も整備され、みなとみらい方面や紅葉坂方面へのアクセスの改善が図られている。改札の新設に合わせ、同月16日には高架下を利用した駅併設の商業施設として、JR東日本のグループ会社である横浜ステーシヨンビルが管理・運営する「CIAL桜木町」が開業している。 2018年8月10日には、1・4番線にホームドアが設置され、使用が開始された。8号車横浜寄りのドア位置が京浜東北線用10両編成と横浜線用8両編成で異なる為、両方のドア位置に対応した幅の広いホームドアが初めて採用されており、東神奈川駅など横浜線乗り入れ区間の他駅でも採用されている。 さらに2020年度をめどに、大船寄りに三つ目の改札を整備する計画が進められた。駅舎を南側に延伸した上で、「鉄道創業の地」記念碑がある広場付近(地下道への入口と横浜桜木郵便局の間辺り)に新たな改札を設ける計画としており、線路(ホーム)階では2・3番線の線路終端部の先で両ホームの延伸部を接続させ(コの字型のホームとなる)、1-4番線共通のエスカレーター・エレベーター・階段で新改札がある地上階へ通じる構造となっている。駅近隣南西側にあった横浜市有地(約474 m)をJRに売却した上で、駅舎に接しているJR東日本所有の隣接地(約3,319 m)と合わせて一体開発する計画も2018年1月に発表されており、敷地内には宿泊施設(ホテル)や子育て支援施設(保育所)などからなる12階建ての複合ビルを建設(敷地面積約2,000 m)し、新改札から同ビルへの専用改札口も設置する計画である。その後、複合ビルの詳細が同年9月に発表され、高層部(3-12階)には「JR東日本ホテルメッツ 横浜桜木町」、低層部(1-2階)には店舗・子育て支援施設などからなる「CIAL桜木町 ANNEX」を配置するとしている。この他、新改札付近から2020年に新市庁舎が完成する北仲通地区方面に向けて大岡川を横断するペデストリアンデッキ「さくらみらい橋」の整備も進める。新改札の設置により同地区や野毛地区、馬車道地区といった周辺地区の結節点として回遊性の向上や駅混雑の緩和などが期待されている。 2020年1月、JR東日本は駅南側に隣接する複合ビルの名称を「JR桜木町ビル」とし、同ビルと付近に設置する新改札の供用開始時期について同年6月下旬を予定していること、初代横浜駅の跡地であることにちなんでビル1階に旧横濱鉄道歴史展示「旧横ギャラリー」を開設することを発表した。 2020年3月、JR東日本は「JR桜木町ビル」に併設されるホテル「JR東日本ホテルメッツ 横浜桜木町」(274室)、商業施設「CIAL桜木町 ANNEX」および付近に位置する「新南口(市役所口)」(ICカード専用改札口)を同年6月27日に開業・供用開始すると発表し、予定通り同日に開業・供用開始となった。2020年6月25日には、当改札口前から北仲通方面(横浜市役所方面)へ結ぶ、ペデストリアンデッキ「さくらみらい橋」も開業・供用開始している。 のりばは北東(横浜港)側を1番線として、順に下表のように割り当てられている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 1996年9月頃から五感工房制作の発車メロディを使用していた(3番線は2005年12月6日にテイチク制作の『twilight』に変更されている)が、二代目横浜駅開業100周年記念イベントの開催に合わせて2015年7月25日に、降車専用ホームである2番線以外の全ホームのメロディを『線路は続くよどこまでも』をアレンジしたものに変更している。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた。1番線には後半の部分、3番線には間奏、4番線には冒頭の部分をアレンジしたメロディが採用されている。 以下の売店や飲食店などは、CIAL桜木町のテナントとして取り込まれている(改札内のテナントを除く、CIAL桜木町の詳細は後節参照)。 島式ホーム1面2線の地下駅。副名称は「横浜市役所下車駅」。 改札口はぴおシティの地下3階、ホームは新横浜通り直下の地下4階にある。当初はぴおシティ地下3階にホームを設ける予定であり、それを前提に1963年にぴおシティが建設された。しかし横浜市営地下鉄関内駅東側の大江橋付近で首都高速神奈川1号横羽線と干渉したため、関内駅周辺の線形を変更した上で当初の計画よりもさらに深い位置を通ることになった。しかし駅の設置場所をビルの地下3階から地下4階に変更すると、駅の構造体にかかる荷重が過大になり建設費用がかさむことから、ホームだけを新横浜通り直下の地下4階(海抜 約-20m)に設置することになった。 JR桜木町駅とは、地下道「野毛ちかみち」で南改札と、別の地下道で新南口改札と、つながっている。 JR桜木町駅東口の駅前広場にあり、JRまたは地下鉄の駅からは徒歩1分。 駅舎は地上にあり白とグレーを基調とする。既存の広場機能とバス停への配慮から、乗降場は駅舎の2階にあり、ピロティ形式としている。2階部分の外壁はガラス張りであり、駅前広場を見渡せる展望機能も設けられている。乗降場の上部にはフライルーフがある。 かつての終着駅だった東横線は、横浜高速鉄道みなとみらい線の開業に伴い、2004年1月31日付けで横浜 - 当駅間が廃止された。廃止時の駅構造は島式ホーム1面2線の高架駅であり、JRから続いて5・6番線となっていた。駅出入口の看板は「東京急行 桜木町駅」と表記されていた。 旧駅舎は2013年7月に解体が完了した。なお、廃線跡では高架を有効活用した遊歩道を整備する方針である(詳細は「東横フラワー緑道#関連する遊歩道整備計画」を参照)。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通り(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員推移は下表の通りである。 当駅周辺地区(みなとみらい地区)は、横浜市における都心(ツインコア)の一つである「横浜都心」に指定されている。 駅の南側には横浜の一大飲屋街である野毛が位置している。 旧東急東横線廃線跡は高架の遊歩道(詳細は「東横フラワー緑道#関連する遊歩道整備計画」を参照)を整備する工事が進行中で、紅葉坂方面へのペデストリアンデッキの設置も計画されている。 当駅は1989年の横浜港開港130周年を記念して現在のみなとみらい地区で開催された「横浜博覧会」、さらには2009年の横浜港開港150周年を記念して同地区で開催された「開国博Y150」会場の最寄り駅の一つでもあった。 高架下を利用したJR桜木町駅併設の商業施設(駅ビル)として「CIAL桜木町(シァル桜木町)」が2014年7月16日に開業した。JR東日本のグループ会社である横浜ステーシヨンビルが管理・運営(店舗部分)している。 開発コンセプトは「横濱 ノスタルジック REVUE」とし、横浜の歴史的な「明治レトロ」「大正ロマン」の雰囲気を取り入れた施設を目指している。建物の外観デザインはみなとみらい側が白を基調に開放感のあるガラス張りとしており、初代駅舎の特徴的な三角屋根を表現している他、船のマストに見立てた天蓋(キャノピー)も施され、“港町横浜”らしさを表現している。一方、野毛側はレンガ調のタイルや飾り窓により鉄道発祥の地としての歴史感を表現しており、夜間には壁面を柔らかく照らすライトアップも実施されている。この他、野毛側の建物の前にはかつての横浜駅の駅舎をイメージしてレンガが敷き詰められた「桜木町駅西口広場」も整備され、当施設の開業と同時にオープンしている。 当施設は北改札正面の「紅葉坂ギャラリー」、みなとみらい側の「YOKOHAMA BAZAR」、野毛側の「停車場ビュッフェ」、南改札正面の「横濱情報プラザ」という四つのゾーンで構成され、開業時には35店舗が入居している。 みなとみらい・馬車道方面 野毛・紅葉坂方面 関内方面 駅の東側にロータリーがあり、以下のように各路線バスが乗り入れていて、桜木町駅前・桜木町駅と称している。一部のバス停留所はJRと横浜市営地下鉄の間の国道16号上に存在している。駅ロータリー北側のみなとみらい大通り上(動く歩道下)には日本丸メモリアルパーク停留所が、駅西側の県道218号線上には野毛大通り停留所があり、こちらも利用可能である。なお、同バス停は江ノ電バスだけが桜木町停留所を名乗っていたが、2008年7月1日から野毛大通り停留所となった。
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桜木町駅(さくらぎちょうえき)は、神奈川県横浜市中区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・横浜市交通局(横浜市営地下鉄)・泉陽興業の駅である。 1872年(明治5年)、日本で最初に鉄道が開通した時に初代の横浜駅として開業した。その後、東海道本線の延伸に伴い「横浜駅」の名称を2代目横浜駅(国道1号高島町交差点付近に所在)に譲り、1915年に「桜木町駅」に改称された。2004年1月30日までは東京急行電鉄東横線も乗り入れていた。
{{出典の明記|date=2015年1月13日 (火) 10:28 (UTC)|ソートキー = 駅さくらきちよう}} {{駅情報 |駅名 = 桜木町駅 |よみがな = さくらぎちょう |ローマ字 = Sakuragich&#333; |画像 = Sakuragicho Station from Landmark Tower 20140824.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 駅遠景(2014年8月) |地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail-metro|coord={{coord|35|27|3.3|N|139|37|51.8|E}}|title=JR 桜木町駅|coord2={{coord|35|27|1|N|139|37|49|E}}|title2=横浜市営地下鉄 桜木町駅|marker-color=008000|marker-color2=0d6aad|frame-latitude=35.450223|frame-longitude=139.630981}} |所在地 = [[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]] |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本_2|駅詳細]]) * [[横浜市交通局]]([[#横浜市営地下鉄_2|駅詳細]]) * [[泉陽興業]]([[#YOKOHAMA AIR CABIN 2|駅詳細]])}} }} '''桜木町駅'''(さくらぎちょうえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[横浜市交通局]]([[横浜市営地下鉄]])・[[泉陽興業]]([[YOKOHAMA AIR CABIN]])の[[鉄道駅|駅]]である。 [[1872年]]([[明治]]5年)、[[日本の鉄道開業|日本で最初に鉄道が開通]]した時に初代の'''横浜駅'''として開業した<ref group="新聞" name="kanaloco140417">{{Cite web|和書|url=http://www.kanaloco.jp/article/67009 |archiveurl=https://web.archive.org/20180126070931/kanaloco.jp/article/67009 |title=「CIAL桜木町」今夏オープン、地元色豊かな35店舗入居 |work=[[神奈川新聞]]{{smaller|〈カナロコ〉}} |date=2014-4-17 |accessdate=2018-1-26 |archivedate=2018-1-26 }}</ref>。その後、[[東海道本線]]の延伸に伴い「横浜駅」の名称を2代目[[横浜駅]]([[国道1号]][[高島 (横浜市)|高島町]]交差点付近に所在)に譲り、[[1915年]]に「桜木町駅」に改称された。[[2004年]][[1月30日]]までは[[東急電鉄|東京急行電鉄]][[東急東横線|東横線]]も乗り入れていた。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[根岸線]]、横浜市営地下鉄の[[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン(3号線)]]、泉陽興業のYOKOHAMA AIR CABIN([[索道]])が乗り入れている。YOKOHAMA AIR CABINは、他社局での乗り換え案内は行われていない。 JRと地下鉄は各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。なお、当駅におけるJRと横浜市営地下鉄との[[連絡運輸]]は設定されていない(隣の横浜駅と関内駅が指定されている。ただし乗り換え案内は実施)。 * JR東日本:[[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 根岸線 - [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''JK 11'''」 * 横浜市交通局:[[ファイル:Yokohama Municipal Subway Blue Line symbol.svg|15px|B]] 横浜市営地下鉄ブルーライン - 駅番号「'''B18'''」 JR東日本の駅には、根岸線と直通運転を行っている[[京浜東北線]]の電車のほか、[[東神奈川駅]]から直通している[[横浜線]]の電車も日中の多くの電車と朝晩の一部電車が当駅へ乗り入れを行っている。当駅からは[[東海道本線]]支線([[高島線]])が分岐しているが、この高島線は基本的に[[貨物列車]]専用であり、定期旅客列車の運行はない。 横浜線の昼間時の根岸線直通電車は全列車が当駅折り返しであり、横浜線快速電車も平日は全ての電車が当駅折り返しで運行されている<ref group="注">当駅折り返しではない横浜線快速電車は、土・休日のみ設定されている磯子行き・大船行きの各1本ずつと大船始発の八王子行き1本のみである。</ref>。 == 歴史 == === JR東日本 === {{Vertical_images_list |幅=210px |1 = Yokohama port railway 1906.png |2 = 1906年頃の初代横浜駅周辺 |3 = Yokohama port railway 1912.png |4 = 1912年頃の初代横浜駅周辺 |5 = Yokohama port railway 1916.png |6 = 1916年頃の桜木町駅周辺 }} かつての'''横浜駅'''であり、[[品川駅]]と並ぶ日本初の鉄道の駅である。その説明板が駅構内および関内方のガード沿い(旧駅前広場)にある。 * [[1872年]][[10月14日]]([[明治]]5年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]):新橋 - 横浜間で開業した日本初の鉄道の'''横浜駅'''として開業。駅舎はアメリカ人[[リチャード・ブリジェンス]]の設計。([[日本の鉄道開業]]も参照)。 * [[1873年]](明治6年)[[9月15日]]:貨物の取り扱いを開始。 * [[1887年]](明治20年)[[7月11日]]:[[東海道本線|官設鉄道]]が[[国府津駅]]まで延伸開業、[[スイッチバック]]式の配線となる。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:東海道本線所属駅となる。 * [[1915年]]([[大正]]4年) **[[8月15日]]:横浜駅(2代目)開業により'''桜木町駅'''に改称、東海道線の電車線の終点駅となった。程ヶ谷駅(現在の[[保土ケ谷駅]])への路線が廃止され、スイッチバックが解消。 ** [[12月30日]]:貨物の取り扱いを廃止。[[東横浜駅]]と敷地を分割して貨物業務を移管。 * [[1923年]](大正12年)[[9月1日]]:[[関東大震災]]により、開業時からの駅舎は焼失。 * [[1927年]]([[昭和]]2年):駅舎改築。 * [[1951年]](昭和26年)[[4月24日]]:構内で京浜線電車が全焼し、死者106名・負傷者92人を出す大惨事となる([[桜木町事故]]、[[国鉄戦後五大事故]]の一つ)。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[5月19日]]:根岸線が[[磯子駅]]まで開通<ref>[https://www.city.yokohama.lg.jp/isogo/shokai/rekishi/nenpyo2.html 磯子区歴史年表 昭和21年{{~}}45年] 磯子区総務部区政推進課</ref>、同時に根岸線所属に変更。 ** [[6月1日]]:東海道本線貨物支線([[高島線]])が[[高島駅 (神奈川県)|高島駅]]まで開通。 * [[1973年]](昭和48年)[[7月21日]]:[[みどりの窓口]]の営業を開始<ref group="新聞">{{Cite news |title=桜木町駅に「みどりの窓口」を開設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1973-07-21 |page=2 }}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、東日本旅客鉄道の駅となる。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月17日]]:[[横浜博覧会]]の開催に合わせて、駅舎を移転・新築(現駅舎)<ref group="新聞">{{Cite news |title=京浜東北線桜木町駅 17日から装いも新たに |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1989-03-15 |page=2 }}</ref>。 * [[1993年]](平成5年)[[6月16日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[1998年]](平成9年):「[[関東の駅百選]]」に選定される<ref name="stations" />。選定理由は「明治5年に開業した鉄道発祥の地の駅で、現在は『みなとみらい21』都市の玄関口となっている駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=82 - 83・227頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。 * [[2007年]](平成19年):改札内にエレベーターを新設。 * [[2014年]](平成26年) ** [[7月1日]]:北改札および東西通路を開設<ref group="報道" name="CIAL20140522"/><ref group="新聞" name="kanaloco140701" />。 ** [[7月16日]]:[[横浜ステーシヨンビル]]が管理・運営する商業施設「[[#CIAL桜木町|CIAL桜木町]]」が開業<ref group="報道" name="CIAL20140522">{{Cite press release|和書|url=http://www.cial.co.jp/sakuragicho/pdf/140522_press.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140630083433/http://www.cial.co.jp/sakuragicho/pdf/140522_press.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2014年7月16日(水)「桜木町駅×CIAL桜木町」全面開業!|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社/横浜ステーシヨンビル|date=2014-05-22|accessdate=2021-01-13|archivedate=2014-06-30}}</ref><ref group="新聞" name="kanaloco140717" />。同時に「桜木町駅西口広場」もオープン<ref group="報道" name="yokohama-toshiseibi140709">{{Cite press release|和書|title=桜木町駅西口広場が完成します|publisher=横浜市|date=2014-07-09|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/toshiko/pressrelease/h26/140709/140709shiryou.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170321121209/https://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/toshiko/pressrelease/h26/140709/140709shiryou.pdf|archivedate=2017-03-21}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[7月25日]]:[[発車メロディ]]を『[[線路は続くよどこまでも]]』に変更。 * [[2018年]](平成30年)[[8月10日]]:1・4番線で[[ホームドア]]の使用を開始{{Refnest|group="注"|name="platformdoor-enki"|当初は2018年8月9日の使用開始が予定されていたが、台風13号の接近を理由に、1日延期された<ref group="報道" name="JKplatformdoor" />。}}<ref group="報道" name="JKplatformdoor">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/yokohama/20180726_y02.pdf|title=桜木町駅のホームドア使用開始日について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2018-07-26|accessdate=2020-05-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200524044155/https://www.jreast.co.jp/press/2018/yokohama/20180726_y02.pdf|archivedate=2020-05-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=桜木町駅にホームドア |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2018-08-15 |page=3 }}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[6月27日]]:当駅の南側に新南口(市役所口)を開設及び隣接する複合ビル「JR桜木町ビル」(ホテル「JR東日本ホテルメッツ横浜桜木町」・商業施設「CIAL桜木町ANNEX」が併設)が開業([[#CIAL桜木町|後節]]参照)<ref group="報道" name="press/20200123_y02">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20200123_y02.pdf|title=桜木町駅がますます便利になります! 〜新改札口の利用開始およびJR桜木町ビルの開業について〜|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2020-01-23|accessdate=2020-01-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200130043416/https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20200123_y02.pdf|archivedate=2020-01-30}}</ref><ref group="報道" name="press/20200326_y03">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20200326_y03.pdf|title=2020年6月27日(土)JR桜木町駅「新南口(市役所口)」「JR東日本ホテルメッツ横浜桜木町」、「CIAL桜木町ANNEX」オープン|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社/日本ホテル/横浜ステーシヨンビル|date=2020-03-26|accessdate=2020-03-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200326055154/https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20200326_y03.pdf|archivedate=2020-03-26}}</ref>。 === 横浜市営電車(廃止) === * [[1904年]](明治37年)7月15日:[[路面電車]]の[[横浜電気鉄道]](のちの神奈川線)が開業し、[[大江橋 (横浜市)|大江橋]]付近に大江橋停留所を、現在の[[横浜ランドマークタワー]]付近に停留所(名称不明)を設置。 * [[1914年]](大正3年):[[京浜東北線|京浜線]](現 [[東海道本線]])の改良工事に伴い、横浜電気鉄道神奈川線を[[国道16号]]に移設し、桜木町駅前停留所・紅葉坂停留所を設置。 * [[1970年]](昭和45年):[[横浜市電|横浜市営電車]]神奈川線の廃線にともない、桜木町駅前停留所を廃止。  === 横浜市営地下鉄 === * [[1976年]](昭和51年)[[9月4日]]:3号線横浜 - [[伊勢佐木長者町駅|伊勢佐木長者町]]間の開通時に開業。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:ICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる。 ** [[5月12日]]:[[ホームドア]]使用開始。{{citation needed|date=2015年8月4日 (火) 13:14 (UTC)}} * [[2008年]](平成20年)[[3月30日]]:3号線に「ブルーライン」の愛称を付与。 * [[2012年]](平成24年)[[5月1日]]:[[docomo Wi-Fi]]による、[[公衆無線LAN]]サービス開始。 * [[2015年]](平成27年)[[7月18日]]:ダイヤ改正により運転を開始した快速の停車駅に設定される。 === 東京急行電鉄(廃止)=== [[2004年]][[1月30日]]までは東京急行電鉄(現:[[東急電鉄]])[[東急東横線|東横線]]の終着駅だったが、2日後の[[2月1日]]の[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]の開業により東横線が[[横浜駅]]からみなとみらい線への相互直通運転を開始したため、廃止された。 * [[1932年]](昭和7年)[[3月31日]]:東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)の東横線が[[高島町駅]]から延伸開業し、その終着駅として開業<ref>[[#50th|50年史]]、pp.117-118。</ref>。 * [[1956年]](昭和31年)[[9月10日]]:高島町 - 当駅間が複線化<ref>[[#50th|50年史]]、pp.456-458。</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)2月20日:駅業務システムの自動化モデル駅として、祐天寺駅、学芸大学駅と共に自動改札機を設置(5台)。自動券売機を磁気券化し、エンコード可能な定期券発行機を新設した。 * [[2001年]](平成13年)[[3月28日]]:ダイヤ改正により東横線の[[東急東横線#特急(東横特急)|特急]]運行が開始。 * [[2004年]](平成16年) ** [[1月30日]]:横浜高速鉄道みなとみらい線の開業に伴い、この日の終電をもって営業終了<ref group="報道" name="Abolition">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/030130.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414235412/http://www.tokyu.co.jp/file/030130.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東横線とみなとみらい21線との相互直通運転開始に伴う東横線横浜〜桜木町間の廃止について|publisher=東京急行電鉄|date=2003-01-30|accessdate=2020-05-01|archivedate=2015-04-14}}</ref>。 ** [[1月31日]]:廃止<ref group="報道" name="Abolition"/>。 * [[2013年]](平成25年)7月:東横線の旧桜木町駅駅舎を解体完了<ref name="Century">[https://web.archive.org/web/20210127200959/http://centurykogyo.com/479 東急東横線旧桜木町駅高架構造物解体工事(センチュリー工業)](インターネットアーカイブ・2021年時点の版)</ref>。 <gallery> Yokohama Zissoku-zu.jpg|下側中央の「停車場」が、初代横浜駅。(明治14年(1881年)発行の地図) First Yokohama Station 1872.jpg|初代横浜駅 駅舎 Yokohama Station 1872.jpg|初代横浜駅 全景 Yokohama scene 02.jpg|桜木町駅 駅舎 Sakuragicho Station 1946.jpg|1946年、桜木町駅前で市電を待つ人々(右端が2代目駅舎) 東急・東横線・桜木町駅跡・創造空間9001.jpg|創造空間9001に残る東急東横線の案内表示(2009年6月6日) </gallery> === YOKOHAMA AIR CABIN === * [[2021年]](令和3年)[[4月22日]]:開業<ref>{{Cite web|和書|title=YOKOHAMA AIR CABINについて | YOKOHAMA AIR CABIN|url=https://yokohama-air-cabin.jp/about/|website=YOKOHAMA AIR CABIN|accessdate=2021-08-20|language=ja}}</ref>。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 桜木町駅{{Refnest|group="*"|[[1915年]]([[大正]]4年)[[8月15日]]に横浜駅(旧)から改称。}} |画像 = Sakuragicho Station south east entrance 20140831.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 南改札東口(2014年8月) |よみがな = さくらぎちょう |ローマ字 = Sakuragich&#333; |電報略号 = サチ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[横浜市]][[中区_(横浜市)|中区]][[桜木町]]1丁目1 |座標 = {{coord|35|27|3.3|N|139|37|51.8|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 桜木町駅}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面3線 |開業年月日 = [[1872年]][[6月12日]]([[明治]]5年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) |廃止年月日 = |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{color|#00b2e5|■}}[[根岸線]]<br />({{color|#7fc342|■}}[[横浜線]]直通含む) |前の駅1 = JK 12 [[横浜駅|横浜]] |駅間A1 = 2.0 |駅間B1 = 1.0 |次の駅1 = [[関内駅|関内]] JK 10 |キロ程1 = 2.0&nbsp;km([[横浜駅|横浜]]起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から61.1&nbsp;km<br />[[八王子駅|八王子]]から46.4 |起点駅1 = |駅番号1 = {{駅番号r|JK|11|#00b2e5|1}} |所属路線2 = [[東海道本線]](貨物支線)<br />([[高島線]]) |隣の駅2 = |前の駅2 = [[東高島駅|東高島]] |駅間A2 = 2.9 |駅間B2 = |次の駅2 = |キロ程2 = 8.5 |起点駅2 = [[鶴見駅|鶴見]] |乗車人員 = 64,698 |統計年度 = 2022年 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有 * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|北改札と新南口に導入<ref name="StationCd=740_231203" />。}} * [[File:JR area HAMA.png|15px|浜]] [[特定都区市内|横浜市内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[島式ホーム]]2面3線を有する[[高架駅]]で、折返し用の中線を2本のホームで共用している。この中線(2・3番線)は関内・磯子方面とはつながっておらず、横浜・東神奈川方面への折り返ししかできないため、2番線を降車専用、3番線を乗車専用としている。[[2015年]]3月時点におけるダイヤでは、折り返しは朝時間帯の一部列車とデータイム時(6 - 17時台〈土休日は18時台〉)に横浜線直通列車が、その他の時間帯は京浜東北線直通列車が使用している<ref>[http://www.jreast-timetable.jp/1503/timetable/tt0740/0740020.html JR東日本:駅の時刻表(桜木町駅・横浜方面)]</ref>。[[夜間滞泊|夜間留置]]の列車もこの中線を使用する。 [[2018年]][[3月19日]]から、平日22時台の八王子駅発の横浜線電車1本が、東神奈川止まりから当駅止まりに延長され、折返しの当駅始発(23時台)に横浜線直通最終八王子行が設定された<ref group="注">大船発22時台終わりの1本の運行区間を見直し。</ref>。 当駅は[[高島線]]と根岸線の合流点に当たるため、両ホーム横浜方の上には遺失物取り扱い所を兼ねた[[信号扱い所]]が設けられ、終日運転取扱者がここに常駐する。 直営駅であり、桜木町営業統括センターの所在駅である。管内には直営駅である[[関内駅]]、[[根岸駅 (神奈川県)|根岸駅]]、[[磯子駅]]と業務委託駅である[[石川町駅]]、[[山手駅]]、[[新杉田駅]]があり、これらすべての駅を管理する<ref>{{Cite news |title=JR東労組横浜地本No.197号 |date=2022-05-02|url=http://www.jreu-yokohama1.jp/library/5b8fc5fcb8e028f93a2e85f2/627085a6ce355ece6dc23b49.pdf |accessdate=2023-02-08|format=PDF |publisher=JR 東日本労働組合横浜地方本部}}</ref>。 [[エレベーター]]は改札内と上下各ホームを結ぶものが存在する<ref group="注">エレベーターは現駅舎に改良してから関内方に新設されていたが、2007年に現在の形に改良されるまでは、ホームと改札外を結ぶため、[[車椅子]]利用者などの障害者が係員の付き添いのもと利用しなければならなかった。</ref>。[[改札口]]はこれまで[[関内駅|関内]]方面の一つだけであったが、[[2014年]][[7月1日]]に[[横浜駅|横浜]]方面に「北改札」が新設され<ref group="新聞" name="kanaloco140701">{{Cite web|和書|url=http://www.kanaloco.jp/article/78822 |archiveurl=https://web.archive.org/20180126184913/kanaloco.jp/article/78822 |title=JR桜木町駅に北改札を新設 1日から利用スタート にぎわい期待 |work=神奈川新聞{{smaller|〈カナロコ〉}} |date=2014-7-1 |accessdate=2018-1-26 |archivedate=2018-1-26 }}</ref>、これに伴い、従来の改札口には「南改札」という名称が付された(なお、南改札口周辺もリニューアル工事が実施されている)<ref group="新聞" name="kanaloco140701" />。同時に東西通路も整備され、[[横浜みなとみらい21|みなとみらい]]方面や[[紅葉坂 (横浜市)|紅葉坂]]方面へのアクセスの改善が図られている<ref group="新聞" name="kanaloco140701" /><ref group="新聞">[http://www.kanaloco.jp/article/57003 JR東日本が桜木町駅リニューアルを正式発表、改札口や東西通路を新設、14年夏開業へ/横浜](神奈川新聞{{smaller|〈カナロコ〉}} 2012年11月22日)</ref><ref group="新聞">[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO48730440S2A121C1L82000/ JR東、桜木町・茅ケ崎両駅再開発に100億円 ]([[日本経済新聞]] 2012年11月23日)</ref>。なお、北改札には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、遠隔対応のため改札係員は終日不在となっている<ref name="StationCd=740_231203">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=740|title=駅の情報(桜木町駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231203072046/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=740|archivedate=2023-12-03}}</ref>。また、北改札の新設に合わせ、同月[[7月16日|16日]]には[[高架橋#高架下|高架下]]を利用した駅併設の商業施設として、JR東日本のグループ会社である[[横浜ステーシヨンビル]]が管理・運営する「[[#CIAL桜木町|CIAL桜木町]]」が開業している<ref group="新聞" name="kanaloco140417" /><ref group="新聞" name="kanaloco140717">[http://www.kanaloco.jp/article/78142 「駅と街 一体に」 CIAL桜木町オープン](神奈川新聞{{smaller|〈カナロコ〉}} 2014年7月17日)</ref>。 [[2018年]][[8月10日]]には、1・4番線に[[ホームドア]]が設置され、使用が開始された<ref group="注" name="platformdoor-enki" /><ref group="報道" name="JKplatformdoor"/>。8号車横浜寄りのドア位置が京浜東北線用10両編成と横浜線用8両編成で異なる為、両方のドア位置に対応した幅の広いホームドアが初めて採用されており、[[東神奈川駅]]など横浜線乗り入れ区間の他駅でも採用されている<ref group="報道" name="JKplatformdoor" />。 さらに[[2020年]]度をめどに、[[大船駅|大船]]寄りに三つ目の改札を整備する計画が進められた<ref group="報道" name="jre-y180125">{{PDF|[http://www.jreast.co.jp/press/2017/yokohama/20180125_y01.pdf 桜木町駅新改札口の設置および複合ビル開発計画について]}}(JR東日本横浜支社 2018年1月25日、''2018年1月29日閲覧'')</ref><ref group="新聞" name="toyoko-np180218">[http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201802/CK2018021802000122.html JR桜木町駅に新改札 20年度中、市役所移転など利用客増]([[東京新聞]] {{smaller|〈TOKYO Web〉}} 2018年2月18日、''同日閲覧'')</ref>{{refnest|group="注"|今回の整備構想は2014年度から検討を開始し、[[2016年]]10月までに横浜市とJR東日本の間で基本方針(整備の方向性)が定まっていた<ref group="新聞" name="kanaloco170101" /><ref name="hamarepo170210" />。その後、[[2017年]][[9月19日]]に横浜市からJR東日本と基本協定を締結したとの発表があり<ref group="報道" name="yokohama-shikai170919" />、2018年[[1月25日]]にはJR東日本から同年5月から着工することが発表された<ref group="報道" name="jre-y180125" />。}}。駅舎を南側に延伸した上で、「鉄道創業の地」[[モニュメント|記念碑]]<ref name="yokohama-tetsudo-sogyo">[http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/sighthist/etizu/01.html 歴史を碑もとく絵地図(ミナト・ヨコハマコース):01.鉄道創業の地]〈[http://archive.city.yokohama.lg.jp/naka/sighthist/etizu/01.html アーカイブ]〉(横浜市中区役所公式サイト)</ref><ref name="hasshonochi-tetsudo">[https://840.gnpp.jp/tetsudo/ 鉄道発祥の地](発祥の地コレクション)</ref>がある[[広場]]付近([[地下道]]への入口と[[横浜桜木郵便局]]の間辺り)に新たな改札を設ける計画としており<ref group="新聞" name="kanaloco170101">[http://www.kanaloco.jp/article/222340 JR桜木町駅南側に新改札 回遊性向上へ整備](神奈川新聞{{smaller|〈カナロコ〉}} 2017年1月1日)</ref><ref name="hamarepo170210">[http://hamarepo.com/story.php?story_id=5868 JR桜木町駅に新しい改札ができるって本当?]([http://hamarepo.com/ はまれぽ.com] 2017年2月10日)</ref>、<!--発表時に示された計画概要によると新たに延伸となる-->線路(ホーム)階では2・3番線の線路終端部の先で両ホームの延伸部を接続させ(コの字型のホームとなる)、1-4番線共通の[[エスカレーター]]・エレベーター・階段で新改札がある地上階へ通じる構造となっている<ref group="報道" name="jre-y180125" />。駅近隣南西側にあった横浜市有地<ref name="hamarepo160530">[http://hamarepo.com/story.php?story_id=5286 桜木町駅のジョナサン前が空き地のままなのはなぜ?](はまれぽ.com 2016年5月30日)</ref>(約474&nbsp;[[平方メートル|m<sup>2</sup>]])をJRに売却<ref group="報道" name="yokohama-shikai170919">{{PDF|[http://www.city.yokohama.lg.jp/shikai/pdf/siryo/j7-20170919-tb-44.pdf JR桜木町駅新改札口設置事業について(報告)]}}(横浜市{{smaller|〈[[横浜市会]]「[http://www.city.yokohama.lg.jp/shikai/kiroku/iinkai/katsudogaiyo-h29-j-7.html 建築・都市整備・道路委員会]資料」〉}} 平成29年 {{smaller|(2017年)}} 9月19日、''2018年1月29日閲覧'')</ref>した上で、駅舎に接しているJR東日本所有の隣接地(約3,319&nbsp;m<sup>2</sup>)<ref group="報道" name="yokohama-shikai170919" />{{refnest|group="注"|いずれの土地も[[1989年]]に駅舎が移転するまで存在した旧桜木町駅の跡地である<ref name="hamarepo160530" />。}}と合わせて一体開発する計画も[[2018年]]1月<!--同時-->に発表されており<ref group="報道" name="jre-y180125" />、敷地内には[[宿泊施設]]([[ホテル]])や子育て支援施設([[保育所]])などからなる12階建ての複合ビルを建設(敷地面積約2,000&nbsp;m<sup>2</sup><!--、新改札開設と同時期の2020年度中の開業を目指す-->)<ref group="報道" name="jre-y180125" /><ref group="新聞" name="toyoko-np180218" /><ref group="新聞">[http://www.kanaloco.jp/article/306502 桜木町駅隣接地に複合ビル計画 JR東、2020年度開業目指す](神奈川新聞{{smaller|〈カナロコ〉}} 2018年1月26日、''2018年2月3日閲覧'')</ref>し、新改札から同ビルへの専用改札口も設置する計画である<ref group="報道" name="jre-y180125" />。その後、複合ビルの詳細が同年9月に発表され<ref group="報道" name="jre-y180927">{{PDF|[https://www.jreast.co.jp/press/2018/yokohama/20180927_y04.pdf 桜木町駅前複合ビルの新築工事に着手します]}}(JR東日本横浜支社/[[日本ホテル]]株式会社/株式会社横浜ステーシヨンビル 2018年9月27日、''2018年9月30日閲覧'')</ref>、高層部(3-12階)には「[[JR東日本ホテルメッツ]] 横浜桜木町」、低層部(1-2階)には店舗・子育て支援施設などからなる「CIAL桜木町 ANNEX」を配置するとしている<ref group="報道" name="press/20200123_y02" />。この他、新改札付近から2020年に新[[横浜市役所|市庁舎]]が完成する[[北仲通地区]]方面に向けて[[大岡川 (神奈川県)|大岡川]]を横断する[[ペデストリアンデッキ]]「[[さくらみらい橋]]」の整備も進める<ref group="新聞" name="toyoko-np180218" /><ref group="新聞" name="kanaloco170101" /><ref name="hamarepo170210" /><ref>[https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/doro/kensetsu/douro/rosen/oookagawajindoukyou.html (仮称)大岡川横断人道橋](横浜市道路局:建設課 > 事業中路線〈中区〉)</ref>。新改札の設置により同地区や[[野毛町|野毛]]地区、[[馬車道 (横浜市)|馬車道]]地区といった周辺地区の[[交通結節点|結節点]]として回遊性の向上や駅混雑の緩和などが期待されている<ref group="新聞" name="toyoko-np180218" /><ref group="新聞" name="kanaloco170101" /><ref name="hamarepo170210" />。 2020年1月、JR東日本は駅南側に隣接する複合ビルの名称を「'''JR桜木町ビル'''」とし、同ビルと付近に設置する新改札の供用開始時期について同年6月下旬を予定していること、初代横浜駅の跡地であることにちなんでビル1階に旧横濱鉄道歴史展示「旧横ギャラリー」を開設することを発表した<ref group="報道" name="press/20200123_y02" />。 {{Main|#CIAL桜木町}} 2020年3月、JR東日本は「JR桜木町ビル」に併設されるホテル「JR東日本ホテルメッツ 横浜桜木町」(274室)、商業施設「CIAL桜木町 ANNEX」および付近に位置する「新南口(市役所口)」(ICカード専用改札口)を同年6月27日に開業・供用開始すると発表し<ref group="報道" name="press/20200326_y03" />、予定通り同日に開業・供用開始となった。2020年6月25日には、当改札口前から北仲通方面(横浜市役所方面)へ結ぶ、ペデストリアンデッキ「さくらみらい橋」も開業・供用開始している<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/koho-kocho/press/doro/2020/0615hashikaituu.files/0004_20200611.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201024081956/https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/koho-kocho/press/doro/2020/0615hashikaituu.files/0004_20200611.pdf|format=PDF|language=日本語|title=さくらみらい橋が開通します! 〜桜木町駅周辺と北仲通地区を結ぶ歩行者ルートが完成!〜|publisher=横浜市道路局建設課/中区中土木事務所|date=2020-06-15|accessdate=2021-03-05|archivedate=2020-10-24}}</ref>。なお、新南口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、遠隔対応のため改札係員は終日不在となっている<ref name="StationCd=740_231203" />。 ==== のりば ==== のりばは北東(横浜港)側を1番線として、順に下表のように割り当てられている。 <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |[[file:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 根岸線 |style="text-align:center;"|下り |[[関内駅|関内]]・[[磯子駅|磯子]]・[[大船駅|大船]]方面 |- !2 |colspan="3"|降車専用ホーム |- !rowspan="2"|3・4 |[[file:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]] |style="text-align:center;"|北行 |[[横浜駅|横浜]]・[[東京駅|東京]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 |- |[[file:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] [[横浜線]] |style="text-align:center;"|- |[[新横浜駅|新横浜]]・[[町田駅|町田]]・[[八王子駅|八王子]]方面 |} (出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/740.html JR東日本:駅構内図]) ;備考 <!--根岸線では旅客案内に「上り」「下り」の表現は使用していないが、「北行き」「南行き」の表現を使用している。--> * 北行方面(3・4番線)も横浜駅までは根岸線ではあるが、当駅には横浜線の列車が多数乗り入れているため、のりばの案内では区別のため便宜上、直通先である「京浜東北線」の名称が記載されている。 * 当駅の配線は、上下本線の間に中線の線路が1本だけ入り、これを両側のホームで共用する形となっている。同様の構造の駅には[[川越駅]](3 - 6番線)や[[蒲田駅]]、[[東十条駅]](京浜東北線)などがある。 * [[2014年]]以降、8月中旬に桜木町駅周辺を含む横浜みなとみらいエリア一帯で、大型イベント「ピカチュウ大量発生チュウ!」が開催される期間は、駅名標や番線案内、南改札東口のガラス壁面が[[ピカチュウ]]仕様に装飾される(デザインは各年毎に異なる)。 * 2020年現在、当駅の初電は4時18分発の414B各駅停車大宮行きで、2018年3月17日のJR7社による春のダイヤ改正で[[日豊本線]][[柳ケ浦駅]]の4:17発[[門司港駅]]行きが[[行橋駅]]始発に短縮されて以降、日本で一番早い[[始発列車]]の発着駅となっている。 <gallery> Sakuragicho Station north east entrance 20140831.JPG|北改札東口(2014年8月) JR Negishi-Line Sakuragicho Station North Gates.jpg|北改札(2019年6月) JR Negishi-Line Sakuragicho Station South Gates.jpg|南改札(2019年6月) JR Negishi-Line Sakuragicho Station New South Gates.jpg|新南口改札(2021年4月) JR Negishi-Line Sakuragicho Station Platform 1・2.jpg|1・2番線ホーム(2019年6月) JR Negishi-Line Sakuragicho Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2019年6月) The first train departures from JR Sakuragicho station.jpg|JR京浜東北・根岸線の始発列車(2016年4月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 1996年9月頃から[[五感工房]]制作の発車メロディを使用していた(3番線は2005年12月6日に[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]制作の『twilight』に変更されている)が、二代目横浜駅開業100周年記念イベントの開催に合わせて[[2015年]][[7月25日]]に、降車専用ホームである2番線以外の全ホームのメロディを『[[線路は続くよどこまでも]]』をアレンジしたものに変更している。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[塩塚博]]が手掛けた。1番線には後半の部分、3番線には間奏、4番線には冒頭の部分をアレンジしたメロディが採用されている<ref>{{Cite web|和書|title=JR桜木町駅100周年・駅メロ「線路はつづくよどこまでも」 制作しました|url=http://www.switching.co.jp/news/196|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-07-30|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] |線路は続くよどこまでもB |- !3 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] |線路は続くよどこまでもC |- !4 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[File:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] |線路は続くよどこまでもA |} ==== 駅構内施設 ==== [[file:Sakuragicho Station CIAL interior 2015.jpg|thumb|CIAL桜木町]] 以下の売店や飲食店などは、CIAL桜木町の[[テナント]]として取り込まれている(改札内のテナントを除く、CIAL桜木町の詳細は[[#CIAL桜木町|後節]]参照)。 * [[NewDays]] ** 桜木町店 - 改札外、南改札の前 ** 桜木町北改札店 - 改札内、北改札脇 * [[BOOK EXPRESS]] CIAL桜木町店 * 横濱銘品館 桜木町店 * 川村屋([[立ち食いそば]]店) * [[崎陽軒]] - 改札内 * [[みどりの窓口]] ** 指定席券売機 * [[コインロッカー]] * 観光案内所 === 横浜市営地下鉄 === {{駅情報 |社色 = #0d6aad |文字色 = |駅名 = 横浜市営地下鉄 桜木町駅 |画像 = Yokohama-municipal-subway-B18-Sakuragicho-station-gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札(2022年2月) |よみがな = さくらぎちょう |ローマ字 = Sakuragicho |副駅名 = 横浜市役所下車駅 |前の駅 = B17 [[関内駅|関内]] |駅間A = 0.7 |駅間B = 1.2 |次の駅 = [[高島町駅|高島町]] B19 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|B|18|#414fa3|6}} |所属事業者 = [[横浜市交通局]]([[横浜市営地下鉄]]) |所属路線 = {{color|#414fa3|■}}[[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン(3号線)]] |キロ程 = 0.7&nbsp;km(関内起点)<br />[[湘南台駅|湘南台]]から20.4 |起点駅 = |所在地 = [[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[花咲町 (横浜市)|花咲町]]1丁目34番地<ref>『横浜市高速鉄道建設史II』 横浜市交通局、2004年3月、72ページ</ref> |座標 = {{coord|35|27|1|N|139|37|49|E|region:JP_type:railwaystation|name=横浜市営地下鉄 桜木町駅}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1976年]]([[昭和]]51年)[[9月4日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = 36,881 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]([[京王設備サービス]]) }} [[File:Yokohama-municipal-subway-B18-Sakuragicho-station-platform(2016-10).jpg|thumb|ホーム(2016年10月)]] 島式ホーム1面2線の[[地下駅]]。副名称は「横浜市役所下車駅」<ref group="注">2021年以前は「県民共済プラザ前」</ref>。 改札口は[[ぴおシティ]]の地下3階、ホームは[[新横浜通り]]直下の地下4階にある。当初はぴおシティ地下3階にホームを設ける予定であり、それを前提に[[1963年]]にぴおシティが建設された。しかし横浜市営地下鉄[[関内駅]]東側の[[大江橋 (横浜市)|大江橋]]付近で[[首都高速神奈川1号横羽線]]と干渉したため、関内駅周辺の線形を変更した上で当初の計画よりもさらに深い位置を通ることになった。しかし駅の設置場所をビルの地下3階から地下4階に変更すると、駅の構造体にかかる荷重が過大になり建設費用がかさむことから、ホームだけを新横浜通り直下の地下4階(海抜 約-20m)に設置することになった<ref>『横浜市高速鉄道建設史』 横浜市交通局、1987年12月、64-66・185-187ページ</ref><ref>「高速鉄道三号線関内〜新横浜間縦断図」『横浜市高速鉄道建設史』 横浜市交通局、1987年12月</ref><ref>三輪大輔「[http://hamarepo.com/story.php?story_id=3399 横浜市営地下鉄桜木町駅の「使われていない幻のホーム」、今もぴおシティにあるって本当?]」『はまれぽ』 2014年10月15日、株式会社アイ・ティ・エー</ref>。 JR桜木町駅とは、地下道「野毛ちかみち」で南改札と、別の地下道で新南口改札と、つながっている。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://navi.hamabus.city.yokohama.lg.jp/koutuu/pc/detail/Station?id=00002909 |title=桜木町の駅情報 駅構内図 |publisher=横浜市交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan="2"|[[file:Yokohama Municipal Subway Blue Line symbol.svg|15px|B]] ブルーライン |[[湘南台駅|湘南台]]方面 |- !2 |[[あざみ野駅|あざみ野]]方面 |} *上表の路線名は旅客案内上の名称(愛称)で記載している。 {{-}} === YOKOHAMA AIR CABIN === {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = YOKOHAMA AIR CABIN 桜木町駅 |画像 = Sakuragicho station (YOKOHAMA AIR CABIN) 20210510-1.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎(2021年5月) |よみがな = さくらぎちょう |ローマ字 = SAKURAGI-CHO |副駅名 = |前の駅 = |駅間A = |駅間B = 0.635 |次の駅 = [[運河パーク駅|運河パーク]] |電報略号 = |駅番号 = |所属事業者 = [[泉陽興業]] |所属路線 =[[YOKOHAMA AIR CABIN]] |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 桜木町 |所在地 = [[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]] |座標 = {{coord|35|27|5|N|139|37|53.3|E|region:JP_type:railwaystation|name=YOKOHAMA AIR CABIN 桜木町駅}} |駅構造 = |ホーム = |開業年月日 = [[2021年]]([[令和]]3年)[[4月22日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = |統計年度 = |備考 = }} JR桜木町駅東口の駅前広場にあり、JRまたは地下鉄の駅からは徒歩1分<ref>{{Cite web|和書|title=YOKOHAMA AIR CABINについて | YOKOHAMA AIR CABIN|url=https://yokohama-air-cabin.jp/about/|website=YOKOHAMA AIR CABIN|accessdate=2021-08-20|language=ja}}</ref>。 駅舎は地上にあり白とグレーを基調とする。既存の広場機能とバス停への配慮から、乗降場は駅舎の2階にあり、[[ピロティ]]形式としている。2階部分の外壁はガラス張りであり、駅前広場を見渡せる展望機能も設けられている。乗降場の上部にはフライルーフがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/toshiseibi/design/shingikai/bitaisaku/keikan/ks049.files/0056_20190313.pdf|title=横浜市都市美対策審議会 景観審査部会「まちを楽しむ多彩な交通の充実」に向けた提案に基づく (仮称) 横浜ロープウェイ プロジェクト《YOKOHAMA AIR CABIN》~景観形成について~|accessdate=2021/08/20|publisher=[[横浜市]]|author=泉陽興業株式会社|date=2019年2月18日}}</ref>。 {{-}} === 東京急行電鉄(廃止) === {{駅情報 |社色 = #ccc |文字色 = #000 |駅名 = 東急 桜木町駅 |画像 = Tokyusakuragicho.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 廃止間際の東横線桜木町駅構内(2004年1月) |よみがな = さくらぎちょう |ローマ字 = Sakuragich&#333; |隣の駅 = |前の駅 = [[高島町駅|高島町]] |駅間A = 1.3 |駅間B = |次の駅 = |電報略号 = |駅番号 = |所属事業者 = [[東急電鉄|東京急行電鉄]] |所属路線 = {{Color|#da0442|■}}[[東急東横線|東横線]] |キロ程 = 26.3 |起点駅 = [[渋谷駅|渋谷]] |所在地 = [[横浜市]][[中区_(横浜市)|中区]][[桜木町]]1丁目 |座標 = {{coord|35|27|3|N|139|37|51|E|region:JP_type:railwaystation|name= 旧・東急 桜木町駅}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1932年]]([[昭和]]7年)[[3月31日]] |廃止年月日 = [[2004年]]([[平成]]16年)[[1月31日]]<ref group="報道" name="Abolition"/> |乗車人員 = 46,413 |乗降人員 = 92,039 |統計年度 = 2003年 |乗換 = |備考 = }} かつての終着駅だった[[東急東横線|東横線]]は、[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]の開業に伴い、[[2004年]][[1月31日]]付けで横浜 - 当駅間が廃止された。廃止時の駅構造は島式ホーム1面2線の高架駅であり、JRから続いて5・6番線となっていた<ref>[https://web.archive.org/web/20020618233722fw_/http://www.tokyu.co.jp/train/shisetsu/shisetsu_sakuragicho.html 東急桜木町駅](東京急行電鉄ホームページ・インターネットアーカイブ・2002年6月時点)。</ref>。駅出入口の看板は「東京急行 桜木町駅」と表記されていた。 旧駅舎は2013年7月に解体が完了した<ref name="Century"/>。なお、[[廃線]]跡では高架を有効活用した[[遊歩道]]を整備する方針である(詳細は「[[東横フラワー緑道#関連する遊歩道整備計画]]」を参照)。 ==== のりば(廃止時) ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !5・6 |{{Color|#da0442|■}}東横線 |[[菊名駅|菊名]]・[[自由が丘駅|自由が丘]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面 |} <gallery> Tokyu-Sakuragicho-Sta.jpg|かつての東急桜木町駅に停車する東横線車両(2004年1月25日) Tokyu Sakuragicho Station Entrance.jpg|東急桜木町駅出入口 「東京急行 桜木町駅」の看板が見える(2003年1月26日) Tokyu Sakuragicho Name.jpg|東急東横線桜木町駅の駅名標(2003年1月26日) </gallery> {{-}} == 利用状況 == [[ファイル:Number of Passenger at Sakuragicho Sta.png|thumb|1日あたりの乗車人員の推移]] * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''64,698人'''である<ref group="利用客数">[http://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社の駅では[[鶴見駅]]に次いで第57位である。 * '''横浜市営地下鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''36,881人'''(乗車人員:18,546人、降車人員:18,335人)である<ref group="乗降データ" name="toukei">[https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/tokeisho/09.html 横浜市統計書] - 横浜市</ref>。 === 年度別1日平均乗降人員(東横線廃止前) === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="toukei" /><ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=3|年度 !colspan=2|東京急行電鉄 !colspan=2|横浜市営地下鉄 |- !colspan=2|東横線 !colspan=2|ブルーライン |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1998年(平成10年) | | |29,513 | |- |1999年(平成11年) | | |31,822 |7.8% |- |2000年(平成12年) | | |34,660 |8.9% |- |2001年(平成13年) | | |36,188 |4.4% |- |2002年(平成14年) |97,020 | |37,084 |2.5% |- |2003年(平成15年) |92,039 |&minus;5.1% |34,923 |&minus;5.8% |} === 年度別1日平均乗降人員(東横線廃止後) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="toukei" /> !rowspan=2|年度 !colspan=2|横浜市営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2004年(平成16年) |28,378 | -18.7% |- |2005年(平成17年) |28,730 |1.2% |- |2006年(平成18年) |29,067 |1.2% |- |2007年(平成19年) |29,427 |1.2% |- |2008年(平成20年) |27,554 |&minus;6.4% |- |2009年(平成21年) |30,665 |11.3% |- |2010年(平成22年) |30,780 |0.4% |- |2011年(平成23年) |30,552 |&minus;0.7% |- |2012年(平成24年) |32,144 |5.2% |- |2013年(平成25年) |34,555 |7.5% |- |2014年(平成26年) |35,170 |1.8% |- |2015年(平成27年) |36,767 |4.5% |- |2016年(平成28年) |37,311 |1.5% |- |2017年(平成29年) |37,824 |1.4% |- |2018年(平成30年) |38,924 |2.9% |- |2019年(令和元年) |39,232 |0.8% |- |2020年(令和{{0}}2年) |28,991 |&minus;26.1% |- |2021年(令和{{0}}3年) |33,884 |16.9% |- |2022年(令和{{0}}4年) |36,881 |8.8% |} === 年度別1日平均乗車人員(東横線廃止前) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="toukei" /> !年度 !JR東日本 !東京急行電鉄 !横浜市営<br />地下鉄 !出典 |- |1979年(昭和54年) | | |5,704 | |- |1980年(昭和55年) | |37,408 |6,057 | |- |1981年(昭和56年) | |39,214 |5,838 | |- |1982年(昭和57年) | |40,921 |5,855 | |- |1983年(昭和58年) | |42,175 |5,711 | |- |1984年(昭和59年) | |42,534 |5,847 | |- |1985年(昭和60年) | |42,811 |7,281 | |- |1986年(昭和61年) | |44,049 |8,954 | |- |1987年(昭和62年) | |44,060 |10,355 | |- |1988年(昭和63年) | |43,367 |11,197 | |- |1989年(平成元年) | |46,649 |12,814 | |- |1990年(平成{{0}}2年) | |43,630 |11,804 | |- |1991年(平成{{0}}3年) |37,586 |43,295 |12,229 | |- |1992年(平成{{0}}4年) |40,874 |42,215 |12,231 | |- |1993年(平成{{0}}5年) |51,130 |42,036 |13,921 | |- |1994年(平成{{0}}6年) |54,916 |41,811 |13,653 | |- |1995年(平成{{0}}7年) |56,570 |41,152 |13,126 |<ref group="乗降データ">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |58,333 |40,103 |13,147 | |- |1997年(平成{{0}}9年) |62,993 |41,916 |14,108 | |- |1998年(平成10年) |65,397 |43,142 |14,219 |<ref group="神奈川県統計">平成12年</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>69,542 |45,654 |16,159 |<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>70,610 |46,720 |17,543 |<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" /> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>71,709 |49,062 |18,411 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}}</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>71,973 |48,881 |18,695 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}}</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>71,076 |<ref group="注">2004年2月1日廃止。</ref>46,413 |17,649 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}}</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(東横線廃止後) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="toukei" /> !年度 !JR東日本 !横浜市営<br />地下鉄 !出典 |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>65,933 |14,654 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}}</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>65,627 |14,769 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}}</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>63,487 |14,706 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}}</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>61,432 |14,631 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}}</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>60,440 |13,795 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}}</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>60,467 |15,389 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}}</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>61,536 |15,483 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}}</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>61,288 |15,384 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}}</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>63,823 |16,198 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}}</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>65,392 |17,440 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}}</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>66,217 |17,758 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}}</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>68,546 |18,566 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}}</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>70,286 |18,820 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}}</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>70,676 |19,116 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}}</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>71,160 |19,672 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/73942/15_2.pdf 令和元年]}}</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>70,797 |19,767 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/85489/202015.pdf 令和2年]}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>49,519 |14,511 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/96367/15.pdf 令和3年]}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>56,214 |16,990 |<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202215.pdf 令和4年]}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>64,698 |18,546 | |} == 駅周辺 == {{See also|桜木町 (横浜市)}} 当駅周辺地区([[横浜みなとみらい21|みなとみらい地区]])は、横浜市における[[都心]](ツインコア)の一つである「横浜都心」に指定されている<ref>{{PDFlink|[http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/kikaku/cityplan/master/kaitei/kaitei/pdf/kaiteiplan.pdf 横浜市都市計画マスタープラン(全体構想)]}}(編集・発行:横浜市都市整備局企画部企画課 平成25年 {{smaller|(2013年)}} 3月)</ref>。 駅の南側には横浜の一大[[歓楽街|飲屋街]]である[[野毛町|野毛]]が位置している。 旧東急東横線廃線跡は高架の[[遊歩道]](詳細は「[[東横フラワー緑道#関連する遊歩道整備計画]]」を参照)を整備する工事が進行中で、紅葉坂方面への[[ペデストリアンデッキ]]の設置も計画されている。 当駅は[[1989年]]の[[横浜港]]開港130周年を記念して現在のみなとみらい地区で開催された「[[横浜博覧会]]」、さらには[[2009年]]の横浜港開港150周年を記念して同地区で開催された「[[開国博Y150]]」会場の最寄り駅の一つでもあった。 === CIAL桜木町 === {{see also|CIAL}} <!--複数ページ(項目)より当節へのリンクあり(節名変更の際は要修正)--> {{商業施設 |社色 = |文字色 = #e60000 |名称 = CIAL桜木町{{small|(シァル桜木町)}} |外国語表記 = {{small|CIAL SAKURAGICHO}} |画像 = Sakuragicho Station west side 20140831.JPG |画像サイズ = 300 |画像説明 = 野毛側の外観(「停車場ビュッフェ」ゾーン) |正式名称 = |所在地郵便番号 = |所在地 = <!--所在地・座標等はJR桜木町と同一のため省略--> |緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |経度度 = |経度分 = |経度秒 = |開業日 = [[2014年]]([[平成]]26年)[[7月16日]] |閉店日 = |施設所有者 = |施設管理者 = [[横浜ステーシヨンビル|株式会社横浜ステーシヨンビル]] |商業施設面積=|商業施設面積脚注=約4,030 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]<ref name="prtimes-cial-sakuragicho">[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000010004.html {{~}}歴史ある「桜木町」の駅が新しくなって、ますます便利に快適に!{{~}} 「CIAL 桜木町」35店舗決定 {{~}}鉄道発祥の地、港町“横浜”の雰囲気を演出{{~}} 今夏グランドオープン予定](株式会社横浜ステーシヨンビル 2014年4月15日/PR TIMES)</ref> |延床面積=|延床面積脚注=約6,140 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]<ref name="prtimes-cial-sakuragicho"/> |店舗数 = 35店舗(開業時) |営業時間 = |駐車台数 = 17 |外部リンク = http://www.cial.co.jp/sakuragicho/ |商圏人口 = |グループ文字色 = #e60000 |グループ文字フォント = 'Swiss 721 Black','Swis721 Blk BT','Arial Black','Fira Sans ExtraBold',sans-serif |グループ = CIΛL }} 高架下を利用したJR桜木町駅併設の商業施設([[駅ビル]])として「'''CIAL桜木町'''(シァル桜木町)」が2014年7月16日に開業した。JR東日本のグループ会社である[[横浜ステーシヨンビル]]が管理・運営(店舗部分)している。 開発コンセプトは「横濱 ノスタルジック REVUE」とし、横浜の[[歴史]]的な「[[明治]][[レトロ]]」「[[大正ロマン]]」の雰囲気を取り入れた施設を目指している。建物の外観[[デザイン]]は[[横浜みなとみらい21|みなとみらい]]側が白を基調に開放感のあるガラス張りとしており、初代駅舎の特徴的な三角屋根を表現している他、[[船]]の[[マスト]]に見立てた天蓋([[キャノピー]])も施され、“港町横浜”らしさを表現している。一方、[[野毛町|野毛]]側は[[煉瓦|レンガ]]調の[[タイル]]や[[飾り窓]]により鉄道発祥の地としての歴史感を表現しており、夜間には壁面を柔らかく照らす[[ライトアップ]]も実施されている<ref name="prtimes-cial-sakuragicho"/><ref name="hamarepo140524">[http://hamarepo.com/story.php?story_id=2968 2014年7月16日にオープンする「CIAL桜木町」はどんな感じ!?](はまれぽ.com 2014年5月24日)</ref><ref name="hamakei140417" group="新聞">[http://www.hamakei.com/headline/8746/ CIAL桜木町が今夏グランドオープン-テナント35店舗決定]([[みんなの経済新聞ネットワーク|ヨコハマ経済新聞]] 2014年4月17日)</ref>。この他、野毛側の建物の前にはかつての横浜駅の駅舎をイメージしてレンガが敷き詰められた「桜木町駅西口広場」{{refnest|group="注"|今後の整備が計画されている東横線廃線跡(横浜駅 - 当駅間)における遊歩道(詳細は「[[東横フラワー緑道#関連する遊歩道整備計画]]」を参照)の当駅側の起点となる広場<ref group="報道" name="yokohama-toshiseibi140709"/><ref group="新聞" name="toyokeizai171207"/><ref name="toyoko-atochi"/><ref name="hamarepo160313">[http://hamarepo.com/story.php?story_id=5092 旧東横線桜木町〜横浜間の工事完了は遅延する?](はまれぽ.com 2016年3月13日)</ref>。}}も整備され<ref name="toyokeizai171207" group="新聞">[http://toyokeizai.net/articles/-/199890 横浜-桜木町「東横線」跡地整備はいつ終わる? 遊歩道になるはずが2021年まで先送り]([[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン 2017年12月7日)</ref>、当施設の開業と同時にオープンしている<ref name="yokohama-toshiseibi140709" group="報道" /><ref name="toyoko-atochi">[https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/kotsu/tetsudo/atochi.html 東急東横線の跡地利用](横浜市都市整備局)</ref>。 当施設は北改札正面の「紅葉坂ギャラリー」、みなとみらい側の「YOKOHAMA BAZAR」、野毛側の「停車場ビュッフェ」、南改札正面の「横濱情報プラザ」という四つのゾーンで構成され、開業時には35店舗が入居している<ref name="prtimes-cial-sakuragicho"/><ref name="hamarepo140524"/><ref group="新聞" name="hamakei140417"/>。 ; 各ゾーンの特徴 : 各ゾーンにおけるテナントの詳細は、公式サイト内「[http://www.cial.co.jp/sakuragicho/floorguide/ フロアガイド]」を参照。 :* 紅葉坂ギャラリー:当施設で最も広く、飲食店の他に[[デリカテッセン|デリ]]や[[惣菜]]、[[ドラッグストア]]などを揃え日常生活にも便利な店舗構成となっている。名称は[[紅葉坂 (横浜市)|紅葉坂]]に由来する<ref name="prtimes-cial-sakuragicho"/>。 :* YOKOHAMA BAZAR:オリジナルバッグで有名な[[キタムラ (バッグ)|キタムラ]]の他に[[雑貨]]、オープンカフェなどが入っている。名称は明治後期に存在した伊勢佐木町の勧工場<ref group="注">勧工場(かんこうば)とは明治時代に日本の各地に存在した、[[百貨店]]の前身ともされるテナント(各種商店)が集まった商業施設のこと。</ref>、「横濱館」の正面入口に掲示されていた[[看板|サイン]]に由来する<ref name="prtimes-cial-sakuragicho"/>。 :* 停車場ビュッフェ:[[1900年]](明治33年)に創業した[[蕎麦|そば]]屋の「[[川村屋]]」など、横浜の[[老舗]]・銘店とされる飲食店が並んでいる。名称は当駅の前身である初代横浜駅がこの付近にあったことから、当時(明治時代)、列車の停車駅を指していた「[[停車場]]」という言葉に由来する<ref name="prtimes-cial-sakuragicho"/><ref name="hamarepo140524"/>。なお、2階には駅関連施設が入っているため、テナントは1階がメインである<ref name="hamarepo140524"/>。 :* 横濱情報プラザ:クロークサービス(手荷物預かり等)を併設する観光案内所の他に、横浜の[[土産]]品を揃える横濱銘品館や[[コンビニエンスストア|コンビニ]]、[[書店]]が入る。 : <gallery> CIAL Sakuragicho 06.JPG|紅葉坂ギャラリー CIAL Sakuragicho 04.JPG|YOKOHAMA BAZAR(中央のテナントは[[スターバックス|スターバックスコーヒー]]) CIAL Sakuragicho 05.JPG|停車場ビュッフェ(中央のテナントは川村屋) CIAL Sakuragicho 07.JPG|横濱情報プラザ </gallery> ; 別館の開設(2020年6月) : 南側へ延伸し、新南口(市役所口)改札が設置された駅舎の隣接地には複合ビル「JR桜木町ビル」を2020年6月27日に開業し、低層部に店舗・子育て支援施設、旧横濱鉄道歴史展示「旧横ギャラリー」などからなる「'''CIAL桜木町 ANNEX'''(アネックス)」を併設している<ref group="報道" name="press/20200123_y02" /><ref group="報道" name="jre-y180927"/>。 : 1階のエントランスホールにある旧横濱鉄道歴史展示「旧横ギャラリー」には、かつてこの地(初代横浜駅)で活躍していた[[国鉄110形蒸気機関車]]<ref group="新聞">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54587670Q0A120C2L82000/ 鉄道発祥の地にSL帰る 横浜・桜木町駅前に展示](日本経済新聞 2020年1月21日)</ref>や「[[エドモンド・モレル]]の碑」のほか、英国の資料や専門家の協力によって復元製作された[[最古客車#中等客車|中等客車]]や[[鉄道信号機#機械式信号機|遠方信号機]]の実物大レプリカ、ジオラマや資料などを展示している<ref>[http://www.cial.co.jp/sakuragicho/floorguide/detail.php?store_id=53 旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)] - CIAL桜木町公式サイト内フロアガイド</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://hamakore.yokohama/sakuragicho-shinminami-gallery-report/|title=桜木町駅新南口に蒸気機関車やジオラマ、旧横濱鉄道歴史展示「旧横ギャラリー」充実!|publisher=はまこれ横浜|date=2020-06-28|accessdate=2020-07-07}}</ref>。 {{Main|国鉄110形蒸気機関車#保存|最古客車#中等客車}} <gallery> 110 110 in JR Sakuragi-cho Building.jpg|[[国鉄110形蒸気機関車]] Japanese oldest 2nd-class coach (replica) 2.jpg|[[最古客車#中等客車|中等客車]](レプリカ) </gallery> === その他の施設 === ; みなとみらい・馬車道方面 {{columns-list|3| * [[クロスゲート (商業施設)|クロスゲート]] ** [[横浜桜木町ワシントンホテル]] * [[ヒューリックみなとみらい]](旧称:TOCみなとみらい/[[#CIAL桜木町|CIAL桜木町]]と屋根伝いに接続) ** [[コレットマーレ]] ** [[横浜ブルク13]] ** [[ニューオータニイン横浜プレミアム]] * [[富士ソフト]]本社ビル * [[横浜桜木郵便局]] * [[横浜みなとみらい21]] ** [[日本丸メモリアルパーク]] *** [[横浜みなと博物館]](旧称:横浜マリタイムミュージアム) *** [[日本丸展示ドック|展示ドック]]([[重要文化財]]{{small|〈旧横浜船渠株式会社第一号船渠〉}}) **** 帆船[[日本丸 (初代)|日本丸]](重要文化財) ** [[汽車道]]([[横浜港駅]]への貨物支線廃線跡地を活用したもの) ** [[横浜ワールドポーターズ]] ** [[よこはまコスモワールド]] ** [[横浜ハンマーヘッド]](新港ふ頭客船ターミナル複合施設) ** [[横浜赤レンガ倉庫]](当駅から徒歩約15分) ** [[横浜ランドマークタワー]](駅前と[[動く歩道]]で接続) *** [[横浜ロイヤルパークホテル]] *** [[ランドマークプラザ]] *** [[ドックヤードガーデン]](重要文化財{{small|〈旧横浜船渠株式会社第二号船渠〉}}) ** [[クイーンズスクエア横浜]] *** [[横浜ベイホテル東急]](旧称:パンパシフィックホテル横浜) *** [[みなとみらい駅]]([[横浜高速鉄道みなとみらい線]]) ** [[MARK IS みなとみらい]] ** [[横浜国際平和会議場]](パシフィコ横浜) *** [[ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル]] ** [[日石横浜ビル]] ** [[横浜銀行]][[横浜銀行本店ビル|本店ビル]] ** [[ぴあアリーナMM]] ** [[横浜美術館]] ** [[三菱重工横浜ビル]] *** [[三菱みなとみらい技術館]] * [[北仲通地区]] ** [[弁天橋 (横浜市)|弁天橋]] ** [[北仲橋]] ** [[横浜市役所]](新市庁舎) ** [[横浜アイランドタワー]] ** [[KITANAKA BRICK&WHITE]]([[ザ・タワー横浜北仲]]低層部) ** [[アパホテル&リゾート 横浜ベイタワー|アパホテル&リゾート〈横浜ベイタワー〉]] * [[馬車道駅]](横浜高速鉄道みなとみらい線) * [[JR東日本ホテルメッツ]]横浜桜木町 - 事前予約をすることで、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|title=シェアオフィス事業の拡大で働き方改革を加速します 〜「STATION WORK」の1,000カ所展開を目指すとともに、ワーケーションの推進を行います〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-09-03|accessdate=2020-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200905155129/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|archivedate=2020-09-05}}</ref>。 |}} ; 野毛・紅葉坂方面 {{columns-list|2| * [[野毛町|野毛]] ** [[野毛ちかみち]] ** [[横浜にぎわい座]] ** ちぇるる野毛 ** [[横浜市中央図書館]] ** [[野毛山動物園]] ** [[伊勢山皇大神宮]] ** [[成田山横浜別院延命院]] ** [[ウインズ横浜]] ** [[日ノ出町駅]]([[京急本線]]) * [[桜木町]] ** [[ぴおシティ]] *** [[サテライト横浜]] *** [[ジョイホース横浜]] ** [[横浜市健康福祉総合センター]] ** [[神奈川県歯科医師信用組合]]本店 * [[神奈川県立図書館]] * [[神奈川県立青少年センター]] * [[神奈川県立音楽堂]] * [[横浜能楽堂]] |}} ; [[関内]]方面 * [[大江橋 (横浜市)|大江橋]] * [[群馬銀行]]横浜支店 * [[横浜指路教会]] <gallery> 桜木町駅前 - St. Sakuragi-cho - panoramio.jpg|駅東側のバスロータリーと[[横浜みなとみらい21|みなとみらい地区]] </gallery> == バス路線 == 駅の東側に[[ロータリー交差点|ロータリー]]があり、以下のように各[[路線バス]]が乗り入れていて、'''桜木町駅前'''・'''桜木町駅'''と称している。一部の[[バス停留所]]はJRと横浜市営地下鉄の間の国道16号上に存在している。駅ロータリー北側のみなとみらい大通り上(動く歩道下)には'''日本丸メモリアルパーク'''停留所が、駅西側の県道218号線上には'''野毛大通り'''停留所があり、こちらも利用可能である。なお、同バス停は[[江ノ電バス]]だけが'''桜木町'''停留所を名乗っていたが、[[2008年]][[7月1日]]から'''野毛大通り'''停留所となった<ref group="注">江ノ電バスは2019年12月16日に実施されたダイヤ変更により、上大岡駅以北の区間が廃止されたため、乗り入れなくなった。</ref>。 === 桜木町駅前・桜木町駅 === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|[[神奈川中央交通]] |[[神奈川中央交通舞岡営業所#YAMATE LINER(桜木町駅 - 保土ケ谷駅方面)|'''11(YAMATE LINER)''']]:[[保土ケ谷駅|保土ヶ谷駅東口]] |- |rowspan="3" style="text-align:center;"|[[横浜市営バス]] |{{Unbulleted list|[[横浜市営バス本牧営業所#20系統|'''20''']]:[[山手駅|山手駅前]]|[[横浜市営バス本牧営業所#26系統|'''26''']]:[[横浜港シンボルタワー]] / [[本牧海づり施設|海づり桟橋]] / 港湾ガレッジ前 / 本牧TOC / [[横浜市営バス本牧営業所|本牧車庫]] / 本牧ポートハイツ前}} |- !2 |{{Unbulleted list|[[横浜市営バス本牧営業所#8・168・363系統|'''8'''・'''363(深夜)''']]:本牧車庫|[[横浜市営バス本牧営業所#58系統|'''58''']]:[[横浜市営バス磯子営業所|磯子車庫]]|[[横浜市営バス浅間町営業所#280系統(ぶらり三渓園BUS)|'''280(急行・ぶらり三渓園BUS)''']]:三渓園}} |- !3 |{{Unbulleted list|[[横浜市営バス浅間町営業所#89系統(ぶらり野毛山動物園BUS)|'''89(ぶらり野毛山動物園BUS)''']]:横浜駅前|[[横浜市営バス滝頭営業所#156・158・333系統|'''156''']]・[[横浜市営バス浅間町営業所#292系統|'''292''']]:[[横浜国際平和会議場|パシフィコ横浜]]|'''[[横浜市営バス本牧営業所#271系統(観光スポット周遊バス「あかいくつ」)|271]]([[あかいくつ]])''':桜木町駅(循環) / ハンマーヘッド}} |- !4 |rowspan="2" colspan="2"|(降車専用) |- !5 |- !6 |style="text-align:center;"|横浜市営バス |{{Unbulleted list|[[横浜市営バス滝頭営業所#21・361系統|'''21''']]:[[横浜市営バス滝頭営業所|市電保存館]] / 根岸駅前|[[横浜市営バス磯子営業所#113・327系統|'''113''']]:磯子車庫|[[横浜市営バス滝頭営業所#156・158・333系統|'''158''']]:[[横浜市営バス滝頭営業所|滝頭]]}} |- !7 |style="text-align:center;"|[[京浜急行バス]] |{{Unbulleted list|[[京浜急行バス杉田営業所#横浜線|'''110''']]:杉田平和町|[[京浜急行バス杉田営業所#空港リムジン|'''空港リムジン''']]:[[東京国際空港|羽田空港第3ターミナル]]}} |- !rowspan="2"|8 |style="text-align:center;"|横浜市営バス |{{Unbulleted list|'''89(ぶらり野毛山動物園BUS)''':一本松小学校|'''156''':滝頭|[[横浜市営バス浅間町営業所#292系統|'''292''']]:[[横浜市営バス浅間町営業所|浅間町車庫]]}} |- |style="text-align:center;"|[[相鉄バス]] |[[相鉄バス#旭4・旭5系統|'''旭4''']]:美立橋 |- !9 |style="text-align:center;"|神奈川中央交通 |{{Unbulleted list|[[神奈川中央交通舞岡営業所#戸塚駅東口 - 井土ヶ谷 - 横浜駅方面|'''横43'''・'''横44'''・'''戸45''']]:[[戸塚駅|戸塚駅東口]]|[[神奈川中央交通横浜営業所#大船駅 - 上大岡駅・桜木町駅方面|'''船20''']]:[[大船駅|大船駅(笠間口)]]|[[神奈川中央交通横浜営業所#港南台駅 - 上大岡駅 - 磯子駅・横浜駅方面|'''港61''']]:[[港南台駅]]}} |- !rowspan="3"|10 |style="text-align:center;"|[[フジエクスプレス]] |{{Unbulleted list|[[フジエクスプレス#横浜タウンバス|'''134''']]:桜木町駅 / 大鳥中学校前|新山下・ダイワコーポレーション前}} |- |style="text-align:center;"|横浜市営バス |{{Unbulleted list|'''271(あかいくつ)''':桜木町駅前(市役所口)}} |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|相鉄バス|[[富士急バス]]}} |[[フジエクスプレス#横浜営業所|'''レイクライナー''']]:[[河口湖駅]] |- !11 |rowspan="2" style="text-align:center;"|横浜市営バス |{{Unbulleted list|[[横浜市営バス滝頭営業所#101系統|'''101''']]:根岸駅前|[[横浜市営バス本牧営業所#105・328・364系統|'''105''']]・[[横浜市営バス本牧営業所#106系統|'''106''']]・'''364(深夜)''':本牧車庫}} |- !rowspan="3"|12 |{{Unbulleted list|'''8'''・'''26'''・'''105''':横浜駅前|'''101''':[[横浜市営バス保土ヶ谷営業所|保土ヶ谷車庫]]|'''106''':境木中学校 / 保土ヶ谷駅東口|'''280(ぶらり三渓園BUS・急行)'''・'''328(急行)''':横浜駅前}} |- |style="text-align:center;"|神奈川中央交通 |'''横43'''・'''横44'''・'''港61''':横浜駅東口 |- |style="text-align:center;"|京浜急行バス |'''110''':横浜駅 |} === 日本丸メモリアルパーク === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|横浜市営バス |{{Unbulleted list|[[横浜市営バス本牧営業所#109系統|'''109''']]・[[横浜市営バス本牧営業所#123系統|'''123(急行)''']]・[[横浜市営バス本牧営業所#8・168・363系統|'''168''']]:[[横浜駅|横浜駅前]]}} |- !2 |{{Unbulleted list|'''109''':[[横浜駅|横浜駅前]](循環)|'''123(急行)''':日産本牧専用埠頭|'''168''':本牧車庫}} |} === 野毛大通り === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|横浜市営バス |{{Unbulleted list|'''89(ぶらり野毛山動物園BUS)''':横浜駅前 / 桜木町駅前|'''156''':パシフィコ横浜 / 桜木町駅前}} |- |style="text-align:center;"|フジエクスプレス |'''134''':桜木町駅前 |- !rowspan="2"|2 |style="text-align:center;"|横浜市営バス |{{Unbulleted list|'''89(ぶらり野毛山動物園BUS)''':一本松小学校|'''156''':滝頭}} |- |style="text-align:center;"|フジエクスプレス |'''134''':桜木町駅 / 大鳥中学校前 |} == 歌手による駅周辺での撮影 == * [[2004年]][[6月2日]]にリリースされた横浜出身の平成[[フォークデュオ]]・[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]の通算20枚目のシングル「[[桜木町/シュミのハバ/夢の地図|桜木町]]」は、同年に廃止された東急東横線の桜木町駅を唄った歌である。ゆず本人達曰く、桜木町駅(特に東急東横線)は相当思い入れのある駅だったため、東急東横線の桜木町駅がなくなると聞いた時に思い出の場所を歌に残そうと思い、作った曲とのことである。彼らの楽曲「雨と泪」(1998年)のプロモーションビデオに根岸線と東急東横線の桜木町駅ホームが登場している。 * [[山崎まさよし]]のヒット曲「[[One more time, One more chance]]」の舞台でもある。 * [[いきものがかり]]の曲「[[花は桜 君は美し]]」のプロモーションビデオは、根岸線の駅舎の前で撮影された。 * [[2008年]][[2月20日]]にデビューした黒人演歌歌手[[ジェロ]]のデビューシングル「[[海雪]]」のプロモーションビデオ撮影は、桜木町駅と隣の高島町駅の旧東急東横線高架下で行った。 == その他 == [[画像:東急・東横線・桜木町駅跡・創造空間9001・正面.jpg|thumb|200px|創造空間9001(2009年6月6日)]] * [[1989年]]の[[横浜博覧会]]開催に伴い駅舎の移転が行われる以前の旧改札口<ref>[http://zengo.ekisya.net/?eid=1 【なつかしの駅舎】桜木町駅](駅舎の記録)</ref>は、「鉄道創業の地」記念碑<ref name="yokohama-tetsudo-sogyo"/><ref name="hasshonochi-tetsudo"/>が現在設置<!--(1988年移設)-->されている広場付近(地下道<!--(1999年整備)-->の入口横)にあった<ref name="hamarepo160530"/>。なお、[[2020年]]には新たな改札口(新南口)が開設された<ref group="報道" name="press/20200123_y02" />が、場所はこの旧改札口付近となる。 ** 開催期間中、JR東日本は駅前で「[[国鉄24系客車#夢空間|夢空間'89]]」というイベントを開催し、試作寝台客車3両の公開を行なった<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤芳彦|title=新車ガイド3: JR東日本 夢空間'89 新しい寝台列車用車両|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=No.338|year=1989-06-01|page=56}}</ref>。駅改札近くには「さかさま小路」と呼ばれる人や自動車が逆さまになった彫刻などが展示されていた。この展示は[[いすゞ自動車]]が製作したもので、当時発売されていた自社製乗用車([[いすゞ・ジェミニ|ジェミニ]]・[[いすゞ・ピアッツァ|ピアッツァ]])がモデルとなっている。 * [[1998年]]、JR東日本の駅が[[関東の駅百選]]に選定された。選定理由は『明治5年に開業した鉄道発祥の地の駅で、現在は「みなとみらい21」都市の玄関口となっている駅』。横浜市営地下鉄と当時存在した東急の駅は選定の対象になっていない。 * 鉄道発祥の地であるため、駅構内コンコース柱には歴史を紹介する展示がある。製作は[https://plumdesign.co.jp/ プラムデザイン]<ref name="plumdesign"/>。 ** かつては、日本の鉄道の恩人[[エドモンド・モレル]]の碑も駅構内コンコース柱に展示されていたが、2020年6月に[[#CIAL桜木町|旧横ギャラリー]]に移設された。 * [[2007年]][[9月14日]]から[[2010年]][[3月31日]]まで、旧東急東横線桜木町駅舎を改修した展示・イベントスペース「創造空間9001」が開設されていた。この9001の名称は、東横線桜木町駅の廃止の日に最後に入線した渋谷発桜木町行最終電車に充当された[[東急9000系電車|9000系]]9001Fの渋谷方先頭車のクハ9001に因んで命名された。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 根岸線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速・{{Color|#00b2e5|■}}各駅停車 ::: [[横浜駅]] (JK 12) - '''桜木町駅 (JK 11)''' - [[関内駅]] (JK 10) : [[ファイル:JR JH line symbol.svg|15px|JH]] 横浜線(当駅 - 横浜駅間は根岸線) :: {{Color|#ff0066|■}}快速・{{Color|#7fc342|■}}各駅停車 ::: '''桜木町駅 (JK 11)''' - 横浜駅 (JK 12) :: *:一部列車は根岸線大船方面へ乗り入れる。 : 東海道本線貨物支線(高島線) ::: [[東高島駅]] - '''桜木町駅''' ; 横浜市営地下鉄 :[[ファイル:Yokohama Municipal Subway Blue Line symbol.svg|15px|B]] ブルーライン(3号線) :: {{Color|red|■}}快速 ::: [[関内駅]] (B17) - '''桜木町駅 (B18)''' - [[横浜駅]] (B20) ::{{Color|#006bf0|■}}普通 ::: 関内駅 (B17) - '''桜木町駅 (B18)''' - [[高島町駅]] (B19) === かつて存在した路線 === ; 東京急行電鉄(東急) : {{Color|#da0442|■}}東横線 :: {{Color|orange|■}}特急・{{Color|orange|□}}通勤特急・{{Color|red|■}}急行 ::: 横浜駅 - '''桜木町駅''' :: {{Color|blue|■}}各駅停車 ::: [[高島町駅]] - '''桜木町駅''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"|2}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2|refs= <ref name="plumdesign">{{Cite web|和書|url=https://plumdesign.co.jp/works/histrical_permanent_exhibits/|title=おもな製作事例: 歴史展示/常設|publisher=プラムデザイン|accessdate=2022-10-17}}</ref> }} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"|2}} === 利用状況 === ; JR・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|23em}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="神奈川県統計"|16em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |title=東京急行電鉄50年史 |publisher=東京急行電鉄株式会社 |date=1973-04-18 |ref=50th}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{commonscat|Sakuragichō Station}} * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=740|name=桜木町}} * [https://navi.hamabus.city.yokohama.lg.jp/koutuu/pc/detail/Station?id=00002909 横浜市交通局 桜木町駅] * [https://www.cial.co.jp/sakuragicho/ CIAL桜木町] {{鉄道路線ヘッダー}} {{京浜東北・根岸線}} {{横浜線}} {{東海道貨物線}} {{横浜市営地下鉄ブルーライン}} {{東急東横線}} {{鉄道路線フッター}} {{関東の駅百選}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さくらきちよう}} [[Category:横浜市中区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 さ|くらきちよう]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:横浜市交通局の鉄道駅]] [[Category:東急電鉄の廃駅]] [[Category:1872年開業の鉄道駅]] [[Category:横浜みなとみらい21|さくらきちようえき]] [[Category:京浜東北・根岸線]] [[Category:東海道本線貨物線・貨物施設]] [[Category:19世紀の日本の設立]]
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球対称
初等幾何学における幾何学的対象が球対称(きゅうたいしょう、英: radial symmetric; 放射対称)あるいは回転不変(かいてんふへん、英: rotational invariant)であるとは、その対象が「任意の」回転変換(すなわち、対象の中心を通る任意の軸に対する任意角度の回転)に対して不変となることをいう。従って、球対称な対象を記述するための基準系は(方向成分は関係してこないため)原点の取り方のみが重要である。三次元空間内の回転に関する場合のみを「球対称」(spherical symmetry) と呼ぶ場合もある。三次元空間内の立体で球対称なものは球体に限る(中身が詰まっていないものも許すならば、同心球面の合併も入る)。 数学において適当な内積空間上で定義された函数が回転不変あるいは球対称(radial; 動径的)であるとは、その値が引数に対する任意の回転に関して不変となることを言う。例えば、函数 f(x, y) = x + y は原点周りの平面回転の下で不変である。より一般に、空間 X 上の変換あるいはそのような写像の成す写像空間上に作用する作用素に対しても、X における回転と両立する作用に関する意味で球対称性は定義できる。例えば二次元のラプラス作用素 Δf = ∂xxf + ∂yyf は、任意の回転変換 r に対して g(p) = f(r(p)) となる任意の写像 g に対して (Δg)(p) = (Δf)(r(p)) を満たす(つまり写像に対する回転は単にそのラプラシアンに対する回転になる)という意味において球対称である。 物理学における場が球対称であるとき、放射状場 (radial field) などと呼ばれる。また物理的な系がその空間における向きに依らず同じ値を示すとき、そのラグランジアンは球対称になる。ネーターの定理によれば、物理的な系の(ラグランジアンに対する時間に関する積分の)作用は回転不変であり、従って角運動量は保存される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "初等幾何学における幾何学的対象が球対称(きゅうたいしょう、英: radial symmetric; 放射対称)あるいは回転不変(かいてんふへん、英: rotational invariant)であるとは、その対象が「任意の」回転変換(すなわち、対象の中心を通る任意の軸に対する任意角度の回転)に対して不変となることをいう。従って、球対称な対象を記述するための基準系は(方向成分は関係してこないため)原点の取り方のみが重要である。三次元空間内の回転に関する場合のみを「球対称」(spherical symmetry) と呼ぶ場合もある。三次元空間内の立体で球対称なものは球体に限る(中身が詰まっていないものも許すならば、同心球面の合併も入る)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "数学において適当な内積空間上で定義された函数が回転不変あるいは球対称(radial; 動径的)であるとは、その値が引数に対する任意の回転に関して不変となることを言う。例えば、函数 f(x, y) = x + y は原点周りの平面回転の下で不変である。より一般に、空間 X 上の変換あるいはそのような写像の成す写像空間上に作用する作用素に対しても、X における回転と両立する作用に関する意味で球対称性は定義できる。例えば二次元のラプラス作用素 Δf = ∂xxf + ∂yyf は、任意の回転変換 r に対して g(p) = f(r(p)) となる任意の写像 g に対して (Δg)(p) = (Δf)(r(p)) を満たす(つまり写像に対する回転は単にそのラプラシアンに対する回転になる)という意味において球対称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "物理学における場が球対称であるとき、放射状場 (radial field) などと呼ばれる。また物理的な系がその空間における向きに依らず同じ値を示すとき、そのラグランジアンは球対称になる。ネーターの定理によれば、物理的な系の(ラグランジアンに対する時間に関する積分の)作用は回転不変であり、従って角運動量は保存される。", "title": null } ]
初等幾何学における幾何学的対象が球対称あるいは回転不変であるとは、その対象が「任意の」回転変換(すなわち、対象の中心を通る任意の軸に対する任意角度の回転)に対して不変となることをいう。従って、球対称な対象を記述するための基準系は(方向成分は関係してこないため)原点の取り方のみが重要である。三次元空間内の回転に関する場合のみを「球対称」(spherical symmetry) と呼ぶ場合もある。三次元空間内の立体で球対称なものは球体に限る(中身が詰まっていないものも許すならば、同心球面の合併も入る)。 数学において適当な内積空間上で定義された函数が回転不変あるいは球対称であるとは、その値が引数に対する任意の回転に関して不変となることを言う。例えば、函数 f(x, y) = x2 + y2 は原点周りの平面回転の下で不変である。より一般に、空間 X 上の変換あるいはそのような写像の成す写像空間上に作用する作用素に対しても、X における回転と両立する作用に関する意味で球対称性は定義できる。例えば二次元のラプラス作用素 Δf = ∂xxf + ∂yyf は、任意の回転変換 r に対して g(p) = f(r) となる任意の写像 g に対して (Δg)(p) = (Δf)(r) を満たす(つまり写像に対する回転は単にそのラプラシアンに対する回転になる)という意味において球対称である。 物理学における場が球対称であるとき、放射状場 などと呼ばれる。また物理的な系がその空間における向きに依らず同じ値を示すとき、そのラグランジアンは球対称になる。ネーターの定理によれば、物理的な系の(ラグランジアンに対する時間に関する積分の)作用は回転不変であり、従って角運動量は保存される。
{{簡易区別|生物学における{{仮リンク|放射相称|en|radial symmetry}}(radial symmetry)}} [[初等幾何学]]における幾何学的対象が'''球対称'''(きゅうたいしょう、{{lang-en-short|radial symmetric}}; 放射対称)あるいは'''回転不変'''(かいてんふへん、{{lang-en-short|rotational invariant}})であるとは、その対象が「任意の」[[回転変換]](すなわち、対象の中心を通る任意の軸に対する任意角度の回転)に対して不変となることをいう。従って、球対称な対象を記述するための[[基準系]]は(方向成分は関係してこないため)[[原点 (数学)|原点]]の取り方のみが重要である。[[SO(3)|三次元空間内の回転]]に関する場合のみを「球対称」(''spherical symmetry'') と呼ぶ場合もある。[[三次元空間]]内の[[立体]]で球対称なものは[[球体]]に限る(中身が詰まっていないものも許すならば、同心球面の合併も入る)。 [[数学]]において適当な[[内積空間]]上で定義された函数が回転不変あるいは[[球対称函数|球対称]](radial; 動径的)であるとは、その値が引数に対する任意の回転に関して不変となることを言う。例えば、函数 {{math|''f''(''x'', ''y'') {{=}} ''x''{{exp|2}} + ''y''{{exp|2}}}} は原点周りの平面回転の下で不変である。より一般に、空間 {{mvar|X}} 上の[[変換 (数学)|変換]]あるいはそのような写像の成す[[函数空間|写像空間]]上に作用する[[作用素]]に対しても、{{mvar|X}} における回転と両立する作用に関する意味で球対称性は定義できる。例えば二次元の[[ラプラス作用素]] {{math|Δ''f'' {{=}} ∂{{msub|xx}}''f'' + ∂{{msub|yy}}''f''}} は、任意の回転変換 {{mvar|r}} に対して {{math|''g''(''p'') {{=}} ''f''(''r''(''p''))}} となる任意の写像 {{mvar|g}} に対して {{math|(Δ''g'')(''p'') {{=}} (Δ''f'')(''r''(''p''))}} を満たす(つまり写像に対する回転は単にそのラプラシアンに対する回転になる)という意味において球対称である。 [[物理学]]における[[場]]が球対称であるとき、放射状場 (radial field) などと呼ばれる。また物理的な系がその空間における向きに依らず同じ値を示すとき、そのラグランジアンは球対称になる。[[ネーターの定理]]によれば、物理的な系の(ラグランジアンに対する時間に関する積分の)[[作用 (物理学)|作用]]は回転不変であり、従って[[角運動量]]は保存される。 == 関連項目 == * [[等方性]] * [[回転対称]] * {{仮リンク|軸対称|en|Axial symmetry}}: 回転軸の周りでの回転対称性 {{DEFAULTSORT:きゆうたいしよう}} [[Category:物理学]] [[Category:対称性]] [[Category:数学に関する記事]]
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極座標系
極座標系(きょくざひょうけい、英: polar coordinates system)とは、n 次元ユークリッド空間 R 上で定義され、1 個の動径 r と n − 1 個の偏角 θ1, ..., θn−1 からなる座標のことである。点 S(0, 0, x3, ...,xn) を除く直交座標系は、局所的に一意的な極座標に座標変換できるが、S においてはヤコビアン が 0 となってしまうから、一意的な極座標表現は不可能である。それは、S に於ける偏角が定義できないことからも明らかである。 2 次元ユークリッド空間 R における極座標は円座標(circular coordinates)と呼ばれ、一つの動径座標と一つの角度座標からなる、最も単純な極座標である。rθ 平面、極座標平面(または平面極座標)ともいう。特異点は (r, θ) = (0, θ) 即ち、xy座標での原点 (x, y) = (0, 0) である。2 次元実ベクトル空間にも定義できることから、複素数体 C 上にも定義できる。この時、円座標を極形式と呼んだりもする。その場合、オイラーの公式を利用して z = re と表す。円座標平面上で偏角を限定しなければ、これはxy平面上で円を描く。 円座標 (r,θ) から直交直線座標 (x,y) への変換は { x = r cos θ y = r sin θ {\displaystyle {\begin{cases}x=r\cos \theta \\y=r\sin \theta \\\end{cases}}} で与えられる。角度座標の範囲を −π < θ ≤ π とする場合の直交直線座標から円座標への変換は { r = x 2 + y 2 θ = sgn ( y ) arccos ( x / x 2 + y 2 ) {\displaystyle {\begin{cases}r={\sqrt {x^{2}+y^{2}}}\\\theta =\operatorname {sgn}(y)\arccos(x/{\sqrt {x^{2}+y^{2}}})\\\end{cases}}} で与えられる。ここで sgn は符号関数である。原点 (x,y) = (0,0) において特異性があり、分母がゼロとなるため θ が定まらない。 円座標で (0, 0) を除く xy 平面上の全ての点を表現できるから、これに z 軸を加えれば、xyz 空間が表現できる。これを円筒座標系(cylindrical coordinates)と言う。円筒座標空間上(rθz 空間上ともいう)で、θ, z を限定しなければ、これは xyz 空間上で円柱を描く。また、円筒座標空間上の特異点は z 軸上の全ての点である。 円筒座標 (r,θ,z) から直交直線座標 (x,y,z) への変換は { x = r cos θ y = r sin θ z = z {\displaystyle {\begin{cases}x=r\cos \theta \\y=r\sin \theta \\z=z\\\end{cases}}} で与えられ、直交直線座標から円筒座標への変換は { r = x 2 + y 2 θ = sgn ( y ) arccos ( x / x 2 + y 2 ) z = z {\displaystyle {\begin{cases}r={\sqrt {x^{2}+y^{2}}}\\\theta =\operatorname {sgn}(y)\arccos(x/{\sqrt {x^{2}+y^{2}}})\\z=z\\\end{cases}}} で与えられる。 3 次元ユークリッド空間 R における極座標系。球面座標系(Spherical coordinates)とも呼ばれる。1 個の動径 r と 2 個の偏角 θ, φ によってなる(図を参照)。球面座標系において、動径を固定し、2 個の偏角を動かせば、xyz 空間上で球を描く。 球座標から直交直線座標への変換は { x = r sin θ cos φ y = r sin θ sin φ z = r cos θ {\displaystyle {\begin{cases}x=r\sin \theta \cos \phi \\y=r\sin \theta \sin \phi \\z=r\cos \theta \\\end{cases}}} で与えられ、直交直線座標から球座標への変換は { r = x 2 + y 2 + z 2 θ = arccos ( z / x 2 + y 2 + z 2 ) φ = sgn ( y ) arccos ( x / x 2 + y 2 ) {\displaystyle {\begin{cases}r={\sqrt {x^{2}+y^{2}+z^{2}}}\\\theta =\arccos(z/{\sqrt {x^{2}+y^{2}+z^{2}}})\\\phi =\operatorname {sgn}(y)\arccos(x/{\sqrt {x^{2}+y^{2}}})\\\end{cases}}} で与えられる。z-軸上 (x,y) = (0,0) において特異性があり、分母がゼロとなるため φ が定まらない。原点においては θ も定まらない。 極座標平面での長方形は、直交座標に於ける扇形の一部となる。特に θ の長さが 2π であれば、直交座標においては円の一部となる。r を 0 から +∞ とすれば、この円は直交座標平面全体となる。従って、直交座標平面全体は、極座標平面に於ける長方形、r × θ = [0, ∞) × [0, 2π) に等しい。以上のことは広義二重積分に於いて有用である。なぜなら上記から、 が導けるからである。この公式は、例えばガウス積分を求めるのに用いられる。 左辺の積分は、このままの状態で解くのは困難だが、右辺の形にすれば、 と解くことができる。
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極座標系とは、n 次元ユークリッド空間 Rn 上で定義され、1 個の動径 r と n − 1 個の偏角 θ1, …, θn−1 からなる座標のことである。点 S(0, 0, x3, …,xn) を除く直交座標系は、局所的に一意的な極座標に座標変換できるが、S においてはヤコビアン が 0 となってしまうから、一意的な極座標表現は不可能である。それは、S に於ける偏角が定義できないことからも明らかである。
{{出典の明記| date = 2021年6月}} '''極座標系'''(きょくざひょうけい、{{lang-en-short|polar coordinate system}})とは、''n'' 次元[[ユークリッド空間]] '''R'''{{sup|''n''}} 上で定義され、1 個の'''動径''' ''r'' と ''n'' &minus; 1 個の'''偏角''' ''θ''{{sub|1}}, …, ''θ''{{sub|''n''&minus;1}} からなる[[座標]]のことである。点 S(0, 0, ''x''{{sub|3}}, …,''x{{sub|n}}'') を除く[[直交座標系]]は、[[局所]]的に一意的な極座標に座標変換できるが、S においては[[ヤコビアン]] が 0 となってしまうから、一意的な極座標表現は不可能である。それは、S に於ける偏角が定義できないことからも明らかである。 == いろいろな極座標とその拡張 == === 円座標 === 2 次元ユークリッド空間 '''R'''{{sup|2}} における極座標は円座標({{lang-en-short|circular coordinates}})と呼ばれ、一つの動径座標と一つの角度座標からなる、最も単純な極座標である。''rθ'' 平面、極座標平面(または平面極座標<ref>[[小出昭一郎]] 『物理入門コース2 解析力学』 1-1〜1-3節、[[岩波書店]]、1983年</ref>)ともいう。特異点は (''r'', ''θ'') = (0, ''θ'') 即ち、''xy''座標での原点 (''x'', ''y'') = (0, 0) である。2 次元実ベクトル空間にも定義できることから、[[複素数]][[可換体|体]] '''C''' 上にも定義できる。この時、円座標を'''極形式'''と呼んだりもする。その場合、[[オイラーの公式]]を利用して ''z'' = ''re{{sup|iθ}}'' と表す。円座標平面上で偏角を限定しなければ、これは''xy''平面上で[[円 (数学)|円]]を描く。 円座標 {{math|(''r'',''&theta;'')}} から直交直線座標 {{math|(''x'',''y'')}} への変換は {{Indent| <math>\begin{cases} x =r\cos\theta \\ y =r\sin\theta \\ \end{cases}</math> }} で与えられる。角度座標の範囲を {{math|&minus;&pi; < ''&theta;'' &le; &pi;}} とする場合の直交直線座標から円座標への変換は {{Indent| <math>\begin{cases} r =\sqrt{x^2 +y^2} \\ \theta =\sgn(y) \arccos(x/\sqrt{x^2+y^2}) \\ \end{cases}</math> }} で与えられる。ここで {{math|sgn}} は[[符号関数]]である。原点 {{math|1=(''x'',''y'') = (0,0)}} において特異性があり、分母がゼロとなるため {{mvar|&theta;}} が定まらない。 === 円筒座標 === {{Main|円筒座標系}} 円座標で (0, 0) を除く ''xy'' 平面上の全ての点を表現できるから、これに ''z'' 軸を加えれば、''xyz'' 空間が表現できる。これを[[円筒座標|円筒座標系]]({{lang-en-short|cylindrical coordinate system}})と言う。円筒座標空間上(''rθz'' 空間上ともいう)で、''θ'', ''z'' を限定しなければ、これは ''xyz'' 空間上で[[円柱 (数学)|円柱]]を描く。また、円筒座標空間上の特異点は ''z'' 軸上の全ての点である。 円筒座標 {{math|(''r'',''&theta;'',''z'')}} から直交直線座標 {{math|(''x'',''y'',''z'')}} への変換は {{Indent| <math>\begin{cases} x =r\cos\theta \\ y =r\sin\theta \\ z =z \\ \end{cases} </math> }} で与えられ、直交直線座標から円筒座標への変換は {{Indent| <math>\begin{cases} r =\sqrt{x^2+y^2} \\ \theta = \sgn(y) \arccos(x/\sqrt{x^2+y^2}) \\ z =z \\ \end{cases} </math> }} で与えられる。 === 球座標 === {{Main|球面座標系}} [[Image:3D_Spherical.svg|thumb|right|250px|球座標による3次元ユークリッド空間内の点の表示]] 3 次元ユークリッド空間 '''R'''{{sup|3}} における極座標系。[[球面座標系]]({{lang-en-short|spherical coordinate system}})とも呼ばれる。1 個の動径 ''r'' と 2 個の偏角 ''θ'', ''φ'' によってなる(図を参照)。[[球面座標系]]において、動径を固定し、2 個の偏角を動かせば、''xyz'' 空間上で[[球面|球]]を描く。 球座標から直交直線座標への変換は {{Indent| <math>\begin{cases} x =r\sin\theta \cos\phi \\ y =r\sin\theta \sin\phi \\ z =r\cos\theta \\ \end{cases}</math> }} で与えられ、直交直線座標から球座標への変換は {{Indent| <math>\begin{cases} r =\sqrt{x^2+y^2+z^2} \\ \theta =\arccos(z/\sqrt{x^2+y^2+z^2}) \\ \phi =\sgn(y) \arccos(x/\sqrt{x^2+y^2}) \\ \end{cases}</math> }} で与えられる。{{mvar|z}}-軸上 {{math|1=(''x'',''y'') = (0,0)}} において特異性があり、分母がゼロとなるため {{mvar|&phi;}} が定まらない。原点においては {{mvar|&theta;}} も定まらない。 {{Main|球面座標系}} == 積分への応用 == 極座標平面での[[長方形]]は、直交座標に於ける[[円 (数学)|扇形]]の一部となる。特に ''θ'' の長さが 2''π'' であれば、直交座標においては[[円 (数学)|円]]の一部となる。''r'' を 0 から +∞ とすれば、この円は直交座標平面全体となる。従って、直交座標平面全体は、極座標平面に於ける長方形、''r'' × ''θ'' = [0, ∞) × [0, 2''π'') に等しい。以上のことは広義[[二重積分]]に於いて有用である。なぜなら上記から、 :<math>\int_{-\infty}^{\infty} dx \int_{-\infty}^{\infty} dy f(x,y) = \int_0^{2\pi} d\theta \int_0^{\infty} dr \, r f(r\cos \theta, r\sin \theta )</math> が導けるからである。この公式は、例えば[[ガウス積分]]を求めるのに用いられる。 :<math>\int_{-\infty}^{\infty} dx \int_{-\infty}^{\infty} dy \, e^{-(x^2 +y^2 )} = \int_0^{2\pi} d\theta \int^{\infty}_0 dr \, r e^{-r^2}</math> 左辺の積分は、このままの状態で解くのは困難だが、右辺の形にすれば、 :<math>\int_0^{2\pi} d\theta \int^{\infty}_0 dr \, r e^{-r^2} = 2 \pi \times (-1/2) e^{-r^2} \Big|_{0}^{\infty} = \pi</math> と解くことができる。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == *[[直交座標系]] *[[斜交座標系]] *[[ベクトル解析の公式の一覧]] {{Normdaten}} [[Category:座標|きよくさひようけい]] [[Category:数学に関する記事|きよくさひようけい]]
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直交座標系
直交座標系(ちょっこうざひょうけい、英: rectangular coordinate system, 英: orthogonal coordinate system)とは、互いに直交している座標軸を指定することによって定まる座標系のことである。平面上の直交座標系ではそれぞれの点に対して一意に定まる二つの実数の組によって点の位置が指定される。同様にして空間上の直交座標系では三つの実数の組によって座標が与えられる。 1637年に発表された『方法序説』において平面上の座標の概念を確立したルネ・デカルトの名を採ってデカルト座標系 (Cartesian coordinate system) とも呼ぶ。 まず平面上に数直線を一本引く。この直線を x 軸と呼ぶことにする。x 軸に対して直角に直線を引いた直線上の全ての点は、同じ x 座標の値をとると定める。次にこの x 軸に対して、原点から直角にもう一本数直線を引く。これを y 軸と呼ぶことにする。y 軸も x 軸と同様に y 軸に対して直角に直線を引いた直線上の全ての点は、同じ y 座標の値をとると定める。 座標軸の向きには任意性があるが、普通y軸の正の向きはx軸の正の向きから一直角分反時計回りに回転した向き(右手系)にとられる。また、x軸は水平方向に右の方向を正の向きにして描かれるのが普通であり、そのときy軸は垂直方向に上の方向を正の向きとすることになる。 平面上の点それぞれについて実数の対 (a, b) が一意的に定まり、その点を通ってx 軸上の点 a においてx軸と直角に交わる直線と、 その点を通ってy 軸に b で直角に交わる直線を各一本のみ引くことが出来る。このときこの点の座標は (a, b) であるという。x軸とy軸が交わる点は原点とよばれ、原点の座標は (0, 0) になる。 x 座標とy 座標とがともに正の値をとる点からなる領域は第一象限とよばれる。また、x 座標が負でy 座標が正の値をとる点からなる領域は第二象限、x 座標とy 座標とがともに負の値をとる点からなる領域は第三象限、x 座標が正でy 座標が負の値をとる点からなる領域は第四象限とよばれる。 3次元空間の直交座標系は空間内で互いに直交する3本の数直線 x軸、 y軸、z軸を決めることによって定められる。平面の場合と同様にして、空間のそれぞれの点に対しその点から各座標軸への垂線の交点を表す実数たちの組 (a, b, c) によって座標が与えられる。三つの軸の向きは右手系の向きにとられるのが普通である。また、x軸とy軸を含む平面(xy-平面)が水平で、z軸の向きはxy-平面に対し鉛直上向きとなるように各座標軸が配置されることが多い。 右図では三本の線が座標軸を表しており、赤い平面上の点はx座標が1であり、黄色い平面上の点はy座標が -1、青い平面上の点はz座標が1である。黒い点の座標は (1, -1, 1) になる。 より一般に、d次元の実内積空間 E に対し、その正規直交基底 (e1, ..., ed) に関する座標は直交座標系とよばれる。
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直交座標系とは、互いに直交している座標軸を指定することによって定まる座標系のことである。平面上の直交座標系ではそれぞれの点に対して一意に定まる二つの実数の組によって点の位置が指定される。同様にして空間上の直交座標系では三つの実数の組によって座標が与えられる。 1637年に発表された『方法序説』において平面上の座標の概念を確立したルネ・デカルトの名を採ってデカルト座標系 とも呼ぶ。
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圧力
圧力(あつりょく、英: pressure)とは、 圧力 P の大きさを表す場合は、単位面積あたりに働く力で表わす。面積を S、力を F とすれば 国際単位系における圧力の単位は、パスカルである。1 Pa = 1 N/m である。また歴史的には、水銀柱の(水銀面の)高さ、バールなどでも表している。 静止している流体内の1点で働く圧力は方向によらず一定であり、これを静水圧と言う。 圧力には、絶対真空(絶対零圧力)を基準(ゼロ)とする絶対圧と、大気圧を基準(ゼロ)とするゲージ圧(相対圧)とがある。 圧力を測定する装置を「圧力計」(英:pressure meter、pressure gauge)といい、次のようなものが代表的である。また、圧力計は液位計としても利用される。 圧力をかけたり変化させたりすることで、以下のような性質を示す物質がある。 分子運動論では圧力Pはビリアルの定理から で求まる。上式で、 ⟨ ⋅ ⟩ {\displaystyle \langle \cdot \rangle } は統計的な平均、右辺()内第一項は粒子の全運動エネルギーの和、第二項は粒子間に働く力( = − ∂ φ / ∂ r → i {\displaystyle =-{{\partial \phi }/{\partial {\vec {r}}_{i}}}} )と粒子の座標との積の和である。i は粒子の指標。mi は粒子の質量。 r → i {\displaystyle {\vec {r}}_{i}} は粒子 i の位置ベクトル。 φ {\displaystyle \phi \,} はポテンシャル。V は系の体積。 熱力学において平衡状態の系の圧力 P はエネルギーの体積V による偏微分で表される: または である。ここでU は内部エネルギー、S はエントロピー、F はヘルムホルツの自由エネルギー、T は絶対温度。 この熱力学的な定義は、局所非平衡状態や非平衡定常状態にも拡張することができ、冒頭で述べた単位面積当たりの力という力学的な定義による圧力と等しい。 バンド計算でのより具体的な圧力(ストレス)の求め方は、ニールセンとマーティンによる論文などがある。 高圧力のことを高圧と省略して呼称することが多いが、これでは例えば電圧の高圧であったり誤謬が生ずる恐れがある。高圧力と呼ぶほうがより正確である。高圧力とはどの程度の圧力から上のことを呼ぶのか、については特に明確な基準は存在しない。たとえば高圧ガス保安法での高圧力には1 MPa(約10気圧)に基準があるものと思われる。 一方、物理や化学の分野ではこれも各分野によってイメージはそれぞれでやはり確かな判断基準はない。圧力下における物理・化学の実験的研究に関する分野では下記のようなダイヤモンドアンビルセルを用いることで発生できる圧力領域あたりからが超高圧と呼ばれているようである。つまり圧力値では10万気圧あたりが境界になるであろう。 超高圧力実験装置にはプレス型とダイヤモンドアンビルセルを使ったものとに二分できる。 プレス型は、ピストンシリンダーなどを使って生じた圧力を油圧(直接加圧する場合もあり)で伝達して試料を押す。発生可能な圧力の大まかな目安は数万気圧(数 GPa)である。比較的広い圧力発生空間を確保することができ、多彩な物性測定実験が可能となっている。 ダイヤモンドアンビルセル (Diamond Anvil Cell: DAC) は、天然または人工合成のダイヤモンドを使って超高圧力を実現するもので、小型(手のひらサイズ)で、透明(光学的な観測が可能)であり、サブテラパスカル(数百万気圧、数百GPa)までの加圧が可能である。一方、ダイヤモンドそのものが大型化できないので、試料は大変小さなものにしなければならない。ダイヤモンド以外に、サファイア、炭化ケイ素を使ったアンビルセルもあるが、加圧できる圧力はダイヤモンドよりも劣る。 上記の高圧力実験は通常、静的な圧力発生によるものが前提であるが、動的に圧力を加える実験として衝撃圧縮実験がある。達成可能な圧力値は衝撃圧縮によるもののほうが一般的に高い。 他に非等方的な圧力実験の試みもある。 「圧力」は、比喩的に人を威圧して従わせようとする力も指すことがある。
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圧力とは、 物体の表面あるいは内部の任意の面に向かい垂直に押す力のこと。 (比喩)人を威圧して従わせようとする力のこと。
{{出典の明記|date=2011年6月}} {{物理量 |名称=圧力 |英語=pressure |記号=''P'' |次元= |L=-1 |M=1 |T=-2 |階=[[スカラー (物理学)|スカラー]] または 2階[[テンソル]] |SI=[[パスカル (単位)|パスカル]] (Pa) |CGS=[[バール (単位)|バール]] (bar) |FPS=[[パウンダル]]毎[[平方インチ]] (pdl/sq in) |MKSG=[[重量キログラム毎平方メートル]] (kgf/m{{sup|2}}) |CGSG=[[重量グラム毎平方センチメートル]] (gf/cm{{sup|2}}) |FPSG=[[重量ポンド毎平方インチ]] (psi) }} {{Thermodynamics sidebar}} '''圧力'''(あつりょく、{{lang-en-short|pressure}})とは、 * [[物体]]の[[表面]]あるいは内部の任意の[[面]]に向かい[[垂直]]に押す[[力 (物理学)|力]]のこと<ref name="britanica">ブリタニカ国際百科事典【圧力】</ref>。 *(比喩)人を威圧して従わせようとする力のこと<ref name="koujien">広辞苑 第六版【圧力】</ref>。 == 概説 == 圧力 {{mvar|P}} の大きさを表す場合は、単位[[面積]]あたりに働く力で表わす<ref name="britanica" />。面積を {{mvar|S}}、力を {{mvar|F}} とすれば :<math>P = F / S.</math> [[国際単位系]]における圧力の[[単位]]は、[[パスカル (単位)|パスカル]]である。1 Pa = 1 N/m{{sup|2}} である。また歴史的には、[[水銀柱ミリメートル|水銀柱の(水銀面の)高さ]]、[[バール (単位)|バール]]などでも表している。 静止している流体内の1点で働く圧力は方向によらず一定であり、これを[[静水圧]]と言う<ref name="britanica" />。 圧力には、絶対[[真空]](絶対零圧力)を基準(ゼロ)とする[[絶対圧]]と、[[気圧|大気圧]]を基準(ゼロ)とする[[ゲージ圧]](相対圧)とがある。 == 圧力計 == {{main|圧力測定}} [[File:WPGaugeFace.jpg|thumb|left|150px|ブルドン管圧力計の表示板]] 圧力を測定する装置を「圧力計」(英:[[:en:pressure meter|pressure meter]]、pressure gauge)といい、次のようなものが代表的である。また、圧力計は[[液位計]]としても利用される。 ; ブルドン管圧力計 : [[ブルドン管]]の[[弾性変形]]を用いて測定する。 ; ダイヤフラム圧力計 : 流体とブルドン管圧力計との間に[[ダイアフラム]]を設け、受圧部とブルドン 管の間に封入液を充満して圧力の伝達媒体としたもの。 {{-}} == 圧力に関する現象 == 圧力をかけたり変化させたりすることで、以下のような性質を示す物質がある。 ; [[沸点]]、[[融点]]の変化 : → [[相図]] ; [[結晶構造]]の変化 : 圧力によって物質の構造が変化する物質がある。→ [[構造相転移]] ; [[電荷]]の発生、[[電気抵抗]]の変化 : 圧力を加えることで物体の表面に電荷が生じたり([[圧電効果]])、電気抵抗が変化したりする。[[ピエゾ素子|圧電素子]]はガスレンジの着火装置などに利用される。 ; [[磁化]]の変化 : 圧力によって磁化の強さが変化する。→ [[ビラリ現象]] == 理論式 == === 分子運動論 === {{出典の明記|section=1|date=2015年8月}} [[File:Pressure_exerted_by_collisions.svg|thumb|[[粒子論]]的、[[分子運動論]]的な[[モデル (自然科学)|モデル]]で圧力の発生のしくみを表現した図。容器内に気体や液体がある場合に、その多数の分子が高速で容器内を運動、壁面に衝突し跳ね返り、分子の運動方向が変わった分壁面に対して垂直な、押しこむ方向の[[力 (物理学)|力]]が生じる、ということが非常に多数起きている、と考える。]] [[分子運動論]]では圧力''P''は[[ビリアルの定理]]から : <math> P = \left\langle {1 \over 3V} \left(\sum_i { {P_i}^2 \over m_i } - \sum_i r_i { {\partial \phi } \over {\partial \vec{r}_i } } \right) \right\rangle </math> で求まる。上式で、<math> \langle \cdot \rangle </math>は[[統計集団|統計的な平均]]、右辺()内第一項は粒子の全運動エネルギーの和、第二項は粒子間に働く力(<math>= - { {\partial \phi } / {\partial \vec{r}_i } } </math>)と粒子の座標との積の和である。{{mvar|i}} は粒子の指標。{{mvar|m<sub>i</sub>}} は粒子の質量。<math> \vec{r}_i </math>は粒子 {{mvar|i}} の[[位置ベクトル]]。<math> \phi \, </math>は[[ポテンシャル]]。{{mvar|V}} は系の体積。 === 熱力学 === [[熱力学]]において[[熱力学的平衡|平衡状態]]の系の圧力 {{mvar|P}} はエネルギーの体積{{mvar|V}} による偏微分で表される: :<math>P:=-\frac{\partial U(S,V)}{\partial V},</math> または : <math> P = - { {\partial F(T,V)} \over {\partial V} } </math> である<ref>{{cite|和書 |editor= |author=田崎晴明 |title=熱力学 現代的な視点から |edition= |publisher=培風館 |year=2000 |isbn=4-563-02432-5 |page=51}}</ref>。ここで{{mvar|U}} は[[内部エネルギー]]、{{mvar|S}} は[[エントロピー]]、{{mvar|F}} は[[ヘルムホルツの自由エネルギー]]、{{mvar|T}} は絶対温度。 この熱力学的な定義は、局所非平衡状態や非平衡[[定常状態]]にも拡張することができ、冒頭で述べた単位面積当たりの力という力学的な定義による圧力と等しい<ref name=shimizu>{{cite|和書 |editor= |author=清水明 |title=熱力学の基礎I |edition=2 |publisher=東京大学出版会 |year=2021 |isbn=978-4-13-062622-4 |pages=100,166,291}}</ref>。 === バンド計算 === {{出典の明記|section=1|date=2015年8月}} [[バンド計算]]でのより具体的な圧力(ストレス)の求め方は、ニールセンとマーティンによる論文<ref>O. H. Nielsen and R. M. Martin, Phys. Rev. B'''32''' (1985) 3780.</ref><ref>O. H. Nielsen and R. M. Martin, Phys. Rev. B'''32''' (1985) 3792.</ref>などがある。 == 超高圧力下の実験 == 高圧力のことを高圧と省略して呼称することが多いが、これでは例えば[[電圧]]の[[高圧 (電気)|高圧]]であったり誤謬が生ずる恐れがある。高圧力と呼ぶほうがより正確である。高圧力とはどの程度の圧力から上のことを呼ぶのか、については特に明確な基準は存在しない。たとえば[[高圧ガス保安法]]での高圧力には1 [[パスカル (単位) |MPa]](約10[[気圧]])に基準があるものと思われる。 一方、[[物理]]や[[化学]]の分野ではこれも各分野によってイメージはそれぞれでやはり確かな判断基準はない。圧力下における物理・化学の[[実験]]的[[研究]]に関する分野では下記のような[[ダイヤモンドアンビルセル]]を用いることで発生できる圧力領域あたりからが超高圧と呼ばれているようである。つまり圧力値では10万気圧あたりが境界になるであろう。 超高圧力実験装置にはプレス型と[[ダイヤモンドアンビルセル]]を使ったものとに二分できる。 プレス型は、ピストンシリンダーなどを使って生じた圧力を[[油圧]](直接加圧する場合もあり)で伝達して試料を押す。発生可能な圧力の大まかな目安は数万気圧(数 GPa)である。比較的広い圧力発生空間を確保することができ、多彩な[[物性]]測定実験が可能となっている。 ダイヤモンドアンビルセル (Diamond Anvil Cell: DAC) は、[[自然|天然]]または[[合成ダイヤモンド|人工合成]]の[[ダイヤモンド]]を使って超高圧力を実現するもので、小型(手のひらサイズ)で、透明([[光学]]的な観測が可能)であり、サブテラパスカル(数百万気圧、数百GPa)までの加圧が可能である。一方、ダイヤモンドそのものが大型化できないので、試料は大変小さなものにしなければならない。ダイヤモンド以外に、[[サファイア]]、[[炭化ケイ素]]を使ったアンビルセルもあるが、加圧できる圧力はダイヤモンドよりも劣る。 上記の高圧力実験は通常、静的な圧力発生によるものが前提であるが、動的に圧力を加える実験として[[衝撃]]圧縮実験がある。達成可能な圧力値は衝撃圧縮によるもののほうが一般的に高い。 他に非等方的な圧力実験の試みもある。 == 比喩的用法 == 「圧力」は、比喩的に人を威圧して従わせようとする力も指すことがある。 * [[利益団体|圧力団体]] - 自分らの利権のためにさまざまな手法を用いて他の人々を威圧するような団体を指してこう呼ぶこともある。 * [[脅し]]、[[恐怖政治]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Pressure}} {{Wikidata property}} * [[特別:検索/intitle:圧力|「圧力」を含む記事名一覧]] ** [[圧力測定]] ** [[圧力の比較]] * [[ボイル=シャルルの法則]] * [[気圧]]、[[大気圧]] * [[水圧]] * [[油圧]] * [[与圧]] * [[応力]] * [[全圧]] * [[分圧]] * [[化学]] * [[張力]] * [[物性物理学]] * [[電圧]] - 「押す力」ではないが「圧」の字が用いられる。 {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あつりよく}} [[Category:圧力|*]] [[Category:物理量]] [[Category:状態量]]
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沸点
沸点(ふってん、英語: boiling point)とは、液体の飽和蒸気圧が外圧と等しくなる温度である。沸騰点または沸騰温度(英語: boiling temperature)ともいう。沸騰している液体の温度は、沸点にほぼ等しい。 純物質の沸点は、一定の外圧のもとでは、その物質に固有の値となる。例えば外圧が 1.00 気圧 のときの水の沸点は 100.0 °C であり、酸素の沸点は −183.0 °C である。外圧が変われば同じ液体でも沸点は変わる。一般に、外圧が高くなると沸点は上がり、低くなると沸点は下がる。例えば外圧が 2.00 気圧になると水の沸点は 120.6 °C まで上昇し、外圧が 0.64 気圧になると 87.9 °C まで降下する。 外圧を指定しないで単に沸点というときには、1 気圧すなわち 101325Pa のときの沸点を指していうことが多い。1 気圧のときの沸点であることを明示するときには normal boiling point (NBP, 標準沸点、通常沸点)という。また、1 バールすなわち 100000Pa のときの沸点を standard boiling point (SBP, 標準沸点)という。日本語で標準沸点というときには NBP を指していうことが多いが、SBP を指していうこともある。NBP と SBP の差は小さい。例えば水の NBP は 99.97 °C で SBP は 99.61 °C である。 液体が気体に変化する現象を、一般に気化 (vaporization) という。沸騰と蒸発はどちらも気化の一種である。液体の表面から気化が起こる現象を蒸発 (evaporation) という。それに対して、液体の表面からだけでなく、液体の内部からも気化が起こる現象を沸騰 (boiling) という。液体の内部で気化が起こると、気化した蒸気が液体の内部に気泡を生じる。蒸発では気泡は生じない。よって、液体が沸騰しているのか、それとも蒸発しているだけなのかは、気泡の発生の有無で見分けることができる。液体から気泡が絶え間なく湧き上がるように発生するなら、その液体は沸騰している。 沸騰している液体の温度は、その液体の沸点にほぼ等しい。一定の外圧のもとでは純物質の沸点は物質固有の値であるので、純物質が一定の外圧のもとで穏やかに沸騰している間は、その液体の温度は一定に保たれる。 沸騰は、沸点より低い温度では決して起こらない。それに対して蒸発は、沸点より低い温度でも起こる。水に濡れた食器や衣服が 100 °C よりも低い温度で乾くのは、水が沸騰するからではなく、水が蒸発するからである。蒸発は沸点より低い温度でも起こるので、沸点を「液体が蒸発して気体に変化するときの温度」と解釈するのは誤りで、「液体が沸騰して気体に変化するときの温度」と解釈するのが正しい。これは、融点を「固体が溶解して液体に変化するときの温度」と解釈するのが誤りで、「固体が融解して液体に変化するときの温度」と解釈するのが正しいのと似ている。 沸点は、しばしば「液体が沸騰しはじめるときの温度」と説明される。しかし、一定の外圧のもとで液体を加熱していくとき、沸点を超えても沸騰が始まらずにそのまま液体の温度が上昇し続けることがある。この現象を過熱 (superheating) という。過熱された液体を過熱液体という。過熱液体の見た目は沸点以下の通常の液体と同じで見分けがつかないが、過熱液体をさらに加熱し続けると液体が突然吹き上がる。この現象を突沸(とっぷつ、bumping)という。突沸の後は、沸点まで液体の温度が下がる。過熱液体の突沸は、加熱を止めた後でも起こりうる。たとえば、過熱液体に振動を与えたり、温度計を差し込んだり、沸騰石やその他の異物を投入したりすると突沸を起こしやすい。この場合でも、突沸直後の液体の温度は沸点まで下がる。突沸により液体の温度が下がるのは、気化熱のためである。 過熱が起こるのは、液体の表面張力のためである。一般に液体中の気泡内部の圧力は、気泡を包む液体の表面張力のため、外圧よりも高くなる。この圧力差は表面張力に比例し、気泡の半径に反比例する。それゆえ沸点では (飽和蒸気圧) = (外圧) < (気泡内部の圧力) となるので、もし気泡内部に蒸気しか含まれないとしたら、蒸気の圧力だけでは気泡を支えることができないため、小さな気泡はつぶれてしまう。液体中で蒸気の気泡を発生させるには、気泡内部に蒸気以外の気体が多少なりとも含まれているか、あるいは気泡を包む周りの液体が多少なりとも過熱されていなければならない。 過熱を防ぎ、沸点で液体を沸騰させるためには、あらかじめ液体に沸騰石を入れておいてから加熱するとよい。あるいは、撹拌子(かくはんし)などで液体を撹拌しながら加熱してもよい。沸騰石や撹拌子の役割は、気泡の核を作ることである。ひとたび気泡の核が生成すると、気泡内の蒸気の分圧が飽和蒸気圧になるまで液体が気泡内に気化し、目に見える大きさにまで気泡が成長する。液体が外部から得た熱のすべてが気泡の成長に必要な気化熱として使われるなら、液体の温度は上がることも下がることもない。すなわち、液体から気泡が絶え間なく湧き上がるように発生している間は、その液体の温度は沸点にほぼ等しい。 温度一定の条件下で、液体とその蒸気が気液平衡にあるときの蒸気の分圧を、その温度における飽和蒸気圧という。飽和蒸気圧を温度の関数として表した曲線を蒸気圧曲線という。蒸気圧曲線のグラフから、ある外圧の下での沸点を読み取ることができる。例えば、外圧が 70 kPa (700 hPa) のときの水の沸点が知りたいなら、グラフの圧力 70 kPa に水平線を引き、この直線が水の蒸気圧曲線にぶつかるところで垂線を引くと温度が 90 °C と読み取れる。よって、外圧が 70 kPa のときの水の沸点は 90 °C である。 純物質の液体であれば温度が高くなると飽和蒸気圧も高くなるので、温度を横軸としたときの蒸気圧曲線は右上がりの曲線となる。そのため、外圧が高くなると沸点は上がり、低くなると沸点は下がる。例えば、調理用の圧力鍋を使うと外圧を 2 気圧程度にできる。このとき、鍋に入れた水の沸点は 120 °C 程度まで上昇する。また、高地などの気圧が低いところでは、水が 100 °C より低い温度で沸騰することが知られている。標高が 1000 m 高くなるにつれて気圧は約 100 hPa 下降するので、標高 3000 m の山の上での沸点は 90 °C となることが水の蒸気圧曲線から分かる。 温度が高くなるほど飽和蒸気圧が高くなるといっても、温度上昇とともに蒸気圧曲線が際限なく伸びていくわけではない。純物質の蒸気圧曲線には終わりの点がある。この点を臨界点という。つまり飽和蒸気圧には上限がある。この上限の圧力を臨界圧力といい、飽和蒸気圧が臨界圧力に達したときの温度を臨界温度という。臨界圧力より高い外圧に対しては、沸点は存在しない。よって臨界圧力より高い圧力の下では、液体は決して沸騰しない。臨界圧力より高い圧力の下で液体を加熱し続けると、相転移することなく、超臨界流体と呼ばれる状態になる。 液体に不揮発性の物質が溶けているとき、この溶液の飽和蒸気圧は、一般に元の純粋な液体の飽和蒸気圧よりも低くなる。この現象を蒸気圧降下という。これに伴って、圧力を縦軸としたときの溶液の蒸気圧曲線は、元の蒸気圧曲線から下にずれる。そのため、外圧が同じであれば、この溶液の沸点は一般に元の純粋な液体の沸点よりも高くなる。この現象を沸点上昇という。例えば食塩水やショ糖水溶液の沸点は、食塩やショ糖が不揮発性なので、純粋な水の沸点よりも高くなる。それに対して、液体に揮発性の物質や気体が溶けているときの溶液の沸点は、元の液体の沸点より低くなることもあれば高くなることもある。例えば、水にアンモニアを溶かしたアンモニア水の沸点は水よりも低く、水に塩化水素を溶かした希塩酸の沸点は水より高い。 純物質の沸騰と同じ理由により、一定の外圧の下で沸騰しているときの溶液の温度は、溶液の沸点とほぼ等しい。ただし純物質のときとは違って、大抵の場合は沸騰し続けるうちに溶液の温度が少しずつ上昇していく。これは、沸騰により液体の組成が変化していくからである。溶媒と溶質が同じでも濃度が違えば溶液の沸点は違うので、沸騰により溶液の濃度が変化すると沸点も変化し、その結果として溶液の温度も変化する。例えば、NaClの質量パーセント濃度が 14 wt% のNaCl水溶液を 1 気圧の外圧の下で加熱していくと、103 °C で沸騰が始まる。この温度が 14 wt% 食塩水の 1 気圧における沸点である。沸騰により溶液から水が水蒸気として逃げていくのに対して、食塩は不揮発性だから溶液中にとどまる。そのため、水の量が気化して減るにつれて塩分濃度が高くなる。沸点は濃い食塩水ほど高くなるから、したがって、沸騰し続けると食塩水の温度は 103 °C から少しずつ上昇する。食塩水の量が初めの量の半分くらいになると飽和食塩水になり、水に溶けきれなくなった食塩が固体として析出してくる。このときの温度は 109 °C で、これが飽和食塩水の 1 気圧における沸点である。固体が析出し始めた後は、気化する水の量と同じ割合で食塩が溶液から析出する。そのため塩分濃度はそれ以上変わらず、よって沸点も変わらないので、沸騰中の溶液の温度は一定に保たれるようになる。 溶液の濃度が変化したときに、溶液の沸点がどのように変化するかを表した図を沸点図という。沸点図は相図の一種であり、通常は沸点を表す曲線とともに露点(混合気体が凝縮しはじめるときの温度)を表す曲線が描かれている。例として、水とアンモニアの混合物の沸点図を示す。この図で横軸はアンモニアの質量パーセント濃度であり、グラフの左端 (0 wt%) は純水な水、右端 (100 wt%) は純粋なアンモニアである。赤い実線は沸点を表し、黒い破線は露点を表す。あるいは赤い実線が沸騰のはじまる温度を表し、黒い破線が沸騰の終わる温度を表すと考えてもよい。このグラフから、例えば25 wt% のアンモニア水の 1 気圧における沸点が 37 °C であり、アンモニアガスと水蒸気の質量比が 25 : 75 の混合気体の露点が 91 °C であることが読み取れる。食塩水の場合とは異なり、アンモニア水は沸騰が始まってから終わるまで液温が一定になることなく常に上がり続ける。25 wt% のアンモニア水を 1 気圧の外圧の下で加熱すると 37 °C で沸騰が始まり、液体が少なくなるにつれて液温が上昇し、最後の一滴が気化する直前の液温は、理論上は 91 °C になる。また、沸点が 91 °C になる濃度を沸点図から読み取ると 2 ないし 3 wt% であり、この最後の一滴の質量パーセント濃度が 2-3 wt% であることも分かる。 塩酸の沸点図は、アンモニア水の沸点図と比べると、少し複雑である。沸点を表す曲線が低濃度側で大きく持ち上がり、20 wt% で露点を表す曲線に接している。また、露点を表す曲線も少し持ち上がっていて、沸点と露点が一致する濃度において、沸点も露点も極大値となっている。溶液の沸点と露点が一致するということは、沸騰が始まってから終わるまで溶液の組成と温度がどちらも一定に保たれるということを意味する。一般に、沸騰する際の混合物の組成が液相と気相で同じになる現象を共沸という。共沸する溶液を共沸混合物という。水と塩化水素の混合物である塩酸では、1 気圧の下では塩化水素の濃度が 20.22 wt% のとき共沸混合物となり、108.6 °C で沸騰する。この温度は 1 気圧の水-塩化水素系の沸点の極大値であり、純水の沸点よりも高い。他の共沸化合物の例としては水とエタノールの混合物がよく知られている。1 気圧の水-エタノール系では、エタノールの質量パーセント濃度が 96.0 wt% のとき沸点が極小となって共沸する。このときの沸点は、純エタノールの沸点よりもわずかに低く、78.15 °C である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "沸点(ふってん、英語: boiling point)とは、液体の飽和蒸気圧が外圧と等しくなる温度である。沸騰点または沸騰温度(英語: boiling temperature)ともいう。沸騰している液体の温度は、沸点にほぼ等しい。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "純物質の沸点は、一定の外圧のもとでは、その物質に固有の値となる。例えば外圧が 1.00 気圧 のときの水の沸点は 100.0 °C であり、酸素の沸点は −183.0 °C である。外圧が変われば同じ液体でも沸点は変わる。一般に、外圧が高くなると沸点は上がり、低くなると沸点は下がる。例えば外圧が 2.00 気圧になると水の沸点は 120.6 °C まで上昇し、外圧が 0.64 気圧になると 87.9 °C まで降下する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "外圧を指定しないで単に沸点というときには、1 気圧すなわち 101325Pa のときの沸点を指していうことが多い。1 気圧のときの沸点であることを明示するときには normal boiling point (NBP, 標準沸点、通常沸点)という。また、1 バールすなわち 100000Pa のときの沸点を standard boiling point (SBP, 標準沸点)という。日本語で標準沸点というときには NBP を指していうことが多いが、SBP を指していうこともある。NBP と SBP の差は小さい。例えば水の NBP は 99.97 °C で SBP は 99.61 °C である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "液体が気体に変化する現象を、一般に気化 (vaporization) という。沸騰と蒸発はどちらも気化の一種である。液体の表面から気化が起こる現象を蒸発 (evaporation) という。それに対して、液体の表面からだけでなく、液体の内部からも気化が起こる現象を沸騰 (boiling) という。液体の内部で気化が起こると、気化した蒸気が液体の内部に気泡を生じる。蒸発では気泡は生じない。よって、液体が沸騰しているのか、それとも蒸発しているだけなのかは、気泡の発生の有無で見分けることができる。液体から気泡が絶え間なく湧き上がるように発生するなら、その液体は沸騰している。", "title": "沸騰と蒸発と気化" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "沸騰している液体の温度は、その液体の沸点にほぼ等しい。一定の外圧のもとでは純物質の沸点は物質固有の値であるので、純物質が一定の外圧のもとで穏やかに沸騰している間は、その液体の温度は一定に保たれる。", "title": "沸騰と蒸発と気化" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "沸騰は、沸点より低い温度では決して起こらない。それに対して蒸発は、沸点より低い温度でも起こる。水に濡れた食器や衣服が 100 °C よりも低い温度で乾くのは、水が沸騰するからではなく、水が蒸発するからである。蒸発は沸点より低い温度でも起こるので、沸点を「液体が蒸発して気体に変化するときの温度」と解釈するのは誤りで、「液体が沸騰して気体に変化するときの温度」と解釈するのが正しい。これは、融点を「固体が溶解して液体に変化するときの温度」と解釈するのが誤りで、「固体が融解して液体に変化するときの温度」と解釈するのが正しいのと似ている。", "title": "沸騰と蒸発と気化" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "沸点は、しばしば「液体が沸騰しはじめるときの温度」と説明される。しかし、一定の外圧のもとで液体を加熱していくとき、沸点を超えても沸騰が始まらずにそのまま液体の温度が上昇し続けることがある。この現象を過熱 (superheating) という。過熱された液体を過熱液体という。過熱液体の見た目は沸点以下の通常の液体と同じで見分けがつかないが、過熱液体をさらに加熱し続けると液体が突然吹き上がる。この現象を突沸(とっぷつ、bumping)という。突沸の後は、沸点まで液体の温度が下がる。過熱液体の突沸は、加熱を止めた後でも起こりうる。たとえば、過熱液体に振動を与えたり、温度計を差し込んだり、沸騰石やその他の異物を投入したりすると突沸を起こしやすい。この場合でも、突沸直後の液体の温度は沸点まで下がる。突沸により液体の温度が下がるのは、気化熱のためである。", "title": "過熱" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "過熱が起こるのは、液体の表面張力のためである。一般に液体中の気泡内部の圧力は、気泡を包む液体の表面張力のため、外圧よりも高くなる。この圧力差は表面張力に比例し、気泡の半径に反比例する。それゆえ沸点では", "title": "過熱" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "(飽和蒸気圧) = (外圧) < (気泡内部の圧力)", "title": "過熱" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "となるので、もし気泡内部に蒸気しか含まれないとしたら、蒸気の圧力だけでは気泡を支えることができないため、小さな気泡はつぶれてしまう。液体中で蒸気の気泡を発生させるには、気泡内部に蒸気以外の気体が多少なりとも含まれているか、あるいは気泡を包む周りの液体が多少なりとも過熱されていなければならない。", "title": "過熱" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "過熱を防ぎ、沸点で液体を沸騰させるためには、あらかじめ液体に沸騰石を入れておいてから加熱するとよい。あるいは、撹拌子(かくはんし)などで液体を撹拌しながら加熱してもよい。沸騰石や撹拌子の役割は、気泡の核を作ることである。ひとたび気泡の核が生成すると、気泡内の蒸気の分圧が飽和蒸気圧になるまで液体が気泡内に気化し、目に見える大きさにまで気泡が成長する。液体が外部から得た熱のすべてが気泡の成長に必要な気化熱として使われるなら、液体の温度は上がることも下がることもない。すなわち、液体から気泡が絶え間なく湧き上がるように発生している間は、その液体の温度は沸点にほぼ等しい。", "title": "過熱" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "温度一定の条件下で、液体とその蒸気が気液平衡にあるときの蒸気の分圧を、その温度における飽和蒸気圧という。飽和蒸気圧を温度の関数として表した曲線を蒸気圧曲線という。蒸気圧曲線のグラフから、ある外圧の下での沸点を読み取ることができる。例えば、外圧が 70 kPa (700 hPa) のときの水の沸点が知りたいなら、グラフの圧力 70 kPa に水平線を引き、この直線が水の蒸気圧曲線にぶつかるところで垂線を引くと温度が 90 °C と読み取れる。よって、外圧が 70 kPa のときの水の沸点は 90 °C である。", "title": "蒸気圧曲線と沸点" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "純物質の液体であれば温度が高くなると飽和蒸気圧も高くなるので、温度を横軸としたときの蒸気圧曲線は右上がりの曲線となる。そのため、外圧が高くなると沸点は上がり、低くなると沸点は下がる。例えば、調理用の圧力鍋を使うと外圧を 2 気圧程度にできる。このとき、鍋に入れた水の沸点は 120 °C 程度まで上昇する。また、高地などの気圧が低いところでは、水が 100 °C より低い温度で沸騰することが知られている。標高が 1000 m 高くなるにつれて気圧は約 100 hPa 下降するので、標高 3000 m の山の上での沸点は 90 °C となることが水の蒸気圧曲線から分かる。", "title": "蒸気圧曲線と沸点" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "温度が高くなるほど飽和蒸気圧が高くなるといっても、温度上昇とともに蒸気圧曲線が際限なく伸びていくわけではない。純物質の蒸気圧曲線には終わりの点がある。この点を臨界点という。つまり飽和蒸気圧には上限がある。この上限の圧力を臨界圧力といい、飽和蒸気圧が臨界圧力に達したときの温度を臨界温度という。臨界圧力より高い外圧に対しては、沸点は存在しない。よって臨界圧力より高い圧力の下では、液体は決して沸騰しない。臨界圧力より高い圧力の下で液体を加熱し続けると、相転移することなく、超臨界流体と呼ばれる状態になる。", "title": "蒸気圧曲線と沸点" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "液体に不揮発性の物質が溶けているとき、この溶液の飽和蒸気圧は、一般に元の純粋な液体の飽和蒸気圧よりも低くなる。この現象を蒸気圧降下という。これに伴って、圧力を縦軸としたときの溶液の蒸気圧曲線は、元の蒸気圧曲線から下にずれる。そのため、外圧が同じであれば、この溶液の沸点は一般に元の純粋な液体の沸点よりも高くなる。この現象を沸点上昇という。例えば食塩水やショ糖水溶液の沸点は、食塩やショ糖が不揮発性なので、純粋な水の沸点よりも高くなる。それに対して、液体に揮発性の物質や気体が溶けているときの溶液の沸点は、元の液体の沸点より低くなることもあれば高くなることもある。例えば、水にアンモニアを溶かしたアンモニア水の沸点は水よりも低く、水に塩化水素を溶かした希塩酸の沸点は水より高い。", "title": "溶液の沸点" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "純物質の沸騰と同じ理由により、一定の外圧の下で沸騰しているときの溶液の温度は、溶液の沸点とほぼ等しい。ただし純物質のときとは違って、大抵の場合は沸騰し続けるうちに溶液の温度が少しずつ上昇していく。これは、沸騰により液体の組成が変化していくからである。溶媒と溶質が同じでも濃度が違えば溶液の沸点は違うので、沸騰により溶液の濃度が変化すると沸点も変化し、その結果として溶液の温度も変化する。例えば、NaClの質量パーセント濃度が 14 wt% のNaCl水溶液を 1 気圧の外圧の下で加熱していくと、103 °C で沸騰が始まる。この温度が 14 wt% 食塩水の 1 気圧における沸点である。沸騰により溶液から水が水蒸気として逃げていくのに対して、食塩は不揮発性だから溶液中にとどまる。そのため、水の量が気化して減るにつれて塩分濃度が高くなる。沸点は濃い食塩水ほど高くなるから、したがって、沸騰し続けると食塩水の温度は 103 °C から少しずつ上昇する。食塩水の量が初めの量の半分くらいになると飽和食塩水になり、水に溶けきれなくなった食塩が固体として析出してくる。このときの温度は 109 °C で、これが飽和食塩水の 1 気圧における沸点である。固体が析出し始めた後は、気化する水の量と同じ割合で食塩が溶液から析出する。そのため塩分濃度はそれ以上変わらず、よって沸点も変わらないので、沸騰中の溶液の温度は一定に保たれるようになる。", "title": "溶液の沸点" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "溶液の濃度が変化したときに、溶液の沸点がどのように変化するかを表した図を沸点図という。沸点図は相図の一種であり、通常は沸点を表す曲線とともに露点(混合気体が凝縮しはじめるときの温度)を表す曲線が描かれている。例として、水とアンモニアの混合物の沸点図を示す。この図で横軸はアンモニアの質量パーセント濃度であり、グラフの左端 (0 wt%) は純水な水、右端 (100 wt%) は純粋なアンモニアである。赤い実線は沸点を表し、黒い破線は露点を表す。あるいは赤い実線が沸騰のはじまる温度を表し、黒い破線が沸騰の終わる温度を表すと考えてもよい。このグラフから、例えば25 wt% のアンモニア水の 1 気圧における沸点が 37 °C であり、アンモニアガスと水蒸気の質量比が 25 : 75 の混合気体の露点が 91 °C であることが読み取れる。食塩水の場合とは異なり、アンモニア水は沸騰が始まってから終わるまで液温が一定になることなく常に上がり続ける。25 wt% のアンモニア水を 1 気圧の外圧の下で加熱すると 37 °C で沸騰が始まり、液体が少なくなるにつれて液温が上昇し、最後の一滴が気化する直前の液温は、理論上は 91 °C になる。また、沸点が 91 °C になる濃度を沸点図から読み取ると 2 ないし 3 wt% であり、この最後の一滴の質量パーセント濃度が 2-3 wt% であることも分かる。", "title": "溶液の沸点" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "塩酸の沸点図は、アンモニア水の沸点図と比べると、少し複雑である。沸点を表す曲線が低濃度側で大きく持ち上がり、20 wt% で露点を表す曲線に接している。また、露点を表す曲線も少し持ち上がっていて、沸点と露点が一致する濃度において、沸点も露点も極大値となっている。溶液の沸点と露点が一致するということは、沸騰が始まってから終わるまで溶液の組成と温度がどちらも一定に保たれるということを意味する。一般に、沸騰する際の混合物の組成が液相と気相で同じになる現象を共沸という。共沸する溶液を共沸混合物という。水と塩化水素の混合物である塩酸では、1 気圧の下では塩化水素の濃度が 20.22 wt% のとき共沸混合物となり、108.6 °C で沸騰する。この温度は 1 気圧の水-塩化水素系の沸点の極大値であり、純水の沸点よりも高い。他の共沸化合物の例としては水とエタノールの混合物がよく知られている。1 気圧の水-エタノール系では、エタノールの質量パーセント濃度が 96.0 wt% のとき沸点が極小となって共沸する。このときの沸点は、純エタノールの沸点よりもわずかに低く、78.15 °C である。", "title": "溶液の沸点" } ]
沸点とは、液体の飽和蒸気圧が外圧と等しくなる温度である。沸騰点または沸騰温度ともいう。沸騰している液体の温度は、沸点にほぼ等しい。 純物質の沸点は、一定の外圧のもとでは、その物質に固有の値となる。例えば外圧が 1.00 気圧 のときの水の沸点は 100.0 ℃ であり、酸素の沸点は −183.0 ℃ である。外圧が変われば同じ液体でも沸点は変わる。一般に、外圧が高くなると沸点は上がり、低くなると沸点は下がる。例えば外圧が 2.00 気圧になると水の沸点は 120.6 ℃ まで上昇し、外圧が 0.64 気圧になると 87.9 ℃ まで降下する。 外圧を指定しないで単に沸点というときには、1 気圧すなわち 101325Pa のときの沸点を指していうことが多い。1 気圧のときの沸点であることを明示するときには normal boiling point という。また、1 バールすなわち 100000Pa のときの沸点を standard boiling point という。日本語で標準沸点というときには NBP を指していうことが多いが、SBP を指していうこともある。NBP と SBP の差は小さい。例えば水の NBP は 99.97 ℃ で SBP は 99.61 ℃ である。
[[File:Alkanschmelzundsiedepunkt.svg|thumb|right|220px|直鎖[[アルカン]]の沸点(縦軸・赤)はアルカンの[[炭素]]数(横軸)が増えると単調に増加する。縦軸の単位は [[℃]] で青は[[凝固点]]。]] '''沸点'''(ふってん、{{Lang-en|boiling point}})とは、[[液体]]の飽和[[蒸気圧]]が外圧<ref group=注>液体の[[表面]]にかかる[[圧力]]のこと。</ref>と等しくなる[[温度]]である<ref name=atkins122>[[#アトキンス第8版|アトキンス第8版]] p. 122.</ref>。'''沸騰点'''または'''沸騰温度'''({{Lang-en|boiling temperature}})ともいう。[[沸騰]]している液体の温度は、沸点にほぼ等しい。 [[純物質]]の沸点は、一定の外圧のもとでは、その物質に固有の値となる。例えば外圧が 1.00 [[気圧#単位としての気圧|気圧]] のときの[[水]]の沸点は 100.0 ℃ であり、[[酸素]]の沸点は &minus;183.0 ℃ である<ref name=fluidprop>特記ない限り本文中の沸点は次のサイトに依る: {{Cite web|url=http://webbook.nist.gov/chemistry/fluid/|title=Thermophysical Properties of Fluid Systems|publisher=[[NIST]]|accessdate=2016-9-30}}</ref>。外圧が変われば同じ液体でも沸点は変わる。一般に、外圧が高くなると沸点は上がり、低くなると沸点は下がる。例えば外圧が 2.00 気圧になると水の沸点は 120.6 ℃ まで上昇し、外圧が 0.64 気圧になると 87.9 ℃ まで降下する。 外圧を指定しないで単に沸点というときには、1 気圧すなわち {{gaps|101|325|[[パスカル (単位)|Pa]]}} のときの沸点を指していうことが多い。1 気圧のときの沸点であることを明示するときには {{en|normal boiling point}} (NBP, 標準沸点<ref>[[#竹内 (1996)|竹内 (1996)]] p. 117.</ref>、通常沸点<ref name=atkins122 />)という。また、1 [[バール (単位)|バール]]すなわち {{gaps|100|000|Pa}} のときの沸点を {{en|standard boiling point}} (SBP, 標準沸点<ref name=atkins122></ref>)という。日本語で標準沸点というときには NBP を指していうことが多いが、SBP を指していうこともある。NBP と SBP の差は小さい。例えば水の NBP は 99.97 ℃<ref group=注>100.00 ℃ではない。[[水の性質#物理的性質]]を参照。</ref><ref>理科年表では約99.974 ℃としている。理科年表、平成26年版、p.397注)、丸善出版、2013年11月30日発行。</ref> で SBP は 99.61 ℃ である。 == 沸騰と蒸発と気化 == 液体が[[気体]]に変化する現象を、一般に'''[[気化]]''' ({{en|vaporization}}) という。[[沸騰]]と[[蒸発]]はどちらも気化の一種である。液体の[[表面]]から気化が起こる現象を'''蒸発''' ({{en|evaporation}}) という。それに対して、液体の表面からだけでなく、液体の内部からも気化が起こる現象を'''沸騰''' ({{en|boiling}}) という。液体の内部で気化が起こると、気化した[[蒸気]]が液体の内部に[[気泡]]を生じる。蒸発では気泡は生じない。よって、液体が沸騰しているのか、それとも蒸発しているだけなのかは、気泡の発生の有無で見分けることができる<ref group=注>[[炭酸飲料]]を開栓してグラスに注ぐと、気泡が発生する。この現象も気化の一種であるが、気泡の主成分は[[溶質]]が気化したもの(二酸化炭素)であり[[溶媒]]の蒸気(水蒸気)はわずかしか含まれないため、通常は沸騰とは言わない。</ref>。液体から気泡が絶え間なく湧き上がるように発生するなら、その液体は沸騰している。 沸騰している液体の温度は、その液体の沸点にほぼ等しい。一定の外圧のもとでは[[純物質]]の沸点は物質固有の値であるので、純物質が一定の外圧のもとで穏やかに沸騰している間は、その液体の温度は一定に保たれる。 沸騰は、沸点より低い温度では決して起こらない。それに対して蒸発は、沸点より低い温度でも起こる。水に濡れた食器や衣服が 100 ℃ よりも低い温度で乾くのは、水が沸騰するからではなく、水が蒸発するからである。蒸発は沸点より低い温度でも起こるので、沸点を「液体が蒸発して気体に変化するときの温度」と解釈するのは誤りで、「液体が沸騰して気体に変化するときの温度」と解釈するのが正しい。これは、[[融点]]を「[[固体]]が[[溶解]]して液体に変化するときの温度」と解釈するのが誤りで、「固体が[[融解]]して液体に変化するときの温度」と解釈するのが正しいのと似ている。 == 過熱 == 沸点は、しばしば「液体が沸騰しはじめるときの温度」<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B2%B8%E7%82%B9-619390 デジタル大辞泉『沸点』]</ref>と説明される。しかし、一定の外圧のもとで液体を加熱していくとき、沸点を超えても沸騰が始まらずにそのまま液体の温度が上昇し続けることがある。この現象を'''[[過熱 (相転移)|過熱]]'''<ref group=注>過加熱ともいう。</ref> ({{en|superheating}}) という。過熱された液体を過熱液体という。過熱液体の見た目は沸点以下の通常の液体と同じで見分けがつかないが、過熱液体をさらに加熱し続けると液体が突然吹き上がる。この現象を'''[[突沸]]'''(とっぷつ、{{en|bumping}})という。突沸の後は、沸点まで液体の温度が下がる。過熱液体の突沸は、加熱を止めた後でも起こりうる。たとえば、過熱液体に振動を与えたり、温度計を差し込んだり、[[沸騰石]]やその他の異物を投入したりすると突沸を起こしやすい。この場合でも、突沸直後の液体の温度は沸点まで下がる。突沸により液体の温度が下がるのは、[[気化熱]]のためである。 過熱が起こるのは、液体の[[表面張力]]のためである。一般に液体中の気泡内部の圧力は、気泡を包む液体の表面張力のため、外圧よりも高くなる。この圧力差は表面張力に比例し、気泡の半径に反比例する<ref>[[#甲藤 (2005)|甲藤 (2005)]] p.16.</ref>。それゆえ沸点では {{Indent|1=(飽和蒸気圧) = (外圧) < (気泡内部の圧力)}} となるので、もし気泡内部に蒸気しか含まれないとしたら、蒸気の圧力だけでは気泡を支えることができないため、小さな気泡はつぶれてしまう。液体中で蒸気の気泡を発生させるには、気泡内部に蒸気以外の気体が多少なりとも含まれているか、あるいは気泡を包む周りの液体が多少なりとも過熱されていなければならない。 過熱を防ぎ、沸点で液体を沸騰させるためには、あらかじめ液体に沸騰石を入れておいてから加熱するとよい。あるいは、[[撹拌子]](かくはんし)などで液体を撹拌しながら加熱してもよい。沸騰石や撹拌子の役割は、気泡の核を作ることである。ひとたび気泡の核が生成すると、気泡内の蒸気の[[分圧]]が飽和蒸気圧になるまで液体が気泡内に気化し、目に見える大きさにまで気泡が成長する。液体が外部から得た熱のすべてが気泡の成長に必要な気化熱として使われるなら、液体の温度は上がることも下がることもない。すなわち、液体から気泡が絶え間なく湧き上がるように発生している間は、その液体の温度は沸点にほぼ等しい。 == 蒸気圧曲線と沸点 == [[File:Vapor pressure of water (kPa - C).PNG|thumb|水の蒸気圧曲線。この図から、外圧が 70 kPa (700 hPa) のときの水の沸点が 90 ℃ であることが読み取れる。]] 温度一定の条件下で、液体とその蒸気が[[気液平衡]]にあるときの蒸気の[[分圧]]を、その温度における[[飽和蒸気圧]]という<ref group=注>平衡蒸気圧ともいう。飽和蒸気圧は単に蒸気圧と呼ばれることが多いが、液体と気液平衡になっていないときの蒸気の分圧を指して蒸気圧ということもある。[https://kotobank.jp/word/%E8%92%B8%E6%B0%97%E5%9C%A7-78980 コトバンク『蒸気圧』]</ref>。飽和蒸気圧を温度の関数として表した曲線を'''蒸気圧曲線'''という。蒸気圧曲線のグラフから、ある外圧の下での沸点を読み取ることができる。例えば、外圧が 70 kPa (700 hPa) のときの水の沸点が知りたいなら、グラフの圧力 70 kPa に水平線を引き、この直線が水の蒸気圧曲線にぶつかるところで垂線を引くと温度が 90 ℃ と読み取れる。よって、外圧が 70 kPa のときの水の沸点は 90 ℃ である。 純物質の液体であれば温度が高くなると飽和蒸気圧も高くなる<ref group=注>熱力学的には、[[クラウジウス・クラペイロンの式]]で説明できる。</ref>ので、温度を横軸としたときの蒸気圧曲線は右上がりの曲線となる。そのため、外圧が高くなると沸点は上がり、低くなると沸点は下がる。例えば、調理用の[[圧力鍋]]を使うと外圧<ref group=注>鍋の外の圧力ではなく、鍋に入れた液体の表面にかかる圧力である。</ref>を 2 気圧程度にできる。このとき、鍋に入れた水の沸点は 120 ℃ 程度まで上昇する。また、高地などの[[気圧]]が低いところでは、水が 100 ℃ より低い温度で沸騰することが知られている。[[標高]]が 1000 [[メートル|m]] 高くなるにつれて気圧は約 100 hPa 下降するので、標高 3000 m の山の上での沸点は 90 ℃ となることが水の蒸気圧曲線から分かる。 温度が高くなるほど飽和蒸気圧が高くなるといっても、温度上昇とともに蒸気圧曲線が際限なく伸びていくわけではない。純物質の蒸気圧曲線には終わりの点がある。この点を[[臨界点]]という。つまり飽和蒸気圧には上限がある。この上限の圧力を臨界圧力といい、飽和蒸気圧が臨界圧力に達したときの温度を臨界温度という。臨界圧力より高い外圧に対しては、沸点は存在しない。よって臨界圧力より高い圧力の下では、液体は決して沸騰しない。臨界圧力より高い圧力の下で液体を加熱し続けると、[[相転移]]することなく、[[超臨界流体]]と呼ばれる状態になる。 == 溶液の沸点 == 液体に不揮発性の物質<ref group=注>気体になりにくい物質のこと。</ref>が[[溶解|溶けている]]とき、この[[溶液]]の飽和蒸気圧は、一般に元の純粋な液体の飽和蒸気圧よりも低くなる。この現象を[[蒸気圧降下]]という。これに伴って、圧力を縦軸としたときの溶液の蒸気圧曲線は、元の蒸気圧曲線から下にずれる。そのため、外圧が同じであれば、この[[溶液]]の沸点は一般に元の純粋な液体の沸点よりも高くなる。この現象を[[沸点上昇]]という。例えば[[食塩水]]や[[ショ糖]]水溶液の沸点は、[[食塩]]やショ糖が不揮発性なので、純粋な水の沸点よりも高くなる。それに対して、液体に揮発性の物質<ref group=注>気体になりやすい物質のこと。</ref>や気体が溶けているときの溶液の沸点は、元の液体の沸点より低くなることもあれば高くなることもある。例えば、水に[[アンモニア]]を溶かした[[アンモニア水]]の沸点は水よりも低く、水に[[塩化水素]]を溶かした[[希塩酸]]の沸点は水より高い。 純物質の沸騰と同じ理由により、一定の外圧の下で沸騰しているときの溶液の温度は、溶液の沸点とほぼ等しい。ただし純物質のときとは違って、大抵の場合は沸騰し続けるうちに溶液の温度が少しずつ上昇していく<ref group=注>気化した蒸気を逃さず凝縮させて元の液体に戻すなら温度は一定に保たれる([[還流]])。</ref>。これは、沸騰により液体の組成が変化していくからである。[[溶媒]]と[[溶質]]が同じでも[[濃度]]が違えば溶液の沸点は違うので、沸騰により溶液の濃度が変化すると沸点も変化し、その結果として溶液の温度も変化する。例えば、[[塩化ナトリウム|NaCl]]の[[質量パーセント濃度]]が 14 wt% のNaCl水溶液を 1 気圧の外圧の下で加熱していくと、103 ℃ で沸騰が始まる。この温度が 14 wt% 食塩水の 1 気圧における沸点である<ref name="brine">[[#Clarke and Glew (1985)|Clarke and Glew (1985)]] p. 523, TABLE 18 B.</ref>。沸騰により溶液から水が水蒸気として逃げていくのに対して、食塩は不揮発性だから溶液中にとどまる。そのため、水の量が気化して減るにつれて塩分濃度が高くなる。沸点は濃い食塩水ほど高くなるから、したがって、沸騰し続けると食塩水の温度は 103 ℃ から少しずつ上昇する。食塩水の量が初めの量の半分くらいになると[[飽和食塩水]]になり、水に溶けきれなくなった食塩が固体として[[析出]]してくる。このときの温度は 109 ℃ で、これが飽和食塩水の 1 気圧における沸点である<ref name="brine"></ref>。固体が析出し始めた後は、気化する水の量と同じ割合で食塩が溶液から析出する。そのため塩分濃度はそれ以上変わらず、よって沸点も変わらないので、沸騰中の溶液の温度は一定に保たれるようになる。 [[File:VLE H2O NH3.svg|thumb|1 気圧における水とアンモニアの混合物の沸点図。赤い実線は沸点を表し、黒い破線が露点を表す。]] 溶液の濃度が変化したときに、溶液の沸点がどのように変化するかを表した図を'''沸点図'''という<ref>[[#バーロー第5版|バーロー第5版]] p. 421.</ref>。沸点図は[[相図]]の一種であり、通常は沸点を表す曲線<ref group=注>気液平衡にある[[液相]]の組成を表す線なので液相線という。</ref>とともに'''[[露点]]'''(混合気体が凝縮しはじめるときの温度)を表す曲線<ref group=注>気液平衡にある[[気相]]の組成を表す線なので気相線という。</ref>が描かれている。例として、水とアンモニアの混合物の沸点図を示す。この図で横軸はアンモニアの質量パーセント濃度であり、グラフの左端 (0 wt%) は純水な水、右端 (100 wt%) は純粋なアンモニアである。赤い実線は沸点を表し、黒い破線は露点を表す。あるいは赤い実線が沸騰のはじまる温度を表し、黒い破線が沸騰の終わる温度を表すと考えてもよい。このグラフから、例えば25 wt% のアンモニア水の 1 気圧における沸点が 37 ℃ であり、アンモニアガスと水蒸気の質量比が 25 : 75 の混合気体の露点が 91 ℃ であることが読み取れる。食塩水の場合とは異なり、アンモニア水は沸騰が始まってから終わるまで液温が一定になることなく常に上がり続ける。25 wt% のアンモニア水を 1 気圧の外圧の下で加熱すると 37 ℃ で沸騰が始まり、液体が少なくなるにつれて液温が上昇し、最後の一滴が気化する直前の液温は、理論上は 91 ℃ になる。また、沸点が 91 ℃ になる濃度を沸点図から読み取ると 2 ないし 3 wt% であり、この最後の一滴の質量パーセント濃度が 2-3 wt% であることも分かる。 [[File:Phase diagram HCl H2O l v.PNG|thumb|水と塩化水素の混合物の沸点図。20 wt% を少し超えた濃度で沸点と露点が一致している。]] 塩酸の沸点図は、アンモニア水の沸点図と比べると、少し複雑である。沸点を表す曲線が低濃度側で大きく持ち上がり、20 wt% で露点を表す曲線に接している。また、露点を表す曲線も少し持ち上がっていて、沸点と露点が一致する濃度において、沸点も露点も極大値となっている。溶液の沸点と露点が一致するということは、沸騰が始まってから終わるまで溶液の組成と温度がどちらも一定に保たれるということを意味する。一般に、沸騰する際の混合物の組成が液相と気相で同じになる現象を'''[[共沸]]'''という。共沸する溶液を共沸混合物という。水と塩化水素の混合物である塩酸では、1 気圧の下では塩化水素の濃度が 20.22 wt% のとき共沸混合物となり、108.6 ℃ で沸騰する<ref name=rikagakujiten>「共沸」『岩波理化学辞典』、第5版CD-ROM版、岩波書店、1999年。</ref>。この温度は 1 気圧の水-塩化水素系の沸点の極大値であり、純水の沸点よりも高い。他の共沸化合物の例としては水と[[エタノール]]の混合物がよく知られている。1 気圧の水-エタノール系では、エタノールの質量パーセント濃度が 96.0 wt% のとき沸点が極小となって共沸する。このときの沸点は、純エタノールの沸点よりもわずかに低く、78.15 ℃ である<ref name=rikagakujiten></ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author=竹内敬人 |title=化学の基礎 |publisher=[[岩波書店]] |year=1996 |isbn=4-00-007981-6 |ref=竹内 (1996) }} *{{Cite book|和書 |author=Peter Atkins |author2=Julio de Paula |title=アトキンス物理化学 |publisher=[[東京化学同人]] |edition=第8版 |volume=上 |others=千原秀昭、中村亘男 訳 |year=2009 |isbn=978-4-8079-0695-6 |ref=アトキンス第8版 }} *{{Cite journal |和書 |author = 甲藤好郎 |title = 沸騰の科学 (2) |date = 2005-07 |publisher = 日本伝熱学会 |journal = 伝熱 |volume = 44 |issue = (7月号) |naid = 10019038488 |pages = 15-20 |ref = 甲藤 (2005)}} *{{Cite journal |author = E. C. W. Clarke |author2 = D. N. Glew |year = 1985 |title = Evaluation of the Thermodynamic Functions for Aqueous Sodium Chloride from Equilibrium and Calorimetric Measurements below 154 °C |journal = Journal of Physical and Chemical Reference Data |volume = 14 |issue = 2 |pages = 489-610 |doi = 10.1063/1.555730 |url = https://srd.nist.gov/JPCRD/jpcrd272.pdf |format = PDF |accessdate = 2016-10-07 |ref = Clarke and Glew (1985) }} *{{Cite book|和書 |author=G. M. Barrow |title=バーロー物理化学 |publisher=東京化学同人 |edition=第5版 |volume=上 |others=藤代亮一 訳 |year=1990 |isbn=4-8079-0327-6 |ref=バーロー第5版 }} == 関連項目 == {{Wikidata property}} * [[凝固点]] * [[凝固点降下]] * [[相図]] {{物質の状態}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふつてん}} [[Category:温度]] [[Category:物質の性質]] [[Category:液体]] [[Category:気体]]
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ダイビング
ダイビング (diving) /ダイブ(dive)は「飛び込み」のことで、広義には水泳競技での飛び込み種目からスカイダイビングまで含まれる。
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ダイビング (diving) /ダイブ(dive)は「飛び込み」のことで、広義には水泳競技での飛び込み種目からスカイダイビングまで含まれる。 飛込競技 潜水   スポーツダイビング - 競技(潜水等を競う)の1種、毎年全日本スポーツダイビング室内選手権大会等の試合が催されている。 スクーバダイビング スカイダイビング モッシュダイブ - 観客やアーティストが、ステージ上など高いところから客席など他の観客の上へ飛び込む行為 。 サッカーにおいて、故意に転倒しファウルを受けたと見せかけ審判を欺く行為。広くシミュレーションと言われるが、特にペナルティエリア内あるいは付近でPKを獲得するために飛び込むように転倒する行為を指す。ダイビング (サッカー)を参照 DIVE (坂本真綾のアルバム) - 坂本真綾のアルバム。 Dive - Mr.Childrenの楽曲。アルバム「深海」に収録。 DIVE - V6の楽曲。シングル「VIBES」に収録。 DIVE - 大久保海太がヴォーカルを務めるバンド「OKBQT VERY LIFE」のシングル。 DIVE - B'zの楽曲。シングル「イチブトゼンブ/DIVE」に収録。 Dive - MAN WITH A MISSIONの楽曲。シングル「Seven Deadly Sins」に収録。 DIVE! - 優木せつ菜の楽曲。シングル「Dream with You/Poppin' Up!/DIVE!」に収録。 Dive! - アメリカのドキュメンタリー映画。 DIVE!! - 森絵都の小説、またそれを原作とした漫画・映画。飛込選手の青春ドラマ・小説。 DIIV - ダイヴ (バンド) - アメリカ・ニューヨークのインディー・ロックバンド 近未来・SF作品における、精神・感覚投入。精神感応能力者のサイコダイブ(精神探査)、フルダイブ格闘ゲームなど。 キッチンDIVE - 東京都江東区亀戸に所在する弁当屋。 ダイブ (企業)
'''ダイビング''' ('''diving''') /'''ダイブ'''('''dive''')は「飛び込み」のことで、広義には[[水泳]]競技での[[飛込競技|飛び込み]]種目から[[スカイダイビング]]まで含まれる。 {{Wiktionary|dive}} * [[飛込競技]] * [[潜水]]   * スポーツダイビング - 競技(潜水等を競う)の1種、毎年全日本スポーツダイビング室内選手権大会等の試合が催されている。 * [[スクーバダイビング]] * [[スカイダイビング]] * [[モッシュダイブ]] - 観客やアーティストが、ステージ上など高いところから客席など他の観客の上へ飛び込む行為 <ref>{{Cite web|和書|title=モッシュ/ダイブの歴史を探る【前篇】 |url=https://www.redbull.com/jp-ja/mosh-dive |website=Red Bull |access-date=2022-10-30 |language=ja}}</ref>。 * [[サッカー]]において、故意に転倒しファウルを受けたと見せかけ審判を欺く行為。広く[[シミュレーション]]と言われるが、特に[[ペナルティエリア]]内あるいは付近で[[ペナルティーキック|PK]]を獲得するために飛び込むように転倒する行為を指す。[[ダイビング (サッカー)]]を参照 ;ダイブ・ダイヴ * [[DIVE (坂本真綾のアルバム)]] - [[坂本真綾]]の[[アルバム]]。 * Dive - [[Mr.Children]]の楽曲。アルバム「[[深海 (アルバム)|深海]]」に収録。 * DIVE - [[V6 (グループ)|V6]]の楽曲。シングル「[[VIBES (V6のシングル)|VIBES]]」に収録。 * [[DIVE (OKBQT VERY LIFEの曲)]] - [[大久保海太]]が[[ボーカル|ヴォーカル]]を務めるバンド「OKBQT VERY LIFE」のシングル。 * DIVE - [[B'z]]の楽曲。[[シングル]]「[[イチブトゼンブ/DIVE]]」に収録。 * Dive - [[MAN WITH A MISSION]]の楽曲。シングル「[[Seven Deadly Sins]]」に収録。 * DIVE! - [[優木せつ菜]]の楽曲。シングル「[[Dream with You/Poppin' Up!/DIVE!]]」に収録。 * [[Dive!]] - [[アメリカ]]の[[ドキュメンタリー映画]]。 * [[DIVE!!]] - [[森絵都]]の[[小説]]、またそれを原作とした[[漫画]]・[[映画]]。飛込選手の[[青春ドラマ]]・[[小説]]。 * DIIV - [[ダイヴ (バンド)]] - アメリカ・ニューヨークのインディー・ロックバンド * 近未来・[[サイエンス・フィクション|SF]]作品における、精神・感覚投入。精神感応能力者のサイコダイブ(精神探査)、フルダイブ[[格闘ゲーム]]など。 * [[キッチンDIVE]] - [[東京都]][[江東区]][[亀戸]]に所在する[[弁当]]屋。 * [[ダイブ (企業)]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{aimai}} {{デフォルトソート:たいひんく}} [[Category:同名の作品]]
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スキンダイビング
スキンダイビング (skin diving) とは、スクーバなどの水中呼吸装置を使用せず、自分の息だけで潜水することである。素潜り(すもぐり)とほぼ同義。 一般に、素潜りは、海人による伝統的な漁業など、とくになにも装備しないか単純な水中眼鏡程度のみを使用する、生身の身体に近い状態で行う原始的な潜水としての意味合いが強いのに対し、スキンダイビングは、マスク、スノーケル(シュノーケル)、フィンなどの器材を使用する海洋性レクリエーションもしくはウォータースポーツとしての意味合いが強いが、この使い分けは明確に定義されているわけではない。スキンダイビングのうち、より競技性の強いものはフリーダイビングと呼んで区別することが多い。 類似の用語としてスノーケリング(snorkeling)がある。スノーケリングを文字通りに解釈すればスノーケルを使うことであるから、広い意味ではスキンダイビングもスノーケリングに含まれることになり、そのように解釈する事例も多いが、基本的には、潜水か水面遊泳のみかという観点から、スキンダイビングとスノーケリングは区別される。 なお、スクーバダイビングにおいても水面に出た際にはスノーケルで游泳をするから、スキンダイビングはスクーバダイビングの基礎でもあり、習得すべきものである。 呼吸器や循環器に特に疾患・障害が無い健康な成人にとって、適切な器材を使用し、簡単な技術を習得しさえすれば、水深5m程度まで潜水することは、それほど困難なことではない。それ以上は技術的な難度も増し、身体的な要素を含めた素質もある程度必要とされるが、十分な訓練の結果として水深20~30m程度まで潜水できる者も珍しくはない。しかし、水深30mを超える領域は、身体的素質が大きく要求されるとともに、適切なサポートの下での十分な訓練が必要で、それでもなお非常に大きなリスクがある。なお、長時間の潜水は体内の活性酸素を増加させ、老化を早めるという説がある。 最大の欠点は、呼吸を自分の息つぎのみに頼る点で、このために潜水時間が著しく制限される。しかし、スクーバダイビングと比較して、減圧症や肺の過膨張傷害などの危険性はない。厳密に言えば減圧症のリスクはごく僅かながら存在する。
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スキンダイビング とは、スクーバなどの水中呼吸装置を使用せず、自分の息だけで潜水することである。素潜り(すもぐり)とほぼ同義。 一般に、素潜りは、海人による伝統的な漁業など、とくになにも装備しないか単純な水中眼鏡程度のみを使用する、生身の身体に近い状態で行う原始的な潜水としての意味合いが強いのに対し、スキンダイビングは、マスク、スノーケル(シュノーケル)、フィンなどの器材を使用する海洋性レクリエーションもしくはウォータースポーツとしての意味合いが強いが、この使い分けは明確に定義されているわけではない。スキンダイビングのうち、より競技性の強いものはフリーダイビングと呼んで区別することが多い。 類似の用語としてスノーケリング(snorkeling)がある。スノーケリングを文字通りに解釈すればスノーケルを使うことであるから、広い意味ではスキンダイビングもスノーケリングに含まれることになり、そのように解釈する事例も多いが、基本的には、潜水か水面遊泳のみかという観点から、スキンダイビングとスノーケリングは区別される。 なお、スクーバダイビングにおいても水面に出た際にはスノーケルで游泳をするから、スキンダイビングはスクーバダイビングの基礎でもあり、習得すべきものである。
'''スキンダイビング''' ('''skin diving''') とは、[[ダイビング器材#スクーバ器材|スクーバ]]などの水中呼吸装置を使用せず、自分の息だけで[[潜水]]することである。'''素潜り'''(すもぐり)とほぼ同義。 一般に、素潜りは、[[海人]]による伝統的な[[漁業]]など、とくになにも装備しないか単純な水中眼鏡程度のみを使用する、生身の身体に近い状態で行う原始的な潜水としての意味合いが強いのに対し、スキンダイビングは、[[ダイビング器材#マスク|マスク]]、[[シュノーケル|スノーケル(シュノーケル)]]、[[ダイビング器材#フィン|フィン]]などの器材を使用する海洋性レクリエーションもしくはウォータースポーツとしての意味合いが強いが、この使い分けは明確に定義されているわけではない。スキンダイビングのうち、より競技性の強いものは[[フリーダイビング]]と呼んで区別することが多い。 類似の用語として'''[[スノーケリング]]'''('''snorkeling''')がある。スノーケリングを文字通りに解釈すればスノーケルを使うことであるから、広い意味ではスキンダイビングもスノーケリングに含まれることになり、そのように解釈する事例も多いが、基本的には、潜水か[[水面遊泳]]のみかという観点から、スキンダイビングとスノーケリングは区別される。 なお、スクーバダイビングにおいても水面に出た際にはスノーケルで游泳をするから、スキンダイビングはスクーバダイビングの基礎でもあり、習得すべきものである。 == スキンダイビングで潜水可能な深度 == [[呼吸器]]や[[循環器]]に特に[[疾患]]・[[障害]]が無い健康な成人にとって、適切な器材を使用し、簡単な技術を習得しさえすれば、水深5m程度まで潜水することは、それほど困難なことではない。それ以上は技術的な難度も増し、身体的な要素を含めた素質もある程度必要とされるが、十分な訓練の結果として水深20~30m程度まで潜水できる者も珍しくはない。しかし、水深30mを超える領域は、身体的素質が大きく要求されるとともに、適切なサポートの下での十分な訓練が必要で、それでもなお非常に大きなリスクがある。なお、長時間の潜水は体内の[[活性酸素]]を増加させ、老化を早めるという説がある{{要出典|date=2016年9月}}。 最大の欠点は、呼吸を自分の息つぎのみに頼る点で、このために潜水時間が著しく制限される。しかし、[[スクーバダイビング]]と比較して、[[減圧症]]や肺の過膨張傷害などの危険性はない。厳密に言えば減圧症のリスクはごく僅かながら存在する。 == 関連項目 == *[[フリーダイビング]] *[[スクーバダイビング]] *[[テクニカルダイビング]] *[[洞窟潜水]] *[[ジャック・マイヨール]] *[[スピアフィッシング]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すきんたいひんく}} [[Category:ウォータースポーツ]] [[Category:潜水]]
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表面科学
表面科学(ひょうめんかがく、英語:surface science)は表面または界面を扱う自然科学の一分野のこと。理論、実験両面から様々な研究が行われている。物理学を重視した表面科学を特に表面物理学という。 物質の表面は、物質の吸着と脱離、電子的な不安定さ等によって測定することが難しい状態であった。実際に表面の構造が確認できるようになったのは、1950年代に高真空状態にすることで、表面に余計な原子・分子などが付着していない洗浄度を確保できるようになってからである。 表面科学の複雑さから、ノーベル物理学賞受賞者のヴォルフガング・パウリは「固体は神がつくりたもうたが、表面は悪魔がつくった」と言い残している。 固体の表面を構成する原子は、固体内部(バルク、英語:bulk)を構成する原子よりもはるかに数が少ないため、その影響は少ないだろうと見積もられていた。しかし19世紀後半、ポール・サバティエにより不均一触媒の表面が研究され、さらにアーヴィング・ラングミュアにより物質吸着の研究が進められた結果、固体が外部とエネルギーや物質をやり取りする場としての、表面の重要性が明らかになった。20世紀後半には、表面を原子・分子レベルで観察する手法が開発された。これを用いてゲルハルト・エルトルは表面での化学反応を詳細に研究し、「固体表面での化学過程の研究」の功績で2007年にノーベル化学賞を受賞している。 固体物理学ではx、y、z方向へに無限に続く完全結晶を理想的なモデルとして用いているため3方向の並進対称性を仮定できる。しかし、表面または界面がある場合、系の表面に垂直な方向での対称性が破れる。このため表面や界面に特有の現象、例えば電子の表面準位の発生や原子配列の表面再構成などが起こる。また外から飛来した分子は表面に物理吸着あるいは化学吸着する。特に不均一触媒の表面では、吸着した分子の状態が変化し、分子単独では持っていなかったような反応性を得ることもある。 全く同じ物質の表面でも、結晶を切断する面の方向によってその性質は異なる。結晶面はミラー指数によって指定される。例えばSiの単結晶を、ミラー指数が(111)となる格子面に沿って切断した切断面はSi(111)面と呼ばれる。同じSi結晶の表面でも(100)面と(111)面のように、方向が異なれば異なる表面として扱う。固体には並進対称性があるため、整数 k、l、mと単位格子ベクトルa、b、cを用いて、任意の格子点は ka + lb + mcと記述できる。このうちc軸方向を法線とした表面上の格子点は、ka + lbと表せる。すなわち、c軸に垂直な表面はaとbが張る四角形を単位胞とする2次元格子からなる。 バルクの断面と同じ構造の表面を理想表面という。Si(100)面とSi(001)面は方向が異なるが、立方晶であるバルクの対称性がそのまま保たれるとすれば、どちらの断面も等価である。等価な結晶面の集合は、ミラー指数を中括弧で囲んで{100}のように示す。実際の表面が2次元の結晶となっていることは、低速電子線回折 (LEED)、走査型トンネル顕微鏡 (STM)、原子間力顕微鏡 (AFM) などにより確認できる。 理想表面と実際の表面で完全に構造が一致することはまれで、多くの表面では電荷密度の偏りやダングリングボンドに起因する不安定性を緩和するために、原子が理想表面での位置からずれる。このような構造の変化を表面再構成(または再配列)と呼ぶ。表面に吸着した原子や分子が原因で表面再構成が起こることもある。 実際の表面の単位格子ベクトルは、理想表面の単位格子ベクトルの線型結合で表現する。このときの係数を指定すれば、再構成の有無にかかわらず表面の対称性を表現できる。実際には(2×2の行列となる)係数そのものよりも、簡略化したウッドの記法に基づいて「Si(111)-(7×7)」のように表面の対称性を表すことが多い。 表面科学の実験には原理的に避けがたい課題がいくつかある。表面の原子はバルクの原子よりも圧倒的に少ないため、通常の分析手法では表面の信号はバルクの信号に埋もれてしまう。したがって表面の分析を行うためには、表面の信号だけを選択的に測定できるような手法を用いる必要がある。また大気圧下では、気体分子が表面に衝突、吸着、脱離を繰り返しているため、分析対象である表面の状態が測定中にも絶え間なく変化してしまう。そのため実験を超高真空下で、気体分子の量や種類をコントロールして行うことも多い。 固体表面の構造を分析するために、走査型トンネル顕微鏡、原子間力顕微鏡、電子回折、X線回折、透過型電子顕微鏡、走査型電子顕微鏡などが用いられる。また組成を分析するために光電子分光やオージェ電子分光などが用いられる。吸着分子の分析には、上記の方法に加えてケルビンプローブによる仕事関数の測定や各種の振動分光、脱離した分子の質量分析などが行われる。 理論面からの研究にも表面科学に特有の課題がある。表面系のバンド計算や構造最適化では、バルクにも用いられる第一原理計算パッケージが流用される。こういったパッケージでは、実空間法などの例外を除いて、x、y、z方向への周期性が計算の前提となっている。しかし表面では法線方向への周期性が崩れているため、そのままでは計算ができない。そのため、表面のある固体を交互に並んだ原子層と真空層で近似して、法線方向の周期性をモデル系に持たせる近似がよく用いられる(スラブ近似)。また表面-分子系を解析するために、巨大なクラスターの端面として表面をモデル化する場合もある(クラスター模型)。 最近では、ナノテクノロジーブームから、ナノ材料と言われる機能材料の開発に力点がシフトしている。例えば、スピントロニクスや、新しい触媒等の開発を目的に掲げているケースが多い。 そのほか、MOSFET用の絶縁体の開発に関係して、絶縁体表面の研究も盛んである。特にシリコン表面にハフニウム酸化物を薄膜として生成させた系は、誘電率の高いゲート絶縁膜として盛んに研究されている。こうした絶縁膜はhigh-k絶縁膜とも呼ばれ、半導体メーカー各社が熾烈な開発競争を展開している。ハフニウムを用いたhigh-k絶縁膜は、従来のシリコン絶縁膜よりも大幅なトンネル電流の削減に成功しており、これを用いた半導体チップも製造されている。
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表面科学は表面または界面を扱う自然科学の一分野のこと。理論、実験両面から様々な研究が行われている。物理学を重視した表面科学を特に表面物理学という。 物質の表面は、物質の吸着と脱離、電子的な不安定さ等によって測定することが難しい状態であった。実際に表面の構造が確認できるようになったのは、1950年代に高真空状態にすることで、表面に余計な原子・分子などが付着していない洗浄度を確保できるようになってからである。 表面科学の複雑さから、ノーベル物理学賞受賞者のヴォルフガング・パウリは「固体は神がつくりたもうたが、表面は悪魔がつくった」と言い残している。
[[File:Tlk.JPG|thumb|'''テラス・ステップ・キンクモデル'''。('''テラス'''は平坦部分、'''ステップ'''は段差部、'''キンク'''はステップの角である。)'''アドアトム'''は吸着原子とも呼ばれ、[[表面拡散]]によって移動する<ref>[http://www.nature.com/nature/journal/v417/n6892/fig_tab/417907a_F1.html FIGURE 1. The terrace-step-kink (TSK) model of a thin-film surface.]([[ネイチャー]])</ref><ref>[http://www.slab.phys.nagoya-u.ac.jp/uwaha/sato-u97jacg.pdf 表面拡散場中での原子ステップの不安定化](名古屋大学)</ref><ref>[http://jstore.jst.go.jp/PDFView.html?type=research&id=1621&property=researchReportPdfList&index=0 結晶表面に見られる魔法数]</ref>]] '''表面科学'''(ひょうめんかがく、[[英語]]:surface science)は[[表面]]または[[界面]]を扱う自然科学の一分野のこと。[[理論]]、[[実験]]両面から様々な研究が行われている。[[物理学]]を重視した表面科学を特に'''表面物理学'''という。 物質の表面は、物質の吸着と脱離、電子的な不安定さ等によって測定することが難しい状態であった。実際に表面の構造が確認できるようになったのは、1950年代に高[[真空]]状態にすることで、表面に余計な原子・分子などが付着していない洗浄度を確保できるようになってからである<ref>齊藤芳男、「[https://doi.org/10.3131/jvsj2.53.511 真空排気と水]」 『Journal of the Vacuum Society of Japan』 2010年 53巻 9号 p.511-514, {{doi|10.3131/jvsj2.53.511}}, 日本真空学会</ref><ref>実験化学講座〈24〉表面・界面 序文 ISBN 4621073230</ref>。 表面科学の複雑さから、[[ノーベル物理学賞]]受賞者の[[ヴォルフガング・パウリ]]は「固体は神がつくりたもうたが、表面は悪魔がつくった」と言い残している<ref>[http://takahara.ifoc.kyushu-u.ac.jp/%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E8%B3%87%E6%96%99/%E8%A1%A8%E9%9D%A2%E5%8C%96%E5%AD%A61/08hajimeni.pdf 表面化学](九州大学 先導物質化学研究所 高原研究室)</ref><ref>[https://staff.aist.go.jp/w.mizutani/surfacescience 表面科学ってなんだ]([[国立研究開発法人]][[産業技術総合研究所]])</ref><ref>As quoted in Growth, Dissolution, and Pattern Formation in Geosystems (1999) by Bjørn Jamtveit and Paul Meakin, p. 291</ref>。 == 概要 == [[固体]]の表面を構成する[[原子]]は、固体内部([[バルク (界面化学)|バルク]]、英語:bulk)を構成する原子よりもはるかに数が少ないため、その影響は少ないだろうと見積もられていた。しかし19世紀後半、[[ポール・サバティエ]]により[[不均一触媒]]の表面が研究され、さらに[[アーヴィング・ラングミュア]]により物質[[吸着]]の研究が進められた結果、固体が外部と[[エネルギー]]や物質をやり取りする場としての、表面の重要性が明らかになった。20世紀後半には、表面を原子・[[分子]]レベルで観察する手法が開発された。これを用いて[[ゲルハルト・エルトル]]は表面での[[化学反応]]を詳細に研究し、「固体表面での化学過程の研究」の功績で2007年に[[ノーベル化学賞]]を受賞している<ref>{{cite press release|date=10 October 2007|publisher=[[Royal Swedish Academy of Sciences]]|title=The Nobel Prize in Chemistry 2007|url=https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/2007/press-release/}}</ref>。 [[固体物理学]]ではx、y、z方向へに無限に続く[[完全結晶]]を理想的なモデルとして用いているため3方向の[[並進対称性]]を仮定できる。しかし、表面または界面がある場合、系の表面に垂直な方向での[[対称性]]が破れる。このため表面や界面に特有の現象、例えば電子の[[表面準位]]の発生や原子配列の[[表面再構成]]などが起こる。また外から飛来した分子は表面に[[物理吸着]]あるいは[[化学吸着]]する。特に不均一触媒の表面では、吸着した分子の状態が変化し、分子単独では持っていなかったような反応性を得ることもある。 == 結晶の表面 == 全く同じ物質の表面でも、結晶を切断する面の方向によってその性質は異なる。結晶面は[[ミラー指数]]によって指定される。例えば[[ケイ素|Si]]の単結晶を、ミラー指数が(111)となる格子面に沿って切断した切断面はSi(111)面と呼ばれる。同じSi結晶の表面でも(100)面と(111)面のように、方向が異なれば異なる表面として扱う。固体には並進対称性があるため、整数 ''k''、''l''、''m''と単位格子ベクトル'''a'''、'''b'''、'''c'''を用いて、任意の格子点は ''k'''''a''' + ''l'''''b''' + ''m'''''c'''と記述できる。このうちc軸方向を法線とした表面上の格子点は、''k'''''a''' + ''l'''''b'''と表せる。すなわち、c軸に垂直な表面は'''a'''と'''b'''が張る四角形を単位胞とする2次元格子からなる。 バルクの断面と同じ構造の表面を理想表面という。Si(100)面とSi(001)面は方向が異なるが、立方晶であるバルクの対称性がそのまま保たれるとすれば、どちらの断面も等価である。等価な結晶面の集合は、ミラー指数を中括弧で囲んで{100}のように示す。実際の表面が2次元の結晶となっていることは、[[低速電子線回折]] (LEED)、[[走査型トンネル顕微鏡]] (STM)、[[原子間力顕微鏡]] (AFM) などにより確認できる。 理想表面と実際の表面で完全に構造が一致することはまれで、多くの表面では電荷密度の偏りや[[ダングリングボンド]]に起因する不安定性を緩和するために、原子が理想表面での位置からずれる。このような構造の変化を[[表面再構成]](または再配列)と呼ぶ。表面に吸着した原子や分子が原因で表面再構成が起こることもある<ref name="Niehus">{{Cite journal|first=H.|last=Niehus|title=Surface reconstruction of Cu (111) upon oxygen adsorption|journal=Surface Science|volume=130|issue=1|year=1983|month=July|pages=41-49|doi=10.1016/0039-6028(83)90258-3}}</ref>。 実際の表面の単位格子ベクトルは、理想表面の単位格子ベクトルの線型結合で表現する。このときの係数を指定すれば、再構成の有無にかかわらず表面の対称性を表現できる。実際には(2×2の行列となる)係数そのものよりも、簡略化した[[ウッドの記法]]に基づいて「Si(111)-(7<span lang="en">×</span>7)」のように表面の対称性を表すことが多い<ref name="ref1">[[川合眞紀]]・堂免一成 『表面科学・触媒科学への展開』 (岡崎廉治 他編 『岩波講座現代化学への入門』 14巻) [[岩波書店]]、2003年</ref>。 == 主な研究手段 == 表面科学の[[実験]]には原理的に避けがたい課題がいくつかある。表面の原子はバルクの原子よりも圧倒的に少ないため、通常の分析手法では表面の信号はバルクの信号に埋もれてしまう<ref name="ref5">{{Cite book|last=Zangwill|first=Andrew|year=1988|title= Physics at surfaces|publisher = Cambridge University Press|location = New York, NY, USA|isbn=0521347521|page=20}}</ref>。したがって表面の分析を行うためには、表面の信号だけを選択的に測定できるような手法を用いる必要がある。また[[大気圧]]下では、気体分子が表面に衝突、吸着、脱離を繰り返しているため、分析対象である表面の状態が測定中にも絶え間なく変化してしまう<ref name="ref5">{{Cite book|last=Zangwill|first=Andrew|year=1988|title= Physics at surfaces|publisher = Cambridge University Press|location = New York, NY, USA|isbn=0521347521|page=20}}</ref>。そのため実験を[[超高真空]]下で、気体分子の量や種類をコントロールして行うことも多い。 固体表面の構造を分析するために、[[走査型トンネル顕微鏡]]<ref name="ref4">{{Cite journal|first=Y.|last=Hasegawa|coauthors=Ph. Avouris|title=Manipulation of the Reconstruction of the Au(111) Surface with the STM|journal=Science|volume=258|issue=5089|year=1992|month=December|pages=1763-1765|doi=10.1126/science.258.5089.1763}}</ref>、[[原子間力顕微鏡]]<ref name="ref6">{{Cite journal|和書|first=清三|last=森田|coauthors=et al.|title=原子間力顕微鏡によるSiとGe表面での原子操作|journal=表面科学|volume=26|issue=6|year=2005|pages=351-356}}</ref>、[[電子回折]]<ref name="ref7">{{Cite journal|first=J. R.|last= NOONAN|coauthors=H. L. DAVIS|title=Atomic Arrangements at Metal Surfaces|journal=Science|volume=17|year=1986|month=October|pages=310-316|doi=10.1126/science.234.4774.310}}</ref>、[[X線回折]]、[[透過型電子顕微鏡]]<ref name="ref8">{{Cite journal|first=Qingkai|last=Yu|coauthors= et al.|title=Control and characterization of individual grains and grain boundaries in graphene grown by chemical vapour deposition|journal=NATURE MATERIALS|volume=10|year=2011|month=May|pages=443-449|doi=10.1038/nmat3010}}</ref>、[[走査型電子顕微鏡]]などが用いられる。また組成を分析するために[[光電子分光]]や[[オージェ電子分光]]などが用いられる<ref name="ref9">{{Cite journal|first=Jose A.|last=Rodriguez|coauthors= D. Wayne Goodman|title=The Nature of the Metal-Metal Bond in Bimetallic Surfaces|journal=Science|volume=14|year=1992|month=August|pages=897-903|doi=10.1126/science.257.5072.897}}</ref>。吸着分子の分析には、上記の方法に加えてケルビンプローブによる[[仕事関数]]の測定や各種の[[振動分光]]、脱離した分子の[[質量分析]]などが行われる。 理論面からの研究にも表面科学に特有の課題がある。表面系の[[バンド計算]]や[[構造最適化]]では、バルクにも用いられる[[第一原理計算]]パッケージが流用される。こういったパッケージでは、[[実空間法]]などの例外を除いて、x、y、z方向への[[周期性]]が計算の前提となっている。しかし表面では[[法線]]方向への周期性が崩れているため、そのままでは計算ができない。そのため、表面のある固体を交互に並んだ原子層と真空層で近似して、法線方向の周期性をモデル系に持たせる近似がよく用いられる(スラブ近似)<ref name="ref3">{{Cite journal|和書|author=小林 一昭|year=2007|title=(第一原理)バンド計算と実験との距離 |journal=表面科学|volume=28|issue=3|pages=129-134}}</ref>。また表面-分子系を解析するために、巨大な[[クラスター]]の端面として表面を[[モデル化]]する場合もある(クラスター模型)<ref name="ref2">{{Cite journal|和書|author=中井 浩巳|year=2007|title=表面-分子相互作用系の量子化学計算に関する最近の動向|journal=表面科学|volume=28|issue=3|pages=150-159}}</ref>。 == 最近の研究動向 == 最近では、ナノテクノロジーブームから、ナノ材料と言われる機能材料の開発に力点がシフトしている。例えば、[[スピントロニクス]]や、新しい[[触媒]]等の開発を目的に掲げているケースが多い。 そのほか、MOSFET用の絶縁体の開発に関係して、絶縁体表面の研究も盛んである。特に[[ケイ素|シリコン]]表面に[[ハフニウム]]酸化物を薄膜として生成させた系は、[[誘電率]]の高い[[ゲート絶縁膜]]として盛んに研究されている。こうした絶縁膜は[[high-k絶縁膜]]とも呼ばれ、半導体メーカー各社が熾烈な開発競争を展開している。ハフニウムを用いたhigh-k絶縁膜は、従来のシリコン絶縁膜よりも大幅な[[トンネル電流]]の削減に成功しており、これを用いた[[半導体チップ]]も製造されている。 == 表面分析手法 == * [[光電子分光]] ** [[X線光電子分光]] (XPS) ** [[オージェ電子分光]] (AES) * [[電子回折]] ** [[反射高速電子線回折]](RHEED) ** [[低速電子線回折]](LEED) * [[電子エネルギー損失分光]] (EELS) * [[ラザフォード後方散乱分光]] (RBS) * {{仮リンク|イオン散乱分光|en|Low-energy ion scattering}} (ISS) * [[二次イオン質量分析法]] (SIMS) * {{仮リンク|二面偏波式干渉計|en|Dual-polarization interferometry}} (DPI) * [[表面増強ラマン散乱]] (SERS) * [[和周波発生]] (SFG) * [[走査型プローブ顕微鏡]] (SPM) ** [[走査型トンネル顕微鏡]] (STM) ** [[原子間力顕微鏡]] (AFM) == 参考文献 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[物理学]] *[[物性物理学]] *[[表面状態]] *[[界面化学]] *[[表面再構成]] *[[分子間相互作用]] * [[サバティエの原理]] {{化学}} {{Physics-footer}} {{DEFAULTSORT:ひようめんかかく}} [[Category:表面科学]] [[Category:物理化学]] [[Category:物理学の分野]]
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清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語: ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨᡤᡳᠣᡵᠣ, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語でᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩᡤᡠᡵᡠᠨ(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(拼音: Dàqīng、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。 「清」と言う漢字で国号を選んだ理由: 「しん」という発音が日本語の清王朝の読み方になった理由: 今の北京官話発音の「ちん」と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などに見られる程度である。ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。清末に締結された条約の欧文では、直接に中国の意味の「China」という国号が用いられていることが多い。 17世紀初頭に明の冊封下で、満洲に住む女直(jušen、以下「女真」)の統一を進めたヌルハチ(満州語: ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ、転写: nurgaci、努爾哈赤、太祖)が、1616年に建国した後金国(amaga aisin gurun)が清の前身である。当時はすでに金代の女真文字は廃れ、独自の文字を持たないため最初に作った「建国の詔」はモンゴル語で作成されたが、この後金国の建国と前後して、ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始するなど、女真人が発展するための基礎を築いていた。1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至った。その子のホンタイジ(hong taiji、皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真人、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔で大元皇帝位を継承していたモンゴルのリンダン・ハーンの遺子のエジェイから元の玉璽「制誥之宝」(本来は大官任命の文書に押される印璽である上、後に作られた偽物である可能性が高い)と護法尊マハーカーラ像を譲られ、大ハーンを継承し皇帝として即位するとともに、国号を大清に改め、女真の民族名を満洲(manju)に改めた。 順治帝のとき、中国では李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京(満洲語:beging、gemun hecen=京城)に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、特に鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、ドルゴン(dorgon、ヌルハチの子)およびのちに成長した順治帝によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。 少数派の異民族である満洲人の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢人が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。また、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事も考えられる。 順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3代に清は最盛期を迎えた。 康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合し福建省に編入、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的には清露国境紛争に勝利してロシアとネルチンスク条約を結んで東北部の国境を確定させ、北モンゴルを服属させ、チベットを保護下に入れた。 また、この頃東トルキスタンを根拠地としてオイラト系のジュンガル(準噶爾)部が勃興していたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼし、バルハシ湖にまでおよぶ領域を支配下に置き、この地を新疆(ice jecen イチェ・ジェチェン)と名付けた(清・ジュンガル戦争)。 これによって黒竜江から新疆、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。 こうして、少数の満洲人が圧倒的に多い漢人を始めとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、一人の君主が複数の政治的共同体を統治する同君連合となり、中華を支配した王朝の中でも特有の制度を築いた。 省と呼ばれた旧明領は皇帝直轄領として明の制度が維持され、藩部と呼ばれた南北モンゴル・チベット・東トルキスタンではそれぞれモンゴル王侯、ダライ・ラマが長であるガンデンポタン、ベグといった土着の支配者が取り立てられて間接統治が敷かれ、理藩院に管轄された。満洲人は八旗に編成され、軍事力を担った。また、皇帝が行幸で直轄する地域を訪れる際には漢人の支配者として、藩部の支配地域に行く際にはゲルに寝泊りしてモンゴル服を着用するなど、ハーンとして振舞うことで関係を維持した。重要な官職には満洲人と同数の漢人が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。 清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。一方で満洲人の髪型である辮髪を漢人にも強制し(ただしモンゴルは元々辮髪の風習を持ち、新疆では逆に禁止している)、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧する一方、科挙の存続等の様々な懐柔政策を行っている。 しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(hešen、和珅)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、ヘシェンによる厳しい取り立てに住民が蜂起した白蓮教徒の乱が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた(賜死)。このとき鎮圧に動員された郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱で湘軍に組織化されて曽国藩・李鴻章・左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命を支える組織になっていった。 19世紀には、清の支配が衰え、繁栄が翳った。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。 19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、西欧諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末に西欧の対清貿易競争に勝ち残って、開港地広州で茶貿易を推進した。また、アメリカも独立戦争後の1784年にアメリカの商船エンプレス・オブ・チャイナ号が広州で米清貿易を開始した。米清貿易により清は金属・オタネニンジン・毛皮を、米国は茶・綿・絹・漆器・陶磁器・家具を得た。 1793年、イギリスは広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団は工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、商品価値を持つイギリスの製品は無く、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。こうして対清輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった。 この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、清に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを清に輸出することで三角貿易を成立させた。清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、アヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。 林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する施策を執ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスは、この機会に武力でアヘン密輸の維持と沿岸都市での治外法権獲得を策して、翌1840年清国沿岸に侵攻しアヘン戦争を始めた。強力な近代兵器を持つイギリス軍に対し、林則徐ら阿片厳禁派とムジャンガら阿片弛緩論派との間で国論が二分されて十分な戦力を整えられなかった清軍が敗北し、1842年イギリスと不平等な南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港島の割譲や上海ら5港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。 アヘンの対清密輸が伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲が自称イギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実として、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こした。イギリスは、宣教師が逮捕に遭った事を口実として出兵したフランスと共に、広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる天津条約を締結した。条約の批准が拒否されると北京を占領し、批准のみならず天津ら11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。これによりアヘン以外の商品の市場流入も進んだが、アヘンを除けば貿易赤字が続いた。また、このときロシアにより、まずアイグン条約(1858年)で黒竜江将軍管轄区と吉林将軍管轄区のうちアムール川左岸を、さらに北京条約(1860年)で吉林将軍管轄区のうちウスリー川右岸を割譲させられ、ロシアはそこをアムール州、沿海州として編入し、プリアムール総督府(ロシア語版)を設置した(外満洲)。これは現在の中露国境線を形作るものである。なお新疆についても1864年タルバガタイ条約(中国語版)が結ばれイシク・クル、ザイサン湖以西を失った。 同時期には、国内でも洪秀全率いるキリシタン集団・太平天国による太平天国の乱(1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム(回民)によるパンゼーの乱(1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)、ミャオ族による咸同起義(英語版)などが起こり、清朝の支配は危機に瀕した。ムジャンガ(穆彰阿)の「穆党」の中から曽国藩が頭角を現し、李鴻章や左宗棠と湘軍を率いて鎮圧にあたった。1861年、同治帝が即位するとムジャンガは失脚し、皇母西太后による垂簾聴政下で曽国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した「穆党」の漢人官僚が力を得て北洋艦隊などの軍閥を形成していった。また、政治・行政面では積弊を露呈していた清朝の旧体制を放置したまま、先ずは産業技術に於いて西欧の技術を導入する洋務運動を開始した。 北西部の新疆(現在の新疆ウイグル自治区)では、ヤクブ・ベクが清朝領内に自治権を持つ領主を蜂起させ新疆へ侵攻、同地を占領した(ヤクブ・ベクの乱)。ロシアも1871年、新疆に派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の陝甘総督左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である曽紀沢の手によって、1881年にはロシアとの間で不平等条約のイリ条約を締結した。イリ界約に基づき、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合しセミレーチエ州に編入した。カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲し(外西北)、現在の中国と中央アジア諸国との国境線が形成されていった。これに対し、清は1884年新疆省を設置すると伴に旗人のイリ将軍らの施政権を削り、陝甘総督甘粛新疆巡撫(中国語版)が軍事行政を管轄する事となり内地化された。ロシアは1892年にパミール高原に侵攻しサリコル山(英語版)以西を条約無しで併合している。 1854年、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約のボウリング条約を結んだ。1872年、日本の琉球処分により清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球は、日本に合併された。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し、対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして清仏戦争( - 1885年)が起きたが、清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となった。1886年、緬甸(ビルマ)は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した朝鮮に対しては、宗主国としての内政権を揮い壬午事変(1882年)、甲申政変(1884年)を鎮圧したが、1894年に日本が起こした甲午改革では、鎮圧を企図したものの日清戦争( - 1895年)で敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省(中国語版)の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った(ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保している)。 「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の賠償金支払債務に目をつけた。まずフランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国はいわゆる「三国干渉」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、1896年から1899年にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)であった。満洲からモンゴルをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは九龍半島(香港総督管轄)と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連(ダーリニー)(関東州、極東総督(ロシア語版)管轄)を租借地として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい露清密約で東清鉄道附属地を手に入れた。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、清国の市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しつつ国際共同租界設置に参加した。 李鴻章と左宗棠の海防・塞防論争を契機として、技術面だけの洋務運動に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、康有為・梁啓超ら若い知識人が、清も立憲君主制をとり国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え始めた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取した(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅溥儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。 1899年、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。翌1900年に西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされ清の半植民地化は更に進んだ。 その後、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切り、1905年に科挙を廃止、六部を解体再編し、1908年欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判されて、清朝は求心力を取り戻せず、漢人の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げた。10月、漢人による武昌での武装蜂起をきっかけに辛亥革命が起こった。モンゴルにおいても、12月に外藩蒙古の中から独立運動がおこった(モンゴル国)。ここに清は完全な内部崩壊を迎えた(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。 翌1912年1月1日、南京で中華民国臨時政府が樹立された。清朝最後の皇帝宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。 清王朝というのは満洲・モンゴル・旧明領・チベット・東トルキスタンこの五つの地域を束ねる同君連合の国家である。 清の皇帝は満洲人にとっては満洲人全員を率い、自らも上三旗の旗王である八旗の盟主ハン、漢民族にとっては天命を受け継いだ明王朝に代わる儒教天子、モンゴル人にとってはチンギス・ハーンを継承するモンゴル諸部族の大ハーン、チベット人にとってはチベット仏教の最高施主であり文殊菩薩の化身、東トルキスタンのウィグル人にとっては異教徒ながらイスラムの保護者である。清国は儒教も、仏教も、イスラム教も単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえていた。 こうして清国の支配者は共通する価値を拾い上げしながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治し、それぞれの文化圏の接触を厳しく制限した。特に理藩部が管轄していた外蒙古では清朝皇帝にハルハ王家が皇帝位を譲渡し、清の皇帝から爵位を授けられるという形でハルハ王家を始めとするモンゴル人貴族によって統治されていた。また清国はいわゆる暗愚な皇帝が少なかった。これは元々満洲人には生前に後継者を指名する習慣や長子継承の習慣は無く、部族長会議で最も優れた人物を部族長(ベイレ・アンバン)や部族長のまとめ役であるハンとしていたこと、政権は一族の共有財産という考えであったため皇帝による完全独裁ではなく、かつ皇帝に対する教育も徹底して行われていたこと、雍正帝によって定められた太子密建により皇子たちが皇太子に指名されるように常に努力することと、臣下の派閥争いを未然に防ぐことができ、皇太子を秘密裏にすら決めない場合につきまとった「皇帝が後継者を決めないまま急死した場合や皇帝が老齢で先が長くないと見られた場合に後継者争いが頻発する」という弊害も避けることが出来たことが理由にある。 康熙帝が皇二子である胤礽を清朝初の皇太子と定めたが、各皇子を中心とした派閥による度重なる後継者争いなどで胤礽は精神に異常をきたし、素行が悪くなったことで2度廃太子となった後、様々な確執の末に雍正帝が康熙帝の次の皇帝となったことで太子密建が定められた。ただし予め先代皇帝が後継者を指名していなければ機能しない制度であるため、先代皇帝の若年の死去や幽閉などの理由により末期の同治帝・光緒帝・宣統帝に関しては再び旗王諸王による会議で決められている。明朝などでは深刻であった国政に対する宦官の影響は、宮廷事務や皇帝の身辺の世話は皇帝直属の八旗の旗人の中で家政を担当する包衣が管轄する内務府が掌り、その管轄下に置かれた宦官の仕事は后妃の世話に限定されるようになったため、ほとんど無くなっていた。 帝室の姓氏を満洲語でアイシンギョロといい、これを漢語に音写したものが愛新覚羅である。アイシンは「金」という意味のかつて女真人が興した金朝やヌルハチが興した後金をからとった族名(ムクン)、ギョロは父祖の出身地の地名を戴いた姓氏(ハラ)で、合わせて「金のギョロ一族」を表す。満洲人は清代には漢人のように姓氏と名を続けて呼ぶ習慣は無かった。 満洲人皇帝は姫君5人を全員モンゴル人の王族に嫁がせるなどモンゴルと親密な関係を保持しており、后妃の選定や降嫁といった通婚は八旗の他、孝荘文皇后に代表されるようにモンゴル王侯との間で行われ、民間の漢人と行われることは決してなかった。 清は、一世一元の制と踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。 順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号・諡号を以って呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。 清朝皇族の爵位は通常1代ごとに降下する。特に功績がなければ親王の子は郡王、郡王の子は貝勒というように爵位が下がっていく。しかし、特に功績が大きかった皇族は世襲が認められ、爵位が降下しないことから鉄帽子王(中国語版)と呼ばれた。 これらの8家は建国にあたって特に功績が大きかったために他の皇族とは別格とされ、八大王家と呼ばれた。睿親王家はドルゴンが皇位を簒奪しようとしたとして廃絶されていたが、乾隆年間にドルゴンが名誉回復したために再興された。ドルゴンに連座して同母弟ドドも郡王に落とされていたが、同様に乾隆年間の名誉回復により親王家に戻された。 清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。 清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。 それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院(bithe i ilan yamun)と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣(dorgi yamun)に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。 その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処(coohai nashūn i ba)を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。 中央には軍機処の他に六部(ninggun jurgan)・内務府(dorgi baita be uheri kadalara yamun、宮廷諸事)・宗人府(uksun be kadalara yamun、皇族・宗族の事務)・理藩院(tulergi golo be dasara jurgan、藩部の統括。藩部については後述)・都察院(uheri be baicara yamun、官僚の監察)・通政使司(dasan be hafumbure yamun、上奏文の検閲)・大理寺(beidere be tuwacihiyara yamun、最高裁判所)がある。 地方は皇帝直属である省と藩部と満洲人の故地である旗地(満洲)とに分かれている。満洲と北京周辺を皇帝直轄地として統治したことからこの領域は中国(満洲語:ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun) と呼ばれた。 藩部(tulergi golo)はホンタイジが最初に南モンゴルのチャハル部を服属させた時に蒙古衙門(monggo jurgan、もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院(tulergi golo be dasara yamun)と改名し、北モンゴル・新疆・チベット・青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。特にモンゴルに関しては、臣従した諸勢力は八旗制を元にした盟旗制度の元に再編成され、ボルジギン氏などの王侯をその長である「ジャサク」とし、親王などの爵位を与えその地位は旗王と同格とするなど厚遇され、清を共同統治するという形をとっている。 清初期に部隊ごと投降した明の武将孔有徳・耿仲明・尚可喜の集団も、八旗と同形式の組織に再編された上で天祐兵・天助兵という独立した軍団として従属し、彼らは三順王と呼ばれ旗王と同格に扱われた。後に呉三桂が加わって孔有徳が戦死して脱藩し、三藩となったが、三藩の乱後はこれらの漢人軍団は解体され八旗漢軍に編入され、三藩の領地は皇帝の直轄領となった。 省はほぼ現在の中華人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省・安徽省・山西省・山東省・河南省・陝西省・甘粛省・浙江省・江西省・湖北省・湖南省・四川省・福建省・広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省・貴州省の18である(いわゆる「一十八省」)。しかし清末になるとその数が増えることになる。省の下に府(fu)・州(jeo)・県(hiyan)がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府(fu i saraci)・知州(jeo i saraci)・知県(hiyan i saraci)と呼ぶ。省の長官は巡撫(giyarime dasara amban)と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督(uheri kadalara amban)があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。 満洲人の故地である満洲地方については旗地(八旗の土地)とされ省は置かずに、黒竜江将軍(sahaliyan ula i jiyanggiyūn)・吉林将軍(girin i jiyanggiyūn)・盛京将軍(mukden i jiyanggiyūn)らに軍政を行わせて満洲人の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢人の移住を禁止して、満洲人が漢人に同化してしまわないようにした。しかし日露戦争後の1907年には黒竜江将軍を黒竜江行省、吉林将軍を吉林省、盛京将軍を奉天省とし、東三省総督を新設、しかも華北から大量の漢人農民を移民させている。 清の政治は圧倒的多数である漢人を少数派である満洲人がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。ポストをそれぞれ満洲人・漢人が同数になるように配置していく制度である。これには双方の動向を監視させる意味合いもあった。 清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲人だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。 兵制は満洲の軍制である八旗制度(jakūn gūsa)を採用していた。それを補完する形で緑営がある。緑営は明の兵制を解体した後に再編成したもので、各地に分散して配置された。詳しくは八旗の項を参照。しかし乾隆以降は長い平和に八旗は堕落し、また比率的に言うと増加する旗人の数に対して役務の数は減少し、加えて農工商業などの副業は禁じられており無役で旗地だけでは彼らは生活が難しい為、経済的にも窮迫して弱体化し、物の役には立たなくなっていた。そういった問題に対し旗人に満洲語の習得や乗馬騎射の訓練などといった「文武両道」を奨励したり、乾隆帝代には漢軍八旗の一部を民籍に移す「漢軍出旗」や、満洲旗人を満洲に帰す政策がとられたが失敗している。 その後白蓮教徒の乱・苗族の乱など国内での反乱が多発するようになると、郷勇という義勇兵が八旗に代わって活躍する。反乱鎮圧後には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士達は緑営に編入されるか、そうでない者は盗賊化することもあった。 その後の太平天国の乱に際しては湘軍・淮軍といった有力者による半私兵集団が鎮圧に当たり、軍閥化が進むようになる。これ以降の政府では曽国藩・李鴻章といった軍閥の長が権力を握るようになり、軍機処を始めとした中央の官僚の権限は有名無実化した。 清は各地の支配者の臣従を受け同君連合となり、その領土は広い上、各地域の差も大きく、多数の民族を含み、その間柄も良好とは言えなかったため、行政の区割りは画一的な物でなく「因時順地、変通斟酌」として行われた。 中心となった満洲人には中央ユーラシア的な「姓長制」である八旗制が維持された。各旗人は皇帝の上三旗と皇族である各旗王が分封された下五旗に所属し、北京の内城は旗人(北京八旗)の街とされ、各旗ごとに区画が割り当てられ、さらに満洲→蒙古→漢軍の順で宮城の外側に居住区が設けられた。また要地の警備のために駐防八旗が駐屯した。1645年に西安・南京からはじめて他の主要都市を部分的に占拠していった。合計18カ所の「満城」が各省に設立され、1700年までにそのうち12カ所で、最終的には全ての「満城」において、北京のように旗人のための隔離居住の原則が認められた。駐防地に送られた兵士はその家族をすべて連れていき、現地の漢人から隔離された城壁のなかに住む場所を割り当てられた。 畿輔駐防は、直隷駐防とも称され、乾隆帝後期、良郷、昌平、水平、保定等25か所に8000人が駐屯した。東三省駐防は、盛京、吉林、黒龍江駐防に分かれる。盛京駐防は、盛京将軍が統括し、盛京、遼陽、開原等40か所に1万6000人が駐屯した。吉林駐防は、吉林将軍が統括し、兵力は9000人だった。黒龍江駐防の八旗兵とソロン(索倫)兵7000人は、黒龍江将軍が統括した。 各省駐防は、山東、山西、河南、江蘇、浙江、四川、福建、広東、湖北、陝西、甘粛等11省の20都市に駐屯し、乾隆帝後期、計4万5000人に達した。各省駐防は、各都市に設けられた将軍又は副都統が管轄し、各省駐防の兵数は300 - 3000人程度だった。 新疆駐防は、西域兵とも称され、ジュンガル部、ウイグル部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、イリ将軍が統括した。 皇帝直轄領であり漢人の多い旧明領は明の制度を引き継ぎ、「省—府—県」の三段階からなる制度が敷かれた。旧明領の漢人以外の民族には有力者に土司の地位を与え統治させた。藩部(中国語版)では現地の事情を踏まえると共に中央集権の強化も図られた。 臣下としたモンゴルでは旗盟制を整備し、モンゴル王侯にジャサク(札薩克)の地位を与えて遊牧地を与えた。保護国であるチベットではダライ・ラマのガンデンポタンの自治により地方行政単位として、規模により大中小の3等級に分類されるゾン(rdzong)(清代の営、民国の県に相当)を設置、さらにその下方単位として国家直属・貴族領・寺院領の三種からなるシカ(gzhis ka)を置いた。 新疆ではイリ将軍の配下に、イリ・タルバガタイ・カシュガルに駐屯する3名の参賛大臣が置かれ、ウルムチには、ウルムチ都統が置かれた。これらの下には、弁事大臣・領隊大臣等の役職が設けられ、それぞれ各オアシス都市の統治を行った。各地方の末端行政は現地人有力者に委ねられ、早くから清朝に服属したハミやトゥルファンの支配者らにはジャサク制が適用され、爵位が与えられモンゴル人貴族と同様の特権が付与された。またタリム盆地の各オアシス都市の支配者に対しても清朝の官職が与えられ、自治を行わせるベグ官人制が行われ、在地の社会構造がそのまま温存された。 全国は内地十八省と、駐防将軍(中国語版)の5管区、駐箚大臣(中国語版)の2管区とあわせて25の行政区画と、内モンゴルなどの旗・盟に分けられ、それぞれの地域の接触を厳しく制限した。それぞれの地域を監督し、正式に行き来出来たのは八旗官僚のみであり、科挙の上位合格者を除き漢人科挙官僚は旧明領の統治にのみ用いられた。満洲語は各地に派遣された八旗官僚と中央との連絡に用いられた。 清の末期、列強の進出や漢人の藩部への流出が強まる情勢下で、各地の旧行政制度では有効な統治を行えなくなってきた。そのため、この頃には清朝は「満洲人とモンゴル人の同盟が漢人を支配し、チベットとイスラムを保護する」という体制から皇族と漢人有力者や知識人とによる「満漢連合政権」となっており、漢族有力者を用いて立て直しを図ったため光緒年間には新疆・奉天・吉林・黒竜江が相次いで省となり、内地と同様の行政制度を敷き中央集権化が図られ、それらの巡部など主要な役職は漢人によって占められた。そのため次第に外藩部では清朝の支配を受け入れていた要因自体が薄れていった。光緒三十四年(1908年)には清は22省と、チベット・外モンゴル・内モンゴル・青海などの地方となった。モンゴルとチベットも省にする案があったがモンゴルは独立し、チベットは支配強化のため侵攻中に辛亥革命が勃発し、清が崩壊したため実行されなかった。中華民国の成立後もモンゴルやチベットは中華民国の宗主権を認めず、それぞれロシアとイギリスを頼って実質的な独立状態を保った。 清の山海関の「内側」である、長城以南の漢人の多い地域は「内地」、「関内」または「漢地」と呼ばれ、明代の「両直十三省」の呼称を受け継いで「直省」と呼ばれていた。内地の行政区画は明代の「省―府(州)―県」の三段階からなる階級体制を受け継いでいる。一番上、一級政区は省で「行省」と俗称された。布政使司と呼ばれていたが、布政使が督撫の属官になっていくにつれて、「布政使司」の名称は省に取って代わられていった。嘉慶年間に『一統志』が編纂された時には「省」は一級政区の正式な称号となっていた。その下、二級政区は府と直隷州があった。(直隷州と違って)府の下にある三級政区である州(散州、属州)の下に県が付くことはなかった。つまり、単式の三級制となっていた。清初年には臨時の役人だった巡撫が布政使に代わって省の長官になった。一部の民族の雑居地や戦略的要地には、新しい政区の「庁」が置かれ、それは省直轄の直隷庁と府の下にある散庁があった。少数の直隷庁の下には県があった。 行省の設置については、清は明代の両京と十三布政使司を基本的に踏襲して、山東・山西・河南・陝西・浙江・福建・江西・広東・広西・湖広・四川・雲南・貴州の13省を置いた。順治元年(1644年)に北京を都と定め、盛京は留都(旧都)となった。二年(1645年)に北直隷を直隷省に、南直隷を江南省にした。康熙三年(1664年)、湖広を湖北と湖南の二省にした。康熙六年(1667年)、江南省は正式に江蘇と安徽の二省にした。康熙七年、甘粛省が設立され、これによっていわゆる「内地十八省」が定まった。 秤量貨幣である銀と信用貨幣である銅銭の併用であり、銀は主に税金、八旗への給与、対外貿易に用いられ、銅銭は国内の商取引に用いられた。明代後期から出現した郷紳層による地方支配、外国産の銀の流通による経済の発達、良質な銅銭普及による対銀レートの高騰とそれによる八旗の困窮、銀東アジア交易網の隆盛などが明後期から清前期の特徴として挙げられる。 北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、康熙帝期の1685年には約1億1000万、1700年に1億5000万、乾隆帝期の1765年には2億、1770年から1780年にかけて2億8000万、1790年に3億、19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した(数字は全て推定)。 この人口の爆発的増加の最大の理由は新大陸原産の作物トウモロコシ・サツマイモ・落花生などが導入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。また、当時の農業が労働集約的であり、生産性向上の為に小作人を低賃金で大量に雇った方が利益を得られやすいという観点から、地主階級が貧しい農民の人口が増えることを歓迎していたことも、人口増加の背景となった。溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。 これらの漢人の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル人・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲人の保護の意味から漢人の移住を禁止していたが、19世紀末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢人の農地が広がることになる。 清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁銀制に切り替えた。これはそれまでが人頭税(人丁)・土地税(地丁)の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。 こうした政策によって、清朝中頃までは円滑に、あるいは曲がりなりにも税制は機能したが、アヘン戦争前後より貿易不均衡により清からの銀の流出は著しくなり、これが清国内での銀価格を吊り上げ、反対に銅銭や穀物の相場は相対的に低下した。結果的に、銀納を義務付けられた庶民の納税の負担は上昇して、困窮、清の衰退の主因の一つになった。 明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端なデフレ状態に陥って「銀荒穀賤」と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。三藩の乱後は良質な銅銭の普及に力を入れたため、銅銭の信用が増し広く流通するようになり、銅銭の供給量が増えているにもかかわらず対銀レートが高騰する銭貴という状態になった。これは俸給を銀で受け取り、銅銭に換金して生活必需品を購入していた旗人達に打撃を与え後の困窮に繋がる要因の一つとなった。 そして商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる質屋は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また為替業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人(山西省出身)・新安商人(安徽省出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接に関わり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。 後金から清成立時にはモンゴル文字から満洲文字が作られ、歴史記録の編纂が始まった。この初期の記録は後に20世紀初に内藤湖南により発見され、「満文老档」と名付けられている。 順治帝は漢文化に傾倒したことで有名であり、康熙・雍正・乾隆の三世はいずれも類稀な文人でもある。しかしその事は文化の保護に繋がらず、逆に弾圧に繋がった。異民族支配による文人達の反抗を抑えるために文字の獄と呼ばれる厳しい弾圧を行い、幾人もの文人が死罪になっている。 初期清朝は、満洲旗人達の教育に有用な漢籍を「官書」として満洲語訳して読ませたり、旗人達に漢字の習得を義務化した。 清初期ではイエズス会の宣教師等を通じて数理天文学、数学、測量技術、医学、解剖学等の西洋科学の導入が進んだ。使用言語に関してはフランス語等の西洋諸語から漢語文言文(漢文)、西洋諸語から満洲語に訳されたものが漢語文言文へという流れが存在した。フェルディナント・フェルビーストは満洲語を習得し康熙帝に進講している。 上記三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、乾隆期の『四庫全書』などの文化事業を行ったが、それは同時に政府の近くに文人達を集める事による言論統制の意味があった。 一方で満洲語を習得している満洲八旗が減少している事を危惧し、特に乾隆帝の勅命により1787-94年(乾隆52-59)頃に満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、漢語に対応した辞書の「御製五体清文鑑」 (han-i araha sunja hacin-i hergen kamciha manju gisun-i buleku bithe) が編纂された。 清の文化は越南に多大な影響を与えている。 厳しい思想統制が行われる中で、考証学と呼ばれる新しい分野が生まれた。 これは聖人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に四書五経を読み解いている(と考えられる)朱子学や陽明学を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重視されたのが漢代のものである。 考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、孔子の子孫の家の壁から現れたと言う『古文尚書』が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。 また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとした。この分野では『二十二史箚記』の著者趙翼が有名である。 しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになる。 清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛び抜けた天才・名作は無い。 一方、明代から引き継いで小説・戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。 現代中国で普通話のもととなる北京語が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と満洲語の語彙が混じり合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。 絵画の分野ではイエズス会士ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)によってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤、八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。 陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。 瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。 明代の1543年にポルトガル人が日本の種子島に漂着して火縄銃と引き換えに日本銀を得るようになるが(南蛮貿易)、同時に銀需要の増大した明朝のために、日本銀を中国生糸と交換し、この利益を得るため1557年にマカオに拠点を設立しており、明皇帝が倭寇撃退のために公布した渡航禁止令の対象からも除外されていた。 清朝はすでに後金時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球、マカオのポルトガル人、ベトナム(安南)が朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱や台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。 その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などとの交易を許した。特にタイのアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本の江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、長崎貿易は許されていた。 ただし、日本漂流民の国田兵右衛門ら15人が清国に流れ着いた時は、日本に帰国させている。これは明の遺民が日本に亡命しており、牽制の意味も持っていた。 欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。1793年にはイギリスのマカートニー使節団(英語版)が渡来した。また、オランダ東インド会社も何回か使節団を派遣しているが、1794年から1795年にかけて乾隆帝在位60年を祝う使節団を派遣した。このときの正使は1779年には元出島オランダ商館長でのちに同社総督となったイサーク・ティチングであった。 北辺ではシベリアに進出したロシアがアムール川左岸に到達すると、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって清露国境が定められ、ロシアは満洲から追放された。しかし後にロシアはアムール川開発を目指して満洲に進攻することとなる。 19世紀に入るとそれまで世界最大の経済大国だった清と産業革命が進む欧米の力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として侵略が開始され、後発のドイツ、フランス、ロシア、日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争、アロー戦争によって不平等条約を結ばされ、外国商品の流入によって勃興しつつあった工場制手工業に大きな被害を受けた。 さらに清仏戦争、日清戦争、と相次ぐ戦争によって次々と冊封国を失い、冊封体制に基づく東アジアの伝統的な国際秩序は崩れた。また義和団の乱が起こり、列強による勢力分割や主要な港湾の租借が行なわれ、半植民地化が進んだ。 そのため朝鮮に対しては、1882年に壬午事変が起こると、漢城を占領したうえで、不平等条約である中朝商民水陸貿易章程を締結させ、租界を設けるなど清の一部にしようとしていた。下関条約後には中韓通商条約で対等条約が結ばれたものの、租界は手放さなかった。 新清史は1990年代半ばに始まる歴史学的傾向であり、清王朝の満洲人王朝としての性質を強調している。以前の歴史観では中国の歴史家を中心に漢人の力を強調し、清は中華王朝として満洲人と漢人が同化したこと、つまり「漢化」が大きな役割を果たしたとされていた。しかし1980年代から1990年代初頭にかけて、ハーバード大学のマーク・エリオットや岡田英弘、杉山正明などの日本やアメリカの学者たちは満洲語やモンゴル語、チベット語やロシア語等の漢字文献以外の文献と実地研究を重視し、満洲人は満洲語や伝統である騎射を保ち、それぞれの地域で異なった体制で統治していたため長期的支配が行えたとし、中華王朝よりも中央ユーラシア的な体制を強調している。満洲人の母語はアルタイ系言語である満洲語であったこと、広大な領域を有した領土の4分の3が非漢字圏であったことなど「清朝は秦・漢以来の中国王朝の伝統を引き継ぐ最後の中華王朝である」という一般に流布している視点は正確ではないとしており、中華王朝という意味の中国はあくまで清の一部であり清は中国ではないとしている。 中国国内では「新清史」の学術的成果は認められつつあるものの、「漢化」を否定する主張については反対が根強くある。2016年においても劉文鵬が「内陸亜洲視野下的“新清史”研究」で「『新清史』は内陸アジアという地理的、文化的概念を政治的概念に置き換えたことにより中国の多民族的国家の正統性を批判している」としていることからも、現在の中国においては新清史の学術的価値は認められつつも、その主張には依然として反対する流れに変化は無いようである。 2023年には台湾で新清史の作品を積極的に翻訳し公刊していた八旗文化出版の編集長・富察(フーチャー)氏が中華人民共和国の当局に拘束されている。 なお「新清史」は、2003年に中国国務院によって承認された新清史とは無関係である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語: ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨᡤᡳᠣᡵᠣ, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語でᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩᡤᡠᡵᡠᠨ(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(拼音: Dàqīng、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「清」と言う漢字で国号を選んだ理由:", "title": "国号とその読み方" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「しん」という発音が日本語の清王朝の読み方になった理由:", "title": "国号とその読み方" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "今の北京官話発音の「ちん」と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などに見られる程度である。ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。清末に締結された条約の欧文では、直接に中国の意味の「China」という国号が用いられていることが多い。", "title": "国号とその読み方" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "17世紀初頭に明の冊封下で、満洲に住む女直(jušen、以下「女真」)の統一を進めたヌルハチ(満州語: ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ、転写: nurgaci、努爾哈赤、太祖)が、1616年に建国した後金国(amaga aisin gurun)が清の前身である。当時はすでに金代の女真文字は廃れ、独自の文字を持たないため最初に作った「建国の詔」はモンゴル語で作成されたが、この後金国の建国と前後して、ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始するなど、女真人が発展するための基礎を築いていた。1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至った。その子のホンタイジ(hong taiji、皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真人、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔で大元皇帝位を継承していたモンゴルのリンダン・ハーンの遺子のエジェイから元の玉璽「制誥之宝」(本来は大官任命の文書に押される印璽である上、後に作られた偽物である可能性が高い)と護法尊マハーカーラ像を譲られ、大ハーンを継承し皇帝として即位するとともに、国号を大清に改め、女真の民族名を満洲(manju)に改めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "順治帝のとき、中国では李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京(満洲語:beging、gemun hecen=京城)に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、特に鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、ドルゴン(dorgon、ヌルハチの子)およびのちに成長した順治帝によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "少数派の異民族である満洲人の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢人が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。また、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事も考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3代に清は最盛期を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合し福建省に編入、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的には清露国境紛争に勝利してロシアとネルチンスク条約を結んで東北部の国境を確定させ、北モンゴルを服属させ、チベットを保護下に入れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、この頃東トルキスタンを根拠地としてオイラト系のジュンガル(準噶爾)部が勃興していたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼし、バルハシ湖にまでおよぶ領域を支配下に置き、この地を新疆(ice jecen イチェ・ジェチェン)と名付けた(清・ジュンガル戦争)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これによって黒竜江から新疆、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "こうして、少数の満洲人が圧倒的に多い漢人を始めとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、一人の君主が複数の政治的共同体を統治する同君連合となり、中華を支配した王朝の中でも特有の制度を築いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "省と呼ばれた旧明領は皇帝直轄領として明の制度が維持され、藩部と呼ばれた南北モンゴル・チベット・東トルキスタンではそれぞれモンゴル王侯、ダライ・ラマが長であるガンデンポタン、ベグといった土着の支配者が取り立てられて間接統治が敷かれ、理藩院に管轄された。満洲人は八旗に編成され、軍事力を担った。また、皇帝が行幸で直轄する地域を訪れる際には漢人の支配者として、藩部の支配地域に行く際にはゲルに寝泊りしてモンゴル服を着用するなど、ハーンとして振舞うことで関係を維持した。重要な官職には満洲人と同数の漢人が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。一方で満洲人の髪型である辮髪を漢人にも強制し(ただしモンゴルは元々辮髪の風習を持ち、新疆では逆に禁止している)、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧する一方、科挙の存続等の様々な懐柔政策を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(hešen、和珅)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、ヘシェンによる厳しい取り立てに住民が蜂起した白蓮教徒の乱が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた(賜死)。このとき鎮圧に動員された郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱で湘軍に組織化されて曽国藩・李鴻章・左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命を支える組織になっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "19世紀には、清の支配が衰え、繁栄が翳った。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、西欧諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末に西欧の対清貿易競争に勝ち残って、開港地広州で茶貿易を推進した。また、アメリカも独立戦争後の1784年にアメリカの商船エンプレス・オブ・チャイナ号が広州で米清貿易を開始した。米清貿易により清は金属・オタネニンジン・毛皮を、米国は茶・綿・絹・漆器・陶磁器・家具を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1793年、イギリスは広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団は工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、商品価値を持つイギリスの製品は無く、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。こうして対清輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、清に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを清に輸出することで三角貿易を成立させた。清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、アヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する施策を執ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスは、この機会に武力でアヘン密輸の維持と沿岸都市での治外法権獲得を策して、翌1840年清国沿岸に侵攻しアヘン戦争を始めた。強力な近代兵器を持つイギリス軍に対し、林則徐ら阿片厳禁派とムジャンガら阿片弛緩論派との間で国論が二分されて十分な戦力を整えられなかった清軍が敗北し、1842年イギリスと不平等な南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港島の割譲や上海ら5港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アヘンの対清密輸が伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲が自称イギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実として、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こした。イギリスは、宣教師が逮捕に遭った事を口実として出兵したフランスと共に、広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる天津条約を締結した。条約の批准が拒否されると北京を占領し、批准のみならず天津ら11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。これによりアヘン以外の商品の市場流入も進んだが、アヘンを除けば貿易赤字が続いた。また、このときロシアにより、まずアイグン条約(1858年)で黒竜江将軍管轄区と吉林将軍管轄区のうちアムール川左岸を、さらに北京条約(1860年)で吉林将軍管轄区のうちウスリー川右岸を割譲させられ、ロシアはそこをアムール州、沿海州として編入し、プリアムール総督府(ロシア語版)を設置した(外満洲)。これは現在の中露国境線を形作るものである。なお新疆についても1864年タルバガタイ条約(中国語版)が結ばれイシク・クル、ザイサン湖以西を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "同時期には、国内でも洪秀全率いるキリシタン集団・太平天国による太平天国の乱(1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム(回民)によるパンゼーの乱(1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)、ミャオ族による咸同起義(英語版)などが起こり、清朝の支配は危機に瀕した。ムジャンガ(穆彰阿)の「穆党」の中から曽国藩が頭角を現し、李鴻章や左宗棠と湘軍を率いて鎮圧にあたった。1861年、同治帝が即位するとムジャンガは失脚し、皇母西太后による垂簾聴政下で曽国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した「穆党」の漢人官僚が力を得て北洋艦隊などの軍閥を形成していった。また、政治・行政面では積弊を露呈していた清朝の旧体制を放置したまま、先ずは産業技術に於いて西欧の技術を導入する洋務運動を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "北西部の新疆(現在の新疆ウイグル自治区)では、ヤクブ・ベクが清朝領内に自治権を持つ領主を蜂起させ新疆へ侵攻、同地を占領した(ヤクブ・ベクの乱)。ロシアも1871年、新疆に派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の陝甘総督左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である曽紀沢の手によって、1881年にはロシアとの間で不平等条約のイリ条約を締結した。イリ界約に基づき、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合しセミレーチエ州に編入した。カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲し(外西北)、現在の中国と中央アジア諸国との国境線が形成されていった。これに対し、清は1884年新疆省を設置すると伴に旗人のイリ将軍らの施政権を削り、陝甘総督甘粛新疆巡撫(中国語版)が軍事行政を管轄する事となり内地化された。ロシアは1892年にパミール高原に侵攻しサリコル山(英語版)以西を条約無しで併合している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1854年、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約のボウリング条約を結んだ。1872年、日本の琉球処分により清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球は、日本に合併された。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し、対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして清仏戦争( - 1885年)が起きたが、清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となった。1886年、緬甸(ビルマ)は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した朝鮮に対しては、宗主国としての内政権を揮い壬午事変(1882年)、甲申政変(1884年)を鎮圧したが、1894年に日本が起こした甲午改革では、鎮圧を企図したものの日清戦争( - 1895年)で敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省(中国語版)の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った(ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保している)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の賠償金支払債務に目をつけた。まずフランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国はいわゆる「三国干渉」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、1896年から1899年にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)であった。満洲からモンゴルをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは九龍半島(香港総督管轄)と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連(ダーリニー)(関東州、極東総督(ロシア語版)管轄)を租借地として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい露清密約で東清鉄道附属地を手に入れた。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、清国の市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しつつ国際共同租界設置に参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "李鴻章と左宗棠の海防・塞防論争を契機として、技術面だけの洋務運動に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、康有為・梁啓超ら若い知識人が、清も立憲君主制をとり国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え始めた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取した(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅溥儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1899年、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。翌1900年に西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされ清の半植民地化は更に進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切り、1905年に科挙を廃止、六部を解体再編し、1908年欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判されて、清朝は求心力を取り戻せず、漢人の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げた。10月、漢人による武昌での武装蜂起をきっかけに辛亥革命が起こった。モンゴルにおいても、12月に外藩蒙古の中から独立運動がおこった(モンゴル国)。ここに清は完全な内部崩壊を迎えた(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "翌1912年1月1日、南京で中華民国臨時政府が樹立された。清朝最後の皇帝宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "清王朝というのは満洲・モンゴル・旧明領・チベット・東トルキスタンこの五つの地域を束ねる同君連合の国家である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "清の皇帝は満洲人にとっては満洲人全員を率い、自らも上三旗の旗王である八旗の盟主ハン、漢民族にとっては天命を受け継いだ明王朝に代わる儒教天子、モンゴル人にとってはチンギス・ハーンを継承するモンゴル諸部族の大ハーン、チベット人にとってはチベット仏教の最高施主であり文殊菩薩の化身、東トルキスタンのウィグル人にとっては異教徒ながらイスラムの保護者である。清国は儒教も、仏教も、イスラム教も単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "こうして清国の支配者は共通する価値を拾い上げしながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治し、それぞれの文化圏の接触を厳しく制限した。特に理藩部が管轄していた外蒙古では清朝皇帝にハルハ王家が皇帝位を譲渡し、清の皇帝から爵位を授けられるという形でハルハ王家を始めとするモンゴル人貴族によって統治されていた。また清国はいわゆる暗愚な皇帝が少なかった。これは元々満洲人には生前に後継者を指名する習慣や長子継承の習慣は無く、部族長会議で最も優れた人物を部族長(ベイレ・アンバン)や部族長のまとめ役であるハンとしていたこと、政権は一族の共有財産という考えであったため皇帝による完全独裁ではなく、かつ皇帝に対する教育も徹底して行われていたこと、雍正帝によって定められた太子密建により皇子たちが皇太子に指名されるように常に努力することと、臣下の派閥争いを未然に防ぐことができ、皇太子を秘密裏にすら決めない場合につきまとった「皇帝が後継者を決めないまま急死した場合や皇帝が老齢で先が長くないと見られた場合に後継者争いが頻発する」という弊害も避けることが出来たことが理由にある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "康熙帝が皇二子である胤礽を清朝初の皇太子と定めたが、各皇子を中心とした派閥による度重なる後継者争いなどで胤礽は精神に異常をきたし、素行が悪くなったことで2度廃太子となった後、様々な確執の末に雍正帝が康熙帝の次の皇帝となったことで太子密建が定められた。ただし予め先代皇帝が後継者を指名していなければ機能しない制度であるため、先代皇帝の若年の死去や幽閉などの理由により末期の同治帝・光緒帝・宣統帝に関しては再び旗王諸王による会議で決められている。明朝などでは深刻であった国政に対する宦官の影響は、宮廷事務や皇帝の身辺の世話は皇帝直属の八旗の旗人の中で家政を担当する包衣が管轄する内務府が掌り、その管轄下に置かれた宦官の仕事は后妃の世話に限定されるようになったため、ほとんど無くなっていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "帝室の姓氏を満洲語でアイシンギョロといい、これを漢語に音写したものが愛新覚羅である。アイシンは「金」という意味のかつて女真人が興した金朝やヌルハチが興した後金をからとった族名(ムクン)、ギョロは父祖の出身地の地名を戴いた姓氏(ハラ)で、合わせて「金のギョロ一族」を表す。満洲人は清代には漢人のように姓氏と名を続けて呼ぶ習慣は無かった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "満洲人皇帝は姫君5人を全員モンゴル人の王族に嫁がせるなどモンゴルと親密な関係を保持しており、后妃の選定や降嫁といった通婚は八旗の他、孝荘文皇后に代表されるようにモンゴル王侯との間で行われ、民間の漢人と行われることは決してなかった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "清は、一世一元の制と踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号・諡号を以って呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "清朝皇族の爵位は通常1代ごとに降下する。特に功績がなければ親王の子は郡王、郡王の子は貝勒というように爵位が下がっていく。しかし、特に功績が大きかった皇族は世襲が認められ、爵位が降下しないことから鉄帽子王(中国語版)と呼ばれた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "これらの8家は建国にあたって特に功績が大きかったために他の皇族とは別格とされ、八大王家と呼ばれた。睿親王家はドルゴンが皇位を簒奪しようとしたとして廃絶されていたが、乾隆年間にドルゴンが名誉回復したために再興された。ドルゴンに連座して同母弟ドドも郡王に落とされていたが、同様に乾隆年間の名誉回復により親王家に戻された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院(bithe i ilan yamun)と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣(dorgi yamun)に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処(coohai nashūn i ba)を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "中央には軍機処の他に六部(ninggun jurgan)・内務府(dorgi baita be uheri kadalara yamun、宮廷諸事)・宗人府(uksun be kadalara yamun、皇族・宗族の事務)・理藩院(tulergi golo be dasara jurgan、藩部の統括。藩部については後述)・都察院(uheri be baicara yamun、官僚の監察)・通政使司(dasan be hafumbure yamun、上奏文の検閲)・大理寺(beidere be tuwacihiyara yamun、最高裁判所)がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "地方は皇帝直属である省と藩部と満洲人の故地である旗地(満洲)とに分かれている。満洲と北京周辺を皇帝直轄地として統治したことからこの領域は中国(満洲語:ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun) と呼ばれた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "藩部(tulergi golo)はホンタイジが最初に南モンゴルのチャハル部を服属させた時に蒙古衙門(monggo jurgan、もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院(tulergi golo be dasara yamun)と改名し、北モンゴル・新疆・チベット・青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。特にモンゴルに関しては、臣従した諸勢力は八旗制を元にした盟旗制度の元に再編成され、ボルジギン氏などの王侯をその長である「ジャサク」とし、親王などの爵位を与えその地位は旗王と同格とするなど厚遇され、清を共同統治するという形をとっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "清初期に部隊ごと投降した明の武将孔有徳・耿仲明・尚可喜の集団も、八旗と同形式の組織に再編された上で天祐兵・天助兵という独立した軍団として従属し、彼らは三順王と呼ばれ旗王と同格に扱われた。後に呉三桂が加わって孔有徳が戦死して脱藩し、三藩となったが、三藩の乱後はこれらの漢人軍団は解体され八旗漢軍に編入され、三藩の領地は皇帝の直轄領となった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "省はほぼ現在の中華人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省・安徽省・山西省・山東省・河南省・陝西省・甘粛省・浙江省・江西省・湖北省・湖南省・四川省・福建省・広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省・貴州省の18である(いわゆる「一十八省」)。しかし清末になるとその数が増えることになる。省の下に府(fu)・州(jeo)・県(hiyan)がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府(fu i saraci)・知州(jeo i saraci)・知県(hiyan i saraci)と呼ぶ。省の長官は巡撫(giyarime dasara amban)と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督(uheri kadalara amban)があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "満洲人の故地である満洲地方については旗地(八旗の土地)とされ省は置かずに、黒竜江将軍(sahaliyan ula i jiyanggiyūn)・吉林将軍(girin i jiyanggiyūn)・盛京将軍(mukden i jiyanggiyūn)らに軍政を行わせて満洲人の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢人の移住を禁止して、満洲人が漢人に同化してしまわないようにした。しかし日露戦争後の1907年には黒竜江将軍を黒竜江行省、吉林将軍を吉林省、盛京将軍を奉天省とし、東三省総督を新設、しかも華北から大量の漢人農民を移民させている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "清の政治は圧倒的多数である漢人を少数派である満洲人がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。ポストをそれぞれ満洲人・漢人が同数になるように配置していく制度である。これには双方の動向を監視させる意味合いもあった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲人だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "兵制は満洲の軍制である八旗制度(jakūn gūsa)を採用していた。それを補完する形で緑営がある。緑営は明の兵制を解体した後に再編成したもので、各地に分散して配置された。詳しくは八旗の項を参照。しかし乾隆以降は長い平和に八旗は堕落し、また比率的に言うと増加する旗人の数に対して役務の数は減少し、加えて農工商業などの副業は禁じられており無役で旗地だけでは彼らは生活が難しい為、経済的にも窮迫して弱体化し、物の役には立たなくなっていた。そういった問題に対し旗人に満洲語の習得や乗馬騎射の訓練などといった「文武両道」を奨励したり、乾隆帝代には漢軍八旗の一部を民籍に移す「漢軍出旗」や、満洲旗人を満洲に帰す政策がとられたが失敗している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "その後白蓮教徒の乱・苗族の乱など国内での反乱が多発するようになると、郷勇という義勇兵が八旗に代わって活躍する。反乱鎮圧後には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士達は緑営に編入されるか、そうでない者は盗賊化することもあった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "その後の太平天国の乱に際しては湘軍・淮軍といった有力者による半私兵集団が鎮圧に当たり、軍閥化が進むようになる。これ以降の政府では曽国藩・李鴻章といった軍閥の長が権力を握るようになり、軍機処を始めとした中央の官僚の権限は有名無実化した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "清は各地の支配者の臣従を受け同君連合となり、その領土は広い上、各地域の差も大きく、多数の民族を含み、その間柄も良好とは言えなかったため、行政の区割りは画一的な物でなく「因時順地、変通斟酌」として行われた。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "中心となった満洲人には中央ユーラシア的な「姓長制」である八旗制が維持された。各旗人は皇帝の上三旗と皇族である各旗王が分封された下五旗に所属し、北京の内城は旗人(北京八旗)の街とされ、各旗ごとに区画が割り当てられ、さらに満洲→蒙古→漢軍の順で宮城の外側に居住区が設けられた。また要地の警備のために駐防八旗が駐屯した。1645年に西安・南京からはじめて他の主要都市を部分的に占拠していった。合計18カ所の「満城」が各省に設立され、1700年までにそのうち12カ所で、最終的には全ての「満城」において、北京のように旗人のための隔離居住の原則が認められた。駐防地に送られた兵士はその家族をすべて連れていき、現地の漢人から隔離された城壁のなかに住む場所を割り当てられた。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "畿輔駐防は、直隷駐防とも称され、乾隆帝後期、良郷、昌平、水平、保定等25か所に8000人が駐屯した。東三省駐防は、盛京、吉林、黒龍江駐防に分かれる。盛京駐防は、盛京将軍が統括し、盛京、遼陽、開原等40か所に1万6000人が駐屯した。吉林駐防は、吉林将軍が統括し、兵力は9000人だった。黒龍江駐防の八旗兵とソロン(索倫)兵7000人は、黒龍江将軍が統括した。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "各省駐防は、山東、山西、河南、江蘇、浙江、四川、福建、広東、湖北、陝西、甘粛等11省の20都市に駐屯し、乾隆帝後期、計4万5000人に達した。各省駐防は、各都市に設けられた将軍又は副都統が管轄し、各省駐防の兵数は300 - 3000人程度だった。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "新疆駐防は、西域兵とも称され、ジュンガル部、ウイグル部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、イリ将軍が統括した。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "皇帝直轄領であり漢人の多い旧明領は明の制度を引き継ぎ、「省—府—県」の三段階からなる制度が敷かれた。旧明領の漢人以外の民族には有力者に土司の地位を与え統治させた。藩部(中国語版)では現地の事情を踏まえると共に中央集権の強化も図られた。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "臣下としたモンゴルでは旗盟制を整備し、モンゴル王侯にジャサク(札薩克)の地位を与えて遊牧地を与えた。保護国であるチベットではダライ・ラマのガンデンポタンの自治により地方行政単位として、規模により大中小の3等級に分類されるゾン(rdzong)(清代の営、民国の県に相当)を設置、さらにその下方単位として国家直属・貴族領・寺院領の三種からなるシカ(gzhis ka)を置いた。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "新疆ではイリ将軍の配下に、イリ・タルバガタイ・カシュガルに駐屯する3名の参賛大臣が置かれ、ウルムチには、ウルムチ都統が置かれた。これらの下には、弁事大臣・領隊大臣等の役職が設けられ、それぞれ各オアシス都市の統治を行った。各地方の末端行政は現地人有力者に委ねられ、早くから清朝に服属したハミやトゥルファンの支配者らにはジャサク制が適用され、爵位が与えられモンゴル人貴族と同様の特権が付与された。またタリム盆地の各オアシス都市の支配者に対しても清朝の官職が与えられ、自治を行わせるベグ官人制が行われ、在地の社会構造がそのまま温存された。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "全国は内地十八省と、駐防将軍(中国語版)の5管区、駐箚大臣(中国語版)の2管区とあわせて25の行政区画と、内モンゴルなどの旗・盟に分けられ、それぞれの地域の接触を厳しく制限した。それぞれの地域を監督し、正式に行き来出来たのは八旗官僚のみであり、科挙の上位合格者を除き漢人科挙官僚は旧明領の統治にのみ用いられた。満洲語は各地に派遣された八旗官僚と中央との連絡に用いられた。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "清の末期、列強の進出や漢人の藩部への流出が強まる情勢下で、各地の旧行政制度では有効な統治を行えなくなってきた。そのため、この頃には清朝は「満洲人とモンゴル人の同盟が漢人を支配し、チベットとイスラムを保護する」という体制から皇族と漢人有力者や知識人とによる「満漢連合政権」となっており、漢族有力者を用いて立て直しを図ったため光緒年間には新疆・奉天・吉林・黒竜江が相次いで省となり、内地と同様の行政制度を敷き中央集権化が図られ、それらの巡部など主要な役職は漢人によって占められた。そのため次第に外藩部では清朝の支配を受け入れていた要因自体が薄れていった。光緒三十四年(1908年)には清は22省と、チベット・外モンゴル・内モンゴル・青海などの地方となった。モンゴルとチベットも省にする案があったがモンゴルは独立し、チベットは支配強化のため侵攻中に辛亥革命が勃発し、清が崩壊したため実行されなかった。中華民国の成立後もモンゴルやチベットは中華民国の宗主権を認めず、それぞれロシアとイギリスを頼って実質的な独立状態を保った。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "清の山海関の「内側」である、長城以南の漢人の多い地域は「内地」、「関内」または「漢地」と呼ばれ、明代の「両直十三省」の呼称を受け継いで「直省」と呼ばれていた。内地の行政区画は明代の「省―府(州)―県」の三段階からなる階級体制を受け継いでいる。一番上、一級政区は省で「行省」と俗称された。布政使司と呼ばれていたが、布政使が督撫の属官になっていくにつれて、「布政使司」の名称は省に取って代わられていった。嘉慶年間に『一統志』が編纂された時には「省」は一級政区の正式な称号となっていた。その下、二級政区は府と直隷州があった。(直隷州と違って)府の下にある三級政区である州(散州、属州)の下に県が付くことはなかった。つまり、単式の三級制となっていた。清初年には臨時の役人だった巡撫が布政使に代わって省の長官になった。一部の民族の雑居地や戦略的要地には、新しい政区の「庁」が置かれ、それは省直轄の直隷庁と府の下にある散庁があった。少数の直隷庁の下には県があった。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "行省の設置については、清は明代の両京と十三布政使司を基本的に踏襲して、山東・山西・河南・陝西・浙江・福建・江西・広東・広西・湖広・四川・雲南・貴州の13省を置いた。順治元年(1644年)に北京を都と定め、盛京は留都(旧都)となった。二年(1645年)に北直隷を直隷省に、南直隷を江南省にした。康熙三年(1664年)、湖広を湖北と湖南の二省にした。康熙六年(1667年)、江南省は正式に江蘇と安徽の二省にした。康熙七年、甘粛省が設立され、これによっていわゆる「内地十八省」が定まった。", "title": "清の行政区画" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "秤量貨幣である銀と信用貨幣である銅銭の併用であり、銀は主に税金、八旗への給与、対外貿易に用いられ、銅銭は国内の商取引に用いられた。明代後期から出現した郷紳層による地方支配、外国産の銀の流通による経済の発達、良質な銅銭普及による対銀レートの高騰とそれによる八旗の困窮、銀東アジア交易網の隆盛などが明後期から清前期の特徴として挙げられる。", "title": "清の経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、順治帝期の1651年の戸籍登録人口は約5300万、康熙帝期の1685年には約1億1000万、1700年に1億5000万、乾隆帝期の1765年には2億、1770年から1780年にかけて2億8000万、1790年に3億、19世紀前半のアヘン戦争直前の1833年に4億を突破した(数字は全て推定)。", "title": "清の経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "この人口の爆発的増加の最大の理由は新大陸原産の作物トウモロコシ・サツマイモ・落花生などが導入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。また、当時の農業が労働集約的であり、生産性向上の為に小作人を低賃金で大量に雇った方が利益を得られやすいという観点から、地主階級が貧しい農民の人口が増えることを歓迎していたことも、人口増加の背景となった。溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた華人が激増する事になる。", "title": "清の経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "これらの漢人の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル人・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲人の保護の意味から漢人の移住を禁止していたが、19世紀末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢人の農地が広がることになる。", "title": "清の経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁銀制に切り替えた。これはそれまでが人頭税(人丁)・土地税(地丁)の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。 こうした政策によって、清朝中頃までは円滑に、あるいは曲がりなりにも税制は機能したが、アヘン戦争前後より貿易不均衡により清からの銀の流出は著しくなり、これが清国内での銀価格を吊り上げ、反対に銅銭や穀物の相場は相対的に低下した。結果的に、銀納を義務付けられた庶民の納税の負担は上昇して、困窮、清の衰退の主因の一つになった。", "title": "清の経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端なデフレ状態に陥って「銀荒穀賤」と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。三藩の乱後は良質な銅銭の普及に力を入れたため、銅銭の信用が増し広く流通するようになり、銅銭の供給量が増えているにもかかわらず対銀レートが高騰する銭貴という状態になった。これは俸給を銀で受け取り、銅銭に換金して生活必需品を購入していた旗人達に打撃を与え後の困窮に繋がる要因の一つとなった。", "title": "清の経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "そして商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる質屋は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また為替業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人(山西省出身)・新安商人(安徽省出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接に関わり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。", "title": "清の経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "後金から清成立時にはモンゴル文字から満洲文字が作られ、歴史記録の編纂が始まった。この初期の記録は後に20世紀初に内藤湖南により発見され、「満文老档」と名付けられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "順治帝は漢文化に傾倒したことで有名であり、康熙・雍正・乾隆の三世はいずれも類稀な文人でもある。しかしその事は文化の保護に繋がらず、逆に弾圧に繋がった。異民族支配による文人達の反抗を抑えるために文字の獄と呼ばれる厳しい弾圧を行い、幾人もの文人が死罪になっている。 初期清朝は、満洲旗人達の教育に有用な漢籍を「官書」として満洲語訳して読ませたり、旗人達に漢字の習得を義務化した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "清初期ではイエズス会の宣教師等を通じて数理天文学、数学、測量技術、医学、解剖学等の西洋科学の導入が進んだ。使用言語に関してはフランス語等の西洋諸語から漢語文言文(漢文)、西洋諸語から満洲語に訳されたものが漢語文言文へという流れが存在した。フェルディナント・フェルビーストは満洲語を習得し康熙帝に進講している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "上記三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、乾隆期の『四庫全書』などの文化事業を行ったが、それは同時に政府の近くに文人達を集める事による言論統制の意味があった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "一方で満洲語を習得している満洲八旗が減少している事を危惧し、特に乾隆帝の勅命により1787-94年(乾隆52-59)頃に満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、漢語に対応した辞書の「御製五体清文鑑」 (han-i araha sunja hacin-i hergen kamciha manju gisun-i buleku bithe) が編纂された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "清の文化は越南に多大な影響を与えている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "厳しい思想統制が行われる中で、考証学と呼ばれる新しい分野が生まれた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "これは聖人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に四書五経を読み解いている(と考えられる)朱子学や陽明学を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重視されたのが漢代のものである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、孔子の子孫の家の壁から現れたと言う『古文尚書』が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとした。この分野では『二十二史箚記』の著者趙翼が有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛び抜けた天才・名作は無い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "一方、明代から引き継いで小説・戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "現代中国で普通話のもととなる北京語が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と満洲語の語彙が混じり合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "絵画の分野ではイエズス会士ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)によってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤、八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "明代の1543年にポルトガル人が日本の種子島に漂着して火縄銃と引き換えに日本銀を得るようになるが(南蛮貿易)、同時に銀需要の増大した明朝のために、日本銀を中国生糸と交換し、この利益を得るため1557年にマカオに拠点を設立しており、明皇帝が倭寇撃退のために公布した渡航禁止令の対象からも除外されていた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "清朝はすでに後金時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球、マカオのポルトガル人、ベトナム(安南)が朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱や台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などとの交易を許した。特にタイのアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本の江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、長崎貿易は許されていた。 ただし、日本漂流民の国田兵右衛門ら15人が清国に流れ着いた時は、日本に帰国させている。これは明の遺民が日本に亡命しており、牽制の意味も持っていた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。1793年にはイギリスのマカートニー使節団(英語版)が渡来した。また、オランダ東インド会社も何回か使節団を派遣しているが、1794年から1795年にかけて乾隆帝在位60年を祝う使節団を派遣した。このときの正使は1779年には元出島オランダ商館長でのちに同社総督となったイサーク・ティチングであった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "北辺ではシベリアに進出したロシアがアムール川左岸に到達すると、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって清露国境が定められ、ロシアは満洲から追放された。しかし後にロシアはアムール川開発を目指して満洲に進攻することとなる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "19世紀に入るとそれまで世界最大の経済大国だった清と産業革命が進む欧米の力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として侵略が開始され、後発のドイツ、フランス、ロシア、日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争、アロー戦争によって不平等条約を結ばされ、外国商品の流入によって勃興しつつあった工場制手工業に大きな被害を受けた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "さらに清仏戦争、日清戦争、と相次ぐ戦争によって次々と冊封国を失い、冊封体制に基づく東アジアの伝統的な国際秩序は崩れた。また義和団の乱が起こり、列強による勢力分割や主要な港湾の租借が行なわれ、半植民地化が進んだ。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "そのため朝鮮に対しては、1882年に壬午事変が起こると、漢城を占領したうえで、不平等条約である中朝商民水陸貿易章程を締結させ、租界を設けるなど清の一部にしようとしていた。下関条約後には中韓通商条約で対等条約が結ばれたものの、租界は手放さなかった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "新清史は1990年代半ばに始まる歴史学的傾向であり、清王朝の満洲人王朝としての性質を強調している。以前の歴史観では中国の歴史家を中心に漢人の力を強調し、清は中華王朝として満洲人と漢人が同化したこと、つまり「漢化」が大きな役割を果たしたとされていた。しかし1980年代から1990年代初頭にかけて、ハーバード大学のマーク・エリオットや岡田英弘、杉山正明などの日本やアメリカの学者たちは満洲語やモンゴル語、チベット語やロシア語等の漢字文献以外の文献と実地研究を重視し、満洲人は満洲語や伝統である騎射を保ち、それぞれの地域で異なった体制で統治していたため長期的支配が行えたとし、中華王朝よりも中央ユーラシア的な体制を強調している。満洲人の母語はアルタイ系言語である満洲語であったこと、広大な領域を有した領土の4分の3が非漢字圏であったことなど「清朝は秦・漢以来の中国王朝の伝統を引き継ぐ最後の中華王朝である」という一般に流布している視点は正確ではないとしており、中華王朝という意味の中国はあくまで清の一部であり清は中国ではないとしている。", "title": "新清史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "中国国内では「新清史」の学術的成果は認められつつあるものの、「漢化」を否定する主張については反対が根強くある。2016年においても劉文鵬が「内陸亜洲視野下的“新清史”研究」で「『新清史』は内陸アジアという地理的、文化的概念を政治的概念に置き換えたことにより中国の多民族的国家の正統性を批判している」としていることからも、現在の中国においては新清史の学術的価値は認められつつも、その主張には依然として反対する流れに変化は無いようである。 2023年には台湾で新清史の作品を積極的に翻訳し公刊していた八旗文化出版の編集長・富察(フーチャー)氏が中華人民共和国の当局に拘束されている。", "title": "新清史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "なお「新清史」は、2003年に中国国務院によって承認された新清史とは無関係である。", "title": "新清史" } ]
清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏が建てた征服王朝で、満洲語でᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩᡤᡠᡵᡠᠨといい、中国語では大清と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{See Wiktionary|中国を支配した王朝}} {{redirect|清国|元[[大相撲]][[力士]]で[[大関]]・元[[伊勢ヶ濱]][[年寄|親方]]|清國勝雄}} {{Otheruses}} {{基礎情報 過去の国 |略名 = 清 |日本語国名 = 大清帝国 |公式国名 = '''{{lang|zh-hant|大淸國}}'''<br>{{ManchuSibeUnicode|ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩ<br>ᡤᡠᡵᡠᠨ}} |建国時期 = [[1636年]] |亡国時期 = [[1912年]]<br>[[1917年]]([[張勲復辟]]) |先代1 = 後金 |先旗1 = |先代2 = 順 (王朝) |先旗2 = |先代3 = 南明 |先旗3 = |次代1 = 中華民国 (1912年-1949年) |次旗1 = Flag of China (1912–1928).svg |次代2 = 遜清皇室小朝廷 |次旗2 = Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg |次代3 = ボグド・ハーン政権 |次旗3 = Flag of Bogd Khaanate Mongolia.svg |次代4 = チベット (1912-1950) |次旗4 = Flag of Tibet.svg |国旗画像 = Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg |国旗リンク = [[中国の旗一覧|国旗]] |国旗説明 = 国旗(1889年 - 1912.2.12) |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = Seal_of_Qing_dynasty.svg |国章リンク = 玉璽{{efn|光緒末年から宣統改元に作成され、[[篆書体]]で「{{lang|zh-hant|大清帝國之璽}}」と書かれている。}} |国章説明 = |国章幅 = |標語 = |国歌 = [[鞏金甌]]<br />(1911年 - 1912年)<br />{{center|[[File:Gǒng Jīn'ōu.ogg]]}} |位置画像 = Qing Dynasty 1820.png |位置画像説明 =清の最大領域(1820年)。濃い金色の部分は旧[[明]]領で漢人居住地である省と[[直隷]]([[中国内地]])、薄い黄色の部分は旗地(つまり[[満洲]])と[[モンゴル]]・[[ウイグル]]・[[チベット]]等の同君連合地域。)以上は清の全土。オレンジ色の部分は[[冊封国]]、ピンク色の部分は[[ネルチンスク条約]]で外交紛争のある地域、赤点線は中華人民共和国の今の領土だが、他国との係争地も含む。なお、[[樺太]]も領域内として描かれているが、通商のみで実効支配はされていない。 |首都 = [[瀋陽市|盛京(ムクデン)]](1616年-1644年)<br>[[北京]](1644年-1912年) |元首等肩書 = [[中国帝王一覧#清(後金)|皇帝]] |元首等年代始1 = [[1636年]] |元首等年代終1 = [[1643年]] |元首等氏名1 = [[ホンタイジ|太宗 崇徳帝]] |元首等年代始2 = [[1908年]] |元首等年代終2 = [[1912年]] |元首等氏名2 = [[愛新覚羅溥儀|宣統帝]] |首相等肩書 = [[内閣総理大臣 (清朝)|内閣総理大臣]] |首相等年代始1 = [[1911年]] |首相等年代終1 = [[1912年]] |首相等氏名1 = [[愛新覚羅奕劻|慶親王奕劻]] |首相等年代始2 = [[1911年]] |首相等年代終2 = [[1912年]] |首相等氏名2 = [[袁世凱]] |面積測定時期1 = [[1790年]] |面積値1 = 13,000,000 |面積測定時期2 = [[1860年]] |面積値2 = 11,070,000 |人口測定時期1 = [[1776年]] |人口値1 = 311,500,000 |人口測定時期2 = [[1898年]] |人口値2 = 319,720,000 |変遷1 = [[後金]]成立 |変遷年月日1 = [[1616年]][[2月17日]] |変遷2 = 国号を清と改称 |変遷年月日2 = [[1636年]][[5月15日]] |変遷3 = 北京遷都 |変遷年月日3 = [[1644年]][[10月30日]] |変遷4 = [[辛亥革命]] |変遷年月日4 = [[1911年]][[10月10日]] |変遷5 = [[ボグド・ハーン政権|モンゴル]]が独立を宣言 |変遷年月日5 = [[1911年]][[12月29日]] |変遷6 = 滅亡 |変遷年月日6 = [[1912年]][[2月12日]] |通貨 = [[銀両]] |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |現在 = {{PRC}}<br>{{ROC}}<br>{{RUS}}<br>{{MNG}}<br>{{KAZ}}<br>{{KGZ}}<br>{{TJK}} |注記 = }} {{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}}{{ウィキポータルリンク|中国}} {{満州の歴史}} '''清'''(しん)、または'''清国'''(しんこく)は、[[1636年]]に[[満洲]]に建国され、[[漢民族]]を征圧し[[1644年]]から[[1912年]]まで[[中国本土]]と[[モンゴル高原]]を支配した最後の統一[[王朝]]である。首都は[[盛京]]([[瀋陽]])、後に[[北京市|北京]]に置かれた。[[満洲民族|満洲人]]の[[愛新覚羅氏|アイシンギョロ氏]]([[満洲語]]: {{ManchuSibeUnicode|ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ<br>ᡤᡳᠣᡵᠣ}}, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた[[征服王朝]]で、[[満洲語]]で{{ManchuSibeUnicode|ᡩᠠᡳ᠌ᠴᡳᠩ<br>ᡤᡠᡵᡠᠨ}}([[ラテン文字化|ラテン文字転写]]:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、[[中国語]]では'''大清'''({{ピン音|Dàqīng}}、カタカナ転写:ダァチン)と号した。'''清朝'''、'''満清'''、'''清王朝'''、'''大清国'''、'''大清帝国'''ともいう。 [[ファイル:Qing_Dynasty_map.png|サムネイル|260x260ピクセル|清の影響圏]] [[1917年]]に[[張勲 (清末民初)|張勲]]が清の最後の皇帝、[[溥儀]]を[[皇帝]]に立てて清国を復古させたが失敗した([[張勲復辟]])。 == 国号とその読み方 == {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} '''「清」と言う漢字で国号を選んだ理由:''' #[[漢民族|漢人]]の[[宋 (王朝)|宋]]が[[女真]]の[[金 (王朝)|金]]によって南方に追われたことがあったため、[[明]]に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 #[[五行説]]にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」を表す「'''氵'''」と、『[[周礼]]』で東を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、[[中原]]進出の意味を込めたというもの{{efn|五行相克では、 *木徳→土徳→水徳→火徳→金徳→(木徳に戻る) 「水克火(水は火に克つ)」となる。}}。 #「大清」という国号はモンゴル語「daicin」からの転写である。大+清という国名ではない。「daicin」という言葉は「戦士」を意味していたので、「大清国」は「戦士の国」とする説がある。 '''「しん」という発音が日本語の清王朝の読み方になった理由:''' 今の[[北京官話]]発音の「ちん」と異なることは[[長崎市|長崎]]や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などに見られる程度である。ラテン文字転写として[[ウェード式]]では清を「Ch'ing」と綴る。[[1958年]]の[[ピンイン]]制定後は「Qing」と綴る。清末に締結された条約の欧文では、直接に中国の意味の「China」という国号が用いられていることが多い。 == 歴史 == === 清の勃興 === [[File:Coin of Hong Taiji, A.jpg|thumb|left|300px|スレ・ハンの銭。表左「sūre(聡明なる)」、上「han(王/[[ハーン|ハン]])」、下「ni(の)」、 右「jiha(銭)」とある。清朝初期の無圏点満洲文字で記されている。「天聡汗銭」あるいは「天聡通宝」と通称される。]] [[17世紀]]初頭に[[明]]の[[冊封]]下で、[[満洲]]に住む女直(jušen、以下「[[女真]]」)の統一を進めた[[ヌルハチ]]({{lang-mnc|ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ|z=nurgaci}}、努爾哈赤、太祖)が、[[1616年]]に建国した'''[[後金]]国'''(amaga aisin gurun)が清の前身である。当時はすでに[[金 (王朝)|金]]代の[[女真文字]]は廃れ、独自の[[文字]]を持たないため最初に作った「建国の詔」は[[モンゴル語]]で作成されたが<ref name="JBpress3">{{Cite news |author=[[譚璐美]] |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65762?page=3 |title=狙いは民族抹消、中国が「教育改革」称してモンゴル人に同化政策 |newspaper=[[JBpress]] |publisher=[[日本ビジネスプレス]] |date=2021-06-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210623060906/https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65762?page=3 |archivedate=2021-06-23 |deadlinkdate=}}</ref>、この後金国の建国と前後して、[[ヌルハチ]]は[[満洲文字]](無圏点文字)を制定し、[[八旗]]制を創始するなど、女真人が発展するための基礎を築いていた。[[1619年]]、ヌルハチが[[サルフの戦い]]で明軍を破ると、後金国の勢力圏は[[遼河]]の東方全域に及ぶに至った。その子の[[ホンタイジ]](hong taiji、皇太極、太宗)は[[山海関]]以北の明の領土と[[南モンゴル]]を征服し、[[1636年]]に女真人、[[モンゴル民族|モンゴル人]]、[[漢民族|漢人]]の代表が[[瀋陽]]に集まり[[クリルタイ|大会議]]を開き、そこで[[元 (王朝)|元]]の末裔で大元皇帝位を継承していた[[モンゴル]]の[[リンダン・ハーン]]の遺子の[[エジェイ・ハーン|エジェイ]]から元の[[伝国璽|玉璽]]「制誥之宝」<ref>{{Cite web|和書|title=その後の「制誥之寶」とマハーカーラ像|url=https://sengna.com/2017/05/21/mahakala/|website=宣和堂遺事|date=2017-05-21|accessdate=2019-11-16|language=ja|last=宣和堂}}</ref><ref>{{Cite web|title=中研院歷史語言研究所歷史文物陳列館|url=http://museum.sinica.edu.tw/education_detail.php?id=102|website=museum.sinica.edu.tw|accessdate=2019-11-16}}</ref>(本来は大官任命の文書に押される印璽である上、後に作られた偽物である可能性が高い)と護法尊[[マハーカーラ]]像を譲られ、[[ハーン|大ハーン]]を継承し'''皇帝'''として即位するとともに、国号を'''大清'''に改め、女真の民族名を'''満洲'''(manju)に改めた。 === 清による中国支配 === [[ファイル:Qing-Expansion3.jpg|thumb|left|300px|康熙帝の時代の領土拡張]] {{Main|明清交替}} [[順治帝]]のとき、中国では[[李自成|李自成の乱]]によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で[[山海関]]の守将であった[[呉三桂]]の要請に応じ、[[万里の長城]]を越えて李自成を破った。こうして[[1644年]]に清は首都を北京([[満洲語]]:beging、gemun hecen=京城)に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力([[南明]])が興り、特に[[鄭成功]]は[[台湾]]に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、[[ドルゴン]](dorgon、ヌルハチの子)およびのちに成長した順治帝によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。 少数派の異民族である満洲人の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢人が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を[[逆賊]]として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。また、自殺に追いやられた[[崇禎帝]]の陵墓を整備し、[[科挙]]などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事も考えられる。 === 清の最盛期 === [[File:Carte Generale de l'Empire Chinois et du Japon.png|thumb|left|300px|清の最大領域約1340万平方キロメートル(1790年)]] 順治帝に続く、[[康熙帝]]・[[雍正帝]]・[[乾隆帝]]の3代に清は最盛期を迎えた。 康熙帝は、即位後に起こった[[三藩の乱]]を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて[[台湾]]を併合し[[福建省]]に編入、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的には[[清露国境紛争]]に勝利して[[ロシア]]と[[ネルチンスク条約]]を結んで東北部の国境を確定させ、[[外蒙古|北モンゴル]]を服属させ、[[チベット]]を保護下に入れた。 また、この頃[[東トルキスタン]]を根拠地として[[オイラト]]系の[[ジュンガル]](準噶爾)部が勃興していたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部の[[ガルダン]]を破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼし、[[バルハシ湖]]にまでおよぶ領域を支配下に置き、この地を[[新疆]](ice jecen イチェ・ジェチェン)と名付けた([[清・ジュンガル戦争]])。 これによって[[黒竜江]]から[[新疆]]、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。 こうして、少数の満洲人が圧倒的に多い[[漢民族|漢人]]を始めとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、一人の君主が複数の政治的共同体を統治する[[同君連合]]となり、中華を支配した王朝の中でも特有の制度を築いた。 省と呼ばれた旧明領は皇帝直轄領として明の制度が維持され、藩部と呼ばれた南北モンゴル・チベット・東トルキスタンではそれぞれモンゴル王侯、[[ダライ・ラマ]]が長である[[ガンデンポタン]]、[[ベグ]]といった土着の支配者が取り立てられて間接統治が敷かれ、[[理藩院]]に管轄された。満洲人は[[八旗]]に編成され、軍事力を担った。また、皇帝が[[行幸]]で直轄する地域を訪れる際には漢人の支配者として、藩部の支配地域に行く際には[[ゲル (家屋)|ゲル]]に寝泊りしてモンゴル服を着用するなど、[[ハーン]]として振舞うことで関係を維持した。重要な官職には満洲人と同数の漢人が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関[[軍機処]]が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。 清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の[[康熙字典]]、雍正帝の[[古今図書集成]]、乾隆帝の[[四庫全書]]の編纂は名高い。一方で満洲人の髪型である[[辮髪]]を漢人にも強制し(ただしモンゴルは元々辮髪の風習を持ち、新疆では逆に禁止している)、[[文字の獄]]や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧する一方、[[科挙]]の存続等の様々な懐柔政策を行っている。 しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。乾隆帝、[[嘉慶帝]]の二帝に仕えた[[軍機大臣]]のヘシェン(hešen、[[ヘシェン|和珅]])は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、ヘシェンによる厳しい取り立てに住民が蜂起した[[白蓮教徒の乱]]が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた([[賜死]])。このとき鎮圧に動員された[[郷勇]]と呼ばれる義勇兵と[[団練]]と呼ばれる自衛武装集団が、[[太平天国の乱]]で[[湘軍]]に組織化されて[[曽国藩]]・[[李鴻章]]・[[左宗棠]]のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は{{仮リンク|袍哥会|en|Gelaohui|label=哥老会}}などに流れて[[三合会]]などと[[辛亥革命]]を支える組織になっていった。 === 西欧列強の進出と内乱 === [[ファイル:Signing the Treaty of Tientsin.jpg|300px|left|thumb|[[天津条約 (1858年)|天津条約]]の調印の様子]] {{中国の歴史}} {{モンゴルの歴史}} [[19世紀]]には、清の支配が衰え、繁栄が翳った。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。 19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、[[中華思想]]に基づいて、歴代王朝の皇帝が『[[天下]]』を支配し、[[冊封体制]]の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、[[18世紀]]後半になると、西欧諸国が[[産業革命]]と海運業によりアジアに進出していった。[[イギリス]]商人は18世紀末に西欧の対清貿易競争に勝ち残って、開港地[[広州市|広州]]で[[茶]]貿易を推進した。また、アメリカも[[アメリカ独立戦争|独立戦争]]後の[[1784年]]にアメリカの商船[[:en:Empress of China (1783)|エンプレス・オブ・チャイナ号]]が広州で米清貿易を開始した。米清貿易により清は[[金属]]・[[オタネニンジン]]・[[毛皮]]を、米国は[[茶]]・[[綿]]・[[絹]]・[[漆器]]・[[陶磁器]]・[[家具]]を得た。 [[1793年]]、イギリスは広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が乾隆帝80歳を祝う使節団として[[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|ジョージ・マカートニー]]を派遣した。使節団は工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、商品価値を持つイギリスの製品は無く、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。こうして対清輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった。 この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は[[銀]]での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、清に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスは[[アメリカ独立戦争]]の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、[[インド]]の植民地で栽培した麻薬[[アヘン]]を清に輸出することで[[三角貿易]]を成立させた。清は[[1796年]]にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、アヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた{{sfn|貝と羊の中国人|p=92}}。このため、[[1839年]][[林則徐]]を[[欽差大臣]]に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。 林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する施策を執ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスは、この機会に武力でアヘン密輸の維持と沿岸都市での治外法権獲得を策して、翌[[1840年]]清国沿岸に侵攻し[[アヘン戦争]]を始めた。強力な近代兵器を持つイギリス軍に対し、林則徐ら阿片厳禁派と[[ムジャンガ]]ら阿片弛緩論派との間で国論が二分されて十分な戦力を整えられなかった清軍が敗北し、[[1842年]]イギリスと不平等な[[南京条約]](およびそれに付随する[[虎門寨追加条約]]、五口通商章程)を締結した。主な内容は、[[香港島]]の[[割譲]]や[[上海市|上海]]ら5港の[[開港]]、[[領事裁判権]]の承認、[[関税自主権]]の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的[[最恵国待遇]]の承認であった(その後、[[1844年]]に[[フランス]]と[[黄埔条約]]を、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[望厦条約]]を締結した)。 アヘンの対清密輸が伸び悩んだので、イギリスは[[1856年]]清の官憲が自称イギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実として、[[1857年]]、第二次アヘン戦争([[アロー戦争]])を起こした。イギリスは、宣教師が逮捕に遭った事を口実として出兵した[[フランス]]と共に、広州・天津を制圧し、[[1858年]]にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を締結した。条約の批准が拒否されると北京を占領し、批准のみならず[[天津市|天津]]ら11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる[[北京条約]]を結んだ([[1860年]])。これによりアヘン以外の商品の市場流入も進んだが、アヘンを除けば貿易赤字が続いた。また、このとき[[ロシア帝国|ロシア]]により、まず[[アイグン条約]](1858年)で[[黒竜江将軍]]管轄区と[[吉林将軍]]管轄区のうち[[アムール川]]左岸を、さらに北京条約(1860年)で吉林将軍管轄区のうち[[ウスリー川]]右岸を割譲させられ、ロシアはそこを[[アムール州]]、[[沿海州]]として編入し、{{仮リンク|プリアムール総督府|ru|Приамурское генерал-губернаторство}}を設置した([[外満洲]])。これは現在の[[中華人民共和国|中]][[ロシア連邦|露]]国境線を形作るものである。なお新疆についても[[1864年]]{{仮リンク|タルバガタイ条約|zh|中俄勘分西北界約記}}が結ばれ[[イシク・クル]]、[[ザイサン湖]]以西を失った。 同時期には、国内でも[[洪秀全]]率いるキリシタン集団・太平天国による[[太平天国の乱]]([[1851年]] - [[1864年]])、[[捻軍]]の反乱([[1853年]] - [[1868年]])、[[ムスリム]]([[回族|回民]])による[[パンゼーの乱]]([[1856年]] - [[1873年]])や [[回民蜂起]]([[1862年]] - [[1877年]])、[[ミャオ族]]による{{仮リンク|咸同起義|en|Miao Rebellion (1854–1873)}}などが起こり、清朝の支配は危機に瀕した。[[ムジャンガ]](穆彰阿)の「穆党」の中から[[曽国藩]]が頭角を現し、[[李鴻章]]や[[左宗棠]]と[[湘軍]]を率いて鎮圧にあたった。[[1861年]]、[[同治帝]]が即位するとムジャンガは失脚し、皇母[[西太后]]による[[垂簾聴政]]下で曽国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した「穆党」の漢人官僚が力を得て[[北洋艦隊]]などの軍閥を形成していった。また、政治・行政面では積弊を露呈していた清朝の旧体制を放置したまま、先ずは産業技術に於いて西欧の技術を導入する[[洋務運動]]を開始した。 === 半植民地化・滅亡 === 北西部の新疆(現在の新疆ウイグル自治区)では、[[ヤクブ・ベク]]が清朝領内に自治権を持つ領主を蜂起させ新疆へ侵攻、同地を占領した([[ヤクブ・ベクの乱]])。ロシアも[[1871年]]、新疆に派兵し[[イリ地方]]を占領した。漢人官僚の[[陝甘総督]]左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である[[曽紀沢]]の手によって、[[1881年]]にはロシアとの間で不平等条約の[[イリ条約]]を締結した。イリ界約に基づき、イリ地方のうち[[コルガス川]]以西はロシアが併合し[[セミレチエ州|セミレーチエ州]]に編入した。[[カシュガル条約]]で[[パミール高原]]より西をロシアに割譲し([[外西北]])、現在の中国と[[中央アジア]]諸国との国境線が形成されていった。これに対し、清は[[1884年]][[新疆省]]を設置すると伴に旗人の[[イリ将軍]]らの施政権を削り、陝甘総督{{仮リンク|甘粛新疆巡撫|zh|甘肅新疆巡撫}}が軍事行政を管轄する事となり内地化された。ロシアは[[1892年]]にパミール高原に侵攻し{{仮リンク|サリコル山|en|Sarikol Range}}以西を条約無しで併合している。 [[1854年]]、[[冊封国]][[チャクリー王朝|暹羅]](シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約の[[ボウリング条約]]を結んだ。[[1872年]]、日本の[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]により清と[[薩摩藩]]の両者に朝貢していた[[琉球王国|琉球]]は、日本に合併された。[[1884年]]、[[インドシナ半島]]の[[植民地]]化を進めるフランスに対抗し、対[[阮朝|越南]]([[ベトナム]])宗主権を維持しようとして[[清仏戦争]]( - [[1885年]])が起きたが、[[天津条約 (1885年6月)|清仏天津条約]]によって冊封国越南はフランスの植民地となった。[[1886年]]、[[コンバウン王朝|緬甸]](ビルマ)は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した[[李氏朝鮮|朝鮮]]に対しては、宗主国としての内政権を揮い[[壬午事変]]([[1882年]])、[[甲申政変]]([[1884年]])を鎮圧したが、[[1894年]]に[[大日本帝国|日本]]が起こした[[甲午改革]]では、鎮圧を企図したものの[[日清戦争]]( - [[1895年]])で敗北し、[[下関条約]]によって[[遼東半島]]および{{仮リンク|福建台湾省|zh|福建台灣省}}の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った(ただし朝鮮・[[大韓帝国]]における清領租界は[[日韓併合]]後も清国が確保している)。 「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の[[賠償金]]支払債務に目をつけた。まず[[フランス第三共和政|フランス共和国]]、[[ドイツ帝国]]、[[ロシア帝国]]はいわゆる「[[三国干渉]]」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、[[1896年]]から[[1899年]]にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)であった。[[満洲]]から[[モンゴル]]をロシア、[[長江]]流域を[[イギリス]]、[[山東省]]をドイツ、[[広東省]]・[[広西省]]をフランスが[[勢力圏]]とした。同じく、イギリスは[[九龍半島]]([[香港総督]]管轄)と[[威海衛]]、フランスが[[広州湾]]、ドイツが[[青島市|青島]]([[膠州湾租借地]])、ロシアが[[旅順]]と[[大連市|大連(ダーリニー)]]([[関東州]]、{{仮リンク|極東総督|ru|Наместничество Дальнего Востока}}管轄)を[[租借地]]として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい[[露清密約]]で[[東清鉄道]][[鉄道附属地|附属地]]を手に入れた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[南北戦争]]による国内の混乱から出遅れたため、清国の市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、[[門戸開放宣言]]を発しつつ[[国際共同租界]]設置に参加した。 [[李鴻章]]と[[左宗棠]]の[[海防・塞防論争]]を契機として、技術面だけの[[洋務運動]]に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、[[康有為]]・[[梁啓超]]ら若い知識人が、清も[[立憲君主制]]をとり国政の本格的な近代化を目指す[[変法自強運動]]を唱え始めた。彼ら変法派は[[光緒帝]]と結んで[[1898年]]一時的に政権を奪取した([[戊戌の変法]])が、[[西太后]]率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された([[戊戌の政変]])。その後、西太后は[[保慶帝|愛新覚羅溥儁]](保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が[[義和団の乱|義和団]]の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。 [[1899年]]、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。翌[[1900年]]に西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、[[八カ国連合軍]]に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める[[北京議定書]]を結ばされ清の半植民地化は更に進んだ。 その後、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切り、[[1905年]]に[[科挙]]を廃止、[[三省六部|六部]]を解体再編し、[[1908年]][[欽定憲法大綱]]を公布して[[憲法]]発布・[[国会|議院]]開設を約束し、[[1911年]]5月には軍機処を廃止して[[内閣]]を置いた。しかし、[[愛新覚羅奕劻|慶親王]]内閣が「皇族内閣」と批判されて、清朝は求心力を取り戻せず、漢人の[[孫文]]らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げた。10月、漢人による[[武昌]]での武装蜂起をきっかけに[[辛亥革命]]が起こった。モンゴルにおいても、12月に[[外藩蒙古]]の中から独立運動がおこった([[ボグド・ハーン政権|モンゴル国]])。ここに清は完全な内部崩壊を迎えた(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。 翌[[1912年]][[1月1日]]、[[南京市|南京]]で[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]][[中華民国臨時政府 (1912年-1913年)|臨時政府]]が樹立された。清朝最後の皇帝宣統帝([[愛新覚羅溥儀|溥儀]])は[[2月12日]]、正式に[[宣統帝退位詔書|退位]]し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。 == 政治 == {{see also|満洲民族#清朝の中国支配}} === 清の皇帝 === [[ファイル:Chengde summer palace writings.jpg|thumb|left|300px|[[避暑山荘]]にある麗正門。門上に掛かる額には清で使われた五つの文字が書かれ、清の皇帝支配下の五つの民族を表す。左から[[モンゴル文字]]、[[アラビア文字]]表記の[[ウイグル語]]、[[漢文]]、[[チベット文字]]、[[満洲文字]]。これらを合わせて五体という。]] 清王朝というのは[[満洲]]・[[モンゴル]]・[[明|旧明領]]・[[チベット]]・[[東トルキスタン]]この五つの地域を束ねる[[同君連合]]の国家である。 清の皇帝は満洲人にとっては満洲人全員を率い、自らも上三旗の旗王である八旗の盟主ハン、漢民族にとっては天命を受け継いだ明王朝に代わる儒教天子、モンゴル人にとってはチンギス・ハーンを継承するモンゴル諸部族の大ハーン、チベット人にとってはチベット仏教の最高施主であり文殊菩薩の化身、東トルキスタンのウィグル人にとっては異教徒ながらイスラムの保護者である。清国は儒教も、仏教も、イスラム教も単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえていた。 こうして清国の支配者は共通する価値を拾い上げしながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治し、それぞれの文化圏の接触を厳しく制限した。特に理藩部が管轄していた外蒙古では清朝皇帝にハルハ王家が皇帝位を譲渡し、清の皇帝から爵位を授けられるという形で[[ハルハ王家]]を始めとするモンゴル人貴族によって統治されていた。また清国はいわゆる暗愚な皇帝が少なかった。これは元々満洲人には生前に後継者を指名する習慣や長子継承の習慣は無く、部族長会議で最も優れた人物を部族長(ベイレ・アンバン)や部族長のまとめ役であるハンとしていたこと、政権は一族の共有財産という考えであったため皇帝による完全独裁ではなく、かつ皇帝に対する教育も徹底して行われていたこと、雍正帝によって定められた[[太子密建]]により皇子たちが皇太子に指名されるように常に努力することと、臣下の派閥争いを未然に防ぐことができ、皇太子を秘密裏にすら決めない場合につきまとった「皇帝が後継者を決めないまま急死した場合や皇帝が老齢で先が長くないと見られた場合に後継者争いが頻発する」という弊害も避けることが出来たことが理由にある。 康熙帝が皇二子である[[愛新覚羅胤礽|胤礽]]を清朝初の皇太子と定めたが、各皇子を中心とした派閥による度重なる後継者争いなどで胤礽は精神に異常をきたし、素行が悪くなったことで2度[[廃太子]]となった後、様々な確執の末に雍正帝が康熙帝の次の皇帝となったことで太子密建が定められた。ただし予め先代皇帝が後継者を指名していなければ機能しない制度であるため、先代皇帝の若年の死去や幽閉などの理由により末期の同治帝・光緒帝・宣統帝に関しては再び旗王諸王による会議で決められている。明朝などでは深刻であった国政に対する[[宦官]]の影響は、宮廷事務や皇帝の身辺の世話は皇帝直属の[[八旗]]の旗人の中で家政を担当する包衣が管轄する[[内務府]]が掌り、その管轄下に置かれた宦官の仕事は后妃の世話に限定されるようになったため、ほとんど無くなっていた。 ==== 帝室の姓氏 ==== 帝室の姓氏を満洲語でアイシンギョロといい、これを漢語に音写したものが[[愛新覚羅]]である。アイシンは「金」という意味のかつて女真人が興した[[金 (王朝)|金朝]]やヌルハチが興した[[後金]]をからとった族名(ムクン)、ギョロは父祖の出身地の地名を戴いた姓氏(ハラ)で、合わせて「金のギョロ一族」を表す。満洲人は清代には漢人のように姓氏と名を続けて呼ぶ習慣は無かった。 ==== 歴代皇帝 ==== {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! style="width:5em;"|[[廟号]] ! style="width:10em;"|皇帝名(漢文) ! style="width:10em;"|[[名前]]([[諱]]) ! style="width:9em"|在位時期 ! style="width:7em"|[[年号]] ! 備考 |- | 太祖 | 天命帝 | [[ヌルハチ]] | [[1616年]] - [[1626年]] | [[天命 (後金)|天命]] | 清の前身である後金の創始者。 |- | 太宗 | 崇徳帝 | [[ホンタイジ]] | [[1627年]] - [[1643年]] | [[天聡]]{{efn|大清皇帝に即位し[[崇徳]]と改元。}}<br />[[崇徳]] | ヌルハチの第8子。後金を清とする。 |- | 世祖 | [[順治帝]] | フリン | [[1644年]] - [[1661年]] | [[順治]] | ホンタイジの第9子。 |- | 聖祖 | [[康熙帝]] | ヒョワンイエイ | [[1662年]] - [[1722年]] | [[康熙]] | 順治帝の第3子。 |- | 世宗 | [[雍正帝]] | インジェン | [[1723年]] - [[1735年]] | [[雍正]] | 康熙帝の第4子。 |- | 高宗 | [[乾隆帝]] | フンリ | [[1736年]] - [[1795年]] | [[乾隆]] | 雍正帝の第4子。 |- | 仁宗 | [[嘉慶帝]] | ヨンヤン | [[1796年]] - [[1820年]] | [[嘉慶 (清)|嘉慶]] | 乾隆帝の第15子。 |- | 宣宗 | [[道光帝]] | ミンニン | [[1821年]] - [[1850年]] | [[道光]] | 嘉慶帝の第2子。 |- | 文宗 | [[咸豊帝]] | イジュ | [[1851年]] - [[1861年]] | [[咸豊]] | 道光帝の第4子。 |- | 穆宗 | [[同治帝]] | ヅァイシュン | [[1862年]] - [[1874年]] | ([[祺祥]]){{efn|一旦「祺祥」と公布されたが、[[辛酉政変]]のため改元前に同治と変更された。}}<br />[[同治]] | 咸豊帝の長子。 |- | 徳宗 | [[光緒帝]] | ヅァイティヤン | [[1875年]] - [[1908年]] | [[光緒]] | 醇親王奕譞の第2子。道光帝の孫。 |- | - | ([[愛新覚羅溥儁|保慶帝]]) | プージュン | [[1899年]] | [[保慶]] | 端郡王載漪の第2子。道光帝の曾孫。 |- | - | [[愛新覚羅溥儀|宣統帝]] | プーイー | [[1908年]] - [[1912年]] | [[宣統]]{{efn|清朝の滅亡後は、[[1924年]]の優待条件修正案公布まで紫禁城内でのみ使用。}} | 醇親王載灃の長子。道光帝の曾孫。 |} ===== 系図 ===== {{familytree/start}} {{familytree | | | | | | | | |K1| K1=1. [[ヌルハチ|太祖天命帝]]}} {{familytree | | | | | | | | | |!| | | }} {{familytree | | | | | | | | |K2| K2=2. [[ホンタイジ|太宗崇徳帝]]}} {{familytree | | | | | | | | | |!| | | }} {{familytree | | | | | | | | |K3| K3=3. [[順治帝]]}} {{familytree | | | | | | | | | |!| | | }} {{familytree | | | | | | | | |K4| K4=4. [[康熙帝]]}} {{familytree | | | | | | | | | |!| | | }} {{familytree | | | | | | | | |K5| K5=5. [[雍正帝]]}} {{familytree | | | | | | | | | |!| | | }} {{familytree | | | | | | | | |K6| K6=6. [[乾隆帝]]}} {{familytree | | | | | | | | | |!| | | }} {{familytree | | | | | | | | |K7| K7=7. [[嘉慶帝]]}} {{familytree | | | | | | | | | |!| | | }} {{familytree | | | | | | | | |K8| K8=8. [[道光帝]]}} {{familytree | | | | | |,|-|-|-|(| | | }} {{familytree | | | | |J1| |K9| J1=[[愛新覚羅奕譞|醇親王奕譞]]|K9=9. [[咸豊帝]]}} {{familytree | |,|-|-|-|(| | | |!| | | }} {{familytree |J2| | K11 | | K10 | | | J2=[[愛新覚羅載灃|醇親王載灃]]|K11=11. [[光緒帝]]|K10=10. [[同治帝]]}} {{familytree | |!| | | | | | | | | | | }} {{familytree |K12| | | | | | | | | | | | K12=12. [[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]}} {{familytree/end}} ==== 清の后妃 ==== [[満洲民族|満洲人]]皇帝は姫君5人を全員[[モンゴル民族|モンゴル人]]の王族に嫁がせるなどモンゴルと親密な関係を保持しており<ref name="JBpress3"/>、后妃の選定や[[降嫁]]といった通婚は八旗の他、[[孝荘文皇后]]に代表されるようにモンゴル王侯との間で行われ、民間の[[漢民族|漢人]]と行われることは決してなかった。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- ! 順位 ! 称号 ! 人数 ! 代表的な人物 |- ! 1 | [[皇后]] | 1人 | [[東太后]](咸豊帝の皇后)<br/>[[隆裕皇太后]](光緒帝の皇后) |- ! 2 | [[皇貴妃]] | 1人 | |- ! 3 | [[貴妃]] | 2人まで | [[西太后]](咸豊帝の貴妃) |- ! 4 | [[妃]] | 4人まで | [[孝荘文皇后]](ホンタイジの妃)<br/>[[珍妃]](光緒帝の妃) |- ! 5 | [[嬪]] | 6人まで | |- ! 6 | [[貴人 (後宮)|貴人]] | 12人まで | |- ! 7 | [[常在]] | 20人まで | |- ! 8 | [[答応]] | 28人まで | |- |} ==== 元号 ==== {{main|[[元号一覧 (中国)#清(後金)]]}} 清は、[[一世一元の制]]と[[改元#改元の基準点|踰年改元制]]を明から引き継いだので、[[元号]]は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元した[[ホンタイジ]]は例外)。 [[順治帝]]以降の入関後の各皇帝は[[廟号]]・[[諡号]]を以って呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。 === 皇族の爵位 === * 和碩親王(hošoi cin wang、ホショイ・チン・ワン、ホショしんのう) * 世子(šidzi、シヅ、親王の嗣子) * 多羅郡王(doroi giyūn wang、ドロイ・ギュン・ワン、ドロぐんおう) * 長子(jangdzi、ジャンヅ、郡王の嗣子) * 多羅貝勒(doroi beile、ドロイ・ベイレ) * 固山貝子(gūsai beise、グサイ・ベイセ) * 鎮国公(gurun be dalire gung、グルン・ベ・ダリレ・グン) * 輔国公(gurun de aisilara gung、グルン・デ・アイシララ・グン) * 不入八分鎮国公(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun be dalire gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・ベ・ダリレ・グン) * 不入八分輔国公(jakūn ubu de dosimbuhakū gurun de aisilara gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・デ・アイシララ・グン) * 鎮国将軍(gurun be dalire janggin、グルン・ベ・ダリレ・ジャンギン) * 輔国将軍(gurun de aisilara janggin、グルン・デ・アイシララ・ジャンギン) * 奉国将軍(gurun be tuwakiyara janggin、グルン・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン) * 奉恩将軍(kesi be tuwakiyara janggin、ケシ・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン) 清朝皇族の爵位は通常1代ごとに降下する。特に功績がなければ親王の子は郡王、郡王の子は貝勒というように爵位が下がっていく。しかし、特に功績が大きかった皇族は世襲が認められ、爵位が降下しないことから{{仮リンク|鉄帽子王|zh|铁帽子王}}と呼ばれた。 * [[礼親王]](doronggo cin wang)家 - [[ヌルハチ]]の第2子・[[ダイシャン]](代善)が祖。 * [[睿親王]](mergen cin wang)家 - ヌルハチの第14子・[[ドルゴン]](多爾袞)が祖。 * [[豫親王]](erke cin wang)家 - ヌルハチの第15子・[[ドド]](多鐸)が祖。 * [[粛親王]](fafungga cin wang)家 - [[ホンタイジ]]の長子・[[ホーゲ]](豪格)が祖。清末に[[愛新覚羅善耆|善耆]]、[[川島芳子]]父娘が出る。 * [[承沢親王]](kesingge cin wang)家 - ホンタイジの第5子・[[ショセ]](碩塞)が祖。後に[[荘親王]]家と改称。 * [[鄭親王]](ujen cin wang)家 - ヌルハチの弟シュルガチの子・[[ジルガラン]](済爾哈朗)が祖。[[西太后]]の政敵[[粛順]]、鄭親王[[愛新覚羅端華|端華]]兄弟が出る。 * [[克勤郡王]](kicehe giyūn wang)家 - ダイシャンの長子[[ヨト]](岳託)が祖。 * [[順承郡王]](dahashūn giyūn wang)家 - ダイシャンの子[[サハリャン]](薩哈璘)の第2子勒克徳渾が祖。 これらの8家は建国にあたって特に功績が大きかったために他の皇族とは別格とされ、八大王家と呼ばれた。睿親王家はドルゴンが皇位を簒奪しようとしたとして廃絶されていたが、[[乾隆]]年間にドルゴンが名誉回復したために再興された。ドルゴンに連座して同母弟ドドも郡王に落とされていたが、同様に乾隆年間の名誉回復により親王家に戻された。 清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。 * [[怡親王]](urgun cin wang)家 - [[康熙帝]]の第13子・[[愛新覚羅胤祥|胤祥]]が祖。 * [[恭親王]](gungnecuke cin wang)家 - [[道光帝]]の第6子・[[愛新覚羅奕訢|奕訢]]が祖。 * [[醇親王]](hatan cin wang)家 - 道光帝の第7子・[[愛新覚羅奕譞|奕譞]]が祖。奕譞の子が[[光緒帝]]、孫が[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]となる。 * [[慶親王]](fengšen cin wang)家 - [[乾隆帝]]の第17子・永璘が祖。永璘の孫[[愛新覚羅奕劻|奕劻]]が清末に[[軍機大臣]]として活躍し、世襲王家とされた。 === 官制 === 清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。 それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ[[内閣大学士|内閣]]制度である。ホンタイジ時代には内三院(bithe i ilan yamun)と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣(dorgi yamun)に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。 その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である[[軍機処]](coohai nashūn i ba)を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は[[1792年]]に廃止される。 中央には軍機処の他に[[三省六部|六部]](ninggun jurgan)・[[内務府]](dorgi baita be uheri kadalara yamun、宮廷諸事)・[[宗人府]](uksun be kadalara yamun、皇族・宗族の事務)・[[理藩院]](tulergi golo be dasara jurgan、藩部の統括。藩部については後述)・[[都察院]](uheri be baicara yamun、官僚の監察)・[[通政使司]](dasan be hafumbure yamun、上奏文の検閲)・大理寺(beidere be tuwacihiyara yamun、最高裁判所)がある。 地方は皇帝直属である[[省 (行政区分)|省]]と[[藩部]]と満洲人の故地である旗地([[満洲]])とに分かれている。満洲と北京周辺を皇帝直轄地として統治したことからこの領域は'''中国'''(満洲語:ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)<ref>[http://ctext.org/wiki.pl?if=en&chapter=523223 ネルチンスク条約]:「凡山南一帶,流入黑龍江之溪河,盡屬中國(中国)。山北一帶之溪河,盡屬鄂羅斯(ロシア)...將流入黑龍江之額爾古納河為界,河之南岸屬於中國(中国),河之北岸屬於鄂羅斯(ロシア)...中國(中国)所有鄂羅斯之人(ロシア人),鄂羅斯(ロシア)所有中國之人(中国人),仍留不必遣還」</ref> と呼ばれた。 [[ファイル:萬樹園賜宴圖.jpg|thumb|300px|オイラトモンゴルのジャサ・ノヤン]] 藩部(tulergi golo)はホンタイジが最初に南モンゴルの[[チャハル]]部を服属させた時に蒙古衙門(monggo jurgan、もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院(tulergi golo be dasara yamun)と改名し、北モンゴル・[[新疆ウイグル自治区|新疆]]・[[チベット]]・[[青海省|青海]]を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。特にモンゴルに関しては、臣従した諸勢力は八旗制を元にした[[盟旗制度]]の元に再編成され、[[ボルジギン氏]]などの王侯をその長である「ジャサク」とし、親王などの爵位を与えその地位は旗王と同格とするなど厚遇され、清を共同統治するという形をとっている。 清初期に部隊ごと投降した明の武将[[孔有徳]]・[[耿仲明]]・[[尚可喜]]の集団も、八旗と同形式の組織に再編された上で天祐兵・天助兵という独立した軍団として従属し、彼らは三順王と呼ばれ旗王と同格に扱われた。後に[[呉三桂]]が加わって孔有徳が戦死して脱藩し、三藩となったが、[[三藩の乱]]後はこれらの漢人軍団は解体され八旗漢軍に編入され、三藩の領地は皇帝の直轄領となった。 省はほぼ現在の[[中華人民共和国]]と同じものが置かれている。直隷([[河北省]])・[[江蘇省]]・[[安徽省]]・[[山西省]]・[[山東省]]・[[河南省]]・[[陝西省]]・[[甘粛省]]・[[浙江省]]・[[江西省]]・[[湖北省]]・[[湖南省]]・[[四川省]]・[[福建省]]・[[広東省]]・広西省([[広西チワン族自治区]])・[[雲南省]]・[[貴州省]]の18である(いわゆる「一十八省」)。しかし清末になるとその数が増えることになる。省の下に府(fu)・州(jeo)・県(hiyan)がある。府・州・県の長官はそれぞれ[[知府]](fu i saraci)・[[知州]](jeo i saraci)・[[知県]](hiyan i saraci)と呼ぶ。省の長官は[[巡撫]](giyarime dasara amban)と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する[[総督]](uheri kadalara amban)があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。{{See also|提刑按察使司按察使}} 満洲人の故地である満洲地方については旗地(八旗の土地)とされ省は置かずに、黒竜江将軍(sahaliyan ula i jiyanggiyūn)・吉林将軍(girin i jiyanggiyūn)・盛京将軍(mukden i jiyanggiyūn)らに軍政を行わせて満洲人の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢人の移住を禁止して、満洲人が漢人に同化してしまわないようにした。しかし[[日露戦争]]後の[[1907年]]には黒竜江将軍を[[黒竜江省|黒竜江行省]]、吉林将軍を[[吉林省]]、盛京将軍を[[奉天省]]とし、[[東三省総督]]を新設、しかも華北から大量の漢人農民を移民させている。 ==== 満漢偶数官制 ==== 清の政治は圧倒的多数である漢人を少数派である満洲人がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。ポストをそれぞれ満洲人・漢人が同数になるように配置していく制度である。これには双方の動向を監視させる意味合いもあった。 清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲人だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。 === 兵制 === {{main|清の兵制}} 兵制は満洲の軍制である八旗制度(jakūn gūsa)を採用していた。それを補完する形で[[緑営]]がある。[[緑営]]は明の兵制を解体した後に再編成したもので、各地に分散して配置された。詳しくは[[八旗]]の項を参照。しかし[[乾隆]]以降は長い平和に八旗は堕落し、また比率的に言うと増加する[[旗人]]の数に対して役務の数は減少し、加えて農工商業などの副業は禁じられており無役で旗地だけでは彼らは生活が難しい為、経済的にも窮迫して弱体化し、物の役には立たなくなっていた。そういった問題に対し旗人に満洲語の習得や乗馬騎射の訓練などといった「文武両道」を奨励したり、乾隆帝代には漢軍八旗の一部を民籍に移す「漢軍出旗」や、満洲旗人を満洲に帰す政策がとられたが失敗している。 その後[[白蓮教徒の乱]]・[[ミャオ族|苗族]]の乱など国内での反乱が多発するようになると、[[郷勇]]という義勇兵が八旗に代わって活躍する。反乱鎮圧後には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士達は[[緑営]]に編入されるか、そうでない者は盗賊化することもあった。 その後の太平天国の乱に際しては[[湘軍]]・[[淮軍]]といった有力者による半私兵集団が鎮圧に当たり、軍閥化が進むようになる。これ以降の政府では[[曽国藩]]・[[李鴻章]]といった軍閥の長が権力を握るようになり、軍機処を始めとした中央の官僚の権限は有名無実化した。 == 清の行政区画 == {{multiple image |align = left |direction = vertical |width = 300 |image1 = Map-Qing Dynasty 1820.jpg |width1 = 300 |caption1 = 嘉慶二十五年(1820年)の行政区画 |image2 = Map-Qing Dynasty 1911.jpg |width2 = 300 |caption2 = 光緒三十四年(1908年)の行政区画 }} 清は各地の支配者の臣従を受け同君連合となり、その領土は広い上、各地域の差も大きく、多数の民族を含み、その間柄も良好とは言えなかったため、行政の区割りは画一的な物でなく「因時順地、変通斟酌」として行われた<ref name=一統志序>{{Cite book |title=『御製大清一統志序』 |last=[[道光帝]]}}</ref>。 中心となった満洲人には中央ユーラシア的な「姓長制」である[[八旗|八旗制]]が維持された。各旗人は皇帝の上三旗と皇族である各旗王が分封された下五旗に所属し、北京の内城は旗人(北京八旗)の街とされ、各旗ごとに区画が割り当てられ、さらに満洲→蒙古→漢軍の順で宮城の外側に居住区が設けられた。また要地の警備のために駐防八旗が駐屯した。1645年に西安・南京からはじめて他の主要都市を部分的に占拠していった。合計18カ所の「満城」が各省に設立され、1700年までにそのうち12カ所で、最終的には全ての「満城」において、北京のように旗人のための隔離居住の原則が認められた。駐防地に送られた兵士はその家族をすべて連れていき、現地の漢人から隔離された城壁のなかに住む場所を割り当てられた。 畿輔駐防は、直隷駐防とも称され、乾隆帝後期、良郷、昌平、水平、保定等25か所に8000人が駐屯した。東三省駐防は、盛京、吉林、黒龍江駐防に分かれる。盛京駐防は、盛京将軍が統括し、盛京、遼陽、開原等40か所に1万6000人が駐屯した。吉林駐防は、吉林将軍が統括し、兵力は9000人だった。黒龍江駐防の八旗兵とソロン(索倫)兵7000人は、黒龍江将軍が統括した。 各省駐防は、山東、山西、河南、江蘇、浙江、四川、福建、広東、湖北、陝西、甘粛等11省の20都市に駐屯し、乾隆帝後期、計4万5000人に達した。各省駐防は、各都市に設けられた将軍又は副都統が管轄し、各省駐防の兵数は300 - 3000人程度だった。 新疆駐防は、西域兵とも称され、ジュンガル部、ウイグル部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、イリ将軍が統括した。 皇帝直轄領であり漢人の多い旧明領は明の制度を引き継ぎ、「省—府—県」の三段階からなる制度が敷かれた<ref name=清史稿地理一>{{Cite book |title=『清史稿』志二十九 地理一}}</ref>。旧明領の漢人以外の民族には有力者に土司の地位を与え統治させた<ref name=清史稿東北>{{Cite book |title=『清史稿』志三十、三十一、三十二 地理志二、三、四}}</ref>。{{仮リンク|藩部|zh|藩部}}では現地の事情を踏まえると共に中央集権の強化も図られた。 臣下としたモンゴルでは[[盟旗制度|旗盟制]]を整備し、モンゴル王侯に[[ジャサク]](札薩克)の地位を与えて遊牧地を与えた。保護国であるチベットではダライ・ラマのガンデンポタンの自治により地方行政単位として、規模により大中小の3等級に分類されるゾン(rdzong)(清代の営、民国の県に相当)を設置、さらにその下方単位として国家直属・貴族領・寺院領の三種からなるシカ(gzhis ka)を置いた。 新疆では[[イリ将軍]]の配下に、イリ・タルバガタイ・カシュガルに駐屯する3名の参賛大臣が置かれ、ウルムチには、ウルムチ都統が置かれた。これらの下には、弁事大臣・領隊大臣等の役職が設けられ、それぞれ各オアシス都市の統治を行った。各地方の末端行政は現地人有力者に委ねられ、早くから清朝に服属したハミやトゥルファンの支配者らにはジャサク制が適用され、爵位が与えられモンゴル人貴族と同様の特権が付与された。またタリム盆地の各オアシス都市の支配者に対しても清朝の官職が与えられ、自治を行わせるベグ官人制が行われ、在地の社会構造がそのまま温存された。 全国は[[内地十八省]]と、{{仮リンク|駐防将軍|zh|驻防将军}}の5管区、{{仮リンク|駐箚大臣|zh|駐劄大臣}}の2管区とあわせて25の行政区画と、内モンゴルなどの旗・盟に分けられ、それぞれの地域の接触を厳しく制限した。それぞれの地域を監督し、正式に行き来出来たのは八旗官僚のみであり、科挙の上位合格者を除き漢人科挙官僚は旧明領の統治にのみ用いられた。満洲語は各地に派遣された八旗官僚と中央との連絡に用いられた。 清の末期、列強の進出や漢人の藩部への流出が強まる情勢下で、各地の旧行政制度では有効な統治を行えなくなってきた。そのため、この頃には清朝は「満洲人とモンゴル人の同盟が漢人を支配し、チベットとイスラムを保護する」という体制から皇族と漢人有力者や知識人とによる「満漢連合政権」となっており、漢族有力者を用いて立て直しを図ったため光緒年間には[[新疆省|新疆]]・[[奉天省|奉天]]・[[吉林省|吉林]]・[[黒竜江省|黒竜江]]が相次いで省となり、内地と同様の行政制度を敷き中央集権化が図られ、それらの巡部など主要な役職は漢人によって占められた。そのため次第に外藩部では清朝の支配を受け入れていた要因自体が薄れていった。光緒三十四年(1908年)には清は22省と、チベット・外モンゴル・内モンゴル・青海などの地方となった。モンゴルとチベットも省にする案があったがモンゴルは独立し、チベットは支配強化のため侵攻中に辛亥革命が勃発し、清が崩壊したため実行されなかった。中華民国の成立後もモンゴルやチベットは中華民国の[[宗主権]]を認めず、それぞれロシアとイギリスを頼って実質的な独立状態を保った。 === 内地の行政区画 === {{Main|内地十八省}} {{See also|中国本土|中国内地}} 清の[[山海関]]の「内側」である、長城以南の漢人の多い地域は「内地」、「関内」または「漢地」と呼ばれ、明代の「両直十三省」の呼称を受け継いで「直省」と呼ばれていた。内地の行政区画は明代の「省―府(州)―県」の三段階からなる階級体制を受け継いでいる。一番上、一級政区は省で「行省」と俗称された。布政使司と呼ばれていたが、[[布政使]]が[[督撫]]の属官になっていくにつれて、「布政使司」の名称は省に取って代わられていった。[[嘉慶 (清)|嘉慶]]年間に『一統志』が編纂された時には「省」は一級政区の正式な称号となっていた。その下、二級政区は府と直隷州があった。(直隷州と違って)府の下にある三級政区である州(散州、属州)の下に県が付くことはなかった。つまり、単式の三級制となっていた。清初年には臨時の役人だった[[巡撫]]が布政使に代わって省の長官になった。一部の民族の雑居地や戦略的要地には、新しい政区の「庁」が置かれ、それは省直轄の直隷庁と府の下にある散庁があった。少数の直隷庁の下には県があった。 {{chart/start}} {{chart| | | | | | | | | Sh | | | | |Sh={{nowrap|省/[[布政使司]]<br />(行省)}}}} {{chart| | | | | | | | | |:| | | | }} {{chart|border=0| | | | | | | | | Do | | | | |Do=[[道員|道]]}} {{chart| | | | | | | | | |:| | | | }} {{chart| |,|-|-|-|-|-|-|-|+|-|-|-|-|-|-|-|.| | | }} {{chart| ZZ | | | | | | Fu | | | | | | ZT | |ZZ=[[直隷州]]|Fu=[[府 (行政区画)|府]]|ZT=[[庁 (行政区画)|直隷庁]]}} {{chart| |!| | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| | | | | | | }} {{chart| Xa | | SZ | | Xa | | ST | |SZ=[[散州]]|Xa=[[県]]|ST=[[庁 (行政区画)|散庁]]}} {{chart/end}} === 行省 === 行省の設置については、清は明代の両京と十三布政使司を基本的に踏襲して、山東・山西・河南・陝西・浙江・福建・江西・広東・広西・湖広・四川・雲南・貴州の13省を置いた。順治元年(1644年)に北京を都と定め、[[盛京]]は留都(旧都)となった<ref>『大清一統志』盛京</ref>。二年(1645年)に北直隷を直隷省に、南直隷を江南省にした。康熙三年(1664年)、湖広を湖北と湖南の二省にした。康熙六年(1667年)、江南省は正式に江蘇と安徽の二省にした。康熙七年、甘粛省が設立され、これによっていわゆる「内地十八省」が定まった<ref>清史稿地理一</ref>。 {{col-begin}} {{col-break}} * [[直隷省]] * [[江蘇省]] * [[安徽省]] * [[山西省]] * [[山東省]] * [[河南省]] {{col-break}} * [[陝西省]] * [[甘粛省]] * [[浙江省]] * [[江西省]] * [[湖北省]] * [[湖南省]] {{col-break}} * [[四川省]] * [[福建省]] * [[広東省]] * [[広西省 (清)|広西省]] * [[雲南省]] * [[貴州省]] {{col-end}} == 清の経済 == [[秤量貨幣]]である[[銀]]と[[信用貨幣]]である[[銅銭]]の併用であり、銀は主に税金、八旗への給与、対外貿易に用いられ、銅銭は国内の商取引に用いられた。明代後期から出現した[[郷紳]]層による地方支配、外国産の銀の流通による経済の発達、良質な銅銭普及による対銀レートの高騰とそれによる八旗の困窮、銀東アジア交易網の隆盛などが明後期から清前期の特徴として挙げられる。 === 農業の発展と人口爆発 === [[北宋]]代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、順治帝期の[[1651年]]の戸籍登録人口は約5300万、康熙帝期の[[1685年]]には約1億1000万、[[1700年]]に1億5000万、乾隆帝期の[[1765年]]には2億、[[1770年]]から[[1780年]]にかけて2億8000万、[[1790年]]に3億、[[19世紀]]前半のアヘン戦争直前の[[1833年]]に4億を突破した(数字は全て推定){{sfn|貝と羊の中国人|p=90-91}}。 この人口の爆発的増加の最大の理由は[[新大陸]]原産の作物[[トウモロコシ]]・[[サツマイモ]]・[[ラッカセイ|落花生]]などが導入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも痩せた土地で育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢人が進出できるようになった。また、当時の農業が労働集約的であり、生産性向上の為に小作人を低賃金で大量に雇った方が利益を得られやすいという観点から、地主階級が貧しい農民の人口が増えることを歓迎していたことも、人口増加の背景となった{{sfn|貝と羊の中国人|p=93}}。溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢人の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まり切らず、明代から出現していた[[華人]]が激増する事になる。 これらの漢人の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル人・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った[[台湾]]にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲人の保護の意味から漢人の移住を禁止していたが、[[19世紀]]末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢人の農地が広がることになる。 === 税制 === 清初には税制も明から[[一条鞭法]]を引き継いでいたが[[地丁銀制]]に切り替えた。これはそれまでが[[人頭税]](人丁)・土地税(地丁)の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの[[里甲制]]から変えて、新しく作り直した。 こうした政策によって、清朝中頃までは円滑に、あるいは曲がりなりにも税制は機能したが、[[アヘン戦争]]前後より貿易不均衡により清からの銀の流出は著しくなり、これが清国内での銀価格を吊り上げ、反対に銅銭や穀物の相場は相対的に低下した。結果的に、銀納を義務付けられた庶民の納税の負担は上昇して、困窮、清の衰退の主因の一つになった。 === 商業 === 明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、[[絹織物]]・[[綿織物]]に加えて[[鉄]]の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端な[[デフレーション|デフレ]]状態に陥って「銀荒穀賤」と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。三藩の乱後は良質な[[清朝銭|銅銭]]の普及に力を入れたため、銅銭の信用が増し広く流通するようになり、銅銭の供給量が増えているにもかかわらず対銀レートが高騰する銭貴という状態になった。これは俸給を銀で受け取り、銅銭に換金して生活必需品を購入していた旗人達に打撃を与え後の困窮に繋がる要因の一つとなった。 そして商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる[[質屋]]は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また[[為替]]業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが[[山西省#山西商人|山西商人]]([[山西省]]出身)・[[新安商人]]([[安徽省]]出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接に関わり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。 == 文化 == [[ファイル:K'ang Hsi Dict.png|thumb|康熙字典]] [[File:Chinese musicians.jpg|thumb|音楽家]] 後金から清成立時にはモンゴル文字から満洲文字が作られ、歴史記録の編纂が始まった。この初期の記録は後に20世紀初に[[内藤湖南]]により発見され、「[[満文老档]]」と名付けられている。 順治帝は漢文化に傾倒したことで有名であり、康熙・雍正・乾隆の三世はいずれも類稀な[[文人]]でもある。しかしその事は文化の保護に繋がらず、逆に弾圧に繋がった。異民族支配による文人達の反抗を抑えるために[[文字の獄]]と呼ばれる厳しい弾圧を行い、幾人もの文人が死罪になっている。 初期清朝は、[[八旗|満洲旗人]]達の教育に有用な漢籍を「官書」として[[満洲語]]訳して読ませたり、旗人達に漢字の習得を義務化した。 清初期ではイエズス会の宣教師等を通じて数理天文学、数学、測量技術、医学、解剖学等の西洋科学の導入が進んだ。使用言語に関してはフランス語等の西洋諸語から漢語文言文(漢文)、西洋諸語から満洲語に訳されたものが漢語文言文へという流れが存在した。[[フェルディナント・フェルビースト]]は満洲語を習得し康熙帝に進講している。 [[File:Yuzhi Wuti Qingwen Jian Tian.svg|thumb|200px|「御製五体清文鑑」の一部。上から満洲語、チベット語、チベット語の発音を満洲文字で示したもの、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、ウイグル語の発音を満洲文字で示したもの、漢文]] 上記三世の皇帝は康熙期の『[[康熙字典]]』、乾隆期の『[[四庫全書]]』などの文化事業を行ったが、それは同時に政府の近くに文人達を集める事による言論統制の意味があった。 一方で満洲語を習得している満洲八旗が減少している事を危惧し、特に乾隆帝の勅命により1787-94年(乾隆52-59)頃に満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、漢語に対応した辞書の「御製五体清文鑑」 (han-i araha sunja hacin-i hergen kamciha manju gisun-i buleku bithe) が編纂された。 清の文化は[[ベトナム|越南]]に多大な影響を与えている。 === 思想 === 厳しい思想統制が行われる中で、[[考証学]]と呼ばれる新しい分野が生まれた。 これは[[聖人]]の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に[[四書五経]]を読み解いている(と考えられる)[[朱子学]]や[[陽明学]]を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重視されたのが[[漢]]代のものである。 考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、[[孔子]]の子孫の家の壁から現れたと言う『[[尚書|古文尚書]]』が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。 また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとした。この分野では『[[二十二史箚記]]』の著者[[趙翼]]が有名である。 しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は『[[春秋公羊伝]]』を経典とした[[公羊学]]を行うようになる。 === 中国文学 === [[ファイル:Traum-der-roten-Kammer.jpg|thumb|200px|right|紅楼夢の挿絵]] 清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた[[漢詩]]の分野もまた相対化されて、必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛び抜けた天才・名作は無い。 一方、明代から引き継いで[[小説]]・[[戯曲 (中国)|戯曲]]の大衆文化は盛んであり、小説では『[[聊斎志異]]』『[[紅楼夢]]』、戯曲では『[[長生殿 (戯曲)|長生殿伝奇]]』『[[桃花扇|桃花扇伝奇]]』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。 現代中国で[[普通話]]のもととなる[[北京語]]が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と[[満洲語]]の語彙が混じり合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。 === 美術 === 絵画の分野では[[イエズス会]]士[[ジュゼッペ・カスティリオーネ]](郎世寧)によってもたらされた[[遠近法]]を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の[[石濤]]、[[八大山人]]といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。 [[陶磁器]]の分野では[[景徳鎮]]は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで[[中国の陶磁器|赤絵]]・[[染付]]などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。 [[瀋陽]]にある[[瀋陽故宮|清の旧王宮]]は[[北京と瀋陽の明・清王朝皇宮]]として[[世界遺産]]に登録されている。 == 国際関係 == === 前期 === 明代の1543年にポルトガル人が日本の[[種子島]]に漂着して[[火縄銃]]と引き換えに日本銀を得るようになるが([[南蛮貿易]])、同時に[[銀]]需要の増大した[[明朝]]のために、日本銀を中国生糸と交換し{{efn|日本銀は16世紀中期以降、[[石見銀山]]や[[但馬銀山]]などでの生産が急増し、16世紀後半には1200〜1300トン、17世紀前半には2400トンの銀が中国に流れた<ref>{{コトバンク|日本銀}}。旺文社世界史事典 三訂版。</ref>。南蛮貿易はのち、[[台湾]]の[[安平古堡]]と長崎の[[出島]]を拠点とする[[プロテスタント]]勢力の[[オランダ東インド会社]]に引き継がれた。その後の江戸には[[蘭学]]は広まったが[[フリントロック式]]([[燧石]]銃)はほとんど輸入されなかった。}}、この利益を得るため1557年に[[マカオ]]に拠点を設立しており、明皇帝が[[倭寇]]撃退のために公布した[[海禁|渡航禁止令]]の対象からも除外されていた<ref>[[#ブリュッセイ, 2019年|ブリュッセイ, 2019年]]、[[#岩井, 2012|岩井, 2012]]。</ref>。 清朝はすでに後金時代にモンゴルの諸部族を併合し、[[李氏朝鮮|朝鮮]]に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて[[琉球]]、[[マカオ]]の[[ポルトガル]]人、[[ベトナム]](安南)が朝貢してきた。また[[呉三桂]]が南明の[[永暦帝]]を追って[[雲南省|雲南]]から[[ミャンマー|ビルマ]]に入った。しかし[[三藩の乱]]や台湾[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。 その後、広州などを開放して[[東南アジア]]諸国や英仏などとの交易を許した。特にタイの[[アユタヤ王朝]]は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本の[[江戸幕府]]は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、[[長崎貿易]]は許されていた。 ただし、日本漂流民の[[国田兵右衛門]]ら15人が清国に流れ着いた時は、日本に帰国させている。これは明の遺民が日本に亡命しており、牽制の意味も持っていた。<ref>韃靼漂流記</ref><ref>[https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-02-04-06.htm 『福井県史』通史編3 近世一]</ref> 欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員ら[[カトリック教会|カトリック]]宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。1793年には[[イギリス]]の{{仮リンク|マカートニー使節団|en|Macartney_Embassy|preserve=1}}が渡来した。また、[[オランダ東インド会社]]も何回か使節団を派遣しているが、1794年から1795年にかけて[[乾隆帝]]在位60年を祝う使節団を派遣した。このときの正使は1779年には元[[出島]][[オランダ商館]]長でのちに同社総督となった[[イサーク・ティチング]]であった<ref>[[松方冬子]][https://web.archive.org/web/20220115100827/https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fuyuko/kaken/research_18th_century.html 「18世紀オランダ東インド会社の遣清使節日記の翻訳と研究」]。[[東京大学]]史料編纂所。</ref>。 北辺ではシベリアに進出したロシアがアムール川左岸に到達すると、[[ネルチンスク条約]]や[[キャフタ条約 (1727年)|キャフタ条約]]によって清露国境が定められ、ロシアは満洲から追放された。しかし後にロシアはアムール川開発を目指して満洲に進攻することとなる。 === 後期 === [[ファイル:China imperialism cartoon.jpg|thumb|right|250px|中国(CHINE)と書かれたパイが、[[列強]]により分割されている風刺画([[アンリ・メイエ]]作、1898年)。人物は前列の左からそれぞれ、イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本を表し、後列の手を挙げている人物は、清を示している。]] 19世紀に入るとそれまで世界最大の経済大国だった清と[[産業革命]]が進む欧米の力関係が逆転し、特に[[ナポレオン戦争]]後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として侵略が開始され、後発のドイツ、フランス、ロシア、日本もこれに加わった。その結果、[[アヘン戦争]]、[[アロー戦争]]によって不平等条約を結ばされ、外国商品の流入によって勃興しつつあった[[工場制手工業]]に大きな被害を受けた。 さらに[[清仏戦争]]、[[日清戦争]]、と相次ぐ戦争によって次々と冊封国を失い、[[冊封体制]]に基づく東アジアの伝統的な国際秩序は崩れた。また[[義和団の乱]]が起こり、列強による勢力分割や主要な港湾の租借が行なわれ、半植民地化が進んだ。 そのため朝鮮に対しては、1882年に壬午事変が起こると、[[ソウル特別市|漢城]]を占領したうえで、不平等条約である[[中朝商民水陸貿易章程]]を締結させ、租界を設けるなど清の一部にしようとしていた。下関条約後には[[中韓通商条約]]で対等条約が結ばれたものの、租界は手放さなかった。 {{-}} == 新清史 == {{See also|:en:New Qing History}} 新清史は1990年代半ばに始まる歴史学的傾向であり、清王朝の満洲人王朝としての性質を強調している。以前の歴史観では中国の歴史家を中心に漢人の力を強調し、清は中華王朝として満洲人と漢人が同化したこと、つまり「[[中国化|漢化]]」が大きな役割を果たしたとされていた。しかし1980年代から1990年代初頭にかけて、[[ハーバード大学]]の[[:en:Mark Elliott (historian)|マーク・エリオット]]や[[岡田英弘]]、[[杉山正明]]などの日本やアメリカの学者たち<ref>{{Cite journal|和書|author=楠木賢道 |date=2008-03 |url=https://hdl.handle.net/10959/2879 |title=はじめに (<特集>東アジア学のフロンティア : 清朝・満州史研究の現在) |journal=東洋文化研究 |ISSN=1344-9850 |publisher=学習院大学東洋文化研究所 |volume=10 |pages=307-307 |id={{CRID|1050001338012832128}} |hdl=10959/2879}}</ref><ref>[https://www.newsweekjapan.jp/youkaiei/2023/05/post-76.php 上海で拘束された台湾「八旗文化」編集長、何が中国を刺激したのか?] Newsweek</ref>は満洲語やモンゴル語、チベット語やロシア語等の漢字文献以外の文献と[[フィールドワーク|実地研究]]を重視し、満洲人は満洲語や伝統である騎射を保ち、それぞれの地域で異なった体制で統治していたため長期的支配が行えたとし、中華王朝よりも中央ユーラシア的な体制を強調している。満洲人の母語はアルタイ系言語である満洲語であったこと、広大な領域を有した領土の4分の3が非漢字圏であったことなど「清朝は秦・漢以来の中国王朝の伝統を引き継ぐ最後の中華王朝である」という一般に流布している視点は正確ではないとしており{{sfn|清朝とは何か|P=2}}、中華王朝という意味の中国はあくまで清の一部であり清は中国ではないとしている。 中国国内では「新清史」の学術的成果は認められつつあるものの、「漢化」を否定する主張については反対が根強くある。2016年においても劉文鵬が「内陸亜洲視野下的“新清史”研究」で「『新清史』は内陸アジアという地理的、文化的概念を政治的概念に置き換えたことにより[[中華民族|中国の多民族的国家の正統性]]を批判している」としていることからも、現在の中国においては新清史の学術的価値は認められつつも、その主張には依然として反対する流れに変化は無いようである<ref>{{Cite journal|和書|author=金振雄 |title=日本における「清朝史」研究の動向と近年の「新清史」論争について : 加藤直人著『清代文書資料の研究』を中心に |journal=四分儀 : 地域・文化・位置のための総合雑誌 : クァドランテ |issn=1344-5987 |publisher=東京外国語大学海外事情研究所 |year=2018 |month=mar |issue=20 |pages=169-174 |naid=120006457726 |doi=10.15026/91617 |url=https://hdl.handle.net/10108/91617}}</ref>。 2023年には[[台湾]]で新清史の作品を積極的に翻訳し公刊していた八旗文化出版の編集長・富察(フーチャー)氏が中華人民共和国の当局に拘束されている。 なお「新清史」は、2003年に中国国務院によって承認された新清史とは無関係である。 == 清朝を題材にした作品 == === 小説 === * 『[[臥虎蔵龍]]』 (1938年 - 1942年中華民国、著:[[王度廬]]) * 『[[書剣恩仇録]]』 (1969年 - 1972年香港、著:[[金庸]]) ※映画・TVドラマ化されている。 * 『[[碧血剣]]』 (1956年香港、著:金庸) ※TVドラマ化されている。 * 『[[雪山飛狐]]』 (1959年香港、著:金庸) ※映画・TVドラマ化されている。 * 『[[飛狐外伝]]』 (1960年 - 1961年香港、著:金庸) ※映画・TVドラマ化されている。 * 『[[鴛鴦刀]]』 (1961年香港、著:金庸) * 『[[鹿鼎記]]』 (1969年 - 1972年香港、著:金庸)※映画・TVドラマ化されている。 * 『[[坂の上の雲]]』 (1968年 - 1972年日本、[[文藝春秋社]]刊、著:[[司馬遼太郎]]) * 『[[韃靼疾風録]]』 (1984年 - 1987年日本、[[中公文庫]]刊、著:司馬遼太郎) * 『[[蒼穹の昴]]』 (1996年日本、[[講談社]]刊、著:[[浅田次郎]]) ※TVドラマ化されている。 * 『[[珍妃の井戸]]』(1997年日本、講談社刊、著:浅田次郎) * 『[[中原の虹]]』 (2006年 - 2007年日本、講談社刊、著:浅田次郎) * 『[[マンチュリアン・レポート]]』 (2010年日本、講談社刊、著:浅田次郎) === 漫画 === * 『[[一輝まんだら]]』 (1974年 - 1975年日本、講談社・[[大都社]]刊、作:[[手塚治虫]]) ※未完作品 * 『[[中華一番!]]』 (1995年 - 1999年日本、講談社刊、作:[[小川悦司 (漫画家)|小川悦司]]) ※TVアニメ、実写ドラマ化もされている。 * 『[[花情曲]]』 (1991年 - 1998年日本、[[角川書店]]刊、作:[[皇なつき]]) === 映像 === * 『[[神弓-KAMIYUMI-]]』 (2011年韓国、監督:[[キム・ハンミン]]) ※劇中の満洲人が満洲語を使用している。 * 『[[天皇・皇后と日清戦争]]』 (1958年日本、監督:[[並木鏡太郎]]) * 『[[北京の55日]]』 (1963年アメリカ、監督:[[ニコラス・レイ]]) * 『[[少林寺三十六房]]』 (1978年香港、監督:[[ラウ・カーリョン]]) * 『[[ドランクモンキー 酔拳|酔拳シリーズ]]』 (1978年、1994年香港、監督:[[ユエン・ウーピン]]、ラウ・カーリョン) * 『[[西太后 (映画)|西太后]]』 (1984年中華人民共和国、監督:[[李翰祥]]) * 『[[清朝皇帝 (映画)|清朝皇帝]]』 (1987年中華人民共和国、監督:[[許鞍華]]、原作:金庸) * 『[[阿片戦争 (1997年の映画)|阿片戦争]]』(1997年中華人民共和国、監督:[[謝晋]]) * 『[[ラストエンペラー]]』 (1987年[[イタリア]]・[[イギリス]]・中国合作、監督:[[ベルナルド・ベルトルッチ]]) * 『[[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ]]シリーズ』 (1991年-1997年中華人民共和国、監督:[[ツイ・ハーク]]、[[サモ・ハン・キンポー]]) * 『[[雍正王朝]]』(1999年中華人民共和国、監督:胡攻、原作:[[二月河]]) * 『[[康熙王朝]]』(2001年中華人民共和国、監督:陳家林、原作:[[二月河]]) * 『[[乾隆王朝]]』(2003年中華人民共和国、監督:葉大鷹、原作:[[二月河]]) * 『[[グリーン・デスティニー]]』 (2000年中国・香港・台湾・アメリカ合作、監督:[[アン・リー]]、原作:王度廬) * 『[[走向共和]]』 (2003年中華人民共和国[[中国中央電視台|CCTV]]、監督:[[張黎 (映画監督)|チャン・リー]]) * 『[[SPIRIT (2006年の映画)|SPIRIT]]』 (2006年香港、監督:[[ロニー・ユー]]) * 『[[孫文の義士団]]』 (2009年香港・中国合作、監督:[[テディ・チャン]]) * 『[[蒼穹の昴]]』 (2010年日本・中国合作、監督:{{仮リンク|汪俊|zh|汪俊}}(ワン・チュン)) * 『[[馬医]]』 (2012年韓国、監督:[[イ・ビョンフン]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[増井経夫]] 『大清帝国』 [[講談社学術文庫]]、2002年、ISBN 406-1595261 *:『中国の歴史 第7巻 清帝国』([[講談社]]、1974年)を、改題文庫化 * [[宮崎市定]] 『中国文明の歴史9 清帝国の繁栄』 [[中公文庫]]、2000年、ISBN 412-2037379 *:『東洋の歴史 第9巻 清帝国の繁栄』(人物往来社、1967年)を、改題文庫化 *:『宮崎市定全集13 明 清』([[岩波書店]]、1992年)に収録。 * {{Cite book|和書|author=加藤徹|authorlink=加藤徹|title=貝と羊の中国人 |year=2006 |ISBN=9784106101694|ref={{harvid|貝と羊の中国人}}}} === 関連文献(近年刊行) === * [[上田信 (歴史学者)|上田信]] 『[[中国の歴史 (講談社)|中国の歴史09 海と帝国]]-明清時代』 [[講談社]]、2005年 * [[菊池秀明]] 『中国の歴史10 [[ラストエンペラー]]と近代中国-清末中華民国』 講談社、2005年 * [[平野聡 (歴史学者)|平野聡]] 『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』 講談社、2007年/[[講談社学術文庫]]、2018年 * {{Cite book|和書|author=岡田英弘|authorlink=岡田英弘|title=別冊環(16) 清朝とは何か |publisher= [[藤原書店]] |year=2009 |ref={{harvid|清朝とは何か}}}} * [[吉澤誠一郎]] 『清朝と近代世界 シリーズ中国近現代史①』 [[岩波新書]]、2010年-「清」の後半期 * [[並木頼寿]]・[[井上裕正]] 『世界の歴史(19) 中華帝国の危機』[[中央公論新社|中央公論社]]、1997年/[[中公文庫]]、2008年-「清」の後半期 *石橋崇雄 『大清帝国への道』 講談社学術文庫、2011年-「清」の前半期 * [[寺田隆信]] 『[[紫禁城]]史話-中国皇帝政治の桧舞台』 [[中公新書]]、1999年-明清両王朝の皇帝の通史 * {{anchors|岩井, 2012}}{{Cite journal|和書|author=岩井優典 |title=明末清初におけるオランダ東インド会社の動向 : 一六五五年の遣清使節を中心に |journal=立教史学 : 立教大学大学院文学研究科史学研究室紀要 |ISSN=2185-193X |publisher=立教大学大学院文学研究科史学研究室 |year=2012 |month=feb |issue=3 |pages=55-63 |naid=120007149088 |doi=10.14992/00021033 |url=http://id.nii.ac.jp/1062/00021033/}} * {{Anchors|ブリュッセイ, 2019年}}{{Cite journal|和書 |author=レオナルト・ブリュッセイ |title=東アジアにおけるオランダ東インド会社の盛衰 : 1640-60年代のオランダ商館長日記に関する省察 |journal=[https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/ 東京大学史料編纂所研究紀要] |ISSN=0917-2416 |publisher=東京大学史料編纂所 |year=2019 |month=mar |issue=29 |pages=36-51 |naid=40022110710 |url=https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/29/kiyo0029-17.pdf |format=PDF}} == 関連項目 == * [[太子密建]] * [[香港上海銀行]] == 外部リンク == {{Commons&cat|清朝|Qing_Dynasty}} * [http://www.beiyang.org/tdym.htm 海军公所(簡体中国語)] * {{Kotobank}} {{先代次代 |'''清''' |1636年 - 1912年 |[[明]] |[[中華民国臨時政府 (1912年-1913年)|中華民国臨時政府]] }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しん}} [[Category:清朝|*]] [[Category:中国の王朝]] [[Category:17世紀のアジア]] [[Category:18世紀のアジア]] [[Category:19世紀のアジア]] [[Category:20世紀のアジア]]
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武満徹
武満 徹(たけみつ とおる、1930年〈昭和5年〉10月8日 - 1996年〈平成8年〉2月20日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。 ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた「ノヴェンバー・ステップス」によって、日本を代表する現代音楽家となった。 1930年10月8日に東京市本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目)で生まれる。父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めた。両親ともにかなりの変わり者で、母は山口県出身で祖父が漢学者で厳格な家庭に育った。女学生時代からコレスポンデンスクラブに入り、外国人と文通したりアメリカに行くことを考えたりと、当時の不良少女で、リベラルでパーマネントウェイブを真っ先に取り入れたり、軍部批判を声高にしゃべったりした。父は脱サラの走りみたいな人物で、会社へはあまり行きたがらなかった。玉突きやダンスが得意でかなりの放蕩者だった。死の間際には、「徹は絶対に会社員にしてくれるな」と言った。武満が会社員を目指したのは、それに対する反感からであった。 生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。大連には小学校に上がるまでの6年間を過ごしたが、1937年、小学校入学のために単身帰国し、叔母の家に預けられ、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学、終戦まで7年間にわたって叔母の家に寄留する。両親は戦争開始直前に帰国し郷里の鹿児島にいたが、父はすぐになくなったため、父との触れ合いはほとんどない。母は、父が亡くなった後、上京するが生計のため武満とは別に暮らす。叔母の家は「日本的に入り組んでいる家」(武満)で、叔父は株屋で、ほとんど家にいず、道楽者だった。年上の従兄ばかり4人おり、下の2人には影響を受けた。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品「二つの小品」(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる。小学1年生の頃に、当時一校の一番下の従兄から、手回しの蓄音機でベートーヴェンの「月光ソナタ」やメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」などのきわめてポピュラーなクラシック音楽を「諧調だ、諧調だな、おい聴け」などと言って聴かされたが、「なんとつまらないものを聴いてるんだろう」と感じた。、従兄はその一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の「ヴァイオリンソナタ第1番」のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる。道楽者の叔父は外に女がいたが、そのため叔母がヒステリーを起こし、武満に当たった。そのため琴に対しては嫌な思い出ができ、後に日本音楽に興味を抱いた後も、琴だけはいくら頼まれても作曲する気がなかったと述べている。 1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていたリュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」(Parlez-moi d'amour)を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の「鳥は星型の庭に降りる」、「遠い呼び声の彼方へ!」など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している。戦争中は予科練を受験。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった。 一度、母の家に泊まりに行った際には、ちょうど空襲があり、焼夷弾が落ち始めた。子供の武満は外へ逃げる際に、父の位牌を大切なものだと判断し、持って出ようとしたところ、母が「そんなもの持って出ても今さらしようがないでしょう」と言って位牌を取り上げ、ポーンと外に放り投げた。武満はびっくりしたが、今度は久しぶりに泊まりに来た武満のため、おりしも食べる間際だった、当時貴重だった小豆と砂糖で母が作っていた汁粉の鍋を持ち出そうとしたところ、戸口でつまずいて全部道にこぼしてしまった。母は、武満が音楽の道へ進むことに反対はしなかったが、武満の音楽を1度も聴いたことはなかった。最初の作品が日比谷公会堂で演奏された際にも「聴きたくない」と言った。しかし、映画音楽を作曲を担当した映画は見た。純音楽に関しては「そんな金になんないものをやって・・・、そんなものは聴きたくない」と位牌同様の扱いであった。「うんとお金になる映画音楽をやった方がみんなが喜ぶのに、何でそんな頭の痛くなるようなことをやって、自分で苦しんでいるのかわからない」と言った。谷川俊太郎は「君のおふくろは見事だよな。全然来ないんだから」などといつも言っていた。この母は、1984年に78歳で亡くなる。 音楽家になりたいと自覚したのは、終戦が近い時期に勤労動員へ行ったころで、1年間ほどを兵隊と暮らすが、見習士官の学徒出陣の兵隊に、半地下壕のような宿舎で内緒で聴かされたシャンソンのレコードに非常に感動し学校へ行く気をなくし何としても音楽をやりたいと考えるようになる。クラシック音楽の道を選んだのは前述の従兄の影響であった。最初はサラリーマンを志していたが、教練で点数が最低で「可」であったため、上級学級には進学できず、大学進学はあきらめ、同時に会社員もあきらめた。 終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華中学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンの「プレリュード」を選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された「ロマンス」(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された「二つのメロディ」(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する。 デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は、武満と面識はなかったにもかかわらず、妻のピアノをプレゼントした。 1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲「2つのレント」を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された。傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという。この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、「2つのレント」の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品「妖精の距離」(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとった。同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ「生きる悦び」で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲「遮られない休息I」(1952年)などの作品を発表した。この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として、「ヴォーカリズムA.I」(1956年)、「木・空・鳥」(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。 「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、日活映画『狂った果実』の音楽(1956年、佐藤勝との共作)、橘バレエ団のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』(1953年)、劇団文学座のための劇音楽『夏と煙』(1954年)、劇団四季のための『野性の女』(1955年)、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される「さようなら」(1954年)、「うたうだけ」(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっている。また、1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。 この間、私生活においては「2つのレント」を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香(劇団四季女優)と1954年に結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。 1957年、早坂文雄(1955年没)に献呈された「弦楽のためのレクイエム」を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる。 1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための「マスク」(1959年)、オーケストラのための「リング」(1961年)などを発表する。大阪御堂会館で行われた「リング」の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる。この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品「樹の曲」(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品「テクスチュアズ」(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがある。この「テクスチュアズ」で日本人作曲家として初めてインターナショナル・ロストラム・オブ・コンポーザーズでグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がった。 1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの映画『エル・スール』を父親の視点から絶賛しているほか、ロシア(ソ連)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲「ノスタルジア」を作曲している。 1962年にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された筑前琵琶と箏の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と薩摩琵琶が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『暗殺』(監督:篠田正浩)、『怪談』(監督:小林正樹)では琵琶と尺八が、1965年の映画『四谷怪談』(監督:豊田四郎)では竜笛、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では十七絃箏とともに鉦鼓、鞨鼓など、雅楽の楽器も使用された。1966年のNHK大河ドラマ『源義経』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。その最初の作品である「エクリプス」(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。この「エクリプス」はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」(1967年)である。この作品を契機として武満作品はアメリカ、カナダを中心に海外で多く取り上げられるようになった。 1970年には、日本万国博覧会で鉄鋼館の音楽監督を務め、このための作品として「クロッシング」、「四季」(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽「Years of Ear」を作曲、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲「冬」を作曲した。1973年からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、世界の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。1975年にエフエム東京の委嘱によって作曲された「カトレーン」は同年に文化庁芸術祭大賞、翌年に第24回尾高賞を受賞するなど、日本で高い評価を得た。また「ノヴェンバー・ステップス」以後は、世界からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年にはイェール大学客員教授、1976年と77年にトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。 1980年に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための「遠い呼び声の彼方へ!」は、前衛的な音響が影を潜め、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった。この時期にショット社へ移籍し、作品の演奏の機会は以前よりも急激に増えることになる。以前、自身の作曲が日本で正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日の音楽・作曲賞」では武満たった一人が審査を務め、武満自身の手で国際作曲賞を授与することに決めた。この作曲賞から多くの日本の若手や世界各国の若手が巣立った。 1980年代はすでに前衛は流行らなくなっており、武満も今日の音楽では積極的に海外の潮流を紹介したが、武満本人の興味はそれとはもう関わりが薄くなっていた。作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性が良いのでひっきりなしにオーケストラ曲の委嘱に応えていた。全編が調性音楽である「系図 ―若い人たちのための音楽詩―」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めた。ショット社はドイツにあるにもかかわらず、ドイツの新聞で「シェーンベルク以前の音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる。 晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは「マドルガーダ」(邦題は「夜明け前」)となる予定であった。台本はすでに完成されており、2005年、野平一郎によって作曲された。1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた武満は数ヶ月に渡る長期の入院生活を送ることになる。小康を得ての一時退院中、完成された最後の作品となる「森のなかで」、「エア」を作曲。死後、冒頭6小節分オーケストラスコアとして書き始められた、フルート、ハープ、オーケストラのための「ミロの彫刻のように」の未完の譜面が仕事場で見つかる(第一曲〈la lune(月)〉第二曲〈le soleil(太陽)〉と二部編成にする予定であった)。1996年2月20日、虎の門病院にて死去した。65歳没。墓所は、東京都文京区小日向にある曹洞宗日輪寺の境内墓地。 葬儀の際には、黛敏郎が『MI・YO・TA』のメロディを何度も繰り返し歌った。この曲は、武満がかつて黛の下で映画音楽のアシスタントをしていたとき書いたものであった。しかし、映画音楽に使われることはなく、メロディは黛の記憶にしまわれていた。その後、谷川俊太郎が詞をつけ、出来上がったのが『MI・YO・TA』である。 政治にも関心が深く、1960年前後の安保闘争の折には「若い日本の会」や草月会館で開かれた「民主主義を守る音楽家の集い」などに加わり、武満自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい)。1970年代には、スト権ストを支持したことがある。また、湾岸戦争(1991年)の際には、報道番組における音楽の使われ方に対して警鐘を鳴らし、報道番組は、音楽を使うべきではないと論じた。一方で、音楽による政治参画については否定的であったとされ、1970年代には自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌『トランソニック』で見解を示した。 妻は俳優の若山浅香。一人娘の武満真樹は洋画字幕の翻訳家だったが、2005年からクラシック音楽専門チャンネルのクラシカ・ジャパンの副社長を務めている。 武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇、テレビ番組の音楽も手がけた。 琵琶と尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー・ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いた作品は映画『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映画『暗殺』でプリペアド・ピアノやテープの変調技術とともに用いた。さらに映画『怪談』(監督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調とともに用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス・クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。 2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。 他にテレビの音楽としてはNHKの歴史ドキュメンタリー番組「未来への遺産」においてオンド・マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。 黒澤明とは、『どですかでん』で初めてその音楽を担当して以来の関係であったが、1985年の映画『乱』で黒澤と対立し「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている。 短編ドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。 その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、武満の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律を基に、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子、小室等、沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。 晩年監修を務め、武満の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティのオープニングコンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために「閉じた眼II」を弾いた。また、「武満徹作曲賞」の演奏会も毎度、このホールにて行われている。 武満の劇音楽の仕事は多忙を極めたこともあり、アシスタントを雇っていたことが知られているが、これは同時にまだデビュー間もない新人の発掘・育成にも繋がっていった。アシスタント経験者には池辺晋一郎や八村義夫、川井学、毛利蔵人、菅野由弘がいる。高橋悠治もデビュー初期に武満の仕事を手伝っており、『おとし穴』(監督:勅使河原宏)などでは演奏にも参加している。また、クラシック出身者以外にもマジカル・パワー・マコや鈴木昭男といった独自の楽器音響を追求する後輩たちとも交流を持ち、劇音楽の仕事を通してコラボレーションを行っている。 武満の著書には彼自身の自筆譜が多く掲載されていることで知られていたが、そのほとんどはフルスコアではなく、コンデンススコアである。コンデンススコアでまず作曲し、思いついた奏法や楽器名をその上に記し、アシスタントがフルスコアに直すことで多くのオーケストラ曲は完成されていた。多忙ではなくなった時期からは、自らフルスコアを書いている。 保守的なことで知られるウィーン・フィルによってもその作品は演奏され、その死は、多くの演奏家から惜しまれた。ショット社の公表では、没後武満の作品の演奏回数は1年で1000回を越えた。(出典:日本の作曲20世紀)映画音楽で有名なジョン・ウィリアムズも、武満を高く評価しており、『ジュラシック・パーク』では尺八を取り入れた。 楽譜は日本ショット株式会社およびフランスのサラベール(現在はデュランなど他レーベルとともにBMGが版権を所有し発行管理している)により出版されている。かつては一部の楽譜が音楽之友社からも出版されていたが、サラベールに移管された。 パウル・ザッハー財団から武満徹の全自筆譜・メモ・スケッチほかを一律管理したい、と申し出があるが武満夫人を含む関係者はこの申し出に2016年現在応じていない。 武満自身、音楽作品以外に文章でも多数の著書を発表、また新聞や雑誌でも音楽評論を盛んに執筆した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "武満 徹(たけみつ とおる、1930年〈昭和5年〉10月8日 - 1996年〈平成8年〉2月20日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた「ノヴェンバー・ステップス」によって、日本を代表する現代音楽家となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1930年10月8日に東京市本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目)で生まれる。父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めた。両親ともにかなりの変わり者で、母は山口県出身で祖父が漢学者で厳格な家庭に育った。女学生時代からコレスポンデンスクラブに入り、外国人と文通したりアメリカに行くことを考えたりと、当時の不良少女で、リベラルでパーマネントウェイブを真っ先に取り入れたり、軍部批判を声高にしゃべったりした。父は脱サラの走りみたいな人物で、会社へはあまり行きたがらなかった。玉突きやダンスが得意でかなりの放蕩者だった。死の間際には、「徹は絶対に会社員にしてくれるな」と言った。武満が会社員を目指したのは、それに対する反感からであった。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。大連には小学校に上がるまでの6年間を過ごしたが、1937年、小学校入学のために単身帰国し、叔母の家に預けられ、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学、終戦まで7年間にわたって叔母の家に寄留する。両親は戦争開始直前に帰国し郷里の鹿児島にいたが、父はすぐになくなったため、父との触れ合いはほとんどない。母は、父が亡くなった後、上京するが生計のため武満とは別に暮らす。叔母の家は「日本的に入り組んでいる家」(武満)で、叔父は株屋で、ほとんど家にいず、道楽者だった。年上の従兄ばかり4人おり、下の2人には影響を受けた。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品「二つの小品」(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる。小学1年生の頃に、当時一校の一番下の従兄から、手回しの蓄音機でベートーヴェンの「月光ソナタ」やメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」などのきわめてポピュラーなクラシック音楽を「諧調だ、諧調だな、おい聴け」などと言って聴かされたが、「なんとつまらないものを聴いてるんだろう」と感じた。、従兄はその一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の「ヴァイオリンソナタ第1番」のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる。道楽者の叔父は外に女がいたが、そのため叔母がヒステリーを起こし、武満に当たった。そのため琴に対しては嫌な思い出ができ、後に日本音楽に興味を抱いた後も、琴だけはいくら頼まれても作曲する気がなかったと述べている。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていたリュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」(Parlez-moi d'amour)を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の「鳥は星型の庭に降りる」、「遠い呼び声の彼方へ!」など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している。戦争中は予科練を受験。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一度、母の家に泊まりに行った際には、ちょうど空襲があり、焼夷弾が落ち始めた。子供の武満は外へ逃げる際に、父の位牌を大切なものだと判断し、持って出ようとしたところ、母が「そんなもの持って出ても今さらしようがないでしょう」と言って位牌を取り上げ、ポーンと外に放り投げた。武満はびっくりしたが、今度は久しぶりに泊まりに来た武満のため、おりしも食べる間際だった、当時貴重だった小豆と砂糖で母が作っていた汁粉の鍋を持ち出そうとしたところ、戸口でつまずいて全部道にこぼしてしまった。母は、武満が音楽の道へ進むことに反対はしなかったが、武満の音楽を1度も聴いたことはなかった。最初の作品が日比谷公会堂で演奏された際にも「聴きたくない」と言った。しかし、映画音楽を作曲を担当した映画は見た。純音楽に関しては「そんな金になんないものをやって・・・、そんなものは聴きたくない」と位牌同様の扱いであった。「うんとお金になる映画音楽をやった方がみんなが喜ぶのに、何でそんな頭の痛くなるようなことをやって、自分で苦しんでいるのかわからない」と言った。谷川俊太郎は「君のおふくろは見事だよな。全然来ないんだから」などといつも言っていた。この母は、1984年に78歳で亡くなる。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "音楽家になりたいと自覚したのは、終戦が近い時期に勤労動員へ行ったころで、1年間ほどを兵隊と暮らすが、見習士官の学徒出陣の兵隊に、半地下壕のような宿舎で内緒で聴かされたシャンソンのレコードに非常に感動し学校へ行く気をなくし何としても音楽をやりたいと考えるようになる。クラシック音楽の道を選んだのは前述の従兄の影響であった。最初はサラリーマンを志していたが、教練で点数が最低で「可」であったため、上級学級には進学できず、大学進学はあきらめ、同時に会社員もあきらめた。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華中学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンの「プレリュード」を選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された「ロマンス」(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された「二つのメロディ」(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は、武満と面識はなかったにもかかわらず、妻のピアノをプレゼントした。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲「2つのレント」を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された。傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという。この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、「2つのレント」の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品「妖精の距離」(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとった。同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ「生きる悦び」で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲「遮られない休息I」(1952年)などの作品を発表した。この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として、「ヴォーカリズムA.I」(1956年)、「木・空・鳥」(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、日活映画『狂った果実』の音楽(1956年、佐藤勝との共作)、橘バレエ団のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』(1953年)、劇団文学座のための劇音楽『夏と煙』(1954年)、劇団四季のための『野性の女』(1955年)、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される「さようなら」(1954年)、「うたうだけ」(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっている。また、1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この間、私生活においては「2つのレント」を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香(劇団四季女優)と1954年に結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1957年、早坂文雄(1955年没)に献呈された「弦楽のためのレクイエム」を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための「マスク」(1959年)、オーケストラのための「リング」(1961年)などを発表する。大阪御堂会館で行われた「リング」の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる。この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品「樹の曲」(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品「テクスチュアズ」(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがある。この「テクスチュアズ」で日本人作曲家として初めてインターナショナル・ロストラム・オブ・コンポーザーズでグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がった。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの映画『エル・スール』を父親の視点から絶賛しているほか、ロシア(ソ連)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲「ノスタルジア」を作曲している。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1962年にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された筑前琵琶と箏の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と薩摩琵琶が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『暗殺』(監督:篠田正浩)、『怪談』(監督:小林正樹)では琵琶と尺八が、1965年の映画『四谷怪談』(監督:豊田四郎)では竜笛、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では十七絃箏とともに鉦鼓、鞨鼓など、雅楽の楽器も使用された。1966年のNHK大河ドラマ『源義経』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。その最初の作品である「エクリプス」(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。この「エクリプス」はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」(1967年)である。この作品を契機として武満作品はアメリカ、カナダを中心に海外で多く取り上げられるようになった。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1970年には、日本万国博覧会で鉄鋼館の音楽監督を務め、このための作品として「クロッシング」、「四季」(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽「Years of Ear」を作曲、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲「冬」を作曲した。1973年からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、世界の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。1975年にエフエム東京の委嘱によって作曲された「カトレーン」は同年に文化庁芸術祭大賞、翌年に第24回尾高賞を受賞するなど、日本で高い評価を得た。また「ノヴェンバー・ステップス」以後は、世界からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年にはイェール大学客員教授、1976年と77年にトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1980年に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための「遠い呼び声の彼方へ!」は、前衛的な音響が影を潜め、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった。この時期にショット社へ移籍し、作品の演奏の機会は以前よりも急激に増えることになる。以前、自身の作曲が日本で正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日の音楽・作曲賞」では武満たった一人が審査を務め、武満自身の手で国際作曲賞を授与することに決めた。この作曲賞から多くの日本の若手や世界各国の若手が巣立った。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1980年代はすでに前衛は流行らなくなっており、武満も今日の音楽では積極的に海外の潮流を紹介したが、武満本人の興味はそれとはもう関わりが薄くなっていた。作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性が良いのでひっきりなしにオーケストラ曲の委嘱に応えていた。全編が調性音楽である「系図 ―若い人たちのための音楽詩―」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めた。ショット社はドイツにあるにもかかわらず、ドイツの新聞で「シェーンベルク以前の音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは「マドルガーダ」(邦題は「夜明け前」)となる予定であった。台本はすでに完成されており、2005年、野平一郎によって作曲された。1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた武満は数ヶ月に渡る長期の入院生活を送ることになる。小康を得ての一時退院中、完成された最後の作品となる「森のなかで」、「エア」を作曲。死後、冒頭6小節分オーケストラスコアとして書き始められた、フルート、ハープ、オーケストラのための「ミロの彫刻のように」の未完の譜面が仕事場で見つかる(第一曲〈la lune(月)〉第二曲〈le soleil(太陽)〉と二部編成にする予定であった)。1996年2月20日、虎の門病院にて死去した。65歳没。墓所は、東京都文京区小日向にある曹洞宗日輪寺の境内墓地。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "葬儀の際には、黛敏郎が『MI・YO・TA』のメロディを何度も繰り返し歌った。この曲は、武満がかつて黛の下で映画音楽のアシスタントをしていたとき書いたものであった。しかし、映画音楽に使われることはなく、メロディは黛の記憶にしまわれていた。その後、谷川俊太郎が詞をつけ、出来上がったのが『MI・YO・TA』である。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "政治にも関心が深く、1960年前後の安保闘争の折には「若い日本の会」や草月会館で開かれた「民主主義を守る音楽家の集い」などに加わり、武満自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい)。1970年代には、スト権ストを支持したことがある。また、湾岸戦争(1991年)の際には、報道番組における音楽の使われ方に対して警鐘を鳴らし、報道番組は、音楽を使うべきではないと論じた。一方で、音楽による政治参画については否定的であったとされ、1970年代には自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌『トランソニック』で見解を示した。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "妻は俳優の若山浅香。一人娘の武満真樹は洋画字幕の翻訳家だったが、2005年からクラシック音楽専門チャンネルのクラシカ・ジャパンの副社長を務めている。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇、テレビ番組の音楽も手がけた。", "title": "実用音楽" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "琵琶と尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー・ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いた作品は映画『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映画『暗殺』でプリペアド・ピアノやテープの変調技術とともに用いた。さらに映画『怪談』(監督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調とともに用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス・クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。", "title": "実用音楽" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。", "title": "実用音楽" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "他にテレビの音楽としてはNHKの歴史ドキュメンタリー番組「未来への遺産」においてオンド・マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。", "title": "実用音楽" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "黒澤明とは、『どですかでん』で初めてその音楽を担当して以来の関係であったが、1985年の映画『乱』で黒澤と対立し「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている。", "title": "実用音楽" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "短編ドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。", "title": "実用音楽" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、武満の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律を基に、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子、小室等、沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。", "title": "実用音楽" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "晩年監修を務め、武満の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティのオープニングコンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために「閉じた眼II」を弾いた。また、「武満徹作曲賞」の演奏会も毎度、このホールにて行われている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "武満の劇音楽の仕事は多忙を極めたこともあり、アシスタントを雇っていたことが知られているが、これは同時にまだデビュー間もない新人の発掘・育成にも繋がっていった。アシスタント経験者には池辺晋一郎や八村義夫、川井学、毛利蔵人、菅野由弘がいる。高橋悠治もデビュー初期に武満の仕事を手伝っており、『おとし穴』(監督:勅使河原宏)などでは演奏にも参加している。また、クラシック出身者以外にもマジカル・パワー・マコや鈴木昭男といった独自の楽器音響を追求する後輩たちとも交流を持ち、劇音楽の仕事を通してコラボレーションを行っている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "武満の著書には彼自身の自筆譜が多く掲載されていることで知られていたが、そのほとんどはフルスコアではなく、コンデンススコアである。コンデンススコアでまず作曲し、思いついた奏法や楽器名をその上に記し、アシスタントがフルスコアに直すことで多くのオーケストラ曲は完成されていた。多忙ではなくなった時期からは、自らフルスコアを書いている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "保守的なことで知られるウィーン・フィルによってもその作品は演奏され、その死は、多くの演奏家から惜しまれた。ショット社の公表では、没後武満の作品の演奏回数は1年で1000回を越えた。(出典:日本の作曲20世紀)映画音楽で有名なジョン・ウィリアムズも、武満を高く評価しており、『ジュラシック・パーク』では尺八を取り入れた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "楽譜は日本ショット株式会社およびフランスのサラベール(現在はデュランなど他レーベルとともにBMGが版権を所有し発行管理している)により出版されている。かつては一部の楽譜が音楽之友社からも出版されていたが、サラベールに移管された。", "title": "出版" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "パウル・ザッハー財団から武満徹の全自筆譜・メモ・スケッチほかを一律管理したい、と申し出があるが武満夫人を含む関係者はこの申し出に2016年現在応じていない。", "title": "出版" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "武満自身、音楽作品以外に文章でも多数の著書を発表、また新聞や雑誌でも音楽評論を盛んに執筆した。", "title": "著作(文章)" } ]
武満 徹は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。 ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた「ノヴェンバー・ステップス」によって、日本を代表する現代音楽家となった。
{{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前 = 武満 徹 |画像 = Toru Takemitsu Shinchosha 1961-7.jpg |画像説明 = 武満徹([[1961年]]) |背景色 = classic |出生名 = <!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> |別名 = |出生 = {{生年月日と年齢|1930|10|8|死去}}<br>{{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[本郷区]]<br>(現:[[東京都]][[文京区]]) |出身地 = |死没 = {{死亡年月日と没年齢|1930|10|8|1996|2|20}}<br>{{JPN}}・東京都[[港区 (東京都)|港区]] |学歴 = 富士前尋常小学校<br>[[京華中学高等学校|京華中学校]](旧制) |ジャンル = [[現代音楽]]、[[映画音楽]] |職業 = [[作曲家]] |活動期間 = |共同作業者 = |公式サイト = }} {{Portal box|クラシック音楽|映画}} '''武満 徹'''(たけみつ とおる、[[1930年]]〈[[昭和]]5年〉[[10月8日]] - [[1996年]]〈[[平成]]8年〉[[2月20日]])は、[[日本]]の[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]]。 ほとんど独学{{Refnest|group="注釈"|これは'''国際的に通用した作曲家に師事した経歴がない'''という意味であって、先生が誰もいないということではない。平尾貴四男に入門を志願したが、断られている<ref>「ていくおふ」No.64 1993年11月 ANA総合研究所、ANAホールディングス株式会社、''ひとはいかにして作曲家となるか''</ref><ref>{{Cite web |url = https://history-of-music.com/toru-takemitu |archiveurl = https://web.archive.org/web/20230703030559/https://history-of-music.com/toru-takemitu |title = 武満徹|website = history-of-music.com|publisher = history-of-music.com|date = |archivedate = 2023-07-03|accessdate = 2023-07-03}}</ref>。}}で音楽を学んだが、若手芸術家集団「[[実験工房]]」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。[[和楽器]]を取り入れた「[[ノヴェンバー・ステップス]]」によって、日本を代表する[[現代音楽]]家となった。 == 人物・来歴 == === デビューまで === [[1930年]][[10月8日]]に[[東京市]][[本郷区]]駒込曙町(現:[[文京区]][[本駒込]]一丁目)で生まれる。父は[[鹿児島県]][[川内市]](現:[[薩摩川内市]])[[隈之城町]]出身で[[帝国海上保険]]勤務、祖父の[[武満義雄]]は[[政友会]]の鹿児島県幹事長を務め、[[第7回衆議院議員総選挙]]から[[第12回衆議院議員総選挙]]まで[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]を連続6期15年務めた<ref>[https://kotobank.jp/word/武満+義雄-1676833 武満 義雄とは - コトバンク]</ref>。両親ともにかなりの変わり者で、母は[[山口県]]出身で祖父が[[漢学者]]で厳格な家庭に育った。女学生時代からコレスポンデンスクラブに入り、外国人と[[文通]]したり[[アメリカ]]に行くことを考えたりと、当時の[[不良少女]]で、[[リベラル]]で[[パーマネントウェイブ]]を真っ先に取り入れたり、軍部批判を声高にしゃべったりした。父は[[脱サラ]]の走りみたいな人物で、会社へはあまり行きたがらなかった。[[玉突き]]や[[ダンス]]が得意でかなりの放蕩者だった。死の間際には、「徹は絶対に会社員にしてくれるな」と言った。武満が会社員を目指したのは、それに対する反感からであった<ref name="kawai"/>。 生後1ヶ月で、父の勤務先である[[満洲]]の[[大連市|大連]]に渡る。大連には小学校に上がるまでの6年間を過ごしたが、[[1937年]]、小学校入学のために単身帰国し、叔母の家に預けられ、[[東京市]]本郷区の富士前尋常小学校に入学<ref group="注釈">武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』(2006年、[[小学館]])の中に、編集部が武満の小学生時代の同級生から得た証言として、武満が小学生のときに音楽教師から目をかけられ、放課後に[[ピアノ]]を習っていたというエピソードなどが掲載されている(pp.244-246)。この経験が後に独学で[[作曲]]やピアノに取り組む下地になっていたことが推察される。</ref>、終戦まで7年間にわたって叔母の家に寄留する。両親は戦争開始直前に帰国し郷里の[[鹿児島県|鹿児島]]にいたが、父はすぐになくなったため、父との触れ合いはほとんどない。母は、父が亡くなった後、上京するが生計のため武満とは別に暮らす<ref name="kawai">[[河合隼雄]]『あなたが子どもだったころ』武満徹さんと([[講談社文庫]]、1995年5月20日)</ref>。叔母の家は「日本的に入り組んでいる家」(武満)で、叔父は株屋で、ほとんど家にいず、道楽者だった。年上の従兄ばかり4人おり、下の2人には影響を受けた<ref name="kawai"/>。叔母は[[生田流]]箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品「二つの小品」(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる{{sfn|楢崎洋子|2005|p=12}}<ref group="注釈">ただし、後年の武満は箏をあまり好まなかった{{harv|楢崎洋子|2005|p=12}}。</ref>。小学1年生の頃に、当時一校の一番下の従兄から、手回しの蓄音機で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の「[[月光ソナタ]]」や[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の「[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|ヴァイオリン協奏曲]]」などのきわめてポピュラーな[[クラシック音楽]]を「諧調だ、諧調だな、おい聴け」などと言って聴かされたが、「なんとつまらないものを聴いてるんだろう」と感じた。<ref name="kawai"/><ref name=narazaki_18>{{harvnb|楢崎洋子|2005|p=18}}</ref>、従兄はその一方で[[1948年]]に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する[[清瀬保二]]の「ヴァイオリンソナタ第1番」のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる{{sfn|楢崎洋子|2005|p=8, 21}}。道楽者の叔父は外に女がいたが、そのため叔母がヒステリーを起こし、武満に当たった。そのため[[琴]]に対しては嫌な思い出ができ、後に日本音楽に興味を抱いた後も、琴だけはいくら頼まれても作曲する気がなかったと述べている<ref name="kawai"/>。 [[1943年]]、旧制の私立[[京華中学高等学校|京華中学校]]に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「[[ツェッペリン]]」であった<ref name="kusa211">{{harvnb|『新々実力者の条件』|p=211}}</ref>。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある<ref name="kusa211" />。在学中の[[1945年]]に[[埼玉県]]の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた<ref group="注釈">フランスは当時の日本の敵国であったため。</ref>[[リュシエンヌ・ボワイエ]]が歌う[[シャンソン]]「聴かせてよ、愛のことばを」([[:fr:Parlez-moi d'amour (chanson, 1930)|''Parlez-moi d'amour'']])<ref group="注釈">何らかの原因で[[ジョセフィン・ベーカー]]だと思いこみ、長らくそう記していた。[[立花隆]]に指摘されて以来一時期は訂正していたものの「客観的事実より、自分の記憶の中の事実を大切にしたい」として、ベーカーに戻している([[立花隆]]「音楽創造への旅」『武満徹全集 第2巻』2003年、小学館)。</ref>を耳にして衝撃を受ける。[[現代音楽]]の研究者である[[楢崎洋子]]は、後年の「[[鳥は星型の庭に降りる]]」、「[[遠い呼び声の彼方へ!]]」など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している{{sfn|楢崎洋子|2005|p=19}}。戦争中は[[予科練]]を受験<ref name="kusa211" />。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった{{sfn|『新々実力者の条件』|p=212}}。 一度、母の家に泊まりに行った際には、ちょうど[[空襲]]があり、[[焼夷弾]]が落ち始めた。子供の武満は外へ逃げる際に、父の[[位牌]]を大切なものだと判断し、持って出ようとしたところ、母が「そんなもの持って出ても今さらしようがないでしょう」と言って位牌を取り上げ、ポーンと外に放り投げた。武満はびっくりしたが、今度は久しぶりに泊まりに来た武満のため、おりしも食べる間際だった、当時貴重だった小豆と砂糖で母が作っていた[[汁粉]]の鍋を持ち出そうとしたところ、戸口でつまずいて全部道にこぼしてしまった。母は、武満が音楽の道へ進むことに反対はしなかったが、武満の音楽を1度も聴いたことはなかった。最初の作品が[[日比谷公会堂]]で演奏された際にも「聴きたくない」と言った。しかし、[[映画音楽]]を作曲を担当した[[映画]]は見た。純音楽に関しては「そんな金になんないものをやって・・・、そんなものは聴きたくない」と位牌同様の扱いであった。「うんとお金になる映画音楽をやった方がみんなが喜ぶのに、何でそんな頭の痛くなるようなことをやって、自分で苦しんでいるのかわからない」と言った。[[谷川俊太郎]]は「君のおふくろは見事だよな。全然来ないんだから」などといつも言っていた。この母は、1984年に78歳で亡くなる<ref name="kawai"/>。 === 音楽への目覚め === 音楽家になりたいと自覚したのは、終戦が近い時期に勤労動員へ行ったころで、1年間ほどを兵隊と暮らすが、見習士官の学徒出陣の兵隊に、半地下壕のような宿舎で内緒で聴かされた[[シャンソン]]のレコードに非常に感動し学校へ行く気をなくし何としても音楽をやりたいと考えるようになる。[[クラシック音楽]]の道を選んだのは前述の従兄の影響であった。最初は[[サラリーマン]]を志していたが、教練で点数が最低で「可」であったため、上級学級には進学できず、大学進学はあきらめ、同時に会社員もあきらめた<ref name="kawai"/>。 終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、[[セザール・フランク|フランク]]や[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]など、近代[[フランス]]の作曲家の作品に親しむ一方で、[[横浜市|横浜]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍キャンプで働き[[ジャズ]]に接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華中学校卒業後、[[1949年]]に[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](この年の5月から[[東京芸術大学]])[[作曲学科|作曲科]]を受験。科目演奏には最も簡単な[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の「[[前奏曲 (ショパン)|プレリュード]]」を選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し{{sfn|『新々実力者の条件』|p=210}}、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『[[二重生活 (1947年の映画)|二重生活]]』を観て過ごした<ref>{{harv|楢崎洋子|2005|p=21}} ただし、武満はこの時期に多くの病気を抱えており、入学試験の許可が芸大から出たかどうかは異説もある。</ref>。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された「ロマンス」(1949年、作曲者死後の[[1998年]]に初演)のほか、遺品から発見された「二つのメロディ」(1948年、第1曲のみ完成)などの[[ピアノ]]曲が存在する{{sfn|楢崎洋子|2005|p=8-13}}。 デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から[[日暮里]]にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという<ref name="kusa224">{{harvnb|『新々実力者の条件』|p=224}}</ref>。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の[[福島和夫]]によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという<ref name="kusa224" />。のち、[[芥川也寸志]]を介してそれを知った[[黛敏郎]]は、武満と面識はなかったにもかかわらず、妻のピアノをプレゼントした<ref name="kusa224" />。 === デビュー、前衛作曲家への道 === [[1950年]]に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲「[[2つのレント]]」を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の[[山根銀二]]に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された<ref>『[[東京新聞]]』1950年12月12日付</ref>。傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという<ref group="注釈">「2つのレント」を一言で一蹴した山根ではあったが、必ずしも武満の創作を否定的に見ていなかったようで、例えば初演当初あまり評判が芳しくなかった「[[弦楽のためのレクイエム]]」については「外見がまずく評判が悪いかもしれないが自分は理解できる気がする」等と論評を書いている。(武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』pp.46-47(2006年、小学館)</ref>。この頃、詩人の[[瀧口修造]]と知り合い、「2つのレント」の次作となる[[ヴァイオリン]]とピアノのための作品「妖精の距離」([[1951年]])のタイトルを彼の同名の詩からとった。同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「[[実験工房]]」の結成メンバーとして、作曲家の[[湯浅譲二]]らとともに参加、バレエ「生きる悦び」で音楽([[鈴木博義]]と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲「遮られない休息I」([[1952年]])などの作品を発表した。この最初期の作風は[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]と[[アルバン・ベルク|ベルク]]に強い影響を受けている。「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、[[佐藤慶次郎]]、福島和夫、ピアニストの[[園田高弘]]らと共に、メシアンの研究と[[電子音楽]](広義の意。主に[[テープ音楽]])を手がけた。また武満はテープ音楽([[ミュジーク・コンクレート]])として、「ヴォーカリズムA.I」([[1956年]])、「木・空・鳥」(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。 「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、[[日活]]映画『[[狂った果実 (小説)#映画|狂った果実]]』の音楽(1956年、[[佐藤勝]]との共作)、[[橘バレエ団]]のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』([[1953年]])、劇団[[文学座]]のための劇音楽『夏と煙』([[1954年]])、[[劇団四季]]のための『野性の女』([[1955年]])、[[森永製菓|森永]]チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される「さようなら」(1954年)、「うたうだけ」([[1958年]])のような分かりやすいものまで幅が広がっている。また、1953年には[[北海道]][[美幌町]]に疎開していた音楽評論家の藁科雅美<ref group="注釈">[[毎日放送]]の音楽[[ディレクター]]、訳書『[[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]物語』</ref>が病状悪化の[[早坂文雄]]を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。 この間、私生活においては「2つのレント」を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香(劇団四季女優)と1954年に結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に[[團伊玖磨]]は[[鎌倉市]]の自宅を提供して[[横須賀市]]に移住した。 [[1957年]]、早坂文雄(1955年没)に献呈された<ref>[https://archive.is/HbaR6 「日本の映画音楽を語る 早坂文雄から武満徹まで」] 2018年7月4日 03:16:16 UTC閲覧</ref>「[[弦楽のためのレクイエム]]」を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、[[1959年]]に来日していた[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]が偶然[[日本放送協会|NHK]]で聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる<ref group="注釈">ストラヴィンスキーは「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と称賛したといわれる([[秋山邦晴]]『最新名曲解説全集7(管弦楽曲IV)』p.458(音楽之友社)。</ref>。 1958年に行われた「[[二十世紀音楽研究所|20世紀音楽研究所]]」([[吉田秀和]]所長、[[柴田南雄]]、[[入野義朗]]、[[諸井誠]]らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための「マスク」(1959年)、オーケストラのための「リング」([[1961年]])などを発表する。大阪[[御堂会館]]で行われた「リング」の初演で指揮を務めた[[小澤征爾]]とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる{{sfn|楢崎洋子|2005|p=84}}。この時期の作品では、ほかに[[日本フィルハーモニー交響楽団]]からの委嘱作品「樹の曲」(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、[[NHK交響楽団]]からの委嘱作品「[[テクスチュアズ]]」([[1964年]]、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]芸術展示公演)などがある。この「テクスチュアズ」で日本人作曲家として初めて[[インターナショナル・ロストラム・オブ・コンポーザーズ]]でグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がった。 === 世界のタケミツ === [[1960年代]]には[[小林正樹]]監督の『[[切腹 (映画)|切腹]]』([[1962年]]、[[毎日映画コンクール#第11回(1956年) - 第20回(1965年)|第17回毎日映画コンクール]]音楽賞受賞)、[[羽仁進]]監督の『不良少年』(1961年、[[毎日映画コンクール#第11回(1956年) - 第20回(1965年)|第16回毎日映画コンクール]]音楽賞受賞)、[[勅使河原宏]]監督の『[[砂の女 (映画)|砂の女]]』(1964年、[[毎日映画コンクール#第11回(1956年) - 第20回(1965年)|第19回毎日映画コンクール]]音楽賞受賞)、『[[他人の顔#映画|他人の顔]]』(1966年、[[毎日映画コンクール#第21回(1966年) - 第30回(1975年)|第21回毎日映画コンクール]]音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。スペインの映画監督[[ヴィクトル・エリセ]]の映画『[[エル・スール]]』を父親の視点から絶賛しているほか、[[ロシア]]([[ソビエト連邦|ソ連]])の映画監督[[アンドレイ・タルコフスキー]]に深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲「ノスタルジア」を作曲している。 1962年に[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された[[筑前琵琶]]と[[箏]]の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と[[薩摩琵琶]]が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『[[暗殺 (映画)|暗殺]]』(監督:[[篠田正浩]])、『[[怪談 (1965年の映画)|怪談]]』(監督:小林正樹)では[[琵琶]]と[[尺八]]が、[[1965年]]の映画『四谷怪談』(監督:[[豊田四郎]])では[[竜笛]]、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では[[十七絃|十七絃箏]]とともに[[鉦鼓]]、[[鞨鼓]]など、[[雅楽]]の楽器も使用された<ref group="注釈">この頃の作品、[[セルゲイ・クーセヴィツキー|クーセヴィツキー]]財団からの委嘱によって作曲された弦楽合奏のための「[[地平線のドーリア]]」(1966年)は、邦楽器は一切使用していないものの、雅楽での音の動きが反映されている{{harv|楢崎洋子|2005|p=84}}</ref>。[[1966年]]のNHK大河ドラマ『[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、[[純音楽]]においても邦楽器による作品を手がけるようになった。その最初の作品である「エクリプス」(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。この「エクリプス」はアメリカで活動中の小澤征爾を通じて[[ニューヨーク・フィルハーモニー|ニューヨーク・フィル]]音楽監督[[レナード・バーンスタイン]]に伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる「[[ノヴェンバー・ステップス]]」([[1967年]])である。この作品を契機として武満作品はアメリカ、[[カナダ]]を中心に海外で多く取り上げられるようになった{{sfn|楢崎洋子|2005|p=101}}。 [[1970年]]には、[[日本万国博覧会]]で[[鉄鋼館]]の音楽監督を務め、このための作品として「クロッシング」、「四季」(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽「Years of Ear」を作曲、翌[[1971年]]には[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]のために[[国際オリンピック委員会|IOC]]からの委嘱によってオーケストラ曲「冬」を作曲した。[[1973年]]からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、世界の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。[[1975年]]に[[エフエム東京]]の委嘱によって作曲された「[[カトレーン]]」は同年に[[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術祭]]大賞、翌年に第24回[[尾高賞]]を受賞するなど、日本で高い評価を得た<ref name="narazaki_119">{{harvnb|楢崎洋子|2005|p=119}}</ref>。また「ノヴェンバー・ステップス」以後は、世界からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年には[[イェール大学]]客員教授、1976年と77年に[[トロント]]で開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。 === 1980年代以降から死まで === [[1980年]]に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための「遠い呼び声の彼方へ!」は、前衛的な音響が影を潜め、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった{{sfn|楢崎洋子|2005|p=129}}。この時期に[[ショット社]]へ移籍し、作品の演奏の機会は以前よりも急激に増えることになる。以前、自身の作曲が日本で正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日の音楽・作曲賞」では武満たった一人が審査を務め、武満自身の手で国際作曲賞を授与することに決めた。この作曲賞から多くの日本の若手や世界各国の若手が巣立った。 [[1980年代]]はすでに前衛は流行らなくなっており、武満も今日の音楽では積極的に海外の潮流を紹介したが、武満本人の興味はそれとはもう関わりが薄くなっていた。作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性が良いのでひっきりなしにオーケストラ曲の委嘱に応えていた。全編が調性音楽である「[[系図 (武満徹)|系図 ―若い人たちのための音楽詩―]]」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めた。ショット社は[[ドイツ]]にあるにもかかわらず、ドイツの新聞で「[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]以前の音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる。 晩年、それまで手をつけていなかった[[オペラ]]に取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは「マドルガーダ」(邦題は「夜明け前」)となる予定であった。台本はすでに完成されており、2005年、[[野平一郎]]によって作曲された<ref>経緯については[http://www.ff.iij4u.or.jp/~nodaira/ 本人サイト]の「新創作ノート」1~7詳述。</ref>。[[1995年]]、[[膀胱]]、および[[首]]の[[リンパ腺]]に[[悪性腫瘍|がん]]が発見され、また、[[間質性肺炎]]を患っていた武満は数ヶ月に渡る長期の入院生活を送ることになる<ref group="注釈">この時期の闘病日記が死後に発見された。また、娘のために、さまざまな料理のレシピをイラストつきで記していた。これらは『サイレント・ガーデン-滞院報告・キャロティンの祭典』([[新潮社]])で見ることができる。</ref>。小康を得ての一時退院中、完成された最後の作品となる「森のなかで」、「[[エア (武満徹)|エア]]」を作曲。死後、冒頭6小節分オーケストラスコアとして書き始められた、フルート、ハープ、オーケストラのための「ミロの彫刻のように」の未完の譜面が仕事場で見つかる(第一曲〈la lune(月)〉第二曲〈le soleil(太陽)〉と二部編成にする予定であった)。[[1996年]][[2月20日]]、[[虎の門病院]]にて死去した。{{没年齢|1930|10|8|1996|2|20}}<ref group="注釈">直接の死因は[[間質性肺炎]](楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、他)。ピーター・バート『武満徹の音楽』(音楽之友社)では、がんとなっている。</ref><ref group="注釈">死の前日、大雪が降り、妻は見舞いに訪れることができなかった。武満は訪れる見舞客も無いので、ラジオを聴いたり本を読んだりして一人静かに時間を過ごしていたが、偶然にも、武満が愛してやまなかった[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の「[[マタイ受難曲]]」が[[NHK-FM放送]]で放送されて、武満はこの大曲を深い感動とともにしみじみ聴くこととなる。この偶然を妻は、後に深い感慨を持って回想している。</ref>。墓所は、[[東京都]][[文京区]][[小日向]]にある[[曹洞宗]][[日輪寺 (文京区)|日輪寺]]の境内墓地。 葬儀の際には、[[黛敏郎]]が『MI・YO・TA』の[[メロディ]]を何度も繰り返し歌った。この曲は、武満がかつて黛の下で映画音楽のアシスタントをしていたとき書いたものであった。しかし、映画音楽に使われることはなく、メロディは黛の記憶にしまわれていた。その後、[[谷川俊太郎]]が詞をつけ、出来上がったのが『MI・YO・TA』である<ref name="DENON">[[川口義晴]] [[石川セリ]]『MI・YO・TA』(DENON)1996年12月 ライナーノーツより</ref>。 === 政治的姿勢 === 政治にも関心が深く、1960年前後の[[安保闘争]]の折には「[[若い日本の会]]」や[[草月会館]]で開かれた「[[民主主義]]を守る音楽家の集い」などに加わり、武満自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい<ref>[[岩城宏之]]対談集『行動する作曲家たち』p.33、岩城との対談における武満の発言より。(1986年、新潮社)</ref>)。[[1970年代]]には、[[スト権スト]]を支持したことがある。また、[[湾岸戦争]](1991年)の際には、[[報道番組]]における音楽の使われ方に対して警鐘を鳴らし、報道番組は、音楽を使うべきではないと論じた。一方で、音楽による政治参画については否定的であったとされ、1970年代には自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌『[[トランソニック]]』で見解を示した<ref group="注釈">当時、政治と音楽との関わり方を模索していた[[高橋悠治]]が同季刊誌で様々な音楽家からアンケートをとった中で武満は否定的な見解を示した。このことなどが原因で長年親交のあった武満・高橋との関係が一時的に疎遠になった。このエピソードの顛末については高橋自身が[[青空文庫]]で公開した『音楽の反方法論序説』18や[[谷川俊太郎]]との対談『谷川俊太郎が聞く 武満徹の素顔』pp.56-58(2006年、小学館)などに詳述。</ref>。 === 家族・親族 === 妻は俳優の[[若山浅香]]。一人娘の[[武満真樹]]は洋画[[字幕]]の翻訳家だったが、[[2005年]]から[[クラシック音楽]][[専門チャンネル]]の[[クラシカ・ジャパン]]の副社長を務めている。 == 実用音楽 == 武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、[[映画]]に限らず[[演劇]]、[[テレビ番組]]の音楽も手がけた。 [[琵琶]]と[[尺八]]の組み合わせで彼は純音楽として代表作『[[ノヴェンバー・ステップス]]』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いた作品は映画『切腹』およびテレビ(NHK[[大河ドラマ]])『[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]』であり、尺八は映画『[[暗殺 (映画)|暗殺]]』で[[プリペアド・ピアノ]]やテープの変調技術とともに用いた。さらに映画『怪談』(監督:[[小林正樹]])では、琵琶、尺八のほかに[[胡弓]](日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調とともに用いている。この『怪談』の音楽は、[[ヤニス・クセナキス]]がテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の[[鶴田錦史]]、尺八の[[横山勝也]]との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。 2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『[[沈黙 (遠藤周作)|沈黙]]』『[[美しさと哀しみと]]』『[[はなれ瞽女おりん]]』(すべて監督:[[篠田正浩]])などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。 他にテレビの音楽としてはNHKの歴史ドキュメンタリー番組「[[未来への遺産]]」において[[オンド・マルトノ]]を用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。 [[黒澤明]]とは、『[[どですかでん]]』で初めてその音楽を担当して以来の関係であったが、[[1985年]]の映画『[[乱 (映画)|乱]]』で黒澤と対立し「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言った。武満は黒澤に[[グスタフ・マーラー|マーラー]]風の音楽を求められたことに不満を述べている<ref group="注釈">同作品の葬送行進曲がマーラー風なのは「黒澤さんへの皮肉」とも武満は語っている。</ref>。 短編ドキュメンタリー映画『[[ホゼー・トレス]]』でのジャズの語法をはじめ、[[1960年代|1960-]][[1970年代|70年代]]当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。 その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し[[石川セリ]]が歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、武満の葬儀の席上で[[黛敏郎]]が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律<ref group="注釈">[[谷川俊太郎]]によって歌詞がつけられ、『MI・YO・TA』というタイトルの作品として発表された。この題名は、武満が[[長野県]][[御代田町]]の山荘で作曲活動を行っていたことに由来する。</ref>を基に、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。[[森山良子]]、[[小室等]]、[[沢知恵]]らもこれらの歌をレパートリーとしている。 == 影響 == 晩年監修を務め、武満の死後完成した[[東京オペラシティ]]の[[コンサートホール]]は'''タケミツ・メモリアル'''の名が冠せられた。東京オペラシティのオープニングコンサートの中で、作曲家でピアニストの[[高橋悠治]]は武満のために「閉じた眼II」を弾いた<ref group="注釈">高橋は武満から「祈りとしての音楽」と「バッハをピアノで弾く」というテーマでコンサートを頼まれていた。演奏が終わって拍手が起こった時、高橋悠治は礼をせず、代わりに「閉じた眼II」の黄色い楽譜を高々と掲げて客席に示した。</ref>。また、「[[武満徹作曲賞]]」の演奏会も毎度、このホールにて行われている。 武満の劇音楽の仕事は多忙を極めたこともあり、アシスタントを雇っていたことが知られているが、これは同時にまだデビュー間もない新人の発掘・育成にも繋がっていった。アシスタント経験者には[[池辺晋一郎]]や[[八村義夫]]、[[川井学]]、[[毛利蔵人]]、[[菅野由弘]]がいる。[[高橋悠治]]もデビュー初期に武満の仕事を手伝っており、『おとし穴』(監督:[[勅使河原宏]])などでは演奏にも参加している。また、クラシック出身者以外にも[[マジカル・パワー・マコ]]や[[鈴木昭男]]といった独自の楽器音響を追求する後輩たちとも交流を持ち、劇音楽の仕事を通してコラボレーションを行っている。 武満の著書には彼自身の自筆譜が多く掲載されていることで知られていたが、そのほとんどはフルスコアではなく、コンデンススコアである。コンデンススコアでまず作曲し、思いついた奏法や楽器名をその上に記し、アシスタントがフルスコアに直すことで多くのオーケストラ曲は完成されていた。多忙ではなくなった時期からは、自らフルスコアを書いている。 保守的なことで知られる[[ウィーン・フィル]]によってもその作品は演奏され、その死は、多くの演奏家から惜しまれた。ショット社の公表では、没後武満の作品の演奏回数は1年で1000回を越えた。(出典:日本の作曲20世紀)映画音楽で有名な[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]も、武満を高く評価しており、『[[ジュラシック・パーク]]』では尺八を取り入れた。 == おもな作品 == {{Main|武満徹の作品一覧}} === 管弦楽曲 === * [[ノヴェンバー・ステップス]] * [[遠い呼び声の彼方へ!]] * [[鳥は星型の庭に降りる]] * [[弦楽のためのレクイエム]] * [[系図 (武満徹)|系図]] === 室内楽曲 === * [[エア (武満徹)|エア]] - フルートのための作品 * [[海へ (武満徹)|海へ]] - アルト・フルートとギターのための作品 * ア・ウェイ・ア・ローン - 弦楽四重奏のための作品 === ピアノ曲 === * [[2つのレント]] * 遮られない休息 === 歌曲 === * [[死んだ男の残したものは]] * 明日ハ晴レカナ曇リカナ * ⚪︎と△の歌 === 邦楽曲 === * [[秋庭歌]] - 雅楽のための作品 * エクリプス - 琵琶と三味線のための作品 * 旅 - 3台の琵琶のための作品 == 出版 == 楽譜は[[日本ショット]]株式会社およびフランスの[[サラベール]](現在は[[デュラン]]など他レーベルとともに[[BMG]]が版権を所有し発行管理している)により出版されている。かつては一部の楽譜が[[音楽之友社]]からも出版されていたが、サラベールに移管された。 === 全集 === ;『武満徹全集』(全5巻)、[[小学館]]、2002-05年 :音楽作品の録音全集。管弦楽や室内楽などコンサート作品から、映画音楽やラジオ・テレビ作品のサウンドトラックまで、様々なレコード会社や放送用の音源をまとめ、新録音も含めて全集として発売している。ただし、[[長木誠司]]は「監修者不在」を批判している<ref>[https://archive.is/W1vWn 日本音楽学会第57回全国大会議事録]より。''音楽学者という立場で話したい。まず武満徹論と武満徹研究とを分けたい。世に武満徹論は氾濫していて、いわゆる研究者が出している書物も 「論」にすぎないと思う。武満徹研究はまだなされていないというのが私の主張。「研究」は、音楽学の基本的な手続きであるドキュメンテーションをきちんと行い、初稿の問題を扱い、自筆譜がどうなっているか、実際にどういうふうな作品に仕立て上げたかというプロセスを明かしていくことである。生前の武満論は、武満の言葉が強いので、周りにいた音楽評論家もみなひきずられていたと思う。また、没後にはCDの全集が出たが、監修者がまったく不明で、責任の所在がまったくわからない。そんな全集なんて世界中、どこにもない。これで武満をすべて知ったつもりになってしまうのは問題だ。'' [[日本音楽学会]]第57回全国大会([[2006年]][[10月28日]], 九州大学大橋キャンパス)・パネルディスカッション4・武満徹と日本の作曲</ref><ref group="注釈">小学館が監修者を明らかにしなかったのは、この全集が[[製作委員会]]方式をとっているからである。名義を出すと、武満の版権を所持しているショット社、サラベール社、ペータース社から確実に監修者個人へ版権料を請求される。また武満は膨大な映画音楽を残しており、映画会社からも版権を請求されるため、監修者を開示するのは金銭的に不可能だからである。</ref>。 === 自筆譜 === [[パウル・ザッハー]]財団から武満徹の全自筆譜・メモ・スケッチほかを一律管理したい、と申し出がある<ref>日本音楽学会第57回全国大会(2006年10月28日、九州大学大橋キャンパス・パネルディスカッション4・武満徹と日本の作曲</ref>が武満夫人を含む関係者はこの申し出に2016年現在応じていない。 == 著作(文章) == 武満自身、音楽作品以外に文章でも多数の著書を発表、また新聞や雑誌でも音楽評論を盛んに執筆した。 === 著作集 === ;『武満徹著作集』(全5巻)[[新潮社]]、2000年 :編纂委員は友人の[[谷川俊太郎]]と[[船山隆]]。 :さまざまな媒体に発表した文章の大半を、『音、沈黙と測りあえるほどに』などの単著を軸に収録されている。しかし厳密には、武満徹の残した文章のすべてではない。 === 単著(日本語) === *『武満徹←1930……∞』私家版、1964年 *『音、沈黙と測りあえるほどに』[[新潮社]]、1971年(著作集第1巻) *『骨月−あるいは a honey moon』私家版、限定200部、1973年12月(『草月 ikebana sogetsu』83号、1972年8月に発表。『遠い呼び声の彼方へ』に所収)、小説 *『樹の鏡、草原の鏡』新潮社、1975年(著作集第1巻) *『音楽の余白から』新潮社、1980年(著作集第2巻) *『夢の引用 映画随想』[[岩波書店]]、1984年(著作集第5巻) *『音楽を呼びさますもの』新潮社、1985年(著作集第2巻) *『夢と数』[[リブロポート]]、1987年(著作集第5巻)、自らの音楽語法について直接述べた著作 *『遠い呼び声の彼方へ』新潮社、1992年(著作集第3巻) *『時間の園丁』新潮社、1996年(著作集第3巻)、1996年に点字資料版が[[日本点字図書館]]で刊行 === 単著(再編本、英語版) === *『サイレント・ガーデン』新潮社、1999年(闘病日記、病床で描いた絵入り料理レシピ) *『私たちの耳は聞こえているか』「人生のエッセイ9」[[日本図書センター]]、2000年(既刊書に収録された回想エッセイを再編した著作) *『武満徹|Visions in Time』[[エスクァイア]]マガジン・ジャパン、2006年 *『武満徹エッセイ選 言葉の海へ』[[小沼純一]]編、[[ちくま学芸文庫]]、2008年 *''Confronting Silence: Selected Writings''. trans. and ed. by Yoshiko Kakudo and Glenn Glasow. Berkeley, Calif: Fallen Leaf Press, 1995. *『映像から音を削る 武満徹映画エッセイ集』[[清流出版]]、2011年 === 共著 === *『ひとつの音に世界を聴く――武満徹対談集』[[晶文社]]、1975年、新装版1996年 *『武満徹対談集――創造の周辺』芸術現代社(上・下)、1976年→新版(芸術現代選書・全1巻)、1997年 *『音・ことば・人間』[[川田順造]]との往復書簡、[[岩波書店]]、1980年→岩波同時代ライブラリー(改訂版)、1992年→(著作集第4巻) *『音楽』[[小澤征爾]]との対話、新潮社、1981年→[[新潮文庫]]、1984年 *『音楽の庭――武満徹対談集』新潮社、1981年 *『シネマの快楽』[[蓮實重彦]]との対話、リブロポート、1986年→[[河出文庫]]、2001年 *『すべての因襲から逃れるために――武満徹対談集』[[音楽之友社]]、1987年 *『オペラをつくる』[[大江健三郎]]との対話、[[岩波新書]]、1990年→(著作集第4巻) *『歌の翼、言葉の杖――武満徹対談集』[[TBSブリタニカ]]、1993年→(著作集第5巻) *『シネ・ミュージック講座/[[映画音楽]]の100年を聴く』[[秋山邦晴]]と、フィルムアート社、1998年 *『武満徹対談選 仕事の夢・夢の仕事』小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年 *『武満徹 自らを語る』聞き手安芸光男、[[青土社]]、2010年 == 自著以外の関連書籍 == === ロング・インタビュー === *マリオ・A[聞き手・写真]/[[埴谷雄高]]、[[猪熊弦一郎]]、武満徹[述]『カメラの前のモノローグ』[[集英社新書]]、2000年 *木之下晃[聞き手・写真]『木之下晃 武満徹を撮る 武満徹 青春を語る』小学館、2005年(CD付写真集) === 音楽学 === *『武満徹 響きの海へ』[[船山隆]]、[[音楽之友社]]、1998年 *『武満徹 音の河のゆくえ』[[長木誠司]]・[[樋口隆一]]編、平凡社、2000年 *『武満徹と三善晃の作曲様式 - 無調性と音群作法をめぐって』[[楢崎洋子]]、音楽之友社、1994年 *『「辺境」の音 ストラヴィンスキーと武満徹』[[遠山一行]]、音楽之友社<音楽選書>、1996年 *『武満徹の音楽』ピーター・バート、小野光子訳、音楽之友社、2006年 *『武満徹 ある作曲家の肖像』小野光子、音楽之友社、2016年 ISBN 978-4-276-22690-6 *『武満徹の[[電子音楽]]』川崎弘二、アルテスパブリッシング、2018年 === 評伝・人物論 === *『カフェ・タケミツ 私の武満音楽』[[岩田隆太郎]]、[[海鳴社]] 1992年 *『武満徹 その音楽地図』[[小沼純一]]、[[PHP新書]]、2005年 *『武満徹 作曲家・人と作品』[[楢崎洋子]]、[[音楽之友社]]、2005年 *『武満徹 没後10年、鳴り響く音楽』[[河出書房新社]]〈道の手帖〉、2006年 *『武満徹・音楽創造への旅』[[立花隆]]、[[文藝春秋]]、2016年 ISBN 978-4-16-390409-2 *『武満徹 現代音楽で世界をリードした作曲家』ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉[[筑摩書房]]、2016年 ISBN 4-480-76633-2 === 写真集・回想 === *『作曲家・武満徹との日々を語る』武満浅香(夫人)、[[小学館]]、2006年 *『武満徹の世界』齋藤慎爾・武満真樹(娘)、[[集英社]] 1997年 == 「著作案内」の外部リンク == *[http://www.shogakukan.co.jp/takemitsu 武満徹全集・小学館](音楽作品) *[https://www.shinchosha.co.jp/zenshu/takemitsu_toru/ 武満徹著作集・新潮社] == 主な受賞歴 == *[[1976年]] - [[尾高賞]] *[[1980年]] - [[日本芸術院賞]]<ref>『朝日新聞』1980年3月5日([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)朝刊、p.22。</ref> *[[1981年]] - [[モービル音楽賞]] *[[1985年]] - [[朝日賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 1971-2000年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738070 |accessdate=2022-09-02}}</ref>、[[フランス]][[芸術文化勲章]]シュヴァリエ *[[1988年]] - 京都音楽賞 *[[1990年]] - [[モーリス・ラヴェル]]賞(フランス) *[[1991年]] - [[毎日芸術賞]]、[[都民文化栄誉章]]、[[サントリー音楽賞]] *[[1994年]] - [[NHK放送文化賞]] *[[1996年]] - 米国[[コロンビア大学]]名誉博士号、[[グレン・グールド]]賞(カナダ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=楢崎洋子 |title=武満徹 |publisher=音楽之友社 |year=2005 |series=作曲家・人と作品シリーズ |ISBN=4276221943 |id={{全国書誌番号|20905897}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000007963691 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=草柳大蔵 |title=新々実力者の条件 |publisher=文芸春秋 |year=1972 |id={{全国書誌番号|73010242}} |doi=10.11501/12214665 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I003250429-00 |ref={{harvid|『新々実力者の条件』}}}} == 関連項目 == *[[武満徹の作品一覧]] *[[東京オペラシティ]] - 同館芸術顧問であった武満の名を冠し、大ホールにあたるコンサートホールが「'''タケミツメモリアル'''」と名付けられている。 *[[飛騨市文化交流センター#スピリットガーデンホール|スピリットガーデンホール]] - 武満徹が岐阜県飛騨市(旧古川町)のために作曲した『スピリット・ガーデン(精霊の庭)』に由来するホール。 *[[武満徹作曲賞]] - 武満の名を冠した、現代音楽の新人作曲家に与えられる作曲賞。 *[[実験工房]] *[[サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ]] - 1986年から亡くなるまで監修を担当。 == 外部リンク == *[https://www.schottjapan.com/composer/takemitsu/bio.html ショット・ミュージック:武満徹] *[http://chorch.fc2web.com/e/takemitsu_t2.html Toru Takemitsu: Complete Works] *[https://www.operacity.jp/concert/award/index.php 東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ・メモリアル] *[https://www.operacity.jp/concert/award/index.php 武満徹作曲賞] *{{Jmdb name|0336830}} *{{allcinema name|937}} *{{kinejun name|46616}} *{{imdb name|0006316}} *{{NHK人物録|D0009072185_00000}} *[https://twitter.com/Toyokeizai/status/801168701219213312 世界のタケミツは、いったい何がすごいのか] {{日本アカデミー賞最優秀音楽賞}} {{毎日映画コンクール音楽賞}} {{日本芸術院賞}} {{毎日芸術賞}} {{ロサンゼルス映画批評家協会賞 音楽賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たけみつ とおる}} [[Category:日本の男性作曲家]] [[Category:フルクサス]] [[Category:現代音楽の作曲家]] [[Category:日本の映画音楽の作曲家]] [[Category:クラシックギター作曲家]] [[Category:現代邦楽の作曲家]] [[Category:合唱音楽の作曲家]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:日本藝術院賞受賞者]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:イェール大学の教員]] [[Category:東京芸術大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:吃音の人物]] [[Category:膀胱癌で亡くなった人物]] [[Category:悪性リンパ腫で亡くなった人物]] [[Category:1930年生]] [[Category:1996年没]]
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順接
順接(じゅんせつ)とは、
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順接(じゅんせつ)とは、 前に述べたことが、後に述べることの原因・理由となること。「だから・それで」など。 接続詞または接続助詞の機能的な分類の一つ。→ 接続詞#日本語の接続詞 プログラムの記述とコンピュータの動作経過が一致するプログラム構造。→ 構造化プログラミング
'''順接'''(じゅんせつ)とは、 *前に述べたことが、後に述べることの原因・理由となること。「だから・それで」など。 * [[接続詞]]または[[接続助詞]]の機能的な分類の一つ。→ [[接続詞#日本語の接続詞]] * [[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の記述と[[コンピュータ]]の動作経過が一致するプログラム構造。→ [[構造化プログラミング]] {{aimai}} {{デフォルトソート:しゆんせつ}}
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代数学の基本定理
代数学の基本定理(だいすうがくのきほんていり、英: fundamental theorem of algebra)とは、「次数が 1 以上の任意の複素係数一変数多項式には複素根が存在する」という定理である。 実係数の代数方程式は一般に実数の範囲内に解を有するとは限らないが、係数体に多項式 x + 1 の根 i = √−1(虚数単位)というただ 1 つの数を添加すると、どの代数方程式でもその拡大体上で解ける。 そうして得られた複素数を係数とする代数方程式の解も、複素数の範囲に解を持つ。これが代数学の基本定理の主張である。 この定理の主張は、因数定理を帰納的に用いることより という事実を導くので、このことを指して代数学の基本定理と呼ぶこともある。つまり、任意の複素係数多項式は、複素係数の一次式の冪積に分解できる。 代数学の基本定理は、複素数体が、代数方程式による数の拡大体で最大のものであることを示している。これは、体論の言葉で言えば「複素数体は代数的閉体である」 ということになる。 17世紀前半にアルベール・ジラール(フランス語版、英語版)らによって主張され、18世紀の半ばからジャン・ル・ロン・ダランベール、レオンハルト・オイラー、フランソワ・ダヴィエ・ド・フォンスネ(英語版)、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、ピエール=シモン・ラプラスらが証明を試み、その手法は洗練されていった。1799年にカール・フリードリヒ・ガウスが学位論文でそれまでの証明の不備を指摘し最初の証明を与えた(ただし、現在ではガウスの最初の証明も完全ではなかったことが分かっている)。後年ガウスはこの定理に3つの異なる証明を与えた。現在ではさらに多くの証明が知られている。 最もよく知られている初等的な証明は、次の通りである。 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は |x| → ∞ のとき ∞ に発散する。 よって、 | x | > C {\displaystyle |x|>C} ⟹ {\displaystyle \Longrightarrow } f ( x ) > f ( 0 ) {\displaystyle f(x)>f(0)} となるような実数 C {\displaystyle C} を定めることができる。 また、有界(一般にはコンパクト集合)上の連続関数は最小値を持つ(最大値最小値定理)ことから、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は最小値をもつ。それを c {\displaystyle c} とする。 上記の不等式から c < C {\displaystyle c<C} である。 このとき、 f ( x c ) = c {\displaystyle f(x_{c})=c} となる x c {\displaystyle x_{c}} を置き、 c ≠ 0 {\displaystyle c\neq 0} を仮定する。 ある複素数 ε {\displaystyle \epsilon } について f ( x c + ε ) = | A n ε n + A 1 ε n − 1 + A 2 ε n − 2 + ⋅ ⋅ ⋅ + A 0 | {\displaystyle f(x_{c}+\epsilon )=|A_{n}\epsilon ^{n}+A_{1}\epsilon ^{n-1}+A_{2}\epsilon ^{n-2}+\cdot \cdot \cdot +A_{0}|} ( A n {\displaystyle A_{n}} は ε {\displaystyle \epsilon } の係数)を考えると、 A n ≠ 0 {\displaystyle A_{n}\neq 0} となる n {\displaystyle n} のうち最小の n {\displaystyle n} を k {\displaystyle k} と置くと f ( x c + ε ) = | A n ε n + A 1 ε n − 1 + A 2 ε n − 2 + ⋅ ⋅ ⋅ + A k ε k + A 0 | {\displaystyle f(x_{c}+\epsilon )=|A_{n}\epsilon ^{n}+A_{1}\epsilon ^{n-1}+A_{2}\epsilon ^{n-2}+\cdot \cdot \cdot +A_{k}\epsilon ^{k}+A_{0}|} となる。 ここで ε = t ( − A 0 A k ) 1 k {\displaystyle \epsilon =t(-{\frac {A_{0}}{A_{k}}})^{\frac {1}{k}}} と置くと f ( x c + t ( − A 0 A k ) 1 k ) = | A 0 ( 1 − t k ) + F ( t ) | {\displaystyle f(x_{c}+t(-{\frac {A_{0}}{A_{k}}})^{\frac {1}{k}})=|A_{0}(1-t^{k})+F(t)|} ( t {\displaystyle t} は正の実数、 F ( t ) {\displaystyle F(t)} は A n ε n + A 1 ε n − 1 + A 2 ε n − 2 + ⋅ ⋅ ⋅ + A k + 1 ε k + 1 {\displaystyle A_{n}\epsilon ^{n}+A_{1}\epsilon ^{n-1}+A_{2}\epsilon ^{n-2}+\cdot \cdot \cdot +A_{k+1}\epsilon ^{k+1}} に ε = t ( − A 0 A k ) 1 k {\displaystyle \epsilon =t(-{\frac {A_{0}}{A_{k}}})^{\frac {1}{k}}} を代入した式) F ( t ) {\displaystyle F(t)} は t {\displaystyle t} の次数が t k {\displaystyle t^{k}} より高次の項しかないため、 t {\displaystyle t} が十分小さければ | A 0 ( 1 − t k ) + F ( t ) | {\displaystyle |A_{0}(1-t^{k})+F(t)|} の内 F ( t ) {\displaystyle F(t)} を無視できる、すなわち t {\displaystyle t} が十分に小さいとき | A 0 ( 1 − t k ) + F ( t ) | < | A 0 | {\displaystyle |A_{0}(1-t^{k})+F(t)|<|A_{0}|} となる。 つまり f ( x c + ε ) < f ( x c ) {\displaystyle f(x_{c}+\epsilon )<f(x_{c})} となるが、これは x c {\displaystyle x_{c}} の定義に矛盾。 よって仮定が偽なので c = 0 {\displaystyle c=0} となり、因数定理より、 f ( x ) = ( x − x c ) p ( x ) {\displaystyle f(x)=(x-x_{c})p(x)} と置くことができる。この時 x c {\displaystyle x_{c}} は f ( x ) {\displaystyle f(x)} の根となっている。 以上の操作を繰り返すことで、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は n {\displaystyle n} 個の根を持つことがわかる。 証明終わり 複素解析に基づく証明法としては、リウヴィルの定理を用いる方法と、ルーシェの定理を用いる方法が有名であり、大学教育における初等的な複素解析の教書は代数学の基本定理をこれらの方法で証明するまでの過程を学ぶことを目的としているものが多い。 以下にリウヴィルの定理を用いる証明の概略を示す(ルーシェの定理を用いる証明については、ルーシェの定理#代数学の基本定理の証明を参照)。 最高次係数が 1 の任意の n 次複素数係数多項式を とする。複素平面上で f(z) は零点を持たないと仮定する。g(z) = 1/f(z) と置けば g(z) は複素平面全体で正則かつ有界であり、リウヴィルの定理から g(z) は定数となり、当然 f(z) も定数となるが、これは f(z) の形と矛盾する。従って、f(z) は複素平面上で少なくとも1つの零点を持つ。
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代数学の基本定理とは、「次数が 1 以上の任意の複素係数一変数多項式には複素根が存在する」という定理である。
'''代数学の基本定理'''(だいすうがくのきほんていり、{{lang-en-short|fundamental theorem of algebra}})とは、「[[多項式の次数|次数]]が 1 以上の任意の[[複素数|複素]][[係数]]一変数[[多項式]]には複素[[多項式の根|根]]が存在する」という[[定理]]である。 == 概要 == [[実数|実]]係数の[[代数方程式]]は一般に実数の範囲内に解を有するとは限らないが、係数体に多項式 {{math|''x''{{sup|2}} + 1}} の[[多項式の根|根]] {{math|''i'' {{=}} {{sqrt|&minus;1}}}}([[虚数単位]])というただ 1 つの数を[[添加 (体論)|添加]]すると、どの代数方程式でもその[[体の拡大|拡大体]]上で解ける。 そうして得られた'''[[複素数]]'''を係数とする代数方程式の解も、複素数の範囲に解を持つ。これが'''代数学の基本定理'''の主張である。 この定理の主張は、[[因数定理]]を帰納的に用いることより :複素係数の任意の {{mvar|n}} 次多項式 ::<math>a_n x^n + a_{n-1} x^{n-1} + \cdots + a_1 x + a_0 \quad (a_n, \cdots, a_0 \in \mathbb{C}, \; a_n \ne 0) </math> :は複素根を[[重根 (多項式)|重複]]を込めてちょうど {{mvar|n}} 個持つ という事実を導くので、このことを指して代数学の基本定理と呼ぶこともある。つまり、任意の複素係数多項式は、複素係数の一次式の冪積に分解できる。 代数学の基本定理は、複素数体が、代数方程式による数の拡大体で最大のものであることを示している。これは、[[体論]]の言葉で言えば「複素数体は'''[[代数的閉体]]'''である」 ということになる。 == 歴史 == [[17世紀]]前半に{{仮リンク|アルベール・ジラール|fr|Albert Girard|en|Albert Girard}}らによって主張され、[[18世紀]]の半ばから[[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]、[[レオンハルト・オイラー]]、{{仮リンク|フランソワ・ダヴィエ・ド・フォンスネ|en|François Daviet de Foncenex}}、[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]、[[ピエール=シモン・ラプラス]]らが証明を試み、その手法は洗練されていった。[[1799年]]に[[カール・フリードリヒ・ガウス]]が学位論文でそれまでの証明の不備を指摘し最初の証明を与えた(ただし、現在ではガウスの最初の証明も完全ではなかったことが分かっている<ref group="注">ガウスの最初の証明は幾何学的な前提として[[ジョルダン曲線定理]]が暗黙で使われており、後年の観点からは不備がある。</ref>)。後年ガウスはこの定理に3つの異なる証明を与えた。現在ではさらに多くの証明が知られている。 == 証明 == 最もよく知られている初等的な証明は、次の通りである。 <math>f(x)</math>は {{math|{{abs|''x''}} → ∞}} のとき {{math|∞}} に発散する。 よって、<math>|x|>C</math><math>\Longrightarrow</math><math>f(x)>f(0)</math>となるような実数<math>C</math>を定めることができる。 また、有界(一般には[[コンパクト (数学)|コンパクト集合]])上の[[連続関数]]は最小値を持つ([[最大値最小値定理]])ことから、<math>f(x)</math>は最小値をもつ。それを<math>c</math>とする。 上記の不等式から<math>c<C</math>である。 このとき、<math>f(x_c)=c</math>となる<math>x_c</math>を置き、<math>c\neq0</math>を仮定する。 ある複素数<math>\epsilon</math>について<math>f(x_c+\epsilon)=|A_n\epsilon^n+A_1\epsilon^{n-1}+A_2\epsilon^{n-2}+\cdot\cdot\cdot+A_0|</math> (<math>A_n</math>は<math>\epsilon</math>の係数)を考えると、<math>A_n\neq0</math>となる<math>n</math>のうち最小の<math>n</math>を<math>k</math>と置くと<math>f(x_c+\epsilon)=|A_n\epsilon^n+A_1\epsilon^{n-1}+A_2\epsilon^{n-2}+\cdot\cdot\cdot+A_k\epsilon^k+A_0|</math>となる。 ここで<math>\epsilon=t(-\frac{A_0}{A_k})^{\frac{1}{k}}</math>と置くと<math>f(x_c+t(-\frac{A_0}{A_k})^{\frac{1}{k}})=|A_0(1-t^k)+F(t)|</math> (<math>t</math>は正の実数、<math>F(t)</math>は<math>A_n\epsilon^n+A_1\epsilon^{n-1}+A_2\epsilon^{n-2}+\cdot\cdot\cdot+A_{k+1}\epsilon^{k+1}</math>に<math>\epsilon=t(-\frac{A_0}{A_k})^{\frac{1}{k}}</math>を代入した式) <math>F(t)</math>は<math>t</math>の次数が<math>t^k</math>より高次の項しかないため、<math>t</math>が十分小さければ<math>|A_0(1-t^k)+F(t)|</math>の内<math>F(t)</math>を無視できる、すなわち<math>t</math>が十分に小さいとき<math>|A_0(1-t^k)+F(t)|<|A_0|</math>となる。 つまり<math>f(x_c+\epsilon)<f(x_c)</math>となるが、これは<math>x_c</math>の定義に矛盾。 よって仮定が偽なので<math>c=0</math>となり、[[因数定理]]より、<math>f(x)=(x-x_c)p(x)</math>と置くことができる。この時<math>x_c</math>は<math>f(x)</math>の根となっている。 以上の操作を繰り返すことで、<math>f(x)</math>は<math>n</math>個の根を持つことがわかる。 証明終わり === 複素解析的な証明 === [[複素解析]]に基づく証明法としては、[[リウヴィルの定理 (解析学)|リウヴィルの定理]]を用いる方法と、[[ルーシェの定理]]を用いる方法が有名であり、大学教育における初等的な複素解析の教書は代数学の基本定理をこれらの方法で証明するまでの過程を学ぶことを目的としているものが多い。 以下にリウヴィルの定理を用いる証明の概略を示す(ルーシェの定理を用いる証明については、[[ルーシェの定理#代数学の基本定理の証明]]を参照)。 最高次係数が {{math|1}} の任意の {{mvar|n}} 次複素数係数多項式を :<math>f(z) = z^n + a_{n-1} z^{n-1} +\cdots +a_1 z+a_0</math> とする。複素平面上で {{math|''f''(''z'')}} は零点を持たないと仮定する。{{math|''g''(''z'') {{=}} {{sfrac|1|''f''(''z'')}}}} と置けば {{math|''g''(''z'')}} は複素平面全体で正則かつ有界であり、'''リウヴィルの定理'''から {{math|''g''(''z'')}} は定数となり、当然 {{math|''f''(''z'')}} も定数となるが、これは {{math|''f''(''z'')}} の形と矛盾する。従って、{{math|''f''(''z'')}} は複素平面上で少なくとも1つの零点を持つ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2016-02}} * {{Cite book|和書|author=彌永昌吉|authorlink=彌永昌吉|date=1978-04|title=数の体系|volume=下|series=岩波新書(黄版)43|publisher=岩波書店|isbn=4-00-420043-1}} * {{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|date=1983-09|title=解析概論|edition=改訂第3版 軽装版|publisher=岩波書店|isbn=4-00-005171-7}} * {{Cite book|和書|author=高木貞治|year=1965-11|title=代数学講義|edition=改訂新版|publisher=共立出版|isbn=4-320-01000-0}} * {{Cite book|和書|last=Fine|first=Benjamin|coauthors=Rosenberger, Gerhard|translator=[[新妻弘]]・[[木村哲三]]|date=2002-02|title=代数学の基本定理|publisher=共立出版|isbn=4-320-01689-0}} == 関連文献 == * {{Citation|author=[[カール・フリードリヒ・ガウス]]|year=1866|title=ガウス全集|publisher=ゲッティンゲン王立科学協会|volume=第3巻}} *#{{Google books|WFxYAAAAYAAJ|ガウスの第1証明(ラテン語)|page=1}}, pp.1-31。 *#{{Google books|WFxYAAAAYAAJ|ガウスの第2証明(ラテン語)|page=32}}, pp.32-56。 *#{{Google books|WFxYAAAAYAAJ|ガウスの第3証明(ラテン語)|page=57}}, pp.57-64。 *#{{Google books|WFxYAAAAYAAJ|ガウスの第4証明(ドイツ語)|page=71}}, pp.71-103。 == 関連項目 == {{Wikisourcelang|la|Demonstratio nova theorematis omnem functionem algebraicam rationalem integram unius variabilis in factores reales primi vel secundi gradus resolvi posse}} {{Wikisource|解析概論}} {{Wikisource|代数学講義}} * [[因数定理]] * [[体論]] * [[算術の基本定理]] * [[ベズーの定理]] == 外部リンク == * {{PDFlink|[http://www.las.osakafu-u.ac.jp/~yamaguti/jugyo/geom/fundalg.pdf 代数学の基本定理]}} * {{PDFlink |{{Wayback|url=http://mister-hd.hp.infoseek.co.jp/tex/ft_alg.pdf |title=代数学の基本定理 |date=20040616033750}}}} * {{MathWorld|title=Fundamental Theorem of Algebra|urlname=FundamentalTheoremofAlgebra}} * {{Google books|g3VaAAAAcAAJ|ガウスの第1証明(ラテン語)}} * {{Google books|Svc7AQAAMAAJ|ガウスの第1証明(ラテン語)}} <!--* [http://dochost.rz.hu-berlin.de/dissertationen/historisch/gauss-carolo/HTML/ ガウスの第1証明](ラテン語)--> * {{高校数学の美しい物語|799|代数学の基本定理とその初等的な証明}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいすうかくのきほんていり}} [[Category:複素解析の定理]] [[Category:代数学の定理]] [[Category:代数方程式]] [[Category:基本定理]] [[Category:カール・フリードリヒ・ガウス]] [[Category:数学に関する記事]]
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朝日オープン将棋選手権
朝日オープン将棋選手権(あさひオープンしょうぎせんしゅけん、略称「朝日オープン」)は、朝日新聞社主催で行われていた将棋の棋戦。前身は全日本プロ将棋トーナメントで、その第20回記念大会となった2001年度より本棋戦名へと改称された。その際、システムも変更され、アマチュア出場枠が拡大。2年目(全日プロから通算で第21回)からは、タイトル戦と同様、トーナメントを勝ち上がった1名が前回優勝者(選手権者)に挑戦する形(挑戦手合制)となった。 名人戦の主催者に朝日新聞社が加わって毎日新聞社との共催になったことにより、本棋戦は2006年度に終了した。なお、後続の棋戦として、朝日杯将棋オープン戦が新設された。 優勝者の称号は朝日オープン選手権者であり、序列はタイトル保持者と永世・名誉称号有資格者の次とされた。略称は「朝日」とされることが多いが、朝日新聞は「選手権者」としている。 優勝賞金がタイトル戦以外では当時最高額の2000万円であり(金額が公開されている棋戦では竜王戦の3200万円に次いで高額だった)、日本将棋連盟の定める昇段規定上でタイトル戦と同等の扱いとされるなど、準タイトル戦といえる棋戦であった。 予選と本戦(挑戦者決定トーナメント)、五番勝負により選手権者を決定した。 全棋士と女流棋士2名(成績選抜)、アマチュア10名(朝日アマ名人と朝日アマ名人戦ベスト8以上、日本将棋連盟推薦1名)が参加した。 予選通過者16名と本戦シード者16名の計32名で本戦トーナメントを行い、これを勝ち残った者が挑戦者となった。 選手権者と挑戦者とで五番勝負を行い、勝った者が新しい選手権者となった。 トーナメント方式の予選を通過した16名が本戦に出場した。 朝日選手権者および本戦シード棋士を除くすべての棋士のほか、女流棋士2名、アマチュア10名が参加した。女流棋士とアマチュアはすべて別の組に振り分けられ、アマチュアの予選1回戦の対局は同日に一斉に行われた。 予選・本戦とも、持ち時間は各3時間。 本戦トーナメントには、予選を勝ち抜いた16名とシード棋士16名が参加した。1回戦はすべて、予選を勝ち抜いた棋士とシード棋士の対局が組まれた。 全日本プロ時代の決勝は五番勝負であったが、朝日オープンの本戦(挑戦者決定トーナメント)決勝は一番勝負であった。ただし、制度移行で選手権者がいなかった第20回は、本戦トーナメント決勝を五番勝負としてその勝者が選手権者となった。 シード選手の決定方法は、優先度の高い方から以下の順で決定した。 タイトル保持よりも全日本プロ時代からの本大会での実績が優先したため、それまで2回以上優勝していた羽生善治、谷川浩司、森内俊之、深浦康市の四人は事実上の永久シードとなった。 朝日オープン選手権者と本戦トーナメントの優勝者が五番勝負を戦った。五番勝負は日本各地のホテルや旅館、料亭などで行われた。 持ち時間は予選・本戦と同じく3時間で、1日制で行われた。 全日本プロ将棋トーナメント(ぜんにほんぷろしょうぎとーなめんと)は、朝日新聞社が主催していた将棋の棋戦で、1982年度から2000年度まで開催された。 1976年をもって名人戦契約を終了した朝日新聞社は、1977年から「朝日アマ名人戦」を開催。プロ棋戦から遠ざかった。しかし1982年、プロ優勝棋戦として「全日本プロ」を創設した。 全棋士を集めてほぼ横一線スタートのトーナメントで、公平な大会といわれた。第18回(1999年度)からは、女流棋士とアマチュアの実力が年々上昇傾向にあることなどを背景に、それぞれ出場枠が設けられた。 全棋士と女流棋士2名、アマチュア2名が参加するトーナメントを行い優勝者を決定した。前回ベスト4以上は準決勝まで対局しないようにシードされ3回戦からの登場であった。タイトル保持者と過去5年間の優勝者も3回戦からの登場であった。決勝のみ五番勝負(1989年度の第8回までは三番勝負)を行っていた。持ち時間は各3時間。 第8回大会までは三番勝負、第9回大会以後は五番勝負。年度は、優勝者の優勝履歴に記載されている年度とする。ただし、決勝番勝負の決着は翌年度であった。○●は優勝者または選手権者から見た勝敗。 全日プロの時代の第18回からアマチュア選手にも門戸が開かれ、朝日オープンと改められてからはアマチュアの出場が10名に拡大された。予選1回戦となるプロアマ戦10局は朝日オープンの開幕戦として、東西の将棋会館で同日一斉に開始されていた。 予選を勝ち抜き決勝トーナメントに出場するアマチュア選手は出なかったが、予選がなかった全日プロ時代の第19回(2000年)に、朝日アマ名人であった山田敦幹がプロ棋士を相手に3連勝した。また第24回(2005年)朝日オープンでは、同じく朝日アマ名人であった吉田正和がプロに3連勝して予選決勝に進出した。吉田はその年に奨励会初段を受験して合格し、2008年にプロになっている。 プロアマ一斉対局は、アマチュアの出場10名をそのままに朝日杯将棋オープン戦に引き継がれた。
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朝日オープン将棋選手権(あさひオープンしょうぎせんしゅけん、略称「朝日オープン」)は、朝日新聞社主催で行われていた将棋の棋戦。前身は全日本プロ将棋トーナメントで、その第20回記念大会となった2001年度より本棋戦名へと改称された。その際、システムも変更され、アマチュア出場枠が拡大。2年目(全日プロから通算で第21回)からは、タイトル戦と同様、トーナメントを勝ち上がった1名が前回優勝者(選手権者)に挑戦する形(挑戦手合制)となった。 名人戦の主催者に朝日新聞社が加わって毎日新聞社との共催になったことにより、本棋戦は2006年度に終了した。なお、後続の棋戦として、朝日杯将棋オープン戦が新設された。
{{Infobox 棋戦 |イベント名称=朝日オープン選手権 |分類=一般棋戦(準タイトル戦) |旧名称=全日本プロ将棋トーナメント |開催時期=予選:6月 - 翌年3月<br>タイトル戦:4月 - 5月 |初回開催=[[2001年度の将棋界|2001年度]](第20回) |最終開催=[[2006年度の将棋界|2006年度]](第25回) |持ち時間=3時間 |番勝負=五番勝負 |主催=[[朝日新聞社]] |種類=朝日オープン選手権者 |最多優勝=[[羽生善治]](4回) |最長連覇=羽生善治(4連覇) }} '''朝日オープン将棋選手権'''(あさひオープンしょうぎせんしゅけん、略称「朝日オープン」)は、[[朝日新聞社]]主催で行われていた[[将棋]]の[[棋戦 (将棋)|棋戦]]。前身は'''全日本プロ将棋トーナメント'''で、その第20回記念大会となった[[2001年度の将棋界|2001年度]]より本棋戦名へと改称された。その際、システムも変更され、アマチュア出場枠が拡大。2年目(全日プロから通算で第21回)からは、タイトル戦と同様、トーナメントを勝ち上がった1名が前回優勝者(選手権者)に挑戦する形([[挑戦手合制]])となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/finished/zenniti/index.html|title=朝日オープン選手権(全日本プロトーナメント)|終了・休止棋戦|publisher=日本将棋連盟|accessdate=2021-07-10}}</ref>。 [[名人戦 (将棋)|名人戦]]の主催者に朝日新聞社が加わって[[毎日新聞社]]との共催になったことにより、本棋戦は[[2006年度の将棋界|2006年度]]に終了した。なお、後続の棋戦として、[[朝日杯将棋オープン戦]]が新設された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp/osirase/070608_asahicup.htm|title=新棋戦「朝日杯将棋オープン戦」について|publisher=日本将棋連盟|accessdate=2021-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070712012449/http://www.shogi.or.jp/osirase/070608_asahicup.htm|archivedate=2007-07-12}}</ref>。 == 概要 == 優勝者の称号は'''朝日オープン選手権者'''であり、序列はタイトル保持者と永世・名誉称号有資格者の次とされた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp/osirase/news/2002-5.html|title=堀口一史座五段の呼称について|publisher=日本将棋連盟|accessdate=2021-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020607085025/http://www.shogi.or.jp/osirase/news/2002-5.html|archivedate=2002-06-10}}</ref>。略称は「朝日」とされることが多いが、朝日新聞は「選手権者」としている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/shougi/open21/k030403a.html|title=第21回朝日オープン将棋選手権五番勝負 熱戦制し深浦七段が堀口選手権者に先勝(128手完) 第1局|publisher=朝日新聞社|accessdate=2021-07-10}}</ref>。 優勝賞金がタイトル戦以外では当時最高額の2000万円であり(金額が公開されている棋戦では[[竜王戦]]の3200万円に次いで高額だった)、[[日本将棋連盟]]の定める[[将棋の段級|昇段規定]]上でタイトル戦と同等の扱いとされる<ref group="注">この規定で昇段した棋士は[[深浦康市]]([[王位戦 (将棋)|王位]]2期と朝日オープン1期がタイトル3期獲得とみなされ八段から九段に昇段)と[[堀口一史座]](朝日オープン優勝で五段から六段に昇段)の二人。</ref>など、準タイトル戦といえる棋戦であった。 == しくみ == 予選と本戦(挑戦者決定[[トーナメント方式|トーナメント]])、[[番勝負|五番勝負]]により選手権者を決定した。 全[[棋士 (将棋)|棋士]]と[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]2名(成績選抜)、アマチュア10名([[将棋のアマチュア棋戦#朝日アマ名人戦|朝日アマ名人]]と朝日アマ名人戦ベスト8以上、[[日本将棋連盟]]推薦1名)が参加した。 予選通過者16名と本戦シード者16名の計32名で本戦トーナメントを行い、これを勝ち残った者が挑戦者となった。 選手権者と挑戦者とで五番勝負を行い、勝った者が新しい選手権者となった。 === 予選 === トーナメント方式の予選を通過した16名が本戦に出場した。 朝日選手権者および本戦シード棋士を除くすべての棋士のほか、女流棋士2名、アマチュア10名が参加した。女流棋士とアマチュアはすべて別の組に振り分けられ、アマチュアの予選1回戦の対局は同日に一斉に行われた。 予選・本戦とも、[[持ち時間]]は各3時間。 === 本戦トーナメント === 本戦トーナメントには、予選を勝ち抜いた16名とシード棋士16名が参加した。1回戦はすべて、予選を勝ち抜いた棋士とシード棋士の対局が組まれた。 全日本プロ時代の決勝は五番勝負であったが、朝日オープンの本戦(挑戦者決定トーナメント)決勝は一番勝負であった。ただし、制度移行で選手権者がいなかった第20回は、本戦トーナメント決勝を五番勝負としてその勝者が選手権者となった。 シード選手の決定方法は、優先度の高い方から以下の順で決定した。 # 前回ベスト4 + 挑戦手合いの敗者 # 全日本プロから含めて複数回優勝者 # 過去5年間の朝日オープン選手権者、挑戦者 # タイトル保持者 # [[棋戦 (将棋)#永世称号|永世称号]]者 # 過去1年間の全棋士参加棋戦優勝者 # 過去1年間のタイトル戦出場者 # 1.~7.までに該当する棋士を除いて、順位戦A級からの上位棋士 タイトル保持よりも全日本プロ時代からの本大会での実績が優先したため、それまで2回以上優勝していた[[羽生善治]]、[[谷川浩司]]、[[森内俊之]]、[[深浦康市]]の四人は事実上の永久シードとなった。 === 朝日オープン将棋選手権五番勝負 === 朝日オープン選手権者と本戦トーナメントの優勝者が五番勝負を戦った。五番勝負は日本各地のホテルや旅館、料亭などで行われた。 持ち時間は予選・本戦と同じく3時間で、1日制で行われた。 == 全日本プロ将棋トーナメント == {{Infobox 棋戦 |イベント名称=朝日オープン選手権 |分類=一般棋戦 |初回開催=[[1982年度の将棋界|1982年度]](第1回) |最終開催=[[2000年度の将棋界|2000年度]](第19回) |持ち時間=3時間 |番勝負=第1〜8回大会:三番勝負<br>第9〜19回大会:五番勝負 |主催=[[朝日新聞社]] |最多優勝=[[谷川浩司]](7回) |最長連覇=谷川浩司(3連覇) }} '''全日本プロ将棋トーナメント'''(ぜんにほんぷろしょうぎとーなめんと)は、朝日新聞社が主催していた将棋の棋戦で、[[1982年度の将棋界|1982年度]]から[[2000年度の将棋界|2000年度]]まで開催された。 1976年をもって名人戦契約を終了した朝日新聞社は、1977年から「[[将棋のアマチュア棋戦#朝日アマ名人戦|朝日アマ名人戦]]」を開催。プロ棋戦から遠ざかった。しかし1982年、プロ優勝棋戦として「全日本プロ」を創設した。 全棋士を集めてほぼ横一線スタートのトーナメントで、公平な大会といわれた。第18回([[1999年度の将棋界|1999年度]])からは、女流棋士とアマチュアの実力が年々上昇傾向にあることなどを背景に、それぞれ出場枠が設けられた。 === しくみ === 全棋士と女流棋士2名、アマチュア2名が参加するトーナメントを行い優勝者を決定した<ref group="注">女流棋士とアマチュアは第18回に各1名、第19回には各2名が出場した。</ref>。前回ベスト4以上は準決勝まで対局しないようにシードされ3回戦からの登場であった。タイトル保持者と過去5年間の優勝者も3回戦からの登場であった。決勝のみ五番勝負([[1989年度の将棋界|1989年度]]の第8回までは三番勝負)を行っていた。持ち時間は各3時間。 == 歴代決勝記録 == 第8回大会までは三番勝負、第9回大会以後は五番勝負。年度は、優勝者の優勝履歴に記載されている年度とする<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/218.html|title=堀口一史座|棋士データベース|publisher=日本将棋連盟|accessdate=2021-07-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/201.html|title=深浦康市|棋士データベース|publisher=日本将棋連盟|accessdate=2021-07-10}}</ref>。ただし、決勝番勝負の決着は翌年度であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp/kisenhyo/zenniti.html|title=朝日オープン選手権 (主催・朝日新聞)|publisher=日本将棋連盟|accessdate=2021-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020806141732/http://www.shogi.or.jp/kisenhyo/zenniti.html|archivedate=2002-08-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/finished/zenniti/21hon/index.html|title=第21回朝日オープン将棋選手権 挑戦者決定トーナメント/五番勝負|publisher=日本将棋連盟|accessdate=2021-07-10}}</ref>。○●は優勝者または選手権者から見た勝敗。 {| style="background-color: transparent; width:100%;" | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | === 全日本プロ将棋トーナメント === {|class="wikitable" style="font-size:90%;margin-right:1em;" !回!!年度!!優勝!!勝敗!!準優勝 |- !1 |1982||style="background-color: #ffcccc"|[[桐山清澄]]||●○○||[[青野照市]] |- !2 |1983||style="background-color: #ffcccc"|[[谷川浩司]]||○●○||[[田中寅彦]] |- !3 |1984||style="background-color: #ffcccc"|谷川浩司||○○||[[森雞二]] |- !4 |1985||style="background-color: #ffcccc"|谷川浩司||○○||[[加藤一二三]] |- !5 |1986||style="background-color: #ffcccc"|[[大内延介]]||○○||[[中村修 (棋士)|中村修]] |- !6 |1987||style="background-color: #ffcccc"|谷川浩司||○○||[[櫛田陽一]] |- !7 |1988||style="background-color: #ffcccc"|[[森内俊之]]||○●○||谷川浩司 |- !8 |1989||style="background-color: #ffcccc"|[[羽生善治]]||●○○||谷川浩司 |- !9 |1990||style="background-color: #ffcccc"|[[森下卓]]||○○●○||桐山清澄 |- !10 |1991||style="background-color: #ffcccc"|羽生善治||○●●○○||森下卓 |- !11 |1992||style="background-color: #ffcccc"|[[深浦康市]]||●○○●○||[[米長邦雄]] |- !12 |1993||style="background-color: #ffcccc"|[[阿部隆]]||●○●○○||[[中田宏樹]] |- !13 |1994||style="background-color: #ffcccc"|谷川浩司||○●○○||深浦康市 |- !14 |1995||style="background-color: #ffcccc"|[[屋敷伸之]]||○○○||[[藤井猛]] |- !15 |1996||style="background-color: #ffcccc"|谷川浩司||○●●○○||森下卓 |- !16 |1997||style="background-color: #ffcccc"|羽生善治||○○○||森内俊之 |- !17 |1998||style="background-color: #ffcccc"|[[丸山忠久]]||○○○||森内俊之 |- !18 |1999||style="background-color: #ffcccc"|谷川浩司||○○○||[[岡崎洋 (棋士)|岡崎洋]] |- !19 |2000||style="background-color: #ffcccc"|森内俊之||○○●●○||谷川浩司 |} | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | === 朝日オープン将棋選手権 === {|class="wikitable" style="font-size:90%;margin-right:1em;" !回!!年度!!優勝!!勝敗!!準優勝 |- ![[第20回朝日オープン将棋選手権|20]] |2001||style="background-color: #ffcccc"|[[堀口一史座]]||●○○○||[[杉本昌隆]] |- !回!!年度!!選手権者!!勝敗!!挑戦者 |- ![[第21回朝日オープン将棋選手権|21]] |2002||堀口一史座||○●●●||style="background-color: #ffcccc"|深浦康市 |- ![[第22回朝日オープン将棋選手権|22]] |2003||深浦康市||●○●○●||style="background-color: #ffcccc"|羽生善治 |- ![[第23回朝日オープン将棋選手権|23]] |2004||style="background-color: #ffcccc"|羽生善治||○○○||[[山崎隆之]] |- ![[第24回朝日オープン将棋選手権|24]] |2005||style="background-color: #ffcccc"|羽生善治||○●○○||藤井猛 |- ![[第25回朝日オープン将棋選手権|25]] |2006||style="background-color: #ffcccc"|羽生善治||○●○○||[[阿久津主税]] |} |} == プロ対アマの対戦成績 == 全日プロの時代の第18回からアマチュア選手にも門戸が開かれ、朝日オープンと改められてからはアマチュアの出場が10名に拡大された。予選1回戦となるプロアマ戦10局は朝日オープンの開幕戦として、東西の[[将棋会館]]で同日一斉に開始されていた。 予選を勝ち抜き決勝トーナメントに出場するアマチュア選手は出なかったが、予選がなかった全日プロ時代の第19回(2000年)に、朝日アマ名人であった山田敦幹<!-- アマ -->がプロ[[棋士 (将棋)|棋士]]を相手に3連勝した。また第24回(2005年)朝日オープンでは、同じく朝日アマ名人であった[[渡辺正和 (棋士)|吉田正和]]がプロに3連勝して予選決勝に進出した。吉田はその年に[[新進棋士奨励会|奨励会]]初段を受験して合格し、2008年にプロになっている。 プロアマ一斉対局は、アマチュアの出場10名をそのままに[[朝日杯将棋オープン戦]]に引き継がれた。 {| class="wikitable" |+ 全日プロ1回戦の結果 ! 回 !! 対局日 !! 結果 |- | 18 || 1999年7月3日 || プロ1勝 [[画像:r10.png]] アマ0勝 |- | 19 || 2000年7月8日 || プロ1勝 [[画像:r10.png]][[画像:g10.png]] アマ1勝 |} {| class="wikitable" |+ 朝日オープン一斉対局の結果 ! 回 !! 対局日 !! 結果 |- | 20 || 2001年6月3日 || プロ8勝 [[画像:r50.png]][[画像:r30.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]] アマ2勝 |- | 21 || 2002年6月1日 || プロ3勝 [[画像:r30.png]][[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]] アマ7勝 |- | 22 || 2003年6月1日 || プロ6勝 [[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:g30.png]][[画像:g10.png]] アマ4勝 |- | 23 || 2004年6月6日 || プロ7勝 [[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:g30.png]] アマ3勝 |- | 24 || 2005年6月4日 || プロ7勝 [[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:g30.png]] アマ3勝 |- | 25 || 2006年6月3日 || プロ7勝 [[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:g30.png]] アマ3勝 |} == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[朝日杯将棋オープン戦]] == 外部リンク == * [http://www.asahi.com/shougi/open/ asahi.com:朝日オープン将棋観戦記一覧] * [https://www.shogi.or.jp/match/finished/zenniti/index.html 朝日オープン選手権(全日本プロトーナメント):日本将棋連盟] {{棋戦 (将棋)}} {{朝日オープン将棋選手権}} {{各回の朝日オープン将棋選手権}} {{DEFAULTSORT:あさひおおふんしようきせんしゆけん}} [[Category:将棋の棋戦|廃あさひおおふんしようきせんしゆけん]] [[Category:朝日新聞社のイベント|廃あさひおおふんしようきせんしゆけん]] [[Category:朝日オープン将棋選手権|*]] [[Category:2001年開始のイベント]] [[Category:2006年終了のイベント]]
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平方剰余の相互法則
平方剰余(英語版)(へいほうじょうよ、英: quadratic residue)とは、ある自然数を法としたときの平方数のことであり、平方剰余の相互法則(へいほうじょうよのそうごほうそく、英: law of quadratic reciprocity)は、ある整数 a が別の整数 p の平方剰余であるか否かを判定する法則である。 整数 a と p とが互いに素であるとする。合同式 が解を持つとき、a は p を法として平方剰余であるといい、そうでないとき平方非剰余であるという。 奇素数 p と、p と互いに素な整数 a に対して、記号 を定める。 奇素数 p で割り切れるような整数 a に対しても と定めておくことがある。 記号 ( a p ) {\displaystyle \left({\frac {a}{p}}\right)} を、平方剰余記号、またはアドリアン=マリ・ルジャンドルにちなんでルジャンドル記号と呼ぶ。 平方剰余の相互法則は整数 a が奇素数 p を法として平方剰余であるか否かを判定する法則である。 また、このほかに以下の第1補充法則、第2補充法則が知られている。 第1補充法則: 第2補充法則: また、p と互いに素な整数 a, b に対して が成立する。一般に素数 p に対して Zp = {1, 2, ..., p − 1} は p を法とする乗法に関して群をなすが、この式はルジャンドル記号が Zp から{−1, 1} への群準同型を与えることを示している。この写像の核は位数 (p − 1)/2 の部分群であり、Zp の元のちょうど半分が平方剰余、残り半分が平方非剰余となる。 この法則は、レオンハルト・オイラーによって予想され、カール・フリードリッヒ・ガウスによって証明された(ガウス日誌によれば、1796年4月8日。発表されたのは1801年の『整数論』において)。ガウスはこの法則に対して生涯で7つ(または8つ)の異なる証明を与えた。その一つの動機は、三次や四次の相互法則を証明することにあった。現在では240以上もの証明が知られている。 三次や四次の相互法則は、ヤコビ、アイゼンシュタインによって独立に証明された(1844年にアイゼンシュタインが証明を公表)。より高次のまた一般的な代数的整数における一般的な相互法則の証明は(ヒルベルトの第9問題)、高木貞治やエミール・アルティンによってなされた。(アルティン相互法則を参照) 4k + 1 型の素数は二個の平方数の和で表すことができる。また逆にある奇素数が二つの平方数の和で表すことができるならば、4k + 1 型の素数である。そして、二つの平方数の順序を別にすればこの分解は一意的である。 証明は、ある素数 p に対して A + B = rp と表せたならば r より真に小さい r′ ≥ 1 を選んで A′ + B′ = r′p とできるアルゴリズムの存在を示すことで行うことができる。 4k + 1 型の素数は第1補充法則より、A + 1 = rp と表すことができるため、このアルゴリズムを適用すればいつかは r を 1 にすることができる。 25 以下の自然数 n, 50 以下の素数 p について、n (mod p) を計算してみると次の表になる。 となる。q が 3 と異なる奇素数ならば、 と表せる。ここで、平方剰余の相互法則を使うと、 となり、 と求められる。今 q は 3 とも −1 とも互いに素であり、このことと第1補充法則より と求められる。即ち、3 と異なる奇素数 q に対して、q が x + 3 を割り切るような整数 x が存在することと、q が 6 を法として 1 に合同であることは同値である。 同様にして、q を 5 と異なる奇素数とすると、 ゆえに平方剰余の相互法則から となり、よって と求められる。
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平方剰余とは、ある自然数を法としたときの平方数のことであり、平方剰余の相互法則は、ある整数 a が別の整数 p の平方剰余であるか否かを判定する法則である。
{{出典の明記|date=2016年6月}} [[ファイル:Disqvisitiones-800.jpg|thumb|[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]は『[[Disquisitiones Arithmeticae|整数論]]』(1801年)で平方剰余の相互法則の最初の証明を公開した。]] '''{{仮リンク|平方剰余|en|Quadratic residue|preserve=1}}'''(へいほうじょうよ、{{lang-en-short|''quadratic residue''}})とは、ある[[自然数]]を法としたときの[[平方数]]のことであり、'''平方剰余の相互法則'''(へいほうじょうよのそうごほうそく、{{lang-en-short|''law of quadratic reciprocity''}})は、ある[[整数]] {{mvar|a}} が別の整数 {{mvar|p}} の平方剰余であるか否かを判定する[[法則]]である。 == 定義 == 整数 {{mvar|a}} と {{mvar|p}} とが[[互いに素 (整数論)|互いに素]]であるとする。[[合同算術|合同式]] :<math>x^2 \equiv a\pmod p</math> が解を持つとき、{{mvar|a}} は {{mvar|p}} を法として'''平方剰余'''であるといい、そうでないとき'''平方非剰余'''であるという。 === 平方剰余記号 === [[奇素数]] {{mvar|p}} と、{{mvar|p}} と互いに素な整数 {{mvar|a}} に対して、記号 :<math>\left( \frac{a}{p} \right) := \begin{cases} 1 &\text{if } \exists x \in \mathbb{Z} [ x^2 \equiv a \pmod p ]\\ -1 &\text{if } \forall x \in \mathbb{Z} [ x^2 \not\equiv a \pmod p] \end{cases} </math> を定める。 奇素数 {{mvar|p}} で割り切れるような整数 {{mvar|a}} に対しても :<math>\left( \frac{a}{p} \right) := 0 </math> と定めておくことがある。 記号 <math>\left( \frac{a}{p} \right) </math> を、'''平方剰余記号'''、または[[アドリアン=マリ・ルジャンドル]]にちなんで'''[[ルジャンドル記号]]'''と呼ぶ。 == 相互法則 == '''平方剰余の相互法則'''は[[整数]] {{mvar|a}} が[[奇数|奇]][[素数]] {{mvar|p}} を法として平方剰余であるか否かを判定する[[法則]]である。 :{{mvar|p}}, {{mvar|q}} を相異なる奇素数とするときに、 ::<math>\left( \frac{p}{q} \right)\left( \frac{q}{p} \right) = (-1)^{ \frac{p-1}{2} \cdot \frac{q-1}{2} }</math> :が成り立つ。 また、このほかに以下の第1補充法則、第2補充法則が知られている。 '''第1補充法則:''' ::<math>\left( \frac{-1}{p} \right) = (-1)^{ \frac{p-1}{2}}.</math> '''第2補充法則:''' ::<math>\left( \frac{2}{p} \right) = (-1)^{ \frac{p^2-1}{8}}.</math> また、{{mvar|p}} と互いに素な整数 {{mvar|a}}, {{mvar|b}} に対して ::<math>\left( \frac{ab}{p} \right) = \left( \frac{a}{p} \right)\left( \frac{b}{p} \right)</math> が成立する。一般に素数 {{mvar|p}} に対して {{math|1='''Z'''<sub>''p''</sub><sup>&times;</sup> = {{(}}1, 2, ..., ''p'' − 1{{)}}}} は {{mvar|p}} を法とする乗法に関して[[群 (数学)|群]]をなすが、この式はルジャンドル記号が {{math|'''Z'''<sub>''p''</sub><sup>&times;</sup>}} から{{math|{{(}}−1, 1{{)}}}} への群[[準同型]]を与えることを示している。この写像の[[核 (代数学)|核]]は位数 {{math|(''p'' − 1)/2}} の部分群であり、{{math|'''Z'''<sub>''p''</sub><sup>&times;</sup>}} の元のちょうど半分が平方剰余、残り半分が平方非剰余となる。 この法則は、[[レオンハルト・オイラー]]によって予想され、[[カール・フリードリッヒ・ガウス]]によって証明された(ガウス日誌によれば、[[1796年]][[4月8日]]。発表されたのは[[1801年]]の『[[Disquisitiones Arithmeticae|整数論]]』において)。ガウスはこの法則に対して生涯で7つ(または8つ)の異なる証明を与えた<ref name="Lemmermeyer">{{Cite web |last=Lemmermeyer |first=Franz |author={{仮リンク|フランツ・レンマーメイヤー|de|Franz Lemmermeyer}} |title=Proofs of and Bibliography on the Quadratic Reciprocity Law |url=http://www.rzuser.uni-heidelberg.de/~hb3/fchrono.html |accessdate=2017-08-30}}</ref>。その一つの動機は、三次や四次の相互法則を証明することにあった。現在では240以上もの証明が知られている<ref name="Lemmermeyer" />。 三次や四次の相互法則は、[[カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ|ヤコビ]]、[[フェルディナント・ゴットホルト・マックス・アイゼンシュタイン|アイゼンシュタイン]]によって独立に証明された([[1844年]]にアイゼンシュタインが証明を公表)。より高次のまた一般的な代数的整数における一般的な相互法則の証明は([[ヒルベルトの23の問題#第24問題|ヒルベルトの第9問題]])、[[高木貞治]]や[[エミール・アルティン]]によってなされた。([[アルティン相互法則]]を参照) ==平方剰余の相互法則の応用== ===フェルマーの二平方和の定理=== {{main|二個の平方数の和}} {{math|4''k'' + 1}} 型の素数は[[二個の平方数の和]]で表すことができる。また逆にある奇素数が二つの平方数の和で表すことができるならば、{{math|4''k'' + 1}} 型の素数である。そして、二つの平方数の順序を別にすればこの分解は一意的である。 :<math> \begin{align} 5 &= 1^2 + 2^2, & 113 &= 7^2 + 8^2, & 277 &= 9^2 + 14^2, & 421 &= 14^2 + 15^2, \\ 13 &= 2^2 + 3^2, & 137 &= 4^2 + 11^2, & 281 &= 5^2 + 16^2, & 433 &= 12^2 + 17^2, \\ 17 &= 1^2 + 4^2, & 149 &= 7^2 + 10^2, & 293 &= 2^2 + 17^2, & 449 &= 7^2 + 20^2, \\ 29 &= 2^2 + 5^2, & 157 &= 6^2 + 11^2, & 313 &= 12^2 + 13^2, & 457 &= 4^2 + 21^2, \\ 37 &= 1^2 + 6^2, & 173 &= 2^2 + 13^2, & 317 &= 11^2 + 14^2, & 461 &= 10^2 + 19^2, \\ 41 &= 4^2 + 5^2, & 181 &= 9^2 + 10^2, & 337 &= 9^2 + 16^2, & 509 &= 5^2 + 22^2, \\ 53 &= 2^2 + 7^2, & 193 &= 7^2 + 12^2, & 349 &= 5^2 + 18^2, & 521 &= 11^2 + 20^2, \\ 61 &= 5^2 + 6^2, & 197 &= 1^2 + 14^2, & 353 &= 8^2 + 17^2, & 541 &= 10^2 + 21^2, \\ 73 &= 3^2 + 8^2, & 229 &= 2^2 + 15^2, & 373 &= 7^2 + 18^2, & 557 &= 14^2 + 19^2, \\ 89 &= 5^2 + 8^2, & 233 &= 8^2 + 13^2, & 389 &= 10^2 + 17^2, & 569 &= 13^2 + 20^2, \\ 97 &= 4^2 + 9^2, & 241 &= 4^2 + 15^2, & 397 &= 6^2 + 19^2, & 577 &= 1^2 + 24^2, \\ 101 &= 1^2 + 10^2, & 257 &= 1^2 + 16^2, & 401 &= 1^2 + 20^2, & 593 &= 8^2 + 23^2, \\ 109 &= 3^2 + 10^2, & 269 &= 10^2 + 13^2, & 409 &= 3^2 + 20^2, & 601 &= 5^2 + 24^2. \end{align} </math> 証明は、ある素数 {{mvar|p}} に対して {{math|1=''A''<sup>2</sup> + ''B''<sup>2</sup> = ''rp''}} と表せたならば {{mvar|r}} より真に小さい {{math|''r''&prime; &ge; 1}} を選んで {{math|1=''A''&prime;<sup>2</sup> + ''B''&prime;<sup>2</sup> = ''r&prime;p''}} とできる[[アルゴリズム]]の存在を示すことで行うことができる。 {{math|4''k'' + 1}} 型の素数は第1補充法則より、{{math|1=''A''<sup>2</sup> + 1<sup>2</sup> = ''rp''}} と表すことができるため、このアルゴリズムを適用すればいつかは {{mvar|r}} を {{math|1}} にすることができる。 ===平方剰余の計算=== {{math|25}} 以下の自然数 {{mvar|n}}, {{math|50}} 以下の素数 {{mvar|p}} について、{{math|''n''<sup>2</sup> (mod ''p'')}} を計算してみると次の表になる。 {| class="wikitable" style="text-align:center" cellpadding="2" |+ ''n''<sup>2</sup> (mod ''p'') の計算表 |- ! n || 1||2|| 3|| 4||5|| 6|| 7|| 8 ||9 ||10|| 11|| 12|| 13|| 14 ||15|| 16|| 17|| 18 ||19|| 20|| 21|| 22|| 23|| 24 ||25 |- ! ''n''<sup>2</sup> ! width="25" |1 ! width="25" |4 ! width="25" |9 ! width="25" |16 ! width="25" |25 ! width="25" |36 ! width="25" |49 ! width="25" |64 ! width="25" |81 !100|| 121|| 144|| 169|| 196 ||225|| 256|| 289|| 324 ||361 || 400|| 441|| 484|| 529|| 576 ||625 |- ! mod 3 | 1 || 1 || 0 | 1 || 1 || 0 | 1 || 1 || 0 | 1 || 1 || 0 | 1 || 1 || 0 | 1 || 1 || 0 | 1 || 1 || 0 | 1 || 1 || 0 | 1 |- ! mod 5 | 1 || 4 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 4 || 1 || 0 |- ! mod 7 | 1 || 4 || 2 || 2 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 2 || 2 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 2 || 2 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 2 || 2 |- ! mod 11 | 1 || 4 || 9 || 5 || 3 || 3 || 5 || 9 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 9 || 5 || 3 || 3 || 5 || 9 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 9 |- ! mod 13 | 1 || 4 || 9 || 3 || 12 || 10 || 10 || 12 || 3 || 9 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 9 || 3 || 12 || 10 || 10 || 12 || 3 || 9 || 4 || 1 |- ! mod 17 | 1 || 4 || 9 || 16 || 8 || 2 || 15 || 13 || 13 || 15 || 2 || 8 || 16 || 9 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 9 || 16 || 8 || 2 || 15 || 13 |- ! mod 19 | 1 || 4 || 9 || 16 || 6 || 17 || 11 || 7 || 5 || 5 || 7 || 11 || 17 || 6 || 16 || 9 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 || 9 || 16 || 6 || 17 |- ! mod 23 | 1 || 4 || 9 || 16 || 2 || 13 || 3 || 18 || 12 || 8 || 6 || 6 || 8 || 12 ||18 || 3 || 13 || 2 || 16 || 9 || 4 || 1 || 0 | 1 || 4 |- ! mod 29 | 1 ||4|| 9|| 16|| 25|| 7|| 20|| 6 ||23 ||13|| 5|| 28|| 24|| 22 ||22|| 24|| 28|| 5 ||13 || 23|| 6|| 20|| 7|| 25 ||16 |- ! mod 31 | 1 ||4|| 9|| 16||25|| 5|| 18|| 2 ||19 ||7|| 28|| 20|| 14|| 10 ||8|| 8|| 10|| 14 ||20 || 28|| 7|| 19|| 2|| 18 ||5 |- ! mod 37 | 1 ||4|| 9|| 16||25|| 36|| 12|| 27 ||7 ||26||10|| 33|| 21|| 11 ||3|| 34|| 30|| 28 ||28 || 30|| 34|| 3|| 11|| 21 ||33 |- ! mod 41 | 1 ||4|| 9|| 16||25|| 36|| 8|| 23 ||40 ||18||39||21|| 5|| 32 ||20|| 10|| 2|| 37 ||33 || 31|| 31|| 33|| 37|| 2 ||10 |- ! mod 43 | 1 ||4|| 9|| 16||25|| 36|| 6|| 21 ||38 ||14|| 35|| 15|| 40|| 24 ||10|| 41|| 31|| 23 ||17 || 13|| 11 || 11|| 13|| 17 ||23 |- ! mod 47 | 1 ||4|| 9|| 16||25|| 36|| 2|| 17 ||34 ||6|| 27|| 3|| 28|| 8 ||37||21||7||42||32||24||18|| 14|| 12 || 12 ||14 |} ===={{math|1=''p'' = 3}} の場合==== ::<math>\left( \frac{a}{3} \right) = \begin{cases} 1 &\text{if }a \equiv 1\pmod 3\\ -1 &\text{if }a \equiv 2\pmod 3\\ 0 &\text{if }a \equiv 0\pmod 3 \end{cases}</math> となる。{{mvar|q}} が {{math|3}} と異なる[[素数|奇素数]]ならば、 ::<math>\left( \frac{q}{3} \right) = \begin{cases} 1 &\text{if }q \equiv 1\pmod 6\\ -1 &\text{if }q \equiv 5\pmod 6 \end{cases}</math> と表せる。ここで、'''平方剰余の相互法則'''を使うと、 ::<math>\biggl( \frac{3}{q} \biggr)\biggl( \frac{q}{3} \biggr) =(-1)^{\frac{3-1}{2} \cdot \frac{q-1}{2}} =(-1)^{\frac{q-1}{2}} </math> となり、 ::<math>\left( \frac{3}{q} \right) = \begin{cases} 1 &\text{if }q \equiv \pm 1\pmod {12}\\ -1 &\text{if }q \equiv \pm 5\pmod {12} \end{cases}</math> と求められる。今 {{mvar|q}} は {{math|3}} とも {{math|&minus;1}} とも互いに素であり、このことと第1補充法則より ::<math>\left( \frac{-3}{q} \right) = \left(\frac{-1}{q} \right)\left( \frac{3}{q} \right) = (-1)^{\frac{q-1}{2} \cdot 2} \biggl( \frac{q}{3} \biggr) = \biggl( \frac{q}{3} \biggr) = \begin{cases} 1 &\text{if }q \equiv 1\pmod 6\\ -1 &\text{if }q \equiv 5\pmod 6 \end{cases}</math> と求められる。即ち、{{math|3}} と異なる奇素数 {{mvar|q}} に対して、{{mvar|q}} が {{math|''x''<sup>2</sup> + 3}} を割り切るような整数 {{mvar|x}} が存在することと、{{mvar|q}} が {{math|6}} を法として {{math|1}} に合同であることは同値である。 <!--''q'' が 6 を法として 1 に合同ならば、''q'' を法とする &minus;3 の平方根が存在する...までは不要か--> ===={{math|1=''p'' = 5}} の場合==== 同様にして、{{mvar|q}} を {{math|5}} と異なる[[素数|奇素数]]とすると、 ::<math>\left( \frac{q}{5} \right) = \begin{cases} 1 &\text{if }q \equiv \pm 1\pmod 5\\ -1 &\text{if }q \equiv \pm 2\pmod 5. \end{cases}</math> ゆえに'''平方剰余の相互法則'''から ::<math>\biggl( \frac{5}{q} \biggr)\biggl( \frac{q}{5} \biggr) = (-1)^{ \frac{5-1}{2} \cdot \frac{q-1}{2} } = 1 </math> となり、よって ::<math>\left( \frac{5}{q} \right) = \begin{cases} 1 &\text{if }q \equiv \pm 1\pmod 5\\ -1 &\text{if }q \equiv \pm 2\pmod 5 \end{cases}</math> と求められる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author=C・F・ガウス|authorlink=カール・フリードリヒ・ガウス |others = [[高瀬正仁]] 訳 |date = 1995-06-20 |title = ガウス整数論 |publisher = [[朝倉書店]] |series = 数学史叢書 |isbn = 4-254-11457-5 |ref = {{Harvid|ガウス|高瀬|1995}} }} *{{Cite book|和書 |author=J・C・F・ガウス |others = 高瀬正仁 訳 |date = 2012-07-10 |title = ガウス 数論論文集 |series = ちくま学芸文庫 カ-33-1 |publisher = [[筑摩書房]] |isbn = 978-4-480-09474-2 |ref = {{Harvid|ガウス|高瀬|2012}} }} *{{Cite book|和書 |author=C・F・ガウス |others = 高瀬正仁 訳・解説 |year = 2013-08-30 |title = ガウスの《数学日記》 |publisher = [[日本評論社]] |isbn = 978-4-535-78584-7 |ref = {{Harvid|ガウス|高瀬|2013}} }} *{{Cite book |和書 |author=倉田令二朗|authorlink=倉田令二朗 |date=1992-10 |title=平方剰余の相互法則 ガウスの全証明 |publisher=日本評論社 |isbn=978-4-535-78192-4 |ref={{Harvid|倉田|1992}} }} *{{Cite book |和書 |author=栗原将人|authorlink=栗原将人 |date=2017-05 |title=ガウスの数論世界をゆく 正多角形の作図から相互法則・数論幾何へ |publisher=[[数学書房]] |series=数学書房選書 6 |isbn=978-4-903342-26-9 |ref={{Harvid|栗原|2017a}} }} *{{Cite journal |和書|author =栗原将人 |title 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箱根登山鉄道鉄道線
鉄道線(てつどうせん)は、神奈川県小田原市の小田原駅から同県足柄下郡箱根町の強羅駅までを結ぶ箱根登山鉄道の鉄道路線である。旅客案内上で正式名称が使われることはほとんどなく、主に「箱根登山線」や「箱根登山電車」の名が使われる。また、メディアにより当路線を指して会社名(箱根登山鉄道)で呼ばれることもある。 駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は直通運転している小田急小田原線の新宿駅から、当路線、箱根登山ケーブルカー、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色()、当路線・箱根登山ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。 日本国外を外遊した名士からの提案を契機として1919年に開業した鉄道路線である。当初は箱根湯本駅と強羅駅の間を結ぶ路線で、箱根湯本駅までは軌道線(小田原市内線)が接続していたが、1935年に小田原駅発着となった。箱根登山鉄道は小田急グループの一社で、1950年以降は箱根湯本駅まで小田急電鉄の列車が乗り入れている。 建設にあたってスイスのベルニナ鉄道(その後のレーティッシュ鉄道ベルニナ線)を参考にしており、その縁で1979年に、箱根登山鉄道とレーティッシュ鉄道は、スイス政府観光局の協力を得て姉妹鉄道提携を結んでいる。このことから、「日本唯一の(本格的な)登山電車」とも紹介されることがある。 2007年に「日本で最もきつい勾配であり、世界的にも珍しい粘着式鉄道」として、土木学会選奨土木遺産に選ばれている。 本路線は、以下のような数々の特徴を有する。 箱根湯本駅と小涌谷駅の間には、80 ‰(パーミル)という日本の粘着式鉄道では最急となる勾配が存在する。 80 ‰の勾配とは、1,000 m進む間に高低差が80 mにもなるというもので、これは軌条(レール)を固定せずに枕木の上に置いただけでは、自然に下に滑り落ちてしまうほどの勾配であり、角度にすると約4.57度である。1両の全長が14.66 mの車両で、80 ‰勾配においては前後で1.17 mほどの高低差がつく。 建設当時において日本における最急勾配だったのは信越本線の碓氷峠66.7 ‰で、建設時に参考としたベルニナ鉄道の最急勾配は70 ‰、粘着性能の高いゴムタイヤを用いた新交通システム(AGT)でも最急勾配は70 ‰程度で、本路線の80 ‰という勾配はそれらを上回るが、ラック式鉄道(アプト式)を採用している大井川鐵道井川線のアプトいちしろ - 長島ダム間ではさらにそれらを超える90 ‰の急勾配区間がある。 仙人台信号場と宮ノ下駅の間、小涌谷駅と彫刻の森駅の間には、半径30 mという急な曲線が存在する。 これは歴史節で後述するように、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられており、しかも温泉脈に悪影響を与えるという理由でトンネル掘削ができなくなった区間もあり、山肌に沿った急曲線で軌道を敷設するしか方法がなかったためである。半径30 mの曲線上では、3両編成の登山電車の先頭と最後部の車両の向きは60度ほどの角度がつく。 日本の普通鉄道において、本線上で半径30 mもの急曲線が設定されている事例は少ない。 入生田駅と箱根湯本駅の間には、国際標準軌の1,435 mm・狭軌の1,067 mmという異なる軌間において、片側のレールを共用する三線軌条が存在する。 これは後述するように、狭軌を採用している小田急の電車が、標準軌の本路線に乗り入れるために考えられた方法で、乗り入れ当初は小田原駅から箱根湯本駅までの区間に三線軌条が採用された。これは片側のレールを共用し、もう片側には2本のレールを並べて敷設するもので、分岐器も複雑な構造となった。 狭軌と標準軌の双方の列車密度や分岐器の数などを考慮すると、世界的に見ても本路線を上回るものはなく、東日本旅客鉄道(JR東日本)では山形新幹線運行のために奥羽本線の一部区間で三線軌条を導入するのに先立って本路線の設備を視察し、分岐器の構造などについて学んでいる。しかし、輸送力の違いやバリアフリー化対応などの理由により、2006年以降、車庫のある入生田駅と箱根湯本駅以外の区間については三線軌条は解消された。 箱根に登山電車を走らせる計画は、1896年に設立された箱根遊覧鉄道が路線免許を出願するなどの動きがあったが、計画が具体化するのは、1900年に国府津と湯本を結ぶ電気鉄道の路線(箱根登山鉄道小田原市内線を参照)を開業した小田原電気鉄道に対して、同年5月23日付けで温泉村から「路線を当村まで延長して欲しい」という路線延長の要請を受けたときからである。小田原電気鉄道ではこの要望に前向きに対処し、同年9月までに「箱根遊覧鉄道の創立に要した費用を負担した上で、路線自体は小田原電気鉄道の延長線として敷設する」という方向性をまとめたが、同年9月の臨時株主総会では否決されてしまった。 登山電車の建設計画が再び具体化するのは1907年、スイスにおける登山鉄道の実況を視察した者から、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけとなる。また、益田孝や井上馨などの実業家もこの事業を小田原電気鉄道に勧告したことを受け、1910年1月の臨時株主総会において、湯本駅(当時)から強羅駅へ路線を延長することが決定した。同年4月には路線延長を出願し、さらに翌月には強羅駅から仙石原を経て東海道本線(当時)の佐野駅(当時)への延伸計画を追加し、1911年3月1日に登山鉄道建設の免許が交付されたが、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられた。 当初の免許では、須雲川の右岸を遡り、須雲川集落から北上して大平台駅へ抜け、宮ノ下駅からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13 kmになるルートであったが、この時期に軌道線が早川の洪水によって軌道が流失してしまい、ルート変更を余儀なくされたため、登山鉄道のルートも再検討することとなった。 そこで、1911年5月には塔ノ沢駅までは早川の左岸を進み、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された。このルート案では、電気機関車が客車2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125 ‰(パーミル)のアプト式鉄道とする計画で、湯本から強羅までの距離は7.1 kmほどとなるルート設定であったが、当時既に最急勾配が66.7 ‰のアプト式鉄道として開通していた信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠)よりも急な勾配であることから、社内で不安の声が上がった。また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあったため、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢をヨーロッパに派遣した。 半田は半年ほどの視察の後に帰国したが、スイスのベルニナ鉄道においては70 ‰の急勾配が20 kmほど連続しており、これから敷設しようとしている登山鉄道と似た点が多く、大いに参考になったという。しかし、粘着式鉄道では125 ‰もの急勾配は登れないことが分かったため、スイッチバックを途中3箇所に設けた、最急勾配80 ‰の粘着式鉄道として建設することになった。建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていたが、すぐに中断となり、1913年3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した。この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている。 こうして、ようやく建設は開始された。ところが、1914年に第一次世界大戦が勃発した影響で、計画していた資材の輸入が途絶、建設工事にも影響を及ぼした。 早川橋梁の建設に当たっては東海道本線の天竜川橋梁のトラス鋼体の払い下げを受けることになったが、景観破壊の恐れがあると神奈川県知事からクレームが入り、改築を条件にしてようやく認められた。この早川橋梁の架設工事が終了したのは1917年5月31日で、1915年に架橋工事が開始されてから2年近くかかっており、もっとも難航を極めた工事とされている。車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが実現せず、アメリカ製の車両を購入することになった。 さらに、1916年に行われた地質調査では、宮ノ下駅から二ノ平駅までの区間にトンネルを掘削することによって、蛇骨川の温泉脈に悪影響を与えることが判明した。山を切り崩すこともできず、トンネル掘削もできない状況では、山肌に沿って軌道を敷設するしか方法はなく、仕方なく遠回りのルートに変更された。当初計画になかった小涌谷駅は、この時に開設が決まった。 このようなことから、工事は大幅に遅れ、建設費は計画当初と比較すると大幅に上回ることになり、資金調達のために3度にわたり社債の発行や増資などを行う必要に迫られている。 着工から7年以上が経過した1919年5月24日にようやく全ての工事が完了。同年6月1日、箱根湯本駅から強羅駅までを結ぶ登山電車の運行が開始された。しかし、当初の登山電車は山を登るときにだけ利用され、下りは歩いて湯本まで出る利用者も多かった。同日に開業した乗合自動車より運賃は安かったものの、当時の往復運賃は職人の1日分の日当と同じ金額であったのである。 1923年9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)で、鉄道線は甚大な被害を蒙った。箱根湯本駅では裏山が崩れて構内が埋没するなど、軌道は大部分が崩壊または埋没し、建造物も半数近くが半壊、ほとんどのトンネルも入口部分が崩壊した。橋梁は1箇所を除いて全て破壊されてしまったが、最も心配されていた早川橋梁だけは橋台の軽微な損傷とわずかにずれた程度で、被害を免れた。7両あった登山電車も全て脱線転覆や埋没してしまったが、焼失した車両はなかった。 早期復旧は不可能であったため、同年中に復旧の準備を整え、翌1924年1月から復旧工事が開始された。復旧工事も難工事で、運行が再開されたのは、箱根湯本駅 - 出山仮停留場間が同年9月10日、出山仮停留場 - 大平台駅間、小涌谷駅 - 強羅駅間が11月24日、宮ノ下駅 - 小涌谷駅間が12月24日、そして大平台駅 - 宮ノ下駅間が12月28日であった。 震災の被害から復帰した後の1926年1月16日には、小涌谷を発車した登山電車が宮ノ下付近でカーブで脱線して民家に転落するという事故が発生した。運転士は生存していたものの、精神に異常をきたしたため事故原因は明らかにならなかったが、速度制御に失敗したものとみられている。この事故の後しばらくした1928年1月に、小田原電気鉄道はいったん日本電力に合併した後、同年8月に再度箱根登山鉄道として分社化された。 日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された。この計画では小田原から風祭までは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった。 1927年4月1日に新宿駅を起点とする小田原急行鉄道(小田急)が小田原駅まで開通したことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請、1930年には小田急との連絡について協定を結んだ。1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手、1935年9月21日にすべての工事が完了した。小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている。これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった。しかし、鉄道線の線路は最小曲線半径が30 mという厳しい線形であり、勾配も日本最急となる80 ‰で、安全な連結器を開発する必要があった。そこで、鉄道省に連結器についての指導を仰いだ結果、芝浦製作所の設計による連結器の試作が実現した。数か月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため、チキ2形の連結器を全て交換した。 こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された。これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した。 戦時体制に入ってからは、1942年5月30日付で五島慶太が社長に就任するなどの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった。第二次世界大戦終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両が進駐軍専用車両となった。1948年9月15日にはアイオン台風が上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり、復旧は翌1949年7月6日までずれ込んだ。 これより少し遡る1946年に東京急行電鉄(大東急)が策定した『鉄軌道復興3カ年計画』の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた。1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップ特急の運行を開始していたが、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え、この乗り入れ計画を推進することになった。 しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。 鉄道線の軌間は国際的な標準である1,435 mmであったが、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067 mmであった。どちらかに統一しようにも、80 ‰の急勾配を上る能力のある電動機は当時の技術では1,067 mmの規格では収まらなかったため、鉄道線の軌間を1,067 mmに改軌することは不可能であった。また、小田急を1,435 mmに改軌するのは、車両数が多いうえ距離も相当なものとなってしまうため、膨大な費用が必要で、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった上、国鉄との貨物輸送において貨車の直通が不可能となり、貨物収入が激減してしまうことになる。そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設する三線軌条を採用することとなった。なお、共用するレールについては山側(小田原駅を発車すると進行方向右側)とされたが、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、国道1号が並走)への転落を防ぐためである。通常の分岐器は可動箇所が2箇所であるが、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり、当初は手動で梃子によって切り替えを行っていたが、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという。その後、分岐器の切り替えは電動化された。 三線軌条の導入によって、問題になったのは車両の連結器であった。登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急では自動連結器を使用していた。通常ならアダプターの役割を果たす中間連結器を介して非常時の連結に備えることになるが、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない。このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった。車体中心のずれは駅のプラットホームと車両の間にも影響し、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800 mmであるのに対し、登山電車の車体幅は2,520 mmと狭いことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30 cm以上の隙間ができてしまうことになった。 また、鉄道線の架線電圧は当時直流600 Vであったが、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500 Vであったため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500 Vに昇圧し、箱根湯本駅構内には架線死区間(デッドセクション)が設置され、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった。ただし、これによって直流600 Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり、箱根湯本駅から送電線による給電をせざるをえなくなった。 その上、軌道条件も異なっていた。小田原駅と箱根湯本駅の間は最急勾配は40 ‰で、箱根湯本駅から先の80 ‰と比べれば緩い勾配であったため、箱根登山ではこの区間を「平坦線」と称していた。しかし、当時の小田急における最急勾配は25 ‰で、40 ‰という勾配はそれをはるかに超えており、小田急の車両にとっては平坦どころではない。そのような勾配が1 km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった。このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった。 このほか、風祭駅に列車交換設備を新設したほか、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた。 技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた。これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった。 これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。東京芝浦電気と汽車会社の労働争議によって車両関係の改造が遅れるという障害もあったが、1950年8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された。乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝してアーチが飾られ、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた。この乗り入れ開始によって、小田急を利用して箱根を訪れる利用者は倍増、鉄道線の利用者数も前年と比較して27 %の増加をみるなど、利用者数は著しく増加した。 1964年にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設、1972年には列車集中制御装置 (CTC) が導入された。1972年3月15日には箱根彫刻の森美術館最寄の二ノ平駅が彫刻の森駅に改称された。1980年からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され、1982年7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20 mの車両による6両編成に増強された。 鉄道線を利用する観光客は増加し、1991年には年間輸送人員が1千万人を超えた。この当時、箱根を訪れる観光客のうち52 %は何らかの形で箱根登山鉄道を利用していた。当時の登山電車は2両編成で15分間隔が最大の輸送力であり、ゴールデンウィークや箱根大名行列が開催される11月などは登山電車に乗るのに2時間待ちという状況となっていた。しかし、特有の線路条件から増発はできないため、列車を最大3両編成にすることが決定した。 鉄道線の箱根湯本駅から強羅駅までの各駅は開業以来2両編成に対応した設備となっており、全駅においてホーム延伸対応工事が実施された。最も難工事だったのは塔ノ沢駅の工事で、駅の両側がトンネルに囲まれ、開業当時から強羅側の分岐器がトンネル内に設置されている状況で、しかも駅へ通じる道は細い人道があるだけで、工事にあたって大型機械を導入することはできなかった。このため、小田原側のトンネル拡幅はほぼ全てを手掘りで施工することになり、文字通り人海戦術での工事を余儀なくされた。塔ノ沢駅の工事だけで、総工費20億円のうちの半分近くが費やされた。 これ以外にも、変電所の増強や、架線電圧を600 Vから750 Vへ昇圧、一部車両の2両固定編成化などが行われた。塔ノ沢駅の工事が予定より早く終了したため、当初は1993年10月からを予定していた3両編成化の日程は繰り上がり、同年7月14日から3両編成での運行が開始された。 しかし、箱根湯本駅まで乗り入れてくる小田急の電車は20 m級の車両が最大6両編成であるのに対して、登山電車の1列車の輸送力は全長15 m級の3両編成が最大で、輸送力が小さかった。このため、1995年以降、ゴールデンウィークなど特に多客が予想される日には日中の登山電車を全て箱根湯本駅と強羅駅の間でのみ運行し、小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両で6両編成の各駅停車を運行する措置もとられていた。また、各駅での乗車位置も小田急の車両と登山電車では異なる上、途中の風祭駅ではホーム長が短いために、小田急の車両ではドアコックを使用して手動で扉を開ける(ホームにかからない車両の扉は開けない、いわゆるドアカット)という状態であった。 さらにバリアフリー対応にも問題が生じた。小田急の車両と登山電車では車体規格が異なる上、三線軌条ではそれぞれの車両の中心もずれるため、交通バリアフリー法に抵触する可能性も出てきた。 こうした事情から、まず2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を倍増させ、代わりに小田原駅と箱根湯本駅の間を運行する登山電車は朝夕のみとなった。さらに、2006年3月18日のダイヤ改正では、小田原駅と箱根湯本駅の間の列車は全て小田急の車両に置き換えられることになった。これ以後、小田原駅と入生田駅の間の三線軌条は順次撤去されたが、入生田駅には登山電車の車庫があるため、入生田駅と箱根湯本駅の間のみ三線軌条が残された。2008年3月15日のダイヤ改正からは、風祭駅の改良工事完了によりドアカットが解消されたほか、小田急の車両は特急ロマンスカー以外は4両編成での運行となった。 なお、2011年3月11日に発生し、大きな津波被害をもたらした東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)以来、小田原市内では海抜表示が随所に表示されるようになったが、箱根登山鉄道が公表していた数値と異なることが問題となり、2013年11月に修正されることになった(後述)。 2019年10月13日、令和元年東日本台風(台風19号)により大平台駅 - 小涌谷駅間を中心に土砂流入や橋脚流失など甚大な被害を受け、箱根湯本駅 - 強羅駅間が長期不通となった。箱根登山鉄道は同年11月22日に同区間の運転再開を2020年秋頃の見通しと発表したが、その後2020年7月下旬へ前倒しされ、同年7月23日より運転を再開すると発表。そして同日、約9か月ぶりに全線で運転を再開した。 箱根湯本駅 - 強羅駅間は、車輪とレールの間の粘着力だけで走る鉄道としては日本で最も急な勾配(80 ‰)を登る。この区間に3か所(出山信号場・大平台駅・上大平台信号場)あるスイッチバックも山岳鉄道的な特徴である。このほか、カーブの最小半径も30 mと小さい。 全線が単線で、軌条(レール)は小田原駅 - 箱根湯本駅間が50kgレールであるが、箱根湯本駅 - 強羅駅間では長さ10 mの37kgレールを使用している。37kgレールを使用している理由は、途中のトンネル内で50kgレールを使用すると高さ方向の限界を支障すること、通過トン数にも十分対応しているといった理由が挙げられている。 小田原駅 - 箱根湯本駅間の最高速度は60 km/h、箱根湯本駅 - 強羅駅間での最高速度は40 km/hである。また、下り勾配においては、30 ‰以下では55 km/h、40 ‰以下では50 km/h、50 ‰以下では40 km/h、60 ‰以下では35 km/h、70 ‰以下では30 km/h、80 ‰以下では25 km/hまでに速度が制限されている。半径30 mの曲線における速度制限は15 km/hである。 運行開始当時は、箱根湯本駅 - 強羅駅間には片道27本の列車が設定されており、軌道線の市内電車との接続が図られていた。 戦後の1950年に小田急の電車が直通運転を開始した際には、小田急の乗り入れ電車は特急が3往復と急行が7往復であった。その後増発され、1959年の時点では日中は特急が最大11往復、日中の急行は30分間隔での運転で、これに登山電車が接続していた。 その後、1982年時点においては、小田原駅 - 箱根湯本駅間では小田原駅 - 強羅駅間を直通する登山電車が1時間あたり2本、これに小田急小田原線から乗り入れてくる特急ロマンスカーと急行がそれぞれ1時間あたり2本ずつとなっており、箱根湯本駅 - 強羅駅間ではこの区間を往復する列車が1時間あたり2本設定されており、小田原駅発着の直通電車とあわせて1時間あたり4本という運行形態であった。 しかし、登山電車は小型の車両で輸送力にやや難があったため、1990年3月ダイヤ改正では小田急の車両で運行する小田原駅発の箱根湯本駅行きが設定された。さらに、2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を運行本数は1時間あたり2本から4本に倍増、箱根登山鉄道の車両は日中は小田原駅 - 箱根湯本駅間を走らなくなった。さらに、2006年3月18日改正では、小田原駅 - 箱根湯本駅間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた。これによって小田原駅 - 入生田駅間は自社の車両が全く走らない区間となった。 2012年3月17日のダイヤ改正からは、小田原駅 - 箱根湯本駅間の折り返し運転の各駅停車が1時間あたり4本、小田急小田原線新宿・東京メトロ千代田線北千住方面から特急ロマンスカーが1時間あたり2本という運行体制が基本となった。箱根湯本駅 - 強羅駅間は、日中1時間あたり4本で運行される。この他に夜間に本厚木駅着が各停として設定されている。以前は朝夕に新松田駅発着や平日のみ本厚木駅発も設定されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止となった。なお、同改正での本厚木駅着は平日のみだったが、2019年3月16日以降は土休日も設定されるようになった。 登山電車はワンマン運転を行っておらず、全列車に車掌が乗務する。 小涌谷駅に隣接する小涌谷踏切は東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースとなっていて、出場選手や大会関係車両が通過する。これに対応して、開催日の1月2日(往路)昼頃と1月3日(復路)午前8時台は踏切に係員を待機させ、選手や大会関係車両の通過時には電車を踏切手前で停止させる。これは選手が踏切で足止めされ、遮断機をくぐって電車の前に飛び出すという出来事があってから始められた措置である。 鉄道線の開業当初より、線内の乗車券は片道でも2日間有効で途中下車可能であったが、2002年4月1日よりこの取り扱いは廃止され、片道乗車券は他の多くの路線同様通用発売当日限り・下車前途無効に変更された。 2007年3月18日からは、鉄道線全線でICカード「PASMO」を導入し、2013年3月23日からは交通系ICカード全国相互利用サービスも開始した。小田原駅・箱根湯本駅では自動改札機、それ以外の駅では簡易改札機により対応している。なお、2003年3月19日から2008年3月13日までは小田原 - 箱根湯本間でパスネットが利用可能だった。 特急ロマンスカーについては、小田急との通し利用のほか、当日座席に余裕のある場合に限り小田原駅・箱根湯本駅のホームにおいて発売する特急券(大人200円・小人100円)を購入することで、小田原 - 箱根湯本間のみの利用も可能である(座席は指定されない)。2005年9月30日までは箱根登山鉄道の料金が設定されていなかったため、小田原 - 箱根湯本間のみの利用はできなかった。小田急との通し利用については両社の料金を合算する(2018年3月16日までは小田急が箱根登山鉄道の座席料金に相当する額を割り引いていた)。 1994年から運行する「夜のあじさい号」は全車指定席であり、専用の座席券が必要となる。 鉄道線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。きっぷ・ICカード運賃同額。2022年10月1日改定。 小田原駅から箱根湯本駅までの区間における最急勾配は40 ‰、急曲線の半径も160 m程度と、箱根登山鉄道としては緩やかである。箱根登山鉄道ではこの区間を「平坦線」と称しており、空を見上げるような急勾配で初めて山を登る気分になっていたというが、それでも一般の鉄道と比較すると厳しい条件である。箱根湯本駅までの区間の沿線には集落が連なる。 箱根湯本駅から強羅駅まで8.9 kmの区間のうち、半分近い4.2 kmが80 ‰の勾配となる区間である。箱根湯本駅と強羅駅の標高差は445 mで、この区間の平均勾配は50 ‰と計算される。この区間では大半の区間で樹木に囲まれており、夏季には並走する国道1号からでさえも電車の姿は見えなくなる。 標高14 mの小田原駅を発車した列車は、しばらくJR東海道本線と並行して南に下る。平坦線では唯一のトンネルである小峰隧道を抜けると、半径160 mのカーブで右にカーブ、同時に20 ‰の坂を下って東海道新幹線をくぐり、標高16 mの箱根板橋駅に到着する。ここからは早川沿いを国道1号と併走して箱根湯本駅に向かうが、箱根板橋駅を発車するとすぐに40 ‰の上り勾配となる。国道1号を跨ぎ、しばらく国道1号と併走した後に33.3 ‰の下り勾配となるが、強羅へ向かう方向ではこれが最後の下り勾配である。この下り勾配を下りきって小田原厚木道路の高架橋をくぐると標高36 mの風祭駅である。風祭駅を過ぎると最大28.5 ‰の上り勾配が続き、勾配が緩くなると標高54 mの入生田駅で、登山電車の車庫が併設されている。 入生田駅を発車するとほどなくすると箱根町に入るが、38.4 ‰から40 ‰程度の勾配が約1 kmも続く。この間に、進行方向右側の斜面に送水管が見えるが、この送水管は登山鉄道開業のために建設された三枚橋発電所への水路で、発電所自体はその後東京電力(現:東京電力リニューアブルパワー)に移管されている。勾配が緩くなり、国道1号から箱根旧街道が分かれるのを見つつ、標高96 mの箱根湯本駅に到着する。 箱根湯本駅を発車すると、急勾配を登る前の助走区間のようなものは存在せず、100 m弱走っただけで直ちに80 ‰の急勾配にかかる。車内でも吊革が斜めになっていることが分かる。3番目のトンネルを抜けると標高153 mの塔ノ沢駅に到着する。上りホームの片隅には銭洗弁天がある。 塔ノ沢駅を発車すると箱根登山鉄道では最長のトンネル (317.9 m) である大ヶ嶽隧道に入るが、トンネルの中でも80 ‰の勾配が続く。トンネルの出口はかなり上の方にあり、井戸の底から空を見上げるようにも見え、この電車が登れるのかと驚く人もいる。次の杉山隧道を抜けると早川橋梁で深さ43 mの谷を渡る。国道1号を越え、出山隧道に入るとトンネルの中でも80 ‰の勾配で、その後の松山隧道左へのカーブが続き、ほぼ180度向きが変わると右手から線路が下ってきて、標高222 mの出山信号場である。ここで左下を見ると、先ほど渡った早川橋梁が眼下に見える。早川橋梁と出山信号場は直線距離で500 mも離れていない。スイッチバックのため、ここで進行方向が変わり、先ほど右手から下ってきた線路を登ることになるが、出山信号場を発車すると80 ‰の勾配は1.3 kmほども続く。勾配が71 ‰程度に緩くなり、左から線路が下ってくると標高337 mの大平台駅に到着である。出山信号場から大平台駅までの1.6 kmで、一気に115 mも高度を上げたことになる。 大平台はスイッチバック駅のため、また進行方向が変わる。66.67 ‰の勾配を500 mほど進むと標高346 mの上大平台信号場。ここもスイッチバックで、さらに進行方向が変わり、上り80 ‰勾配の線路を登る。強羅行きの電車にとっては最後のトンネルとなる大平台隧道を抜けると、標高398 mの仙人台信号場である。仙人台からは再び国道1号と並行するが、この辺りでは随所に半径30 mから40 m程度の急カーブが連続する。3両編成の列車(全長44 m)の場合、先頭車と後尾車では最大で60度近い角度の差がつく。50 ‰から55 ‰程度の勾配で徐々に高度を上げ、標高436 mの宮ノ下駅に到着する。ホームの向こうには明星ヶ岳が一望できる。 宮ノ下駅を発車すると、眼下に温泉街を見下ろしつつ、80 ‰の上り勾配で高度を上げてゆく。ここから先の区間では本来はトンネルで抜けるところを、温泉脈に悪影響を与えないように地形に逆らわないルート設定となった。やがて、勾配が55 ‰程度に緩くなり、半径40 mの右カーブと左カーブが連続した後に国道1号の踏切がある。箱根駅伝では選手の通過時にこの踏切の手前で電車を停車させる。踏切を過ぎるとまもなく標高523 mの小涌谷駅である。 小涌谷駅を発車すると、山肌に沿って半径30 mの左カーブと右カーブが連続する。これも地形に逆らわないルート設定の結果である。ここから先は勾配も33 ‰程度に緩くなり、カーブも最急でも半径60 m程度に緩くなる。彫刻の森美術館の敷地の脇を通りぬけ、標高539 mの彫刻の森駅に到着である。ここから先はほとんど平坦な線形で、地獄澤橋梁を渡るとほどなく標高541 mの強羅駅に到着する。スイッチバックが3回あったため、箱根湯本駅を出発した時とは進行方向が逆になった状態での到着である。 沿線の線路沿いには1万株以上の紫陽花(あじさい)が植えられている。これは、元来は土止めの目的で植えられたもので、開業当時には存在しなかったものである。しかし、沿線には車窓の開ける場所があまりないことから、季節ごとに車窓から花を楽しめるようにするため、箱根登山鉄道社員の手で植えられたものである。 紫陽花の花が見頃となる6月中旬から7月中旬にかけては、登山電車は「あじさい電車」とも呼ばれるようになり、1975年頃からは社内で「沿線美化委員会」が構成され、紫陽花が見頃になる前の時期に下刈りをするなどの勤労奉仕が行われている。1981年11月には「全国花いっぱい『花と緑の駅』コンクール」において環境庁長官賞を受賞した。 1990年代からは夜間に紫陽花のライトアップも行われており、定期列車よりもゆっくりあじさいを鑑賞するための専用列車として、座席指定制の「夜のあじさい電車」も運行されるようになった。また、ライトアップ期間中には定期列車でも紫陽花の見どころで臨時停車が行われることがあるが、臨時停車する地点は80 ‰勾配の途中にも設定されている。 箱根湯本駅 - 強羅駅の区間は、最大80 ‰の急勾配と地形に沿った非常に急なカーブを持つ路線を走るため、電車は以下のように特殊な仕様となっている。 保安ブレーキとして設けられているもので、空気圧により作動し台車からカーボランダムのブレーキシューをレールに押付け圧着させるブレーキである。通常の鉄道車両では車輪とレールは点または線による接触であるが、このブレーキを使用した場合はわずかに車両が持ち上げられ、カーボランダムシューとレールの面接触によってブレーキが作動する仕組みである。このブレーキは他の常用ブレーキ(空気ブレーキ・電気ブレーキ・手ブレーキ)とは別系統となっており、300 ‰の坂でも停止できる性能を備えている。 レールに使用される鋼とカーボランダムの静止摩擦係数(数字が大きいほど摩擦が大きい)は、乾燥した状態で0.30、撒水した状態では0.42である。これは鋼同士、つまり車輪とレールの静止摩擦係数が乾燥時で0.15、撒水時で0.123であるのと比べると2倍から3倍もの差がついており、大きな摩擦力が働くことが分かる。 開業時の1919年に導入されたチキ1形では電磁吸着ブレーキを装備していたが、その後1927年に増備されたチキ2形からはカーボランダムを使用したブレーキを採用した。その後、電磁吸着ブレーキは一度滑走が始まると効果がなくなるため、全車両がレール圧着ブレーキに統一された。一時期はカーボランダムの代わりにアランダム(アルミナ)が使用されたことがある。 常用ブレーキの制輪子(ブレーキシュー)については、鉄道線の車両では鋳鉄制輪子が使用されている。これは、合成制輪子よりも鋳鉄制輪子の方が車輪の踏面が荒れるため、高い粘着力を確保できるという理由である。 鉄道車両においては、レールが車輪を誘導することによって曲線を通過させる仕組みとなっているが、この結果としてカーブ外側のレールに強い力がかかることになる。レールと車輪では車輪の方が硬く、レールの磨耗が発生するため、これを防ぐ必要があり、通常の鉄道ではレールの頭部側面に塗油したり、台車側に塗油器を設けることによってレールの磨耗を抑える。 しかし、急勾配線区においては塗油することによってレールと車輪の摩擦係数が低下して上り勾配での空転や下り勾配での滑走が発生し、極めて危険な状態となる。そこで、カーブではレールと車輪の間に撒水することによって磨耗を防ぐこととした。このため、各車両とも車両の両端部に容量360Lの水タンクを設け、運転士の操作によって水を車輪の踏面に撒水する装置を装備している。片道1回の運行でおよそ50Lから80Lの水を消費する。 開業当時のチキ1形には撒水装置がなかったため、レール交換が多く繰り返されたという。このため、チキ1形では屋根上に水タンクを設けたが、1927年に増備されたチキ2形以降の車両では連結器の下に水タンクを設置した。 なお、開業当初は粘着力を増す目的で全車両の台車に撒砂装置を設けていたが、撒水したところに砂を撒くことによってレールの磨耗が激しくなったため、撒砂装置は後年、全て撤去されている。 開業当時に製造されたチキ1形ではリンク式連結器を装備しており、1927年に登場したチキ2形では自動連結器を装備していた。しかし、登山電車の急勾配や急カーブには対応しておらず、1935年に登山電車用の連結器が開発されるまでは、連結して運用されることはなかった。 この登山電車用の連結器では、急勾配や急カーブで連結器が外れる事を防止するため、上下左右に大きく振れる構造となっている。ただし、「サン・モリッツ号」の編成中間部では半永久連結器が使用されている。また、連結器の突き出し部分は長くとられており、連結面間距離においても通常の20 mの通勤電車で500 mm程度なのに対して、「ベルニナ号」では860 mmも空いている。 なお、車両間の貫通路は非常用であり、貫通幌も設置されておらず、通常は施錠されている。 電車の走行・ブレーキに使用する抵抗器は下り坂での発電ブレーキで使用の際に大量の熱が発生するため、冷却しやすいように屋根上に搭載している。開業当時のチキ1形では床下に抵抗器を設けていたが、1927年に導入されたチキ2形では屋根上にニクロム合金製の抵抗器を設けた。その後、旅客車両では全て屋根上に抵抗器を搭載している。 1950年以降に小田急の電車が乗り入れた当初は、小田急から乗り入れてくる車両は1600形・1900形などの30両に限定されていた。これは小田急の線路条件を上回る勾配に対応するため、ブレーキ装置に改良を施した車両に限定したためである。その後1400形や2200形・2400形なども乗り入れるようになった。 その後、1982年頃までは小田急の乗り入れ車両は、通勤車両は2400形に限定されるようになった。これは乗り入れ区間の3駅のホームの長さが短かったためであったが、1982年7月からは5200形・9000形などの大型車両も6両編成で乗り入れるようになった。ただし、しばらくの間は特急車両以外の乗り入れ車両は側面窓が一段下降窓の車両に限定された。 2000年頃には側面窓が二段上昇窓となっている小田急の電車も下段の窓から手が出せないように対策を行い、通勤車両は4000形(初代)を除いた6両編成までなら全ての形式が乗り入れ可能となった。 2008年3月15日のダイヤ改正からは、小田急の車両は特急車両を除き、4両編成の車両のみが乗り入れている。 2009年3月14日のダイヤ改正より、1000形のうち4両固定編成×3編成が登山電車と同じ赤色のカラーリングに変更され、2012年2月頃にはさらに4両固定編成×1編成が赤色に変更。同年3月17日のダイヤ改正以降、小田原 - 箱根湯本間の各駅停車はこの4編成に限定して運用されていたが、2021年7月より通常の小田急カラーの1000形更新車の運用が開始され、登山電車カラーの車両は2022年9月をもって運用を離脱した。 なお、特急車両については、1910形(2000形)以降の全ての特急車両が乗り入れている。 1985年時点で、箱根登山鉄道が公表している標高と、国土地理院の地図に記載されている標高は異なっていた。これは、箱根登山鉄道の建設時の測量の際の水準点が異なるためであった。しかし、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の後に小田原市内各所で海抜表示が行われた際に、駅前の標高表示と駅名標で数値が異なるとの指摘を受けて標高を再調査したところ、2013年7月に全ての駅で数値が異なっていたことが判明したため、同年11月に各駅の表示を修正することになった。下表の標高は修正後の数値である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "鉄道線(てつどうせん)は、神奈川県小田原市の小田原駅から同県足柄下郡箱根町の強羅駅までを結ぶ箱根登山鉄道の鉄道路線である。旅客案内上で正式名称が使われることはほとんどなく、主に「箱根登山線」や「箱根登山電車」の名が使われる。また、メディアにより当路線を指して会社名(箱根登山鉄道)で呼ばれることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は直通運転している小田急小田原線の新宿駅から、当路線、箱根登山ケーブルカー、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色()、当路線・箱根登山ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本国外を外遊した名士からの提案を契機として1919年に開業した鉄道路線である。当初は箱根湯本駅と強羅駅の間を結ぶ路線で、箱根湯本駅までは軌道線(小田原市内線)が接続していたが、1935年に小田原駅発着となった。箱根登山鉄道は小田急グループの一社で、1950年以降は箱根湯本駅まで小田急電鉄の列車が乗り入れている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "建設にあたってスイスのベルニナ鉄道(その後のレーティッシュ鉄道ベルニナ線)を参考にしており、その縁で1979年に、箱根登山鉄道とレーティッシュ鉄道は、スイス政府観光局の協力を得て姉妹鉄道提携を結んでいる。このことから、「日本唯一の(本格的な)登山電車」とも紹介されることがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2007年に「日本で最もきつい勾配であり、世界的にも珍しい粘着式鉄道」として、土木学会選奨土木遺産に選ばれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本路線は、以下のような数々の特徴を有する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "箱根湯本駅と小涌谷駅の間には、80 ‰(パーミル)という日本の粘着式鉄道では最急となる勾配が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "80 ‰の勾配とは、1,000 m進む間に高低差が80 mにもなるというもので、これは軌条(レール)を固定せずに枕木の上に置いただけでは、自然に下に滑り落ちてしまうほどの勾配であり、角度にすると約4.57度である。1両の全長が14.66 mの車両で、80 ‰勾配においては前後で1.17 mほどの高低差がつく。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "建設当時において日本における最急勾配だったのは信越本線の碓氷峠66.7 ‰で、建設時に参考としたベルニナ鉄道の最急勾配は70 ‰、粘着性能の高いゴムタイヤを用いた新交通システム(AGT)でも最急勾配は70 ‰程度で、本路線の80 ‰という勾配はそれらを上回るが、ラック式鉄道(アプト式)を採用している大井川鐵道井川線のアプトいちしろ - 長島ダム間ではさらにそれらを超える90 ‰の急勾配区間がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "仙人台信号場と宮ノ下駅の間、小涌谷駅と彫刻の森駅の間には、半径30 mという急な曲線が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これは歴史節で後述するように、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられており、しかも温泉脈に悪影響を与えるという理由でトンネル掘削ができなくなった区間もあり、山肌に沿った急曲線で軌道を敷設するしか方法がなかったためである。半径30 mの曲線上では、3両編成の登山電車の先頭と最後部の車両の向きは60度ほどの角度がつく。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本の普通鉄道において、本線上で半径30 mもの急曲線が設定されている事例は少ない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "入生田駅と箱根湯本駅の間には、国際標準軌の1,435 mm・狭軌の1,067 mmという異なる軌間において、片側のレールを共用する三線軌条が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "これは後述するように、狭軌を採用している小田急の電車が、標準軌の本路線に乗り入れるために考えられた方法で、乗り入れ当初は小田原駅から箱根湯本駅までの区間に三線軌条が採用された。これは片側のレールを共用し、もう片側には2本のレールを並べて敷設するもので、分岐器も複雑な構造となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "狭軌と標準軌の双方の列車密度や分岐器の数などを考慮すると、世界的に見ても本路線を上回るものはなく、東日本旅客鉄道(JR東日本)では山形新幹線運行のために奥羽本線の一部区間で三線軌条を導入するのに先立って本路線の設備を視察し、分岐器の構造などについて学んでいる。しかし、輸送力の違いやバリアフリー化対応などの理由により、2006年以降、車庫のある入生田駅と箱根湯本駅以外の区間については三線軌条は解消された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "箱根に登山電車を走らせる計画は、1896年に設立された箱根遊覧鉄道が路線免許を出願するなどの動きがあったが、計画が具体化するのは、1900年に国府津と湯本を結ぶ電気鉄道の路線(箱根登山鉄道小田原市内線を参照)を開業した小田原電気鉄道に対して、同年5月23日付けで温泉村から「路線を当村まで延長して欲しい」という路線延長の要請を受けたときからである。小田原電気鉄道ではこの要望に前向きに対処し、同年9月までに「箱根遊覧鉄道の創立に要した費用を負担した上で、路線自体は小田原電気鉄道の延長線として敷設する」という方向性をまとめたが、同年9月の臨時株主総会では否決されてしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "登山電車の建設計画が再び具体化するのは1907年、スイスにおける登山鉄道の実況を視察した者から、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけとなる。また、益田孝や井上馨などの実業家もこの事業を小田原電気鉄道に勧告したことを受け、1910年1月の臨時株主総会において、湯本駅(当時)から強羅駅へ路線を延長することが決定した。同年4月には路線延長を出願し、さらに翌月には強羅駅から仙石原を経て東海道本線(当時)の佐野駅(当時)への延伸計画を追加し、1911年3月1日に登山鉄道建設の免許が交付されたが、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "当初の免許では、須雲川の右岸を遡り、須雲川集落から北上して大平台駅へ抜け、宮ノ下駅からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13 kmになるルートであったが、この時期に軌道線が早川の洪水によって軌道が流失してしまい、ルート変更を余儀なくされたため、登山鉄道のルートも再検討することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "そこで、1911年5月には塔ノ沢駅までは早川の左岸を進み、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された。このルート案では、電気機関車が客車2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125 ‰(パーミル)のアプト式鉄道とする計画で、湯本から強羅までの距離は7.1 kmほどとなるルート設定であったが、当時既に最急勾配が66.7 ‰のアプト式鉄道として開通していた信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠)よりも急な勾配であることから、社内で不安の声が上がった。また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあったため、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢をヨーロッパに派遣した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "半田は半年ほどの視察の後に帰国したが、スイスのベルニナ鉄道においては70 ‰の急勾配が20 kmほど連続しており、これから敷設しようとしている登山鉄道と似た点が多く、大いに参考になったという。しかし、粘着式鉄道では125 ‰もの急勾配は登れないことが分かったため、スイッチバックを途中3箇所に設けた、最急勾配80 ‰の粘着式鉄道として建設することになった。建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていたが、すぐに中断となり、1913年3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した。この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "こうして、ようやく建設は開始された。ところが、1914年に第一次世界大戦が勃発した影響で、計画していた資材の輸入が途絶、建設工事にも影響を及ぼした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "早川橋梁の建設に当たっては東海道本線の天竜川橋梁のトラス鋼体の払い下げを受けることになったが、景観破壊の恐れがあると神奈川県知事からクレームが入り、改築を条件にしてようやく認められた。この早川橋梁の架設工事が終了したのは1917年5月31日で、1915年に架橋工事が開始されてから2年近くかかっており、もっとも難航を極めた工事とされている。車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが実現せず、アメリカ製の車両を購入することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "さらに、1916年に行われた地質調査では、宮ノ下駅から二ノ平駅までの区間にトンネルを掘削することによって、蛇骨川の温泉脈に悪影響を与えることが判明した。山を切り崩すこともできず、トンネル掘削もできない状況では、山肌に沿って軌道を敷設するしか方法はなく、仕方なく遠回りのルートに変更された。当初計画になかった小涌谷駅は、この時に開設が決まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このようなことから、工事は大幅に遅れ、建設費は計画当初と比較すると大幅に上回ることになり、資金調達のために3度にわたり社債の発行や増資などを行う必要に迫られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "着工から7年以上が経過した1919年5月24日にようやく全ての工事が完了。同年6月1日、箱根湯本駅から強羅駅までを結ぶ登山電車の運行が開始された。しかし、当初の登山電車は山を登るときにだけ利用され、下りは歩いて湯本まで出る利用者も多かった。同日に開業した乗合自動車より運賃は安かったものの、当時の往復運賃は職人の1日分の日当と同じ金額であったのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1923年9月1日に発生した大正関東地震(関東大震災)で、鉄道線は甚大な被害を蒙った。箱根湯本駅では裏山が崩れて構内が埋没するなど、軌道は大部分が崩壊または埋没し、建造物も半数近くが半壊、ほとんどのトンネルも入口部分が崩壊した。橋梁は1箇所を除いて全て破壊されてしまったが、最も心配されていた早川橋梁だけは橋台の軽微な損傷とわずかにずれた程度で、被害を免れた。7両あった登山電車も全て脱線転覆や埋没してしまったが、焼失した車両はなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "早期復旧は不可能であったため、同年中に復旧の準備を整え、翌1924年1月から復旧工事が開始された。復旧工事も難工事で、運行が再開されたのは、箱根湯本駅 - 出山仮停留場間が同年9月10日、出山仮停留場 - 大平台駅間、小涌谷駅 - 強羅駅間が11月24日、宮ノ下駅 - 小涌谷駅間が12月24日、そして大平台駅 - 宮ノ下駅間が12月28日であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "震災の被害から復帰した後の1926年1月16日には、小涌谷を発車した登山電車が宮ノ下付近でカーブで脱線して民家に転落するという事故が発生した。運転士は生存していたものの、精神に異常をきたしたため事故原因は明らかにならなかったが、速度制御に失敗したものとみられている。この事故の後しばらくした1928年1月に、小田原電気鉄道はいったん日本電力に合併した後、同年8月に再度箱根登山鉄道として分社化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された。この計画では小田原から風祭までは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1927年4月1日に新宿駅を起点とする小田原急行鉄道(小田急)が小田原駅まで開通したことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請、1930年には小田急との連絡について協定を結んだ。1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手、1935年9月21日にすべての工事が完了した。小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている。これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった。しかし、鉄道線の線路は最小曲線半径が30 mという厳しい線形であり、勾配も日本最急となる80 ‰で、安全な連結器を開発する必要があった。そこで、鉄道省に連結器についての指導を仰いだ結果、芝浦製作所の設計による連結器の試作が実現した。数か月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため、チキ2形の連結器を全て交換した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された。これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "戦時体制に入ってからは、1942年5月30日付で五島慶太が社長に就任するなどの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった。第二次世界大戦終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両が進駐軍専用車両となった。1948年9月15日にはアイオン台風が上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり、復旧は翌1949年7月6日までずれ込んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これより少し遡る1946年に東京急行電鉄(大東急)が策定した『鉄軌道復興3カ年計画』の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた。1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップ特急の運行を開始していたが、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え、この乗り入れ計画を推進することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "鉄道線の軌間は国際的な標準である1,435 mmであったが、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067 mmであった。どちらかに統一しようにも、80 ‰の急勾配を上る能力のある電動機は当時の技術では1,067 mmの規格では収まらなかったため、鉄道線の軌間を1,067 mmに改軌することは不可能であった。また、小田急を1,435 mmに改軌するのは、車両数が多いうえ距離も相当なものとなってしまうため、膨大な費用が必要で、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった上、国鉄との貨物輸送において貨車の直通が不可能となり、貨物収入が激減してしまうことになる。そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設する三線軌条を採用することとなった。なお、共用するレールについては山側(小田原駅を発車すると進行方向右側)とされたが、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、国道1号が並走)への転落を防ぐためである。通常の分岐器は可動箇所が2箇所であるが、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり、当初は手動で梃子によって切り替えを行っていたが、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという。その後、分岐器の切り替えは電動化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "三線軌条の導入によって、問題になったのは車両の連結器であった。登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急では自動連結器を使用していた。通常ならアダプターの役割を果たす中間連結器を介して非常時の連結に備えることになるが、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない。このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった。車体中心のずれは駅のプラットホームと車両の間にも影響し、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800 mmであるのに対し、登山電車の車体幅は2,520 mmと狭いことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30 cm以上の隙間ができてしまうことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、鉄道線の架線電圧は当時直流600 Vであったが、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500 Vであったため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500 Vに昇圧し、箱根湯本駅構内には架線死区間(デッドセクション)が設置され、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった。ただし、これによって直流600 Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり、箱根湯本駅から送電線による給電をせざるをえなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "その上、軌道条件も異なっていた。小田原駅と箱根湯本駅の間は最急勾配は40 ‰で、箱根湯本駅から先の80 ‰と比べれば緩い勾配であったため、箱根登山ではこの区間を「平坦線」と称していた。しかし、当時の小田急における最急勾配は25 ‰で、40 ‰という勾配はそれをはるかに超えており、小田急の車両にとっては平坦どころではない。そのような勾配が1 km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった。このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "このほか、風祭駅に列車交換設備を新設したほか、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた。これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。東京芝浦電気と汽車会社の労働争議によって車両関係の改造が遅れるという障害もあったが、1950年8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された。乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝してアーチが飾られ、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた。この乗り入れ開始によって、小田急を利用して箱根を訪れる利用者は倍増、鉄道線の利用者数も前年と比較して27 %の増加をみるなど、利用者数は著しく増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1964年にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設、1972年には列車集中制御装置 (CTC) が導入された。1972年3月15日には箱根彫刻の森美術館最寄の二ノ平駅が彫刻の森駅に改称された。1980年からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され、1982年7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20 mの車両による6両編成に増強された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "鉄道線を利用する観光客は増加し、1991年には年間輸送人員が1千万人を超えた。この当時、箱根を訪れる観光客のうち52 %は何らかの形で箱根登山鉄道を利用していた。当時の登山電車は2両編成で15分間隔が最大の輸送力であり、ゴールデンウィークや箱根大名行列が開催される11月などは登山電車に乗るのに2時間待ちという状況となっていた。しかし、特有の線路条件から増発はできないため、列車を最大3両編成にすることが決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "鉄道線の箱根湯本駅から強羅駅までの各駅は開業以来2両編成に対応した設備となっており、全駅においてホーム延伸対応工事が実施された。最も難工事だったのは塔ノ沢駅の工事で、駅の両側がトンネルに囲まれ、開業当時から強羅側の分岐器がトンネル内に設置されている状況で、しかも駅へ通じる道は細い人道があるだけで、工事にあたって大型機械を導入することはできなかった。このため、小田原側のトンネル拡幅はほぼ全てを手掘りで施工することになり、文字通り人海戦術での工事を余儀なくされた。塔ノ沢駅の工事だけで、総工費20億円のうちの半分近くが費やされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "これ以外にも、変電所の増強や、架線電圧を600 Vから750 Vへ昇圧、一部車両の2両固定編成化などが行われた。塔ノ沢駅の工事が予定より早く終了したため、当初は1993年10月からを予定していた3両編成化の日程は繰り上がり、同年7月14日から3両編成での運行が開始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "しかし、箱根湯本駅まで乗り入れてくる小田急の電車は20 m級の車両が最大6両編成であるのに対して、登山電車の1列車の輸送力は全長15 m級の3両編成が最大で、輸送力が小さかった。このため、1995年以降、ゴールデンウィークなど特に多客が予想される日には日中の登山電車を全て箱根湯本駅と強羅駅の間でのみ運行し、小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両で6両編成の各駅停車を運行する措置もとられていた。また、各駅での乗車位置も小田急の車両と登山電車では異なる上、途中の風祭駅ではホーム長が短いために、小田急の車両ではドアコックを使用して手動で扉を開ける(ホームにかからない車両の扉は開けない、いわゆるドアカット)という状態であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "さらにバリアフリー対応にも問題が生じた。小田急の車両と登山電車では車体規格が異なる上、三線軌条ではそれぞれの車両の中心もずれるため、交通バリアフリー法に抵触する可能性も出てきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "こうした事情から、まず2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を倍増させ、代わりに小田原駅と箱根湯本駅の間を運行する登山電車は朝夕のみとなった。さらに、2006年3月18日のダイヤ改正では、小田原駅と箱根湯本駅の間の列車は全て小田急の車両に置き換えられることになった。これ以後、小田原駅と入生田駅の間の三線軌条は順次撤去されたが、入生田駅には登山電車の車庫があるため、入生田駅と箱根湯本駅の間のみ三線軌条が残された。2008年3月15日のダイヤ改正からは、風祭駅の改良工事完了によりドアカットが解消されたほか、小田急の車両は特急ロマンスカー以外は4両編成での運行となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なお、2011年3月11日に発生し、大きな津波被害をもたらした東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)以来、小田原市内では海抜表示が随所に表示されるようになったが、箱根登山鉄道が公表していた数値と異なることが問題となり、2013年11月に修正されることになった(後述)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2019年10月13日、令和元年東日本台風(台風19号)により大平台駅 - 小涌谷駅間を中心に土砂流入や橋脚流失など甚大な被害を受け、箱根湯本駅 - 強羅駅間が長期不通となった。箱根登山鉄道は同年11月22日に同区間の運転再開を2020年秋頃の見通しと発表したが、その後2020年7月下旬へ前倒しされ、同年7月23日より運転を再開すると発表。そして同日、約9か月ぶりに全線で運転を再開した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "箱根湯本駅 - 強羅駅間は、車輪とレールの間の粘着力だけで走る鉄道としては日本で最も急な勾配(80 ‰)を登る。この区間に3か所(出山信号場・大平台駅・上大平台信号場)あるスイッチバックも山岳鉄道的な特徴である。このほか、カーブの最小半径も30 mと小さい。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "全線が単線で、軌条(レール)は小田原駅 - 箱根湯本駅間が50kgレールであるが、箱根湯本駅 - 強羅駅間では長さ10 mの37kgレールを使用している。37kgレールを使用している理由は、途中のトンネル内で50kgレールを使用すると高さ方向の限界を支障すること、通過トン数にも十分対応しているといった理由が挙げられている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "小田原駅 - 箱根湯本駅間の最高速度は60 km/h、箱根湯本駅 - 強羅駅間での最高速度は40 km/hである。また、下り勾配においては、30 ‰以下では55 km/h、40 ‰以下では50 km/h、50 ‰以下では40 km/h、60 ‰以下では35 km/h、70 ‰以下では30 km/h、80 ‰以下では25 km/hまでに速度が制限されている。半径30 mの曲線における速度制限は15 km/hである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "運行開始当時は、箱根湯本駅 - 強羅駅間には片道27本の列車が設定されており、軌道線の市内電車との接続が図られていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "戦後の1950年に小田急の電車が直通運転を開始した際には、小田急の乗り入れ電車は特急が3往復と急行が7往復であった。その後増発され、1959年の時点では日中は特急が最大11往復、日中の急行は30分間隔での運転で、これに登山電車が接続していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "その後、1982年時点においては、小田原駅 - 箱根湯本駅間では小田原駅 - 強羅駅間を直通する登山電車が1時間あたり2本、これに小田急小田原線から乗り入れてくる特急ロマンスカーと急行がそれぞれ1時間あたり2本ずつとなっており、箱根湯本駅 - 強羅駅間ではこの区間を往復する列車が1時間あたり2本設定されており、小田原駅発着の直通電車とあわせて1時間あたり4本という運行形態であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかし、登山電車は小型の車両で輸送力にやや難があったため、1990年3月ダイヤ改正では小田急の車両で運行する小田原駅発の箱根湯本駅行きが設定された。さらに、2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を運行本数は1時間あたり2本から4本に倍増、箱根登山鉄道の車両は日中は小田原駅 - 箱根湯本駅間を走らなくなった。さらに、2006年3月18日改正では、小田原駅 - 箱根湯本駅間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた。これによって小田原駅 - 入生田駅間は自社の車両が全く走らない区間となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2012年3月17日のダイヤ改正からは、小田原駅 - 箱根湯本駅間の折り返し運転の各駅停車が1時間あたり4本、小田急小田原線新宿・東京メトロ千代田線北千住方面から特急ロマンスカーが1時間あたり2本という運行体制が基本となった。箱根湯本駅 - 強羅駅間は、日中1時間あたり4本で運行される。この他に夜間に本厚木駅着が各停として設定されている。以前は朝夕に新松田駅発着や平日のみ本厚木駅発も設定されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止となった。なお、同改正での本厚木駅着は平日のみだったが、2019年3月16日以降は土休日も設定されるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "登山電車はワンマン運転を行っておらず、全列車に車掌が乗務する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "小涌谷駅に隣接する小涌谷踏切は東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)のコースとなっていて、出場選手や大会関係車両が通過する。これに対応して、開催日の1月2日(往路)昼頃と1月3日(復路)午前8時台は踏切に係員を待機させ、選手や大会関係車両の通過時には電車を踏切手前で停止させる。これは選手が踏切で足止めされ、遮断機をくぐって電車の前に飛び出すという出来事があってから始められた措置である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "鉄道線の開業当初より、線内の乗車券は片道でも2日間有効で途中下車可能であったが、2002年4月1日よりこの取り扱いは廃止され、片道乗車券は他の多くの路線同様通用発売当日限り・下車前途無効に変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2007年3月18日からは、鉄道線全線でICカード「PASMO」を導入し、2013年3月23日からは交通系ICカード全国相互利用サービスも開始した。小田原駅・箱根湯本駅では自動改札機、それ以外の駅では簡易改札機により対応している。なお、2003年3月19日から2008年3月13日までは小田原 - 箱根湯本間でパスネットが利用可能だった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "特急ロマンスカーについては、小田急との通し利用のほか、当日座席に余裕のある場合に限り小田原駅・箱根湯本駅のホームにおいて発売する特急券(大人200円・小人100円)を購入することで、小田原 - 箱根湯本間のみの利用も可能である(座席は指定されない)。2005年9月30日までは箱根登山鉄道の料金が設定されていなかったため、小田原 - 箱根湯本間のみの利用はできなかった。小田急との通し利用については両社の料金を合算する(2018年3月16日までは小田急が箱根登山鉄道の座席料金に相当する額を割り引いていた)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1994年から運行する「夜のあじさい号」は全車指定席であり、専用の座席券が必要となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "鉄道線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。きっぷ・ICカード運賃同額。2022年10月1日改定。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "小田原駅から箱根湯本駅までの区間における最急勾配は40 ‰、急曲線の半径も160 m程度と、箱根登山鉄道としては緩やかである。箱根登山鉄道ではこの区間を「平坦線」と称しており、空を見上げるような急勾配で初めて山を登る気分になっていたというが、それでも一般の鉄道と比較すると厳しい条件である。箱根湯本駅までの区間の沿線には集落が連なる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "箱根湯本駅から強羅駅まで8.9 kmの区間のうち、半分近い4.2 kmが80 ‰の勾配となる区間である。箱根湯本駅と強羅駅の標高差は445 mで、この区間の平均勾配は50 ‰と計算される。この区間では大半の区間で樹木に囲まれており、夏季には並走する国道1号からでさえも電車の姿は見えなくなる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "標高14 mの小田原駅を発車した列車は、しばらくJR東海道本線と並行して南に下る。平坦線では唯一のトンネルである小峰隧道を抜けると、半径160 mのカーブで右にカーブ、同時に20 ‰の坂を下って東海道新幹線をくぐり、標高16 mの箱根板橋駅に到着する。ここからは早川沿いを国道1号と併走して箱根湯本駅に向かうが、箱根板橋駅を発車するとすぐに40 ‰の上り勾配となる。国道1号を跨ぎ、しばらく国道1号と併走した後に33.3 ‰の下り勾配となるが、強羅へ向かう方向ではこれが最後の下り勾配である。この下り勾配を下りきって小田原厚木道路の高架橋をくぐると標高36 mの風祭駅である。風祭駅を過ぎると最大28.5 ‰の上り勾配が続き、勾配が緩くなると標高54 mの入生田駅で、登山電車の車庫が併設されている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "入生田駅を発車するとほどなくすると箱根町に入るが、38.4 ‰から40 ‰程度の勾配が約1 kmも続く。この間に、進行方向右側の斜面に送水管が見えるが、この送水管は登山鉄道開業のために建設された三枚橋発電所への水路で、発電所自体はその後東京電力(現:東京電力リニューアブルパワー)に移管されている。勾配が緩くなり、国道1号から箱根旧街道が分かれるのを見つつ、標高96 mの箱根湯本駅に到着する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "箱根湯本駅を発車すると、急勾配を登る前の助走区間のようなものは存在せず、100 m弱走っただけで直ちに80 ‰の急勾配にかかる。車内でも吊革が斜めになっていることが分かる。3番目のトンネルを抜けると標高153 mの塔ノ沢駅に到着する。上りホームの片隅には銭洗弁天がある。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "塔ノ沢駅を発車すると箱根登山鉄道では最長のトンネル (317.9 m) である大ヶ嶽隧道に入るが、トンネルの中でも80 ‰の勾配が続く。トンネルの出口はかなり上の方にあり、井戸の底から空を見上げるようにも見え、この電車が登れるのかと驚く人もいる。次の杉山隧道を抜けると早川橋梁で深さ43 mの谷を渡る。国道1号を越え、出山隧道に入るとトンネルの中でも80 ‰の勾配で、その後の松山隧道左へのカーブが続き、ほぼ180度向きが変わると右手から線路が下ってきて、標高222 mの出山信号場である。ここで左下を見ると、先ほど渡った早川橋梁が眼下に見える。早川橋梁と出山信号場は直線距離で500 mも離れていない。スイッチバックのため、ここで進行方向が変わり、先ほど右手から下ってきた線路を登ることになるが、出山信号場を発車すると80 ‰の勾配は1.3 kmほども続く。勾配が71 ‰程度に緩くなり、左から線路が下ってくると標高337 mの大平台駅に到着である。出山信号場から大平台駅までの1.6 kmで、一気に115 mも高度を上げたことになる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "大平台はスイッチバック駅のため、また進行方向が変わる。66.67 ‰の勾配を500 mほど進むと標高346 mの上大平台信号場。ここもスイッチバックで、さらに進行方向が変わり、上り80 ‰勾配の線路を登る。強羅行きの電車にとっては最後のトンネルとなる大平台隧道を抜けると、標高398 mの仙人台信号場である。仙人台からは再び国道1号と並行するが、この辺りでは随所に半径30 mから40 m程度の急カーブが連続する。3両編成の列車(全長44 m)の場合、先頭車と後尾車では最大で60度近い角度の差がつく。50 ‰から55 ‰程度の勾配で徐々に高度を上げ、標高436 mの宮ノ下駅に到着する。ホームの向こうには明星ヶ岳が一望できる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "宮ノ下駅を発車すると、眼下に温泉街を見下ろしつつ、80 ‰の上り勾配で高度を上げてゆく。ここから先の区間では本来はトンネルで抜けるところを、温泉脈に悪影響を与えないように地形に逆らわないルート設定となった。やがて、勾配が55 ‰程度に緩くなり、半径40 mの右カーブと左カーブが連続した後に国道1号の踏切がある。箱根駅伝では選手の通過時にこの踏切の手前で電車を停車させる。踏切を過ぎるとまもなく標高523 mの小涌谷駅である。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "小涌谷駅を発車すると、山肌に沿って半径30 mの左カーブと右カーブが連続する。これも地形に逆らわないルート設定の結果である。ここから先は勾配も33 ‰程度に緩くなり、カーブも最急でも半径60 m程度に緩くなる。彫刻の森美術館の敷地の脇を通りぬけ、標高539 mの彫刻の森駅に到着である。ここから先はほとんど平坦な線形で、地獄澤橋梁を渡るとほどなく標高541 mの強羅駅に到着する。スイッチバックが3回あったため、箱根湯本駅を出発した時とは進行方向が逆になった状態での到着である。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "沿線の線路沿いには1万株以上の紫陽花(あじさい)が植えられている。これは、元来は土止めの目的で植えられたもので、開業当時には存在しなかったものである。しかし、沿線には車窓の開ける場所があまりないことから、季節ごとに車窓から花を楽しめるようにするため、箱根登山鉄道社員の手で植えられたものである。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "紫陽花の花が見頃となる6月中旬から7月中旬にかけては、登山電車は「あじさい電車」とも呼ばれるようになり、1975年頃からは社内で「沿線美化委員会」が構成され、紫陽花が見頃になる前の時期に下刈りをするなどの勤労奉仕が行われている。1981年11月には「全国花いっぱい『花と緑の駅』コンクール」において環境庁長官賞を受賞した。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1990年代からは夜間に紫陽花のライトアップも行われており、定期列車よりもゆっくりあじさいを鑑賞するための専用列車として、座席指定制の「夜のあじさい電車」も運行されるようになった。また、ライトアップ期間中には定期列車でも紫陽花の見どころで臨時停車が行われることがあるが、臨時停車する地点は80 ‰勾配の途中にも設定されている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "箱根湯本駅 - 強羅駅の区間は、最大80 ‰の急勾配と地形に沿った非常に急なカーブを持つ路線を走るため、電車は以下のように特殊な仕様となっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "保安ブレーキとして設けられているもので、空気圧により作動し台車からカーボランダムのブレーキシューをレールに押付け圧着させるブレーキである。通常の鉄道車両では車輪とレールは点または線による接触であるが、このブレーキを使用した場合はわずかに車両が持ち上げられ、カーボランダムシューとレールの面接触によってブレーキが作動する仕組みである。このブレーキは他の常用ブレーキ(空気ブレーキ・電気ブレーキ・手ブレーキ)とは別系統となっており、300 ‰の坂でも停止できる性能を備えている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "レールに使用される鋼とカーボランダムの静止摩擦係数(数字が大きいほど摩擦が大きい)は、乾燥した状態で0.30、撒水した状態では0.42である。これは鋼同士、つまり車輪とレールの静止摩擦係数が乾燥時で0.15、撒水時で0.123であるのと比べると2倍から3倍もの差がついており、大きな摩擦力が働くことが分かる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "開業時の1919年に導入されたチキ1形では電磁吸着ブレーキを装備していたが、その後1927年に増備されたチキ2形からはカーボランダムを使用したブレーキを採用した。その後、電磁吸着ブレーキは一度滑走が始まると効果がなくなるため、全車両がレール圧着ブレーキに統一された。一時期はカーボランダムの代わりにアランダム(アルミナ)が使用されたことがある。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "常用ブレーキの制輪子(ブレーキシュー)については、鉄道線の車両では鋳鉄制輪子が使用されている。これは、合成制輪子よりも鋳鉄制輪子の方が車輪の踏面が荒れるため、高い粘着力を確保できるという理由である。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "鉄道車両においては、レールが車輪を誘導することによって曲線を通過させる仕組みとなっているが、この結果としてカーブ外側のレールに強い力がかかることになる。レールと車輪では車輪の方が硬く、レールの磨耗が発生するため、これを防ぐ必要があり、通常の鉄道ではレールの頭部側面に塗油したり、台車側に塗油器を設けることによってレールの磨耗を抑える。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "しかし、急勾配線区においては塗油することによってレールと車輪の摩擦係数が低下して上り勾配での空転や下り勾配での滑走が発生し、極めて危険な状態となる。そこで、カーブではレールと車輪の間に撒水することによって磨耗を防ぐこととした。このため、各車両とも車両の両端部に容量360Lの水タンクを設け、運転士の操作によって水を車輪の踏面に撒水する装置を装備している。片道1回の運行でおよそ50Lから80Lの水を消費する。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "開業当時のチキ1形には撒水装置がなかったため、レール交換が多く繰り返されたという。このため、チキ1形では屋根上に水タンクを設けたが、1927年に増備されたチキ2形以降の車両では連結器の下に水タンクを設置した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "なお、開業当初は粘着力を増す目的で全車両の台車に撒砂装置を設けていたが、撒水したところに砂を撒くことによってレールの磨耗が激しくなったため、撒砂装置は後年、全て撤去されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "開業当時に製造されたチキ1形ではリンク式連結器を装備しており、1927年に登場したチキ2形では自動連結器を装備していた。しかし、登山電車の急勾配や急カーブには対応しておらず、1935年に登山電車用の連結器が開発されるまでは、連結して運用されることはなかった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "この登山電車用の連結器では、急勾配や急カーブで連結器が外れる事を防止するため、上下左右に大きく振れる構造となっている。ただし、「サン・モリッツ号」の編成中間部では半永久連結器が使用されている。また、連結器の突き出し部分は長くとられており、連結面間距離においても通常の20 mの通勤電車で500 mm程度なのに対して、「ベルニナ号」では860 mmも空いている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "なお、車両間の貫通路は非常用であり、貫通幌も設置されておらず、通常は施錠されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "電車の走行・ブレーキに使用する抵抗器は下り坂での発電ブレーキで使用の際に大量の熱が発生するため、冷却しやすいように屋根上に搭載している。開業当時のチキ1形では床下に抵抗器を設けていたが、1927年に導入されたチキ2形では屋根上にニクロム合金製の抵抗器を設けた。その後、旅客車両では全て屋根上に抵抗器を搭載している。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1950年以降に小田急の電車が乗り入れた当初は、小田急から乗り入れてくる車両は1600形・1900形などの30両に限定されていた。これは小田急の線路条件を上回る勾配に対応するため、ブレーキ装置に改良を施した車両に限定したためである。その後1400形や2200形・2400形なども乗り入れるようになった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "その後、1982年頃までは小田急の乗り入れ車両は、通勤車両は2400形に限定されるようになった。これは乗り入れ区間の3駅のホームの長さが短かったためであったが、1982年7月からは5200形・9000形などの大型車両も6両編成で乗り入れるようになった。ただし、しばらくの間は特急車両以外の乗り入れ車両は側面窓が一段下降窓の車両に限定された。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2000年頃には側面窓が二段上昇窓となっている小田急の電車も下段の窓から手が出せないように対策を行い、通勤車両は4000形(初代)を除いた6両編成までなら全ての形式が乗り入れ可能となった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2008年3月15日のダイヤ改正からは、小田急の車両は特急車両を除き、4両編成の車両のみが乗り入れている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2009年3月14日のダイヤ改正より、1000形のうち4両固定編成×3編成が登山電車と同じ赤色のカラーリングに変更され、2012年2月頃にはさらに4両固定編成×1編成が赤色に変更。同年3月17日のダイヤ改正以降、小田原 - 箱根湯本間の各駅停車はこの4編成に限定して運用されていたが、2021年7月より通常の小田急カラーの1000形更新車の運用が開始され、登山電車カラーの車両は2022年9月をもって運用を離脱した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "なお、特急車両については、1910形(2000形)以降の全ての特急車両が乗り入れている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1985年時点で、箱根登山鉄道が公表している標高と、国土地理院の地図に記載されている標高は異なっていた。これは、箱根登山鉄道の建設時の測量の際の水準点が異なるためであった。しかし、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の後に小田原市内各所で海抜表示が行われた際に、駅前の標高表示と駅名標で数値が異なるとの指摘を受けて標高を再調査したところ、2013年7月に全ての駅で数値が異なっていたことが判明したため、同年11月に各駅の表示を修正することになった。下表の標高は修正後の数値である。", "title": "データ" } ]
鉄道線(てつどうせん)は、神奈川県小田原市の小田原駅から同県足柄下郡箱根町の強羅駅までを結ぶ箱根登山鉄道の鉄道路線である。旅客案内上で正式名称が使われることはほとんどなく、主に「箱根登山線」や「箱根登山電車」の名が使われる。また、メディアにより当路線を指して会社名(箱根登山鉄道)で呼ばれることもある。 駅ナンバリングで使われる路線記号はOHで、番号は直通運転している小田急小田原線の新宿駅から、当路線、箱根登山ケーブルカー、箱根ロープウェイを経て、芦ノ湖にある箱根観光船(箱根海賊船)の元箱根港までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色()、当路線・箱根登山ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色()で描かれている。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名= 鉄道線 |路線色= #f04a00 |ロゴ=File:Odakyu_Hakone_StaNo.svg |ロゴサイズ=40px |画像= File:Hakone-tozan3100-3000.jpg |画像サイズ= 300px |画像説明= [[箱根登山鉄道3000形電車|3100形・3000形]]「アレグラ号」 |通称= 箱根登山電車 |国={{JPN}} |所在地= [[神奈川県]][[小田原市]]、[[箱根町]] |起点=[[小田原駅]] |終点=[[強羅駅]] |駅数=11駅 |路線記号=OH |開業= {{start date and age|1919|6|1}} |全通= {{start date and age|1935|10|1}} |所有者=[[箱根登山鉄道]] |運営者= 箱根登山鉄道 |車両基地= [[箱根登山鉄道入生田検車区|入生田検車区]] |使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離=15.0 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]](小田原駅 - [[箱根湯本駅]]間)<br />1,435 mm([[入生田駅]] - 強羅駅間) |線路数= 単線(全線) |複線区間= |電化区間= 全線 |電化方式= {{Nowrap|[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]](小田原駅 - 箱根湯本駅間)}}<br />直流750 V(箱根湯本駅 - 強羅駅間)<br />[[架空電車線方式]] |車両限界= |最大勾配= 80 [[パーミル|‰]] |最小曲線半径= 30 m |高低差= 527 m |閉塞方式= |保安装置= |最高速度=60 [[キロメートル毎時|km/h]](小田原駅 - 箱根湯本駅間)<ref name="terada">寺田裕一『データブック日本の私鉄』([[ネコ・パブリッシング]])</ref><br />40 km/h(箱根湯本駅-強羅駅間)<ref name="rf240-64"/> |路線図=[[File:Hakone Tozan Railway Linemap.svg|300px]] }} {{BS-map |title = 停車場・施設・接続路線 |title-bg = #f04a00 |title-color = #fff7c9 |map = {{BS3||KHSTa|tHST|||OH01 [[新宿駅]]/C-18 [[北千住駅]]|}} {{BS3||STR|tSTRe||||}} {{BS3||ABZg+l|STRr|||→[[東京地下鉄]]:[[東京メトロ千代田線|千代田線]]|}} {{BS|HST|||OH05 [[代々木上原駅]]|}} {{BS|LSTR||||}} {{BS5|||KRZo|LSTRq|STR+r|||[[伊豆箱根鉄道]]:[[伊豆箱根鉄道大雄山線|大雄山線]]|}} {{BS5||STR+l|KRZu|STRq|KRZu|||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[東海道新幹線]]|}} {{BS5||STR|STR|STR+l|KRZu|||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]|}} {{BS5||STR|STR|STR|LSTR|||<!-- 大雄山線緑町駅 他線の接続しない駅のため非表示 -->|}} {{BS5||STR|STR|KRWg+l|O3=POINTERf@gq|KRWgr|||↑[[小田急電鉄|小田急]]:[[小田急小田原線|小田原線]]|}} {{BS5||BHF|O2=HUBaq|BHF+GRZq|O3=HUBq|BHF|O4=HUBq|KBHFe|O5=HUBlg|0.0|OH47 [[小田原駅]]||高14 m<ref name="tozan131129"/>}}<!-- CPICは対面乗換え --> {{BS5||STR|eKRWgl+l|eKRWgr+r|uexKBHFa|O5=HUBe||↓箱根登山鉄道'''鉄道線'''||}} {{BS5||STR|STR|STR|uexLSTR|O5=POINTERg@fq|||↓''[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原市内線]]''|}} {{BS5||TUNNEL1|TUNNEL1|TUNNEL1|uexLSTR||小峰隧道||長285.6 m<ref name="rp532-x"/>}} {{BS5|uexSTR+l|emKRZo|emKRZo|emKRZo|uexSTRr||||}} {{BS5|uexLSTR|STR|STR|STRl|||||}} {{BS5|uexLSTR|STRl|KRZu|STRq|||||}} {{BS5|uexSTRl|uexSTR+r|STR||||||}} {{BS3|uexKBHFe|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||1.7|OH48 [[箱根板橋駅]]||高16 m<ref name="tozan131129"/>}}<!-- 軌道線は同時に存在したものを示す --> {{BS|SKRZ-Au|||[[小田原厚木道路]]|}} {{BS|BHF|3.2|OH49 [[風祭駅]]||高36 m<ref name="tozan131129"/>}} {{BS|STR|||↑[[狭軌]]|}} {{BS3|KDSTa|STR|||[[箱根登山鉄道入生田検車区|入生田検車区]]|構内[[標準軌]]|}} {{BS3|STRl|vSTR+r-SHI1+r||||↓[[三線軌条]]<!--アイコンを複線にしているのはこの区間が三線軌条のためで、左が標準軌、右が狭軌としている。実際は1本の線路となっている-->|}} {{BS|vBHF|4.2|OH50 [[入生田駅]]||高54 m<ref name="tozan131129"/>}} {{BS|vSTR+GRZq|||[[小田原市]][[箱根町]]境|}} {{BS|vSTR|||↑三線軌条 DC 1500 V|}} {{BS|vBHF|6.1|OH51 [[箱根湯本駅]]||高96 m<ref name="tozan131129"/>}} {{BS|vSHI1l-ENDEe|||↓標準軌 DC 750 V|}} {{BS|TUNNEL2||湯本隧道||長24.1 m<ref name="rp532-x"/>}} {{BS|TUNNEL1||地蔵山隧道||長183.1 m<ref name="rp532-x"/>}} {{BS|TUNNEL1||塔ノ峰隧道||長194.1 m<ref name="rp532-x"/>}} {{BS|BHF|7.1|OH52 [[塔ノ沢駅]]||高153 m<ref name="tozan131129"/>}} {{BS|TUNNEL2||大ヶ嶽隧道||長317.9 m<ref name="rp532-x"/>}} {{BS|TUNNEL1||杉山隧道||長148.9 m<ref 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{{BS3|FUNI||STRl|||[[箱根登山鉄道鋼索線|鋼索線]]|}} |bottom = 軌間は現状を示す * 標準軌:1435 mm * 狭軌:1067 mm * 三線軌条:1435 mm/1067 mm }} '''鉄道線'''(てつどうせん)は、[[神奈川県]][[小田原市]]の[[小田原駅]]から同県[[足柄下郡]][[箱根町]]の[[強羅駅]]までを結ぶ[[箱根登山鉄道]]の[[鉄道路線]]である。旅客案内上で正式名称が使われることはほとんどなく、主に「'''箱根登山線'''」<ref>[https://www.hakonenavi.jp/transportation/station/odawara/ 小田原] - 箱根登山鉄道(2022年9月10日閲覧)</ref>や「'''箱根登山電車'''」<ref>[https://www.hakone-tozan.co.jp/station/ 路線図 箱根登山電車 各駅情報] - 箱根登山鉄道(2019年12月22日閲覧)</ref>の名が使われる。また、[[マスメディア|メディア]]により当路線を指して会社名(箱根登山鉄道)<ref name="東京新聞20191123">{{Cite news|title=箱根登山鉄道、再開は来秋に 箱根湯本-強羅|newspaper=東京新聞|date=2019-11-23|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201911/CK2019112302000130.html|access-date=2022-09-11|publisher=中日新聞社|archive-url=https://web.archive.org/web/20191123052509/https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201911/CK2019112302000130.html|archive-date=2019-11-23}}</ref><ref>{{Cite news|title=闇に浮かぶ幻想的なアジサイ 箱根登山鉄道で18日からライトアップ|newspaper=朝日新聞|date=2022-06-17|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ6K77CHQ6KULOB01M.html|access-date=2022-09-11|publisher=朝日新聞社}}</ref>で呼ばれることもある。 [[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''OH'''<ref group="注釈">'''O'''dakyu '''H'''akone</ref>で、番号は直通運転している[[小田急小田原線]]の[[新宿駅]]から、当路線、[[箱根登山鉄道鋼索線|箱根登山ケーブルカー]]、[[箱根ロープウェイ]]を経て、[[芦ノ湖]]にある[[箱根観光船]](箱根海賊船)の[[元箱根港]]までを一体とする連番で振られており、小田急小田原線は青色([[File:Odakyu odawara logo.svg|20px|OH]])、当路線・箱根登山ケーブルカー・箱根ロープウェイ・箱根海賊船は赤茶色([[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|20px|OH]])で描かれている。 == 概要 == 日本国外を外遊した名士からの提案を契機として<ref name="2011-136137"/>1919年に開業した鉄道路線である<ref name="g100-44"/>。当初は[[箱根湯本駅]]と強羅駅の間を結ぶ路線で<ref name="1995-93"/>、箱根湯本駅までは[[箱根登山鉄道小田原市内線|軌道線(小田原市内線)]]が接続していたが、1935年に小田原駅発着となった<ref name="2011-170"/>。箱根登山鉄道は[[小田急グループ]]の一社で<ref>[https://www.odakyu.jp/company/group/ 小田急グループ](2019年12月22日閲覧)</ref>、1950年以降は箱根湯本駅まで[[小田急電鉄]]の列車が乗り入れている<ref name="rp405-18"/>。 建設にあたって[[スイス]]のベルニナ鉄道(その後の[[レーティッシュ鉄道]][[ベルニナ線]])を参考にしており<ref name="g100-72" />、その縁で[[1979年]]に、箱根登山鉄道とレーティッシュ鉄道は、[http://www.myswitzerland.com/ja/home.html スイス政府観光局]の協力を得て姉妹鉄道提携を結んでいる<ref name="g100-72" />。このことから、「日本唯一の(本格的な)登山電車」とも紹介されることがある<ref name="1985-7"/><ref name="rj324-71"/>。 2007年に「日本で最もきつい勾配であり、世界的にも珍しい[[粘着式鉄道]]」として、[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=土木学会 平成19年度選奨土木遺産 箱根登山鉄道 |url=http://www.jsce.or.jp/contents/isan/files/2007_10.shtml |website=www.jsce.or.jp |access-date=2022-06-08}}</ref>。 === 特徴 === 本路線は、以下のような数々の特徴を有する。 ==== 勾配 ==== 箱根湯本駅と[[小涌谷駅]]の間には、80&nbsp;[[パーミル|‰(パーミル)]]という日本の粘着式鉄道では最急となる勾配が存在する<ref name="dj93-38"/>。 80&nbsp;‰の勾配とは、1,000&nbsp;[[メートル|m]]進む間に高低差が80&nbsp;mにもなるというもので<ref name="2011-21"/>、これは[[軌条]](レール)を固定せずに[[枕木]]の上に置いただけでは、自然に下に滑り落ちてしまうほどの勾配であり<ref name="1985-19"/>、角度にすると約4.57度である。1両の全長が14.66&nbsp;mの車両<ref>[https://hakone-tozan.co.jp/train/index.html 車両紹介 モハ1形|箱根登山電車 箱根登山ケーブルカー](2019年12月22日閲覧)</ref>で、80&nbsp;‰勾配においては前後で1.17&nbsp;mほどの高低差がつく。 建設当時において日本における最急勾配だったのは[[信越本線]]の[[碓氷峠]]66.7&nbsp;‰<ref group="注釈">ただしこの当時は[[ラック式鉄道]]([[アプト式]])を採用。粘着式鉄道への切り替えは[[1963年]]。</ref>で、建設時に参考としたベルニナ鉄道の最急勾配は70&nbsp;‰<ref name="1995-97"/>、粘着性能の高い[[タイヤ|ゴムタイヤ]]を用いた[[新交通システム]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])でも最急勾配は70&nbsp;‰程度で<ref name="dj93-39"/>、本路線の80&nbsp;‰という勾配はそれらを上回るが、[[ラック式鉄道]]([[アプト式]])を採用している[[大井川鐵道井川線]]の[[アプトいちしろ駅|アプトいちしろ]] - [[長島ダム駅|長島ダム]]間ではさらにそれらを超える90&nbsp;‰の急勾配区間がある。 ==== 曲線半径 ==== [[仙人台信号場]]と[[宮ノ下駅]]の間<ref name="1988-i-7"/>、小涌谷駅と[[彫刻の森駅]]の間<ref name="1988-i-7"/>には、半径30&nbsp;mという急な曲線が存在する<ref name="dj93-38"/>。 これは[[#歴史|歴史]]節で後述するように、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられており<ref name="1985-40"/>、しかも[[温泉]]脈に悪影響を与えるという理由で[[トンネル]]掘削ができなくなった<ref name="1985-22"/>区間もあり、山肌に沿った急曲線で軌道を敷設するしか方法がなかったためである<ref name="1985-40"/>。半径30&nbsp;mの曲線上では、3両編成の登山電車の先頭と最後部の車両の向きは60度ほどの角度がつく。 日本の普通鉄道において、本線上で半径30&nbsp;mもの急曲線が設定されている事例は少ない<ref name="dj93-38"/><ref group="注釈">[[江ノ島電鉄線]]にある半径28&nbsp;mのカーブが普通鉄道最小半径である。</ref>。 ==== 三線軌条 ==== [[入生田駅]]と箱根湯本駅の間には、国際[[標準軌]]の1,435&nbsp;mm・[[狭軌]]の1,067&nbsp;mmという異なる[[軌間]]において、片側のレールを共用する[[三線軌条]]が存在する。 これは[[#小田急が箱根湯本へ乗り入れ|後述]]するように、狭軌を採用している小田急の電車が、標準軌の本路線に乗り入れるために考えられた方法で<ref name="2011-63"/>、乗り入れ当初は小田原駅から箱根湯本駅までの区間に三線軌条が採用された<ref name="1985-8"/>。これは片側のレールを共用し、もう片側には2本のレールを並べて敷設するもので、[[分岐器]]も複雑な構造となった<ref name="1988-u-6"/>。 狭軌と標準軌の双方の列車密度や分岐器の数などを考慮すると、世界的に見ても本路線を上回るものはなく<ref name="dj93-38"/>、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)では[[山形新幹線]]運行のために[[奥羽本線]]の一部区間で三線軌条を導入するのに先立って本路線の設備を視察し、分岐器の構造などについて学んでいる<ref name="2011-70"/>。しかし、輸送力の違いや[[バリアフリー]]化対応などの理由により<ref name="2011-64"/>、2006年以降、車庫のある入生田駅と箱根湯本駅以外の区間については三線軌条は解消された<ref name="2011-65"/>。 == 歴史 == === 建設の経緯 === 箱根に登山電車を走らせる計画は、[[1896年]]に設立された箱根遊覧鉄道が路線免許を出願するなどの動きがあった<ref name="2011-139"/>が、計画が具体化するのは、1900年に[[国府津駅|国府津]]と湯本を結ぶ[[電気鉄道]]の路線([[箱根登山鉄道小田原市内線]]を参照)を開業した小田原電気鉄道に対して、同年5月23日付けで[[温泉村 (神奈川県)|温泉村]]から「路線を当村まで延長して欲しい」という路線延長の要請を受けたときからである<ref name="2011-136137"/>。小田原電気鉄道ではこの要望に前向きに対処し、同年9月までに「箱根遊覧鉄道の創立に要した費用を負担した上で、路線自体は小田原電気鉄道の延長線として敷設する」という方向性をまとめた<ref name="1995-91"/>が、同年9月の臨時株主総会では否決されてしまった<ref name="2011-140"/>。 登山電車の建設計画が再び具体化するのは1907年、[[スイス]]における[[登山鉄道]]の実況を視察した者{{refnest|group="注釈"|「[[益田孝]]であったことは間違いない」と推測されている<ref name="1995-92"/>。}}から、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が小田原電気鉄道に対して送られてきたことがきっかけとなる。また、[[益田孝]]や[[井上馨]]などの実業家もこの事業を小田原電気鉄道に勧告した<ref name="1995-92"/>ことを受け、1910年1月の臨時株主総会において、[[箱根湯本駅|湯本駅(当時)]]から[[強羅駅]]へ路線を延長することが決定した<ref name="1995-93"/>。同年4月には路線延長を出願し、さらに翌月には強羅駅から[[仙石原]]を経て[[御殿場線|東海道本線(当時)]]の[[裾野駅|佐野駅(当時)]]への延伸計画を追加し<ref name="1995-93"/>、[[1911年]]3月1日に登山鉄道建設の免許が交付された<ref name="1995-94"/>が、建設に際しては「自然の景観を極力損なわないこと」という条件がつけられた<ref name="1985-40"/>。 === 度重なるルート変更 === [[ファイル:箱根登山001.jpg|thumb|箱根登山鉄道各線の[[ランドサット]]衛星写真。赤が'''鉄道線'''、橙が鋼索線、水色が箱根ロープウェイ。]] 当初の免許では、[[須雲川]]の右岸を遡り、須雲川集落から北上して[[大平台駅]]へ抜け、[[宮ノ下駅]]からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13&nbsp;kmになるルートであった<ref name="1995-95"/>が、この時期に軌道線が[[早川 (神奈川県)|早川]]の洪水によって軌道が流失してしまい<ref name="1995-89"/>、ルート変更を余儀なくされた<ref name="1995-95"/>ため、登山鉄道のルートも再検討することとなった<ref name="1995-9596"/>。 そこで、1911年5月には[[塔ノ沢駅]]までは早川の左岸を進み<ref name="1995-96"/>、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された<ref name="1995-96"/>。このルート案では、[[電気機関車]]が[[客車]]2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125&nbsp;[[パーミル|‰(パーミル)]]の[[アプト式]]鉄道とする計画で<ref name="1995-96"/>、湯本から強羅までの距離は7.1&nbsp;kmほどとなるルート設定であった<ref name="1995-96"/>が、当時既に最急勾配が66.7&nbsp;‰の[[アプト式]]鉄道として開通していた[[信越本線]]の[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]]間([[碓氷峠]])よりも急な勾配であることから、社内で不安の声が上がった<ref name="1995-96"/>。また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあった<ref name="1985-18"/>ため、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢を[[ヨーロッパ]]に派遣した<ref name="2011-143"/>。 半田は半年ほどの視察の後に帰国した<ref name="2011-143"/>が、スイスの[[レーティッシュ鉄道#ベルニナ線|ベルニナ鉄道]]においては70&nbsp;‰の急勾配が20&nbsp;kmほど連続しており<ref name="1985-18"/>、これから敷設しようとしている登山鉄道と似た点が多く<ref name="1985-1819"/>、大いに参考になったという<ref name="1985-19"/>。しかし、粘着式鉄道では125&nbsp;‰もの急勾配は登れないことが分かったため、[[スイッチバック]]を途中3箇所に設けた、最急勾配80&nbsp;‰の粘着式鉄道として建設することになった<ref name="1995-97"/>。建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていた<ref name="1995-98"/>が、すぐに中断となり、1913年3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した<ref name="1995-98"/>。この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが<ref name="1995-98"/>、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている<ref name="1995-98"/>。 === 難工事・運行開始 === {{Triple image|right|Yumoto Sta under construction.jpg|132|Making of Tozan Hayakaha Bridge.jpg|85|Deyama Signal Sta under construction.jpg|179|建設中の箱根湯本駅|建設中の早川橋梁|建設中の出山信号場}} こうして、ようやく建設は開始された。ところが、[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発した影響で、計画していた資材の輸入が途絶<ref name="g100-43"/>、建設工事にも影響を及ぼした。 [[早川橋梁 (箱根登山鉄道鉄道線)|早川橋梁]]の建設に当たっては[[東海道本線]]の[[天竜川]]橋梁の[[トラス]]鋼体の払い下げを受けることになった<ref name="2011-49"/>が、景観破壊の恐れがあると[[神奈川県知事一覧|神奈川県知事]]からクレームが入り<ref name="1995-101"/>、改築を条件にしてようやく認められた<ref name="1985-25"/>。この早川橋梁の架設工事が終了したのは1917年5月31日で<ref name="1985-27"/>、1915年に架橋工事が開始されてから<ref name="1985-27"/>2年近くかかっており、もっとも難航を極めた工事とされている<ref name="g100-43"/>。車両についても、当初はスイスから輸入する予定であったが実現せず<ref name="1994-14"/>、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]製の車両を購入することになった<ref name="1994-14"/>。 さらに、1916年に行われた地質調査では、宮ノ下駅から二ノ平駅までの区間にトンネルを掘削することによって、蛇骨川の温泉脈に悪影響を与えることが判明した<ref name="1985-22"/>。山を切り崩すこともできず、トンネル掘削もできない状況では、山肌に沿って軌道を敷設するしか方法はなく<ref name="2011-17"/>、仕方なく遠回りのルートに変更された<ref name="1985-22"/>。当初計画になかった[[小涌谷駅]]は、この時に開設が決まった<ref name="1985-22"/>。 {{Double image aside|right|Yumoto Sta 1919.jpg|200|Kowakidani Sta 1919.jpg|150|鉄道線開業直後の箱根湯本駅|開業直後の小涌谷駅}} このようなことから、工事は大幅に遅れ<ref name="g100-43"/>、建設費は計画当初と比較すると大幅に上回ることになり<ref name="1995-98"/>、資金調達のために3度にわたり[[社債]]の発行や[[増資]]などを行う必要に迫られている<ref name="2011-147"/>。 着工から7年以上が経過した<ref name="g100-43"/>[[1919年]]5月24日にようやく全ての工事が完了<ref name="2011-151"/>。同年6月1日、箱根湯本駅から強羅駅までを結ぶ登山電車の運行が開始された<ref name="g100-44"/>。しかし、当初の登山電車は山を登るときにだけ利用され、下りは歩いて湯本まで出る利用者も多かった<ref name="1985-31"/>。同日に開業した[[バス (交通機関)|乗合自動車]]より運賃は安かった<ref name="1985-31"/>ものの、当時の往復運賃は職人の1日分の[[日当]]と同じ金額であったのである<ref name="1985-31"/>。 === 関東大震災 === {{Double image aside|right|Railway track of Odawara Electric Railways that collapses by Earthquake.jpg|200|Hayakawa bridge and Sugiyama tunnel after Earthquake.jpg|180|震災により崩壊した線路|震災により崩壊した杉山トンネル。手前のトラスは早川橋梁}} [[1923年]]9月1日に発生した[[大正関東地震]]([[関東大震災]])で、鉄道線は甚大な被害を蒙った<ref name="g100-44"/>。箱根湯本駅では裏山が崩れて構内が埋没する<ref name="1995-142"/>など、軌道は大部分が崩壊または埋没し<ref name="g100-44"/>、建造物も半数近くが半壊<ref name="g100-44"/>、ほとんどのトンネルも入口部分が崩壊した<ref name="1994-26"/>。橋梁は1箇所を除いて全て破壊されてしまった<ref name="1994-26"/>が、最も心配されていた早川橋梁だけは橋台の軽微な損傷<ref name="g100-44"/>とわずかにずれた程度で、被害を免れた。7両あった登山電車も全て脱線転覆や埋没してしまったが、焼失した車両はなかった<ref name="1994-26"/>。 早期復旧は不可能であったため、同年中に復旧の準備を整え、翌1924年1月から復旧工事が開始された<ref name="g100-45"/>。復旧工事も難工事で、運行が再開されたのは、箱根湯本駅 - 出山仮停留場間が同年9月10日<ref>[{{NDLDC|2955771/3}} 「地方鉄道線路復旧運輸開始」『官報』1924年9月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、出山仮停留場 - 大平台駅間、小涌谷駅 - 強羅駅間が11月24日<ref>[{{NDLDC|2955835/8}} 「地方鉄道線路復旧運輸開始」『官報』 1924年12月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、宮ノ下駅 - 小涌谷駅間が12月24日<ref name="kanpou19250115">[{{NDLDC|2955865/5}} 「地方鉄道線路復旧運輸開始」『官報』 1925年1月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、そして大平台駅 - 宮ノ下駅間が12月28日であった<ref name="kanpou19250115"/>。 震災の被害から復帰した後の[[1926年]]1月16日には、小涌谷を発車した登山電車が宮ノ下付近でカーブで脱線して民家に転落するという[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#箱根登山鉄道電車脱線転落事故|事故]]が発生した<ref name="2011-165"/>。運転士は生存していたものの、精神に異常をきたしたため事故原因は明らかにならなかった<ref name="2011-166"/>が、速度制御に失敗したものとみられている<ref name="2011-166"/>。この事故の後しばらくした1928年1月に、小田原電気鉄道はいったん[[日本電力]]に合併した<ref name="bjr58-26"/>後、同年8月に再度'''箱根登山鉄道'''として分社化された<ref name="bjr58-26"/>。 === 登山電車が小田原へ乗り入れ === 日本電力傘下となってから、小田原から強羅まで鉄道線を直通運転する計画が実行に移された<ref name="g100-49"/>。この計画では小田原から[[風祭駅|風祭]]までは軌道線とは別に線路を敷設し、風祭から箱根湯本までは専用軌道だった軌道線を改修するというものであった<ref name="g100-49"/>。 {{Double image aside|right|Komine Tunnel under construction.jpg|110|Tozan Itabashi viaduct 1935.jpg|200|建設中の小峰隧道|板橋陸橋での試運転}} [[1927年]]4月1日に[[新宿駅]]を起点とする[[小田急電鉄|小田原急行鉄道]](小田急)が[[小田原駅]]まで開通した<ref name="1995-165"/>ことを受けて、箱根登山鉄道では小田原駅構内への登山電車乗り入れを申請<ref name="1995-165"/>、1930年には小田急との連絡について協定を結んだ<ref name="1995-165"/>。1931年11月から風祭と箱根湯本を結ぶ区間の改修工事を行い<ref name="g100-50"/>、小田原駅への乗り入れが認められた1934年からは小田原と風祭を結ぶ区間の工事にも着手<ref name="g100-50"/>、1935年9月21日にすべての工事が完了した<ref name="g100-50"/>。小田原駅構内への乗り入れに際しては、小田急の多大な協力が得られたとされている<ref name="rp546-103"/>。これと並行して、直通運転の開始後に予想される乗客増への対応策として、2両編成での運転についても検討が進められることになった<ref name="g100-50"/>。しかし、鉄道線の線路は最小曲線半径が30&nbsp;mという厳しい[[線形 (路線)|線形]]であり、勾配も日本最急となる80&nbsp;‰で、安全な[[連結器]]を開発する必要があった。そこで、[[鉄道省]]に連結器についての指導を仰いだ結果<ref name="g100-50"/>、[[東芝|芝浦製作所]]の設計による連結器の試作が実現した<ref name="g100-50"/>。数か月にわたり連結での試運転を行い、安全性も確認されたため<ref name="g100-50"/>、[[小田原電気鉄道チキ2形電車|チキ2形]]の連結器を全て交換した<ref name="1994-21"/>。 こうして、同年10月1日より小田原駅と強羅駅の間において、登山電車の直通運転が開始された<ref name="2011-170"/>。これによって、小田原と強羅は最短50分で結ばれるようになり<ref name="1985-52"/>、箱根湯本駅で軌道線と乗り換えていた当時より20分の時間短縮が実現した<ref name="1985-52"/>。 [[戦時体制]]に入ってからは、1942年5月30日付で[[五島慶太]]が社長に就任する<ref name="g100-88"/>などの出来事はあったが、鉄道線には大きな動きはなく、戦災による被害もほとんどなかった<ref name="g100-57"/>。[[第二次世界大戦]]終戦後しばらくの間、登山電車のうち2両が[[連合軍専用列車|進駐軍専用車両]]となった<ref name="g100-57"/>。1948年9月15日には[[アイオン台風]]が上陸したことに伴い、鉄道線の橋梁2箇所が流失<ref name="1995-175"/>、それ以外にも土砂の崩壊による軌道の埋没などがあり<ref name="g100-58"/>、復旧は翌1949年7月6日までずれ込んだ<ref name="g100-58"/>。 === 小田急が箱根湯本へ乗り入れ === これより少し遡る1946年に東京急行電鉄([[大東急]])が策定した『鉄軌道復興3カ年計画』の中には、東急小田原線(当時)の箱根湯本駅への乗り入れ計画が含まれていた<ref name="2009-a-118119"/>。1948年6月1日に大東急から分離独立した小田急電鉄(小田急)では、同年10月よりノンストップ[[特別急行列車|特急]]の運行を開始していた<ref name="2000-18"/>が、競合路線である東海道本線に対抗するには箱根湯本駅まで直通すべきと考え<ref name="2000-6869"/>、この乗り入れ計画を推進することになった<ref group="注釈">当時、既に国鉄では東海道本線に[[湘南電車]]を導入して客車列車を電車化する構想があり、伊豆方面への有料準急も電車運転する構想も既にあった。それは1950年3月に[[国鉄80系電車]]として結実し、同年10月には80系電車を使用した有料準急も運転されるようになった。</ref>。 しかし、この乗り入れには解決すべき問題点がいくつもあった。 {{Double image aside|right|Kazamatsuri Dualgauge switch 1.jpg|160|Kazamatsuri Dualgauge switch 2.jpg|160|三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造}} 鉄道線の[[軌間]]は国際的な標準である1,435&nbsp;mmであった<ref name="g100-61"/>が、乗り入れてくる小田急の軌間はそれより狭い1,067&nbsp;mmであった<ref name="1995-176"/>。どちらかに統一しようにも、80&nbsp;‰の急勾配を上る能力のある電動機は当時の技術では1,067&nbsp;mmの規格では収まらなかった<ref name="2011-63"/>ため、鉄道線の軌間を1,067&nbsp;mmに[[改軌]]することは不可能であった<ref name="2011-63"/>。また、小田急を1,435&nbsp;mmに改軌するのは、車両数が多いうえ距離も相当なものとなってしまうため、膨大な費用が必要で<ref name="2000-69"/>、まだ戦後の復興途上においてはそのような負担は無理であった<ref name="2000-69"/>上、[[日本国有鉄道|国鉄]]との貨物輸送において[[貨車]]の直通が不可能となり<ref name="2011-63"/>、貨物収入が激減してしまうことになる<ref name="2011-63"/>。そこで、鉄道線のレールの内側に小田急の車両のためにもう1本レールを敷設する[[三線軌条]]を採用することとなった<ref name="g100-61"/>。なお、共用するレールについては山側(小田原駅を発車すると進行方向右側)とされた<ref name="1981-187"/>が、これは万が一小田急の電車が脱線を起こした場合に、外側の登山電車のレールに引っかかることによって、海側(進行方向左側、[[国道1号]]が並走)への転落を防ぐためである<ref name="1981-187"/>。通常の[[分岐器]]は可動箇所が2箇所である<ref name="2011-64"/>が、三線軌条の分岐器は可動箇所が5箇所となる複雑な構造となり<ref name="2011-64"/>、当初は手動で[[梃子]]によって切り替えを行っていた<ref name="1988-i-107"/>が、1人では梃子が重くて動かせず、梃子に綱をつけて2人がかりで引っ張ったという<ref name="1981-186"/>。その後、分岐器の切り替えは電動化された<ref name="1988-i-107"/>。 [[ファイル:Difference of OER and Tozan.jpg|thumb|小田急(軌間1,067&nbsp;mm)と箱根登山(軌間1,435&nbsp;mm)の車両規格の相違。片側のレールを共用すると、車体の位置がこれだけずれてしまう]] 三線軌条の導入によって、問題になったのは車両の[[連結器]]であった。登山電車は前述の通り特殊な連結器であったが、当時の小田急では[[連結器#自動連結器|自動連結器]]を使用していた<ref name="2000-71"/>。通常ならアダプターの役割を果たす[[連結器#中間連結器|中間連結器]]を介して非常時の連結に備えることになる<ref name="2000-71"/>が、三線軌条では軌道中心と車体中心がずれるために、仮に連結器を統一したとしても連結ができない<ref name="2000-7172"/>。このため、非常時に他の車両による牽引が必要な場合は、もっとも近くにいる同じ会社の車両を救援車両として連結することになった<ref name="2000-72"/>。車体中心のずれは駅の[[プラットホーム]]と車両の間にも影響し<ref name="2000-71"/>、特に小田急の車両では台枠面での車体幅が2,800&nbsp;mmであるのに対し<ref name="dj93-38"/>、登山電車の車体幅は2,520&nbsp;mmと狭い<ref name="dj93-38"/>ことから、線路を共用する側にプラットホームがある場合、登山電車では30&nbsp;[[センチメートル|cm]]以上の隙間ができてしまうことになった<ref name="dj93-38"/>。 また、鉄道線の架線電圧は当時[[直流電化|直流]]600&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]であった<ref name="2011-70"/>が、乗り入れてくる小田急の架線電圧は直流1,500&nbsp;Vであった<ref name="1995-177"/>ため、小田急の車両が乗り入れる区間では架線電圧を直流1,500&nbsp;Vに昇圧し<ref name="g100-61"/>{{refnest|group="注釈"|name="小田急湯本変電所"|直流1,500&nbsp;Vの電源は、小田急が設置した湯本変電所からの給電である<ref name="rp405-117"/>。}}、箱根湯本駅構内には[[デッドセクション|架線死区間(デッドセクション)]]が設置され<ref name="2011-73"/>、登山電車には複電圧に対応する装置が設けられることになった<ref name="2000-72"/>。ただし、これによって直流600&nbsp;Vのままの軌道線へは直接給電ができなくなり<ref name="g100-59"/>、箱根湯本駅から送電線による給電をせざるをえなくなった<ref name="g100-60"/>。 その上、軌道条件も異なっていた。小田原駅と箱根湯本駅の間は最急勾配は40&nbsp;‰で、箱根湯本駅から先の80&nbsp;‰と比べれば緩い勾配であったため、箱根登山ではこの区間を「平坦線」と称していた<ref name="1987-85"/>。しかし、当時の小田急における最急勾配は25&nbsp;‰で<ref name="2011-72"/>、40&nbsp;‰という勾配はそれをはるかに超えており、小田急の車両にとっては平坦どころではない<ref name="1985-10"/>。そのような勾配が1&nbsp;km以上も続くため、小田急の車両のブレーキ装置についても考慮しなければならなかった<ref name="1987-85"/>。このため、小田急ではブレーキ装置に改良を施工した車両のみを乗り入れさせることになった<ref name="2011-72"/>。 このほか、[[風祭駅]]に[[列車交換]]設備を新設した<ref name="2000-72"/>ほか、乗り入れ区間にあるトンネルや鉄橋なども検討が重ねられた<ref name="2000-72"/>。 技術的な問題のほかに、経理上の問題も発生した。レールを1本増設することによって資産が増加することになるが、どちらの会社の資産として扱うかという問題が生じた<ref name="2000-72"/>。これについては、箱根登山鉄道の施設を利用する代価として、対応する費用については小田急が負担することになった<ref name="2000-73"/><ref group="注釈" name="小田急湯本変電所"/>。 これらの問題点を解決しつつ、対応を進めていった。[[東芝|東京芝浦電気]]と[[汽車会社]]の[[労働争議]]によって車両関係の改造が遅れるという障害もあった<ref name="2011-71"/>が、[[1950年]]8月1日より小田急電車の乗り入れが開始された<ref name="2000-72"/>。乗り入れ当日は箱根湯本駅前には小田急の乗り入れ開始を祝して[[アーチ]]が飾られ<ref name="1995-176"/>、小田急の電車が到着すると花火まで打ち上げられた<ref name="1995-176"/>。この乗り入れ開始によって、小田急を利用して箱根を訪れる利用者は倍増<ref name="2011-73"/>、鉄道線の利用者数も前年と比較して27&nbsp;%の増加をみる<ref name="2011-73"/>など、利用者数は著しく増加した。 1964年にはそれまで箱根湯本駅に併設されていた車庫を入生田駅に隣接する場所に移設<ref name="g100-90"/>、1972年には[[列車集中制御装置|列車集中制御装置 (CTC)]] が導入された<ref name="g100-91"/>。1972年3月15日には[[箱根 彫刻の森美術館|箱根彫刻の森美術館]]最寄の二ノ平駅が[[彫刻の森駅]]に改称された<ref name="g100-91"/>。1980年からは小田急の直通列車の大型化に対応した改良工事が開始され<ref name="g100-91"/>、1982年7月12日からは小田急から直通する急行列車は全長20&nbsp;mの車両による6両編成に増強された<ref name="rp546-148"/>。 === 登山電車の3両編成化 === [[ファイル:Odawara Sta platform OER Tozan 19930504.jpg|thumb|登山電車に乗ろうとする人たちの長蛇の列(1993年のゴールデンウィーク)]] 鉄道線を利用する観光客は増加し、1991年には年間輸送人員が1千万人を超えた<ref name="rj324-75"/>。この当時、箱根を訪れる観光客のうち52&nbsp;%は何らかの形で箱根登山鉄道を利用していた<ref name="rj324-75"/>。当時の登山電車は2両[[編成 (鉄道)|編成]]で15分間隔が最大の輸送力であり<ref name="rj324-75"/>、[[ゴールデンウィーク]]や箱根[[大名行列]]が開催される11月などは登山電車に乗るのに2時間待ちという状況となっていた<ref name="rj324-75"/>。しかし、特有の線路条件から増発はできないため、列車を最大3両編成にすることが決定した<ref name="rj324-75"/>。 鉄道線の箱根湯本駅から強羅駅までの各駅は開業以来2両編成に対応した設備となっており、全駅においてホーム延伸対応工事が実施された<ref name="rj324-75"/>。最も難工事だったのは[[塔ノ沢駅]]の工事で、駅の両側がトンネルに囲まれ、開業当時から強羅側の分岐器がトンネル内に設置されている状況で<ref name="rj324-76"/>、しかも駅へ通じる道は細い人道があるだけで<ref name="rj324-76"/>、工事にあたって大型機械を導入することはできなかった<ref name="rj324-76"/>。このため、小田原側のトンネル拡幅はほぼ全てを手掘りで施工することになり<ref name="rj324-76"/>、文字通り[[人海戦術]]での工事を余儀なくされた<ref name="rj324-76"/>。塔ノ沢駅の工事だけで、総工費20億円のうちの半分近くが費やされた<ref name="rj324-77"/>。 これ以外にも、[[変電所#鉄道変電所|変電所]]の増強や<ref name="rj324-75"/>、架線電圧を600&nbsp;Vから750&nbsp;Vへ昇圧<ref name="rj324-73"/>、一部車両の2両固定編成化などが行われた<ref name="rj324-75"/>。塔ノ沢駅の工事が予定より早く終了したため<ref name="rj324-77"/>、当初は1993年10月からを予定していた3両編成化の日程は繰り上がり、同年7月14日から3両編成での運行が開始された<ref name="rj324-77"/>。 === 三線軌条区間の縮小 === {{Double image aside|right|Kazamatsuri-Door-Open.jpg|160|OER 5161.jpg|160|風祭駅での小田急電車は手動で扉を開いていた|2006年以降は小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両のみとなった}} しかし、箱根湯本駅まで乗り入れてくる小田急の電車は20&nbsp;m級の車両が最大6両編成であるのに対して、登山電車の1列車の輸送力は全長15&nbsp;m級の3両編成が最大で、輸送力が小さかった<ref name="rp679-192"/>。このため、1995年以降、ゴールデンウィークなど特に多客が予想される日には日中の登山電車を全て箱根湯本駅と強羅駅の間でのみ運行し、小田原駅と箱根湯本駅の間は小田急の車両で6両編成の各駅停車を運行する措置もとられていた<ref name="rp679-192"/>。また、各駅での乗車位置も小田急の車両と登山電車では異なる<ref name="2011-64"/>上、途中の[[風祭駅]]ではホーム長が短いために、小田急の車両では[[ドアコック]]を使用して手動で扉を開ける<ref name="rp546-112"/>(ホームにかからない車両の扉は開けない、いわゆる[[ドアカット]])という状態であった。 さらに[[バリアフリー]]対応にも問題が生じた。小田急の車両と登山電車では車体規格が異なる上、三線軌条ではそれぞれの車両の中心もずれるため、[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]に抵触する可能性も出てきた<ref name="2011-64"/>。 こうした事情から、まず2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を倍増させ<ref name="rp829-206"/>、代わりに小田原駅と箱根湯本駅の間を運行する登山電車は朝夕のみとなった<ref name="rp829-206"/>。さらに、2006年3月18日のダイヤ改正では、小田原駅と箱根湯本駅の間の列車は全て小田急の車両に置き換えられることになった<ref name="rp829-214"/>。これ以後、小田原駅と入生田駅の間の三線軌条は順次撤去された<ref name="rp829-214"/>が、入生田駅には登山電車の車庫があるため、入生田駅と箱根湯本駅の間のみ三線軌条が残された<ref name="rp829-214"/>。2008年3月15日のダイヤ改正からは、風祭駅の改良工事完了によりドアカットが解消されたほか<ref name="rp829-215"/>、小田急の車両は[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]以外は4両編成での運行となった<ref name="rp829-215"/>。 なお、[[2011年]][[3月11日]]に発生し、大きな[[津波]]被害をもたらした[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])以来、小田原市内では[[海抜]]表示が随所に表示されるようになった<ref name="tozan131129"/>が、箱根登山鉄道が公表していた数値と異なることが問題となり、2013年11月に修正されることになった<ref name="tozan131129"/>([[#駅一覧|後述]])。 2019年10月13日、[[令和元年東日本台風]](台風19号)により大平台駅 - 小涌谷駅間を中心に土砂流入や橋脚流失など甚大な被害を受け、箱根湯本駅 - 強羅駅間が長期不通となった。箱根登山鉄道は同年11月22日に同区間の運転再開を2020年秋頃の見通しと発表したが<ref name="東京新聞20191123"/>、その後2020年7月下旬へ前倒しされ<ref>{{Cite news|url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-310236.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200326055934/https://www.kanaloco.jp/article/entry-310236.html|title=箱根登山鉄道、7月下旬に運転再開へ 予定を前倒し|newspaper=神奈川新聞|date=2020-03-26|accessdate=2020-03-26|archivedate=2020-03-26}}</ref><ref>{{Citenews|title=台風被害の箱根登山鉄道が試運転 7月の全線運転再開へ|url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-351482.html|newspaper=神奈川新聞|date=2020-05-11|accessdate=2020-05-12}}</ref>、同年[[7月23日]]より運転を再開すると発表<ref name="tozan20200624">{{Cite web|和書|format=PDF|title=箱根登山電車 箱根湯本駅-強羅駅間の営業運転再開について|publisher=箱根登山鉄道|url=https://cops.ssl-odakyu.jp/www.hakone-tozan.co.jp/hakone_wp/wp-content/uploads/2020/06/8efd36756ee790977fb0fb4a0b643f14.pdf|date=2020-06-24|accessdate=2020-07-10}}</ref>。そして同日、約9か月ぶりに全線で運転を再開した<ref>{{Cite news|title=箱根登山鉄道、全線で運転再開 「お帰りなさい」沸く沿線|url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-418721.html|newspaper=神奈川新聞|date=2020-07-23|accessdate=2020-07-24}}</ref><ref>{{Citenews|title=お帰り! 箱根登山鉄道 台風被災から9カ月ぶりに全線復旧|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/44443|newspaper=東京新聞|date=2020-07-23|accessdate=2020-07-24}}</ref>。 == 運行形態 == === 軌道条件 === [[File:Tozan ALLEGRA Hakone-yumoto 80permillage.jpg|thumb|300px|最急勾配の80&nbsp;‰。全長15&nbsp;m程度の1両前後端で、高さが約1&nbsp;m違う(2014年11月2日)]] {{Double image aside|right|Hakone-Tozan-80permillage-sign.jpg|160|Hakone-Tozan-Curve-R30-1.jpg|160|80&nbsp;[[パーミル|‰]]の勾配標|半径30&nbsp;mの急カーブ}} 箱根湯本駅 - 強羅駅間は、[[車輪]]と[[軌条|レール]]の間の粘着力だけで走る鉄道としては日本で最も急な勾配(80&nbsp;[[パーミル|‰]])を登る<ref name="rp405-117"/>。この区間に3か所([[出山信号場]]・[[大平台駅]]・[[上大平台信号場]])ある[[スイッチバック]]も山岳鉄道的な特徴である<ref name="rp405-117"/>。このほか、カーブの最小半径も30&nbsp;mと小さい<ref name="rp405-117"/>。 全線が単線で、軌条(レール)は小田原駅 - 箱根湯本駅間が50kgレール<ref name="dj93-38"/>{{refnest|group="注釈"|name="50kgレール"|1&nbsp;mあたりの重さが50&nbsp;[[キログラム|kg]]のレール<ref name="dj93-38"/>。}}であるが、箱根湯本駅 - 強羅駅間では長さ10&nbsp;m<ref name="dj93-38"/>の37kgレール<ref name="dj93-38"/>{{refnest|group="注釈"|name="37kgレール"|1&nbsp;mあたりの重さが37&nbsp;[[キログラム|kg]]のレール<ref name="dj93-38"/>。}}を使用している。37kgレールを使用している理由は、途中のトンネル内で50kgレールを使用すると高さ方向の限界を支障すること<ref name="dj93-38"/>、通過トン数にも十分対応している<ref name="dj93-38"/>といった理由が挙げられている。 小田原駅 - 箱根湯本駅間の最高速度は60&nbsp;km/h<ref name="terada" />、箱根湯本駅 - 強羅駅間での最高速度は40&nbsp;km/hである<ref name="rf240-64"/>。また、下り勾配においては、30&nbsp;‰以下では55&nbsp;km/h<ref name="rj324-73"/>、40&nbsp;‰以下では50&nbsp;km/h<ref name="rj324-73"/>、50&nbsp;‰以下では40&nbsp;km/h<ref name="rj324-73"/>、60&nbsp;‰以下では35&nbsp;km/h<ref name="rj324-73"/>、70&nbsp;‰以下では30&nbsp;km/h<ref name="rj324-74"/>、80&nbsp;‰以下では25&nbsp;km/h<ref name="rj324-74"/>までに速度が制限されている。半径30&nbsp;mの曲線における速度制限は15&nbsp;km/hである<ref name="rj324-74"/>。 === 運行体制 === 運行開始当時は、箱根湯本駅 - 強羅駅間には片道27本の列車が設定されており{{refnest|group="注釈"|1919年8月20日改正の時刻表で確認できる<ref name="1988-i-93"/>。}}、軌道線の市内電車との接続が図られていた<ref name="1988-i-94"/>。 戦後の1950年に小田急の電車が直通運転を開始した際には、小田急の乗り入れ電車は[[特別急行列車|特急]]が3往復と[[急行列車|急行]]が7往復であった<ref name="rp405-18"/>。その後増発され、1959年の時点では日中は特急が最大11往復<ref name="arc1-45"/>、日中の急行は30分間隔での運転で<ref name="arc1-47"/>、これに登山電車が接続していた。 その後、1982年時点においては、小田原駅 - 箱根湯本駅間では小田原駅 - 強羅駅間を直通する登山電車が1時間あたり2本<ref name="rp405-119"/>、これに[[小田急小田原線]]から乗り入れてくる[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]と急行がそれぞれ1時間あたり2本ずつとなっており<ref name="rp405-119"/>、箱根湯本駅 - 強羅駅間ではこの区間を往復する列車が1時間あたり2本設定されており<ref name="rp405-119"/>、小田原駅発着の直通電車とあわせて1時間あたり4本という運行形態であった<ref name="rp405-119"/>。 しかし、登山電車は小型の車両で輸送力にやや難があったため<ref name="rp532-43"/>、1990年3月ダイヤ改正では小田急の車両で運行する小田原駅発の箱根湯本駅行きが設定された<ref name="rp532-43"/>。さらに、2000年12月2日のダイヤ改正から、日中の小田急電車の直通本数を運行本数は1時間あたり2本から4本に倍増<ref name="rp829-206"/>、箱根登山鉄道の車両は日中は小田原駅 - 箱根湯本駅間を走らなくなった<ref name="rp829-206"/>。さらに、2006年3月18日改正では、小田原駅 - 箱根湯本駅間の旅客列車をすべて小田急の車両に置き換えた<ref name="rp829-214"/>。これによって小田原駅 - 入生田駅間は自社の車両が全く走らない区間となった<ref name="2011-64"/>。 2012年3月17日のダイヤ改正からは、小田原駅 - 箱根湯本駅間の折り返し運転の[[各駅停車]]が1時間あたり4本<ref name="t2012-9497"/><ref name="t2012-168171"/>、小田急小田原線[[新宿駅|新宿]]・[[東京メトロ千代田線]][[北千住駅|北千住]]方面から特急ロマンスカーが1時間あたり2本<ref name="t2012-9497"/><ref name="t2012-168171"/>という運行体制が基本となった。箱根湯本駅 - 強羅駅間は、日中1時間あたり4本で運行される<ref name="t2012-9497"/><ref name="t2012-168171"/>。この他に夜間に[[本厚木駅]]着が各停として設定されている。以前は朝夕に[[新松田駅]]発着や平日のみ本厚木駅発も設定されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止となった<ref>{{Cite |title=小田急電鉄とナビタイムジャパンが連携、新ダイヤ対応の乗換案内特設サイトを提供開始 |publisher=ナビタイム |date=2018-2-5 |url=http://corporate.navitime.co.jp/topics/pr/201802/05_4348.html}}</ref>。なお、同改正での本厚木駅着は平日のみだったが、2019年3月16日以降は土休日も設定されるようになった。 登山電車は[[ワンマン運転]]を行っておらず、全列車に車掌が乗務する。 === 箱根駅伝への対応 === {{Double image aside|right|Tozan Kowakidani cross Ekiden Aogaku.jpg|160|Ticket Tozan from Kazamatsuri to Yumoto.jpg|160|箱根駅伝の開催時には、選手を通すため踏切で電車を停止させる|風祭から箱根湯本ゆき乗車券。このような短い区間であっても、2日間有効で途中下車可能だった。}} [[小涌谷駅]]に隣接する小涌谷踏切は[[東京箱根間往復大学駅伝競走|東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)]]のコースとなっていて、出場選手や大会関係車両が通過する<ref name="2011-30"/>。これに対応して、開催日の1月2日(往路)昼頃と1月3日(復路)午前8時台は[[踏切]]に係員を待機させ<ref name="2011-30"/>、選手や大会関係車両の通過時には電車を踏切手前で停止させる<ref name="2011-31"/>。これは選手が踏切で足止めされ、[[遮断機]]をくぐって電車の前に飛び出すという出来事があってから始められた措置である<ref name="2011-31"/>。 === 乗車券・座席券 === 鉄道線の開業当初より{{refnest|group="注釈"|1925年3月22日発行の乗車券で、「通用発行日共二日間」という表記が確認できる<ref name="1988-i-133"/>。}}、線内の乗車券は片道でも2日間有効で[[途中下車]]可能であった<ref name="rp532-42"/>が、2002年4月1日よりこの取り扱いは廃止され<ref name="rj431-73"/>、片道乗車券は他の多くの路線同様通用発売当日限り・下車前途無効に変更された<ref name="rj431-73"/>。 [[2007年]]3月18日からは、鉄道線全線で[[乗車カード#ICカード乗車券|ICカード]]「[[PASMO]]」を導入し、[[2013年]]3月23日からは[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]も開始した。小田原駅・箱根湯本駅では[[自動改札機]]、それ以外の駅では簡易改札機により対応している。なお、[[2003年]]3月19日から[[2008年]]3月13日までは小田原 - 箱根湯本間で[[パスネット]]が利用可能だった。 特急ロマンスカーについては、小田急との通し利用のほか、当日座席に余裕のある場合に限り小田原駅・箱根湯本駅のホームにおいて発売する特急券(大人200円・小人100円)を購入することで、小田原 - 箱根湯本間のみの利用も可能である(座席は指定されない)<ref name="Romancecar"/>。2005年9月30日までは箱根登山鉄道の料金が設定されていなかったため、小田原 - 箱根湯本間のみの利用はできなかった<ref name="1988-u-117"/>。小田急との通し利用については両社の料金を合算する(2018年3月16日までは小田急が箱根登山鉄道の座席料金に相当する額を割り引いていた<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8731_0522542_.pdf 新ダイヤでの運行開始日を決定!]}}(小田急電鉄・2017年12月15日)</ref>)。 1994年から運行する「夜のあじさい号」は全車指定席であり、専用の座席券が必要となる。 ==== 運賃 ==== 鉄道線大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。[[切符|きっぷ]]・ICカード運賃同額。2022年10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|date=2022-08-29 |url=https://www.hakonenavi.jp/_wp/wp-content/uploads/2022/08/67ad9e4acb74e528a6c801f29ebd55b7.pdf |title=鉄道旅客運賃の改定について |format=PDF |publisher=箱根登山鉄道 |accessdate=2022-10-01}}</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align: center;" !キロ程(km)!!運賃(円) |- |1 - 3||style="text-align:right;"|160 |- |4||style="text-align:right;"|220 |- |5||style="text-align:right;"|260 |- |6||style="text-align:right;"|310 |- |7||style="text-align:right;"|360 |- |8||style="text-align:right;"|420 |- |9||style="text-align:right;"|460 |- |10||style="text-align:right;"|510 |- |11||style="text-align:right;"|560 |- |12||style="text-align:right;"|620 |- |13||style="text-align:right;"|670 |- |14||style="text-align:right;"|710 |- |15||style="text-align:right;"|770 |} == 沿線概況 == === 概略 === 小田原駅から箱根湯本駅までの区間における最急勾配は40&nbsp;‰、急曲線の半径も160&nbsp;m程度と、箱根登山鉄道としては緩やかである<ref name="dj93-38"/>。箱根登山鉄道ではこの区間を「平坦線」と称しており<ref name="1985-10"/>、空を見上げるような急勾配で初めて山を登る気分になっていたという<ref name="1985-10"/>が、それでも一般の鉄道と比較すると厳しい条件である<ref name="dj93-38"/>。箱根湯本駅までの区間の沿線には集落が連なる<ref name="rj324-73"/>。 箱根湯本駅から強羅駅まで8.9&nbsp;kmの区間のうち、半分近い4.2&nbsp;kmが80&nbsp;‰の勾配となる区間である<ref name="rj324-71"/>。箱根湯本駅と強羅駅の標高差は445&nbsp;mで<ref name="rj467-53"/>、この区間の平均勾配は50&nbsp;‰と計算される<ref name="rj275-140"/>。この区間では大半の区間で樹木に囲まれており<ref name="dj93-34"/>、夏季には並走する[[国道1号]]からでさえも電車の姿は見えなくなる<ref name="1985-23"/>。 ==== 小田原 - 箱根湯本 ==== [[ファイル:OER 10000 Odawara Hakoneitabashi.jpg|thumb|小田原駅 - 箱根板橋駅間の半径160&nbsp;mの急カーブ(2009年3月17日)]] 標高14&nbsp;mの小田原駅を発車した列車は、しばらくJR[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]と並行して南に下る<ref name="rp532-43"/>。平坦線では唯一のトンネルである小峰隧道を抜けると<ref name="rp532-4344"/>、半径160&nbsp;mのカーブで右にカーブ<ref name="1988-i-6"/>、同時に20&nbsp;‰の坂を下って<ref name="dj93-38"/>[[東海道新幹線]]をくぐり<ref name="rp532-44"/>、標高16&nbsp;mの[[箱根板橋駅]]に到着する。ここからは[[早川 (神奈川県)|早川]]沿いを国道1号と併走して箱根湯本駅に向かうが、箱根板橋駅を発車するとすぐに40&nbsp;‰の上り勾配となる<ref name="rp532-44"/>。国道1号を跨ぎ、しばらく国道1号と併走した後に33.3&nbsp;‰の下り勾配となるが、強羅へ向かう方向ではこれが最後の下り勾配である<ref name="rp532-x"/>。この下り勾配を下りきって[[小田原厚木道路]]の高架橋をくぐる<ref name="dj93-34"/>と標高36&nbsp;mの[[風祭駅]]である。風祭駅を過ぎると最大28.5&nbsp;‰の上り勾配が続き<ref name="1988-i-6"/>、勾配が緩くなると標高54&nbsp;mの[[入生田駅]]で、登山電車の車庫が併設されている<ref name="2009-u-135"/>。 入生田駅を発車するとほどなくすると[[箱根町]]に入るが、38.4&nbsp;‰から40&nbsp;‰程度の勾配が約1&nbsp;kmも続く<ref name="1988-i-6"/>。この間に、進行方向右側の斜面に送水管が見える<ref name="1985-14"/>が、この送水管は登山鉄道開業のために建設された三枚橋発電所への水路で<ref name="1993-52"/>、発電所自体はその後東京電力(現:[[東京電力リニューアブルパワー]])に移管されている<ref name="1993-52"/>。勾配が緩くなり、国道1号から箱根旧街道が分かれるのを見つつ、標高96&nbsp;mの箱根湯本駅に到着する<ref name="rp532-44"/>。 ==== 箱根湯本 - 大平台 ==== {{Double image aside|right|Tozan ALLEGRA St.Moritz Hayakawa Bridge.jpg|160|Hakone-Tozan-Deyama-Signal-Sta-2.jpg|160|早川橋梁|早川橋梁から出山信号場を見る}} 箱根湯本駅を発車すると、急勾配を登る前の助走区間のようなものは存在せず<ref name="hf1-11"/>、100&nbsp;m弱走っただけで直ちに80&nbsp;‰の急勾配にかかる。車内でも[[吊革]]が斜めになっていることが分かる<ref name="hf1-21"/>。3番目のトンネルを抜けると<ref name="rp532-44"/>標高153&nbsp;mの[[塔ノ沢駅]]<ref name="1988-i-6"/>に到着する。上りホームの片隅には[[弁才天|銭洗弁天]]がある<ref name="1988-i-43"/>。 塔ノ沢駅を発車すると箱根登山鉄道では最長のトンネル (317.9&nbsp;m) である大ヶ嶽隧道に入る<ref name="rp532-44"/>が、トンネルの中でも80&nbsp;‰の勾配が続く<ref name="rp532-44"/>。トンネルの出口はかなり上の方にあり<ref name="hf1-17"/>、井戸の底から空を見上げるようにも見え<ref name="1985-20"/>、この電車が登れるのかと驚く人もいる<ref name="hf1-17"/>。次の杉山隧道を抜けると[[早川橋梁 (箱根登山鉄道鉄道線)|早川橋梁]]で深さ43&nbsp;mの谷を渡る<ref name="rp532-44"/>。国道1号を越え、出山隧道に入るとトンネルの中でも80&nbsp;‰の勾配で、その後の松山隧道左へのカーブが続き、ほぼ180度向きが変わる<ref name="1993-59"/>と右手から線路が下ってきて、標高222&nbsp;mの[[出山信号場]]である。ここで左下を見ると、先ほど渡った早川橋梁が眼下に見える<ref name="hf1-18"/>。早川橋梁と出山信号場は直線距離で500&nbsp;mも離れていない<ref name="rj324-74"/>。スイッチバックのため、ここで進行方向が変わり<ref name="1993-59"/>、先ほど右手から下ってきた線路を登ることになる<ref name="1988-i-44"/>が、出山信号場を発車すると80&nbsp;‰の勾配は1.3&nbsp;kmほども続く<ref name="rp532-44"/>。勾配が71&nbsp;‰程度に緩くなり<ref name="1988-i-7"/>、左から線路が下ってくると標高337&nbsp;mの[[大平台駅]]に到着である<ref name="rp532-45"/>。出山信号場から大平台駅までの1.6&nbsp;kmで、一気に115&nbsp;mも高度を上げたことになる<ref name="rp532-45"/>。 ==== 大平台 - 強羅 ==== {{Double image aside|right|Hakone-Tozan-Curve-R30-2.jpg|160|Hakone Open-air Museum in Hakone tozan Railway.jpg|160|小涌谷駅 - 彫刻の森駅間にある半径30&nbsp;mのカーブを曲がっているところ|[[箱根 彫刻の森美術館|彫刻の森美術館]]の敷地の脇を通る登山電車}} 大平台はスイッチバック駅のため、また進行方向が変わる<ref name="rp532-45"/>。66.67&nbsp;‰の勾配<ref name="hf1-21"/>を500&nbsp;mほど進むと標高346&nbsp;mの[[上大平台信号場]]<ref name="1988-i-7"/>。ここもスイッチバックで、さらに進行方向が変わり<ref name="rp532-45"/>、上り80&nbsp;‰勾配の線路を登る<ref name="hf1-25"/>。強羅行きの電車にとっては最後のトンネルとなる大平台隧道を抜けると<ref name="rp532-45"/>、標高398&nbsp;mの[[仙人台信号場]]である<ref name="1988-i-7"/>。仙人台からは再び国道1号と並行する<ref name="hf1-26"/>が、この辺りでは随所に半径30&nbsp;mから40&nbsp;m程度の急カーブが連続する<ref name="1988-i-7"/>。3両編成の列車(全長44&nbsp;m)の場合、先頭車と後尾車では最大で60度近い角度の差がつく。50&nbsp;‰から55&nbsp;‰程度の勾配で徐々に高度を上げ<ref name="1988-i-7"/>、標高436&nbsp;mの[[宮ノ下駅]]に到着する。ホームの向こうには[[明星ヶ岳]]が一望できる<ref name="hf1-27"/>。 宮ノ下駅を発車すると、眼下に[[温泉街]]を見下ろしつつ<ref name="rp532-45"/>、80&nbsp;‰の上り勾配で高度を上げてゆく<ref name="rp532-45"/>。ここから先の区間では本来はトンネルで抜けるところを、温泉脈に悪影響を与えないように地形に逆らわないルート設定となった<ref name="1985-22"/>。やがて、勾配が55&nbsp;‰程度に緩くなり<ref name="1988-i-7"/>、半径40&nbsp;mの右カーブと左カーブが連続した後に<ref name="1988-i-7"/>国道1号の踏切がある<ref name="hf1-28"/>。[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]では選手の通過時にこの踏切の手前で電車を停車させる<ref name="hf1-28"/>。踏切を過ぎるとまもなく標高523&nbsp;mの[[小涌谷駅]]である<ref name="rp532-45"/>。 小涌谷駅を発車すると、山肌に沿って半径30&nbsp;mの左カーブと右カーブが連続する<ref name="2011-17"/>。これも地形に逆らわないルート設定の結果である<ref name="1985-22"/>。ここから先は勾配も33&nbsp;‰程度に緩くなり<ref name="rp532-45"/>、カーブも最急でも半径60&nbsp;m程度に緩くなる<ref name="1988-i-7"/>。[[箱根 彫刻の森美術館|彫刻の森美術館]]の敷地の脇を通りぬけ<ref name="1988-i-45"/>、標高539&nbsp;mの[[彫刻の森駅]]に到着である<ref name="1988-i-7"/>。ここから先はほとんど平坦な線形で<ref name="1988-i-7"/>、地獄澤橋梁を渡ると<ref name="1988-i-45"/>ほどなく標高541&nbsp;mの[[強羅駅]]に到着する<ref name="1988-i-45"/>。スイッチバックが3回あったため、箱根湯本駅を出発した時とは進行方向が逆になった状態での到着である<ref name="rj275-141"/>。 === あじさい電車 === [[ファイル:Tozan 103 Hydrangea.jpg|thumb|線路沿いにはあじさいが植えられている]] 沿線の線路沿いには1万株以上の[[アジサイ|紫陽花(あじさい)]]が植えられている<ref name="hf1-12"/>。これは、元来は土止めの目的で植えられたもので<ref name="rp532-44"/>、開業当時には存在しなかったものである<ref name="rp532-44"/>。しかし、沿線には車窓の開ける場所があまりないことから、季節ごとに車窓から花を楽しめるようにするため<ref name="1985-34"/>、箱根登山鉄道社員の手で植えられたものである<ref name="1985-34"/><ref name="hf1-12"/>。 紫陽花の花が見頃となる6月中旬から7月中旬にかけては、登山電車は「あじさい電車」とも呼ばれるようになり<ref name="g100-65"/>、1975年頃からは社内で「沿線美化委員会」が構成され、紫陽花が見頃になる前の時期に下刈りをするなどの勤労奉仕が行われている<ref name="rp532-44"/>。1981年11月には「全国花いっぱい『花と緑の駅』コンクール」において[[環境庁]]長官賞を受賞した<ref name="g100-65"/>。 1990年代からは夜間に紫陽花の[[ライトアップ]]も行われており<ref name="2011-37"/>、定期列車よりもゆっくりあじさいを鑑賞するための専用列車として、[[座席指定席|座席指定制]]の「夜のあじさい電車」も運行されるようになった<ref name="rj383-46"/>。また、ライトアップ期間中には定期列車でも紫陽花の見どころで臨時停車が行われることがある<ref name="2011-37"/>が、臨時停車する地点は80&nbsp;‰勾配の途中にも設定されている<ref name="2011-37"/>。 == 車両 == === 登山電車の特徴 === 箱根湯本駅 - 強羅駅の区間は、最大80&nbsp;[[パーミル|‰]]の急勾配と地形に沿った非常に急なカーブを持つ路線を走るため、電車は以下のように特殊な仕様となっている。 ==== ブレーキ ==== ===== レール圧着ブレーキ ===== [[保安ブレーキ]]として設けられているもので<ref name="dj93-39"/>、空気圧により作動し台車から[[炭化ケイ素|カーボランダム]]のブレーキシューをレールに押付け圧着させるブレーキである<ref name="rp405-118"/>。通常の鉄道車両では車輪とレールは点または線による接触である<ref name="rf240-63"/>が、このブレーキを使用した場合はわずかに車両が持ち上げられ、カーボランダムシューとレールの面接触によって<ref name="rf240-63"/>ブレーキが作動する仕組みである<ref name="rf240-63"/>。このブレーキは他の常用ブレーキ(空気ブレーキ・電気ブレーキ・手ブレーキ)とは別系統となっており<ref name="dj93-39"/>、300&nbsp;‰の坂でも停止できる性能を備えている<ref name="1993-56"/>。 レールに使用される鋼とカーボランダムの[[摩擦#摩擦係数|静止摩擦係数]](数字が大きいほど摩擦が大きい)は、乾燥した状態で0.30<ref name="1994-24"/>{{refnest|group="注釈"|name="静止摩擦係数0.30"|鉄道の勾配では300&nbsp;‰に相当する傾斜まで車両を支えられる<ref name="1994-24"/>。}}、撒水した状態では0.42である<ref name="1994-24"/>{{refnest|group="注釈"|name="静止摩擦係数0.42"|鉄道の勾配では420&nbsp;‰に相当する傾斜まで車両を支えられる<ref name="1994-24"/>。}}。これは鋼同士、つまり車輪とレールの静止摩擦係数が乾燥時で0.15{{refnest|group="注釈"|name="静止摩擦係数0.15"|鉄道の勾配では150&nbsp;‰に相当する傾斜まで車両を支えられる<ref name="1994-24"/>。}}、撒水時で0.123{{refnest|group="注釈"|name="静止摩擦係数0.123"|鉄道の勾配では123&nbsp;‰に相当する傾斜まで車両を支えられる<ref name="1994-24"/>。}}であるのと比べると2倍から3倍もの差がついており<ref name="1994-24"/>、大きな摩擦力が働くことが分かる。 開業時の1919年に導入された[[小田原電気鉄道チキ1形電車|チキ1形]]では電磁吸着ブレーキを装備していたが、その後1927年に増備されたチキ2形からはカーボランダムを使用したブレーキを採用した。その後、電磁吸着ブレーキは一度滑走が始まると効果がなくなるため<ref name="1994-41"/>、全車両がレール圧着ブレーキに統一された<ref name="1994-41"/>。一時期はカーボランダムの代わりに[[酸化アルミニウム|アランダム(アルミナ)]]が使用されたことがある<ref name="1994-31"/>。 ===== 踏面ブレーキ ===== 常用ブレーキの[[制輪子#鉄道の踏面ブレーキ|制輪子(ブレーキシュー)]]については、鉄道線の車両では[[鋳鉄]]制輪子が使用されている<ref name="2011-34"/>。これは、合成制輪子よりも鋳鉄制輪子の方が車輪の踏面が荒れる<ref name="2011-34"/>ため、高い粘着力を確保できるという理由である<ref name="2011-34"/>。 ==== 撒水装置 ==== {{Double image aside|right|Moha2 109.jpg|180|Water supply to Train of Hakone Tozan Railway.jpg|160|車両の両端にある水タンク|終点で給水を行なう電車}} 鉄道車両においては、レールが車輪を誘導することによって曲線を通過させる仕組みとなっているが、この結果としてカーブ外側のレールに強い力がかかることになる。レールと車輪では車輪の方が硬く<ref name="1985-41"/>、レールの磨耗が発生するため、これを防ぐ必要があり、通常の鉄道ではレールの頭部側面に塗油したり<ref name="1985-41"/>、台車側に塗油器を設けることによってレールの磨耗を抑える<ref name="dj93-39"/>。 しかし、急勾配線区においては塗油することによってレールと車輪の摩擦係数が低下して上り勾配での[[空転#鉄道車両|空転]]や下り勾配での[[滑走#鉄道車両の滑走|滑走]]が発生し<ref name="rf240-57"/>、極めて危険な状態となる<ref name="2011-20"/>。そこで、カーブではレールと車輪の間に撒水することによって磨耗を防ぐこととした<ref name="rf240-57"/>。このため、各車両とも車両の両端部に容量360[[リットル|L]]の水タンクを設け<ref name="dj93-39"/>、運転士の操作によって水を車輪の踏面に撒水する装置を装備している<ref name="dj93-39"/>。片道1回の運行でおよそ50Lから80Lの水を消費する<ref name="dj93-39"/>。 開業当時のチキ1形には撒水装置がなかったため、レール交換が多く繰り返されたという<ref name="1985-41"/>。このため、チキ1形では屋根上に水タンクを設けた<ref name="1994-17"/>が、1927年に増備されたチキ2形以降の車両では連結器の下に水タンクを設置した<ref name="1994-17"/>。 なお、開業当初は粘着力を増す目的で全車両の台車に[[砂撒き装置|撒砂装置]]を設けていた<ref name="1994-25"/>が、撒水したところに砂を撒くことによってレールの磨耗が激しくなったため<ref name="1994-25"/>、撒砂装置は後年、全て撤去されている<ref name="1994-25"/>。 ==== 連結器 ==== 開業当時に製造されたチキ1形では[[連結器#リンク式連結器|リンク式連結器]]を装備しており<ref name="rj467-5455"/>、1927年に登場したチキ2形では[[連結器#自動連結器|自動連結器]]を装備していた<ref name="rj467-55"/>。しかし、登山電車の急勾配や急カーブには対応しておらず、1935年に登山電車用の連結器が開発される<ref name="1985-38"/>までは、連結して運用されることはなかった<ref name="1985-38"/>。 この登山電車用の連結器では、急勾配や急カーブで連結器が外れる事を防止するため<ref name="rj467-54"/>、上下左右に大きく振れる構造となっている<ref name="rj467-54"/>。ただし、「[[箱根登山鉄道2000形電車|サン・モリッツ号]]」の編成中間部では半永久連結器が使用されている<ref name="rj467-54"/>。また、連結器の突き出し部分は長くとられており<ref name="rj467-54"/>、連結面間距離においても通常の20&nbsp;mの通勤電車で500&nbsp;mm程度なのに対して<ref name="1988-i-84"/>、「ベルニナ号」では860&nbsp;mmも空いている<ref name="1988-i-84"/>。 なお、車両間の[[貫通扉|貫通路]]は非常用であり<ref name="rj467-54"/>、貫通幌も設置されておらず<ref name="rj324-71"/>、通常は施錠されている<ref name="dj93-45"/>。 ==== 大容量抵抗器 ==== 電車の走行・ブレーキに使用する[[抵抗器]]は下り坂での[[発電ブレーキ]]で使用の際に大量の熱が発生するため、冷却しやすいように屋根上に搭載している<ref name="rp405-118"/>。開業当時のチキ1形では床下に抵抗器を設けていた<ref name="1988-i-66"/>が、1927年に導入されたチキ2形では屋根上にニクロム合金製の抵抗器を設けた<ref name="1988-i-68"/>。その後、旅客車両では全て屋根上に抵抗器を搭載している<ref name="1988-i-83"/>。 === 車両各説 === ==== 自社車両 ==== ===== 現有車両 ===== ; [[小田原電気鉄道チキ1形電車|チキ1形(チキテ1形)→モハ1形]]:1919年の開業当時に7両が製造された<ref name="1988-i-77"/>。電装品と台車はアメリカ製<ref name="1994-14"/>、車体は[[日本車輌製造]]による木造車体である<ref name="1994-14"/>で、全車両が車両中央に手荷物室を設けていた<ref name="1988-i-78"/>。1926年にチキ5が[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#箱根登山鉄道電車脱線転落事故|脱線転落事故]]により廃車<ref name="1994-26"/>。1934年にはチキ1・チキ2・チキ6・チキ7の4両が荷物室を撤去し<ref name="1988-i-78"/>、荷物室が残った車両はチキテ1形に称号変更を行いチキテ3・チキテ4となる<ref name="1994-30"/>。1950年に全車両について車体の鋼体化と複電圧化改造が行われ、同年に全車両がモハ1形に称号変更<ref name="1994-30"/>、番号は元の番号に100を加算しモハ101〜104・106・107となった<ref name="1988-i-80"/>。その後、1993年の3両編成化に伴い全車両が片側の運転台を撤去して2両固定編成化<ref name="rj324-77"/>。2002年に101-102編成が廃車<ref name="2013-33"/>。2019年7月には箱根登山鉄道最後の[[吊り掛け駆動方式]]の103-107編成が廃車となり、残るは[[中空軸平行カルダン駆動方式]]の104-106編成のみとなった。 ; [[小田原電気鉄道チキ2形電車|チキ2形(チキテ2形)→モハ2形(モハニ2形)]]:1927年に3両が製造された<ref name="1988-i-79"/>。電装品と台車はスイス製<ref name="1994-17"/>、車体は日本車輌製造による木造車体である<ref name="1994-17"/>で、番号はチキ1形に続いてチキ8からチキ10とされた<ref name="1994-17"/>。1934年にはチキ8・10の4両が荷物室を撤去し<ref name="1994-30"/>、荷物室が残った車両はチキテ2形に称号変更を行いチキテ9となる<ref name="1994-30"/>。1935年には保管されていた電装品と台車を使用し、[[川崎車両|川崎車輛]]の鋼製車体を架装したチキ111・チキ112が増備された<ref name="1994-29"/>。1950年に複電圧化改造と同時期に称号変更が行われモハ2形・モハニ2形となり<ref name="1988-i-80"/>、モハ8・モハニ9・モハ10は元の番号に100を加算した<ref name="1988-i-80"/>。1955年から1957年にかけて木造車体の車両については鋼体化が行われ<ref name="1994-31"/>、同時に全車両ともモハ2形に揃えられモハ108〜112となった<ref name="1994-30"/>。1991年に2両(モハ111・112)が廃車<ref name="rj324-76"/>、2017年にはモハ110<ref name="response20170523"/>、2021年には109が廃車となり、残るは108号のみとなっている。 ; [[箱根登山鉄道1000形電車|1000形「ベルニナ号」]]:約45年ぶりとなる新型車両として1981年に登場<ref name="rp405-118"/>、[[1984年]]には1編成が増備<ref name="g100-92"/>、2004年には冷房改造と同時に後述する「サン・モリッツ号」の中間車を組み込んで3両編成となった<ref name="hf1-32"/>。第25回[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]受賞車両<ref name="BL88-28"/>。 ; [[箱根登山鉄道2000形電車|2000形「サン・モリッツ号」]]:登山電車では初の冷房車として1989年に登場<ref name="rj275-141"/>。1991年に1編成が増備され<ref name="1994-33"/>、1993年には3両編成化のため中間車2両を増備<ref name="1994-42"/>、1997年には3両編成1編成が増備された<ref name="rj467-55"/>。2004年には2編成が2両編成となり<ref name="rj467-55"/>、捻出された中間車は前述の「ベルニナ号」に組み込まれた<ref name="hf1-32"/>。 ; [[箱根登山鉄道3000形電車|3000形・3100形「アレグラ号」]] :箱根登山鉄道では初の[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]車両となるほか、[[回生ブレーキ]]・LED照明を採用する。デザイン設計は[[岡部憲明|岡部憲明アーキテクチャーネットワーク]]に依頼<ref name="rj550-149"/>。2014年4月14日に最初の車両が入線<ref name="tozan140414"/>、2014年11月1日より運行を開始した<ref name="tozan140414"/>。2000形の増結用として2014年に2両が製造され<ref name="rj550-149"/>、その後も旧型車両の置き換えのために導入が進められる予定<ref name="rj573-117"/>。2016年12月5日には、3000形を片運転台・2両固定編成に設計変更した3100形を1編成導入することが発表され<ref name="tozan20161205"/>、2017年5月15日より運行を開始した<ref name="tozan20170517"/>。 ; [[箱根登山鉄道モニ1形電車|モニ1形]]:1975年に製造された荷物電車<ref name="dj93-45"/>。2022年にはLED化などの更新工事を受けた。 ===== 過去の車両 ===== ; [[小田原電気鉄道チキ2形電車|チキ3形→モハ3形]]:1935年に川崎車両で3両が製造された<ref name="1994-29"/>。電装品・台車も日本製で<ref name="1994-29"/>、当初より番号はチキ113からチキ115となっている<ref name="1994-29"/>。1984年に2両が廃車<ref name="rj324-76"/>、1997年に残る1両も廃車となり全廃<ref name="2011-75"/>。 ; [[小田原電気鉄道ユ1形電車|ム1形]]:開業より早い1916年に2両が製造された電動無蓋貨車<ref name="1994-17"/>で、建設時から資材輸送に使用されていた<ref name="dj93-45"/>。1952年に1両が廃車された<ref name="1988-i-86"/>が、その後も1両が車庫での入換用に残されていた<ref name="dj93-45"/>。1992年に全廃。 ; [[小田原電気鉄道ユ1形電車|ユ1形]]:1921年に2両が製造された電動有蓋貨車<ref name="1994-18"/>で、箱根の旅館で使用する食材や資材などの運搬に使用されていた<ref name="1994-18"/>。1952年に1両が廃車された<ref name="1988-i-87"/>が、その後も保線用に残されていた<ref name="1988-i-87"/>。1976年に全廃<ref name="1988-i-87"/>。 ==== 乗り入れ車両 ==== [[ファイル:OER 1160 Tozan Color Kazamatsuri.jpg|thumb|小田原 - 箱根湯本間の各駅停車に使用されていた、登山電車カラーの[[小田急1000形電車|小田急1000形]]]] 1950年以降に小田急の電車が乗り入れた当初は、小田急から乗り入れてくる車両は[[小田急1600形電車|1600形]]・[[小田急1900形電車|1900形]]などの30両に限定されていた<ref name="1988-i-107"/>。これは小田急の線路条件を上回る勾配に対応するため、ブレーキ装置に改良を施した車両に限定したためである<ref name="1988-i-108"/>。その後[[小田原急行鉄道201形電車|1400形]]<ref name="1988-i-102"/>や[[小田急2200形電車|2200形]]・[[小田急2400形電車|2400形]]なども乗り入れるようになった<ref name="2000-75"/>。 その後、1982年頃までは小田急の乗り入れ車両は、通勤車両は[[小田急2400形電車|2400形]]に限定されるようになった<ref name="rp405-117"/>。これは乗り入れ区間の3駅のホームの長さが短かったためであった<ref name="rp405-117"/>が、1982年7月からは[[小田急5000形電車 (初代)|5200形]]・[[小田急9000形電車|9000形]]などの大型車両も6両編成で乗り入れるようになった<ref name="2000-75"/>。ただし、しばらくの間は特急車両以外の乗り入れ車両は側面窓が一段下降窓の車両に限定された<ref name="rp532-43"/>。 2000年頃には側面窓が二段上昇窓となっている小田急の電車も下段の窓から手が出せないように対策を行い<ref name="2000-75"/>、通勤車両は[[小田急4000形電車 (初代)|4000形(初代)]]を除いた6両編成までなら全ての形式が乗り入れ可能となった<ref name="2000-75"/>。 2008年3月15日のダイヤ改正からは、小田急の車両は特急車両を除き、4両編成の車両のみが乗り入れている<ref name="rp829-215"/><ref group="注釈">同日より供用開始の風祭駅新ホームは4両編成までの対応となり、また後に箱根板橋駅・入生田駅も嵩上げやホームの一部撤去により、実質的な有効長が4両編成分に縮小されている。</ref>。 [[2009年]][[3月14日]]のダイヤ改正より、[[小田急1000形電車|1000形]]のうち4両固定編成×3編成が登山電車と同じ赤色のカラーリングに変更され<ref name="rp829-217"/>、2012年2月頃にはさらに4両固定編成×1編成が赤色に変更<ref name="rf613-189"/>。同年3月17日のダイヤ改正以降、小田原 - 箱根湯本間の各駅停車はこの4編成に限定して運用されていたが<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120505125945if_/http://hakone-tozan.co.jp/info/20120215.pdf 「2012年3月17日(土) ダイヤ改正を実施します」]}} 箱根登山鉄道公式サイトニュースリリース(インターネットアーカイブ)</ref>、2021年7月より通常の小田急カラーの1000形更新車の運用が開始され、登山電車カラーの車両は2022年9月をもって運用を離脱した。 なお、特急車両については、[[小田急1900形電車|1910形(2000形)]]以降の全ての特急車両が乗り入れている<ref name="2000-74"/><ref group="注釈">10両編成の[[小田急30000形電車|30000形「EXE」「EXEα」]]と[[小田急60000形電車|60000形「MSE」]]については、小田原駅で[[増解結|切り離し]]を行い、最大6両編成で乗り入れている。</ref>。 == データ == === 路線データ === * 管轄(事業種別):箱根登山鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):15.0 [[キロメートル|km]] * [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]、小田原駅 - 箱根湯本駅間)、1,435 mm([[標準軌]]、入生田駅 - 強羅駅間) * 駅数:11駅(起終点駅含む) * 複線区間:なし(全線[[単線]]) * 電化区間:全線 ** [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]](小田原駅 - 箱根湯本駅間) ** 直流750 V(箱根湯本駅 - 強羅駅間) * 最高速度:60 [[キロメートル毎時|km/h]](小田原駅 - 箱根湯本駅間)<ref name="terada" />、40 km/h(箱根湯本駅 - 強羅駅間)<ref name="rf240-64"/> * 最急勾配:80 [[パーミル|‰]] === 駅一覧 === 1985年時点で、箱根登山鉄道が公表している[[標高]]と、[[国土地理院]]の地図に記載されている標高は異なっていた<ref name="1985-51"/>。これは、箱根登山鉄道の建設時の測量の際の[[水準点]]が異なるためであった<ref name="1985-51"/>。しかし、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の後に小田原市内各所で[[海抜]]表示が行われた際に、駅前の標高表示と駅名標で数値が異なるとの指摘を受けて標高を再調査したところ、2013年7月に全ての駅で数値が異なっていたことが判明したため、同年11月に各駅の表示を修正することになった<ref name="tozan131129"/>。下表の標高は修正後の数値である。 * [[駅ナンバリング|駅番号]]は、2014年1月より順次導入。小田急小田原線新宿駅からの通し番号となっている<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf 小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します!]}} - 小田急電鉄、2013年12月24日</ref>。 * 全駅[[神奈川県]]内に所在。 * 入生田駅 - 箱根湯本駅間は、軌間1,067&nbsp;mm(狭軌)と軌間1,435&nbsp;mm(標準軌)の三線軌条区間。 * 箱根湯本駅で運転系統が分離されているため、箱根湯本駅を跨ぐ区間を乗車する場合は乗り換えが必要となる。 ; 凡例 : 停車駅 … ●:停車、|:通過。各駅停車は省略(全旅客駅に停車)。 : 線路(全線単線) … ◇・∧:[[列車交換]]可能(∧は終点)、◆:[[スイッチバック]]駅/信号場(列車交換可能)、|:列車交換不可、∨:ここより下は単線、(空欄):線路なし {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:2.2em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|架線<br />電圧 !rowspan="2" style="width:3.2em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅番号 !rowspan="2" style="width:7.2em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅名 !rowspan="2" style="width:2.2em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|標高<br />(m)<br /><ref name="tozan131129"/> !rowspan="2" style="width:2.2em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|駅間<br />キロ !rowspan="2" style="width:2.2em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|累計<br />キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #f15a22; background:#fcc; font-size:100%;"|{{縦書き|特急ロマンスカー}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #f15a22;"|接続路線・備考 !colspan="2" |線路 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #f15a22;"|所在地 |- !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|{{縦書き|標準軌}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f15a22;"|{{縦書き|狭軌}} |- |rowspan="5" style="text-align:center; width:2.5em; height:9em; background:#99ccff;"|'''1500<br />[[ボルト (単位)|V]]''' !OH47 |[[小田原駅]] |style="text-align:right;"|14 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |'''[[小田急電鉄]]:[[File:Odakyu odawara.svg|15px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]] (OH47) ([[本厚木駅]]([[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]のみ[[新宿駅]]及び [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線]][[北千住駅]])まで直通運転)'''<br />[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|15px]] [[東海道新幹線]]<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JT_line_symbol.svg|15px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]([[上野東京ライン]]・[[湘南新宿ライン]])(JT 16)<br />[[伊豆箱根鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Daiyuzan.svg|15px|ID]] [[伊豆箱根鉄道大雄山線|大雄山線]] (ID01) |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[小田原市]] |- !OH48 |[[箱根板橋駅]] |style="text-align:right;"|16 |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !OH49 |[[風祭駅]] |style="text-align:right;"|36 |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !OH50 |[[入生田駅]] |style="text-align:right;"|54 |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|4.2 |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|◇ |- !rowspan="2"|OH51 |rowspan="2"|[[箱根湯本駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|96 |rowspan="2" style="text-align:right;"|1.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|6.1 |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fcc;"|● |rowspan="2"|''運転系統上の境界駅(小田原方面と強羅方面は乗り換え)'' |rowspan="2" style="text-align:center;"|◇ |rowspan="2" style="text-align:center;"|∧ |rowspan="11"|[[足柄下郡]]<br />[[箱根町]] |- |rowspan="10" style="text-align:center; width:2.5em; height:18em; background:#ddffff;"|'''750<br />[[ボルト (単位)|V]]''' |- !OH52 |[[塔ノ沢駅]] |style="text-align:right;"|153 |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|7.1 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |&nbsp; |- !- |[[出山信号場]] |style="text-align:right;"|222 |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|8.3 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◆ |&nbsp; |- !OH53 |[[大平台駅]] |style="text-align:right;"|337 |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|9.9 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◆ |&nbsp; |- !- |[[上大平台信号場]] |style="text-align:right;"|346 |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|10.4 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◆ |&nbsp; |- !- |[[仙人台信号場]] |style="text-align:right;"|398 |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|11.2 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |&nbsp; |- !OH54 |[[宮ノ下駅]] |style="text-align:right;"|436 |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|12.1 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |&nbsp; |- !OH55 |[[小涌谷駅]] |style="text-align:right;"|523 |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|13.4 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |&nbsp; |- !OH56 |[[彫刻の森駅]] |style="text-align:right;"|539 |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|14.3 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |&nbsp; |- !OH57 |[[強羅駅]] |style="text-align:right;"|541 |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|15.0 |&nbsp; |[[箱根登山鉄道]]:[[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|15px|OH]] [[箱根登山鉄道鋼索線|鋼索線(箱根登山ケーブルカー)]] (OH57) |style="text-align:center;"|∧ |&nbsp; |} === 過去の接続路線 === * 箱根湯本駅:[[箱根登山鉄道小田原市内線|軌道線]](1919 - 1935年) * 箱根板橋駅:[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原町内線 - 小田原市内線]](1935 - 1956年) == その他 == === ドキュメンタリー === * [[新日本紀行]]「天下の嶮の登山電車〜神奈川県・箱根町〜」(1981年5月10日、[[NHK総合テレビジョン|NHK]])<ref>{{Cite web2 |url=http://www.nhk.jp/p/ts/W56365KYPX/episode/te/2W4ZMPL1JW/ |title=天下の嶮の登山電車〜神奈川県・箱根町〜 |date=2022-06-04 |publisher=NHK |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230630033205/http://www.nhk.jp/p/ts/W56365KYPX/episode/te/2W4ZMPL1JW/ | df=ja |url-status=live |archivedate=2023-06-30 |accessdate=2023-06-30}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|3|refs= <ref name="BL88-28">[[#BL88|鉄道友の会『ブルーリボン賞の車両'88』(1988) p.28]]</ref> <ref name="1981-186">[[#伊藤1981|伊藤東作『鉄道110年とっておきの話』 (1981) p.186]]</ref> <ref name="1981-187">[[#伊藤1981|伊藤東作『鉄道110年とっておきの話』 (1981) p.187]]</ref> <ref name="1985-7">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.7]]</ref> <ref name="1985-8">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.8]]</ref> <ref name="1985-10">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.10]]</ref> <ref name="1985-14">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.14]]</ref> <ref name="1985-18">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.18]]</ref> <ref name="1985-1819">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) pp.18-19]]</ref> <ref name="1985-19">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.19]]</ref> <ref name="1985-20">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.20]]</ref> <ref name="1985-22">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.22]]</ref> <ref name="1985-23">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.23]]</ref> <ref name="1985-25">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.25]]</ref> <ref name="1985-27">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.27]]</ref> <ref name="1985-31">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.31]]</ref> <ref name="1985-34">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.34]]</ref> <ref name="1985-38">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.38]]</ref> <ref name="1985-40">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.40]]</ref> <ref name="1985-41">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.41]]</ref> <ref name="1985-51">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.51]]</ref> <ref name="1985-52">[[#渡辺1985|渡辺一夫『トコトコ登山電車』 (1985) p.52]]</ref> <ref name="1987-85">[[#吉川1987|吉川文夫編 『小田急 車両と駅の60年』 (1987) p.85]]</ref> <ref name="1988-i-6">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.6]]</ref> <ref name="1988-i-7">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.7]]</ref> <ref name="1988-i-43">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.43]]</ref> <ref name="1988-i-44">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.44]]</ref> <ref name="1988-i-45">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.45]]</ref> <ref name="1988-i-66">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.66]]</ref> <ref name="1988-i-68">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.68]]</ref> <ref name="1988-i-77">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.77]]</ref> <ref name="1988-i-78">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.78]]</ref> <ref name="1988-i-79">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.79]]</ref> <ref name="1988-i-80">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.80]]</ref> <ref name="1988-i-83">[[#市川1988|市川健三編 『箱根の鉄道100年』 (1988) p.83]]</ref> <ref 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白水村 (熊本県阿蘇郡)
白水村(はくすいむら)は、熊本県にかつてあった村。阿蘇郡に属した。2005年2月13日に久木野村・長陽村と合併し、南阿蘇村となった。村内には白川水源や竹崎水源などの南阿蘇村湧水群があり、名水の里として知られる。 阿蘇山の南側、南阿蘇(南郷谷)に位置し、カルデラの内側の比較的広々とした地域。旧阿蘇郡白水村には「水の生まれる里」として知られ、村内に8カ所の湧水が湧いている。
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白水村(はくすいむら)は、熊本県にかつてあった村。阿蘇郡に属した。2005年2月13日に久木野村・長陽村と合併し、南阿蘇村となった。村内には白川水源や竹崎水源などの南阿蘇村湧水群があり、名水の里として知られる。
{{日本の町村 (廃止) | 画像 = Shirakawa_Spring_02.jpg | 画像の説明 = [[白川水源]] | 旗 = [[ファイル:Flag of Hakusui, Kumamoto.svg|100px|白水村旗]] | 旗の説明 = 白水[[市町村旗|村旗]] | 紋章 = [[ファイル:Emblem of Hakusui, Kumamoto.svg|75px|白水村章]] | 紋章の説明 = 白水[[市町村章|村章]]<br />[[1972年]][[8月1日]]制定 | 廃止日 = 2005年2月13日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''白水村'''、[[久木野村 (熊本県阿蘇郡)|久木野村]]、[[長陽村]] → [[南阿蘇村]]| | 現在の自治体 = 南阿蘇村 | よみがな = はくすいむら | 自治体名 = 白水村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 熊本県 | 郡 = [[阿蘇郡]] | コード = 43429-9 | 面積 = 47.89 | 境界未定 = あり | 人口 = 4523 | 人口の時点 = 2003年 | 隣接自治体 = [[阿蘇市]]、阿蘇郡久木野村、長陽村、[[高森町 (熊本県)|高森町]]、[[上益城郡]][[山都町]] | 木 = [[アセビ]] | 花 = アセビ | シンボル名 = 村の鳥 | 鳥など = | 郵便番号 = 869-1503 | 所在地 = 阿蘇郡白水村大字吉田1495<br />[[ファイル:Minamiaso Village Hakusui Office.JPG|center|240px|白水村役場(現・南阿蘇村白水庁舎)]] | 外部リンク = | 座標 = {{Coord|format=dms|type:city(4523)_region:JP-43|display=inline,title|name=白水村}} | 位置画像 = [[ファイル:HakusuiMuraKennai2003.png]]| | 特記事項 = }} '''白水村'''(はくすいむら)は、[[熊本県]]にかつてあった[[村]]。[[阿蘇郡]]に属した。[[2005年]][[2月13日]]に[[久木野村 (熊本県阿蘇郡)|久木野村]]・[[長陽村]]と[[日本の市町村の廃置分合|合併]]し、[[南阿蘇村]]となった。村内には[[白川水源]]や[[竹崎水源]]などの南阿蘇村湧水群があり、名水の里として知られる。 == 地理 == [[阿蘇山]]の南側、[[南阿蘇]]([[南郷谷]])に位置し、[[カルデラ]]の内側の比較的広々とした地域。旧阿蘇郡白水村には「水の生まれる里」として知られ、村内に8カ所の湧水が湧いている<ref>季節を歩く=白水村 水源めぐり 個性豊かな「涼」求めて <季節を歩く><水源めぐり><水> 熊本日日新聞 2001年08月13日 夕刊 編カ (全954字)</ref>。 * 河川:[[白川 (熊本県)|白川]] == 歴史 == * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行により、吉田村・白川村・両併村・一関村・中松村が合併し白水村が発足。 * 2005年(平成17年)2月13日 - 周囲2村と合併して'''南阿蘇村'''となり、廃止。 == 行政 == * 村長:桐原夏雄(任期:1987年 - 2005年) == 地域 == === 教育 === ; 中学校 * 白水村立白水中学校(現・[[南阿蘇村立白水中学校]]) ; 小学校 * 白水村立白水小学校(現・[[南阿蘇村立白水小学校]]) * 白水村立中松小学校(現・[[南阿蘇村立中松小学校]]) * 白水村立両併小学校(現・[[南阿蘇村立両併小学校]]) == 交通 == === 鉄道 === * [[南阿蘇鉄道]] ** [[南阿蘇鉄道高森線|高森線]]:([[長陽村]]) - [[南阿蘇水の生まれる里白水高原駅]] - [[中松駅]] - '''[[阿蘇白川駅]]''' - [[見晴台駅]] - ([[高森町 (熊本県)|高森町]]) === 道路 === * [[国道325号]] == 観光地 == * 阿蘇山の中央登山道 * [[白水神社]] * [[瑠璃温泉]] * [[南阿蘇ルナ天文台]](82cm:九州最大) * [[一心行の大桜]]。 * [[白川水源]]、[[竹崎水源]]などの湧水地 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[熊本県の廃止市町村一覧]] == 外部リンク == * [https://www.aso-hakusui.com/index.php 株式会社はくすい] - 村が株式の91%を保有し運営する企業体、代表取締役は村長が兼任。 ** 白水温泉「瑠璃」・物産館「自然庵」・水加工場「はくすい」及び「白水郷美術館」の管理運営業務の受託 * [http://www.kumashoko.or.jp/minamiaso/ 南阿蘇村商工会] * [https://maps.gsi.go.jp/ 国土地理院 地図閲覧サービス] ** [https://maps.gsi.go.jp/?ll=32.82547222,131.0818333&z=15#15/32.825473/131.081808/&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名:肥後吉田[北東]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はくすいむら}} [[Category:阿蘇郡]] [[Category:南阿蘇村の歴史]] [[Category:熊本県の市町村 (廃止)]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:2005年廃止の日本の市町村]]
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重賞
重賞(じゅうしょう)とは競馬の競走のなかの目玉となる大きな競走である。重賞の開催は事前から告知を行い有力馬を集め、多くの観客を集めるための看板となる競走である。競輪やボートレースにも存在するが、競輪やボートレースは節もしくは開催単位で行われる関係上、「重賞」とは呼ばず、「グレードレース」(競輪の場合は特別競輪や記念競輪などとも)と呼ばれることが多い。 重賞の語源は英語のパターンレース(pattern race)から来ている。パターンレースとは「毎年一定の時期に一定の条件で繰り返し行われる競走」のことで、18世紀のイギリスで始まった。それ以前は競馬の競走は開催直前まで条件が確定されないことが常であったが、パターンレースが広まることによって有力馬が目標を持って調整を行うことが可能となった。「重賞」という語は、このパターンレースの「回を重ねて賞を行う」点を採って意訳したものとされる。もちろん「重要な賞」であることに疑いはないが、patternという語に「重要な」という意味はない。 国際格付番組企画諮問委員会(IRPAC)によってパターンレースとして認知された競走は、IRPACが毎年作成する国際セリ名簿基準書(International Cataloguing Standards book)に掲載される。これらのうち、一定の水準以上のレベルに達しているものがG1からG3に格付され、残ったものはリステッド競走(Listed races、L)と呼ばれる。 リステッド競走を含め、この競走リストに掲載された競走は、国際的な競走馬の取引において、競走馬や種牡馬の戦績を表すために用いることが公認される。ブラックタイプ方式と呼ばれるセリ名簿の表示基準では、この競走リストに掲載された競走しか表示が認められず、またグループ・グレードに応じて、より目立つ字体の使用がゆるされる。 一般にIRPACの求める要件として、その競走が国際的にみて出走が自由であるという条件がある。この条件をクリアできなければ、どれほど賞金が高くてもG3以上の格付けを得るのは困難である。かつて賞金が世界トップレベルだったジャパンカップもこのために格付を得るには長い年月を要した。イギリスをはじめ多くの競馬開催国では、出走できる要件に年齢・性別以外の条件を付している競走があり、生産国や生産地、取引様態(特定のセリ市で売買された競走馬しか出走できないもの)などの制約がある場合には、リステッド競走どまりである。しかし、こうした競走でも、賞金がG1より高額だったりするものもあり、必ずしもIRPACの認定格付けと、その競走のレベルの高さが一致するものではない。 日本(中央競馬)ではリステッド競走の格付けは長らく行われて来なかったが、2019年より「オープン競走の中で質の高い競走」について、「競走体系上および生産の指標としてグレード競走に次ぐ重要な競走であることを明示する」ため、新たにリステッド競走(L)とすることを決定している。なお、リステッド競走の格付け認定は日本グレード格付け管理委員会において審査・承認が行われる。但し中央競馬におけるリステッド競走はその格付けを得られるレベルのオープン競走の全てでリステッド格付けを得ているわけではなく興行上の効果をねらって意図的に取捨選択をしており、リステッド格付けを得ていないオープン競走のレベルが必ずしもリステッド競走より劣るわけではない。 また、地方競馬においては国際GI格付を得ている東京大賞典を除くダートグレード競走は国際的には全てリステッド競走として取り扱われている。 なお、日本では、リステッド競走を重賞に次ぐ競走として扱い、重賞には含まない。しかし、重賞を本来の「パターンレース」と解釈するならば、当然、リステッド競走も重賞に含まれる。 日本では、古い時代には「重要な競走」を表す用語としては、「特別競走」や「大競走」が用いられてきた。中央競馬では1990年代まで4歳牝馬特別(現在のフィリーズレビューやフローラステークス)や阪神牝馬特別(現在の阪神牝馬ステークス)などのように、「特別」という名称がつく「重賞」競走があった。地方競馬ではプリンセス特別(笠松競馬場)がラブミーチャン記念に改称された2014年を最後に「特別」という名称がつく重賞競走は消滅したが、準重賞競走(上記リステッド競走とは異なる概念)では潮菊特別(高知競馬場)のように特別の名を冠した競走が現存している。 日本でも重賞のスケジュールは年度ごとの発表であり、なおかつ頻繁な条件の変更は行われないのに対し、一般競走・特別競走の番組が一部をのぞいて中央競馬では年3回、地方競馬では当該開催の直前に所属馬の動向に鑑みて発表されることから「重賞はパターンレースの一種」であるということは間違いない。 重賞に対応する言葉としてグレード競走(グループ競走)という表現が用いられることも多いが、日本にはグレードなどの格付けのない重賞も地方競馬を中心に多数存在する。特に、日本中央競馬会が、国際セリ名簿基準委員会による「国際パート1」に認定後、2(3)歳限定競走に国際グレードが取り入れられるようになった2010年以後、新たに重賞競走の認定を受けた競走に関しては原則として最低2年間は格付けなしとするルールが設けられている。準重賞は地方競馬では現在も用いられている。なお、2019年度から中央競馬においても、上記の通り『リステッド競走(L格付け)』を定めている。 中央競馬では、降雪などにより出馬投票後に芝コースからダートコースに馬場変更となるなど、施行条件に著しい変更があった場合は重賞競走のままであるが、格付は設定されない(当初の格付は無効となり「格付なし」となる)。この適用を受けた事例として、 の2例が発生している。ただし、この取り扱いは1984年2月4日から実施されているものであり、1984年1月にいずれも降雪の影響の為、芝コースからダートコースに変更されて施行した、 については、当初の格付のままで施行されている。 競馬中継などで出演者が単に「重賞」と言った場合はGI競走を除いたGII・GIIIの競走を指していることが多い。 便宜上、以下、中央競馬施行の重賞は「中央」、地方競馬施行の統一重賞は「統一」、地方競馬施行の統一重賞でない重賞は「地方」、ここまでの総称は「日本」、外国競馬施行の重賞は「外国」ないし具体的な国名で表す。
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重賞(じゅうしょう)とは競馬の競走のなかの目玉となる大きな競走である。重賞の開催は事前から告知を行い有力馬を集め、多くの観客を集めるための看板となる競走である。競輪やボートレースにも存在するが、競輪やボートレースは節もしくは開催単位で行われる関係上、「重賞」とは呼ばず、「グレードレース」(競輪の場合は特別競輪や記念競輪などとも)と呼ばれることが多い。
{{複数の問題 |独自研究=2015年1月 |正確性=2012年10月 |出典の明記=2012年9月 }} '''重賞'''(じゅうしょう)とは[[競馬]]の[[競馬の競走|競走]]のなかの目玉となる大きな競走である。重賞の開催は事前から告知を行い有力馬を集め、多くの観客を集めるための看板となる競走である。[[競輪]]や[[ボートレース]]にも存在するが、競輪やボートレースは節もしくは開催単位で行われる関係上、「重賞」とは呼ばず、「'''グレードレース'''」(競輪の場合は特別競輪や[[記念競輪]]などとも)と呼ばれることが多い。 == 解説 == {{要出典|範囲=重賞の語源は英語の'''パターンレース'''(pattern race)から来ている。パターンレースとは「毎年一定の時期に一定の条件で繰り返し行われる競走」のことで、[[18世紀]]の[[イギリス]]で始まった。それ以前は競馬の競走は開催直前まで条件が確定されないことが常であったが、パターンレースが広まることによって有力馬が目標を持って調整を行うことが可能となった。「重賞」という語は、このパターンレースの「回を'''重'''ねて'''賞'''を行う」点を採って意訳したものとされる。もちろん「重要な賞」であることに疑いはないが、patternという語に「重要な」という意味はない。|date=2023年7月}} === リステッド競走 === {{Main|リステッド競走}} [[国際格付番組企画諮問委員会]](IRPAC)によってパターンレースとして認知された競走は、IRPACが毎年作成する[[国際セリ名簿基準書]](International Cataloguing Standards book)に掲載される。これらのうち、一定の水準以上のレベルに達しているものがG1からG3に格付され、残ったものは'''[[リステッド競走]]'''('''Listed races'''、'''L''')と呼ばれる。 リステッド競走を含め、この競走リストに掲載された競走は、国際的な競走馬の取引において、競走馬や種牡馬の戦績を表すために用いることが公認される。ブラックタイプ方式と呼ばれるセリ名簿の表示基準では、この競走リストに掲載された競走しか表示が認められず、またグループ・グレードに応じて、より目立つ字体の使用がゆるされる。 一般にIRPACの求める要件として、その競走が国際的にみて出走が自由であるという条件がある。この条件をクリアできなければ、どれほど賞金が高くてもG3以上の格付けを得るのは困難である。かつて賞金が世界トップレベルだった[[ジャパンカップ]]もこのために格付を得るには長い年月を要した。イギリスをはじめ多くの競馬開催国では、出走できる要件に年齢・性別以外の条件を付している競走があり、生産国や生産地、取引様態(特定のセリ市で売買された競走馬しか出走できないもの)などの制約がある場合には、リステッド競走どまりである。しかし、こうした競走でも、賞金がG1より高額だったりするものもあり、必ずしもIRPACの認定格付けと、その競走のレベルの高さが一致するものではない。 日本(中央競馬)ではリステッド競走の格付けは長らく行われて来なかったが、[[2019年]]より「オープン競走の中で質の高い競走」について、「競走体系上および生産の指標としてグレード競走に次ぐ重要な競走であることを明示する」ため、新たにリステッド競走(L)とすることを決定している。なお、リステッド競走の格付け認定は[[日本グレード格付け管理委員会]]において審査・承認が行われる<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201803/030501.html 一部オープン競走のリステッド格付けについて] - 日本中央競馬会(JRA)ホームページ(ニュースリリース)2018年3月5日</ref>。但し中央競馬におけるリステッド競走はその格付けを得られるレベルのオープン競走の全てでリステッド格付けを得ているわけではなく興行上の効果をねらって意図的に取捨選択をしており<ref>『優駿』平成31年2月号(79巻2号:通巻902号)、p158-159</ref>、リステッド格付けを得ていないオープン競走のレベルが必ずしもリステッド競走より劣るわけではない。 また、地方競馬においては国際GI格付を得ている[[東京大賞典]]を除く[[ダートグレード競走]]は国際的には全てリステッド競走として取り扱われている<ref>[https://www.keiba.go.jp/about/english/listed2018.html Racing by local governments] - 地方競馬全国協会(NAR)ホームページ(英語版)2018年版 2019年4月23日</ref>。 なお、日本では、リステッド競走を重賞に次ぐ競走として扱い、重賞には含まない。しかし、重賞を本来の「パターンレース」と解釈するならば、当然、リステッド競走も重賞に含まれる。 === 日本における「重賞」 === 日本では、古い時代には「重要な競走」を表す用語としては、「特別競走」や「大競走」が用いられてきた。[[中央競馬]]では1990年代まで'''4歳牝馬特別'''(現在の[[フィリーズレビュー]]や[[フローラステークス]])や'''阪神牝馬特別'''(現在の[[阪神牝馬ステークス]])などのように、「特別」という名称がつく「重賞」競走があった。[[地方競馬]]では'''プリンセス特別'''([[笠松競馬場]])が[[ラブミーチャン記念]]に改称された2014年を最後に「特別」という名称がつく重賞競走は消滅したが、準重賞競走(上記リステッド競走とは異なる概念)では'''潮菊特別'''([[高知競馬場]])のように特別の名を冠した競走が現存している。 日本でも重賞のスケジュールは年度ごとの発表であり、なおかつ頻繁な条件の変更は行われないのに対し、一般競走・特別競走の番組が一部をのぞいて中央競馬では年3回、地方競馬では当該開催の直前に所属馬の動向に鑑みて発表されることから「重賞はパターンレースの一種」であるということは間違いない。 重賞に対応する言葉としてグレード競走(グループ競走)という表現が用いられることも多いが、日本にはグレードなどの格付けのない重賞も地方競馬を中心に多数存在する。特に、日本中央競馬会が、[[国際セリ名簿基準委員会]]による「国際パート1」に認定後、2(3)歳限定競走に国際グレードが取り入れられるようになった[[2010年]]以後、新たに重賞競走の認定を受けた競走に関しては原則として最低2年間は格付けなし<ref group="注">原則として初年度は「新設重賞」、2年目(以後)は「重賞」と表記。ただし過去に、同条件の特別・リステッド競走が重賞に昇格した場合には格付けされる場合がある。</ref>とするルールが設けられている<ref group="注">中央競馬では[[平地競走]]は[[1984年]]、[[障害競走]]も[[1999年]]からすべての重賞競走に格付けがなされ、格付けのなかった[[アングロアラブ]]系競走は[[1995年]]に廃止されたため、しばらく全重賞に格付けがなされていた(芝コースからダートコースに馬場変更となったために格付けがはずされたレースを除く)。[[2009年]]より施行された[[レパードステークス]]は創設から2年は格付けを行わない事が決まっていたため、グレード制が導入されてから初めて格付けなしの重賞となった(2011年にGIIIに格付け)。</ref>。準重賞は地方競馬では現在も用いられている。なお、2019年度から中央競馬においても、上記の通り『リステッド競走(L格付け)』を定めている。 中央競馬では、降雪などにより出馬投票後に[[芝#競馬場|芝]]コースから[[ダート]]コースに馬場変更となるなど、施行条件に著しい変更があった場合は重賞競走のままであるが、格付は設定されない(当初の格付は無効となり「格付なし」となる)。この適用を受けた事例として、 *[[1995年]]・[[東京新聞杯]] - 降雪の影響のため、芝1600m→ダート1600mに変更。これによりGIII→格付なしに変更。優勝馬:ゴールデンアイ *[[1998年]]・[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]] - 降雪の影響のため、芝1800m→ダート1600mに変更。これによりGIII→格付なしに変更。優勝馬:[[エルコンドルパサー]] の2例が発生している。ただし、この取り扱いは[[1984年]][[2月4日]]から実施されているものであり<ref>『[[優駿]]』(日本中央競馬会)[[1984年]]3月号、p161</ref>、1984年1月にいずれも降雪の影響の為、芝コースからダートコースに変更されて施行した、 *[[アメリカジョッキークラブカップ]] - GII、中山芝2200m→ダート1800mに変更 *[[日経新春杯]] - GII、京都芝2400m→ダート2600mに変更 *[[中日新聞杯]] - GIII、中京芝1800m→ダート1700mに変更 *[[京都牝馬ステークス|京都牝馬特別]] - GIII、芝1600m→ダート1400mに変更 については、当初の格付のままで施行されている。 競馬中継などで出演者が単に「重賞」と言った場合はGI競走を除いたGII・GIIIの競走を指していることが多い。 == 日本競馬関連の重賞に関する記録 == 便宜上、以下、中央競馬施行の重賞は「中央」、地方競馬施行の統一重賞は「統一」、地方競馬施行の統一重賞でない重賞は「地方」、ここまでの総称は「日本」、外国競馬施行の重賞は「外国」ないし具体的な国名で表す。 {| class="wikitable" !colspan="3"|通算重賞勝利数 |- |20勝 |[[カツゲキキトキト]] |地方20勝 |- | rowspan="2" |19勝||[[スマートファルコン]]||統一19勝 |- |[[エンパイアペガサス]] |地方19勝 |- | rowspan="3" |17勝||[[オグリキャップ]]||中央12勝 地方5勝 |- |[[ブライアンズロマン]]||統一1勝 地方16勝 |- |[[ハクサンアマゾネス]] |地方17勝 |- | rowspan="2" |15勝||[[トウケイニセイ]]||地方15勝 |- |[[オジュウチョウサン]] |障害重賞15勝 |- | rowspan="5" |14勝||[[アブクマポーロ]]||中央1勝 統一9勝 地方4勝 |- |[[メイセイオペラ]]||中央1勝 統一3勝 地方10勝 |- |[[スズノキャスター]]||地方14勝 |- |[[ホッコータルマエ]]||中央3勝 統一11勝 |- |[[エイシンニシパ]] |地方14勝 |- |rowspan="6"|13勝||[[ホクトベガ]]||中央4勝 統一9勝 |- |[[ケイエスヨシゼン]]||地方13勝 |- |[[ロードバクシン]] |地方12勝 統一1勝 |- |[[ヴァーミリアン]]||中央3勝 統一10勝 |- |[[マルヨフェニックス]]||rowspan="2"|地方13勝 |- |[[ヒシウォーシイ]] |- |rowspan="7"|12勝||[[スピードシンボリ]]||rowspan="2"|中央12勝 |- |[[テイエムオペラオー]] |- |[[コパノリッキー]]||中央3勝 統一9勝 |- |[[ナイキアディライト]]||統一2勝 地方10勝 |- |[[マリンレオ]]||rowspan="3"|地方12勝 |- |[[ローゼンホーマ]] |- |[[ワシュウジョージ]] |} {| class="wikitable" !colspan="3"|外国調教馬日本重賞勝利数 |- |3勝||[[カラジ]]||障害競走 |- |rowspan="2"|2勝||[[ハートレイク]]||rowspan="2"|&nbsp; |- |[[スノーフェアリー]] |} {| class="wikitable" !colspan="4"|年間重賞勝利数 |- |rowspan="5"|8勝||オグリキャップ||1988年||中央7勝 地方1勝 |- |ホクトベガ||1996年||中央1勝 統一7勝 |- |アブクマポーロ||1998年||統一6勝 地方2勝 |- |テイエムオペラオー||2000年||中央8勝 |- |[[エレーヌ (競走馬)|エレーヌ]]||2010年||地方8勝 |- |rowspan="3"|7勝||ブライアンズロマン||1998年||統一1勝 地方6勝 |- |マリンレオ||2002年||rowspan="2"|地方7勝 |- |ヒシウォーシイ||2010年 |} {| class="wikitable" !colspan="3"|重賞連続勝利数 |- |11連勝||オグリキャップ||中央6勝 地方5勝 重賞以外での勝利を挟む |- | rowspan="4" |9連勝||スマートファルコン||統一9勝 |- |マリンレオ||rowspan="2"|地方9勝 重賞以外での勝利を挟む |- |ヒシウォーシイ |- |オジュウチョウサン |障害重賞9連勝の後平地重賞にて敗戦 障害重賞の連勝はその後も継続して13連勝 |- |rowspan="2"|8連勝||[[タイキシャトル]]||外国1勝 中央7勝 |- |テイエムオペラオー||中央8勝 |- |7連勝||ホクトベガ||中央1勝 統一6勝 |} {| class="wikitable" !colspan="3"|重賞連続連対数 |- |16連続||トウケイニセイ||地方16回 重賞以外での[[連対]]を挟む |- |15連続||ローゼンホーマ||地方15回 重賞以外での連対を挟む |- |rowspan="3"|12連続||オグリキャップ||中央7回 地方5回 重賞以外での連対を挟む |- |[[ビワハヤヒデ]]||中央12回 重賞以外での連対を挟む |- |[[ナムラダイキチ]]||統一1回 地方11回 重賞以外での連対を挟む |- |11連続||スマートファルコン||統一11回 重賞以外での連対を挟む |- |rowspan="2"|10連続||[[ヒシアマゾン]]||rowspan="2"|中央10回 |- |[[ダイワスカーレット]] |} {| class="wikitable" !colspan="3"|同一重賞勝利数 |- !colspan="3"|平地競走 |- |6勝||[[シバフイルドー]]||クイーンカップ(地方) 6連覇 |- |5勝 |ジャングルスマイル |[[百万石賞]](地方)3連覇と2連覇 |- | rowspan="7" |4勝||ブライアンズロマン||[[とちぎ大賞典]](地方) 4連覇 |- |[[オースミダイナー]]||[[瑞穂賞]](地方) 4連覇 |- |[[キングスゾーン]]||[[マイル争覇]](地方) 4連覇 |- |[[フジノウェーブ]]||[[東京スプリング盃]](地方) 4連覇 |- |[[ナイキマドリード]]||[[船橋記念]](地方) 4連覇 |- |[[オメガパフューム]] |[[東京大賞典]] 4連覇 |- |エイシンニシパ |[[新春賞 (園田競馬場)|新春賞]] 4連覇 |- | rowspan="18" |3勝||[[セカイオー]]||[[鳴尾記念]] 3連覇 |- |[[シゲルホームラン]]||[[セイユウ記念]] 3連覇 |- |[[アドマイヤドン]]||[[JBCクラシック]] 3連覇 |- |[[タップダンスシチー]]||[[金鯱賞]] 3連覇 |- |[[エリモハリアー]]||[[函館記念]] 3連覇 |- |[[ブルーコンコルド]]||[[マイルチャンピオンシップ南部杯]] 3連覇 |- |[[マツリダゴッホ]]||[[オールカマー]] 3連覇 |- |ヴァーミリアン||JBCクラシック 3連覇 |- |[[ラヴェリータ]]||[[スパーキングレディーカップ]] 3連覇 |- |[[セイクリムズン]]||[[黒船賞]] 3連覇 |- |[[ゴールドシップ]]||[[阪神大賞典]] 3連覇 |- |ホッコータルマエ||[[川崎記念]] 3連覇 |- |ロゾヴァドリナ||[[OROカップ|岩手県知事杯OROカップ]] 3連覇 |- |コパノリッキー||[[かしわ記念]] 2連覇 |- |[[クリソライト (競走馬)|クリソライト]]||[[ダイオライト記念]] 3連覇 |- |[[アルバート (競走馬)|アルバート]]||[[ステイヤーズステークス]] 3連覇 |- |ハクサンアマゾネス |[[利家盃]]3連覇、百万石賞3連覇 |- |カツゲキキトキト |[[東海菊花賞]]3連覇 |- !colspan="3"|障害競走 |- |6勝 |オジュウチョウサン |中山グランドジャンプ 5連覇+1勝 |- |5勝||[[バローネターフ]]||[[中山大障害]] 秋施行分3連覇含む |- |rowspan="3"|4勝||[[フジノオー]]||rowspan="2"|中山大障害 4連覇 |- |[[グランドマーチス]] |- |[[コウエイトライ]]||[[阪神ジャンプステークス]] 3連覇 |} {| class="wikitable" !colspan="3"|同一重賞連対数 |- | rowspan="3" |6連対||シバフイルドー||クイーンカップ(地方) 6連続 |- |ブライアンズロマン||とちぎ大賞典(地方) 6連続 |- |オジュウチョウサン |[[中山グランドジャンプ]] 5連覇+1勝 |- | rowspan="2" |5連対 |[[メルシーエイタイム]]||中山大障害 5連続 |- |[[クーリンガー]]||[[佐賀記念]] |- !colspan="3"|年間複数施行重賞限定記録 |- |7連対||バローネターフ||中山大障害 6連続 |- |rowspan="2"|5連対||フジノオー||rowspan="2"|中山大障害 5連続 |- |グランドマーチス |} {| class="wikitable" !重賞レースの最多出走記録(1973年以降) |- |[[トウホクビジン]](130回)<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nsp/horse/article/138054 トウホクビジンが9日ラストラン] - 西日本新聞、2015年1月16日閲覧</ref> |} == 脚注・出典 == === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[競馬の競走格付け]] *[[日本グレード格付け管理委員会]] *[[ダートグレード競走]] {{DEFAULTSORT:しゆうしよう}} [[Category:競馬用語]] [[Category:競馬の競走]]
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高森町 (熊本県)
高森町(たかもりまち)は、熊本県の阿蘇地方の南東部にある町。阿蘇郡に属する。 南阿蘇、阿蘇五岳の南東部に位置する。町域は阿蘇外輪山によって大きく東西二つに分かれる。総人口では西に隣接する南阿蘇村に劣るが、南阿蘇における中心地的地位を得ている。 西側は阿蘇カルデラの内部、南郷谷の一角である。人口の大部分が集中しており、町役場をはじめとする行政や商工観光の中心的機能が所在し、JR豊肥本線の立野駅と結ぶ南阿蘇鉄道の終点・高森駅もある。 東側は外輪山の外側で、北東は大分県、南東は宮崎県に接している。阿蘇地方及び熊本県の最東端部であり、奥阿蘇(おくあそ)の名称を冠する施設がいくつか見られる。 産業は農林業と観光業が主体。 農業は畑作・稲作や花き・葉たばこ生産、畜産、林業などで発展してきた。近年は大根、キャベツなどの高冷地野菜のブランド化も推進され、スイカ・メロンの生産も盛んになってきた。 南阿蘇の豊かな山野に囲まれて過ごすグリーンツーリズム型が主であり、観光農園やペンション、キャンプ場が点在する。地元の野菜・山菜や手作りの漬物・菓子・ハムなどを販売する物産館も数か所ある。料理は素朴な味わいの「高森田楽」 や炭焼き地鶏が有名。 かつては大津町の大津中央 - 高森中央間を結ぶ路線をはじめ複数の一般路線が運行されていたが2009年(平成21年)9月末までに全路線が廃止され、現在はコミュニティバスのみの運行となっている。このほか、「高森~馬見原」間の一般路線も運行していたが、2007年(平成19年)4月1日をもって下記の山都町バスとなった。
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高森町(たかもりまち)は、熊本県の阿蘇地方の南東部にある町。阿蘇郡に属する。
{{出典の明記|date=2019-03-16}} {{日本の町村 | 画像 = Tsukimawari Park Takamori.JPG|250px|none|thumb | 画像の説明 = [[月廻り公園]]から[[根子岳 (熊本県)|根子岳]]を望む | 旗 = [[ファイル:Flag_of_Takamori_Kumamoto.jpg|100px|高森町旗]] | 旗の説明 = 高森[[市町村旗|町旗]] | 紋章 = [[ファイル:Emblem of Takamori, Kumamoto.svg|100px|高森町章]] | 紋章の説明 = 高森[[市町村章|町章]] | 自治体名 = 高森町 | 区分 = 町 | 都道府県 = 熊本県 | 郡 = [[阿蘇郡]] | コード = 43428-1 | 隣接自治体 = [[阿蘇市]]、[[上益城郡]][[山都町]]、[[阿蘇郡]][[南阿蘇村]]<br />[[大分県]][[竹田市]]<br />[[宮崎県]][[西臼杵郡]][[高千穂町]] | 木 = [[ヤマザクラ]] | 花 = [[ヒメユリ]] | シンボル名 = 他のシンボル | 鳥など = | 郵便番号 = 869-1602 | 所在地 = 阿蘇郡高森町大字高森2168番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-43|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Takamori town hall.JPG|250px]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|43|428|image=Takamori in Kumamoto Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=町庁舎位置}} | 特記事項 = }} '''高森町'''(たかもりまち)は、[[熊本県]]の阿蘇地方の南東部にある[[市町村|町]]。[[阿蘇郡]]に属する。 == 地理 == [[南阿蘇]]、[[阿蘇山|阿蘇五岳]]の南東部に位置する。町域は阿蘇[[外輪山]]によって大きく東西二つに分かれる。総人口では西に隣接する南阿蘇村に劣るが、南阿蘇における中心地的地位を得ている。 西側は阿蘇[[カルデラ]]の内部、[[南郷谷]]の一角である。人口の大部分が集中しており、町役場をはじめとする行政や商工観光の中心的機能が所在し、JR[[豊肥本線]]の[[立野駅 (熊本県)|立野駅]]と結ぶ[[南阿蘇鉄道]]の終点・[[高森駅]]もある。 東側は外輪山の外側で、北東は[[大分県]]、南東は[[宮崎県]]に接している。阿蘇地方及び熊本県の最東端部であり、'''奥阿蘇'''(おくあそ)の名称を冠する施設がいくつか見られる。 * 山:[[根子岳 (熊本県)|根子岳]]、[[高岳]]、[[中岳 (阿蘇山)|中岳]]、清栄山 * 峠:高森峠、中坂峠、日の尾峠、大戸ノ口峠 * 河川:[[白川 (熊本県)|白川]] === 気候 === {{Weather box|location=高森(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|collapsed = Y|Jan record high C=18.8|Feb record high C=20.8|Mar record high C=25.9|Apr record high C=28.0|May record high C=31.0|Jun record high C=34.0|Jul record high C=34.4|Aug record high C=34.8|Sep record high C=33.3|Oct record high C=29.3|Nov record high C=24.7|Dec record high C=21.0|year record high C=34.8|Jan high C=6.8|Feb high C=8.8|Mar high C=12.7|Apr high C=18.0|May high C=22.6|Jun high C=24.6|Jul high C=28.4|Aug high C=29.2|Sep high C=26.0|Oct high C=20.9|Nov high C=15.3|Dec high C=9.3|year high C=18.5|Jan mean C=2.2|Feb mean C=3.6|Mar mean C=7.1|Apr mean C=12.2|May mean C=16.9|Jun mean C=20.3|Jul mean C=23.9|Aug mean C=24.3|Sep mean C=21.1|Oct mean C=15.5|Nov mean C=9.9|Dec mean C=4.2|year mean C=13.4|Jan low C=-2.0|Feb low C=-1.1|Mar low C=2.0|Apr low C=6.6|May low C=11.7|Jun low C=16.5|Jul low C=20.5|Aug low C=20.8|Sep low C=17.2|Oct low C=10.8|Nov low C=4.9|Dec low C=-0.4|year low C=9.0|Jan record low C=-13.2|Feb record low C=-12.6|Mar record low C=-8.6|Apr record low C=-4.2|May record low C=2.1|Jun record low C=6.7|Jul record low C=11.6|Aug record low C=12.7|Sep record low C=4.9|Oct record low C=-1.4|Nov record low C=-4.9|Dec record low C=-9.5|year record low C=-13.2|Jan precipitation mm=74.6|Feb precipitation mm=105.9|Mar precipitation mm=156.7|Apr precipitation mm=164.1|May precipitation mm=189.7|Jun precipitation mm=536.0|Jul precipitation mm=447.9|Aug precipitation mm=229.5|Sep precipitation mm=250.5|Oct precipitation mm=113.1|Nov precipitation mm=91.5|Dec precipitation mm=75.5|year precipitation mm=2435.1|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=8.1|Feb precipitation days=9.6|Mar precipitation days=12.2|Apr precipitation days=11.4|May precipitation days=10.5|Jun precipitation days=16.2|Jul precipitation days=15.5|Aug precipitation days=12.8|Sep precipitation days=11.5|Oct precipitation days=8.4|Nov precipitation days=8.3|Dec precipitation days=8.3|year precipitation days=132.9|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=86&block_no=0840&year=&month=&day=&view= |title=高森 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-08-22 |publisher=気象庁}}</ref>|Dec sun=126.2|Nov sun=138.7|Oct sun=163.5|Aug sun=171.8|Sep sun=139.2|Jun sun=115.0|Jul sun=147.4|Apr sun=177.3|May sun=184.0|Jan sun=116.3|Feb sun=125.1|Mar sun=151.8|year sun=1761.4}} === 隣接している市町村 === * 阿蘇郡[[南阿蘇村]] * [[阿蘇市]] * [[上益城郡]][[山都町]] * [[大分県]][[竹田市]] * [[宮崎県]][[西臼杵郡]][[高千穂町]] === 人口 === {{人口統計|code=43428|name=高森町|image=Population distribution of Takamori, Kumamoto, Japan.svg}} === 地名 === * 高森 * 上色見(旧色見村) * 色見(旧色見村) * 尾下(旧野尻村) * 河原(旧野尻村) * 津留(旧野尻村) * 野尻(旧野尻村) * 草部(旧草部村) * 下切(旧草部村) * 菅山(旧草部村) * 芹口(旧草部村) * 中(旧草部村) * 永野原(旧草部村) * 矢津田(旧草部村) == 歴史 == === 近現代 === * [[1894年]](明治27年)[[1月12日]] 阿蘇郡草ヶ矢村が草部村に改称。 * [[1955年]](昭和30年)[[4月1日]] 阿蘇郡高森町・草部村・色見村が対等合併し、新町制による高森町が発足。 * [[1957年]](昭和32年)[[8月1日]] 阿蘇郡野尻村を編入。 * [[2013年]](平成25年)[[10月4日]] - [[「日本で最も美しい村」連合]]への加盟が認定された。 == 経済 == * [[2004年]](平成16年)度町内総生産188億円。 産業は農林業と観光業が主体。 農業は畑作・稲作や花き・葉たばこ生産、畜産、林業などで発展してきた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.machimura.maff.go.jp/machi/contents/43/428/index.html|publisher=農林水産省|title=熊本県高森町|accessdate=2020-4-26}}</ref>。近年は大根、キャベツなどの高冷地野菜のブランド化も推進され、スイカ・メロンの生産も盛んになってきた<ref>[https://www.goto-chi.com/seisansya/minamiasoneko_melon.htm 熊本を代表する高級ブランドメロン]ご当地ドットコム 2020年2月18日閲覧</ref>。 == 姉妹都市・提携都市 == === 国内 === ; 友好都市 :* {{Flagicon|長野県}} [[高森町 (長野県)|高森町]]([[長野県]][[下伊那郡]]) == 観光 == [[ファイル:Takamori-Dengaku.JPG|250px|thumb|高森田楽]] 南阿蘇の豊かな山野に囲まれて過ごす[[グリーンツーリズム]]型が主であり、観光農園やペンション、キャンプ場が点在する。地元の野菜・山菜や手作りの漬物・菓子・ハムなどを販売する物産館も数か所ある。料理は素朴な味わいの「高森[[味噌田楽|田楽]]」<ref>[http://www.town.takamori.kumamoto.jp/kankomap/taberu/sp/takamoridengakunosato.html 高森町観光サイト]</ref> や炭焼き地鶏が有名。 === 名所・旧跡・観光スポット === {{右| [[ファイル:Nekodake.jpg|250px|none|thumb|高森町から根子岳を眺める]] [[ファイル:Kusakabeyoshimi.jpg|250px|none|thumb|草部吉見神社]] [[ファイル:TakamoriSpringTunnelPark.jpg|250px|none|thumb|高森湧水トンネル公園の景観]] [[ファイル:Kamishikimi Kumanoimasu Shrine 001.jpg|250px|none|thumb|上色見熊野座(かみしきみくまのいます)神社]] }} * [[根子岳 (熊本県)|根子岳]] - 町の北側にそびえる阿蘇五岳の一つ。五岳の東端にあり最も古く、山頂や斜面が侵食されてギザギザの奇観をなしている。夕陽を浴びて赤く染まると「[[西遊記]]」に登場する火焔山のよう。「くまもと自然百景」の第一位に選ばれている。最高峰「天狗岩」付近は崩落が進んでおり、登山が難しい。 * [[高森湧水トンネル公園]] - [[日本国有鉄道|旧国鉄]]の[[南阿蘇鉄道高森線|高森線]]と[[高千穂鉄道高千穂線|高千穂線]]を結び九州を横断する鉄道を建設するために掘られたが、多量の地下水が湧出して工事は中止。その跡を活用・整備したもの。トンネルの中は湧水が流れる。ライトアップされ、ウォーターパールが幻想的な空間を演出している。 * 九十九曲り - 外輪山の南側から、高森峠を越えて町の中心部に下りていく途中約4kmが、幾重にも曲がりくねるためこう呼ばれる。春は6,000本の桜が沿道を飾る。高森峠からは、町の中心部がある南郷谷やその向こうにそびえる阿蘇五岳のパノラマが見晴らせる<ref>{{cite web|url=http://www.pmiyazaki.com/kyusyu/kumamoto_t_senbon/|title=高森峠千本桜|accessdate=2020-4-26}}</ref>。 * ゆうすげ号 - 南阿蘇鉄道の立野~高森間を片道1時間のゆっくりしたスピードで結ぶトロッコ列車。 * [[高森温泉]] * [[月廻り公園]] * 鍋の平キャンプ場 * 奥阿蘇キャンプ場 * [[永秀寺 (熊本県高森町)]] * [[草部吉見神社]] * ニャンロクゴ - 国道265号線のことを地元では語呂合わせで2(ニャン)6(ロク)5(ゴー)と呼んでいる。これは根子岳にまつわる猫の伝説にちなむ。<ref name="Nyanou">{{cite|url=https://www.ne.jp/asahi/yama/neko/nekoyama/nekodaio.html|title= 猫の王と猫岳参り|work=ヤマネコ山遊記|accessdate=2020-08-28}}</ref>高森町国道265号線(村山・上色見地区)界隈には、阿蘇の神話にまつわる祠や神社などが点在し、その神秘的な佇まいは知る人ぞ知る観光スポットである<ref name="Nyanpo">[http://nyanpo.hikarijp.com/2015/08/blog-post_21.html ニャンロクゴ観光スポット](「[http://nyanpo.hikarijp.com/ 「ニャンポ」マップの楽しみ方]」)</ref>として人気が高まっている。 == 交通 == * 最寄り空港は[[熊本空港]](阿蘇くまもと空港) === 鉄道 === * [[南阿蘇鉄道]]<ref>[https://www.minamiasokanko.jp/play/minamiaso-railway.html みなみあそ観光局]</ref> ** [[南阿蘇鉄道高森線|高森線]]:[[高森駅]] === 路線バス === ==== 長距離バス ==== * 特急「[[たかちほ号|たかちほ号・あそ号]]」([[九州産交バス]]・[[宮崎交通]]):[[熊本市]] - [[熊本空港]] - [[西原村]] - [[南阿蘇村]] - '''高森町''' - [[山都町]] - [[五ヶ瀬町]] - [[高千穂町]] - [[日之影町]] - [[延岡市]] * 快速「[[たかもり号]]」(九州産交バス):熊本市 - 熊本空港 - 西原村 - 南阿蘇村 - '''高森町''' * ハッコーライナー([[ハッコートラベル]]):[[福岡市]] - '''高森町''' ==== 一般路線 ==== * [[高森町民バス]](高森町) * [[ゆるっとバス]]([[南阿蘇村]]) ※全便高森駅を発着し両町村間を結ぶ ** いずれも運行は[[九州産交バス|産交バス]]に委託してある。 かつては[[大津町]]の大津中央 - 高森中央間を結ぶ路線をはじめ複数の一般路線が運行されていたが[[2009年]](平成21年)[[9月]]末までに全路線が廃止され、現在はコミュニティバスのみの運行となっている。このほか、「高森~馬見原」間の一般路線も運行していたが、[[2007年]](平成19年)[[4月1日]]をもって下記の[[山都町コミュニティバス|山都町バス]]となった。 * '''高森中央'''=旅草=上差尾=馬見原 * '''高森中央'''=柳=上差尾=馬見原 * '''高森中央'''=柳=今村=馬見原 ** こちらは[[山都町]]蘇陽地区の南阿蘇交通に運行を委託 === 道路 === ==== 一般国道 ==== * [[国道265号]] * [[国道325号]] * [[国道503号]] ==== 主要地方道 ==== * [[大分県道・熊本県道・宮崎県道8号竹田五ヶ瀬線|熊本県道8号竹田五ヶ瀬線]] * [[熊本県道28号熊本高森線]] * [[熊本県道41号高森波野線]] == 行政 == * 町長:[[草村大成]] * 町議会議員 10人 === 警察 === * [[高森警察署]] === 裁判所 === * [[高森簡易裁判所]] == 教育 == === 高等学校 === * [[熊本県立高森高等学校]] === 義務教育学校 === * [[高森町立高森東学園義務教育学校]] === 中学校 === * [[高森町立高森中学校]] === 小学校 === * [[高森町立高森中央小学校]] == 出身者 == * [[武田真一]] ([[フリーアナウンサー]]、元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー) * [[藤本朝巳]](イギリス児童文学研究者) * [[マッコイ本田]](ローカルタレント) * [[堀江信彦]](週刊少年ジャンプ元編集長:歴代最高650万部。現コアミックス社長) == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website}} * {{Twitter|takamorimachi|高森町役場}} * {{Facebook|takamorimachi|高森町役場}} * {{Instagram|takamorimachi}} * {{YouTube|user=KumamotoTakamoriTown}} * [http://takaramori.com/jp/ 熊本県阿蘇郡高森町ポータルサイト] 一般社団法人 TAKAraMORI * [https://www.ne.jp/asahi/yama/neko/ ヤマネコ山遊記](2012年10月22日更新)-猫と縁のある山 -猫の王者が棲んでいたという伝説 参照 * [http://nyanpo.hikarijp.com/ 「ニャンポ」マップの楽しみ方](2015年8月25日更新) -ニャンロクゴ観光スポット 参照 {{熊本県の自治体}} {{日本で最も美しい村連合}} {{Normdaten}} {{japan-area-stub}} {{デフォルトソート:たかもりまち}} [[Category:熊本県の市町村]] [[Category:阿蘇郡]] [[Category:高森町 (熊本県)|*]] [[Category:1955年設置の日本の市町村]]
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一神教
一神教(いっしんきょう、monotheism)とは、神は唯一であり、普遍的に神と呼ばれる至高の存在であるという信仰である。通常はユダヤ教,キリスト教,イスラム教の3つがその典型とされる。 一神教は、神は唯一であるという排他的一神教と、複数の神または神的形態を認めるがそれぞれが同じ神の延長として仮定される包括的・多形一神教に分けることができる。 他の者が異なる神を等しく崇拝することを否定せずに信者が一つの神を崇拝する宗教体系である単一神教や、多くの神の存在を認めながらも一つの神のみを一貫して崇拝する拝一神教と区別される。拝一神教という言葉はおそらくジュリウス・ウェルハウゼンによって最初に使われたと考えられている。 一神教はバーブ教、バハーイー教、天道教、キリスト教、理神論、ドゥルーズ派、エキンカー(英語版)、シーク教、ヒンドゥー教のいくつかの宗派(シヴァ派やヴィシュヌ派など)、イスラーム教、ユダヤ教、マンダ教、ラスタファリ運動、生長の家、天理教、ヤズィーディー、ゾロアスター教の伝統を特徴づけるものである。一神教の要素は、アテン教(英語版)、古代中国の民俗宗教、ヤハウェ教(英語版)などの初期の宗教に見られる。 一神教の語源は、ギリシャ語で「単一の」を意味する μόνος(モノス)と「神」を意味する θεός(テオス)。 英語の用語はヘンリー・モア(1614-1687)が初めて使用した。 『ブリタニカ百科事典』によると一神教は歴史上、次に挙げる3種が区別できる。 『岩波キリスト教辞典』によると、一神教は特定の一神のみを排他的に崇拝する信仰の形態をさし、無神教や多神教と対比される。汎神論(万物を神の顕れないし展開と見なす)や、万有内在神論(万物が神に内包されていると見る)においても、しばしば万物の根本的原理としての神の唯一性が説かれるが、この場合には通常は神の人格性の観念が著しく後退するので、一神教に含めることは適切ではないとされる。 一神教の成立に関する説は、次の2種がある。 普遍的な神の存在を主張する準一神教的な主張は、アクエンアテンの「アテンへの大讃美歌」に代表される青銅器時代後期に見られる。鉄器時代の南アジアでは、ヴェーダ時代に一神教への傾倒が見られた。『リグヴェーダ』では特に比較的後期の第10巻にブラフマンの一神教の概念が見られ、宇宙開闢の歌(Nāsadīya Sūkta)などは鉄器時代初期のものとされている。 中国では少なくとも殷王朝(紀元前1766年)以降、近代までのほとんどの王朝で、上帝(文字通り「上の君」、一般に「神」と訳される)または天を全能の力として崇拝することが正統な信仰体系となっていた。しかしこの信仰体系は、地域によって異なる他の小神や霊も上帝と共に崇拝されており、真の一神教とは言えなかった。しかし、後世の墨家(紀元前470年~紀元前391年)は、小神や祖霊の働きは上帝の意志を遂行することに過ぎないとし、アブラハムの宗教における天使と同様に、唯一の神として数えて、真の一神教に近づいたとされる。 紀元前6世紀以降、ゾロアスター教徒は、すべてのものに勝る唯一の神が存在すると信じてきた。アフラ・マズダは「すべての造り主」であり、他のすべての存在に先立つ最初の存在である しかし、ゾロアスター教はアフラ・マズダの他にもヤザタを崇拝していたため、厳密には一神教ではなかった。一方、古代ヒンドゥー教の神学は一神教であったが、一人の最高神ブラフマンの側面として想定される多くの神々の存在を依然として維持していたため、厳密には一神教的な礼拝ではなかった。 タレス(その後、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、パルメニデスなどの他の一元論者が続いた)は、自然は万物を貫く単一の原理を参照することで説明できると提唱した。コロフォンのクセノファネスやアンティステネスなど、多くの古代ギリシャの哲学者が、一神教と似たような多神教的な一神教を信じていた。一元的な神への最初の既知の言及はプラトンのデミウルゴス(神の職人)、続いてアリストテレスの不動の動者(宇宙論的証明)であり、どちらもユダヤ教とキリスト教の神学に大きな影響を与えることになる。ストア派や中期プラトン主義・新プラトン主義についても異教の一神教(pagan monotheism)として分類することがある。ストア派の神についてフレデリック・ブレンクはこう書いている。 アスカロンのアンティオコスはアカデメイア派、ペリパトス派、ストア派の3つの学派を説明し、これらの3つの学派が互いに些細な点でしか乖離していないと指摘している。出エジプト記後、ユダヤ教は一神教の文脈の中で個人的な一神教の神の概念を考え出した最初の宗教であった。道徳は神のみに由来し、その法則は不変であるとする倫理的一神教の概念はユダヤ教で初めて生まれたが、現在ではゾロアスター教、キリスト教、イスラム教、シーク教、バハーイー教など、ほとんどの現代の一神教の中核的な教義となっている。 もし一神教が一般的な定義にあるように、唯一神以外の超越的存在は存在しないという信念を意味するならば、ヘブライ語聖書だけでなくユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教に分類することはできない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、いずれも天使という天界に住み、不死の存在への信仰を示す(天使はもともとカナン人の神々であり、唯一神のメッセンジャーに変化していったという説もある)。ローマカトリックや正教ではそれに加えて、天上に存在する聖人への信仰がある。聖人は死によってその存在や活動に長期的な影響がなく、地上から天上への移動に過ぎないという信仰がある。このため一神教を神聖な存在の数量によって定義せず、神聖な存在群の関係性によって定義することがある。たとえ人々が唯一神に代わって、さまざまな超越的存在に祈るとしても、すべての力が最終的に一つの神に起因するという神学は一神教である。 プラトン主義、ペリパトス派、ストア派はキリスト教徒が天使、聖人といった神聖(divine)あるいは神(god)と呼ぶことができる存在を持つように、ある一つの神を特定の神(Godあるいはthe God)と呼び、その特定の神を除いた神々には、最高神を頂点とした階層制よりもはるかに徹底した従属関係(派生関係)をもたせていたと考えられている。彼らは単なる最高神でなく『特定の神(the God)』、それだけが神と呼ぶに値する唯一無二の神かのように特別な名称を使った。ストア派によるとゼウスだけが神であるための基準を完全に満たし、他の神々はゼウスによって運命づけられ、ゼウスの計画を実行するためだけに存在しており、神々は完全にゼウス(the God)に依存し、不死でさえなかった。 プラトン主義者にとっても神は唯一のものであったが、それ以外にも神聖(divine)と呼ばれる存在がおり、彼らは特別な神の被造物でありながら、神の恩恵によって不死を与えられた。彼らは唯一の特別な神の慈悲によってのみ不死であり神聖であった。ストア派もプラトン主義者も、地上の世界は悪魔(デーモン)で満ちていると考えていたが、悪魔のすべてが神聖視されていたわけではなく、彼らの中には賢くも高潔でもないものがいた。問題のある悪魔を操作して自己の利益のために力を行使することができるとされていた。 ギリシャの哲学者、クセノファネスは最も偉大な神は形においても、心においても人間に似ることはないとした。アリストテレス、プラトン主義、ストア派も擬人化された神を認めなかった。ユダヤ教とイスラム教では神は人間の理解を超えた存在であると信じており、擬人化された神を拒絶している。ローマカトリック教会は過度に字義的な聖書解釈を認めず、神に人間の姿を与えることを明確に否定している。キリスト教が擬人化された神を拒絶するようになったのは4世紀以降とされている。ニュッサのグレゴリオスは「神は男でも女でもない」と述べ、ヒエロニムスは「神格に性別はない」とし、神のジェンダーを否定した。 多神教の礼拝で一つの神が無限で最高の存在として定められ、従属的な蔑称が他の神々に与えられるという現象がある。多神教の信仰体系が、しばしば一つの神や原理を最高位に引き上げ、他の神々をその下僕や現れと再解釈するのは偶然のことではない。いくつかの宗教では「普遍的主権」「全能」「完全な献身の要求」等の神の単一性に関する三つの最も強力な哲学的論拠の基礎によって、二つ以上の神々が存在しないことを明らかにしようと歴史的に重要な試みが行われてきた。 キリスト教神学には「神は単純である(部分がない)」という「神性単純性(英語版)」の教義がある。神の存在は、神の「属性」と同一である。遍在、善、真理、永遠などの性質は、神の存在と同一であり、その存在を構成する質ではなく、また神の中に物質のように継承される抽象的な実体でもなく、言い換えれば神においては本質と存在の両方が同一であると言うことができる。 もし神が単純であるならば、神は一つしか存在し得ない。なぜならxは単純という性質Sを持ち、xとの同一性はどんな性質Pでも足りる。そしてxは単純なので、S=Pである。しかし、yもSを持っている。したがって、yはPも持っているはずで、したがって、y=xとなる。 ダマスコのイオアンは神は完全であるから必然的に唯一無二の存在であると主張した。ある神が他の神と区別される唯一の方法は、「善、力、知恵、時間、場所において完全でない」ことであるが、その場合は「神ではない」ことになる。アクィナスも同じような議論を展開している。もし複数の神が存在するならば、複数の完全な存在が存在することになるが、「もしこれらの完全な存在のどれもが何らかの完全性を欠き」、またどれもが「不完全さの混じったもの......」を持たないならば、完全な存在を互いに区別するためのものは与えられないだろう。 一神教の最も一般的な主張の一つは世界の統一性から導かれるものである。つまり世界の統一性、世界が均一な構造を示すこと、それが単一の宇宙であることは、その原因におけるある種の統一性を強く示唆している。すなわち単一の設計者が存在するか、あるいは複数の設計者が、おそらくそのうちの一人の指示の下で協力的に作用しているかのいずれかである。 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは『Ordinatio』の中で、神の単一性に関するいくつかの証明を提示している。 アル・ガザーリーは「もし二人の神がいて、そのうちの一人がある行動に決心したならば、二番目の神は彼を助けなければならず、それによって彼が全能の神ではなく従属的存在であることを示すか、あるいは彼が全能であり、最初の神は弱く欠陥があり、全能の神ではないことを示すために反対することができるだろう」ために二人は存在できないことを論じている。アル・ガザーリーの議論は次のように定式化できる。 前提3は以下のように証明される。 したがって オッカムの剃刀で知られるオッカムのウィリアムによれば「神」は二通りの意味で理解される。神とは「彼以外の何ものよりも高貴で完全なもの」を意味する場合と「それよりも高貴で完全なものはない」ことを意味する場合とがある。もし神が最初の意味で理解されるなら、神は一人しか存在し得ないことになる。オッカムの論証は以下のように定式化されている。 しかし もし神が第二の前提から理解されるなら、神がただ一人であることを示すことはできない。なぜなら、それぞれが現実の存在も可能な存在もそれを凌駕しないような、等しく完全な二つの存在が存在し得ないということは明らかではないからである。 ナミビアのヒンバ族は一神教的な万有内在神論を実践しており、ムクル神を崇拝している。ヒンバ族とヘレロ族の亡くなった祖先は、仲介者として彼に服従している。 イボ族はオディナニと呼ばれる一神教を実践している。オディナニは一神教の属性を持ち、すべてのものの源として単一の神を持っている。多神教的な精霊も存在するが、これらはオディナニに多く存在する小精霊であり、最高神であるチネケ(またはチュクウ)の要素としての役割を担っている。 またワアク(英語版)はアフリカの角に住む多くのクシ族に伝わる伝統的な宗教で、初期の一神教を示す一柱の神の名前である。しかし、この宗教はほとんどアブラハム宗教に取って代わられた。オロモの一部(約3%)は現在もこの伝統的な一神教を信仰しており、オロモ語でワケファナ(英語版)と呼ばれている。 アメリカ先住民の宗教は一神教、多神教、単一神教、アニミズムまたはそれらの組み合わせであることがある。 大いなる神秘(Great Spirit)は、スー族の間ではワカン・タンカと呼ばれ、アルゴンキン族の間ではギッチェ・マニトゥと呼ばれ、いくつかのネイティブアメリカンと先住民の文化の間で普及している普遍的な霊力、または至高の存在の概念である。ラコタ族の活動家であるラッセル・ミーンズによれば、ワカンタンカのより良い訳は「偉大なる神秘(Great Mystery)」である。 一部の研究者はアステカの哲学を基本的に一神教的であると解釈している。民衆は多神教を信じていたが、アステカの神官と貴族はテオトル(英語版)を多くの面を持つ単一の普遍的な力として解釈するようになった可能性が指摘されている。 少なくとも殷王朝(紀元前1766年)以降、近代に至るまで中国のほとんどの王朝で行われていた正統な信仰体系で、他の神の上に立つ至高の存在として天帝または天への崇拝を中心としていた。この信仰体系は、儒教や道教が発展し仏教やキリスト教が伝えられる以前からのものである。天が全能の存在、世界を超越した人格を持つ非実体的な力として見られるという点で、一神教の特徴を持つ。しかし、この信仰体系は地域によって異なる他の小神や精霊も天帝とともに崇拝していたため、真の一神教ではなかった。それでも後代の墨家(前470年-前391年)などの変種は、小神や祖霊の機能は天帝の意志を遂行することに過ぎないと教え、真の一神教に近づいていった。墨子の『天志』には、次のように書かれている。 古代中国における天帝と天に対する崇拝は、北京の天壇を最後とする祠堂の建立と、祈りの奉納である。中国の各王朝では、統治者が毎年天帝に犠牲の儀式を行い、通常は完全に健康な牛を生贄として屠殺した。道教や仏教などの宗教が登場すると、その人気は次第に衰えたが、その概念は前近代を通じて使われ続け、中国の初期キリスト教徒が使った用語を含め、中国の後期宗教に取り入れられてきた。道教や仏教による非有神論的な精神性の高まりにもかかわらず、天帝は清朝末期まで賞賛され、清朝最後の支配者は自らを天子と宣言した。 テングリ崇拝(Tengrism)はシャーマニズム、アニミズム、トーテミズム、多神教と一神教と先祖崇拝の特徴を持つ中央アジアの宗教に対する現代用語であり、時々テングリ教と呼ばれる。歴史的にはブルガール人、トルコ人、モンゴル人、ハンガリー人、匈奴、フン族の有力な宗教であった。6つの古代トルコ国家、アヴァール可汗国、旧大ブルガリア、第一ブルガリア帝国、突厥、ハザール、西突厥の国教でもあった。『Irk Bitig』ではテングリはTürük Tängrisi(トルコ人の神)として言及されている。この言葉はトルコ民族の間で民族宗教として認識されている。 東ヨーロッパではスラブ宗教の古代の伝統が一神教の要素を含んでいた。紀元6世紀、ビザンチンの年代記作家であるプロコピウスは、スラヴ人が「雷の創造者である1人の神がすべてのものの唯一の主であることを認め、彼のために牛やすべての生け贄動物を犠牲にする」と記録した。プロコピウスの言う神は嵐の神ペルーンで、その名前はプロトインディオ=ヨーロッパ語の雷神、ペクノス(英語版)に由来している。古代スラヴ人は彼をゲルマンの神トールや聖書の預言者エリヤと同化させた。 古代ギリシアの哲学者であるコロフォンのクセノファネスの詩の断片が残っていることから、彼が現代の一神教徒と非常に似た見解を持っていたことが示唆されている。彼の詩は「もし牛や馬やライオンが手を持ち、その手で絵を描いて人間のように作品を作ることができるなら......彼らもまた神々の形を描き、彼ら自身が持つ形のような身体を作るだろう」とコメントして、擬人化した神という従来の概念を厳しく批判している。その代わりにクセノファネスは「...神々と人間の中で最も偉大で、形も考え方も人間に似ていない唯一の神」が存在すると明言している。クセノファネスの神学は一神教であったようだが、厳密な意味での真の一神教ではなかった。アンティステネスのような後の哲学者の中には、クセノファネスによって説かれたものに似た教義を信じていた者がいたが、彼の考えは広く普及しなかったようである。 純粋な(哲学的な)一神教の発展は、古代後期の産物である。2世紀から3世紀にかけて、初期キリスト教は一神教を主張するいくつかの競合する宗教運動の一つに過ぎなかった。 プロティノスの著作では一者は、存在のすべてに浸透している、想像を絶する、超越的な、すべてを体現する、永久的な、永遠的な、因果関係のある存在として描写されている。 紀元2~3世紀のディディマ(英語版)とクラルスのアポロ神の多くの託宣、いわゆる「神学的託宣」は、最高の神はただ一人であり、多神教の神々は単なる現れか下僕であると宣言している。紀元4世紀のキプロス島にはキリスト教の他に、ディオニュソス一神教の教団が存在した。 ギリシャの古文書によればヒプシスタリアン(英語版)は最高神を信じる宗教集団であった。このヘレニズムの宗教の後の改訂は、より広い民衆の間で考慮されるようになるにつれて、一神教に向かって調整された。ゼウスを主神とする崇拝は一神教的傾向を示し、より小さな神々の断片的な力に与えられる名誉は縮小した。 ユダヤ教は伝統的に世界最古の一神教の一つと考えられているが、最古のイスラエル人(紀元前7世紀以前)は一神教ではなく多神教であり、単一神教、後に拝一神教へと発展したと考えられている。第二神殿ユダヤ教(英語版)、そして後のラビ・ユダヤ教における神は厳密に一神教であり、すべての存在の究極の原因である絶対的な一、不可分、そして比類なき存在であった。バビロニアのタルムードでは人間が誤って現実と力を付与する非実在の存在として他の「外来の神々」に言及している。ラビ・ユダヤ教における一神教に関する最も有名な声明として、マイモニデスの13の信仰原理の第2節がある。 ユダヤ教とイスラム教の一部はキリスト教の一神教の考えを否定している。ユダヤ教では純粋な一神教(非ユダヤ人には許されるが)でも多神教(禁止される)でもないとみなす方法での神への礼拝を指すためにシトゥフという用語を使用している。 初期キリスト教徒では、神格の性質についてかなりの議論があり、ある者はイエスの受肉は否定したが神格は否定せず(仮現説)、他の者は後に神のアリウス派的な概念を呼び起こした。少なくともそれ以前の地方会ではアリウス派の主張を否定していたにもかかわらず、このキリスト論的問題は第1ニカイア公会議で取り上げられる項目のひとつとなった。 ニカイア公会議は325年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によってニカイア(現在のトルコ)で開かれた、ローマ帝国初のエキュメニカルな司教会議であり、最も大きな成果は、ニカイア信条という初めて統一したキリスト教の教義をもたらしたことであった。この信条の制定により、その後のエキュメニカルな司教協議会(シノドス)が信仰声明や教義的正統性の規範を制定する際の前例ができた-その意図は、教会のための共通の信条を定義し異端思想に対処することであった。 評議会の目的の一つは、父との関係におけるイエスの性質、特にイエスが父なる神と同じ物質であるのか、それとも単に類似した物質であるのかについてのアレクサンドリアでの意見の相違を解決することであった。二人の司教を除くすべての司教が第一の立場をとり、アリウスの主張は失敗した。 この決定は381年の第1コンスタンティノポリス公会議で再確認され、カッパドキア派の教父たちの働きによって本格的に発展することになり、キリスト教正統派の伝統(東方正教会、東方正教会、ローマカトリック、プロテスタントのほとんど)は、この決定に従う。彼らは神を三位一体と呼び、父なる神、子なる神、聖霊なる神の3つの「位格」からなる存在であると考える。この三者は「同じ実体である」(Łμούσιος)と表現される。 キリスト教の正統的な三位一体の定義を示すニカイア信条が冒頭で述べるように、一神教がキリスト教信仰の中心であることはキリスト教徒が「私は唯一の神を信じる」と主張するところである。ニカイア信条の時代である325年以前から、キリスト教の様々な人物が、神の三位一体の神秘性を規範的な信仰告白として提唱している。ロジャー・E・オルソンとクリストファー・ホールによれば、祈り、瞑想、研究、実践を通して、キリスト教共同体は「神は統一体と三位一体として存在しなければならない」という結論を出し、4世紀末の公会議でこれを成文化した。 現代のキリスト教徒の多くは、神性が三位一体であると信じており、これは三位一体の3つの位格が、各位格が完全に神でもある1つの結合であることを意味する。また、神の化身としての人神であるキリスト・イエスの教義を信奉している。また、これらのキリスト教徒は、3つの神格のうち1つが単独で神であり、他の2つはそうではなく、3つすべてが神秘的に神であり1つであると信じている。ユニテリアン・ユニヴァーサリズム、エホバの証人、モルモン教など、他のキリスト教の宗教は、三位一体に関するそれらの見解を共有していない。 モルモン教のようないくつかのキリスト教の信仰は、神格は実際には父なる神、子イエス・キリスト、聖霊を含む三つの別々の個人であると主張する。さらにモルモン教は、ニカイア公会議以前には、多くの初期キリスト教徒が神格は三つの別々の個人であると考えるのが優勢であったと考える。この考えを支持するために、彼らは従属性の信念の初期キリスト教の例を引用している。 ユニテリアニズムは神学的な運動であり、三位一体論とは正反対に、神を一人の人間として理解することから名付けられた。 ユダヤ教の一部とイスラム教の一部は、三位一体の多神教的なキリスト教の教義のために、三位一体のキリスト教を一神教の純粋な形態であると考えず、それをユダヤ教ではシトゥフとして、イスラム教ではシルクとして分類している。一方、三位一体主義のキリスト教徒は、三位一体が3つの別々の神から成るのではなく、むしろ単一の神格の中に実質的に(1つの物質として)存在する3つの位格を挙げて、三位一体の教義が一神教の有効な表現であると主張する。 イスラム教では神(アッラー)は全能で全知であり、宇宙の創造者、維持者、命令者、審判者である。イスラム教における神は厳密に単数(タウヒード)で唯一(ワヒード(英語版))、本来は一つ(アハード(英語版))で慈悲深く全能である。アッラーはアルアルシュの上に存在するが [クルアーン 7:54] 、クルアーンでは「いかなる視覚も彼を把握できないが、彼の把握はすべての視覚を越えている」と述べている。神はすべての理解を超えているが、すべてのものに通じている」[クルアーン6:103]アッラーは唯一神でありキリスト教やユダヤ教で崇拝される神と同じである(29:46)。 イスラム教はキリスト教とユダヤ教の両方の文脈の中でグノーシス主義に類似したいくつかのテーマ的要素を持ちながら7世紀に出現した。イスラム教の信仰ではムハンマドは神から新しい宗教をもたらしたのではなくアブラハム、モーセ、ダビデ、イエス、その他すべての神の預言者が実践した宗教と同じものであると述べている。イスラム教の主張は、神のメッセージが時間の経過とともに破損、歪曲、消失しておりタウラート(英語版)(律法)、インジール(福音書)、ザブール(英語版)などの失われたメッセージを修正するためにムハンマドにクルアーンが送られたというものである。 クルアーンは世界を超越した唯一絶対の真理の存在、被造物から独立した唯一無二の存在であると主張する。クルアーンは善も悪も神の創造行為から発生すると主張し、神の二重性という考え方のような二元的思考様式を否定している。神は局所的、部族的、または偏狭なものではなく、普遍的な神であり、すべての肯定的な価値を統合し悪を許さない絶対者である。10世紀から19世紀までスンニ派のイスラームを支配したアシュアリー学派は、究極の神の超越を主張し、神の統一は人間の理性にアクセスできないとしている。アシュアリー学派はそれに関する人間の知識は預言者を通して啓示されたものに限られると教え、神が悪を創造したような逆説については、啓示はどのようにかを問わずに(ビラ・カイファ(英語版))受け入れなければならなかった。 タウヒードはムスリムの信仰告白の最重要項目である「神のほかに神はなくムハンマドは神の使徒である」。被造物に神性を帰することは、コーランの中で言及されている唯一の許されない罪である。イスラーム教の全体がタウヒードの原理にかかっている。 中世のイスラム哲学者アル=ガザーリーは全能から一神教の証明を提示し、全能の存在は一つしか存在し得ないと主張した。なぜなら、もし二つの全能の存在があった場合、第一の存在は第二の存在に対して力を持つか(第二の存在は全能ではないことを意味する)、持たないか(第一の存在は全能ではないことを意味する)、したがって全能の存在は一つしかありえないことを暗示しているのである。 伝統的に神として唯一の存在を持つ一神教の概念を公言しているため、ユダヤ教とイスラム教はキリスト教の一神教の考えを否定している。ユダヤ教は神を崇拝する非一神教的な方法を指すためにシトゥフ(英語版)という用語を使用する。イスラム教はイエス(アラビア語でイーサー)を預言者として崇めるが、イエスが神の子であるという教義は認めない。 アンダマン諸島の人々の宗教は「アニミズム的一神教」とも言われ、宇宙を創造したパルガという唯一の神を第一に信じている。パルガは自然現象を擬人化したものとして知られている。 オーストラリア南東部の文化では、天空の父バヤミー(英:Baiame)は宇宙の創造主として認識されており、カミラロイ族の間では伝統的に他の神話的な人物よりも崇拝されていた。彼とキリスト教の神を同一視することは、宣教師にも現代のキリスト教アボリジニに共通している。 ヒンドゥー教は古い宗教であるため一神教、多神教、万有内在神論、汎神論、一元論、無神論などの宗教概念を継承しており、神の概念も複雑で、各人や伝統・哲学に依存するところがある。 ヒンドゥー教の見解は幅広く、一元論から万有内在神論と汎神論、一神教、無神論にまで及ぶ(一部の学者によって一元論的有神論とも呼ばれる)。ヒンドゥー教は純粋な多神教とは言えない。ヒンドゥー教の宗教指導者たちは、神の形は多く、神とコミュニケーションをとる方法も多いが、神は一つであることを繰り返し強調している。ムルティ(英語版)のプージャー(英語版)は創造、維持、溶解する抽象的な一神(ブラフマン)とコミュニケーションを取るための方法である。 リグ・ヴェーダ 1.164.46, ガウディヤ・ヴァイシュナヴァの伝統、ニンバルカ・サンプラダヤ、スワミナラヤンやヴァラバの信奉者は、クリシュナをすべてのアヴァターラの源、ヴィシュヌ自身の源、あるいはナーラーヤナと同じとみなしている。そのため、彼はスヴァヤム・バガヴァンとして見なされている。 クリシュナがスヴァヤム・バガヴァンであると認識されるとき、クリシュナが他のすべてのアヴァターラの源であり、ヴィシュヌ自身の源であると受け入れられるガウディヤ・ヴァイシュナヴィズム、ヴァラバ・サンプラダヤ、ニンバールカ・サンプラダヤの信仰であると理解することができる。この信仰は主に「バガヴァタムの有名な記述から」(1.3.28)導かれる。この神学的概念と異なる視点は、クリシュナをナーラーヤナまたはヴィシュヌのアヴァターラとする概念である。しかし、アヴァターラの源としてヴィシュヌを語るのは普通だが、これはヴィシュヌ派の神の名前の一つに過ぎず、神はナーラーヤナ、ヴァスデーヴァ、クリシュナとしても知られ、それらの名前の背後にはヴィシュヌ派において至高とされる神像が存在している。 『リグ・ヴェーダ』は『アタルヴァ・ヴェーダ』や『ヤジュル・ヴェーダ』と同様に、一神教の思想を論じている。「デーヴァは常にヴィシュヌの至高の住処を目指す」(tad viṣṇoḥ paramaṁ padaṁ sadā paśyanti sṻrayaḥ Rig Veda 1.22.20) 神の殊勝な性質は数え切れないほどあるが、中でも次の六つの性質(bhaga)は最も重要である。 シヴァ派の伝統では、聖典の伝統によってチャマカム (चमकम्) が加えられたシュリ・ルドラム (Sanskrit श्रि रुद्रम्) は、ルドラ(シヴァの形容)に捧げるヒンドゥー教のストトラ(英語版)で、『ヤジュルベダ (TS 4. 5) 』から取られたものである。シュリ・ルドラムは、シュリ・ルドラープラスナ、シュタルドゥリーヤ、ルドラディヤとも呼ばれる。このテキストは、シヴァが普遍的な最高神と同一視されるヴェーダーンタにおいて重要である。この讃歌は神の名を列挙する初期の例であり、この伝統はヒンドゥー教のサハスラナーマ文献で広範囲に展開されている。 ヒンドゥー教のニヤーヤ学派は、一神教的な見方に関していくつかの主張をしている。ニヤーヤ学派は、そのような神は一人でしかありえないという議論を展開している。『ニヤーヤ・クスマンジャリ』では、初めに多くの半神(デーヴァ)や賢者(リシ)がいて、ヴェーダを書き、世界を創造したと仮定しようというミーマーンサー学派の命題に対して論じている。ニヤーヤは多神教徒は複数の天の精霊の存在と起源について精緻な証明をしなければならないが、どれも論理的ではなく、永遠の全知全能の一神を想定する方が論理的だと主張している。 仏教においては上座部仏教(南伝仏教・小乗仏教)は、釈迦のみを仏とするため(ただし上座部も過去七仏は認めている)、上座部仏教を一神教と見做す見解もある。 日本においても真言宗が大日如来を天地万物と一体である「法身仏」としており、日蓮宗も神社への参拝を認めつつも釈迦牟尼如来を唯一絶対の本仏であるとしている。なお、日蓮正宗においても神道における神の扱いや「本仏」の内容は異なるものの、基本的な教学は同じである。金光教・大本の流れをくむ新宗教の生長の家も唯一絶対神への信仰を掲げる唯神実相論を提唱している。 『日本大百科全書』によると、明治維新・王政復古によって祭政一致(政教一致)が政治理念の基本とされ、天皇は国の「元首」かつ神聖不可侵な「現人神」とされた。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の神観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた。天皇は「絶対的真理」と「普遍的道徳」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された。東アジア学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの唯一神、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される。 また、大日本帝国が存在した時代では、日本の「the emperor」が「唯一神として(as God)」見なされたり、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった(一神教では、唯一神は「Empepror」・「sole emperor」とも説かれる。 例えば、帝国大学の比較宗教学者だった加藤玄智は、天皇は「日本人にとって、ユダヤ人が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた。加藤は唯一神(キリスト)と天皇を結びつけ、 と述べている。同時に加藤は、日本人はみな「神の子」であるとしている。 ピーター・リャン・テック・ソンの歴史学論文によると、唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、イスラムへ命令が下されることもあった。例えば大日本帝国は、ジャワ島のムスリムたちへ「メッカよりも東京に礼拝し、日本天皇を唯一神として礼賛せよ、という日本軍の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた。 ジャワ奉公会や日本軍は、ジャワ島のキャイ(イスラム教師)やイスラム指導者等といったムスリムたちから支持を得ようとした。しかしその前に、日本軍が唯一神(アッラーフ・天皇)についての命令を伝えていたため、ムスリムたちは既に混乱させられた状態にあり、結果として失敗した。 インドネシアにおいてはパンチャシラにおいて唯一神への信仰が国是となっており、無神論の表明は違法とされる。一方で仏教やヒンドゥー教、儒教も国教と定められている。これらの宗教も「唯一神信仰の枠組みに含まれる」と解釈されているのである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "一神教(いっしんきょう、monotheism)とは、神は唯一であり、普遍的に神と呼ばれる至高の存在であるという信仰である。通常はユダヤ教,キリスト教,イスラム教の3つがその典型とされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一神教は、神は唯一であるという排他的一神教と、複数の神または神的形態を認めるがそれぞれが同じ神の延長として仮定される包括的・多形一神教に分けることができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "他の者が異なる神を等しく崇拝することを否定せずに信者が一つの神を崇拝する宗教体系である単一神教や、多くの神の存在を認めながらも一つの神のみを一貫して崇拝する拝一神教と区別される。拝一神教という言葉はおそらくジュリウス・ウェルハウゼンによって最初に使われたと考えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一神教はバーブ教、バハーイー教、天道教、キリスト教、理神論、ドゥルーズ派、エキンカー(英語版)、シーク教、ヒンドゥー教のいくつかの宗派(シヴァ派やヴィシュヌ派など)、イスラーム教、ユダヤ教、マンダ教、ラスタファリ運動、生長の家、天理教、ヤズィーディー、ゾロアスター教の伝統を特徴づけるものである。一神教の要素は、アテン教(英語版)、古代中国の民俗宗教、ヤハウェ教(英語版)などの初期の宗教に見られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一神教の語源は、ギリシャ語で「単一の」を意味する μόνος(モノス)と「神」を意味する θεός(テオス)。 英語の用語はヘンリー・モア(1614-1687)が初めて使用した。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『ブリタニカ百科事典』によると一神教は歴史上、次に挙げる3種が区別できる。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『岩波キリスト教辞典』によると、一神教は特定の一神のみを排他的に崇拝する信仰の形態をさし、無神教や多神教と対比される。汎神論(万物を神の顕れないし展開と見なす)や、万有内在神論(万物が神に内包されていると見る)においても、しばしば万物の根本的原理としての神の唯一性が説かれるが、この場合には通常は神の人格性の観念が著しく後退するので、一神教に含めることは適切ではないとされる。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一神教の成立に関する説は、次の2種がある。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "普遍的な神の存在を主張する準一神教的な主張は、アクエンアテンの「アテンへの大讃美歌」に代表される青銅器時代後期に見られる。鉄器時代の南アジアでは、ヴェーダ時代に一神教への傾倒が見られた。『リグヴェーダ』では特に比較的後期の第10巻にブラフマンの一神教の概念が見られ、宇宙開闢の歌(Nāsadīya Sūkta)などは鉄器時代初期のものとされている。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "中国では少なくとも殷王朝(紀元前1766年)以降、近代までのほとんどの王朝で、上帝(文字通り「上の君」、一般に「神」と訳される)または天を全能の力として崇拝することが正統な信仰体系となっていた。しかしこの信仰体系は、地域によって異なる他の小神や霊も上帝と共に崇拝されており、真の一神教とは言えなかった。しかし、後世の墨家(紀元前470年~紀元前391年)は、小神や祖霊の働きは上帝の意志を遂行することに過ぎないとし、アブラハムの宗教における天使と同様に、唯一の神として数えて、真の一神教に近づいたとされる。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "紀元前6世紀以降、ゾロアスター教徒は、すべてのものに勝る唯一の神が存在すると信じてきた。アフラ・マズダは「すべての造り主」であり、他のすべての存在に先立つ最初の存在である しかし、ゾロアスター教はアフラ・マズダの他にもヤザタを崇拝していたため、厳密には一神教ではなかった。一方、古代ヒンドゥー教の神学は一神教であったが、一人の最高神ブラフマンの側面として想定される多くの神々の存在を依然として維持していたため、厳密には一神教的な礼拝ではなかった。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "タレス(その後、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、パルメニデスなどの他の一元論者が続いた)は、自然は万物を貫く単一の原理を参照することで説明できると提唱した。コロフォンのクセノファネスやアンティステネスなど、多くの古代ギリシャの哲学者が、一神教と似たような多神教的な一神教を信じていた。一元的な神への最初の既知の言及はプラトンのデミウルゴス(神の職人)、続いてアリストテレスの不動の動者(宇宙論的証明)であり、どちらもユダヤ教とキリスト教の神学に大きな影響を与えることになる。ストア派や中期プラトン主義・新プラトン主義についても異教の一神教(pagan monotheism)として分類することがある。ストア派の神についてフレデリック・ブレンクはこう書いている。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アスカロンのアンティオコスはアカデメイア派、ペリパトス派、ストア派の3つの学派を説明し、これらの3つの学派が互いに些細な点でしか乖離していないと指摘している。出エジプト記後、ユダヤ教は一神教の文脈の中で個人的な一神教の神の概念を考え出した最初の宗教であった。道徳は神のみに由来し、その法則は不変であるとする倫理的一神教の概念はユダヤ教で初めて生まれたが、現在ではゾロアスター教、キリスト教、イスラム教、シーク教、バハーイー教など、ほとんどの現代の一神教の中核的な教義となっている。", "title": "詳説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "もし一神教が一般的な定義にあるように、唯一神以外の超越的存在は存在しないという信念を意味するならば、ヘブライ語聖書だけでなくユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教に分類することはできない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、いずれも天使という天界に住み、不死の存在への信仰を示す(天使はもともとカナン人の神々であり、唯一神のメッセンジャーに変化していったという説もある)。ローマカトリックや正教ではそれに加えて、天上に存在する聖人への信仰がある。聖人は死によってその存在や活動に長期的な影響がなく、地上から天上への移動に過ぎないという信仰がある。このため一神教を神聖な存在の数量によって定義せず、神聖な存在群の関係性によって定義することがある。たとえ人々が唯一神に代わって、さまざまな超越的存在に祈るとしても、すべての力が最終的に一つの神に起因するという神学は一神教である。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "プラトン主義、ペリパトス派、ストア派はキリスト教徒が天使、聖人といった神聖(divine)あるいは神(god)と呼ぶことができる存在を持つように、ある一つの神を特定の神(Godあるいはthe God)と呼び、その特定の神を除いた神々には、最高神を頂点とした階層制よりもはるかに徹底した従属関係(派生関係)をもたせていたと考えられている。彼らは単なる最高神でなく『特定の神(the God)』、それだけが神と呼ぶに値する唯一無二の神かのように特別な名称を使った。ストア派によるとゼウスだけが神であるための基準を完全に満たし、他の神々はゼウスによって運命づけられ、ゼウスの計画を実行するためだけに存在しており、神々は完全にゼウス(the God)に依存し、不死でさえなかった。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "プラトン主義者にとっても神は唯一のものであったが、それ以外にも神聖(divine)と呼ばれる存在がおり、彼らは特別な神の被造物でありながら、神の恩恵によって不死を与えられた。彼らは唯一の特別な神の慈悲によってのみ不死であり神聖であった。ストア派もプラトン主義者も、地上の世界は悪魔(デーモン)で満ちていると考えていたが、悪魔のすべてが神聖視されていたわけではなく、彼らの中には賢くも高潔でもないものがいた。問題のある悪魔を操作して自己の利益のために力を行使することができるとされていた。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ギリシャの哲学者、クセノファネスは最も偉大な神は形においても、心においても人間に似ることはないとした。アリストテレス、プラトン主義、ストア派も擬人化された神を認めなかった。ユダヤ教とイスラム教では神は人間の理解を超えた存在であると信じており、擬人化された神を拒絶している。ローマカトリック教会は過度に字義的な聖書解釈を認めず、神に人間の姿を与えることを明確に否定している。キリスト教が擬人化された神を拒絶するようになったのは4世紀以降とされている。ニュッサのグレゴリオスは「神は男でも女でもない」と述べ、ヒエロニムスは「神格に性別はない」とし、神のジェンダーを否定した。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "多神教の礼拝で一つの神が無限で最高の存在として定められ、従属的な蔑称が他の神々に与えられるという現象がある。多神教の信仰体系が、しばしば一つの神や原理を最高位に引き上げ、他の神々をその下僕や現れと再解釈するのは偶然のことではない。いくつかの宗教では「普遍的主権」「全能」「完全な献身の要求」等の神の単一性に関する三つの最も強力な哲学的論拠の基礎によって、二つ以上の神々が存在しないことを明らかにしようと歴史的に重要な試みが行われてきた。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "キリスト教神学には「神は単純である(部分がない)」という「神性単純性(英語版)」の教義がある。神の存在は、神の「属性」と同一である。遍在、善、真理、永遠などの性質は、神の存在と同一であり、その存在を構成する質ではなく、また神の中に物質のように継承される抽象的な実体でもなく、言い換えれば神においては本質と存在の両方が同一であると言うことができる。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "もし神が単純であるならば、神は一つしか存在し得ない。なぜならxは単純という性質Sを持ち、xとの同一性はどんな性質Pでも足りる。そしてxは単純なので、S=Pである。しかし、yもSを持っている。したがって、yはPも持っているはずで、したがって、y=xとなる。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ダマスコのイオアンは神は完全であるから必然的に唯一無二の存在であると主張した。ある神が他の神と区別される唯一の方法は、「善、力、知恵、時間、場所において完全でない」ことであるが、その場合は「神ではない」ことになる。アクィナスも同じような議論を展開している。もし複数の神が存在するならば、複数の完全な存在が存在することになるが、「もしこれらの完全な存在のどれもが何らかの完全性を欠き」、またどれもが「不完全さの混じったもの......」を持たないならば、完全な存在を互いに区別するためのものは与えられないだろう。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一神教の最も一般的な主張の一つは世界の統一性から導かれるものである。つまり世界の統一性、世界が均一な構造を示すこと、それが単一の宇宙であることは、その原因におけるある種の統一性を強く示唆している。すなわち単一の設計者が存在するか、あるいは複数の設計者が、おそらくそのうちの一人の指示の下で協力的に作用しているかのいずれかである。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは『Ordinatio』の中で、神の単一性に関するいくつかの証明を提示している。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "アル・ガザーリーは「もし二人の神がいて、そのうちの一人がある行動に決心したならば、二番目の神は彼を助けなければならず、それによって彼が全能の神ではなく従属的存在であることを示すか、あるいは彼が全能であり、最初の神は弱く欠陥があり、全能の神ではないことを示すために反対することができるだろう」ために二人は存在できないことを論じている。アル・ガザーリーの議論は次のように定式化できる。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "前提3は以下のように証明される。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "したがって", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "オッカムの剃刀で知られるオッカムのウィリアムによれば「神」は二通りの意味で理解される。神とは「彼以外の何ものよりも高貴で完全なもの」を意味する場合と「それよりも高貴で完全なものはない」ことを意味する場合とがある。もし神が最初の意味で理解されるなら、神は一人しか存在し得ないことになる。オッカムの論証は以下のように定式化されている。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかし", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "もし神が第二の前提から理解されるなら、神がただ一人であることを示すことはできない。なぜなら、それぞれが現実の存在も可能な存在もそれを凌駕しないような、等しく完全な二つの存在が存在し得ないということは明らかではないからである。", "title": "唯一神" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ナミビアのヒンバ族は一神教的な万有内在神論を実践しており、ムクル神を崇拝している。ヒンバ族とヘレロ族の亡くなった祖先は、仲介者として彼に服従している。", "title": "アフリカ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イボ族はオディナニと呼ばれる一神教を実践している。オディナニは一神教の属性を持ち、すべてのものの源として単一の神を持っている。多神教的な精霊も存在するが、これらはオディナニに多く存在する小精霊であり、最高神であるチネケ(またはチュクウ)の要素としての役割を担っている。", "title": "アフリカ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "またワアク(英語版)はアフリカの角に住む多くのクシ族に伝わる伝統的な宗教で、初期の一神教を示す一柱の神の名前である。しかし、この宗教はほとんどアブラハム宗教に取って代わられた。オロモの一部(約3%)は現在もこの伝統的な一神教を信仰しており、オロモ語でワケファナ(英語版)と呼ばれている。", "title": "アフリカ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アメリカ先住民の宗教は一神教、多神教、単一神教、アニミズムまたはそれらの組み合わせであることがある。", "title": "アメリカ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "大いなる神秘(Great Spirit)は、スー族の間ではワカン・タンカと呼ばれ、アルゴンキン族の間ではギッチェ・マニトゥと呼ばれ、いくつかのネイティブアメリカンと先住民の文化の間で普及している普遍的な霊力、または至高の存在の概念である。ラコタ族の活動家であるラッセル・ミーンズによれば、ワカンタンカのより良い訳は「偉大なる神秘(Great Mystery)」である。", "title": "アメリカ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一部の研究者はアステカの哲学を基本的に一神教的であると解釈している。民衆は多神教を信じていたが、アステカの神官と貴族はテオトル(英語版)を多くの面を持つ単一の普遍的な力として解釈するようになった可能性が指摘されている。", "title": "アメリカ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "少なくとも殷王朝(紀元前1766年)以降、近代に至るまで中国のほとんどの王朝で行われていた正統な信仰体系で、他の神の上に立つ至高の存在として天帝または天への崇拝を中心としていた。この信仰体系は、儒教や道教が発展し仏教やキリスト教が伝えられる以前からのものである。天が全能の存在、世界を超越した人格を持つ非実体的な力として見られるという点で、一神教の特徴を持つ。しかし、この信仰体系は地域によって異なる他の小神や精霊も天帝とともに崇拝していたため、真の一神教ではなかった。それでも後代の墨家(前470年-前391年)などの変種は、小神や祖霊の機能は天帝の意志を遂行することに過ぎないと教え、真の一神教に近づいていった。墨子の『天志』には、次のように書かれている。", "title": "東アジア" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "古代中国における天帝と天に対する崇拝は、北京の天壇を最後とする祠堂の建立と、祈りの奉納である。中国の各王朝では、統治者が毎年天帝に犠牲の儀式を行い、通常は完全に健康な牛を生贄として屠殺した。道教や仏教などの宗教が登場すると、その人気は次第に衰えたが、その概念は前近代を通じて使われ続け、中国の初期キリスト教徒が使った用語を含め、中国の後期宗教に取り入れられてきた。道教や仏教による非有神論的な精神性の高まりにもかかわらず、天帝は清朝末期まで賞賛され、清朝最後の支配者は自らを天子と宣言した。", "title": "東アジア" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "テングリ崇拝(Tengrism)はシャーマニズム、アニミズム、トーテミズム、多神教と一神教と先祖崇拝の特徴を持つ中央アジアの宗教に対する現代用語であり、時々テングリ教と呼ばれる。歴史的にはブルガール人、トルコ人、モンゴル人、ハンガリー人、匈奴、フン族の有力な宗教であった。6つの古代トルコ国家、アヴァール可汗国、旧大ブルガリア、第一ブルガリア帝国、突厥、ハザール、西突厥の国教でもあった。『Irk Bitig』ではテングリはTürük Tängrisi(トルコ人の神)として言及されている。この言葉はトルコ民族の間で民族宗教として認識されている。", "title": "東アジア" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "東ヨーロッパではスラブ宗教の古代の伝統が一神教の要素を含んでいた。紀元6世紀、ビザンチンの年代記作家であるプロコピウスは、スラヴ人が「雷の創造者である1人の神がすべてのものの唯一の主であることを認め、彼のために牛やすべての生け贄動物を犠牲にする」と記録した。プロコピウスの言う神は嵐の神ペルーンで、その名前はプロトインディオ=ヨーロッパ語の雷神、ペクノス(英語版)に由来している。古代スラヴ人は彼をゲルマンの神トールや聖書の預言者エリヤと同化させた。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "古代ギリシアの哲学者であるコロフォンのクセノファネスの詩の断片が残っていることから、彼が現代の一神教徒と非常に似た見解を持っていたことが示唆されている。彼の詩は「もし牛や馬やライオンが手を持ち、その手で絵を描いて人間のように作品を作ることができるなら......彼らもまた神々の形を描き、彼ら自身が持つ形のような身体を作るだろう」とコメントして、擬人化した神という従来の概念を厳しく批判している。その代わりにクセノファネスは「...神々と人間の中で最も偉大で、形も考え方も人間に似ていない唯一の神」が存在すると明言している。クセノファネスの神学は一神教であったようだが、厳密な意味での真の一神教ではなかった。アンティステネスのような後の哲学者の中には、クセノファネスによって説かれたものに似た教義を信じていた者がいたが、彼の考えは広く普及しなかったようである。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "純粋な(哲学的な)一神教の発展は、古代後期の産物である。2世紀から3世紀にかけて、初期キリスト教は一神教を主張するいくつかの競合する宗教運動の一つに過ぎなかった。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "プロティノスの著作では一者は、存在のすべてに浸透している、想像を絶する、超越的な、すべてを体現する、永久的な、永遠的な、因果関係のある存在として描写されている。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "紀元2~3世紀のディディマ(英語版)とクラルスのアポロ神の多くの託宣、いわゆる「神学的託宣」は、最高の神はただ一人であり、多神教の神々は単なる現れか下僕であると宣言している。紀元4世紀のキプロス島にはキリスト教の他に、ディオニュソス一神教の教団が存在した。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ギリシャの古文書によればヒプシスタリアン(英語版)は最高神を信じる宗教集団であった。このヘレニズムの宗教の後の改訂は、より広い民衆の間で考慮されるようになるにつれて、一神教に向かって調整された。ゼウスを主神とする崇拝は一神教的傾向を示し、より小さな神々の断片的な力に与えられる名誉は縮小した。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ユダヤ教は伝統的に世界最古の一神教の一つと考えられているが、最古のイスラエル人(紀元前7世紀以前)は一神教ではなく多神教であり、単一神教、後に拝一神教へと発展したと考えられている。第二神殿ユダヤ教(英語版)、そして後のラビ・ユダヤ教における神は厳密に一神教であり、すべての存在の究極の原因である絶対的な一、不可分、そして比類なき存在であった。バビロニアのタルムードでは人間が誤って現実と力を付与する非実在の存在として他の「外来の神々」に言及している。ラビ・ユダヤ教における一神教に関する最も有名な声明として、マイモニデスの13の信仰原理の第2節がある。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ユダヤ教とイスラム教の一部はキリスト教の一神教の考えを否定している。ユダヤ教では純粋な一神教(非ユダヤ人には許されるが)でも多神教(禁止される)でもないとみなす方法での神への礼拝を指すためにシトゥフという用語を使用している。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "初期キリスト教徒では、神格の性質についてかなりの議論があり、ある者はイエスの受肉は否定したが神格は否定せず(仮現説)、他の者は後に神のアリウス派的な概念を呼び起こした。少なくともそれ以前の地方会ではアリウス派の主張を否定していたにもかかわらず、このキリスト論的問題は第1ニカイア公会議で取り上げられる項目のひとつとなった。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ニカイア公会議は325年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によってニカイア(現在のトルコ)で開かれた、ローマ帝国初のエキュメニカルな司教会議であり、最も大きな成果は、ニカイア信条という初めて統一したキリスト教の教義をもたらしたことであった。この信条の制定により、その後のエキュメニカルな司教協議会(シノドス)が信仰声明や教義的正統性の規範を制定する際の前例ができた-その意図は、教会のための共通の信条を定義し異端思想に対処することであった。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "評議会の目的の一つは、父との関係におけるイエスの性質、特にイエスが父なる神と同じ物質であるのか、それとも単に類似した物質であるのかについてのアレクサンドリアでの意見の相違を解決することであった。二人の司教を除くすべての司教が第一の立場をとり、アリウスの主張は失敗した。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この決定は381年の第1コンスタンティノポリス公会議で再確認され、カッパドキア派の教父たちの働きによって本格的に発展することになり、キリスト教正統派の伝統(東方正教会、東方正教会、ローマカトリック、プロテスタントのほとんど)は、この決定に従う。彼らは神を三位一体と呼び、父なる神、子なる神、聖霊なる神の3つの「位格」からなる存在であると考える。この三者は「同じ実体である」(Łμούσιος)と表現される。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "キリスト教の正統的な三位一体の定義を示すニカイア信条が冒頭で述べるように、一神教がキリスト教信仰の中心であることはキリスト教徒が「私は唯一の神を信じる」と主張するところである。ニカイア信条の時代である325年以前から、キリスト教の様々な人物が、神の三位一体の神秘性を規範的な信仰告白として提唱している。ロジャー・E・オルソンとクリストファー・ホールによれば、祈り、瞑想、研究、実践を通して、キリスト教共同体は「神は統一体と三位一体として存在しなければならない」という結論を出し、4世紀末の公会議でこれを成文化した。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "現代のキリスト教徒の多くは、神性が三位一体であると信じており、これは三位一体の3つの位格が、各位格が完全に神でもある1つの結合であることを意味する。また、神の化身としての人神であるキリスト・イエスの教義を信奉している。また、これらのキリスト教徒は、3つの神格のうち1つが単独で神であり、他の2つはそうではなく、3つすべてが神秘的に神であり1つであると信じている。ユニテリアン・ユニヴァーサリズム、エホバの証人、モルモン教など、他のキリスト教の宗教は、三位一体に関するそれらの見解を共有していない。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "モルモン教のようないくつかのキリスト教の信仰は、神格は実際には父なる神、子イエス・キリスト、聖霊を含む三つの別々の個人であると主張する。さらにモルモン教は、ニカイア公会議以前には、多くの初期キリスト教徒が神格は三つの別々の個人であると考えるのが優勢であったと考える。この考えを支持するために、彼らは従属性の信念の初期キリスト教の例を引用している。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ユニテリアニズムは神学的な運動であり、三位一体論とは正反対に、神を一人の人間として理解することから名付けられた。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ユダヤ教の一部とイスラム教の一部は、三位一体の多神教的なキリスト教の教義のために、三位一体のキリスト教を一神教の純粋な形態であると考えず、それをユダヤ教ではシトゥフとして、イスラム教ではシルクとして分類している。一方、三位一体主義のキリスト教徒は、三位一体が3つの別々の神から成るのではなく、むしろ単一の神格の中に実質的に(1つの物質として)存在する3つの位格を挙げて、三位一体の教義が一神教の有効な表現であると主張する。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "イスラム教では神(アッラー)は全能で全知であり、宇宙の創造者、維持者、命令者、審判者である。イスラム教における神は厳密に単数(タウヒード)で唯一(ワヒード(英語版))、本来は一つ(アハード(英語版))で慈悲深く全能である。アッラーはアルアルシュの上に存在するが [クルアーン 7:54] 、クルアーンでは「いかなる視覚も彼を把握できないが、彼の把握はすべての視覚を越えている」と述べている。神はすべての理解を超えているが、すべてのものに通じている」[クルアーン6:103]アッラーは唯一神でありキリスト教やユダヤ教で崇拝される神と同じである(29:46)。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "イスラム教はキリスト教とユダヤ教の両方の文脈の中でグノーシス主義に類似したいくつかのテーマ的要素を持ちながら7世紀に出現した。イスラム教の信仰ではムハンマドは神から新しい宗教をもたらしたのではなくアブラハム、モーセ、ダビデ、イエス、その他すべての神の預言者が実践した宗教と同じものであると述べている。イスラム教の主張は、神のメッセージが時間の経過とともに破損、歪曲、消失しておりタウラート(英語版)(律法)、インジール(福音書)、ザブール(英語版)などの失われたメッセージを修正するためにムハンマドにクルアーンが送られたというものである。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "クルアーンは世界を超越した唯一絶対の真理の存在、被造物から独立した唯一無二の存在であると主張する。クルアーンは善も悪も神の創造行為から発生すると主張し、神の二重性という考え方のような二元的思考様式を否定している。神は局所的、部族的、または偏狭なものではなく、普遍的な神であり、すべての肯定的な価値を統合し悪を許さない絶対者である。10世紀から19世紀までスンニ派のイスラームを支配したアシュアリー学派は、究極の神の超越を主張し、神の統一は人間の理性にアクセスできないとしている。アシュアリー学派はそれに関する人間の知識は預言者を通して啓示されたものに限られると教え、神が悪を創造したような逆説については、啓示はどのようにかを問わずに(ビラ・カイファ(英語版))受け入れなければならなかった。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "タウヒードはムスリムの信仰告白の最重要項目である「神のほかに神はなくムハンマドは神の使徒である」。被造物に神性を帰することは、コーランの中で言及されている唯一の許されない罪である。イスラーム教の全体がタウヒードの原理にかかっている。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "中世のイスラム哲学者アル=ガザーリーは全能から一神教の証明を提示し、全能の存在は一つしか存在し得ないと主張した。なぜなら、もし二つの全能の存在があった場合、第一の存在は第二の存在に対して力を持つか(第二の存在は全能ではないことを意味する)、持たないか(第一の存在は全能ではないことを意味する)、したがって全能の存在は一つしかありえないことを暗示しているのである。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "伝統的に神として唯一の存在を持つ一神教の概念を公言しているため、ユダヤ教とイスラム教はキリスト教の一神教の考えを否定している。ユダヤ教は神を崇拝する非一神教的な方法を指すためにシトゥフ(英語版)という用語を使用する。イスラム教はイエス(アラビア語でイーサー)を預言者として崇めるが、イエスが神の子であるという教義は認めない。", "title": "西アジア" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "アンダマン諸島の人々の宗教は「アニミズム的一神教」とも言われ、宇宙を創造したパルガという唯一の神を第一に信じている。パルガは自然現象を擬人化したものとして知られている。", "title": "オセアニア" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "オーストラリア南東部の文化では、天空の父バヤミー(英:Baiame)は宇宙の創造主として認識されており、カミラロイ族の間では伝統的に他の神話的な人物よりも崇拝されていた。彼とキリスト教の神を同一視することは、宣教師にも現代のキリスト教アボリジニに共通している。", "title": "オセアニア" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教は古い宗教であるため一神教、多神教、万有内在神論、汎神論、一元論、無神論などの宗教概念を継承しており、神の概念も複雑で、各人や伝統・哲学に依存するところがある。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教の見解は幅広く、一元論から万有内在神論と汎神論、一神教、無神論にまで及ぶ(一部の学者によって一元論的有神論とも呼ばれる)。ヒンドゥー教は純粋な多神教とは言えない。ヒンドゥー教の宗教指導者たちは、神の形は多く、神とコミュニケーションをとる方法も多いが、神は一つであることを繰り返し強調している。ムルティ(英語版)のプージャー(英語版)は創造、維持、溶解する抽象的な一神(ブラフマン)とコミュニケーションを取るための方法である。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "リグ・ヴェーダ 1.164.46,", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ガウディヤ・ヴァイシュナヴァの伝統、ニンバルカ・サンプラダヤ、スワミナラヤンやヴァラバの信奉者は、クリシュナをすべてのアヴァターラの源、ヴィシュヌ自身の源、あるいはナーラーヤナと同じとみなしている。そのため、彼はスヴァヤム・バガヴァンとして見なされている。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "クリシュナがスヴァヤム・バガヴァンであると認識されるとき、クリシュナが他のすべてのアヴァターラの源であり、ヴィシュヌ自身の源であると受け入れられるガウディヤ・ヴァイシュナヴィズム、ヴァラバ・サンプラダヤ、ニンバールカ・サンプラダヤの信仰であると理解することができる。この信仰は主に「バガヴァタムの有名な記述から」(1.3.28)導かれる。この神学的概念と異なる視点は、クリシュナをナーラーヤナまたはヴィシュヌのアヴァターラとする概念である。しかし、アヴァターラの源としてヴィシュヌを語るのは普通だが、これはヴィシュヌ派の神の名前の一つに過ぎず、神はナーラーヤナ、ヴァスデーヴァ、クリシュナとしても知られ、それらの名前の背後にはヴィシュヌ派において至高とされる神像が存在している。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "『リグ・ヴェーダ』は『アタルヴァ・ヴェーダ』や『ヤジュル・ヴェーダ』と同様に、一神教の思想を論じている。「デーヴァは常にヴィシュヌの至高の住処を目指す」(tad viṣṇoḥ paramaṁ padaṁ sadā paśyanti sṻrayaḥ Rig Veda 1.22.20)", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "神の殊勝な性質は数え切れないほどあるが、中でも次の六つの性質(bhaga)は最も重要である。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "シヴァ派の伝統では、聖典の伝統によってチャマカム (चमकम्) が加えられたシュリ・ルドラム (Sanskrit श्रि रुद्रम्) は、ルドラ(シヴァの形容)に捧げるヒンドゥー教のストトラ(英語版)で、『ヤジュルベダ (TS 4. 5) 』から取られたものである。シュリ・ルドラムは、シュリ・ルドラープラスナ、シュタルドゥリーヤ、ルドラディヤとも呼ばれる。このテキストは、シヴァが普遍的な最高神と同一視されるヴェーダーンタにおいて重要である。この讃歌は神の名を列挙する初期の例であり、この伝統はヒンドゥー教のサハスラナーマ文献で広範囲に展開されている。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教のニヤーヤ学派は、一神教的な見方に関していくつかの主張をしている。ニヤーヤ学派は、そのような神は一人でしかありえないという議論を展開している。『ニヤーヤ・クスマンジャリ』では、初めに多くの半神(デーヴァ)や賢者(リシ)がいて、ヴェーダを書き、世界を創造したと仮定しようというミーマーンサー学派の命題に対して論じている。ニヤーヤは多神教徒は複数の天の精霊の存在と起源について精緻な証明をしなければならないが、どれも論理的ではなく、永遠の全知全能の一神を想定する方が論理的だと主張している。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "仏教においては上座部仏教(南伝仏教・小乗仏教)は、釈迦のみを仏とするため(ただし上座部も過去七仏は認めている)、上座部仏教を一神教と見做す見解もある。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "日本においても真言宗が大日如来を天地万物と一体である「法身仏」としており、日蓮宗も神社への参拝を認めつつも釈迦牟尼如来を唯一絶対の本仏であるとしている。なお、日蓮正宗においても神道における神の扱いや「本仏」の内容は異なるものの、基本的な教学は同じである。金光教・大本の流れをくむ新宗教の生長の家も唯一絶対神への信仰を掲げる唯神実相論を提唱している。", "title": "南アジア" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "『日本大百科全書』によると、明治維新・王政復古によって祭政一致(政教一致)が政治理念の基本とされ、天皇は国の「元首」かつ神聖不可侵な「現人神」とされた。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の神観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた。天皇は「絶対的真理」と「普遍的道徳」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された。東アジア学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの唯一神、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される。", "title": "一神教と多神教の融合・習合" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "また、大日本帝国が存在した時代では、日本の「the emperor」が「唯一神として(as God)」見なされたり、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった(一神教では、唯一神は「Empepror」・「sole emperor」とも説かれる。", "title": "一神教と多神教の融合・習合" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "例えば、帝国大学の比較宗教学者だった加藤玄智は、天皇は「日本人にとって、ユダヤ人が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた。加藤は唯一神(キリスト)と天皇を結びつけ、", "title": "一神教と多神教の融合・習合" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "と述べている。同時に加藤は、日本人はみな「神の子」であるとしている。", "title": "一神教と多神教の融合・習合" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ピーター・リャン・テック・ソンの歴史学論文によると、唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、イスラムへ命令が下されることもあった。例えば大日本帝国は、ジャワ島のムスリムたちへ「メッカよりも東京に礼拝し、日本天皇を唯一神として礼賛せよ、という日本軍の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた。", "title": "一神教と多神教の融合・習合" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ジャワ奉公会や日本軍は、ジャワ島のキャイ(イスラム教師)やイスラム指導者等といったムスリムたちから支持を得ようとした。しかしその前に、日本軍が唯一神(アッラーフ・天皇)についての命令を伝えていたため、ムスリムたちは既に混乱させられた状態にあり、結果として失敗した。", "title": "一神教と多神教の融合・習合" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "インドネシアにおいてはパンチャシラにおいて唯一神への信仰が国是となっており、無神論の表明は違法とされる。一方で仏教やヒンドゥー教、儒教も国教と定められている。これらの宗教も「唯一神信仰の枠組みに含まれる」と解釈されているのである。", "title": "一神教と多神教の融合・習合" } ]
一神教(いっしんきょう、monotheism)とは、神は唯一であり、普遍的に神と呼ばれる至高の存在であるという信仰である。通常はユダヤ教,キリスト教,イスラム教の3つがその典型とされる。
{{出典の明記|date=2018年2月}} {{Expand English|Monotheism|date=2022-06}} {{Jews and Judaism sidebar}}{{キリスト教}}{{Islam}} '''一神教'''(いっしんきょう、monotheism)とは、[[唯一神|神は唯一]]であり、普遍的に神と呼ばれる至高の存在であるという信仰である<ref name="EncyclopædiaBritannica">{{cite encyclopedia | title= Monotheism | url=https://www.britannica.com/topic/monotheism | encyclopedia= [[Encyclopædia Britannica]]}}</ref><ref>{{Cite web |url= https://en.oxforddictionaries.com/definition/monotheism |title= monotheism |accessdate=2022 May 14|publisher= [[Oxford Dictionaries]]}}</ref><ref>{{cite dictionary |url= https://www.merriam-webster.com/dictionary/monotheism |title= Monotheism |dictionary= [[Merriam-Webster]]}}</ref><ref>{{Cite web |url= http://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/monotheism |accessdate=2022 May 14|title=monotheism |work= [[Cambridge Dictionary]]}}</ref><ref>{{Cite book |publisher=[[Hutchinson Encyclopedia]] (12th edition) |title= Monotheism |page=644}}</ref><ref name="odccmono">[[F. L. Cross|Cross, F.L.]]; Livingstone, E.A., eds. (1974). "Monotheism". The Oxford Dictionary of the Christian Church (2 ed.). Oxford: [[Oxford University Press]].</ref><ref name="stanford">{{Cite encyclopedia|year=2018|title=Monotheism|encyclopedia=[[Stanford Encyclopedia of Philosophy]]|publisher=Metaphysics Research Lab, Stanford University|url=https://plato.stanford.edu/entries/monotheism/|author=William Wainwright}}</ref>。通常は{{行内引用|[[ユダヤ教]],[[キリスト教]],[[イスラム教]]の3つがその典型とされる}}{{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2014|p=「一神教」}}。 == 概要 == 一神教は、[[唯一神|神は唯一]]であるという排他的一神教と、複数の神または神的形態を認めるがそれぞれが同じ神の延長として仮定される包括的・多形一神教に分けることができる<ref name="EncyclopædiaBritannica" />。 他の者が異なる神を等しく崇拝することを否定せずに信者が一つの神を崇拝する宗教体系である[[単一神教]]や、多くの神の存在を認めながらも一つの神のみを一貫して崇拝する[[拝一神教]]と区別される<ref>Frank E. Eakin, Jr. ''The Religion and Culture of Israel'' (Boston: Allyn and Bacon, 1971), 70.</ref>。[[拝一神教]]という言葉はおそらくジュリウス・ウェルハウゼンによって最初に使われたと考えられている<ref>{{cite encyclopedia |last=Mackintosh|first=Robert|year=1916|title=Monolatry and Henotheism|encyclopedia=[[Encyclopedia of Religion and Ethics]]|volume=VIII|page=810 |url=https://archive.org/details/EncyclopaediaOfReligionAndEthics.Hastings-selbie-gray.13Vols|access-date=Jan 21, 2016}}</ref>。 一神教は[[バーブ教]]、[[バハーイー教]]、[[天道教]]、[[キリスト教]]<ref name="Monotheism">Christianity's status as monotheistic is affirmed in, among other sources, the ''[[Catholic Encyclopedia]]'' (article "[http://www.newadvent.org/cathen/10499a.htm Monotheism]"); [[William F. Albright]], ''From the Stone Age to Christianity''; [[H. Richard Niebuhr]]; About.com, [http://ancienthistory.about.com/od/monotheisticreligions/ ''Monotheistic Religion resources'']; Kirsch, ''God Against the Gods''; Woodhead, ''An Introduction to Christianity''; [[Columbia Encyclopedia|The Columbia Electronic Encyclopedia]] [http://www.infoplease.com/ce6/society/A0833762.html ''Monotheism'']; The New Dictionary of [[Cultural Literacy]], [https://web.archive.org/web/20071212011435/http://www.bartleby.com/59/5/monotheism.html ''monotheism'']; New Dictionary of Theology, [http://www.ntwrightpage.com/Wright_NDCT_Paul.htm ''Paul''], pp. 496–499; Meconi. "Pagan Monotheism in Late Antiquity". pp. 111ff.</ref>、[[理神論]]、[[ドゥルーズ派]]<ref name="Druze">{{cite book|last=Obeid|first=Anis|title=The Druze & Their Faith in Tawhid|url=https://books.google.com/books?id=FejqBQAAQBAJ&pg=PT1|access-date=27 May 2017|year=2006|publisher=Syracuse University Press|isbn=978-0-8156-5257-1|page=1}}</ref>、{{仮リンク|エキンカー|en|Eckankar}}、[[シーク教]]、[[ヒンドゥー教]]のいくつかの宗派([[シヴァ派]]や[[ヴィシュヌ派]]など)、[[イスラーム教]]、[[ユダヤ教]]、[[マンダ教]]、[[ラスタファリ運動]]、[[生長の家]]、[[天理教]]、[[ヤズィーディー]]、[[ゾロアスター教]]の伝統を特徴づけるものである。一神教の要素は、{{仮リンク|アテン教|en|atenism}}、古代[[中国の民俗宗教]]、{{仮リンク|ヤハウェ教|en|Yahwism}}などの初期の宗教に見られる<ref name="EncyclopædiaBritannica" /><ref name="Hayes 2012">{{cite book |last=Hayes |first=Christine |author-link=Christine Hayes |year=2012 |chapter=Understanding Biblical Monotheism |title=Introduction to the Bible |location=[[New Haven, Connecticut|New Haven]] and [[London]] |publisher=[[Yale University Press]] |series=The Open Yale Courses Series |pages=15–28 |isbn=9780300181791 |jstor=j.ctt32bxpm.6}}</ref><ref>References: * A Modern Hindu Monotheism: Indonesian Hindus as 'People of the Book'. [[The Journal of Hindu Studies]], Oxford University Press, June McDaniel – 2013, {{doi|10.1093/jhs/hit030}} * Zoroastrian Studies: The Iranian Religion and Various Monographs, 1928&nbsp;– Page 31, [[A. V. Williams Jackson]]&nbsp;– 2003 * Global Institutions of Religion: Ancient Movers, Modern Shakers&nbsp;– Page 88, Katherine Marshall&nbsp;– 2013 * Ethnic Groups of South Asia and the Pacific: An Encyclopedia&nbsp;– Page 348, James B. Minahan&nbsp;– 2012 * Introduction To Sikhism&nbsp;– Page 15, Gobind Singh Mansukhani&nbsp;– 1993 * The Popular Encyclopedia of World Religions&nbsp;– Page 95, Richard Wolff&nbsp;– 2007 * Focus: Arrogance and Greed, America's Cancer&nbsp;– Page 102, Jim Gray&nbsp;– 2012 </ref>。 == 詳説 == === 語源 === 一神教の語源は、ギリシャ語で「単一の」を意味する {{lang|el|μόνος}}(モノス)<ref>[https://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3D%2368642 Monos], [[ヘンリー・ジョージ・リデル|Henry George Liddell]], [[:en:Robert Scott (philologist)|Robert Scott]], ''[[A Greek–English Lexicon]]'', at Perseus</ref>と「神」を意味する {{lang|el|θεός}}(テオス)<ref>[https://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3D%2348292 Theos], Henry George Liddell, Robert Scott, ''A Greek-English Lexicon'', at Perseus</ref>。 英語の用語は[[ヘンリー・モア]](1614-1687)が初めて使用した<ref>{{cite book |title=An Explanation of the Grand Mystery of Godliness |last=More |first=Henry |year=1660 |publisher=Flesher & Morden |location=London |page=62}}</ref>。 === 分類 === 『ブリタニカ百科事典』によると一神教は歴史上、次に挙げる3種が区別できる{{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2014|p=「一神教」}}。 # [[単一神教]]または[[交替神教]] # [[拝一神教]] - 特定の一神のみを崇拝するが、他の神々の存在そのものを否定せず、前提としている点で絶対的一神教(唯一神教)とは異なっている{{efn|旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった(サム上26:19、士11:24、出20:2)。神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされる<ref>岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869 拝一神教の項目 山我哲雄</ref>。}}。 # [[絶対的一神教]] - すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場{{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2014|p=「一神教」}}。 『岩波キリスト教辞典』によると、一神教は特定の一神のみを排他的に崇拝する信仰の形態をさし、無神教や[[多神教]]と対比される。[[汎神論]](万物を神の顕れないし展開と見なす)や、[[万有内在神論]](万物が神に内包されていると見る)においても、しばしば万物の根本的原理としての神の唯一性が説かれるが、この場合には通常は神の人格性の観念が著しく後退するので、一神教に含めることは適切ではないとされる。<ref name="名前なし-1">岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P93、(一神教の項目 山我哲雄)</ref> ==== 広義的な一神教 ==== *'''唯一神教'''(狭義のmonotheism) 自分たちの崇拝する神のみを唯一絶対の真の神と見なし、他の神々の存在を原理的に否定する。 *'''拝一神教'''(monolatry)<ref>岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869、(拝一神教の項目 山我哲雄)</ref> 複数の神々の存在を前提にしながらも、常に特定の一神のみを専一的に崇拝する。 *'''交替神教'''(kathemonotheismないしhemonotheism) 機会や祭祀ごとにそれぞれ異なる特定の一神のみを交互に崇拝する。<ref name="名前なし-1"/> === 成立に関する仮説 === 一神教の成立に関する説は、次の2種がある{{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2014|p=「一神教」}}。 *[[アニミズム]]的多神観から単一神教をへて一神教へと発展する、とする説(進化説){{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2014|p=「一神教」}} *原始的な至上者信仰から多神観へ退化する、とする説(原始一神観説 urmonotheism){{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2014|p=「一神教」}} === 歴史 === 普遍的な神の存在を主張する準一神教的な主張は、[[アメンホテプ4世|アクエンアテン]]の「アテンへの大讃美歌」に代表される[[青銅器時代]]後期に見られる。[[鉄器時代]]の南アジアでは、[[ヴェーダ時代]]<ref>{{cite book | last= Sharma | first= Chandradhar|author-link= Chandradhar Sharma Guleri| title= Indian Philosophy: A Critical Survey| publisher= Barnes & Noble| location= New York | year= 1962 | page= vi | chapter= Chronological Summary of History of Indian Philosophy}}</ref>に一神教への傾倒が見られた。『リグヴェーダ』では特に比較的後期の第10巻<ref>[http://www.sacred-texts.com/hin/rigveda/rv10190.htm HYMN CXC. Creation.]</ref>にブラフマンの一神教の概念が見られ、宇宙開闢の歌(Nāsadīya Sūkta)などは鉄器時代初期のものとされている<ref name="auto" />。 [[中国]]では少なくとも[[殷王朝]](紀元前1766年)以降、近代までのほとんどの王朝で、[[上帝]](文字通り「上の君」、一般に「神」と訳される)または天を全能の力として崇拝することが正統な信仰体系となっていた<ref name="ReferenceA">Homer H. Dubs, "Theism and Naturalism in Ancient Chinese Philosophy," ''Philosophy of East and West'', Vol. 9, No. 3/4, 1959</ref>。しかしこの信仰体系は、地域によって異なる他の小神や[[霊]]も[[上帝]]と共に崇拝されており、真の一神教とは言えなかった。しかし、後世の[[墨家]]([[紀元前470年]]~[[紀元前391年]])は、小神や[[祖霊]]の働きは[[上帝]]の意志を遂行することに過ぎないとし、[[アブラハムの宗教]]における[[天使]]と同様に、唯一の神として数えて、真の一神教に近づいたとされる。 [[紀元前6世紀]]以降、[[ゾロアスター教]]徒は、すべてのものに勝る唯一の神が存在すると信じてきた。[[アフラ・マズダ]]は「すべての造り主」<ref>Yasna, XLIV.7</ref>であり、他のすべての存在に先立つ最初の存在である<ref>"First and last for all Eternity, as the Father of the Good Mind, the true Creator of Truth and Lord over the actions of life." (Yasna 31.8)</ref><ref>"Vispanam Datarem", ''Creator of All'' (Yasna 44.7)</ref><ref>"Data Angheush", ''Creator of Life'' (Yasna 50.11)</ref><ref>[http://www.sacred-texts.com/zor/sbe23/sbe2330.htm NYÂYIS.]</ref> しかし、ゾロアスター教は[[アフラ・マズダ]]の他にも[[ヤザタ]]を崇拝していたため、厳密には一神教ではなかった<ref>{{cite web|last1=Duchesne-Guillemin|first1=Jacques|author-link=Jacques Duchesne-Guillemin|title=Zoroastrianism|url=https://www.britannica.com/topic/Zoroastrianism|website=Britannica.com|publisher=Encyclopaedia Britannica|access-date=16 July 2017}}</ref>。一方、古代ヒンドゥー教の神学は一神教であったが、一人の最高神[[ブラフマン]]の側面として想定される多くの神々の存在を依然として維持していたため、厳密には一神教的な礼拝ではなかった<ref name="auto" />。 [[タレス]](その後、[[アナクシマンドロス]]、[[アナクシメネス]]、[[ヘラクレイトス]]、[[パルメニデス]]などの他の一元論者が続いた)は、自然は万物を貫く単一の原理を参照することで説明できると提唱した<ref name="Wells2010">{{cite journal |last1=Wells |first1=Colin |title=How Did God Get Started? |journal=Arion |date=2010 |volume=18.2 |issue=Fall |url=https://www.bu.edu/arion/archive/volume-18/colin_wells_how_did_god_get-started/ |quote=...as any student of ancient philosophy can tell you, we see the first appearance of a unitary God not in Jewish scripture, but in the thought of the Greek philosopher Plato...}}</ref>。[[コロポン|コロフォン]]の[[クセノファネス]]や[[アンティステネス]]など、多くの古代ギリシャの哲学者が、一神教と似たような多神教的な一神教を信じていた<ref name="auto" />。一元的な神への最初の既知の言及は[[プラトン]]の[[ティマイオス|デミウルゴス]](神の職人)、続いて[[アリストテレス]]の[[不動の動者]]([[宇宙論的証明]])であり、どちらもユダヤ教とキリスト教の神学に大きな影響を与えることになる<ref name="Wells2010"/>。[[ストア派]]や[[中期プラトン主義]]・[[新プラトン主義]]についても異教の一神教(pagan monotheism)として分類することがある<ref name="Brenk 2016">{{cite book |last=Brenk |first=Frederick |date=January 2016 |title="Theism" and Related Categories in the Study of Ancient Religions |chapter=Pagan Monotheism and Pagan Cult |chapter-url=https://classicalstudies.org/annual-meeting/147/abstract/pagan-monotheism-and-pagan-cult |publisher=[[Society for Classical Studies]] ([[University of Pennsylvania]]) |series=[https://samreligions.org/2014/12/30/theism-and-related-categories-in-the-study-of-ancient-religions/ SCS/AIA Annual Meeting] |location=[[Philadelphia]] |volume=75.4 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170506035740/https://classicalstudies.org/annual-meeting/147/abstract/pagan-monotheism-and-pagan-cult |archive-date=6 May 2017 |url-status=live |accessdate=3 August 2021 |quote=Historical authors generally refer to “the divine” (''to theion'') or “the supernatural” (''to daimonion'') rather than simply “God.” [...] The Stoics, believed in a God identifiable with the ''logos'' or ''hegemonikon'' (reason or leading principle) of the universe and downgraded the [[Ancient Greek religion|traditional gods]], who even disappear during the conflagration (''[[ekpyrosis]]''). Yet, the Stoics apparently did not practice a cult to this God. [[Middle Platonism|Middle]] and [[Neoplatonism|Later Platonists]], who spoke of a [[Platonism#Philosophy|supreme God]], in philosophical discourse, generally speak of this God, not the gods, as responsible for the creation and providence of the universe. They, too, however, do not seem to have directly practiced a religious cult to their God.}}</ref>。ストア派の神についてフレデリック・ブレンクはこう書いている。 {{quotation|ストア派は宇宙の[[ロゴス]]やヘゲモンコン(理性や指導原理)と同一の神を信じ、伝統的な神々を格下げた。しかしストア派はこの一つの神への崇拝を行わなかった。中・後期プラトン主義者の哲学的言説の中で最高の神について、一般的には神々ではなく、この一つの神が宇宙の創造と摂理に責任を持つと語っている<ref name="Brenk 2016"/>。}} [[アスカロンのアンティオコス]]は[[アカデメイア派]]、[[ペリパトス派]]、[[ストア派]]の3つの学派を説明し、これらの3つの学派が互いに些細な点でしか乖離していないと指摘している{{Sfn | Zeller | 1931 | p = 274}}。[[出エジプト記]]後<ref name="Wells2010"/>、[[ユダヤ教]]は一神教の文脈の中で個人的な一神教の神の概念を考え出した最初の宗教であった<ref name="auto">{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=pBSJNDndGjwC&pg=PA225|title=No Other Gods: Emergent Monotheism in Israel|first=Robert Karl|last=Gnuse|date=1 May 1997|publisher=Sheffield Academic Press|isbn=1-85075-657-0|page=225}}</ref>。道徳は神のみに由来し、その法則は不変であるとする倫理的一神教の概念は<ref name=EncyclopediaBritannica>{{cite web|title=Ethical monotheism|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/1770434/ethical-monotheism|website=britannica.com|publisher=Encyclopædia Britannica, Inc.|access-date=25 December 2014}}</ref><ref name=JVL>{{cite web|last1=Prager|first1=Dennis|title=Ethical Monotheism|url=https://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Judaism/mono.html|website=jewishvirtuallibrary.org|publisher=American-Israeli Cooperative Enterprise|access-date=25 December 2014}}</ref>ユダヤ教で初めて生まれたが<ref>{{cite web|last1=Fischer|first1=Paul|title=Judaism and Ethical Monotheism|url=https://blog.uvm.edu/pfischer/2013/10/27/judaism-and-ethical-monotheism/|website=platophilosophy|publisher=The University of Vermont Blogs|access-date=16 July 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20170730233906/https://blog.uvm.edu/pfischer/2013/10/27/judaism-and-ethical-monotheism/|archive-date=30 July 2017|url-status=dead}}</ref>、現在では[[ゾロアスター教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]、[[シーク教]]、[[バハーイー教]]など、ほとんどの現代の一神教の中核的な教義となっている<ref>Nikiprowetzky, V. (1975). Ethical monotheism. (2 ed., Vol. 104, pp. 69-89). New York: The MIT Press Article Stable. {{jstor|20024331}}</ref>。 == 唯一神 == === 概説 === もし一神教が一般的な定義にあるように、[[唯一神]]以外の超越的存在は存在しないという信念を意味するならば、[[ヘブライ語聖書]]だけでなく[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]は一神教に分類することはできない<ref name="barton" />。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、いずれも[[天使]]という天界に住み、不死の存在への信仰を示す([[天使]]はもともと[[カナン人]]の[[神々]]であり、唯一神のメッセンジャーに変化していったという説もある<ref>Dorothy Irvin, Mytharion: The Comparison of Tales from the Old Testament Testament and the Ancient Near East (Neukirchen-Vluyn: Neukirchener Verlag, 1978), pp. 101-</ref>)。[[ローマカトリック]]や[[正教]]ではそれに加えて、天上に存在する[[聖人]]への信仰がある。聖人は死によってその存在や活動に長期的な影響がなく、地上から天上への移動に過ぎないという信仰がある。このため一神教を神聖な存在の[[数量]]によって定義せず、[[神聖]]な存在群の[[関係]]性によって定義することがある<ref name="barton">The Hebrew Bible: A Critical Companion, ed. John Barton(Princeton University Press, 2016) pp. 240-241</ref>。たとえ人々が唯一神に代わって、さまざまな超越的存在に祈るとしても、すべての力が最終的に一つの神に起因するという[[神学]]は一神教である<ref name="barton" />。 [[プラトン主義]]、[[ペリパトス派]]、[[ストア派]]はキリスト教徒が天使、聖人といった神聖(divine)あるいは神(god)と呼ぶことができる存在を持つように、ある一つの神を特定の神(Godあるいはthe God)と呼び、その特定の神を除いた神々には、最高神を頂点とした階層制よりもはるかに徹底した従属関係(派生関係)をもたせていたと考えられている<ref name="pg-43">Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), pp. 43-44. "the Platonists, the Peripatetics, and the Stoics do not just believe in one highest god, they believe in something which they must take to be unique even as a god. For they call it ‘God’ or even ‘the God’, as if in some crucial way it was the only thing which deserved to be called ‘god’. If, thus, they also believe that there are further beings which can be called ‘divine’ or ‘god’, they must have thought that these further beings could be called ‘divine’ only in some less strict, diminished, or derived sense. Second, the Christians themselves speak not only of the one true God, but also of a plurality of beings which can be called ‘divine’ or ‘god’; for instance, the un-fallen angels or redeemed and saved human beings."</ref><ref name="pg-49" />。彼らは単なる最高神でなく『特定の神(the God){{efn|ο θεός}}』、それだけが神と呼ぶに値する唯一無二の神かのように特別な名称を使った<ref name="pg-43" /><ref name="pg-49">Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 49. "As the principle of everything it is, according to Aristotle, the ultimate source of all order and goodness in the world. And Aristotle explicitly attributes unlimited power to it. So when Aristotle talks about the God, he means one particular divine being whose status, even as a divine being, is so unique that it can be called ‘the God’......Even if the order of things envisaged leaves room for beings which can be called ‘divine’, it is clear that they will be so fundamentally derivative and subordinate to the God that, for instance, talk of a ‘highest God’ is in some ways quite misleading. For the relation between a first principle and those things which depend on the principle involves a much more radical subordination than that involved in a pantheon or hierarchy of gods with one god at the apex. A fortiori, the analogy with Zeus is somewhat misleading."</ref>。ストア派によると[[ゼウス]]だけが神であるための基準を完全に満たし、他の神々はゼウスによって運命づけられ、ゼウスの計画を実行するためだけに存在しており、神々は完全にゼウス(the God)に依存し、不死でさえなかった<ref name="pg-53">Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 53. "Nevertheless, this clearly means that only Zeus satisfies the criterion for being a god fully, whereas all other gods only satisfy the criterion by not insisting on strict indestructibility, but by accepting a weak form of immortality. It is only in this diminished sense that things other than Zeus can be called ‘god’. More importantly, though, these other gods only exist because the God has created them as part of his creation of the best possible world, in which they are meant to play a certain role. The power they thus have is merely the power to do what the God has fated them to do. They act completely in accordance with the divine plan......It is very clear in their case, even more so than in Aristotle’s, that these further divine beings are radically dependent on the God and only exist because they have a place in the divine order of things. Far from governing the universe or having any independent share in its governance, they only share in the execution of the divine plan; they are not even immortal, strictly speaking. Theirs is a rather tenuous divinity."</reF>。 [[プラトン主義]]者にとっても神は唯一のものであったが、それ以外にも神聖(divine)と呼ばれる存在がおり、彼らは特別な神の[[被造物]]でありながら、神の恩恵によって不死を与えられた。彼らは唯一の特別な神の[[慈悲]]によってのみ不死であり神聖であった<ref name="pg-54">Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 54. "So there is one God, but there are also other beings which are called ‘divine’, though they are created, because they are by Divine grace immortal and enjoy a good life. But they only exist as part of God’s creation and they are immortal and hence divine only due to the God’s benevolence or grace, that is to say they owe their very divinity to God. S"</ref>。[[ストア派]]もプラトン主義者も、地上の世界は[[悪魔]](デーモン)で満ちていると考えていたが、悪魔のすべてが神聖視されていたわけではなく、彼らの中には賢くも高潔でもないものがいた<ref name="pg-57">Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 57. "Both Stoics and Platonists assumed that the world above the earth was filled with demons. Not all of them were divine. Some of them were far from living a life of bliss, because they were far from being wise and virtuous, if not outright malevolent. Nevertheless, they might have extraordinary powers and knowledge, for instance, about the future. If one knew how to do it, one could, because of their weaknesses, manipulate them to exercise these powers for one’s own benefit or to reveal their knowledge. This line between good demons and questionable demons, or rather the line between enrolling the help of good demons and manipulating questionable demons, was not so easy to draw."</ref>。問題のある悪魔を操作して自己の利益のために力を行使することができるとされていた<ref name="pg-57" />。 ギリシャの哲学者、[[クセノファネス]]は最も偉大な神は形においても、心においても人間に似ることはないとした<ref>Clement of Alexandria, Miscellanies V xiv 109.1–3</ref><ref>Diels-Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker, Xenophanes frr. 15–16.</ref>。[[アリストテレス]]、[[プラトン主義]]、[[ストア派]]も擬人化された神を認めなかった<ref>Augustine and the Corporeality of God, Carl W. Griffin and David L. Paulsen, The Harvard Theological Review Vol. 95, No. 1 (Jan., 2002), p. 97, "All of this stands in stark contrast with that Christian theology which developed, primarily under the influence of Platonism, a nonanthropomorphic and incorporeal conception of God that has come to dominate all subsequent theology and philosophy"</ref><ref>Religion, Ethics, and the Meaning of Life, ROLANDO M. GRIPALDO, KEMANUSIAAN 15 (2008), 27–40, p. 28</ref>{{efn|ストア派は全ての存在が物質的なものとしゼウス(the God)を活動的な炎と同一視した。世界は理性的な動物であり、周期的に炎に転化する。この炎の状態は世界、世界の理性、ゼウスと完全に一致するものと考えた<ref>"Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 51. But the Stoics not only think that all beings are material or corporeal, they also, more specifically, identify God or Zeus with a certain kind of fire which is supposed to be intelligent, active, and creative. So perhaps we have to assume that the Stoics distinguish two aspects of the fiery substance which is Zeus, two aspects, though, which in reality are never separated, namely its divine, creative character, and its material character. Thus God and Zeus are the same to the extent that Zeus is active, creative, intelligent. Now the Stoics also believe that the world is a rational animal that periodically turns entirely into the fiery substance which is Zeus. What happens is that the reason of this animal is itself constituted by this fiery substance, and that this reason slowly consumes and absorbs into itself the soul and the body of the world. Thus, in this state of conflagration, the world, the reason of the world, and Zeus completely coincide."</ref>。}}。[[ユダヤ教]]と[[イスラム教]]では神は人間の理解を超えた存在であると信じており、擬人化された神を拒絶している<ref>{{Cite web |title=ANTHROPOMORPHISM - JewishEncyclopedia.com |url=https://www.jewishencyclopedia.com/articles/1574-anthropomorphism#anchor2 |access-date=2022-08-08 |website=www.jewishencyclopedia.com}}</ref>{{efn|[[Moses Maimonides]] quoted [[Rabbi]] [[Abraham Ben David]]: "It is stated in the Torah and books of the prophets that God has no body, as stated 'Since G-d your God is the god ({{abbr|lit.|literally}} ''gods'') in the heavens above and in the earth below" and a body cannot be in both places. And it was said 'Since you have not seen any image' and it was said 'To who would you compare me, and I would be equal to them?' and if he was a body, he would be like the other bodies."<ref>{{citation |last=Maimonides |first=Moses |author-link=Moses Maimonides |title=Book of Science |contribution=Fundamentals of Torah, Ch. 1, § 8 }}</ref>}}。[[ローマカトリック教会]]は過度に字義的な聖書解釈を認めず、神に人間の姿を与えることを明確に否定している<ref name="CE1913">{{Cite CE1913|wstitle=Anthropomorphism |author=James Joseph Fox |volume=1}}, "The Scriptures themselves amply warn us against the mistake of interpreting their figurative language in too literal a sense. They teach that God is spiritual, omniscient, invisible, omnipresent, ineffable. Insistence upon the literal interpretation of the metaphorical led to the error of the Anthropomorphites."</ref>。[[キリスト教]]が擬人化された神を拒絶するようになったのは[[4世紀]]以降とされている<ref>Augustine and the Corporeality of God, Carl W. Griffin and David L. Paulsen, The Harvard Theological Review Vol. 95, No. 1 (Jan., 2002), p. 108, "Augustine himself clarifies what he means by anthropomorphism/corporealism not being catholic doctrine: "The Catholic faith does not teach what we thought and we were mistaken in criticizing it. The Church's educated men (docti) think it is wrong to believe that God is bounded by the shape of a human body" (Conf.6.11.18).</ref>。[[ニュッサのグレゴリオス]]は「神は男でも女でもない」と述べ、[[ヒエロニムス]]は「神格に性別はない」とし<ref>JESUS AND THE FATHER, Tim Bulkeley, Asian Journal of Pentecostal Studies 17:2 (2014), pp. 145-147. Gregory of Nyssa, Homily VII In Cantica Canticorum (PG 44: 916B)—“God is not either male or female;” in Greek, the quotation reads: epeide gar oute arren, oute thelu to theion esti;. Jerome, In Esaiam (CCSL 73: 459, 1.82-83)—“There is no sexuality in the Godhead;” in Latin, the quotation reads: In divinitate enim nullus est sexus.</ref>、神の[[ジェンダー]]を否定した。 === 神学的な論証 === {{See also|神学|キリスト教神学|イスラム神学|神の存在証明|宇宙論的証明}} [[多神教]]の礼拝で一つの神が[[無限]]で[[最高]]の存在として定められ、従属的な[[蔑称]]が他の神々に与えられるという現象がある。多神教の信仰体系が、しばしば一つの神や原理を最高位に引き上げ、他の神々をその下僕や現れと再解釈するのは偶然のことではない。いくつかの宗教では「普遍的[[主権]]」「[[全能]]」「完全な献身の要求」等の神の[[単一性]]に関する三つの最も強力な[[哲学]]的論拠の基礎によって、二つ以上の神々が存在しないことを明らかにしようと[[歴史]]的に重要な試みが行われてきた<ref name="stanford" />。 ==== 神の単純性からの論証 ==== {{See also|オッカムの剃刀}} [[キリスト教]][[神学]]には「神は単純である(部分がない)」という「{{仮リンク|神性単純性|en|Divine simplicity}}」の教義がある。神の存在は、神の「属性」と同一である。[[ユビキタス|遍在]]、[[善]]、[[真理]]、[[永遠]]などの性質は、神の[[存在]]と同一であり、その存在を構成する質ではなく、また神の中に物質のように継承される抽象的な実体でもなく、言い換えれば神においては[[本質]]と[[存在]]の両方が同一であると言うことができる<ref>Thomas Aquinas, [[:en:Summa Theologica]]([[神学大全]])、The simplicity of God (Prima Pars, Q. 3)</ref><ref>{{Cite web|url=http://newadvent.com/summa/1003.htm#article4|title=SUMMA THEOLOGIAE: The simplicity of God (Prima Pars, Q. 3)|website=newadvent.com|access-date=2019-10-09}}</ref><ref name="stanford" />。 もし神が単純であるならば、神は一つしか存在し得ない。なぜならxは単純という性質Sを持ち、xとの同一性はどんな性質Pでも足りる。そしてxは単純なので、S=Pである。しかし、yもSを持っている。したがって、yはPも持っているはずで、したがって、y=xとなる<ref>Leftow, Brian, 1988, “The Roots of Eternity,” Religious Studies, 24: pp. 199–200.</ref>。 ==== 神の完全性からの論証 ==== [[ダマスコのイオアン]]は神は完全であるから必然的に[[唯一無二]]の存在であると主張した。ある神が他の神と区別される唯一の方法は、「[[善]]、[[力]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}、[[知恵]]、[[時間]]、[[空間|場所]]において完全でない」ことであるが、その場合は「神ではない」<ref>John of Damascus, Writings, Frederic H. Chase, Jr., (trans.), (The Fathers of the Church, Volume 37), Washington, D.C.: Catholic University of America Press, 1958. p. 173 </ref>ことになる。[[アクィナス]]も同じような議論を展開している。もし複数の神が存在するならば、複数の完全な存在が存在することになるが、「もしこれらの完全な存在のどれもが何らかの完全性を欠き」、またどれもが「不完全さの混じったもの......」を持たないならば、完全な存在を互いに区別するためのものは与えられないだろう<ref>Aquinas, St. Thomas, On the Truth of the Catholic Faith: Summa Contra Gentiles, Book One, Anton C. Pegis (trans.), Garden City, N. Y.: Doubleday Image Books, 1955. p. 158</ref><ref name="stanford" />。 ==== 因果的秩序からの論証 ==== 一神教の最も一般的な主張の一つは[[世界]]の統一性から導かれるものである。つまり世界の統一性、世界が均一な構造を示すこと、それが単一の[[宇宙]]であることは、その[[原因]]におけるある種の統一性を強く示唆している。すなわち単一の[[設計者]]が存在するか、あるいは複数の設計者が、おそらくそのうちの一人の指示の下で協力的に作用しているかのいずれかである<ref name="stanford" />。 ==== 全因果性からの論証 ==== [[ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス]]は『Ordinatio』の中で、神の[[単一性]]に関するいくつかの[[証明]]を提示している<ref name="stanford" /><ref>John Duns Scotus, Philosophical Writings, Allan Wolter (trans.), Edinburgh: Thomas Nelson, 1962.</ref>。 # 必然的に、もし何かが神であるなら、その創造的意志は他のすべての具体的対象物の必要かつ十分な因果的条件となる。 # 偶発的な存在が存在し、二人の神が存在する。 # それぞれが偶発的存在の集合の必要かつ十分な因果的条件である。(1と2より) # 第一は、偶発的存在の集合の十分因果的条件である。(3より) # 第二は、偶発的存在の集合の必要的因果条件ではない。(4より) # 第一は、偶発的存在の集合の必要的因果条件である。(3より) # 第二は、偶発的存在の集合の存在の十分因果的条件ではない。(6より) # 第二は、偶発的存在の集合の必要的因果条件でも十分的因果条件でもない。(5と7より) # 第一は、偶発的存在の集合の存在の必要条件でも十分条件でもない。 # どちらの神も、偶発的存在の集合の存在の必要条件でも十分条件でもない。(8と9より) #もし、偶発的存在が存在し、二人の神がいたとすれば、それぞれが偶発的存在の集合の存在の必要かつ十分な因果的条件となり、どちらも偶発的存在の集合の存在の必要かつ十分な因果的条件とはならないだろう。(2から10まで)。 # <li value="12">11の帰結は不可能である。 #その先行詞は不可能である。(11と12より。pがqを内包し、qが不可能であれば、pは不可能である)。 #偶発的な存在が存在することは不可能であり、2人の神が存在することも不可能である。(13より) #もし偶発的存在が存在するならば、二人の神々が存在することはありえない。(14より) <ref>John Duns Scotus, Philosophical Writings, Allan Wolter (trans.), Edinburgh: Thomas Nelson, 1962. p. 87</ref> ==== 全能からの論証 ==== [[アル・ガザーリー]]は「もし二人の神がいて、そのうちの一人がある行動に決心したならば、二番目の神は彼を助けなければならず、それによって彼が[[全能]]の神ではなく従属的存在であることを示すか、あるいは彼が全能であり、最初の神は弱く欠陥があり、全能の神ではないことを示すために反対することができるだろう」<ref>al-Ghazali, Al Ghazali’s Tract on Dogmatic Theology, A. L. Tibawi (trans.), London: Luzac, 1965. p. 40</ref>ために二人は存在できないことを論じている。[[アル・ガザーリー]]の議論は次のように定式化できる<ref name="stanford" />。 #必然的に、異なる人物の意志が衝突することは可能である。(衝突の可能性は、完全に異なる人物の概念に含まれているように思われる)。 #必然的に、もし二つの異なる、本質的に全能の人物がいれば、彼らの意志は衝突することができる。(1より) 何かが全能のような性質を本質的に持つのは、それが存在する論理的に可能な全ての世界においてその性質を持つ場合のみである) #二人の全能者の意志が衝突することは必然的に偽である。 #本質的に全能である2人の意志が衝突することは必然的に偽である。(3より) もし彼らの意志が衝突しうる可能な世界があるならば、必然的に、両者が全能で彼らの意志が衝突する可能な世界も存在する)。 #本質的に全能である二人の別個の人物が存在することは不可能である。(2と4より) #全能が神の本質的な属性であることは必然的に真である。 #二人の神が存在することは不可能である。(5と6より) 前提3は以下のように証明される。 #<li value="8">必然的に、全能の人の意志が他の人の意志と衝突する場合、後者の意志は前者の意志によって阻止される(そうでなければ、全能の人は全能でないことになるからだ)。 #必然的に、もしある人の意志が他の人の意志によって妨げられたら、その人は全能ではない。 #必然的に、もし二人の全能者がいて、彼らの意志が相反する場合、(それぞれの意志が阻止されるため)どちらも全能ではない。(8と9より) #二人の全能者がいて、そのどちらも全能であることは不可能である。 #二人の全能者の意志が衝突することは不可能である。(10と11より) したがって #<li value="13">二人の全能者の意志が衝突することは、必然的に偽である。(12より) ==== 全面的な献身の要求からの論証 ==== [[オッカムの剃刀]]で知られる[[オッカムのウィリアム]]によれば「神」は二通りの意味で理解される。神とは「彼以外の何ものよりも高貴で[[完全]]なもの」を意味する場合と「それよりも高貴で完全なものはない」ことを意味する場合とがある。もし神が最初の意味で理解されるなら、神は一人しか存在し得ないことになる<ref name="stanford" />。オッカムの論証は以下のように定式化されている。 #必然的に、もしある存在が神であるならば、それは他のどんな存在よりも完全である。 #必然的に、もし二つの異なる存在があり、それぞれが神であるならば、第一は第二より完全であり、第二は第一より完全であろう。(1より) しかし #<li value="3">それぞれが他よりも完全である二つの存在が存在することは不可能である。 #二人の神々が存在することは不可能である。(2と3より) もし神が第二の前提から理解されるなら、神がただ一人であることを示すことはできない。なぜなら、それぞれが現実の存在も可能な存在もそれを凌駕しないような、等しく完全な二つの存在が存在し得ないということは明らかではないからである<ref>William of Ockham, Philosophical Writings, Philotheus Boehner (trans.), Indianapolis, IN: Bobbs-Merrill, 1964. pp. 139-40</ref><ref name="stanford" />。 == アフリカ == === アフリカ先住民 === ナミビアのヒンバ族は一神教的な[[万有内在神論]]を実践しており、ムクル神を崇拝している。ヒンバ族とヘレロ族の亡くなった祖先は、仲介者として彼に服従している<ref>*{{cite book |last=Crandall |first=David P. |year=2000 |title=The Place of Stunted Ironwood Trees: A Year in the Lives of the Cattle-Herding Himba of Namibia |url=https://books.google.com/books?id=z-aow7Sb0JgC |location=New York |publisher=Continuum International Publishing Group Inc. |isbn=0-8264-1270-X |pages=[https://books.google.com/books?id=z-aow7Sb0JgC&pg=PA47 47] }}</ref>。 イボ族はオディナニと呼ばれる一神教を実践している<ref>{{cite book|title=Ikenga International Journal of African Studies|url=https://books.google.com/books?id=yAcOAQAAMAAJ|access-date=26 July 2013|year=1972|publisher=Institute of African Studies, University of Nigeria.|page=103}}</ref>。オディナニは一神教の属性を持ち、すべてのものの源として単一の神を持っている。多神教的な精霊も存在するが、これらはオディナニに多く存在する小精霊であり、最高神であるチネケ(またはチュクウ)の要素としての役割を担っている。 また{{仮リンク|ワアク|en|Waaq}}はアフリカの角に住む多くのクシ族に伝わる伝統的な宗教で、初期の一神教を示す一柱の神の名前である。しかし、この宗教はほとんどアブラハム宗教に取って代わられた。オロモの一部(約3%)は現在もこの伝統的な一神教を信仰しており、オロモ語で{{仮リンク|ワケファナ|en|Waaqeffanna}}と呼ばれている。 == アメリカ == === アメリカ先住民 === アメリカ先住民の宗教は一神教、[[多神教]]、[[単一神教]]、[[アニミズム]]またはそれらの組み合わせであることがある。 [[大いなる神秘]](Great Spirit)は、[[スー族]]の間では[[ワカン・タンカ]]と呼ばれ<ref name=Ostler>Ostler, Jeffry. The Plains Sioux and U.S. Colonialism from Lewis and Clark to Wounded Knee. Cambridge University Press, Jul 5, 2004. {{ISBN2|0521605903}}, pg 26.</ref>、アルゴンキン族の間ではギッチェ・マニトゥと呼ばれ、いくつかのネイティブアメリカンと先住民の文化の間で普及している普遍的な霊力、または至高の存在の概念である<ref name=Thomas>Thomas, Robert Murray. Manitou and God: North-American Indian Religions and Christian Culture. Greenwood Publishing Group, 2007. {{ISBN2|0313347794}} pg 35.</ref>。ラコタ族の活動家であるラッセル・ミーンズによれば、ワカンタンカのより良い訳は「偉大なる神秘(Great Mystery)」である<ref name=Means>Means, Robert. Where White Men Fear to Tread: The Autobiography of Russell Means. Macmillan, 1995. {{ISBN2|0312147619}} pg 241.</ref>。 一部の研究者は[[アステカ]]の哲学を基本的に一神教的であると解釈している。民衆は[[多神教]]を信じていたが、アステカの[[神官]]と[[貴族]]は{{仮リンク|テオトル|en|Teotl}}を多くの面を持つ単一の普遍的な力として解釈するようになった可能性が指摘されている<ref name="iepMaffie">{{cite encyclopedia|author=James Maffie|title=Aztec Philosophy|encyclopedia= [[Internet Encyclopedia of Philosophy]]|date= 2005|url=http://www.iep.utm.edu/a/aztec.htm }}</ref>。 == 東アジア == === 中国 === {{See also|キリスト教ネストリウス派|景教}} 少なくとも[[殷王朝]](紀元前1766年)以降、近代に至るまで[[中国]]のほとんどの[[王朝]]で行われていた正統な信仰体系で、他の神の上に立つ至高の存在として[[天帝]]または天への崇拝を中心としていた<ref name=":1">{{Cite journal|last=Dubs|first=Homer H.|date=1959|title=Theism and Naturalism in Ancient Chinese Philosophy|url=https://www.jstor.org/stable/1397096|journal=Philosophy East and West|volume=9|issue=3/4|pages=163–172|doi=10.2307/1397096|jstor=1397096 |issn=0031-8221|quote="It does not necessarily imply monotheism, however, since, in addition to the Supreme High-god or Heaven, there were also the ordinary gods (shen) and the ancestral spirits (guei), all of whom were worshipped in the Jou royal cult."}}</ref>。この信仰体系は、[[儒教]]や[[道教]]が発展し[[仏教]]や[[キリスト教]]が伝えられる以前からのものである。天が[[全能]]の存在、世界を超越した人格を持つ非実体的な力として見られるという点で、一神教の特徴を持つ。しかし、この信仰体系は地域によって異なる他の小神や精霊も[[天帝]]とともに崇拝していたため、真の一神教ではなかった<ref name=":1" />。それでも後代の[[墨家]](前470年-前391年)などの変種は、小神や祖霊の機能は天帝の意志を遂行することに過ぎないと教え、真の一神教に近づいていった。[[墨子]]の『天志』には、次のように書かれている。 ::且吾所以知天之愛民厚者有矣,曰以磨為日月星辰,以昭道;制為四時秋冬,以紀綱;降雪霜露,以長五穀麻絲,使民得而利之,列為山川谿,播賦百事,以臨司善否;為王公伯,使賞賢而暴罰;金木鳥獸,從事五穀,以為衣食の財,未嘗不是也.『- 天の意思』第27章第6節 前5世紀頃 古代[[中国]]における[[天帝]]と[[天]]に対する崇拝は、[[北京]]の天壇を最後とする祠堂の建立と、祈りの奉納である。中国の各王朝では、統治者が毎年天帝に犠牲の儀式を行い、通常は完全に健康な牛を生贄として屠殺した。[[道教]]や[[仏教]]などの宗教が登場すると、その人気は次第に衰えたが、その概念は前近代を通じて使われ続け、中国の初期[[キリスト教]]徒が使った用語を含め、中国の後期宗教に取り入れられてきた。[[道教]]や[[仏教]]による[[非有神論]]的な精神性の高まりにもかかわらず、[[天帝]]は[[清朝]]末期まで賞賛され、清朝最後の支配者は自らを[[天子]]と宣言した。 === テングリ崇拝 === [[テングリ]]崇拝(Tengrism)は[[シャーマニズム]]、[[アニミズム]]、[[トーテミズム]]、[[多神教]]と一神教<ref>R. Meserve, Religions in the central Asian environment. In: [http://unesdoc.unesco.org/images/0012/001204/120455e.pdf History of Civilizations of Central Asia, Volume IV], The age of achievement: A.D. 750 to the end of the fifteenth century, Part Two: The achievements, p. 68: * "''[...] The 'imperial' religion was more monotheistic, centred around the all-powerful god Tengri, the sky god.''"</ref><ref name="PolyMono">Michael Fergus, Janar Jandosova, [https://books.google.com/books?id=jAu9ttUqiJoC Kazakhstan: Coming of Age], Stacey International, 2003, p.91: * "''[...] a profound combination of monotheism and polytheism that has come to be known as Tengrism.''"</ref><ref>H. B. Paksoy, [http://historicaltextarchive.com/sections.php?action=read&artid=783 Tengri in Eurasia] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170911134633/http://historicaltextarchive.com/sections.php?action=read&artid=783 |date=2017-09-11 }}, 2008</ref><ref>Napil Bazylkhan, Kenje Torlanbaeva in: [https://books.google.com/books?id=FcQuAQAAIAAJ Central Eurasian Studies Society], Central Eurasian Studies Society, 2004, p.40</ref>と[[先祖崇拝]]の特徴を持つ[[中央アジア]]の宗教に対する現代用語<ref> The spelling ''Tengrism'' is found in the 1960s, e.g. Bergounioux (ed.), ''Primitive and prehistoric religions'', Volume 140, Hawthorn Books, 1966, p. 80. ''Tengrianism'' is a reflection of the Russian term, {{lang|ru|Тенгрианство}}. It is reported in 1996 ("so-called Tengrianism") in Shnirelʹman (ed.), ''Who gets the past?: competition for ancestors among non-Russian intellectuals in Russia'', Woodrow Wilson Center Press, 1996, {{ISBN2|978-0-8018-5221-3}}, [https://books.google.com/books?id=4iwHp8asmsdEC&pg=PA31 p. 31] in the context of the nationalist rivalry over [[Bulgars#Legacy|Bulgar legacy]]. The spellings ''Tengriism'' and ''Tengrianity'' are later, reported (deprecatingly, in scare quotes) in 2004 in ''Central Asiatic journal'', vol. 48-49 (2004), [https://books.google.com/books?id=GeRVAAAAYAAJ&q=Tengriism&dq=Tengriism p. 238]. The Turkish term {{lang|tr|Tengricilik}} is also found from the 1990s. Mongolian {{lang|mn|Тэнгэр шүтлэг}} is used in a 1999 biography of [[Genghis Khan]] (Boldbaatar et al., {{lang|mn|Чингис хаан, 1162-1227}}, {{lang|mn| Хаадын сан}}, 1999, [https://books.google.com/books?id=OMIMAQAAMAAJ&q=%22%D0%A2%D1%8D%D0%BD%D0%B3%D1%8D%D1%80+%D1%88%D2%AF%D1%82%D0%BB%D1%8D%D0%B3%22&dq=%22%D0%A2%D1%8D%D0%BD%D0%B3%D1%8D%D1%80+%D1%88%D2%AF%D1%82%D0%BB%D1%8D%D0%B3%22&hl=en&sa=X&ei=HVBLT4yGBImhOtPRtf8N&redir_esc=y p. 18]).</ref>であり、時々テングリ教と呼ばれる。歴史的には[[ブルガール人]]、[[トルコ人]]、[[モンゴル人]]、[[ハンガリー人]]、[[匈奴]]、[[フン族]]の有力な宗教であった<ref>"There is no doubt that between the 6th and 9th centuries Tengrism was the religion among the nomads of the steppes" Yazar András Róna-Tas, ''Hungarians and Europe in the early Middle Ages: an introduction to early Hungarian history'', Yayıncı Central European University Press, 1999, {{ISBN2|978-963-9116-48-1}}, [https://books.google.com/books?id=I-RTt0Q6AcYC&pg=PA151&dq=hungarians+tengrism&hl=tr&ei=5dfbTfyDNsSUswbrr43wDg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false p. 151].</ref><ref name="Books.google.com">{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=I-RTt0Q6AcYC&q=huns+tengrism&pg=PA151 |title=Hungarians & Europe in the Early Middle Ages: An Introduction to Early ... - András Róna-Tas - Google Kitaplar |access-date=2013-02-19|isbn=9789639116481 |last1=Rona-Tas |first1=Andras |last2=András |first2=Róna-Tas |date=March 1999 }}</ref>。6つの古代トルコ国家、[[アヴァール可汗国]]、旧大ブルガリア、第一ブルガリア帝国、[[突厥]]、[[ハザール]]、[[西突厥]]の国教でもあった。『Irk Bitig』ではテングリはTürük Tängrisi(トルコ人の神)として言及されている<ref>Jean-Paul Roux, Die alttürkische Mythologie, p. 255</ref>。この言葉はトルコ民族の間で[[民族宗教]]として認識されている。 == ヨーロッパ == === インド・ヨーロッパ祖語文化 === {{See also|インド・ヨーロッパ祖語}} [[東ヨーロッパ]]ではスラブ宗教の古代の伝統が一神教の要素を含んでいた。紀元6世紀、[[ビザンチン]]の年代記作家である[[プロコピウス]]は、スラヴ人が「雷の創造者である1人の神がすべてのものの唯一の主であることを認め、彼のために牛やすべての生け贄動物を犠牲にする」と記録した<ref name=katicic2008>{{cite book |last=Katičić |first=Radoslav |title=Božanski boj: Tragovima svetih pjesama naše pretkršćanske starine |year=2008 |publisher=IBIS GRAFIKA |location=Zagreb |isbn=978-953-6927-41-8 |url=http://ir.nmu.org.ua/bitstream/handle/123456789/120570/96db5654f2d3025b46454ace91716506.pdf |ref=Katičić 2008 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20151018000746/http://ir.nmu.org.ua/bitstream/handle/123456789/120570/96db5654f2d3025b46454ace91716506.pdf |archive-date=2015-10-18 }}</ref>。プロコピウスの言う神は嵐の神ペルーンで、その名前はプロトインディオ=ヨーロッパ語の雷神、{{仮リンク|ペクノス|en|Perkwunos}}に由来している。古代スラヴ人は彼をゲルマンの神トールや聖書の預言者エリヤと同化させた<ref>{{citation|last1=Puhvel|first1=Jaan|author-link=Jaan Puhvel|title=Comparative Mythology|date=1987|publisher=Johns Hopkins University Press|location=Baltimore, Maryland|isbn=0-8018-3938-6|pages=234–235}}</ref>。 === 古代ギリシア === ==== 古典宗教 ==== [[File:Xenophanes in Thomas Stanley History of Philosophy.jpg|thumb|upright|right|[[クセノファネス]]の虚構の肖像(17世紀の版画より)]] {{See also|詩人追放論}} 古代[[ギリシア]]の[[哲学者]]である[[コロフォン]]の[[クセノファネス]]の詩の断片が残っていることから、彼が現代の一神教徒と非常に似た見解を持っていたことが示唆されている<ref>McKirahan, Richard D. "Xenophanes of Colophon. ''Philosophy Before Socrates''. Indianapolis: Hackett Publishing Company, 1994. 61. Print.</ref>。彼の詩は「もし[[牛]]や[[馬]]や[[ライオン]]が手を持ち、その手で絵を描いて[[人間]]のように作品を作ることができるなら......彼らもまた[[神々]]の形を描き、彼ら自身が持つ形のような身体を作るだろう」とコメントして、[[擬人化]]した神という従来の概念を厳しく批判している<ref>Diels-Kranz, ''Die Fragmente der Vorsokratiker'', Xenophanes frr. 15-16.</ref>。その代わりにクセノファネスは'''「...神々と人間の中で最も偉大で、形も考え方も人間に似ていない唯一の神」が存在する'''と明言している<ref name="osborne62">Osborne, Catherine. "Chapter 4." ''Presocratic Philosophy: A Very Short Introduction''. Oxford UP. 62. Print.</ref>。クセノファネスの[[神学]]は一神教であったようだが、厳密な意味での真の一神教ではなかった<ref name="auto" />。[[アンティステネス]]のような後の哲学者の中には、クセノファネスによって説かれたものに似た教義を信じていた者がいたが、彼の考えは広く普及しなかったようである<ref name="auto" />。 ==== ヘレニズム宗教 ==== [[File:Columns of the Temple of Apollo at Delphi, Greece.jpeg|thumb|ギリシャ、[[デルフィ]]の[[アポロ]]神殿跡。]] 純粋な(哲学的な)一神教の発展は、古代後期の産物である。2世紀から3世紀にかけて、初期キリスト教は一神教を主張するいくつかの競合する宗教運動の一つに過ぎなかった。 [[プロティノス]]の著作では[[一者]]は<ref>{{cite book|last1=Wyller|first1=Egil A.|title=Henologische Perspektiven II: zu Ehren Egil A. Wyller, Internales Henologie-Symposium|date=1997|publisher=Rodopi|location=Amsterdam, Netherlands|isbn=90-420-0357-X|pages=5–6|url=https://books.google.com/books?id=QbMAMtaJWIIC&q=Henology&pg=PA5|access-date=25 March 2017}}</ref>、存在のすべてに浸透している、想像を絶する、超越的な、すべてを体現する、永久的な、永遠的な、因果関係のある存在として描写されている<ref>{{cite book|last1=Schürmann|first1=Reiner|last2=Lily|first2=Reginald|title=Broken Hegemonies|date=2003|publisher=Indiana University Press|location=Bloomington, Indiana|isbn=0-253-34144-2|pages=143–144|url=https://books.google.com/books?id=4eRv1DTW_KoC&q=Henology&pg=PA109|access-date=25 March 2017}}</ref>。 紀元2~3世紀の{{仮リンク|ディディマ|en|Didyma}}とクラルスのアポロ神の多くの託宣、いわゆる「神学的託宣」は、最高の神はただ一人であり、多神教の神々は単なる現れか下僕であると宣言している<ref>{{仮リンク|聖書に登場する神と悪魔の辞典|en|Dictionary of Deities and Demons in the Bible}}, s.v. "Apollo".</ref><ref>{{cite book | author = Karel van Der Toorn | author2 = Bob Becking | author3 = Pieter W. van der Horst | url = https://archive.org/details/DictionaryOfDeitiesAndDemonsInTheBible_201812/page/n1 | title = Dictionary Of Deities And Demons In The Bible | edition = 2nd Extensively Revised | website = [[Internet Archive|archive.org]] | language = en | page = 1 | year = 1999 | archive-url = https://archive.today/20190503101739/https://archive.org/stream/DictionaryOfDeitiesAndDemonsInTheBible_201812/Dictionary%20of%20Deities%20and%20Demons%20in%20the%20Bible_djvu.txt | archive-date = May 3, 2019 | url-status = live | access-date = May 3, 2019 }}, s.v. "Apollo".</ref>。紀元4世紀の[[キプロス島]]にはキリスト教の他に、[[ディオニュソス]]一神教の教団が存在した<ref>E. Kessler, ''Dionysian Monotheism in Nea Paphos, Cyprus'': "two monotheistic religions, Dionysian and Christian, existed contemporaneously in Nea Paphos during the 4th century C.E. [...] the particular iconography of Hermes and Dionysos in the panel of the Epiphany of Dionysos [...] represents the culmination of a pagan iconographic tradition in which an infant divinity is seated on the lap of another divine figure; this pagan motif was appropriated by early Christian artists and developed into the standardized icon of the Virgin and Child. Thus the mosaic helps to substantiate the existence of pagan monotheism." [([http://www.huss.ex.ac.uk/classics/conferences/pagan_monotheism/abstracts.html Abstract] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080421032154/http://www.huss.ex.ac.uk/classics/conferences/pagan_monotheism/abstracts.html |date=2008-04-21 }})</ref>。 [[ギリシャ]]の古文書によれば{{仮リンク|ヒプシスタリアン|en|Hypsistarians}}は[[最高神]]を信じる宗教集団であった。この[[ヘレニズム]]の宗教の後の改訂は、より広い民衆の間で考慮されるようになるにつれて、一神教に向かって調整された。[[ゼウス]]を主神とする崇拝は一神教的傾向を示し、より小さな神々の断片的な力に与えられる名誉は縮小した。 == 西アジア == === アブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム) === {{Main|アブラハムの宗教|ユダヤ教|キリスト教|イスラム教}} ==== ユダヤ教 ==== [[File:Tetragrammaton scripts.svg|frame|[[古ヘブライ語]]([[紀元前10世紀]]から135年)、[[古アラム語]](紀元前10世紀から[[4世紀]])、[[方形ヘブライ語]]([[紀元前3世紀]]から現在)の[[テトラグラマトン]](YHWHと音訳される)。「ある」「存在する」「ならしめる」「実現する」という意味の動詞に由来する可能性が指摘されている<ref name="Knight,2011">{{cite book |last=Knight |first=Douglas A. |title=The Meaning of the Bible: What the Jewish Scriptures and Christian Old Testament Can Teach Us |year=2011 |publisher=HarperOne |location=New York |isbn=978-0062098597 |edition=1st |author2=Levine, Amy-Jill }}</ref><ref name=Strong>Translation notes for {{cite web|url=http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1961|title=Genesis Chapter 1 (KJV)|publisher=|accessdate=2022 May 18}}</ref>。]] ユダヤ教は伝統的に世界最古の一神教の一つと考えられているが<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/religion/religions/judaism/|title=BBC - Religion: Judaism|accessdate=2022 May 18}}</ref>、最古の[[イスラエル人]]([[紀元前7世紀]]以前)は一神教ではなく[[多神教]]であり<ref name=Albertz>{{cite book|last = Albertz|first = Rainer|title = A History of Israelite Religion, Volume I: From the Beginnings to the End of the Monarchy|publisher = Westminster John Knox|year = 1994|url = https://books.google.com/books?id=yvZUWbTftSgC&q=%22the+real+centre+of+the+main+cult%22%22three+great+annual+festivals%22&pg=PA89|isbn = 9780664227197|page=61}}</ref>、[[単一神教]]、後に[[拝一神教]]へと発展したと考えられている<ref>[https://www.myjewishlearning.com/article/monotheism/ Monotheism], ''My Jewish Learning'', "Many critical scholars think that the interval between the Exodus and the proclamation of monotheism was much longer. Outside of Deuteronomy the earliest passages to state that there are no gods but the Lord are in poems and prayers attributed to Hannah and David, one and a half to two and a half centuries after the Exodus at the earliest. Such statements do not become common until the seventh century B.C.E., the period to which Deuteronomy is dated by the critical view."</ref>。{{仮リンク|第二神殿ユダヤ教|en|Second Temple Judaism}}、そして後の[[ラビ・ユダヤ教]]における神は厳密に一神教であり<ref>[[Maimonides]], [[13 Principles of Faith|13 principles of faith]], Second Principle</ref>、すべての存在の究極の原因である絶対的な一、不可分、そして比類なき存在であった。[[バビロニア]]の[[タルムード]]では人間が誤って現実と力を付与する非実在の存在として他の「外来の神々」に言及している<ref>e. g., Babylonian Talmud, Megilla 7b-17a.</ref>。[[ラビ・ユダヤ教]]における一神教に関する最も有名な声明として、[[マイモニデス]]の13の信仰原理の第2節がある。 {{quotation|すべての原因である神は一つである。これは、一対のうちの一人という意味でも、(多くの個体を含む)種のような一人でも、多くの要素から成る物体という意味でも、無限に分割可能な単一の単純な物体という意味でもない。むしろ、神は、他のいかなる可能な統一体とも異なる統一体である<ref>''Yesode Ha-Torah'' 1:7 "God, the Cause of all, is one. This does not mean one as in one of a pair, nor one like a species (which encompasses many individuals), nor one as in an object that is made up of many elements, nor as a single simple object that is infinitely divisible. Rather, God is a unity, unlike any other possible unity."</ref>}} [[ユダヤ教]]<ref name=RebShmuleyKosherJoshkel>{{cite book|last=Boteach|first=Shmuley|title=[[Kosher Jesus]]|year=2012|orig-year=5772|publisher=Gefen Books|location=Springfield, NJ|isbn=9789652295781|pages=47ff, 111ff, 152ff}}</ref>と[[イスラム教]]の一部は[[キリスト教]]の一神教の考えを否定している。ユダヤ教では純粋な一神教(非ユダヤ人には許されるが)でも多神教(禁止される)でもないとみなす方法での神への礼拝を指すためにシトゥフという用語を使用している<ref name="Oxford University Press">{{cite book|url=https://www.myjewishlearning.com/article/jewish-views-on-christianity/|title=The Jewish Religion: A Companion 1st Edition|publisher=Oxford University Press|year=1995|isbn=978-0198264637|editor1-last=Jacobs|editor1-first=Louis|pages=79–80}}</ref>。 ====キリスト教==== {{See also|三位一体|アリウス派|仮現説}} [[File:Shield-Trinity-Scutum-Fidei-English.svg|thumb|upright|right|三位一体とは、キリスト教において、神は本質的には1つの神であるが、3つの位格であるとする信仰である。父である神、子である神(イエス)、聖霊である神である<ref name="def-lateran">Definition of the [[Fourth Lateran Council]] quoted in ''[[Catechism of the Catholic Church]]'' [https://www.vatican.va/archive/ENG0015/_P17.HTM#1FT §253].</ref>。]] [[初期キリスト教]]徒では、神格の性質についてかなりの議論があり、ある者はイエスの[[受肉]]は否定したが神格は否定せず([[仮現説]])、他の者は後に神の[[アリウス派]]的な概念を呼び起こした。少なくともそれ以前の地方会では[[アリウス派]]の主張を否定していたにもかかわらず、このキリスト論的問題は[[第1ニカイア公会議]]で取り上げられる項目のひとつとなった。 [[ニカイア公会議]]は[[325年]]に[[ローマ皇帝]][[コンスタンティヌス1世]]によって[[ニカイア]](現在の[[トルコ]])で開かれた、ローマ帝国初の[[エキュメニカル]]<ref>''Ecumenical'', from [[Koine Greek]] [[Oikoumene|oikoumenikos]], literally meaning worldwide the earliest extant uses of the term for a council are in Eusebius's ''Life of Constantine'' 3.6 [http://khazarzar.skeptik.net/books/eusebius/vc/gr/index.htm] around 338 "{{lang|grc|σύνοδον οἰκουμενικὴν συνεκρότει}}" (he convoked an Ecumenical council), Athanasius's Ad Afros Epistola Synodica in 369 [http://www.newadvent.org/fathers/2819.htm], and the Letter in 382 to [[Pope Damasus I]] and the Latin bishops from the [[First Council of Constantinople]] [http://www.ccel.org/fathers2/NPNF2-14/Npnf2-14-63.htm#TopOfPage] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060613083149/http://www.ccel.org/fathers2/NPNF2-14/Npnf2-14-63.htm#TopOfPage |date=2006-06-13 }}</ref>な司教会議であり、最も大きな成果は、[[ニカイア信条]]という初めて統一したキリスト教の教義をもたらしたことであった。この信条の制定により、その後のエキュメニカルな司教協議会([[シノドス]])が信仰声明や教義的正統性の規範を制定する際の前例ができた-その意図は、教会のための共通の信条を定義し[[異端]]思想に対処することであった。 評議会の目的の一つは、父との関係におけるイエスの性質、特にイエスが父なる神と同じ物質であるのか、それとも単に類似した物質であるのかについての[[アレクサンドリア]]での意見の相違を解決することであった。二人の[[司教]]を除くすべての司教が第一の立場をとり、[[アリウス]]の主張は失敗した。 この決定は[[381年]]の[[第1コンスタンティノポリス公会議]]で再確認され、カッパドキア派の教父たちの働きによって本格的に発展することになり、キリスト教正統派の伝統([[東方正教会]]、[[東方正教会]]、[[ローマカトリック]]、[[プロテスタント]]のほとんど)は、この決定に従う。彼らは神を[[三位一体]]と呼び、父なる神、子なる神、[[聖霊]]なる神の3つの「位格」からなる存在であると考える。この三者は「同じ実体である」(Łμούσιος)と表現される。 [[キリスト教]]の正統的な[[三位一体]]の定義を示す[[ニカイア信条]]が冒頭で述べるように、一神教がキリスト教信仰の中心であることはキリスト教徒が「私は唯一の神を信じる」と主張するところである。ニカイア信条の時代である325年以前から、キリスト教の様々な人物が、神の三位一体の神秘性を規範的な信仰告白として提唱<ref>''Examples of ante-Nicene statements'': {{blockquote|Hence all the power of magic became dissolved; and every bond of wickedness was destroyed, men's ignorance was taken away, and the old kingdom abolished God Himself appearing in the form of a man, for the renewal of eternal life.|St. Ignatius of Antioch in ''Letter to the Ephesians'', ch.4, shorter version, Roberts-Donaldson translation}} {{blockquote|We have also as a Physician the Lord our God Jesus the Christ the only-begotten Son and Word, before time began, but who afterwards became also man, of Mary the virgin. For 'the Word was made flesh.' Being incorporeal, He was in the body; being impassible, He was in a passable body; being immortal, He was in a mortal body; being life, He became subject to corruption, that He might free our souls from death and corruption, and heal them, and might restore them to health, when they were diseased with ungodliness and wicked lusts|St. Ignatius of Antioch in ''Letter to the Ephesians'', ch.7, shorter version, Roberts-Donaldson translation}} {{blockquote|The Church, though dispersed throughout the whole world, even to the ends of the earth, has received from the apostles and their disciples this faith: ...one God, the Father Almighty, Maker of heaven, and earth, and the sea, and all things that are in them; and in one Christ Jesus, the Son of God, who became incarnate for our salvation; and in the Holy Spirit, who proclaimed through the prophets the dispensations of God, and the advents, and the birth from a virgin, and the passion, and the resurrection from the dead, and the ascension into heaven in the flesh of the beloved Christ Jesus, our Lord, and His manifestation from heaven in the glory of the Father 'to gather all things in one,' and to raise up anew all flesh of the whole human race, in order that to Christ Jesus, our Lord, and God, and Savior, and King, according to the will of the invisible Father, 'every knee should bow, of things in heaven, and things in earth, and things under the earth, and that every tongue should confess; to him, and that He should execute just judgment towards all...'|St. Irenaeus in ''Against Heresies'', ch.X, v.I, {{Citation | last = Donaldson| first = Sir James|title = Ante Nicene Fathers, Volume 1: Apostolic Fathers, Justin Martyr, Irenaeus | publisher = [[William B. Eerdmans Publishing Co.]] | year = 1950| isbn = 978-0802880871}}}} {{blockquote|For, in the name of God, the Father and Lord of the universe, and of our Savior Jesus Christ, and of the Holy Spirit, they then receive the washing with water|Justin Martyr in ''First Apology'', ch. LXI, {{Citation | last = Donaldson| first = Sir James|title = Ante Nicene Fathers, Volume 1: Apostolic Fathers, Justin Martyr, Irenaeus | publisher = Wm. B. Eerdmans Publishing Company| year = 1950| isbn = 978-0802880871}}}} </ref>している。ロジャー・E・オルソンとクリストファー・ホールによれば、[[祈り]]、[[瞑想]]、[[研究]]、[[実践]]を通して、キリスト教共同体は「神は統一体と三位一体として存在しなければならない」という結論を出し、4世紀末の[[公会議]]でこれを成文化した<ref>{{cite book|last1=Olson|first1=Roger E.|title=The Trinity|date=2002|publisher=Wm. B. Eerdmans Publishing|page=15|url=https://books.google.com/books?id=SUAidAp8AgEC&q=the+trinity|isbn=9780802848277|accessdate=2022 May 18}}</ref>。 現代のキリスト教徒の多くは、神性が三位一体であると信じており、これは三位一体の3つの位格が、各位格が完全に神でもある1つの結合であることを意味する。また、神の[[化身]]としての人神である[[キリスト・イエス]]の教義を信奉している。また、これらのキリスト教徒は、3つの神格のうち1つが単独で神であり、他の2つはそうではなく、3つすべてが神秘的に神であり1つであると信じている。[[ユニテリアン・ユニヴァーサリズム]]、[[エホバの証人]]、[[モルモン教]]など、他のキリスト教の宗教は、三位一体に関するそれらの見解を共有していない。 [[モルモン教]]のようないくつかのキリスト教の信仰は、神格は実際には父なる神、子[[イエス・キリスト]]、[[聖霊]]を含む三つの別々の個人であると主張する<ref>{{cite web|url=http://www.mormon.org/beliefs/articles-of-faith|title=Articles of Faith|accessdate=2022 May 18}}</ref>。さらにモルモン教は、[[ニカイア公会議]]以前には、多くの初期キリスト教徒が神格は三つの別々の個人であると考えるのが優勢であったと考える<ref>{{cite web|url=http://www.mormon.org/beliefs/jesus-christ|title=Jesus Christ|accessdate=2022 May 18}}</ref>。この考えを支持するために、彼らは従属性の信念の[[初期キリスト教]]の例を引用している<ref>{{cite web|url=http://publications.maxwellinstitute.byu.edu/fullscreen/?pub=1105&index=3|title=Offenders for a Word|accessdate=2022 May 18}}</ref>。 [[ユニテリアニズム]]は[[神学]]的な運動であり、三位一体論とは正反対に、神を一人の人間として理解することから名付けられた<ref>''[http://www.newadvent.org/cathen/15154b.htm Unitarians]'' at 'Catholic Encyclopedia', ed. Kevin Knight at New Advent website</ref>。 [[ユダヤ教]]の一部と[[イスラム教]]の一部は、三位一体の[[多神教]]的なキリスト教の教義のために、[[三位一体]]のキリスト教を一神教の純粋な形態であると考えず、それをユダヤ教ではシトゥフとして、イスラム教ではシルクとして分類している<ref>{{Cite web|author=Mohammed Amin|title=Triangulating the Abrahamic faiths – measuring the closeness of Judaism, Christianity and Islam|url=http://www.mohammedamin.com/Community_issues/Triangulating-the-Abrahamic-faiths.html|quote=Christians were seen as polytheists, due to the doctrine of the Trinity. In the last few hundred years, rabbis have moderated this view slightly, but they still do not regard Christians as being fully monotheistic in the same manner as Jews or Muslims. Muslims were acknowledged as monotheists.|accessdate=2022 May 18}}</ref><ref name="Oxford University Press" /><ref>{{Cite web|title=Islamic Practices|url=http://www.ulc.org/training-education/guide-to-divinity/22-religions-of-the-world/134-practicing-islam/|publisher=Universal Life Church Ministries|quote=It is the Islamic belief that Christianity is not monotheistic, as it claims, but rather polytheistic with the trinity-the father, son and the Holy Ghost.|accessdate=2022 May 18}}</ref>。一方、三位一体主義のキリスト教徒は、三位一体が3つの別々の神から成るのではなく、むしろ単一の神格の中に実質的に(1つの物質として)存在する3つの位格を挙げて、三位一体の教義が一神教の有効な表現であると主張する<ref>[https://icucourses.com/pages/025-10-three-persons-are-subsistent-relations Lesson 10: Three Persons are Subsistent Relations], [[International Catholic University]]: "The fatherhood constitutes the Person of the Father, the sonship constitutes the Person of the Son, and the passive spiration constitutes the Person of the Holy Spirit. But in God "everything is one where there is no distinction by relative opposition." Consequently, even though in God there are three Persons, there is only one consciousness, one thinking and one loving. The three Persons share equally in the internal divine activity because they are all identified with the divine essence. For, if each divine Person possessed his own distinct and different consciousness, there would be three gods, not the one God of Christian revelation. So you will see that in this regard there is an immense difference between a divine Person and a human person."</ref><ref>[https://www.britannica.com/topic/Trinity-Christianity Trinity], [[Britannica]]: "The Council of Nicaea in 325 stated the crucial formula for that doctrine in its confession that the Son is “of the same substance [homoousios] as the Father,” even though it said very little about the Holy Spirit. Over the next half century, Athanasius defended and refined the Nicene formula, and, by the end of the 4th century, under the leadership of Basil of Caesarea, Gregory of Nyssa, and Gregory of Nazianzus (the Cappadocian Fathers), the doctrine of the Trinity took substantially the form it has maintained ever since. It is accepted in all of the historic confessions of Christianity, even though the impact of the Enlightenment decreased its importance."</ref>。 ==== イスラム教 ==== [[File:Allah1.png|thumb|upright|アラビア文字で書かれた「アッラー、その栄光は栄光であるように」]] {{See also|タウヒード|アシュアリー学派|アル・ガザーリー}} [[イスラム教]]では神([[アッラー]])は[[全能]]で全知であり、[[宇宙]]の[[創造]]者、維持者、命令者、審判者である<ref name="EoQ-Quran">Gerhard Böwering, ''God and his Attributes'', [[Encyclopedia of the Quran]]</ref><ref name="esp22">{{cite book |first=John L. |last=Esposito |title=Islam: The Straight Path |publisher=Oxford University Press |year=1998 |page=22}}</ref>。イスラム教における神は厳密に単数([[タウヒード]]){{sfn|Esposito|1998|p=88}}で唯一({{仮リンク|ワヒード|en|Wahid}})、本来は一つ({{仮リンク|アハード|en|ahad}})で慈悲深く全能である<ref name="Britannica">"Allah." [[Encyclopædia Britannica]]. 2007. Encyclopædia Britannica</ref>。アッラーはアルアルシュの上に存在するが [クルアーン 7:54] 、[[クルアーン]]では「いかなる視覚も彼を把握できないが、彼の把握はすべての視覚を越えている」と述べている。神はすべての理解を超えているが、すべてのものに通じている」[クルアーン6:103]<ref name="esp22"/>アッラーは[[唯一神]]であり[[キリスト教]]や[[ユダヤ教]]で崇拝される神と同じである({{cite quran|29|46|style=nosup|expand=no}})<ref>{{cite book |first=F.E. |last=Peters |title=Islam |page=4 |publisher=Princeton University Press |year=2003}}</ref>。 イスラム教は[[キリスト教]]と[[ユダヤ教]]の両方の文脈の中で[[グノーシス主義]]に類似したいくつかのテーマ的要素を持ちながら[[7世紀]]に出現した<ref>{{cite book|last=Lawson|first=Todd|title=Gnostic Apocalypse and Islam: Qurʼan, Exegesis, Messianism and the Literary Origins of the Babi Religion|year=2011 |publisher=Routledge|location=London|isbn=978-0415495394}}</ref><ref>{{cite book|last=Tisdall|first=William |title=The Sources of Islam: A Persian Treatise|year=1911|publisher=Morrison and Gibb|location=London |pages=46–74}}</ref><ref>{{cite book|last=Rudolph|first=Kurt|title=Gnosis: The Nature And History of Gnosticism|year=2001|publisher=T&T Clark Int'l|location=London |isbn=978-0567086402|pages=367–390}}</ref><ref>{{cite book|last=Hoeller|first=Stephan A.|title=Gnosticism: New Light on the Ancient Tradition of Inner Knowing|year=2002|publisher=Quest Books|location=Wheaton, IL |isbn=978-0835608169|pages=155–174}}</ref><ref>{{cite book|last=Smith|first=Andrew|title=The Gnostics: History, Tradition, Scriptures, Influence.|year=2008a|publisher=Watkins|isbn=978-1905857784 |url=https://archive.org/details/gnosticshistoryt00smit}}</ref><ref>{{cite book|last=Smith|first=Andrew |title=The Lost Sayings of Jesus: Teachings from Ancient Christian, Jewish, Gnostic, and Islamic Sources--Annotated & Explained |year=2006|publisher=Skylight Paths Publishing|isbn=978-1594731723}}</ref><ref>{{cite book|last=Van Den Broek|first=Roelof|author-link=Roel van den Broek|title=Gnosis and Hermeticism from Antiquity to Modern Times|year=1998 |publisher=State University of New York Press|isbn=978-0791436110 |pages=87–108}}</ref><ref>{{cite book|last=Tillman|first=Nagel|title=The History of Islamic Theology from Muhammad to the Present|year=2000|publisher=Markus Wiener Publishers|location=Princeton, NJ |isbn=978-1558762039|pages=215–234}}</ref>。イスラム教の信仰では[[ムハンマド]]は神から新しい宗教をもたらしたのではなく[[アブラハム]]、[[モーセ]]、[[ダビデ]]、[[イスラームにおけるイーサー|イエス]]、その他すべての神の[[預言者]]が実践した宗教と同じものであると述べている<ref>{{cite web|title=People of the Book |work=[[Islam: Empire of Faith]] |url=https://www.pbs.org/empires/islam/faithpeople.html |publisher=[[Public Broadcasting Service|PBS]] |access-date=2010-12-18}}</ref>。イスラム教の主張は、神のメッセージが時間の経過とともに破損、歪曲、消失しており{{仮リンク|タウラート|en|Torah in Islam}}(律法)、[[インジール]](福音書)、{{仮リンク|ザブール|en|Zabur}}などの失われたメッセージを修正するためにムハンマドにクルアーンが送られたというものである<ref>Accad (2003): According to Ibn Taymiya, although only some Muslims accept the textual veracity of the entire Bible, most Muslims will grant the veracity of most of it.</ref>{{sfn|Esposito|1998|pp=6, 12}}{{sfn|Esposito|2002|pp=4–5}}{{sfn|Peters|2003|p=9}}<ref>{{cite encyclopedia |title=Muhammad |encyclopedia=Encyclopaedia of Islam Online |author1=F. Buhl | author2=A. T. Welch}}</ref><ref>{{cite encyclopedia |title=Tahrif |encyclopedia=Encyclopaedia of Islam Online |author=Hava Lazarus-Yafeh}}</ref>。 [[クルアーン]]は世界を超越した唯一絶対の[[真理]]の存在、[[被造物]]から独立した唯一無二の存在であると主張する<ref name="EncRel">Vincent J. Cornell, ''Encyclopedia of Religion'', Vol 5, pp.3561-3562</ref>。クルアーンは善も悪も神の創造行為から発生すると主張し、神の二重性という考え方のような二元的思考様式を否定している。神は局所的、部族的、または偏狭なものではなく、普遍的な神であり、すべての肯定的な価値を統合し悪を許さない絶対者である<ref name="Barlas96">Asma Barlas, Believing Women in Islam, p.96</ref>。[[10世紀]]から[[19世紀]]まで[[スンニ派]]のイスラームを支配した[[アシュアリー学派]]は、究極の神の超越を主張し、神の統一は人間の理性にアクセスできないとしている。アシュアリー学派はそれに関する人間の知識は預言者を通して啓示されたものに限られると教え、神が悪を創造したような逆説については、啓示はどのようにかを問わずに({{仮リンク|ビラ・カイファ|en|Bila Kayf}})受け入れなければならなかった<ref>{{cite encyclopedia|author=Tamara Sonn|title=Tawḥīd |encyclopedia=The Oxford Encyclopedia of the Islamic World|editor=John L. Esposito|publisher=Oxford University Press|location=Oxford |year=2009|url=http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/acref/9780195305135.001.0001/acref-9780195305135-e-0788?rskey=y8ZWqZ |url-access=subscription |isbn=9780195305135}}</ref>。 [[タウヒード]]はムスリムの信仰告白の最重要項目である「神のほかに神はなくムハンマドは神の使徒である」<ref name="EoI">D. Gimaret, ''Tawhid'', [[Encyclopedia of Islam]]</ref>。被造物に神性を帰することは、コーランの中で言及されている唯一の許されない罪である<ref name="Barlas96"/>。イスラーム教の全体がタウヒードの原理にかかっている{{sfn|Ramadan|2005|p=230}}。 中世のイスラム哲学者[[アル=ガザーリー]]は全能から一神教の証明を提示し、[[全能]]の存在は一つしか存在し得ないと主張した。なぜなら、もし二つの全能の存在があった場合、第一の存在は第二の存在に対して力を持つか(第二の存在は全能ではないことを意味する)、持たないか(第一の存在は全能ではないことを意味する)、したがって全能の存在は一つしかありえないことを暗示しているのである<ref>Wainwright, William, "[https://plato.stanford.edu/archives/fall2018/entries/monotheism Monotheism]", ''[[The Stanford Encyclopedia of Philosophy]]'' (Fall 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.).</ref>。 伝統的に神として唯一の存在を持つ一神教の概念を公言しているため、[[ユダヤ教]]<ref name="RebShmuleyKosherJoshkel"/>と[[イスラム教]]は[[キリスト教]]の一神教の考えを否定している。ユダヤ教は神を崇拝する非一神教的な方法を指すために{{仮リンク|シトゥフ|en|Shituf}}という用語を使用する。イスラム教はイエス(アラビア語で[[イスラームにおけるイーサー|イーサー]])を預言者として崇めるが、イエスが神の子であるという教義は認めない。 == オセアニア == === アンダマン諸島 === [[アンダマン諸島]]の人々の宗教は「アニミズム的一神教」とも言われ、宇宙を創造したパルガという唯一の神を第一に信じている<ref>Radcliffe-Brown, A. R. (14 November 2013). The Andaman Islanders. Cambridge University Press. p. 161. ISBN 978-1-107-62556-3.</ref>。パルガは自然現象を擬人化したものとして知られている<ref>https://www.webindia123.com/territories/andaman/people/intro.htm</ref>。 === オーストラリア先住民 === オーストラリア南東部の文化では、天空の父バヤミー(英:Baiame)は宇宙の創造主として認識されており、[[カミラロイ族]]の間では伝統的に他の神話的な人物よりも崇拝されていた<ref>Greenway, Charles C. (1878). "Kamilaroi language and Traditions". The Journal of the Anthropological Institute of Great Britain and Ireland. 7: 232-274. doi:10.2307/2841001. JSTOR 2841001.</ref>。彼とキリスト教の神を同一視することは、宣教師にも現代のキリスト教アボリジニに共通している<ref>https://www.creativespirits.info/aboriginalculture/spirituality/aboriginal-christians-christianity</ref>。 == 南アジア == === ヒンドゥー教 === [[File:Vishnuvishvarupa.jpg|thumb|upright|[[クリシュナ]]はクルクシェトラの戦場で、[[アルジュナ]]に[[ヴィシュヴァールーパ]](普遍的な姿)を見せる。]] ヒンドゥー教は古い宗教であるため一神教、[[多神教]]、[[万有内在神論]]、[[汎神論]]、[[一元論]]、[[無神論]]などの宗教概念を継承しており<ref>{{Citation | last = Rogers| first = Peter|title = Ultimate Truth, Book 1| publisher = AuthorHouse| year = 2009| page = 109| url = https://books.google.com/books?id=e3kf6GtwaT0C&pg=PA109| isbn = 978-1-4389-7968-7}}</ref><ref>{{Citation | last = Chakravarti| first = Sitansu| title = Hinduism, a way of life| publisher = Motilal Banarsidass Publ.| year = 1991| page = 71| url = https://books.google.com/books?id=J_-rASTgw8wC&pg=PA71| isbn = 978-81-208-0899-7}}</ref><ref name="EBpolytheism">{{cite encyclopedia |url=http://www.britannica.com/eb/article-38143/polytheism |title=Polytheism|access-date= 2007-07-05 |year=2007 |encyclopedia= Encyclopædia Britannica |publisher= Encyclopædia Britannica Online}}</ref><ref>{{Citation | last = Pattanaik| first = Devdutt| title = The man who was a woman and other queer tales of Hindu lore| publisher = Routledge| year = 2002| page = 38| url = https://books.google.com/books?id=Odsk9xfOp6oC&pg=PA38| isbn = 978-1-56023-181-3}}</ref>、神の概念も複雑で、各人や伝統・哲学に依存するところがある。 [[ヒンドゥー教]]の見解は幅広く、[[一元論]]から[[万有内在神論]]と[[汎神論]]、一神教、[[無神論]]にまで及ぶ(一部の学者によって一元論的有神論とも呼ばれる)。ヒンドゥー教は純粋な[[多神教]]とは言えない。ヒンドゥー教の宗教指導者たちは、神の形は多く、神とコミュニケーションをとる方法も多いが、'''神は一つであることを繰り返し強調している'''。{{仮リンク|ムルティ|en|Murti}}の{{仮リンク|プージャー|en|Puja}}は創造、維持、溶解する抽象的な一神([[ブラフマン]])とコミュニケーションを取るための方法である<ref>{{cite web|url=http://www.islam101.com/religions/hinduism/conceptOfGod.htm |title=Concept Of God In Hinduism By Dr Naik |publisher=Islam101.com |access-date=2012-06-05}}</ref>。 [[リグ・ヴェーダ]] 1.164.46, :"インドラ、ミトラ、ヴァルナ、アグニと呼ばれ、天の高貴な翼を持つガルーダである :一つであるものに対して賢者たちは多くの称号を与え、彼らはそれをアグニ、ヤマ、マータリシュヴァンと呼ぶ"<ref>Indraṃ mitraṃ varuṇamaghnimāhuratho divyaḥ sa suparṇo gharutmān, ekaṃ sad viprā bahudhā vadantyaghniṃ yamaṃ mātariśvānamāhuḥ "They call him Indra, Mitra, Varuṇa, Agni, and he is heavenly nobly-winged Garuda. To what is One, sages give many a title they call it Agni, Yama, Mātariśvan."</ref> ガウディヤ・ヴァイシュナヴァの伝統、ニンバルカ・サンプラダヤ、スワミナラヤンやヴァラバの信奉者は、[[クリシュナ]]をすべての[[アヴァターラ]]の源<ref name = jsn>'' Swaminarayan bicentenary commemoration volume, 1781-1981.'' p. 154: ...Shri Vallabhacharya [and] Shri Swaminarayan... Both of them designate the highest reality as Krishna, who is both the highest avatara and also the source of other avataras. To quote R. Kaladhar Bhatt in this context. "In this transcendental devotieon (Nirguna Bhakti), the sole Deity and only" is Krishna. [https://books.google.com/books?id=_Q0YAAAAIAAJ&q=Avatara+Swaminarayan+Krishna+origina%3B&dq=Avatara+Swaminarayan+Krishna+origina%3B New Dimensions in Vedanta Philosophy - Page 154], Sahajānanda, [https://books.google.com/books?q=+subject:%22Vedanta%22 Vedanta]. 1981</ref>、[[ヴィシュヌ]]自身の源、あるいはナーラーヤナと同じとみなしている。そのため、彼はスヴァヤム・バガヴァンとして見なされている<ref name = "Delmonico2004">{{cite journal | author = Delmonico, N. | year = 2004 | title = The History Of Indic Monotheism And Modern Chaitanya Vaishnavism | journal = The Hare Krishna Movement: The Postcharismatic Fate of a Religious Transplant | isbn = 978-0-231-12256-6 | url = https://books.google.com/books?id=mBMxPdgrBhoC&q=Vaisnava+monotheism&pg=PA31 | access-date = 2008-04-12 }}</ref><ref name = "Elkman1986">{{cite book | author = Elkman, S.M. |author2=Gosvami, J. | year = 1986 | title = Jiva Gosvamin's Tattvasandarbha: A Study on the Philosophical and Sectarian Development of the Gaudiya Vaishnava Movement | publisher = Motilal Banarsidass Pub }}</ref><ref name = Dimock1989>{{cite book | author = Dimock Jr, E.C. |author2=Dimock, E.C. | year = 1989 | title = The Place of the Hidden Moon: Erotic Mysticism in the Vaisnava-Sahajiya Cult of Bengal | publisher = University Of Chicago Press }} [https://books.google.com/books?id=EAYa1BtUTm0C&pg=PA132&dq=Svayam+bhagavan&sig=jcyEA-4tyPoddQmWg-FnYKDBgEY page 132]</ref>。 [[クリシュナ]]がスヴァヤム・バガヴァンであると認識されるとき、クリシュナが他のすべての[[アヴァターラ]]の源であり、ヴィシュヌ自身の源であると受け入れられるガウディヤ・ヴァイシュナヴィズム、ヴァラバ・サンプラダヤ<ref name=Kennedy1925>{{cite book | author = Kennedy, M.T. | year = 1925 | title = The Chaitanya Movement: A Study of the Vaishnavism of Bengal | url = https://archive.org/details/pli.kerala.rare.24847 | publisher = H. Milford, Oxford university press }}</ref>、ニンバールカ・サンプラダヤの信仰であると理解することができる。この信仰は主に「バガヴァタムの有名な記述から」<ref name=Gupta2007>{{cite book | author = Gupta, Ravi M. | year = 2007 | title = Caitanya Vaisnava Vedanta of Jiva Gosvami | publisher = Routledge | isbn = 978-0-415-40548-5 }}</ref>(1.3.28)導かれる<ref name = Rosen>''Essential [[Hinduism]]'' S. Rosen, 2006, Greenwood Publishing Group [https://books.google.com/books?id=VlhX1h135DMC&pg=PA124&dq=Krishna+is+the+original+Personality+of+Godhead p.124] {{ISBN2|0-275-99006-0}}</ref>。この神学的概念と異なる視点は、[[クリシュナ]]をナーラーヤナまたはヴィシュヌの[[アヴァターラ]]とする概念である。しかし、アヴァターラの源として[[ヴィシュヌ]]を語るのは普通だが、これは[[ヴィシュヌ派]]の神の名前の一つに過ぎず、神は[[ナーラーヤナ]]、ヴァスデーヴァ、[[クリシュナ]]としても知られ、それらの名前の背後には[[ヴィシュヌ派]]において至高とされる神像が存在している<ref name = Krishna4> {{cite book |author=Matchett, Freda |title=Krsna, Lord or Avatara? the relationship between Krsna and Visnu: in the context of the Avatara myth as presented by the Harivamsa, the Visnupurana and the Bhagavatapurana |publisher=Routledge |location=Surrey |year=2000 |page=4 |isbn=0-7007-1281-X }}</ref>。 『[[リグ・ヴェーダ]]』は『[[アタルヴァ・ヴェーダ]]』や『[[ヤジュル・ヴェーダ]]』と同様に、一神教の思想を論じている。「[[デーヴァ]]は常に[[ヴィシュヌ]]の至高の住処を目指す」(''tad viṣṇoḥ paramaṁ padaṁ sadā paśyanti sṻrayaḥ'' Rig Veda 1.22.20) ::"一つの真理を、賢者は多くの名で知る"(リグ・ヴェーダ1.164.46)<ref>{{cite web|url=http://www.vedavid.org/1sb/1.164c.html |title=Rig Veda: A Metrically Restored Text with an Introduction and Notes, HOS, 1994 |publisher=Vedavid.org |access-date=2012-06-05}} "The One Truth, sages know by many names"</ref>。 ::"最初、生まれていないものが存在するようになったとき、彼は自身の支配権を獲得し、それ以上のものは存在しなくなった"(Atharva Veda 10.7.31)<ref>[http://www.vedah.com/org2/literature/atharva_veda/spritual_hymns.html Atharva Veda: Spiritual & Philosophical Hymns] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20081007123304/http://www.vedah.com/org2/literature/atharva_veda/spritual_hymns.html |date=October 7, 2008 }} "When at first the unborn sprung into being, He won His own dominion beyond which nothing higher has been in existence"</ref>。 ::"彼と比較するものはありません。彼に匹敵するものはなく、その栄光は、本当に、偉大です。(ヤジュル・ヴェーダ32.3)<ref>[http://www.vedah.com/org2/literature/yajur_veda/the_transcendent.html Shukla Yajur Veda: The transcendental "That"] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20081011220748/http://www.vedah.com/org2/literature/yajur_veda/the_transcendent.html |date=October 11, 2008 }} "There is none to compare with Him. There is no parallel to Him, whose glory, verily, is great."</ref>。 神の殊勝な性質は数え切れないほどあるが、中でも次の六つの性質(bhaga)は最も重要である。 * [[ジュニャーナ]](全知):すべての存在を同時に知る力と定義される。 * アイシュヴァリヤ(イシュヴァラという言葉に由来する主権):すべてを支配する無敵の力 * [[シャクティ]](エネルギー)、すなわち不可能を可能にする力。 * バラ(力):意志によって、疲れることなく、すべてを支える力。 * ヴィルヴァ(活力):変幻自在の創造物の物質的原因であるにもかかわらず、至高の存在として非物質性を保持する力を示す。 * テージャス(輝き):彼の自給自足と、彼の霊的な噴出によってすべてを圧倒する能力を表す<ref name= Tapasyananda>{{cite book | author = Tapasyananda | year = 1991 | title = Bhakti Schools of Vedānta | url = https://books.google.com/books?id=Q_VtAAAACAAJ | isbn = 81-7120-226-8 | publisher = Sri Ramakrishna Math | location = Madras }}</ref>。 [[シヴァ派]]の伝統では、聖典の伝統によってチャマカム (चमकम्) が加えられたシュリ・ルドラム (Sanskrit श्रि रुद्रम्) は、ルドラ(シヴァの形容)に捧げるヒンドゥー教の{{仮リンク|ストトラ|en|Stotra}}で、『ヤジュルベダ (TS 4. 5) 』から取られたものである<ref>For an overview of the Śatarudriya see: Kramrisch, pp. 71-74.</ref><ref>For a full translation of the complete hymn see: Sivaramamurti (1976)</ref>。シュリ・ルドラムは、シュリ・ルドラープラスナ、シュタルドゥリーヤ、ルドラディヤとも呼ばれる。このテキストは、[[シヴァ]]が普遍的な最高神と同一視される[[ヴェーダーンタ]]において重要である。この讃歌は神の名を列挙する初期の例であり<ref>For the {{IAST|Śatarudrīya}} as an early example of enumeration of divine names, see: Flood (1996), p. 152.</ref>、この伝統はヒンドゥー教のサハスラナーマ文献で広範囲に展開されている。 [[ヒンドゥー教]]の[[ニヤーヤ学派]]は、一神教的な見方に関していくつかの主張をしている。ニヤーヤ学派は、そのような神は一人でしかありえないという議論を展開している。『ニヤーヤ・クスマンジャリ』では、初めに多くの半神([[デーヴァ]])や賢者(リシ)がいて、ヴェーダを書き、世界を創造したと仮定しようという[[ミーマーンサー学派]]の命題に対して論じている。ニヤーヤは[[多神教]]徒は複数の天の精霊の存在と起源について精緻な証明をしなければならないが、どれも論理的ではなく、永遠の[[全知全能]]の一神を想定する方が論理的だと主張している<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=yP-fIislexUC&pg=PA161|title=The Arian Christian Doctrines: The Origins of Christianity|editor-last=Levy|editor-first=Charles D. |date=2010-08-30 |publisher=Metaphysical Institute|isbn=9781453764619|pages=161}}</ref>。 === 仏教 === 仏教においては[[上座部仏教]](南伝仏教・[[小乗仏教]])は、釈迦のみを仏とするため(ただし上座部も[[過去七仏]]は認めている)、上座部仏教を一神教と見做す見解もある{{要出典|date=2022年5月}}。 {{要出典範囲|日本においても[[真言宗]]が[[大日如来]]を天地万物と一体である「法身仏」としており、[[日蓮宗]]も[[神社]]への参拝を認めつつも[[釈迦牟尼如来]]を唯一絶対の本仏であるとしている。なお、[[日蓮正宗]]においても神道における神の扱いや「本仏」の内容は異なるものの、基本的な教学は同じである。[[金光教]]・[[大本]]の流れをくむ新宗教の[[生長の家]]も唯一絶対神への信仰を掲げる唯神実相論を提唱している|date=2018-10}}。 == 一神教と多神教の融合・習合 == === 枢軸国 === ==== ゲルマン神話・アーリア神話(ナチスドイツ) ==== {{main|ドイツ第三帝国|[[千年王国#新宗教と千年王国|千年帝国(千年王国)]]|積極的キリスト教|イスラーム系ナチス親衛隊|ナチスラーム|イスラムファシズム|アミーン・アル=フサイニー|サイイド・クトゥブ}} ==== 日本神話・国家神道(大日本帝国) ==== {{main|天皇#一神教・国家神道}} 『日本大百科全書』によると、[[明治維新]]・[[王政復古]]によって[[祭政一致]]([[政教一致]])が政治理念の基本とされ、[[天皇]]は国の「[[元首]]」かつ神聖不可侵な「[[現人神]]」とされた{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}<ref>[[大日本帝国憲法第1条]]、[[大日本帝国憲法第3条]]</ref>。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の[[神 (神道)|神]]観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。天皇は「絶対的[[真理]]」と「普遍的[[道徳]]」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。[[東アジア]]学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの'''[[唯一神]]'''、すなわち'''天皇'''(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される{{sfn|Ishikawa|2007|p=214}}。 また、[[大日本帝国]]が存在した時代では、日本の「the emperor」が「唯一神として(as God)」見なされたり{{sfn|James|2004|p=28}}、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった{{sfn|James|2004|pp=29-30}}(一神教では、唯一神は「Empepror」・「sole emperor」とも説かれる{{sfn|Fiddes|2000|p=64}}。 * ユダヤ教・キリスト教 例えば、[[帝国大学]]の[[比較宗教学]]者だった[[加藤玄智]]は、天皇は「日本人にとって、[[ユダヤ人]]が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた{{sfn|James|2004|pp=29-30}}。加藤は唯一神([[キリスト]])と天皇を結びつけ、{{quotation|[[西洋]]にあっては即ち'''[[神]]''',日本にあっては'''天皇[[陛下]]''',西洋にあっては宗教上の'''[[信仰]]''',日本にあっては'''忠孝一本''',西洋にあっては'''[[キリスト教|基督教]]''',日本にあっては'''天皇教'''と斯う申して来たのであります。}}と述べている{{sfn|前川|2011|p=89}}。同時に加藤は、日本人はみな「[[神の子]]」であるとしている{{sfn|前川|2011|p=90}}。 * イスラム ピーター・リャン・テック・ソンの[[歴史学]]論文によると、唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、[[イスラム]]へ命令が下されることもあった{{sfn|Sun|2008|p=115}}。例えば大日本帝国は、[[ジャワ島]]の[[ムスリム]]たちへ「[[メッカ]]よりも[[東京]]に礼拝し、'''日本天皇'''を'''唯一神'''として礼賛せよ、という[[日本軍]]の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた{{sfn|Sun|2008|p=115}}。 [[ジャワ奉公会]]や日本軍は、ジャワ島のキャイ(イスラム教師)やイスラム指導者等といったムスリムたちから支持を得ようとした{{sfn|Sun|2008|p=115}}。しかしその前に、日本軍が唯一神([[アッラーフ]]・天皇)についての命令を伝えていたため、ムスリムたちは既に混乱させられた状態にあり、結果として失敗した{{sfn|Sun|2008|p=115}}。 [[インドネシア]]においては[[パンチャシラ]]において唯一神への信仰が国是となっており、[[無神論]]の表明は違法とされる。一方で[[仏教]]や[[ヒンドゥー教]]、[[儒教]]も[[国教]]と定められている。これらの宗教も「唯一神信仰の枠組みに含まれる」と解釈されているのである<ref>[http://synodos.jp/international/17467 インドネシアのイスラーム社会――ムスリム・アイデンティティと消費社会]</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参照文献 == * {{Cite journal |和書|last=前川 |first=理子 |authorlink =前川理子 |title =加藤玄智の神道論:宗教学の理想と天皇教のあいだで(1) |year =2011 |publisher =神奈川大学人文学研究所 |journal =人文学研究所報 |volume =46 |pages =85-100 |ref=harv }} * {{Cite book |和書 |last=村上 |first=重良 |authorlink=村上重良 |year=2018 |chapter=天皇 |title=日本大百科全書 |publisher=小学館・朝日新聞社・VOYAGE GROUP |url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87 |ref=harv }} * {{Cite book |和書|author=Britannica Japan Co., Ltd. |authorlink=ブリタニカ・ジャパン |chapter=一神教 |title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |year=2014 |publisher=Britannica Japan Co., Ltd.・朝日新聞社・VOYAGE GROUP<!--2014年時点--> |url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99-31483#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 |accessdate=2014-09-21 |ref=harv }} * {{Cite book |last=Fiddes |first=Paul S. |year=2000 |title=Participating in God: A Pastoral Doctrine of the Trinity |publisher=Westminster John Knox Press |isbn=978-0664223359 |ref=harv }} * {{Cite book |和書 |last=Ishikawa |first=Satomi |year=2007 |title=Seeking the Self: Individualism and Popular Culture in Japan |publisher=Peter Lang Pub Inc. |isbn=978-3039108749 |ref=harv }} * {{Cite book |last=James |first=W. Fiscus |year=2004 |title=Critical Perspectives on World War II |series=Critical Anthologies of Nonfiction Writing |edition=Library Binding |publisher=Rosen Pub Group |isbn=978-1404200654 |ref=harv }} * {{Cite book|last=Sun |first=Peter Liang Tek |title=A Life Under Three Flags |type=PhD Thesis |publisher=University of Western Sydney |year=2008|ref=harv }} * 岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年 編集者 大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 執筆者 青木茂 他多数  == 関連項目 == {{Columns-list|colwidth=15em| * [[唯一神教]] * [[アブラハムの宗教]] ** [[ユダヤ教]] ** [[キリスト教]] ** [[イスラム教]] *** [[タウヒード]] *** [[啓典の民]] * [[唯一の神]]・唯一神 ** [[唯一の皇帝]]・[[王の中の王]] ** [[神]] * [[多神教]] * [[拝一神教]] * [[単一神教]] * [[習合]]・[[シンクレティズム]] * [[バーブ教]] * [[バハーイー教]] * [[天道教]] * {{仮リンク|エキンカー|en|Eckankar}} * [[シーク教]] * [[ヒンドゥー教]]のいくつかの宗派([[シヴァ派]]や[[ヴィシュヌ派]]など) * [[マンダ教]] * [[ラスタファリ運動]] * [[生長の家]] * [[天理教]] * [[ヤズィーディー]] * [[ゾロアスター教]] * {{仮リンク|アテン教|en|atenism}} * 古代[[中国の民俗宗教]] * {{仮リンク|ヤハウェ教|en|Yahwism}} * [[墨家]] * [[プロティノス]] * [[中期プラトン主義]] * [[新プラトン主義]] * [[デミウルゴス]] * [[一者]] * [[不動の動者]] }} == 外部リンク == * {{SEP|monotheism/|Monotheism}} * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いつしんきよう}} [[Category:一神教|*]] [[Category:唯一神|*]] [[Category:各種の宗教]] [[Category:アブラハムの宗教]] [[Category:比較宗教学]] [[Category:宗教研究の哲学]] [[Category:ユダヤ教]] [[Category:キリスト教]] [[Category:イスラム教]]
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2023-07-04T09:29:29Z
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グレード制
グレード制(グレードせい)またはグループ制(グループせい)とは、競馬および公営競技における競走の格付け制度の1つである。 グレード制は、1971年にイギリス・フランス・アイルランドの競馬で「グループ制」が導入されたことを受け、1973年にアメリカ合衆国・カナダ間で始められたもので、その後南アフリカ共和国(1981年)などが続いた。 日本では1984年に中央競馬が導入した。以後、日本ではグレードを興行のブランド化する手法が他の公営競技でも広く受け入れられ、競艇・オートレース・競輪でも主要競走がグレードによって格付けされるようになっていった。 グレード制では、各競走をレベルや重要度の高い順にグレード1、グレード2、グレード3と格付けされ、G1、G2、G3(GI、GII、GIII)というように「『G』+数字(アラビア数字かローマ数字)」という形で略表記される。競馬ではグレード制における最高峰の格付けはグレード1であるが、競輪・競艇・オートレースではグレード1の上にそれぞれグランプリ(GP)、スペシャルグレード、スーパーグレード(ともにSG)という最高位の格付けが設定されている。 それぞれのグレード制の詳細については以下を参照。 競馬においては、各国のレース主催者が独自に定めたグレードと、国際セリ名簿基準書の基準に準じた基準で格付けされる「国際グレード」が存在する。この「国際グレード」のもとでは国際的に格付けの互換性がある。また、ヨーロッパ諸国を中心に「グループ制」を採用している国もある(これらの国も障害競走ではグレード制で格付けを行っている)が、グレード制とは表記の違いしかなく、略表記も「G1」など数字の部分がアラビア数字かローマ数字かという違いしかない。国際セリ名簿基準書の基準に準じている限り完全に互換性を有しており、日本では両者を区別せず「国際グレード」と呼んでいる。 日本では、日本中央競馬会(JRA)が中央競馬に最初に導入したグレードは中央競馬独自のグレードで、2009年までは国際的な互換性がある競走は一部に過ぎなかった。2007年に国際セリ名簿基準委員会の勧告に従い、国際グレードの付かない重賞レースは日本限定グレードの「Jpn」(「JpnI」など、ただしこの場合の読みは原則として「ジーワン」)表記となった。この「Jpn」表記の格付けと国際グレードは日本国内においては互換性がある。その後JRAは段階的にレースを国際化し、2010年には全重賞レースが国際グレードの格付けを得た。一方で地方競馬はJRAとも異なる各地方競馬独自の格付けをしていたが、1997年に「ダートグレード競走」としてJRA・各地方競馬間で統一的に定めた格付けを開始した。これらは国際グレードではなく2007年には同様に「Jpn」となったが、2011年に東京大賞典がはじめて国際グレードを獲得している。 なお、2009年以降のグレードについては、日本グレード格付け管理委員会が各重賞競走についての格付けを管理・監督しており、新設重賞である場合は原則として最低2年間はグレードの格付けがなされず、「新設重賞」として扱われ、3年目以後に競走の規模や過去のレースレーティングを踏まえてグレードの格付けを行うが、新設重賞であっても過去に同じ条件、またはそれに準じる規模のオープン特別から重賞に格上げをする場合は、例外としてグレード格付けをなす場合もある。 テニスやゴルフのツアーサーキットなど公営競技以外のプロスポーツでは、グレード(グループ)制という表現ではないが、「メジャー」と呼ばれる高い位置付けがされた大会が存在する。競馬で言うと、グレード1に相当する大会である。 トラック・フィールドの最高峰としては毎年世界中を転戦するIAAFダイヤモンドリーグであり、隔年開催の世界選手権もある。 マラソンなどの世界のロードレースについて、国際陸上競技連盟が2008年からゴールド・シルバー・ブロンズの3段階で格付けする制度が導入され、2020年には更に上位格となるプラチナが導入され4段階格付けとなっている。
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グレード制(グレードせい)またはグループ制(グループせい)とは、競馬および公営競技における競走の格付け制度の1つである。
'''グレード制'''(グレードせい)または'''グループ制'''(グループせい)とは、[[競馬]]および[[公営競技]]における[[競走]]の[[格付け]]制度の1つである。 == 解説 == グレード制は、[[1971年]]に[[イギリス]]・[[フランス]]・[[アイルランド]]の[[競馬]]で「グループ制」が導入されたことを受け、[[1973年]]に[[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]]間で始められたもので、その後[[南アフリカ共和国]]([[1981年]])などが続いた。 [[日本]]では[[1984年]]に[[中央競馬]]が導入した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/keiba/column/rapusodi/news/202206070000096.html|title=オークスで史上最長15分の発走遅延 放馬除外マニュアル通りだが…より円滑にルール見直し必要|publisher=日刊スポーツ|date=2022-06-07|accessdate=2022-06-07}}</ref>。以後、日本ではグレードを興行のブランド化する手法が他の公営競技でも広く受け入れられ、[[競艇]]・[[オートレース]]・[[競輪]]でも主要競走がグレードによって格付けされるようになっていった。 グレード制では、各競走をレベルや重要度の高い順にグレード1、グレード2、グレード3と格付けされ、G1、G2、G3(GI、GII、GIII)というように「『G』+数字([[アラビア数字]]か[[ローマ数字]])」という形で略表記される。競馬ではグレード制における最高峰の格付けはグレード1であるが、競輪・競艇・オートレースではグレード1の上にそれぞれ[[競輪の競走格付け#GP|グランプリ]](GP)、[[スペシャルグレード]]、[[スーパーグレード]](ともにSG)という最高位の格付けが設定されている。 それぞれのグレード制の詳細については以下を参照。 * [[競馬の競走格付け]] * [[競輪の競走格付け]] * [[競艇の競走格付け]] * [[オートレースの競走一覧|オートレースの競走格付け]] === 競馬における種々の格付けと互換性 === 競馬においては、各国のレース主催者が独自に定めたグレードと、国際セリ名簿基準書の基準に準じた基準で格付けされる「国際グレード」が存在する。この「国際グレード」のもとでは国際的に格付けの互換性がある。また、ヨーロッパ諸国を中心に「グループ制」を採用している国もある(これらの国も障害競走ではグレード制で格付けを行っている)が、グレード制とは表記の違いしかなく、略表記も「G1」など数字の部分がアラビア数字かローマ数字かという違いしかない。国際セリ名簿基準書の基準に準じている限り完全に互換性を有しており、日本では両者を区別せず「国際グレード」と呼んでいる。 日本では、[[日本中央競馬会]](JRA)が中央競馬に最初に導入したグレードは中央競馬独自のグレードで、[[2009年]]までは国際的な互換性がある競走は一部に過ぎなかった。[[2007年]]に[[国際セリ名簿基準委員会]]の勧告に従い、国際グレードの付かない重賞レースは日本限定グレードの「Jpn」(「JpnI」など、ただしこの場合の読みは原則として「ジーワン」<ref>一部のマスコミ関係者は「ジェーピーエヌ・ワン」などとアナウンスする場合もある</ref>)表記となった。この「Jpn」表記の格付けと国際グレードは日本国内においては互換性がある。その後JRAは段階的にレースを国際化し、[[2010年]]には全重賞レースが国際グレードの格付けを得た。一方で[[地方競馬]]はJRAとも異なる各地方競馬独自の格付けをしていたが、[[1997年]]に「[[ダートグレード競走]]」としてJRA・各地方競馬間で統一的に定めた格付けを開始した。これらは国際グレードではなく2007年には同様に「Jpn」となったが、[[2011年]]に[[東京大賞典]]がはじめて国際グレードを獲得している。 なお、2009年以降のグレードについては、[[日本グレード格付け管理委員会]]が各重賞競走についての格付けを管理・監督<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-157946.html|title=平地重賞のグレード格付け方法を変更へ|publisher=ラジオNIKKEI|date=2008-10-27|accessdate=2023-09-12}}</ref>しており、新設重賞である場合は原則として最低2年間はグレードの格付けがなされず、「新設重賞」<ref>2年目以後は「重賞」</ref>として扱われ、3年目以後に競走の規模や過去のレースレーティングを踏まえてグレードの格付けを行うが、新設重賞であっても過去に同じ条件、またはそれに準じる規模のオープン特別から重賞に格上げをする場合は、例外としてグレード格付けをなす場合もある。 == その他 == === テニスやゴルフなど === [[テニス]]や[[ゴルフ]]のツアーサーキットなど公営競技以外のプロスポーツでは、グレード(グループ)制という表現ではないが、「メジャー」と呼ばれる高い位置付けがされた大会が存在する。競馬で言うと、グレード1に相当する大会である。 ; 例 * テニスでは[[ATPツアー]]・[[女子テニス協会|WTA]]ともに最高位は[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]、その下のカテゴリには、ATPは[[ATPツアー・マスターズ1000|マスターズ1000]]、[[ATPツアー・500シリーズ|500]]、[[ATPツアー・250シリーズ|250]]の順。WTAはプレミア、インターナショナルの順になっている。 * ゴルフにおいては北米では[[PGAツアー]]が世界最高峰ツアーであり、その下部組織に[[コーン・フェリーツアー]]、さらにその下部ツアーには[[PGAツアー・カナダ]]、PGAツアー・ラティーノアメリカ、PGAツアー・チャイナがある。欧州では[[ヨーロピアンツアー]]、下部に[[チャレンジツアー]]が存在する。また女子では[[全米女子プロゴルフ協会|LPGA]]が世界最高峰ツアーとされており、世界中を転戦する。 === 陸上競技 === トラック・フィールドの最高峰としては毎年世界中を転戦する[[ワールドアスレティックス|IAAF]][[ダイヤモンドリーグ]]であり、隔年開催の[[世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]もある。 [[マラソン]]などの世界のロードレースについて、[[国際陸上競技連盟]]が[[2008年]]からゴールド・シルバー・ブロンズの3段階で格付けする制度が導入され、[[2020年]]には更に上位格となるプラチナが導入され4段階格付けとなっている。 == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:くれとせい}} [[Category:競馬用語]] [[Category:競輪用語]] [[Category:競艇]] [[Category:オートレース]] [[Category:公営競技]]
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オオクチバス
オオクチバス(大口バス、ノーザン・ラージマウスバス、学名 Micropterus nigricans Cuvier, 1828) は、オオクチバス属に分類される淡水魚の一種。原産地アメリカ合衆国では、アラバマ州・ジョージア州・ミシシッピ州・フロリダ州の州魚に指定されている。 1925年に神奈川県芦ノ湖で初めて放流された。以降徐々に分布が拡大し、コクチバス同様問題となっている。全国で増えることを心配して、オオクチバスなどほかの魚を別水系の川で再放流することを、禁止する自治体が増えている。 属名Micropterusは「小さな尾」の意であるが、これは初めて捕獲された本属魚類の個体の尾鰭が負傷欠損によって小さかったために、誤ってその特徴が名付けられてしまったものである。 英名を直訳した「オオクチバス」が標準和名である。由来はコクチバスに比べ口が大きいことから。コクチバス M. dolomieu、フロリダバス(フロリダ・ラージマウスバス)M. salmoides などと共に、通称「ブラックバス」と呼ばれることが多い。コクチバスよりも釣魚としての認知の浸透、普及が半世紀以上先行して定着しているため、本種の別名として「ブラックバス」が使用される場合も多く、図鑑等における紹介でもしばしば「ブラックバス(オオクチバス)」と記述される。これはちょうどカムルチーが「ライギョ」と記される場合が少なくないのと同じである。略して単に「バス」と呼ばれることもある。 一方移入当初、商業漁獲対象魚としての観点からオオクチクロマスとも呼ばれたが、サケ科のマス類と混同されるためにこの呼称は現在では使用されていない。 標準英名で呼ばれる。由来は和名に同じ。その他、釣魚としては背面の色彩に着目してコクチバスと区別したGreen backという呼び名がある。また、食用魚としてGreen bassという名で流通もしている。 大口黒鱸と呼ばれる。 成魚は全長最大60cmに達するが、最大でジョージア州のジョージ・ペリーが釣り上げた全長97.0cm・体重10.09kg・年齢23歳の記録がある。日本でも2009年7月2日に琵琶湖で栗田学によって全長73.5cm、体重10.12kgの世界記録タイ(IGFAオールタックル世界記録では体重で大きさが決まるため)がブルーギルを餌にして捕獲されている。 体型は側偏した紡錘形。成長し亜成魚以降になると頭部後方から背鰭前方で背面が山なりに盛り上がる。上顎よりも下顎が前方に突き出る。 外部形態上のコクチバスとの代表的識別点として、口角が眼の後端を越える。しかし、幼魚は口角が眼の後端に達しない個体も少なくない。また、口吻はコクチバスのほうがオオクチバスよりも相対的にやや長く鋭角的に突出し、オオクチバスはより寸の詰まったずんぐりした顔をしている。このため、側面からの見た目上の口のサイズは両種間にそれほど大きな差があるわけではない。しかしオオクチバスはコクチバスよりも側偏が弱いために体幅が大きく、そのぶん頭部の幅と口の開口面積も大きくなっている。 背鰭は前後で第1、第2背鰭に分かれ、第1背鰭のほうが小さい。尾鰭後縁は黒く縁取られる。 背面側の体色は緑がかった褐色、腹面側は白っぽい。体側中央をやや太くいびつな帯が一条走る。尾びれの後縁には黒い縁取りがある。ただこれらは個体の体調や置かれた環境により不明瞭な場合も少なくない。 本来はミシシッピ水系を中心とした北アメリカ南東部の固有種である。しかし、釣り(スポーツフィッシング)や食用の対象魚として世界各地に移入されたため、分布域の人為的拡大が著しい。 湖、沼などの止水環境や流れの緩い河川に生息するが、汽水域でもしばしば漁獲される。天敵から身を隠したり獲物を待ち伏せするため、障害物の多い場所を好む。一方、回遊して餌を探す場合もあり、特に幼魚〜亜成魚はしばしば群を作り隊列を組んで回遊行動をおこなうことがある。 食性は肉食性で、水生昆虫・魚類・甲殻類・節足動物などを捕食する。自分の体長の半分程度の大きさの魚まで捕食し、カエルやネズミ、小型の鳥類まで丸飲みにする。 春から秋には岸近くで活発に活動するが、冬は深みに移り物陰に群れを成して越冬する。 繁殖は水温15°Cの条件が必要である。この水温は、北アメリカの生息地では北部で5-6月、南部で12-5月である。日本では6月を盛期に5-7月である。また、多くの動物に見られるように、産卵は満月か新月の日に行われるのが一般的である。オスは砂地に直径50cmほどの浅いすり鉢状の巣を作り、メスを呼びこんで産卵させる。複数のメスを呼びこんで産卵するため、巣の卵数は1万粒に達することもある。日本ではムギツクに巣を襲われ、托卵されることもある。 卵は10日ほどで孵化する。産卵後もオスは巣に残り、卵を狙う敵を追い払うなどして保護する。孵化した仔魚は全長2-3cmになるまでオスの保護下で群れを成して生活する。稚魚がある程度の大きさになると、オスは稚魚を食べることで巣からの自立を促す、この過程で卵から孵った幼魚の半分以上が淘汰されるという。日本ではブラックバスの稚魚は、ハス、 ウグイ、ニゴイなど魚食性の強いコイ科の魚やライギョ、ナマズ、ドンコなどに捕食される。 成熟齢は2年から5年といわれ、一般には23cm前後で成熟する。寿命は一部に10年を超える個体もみられるが、多くは8年程度とされている。 日本国内の19府県47地点から得られた(オオクチバス、コクチバス、フロリダバス)247個体のDNAハプロタイプを分析した。結果は、オオクチバスでは10のハプロタイプが知られているが、7タイプを確認した。山中湖には7タイプが生息しているが、ブラックバスに対し漁業権を設定しているため、資源量を維持する目的で全国各地から移植されている事が、ハプロタイプからも裏付けられた。琵琶湖ではフロリダバスとオオクチバスのハプロタイプが確認された。 アメリカ国内のハプロタイプ分布は十分に解明されておらず、日本に移入された個体の系統の由来地域の解明も不十分である。アメリカ及び日本国内のハプロタイプ分布が十分に解明されると、日本への移入が既知の1925年と1972年以外に行われていたのかの解明が行えると期待される。 日本において、本種は人為的に移入された外来種である。21世紀現在、国内全ての都道府県で生息が確認されており、湖・池といった多くの内水面で姿がみられる。日本に持ち込まれたのは、1925年に実業家の赤星鉄馬により芦ノ湖に放流されたのが最初である。 その後、芦ノ湖から日本国内の他水域にも再移入がおこなわれた他、1945年の敗戦にともない、進駐してきたアメリカ軍人が自分たちのゲームフィッシング用に多くの個体を持ち込み、分布拡大がさらに進む。例えば、沖縄県恩納ダムには1963年頃に移入され拡散したと考えられている。 1970年代以降、日本での分布が急速に拡大し、環境問題に発展している。釣り人による密放流(ゲリラ放流)、琵琶湖産のアユ種苗やゲンゴロウブナへの混入などによりその生息域を広げたと考えられている。導入経路や非公式な違法放流についてはミトコンドリアDNAの解析によりその実態が明らかになっている。 捕食や競争により本来日本の湖・池に生息していた魚(在来魚)を減少させるとしてコクチバスやブルーギルと並び問題視されている。メダカ、ゼニタナゴ、ジュズカケハゼ、シナイモツゴといった希少な魚を減少させるなど魚類相に大きな影響を与えている。また、魚類だけでなく甲殻類や水生昆虫にも被害が発生しているほか、そうした生物を餌にする水鳥などの他の生物にも悪影響を及ぼす。さらに、アカネズミなどの齧歯類やヒミズなどの食虫類といった小型哺乳類、アオジやオオジュリンといった鳥類の直接的な捕食事例も確認されている。 本種は日本生態学会により日本の侵略的外来種ワースト100に選定されているが、国際自然保護連合によって世界の侵略的外来種ワースト100のひとつにも選ばれており世界的に問題となっている。 事態を重くみた環境省は、2005年(平成17年)6月施行の「外来生物法(特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律)」でコクチバスと共にオオクチバスの規制(輸入・飼養・運搬・移殖を規制する)を目指すことになった。しかし、2004年10月から開始されたオオクチバスを特定外来生物に選定する是非を決める会議では、全国内水面漁業協同組合連合会や外来種問題を危惧する研究者などの指定賛成派と、日本釣振興会、全日本釣り団体協議会、釣魚議員連盟といった指定反対派との間で意見が大きく対立し議論は難航した。この結果、2005年1月19日の第4回小会合にてオオクチバスの指定については半年まで検討期間を延長することになった。ところが、その2日後に当時の環境大臣小池百合子がバスは指定されるべきとの発言をしたため急遽方針が転換され、結局オオクチバスは特定外来生物に1次指定されることが決定した。こうした混乱や衝突はオオクチバスが大規模なバス釣り産業を形成しており経済的に重要な価値を有することが背景にあり、外来種問題の解決の難しさが窺える事例となった。また、多くの都道府県でも、内水面漁業調整規則に基づき移殖放流が禁止されている。1965年に移入された芦ノ湖の漁業権を管理する神奈川県は、オオクチバスを含めたブラックバスに関して移植をしてはならないとした。さらに、日本国外ではイギリスや韓国などで国内への持ち込みが禁止されている。 稚魚のすくい取り、産卵床の破壊、人工産卵床の設置、地引き網、池干しといった方法で防除が行われている。環境省では2005年度から「オオクチバス等防除モデル事業」を伊豆沼・内沼、羽田沼、片野鴨池、犬山市内のため池群、琵琶湖、藺牟田池の6つの地域で実施した。また、市民活動も盛んに行われており、2005年には「全国ブラックバス防除市民ネットワーク」が結成されている。防除対策によって減少していた魚類の増加が確認され生態系の回復が実現している水域もある。 山梨県の河口湖、山中湖、西湖でのブラックバスの漁業権は1989-1994年に認められ、2005年施行の外来生物法でブラックバスの放流が禁じられた後も「特例」として許可されてきた。2014年1月の免許更新期を前に、地元漁協や自治体が継続を求め、日本魚類学会やNPOや自然保護団体などが反対していた。山梨県が地元漁協の免許の特例更新を認める方針を固めた。 身は癖のない白身で美味。ムニエル、フライ、ポワレなどで食べられる。体表面の粘膜および浮き袋の付け根にある脂に生臭さがある場合が多いため、これを身につけないようにするのがコツとされる。表面に生臭みがある時は塩もみするか、濃い塩水中でたわしで洗うと落とせる。または、霜降りか泥抜きで臭みをとる。 小骨にも注意。また、生食では顎口虫症による健康被害が報告されており寄生虫対策として一度冷凍するか、もしくは加熱調理して食べる必要がある。水のきれいな水域の個体が美味で、汚染の危険性も低い。 オオクチバスを含めたサンフィッシュ科魚類は、原産地である北米では食用魚とされてきた。日本でも元々食用としての用途も意図されて移植されたが、専ら釣り(遊漁)の対象魚とされている。釣ったオオクチバスは再放流されることが多いが、一部ではオオクチバス料理を提供している店舗もある。1980年代頃に全国的に生息域が拡大し、在来生物層の保護という観点から、1990年代初頭には沖縄県を除く全ての都道府県で無許可での放流が禁止された。 日本国内でオオクチバスを漁業権魚種として認定している水域は現在、神奈川県の芦ノ湖、山梨県の河口湖、山中湖、西湖の4湖のみ。権利のない漁協権を行使して、料金をとっている漁協が多数あるようであるが、行政が長年の慣習から放置しているのが実情である。 ブラックバスが漁業権魚種ではない水域であっても入漁料の支払いを当該地域の漁協から求められることがある。これは目的釣魚がブラックバスであっても釣法(餌釣り等)によっては漁業権魚種が釣れてしまう「混獲」の可能性があり、たとえ即リリースする場合でも当該魚種を釣り人が「事実上の支配下」に置くことは漁業権魚種の漁獲とみなされるためであるとされている。
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"名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "標準英名で呼ばれる。由来は和名に同じ。その他、釣魚としては背面の色彩に着目してコクチバスと区別したGreen backという呼び名がある。また、食用魚としてGreen bassという名で流通もしている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大口黒鱸と呼ばれる。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "成魚は全長最大60cmに達するが、最大でジョージア州のジョージ・ペリーが釣り上げた全長97.0cm・体重10.09kg・年齢23歳の記録がある。日本でも2009年7月2日に琵琶湖で栗田学によって全長73.5cm、体重10.12kgの世界記録タイ(IGFAオールタックル世界記録では体重で大きさが決まるため)がブルーギルを餌にして捕獲されている。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "体型は側偏した紡錘形。成長し亜成魚以降になると頭部後方から背鰭前方で背面が山なりに盛り上がる。上顎よりも下顎が前方に突き出る。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "外部形態上のコクチバスとの代表的識別点として、口角が眼の後端を越える。しかし、幼魚は口角が眼の後端に達しない個体も少なくない。また、口吻はコクチバスのほうがオオクチバスよりも相対的にやや長く鋭角的に突出し、オオクチバスはより寸の詰まったずんぐりした顔をしている。このため、側面からの見た目上の口のサイズは両種間にそれほど大きな差があるわけではない。しかしオオクチバスはコクチバスよりも側偏が弱いために体幅が大きく、そのぶん頭部の幅と口の開口面積も大きくなっている。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "背鰭は前後で第1、第2背鰭に分かれ、第1背鰭のほうが小さい。尾鰭後縁は黒く縁取られる。", "title": "形態" 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"繁殖は水温15°Cの条件が必要である。この水温は、北アメリカの生息地では北部で5-6月、南部で12-5月である。日本では6月を盛期に5-7月である。また、多くの動物に見られるように、産卵は満月か新月の日に行われるのが一般的である。オスは砂地に直径50cmほどの浅いすり鉢状の巣を作り、メスを呼びこんで産卵させる。複数のメスを呼びこんで産卵するため、巣の卵数は1万粒に達することもある。日本ではムギツクに巣を襲われ、托卵されることもある。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "卵は10日ほどで孵化する。産卵後もオスは巣に残り、卵を狙う敵を追い払うなどして保護する。孵化した仔魚は全長2-3cmになるまでオスの保護下で群れを成して生活する。稚魚がある程度の大きさになると、オスは稚魚を食べることで巣からの自立を促す、この過程で卵から孵った幼魚の半分以上が淘汰されるという。日本ではブラックバスの稚魚は、ハス、 ウグイ、ニゴイなど魚食性の強いコイ科の魚やライギョ、ナマズ、ドンコなどに捕食される。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "成熟齢は2年から5年といわれ、一般には23cm前後で成熟する。寿命は一部に10年を超える個体もみられるが、多くは8年程度とされている。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本国内の19府県47地点から得られた(オオクチバス、コクチバス、フロリダバス)247個体のDNAハプロタイプを分析した。結果は、オオクチバスでは10のハプロタイプが知られているが、7タイプを確認した。山中湖には7タイプが生息しているが、ブラックバスに対し漁業権を設定しているため、資源量を維持する目的で全国各地から移植されている事が、ハプロタイプからも裏付けられた。琵琶湖ではフロリダバスとオオクチバスのハプロタイプが確認された。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アメリカ国内のハプロタイプ分布は十分に解明されておらず、日本に移入された個体の系統の由来地域の解明も不十分である。アメリカ及び日本国内のハプロタイプ分布が十分に解明されると、日本への移入が既知の1925年と1972年以外に行われていたのかの解明が行えると期待される。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本において、本種は人為的に移入された外来種である。21世紀現在、国内全ての都道府県で生息が確認されており、湖・池といった多くの内水面で姿がみられる。日本に持ち込まれたのは、1925年に実業家の赤星鉄馬により芦ノ湖に放流されたのが最初である。", "title": "外来種問題" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後、芦ノ湖から日本国内の他水域にも再移入がおこなわれた他、1945年の敗戦にともない、進駐してきたアメリカ軍人が自分たちのゲームフィッシング用に多くの個体を持ち込み、分布拡大がさらに進む。例えば、沖縄県恩納ダムには1963年頃に移入され拡散したと考えられている。", "title": "外来種問題" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1970年代以降、日本での分布が急速に拡大し、環境問題に発展している。釣り人による密放流(ゲリラ放流)、琵琶湖産のアユ種苗やゲンゴロウブナへの混入などによりその生息域を広げたと考えられている。導入経路や非公式な違法放流についてはミトコンドリアDNAの解析によりその実態が明らかになっている。", "title": "外来種問題" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "捕食や競争により本来日本の湖・池に生息していた魚(在来魚)を減少させるとしてコクチバスやブルーギルと並び問題視されている。メダカ、ゼニタナゴ、ジュズカケハゼ、シナイモツゴといった希少な魚を減少させるなど魚類相に大きな影響を与えている。また、魚類だけでなく甲殻類や水生昆虫にも被害が発生しているほか、そうした生物を餌にする水鳥などの他の生物にも悪影響を及ぼす。さらに、アカネズミなどの齧歯類やヒミズなどの食虫類といった小型哺乳類、アオジやオオジュリンといった鳥類の直接的な捕食事例も確認されている。 本種は日本生態学会により日本の侵略的外来種ワースト100に選定されているが、国際自然保護連合によって世界の侵略的外来種ワースト100のひとつにも選ばれており世界的に問題となっている。", "title": "外来種問題" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "事態を重くみた環境省は、2005年(平成17年)6月施行の「外来生物法(特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律)」でコクチバスと共にオオクチバスの規制(輸入・飼養・運搬・移殖を規制する)を目指すことになった。しかし、2004年10月から開始されたオオクチバスを特定外来生物に選定する是非を決める会議では、全国内水面漁業協同組合連合会や外来種問題を危惧する研究者などの指定賛成派と、日本釣振興会、全日本釣り団体協議会、釣魚議員連盟といった指定反対派との間で意見が大きく対立し議論は難航した。この結果、2005年1月19日の第4回小会合にてオオクチバスの指定については半年まで検討期間を延長することになった。ところが、その2日後に当時の環境大臣小池百合子がバスは指定されるべきとの発言をしたため急遽方針が転換され、結局オオクチバスは特定外来生物に1次指定されることが決定した。こうした混乱や衝突はオオクチバスが大規模なバス釣り産業を形成しており経済的に重要な価値を有することが背景にあり、外来種問題の解決の難しさが窺える事例となった。また、多くの都道府県でも、内水面漁業調整規則に基づき移殖放流が禁止されている。1965年に移入された芦ノ湖の漁業権を管理する神奈川県は、オオクチバスを含めたブラックバスに関して移植をしてはならないとした。さらに、日本国外ではイギリスや韓国などで国内への持ち込みが禁止されている。", "title": "外来種問題" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "稚魚のすくい取り、産卵床の破壊、人工産卵床の設置、地引き網、池干しといった方法で防除が行われている。環境省では2005年度から「オオクチバス等防除モデル事業」を伊豆沼・内沼、羽田沼、片野鴨池、犬山市内のため池群、琵琶湖、藺牟田池の6つの地域で実施した。また、市民活動も盛んに行われており、2005年には「全国ブラックバス防除市民ネットワーク」が結成されている。防除対策によって減少していた魚類の増加が確認され生態系の回復が実現している水域もある。", "title": "外来種問題" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "山梨県の河口湖、山中湖、西湖でのブラックバスの漁業権は1989-1994年に認められ、2005年施行の外来生物法でブラックバスの放流が禁じられた後も「特例」として許可されてきた。2014年1月の免許更新期を前に、地元漁協や自治体が継続を求め、日本魚類学会やNPOや自然保護団体などが反対していた。山梨県が地元漁協の免許の特例更新を認める方針を固めた。", "title": "外来種問題" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "身は癖のない白身で美味。ムニエル、フライ、ポワレなどで食べられる。体表面の粘膜および浮き袋の付け根にある脂に生臭さがある場合が多いため、これを身につけないようにするのがコツとされる。表面に生臭みがある時は塩もみするか、濃い塩水中でたわしで洗うと落とせる。または、霜降りか泥抜きで臭みをとる。 小骨にも注意。また、生食では顎口虫症による健康被害が報告されており寄生虫対策として一度冷凍するか、もしくは加熱調理して食べる必要がある。水のきれいな水域の個体が美味で、汚染の危険性も低い。", "title": "食用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "オオクチバスを含めたサンフィッシュ科魚類は、原産地である北米では食用魚とされてきた。日本でも元々食用としての用途も意図されて移植されたが、専ら釣り(遊漁)の対象魚とされている。釣ったオオクチバスは再放流されることが多いが、一部ではオオクチバス料理を提供している店舗もある。1980年代頃に全国的に生息域が拡大し、在来生物層の保護という観点から、1990年代初頭には沖縄県を除く全ての都道府県で無許可での放流が禁止された。", "title": "食用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本国内でオオクチバスを漁業権魚種として認定している水域は現在、神奈川県の芦ノ湖、山梨県の河口湖、山中湖、西湖の4湖のみ。権利のない漁協権を行使して、料金をとっている漁協が多数あるようであるが、行政が長年の慣習から放置しているのが実情である。", "title": "漁業権魚種" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ブラックバスが漁業権魚種ではない水域であっても入漁料の支払いを当該地域の漁協から求められることがある。これは目的釣魚がブラックバスであっても釣法(餌釣り等)によっては漁業権魚種が釣れてしまう「混獲」の可能性があり、たとえ即リリースする場合でも当該魚種を釣り人が「事実上の支配下」に置くことは漁業権魚種の漁獲とみなされるためであるとされている。", "title": "漁業権魚種" } ]
オオクチバス は、オオクチバス属に分類される淡水魚の一種。原産地アメリカ合衆国では、アラバマ州・ジョージア州・ミシシッピ州・フロリダ州の州魚に指定されている。 1925年に神奈川県芦ノ湖で初めて放流された。以降徐々に分布が拡大し、コクチバス同様問題となっている。全国で増えることを心配して、オオクチバスなどほかの魚を別水系の川で再放流することを、禁止する自治体が増えている。
{{生物分類表 |名称=オオクチバス |画像=[[File:Micropterus salmoides Tokyo Sea Life Park.jpg|250px]] |画像キャプション= |省略 = 条鰭綱 |目=[[スズキ目]] {{Sname||Perciformes}} |科=[[サンフィッシュ科]] {{Sname||Centrarchidae}} |属=[[オオクチバス属]] {{Snamei||Micropterus}} |種='''オオクチバス''' {{Snamei|M. nigricans}} |学名={{Snamei|Micropterus nigricans}}<br/>{{AUY|Cuvier|1828}}<ref name="名前なし">[https://www.fish-isj.jp/info/list_rename.html シノニム・学名の変更] 日本魚類学会 2023年1月5日更新 2023年1月23日閲覧</ref> |英名=[[:en:Largemouth bass|Largemouth bass]] |和名='''オオクチバス'''(大口バス)<br/>ラージマウスバス<br/>ブラックバス }} '''オオクチバス'''(大口バス、ノーザン・ラージマウスバス、[[学名]] {{Snamei|Micropterus nigricans}} Cuvier, 1828<ref name="名前なし"/>) は、[[オオクチバス属]]に分類される[[淡水魚]]の一種<ref name="fb">{{FishBase species|genus=Micropterus|species=salmoides}}</ref>。原産地[[アメリカ合衆国]]では、[[アラバマ州]]・[[ジョージア州]]・[[ミシシッピ州]]・[[フロリダ州]]の州魚に指定されている{{要出典|date=2014年11月}}。 [[1925年]]に[[神奈川県]][[芦ノ湖]]で初めて放流された。以降徐々に[[分布 (生物)|分布]]が拡大し、[[コクチバス]]同様問題となっている。全国で増えることを心配して、オオクチバスなどほかの魚を別水系の川で再放流することを、禁止する自治体が増えている。 ==名称== ;学名 属名Micropterusは「小さな尾」の意であるが、これは初めて捕獲された本属魚類の個体の尾鰭が負傷欠損によって小さかったために、誤ってその特徴が名付けられてしまったものである<ref name="r1g">赤星鉄馬 『ブラックバッス』 イーハトーヴ出版、1996年6月。{{要ページ番号|date=2018-12-24}}</ref>。 ;日本 英名を直訳した「オオクチバス」が標準和名である。由来はコクチバスに比べ口が大きいことから。[[コクチバス]] {{Snamei|M. dolomieu}}、[[フロリダバス]](フロリダ・ラージマウスバス){{Snamei|M. salmoides}} などと共に、通称「[[ブラックバス]]」と呼ばれることが多い。コクチバスよりも釣魚としての認知の浸透、普及が半世紀以上先行して定着している<ref name="r1g"/>ため、本種の別名として「ブラックバス」が使用される場合も多く、図鑑等における紹介でもしばしば「ブラックバス(オオクチバス)」と記述される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2010/09/20100928142001.html |title=神戸市:須磨海浜水族園 「ブラックバスを釣ってきて、入園料がタダ!!」 |website= |publisher=神戸市 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923222242/http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2010/09/20100928142001.html |archivedate=2015-09-23 |accessdate=2018-12-24}}</ref>。これはちょうど[[カムルチー]]が「[[ライギョ]]」と記される場合が少なくないのと同じである。略して単に「バス」と呼ばれることもある{{要出典|date=2014年11月}}。 一方移入当初、商業漁獲対象魚としての観点からオオクチクロマス<ref name="r1g"/>とも呼ばれたが、サケ科のマス類と混同されるためにこの呼称は現在では使用されていない。 ;アメリカ/カナダ 標準英名で呼ばれる。由来は和名に同じ。その他、釣魚としては背面の色彩に着目してコクチバスと区別したGreen backという呼び名がある<ref>{{Cite web |url=http://www2.fcps.edu/islandcreekes/ecology/largemouth_bass.htm |title=Largemouth Bass |website= |publisher= |accessdate=2018-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170202214215/http://www2.fcps.edu/islandcreekes/ecology/largemouth_bass.htm |archivedate=2017-02-02}}</ref>。また、食用魚としてGreen bassという名で流通<ref>Green bass[http://www.takuyamorihisa.com/gallery/animalia/chordata/actinopterygii/perciformes/centrarchidae/micropterus/salmoides/m_salmoides_500_14.jpg]{{出典無効|date=2018-12-24 |title=この出典になっている写真の内容だけでは、「食用魚としての販売」であることの確証はなにもないのでは?}}</ref>もしている。 ;中国 大口黒鱸と呼ばれる。 == 形態 == [[File:Largemouth.JPG|thumb|right|200px|頭部]] 成魚は全長最大60cmに達するが、最大で[[ジョージア州]]の[[ジョージ・ペリー]]が釣り上げた全長97.0cm・体重10.09kg・年齢23歳の記録がある。日本でも2009年7月2日に[[琵琶湖]]で[[栗田学]]によって全長73.5cm、体重10.12kgの世界記録タイ([[国際ゲームフィッシュ協会|IGFA]]オールタックル世界記録では体重で大きさが決まるため)が[[ブルーギル]]を餌にして捕獲されている{{要出典|date=2014年11月}}。 体型は側偏した紡錘形。成長し亜成魚以降になると頭部後方から背鰭前方で背面が山なりに盛り上がる。上顎よりも下顎が前方に突き出る。 外部形態上のコクチバスとの代表的識別点として、口角が眼の後端を越える<ref name="env">[https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/list/L-sa-07.html 特定外来生物の解説 オオクチバス] 環境省</ref>。しかし、幼魚は口角が眼の後端に達しない個体も少なくない。また、口吻はコクチバスのほうがオオクチバスよりも相対的にやや長く鋭角的に突出し、オオクチバスはより寸の詰まったずんぐりした顔をしている。このため、側面からの見た目上の口のサイズは両種間にそれほど大きな差があるわけではない。しかしオオクチバスはコクチバスよりも側偏が弱いために体幅が大きく、そのぶん頭部の幅と口の開口面積も大きくなっている。 背鰭は前後で第1、第2背鰭に分かれ、第1背鰭のほうが小さい。尾鰭後縁は黒く縁取られる。 背面側の体色は緑がかった褐色、腹面側は白っぽい。体側中央をやや太くいびつな帯が一条走る。尾びれの後縁には黒い縁取りがある。ただこれらは個体の体調や置かれた環境により不明瞭な場合も少なくない。 ==生態== 本来は[[ミシシッピ川|ミシシッピ水系]]を中心とした北アメリカ南東部の[[固有種]]である。しかし、[[釣り]](スポーツフィッシング)や食用の対象魚として世界各地に[[移植 (生物)|移入]]されたため、分布域の人為的拡大が著しい<ref name="fb"/>。 湖、沼などの止水環境や流れの緩い河川に生息するが、[[汽水域]]でもしばしば漁獲される。天敵から身を隠したり獲物を待ち伏せするため、障害物の多い場所を好む。一方、回遊して餌を探す場合もあり、特に幼魚〜亜成魚はしばしば群を作り隊列を組んで回遊行動をおこなうことがある。 食性は[[肉食性]]で、[[水生昆虫]]・[[魚類]]・[[甲殻類]]・[[節足動物]]などを捕食する。自分の体長の半分程度の大きさの魚まで捕食し、[[カエル]]や[[ネズミ]]、小型の[[鳥類]]まで丸飲みにする。 春から秋には岸近くで活発に活動するが、冬は深みに移り物陰に群れを成して越冬する。 繁殖は水温15℃の条件が必要である<ref name="fb"/>。この水温は、北アメリカの生息地では北部で5-6月、南部で12-5月である。日本では6月を盛期に5-7月である。また、多くの[[動物]]に見られるように、産卵は満月か新月の日に行われるのが一般的である。オスは砂地に直径50cmほどの浅いすり鉢状の巣を作り、メスを呼びこんで産卵させる。複数のメスを呼びこんで産卵するため、巣の卵数は1万粒に達することもある。日本では[[ムギツク]]に巣を襲われ、[[托卵]]されることもある。 卵は10日ほどで孵化する。産卵後もオスは巣に残り、卵を狙う敵を追い払うなどして保護する。孵化した仔魚は全長2-3cmになるまでオスの保護下で群れを成して生活する。稚魚がある程度の大きさになると、オスは稚魚を食べることで巣からの自立を促す、この過程で卵から孵った幼魚の半分以上が淘汰されるという。日本ではブラックバスの稚魚は、[[ハス (魚)|ハス]]、 [[ウグイ]]、[[ニゴイ]]など魚食性の強いコイ科の魚や[[ライギョ]]、[[ナマズ]]、[[ドンコ]]などに捕食される。 成熟齢は2年から5年といわれ、一般には23cm前後で成熟する。寿命は一部に10年を超える個体もみられるが、多くは8年程度とされている<ref>杉山秀樹、神宮字寛、[https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.73.9_797 ため池における外来魚・オオクチバスの影響と駆除] 農業土木学会誌 2005年 73巻 9号 p.797-800,a1, {{doi|10.11408/jjsidre1965.73.9_797}}</ref>。 === 日本産ブラックバスの遺伝的知見 === 日本国内の19府県47地点から得られた(オオクチバス、コクチバス、フロリダバス)247個体のDNA[[ハプロタイプ]]を分析した。結果は、オオクチバスでは10のハプロタイプが知られているが、7タイプを確認した。[[山中湖]]には7タイプが生息しているが、ブラックバスに対し[[漁業権]]を設定しているため、資源量を維持する目的で全国各地から移植されている事が、ハプロタイプからも裏付けられた。琵琶湖ではフロリダバスとオオクチバスのハプロタイプが確認された<ref name="高村2005">{{Cite journal|和書|author=高村健二|year=2005| title=日本産ブラックバスにおけるミトコンドリアDNAハプロタイプの分布 |journal=魚類学雑誌 |volume=52|issue=2|url=https://doi.org/10.11369/jji1950.52.107|format=PDF|pages=107-114|accessdate=2012-05-07|doi=10.11369/jji1950.52.107}}</ref>。 アメリカ国内のハプロタイプ分布は十分に解明されておらず、日本に移入された個体の系統の由来地域の解明も不十分である。アメリカ及び日本国内のハプロタイプ分布が十分に解明されると、日本への移入が既知の1925年と1972年以外に行われていたのか解明できると期待される<ref name="高村2005"/>。 == 外来種問題 == === 日本への導入=== 日本において、本種は人為的に移入された外来種である。21世紀現在、国内全ての都道府県で生息が確認されており、湖・池といった多くの内水面で姿がみられる。日本に持ち込まれたのは、1925年に実業家の[[赤星鉄馬]]により[[芦ノ湖]]に放流されたのが最初である<ref name="自環研セ2008">{{cite book | 和書 | author = 多紀保彦(監修) 財団法人[[自然環境研究センター]](編著) | title = 決定版 日本の外来生物 | publisher = [[平凡社]] | date = 2008-04-21 | isbn = 978-4-582-54241-7 }}{{要ページ番号|date=2018-12-24}}</ref>。 その後、芦ノ湖から日本国内の他水域にも再移入がおこなわれた他、[[1945年]]の[[敗戦]]にともない、[[進駐]]してきた[[アメリカ軍]]人が自分たちのゲームフィッシング用に多くの個体を持ち込み、分布拡大がさらに進む。例えば、沖縄県[[恩納ダム]]には1963年頃に移入され拡散したと考えられている<ref>嶋津信彦 、「[https://doi.org/10.24713/hitotoshizen.19.0_35 【原著論文】沖縄島比謝川に侵入したオオクチバスの生態学的研究]」 『人と自然』 2008年 19巻 p 35-41, {{doi|10.24713/hitotoshizen.19.0_35}}, 兵庫県立人と自然の博物館</ref>。 1970年代以降、日本での分布が急速に拡大し、環境問題に発展している<ref name="自環研セ2008"/>。釣り人による[[密放流]](ゲリラ放流)、[[琵琶湖]]産のアユ種苗やゲンゴロウブナへの混入などによりその生息域を広げたと考えられている。導入経路や非公式な違法放流については[[ミトコンドリアDNA]]の解析によりその実態が明らかになっている<ref name="高村2005"/><ref name="青木ほか2006">{{Cite journal|和書|author=青木大輔・中山祐一郎・林 正人・岩崎魚成|year=2006| title=琵琶湖におけるオオクチバスフロリダ半島産亜種(Micropterus salmoides floridanus)のミトコンドリアDNA調節領域の多様性と導入起源 |url=https://doi.org/10.18960/hozen.11.1_53 |journal=保全生態学研究 |volume=11|issue=1|pages=53-60 |doi=10.18960/hozen.11.1_53}}</ref><ref name="北野ほか2008">{{Cite journal|和書|author=北野聡, 武居薫, 川之辺素一, 上島剛 |year=2008| title=長野県内で確認されたオオクチバス及びコクチバスのミトコンドリアDNAハプロタイプ |url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010812525|journal= 長野県環境保全研究所研究報告|volume=4|pages=75-78 }}</ref>。 === 影響 === 捕食や[[競争 (生物)|競争]]により本来日本の湖・池に生息していた魚(在来魚)を減少させるとして[[コクチバス]]や[[ブルーギル]]と並び問題視されている<ref name="自環研セ2008"/>。[[メダカ]]、[[ゼニタナゴ]]、[[ジュズカケハゼ]]、[[シナイモツゴ]]といった希少な魚を減少させるなど魚類相に大きな影響を与えている<ref name="自環研セ2008"/>。また、魚類だけでなく[[甲殻類]]や水生昆虫にも被害が発生しているほか、そうした生物を餌にする水鳥などの他の生物にも悪影響を及ぼす<ref name="自環研セ2008"/>。さらに、[[アカネズミ]]などの[[齧歯類]]や[[ヒミズ]]などの[[トガリネズミ目|食虫類]]といった小型哺乳類、[[アオジ]]や[[オオジュリン]]といった鳥類の直接的な捕食事例も確認されている<ref name="中野・西原2005">{{Cite journal|和書|author=中野晃生・西原昇吾|year=2005| title=オオクチバス Micropterus salmoides に摂食されたヒミズ Urotrichus talpoides |journal=哺乳類科学 |volume=45|issue=2|url=https://doi.org/10.11238/mammalianscience.45.177}}</ref><ref name="嶋田・藤本2009">{{Cite journal|和書|author=嶋田哲郎・藤本泰文|year=2009| title= オオクチバスによる小鳥の捕食|journal=Bird Research |volume=5|url=https://doi.org/10.11211/birdresearch.5.S7 |format=PDF|pages=7-9|accessdate=2012-05-07}}</ref>。 本種は[[日本生態学会]]により[[日本の侵略的外来種ワースト100]]に選定されているが、[[国際自然保護連合]]によって[[世界の侵略的外来種ワースト100]]のひとつにも選ばれており世界的に問題となっている<ref name="生態学会2002">{{cite book | 和書 | author = 村上興正・鷲谷いづみ(監修) [[日本生態学会]](編著) | title = 外来種ハンドブック | publisher = [[地人書館]] | date = 2002-09-30 | isbn = 4-8052-0706-X }}{{要ページ番号|date=2018-12-24}}</ref>。 === 対策 === 事態を重くみた環境省は、2005年(平成17年)6月施行の「[[外来生物法]](特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律)」でコクチバスと共にオオクチバスの規制(輸入・飼養・運搬・移殖を規制する)を目指すことになった<ref name="瀬能2006">{{Cite journal|和書|author=瀬能 宏|year=2006| title=外来生物法はブラックバス問題を解決できるのか?|journal=哺乳類科学 |volume=46|issue=1|url= https://doi.org/10.11238/mammalianscience.46.103|pages=103-109|accessdate=2012-05-07}}</ref>。しかし、2004年10月から開始されたオオクチバスを[[特定外来生物]]に選定する是非を決める会議では、全国内水面[[漁業協同組合]]連合会や外来種問題を危惧する研究者などの指定賛成派と、[[日本釣振興会]]、[[全日本釣り団体協議会]]、釣魚議員連盟といった指定反対派との間で意見が大きく対立し議論は難航した<ref name="瀬能2006"/>。この結果、2005年1月19日の第4回小会合にてオオクチバスの指定については半年まで検討期間を延長することになった<ref name="瀬能2006"/>。ところが、その2日後に当時の[[環境大臣]]小池百合子がバスは指定されるべきとの発言をしたため急遽方針が転換され、結局オオクチバスは特定外来生物に1次指定されることが決定した<ref name="瀬能2006"/>。こうした混乱や衝突はオオクチバスが大規模なバス釣り産業を形成しており経済的に重要な価値を有することが背景にあり、外来種問題の解決の難しさが窺える事例となった<ref name="瀬能2006"/><ref name="Idb"/>。また、多くの都道府県でも、内水面漁業調整規則に基づき移殖放流が禁止されている<ref name="自環研セ2008"/>。1965年に移入された芦ノ湖の[[漁業権]]を管理する神奈川県は、オオクチバスを含めたブラックバスに関して移植をしてはならないとした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.agri.pref.kanagawa.jp/SUISOKEN/naisui/news/kisoku.htm|title=神奈川県内水面漁業調整規則第30条の2 |publisher=神奈川県 |accessdate=2018-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070811131407/http://www.agri.pref.kanagawa.jp:80/suisoken/naisui/news/kisoku.htm |archivedate=2007-08-11}}</ref>。さらに、日本国外ではイギリスや韓国などで国内への持ち込みが禁止されている<ref name="自環研セ2008"/>。 稚魚のすくい取り、産卵床の破壊、人工産卵床の設置、地引き網、池干しといった方法で防除が行われている<ref name="Idb">[https://www.nies.go.jp/biodiversity/invasive/DB/detail/50330.html オオクチバス] [[国立環境研究所]] 侵入生物DB</ref><ref name="高橋2005">{{Cite journal|和書|author=高橋清孝|year=2005| title=オオクチバスMicropterus salmonides駆除の技術開発と実践|url=http://id.nii.ac.jp/1141/00272683/ |journal=日本水産学会誌|volume=71|issue=3|naid=110003161621 |pages=402-405 }}</ref>。環境省では2005年度から「オオクチバス等防除モデル事業」を伊豆沼・内沼、羽田沼、[[片野鴨池]]、犬山市内のため池群、琵琶湖、[[藺牟田池]]の6つの地域で実施した<ref name="種生物学会2010">{{cite book | 和書 | author = [[種生物学会]] | title = 外来生物の生態学 進化する脅威とその対策 | publisher = [[文一総合出版]] | date = 2010-03-31 | isbn = 978-4-8299-1080-1}}{{要ページ番号|date=2018-12-24}}</ref>。また、市民活動も盛んに行われており、2005年には「全国ブラックバス防除市民ネットワーク」が結成されている<ref name="種生物学会2010"/><ref name="ノーバス">{{Cite web|和書|url=http://www.no-bass.net/ |title=全国ブラックバス防除市民ネットワーク |website= |publisher= |accessdate=2018-12-24}}</ref>。防除対策によって減少していた魚類の増加が確認され[[生態系]]の回復が実現している水域もある<ref name="高橋2005"/>。 === 漁業権と外来種問題 === [[山梨県]]の[[河口湖]]、[[山中湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]でのブラックバスの[[漁業権]]は1989-1994年に認められ、2005年施行の[[外来生物法]]でブラックバスの放流が禁じられた後も「特例」として許可されてきた。2014年1月の免許更新期を前に、地元漁協や自治体が継続を求め、[[日本魚類学会]]や[[NPO]]や[[自然保護団体]]などが反対していた。山梨県が地元漁協の免許の特例更新を認める方針を固めた。 == 食用 == 身は癖のない白身で美味<ref name=excite>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1407304580442/ |title=ブラックバスをおいしく料理するには? 釣って食べる「健啖隊」に聞く - エキサイトニュース(1/3) |website= |publisher= |accessdate=2018-12-24}}</ref>。[[ムニエル]]、[[フライ (料理)|フライ]]、[[ポワレ]]などで食べられる{{要出典|date=2014年11月}}。体表面の粘膜および浮き袋の付け根にある脂に生臭さがある場合が多いため、これを身につけないようにするのがコツとされる。表面に生臭みがある時は塩もみするか、濃い塩水中でたわしで洗うと落とせる。または、[[霜降り]]か[[泥抜き]]で臭みをとる。 小骨にも注意。また、生食では[[顎口虫症]]による健康被害が報告されており<ref>[http://www.pref.aichi.jp/eiseiken/5f/gnathostomiasis.html 日本顎口虫(がっこうちゅう)症] 愛知県衛生研究所</ref>[[寄生虫]]対策として一度冷凍するか、もしくは加熱調理して食べる必要がある。水のきれいな水域の個体が美味で、汚染の危険性も低い。 {{main|ブラックバス}} オオクチバスを含めた[[サンフィッシュ科]]魚類は、原産地である北米では食用魚とされてきた。日本でも元々食用としての用途も意図されて移植されたが、専ら釣り(遊漁)の対象魚とされている。釣ったオオクチバスは再[[放流]]されることが多いが、一部ではオオクチバス料理を提供している店舗もある<ref name=excite/>。1980年代頃に全国的に生息域が拡大し、在来生物層の保護という観点から、1990年代初頭には沖縄県を除く全ての都道府県で無許可での放流が禁止された。 == 漁業権魚種 == 日本国内でオオクチバスを漁業権魚種として認定している水域は現在、[[神奈川県]]の[[芦ノ湖]]、[[山梨県]]の[[河口湖]]、[[山中湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]の4湖のみ。権利のない漁協権を行使して、料金をとっている[[漁協]]が多数あるようであるが、[[行政]]が長年の[[慣習]]から放置しているのが実情である{{要出典|date=2014年11月}}。 ブラックバスが漁業権魚種ではない水域であっても入漁料の支払いを当該地域の漁協から求められることがある。これは目的釣魚がブラックバスであっても釣法(餌釣り等)によっては漁業権魚種が釣れてしまう「混獲」の可能性があり、たとえ即リリースする場合でも当該魚種を釣り人が「事実上の支配下」に置くことは漁業権魚種の漁獲とみなされるためであるとされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/suisanfaq/ |title=Q&A;(よくある質問) - 埼玉県ホームページ |website= |publisher=埼玉県 |accessdate=2018-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141113144038/http://www.pref.saitama.lg.jp/site/suisanfaq/ |archivedate=2014-11-13}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2018年12月24日 (月) 10:52 (UTC)|section=1}} * {{Cite web|和書|url=http://www.pref.nagano.lg.jp/suisan/joho/gairaisakana/documents/bass_1.pdf|title=長野県水産試験場研究報告-ブラックバス問題を考える|accessdate=2014-1-1}} * {{cite journal|author=中村智幸、片野修、山本祥一郎|title=コクチバスとオオクチバスの成長における流水と水温の影響|url=https://doi.org/10.2331/suisan.70.745 |journal=日本水産学会誌|volume=70|pages=745-749|year=2004|naid=110003161457}} *川那部浩哉・水野信彦・細谷和海編『山渓カラー名鑑 改訂版 日本の淡水魚』(オオクチバス解説 : 前畑政善){{ISBN2|4-635-09021-3}} == 関連項目 == {{Commons Category|Micropterus salmoides}} {{Wikispecies|Micropterus salmoides}} * [[魚の一覧]] * [[ルアー]] * [[内水面漁場管理委員会]] == 外部リンク == * [https://www.fra.affrc.go.jp/bulletin/bull/bull12/yodo.pdf バス問題の経緯と背景] (独)水産総合研究センター {{DEFAULTSORT:おおくちはす}} [[Category:サンフィッシュ科]] [[Category:食用川魚]] [[Category:淡水魚]] [[Category:特定外来生物]] [[Category:釣りの対象魚]] [[Category:北米の食文化]] [[Category:日本の外来種]] [[Category:1802年に記載された魚類]] [[Category:ベルナール・ジェルマン・ド・ラセペードによって名付けられた分類群]]
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使徒
使徒(しと)は、狭義にはイエス・キリストの12人の高弟を指すが、それに近い弟子(パウロ、七十門徒など)にもこの語が用いられることがある。原義は、重要な役割を果たしたキリスト教の宣教者(「神から遣わされた者」)および、その宣教者の総称である。 原語のギリシア語は ἀπόστολος (apostolos) で、「遣わされた者」である。転じて「使者」「使節」をも指す。このギリシア語は、キリスト教文書以外にも出てくるものであるが、キリスト教文書の日本語訳の際だけ「使徒」という専門語を当てて訳すため、両者の単語間には齟齬がある。この点では、他の西洋語も、ギリシア語の形を踏襲しているものの、事情はさして変わらない(羅: apostolus、仏: apôtre、独: Apostel、英: apostleなど)。なお、「使徒」という訳語は、漢訳聖書から継いだものである。 また、イスラム教においては、ラスール(rasūl, رسول)という語が同じく「使者」の意であり、キリスト教の使徒と似た意味に用いられて、訳語として「apostle」や「使徒」があてられている。 新約聖書では、ἀπόστολος の語は(複数形 ἀπόστολοι も含めて)、「マルコによる福音書」、「マタイによる福音書」、「ルカによる福音書」、「使徒言行録」、パウロ書簡、「ヘブライ書」、ペトロ書、「ユダ書」、「ヨハネの黙示録」に用いられている。このうち、「マルコ」と、「マタイ」、「ヘブライ書」は文脈上、この単語を単に「派遣されたもの」または「使者」という意味で用いている。他の文書では、ἀπόστολος は、固有名詞的に、何か権威ある称号のようなもの(日本語訳でいう「使徒」)として使われている。近代批評学では「原始キリスト教」において、「使徒」がどのような定義をもつ語として用いられていたのか、その詳細はよくわからないとされる。 ルカ(の著者)の十二使徒観ははっきりとしている。ルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録)によれば、「十二使徒」とは、最初にイエスによって選ばれた12人の弟子集団である。旧約時代の神の民・イスラエルの12部族との関連で、12人という枠は維持すべきもので、十二使徒の成員の条件としては、イエスの復活の証人であり、またイエスと生前をともにした者でなければならない。またルカははっきりとパウロを使徒と認めている さらに、パウロ書簡は、使徒の基準を伝えている。パウロ書簡による使徒の定義は、復活した主イエスの証人であること主イエスに使徒として召されたことである。重要な点として、パウロは「使徒」としての権威を強調していることが挙げられる。このパウロの使徒としての権威は、使徒ペトロも認めている。次に、パウロは、使徒は12人(あるいは、自身を含めて13人)に限定していない。 近代批評学では、パウロがルカと同じく、主の兄弟ヤコブを「使徒」とは呼ばないことにも、「使徒」の定義の謎が残るとされる。エルサレム教会の権威が失墜した時期以降、恐らく「使徒」の厳しい定義も消えていったと考えられる。 正教会やカトリック教会は、パウロを「使徒」と呼んで崇敬し、それは現代にまで至る。 前述のように、「十二使徒」は極めてルカ的概念である。ただし、ルカは「十二使徒」という言葉そのものは用いていない。新約中、この言い方は、「ヨハネ黙示録」21章14節のみである(マタイ10章2節については、前述の通り)。 新約聖書内では、ルカ福音書と使徒言行録を除いては、使徒を12人に限定していないが、イエスの高弟である「十二人」( δώδεκα) については、幾つかの文書に記されている。彼らは、イエスから悪霊を払うための権能を授けられたという。12という数字は、イスラエルの12部族に対応するものと思われる。「十二人」のすべての名は、「マルコ福音書」に記されており、「マタイ」、「ルカ」、「使徒言行録」は、これを写したものである。「ヨハネによる福音書」には、「十二人」の存在は語られるが、内数人のみの名が挙げられている。他に、「第1コリント書」、「ヨハネの黙示録」など。使徒言行録によれば、イスカリオテのユダによる欠員をマティアで埋めたという。 福音書によって構成員の名前が異なること、ほとんど言及されない人物もいること(後掲の表参照)から、イエス時代の史実でないと考える研究者もいる。ルカの「十二使徒」という概念は、後に「正統派」教会においてドグマ化し、広く定着した。 注: 最後の晩餐 Leonardo da Vinci (1498)、壁画、テンペラ 420 x 910 cm レオナルド・ダ・ヴィンチによる「最後の晩餐」における配置は左から以下の通り: バルトロマイ(ナタナエル)、アルファイの子ヤコブ、アンデレ、ユダ、シモン・ペトロ、ヨハネ。イエスを越して、トマス、ゼベダイの子ヤコブ、フィリポ、マタイ、タダイ、熱心党のシモン。 ある地域に初めてキリスト教を伝えた人物や、特定地域の宣教に大きな働きを示した人物に、「使徒」の称号を冠することも一般的である。正教会では、これを亜使徒(Equal to the apostles, 使徒に準ずる、あるいは使徒と同等の者の意)と呼ぶ。 例として、東洋の使徒フランシスコ・ザビエルやスラブの使徒、またはスラブの亜使徒キリル(チリロ)とメトディウス(メフォディ)、日本の亜使徒聖ニコライなどがある。 イスラム教での使徒(ラスール)とは、ある特定の共同体の中から選ばれ、その共同体に遣わされて、神(アッラーフ)から授かった言葉を伝える使命を啓示された者のことである。 ムスリム(イスラム教徒)にとっては、ムハンマドこそ全人類・全ジンに遣わされた最後の使徒に他ならず、その事実を信じることがイスラム教の根幹のひとつである。そのため、シャハーダやアザーンには「ムハンマドは神の使徒なり」という文言が含まれる。 ムスリムの中には、律法を伝える使命を啓示されている点で使徒を預言者(ナビー)と区別する、すなわち、使徒は預言者に包括されている、という考え方をする人もいるが、一般には「使徒」と「預言者」は同義であるかのように用いられ、ムハンマドは神の使徒とも預言者とも呼ばれている。
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使徒(しと)は、狭義にはイエス・キリストの12人の高弟を指すが、それに近い弟子(パウロ、七十門徒など)にもこの語が用いられることがある。原義は、重要な役割を果たしたキリスト教の宣教者(「神から遣わされた者」)および、その宣教者の総称である。 原語のギリシア語は ἀπόστολος (apostolos) で、「遣わされた者」である。転じて「使者」「使節」をも指す。このギリシア語は、キリスト教文書以外にも出てくるものであるが、キリスト教文書の日本語訳の際だけ「使徒」という専門語を当てて訳すため、両者の単語間には齟齬がある。この点では、他の西洋語も、ギリシア語の形を踏襲しているものの、事情はさして変わらない。なお、「使徒」という訳語は、漢訳聖書から継いだものである。 また、イスラム教においては、ラスールという語が同じく「使者」の意であり、キリスト教の使徒と似た意味に用いられて、訳語として「apostle」や「使徒」があてられている。
{{Otheruseslist|[[キリスト教]]用語または[[イスラム教]]用語としての使徒|『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』に登場する使徒|使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)|[[三浦建太郎]]の漫画『[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]]』に登場する怪物|ベルセルク (漫画)#種族}} {{Redirect|十二使徒|[[アイルランド独立戦争]]で活動した[[アイルランド共和軍]]の[[暗殺]]部隊{{仮リンク|十二使徒 (アイルランド共和軍)|en|The Squad (Irish Republican Army unit)}}}} {{キリスト教}} '''使徒'''(しと)は、狭義には[[イエス・キリスト]]の12人の高弟を指すが、それに近い弟子([[パウロ]]、[[七十門徒]]など)にもこの語が用いられることがある。原義は、重要な役割を果たした[[キリスト教]]の宣教者(「神から遣わされた者」)および、その宣教者の総称である。 原語の[[ギリシア語]]は {{lang|el|ἀπόστολος}} (apostolos) で、「遣わされた者」である。転じて「[[使者]]」「[[Wikt:使節|使節]]」をも指す。このギリシア語は、[[キリスト教]]文書以外にも出てくるものであるが、キリスト教文書の日本語訳の際だけ「使徒」という専門語を当てて訳すため、両者の単語間には齟齬がある。この点では、他の西洋語も、ギリシア語の形を踏襲しているものの、事情はさして変わらない({{lang-la-short|apostolus}}、{{lang-fr-short|apôtre}}、{{lang-de-short|Apostel}}、{{lang-en-short|apostle}}など)。なお、「使徒」という訳語は、漢訳聖書から継いだものである。 また、[[イスラム教]]においては、'''ラスール'''(ras&#363;l, {{lang|ar|رسول}})という語が同じく「使者」の意であり、キリスト教の使徒と似た意味に用いられて、訳語として「apostle」や「使徒」があてられている。 == キリスト教における使徒 == === 狭義 === 新約聖書では、{{lang|el|ἀπόστολος}} の語は(複数形 {{lang|el|ἀπόστολοι}} も含めて)、「[[マルコによる福音書]]」、「[[マタイによる福音書]]」、「[[ルカによる福音書]]」、「[[使徒言行録]]」、[[パウロ書簡]]、「[[ヘブライ人への手紙|ヘブライ書]]」、[[ペトロ]]書、「[[ユダの手紙|ユダ書]]」、「[[ヨハネの黙示録]]」に用いられている。このうち、「マルコ{{efn2|マルコ6章30節。なお、3章14節は、本文批判上、後世の加筆と考えられる。恐らくルカから写されたもの。}}」と、「マタイ<ref>マタイ10章2節</ref>」、「ヘブライ書<ref>ヘブライ書3章1節</ref>」は文脈上、この単語を単に「派遣されたもの」または「使者」という意味で用いている。他の文書では、{{lang|el|ἀπόστολος}} は、固有名詞的に、何か権威ある称号のようなもの(日本語訳でいう「使徒」)として使われている。近代批評学では「[[原始キリスト教]]」において、「使徒」がどのような定義をもつ語として用いられていたのか、その詳細はよくわからないとされる。 [[ルカ]](の著者)の十二使徒観ははっきりとしている<ref>{{Cite news|title=6.十二使徒たちは誰ですか?|url=http://opusdei.org/ja-jp/article/6-shi-er-shi-tu-tachihashui-desuka/|accessdate=2018-04-06|language=ja}}</ref>。ルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録)によれば、「十二使徒」とは、最初にイエスによって選ばれた12人の弟子集団である<ref>ルカ 6章13節</ref>。旧約時代の神の民・[[イスラエル]]の12部族との関連で、12人という枠は維持すべきもので<ref>使徒言行録 1章20節</ref>、十二使徒の成員の条件としては、イエスの[[復活 (キリスト教)|復活]]の証人であり、またイエスと生前をともにした者でなければならない<ref>使徒言行録 1章21節~22節</ref>。またルカははっきりと[[パウロ]]を使徒と認めている<ref>「これを聞いた使徒たち、[[バルナバ]]とパウロは(使徒14:14)」[[新改訳聖書]]</ref>{{efn2|[[自由主義神学]]によれば、ルカは、[[パウロ]]や他の宣教者を「使徒」とみなしていないとする。使徒言行録14章14節は、パウロとバルナバに言及した箇所で「使徒」と呼んでいるが、これを例外と考える。これはルカが、この箇所を書くために用いていた伝承資料を、引き写したものだと主張し、ルカ文書の使徒観をただちに歴史的事実とすることはできないとする。 イスカリオテのユダ}} さらに、パウロ書簡は、使徒の基準を伝えている。パウロ書簡による使徒の定義は、復活した主イエスの証人であること<ref>[[コリントの信徒への手紙一|第一コリント]]9:1</ref>主イエスに使徒として召されたことである<ref>使徒26:16-20</ref><ref>[[尾山令仁]]『ローマ教会への手紙』羊群社</ref>。重要な点として、パウロは「使徒」としての権威を強調していることが挙げられる<ref>[[ローマの信徒への手紙|ローマ書]] 1章1節 他<!--その拠所は、彼が復活したイエスを目撃したとされることか?--></ref>。このパウロの使徒としての権威は、使徒[[ペトロ]]も認めている<ref>[[ペトロの手紙二|第二ペトロ]]3:15-16</ref><ref>[[マーティン・ロイドジョンズ]]『教会の権威』みくに書店</ref>。次に、パウロは、使徒は12人(あるいは、自身を含めて13人)に限定していない<ref>第1コリント書15章7節</ref>。 近代批評学では、パウロがルカと同じく、[[ヤコブ (イエスの兄弟)|主の兄弟ヤコブ]]を「使徒」とは呼ばないことにも、「使徒」の定義の謎が残るとされる。エルサレム教会の権威が失墜した時期以降、恐らく「使徒」の厳しい定義も消えていったと考えられる。 正教会やカトリック教会は、パウロを「使徒」と呼んで崇敬し、それは現代にまで至る。 == 十二使徒 == 前述のように、「十二使徒」は極めてルカ的概念である。ただし、ルカは「十二使徒」という言葉そのものは用いていない。新約中、この言い方は、「ヨハネ黙示録」21章14節のみである(マタイ10章2節については、前述の通り)。 [[新約聖書]]内では、ルカ福音書と使徒言行録を除いては、使徒を12人に限定していないが、イエスの高弟である「十二人」({{lang|el| δώδεκα}}) については、幾つかの文書に記されている。彼らは、イエスから悪霊を払うための権能を授けられたという。12という数字は、イスラエルの12部族に対応するものと思われる。「十二人」のすべての名は、「マルコ福音書<ref>マルコ 3章14節-19節</ref>」に記されており、「マタイ<ref>マタイ 10章1節-4節</ref>」、「ルカ<ref>ルカ 6章13節-16節</ref>」、「使徒言行録<ref>使徒言行録 1章13節</ref>」は、これを写したものである。「[[ヨハネによる福音書]]」には、「十二人」の存在は語られるが、内数人のみの名が挙げられている。他に、「[[コリントの信徒への手紙一|第1コリント書]]<ref>第1コリント書 15章5節</ref>」、「ヨハネの黙示録<ref>ヨハネの黙示録 21章14節</ref>」など。使徒言行録によれば、[[イスカリオテのユダ]]による欠員を[[マティア]]で埋めたという<ref>使徒言行録 1章21節-26節</ref>。 [[福音書]]によって構成員の名前が異なること、ほとんど言及されない人物もいること(後掲の表参照)から、イエス時代の史実でないと考える研究者もいる。ルカの「十二使徒」という概念は、後に「正統派」教会においてドグマ化し、広く定着した。 {| class="wikitable" |- align=center ! [[マルコによる福音書|マルコ]] !! [[マタイによる福音書|マタイ]] !! [[ルカによる福音書|ルカ]] !! [[使徒言行録]] !! [[ヨハネによる福音書|ヨハネ]] |- | colspan="3" | [[ペトロ|シモン・ペトロ]](B1) || ペトロ || ヨハネの子シモン・ペトロ(B1) |- | colspan="2" | [[ヤコブ (ゼベダイの子)|ゼベダイの子ヤコブ]](B2) || ゼベダイの子ヤコブ || ヤコブ(B2) || ゼベダイの子たち(!)(?) |- | colspan="2" | [[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]](B2) || ヨハネ || ヨハネ(B2) || イエスに愛された弟子(?){{efn2|教会の伝統的解釈では、彼を使徒ヨハネと同定する。近代批評学(リベラル)では否定される。}} |- | colspan="2" | [[アンデレ]](B1) || アンデレ(B1)(!) || アンデレ(!) || アンデレ(B1) |- | colspan="3" | [[フィリポ]](!) || フィリポ(?) || フィリポ |- | colspan="4" | [[バルトロマイ]](!) || &nbsp; |- | &nbsp; || &nbsp; || &nbsp; || &nbsp; || [[ナタナエル]]{{efn2|「ヨハネによる福音書」にのみ名前の見える[[ナタナエル]]は、伝承では同書に言及のない[[バルトロマイ]]と同一視される。}} |- | [[マタイ]](!) || 徴税人マタイ || colspan="2" | マタイ(!) ||   |- | colspan="4" | [[トマス (使徒)|トマス]](!) || ディディモ・トマス |- | colspan="4" | [[ヤコブ (アルファイの子)|アルファイの子ヤコブ]](!) || &nbsp; |- | colspan="2" | [[ユダ_(タダイ)|タダイ]](!) || &nbsp; || &nbsp; || &nbsp; |- | &nbsp; || &nbsp; || colspan="2" | [[ユダ_(タダイ)|ヤコブの子ユダ]](!) || (イスカリオテでない)ユダ |- | colspan="2" | [[熱心党のシモン|熱心者のシモン]](!) || 熱心党員と呼ばれたシモン(!) || 熱心党のシモン(!) || &nbsp; |- | colspan="3" | [[イスカリオテのユダ]] || (ユダ{{efn2|使徒言行録 1章18節参照。死後、使徒ではなくなった時点で言及されている。}}) || イスカリオテのシモンの子ユダ |- | &nbsp; || &nbsp; || &nbsp; || [[マティア]] || &nbsp; |} 注: *(B) は兄弟関係を表す。 *(!)は、ただ1回のみの言及。 *(?) は、他の文書内の使徒と同一人物であるかわからないもの。 <div style="font-size:smaller;text-align:center;margin:1em"> [[Image:Leonardo da Vinci (1452-1519) - The Last Supper (1495-1498).jpg|600px]]<br/> 最後の晩餐 ''Leonardo da Vinci'' (1498)、壁画、テンペラ 420 x 910 cm </div> [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]による「[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]」における配置は左から以下の通り: バルトロマイ(ナタナエル)、アルファイの子ヤコブ、アンデレ、ユダ、シモン・ペトロ、ヨハネ。イエスを越して、トマス、ゼベダイの子ヤコブ、フィリポ、マタイ、タダイ、熱心党のシモン。 === 広義 === ある地域に初めてキリスト教を伝えた人物や、特定地域の宣教に大きな働きを示した人物に、「使徒」の称号を冠することも一般的である。[[正教会]]では、これを[[亜使徒]](Equal to the apostles, 使徒に準ずる、あるいは使徒と同等の者の意)と呼ぶ。 例として、東洋の使徒[[フランシスコ・ザビエル]]{{efn2|正教会では崇敬されていない。}}やスラブの使徒、またはスラブの亜使徒キリル(チリロ)とメトディウス(メフォディ)、日本の亜使徒[[イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン|聖ニコライ]]などがある。 == イスラム教における使徒 == {{main|イスラム教の預言者}} イスラム教での使徒(ラスール)とは、ある特定の共同体の中から選ばれ、その共同体に遣わされて、神([[アッラーフ]])から授かった言葉を伝える使命を啓示された者のことである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.islamreligion.com/jp/articles/37/ |title=諸預言者への信仰 - イスラームという宗教 |accessdate=2020-02-28}}</ref>。 [[ムスリム]](イスラム教徒)にとっては、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]こそ全人類・全[[ジン (アラブ)|ジン]]に遣わされた最後の使徒に他ならず、その事実を信じることがイスラム教の根幹のひとつである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.islamreligion.com/jp/articles/43/ |title=全人類への使徒 - イスラームという宗教 |accessdate=2020-02-28}}</ref>。そのため、[[シャハーダ]]や[[アザーン]]には「'''ムハンマドは神の使徒なり'''」という文言が含まれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://islamjp.com/culture/urwa2-3.htm |title=シャハーダ |accessdate=2020-02-28}}</ref>。 ムスリムの中には、律法を伝える使命を啓示されている点で使徒を[[預言者]](ナビー)と区別する、すなわち、使徒は預言者に包括されている、という考え方<ref>{{Cite web|和書|url=http://islam.ne.jp/nabi/nabi3 |title=預言者と使徒の違い |accessdate=2020-02-28}}</ref>をする人もいるが、一般には「使徒」と「預言者」は同義であるかのように用いられ、ムハンマドは神の使徒とも預言者とも呼ばれている。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|3}} == 関連項目 == *[[Wikt:messenger|messenger]] 使徒の事 {{使徒}} {{イエス・キリスト}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しと}} [[Category:1世紀のキリスト教]] [[Category:新約聖書の人物]] [[Category:使徒|*]] [[Category:イスラム教]] [[Category:宗教の称号・役職]] [[Category:聖書の語句]] [[Category:正教会の聖人の称号]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92
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単一神教
単一神教(たんいつしんきょう、henotheism) は、一柱の神を信仰する信仰、宗教の形態。同じ一神教でも唯一神教が他の神々の存在を認めないのに対し、単一神教は他の神々の存在を前提とし、その中の一柱を主神として特に崇拝する。パンテオンの中に主神に従属的な神々を認める点で、他宗教の神々の存在は認めるものの自己が崇拝する対象の中に他の神を持たない拝一神教とも異なる。 単一神教はインドのヴェーダの信仰をモデルにフリードリヒ・マックス・ミュラーによって「多神教の実態と一神教の原則」を併せ持つ信仰形態として概念化された。 多神教における主神への崇拝との相違は、まず、パンテオンとしての神々の体系、相互関係がスタティックに確定していないことである。祭儀や、祭祀集団によって、主神は交替し、その際、他の神々は二次的な位置に格下げされ、それらの伝承は相互に矛盾する場合もある。主神になりうる主要な神々の間の関係について、確定した教義はなく、それぞれの場合に、それぞれが、唯一絶対の根源的な神のように扱われる。シヴァ、インドラ、ヴィシュヌなどが典型である。
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ルカによる福音書
『ルカによる福音書』(ルカによるふくいんしょ、ギリシア語: Κατά Λουκάν Ευαγγέλιον Kata Loukan Euangelion、ラテン語: Evangelium Secundum Lucam)は、新約聖書中の一書で、イエス・キリストの言行を描く四つの福音書のひとつ。『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』(以下『ルカ福音書』)の三つは共通部分が多いことから共観福音書とよばれる。 福音書中には一切著者についての言及はないが、それぞれの冒頭部分の献辞などから『使徒言行録』と同じ著者によって執筆されたことは古代から認められており、現代の学者たちのほとんどが本福音書と使徒言行録は著者による二巻の作品が新約聖書の成立過程でイエスの生涯を記す福音書と、イエス後の教会の発展史という観点から分離して配列されることになった可能性が高いと考えている。(このため、『ルカ福音書』と『使徒言行録』をあわせて「ルカ文書」と称することもある。)伝承では『ルカ福音書』の著者はパウロの弟子の医師であるルカとされてきた。その名は『フィレモンへの手紙』等に見られる。 聖書学者ユード・シュネルは『新約聖書 その歴史と思想』において「ルカ福音書と使徒言行録は、言葉の使い方からも、その思想的色合いからも強い関連性が見られ、おそらくは同じ著者によるものであろうと考えられる」と語っている。更に本来『ルカ福音書』と『使徒言行録』は一冊の本であったものがある時期になって分割されたという説も出された。しかし、その場合には『使徒言行録』冒頭部分を別人による付加とせねばならないし、執筆当時の標準的な書物の形態であるパピルスの巻物では、それぞれが1冊とできるほぼ限界の長さであることなどから、現在では認められていない。 著者はイエスの生涯を自らの目で見たということは一言も言っていないが、すべてを丁寧に調べあげ、事実を順序だてて書き記したということを冒頭で述べている。 著者については、古代以来、上記のようにパウロの協力者でその伝道旅行にも従った医師のルカであるとされてきた。現在でも、批判的な聖書学者の一部を含め、この伝承を認める研究者は少なくない。また、福音書ではその資料を尊重する傾向が見られるが、そのギリシア語は極めて美しいもので、且つ語彙も豊かである。従って、おそらくは新約諸文書の著者の中で唯一、当時のヘレニズム世界での正規教育を受けた者であろうという認識はほぼ全ての研究者に共通する。また、パレスチナの地理には詳しくないこと、ガリラヤ湖を「海」と呼ぶマルコの文章を「湖」に変更していることなどから、パレスチナやその近郊に住む者でないことも確実である。 対象とする読者は、その献辞から明らかなように、直接的には「テオフィロ(ス)」という、詳細は不明だがある程度に高い地位にある人物と推定される個人である。なお、「テオフィロ」という名はギリシア語で「神を愛する人」という意味である。しかし、これは著者の教養に由来する修辞的な意味合いが強く多くの読者に読まれることを想定して執筆されたことは確かである。その場合、著者が想定するのは主に非ユダヤ系のキリスト教徒及びそれに関心を持つ人物と考えられる。 『ルカ福音書』の成立年代は未詳だが、その上限は(「二資料仮説」を前提とするが)『マルコ福音書』の成立時期(70年前後)であり、下限はマルキオンの正典編纂の試み(2世紀なかば)である。 伝統的には、キリスト教徒はルカが(直接ではないにせよ)パウロの指導のもとに福音書を書いたとみなしてきた。『使徒言行録』が『ルカ福音書』の続編として書かれたとすれば、当然『ルカ福音書』は『使徒言行録』より古いはずであり、『使徒言行録』の成立が63年か64年のこととすれば、『ルカ福音書』は60年から63年の成立と考えられる。これはパウロが逮捕される前、ルカがパウロに同行してカイサリアに赴いた頃のことと考えられる。もし伝承が伝えるようにルカが獄中のパウロからローマで聞き取って書いたとすれば成立はさらに早まって40年から60年ごろということになる。福音派など保守的なキリスト教派では、このような伝統的な説が支持される。 伝承にもとづいた成立年代ではなく、近代以降の批判的研究の結果からわかることは、『ルカ福音書』がエルサレム神殿の崩壊後に書かれたということである。 伝統的な成立年代に固執する一部の人々を除けば、聖書学者の間では『ルカ福音書』が1世紀中に成立したか否かということをめぐっての論争がいまも果てない。2世紀の成立を支持する人々は『ルカ福音書』が2世紀初頭の古代教会内での異端的な動きに対抗して書かれたとみている。1世紀成立を支持する人々は、2世紀の教会で発達していた位階制に一切言及されないことを証左とする。極端な伝統保持者はルカがパウロの同行者であったという伝承だけをもって1世紀中期の成立を主張している。 『ルカ福音書』の最古の写本は3世紀のパピルスである。そのうち P {\displaystyle {\mathfrak {P}}} と呼ばれるものは四つの福音をみな含んでおり、他の3つ( P {\displaystyle {\mathfrak {P}}} 、 P {\displaystyle {\mathfrak {P}}} 、 P {\displaystyle {\mathfrak {P}}} )は断片である。これら最古の写本の時期において、すでに『ルカ福音書』と『使徒言行録』は分離している。 ケンブリッジの大学図書館にあるベザ写本(英語版)は5世紀から6世紀ごろのものとみなされているが、完全な『ルカ福音書』の写本であり、ギリシア語・ラテン語対訳になっている。ギリシア語版は現代のわれわれの知る『ルカ福音書』とは異なる部分が多いため、後世、主流となった版とは別の系統に属するものであると考えられる。ベザ写本は現代の読みとあわせるため修正されることが多いが、考えようによっては時期が下っても福音書のさまざまな異読が存在していたことを示しているともいえる。聖書学者たちにとって異同の多いベザ写本のギリシア語版は厄介な存在であるため、あまり言及されることはない。 22章19節bから20節、および22章43節から44節は初期の版では見られない、 現代もっとも支持されている説では、『ルカ福音書』は『マルコ福音書』とQ資料をもとに書かれたとみなしている。 ある聖書学者の研究によれば『ルカ福音書』の1151節のうち、389節が『マタイ福音書』・『マルコ福音書』と共通であり、176節は『マタイ福音書』とのみ共通、41節が『マルコ福音書』のみと共通、544節が『ルカ福音書』のみにみられるという。これらの三つの福音書が同じ言語で書かれていたであろうことを思わせる多くの証左がある。 『ルカ福音書』特有のたとえ話は全部で17ある。ルカはマタイ・マルコにない物語を盛り込むことでイエスの「七つの奇跡」を構成している。ルカ、マタイ、マルコは共観福音書と呼ばれるように、似通った部分が多い。たとえばマルコは7%がオリジナルであるが、93%は他の二つのいずれかと共通である。同じように見ていくとマタイは42%のオリジナルと58%の共通部分からなり、ルカは59%のオリジナル部分と41%の共通部分からなる。いいかえれば『マルコ福音書』の14分の13、『マタイ福音書』の七分の四、『ルカ福音書』の五分の二が同じ言語で同じ出来事について語っているのである。 『ルカ福音書』は文体においてもマルコやマタイよりも洗練されており、ヘブライ語に由来する表現などがほとんど含まれていない。ラテン語はわずかに含まれているが、シリア語は含まれない。ヘブライ語は「シケラ」という言葉のみ用いられる。シケラというのは酒の名前であるが、おそらく椰子の実からつくられたものであると考えられる。旧約聖書からの引用は28箇所である。 さらに以下のようにパウロの書簡と共通する句がみられることも特徴である。
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『ルカによる福音書』は、新約聖書中の一書で、イエス・キリストの言行を描く四つの福音書のひとつ。『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』(以下『ルカ福音書』)の三つは共通部分が多いことから共観福音書とよばれる。 福音書中には一切著者についての言及はないが、それぞれの冒頭部分の献辞などから『使徒言行録』と同じ著者によって執筆されたことは古代から認められており、現代の学者たちのほとんどが本福音書と使徒言行録は著者による二巻の作品が新約聖書の成立過程でイエスの生涯を記す福音書と、イエス後の教会の発展史という観点から分離して配列されることになった可能性が高いと考えている。(このため、『ルカ福音書』と『使徒言行録』をあわせて「ルカ文書」と称することもある。)伝承では『ルカ福音書』の著者はパウロの弟子の医師であるルカとされてきた。その名は『フィレモンへの手紙』等に見られる。
{{複数の問題 |未検証=2010年5月 |独自研究=2010年5月 |観点=2010年5月}} {{新約聖書}} [[File:P. Chester Beatty I, folio 13-14, recto.jpg|thumb|upright=1.2|3世紀ギリシアで[[パピルス]]に書かれたルカによる福音書。[[アイルランド]]・[[ダブリン]]の[[チェスター・ビーティ図書館]]所蔵]] 『'''ルカによる福音書'''』(ルカによるふくいんしょ、{{lang-el|Κατά Λουκάν Ευαγγέλιον}} Kata Loukan Euangelion、{{lang-la|Evangelium Secundum Lucam}})は、[[新約聖書]]中の一書で、[[イエス・キリスト]]の言行を描く四つの[[福音書]]のひとつ。『[[マタイによる福音書]]』、『[[マルコによる福音書]]』、『ルカによる福音書』(以下『ルカ福音書』)の三つは共通部分が多いことから[[共観福音書]]とよばれる。 福音書中には一切著者についての言及はないが、それぞれの冒頭部分の[[献辞]]などから『'''[[使徒言行録]]'''』と同じ著者によって執筆されたことは古代から認められており、現代の学者たちのほとんどが本福音書と使徒言行録は著者による二巻の作品が新約聖書の成立過程でイエスの生涯を記す福音書と、イエス後の教会の発展史という観点から分離して配列されることになった可能性が高いと考えている。(このため、『ルカ福音書』と『使徒言行録』をあわせて「ルカ文書」と称することもある。)伝承では『ルカ福音書』の著者は[[パウロ]]の弟子の医師である[[ルカ]]とされてきた。その名は『[[フィレモンへの手紙]]』等に見られる。 == 著者と対象読者 == 聖書学者ユード・シュネルは『新約聖書 その歴史と思想』において「ルカ福音書と使徒言行録は、言葉の使い方からも、その思想的色合いからも強い関連性が見られ、おそらくは同じ著者によるものであろうと考えられる」と語っている。更に本来『ルカ福音書』と『使徒言行録』は一冊の本であったものがある時期になって分割されたという説も出された。しかし、その場合には『使徒言行録』冒頭部分を別人による付加とせねばならないし、執筆当時の標準的な書物の形態であるパピルスの巻物では、それぞれが1冊とできるほぼ限界の長さであることなどから、現在では認められていない。 著者はイエスの生涯を自らの目で見たということは一言も言っていないが、すべてを丁寧に調べあげ、事実を順序だてて書き記したということを冒頭で述べている。 著者については、古代以来、上記のようにパウロの協力者でその伝道旅行にも従った医師のルカであるとされてきた。現在でも、批判的な聖書学者の一部を含め、この伝承を認める研究者は少なくない。また、福音書ではその資料を尊重する傾向が見られるが、そのギリシア語は極めて美しいもので、且つ語彙も豊かである。従って、おそらくは新約諸文書の著者の中で唯一、当時のヘレニズム世界での正規教育を受けた者であろうという認識はほぼ全ての研究者に共通する。また、パレスチナの地理には詳しくないこと、ガリラヤ湖を「海」と呼ぶマルコの文章を「湖」に変更していることなどから、パレスチナやその近郊に住む者でないことも確実である。 対象とする読者は、その献辞から明らかなように、直接的には「テオフィロ(ス)」という、詳細は不明だがある程度に高い地位にある人物と推定される個人である。なお、「テオフィロ」という名はギリシア語で「神を愛する人」という意味である。しかし、これは著者の教養に由来する修辞的な意味合いが強く多くの読者に読まれることを想定して執筆されたことは確かである。その場合、著者が想定するのは主に非ユダヤ系のキリスト教徒及びそれに関心を持つ人物と考えられる。 == 成立年代 == 『ルカ福音書』の成立年代は未詳だが、その上限は(「二資料仮説」を前提とするが)『マルコ福音書』の成立時期([[70年]]前後)であり、下限は[[マルキオン]]の正典編纂の試み([[2世紀]]なかば)である。 === 伝統的な成立時期の説 === 伝統的には、キリスト教徒はルカが(直接ではないにせよ)パウロの指導のもとに福音書を書いたとみなしてきた。『使徒言行録』が『ルカ福音書』の続編として書かれたとすれば、当然『ルカ福音書』は『使徒言行録』より古いはずであり、『使徒言行録』の成立が[[63年]]か[[64年]]のこととすれば、『ルカ福音書』は[[60年]]から[[63年]]の成立と考えられる。これはパウロが逮捕される前、ルカがパウロに同行して[[カイサリア・マリティマ|カイサリア]]に赴いた頃のことと考えられる。もし伝承が伝えるようにルカが獄中のパウロからローマで聞き取って書いたとすれば成立はさらに早まって[[40年]]から60年ごろということになる。[[福音派]]など保守的なキリスト教派では、このような伝統的な説が支持される。 === 成立年代の考察 === 伝承にもとづいた成立年代ではなく、近代以降の批判的研究の結果からわかることは、『ルカ福音書』が[[エルサレム神殿]]の崩壊後に書かれたということである。 伝統的な成立年代に固執する一部の人々を除けば、聖書学者の間では『ルカ福音書』が[[1世紀]]中に成立したか否かということをめぐっての論争がいまも果てない。[[2世紀]]の成立を支持する人々は『ルカ福音書』が2世紀初頭の古代教会内での異端的な動きに対抗して書かれたとみている。1世紀成立を支持する人々は、2世紀の教会で発達していた位階制に一切言及されないことを証左とする。極端な伝統保持者はルカがパウロの同行者であったという伝承だけをもって1世紀中期の成立を主張している。 == 写本 == 『ルカ福音書』の最古の写本は[[3世紀]]の[[パピルス]]である。そのうち<math>\mathfrak{P}</math><sup>45</sup>と呼ばれるものは四つの福音をみな含んでおり、他の3つ(<math>\mathfrak{P}</math><sup>4</sup> 、<math>\mathfrak{P}</math><sup>69</sup> 、<math>\mathfrak{P}</math><sup>75</sup> )は断片である。これら最古の写本の時期において、すでに『ルカ福音書』と『使徒言行録』は分離している。 ケンブリッジの大学図書館にある{{仮リンク|ベザ写本|en|Codex Bezae}}は[[5世紀]]から[[6世紀]]ごろのものとみなされているが、完全な『ルカ福音書』の写本であり、ギリシア語・[[ラテン語]]対訳になっている。ギリシア語版は現代のわれわれの知る『ルカ福音書』とは異なる部分が多いため、後世、主流となった版とは別の系統に属するものであると考えられる。ベザ写本は現代の読みとあわせるため修正されることが多いが、考えようによっては時期が下っても福音書のさまざまな異読が存在していたことを示しているともいえる。聖書学者たちにとって異同の多いベザ写本のギリシア語版は厄介な存在であるため、あまり言及されることはない。 22章19節bから20節、および22章43節から44節は初期の版では見られない、 == 他の福音書との関連 == 現代もっとも支持されている説では、『ルカ福音書』は『マルコ福音書』とQ資料をもとに書かれたとみなしている。 ある聖書学者の研究によれば『ルカ福音書』の1151節のうち、389節が『マタイ福音書』・『マルコ福音書』と共通であり、176節は『マタイ福音書』とのみ共通、41節が『マルコ福音書』のみと共通、544節が『ルカ福音書』のみにみられるという。これらの三つの福音書が同じ言語で書かれていたであろうことを思わせる多くの証左がある。 『ルカ福音書』特有の[[たとえ話]]は全部で17ある。ルカはマタイ・マルコにない物語を盛り込むことでイエスの「七つの奇跡」を構成している。ルカ、マタイ、マルコは共観福音書と呼ばれるように、似通った部分が多い。たとえばマルコは7%がオリジナルであるが、93%は他の二つのいずれかと共通である。同じように見ていくとマタイは42%のオリジナルと58%の共通部分からなり、ルカは59%のオリジナル部分と41%の共通部分からなる。いいかえれば『マルコ福音書』の14分の13、『マタイ福音書』の七分の四、『ルカ福音書』の五分の二が同じ言語で同じ出来事について語っているのである。 『ルカ福音書』は文体においてもマルコやマタイよりも洗練されており、[[ヘブライ語]]に由来する表現などがほとんど含まれていない。ラテン語はわずかに含まれているが、[[シリア語]]は含まれない。ヘブライ語は「シケラ」という言葉のみ用いられる。シケラというのは酒の名前であるが、おそらく椰子の実からつくられたものであると考えられる。[[旧約聖書]]からの引用は28箇所である。 さらに以下のようにパウロの書簡と共通する句がみられることも特徴である。 *ルカ4:22と[[コロサイの信徒への手紙]]4:6 *ルカ4:32と[[コリントの信徒への手紙一]]2:4 *ルカ6:36と[[コリントの信徒への手紙二]]1:3 *ルカ6:39と[[ローマの信徒への手紙]]2:19 *ルカ9:56とコリントの信徒への手紙二10:8 *ルカ10:8とコリントの信徒への手紙二10:27 *ルカ11:31と[[テトスへの手紙]]1:15 *ルカ18:1と[[テサロニケの信徒への手紙二]]1:11 *ルカ21:36と[[エフェソの信徒への手紙]]6:18 *ルカ22:19-20とコリントの信徒への手紙一11:23-29 *ルカ23:34とコリントの信徒への手紙一15:5 <!-- == 脚注・出典 == {{Reflist}}--> == 関連項目 == {{wikisource|ルカによる福音書(口語訳)}} {{wikisource|ルカ傳福音書(文語訳)}} *[[マタイによる福音書]] *[[マルコによる福音書]] *[[ヨハネによる福音書]] *[[ザアカイ]] *[[ルカによる福音書1章]] *[[エルサレム]] {{福音書}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:るかによるふくいんしよ}} [[Category:ルカによる福音書|*]]
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2023-07-18T19:49:28Z
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阿蘇山
阿蘇山(あそさん、あそざん)は、日本の九州中央部、熊本県阿蘇地方に位置する火山。カルデラを伴う大型の複成火山であり、活火山である。 阿蘇火山は、カルデラと中央火口丘で構成され、高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳が阿蘇五岳と呼ばれている。 最高点は高岳の標高1592m。カルデラは南北25km、東西18kmに及び(屈斜路湖に次いで日本では第2位)面積380kmと広大である。 2007年、日本の地質百選に「阿蘇」として選定された。2009年(平成21年)10月には、カルデラ内外の地域で、巨大噴火の歴史と生きた火口を体感できる「阿蘇ジオパーク」として日本ジオパーク、世界ジオパークに認定されている。「日本百名山」の一座としても取り上げられている。また、阿蘇くじゅう国立公園にも含まれる。 阿蘇山は、世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持ち、「火の国」熊本県のシンボル的な存在として親しまれている。火山活動が平穏な時期には火口に近づいて見学できるが、活動が活発化したり、有毒ガスが発生した場合は火口付近の立入りが規制される。 阿蘇山のカルデラ内部に出来た中央火口丘群のうち、その中核を成しほぼ東西に一列に並ぶ根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰を阿蘇五岳(あそごがく)と呼ぶ。北側の阿蘇谷方面から阿蘇五岳を見た姿は、釈迦が寝ている姿を表した涅槃像に似ていると言われている。阿蘇五岳の中央に位置する噴火口のある山が中岳、最高峰が高岳、ギザギザの山が根子岳である。各山の山頂付近は九重連山や雲仙岳と並ぶミヤマキリシマの一大群生地となっており、最盛期には南郷谷から烏帽子岳の斜面がピンクに染まる山肌を見ることができる。根子岳は地層調査によって他の山よりも古くからある山であることが分かり、カルデラ形成前からあったものであると推定されている。阿蘇山の南麓には名水として知られる白川水源がある。 阿蘇山は外輪山の内側を中心として阿蘇くじゅう国立公園に指定されており、温泉や観光・レジャースポットが点在する有数の観光エリアとなっている。夏になると多くのライダーがツーリングに訪れる。 噴火時の災害対策として、中岳火口周辺には退避壕が9つ建てられている。 「あそ」はアイヌ語で火を噴く山の意味で山名の由来とする説がある。また、漢字の阿蘇山の「阿」は原点、「蘇」は蘇生復活を意味し、原点に返り復活する場所の意味とする説がある。 最高峰の高岳(1,592.3m)を始めとする中岳(1,506m)、根子岳(1,408m)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,270m)の阿蘇五岳の他、往生岳(1,235m)などを含む1,000m級の山が連なる。烏帽子岳山頂には一等三角点「西烏帽子岳」、高岳山頂には三等三角点「高岳」、根子岳山頂東側の尾根には二等三角点「根子岳」が設置されている。 「阿蘇山」は、狭義にその中央火口丘群である根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳の5峰の総称を指すこともある。最高地点は高岳の1,592メートルで、「ひごくに(肥後国)」の語呂合わせで覚えられる。中岳の火口は現在も噴煙を上げ続け時々噴火する活火山で、火口西側まで道路(阿蘇山公園道路)が通じている。 阿蘇カルデラは、27万年前から9万年前に発生した4回の巨大カルデラ噴火により形成されたカルデラ地形である。その大きさは日本で2番目で、1位は北海道の屈斜路カルデラである。また3位は鹿児島県の桜島の北にある姶良カルデラである。阿蘇山は火口湖も海もなく、カルデラの中に立って周囲の外輪山を見渡すことができる。カルデラを取り囲む外輪山も阿蘇火山に含まれ、東西約18キロメートル・南北約25キロメートルに及ぶ。カルデラを見下ろす大観峰などは、カルデラ噴火前の火山活動による溶岩とカルデラ噴火による火砕流堆積物(溶結凝灰岩)で構成された山である。 カルデラ盆地は中央火口丘によって南北に二分され、北は阿蘇谷、南は南郷谷と呼ばれる。阿蘇谷は阿蘇市に、南郷谷は阿蘇郡高森町および南阿蘇村に属する。阿蘇谷には、熊本と大分を結ぶJR豊肥本線が通る。南郷谷には豊肥本線立野駅から分岐する第三セクター南阿蘇鉄道が走る。カルデラ内は湧き水が豊富で平坦な地形が開け、農業生産に適しており、古くから人が住み集落を形成していた。7世紀の中国の歴史書『隋書(隋書倭国伝)』や『北史(北史倭国伝)』にも「阿蘇山」の名が見え、火を噴き上げる山として知られていた。 9万年前の巨大カルデラ噴火による噴出物は384 km DRE(見かけ体積600km、ほぼ富士山の山体全部の大きさ)に達し、火砕流は九州の半分を覆ったと推定されている。特に厚く堆積した地域では火砕流台地となって残っている。この台地は九州中央部に広く分布し、緩やかに波打つ平原を形作っている。周辺自治体の熊本県高森町東南部、熊本県山都町北部一帯のほか、隣県の宮崎県五ヶ瀬町北部や、同県西臼杵郡高千穂町、大分県竹田市などもその中に入る。 平野部と同じく太平洋側気候だが、西岸海洋性気候(Cfb)に属し(阿蘇市街地などの大部分は温暖湿潤気候)、概ね北海道道南から東北地方北部にかけての太平洋沿岸の気候に似ており、夏季冷涼・冬季厳寒である。中岳西側の阿蘇山上(露場の標高1142.3m、北緯32°52.8′、東経131°04.4′)では1931年11月から地上気象観測が行われてきた。1939年11月には阿蘇山測候所となったが2009年10月に測候所は廃止された。以後は、阿蘇山特別地域気象観測所として自動観測が行われていたが、2017年12月11日14時をもって観測所は廃止された。 年間平均気温は9.9°Cで、九州の他地域と比べると大幅に低く、東北地方の大半の都市と比較しても低い値となっている。降水量は年間降水量で3206.2mmと大変多く、特に6月から7月にかけての梅雨の時期は土砂降りの大雨が続き、その豊富な雨水は大地を潤し、県の地下水資源ともなっている。 冬の訪れは、九州としてはかなり早く9月末から10月にかけて初氷・初霜が観測され、11月初頭から中旬頃にかけて初雪を観測し、12月以降は本格的な冬となる。真冬になると気温は-10°C未満の日も珍しくなく、強い冬型の気圧配置になった場合は、山頂は-15°C程度まで低下する。最高気温0°C以下の真冬日は26日程度である。ただし、中国地方以東の山とは異なり根雪とはならず、近年では積雪は多くても100cmを超えることは無く、豪雪地帯には指定されていない。春の訪れも九州としては遅く、4月に入っても降雪や積雪を観測することがある。夏は標高が1,000メートル以上と高いため、これまで真夏日や猛暑日を観測したことは観測史上一度も無い。(最高気温の記録は2016年8月11日に観測された29.8°C。)また、避暑地としても利用できる。朝は最低気温が盛夏でも20°C未満となる日が多いが、15°C未満となる日は少ない。 約600万年前から35万年前の活動が報告されている、しかしそのほとんどの活動は、約85万年前より新しい活動による。一方、過去1万年間に活動した火山と噴出物は、蛇ノ尾スコリア丘、赤水溶岩、杵島岳(約4000年前)と往生岳(約3600年前)、米塚(約3300年前)と中岳などである。 活動の様式から、カルデラ形成以前の先カルデラ火山活動期の先阿蘇火山群、カルデラ噴火を繰り返すカルデラ形成期、カルデラ噴火以降の中央火口丘群の活動が中心となった後カルデラ火山活動期と3つに分けられる。なお、爆発的噴火が特徴であり高野尾羽根溶岩等を見出す事が出来るが、溶岩流を流出させる活動は少ない。 30万年以上前に現在の外輪山などを形成した火山群の比較的小規模の活動があった。阿蘇カルデラ外輪山北西部にある鞍岳・ツームシ山はこの先阿蘇火山群のひとつである。なお、これらの火山群はカルデラの下に埋没している。 先阿蘇火山岩類の最後の活動とされる坂梨流紋岩(45~40万年前)から約20~10万年間の休止期を挟んで、阿蘇火山が活動を開始した。なお休止期にも土壌には風化したスコリアが挟まれることから何らかの火山活動はあったと考えられるが、詳細は不明である。 約27万年前から9万年前までに大規模な噴火が4回 (Aso-1~4) あった。大量の火山礫や火山灰を噴出したため、広範囲に火砕流を到達させ火口の周囲に火砕流台地と巨大な窪地(カルデラ)が形成された。Aso-1~4いずれも噴出物の全岩化学組成が珪長質から苦鉄質へと変化する堆積物を有している。 その中でも4回目の噴火 であるAso-4 (約9万年前) は最も規模が大きく噴出量は約600立方kmを越えており、火砕流は九州中央部を覆い一部は海を越え山口県秋吉台まで達し、火山灰は日本海海底、北海道まで達した。朝鮮半島でも確認されている。約9万年前に起きたこの噴火は「ウルトラプリニー式噴火(破局噴火)」であったといえる。阿蘇3テフラ、阿蘇4テフラの火山灰でできた地層を見つければ年代を特定でき、植物学、考古学など様々な研究分野で重要な指標堆積物として使われている。 中央火口丘群の高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳は、前述4回目の巨大カルデラ噴火後に活動した火山。中岳は現在でも活発な活動している。根子岳は4回目の巨大カルデラ噴火よりも古いと推定されている。 後カルデラ火山の活動を研究した長岡ら(2004)は、活動を幾つかのステージに分類した。 主に中岳を中心に6世紀ころから頻繁な活動が記録されており、日常的に土砂噴出、赤熱現象、噴火が観測されている 。 記録に残る顕著な活動は、以下のとおりである。 噴火時の災害対策として、退避壕が中岳火口の1km圏内に13箇所建てられている。退避壕は鉄筋コンクリートで頑丈に出来ており、1つにつき30人収容可能である。1989年10月には噴火により多数の噴石が降り注いでいるが、破壊されておらず十分な耐久性をもつことが示されている。 福岡管区気象台は2007年12月より噴火警戒レベルを導入。中岳の第一火口は常時TVモニターで監視されている。平成19年4月以降は火山性ガス濃度が常時測定され、ガスの濃度により警報が発せられる。危険濃度になった場合、観光目的での火口周囲への立ち入りが制限される。なお、阿蘇山に於ける噴火警戒レベルは他の火山と異なり、火口の赤熱が噴火と直結することが少ないため、レベル1と評価されている。 2017年12月13日、広島県の住民らが四国電力伊方原子力発電所3号機の運転差し止めを求めた仮処分申請の即時抗告審にて、広島高等裁判所は原子力発電所から約130km離れた阿蘇山の9万年前の噴火規模を指摘し、噴火の危険性を理由に発電所の運転差し止めを決定した。一方、ほぼ同距離にある九州電力玄海原子力発電所3号機、4号機について、佐賀県の住民らが運転差し止めを求めた仮処分申請では、2018年3月20日、佐賀地方裁判所は阿蘇山の地下に大規模なマグマだまりはないとして破局的噴火を否定、申し立てを却下している。 阿蘇山は古くから信仰の対象とされ、修行・参詣の場所だったと考えられている。明治維新以前には、坊中からの経路が唯一の登山道であり、それ以外の経路は汚れを持ち込むとみなされた。 明治時代になると禁制が解け、もっぱら外国人による観光や調査目的の登山が始まった。この時期は南郷谷からのルートがよく知られていた。日本人の登山も増え、阿蘇山の風景を賛美する文献が見られるようになった。 大正時代には宮地線が開通し、再び坊中からのルートが主流となった。登山客は年間10万人を超え、1934年の国立公園指定につながった。第二次世界大戦後はモータリゼーションの流れで観光道路が整備され、阿蘇登山道路、仙酔峡道路などが開通した。それぞれの道路の終点付近から火口付近へと上るための阿蘇山ロープウェー、仙酔峡ロープウェイもかつて運行されていたが、大規模噴火や2016年の熊本地震により運航休止がたびたび発生し、いずれの路線も廃止された。 最近ではアジア方面の国からの観光客が増えている。以前は火口まで自家用車で乗り入れることは出来なかったが、阿蘇山公園道路や駐車場が整備され火口まで徒歩1分というところまで自家用車で行くことが出来る。山麓には複数のキャンプ場もあり、草千里では乗馬も行われている。特に草千里(草千里ヶ浜)は風致景観が良く近代詩にも詠われており、国の名勝及び天然記念物に指定されている。阿蘇を撮影した写真は、撮影しやすい阿蘇谷から見たものが多いが、朝日の場合、逆光となるので、南郷谷から撮影する方が、白トビが無く絵は綺麗である。 阿蘇山は巨大な火山ゆえに、その周辺はたくさんの温泉に恵まれている。阿蘇くじゅう国立公園に属し、カルデラ内には阿蘇内牧温泉や阿蘇赤水温泉の温泉街があり、烏帽子岳周辺には垂玉温泉や地獄温泉などの一軒宿がある。外輪山北の南小国町には、黒川温泉、小国町には、峐(はげ)の湯温泉などのたくさんの温泉が湧出しており、国民保養温泉地にも指定されている。 高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳そして末っ子の根子岳は誰が一番早く高くなれるか競っていた。結果、根子岳が長男の高岳さえも追い抜いて一番高くなった。しかし、それは鬼たちに阿蘇の国で自由に暴れさせる代わりに、竹田から土を運んで自分の頭に積ませたからだった。これを知った阿蘇大明神は激怒し、根子岳の頭をピシャリピシャリと何度も叩いた。そのおかげで根子岳の頭はギザギザになってしまった。 肥後国の猫は7歳になると根子岳へ修行に来るという。そして人に化けて迷った旅人をおびき寄せ、宿で散々振る舞った後、寝ている隙に食べるとされている。 アニメ「まんが日本昔ばなし」で紹介された内容は、以下のとおり。ある旅人が猫の宿に迷い込んだ際、昔大事にかわいがっていた猫が女中として働いていた。旧主への恩義から危険を知らせ、旅人を夜中にこっそり逃がす。気づいた猫たちが温泉の湯を入れた桶と柄杓を持って追いかけてきて、後ろから旅人にお湯をかけて猫に変えようとする。なんとか麓の人里まで逃げ切るが、その前に耳の後ろにだけお湯が少しかかってしまい、命は助かったもののその部分だけ猫の毛が生えてしまった、という話である。 大昔の阿蘇は外輪山に切れ目が無く、その中には水がたまって広大なカルデラ湖になっていた。健磐龍命(タケイワタツノミコト、阿蘇大明神)はこの水を無くして田畑を造ろうと考えた。そこで、外輪山の一部を蹴破ることにした。一度目に挑戦した場所はなかなか蹴破れない。というのもその場所は山が二重になっているからで、以後「二重(ふたえ)ノ峠」と呼ばれるようになった。別の場所で再挑戦すると今度は見事に蹴破ることができた。しかし、そのはずみで健磐龍は尻餅をついてしまって「立てぬ!」と叫んだ。以後その場所は「立野(たての)」と呼ばれるようになった。 蹴破った場所からは大量の水が流れ出し滝となり、数匹の鹿も流されたことから、以後「数鹿流(すがる)が滝」と呼ばれるようになった。湖水が引いてくると底から巨大なナマズが現れた。ナマズが湖水をせき止めていたため、健磐龍は太刀でナマズを切り、ようやく湖水は流れ去ったという。また、カルデラ湖にいた鯰が流れ着いた場所が現在の嘉島町の鯰という地名になっているともいわれている。 米塚(こめづか)は、草千里下にある比高約80m・山頂標高954.3mの均整のとれたスコリア丘で、約3,300年前の噴火で形成された。伝説では健磐龍命が収穫した米を積み上げて作ったとされ、貧しい人達に米を分け与えたことで頂上にくぼみができたとされている。国の名勝及び天然記念物に指定されている。熊本地震 (2016年)により山頂の火口縁などに亀裂が生じた。 阿蘇市的石の地名の語源でもある“的石”は北外輪山のふもとにある石で、その昔阿蘇神社の祭神である健磐龍命(阿蘇大明神)が阿蘇五岳の外れにある往生岳(往生岳は五岳に含まれない)から弓の稽古をする時に的にしたという伝説からこの名がつけられている。ちなみに往生岳山頂から的石までは約7kmほどの距離となっている。 また、往生岳から的石まで射られた矢は、健磐龍命の従者で鬼八という足の速い男が往生岳から的石まで走って取りにいき健磐龍命に渡していた。99回目までは鬼八も的石と往生岳を往復して矢を運んでいたが、100回目に疲れて的石から往生岳めがけ矢を投げ返した。その矢がたまたま健磐龍命の腿に当たり、それに腹を立てた健磐龍命は鬼八を成敗しようとして追った。鬼八は阿蘇中を逃げ回り、更に阿蘇の外まで逃げ、そこで一息ついて8回屁をひったといわれその場所の地名である矢部の語源になったと言われる。 その後も鬼八は健磐龍命に追われ、ついには捕らえられ首をはねられたが、不思議なことに首をはねてもはねてもすぐに首は元通りにくっつく。腕や足をはねてみたがやはりすぐに元通りとなる。そこで健磐龍命は鬼八の体をばらばらに切り、それぞれを離れた場所に埋めた。そうするともう鬼八はよみがえることがなくなったという。 しかしその後、鬼八の怨念は阿蘇の地に早霜を降らせるようになり、稲に大きな被害が出るようになった。そこで健磐龍命は役犬原という場所に霜の宮と名づけた社を建て鬼八の怨霊を鎮めたという。現在でも霜宮神社では幼い女子が59日間火を絶やさずお籠りをするという霜宮神社火焚き神事が残っている。また、高千穂にも“鬼八伝説”が残っている。 中国の歴史書(正史)である『南史倭国伝 』によれば、「倭国の先の出ずる場所、及び所在については北史に詳しく記述されている」とあり、『北史倭国伝 』では、阿蘇山(火山)が詳述 されている。すなわち、阿蘇カルデラは「ヤマト発祥の地・高天原 」であることが示されている。阿蘇カルデラは、魏志倭人伝や北史倭国伝 の記述通り、短里説(周髀算経 ・一寸千里法=一里約77m)で、帯方郡から邪馬台国までの総距離「一万二千余里」となる。卑弥呼については、火国(建日向日豊久士比泥別)の女王ということになり、邪馬台国の支配地域は、魏志『女王国以北・周旋可五千余里』であるため、概ね、国産み神話における白日別(筑紫国)・豊日別(豊国)・建日向日豊久士比泥別(火国)の三面となる。 邪馬台国(女王国)が阿蘇カルデラであれば、南の狗奴国 については、建日別(熊襲)となる。また、東に海を渡ること千里(約77km)にて至る国については、「四国」を、女王国を去ること南へ四千里(約308km)の侏儒国ついては、「種子島」を比定することができる。会稽については女王国の西に、帯方郡については、女王国の北西に位置することとなる。 阿蘇山の北麓には肥後国(火国)一宮である阿蘇神社があり、健磐龍命や國龍神(日子八井命)、金凝神(第2代綏靖天皇)をはじめとする神々が、祀られている。健磐龍命の子速瓶玉命が第7代孝霊天皇の際に、両親を祀ったことに始まるが、以来、天照大御神 やニニギノミコト、神武天皇の子孫でもある多氏阿蘇氏が祭祀を執り行い続けている。天孫降臨神話の残る日向の高千穂に隣接する阿蘇カルデラは阿蘇黄土「リモナイト(褐鉄鉱)・朱丹」や鉄器鍛冶工房の遺跡群、雲海の名所でも知られており、山跡で山に囲まれたところの山のふもとに広がる高原台地で、山に神が宿るとみなす自然信仰の拠点である火の本・阿蘇山を擁する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "阿蘇山(あそさん、あそざん)は、日本の九州中央部、熊本県阿蘇地方に位置する火山。カルデラを伴う大型の複成火山であり、活火山である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "阿蘇火山は、カルデラと中央火口丘で構成され、高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳が阿蘇五岳と呼ばれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "最高点は高岳の標高1592m。カルデラは南北25km、東西18kmに及び(屈斜路湖に次いで日本では第2位)面積380kmと広大である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2007年、日本の地質百選に「阿蘇」として選定された。2009年(平成21年)10月には、カルデラ内外の地域で、巨大噴火の歴史と生きた火口を体感できる「阿蘇ジオパーク」として日本ジオパーク、世界ジオパークに認定されている。「日本百名山」の一座としても取り上げられている。また、阿蘇くじゅう国立公園にも含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "阿蘇山は、世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持ち、「火の国」熊本県のシンボル的な存在として親しまれている。火山活動が平穏な時期には火口に近づいて見学できるが、活動が活発化したり、有毒ガスが発生した場合は火口付近の立入りが規制される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "阿蘇山のカルデラ内部に出来た中央火口丘群のうち、その中核を成しほぼ東西に一列に並ぶ根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰を阿蘇五岳(あそごがく)と呼ぶ。北側の阿蘇谷方面から阿蘇五岳を見た姿は、釈迦が寝ている姿を表した涅槃像に似ていると言われている。阿蘇五岳の中央に位置する噴火口のある山が中岳、最高峰が高岳、ギザギザの山が根子岳である。各山の山頂付近は九重連山や雲仙岳と並ぶミヤマキリシマの一大群生地となっており、最盛期には南郷谷から烏帽子岳の斜面がピンクに染まる山肌を見ることができる。根子岳は地層調査によって他の山よりも古くからある山であることが分かり、カルデラ形成前からあったものであると推定されている。阿蘇山の南麓には名水として知られる白川水源がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "阿蘇山は外輪山の内側を中心として阿蘇くじゅう国立公園に指定されており、温泉や観光・レジャースポットが点在する有数の観光エリアとなっている。夏になると多くのライダーがツーリングに訪れる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "噴火時の災害対策として、中岳火口周辺には退避壕が9つ建てられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「あそ」はアイヌ語で火を噴く山の意味で山名の由来とする説がある。また、漢字の阿蘇山の「阿」は原点、「蘇」は蘇生復活を意味し、原点に返り復活する場所の意味とする説がある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "最高峰の高岳(1,592.3m)を始めとする中岳(1,506m)、根子岳(1,408m)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,270m)の阿蘇五岳の他、往生岳(1,235m)などを含む1,000m級の山が連なる。烏帽子岳山頂には一等三角点「西烏帽子岳」、高岳山頂には三等三角点「高岳」、根子岳山頂東側の尾根には二等三角点「根子岳」が設置されている。", "title": "地形" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「阿蘇山」は、狭義にその中央火口丘群である根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳の5峰の総称を指すこともある。最高地点は高岳の1,592メートルで、「ひごくに(肥後国)」の語呂合わせで覚えられる。中岳の火口は現在も噴煙を上げ続け時々噴火する活火山で、火口西側まで道路(阿蘇山公園道路)が通じている。", "title": "地形" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "阿蘇カルデラは、27万年前から9万年前に発生した4回の巨大カルデラ噴火により形成されたカルデラ地形である。その大きさは日本で2番目で、1位は北海道の屈斜路カルデラである。また3位は鹿児島県の桜島の北にある姶良カルデラである。阿蘇山は火口湖も海もなく、カルデラの中に立って周囲の外輪山を見渡すことができる。カルデラを取り囲む外輪山も阿蘇火山に含まれ、東西約18キロメートル・南北約25キロメートルに及ぶ。カルデラを見下ろす大観峰などは、カルデラ噴火前の火山活動による溶岩とカルデラ噴火による火砕流堆積物(溶結凝灰岩)で構成された山である。", "title": "地形" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "カルデラ盆地は中央火口丘によって南北に二分され、北は阿蘇谷、南は南郷谷と呼ばれる。阿蘇谷は阿蘇市に、南郷谷は阿蘇郡高森町および南阿蘇村に属する。阿蘇谷には、熊本と大分を結ぶJR豊肥本線が通る。南郷谷には豊肥本線立野駅から分岐する第三セクター南阿蘇鉄道が走る。カルデラ内は湧き水が豊富で平坦な地形が開け、農業生産に適しており、古くから人が住み集落を形成していた。7世紀の中国の歴史書『隋書(隋書倭国伝)』や『北史(北史倭国伝)』にも「阿蘇山」の名が見え、火を噴き上げる山として知られていた。", "title": "地形" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "9万年前の巨大カルデラ噴火による噴出物は384 km DRE(見かけ体積600km、ほぼ富士山の山体全部の大きさ)に達し、火砕流は九州の半分を覆ったと推定されている。特に厚く堆積した地域では火砕流台地となって残っている。この台地は九州中央部に広く分布し、緩やかに波打つ平原を形作っている。周辺自治体の熊本県高森町東南部、熊本県山都町北部一帯のほか、隣県の宮崎県五ヶ瀬町北部や、同県西臼杵郡高千穂町、大分県竹田市などもその中に入る。", "title": "地形" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "平野部と同じく太平洋側気候だが、西岸海洋性気候(Cfb)に属し(阿蘇市街地などの大部分は温暖湿潤気候)、概ね北海道道南から東北地方北部にかけての太平洋沿岸の気候に似ており、夏季冷涼・冬季厳寒である。中岳西側の阿蘇山上(露場の標高1142.3m、北緯32°52.8′、東経131°04.4′)では1931年11月から地上気象観測が行われてきた。1939年11月には阿蘇山測候所となったが2009年10月に測候所は廃止された。以後は、阿蘇山特別地域気象観測所として自動観測が行われていたが、2017年12月11日14時をもって観測所は廃止された。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "年間平均気温は9.9°Cで、九州の他地域と比べると大幅に低く、東北地方の大半の都市と比較しても低い値となっている。降水量は年間降水量で3206.2mmと大変多く、特に6月から7月にかけての梅雨の時期は土砂降りの大雨が続き、その豊富な雨水は大地を潤し、県の地下水資源ともなっている。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "冬の訪れは、九州としてはかなり早く9月末から10月にかけて初氷・初霜が観測され、11月初頭から中旬頃にかけて初雪を観測し、12月以降は本格的な冬となる。真冬になると気温は-10°C未満の日も珍しくなく、強い冬型の気圧配置になった場合は、山頂は-15°C程度まで低下する。最高気温0°C以下の真冬日は26日程度である。ただし、中国地方以東の山とは異なり根雪とはならず、近年では積雪は多くても100cmを超えることは無く、豪雪地帯には指定されていない。春の訪れも九州としては遅く、4月に入っても降雪や積雪を観測することがある。夏は標高が1,000メートル以上と高いため、これまで真夏日や猛暑日を観測したことは観測史上一度も無い。(最高気温の記録は2016年8月11日に観測された29.8°C。)また、避暑地としても利用できる。朝は最低気温が盛夏でも20°C未満となる日が多いが、15°C未満となる日は少ない。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "約600万年前から35万年前の活動が報告されている、しかしそのほとんどの活動は、約85万年前より新しい活動による。一方、過去1万年間に活動した火山と噴出物は、蛇ノ尾スコリア丘、赤水溶岩、杵島岳(約4000年前)と往生岳(約3600年前)、米塚(約3300年前)と中岳などである。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "活動の様式から、カルデラ形成以前の先カルデラ火山活動期の先阿蘇火山群、カルデラ噴火を繰り返すカルデラ形成期、カルデラ噴火以降の中央火口丘群の活動が中心となった後カルデラ火山活動期と3つに分けられる。なお、爆発的噴火が特徴であり高野尾羽根溶岩等を見出す事が出来るが、溶岩流を流出させる活動は少ない。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "30万年以上前に現在の外輪山などを形成した火山群の比較的小規模の活動があった。阿蘇カルデラ外輪山北西部にある鞍岳・ツームシ山はこの先阿蘇火山群のひとつである。なお、これらの火山群はカルデラの下に埋没している。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "先阿蘇火山岩類の最後の活動とされる坂梨流紋岩(45~40万年前)から約20~10万年間の休止期を挟んで、阿蘇火山が活動を開始した。なお休止期にも土壌には風化したスコリアが挟まれることから何らかの火山活動はあったと考えられるが、詳細は不明である。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "約27万年前から9万年前までに大規模な噴火が4回 (Aso-1~4) あった。大量の火山礫や火山灰を噴出したため、広範囲に火砕流を到達させ火口の周囲に火砕流台地と巨大な窪地(カルデラ)が形成された。Aso-1~4いずれも噴出物の全岩化学組成が珪長質から苦鉄質へと変化する堆積物を有している。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その中でも4回目の噴火 であるAso-4 (約9万年前) は最も規模が大きく噴出量は約600立方kmを越えており、火砕流は九州中央部を覆い一部は海を越え山口県秋吉台まで達し、火山灰は日本海海底、北海道まで達した。朝鮮半島でも確認されている。約9万年前に起きたこの噴火は「ウルトラプリニー式噴火(破局噴火)」であったといえる。阿蘇3テフラ、阿蘇4テフラの火山灰でできた地層を見つければ年代を特定でき、植物学、考古学など様々な研究分野で重要な指標堆積物として使われている。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "中央火口丘群の高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳は、前述4回目の巨大カルデラ噴火後に活動した火山。中岳は現在でも活発な活動している。根子岳は4回目の巨大カルデラ噴火よりも古いと推定されている。 後カルデラ火山の活動を研究した長岡ら(2004)は、活動を幾つかのステージに分類した。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "主に中岳を中心に6世紀ころから頻繁な活動が記録されており、日常的に土砂噴出、赤熱現象、噴火が観測されている 。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "記録に残る顕著な活動は、以下のとおりである。", "title": "火山史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "噴火時の災害対策として、退避壕が中岳火口の1km圏内に13箇所建てられている。退避壕は鉄筋コンクリートで頑丈に出来ており、1つにつき30人収容可能である。1989年10月には噴火により多数の噴石が降り注いでいるが、破壊されておらず十分な耐久性をもつことが示されている。", "title": "災害対策" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "福岡管区気象台は2007年12月より噴火警戒レベルを導入。中岳の第一火口は常時TVモニターで監視されている。平成19年4月以降は火山性ガス濃度が常時測定され、ガスの濃度により警報が発せられる。危険濃度になった場合、観光目的での火口周囲への立ち入りが制限される。なお、阿蘇山に於ける噴火警戒レベルは他の火山と異なり、火口の赤熱が噴火と直結することが少ないため、レベル1と評価されている。", "title": "災害対策" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2017年12月13日、広島県の住民らが四国電力伊方原子力発電所3号機の運転差し止めを求めた仮処分申請の即時抗告審にて、広島高等裁判所は原子力発電所から約130km離れた阿蘇山の9万年前の噴火規模を指摘し、噴火の危険性を理由に発電所の運転差し止めを決定した。一方、ほぼ同距離にある九州電力玄海原子力発電所3号機、4号機について、佐賀県の住民らが運転差し止めを求めた仮処分申請では、2018年3月20日、佐賀地方裁判所は阿蘇山の地下に大規模なマグマだまりはないとして破局的噴火を否定、申し立てを却下している。", "title": "災害対策" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "阿蘇山は古くから信仰の対象とされ、修行・参詣の場所だったと考えられている。明治維新以前には、坊中からの経路が唯一の登山道であり、それ以外の経路は汚れを持ち込むとみなされた。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "明治時代になると禁制が解け、もっぱら外国人による観光や調査目的の登山が始まった。この時期は南郷谷からのルートがよく知られていた。日本人の登山も増え、阿蘇山の風景を賛美する文献が見られるようになった。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大正時代には宮地線が開通し、再び坊中からのルートが主流となった。登山客は年間10万人を超え、1934年の国立公園指定につながった。第二次世界大戦後はモータリゼーションの流れで観光道路が整備され、阿蘇登山道路、仙酔峡道路などが開通した。それぞれの道路の終点付近から火口付近へと上るための阿蘇山ロープウェー、仙酔峡ロープウェイもかつて運行されていたが、大規模噴火や2016年の熊本地震により運航休止がたびたび発生し、いずれの路線も廃止された。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "最近ではアジア方面の国からの観光客が増えている。以前は火口まで自家用車で乗り入れることは出来なかったが、阿蘇山公園道路や駐車場が整備され火口まで徒歩1分というところまで自家用車で行くことが出来る。山麓には複数のキャンプ場もあり、草千里では乗馬も行われている。特に草千里(草千里ヶ浜)は風致景観が良く近代詩にも詠われており、国の名勝及び天然記念物に指定されている。阿蘇を撮影した写真は、撮影しやすい阿蘇谷から見たものが多いが、朝日の場合、逆光となるので、南郷谷から撮影する方が、白トビが無く絵は綺麗である。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "阿蘇山は巨大な火山ゆえに、その周辺はたくさんの温泉に恵まれている。阿蘇くじゅう国立公園に属し、カルデラ内には阿蘇内牧温泉や阿蘇赤水温泉の温泉街があり、烏帽子岳周辺には垂玉温泉や地獄温泉などの一軒宿がある。外輪山北の南小国町には、黒川温泉、小国町には、峐(はげ)の湯温泉などのたくさんの温泉が湧出しており、国民保養温泉地にも指定されている。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳そして末っ子の根子岳は誰が一番早く高くなれるか競っていた。結果、根子岳が長男の高岳さえも追い抜いて一番高くなった。しかし、それは鬼たちに阿蘇の国で自由に暴れさせる代わりに、竹田から土を運んで自分の頭に積ませたからだった。これを知った阿蘇大明神は激怒し、根子岳の頭をピシャリピシャリと何度も叩いた。そのおかげで根子岳の頭はギザギザになってしまった。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "肥後国の猫は7歳になると根子岳へ修行に来るという。そして人に化けて迷った旅人をおびき寄せ、宿で散々振る舞った後、寝ている隙に食べるとされている。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アニメ「まんが日本昔ばなし」で紹介された内容は、以下のとおり。ある旅人が猫の宿に迷い込んだ際、昔大事にかわいがっていた猫が女中として働いていた。旧主への恩義から危険を知らせ、旅人を夜中にこっそり逃がす。気づいた猫たちが温泉の湯を入れた桶と柄杓を持って追いかけてきて、後ろから旅人にお湯をかけて猫に変えようとする。なんとか麓の人里まで逃げ切るが、その前に耳の後ろにだけお湯が少しかかってしまい、命は助かったもののその部分だけ猫の毛が生えてしまった、という話である。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大昔の阿蘇は外輪山に切れ目が無く、その中には水がたまって広大なカルデラ湖になっていた。健磐龍命(タケイワタツノミコト、阿蘇大明神)はこの水を無くして田畑を造ろうと考えた。そこで、外輪山の一部を蹴破ることにした。一度目に挑戦した場所はなかなか蹴破れない。というのもその場所は山が二重になっているからで、以後「二重(ふたえ)ノ峠」と呼ばれるようになった。別の場所で再挑戦すると今度は見事に蹴破ることができた。しかし、そのはずみで健磐龍は尻餅をついてしまって「立てぬ!」と叫んだ。以後その場所は「立野(たての)」と呼ばれるようになった。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "蹴破った場所からは大量の水が流れ出し滝となり、数匹の鹿も流されたことから、以後「数鹿流(すがる)が滝」と呼ばれるようになった。湖水が引いてくると底から巨大なナマズが現れた。ナマズが湖水をせき止めていたため、健磐龍は太刀でナマズを切り、ようやく湖水は流れ去ったという。また、カルデラ湖にいた鯰が流れ着いた場所が現在の嘉島町の鯰という地名になっているともいわれている。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "米塚(こめづか)は、草千里下にある比高約80m・山頂標高954.3mの均整のとれたスコリア丘で、約3,300年前の噴火で形成された。伝説では健磐龍命が収穫した米を積み上げて作ったとされ、貧しい人達に米を分け与えたことで頂上にくぼみができたとされている。国の名勝及び天然記念物に指定されている。熊本地震 (2016年)により山頂の火口縁などに亀裂が生じた。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "阿蘇市的石の地名の語源でもある“的石”は北外輪山のふもとにある石で、その昔阿蘇神社の祭神である健磐龍命(阿蘇大明神)が阿蘇五岳の外れにある往生岳(往生岳は五岳に含まれない)から弓の稽古をする時に的にしたという伝説からこの名がつけられている。ちなみに往生岳山頂から的石までは約7kmほどの距離となっている。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、往生岳から的石まで射られた矢は、健磐龍命の従者で鬼八という足の速い男が往生岳から的石まで走って取りにいき健磐龍命に渡していた。99回目までは鬼八も的石と往生岳を往復して矢を運んでいたが、100回目に疲れて的石から往生岳めがけ矢を投げ返した。その矢がたまたま健磐龍命の腿に当たり、それに腹を立てた健磐龍命は鬼八を成敗しようとして追った。鬼八は阿蘇中を逃げ回り、更に阿蘇の外まで逃げ、そこで一息ついて8回屁をひったといわれその場所の地名である矢部の語源になったと言われる。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その後も鬼八は健磐龍命に追われ、ついには捕らえられ首をはねられたが、不思議なことに首をはねてもはねてもすぐに首は元通りにくっつく。腕や足をはねてみたがやはりすぐに元通りとなる。そこで健磐龍命は鬼八の体をばらばらに切り、それぞれを離れた場所に埋めた。そうするともう鬼八はよみがえることがなくなったという。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "しかしその後、鬼八の怨念は阿蘇の地に早霜を降らせるようになり、稲に大きな被害が出るようになった。そこで健磐龍命は役犬原という場所に霜の宮と名づけた社を建て鬼八の怨霊を鎮めたという。現在でも霜宮神社では幼い女子が59日間火を絶やさずお籠りをするという霜宮神社火焚き神事が残っている。また、高千穂にも“鬼八伝説”が残っている。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "中国の歴史書(正史)である『南史倭国伝 』によれば、「倭国の先の出ずる場所、及び所在については北史に詳しく記述されている」とあり、『北史倭国伝 』では、阿蘇山(火山)が詳述 されている。すなわち、阿蘇カルデラは「ヤマト発祥の地・高天原 」であることが示されている。阿蘇カルデラは、魏志倭人伝や北史倭国伝 の記述通り、短里説(周髀算経 ・一寸千里法=一里約77m)で、帯方郡から邪馬台国までの総距離「一万二千余里」となる。卑弥呼については、火国(建日向日豊久士比泥別)の女王ということになり、邪馬台国の支配地域は、魏志『女王国以北・周旋可五千余里』であるため、概ね、国産み神話における白日別(筑紫国)・豊日別(豊国)・建日向日豊久士比泥別(火国)の三面となる。 邪馬台国(女王国)が阿蘇カルデラであれば、南の狗奴国 については、建日別(熊襲)となる。また、東に海を渡ること千里(約77km)にて至る国については、「四国」を、女王国を去ること南へ四千里(約308km)の侏儒国ついては、「種子島」を比定することができる。会稽については女王国の西に、帯方郡については、女王国の北西に位置することとなる。", "title": "伝説及び仮説" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "阿蘇山の北麓には肥後国(火国)一宮である阿蘇神社があり、健磐龍命や國龍神(日子八井命)、金凝神(第2代綏靖天皇)をはじめとする神々が、祀られている。健磐龍命の子速瓶玉命が第7代孝霊天皇の際に、両親を祀ったことに始まるが、以来、天照大御神 やニニギノミコト、神武天皇の子孫でもある多氏阿蘇氏が祭祀を執り行い続けている。天孫降臨神話の残る日向の高千穂に隣接する阿蘇カルデラは阿蘇黄土「リモナイト(褐鉄鉱)・朱丹」や鉄器鍛冶工房の遺跡群、雲海の名所でも知られており、山跡で山に囲まれたところの山のふもとに広がる高原台地で、山に神が宿るとみなす自然信仰の拠点である火の本・阿蘇山を擁する。", "title": "伝説及び仮説" } ]
阿蘇山(あそさん、あそざん)は、日本の九州中央部、熊本県阿蘇地方に位置する火山。カルデラを伴う大型の複成火山であり、活火山である。 阿蘇火山は、カルデラと中央火口丘で構成され、高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳が阿蘇五岳と呼ばれている。 最高点は高岳の標高1592m。カルデラは南北25km、東西18kmに及び(屈斜路湖に次いで日本では第2位)面積380km2と広大である。 2007年、日本の地質百選に「阿蘇」として選定された。2009年(平成21年)10月には、カルデラ内外の地域で、巨大噴火の歴史と生きた火口を体感できる「阿蘇ジオパーク」として日本ジオパーク、世界ジオパークに認定されている。「日本百名山」の一座としても取り上げられている。また、阿蘇くじゅう国立公園にも含まれる。
{{山系 |名称 = 阿蘇山 |画像=20140516阿蘇山広域.jpg |画像キャプション =阿蘇山空撮(2014年5月) |所在地 = {{JPN}} [[熊本県]] | 緯度度 = 32 | 緯度分 = 53 | 緯度秒 = 3 | 経度度 = 131 |経度分 = 6 | 経度秒 = 14 |上位山系 = |最高峰 = [[高岳 (阿蘇山)|高岳]] |標高 = 1,592 |延長 = |幅 = |種類 = [[複成火山]] ([[活火山]]ランクA) |地図 = {{Location map|Japan Kyushu#Japan Kumamoto Prefecture|width=280|float=center|mark=Montanya.svg|marksize=12|caption=|position=top|relief=1|label=}}阿蘇山の位置 }} '''阿蘇山'''(あそさん、あそざん)は、[[日本]]の[[九州]]中央部、[[熊本県]]阿蘇地方に位置する[[火山]]。[[カルデラ]]を伴う大型の[[複成火山]]であり、[[活火山]]である。 阿蘇火山は、[[カルデラ]]と[[中央火口丘]]で構成され、[[高岳 (阿蘇山)|高岳]]、[[中岳_(阿蘇山)|中岳]]、[[根子岳 (熊本県)|根子岳]]、[[烏帽子岳 (熊本県)|烏帽子岳]]、[[杵島岳]]が阿蘇五岳と呼ばれている。 最高点は[[高岳 (阿蘇山)|高岳]]の[[標高]]1592m。カルデラは南北25km、東西18kmに及び([[屈斜路湖]]に次いで日本では第2位)面積380km<sup>2</sup>と広大である<ref>[https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/aso/text/exp04-1.html 第四紀火山 活火山 阿蘇] 産業技術総合研究所 阿蘇火山地質図</ref><ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E8%98%87%E5%B1%B1-25718|title=コトバンク - 阿蘇山(読み)あそさん|accessdate=2020-1-23}}</ref>。 2007年、[[日本の地質百選]]に「阿蘇」として選定された。2009年(平成21年)10月には、[[カルデラ]]内外の地域で、巨大噴火の歴史と生きた火口を体感できる「[[阿蘇ジオパーク]]」として[[日本ジオパーク]]、[[世界ジオパーク]]に認定されている。「[[日本百名山]]」の一座としても取り上げられている<ref>{{Cite book|和書 |ref=日本百名山(1964) |author=深田久弥 |title=日本百名山 |year=1964 |month= |publisher=[[新潮社]]}}、[[ASIN]] B000JAFKT2。(改訂1991年。ISBN 4103184051)、([[新潮文庫]] 1978年、ASIN B000J8KTOU。)、(改版2003年。ISBN 4101220026。)</ref>。また、阿蘇くじゅう国立公園にも含まれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/park/aso/|title=阿蘇くじゅう国立公園|accessdate=2021/11/28|publisher=環境省}}</ref>。 == 概要 == [[File:Mt.Aso and caldera01.jpg|thumb|外輪山の大観峰から見たカルデラと阿蘇五岳]] 阿蘇山は、世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持ち<ref name=aso.gsi.go>{{PDFlink|[http://www1.gsi.go.jp/geowww/Volcano/map/condition-map/booklet/pdf/13_booklet_aso.pdf 阿蘇山] 国土地理院}}</ref>、「火の国」熊本県のシンボル的な存在として親しまれている。[[火山活動]]が平穏な時期には[[火口]]に近づいて見学できるが、活動が活発化したり、[[有毒ガス]]が発生した場合は火口付近の立入りが規制される。 阿蘇山のカルデラ内部に出来た中央火口丘群のうち、その中核を成しほぼ東西に一列に並ぶ根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰を'''阿蘇五岳'''(あそごがく)と呼ぶ<ref name="ganko1929.11.274">河野義禮、[https://doi.org/10.2465/ganko1929.11.274 昭和七八年の阿蘇火山活動概況] 岩石礦物礦床學 Vol.11 (1934) No.6 P.274-282, {{doi|10.2465/ganko1929.11.274}}</ref>。北側の[[阿蘇谷]]方面から阿蘇五岳を見た姿は、釈迦が寝ている姿を表した[[涅槃像]]に似ていると言われている<ref>{{cite news |url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP576RWJP53TLVB006.html|title= 田植え前の絶景「逆さ涅槃」 水鏡に映る阿蘇五岳|publisher=朝日新聞|author=城戸康秀|date=2021/5/8|accessdate=2021/11/28}}</ref>。阿蘇五岳の中央に位置する[[噴火口]]のある山が中岳、最高峰が高岳、ギザギザの山が根子岳である。各山の山頂付近は[[九重山|九重連山]]や[[雲仙岳]]と並ぶ[[ミヤマキリシマ]]の一大群生地となっており、最盛期には南郷谷から烏帽子岳の斜面がピンクに染まる山肌を見ることができる。根子岳は地層調査によって他の山よりも古くからある山であることが分かり、カルデラ形成前からあったものであると推定されている。阿蘇山の南麓には名水として知られる[[白川水源]]がある<ref>島野安雄、[https://doi.org/10.5917/jagh1987.30.177 名水を訪ねて (3) 熊本県の4名水] 地下水学会誌 Vol.30 (1988) No.3 p.177-184_1, {{doi|10.5917/jagh1987.30.177}}</ref>。 阿蘇山は外輪山の内側を中心として[[阿蘇くじゅう国立公園]]に指定されており、温泉や観光・レジャースポットが点在する有数の観光エリアとなっている。夏になると多くのライダーが[[ツーリング (オートバイ)|ツーリング]]に訪れる。 噴火時の[[災害]]対策として、中岳火口周辺には[[シェルター|退避壕]]が9つ建てられている<ref>[http://www.kyusanko.co.jp/aso/lookaround.php 阿蘇山ロープウェー]</ref>。 == 名称 == 「あそ」は[[アイヌ語]]で火を噴く山の意味で山名の由来とする説がある<ref name="design">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000213066.pdf|title=阿蘇地域振興デザインセンター|publisher=国土交通省|accessdate=2020-07-07}}</ref>。また、漢字の阿蘇山の「阿」は原点、「蘇」は蘇生復活を意味し、原点に返り復活する場所の意味とする説がある<ref name="design" />。 == 地形 == [[File:Aso Caldera 3D 2012.jpg|thumb|阿蘇カルデラの地形図]] [[File:Aso Caldera, Central Cone.jpg|thumb|中央火口丘の地形図]] === 山 === 最高峰の[[高岳 (阿蘇山)|高岳]](1,592.3m)を始めとする[[中岳 (阿蘇山)|中岳]](1,506m)、[[根子岳 (熊本県)|根子岳]](1,408m)、[[烏帽子岳 (熊本県)|烏帽子岳]](1,337m)、[[杵島岳]](1,270m)の阿蘇五岳の他、[[往生岳 (熊本県)|往生岳]](1,235m)などを含む1,000m級の山が連なる。烏帽子岳山頂には[[三角点|一等三角点]]「西烏帽子岳」、高岳山頂には三等三角点「高岳」、根子岳山頂東側の尾根には二等三角点「根子岳」が設置されている<ref>[http://sokuservice1.gsi.go.jp/ 国土地理院 基準点成果等閲覧サービス]</ref>。 <div style="font-size:80%;"> <!-- 火山地形の解説表です 標高や三角点、○○からの距離などは必要ありません --> {| class="wikitable" style="text-align:left" !名称 !! 種類 !! 形成時期 !! 備考 |- | [[中岳 (阿蘇山)|中岳]] || 成層火山 || || 中央火口丘の最高峰。7つの火口を持ち現在活動中の火山 |- | [[高岳 (阿蘇山)|高岳]] || 成層火山<ref name="gsj text">[https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/aso/text/exp04-2.html 日本の火山 阿蘇火山地質図] - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター、2016年4月閲覧</ref> || || 鷲ヶ峰火山の上に載る小型の成層火山<ref name="gsj text"/> |- | [[烏帽子岳 (熊本県)|烏帽子岳]] || 成層火山<ref name="gsj text"/> || || |- | [[草千里ヶ浜]] || 軽石丘<ref name="gsj text"/> || 約27,000年前<ref name="hayakawa imura">早川由紀夫、井村隆介、[https://doi.org/10.18940/kazan.36.1_25 阿蘇火山の過去8万年の噴火史と1989年噴火] 火山 1991年 36巻 1号 p.25-35, {{doi|10.18940/kazan.36.1_25}}</ref>|| 二重の火口<ref name="geopark">[http://www.aso-geopark.jp//geosites/geosites.html 阿蘇のジオサイト紹介以下] - 阿蘇ジオパーク、2016年4月閲覧</ref> |- | [[杵島岳]] || [[スコリア丘]] || 約4,000年前<ref name="souran">{{PDF|[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/84_Asosan.pdf 日本活火山総覧(第4版)Web掲載版 阿蘇山]}} - 気象庁、2016年4月閲覧</ref> || |- | 往生岳 || スコリア丘<ref name="gsj text"/> || 約3,600年前<ref name="jma Asosan">[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/503_Asosan/503_index.html 阿蘇山] 気象庁、2016年4月閲覧</ref> || |- | [[#米塚|米塚]] || スコリア丘<ref name="jma Asosan"/> || 約3,300年前 || 基底直径約380m、比高約80m<ref name="geopark"/> |- | 蛇ノ尾 || スコリア丘<ref name="souran"/> || 4,900-4,100年前<ref>{{Cite journal |date=2017 |doi=10.18940/kazan.62.1_1 |url=https://doi.org/10.18940/kazan.62.1_1 |title=阿蘇カルデラ北西部,蛇ノ尾火山の噴出物と噴火年代 |author=宮縁 育夫 |accessdate=2019-03-02 |journal=火山 |volume=62 |issue=1 |pages=1-12}}</ref> || 米塚の溶岩流で大部分を埋められる<ref name="gsj text"/> |- | 楢尾岳 || 成層火山<ref name="gsj text"/> || || 北西に開いた馬蹄形の火口地形がある<ref name="gsj text"/> |- | 御竈門山 || 成層火山<ref name="gsj text"/> || || 長径800mの東北東に開く馬蹄形火口がある<ref name="gsj text"/> |- | 夜峰山 || 火砕丘<ref name="gsj text"/> || || 現在の山体は火砕丘の南半部にあたる<ref name="gsj text"/> |- | 池の窪 || タフリング<ref name="geopark"/> || 1万年より古い<ref name="geopark"/> || 夜峰山の北側にある<ref name="geopark"/> |- | [[根子岳 (熊本県)|根子岳]] || 成層火山<ref name="gsj text"/> || 約15万年前<ref name="gsj text"/> || 中央火口丘の他の火山より古く、Aso-4の大噴火前の火山(Aso-3よりも古い)<ref name="gsj text"/> |} </div> === 中央火口丘群 === 「阿蘇山」は、狭義にその中央火口丘群である根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳の5峰の総称を指すこともある。最高地点は高岳の1,592メートルで、「ひごくに([[肥後国]])」の語呂合わせで覚えられる。中岳の火口は現在も噴煙を上げ続け時々噴火する活火山で、火口西側まで道路([[阿蘇山公園道路]])が通じている。 <gallery widths="200px" heights="200px" class="center"> Mount-Aso-Naka-dake.jpg|中岳火口 2009年 Mt Aso from Minamiaso Hisaishi.JPG|南阿蘇村から見た中央火口丘群 20140516阿蘇山火口.jpg|中央火口丘拡大空撮 </gallery> === 阿蘇カルデラ === [[File:Edge of Aso caldera.jpg|thumb|カルデラ壁]] {{main|阿蘇カルデラ}} 阿蘇カルデラは、27万年前から9万年前に発生した4回の巨大カルデラ噴火により形成されたカルデラ地形である。その大きさは日本で2番目で、1位は[[北海道]]の[[屈斜路湖|屈斜路カルデラ]]である。また3位は鹿児島県の[[桜島]]の北にある[[姶良カルデラ]]である。阿蘇山は火口湖も海もなく、カルデラの中に立って周囲の外輪山を見渡すことができる。カルデラを取り囲む外輪山も阿蘇火山に含まれ、東西約18キロメートル・南北約25キロメートルに及ぶ。カルデラを見下ろす大観峰などは、カルデラ噴火前の火山活動による溶岩とカルデラ噴火による[[火砕流]][[堆積物]]([[溶結凝灰岩]])で構成された山である。 カルデラ盆地は[[カルデラ#中央火口丘|中央火口丘]]によって南北に二分され、北は阿蘇谷、南は南郷谷と呼ばれる。阿蘇谷は[[阿蘇市]]に、南郷谷は[[阿蘇郡]][[高森町 (熊本県)|高森町]]および[[南阿蘇村]]に属する。阿蘇谷には、[[熊本駅|熊本]]と[[大分駅|大分]]を結ぶ[[九州旅客鉄道|JR]][[豊肥本線]]が通る。南郷谷には豊肥本線立野駅から分岐する第三セクター[[南阿蘇鉄道]]が走る。カルデラ内は湧き水が豊富で平坦な地形が開け、農業生産に適しており、古くから人が住み集落を形成していた。7世紀の中国の歴史書『[[隋書]]([[隋書倭国伝]])』や『[[北史]]([[北史倭国伝]])』にも「阿蘇山」の名が見え、火を噴き上げる山として知られていた。 === 火砕流台地の範囲 === 9万年前の巨大カルデラ噴火による噴出物は384 [[立方キロメートル|km<sup>3</sup>]] DRE(見かけ体積600km<sup>3</sup>、ほぼ富士山の山体全部の大きさ)に達し、火砕流は九州の半分を覆ったと推定されている。特に厚く堆積した地域では[[火砕流台地]]となって残っている。この台地は九州中央部に広く分布し、緩やかに波打つ平原を形作っている。周辺自治体の熊本県高森町東南部、熊本県[[山都町]]北部一帯のほか、隣県の宮崎県[[五ヶ瀬町]]北部や、同県[[西臼杵郡]][[高千穂町]]、[[大分県]][[竹田市]]などもその中に入る。 == 気候 == {{節スタブ}} {{climate chart|阿蘇山 |-4.6|1.7|93.2 |-3.6|3.5|130.0 |-0.4|7.6|224.4 |4.9|13.1|237.7 |9.6|17.3|294.4 |13.9|19.9|634.6 |17.7|23.0|669.7 |18.0|23.9|318.9 |14.8|21.0|287.6 |8.8|16.0|131.3 |3.5|10.4|111.1 |-2.0|4.5|74.3 |float=right |clear=both |source=[https://www.jma.go.jp/jma/ 気象庁] }} 平野部と同じく[[太平洋側気候]]だが、[[西岸海洋性気候]](Cfb)に属し(阿蘇市街地などの大部分は[[温暖湿潤気候]])、概ね北海道道南から[[東北地方]]北部にかけての[[太平洋]]沿岸の気候に似ており、夏季冷涼・冬季厳寒である。中岳西側の阿蘇山上([[露場]]の標高1142.3m、[[北緯]]32°52.8′、[[東経]]131°04.4′)では1931年11月から地上気象観測が行われてきた。1939年11月には阿蘇山測候所となったが2009年10月に測候所は廃止された。以後は、阿蘇山特別地域気象観測所として自動観測が行われていたが、2017年12月11日14時をもって観測所は廃止された。 年間平均気温は9.9℃で、九州の他地域と比べると大幅に低く、東北地方の大半の都市と比較しても低い値となっている。[[降水量]]は年間降水量で3206.2mmと大変多く、特に6月から7月にかけての[[梅雨]]の時期は土砂降りの[[大雨]]が続き、その豊富な雨水は大地を潤し、県の[[地下水]]資源ともなっている。 冬の訪れは、九州としてはかなり早く{{要出典範囲|9月末から10月にかけて[[初氷]]・[[初霜]]が観測され|date=2014年5月}}、11月初頭から中旬頃にかけて[[初雪]]を観測し、12月以降は本格的な冬となる。真冬になると気温は-10℃未満の日も珍しくなく、強い[[冬型の気圧配置]]になった場合は、山頂は-15℃程度まで低下する<ref name="JMA_rank">[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=86&block_no=47821&year=&month=&day=&view=a2 阿蘇山 観測史上1〜10位の値] 気象庁</ref>。最高気温0℃以下の[[真冬日]]は26日程度である<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=86&block_no=47821&year=&month=&day=&view=a2 阿蘇山 平年値]気象庁</ref>。ただし、[[中国地方]]以東の山とは異なり[[根雪]]とはならず、近年では積雪は多くても100cmを超えることは無く、[[豪雪地帯]]には指定されていない。[[春]]の訪れも九州としては遅く、4月に入っても[[降雪]]や[[積雪]]を観測することがある。夏は標高が1,000メートル以上と高いため、これまで[[真夏日]]や[[猛暑日]]を観測したことは観測史上一度も無い。(最高気温の記録は2016年8月11日に観測された29.8℃<ref name="JMA_rank"/>。)また、[[避暑地]]としても利用できる。朝は最低気温が盛夏でも20℃未満となる日が多いが、15℃未満となる日は少ない。 {{Weather box |location = 阿蘇山特別地域気象観測所(標高1142.3m) |metric first = yes |single line = yes |Jan record high C = 16.0 |Feb record high C = 16.6 |Mar record high C = 19.3 |Apr record high C = 23.8 |May record high C = 26.0 |Jun record high C = 27.2 |Jul record high C = 29.6 |Aug record high C = 29.8 |Sep record high C = 28.0 |Oct record high C = 25.1 |Nov record high C = 20.7 |Dec record high C = 15.8 |Jan high C = 1.7 |Feb high C = 3.5 |Mar high C = 7.6 |Apr high C = 13.1 |May high C = 17.3 |Jun high C = 19.9 |Jul high C = 23.0 |Aug high C = 23.9 |Sep high C = 21.0 |Oct high C = 16.0 |Nov high C = 10.4 |Dec high C = 4.5 |Jan mean C = -1.5 |Feb mean C = -0.2 |Mar mean C = 3.4 |Apr mean C = 8.8 |May mean C = 13.3 |Jun mean C = 16.7 |Jul mean C = 20.0 |Aug mean C = 20.4 |Sep mean C = 17.5 |Oct mean C = 12.1 |Nov mean C = 6.7 |Dec mean C = 1.2 |year mean C = 9.9 |Jan low C = -4.6 |Feb low C = -3.6 |Mar low C = -0.4 |Apr low C = 4.9 |May low C = 9.6 |Jun low C = 13.9 |Jul low C = 17.7 |Aug low C = 18.0 |Sep low C = 14.8 |Oct low C = 8.8 |Nov low C = 3.5 |Dec low C = -2.0 |Jan record low C = -15.4 |Feb record low C = -15.9 |Mar record low C = -13.1 |Apr record low C = -7.6 |May record low C = -1.0 |Jun record low C = 5.5 |Jul record low C = 9.8 |Aug record low C = 10.5 |Sep record low C = 4.5 |Oct record low C = -4.0 |Nov record low C = -7.7 |Dec record low C = -13.0 |Jan precipitation mm = 93.2 |Feb precipitation mm = 130.0 |Mar precipitation mm = 224.4 |Apr precipitation mm = 237.7 |May precipitation mm = 294.4 |Jun precipitation mm = 634.6 |Jul precipitation mm = 669.7 |Aug precipitation mm = 318.9 |Sep precipitation mm = 287.6 |Oct precipitation mm = 131.3 |Nov precipitation mm = 111.1 |Dec precipitation mm = 74.3 |year precipitation mm = 3206.2 |Jan snow cm = 47 |Feb snow cm = 37 |Mar snow cm = 17 |Apr snow cm = 2 |May snow cm = - |Jun snow cm = - |Jul snow cm = - |Aug snow cm = - |Sep snow cm = - |Oct snow cm = - |Nov snow cm = 2 |Dec snow cm = 22 |year snow cm = 128 |Jan humidity = 83 |Feb humidity = 80 |Mar humidity = 78 |Apr humidity = 73 |May humidity = 76 |Jun humidity = 84 |Jul humidity = 90 |Aug humidity = 87 |Sep humidity = 85 |Oct humidity = 79 |Nov humidity = 79 |Dec humidity = 81 |year humidity = 81 |Jan sun = 95.3 |Feb sun = 111.9 |Mar sun = 132.9 |Apr sun = 160.6 |May sun = 161.9 |Jun sun = 114.3 |Jul sun = 116.8 |Aug sun = 141.3 |Sep sun = 126.0 |Oct sun = 152.6 |Nov sun = 123.8 |Dec sun = 113.5 |year sun = 1550.9 |source = [https://www.jma.go.jp/jma/ 気象庁] }} == 火山史 == [[File:Mt.Aso crater.jpg|250px|thumb|中岳の第一火口]] 約600万年前から35万年前の活動が報告されている<ref name="geosoc.115.658">古川邦之 ほか、[https://doi.org/10.5575/geosoc.115.658 阿蘇カルデラ北西壁に分布する先阿蘇火山岩類の地質学・岩石学的研究:先カルデラ火山活動における噴火活動とマグマ供給系] 地質学雑誌 Vol.115 (2009) No.12 P.658-671, {{doi|10.5575/geosoc.115.658}}</ref>、しかしそのほとんどの活動は、約85万年前より新しい活動による<ref name="geosoc.115.658"/>。一方、過去1万年間に活動した火山と噴出物は、蛇ノ尾スコリア丘、赤水溶岩、杵島岳(約4000年前)と往生岳(約3600年前)、米塚(約3300年前)と中岳などである<ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/503_Asosan/503_index.html 阿蘇山] 気象庁 2020年2月11日閲覧</ref>。 活動の様式から、カルデラ形成以前の'''先カルデラ火山活動期'''の先阿蘇火山群、カルデラ噴火を繰り返す'''カルデラ形成期'''、カルデラ噴火以降の中央火口丘群の活動が中心となった'''後カルデラ火山活動期'''と3つに分けられる<ref name="geosoc.115.658"/>。なお、爆発的噴火が特徴であり高野尾羽根溶岩<ref>古川邦之、鎌田浩毅、[https://doi.org/10.18940/vsj.2004.0_168 流紋岩溶岩流の内部構造 : 阿蘇カルデラ内,高野尾羽根溶岩の例] 日本火山学会講演予稿集 セッションID:P58 2004, 168, 2004-10-19, {{doi|10.18940/vsj.2004.0_168}}</ref>等を見出す事が出来るが、溶岩流を流出させる活動は少ない。 === 先阿蘇火山群 === [[File:古閑の滝.jpg|thumb|160px|先阿蘇火山の溶岩崖を流れる[[古閑の滝]]]] 30万年以上前に現在の外輪山などを形成した火山群の比較的小規模の活動があった<ref name="geosoc.115.658"/>。阿蘇カルデラ外輪山北西部にある[[鞍岳]]・[[ツームシ山]]はこの先阿蘇火山群のひとつである。なお、これらの火山群はカルデラの下に埋没している<ref name="jgeography.113.3_425">長岡信治、奥野充、[https://doi.org/10.5026/jgeography.113.3_425 阿蘇火山中央火口丘群のテフラ層序と爆発的噴火史] 地学雑誌 Vol.113 (2004) No.3 P.425-429, {{doi|10.5026/jgeography.113.3_425}}</ref>。 === カルデラ形成期 === 先阿蘇火山岩類の最後の活動とされる坂梨流紋岩(45~40万年前)から約20~10万年間の休止期を挟んで、'''阿蘇火山'''が活動を開始した。なお休止期にも土壌には風化したスコリアが挟まれることから何らかの火山活動はあったと考えられるが、詳細は不明である<ref name="Tajima">{{Cite journal |date=2017 |doi=10.18940/kazan.62.4_177 |url=阿蘇火山,Aso-1火砕流堆積物に関する新知見とAso-1噴火に先駆けて噴出した古閑溶岩 |author=田島靖久, 星住英夫, 松本哲一, 廣田明成, 小屋口剛博 |journal=火山 |volume=62 |issue=4 |pages=177-188 |accessdate=2018-04-25}}</ref>。 約27万年前から9万年前までに[[破局噴火|大規模な噴火]]が4回 (Aso-1~4) あった。大量の火山礫や[[火山灰]]を噴出したため、広範囲に火砕流を到達させ火口の周囲に[[火砕流台地]]と巨大な窪地(カルデラ)が形成された。Aso-1~4いずれも噴出物の全岩化学組成が珪長質から苦鉄質へと変化する堆積物を有している<ref name="Tajima"/>。 * Aso-1 : 26.6±1.4万年前<ref name="kasai">[http://sakura1.higo.ed.jp/ws/kchigaku/hp/aso/zu/kasai.htm 阿蘇火砕流] 熊本県高等学校教育研究会 地学部会</ref>、噴出量 32 DRE km{{sup|3}}<ref name="52Aso">{{PDFlink|[https://www.gsj.jp/data/openfile/no0613/52Aso.pdf 阿蘇カルデラ] 産総研}}</ref>。 * Aso-2 : 14.1±0.5万年前<ref name="kasai"/>、噴出量 32 DRE km{{sup|3}}<ref name="52Aso"/>。 * Aso-3 : 12.3±0.6万年前<ref name="AN10565818"/>、噴出量 96 DRE km{{sup|3}}<ref name="52Aso"/>。 * Aso-4 : 8.64±0.11万年前([[年縞#水月湖の年縞|SG06]])<ref>{{cite journal |doi=10.1016/j.quageo.2019.01.005 |author=Albert et al. |date=2019 |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1871101418300967 |title=Geochemical characterisation of the Late Quaternary widespread Japanese tephrostratigraphic markers and correlations to the Lake Suigetsu sedimentary archive (SG06 core) |journal=Quaternary Geochronology |volume=52 |issue= |pages=103-131 |accessdate=2020-10-16}}</ref>・8.8±0.1万年前([[海洋酸素同位体ステージ|MIS]]5.2)<ref>{{cite journal |doi=10.1016/j.quaint.2017.10.016 |author=Tsuji et al. |date=2018 |title=High resolution record of Quaternary explosive volcanism recorded in fluvio-lacustrine sediments of the Uwa basin, southwest Japan |journal=Quaternary International |volume=471 |issue=B |pages=278-297 |accessdate=2020-12-19}}</ref>、見かけ噴出量930 - 1,860 km{{sup|3}}<ref>{{cite journal |doi=10.3389/feart.2020.00170 |author1=Shinji Takarada |author2=Hideo Hoshizumi |date=2020 |url=https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/feart.2020.00170/full |title=Distribution and Eruptive Volume of Aso-4 Pyroclastic Density Current and Tephra Fall Deposits, Japan: A M8 Super-Eruption |journal=Frontiers in Earth Science |volume=8 |issue=170 |accessdate=2020-10-16}}</ref>。 その中でも4回目の噴火 であるAso-4 (約9万年前) は最も規模が大きく噴出量は約600立方kmを越えており<ref>高橋正樹「破局噴火」祥伝社新書126 p68</ref>{{efn|噴火による堆積物の見かけの量である噴出量は、火山灰や軽石などの比重が軽い噴出物が多い場合、DRE(マグマ噴出量)より大きな値となる。}}、火砕流は[[九州地方|九州]]中央部を覆い一部は海を越え山口県[[秋吉台]]まで達し<ref>藤井純子ほか、[https://doi.org/10.4116/jaqua.39.227 山口県に分布する阿蘇4テフラの古地磁気方位] 第四紀研究 Vol.39 (2000) No.3 P.227-232, {{doi|10.4116/jaqua.39.227}}</ref>、火山灰は日本海海底、北海道まで達した<ref>町田洋 ほか、[https://doi.org/10.18940/kazanc.30.2_49 阿蘇 4 火山灰 : 分布の広域性と後期更新世示標層としての意義] 日本火山学会 火山 1985年 30巻 2号 p.49-70, {{doi|10.18940/kazanc.30.2_49}}</ref>。朝鮮半島でも確認されている<ref>国立天文台編:理科年表 平成20年度版(2007年) 丸善 p688 「日本列島およびその周辺地域の第4紀後期広域カルデラ」より</ref>。約9万年前に起きたこの噴火は「ウルトラ[[プリニー式噴火]]([[破局噴火]])」であったといえる。阿蘇3テフラ<ref name="AN10565818">下山正一、[http://portal.dl.saga-u.ac.jp/handle/123456789/13789 低平地地下における阿蘇3火砕流堆積物(Aso-3)の年代について] 佐賀大学低平地防災研究センター編 低平地研究 Vol.10 p.31-38</ref>、阿蘇4テフラの火山灰でできた地層を見つければ年代を特定でき、植物学、考古学など様々な研究分野で重要な指標堆積物として使われている。 === 後カルデラ火山活動期 === [[File:Aso-4 tephra 90-85ka.svg|thumb|200px|阿蘇4火砕流と阿蘇4テフラの広がり。火砕流は九州のほぼ全域に達し、火山灰は九州から北海道南部の広範囲で15cm以上堆積している。]] 中央火口丘群の高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳は、前述4回目の巨大カルデラ噴火後に活動した火山。中岳は現在でも活発な活動している。根子岳は4回目の巨大カルデラ噴火よりも古いと推定されている。 後カルデラ火山の活動を研究した長岡ら(2004)<ref>[https://doi.org/10.5026/jgeography.113.3_425 阿蘇火山中央火口丘群のテフラ層序と爆発的噴火史] 地学雑誌 Vol.113 (2004) No.3 P.425-429, {{doi|10.5026/jgeography.113.3_425}}</ref>は、活動を幾つかのステージに分類した。 * 8万年前 : 阿蘇-4火砕流噴出直後から始まる「高森ステージ」では、[[プリニー式噴火]]、マグマ水蒸気噴火。 * 年代不明 : 「桜町ステージ」はマグマ水蒸気噴火が特徴で、[[古阿蘇湖]]、[[久木野湖]]が存在していた時代。 * 5万年前から3万年前 : 「荻ステージ」では降下軽石・スコリア・火山灰・岩片など変化に富んだ噴出物をもたらす噴火で、プリニー式噴火、[[サブプリニー式噴火]]、[[ブルカノ式噴火]]などの各種の噴火が交互に起きた。高野尾羽根溶岩を噴出した活動も該当する。 * 3万年から1万5千年前 : 「波野ステージ」では高岳や中岳火山古期山体からサブプリニー式噴火、プリニー式噴火。 * 1万5千年前以降 : 「一の宮ステージ」では中岳火山古期および新期山体からのブルカノ式噴火で、それ以前の活動と比較すると比較的小規模。 === 有史以後の主な活動 === 主に[[中岳 (阿蘇山)|中岳]]を中心に6世紀ころから頻繁な活動が記録されており、日常的に土砂噴出、赤熱現象、噴火が観測されている <ref>大森房吉、[https://doi.org/10.5026/jgeography.32.116 阿蘇山噴火概表] 地学雑誌 Vol.32 (1920) No.3 P.116-124, {{doi|10.5026/jgeography.32.116}}</ref><ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/503_Asosan/503_history.html 阿蘇山 有史以降の火山活動] 気象庁 2020年2月11日閲覧</ref>。 [[ファイル:Erupting Asosan, April 1953.JPG|150px|thumb|中岳噴火(1953年4月)]] <!--File:Mount Nakadake from East Hill of Kusasenrigahama.JPG|噴気を上げる中岳 2014年--><!-- 噴煙と噴灰は違うので注意--> [[File:Aso Nakadake 20150920 from Kusasenri.JPG|thumb|噴煙を上げる中岳(2015年9月)]] 記録に残る顕著な活動は、以下のとおりである。 * [[1274年]]([[文永]]11年) 噴石、降灰のため、田畑荒廃。 * [[1558年]]から[[1559年]] ([[永禄]]元年から2年)新火口生成。 * [[1772年]]から[[1780年]] ([[安永]]年間)降灰のため、農作物の被害。 * [[1816年]]([[文化 (元号)|文化]]13年) 水蒸気噴火。噴石で死亡1名 * [[1854年]]([[安政]]元年) 2月26日の噴火により、[[参拝]]者3人死亡。 * [[1872年]]([[明治]]5年) 12月30日の噴火により。[[硫黄]]採掘者が数名死亡。 * [[1884年]](明治17年) 中央火口の最北部に新火口生成。 * [[1929年]]([[昭和]]4年) 降灰多量、農作物、牛馬被害。 * [[1932年]](昭和7年) 空振のため阿蘇山測候所窓ガラス破損。12月18日火口付近で負傷者13名。 * [[1933年]](昭和8年) 第二、第一火口の活動活発化。直径1m近い赤熱噴石が高さ、水平距離とも数百m飛散。 * [[1953年]](昭和28年) 第一火口から噴出した噴石で、[[修学旅行]]中の[[大阪府立桜塚高等学校]]の男子生徒1名を含む[[観光客]]死者6名、負傷者90余名<ref>{{Cite web|和書|url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/30/|title=阿蘇山噴火で死傷者多数 - Yahoo!天気・災害 - Yahoo! JAPAN|publisher=[[Yahoo!]] JAPAN|language=日本語|accessdate=2020-11-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sakura-showakai.net/about/history.html |title=尚和会について - 沿革 - 大阪府立桜塚高等学校 尚和会 同窓会サイト|publisher=[[大阪府立桜塚高等学校]][[同窓会]]尚和会|accessdate=2020-11-06 }}</ref>。 * [[1958年]](昭和33年) 第一火口からの噴出物で山腹一帯に多量の降灰砂、死者12名、負傷者28名。 * [[1975年]](昭和50年)1〜6月。前年8月から噴火断続、火口周辺に降灰。1月下旬に地震群発、震源は阿蘇カルデラ北部、最大地震は1月23日23:19、M6.1、阿蘇山測候所で震度5。 * [[1979年]](昭和54年) 楢尾岳周辺で死者3名、重傷2名、軽傷9名、火口東駅舎被害。 * [[1980年]](昭和55年)1月26日、爆発的噴火<ref name="名前なし-1">[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/fukuoka/2016y/503_16y.pdf 火山活動解説資料(阿蘇山) 平成28 年(2016 年)の阿蘇山の火山活動 気象庁]</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年) 降灰多量で農作物に被害。 * [[2007年]](平成19年) 噴火警戒レベル1<ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20071201101611_503.html 噴火予報(阿蘇山)平成19年12月1日10時16分] 気象庁</ref> * [[2011年]](平成23年) [[東北地方太平洋沖地震]]以降、火口北西側10km付近の地震活動が一時的に増加。 * [[2014年]](平成26年) 噴火警戒レベル2<ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20140830094011_503.html 噴火警報(火口周辺)(阿蘇山)平成26年8月30日9時40分]気象庁</ref> * [[2015年]](平成27年)9月14日 9時43分、中岳第一火口より噴火<ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VG20150914095005_503.html 噴火に関する火山観測報(阿蘇山噴火)] 2015年09月14日09時50分発表 気象庁</ref>。噴石及び噴煙(上空2,000m)の発出が確認されたため、噴火警戒レベル3<ref>[https://www.jma.go.jp/jp/volcano/forecast_05_20150914101100.html 阿蘇山 噴火警報(火口周辺)平成27年9月14日10時10分] 福岡管区気象台 (気象庁)</ref>。 * [[2016年]](平成28年)4月16日 午前8時半頃から約10時間、中岳第一火口でごく小規模の噴火。[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]の強い揺れにより火口壁が崩落、崩れた土砂が火山ガスや蒸気で噴き上げられたとみられている<ref>{{cite news |authorl=|title=阿蘇山噴火は土砂崩れ噴き上げか 京大火山研が現地調査|http://www.nishinippon.co.jp/nnp/science/article/239548|newspaper=[[西日本新聞]] |date=2016-04-19|accessdate=2016-04-20}}</ref>。 * 2016年(平成28年)10月8日 午前1時46分ごろ、海抜高度11,000mに達する噴煙を上げる[[爆発的噴火]]が発生した。爆発的噴火は1980年1月26日以来の発生であり<ref name="名前なし-1"/><ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/activity_info/503.html 阿蘇山の活動状況] 気象庁</ref>、噴火警戒レベルを2(火口周辺規制)から3(入山規制)に引き上げ<ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20161008015509_503.html 火山名 阿蘇山 噴火警報(火口周辺)] 平成28年10月8日01時55分 福岡管区気象台</ref>。 * [[2019年]](平成31年) **3月29日 11時00分 中岳第一火口から噴火の可能性低下により、噴火警戒レベルを2(火口周辺規制)から1(活火山であることに留意)に引下げ<ref>{{Cite web|和書|work=福岡管区気象台|date=2019-3-29|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20190329110000_503.html|title=火山名 阿蘇山 噴火予報:警報解除|publisher=気象庁|accessdate=2019-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190416110404/https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20190329110000_503.html|archivedate=2019-04-16}}</ref>。 **4月14日 14時30分 火山性微動の振幅増加により噴火警戒レベルを2(火口周辺規制)に引き上げ<ref>{{Cite press release|和書|title=阿蘇山の噴火警戒レベルを2へ引上げ|publisher=気象庁|date=2019-04-14|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1904/14a/asosan190414.html|language=ja|accessdate=2019-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190416105151/https://www.jma.go.jp/jma/press/1904/14a/asosan190414.html|archivedate=2019-04-16}}</ref>。 **4月16日 18時28分 中岳第一火口噴火確認 噴煙高度推定200m 気象庁発表{{Refnest|{{Cite web|和書|work=福岡管区気象台 |date=2019-04-16 |url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VK20190416185500_503.html |title=火山名 阿蘇山 火山の状況に関する解説情報 第49号|publisher=気象庁|accessdate=2019-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190416110313/https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VK20190416185500_503.html |archivedate=2019-04-16}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/activity_info/503.html |title=火山活動の状況(阿蘇山)|publisher=気象庁 |accessdate=2019-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190416110020/https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/activity_info/503.html |archivedate=2019-04-16}}</ref>}}<ref>{{Cite news|date=2019-04-16|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190416/k10011886171000.html|title=阿蘇山に噴火速報 気象庁|publisher=[[日本放送協会]]|website=NHK NEWSWEB|accessdate=2019-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190416101246/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190416/k10011886171000.html|archivedate=2019-04-16}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年) **10月20日 11時43分 中岳第一火口で噴火が発生。この噴火に伴い、火砕流が西の草千里方面へ1.3km流れ下った。噴火警戒レベルを3に引き上げ<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jma.go.jp/bosai/volcano/#type=warning&event_id=503|title=阿蘇山 噴火警報(火口周辺) 2021年10月20日11時48分 福岡管区気象台発表 |publisher=気象庁|date=2021-10-20|accessdate= 2021-10-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASPBT730ZPBTTIPE01N.html|title=阿蘇山、再び噴火の恐れ「20日と同程度」気象台が警戒呼びかけ|publisher=朝日新聞|date=2021/10/25|accessdate=2021/12/04}}</ref><ref>{{cite news|url= https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE209E30Q1A021C2000000/|title=阿蘇山噴火、5年ぶりに火砕流 降灰周辺に|publisher=日本経済新聞|accessdate=2021/12/04|date=2021/10/20}}</ref>。 == 災害対策 == === 退避壕 === [[File:Aso 2007 (2082985167).jpg|thumb|退避壕]] 噴火時の[[災害]]対策として、[[シェルター|退避壕]]が中岳火口の1km圏内に13箇所建てられている<ref>『[https://www.bousai.go.jp/kazan/zyouhoutaiou/pdf/20070110siryo.pdf 噴火時等の対応事例]』<資料・[https://www.bousai.go.jp/kazan/zyouhoutaiou/kentokai2kai.html 第二回(平成19年1月10日)配布資料]> - [https://www.bousai.go.jp/kazan/zyouhoutaiou/ 火山情報等に対応した火山防災対策検討会]、P19</ref>。退避壕は[[鉄筋コンクリート]]で頑丈に出来ており、1つにつき30人収容可能である。1989年10月には噴火により多数の噴石が降り注いでいるが、破壊されておらず十分な耐久性をもつことが示されている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=p3_cBLliOcg#t=175 いのちを守る 熊本・阿蘇山の噴石への備えを取材しました。(14/10/01)]</ref>。 === 噴火警戒レベル === 福岡管区気象台は2007年12月より噴火警戒レベルを導入。中岳の第一火口は常時TVモニターで監視されている。平成19年4月以降は火山性ガス濃度が常時測定され、ガスの濃度により警報が発せられる<ref>[http://www.aso.ne.jp/~volcano/html/map_closeup.html 阿蘇火山西火口規制情報] 阿蘇火山防災会議協議会</ref>。危険濃度になった場合、観光目的での火口周囲への立ち入りが制限される。なお、阿蘇山に於ける噴火警戒レベルは他の火山と異なり、火口の赤熱が噴火と直結することが少ないため、レベル1と評価されている<ref name="kagiyama">鍵山恒臣、{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/001017617.pdf 阿蘇山] 国交省 日本の活火山(17)}}</ref>。 ===阿蘇山と原子力発電所=== 2017年12月13日、広島県の住民らが[[四国電力]][[伊方原子力発電所]]3号機の運転差し止めを求めた[[仮処分]]申請の[[即時抗告]]審にて、[[広島高等裁判所]]は[[原子力発電所]]から約130km離れた阿蘇山の9万年前の噴火規模を指摘し、噴火の危険性を理由に発電所の運転差し止めを決定した<ref>{{Cite web|和書|date= 2017-12-13|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24575630T11C17A2AM1000/|title= 伊方原発の運転差し止め 広島高裁が仮処分 |publisher= 日本経済新聞|accessdate=2018-03-20}}</ref>。一方、ほぼ同距離にある[[九州電力]][[玄海原子力発電所]]3号機、4号機について、佐賀県の住民らが運転差し止めを求めた仮処分申請では、2018年3月20日、[[佐賀地方裁判所]]は阿蘇山の地下に大規模な[[マグマだまり]]はないとして破局的噴火を否定、申し立てを却下している<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-03-20|url= https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/402540/|title= 玄海再稼働差し止め却下 佐賀地裁決定 阿蘇噴火の危険性認めず|publisher= |accessdate=2018-03-20}}</ref>。 == 観光 == {{Vertical_images_list|幅=220px|枠幅=220px|画像1=MountAsoRopeway.jpg|説明1=阿蘇山ロープウェーと烏帽子岳|画像2=Kusasenrigahama in Aso City 2007 0811 01.jpg|説明2=[[草千里ヶ浜]]の草原|画像3=|説明3=}} 阿蘇山は古くから信仰の対象とされ、修行・参詣の場所だったと考えられている。明治維新以前には、坊中からの経路が唯一の登山道であり、それ以外の経路は汚れを持ち込むとみなされた<ref name="kuroda">{{Cite journal|author=黒田乃生|title=阿蘇山の国立公園指定の経緯と観光登山の変遷|journal=ランドスケープ研究(オンライン論文集)|volume=5|pages=55-62|year=2012|publisher=日本造園学会|doi=10.5632/jilaonline.5.55|ref=harv}}</ref>。 [[明治|明治時代]]になると禁制が解け、もっぱら外国人による観光や調査目的の登山が始まった<ref>{{Cite book|和書|author=岩崎重三|author2=角田政治|author3=有田保太郎|year=1907|title=阿蘇山の地学的研究||publisher=隆文館|pages=1|id={{近代デジタルライブラリー|993737}}|ref=harv}}</ref>。この時期は南郷谷からのルートがよく知られていた<ref name="kuroda"></ref>。日本人の登山も増え、阿蘇山の風景を賛美する文献が見られるようになった<ref>{{Cite book|和書|author=志賀重昂|year=1937|title=日本風景論||publisher=岩波書店|pages=146|id={{近代デジタルライブラリー|1172454}}|ref=harv}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=小島烏水|year=1905|title=日本山水論||publisher=隆文館|pages=162|id={{近代デジタルライブラリー|762372}}|ref=harv}}</ref>。 [[大正|大正時代]]には[[豊肥本線|宮地線]]が開通し、再び坊中からのルートが主流となった。登山客は年間10万人を超え、[[1934年]]の国立公園指定につながった<ref name="kuroda"></ref>。[[第二次世界大戦]]後は[[モータリゼーション]]の流れで観光道路が整備され、[[阿蘇登山道路]]、[[仙酔峡道路]]などが開通した。それぞれの道路の終点付近から火口付近へと上るための[[阿蘇山ロープウェー]]、[[仙酔峡ロープウェイ]]もかつて運行されていたが、大規模噴火や[[熊本地震 (2016年)|2016年の熊本地震]]により運航休止がたびたび発生し、いずれの路線も廃止された。 最近ではアジア方面の国からの観光客が増えている。以前は火口まで自家用車で乗り入れることは出来なかったが、[[阿蘇山公園道路]]や駐車場が整備され火口まで徒歩1分というところまで自家用車で行くことが出来る。山麓には複数のキャンプ場もあり、[[草千里]]では乗馬も行われている。特に草千里(草千里ヶ浜)は風致景観が良く近代詩にも詠われており、国の[[名勝]]及び[[天然記念物]]に指定されている。阿蘇を撮影した写真は、撮影しやすい阿蘇谷から見たものが多いが、朝日の場合、逆光となるので、[[南郷谷]]から撮影する方が、白トビが無く絵は綺麗である。 === 温泉 === 阿蘇山は巨大な火山ゆえに、その周辺はたくさんの[[温泉]]に恵まれている。[[阿蘇くじゅう国立公園]]に属し、カルデラ内には[[阿蘇内牧温泉]]や[[阿蘇赤水温泉]]の温泉街があり、烏帽子岳周辺には[[垂玉温泉]]や[[地獄温泉]]などの一軒宿がある。外輪山北の南小国町には、[[黒川温泉]]、小国町には、[[峐の湯温泉|峐(はげ)の湯温泉]]などのたくさんの温泉が湧出しており、[[国民保養温泉地]]にも指定されている。 == 伝説及び仮説 == {{出典の明記|date=2019年2月|section=1}} === 根子岳のギザギザ頭 === 高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳そして末っ子の根子岳は誰が一番早く高くなれるか競っていた。結果、根子岳が長男の高岳さえも追い抜いて一番高くなった。しかし、それは鬼たちに阿蘇の国で自由に暴れさせる代わりに、竹田から土を運んで自分の頭に積ませたからだった。これを知った阿蘇大明神は激怒し、根子岳の頭をピシャリピシャリと何度も叩いた。そのおかげで根子岳の頭はギザギザになってしまった。 === 肥後国の猫 === 肥後国の猫は7歳になると根子岳へ修行に来るという。そして人に化けて迷った旅人をおびき寄せ、宿で散々振る舞った後、寝ている隙に食べるとされている。 アニメ「[[まんが日本昔ばなし]]」で紹介された内容は、以下のとおり<ref>[http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=179 根子岳の猫]まんが日本むかしばなし〜データベース 2020年2月11日閲覧</ref>。ある旅人が猫の宿に迷い込んだ際、昔大事にかわいがっていた猫が女中として働いていた。旧主への恩義から危険を知らせ、旅人を夜中にこっそり逃がす。気づいた猫たちが温泉の湯を入れた桶と柄杓を持って追いかけてきて、後ろから旅人にお湯をかけて猫に変えようとする。なんとか麓の人里まで逃げ切るが、その前に耳の後ろにだけお湯が少しかかってしまい、命は助かったもののその部分だけ猫の毛が生えてしまった、という話である。 === 火口瀬 === 大昔の阿蘇は外輪山に切れ目が無く、その中には水がたまって広大なカルデラ湖になっていた。[[健磐龍命]](タケイワタツノミコト、阿蘇大明神)はこの水を無くして田畑を造ろうと考えた。そこで、外輪山の一部を蹴破ることにした。一度目に挑戦した場所はなかなか蹴破れない。というのもその場所は山が二重になっているからで、以後「二重(ふたえ)ノ峠」と呼ばれるようになった。別の場所で再挑戦すると今度は見事に蹴破ることができた。しかし、そのはずみで健磐龍は尻餅をついてしまって「立てぬ!」と叫んだ。以後その場所は「立野(たての)」と呼ばれるようになった。 蹴破った場所からは大量の水が流れ出し[[滝]]となり、数匹の鹿も流されたことから、以後「[[数鹿流ヶ滝|数鹿流(すがる)が滝]]」と呼ばれるようになった。湖水が引いてくると底から巨大な[[ナマズ]]が現れた。ナマズが湖水をせき止めていたため、健磐龍は太刀でナマズを切り、ようやく湖水は流れ去ったという。また、カルデラ湖にいた鯰が流れ着いた場所が現在の[[嘉島町]]の鯰という地名になっているともいわれている。 === 米塚 === [[ファイル:Kome Zuka.JPG|150px|thumb|米塚(2007年7月撮影)]] 米塚(こめづか)は、草千里下にある比高約80m・山頂標高954.3mの均整のとれた[[スコリア丘]]で、約3,300年前の噴火で形成された<ref>{{Cite journal |date=2010 |doi=10.18940/kazan.55.5_219 |url=https://doi.org/10.18940/kazan.55.5_219 |title=阿蘇火山,米塚の噴火年代 |author1=宮縁 育夫 |accessdate=2019-03-01 |journal=火山 |volume=55 |issue=5 |pages=219-225}}</ref>。伝説では健磐龍命が収穫した米を積み上げて作ったとされ、貧しい人達に米を分け与えたことで頂上にくぼみができたとされている。国の[[名勝]]及び[[天然記念物]]に指定されている。熊本地震 (2016年)により山頂の火口縁などに亀裂が生じた<ref>{{cite news |authorl=|title=阿蘇山の米塚に亀裂|http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/239756|newspaper=西日本新聞 |date=2016-04-20|accessdate=2016-04-20}}</ref>。 === 的石伝説 === 阿蘇市的石の地名の語源でもある“的石”は北外輪山のふもとにある石で、その昔阿蘇神社の祭神である健磐龍命(阿蘇大明神)が阿蘇五岳の外れにある往生岳(往生岳は五岳に含まれない)から弓の稽古をする時に的にしたという伝説からこの名がつけられている。ちなみに往生岳山頂から的石までは約7kmほどの距離となっている。 また、往生岳から的石まで射られた矢は、健磐龍命の従者で鬼八という足の速い男が往生岳から的石まで走って取りにいき健磐龍命に渡していた。99回目までは鬼八も的石と往生岳を往復して矢を運んでいたが、100回目に疲れて的石から往生岳めがけ矢を投げ返した。その矢がたまたま健磐龍命の腿に当たり、それに腹を立てた健磐龍命は鬼八を成敗しようとして追った。鬼八は阿蘇中を逃げ回り、更に阿蘇の外まで逃げ、そこで一息ついて8回屁をひったといわれその場所の地名である矢部の語源になったと言われる。 その後も鬼八は健磐龍命に追われ、ついには捕らえられ首をはねられたが、不思議なことに首をはねてもはねてもすぐに首は元通りにくっつく。腕や足をはねてみたがやはりすぐに元通りとなる。そこで健磐龍命は鬼八の体をばらばらに切り、それぞれを離れた場所に埋めた。そうするともう鬼八はよみがえることがなくなったという。 しかしその後、鬼八の怨念は阿蘇の地に早霜を降らせるようになり、稲に大きな被害が出るようになった。そこで健磐龍命は役犬原という場所に霜の宮と名づけた社を建て鬼八の怨霊を鎮めたという。現在でも霜宮神社では幼い女子が59日間火を絶やさずお籠りをするという霜宮神社火焚き神事が残っている<ref>[http://webtv-aso.net/ss/events/ss180816001/ 霜宮神社火焚き神事]webアソ 2020年2月11日閲覧</ref>。また、[[高千穂町|高千穂]]にも“鬼八伝説”が残っている。 ===邪馬台国=高天原=阿蘇カルデラ説=== 中国の[[歴史書]]([[正史]])である『[[南史倭国伝]] <ref >精選版 日本国語大辞典によれば、「南朝北朝の歴史がそれぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集している。」、世界大百科辞典 第2版によれば、「南朝北朝のそれぞれの正史よりもひろく読まれた。」とある。</ref>』によれば、「倭国の先の出ずる場所、及び所在については北史に詳しく記述されている」とあり、『[[北史倭国伝]] <ref >小学館大辞泉によれば、「公正・詳密な記述で史料的価値が高い。」、精選版 日本国語大辞典によれば、「詳密な記述で史料価値が高い。」とある。</ref>』では、'''阿蘇山'''([[火山]])が詳述 <ref >[[北史倭国伝|北史]]『有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。』</ref>されている<ref >邪馬台国 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷</ref>。すなわち、[[阿蘇カルデラ]]は「[[ヤマト]]{{要曖昧さ回避|date=2023年2月}}発祥の地・[[高天原]] <ref >石原は高天原の要件を5点上げている。①「ヤマト発祥の地」であるので、やまとらしい風情がある([[大和]]参照)。②日向の高千穂から昇る位置にある([[ニニギノミコト]]は高天原から高千穂へ降臨されたため)。③地上と同じような山や川があり、「高原平野」が広がっている。④高天原では、営みがなされているが、自然災害もある。⑤[[ニニギノミコト]]は[[雲海]]の中を日向の高千穂のくじふるに降り立った。そのため、[[筑紫国]](白日別)・[[豊国]](豊日別)・[[熊襲]](建日別)ではなく、隣接する[[火国]]「建日向日豊久士比泥別」の何処かに高天原はあった。 </ref>」であることが示されている。[[阿蘇カルデラ]]は、[[魏志倭人伝]]や[[北史倭国伝]] <ref >邪馬台国 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷 P1-50によれば、北史倭国伝は『其國境東西五月行、'''南北三月行'''、各至於海。』の概念が提示されており、魏志倭人伝で曖昧とされた旅程日数・方角・総距離の記述が明確化されていると述べられている。</ref>の記述通り、短里説([[周髀算経]] ・[[一寸千里法]]=一里約77m)で、[[帯方郡]]から[[邪馬台国]]までの総距離「一万二千余里」となる。[[卑弥呼]]については、[[火国]]([[建日向日豊久士比泥別]])の[[女王]]ということになり、[[邪馬台国]]の支配地域は、魏志『女王国以北・周旋可五千余里』であるため、概ね、[[国産み]][[神話]]における白日別([[筑紫国]])・豊日別([[豊国]])・建日向日豊久士比泥別([[火国]])の三面となる<ref >邪馬台国 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷 P18-24  [[熊襲]] ([[日向国]]含む)が支配地域外であるため、[[天岩戸]]以前の時代背景となり、石原は[[卑弥呼]]について[[大日孁貴尊]]を比定している。</ref>。 [[邪馬台国]](女王国)が[[阿蘇カルデラ]]であれば、南の[[狗奴国]] <ref >邪馬台国 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷 P57-63 狗奴国の男王「[[卑弥弓呼]]」については、[[火照命]]を比定しており、[[台与]]を[[豊玉姫命]]としている。邪馬台国と狗奴国の抗争を[[山幸彦と海幸彦]]の神話が反映されたものと捉えている。</ref>については、建日別([[熊襲]])となる<ref >邪馬台国 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷 P59-61によれば、247年に[[難升米]]が[[邪馬台国]]の南にある [[狗奴国]]に向かって攻撃した出来事を[[天孫降臨]]と考えている。[[ニニギノミコト]]の[[天孫降臨]]について、まずは[[阿蘇]]から臼杵郡[[高千穂]]に降臨され、日向国を平定。その後、[[高千穂峰]]から[[隼人]]の本拠地に攻め込み、[[熊襲]]を平定したものと考えている。</ref>。また、東に海を渡ること千里(約77km)にて至る国については、「[[四国]]」を、女王国を去ること[[南]]へ四千里(約308km)の[[侏儒国]]ついては、「[[種子島]]」を比定することができる。[[会稽]]については女王国の西に、[[帯方郡]]については、女王国の[[北西]]に位置することとなる<ref >魏志倭人伝や[[後漢書]]などでは、東に海を渡ること千里にてまた国がある。女王国を去ること南へ四千里にて、人の長さ三四尺の[[侏儒国]]に至る。会稽の東に倭地がある。帯方郡の東南に倭地があると記述されている。『邪馬台国』 [[石原洋三郎]] 令和元年十月 第一印刷</ref>。 阿蘇山の北麓には[[肥後国]](火国)[[一宮]]である[[阿蘇神社]]があり、[[健磐龍命]]や國龍神([[日子八井命]])、金凝神(第2代[[綏靖天皇]])をはじめとする神々が、祀られている。健磐龍命の子[[速瓶玉命]]が第7代[[孝霊天皇]]の際に、両親を祀ったことに始まるが、以来、[[天照大御神]] <ref>『邪馬台国』 [[石原洋三郎]] 令和元年10月 第一印刷 P25-26、P48-50 新唐書や宋史では、天照大御神は筑紫城(筑紫日向宮)にいると記述されている。[[国産み神話]]における[[筑紫嶋]]は白日別・豊日別・[[建日向日豊久士比泥別]]([[火国]])・建日別の四面である。</ref>や[[ニニギノミコト]]、[[神武天皇]]の子孫でもある[[多氏]][[阿蘇氏]]が[[祭祀]]を執り行い続けている<ref >『邪馬台国』 [[石原洋三郎]] 令和元年10月 第一印刷 P30-35</ref>。[[天孫降臨]][[神話]]の残る日向の[[高千穂町|高千穂]]に隣接する[[阿蘇カルデラ]]は阿蘇黄土「リモナイト(褐鉄鉱)・朱丹」や鉄器鍛冶工房の遺跡群、[[雲海]]の名所でも知られており、山跡で[[山]]に囲まれたところの[[山]]のふもとに広がる[[高原]][[台地]]で、山に[[神]]が宿るとみなす[[自然]][[信仰]]の拠点である[[火の本]]・阿蘇山を擁する。 == 阿蘇山が登場する作品 == === 歴史書 === * 『[[隋書]]([[隋書倭国伝]])』 * 『[[北史]]([[北史倭国伝]])』 === 文学 === * 『[[二百十日 (小説)|二百十日]]』 - [[夏目漱石]]の小説。 * 『大阿蘇』 - [[三好達治]]の詩。 * [[孝女白菊の歌]] は [[井上哲次郎]]が作った漢詩「孝女白菊詩」に感動した[[落合直文]]が作った新体詩形式の詩で、独訳、英訳もされた。フィクションであるにもかかわらず碑や伝説を生んだ。 * 『火の国旅情』 [[岩代浩一]]の歌。熊本県民歌として親しまれた。最初は“阿蘇は火の山”で始まる。 * 『幻化』 [[梅崎春生]]の小説。 === 映画、漫画、アニメ、特撮など === * 『[[君の名は|君の名は 第三部]]』 * 『[[空の大怪獣ラドン]]』 - [[ラドン (架空の怪獣)|ラドン]]の生誕地。 * 『[[三大怪獣 地球最大の決戦]]』 - 上記に続く形として登場。 * 『[[鉄腕アトム]]』 - 「地上最大のロボット」のクライマックスの場。 * 『[[科学戦隊ダイナマン]]』 - 16話「阿蘇山大爆破作戦」 *:- 17話「恐怖!九州大地震」 キメラは断層にマグマエネルギーの増幅装置を埋め込み九州を南北真っ二つに別けようとする。 * 『[[トラック野郎・男一匹桃次郎]]』- ジョナサン一家の旅行のシーンで登場。 * 『[[日本沈没#1974年のテレビドラマ|日本沈没 (1974)]]』 - 第10回で噴火、地元関係者のエピソードが描かれる。 * 『[[日本沈没#2006年の映画|日本沈没 (2006)]]』 - [[十勝岳]]や[[富良野岳]]に続いて噴火する。 * 『[[日本沈没 (漫画)]]』 - [[一色登希彦|一色]]版8巻にて噴火、九州が壊滅する。 * 『[[勇者王ガオガイガー]]』 - 戒道幾巳が育ての親に拾われる場所。 * 『[[乱 (映画)|乱]]』- 架空の戦国武将の領地として登場。 * 『[[EUREKA (映画)|EUREKA(ユリイカ)]]』- セピア色からカラーとなる雄大なラストシーンの舞台は阿蘇の大観峰である。 * 『[[街道バトル2 CHAIN REACTION]]』・『[[KAIDO-峠の伝説-]]』 - 劇中のサーキットとして登場。 * 『[[グランツーリスモ5]]』 - コースメーカーのテーマの一つとして登場(舗装路)。 * 『[[ヤマタイカ]]』 * 『[[ヤマトの火]]』 * 『[[頑丈人間スパルタカス]]』 - 作品の舞台となるスポーツ国際親善団体「アナボリック・アカデミー」と[[オウム真理教|パソコンを安く売る宗教団体]]が存在する。 == ギャラリー == <gallery mode="packed-hover"> Mt.Kijimadake 01.jpg|杵島岳スコリア丘 Ojodake - Oct. 2009.jpg|往生岳スコリア丘 KOMETUKA01.jpg|米塚スコリア丘 Mount Aso kabuto-iwa viewpoint.JPG|外輪山(カルデラ壁) </gallery> <gallery mode="packed-hover"> 山田パーキングからの阿蘇山(根子岳・髙岳・杵島岳).jpg|山田パーキングからの阿蘇山(根子岳・髙岳・杵島岳) 阿蘇パノラマラインからの景色.jpg|阿蘇パノラマラインからの景色 砂千里ヶ浜.jpg|砂千里ヶ浜 中岳への登り.jpg|中岳への登り 中岳から髙岳方面の眺め.jpg|中岳から髙岳方面の眺め Mt-Aso panoramaview1.jpg|草千里ヶ浜火口と烏帽子岳成層火山(中央) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author = [[国立天文台]]編 |title = 理科年表 平成20年 |url = http://www.rikanenpyo.jp/ |year = 2007 |publisher = [[丸善]] |isbn = 978-4-621-07902-7 |pages = }} == 関連項目 == {{Commonscat|Mount_Aso}} {{Wikivoyage|en:Mount_Aso|阿蘇山{{en icon}}}} {{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|山|[[ファイル:ロゴ_山.JPG|34px]]}} * [[火山]]、[[火山の一覧 (日本)]] * [[阿蘇カルデラ]] * [[大観峰]] - 北外輪山の最高峰。 * [[俵山]] - 南外輪山の一峰。 * [[マウントカー]] - 阿蘇中岳の火口近くを運行するバス路線のために製造された、特殊仕様のバス。1964年に運行開始したが、火山活動の活発化により1980年に廃止された。 * [[日本二十五勝]] * [[日本の地質百選]] * [[日本の秘境100選]] * [[阿蘇市]] - 2005年2月に阿蘇郡[[阿蘇町]]・[[一の宮町]]・[[波野村 (熊本県)|波野村]]が合併して誕生した市の名称の由来となった市 * [[九州横断特急#あそぼーい!|あそぼーい!]] * [[火山爆発指数]] * [[ジオパーク]] * [[熊本県道111号阿蘇吉田線]] - 阿蘇山を走る快走路。阿蘇パノラマラインの愛称で知られている。 * [[阿蘇 (装甲巡洋艦)]] - [[帝国海軍]]の[[装甲巡洋艦]]。[[日露戦争]]で[[鹵獲]]された元[[ロシア帝国]]の 1等巡洋艦[[バヤーン_(装甲巡洋艦・初代)|バヤーン]]。 * [[阿蘇 (空母)]] - 帝国海軍の[[雲龍型航空母艦]]の5番艦。1944年進水、未成。 * [[:en:Supervolcano|Supervolcano(超巨大火山)]] == 外部リンク == * [[気象庁]] ** [https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/503_Asosan/503_index.html 阿蘇山] **[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/open-data/open-data.php?id=503 阿蘇山の火山観測データ] ***[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/monthly_vact_vol.php?id=503 阿蘇山の臨時及び過去の詳細月別火山概況・火山活動解説資料] ***[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/open-data/data/503_num_data.html 阿蘇山の最近(2ヶ月間)の日別地震回数表] ** {{PDF|[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/84_Asosan.pdf 日本活火山総覧 第4版 阿蘇山]}} * {{PDFlink|[https://www.gsi.go.jp/common/000109843.pdf 火山土地条件図 阿蘇山]}} - 国土地理院 * [https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/J33.html 阿蘇山] - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター * [http://volcano.si.edu/volcano.cfm?vn=282110 Asosan] - Smithsonian Institution: Global Volcanism Program * 防災関連 ** [https://vivaweb2.bosai.go.jp/v-hazard/L_read/84asosan/84aso_1h02-L.pdf 阿蘇山火山防災マップ] 防災科学技術研究所 ** [https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/rovdm/rovdm_index.html 阿蘇山火山防災連絡事務所] ** [http://www.aso.ne.jp/~volcano/ 阿蘇火山火口規制情報] 阿蘇火山防災会議協議会 ** [http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_6977.html 阿蘇山火山防災マップ] 熊本県 ** [http://www.city.aso.kumamoto.jp/disaster/disaster/volcano_disaster_prevention_map/ 阿蘇山火山防災マップ] 阿蘇市 * [http://www.asomuse.jp/ 阿蘇火山博物館] * {{ウィキトラベル インライン|阿蘇山|阿蘇山}} {{日本百名山}} {{日本の活火山}} {{大噴火}} {{九州百名山}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header= |redirect= 米塚及び草千里ヶ浜 |1= 熊本県にある国指定の名勝 |2= 地質・鉱物天然記念物 |3= 熊本県にある国指定の天然記念物 }} {{DEFAULTSORT:あそさん}} [[Category:山岳名目録]] [[Category:九州地方の火山]] [[Category:日本の火山災害]] [[Category:日本百名山]] [[Category:熊本県の山]] [[Category:熊本県の自然景勝地]] [[Category:熊本県の観光地]] [[Category:熊本県の象徴]] [[Category:阿蘇市]] [[Category:避暑地]] [[Category:観光圏]] [[Category:平成百景]] [[Category:成層火山]] [[Category:1000メートル峰]] [[Category:複合火山]] [[Category:雲海]]
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ヨハネによる福音書
『ヨハネによる福音書』(ヨハネによるふくいんしょ、古希: Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιον Kata Iōannēn Euangelion、羅: Evangelium Secundum Iohannem)は新約聖書中の一書。 『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』に次ぐ4つの福音書(イエス・キリストの言行録)の一つである。ルターは本福音書とパウロ書簡を極めて高く評価しており、その影響は現在のプロテスタント各派に及んでいる。 「第四福音書」に位置づけられる『ヨハネによる福音書』は「共観福音書」と呼ばれる他の3つとは内容的に一線を画した内容となっている。この福音書が4つの中で最後に書かれたということに関して研究者たちの意見は一致している。初代教会以来、伝統的にはこの『ヨハネによる福音書』の筆者は、カトリック教会・正教会等で伝承されてきた聖伝においては、文書中にみえる「イエスの愛しておられた弟子」すなわち使徒ヨハネであると伝えられてきた。例えば紀元200年頃の神学者アレクサンドリアのクレメンス、リヨンのエイレナイオスなどがこの文書を使徒ヨハネに帰す。同じく伝統的見解として使徒ヨハネに帰されるヨハネの黙示録の著者に関しては3世紀のアレクサンドリアのディオニシオスや4世紀のエウセビオスによって疑義が提出されたのに対して、古代においては『ヨハネによる福音書』は使徒ヨハネに帰されるのが一般的である。成立年代に関しては3世紀のヒッポリュトスなどがドミティアヌス治世下(81-96年)と証言する。 ただし、近代以降の高等批評をとなえる聖書研究家たちはこれらの考え方を支持しない。田川建三はこの書は作者ヨハネが自分のかなり特殊な宗教思想を展開した書物であり、イエスを知るための直接の資料にならないとする。成立時期については、最古の写本断片が120年頃のものとの鑑定から1世紀末という見解が多数である。ただしこの鑑定を疑問視する見解もある(タイセンら)。成立時期の下限はヨハネ神学の強い影響と『ヨハネによる福音書』の引用が見られる神学者ユスティノスの没年(紀元160年頃)である。なお、イグナティオス(-紀元108年頃)の書簡にも共観福音書には見られない『ヨハネによる福音書』独自の内容や表現が用いられている。 『ヨハネによる福音書』は(1:1-5をプロローグと考えると)本文が1:6から始まっており、最初の部分(1:6-12章)は洗礼者ヨハネの洗礼に始まるイエスの公生活を描き、後半部分(13章-21章)は弟子たちに個人的に語った言葉(告別演説)とイエスの処刑にいたる経緯、イエスの復活までが描かれている。 共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書は、イエスの生涯について多く記され、重複記述が多く見られるが、『ヨハネによる福音書』は重複記述が少なく、イエスの言葉がより多く記述されている。 ヨハネはイエスの父なる神とのかかわりについて重点的に説明している。ヨハネは他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせている。ヨハネの書くイエスの姿は父の愛する一人子であり、神の子そのものである。また、キリストをあがない主として書く、あるいは神の霊である聖霊を助け主(ギリシア語:パラクレートス)として書く、キリスト教の特徴として愛を前面に押し出すなどの諸点によってキリスト教に大きな影響を与えることになる。 ヨハネによる福音書と呼ばれている通り、正統的なキリスト教会の伝統・伝承ではこの弟子はゼベダイの子使徒ヨハネであるとされてきた。詳細化された伝承においては、使徒ヨハネが最晩年エフェソスにおいて弟子プロクロスに口述筆記させたとする。しかし、19世紀以降、使徒ヨハネが第四福音書の著者であるという伝承に由来する意見は高等批評の立場に立つ学者たちの間では支持されなくなった。高等批評の解釈によれば、テキストから読み取れるのは、『ヨハネ福音書』が「イエスの愛しておられた弟子」とされる名の明かされていない著者によって執筆されたということだけである。 非神話化を唱えたドイツの聖書学者ルドルフ・ブルトマンが1941年に自著『ヨハネ福音書について』で提示した説によれば、『ヨハネ福音書』の著者はイエスの行った奇跡に関して共観福音書とは異なる資料、口述資料を用いているという。また批評学者は「イエスの愛しておられた弟子」の死について言及された21章は、聖書への補遺、付加部分であるとする。 「まことに、まことに(ἀμὴν ἀμὴν)あなたがたに告げます。私を信じる者は、私の行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」(14:12) また、記述についての聖書の英訳。日本語訳において変遷や違いがある 「この世の君」(昭和 ギデオン和訳) 「この世を支配する者」(現行ギデオン和訳) the ruler of this world (ギデオン英訳) the prince of this world (churchofjesuschrist版) この存在についての追放、信託、受難についての和訳と英訳では解釈の違いがある。主な英訳は次のとおり 12:31(ギデオン英訳) 「31 "Now is the judgement of this world; now the ruler of this world will be cast out."」 14:30(ギデオン英訳) 「30 "I will no longer talk much with you, for the ruler of this world is coming, and he has nothing in me.」 (従前ギデオン英訳 he has no claim on me.) 16:11(ギデオン英訳) 「11 "of judgement, because the ruler of this world is judeged."」 アメリカの作家スキップ・モエン博士はヨハネ1:1のロゴスの概念に着目し、それが本来のユダヤ的価値観とは相容れない、合理主義、個人主義などのヘレニズム思想に立脚したものであり、キリスト教を混淆宗教としてしまったと論じた。 モエンはその論考を、ウィリアム・ダラントの次の言葉で締めくくっている。 「キリスト教は異教を破壊したのではなくて、取り入れた。死につつあったギリシア思想は教会の神学と祈祷書のなかで再生した。ギリシア語は何世紀にも渡って哲学を支配し、キリスト教の文献と典礼の伝達手段となった」
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『ヨハネによる福音書』は新約聖書中の一書。 『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』に次ぐ4つの福音書(イエス・キリストの言行録)の一つである。ルターは本福音書とパウロ書簡を極めて高く評価しており、その影響は現在のプロテスタント各派に及んでいる。
{{新約聖書}} 『'''ヨハネによる福音書'''』(ヨハネによるふくいんしょ、{{lang-grc-short|Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιον}} Kata Iōannēn Euangelion、{{lang-la-short|Evangelium Secundum Iohannem}})は[[新約聖書]]中の一書。 『[[マタイによる福音書]]』、『[[マルコによる福音書]]』、『[[ルカによる福音書]]』に次ぐ4つの[[福音書]]([[イエス・キリスト]]の言行録)の一つである。[[マルティン・ルター|ルター]]は本福音書と[[パウロ書簡]]を極めて高く評価しており<ref>M.ルター『新約聖書への序言』「新約聖書の正しい且つ最も貴重な書はどれであるか」([[1522年]])、石原謙訳『キリスト者の自由、聖書への序言』岩波文庫、[[1955年]] ISBN 4003380819 所収</ref>、その影響は現在の[[プロテスタント]]各派に及んでいる。 ==概要== 「'''第四福音書'''」に位置づけられる『ヨハネによる福音書』は「[[共観福音書]]」と呼ばれる他の3つとは内容的に一線を画した内容となっている。この福音書が4つの中で最後に書かれたということに関して研究者たちの意見は一致している。初代教会以来、伝統的にはこの『ヨハネによる福音書』の筆者は、[[カトリック教会]]・[[正教会]]等で伝承されてきた聖伝においては、文書中にみえる「イエスの愛しておられた弟子」すなわち[[ヨハネ (使徒)|使徒ヨハネ]]であると伝えられてきた。例えば紀元200年頃の神学者[[アレクサンドリアのクレメンス]]、[[エイレナイオス|リヨンのエイレナイオス]]などがこの文書を使徒ヨハネに帰す。同じく伝統的見解として使徒ヨハネに帰される[[ヨハネの黙示録]]の著者に関しては3世紀の[[pope Dionysius of Alexandria|アレクサンドリアのディオニシオス]]や4世紀の[[エウセビオス]]によって疑義が提出されたのに対して、古代においては『ヨハネによる福音書』は使徒ヨハネに帰されるのが一般的である。成立年代に関しては3世紀の[[ヒッポリュトス]]などが[[ドミティアヌス]]治世下(81-96年)と証言する。 ただし、近代以降の[[高等批評]]をとなえる聖書研究家たちはこれらの考え方を支持しない。[[田川建三]]はこの書は作者ヨハネが自分のかなり特殊な宗教思想を展開した書物であり、イエスを知るための直接の資料にならないとする<ref>[[田川建三]]『[[イエスという男]]』第二版 p.27</ref>。成立時期については、最古の写本断片が120年頃のものとの鑑定から1世紀末という見解が多数である。ただしこの鑑定を疑問視する見解もある(タイセンら)<ref>例えば、G.タイセン『新約聖書―歴史・文学・宗教』教文館、[[2003年]] ISBN 4764266369</ref>。成立時期の下限はヨハネ神学の強い影響と『ヨハネによる福音書』の引用が見られる神学者[[ユスティノス]]の没年(紀元160年頃)である。なお、[[アンティオキアのイグナティオス|イグナティオス]]<!--{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}-->(-紀元108年頃)の書簡にも[[共観福音書]]には見られない『ヨハネによる福音書』独自の内容や表現が用いられている<ref>『エペソの信徒へ』5章、『マグネネシアの信徒へ』7章、『フィラデルフィアの信徒へ』3章 など</ref>。 == 構成 == 『ヨハネによる福音書』は(1:1-5をプロローグと考えると)本文が1:6から始まっており{{要出典|date=2023-10}}、最初の部分(1:6-12章)は[[洗礼者ヨハネ]]の洗礼に始まるイエスの公生活を描き、後半部分(13章-21章)は弟子たちに個人的に語った言葉(告別演説)とイエスの処刑にいたる経緯、イエスの復活までが描かれている。 共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書は、[[イエス・キリスト|イエス]]の生涯について多く記され、重複記述が多く見られるが、『ヨハネによる福音書』は重複記述が少なく、イエスの言葉がより多く記述されている。 ヨハネはイエスの父なる神とのかかわりについて重点的に説明している。ヨハネは他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせている。ヨハネの書くイエスの姿は父の愛する一人子であり、神の子そのものである。また、キリストをあがない主として書く、あるいは神の霊である[[聖霊]]を助け主(ギリシア語:[[パラクレートス]])として書く、キリスト教の特徴として愛を前面に押し出すなどの諸点によってキリスト教に大きな影響を与えることになる。 == 著者 == {{main|ヨハネ文書の著者}} [[ファイル:Byzantinischer Maler um 1100 001.jpg|thumb|11世紀のビザンチンの写本。挿絵は福音書を弟子プロクロス(左)に口述筆記させる福音記者ヨハネ(右)。]] ヨハネによる福音書と呼ばれている通り、正統的なキリスト教会の伝統・伝承ではこの弟子は[[ゼベダイの子]]使徒ヨハネであるとされてきた。詳細化された伝承においては、使徒ヨハネが最晩年[[エフェソス]]において弟子[[プロクロス]]に口述筆記させたとする。しかし、19世紀以降、使徒ヨハネが第四福音書の著者であるという伝承に由来する意見は[[高等批評]]の立場に立つ学者たちの間では支持されなくなった。高等批評の解釈によれば、テキストから読み取れるのは、『ヨハネ福音書』が「[[イエスの愛しておられた弟子]]」とされる名の明かされていない著者によって執筆されたということだけである。 == 非神話化による執筆に用いられた資料 == {{main|ヨハネによる福音書の資料|非神話化}} [[非神話化]]を唱えたドイツの聖書学者[[ルドルフ・ブルトマン]]が[[1941年]]に自著『ヨハネ福音書について』で提示した説によれば、『ヨハネ福音書』の著者はイエスの行った奇跡に関して共観福音書とは異なる資料、口述資料を用いているという。また批評学者は「[[イエスの愛しておられた弟子]]」の死について言及された21章は、聖書への補遺、付加部分であるとする<ref>{{Cite book|title=ヨハネの福音書|date=|year=2005|publisher=日本キリスト教団出版局|last=ブルトマン著 杉原助訳 大貫隆訳|isbn=978-4818405400}}</ref>。 == 独自性 == *サマリアの女、姦淫の女、マルタとマリア、ベタニアのマリア、マグダラのマリア、母マリアなど女性信徒が男性信徒よりも高く評価されており、その強調度合は同じく女性信徒を高く見る『[[マルコによる福音書]]』を上回る<ref>{{cite book|和書|author= [[荒井献]]|title= 新約聖書の女性観|year= 1988|publisher= 岩波書店|series= 岩波セミナーブックス|pages= 175-200}}</ref>。 *他の福音書では名前しか出てこない使徒[[トマス (使徒)|トマス]]が復活に懐疑的姿勢を見せたことを記述し、「不信のトマス」と呼ばれることに繋がった。宗教史学者の[[:en:Elaine Pagels|エレーヌ・ペイゲルス]]は、キリスト教トマス派を非難するために行われたものだったと主張している。 *イエスは七度「私である({{lang|el|εγω ειμι}})」と自分自身に言及する。 * [[ヨハネによる福音書3章16節|3章16節]]はキリスト教聖書の中でも引用される機会が多い文章で、聖書全体を要約するとこの文章になるという意味で、[[ミニバイブル]](Mini Bible)と呼ぶ人たちもいる。 *二つの「しるし」が数えられている。(2:11、4:54) *[[サタン]]、[[悪魔]]、悪魔憑きにまつわる逸話、終わりのときの予言、[[山上の説教]]、倫理的な訓話などが一切ない。 *1:39で「第10の時刻」として細かく時間が記されている。 *「[[ベトザタの池]]の水を天使が動かす」ということが5:3に記されている。 *7:8-10でイエスは祭りにまだ行くつもりはないと言っているが、兄弟たちが行った後でひそかに行く。 *13:3-16でイエスは弟子たちの足を洗う([[過越祭]]の食事をとったという明確な記述がない)。 *19:30でイエスはワインを口に入れる。これは共観福音書のイエスの言葉と矛盾する(マルコ14:25など)。 *20:1で[[マグダラのマリア]]は一人で墓へ向かう。 *マグダラのマリアは空の墓を二度訪れるが、そこで彼女はイエスの遺体が盗まれたと思い込む。二度目には天使を見ているが、天使たちもイエスの復活は告げない。天使たちはただ「なぜ泣いているのか」と尋ねるだけである。さらにマリアは近づいてきたイエスを園丁だと思い込んでいる。そのとき、イエスは「[[ノリ・メ・タンゲレ|わたしに触れてはならない]]」という有名な言葉を残す(20:1-18)。その一方で、トマスに対しては自身の脇腹に指を入れて幽霊ではないことを確かめるよう促している。トマスはイエスを目の当たりにしてその復活を信じたため、実際にはイエスに触れることはなかったが、マリアに対する態度と比べると大きな差がみられる。 *初期のキリスト教徒たちのあるものは「[[イエスの愛しておられた弟子]]」が不死であると信じていたようである。『ヨハネ福音書』の補遺箇所(21章20節以降)は、その弟子の死を説明するものとして書かれた可能性がある。 *伝統的には使徒ヨハネであるとされている「イエスの愛しておられた弟子」の名前は本文中では決して明らかにされない。また、使徒ヨハネの名も本文中に一度も出てこない。「イエスの愛しておられた弟子」は、本文によれば、過越の食事を共にした弟子のうちの一人で、復活後のイエスがガリラヤ湖に現れた際に漁をしていた七人の弟子のうちの一人である。 *ヨハネによる福音書においては”最上級形”を用いて「聖書に記載された以上の能力」の存在を予言している。 「まことに、まことに({{lang|el|ἀμὴν ἀμὴν}})あなたがたに告げます。私を信じる者は、私の行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」(14:12) *「世界の支配者・世界の統治者」ヨハネの福音書にのみ登場する存在である。  また、記述についての聖書の英訳。日本語訳において変遷や違いがある 「この世の君」(昭和 ギデオン和訳) 「この世を支配する者」(現行ギデオン和訳) the ruler of this world (ギデオン英訳) the prince of this world (churchofjesuschrist版)  この存在についての追放、信託、受難についての和訳と英訳では解釈の違いがある。主な英訳は次のとおり 12:31(ギデオン英訳) 「31 "Now is the judgement of this world; now the ruler of this world will be cast out."」 14:30(ギデオン英訳) 「30 "I will no longer talk much with you, for the ruler of this world is coming, and he has nothing in me.」 (従前ギデオン英訳 he has no claim on me.) 16:11(ギデオン英訳) 「11 "of judgement, because the ruler of this world is judeged."」 ==反ユダヤ主義との関係== *[[1975年]]、[[アメリカ]]の新約学者 Eldon Jay Epp はヨハネによる福音書について、2世紀から現代に至るまでキリスト教徒の[[反ユダヤ主義]]を助長し、支えてきたとし、新約聖書の他のあらゆる書物よりも本書に反ユダヤ主義の責任があると結論づけた<ref>https://www.bc.edu/content/dam/files/research_sites/cjl/sites/partners/cbaa_seminar/Smith.htm</ref>。 *[[2013年]]、[[ボストン大学]]神学教授で牧師のロバート・ヒルは著書 ''Beauty and Anti-Semitism: The Gospel of John'' の出版に際して、ヨハネ福音書を信仰者を勇気づけるものだとして評価しつつ、その激しい反ユダヤ的なレトリックについて指摘した<ref>https://www.bu.edu/articles/2013/beauty-and-anti-semitism-the-gospel-of-john/#comment-7474960</ref>。 *ユダヤ系カナダ人で[[オタワ大学]]教授の聖書学者 Adele Reinhartz は[[2018年]]の著書 ''Cast Out of the Covenant: Jews and Anti-Judaism in the Gospel of John'' でヨハネ福音書が聴衆に[[置換神学]]的な思想を抱くように企図されたものだと述べた<ref>https://rowman.com/ISBN/9781978701175/Cast-Out-of-the-Covenant-Jews-and-Anti-Judaism-in-the-Gospel-of-John</ref>。 *共観福音書においてイエスとその弟子たちの敵対者は「ファリサイ派」、「律法学者」などに特定されているが、ヨハネ福音書では単に「ユダヤ人たち (the Jews) 」とされている。イエスの十字架刑に賛同して叫び声を挙げるのも、共観福音書では人々、群衆となっているが、ヨハネ福音書ではユダヤ人となっている。 *ヨハネ2:13では「ユダヤ人の過越祭 (The Passover of the Jews, または the Jewish Passover) 」という不自然な表現がみられる。過越祭はユダヤ人のものであって、ローマ人の過越祭とか、異邦人の過越祭というものはあり得ないからである。 *成立時期が異邦人信仰者が既に増えている[[90年]]以降だということを考慮すると、少なくとも結果的には、異邦人の反ユダヤ感情を煽動するレトリックとなっている。つまり読者にとって、信仰者である自分たちとイエスの敵であるユダヤ人たちという対立軸があるかのような錯覚を与えかねない表現が全編に渡ってみられる。実際にはイエスもその家族や初期の弟子たちもみなユダヤ人である。 ==ヘレニズム思想との混淆== アメリカの作家[[スキップ・モエン]]博士はヨハネ1:1の[[ロゴス]]の概念に着目し、それが本来のユダヤ的価値観とは相容れない、[[合理主義]]、[[個人主義]]などのヘレニズム思想に立脚したものであり、キリスト教を[[混淆宗教]]としてしまったと論じた<ref>https://skipmoen.com/2018/03/the-discovery-of-logos/</ref>。 モエンはその論考を、[[ウィリアム・ダラント]]の次の言葉で締めくくっている。 「キリスト教は異教を破壊したのではなくて、取り入れた。死につつあったギリシア思想は教会の神学と祈祷書のなかで再生した。ギリシア語は何世紀にも渡って哲学を支配し、キリスト教の文献と典礼の伝達手段となった<ref>Will Durant, The Story of Civilization, Vol. 3: Caesar and Christ, p. 595, 599.</ref>」 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == {{wikisource|ヨハネによる福音書(口語訳)}} {{wikisource|ヨハネ傳福音書(文語訳)}} *[[姦通の女]] *[[反ユダヤ主義と新約聖書]] *[[イエスの愛しておられた弟子]] *[[マタイによる福音書]] *[[マルコによる福音書]] *[[ルカによる福音書]] *[[ヨハネ文書]] *[[使徒ヨハネ]] *[[福音記者ヨハネ]] {{福音書}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:よはねによるふくいんしよ}} [[Category:ヨハネによる福音書|*]] [[Category:1世紀のキリスト教文書]] [[Category:2世紀のキリスト教文書]]
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拝一神教
拝一神教(はいいつしんきょう、〔英〕(monolatry) )は、一神崇拝ともいい、一柱の神を信仰する宗教。同じ一神教でも唯一神教が他の神々の存在を認めないのに対し、拝一神教は他の神々の存在も前提とする。神々の中の一柱を主神として崇拝するものを単一神教という。 とくに族長時代のヘブライ人の信仰が、みずからの部族の神であるヤハウェのみを排他的に信仰し、きびしく他の神々をあがめることを禁じていたことをモデルに概念化された。 旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった。( サム上26:19、士11:24、出20:2)神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされる。
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{{出典の明記|date=2015-12}} '''拝一神教'''(はいいつしんきょう、〔英〕(monolatry) <ref>岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869、(拝一神教の項目 山我哲雄)</ref>)は、'''一神崇拝'''ともいい、一柱の[[神]]を[[信仰]]する[[宗教]]。同じ[[一神教]]でも[[唯一神教]]が他の[[神]]々の存在を認めないのに対し、拝一神教は他の神々の存在も前提とする。神々の中の一柱を[[主神]]として[[崇拝]]するものを[[単一神教]]という。 とくに族長時代の[[ユダヤ人|ヘブライ人]]の信仰が、みずからの部族の神である[[ヤハウェ]]のみを排他的に信仰し、きびしく他の神々をあがめることを禁じていたことをモデルに概念化された。 旧約聖書における神観念は、初期には拝一神教であった。( サム上26:19、士11:24、出20:2)神の唯一性が絶対的になったのは、前6世紀のバビロニア捕囚前後からとされる。<ref>岩波キリスト教辞典 岩波書店2002年P869 拝一神教の項目 山我哲雄</ref> ==拝一神教の例== *[[ゾロアスター教]] *ユダヤ教以前の[[古代イスラエル]]のヤハヴェ信仰 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[一神教]] *[[モーセの十戒]] *[[旧約聖書]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいいつしんきよう}} [[Category:各種の宗教]] [[Category:一神教]] {{Reli-stub}}
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イーオー
イーオー(古希: Ἰώ, ラテン文字転写: Īō、ラテン語: Io)は、ギリシア神話に登場する女性。ゼウスの恋人であり、牝牛に姿を変えられてギリシアからエジプトまで各地をさまよった。 イーオーの生まれに関しては諸説があり、アイスキュロスら悲劇詩人の多くやオウィディウス、ヒュギーヌス、年代記作者のカストールらは河の神イーナコスの娘であるとし、ヘーシオドス、アクーシラーオスによればペイレーンの娘とする。アポロドーロスはイーアソスの娘との説も紹介している。 イーナコスはアルゴス地方(アルゴリス)を流れる河であり、アルゴスはゼウスの妃ヘーラー信仰の中心地であった。イーオーはアルゴスでヘーラーに仕える女神官を務めたとされる。そして、この様にヘーラー信仰の中心地でヘーラーに仕える巫女であったことや、ヘーラーに関係の深い牝牛に変身したことから、イーオーは本来ヘーラーの別名であり、女神の分身だったと考えられている。 以下は、主としてアポロドーロス(II巻1.3)に基づく。 イーオーはヘーラーの神職にあったが、ゼウスがこれを犯した。ヘーラーに発見されたゼウスはイーオーを白い牝牛の姿に変え、交わっていないと誓った。ヘーラーはゼウスから牝牛を乞い受け、全身に眼がある「普見者(パノプテース)」アルゴスを見張りに付けた。 アルゴスは牝牛をミュケーナイの森の中に連れて行き、一本のオリーブの木につないだ。ゼウスは、ヘルメースに牝牛を盗むよう命じた。しかし、ヒエラクスがこのことをしゃべってしまい、ヘルメースは秘密裏に盗み出すことができず、石を投げつけてアルゴスを殺した。このことからヘルメースは「アルゲイポンテース(アルゴスの殺戮者)」と呼ばれるようになった。 イーオーは解放されたが、ヘーラーが牝牛に虻を送ったため、牝牛は逃げ惑ってイオーニア湾(イオニア海)、イリュリアーを通過し、ハイモス山を経て当時トラーキア海峡と呼ばれていた海を渡った。後にこの海峡はボスポロス(ボスポラス海峡)と呼ばれるようになった。さらにスキュティアー、キメリアーなど広大な地をさまよってエジプトに至り、この地でイーオーは元の人間の姿に戻った。 イーオーはナイル川の河辺でゼウスとの子、エパポスを生んだ。ヘーラーがクーレースたちに命じてエパポスを隠したため、ゼウスはクーレースたちを殺し、イーオーは息子を捜しに出かけて、シリアのビュブロス王の下で養育されていたエパポスと巡り会った。エジプトに戻ったイーオーは、この地の王テーレゴノスと結婚した。 イーオーはこの地にデーメーテールの像を建て、エジプト人はデーメーテールとイーオーをイーシスと呼んだ。エパポスは長じてエジプト王となり、ナイル川の娘メムピスと結婚し、妃の名に基づくメムピス市を創建した。二人の娘リビュエーとポセイドーンとの間にアゲーノールとベーロスの双子が生まれた。 なお、アイスキュロスの悲劇『縛られたプロメテウス』では、イーオーはヘーラーの虻に追われて逃亡するうちにスキュティアーの岩山に縛り付けられたプロメーテウスに出会う。プロメーテウスは、イーオーがさらに各地をさまよった末にエジプトで元の姿に戻り、エパポスを生むこと、イーオーの子孫の13代目の末裔がプロメーテウスを解放するだろうと予言する。 ハンガリーの神話研究家カール・ケレーニイは、イーオーについて、「さまよい歩く月の牝牛の物語」のヒロインとし、エウローペー(この物語ではゼウスが牡牛の姿を取った)を探すカドモスが、牝牛(横腹に満月を描いたとされる)の後を追ってカドメイア(のちのテーバイ)を創建した神話との共通性を指摘している。また、ヘーロドトスの著述では、イーオーはヘーラーによって鼻鉗(はなばさみ)でアルゴスからエジプトまで追われたとし、エパポスは、これこそエジプトの神牛アーピスにほかならないとする。イーオーがエジプト人の女神イーシスと似ていることの出典についてはスーイダースを挙げる。 イギリスの詩人ロバート・グレーヴスは、アルゴスの人々は新月を牝牛の角に見立てて崇拝していた。このことからイーオーは雨をもたらす月の女神の化身だったとする。また、イーオーの物語は本来関係のない二つの物語が原型にあり、これにいくつかの要素が加わってできたのではないかと考察している。二つの物語とは、ひとつは月の神獣である牝牛が星々に守られて大空をめぐる話で、アイルランド伝説にも同種の話がある。もうひとつは、ギリシアに侵入したヘレーネスの指導者(ゼウス)が月の巫女を陵辱した話で、イーオーとは「牝牛の眼を持った」ヘーラーの異名にほかならない。加えられた要素としては、虻に追われて牛が狂い回る仕草は、雨乞いの儀式であり、アルゴス人の植民地がエウボイア島からボスポロス、黒海、シリア、エジプトへと広がっていったことに伴い、この祭式も東漸したことを示す。また、ギリシアにおけるイーオー信仰が、エジプトのイーシス、シリアのアスタルテー、インドのカリのそれぞれの信仰と類似していることの説明であるとしている。
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イーオーは、ギリシア神話に登場する女性。ゼウスの恋人であり、牝牛に姿を変えられてギリシアからエジプトまで各地をさまよった。 イーオーの生まれに関しては諸説があり、アイスキュロスら悲劇詩人の多くやオウィディウス、ヒュギーヌス、年代記作者のカストールらは河の神イーナコスの娘であるとし、ヘーシオドス、アクーシラーオスによればペイレーンの娘とする。アポロドーロスはイーアソスの娘との説も紹介している。 イーナコスはアルゴス地方(アルゴリス)を流れる河であり、アルゴスはゼウスの妃ヘーラー信仰の中心地であった。イーオーはアルゴスでヘーラーに仕える女神官を務めたとされる。そして、この様にヘーラー信仰の中心地でヘーラーに仕える巫女であったことや、ヘーラーに関係の深い牝牛に変身したことから、イーオーは本来ヘーラーの別名であり、女神の分身だったと考えられている。
[[ファイル:Hermes Io Argos Staatliche Antikensammlungen 585.jpg|thumb|300px|左から[[ヘルメース]]、牝牛になったイーオー、[[アルゴス]]。紀元前540年-530年ごろの黒絵式[[アンフォラ]]。[[ミュンヘン]]、[[州立古代美術博物館]]([[:en:Staatliche Antikensammlungen|en]])所蔵(Inv. 585)]] '''イーオー'''({{lang-grc-short|'''Ἰώ'''}}, [[ラテン文字]]転写: {{la|Īō}}、{{lang-la|Io}})は、[[ギリシア神話]]に登場する女性。[[ゼウス]]の恋人であり、牝牛に姿を変えられて[[ギリシア]]から[[エジプト]]まで各地をさまよった。 イーオーの生まれに関しては諸説があり、[[アイスキュロス]]ら悲劇詩人の多くや[[オウィディウス]]、[[ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌス|ヒュギーヌス]]、年代記作者の[[カストール (年代記作家)|カストール]]らは河の神[[イーナコス]]の娘であるとし、[[ヘーシオドス]]、[[アクーシラーオス]]によればペイレーンの娘とする。[[アポロドーロス]]は[[イーアソス]]<ref>イーアソスは[[アルゴス]]と[[イスメーネー]]の子であり、イスメーネーは[[アーソーポス]]の娘であるから、この説に従えば、[[アルゴス]]はイーオーの祖父に当たる。</ref>の娘との説も紹介している。 イーナコスは[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]地方(アルゴリス)を流れる河であり、アルゴスは[[ゼウス]]の妃[[ヘーラー]]信仰の中心地であった。イーオーはアルゴスでヘーラーに仕える女神官を務めたとされる。そして、この様にヘーラー信仰の中心地でヘーラーに仕える巫女であったことや、ヘーラーに関係の深い牝牛に変身したことから、イーオーは本来ヘーラーの別名であり、女神の分身だったと考えられている<ref>[[呉茂一]]『ギリシア神話』[[新潮社]]、1994年、540,541頁。</ref>。 == 神話 == [[ファイル:Figino.jpg|thumb|left|200px|ヘーラー(上)、ゼウス(左)、牝牛にされたイーオー(右)。[[ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジーノ]]([[:en:Giovanni Ambrogio Figino|en]])画(1599年)。[[パヴィア]]、[[マラスピーナ絵画館]]([[:it:Pinacoteca Malaspina|it]])所蔵]] 以下は、主として[[アポロドーロス]](II巻1.3)に基づく。 === 牝牛の姿に === イーオーは[[ヘーラー]]の神職にあったが、[[ゼウス]]がこれを犯した。ヘーラーに発見されたゼウスはイーオーを白い牝牛の姿に変え、交わっていないと誓った。ヘーラーはゼウスから牝牛を乞い受け、全身に眼がある「普見者(パノプテース)<ref>普見者とはあまねく見る者(the All-seeing)の意。</ref>」[[アルゴス]]を見張りに付けた。 アルゴスは牝牛を[[ミュケーナイ]]の森の中に連れて行き、一本の[[オリーブ]]の木につないだ。ゼウスは、[[ヘルメース]]に牝牛を盗むよう命じた。しかし、ヒエラクス<ref>ヒエラクスについては他に言及がない。</ref>がこのことをしゃべってしまい、ヘルメースは秘密裏に盗み出すことができず、石を投げつけてアルゴスを殺した<ref>オウィディウスは、アルゴスについて頭の周囲に100の眼を持つとし、ヘルメースが葦笛([[パンパイプ]])を吹き鳴らし、[[シュリンクス]]の物語(葦笛が発明されたいきさつ)を語るなどしてアルゴスを眠らせる様子を詳述している。 p.41</ref>。このことからヘルメースは「アルゲイポンテース(アルゴスの殺戮者)」と呼ばれるようになった。 === 彷徨 === イーオーは解放されたが、ヘーラーが牝牛に虻<ref>ヒュギーヌスはヘーラーが送ったのは「恐ろしい化け物」としているが、それが具体的になんなのかは示していない(pp.208-209)。また、オウィディウスはヘーラーが[[エリーニュス]]をけしかけたとする(p.45)。</ref>を送ったため、牝牛は逃げ惑ってイオーニア湾([[イオニア海]]<ref>ヒュギーヌスは「イオーニア海」(イーオーの海)と表現し、さらに[[アイスキュロス]]もイーオーをその[[エポニム|名祖]]としているが、高津はイーオーでは母音の長さが異なることから、[[イオニオス]]を名祖としている。</ref>)、[[イリュリア|イリュリアー]]を通過し、[[ハイモス山]]を経て当時トラーキア海峡と呼ばれていた海を渡った。後にこの海峡はボスポロス([[ボスポラス海峡]]<ref>ギリシア語 {{lang|el|Βόσπορος}} は[[通俗語源]]説で 「牝牛の渡し」 の意。牝牛に変身したイーオーが渡ったことから。</ref>)と呼ばれるようになった。さらに[[スキタイ|スキュティアー]]、[[キメリアー]]など広大な地をさまよって[[エジプト]]に至り、この地でイーオーは元の人間の姿に戻った。 === その後 === イーオーは[[ナイル|ナイル川]]の河辺でゼウスとの子、[[エパポス]]を生んだ。ヘーラーが[[クーレース]]たちに命じてエパポスを隠したため、ゼウスはクーレースたちを殺し、イーオーは息子を捜しに出かけて、[[シリア]]の[[ビュブロス]]王の下で養育されていたエパポスと巡り会った。エジプトに戻ったイーオーは、この地の王[[テーレゴノス]]と結婚した。 イーオーはこの地に[[デーメーテール]]の像を建て、エジプト人はデーメーテールとイーオーを[[イシス|イーシス]]と呼んだ<ref>高津によれば、イーオーは死後星になったと伝えられた。</ref>。エパポスは長じてエジプト王となり、ナイル川の娘[[メムピス]]と結婚し、妃の名に基づく[[メンフィス (エジプト)|メムピス市]]を創建した。二人の娘[[リビュエー]]<ref>リビュエーは[[リビア]]の名の由来。なお、ヒュギーヌスはリビュエーをエパポスと[[カッシオペー]]の娘とする。p.213「エパポス」</ref>と[[ポセイドーン]]との間に[[アゲーノール]]と[[ベーロス]]の双子が生まれた。 === プロメーテウスの予言 === なお、[[アイスキュロス]]の悲劇『[[縛られたプロメテウス]]』では、イーオーはヘーラーの虻に追われて逃亡するうちにスキュティアーの岩山に縛り付けられた[[プロメーテウス]]に出会う。プロメーテウスは、イーオーがさらに各地をさまよった末にエジプトで元の姿に戻り、エパポスを生むこと、イーオーの子孫の13代目の末裔<ref>プロメーテウスを解放するのは、[[ヘーラクレース]]である。アイスキュロス p.477 [[高津春繁]]による解説。</ref>がプロメーテウスを解放するだろうと予言する<ref>この予言は、元はプロメーテウスの母[[テミス]]のものである。アイスキュロス p.49</ref>。 == 論考 == [[ファイル:Correggio_028c.jpg|thumb|200px|[[コレッジョ]]による『[[ユピテルとイオ (コレッジョ)|ユピテルとイオ]]』(1531年ごろ)。[[ウィーン]]、[[美術史美術館]]所蔵]] [[ハンガリー]]の神話研究家[[カール・ケレーニイ]]は、イーオーについて、「さまよい歩く月の牝牛の物語」のヒロインとし、[[エウローペー]](この物語では[[ゼウス]]が牡牛の姿を取った)を探す[[カドモス]]が、牝牛(横腹に満月を描いたとされる)の後を追ってカドメイア(のちの[[テーバイ]])を創建した神話との共通性を指摘している。また、[[ヘーロドトス]]の著述では、イーオーは[[ヘーラー]]によって鼻鉗(はなばさみ)でアルゴスからエジプトまで追われたとし、[[エパポス]]は、これこそエジプトの神牛[[アピス|アーピス]]にほかならないとする。イーオーがエジプト人の女神[[イシス|イーシス]]と似ていることの出典については[[スーイダース]]を挙げる<ref>ケレーニイ p.128「ゼウスとその妻たち」</ref>。 [[イギリス]]の詩人[[ロバート・グレーヴス]]は、[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]の人々は新月を牝牛の角に見立てて崇拝していた。このことからイーオーは雨をもたらす月の女神の化身だったとする。また、イーオーの物語は本来関係のない二つの物語が原型にあり、これにいくつかの要素が加わってできたのではないかと考察している。二つの物語とは、ひとつは月の神獣である牝牛が星々に守られて大空をめぐる話で、[[アイルランド伝説]]にも同種の話がある。もうひとつは、ギリシアに侵入した[[ヘレネス|ヘレーネス]]の指導者(ゼウス)が月の巫女を陵辱した話で、イーオーとは「牝牛の眼を持った」ヘーラーの異名にほかならない。加えられた要素としては、虻に追われて牛が狂い回る仕草は、雨乞いの儀式であり、アルゴス人の植民地が[[エウボイア島]]からボスポロス、[[黒海]]、シリア、エジプトへと広がっていったことに伴い、この祭式も東漸したことを示す。また、ギリシアにおけるイーオー信仰が、エジプトのイーシス、シリアの[[アスタルテー]]、[[インド]]の[[カーリー|カリ]]のそれぞれの信仰と類似していることの説明であるとしている<ref>グレーヴス pp.168–171「イーオー」</ref>。 == 系図 == {{イーオーの系図}} == ギャラリー == <gallery widths="130px" heights="170px" perrow="4"> Paris Bordone - Giove e Io - Kunstmuseum, Göteborg.jpg|{{small|[[パリス・ボルドーネ]]『ユピテルとイオ』1550年頃 [[イェーテボリ美術館]]所蔵}} Jupiter a Io.jpg|{{small|{{仮リンク|マタエウス・ガンデラック|en|Matthaus Gundelach}}『ユピテルとイオ』1610年}} Jupiter et Io-Jean-Baptiste Regnault mg 8214.jpg|{{small|[[ジャン=バプティスト・ルニョー]]『ユピテルとイオ』{{仮リンク|ブレスト美術館|fr|Musée des Beaux-Arts de Brest}}所蔵}} Jupiter and Io) by John Hoppner, RA.jpg|{{small|[[ジョン・ホプナー]]『ユピテルとイオ』1785年 [[デンバー美術館]]所蔵}} </gallery> == 脚注 == <references /> == 参考文献 == {{Commons|Io (mythology)}} * {{Cite book|和書|author=アポロドーロス|authorlink=アポロドーロス|others=[[高津春繁]]訳註|edition=1978年改版|title=ギリシア神話|publisher=[[岩波文庫]]|isbn=|ref=アポロドーロス}} * {{Cite book|和書|author=ヒュギーヌス|authorlink=ヒュギーヌス|others=松田 治・青山照男訳註|year=2005|title=ギリシャ神話集|publisher=[[講談社]]文庫|isbn=4061596950|ref=ヒュギーヌス}} * {{Cite book|和書|author=オウィディウス|authorlink=オウィディウス|translator=[[中村善也]]|year=1981|title=変身物語|publisher=岩波文庫|isbn=|ref=オウィディウス}} * {{Cite book|和書|author1=アイスキュロス|authorlink1=アイスキュロス|author2=高津春繁解説|others=[[呉茂一]]他訳|year=1985|title=縛られたプロメテウス(「ギリシア悲劇I アイスキュロス」より)|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=448002011X|ref=アイスキュロス}} * {{Cite book|和書|author=高津春繁|year=1960|title=ギリシア・ローマ神話辞典|publisher=岩波書店|isbn=|ref=高津}} * {{Cite book|和書|author=カール・ケレーニイ|authorlink=カール・ケレーニイ|translator=[[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]]|year=1974|title=ギリシアの神話(神々の時代)|publisher=[[中央公論社]]|isbn=|ref=ケレーニイ}} * {{Cite book|和書|author=ロバート・グレーヴス|authorlink=ロバート・グレーヴス|translator=[[高杉一郎]]|year=1962|title=ギリシア神話(上)|publisher=[[紀伊國屋書店]]|isbn=|ref=グレーヴス}} * {{Cite book|和書|author=B.エヴスリン|translator=[[小林稔 (英文学者)|小林稔]]|year=1979|title=ギリシア神話小事典|publisher=[[社会思想社]][[現代教養文庫]]|isbn=4390110004|ref=エヴスリン}} * {{Cite book|和書|author=創元社編集部編|year=1983|title=ギリシア神話ろまねすく|publisher=[[創元社]]|isbn=4390110004|ref=創元社}} == 関連項目 == ; ギリシア神話 :* [[イーナコス]] - イーオーの父とされる河の神。 :* [[アルゴス]] - イーオーの見張り役。全身に眼があり、「普見者」と呼ばれた。[[エキドナ]]を殺したとされる。 :* [[エパポス]] - イーオーとゼウスの息子。[[パエトーン]]の神話にも登場する。 ; イーオーにちなんだ命名、地名 :* [[イオ (衛星)]] - [[木星]]の[[衛星]]で、「ガリレオ衛星」の一つ。 :* [[イオニア海]] :* [[ボスポラス海峡]] ; イーオーが登場する作品 :* [[縛られたプロメテウス]] - [[アイスキュロス]]による[[ギリシア悲劇]]。紀元前469年ごろの成立と見られる。三部作の一とされるが、他の二作は失われた。 {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いいおお}} [[Category:ギリシア神話の人物]] [[Category:変身譚]] [[Category:ヘーラー]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC
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北海道の鉄道路線
北海道の鉄道路線(ほっかいどうのてつどうろせん)
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北海道の鉄道路線(ほっかいどうのてつどうろせん) 「広域:」とは、その地域内の複数の部分にまたがる路線である。地域内で完結している。 「超広域:」とは、その地域と他の地域にまたがる路線である。 詳細は、その地域を含んだ親の地域の「広域」に同じ路線名を見つけることができる。 各路線の区間は『鉄道要覧』を基準としている。 同じ路線でも支線(別線)および事業種別の違う区間は別掲しており、各地方ごとに起点側から(1)、(2)…と番号を付けている。 特記無き路線は鉄道事業法に基づく鉄道路線、[軌道法適用]と記載がある路線は軌道法に基づく軌道路線である。
{{Otheruses||廃止された鉄道路線|日本の廃止鉄道路線一覧|開拓時代の殖民軌道(簡易軌道)|殖民軌道}} '''[[北海道]]の[[鉄道路線]]'''(ほっかいどうのてつどうろせん) *「広域:」とは、その地域内の複数の部分にまたがる路線である。地域内で完結している。 *「超広域:」とは、その地域と他の地域にまたがる路線である。 *: 詳細は、その地域を含んだ親の地域の「広域」に同じ路線名を見つけることができる。 * 各路線の区間は『鉄道要覧』を基準としている。 * 同じ路線でも支線(別線)および事業種別の違う区間は別掲しており、各地方ごとに起点側から(1)、(2)…と番号を付けている。 * 特記無き路線は[[鉄道事業法]]に基づく鉄道路線、'''[軌道法適用]'''と記載がある路線は[[軌道法]]に基づく軌道路線である。 == 北海道 == *超広域 : **[[北海道新幹線]] ([[北海道旅客鉄道]]) : [[新青森駅]]([[本州]] [[青森県]]) - [[新函館北斗駅]](渡島地方) (148.8km) **[[海峡線]] (北海道旅客鉄道) : [[中小国駅]](本州 青森県) - [[木古内駅]](渡島地方) (87.8km) *広域 : **[[函館本線]] (北海道旅客鉄道) : [[函館駅]](渡島地方) - [[小樽駅]](後志地方) - [[札幌駅]](石狩地方) - [[旭川駅]](上川地方) (423.1km) **[[室蘭本線]] (北海道旅客鉄道) : [[長万部駅]](渡島地方) - [[岩見沢駅]](空知地方) (211.0km) **[[根室本線]] (北海道旅客鉄道) : [[滝川駅]](空知地方) - [[根室駅]](根室地方) (443.8km) **[[石勝線]] (北海道旅客鉄道) : [[南千歳駅]](石狩地方) - [[新得駅]](十勝地方) (132.4km) **[[石北本線]] (北海道旅客鉄道) : [[新旭川駅]](上川地方) - [[網走駅]](網走地方) (234.0km) **[[宗谷本線]] (北海道旅客鉄道) : [[旭川駅]](上川地方) - [[稚内駅]](宗谷地方) (259.4km) **[[釧網本線]] (北海道旅客鉄道) : [[東釧路駅]](釧路地方) - [[網走駅]](網走地方) (166.2km) **[[千歳線]] (北海道旅客鉄道) : [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]](石狩地方) - [[沼ノ端駅]](胆振支庁) (56.6km) === 石狩地方 === *超広域 : [[函館本線]] [[千歳線]] [[石勝線]] *広域 : ** [[札沼線]] (北海道旅客鉄道) : [[桑園駅]](札幌市) - [[北海道医療大学駅]](石狩郡当別町) (28.9km) *[[札幌市]] **[[札幌市営地下鉄南北線]] ([[札幌市交通局]]) : [[麻生駅]] - [[真駒内駅]] (14.3km) **[[札幌市営地下鉄東西線]] (札幌市交通局) : [[宮の沢駅]] - [[新さっぽろ駅]] (20.1km) **[[札幌市営地下鉄東豊線]] (札幌市交通局) : [[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]] - [[福住駅]] (13.6km) **[[札幌市電|札幌市電一条線]] ([[札幌市交通事業振興公社]]・軌道運送事業者)'''[軌道法適用]''': [[西4丁目停留場]] - [[西15丁目停留場]] (1.3km) **[[札幌市電|札幌市電山鼻線]] (札幌市交通事業振興公社・軌道運送事業者)'''[軌道法適用]''': [[すすきの駅]] - [[中央図書館前停留場]] (4.0km) **[[札幌市電|札幌市電山鼻西線]] (札幌市交通事業振興公社・軌道運送事業者)'''[軌道法適用]''': [[西15丁目停留場]] - [[中央図書館前停留場]] (3.2km) **[[札幌市電|札幌市電都心線]] (札幌市交通事業振興公社・軌道運送事業者)'''[軌道法適用]''': [[西4丁目停留場]] - [[狸小路停留場]] - [[すすきの停留場]] (0.4km) *[[千歳市]] **[[千歳線]](1) (北海道旅客鉄道) : [[南千歳駅]] - [[新千歳空港駅]] (2.6km) === 空知地方 === *超広域 : [[函館本線]] [[室蘭本線]] 根室本線 石勝線 *広域 **[[留萌本線]] (北海道旅客鉄道) : [[深川駅]](深川市) - [[石狩沼田駅]](雨竜郡沼田町) (14.4km) === 後志地方 === *超広域 : [[函館本線]] === 渡島地方 === *超広域 : [[函館本線]] [[江差線]]・[[海峡線]](津軽海峡線) [[室蘭本線]] *広域 : **[[函館本線]](1) (北海道旅客鉄道) : [[大沼駅]](亀田郡七飯町) - [[森駅 (北海道)|森駅]](茅部郡森町) 東森経由 (35.3km) **[[道南いさりび鉄道線]] ([[道南いさりび鉄道]]) : [[五稜郭駅]](函館市) - [[木古内駅]](上磯郡木古内町) (37.8km) *[[函館市]] **[[函館市電本線]] ([[函館市企業局交通部]])'''[軌道法適用]''': [[函館どつく前停留場]] - [[函館駅前駅]] (2.9km) **[[函館市電宝来・谷地頭線]] (函館市企業局交通部)'''[軌道法適用]''': [[十字街停留場]] - [[谷地頭停留場]] (1.4km) **[[函館市電大森線]] (函館市企業局交通部)'''[軌道法適用]''': [[松風町停留場]] - [[函館駅前駅]] (0.5km) **[[函館市電湯の川線]] (函館市企業局交通部)'''[軌道法適用]''': 松風町停留場 - [[湯の川停留場]] (6.1km) === 胆振地方 === *超広域 : [[室蘭本線]] [[千歳線]] [[日高本線]] *広域 **[[日高本線]] (北海道旅客鉄道) : [[苫小牧駅]](苫小牧市) - [[鵡川駅]](勇払郡むかわ町) (30.5km) *[[室蘭市]] **[[室蘭本線]](1) (北海道旅客鉄道) : [[東室蘭駅]] - [[室蘭駅]] (7.0km) === 上川地方 === *超広域 : [[函館本線]] [[宗谷本線]] [[根室本線]] [[石北本線]] [[石勝線]] *広域 : **[[富良野線]] [[富良野駅]](富良野市) - [[旭川駅]](旭川市) (54.8km) === 宗谷地方 === *超広域 : [[宗谷本線]] === 網走地方 === *超広域 : [[石北本線]] [[釧網本線]] === 十勝地方 === *超広域 : [[根室本線]] [[石勝線]] === 釧路地方 === *超広域 : [[根室本線]] [[釧網本線]] === 根室地方 === *超広域 : [[根室本線]] == 関連項目 == * [[北海道の鉄道]] * [[日本の地域別鉄道路線一覧]] ** [[東北地方の鉄道路線]] ** [[関東地方の鉄道路線]] ** [[中部地方の鉄道路線]] ** [[近畿地方の鉄道路線]] ** [[中国地方の鉄道路線]] ** [[四国の鉄道路線]] ** [[九州の鉄道路線]] {{北海道 (ナビゲーション)}} {{DEFAULTSORT:ほつかいとうのてつとうろせん}} [[Category:北海道の鉄道路線|*]] [[Category:北海道の一覧|てつとうろせん]] [[Category:日本の地域別鉄道路線一覧|ほつかいとう]]
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函館本線
函館本線(はこだてほんせん)は、北海道函館市の函館駅から長万部駅、小樽駅、札幌駅を経由して旭川市の旭川駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(幹線)である。 北海道最古の鉄道開業区間を含んでおり、以来本州との連絡をおもな目的として北海道における鉄道輸送の基幹を担ってきた。現在は、函館駅から旭川駅までの全区間を運行する列車はなく、函館駅 - 長万部駅間、長万部駅 - 小樽駅間、そして札幌駅を通る小樽駅 - 岩見沢駅間、岩見沢駅 - 旭川駅間の各区間でそれぞれ路線の性格が異なっている。長万部駅 - 小樽駅間以外では現在も道内の主要幹線としての使命を担っている。支線(別線)を含めた総営業キロは458.4 kmで、これは北海道で最長である。 函館駅 - 長万部駅間は函館市と札幌市を結ぶ特急列車や本州からの貨物列車(JR貨物による運行)のメインルートとなっている。現在、これらの優等・貨物列車は、長万部駅 - 白石駅間は室蘭本線・千歳線経由で運転している。 一方、長万部駅 - 小樽駅間はローカル線と化している。長万部駅から室蘭本線・千歳線を経て札幌方面に接続するルートを「海線」と通称するのに対して、函館本線のこの区間は「山線」と呼ばれており、通称としては「山線」の方が古くから存在する。かつては長万部駅 - 小樽駅 - 札幌駅間の山線にも多くの優等列車が往来し、昭和40年代まではC62形蒸気機関車の重連による牽引の急行列車など蒸気機関車が集結したことでもにぎわった。ただ小樽駅までが単線な上、急勾配・急曲線が連続する速度向上に不利な線形を抱えていた。対して、海線経由は30 km以上遠回りであるが、もともと線形も良く所要時間も短縮できるうえに比較的沿線人口にも恵まれていた。さらに山線区間は線路種別が「丙線」であり、軸重軽減対策をしていない一部の機関車は入線できない。 特急列車の登場以来、徐々に函館駅 - 札幌駅間のメインルートとしての役割は海線へ移り、かくして1986年(昭和61年)11月1日に定期の優等列車が山線から全廃され、その後は有珠山噴火や海線での輸送障害時の迂回、また観光シーズンの臨時列車として優等列車が山線に入線することがある程度である。函館駅から小樽駅までの区間は北海道新幹線の新函館北斗駅 - 札幌駅間延伸時に、函館駅 - 長万部駅間がJR北海道から第三セクターに経営移管、長万部駅 - 余市駅間についてはバス転換される見込みである。余市駅 - 小樽駅間は余市町が鉄道存続を求めていたが、自治体間の協議の結果、同区間もバス転換を容認することとなり、山線区間は小樽駅 - 札幌駅間が維持され、長万部駅 - 小樽駅間は廃線・バス転換が行われる予定(「今後の予定」節を参照)。 小樽駅 - 旭川駅間は電化されており(このうち、小樽駅 - 滝川駅間は国鉄による道内で最初の電化区間である)、札幌市と旭川市の両都市を結ぶ特急列車は道内最大の運転本数を有し、旭川を超えて網走市や稚内市まで接続するJR北海道の最重要区間である。また札幌都市圏にあたる小樽駅 - 岩見沢駅間は近距離利用客が多いため、快速を含む普通列車が多く運転され、IC乗車カード「Kitaca」の利用エリアとなっている。2024年3月16日より既存のKitacaエリアを岩見沢駅 - 旭川駅間にも拡大するほか、函館駅 - 新函館北斗駅間が函館エリアとして新規に利用エリアとなる予定である。 函館本線は、北海道の鉄道の発祥路線である。1880年(明治13年)から1882年(明治15年)までに官営幌内鉄道の手で開通した手宮駅(小樽市・現在廃止) - 札幌駅 - 幌内駅(三笠市・現在廃止)間の鉄道がそれである。 官営幌内鉄道の路線を譲り受けた北海道炭礦鉄道、北海道鉄道(初代。千歳線などを建設した2代目の北海道鉄道とは別会社)および北海道庁が運営する北海道官設鉄道によって建設され、北海道官営鉄道は1905年(明治38年)に鉄道作業局(国有鉄道)へ編入、北海道炭礦鉄道と北海道鉄道は、1906年(明治39年)に成立した鉄道国有法によって買収され、国有鉄道線となったものである。 イギリスに範をとった本州の鉄道に対して、北海道の鉄道はアメリカの技術を導入して建設されており、前面にカウキャッチャー、煙突には巨大なダイヤモンドスタックを取り付けたアメリカ式の蒸気機関車が輸入され、客車も「マッチ箱」と称される本州の4輪車に対し、開拓使号客車に代表される、木造台車を履いたボギー車が使われた。「義経」「弁慶」・「しづか」などと命名された機関車(のちの7100形)は、現在も鉄道博物館(さいたま市)、京都鉄道博物館(京都市)、小樽市総合博物館鉄道・科学・歴史館(小樽市)に保存されており、その姿を見ることができる。 大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間については、第二次世界大戦中の輸送力増強のため、急勾配の介在する駒ヶ岳駅回りのバイパスとして建設されたものである。同区間に並行して渡島海岸鉄道(森駅 - 砂原駅間)、大沼電鉄(現在の大沼公園駅 - 鹿部駅間)という2つの私鉄が存在したが、函館本線の建設に伴い買収、廃止された。 小樽築港駅 - 銭函駅間は工事の容易な石狩湾の海岸線に敷設されたが、当時は汽車の煙や火の粉が漁業に悪影響を及ぼすと考えられており、漁獲量の減った年を中心に、沿線の漁師との間でたびたび補償問題に発展したため、余市駅 - 塩谷駅間では「浜」を避けて線路が敷かれている。 戦前は青函航路と稚泊航路を介し内地と樺太を、その後も本州と道内各都市を結ぶ動脈であったが、小樽における貿易、民間航路、漁業の衰退と、金融の中心機能の札幌への移転、また、室蘭・苫小牧地区の工業の発展と歩調を合わせた室蘭本線・千歳線の改良により地位の低下が始まり、道内初の特急である「おおぞら」をはじめ、新規の優等列車は「海線」経由で設定されることが多くなっていった。 さらに、航空路線の拡充に伴い、国鉄は本州連絡に関しての競争力を失い、その末期には、函館駅から扇のように展開していた道内の特急網も、札幌を起点とする方針に改められ、1986年(昭和61年)10月をもって長万部駅 - 札幌駅間の優等列車はすべて廃止となった。 1960年(昭和35年)から15年計画で行なわれた蒸気運転全廃に向けた動力近代化計画では、函館駅 - 長万部駅間も電化計画に含まれていたが、石炭輸送衰退の影響で、新函館北斗駅 - 長万部駅間の電化は室蘭本線東室蘭駅 - 長万部駅間とともに現在でも実現していない。非電化区間としては特急および貨物列車の本数が多く、七飯駅 - 森駅間の8の字区間を除いたほとんどの区間で複線化も行われている。 1994年(平成6年)には、かつての運炭線であり、函館本線最後の盲腸線となった上砂川支線が、利用客の減少により廃止された。 2010年(平成22年)3月、JR北海道は函館本線の小樽以南全区間を経営分離する方針を打ち出したため、2030年度に予定される北海道新幹線の札幌延伸時には、本路線の砂原支線・藤城支線を含む函館駅 - 長万部駅間が経営分離される予定である。また、長万部駅 - 余市駅間は2022年2月3日に沿線自治体が鉄道存続を断念し、廃止を受け入れバスに転換することで合意した。新幹線開業に伴う並行在来線の廃止は、第三セクター鉄道への転換を除けば1997年10月1日の長野新幹線(北陸新幹線)高崎駅 - 長野駅間先行開業に伴う信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の廃止以来2例目となる。余市駅 - 小樽駅間に関しては、小樽市への通勤・通学が多い余市町が第三セクターでの鉄道存続を要望しているため、バス転換へ前向きな小樽市との意見集約が出来ず、結論が先送りされることとなった。なお、小樽市は、2022年1月31日の迫俊哉市長の定例記者会見の席上で、余市駅 - 小樽駅間の存廃について、「バス転換を視野に入れた動きを進めたい」として、同区間のバス転換の方向性について言及している。同年3月26日に行われた道と沿線自治体(小樽市・余市町)の3者協議において余市駅 - 小樽駅間の鉄道存続を断念し、廃止を受け入れバスに転換することで合意した。同年3月27日に行われた沿線自治体(小樽市・余市町・仁木町・共和町・倶知安町・ニセコ町・蘭越町・黒松内町・長万部町)と道の協議において長万部駅 - 小樽駅間の廃線・バス転換が決定した。 2023年10月、北海道などから代替バスの運行を打診されている北海道中央バスなどのバス事業者3社が2024年問題などに伴うバス運転手の不足により、北海道から示されているダイヤ案での本数運行は困難であると回答し、バス転換協議が難航していることが報じられた。北海道などは他のバス事業者にも協力を求めるほか、利用者が少ない一部区間についてはタクシーなど、バス以外の交通機関への転換も検討するとしている。 また、函館駅 - 新函館北斗駅間については、並行在来線であるかどうかについては異論があり、当該区間は並行在来線ではないとの立場に立つ函館市はJRによる運行継続を求めていた。しかし、2011年(平成23年)4月に初当選した工藤壽樹函館市長は、同年11月24日、バス転換しないことなどを条件に経営分離容認を表明。函館商工会議所を始めとする諸団体が依然として反対していたため正式決定が遅れたものの、12月21日には経営分離に同意した。 函館駅 - 長万部駅間については、沿線自治体の多くが旅客路線としては大部分を廃線並びにバス転換したい意向を示しているが、同区間は北海道と本州間における鉄道物流の大動脈となっている貨物列車も運行されており、仮に同区間を廃線にした場合、物流網が寸断され、道内の地域経済(特に農水産業)に大打撃となる恐れがあることから、日本貨物鉄道(JR貨物)北海道支社長の小暮一寿は2022年5月に同区間の存廃について、「自社のみでの貨物路線の保有は困難」として、「第三セクターなどによる鉄道維持が望ましい」との見解を出している。この問題を受けて、国土交通大臣の斉藤鉄夫は、函館駅 - 長万部駅間を貨物路線として維持するための方策を、北海道庁、JR北海道、JR貨物との4者で協議を行うことを2022年9月20日に表明した。その後、2023年(令和5年)7月26日に前述の4者が札幌市内で開いた協議会において、該当区間における鉄道貨物機能を維持する方針を確認した。これにより、新幹線延伸に伴う並行在来線では初めて貨物専用路線として残る可能性が高くなった。 なお、2022年8月31日に開催された北海道と沿線自治体による協議会では、函館駅 - 長万部駅間全区間を第三セクターで維持する場合は経営分離後30年間で累計816億円の赤字が見込まれるとの収支予測を公表した。これを受け、北海道は沿線自治体に対し、赤字圧縮を目的に藤城支線の旅客運行を取りやめる案を提案している。 2016年11月16日、JR北海道が公表した「維持困難路線」に関するプレスリリースのなかで、本区間は「経営分離されるまでの間、施設のスリム化などに取り組み、効率的な運営を行ってまいります」とされた。 小樽駅 - 札幌駅間は札幌都市圏輸送の使命を担っているため普通列車(快速含む)の本数・利用客共に多く、また、新千歳空港駅方面や岩見沢駅方面と一体的な運用を行っているなどの理由から、新幹線開業後もJR北海道が経営を継続する予定である。 起点の函館駅から出発すると五稜郭駅を過ぎるまで、函館市内の住宅地が連なる。七飯駅 - 大沼駅間は本線と支線の二手に別れ、大沼駅付近では駒ヶ岳が見える。大沼駅 - 森駅間は駒ヶ岳を挟んで山間部を通る本線と海沿いを通る支線に線路が分かれ、まったく異なる車窓風景が見られる。なお、大沼駅付近では大沼国定公園指定の沼が何度か見えるが、大沼が見えるのは大沼公園駅を過ぎたあとの右手側と旧流山温泉駅付近の左手側だけであり、大沼駅付近でそれ以外の場所・方向に見えるのは大沼ではなく、小沼である。森駅 - 長万部駅間は噴火湾(内浦湾)沿いに海岸線を進む。 長万部駅からは山へと分け入り、急勾配の峠に挑む。ニセコアンヌプリや羊蹄山の麓を過ぎると余市からは沿線に果樹園が続き、蘭島駅付近から再び海岸が近づいて小樽駅へ至る。小樽市内の小樽築港駅 - 銭函駅間では、間近に日本海を望むことができる。 石狩湾を離れると、いよいよ札幌市へ入る。札幌駅を中心とした北海道最大の都市圏を抱え、沿線は住宅地のほか商業地域やマンションが目立つようになる。札幌駅から白石駅までは千歳線専用の線路(外側2線が函館本線・内側2線が千歳線)と並列し、両線の列車の同時発車も見られる。江別駅を過ぎると徐々に田園風景へと移り、岩見沢駅から滝川駅にかけて平らな石狩平野の穀倉地帯を北上する。並走する国道12号に日本一の直線区間があるように、函館本線もこの区間は長い直線が続き、特急「カムイ」「ライラック」をはじめとする優等列車や721系・731系・733系・735系電車による普通列車もその性能を遺憾なく発揮する。沿線は時折市街地を挟みながら田園風景が続き、車窓の変化は少ない。 並行する石狩川を妹背牛駅の手前で初めて渡り、納内駅 - 近文駅間は景勝地である神居古潭を長い神居トンネルで抜ける。1969年に切り替えられた新線は複数の山を神居トンネルをはじめとする合計5本のトンネルで貫き、複線・電化の際に曲線緩和と距離短縮を目的として建設されたが、引き換えに車窓風景を失った。石狩川の屈曲に合わせて河岸を通っていた旧線は「旭川サイクリングロード」として整備されており、途中の神居古潭駅跡には旭川市の有形文化財に指定され再整備された駅舎やホームが残されているほか、3両の蒸気機関車も静態保存されている。 近文駅を過ぎて再び石狩川を渡ると、終点の旭川駅に到達する。かつては構内南側にヤードや機関庫などが広がっていたが「北彩都あさひかわ」計画に伴いすべて撤去され、跡地に高架化された駅舎を新築し、2010年(平成22年)10月10日に一次開業した。 室蘭本線・千歳線を経由して函館市 - 札幌市間を結ぶ幹線の一部で、特急「北斗」がほぼ1 - 2時間間隔で運転される「特急街道」となっているが、新函館北斗駅 - 長万部駅間は非電化で、一部区間では単線のままである。 なお優等列車の大沼駅 - 森駅間については、定期特急列車はすべて距離の短い駒ヶ岳回りの本線(大沼駅 - 大沼公園駅 - 駒ヶ岳駅 - 森駅間)経由で運転される。かつての特急・急行列車は本線の急勾配を避けるため、上りが砂原支線(大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間)・下りが本線(こちらが勾配を下る形となる)と分けて運転されていた。しかし、時代とともにエンジンをはじめとする車両性能が向上したことや、観光地である大沼公園があることから、特急列車のルートは次第に上下問わず本線経由に移行していった。なお、貨物列車は現在でも大沼駅 - 森駅間で上りが砂原支線・下りが本線と上下別の運転を行っている。七飯駅 - 大沼駅間は、2016年3月25日まで下り特急列車は藤城支線を経由していたが、同年3月26日以降は新函館北斗駅に停車するため、特急列車は上下とも本線経由で運転されている(下り貨物列車は現在も藤城支線を経由している)。 1986年11月1日のダイヤ改正で特急「北海」・急行「ニセコ」が廃止されて以降、この区間では定期優等列車が設定されていない。ただし、ニセコ駅 - 札幌駅間などに臨時特急が運行されることがある。 年間約450万人の都市間輸送量があるこの2都市間や、その中間都市を結ぶ特急「カムイ」「ライラック」が30分から1時間間隔で運転されている。また、旭川以東に直通し石北本線を経て北見・網走方面へ向かう特急「オホーツク」、宗谷本線を経て名寄・稚内方面へ向かう特急「宗谷」も運行されている。なお、旭川駅で函館本線の特急と石北本線または宗谷本線の特急を改札を出ないで乗り継ぐ場合、特急料金を通算する特例がある。 このほか札幌駅 - 白石駅間には千歳線から優等列車が乗り入れる。室蘭本線を経由し上記函館方面から来る列車のほか、途中の東室蘭駅からの特急「すずらん」、石勝線経由で帯広・釧路方面を結ぶ特急「とかち」「おおぞら」が走る。これら千歳線からの列車は併設された千歳線列車用の複線を走行する。 函館駅を中心に普通列車が運転されている。運行区間は函館駅 - 長万部駅間の直通列車のほか、区間列車が函館駅 → 七飯駅間、函館駅 - 新函館北斗駅間(はこだてライナー)、函館駅 - 大沼公園駅間、函館駅 - 森駅間、森駅 - 長万部駅間などに設定され、函館駅に近いほど列車の本数が多くなっている。また、函館駅 - 五稜郭駅間には毎時1本程度道南いさりび鉄道線の普通列車も乗り入れる。函館 - 新函館北斗間は毎時2本程度が確保される一方、森駅 - 長万部駅間は普通列車に限れば1日6往復のみの運転である。 2016年3月25日までは快速列車として長万部発函館行きで「アイリス」が上りのみ設定されていた(これは旧瀬棚線直通の急行「せたな」の後身でもある)。 「はこだてライナー」を除く全普通列車がワンマン運転となっている。 砂原支線では、線路の路盤が脆弱であるため、時期は不詳だが渡島沼尻駅 - 渡島砂原駅間で徐行運転が行われていた。しかし、2018年4月11日にJR北海道が実施した軌道検測の結果を踏まえて、同月4月24日以降は徐行運転区間を銚子口駅 - 掛澗駅間へと拡大された。2018年12月1日以降は、この徐行運転による遅れを加味したダイヤ設定となっている。 七飯駅 - 大沼駅間は本線(新函館北斗駅・仁山駅経由)と新線(下り専用:藤城支線)に分かれるが普通列車は基本的に本線を走る。ただ一部の下り普通列車で藤城支線を通るものもあり、藤城支線を通る列車は新函館北斗駅と仁山駅は経由しない。2016年3月26日の北海道新幹線開業によるダイヤ改正で特急列車は本線経由に統一されたが、藤城支線を通る普通列車も引き続き運転される。なお、1996年(平成8年)12月4日に貨物列車の速度超過による脱線事故のため線路・路盤が変形し、仁山駅経由の本線が不通となった際、復旧まで藤城支線を上下単線として使用していたことがあった。 大沼駅 - 森駅間は本線と砂原支線に分かれている。 この区間では小樽駅を中心に列車が設定されており、全定期列車が各駅停車で運転され、ローカル輸送に徹している。朝に蘭越駅発札幌駅行き、夕方に札幌駅発倶知安駅行きでそれぞれ1日1本運転される快速列車「ニセコライナー」(旧称「マリンライナー」)もこの区間内では各駅停車となる。普通列車は、札幌駅直通が朝に1往復存在する以外は小樽駅で系統が分離されている。小樽駅発着の列車は多くが倶知安駅折り返しで設定されているが、長万部駅発着の直通列車や、然別駅・余市駅折り返しの区間列車も設定されている。近年倶知安駅での系統分割が増加しており、長万部駅・蘭越駅発着の列車は倶知安駅折り返しとなるものが多い。 小樽駅に近づくにつれて運行本数が増え、余市駅 - 小樽駅間では1時間に1 - 2本程度(時間帯により2時間近い間隔が開くこともある)の運転となっている一方、長万部駅 - 蘭越駅間では1日に下り4本・上り5本のみの運行になっている。 2010年12月4日現在、快速「ニセコライナー」1往復と朝の倶知安発苫小牧行き1本、夜の小樽発倶知安行き1本を除き、ワンマン運転を実施している。例外があるのは、該当列車がワンマン運転に対応していないキハ201系による運用のためで、小樽駅 - 倶知安駅・蘭越駅間でも車掌が乗務している。 札幌近郊区間として千歳線直通の快速「エアポート」および普通列車が札幌駅を基軸に運転されている。札幌を起点とした都市圏輸送量(平成15年)は札幌駅 - 小樽駅間で年間2,365万人、札幌駅 - 岩見沢駅間で年間1,440万人に達している。ただし、札幌駅が始発・終着となる列車はあまり多くなく、札幌駅を越えて両方面を直通する運行形態が中心となっている。函館本線内で手稲・小樽方面と江別・岩見沢方面を結ぶ列車のほか、手稲・小樽方面と千歳線の千歳・新千歳空港および室蘭本線の苫小牧方面を結ぶ列車も多い。また手稲駅 - 札幌駅間には、特急車両の札幌運転所への回送を兼ねた「ホームライナー」が朝に下り3本運転されている。 小樽駅・手稲駅・札幌駅発着で岩見沢駅からさらに滝川方面と直通する列車も朝夕を中心に存在し、旭川駅発着列車も1往復設定されている。 桑園駅 - 札幌駅間は札沼線(学園都市線)用の単線が、札幌駅 - 白石駅間は千歳線用の複線がそれぞれ別線として存在し、いずれの列車もその別線を経由して札幌駅まで乗り入れている。 小樽駅 - 岩見沢駅間は日中の一部時間帯を除き、1時間間隔のパターンダイヤが組まれている。1時間に札幌駅 - 手稲駅間で7 - 8本、札幌駅 - 江別駅間で4 - 5本の運行となっている。手稲駅 - ほしみ駅・小樽駅間および江別駅 - 岩見沢駅間では運行本数は減る。 2007年9月30日までは、日中の大部分の区間快速が手稲駅 - 江別駅間を通して快速運転を行っていたが、翌10月1日のダイヤ改正でこの運行形態の列車は廃止され、手稲駅 - 札幌駅および札幌駅 - 江別駅間のどちらかを区間快速とする運転となった(「いしかりライナー」も参照)。 2020年3月14日ダイヤ改正より、区間快速通過駅の利用者増加に伴い、区間快速「いしかりライナー」を普通列車に置き換え・減便する形で運転を終了した。 手稲駅では快速と普通列車との相互接続が行われている。 2020年3月14日改正ダイヤの日中の各区間における1時間あたりの平均的運転本数は以下の通り。 かつては普通列車の多くが小樽・手稲・札幌方面と滝川・旭川方面を直通運転していたが、現在では朝夕の一部列車を除いて岩見沢駅で系統分割されており、札幌方面と滝川・旭川方面を普通列車で移動する場合、ほとんどが岩見沢駅で乗り換えとなる。札幌駅 - 旭川駅間では快速運転を行っておらず、すべての普通列車が各駅に停車する。 苗穂・旭川・苫小牧の各運転所の配置気動車の効率的な運用のために、この区間では気動車の乗り入れも設定されており、該当列車ではワンマン運転を実施している。ただしこの区間の所要時間は電車で40分強、気動車で1時間弱程度と大きな差がある。 区間列車は岩見沢駅 - 深川駅間および岩見沢駅 - 滝川駅間と滝川駅 - 旭川駅間に設定されているほか、深川駅 - 旭川駅間に留萌本線直通の普通列車が1往復のみ設定されている。なお、この区間で他に接続する室蘭本線・根室本線への直通列車は存在しない。 岩見沢駅 - 滝川駅間では1時間に1本程度の普通列車が運転されているが、2時間ほど間隔が開く場合もある。滝川駅 - 深川駅間ではさらに本数が少なく、頻繁に往来する特急列車とは対照的に3時間以上普通列車が運転されない時間帯もある。 貨物列車は、五稜郭駅 - 長万部駅間と札幌貨物ターミナル駅 - 旭川駅間で運行されている。函館駅 - 札幌駅間を直通する長距離旅客列車と同様に、長万部駅 - 札幌貨物ターミナル駅間は急勾配の続く「山線」を避け、距離は長いが線形の良い室蘭本線・千歳線を経由する。 五稜郭駅 - 札幌貨物ターミナル駅間には、コンテナ車のみで編成された定期の高速貨物列車が1日上下21本ずつ設定され、室蘭本線・千歳線とともに、本州と北海道を結ぶ幹線として機能している。なお、函館駅 - 長万部駅間の貨物駅は五稜郭駅のみで、貨物列車は運転停車を除き、途中駅には停車しない。 また五稜郭駅は青函トンネル用電気機関車EH800形が乗り入れるため、道内の貨物駅で唯一着発線が電化されている。新函館北斗駅 - 小樽駅・東室蘭駅間は非電化のため、すべての貨物列車は五稜郭駅(函館貨物駅)にて機関車交換を行う。五稜郭以北に営業運転の電気機関車は乗り入れず、海峡線・道南いさりび鉄道線を除いて道内を運行するすべての貨物列車はDF200形ディーゼル機関車が牽引する。五稜郭駅以外の電化区間上(東室蘭駅 - 沼ノ端駅 - 札幌駅間と小樽駅 - 北旭川駅間)にある道内各貨物駅は着発線を含めすべて非電化である。 札幌貨物ターミナル駅 - 旭川駅間で運行される列車は、基本的に宗谷本線に乗り入れ北旭川駅を起点・終点としている。この区間では、高速貨物列車に加え、専用貨物列車も運行されている。定期の高速貨物列車は、札幌貨物ターミナル発北旭川行が1日4本、北旭川発札幌貨物ターミナル行が1日2本運行されているほか、北旭川発で岩見沢駅から室蘭本線に乗り入れ、苫小牧・東室蘭方面へ向かう列車が1日2本運行されている。季節運行の臨時高速貨物列車は、根室本線富良野駅や石北本線北見駅と札幌貨物ターミナル駅を結んでいる。札幌貨物ターミナル駅 - 旭川駅間の貨物駅は、札幌貨物ターミナル駅と滝川駅がある。 2014年5月までは室蘭本線本輪西駅 - 北旭川駅間で石油製品を輸送するタンク車を連結する専用貨物列車も運行され、苫小牧駅 - 岩見沢駅間を室蘭本線、岩見沢駅 - 旭川駅間を函館本線を経由していた。当時、本輪西発北旭川行の列車は1日2本運行されており、その逆の、北旭川発本輪西行のタンク車返送列車は1日1本運行されていた。これらの列車を補完する臨時の専用貨物列車も、本輪西駅 - 北旭川駅間に1日1往復設定されていた。 なお、JR貨物は札幌貨物ターミナル駅 - 苗穂駅間においても第二種鉄道事業者となっているが、この区間を定期的に運行する貨物列車は設定されていない。 定期列車のみ 道南いさりび鉄道線直通列車については「道南いさりび鉄道線#使用車両」を、千歳線直通列車については「千歳線#運行形態」を参照。室蘭本線直通列車については「室蘭本線#使用車両」も参照。 普通列車は気動車と電車で運転されている。特急・快速列車については、各列車の記事も参照。 区間ごとの輸送密度は以下の通り。 区間ごとの収支(営業収益、営業費用、営業損益)と営業係数は以下の通り。いずれも管理費を含めた金額である。▲はマイナスを意味する。なお、小樽駅 - 札幌駅 - 岩見沢駅間は、札幌圏各線と合わせたデータのみが公表されており、単独のデータは不明。 全駅北海道内に所在。なお、全区間において駅ナンバリングが設定されているが、駅ナンバリング順ではなく、函館駅から下り方向に記述。駅ナンバリングの詳細については「北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー」を参照。 廃止区間上にあるものは除く。括弧内は営業キロ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "函館本線(はこだてほんせん)は、北海道函館市の函館駅から長万部駅、小樽駅、札幌駅を経由して旭川市の旭川駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(幹線)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北海道最古の鉄道開業区間を含んでおり、以来本州との連絡をおもな目的として北海道における鉄道輸送の基幹を担ってきた。現在は、函館駅から旭川駅までの全区間を運行する列車はなく、函館駅 - 長万部駅間、長万部駅 - 小樽駅間、そして札幌駅を通る小樽駅 - 岩見沢駅間、岩見沢駅 - 旭川駅間の各区間でそれぞれ路線の性格が異なっている。長万部駅 - 小樽駅間以外では現在も道内の主要幹線としての使命を担っている。支線(別線)を含めた総営業キロは458.4 kmで、これは北海道で最長である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "函館駅 - 長万部駅間は函館市と札幌市を結ぶ特急列車や本州からの貨物列車(JR貨物による運行)のメインルートとなっている。現在、これらの優等・貨物列車は、長万部駅 - 白石駅間は室蘭本線・千歳線経由で運転している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一方、長万部駅 - 小樽駅間はローカル線と化している。長万部駅から室蘭本線・千歳線を経て札幌方面に接続するルートを「海線」と通称するのに対して、函館本線のこの区間は「山線」と呼ばれており、通称としては「山線」の方が古くから存在する。かつては長万部駅 - 小樽駅 - 札幌駅間の山線にも多くの優等列車が往来し、昭和40年代まではC62形蒸気機関車の重連による牽引の急行列車など蒸気機関車が集結したことでもにぎわった。ただ小樽駅までが単線な上、急勾配・急曲線が連続する速度向上に不利な線形を抱えていた。対して、海線経由は30 km以上遠回りであるが、もともと線形も良く所要時間も短縮できるうえに比較的沿線人口にも恵まれていた。さらに山線区間は線路種別が「丙線」であり、軸重軽減対策をしていない一部の機関車は入線できない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "特急列車の登場以来、徐々に函館駅 - 札幌駅間のメインルートとしての役割は海線へ移り、かくして1986年(昭和61年)11月1日に定期の優等列車が山線から全廃され、その後は有珠山噴火や海線での輸送障害時の迂回、また観光シーズンの臨時列車として優等列車が山線に入線することがある程度である。函館駅から小樽駅までの区間は北海道新幹線の新函館北斗駅 - 札幌駅間延伸時に、函館駅 - 長万部駅間がJR北海道から第三セクターに経営移管、長万部駅 - 余市駅間についてはバス転換される見込みである。余市駅 - 小樽駅間は余市町が鉄道存続を求めていたが、自治体間の協議の結果、同区間もバス転換を容認することとなり、山線区間は小樽駅 - 札幌駅間が維持され、長万部駅 - 小樽駅間は廃線・バス転換が行われる予定(「今後の予定」節を参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "小樽駅 - 旭川駅間は電化されており(このうち、小樽駅 - 滝川駅間は国鉄による道内で最初の電化区間である)、札幌市と旭川市の両都市を結ぶ特急列車は道内最大の運転本数を有し、旭川を超えて網走市や稚内市まで接続するJR北海道の最重要区間である。また札幌都市圏にあたる小樽駅 - 岩見沢駅間は近距離利用客が多いため、快速を含む普通列車が多く運転され、IC乗車カード「Kitaca」の利用エリアとなっている。2024年3月16日より既存のKitacaエリアを岩見沢駅 - 旭川駅間にも拡大するほか、函館駅 - 新函館北斗駅間が函館エリアとして新規に利用エリアとなる予定である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "函館本線は、北海道の鉄道の発祥路線である。1880年(明治13年)から1882年(明治15年)までに官営幌内鉄道の手で開通した手宮駅(小樽市・現在廃止) - 札幌駅 - 幌内駅(三笠市・現在廃止)間の鉄道がそれである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "官営幌内鉄道の路線を譲り受けた北海道炭礦鉄道、北海道鉄道(初代。千歳線などを建設した2代目の北海道鉄道とは別会社)および北海道庁が運営する北海道官設鉄道によって建設され、北海道官営鉄道は1905年(明治38年)に鉄道作業局(国有鉄道)へ編入、北海道炭礦鉄道と北海道鉄道は、1906年(明治39年)に成立した鉄道国有法によって買収され、国有鉄道線となったものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "イギリスに範をとった本州の鉄道に対して、北海道の鉄道はアメリカの技術を導入して建設されており、前面にカウキャッチャー、煙突には巨大なダイヤモンドスタックを取り付けたアメリカ式の蒸気機関車が輸入され、客車も「マッチ箱」と称される本州の4輪車に対し、開拓使号客車に代表される、木造台車を履いたボギー車が使われた。「義経」「弁慶」・「しづか」などと命名された機関車(のちの7100形)は、現在も鉄道博物館(さいたま市)、京都鉄道博物館(京都市)、小樽市総合博物館鉄道・科学・歴史館(小樽市)に保存されており、その姿を見ることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間については、第二次世界大戦中の輸送力増強のため、急勾配の介在する駒ヶ岳駅回りのバイパスとして建設されたものである。同区間に並行して渡島海岸鉄道(森駅 - 砂原駅間)、大沼電鉄(現在の大沼公園駅 - 鹿部駅間)という2つの私鉄が存在したが、函館本線の建設に伴い買収、廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "小樽築港駅 - 銭函駅間は工事の容易な石狩湾の海岸線に敷設されたが、当時は汽車の煙や火の粉が漁業に悪影響を及ぼすと考えられており、漁獲量の減った年を中心に、沿線の漁師との間でたびたび補償問題に発展したため、余市駅 - 塩谷駅間では「浜」を避けて線路が敷かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "戦前は青函航路と稚泊航路を介し内地と樺太を、その後も本州と道内各都市を結ぶ動脈であったが、小樽における貿易、民間航路、漁業の衰退と、金融の中心機能の札幌への移転、また、室蘭・苫小牧地区の工業の発展と歩調を合わせた室蘭本線・千歳線の改良により地位の低下が始まり、道内初の特急である「おおぞら」をはじめ、新規の優等列車は「海線」経由で設定されることが多くなっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "さらに、航空路線の拡充に伴い、国鉄は本州連絡に関しての競争力を失い、その末期には、函館駅から扇のように展開していた道内の特急網も、札幌を起点とする方針に改められ、1986年(昭和61年)10月をもって長万部駅 - 札幌駅間の優等列車はすべて廃止となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1960年(昭和35年)から15年計画で行なわれた蒸気運転全廃に向けた動力近代化計画では、函館駅 - 長万部駅間も電化計画に含まれていたが、石炭輸送衰退の影響で、新函館北斗駅 - 長万部駅間の電化は室蘭本線東室蘭駅 - 長万部駅間とともに現在でも実現していない。非電化区間としては特急および貨物列車の本数が多く、七飯駅 - 森駅間の8の字区間を除いたほとんどの区間で複線化も行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)には、かつての運炭線であり、函館本線最後の盲腸線となった上砂川支線が、利用客の減少により廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)3月、JR北海道は函館本線の小樽以南全区間を経営分離する方針を打ち出したため、2030年度に予定される北海道新幹線の札幌延伸時には、本路線の砂原支線・藤城支線を含む函館駅 - 長万部駅間が経営分離される予定である。また、長万部駅 - 余市駅間は2022年2月3日に沿線自治体が鉄道存続を断念し、廃止を受け入れバスに転換することで合意した。新幹線開業に伴う並行在来線の廃止は、第三セクター鉄道への転換を除けば1997年10月1日の長野新幹線(北陸新幹線)高崎駅 - 長野駅間先行開業に伴う信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の廃止以来2例目となる。余市駅 - 小樽駅間に関しては、小樽市への通勤・通学が多い余市町が第三セクターでの鉄道存続を要望しているため、バス転換へ前向きな小樽市との意見集約が出来ず、結論が先送りされることとなった。なお、小樽市は、2022年1月31日の迫俊哉市長の定例記者会見の席上で、余市駅 - 小樽駅間の存廃について、「バス転換を視野に入れた動きを進めたい」として、同区間のバス転換の方向性について言及している。同年3月26日に行われた道と沿線自治体(小樽市・余市町)の3者協議において余市駅 - 小樽駅間の鉄道存続を断念し、廃止を受け入れバスに転換することで合意した。同年3月27日に行われた沿線自治体(小樽市・余市町・仁木町・共和町・倶知安町・ニセコ町・蘭越町・黒松内町・長万部町)と道の協議において長万部駅 - 小樽駅間の廃線・バス転換が決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2023年10月、北海道などから代替バスの運行を打診されている北海道中央バスなどのバス事業者3社が2024年問題などに伴うバス運転手の不足により、北海道から示されているダイヤ案での本数運行は困難であると回答し、バス転換協議が難航していることが報じられた。北海道などは他のバス事業者にも協力を求めるほか、利用者が少ない一部区間についてはタクシーなど、バス以外の交通機関への転換も検討するとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、函館駅 - 新函館北斗駅間については、並行在来線であるかどうかについては異論があり、当該区間は並行在来線ではないとの立場に立つ函館市はJRによる運行継続を求めていた。しかし、2011年(平成23年)4月に初当選した工藤壽樹函館市長は、同年11月24日、バス転換しないことなどを条件に経営分離容認を表明。函館商工会議所を始めとする諸団体が依然として反対していたため正式決定が遅れたものの、12月21日には経営分離に同意した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "函館駅 - 長万部駅間については、沿線自治体の多くが旅客路線としては大部分を廃線並びにバス転換したい意向を示しているが、同区間は北海道と本州間における鉄道物流の大動脈となっている貨物列車も運行されており、仮に同区間を廃線にした場合、物流網が寸断され、道内の地域経済(特に農水産業)に大打撃となる恐れがあることから、日本貨物鉄道(JR貨物)北海道支社長の小暮一寿は2022年5月に同区間の存廃について、「自社のみでの貨物路線の保有は困難」として、「第三セクターなどによる鉄道維持が望ましい」との見解を出している。この問題を受けて、国土交通大臣の斉藤鉄夫は、函館駅 - 長万部駅間を貨物路線として維持するための方策を、北海道庁、JR北海道、JR貨物との4者で協議を行うことを2022年9月20日に表明した。その後、2023年(令和5年)7月26日に前述の4者が札幌市内で開いた協議会において、該当区間における鉄道貨物機能を維持する方針を確認した。これにより、新幹線延伸に伴う並行在来線では初めて貨物専用路線として残る可能性が高くなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、2022年8月31日に開催された北海道と沿線自治体による協議会では、函館駅 - 長万部駅間全区間を第三セクターで維持する場合は経営分離後30年間で累計816億円の赤字が見込まれるとの収支予測を公表した。これを受け、北海道は沿線自治体に対し、赤字圧縮を目的に藤城支線の旅客運行を取りやめる案を提案している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2016年11月16日、JR北海道が公表した「維持困難路線」に関するプレスリリースのなかで、本区間は「経営分離されるまでの間、施設のスリム化などに取り組み、効率的な運営を行ってまいります」とされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "小樽駅 - 札幌駅間は札幌都市圏輸送の使命を担っているため普通列車(快速含む)の本数・利用客共に多く、また、新千歳空港駅方面や岩見沢駅方面と一体的な運用を行っているなどの理由から、新幹線開業後もJR北海道が経営を継続する予定である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "起点の函館駅から出発すると五稜郭駅を過ぎるまで、函館市内の住宅地が連なる。七飯駅 - 大沼駅間は本線と支線の二手に別れ、大沼駅付近では駒ヶ岳が見える。大沼駅 - 森駅間は駒ヶ岳を挟んで山間部を通る本線と海沿いを通る支線に線路が分かれ、まったく異なる車窓風景が見られる。なお、大沼駅付近では大沼国定公園指定の沼が何度か見えるが、大沼が見えるのは大沼公園駅を過ぎたあとの右手側と旧流山温泉駅付近の左手側だけであり、大沼駅付近でそれ以外の場所・方向に見えるのは大沼ではなく、小沼である。森駅 - 長万部駅間は噴火湾(内浦湾)沿いに海岸線を進む。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "長万部駅からは山へと分け入り、急勾配の峠に挑む。ニセコアンヌプリや羊蹄山の麓を過ぎると余市からは沿線に果樹園が続き、蘭島駅付近から再び海岸が近づいて小樽駅へ至る。小樽市内の小樽築港駅 - 銭函駅間では、間近に日本海を望むことができる。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "石狩湾を離れると、いよいよ札幌市へ入る。札幌駅を中心とした北海道最大の都市圏を抱え、沿線は住宅地のほか商業地域やマンションが目立つようになる。札幌駅から白石駅までは千歳線専用の線路(外側2線が函館本線・内側2線が千歳線)と並列し、両線の列車の同時発車も見られる。江別駅を過ぎると徐々に田園風景へと移り、岩見沢駅から滝川駅にかけて平らな石狩平野の穀倉地帯を北上する。並走する国道12号に日本一の直線区間があるように、函館本線もこの区間は長い直線が続き、特急「カムイ」「ライラック」をはじめとする優等列車や721系・731系・733系・735系電車による普通列車もその性能を遺憾なく発揮する。沿線は時折市街地を挟みながら田園風景が続き、車窓の変化は少ない。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "並行する石狩川を妹背牛駅の手前で初めて渡り、納内駅 - 近文駅間は景勝地である神居古潭を長い神居トンネルで抜ける。1969年に切り替えられた新線は複数の山を神居トンネルをはじめとする合計5本のトンネルで貫き、複線・電化の際に曲線緩和と距離短縮を目的として建設されたが、引き換えに車窓風景を失った。石狩川の屈曲に合わせて河岸を通っていた旧線は「旭川サイクリングロード」として整備されており、途中の神居古潭駅跡には旭川市の有形文化財に指定され再整備された駅舎やホームが残されているほか、3両の蒸気機関車も静態保存されている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "近文駅を過ぎて再び石狩川を渡ると、終点の旭川駅に到達する。かつては構内南側にヤードや機関庫などが広がっていたが「北彩都あさひかわ」計画に伴いすべて撤去され、跡地に高架化された駅舎を新築し、2010年(平成22年)10月10日に一次開業した。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "室蘭本線・千歳線を経由して函館市 - 札幌市間を結ぶ幹線の一部で、特急「北斗」がほぼ1 - 2時間間隔で運転される「特急街道」となっているが、新函館北斗駅 - 長万部駅間は非電化で、一部区間では単線のままである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお優等列車の大沼駅 - 森駅間については、定期特急列車はすべて距離の短い駒ヶ岳回りの本線(大沼駅 - 大沼公園駅 - 駒ヶ岳駅 - 森駅間)経由で運転される。かつての特急・急行列車は本線の急勾配を避けるため、上りが砂原支線(大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間)・下りが本線(こちらが勾配を下る形となる)と分けて運転されていた。しかし、時代とともにエンジンをはじめとする車両性能が向上したことや、観光地である大沼公園があることから、特急列車のルートは次第に上下問わず本線経由に移行していった。なお、貨物列車は現在でも大沼駅 - 森駅間で上りが砂原支線・下りが本線と上下別の運転を行っている。七飯駅 - 大沼駅間は、2016年3月25日まで下り特急列車は藤城支線を経由していたが、同年3月26日以降は新函館北斗駅に停車するため、特急列車は上下とも本線経由で運転されている(下り貨物列車は現在も藤城支線を経由している)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1986年11月1日のダイヤ改正で特急「北海」・急行「ニセコ」が廃止されて以降、この区間では定期優等列車が設定されていない。ただし、ニセコ駅 - 札幌駅間などに臨時特急が運行されることがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "年間約450万人の都市間輸送量があるこの2都市間や、その中間都市を結ぶ特急「カムイ」「ライラック」が30分から1時間間隔で運転されている。また、旭川以東に直通し石北本線を経て北見・網走方面へ向かう特急「オホーツク」、宗谷本線を経て名寄・稚内方面へ向かう特急「宗谷」も運行されている。なお、旭川駅で函館本線の特急と石北本線または宗谷本線の特急を改札を出ないで乗り継ぐ場合、特急料金を通算する特例がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "このほか札幌駅 - 白石駅間には千歳線から優等列車が乗り入れる。室蘭本線を経由し上記函館方面から来る列車のほか、途中の東室蘭駅からの特急「すずらん」、石勝線経由で帯広・釧路方面を結ぶ特急「とかち」「おおぞら」が走る。これら千歳線からの列車は併設された千歳線列車用の複線を走行する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "函館駅を中心に普通列車が運転されている。運行区間は函館駅 - 長万部駅間の直通列車のほか、区間列車が函館駅 → 七飯駅間、函館駅 - 新函館北斗駅間(はこだてライナー)、函館駅 - 大沼公園駅間、函館駅 - 森駅間、森駅 - 長万部駅間などに設定され、函館駅に近いほど列車の本数が多くなっている。また、函館駅 - 五稜郭駅間には毎時1本程度道南いさりび鉄道線の普通列車も乗り入れる。函館 - 新函館北斗間は毎時2本程度が確保される一方、森駅 - 長万部駅間は普通列車に限れば1日6往復のみの運転である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2016年3月25日までは快速列車として長万部発函館行きで「アイリス」が上りのみ設定されていた(これは旧瀬棚線直通の急行「せたな」の後身でもある)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "「はこだてライナー」を除く全普通列車がワンマン運転となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "砂原支線では、線路の路盤が脆弱であるため、時期は不詳だが渡島沼尻駅 - 渡島砂原駅間で徐行運転が行われていた。しかし、2018年4月11日にJR北海道が実施した軌道検測の結果を踏まえて、同月4月24日以降は徐行運転区間を銚子口駅 - 掛澗駅間へと拡大された。2018年12月1日以降は、この徐行運転による遅れを加味したダイヤ設定となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "七飯駅 - 大沼駅間は本線(新函館北斗駅・仁山駅経由)と新線(下り専用:藤城支線)に分かれるが普通列車は基本的に本線を走る。ただ一部の下り普通列車で藤城支線を通るものもあり、藤城支線を通る列車は新函館北斗駅と仁山駅は経由しない。2016年3月26日の北海道新幹線開業によるダイヤ改正で特急列車は本線経由に統一されたが、藤城支線を通る普通列車も引き続き運転される。なお、1996年(平成8年)12月4日に貨物列車の速度超過による脱線事故のため線路・路盤が変形し、仁山駅経由の本線が不通となった際、復旧まで藤城支線を上下単線として使用していたことがあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大沼駅 - 森駅間は本線と砂原支線に分かれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この区間では小樽駅を中心に列車が設定されており、全定期列車が各駅停車で運転され、ローカル輸送に徹している。朝に蘭越駅発札幌駅行き、夕方に札幌駅発倶知安駅行きでそれぞれ1日1本運転される快速列車「ニセコライナー」(旧称「マリンライナー」)もこの区間内では各駅停車となる。普通列車は、札幌駅直通が朝に1往復存在する以外は小樽駅で系統が分離されている。小樽駅発着の列車は多くが倶知安駅折り返しで設定されているが、長万部駅発着の直通列車や、然別駅・余市駅折り返しの区間列車も設定されている。近年倶知安駅での系統分割が増加しており、長万部駅・蘭越駅発着の列車は倶知安駅折り返しとなるものが多い。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "小樽駅に近づくにつれて運行本数が増え、余市駅 - 小樽駅間では1時間に1 - 2本程度(時間帯により2時間近い間隔が開くこともある)の運転となっている一方、長万部駅 - 蘭越駅間では1日に下り4本・上り5本のみの運行になっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2010年12月4日現在、快速「ニセコライナー」1往復と朝の倶知安発苫小牧行き1本、夜の小樽発倶知安行き1本を除き、ワンマン運転を実施している。例外があるのは、該当列車がワンマン運転に対応していないキハ201系による運用のためで、小樽駅 - 倶知安駅・蘭越駅間でも車掌が乗務している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "札幌近郊区間として千歳線直通の快速「エアポート」および普通列車が札幌駅を基軸に運転されている。札幌を起点とした都市圏輸送量(平成15年)は札幌駅 - 小樽駅間で年間2,365万人、札幌駅 - 岩見沢駅間で年間1,440万人に達している。ただし、札幌駅が始発・終着となる列車はあまり多くなく、札幌駅を越えて両方面を直通する運行形態が中心となっている。函館本線内で手稲・小樽方面と江別・岩見沢方面を結ぶ列車のほか、手稲・小樽方面と千歳線の千歳・新千歳空港および室蘭本線の苫小牧方面を結ぶ列車も多い。また手稲駅 - 札幌駅間には、特急車両の札幌運転所への回送を兼ねた「ホームライナー」が朝に下り3本運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "小樽駅・手稲駅・札幌駅発着で岩見沢駅からさらに滝川方面と直通する列車も朝夕を中心に存在し、旭川駅発着列車も1往復設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "桑園駅 - 札幌駅間は札沼線(学園都市線)用の単線が、札幌駅 - 白石駅間は千歳線用の複線がそれぞれ別線として存在し、いずれの列車もその別線を経由して札幌駅まで乗り入れている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "小樽駅 - 岩見沢駅間は日中の一部時間帯を除き、1時間間隔のパターンダイヤが組まれている。1時間に札幌駅 - 手稲駅間で7 - 8本、札幌駅 - 江別駅間で4 - 5本の運行となっている。手稲駅 - ほしみ駅・小樽駅間および江別駅 - 岩見沢駅間では運行本数は減る。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2007年9月30日までは、日中の大部分の区間快速が手稲駅 - 江別駅間を通して快速運転を行っていたが、翌10月1日のダイヤ改正でこの運行形態の列車は廃止され、手稲駅 - 札幌駅および札幌駅 - 江別駅間のどちらかを区間快速とする運転となった(「いしかりライナー」も参照)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2020年3月14日ダイヤ改正より、区間快速通過駅の利用者増加に伴い、区間快速「いしかりライナー」を普通列車に置き換え・減便する形で運転を終了した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "手稲駅では快速と普通列車との相互接続が行われている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2020年3月14日改正ダイヤの日中の各区間における1時間あたりの平均的運転本数は以下の通り。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "かつては普通列車の多くが小樽・手稲・札幌方面と滝川・旭川方面を直通運転していたが、現在では朝夕の一部列車を除いて岩見沢駅で系統分割されており、札幌方面と滝川・旭川方面を普通列車で移動する場合、ほとんどが岩見沢駅で乗り換えとなる。札幌駅 - 旭川駅間では快速運転を行っておらず、すべての普通列車が各駅に停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "苗穂・旭川・苫小牧の各運転所の配置気動車の効率的な運用のために、この区間では気動車の乗り入れも設定されており、該当列車ではワンマン運転を実施している。ただしこの区間の所要時間は電車で40分強、気動車で1時間弱程度と大きな差がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "区間列車は岩見沢駅 - 深川駅間および岩見沢駅 - 滝川駅間と滝川駅 - 旭川駅間に設定されているほか、深川駅 - 旭川駅間に留萌本線直通の普通列車が1往復のみ設定されている。なお、この区間で他に接続する室蘭本線・根室本線への直通列車は存在しない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "岩見沢駅 - 滝川駅間では1時間に1本程度の普通列車が運転されているが、2時間ほど間隔が開く場合もある。滝川駅 - 深川駅間ではさらに本数が少なく、頻繁に往来する特急列車とは対照的に3時間以上普通列車が運転されない時間帯もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "貨物列車は、五稜郭駅 - 長万部駅間と札幌貨物ターミナル駅 - 旭川駅間で運行されている。函館駅 - 札幌駅間を直通する長距離旅客列車と同様に、長万部駅 - 札幌貨物ターミナル駅間は急勾配の続く「山線」を避け、距離は長いが線形の良い室蘭本線・千歳線を経由する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "五稜郭駅 - 札幌貨物ターミナル駅間には、コンテナ車のみで編成された定期の高速貨物列車が1日上下21本ずつ設定され、室蘭本線・千歳線とともに、本州と北海道を結ぶ幹線として機能している。なお、函館駅 - 長万部駅間の貨物駅は五稜郭駅のみで、貨物列車は運転停車を除き、途中駅には停車しない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また五稜郭駅は青函トンネル用電気機関車EH800形が乗り入れるため、道内の貨物駅で唯一着発線が電化されている。新函館北斗駅 - 小樽駅・東室蘭駅間は非電化のため、すべての貨物列車は五稜郭駅(函館貨物駅)にて機関車交換を行う。五稜郭以北に営業運転の電気機関車は乗り入れず、海峡線・道南いさりび鉄道線を除いて道内を運行するすべての貨物列車はDF200形ディーゼル機関車が牽引する。五稜郭駅以外の電化区間上(東室蘭駅 - 沼ノ端駅 - 札幌駅間と小樽駅 - 北旭川駅間)にある道内各貨物駅は着発線を含めすべて非電化である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "札幌貨物ターミナル駅 - 旭川駅間で運行される列車は、基本的に宗谷本線に乗り入れ北旭川駅を起点・終点としている。この区間では、高速貨物列車に加え、専用貨物列車も運行されている。定期の高速貨物列車は、札幌貨物ターミナル発北旭川行が1日4本、北旭川発札幌貨物ターミナル行が1日2本運行されているほか、北旭川発で岩見沢駅から室蘭本線に乗り入れ、苫小牧・東室蘭方面へ向かう列車が1日2本運行されている。季節運行の臨時高速貨物列車は、根室本線富良野駅や石北本線北見駅と札幌貨物ターミナル駅を結んでいる。札幌貨物ターミナル駅 - 旭川駅間の貨物駅は、札幌貨物ターミナル駅と滝川駅がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2014年5月までは室蘭本線本輪西駅 - 北旭川駅間で石油製品を輸送するタンク車を連結する専用貨物列車も運行され、苫小牧駅 - 岩見沢駅間を室蘭本線、岩見沢駅 - 旭川駅間を函館本線を経由していた。当時、本輪西発北旭川行の列車は1日2本運行されており、その逆の、北旭川発本輪西行のタンク車返送列車は1日1本運行されていた。これらの列車を補完する臨時の専用貨物列車も、本輪西駅 - 北旭川駅間に1日1往復設定されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なお、JR貨物は札幌貨物ターミナル駅 - 苗穂駅間においても第二種鉄道事業者となっているが、この区間を定期的に運行する貨物列車は設定されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "定期列車のみ", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "道南いさりび鉄道線直通列車については「道南いさりび鉄道線#使用車両」を、千歳線直通列車については「千歳線#運行形態」を参照。室蘭本線直通列車については「室蘭本線#使用車両」も参照。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "普通列車は気動車と電車で運転されている。特急・快速列車については、各列車の記事も参照。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "区間ごとの輸送密度は以下の通り。", "title": "データ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "区間ごとの収支(営業収益、営業費用、営業損益)と営業係数は以下の通り。いずれも管理費を含めた金額である。▲はマイナスを意味する。なお、小樽駅 - 札幌駅 - 岩見沢駅間は、札幌圏各線と合わせたデータのみが公表されており、単独のデータは不明。", "title": "データ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "全駅北海道内に所在。なお、全区間において駅ナンバリングが設定されているが、駅ナンバリング順ではなく、函館駅から下り方向に記述。駅ナンバリングの詳細については「北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー」を参照。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "廃止区間上にあるものは除く。括弧内は営業キロ。", "title": "駅一覧" } ]
函館本線(はこだてほんせん)は、北海道函館市の函館駅から長万部駅、小樽駅、札幌駅を経由して旭川市の旭川駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(幹線)である。
{{出典の明記|date=2015年5月}} {{Otheruses||[[山川豊]]のシングル・楽曲|函館本線 (山川豊の曲)}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (hokkaido).svg|35px|link=北海道旅客鉄道]] 函館本線 |路線色=#2cb431 |画像=Series Kiha261-1000 Hokuto-4.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=函館本線を走行する特急「北斗」<br />(2022年9月 [[大沼駅]]) |国={{JPN}} |所在地=[[北海道]] |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]]) |起点=[[函館駅]]([[本線]])<br />[[大沼駅]]([[支線]]) |終点=[[旭川駅]](本線)<br />[[森駅 (北海道)|森駅]](支線) |駅数=[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]:4駅<br />[[日本の鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]:86駅<br />[[貨物駅]]:2駅<br />[[信号場]]:5か所 |電報略号 = ハコホセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p25">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=25}}</ref> |路線記号={{駅番号c|black|01}}(札幌駅)<br />{{駅番号c|#0072bc|H}}(函館 - 長万部間、苗穂 - 白石間)<br />{{駅番号c|#0072bc|N}}(鹿部 - 東森間(支線))<br />{{駅番号c|#ed1c23|S}}(二股 - 小樽 - 桑園間)<br />{{駅番号c|#f7931d|A}}(厚別 - 旭川間)<br /><small>路線記号については[[北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー|当該記事]]も参照</small> |開業=[[1880年]][[11月28日]]([[官営幌内鉄道]]→[[北海道炭礦鉄道]]空知線)<br />[[1898年]][[7月16日]]([[北海道官設鉄道]]上川線)<br />[[1902年]][[12月10日]]([[北海道鉄道 (初代)|北海道鉄道]]) |所有者=[[北海道旅客鉄道]](JR北海道) |運営者=北海道旅客鉄道(JR北海道)<br />(全線 [[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]])<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />(五稜郭 - 長万部間、苗穂 - 旭川間、大沼 - 渡島砂原 - 森間 [[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]) |車両基地=[[函館運輸所]]・[[札幌運転所]]・[[苗穂運転所]]・[[旭川運転所]] |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照 |路線距離=423.1 [[キロメートル|km]](函館 - 旭川間)<br />35.3 km(大沼 - 渡島砂原 - 森間) |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]](函館駅 - 七飯駅間、森駅 - 鷲ノ巣信号場間、山崎駅 - 黒岩駅間、北豊津信号場 - 長万部駅間、小樽駅 - 旭川駅間)<br />[[単線]](上記以外) |電化区間=函館 - [[新函館北斗駅|新函館北斗]]間<br />[[小樽駅|小樽]] - 旭川間<br />上記区間以外[[非電化]] |電化方式=[[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />[[架空電車線方式]] |最大勾配=22.3 [[パーミル|‰]](新函館北斗 - 大沼間など) |閉塞方式=[[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式]](下記以外)<br />[[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞式(電子符号照査式)]]<br />(長万部 - 小樽間) |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-D<small>N</small>]](下記以外)<br />[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]](長万部 - 小樽間) |最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]](函館 - 長万部間・小樽 - 旭川間)<br />95 km/h(大沼 - 渡島砂原 - 森間・長万部 - 小樽間) |路線図=File:Hakodate Main Line linemap.svg }} {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#2cb431}} {{BS-table}} {{BS-colspan|HI=style="font-size:90%;"}} *T…[[トンネル]](隧道) *トンネル(隧道)・[[橋|橋梁]](河川)は主要なものを掲載 *[[札幌市交通局]]の[[札幌市営地下鉄|地下鉄]]および[[札幌市電|市電]]については以下の通り表記 **[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|12px]][[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] [[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px]][[札幌市営地下鉄東西線|東西線]] [[File:Subway_SapporoToho.svg|12px]][[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]] [[File:BSicon exTRAM.svg|14px]]市電(廃止線区) ---- {{BS5|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|O4=exTRAJEKT|WDOCKSm|||↑''[[青函連絡船|青函航路]]'' 1908-1988|}} {{BS5||uSTRq|uSTR+r|WDOCKSlf|O4=exSTR|WDOCKSm|||←[[函館市企業局交通部#軌道事業|函館市電]]:本線 1898-|}} {{BS5|||uSTR|O4=HUBa|exHST|WDOCKSlf||''[[函館駅|函館桟橋駅]]''|1915-1968|}} {{BS5||ELCa|O3=HUBaq|uHST|O4=HUBtg|KBHFxa|O5=HUBeq|exKBHFa|0.0|[[函館駅]]|1904-|}} {{BS5|||uSTR|STR|exSTR|||↖函館市電([[函館駅#函館市電_函館駅前停留場|函館駅前]]) 1898-|}} {{BS5|||uSTR|O3=POINTERg@fq|STR|exSTR|||函館市電:大森線 1898-|}} {{BS5||ueABZq+l|uSTRr|STR|O5=POINTERg@fq|exSTR||''旧線''|1904-1924|}} {{BS5||O2=POINTERf@lgq|uexLSTR|exSTR+l|eKRZ|exSTRr|||''函館市電:本線'' 1898-1993|}} {{BS5||uexLSTR|exBHF|eABZg+l|exSTRr|0.8|''[[亀田駅 (北海道)|亀田駅]]''|1902-1911|}} {{BS5||uexLSTR|exSTR|eABZgl|exSTR+r|||''[[函館市]]:市営臨港鉄道''|}} {{BS5||uexLSTR|exKRWl|eKRWg+r|||||}} {{BS5||uexSTRl|uexSTR+r|STR||||↙''函館市電:本線([[五稜郭駅#函館市電 五稜郭駅前停留場|五稜郭駅前]])'' 1955-1978|}} {{BS5|||O3=HUBaq|uexKHSTe|O4=HUBeq|BHF||3.4|[[五稜郭駅]]|1911-|}} {{BS5||||ABZgl|KDSTeq||[[日本貨物鉄道|JR貨]]:[[五稜郭駅#JR貨物 函館貨物駅|函館貨物駅]]|1912-|}} {{BS5||||ABZgl|STRq|||→[[道南いさりび鉄道線]](←[[江差線]])1913-|}} {{BS5||||BHF||8.3|[[桔梗駅]]|1902-|}} {{BS5||||BHF||10.4|[[大中山駅]]<ref group="*" name="大中山" />|1946-|}} {{BS5||||BHF||13.8|[[七飯駅]]|1902-|}} {{BS5||||KRWgl|O5=POINTER+1|KRW+r||藤城支線|(非電化)1966-|}} {{BS5||STR+l|STRq|KRZu|STRr|||}} {{BS5||STR||STR|KDSTa|||[[函館新幹線総合車両所]]}} {{BS5||STR||STR|ABZg+l|||[[北海道新幹線]]([[新青森駅|新青森]]方面) 2016-}} {{BS5||STRf||O4=HUBaq|BHF|O5=HUBeq|KBHFxe|17.9|[[新函館北斗駅]]<ref group="*" name="新函館北斗" />|1902-|}} {{BS5||TUNNEL1|ELCe|STR+GRZq|exSTR|||↑[[交流電化|交流20kV/50Hz]]/↓[[非電化]]|}} {{BS5||TUNNEL1||STR|exSTRl|||''北海道新幹線(札幌方面 建設中)''|}} {{BS5||TUNNEL1||BHF||21.2|[[仁山駅]]<ref group="*" name="仁山" />|1936-|}} {{BS5||TUNNEL1||STR|||||}} {{BS5||TUNNEL1||eDST||22.5|''[[熊の湯信号場]]''|1962-1966|}} {{BS5||STRl|tSTRaq|KRZt|tSTR+r|O5=POINTERg@fq||新峠下T|1,250m{{R|yamada2017}}|}} {{BS5||||TUNNEL1|tSTRe@f||}} {{BS5||||KRWg+l|KRWr||}} {{BS5||||eDST||24.9|''小沼信号場''|1943-1948|}} {{BS5||||BHF||{{BSkm|27.0|0.0*}}|[[大沼駅]]|1903-|}} {{BS5|||STRc2|ABZ23|STRc3||||}} {{BS5|||O3=POINTERf@gq|STR+1|STRc14|STR+4||砂原支線|1945-|}} {{BS5|||STR|O4=HUBaq|exKHSTa|O5=HUBeq|BHF|28.0|[[大沼公園駅]]<ref group="*" name="大沼公園" />|1908-|}} {{BS5|||STR|exLSTR|LSTR|||''[[大沼電鉄]](大沼公園駅)'' 1929-1945|}} {{BS5|||STR|O4=POINTERf@gq|exLSTR|LSTR|||''大沼電鉄'' 1929-1945|}} {{BS5|||hKRZWae|exhKRZWae|LSTR|||軍川|}} {{BS5|||eBHF|exSTR|LSTR|3.4*| ''[[池田園駅]] '' |1945-2022|}} {{BS5|||STR|exHST|LSTR|||''大沼電鉄([[池田園駅#大沼電鉄|池田園駅]])'' 1929-1945|}} {{BS5|||STR|exLSTR|hKRZWae|||[[大沼 (七飯町)|大沼]]|}} {{BS5|||STR|exLSTR|BHF|31.7|[[赤井川駅]]|1904-|}} {{BS5|||eBHF|exSTR|STR|5.6*| ''[[流山温泉駅]] '' |2002-2022|}} {{BS5|exSTR+l|exSTRq|eKRZ|exSTRr|STR||||}} {{BS5|exHST||STR||STR|||''大沼電鉄([[銚子口駅 (大沼電鉄)|銚子口駅]])'' 1929-1945|}} {{BS5|exABZg+l|exKHSTeq|O2=HUBaq|DST|O3=HUBeq||STR|6.8*|[[銚子口信号場]]<ref group="*" name="銚子口" />|1945-|}} {{BS5|exSTR||STR||STR|||''大沼電鉄([[銚子口駅#大沼電鉄(新銚子口駅)|新銚子口駅]])'' 1948-1952|}} {{BS5|exSTR||STR||BHF|36.5|[[駒ヶ岳駅]]|1903-|}} {{BS5|exLSTR||STR||eBHF|40.1|''[[東山駅 (北海道)|東山駅]]''<ref group="*" name="東山" />|1943-2017|}} {{BS5|exSTRr||eDST||STR||''[[新本別信号場]]''{{Refnest|group="注釈"|name="shinhonbetsu"|『日本鉄道旅行地図帳』(新潮社)によれば、新本別駅が開業したという記載はなく、新本別信号場として1949年8月1日に廃止されている{{R|imao}}。}}|1945-1949|}} {{BS5|||BHF||STR|14.6*|[[鹿部駅]]|1945-|}} {{BS5|||BHF||STR|20.0*|[[渡島沼尻駅]]<ref group="*" name="渡島沼尻" />|1945-|}} {{BS5|||BHF||STR|25.3*|[[渡島砂原駅]]|1945-|}} {{BS5||exKHSTa|STR||STR|||''渡島海岸鉄道([[渡島砂原駅#渡島海岸鉄道|砂原駅]])'' 1927-1945|}} {{BS5||exLSTR|BHF||STR|29.0*|[[掛澗駅]]|1945-|}} {{BS5||O2=POINTERf@lgq|exKRWl|eKRWg+r||STR|||''[[渡島海岸鉄道]]'' 1927-1945|}} {{BS5|||BHF||STR|31.9*|[[尾白内駅]]|1945-|}} {{BS5|||hKRZWae||hKRZWae|||尾白内川|}} {{BS5|||STR||DST|44.2|[[姫川信号場]]<ref group="*" name="姫川" />|1913-|}} {{BS5|||STR||eDST|46.1|''[[森川信号場]]''|1944-1945|}} {{BS5|||BHF2|STRc23|STR3|33.5*|[[東森駅]]|1945-|}} {{BS5|||STRc1|ABZ+14|STRc4|||}} {{BS5||||BHF||{{BSkm|49.5|35.3*}}|[[森駅 (北海道)|森駅]]|1903-|}} {{BS5||||hKRZWae||||鳥崎川|}} {{BS5||||eBHF||52.2|''[[桂川駅 (北海道)|桂川駅]]''<ref group="*" name="桂川" />|1944-2017|}} {{BS5||||TUNNEL1|||桂川T|656m|}} {{BS5||||DST||56.1|[[石谷信号場]]<ref group="*" name="石谷" />|1930-|}} {{BS5||||eBHF||60.0| ''[[本石倉駅]] '' <ref group="*" name="本石倉" />|1944-2022|}} {{BS5||||BHF||62.1|[[石倉駅]]|1903-|}} {{BS5|||exKRW+l|O4=POINTERg@fq|eKRWgr|||新線|1945-|}} {{BS5|||O3=POINTERf@gq|exSTR|TUNNEL1|||''旧線''|1903-1945|}} {{BS5|||exBHF|BHF||66.1|[[落部駅]]|1911-|}} {{BS5|||O3=POINTERf@gq|exSTR|TUNNEL1|||''旧線''|1903-1958|}} {{BS5|||exKRWl|O4=POINTERg@fq|eKRWg+r|||新線|1958-|}} {{BS5||||hKRZWae||||落部川|}} {{BS5||||hKRZWae||||野田追川|}} {{BS5||||BHF||71.4|[[野田生駅]]|1903-|}} {{BS5||||BHF|exLSTR|76.0|[[山越駅]]|1903-|}} {{BS5||||STR|exHST|||[[新八雲駅]](仮称)|}} {{BS5||||BHF|exLSTR|81.1|[[八雲駅]]|1903-|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[遊楽部川]]|}} {{BS5||||DST||84.2|[[鷲ノ巣信号場]]<ref group="*" name="鷲ノ巣" />|1944-|}} {{BS5||||BHF||88.3|[[山崎駅 (北海道)|山崎駅]]|1904-|}} {{BS5||||BHF||94.4|[[黒岩駅]]|1903-|}} {{BS5||||DST||98.2|[[北豊津信号場]]<ref group="*" name="北豊津" />|1944-|}} {{BS5||||eABZg+l|exSTRq|||→''[[瀬棚線]]'' 1929-1987|}} {{BS5||||BHF||102.8|[[国縫駅]]|1903-|}} {{BS5||||hKRZWae||||国縫川|}} {{BS5||||BHF||107.7|[[中ノ沢駅]]|1904-|}} {{BS5||||STR|exLSTR|||''北海道新幹線(建設中)''|}} {{BS5||||BHF|O4=HUBaq|exhBHF|O5=HUBeq|112.3|[[長万部駅]]|1903-|}} {{BS5|||STRq|ABZgr|exhSTR|||←[[室蘭本線]] 1923-|}} {{BS5|||exhSTRq|eKRZh|exhSTRr||||}} {{BS5||||SKRZ-Au||||[[道央自動車道]]}} {{BS5||||BHF||120.9|[[二股駅]]|1903-|}} {{BS5||||hKRZWae||||二股川|}} {{BS5||||eBHF||126.9|''[[蕨岱駅]]''|1904-2017|}} {{BS5||||BHF||132.3|[[黒松内駅]]|1903-|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[朱太川]]|}} {{BS5||||eABZgl|exSTRq|||''[[寿都鉄道]]'' 1920-1972|}} {{BS5||||hKRZWae||||熱郛川|}} {{BS5||||BHF||140.4|[[熱郛駅]]|1903-|}} {{BS5||||TUNNEL1|||第1白井川T|221m|}} {{BS5||||STR+GRZq||146.6||↑[[北海道旅客鉄道函館支社|函館支社]]/↓[[北海道旅客鉄道鉄道事業本部|本社鉄道事業本部]]|}} {{BS5||||TUNNEL1|||第2白井川T|595m|}} {{BS5||||eBHF||147.6|''[[上目名駅]]''|1913-1984|}} {{BS5||||BHF||155.8|[[目名駅]]|1904-|}} {{BS5||||BHF||163.4|[[蘭越駅]]|1904-|}} {{BS5||||BHF||170.3|[[昆布駅]]|1904-|}} {{BS5||||hKRZWae||||昆布川|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[尻別川]]|}} {{BS5||||hKRZWae||||尻別川|}} {{BS5||||hKRZWae||||真狩川|}} {{BS5||uexSTRq|uexSTR+r|STR||||''[[殖民軌道]]:真狩線'' 1936-1953|}} {{BS5|||O3=HUBaq|uexKHSTe|O4=HUBeq|BHF||179.6|[[ニセコ駅]]|1904-|}} {{BS5||||hKRZWae||||尻別川|}} {{BS5||||hKRZWae||||尻別川|}} {{BS5|||exLSTR|BHF||186.6|[[比羅夫駅]]|1904-|}} {{BS5|||exhKRZW|hKRZWae||||尻別川|}} {{BS5|||exhKRZW|hKRZWae||||倶登山川|}} {{BS5|||exhBHF|O3=HUBaq|BHF|O4=HUBeq||193.3|[[倶知安駅]]|1904-|}} {{BS5||exSTRq|exhKRZ|eABZgr||||''[[胆振線]]'' 1919-1986|}} {{BS5|||exLSTR|STR||||''北海道新幹線(建設中)'' |}} {{BS5||||TUNNEL1|||倶知安T|1,012m|}} {{BS5||||hKRZWae||||倶登山川|}} {{BS5||||STR||||''[[岩内馬車鉄道]](小沢駅停留場)'' 1905-1912|}} {{BS5||||O4=HUBaq|BHF|O5=HUBeq|uexKHSTaq|203.6|[[小沢駅]]|1904-|}} {{BS5||||eABZgl|exSTRq|||''[[岩内線]]'' 1912-1985|}} {{BS5||||TUNNEL1|||[[稲穂トンネル|稲穂T]]|1,776m<ref name="tetudouukeoigyou"/>|}} {{BS5||||BHF||213.4|[[銀山駅]]|1905-|}} {{BS5||||eBHF|||''[[山道駅]]''|1903-1904|}} {{BS5||||BHF||224.1|[[然別駅]]|1902-|}} {{BS5||||hKRZWae||||余市川|}} {{BS5||||BHF||228.2|[[仁木駅]]|1902-|}} {{BS5||||BHF||232.6|[[余市駅]]|1902-|}} {{BS5||||eABZgl|exSTRq|||''[[余市臨港軌道]]'' 1933-1940|}} {{BS5||||BHF||237.9|[[蘭島駅]]|1902-|}} {{BS5||||BHF||244.8|[[塩谷駅]]|1903-|}} {{BS5||||STR+GRZq|ELCa|||↑非電化/↓交流20kV/50Hz|}} {{BS5||||BHF||252.5|[[小樽駅]]|1903-|}} {{BS5||||eABZg+l|exSTRq|||''[[手宮線]]'' 1880-1985|}} {{BS5||||STR|exABZ+lr|||''[[小樽市]]:市営臨港鉄道'' 1932-1984|}} {{BS5||||STR|exDST|3.2*|''[[浜小樽駅]]''|1932-1984|}} {{BS5||||STR|exBHF||''[['84小樽博覧会|会場前駅]]''|1984|}} {{BS5||exLSTR||BHF|exSTR|254.1|[[南小樽駅]]|1880-|}} {{BS5||exhSTR||STR|exSTR|||''北海道新幹線(建設中)'' |}} {{BS5||exhHST||STR|exSTR|||[[新小樽駅]](仮称)|}} {{BS5||exLSTR||hKRZWae|exhKRZWae|||勝納川|}} {{BS5||||eKRWg+l|exKRWr||||}} {{BS5||||BHF||{{BSkm|256.2|0.0*}}|[[小樽築港駅]]|1910-|}} {{BS5||||hKRZWae||||朝里川|}} {{BS5||||BHF||259.3|[[朝里駅]]<ref group="*" name="朝里・手稲" />|1880-|}} {{BS5||||eBHF||262.9|''[[張碓駅]]''|1905-2006|}} {{BS5||||BHF||268.1|[[銭函駅]]|1880-|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[キライチ川]]|}} {{BS5||||BHF||271.0|[[ほしみ駅]]|1995-|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[星置川]]|}} {{BS5||||BHF||272.6|[[星置駅]]<ref group="*" name="星置" />|1985-|}} {{BS5||||hKRZWae||||濁川|}} {{BS5||||BHF|KDSTa|273.7|[[稲穂駅]]<ref group="*" name="稲穂・稲積公園・発寒中央・高砂" />|1986-|}} {{BS5||||KRWg+l|KRWr||[[札幌運転所]]|1965-|}} {{BS5||||O4=HUBaq|BHF|O5=HUBeq|uexKHSTaq|275.7|[[手稲駅]]<ref group="*" name="朝里・手稲" /><ref group="*" name="代替輸送 手稲・発寒" />|1880-|}} {{BS5||||STR||||''[[軽石軌道]](軽川駅)'' 1922-1940|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[軽川]]|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[三樽別川]]|}} {{BS5||||BHF||277.0|[[稲積公園駅]]<ref group="*" name="稲穂・稲積公園・発寒中央・高砂" />|1986-|}} <!-- TBHFoは「交差する鉄道線がある」高架駅用のアイコンです。稲積公園駅や琴似駅には函館線と交差する鉄道線はないですよね? --> {{BS5||||hKRZWae||||中の川|}} {{BS5||||hKRZWae||||追分川|}} {{BS5|||extLSTR|BHF||279.2|[[発寒駅]]<ref group="*" name="代替輸送 手稲・発寒" />|1986-|}} {{BS5|||extSKRZ-A|SKRZ-Au||||[[札樽自動車道]]<!-- 札樽自動車道は地下鉄東西線を跨いでいない。 -->|}} {{BS5||utKHSTa|extSTR|STR||||[[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東西線|札幌市営地下鉄東西線]]([[宮の沢駅]])<ref group="*" name="代替輸送 手稲・発寒" /> 1999-|}} {{BS5||O2=HUBaq|utHST|O3=HUBq|extSTR|O4=HUBeq|BHF||281.0|[[発寒中央駅]]<ref group="*" name="稲穂・稲積公園・発寒中央・高砂" />|1986- [[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東西線|札幌市営地下鉄東西線]]([[発寒南駅]])<ref group="*" name="代替輸送 発寒中央" /> 1999-|}} {{BS5||utKRZW|extKRZW|hKRZWae||||[[琴似発寒川]]|}} {{BS5||O2=HUBaq|utHST|O3=HUBq|extSTR|O4=HUBeq|BHF||282.5|[[琴似駅 (JR北海道)|琴似駅]]<ref group="*" name="琴似" />|1880- [[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東西線|札幌市営地下鉄東西線]]([[琴似駅 (札幌市営地下鉄)|琴似駅]])<ref group="*" name="代替輸送 琴似" /> 1976-|}}<!-- 札幌市場駅への分岐が表現しにくくなるので(当時は高架化前)琴似 - 札幌間付近などの高架線は表現していません。--> {{BS5|utLSTRq|utLSTRr|extSTR|STR|||||}} {{BS5||extSTR+l|O3=POINTERg@fq|extSTRr|STR||||''北海道新幹線(建設中)'' |}} {{BS5||extSTR|exENDEa|STR|||||}} {{BS5||extSTR|exABZg2|O4=ABZg+l|exSTRc3|STRq|||[[札沼線]] 1934-|}} {{BS5||extSTR|O3=exSTRc1|exKDSTe|eABZg+4||1.6#|''[[札幌市場駅]]''|1959-1978|}} {{BS5||extSTR|O3=HUBaq|uexKHSTa|O4=HUBeq|BHF||{{BSkm|284.7|0.0#}}|[[桑園駅]]<ref group="*" name="桑園" />|1924-|}} {{BS5|uexABZ+lr|exmtKRZ|O3=POINTERg@fq|uexLSTRr|STR||||[[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''桑園線(桑園駅前)'' 1929-1960|}} {{BS5|O1=POINTERf@gq|uexLSTR|extSTRl|extSTR+r|STR||||[[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''北5条線'' 1927-1971|}} {{BS5|uexLSTR||extSTRe|STR|||||}} {{BS5|uexABZg+l|uexSTRq|exmKRZ|emKRZ|O5=POINTERf@g|uexSTRq|||[[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''鉄北線'' 1927-1971|}} {{BS5|uxKRZt|O2=HUBa|utBHFq|xmKRZt|mKRZt|utSTRq|||[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|12px|link=札幌市営地下鉄南北線|札幌市営地下鉄南北線]]([[さっぽろ駅]])<ref group="*" name="代替輸送 札幌" /> 1971-|}} {{BS5|O1=uexKHSTe|P1=HUBaq|uexKHSTeq|HUBx|O3=HUBq|exKBHFe|O4=HUBq|BHF|HUBlg|286.3|[[札幌駅]]<ref group="*" name="代替輸送 札幌" />|1880- [[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]{{BSsplit|''西4丁目線(札幌駅前)''|1918-1971}}|}} {{BS5|utSTRq|O2=HUBe|utBHFq|utSTRq|mKRZt|O5=HUB|utSTRq|||[[File:Subway_SapporoToho.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東豊線|札幌市営地下鉄東豊線]](さっぽろ駅)<ref group="*" name="代替輸送 札幌" /> 1988-|}} {{BS5|WASSERq|WASSERq|WASSERq|hKRZWae|O5=HUB|WASSERq|||[[創成川]]|}} {{BS5||||STR|O5=HUBe|uexKHSTaq|||''[[札幌軌道]]'' 1911-1935|}} {{BS5||||BHF||288.2|[[苗穂駅]]|2018-|}} {{BS5|uexSTRq|uexSTRq|uexSTR+r|KRWgl|KRW+r|||[[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=札幌市電|札幌市電]]''苗穂線(苗穂駅前)'' 1922-1971|}} {{BS5|||O3=HUBaq|uexKHSTe|O4=HUBeq|eBHF|KDSTe|288.5|''苗穂駅''|1910-2018|}} {{BS5||||STR|||[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]/[[苗穂運転所]]|1909-/1936-|}} {{BS5|utLSTRq|utLSTR+r||STR||||札幌市営地下鉄:[[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px]] [[札幌市営地下鉄東西線|東西線]] 1976-|}} {{BS5||utKRZW|WASSERq|hKRZWae||||[[豊平川]]|}} {{BS5||utHST||STR||||[[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東西線|札幌市営地下鉄東西線]]([[菊水駅]]) 1976-|}} {{BS5||utSTR||STR||||''[[定山渓鉄道線|定山渓鉄道]]'' 1918-1969|}} {{BS5|O1=POINTERf@g|exABZq+l|uemtKRZ|exBHFq|eABZgr+r||3.0**|''[[東札幌駅 (国鉄)|東札幌駅]]''|1926-1986|}} {{BS5|exSTR|utSTR|POINTER1|STR|||''(貨物支線)''<ref group="*" name="定山渓鉄道" />|{{BSsplit|1918-1945,|1968-1986}}|}} {{BS5|exSTR|utHST||STR||||[[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東西線|札幌市営地下鉄東西線]]([[東札幌駅]]) 1976-|}} {{BS5|exhKRZWae|utKRZW|WASSERq|hKRZWae||||[[望月寒川]]|}} {{BS5|exSTR|utHST||STR||||[[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東西線|札幌市営地下鉄東西線]]([[白石駅 (札幌市営地下鉄)|白石駅]]) 1976-|}} {{BS5|exSTR|utSTR||BHF||{{BSkm|292.1|0.0**}}|[[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]<ref group="*" name="白石" />|1903-|}} {{BS5|exSTR|utSTR|exKBSTaq|eABZgr||||''[[大日本帝国陸軍|陸軍]]:[[北海道陸軍兵器補給廠]]軍用線'' 1944-1945|}} {{BS5|O1=POINTERg@fq|exSTR|utSTR|STR+l|ABZglr|STR+r||''(貨物支線)''<ref group="*" name="千歳線(旧線)" />|1926-1976|}} {{BS5|exBHF|utSTR|STR|STR|STR|5.8**|[[月寒駅]]|1926-1976|}} {{BS5|exSTR|utHST|STR|STR|STR|||[[File:Subway_SapporoTozai.svg|12px|link=札幌市営地下鉄東西線|札幌市営地下鉄東西線]]([[南郷7丁目駅]]) 1982-|}} {{BS5|O1=POINTERg@fq|exSTRr|utLSTR|STR|STR|STR|||[[千歳線]](旧線) 1926-1973|}} {{BS5|utLSTRq|utLSTRr|STR|STR|STR||||}} {{BS5|||O3=POINTERf@gq|STR|STR|O5=POINTERg@fq|STR||外側が函館本線||}} {{BS5|||hKRZWae|hKRZWae|hKRZWae|||[[月寒川]]|}} {{BS5|||SKRZ-Au|SKRZ-Au|SKRZ-Au|||道央自動車道}} {{BS5|||STRg|HST|STRf|||[[平和駅]] 1986-|}} {{BS5|||O3=HUBaq|DST|O4=HUBq|DST|O5=HUBeq|DST|295.1|JR貨:[[札幌貨物ターミナル駅]]|1968-|}} {{BS5|||STR|hSTRa|STR||||}} {{BS5|hSTRq|hSTRq|KRZh|hSTRr|STR|||千歳線(新線) 1973-|}} {{BS5|||STR2|STRc23|STR3||||}} {{BS5|||STRc1|ABZ+14|STRc4|||}} {{BS5||||hKRZWae||||[[厚別川]]|}} {{BS5||||BHF||296.5|[[厚別駅]]|1894-|}} {{BS5|||exKBSTaq|eABZgr||||{{BSsplit|''陸軍:[[北海道陸軍兵器補給廠#厚別弾薬庫|北海道陸軍兵器補給廠厚別弾薬庫]]軍用線''| 1944-1945}}|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[野津幌川]]|}} {{BS5||||BHF||298.5|[[森林公園駅 (北海道)|森林公園駅]]|1984-|}} {{BS5||||BHF||300.8|[[大麻駅]]|1966-|}} {{BS5||||SKRZ-Ao||||道央自動車道|}} {{BS5||||BHF||304.2|[[野幌駅]]<ref group="*" name="野幌" />|1889-|}} {{BS5|||exKRW+l|eKRWgr||||''[[北海道炭礦汽船|北炭]]:[[北海道炭礦汽船夕張鉄道線|夕張鉄道線]]'' 1930-1975|}} {{BS5|||exHST|STR||||''[[北海鋼機前駅]]'' 1956-1975|}} {{BS5|||exSTRr|STR|||||}} {{BS5||||BHF||305.5|[[高砂駅 (北海道)|高砂駅]]<ref group="*" name="稲穂・稲積公園・発寒中央・高砂" />|1986-|}} {{BS5||||eABZg+l|exKBSTeq|||''[[北海道電力]]:[[江別発電所]]専用鉄道''|}} {{BS5||||eABZg+l|exKBSTeq|||''[[王子製紙]]:江別工場専用鉄道''|}} {{BS5||||BHF||307.3|[[江別駅]]|1882-|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[千歳川]]|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[夕張川]]|}} {{BS5||||BHF||313.5|[[豊幌駅]]|1956-|}} {{BS5||||hKRZWae||||旧幌向川|}} {{BS5||||BHF||316.7|[[幌向駅]]<ref group="*" name="幌向" />|1882-|}} {{BS5||||BHF||322.6|[[上幌向駅]]|1907-|}} {{BS5|||STRq|ABZg+r||||[[室蘭本線]] 1892-|}} {{BS5||||BHF||326.9|[[岩見沢駅]]<ref group="*" name="岩見沢" />|1884-|}} {{BS5|||exSTRq|eABZgr||||''[[幌内線]]'' 1882-1987|}} {{BS5||||eDST|||''東岡信号場''|1919-1924|}} {{BS5||||hKRZWae||||幾春別川|}} {{BS5||||BHF||335.3|[[峰延駅]]|1891-|}} {{BS5||||BHF||339.8|[[光珠内駅]]<ref group="*" name="光珠内" />|1948-|}} {{BS5|||exKBSTa|STR||||''[[日本コークス工業|三井鉱山]]:[[美唄炭鉱#三井美唄炭鉱|三井美唄炭鉱]]専用線''|}} {{BS5|||exDST|STR||3.0**|''[[南美唄駅]]''|1931-1973|}} {{BS5|||exKRWl|eKRWg+r|||''[[南美唄支線]]''|1931-1973|}} {{BS5||||BHF||{{BSkm|343.7|0.0**}}|[[美唄駅]]|1891-|}} {{BS5|||exSTRq|eABZgr||||''[[三菱マテリアル|三菱鉱業]]:[[三菱鉱業美唄鉄道線|美唄鉄道線]]'' 1914-1972|}} {{BS5||||hKRZWae||||産化美唄川|}} {{BS5||||BHF||348.1|[[茶志内駅]]|1916-|}} {{BS5|||exKBSTaq|eABZgr||||''三菱鉱業:[[三菱鉱業茶志内炭礦専用鉄道|茶志内炭礦専用鉄道]]''|}} {{BS5||||STR||||''住友奈井江坑専用線''|}} {{BS5|||exKBSTaq|O4=BHF|exSTRr||354.3|[[奈井江駅]]|1891-|}} {{BS5|||exKRW+l|eKRWgr||||''三井鉱山:[[三井鉱山奈井江専用鉄道|奈井江専用鉄道]]'' 1949-1968|}} {{BS5|||exHST|STR||||''三井奈井江駅'' 1949-1968|}} {{BS5|||exSTRr|STR|||||}} {{BS5||||hKRZWae||||奈井江川|}} {{BS5||||BHF||359.0|[[豊沼駅]]<ref group="*" name="豊沼" />|1942-|}} {{BS5||||eABZgl|exKBSTeq|||''[[三井化学|三井東圧化学]]:三井東圧肥料砂川工場専用線''|}} {{BS5|||exSTRq|eABZg+r|||''[[上砂川支線]]''|1918-1994|}} {{BS5||||BHF||362.2|[[砂川駅]]|1891-|}} {{BS5|||exSTRq|eABZgr||||''[[歌志内線]]'' 1891-1988|}} {{BS5||||eDST||367.0|''[[空知太信号場]]''<ref group="*" name="空知太" />|1940-1956|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[空知川]]|}} {{BS5||||BHF||369.8|[[滝川駅]]|1898-|}} {{BS5|||STRq|ABZgrxl|exSTR+r|||[[根室本線]] 1913-|}} {{BS5||||STR|exKBSTe|||''北海道電力:[[滝川発電所]]専用線''|}} {{BS5||||STR+GRZq||372.0||↑本社鉄道事業本部/↓[[北海道旅客鉄道旭川支社|旭川支社]]|}} {{BS5||||eDST||374.1|''[[深沢信号場]]''|1961-1966|}} {{BS5||||BHF||378.2|[[江部乙駅]]|1898-|}} {{BS5||||hKRZWae||||[[石狩川]]|}} {{BS5||||BHF||385.7|[[妹背牛駅]]|1898-|}} {{BS5||||SKRZ-Au||||[[深川留萌自動車道]]}} {{BS5||||ABZg+l|STRq|||[[留萌本線]] 1910-|}} {{BS5||||BHF||392.9|[[深川駅]]|1898-|}} {{BS5||||eABZgl|exSTRq|||''[[深名線]]'' 1924-1995|}} {{BS5||||BHF||400.3|[[納内駅]]|1898-|}} {{BS5||||SKRZ-Au||||[[道央自動車道]]}} {{BS5|||exKRW+l|eABZgr|||||}} {{BS5|||exSTR|tSTRa|||[[神居トンネル|神居T]]|4,523m<ref name="hyousetugakkai"/>|}} {{BS5|||exBHF|tSTR||406.1|''[[神居古潭駅]]''<ref group="*" name="神居古潭" />|1901-1969|}} {{BS5|||exDST|tSTRe|||''[[春志内信号場]]''|1961-1969|}} {{BS5|||exSTR|TUNNEL1|||伊納第1T|1,235m<ref name="hyousetugakkai"/>|}} {{BS5|||exSTR|TUNNEL1|||伊納第2T|1,240m<ref name="hyousetugakkai"/>|}} {{BS5|||exKRWl|eKRWg+r|||||}} {{BS5||||eBHF||413.0|''[[伊納駅]]''<ref group="*" name="伊納" />|1898-2021|}} {{BS5|||exKRW+l|eKRWgr|||||}} {{BS5|||exSTR|TUNNEL1|||伊納第3T|810m<ref name="hyousetugakkai"/>|}} {{BS5|||exhKRZWae|hKRZWae||||江丹別川|}} {{BS5|||exSTR|TUNNEL1|||嵐山T|1,300m<ref name="hyousetugakkai"/>|}} {{BS5|||exhKRZWae|hKRZWae||||[[オサラッペ川]]|}} {{BS5|||exKRWl|eKRWg+r|||||}} {{BS5||||BHF||{{BSkm|419.1|0.0##}}|[[近文駅]]<ref group="*" name="近文" />|1899-|}} {{BS5||||eKRWgl|exKRW+r||||}} {{BS5||||STR|exKDSTe|2.9##|''[[旭川大町駅]]''|1950-1978|}} {{BS5||||hKRZWae||||石狩川|}} {{BS5|||O3=HUBaq|exKBHFa|O4=HUBq|BHF|O5=HUBeq|uexKBHFa|423.1|[[旭川駅]]|1898-|}} {{BS5|||xKRWgxl+l|KRWgr+xr|uexSTRl|||''[[旭川市街軌道]]:東六号線'' 1930-1956|}} {{BS5|||O3=uexSTRc2|STRr|emABZg3||||[[富良野線]] 1899-|}} {{BS5|||uexSTR+1|O4=uexSTRc4|STR||||''[[旭川電気軌道]]:[[旭川電気軌道東川線|東川線(貨物線)]]'' 1927-1973|}} {{BS5||||STR||||[[宗谷本線]] 1898-|}} {{BS-colspan|HI=style="font-size:90%;"}} ---- {{Reflist|group="*"|refs= <ref group="*" name="大中山">[[1946年]][[12月1日]] - [[1950年]][[1月14日]]は[[仮乗降場]]。</ref> <ref group="*" name="新函館北斗">現在の駅名は[[2016年]][[3月26日]] - 。<br />なお、[[1902年]][[12月10日]] - [[1942年]][[3月31日]]までは本郷駅。<br />[[1942年]][[4月1日]] - [[2016年]][[3月25日]]までは渡島大野駅。</ref> <ref group="*" name="仁山">[[1936年]][[9月15日]] - [[1987年]][[3月31日]]は[[信号場]]。<br />なお、[[1943年]](月日不詳) - 1987年3月31日にも<br />仮乗降場として旅客を取り扱っていた。</ref> <ref group="*" name="大沼公園">[[1908年]][[5月25日]] - [[1924年]][[11月9日]]は仮停車場。<br />なお、[[1907年]][[6月5日]] - [[12月21日]]には大沼公園[[臨時駅|臨時乗降場]]が存在した。</ref> <ref group="*" name="銚子口">[[1945年]][[6月1日]] - [[2022年]][[3月11日]]は旅客駅。<br />2022年[[3月12日]] - は信号場。</ref> <ref group="*" name="東山">[[1943年]][[2月26日]] - [[1949年]]7月31日は信号場。<br />1949年[[8月1日]] - 1987年3月31日は仮乗降場。</ref> <ref group="*" name="渡島沼尻">1945年6月1日 - 1987年3月31日は信号場。<br />なお、信号場時代<!--[[1945年]][[6月1日]] - 1987年3月31日-->も仮乗降場として旅客を取り扱っていた。</ref> <ref group="*" name="姫川">[[1913年]][[8月1日]] - [[1922年]]3月31日は信号所。<br />1922年4月1日 - [[1951年]][[5月18日]]と<br />[[2017年]]3月4日 - は信号場。<br />1951年[[5月19日]] - 1987年3月31日は仮乗降場。<br />1987年4月1日 - 2017年3月3日は旅客駅。</ref> <ref group="*" name="桂川">[[1944年]][[9月30日]] - [[1979年]][[9月26日]]は信号場。<br />1979年[[9月27日]] - 1987年3月31日は仮乗降場。</ref> <ref group="*" name="石谷">[[1930年]][[3月20日]] - [[1931年]][[5月10日]]と、2022年3月12日 - は信号場。<br />1931年[[5月11日]] - [[1946年]]3月31日は仮乗降場。<br />1946年4月1日 - 2022年3月11日は旅客駅。</ref> <ref group="*" name="本石倉">1944年[[9月10日]] - [[1948年]][[6月30日]]および<br />[[1964年]][[9月29日]] - [[1973年]][[12月10日]]は信号場。<br />1948年[[7月1日]] - 1964年[[9月28日]]および<br />1973年[[12月11日]] - 1987年3月31日は仮乗降場。</ref> <ref group="*" name="鷲ノ巣">[[1949年]][[8月1日]] - [[1962年]][[9月30日]]は仮乗降場。<br />1987年[[4月1日]] - [[2016年]][[3月25日]]は[[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]。<br />なお、信号場時代の[[1944年]][[9月1日]] - 1949年[[7月31日]]<br />および1962年[[10月1日]] - 1987年3月31日も旅客を取り扱っていた。</ref> <ref group="*" name="北豊津">1944年7月1日 - 1987年3月31日<br />と2017年3月4日 - は信号場。<br />1944年7月1日 - 1987年3月31日の信号場時代<br />も仮乗降場として旅客を取り扱っていた。<br />1987年4月1日 - 2017年3月3日は旅客駅。</ref> <ref group="*" name="朝里・手稲">[[1880年]][[11月28日]] - [[1883年]](月日不詳)は<br />簡易停車場(フラグ・ステーション)。<br />1883年(月日不詳) - [[1884年]](月日不詳)は営業休止。<br /></ref> <ref group="*" name="星置">[[1923年]][[3月6日]] - 日本国有鉄道発足前(時期不詳)は<br />付近に星置仮信号場が存在した。</ref> <ref group="*" name="稲穂・稲積公園・発寒中央・高砂">[[1986年]][[11月1日]] - 1987年3月31日は臨時乗降場。</ref> <ref group="*" name="琴似">1880年11月28日 - [[1906年]][[9月30日]]は<br />簡易停車場(フラグ・ステーション)。<br />1883年(月日不詳) - 1884年(月日不詳)は営業休止。<br /></ref> <ref group="*" name="桑園">[[1908年]][[7月30日]] - [[8月16日]]は付近に北五条仮乗降場が存在した。<br />[[1913年]][[7月19日]] - [[1924年]][[5月31日]]は付近に競馬場前仮乗降場が存在した。</ref> <ref group="*" name="白石">[[1882年]][[11月13日]] - [[1890年]][[9月4日]]は<br />簡易停車場(フラグ・ステーション)。<br />1883年(月日不詳) - [[1888年]](月日不詳)は営業休止。<br />[[1903年]][[4月21日]]に駅として再開業。</ref> <ref group="*" name="野幌">[[1889年]][[11月3日]] - [[1906年]]9月30日は<br />簡易停車場(フラグ・ステーション)。</ref> <ref group="*" name="幌向">1882年[[11月13日]] - 1883年4月以前は<br />簡易停車場(フラグ・ステーション)。</ref> <ref group="*" name="岩見沢">1884年[[8月15日]] - [[1885年]]11月は<br />簡易停車場(フラグ・ステーション)。</ref> <ref group="*" name="光珠内">[[1948年]][[11月5日]] - [[1952年]][[4月9日]]は仮乗降場。<br />なお、[[1920年]][[9月11日]] - [[1924年]][[5月31日]]には同一地点に<br />光珠信号所([[1922年]][[4月1日]]以降は信号場)が存在した。</ref> <ref group="*" name="豊沼">[[1942年]][[2月10日]] - [[1947年]][[2月19日]]は豊沼信号場(2代)。<br />なお、[[1922年]][[3月20日]] - [[1926年]][[12月1日]]は付近に<br />豊沼信号場(初代、1922年3月31日までは信号所)が存在した。</ref> <ref group="*" name="空知太">[[1892年]][[2月1日]] - [[1898年]][[7月15日]]は同一地点に[[空知太駅]]が存在した。</ref> <ref group="*" name="神居古潭">[[1901年]][[12月5日]] - [[1905年]](月日不詳)は簡易停車場。<br />1905年(月日不詳) - [[1911年]]6月30日は停車場。</ref> <ref group="*" name="伊納">1898年[[7月16日]] - [[1900年]][[5月10日]]は信号停車場。</ref> <ref group="*" name="近文">[[1899年]][[8月11日]] - [[1905年]]3月31日は信号停車場。<br />1905年4月1日 - 1911年1月10日は信号所。</ref> <ref group="*" name="千歳線(旧線)">東札幌駅 - 月寒駅間は<br />[[1926年]][[8月21日]] - [[1973年]][[9月9日]]まで千歳線(旧線)。</ref> <ref group="*" name="定山渓鉄道">白石駅 - 東札幌駅間は<br />[[1918年]][[10月17日]] - [[1945年]][[3月1日]]まで定山渓鉄道。</ref> <ref group="*" name="代替輸送 手稲・発寒">札幌市営地下鉄東西線の宮の沢駅は、<br />手稲駅・発寒駅における代替輸送の指定駅となっている。</ref> <ref group="*" name="代替輸送 発寒中央">札幌市営地下鉄東西線の発寒南駅は、<br />発寒中央駅における代替輸送の指定駅となっている。</ref> <ref group="*" name="代替輸送 琴似">札幌市営地下鉄東西線の琴似駅は、<br />JR北海道の琴似駅における代替輸送の指定駅となっている。</ref> <ref group="*" name="代替輸送 札幌">札幌市営地下鉄南北線のさっぽろ駅は、<br />JR北海道の札幌駅における代替輸送の指定駅となっている。<br />札幌市営地下鉄東豊線は代替輸送の指定を受けていない。</ref> }} |} |} '''函館本線'''(はこだてほんせん)は、[[北海道]][[函館市]]の[[函館駅]]から[[長万部駅]]、[[小樽駅]]、[[札幌駅]]を経由して[[旭川市]]の[[旭川駅]]を結ぶ[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。 == 概要 == {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} 北海道最古の鉄道開業区間を含んでおり、以来本州との連絡をおもな目的として北海道における鉄道輸送の基幹を担ってきた。現在は、[[函館駅]]から[[旭川駅]]までの全区間を運行する列車はなく、函館駅 - [[長万部駅]]間、長万部駅 - [[小樽駅]]間、そして[[札幌駅]]を通る小樽駅 - [[岩見沢駅]]間、岩見沢駅 - 旭川駅間の各区間でそれぞれ路線の性格が異なっている。長万部駅 - 小樽駅間以外では現在も道内の主要幹線としての使命を担っている。支線(別線)を含めた総営業キロは458.4&nbsp;kmで、これは北海道で最長である<ref group="注釈">支線を含めない場合は、[[根室本線]]の443.8&nbsp;kmが最長である。</ref>。 函館駅 - 長万部駅間は[[函館市]]と[[札幌市]]を結ぶ[[特別急行列車|特急列車]]や本州からの[[貨物列車]](JR貨物による運行)のメインルートとなっている。現在、これらの優等・貨物列車は、長万部駅 - 白石駅間は[[室蘭本線]]・[[千歳線]]経由で運転している。 一方、長万部駅 - 小樽駅間は[[ローカル線]]と化している。長万部駅から室蘭本線・千歳線を経て札幌方面に接続するルートを「海線」と通称するのに対して、函館本線のこの区間は「山線」と呼ばれており{{R|yano}}、通称としては「山線」の方が古くから存在する。かつては長万部駅 - 小樽駅 - 札幌駅間の山線にも多くの優等列車が往来し、昭和40年代までは[[国鉄C62形蒸気機関車|C62形]][[蒸気機関車]]の重連による牽引の急行列車など蒸気機関車が集結したことでもにぎわった。ただ小樽駅までが[[単線]]な上、急勾配・急曲線が連続する[[高速化 (鉄道)|速度向上]]に不利な[[線形 (路線)|線形]]を抱えていた。対して、海線経由は30&nbsp;km以上遠回りであるが{{Refnest|group="注釈"|[[2013年]]現在の札幌駅 - 函館駅間の営業距離は、海線経由が318.7&nbsp;km{{R|jorudan-norikae}}に対し、山線経由が286.3&nbsp;kmと、32.4&nbsp;kmの差がある。}}、もともと線形も良く所要時間も短縮できるうえに比較的沿線人口にも恵まれていた。さらに山線区間は[[線路等級|線路種別]]が「丙線」であり、[[活荷重|軸重]]軽減対策をしていない一部の機関車は入線できない{{Refnest|group="注釈"|C62形は軸重軽減対策車のみの限られた。近年では[[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200形]]が入線できないため、[[2000年]](平成12年)の[[有珠山]]噴火による室蘭本線不通時の迂回運転の際は、貨物列車もすべて[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]重連が牽引していた。}}。 特急列車の登場以来、徐々に函館駅 - 札幌駅間のメインルートとしての役割は海線へ移り、かくして[[1986年]](昭和61年)11月1日に定期の優等列車が山線から全廃され、その後は[[有珠山]]噴火や海線での輸送障害時の迂回、また観光シーズンの臨時列車として優等列車が山線に入線することがある程度である。函館駅から小樽駅までの区間は[[北海道新幹線]]の新函館北斗駅 - 札幌駅間延伸時に、函館駅 - 長万部駅間がJR北海道から[[第三セクター鉄道|第三セクター]]に経営移管、長万部駅 - 余市駅間についてはバス転換される見込みである{{R|group="新聞"|mainichi20220203}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/641260}}。余市駅 - 小樽駅間は[[余市町]]が鉄道存続を求めていたが{{R|group="新聞"|mainichi20220203}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/641260}}、自治体間の協議の結果、同区間もバス転換を容認することとなり{{R|group="新聞"|kyodo20220326}}{{R|group="新聞"|mainichi20220326}}、山線区間は小樽駅 - 札幌駅間が維持され、長万部駅 - 小樽駅間は廃線・バス転換が行われる予定{{R|group="新聞"|kyodo20220327}}{{R|group="新聞"|yomiuri20220327}}(「[[#今後の予定|今後の予定]]」節を参照)。 小樽駅 - 旭川駅間は[[鉄道の電化|電化]]されており(このうち、小樽駅 - 滝川駅間は国鉄による道内で最初の電化区間である)、札幌市と[[旭川市]]の両都市を結ぶ特急列車は道内最大の運転本数を有し、旭川を超えて[[網走市]]や[[稚内市]]まで接続するJR北海道の最重要区間である。また[[札幌都市圏]]にあたる小樽駅 - [[岩見沢駅]]間は近距離利用客が多いため、[[快速列車|快速]]を含む[[普通列車]]が多く運転され、[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Kitaca]]」の利用エリアとなっている。2024年3月16日より既存のKitacaエリアを岩見沢駅 - 旭川駅間にも拡大するほか、函館駅 - 新函館北斗駅間が函館エリアとして新規に利用エリアとなる予定である{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/220914_KO_Kitaca}}{{R|group="報道"|20231215_KO_kaisei|page1=p7}}。 == 歴史 == {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} 函館本線は、北海道の鉄道の発祥路線である。[[1880年]](明治13年)から[[1882年]](明治15年)までに[[官営幌内鉄道]]の手で開通した[[手宮駅]]([[小樽市]]・現在廃止) - 札幌駅 - [[幌内駅]]([[三笠市]]・現在廃止)間の鉄道がそれである。 官営幌内鉄道の路線を譲り受けた[[北海道炭礦鉄道]]、[[北海道鉄道 (初代)|北海道鉄道]](初代。千歳線などを建設した2代目の[[北海道鉄道 (2代)|北海道鉄道]]とは別会社)および[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]が運営する[[北海道官設鉄道]]によって建設され、北海道官営鉄道は[[1905年]](明治38年)に鉄道作業局(国有鉄道)へ編入、北海道炭礦鉄道と北海道鉄道は、[[1906年]](明治39年)に成立した[[鉄道国有法]]によって買収され、国有鉄道線となったものである。 [[イギリス]]に範をとった本州の鉄道に対して、北海道の鉄道は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の技術を導入して建設されており、前面に[[カウキャッチャー (鉄道)|カウキャッチャー]]、[[煙突]]には巨大なダイヤモンドスタックを取り付けたアメリカ式の[[蒸気機関車]]が輸入され、客車も「マッチ箱」と称される本州の[[二軸車 (鉄道)|4輪車]]に対し、[[開拓使号客車]]に代表される、木造[[鉄道車両の台車|台車]]を履いた[[ボギー台車|ボギー]]車が使われた。「[[源義経|義経]]」「[[武蔵坊弁慶|弁慶]]」・「[[静御前|しづか]]」などと命名された機関車(のちの[[国鉄7100形蒸気機関車|7100形]])は、現在も[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]([[さいたま市]])、[[京都鉄道博物館]]([[京都市]])、[[小樽市総合博物館]]鉄道・科学・歴史館(小樽市)に保存されており、その姿を見ることができる。 [[大沼駅]] - [[渡島砂原駅]] - [[森駅 (北海道)|森駅]]間については、[[第二次世界大戦]]中の輸送力増強のため、急勾配の介在する[[駒ヶ岳駅]]回りのバイパスとして建設されたものである。同区間に並行して[[渡島海岸鉄道]](森駅 - 砂原駅間)、[[大沼電鉄]](現在の大沼公園駅 - 鹿部駅間)という2つの[[私鉄]]が存在したが、函館本線の建設に伴い買収、廃止された。 [[小樽築港駅]] - [[銭函駅]]間は工事の容易な[[石狩湾]]の海岸線に敷設されたが、当時は[[蒸気機関車|汽車]]の煙や火の粉が漁業に悪影響を及ぼすと考えられており、漁獲量の減った年を中心に、沿線の[[漁師]]との間でたびたび補償問題に発展したため、余市駅 - [[塩谷駅]]間では「浜」を避けて線路が敷かれている。 [[戦前]]は[[青函連絡船|青函航路]]と[[稚泊連絡船|稚泊航路]]を介し[[内地]]と[[樺太]]を、その後も本州と道内各都市を結ぶ動脈であったが、[[小樽市|小樽]]における[[貿易]]、民間[[航路]]、[[漁業]]の衰退と、[[金融]]の中心機能の[[札幌市|札幌]]への移転、また、[[室蘭市|室蘭]]・[[苫小牧市|苫小牧]]地区の[[工業]]の発展と歩調を合わせた室蘭本線・千歳線の[[高速化 (鉄道)|改良]]により地位の低下が始まり、道内初の[[特別急行列車|特急]]である「[[おおぞら (列車)|おおぞら]]」をはじめ、新規の優等列車は「海線」経由で設定されることが多くなっていった。 さらに、[[航空]]路線の拡充に伴い、[[日本国有鉄道|国鉄]]は本州連絡に関しての競争力を失い、その末期には、函館駅から扇のように展開していた道内の特急網も、札幌を起点とする方針に改められ、1986年(昭和61年)10月をもって長万部駅 - 札幌駅間の[[優等列車]]はすべて廃止となった。 [[1960年]](昭和35年)から15年計画で行なわれた蒸気運転全廃に向けた[[動力近代化計画]]では、函館駅 - 長万部駅間も[[鉄道の電化|電化]]計画に含まれていたが、[[石炭]]輸送衰退の影響で、新函館北斗駅 - 長万部駅間の電化は室蘭本線東室蘭駅 - 長万部駅間とともに現在でも実現していない。非電化区間としては特急および貨物列車の本数が多く、七飯駅 - 森駅間の8の字区間を除いたほとんどの区間で[[複線]]化も行われている。 [[1994年]](平成6年)には、かつての運炭線であり、函館本線最後の[[盲腸線]]となった[[上砂川支線]]が、利用客の減少により[[廃線|廃止]]された。 === 年表 === ==== 官営幌内鉄道→北海道炭礦鉄道幌内線 ==== {{main2|手宮駅 - 南小樽駅間については「[[手宮線]]」も、岩見沢駅 - 幌内駅間については「[[幌内線]]」も}} * [[1880年]](明治13年) ** {{要出典範囲|[[11月18日]]:官営幌内鉄道として、開運町駅(現在の南小樽駅) - 軽川駅(現在の手稲駅)|date=2023年8月}}間が試験開業。 ** [[11月28日]]:官営幌内鉄道の手宮駅 - 開運町駅 - 札幌駅間が仮開業{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 192-193}}。同区間に手宮{{R|tanaka1 316-317}}・開運町{{R|tanaka1 311}}・朝里{{R|tanaka1 311}}・銭函{{R|tanaka1 311}}・軽川{{R|tanaka1 311}}・琴似{{R|tanaka1 311}}・札幌{{R|tanaka1 311}}の各駅を新設。 * [[1881年]](明治14年)[[5月22日]]:開運町駅を住吉駅に改称{{R|tanaka1 318-319}}。 * [[1882年]](明治15年)[[11月13日]]:札幌駅 - 岩見沢駅間の延伸開業に伴い、官営幌内鉄道の手宮駅 - 幌内駅間が全通{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 202-203}}。同区間に江別駅{{R|tanaka1 311}}および幌向太{{R|tanaka1 311}}・[[岩見沢駅#歴史|岩見沢]]の各フラグステーションを新設。 * [[1883年]](明治16年):幌向太フラグステーションを一般駅に変更し、幌向駅に改称{{R|tanaka1 318-319}}。 * [[1884年]](明治17年)[[8月15日]]:岩見沢フラグステーションを廃止。岩見沢駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1889年]](明治22年) ** 11月3日:野幌駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 ** [[12月11日]]:官営幌内鉄道が北海道炭礦鉄道に事業譲渡{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 192-193|tanaka1 202-203}}。北海道炭礦鉄道'''幌内線'''となる。 * [[1891年]](明治24年)[[7月5日]]:岩見沢駅 - 砂川駅間が延伸開業。同区間に峰延・美唄・奈井江・砂川の各駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1892年]](明治25年)[[2月1日]]:砂川駅 - 空知太駅間が延伸開業。同区間に空知太駅を新設{{R|tanaka1 314-315}}。 * [[1894年]](明治27年)8月1日:厚別駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1898年]](明治31年)[[7月16日]]:北海道官設鉄道上川線の空知太駅 - 旭川駅間が開業{{R|tanaka1 38-39}}。同時に砂川駅 - 空知太駅が北海道官設鉄道に借上。空知太駅を廃止{{R|tanaka1 314-315}}(両者の接続点として名称のみ存続)。 * [[1900年]](明治33年)[[6月11日]]:住吉駅を小樽駅(初代)に改称{{R|tanaka1 318-319}}。北海道炭鉱鉄道と北海道官設鉄道の直通列車が手宮駅 - 旭川駅間で運行開始{{R|tanaka1 36-37}}。 * [[1903年]](明治36年)[[4月21日]]:白石駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1905年]](明治38年) ** [[9月15日]]:北海道官設鉄道・北海道炭礦鉄道・北海道鉄道(初代)の間で旅客・小荷物・貨物の連絡運輸開始{{R|tanaka2 202}}。 ** 10月8日:張碓駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1906年]](明治39年) ** [[9月8日]]:北海道炭礦鉄道と北海道鉄道(初代)の直通列車が函館駅 - 札幌駅間で運行開始{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 36-37}}。 ** [[10月1日]]:北海道炭礦鉄道の小樽駅(初代) - 空知太駅間が[[鉄道国有法|国有化]]{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 192-193|tanaka1 202-203|tanaka2 202}}。 ==== 北海道官設鉄道上川線 ==== * 1898年(明治31年)7月16日:[[北海道官設鉄道]]上川線の空知太駅 - 旭川駅間が開業{{R|tanaka1 38-39}}。滝川・江部乙・妹背牛・深川・納内・旭川の各駅{{R|tanaka1 311}}と、伊納信号停車場を新設。同時に北海道炭礦鉄道の砂川駅 - 空知太駅間が借上げ。 * 1900年(明治33年) ** [[5月11日]]:伊納信号停車場を駅に変更{{R|group="新聞"|官報 1900-05-18}}。 ** 6月11日:北海道炭鉱鉄道と北海道官設鉄道の直通列車が手宮駅 - 旭川駅間で運行開始{{R|tanaka1 36-37}}。 * [[1901年]](明治34年)[[12月5日]]:神居古潭簡易乗降場を新設{{R|tanaka1 314-315}}。 * 1905年(明治38年)[[4月1日]]:北海道官設鉄道が[[鉄道省|鉄道作業局]](国有鉄道)に編入。 ==== 北海道鉄道 ==== * [[1902年]](明治35年)[[12月10日]]:[[北海道鉄道 (初代)|北海道鉄道(初代)]]の函館駅(初代)- 本郷駅間および然別駅 - 蘭島駅間が開業{{R|tanaka1 34-35}}。同区間に函館(初代){{R|tanaka1 314-315}}・桔梗{{R|tanaka1 311}}・七飯{{R|tanaka1 311}}・本郷{{R|tanaka1 311}}・然別{{R|tanaka1 311}}・仁木{{R|tanaka1 311}}・余市{{R|tanaka1 311}}・蘭島{{R|tanaka1 311}}の各駅を新設。 * 1903年(明治36年) ** [[6月28日]]:北海道鉄道(初代)の本郷駅 - 宿野辺 - 森駅間、山道駅 - 然別駅間および蘭島駅 - 小樽中央駅(現在の小樽駅)間が延伸開業{{R|tanaka1 34-35}}。同区間に大沼(初代){{R|tanaka1 311}}・宿野辺{{R|tanaka1 311}}・森{{R|tanaka1 311}}・山道{{R|tanaka1 314-315}}<ref group="注釈">稲穂トンネル開削工事が難工事であったため、建設資材荷受場として仮設された駅であった。(札幌工事局70年史 P68)</ref><ref group="注釈">位置は稲穂トンネル北口から約5.6&nbsp;km(札幌工事局70年史)、昭和7年札幌鉄道局発行線路一覧略図にて同トンネル北口が起点約212.8&nbsp;kmなので、概算として起点約218.4&nbsp;km地点。(ただし昭和7年時点での位置。参考までに当時の銀山駅は起点213.9&nbsp;km。)</ref>・塩谷{{R|tanaka1 311}}・小樽中央{{R|tanaka1 311}}の各駅を新設。<!-- 『[{{NDLDC|805402/107}} 明治三十六年 鉄道局年報]』 私設鉄道停車場別旅客貨物及賃金表では「小樽中央」--> ** [[11月3日]]:北海道鉄道(初代)の森駅 - 熱郛駅間が延伸開業{{R|tanaka1 34-35}}。同区間に石倉・野田追・山越内・八雲・黒岩・国縫・長万部・二股・黒松内・熱郛の各駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1904年]](明治37年) ** [[7月1日]]:北海道鉄道(初代)の函館駅(2代) - 函館駅(初代)間が延伸開業{{R|tanaka1 34-35}}。函館駅(2代)を新設{{R|tanaka1 311}}。函館駅(初代)を亀田駅に改称。 ** [[7月18日]]:北海道鉄道(初代)の小沢駅 - 山道駅間が延伸開業{{R|tanaka1 34-35}}。小沢駅を新設{{R|tanaka1 311}}。山道駅を廃止{{R|tanaka1 314-315}}。 ** [[10月15日]]:歌棄駅 - 小沢駅間が延伸開業し、北海道鉄道(初代)の函館駅 - 高島駅間が全通{{R|tanaka1 34-35|tanaka2 202}}。同区間に赤井川・山崎・紋別・蕨岱・磯谷・蘭越・昆布・真狩・比羅夫・倶知安の各駅を新設{{R|tanaka1 311}}。宿野辺駅を駒ヶ岳駅に、山越内駅を山越駅に、熱郛駅を歌棄駅に、蘭島駅を忍路駅に、小樽中央駅を高島駅{{R|tanaka1 34-35}}にそれぞれ改称{{R|tanaka1 318-319}}。<!-- 『[{{NDLDC|805403/89}} 明治三十七年 鉄道局年報]』『[{{NDLDC|806091/184}} 第16回 北海道庁統計書]』(明治37年度)では「高島」--> * 1905年(明治38年) ** [[1月29日]]:銀山駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 ** [[8月1日]]:北海道鉄道(初代)の高島駅 - 小樽駅(初代)間が延伸開業し、函館駅 - 旭川駅間全通{{R|tanaka1 34-35|tanaka2 202}}。小樽駅(初代)にて北海道炭礦鉄道に接続。<!-- 『[{{NDLDC|805404/24}} 明治三十八年 鉄道局年報]』開業線路の区間表記は「高島 小樽間」--> ** 9月15日:北海道官設鉄道・北海道炭鉱鉄道・北海道鉄道(初代)の間で旅客・小荷物・貨物の連絡運輸開始{{R|tanaka2 202}}。 ** [[12月15日]]:歌棄駅を熱郛駅に、磯谷駅を目名駅に、真狩駅を狩太駅に、忍路駅を蘭島駅に、高島駅を小樽中央駅に{{R|tanaka1 34-35}}<!--『写真で見る北海道の鉄道』上巻の34-35頁では、1905年(明治38年)12月7日に高島駅から中央小樽駅に改称と表記されている。-->それぞれ改称{{R|tanaka1 318-319}}。<!-- 『[{{NDLDC|805404/86}} 明治三十八年 鉄道局年報]』 私設鉄道停車場別旅客貨物及賃金表(年度末現在)では「中央小樽」--> * 1906年(明治39年)9月8日:北海道炭鉱鉄道と北海道鉄道(初代)の直通列車が函館駅 - 札幌駅間で運行開始{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 36-37}}。 * [[1907年]](明治40年)7月1日:北海道鉄道(初代)の函館駅 - 小樽駅(初代)間が国有化{{R|tanaka1 34-35|tanaka2 202}}。 ==== 渡島海岸鉄道 ==== * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[12月25日]]:[[渡島海岸鉄道]]として、東森仮停車場 - 砂原駅間が開業{{R|tanaka2 248}}。東森仮停車場と尾白内・掛澗・砂原の各駅を設置。 * [[1928年]](昭和3年)[[9月13日]]:渡島海岸鉄道の森駅 - 東森駅間が延伸開業{{R|tanaka2 249}}。東森仮停車場を廃止。 * [[1934年]](昭和9年) ** [[7月1日]]:東森駅を新設。 ** [[12月25日]]:尾白内駅を移設。 * [[1936年]](昭和11年)7月1日:新川・尾白内学校裏・押出・度杭崎の各停留所を新設。 * [[1938年]](昭和13年)1月:東掛澗停留所を新設。 * [[1945年]](昭和20年)1月25日:[[渡島海岸鉄道]]の森駅 - 砂原駅間が運輸通信省に買収され、国有化。函館本線支線の森駅 - 渡島砂原駅間として開業{{R|tanaka1 34-35|tanaka2 249}}。新川・尾白内学校裏・押出・東掛澗・度杭崎の各停留所を廃止。 ==== 国有鉄道(官設鉄道) ==== {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} * 1905年(明治38年) ** [[4月1日]]:北海道官設鉄道の空知太駅 - 旭川駅間が鉄道作業局(国有鉄道)に編入。同時に北海道炭礦鉄道砂川駅 - 空知太駅間が借上。神居古潭簡易乗降場が駅に変更。 ** 9月15日:北海道官設鉄道・北海道炭礦鉄道・北海道鉄道(初代)の間で旅客・小荷物・貨物の連絡運輸開始{{R|tanaka2 202}}。 * 1906年(明治39年)10月1日:北海道炭礦鉄道の小樽駅(初代) - 空知太駅間が国有化{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 192-193|tanaka1 202-203|tanaka2 202}}。小樽駅(初代) - 旭川駅間が官設線になる。 * 1907年(明治40年) ** 7月1日:北海道鉄道(初代)の函館駅 - 小樽駅(初代)間が国有化{{R|tanaka1 34-35|tanaka2 202}}。函館駅 - 旭川駅が官設線になる。 ** [[11月25日]]:上幌向駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1908年]](明治41年) ** [[5月1日]]:亀田駅を一般駅から貨物駅に変更。 ** [[5月25日]]:大沼公園駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 ** [[8月8日]] - [[8月17日|17日]]:北海道競馬会主催による競馬開催のため、桑園駅 - 札幌駅間に北五条仮乗降場を一時的に設置。8月5・6・15・16日の4日間に限り開設の予定だったが、雨天のため8月8日から営業した。 * [[1909年]](明治42年) ** [[8月25日]]:銭函駅 - 札幌駅間が複線化。 ** [[8月26日]]:野幌駅 - 江別駅間が複線化。 ** [[9月26日]]:亀田駅が休止。 ** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定により、函館駅 - 旭川駅間が'''函館本線'''{{R|tanaka1 34-35}}、手宮駅 - 小樽駅(初代)間が'''手宮線'''{{R|tanaka1 192-193}}、岩見沢駅 - 幌内駅間および幌内太駅 - 幾春別駅間が'''幌内線'''となる。 ** [[12月6日]]:札幌駅 - 野幌駅間、江別駅 - 岩見沢駅間が複線化。 * [[1910年]](明治43年) ** 5月1日:小樽駅(初代) - 朝里駅間が複線化。函館駅 - 釧路駅間の直通列車運行開始{{R|tanaka1 34-35}}。 ** [[5月16日]]:苗穂駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 ** [[11月21日]]:小樽築港駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1911年]](明治44年) ** [[1月11日]]:近文信号所が駅に変更。 ** [[6月20日]]:朝里駅 - 銭函駅間が複線化{{R|tanaka1 36-37}}。 ** 7月1日:函館駅 - 釧路駅間の直通列車(函館駅 - 旭川駅間急行)に一等寝台車連結{{R|tanaka1 34-35}}。 ** [[8月5日]]:落部駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 ** [[9月1日]]:亀田駅を廃止{{R|tanaka1 314-315}}<!-- 『写真で見る北海道の鉄道』上巻では、亀田駅廃止は1911年(明治44年)8月29日とされている。 -->。五稜郭駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1913年]]([[大正]]2年) ** [[7月19日]]:琴似駅 - 札幌駅間に競馬場前仮乗降場が開業。 ** 8月1日:姫川信号所が開設。 ** [[9月21日]]:上目名駅を新設{{R|tanaka1 314-315}}。 * [[1914年]](大正3年)10月1日:紋別駅を中ノ沢駅に改称{{R|tanaka1 318-319}}。 * [[1916年]](大正5年) ** [[4月10日]]:函館駅 - 釧路駅間の直通列車に食堂車連結{{R|tanaka1 34-35}}。 ** [[7月15日]]:茶志内駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 * [[1919年]](大正8年):東岡信号場を新設。 * [[1920年]](大正9年) ** [[6月15日]]:大沼駅(初代)を軍川駅に、大沼公園駅を大沼駅(2代)にそれぞれ改称{{R|tanaka1 318-319}}。 ** 7月15日:中央小樽駅を小樽駅(2代)に、小樽駅(初代)を南小樽駅にそれぞれ改称{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 318-319}}。 * [[1922年]](大正11年)4月1日:姫川信号所が姫川信号場に改称。 * [[1923年]](大正12年)[[12月17日]]:岩見沢駅 - 東岡信号場間が複線化。東岡信号場を廃止。 * [[1924年]](大正13年) ** [[5月31日]]:東岡信号場 - 美唄駅間が複線化。 ** 6月1日:桑園駅を新設{{R|tanaka1 311}}。競馬場前仮乗降場を廃止。 * [[1925年]](大正14年)[[10月20日]]:美唄駅 - 奈井江駅間が複線化。 * [[1926年]](大正15年) ** 8月1日:砂川駅 - 上砂川駅間の支線([[上砂川支線]])が開業{{R|tanaka1 218-219|RF412 63}}。上砂川駅を新設{{R|tanaka1 316-317}}。 ** 8月21日:[[北海道鉄道 (2代)|北海道鉄道(2代)]]札幌線(現在の[[千歳線]])の[[沼ノ端駅]] - 苗穂駅間が開業{{R|tanaka1 122-123}}。同区間に[[月寒駅|月寒]]・[[東札幌駅 (国鉄)|東札幌]]の各駅を新設{{R|tanaka1 314-315}}。 ** [[12月1日]]:奈井江駅 - 砂川駅間が複線化{{R|tanaka1 38-39}}。 * [[1930年]](昭和5年) ** 3月20日:森駅 - 石倉駅間に石谷信号場が開設。 ** 7月1日:小樽駅 - 旭川駅間に準急列車新設{{R|tanaka1 36-37}}。 * [[1931年]](昭和6年)12月1日:美唄駅 - 南美唄駅間の貨物支線([[南美唄支線]])が開業{{R|tanaka1 218-219}}。同区間に南美唄駅を新設{{R|tanaka1 314-315}}。 * [[1932年]](昭和7年) ** 7月1日:小樽築港駅 - 浜小樽駅間の貨物支線が開業{{R|tanaka1 36-37}}。(貨)浜小樽駅を新設{{R|tanaka1 314-315}}。 ** 9月10日:現[[岩見沢市]]の[[幾春別川]]の堤防が決壊。岩見沢駅-峰延駅間が浸水のため不通。また、江別幌向駅-上幌向駅間も不通<ref>岩見沢が濁流の中で孤立『東京日日新聞』昭和7年9月12日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p199 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1936年]](昭和11年)[[9月15日]]:仁山信号場が開設。 * [[1940年]](昭和15年)9月15日:砂川駅 - 滝川駅間に空知太信号場が開設。 * [[1941年]](昭和16年)[[12月15日]]:函館駅 - 五稜郭駅間が複線化。 * [[1942年]](昭和17年) ** [[2月10日]]:豊沼信号場を開設。 ** 4月1日:本郷駅を渡島大野駅に改称{{R|tanaka1 318-319}}。 * [[1943年]](昭和18年) ** [[2月26日]]:東山信号場が開設。 ** [[9月30日]]:仁山信号場 - 軍川駅間に小沼信号場が開設。 * [[1944年]](昭和19年) ** [[1月25日]]:美唄駅 - 南美唄駅間の支線(南美唄支線)の旅客営業が開始{{R|tanaka1 218-219}}。 ** 2月1日:姫川信号場 - 森駅間に森川信号場が開設。 ** 7月1日:北豊津信号場が開設。 ** 9月1日:鷲ノ巣信号場が開設。 ** [[9月10日]]:本石倉信号場が開設。 ** 9月30日:五稜郭駅 - 桔梗駅間が複線化。桂川信号場が開設。 * 1945年(昭和20年) ** 1月25日:渡島海岸鉄道の森駅 - 砂原駅間が運輸逓信省に買収され、国有化。函館本線支線の森駅 - 渡島砂原駅間として開業{{R|tanaka1 34-35|tanaka2 249}}。同区間に渡島砂原・掛澗・尾白内・東森の各駅を新設{{R|tanaka1 311}}。砂原駅を渡島砂原駅に改称{{R|tanaka1 318-319}}。新川・尾白内学校裏・押出・東掛澗・度杭崎の各停留所を廃止。 ** 6月1日:軍川駅(現在の大沼駅)- 渡島砂原駅間の支線が延伸開業し、軍川駅 - 森駅間の支線が全通{{R|tanaka1 34-35}}。同区間に池田園・銚子口・鹿部の各駅{{R|tanaka1 311}}と渡島沼尻信号場(仮乗降場)を新設。銚子口駅 - 鹿部駅間に新本別信号場が開設。 ** [[7月20日]]:石倉駅 - 野田追駅間が複線化。 ** 12月1日:森川信号場が廃止。 * [[1946年]](昭和21年) ** 4月1日:石谷信号場を駅に変更{{R|tanaka1 311}}。 ** 4月22日:[[上野駅]] - 札幌駅間直通の[[連合軍専用列車]]運行開始{{R|tanaka1 34-35}}。 * [[1947年]](昭和22年)[[2月20日]]:豊沼信号場を駅に変更{{R|tanaka1 311}}。 * [[1948年]](昭和23年) ** 7月1日:小沼信号場が廃止。 ** 11月5日:光珠内仮乗降場を新設。 ** 12月1日:上砂川支線に鶉仮乗降場を新設{{R|kamisunagawachoshi 1521}}。 * [[1949年]](昭和24年) ** 2月20日:鹿部駅を鷹待駅に改称{{R|tanaka1 318-319}}。 ** [[6月1日]]:日本国有鉄道法施行に伴い、[[日本国有鉄道]](国鉄)に移管。 ** 8月1日:東山信号場が仮乗降場に、新本別信号場が駅に変更(廃止時期不明){{R|group="注釈"|shinhonbetsu}}。 * [[1950年]](昭和25年) ** 1月25日:近文駅 - 旭川大町駅間の貨物支線が開業{{R|tanaka1 38-39}}。同区間に(貨)旭川大町駅を新設{{R|tanaka1 314-315}}。大中山駅を新設<!-- 『写真で見る北海道の鉄道』上巻では開業日を1950年(昭和25年)1月15日と表記 -->{{R|tanaka1 311}}。 ** 2月1日:砂川駅 - 空知太信号場間が複線化。 * [[1952年]](昭和27年) ** [[4月10日]]:光珠内仮乗降場を駅に変更{{R|tanaka1 311}}。 ** 11月15日:軽川駅を手稲駅に改称{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 318-319}}。 * [[1953年]](昭和28年)10月1日:上砂川支線の鶉仮乗降場が駅に変更{{R|tanaka1 316-317}}。 * [[1956年]](昭和31年) ** 10月20日:空知太信号場 - 滝川駅間が複線化。空知太信号場が仮乗降場に変更(廃止時期不明){{R|tanaka1 38-39}}。 ** [[11月1日]]:豊幌駅を新設{{R|tanaka1 311}}。 ** 12月20日:鷹待駅を鹿部駅に改称{{R|tanaka1 318-319}}。 * [[1957年]](昭和32年) ** 8月12日:[[定山渓鉄道線|定山渓鉄道]]が気動車による札幌駅乗り入れを開始{{R|tanaka1 36-37}}。 ** 10月1日:定山渓鉄道が旅客電車による苗穂駅乗り入れを廃止{{R|tanaka1 36-37}}。 * [[1958年]](昭和33年) ** 10月1日:小樽駅 - 滝川駅間で気動車の運行を開始{{R|tanaka1 36-37}}。 ** 12月10日:落部駅 - 野田追駅間が単線化。 * [[1959年]](昭和34年) ** 5月1日:上砂川支線に下鶉仮乗降場を新設。 ** 9月22日:札幌駅 - 旭川駅・[[上芦別駅]]間に準急「かむい」新設{{R|tanaka1 36-37}}。 ** 10月1日:野田追駅を野田生駅に改称{{R|tanaka1 318-319}}。 ** 12月15日:桑園駅 - 札幌市場駅間に貨物支線が開業{{R|tanaka1 36-37}}。(貨)札幌市場駅を新設{{R|tanaka1 314-315}}。 ** 12月18日:上砂川支線の下鶉仮乗降場を駅に変更{{R|tanaka1 316-317}}。同支線に東鶉駅を新設{{R|tanaka1 316-317}}。 * [[1961年]](昭和36年)10月1日:滝川駅 - 江部乙駅間に深沢信号場、神居古潭駅 - 伊納駅間に春志内信号場が開設。函館駅 - 旭川駅間(室蘭本線経由)に特急「おおぞら」新設{{R|tanaka1 38-39}}。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[7月25日]]:熊の湯信号場 - 軍川駅間が複線化。仁山駅 - 軍川駅間に熊の湯信号場が開設。 ** [[9月4日]]:桔梗駅 - 七飯駅間が複線化。 * [[1964年]](昭和39年) ** 5月1日:大沼駅(2代)を大沼公園駅に改称{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 318-319}}。 ** 6月1日:軍川駅を大沼駅(3代)に改称{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 318-319}}。 ** 9月27日:小樽駅 - 南小樽駅間が高架化{{R|tanaka1 36-37}}。 ** 10月1日:深川駅 - 納内駅間が複線化。函館駅 - 釧路駅・網走駅間(室蘭本線経由)に特急「おおとり」新設{{R|tanaka1 38-39}}。 * [[1965年]](昭和40年) ** [[8月12日]]:小樽駅 - 南小樽駅間が複線化。 ** [[9月25日]]:札幌駅 - 苗穂駅間が三線化{{R|RP-177 78}}。 ** [[9月27日]]:中ノ沢駅 - 長万部駅間が複線化。 ** [[9月29日]]:深沢信号場 - 江部乙駅間、妹背牛駅 - 深川駅間が複線化。 ** 10月1日:函館駅 - 旭川駅間(室蘭本線経由)に特急「北斗」新設。 ** 11月:小樽駅 - 旭川駅間の電化着工を決定{{R|711story_172}}。 ** 12月13日:小樽駅 - 旭川駅間電化工事起工式開催{{R|711story_172}}。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[9月24日]]:山崎駅 - 黒岩駅間、江部乙駅 - 妹背牛駅間が複線化。 ** 9月27日:滝川駅 - 深沢信号場間が複線化され、深沢信号場が廃止。 ** [[9月28日]]:国縫駅 - 函館起点105.911&nbsp;km地点(国縫駅 - 中ノ沢駅間)が複線化。 ** 10月1日:七飯駅 - 大沼駅間の別線(藤城支線)が開業{{R|tanaka1 34-35}}。熊の湯信号場が廃止。 ** 11月10日:銭函駅 - 手稲駅間の電化試験線区が完成{{R|711story_172}}。 ** 11月15日:銭函駅 - 手稲駅間での電化試運転開始{{R|711story_172}}。 ** 12月15日:大麻駅を新設{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 311}}。 ** [[12月25日]]:函館起点105.911&nbsp;km地点 - 中ノ沢駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news|title=通報 ●函館本線函館起点105K911M・中の沢<!-- 記事中では「中の沢」と表記している -->間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1966-12-22 |page=4 }}</ref>。 * [[1967年]](昭和42年)3月1日:函館駅 - 旭川駅間に特急「北海」新設{{R|tanaka1 34-35}}。 * [[1968年]](昭和43年) ** 4月1日:狩太駅がニセコ駅に改称{{R|tanaka1 34-35}}。 ** 7月1日:定山渓鉄道が札幌駅乗り入れを廃止{{R|tanaka1 36-37}}。滝川駅 - 旭川駅間電化工事着工{{R|711story_172}}。 ** [[8月28日]]:小樽駅 - 滝川駅間が[[鉄道の電化|電化]]([[交流電化|交流]]20,000&nbsp;V 50&nbsp;Hz){{R|tanaka1 36-37|tanaka1 38-39}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np-1968-08-28}}。 ** 9月21日:落部駅 - 野田生駅間が再び複線化<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=国鉄今週の切替え工事 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-15 |page=1 }}</ref>。 ** 9月28日:近文駅 - 旭川駅間が複線化。 ** 10月1日:白石駅 - 東札幌駅間の貨物支線が開業。新札幌駅(初代・貨物駅)を新設{{R|tanaka1 36-37}}。急行「かむい」1往復を道内国鉄線初の電車急行化{{R|711story_172}}。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[8月29日]]:野田生駅 - 山越駅間が複線化。 ** 9月26日:山越駅 - 八雲駅間が複線化。 ** 9月30日:納内駅 - 近文駅間が複線化に伴いルート変更{{R|tanaka1 38-39}}。神居古潭駅{{R|tanaka1 314-315}}・春志内信号場が廃止。滝川駅 - 旭川駅間で「SLさよなら列車」運転(C57 201牽引){{R|tanaka1 38-39}}。 ** 10月1日:滝川駅 - 旭川駅間が電化(交流20,000&nbsp;V 50&nbsp;Hz){{R|tanaka1 38-39}}。 ** [[11月26日]]:桔梗駅 - 森駅間を[[列車集中制御装置|CTC]]化(同年8月1日からテスト運用)<ref group="新聞">{{Cite news |title=函館本線桔梗-森間 CTCの使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1969-11-27 |page=1 }}</ref>。 * [[1970年]](昭和45年)9月25日:北豊津信号場 - 国縫駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news|title=通報 ●函館本線北豊津・國縫間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1970-09-24 |page=2 }}</ref>。 * [[1971年]](昭和46年) ** 7月1日:札幌駅 - 旭川駅間にノンストップ急行「さちかぜ」新設{{R|tanaka1 38-39}}。 ** [[8月3日]]:美唄駅 - 南美唄駅間の支線(南美唄支線)の旅客営業が廃止{{R|RF412 56}}。 ** 9月21日:桂川駅 - 石谷駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news|title=通報 ●函館本線桂川・石谷間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-09-20 |page=4 }}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)10月2日:札幌駅 - 網走駅間に特急「オホーツク」新設{{R|tanaka1 38-39}}。 * [[1973年]](昭和48年) ** 7月16日:新札幌駅(初代・貨物駅)を札幌貨物ターミナル駅に改称。 ** [[9月9日]]:美唄駅 - 南美唄駅間の貨物支線(南美唄支線)が廃止{{R|tanaka1 218-219|RF412 56}}。南美唄駅を廃止{{R|tanaka1 314-315|RF412 56}}。 ** 9月10日:千歳線の北広島駅 - 苗穂駅間の線路付替に伴い、同線との接続駅を苗穂駅から白石駅に変更{{R|tanaka1 36-37}}。同時に、旧千歳線の東札幌駅 - 月寒駅間が函館本線の貨物支線となり{{R|tanaka1 122-123}}、同区間の月寒・東札幌の各駅が函館本線に編入される。 ** 12月11日:本石倉駅 - 石倉駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news|title=通報 ●函館本線函館起点58k880M・石倉間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1973-12-10 |page=1 }}</ref>。本石倉信号場を仮乗降場に変更。 * [[1974年]](昭和49年)[[10月31日]]:石谷駅 - 本石倉駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news|title=通報 ●函館本線石谷駅・函館起点58k880M間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1974-10-30 |page=2 }}</ref>。 * [[1975年]](昭和50年)[[7月18日]]:札幌駅 - 旭川駅間にエル特急「いしかり」新設{{R|tanaka1 38-39}}。 * [[1976年]](昭和51年) ** 10月1日:東札幌駅 - 月寒駅間の貨物支線が廃止{{R|tanaka1 36-37}}。月寒駅を廃止{{R|tanaka1 314-315}}。 ** 10月2日:駒ヶ岳駅駅 - 姫川信号場間で下り貨物列車が脱線。貨車41両中40両とディーゼル機関車が転覆する国鉄史上最大の脱線事故となった<ref group="新聞">貨物列車の40両脱線 機関車もろとも 無事なのは車掌車だけ『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月2日夕刊、3版、9面</ref>。人海戦術による復旧が行われて同区間は10月3日始発列車から運転開始<ref group="新聞">函館本線が復旧『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月4日朝刊、13版、23面</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)[[10月2日]]:桑園駅 - 札幌市場駅間{{R|tanaka1 36-37}}、近文駅 - 旭川大町駅間の両貨物支線が廃止。札幌市場・旭川大町の各駅を廃止{{R|tanaka1 314-315}}。 * [[1979年]](昭和54年)9月27日:森駅 - 桂川駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news|title=通報 ●函館本線森・桂川間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1979-09-26 |page=4 }}</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)10月1日:エル特急「いしかり」を「ライラック」と改称{{R|tanaka1 38-39}}。 * [[1984年]](昭和59年) ** 2月1日:小樽築港駅 - 浜小樽駅間の貨物支線が廃止{{R|tanaka1 36-37}}。浜小樽駅を廃止{{R|tanaka1 314-315}}。 ** [[3月31日]]:上目名駅を廃止{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 314-315}}。 ** [[6月10日]] - [[8月24日]]:[['84小樽博覧会]]の開催に合わせて、小樽築港駅 - 浜小樽駅間の貨物支線に会場前駅(臨時駅)を設置。 ** [[9月20日]]:森林公園駅を新設{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 311}}。 ** [[11月19日]]:八雲駅 - 鷲ノ巣駅間が複線化<ref group="新聞">{{Cite news|title=通報 ●函館本線八雲・鷲ノ巣間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1984-11-17 |page=2 }}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)10月1日:星置駅を新設{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 311}}。 * [[1986年]](昭和61年) ** 3月3日:札幌駅 - 白石駅間の最高速度を従来の100&nbsp;km/hから120&nbsp;km/hに引き上げられる<ref name="711story_135" />。これに合わせて隣接する千歳線の千歳空港駅 - 白石駅間も同様に最高速度が引き上げられる<ref name="711story_135" />。同時に千歳空港駅 - 札幌駅 - 旭川駅間にエル特急「ホワイトアロー」新設。 ** 11月1日:白石駅 - 東札幌駅間の支線(貨物線)が廃止。東札幌駅を廃止{{R|tanaka1 314-315}}。発寒駅を新設{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 311}}。稲穂・稲積公園・発寒中央・高砂の各臨時乗降場を新設{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 311}}。また、野田生駅 - 長万部駅間の最高速度を従来の100&nbsp;km/hから110&nbsp;km/hに<ref name="kawajima76" />、白石駅 - 旭川駅の最高速度を従来の100&nbsp;km/hから120&nbsp;km/hにそれぞれ引き上げられる<ref name="711story_135" />。 ==== 民営化以後 ==== * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)が[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]として全線を承継。同時に、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が函館駅 - 大沼公園駅 - 長万部駅間、手稲駅 - 旭川駅間、大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間(砂原支線)および砂川駅 - 上砂川駅間(上砂川支線)の[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]となる。長万部駅 - 手稲駅間の貨物営業が廃止。東山・本石倉の各仮乗降場{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 311}}、稲穂・稲積公園・発寒中央・高砂の各臨時乗降場、仁山{{R|tanaka1 34-35}}・姫川{{R|tanaka1 34-35}}・桂川{{R|tanaka1 34-35}}・鷲ノ巣{{R|tanaka1 34-35}}・北豊津{{R|tanaka1 34-35}}・渡島沼尻の各信号場{{R|tanaka1 311}}がそれぞれ駅に変更。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[3月13日]]:[[海峡線]]開業に伴い、函館駅 - 五稜郭駅間が電化(交流20,000&nbsp;V 50&nbsp;Hz)。旭川駅の読み方を「あさひ'''が'''わ」から「あさひ'''か'''わ」に変更{{R|tanaka1 38-39}}。 ** [[11月3日]]:琴似駅 - 札幌駅間の高架化により、札幌駅 - 苗穂駅間が複々線化。琴似駅 - 苗穂駅間の高架化完成{{R|tanaka1 36-37}}。また、札幌駅 - 旭川駅間の軌道改良も同時に実施され、優等列車の速度向上に寄与した<ref name="exp10ayumi_39" />。 * 時期不明:1988年3月時点で、旭川駅 - 深川駅間運行の普通列車に「ユーカラ」、旭川駅 - 滝川駅間運行の普通列車に「いしかり」の愛称が付与されている<ref>{{Cite book|和書|title=時刻表完全復刻版 1988年3月号|publisher=JTBパブリッシング|year=2020|page=550}}</ref>。なお『JTB時刻表』1989年3月号では列車名が消去されている。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月11日]]:野田生駅 - 長万部駅間の最高速度を110&nbsp;km/hから120&nbsp;km/hに引き上げられる<ref name="exp10ayumi_210" />。また函館駅 - 野田生駅間の最高速度を従来の100&nbsp;km/hから110&nbsp;km/hに引き上げられる。 * [[1990年]](平成2年) ** [[3月10日]]:砂川駅 - 上砂川駅間(上砂川支線)でワンマン運転が開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |page=169 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-111-2}}</ref>。 ** 9月1日:張碓駅が臨時駅に変更。札幌駅 - 旭川駅間にエル特急「スーパーホワイトアロー」新設{{R|tanaka1 38-39}}。同時に、札幌駅 - 旭川駅間の最高速度が130&nbsp;km/hに向上。 * [[1991年]](平成3年) ** [[3月16日]]:函館駅 - 野田生駅間の最高速度を110&nbsp;km/hから120&nbsp;km/hに引き上げ、これにより優等列車の所要時間が3分程度短縮された<ref name="exp10ayumi_62" /><ref name="exp10ayumi_210" />。 ** 12月:小樽駅 - 旭川駅間で[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SN]]使用開始{{R|group="新聞"|交通1993-9}}。 * [[1993年]](平成5年)11月:函館駅 - 長万部駅間でATS-SN使用開始{{R|group="新聞"|交通1993-9}}。 * [[1994年]](平成6年) ** [[3月1日]]:特急「スーパー北斗」の運行開始に伴い、函館駅 - 長万部駅間の最高速度が130&nbsp;km/hに向上。 ** 5月16日:砂川駅 - 上砂川駅間(上砂川支線)の運輸営業を廃止 (-7.3&nbsp;km){{R|tanaka1 218-219|RF412 63}}。[[北海道中央バス]]に転換。下鶉・鶉・東鶉・上砂川の各駅を廃止{{R|tanaka1 316-317}}。 ** [[11月1日]]:桑園駅 - 札幌駅間が三線化<ref name=JRR1995>{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。<!--- JR北海道パンフレット「平成6年10・11月時刻修正→平成7年ダイヤ改正」より---> * [[1995年]](平成7年)3月16日:ほしみ駅を新設{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 311}}。函館駅 - 長万部駅 - 小樽駅間・滝川駅 - 旭川駅間でワンマン運転が開始{{R|JRR1995}}(快速「アイリス」を含む気動車による普通列車のみ)。 * [[1998年]](平成10年) ** [[2月25日]]:小樽駅 - 旭川駅間に[[自動進路制御装置]] (PRC) 導入{{R|group="新聞"|交通2001}}。 ** 7月1日:張碓駅が通年休止。 * [[2000年]](平成12年) **[[3月31日]] - [[2001年]] (平成13年)[[6月30日]]:[[有珠山]]の[[噴火]]に伴い室蘭本線が不通となり、上野・大阪発寝台特急を含む長距離旅客・貨物列車の迂回運転が実施される(“山線迂回”)。 **[[12月31日]] - [[2001年]](平成13年)[[1月1日]]:[[旭川運転所]]に隣接する形で、期間限定で北彩都あさひかわ駅(臨時駅)を設置{{要出典|date=2023年5月}}。 * [[2002年]](平成14年) ** 4月1日:JR貨物が函館駅 - 五稜郭駅間 (3.4&nbsp;km) の第二種鉄道事業を廃止。 ** [[4月27日]]:流山温泉駅が開業{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 311}}{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20011024nagare}}。 * [[2006年]](平成18年) ** [[3月18日]]:張碓駅を廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20051222}}。 ** 4月1日:JR貨物が手稲駅 - 苗穂駅間 (12.8&nbsp;km) の第二種鉄道事業を廃止。 * [[2007年]](平成19年)10月1日:全線で[[北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー|駅ナンバリング]]実施{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20070912-3}}。 * [[2008年]](平成20年) ** [[10月25日]]:小樽駅 - 岩見沢駅間に[[乗車カード|ICカード]]「[[Kitaca]]」を導入{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20080910-1}}。 ** 11月1日:長時間運転を見合わせる事象が発生した場合、JRの乗車券所持者に[[札幌市営地下鉄]]の乗車券を配布する[[振替輸送#JR北海道の場合|代替輸送]]を開始。函館本線では以下の駅からの乗車券を配布{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20081029-1}}。 *** 手稲駅・発寒駅:[[宮の沢駅]]([[札幌市営地下鉄東西線|東西線]]) *** 発寒中央駅:[[発寒南駅]](東西線) *** 琴似駅:[[琴似駅 (札幌市営地下鉄)|琴似駅]](東西線) *** 札幌駅:[[さっぽろ駅]]([[札幌市営地下鉄南北線|南北線]])<ref group="注釈">さっぽろ駅には地下鉄[[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]も乗り入れているが、代替輸送の対象にはなっていない。</ref> * [[2010年]](平成22年)[[10月10日]]:旭川駅を高架化{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20100714-1|jrhokkaido-press-20100908-4}}。 * [[2011年]](平成23年)[[10月23日]]:野幌駅を高架化{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20110609-3|jrhokkaido-press-20111013-1}}。 * [[2013年]](平成25年) ** [[3月21日]]:五稜郭駅 - 渡島大野駅間電化工事着工([[4月20日]]起工式){{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20130321-3-2}}。 ** [[8月17日]]:山越駅 - 八雲駅間の下奥津内橋梁付近で、集中豪雨に伴う河川増水により、流木による線路支障および道床流失を原因とする脱線事故が発生{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20140811-2}}。 ** [[9月19日]]:大沼駅構内の副本線で貨物列車が脱線する事故が発生{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20130921-1-2}}。これに伴う調査等において、軌道変位検査データの改ざんが発覚。 ** 11月1日:特急列車の減速・減便に伴い、函館駅 - 長万部駅間の最高速度が120&nbsp;km/hとなる{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20130904-1|jrhokkaido-press-20130920-1}}。 ** [[11月12日]]:9月の前述の脱線事故および軌道変異検査データ改ざん問題を受け、2014年[[8月18日]]まで副本線での減速運転を実施{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20140811-1}}。 * [[2014年]](平成26年) ** [[3月15日]]:特急・快速列車の減速・減便に伴い、札幌駅 - 旭川駅間の最高速度が120&nbsp;km/hとなる{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20131220-1}}。 ** [[5月7日]] - [[11月30日]]:大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間の[[枕木]]を木製からコンクリート製(PC枕木)に入れ替える軌道強化工事に伴い、下り普通列車1本を駒ヶ岳経由に変更して渡島砂原方面へはバス代行輸送{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20140404-1|jrhokkaido-press-20141210-1}}。 * [[2015年]](平成27年)[[12月27日]]:伊納駅 - 近文駅間の嵐山トンネル内で火災発生。2日後の29日午前中まで深川駅 - 旭川駅間が不通となり、バス代行輸送が行われた{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20151228-2}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np-20151229}}。 * [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:[[北海道新幹線]]の[[新青森駅]] - 新函館北斗駅間開業に伴い、渡島大野駅を新函館北斗駅に改称{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20150916-3|jreast-press-20150914|jrhokkaido-press-20151218-2|jrhokkaido-press-20151218-3}}。五稜郭駅 - 新函館北斗駅間が電化(交流20,000 V 50 Hz)され、同区間に新幹線接続列車「はこだてライナー」を新設{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20111213-2|jrhokkaido-press-20141120-3|jrhokkaido-press-20150212-5|jrhokkaido-press-20151218-2|jrhokkaido-press-20151218-3}}。鷲ノ巣駅{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20151218-2|jrhokkaido-press-20151218-3}}が信号場に変更され、鷲ノ巣信号場となる{{R|RJ-628 27}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np-2016-03-14}}。 * [[2017年]](平成29年) ** [[3月4日]]:東山駅、桂川駅、蕨岱駅が廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161216-3}}。姫川駅{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161216-3}}、北豊津駅{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161216-3}}が信号場に変更され、姫川信号場、北豊津信号場{{R|RJ-610 56|RJ-628 27}}となる。 ** [[12月13日]]:熱郛駅 - 目名駅間で路盤流出が発生{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2017/171213-4}}。復旧まで、長万部駅 - 蘭越駅間でバスやタクシーによる代行輸送が行われた{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2017/171213-4}}。 * [[2018年]](平成30年)[[11月17日]]:苗穂駅を札幌方に300&nbsp;m移転し橋上駅化{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20181011_KO_NewNaeboSTOpening}}。 * [[2021年]]([[令和]]3年) ** [[3月13日]]:伊納駅が廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2020/20201209_KO_kaisei}}{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2020/20201218_KO_Daikai}}。 ** [[3月31日]]:小沢駅 - 銀山駅間で斜面崩壊が発生{{R|group="報道"|"jrhokkaido/press/2021/210402_KO_Hakodate%20Line"}}{{R|group="新聞"|"hokkaido-np.co.jp/article/527946"}}。倶知安駅 - 然別駅間で同日の普通列車など上下計16本が運休{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/527946}}。翌4月1日も同区間で終日運休{{R|group="新聞"|"hokkaido-np.co.jp/article/527946"}}。 ** [[4月2日]]:斜面崩壊箇所の復旧工事に着手{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210402_KO_Hakodate%20Line}}。復旧には少なくとも2週間が見込まれることが発表{{R|group="報道"|"jrhokkaido/press/2021/210402_KO_Hakodate%20Line"}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/528676}}。同日から[[4月7日]]まで、倶知安駅 - 然別駅間の普通・快速列車が全区間および部分運休し、倶知安駅 - 然別駅・余市駅間でバス代行を実施{{R|group="報道"|"jrhokkaido/press/2021/210402_KO_Hakodate%20Line"}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/528676}}。 ** [[4月6日]]:JR北海道が、4月8日以降も倶知安駅 - 然別駅・余市駅間でのバス代行の継続、倶知安駅 - 長万部駅間の一部便のタクシー代行を実施することを発表{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210406_KO_Hakodate%20Line}}。 ** [[4月14日]]:JR北海道が、斜面崩壊箇所の復旧完了時期が、作業の遅れにより、4月末になることを発表{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/20210414_KO_Hakodate%20Line}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/533198}}。 ** [[4月19日]]:JR北海道が、倶知安駅 - 然別駅間を4月21日に運転再開することを発表{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210419_KO_Hakodate%20Line}}。 ** [[4月21日]]:同日昼の普通列車より、倶知安駅 - 然別駅間で運転再開{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210419_KO_Hakodate%20Line}}。 ** [[7月1日]]:[[長万部町]]が「並行在来線の旅客は廃止する方向で検討すべき」と広報誌にて表明<ref name="kouhou202107" />。町民議論をしたいと意見を募集する<ref name="kouhou202107">{{Cite web|和書|url=https://www.town.oshamambe.lg.jp/uploaded/attachment/5306.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210822141129/https://www.town.oshamambe.lg.jp/uploaded/attachment/5306.pdf|title=広報おしゃまんべ No.895|date=2021-07-01|archivedate=2021-08-22|accessdate=2022-02-04|publisher=長万部町役場|format=PDF|language=日本語|page=3|deadlinkdate=}}</ref>。 ** [[12月24日]]:[[倶知安町]]が長万部駅 - 小樽駅間の全線バス転換を支持する意向を示す{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/627329}}。 ** [[12月27日]]:同日開催された北海道と沿線自治体([[小樽市]]・[[余市町]]・[[仁木町]]・[[共和町]]・倶知安町・[[ニセコ町]]・[[蘭越町]]・[[黒松内町]]・長万部町)との長万部駅 - 小樽駅間の存廃を巡る協議会会合で、仁木町・共和町・倶知安町・長万部町が「同区間の廃止・バス転換」、余市町が「余市駅 - 小樽駅間の存続」、小樽市・ニセコ町・蘭越町・黒松内町が「判断を保留」をそれぞれ主張{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/628078}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/628196}}。 * [[2022年]](令和4年) ** [[1月25日]]:黒松内町が長万部駅 - 小樽駅間の全線バス転換を支持する意向を示す{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/637737}}。 ** [[1月28日]]:ニセコ町が長万部駅 - 小樽駅間の全線バス転換を支持する意向を示す{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/639180}}。 ** [[2月2日]]:蘭越町が長万部駅 - 小樽駅間の全線バス転換を支持する意向を示す{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/641052}}。 ** [[2月3日]]:沿線自治体(仁木町・共和町・倶知安町・ニセコ町・蘭越町・黒松内町・長万部町)が長万部駅 - 余市駅間の廃止・バス転換に合意{{R|group="新聞"|mainichi20220203}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/641260}}。 ** [[3月12日]]:池田園駅、流山温泉駅、本石倉駅が廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/20211217_KO_kaisei}}。銚子口駅、石谷駅{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/20211217_KO_kaisei}}が信号場に変更され、銚子口信号場、石谷信号場となる{{R|group="新聞"|nayoro-news-220404}}。 ** [[3月26日]]:沿線自治体(小樽市・余市町)が余市駅 - 小樽駅間の廃止・バス転換に合意{{R|group="新聞"|kyodo20220326}}{{R|group="新聞"|mainichi20220326}}。 ** [[3月27日]]:沿線自治体(小樽市・余市町・仁木町・共和町・倶知安町・ニセコ町・蘭越町・黒松内町・長万部町)と北海道の協議において長万部駅 - 小樽駅間の廃線・バス転換が決定{{R|group="新聞"|kyodo20220327}}{{R|group="新聞"|yomiuri20220327}}。 * [[2024年]](令和6年)3月16日:函館駅 - 新函館北斗駅間、岩見沢駅 - 旭川駅間でICカード「Kitaca」の利用が可能となる(予定){{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/220914_KO_Kitaca}}{{R|group="報道"|20231215_KO_kaisei|page1=p7}}。 === 今後の予定 === {{Main|北海道新幹線#並行在来線の扱い}} [[2010年]](平成22年)3月、JR北海道は函館本線の小樽以南全区間を経営分離する方針を打ち出したため、2030年度に予定される北海道新幹線の札幌延伸時には、本路線の砂原支線・藤城支線を含む[[函館駅]] - [[長万部駅]]間が経営分離される予定である{{R|group="新聞"|hokkaido-np-20120215}}。また、長万部駅 - [[余市駅]]間は[[2022年]][[2月3日]]に沿線自治体が鉄道存続を断念し、廃止を受け入れバスに転換することで合意した{{R|group="新聞"|mainichi20220203}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/641260}}。新幹線開業に伴う並行在来線の廃止は、[[第三セクター鉄道]]への転換を除けば1997年10月1日の[[長野新幹線]]([[北陸新幹線]])[[高崎駅]] - [[長野駅]]間先行開業に伴う[[信越本線]][[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]]間の廃止以来2例目となる{{R|group="新聞"|mainichi20220203}}。余市駅 - [[小樽駅]]間に関しては、[[小樽市]]への通勤・通学が多い[[余市町]]が第三セクターでの鉄道存続を要望しているため、バス転換へ前向きな小樽市との意見集約が出来ず、結論が先送りされることとなった{{R|group="新聞"|mainichi20220203}}{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/641260}}。なお、小樽市は、2022年1月31日の迫俊哉市長の定例記者会見の席上で、余市駅 - 小樽駅間の存廃について、「バス転換を視野に入れた動きを進めたい」として、同区間のバス転換の方向性について言及している{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/640046}}。同年[[3月26日]]に行われた道と沿線自治体(小樽市・余市町)の3者協議において余市駅 - 小樽駅間の鉄道存続を断念し、廃止を受け入れバスに転換することで合意した{{R|group="新聞"|kyodo20220326}}{{R|group="新聞"|mainichi20220326}}。同年[[3月27日]]に行われた沿線自治体(小樽市・余市町・仁木町・共和町・倶知安町・ニセコ町・蘭越町・黒松内町・長万部町)と道の協議において長万部駅 - 小樽駅間の廃線・バス転換が決定した{{R|group="新聞"|kyodo20220327}}{{R|group="新聞"|yomiuri20220327}}。 2023年10月、北海道などから[[廃止代替バス#鉄道廃止代替バス|代替バス]]の運行を打診されている[[北海道中央バス]]などのバス事業者3社が[[2024年問題]]などに伴う[[運転手#バス運転手|バス運転手]]の不足により、北海道から示されているダイヤ案での本数運行は困難であると回答し、バス転換協議が難航していることが報じられた。北海道などは他のバス事業者にも協力を求めるほか、利用者が少ない一部区間については[[タクシー]]など、バス以外の交通機関への転換も検討するとしている<ref group="新聞">{{Cite web|和書|title=長万部-小樽の代替バス、鉄道並み困難 運行3社、運転手不足 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/932543/ |website=北海道新聞 |access-date=2023-11-07 |date=2023-10-28}}</ref><ref group="新聞">{{Cite web|和書|title=バス運転手不足、今後の鉄路廃止議論にも影響 バス転換も難しい |url=https://www.asahi.com/articles/ASRC17WWQRB0IIPE020.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2023-11-02 |access-date=2023-11-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=北海道新幹線「並行在来線」バス転換協議が中断へ |url=https://toyokeizai.net/articles/-/711846 |website=東洋経済新報 |date=2023-11-07 |access-date=2023-11-07 |author=櫛田泉}}</ref>。 また、函館駅 - 新函館北斗駅間については、並行在来線であるかどうかについては異論があり<ref>{{Cite web|和書|title=新幹線開業後の並行在来線はどうなるのか|url=https://hokkaidofan.com/zairaisen/|website=北海道ファンマガジン|date=2010-05-14|accessdate=2020-05-26|language=ja|last=編集部}}</ref>、当該区間は並行在来線ではないとの立場に立つ[[函館市]]はJRによる運行継続を求めていた<ref>{{Cite web|和書|title=【Q&#038;A】18.並行在来線とはそもそも何なのか|url=http://www.shinkansen-hakodate.com/archives/1083|website=北海道新幹線2016.3新函館北斗開業ウェブサイト|accessdate=2020-05-26|language=ja}}</ref>。しかし、[[2011年]](平成23年)4月に初当選した[[工藤壽樹]]函館市長は、同年11月24日、バス転換しないことなどを条件に経営分離容認を表明{{R|group="新聞"|e-kensin20111221}}。函館商工会議所を始めとする諸団体が依然として反対していたため正式決定が遅れたものの、12月21日には経営分離に同意した。 函館駅 - 長万部駅間については、沿線自治体の多くが旅客路線としては大部分を廃線並びにバス転換したい意向を示しているが、同区間は北海道と[[本州]]間における鉄道[[物流]]の大動脈となっている[[貨物列車]]も運行されており、仮に同区間を廃線にした場合、物流網が寸断され、道内の地域経済(特に[[第一次産業|農水産業]])に大打撃となる恐れがあることから、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[日本貨物鉄道北海道支社|北海道支社]]長の小暮一寿は2022年5月に同区間の存廃について、「自社のみでの貨物路線の保有は困難」として、「第三セクターなどによる鉄道維持が望ましい」との見解を出している<ref>{{Cite web|和書|title=長万部―函館、鉄道の維持希望 JR貨物支社長、三セク想定 |url=https://web.archive.org/web/20220527113625/https://nordot.app/902883088579706880 |website=共同通信 |date=2022-05-27 |access-date=2022-05-28}}</ref><ref group="新聞">{{Cite web|和書|title=北海道を襲う物流危機 「運べない時代」の到来か |url=https://www.sankei.com/article/20220903-QCJT57Y64JL7FJAHETSB3K2MCE/ |website=産経新聞 |date=2022-09-03 |access-date=2022-09-22 |author=坂本隆浩}}</ref><ref group="新聞">{{Cite web|和書|title=函館線を貨物線として維持、国が協議へ 北海道やJRと旅客と分離 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ9D5RDWQ9DIIPE002.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2022-09-12 |access-date=2022-09-22 |author=堀篭俊材・新田哲史}}</ref>。この問題を受けて、国土交通大臣の[[斉藤鉄夫]]は、函館駅 - 長万部駅間を貨物路線として維持するための方策を、[[北海道庁]]、JR北海道、JR貨物との4者で協議を行うことを2022年9月20日に表明した<ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/733515" /><ref group="新聞">{{Cite web|和書|title=函館線の貨物網維持へ協議入り表明 国交相、北海道やJR2社と |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ9N5CLWQ9NIIPE00Q.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2022-09-20 |access-date=2022-09-22 |author=松本真弥・堀篭俊材}}</ref>。その後、2023年(令和5年)7月26日に前述の4者が札幌市内で開いた協議会において、該当区間における鉄道貨物機能を維持する方針を確認した。これにより、新幹線延伸に伴う並行在来線では初めて貨物専用路線として残る可能性が高くなった<ref>{{Cite web|和書|title=函館線「貨物維持が妥当」 25年度めどに結論―国や道、JR |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023072601059&g=eco |website=時事通信 |access-date=2023-07-28 |date=2023-07-26}}</ref><ref group="新聞">{{Cite web|和書|title=沿線自治体首長、歓迎も課題注視 函館―長万部の鉄道貨物維持 |url=https://digital.hakoshin.jp/news/politics/106502 |website=函館新聞 |date=2023-07-28 |access-date=2023-07-28 |author=山崎大和、今井正一、野口賢清}}</ref>。 なお、2022年8月31日に開催された北海道と沿線自治体による協議会では、函館駅 - 長万部駅間全区間を第三セクターで維持する場合は経営分離後30年間で累計816億円の赤字が見込まれるとの収支予測を公表した{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/724495}}。これを受け、北海道は沿線自治体に対し、赤字圧縮を目的に藤城支線の旅客運行を取りやめる案を提案している{{R|group="新聞"|hokkaido-np.co.jp/article/724495}}。 2016年11月16日、JR北海道が公表した「維持困難路線」に関するプレスリリースのなかで、本区間は「経営分離されるまでの間、施設のスリム化などに取り組み、効率的な運営を行ってまいります」とされた{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161118-3}}。 小樽駅 - 札幌駅間は[[札幌都市圏]]輸送の使命を担っているため普通列車([[快速列車|快速]]含む)の本数・利用客共に多く、また、[[新千歳空港駅]]方面や[[岩見沢駅]]方面と一体的な運用を行っているなどの理由から、新幹線開業後もJR北海道が経営を継続する予定である{{R|jrhokkaido-shinkansen}}。 == 沿線風景 == {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} 起点の函館駅から出発すると[[五稜郭駅]]を過ぎるまで、函館市内の住宅地が連なる。[[七飯駅]] - [[大沼駅]]間は本線と支線の二手に別れ、大沼駅付近では[[北海道駒ヶ岳|駒ヶ岳]]が見える。大沼駅 - [[森駅 (北海道)|森駅]]間は駒ヶ岳を挟んで山間部を通る本線と海沿いを通る支線に線路が分かれ、まったく異なる車窓風景が見られる。なお、大沼駅付近では[[大沼国定公園]]指定の沼が何度か見えるが、'''[[大沼 (七飯町)|大沼]]'''が見えるのは[[大沼公園駅]]を過ぎたあとの右手側と旧[[流山温泉駅]]付近の左手側だけであり、大沼駅付近でそれ以外の場所・方向に見えるのは大沼ではなく、'''小沼'''である。森駅 - [[長万部駅]]間は[[内浦湾|噴火湾(内浦湾)]]沿いに海岸線を進む。 長万部駅からは山へと分け入り、急勾配の峠に挑む。[[ニセコアンヌプリ]]や[[羊蹄山]]の麓を過ぎると余市からは沿線に[[果樹園]]が続き、[[蘭島駅]]付近から再び海岸が近づいて[[小樽駅]]へ至る。小樽市内の[[小樽築港駅]] - [[銭函駅]]間では、間近に[[日本海]]を望むことができる。 [[石狩湾]]を離れると、いよいよ札幌市へ入る。[[札幌駅]]を中心とした北海道最大の都市圏を抱え、沿線は住宅地のほか商業地域やマンションが目立つようになる。札幌駅から[[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]<ref group="注釈">正確には函館本線に駅がない千歳線の[[平和駅]]辺りで別れる。</ref>までは[[千歳線]]専用の線路(外側2線が函館本線・内側2線が千歳線)と並列し、両線の列車の同時発車も見られる。[[江別駅]]を過ぎると徐々に田園風景へと移り、[[岩見沢駅]]から[[滝川駅]]にかけて平らな[[石狩平野]]の[[穀倉地帯]]を北上する。並走する[[国道12号]]に[[交通に関する日本一の一覧#道路|日本一の直線区間]]があるように、函館本線もこの区間は長い直線が続き、特急「[[カムイ (列車)|カムイ]]」「[[カムイ (列車)|ライラック]]」をはじめとする優等列車や[[JR北海道721系電車|721系]]・[[JR北海道731系電車|731系]]・[[JR北海道733系電車|733系]]・[[JR北海道735系電車|735系]]電車による普通列車もその性能を遺憾なく発揮する。沿線は時折市街地を挟みながら田園風景が続き、車窓の変化は少ない。 並行する[[石狩川]]を[[妹背牛駅]]の手前で初めて渡り、[[納内駅]] - [[近文駅]]間は[[名勝|景勝地]]である[[神居古潭]]を長い神居トンネルで抜ける。1969年に切り替えられた新線は複数の山を[[神居トンネル]]をはじめとする合計5本のトンネルで貫き、[[複線]]・[[鉄道の電化|電化]]の際に曲線緩和と距離短縮を目的として建設されたが、引き換えに車窓風景を失った。石狩川の屈曲に合わせて河岸を通っていた旧線は「[[旭川サイクリングロード]]」として整備されており、途中の[[神居古潭駅]]跡には旭川市の[[有形文化財]]に指定され再整備された駅舎や[[プラットホーム|ホーム]]が残されているほか、3両の蒸気機関車も静態保存されている。 近文駅を過ぎて再び石狩川を渡ると、終点の[[旭川駅]]に到達する。かつては構内南側に[[操車場 (鉄道)|ヤード]]や機関庫などが広がっていたが「[[北彩都あさひかわ]]」計画に伴いすべて撤去され、跡地に[[高架駅|高架]]化された駅舎を新築し、2010年(平成22年)10月10日に一次開業した。 == 運行形態 == === 広域輸送 === ==== 函館駅 - 長万部駅間 ==== [[室蘭本線]]・[[千歳線]]を経由して函館市 - 札幌市間を結ぶ幹線の一部で、特急「[[北斗 (列車)|北斗]]」がほぼ1 - 2時間間隔で運転される<ref group="注釈">本州方面からの[[夜行列車]]として、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線開業までは、首都圏と北海道を結ぶ臨時寝台特急「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」及び[[青森駅]] - 札幌駅間を結ぶ急行「[[はまなす (列車)|はまなす]]」が運行されており、上野発2015年(平成27年)8月21日・札幌発同年8月22日までは、上野駅 - 札幌駅間を結ぶ寝台特急「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」、同年3月12日までは[[大阪駅]] - 札幌駅間を結ぶ臨時寝台特急「[[トワイライトエクスプレス]]」も運行されていた。</ref>「特急街道」となっているが、新函館北斗駅 - 長万部駅間は[[非電化]]で、一部区間では[[単線]]のままである。 なお[[優等列車]]の大沼駅 - 森駅間については、定期特急列車はすべて距離の短い駒ヶ岳回りの本線(大沼駅 - [[大沼公園駅]] - [[駒ヶ岳駅]] - 森駅間)経由で運転される。かつての特急・急行列車は本線の急勾配を避けるため、上りが砂原支線(大沼駅 - [[渡島砂原駅]] - 森駅間)・下りが本線(こちらが勾配を下る形となる)と分けて運転されていた<ref group="注釈">2016年3月26日に廃止された急行「はまなす」の上り青森行きや2015年3月12日まで運行されていた「トワイライトエクスプレス」の上り大阪行きは砂原支線を経由していた。</ref>。しかし、時代とともに[[ディーゼルエンジン|エンジン]]をはじめとする車両性能が向上したことや、観光地である[[大沼国定公園|大沼公園]]があることから、特急列車のルートは次第に上下問わず本線経由に移行していった<ref group="注釈">現在でも一部の上り臨時特急列車の中に、砂原支線経由のものが設定されることがある。</ref>。なお、[[貨物列車]]は現在でも大沼駅 - 森駅間で上りが砂原支線・下りが本線と上下別の運転を行っている。七飯駅 - 大沼駅間は、2016年3月25日まで下り特急列車は藤城支線を経由していたが、同年3月26日以降は新函館北斗駅に停車するため、特急列車は上下とも本線経由で運転されている(下り貨物列車は現在も藤城支線を経由している)。 ==== 長万部駅 - 札幌駅間 ==== 1986年11月1日のダイヤ改正で特急「[[ニセコライナー|北海]]」・急行「[[ニセコライナー|ニセコ]]」が廃止されて以降、この区間では定期優等列車が設定されていない。ただし、ニセコ駅 - 札幌駅間などに臨時特急が運行されることがある。 ==== 札幌駅 - 旭川駅間 ==== 年間約450万人の都市間輸送量{{R|pref-hokkaido-trein-3-5tosikanyusou}}があるこの2都市間や、その中間都市を結ぶ特急[[カムイ (列車)|「カムイ」「ライラック」]]が30分から1時間間隔で運転されている。また、旭川以東に直通し[[石北本線]]を経て[[北見駅|北見]]・[[網走駅|網走]]方面へ向かう特急「[[オホーツク (列車)|オホーツク]]」、[[宗谷本線]]を経て[[名寄駅|名寄]]・[[稚内駅|稚内]]方面へ向かう特急「[[宗谷 (列車)|宗谷]]」も運行されている。なお、旭川駅で函館本線の特急と石北本線または宗谷本線の特急を改札を出ないで乗り継ぐ場合、特急料金を通算する特例がある。 このほか札幌駅 - [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]間には千歳線から優等列車が乗り入れる。室蘭本線を経由し上記函館方面から来る列車のほか、途中の東室蘭駅からの特急「[[すずらん (列車)|すずらん]]」、石勝線経由で[[帯広駅|帯広]]・[[釧路駅|釧路]]方面を結ぶ特急[[おおぞら (列車)|「とかち」「おおぞら」]]が走る。これら千歳線からの列車は併設された千歳線列車用の複線を走行する。 === 地域輸送 === {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} ==== 函館駅 - 長万部駅間 ==== [[函館駅]]を中心に[[普通列車]]が運転されている。運行区間は函館駅 - 長万部駅間の直通列車のほか、区間列車が函館駅 → [[七飯駅]]間、函館駅 - [[新函館北斗駅]]間([[はこだてライナー]])、函館駅 - 大沼公園駅間、函館駅 - 森駅間、森駅 - 長万部駅間などに設定され、函館駅に近いほど列車の本数が多くなっている。また、函館駅 - 五稜郭駅間には毎時1本程度[[道南いさりび鉄道線]]の普通列車も乗り入れる。函館 - 新函館北斗間は毎時2本程度が確保される一方、森駅 - 長万部駅間は普通列車に限れば1日6往復のみの運転である。 2016年3月25日までは快速列車として長万部発函館行きで「[[アイリス (列車)|アイリス]]」が上りのみ設定されていた(これは旧瀬棚線直通の急行「せたな」の後身でもある)。 「はこだてライナー」を除く全普通列車が[[ワンマン運転]]となっている。 砂原支線では、線路の路盤が脆弱であるため、時期は不詳だが<!--徐行運転開始時期をご存知の方は、別途出典追加の上で加筆願います。-->渡島沼尻駅 - 渡島砂原駅間で徐行運転が行われていた{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20180423_KO_sawaraSLOW}}。しかし、2018年4月11日にJR北海道が実施した軌道検測の結果を踏まえて、同月4月24日以降は徐行運転区間を銚子口駅 - 掛澗駅間へと拡大された{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20180423_KO_sawaraSLOW}}。2018年12月1日以降は、この徐行運転による遅れを加味したダイヤ設定となっている{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20181019_KO_Sawarasen%20time}}。 七飯駅 - 大沼駅間は本線([[新函館北斗駅]]・[[仁山駅]]経由)と新線(下り専用:藤城支線)に分かれるが普通列車は基本的に本線を走る。ただ一部の下り普通列車で藤城支線を通るものもあり、藤城支線を通る列車は新函館北斗駅と仁山駅は経由しない。2016年3月26日の北海道新幹線開業によるダイヤ改正で特急列車は本線経由に統一されたが、藤城支線を通る普通列車も引き続き運転される<ref name="mynavi160220">{{Cite news |title=北海道新幹線開業後も新函館北斗駅に停まらない普通列車がある |newspaper=マイナビニュース |date=2016-02-20 |author=杉山淳一 |url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-342/ |accessdate =2019-01-18 |publisher=マイナビ }}</ref>。なお、1996年(平成8年)12月4日に貨物列車の速度超過による脱線事故のため線路・路盤が変形し、仁山駅経由の本線が不通となった際、復旧まで藤城支線を上下単線として使用していたことがあった。 大沼駅 - 森駅間は本線と砂原支線に分かれている。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em 0em 1em 1em; font-size:80%;" |+ 七飯駅 - 大沼駅 - 森駅間の運行経路 |-style="border-bottom:solid 3px #0072bc;" |colspan="4" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="6"|{{TrainDirection|函館(上り)|(下り)札幌}} |- !rowspan="2" style="width:1em;"|路線 !colspan="3"|本線 |colspan="3"|新函館北斗・仁山経由 |colspan="3"|大沼公園・駒ヶ岳経由 |- !colspan="3"|支線 |colspan="3"|通称:藤城支線<br />途中駅なし、下り専用 |colspan="3"|通称:砂原支線<br />鹿部・渡島砂原経由 |-style="background-color:#eee;" |colspan="4" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |七飯 |… |colspan="2"|大沼 |… |森 |- !rowspan="4" style="width:1em;"|運行経路 !rowspan="2"|下り !colspan="2"|特急 |colspan="3"|本線経由 |colspan="3" rowspan="2"|本線経由 |- !colspan="2"|貨物 |colspan="3"|藤城支線経由 |- !rowspan="2"|上り !colspan="2"|特急 |colspan="3" rowspan="2"|本線経由 |colspan="3"|本線経由 |- !colspan="2"|貨物 |colspan="3"|砂原支線経由 |-style="border-top:solid 3px #0072bc;" |colspan="4" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="6"|{{TrainDirection|函館(上り)|(下り)札幌}} |} <gallery widths="200" heights="150"> ファイル:Goryokaku-zikoku.jpg|五稜郭駅の普通列車の時刻表(2009年8月時点)。 ファイル:Hakodatesta-annai.jpg|函館駅では駅放送や電光掲示板などで、七飯駅以北へ向かう普通列車の経由を「仁山・鹿部経由」「藤城・大沼公園経由」のように案内している。 ファイル:Ikisakihyo-hakodate-osyamambe.jpg|[[行先標]]や列車の車内自動放送では、大沼駅 - 森駅間の経由のみが案内される。 </gallery> ==== 長万部駅 - 小樽駅間 ==== この区間では小樽駅を中心に列車が設定されており、全定期列車が各駅停車で運転され、ローカル輸送に徹している。朝に蘭越駅発札幌駅行き、夕方に札幌駅発倶知安駅行きでそれぞれ1日1本運転される快速列車「[[ニセコライナー]]」(旧称「マリンライナー」)もこの区間内では各駅停車となる。普通列車は、札幌駅直通が朝に1往復存在する以外は[[小樽駅]]で系統が分離されている。小樽駅発着の列車は多くが[[倶知安駅]]折り返しで設定されているが、[[長万部駅]]発着の直通列車や、[[然別駅]]・[[余市駅]]折り返しの区間列車も設定されている。近年倶知安駅での系統分割が増加しており、長万部駅・[[蘭越駅]]発着の列車は倶知安駅折り返しとなるものが多い。 小樽駅に近づくにつれて運行本数が増え、余市駅 - 小樽駅間では1時間に1 - 2本程度(時間帯により2時間近い間隔が開くこともある)の運転となっている一方、長万部駅 - 蘭越駅間では1日に下り4本・上り5本のみの運行になっている。 2010年12月4日現在、快速「ニセコライナー」1往復と朝の倶知安発苫小牧行き1本、夜の小樽発倶知安行き1本を除き、ワンマン運転を実施している。例外があるのは、該当列車がワンマン運転に対応していない[[JR北海道キハ201系気動車|キハ201系]]による運用のためで、小樽駅 - 倶知安駅・蘭越駅間でも[[車掌]]が乗務している。 ==== 小樽駅 - 札幌駅 - 岩見沢駅間 ==== [[ファイル:Hakodate Line Near Asari.jpg|thumb|200px|none|小樽市内では日本海の海岸線を走る区間がある([[朝里駅]]付近)]]<!-- 経路図を開くと衝突するので画像を右に置かない --> {{Main2|「ホームライナー」|ホームライナー (JR北海道)}} 札幌近郊区間として千歳線直通の快速「[[エアポート (列車)|エアポート]]」および普通列車が札幌駅を基軸に運転されている。札幌を起点とした都市圏輸送量(平成15年){{R|pref-hokkaido-trein-3-6sapporoken}}は札幌駅 - 小樽駅間で年間2,365万人、札幌駅 - 岩見沢駅間で年間1,440万人に達している。ただし、札幌駅が始発・終着となる列車はあまり多くなく、札幌駅を越えて両方面を直通する運行形態が中心となっている。函館本線内で[[手稲駅|手稲]]・小樽方面と[[江別駅|江別]]・岩見沢方面を結ぶ列車のほか、手稲・小樽方面と千歳線の[[千歳駅 (北海道)|千歳]]・新千歳空港および[[室蘭本線]]の[[苫小牧駅|苫小牧]]方面を結ぶ列車も多い。また手稲駅 - 札幌駅間には、特急車両の[[札幌運転所]]への回送を兼ねた「[[ホームライナー (JR北海道)|ホームライナー]]」が朝に下り3本運転されている。 小樽駅・手稲駅・札幌駅発着で岩見沢駅からさらに滝川方面と直通する列車も朝夕を中心に存在し、旭川駅発着列車も1往復設定されている。 [[桑園駅]] - 札幌駅間は[[札沼線]](学園都市線)用の単線が、札幌駅 - [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]間は千歳線用の複線がそれぞれ別線として存在し、いずれの列車もその別線を経由して札幌駅まで乗り入れている。 小樽駅 - 岩見沢駅間は日中の一部時間帯を除き、1時間間隔の[[ダイヤグラム#パターンダイヤ|パターンダイヤ]]が組まれている。1時間に札幌駅 - 手稲駅間で7 - 8本、札幌駅 - 江別駅間で4 - 5本の運行となっている。手稲駅 - ほしみ駅・小樽駅間および江別駅 - 岩見沢駅間では運行本数は減る。 2007年9月30日までは、日中の大部分の区間快速が手稲駅 - 江別駅間を通して快速運転を行っていたが、翌10月1日のダイヤ改正でこの運行形態の列車は廃止され、手稲駅 - 札幌駅および札幌駅 - 江別駅間のどちらかを区間快速とする運転となった(「[[いしかりライナー]]」も参照)。 2020年3月14日ダイヤ改正より、区間快速通過駅の利用者増加に伴い、区間快速「いしかりライナー」を普通列車に置き換え・減便する形で運転を終了した{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2019/20191213_KO_kaisei}}。 手稲駅では快速と普通列車との相互接続が行われている。 2020年3月14日改正ダイヤの日中の各区間における1時間あたりの平均的運転本数は以下の通り。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" |+日中の運行パターン |- !colspan="2" style="line-height:1.2em;|種別\駅名 !style="width:1em;"|小樽 !… !colspan="2" style="width:1em;"|ほしみ !… !colspan="2" style="width:1em;"|手稲 !… !colspan="2" style="width:1em;"|札幌 !… !colspan="2" style="width:1em;"|白石 !… !colspan="2" style="width:1em;"|江別 !… !colspan="2" style="width:1em;"|岩見沢 !… !colspan="2" style="width:1em;"|旭川方面 |- style="text-align:center;" !rowspan="9" style="width:1em;"|運行本数 !style="line-height:1.1em; text-align:left;"|特急「カムイ」「ライラック」<br />特急「宗谷」<br />特急「オホーツク」 |colspan="8"|&nbsp; ||colspan="13" style="background-color:#Fcc;"|1-2本 |- style="text-align:center;" !rowspan="2" style="text-align:left;"|快速「エアポート」 |colspan="12" style="background-color:#fec;"|2本 ||rowspan="2" colspan="9"|→[[新千歳空港駅]] |- style="text-align:center;" |colspan="8"|&nbsp; ||colspan="4" style="background-color:#fec;"|3本 |- style="text-align:center;" !rowspan="6" style="text-align:left;"|普通 |rowspan="2" colspan="8"|札幌以西は下記と一体運用||colspan="7" style="background-color:#ddd;"|2-3本 ||colspan="9"|&nbsp; |- style="text-align:center;" |colspan="10" style="background-color:#ddd;"|2本 ||colspan="7"|&nbsp; |- style="text-align:center;" |colspan="9" style="background:#ddd"|2-3本 ||rowspan="3" colspan="15"|一部[[千歳線]]直通 |- style="text-align:center;" |colspan="2"|&nbsp; ||colspan="7" style="background:#ddd"|2本 |- style="text-align:center;" |colspan="5"|&nbsp; ||colspan="4" style="background:#ddd"|1本 |- style="text-align:center;" |colspan="17"|&nbsp; ||colspan="4" style="background:#ddd"|1本 |- style="text-align:center;" |} ==== 岩見沢駅 - 滝川駅 - 旭川駅間 ==== かつては普通列車の多くが小樽・手稲・札幌方面と滝川・旭川方面を直通運転していたが、現在では朝夕の一部列車を除いて岩見沢駅で系統分割されており、札幌方面と滝川・旭川方面を普通列車で移動する場合、ほとんどが岩見沢駅で乗り換えとなる。札幌駅 - 旭川駅間では快速運転を行っておらず、すべての普通列車が各駅に停車する。 苗穂・旭川・苫小牧の各運転所の配置気動車の効率的な運用のために、この区間では[[気動車]]の乗り入れも設定されており、該当列車ではワンマン運転を実施している。ただしこの区間の所要時間は電車で40分強、気動車で1時間弱程度と大きな差がある。 区間列車は岩見沢駅 - 深川駅間および岩見沢駅 - 滝川駅間と滝川駅 - 旭川駅間に設定されているほか、深川駅 - 旭川駅間に[[留萌本線]]直通の普通列車が1往復のみ設定されている。なお、この区間で他に接続する室蘭本線・[[根室本線]]への直通列車は存在しない。 岩見沢駅 - 滝川駅間では1時間に1本程度の普通列車が運転されているが、2時間ほど間隔が開く場合もある。滝川駅 - 深川駅間ではさらに本数が少なく、頻繁に往来する特急列車とは対照的に3時間以上普通列車が運転されない時間帯もある。 === 貨物輸送 === 貨物列車は、五稜郭駅 - 長万部駅間と[[札幌貨物ターミナル駅]] - 旭川駅間で運行されている。函館駅 - 札幌駅間を直通する長距離旅客列車と同様に、長万部駅 - 札幌貨物ターミナル駅間は急勾配の続く「山線」を避け、距離は長いが線形の良い室蘭本線・千歳線を経由する。 五稜郭駅 - 札幌貨物ターミナル駅間には、[[コンテナ車]]のみで編成された定期の[[高速貨物列車]]が1日上下21本ずつ設定され、室蘭本線・千歳線とともに、[[本州]]と北海道を結ぶ幹線として機能している。なお、函館駅 - 長万部駅間の[[貨物駅]]は五稜郭駅のみで、貨物列車は[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]を除き、途中駅には停車しない。 また五稜郭駅は[[青函トンネル]]用電気機関車[[JR貨物EH800形電気機関車|EH800形]]が乗り入れるため、道内の貨物駅で唯一着発線が電化されている。新函館北斗駅 - 小樽駅・東室蘭駅間は非電化のため、すべての貨物列車は五稜郭駅(函館貨物駅)にて機関車交換を行う。五稜郭以北に営業運転の電気機関車は乗り入れず、[[海峡線]]・[[道南いさりび鉄道線]]を除いて道内を運行するすべての貨物列車は[[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200形]]ディーゼル機関車が牽引する。五稜郭駅以外の電化区間上(東室蘭駅 - 沼ノ端駅 - 札幌駅間と小樽駅 - 北旭川駅間)にある道内各貨物駅は着発線を含めすべて非電化である。 札幌貨物ターミナル駅 - 旭川駅間で運行される列車は、基本的に宗谷本線に乗り入れ[[北旭川駅]]を起点・終点としている。この区間では、高速貨物列車に加え、[[専用貨物列車]]も運行されている。定期の高速貨物列車は、札幌貨物ターミナル発北旭川行が1日4本、北旭川発札幌貨物ターミナル行が1日2本運行されているほか、北旭川発で岩見沢駅から室蘭本線に乗り入れ、苫小牧・[[東室蘭駅|東室蘭]]方面へ向かう列車が1日2本運行されている。季節運行の[[臨時列車|臨時]]高速貨物列車は、根室本線[[富良野駅]]や石北本線[[北見駅]]と札幌貨物ターミナル駅を結んでいる。札幌貨物ターミナル駅 - 旭川駅間の貨物駅は、札幌貨物ターミナル駅と滝川駅がある。 2014年5月までは室蘭本線[[本輪西駅]] - 北旭川駅間で[[石油]]製品を輸送する[[タンク車]]を連結する専用貨物列車も運行され、苫小牧駅 - 岩見沢駅間を室蘭本線、岩見沢駅 - 旭川駅間を函館本線を経由していた。当時、本輪西発北旭川行の列車は1日2本運行されており、その逆の、北旭川発本輪西行のタンク車返送列車は1日1本運行されていた。これらの列車を補完する臨時の専用貨物列車も、本輪西駅 - 北旭川駅間に1日1往復設定されていた。 なお、JR貨物は札幌貨物ターミナル駅 - 苗穂駅間においても第二種鉄道事業者となっているが、この区間を定期的に運行する貨物列車は設定されていない。 === 運行される列車 === {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} 定期列車のみ * 函館駅 - 新函館北斗駅間:普通・快速「[[はこだてライナー]]」 * 函館駅 - 長万部駅間・白石駅 - 札幌駅間:特急[[北斗 (列車)|「北斗」]] * 蘭越駅・倶知安駅 - 札幌駅間:快速「[[ニセコライナー]]」 * 手稲駅 → 札幌駅間:[[ホームライナー (JR北海道)|ホームライナー]](下りのみ) * 小樽駅 - 札幌駅 - 白石駅間:快速「[[エアポート (列車)|エアポート]]」(千歳線方面) * 札幌駅 - 白石駅間:特急「[[すずらん (列車)|すずらん]]」「[[おおぞら (列車)|おおぞら]]」「[[おおぞら (列車)|とかち]]」、特別快速「[[エアポート (列車)|エアポート]]」(千歳線方面) * 札幌駅 - 旭川駅間:特急「[[カムイ (列車)|カムイ]]」「[[カムイ (列車)|ライラック]]」、特急「[[宗谷 (列車)|宗谷]]」(宗谷本線方面)、特急「[[オホーツク (列車)|オホーツク]]」(石北本線方面) == 使用車両 == 道南いさりび鉄道線直通列車については「[[道南いさりび鉄道線#使用車両]]」を、千歳線直通列車については「[[千歳線#運行形態]]」を参照。室蘭本線直通列車については「[[室蘭本線#使用車両]]」も参照。 === 現在の使用車両 === 普通列車は[[気動車]]と[[電車]]で運転されている。特急・快速列車については、各列車の記事も参照。 ==== 電車 ==== ; [[JR北海道789系電車|789系]] : 特急「[[カムイ (列車)|カムイ]]」「ライラック」として札幌駅 - 旭川駅間で運用。 ; [[JR北海道721系電車|721系]] : 小樽駅 - 旭川駅間の普通列車で使用されている{{R|group="新聞"|railf.jp-news-2014-08-16-160000}}。3両編成は731系、733系(0番台)、735系と連結して運転されることもある。 : 6両編成は小樽駅 - 岩見沢駅間の普通列車で使用されている。また特別快速・快速「エアポート」にも使用され、733系(3000番台)との共通[[運用 (鉄道)|運用]]である。 ; [[JR北海道731系電車|731系]] : 小樽駅 - 滝川駅間で運用されている。721系・733系(0番台)・735系との併結運転があるほか、キハ201系との[[協調運転]]も行われている。 ; [[JR北海道733系電車|733系]] : 0番台(3両編成)は小樽駅 - 滝川駅間で運用されている。721系・731系・735系と連結して運転されることもある。 : 3000番台(6両編成)は小樽駅 - 岩見沢駅間の普通列車で使用されている。また特別快速・快速「エアポート」にも使用され、721系(6両)との共通運用である。 : 1000番台(3両編成)は[[函館駅]] - [[新函館北斗駅]]間の快速・普通「[[はこだてライナー]]」として使用されている{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20111213-2|jrhokkaido-press-20141120-3|jrhokkaido-press-20150212-5}}{{R|group="新聞"|ehako.com-news2014a-7949|hokkaido-np-chiiki2-562362}}。 ; [[JR北海道735系電車|735系]] : 小樽駅 - 滝川駅間で運用されている。721系・731系・733系(0番台)と連結して運転されることもある。 ==== 気動車 ==== {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} ; [[JR北海道キハ283系気動車|キハ283系]] : 特急「[[オホーツク (列車)|オホーツク]]」として札幌駅 - 旭川駅間で運用されている{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/221216_KO_kaisei}}。かつては特急「[[北斗 (列車)|スーパー北斗]]」として運用されていた。 ; [[JR北海道キハ261系気動車|キハ261系]] : 0番台は特急「[[宗谷 (列車)|宗谷]]」として札幌駅 - 旭川駅間で、1000番台は特急「北斗」「おおぞら」「とかち」および「ホームライナー」として手稲駅 - 白石駅間で運用されている。 ; [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形]] : 函館駅 - 長万部駅間を走るすべての気動車普通列車が[[函館運輸所]]所属の本形式で運転されている{{R|普通列車編成両数表 Vol.36 4}}。また、札幌駅 - 旭川駅間の普通列車の一部にも使用されている。長万部駅 - 札幌駅間での[[運用 (鉄道)|運用]]はH100形への置き換えで消滅したほか、札幌駅 - 岩見沢駅間も[[苗穂運転所]]への入出庫を兼ねた下り1本(札幌発旭川行き)のみの運用となっている。 ; [[国鉄キハ54形気動車|キハ54形]] : 旭川運転所所属車両が[[留萌本線]]乗り入れ列車(1日1本のみ)として深川駅 - 旭川駅間で運用されるほか、同列車の[[間合い運用]]で深川駅 - 旭川駅間の区間列車に使用されている{{R|普通列車編成両数表 Vol.36 8-10}}。 ; [[JR北海道キハ150形気動車|キハ150形]] : [[苫小牧運転所]]所属車両が室蘭本線の間合い運用としてキハ40形と共通運用で岩見沢駅 - 滝川駅間で運転され、[[旭川運転所]]所属車両がキハ54形と共通運用で留萌本線への送り込み運用として深川駅 - 旭川駅間で運転される。 ; [[JR北海道キハ201系気動車|キハ201系]] : 苗穂運転所所属。快速「[[ニセコライナー]]」および普通列車として蘭越駅 - 江別駅間で使用されている{{R|普通列車編成両数表 Vol.36 5|普通列車編成両数表 Vol.36 8-10}}。前述の通り、731系との協調運転が行われている。 ; [[JR北海道H100形気動車|H100形]] : 長万部駅 - 札幌駅間の普通列車で使用されている{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2019/20191213_KO_kaisei}}。ただし小樽駅 - 札幌駅間は苗穂運転所からの出庫を兼ねた上り1本のみである。 === 過去の使用車両 === {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} ==== 電車 ==== * [[国鉄485系電車|485系1500番台]]:特急「[[カムイ (列車)#エル特急「いしかり」|いしかり]]」 * [[国鉄781系電車|781系]]:特急「いしかり」「[[カムイ (列車)#エル特急「ライラック」|ライラック]]」「[[カムイ (列車)#エル特急「ライラック」「ホワイトアロー」の登場|ホワイトアロー]]」 * [[国鉄711系電車|711系]]:急行「[[カムイ (列車)#準急「かむい」・特急「おおぞら」の登場|かむい]]」「[[カムイ (列車)#急行「さちかぜ」|さちかぜ]]」・普通列車 *[[JR北海道785系電車|785系]]:特急「[[カムイ (列車)#エル特急「ライラック」|ライラック]]」「[[カムイ (列車)#国鉄分割民営化から「スーパーホワイトアロー」の登場|スーパーホワイトアロー]]」「[[カムイ (列車)|スーパーカムイ]]」・臨時特急「[[カムイ (列車)#モーニングエクスプレス|モーニングエクスプレス]]」・ホームライナー ==== 気動車 ==== * [[JR北海道キハ150形気動車|キハ150形]]:長万部駅 - 札幌駅間の普通列車 * [[JR北海道キハ281系気動車|キハ281系]]:特急「スーパー北斗・北斗」に使用。 * [[国鉄キハ20系気動車|キハ21形・キハ22形]]:急行[[ニセコライナー#函館本線小樽駅経由優等列車の沿革|「らいでん」・「いぶり」・「ニセコ」]]・「[[アイリス (列車)|せたな]]」・快速[[アイリス (列車)|「アイリス」「せたな」]]・普通列車 * [[国鉄キハ45系気動車#キハ24|キハ24形]]:急行「せたな」・普通列車 * [[国鉄キハ56系気動車#キハ27形|キハ27形・キハ56形]]:急行「らいでん」・「ライラック」(後の札幌 - 旭川間特急とは別)・快速「[[はまなす (列車)#沿革|ミッドナイト]]」・普通列車 * [[国鉄キハ80系気動車|キハ82系]]:特急「[[ニセコライナー#函館本線小樽駅経由優等列車の沿革|北海]]」 * [[国鉄キハ183系気動車|キハ183系]]:特急「おおとり」「北海」「オホーツク」「北斗」{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/221216_KO_kaisei}} ==== 客車 ==== * [[国鉄スハ43系客車|スハ43系]]:急行「ニセコ」・「ていね」に連結。 * [[国鉄50系客車|50系51形]]:普通列車 * [[国鉄14系客車|14系]]:急行「[[はまなす (列車)|はまなす]]」、急行「ニセコ」に連結。 * [[国鉄24系客車#24系25形|24系25形]]:急行「はまなす」、寝台特急「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」・「[[トワイライトエクスプレス]]」に連結。 * [[JR東日本E26系客車|E26系]]:寝台特急「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」に連結。 == データ == === 路線データ === * [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)…[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]] ** 函館駅 - 大沼公園駅 - 駒ヶ岳駅 - 小樽駅 - 旭川駅間:423.1 [[キロメートル|km]] ** 大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間:35.3 km、通称・砂原支線。 ** 七飯駅 - 大沼駅間:下り専用、独自の営業キロ設定なし、通称・藤城支線、鉄道要覧に記載なし。 * [[日本貨物鉄道]](JR貨物)…[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]] ** 五稜郭駅(函館貨物駅) - 長万部駅間:108.9 km ** 苗穂駅 - 旭川駅間:134.9 km ** 大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間:35.3 km * 北海道旅客鉄道の支社管轄 ** 函館駅 - 熱郛駅間(砂原支線含む):[[北海道旅客鉄道函館支社|函館支社]] ** 目名駅 - 滝川駅間:[[北海道旅客鉄道鉄道事業本部|本社鉄道事業本部]] ** 江部乙駅 - 旭川駅間:[[北海道旅客鉄道旭川支社|旭川支社]] * [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]) * 駅数:92駅(起終点駅含む) ** [[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]:4駅(苗穂駅・茶志内駅・滝川駅・近文駅)<ref group="注釈">ただし滝川駅を除く3駅は定期貨物列車の発着がなく、実質的には旅客駅となっている。</ref>。 ** [[日本の鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]:86駅 ** [[貨物駅]]:2駅(札幌貨物ターミナル駅・函館貨物駅) *** 起終点駅を含めたすべての駅が函館本線所属駅となっている<ref group="注釈">全駅が同路線所属なのは、孤立路線を除くと当路線と[[越美北線]]、[[内子線]](地方交通線)のみであり、幹線としては唯一である。また、廃駅及び廃止区間等を含めた全駅が同路線所属となっているのは当路線のみである(その他の路線では、廃止区間または過去の重複区間に別路線所属駅があった他、[[新幹線]]開業に伴い並行在来線から所属路線が変更された駅が含まれている)。</ref>。 * [[信号場]]数:5か所 * [[鉄道の電化|電化]] ** [[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]([[架空電車線方式]]) *** 函館駅 - 新函館北斗駅間 (17.9 km){{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20130321-3-2}} *** 小樽駅 - 旭川駅間 (170.6 km) ** 上記以外の区間は[[非電化]]<ref group="注釈">このため、函館区間と道央区間の[[架線]]は繋がっていないことになる。函館側で使用される電車の[[鉄道車両の検査|検査]]・転属時には[[ディーゼル機関車]]牽引による配給輸送が行われる。</ref>。 * [[単線]]・[[複線]] ** 単線区間: *** 七飯駅 - 森駅間(8字区間) *** 鷲ノ巣信号場 - 山崎駅間(隣駅) *** 黒岩駅 - 北豊津信号場間(隣駅) *** 長万部駅 - 小樽駅間 ** 複線区間: *** 函館駅 - 七飯駅間 *** 森駅 - 鷲ノ巣信号場間 *** 山崎駅 - 黒岩駅間(隣駅) *** 北豊津信号場 - 長万部駅間 *** 小樽駅 - 旭川駅間 **** 桑園駅 - 札幌駅間は札沼線の単線併設のため、[[複々線#三線|三線]]である。 **** 札幌駅 - 白石駅間は千歳線の複線併設のため、[[複々線]]である。方向別運転。 **** 札幌貨物ターミナル駅 - 厚別駅間は貨物線の単線併設のため、三線である。 * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]] ** [[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式]] 下記以外の区間 ** [[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞式(電子符号照査式)]] 長万部駅 - 小樽駅間 * 最高速度(2014年8月30日現在){{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20140704-1}}: ** 120 [[キロメートル毎時|km/h]](函館駅 - 長万部駅間{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20130828-1|jrhokkaido-press-20130904-1|jrhokkaido-press-20130920-1}}、小樽駅 - 旭川駅間{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20131220-1}}) ** 95 km/h(大沼駅 - 渡島砂原駅 - 森駅間、長万部駅 - 小樽駅間) * 保安装置: ** [[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DN]] …函館駅 - 長万部駅間、小樽駅 - 旭川駅間 ** [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SN]] …全駅(ATS-DN併用区間含む) * 最急勾配:22.3 [[パーミル|‰]](新函館北斗駅 - 大沼駅間など) === 輸送密度 === 区間ごとの[[輸送密度]]は以下の通り。 {| class="wikitable" border="1" style="font-size:80%; text-align:center;" |+ !style="width:12em" rowspan="2"|年度 !colspan="5"|輸送密度(人/日) !style="width:36em" rowspan="2"|備考 !rowspan="2"|出典 |- !函館駅 - <br />長万部駅間 !長万部駅 - <br />小樽駅間 !小樽駅 - <br />札幌駅間 !札幌駅 - <br />岩見沢駅間 !岩見沢駅 - <br />旭川駅間 |- !1993年(平成{{0}}5年)度 |&nbsp; |&nbsp; |43,963 |39,258 |12,036 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/jyoukyou/transition}} |- !2005年(平成17年)度 |&nbsp; |&nbsp; |42,539 |42,523 |10,696 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/jyoukyou/transition}} |- !2006年(平成18年)度 |&nbsp; |&nbsp; |42,703 |42,976 |10,823 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/jyoukyou/transition}} |- !2007年(平成19年)度 |&nbsp; |&nbsp; |42,687 |43,193 |10,949 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/jyoukyou/transition}} |- !2008年(平成20年)度 |&nbsp; |&nbsp; |42,898 |42,966 |10,577 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/jyoukyou/transition}} |- !2009年(平成21年)度 |&nbsp; |&nbsp; |42,226 |42,507 |10,004 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/jyoukyou/transition}} |- !2010年(平成22年)度 |&nbsp; |&nbsp; |42,485 |42,625 |&nbsp; |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/jyoukyou/transition}} |- !2011年(平成23年)度 |&nbsp; |&nbsp; |42,661 |43,201 |&nbsp; |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/jyoukyou/transition}} |- !2012年(平成24年)度 |&nbsp; |&nbsp; |43,420 |43,764 |&nbsp; |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2014/140509-1}} |- !2013年(平成25年)度 |&nbsp; |&nbsp; |44,703 |44,381 |&nbsp; |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2014/140509-1}} |- !2014年(平成26年)度 |3,765 |675 |44,099 |43,025 |9,320 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2015/150508-2|jrhokkaido/press/2016/160210-1}} |- !2015年(平成27年)度 |3,799 |690 |44,981 |43,994 |9,538 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/160509-3|jrhokkaido/press/2016/161104-1}} |- !2016年(平成28年)度 |4,265 |652 |46,417 |43,408 |8,922 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2017/170509-2}} |- !2017年(平成29年)度 |3,712 |652 |46,793 |43,575 |8,660 |style="text-align:left;"|全体:同年度分より集計方法見直し<ref group="注釈">北海道レールパス、大人の休日俱楽部パス(東日本・北海道)の利用について、計上方法が見直された。</ref><br />小樽駅 - 札幌駅間・札幌駅 - 岩見沢駅間:新千歳空港へのアクセス好調、道東方面直通の特急運転再開により、前年度比増加 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20181109_KO_LineAccount2017}} |- !2018年(平成30年)度 |3,650 |625 |47,039 |42,926 |8,237 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2019/201900904_KO_ExpenditureOfSection}} |- !2019年(令和元年)度 |3,397 |618 |45,565 |41,284 |7,682 |style="text-align:left;"|[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の拡大の影響等により、前年度比減少 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2020/20200608_KO_senkubetu}} |- !2020年(令和{{0}}2年)度 |1,443 |349 |28,615 |26,472 |3,739 |style="text-align:left;"|COVID-19の影響により、前年度比大幅減少 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210604_KO_Senkubetusyushi}} |- !2021年(令和{{0}}3年)度 |1,636 |340 |29,584 |26,985 |4,180 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/220603_KO_SenkubetsuSyusi}} |- !2022年(令和{{0}}4年)度 |2,715 |479 |36,353 |32,776 |6,164 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2023/20230609_KO_SenkubetsuSyusi}} |} === 収支・営業係数 === 区間ごとの[[収支]](営業収益、営業費用、営業損益)と[[営業係数]]は以下の通り。いずれも管理費を含めた金額である{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/160210-1}}。▲はマイナスを意味する。なお、小樽駅 - 札幌駅 - 岩見沢駅間は、札幌圏各線<ref group="注釈">当線のほか、[[室蘭本線]]([[苫小牧駅]] - [[沼ノ端駅]]間)、[[千歳線]](沼ノ端駅 - [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]間)、[[札沼線]]([[桑園駅]] - [[北海道医療大学駅]]間)</ref>と合わせたデータのみが公表されており、単独のデータは不明{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/160210-1}}。 {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center; font-size:80%;" |+函館駅 - 長万部駅間 ! rowspan="2" style="width:12em" |年度 ! colspan="3" |収支(百万円) ! rowspan="2" |営業<br/>係数<br/>(円) ! rowspan="2" style="width:36em" |備考 ! rowspan="2" |出典 |- !営業<br/>収益 !営業<br/>費用 !営業<br/>損益 |- !2014年(平成26年)度 |4,566 |8,848 |▲4,281 |194 |style="text-align:left;"|線区別で最大の営業損失幅 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/160210-1}} |- !2015年(平成27年)度 |4,697 |9,666 |▲4,969 |206 |style="text-align:left;"|線区別で最大の営業損失幅<ref group="注釈">出火事故を受け使用を停止していたキハ183系の運用再開による収入増加の一方で、北海道新幹線新函館北斗開業を控えて修繕費が増加。</ref> |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161104-1}} |- !2016年(平成28年)度 |4,918 |10,504 |▲5,586 |214 |style="text-align:left;"|線区別で最大の営業損失幅 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2017/171107-2}} |- !2017年(平成29年)度 |4,717 |10,934 |▲6,217 |232 |style="text-align:left;"|同年度分より集計方法見直し |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20181109_KO_LineAccount2017}} |- !2018年(平成30年)度 |4,488 |11,090 |▲6,602 |247 |style="text-align:left;"|[[北海道胆振東部地震]]の影響による運輸収入減少、軌道修繕やレール交換増加により、前年度比拡大 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2019/201900904_KO_ExpenditureOfSection}} |- !2019年(令和元年)度 |4,310 |11,076 |▲6,766 |257 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2020/20200608_KO_senkubetu}} |- !2020年(令和{{0}}2年)度 |2,033 |9,967 |▲7,934 |490 |style="text-align:left;"|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響により、前年度比拡大 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210604_KO_Senkubetusyushi}} |- !2021年(令和{{0}}3年)度 |2,232 |9,406 |▲7,174 |421 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/220603_KO_SenkubetsuSyusi}} |- !2022年(令和{{0}}4年)度 |3,381 |9,854 |▲6,473 |291 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2023/20230609_KO_SenkubetsuSyusi}} |} {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center; font-size:80%;" |+長万部駅 - 小樽駅間 ! rowspan="2" style="width:12em" |年度 ! colspan="3" |収支(百万円) ! rowspan="2" |営業<br/>係数<br/>(円) ! rowspan="2" style="width:36em" |備考 ! rowspan="2" |出典 |- !営業<br/>収益 !営業<br/>費用 !営業<br/>損益 |- !2014年(平成26年)度 |439 |2,506 |▲2,067 |570 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/160210-1}} |- !2015年(平成27年)度 |459 |2,627 |▲2,168 |573 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161104-1}} |- !2016年(平成28年)度 |430 |2,755 |▲2,324 |640 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2017/171107-2}} |- !2017年(平成29年)度 |444 |2,864 |▲2,420 |646 |style="text-align:left;"|同年度分より集計方法見直し |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20181109_KO_LineAccount2017}} |- !2018年(平成30年)度 |430 |2,791 |▲2,360 |649 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2019/201900904_KO_ExpenditureOfSection}} |- !2019年(令和元年)度 |455 |2,808 |▲2,353 |617 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2020/20200608_KO_senkubetu}} |- !2020年(令和{{0}}2年)度 |228 |3,034 |▲2,806 |1,329 |style="text-align:left;"|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響により、前年度比拡大 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210604_KO_Senkubetusyushi}} |- !2021年(令和{{0}}3年)度 |340 |3,024 |▲2,789 |1,287 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/220603_KO_SenkubetsuSyusi}} |- !2022年(令和{{0}}4年)度 |373 |3,046 |▲2,674 |817 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2023/20230609_KO_SenkubetsuSyusi}} |} {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center; font-size:80%;" |+札幌圏各線(小樽駅 - 札幌駅 - 岩見沢駅間含む) ! rowspan="2" style="width:12em" |年度 ! colspan="3" |収支(百万円) ! rowspan="2" |営業<br/>係数<br/>(円) ! rowspan="2" style="width:36em" |備考 ! rowspan="2" |出典 |- !営業<br/>収益 !営業<br/>費用 !営業<br/>損益 |- !2014年(平成26年)度 |39,721 |42,383 |▲2,662 |107 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/160210-1}} |- !2015年(平成27年)度 |40,619 |42,794 |▲2,175 |105 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161104-1}} |- !2016年(平成28年)度 |40,668 |46,136 |▲5,467 |113 |style="text-align:left;"|修繕費・減価償却費増加<ref group="注釈">千歳線での高架橋耐震対策や、電車線取り替え、733系電車の増備による。</ref>により営業費用増加 |style="text-align:left;"|{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2017/171107-2}} |- !2017年(平成29年)度 |42,074 |44,566 |▲2,492 |106 |style="text-align:left;"|新千歳空港へのアクセス好調、道東方面直通の特急運転再開、減価償却費増加により、前年度比改善。<br />同年度分より集計方法見直し |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20181109_KO_LineAccount2017}} |- !2018年(平成30年)度 |41,842 |44,597 |▲2,755 |107 |style="text-align:left;"|修繕費増加により、前年度比拡大 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2019/201900904_KO_ExpenditureOfSection}} |- !2019年(令和元年)度 |42,134 |44,394 |▲2,260 |105 |style="text-align:left;"|外注による除雪、減価償却費減少により、前年度比改善 |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2020/20200608_KO_senkubetu}} |- !2020年(令和{{0}}2年)度 |24,516 |42,394 |▲17,878 |173 |style="text-align:left;"|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響により、前年度比拡大<ref group="注釈">運輸収入減少に伴う営業収益の減少、線路および踏切の修繕の減少や切符の他社発売による手数料支払いの減少に伴う営業費用の減少が発生した。</ref> |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210604_KO_Senkubetusyushi}} |- !2021年(令和{{0}}3年)度 |27,266 |42,125 |▲14,859 |154 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/220603_KO_SenkubetsuSyusi}} |- !2022年(令和{{0}}4年)度 |36,515 |43,683 |▲7,168 |120 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2023/20230609_KO_SenkubetsuSyusi}} |} {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center; font-size:80%;" |+岩見沢駅 - 旭川駅間 ! rowspan="2" style="width:12em" |年度 ! colspan="3" |収支(百万円) ! rowspan="2" |営業<br/>係数<br/>(円) ! rowspan="2" style="width:36em" |備考 ! rowspan="2" |出典 |- !営業<br/>収益 !営業<br/>費用 !営業<br/>損益 |- !2014年(平成26年)度 |5,889 |8,407 |▲2,517 |143 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/160210-1}} |- !2015年(平成27年)度 |6,051 |8,916 |▲2,865 |147 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161104-1}} |- !2016年(平成28年)度 |5,630 |9,590 |▲3,960 |170 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2017/171107-2}} |- !2017年(平成29年)度 |5,716 |9,262 |▲3,547 |162 |style="text-align:left;"|同年度分より集計方法見直し |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2018/20181109_KO_LineAccount2017}} |- !2018年(平成30年)度 |5,379 |8,993 |▲3,615 |167 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2019/201900904_KO_ExpenditureOfSection}} |- !2019年(令和元年)度 |5,167 |8,809 |▲3,642 |170 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2020/20200608_KO_senkubetu}} |- !2020年(令和{{0}}2年)度 |2,396 |8,173 |▲5,777 |341 |style="text-align:left;"|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響により、前年度比拡大<ref group="注釈">運輸収入減少に伴う営業収益の減少、橋梁およびトンネルの修繕の減少や切符の他社発売による手数料支払いの減少に伴う営業費用の減少が発生した。</ref> |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2021/210604_KO_Senkubetusyushi}} |- !2021年(令和{{0}}3年)度 |2,753 |7,895 |▲5,141 |287 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2022/220603_KO_SenkubetsuSyusi}} |- !2022年(令和{{0}}4年)度 |4,233 |8,449 |▲4,216 |200 |&nbsp; |{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2023/20230609_KO_SenkubetsuSyusi}} |} == 駅一覧 == {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} 全駅[[北海道]]内に所在。なお、全区間において駅ナンバリングが設定されているが、駅ナンバリング順ではなく、函館駅から下り方向に記述。駅ナンバリングの詳細については「[[北海道旅客鉄道の駅ナンバリング・区間カラー]]」を参照。 === 函館駅 - 長万部駅間 === ==== 本線 ==== * 全駅[[渡島総合振興局|渡島管内]]に所在。 * 七飯駅 - 大沼駅間に下り専用の支線(通称:藤城支線)があるが、営業キロの設定、および途中駅は無い。藤城支線は単線非電化。 * 駅番号 … ()括弧内:信号場降格前の駅番号。 * 停車駅 ** 普通列車は「[[はこだてライナー]]」(函館駅 - 新函館北斗駅間で運行)を含め、基本的に全旅客駅に停車。ただし、愛称のない下り列車の一部は、▼印の駅を経由しない。 ** 快速=快速「[[はこだてライナー]]」 …●印:停車、|印:通過。 ** 特急…[[#運行される列車]]の各列車記事参照。 * 線路 … <nowiki>||</nowiki>:複線区間、◇・|:単線区間(◇:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|{{縦書き|電化方式|height=5em}} !rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|駅番号 !rowspan="2" style="width:9em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan=2 style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072bc; background:#fce;"|{{縦書き|快速|height=3em}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072bc;" |接続路線・備考 !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|{{縦書き|線路|height=3em}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072bc;"|所在地 |- !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|駅間 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|累計 |- |rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; background:#fbc;"|{{縦書き|'''交流電化'''|height=5em}} !H75 |[[函館駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#fce;"|● |[[函館市企業局交通部|函館市電]]:本線・大森線 …[[函館駅|函館駅前停留場]] (DY17) |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |rowspan="4"|[[函館市]] |- ! |(貨)[[五稜郭駅#JR貨物 函館貨物駅|函館貨物駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|3.4 |rowspan="2" style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:center;background:#fce;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H74 |[[五稜郭駅]] |style="text-align:center; background:#fce;"|● |[[道南いさりび鉄道]]:{{color|#246dac|■}}[[道南いさりび鉄道線]]<ref group="注釈">道南いさりび鉄道線の旅客列車はすべて函館駅まで乗り入れる。</ref> |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H73 |[[桔梗駅]] |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|8.3 |style="text-align:center; background:#fce;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H72 |[[大中山駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|10.4 |style="text-align:center; background:#fce;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |rowspan="2"|[[亀田郡]]<br/>[[七飯町]] |- !H71 |[[七飯駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|13.8 |style="text-align:center; background:#fce;"|| |北海道旅客鉄道:函館本線(藤城支線) |style="text-align:center;"|∨ |- !H70 |[[新函館北斗駅]]▼ |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|17.9 |style="text-align:center; background:#fce;"|● |北海道旅客鉄道:[[File:Shinkansen jrh.svg|15px|■]][[北海道新幹線]] |style="text-align:center;"|◇ |[[北斗市]] |- |rowspan="21" style="width:1em; letter-spacing:0.5em; text-align:center; background:#fff;"|{{縦書き|'''非電化'''|height=6em}} !H69 |[[仁山駅]]▼ |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|21.2 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="3"|亀田郡<br/>七飯町 |- !H68 |[[大沼駅]] |style="text-align:right;"|5.8 |style="text-align:right;"|27.0 |&nbsp; |北海道旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}}函館本線(砂原支線・藤城支線) |style="text-align:center;"|◇ |- !H67 |[[大沼公園駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|28.0 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !H66 |[[赤井川駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|31.7 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="6"|[[茅部郡]]<br/>[[森町 (北海道)|森町]] |- !H65 |[[駒ヶ岳駅]] |style="text-align:right;"|4.8 |style="text-align:right;"|36.5 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !(H63) |[[姫川信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|44.2 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !H62 |[[森駅 (北海道)|森駅]] |style="text-align:right;"|13.0 |style="text-align:right;"|49.5 |&nbsp; |北海道旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}}函館本線(砂原支線) |style="text-align:center;"|∧ |- !(H60) |[[石谷信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|56.1 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H58 |[[石倉駅]] |style="text-align:right;"|12.6 |style="text-align:right;"|62.1 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H57 |[[落部駅]] |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:right;"|66.1 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |rowspan="7"|[[二海郡]]<br/>[[八雲町]] |- !H56 |[[野田生駅]] |style="text-align:right;"|5.3 |style="text-align:right;"|71.4 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H55 |[[山越駅]] |style="text-align:right;"|4.6 |style="text-align:right;"|76.0 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H54 |[[八雲駅]] |style="text-align:right;"|5.1 |style="text-align:right;"|81.1 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !(H53) |[[鷲ノ巣信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|84.2 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |- !H52 |[[山崎駅 (北海道)|山崎駅]] |style="text-align:right;"|7.2 |style="text-align:right;"|88.3 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|∧ |- !H51 |[[黒岩駅]] |style="text-align:right;"|6.1 |style="text-align:right;"|94.4 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |- !(H50) |[[北豊津信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|98.2 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|∧ |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[山越郡]]<br/>[[長万部町]] |- !H49 |[[国縫駅]] |style="text-align:right;"|8.4 |style="text-align:right;"|102.8 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H48 |[[中ノ沢駅]] |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|107.7 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- !H47 |[[長万部駅]] |style="text-align:right;"|4.6 |style="text-align:right;"|112.3 |&nbsp; |北海道旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}}[[室蘭本線]](特急のみ直通あり) |style="text-align:center;"|∨ |} ==== 砂原支線 ==== {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} * 全駅[[渡島総合振興局|渡島管内]]に所在。 * この区間は非電化・単線。 * 普通列車は全旅客駅に停車する。 * 線路… ◇:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|駅番号 !rowspan="2" style="width:7em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072bc;"|接続路線 !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|{{縦書き|線路|height=3em}} !rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072bc;"|所在地 |- !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|駅間 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0072bc;"|累計 |- !H68 |[[大沼駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |北海道旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}}函館本線(本線) |style="text-align:center;"|◇ |colspan="2" rowspan="2"|[[亀田郡]]<br/>[[七飯町]] |- !(N69) |[[銚子口信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|6.8 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !N68 |[[鹿部駅]] |style="text-align:right;"|14.6 |style="text-align:right;"|14.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="7" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[茅部郡]]|height=4em}} |style="white-space:nowrap;"|[[鹿部町]] |- !N67 |[[渡島沼尻駅]] |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:right;"|20.0 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="6"|[[森町 (北海道)|森町]] |- !N66 |[[渡島砂原駅]] |style="text-align:right;"|5.3 |style="text-align:right;"|25.3 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !N65 |[[掛澗駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|29.0 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !N64 |[[尾白内駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|31.9 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !N63 |[[東森駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|33.5 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !H62 |[[森駅 (北海道)|森駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|35.3 |北海道旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}}函館本線(本線) |style="text-align:center;"|◇ |} === 長万部駅 - 小樽駅間 === {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} * この区間は非電化・単線(ただし、小樽駅構内のみ交流電化)。 * 累計営業キロは函館からのもの。 * 線路 … ∨・◇・∧:列車交換可能、|:列車交換不可。 ** ※:目名駅は、ホームは1面1線であるが、ホームのない副本線を利用した列車交換が可能。 ** ▽:倶知安駅は、長万部駅・蘭越駅方面同士の列車の交換は不可。 * 定期列車は普通、快速「[[ニセコライナー]]」(下りは蘭越駅始発、上りは倶知安駅行き)ともに当区間は各駅に停車する。 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|駅番号 !rowspan="2" style="width:10.5em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|接続路線 !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|{{縦書き|線路|height=3em}} !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|所在地 |- !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|駅間 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|累計 |- !H47 |[[長万部駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|112.3 |北海道旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}}[[室蘭本線]] |style="text-align:center;"|∨ |rowspan="2" style="text-align:center; width:1em; font-size:85%;"|{{縦書き|[[渡島総合振興局|渡島管内]]|height=4.5em}} |rowspan="2" colspan="2"|[[山越郡]]<br />[[長万部町]] |- !S32 |[[二股駅]] |style="text-align:right;"|8.6 |style="text-align:right;"|120.9 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !S30 |[[黒松内駅]] |style="text-align:right;"|11.4 |style="text-align:right;"|132.3 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="16" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[後志総合振興局|後志管内]]||height=5em}} |rowspan="2" colspan="2"|[[寿都郡]]<br/>[[黒松内町]] |- !S29 |[[熱郛駅]] |style="text-align:right;"|8.1 |style="text-align:right;"|140.4 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !S28 |[[目名駅]] |style="text-align:right;"|15.4 |style="text-align:right;"|155.8 |&nbsp; |style="text-align:center;"|※ |rowspan="3" colspan="2"|[[磯谷郡]]<br />[[蘭越町]] |- !S27 |[[蘭越駅]] |style="text-align:right;"|7.6 |style="text-align:right;"|163.4 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !S26 |[[昆布駅]] |style="text-align:right;"|6.9 |style="text-align:right;"|170.3 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !S25 |[[ニセコ駅]] |style="text-align:right;"|9.3 |style="text-align:right;"|179.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[虻田郡]]|height=4em}} |style="white-space:nowrap;"|[[ニセコ町]] |- !S24 |[[比羅夫駅]] |style="text-align:right;"|7.0 |style="text-align:right;"|186.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="2"|[[倶知安町]] |- !S23 |[[倶知安駅]] |style="text-align:right;"|6.7 |style="text-align:right;"|193.3 |&nbsp; |style="text-align:center;"|▽ |- !S22 |[[小沢駅]] |style="text-align:right;"|10.3 |style="text-align:right;"|203.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |colspan="2"|[[岩内郡]]<br />[[共和町]] |- !S21 |[[銀山駅]] |style="text-align:right;"|9.8 |style="text-align:right;"|213.4 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="4" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[余市郡]]|height=4em}} |rowspan="3"|[[仁木町]] |- !S20 |[[然別駅]] |style="text-align:right;"|10.7 |style="text-align:right;"|224.1 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !S19 |[[仁木駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|228.2 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !S18 |[[余市駅]] |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|232.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |[[余市町]] |- !S17 |[[蘭島駅]] |style="text-align:right;"|5.3 |style="text-align:right;"|237.9 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |colspan="2" rowspan="3"|[[小樽市]] |- !S16 |[[塩谷駅]] |style="text-align:right;"|6.9 |style="text-align:right;"|244.8 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !S15 |[[小樽駅]] |style="text-align:right;"|7.7 |style="text-align:right;"|252.5 | |style="text-align:center;"|∧ |} === 小樽駅 - 札幌駅間 === {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} * この区間は交流電化・複線。ただし、桑園駅 - 札幌駅間は[[複々線|三線]]で小樽方面への複線と札沼線直通線の単線を併設。 * 累計営業キロは函館からのもの。 * 駅名 … {{JR特定都区市内|札}}:[[特定都区市内]]制度の「札幌市内」エリアの駅 * 停車駅 ** 普通列車はすべての旅客駅に停車。 ** 快速列車(「[[エアポート (列車)|エアポート]]」「[[ニセコライナー]]」共通)…●:停車駅、|:通過駅 ** [[ホームライナー (JR北海道)|ホームライナー]]…[[#運行される列車]]の各列車記事参照。 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|駅番号 !rowspan="2" style="width:10.5em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="width:1em; background:#fd9; border-bottom:solid 3px #ed1c23; "|{{縦書き|快速}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|接続路線 !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|所在地 |- !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|駅間 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ed1c23;"|累計 |- !S15 |[[小樽駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|252.5 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● | |rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[後志総合振興局|後志管内]]||height=5em}} |colspan="2" rowspan="5"|[[小樽市]] |- !S14 |[[南小樽駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|254.1 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |&nbsp; |- !S13 |[[小樽築港駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|256.2 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |&nbsp; |- !S12 |[[朝里駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|259.3 |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |- !S11 |[[銭函駅]] |style="text-align:right;"|8.8 |style="text-align:right;"|268.1 |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |- !S10 |[[ほしみ駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|271.0 |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |rowspan="10" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[石狩振興局|石狩管内]]|height=5em}} |rowspan="10" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[札幌市]]|height=4em}} |rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[手稲区]] |- !S09 |[[星置駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|272.6 |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |- !S08 |[[稲穂駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|273.7 |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |- !S07 |[[手稲駅]] {{JR特定都区市内|札}}<br /><small>([[北海道科学大学]] 最寄駅)</small> |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|275.7 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |&nbsp; |- !S06 |[[稲積公園駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|277.0 |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |- !S05 |[[発寒駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|279.2 |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |rowspan="3"|[[西区 (札幌市)|西区]] |- !S04 |[[発寒中央駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|281.0 |style="text-align:center; background:#fd9;"|| |&nbsp; |- !S03 |[[琴似駅 (JR北海道)|琴似駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|282.5 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |&nbsp; |- !S02 |[[桑園駅]] {{JR特定都区市内|札}}<br /><small>([[日本中央競馬会|JRA]] [[札幌競馬場]] 前)</small> |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|284.7 |style="text-align:center; background:#fd9;"|│ |北海道旅客鉄道:{{color|#00a54f|■}}[[札沼線]](学園都市線)<ref group="注釈">札沼線の旅客列車はすべて札幌駅へ乗り入れる。</ref> |[[中央区 (札幌市)|中央区]] |- !01 |[[札幌駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|286.3 |style="text-align:center; background:#fd9;"|● |[[札幌市営地下鉄]]:[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|15px]] [[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] (N06) ・[[File:Subway_SapporoToho.svg|15px]] [[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]] (H07) …[[さっぽろ駅]] |[[北区 (札幌市)|北区]]<br /><ref group="注釈">駅ビルは中央区に所在。</ref> |} === 札幌駅 - 旭川駅間 === {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} * この区間は交流電化・複線。ただし、札幌駅 - 白石駅間は岩見沢方面への複線と千歳線直通線の複線を併設する[[複々線#方向別複々線|方向別複々線]]。 * 累計営業キロは函館からのもの * 駅名 … (貨):貨物専用駅、◆・◇:貨物取扱駅(貨物専用駅を除く。◇は定期貨物列車の発着なし)、{{JR特定都区市内|札}}:[[特定都区市内]]制度の「札幌市内」エリアの駅 * 普通列車はすべての旅客駅に停車 * 千歳線系統で運行される快速・特別快速「[[エアポート (列車)|エアポート]]」の停車駅は、[[千歳線#駅一覧|路線記事]]または列車記事を参照。 * 特急列車の停車駅は、[[#運行される列車]]の各列車記事参照 *所在地 **納内駅 - 近文駅間で[[上川郡 (石狩国)|上川郡]][[鷹栖町]]を通過するが駅は設置されていない。 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #f7931d;"|駅番号 !rowspan="2" style="width:7em; border-bottom:solid 3px #f7931d;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #f7931d;" |接続路線 !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #f7931d;"|所在地 |- !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f7931d;"|駅間 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f7931d;"|累計 |- !01 |[[札幌駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|286.3 |[[札幌市営地下鉄]]:[[File:Subway_SapporoNamboku.svg|15px]] [[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] (N06) ・[[File:Subway_SapporoToho.svg|15px]] [[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]] (H07) …[[さっぽろ駅]] |rowspan="11" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[石狩振興局|石狩管内]]|height=5em}} |rowspan="6" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[札幌市]]|height=4em}} |[[北区 (札幌市)|北区]]<br /><ref group="注釈">駅ビルは中央区に所在。</ref> |- !H02 |[[苗穂駅]] {{JR特定都区市内|札}}◇ |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|288.2 |&nbsp; |style="white-space:nowrap;"|[[中央区 (札幌市)|中央区]]<br />[[東区 (札幌市)|東区]]<br /><ref group="注釈">中央区と東区の区界上に所在。</ref> |- !H03 |[[白石駅 (JR北海道)|白石駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|3.9 |style="text-align:right;"|292.1 |北海道旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}}[[千歳線]]<ref group="注釈">千歳線の旅客列車はすべて札幌駅へ乗り入れる。</ref> |rowspan="2"|[[白石区]] |- ! |style="width:14em;"|(貨)[[札幌貨物ターミナル駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|295.1 | |- !A04 |[[厚別駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|296.5 | |rowspan="2"|[[厚別区]] |- !A05 |[[森林公園駅 (北海道)|森林公園駅]] {{JR特定都区市内|札}} |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|298.5 | |- !A06 |[[大麻駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|300.8 | |rowspan="5" colspan="2"|[[江別市]] |- !A07 |[[野幌駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|304.2 | |- !A08 |[[高砂駅 (北海道)|高砂駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|305.5 | |- !A09 |[[江別駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|307.3 | |- !A10 |[[豊幌駅]] |style="text-align:right;"|6.2 |style="text-align:right;"|313.5 | |- !A11 |[[幌向駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|316.7 | |rowspan="15" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[空知総合振興局|空知管内]]|height=5em}} |rowspan="3" colspan="2"|[[岩見沢市]] |- !A12 |[[上幌向駅]] |style="text-align:right;"|5.9 |style="text-align:right;"|322.6 | |- !A13 |[[岩見沢駅]] |style="text-align:right;"|4.3 |style="text-align:right;"|326.9 |北海道旅客鉄道:[[室蘭本線]] |- !A14 |[[峰延駅]] |style="text-align:right;"|8.4 |style="text-align:right;"|335.3 | |rowspan="4" colspan="2"|[[美唄市]] |- !A15 |[[光珠内駅]] |style="text-align:right;"|4.5 |style="text-align:right;"|339.8 | |- !A16 |[[美唄駅]] |style="text-align:right;"|3.9 |style="text-align:right;"|343.7 | |- !A17 |[[茶志内駅]]◇ |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|348.1 | |- !A18 |[[奈井江駅]] |style="text-align:right;"|6.2 |style="text-align:right;"|354.3 | |colspan="2"|[[空知郡]]<br />[[奈井江町]] |- !A19 |[[豊沼駅]] |style="text-align:right;"|4.7 |style="text-align:right;"|359.0 | |rowspan="2" colspan="2"|[[砂川市]] |- !A20 |[[砂川駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|362.2 | |- !A21 |[[滝川駅]]◆ |style="text-align:right;"|7.6 |style="text-align:right;"|369.8 |北海道旅客鉄道:{{color|#f6989d|■}}[[根室本線]] |rowspan="2" colspan="2"|[[滝川市]] |- !A22 |[[江部乙駅]] |style="text-align:right;"|8.4 |style="text-align:right;"|378.2 | |- !A23 |[[妹背牛駅]] |style="text-align:right;"|7.5 |style="text-align:right;"|385.7 | |colspan="2"|[[雨竜郡]]<br />[[妹背牛町]] |- !A24 |[[深川駅]] |style="text-align:right;"|7.2 |style="text-align:right;"|392.9 |北海道旅客鉄道:[[留萌本線]] |rowspan="2" colspan="2"|[[深川市]] |- !A25 |[[納内駅]] |style="text-align:right;"|7.4 |style="text-align:right;"|400.3 | |- !A27 |[[近文駅]]◇ |style="text-align:right;"|18.8 |style="text-align:right;"|419.1 | |rowspan="2" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[上川総合振興局|上川管内]]|height=5em}} |rowspan="2" colspan="2"|[[旭川市]] |- !A28 |[[旭川駅]] |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:right;"|423.1 |北海道旅客鉄道:{{color|#954a35|■}}[[宗谷本線]]・{{color|#f7931d|■}}[[石北本線]]<ref group="注釈">石北本線の正式な起点は宗谷本線[[新旭川駅]]だが、運転系統上、全列車が旭川駅に乗り入れる。</ref>・{{color|#aa5ea6|■}}[[富良野線]] |} === 廃止区間 === ; 貨物支線 : 小樽築港駅 - [[浜小樽駅]] (3.2 km):1984年2月1日廃止{{R|tanaka1 36-37}}。 : 桑園駅 - [[札幌市場駅]] (1.6 km):1978年10月2日廃止{{R|tanaka1 36-37|tanaka1 314-315}}。 : 白石駅 - [[東札幌駅 (国鉄)|東札幌駅]] (3.0 km):1986年11月1日廃止{{R|tanaka1 314-315}}。 : 東札幌駅 - [[月寒駅]] (2.7 km):1973年9月10日千歳線(旧線)から編入{{R|tanaka1 122-123}}。1976年10月1日廃止{{R|tanaka1 36-37}}。 : 近文駅 - [[旭川大町駅]] (2.9 km):1978年10月2日廃止{{R|tanaka1 314-315}}。 ; [[南美唄支線]] : 美唄駅 - [[南美唄駅]] (3.0 km):1973年9月9日廃止{{R|tanaka1 218-219|RF412 56}}。貨物線だが、一時期客扱いがあった。 ; [[上砂川支線]] : 砂川駅 - [[下鶉駅]] - [[鶉駅]] - [[東鶉駅]] - [[上砂川駅]] (7.3 km):1994年(平成6年)5月16日廃止{{R|tanaka1 218-219}}。 ; 旧線 : 納内駅 - [[神居古潭駅]] - 春志内信号場<ref>1961年(昭和36年)10月1日開設。日本鉄道旅行地図帳1号北海道(新潮社)35頁より。</ref> - 伊納駅:新線切り替えのため1969年9月30日廃止{{R|tanaka1 38-39}}。 === かつて旅客駅だった信号場 === * 銚子口信号場:旧・銚子口駅 (N69)。2022年3月12日旅客扱い廃止{{R|group="新聞"|nayoro-news-220404}}。 * 姫川信号場:旧・姫川駅 (H63)。2017年3月4日旅客扱い廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161216-3}}。 * 石谷信号場:旧・石谷駅 (H60)。2022年3月12日旅客扱い廃止{{R|group="新聞"|nayoro-news-220404}}。 * 鷲ノ巣信号場:旧・鷲ノ巣駅 (H53)。2016年3月26日旅客扱い廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20151218-2|jrhokkaido-press-20151218-3}}。 * 北豊津信号場:旧・北豊津駅 (H50)。2017年3月4日旅客扱い廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161216-3}}。 === 廃駅・廃止信号場 === {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} 廃止区間上にあるものは除く。括弧内は営業キロ。 * [[亀田駅 (北海道)|亀田駅]]:1908年(明治41年)5月1日貨物駅化。1909年(明治42年)9月26日休止。1911年(明治44年)9月1日廃止{{R|tanaka1 314-315}}<!-- 『写真で見る北海道の鉄道』上巻では、亀田駅廃止は1911年(明治44年)8月29日とされている。 -->。函館駅 - 五稜郭駅間(函館起点0.8&nbsp;km)。 * [[熊の湯信号場]]:1966年(昭和41年)10月1日廃止。仁山駅 - 大沼駅間(函館起点22.5&nbsp;km)。 * [[小沼信号場]]:1943年(昭和18年)9月30日開設、1948年(昭和23年)7月1日廃止。仁山駅 - 大沼駅間(函館起点24.9&nbsp;km)<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=日本鉄道旅行地図帳1号北海道|date=2008年5月18日|year=2008|publisher=新潮社|page=26}}</ref>。 * [[池田園駅]] (N71):2022年(令和4年)3月12日廃止{{R|group="報道"|"jrhokkaido/press/2021/20211217_KO_kaisei"}}。大沼駅 - 流山温泉駅間(大沼起点3.4 km)。 * [[流山温泉駅]] (N70):2022年(令和4年)3月12日廃止{{R|group="報道"|"jrhokkaido/press/2021/20211217_KO_kaisei"}}。池田園駅 - 銚子口駅間(大沼起点5.6 km)。 * [[新本別駅]]{{R|group="注釈"|shinhonbetsu}}:1945年(昭和20年)6月1日開設、1949年(昭和24年)8月1日廃止{{R|group="注釈"|shinhonbetsu}}。銚子口駅 - 鹿部駅間(大沼起点11.4km)<ref name=":0" />。 * [[東山駅 (北海道)|東山駅]] (H64):2017年(平成29年)3月4日廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161216-3}}。 駒ヶ岳駅 - 姫川駅(現・姫川信号場)駅間(函館起点40.1&nbsp;km)。 * [[森川信号場]]:1944年(昭和19年)2月1日開設、1945年(昭和20年)12月1日廃止。姫川駅 - 森駅間(函館起点46.1&nbsp;km)<ref name=":0" />。 * [[桂川駅 (北海道)|桂川駅]] (H61):2017年(平成29年)3月4日廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161216-3}}。森駅 - 石谷駅間(函館起点52.2&nbsp;km)。 * [[本石倉駅]] (H59):2022年(令和4年)3月12日廃止{{R|group="報道"|"jrhokkaido/press/2021/20211217_KO_kaisei"}}。石谷駅 - 石倉駅間(函館起点60.0 km)。 * [[蕨岱駅]] (S31):2017年(平成29年)3月4日廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2016/161216-3}}。二股駅 - 黒松内駅間(函館起点126.9&nbsp;km)。 * [[上目名駅]]:1984年(昭和59年)3月31日廃止{{R|tanaka1 34-35|tanaka1 314-315}}。熱郛駅 - 目名駅間(函館起点147.6&nbsp;km)。 * [[山道駅]]:1904年(明治37年)7月18日廃止{{R|tanaka1 314-315}}。銀山駅 - 然別駅間(営業キロ不詳)。稲穂トンネルの東口に存在した{{R|tanaka1 34-35}}。 * [[張碓駅]]:1990年(平成2年)9月1日臨時駅化。1998年(平成10年)7月1日通年休止。2006年(平成18年)3月18日廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido-press-20051222}}。朝里駅 - 銭函駅間(函館起点262.9&nbsp;km)。 * [[北五条仮乗降場]]:1908年(明治41年)8月17日廃止。 * [[競馬場前仮乗降場]]:1924年(大正13年)6月1日廃止。 * [[東岡信号場]]:1919年(大正8年)12月27日開設、1923年(大正12年)12月17日廃止。岩見沢駅 - 峰延駅間<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=日本鉄道旅行地図帳1号北海道|date=2008年5月18日|year=2008|publisher=新潮社|pages=34-35}}</ref>。 * 光珠信号場:1920年(大正9年)9月11日開設、1924年(大正13年)6月1日廃止。峰延駅 ‐ 光珠内駅間<ref name=":1" />。 * [[空知太信号場]]:1956年(昭和31年)10月20日仮乗降場化{{R|tanaka1 38-39}}。砂川駅 - 滝川駅間 (函館起点367.0&nbsp;km) 。 * [[深沢信号場]]:1966年(昭和41年)9月27日廃止。滝川駅 - 江部乙駅間 (函館起点374.1&nbsp;km) 。 * [[伊納駅]] (A26):2021年(令和3年)3月13日廃止{{R|group="報道"|jrhokkaido/press/2020/20201209_KO_kaisei}}{{R|group="報道"|"jrhokkaido/press/2020/20201218_KO_Daikai"}}。納内駅 - 近文駅間(函館起点413.0&nbsp;km) 。 === 過去の接続路線 === {{出典の明記|section=1|date=2015年5月}} * 函館駅:[[青函航路]]([[青函連絡船]]) - 1988年(昭和63年)3月13日廃止 * 五稜郭駅:[[函館市企業局交通部|函館市電]]…五稜郭駅前停留場 - 1978年(昭和53年)11月1日廃止 * 大沼駅(現在の大沼公園駅):[[大沼電鉄]] - 1945年(昭和20年)1月31日廃止 * 銚子口駅:大沼電鉄…新銚子口駅 - 1952年(昭和27年)12月25日廃止 * 森駅:[[渡島海岸鉄道]] - 1945年(昭和20年)1月25日廃止 * 国縫駅:[[瀬棚線]] - 1987年(昭和62年)3月16日廃止 * 黒松内駅:[[寿都鉄道|寿都鉄道線]] - 1972年(昭和47年)5月11日廃止許可 * 倶知安駅:[[胆振線]] - 1986年(昭和61年)11月1日廃止 * 小沢駅: ** [[岩内線]] - 1985年7月1日廃止 ** [[岩内馬車鉄道]] - 1912年5月11日廃止 * 余市駅:[[余市臨港軌道]] - 1940年7月25日廃止 * 南小樽駅:[[手宮線]](貨物線) - 1985年11月5日廃止 * 手稲駅:[[軽石軌道]] - 1940年10月23日廃止 * 桑園駅:[[札幌市電]](桑園線)…桑園駅前停留場 - 1960年6月1日廃止 * 札幌駅: ** 札幌市電(西4丁目線・北5条線・鉄北線)…札幌駅前停留場 - 1971年10月1日 北5条線廃止、1971年12月16日 鉄北線 札幌駅前 - 北24条間、西4丁目線 札幌駅前 - 三越前間廃止 ** [[札幌軌道]] - 1935年3月15日廃止 * 苗穂駅: ** [[定山渓鉄道線|定山渓鉄道]] - 1969年11月1日廃止 ** 札幌市電(苗穂線) - 1971年10月1日廃止 * 白石駅:定山渓鉄道 - 1945年3月1日 白石 - 東札幌間廃止 * 野幌駅:[[北海道炭礦汽船夕張鉄道線|夕張鉄道]] - 1975年4月1日廃止 * 岩見沢駅:[[幌内線]] - 1987年7月13日廃止 * 美唄駅:[[三菱鉱業美唄鉄道線|美唄鉄道]] - 1972年6月1日廃止 * 砂川駅:[[歌志内線]] - 1988年4月25日廃止 * 深川駅:[[深名線]] - 1995年9月4日廃止 * 旭川駅: ** [[旭川市街軌道]] - 1956年6月9日廃止 ** [[旭川電気軌道]](貨物線) - 1973年1月1日廃止 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2|}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="yano">[[#yano|『北海道列車の旅 全線ガイド』]]</ref> <ref name="yamada2017">{{Cite web|和書|url=http://www.jrcea.or.jp/pdf/hosengaiyo.pdf |title=函館本線 新峠下トンネルの塑性圧に対する変状調査と対策|accessdate=2018-02-27 |last= |first= |author=山田 航 |coauthors=|date= |year=2017 |month=10 |format=PDF |work=第31回 総合技術講演会 概要集 (保線)|publisher=[[日本鉄道施設協会]] |archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref name="tanaka1 34-35">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 34-35頁]]</ref> <ref name="tanaka1 36-37">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 36-37頁]]</ref> <ref name="tanaka1 38-39">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 38-39頁]]</ref> <ref name="tanaka1 122-123">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 122-123頁]]</ref> <ref name="tanaka1 192-193">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 192-193頁]]</ref> <ref name="tanaka1 202-203">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 202-203頁]]</ref> <ref name="tanaka1 218-219">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 218-219頁]]</ref> <ref name="tanaka1 311">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 311頁]]</ref> <ref name="tanaka1 314-315">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 314-315頁]]</ref> <ref name="tanaka1 316-317">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 316-317頁]]</ref> <ref name="tanaka1 318-319">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 318-319頁]]</ref> <ref name="tanaka2 202">[[#tanaka2|『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 202頁]]</ref> <ref name="tanaka2 248">[[#tanaka2|『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 248頁]]</ref> <ref name="tanaka2 249">[[#tanaka2|『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 249頁]]</ref> <ref name="imao">[[#imao|『日本鉄道旅行地図帳』 1号「北海道」]]</ref> <ref name="RF412 56">[[#RF-412|『鉄道ファン』 通巻412号 56頁]]</ref> <ref name="RF412 63">[[#RF-412|『鉄道ファン』 通巻412号 63頁]]</ref> <ref name="RP-177 78">[[#RP-177|『鉄道ピクトリアル』 通巻177号 78頁]]</ref> <ref name="RJ-610 56">[[#RJ-610|『鉄道ジャーナル』通巻610号 56頁]]</ref> <ref name="RJ-628 27">[[#RJ-628|『鉄道ジャーナル』通巻628号 27頁]]</ref> <ref name="kamisunagawachoshi 1521">[[#kamisunagawachoshi|『新上砂川町史』 1521頁]]</ref> <ref name="普通列車編成両数表 Vol.36 4">[[#普通列車編成両数表 Vol.36|『普通列車編成両数表』Vol.36 4頁]]</ref> <ref name="普通列車編成両数表 Vol.36 5">[[#普通列車編成両数表 Vol.36|『普通列車編成両数表』Vol.36 5頁]]</ref> <ref name="普通列車編成両数表 Vol.36 8-10">[[#普通列車編成両数表 Vol.36|『普通列車編成両数表』Vol.36 8-10頁]]</ref> <ref name="exp10ayumi_39">[[#exp10ayumi|『JR特急10年の歩み』 39頁]]</ref> <ref name="exp10ayumi_62">[[#exp10ayumi|『JR特急10年の歩み』 62頁]]</ref> <ref name="exp10ayumi_210">[[#exp10ayumi|『JR特急10年の歩み』 210頁]]</ref> <ref name="kawajima76">[[#teigen|『特急列車「高速化」への提言』]] 76-77頁。</ref> <ref name="711story_135">[[#711story|『711系物語』 135-137頁]]</ref> <ref name="711story_172">[[#711story|『711系物語』 172-173頁]]</ref> <!-- 以下は「報道発表」ではない--> <ref name="jorudan-norikae">{{Cite web|和書|url=http://www.jorudan.co.jp/norikae/c_nori_%BB%A5%CB%DA_%C8%A1%B4%DB.html|title=札幌→函館|publisher=[[ジョルダン (企業)|ジョルダン]]([[乗換案内]])|date=|accessdate=2015-08-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150829144013/http://www.jorudan.co.jp/norikae/route/%E6%9C%AD%E5%B9%8C_%E5%87%BD%E9%A4%A8.html|archivedate=2015年8月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref name="pref-hokkaido-trein-3-5tosikanyusou">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sk/ktk/sitetop1/koutuu/trein/3-5tosikanyusou.htm|title=各都市間の年間輸送量の推移|publisher=[[北海道]]|date=|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090201212318/http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sk/ktk/sitetop1/koutuu/trein/3-5tosikanyusou.htm|archivedate=2009年2月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref name="pref-hokkaido-trein-3-6sapporoken">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sk/ktk/sitetop1/koutuu/trein/3-6sapporoken.htm|title=札幌を起点とした札幌都市圏の年間輸送量の推移|publisher=北海道|date=|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090201212403/http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sk/ktk/sitetop1/koutuu/trein/3-6sapporoken.htm|archivedate=2009年2月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref name="jrhokkaido-shinkansen">{{Cite web|和書|url=http://hokkaido-shinkansen.com/outline/ |title=北海道新幹線開業までのあゆみ|work=北海道新幹線スペシャルサイト|publisher=北海道旅客鉄道|accessdate=2016-11-21|archiveurl=|archivedate=}}</ref> <ref name="hyousetugakkai">{{Cite journal|author=鈴木 大樹他|year=2008|title=鉄道トンネル内のつららの観測(第2報)| url=https://www.seppyo.org/hokkaido/journal/j27/2008_snowhokkaido27_04_suzuki.pdf | journal=北海道の雪氷|issue=27号|page=17頁|publisher=[[日本雪氷学会]]|accessdate=2021-2-19|format=PDF}}</ref> <ref name="tetudouukeoigyou">{{Cite web|和書|url=http://www.nikkenren.com/tetsudo/history/area/hokkaido/01/index.html | title=函館本線|日本鉄道請負業史 |publisher=一般社団法人[[日本建設業連合会]] | page= |format= |date= |accessdate=2021-02-19 }}</ref> }} === 報道発表資料 === {{Reflist|group="報道"|2|refs= <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20011024nagare">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/nagare.html|title=「流山温泉」駅の新設について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2001-10-24|accessdate=2001-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20011217190044/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/nagare.html|archivedate=2001年12月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20051222">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/051222.pdf|format=PDF|title=平成18年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2005-12-22|accessdate=2005-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051230090557/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2005/051222.pdf|archivedate=2005年12月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20070912-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2007/070912-3.pdf|format=PDF|title=駅番号表示(駅ナンバリング)を実施します|publisher=北海道旅客鉄道|date=2007-09-12|accessdate=2007-09-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930015220/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2007/070912-3.pdf|archivedate=2007年9月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20080910-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/080910-1.pdf|format=PDF|title=Kitacaサービス開始日決定について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2008-09-10|accessdate=2008-09-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080913103748/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/080910-1.pdf|archivedate=2008年9月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20081029-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/081029-1.pdf|format=PDF|title=札幌市営地下鉄との代替輸送の実施について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2008-10-29|accessdate=2015-01-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150110135015/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2008/081029-1.pdf|archivedate=2015年1月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20100714-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100714-1.pdf|format=PDF|title=旭川鉄道高架開業に伴う線路切替及び列車運休等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2010-07-14|accessdate=2015-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624133610/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100714-1.pdf|archivedate=2015年6月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20100908-4">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100908-4.pdf|format=PDF|title=旭川鉄道高架開業記念イベントの開催等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2010-09-08|accessdate=2010-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100911051841/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100908-4.pdf|archivedate=2010年9月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20110609-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110609-3.pdf|format=PDF|title=野幌鉄道高架の開業日について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2011-06-09|accessdate=2015-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624132643/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/110609-3.pdf|archivedate=2015年6月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20111013-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/111013-1.pdf|format=PDF|title=野幌鉄道高架事業開業記念式典の開催等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2011-10-13|accessdate=2015-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150624132132/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/111013-1.pdf|archivedate=2015年6月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20111213-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/111213-2.pdf|format=PDF|title=函館・新函館間のアクセス列車の運行について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2011-12-13|accessdate=2011-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111217162845/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2011/111213-2.pdf|archivedate=2011年12月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20130321-3-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130321-3-2.pdf|format=PDF|title=函館線五稜郭・渡島大野間電化工事起工式の開催について|publisher=[[北海道旅客鉄道]]|date=2013-03-21|accessdate=2013-04-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130419020616/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130321-3-2.pdf|archivedate=2013年4月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20130828-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130828-1.pdf|format=PDF|title=10月の特急列車運転計画について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-08-28|accessdate=2013-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921053420/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130828-1.pdf|archivedate=2013年9月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20130904-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130904-1.pdf|format=PDF|title=安全性向上に向けた輸送サービス抑制へのご理解について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-09-04|accessdate=2013-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921053616/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130904-1.pdf|archivedate=2013年9月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20130920-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130920-1.pdf|format=PDF|title=11月以降のダイヤについて|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-09-20|accessdate=2013-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921053935/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130920-1.pdf|archivedate=2013年9月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20130921-1-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130921-1-2.pdf|format=PDF|title=函館線 大沼駅構内で発生した列車脱線事故について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-09-21|accessdate=2013-10-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131006085304/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130921-1-2.pdf|archivedate=2013年10月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20131220-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/131220-1.pdf|format=PDF|title=平成26年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-12-20|accessdate=2013-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131224105741/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/131220-1.pdf|archivedate=2013年12月24日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20140404-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140404-1.pdf|format=PDF|title=安全基盤強化に向けた線路工事に伴う列車の運休及びバス代行輸送について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-04-04|accessdate=2014-09-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140904103850/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140404-1.pdf|archivedate=2014年9月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2014/140509-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140509-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成26年3月期決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-05-09|accessdate=2014-08-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140819090517/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140509-1.pdf|archivedate=2014年8月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20140704-1">{{Cite press 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熱田川災害箇所の非常導水路完成について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-08-11|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141211112813/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/140811-2.pdf|archivedate=2014年12月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20141120-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141120-3.pdf|format=PDF|title=「函館〜新函館北斗」アクセス列車用の車両について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141120063846/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141120-3.pdf|archivedate=2014年11月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20141210-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141210-1.pdf|format=PDF|title=函館線 大沼駅〜森駅間(渡島砂原駅経由)における軌道強化工事の完了について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2014-12-10|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141211112634/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141210-1.pdf|archivedate=2014年12月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20150212-5">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150212-5.pdf|format=PDF|title=新函館北斗〜函館間アクセス列車の愛称名の決定について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-02-12|accessdate=2015-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150212153859/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150212-5.pdf|archivedate=2015年2月12日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2015/150508-2">{{Cite press 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新青森~新函館北斗間開業に伴う運行計画の概要について|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|date=2015-09-16|accessdate=2015-09-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150916143607/http://www.jreast.co.jp/press/2015/20150914.pdf|archivedate=2015年9月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151228-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/151228-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=函館線 伊納〜近文間嵐山トンネル内の出火について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-12-28|accessdate=2016-1-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151228143516/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/151228-2.pdf|archivedate=2015年12月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido-press-20151218-2">{{Cite press 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線区別の収支状況等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-02-10|accessdate=2016-02-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160210105033/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160210-1.pdf|archivedate=2016年2月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/160509-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160509-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成27年度決算について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-05-09|accessdate=2016-05-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160519034311/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/160509-3.pdf|archivedate=2016年5月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161104-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161104-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成27年度 線区別の収支状況等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-11-04|accessdate=2016-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161106113200/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161104-1.pdf|archivedate=2016年11月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161118-3">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161118-3.pdf|title=当社単独では維持することが困難な線区について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-11-18|accessdate=2016-11-19}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2016/161216-3">{{Cite press release|和書|author=|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161216-3.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成29年3月ダイヤ改正について|work=|publisher=北海道旅客鉄道|date=2016-12-16|accessdate=2016-12-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161216091740/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161216-3.pdf|archivedate=2016年12月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2017/170509-2">{{Cite press release|和書|title=平成28年度決算について|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170509-2.pdf|publisher=北海道旅客鉄道|format=PDF|date=2017-05-09|accessdate=2017-05-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190113072509/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/170509-2.pdf|archivedate=2019-01-13}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2017/171107-2">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171107-2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成28年度 線区別の収支状況等について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2017-11-07|accessdate=2017-11-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171107113200/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171107-2.pdf|archivedate=2016年11月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2017/171213-4">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171213-4.pdf|title=函館線 熱郛~目名間における路盤流出について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2017-12-13|accessdate=2021-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180121160948/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2017/171213-4.pdf|archivedate=2018-01-21}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2018/20180423_KO_sawaraSLOW">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20180423_KO_sawaraSLOW.pdf|title=函館線 大沼~森間(渡島砂原経由)における徐行運転区間の拡大について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-04-23|accessdate=2021-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210116075031/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20180423_KO_sawaraSLOW.pdf|archivedate=2021-01-16}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2018/20181011_KO_NewNaeboSTOpening">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181011_KO_NewNaeboSTOpening.pdf|title=苗穂駅新駅舎開業について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-10-11|accessdate=2018-11-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201027020108/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181011_KO_NewNaeboSTOpening.pdf|archivedate=2020-10-27}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2018/20181019_KO_Sawarasen%20time">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181019_KO_Sawarasen%20time.pdf|title=函館線 大沼~森間(渡島砂原経由)の徐行影響に伴う運行計画について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-10-19|accessdate=2021-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181026131903/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181019_KO_Sawarasen%20time.pdf|archivedate=2018-10-26}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2018/20181109_KO_LineAccount2017">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181109_KO_LineAccount2017.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成29年度 線区別の収支とご利用状況について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2018-11-09|accessdate=2019-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190113071557/http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20181109_KO_LineAccount2017.pdf|archivedate=2019-01-13}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2019/201900904_KO_ExpenditureOfSection">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/201900904_KO_ExpenditureOfSection.pdf|title=線区別の収支とご利用状況について|format=PDF|language=日本語|publisher=北海道旅客鉄道|date=2019-09-04|accessdate=2019-09-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190904151630/http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/201900904_KO_ExpenditureOfSection.pdf|archivedate=2019-09-05}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2019/20191213_KO_kaisei">{{Cite press 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線区別の収支とご利用状況について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-06-08|accessdate=2020-06-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200608075913/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200608_KO_senkubetu.pdf|archivedate=2020-06-08}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2020/20201209_KO_kaisei">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20201209_KO_kaisei.pdf|title=来春のダイヤ見直しについて|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-12-09|accessdate=2020-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201209060401/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20201209_KO_kaisei.pdf|archivedate=2020-12-09}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2020/20201218_KO_Daikai">{{Cite press 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小沢~銀山間の斜面崩壊に伴う復旧工事の状況について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406084656/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/210406_KO_Hakodate%20Line.pdf|archivedate=2021-04-06}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2021/20210414_KO_Hakodate%20Line">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20210414_KO_Hakodate%20Line.pdf|title=函館線 小沢~銀山間の斜面崩壊に伴う復旧工事の状況について(4/14現在)|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2021-04-14|accessdate=2021-04-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210414050718/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20210414_KO_Hakodate%20Line.pdf|archivedate=2021-04-14}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2021/210419_KO_Hakodate%20Line">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/210419_KO_Hakodate%20Line0.pdf|title=函館線 倶知安~然別駅間の運転再開について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2021-04-19|accessdate=2021-04-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210419113855/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/210419_KO_Hakodate%20Line0.pdf|archivedate=2021-04-19}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2021/210604_KO_Senkubetusyushi">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/210604_KO_Senkubetusyushi.pdf|title=2020年度 線区別の収支とご利用状況について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2021-06-04|accessdate=2021-06-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210604092819/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/210604_KO_Senkubetusyushi.pdf|archivedate=2021-06-04}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2021/20211217_KO_kaisei">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20211217_KO_kaisei.pdf|title=2022年3月ダイヤ改正について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2021-12-17|accessdate=2021-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217052031/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20211217_KO_kaisei.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2022/220603_KO_SenkubetsuSyusi">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/220603_KO_SenkubetsuSyusi.pdf|title=2021年度 線区別の収支とご利用状況について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2022-06-03|accessdate=2022-06-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220603050849/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/220603_KO_SenkubetsuSyusi.pdf|archivedate=2022-06-03}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2022/220914_KO_Kitaca">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/220914_KO_Kitaca.pdf|title=ICカードKitacaエリアを拡大します! ~2024年春、函館・旭川各エリアでKitacaサービスを開始します~|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2022-09-14|accessdate=2022-09-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220914081835/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/220914_KO_Kitaca.pdf|archivedate=2022-09-14}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2022/221216_KO_kaisei">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/221216_KO_kaisei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2023-03-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216130349/http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/221216_KO_kaisei.pdf|archivedate=2022-12-16}}</ref> <ref group="報道" name="jrhokkaido/press/2023/20230609_KO_SenkubetsuSyusi">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20230609_KO_SenkubetsuSyusi.pdf|title=2022年度 線区別の収支とご利用状況について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2023-06-09|accessdate=2023-06-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610141458/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20230609_KO_SenkubetsuSyusi.pdf|archivedate=2023-06-10}}</ref> <ref group="報道" name="20231215_KO_kaisei">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20231215_KO_kaisei.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2024年3月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2023-12-15|accessdate=2023-12-29|archiveurl=|archivedate=}}</ref> }} === 新聞記事 === {{Reflist|2|group="新聞"|refs= <ref group="新聞" name="官報 1900-05-18">{{Cite news|url={{NDLDC|2948354/4}}|title=営業開始|newspaper=[[官報]]|publisher=[[国立印刷局|印刷局]]|date=1900-05-18|accessdate=2014-09-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140907121726/{{NDLDC|2948354/4}}|archivedate=2014-09-07}}([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref> <ref group="新聞" name="ehako.com-news2014a-7949">{{Cite news|url=http://www.ehako.com/news/news2014a/7949_index_msg.shtml|title=JR北海道 新駅—函館駅間のアクセス列車に733系|newspaper=函館地域ニュース([[函館新聞]])|publisher=函館新聞社|date=2014-09-11|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141030101113/http://www.ehako.com/news/news2014a/7949_index_msg.shtml|archivedate=2014年10月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-1968-08-28">{{Cite news|url=http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090265281|title=小樽-滝川間 国鉄電化 電化新時代へスタート|newspaper=[[北海道新聞]](フォト海道)|publisher=北海道新聞社|date=1968-08-28|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141211105440/http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090265281|archivedate=2014年12月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-chiiki2-562362">{{Cite news|url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/562362.html|title=JR、地元・函館の要望に消極的 リレー列車3両/観光型車両は導入せず|newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ)|publisher=[[北海道新聞社]]|date=2014-09-12|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140913054059/http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/562362.html|archivedate=2014年9月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="railf.jp-news-2014-08-16-160000">{{Cite news|url=http://railf.jp/news/2014/08/16/160000.html|title=721系が試運転で旭川へ|newspaper=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]・railf.jp(鉄道ニュース)|publisher=[[交友社]]|date=2014-08-16|accessdate=2014-08-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140819102739/http://railf.jp/news/2014/08/16/160000.html|archivedate=2014年8月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-20151229">{{Cite news|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0218120.html|title=JR函館線運行再開 深川―旭川、2日半ぶり|newspaper=北海道新聞(どうしんウェブ)|publisher=北海道新聞社|date=2015-12-28|accessdate=2016-01-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160126171923/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0218120.html|archivedate=2016年1月26日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-2016-03-14">{{Cite news|url= |title=「道内8駅」、3月25日廃止〜鉄道ファン訪れ撮影&書き込み〜|newspaper=北海道新聞|publisher=北海道新聞社|date=2016-03-14|accessdate=2016-03-14|archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref group="新聞" name="交通2001">{{Cite news |title=JR7社14年のあゆみ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-04-02 |page=9 }}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np-20120215">{{Cite news |url= |title=函館-小樽253km沿線15市町村と協議開始予定 |newspaper=北海道新聞 |at=16版2面<!--pageでは版が表記できず、また「p.」と表示されてしまうため--> |publisher=北海道新聞社 |date=2012-02-15 }}</ref> <ref group="新聞" name="e-kensin20111221">{{Cite news |url=http://e-kensin.net/news/article/6949.html |title=道新幹線札幌延伸、12年度着工が確実に-長大トンネル先行か |newspaper=[[北海道建設新聞]] e-kensinニュース(公共工事) |publisher=北海道建設新聞社 |date=2011-12-21 |accessdate=2013-07-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130715024312/http://e-kensin.net/news/article/6949.html |archivedate=2013年7月15日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> <ref group="新聞" name="交通1993-9">{{Cite news |title=導入進むATS-SN形 JR北海道 より確実に事故防止 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-09-21 |page=1 }}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/527946">{{Cite news|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/527946|title=JR函館線の線路脇でのり面崩れ 然別-倶知安間で終日運転見合わせ|newspaper=北海道新聞|date=2021-03-31|accessdate=2021-04-17|archiveurl=https://archive.is/pJom5|archivedate=2021-04-15}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/528676">{{Cite press release|和書|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/528676|title=JR函館線小沢-銀山間の運休、復旧に2週間 1日950人に影響|newspaper=北海道新聞|date=2021-04-02|accessdate=2021-04-17|archiveurl=https://archive.is/q4Mr8|archivedate=2021-04-15}}</ref> <ref group="新聞" name="hokkaido-np.co.jp/article/533198">{{Cite 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札幌市交通局
札幌市交通局(さっぽろしこうつうきょく、英称:Sapporo City Transportation Bureau)は、札幌市の公共交通事業部門であり地方公営企業にあたる。現在は札幌市内で市営地下鉄(高速電車)を運行している。 1930年(昭和5年)から2004年(平成16年)3月まで市営バスを運行していたが、赤字経営に伴う財政難からバス事業より撤退し、路線や車両などを民営バス会社に譲渡した。また、1927年(昭和2年)から市営電車(路面電車)を運営していたが、2020年(令和2年)4月1日より上下分離方式に移行し札幌市交通事業振興公社の運営となった(市電の施設は軌道整備事業者として引き続き交通局が保有)。そのため、福岡市交通局に次ぐ二局目の地下鉄専業の地方公営企業となった。 ロゴマークの「ST」はSapporo City Transportation Bureauの頭文字である。 1927年(昭和2年)市内の路面電車を市営化したのが始まりであり、1930年(昭和5年)にバス事業を、1971年(昭和46年)に地下鉄事業を開始した。 札幌市の交通事業は、長く電車、バス、地下鉄の三部門からなったが、1990年代後半以降、不況で圧迫された市の財政に対する大きな負担要素になっている。 1995年(平成7年)から札幌市では公共交通機関の利用者が減少しており、これは長期不況の影響だけでなく、自家用車利用の増加が原因と考えられている。それゆえ、各事業とも将来の増収を見込むことができない。 約7000億円の建設費の8割を借入で賄った地下鉄は、借入金に対する金利負担が重くのしかかっている。市営バスは収益が出る構造ではなく、恒常的に赤字であった。もっとも経営状態が良好な路面電車ですら、補助金無しには経営が成り立たず、2002年(平成14年)度までに4401億円の累積欠損金を計上するに至った。 札幌市は、1991年(平成3年)から経営改善計画を打ち出し、2001年(平成13年)度に新たに交通事業改革プランを策定し、経営の効率化を図ろうとしている。この一環として、バス事業を2000年(平成12年)4月から段階的に民間事業者へ移管し、2004年(平成16年)3月末をもって廃止した。路面電車についても、2002年(平成14年)に赤字に転落したこと、車両の老朽化が進んでいること、将来的に乗客数の伸びが見込まれないことから民間委託や廃止も視野に入れた検討が進められていたが、2005年(平成17年)2月に札幌駅への延長等の路線計画や民間活力導入による積極投資により存続を図る方針が決められた。赤字額が大きかった地下鉄は2004年(平成16年)度より「10か年経営計画」を実行中であり、ワンマン化や駅業務の委託、工場業務の外注化など、経費削減に努めている。一方、土日祝日に限り使用できる地下鉄専用一日乗車券「ドニチカきっぷ」の販売や駅構内へのテナント誘致、地下鉄車内で音声広告を導入するなど、新たな収益も確保している。金利負担・減価償却費の減少も加わり、2006年(平成18年)度には25年ぶりの黒字化に成功している。 なお、1958年7月に開業した藻岩山ロープウェイ(藻岩山索道事業)は、1985年6月に札幌交通開発公社に移管された(同社は1998年12月に札幌振興公社に合併)。 3線合計48.0km、一日平均乗車人員585,774人 (2013年度) (最寄駅(出入庫線の分岐駅):所属車両) 地域公共交通の活性化及び再生に関する法律で定める軌道運送高度化事業による上下分離方式を2020年度に導入し、軌道整備事業者として以下の路線の施設を保有している。電車の運行は軌道運送事業者である札幌市交通事業振興公社が担当している。 3線合計 8.9 km 地下鉄駅併設のものを中心にバスターミナルを管理している。バス事業から撤退したため現在は民間会社が乗り入れ、各社から使用料を徴収している。 2017年(平成29年)10月1日現在の施設は以下の通り。交通局以外が管理する施設は備考欄に管理者を注記する。乗り入れ事業者は各バスターミナルあるいは駅記事を参照。なお、周辺の路上停留所に発着し施設を使用しない場合は乗り入れ事業者に含まれない。 札幌市交通局事業管理部総務課が所管する法人に一般財団法人札幌市交通事業振興公社がある。地下鉄駅業務、定期券発売業務、遺失物取扱業務などを行っており、2020年度(令和2年度)からは軌道事業の上下分離方式の導入に伴い軌道運送事業も行っている。 札幌市交通事業振興公社は札幌市交通資料館の管理も行っている。
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札幌市交通局は、札幌市の公共交通事業部門であり地方公営企業にあたる。現在は札幌市内で市営地下鉄(高速電車)を運行している。 1930年(昭和5年)から2004年(平成16年)3月まで市営バスを運行していたが、赤字経営に伴う財政難からバス事業より撤退し、路線や車両などを民営バス会社に譲渡した。また、1927年(昭和2年)から市営電車(路面電車)を運営していたが、2020年(令和2年)4月1日より上下分離方式に移行し札幌市交通事業振興公社の運営となった(市電の施設は軌道整備事業者として引き続き交通局が保有)。そのため、福岡市交通局に次ぐ二局目の地下鉄専業の地方公営企業となった。 ロゴマークの「ST」はSapporo City Transportation Bureauの頭文字である。
{{一次資料|date=2021年4月}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 札幌市交通局 | 英文社名 = Sapporo City Transportation Bureau | ロゴ = [[File:ST Logo.svg]] | 画像 = [[File:ST Bureau HQ 201205.jpg|250px]] | 画像説明 = 札幌市交通局と大谷地駅(2012年5月) | 種類 = [[地方公営企業]] | 市場情報 = | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 004-8555 | 本社所在地 = [[北海道]][[札幌市]][[厚別区]][[大谷地|大谷地東]]2丁目4-1 | 設立 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[12月1日]](※1) | 業種 = 5050 | 事業内容 = 鉄道事業 | 代表者 = 中田 雅幸(交通局長) | 資本金 = | 発行済株式総数 = | 売上高 = | 営業利益 = | 純利益 = | 純資産 = | 総資産 = | 従業員数 = | 決算期 = | 主要株主 = | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.city.sapporo.jp/st/ | 特記事項 = ※1・札幌市電気局として発足 }} '''札幌市交通局'''(さっぽろしこうつうきょく、[[英語|英称]]:''Sapporo City Transportation Bureau'')は、[[札幌市]]の公共交通事業部門であり[[地方公営企業]]にあたる。現在は札幌市内で[[札幌市営地下鉄|市営地下鉄]](高速電車)を運行している。 [[1930年]]([[昭和]]5年)から[[2004年]]([[平成]]16年)3月まで[[札幌市営バス|市営バス]]を運行していたが、赤字経営に伴う財政難からバス事業より撤退し、路線や車両などを民営バス会社に譲渡した。また、[[1927年]](昭和2年)から[[札幌市電|市営電車]]([[路面電車]])を運営していたが、[[2020年]]([[令和]]2年)[[4月1日]]より[[上下分離方式]]に移行し[[札幌市交通事業振興公社]]の運営となった(市電の施設は軌道整備事業者として引き続き交通局が保有)。そのため、[[福岡市交通局]]に次ぐ二局目の地下鉄専業の地方公営企業となった。 ロゴマークの「ST」は'''S'''apporo City '''T'''ransportation Bureauの頭文字である。 == 概要 == {{出典の明記|date=2021年4月|section=1}}<!-- この節は、出典が一切ありませんので、別途出典を記載願います --> [[1927年]]([[昭和]]2年)市内の路面電車を市営化したのが始まりであり、[[1930年]](昭和5年)にバス事業を、[[1971年]](昭和46年)に地下鉄事業を開始した。 札幌市の交通事業は、長く[[札幌市電|電車]]、[[札幌市営バス|バス]]、[[札幌市営地下鉄|地下鉄]]の三部門からなったが、1990年代後半以降、不況で圧迫された市の財政に対する大きな負担要素になっている。 [[1995年]]([[平成]]7年)から札幌市では公共交通機関の利用者が減少しており、これは長期不況の影響だけでなく、自家用車利用の増加が原因と考えられている。それゆえ、各事業とも将来の増収を見込むことができない。 約7000億円の建設費の8割を借入で賄った地下鉄は、借入金に対する金利負担が重くのしかかっている。市営バスは収益が出る構造ではなく、恒常的に赤字であった。もっとも経営状態が良好な路面電車ですら、補助金無しには経営が成り立たず、[[2002年]](平成14年)度までに4401億円の累積欠損金を計上するに至った。 札幌市は、[[1991年]](平成3年)から経営改善計画を打ち出し、[[2001年]](平成13年)度に新たに交通事業改革プランを策定し、経営の効率化を図ろうとしている。この一環として、バス事業を2000年(平成12年)4月から段階的に民間事業者へ移管し、2004年(平成16年)3月末をもって廃止した。路面電車についても、2002年(平成14年)に赤字に転落したこと、車両の老朽化が進んでいること、将来的に乗客数の伸びが見込まれないことから民間委託や廃止も視野に入れた検討が進められていたが、[[2005年]](平成17年)[[2月]]に[[札幌駅]]への延長等の路線計画や民間活力導入による積極投資により存続を図る方針が決められた。赤字額が大きかった地下鉄は2004年(平成16年)度より「10か年経営計画」を実行中であり、ワンマン化や駅業務の委託、工場業務の外注化など、経費削減に努めている。一方、土日祝日に限り使用できる地下鉄専用一日乗車券「ドニチカきっぷ」の販売や駅構内へのテナント誘致、地下鉄車内で音声広告を導入するなど、新たな収益も確保している。金利負担・減価償却費の減少も加わり、[[2006年]](平成18年)度には25年ぶりの黒字化に成功している。 なお、[[1958年]]7月に開業した[[藻岩山ロープウェイ]](藻岩山索道事業)は、[[1985年]]6月に札幌交通開発公社に移管された(同社は1998年12月に札幌振興公社に合併)<ref name="10_honsho" /><ref>[https://sapporo-dc.co.jp/about/history/ 会社沿革] 株式会社札幌振興公社、2023年5月5日閲覧 </ref>。 == 路線・施設 == [[File:ST SN5000 20061102 001.jpg|right|250px|thumb|札幌市営地下鉄5000形(2006年11月)]] [[File:Hassamu-minami-Sta.Bus-Waiting-Area02.JPG|250px|thumb|発寒南バス発着場(2012年4月)]] === 地下鉄 === * [[札幌市営地下鉄]] ** [[札幌市営地下鉄南北線|南北線]] - 1971年12月16日開業、2022年現在16駅 ** [[札幌市営地下鉄東西線|東西線]] - 1976年6月10日開業、2022年現在19駅 ** [[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]] - 1988年12月2日開業、2022年現在14駅 3線合計48.0km、一日平均乗車人員585,774人 (2013年度) ==== 車両基地・拠点 ==== (最寄駅(出入庫線の分岐駅):所属車両) * 南車両基地(南北線[[自衛隊前駅]]:南北線) * 東車両基地(東西線[[ひばりが丘駅]]([[新さっぽろ駅]]):東西線) * 西車両基地(東西線[[二十四軒駅]]([[西28丁目駅]]):東豊線) * 栄町検車線(東豊線[[栄町駅 (札幌市)|栄町駅]]:なし) *: 東豊線の車両を西車両基地へ回送できない場合に使用される。 === 路面電車 === [[地域公共交通の活性化及び再生に関する法律]]で定める軌道運送高度化事業による[[上下分離方式]]を2020年度に導入し、軌道整備事業者として以下の路線の施設を保有している。電車の運行は軌道運送事業者である[[札幌市交通事業振興公社]]が担当している。 * [[札幌市電]] ** 1条線 ** 山鼻西線 ** 山鼻線 ** 都心線 3線合計 8.9 km === バスターミナル === 地下鉄駅併設のものを中心に[[バスターミナル]]を管理している。バス事業から撤退したため現在は民間会社が乗り入れ、各社から使用料を徴収している。 [[2017年]](平成29年)10月1日現在の施設は以下の通り<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。交通局以外が管理する施設は備考欄に管理者を注記する。乗り入れ事業者は各バスターミナルあるいは駅記事を参照。なお、周辺の路上停留所に発着し施設を使用しない場合は乗り入れ事業者に含まれない。 {|class="wikitable" style="text-align:left" |- ! 地下鉄駅 !! バスターミナル名 !! 法分類{{Refnest|group="注釈"|name="milt"|[[自動車ターミナル法]]による分類<ref name="mlit.go.jp/common/001251491" />。一般バスターミナル以外が専用バスターミナルとなり、バス発着場は法に基かない施設となる。}} !! 市分類{{Refnest|group="注釈"|name="sapporo"|札幌市による分類<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/bus/documents/p066-069busterminal" /><ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。}} !! 備考 |- | [[麻生駅]] || [[麻生バスターミナル]] || 専用 || 乗継 || |- | [[北34条駅]] || 北34条バス発着場 || - || 乗継 || |- | [[北24条駅]] || 北24条バスターミナル || 専用 || 乗継 || |- | [[さっぽろ駅]] || [[札幌駅バスターミナル]] || 一般 || 都心 || [[JRタワー#札幌駅総合開発|札幌駅総合開発]] |- | [[真駒内駅]] || 真駒内バス発着場 || - || 乗継 || |- | [[宮の沢駅]] || [[宮の沢バスターミナル]] || 一般 || 乗継 || 西新サービス |- | [[発寒南駅]] || 発寒南バス発着場 || - || 乗継 || (札幌市より移行) |- | [[琴似駅 (札幌市営地下鉄)|琴似駅]] || 琴似バスターミナル || 専用 || 乗継 || |- | [[二十四軒駅]] || 二十四軒バス発着場 || - || 乗継 || |- | [[西28丁目駅]] || 西28丁目バスターミナル || 専用 || 乗継 || |- | [[円山公園駅]] || 円山バスターミナル || 専用 || 乗継 || |- | [[バスセンター前駅]] || 大通バスターミナル || 専用 || 都心 || 札幌市(交通局より移行) 通称:大通バスセンター |- | [[白石駅 (札幌市営地下鉄)|白石駅]] || 白石バスターミナル || 専用 || 乗継 || |- | [[南郷7丁目駅]] || 南郷7丁目バスターミナル || 専用 || 乗継 || |- | [[南郷18丁目駅]] || 南郷18丁目バス発着場 || - || 乗継 || |- | [[大谷地駅]] || [[大谷地バスターミナル]] || 一般 || 乗継 || 西新サービス(札幌市より移行) |- | [[新さっぽろ駅]] || [[新札幌バスターミナル]] || 一般 || 乗継 || 札幌副都心開発公社 |- | [[環状通東駅]] || 環状通東バスターミナル || 専用 || 乗継 || |- | [[月寒中央駅]] || 月寒中央バス発着場<ref group="注釈" name="Mate" /> || - || 乗継 || [[札幌市農業協同組合]] |- | [[福住駅]] || [[福住バスターミナル]]<ref group="注釈" name="Mate" /> || 一般 || 乗継 || [[北海道いすゞ自動車]] |- | なし || [[啓明バスターミナル]] || 専用 || その他 || 札幌市(交通局より移行) |- | なし || もみじ台バスターミナル || 専用 || その他 || 札幌市(交通局より移行) |} ==== 廃止されたバスターミナル ==== {{節スタブ}} * 西野バスターミナル - 現在は「西野3条2丁目」バス停留所。跡地はコンビニエンスストアになった後、2019年時点では携帯電話販売店となっている。 * 新川バスターミナル - 建物は撤去され、跡地は閉鎖されている。 * 新琴似駅前バスターミナル - 市電「新琴似駅前」電車停留場に隣接して設置されていた。現在の北札幌病院付近。 == 沿革 == * [[1909年]]([[明治]]42年)2月:馬車鉄道が開業。 * [[1918年]]([[大正]]7年)8月:馬車鉄道が民営の電車となる。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)12月:民営の電車事業が市営となり、札幌市電気局が発足する<ref name="10_honsho">[https://www.city.sapporo.jp/st/zaimu/documents/10_honsho_urahyoushi.pdf 市営交通の沿革] 札幌市交通局事業管理部経営計画課、2023年5月5日閲覧 </ref>。 * [[1930年]](昭和5年)10月:市営乗合自動車事業(バス事業)開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1935年]](昭和10年)1月:貸切自動車事業(貸切バス事業)開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1938年]](昭和13年)1月:ガソリン節約のため、木炭バス運転開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1943年]](昭和18年)1月:札幌市電気局が札幌市交通事業所に名称変更<ref name="10_honsho" />。 * [[1947年]](昭和22年)6月:札幌市交通事業所が札幌市交通局へ名称変更<ref name="10_honsho" />。 * [[1951年]](昭和26年)5月:定期観光バス運行開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1958年]](昭和33年) ** 7月:[[藻岩山ロープウェイ]]運行開始<ref name="10_honsho" />。 ** 8月:日本初の路面ディーゼルカー運行開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1960年]](昭和35年)6月:電車全車ボギー化完了。 * [[1961年]](昭和36年) ** 4月:ワンマンバスの運行開始<ref name="10_honsho" />。 ** 7月:親子電車の運行開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1965年]](昭和40年)4月:電車・バス共通回数券を発売。 * [[1968年]](昭和43年)4月:連接車の運行開始。 * [[1970年]](昭和45年)2月:ワンマン電車の運行開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1971年]](昭和46年) ** 10月:電車第1次路線縮小。苗穂線・豊平線・北5条線・西20丁目線を廃止<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_6" />。 ** 12月:電車第2次路線縮小。鉄北線(札幌駅前 - 北24条間)・西4丁目線(三越前 - 札幌駅前間)を廃止<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_6" />。 ** [[12月16日]]:[[三大都市圏|東名阪]]以外では初となる地下鉄である、地下鉄南北線が開業(北24条 - 真駒内間)<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4" />。定期券での「地下鉄⇔電車・市バス乗継料金制度」実施。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[7月5日]]:地下鉄と[[北海道中央バス]]の乗継割引(定期券)を開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 ** [[5月1日]]:地下鉄と[[じょうてつ|じょうてつバス]]の乗継割引(定期券)を開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 * [[1973年]](昭和48年) ** 4月:電車第3次路線縮小。一条線(円山公園 - 交通局前間および西4丁目 - 一条橋間)・西4丁目線(すすきの - 西4丁目間)を廃止<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_6" />。 ** 10月:定期券外での「地下鉄⇔電車・市バス乗継料金制度」実施<ref name="10_honsho" />。 * [[1974年]](昭和49年)5月:電車第4次路線縮小。鉄北線(北24条 - 新琴似駅前間)を廃止<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_6" />。 * [[1976年]](昭和51年)[[6月10日]]:地下鉄東西線が開業(琴似 - 白石間)<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4" />。 * [[1977年]](昭和52年)[[5月1日]]:地下鉄と[[札幌ばんけい|ばんけいバス]]の乗継割引(定期券)を開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 * [[1978年]](昭和53年) ** [[3月16日]]:地下鉄南北線延長部開業(北24条 - 麻生間)<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4" />。 ** 11月:地下鉄南北線3000形が運行開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1979年]](昭和54年)[[10月20日]]:地下鉄とばんけいバスの乗継割引(乗継券)を開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 * [[1982年]](昭和57年)[[3月21日]]:地下鉄東西線延長部開業(白石 - 新さっぽろ間)<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4" />。地下鉄と北海道中央バスの乗継割引(乗継券)、地下鉄と[[国鉄バス]](現:[[ジェイ・アール北海道バス]])・[[夕張鉄道|夕鉄バス]]の乗継割引(定期券・乗継券)を開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 * [[1983年]](昭和58年)6月:ホーム全面禁煙実施。 * [[1984年]](昭和59年)6月:「1日乗車券」発売開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1985年]](昭和60年) ** 5月:電車8500形が運行開始<ref name="10_honsho" />。 ** 6月:藻岩山ロープウェイ事業を札幌交通開発公社(1998年12月に札幌振興公社に合併)に移管<ref>[https://sapporo-dc.co.jp/about/history/ 会社沿革] - 札幌振興公社</ref>。 * [[1988年]](昭和63年)[[12月2日]]:地下鉄東豊線開業(栄町 - 豊水すすきの間)<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4" />。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月3日]]:地下鉄専用1日乗車券発売開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 * [[1992年]](平成4年)11月:ウィズユーカード発売開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1993年]](平成5年)6月:エコキップ発売開始。 * [[1994年]](平成6年) ** 1月:電車・市バス・地下鉄の新デザイン採用。 ** 4月:定期観光バスを[[北海道中央バス]]に移譲<ref name="10_honsho" />。 ** 6月:地下鉄改札機で新カードシステム対応化<ref name="10_honsho" />。 ** [[10月14日]]:地下鉄東豊線延長部開業(豊水すすきの - 福住間)<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4" />。南北線「霊園前」駅を「南平岸」駅に改称。電車・市バス料金箱カード対応化。 * [[1995年]](平成7年)10月:地下鉄南北線5000形が運行開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1997年]](平成9年)[[4月1日]]:地下鉄とじょうてつバスの乗継割引(乗継券)を開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。[[共通ウィズユーカード]]発売開始。 * [[1998年]](平成10年)8月:地下鉄東西線8000形が運行開始<ref name="10_honsho" />。 * [[1999年]](平成11年) ** [[2月25日]]:地下鉄東西線延長部開業(琴似 - 宮の沢間)<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4" />。 ** 6月:地下鉄南北線2000形が全車引退<ref name="10_honsho" />。 ** 12月 [[昼間割引カード]]発売開始<ref name="10_honsho" />。始終発時刻変更。 * [[2000年]](平成12年)4月:地下鉄東豊線12駅(栄町 - 北13条東間および豊水すすきの - 福住間)を[[札幌市交通事業振興公社]]に委託開始。 * [[2001年]](平成13年) ** 4月:白石自動車営業所を北海道中央バスに移譲、厚別支所を廃止。 ** 12月:交通事業改革プランを策定。 * [[2003年]](平成15年)4月:琴似自動車営業所を[[ジェイ・アール北海道バス]]に、藻岩自動車営業所を[[じょうてつ|じょうてつバス]]に移譲。 * [[2004年]](平成16年) ** 4月:東・新川両自動車営業所を北海道中央バスへ移譲、バス事業を全面廃止<ref name="10_honsho" />。 ** [[10月1日]]:[[ドニチカキップ]]発売開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 * [[2006年]](平成18年) ** 1月:地下鉄全路線で[[駅ナンバリング]]導入<ref name="10_honsho" />。 ** [[5月3日]]:どサンこパス発売開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 * [[2008年]](平成20年) ** 8月:地下鉄東西線6000形が全車引退<ref name="10_honsho" />。 ** 12月:地下鉄南北線に「[[女性専用車両|女性とこどもの安心車両]]」を導入<ref name="10_honsho" />。 * [[2009年]](平成21年) ** [[1月30日]]:地下鉄に[[ICカード]]乗車券[[SAPICA]](無記名・記名・定期券)導入<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 ** 3月:地下鉄東西線全駅に[[ホームドア|可動式ホーム柵]]を設置完了。 ** 7月:地下鉄東西線に「女性とこどもの安心車両」を導入<ref name="10_honsho" />。 * [[2010年]](平成22年)11月:エコキップ廃止に伴い発売終了。 * [[2012年]](平成24年)3月:地下鉄南北線3000形が全車引退<ref name="10_honsho" />。 * [[2013年]](平成25年) ** 3月:地下鉄南北線全駅に可動式ホーム柵を設置完了。 ** 5月:電車A1200形が運行開始<ref name="10_honsho" />。 ** [[6月22日]]:電車や札幌市内バス3社(北海道中央バス、ジェイ・アール北海道バス、じょうてつ)においてもSAPICA(無記名・記名)導入<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。また[[Kitaca]]や[[Suica]]など全国各地のICカード乗車券もSAPICAエリア内で利用可能となる。 * [[2014年]](平成26年) ** [[2月20日]]:電車や札幌市内バス3社(北海道中央バス、ジェイ・アール北海道バス、じょうてつ)においてもSAPICA(定期券)導入<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。また、SAPICA(福祉割引)発売開始<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5" />。 ** 5月:共通ウィズユーカード、昼間割引カード発売終了<ref name="10_honsho" />。 * [[2015年]](平成27年) ** 4月:電車全路線で停留場ナンバリング導入。 ** 5月:地下鉄東豊線9000形が運行開始<ref name="10_honsho" />。 ** 12月:電車路線縮小後、初の延長部として、都心線(すすきの - 西4丁目間)開業<ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_6" />。 * [[2016年]](平成28年) ** 1月:地下鉄東豊線に発車時刻付の発車標を設置。 ** 3月:地下鉄東豊線の駅アナウンスが更新。福住方面は女声、栄町方面は男声によるアナウンスとなる。 ** 6月:地下鉄東豊線7000形が引退<ref name="10_honsho" />。 ** 9月:地下鉄東豊線9000形の導入が完了する。 * [[2020年]](令和2年) ** 4月1日:市電の運営を札幌市交通事業振興公社へ移管。 == 札幌市交通事業振興公社 == {{Main|札幌市交通事業振興公社}} 札幌市交通局事業管理部総務課が所管する法人に一般財団法人札幌市交通事業振興公社がある<ref name="r3-5">[https://www.city.sapporo.jp/somu/shusshi-dantai/kihonhoshin/documents/koudoukeikaku_r3-5.pdf 「札幌市出資団体の在り方に関する基本方針」に基づく各団体の具体的な行動計画(令和3~5年度)] 札幌市、2023年5月5日閲覧 </ref>。地下鉄駅業務、定期券発売業務、遺失物取扱業務などを行っており、2020年度(令和2年度)からは軌道事業の上下分離方式の導入に伴い軌道運送事業も行っている<ref name="r3-5" />。 札幌市交通事業振興公社は[[札幌市交通資料館]]の管理も行っている<ref>[https://www.stsp.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/%E4%BB%A4%E5%92%8C%EF%BC%94%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%80%80%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E8%A8%88%E7%94%BB.pdf 令和4年度 事業計画] 札幌市交通事業振興公社、2023年5月5日閲覧 </ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|refs= <ref group="注釈" name="Mate">札幌市営バスは開設時から乗り入れていなかった。</ref> }} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="mlit.go.jp/common/001251491">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.mlit.go.jp/common/001251491.pdf |format=PDF |language=日本語 |title=一般バスターミナル現況 |publisher=国土交通省 |accessdate=2019-01-06 }}</ref> <ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/bus/documents/p066-069busterminal">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/bus/documents/p066-069busterminal.pdf |format=PDF |language=日本語 |title=札幌市の都市交通データ - バス - バスターミナル |publisher=札幌市 |accessdate=2011-11-01 }}</ref> <ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4">{{Cite web|和書|url=http://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_4.pdf |title=4. 地下鉄 |pages=52-59 |accessdate=2019-01-06 |last= |first= |author= |coauthors= |date=2018-05-07 |year= |month= |format=PDF |language=日本語 |work=札幌の都市交通データ(2017年版) |publisher=札幌市 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5">{{Cite web|和書|url=http://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_5.pdf |title=5. バス |pages=60-79 |accessdate=2019-01-06 |last= |first= |author= |coauthors= |date=2018-05-07 |year= |month= |format=PDF |language=日本語 |work=札幌の都市交通データ(2017年版) |publisher=札幌市 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref name="city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_6">{{Cite web|和書|url=http://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/kotsutaikei/documents/databook_6.pdf |title=6. 路面電車 |pages=80-85 |accessdate=2019-01-06 |last= |first= |author= |coauthors= |date=2018-05-07 |year= |month= |format=PDF |language=日本語 |work=札幌の都市交通データ(2017年版) |publisher=札幌市 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> }} <!-- == 参考文献 == * 札幌市「札幌市のお金ってどうなってるの?」『広報さっぽろ』(2003年12月)。 * 札幌市交通局「市営交通事業の現状と見通し」、2001年12月。札幌市交通局のサイトで閲覧可能。 * 札幌市交通局「平成15年度版 事業概要」。札幌市交通局のサイトで閲覧可能。 --> == 関連項目 == * [[共通ウィズユーカード]] - 磁気式[[乗車カード]]。下記SAPICAの導入により、2014年5月31日をもって発売終了。 * [[SAPICA]] - 2009年1月30日より地下鉄で導入した非接触式[[ICカード]]乗車券 * [[S.M.A.P.カード]] - 以前に実証実験を行っていたICカード == 外部リンク == {{Commonscat|Sapporo City Transportation Bureau}} * [https://www.city.sapporo.jp/st/ 市営交通/札幌市交通局] * {{北海道遺産紹介ページ|id=sapporohakodate_romendensya|name=路面電車}} <!--{{日本の地下鉄}} 他の都市の公営事業者では、あれば事業項目([[○○市営地下鉄]]など)のほうに貼っている。--> <!--{{日本の路面電車}} [[札幌市電]]に貼った。--> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さつほろしこうつうきよく}} [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:日本の軌道事業者]] <!-- 地域公共交通活性化再生法による軌道整備事業者 --> [[Category:かつて存在した日本のバス事業者]] [[Category:北海道の地方公営企業]] [[Category:札幌市交通局|*]] [[Category:厚別区の企業]] [[Category:札幌市の交通]] [[Category:1927年設立の企業]]
2003-05-04T17:45:34Z
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理想気体
理想気体(、英: ideal gas)または完全気体(、英: perfect gas)は、圧力が温度と密度に比例し、内部エネルギーが密度に依らない想像上の気体である。気体の最も基本的な理論モデルであり、より厳密な他の気体の理論モデルはすべて、低密度では理想気体に漸近する。統計力学および気体分子運動論においては、気体を構成する個々の粒子の大きさが無視できるほど小さく、構成粒子間には引力が働かない系である。 実際には、どんな気体分子にも、ある程度の大きさがあり、分子間力も働いているので、理想気体は実在しない。理想気体に対して現実の気体は、実在気体または不完全気体と呼ばれる。実在気体も、低圧で高温の状態では理想気体に近い振る舞いをするため、常温・常圧において、実在気体を理想気体とみなしても問題ない場合は多い。 理想気体の状態方程式には2ないし3種のバリエーションがある。大きな違いは、気体を粒子の集まりとみなすか否かである。式の上での形式的な違いは、平衡状態における理想気体の圧力 p が である。 温度 T、体積 V、質量 m の平衡状態における、理想気体の圧力 p は p = m R s T V {\displaystyle p={\frac {mR_{\text{s}}T}{V}}} で表され、質量密度 m/V と温度 T に比例する。比例係数 Rs は比気体定数と呼ばれる。係数 Rs は [エネルギー]×[温度]×[質量] の次元を持つ定数で、気体の種類によって異なる。例えば空気の比気体定数は Rair = 287 J kgK である。この状態方程式は、気体の構成粒子の存在を前提としない場合でも意味を持つ式である。 統計力学によると、体積 V の容器の中に古典力学に従う N 個の自由粒子が閉じ込められているとき、温度 T の平衡状態におけるこの気体の圧力 p は p = N k B T V {\displaystyle p={\frac {Nk_{\text{B}}T}{V}}} で与えられ、数密度 N/V と温度 T に比例する。比例係数 kB は気体の種類によらない普遍定数で、ボルツマン定数と呼ばれる。 kB の次元は [エネルギー]×[温度] である。粒子数 N が式中に現れていることから明らかなように、この状態方程式は、気体の構成粒子の存在を前提としなければ意味を持たない。 温度 T、体積 V、物質量 n の平衡状態における、理想気体の圧力 p は p = n R T V {\displaystyle p={\frac {nRT}{V}}} で表され、モル体積 V/n に反比例し、温度 T に比例する。比例係数 R は気体の種類によらない普遍定数で、モル気体定数と呼ばれる。R は [エネルギー]×[温度]×[物質量] の次元を持ち、その値はボルツマン定数 kB にアボガドロ定数 NA を掛けたものに等しい。また、比気体定数 RM に気体のモル質量 M を掛けたものにも等しい。この状態方程式は、通常は、気体の構成粒子の存在を前提としている。なぜなら国際単位系では、気体の物質量 n は構成粒子数 N を NA で割ったものとして定義されるからである。ただしSIの定義にこだわらなければ、気体の構成粒子の存在を前提しなくても、純粋に巨視的な物理学の範囲内でこの状態方程式に意味を持たせることができる。 理想気体のエネルギーの表式にも2ないし3種のバリエーションがある。大きな違いは、気体の熱容量が温度に依存するか否かである。理想気体の状態方程式と熱力学的状態方程式から、内部エネルギーが体積に依存しないことが示される。しかし、内部エネルギーが温度に比例すること、すなわち定積熱容量が温度に依存しないことまでは示されない。理想気体の状態方程式を満足する気体は半理想気体、あるいは半完全気体と呼ばれる。半理想気体のうち、内部エネルギーが温度に比例する気体を狭義の理想気体という。狭義の理想気体のうち、構成粒子が内部自由度を持たない気体を単原子理想気体という。 温度 T、物質量 n の平衡状態における、単原子理想気体の内部エネルギー U は U = 3 2 n R T = 3 2 N k B T {\displaystyle U={\frac {3}{2}}nRT={\frac {3}{2}}Nk_{\text{B}}T} で表される。この式から単原子理想気体の定積モル熱容量 CV, m は C V , m = 3 2 R {\displaystyle C_{V,{\text{m}}}={\frac {3}{2}}R} と与えられる。単原子理想気体の CV, m は、温度にも気体の種類にも依らない定数である。 温度 T、物質量 n の平衡状態における、狭義の理想気体の内部エネルギー U は U = c n R T = c N k B T {\displaystyle U=cnRT=cNk_{\text{B}}T} で表される。 構成粒子を剛体とみなせる場合、比例係数 c は粒子1個当たりの自由度の 1/2 に相当する。内部自由度のない単原子理想気体であれば c = 3/2 である。剛体回転子とみなせる直線分子なら内部自由度が 2 なので c = 5/2、剛体回転子とみなせる非直線分子なら内部自由度が 3 なので c = 3 である。実在の分子で剛体回転子とみなせる分子は少ない。例えば一酸化炭素 CO は c = 2.50 だが、二酸化炭素 CO2 は c = 3.46 である。水蒸気 H2O は c = 3.04 だが、二酸化硫黄 SO2 は c = 3.80 である。二原子分子に限っても塩素 Cl2 は c = 3.08 であって、5/2 よりもむしろ 3 に近い。希ガス、酸素、窒素、水蒸気などの少数の例外を除けば、比例係数 c は分子式から手計算で求められる数値ではない。ファンデルワールス定数 a, b と同様に、比例係数 c は実際の気体の熱力学的性質を再現するように定められるパラメータである。また、剛体回転子とはみなせない分子の標準定積熱容量は、温度により少なからず変化する。それにも関わらず狭義の理想気体という気体の理論モデルをあえて考えるのは、エントロピーなどの表式がきわめて簡単になるからである。また、内部エネルギーを表す近似式としてそれで十分な場面も多い。とくに空気の主成分である酸素、窒素、水蒸気は(結露しない限り)比較的広い温度・圧力範囲で狭義の理想気体とみなせる。 温度 T、質量 m の平衡状態における、狭義の理想気体の内部エネルギー U は U = m c V T {\displaystyle U=mc_{V}T} で表される。狭義の理想気体の定積比熱容量 cV は、温度に依らない気体に固有の定数である。 熱力学関数としては、エントロピー S 、体積 V、物質量 n が内部エネルギーの自然な変数である。この考え方で表すと、1成分理想気体の内部エネルギーは となる。ただし添え字の 0 は適当に選んだ基準値を表す。 温度 T、物質量 n、質量 m の平衡状態における、半理想気体の内部エネルギー U は U = U 0 + n ∫ T 0 T C V , m ( T ′ ) d T ′ = U 0 + m ∫ T 0 T c V ( T ′ ) d T ′ {\displaystyle U=U_{0}+n\int _{T_{0}}^{T}C_{V,{\text{m}}}(T')\,\mathrm {d} T'=U_{0}+m\int _{T_{0}}^{T}c_{V}(T')\,\mathrm {d} T'} で表される。ここで U0 は、温度 T0 における物質量 n、質量 m の半理想気体の内部エネルギーである。半理想気体の CV, m と cV は、圧力と密度には依らない温度 T の関数である。関数の形は気体の種類により異なる。関数が定数関数 CV, m(T) = cR であるとき、その気体は狭義の理想気体である。構成粒子の並進運動の自由度のため、半理想気体の定積モル熱容量について任意の温度で C V , m ( T ) ≥ 3 2 R {\displaystyle C_{V,{\text{m}}}(T)\geq {\frac {3}{2}}R} が成り立つ。 理想気体に成立する法則として代表的なものには次のものがあげられる。 理想気体の等温圧縮率 κT は気体の種類に依らない。 κ T = − 1 V ( ∂ V ( T , p ) ∂ p ) T = 1 p {\displaystyle \kappa _{T}=-{\frac {1}{V}}\left({\frac {\partial V(T,p)}{\partial p}}\right)_{T}={\frac {1}{p}}} 理想気体の熱膨張率 α は気体の種類に依らない。 α = 1 V ( ∂ V ( T , p ) ∂ T ) p = 1 T {\displaystyle \alpha ={\frac {1}{V}}\left({\frac {\partial V(T,p)}{\partial T}}\right)_{p}={\frac {1}{T}}} アボガドロの法則は、同一圧力、同一温度の条件下では、気体の種類に関係なく同体積に同じ数の分子を含むというもの。 この法則は、気体の構成粒子の存在を前提としなければ意味を持たない。 理想気体の混合気体について、その圧力が混合気体を構成する個別の気体の分圧の和であるという法則。 この法則が成り立つ条件は、気体の構成粒子の存在を前提するか否かで異なる。 半理想気体のエンタルピー H は H = U + p V = U + n R T {\displaystyle H=U+pV=U+nRT} で表される。 狭義の理想気体のエンタルピー H は H = U + n R T = n ( c + 1 ) R T {\displaystyle H=U+nRT=n(c+1)RT} で表される。 T と n が同じであれば、理想気体のエンタルピー H は V にも p にも依らずに同じ値になる(ジュールの法則)。理想気体は等エンタルピー膨張で温度が変化しない。 半理想気体のモル熱容量は圧力にも気体の密度にも依らない。 狭義の理想気体の定積モル熱容量 CV, m は C V , m = 1 n ( ∂ U ∂ T ) V = c R {\displaystyle C_{V,{\text{m}}}={\frac {1}{n}}\left({\frac {\partial U}{\partial T}}\right)_{V}=cR} で表され、定圧モル熱容量 Cp, m は C p , m = 1 n ( ∂ H ∂ T ) p = ( c + 1 ) R {\displaystyle C_{p,{\text{m}}}={\frac {1}{n}}\left({\frac {\partial H}{\partial T}}\right)_{p}=(c+1)R} で表される。 理想気体の二つのモル熱容量の差は C p , m − C V , m = R {\displaystyle C_{p,{\text{m}}}-C_{V,{\text{m}}}=R} となる。この関係はマイヤーの関係式と呼ばれる。この関係式は半理想気体についても成り立つ。また、理想気体の二つのモル熱容量の比 γ は比熱比と呼ばれ γ = C p , m C V , m = C V , m + R C V , m = 1 + R C V , m {\displaystyle \gamma ={\frac {C_{p,{\text{m}}}}{C_{V,{\text{m}}}}}={\frac {C_{V,{\text{m}}}+R}{C_{V,{\text{m}}}}}=1+{\frac {R}{C_{V,{\text{m}}}}}} となる。半理想気体の比熱比 γ は一般には温度に依存する。狭義の理想気体の場合は、熱容量が温度に依存しないので γ = 1 + 1 c {\displaystyle \gamma =1+{\frac {1}{c}}} となり、比熱比 γ も温度に依存しない。 狭義の理想気体のエントロピー S は S = n R ln α T c V n {\displaystyle S=nR\ln \alpha {\frac {T^{c}V}{n}}} となる。ここで α は物質固有の定数である。狭義の理想気体のエントロピーの形は、熱力学第三法則を満たさない。 半理想気体のエントロピー S は S = n R ( ∫ T 0 T C V , m ( T ′ ) R T ′ d T ′ + ln α 0 V n ) {\displaystyle S=nR\left(\int _{T_{0}}^{T}{\frac {C_{V,{\text{m}}}(T')}{RT'}}\,\mathrm {d} T'+\ln \alpha _{0}{\frac {V}{n}}\right)} となる。ここで α0 は物質固有の定数である。半理想気体の CV, m が 3R/2 を下回ることはないので、半理想気体のエントロピーの形もまた、熱力学第三法則を満たさない。 準静的な断熱過程においては、エントロピーが一定となる。このとき T c V = const. {\displaystyle T^{c}V={\text{const.}}} p V γ = const. {\displaystyle pV^{\gamma }={\text{const.}}} の関係がある。これらはポアソンの法則と呼ばれる。狭義の理想気体では、ポアソンの法則が厳密に成り立つ。半理想気体では、ポアソンの法則が近似的に成り立つ。 自然な変数で表した1成分理想気体のヘルムホルツの自由エネルギー F(T, V, n) およびギブスの自由エネルギー G(T, p, n) は以下となる: ただし添え字の0は適当に選んだ基準値を表す。 理想気体の手短な解説において という説明がなされることがある。しかし、分子の体積と相互作用の両方が厳密にゼロだったなら、分子同士が衝突することはありえない。そのため気体が熱平衡に達するには、容器内壁を介して間接的に分子がエネルギーを互いにやり取りしなければならない。ところが容器内壁と分子の衝突が完全弾性衝突だったなら、それも不可能である。したがって、分子の体積がゼロ、相互作用がゼロ、完全弾性衝突だったなら、どれだけ時間が経っても気体が熱平衡に達することはない。 上の3条件のいずれかを適当に緩めると、気体を熱平衡状態にすることができる。例えば、容器内壁と分子の間にエネルギーのやり取りを許せばよい。そうすると壁を温度 T の熱浴とみなせるので、カノニカル分布の方法が使える。 あるいは、完全弾性衝突の条件をそのままにして としてもよい。ここで微小剛体球の半径は、実際の分子の大きさよりもずっと小さい値、例えば 1 fm(核子くらいの大きさ)を仮定する。剛体球なので、粒子間距離が球の直径より小さくなろうとしたときには強い斥力が働いて粒子同士の衝突は完全弾性衝突となるが、粒子間距離が球の直径より少しでも大きいときには粒子間に相互作用が働かない。理想気体の体積中で構成粒子の占める体積が十分に小さければ、この系はほとんど独立な粒子の集まりとなるので理想系である。容器内壁との衝突が完全弾性衝突ということは、この壁が断熱壁であるということなので、体積 V と 粒子数 N が一定であれば、この系は孤立系である。よってボルツマンの公式によりエントロピーを求めることができる(ミクロカノニカルアンサンブル)。 単原子理想気体の性質は、粒子の並進運動の分配関数から計算できる。すなわち、容器内壁以外でポテンシャルがゼロであるようなハミルトニアンを用いることで、単原子理想気体の性質が統計力学により再現される。 狭義の理想気体の性質は、分子の並進と回転の分配関数から計算できる。分子を古典力学に従う剛体回転子とみなすと、理想気体の熱容量が温度に依存しないことが統計力学により再現される。 半理想気体の性質は、分子の並進と回転と振動の分配関数から計算できる。必要であれば分子の電子状態の分配関数も考える。調和振動子のハミルトニアンを用いることで、理想気体の熱容量が温度に依存することが統計力学により再現される。窒素 N2、酸素 O2、水蒸気 H2O の熱容量が比較的広い温度範囲で一定とみなせるのは、これらの分子の分子振動を励起するのに必要なエネルギーが kBT よりもずっと大きいためである。 理想気体はどんな条件下でも相転移しない。これは理想気体が以下の性質を持つと仮定しているためである。 理想気体は気体の理論モデルである。理想気体は想像上の存在である、といってもよい。ボイル=シャルルの法則が厳密に成り立つ気体は、現実には存在しない。理想気体の法則は、低圧の状態に近づくにつれて実在気体でも厳密に成り立つようになる極限法則である。 実在気体が理想気体と若干異なる性質を持つのは、気体分子に体積があり、分子間力が働いているためである。温度 T と分子数 N が一定の場合、気体が低圧の状態に近づくということは、気体分子の数密度が減るということだから、気体分子の体積と分子間力について次のことが言える。 どんな気体でも温度を一定に保ったまま低圧にすると、気体分子の体積と分子間力が無視できるようになるので、ボイル=シャルルの法則が成り立つようになる。実在気体の状態方程式はすべて、低密度で理想気体に漸近する形になっている。例えばファンデルワールスの状態方程式 p = R T V m − b − a V m 2 {\displaystyle p={\frac {RT}{V_{\text{m}}-b}}-{\frac {a}{{V_{\text{m}}}^{2}}}} あるいはビリアル方程式 p = R T V m ( 1 + B V ( T ) V m + C V ( T ) V m 2 + . . . ) {\displaystyle p={\frac {RT}{V_{m}}}\left(1+{\frac {B_{V}(T)}{V_{m}}}+{\frac {C_{V}(T)}{V_{m}^{2}}}+...\right)} はどちらも、温度 T 一定、モル体積 Vm → ∞ の極限で理想気体の状態方程式となる。 同じ理由で、どんな気体でも圧力を一定に保ったまま高温にすると、密度が減少して気体分子の体積と分子間力が無視できるようになるので、ボイル=シャルルの法則が成り立つようになる。ただしある程度の高温になると、どんな気体でも分子の解離や電離(プラズマ化)が起こるため、分子数 N が温度や圧力によって変化するようになる。そのような高温領域では、アボガドロの法則とドルトンの法則は成り立っても、ボイル=シャルルの法則は成り立たなくなる。それゆえ「理想気体の法則は高温の状態に近づくにつれて実在気体でも厳密に成り立つようになる極限法則である」ということはできない。 理想気体は、気体が関係する物理化学現象を解析する際に、気体のモデルとして多用される。例として が挙げられる。 気体の性質については、17世紀には盛んに研究がすすめられ、ボイルの法則やシャルルの法則などが発見されていた。そして19世紀に入った1802年、ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックは、気体の体積は温度が1°C上昇すると266分の1だけ増加し、この増加の割合は気体の種類によらないという実験結果を発表した。さらに同じ時期に、ジョン・ドルトンも同様の結果を導き出した(しかし後に、ドルトンの測定値には計算の誤りがあり、実際はゲイ=リュサックの値とは異なっていることが明らかになっている)。 気体の熱膨張率が気体の種類によらないというゲイ=リュサックらの実験結果から、気体は物質の種類とは無関係の熱の普遍的な性質が現れると考えられるようになった。さらに、気体は固体や液体よりも熱膨張しやすく観測が容易であることも相まって、19世紀前半になると、熱学において気体の研究は重要な位置を占めるようになった。 しかしその後、このゲイ=リュサックの結果に対して疑問が抱かれるようになった。フレードリク・ルードベリ(ドイツ語版)は1837年の論文で、ゲイ=リュサックの実験は空気を乾燥していない条件での数値であって、乾燥させた空気では値が異なってくることを明らかにした。ハインリヒ・グスタフ・マグヌスはルードベリの実験を追試するとともに、体積が膨張する割合は気体によって異なることを発見した。 アンリ・ヴィクトル・ルニョーは1842年の論文で、様々な気体について精密に実験した結果を発表した。そして、ゲイ=リュサックらによる気体の基本的な性質が成り立つのは、特殊な条件下にある気体、すなわち理想気体に限られることを見出した。さらにルニョーは、気体が圧縮された状態にあると、理想気体からのずれは大きくなることを発見した。ルニョーは、これは圧縮によって分子間の引力が強くなったためだと推察した。 分子間力も考慮に入れた状態方程式は、1873年、ヨハネス・ファン・デル・ワールスによって作られた。 ゲイ=リュサックの理論が理想気体のみでしか成り立たないという発見は、温度計の分野において大きな転換点になった。そもそも温度計は、温度によって基準物質(水銀など)が体積変化(または圧力変化)する現象を利用している。そして当時は、熱の本質はカロリック(熱素)という物質であるという、カロリック説が主流であった。カロリック説によれば、温度とはカロリックの量で決まるため、カロリックの量を正しく反映させることのできる温度計が優れた温度計となる。そして、ゲイ=リュサックの実験によれば、気体においてはどの気体でも熱膨張率が一定であるので、このことから気体は液体や固体と比べて物体の種類に影響されることなく、カロリックの量を正確に反映した体積変化をすると考えられていたのである。以上のことから、ピエール=シモン・ラプラスは1825年、著書『天体力学』5巻において、気体である空気を基準物質とした空気温度計こそが真の温度計だと主張した。 しかし、ルニョーによって気体の熱膨張率が気体の種類によって異なることが明らかになると、空気温度計を真の温度計として他と比べて絶対視することはできなくなった。ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は1848年、特定の物質を基準物質として、それで絶対的な尺度を得ることはできないと述べた。 実在の気体は理想気体の性質を満たさないが、高温になると理想気体と似たふるまいを示す。この現象について、カロリック説では、高温の気体ではカロリックの持つ膨張力(斥力)が強くはたらき、分子間力が無視できるようになるためだと説明されていた。それに対し、ルドルフ・クラウジウスは、高温では分子間力に対してなされる仕事が、外圧に対してなされる仕事と比べて無視できるほど小さくなるためだと述べ、カロリックを使わずにこの現象を説明した。 そしてクラウジウスは1850年の論文で、理想気体を取り上げて研究し、理想気体の状態方程式などから、熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)を定式化した。さらにクラウジウスは同論文で、熱は低温の物体から高温の物体へとひとりでに流れることはないという、熱力学第二法則を初めて導き出した。 一方、ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は理想気体に基づいた理論を拒否した。そしてトムソンは、クラウジウス論文から1年遅れとなる1851年に、理想気体に限定しない形で熱力学第二法則を導き出した。さらに1854年には、同じく理想気体に頼らずに熱力学温度を定義した。トムソンは1878年、理想気体について、「そのどの性質もいかなる現実の物質によっても厳密には実現されず、そのいくつかの性質は未知で想像によってさえまったく与えることのできない完全気体と呼ばれるある架空の実在を最初に構成することによって、熱力学の理解はきわめて遅らされ、学生は不必要に混乱させられ、単なる浮砂にすぎぬものが温度測定の基礎として与えられてきた」と批判している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "理想気体(、英: ideal gas)または完全気体(、英: perfect gas)は、圧力が温度と密度に比例し、内部エネルギーが密度に依らない想像上の気体である。気体の最も基本的な理論モデルであり、より厳密な他の気体の理論モデルはすべて、低密度では理想気体に漸近する。統計力学および気体分子運動論においては、気体を構成する個々の粒子の大きさが無視できるほど小さく、構成粒子間には引力が働かない系である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "実際には、どんな気体分子にも、ある程度の大きさがあり、分子間力も働いているので、理想気体は実在しない。理想気体に対して現実の気体は、実在気体または不完全気体と呼ばれる。実在気体も、低圧で高温の状態では理想気体に近い振る舞いをするため、常温・常圧において、実在気体を理想気体とみなしても問題ない場合は多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "理想気体の状態方程式には2ないし3種のバリエーションがある。大きな違いは、気体を粒子の集まりとみなすか否かである。式の上での形式的な違いは、平衡状態における理想気体の圧力 p が", "title": "状態方程式" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "である。", "title": "状態方程式" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "温度 T、体積 V、質量 m の平衡状態における、理想気体の圧力 p は", "title": "状態方程式" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "p = m R s T V {\\displaystyle p={\\frac {mR_{\\text{s}}T}{V}}}", "title": "状態方程式" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "で表され、質量密度 m/V と温度 T 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b と同様に、比例係数 c は実際の気体の熱力学的性質を再現するように定められるパラメータである。また、剛体回転子とはみなせない分子の標準定積熱容量は、温度により少なからず変化する。それにも関わらず狭義の理想気体という気体の理論モデルをあえて考えるのは、エントロピーなどの表式がきわめて簡単になるからである。また、内部エネルギーを表す近似式としてそれで十分な場面も多い。とくに空気の主成分である酸素、窒素、水蒸気は(結露しない限り)比較的広い温度・圧力範囲で狭義の理想気体とみなせる。", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "温度 T、質量 m の平衡状態における、狭義の理想気体の内部エネルギー U は", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "U = m c V T {\\displaystyle U=mc_{V}T}", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "で表される。狭義の理想気体の定積比熱容量 cV は、温度に依らない気体に固有の定数である。", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "熱力学関数としては、エントロピー S 、体積 V、物質量 n が内部エネルギーの自然な変数である。この考え方で表すと、1成分理想気体の内部エネルギーは", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "となる。ただし添え字の 0 は適当に選んだ基準値を表す。", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "温度 T、物質量 n、質量 m の平衡状態における、半理想気体の内部エネルギー U は", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "U = U 0 + n ∫ T 0 T C V , m ( T ′ ) d T ′ = U 0 + m ∫ T 0 T c V ( T ′ ) d T ′ {\\displaystyle U=U_{0}+n\\int _{T_{0}}^{T}C_{V,{\\text{m}}}(T')\\,\\mathrm {d} T'=U_{0}+m\\int _{T_{0}}^{T}c_{V}(T')\\,\\mathrm {d} T'}", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "で表される。ここで U0 は、温度 T0 における物質量 n、質量 m の半理想気体の内部エネルギーである。半理想気体の CV, m と cV は、圧力と密度には依らない温度 T の関数である。関数の形は気体の種類により異なる。関数が定数関数 CV, m(T) = cR であるとき、その気体は狭義の理想気体である。構成粒子の並進運動の自由度のため、半理想気体の定積モル熱容量について任意の温度で", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "C V , m ( T ) ≥ 3 2 R {\\displaystyle C_{V,{\\text{m}}}(T)\\geq {\\frac {3}{2}}R}", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "が成り立つ。", "title": "内部エネルギー" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "理想気体に成立する法則として代表的なものには次のものがあげられる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "理想気体の等温圧縮率 κT は気体の種類に依らない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "κ T = − 1 V ( ∂ V ( T , p ) ∂ p ) T = 1 p {\\displaystyle \\kappa _{T}=-{\\frac {1}{V}}\\left({\\frac {\\partial V(T,p)}{\\partial p}}\\right)_{T}={\\frac {1}{p}}}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "理想気体の熱膨張率 α は気体の種類に依らない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "α = 1 V ( ∂ V ( T , p ) ∂ T ) p = 1 T {\\displaystyle \\alpha ={\\frac {1}{V}}\\left({\\frac {\\partial V(T,p)}{\\partial T}}\\right)_{p}={\\frac {1}{T}}}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アボガドロの法則は、同一圧力、同一温度の条件下では、気体の種類に関係なく同体積に同じ数の分子を含むというもの。 この法則は、気体の構成粒子の存在を前提としなければ意味を持たない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "理想気体の混合気体について、その圧力が混合気体を構成する個別の気体の分圧の和であるという法則。 この法則が成り立つ条件は、気体の構成粒子の存在を前提するか否かで異なる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "半理想気体のエンタルピー H は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "H = U + p V = U + n R T {\\displaystyle H=U+pV=U+nRT}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "で表される。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "狭義の理想気体のエンタルピー H は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "H = U + n R T = n ( c + 1 ) R T {\\displaystyle H=U+nRT=n(c+1)RT}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "で表される。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "T と n が同じであれば、理想気体のエンタルピー H は V にも p にも依らずに同じ値になる(ジュールの法則)。理想気体は等エンタルピー膨張で温度が変化しない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "半理想気体のモル熱容量は圧力にも気体の密度にも依らない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "狭義の理想気体の定積モル熱容量 CV, m は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "C V , m = 1 n ( ∂ U ∂ T ) V = c R {\\displaystyle C_{V,{\\text{m}}}={\\frac {1}{n}}\\left({\\frac {\\partial U}{\\partial T}}\\right)_{V}=cR}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "で表され、定圧モル熱容量 Cp, m は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "C p , m = 1 n ( ∂ H ∂ T ) p = ( c + 1 ) R {\\displaystyle C_{p,{\\text{m}}}={\\frac {1}{n}}\\left({\\frac {\\partial H}{\\partial T}}\\right)_{p}=(c+1)R}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "で表される。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "理想気体の二つのモル熱容量の差は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "C p , m − C V , m = R {\\displaystyle C_{p,{\\text{m}}}-C_{V,{\\text{m}}}=R}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "となる。この関係はマイヤーの関係式と呼ばれる。この関係式は半理想気体についても成り立つ。また、理想気体の二つのモル熱容量の比 γ は比熱比と呼ばれ", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "γ = C p , m C V , m = C V , m + R C V , m = 1 + R C V , m {\\displaystyle \\gamma ={\\frac {C_{p,{\\text{m}}}}{C_{V,{\\text{m}}}}}={\\frac {C_{V,{\\text{m}}}+R}{C_{V,{\\text{m}}}}}=1+{\\frac {R}{C_{V,{\\text{m}}}}}}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "となる。半理想気体の比熱比 γ は一般には温度に依存する。狭義の理想気体の場合は、熱容量が温度に依存しないので", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "γ = 1 + 1 c {\\displaystyle \\gamma =1+{\\frac {1}{c}}}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "となり、比熱比 γ も温度に依存しない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "狭義の理想気体のエントロピー S は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "S = n R ln α T c V n {\\displaystyle S=nR\\ln \\alpha {\\frac {T^{c}V}{n}}}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "となる。ここで α は物質固有の定数である。狭義の理想気体のエントロピーの形は、熱力学第三法則を満たさない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "半理想気体のエントロピー S は", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "S = n R ( ∫ T 0 T C V , m ( T ′ ) R T ′ d T ′ + ln α 0 V n ) {\\displaystyle S=nR\\left(\\int _{T_{0}}^{T}{\\frac {C_{V,{\\text{m}}}(T')}{RT'}}\\,\\mathrm {d} T'+\\ln \\alpha _{0}{\\frac {V}{n}}\\right)}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "となる。ここで α0 は物質固有の定数である。半理想気体の CV, m が 3R/2 を下回ることはないので、半理想気体のエントロピーの形もまた、熱力学第三法則を満たさない。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "準静的な断熱過程においては、エントロピーが一定となる。このとき", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "T c V = const. {\\displaystyle T^{c}V={\\text{const.}}}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "p V γ = const. {\\displaystyle pV^{\\gamma }={\\text{const.}}}", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "の関係がある。これらはポアソンの法則と呼ばれる。狭義の理想気体では、ポアソンの法則が厳密に成り立つ。半理想気体では、ポアソンの法則が近似的に成り立つ。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "自然な変数で表した1成分理想気体のヘルムホルツの自由エネルギー F(T, V, n) およびギブスの自由エネルギー G(T, p, n) は以下となる:", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ただし添え字の0は適当に選んだ基準値を表す。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "理想気体の手短な解説において", "title": "統計力学による再現" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "という説明がなされることがある。しかし、分子の体積と相互作用の両方が厳密にゼロだったなら、分子同士が衝突することはありえない。そのため気体が熱平衡に達するには、容器内壁を介して間接的に分子がエネルギーを互いにやり取りしなければならない。ところが容器内壁と分子の衝突が完全弾性衝突だったなら、それも不可能である。したがって、分子の体積がゼロ、相互作用がゼロ、完全弾性衝突だったなら、どれだけ時間が経っても気体が熱平衡に達することはない。", "title": "統計力学による再現" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "上の3条件のいずれかを適当に緩めると、気体を熱平衡状態にすることができる。例えば、容器内壁と分子の間にエネルギーのやり取りを許せばよい。そうすると壁を温度 T の熱浴とみなせるので、カノニカル分布の方法が使える。", "title": "統計力学による再現" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "あるいは、完全弾性衝突の条件をそのままにして", "title": "統計力学による再現" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "としてもよい。ここで微小剛体球の半径は、実際の分子の大きさよりもずっと小さい値、例えば 1 fm(核子くらいの大きさ)を仮定する。剛体球なので、粒子間距離が球の直径より小さくなろうとしたときには強い斥力が働いて粒子同士の衝突は完全弾性衝突となるが、粒子間距離が球の直径より少しでも大きいときには粒子間に相互作用が働かない。理想気体の体積中で構成粒子の占める体積が十分に小さければ、この系はほとんど独立な粒子の集まりとなるので理想系である。容器内壁との衝突が完全弾性衝突ということは、この壁が断熱壁であるということなので、体積 V と 粒子数 N が一定であれば、この系は孤立系である。よってボルツマンの公式によりエントロピーを求めることができる(ミクロカノニカルアンサンブル)。", "title": "統計力学による再現" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "単原子理想気体の性質は、粒子の並進運動の分配関数から計算できる。すなわち、容器内壁以外でポテンシャルがゼロであるようなハミルトニアンを用いることで、単原子理想気体の性質が統計力学により再現される。", "title": "統計力学による再現" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "狭義の理想気体の性質は、分子の並進と回転の分配関数から計算できる。分子を古典力学に従う剛体回転子とみなすと、理想気体の熱容量が温度に依存しないことが統計力学により再現される。", "title": "統計力学による再現" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "半理想気体の性質は、分子の並進と回転と振動の分配関数から計算できる。必要であれば分子の電子状態の分配関数も考える。調和振動子のハミルトニアンを用いることで、理想気体の熱容量が温度に依存することが統計力学により再現される。窒素 N2、酸素 O2、水蒸気 H2O の熱容量が比較的広い温度範囲で一定とみなせるのは、これらの分子の分子振動を励起するのに必要なエネルギーが kBT よりもずっと大きいためである。", "title": "統計力学による再現" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "理想気体はどんな条件下でも相転移しない。これは理想気体が以下の性質を持つと仮定しているためである。", "title": "相転移" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "理想気体は気体の理論モデルである。理想気体は想像上の存在である、といってもよい。ボイル=シャルルの法則が厳密に成り立つ気体は、現実には存在しない。理想気体の法則は、低圧の状態に近づくにつれて実在気体でも厳密に成り立つようになる極限法則である。", "title": "極限法則としての理想気体" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "実在気体が理想気体と若干異なる性質を持つのは、気体分子に体積があり、分子間力が働いているためである。温度 T と分子数 N が一定の場合、気体が低圧の状態に近づくということは、気体分子の数密度が減るということだから、気体分子の体積と分子間力について次のことが言える。", "title": "極限法則としての理想気体" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "どんな気体でも温度を一定に保ったまま低圧にすると、気体分子の体積と分子間力が無視できるようになるので、ボイル=シャルルの法則が成り立つようになる。実在気体の状態方程式はすべて、低密度で理想気体に漸近する形になっている。例えばファンデルワールスの状態方程式", "title": "極限法則としての理想気体" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "p = R T V m − b − a V m 2 {\\displaystyle p={\\frac {RT}{V_{\\text{m}}-b}}-{\\frac {a}{{V_{\\text{m}}}^{2}}}}", "title": "極限法則としての理想気体" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "あるいはビリアル方程式", "title": "極限法則としての理想気体" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "p = R T V m ( 1 + B V ( T ) V m + C V ( T ) V m 2 + . . . ) {\\displaystyle p={\\frac {RT}{V_{m}}}\\left(1+{\\frac {B_{V}(T)}{V_{m}}}+{\\frac {C_{V}(T)}{V_{m}^{2}}}+...\\right)}", "title": "極限法則としての理想気体" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "はどちらも、温度 T 一定、モル体積 Vm → ∞ の極限で理想気体の状態方程式となる。", "title": "極限法則としての理想気体" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "同じ理由で、どんな気体でも圧力を一定に保ったまま高温にすると、密度が減少して気体分子の体積と分子間力が無視できるようになるので、ボイル=シャルルの法則が成り立つようになる。ただしある程度の高温になると、どんな気体でも分子の解離や電離(プラズマ化)が起こるため、分子数 N が温度や圧力によって変化するようになる。そのような高温領域では、アボガドロの法則とドルトンの法則は成り立っても、ボイル=シャルルの法則は成り立たなくなる。それゆえ「理想気体の法則は高温の状態に近づくにつれて実在気体でも厳密に成り立つようになる極限法則である」ということはできない。", "title": "極限法則としての理想気体" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "理想気体は、気体が関係する物理化学現象を解析する際に、気体のモデルとして多用される。例として", "title": "理想気体の応用" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "が挙げられる。", "title": "理想気体の応用" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "気体の性質については、17世紀には盛んに研究がすすめられ、ボイルの法則やシャルルの法則などが発見されていた。そして19世紀に入った1802年、ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックは、気体の体積は温度が1°C上昇すると266分の1だけ増加し、この増加の割合は気体の種類によらないという実験結果を発表した。さらに同じ時期に、ジョン・ドルトンも同様の結果を導き出した(しかし後に、ドルトンの測定値には計算の誤りがあり、実際はゲイ=リュサックの値とは異なっていることが明らかになっている)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "気体の熱膨張率が気体の種類によらないというゲイ=リュサックらの実験結果から、気体は物質の種類とは無関係の熱の普遍的な性質が現れると考えられるようになった。さらに、気体は固体や液体よりも熱膨張しやすく観測が容易であることも相まって、19世紀前半になると、熱学において気体の研究は重要な位置を占めるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "しかしその後、このゲイ=リュサックの結果に対して疑問が抱かれるようになった。フレードリク・ルードベリ(ドイツ語版)は1837年の論文で、ゲイ=リュサックの実験は空気を乾燥していない条件での数値であって、乾燥させた空気では値が異なってくることを明らかにした。ハインリヒ・グスタフ・マグヌスはルードベリの実験を追試するとともに、体積が膨張する割合は気体によって異なることを発見した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "アンリ・ヴィクトル・ルニョーは1842年の論文で、様々な気体について精密に実験した結果を発表した。そして、ゲイ=リュサックらによる気体の基本的な性質が成り立つのは、特殊な条件下にある気体、すなわち理想気体に限られることを見出した。さらにルニョーは、気体が圧縮された状態にあると、理想気体からのずれは大きくなることを発見した。ルニョーは、これは圧縮によって分子間の引力が強くなったためだと推察した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "分子間力も考慮に入れた状態方程式は、1873年、ヨハネス・ファン・デル・ワールスによって作られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ゲイ=リュサックの理論が理想気体のみでしか成り立たないという発見は、温度計の分野において大きな転換点になった。そもそも温度計は、温度によって基準物質(水銀など)が体積変化(または圧力変化)する現象を利用している。そして当時は、熱の本質はカロリック(熱素)という物質であるという、カロリック説が主流であった。カロリック説によれば、温度とはカロリックの量で決まるため、カロリックの量を正しく反映させることのできる温度計が優れた温度計となる。そして、ゲイ=リュサックの実験によれば、気体においてはどの気体でも熱膨張率が一定であるので、このことから気体は液体や固体と比べて物体の種類に影響されることなく、カロリックの量を正確に反映した体積変化をすると考えられていたのである。以上のことから、ピエール=シモン・ラプラスは1825年、著書『天体力学』5巻において、気体である空気を基準物質とした空気温度計こそが真の温度計だと主張した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "しかし、ルニョーによって気体の熱膨張率が気体の種類によって異なることが明らかになると、空気温度計を真の温度計として他と比べて絶対視することはできなくなった。ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は1848年、特定の物質を基準物質として、それで絶対的な尺度を得ることはできないと述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "実在の気体は理想気体の性質を満たさないが、高温になると理想気体と似たふるまいを示す。この現象について、カロリック説では、高温の気体ではカロリックの持つ膨張力(斥力)が強くはたらき、分子間力が無視できるようになるためだと説明されていた。それに対し、ルドルフ・クラウジウスは、高温では分子間力に対してなされる仕事が、外圧に対してなされる仕事と比べて無視できるほど小さくなるためだと述べ、カロリックを使わずにこの現象を説明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "そしてクラウジウスは1850年の論文で、理想気体を取り上げて研究し、理想気体の状態方程式などから、熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)を定式化した。さらにクラウジウスは同論文で、熱は低温の物体から高温の物体へとひとりでに流れることはないという、熱力学第二法則を初めて導き出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "一方、ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は理想気体に基づいた理論を拒否した。そしてトムソンは、クラウジウス論文から1年遅れとなる1851年に、理想気体に限定しない形で熱力学第二法則を導き出した。さらに1854年には、同じく理想気体に頼らずに熱力学温度を定義した。トムソンは1878年、理想気体について、「そのどの性質もいかなる現実の物質によっても厳密には実現されず、そのいくつかの性質は未知で想像によってさえまったく与えることのできない完全気体と呼ばれるある架空の実在を最初に構成することによって、熱力学の理解はきわめて遅らされ、学生は不必要に混乱させられ、単なる浮砂にすぎぬものが温度測定の基礎として与えられてきた」と批判している。", "title": "歴史" } ]
理想気体(りそうきたい、または完全気体(かんぜんきたい、は、圧力が温度と密度に比例し、内部エネルギーが密度に依らない想像上の気体である。気体の最も基本的な理論モデルであり、より厳密な他の気体の理論モデルはすべて、低密度では理想気体に漸近する。統計力学および気体分子運動論においては、気体を構成する個々の粒子の大きさが無視できるほど小さく、構成粒子間には引力が働かない系である。 実際には、どんな気体分子にも、ある程度の大きさがあり、分子間力も働いているので、理想気体は実在しない。理想気体に対して現実の気体は、実在気体または不完全気体と呼ばれる。実在気体も、低圧で高温の状態では理想気体に近い振る舞いをするため、常温・常圧において、実在気体を理想気体とみなしても問題ない場合は多い。
{{Thermodynamics sidebar}} [[File:Translational motion.gif|thumb|right|200px|理想気体分子が分子同士または容器壁と完全弾性衝突を繰り返す様子。分子同士が衝突するためには分子は有限の大きさを持たなければならない。]] {{読み仮名|'''理想気体'''|りそうきたい|{{lang-en-short|ideal gas}}}}または{{読み仮名|'''完全気体'''|かんぜんきたい|{{lang-en-short|perfect gas}}}}は、[[圧力]]が[[熱力学温度|温度]]と[[密度]]に比例し、[[内部エネルギー]]が密度に依らない想像上の[[気体]]である<ref>『[[#理化学辞典|理化学辞典]]』「理想気体」.</ref>。気体の最も基本的な[[モデル (自然科学)|理論モデル]]であり、より厳密な他の気体の理論モデルはすべて、低密度では理想気体に漸近する。[[統計力学]]および[[気体分子運動論]]においては、気体を構成する個々の粒子<ref group=注>[[分子]]や[[原子]]など。</ref>の大きさが無視できるほど小さく、構成粒子間には[[引力]]が働かない系である<ref>『[[#アトキンス物理化学|アトキンス物理化学]]』 p. 9.</ref>。 実際には、どんな気体分子<ref group=注>気体を構成する個々の[[粒子]]のこと。気体分子運動論では、構成粒子が原子であってもこれを分子と呼ぶことが多い。</ref>にも、ある程度の大きさがあり、[[分子間力]]も働いているので、理想気体は実在しない。理想気体に対して現実の気体は、[[実在気体]]または不完全気体と呼ばれる<ref>[[#伏見p9|伏見 1942]], p.&nbsp;9.</ref>。実在気体も、低圧で高温の状態では理想気体に近い振る舞いをするため、[[標準状態|常温・常圧]]において、実在気体を理想気体とみなしても問題ない場合は多い。 == 状態方程式 == {{main|理想気体の状態方程式}} 理想気体の状態方程式には2ないし3種のバリエーションがある。大きな違いは、気体を粒子の集まりとみなすか否かである。式の上での形式的な違いは、[[平衡状態]]における理想気体の圧力 {{mvar|p}} が * [[質量密度]]に比例するか * [[数密度]]に比例するか * モル密度([[モル体積]]の逆数)<ref>『[[#グリーンブック|グリーンブック]]』 p. 167.</ref>に比例するか である。 === 質量密度を変数とする状態方程式 === 温度 {{mvar|T}}、体積 {{mvar|V}}、[[質量]] {{mvar|m}} の平衡状態における、理想気体の圧力 {{mvar|p}} は {{Indent| <math>p =\frac{mR_\text{s} T}{V}</math> }} で表され、質量密度 {{math|''m''/''V''}} と温度 {{mvar|T}} に比例する。比例係数 {{math|''R''{{sub|s}}}} は[[気体定数|比気体定数]]<ref group=注>{{en|specific gas constant}}。単に気体定数と呼ぶことが多い。</ref>と呼ばれる<ref>『[[#理化学辞典|理化学辞典]]』「気体定数」.</ref>。係数 {{math|''R''{{sub|s}}}} は [エネルギー]×[温度]{{sup-|1}}×[質量]{{sup-|1}} の[[量の次元|次元]]を持つ定数で、気体の種類によって異なる。例えば空気の比気体定数は {{math|1= ''R''<sub>air</sub> = 287 J kg<sup>&minus;1</sup>K<sup>&minus;1</sup>}} である{{sfn|松尾|1994|p=9}}。この状態方程式は、気体の構成粒子の存在を前提としない場合でも意味を持つ式である。 === 数密度を変数とする状態方程式 === 統計力学によると、体積 {{mvar|V}} の容器の中に[[古典力学]]に従う {{mvar|N}} 個の[[自由粒子]]が閉じ込められているとき、温度 {{mvar|T}} の平衡状態におけるこの気体の圧力 {{mvar|p}} は {{Indent| <math>p =\frac{Nk_\text{B} T}{V}</math> }} で与えられ、数密度 {{math|''N''/''V''}} と温度 {{mvar|T}} に比例する。比例係数 {{math|''k''<sub>B</sub>}} は気体の種類によらない普遍定数で、[[ボルツマン定数]]と呼ばれる。 {{math|''k''<sub>B</sub>}} の次元は [エネルギー]×[温度]<sup>&minus;1</sup> である。粒子数 {{mvar|N}} が式中に現れていることから明らかなように、この状態方程式は、気体の構成粒子の存在を前提としなければ意味を持たない。 === モル体積を変数とする状態方程式 === 温度 {{mvar|T}}、体積 {{mvar|V}}、[[物質量]] {{mvar|n}} の平衡状態における、理想気体の圧力 {{mvar|p}} は {{Indent| <math>p =\frac{nRT}{V}</math> }} で表され、モル体積 {{math|''V''/''n''}} に反比例し、温度 {{mvar|T}} に比例する。比例係数 {{mvar|R}} は気体の種類によらない普遍定数で、モル気体定数<ref group=注>{{en|molar gas constant}}。単に気体定数と呼ぶことが多い。</ref>と呼ばれる。{{mvar|R}} は [エネルギー]×[温度]<sup>&minus;1</sup>×[物質量]<sup>&minus;1</sup> の次元を持ち、その値はボルツマン定数 {{math|''k''<sub>B</sub>}} に[[アボガドロ定数]] {{math|''N''<sub>A</sub>}} を掛けたものに等しい。また、比気体定数 {{mvar|R<sub>M</sub>}} に気体の[[モル質量]] {{mvar|M}} を掛けたものにも等しい。この状態方程式は、通常は、気体の構成粒子の存在を前提としている。なぜなら[[国際単位系]]では、気体の物質量 {{mvar|n}} は構成粒子数 {{mvar|N}} を {{math|''N''<sub>A</sub>}} で割ったものとして定義されるからである。ただしSIの定義にこだわらなければ、気体の構成粒子の存在を前提しなくても、純粋に巨視的な物理学の範囲内でこの状態方程式に意味を持たせることができる{{sfn|キャレン|1999|p=12}}{{sfn|田崎|2000|p=52}}。 == 内部エネルギー == 理想気体のエネルギーの表式にも2ないし3種のバリエーションがある。大きな違いは、気体の[[熱容量]]が温度に依存するか否かである。理想気体の状態方程式と[[熱力学的状態方程式#理想気体|熱力学的状態方程式]]から、内部エネルギーが体積に依存しないことが示される。しかし、内部エネルギーが温度に比例すること、すなわち定積熱容量が温度に依存しないことまでは示されない。理想気体の状態方程式を満足する気体は'''半理想気体'''、あるいは'''半完全気体'''と呼ばれる{{sfn|松尾|1994|p=15}}。半理想気体のうち、内部エネルギーが温度に比例する気体を'''狭義の理想気体'''という。狭義の理想気体のうち、構成粒子が内部自由度<ref group=注>粒子の回転や変形などの[[自由度]]のこと。</ref>を持たない気体を'''単原子理想気体'''という{{sfn|キャレン|1998|p=87}}。 === 単原子理想気体 === 温度 {{mvar|T}}、物質量 {{mvar|n}} の平衡状態における、単原子理想気体の内部エネルギー {{mvar|U}} は {{Indent| <math>U =\frac{3}{2}nRT=\frac{3}{2}Nk_\text{B} T</math> }} で表される。この式から単原子理想気体の[[定積モル熱容量]] {{math|''C''<sub>''V'', m</sub>}} は {{Indent| <math>C_{V,\text{m}} = \frac{3}{2}R</math> }} と与えられる。単原子理想気体の {{math|''C''<sub>''V'', m</sub>}} は、温度にも気体の種類にも依らない定数である。 === 狭義の理想気体 === 温度 {{mvar|T}}、物質量 {{mvar|n}} の平衡状態における、狭義の理想気体の内部エネルギー {{mvar|U}} は {{Indent| <math>U =cnRT=cNk_\text{B} T</math> }} で表される。 構成粒子を[[剛体]]とみなせる場合、比例係数 {{mvar|c}} は粒子1個当たりの[[自由度]]の 1/2 に相当する。内部自由度のない単原子理想気体であれば {{math|''c'' {{=}} 3/2}} である。剛体回転子とみなせる直線分子なら内部自由度が 2 なので {{math|''c'' {{=}} 5/2}}、剛体回転子とみなせる非直線分子なら内部自由度が 3 なので {{math|''c'' {{=}} 3}} である。実在の分子で剛体回転子とみなせる分子は少ない。例えば[[一酸化炭素]] CO は {{math|''c'' {{=}} 2.50}} だが、[[二酸化炭素]] CO<sub>2</sub> は {{math|''c'' {{=}} 3.46}} である。[[水蒸気]] H<sub>2</sub>O は {{math|''c'' {{=}} 3.04}} だが、[[二酸化硫黄]] SO<sub>2</sub> は {{math|''c'' {{=}} 3.80}} である。二原子分子に限っても[[塩素]] Cl<sub>2</sub> は {{math|''c'' {{=}} 3.08}} であって、5/2 よりもむしろ 3 に近い<ref>これらの {{mvar|c}} の値は『[[#アトキンス第8版|アトキンス物理化学]]』 表2・7 より算出した。</ref>。[[希ガス]]、[[酸素]]、[[窒素]]、[[水蒸気]]などの少数の例外を除けば、比例係数 {{mvar|c}} は[[分子式]]から手計算で求められる数値ではない。[[ファンデルワールス定数]] {{math|''a'', ''b''}} と同様に、比例係数 {{mvar|c}} は実際の気体の熱力学的性質を再現するように定められるパラメータである。また、剛体回転子とはみなせない分子の標準定積熱容量は、温度により少なからず変化する。それにも関わらず狭義の理想気体という気体の理論モデルをあえて考えるのは、エントロピーなどの表式がきわめて簡単になるからである{{sfn|松尾|1994|p=14}}。また、内部エネルギーを表す近似式としてそれで十分な場面も多い。とくに空気の主成分である酸素、窒素、水蒸気は([[結露]]しない限り)比較的広い温度・圧力範囲で狭義の理想気体とみなせる。 温度 {{mvar|T}}、質量 {{mvar|m}} の平衡状態における、狭義の理想気体の内部エネルギー {{mvar|U}} は {{Indent| <math>U =mc_V T</math> }} で表される。狭義の理想気体の[[比熱容量|定積比熱容量]] {{mvar|c<sub>V</sub>}} は、温度に依らない気体に固有の定数である。 [[熱力学関数]]としては、エントロピー {{math|''S''}} 、体積 {{math|''V''}}、物質量 {{math|''n''}} が内部エネルギーの自然な変数である。この考え方で表すと、1成分理想気体の内部エネルギーは :<math>U(S,V,n)=U_0 \left(\frac{n}{n_0}\right)^\gamma \left(\frac{V}{V_0}\right)^{-(\gamma-1)} \exp\left[\frac{\gamma-1}{R}\left(\frac{S}{n}-\frac{S_0}{n_0}\right)\right]</math> となる{{sfn|清水|2007|p=115}}。ただし添え字の 0 は適当に選んだ基準値を表す。 === 半理想気体 === 温度 {{mvar|T}}、物質量 {{mvar|n}}、質量 {{mvar|m}} の平衡状態における、半理想気体の内部エネルギー {{mvar|U}} は {{Indent| <math>U =U_0+n\int^T_{T_0}C_{V,\text{m}}(T')\,\mathrm dT'=U_0+m\int^T_{T_0}c_V(T')\,\mathrm dT'</math> }} で表される。ここで {{math|''U''<sub>0</sub>}} は、温度 {{math|''T''<sub>0</sub>}} における物質量 {{mvar|n}}、質量 {{mvar|m}} の半理想気体の内部エネルギーである。半理想気体の {{math|''C''<sub>''V'', m</sub>}} と {{mvar|c<sub>V</sub>}} は、圧力と密度には依らない温度 {{mvar|T}} の関数である。関数の形は気体の種類により異なる。関数が[[定数関数]] {{math|1=''C''<sub>''V'', m</sub>(''T'') = ''cR''}} であるとき、その気体は狭義の理想気体である。構成粒子の[[並進運動]]の自由度のため、半理想気体の定積モル熱容量について任意の温度で {{Indent| <math>C_{V,\text{m}}(T) \ge \frac{3}{2}R</math> }} が成り立つ。 == 性質 == 理想気体に成立する法則として代表的なものには次のものがあげられる。 === ボイルの法則 === {{main|ボイルの法則}} 理想気体の[[圧縮率#等温圧縮率|等温圧縮率]] {{mvar|&kappa;<sub>T</sub>}} は気体の種類に依らない。 {{Indent| <math>\kappa_T = -\frac{1}{V} \left( \frac{\partial V(T,p)}{\partial p} \right)_T=\frac{1}{p}</math> }} === シャルルの法則 === {{main|シャルルの法則}} 理想気体の[[熱膨張率]] {{mvar|&alpha;}} は気体の種類に依らない。 {{Indent| <math>\alpha = \frac{1}{V} \left( \frac{\partial V(T,p)}{\partial T} \right)_p=\frac{1}{T}</math> }} === アボガドロの法則 === {{main|アボガドロの法則}} アボガドロの法則は、同一圧力、同一温度の条件下では、気体の種類に関係なく同体積に同じ数の分子を含むというもの。 この法則は、気体の構成粒子の存在を前提としなければ意味を持たない。 === ドルトンの分圧の法則 === {{main|ドルトンの法則}} 理想気体の混合気体について、その圧力が混合気体を構成する個別の気体の[[分圧]]の和であるという法則。 この法則が成り立つ条件は、気体の構成粒子の存在を前提するか否かで異なる。 ;構成粒子の存在を前提する場合:気体の混合前後あるいは分離前後で構成粒子の総数が変化しない。 ;構成粒子の存在を前提しない場合:[[準静的過程|準静的]]な[[等温過程|等温操作]]で混合あるいは分離のための[[仕事 (熱力学)|仕事]] {{math|''W''<sub>mix</sub>}} が無視できる{{sfn|田崎|2000|p=175}}。 {{see also|理想混合気体}} === エンタルピー === 半理想気体の[[エンタルピー]] {{mvar|H}} は {{Indent| <math>H =U+pV =U+nRT</math> }} で表される。 狭義の理想気体のエンタルピー {{mvar|H}} は {{Indent| <math>H =U+nRT = n(c+1)RT</math> }} で表される。 {{mvar|T}} と {{mvar|n}} が同じであれば、理想気体のエンタルピー {{mvar|H}} は {{mvar|V}} にも {{mvar|p}} にも依らずに同じ値になる([[熱力学的状態方程式#ジュールの法則|ジュールの法則]])。理想気体は等エンタルピー膨張で温度が変化しない。 {{see|ジュール=トムソン効果}} === モル熱容量 === 半理想気体のモル熱容量は圧力にも気体の密度にも依らない。 狭義の理想気体の[[定積モル熱容量]] {{math|''C''<sub>''V'', m</sub>}} は {{Indent| <math>C_{V,\text{m}} =\frac{1}{n} \left( \frac{\partial U}{\partial T} \right)_V =cR</math> }} で表され、[[定圧モル熱容量]] {{math|''C''<sub>''p'', m</sub>}} は {{Indent| <math>C_{p,\text{m}} =\frac{1}{n} \left( \frac{\partial H}{\partial T} \right)_p =(c+1)R</math> }} で表される。 理想気体の二つのモル熱容量の差は {{Indent| <math>C_{p,\text{m}} -C_{V,\text{m}} =R</math> }} となる。この関係は[[マイヤーの関係式]]と呼ばれる。この関係式は半理想気体についても成り立つ。また、理想気体の二つのモル熱容量の比 {{mvar|&gamma;}} は[[比熱比]]と呼ばれ {{Indent| <math>\gamma =\frac{C_{p,\text{m}}}{C_{V,\text{m}}} =\frac{C_{V,\text{m}}+R}{C_{V,\text{m}}} =1+\frac{R}{C_{V,\text{m}}}</math> }} となる。半理想気体の比熱比 {{mvar|&gamma;}} は一般には温度に依存する。狭義の理想気体の場合は、熱容量が温度に依存しないので {{Indent| <math>\gamma =1+\frac{1}{c}</math> }} となり、比熱比 {{mvar|&gamma;}} も温度に依存しない。 === エントロピー === 狭義の理想気体の[[エントロピー]] {{mvar|S}} は {{Indent| <math>S = nR\ln \alpha \frac{T^c V}{n}</math> }} となる。ここで {{mvar|&alpha;}} は物質固有の定数である。狭義の理想気体のエントロピーの形は、[[熱力学第三法則]]を満たさない。 半理想気体のエントロピー {{mvar|S}} は {{Indent| <math>S = nR\left(\int^T_{T_0}\frac{C_{V,\text{m}}(T')}{RT'}\,\mathrm dT' + \ln \alpha_0 \frac{V}{n}\right)</math> }} となる。ここで {{math|''&alpha;''<sub>0</sub>}} は物質固有の定数<ref group=注>基準とする温度 {{math|''T''<sub>0</sub>}} には依存する。</ref>である。半理想気体の {{math|''C''<sub>''V'', m</sub>}} が {{math|3''R''/2}} を下回ることはないので、半理想気体のエントロピーの形もまた、熱力学第三法則を満たさない。 [[準静的過程|準静的]]な[[断熱過程]]においては、エントロピーが一定となる。このとき {{Indent| <math>T^cV =\text{const.}</math> }} {{Indent| <math>pV^\gamma =\text{const.}</math> }} の関係がある。これらは[[ポアソンの法則]]と呼ばれる。狭義の理想気体では、ポアソンの法則が厳密に成り立つ。半理想気体では、ポアソンの法則が近似的に成り立つ。 === 自由エネルギー === 自然な変数で表した1成分理想気体のヘルムホルツの[[自由エネルギー]] {{math|''F''(''T'', ''V'', ''n'')}} およびギブスの自由エネルギー {{math|''G''(''T'', ''p'', ''n'')}} は以下となる{{sfn|清水|2007|p=264,401}}: :<math>F(T,V,n) = \frac{nT}{n_0 T_0}F_0 - RnT\ln\left[\left(\frac{T}{T_0}\right)^\frac{1}{\gamma-1} \left(\frac{V}{V_0}\right) \left(\frac{n}{n_0}\right)^{-1}\right],</math> :<math>G(T,p,n)=\frac{nT}{n_0 T_0}G_0 - RnT\ln\left[\left(\frac{T}{T_0}\right)^\frac{\gamma}{\gamma-1} \left(\frac{p}{p_0}\right)^{-1}\right].</math> ただし添え字の0は適当に選んだ基準値を表す。 == 統計力学による再現 == 理想気体の手短な解説{{Sfnm|石川|2016|1p=76|卜部|2005|2p=116|ps= など。}}において * 理想気体の体積中では気体分子の占める体積は存在しない(分子の体積がゼロ)。 * 理想気体では分子間力がいっさい作用しない(相互作用がゼロ)。 * 理想気体は分子同士{{Sfn|石川|2016|pp=76-84|ps=. には理想気体の分子同士の衝突に関する記述はない。}}や容器内壁と衝突してもその衝突前と衝突後で[[運動エネルギー]]の和は変わらない([[衝突|完全弾性衝突]])。 という説明がなされることがある。しかし、分子の体積と相互作用の両方が厳密にゼロだったなら、分子同士が衝突することはありえない。そのため気体が[[熱平衡]]に達するには、容器内壁を介して間接的に分子がエネルギーを互いにやり取りしなければならない。ところが容器内壁と分子の衝突が完全弾性衝突だったなら、それも不可能である。したがって、分子の体積がゼロ、相互作用がゼロ、完全弾性衝突だったなら、どれだけ時間が経っても気体が熱平衡に達することはない。 上の3条件のいずれかを適当に緩めると、気体を熱平衡状態にすることができる。例えば、容器内壁と分子の間にエネルギーのやり取りを許せばよい。そうすると壁を温度 {{mvar|T}} の熱浴とみなせるので、[[カノニカル分布]]の方法が使える{{sfn|香取|2007|pp=10,20}}。 あるいは、完全弾性衝突の条件をそのままにして * 理想気体の体積中で構成粒子の占める体積はきわめて小さいがゼロではない(微小剛体球)。 * 理想気体では粒子間に[[引力]]が働かない(引力がゼロ)。 * 理想気体は粒子同士や容器内壁と衝突してもその衝突前と衝突後で運動エネルギーの和は変わらない(完全弾性衝突)。 としてもよい{{sfn|松尾|1994|p=10}}。ここで微小剛体球の半径は、実際の分子の大きさよりもずっと小さい値、例えば 1 [[フェムトメートル|fm]]([[核子]]くらいの大きさ)を仮定する。剛体球なので、粒子間距離が球の直径より小さくなろうとしたときには強い[[斥力]]が働いて粒子同士の衝突は完全弾性衝突となるが、粒子間距離が球の直径より少しでも大きいときには粒子間に相互作用が働かない。理想気体の体積中で構成粒子の占める体積が十分に小さければ、この系はほとんど独立な粒子の集まりとなるので'''理想系'''<ref group=注>わずかな相互作用により粒子が互いにエネルギーを交換するが、相互作用エネルギーの全系のエネルギーへの寄与は無視できるほど小さく、全系のエネルギーが個々の粒子のエネルギーの和として与えられる系のこと。</ref>{{sfn|中村|1993|p=92}}{{sfn|阿部|1992|p=3}}である。容器内壁との衝突が完全弾性衝突ということは、この壁が断熱壁であるということなので、体積 {{mvar|V}} と 粒子数 {{mvar|N}} が一定であれば、この系は[[孤立系]]である。よって[[ボルツマンの公式]]によりエントロピーを求めることができる([[ミクロカノニカルアンサンブル]])。 === 内部自由度のない粒子からなる理想気体 === {{Main|ザックール・テトローデ方程式}} 単原子理想気体の性質は、粒子の並進運動の[[分配関数]]から計算できる。すなわち、容器内壁以外で[[ポテンシャル]]がゼロであるような[[ハミルトニアン]]を用いることで、単原子理想気体の性質が統計力学により再現される。 === 剛体回転子からなる理想気体 === {{Main|標準モルエントロピー#回転エントロピー}} 狭義の理想気体の性質は、分子の並進と回転の分配関数から計算できる。分子を古典力学に従う剛体回転子とみなすと、理想気体の熱容量が温度に依存しないことが統計力学により再現される。 {{See also|エネルギー等配分の法則}} === 振動する分子からなる理想気体 === {{Main|標準モルエントロピー#統計力学的計算}} 半理想気体の性質は、分子の並進と回転と振動の分配関数から計算できる。必要であれば分子の[[電子状態]]の分配関数も考える。[[調和振動子]]のハミルトニアンを用いることで、理想気体の熱容量が温度に依存することが統計力学により再現される。窒素 N<sub>2</sub>、酸素 O<sub>2</sub>、水蒸気 H<sub>2</sub>O の熱容量が比較的広い温度範囲で一定とみなせるのは、これらの分子の[[分子振動]]を励起するのに必要なエネルギーが [[KT (エネルギー)| {{math|''k''<sub>B</sub>''T''}}]] よりもずっと大きいためである。 == 相転移 == 理想気体はどんな条件下でも[[相転移]]しない。これは理想気体が以下の性質を持つと仮定しているためである。 * 理想気体の体積中で気体分子の占める体積は無視できるほど小さい。 *: [[実在気体]]では、圧力を一定に保ったまま温度を下げていくと、液体か固体に相転移する。あるいは、温度を一定に保ったまま圧力を上げても、液体か固体に相転移する。それに対して理想気体では、圧力を一定に保ったまま温度を下げていくと、気体の体積が際限なく小さくなる。温度を一定に保ったまま圧力を上げても同様である。理論上は、[[絶対零度]]または圧力無限大の極限で理想気体の体積は 0 になる。理想気体では実在気体の相転移現象を再現できない。 *: 理想気体を拡張したモデルに{{仮リンク|剛体球モデル|en|Hard spheres}}がある。このモデルでは、気体分子は、分子と同程度の大きさの剛体球で表される。剛体球モデルでは、適度な低温または適度な高圧で、気体が固体に相転移する(アルダー転移){{sfn|香取|2007|p=13}}。このことから、理想気体で相転移が起こらないのは気体の分子の体積を無視したためであることが分かる。剛体球モデルでは[[平均自由行程]]を求めることができるので、[[粘度]]などの[[輸送係数]]について議論することができる。また、密度が低くて[[連続体]]とみなすことができない[[希薄気体]]を扱うこともできる{{sfn|松尾|1994|p=21}}。 * 理想気体には気体分子間の引力が作用しない。 *: 剛体球モデルでは、気体から液体への相転移が起きない。それに対して理想気体の別の拡張モデルである[[ファンデルワールスの状態方程式|ファンデルワールス気体]]では、気液相転移が起こる<ref group=注>ただしファンデルワールス気体では、固体への相転移は起こらない。</ref>。ファンデルワールス気体は、気体分子間の引力を考慮した理論モデルである。このことから、理想気体や剛体球モデルで気液相転移が起こらないのは気体分子間の引力を無視したためであることが分かる。 <!-- 分子間力とは無関係の記述をコメントアウト(2017年3月) *: 理想気体は分子同士や容器内壁と衝突してもその衝突前と衝突後で運動エネルギーの和は変わらない。いわゆる完全弾性衝突で、これは[[エネルギー保存の法則#概要|熱力学第一法則]]に従う。また、理想気体の状態方程式とボイル=シャルルの法則を両立させた結果でも、理想気体は熱力学第一法則に反していない。冷却によって体積が縮小されると、体積の縮小と言う形で理想気体が[[仕事]]をしたことになる。一見すると理想気体は熱力学第一法則に反しているように見えるが、外部からのエネルギーの供給なくひとりでにエネルギーを作り出すこともせず、逆に発生したエネルギーを仕事をさせずに消滅させてもいないので、熱力学第一法則とは矛盾しない。 --> == 極限法則としての理想気体 == {{main|実在気体|圧縮率因子}} 理想気体は気体の[[モデル (自然科学)|理論モデル]]である。理想気体は想像上の存在である、といってもよい。[[ボイル=シャルルの法則]]が厳密に成り立つ気体は、現実には存在しない。理想気体の法則は、低圧の状態に近づくにつれて実在気体でも厳密に成り立つようになる[[極限法則]]<ref name=atkins>『[[#atkins|アトキンス物理化学要論]]』 p. 12.</ref><ref group=注>ある極限状態に近づくにつれて近似が良くなり、極限状態では厳密に成り立つ法則のこと。</ref>である。 実在気体が理想気体と若干異なる性質を持つのは、気体分子に体積があり、[[分子間力]]が働いているためである。温度 {{mvar|T}} と分子数 {{mvar|N}} が一定の場合、気体が低圧の状態に近づくということは、気体分子の数密度が減るということだから、気体分子の体積と分子間力について次のことが言える。 * 実在気体の体積中で気体分子の占める体積の割合は、温度が同じなら低圧ほど小さくなり、圧力ゼロの極限でゼロになる。 *: 分子が集まってできた固体の[[圧縮率]]や[[熱膨張率]]は、[[標準状態|常温・常圧]]の気体と比べてはるかに小さい。このことから、分子自体の大きさは、温度や圧力によってさほど変化しないと考えられる。よって分子の数密度が減れば、気体分子の占める体積の割合は小さくなる。 * 実在気体の気体分子間に働く分子間力は、温度が同じなら低圧ほど弱くなり、圧力ゼロの極限でゼロになる。 *: 低密度になるほど、分子間の平均距離が長くなる。分子同士が離れているほど、分子間力は弱くなる。個々の分子がほかの分子の影響を受けずに過ごす時間は低密度になるほど長くなる、といってもよい<ref>『[[#アトキンス物理化学|アトキンス物理化学]]』 p. 14.</ref>。 どんな気体でも温度を一定に保ったまま低圧にすると、気体分子の体積と分子間力が無視できるようになるので、ボイル=シャルルの法則が成り立つようになる。実在気体の状態方程式はすべて、低密度で理想気体に漸近する形になっている。例えば[[ファンデルワールスの状態方程式]] {{Indent| <math>p =\frac{RT}{V_\text{m}-b} -\frac{a}{{V_\text{m}}^2}</math> }} あるいは[[ビリアル方程式]] {{Indent| <math>p = \frac{RT}{V_m}\left(1 + \frac{B_V (T)}{V_m} + \frac{C_V (T)}{V_m^2} + ...\right)</math> }} はどちらも、温度 {{mvar|T}} 一定、[[モル体積]] {{math|''V''{{sub|m}} → ∞}} の極限で理想気体の状態方程式となる。 同じ理由で、どんな気体でも圧力を一定に保ったまま高温にすると、密度が減少して気体分子の体積と分子間力が無視できるようになるので、ボイル=シャルルの法則が成り立つようになる。ただしある程度の高温になると、どんな気体でも分子の[[解離 (化学)|解離]]や[[電離]]([[プラズマ]]化)が起こるため、分子数 {{mvar|N}} が温度や圧力によって変化するようになる。そのような高温領域では、[[アボガドロの法則]]と[[ドルトンの法則]]は成り立っても、ボイル=シャルルの法則は成り立たなくなる。それゆえ「理想気体の法則は高温の状態に近づくにつれて実在気体でも厳密に成り立つようになる極限法則である」ということはできない。 == 理想気体の応用 == {{main|クラウジウス・クラペイロンの式|平衡定数|サハの電離公式}} 理想気体は、気体が関係する物理化学現象を解析する際に、気体のモデルとして多用される。例として * 固相や液相と[[相平衡]]にある蒸気 * [[解離 (化学)|解離]]などの気相の化学平衡 * [[電離]]([[プラズマ]]化)した気体の電離平衡 が挙げられる。 == 歴史 == === ルニョーによる発見 === [[File:Henri Victor Regnault 1860s.jpg|thumb|180px|アンリ・ヴィクトル・ルニョー(Henri Victor Regnault)]] 気体の性質については、17世紀には盛んに研究がすすめられ{{sfn|ダンネマン|1979|p=100}}、ボイルの法則やシャルルの法則などが発見されていた。そして19世紀に入った1802年、[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック]]は、気体の体積は温度が1℃上昇すると266分の1だけ増加し、この増加の割合は気体の種類によらないという実験結果を発表した{{sfn|ダンネマン|1979|p=100}}{{sfn|高林|1999|p=100}}。さらに同じ時期に、[[ジョン・ドルトン]]も同様の結果を導き出した{{sfn|ダンネマン|1979|pp=100-101}}(しかし後に、ドルトンの測定値には計算の誤りがあり、実際はゲイ=リュサックの値とは異なっていることが明らかになっている{{sfn|高林|1999|pp=100-101}})。 気体の熱膨張率が気体の種類によらないというゲイ=リュサックらの実験結果から、気体は物質の種類とは無関係の熱の普遍的な性質が現れると考えられるようになった{{sfn|山本2巻|2009|p=48}}。さらに、気体は固体や液体よりも熱膨張しやすく観測が容易であることも相まって、19世紀前半になると、熱学において気体の研究は重要な位置を占めるようになった{{sfn|山本2巻|2009|p=48}}。 しかしその後、このゲイ=リュサックの結果に対して疑問が抱かれるようになった。{{仮リンク|フレードリク・ルードベリ|de|Fredrik Rudberg}}は1837年の論文で、ゲイ=リュサックの実験は空気を乾燥していない条件での数値であって、乾燥させた空気では値が異なってくることを明らかにした{{sfn|ダンネマン|1979|pp=101-102,107-108}}。[[ハインリヒ・グスタフ・マグヌス]]はルードベリの実験を追試するとともに、体積が膨張する割合は気体によって異なることを発見した{{sfn|ダンネマン|1979|p=103}}。 [[アンリ・ヴィクトル・ルニョー]]は1842年の論文で、様々な気体について精密に実験した結果を発表した{{sfn|ダンネマン|1979|pp=103,109}}。そして、ゲイ=リュサックらによる気体の基本的な性質が成り立つのは、特殊な条件下にある気体、すなわち理想気体に限られることを見出した。さらにルニョーは、気体が圧縮された状態にあると、理想気体からのずれは大きくなることを発見した。ルニョーは、これは圧縮によって分子間の引力が強くなったためだと推察した{{sfn|ダンネマン|1979|p=104}}。 分子間力も考慮に入れた状態方程式は、1873年、[[ヨハネス・ファン・デル・ワールス]]によって作られた{{sfn|キャレン|1999|p=97}}{{sfn|ダンネマン|1979|pp=113-114}}。 === 温度計への影響 === ゲイ=リュサックの理論が理想気体のみでしか成り立たないという発見は、[[温度計]]の分野において大きな転換点になった。そもそも温度計は、温度によって基準物質(水銀など)が体積変化(または圧力変化)する現象を利用している。そして当時は、熱の本質はカロリック(熱素)という物質であるという、[[カロリック説]]が主流であった。カロリック説によれば、温度とはカロリックの量で決まるため、カロリックの量を正しく反映させることのできる温度計が優れた温度計となる{{sfn|高林|1999|p=102}}。そして、ゲイ=リュサックの実験によれば、気体においてはどの気体でも熱膨張率が一定であるので、このことから気体は液体や固体と比べて物体の種類に影響されることなく、カロリックの量を正確に反映した体積変化をすると考えられていたのである{{sfn|山本3巻|2009|p=74}}。以上のことから、[[ピエール=シモン・ラプラス]]は1825年、著書『天体力学』5巻において、気体である空気を基準物質とした空気温度計こそが真の温度計だと主張した{{sfn|山本3巻|2009|p=75}}。 しかし、ルニョーによって気体の熱膨張率が気体の種類によって異なることが明らかになると、空気温度計を真の温度計として他と比べて絶対視することはできなくなった{{sfn|ダンネマン|1979|p=104}}。[[ウィリアム・トムソン]](ケルヴィン卿)は1848年、特定の物質を基準物質として、それで絶対的な尺度を得ることはできないと述べた{{sfn|山本3巻|2009|pp=78-79}}。 === 熱力学第二法則 === 実在の気体は理想気体の性質を満たさないが、高温になると理想気体と似たふるまいを示す。この現象について、カロリック説では、高温の気体ではカロリックの持つ膨張力(斥力)が強くはたらき、分子間力が無視できるようになるためだと説明されていた{{sfn|山本3巻|2009|pp=49,74}}。それに対し、[[ルドルフ・クラウジウス]]は、高温では分子間力に対してなされる[[仕事 (物理学)|仕事]]が、外圧に対してなされる仕事と比べて無視できるほど小さくなるためだと述べ、カロリックを使わずにこの現象を説明した{{sfn|山本3巻|2009|p=50}}。 そしてクラウジウスは1850年の論文で、理想気体を取り上げて研究し、理想気体の状態方程式などから、熱力学第一法則([[エネルギー保存の法則]])を定式化した。さらにクラウジウスは同論文で、熱は低温の物体から高温の物体へとひとりでに流れることはないという、[[熱力学第二法則]]を初めて導き出した{{sfn|山本3巻|2009|pp=45-46}}。 一方、ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は理想気体に基づいた理論を拒否した{{sfn|山本3巻|2009|p=108}}。そしてトムソンは、クラウジウス論文から1年遅れとなる1851年に、理想気体に限定しない形で熱力学第二法則を導き出した{{sfn|山本3巻|2009|p=108}}。さらに1854年には、同じく理想気体に頼らずに[[熱力学温度]]を定義した{{sfn|山本3巻|2009|p=105}}。トムソンは1878年、理想気体について、「そのどの性質もいかなる現実の物質によっても厳密には実現されず、そのいくつかの性質は未知で想像によってさえまったく与えることのできない完全気体と呼ばれるある架空の実在を最初に構成することによって、熱力学の理解はきわめて遅らされ、学生は不必要に混乱させられ、単なる浮砂にすぎぬものが温度測定の基礎として与えられてきた」と批判している{{sfn|山本3巻|2009|pp=135-136}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == *{{Anchors|伏見p9}}[[伏見康治]]「[[確率論及統計論]]」第I章 数学的補助手段 1節 組合わせの理論 p.&nbsp;9 不完全気体の統計力学 ISBN 9784874720127 http://ebsa.ism.ac.jp/ebooks/ebook/204 *{{cite|和書 |author=Peter Atkins |author2=Julio de Paula |translator=千原秀昭, 稲葉章 |title=アトキンス物理化学要論 |edition=4 |publisher=東京化学同人 |year=2007 |isbn=978-4-8079-0649-9 |ref=atkins}} *{{Cite book|和書 |author=松尾一泰 |title=圧縮性流体力学 |publisher=理工学社 |year=1994 |isbn=4-8445-2145-4 |ref={{sfnref|松尾|1994}} }} * {{Cite book|和書 |author=H.B. キャレン |others= 小田垣孝訳 |year=1998 |title=熱力学および統計物理入門(上) |publisher=吉岡書店 |isbn=978-4842702728 |ref={{sfnref|キャレン|1998}} }} *{{Cite book|和書 |author1= J.G. Frey |author2= H.L. Strauss |year=2009 |title=物理化学で用いられる量・単位・記号 |edition= 第3版 |others=産業技術総合研究所計量標準総合センター訳 |publisher=講談社 |url=https://www.nmij.jp/public/report/translation/IUPAC/iupac/iupac_green_book_jp.pdf |isbn=978-406154359-1 |ref=グリーンブック }} * {{Cite book|和書 |author=田崎晴明 |title=熱力学 現代的な視点から |series=新物理学シリーズ |publisher=培風館 |year=2000 |isbn=4-563-02432-5 |ref={{sfnref|田崎|2000}} }} * {{Cite book|和書 |author=香取眞理 |title=非平衡統計力学 |series=裳華房テキストシリーズ - 物理学 |edition= 第3版 |publisher=裳華房 |year=2007 |isbn= 978-4-7853-2086-7 |ref={{sfnref|香取|2007}} }} * {{Cite book|和書 |author=中村伝 |title=統計力学 |series=物理テキストシリーズ |edition=新装版 |publisher=岩波書店 |year=1993 |isbn=4-00-007750-3 |ref={{sfnref|中村|1993}} }} * {{Cite book|和書 |author=阿部龍蔵 |title=統計力学 |edition=第2版 |publisher=東京大学出版会 |year=1992 |isbn=4-13-062134-3 |ref={{sfnref|阿部|1992}} }} *{{Cite book|和書 |author=Peter Atkins |author2=Julio de Paula |title=アトキンス物理化学 |publisher=[[東京化学同人]] |edition=第8版 |volume=上 |others=千原秀昭、中村亘男 訳 |year=2009 |isbn=978-4-8079-0695-6 |ref=アトキンス第8版 }} *{{Cite book|和書 |author=石川正明 |title=新理系の化学 |volume=上 |series=駿台受験シリーズ |edition=4訂版 |publisher=駿台文庫 |year=2016 |isbn=978-4-7961-1649-7 |ref={{sfnref|石川|2016}} }} *{{Cite book|和書 |author=卜部吉庸 |title=化学I・IIの新研究:理系大学受験 |publisher=三省堂 |year=2005 |isbn=978-4-385-26091-4 |ref={{sfnref|卜部|2005}} }} *{{Cite book|和書 |title=岩波理化学辞典 |others=長倉三郎ほか 編集 |publisher=岩波書店 |year=1999 |edition=第5版CD-ROM版 |isbn=4001301024 |ref=理化学辞典 }} *{{Cite book|和書 |author=フリードリヒ・ダンネマン |title=新訳ダンネマン大自然科学史 |publisher=三省堂 |volume=第9巻 |others=安田徳太郎 訳編 |year=1979 |ref={{sfnref|ダンネマン|1979}} }} *{{Cite book|和書 |author=高林武彦|authorlink=高林武彦 |title=熱学史 第2版 |publisher=海鳴社 |year=1999 |isbn=978-4875251910 |ref={{sfnref|高林|1999}} }} *{{Cite book|和書 |author=山本義隆|authorlink=山本義隆 |title=熱学思想の史的展開 |series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房 |volume=第2巻 |year=2009 |isbn=978-4480091826 |ref={{sfnref|山本2巻|2009}} }} *{{Cite book|和書 |author=山本義隆 |title=熱学思想の史的展開 |series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房 |volume=第3巻 |year=2009 |isbn=978-4480091833 |ref={{sfnref|山本3巻|2009}} }} * {{cite|和書 |editor= |author=清水明 |title=熱力学の基礎 |edition= |publisher=東京大学出版会 |year=2007 |isbn=978-4-13-062609-5}} == 関連項目 == *[[理想溶液]] *[[浸透圧]]に関するファントホッフの式 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:りそうきたい}} [[Category:理想気体|*]] [[Category:熱力学]] [[Category:気体]]
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荷電粒子
荷電粒子(かでんりゅうし)とは、電荷を帯びた粒子のこと。通常は、イオン化した原子のことや、電荷を持った素粒子のことである。 核崩壊によって生じるアルファ線(ヘリウムの原子核)やベータ線(電子)は、荷電粒子から成る放射線である。質量の小さな粒子が電荷を帯びると、電場によって正と負の電荷が引き合ったり、反対に正と正、負と負が反発しあったりするクーロン力を受けたり、また磁場中でこういった粒子が運動することで進行方向とは直角方向に生じる力を受けたりする。これら2つの力をまとめてローレンツ力というが、磁場によって生じる力のほうが大きい場合には、電界による力を無視して磁場の力だけをローレンツ力ということがある。これはローレンツ力の定義式にある電界の項をゼロとおき(電界の影響が小さいゆえに無視する)、磁場の影響だけを計算した結果で、近似である。詳細はローレンツ力を参照。
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{{出典の明記|date=2020-08-27}} '''荷電粒子'''(かでんりゅうし)とは、[[電荷]]を帯びた粒子のこと。通常は、[[イオン化]]した[[原子]]のことや、電荷を持った[[素粒子]]のことである。 核崩壊によって生じる[[アルファ線]]([[ヘリウム]]の[[原子核]])や[[ベータ線]]([[電子]])は、荷電粒子から成る放射線である。質量の小さな粒子が電荷を帯びると、電場によって正と負の電荷が引き合ったり、反対に正と正、負と負が反発しあったりする[[クーロン力]]を受けたり、また磁場中でこういった粒子が運動することで進行方向とは直角方向に生じる力を受けたりする。これら2つの力をまとめて[[ローレンツ力]]というが、[[磁場]]によって生じる力のほうが大きい場合には、電界による力を無視して磁場の力だけをローレンツ力ということがある。これはローレンツ力の定義式にある電界の項をゼロとおき(電界の影響が小さいゆえに無視する)、磁場の影響だけを計算した結果で、近似である。詳細は[[ローレンツ力]]を参照。 == 関連項目 == * [[物理学]] * [[電荷]] * [[プラズマ]] * [[荷電粒子砲]] * [[粒子]] * [[中性粒子]] {{粒子の一覧}} {{放射線}} {{デフォルトソート:かてんりゆうし}} [[category:イオン]] [[category:素粒子]] [[category:物質]]
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イオン化
イオン化(イオンか、英語: ionization)は、電離(でんり)とも言い、電荷的に中性な原子、分子、ないし塩を、正または負の電荷を持ったイオンとする操作または現象である。 主に物理学の分野では荷電ともいい、分子(原子あるいは原子団)が、エネルギー(電磁波や熱)を受けて電子を放出したり、逆に外から得ることを指す。(プラズマまたは電離層を参照) また、化学の分野では解離ともいい、電解質が溶液中においてや融解時に、陽イオンと陰イオンに分かれることを指す。 イオン化過程の一例をあげると、ある中性原子が電子(1個あるいは数個の価電子)を放出して、別の中性原子がこれを受け取る、電子の移動が起きる。電子を受け取った原子は負電荷に帯電して陰イオンとなり、電子を放出した方は正電荷に帯電して陽イオンとなる。このとき、ふたつのイオンが得た電荷量は、移動した電子の持つ電荷量(電気素量の整数倍)に等しく、符号は逆となり、和はゼロになる。 原子が電子を放出するには、原子核がクーロン力によって電子を電子軌道に束縛している力に匹敵するエネルギーが必要で、これをイオン化エネルギーと呼ぶ。 電子は光子を吸収したり、原子同士の衝突によりエネルギーを受け取って励起され、イオン化エネルギーを超えると軌道を離れて別の原子の軌道へ移動する。移動先の原子の電子軌道に入った電子は、励起エネルギー分のエネルギーを放出して安定化する。 溶液中でのイオン化傾向は、元素によってイオン化のしやすさに差があることを示している。原子の電子構造により安定化の度合いが異なるので、励起に必要なイオン化エネルギーの値や、電子を受けとる際の安定化エネルギーである電子親和力の値は、元素の種類やイオン化の進行状況の違いによってそれぞれ異なるエネルギー値をとる。 原子は、電子配置が閉殻(最外殻が満員)やオクテット(最外殻が8個)のとき最も安定する(化学反応しにくくなる)。中性原子でこれに該当するのが不活性元素であり、通常原子がイオン化する際に放出または受け取る電子の数は、イオンとなることでこの安定した配置を成立させられる数である(典型元素の場合) 例えば、アルカリ金属は陽イオンになりやすく、イオン化エネルギーも小さいが、これは不活性元素より電子が1つ多いため、+1価のイオンとなった方が安定するためである。反対にハロゲンやカルコゲンは陰イオンになりやすいが、これも不活性元素より電子が僅かに少ないことによる。 放電によるガス(空気など)のイオン化など、分子に直接電子を撃ち込むとイオン化できる。 質量分析法では熱電子衝撃法がよく利用され、化学イオン化法と対比される。 63Niなどの核放射による方法は、電子(ベータ線)によるイオン化だが、エネルギーによるイオン化でもある。 光(主に紫外線やレーザー)などによって電子を励起させ、イオン化する(吸光)。 質量分析法では、他にも様々なイオン化手法が用いられ、ソフトイオン化法のマトリックス支援レーザー脱離イオン化法はノーベル賞に関する報道で一般にも知られていた。 このほか、トンネル効果によるイオン化も研究されている。 極性溶媒中では、溶媒分子の配向による溶媒和が起きるため、イオン結合物質は容易にイオン化(解離)し、気相や非極性溶媒中よりも安定して存在する。溶媒分子を配位する場合はより安定化する。 イオン結晶は、イオン相互の静電的相互作用によってイオン結合し、正負の電荷が対を作って電気的に中性となることで規則正しい結晶構造を形成することで、全体的・均一に電荷が中和され安定化している。 このとき個々の原子は、中性分子のイオン化により電子配置が安定化する現象を、結晶構造内で実現している。 代表例である塩化ナトリウムでは、ナトリウムと塩素がイオン化して電子1つを授受した状態で交互に並ぶことで、電気的にも化学的にも安定している。
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イオン化は、電離(でんり)とも言い、電荷的に中性な原子、分子、ないし塩を、正または負の電荷を持ったイオンとする操作または現象である。 主に物理学の分野では荷電ともいい、分子(原子あるいは原子団)が、エネルギー(電磁波や熱)を受けて電子を放出したり、逆に外から得ることを指す。(プラズマまたは電離層を参照) また、化学の分野では解離ともいい、電解質が溶液中においてや融解時に、陽イオンと陰イオンに分かれることを指す。
{{出典の明記| date = 2021年6月}} '''イオン化'''(イオンか、{{lang-en|ionization}})は、'''電離'''(でんり)とも言い、[[電荷]]的に中性な[[原子]]、[[分子]]、ないし[[塩 (化学)|塩]]を、正または負の電荷を持った[[イオン]]とする操作または現象である。 主に[[物理学]]の分野では荷電ともいい、分子([[原子]]あるいは[[原子団]])が、エネルギー([[電磁波]]や[[熱]])を受けて[[電子]]を放出したり、逆に外から得ることを指す。([[プラズマ]]または[[電離層]]を参照) また、化学の分野では[[解離 (化学)|解離]]ともいい、[[電解質]]が[[溶液]]中においてや[[融解]]時に、[[陽イオン]]と[[陰イオン]]に分かれることを指す。 == 概要 == イオン化過程の一例をあげると、ある中性原子が電子(1個あるいは数個の[[価電子]])を放出して、別の中性原子がこれを受け取る、電子の移動が起きる。電子を受け取った原子は負電荷に帯電して陰イオンとなり、電子を放出した方は正電荷に帯電して陽イオンとなる。このとき、ふたつのイオンが得た電荷量は、移動した電子の持つ電荷量([[電気素量]]の整数倍)に等しく、符号は逆となり、和はゼロになる。 原子が電子を放出するには、[[原子核]]が[[クーロン力]]によって電子を[[電子軌道]]に束縛している力に匹敵するエネルギーが必要で、これを[[イオン化エネルギー]]と呼ぶ。 電子は[[光子]]を吸収したり、原子同士の衝突によりエネルギーを受け取って[[励起]]され、イオン化エネルギーを超えると軌道を離れて別の原子の軌道へ移動する。移動先の原子の電子軌道に入った電子は、励起エネルギー分のエネルギーを放出して安定化する。 === イオン化のしやすさ === ''{{main|イオン化傾向}}'' 溶液中での[[イオン化傾向]]は、元素によってイオン化のしやすさに差があることを示している。原子の[[電子構造]]により安定化の度合いが異なるので、励起に必要なイオン化エネルギーの値や、電子を受けとる際の安定化エネルギーである[[電子親和力]]の値は、元素の種類やイオン化の進行状況の違いによってそれぞれ異なるエネルギー値をとる。 原子は、[[電子配置]]が閉殻(最外殻が満員)や[[オクテット則|オクテット]](最外殻が8個)のとき最も安定する(化学反応しにくくなる)。中性原子でこれに該当するのが[[不活性元素]]であり、通常原子がイオン化する際に放出または受け取る電子の数は、イオンとなることでこの安定した配置を成立させられる数である([[典型元素]]の場合) 例えば、[[アルカリ金属]]は陽イオンになりやすく、イオン化エネルギーも小さいが、これは不活性元素より電子が1つ多いため、+1価のイオンとなった方が安定するためである。反対に[[ハロゲン]]や[[カルコゲン]]は陰イオンになりやすいが、これも不活性元素より電子が僅かに少ないことによる。 == 電子によるイオン化 == [[放電]]によるガス(空気など)のイオン化など、分子に直接電子を撃ち込むとイオン化できる。 [[質量分析法]]では[[熱電子]]衝撃法がよく利用され、化学イオン化法と対比される。 63Niなどの核放射による方法は、電子([[ベータ線]])によるイオン化だが、エネルギーによるイオン化でもある。 == エネルギーによるイオン化 == 光(主に[[紫外線]]や[[レーザー]])などによって電子を励起させ、イオン化する([[吸光]])。 質量分析法では、他にも様々なイオン化手法が用いられ、ソフトイオン化法の[[マトリックス支援レーザー脱離イオン化法]]はノーベル賞に関する報道で一般にも知られていた。 このほか、[[トンネル効果]]によるイオン化も研究されている。 == 溶媒中のイオン化 == [[極性溶媒]]中では、溶媒分子の配向による[[溶媒和]]が起きるため、イオン結合物質は容易にイオン化(解離)し、気相や非極性溶媒中よりも安定して存在する。溶媒分子を[[配位]]する場合はより安定化する。 == 結晶中のイオン化 == [[イオン結晶]]は、イオン相互の[[静電的相互作用]]によって[[イオン結合]]し、正負の電荷が対を作って電気的に中性となることで規則正しい結晶構造を形成することで、全体的・均一に電荷が中和され安定化している。 このとき個々の原子は、中性分子のイオン化により電子配置が安定化する現象を、[[結晶構造]]内で実現している。 代表例である[[塩化ナトリウム]]では、[[ナトリウム]]と[[塩素]]がイオン化して電子1つを授受した状態で交互に並ぶことで、電気的にも化学的にも安定している。 == 関連項目 == * [[イオン化傾向]] * [[イオン化エネルギー]] * [[ビーフェルド-ブラウン効果]] * [[電子親和力]] * [[物性物理]] * [[放射線|電離放射線]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{sci-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いおんか}} [[Category:イオン|いおんか]] [[Category:電子]] [[Category:質量分析]]
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SOAP (プロトコル)
SOAP(ソープ)は、コンピュータネットワーク内のWebサービスの実装において、構造化された情報を交換するための通信プロトコルの仕様である。拡張性、中立性、独立性を導入することを目的とする。XML-RPCから発展した、XML Webサービスのための、XMLベースのRPCプロトコルである。 メッセージ形式としてXMLインフォメーションセットを使用する。また、メッセージのネゴシエーションおよび伝送はアプリケーション層のプロトコル(多くの場合HTTPまたはSMTP)に依存する。 SOAPにより、全く異なるオペレーティングシステム(例えばWindowsとLinux)上で走っているプロセス間でもXMLを使って意思疎通が可能になる。HTTPのようなWebプロトコルは全てのオペレーティングシステムにインストールされて走っているので、SOAPの仕組みを使えば、クライアントはその言語やプラットフォームが何であれ、ウェブサービスを起動してレスポンスを受け取ることが出来る。 元はSimple Object Access Protocolの頭字語とされていたが、現在は「何かの頭字語ではない」とされている。 拡張可能で分散的なフレームワークであり、HTTP以外にも様々なコンピュータネットワークの通信プロトコルで利用することができると主張され、SMTPへのバインディングも示されているが、実際上TCP/IP上のHTTP(S)以外の使用は現実的ではない。主要な実装としてApache Axisがある。多くの実装の間で相互運用性に問題があるとしてWS-Iというコンソーシアムが作られたが、現在はOASISの一部となっている。 いくつかのSOAPメッセージを相互作用させることによってリモートプロシージャコールが実現できる、Webサービスに有効な手段の一つである、などと主張されている。 メッセージの表現にXMLを使用する。メッセージはヘッダとボディから成る。ヘッダはオプショナルであり、ルーティングやセキュリティ、そして トランザクションなどのための情報といったメタ情報を格納する。ボディは、主要な情報すなわちペイロードである。 相互運用性のためにはXML Schemaなどで、なんらかのスキーマを定義することが望ましいであろう。また、WSDLという記述言語がある。 「WS-*」と総称される関連プロトコルが多量にある。 SOAP はウェブサービスのための「Web services protocol stack」における「Messaging Protocol」層を提供する。SOAPはXMLを基盤とするプロトコルで、三つの部分で構成される: SOAPには三つの大きな特徴がある: SOAPで出来ることの一例を挙げると、たとえば或るアプリケーションが、ウェブサービス(例えば不動産価格データベース)を利用可能なサーバに、検索条件パラメータを入れたSOAPリクエストを送ったとする。すると、そのサーバーはSOAPレスポンス(価格、場所、特徴などの検索結果データを書き込んだXML形式文書)を返してくる。返ってきたデータは標準化された機械処理可能な書式で来るので、それを受け取ったアプリケーションはそのデータを直接処理できる。 SOAPアーキテクチャには、次の幾つかレイヤーのための仕様がある: SOAPはW3Cにより標準化されている。以下は具体的な仕様である。 SOAP processing model はSOAPが採用する分散型メッセージ処理モデルである。 分散コンピューティングを指向するSOAPでは「ネットワーク上に存在するノードがメッセージを送り合いながら処理をおこない最終結果を得る」という処理モデルを取っている。これが SOAP processing model である。 SOAP message はノード間の情報伝達における基本単位である。SOAP message はドキュメント直下に<Envelope>要素を持ち、その下に<Header>要素と<Body>要素が配置される(図参照)。 <Header>要素は0個以上の header block からなる。各header blockは名前付き要素であり、属性をもつ。仕様では encodingStyle / role / mustUnderstand / relay の4属性が定義されている。block の role属性はノードの role と結びついており、その header block がノードをターゲットとすると呼ばれる。 <Body>要素のコンテンツは要素ツリーであり、その具体的中身(利用可能な要素、木構造)は各サービスで定義される。 SOAP Node はメッセージ処理を担うノードである。 processing model における出発ノードを initial SOAP sender、中間ノードを SOAP intermediary、終着ノードを ultimate SOAP receiver という。各ノードが担う役割を SOAP roles という。仕様では next / none / ultimateReceiver の3つの role name を定める。終着ノードはメッセージのbodyを処理する責務を負う。中間ノードはそのroleに基づき header block の処理を担う。 一例として、あるクライアントが、ショッピングサイト(例示のための架空のものである)のサービスに商品IDを提示して商品の詳細を求めるリクエストメッセージはおおよそ以下のようになる。 これに対し、ショッピングサイトのサービス側の、要求に基づく商品データを含むレスポンスメッセージはおおよそ以下のようになる。
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SOAP(ソープ)は、コンピュータネットワーク内のWebサービスの実装において、構造化された情報を交換するための通信プロトコルの仕様である。拡張性、中立性、独立性を導入することを目的とする。XML-RPCから発展した、XML Webサービスのための、XMLベースのRPCプロトコルである。 メッセージ形式としてXMLインフォメーションセットを使用する。また、メッセージのネゴシエーションおよび伝送はアプリケーション層のプロトコル(多くの場合HTTPまたはSMTP)に依存する。 SOAPにより、全く異なるオペレーティングシステム(例えばWindowsとLinux)上で走っているプロセス間でもXMLを使って意思疎通が可能になる。HTTPのようなWebプロトコルは全てのオペレーティングシステムにインストールされて走っているので、SOAPの仕組みを使えば、クライアントはその言語やプラットフォームが何であれ、ウェブサービスを起動してレスポンスを受け取ることが出来る。 元はSimple Object Access Protocolの頭字語とされていたが、現在は「何かの頭字語ではない」とされている。
{{IPstack}} '''SOAP'''(ソープ)は、[[コンピュータネットワーク]]内の[[Webサービス]]の実装において、構造化された情報を交換するための[[通信プロトコル]]の仕様である。[[拡張性]]、[[ネットワーク中立性|中立性]]、独立性を導入することを目的とする。[[XML-RPC]]から発展した、'''XML [[Webサービス]]'''のための、[[Extensible Markup Language|XML]]ベースの[[遠隔手続き呼出し|RPC]]プロトコルである。 メッセージ形式として[[Extensible Markup Language#XMLインフォメーションセット|XMLインフォメーションセット]]を使用する。また、メッセージのネゴシエーションおよび伝送は[[アプリケーション層]]のプロトコル(多くの場合[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]または[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]])に依存する。 SOAPにより、全く異なる[[オペレーティングシステム]](例えば[[Windows]]と[[Linux]])上で走っているプロセス間でも[[Extensible Markup Language|XML]]を使って意思疎通が可能になる。HTTPのようなWebプロトコルは全てのオペレーティングシステムにインストールされて走っているので、SOAPの仕組みを使えば、クライアントはその言語やプラットフォームが何であれ、ウェブサービスを起動してレスポンスを受け取ることが出来る。 元はSimple Object Access Protocolの[[頭字語]]とされていたが、現在は「何かの[[頭字語]]ではない」とされている<ref>「In previous versions of this specification the SOAP name was an acronym. This is no longer the case.」([http://www.w3.org/TR/soap12-part1/ SOAP Version 1.2 Part 1 : Messaging Framework (Second Edition)]より引用)。</ref>。 == 概要 == 拡張可能で分散的な[[フレームワーク]]であり、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]以外にも様々な[[コンピュータネットワーク]]の[[通信プロトコル]]で利用することができると主張され、[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]へのバインディングも示されているが、実際上TCP/IP上のHTTP(S)以外の使用は現実的ではない。主要な実装として[[Apache Axis]]がある。多くの実装の間で相互運用性に問題があるとして[[Web Services Interoperability|WS-I]]というコンソーシアムが作られたが、現在は[[OASIS (組織)|OASIS]]の一部となっている。 いくつかのSOAPメッセージを相互作用させることによってリモートプロシージャコールが実現できる、Webサービスに有効な手段の一つである、などと主張されている。 メッセージの表現に[[Extensible Markup Language|XML]]を使用する。メッセージはヘッダとボディから成る。ヘッダはオプショナルであり、[[ルーティング]]や[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]、そして [[トランザクション]]などのための情報といった[[メタデータ|メタ情報]]を格納する。ボディは、主要な情報すなわち[[ペイロード (コンピュータ)|ペイロード]]である。 相互運用性のためには[[XML Schema]]などで、なんらかのスキーマを定義することが望ましいであろう。また、[[Web Services Description Language|WSDL]]という記述言語がある。 「WS-*」と総称される関連プロトコルが<!--腐るほど、というか腐ってるが-->多量にある。 ==特徴== SOAP はウェブサービスのための「Web services protocol stack」における「Messaging Protocol」層を提供する。SOAPはXMLを基盤とするプロトコルで、三つの部分で構成される: * 「envelope」(小包)。これはメッセージ構造を定義する<ref> {{cite book | last1 = Hirsch | first1 = Frederick | last2 = Kemp | first2 = John | last3 = Ilkka | first3 = Jani | title = Mobile Web Services: Architecture and Implementation | url = https://books.google.com/books?id=v5f0ORBgd5IC | publisher = John Wiley & Sons | publication-date = 2007 | page = 27 | isbn = 9780470032596 | accessdate = 2014-09-15 | quote = Simple Object Access Protocol (SOAP) はメッセージの小包の構造を定義している。小包は、アプリケーション用の荷物(メッセージ・ボディ)と、管理情報(メッセージ・ヘッダ)の二つの部分で構成される。 | date = 2007-01-11 }} </ref>。また、どのようにこれを処理すべきかを定義する: * アプリケーションで定義されるデータ型のインスタンスを表現するためのエンコーディング規則 * プロシージャ呼出しとレスポンスを表すための約束事 SOAPには三つの大きな特徴がある: #''拡張性'' (セキュリティや[[WS-Addressing]]などは開発中の拡張機能である) #''中立性'' (SOAPは[[HTTP]], [[SMTP]], [[Transmission Control Protocol|TCP]], {{仮リンク|SOAP-over-UDP|en|SOAP-over-UDP|label=UDP}}, [[Java Message Service|JMS]]などのいかなるプロトコル上でも運用できる) #''独立性'' (SOAPはいかなる[[プログラミングモデル]]でも使える) SOAPで出来ることの一例を挙げると、たとえば或るアプリケーションが、ウェブサービス(例えば不動産価格データベース)を利用可能なサーバに、検索条件パラメータを入れたSOAPリクエストを送ったとする。すると、そのサーバーはSOAPレスポンス(価格、場所、特徴などの検索結果データを書き込んだXML形式文書)を返してくる。返ってきたデータは標準化された機械処理可能な書式で来るので、それを受け取ったアプリケーションはそのデータを直接処理できる。 SOAPアーキテクチャには、次の幾つかレイヤーのための仕様がある: * メッセージ形式 * メッセージ交換パターン(Message Exchange Pattern : MEP) * 下層のトランスポートプロトコルとの結合 * メッセージ処理モデル * プロトコル拡張性 ==仕様== SOAPはW3Cにより標準化されている。以下は具体的な仕様である。 === SOAP processing model === '''SOAP processing model''' はSOAPが採用する[[分散コンピューティング|分散型]]メッセージ処理モデルである。 [[分散コンピューティング]]を指向するSOAPでは「ネットワーク上に存在するノードがメッセージを送り合いながら処理をおこない最終結果を得る」という処理モデルを取っている<ref>"SOAP provides a distributed processing model that assumes a SOAP message originates at an initial SOAP sender and is sent to an ultimate SOAP receiver via zero or more SOAP intermediaries. ... A SOAP node receiving a SOAP message MUST perform processing according to the SOAP processing model" W3C. SOAP 1.2 specification.</ref>。これが SOAP processing model である。 === SOAP message === [[File:SOAP.svg|thumb|SOAP structure]]'''SOAP message''' はノード間の情報伝達における基本単位である<ref>"SOAP message The basic unit of communication between SOAP nodes." W3C. SOAP 1.2 specification.</ref>。SOAP message はドキュメント直下に<code><Envelope></code>要素を持ち<ref>"A SOAP message Infoset consists of a ''document information item'' with exactly one member in its [children] property, which MUST be the SOAP <code>Envelope</code> ''element information item''" W3C. SOAP 1.2 specification.</ref>、その下に<code><Header></code>要素と<code><Body></code>要素が配置される(図参照)<ref>"One or two ''element information item''s in its [children] property in order as follows: 1. An optional <code>Header</code> ''element ...'' 2. A mandatory <code>Body</code> ''element''" W3C. SOAP 1.2 specification.</ref>。 <code><Header></code>要素は0個以上の '''header block''' からなる<ref>"'''SOAP header''' A collection of zero or more SOAP header blocks" W3C. SOAP 1.2 specification.</ref>。各header blockは名前付き要素であり、属性をもつ。仕様では <code>encodingStyle</code> / <code>role</code> / <code>mustUnderstand</code> / <code>relay</code> の4属性が定義されている<ref>"MAY have zero or more ''attribute information items'' in its [attributes] property ... which have special significance for SOAP processing: encodingStyle ... role ... mustUnderstand ... relay" W3C. SOAP 1.2 specification.</ref>。block の <code>role</code>属性はノードの role と結びついており、その header block がノードをターゲットとすると呼ばれる。 <code><Body></code>要素のコンテンツは要素ツリーであり、その具体的中身(利用可能な要素、木構造)は各サービスで定義される。 === SOAP Node === '''SOAP Node''' はメッセージ処理を担うノードである。 processing model における出発ノードを '''initial SOAP sender'''、中間ノードを '''SOAP intermediary'''、終着ノードを '''ultimate SOAP receiver''' という<ref>"A SOAP node can be the initial SOAP sender, an ultimate SOAP receiver, or a SOAP intermediary." W3C. SOAP 1.2 specification.</ref>。各ノードが担う役割を '''SOAP roles''' という。仕様では <code>next</code> / <code>none</code> / <code>ultimateReceiver</code> の3つの role name を定める。終着ノードはメッセージのbodyを処理する責務を負う<ref>"An ultimate SOAP receiver MUST correctly process the immediate children of the SOAP body" W3C. SOAP 1.2 specification.</ref>。中間ノードはそのroleに基づき header block の処理を担う。 === その他 === *''[https://www.w3.org/TR/soap12-part1/#extensibility '''SOAP extensibility model''']'' :SOAP機能とSOAPモジュールの概念を定義する * ''[https://www.w3.org/TR/soap12-part1/#transpbindframew '''SOAP underlying protocol binding''']'' :SOAPノード間でSOAPメッセージを交換するために用いる下層プロトコルへの結合を定義するための規約を示したフレームワーク。 == SOAPメッセージの例 == 一例として、あるクライアントが、ショッピングサイト(例示のための架空のものである)のサービスに商品IDを提示して商品の詳細を求めるリクエストメッセージはおおよそ以下のようになる。 <syntaxhighlight lang="xml"><SOAP-ENV:Envelope xmlns:SOAP-ENV="http://schemas.xmlsoap.org/soap/envelope/"> <SOAP-ENV:Body> <getProductDetails xmlns="http://warehouse.example.com/ws"> <productId>827635</productId> </getProductDetails> </SOAP-ENV:Body> </SOAP-ENV:Envelope></syntaxhighlight> これに対し、ショッピングサイトのサービス側の、要求に基づく商品データを含むレスポンスメッセージはおおよそ以下のようになる。 <syntaxhighlight lang="xml"><SOAP-ENV:Envelope xmlns:SOAP-ENV="http://schemas.xmlsoap.org/soap/envelope/"> <SOAP-ENV:Body> <getProductDetailsResponse xmlns="http://warehouse.example.com/ws"> <getProductDetailsResult> <productName>Toptimate 3-Piece Set</productName> <productId>827635</productId> <description>3-Piece luggage set. Black Polyester.</description> <price>100.50</price> <inStock>true</inStock> </getProductDetailsResult> </getProductDetailsResponse> </SOAP-ENV:Body> </SOAP-ENV:Envelope></syntaxhighlight> == 関連項目 == [[File:SOAP.svg|thumb|right|220px]] *[[WDDX]] *[[WS-Addressing]] == 外部リンク == *[http://www.w3.org/TR/soap12-part0/ SOAP Version 1.2] (W3C) == 脚注 == {{reflist}} {{W3C標準}} {{Normdaten}} [[Category:W3C勧告]] [[Category:XMLベースの技術]] [[Category:アプリケーション層プロトコル]] [[Category:データシリアライゼーションフォーマット]] [[Category:遠隔手続き呼出し]]
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イオン
イオン(独: Ion、英: ion、中: 離子)とは、電子の過剰あるいは欠損により電荷を帯びた原子または基のことである。 電離層などのプラズマ、電解質の水溶液やイオン結晶などのイオン結合性を持つ物質内などに存在する。 陰極や陽極に引かれて動くことから、ギリシャ語の ιόν(イオン、英語ラテン翻字: ion、"going"の意)より、ion(移動)の名が付けられた。 なお、マイナスイオンという用語は、1922年に、空気中の陰イオンの訳語として紹介された和製英語である。一部では負イオン(負の大気イオン)の意味でマイナスイオンが使われる場合があり、2002年前後を中心に国内の学会で、日本の多くの研究者が使用した実態があった。またマスコミ等では、陰イオンをマイナスイオンと誤報道する事例もある。流行語にもなったが、この文脈では定まった科学的定義がないために、科学用語として認められないとする批判がある。 化学式の右肩に価数を記す。ただし、1価の場合は符号のみ記す。 イオンの名称は、陽イオンについては「元素名+イオン」(例:水素イオン)、陰イオンについては「元素名 − 「素」 + 化物イオン」(例:硫化物イオン)と表す。ただし、どちらも例外が多い。原子1個のイオンを単原子イオン、複数の原子で構成されるイオンを多原子イオンと呼ぶ。 また、主なイオンの名称とイオン式を覚えておけば、物質名から化学式がある程度推測できる。
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イオンとは、電子の過剰あるいは欠損により電荷を帯びた原子または基のことである。 電離層などのプラズマ、電解質の水溶液やイオン結晶などのイオン結合性を持つ物質内などに存在する。 陰極や陽極に引かれて動くことから、ギリシャ語の ιόνより、ion(移動)の名が付けられた。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruseslist|電離した物質|[[ショッピングセンター]]や[[スーパーマーケット]]など商業施設を展開している企業|イオン (企業)|その他|イオン (曖昧さ回避)}} {{Redirect|アニオン|同名のラジオ番組|ANI-ON!}} {{出典の明記|date=2012年6月}} {{Infobox particle | 背景色 = | 名前 = イオン | 画像 = [[ファイル:Plasma-lamp 2.jpg|300px]] | 説明 = [[プラズマ]]は[[イオン化]]した気体である | 型数 = | 分類 = | 組成 = [[電荷]]を帯びた[[原子]] | 統計 = | グループ = | 世代 = | 相互作用 = {{plainlist| * [[弱い相互作用]] * [[強い相互作用]] * [[電磁相互作用]] * [[重力相互作用]] }} | 粒子 = | 反粒子 = | ステータス = | 理論化 = | 発見 = | 記号 = | 質量 = | 平均寿命 = | 崩壊粒子 = | 電荷 = ±[[素電荷|e]]の整数倍 | 荷電半径 = | 電気双極子モーメント = | 電気的分極率 = | 磁気モーメント = | 磁気的分極率 = | 色荷 = | スピン = | スピン状態数 = | レプトン数 = | バリオン数 = | ストレンジネス = | チャーム = | ボトムネス = | トップネス = | アイソスピン = | 弱アイソスピン = | 弱アイソスピン_3 = | 超電荷 = | 弱超電荷 = | カイラリティ = | B-L = | X荷 = | パリティ = | Gパリティ = | Cパリティ = | Rパリティ = }} '''イオン'''({{lang-de-short|Ion}}、{{lang-en-short|ion}}、{{lang-zh-short|離子}})とは、[[電子]]の過剰あるいは欠損により[[電荷]]を帯びた[[原子]]または[[基]]のことである<ref>{{Cite web|和書|title=イオン - 電荷を帯びた原子・分子|蓄電池バンク |url=https://batterybank.jp/glossary/a/ion.php#:~:text=%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%EF%BC%88ion%EF%BC%89,%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3%EF%BC%89%E3%81%A8%E5%91%BC%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 |website=蓄電池バンク |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>。 [[電離層]]などの[[プラズマ]]<ref>{{Cite web|和書|title=電波50のなぜ |url=https://www.isee.nagoya-u.ac.jp/50naze/denpa/36.html |website=www.isee.nagoya-u.ac.jp |access-date=2022-07-18}}</ref>、[[電解質]]の[[水溶液]]<ref>{{Cite web|和書|title=電解質(イオン)とは|大塚製薬 |url=https://www.otsuka.co.jp/nutraceutical/about/rehydration/water/electrolytes/ |website=大塚製薬株式会社 Otsuka Pharmaceutical |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>や[[イオン結晶]]などの[[イオン結合]]性を持つ物質内などに存在する<ref>{{Cite web|和書|title=イオン結晶とは?イオン結晶のポイントを分かりやすく解説|高校生向け受験応援メディア「受験のミカタ」 |url=https://juken-mikata.net/how-to/chemistry/ionic-crystal.html |website=高校生向け受験応援メディア「受験のミカタ」 |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>。 陰極や陽極に引かれて動くことから、ギリシャ語の {{el|ιόν}}(イオン、{{lang-*-Latn|en|ion}}、{{en|"going"}}の意)より、ion(移動)の名が付けられた<ref>{{Cite web|和書|title=イオンとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3-29970 |website=コトバンク |access-date=2022-07-18 |language=ja |first=知恵蔵,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,化学辞典 第2版,百科事典マイペディア,日本の企業がわかる事典2014-2015,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉プラス,デジタル大辞泉,栄養・生化学辞典,世界大百科事典 |last=第2版}}</ref>。 == イオンの種類 == === 電荷による種類 === ; {{Anchors|陽イオン}}陽イオン / {{Anchors|カチオン}}カチオン : 電子を放出して正の電荷を帯びた原子、または原子団を'''陽イオン'''(ようイオン、{{lang-en-short|positive ion|links=no}})<ref>{{Cite web|和書|title=ようイオン【陽イオン】 {{!}} よ {{!}} 辞典 |url=https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary08500005/ |website=学研キッズネット |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>、あるいは'''カチオン''' ({{en|cation}}) と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=カチオンとは |url=https://www.paint-works.net/tatemono/point/under/kachion_index.htm#:~:text=%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E9%99%BD%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3,%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%EF%BC%89%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 |website=www.paint-works.net |access-date=2022-07-18}}</ref>。[[金属元素]]には安定した陽イオンを形成するものが多い<ref>{{Cite web|和書|title=化学講座 第10回:イオン結合とイオン性物質・金属結合と金属結晶 |url=http://www.sidaiigakubu.com/examination-measure/chemistry/10/ |website=私立大学医学部受験を決めたら 私立大学医学部に入ろう!ドットコム |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>。 ; {{Anchors|陰イオン}}陰イオン / {{Anchors|アニオン}}アニオン : 電子を受け取って負の電荷を帯びた原子、または原子団を'''陰イオン'''(いんイオン、{{en|negative ion}})<ref>{{Cite web|和書|title=いんイオン【陰イオン】 {{!}} い {{!}} 辞典 |url=https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary01200598/ |website=学研キッズネット |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>、あるいは'''アニオン''' ({{en|anion}}) と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=アニオン {{!}} 用語集 {{!}} フッ素化学品事業 {{!}} AGC 化学品カンパニー |url=https://www.agc-chemicals.com/jp/ja/fluorine/glossary/0012.html |website=www.agc-chemicals.com |access-date=2022-07-18}}</ref>。[[第17族元素|ハロゲン]]や[[酸素]]などは安定した陰イオンを形成する<ref>{{Cite web|和書|title=第44章 ハロゲンの単体と化合物 |url=http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~hiroakio/2008/08ko-044.html |website=www.osaka-kyoiku.ac.jp |access-date=2022-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=化学/原子の電気/イオンの種類/酸素イオン |url=http://life-science-edu.net/HTMLoutput/chemistry/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E3%81%AE%E9%9B%BB%E6%B0%97/%E5%8C%96%E5%AD%A6/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E3%81%AE%E9%9B%BB%E6%B0%97/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E/%E9%85%B8%E7%B4%A0%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3.html |website=life-science-edu.net |access-date=2022-07-18}}</ref>。 ; {{Anchors|気相のイオン}}気相のイオン : [[物理学]]、[[化学物理学]]の分野では、気相のイオンに対して、陽イオンの代わりに'''正イオン'''(せいイオン、{{lang-en-short|positive ion|links=no}}、カチオン)、陰イオンの代わりに'''負イオン'''(ふイオン、{{en|negative ion}}、アニオン)が多く用いられる。[[大気電気学]]では、気相のイオンを[[大気イオン]](たいきイオン、{{en|atmospheric ion}})と呼ぶ。 {{Anchors|マイナスイオン}}なお、'''[[マイナスイオン]]'''という用語は、1922年に、空気中の陰イオンの訳語として紹介された和製英語である<ref>西川義方、西川一郎 『{{オープンアクセス}} [{{国立国会図書館デジタルコレクション|934165}} 内科診療の実際]』 南山堂、1922年(絶版)、{{doi|10.11501/934165}}、{{全国書誌番号|43004994}}。</ref>。一部では負イオン(負の大気イオン)の意味でマイナスイオンが使われる場合があり、2002年前後を中心に国内の学会で、日本の多くの研究者が使用した実態があった。またマスコミ等では、陰イオンをマイナスイオンと誤報道する事例もある。流行語にもなったが、この文脈では定まった科学的定義がないために、科学用語として認められないとする批判がある<ref>{{Cite web|和書|title=「マイナスイオン」どこがニセ科学か |url=http://ruby.kyoto-wu.ac.jp/~konami/Contemporary/MinusIon.html |website=ruby.kyoto-wu.ac.jp |access-date=2022-07-18}}</ref>。 === 構成による種類 === ; 単原子イオン : 一つの原子からなるイオン。[[単原子イオン]]を参照。 ; 多原子イオン : 複数の原子からなるイオン。[[分子イオン|多原子イオン]]を参照。 :; 錯イオン :: 電子を放出したり、受け取ったりして正または負の電荷を帯びた[[錯体]]を'''錯イオン'''(さくイオン、{{lang-en-short|complex ion|links=no}})と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=錯イオンとは(覚え方・色・配位数) {{!}} 理系ラボ |url=https://rikeilabo.com/complex-ion |website=rikeilabo.com |date=2019-11-14 |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>。 :; クラスターイオン :: 同種の原子、あるいは分子が、相互作用によって複数個結合した物体が電荷を帯びたものを'''[[クラスター (物質科学)|クラスター]]イオン''' ({{en|cluster ion}}) と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=クラスターイオンとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3-2125092 |website=コトバンク |access-date=2022-07-18 |language=ja |first=化学辞典 |last=第2版}}</ref>。 ===イオン価=== : イオンの電荷の数を'''{{Anchors|イオン価}}イオン価'''({{Lang-en-short|valency|links=no}})、あるいは'''イオンの{{Anchors|価数}}価数'''という<ref name="iwanami_ionla">{{Cite encyclopedia|publication-date=1982-11-05|origyear=1981|encyclopedia=岩波理化学辞典|title=イオン価|edition=第3版増補版第3刷|place=東京|publisher=岩波書店|language=ja}}</ref>。陽イオン、陰イオン、どちらでも価数は正の値として表わすことも多い<ref name="iwanami_ionla" />。たとえば[[二塩基酸]]である硫酸は2価(「イオン価が2」、「価数が2」)の硫酸イオンになれる。 == イオンの表し方 == 化学式の右肩に価数を記す。ただし、1価の場合は符号のみ記す<ref>{{Cite web|和書|title=中3化学【イオンとは】 |url=https://chuugakurika.com/2017/12/24/post-1184/ |website=中学理科 ポイントまとめと整理 |date=2022-05-31 |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>。 * 水素イオン(1価の陽イオン) - <chem>H^+</chem> * 硫酸イオン(2価の陰イオン) - <chem>SO4{}^{2-}</chem> イオンの名称は、陽イオンについては「元素名+イオン」(例:水素イオン)、陰イオンについては「元素名 &minus; 「素」 + 化物イオン」(例:硫化物イオン)と表す。ただし、どちらも例外が多い<ref>{{Cite web|和書|title=化学(イオンの表記)|技術情報館「SEKIGIN」|イオン状態の表記法,イオン式の書き方,水素イオン,ヒドロニウムイオン,オキソニウムイオンなど,主なイオン名称とイオン式の例を紹介 |url=http://sekigin.jp/science/chem/chem_02_4_10.html |website=sekigin.jp |access-date=2022-07-18}}</ref>。原子1個のイオンを単原子イオン<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=5分でわかる、「単原子イオンと多原子イオン」の映像授業 {{!}} 映像授業のTry IT (トライイット) |url=https://www.try-it.jp/chapters-8873/sections-8969/lessons-8974/point-2/ |website=www.try-it.jp |access-date=2022-07-18}}</ref>、複数の原子で構成されるイオンを多原子イオンと呼ぶ<ref name=":0" />。 また、主なイオンの名称とイオン式を覚えておけば、物質名から化学式がある程度推測できる。 * [[硝酸ナトリウム]] ⇒ ナトリウムイオン + 硝酸イオン *: <chem>NaNO3 -> Na^+ + NO3^-</chem> * [[水酸化マグネシウム]] ⇒ マグネシウムイオン + 水酸化物イオン *: <chem>Mg(OH)2 -> Mg^2+ + 2OH^-</chem> == 主なイオン == {| class="wikitable" style="float:left; margin-right:1em" |+ おもな陽イオン !価数!!イオン名!!イオン式 |- !rowspan="14"|1 |colspan="2" style="text-align: center" | 単原子イオン |- | [[水素イオン]] || <chem>H^+</chem> |- | [[リチウムイオン]] || <chem>Li^+</chem> |- | [[ナトリウムイオン]] || <chem>Na^+</chem> |- | [[カリウム|カリウムイオン]] || <chem>K^+</chem> |- | [[銀|銀イオン]] || <chem>Ag^+</chem> |- | [[銅|銅(I) イオン]] || <chem>Cu^+</chem> |- | [[水銀|水銀(I) イオン]]|| <chem>Hg2^{2+}</chem> |- | colspan="2" style="text-align: center" | 多原子イオン |- | [[オキソニウムイオン]] || <chem>H3O^+</chem> |- | [[アンモニウムイオン]] || <chem>NH4^+</chem> |- | colspan="2" style="text-align: center" | 錯イオン |- | [[ジアンミン銀イオン]] || <chem>[Ag(NH3)2]^+</chem> |- | ビオレオ || <chem>[CoCl2(NH3)4]^+</chem> |- !rowspan="22"|2 |colspan="2" style="text-align: center" |単原子イオン |- | [[マグネシウム|マグネシウムイオン]] || <chem>Mg^{2+}</chem> |- | [[カルシウムイオン]]|| <chem>Ca^{2+}</chem> |- | [[ストロンチウム|ストロンチウムイオン]] || <chem>Sr^{2+}</chem> |- | [[バリウム|バリウムイオン]] || <chem>Ba^{2+}</chem> |- | [[カドミウム|カドミウムイオン]] || <chem>Cd^{2+}</chem> |- | [[ニッケル|ニッケル(II) イオン ]]|| <chem>Ni^{2+}</chem> |- | [[亜鉛|亜鉛イオン ]]|| <chem>Zn^{2+}</chem> |- | [[銅|銅(II) イオン ]]|| <chem>Cu^{2+}</chem> |- | [[水銀|水銀(II) イオン]] || <chem>Hg^{2+}</chem> |- | [[鉄|鉄(II) イオン]] || <chem>Fe^{2+}</chem> |- | [[コバルト|コバルト(II) イオン ]]|| <chem>Co^{2+}</chem> |- | [[スズ|スズ(II) イオン]] || <chem>Sn^{2+}</chem> |- | [[鉛|鉛(II) イオン]] || <chem>Pb^{2+}</chem> |- | [[マンガン|マンガン(II) イオン]] || <chem>Mn^{2+}</chem> |- | colspan="2" style="text-align: center" | 錯イオン |- | テトラアンミン亜鉛(II) イオン|| <chem>[Zn(NH3)4]^{2+}</chem> |- | テトラアンミン銅(II) イオン || <chem>[Cu(NH3)4]^{2+}</chem> |- | テトラアクア銅(II) イオン || <chem>[Cu(H2O)4]^{2+}</chem> |- | チオシアニド鉄(III) イオン || <chem>[Fe(SCN)]^{2+}</chem> |- | ヘキサアンミンニッケル(II) イオン || <chem>[Ni(NH3)6]^{2+}</chem> |- | プルプレオ || <chem>[CoCl(NH3)5]^{2+}</chem> |- !rowspan="9"|3 |colspan="2" style="text-align: center" | 単原子イオン |- | [[アルミニウム|アルミニウムイオン]] || <chem>Al^{3+}</chem> |- | 鉄(III) イオン || <chem>Fe^{3+}</chem> |- | [[クロム|クロム(III) イオン]] || <chem>Cr^{3+}</chem> |- | colspan="2" style="text-align: center" | 錯イオン |- | ヘキサアンミンコバルト(III) イオン || <chem>[Co(NH3)6]^{3+}</chem> |- | ヘキサアクアコバルト(III) イオン || <chem>[Co(H2O)6]^{3+}</chem> |- | ヘキサアンミンクロム(III) イオン || <chem>[Cr(NH3)6]^{3+}</chem> |- | ローゼオ || <chem>[Co(NH3)4(H2O)2]^{3+}</chem> |- !rowspan="3"|4 |colspan="2" style="text-align: center"|単原子イオン |- | [[スズ|スズ(IV) イオン]] || <chem>Sn^{4+}</chem> |- | [[マンガン|マンガン(IV) イオン]] || <chem>Mn^{4+}</chem> |} {| class="wikitable" style="float:left" |+ おもな陰イオン !価数!!イオン名!!イオン式 |- !rowspan="28"|1 |colspan="2" style="text-align: center" | 単原子イオン |- | 水素化物イオン || <chem>H^-</chem> |- | フッ化物イオン || <chem>F^-</chem> |- | 塩化物イオン || <chem>Cl^-</chem> |- | 臭化物イオン || <chem>Br^-</chem> |- | ヨウ化物イオン || <chem>I^-</chem> |- |- | colspan="2" style="text-align: center" | 多原子イオン |- | [[水酸化物イオン]] || <chem>OH^-</chem> |- | [[シアン化物イオン]] || <chem>CN^-</chem> |- | [[硝酸イオン]] || <chem>NO3^-</chem> |- | [[亜硝酸イオン]] || <chem>NO2^-</chem> |- | 次亜塩素酸イオン || <chem>ClO^-</chem> |- | 亜塩素酸イオン || <chem>ClO2^-</chem> |- | 塩素酸イオン || <chem>ClO3^-</chem> |- | 過塩素酸イオン || <chem>ClO4^-</chem> |- | [[過マンガン酸イオン]] || <chem>MnO4^-</chem> |- | [[酢酸|酢酸イオン]] || <chem>CH3COO^-</chem> |- | [[炭酸水素塩#炭酸水素イオン|炭酸水素イオン]] || <chem>HCO3^-</chem> |- | リン酸二水素イオン || <chem>H2PO4^-</chem> |- | 硫酸水素イオン || <chem>HSO4^-</chem> |- | 硫化水素イオン || <chem>HS^-</chem> |- | チオシアン酸イオン || <chem>SCN^-</chem> |- | シュウ酸水素イオン || <chem>H(COO)2^-</chem> |- | 超酸化物イオン || <chem>O2^-</chem> |- | colspan="2" style="text-align: center" | 錯イオン |- | テトラヒドロキシドアルミン酸イオン || <chem>[Al(OH)4]^-</chem><br /><chem>[Al(OH)4(H2O)2]^-</chem> |- | ジシアニド銀(I) 酸イオン || <chem>[Ag(CN)2]^-</chem> |- | テトラヒドロキシドクロム(III) 酸イオン || <chem>[Cr(OH)4]^-</chem> |- ||| テトラクロリド金(III) 酸イオン || <chem>[AuCl4]^-</chem> |- !rowspan="16"|2 |colspan="2" style="text-align: center" | 単原子イオン |- | [[酸化物|酸化物イオン]] || <chem>O^{2-}</chem> |- | [[硫化物イオン]] || <chem>S^{2-}</chem> |- | colspan="2" style="text-align: center" | 多原子イオン |- | [[過酸化物|過酸化物イオン]] || <chem>O2^{2-}</chem> |- | [[硫酸|硫酸イオン]] || <chem>SO4^{2-}</chem> |- | [[亜硫酸|亜硫酸イオン]] || <chem>SO3^{2-}</chem> |- | [[チオ硫酸|チオ硫酸イオン]] || <chem>S2O3^{2-}</chem> |- | [[炭酸|炭酸イオン]] || <chem>CO3^{2-}</chem> |- | クロム酸イオン || <chem>CrO4^{2-}</chem> |- | 二クロム酸イオン || <chem>Cr2O7^{2-}</chem> |- | シュウ酸イオン || <chem>(COO)2^{2-}</chem> |- | リン酸一水素イオン || <chem>HPO4^{2-}</chem> |- | colspan="2" style="text-align: center" | 錯イオン |- | テトラヒドロキシド亜鉛(II) 酸イオン || <chem>[Zn(OH)4]^{2-}</chem> |- | テトラシアニド亜鉛(II) 酸イオン || <chem>[Zn(CN)4]^{2-}</chem> |- ||| テトラクロリド銅(II) 酸イオン || <chem>[CuCl4]^{2-}</chem> |- !rowspan="5"|3 |colspan="2" style="text-align: center" | 多原子イオン |- | [[リン酸|リン酸イオン]] || <chem>PO4^{3-}</chem> |- | colspan="2" style="text-align: center" | 錯イオン |- | ヘキサシアニド鉄(III) 酸イオン || <chem>[Fe(CN)6]^{3-}</chem> |- | ビス(チオスルファト)銀(I) 酸イオン || <chem>[Ag(S2O3)2]^{3-}</chem> |- !rowspan="2"|4 |colspan="2" style="text-align: center" | 錯イオン |- | ヘキサシアニド鉄(II) 酸イオン || <chem>[Fe(CN)6]^{4-}</chem> |} {{-}} == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Ions}} {{Wiktionary|イオン}} *[[緊密イオン対]] *[[イオン顕微鏡]] *[[イオンエンジン]] *[[イオン交換]] *[[イオンチャネル]] *[[マイナスイオン]] - 陰イオンとは異なる *[[オキソ酸]] *[[イオン化傾向]] *[[イオンクロマトグラフィー]] {{粒子の一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いおん}} [[Category:イオン|*]] [[Category:電子]]
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関東地方の鉄道路線
関東地方の鉄道路線(かんとうちほうのてつどうろせん) 廃止された鉄道路線については日本の廃止鉄道路線一覧を参照。 備考: 複数の都県にまたがる路線は次の通り。 各都県内で完結している路線は次の通り。はじめに複数の市町村にまたがる路線を、その後に市町村内で完結している路線を挙げた。
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関東地方の鉄道路線(かんとうちほうのてつどうろせん) 廃止された鉄道路線については日本の廃止鉄道路線一覧を参照。 備考: 各路線の区間は『鉄道要覧』を基準としている。 同じ路線でも支線(別線)および事業種別の違う区間は別掲しており、各地方ごとに起点側から(1)、(2)…と番号を付けている。 特記無き路線は鉄道事業法に基づく鉄道路線、[軌道法適用]と記載がある路線は軌道法に基づく軌道路線である。
'''[[関東地方]]の[[鉄道路線]]'''(かんとうちほうのてつどうろせん) 廃止された鉄道路線については[[日本の廃止鉄道路線一覧]]を参照。 備考: * 各路線の区間は『鉄道要覧』を基準としている。 * 同じ路線でも支線(別線)および事業種別の違う区間は別掲しており、各地方ごとに起点側から(1)、(2)…と番号を付けている。 * 特記無き路線は[[鉄道事業法]]に基づく鉄道路線、'''[軌道法適用]'''と記載がある路線は[[軌道法]]に基づく軌道路線である。 == 都県をまたぐ路線 == 複数の都県にまたがる路線は次の通り。 * 地方をまたぐ路線 ** [[東海道新幹線]] ([[東海旅客鉄道]]):[[東京駅]] - [[新大阪駅]] (552.6km) ** [[東北新幹線]] ([[東日本旅客鉄道]]):東京駅 - [[新青森駅]] (713.7km) ** [[上越新幹線]] (東日本旅客鉄道):[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[新潟駅]] (303.6km) ** [[北陸新幹線]] (1)(東日本旅客鉄道):[[高崎駅]] - [[上越妙高駅]] (176.9km) ** [[東海道本線]] (東日本旅客鉄道):東京駅 - [[熱海駅]] (104.6km) ** [[中央本線]](1) (東日本旅客鉄道):[[新宿駅]] - [[塩尻駅]] (211.8km) ** [[東北本線]] (東日本旅客鉄道):東京駅 - [[盛岡駅]] (535.3km) ** [[御殿場線]] (東海旅客鉄道):[[国府津駅]] - [[沼津駅]](60.2km) ** [[常磐線]] (東日本旅客鉄道):[[日暮里駅]] - [[岩沼駅]] (343.1km) ** [[上越線]] (東日本旅客鉄道):高崎駅 - [[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]] (162.6km) ** [[水郡線]] (東日本旅客鉄道):[[水戸駅]] - [[安積永盛駅]] (137.5km) ** [[野岩鉄道会津鬼怒川線]] ([[野岩鉄道]]):[[新藤原駅]] - [[会津高原尾瀬口駅]] (30.7km) * 関東地方の複数の都県をまたぐ路線 ** 東海道本線(1) (東日本旅客鉄道):[[品川駅]] - [[鶴見駅]] 新川崎経由 (17.8km) ** 東海道本線(2) (東日本旅客鉄道):[[浜松町駅]] - [[浜川崎駅]]<!-- (20.6km) --> ** 東北本線(2) (東日本旅客鉄道):[[赤羽駅]] - 大宮駅 武蔵浦和経由(通称[[埼京線]]) (18.0km) ** [[総武本線]] (東日本旅客鉄道):東京駅 - [[銚子駅]] (120.5km) ** [[南武線]] (東日本旅客鉄道):[[川崎駅]] - [[立川駅]] (35.5km) ** [[横浜線]] (東日本旅客鉄道):[[東神奈川駅]] - [[八王子駅]] (42.6km) ** [[武蔵野線]] (東日本旅客鉄道):鶴見駅 - [[西船橋駅]] (100.6km) ** [[京葉線]] (東日本旅客鉄道):東京駅 - [[蘇我駅]] (43.0km) ** [[八高線]] (東日本旅客鉄道):八王子駅 - [[倉賀野駅]] (92.0km) ** [[高崎線]] (東日本旅客鉄道):大宮駅 - 高崎駅 (74.7km) ** [[鹿島線]] (東日本旅客鉄道):[[香取駅]] - [[鹿島サッカースタジアム駅]] (17.4km) ** [[両毛線]] (東日本旅客鉄道):[[小山駅]] - [[新前橋駅]] (84.4km) ** [[水戸線]] (東日本旅客鉄道):小山駅 - [[友部駅]] (50.2km) ** [[東京メトロ東西線|東京地下鉄東西線]] ([[東京地下鉄]]):[[中野駅 (東京都)|中野駅]] - 西船橋駅 (30.8km) ** [[東京メトロ有楽町線|東京地下鉄有楽町線]] (東京地下鉄):[[和光市駅]] - [[新木場駅]] (28.3km) ** [[都営地下鉄新宿線]]([[東京都交通局]]):新宿駅 - [[本八幡駅]] (23.5km) ** [[京王相模原線]] ([[京王電鉄]]):[[調布駅]] - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]] (22.6km) ** [[東急東横線]] ([[東急電鉄]]):[[渋谷駅]] - [[横浜駅]] (24.2km) ** [[東急田園都市線]] (東急電鉄):渋谷駅 - [[中央林間駅]] (31.5km) ** [[京急本線]]([[京浜急行電鉄]]):[[品川駅]] - [[浦賀駅]] (55.5km) ** [[小田急小田原線]] ([[小田急電鉄]]):新宿駅 - [[小田原駅]] (82.5km) ** [[小田急多摩線]] (小田急電鉄):[[新百合ヶ丘駅]] - [[唐木田駅]] (10.6km) ** [[西武池袋線]] ([[西武鉄道]]):[[池袋駅]] - [[吾野駅]] (57.8km) ** [[西武新宿線]] (西武鉄道):[[西武新宿駅]] - [[本川越駅]] (47.5km) ** [[西武山口線]] (西武鉄道):[[多摩湖駅]] - [[西武球場前駅]] (2.8km) ** [[東武伊勢崎線]] ([[東武鉄道]]):[[浅草駅]] - [[伊勢崎駅]] (114.5km) ** [[東武佐野線]] (東武鉄道):[[館林駅]] - [[葛生駅]] (22.1km) ** [[東武日光線]] (東武鉄道):[[東武動物公園駅]] - [[東武日光駅]] (94.5km) ** [[東武野田線]] (東武鉄道):大宮駅 - [[船橋駅]] (62.7km) ** [[東武東上本線]] ([[東武鉄道]]):池袋駅 - [[寄居駅]] (75km) ** [[京成本線]] ([[京成電鉄]]):[[京成上野駅]] - [[成田空港駅]] (69.3km) ** [[京成成田空港線]] (京成電鉄・第2種):[[京成高砂駅]] - [[成田空港駅]] (51.4km) ** [[埼玉高速鉄道線]] ([[埼玉高速鉄道]]):[[赤羽岩淵駅]] - [[浦和美園駅]] (14.6km) ** [[真岡鐵道真岡線]] ([[真岡鐵道]]):[[下館駅]] - [[茂木駅]] (41.9km) ** [[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線]] ([[わたらせ渓谷鐵道]]):[[桐生駅]] - [[間藤駅]] (44.1km) ** [[北総鉄道北総線]] ([[北総鉄道]]):[[京成高砂駅]] - [[小室駅]] (19.8km) ** [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|首都圏新都市鉄道常磐新線(つくばエクスプレス)]] ([[首都圏新都市鉄道]]):[[秋葉原駅]] - [[つくば駅]] (58.3km) == 都県内で完結している路線 == 各都県内で完結している路線は次の通り。はじめに複数の市町村にまたがる路線を、その後に市町村内で完結している路線を挙げた。 === 東京都 === * [[東京都]] ** [[青梅線]] (東日本旅客鉄道):[[立川駅]] - [[奥多摩駅]] (37.2km) ** [[五日市線]] (東日本旅客鉄道):[[拝島駅]] - [[武蔵五日市駅]] (11.1km) ** 武蔵野線(1) (東日本旅客鉄道):[[新小平駅]] - [[国立駅]] (5.0km) ** [[京王線]] (京王電鉄):新宿駅 - [[京王八王子駅]] (37.9km) ** [[京王井の頭線]] (京王電鉄):渋谷駅 - [[吉祥寺駅]] (12.7km) ** [[西武拝島線]] (西武鉄道):[[小平駅]] - [[拝島駅]] (14.3km) ** [[西武国分寺線]] (西武鉄道):[[東村山駅]] - [[国分寺駅]] (7.8km) ** [[西武多摩湖線]] (西武鉄道):国分寺駅 - [[多摩湖駅]] (9.2km) ** [[西武多摩川線]] (西武鉄道):[[武蔵境駅]] - [[是政駅]] (8km) ** [[多摩都市モノレール線]] ([[多摩都市モノレール]])跨座'''[軌道法適用]''':[[多摩センター駅]] - [[上北台駅]] (16km) * [[東京都区部]] ** 東北本線(1) (東日本旅客鉄道):[[日暮里駅]] - 赤羽駅 尾久経由 (7.6km) ** [[山手線]] (東日本旅客鉄道):品川駅 - [[田端駅]] (20.6km) ** [[赤羽線]] (東日本旅客鉄道):池袋駅 - 赤羽駅 (5.5km) ** 中央本線 (東日本旅客鉄道):[[神田駅 (東京都)|神田駅]] - [[代々木駅]] (8.3km) ** 総武本線(1) (東日本旅客鉄道):[[錦糸町駅]] - [[御茶ノ水駅]] (4.3km) ** 総武本線(2) (東日本旅客鉄道):[[小岩駅]] - [[金町駅]] (8.9km) ** 総武本線(3) (東日本旅客鉄道):小岩駅 - [[越中島貨物駅]] (11.7km) ** 常磐線(1) (東日本旅客鉄道):[[三河島駅]] - [[南千住駅]] (5.7km) ** 常磐線(2) (東日本旅客鉄道):三河島駅 - 田端駅 (1.6km) ** [[東京メトロ銀座線|東京地下鉄銀座線]] ([[東京地下鉄]]):浅草駅 - 渋谷駅 (14.3km) ** [[東京メトロ丸ノ内線|東京地下鉄丸ノ内線]] (東京地下鉄):池袋駅 - [[荻窪駅]] (24.2km) ** 東京地下鉄丸ノ内線(1) (東京地下鉄):[[中野坂上駅]] - [[方南町駅]] (3.2km) ** [[東京メトロ日比谷線|東京地下鉄日比谷線]] (東京地下鉄):[[北千住駅]] - [[中目黒駅]] (20.3km) ** [[東京メトロ千代田線|東京地下鉄千代田線]] (東京地下鉄):[[綾瀬駅]] - [[代々木上原駅]] (21.9km) ** 東京地下鉄千代田線(1) ([[東京地下鉄]]):綾瀬駅 - [[北綾瀬駅]] (2.1km) ** [[東京メトロ半蔵門線|東京地下鉄半蔵門線]] (東京地下鉄):渋谷駅 - [[押上駅]] (16.8km) ** [[東京メトロ副都心線|東京地下鉄副都心線]] (東京地下鉄):[[小竹向原駅]] - [[渋谷駅]] (11.9km) ** [[東京メトロ南北線|東京地下鉄南北線]] (東京地下鉄):目黒駅 - 赤羽岩淵駅 (21.3km) ** [[都営地下鉄浅草線]] ([[東京都交通局]]):押上駅 - [[西馬込駅]] (18.3km) ** [[都営地下鉄三田線]] (東京都交通局・第2種):目黒駅 - [[白金高輪駅]] (2.3km) ** 都営地下鉄三田線(1) (東京都交通局):[[白金高輪駅]] - [[西高島平駅]] (24.2km) ** [[都営地下鉄大江戸線]] (東京都交通局): [[光が丘駅]] - [[都庁前駅]] (40.7km) ** [[都電荒川線]] (東京都交通局)'''[軌道法適用]''':[[三ノ輪橋停留場]] - [[早稲田停留場]] (12.2km) ** [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー]](東京都交通局)'''[軌道法適用]''':[[日暮里駅]] - [[見沼代親水公園駅]] (9.7km) ** [[東急目黒線]] (東急電鉄):[[目黒駅]] - [[田園調布駅]] (6.5km) ** [[東急大井町線]] (東急電鉄):[[大井町駅]] - [[二子玉川駅]] (10.4km) ** [[東急多摩川線]] (東急電鉄):[[多摩川駅]] - [[蒲田駅]] (5.6km) ** [[東急池上線]] (東急電鉄):[[五反田駅]] - 蒲田駅 (10.9km) ** [[東急世田谷線]] (東急電鉄)'''[軌道法適用]''':[[三軒茶屋駅]] - [[下高井戸駅]] (5km) ** 京急本線(1) (京浜急行電鉄):[[泉岳寺駅]] - 品川駅 (1.2km) ** [[京急空港線]] (京浜急行電鉄):[[京急蒲田駅]] - [[羽田空港第1・第2ターミナル駅]] (6.5km) ** [[西武有楽町線]] (西武鉄道):[[練馬駅]] - 小竹向原駅 (2.6km) ** [[西武豊島線]] (西武鉄道):練馬駅 - [[豊島園駅]] (1km) ** 東武伊勢崎線(1) (東武鉄道):[[押上駅]] - [[曳舟駅]]<!-- (1.3km) --> ** [[東武亀戸線]] (東武鉄道):[[曳舟駅]] - [[亀戸駅]] (3.4km) ** [[東武大師線]] (東武鉄道):[[西新井駅]] - [[大師前駅]] (1km) ** [[京成押上線]] (京成電鉄):押上駅 - [[青砥駅]] (5.7km) ** [[京成金町線]] (京成電鉄):京成高砂駅 - [[京成金町駅]] (2.5km) ** [[東京モノレール羽田空港線]] ([[東京モノレール]])跨座:[[羽田空港第2ターミナル駅]] - [[浜松町駅|モノレール浜松町駅]] (17.8km)<!-- 『鉄道要覧』では羽田空港第2ターミナル起点 --> ** [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]] ([[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]])'''[軌道法適用]''':[[新橋駅]] - [[日の出駅]] (2.2km) ** 東京臨海新交通臨海線(1) (ゆりかもめ):日の出駅 - [[お台場海浜公園駅]] (4.7km) ** 東京臨海新交通臨海線(2) (ゆりかもめ)'''[軌道法適用]''':お台場海浜公園駅 - [[テレコムセンター駅]] (2.3km) ** 東京臨海新交通臨海線(3) (ゆりかもめ):テレコムセンター駅 - [[東京ビッグサイト駅]] (2.1km) ** 東京臨海新交通臨海線(4) (ゆりかもめ)'''[軌道法適用]''':東京ビッグサイト駅 - [[豊洲駅]] (3.4km) ** [[東京臨海高速鉄道りんかい線]] ([[東京臨海高速鉄道]]):[[新木場駅]] - [[大崎駅]] (12.2km) * [[府中市 (東京都)|府中市]] ** [[京王競馬場線]] (京王電鉄):[[東府中駅]] - [[府中競馬正門前駅]] (0.9km) * [[東村山市]] ** [[西武西武園線]] (西武鉄道):[[東村山駅]] - [[西武園駅]] (2.4km) * [[日野市]] ** [[京王動物園線]] (京王電鉄):[[高幡不動駅]] - [[多摩動物公園駅]] (2.0km) * [[八王子市]] ** [[京王高尾線]] (京王電鉄):[[北野駅 (東京都)|北野駅]] - [[高尾山口駅]] (8.6km) ** [[高尾登山電鉄]]:[[清滝駅]] - [[高尾山駅]] (1.0km) * [[青梅市]] ** [[御岳登山鉄道]]:[[滝本駅]] - [[御岳山駅]] (1.0km) === 茨城県 === * [[茨城県]] ** 水郡線(1) (東日本旅客鉄道):[[上菅谷駅]] - [[常陸太田駅]] (9.5km) ** [[関東鉄道常総線]] ([[関東鉄道]]):[[取手駅]] - [[下館駅]] (51.1km) ** [[鹿島臨海鉄道大洗鹿島線]] ([[鹿島臨海鉄道]]):[[水戸駅]] - [[鹿島サッカースタジアム駅]] (53km) ** [[鹿島臨海鉄道鹿島臨港線]] (鹿島臨海鉄道):[[鹿島サッカースタジアム駅]] - [[奥野谷浜駅]] (19.2km・貨物線) * [[ひたちなか市]] ** [[ひたちなか海浜鉄道湊線]] ([[ひたちなか海浜鉄道]]):[[勝田駅]] - [[阿字ヶ浦駅]] (14.3km) * [[つくば市]] ** [[筑波観光鉄道筑波山鋼索鉄道線]] ([[筑波観光鉄道]]):[[宮脇駅]] - [[筑波山頂駅]] (1.6km) ** [[筑波山ロープウェイ]] (筑波観光鉄道):[[筑波山ロープウェイ|つつじヶ丘駅]] - [[女体山駅]] (1.3km) * [[龍ケ崎市]] ** [[関東鉄道竜ヶ崎線]] (関東鉄道):[[龍ケ崎市駅|佐貫駅]] - [[竜ヶ崎駅]] (4.5km) === 神奈川県 === * [[神奈川県]] ** [[根岸線]] (東日本旅客鉄道): 横浜駅 - [[大船駅]] (22.1km) ** [[横須賀線]] (東日本旅客鉄道):大船駅 - [[久里浜駅]] (23.9km) ** [[鶴見線]] (東日本旅客鉄道):鶴見駅 - [[扇町駅 (神奈川県)|扇町駅]] (7.0km) ** 東海道本線(4) (東日本旅客鉄道):鶴見駅 - [[八丁畷駅]] <!-- (2.3km) --> ** 南武線(2) (東日本旅客鉄道):[[尻手駅]] - 鶴見駅 (5.4km) ** [[相模線]] (東日本旅客鉄道):[[茅ケ崎駅]] - 橋本駅 (33.3km) ** [[小田急江ノ島線]] (小田急電鉄):[[相模大野駅]](分岐点)- [[片瀬江ノ島駅]] (27.4km) ** [[京急逗子線]] (京浜急行電鉄):[[金沢八景駅]] - [[逗子・葉山駅]] (5.9km) ** [[京急久里浜線]] (京浜急行電鉄):[[堀ノ内駅]] - [[三崎口駅]] (13.4km) ** [[相鉄本線]] ([[相模鉄道]]):横浜駅 - [[海老名駅]] (24.6km) ** [[相鉄いずみ野線]] (相模鉄道):[[二俣川駅]] - [[湘南台駅]] (11.3km) ** [[横浜市営地下鉄1号線]] ([[横浜市交通局]]):[[関内駅]] - 湘南台駅 (19.7km) ** [[江ノ島電鉄線]] ([[江ノ島電鉄]]):[[藤沢駅]] - [[鎌倉駅]] (10.0km) ** [[湘南モノレール江の島線]] ([[湘南モノレール]]) :大船駅 - [[湘南江の島駅]] (6.6km) ** [[伊豆箱根鉄道大雄山線]] ([[伊豆箱根鉄道]]):[[小田原駅]] - [[大雄山駅]] (9.6km) ** [[箱根登山鉄道鉄道線]] ([[箱根登山鉄道]]):小田原駅 - [[強羅駅]] (15.0km) * [[横浜市]] ** 東海道本線(3) (東日本旅客鉄道):鶴見駅 - [[東戸塚駅]] (16.0km) ** 東海道本線(5) (東日本旅客鉄道):鶴見駅 - [[桜木町駅]] (8.5km) ** 鶴見線(1) (東日本旅客鉄道):[[浅野駅]] - [[海芝浦駅]] (1.7km) ** [[横浜市営地下鉄3号線]] ([[横浜市交通局]]):関内駅 - [[あざみ野駅]] (20.7km) ** [[横浜市営地下鉄グリーンライン|横浜市営地下鉄4号線]] ([[横浜市交通局]]):[[中山駅 (神奈川県)|中山駅]] - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]] (13.1km) ** [[東急新横浜線]](東京急行電鉄):[[新横浜駅]] - 日吉駅 (5.8km) ** [[東急こどもの国線]] (東京急行電鉄・第2種):[[長津田駅]] - [[こどもの国駅 (神奈川県)|こどもの国駅]] (3.4km) ** [[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン]] ([[横浜シーサイドライン]])'''[軌道法適用]''':[[新杉田駅]] - [[金沢八景駅]] (10.6km) ** [[横浜高速鉄道みなとみらい線|横浜高速鉄道みなとみらい21線]] ([[横浜高速鉄道]]):横浜駅 - [[元町・中華街駅]] (4.1km) ** [[神奈川臨海鉄道本牧線]] ([[神奈川臨海鉄道]]):[[根岸駅 (神奈川県)|根岸駅]] - [[本牧埠頭駅]] (5.6km・貨物線) **[[相鉄新横浜線]](相模鉄道):[[西谷駅]] - 新横浜駅(6.3km) * [[川崎市]] ** 南武線(1) (東日本旅客鉄道):[[尻手駅]] - [[浜川崎駅]] (4.1km) ** 鶴見線(2) (東日本旅客鉄道):[[武蔵白石駅]] - [[大川駅]] (1.0km) ** [[京急大師線]] (京浜急行電鉄):[[京急川崎駅]] - [[小島新田駅]] (4.5km) ** [[神奈川臨海鉄道水江線]] ([[神奈川臨海鉄道]]):[[川崎貨物駅]] - [[水江町駅]] (2.6km・貨物線) ** [[神奈川臨海鉄道千鳥線]] (神奈川臨海鉄道):川崎貨物駅 - [[千鳥町駅 (神奈川県)|千鳥町駅]] (4.2km・貨物線) ** [[神奈川臨海鉄道浮島線]] (神奈川臨海鉄道):川崎貨物駅 - [[浮島町駅]] (3.9km・貨物線) * [[海老名市]] ** [[相鉄厚木線]] (相模鉄道):[[相模国分信号所]] - [[厚木駅]] (2.2km・貨物線) * [[伊勢原市]] ** [[大山観光電鉄大山鋼索線]] ([[大山観光電鉄]]):[[大山ケーブル駅]] - [[阿夫利神社駅]] (0.8km) * [[箱根町]] ** [[箱根登山鉄道鋼索線]] ([[箱根登山鉄道]]):[[強羅駅]] - [[早雲山駅]] (1.2km) === 群馬県 === * [[群馬県]] ** [[信越本線]] (東日本旅客鉄道):高崎駅 - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]] (29.7km) ** [[吾妻線]] (東日本旅客鉄道):[[渋川駅]] - [[大前駅]] (55.3km) ** [[東武桐生線]] (東武鉄道):[[太田駅 (群馬県)|太田駅]] - [[赤城駅]] (20.3km) ** [[東武小泉線]] (東武鉄道):館林駅 - [[西小泉駅]] (12.0km) ** [[東武小泉線]](1) ([[東武鉄道]]):[[太田駅 (群馬県)|太田駅]] - [[東小泉駅]] (6.4km) ** [[上毛電気鉄道上毛線]] ([[上毛電気鉄道]]):[[中央前橋駅]] - [[西桐生駅]] (25.4km) ** [[上信電鉄上信線]] ([[上信電鉄]]):高崎駅 - [[下仁田駅]] (33.7km) === 埼玉県 === * [[埼玉県]] ** [[川越線]] (東日本旅客鉄道):大宮駅 - [[高麗川駅]] (30.6km) ** [[西武秩父線]] (西武鉄道):[[吾野駅]] - [[西武秩父駅]] (19km) ** [[東武越生線]] (東武鉄道):[[坂戸駅]] - [[越生駅]] (10.9km) ** [[埼玉新都市交通伊奈線]] ([[埼玉新都市交通]]):大宮駅 - [[内宿駅]] (12.7km) ** [[秩父鉄道秩父本線]] ([[秩父鉄道]]):[[羽生駅]] - [[三峰口駅]] (71.7km) ** [[秩父鉄道三ヶ尻線]] (秩父鉄道):[[武川駅]] - [[三ヶ尻駅]] (3.7km・貨物線) * [[さいたま市]] ** 武蔵野線(2) (東日本旅客鉄道):[[西浦和駅]] - [[与野駅]] (4.9km) ** 武蔵野線(3) (東日本旅客鉄道):[[武蔵浦和駅]] - [[別所信号場]] (1.6km) * [[所沢市]] ** [[西武狭山線]] (西武鉄道):[[西所沢駅]] - [[西武球場前駅]] (4.2km) === 千葉県 === * [[千葉県]] ** 京葉線(1) (東日本旅客鉄道):[[市川塩浜駅]] - [[西船橋駅]] (5.9km) ** 武蔵野線(4) (東日本旅客鉄道):[[南流山駅]] - [[北小金駅]] (2.9km) ** 武蔵野線(5) (東日本旅客鉄道):南流山駅 - [[馬橋駅]] (3.7km) ** [[内房線]] (東日本旅客鉄道):[[蘇我駅]] - [[安房鴨川駅]] (119.4km) ** [[外房線]] (東日本旅客鉄道):[[千葉駅]] - 安房鴨川駅 (93.3km) ** [[成田線]] (東日本旅客鉄道):[[佐倉駅]] - [[松岸駅]] (75.4km) ** 成田線(1) (東日本旅客鉄道):[[成田駅]] - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] (32.9km) ** [[久留里線]] (東日本旅客鉄道):[[木更津駅]] - [[上総亀山駅]] (32.2km) ** [[東金線]] (東日本旅客鉄道):[[大網駅]] - [[成東駅]] (13.8km) ** [[京成千葉線]] (京成電鉄):[[京成津田沼駅]] - [[千葉中央駅]] (12.9km) ** [[京成千原線]] (京成電鉄):千葉中央駅 - [[ちはら台駅]] (10.9km) ** [[新京成電鉄新京成線]] ([[新京成電鉄]]):京成津田沼駅 - [[松戸駅]] (26.5km) ** [[小湊鉄道線]] ([[小湊鉄道]]):[[五井駅]] - [[上総中野駅]] (39.1km) ** [[流鉄流山線]] ([[流鉄]]):馬橋駅 - [[流山駅]] (5.7km) ** [[いすみ鉄道いすみ線]] ([[いすみ鉄道]]):[[大原駅 (千葉県)|大原駅]] - [[上総中野駅]] (26.8km) ** [[北総鉄道北総線]](1) ([[北総鉄道]]・第2種):[[小室駅]] - [[印旛日本医大駅]] (12.5km) ** [[東葉高速鉄道東葉高速線]] ([[東葉高速鉄道]]):西船橋駅 - [[東葉勝田台駅]] (16.2km) ** [[芝山鉄道線]] ([[芝山鉄道]]):[[東成田駅]] - [[芝山千代田駅]] (2.2km) ** [[京葉臨海鉄道臨海本線]] ([[京葉臨海鉄道]]):蘇我駅 - [[浜五井駅]] (8.8km・貨物線) ** 京葉臨海鉄道臨海本線(3) (京葉臨海鉄道):[[椎津駅]] - [[北袖駅]] (2.2km・貨物線) * [[千葉市]] ** [[千葉都市モノレール1号線]] ([[千葉都市モノレール]])'''[軌道法適用]''':[[千葉みなと駅]] - [[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]] (3.2km) ** [[千葉都市モノレール2号線]] (千葉都市モノレール)'''[軌道法適用]''':千葉駅 - [[千城台駅]] (12km) * [[銚子市]] ** [[銚子電気鉄道線]] ([[銚子電気鉄道]]):銚子駅 - [[外川駅]] (6.4km) * [[浦安市]] ** [[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]] ([[舞浜リゾートライン]])跨座:[[リゾートゲートウェイ・ステーション駅]] - [[リゾートゲートウェイ・ステーション駅]] (5.0km) * [[船橋市]] ** [[京葉線]](2) (東日本旅客鉄道):[[西船橋駅]] - [[南船橋駅]] (5.4km) * [[市原市]] ** 京葉臨海鉄道臨海本線(1) (京葉臨海鉄道):[[市原分岐点]] - [[京葉市原駅]] (1.6km・貨物線) ** 京葉臨海鉄道臨海本線(2) (京葉臨海鉄道):[[浜五井駅]] - 椎津駅 (8.9km・貨物線) * [[袖ケ浦市]] ** 京葉臨海鉄道臨海本線(4) (京葉臨海鉄道):[[北袖分岐点]] - [[京葉久保田駅]] (2.3km・貨物線) * [[佐倉市]] ** [[山万ユーカリが丘線]] ([[山万]]):[[ユーカリが丘駅]] - [[公園駅]] (4.1km) * [[成田市]] ** 成田線(2) (東日本旅客鉄道):成田駅 - 成田線分岐点 (2.1km) ** 成田線(3) (東日本旅客鉄道・第2種):成田線分岐点 - [[成田空港駅]] (8.7km) ** [[京成本線]](1) (京成電鉄・第2種):[[駒井野信号場]] - 成田空港駅(千葉県) (2.1km) ** [[京成東成田線]] (京成電鉄):[[京成成田駅]] - [[東成田駅]] (7.1km) === 栃木県 === * [[栃木県]] ** [[日光線]] (東日本旅客鉄道):[[宇都宮駅]] - [[日光駅]] (40.5km) ** [[烏山線]] (東日本旅客鉄道):[[宝積寺駅]] - [[烏山駅]] (20.4km) ** [[東武宇都宮線]] (東武鉄道):[[新栃木駅]] - [[東武宇都宮駅]] (24.3km) ** [[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]] ([[宇都宮ライトレール]])'''[軌道法適用]''':[[宇都宮駅#宇都宮ライトレール|宇都宮駅東口停留場]] - [[芳賀・高根沢工業団地停留場]] (14.6km) * [[日光市]] ** [[東武鬼怒川線]] (東武鉄道):[[下今市駅]] - [[新藤原駅]] (16.2km) == 関連項目 == * [[日本の地域別鉄道路線一覧]] * [[北海道の鉄道路線]] * [[東北地方の鉄道路線]] * [[中部地方の鉄道路線]] * [[近畿地方の鉄道路線]] * [[中国地方の鉄道路線]] * [[四国の鉄道路線]] * [[九州の鉄道路線]] [[Category:関東地方の鉄道路線|*]] [[Category:日本の地域別鉄道路線一覧|かんとうちほう]] [[Category:関東地方の一覧|てつとう]]
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メタ言語
メタ言語(メタげんご、英: Metalanguage)とは、何らかの言語について論じる際に、その対象となる言語(単に対象言語などと表現される)と区別する形で記述する側の言語を指す用語である(ここで指す言語は自然言語であることも形式言語であることも有り得る)。 しばしばメタ言語は対象言語と同じものが使われる(日本語で日本語を論じたり、集合論の言語で集合論を論じるなど)が、これらの区別が曖昧であった場合、とくに論理学や意味論において矛盾を生じることがある。 数理論理学において言語とは、取り扱う対象となる(述語・演算・関係などを表す)記号の集合であり、例えば集合論では一般的な論理記号および量化子と集合の所属関係 ∈ がその言語となる。この場合は、それら特定の言語が対象言語であり、それを論じる人間が扱っている言語 (すなわち自然言語である日本語や英語など) がメタ言語となる。 特にプログラミング言語のような形式言語の構文を記述する際に使われる記法がバッカス・ナウア記法 (BNF) である。BNF記法には様々な変種が存在するが、そのうち拡張バッカス・ナウア記法とも呼ばれるEBNF (Extended BNF) はISOとIECによって標準化されており、文書は「Syntactic metalanguage」(直訳: 構文的メタ言語) と題されている。 Standard MLやOCaml、F#などの言語の源流であるMLは、元々は1970年代にロビン・ミルナーと彼の研究グループが開発したMeta Languageという名前の定理証明システムとその内部で使用されたメタ言語(すなわち、証明を記述するために使用された言語)であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "メタ言語(メタげんご、英: Metalanguage)とは、何らかの言語について論じる際に、その対象となる言語(単に対象言語などと表現される)と区別する形で記述する側の言語を指す用語である(ここで指す言語は自然言語であることも形式言語であることも有り得る)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "しばしばメタ言語は対象言語と同じものが使われる(日本語で日本語を論じたり、集合論の言語で集合論を論じるなど)が、これらの区別が曖昧であった場合、とくに論理学や意味論において矛盾を生じることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "数理論理学において言語とは、取り扱う対象となる(述語・演算・関係などを表す)記号の集合であり、例えば集合論では一般的な論理記号および量化子と集合の所属関係 ∈ がその言語となる。この場合は、それら特定の言語が対象言語であり、それを論じる人間が扱っている言語 (すなわち自然言語である日本語や英語など) がメタ言語となる。", "title": "数学" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "特にプログラミング言語のような形式言語の構文を記述する際に使われる記法がバッカス・ナウア記法 (BNF) である。BNF記法には様々な変種が存在するが、そのうち拡張バッカス・ナウア記法とも呼ばれるEBNF (Extended BNF) はISOとIECによって標準化されており、文書は「Syntactic metalanguage」(直訳: 構文的メタ言語) と題されている。", "title": "コンピューター分野" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Standard MLやOCaml、F#などの言語の源流であるMLは、元々は1970年代にロビン・ミルナーと彼の研究グループが開発したMeta Languageという名前の定理証明システムとその内部で使用されたメタ言語(すなわち、証明を記述するために使用された言語)であった。", "title": "コンピューター分野" } ]
メタ言語とは、何らかの言語について論じる際に、その対象となる言語(単に対象言語などと表現される)と区別する形で記述する側の言語を指す用語である(ここで指す言語は自然言語であることも形式言語であることも有り得る)。 しばしばメタ言語は対象言語と同じものが使われる(日本語で日本語を論じたり、集合論の言語で集合論を論じるなど)が、これらの区別が曖昧であった場合、とくに論理学や意味論において矛盾を生じることがある。
{{Otheruses|学術用語|カメルーンの言語|メタ語}} '''メタ言語'''(メタげんご、英: Metalanguage)とは、何らかの言語について論じる際に、その対象となる言語(単に対象言語などと表現される)と区別する形で記述する側の言語を指す用語である(ここで指す言語は[[自然言語]]であることも[[形式言語]]であることも有り得る)。 しばしばメタ言語は対象言語と同じものが使われる([[日本語]]で日本語を論じたり、[[公理的集合論|集合論]]の言語で集合論を論じるなど)が、これらの区別が曖昧であった場合、とくに論理学や意味論において矛盾を生じることがある<ref>{{Citation|和書|title=日本大百科全書(ニッポニカ)|author=丹治信春|author-link=丹治信春|year=2023|publisher=小学館|chapter=メタ言語|chapter-url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%82%BF%E8%A8%80%E8%AA%9E-9244}}</ref>。 ==数学== {{出典の明記| section = 1| date = 2022-12}} [[数理論理学]]において言語とは、取り扱う対象となる(述語・演算・関係などを表す)記号の集合であり、例えば集合論では一般的な[[論理演算|論理記号]]および[[量化|量化子]]と集合の所属関係 ∈ がその言語となる。この場合は、それら特定の言語が対象言語であり、それを論じる人間が扱っている言語 (すなわち自然言語である日本語や英語など) がメタ言語となる。 ==コンピューター分野== <!-- [[コンピューター]]分野では、[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]や[[Extensible Markup Language|XML]](ただしこれらの「M」は「マークアップ」)などのメタ言語が存在している。 メタ言語で作られた文書に対する構造を定義する言語を[[スキーマ言語]]という。[[マークアップ言語]]はメタ言語とスキーマ言語を組み合わせることで機能する。 例えば[[HyperText Markup Language|HTML]]4.01 は[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]に Strict、Transitional、Framesetという3種類の[[Document Type Definition|DTD]]による定義により実装されている。 --> === バッカス・ナウア記法 === {{Main|バッカス・ナウア記法}} 特に[[プログラミング言語]]のような形式言語の[[統語論|構文]]を記述する際に使われる記法がバッカス・ナウア記法 (BNF) である。BNF記法には様々な変種が存在するが、そのうち拡張バッカス・ナウア記法とも呼ばれる[[EBNF]] (Extended BNF) は[[国際標準化機構|ISO]]と[[国際電気標準会議|IEC]]によって[[標準化]]されており、文書は「Syntactic metalanguage」({{Literal translation|構文的メタ言語}}) と題されている<ref>{{Cite book|洋書 |title=ISO - ISO/IEC 14977:1996 - Information technology — Syntactic metalanguage — Extended BNF |year=1996 |publisher=ISO/IEC |url=https://www.iso.org/standard/26153.html |access-date=2023-03-02}}</ref>。 === ML === {{Main|ML (プログラミング言語)}} [[Standard ML]]や[[OCaml]]、[[F Sharp|F#]]などの言語の源流であるMLは、元々は1970年代に[[ロビン・ミルナー]]と彼の研究グループが開発した''Meta Language''という名前の[[自動定理証明|定理証明]]システムとその内部で使用されたメタ言語(すなわち、証明を記述するために使用された言語)であった<ref>{{Cite journal|last=MacQueen|first=David|last2=Harper|first2=Robert|last3=Reppy|first3=John|date=2020-06-12|title=The history of Standard ML|url=https://doi.org/10.1145/3386336|journal=Proceedings of the ACM on Programming Languages|volume=4|issue=HOPL|pages=86:1–86:100|doi=10.1145/3386336}}</ref>。 ==関連項目== *[[メタ]] *[[スキーマ言語]] *[[マークアップ言語]] *[[使用と言及の区別]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{メタ}} {{最適化アルゴリズム}} {{Normdaten}} {{language-stub}} {{Mathlogic-stub}} {{Computer-stub}} {{デフォルトソート:めたけんこ}} [[Category:数学に関する記事]] [[Category:言語学]] [[Category:コンピュータ言語]]
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東海道線
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'''東海道線'''(とうかいどうせん):鉄道路線の名称。以下のように大別される。 * [[東海道本線]]:国土交通省発行の文書や同省監修『[[鉄道要覧]]』における「東海道線」。東京駅 - 神戸駅間を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本、東京駅 - 熱海駅間)、東海旅客鉄道(JR東海、熱海駅 - 米原駅間)、西日本旅客鉄道(JR西日本、米原駅 - 神戸駅間)の鉄道路線(幹線)および同本線に付随する支線(貨物支線も含む)群と貨物線全体の正式路線名。具体的には、以下の運転系統名・通称名などを指す。 ** 東海道線 (旅客案内上):以下の各項目を参照 *** [[東海道線 (JR東日本)]]:JR東日本の東京駅 - 熱海駅間 *** [[東海道線 (静岡地区)]]:JR東海の熱海駅 - 豊橋駅間 *** [[東海道線 (名古屋地区)]]:JR東海の豊橋駅 - 米原駅間 *** [[琵琶湖線]]:JR西日本の米原駅 - 京都駅間の愛称 *** [[JR京都線]]:JR西日本の京都駅 - 大阪駅間の愛称 *** [[JR神戸線]]:JR西日本の大阪駅 - 神戸駅間と山陽本線 神戸駅 - 姫路駅間を合わせた区間の愛称 ** 東海道本線 (支線):本線に付随する支線。以下のような通称名で呼ばれている。 *** [[品鶴線]]:品川駅 - 新鶴見信号場 - 鶴見駅間 *** [[美濃赤坂線]]:大垣駅 - 南荒尾信号場 - 美濃赤坂駅間 *** [[新垂井線]]:大垣駅 - 南荒尾信号場 - 関ケ原駅間 *** [[東海道貨物線|東海道貨物線 (貨物支線)]]:貨物列車を主体とする本線に付随する路線の通称。旅客鉄道(JR東日本・JR西日本)と日本貨物鉄道(JR貨物)が第1種鉄道事業者の区間および日本貨物鉄道(JR貨物)が第2種鉄道事業者の区間があり、それぞれに通称がある。 **** JR東日本・JR西日本が第1種鉄道事業者、JR貨物が第2種鉄道事業者 ***** 東京貨物ターミナル支線:浜松町駅 - 東京貨物ターミナル駅 - 浜川崎駅間、鶴見駅 - 八丁畷駅間([[南武線|南武線浜川崎支線]]の八丁畷駅 - 浜川崎駅間も含む、JR東日本、JR貨物は東京貨物ターミナル駅 - 浜川崎駅間 - 鶴見駅間の第2種鉄道事業) ***** 羽沢線:鶴見駅 - 横浜羽沢駅 - 東戸塚駅間(JR東日本) ***** [[高島線]]:鶴見駅 - 東高島駅 - 桜木町駅間(JR東日本) ***** [[北方貨物線]]:吹田貨物ターミナル駅 - 宮原操車場 - 尼崎駅間(JR西日本) ***** [[梅田貨物線]]:吹田貨物ターミナル駅 - 大阪駅(うめきたエリア)- 福島駅間(JR西日本) **** JR貨物が第1種鉄道事業者 ***** [[名古屋港線]]:山王信号場 - 名古屋港駅間 ***** [[東海道本線#日本貨物鉄道|大阪貨物ターミナル支線]]:吹田貨物ターミナル駅 - 大阪貨物ターミナル駅間 ** [[東海道貨物線|東海道貨物線 (貨物専用線路)]]:上記のうち東戸塚駅 - 小田原駅間の貨物専用線路の通称(名古屋駅 - 稲沢駅間も貨物専用線路があるが、[[稲沢線]]という通称が定着)。 ** [[東海道新幹線]]:東京駅 - 新大阪駅間を結ぶJR東海の高速鉄道路線(新幹線)およびその列車。国鉄時代の『日本国有鉄道線路名称』では、東海道新幹線および山陽新幹線新神戸駅間が東海道本線の線路増扱いで、JR線路名称公告では同区間は東海道本線の支線扱い、基本事業計画や『鉄道要覧』では別路線として扱っている。 ** [[京浜東北線]]:上記のうち東京駅 - 横浜駅間の専用線路(電車線)を走行する運転系統名。東京駅から先は[[東北本線]](東京駅 - 大宮駅間の電車線)、横浜駅から先は[[根岸線]](横浜駅 - 桜木町駅 - 磯子駅 - 大船駅間)とそれぞれ相互直通運転を行う。 * [[国鉄・JR線路名称一覧#東海道線の部|東海道線 (日本国有鉄道線路名称)]] - 上記の本線(東海道新幹線および山陽新幹線新大阪駅 - 新神戸駅間を含む)および付随する支線群と本線を中核とする系統路線群。[[山手線]]、[[赤羽線]]、[[横須賀線]]、[[御殿場線]]、[[武豊線]]、[[大阪環状線]]、[[福知山線]]などの系統路線を抱合。 == 関連項目 == * [[東海道 (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:とうかいとうせん}} [[Category:東海道本線]] [[Category:同名の交通]]
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ゆりかもめ
ゆりかもめ(百合鴎)
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ゆりかもめ(百合鴎) 鳥の名。ユリカモメを参照。 ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線の愛称。 上記路線を運営する鉄道会社。ゆりかもめ (企業) を参照。 プロレスラーの佐野巧真の得意技。
'''ゆりかもめ'''(百合鴎) *鳥の名。[[ユリカモメ]]を参照。 *[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線]]の愛称。 **上記路線を運営する鉄道会社。[[ゆりかもめ (企業)]] を参照。 *[[プロレスラー]]の[[佐野直喜|佐野巧真]]の得意技。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ゆりかもめ}}
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目黒駅
目黒駅(めぐろえき)は、東京都品川区上大崎にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東急電鉄(東急)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 所在地は目黒区ではなく品川区であり(後述)、同区最北端の駅である。なお、目黒区にある駅で「目黒」を駅名に冠する駅は、中目黒駅である。 以下の4社局4路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。 東急・東京メトロ・都営地下鉄の駅は、目黒線と南北線および三田線の間で相互直通運転を行っている。3社局の路線が乗り入れる共同使用駅で東急の管轄となっている。3者の乗り入れで1者が管轄する珍しい事例の共同使用駅である。 また、南北線と三田線は、当駅から白金高輪駅までの区間で駅・線路設備を共用している。当該区間については、南北線を運行する東京メトロが第一種鉄道事業者として施設を保有しており、三田線を運行する東京都交通局は第二種鉄道事業者となる。 駅名は目黒駅であるが、駅の所在地は目黒区ではなく品川区である。開設時に遡っても、目黒村でなく大崎村に位置している。 駅名選定の経緯は残されていないが、目黒不動尊や目黒川など周辺には「目黒」を冠する名称が多い。設置場所については、蒸気機関車の煙や振動が農作物に悪影響を与えると心配した地元農民の反対運動のため、目黒川沿いに鉄道を建設する当初計画が変更されたとする伝承(目黒駅追上事件と称される)がある。一方、地理学者の青木栄一はこうした伝承のほとんどは文献資料などの根拠を欠いたものであると述べている。 こうした通説の否定を踏まえ、杉山淳一は、目黒駅が大崎から渋谷までのほぼ直線上になった路線上にあることに着目し、目黒川沿いに鉄道を敷いた場合のコストを考慮した上で路線が計画され、結果的に現在の設置場所に目黒駅が設けられたのではないかと推測している。 このような経緯から、当駅周辺では落語「目黒のさんま」に因んで、品川区側と目黒区側の両方で「目黒のさんま祭り」がそれぞれ別の団体によって異なる日に開催されている。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。改札は橋上と地下の2か所にある。また、東急線との連絡改札口が設置されている。東急線連絡改札口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝および深夜の一部時間帯を除き、遠隔対応のため改札係員は不在となる。 山手線では2012年度から2017年度にかけて各駅にホームドアを設置する計画があり、目黒駅では2010年8月から他駅に先行して供用が開始された。目黒駅では過去、1992年3月18日と3月19日の2日間にわたり、外回りの最後部1両分を使用してホームドアの設置・稼働試験が行われたことがあった。 2016年より首都圏の駅で導入されたJR東日本の駅ナンバリングは、当駅が導入第一号となり、同年8月20日未明に駅名標が駅ナンバリング入りのものに交換された。 (出典:JR東日本:駅構内図) 島式ホーム1面2線を有する地下駅。駅自体は東急電鉄が管轄しているため、フルスクリーン式ホームドアを採用している南北線では唯一の可動式ホーム柵設置駅である。ホームや各社局乗務員詰所、変電所、信号機器室、通信機器室、ポンプ室などが地下4階にあり、改札口や駅事務室、換気機械室、各社局乗務員事務室などが地下3階にある。 自動券売機は東急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄の3種類のものが設置されているので、目的地に応じた券売機を利用する必要がある。ただし、白金台駅・白金高輪駅への乗車券購入は東京メトロ・都営地下鉄のどちらのものを利用しても差し支えなく行える。また、PASMO、SuicaなどのICカード乗車券へのチャージ・PASMOの新規発行や定期券(磁気・PASMO)の発行は駅業務を所轄している東急電鉄が行っており、東京メトロ・東京都交通局の自動券売機ではチャージができない。また東京メトロ・東京都交通局の定期券・PASMO書き込み式企画乗車券の発行もできない(東急電鉄⇔東京メトロ・東京都交通局の連絡定期券は「定期券」と表示のある券売機で発行可能)。 東急電鉄の駅長所在駅であり、「目黒駅管内」として、当駅 - 奥沢駅間を管理している。なお、東京メトロの駅としては、霞ケ関駅務管区溜池山王地域の被管理駅、都営地下鉄の駅としては、日比谷駅務管区日比谷駅務区の被管理駅である。 東京メトロ最南端の駅である。また、東京メトロとしては品川区に属する唯一の駅でもある。 東急線開業当初は2面3線の地上相対式ホームを持つ頭端式の地上駅であり、その後1953年に駅ビルが建ち、地下1階に東急ストアが入居していた。正面に改札口が設置されたほか、1番線のホーム中央に1994年2月28日まで山手線ホームへの連絡改札口が設置されていた。1997年7月27日に現在の構造になったが、山手線ホームへの連絡改札口は引き続き設置され、東急電鉄とJRで別々になった。 東横線複々線化工事に伴い、1991年(平成3年)4月から駅全体の地下化工事に着手した。 地平の不動前駅に対して当駅は高台にあり、同駅から特認となる40‰の急勾配を登って運行していた。地下化後は不動前駅から下り4‰の勾配に緩和され、地上から約20 m掘り下げた地下駅に至る。 当駅は起点(行き止まり式の終着駅)であり、地下化工事期間中は運転本数の少ない昼間時間帯(10時頃 - 16時頃)に片側の線路のみを使用した単線運転とすることで、負担の大きい夜間作業の低減と工事費用の低減を図った。 具体的には1991年(平成3年)11月、当駅近くに設置していた折り返し用の両渡り分岐器を約500 m離れた目黒川の手前付近に移設(片側渡り線を2基)し、ここに架線の開閉所を設置した。ここから当駅までは単線並列運行となり、昼間時間帯に片側の線路を線路閉鎖・饋電停止(架線を停電させる)を行うことで、工事作業に使用させるものである。 また、地下化切り替え工事は上下線とも一晩で地上線から地下線へ切り替えることを想定していたが、実際には切り替え作業工程が多く、終電後から初電までの時間内では収まらないことが判明した。このため、事前作業で新上り線のみを地下線へと切り替え(地上の2番線への発着はできなくなる)、1997年(平成9年)7月26日は終日にわたり、地上の1番線のみを使用した単線運転を行った。そして、同日終電後に地上1番線への仮設桁(仮線路)を撤去し、上下線とも地下線への切り替え工事が完了した。 当駅の1日平均乗降人員は、1999年度まで約30万人程度で推移していたが、都営地下鉄三田線、東京メトロ南北線の開業により、東急目黒線との直通が始まり、2000年度以降は利用客が増加した。2017年度における4社合計の1日平均乗降人員は約71.6万人であり、年間では約2億6100万人となっている。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通り(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。 都営バス・東急バス により運行される以下の路線が発着する。 都営バスは東口ロータリー内、東急バスは目黒通り上(東行は駅北側、西行は駅南側)に分かれて設置している。停留所名は東急バス西行きのみ「目黒駅東口」、他は「目黒駅前」となる。 0 - 2番のりばは目黒通り上(駅南側)、3 - 5番のりばは目黒駅西口正面に設置。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "目黒駅(めぐろえき)は、東京都品川区上大崎にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東急電鉄(東急)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "所在地は目黒区ではなく品川区であり(後述)、同区最北端の駅である。なお、目黒区にある駅で「目黒」を駅名に冠する駅は、中目黒駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "以下の4社局4路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東急・東京メトロ・都営地下鉄の駅は、目黒線と南北線および三田線の間で相互直通運転を行っている。3社局の路線が乗り入れる共同使用駅で東急の管轄となっている。3者の乗り入れで1者が管轄する珍しい事例の共同使用駅である。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、南北線と三田線は、当駅から白金高輪駅までの区間で駅・線路設備を共用している。当該区間については、南北線を運行する東京メトロが第一種鉄道事業者として施設を保有しており、三田線を運行する東京都交通局は第二種鉄道事業者となる。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "駅名は目黒駅であるが、駅の所在地は目黒区ではなく品川区である。開設時に遡っても、目黒村でなく大崎村に位置している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "駅名選定の経緯は残されていないが、目黒不動尊や目黒川など周辺には「目黒」を冠する名称が多い。設置場所については、蒸気機関車の煙や振動が農作物に悪影響を与えると心配した地元農民の反対運動のため、目黒川沿いに鉄道を建設する当初計画が変更されたとする伝承(目黒駅追上事件と称される)がある。一方、地理学者の青木栄一はこうした伝承のほとんどは文献資料などの根拠を欠いたものであると述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "こうした通説の否定を踏まえ、杉山淳一は、目黒駅が大崎から渋谷までのほぼ直線上になった路線上にあることに着目し、目黒川沿いに鉄道を敷いた場合のコストを考慮した上で路線が計画され、結果的に現在の設置場所に目黒駅が設けられたのではないかと推測している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このような経緯から、当駅周辺では落語「目黒のさんま」に因んで、品川区側と目黒区側の両方で「目黒のさんま祭り」がそれぞれ別の団体によって異なる日に開催されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する地上駅。改札は橋上と地下の2か所にある。また、東急線との連絡改札口が設置されている。東急線連絡改札口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝および深夜の一部時間帯を除き、遠隔対応のため改札係員は不在となる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "山手線では2012年度から2017年度にかけて各駅にホームドアを設置する計画があり、目黒駅では2010年8月から他駅に先行して供用が開始された。目黒駅では過去、1992年3月18日と3月19日の2日間にわたり、外回りの最後部1両分を使用してホームドアの設置・稼働試験が行われたことがあった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2016年より首都圏の駅で導入されたJR東日本の駅ナンバリングは、当駅が導入第一号となり、同年8月20日未明に駅名標が駅ナンバリング入りのものに交換された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する地下駅。駅自体は東急電鉄が管轄しているため、フルスクリーン式ホームドアを採用している南北線では唯一の可動式ホーム柵設置駅である。ホームや各社局乗務員詰所、変電所、信号機器室、通信機器室、ポンプ室などが地下4階にあり、改札口や駅事務室、換気機械室、各社局乗務員事務室などが地下3階にある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "自動券売機は東急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄の3種類のものが設置されているので、目的地に応じた券売機を利用する必要がある。ただし、白金台駅・白金高輪駅への乗車券購入は東京メトロ・都営地下鉄のどちらのものを利用しても差し支えなく行える。また、PASMO、SuicaなどのICカード乗車券へのチャージ・PASMOの新規発行や定期券(磁気・PASMO)の発行は駅業務を所轄している東急電鉄が行っており、東京メトロ・東京都交通局の自動券売機ではチャージができない。また東京メトロ・東京都交通局の定期券・PASMO書き込み式企画乗車券の発行もできない(東急電鉄⇔東京メトロ・東京都交通局の連絡定期券は「定期券」と表示のある券売機で発行可能)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "東急電鉄の駅長所在駅であり、「目黒駅管内」として、当駅 - 奥沢駅間を管理している。なお、東京メトロの駅としては、霞ケ関駅務管区溜池山王地域の被管理駅、都営地下鉄の駅としては、日比谷駅務管区日比谷駅務区の被管理駅である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "東京メトロ最南端の駅である。また、東京メトロとしては品川区に属する唯一の駅でもある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "東急線開業当初は2面3線の地上相対式ホームを持つ頭端式の地上駅であり、その後1953年に駅ビルが建ち、地下1階に東急ストアが入居していた。正面に改札口が設置されたほか、1番線のホーム中央に1994年2月28日まで山手線ホームへの連絡改札口が設置されていた。1997年7月27日に現在の構造になったが、山手線ホームへの連絡改札口は引き続き設置され、東急電鉄とJRで別々になった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "東横線複々線化工事に伴い、1991年(平成3年)4月から駅全体の地下化工事に着手した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "地平の不動前駅に対して当駅は高台にあり、同駅から特認となる40‰の急勾配を登って運行していた。地下化後は不動前駅から下り4‰の勾配に緩和され、地上から約20 m掘り下げた地下駅に至る。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "当駅は起点(行き止まり式の終着駅)であり、地下化工事期間中は運転本数の少ない昼間時間帯(10時頃 - 16時頃)に片側の線路のみを使用した単線運転とすることで、負担の大きい夜間作業の低減と工事費用の低減を図った。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "具体的には1991年(平成3年)11月、当駅近くに設置していた折り返し用の両渡り分岐器を約500 m離れた目黒川の手前付近に移設(片側渡り線を2基)し、ここに架線の開閉所を設置した。ここから当駅までは単線並列運行となり、昼間時間帯に片側の線路を線路閉鎖・饋電停止(架線を停電させる)を行うことで、工事作業に使用させるものである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、地下化切り替え工事は上下線とも一晩で地上線から地下線へ切り替えることを想定していたが、実際には切り替え作業工程が多く、終電後から初電までの時間内では収まらないことが判明した。このため、事前作業で新上り線のみを地下線へと切り替え(地上の2番線への発着はできなくなる)、1997年(平成9年)7月26日は終日にわたり、地上の1番線のみを使用した単線運転を行った。そして、同日終電後に地上1番線への仮設桁(仮線路)を撤去し、上下線とも地下線への切り替え工事が完了した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "当駅の1日平均乗降人員は、1999年度まで約30万人程度で推移していたが、都営地下鉄三田線、東京メトロ南北線の開業により、東急目黒線との直通が始まり、2000年度以降は利用客が増加した。2017年度における4社合計の1日平均乗降人員は約71.6万人であり、年間では約2億6100万人となっている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通り(JRを除く)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "都営バス・東急バス により運行される以下の路線が発着する。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "都営バスは東口ロータリー内、東急バスは目黒通り上(東行は駅北側、西行は駅南側)に分かれて設置している。停留所名は東急バス西行きのみ「目黒駅東口」、他は「目黒駅前」となる。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "0 - 2番のりばは目黒通り上(駅南側)、3 - 5番のりばは目黒駅西口正面に設置。", "title": "バス路線" } ]
目黒駅(めぐろえき)は、東京都品川区上大崎にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東急電鉄(東急)・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 所在地は目黒区ではなく品川区であり(後述)、同区最北端の駅である。なお、目黒区にある駅で「目黒」を駅名に冠する駅は、中目黒駅である。
{{Otheruses|東京都品川区にある駅|目黒区にある駅|中目黒駅}} {{出典の明記|date=2021年3月}} {{駅情報 |駅名 = 目黒駅 |よみがな = めぐろ |ローマ字 = Meguro |画像 = Meguro station west exit.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2007年4月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|marker=rail|marker2=rail |coord={{coord|35|38|2.5|N|139|42|57|E}}|marker-color=008000|title=JR 目黒駅 |coord2={{coord|35|38|0|N|139|42|56|E}}|marker-color2=ee0011|title2=東急・東京メトロ・都営地下鉄 目黒駅 |frame-latitude=35.633766|frame-longitude=139.715706 }} |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東急電鉄]]([[#東急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[品川区]][[上大崎]] }} [[ファイル:Meguro Station-1.jpg|thumb|正面口(2018年1月)]] '''目黒駅'''(めぐろえき)は、[[東京都]][[品川区]][[上大崎]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東急電鉄]](東急)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 所在地は[[目黒区]]ではなく品川区であり([[#駅名と所在地|後述]])、同区最北端の駅である。なお、目黒区にある駅で「目黒」を駅名に冠する駅は、[[中目黒駅]]である。 == 乗り入れ路線 == 以下の4社局4路線が乗り入れ、相互間の接続駅となっている。 * JR東日本:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]] - [[電車線・列車線|電車線]]で運行される[[環状線]]としての山手線電車のみが停車し、線路名称上は山手線である[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]の列車は停車しない。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している<ref name="kippu">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/kippu/11041.html |title=JR東日本:きっぷに関するご案内>特定の都区市内駅を発着する場合の特例 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2014-08-02}}</ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]「'''JY 22'''」 * 東急電鉄:[[ファイル:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] [[東急目黒線|目黒線]] - 当駅が起点。下記2路線および2023年より[[相模鉄道]]各線と相互直通運転が行われている。かつては「[[東急目蒲線|目蒲線]]」と称していた。駅番号「'''MG01'''」 * 東京メトロ:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] [[東京メトロ南北線|南北線]] - 当駅が起点。開業当初から多くの列車が[[赤羽岩淵駅]]から[[埼玉高速鉄道線]]への直通運転を実施している。駅番号「'''N 01'''」 * 都営地下鉄:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] [[都営地下鉄三田線|三田線]] - 当駅が起点。駅番号「'''I 01'''」 東急・東京メトロ・都営地下鉄の駅は、目黒線と南北線および三田線の間で[[相互直通運転]]を行っている。3社局の路線が乗り入れる[[共同使用駅]]で東急の管轄となっている。3者の乗り入れで1者が管轄する珍しい事例の共同使用駅である。 また、南北線と三田線は、当駅から[[白金高輪駅]]までの区間で駅・線路設備を共用している。当該区間については、南北線を運行する東京メトロが[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]として施設を保有しており、三田線を運行する東京都交通局は[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]となる。 == 歴史 == [[File:Meguro Station.19630626.jpg|thumb|目黒駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1885年]]([[明治]]18年)[[3月16日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業<ref name="停車場Ⅱ_60">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=60}}</ref><ref name="jtb84"/>。旅客営業のみ。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]、[[鉄道省|国有鉄道]]の駅となる<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により山手線の所属となる。 * [[1923年]]([[大正]]12年)[[3月11日]]:[[目黒蒲田電鉄]](現在の東急)の駅が開業<ref name="jtb84">[[#jtb|東急の駅]]、pp.84-85。</ref><ref name="jtb82">[[#jtb|東急の駅]]、pp.82-83。</ref>。 * [[1929年]]([[昭和]]4年):目蒲線目黒駅に東横第2食堂が開設される<ref name="jtb84"/>。 * [[1936年]](昭和11年):目蒲線駅舎が木造モルタル造2階建てに改築<ref name="jtb84"/>。 * [[1942年]](昭和17年):目蒲線ホームが3両編成対応になる<ref name="jtb84"/>。 * [[1953年]](昭和28年)[[12月12日]]:目蒲線駅舎が鉄筋コンクリート造地上2階・地下1階建てに改築<ref name="jtb84"/>。 * [[1965年]](昭和40年)[[10月1日]]:国鉄駅において手荷物及び小荷物を東急線方面との連絡のものに限定、配達の取り扱いを開始<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[4月1日]]:目蒲線ホームが4両対応に延伸され、3番線が廃止される<ref name="jtb84"/>。 ** [[11月25日]]:国鉄の目黒駅が[[民衆駅]]として改築<ref group="新聞">{{Cite news|title=目黒民衆駅きょう開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1967-11-25 |page=2 }}</ref>。 * [[1968年]](昭和43年)2月:目蒲線に券売機と改札機が一体となった「自動券売改札機」を設置<ref group="新聞">{{Cite news |title=「自動券売改札機」が登場 東急自由が丘と目黒両駅に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-18 |page=3 }}</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月21日]]:国鉄と東急線の連絡荷物の取り扱いを廃止<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅(山手線所属)となる<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[6月2日]]:JRの駅に[[自動改札機]]を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=191 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1991年]](平成3年) ** [[4月23日]]:目蒲線目黒駅地下化の起工式を実施<ref name="PIC1991-8">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1991-08-01|title=読者短信|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=41|issue=第8号(通巻第547号)|page=111|issn=0040-4047}}</ref>。 ** 4月:東急目蒲線の地下化工事に着手<ref name="Journal1994-5">[[#RJ331|『鉄道ジャーナル』通巻331号]]、p.52</ref>。 ** [[11月15日]]:目蒲線のダイヤ改正により、当駅の折り返し用分岐器を約500&nbsp;m不動前駅寄りに移設<ref name="Journal1994-5"/><ref name="PIC1992-2">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1992-02-01|title=読者短信|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=42|issue=第2号(通巻第555号)|pages=110 - 111|issn=0040-4047}}</ref>。当駅 - 不動前駅間の大部分が単線並列区間となる<ref name="RP600_110"/>。 * [[1992年]](平成4年) ** [[3月18日]] - [[3月19日]]:山手線ホームで[[ホームドア|可動式ホーム柵]]の試験を実施<ref name="RP561_51" /><ref group="新聞" name="kotsu19920319">{{Cite news|title=ホームからの転落防止「安全可動サク」を開発 JR東日本 山手線目黒駅で現地試験|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=1992-03-19|page=2}}</ref>。 ** [[7月17日]]:仮設駅舎等の設置スペース確保のため、目蒲線ホームを不動前駅寄りに延伸(仮設ホーム)<ref name="PIC1992-10">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1992-10-01|title=読者短信|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=42|issue=第10号(通巻第565号)|pages=111 - 112|issn=0040-4047}}</ref>。目蒲線ホームの停車位置を不動前駅寄りに約30&nbsp;m移動<ref name="PIC1992-10"/><ref name="RP600_110">{{Cite journal|和書|author=小林和明|title=輸送力増強等事業の工事区間見て歩き|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1994-12-10|volume=44|issue=第12号(通巻第600号)|page=110|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ** [[8月24日]]:目蒲線の2番線と山手線連絡改札口を結んでいた連絡地下道を閉鎖<ref name="PIC1993-3">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1993-03-01|title=読者短信|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=43|issue=第3号(通巻第572号)|page=119|issn=0040-4047}}</ref>。 ** [[10月31日]]:東急の駅が仮駅舎となり、出入口は目黒通り側から2番線ホーム側(西側)に移設<ref name="PIC1993-3"/>。 * [[1993年]](平成5年) ** [[4月26日]]:目蒲線の1番線を仮設桁(仮線路・仮ホーム)に移設<ref name="RP581_112">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1993-10-01|title=読者短信|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=43|issue=第10号(通巻第581号)|pages=111 - 112|issn=0040-4047}}</ref>。 ** [[8月2日]]:目蒲線の2番線を仮設桁(仮線路・仮ホーム)に移設<ref name="PIC1993-11">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1993-11-01|title=読者短信|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=43|issue=第11号(通巻第583号)|page=111|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年)[[2月28日]]:東急⇔山手線の連絡改札口を閉鎖<ref name="RP600_110" /><ref name="PIC1994-5">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1994-05-01|title=読者短信|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=44|issue=第5号(通巻第590号)|page=119|issn=0040-4047}}</ref>。このため、山手線側に仮設の改札口が設置された<ref name="PIC1994-5"/>。 * [[1997年]](平成9年)[[7月27日]]:東急の駅が地下駅となる<ref name="jtb84"/>。 * [[2000年]](平成12年) ** [[8月6日]]:目蒲線が目黒線と[[東急多摩川線]]に分割され、当駅は目黒線の駅となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/000328.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191029104951/https://www.tokyu.co.jp/file/000328.pdf|format=PDF|language=日本語|title=目蒲線の運行系統変更による線名変更などを実施 平成12年8月6日(日)から|publisher=東京急行電鉄|date=2000-03-28|accessdate=2020-05-01|archivedate=2019-10-29}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/000714.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414174636/http://www.tokyu.co.jp/file/000714.pdf|format=PDF|language=日本語|title=8月6日(日)から運行開始の目黒線と東急多摩川線のダイヤを決定 併せて東横線、池上線のダイヤも改正|publisher=東京急行電鉄|date=2000-07-14|accessdate=2020-05-01|archivedate=2015-04-14}}</ref>。 ** [[9月26日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)・都営地下鉄の駅が開業<ref group="報道" name="subway20000207">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s02.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205175209/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s02.html|language=日本語|title=平成12年9月26日 営団南北線 溜池山王・目黒間、都営三田線 三田・目黒間開業 東急目黒線との相互直通運転開始 開業区間の運賃及び相互直通運転に伴う運行形態を決定|publisher=帝都高速度交通営団/東京急行電鉄/東京都交通局|date=2000-08-30|accessdate=2020-05-02|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref group="報道" name="pr20000207"/>。東急目黒線と営団地下鉄南北線・都営三田線との相互直通運転を開始<ref group="報道" name="subway20000207"/><ref group="報道" name="pr20000207">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/000207.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180218090413/http://www.tokyu.co.jp/file/000207.pdf|format=PDF|language=日本語|title=営団地下鉄南北線・都営三田線と相互直通運転を開始 平成12年9月26日(火)から|publisher=東京急行電鉄|date=2000-02-07|accessdate=2020-05-01|archivedate=2018-02-18}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|title=営団南北線 都営三田線 9月26日に目黒延伸開業/都心の新動脈完成|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=2000-02-09|page=3}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** [[4月28日]]:東急の駅とJRの駅西口とを結ぶ連絡地下道が開通<ref name="rail fan2003-02p8">{{Cite journal|和書 |author = 鉄道友の会東京支部東急部会 |date = 2003-02-01 |title = 2001年度 東急総決算 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 8}}</ref>。 ** [[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2002年]](平成14年)[[4月2日]]:JR東急目黒ビルが開業<ref group="報道" name="pr20020205">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/020205.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414054532/http://www.tokyu.co.jp/file/020205.pdf|format=PDF|language=日本語|title=目黒の新たなランドマーク「JR東急目黒ビル」4月グランドオープン|publisher=東日本旅客鉄道/東京急行電鉄|date=2002-02-05|accessdate=2020-12-17|archivedate=2015-04-14}}</ref>。アトレ目黒がオープン<ref group="報道" name="pr20020205" />。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、南北線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[4月28日]]:東京メトロの定期券うりばの営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.jp/rosen/teiki/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060621140656/http://www.tokyometro.jp/rosen/teiki/index.html|title=定期券うりばのご案内 > 定期券うりば営業終了のお知らせ|archivedate=2006-06-21|accessdate=2021-02-06|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=2021年2月}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)3月18日:東急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年)[[8月28日]]:山手線ホームで[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2009/20100307.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190526231515/https://www.jreast.co.jp/press/2009/20100307.pdf|format=PDF|language=日本語|title=山手線恵比寿駅、目黒駅のホームドア使用開始日について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2010-03-04|accessdate=2020-04-22|archivedate=2019-05-26}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[3月15日]]:アトレ目黒1・B館がリニューアル<ref group="報道" name="439_meguro0301">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/439_meguro0301.pdf|title=アトレ目黒1・B館 3月15日(水)AM10:00 RENEWAL OPEN!!|format=PDF|publisher=アトレ|date=2017-03-01|accessdate=2020-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519160253/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/439_meguro0301.pdf|archivedate=2020-05-20}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)[[3月30日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://jreu-t.jp/relays/download/106/510/2035/3405/?file=/files/libs/3405//201812141040484178.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成30年度営業関係施策(その2)について提案を受ける|publisher=JR東労組東京地本|date=2018-12-13|accessdate=2020-01-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200128083755/http://jreu-t.jp/relays/download/106/510/2035/3405/?file=/files/libs/3405//201812141040484178.pdf|archivedate=2020-01-28}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[4月30日]]:東急電鉄の定期券売り場の営業を終了<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/eca549ce97d87500e3e5b7c261b5ce8f8950eac2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210319161740/https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/eca549ce97d87500e3e5b7c261b5ce8f8950eac2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=定期券のお買い求めや払いもどしは、モバイルPASMO・Apple PayのPASMO・券売機のご利用が便利です!|page=2|publisher=東急電鉄|date=2021-03-18|accessdate=2021-03-19|archivedate=2021-03-19}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[12月9日]]:東急連絡改札口に[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]を導入<ref name="StationCd=1552_231109">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1552|title=駅の情報(目黒駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-11-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231109082825/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1552|archivedate=2023-11-09}}</ref>。 === 駅名と所在地 === 駅名は'''目黒駅'''であるが、駅の所在地は目黒区ではなく'''品川区'''である。開設時に遡っても、[[目黒町 (東京府)|目黒村]]でなく[[大崎町 (東京府)|大崎村]]に位置している。 駅名選定の経緯は残されていないが、[[瀧泉寺|目黒不動尊]]や[[目黒川]]など周辺には「目黒」を冠する名称が多い。設置場所については、[[蒸気機関車]]の煙や振動が農作物に悪影響を与えると心配した地元農民の反対運動のため、目黒川沿いに鉄道を建設する当初計画が変更されたとする伝承(目黒駅追上事件と称される)がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/megurorekishi/tetsudo1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210329011642/https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/megurorekishi/tetsudo1.html|title=歴史を訪ねて 目黒の鉄道 1|archivedate=2021-03-29|accessdate=2021-03-29|publisher=目黒区|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。一方、地理学者の[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]はこうした伝承のほとんどは文献資料などの根拠を欠いたものであると述べている。 {{See also|鉄道と政治#鉄道忌避伝説}} こうした通説の否定を踏まえ、杉山淳一は、目黒駅が大崎から渋谷までのほぼ直線上になった路線上にあることに着目し、目黒川沿いに鉄道を敷いた場合のコストを考慮した上で路線が計画され、結果的に現在の設置場所に目黒駅が設けられたのではないかと推測している<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-58/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220815025021/https://news.mynavi.jp/article/trivia-58/|title=目黒駅は品川区にあり、品川駅は港区にあるその理由|date=2010-07-24|archivedate=2022-08-15|accessdate=2022-08-15|website=マイナビニュース|publisher=マイナビ|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 このような経緯から、当駅周辺では[[落語]]「[[目黒のさんま]]」に因んで、品川区側と目黒区側の両方で「目黒のさんま祭り」がそれぞれ別の団体によって異なる日に開催されている<ref group="注">目黒駅東側は [http://www.asahi-net.or.jp/~xq7k-fsm/sanma.htm 品川区・目黒駅前商店街振興組合] によって開催され、目黒駅西側から少し離れた目黒区内では [http://www.k-macs.ne.jp/~sanma/ 目黒のさんま祭気仙沼実行委員会] によって開催される。</ref>。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 目黒駅 |画像 = Meguro Station-2.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 東口(2018年1月) |よみがな = めぐろ |ローマ字 = Meguro |前の駅 = JY 23 [[五反田駅|五反田]] |駅間A = 1.2 |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[恵比寿駅|恵比寿]] JY 21 |電報略号 = メク |駅番号 = {{駅番号r|JY|22|#9acd32|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{Color|#9acd32|■}}[[山手線]] |キロ程 = 4.1 |起点駅 = [[品川駅|品川]] |所在地 = [[東京都]][[品川区]][[上大崎]]二丁目16-9 |座標 = {{coord|35|38|2.5|N|139|42|57|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 目黒駅}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1885年]]([[明治]]18年)[[3月16日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />83,770 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] * [[みどりの窓口]] 有 * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|東急連絡改札口に導入<ref name="StationCd=1552_231109" />。}}<ref name="StationCd=1552_231109" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅<ref name="kippu"/>}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。[[改札]]は[[橋上駅|橋上]]と地下の2か所にある。また、東急線との連絡改札口が設置されている<ref name="StationCd=1552_231109" />。東急線連絡改札口には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝および深夜の一部時間帯を除き、遠隔対応のため改札係員は不在となる<ref name="StationCd=1552_231109" />。 山手線では[[2012年]]度から[[2017年]]度にかけて各駅に[[ホームドア]]を設置する計画があり、目黒駅では2010年8月から他駅に先行して供用が開始された<ref group="注">当初は7・10号車が6扉車を含むためこの部分は設置せず、4扉車置き換えが完了した2011年9月にこの2両分も設置を行った。</ref>。目黒駅では過去、[[1992年]][[3月18日]]と[[3月19日]]の2日間にわたり、外回りの最後部1両分を使用してホームドアの設置・稼働試験が行われたことがあった<ref name="RP561_51">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=JR東日本 ホームにおける安全可動柵の現地試験|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1992-06-01|volume=42|issue=第6号(通巻第561号)|page=51|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref group="新聞" name="kotsu19920319" />。 2016年より首都圏の駅で導入されたJR東日本の[[駅ナンバリング]]は、当駅が導入第一号となり、同年8月20日未明に[[駅名標]]が駅ナンバリング入りのものに交換された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/tokyo/20160804_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160820122416/https://www.jreast.co.jp/press/2016/tokyo/20160804_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「駅ナンバリング」の導入を開始します|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2016-08-04|accessdate=2023-03-12|archivedate=2016-08-20}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/life/news/160820/lif1608200022-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201215151002/https://www.sankei.com/smp/life/news/160820/lif1608200022-s1.html|title=目黒駅は「JY22」、JR東の駅ナンバリング導入開始 東京五輪見据え、外国人使いやすく|newspaper=産経新聞|date=2016-08-20|accessdate=2020-12-15|archivedate=2020-12-15}}</ref>。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center;"|内回り |[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[上野駅|上野]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|外回り |[[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1552.html JR東日本:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR Yamanote-Line Meguro Station Central Gates.jpg|中央改札口(2019年9月) JR Yamanote-Line Meguro Station Platform (20210410).jpg|ホーム(2021年4月) JRE Meguro-STA Tokyu-transfer-Gate.jpg|JR・東急連絡改札(2023年3月) </gallery> {{-}} === 東急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄 === {{駅情報 |社色 = #ee0011<!-- 管理事業者に合わせる --> |文字色 = |駅名 = 東急・東京メトロ・都営地下鉄<br />目黒駅<br />{{small|(目黒線・南北線・三田線)}} |画像 = Meguro Station Namboku Line Platform 2018.jpg |pxl = 300 |画像説明 = ホーム(2018年6月) |よみがな = めぐろ |ローマ字 = Meguro |電報略号 = {{Plainlist| * メク(東京メトロ) * 目(東京都交通局、駅名略称)<br />(東急では電報略号は非採用)}} |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東急電鉄]] * [[東京地下鉄]](東京メトロ) * [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])}} |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{Color|#009cd2|■}}[[東急目黒線]]<ref group="*" name="MG"/> |隣の駅1 = |前の駅1 = |駅間A1 = |駅間B1 = 1.0 |次の駅1 = [[不動前駅|不動前]] MG02 |駅番号1 = {{駅番号r|MG|01|#009cd2|3}} |キロ程1 = 0.0 |起点駅1 = 目黒 |所属路線2 = {{Color|#00ada9|●}}[[東京メトロ南北線]]<ref group="*" name="MG">東急目黒線と南北線・都営三田線の間で[[直通運転|相互直通運転]]実施。</ref><ref group="*" name="N-M">目黒 - 白金高輪間は都営地下鉄・東京メトロの共用区間。</ref> |隣の駅2 = |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 1.3 |次の駅2 = [[白金台駅|白金台]] N 02 |駅番号2 = {{駅番号r|N|01|#00ada9|4}} |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 目黒 |所属路線3 = {{Color|#0079c2|●}}[[都営地下鉄三田線]]<ref group="*" name="MG"/><ref group="*" name="N-M"/> |隣の駅3 = |前の駅3 = |駅間A3 = |駅間B3 = 1.3 |次の駅3 = 白金台 I 02 |駅番号3 = {{駅番号r|I|01|#0079c2|4}} |キロ程3 = 0.0 |起点駅3 = 目黒 |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |所在地 = [[東京都]][[品川区]][[上大崎]]四丁目2-1 |座標 = {{coord|35|38|0|N|139|42|56|E|region:JP_type:railwaystation|name=東急・東京メトロ・都営地下鉄 目黒駅}} |乗降人員 = {{Small|(東急電鉄)-2022年-}}<br /><ref group="東急" name="tokyu2022" />223,329<ref group="*" name="transfer"/>人/日<hr />{{Small|(東京メトロ)-2022年-}}<br /><ref group="メトロ" name="metro2022" />91,094<ref group="*" name="transfer">南北線・都営三田線との直通人員を含む値。</ref> 人/日<hr />{{Small|(都営地下鉄)-2022年-}}<br /><ref group="都交" name="toei2022" />81,374<ref group="*">東急目黒線との直通人員を含む値。</ref> |開業年月日 = [[1923年]]([[大正]]12年)[[3月11日]] |廃止年月日 = |備考 = [[共同使用駅]](東急電鉄の管轄駅)<ref name="RP912" /> |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]。駅自体は東急電鉄が管轄しているため、フルスクリーン式ホームドアを採用している南北線では唯一の可動式ホーム柵設置駅である。ホームや各社局乗務員詰所、[[変電所]]、信号機器室、通信機器室、ポンプ室などが地下4階にあり、改札口や駅事務室、換気機械室、各社局乗務員事務室などが地下3階にある<ref name="Namboku-Const326">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.322 - 327。</ref>。 [[自動券売機]]は東急電鉄・東京メトロ・都営地下鉄の3種類のものが設置されているので、目的地に応じた券売機を利用する必要がある。ただし、[[白金台駅]]・[[白金高輪駅]]への乗車券購入は東京メトロ・都営地下鉄のどちらのものを利用しても差し支えなく行える。また、[[PASMO]]、[[Suica]]などの[[ICカード乗車券]]へのチャージ・PASMOの新規発行や[[定期乗車券|定期券]](磁気・PASMO)の発行は駅業務を所轄している東急電鉄が行っており、東京メトロ・東京都交通局の自動券売機ではチャージができない。また東京メトロ・東京都交通局の定期券・PASMO書き込み式企画乗車券の発行もできない(東急電鉄⇔東京メトロ・東京都交通局の連絡定期券は「定期券」と表示のある券売機で発行可能)。 東急電鉄の[[駅長]]所在駅であり、「目黒駅管内」として、当駅 - [[奥沢駅]]間を管理している<ref name="RP912">{{Cite journal|和書|author=佐藤悠歩(東京急行電鉄鉄道事業本部運転車両部保安課)、佐藤宏至(東京急行電鉄鉄道事業本部運輸営業部サービス課)|title=駅務、乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2015-12-10|volume=65|issue=第12号(通巻第912号)|page=47|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。なお、東京メトロの駅としては、[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関]]駅務管区[[溜池山王駅|溜池山王]]地域の被管理駅<ref>{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=鉄道ピクトリアル|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|page=17|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>、都営地下鉄の駅としては、[[日比谷駅|日比谷]]駅務管区日比谷駅務区の被管理駅である<ref>[http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10115671.html 東京都交通局駅務管区処務規程]</ref>。 東京メトロ最南端の駅である。また、東京メトロとしては品川区に属する唯一の駅でもある。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!事業者!!路線!!行先 |- !1 |東急電鉄 |[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線 |[[大岡山駅|大岡山]]・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]・[[新横浜駅|新横浜]]・[[二俣川駅|二俣川]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg01_meguro2.pdf|title=目黒線標準時刻表 目黒駅 日吉・新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- !rowspan="2"|2 |東京メトロ |[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 |[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]方面<ref name="timetable_metro">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg01_meguro.pdf|title=南北線・三田線標準時刻表 目黒駅 赤羽岩淵方面 西高島平方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- |東京都交通局 |[[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 都営三田線 |[[西高島平駅|西高島平]]方面<ref name="timetable_metro" /> |} * 当駅の目黒線不動前寄りには[[分岐器#種類|シーサスポイント]]がある。2006年9月25日から2008年6月21日までは、目黒線の上り列車のうち、当駅終着の各駅停車がこのポイントを経由して下りホームである1番線に到着した後、上りホーム2番線に到着する後続の上り急行へ接続後、下り各駅停車武蔵小杉行として発車していた。しかし、同年[[6月22日]]以降は多くが南北線・三田線直通となったため、ごく一部の折り返し列車しか使用していない。 * 当駅折返しの南北線・三田線の列車は[[終夜運転]]以外では長らく設定がないが、このうち南北線方面からの当駅止まりの列車は開業後初めて[[2021年]][[3月13日]]より設定されている<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210126_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210129095545/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews210126_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年3月13日(土)東京メトロ全線でダイヤ改正 全線で終電時刻を繰上げます|publisher=東京地下鉄|date=2021-01-26|accessdate=2021-02-04|archivedate=2021-01-29}}</ref>)。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Tokyu Meguro station concourse.jpg|東急・東京メトロ・東京都交通局コンコース(2007年4月) Meguro Station ticket barriers 20160907.jpg|東急・東京メトロ・東京都交通局改札(2016年9月) </gallery> {{-}} ==== 地上時代と地下化工事 ==== 東急線開業当初は2面3線の地上[[相対式ホーム]]を持つ頭端式の地上駅であり<ref name="jtb84"/>、その後1953年に[[駅ビル]]が建ち、地下1階に[[東急ストア]]が入居していた<ref name="jtb84"/>。正面に改札口が設置されたほか、1番線のホーム中央に[[1994年]][[2月28日]]まで山手線ホームへの連絡改札口が設置されていた<ref name="RP600_110" />。1997年7月27日に現在の構造になったが、山手線ホームへの連絡改札口は引き続き設置され、東急電鉄とJRで別々になった。 [[東急東横線|東横線]][[複々線]]化工事<ref group="注">東横線[[多摩川駅|多摩川園]](当時) - [[日吉駅 (神奈川県) |日吉]]間の複々線化と[[東急目蒲線|目蒲線]]当駅 - 多摩川園間の8両編成対応施設化ならびに当駅から地下鉄[[東京メトロ南北線|南北線]]・[[都営地下鉄三田線|三田線]]への乗り入れ工事。</ref>に伴い、[[1991年]](平成3年)4月から駅全体の地下化工事に着手した<ref name="RP600_110"/><ref name="Journal1994-5"/>。 * 工事延長:651&nbsp;m<ref name="Journal1994-5"/> * 事業費:335億円<ref name="Journal1994-5"/>(営団地下鉄・当時と費用を分担)<ref name="Journal1994-5"/> * 掘削量:16万&nbsp;m<sup>3</sup><ref name="Journal1994-5"/> 地平の不動前駅に対して当駅は高台にあり、同駅から特認となる40[[パーミル|‰]]の急勾配を登って運行していた<ref name="metro108_58">[[#metro108|『SUBWAY』通巻108号]]、p.58。</ref>。地下化後は不動前駅から下り4‰の勾配に緩和され、地上から約20&nbsp;m掘り下げた地下駅に至る<ref name="metro108_58" />。 当駅は起点([[頭端式ホーム|行き止まり式]]の終着駅)であり、地下化工事期間中は運転本数の少ない昼間時間帯(10時頃 - 16時頃)に片側の線路のみを使用した単線運転とすることで、負担の大きい夜間作業の低減と工事費用の低減を図った<ref name="metro108_61">[[#metro108|『SUBWAY』通巻108号]]、p.61。</ref>。 具体的には1991年(平成3年)11月、当駅近くに設置していた折り返し用の両渡り分岐器を約500&nbsp;m離れた[[目黒川]]の手前付近に移設(片側渡り線を2基)し、ここに架線の開閉所を設置した<ref name="Journal1994-5"/><ref name="metro108_60">[[#metro108|『SUBWAY』通巻108号]]、p.60。</ref>。ここから当駅までは[[単線並列]]運行となり、昼間時間帯に片側の線路を[[線路閉鎖]]・饋電停止(架線を停電させる)を行うことで、工事作業に使用させるものである<ref name="metro108_61" />。 また、地下化切り替え工事は上下線とも一晩で地上線から地下線へ切り替えることを想定していたが、実際には切り替え作業工程が多く、終電後から初電までの時間内では収まらないことが判明した<ref name="metro108_62-63">[[#metro108|『SUBWAY』通巻108号]]、pp.62 - 63。</ref>。このため、事前作業で新上り線のみを地下線へと切り替え(地上の2番線への発着はできなくなる)、[[1997年]](平成9年)[[7月26日]]は終日にわたり、地上の1番線のみを使用した単線運転を行った<ref name="metro108_62-63" />。そして、同日終電後に地上1番線への仮設桁(仮線路)を撤去し、上下線とも地下線への切り替え工事が完了した<ref name="metro108_62-63" />。 == 利用状況 == 当駅の1日平均乗降人員は、1999年度まで約30万人程度で推移していたが、[[都営地下鉄三田線]]、[[東京メトロ南北線]]の開業により、[[東急目黒線]]との直通が始まり、2000年度以降は利用客が増加した。2017年度における4社合計の1日平均乗降人員は約71.6万人であり、年間では約2億6100万人となっている。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''83,770人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: JR東日本の駅の中では[[浦和駅]]に次ぐ第41位。 * '''東急電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''223,329人'''である<ref group="東急" name="tokyu2022" />。 *: 同社の駅の中では[[渋谷駅]]、[[横浜駅]]に次ぐ第3位。東京メトロ南北線、都営地下鉄三田線との直通人員を含んでいる。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''91,094人'''である<ref group="メトロ" name="metro2022" />。 *: 東急目黒線との直通人員を含んでいる。 * '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''81,374人'''(乗車人員:41,721人、降車人員:39,653人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 東急目黒線との直通人員を含んでいる。三田線の駅では神保町駅、大手町駅、三田駅、巣鴨駅に次ぐ第4位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ" name="shinagawa" /> !rowspan=2|年度 !colspan=2|東京急行電鉄<br />/ 東急電鉄 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 |- |2000年(平成12年) |132,948|| |34,834||<ref group="備考" name="N-I" /> |31,332||<ref group="備考" name="N-I" /> |- |2001年(平成13年) |170,698||28.4% |51,488||47.8% |46,057||47.0% |- |2002年(平成14年) |180,398||5.7% |57,400||11.5% |52,915||14.9% |- |2003年(平成15年) |186,301||3.3% |65,748||14.6% |55,720||5.3% |- |2004年(平成16年) |191,340||2.7% |66,210||0.7% |58,153||4.4% |- |2005年(平成17年) |195,425||2.1% |70,088||5.9% |61,453||5.7% |- |2006年(平成18年) |203,745||4.3% |74,879||6.8% |66,370||8.0% |- |2007年(平成19年) |221,429||8.7% |86,549||15.6% |73,493||10.7% |- |2008年(平成20年) |235,367||6.3% |90,332||4.4% |77,589||5.6% |- |2009年(平成21年) |241,585||2.6% |92,666||2.6% |80,825||4.2% |- |2010年(平成22年) |235,597||&minus;2.5% |93,678||1.1% |78,990||&minus;2.3% |- |2011年(平成23年) |236,572||0.4% |94,530||0.9% |78,127||&minus;1.1% |- |2012年(平成24年) |241,718||2.2% |98,495||4.2% |81,069||3.8% |- |2013年(平成25年) |248,074||2.6% |102,998||4.6% |83,424||2.9% |- |2014年(平成26年) |251,530||1.4% |105,289||2.2% |85,305||2.3% |- |2015年(平成27年) |259,382||3.1% |109,114||3.6% |88,327||3.5% |- |2016年(平成28年) |267,662||3.2% |112,752||3.3% |92,429||4.6% |- |2017年(平成29年) |276,680||3.4% |118,326||4.9% |97,236||5.2% |- |2018年(平成30年) |285,661||3.2% |122,861||3.8% |102,086||5.0% |- |2019年(令和元年) |286,145||0.2% |122,641||&minus;0.2% |105,218||3.1% |- |2020年(令和{{0}}2年) |185,621||&minus;35.1% |78,456||&minus;36.0% |<ref group="都交" name="toei2020" />68,840||&minus;34.6% |- |2021年(令和{{0}}3年) |199,638||7.6% |81,059||3.3% |<ref group="都交" name="toei2021" />71,285||3.6% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="東急" name="tokyu2022">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ |title=2022年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-11-03}}</ref>223,329||11.9% |<ref group="メトロ" name="metro2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html |title=各駅の乗降人員ランキング|東京メトロ |website= |publisher=東京地下鉄 |page= |format= |accessdate=2023-11-03 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>91,094||12.4% |<ref group="都交" name="toei2022" />81,374||14.2% |} === 年度別1日平均乗車人員(1880年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !日本鉄道 /<br />国鉄 !目黒蒲田電鉄 !出典 |- |1884年(明治17年) |<ref group="備考">1885年3月1日開業。</ref> |rowspan="29" style="text-align:center"|未開業 | |- |1885年(明治18年) |10 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806565/124?viewMode= 明治18年]</ref> |- |1886年(明治19年) |9 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806566/118?viewMode= 明治19年]</ref> |- |1888年(明治21年) |28 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806568/128?viewMode= 明治21年]</ref> |- |1890年(明治23年) |38 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806570/139?viewMode= 明治23年]</ref> |- |1891年(明治24年) |37 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806572/139?viewMode= 明治25年]</ref> |- |1893年(明治26年) |59 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806573/209?viewMode= 明治26年]</ref> |- |1895年(明治28年) |144 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806575/135?viewMode= 明治28年]</ref> |- |1896年(明治29年) |234 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806576/153?viewMode= 明治29年]</ref> |- |1897年(明治30年) |311 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806577/135?viewMode= 明治30年]</ref> |- |1898年(明治31年) |381 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806578/147?viewMode= 明治31年]</ref> |- |1899年(明治32年)<!--1899年度は1900年が100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく平年となるので365日間で集計--> |375 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref> |- |1900年(明治33年) |400 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/166?viewMode= 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |442 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref> |- |1902年(明治35年) |417 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref> |- |1903年(明治36年) |431 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |277 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |304 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/197?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |496 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/191?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |615 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |785 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |1,501 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |1,598 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/133?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |1,409 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/126?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,178 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,256 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/347?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,617 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/382?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |2,919 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |4,163 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |6,431 |<ref group="備考">1923年3月11日開業。</ref> |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |11,921 | |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |16,386 | |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |15,637 | |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |18,275 |20,371 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |18,110 |23,274 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |16,356 |24,046 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |16,216 |24,508 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |15,247 |12,293 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |14,243 |22,868 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |13,714 |22,221 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |13,788 |22,651 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |14,109 |22,827 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |14,591 |23,492 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑、品川区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="shinagawa">[http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000015000/hpg000014918.htm 品川区の統計] - 品川区</ref> !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !東京急行電鉄 !営団 !都営地下鉄 !出典 |- |1953年(昭和28年) |35,534 | |rowspan="47" style="text-align:center"|未開業 |rowspan="47" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |37,788 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |39,957 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |41,612 |51,373 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref> |- |1957年(昭和32年) |44,243 |55,774 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref> |- |1958年(昭和33年) |46,217 |58,228 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref> |- |1959年(昭和34年) |49,545 |61,208 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |52,388 |64,038 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |53,631 |66,181 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |56,664 |69,315 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |60,581 |71,693 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |62,084 |71,200 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |61,585 |68,881 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |62,099 |65,733 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |63,110 |65,231 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |63,727 |64,925 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |59,710 |63,597 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |60,910 |62,847 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |104,246 |61,391 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |104,263 |62,671 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |105,666 |63,458 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |108,381 |62,658 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |106,273 |61,219 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |107,581 |59,953 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |105,622 |59,622 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |104,959 |58,888 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |104,344 |57,538 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |101,674 |56,175 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |102,041 |55,342 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |101,688 |54,759 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |100,257 |54,393 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |101,707 |55,044 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |100,545 |54,992 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |102,148 |55,510 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |102,874 |56,005 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |109,000 |56,792 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |110,227 |56,934 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |113,460 |58,997 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |116,563 |60,541 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |115,753 |59,786 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |115,455 |59,025 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |114,745 |58,526 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |113,478 |58,178 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |114,063 |58,389 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |112,956 |57,748 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |111,362 |57,074 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>110,348 |56,459 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>106,820 |65,899 |<ref group="備考" name="N-I">2000年9月26日開業。開業日から翌年3月31日までの計187日間を集計したデータ。</ref>18,032 |<ref group="備考" name="N-I"/>15,684 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="shinagawa" /><ref group="乗降データ">[http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/koho/hakkobutsu/kuseiyoran.html 区勢要覧] - 目黒区</ref> !年度 !JR東日本 !東京急行電鉄<br />/ 東急電鉄 !営団 / <br />東京メトロ !都営地下鉄 !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>99,547 |83,365 |25,677 |23,123 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>99,413 |88,047 |28,642 |26,619 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>98,561 |91,128 |31,716 |28,055 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>97,463 |93,285 |33,230 |29,227 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>98,344 |95,141 |35,660 |30,940 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>100,006 |99,151 |37,795 |33,370 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>105,073 |107,148 |42,934 |37,044 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>106,132 |114,792 |44,849 |39,688 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>104,923 |118,170 |45,666 |41,353 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>102,310 |115,482 |46,118 |40,447 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>101,998 |116,049 |46,680 |39,997 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>103,033 |118,374 |48,478 |41,489 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>106,538 |122,849 |50,627 |42,647 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>106,504 |124,778 |51,845 |43,633 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>108,163 |128,566 |53,705 |45,177 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>110,219 |132,732 |55,493 |47,253 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>111,655 |137,241 |58,260 |49,130 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>115,560 |141,532 |60,551 |52,120 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>113,496 |141,790 |60,470 |53,724 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>72,657 | | |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>35,064 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>74,660 | | |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>36,486 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>83,770 | | |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>41,721 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|上大崎|西五反田|白金台|三田 (目黒区)|目黒 (目黒区)|下目黒}} [[ファイル:Gonnosuke-zaka Street Tokyo.JPG|180px|right|thumb|権之助坂]] [[ファイル:Meguro station north.jpg|thumb|180px|[[白金桟道橋]]から見た目黒駅。右の高い建物がJR東急目黒ビル]] * 権之助坂 *: 駅西口側[[東京都道312号白金台町等々力線|目黒通り]]の坂の名称で[[一方通行]]の上下線に分かれている。ただし下り線は上大崎交差点から目黒駅東口ロータリー出口まで相互通行。下り線は[[江戸時代]]に目黒の[[名主]]であった菅沼権之助によって開かれた。[[江戸幕府|幕府]]の意向に反したとの[[冤罪]]で処刑されたが、慕う庶民がその名を付けて現在に至っている。上り線の"新坂"は当初存在していなかったが、増加する交通量などに対応するため、[[1965年]]以後に住宅地を開いて開通した。 * 権之助坂商店街 *: 駅西口前周辺から権之助坂一帯の加盟店舗数250を超える商店街で、権之助坂商店街振興組合として8つの商店会からなっている<ref>[http://www.gonnosuke.com/ 権之助坂商店街 公式サイト]</ref>。 * 行人坂 *: 江戸時代のこと、権之助坂ができる前は江戸府内に入るルートとして大鳥神社から太鼓橋を渡り、途中[[江戸の火事#主な大火|江戸三大大火]]の一つ、[[明和]]9年([[1772年]])[[明和の大火]](行人坂の火事)の火元となった[[大円寺 (目黒区)|大円寺]]を右に見ながら江戸府内へ向かう主道であった。余りの急坂で大八車を引く人々からは不評であった。"権之助坂"が開通して庶民の苦しみは取り除かれた。 * [[アトレ]]目黒 *: 駅の地上に建設されたJRアトレビルの商業エリア。建物は1967年に建てられ、当時はJR目黒駅ビルが目黒ステーションビル、駅隣のビルが目黒ターミナルビルとなっていた。後年ステーションビルはサンメグロ、ターミナルビルはマイメグロとなり、さらにその後マイメグロはmicと呼称が変更された。2000年には2棟共に改装となり、改装中の休業期間を経て2001年10月には2棟併せてヒルトップガーデン目黒(サンメグロはヒルトップガーデングリーン館、マイメグロはヒルトップガーデンオレンジ館と呼称変更)となった。その後、再び改装を経て[[2005年]]12月にこのヒルトップガーデン目黒は'''ATRE1'''(グリーン館建物がA館、オレンジ館建物がB館となっていた)となっている。[[2014年]]2月にB館が閉鎖され、3月にA館がリニューアルオープンし、その後はA館、B館の呼称は使用されていない。リニューアルオープン以降、旧A館の建物のみで営業していたが、旧B館の建物が2017年3月に再オープンした<ref group="報道" name="439_meguro0301" />。JR東急目黒ビルの地上はもともと2002年4月からATREとしてオープンしていたが、ATRE1のオープンにともなって'''ATRE2'''となっている。ATRE2には目黒区の目黒駅行政サービス窓口が設置されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/madoguchi/meguroeki.html |title=目黒駅行政サービス窓口 |date=2012-07-09 |publisher=目黒区役所 |accessdate=2014-08-02}}</ref><ref group="注">なお、目黒駅行政サービス窓口が設置されているATRE2の地番は東京都'''品川区'''上大崎3-1-1である。</ref>。 * [[目黒雅叙園]] *: ホテル、結婚式場、レストラン、保存建築([[登録有形文化財]])などがある。[[アニメーション映画]]『[[千と千尋の神隠し]]』の[[銭湯|湯屋]]などを思わせる造りが目を引く。駅から行人坂を下って徒歩で5分から6分程度。 * [[大鳥神社 (目黒区)|大鳥神社]] *: 太鼓橋を渡って[[東京都道317号環状六号線|山手通り]]と目黒通りの[[立体交差|立体交差点]]の横にある。2006年は鎮座1200年にあたっており、記念行事として、同年[[8月20日]]に[[稚児]]と大人の[[裃]]行列、同年[[9月3日]]の例大祭には60余年振りの[[神輿]]の[[神幸祭|宮入]]が執り行われた。初冬には、[[酉の市]]がある。 * [[学校法人杉野学園]] *: [[杉野服飾大学]]、杉野服飾大学短期大学部、ドレスメーカー学院。 * [[目黒日本大学中学校・高等学校]] *: 旧・日出中学校・高等学校、芸能コースが設置されており、在学生・卒業生に多くの芸能人がいる。 * [[ホリプロ]] - 老舗[[芸能事務所]]。 * [[日の丸自動車グループ|日の丸自動車学校]] *: 山手線から教習コースが望める。黒いビルに大きな目立つ赤い球がめり込んでいる。 * EASE NEWYORK(イーズニューヨーク)・EASE PARIS(イーズパリ) *: [[ニューヨーク]]・[[パリ]]の町並みを模した撮影[[スタジオ]]。東急目蒲線線路跡地に建設された。 * JR東急目黒ビル - アトレ目黒2や[[NTTアド]]、[[ビーコン・コミュニケーションズ]]本社 * 新目黒東急ビル(旧・[[パイオニア]]本社跡地) - [[スターバックスコーヒー]]ジャパン本社 * パークタワー目黒 * [[目黒セントラルスクエア]] *: [[都営バス港南支所|都営バス目黒車庫]]跡地再開発により整備され、オフィス棟とマンション(ブリリアタワー目黒ノースレジデンス・サウスレジデンス)、広場がある。 * その他、[[久米美術館]]などがある。 == バス路線 == [[都営バス]]<ref name="tobus">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/noriba/meguro.html |title=バスのりば>目黒駅 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2014-08-02}}</ref>・[[東急バス]]<ref name="Tokyu bus">{{Cite web|和書|url=https://transfer.navitime.biz/tokyubus/pc/diagram/BusAboardMap?stCode=00240479|title=目黒駅東口 のりば地図{{!}}東急バス|publisher=東急バス|accessdate=2023-05-14}}</ref> により運行される以下の路線が発着する。 === 東口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 都営バスは東口ロータリー内、東急バスは目黒通り上(東行は駅北側、西行は駅南側)に分かれて設置している。停留所名は東急バス西行きのみ「目黒駅東口」、他は「目黒駅前」となる。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!停留所名!!運行事業者!!系統・行先 |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|'''目黒駅前''' |rowspan="2" style="text-align:center;"|都営バス<ref name="tobus"/> |[[都営バス品川営業所#品93系統|'''品93''']]:[[大井競馬場|大井競馬場前]]・品川車庫前・[[東京都立産業技術高等専門学校|都立産業技術高専品川キャンパス前]] |- !2 |{{Unbulleted list|[[都営バス品川営業所#黒77系統|'''黒77''']]:[[千駄ケ谷駅|千駄ヶ谷駅前]]|[[都営バス港南支所#橋86系統|'''橋86''']]:[[新橋駅|新橋駅前]]・[[赤羽橋駅|赤羽橋駅前]]・[[東京タワー]]}} |- !7 |rowspan="2" style="text-align:center;"|東急バス<ref name="Tokyu bus"/> |[[東急バス目黒営業所#自由が丘線|'''東98''']]:[[東京駅のバス乗り場|東京駅南口]] |- !a |style="text-align:center;"|'''目黒駅東口''' |'''東98''':[[東急バス目黒営業所|清水]]・[[等々力駅|等々力操車所]] |} === 西口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 0 - 2番のりばは目黒通り上(駅南側)、3 - 5番のりばは目黒駅西口正面に設置。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !0 |rowspan="6" style="text-align:center;"|東急バス<ref name="Tokyu bus"/> |[[東急バス下馬営業所#野沢線|'''黒09''']]:[[東急バス下馬営業所|下馬営業所]] / 野沢龍雲寺(循環) |- !2 |[[東急バス弦巻営業所#三軒茶屋線|'''黒06''']]:[[三軒茶屋駅]] |- !3 |[[東急バス目黒営業所#碑文谷線|'''黒01''']]:[[目黒区立大岡山小学校|大岡山小学校前]] |- !3B |'''黒01''':清水 |- !4 |[[東急バス目黒営業所#清水線|'''黒02''']]:[[二子玉川駅]] / 等々力七丁目 |- !5 |[[東急バス弦巻営業所#深沢線|'''黒07''']]:[[東急バス弦巻営業所|弦巻営業所]] |} == 隣の駅 == <!--テンプレートは不評意見が多いようです。もしご意見があれば [[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/各路線の駅一覧のテンプレート・隣りの駅]]で議論されています。--> ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 ::: [[五反田駅]] (JY 23) - '''目黒駅 (JY 22)''' - [[恵比寿駅]] (JY 21) ; 東急電鉄(東急) : [[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線 :: {{Color|red|■}}急行 ::: (南北線・三田線) - '''目黒駅 (MG01)''' - [[武蔵小山駅]] (MG03) :: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車<!-- 目黒線各駅停車の種別幕の色は2018年以降順次青に変更 --> ::: (南北線・三田線) - '''目黒駅 (MG01)''' - [[不動前駅]] (MG02) ; 東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄) : [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線・[[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 都営三田線 :: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車<!-- 目黒線各駅停車の種別幕の色は2018年以降順次青に変更 --> ::: (東急目黒線) - '''目黒駅 (N 01・I 01)''' - [[白金台駅]] (N 02・I 02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; JR・私鉄・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|23em}} ;東急電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="東急"|3}} ;東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|3}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ; JR・私鉄・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|16em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|16em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/|date=2002-03-31|title=東京地下鉄道南北線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=namboku}} * {{Cite book |和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}} * {{Cite journal|和書|author=大石良一(東京急行電鉄工務部建設課)|date=1994-05-01|title=東急の東横線輸送力増強計画にともなう大規模改良工事の概要の現場|journal=[[鉄道ジャーナル]]|volume=28|issue=第5号(通巻第331号)|pages=50 - 56|publisher=鉄道ジャーナル社|issn=0288-2337|ref=RJ331}} * {{Cite journal|和書|author=豊田弘茂(東京急行電鉄交通事業部工務部第二工事事務所)|date=1997-11-28|title=東急目蒲線目黒駅が地下化開業 〜単線運転を利用した駅改良工事〜|journal=SUBWAY(日本地下鉄協会報)|issue=108|pages=56 - 63|publisher=[[日本地下鉄協会]]|issn=0289-5668|ref=metro108}} == 関連項目 == {{commonscat|Meguro Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[日本の共同使用駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1552|name=目黒}} * {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=22|name=目黒}} * [https://www.tokyometro.jp/station/meguro/index.html 目黒駅/N01 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/meguro.html 目黒駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] {{鉄道路線ヘッダー}} {{山手線}} {{東急目黒線}} {{東京メトロ南北線}} {{都営地下鉄三田線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:めくろ}} [[Category:品川区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 め|くろ]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅]] [[Category:東急電鉄の鉄道駅]] [[Category:1885年開業の鉄道駅]]
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恵比寿駅
恵比寿駅(えびすえき)は、東京都渋谷区恵比寿南一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)と東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。渋谷区内の鉄道駅では最も南にある。 JR東日本の各線(後述)が地上の高架上に、東京メトロの日比谷線が地下にそれぞれ乗り入れ、乗り継ぎ可能な接続駅となっている。また、JR東日本の駅には「 EBS 」のスリーレターコードが付与されている。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は山手線のみである(詳細は各路線の記事および「鉄道路線の名称」を参照)が、運転系統としては電車線を走行する環状線としての山手線電車のほか、山手貨物線を走行する埼京線と湘南新宿ラインが停車し、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。 東京メトロ日比谷線は、終着駅である北千住駅のさらに先、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を経由して日光線南栗橋駅まで相互直通運転を実施している。 また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。 ヱビスビールを製造・販売していた日本麦酒醸造会社(現在のサッポロビール)の工場がかつて、現在は恵比寿ガーデンプレイスがある場所に存在していた。工場に隣接する山手線上に1901年、ビール出荷専用の貨物駅が開設された。ビールの商標に因み、駅名も「恵比寿」(当初「ゑびす」と表記)と命名される。駅開設当時の地名は「下渋谷」であった。後に、工場周辺を「ゑびす」と呼ぶようになり、1928年に駅周辺の地名も「恵比寿通」と名付けられた。駅前の恵比寿神社は、戦後に成立したものである(駅周辺の節も参照)。 商品名のヱビスと恵比寿ガーデンプレイスのローマ字表記は「YEBISU」であるが、地名と駅名の表記は「EBISU」である。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している渋谷駅管理の業務委託駅。 山手線と埼京線・湘南新宿ライン(山手貨物線)でそれぞれ島式ホーム1面2線ずつ、2面4線を有する高架駅である。 ホーム上の大部分は駅ビル「アトレ恵比寿」に覆われており、1階に西口、3階に東口、それぞれの改札口が設置されている。なお、現行の駅舎が建設される前は、西口・東口とも地平部に駅舎があり、東口とホームは山手貨物線を跨ぐ橋で連絡していた。 エスカレーターは改札内コンコースとホームを連絡するほか、東口には出入口と改札外コンコースを連絡するものも設置されている。エレベーターは西口改札内コンコースとホームを連絡している。 2010年6月26日初電より、山手線ホームにてJR東日本の在来線としては初となるホームドアの運用が開始されている。なお、7号車・10号車部分は当時一部のE231系編成で6ドア車が4ドア車に変更されていなかったため、全編成が4ドア車に変更された後に設置された。 発車案内の上部に列車の現在位置を表示する大型の液晶ディスプレイが2006年10月から2007年2月まで試験的に設置されていた。試験終了後は改札口付近に異常時の運行情報を表示するものとして移設されている。 埼京線の列車が当駅を終着駅としていた時期は(ATOS未導入の時期でもある)、埼京線各駅において当駅行の電車を「渋谷方面恵比寿行き」という言い回しで案内していた。また、3番線を乗車専用、4番線を降車専用(ホリデー快速を除く)としていたが、湘南新宿ラインの運転開始に伴って目黒方にホームが延伸され、乗車・降車専用の扱いはなくなった。 サッポロビール恵比寿工場が付近にあった時は貨物扱い施設も設置されていた。工場の廃止後、埼京線延長前の1987年から1993年頃までこの施設を利用して行楽シーズンに九州や北海道方面へのカートレインが発着していた(後に浜松町駅発着に変更)。サッポロビール恵比寿工場の跡地は再開発され恵比寿ガーデンプレイスとなった。 自動券売機、多機能券売機、指定席券売機が設置されている。なお、1995年11月から導入されている、JR東日本の傾斜式・タッチパネル式自動券売機については、当駅東口が最初の導入場所だった。導入当初はディスプレイが小さい四角形で、かつ目の不自由な利用者のためのテンキーが設置されていなかったが、後の小改良で設置された。また、同じタイプのボタン式自動券売機も設置されていた。2010年時点では、ディスプレイが大きい四角形のものに交換されている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 恵比寿ガーデンプレイスの所在地はかつてサッポロビールの恵比寿工場だったことから、ヱビスビールのCM曲である映画『第三の男』のテーマ曲が発車メロディとして採用されている。このメロディは2005年6月6日から使用されているが、それ以前にも2004年10月21日から同年12月25日までアレンジの違うメロディが流れていた。 相対式ホーム2面2線を有する地下駅である。ホームがかなり湾曲しているため、常時駅員が出発合図を出している。 改札は中目黒駅寄りと広尾駅寄りの2カ所で、中目黒駅寄りはホーム及び地上ともは階段のみでの連絡。広尾駅寄りはエスカレーターとエレベーターが改札付近に設置され、改札内コンコースとホームと連絡している。また改札外コンコースと地上を結ぶ1番出口には階段とエレベーターが併設されている。東京メトロ日比谷線とJR各線は直角に近い位置関係で交差しており、この広尾駅寄り南側の1番出口がJR恵比寿駅の最寄り出入り口である。 広尾駅寄り改札内に事務所が設置されている。 久喜駅始発の「THライナー」は当駅が終着となり、その後は中目黒駅へ回送される。 (出典:東京メトロ:構内立体図) 2020年2月7日よりスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「アルテミス」(福嶋尚哉作曲)、2番線が「Sparkling Road」(大和優子作曲)である。 近年の1日平均乗降人員推移は下表の通り。 当駅の開業後、当駅とビール工場の周辺が「恵比寿」と呼ばれるようになり、後に正式な地名になった。
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恵比寿駅(えびすえき)は、東京都渋谷区恵比寿南一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)と東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。渋谷区内の鉄道駅では最も南にある。
{{混同|恵比須駅|x1=神戸電鉄粟生線の}} {{出典の明記|date=2011年9月}} {{駅情報 |駅名 = 恵比寿駅 |よみがな = えびす |ローマ字 = Ebisu |画像 = Ebisu-STA atre.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2021年6月) |地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail-metro |coord={{coord|35|38|48|N|139|42|36.5|E}}|title=JR 恵比寿駅 |coord2={{coord|35|38|50.5|N|139|42|32.5|E}}|title2=東京メトロ 恵比寿駅 |marker-color=008000|marker-color2=b5b5ac |frame-latitude=35.646722|frame-longitude=139.709265}} |所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[恵比寿南]]一丁目 |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])}} }} [[File:Ebisu-Sta-East.JPG|thumb|東口(2008年8月)]] [[File:EbisuStationStatue6464.jpg|thumb|西口駅前にある[[えびす]]像]] '''恵比寿駅'''(えびすえき)は、[[東京都]][[渋谷区]][[恵比寿南]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)と[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。渋谷区内の鉄道駅では最も南にある。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の各線(後述)が地上の高架上に、東京メトロの[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]が地下にそれぞれ乗り入れ、乗り継ぎ可能な接続駅となっている。また、JR東日本の駅には「{{駅番号s|black|#ffffff|EBS}}」の[[駅ナンバリング#スリーレターコード|スリーレターコード]]が付与されている。 * JR東日本:各線(後述) * 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''H 02'''」 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[山手線]]のみである(詳細は各路線の記事および「[[鉄道路線の名称]]」を参照)が、運転系統としては[[電車線・列車線|電車線]]を走行する[[環状線]]としての山手線電車のほか、[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[埼京線]]と[[湘南新宿ライン]]が停車し、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。 * [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]]:電車線を走行する[[環状線|環状路線]] - 駅番号「'''JY 21'''」 * [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] [[埼京線]]:[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行。大宮駅方面の[[川越線]]と大崎駅方面の[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]、[[東海道貨物線]]経由で[[羽沢横浜国大駅]]から[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]との[[相互直通運転]]も実施 - 駅番号「'''JA 09'''」 * [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[湘南新宿ライン]]:山手貨物線を走行する[[中距離電車]]。当駅を経由し、大宮駅方面(北行)の[[宇都宮線]]・[[高崎線]]と横浜駅方面(南行)の[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[横須賀線]]を相互直通運転 - 駅番号「'''JS 18'''」 東京メトロ日比谷線は、終着駅である[[北千住駅]]のさらに先、[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)を経由して[[東武日光線|日光線]][[南栗橋駅]]まで[[直通運転|相互直通運転]]を実施している。 また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。 == 歴史 == [[File:Ebisu Station.19630626.jpg|thumb|恵比寿駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] [[ファイル:TokyoMetro_04p0864s.jpg|thumb|営団地下鉄時代の団章。撮影時は東京メトロへの移行が目前であり、東京メトロのロゴマークおよび「東京メトロ」の文字がステッカーで覆われている。(2004年3月)]] * [[1901年]]([[明治]]34年)[[2月25日]]:[[日本鉄道]]の貨物駅として開業<ref name="停車場Ⅱ_60">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=60}}</ref><ref name="ekimei">{{Cite book|和書|author=今尾恵介|authorlink=今尾恵介|title=駅名学入門|publisher=[[中央公論新社]]|date=2020-03-10|pages=40-41|edition=|isbn=9784121506825}}</ref>。ビール出荷専用の駅であった<ref name="ekimei" />。 * [[1906年]](明治39年) ** [[4月16日]]:約300&nbsp;m渋谷駅側に移転<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 ** [[10月30日]]:旅客営業開始<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 ** [[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]、[[官設鉄道]]の駅となる<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により山手線の所属となる。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[3月29日]]:[[東急玉川線#玉電廃止後のバス交通|玉川電気鉄道]](後に[[東京都電車|都電]]へ併合)の恵比寿駅前電停が開業。 * [[1945年]](昭和20年)[[5月24日]]:[[太平洋戦争]]中に[[東京大空襲#その後の空襲|空襲]]を受け、駅舎が全焼。 * [[1964年]](昭和39年)[[3月25日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)日比谷線の駅が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709092642/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|title=東京メトロニュースレター第78号 >「日比谷線の歩み」編|archivedate=2020-07-09|date=2020-06-02|page=2|accessdate=2020-07-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[1967年]](昭和42年)[[12月9日]]:都電恵比寿駅前電停が廃止。 * [[1974年]](昭和49年)7月1日:営団地下鉄日比谷線の駅に自動改札機を設置。 * [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:国鉄恵比寿駅の貨物取り扱いを廃止<ref name="停車場Ⅱ_60" />。同時に[[サッポロビール]]東京工場[[専用鉄道|専用線]]も廃止。 * [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:[[カートレイン]]の発着駅が汐留駅から変更される<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅(山手線所属)となる。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[11月17日]]:JR東日本の東口に自動改札機を設置<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |pages=191-192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 ** [[12月1日]]:JR東日本の西口に自動改札機を設置{{R|JRR1991}}。 ** [[12月21日]]:カートレインの発着駅が浜松町駅に変更される<ref name="停車場Ⅱ_60" />。 * [[1996年]](平成8年)[[3月16日]]:[[埼京線]]運転区間が当駅まで延長<ref group="新聞" name="asahi19960316">{{Cite news|title=JR埼京線、恵比寿まで延伸 混雑緩和に期待 首都圏で今春延長・新設4線|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1996-03-16|page=14 夕刊}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=JR7社14年のあゆみ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-04-02 |page=9 }}</ref>。ただし当駅でそのまま折り返すことが出来なかったため、4番線到着の列車は[[大崎駅]]構内(当時はホーム未設置)まで行き、そこで折り返すという形態だった。 * [[1997年]](平成9年)[[10月1日]]:駅ビル「アトレ恵比寿」が開業<ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** [[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 ** 12月1日:[[湘南新宿ライン]]の運行開始。 * [[2002年]](平成14年)12月1日:埼京線運転区間を大崎まで延長し、同時に[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]と相互直通運転開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/pdf/syutoken.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630105145/http://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/pdf/syutoken.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2002年12月ダイヤ改正について|page=12|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-09-20|accessdate=2020-04-22|archivedate=2018-06-30}}</ref>。同時に当駅始発・終着の定期列車が消滅した。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、日比谷線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[6月6日]]:サッポロビール「[[ヱビスビール]]」のテレビCMで使用されている、映画『[[第三の男]]』のテーマ曲が[[発車メロディ]]となる。1・2番線と3・4番線のパートで一つの[[サビ]](各番線で異なるタイプ)。同曲は、2004年[[10月21日]]から[[12月25日]]までの間にも、期間限定で使用されていたが、編曲は現在のものと異なっていた。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京地下鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-01|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年)2月25日:[[デジタルサイネージ|カラー電子ペーパー]]を使用した広告実験を開始。 * [[2010年]](平成22年)[[6月26日]]:山手線ホームで、JRグループの[[在来線]]としては史上初となる可動式[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2009/20100307.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190526231515/https://www.jreast.co.jp/press/2009/20100307.pdf|format=PDF|language=日本語|title=山手線恵比寿駅、目黒駅のホームドア使用開始日について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2010-03-04|accessdate=2020-04-22|archivedate=2019-05-26}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)11月15日・[[11月22日]]:駅ビル「アトレ恵比寿」の3階がリニューアル<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/278_ebisu20131021.pdf|title=アトレ恵比寿 「Urban Marche」をコンセプトに 3F リニューアルオープン 11月15日(金)デリカ オープン 11月22日(金)スウィーツ・カフェ オープン|format=PDF|publisher=アトレ|date=2013-10-21|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200521150741/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/278_ebisu20131021.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)10月:駅ビル「アトレ恵比寿」の5階がリニューアル<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/302_0917ebisu.pdf|title=アトレ恵比寿 5F イーストサイド 5ショップ リニューアルオープン|format=PDF|publisher=アトレ|date=2014-09-17|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200521150921/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/302_0917ebisu.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[4月15日]]:駅ビル「アトレ恵比寿西館」が開業。駅ビル「アトレ恵比寿本館」がリニューアル<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/394_ebisu0303.pdf|title=アトレ恵比寿"西館" 4.15 Fri AM 10:00 -GRAND OPEN-|format=PDF|publisher=アトレ|date=2016-03-03|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200521151713/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/394_ebisu0303.pdf|archivedate=2020-05-21}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)2月 - 5月:駅ビル「アトレ恵比寿」がリニューアル<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/486_%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AC%E6%81%B5%E6%AF%94%E5%AF%BFRENEWALOPEN!!.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522011932/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/486_%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AC%E6%81%B5%E6%AF%94%E5%AF%BFRENEWALOPEN%21%21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=アトレ恵比寿 RENEWAL OPEN !! 2018年2月15日(木)以降、順次34ショップがオープン|publisher=アトレ|date=2018-02-15|accessdate=2020-05-22|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[2月7日]]:日比谷線ホームに[[発車メロディ]]を導入<ref name="Train-melody" />。 ** [[6月6日]]:日比谷線[[ダイヤ改正]]より、[[THライナー]]が当駅終着で設定される<ref group="報道" name="pr20200511">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews200511_39.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200528084829/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews200511_39.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土)日比谷線のダイヤを改正します 「THライナー」の運行開始及び平日の霞ケ関駅行列車を中目黒駅行に変更します|publisher=東京地下鉄|date=2020-05-11|accessdate=2020-12-24|archivedate=2020-05-28}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[2月1日]]:JR東日本の駅が業務委託化<ref name="outsourcing">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_bb411a658fc943e185d3831a17350a9a.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201006001737/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_bb411a658fc943e185d3831a17350a9a.pdf|title=「2020年度営業関係施策(その3)について」提案を受ける!!|date=2020-10-05|archivedate=2020-10-06|accessdate=2020-10-06|publisher=JTSU-E 東京地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** [[1月27日]]:東京メトロの定期券発売所が営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/info/files/221124_teihatu_itibu_heisa.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221127051057/https://www.tokyometro.jp/info/files/221124_teihatu_itibu_heisa.pdf|title=中野坂上駅 恵比寿駅 赤坂見附駅 定期券うりば営業終了のお知らせ|archivedate=2022-11-27|accessdate=2022-12-15|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 ** [[8月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd=290_230801">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=290|title=駅の情報(恵比寿駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-08-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230801032847/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=290|archivedate=2023-08-01}}</ref>。 === 駅名の由来 === {{See also|恵比寿 (渋谷区)#歴史}} '''[[ヱビスビール]]'''を製造・販売していた日本麦酒醸造会社(現在の[[サッポロビール]])の工場が、現在[[恵比寿ガーデンプレイス]]のある場所にかつて存在していた。工場に隣接する山手線上に1901年、ビール出荷専用の[[貨物駅]]が開設された<ref name="ekimei" />。[[ビール]]の商標に因み、駅名も「恵比寿」(当初「ゑびす」と表記)と命名される。駅開設当時の地名は「下渋谷」であった<ref name="ekimei" />。後に、工場周辺を「ゑびす」と呼ぶようになり、[[1928年]]に駅周辺の地名も「恵比寿通」と名付けられた<ref name="ekimei" />。駅前の[[恵比寿神社 (渋谷区)|恵比寿神社]]は、戦後に成立したものである([[#駅周辺|駅周辺の節]]も参照)。 商品名のヱビスと恵比寿ガーデンプレイスのローマ字表記は「YEBISU」であるが、地名と駅名の表記は「Ebisu」である。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色= #008000 |文字色= |駅名= JR 恵比寿駅 |画像= Ebisu-Sta-Platform.JPG |pxl= 300 |画像説明= JR線ホーム(2016年5月) |よみがな= えびす |ローマ字= Ebisu<br /> {{駅番号s|black|#ffffff|EBS}}<!--スリーレターコード--> |電報略号= エヒ←ヱヒ |所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地= [[東京都]][[渋谷区]][[恵比寿南]]一丁目5-5 |座標= {{coord|35|38|48|N|139|42|36.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 恵比寿駅}} |開業年月日= [[1901年]]([[明治]]34年)[[2月25日]] |廃止年月日= |駅構造= [[高架駅]] |ホーム= 2面4線 |乗車人員= 112,602 |統計年度= 2022年 |乗入路線数= 4 |所属路線1= {{color|#9acd32|■}}[[山手線]] |前の駅1= JY 22 [[目黒駅|目黒]] |駅間A1= 1.5 |駅間B1= 1.6 |次の駅1= [[渋谷駅|渋谷]] JY 20 |駅番号1= {{駅番号r|JY|21|#9acd32|1}} |キロ程1= 5.6 |起点駅1= [[品川駅|品川]] |所属路線2= {{color|#00ac9a|■}}[[埼京線]]{{Refnest|group="*"|name="yamanote"|いずれも線路名称上は山手線。}}<br>({{color|#0066ff|■}}[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通]]含む) |前の駅2= JA 08 [[大崎駅|大崎]] |駅間A2= 3.6 |駅間B2= 1.6 |次の駅2= 渋谷 JA 10 |駅番号2= {{駅番号r|JA|09|#00ac9a|1}} |キロ程2= |起点駅2= |所属路線3= {{color|#f68b1e|■}}{{color|#0067c0|■}}[[湘南新宿ライン]]<ref group="*" name="yamanote" /> |前の駅3= JS 17 大崎 |駅間A3= 3.6 |駅間B3= 1.6 |次の駅3= 渋谷 JS 19 |駅番号3= {{駅番号r|JS|18|#e21f26|1}} |キロ程3= |起点駅3= |乗換= |備考= {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅 }} |備考全幅= {{Reflist|group="*"}} }} [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[渋谷駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="outsourcing" />。 山手線と埼京線・湘南新宿ライン(山手貨物線)でそれぞれ[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]1面2線ずつ、2面4線を有する[[高架駅]]である。 ホーム上の大部分は[[駅ビル]]「[[アトレ]]恵比寿」に覆われており、1階に西口、3階に東口、それぞれの[[改札|改札口]]が設置されている。なお、現行の駅舎が建設される前は、西口・東口とも地平部に駅舎があり、東口とホームは山手貨物線を跨ぐ橋で連絡していた。 [[エスカレーター]]は改札内コンコースとホームを連絡するほか、東口には出入口と改札外コンコースを連絡するものも設置されている。[[エレベーター]]は西口改札内コンコースとホームを連絡している。 [[2010年]][[6月26日]]初電より、山手線ホームにてJR東日本の在来線としては初となる[[ホームドア]]の運用が開始されている。なお、7号車・10号車部分は当時一部の[[JR東日本E231系電車#500番台|E231系]]編成で6ドア車が4ドア車に変更されていなかったため、全編成が4ドア車に変更された後に設置された<ref group="注釈">恵比寿駅掲示のポスターによる。</ref>。 発車案内の上部に列車の現在位置を表示する大型の[[液晶ディスプレイ]]が[[2006年]]10月から[[2007年]]2月まで試験的に設置されていた。試験終了後は改札口付近に異常時の運行情報を表示するものとして移設されている。 埼京線の列車が当駅を終着駅としていた時期は(ATOS未導入の時期でもある)、埼京線各駅において当駅行の電車を「渋谷方面恵比寿行き」という言い回しで案内していた<ref group="注釈">「○○方面△△行き」という言い回しは[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)や京浜急行でよく聞かれる(JR西日本だと「宝塚方面新三田行」や「京都方面野洲行」など、京浜急行だと「品川方面○○(種別)泉岳寺行」や「品川・日本橋方面○○(種別)印旛日本医大行など)。</ref>。また、3番線を乗車専用、4番線を降車専用(ホリデー快速を除く)としていたが、湘南新宿ラインの運転開始に伴って目黒方にホームが延伸され、乗車・降車専用の扱いはなくなった。 サッポロビール恵比寿工場が付近にあった時は貨物扱い施設も設置されていた。工場の廃止後、埼京線延長前の1987年から1993年頃までこの施設を利用して行楽シーズンに九州や北海道方面への[[カートレイン]]が発着していた(後に[[浜松町駅]]発着に変更)。サッポロビール恵比寿工場の跡地は[[都市再開発|再開発]]され[[恵比寿ガーデンプレイス]]となった。 [[自動券売機]]、多機能券売機、[[指定席券売機]]が設置されている<ref name="StationCd=290_230801" />。なお、[[1995年]]11月から導入されている、JR東日本の傾斜式・[[タッチパネル]]式[[自動券売機]]については、当駅東口が最初の導入場所だった。導入当初はディスプレイが小さい四角形で、かつ目の不自由な利用者のための[[テンキー]]が設置されていなかったが、後の小改良で設置された。また、同じタイプのボタン式自動券売機も設置されていた<ref group="注釈">[[阿佐ケ谷駅]]のダイヤ街口にも設置されていた。</ref>。2010年時点では、ディスプレイが大きい四角形のものに交換されている。 ==== のりば ==== <!--路線・方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center;"|外回り |[[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|内回り |[[目黒駅|目黒]]・[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]方面 |- !rowspan="2"|3 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 |rowspan="2" style="text-align:center;"|北行 |新宿・池袋・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 |- |[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン |大宮・[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[高崎駅|高崎]]方面 |- !rowspan="2"|4 |[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線 |rowspan="2" style="text-align:center;"|南行 |[[大崎駅|大崎]]・[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線]]方面 |- |[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン |[[横浜駅|横浜]]・[[大船駅|大船]]・[[小田原駅|小田原]]・[[逗子駅|逗子]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/290.html JR東日本:駅構内図]) ==== 発車メロディ ==== 恵比寿ガーデンプレイスの所在地はかつてサッポロビールの恵比寿工場だったことから、[[ヱビスビール]]の[[コマーシャルソング|CM曲]]である映画『[[第三の男]]』のテーマ曲が[[発車メロディ]]として採用されている。このメロディは2005年6月6日から使用されているが、それ以前にも2004年10月21日から同年12月25日までアレンジの違うメロディが流れていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.opi-net.com/opiken/200702_02.asp|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150602110029/http://www.opi-net.com/opiken/200702_02.asp|title=vol.71:サッポロビール(2)~“ちょっと贅沢”な“ビールあります”|date=2007-02-06|archivedate=2015-06-02|accessdate=2021-03-18|website=[http://www.opi-net.com 企業と消費者が作る商品情報サイト~オピネット]|publisher=マーケティング・コミュニケーションズ|language=日本語|deadlinkdate=2021年3月}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JRE-Ebisu-STA East-Gate.jpg|東口改札(2021年6月) JRE-Ebisu-STA West-Gate.jpg|西口改札(2023年3月) JRE-Ebisu-STA Home1-2.jpg|1・2番線(山手線)ホーム(2021年6月) JRE-Ebisu-STA Home3-4.jpg|3・4番線(埼京線・湘南新宿ライン)ホーム(2021年6月) </gallery> === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |駅名 = 東京メトロ 恵比寿駅 |画像 = |pxl = |画像説明 = |よみがな = えびす |ローマ字 = Ebisu |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[恵比寿南]]一丁目5-5 |座標 = {{coord|35|38|50.5|N|139|42|32.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京メトロ 恵比寿駅}} |開業年月日 = [[1964年]]([[昭和]]39年)[[3月25日]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線 |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />90,039 |統計年度 = 2022年 |所属路線 = {{color|#b5b5ac|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] |前の駅 = H 01 [[中目黒駅|中目黒]] |駅間A = 1.0 |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[広尾駅|広尾]] H 03 |駅番号 = {{駅番号r|H|02|#b5b5ac|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程 = 19.3 |電報略号 = エヒ |起点駅 = [[北千住駅|北千住]] |乗換 = |備考 = [[直営駅]] }} [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]である。ホームがかなり湾曲しているため、常時駅員が[[鉄道合図#出発合図|出発合図]]を出している。 改札は中目黒駅寄りと広尾駅寄りの2カ所で、中目黒駅寄りはホーム及び地上ともは[[階段]]のみでの連絡。広尾駅寄りは[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が改札付近に設置され、改札内コンコースとホームと連絡している。また改札外コンコースと地上を結ぶ1番出口には階段とエレベーターが併設されている。東京メトロ日比谷線とJR各線は直角に近い位置関係で交差しており、この広尾駅寄り南側の1番出口がJR恵比寿駅の最寄り出入り口である。 広尾駅寄り改札内に事務所が設置されている<ref>[https://www.tokyometro.jp/station/ebisu/yardmap/index.html#adjacent 恵比寿駅構内図] 東京メトロホームページ(2018年2月25日閲覧)</ref>。 久喜駅始発の「THライナー」は当駅が終着となり、その後は中目黒駅へ回送される。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線!!路線!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 |[[中目黒駅|中目黒]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ebisu/timetable/hibiya/a/index.html |title=恵比寿駅時刻表 中目黒方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !2 |[[北千住駅|北千住]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ebisu/timetable/hibiya/b/index.html |title=恵比寿駅時刻表 北千住・南栗橋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/ebisu/index.html 東京メトロ:構内立体図]) * 中目黒寄りに[[分岐器#形状による分類|両渡り線]]が設置されている<ref name="RJ926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。開業から1964年7月22日の中目黒延伸までは1番線を降車ホーム、2番線を乗車ホームとしており、その折り返しのために両渡り線を使用していた。延伸後は非常用とされている。 <gallery> Tokyo-Metro Ebisu-STA Gate.jpg|JR恵比寿駅方面改札(2021年6月) Ebisu Station1.JPG|ホーム(2008年4月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 2020年2月7日より[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の[[発車メロディ]](発車サイン音)を使用している<ref name="Train-melody"/>。 曲は1番線が「アルテミス」([[福嶋尚哉]]作曲)、2番線が「Sparkling Road」(大和優子作曲)である<ref name="Train-melody">{{Cite web|和書|title=東京メトロ日比谷線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/505|date=2020-02-07|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2020-02-07|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。 == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''112,602人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社の駅の中では[[浜松町駅]]に次いで第23位。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''90,039人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 東京メトロ全130駅の中では[[錦糸町駅]]に次いで第29位<!--他鉄道との直結連絡駅および共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員推移は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="統計" name="shibuya">[https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/kankobutsu/shibuya_gaiyo/index.html 渋谷区勢概要] - 渋谷区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1999年(平成11年) |104,849 | |- |2000年(平成12年) |99,899 |&minus;4.7% |- |2001年(平成13年) | | |- |2002年(平成14年) |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>88,362 | |- |2003年(平成15年) |<ref name="RJ759_31" />93,165 |5.4% |- |2004年(平成16年) |94,325 |1.2% |- |2005年(平成17年) |97,299 |3.2% |- |2006年(平成18年) |99,683 |2.5% |- |2007年(平成19年) |105,600 |5.9% |- |2008年(平成20年) |104,056 |&minus;1.5% |- |2009年(平成21年) |100,621 |&minus;3.3% |- |2010年(平成22年) |98,876 |&minus;1.7% |- |2011年(平成23年) |95,522 |&minus;3.4% |- |2012年(平成24年) |98,217 |2.8% |- |2013年(平成25年) |104,738 |6.6% |- |2014年(平成26年) |107,471 |2.6% |- |2015年(平成27年) |111,149 |3.4% |- |2016年(平成28年) |115,726 |4.1% |- |2017年(平成29年) |118,260 |2.2% |- |2018年(平成30年) |119,939 |1.4% |- |2019年(令和元年) |117,796 |&minus;1.8% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>70,649 |&minus;40.0% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>76,424 |8.2% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>90,039 |17.8% |} === 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !日本鉄道 /<br />国鉄 !出典 |- |1901年(明治34年) |<ref group="備考">1901年2月25日開業。</ref> | |- |1907年(明治40年) |127 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/191?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |172 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |257 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |931 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |1,058 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/133?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |1,121 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/126?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,077 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,062 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/347?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,464 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/382?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |3,665 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |5,176 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |7,330 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |9,663 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |10,405 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |10,067 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |11,424 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |12,974 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |13,714 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/347?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |14,325 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/335?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |13,707 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/340?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |12,914 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/343?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |12,717 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/316?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |13,290 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/334?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |13,776 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/342?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |14,308 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/340?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !営団 !出典 |- |1953年(昭和28年) |23,185 |rowspan=10 style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |24,278 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |24,526 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |26,594 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |28,174 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |30,276 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |32,642 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |34,575 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |35,306 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |38,044 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |40,769 |<ref group="備考">1964年3月25日開業。開業日から1964年3月31日までの計7日間を集計したデータ。</ref>10,721 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |43,990 |10,982 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |45,929 |15,969 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |45,458 |16,246 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |46,549 |17,838 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |47,499 |19,387 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |43,889 |20,560 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |44,701 |23,789 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |50,008 |26,683 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |51,241 |29,225 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |53,030 |29,488 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |55,940 |31,534 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |58,156 |32,530 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |62,307 |33,068 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |62,808 |33,734 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |62,942 |32,515 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |65,011 |32,839 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |64,290 |33,386 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |65,332 |34,855 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |66,110 |35,677 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |67,648 |36,724 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |72,186 |38,836 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |72,964 |39,858 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |75,655 |41,222 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |74,601 |41,503 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |77,814 |43,197 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |80,696 |44,562 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |82,422 |45,537 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |84,549 |45,779 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |87,592 |45,737 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |89,882 |45,770 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |<ref group="注釈">1994年10月、恵比寿ガーデンプレイスがグランドオープン。</ref>99,723 |46,816 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |108,593 |46,954 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |118,063 |48,954 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |123,141 |50,110 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |127,033 |52,123 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>129,081 |51,473 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>127,967 |49,203 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="shibuya" /><ref group="統計">[http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/koho/hakkobutsu/kuseiyoran.html 区勢要覧] - 目黒区</ref> |- !年度 !JR東日本 !営団 /<br />東京メトロ !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>123,640 |44,290 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>124,152 |43,088 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>125,839 |45,098 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>126,830 |45,556 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>131,507 |47,378 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>135,318 |48,537 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>137,826 |51,374 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>134,616 |50,748 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>132,968 |49,400 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>130,245 |48,430 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>128,555 |47,030 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>130,241 |48,003 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>133,553 |51,419 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>135,493 |52,753 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>139,882 |54,481 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>143,898 |56,868 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>145,319 |58,186 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>147,699 |59,027 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>145,805 |58,112 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>94,002 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>99,136 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>112,602 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[ファイル:Yebisu Sky walk 201505.jpg|サムネイル|[[恵比寿ガーデンプレイス]]Sky walk]] {{Main|恵比寿 (渋谷区)|恵比寿南|恵比寿西|三田 (目黒区)|広尾 (渋谷区)|東 (渋谷区)}} 当駅の開業後、当駅とビール工場の周辺が「'''恵比寿'''」と呼ばれるようになり、後に正式な地名になった。 * [[アトレ]]恵比寿(本館、西館) - 駅ビル ** 恵比寿駅ビル内郵便局 === 山手線内側 === {{columns-list|2| * 渋谷区新橋区民施設 ** [[渋谷区役所]] 新橋出張所 ** 渋谷区地域交流センター新橋 * 渋谷区ひがし健康プラザ * [[日仏会館]] * 駐日[[チェコ|チェコ共和国]]大使館 * [[駐日クロアチア大使館|駐日クロアチア共和国大使館]] * [[駐日ペルー大使館|駐日ペルー共和国大使館]] * 駐日[[コンゴ共和国]]大使館 * [[東京都立広尾高等学校]] * [[山種美術館]] * [[東京都立広尾病院]] * [[渋谷城]]址 * 渋谷橋郵便局 * 渋谷恵比寿郵便局 * [[恵比寿ガーデンプレイス]] - サッポロビールの恵比寿工場が[[千葉県]][[船橋市]]に移転し、跡地再開発として複合施設が建設された。 ** 恵比寿ガーデンプレイスタワー ** 恵比寿ガーデンプレイス郵便局 ** [[東京都写真美術館]] ** ヱビスビール記念館(旧・恵比寿麦酒記念館) ** 恵比寿ガーデンホール・恵比寿ガーデンルーム ** [[ユナイテッド・シネマ|恵比寿ガーデンシネマ1・2]] ** [[ウェスティンホテル東京]] ** [[サッポロホールディングス]]、[[サッポロビール]]本社、[[ポッカサッポロフード&ビバレッジ]]東京本社 * [[恵比寿ビジネスタワー]] * [[LIQUIDROOM|LIQUIDROOM ebisu]] * [[あいおいニッセイ同和損害保険]] |}} === 山手線外側 === {{columns-list|2| * [[防衛省目黒地区]] * 駐日[[ポーランド]]大使館 * [[駐日アルジェリア大使館]] * [[総合病院厚生中央病院]] * [[恵比寿神社 (渋谷区)|恵比寿神社]] - 近くに天津神社(通称・大六様)という神社があったが、戦後の[[土地区画整理事業|区画整理]]で現在の場所に移った際、町名に合わせて[[兵庫県]][[西宮市]]の[[西宮神社]]から商売繁盛の神である[[えびす|恵比寿]]を勧請してこれを[[合祀]]し、名前を「恵比寿神社」に改めた。 * 恵比寿駅前郵便局 * 目黒三田郵便局 * [[代官山駅]] * [[中目黒駅]] |}} == バス路線 == <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!style="width:30em;"|備考 |- !colspan="4"|恵比寿駅前 |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|[[都営バス]] |[[都営バス渋谷営業所#学06系統|'''学06''']]:[[日本赤十字社医療センター|日赤医療センター前]] |&nbsp; |- !5 |[[都営バス渋谷営業所#田87系統|'''田87''']]:[[渋谷駅|渋谷駅前]] |&nbsp; |- !6 |'''田87''':[[田町駅|田町駅前]] |&nbsp; |- !colspan="4"|恵比寿駅<ref group="注釈">車両の行先表示器では渋72系統は「えびす駅」、恵32系統は「恵比寿駅」と表記。</ref> |- !2 |rowspan="3" style="text-align:center;"|[[東急バス]] |[[東急バス目黒営業所#不動線|'''渋72''']]:渋谷駅東口 |&nbsp; |- !3 |'''渋72''':[[五反田駅]] |[[瀧泉寺|目黒不動尊]][[縁日]]開催日の毎月28日は[[林試の森公園|林試の森]]入口 - 不動尊門前バス停間が運行休止となることに伴い、林試の森入口行となる。 |- !4 |{{Unbulleted list|[[東急バス弦巻営業所#エビス線|'''恵32''']]:[[用賀駅]]|[[東急バス弦巻営業所#エビス線|'''恵32(深夜)''']]:中町五丁目}} |「恵32(深夜)」は平日のみ運行 |- !colspan="4"|恵比寿駅東口 |- !- |style="text-align:center;"|[[ハチ公バス]](東急) |[[ハチ公バス#夕やけこやけルート(恵比寿・代官山循環)|'''夕やけこやけルート''']]:[[恵比寿ガーデンプレイス]]方面 |&nbsp; |- !colspan="4"|恵比寿駅入口 |- !- |style="text-align:center;"|ハチ公バス(東急) |'''夕やけこやけルート''':[[渋谷区役所]] |&nbsp; |- !colspan="4"|恵比寿一丁目 |- !11 |rowspan="2" style="text-align:center;"|都営バス |'''田87''':渋谷駅前 |&nbsp; |- !12 |'''田87''':田町駅前 |&nbsp; |- !colspan="4"|渋谷橋 |- !7 |rowspan="4" style="text-align:center;"|都営バス |'''学06''':恵比寿駅前 |&nbsp; |- !8 |'''[[都営バス渋谷営業所#都06系統(グリーンエコー)|都06]]''':渋谷駅前 |&nbsp; |- !9 |'''都06''':[[新橋駅|新橋駅前]]・[[赤羽橋駅|赤羽橋駅前]] |&nbsp; |- !10 |'''学06''':日赤医療センター前 |&nbsp; |} == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 ::: [[目黒駅]] (JY 22) - '''恵比寿駅 (JY 21)''' - [[渋谷駅]] (JY 20) : [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線([[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 相鉄線直通含む) :: {{Color|#ff0066|■}}通勤快速・{{Color|#0099ff|■}}快速・{{Color|#00ac9a|■}}各駅停車<!-- カラーはE233系のLED方向幕の色に準拠 --> ::: [[大崎駅]] (JA 08) - '''恵比寿駅 (JA 09)''' - 渋谷駅 (JA 10) : [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速 :::; 通過 :: {{Color|#f68b1e|■}}快速・{{Color|#18a629|■}}普通 ::: 大崎駅 (JS 17) - '''恵比寿駅 (JS 18)''' - 渋谷駅 (JS 19) ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 :* {{color|red|□}}[[THライナー]]終着駅([[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]以西は各駅に停車) :: {{Color|#b5b5ac|■}}THライナー以外の列車<!--日比谷線ではTHライナー以外種別案内をしていないため--> ::: [[中目黒駅]] (H 01) - '''恵比寿駅 (H 02)''' - [[広尾駅]] (H 03) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{Commonscat|Ebisu Station (Tokyo)}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[恵比寿 (渋谷区)]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=290|name=恵比寿}} * [https://www.tokyometro.jp/station/ebisu/index.html 恵比寿駅/H02 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{鉄道路線ヘッダー}} {{山手線}} {{埼京線}} {{湘南新宿ライン}} {{東京メトロ日比谷線}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:えひす}} [[Category:渋谷区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 え|ひす]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:埼京線]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1901年開業の鉄道駅]] [[Category:恵比寿 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水溶性ビタミン
水溶性ビタミン(すいようせいビタミン)とは、水に溶けやすいビタミンの総称。 水溶性ビタミン(特にビタミンC)は水洗いや加熱調理による損失が大きく、茹で物や煮物よりも、蒸し物や炒め物などが適している。なお、過剰に摂取しても尿中に排出される。
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水溶性ビタミン(すいようせいビタミン)とは、水に溶けやすいビタミンの総称。
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脂溶性ビタミン
脂溶性ビタミン(しようせいビタミン)とは、水に溶けにくく油(脂)に溶けやすいビタミンの総称。 脂溶性ビタミンは水洗いや加熱調理による損失が少なく、油と一緒に調理し摂取することにより吸収率が高まる。なお、過剰に摂取した場合、水溶性ビタミンのように尿で排出されないので人体に害を及ぼす場合がある。
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脂溶性ビタミン(しようせいビタミン)とは、水に溶けにくく油(脂)に溶けやすいビタミンの総称。
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酵素
酵素(こうそ、英: enzyme)とは、生体内外で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子である。酵素によって触媒される反応を「酵素的」反応という。このことについて酵素の構造や反応機構を研究する古典的な学問領域が、酵素学 (こうそがく、英: enzymology)である。 酵素は生物が物質を消化する段階から吸収・分布・代謝・排泄に至るまでのあらゆる過程(ADME)に関与しており、生体が物質を変化させて利用するのに欠かせない。したがって、酵素は生化学研究における一大分野であり、早い段階から研究対象になっている。 最近の研究では、擬似酵素分析(英語版)の新しい分野が成長し、進化の間、いくつかの酵素において、アミノ酸配列および異常な「擬似触媒」特性にしばしば反映されている生物学的触媒を行う能力が失われたことが認識されている。 多くの酵素は生体内で作り出されるタンパク質を主成分として構成されている。したがって、生体内での生成や分布の特性、加熱やpHの変化によって変性して活性を失う(失活)といった特徴などは、ほかのタンパク質と同様である。 生体を機関に例えると、核酸塩基配列が表すゲノムが設計図に相当するのに対して、生体内における酵素は組立て工具に相当する。酵素はその特徴として、作用する物質(基質)をえり好みし(基質特異性)、目的の反応だけを進行させること(反応選択性あるいは反応特異性とも)によって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こす。 酵素の人為的な利用として、古来から人類は酵素を用いた発酵による食品・飲料の製造を行ってきた。今日では、酵素の利用は食品製造だけにとどまらず、化学工業製品の製造や日用品の機能向上、医療などの広い分野に応用されている。とりわけ医療分野には、酵素は深く関わっている。たとえば、消化酵素を消化酵素剤として処方したり、疾患による酵素量の増減を検査や診断に利用している。また、ほとんどの医薬品は、ターゲットとなる酵素の作用の大小を調節することで効果を発現している。 生体内での酵素の役割は、生命を構成する有機化合物や無機化合物を取り込み、必要な化学反応を引き起こすことにある。生命現象は多くの代謝経路を含み、それぞれの代謝経路は多段階の化学反応からなっている。 細胞内では、その中で起こるさまざまな化学反応を担当する形で多種多様な酵素が働いている。それぞれの酵素は自分の形に合った特定の原料化合物(基質)を外から取り込み、担当する化学反応を触媒し、生成物を外へと放出する。そして再び次の反応のために基質を取り込み、目的の物質を生成し続ける。 ここで放出された生成物は、別の化学反応を担当する酵素の作用を受けて、さらに別の生体物質へと代謝されていく。このような酵素の触媒反応の繰り返しで必要な物質の生成や不必要な物質の分解が進行し、生命活動が維持されていく。 生体内では化学工業のプラントのように基質と生成物の容器が隔てられているわけではなく、さまざまな物質が渾然一体となって存在している。しかし、生命現象を作る代謝経路でいろいろな化合物が無秩序に反応してしまっては生命活動は維持できない。 したがって酵素は、生体内の物質の中から作用するべきものを選び出さなければならない。また、反応で余分なものを作り出してしまうと周囲に悪影響を及ぼしかねないので、ある基質に対して起こす反応は決まっていなければならない。酵素は生体内の化学反応を秩序立てて進めるために、このように高度な基質選択性と反応選択性を持つ。 さらにアロステリズム、阻害などによって化学反応の進行を周りから制御される機構を備えた酵素もある。それらの選択性や制御性を持つことで、酵素は渾然とした細胞内で必要なときに必要な原料を選択し、目的の生成物だけを産生するのである。 このように、細胞よりも小さいスケールで組織的な作用をするのが酵素の役割である。人類が先史時代から利用していた発酵も細胞内外で起こる酵素反応によって行われる。 最初に発見された酵素はジアスターゼ(アミラーゼ)であり、1833年にA・パヤンとJ・F・ペルソ(Jean Francois Persoz)によるものである。彼らは麦芽の無細胞抽出液によるでんぷんの糖化を発見し、生命(細胞)が存在しなくても、発酵のプロセスの一部が進行することを初めて発見した。酵素の命名法の一部である語尾の「-ase」はジアスターゼ (diastase)が由来となっている。 また、1836年にはT・シュワンによって、胃液中からタンパク質分解酵素のペプシンが発見・命名されている。このころの酵素は生体から抽出されたまま、実体不明の因子として分離・発見されている。 「酵素(enzyme)」という語は酵母の中(in yeast)という意味のギリシア語の "εν ζυμη"(en zymi)に由来し、1876年にドイツのウィルヘルム・キューネによって命名された。 19世紀当時、ルイ・パスツールによって、生命は自然発生せず、生命がないところでは発酵(腐敗)現象が起こらないことが示されていた。したがって「有機物は生命の助けを借りなければ作ることができない」とする生気説が広く信じられており、酵素作用が生命から切り離すことができる化学反応(生化学反応)のひとつにすぎないということは画期的な発見であった。 しかし、酵素は生物から抽出するしか方法がなく、微生物と同様に加熱すると失活する性質を持っていたため、その現象は酵素が引き起こしているのか、それとも目に見えない生命(細胞)が混入して引き起こしているのかを区別することは困難であった。 したがって、酵素が生化学反応を起こすという考え方はすぐには受け入れられなかった。当時のヨーロッパの学会では、酵素の存在を否定するパスツールらの生気説派と酵素の存在を認めるユストゥス・フォン・リービッヒらの発酵素説派とに分かれて論争が続いた。 最終的には、1896年にエドゥアルト・ブフナーが酵母の無細胞抽出物を用いてアルコール発酵を達成したことによって生気説は完全に否定され、酵素の存在が認知された。 上述したように、19世紀後半にはまだ酵素は生物から抽出される実体不明の因子と考えられていたが、酵素の性質に関する研究は進んだ。その研究の早い段階で、酵素の特徴として基質特異性と反応特異性が認識されていた。 これを概念モデルとして集大成したのが、1894年にドイツのエミール・フィッシャーが発表した鍵と鍵穴説である。これは、基質の形状と酵素のある部分の形状が鍵と鍵穴の関係にあり、形の似ていない物質は触媒されない、と酵素の特徴を概念的に表した説である。 現在でも酵素の反応素過程のモデルとして十分に通用する。ただし、フィッシャーはこのモデルの実体が何であるかについては科学的な実証を行っていない。 1926年にジェームズ・サムナーがナタマメウレアーゼの結晶化に成功し、初めて酵素の実体を発見した。サムナーは自らが発見した酵素ウレアーゼはタンパク質であると実験結果とともに提唱したが、当時サムナーが研究後進国の米国で研究していたこともあり、酵素の実体がタンパク質であるという事実はなかなか認められなかった。 その後、タンパク質からなる酵素の存在がジョン・ノースロップとウェンデル・スタンレーによって証明され、酵素の実体がタンパク質であるということが広く認められるようになった。 20世紀後半になると、X線回折をはじめとした生体分子の分離・分析技術が向上し、生命現象を分子の構造が引き起す機能として理解する分子生物学と、細胞内の現象を細胞小器官の機能とそれに関係する生体分子の挙動として理解する細胞生物学が成立した。これらの学問によってさらに酵素研究が進展する。すなわち、酵素の機能や性質が、酵素や酵素を形成するタンパク質の構造やそのコンホメーション変化によって説明づけられるようになった。 酵素の機能がタンパク質の構造に起因するものであれば、何らかの酵素に適した構造を持つものは酵素としての機能を発現しうると考えることができる。実際に、1986年にはトーマス・チェックらが、タンパク質以外で初めて酵素作用を示す物質(リボザイム)を発見している。 今日においては、この酵素の構造論と機能論に基づいて人工的な触媒作用を持つ超分子(人工酵素)を設計し開発する研究も進められている。 酵素は生体内での代謝経路のそれぞれの生化学反応を担当するために、有機化学で使用されるいわゆる触媒とは異なる基質特異性や反応特異性などの機能上の特性を持つ。 また、酵素はタンパク質をもとに構成されているため、ほかのタンパク質と同様に失活の特性、すなわち熱やpHによって変性し活性を失う特性を持つ。次に酵素に共通の特性である基質特異性、反応特異性、および失活について説明する。 酵素は作用する物質を選択する能力を持ち、その特性を基質特異性(英: substrate specificity)と呼ぶ。 たとえば、あるペプチド分解酵素(ペプチターゼ)を作用させてタンパク質を分解する場合は、特定の部位のペプチド結合を加水分解するため、部位によっては基質として認識せずにまったく作用しない。 一方、タンパク質を(酵素ではなく)酸・塩基触媒で加水分解する場合は、ペプチド結合の任意の箇所に作用する。また、ペプチド分解酵素はペプチド結合だけに反応し、ほかの結合(エステルやグリコシド結合)には作用しないが、酸・塩基触媒ならばペプチド結合もほかの結合も区別することなく分解する。 この特性は酵素研究のごく初期から認識されており、鍵と鍵穴に例えたモデルで説明されていた。20世紀中頃以降、X線結晶解析で酵素分子の立体構造が特定できるようになり、鍵穴の仕組みの手がかりが入手できるようになった。 すなわち、酵素であるタンパク質の立体構造にはさまざまな大きさや形状のくぼみが存在し、それはタンパク質の一次配列(アミノ酸の配列順序)に応じて決定されている。前述の鍵穴はまさにタンパク質立体構造のくぼみ(クラフト)である。酵素は、くぼみに合った基質だけをくぼみの奥に存在する酵素の活性中心へ導くことで、酵素作用を発現する。 今日では、X線結晶解析によって立体構造を決定しなくても、過去の知見や計算機化学に基づき、タンパク質の一次配列情報やその設計図となる遺伝子の塩基配列情報から立体構造を予測することが可能になりつつある。さらに、生物界に存在しないタンパク質酵素を設計することも、タンパク質以外の物質で同様な手法によって人工酵素を設計することも可能である。 生物界に存在する酵素に適合する基質を研究することで、逆に各種酵素の阻害剤を作ることも可能となる。すなわち、本来の基質よりも強く酵素の活性部位に結合する物質を設計することで、酵素の機能を阻害させる試みである。酵素や阻害剤が設計できるようになったことは、医薬品や分子生物学研究の発展に役立っている。 酵素と基質が複合体を形成すると、酵素と基質のそれぞれで立体構造の変化が起こる。その際に基質のエントロピーが減少するというモデルがあり、計算科学の手法等からそのエントロピーの変化が検証されている。具体的には、酵素の基質との結合によって、酵素・基質ともに触媒反応により適した分子形状へと変化すると考えられている。酵素との複合化を通じて、基質の立体構造は束縛・規制され(エントロピーの減少)、遷移状態に近いものへと変化する。すなわち、反応の活性化エネルギーが低下した状態にあると考えられている。これらの酵素と基質の双方の構造変化によって、誘導的な化学反応が生じるというモデルは誘導適合と呼ばれる。。 誘導適合は基質特異性を発現するうえでも重要である。アロステリック効果なども含めて、酵素活性の発現およびその制御において重要な役割を担っているとされる。 生体内ではある1つの基質に着目しても、作用する酵素が違えば生成物も変わってくる。通常、酵素は1つの化学反応しか触媒しない性質を持ち、これを酵素の反応特異性と呼ぶ。 酵素が反応特異性を持つため、消化酵素などいくつかの例外を除けば、通常1つの酵素は生体内の複雑な代謝経路の1か所だけを担当している。これは、生体を恒常的に維持するための重要な性質である。 まず、ある代謝経路が存在するかどうかは、その代謝経路を担当する固有の酵素が存在するかどうかに左右されるため、その酵素タンパク質を産生する遺伝子の発現によって制御できる。また、代謝産物の1つが過剰になった場合、その代謝経路を担当する固有の酵素の活性にフィードバック阻害が起こるため、過剰な生産が動的に制御される。 酵素はそれぞれに固有の基質と生化学反応を担当するが、同じ生体内でも組織や細胞の種類が異なると、別種の酵素が同じ基質の同じ生化学反応を担当する場合がある。このような関係の酵素を互いにアイソザイム(英: isozyme)と呼ぶ。 酵素が役割を果たすとき、またはその活性を失う原因には、酵素を構成するタンパク質の立体構造(コンホメーション)が深く関与している。失活の原因となる要因としては、熱、pH、塩濃度、溶媒、ほかの酵素による作用などが知られている。 タンパク質は熱、pH、塩濃度、溶媒など置かれた条件の違いによって容易に立体構造を替えるが、条件が大きく変わると立体構造が不可逆的に大きく変わり、酵素の場合は失活することもある。したがって、酵素反応は至適温度・至適pHや水溶媒など条件が限定される。場合によっては、汚染した微生物が発生するペプチダーゼなどの消化酵素によってタンパク質の構造が失われて失活することもある。 ただし、生物の多様性は非常に広いため、好熱菌、好酸性菌、好アルカリ菌などの持つ酵素(イクストリーモザイム)のように極端な温度やpHに耐えうるとされるものや、有機溶媒中でも活性が保たれるものもあり、こうした酵素の工業利用が現実的になり始めている。 酵素の分類方法はいくつかあるが、ここでは酵素の所在による分類と、基質と酵素反応の種類(基質特異性と反応特異性の違い)による系統的分類を取り上げる。後者による分類は酵素の命名法と関連している。 酵素は生物体内における反応のすべてを起こしているといっても過言ではない。したがって、代謝反応の関与する生物体内であれば普遍的に存在している。酵素は、生体膜(細胞膜や細胞小器官の膜)に結合している膜酵素と、細胞質や細胞外に存在する可溶型酵素とに分類される。可溶型酵素のうち、細胞外に分泌される酵素を特に分泌型酵素と呼ぶ。 このような酵素の種類の違いは、酵素以外のタンパク質の種類の違い(膜タンパク質、分泌型タンパク質)と同様に、立体構造における疎水性側鎖と親水性側鎖の一次構造上の分布(タンパク質配列のモチーフ)の違いによる。ほかのタンパク質と同様に酵素も細胞内のリボゾームで生合成されるが、アミノ酸配列は遺伝子に依存するため、その構造は酵素の進化を反映している。遺伝的に近隣の酵素は類似のモチーフを持ち、酵素群のグループを形成する。 生体膜に存在する膜酵素はエネルギー保存や物質輸送に関与するものも多く、生体膜の機能を担う重要な酵素群(ATPアーゼ、ATP合成酵素、呼吸鎖複合体、バクテリオロドプシンなど)が多い。生体膜と酵素との位置関係によって3種類に大分できる。 生体膜は内部が疎水性で外部が親水性であるため(=脂質二重膜と呼ばれる)、膜酵素であるタンパク質の部分構造(側鎖)の性質も、膜に接しているところは疎水性が強くて膜脂質への親和性がきわめて高く、膜から突出しているところは親水性が強くなっている。 細胞質に存在している酵素は、水に比較的よく溶ける。細胞質での代謝にはこの可溶性酵素が多く関わっている。可溶性酵素は、外部には親水性アミノ酸、内部には疎水性アミノ酸が集まって、球形の立体構造をとっている場合が多い。 酵素は細胞内で産生されるが、産生後に細胞外に分泌されるものもあり、分泌型酵素と呼ばれる。消化酵素が代表例であり、細胞外に存在する物質を取り込みやすいように消化するために分泌される。その形状は可溶性酵素と同じく球形をしている場合が多い。 生物に対して何らかの刺激(熱、pH、圧力などの変化)を与えると、その刺激に対してエキソサイトーシスと呼ばれる分泌形態で分泌型酵素を放出する現象が見られる場合がある。構造生物学の進歩において、最初に結晶化され立体構造が決定されていった酵素の多くは分泌型酵素であった。 酵素を反応特異性と基質特異性の違いによって分類すると、系統的な分類が可能となる。このような系統的分類を表す記号として、EC番号がある。 EC番号は "EC"に続けた4個の番号 "EC X.X.X.X"(Xは数字)によって表し、数字の左から右にかけて分類が細かくなっていく。EC番号では、まず反応特異性を、酸化還元反応、転移反応、加水分解反応、解離反応、異性化反応、ATPの補助を伴う合成、イオンや分子を生体膜を超えての輸送の合計7つのグループに分類している。 さらに各グループで分類基準は異なるが、反応特異性と基質特異性との違いとで細分化していく。すべての酵素についてこのEC番号が割り振られており、現在約3,000種類ほどの反応が見つかっている。 また、ある活性を担う酵素がほかの活性を持つことも多く、ATPアーゼなどはATP加水分解反応のほかにタンパク質の加水分解反応への活性も持っている(EC番号、酸化還元酵素、転移酵素、加水分解酵素、リアーゼ、異性化酵素、リガーゼなどを参照)。 酵素の名前は国際生化学連合の酵素委員会によって命名され、同時にEC番号が与えられる。酵素の名称には「常用名」と「系統名」が付される。常用名と系統名の違いについて例を挙げながら説明する。 古くに発見され命名された酵素については、上述の規則ではなく当時の名称がそのまま使用されている。 などがこれにあたる。 RNAを除いて、酵素はタンパク質から構成されるが、タンパク質だけで構成される場合もあれば、非タンパク質性の構成要素(補因子)を含む場合(複合タンパク質)もある。酵素が複合タンパク質の場合、補因子と結合していないと活性が発現しない。このとき、補因子と結合していないタンパク質をアポ酵素、アポ酵素と補因子とが結合した酵素をホロ酵素という。以下では、特に断らない限り、タンパク質以外の、金属を組み込んでいない有機化合物を単に有機化合物と呼称する。 補因子の例としては、無機イオン(英語版)、有機化合物(補酵素)があり、金属含有有機化合物のこともある。いくつかのビタミンは補酵素であることが知られている。補因子は酵素との結合の強弱で分類されるが、その境界は曖昧である。 また、酵素を構成するタンパク質鎖(ペプチド鎖)は複数本であったり、複数種類であったりする場合がある。複数本のペプチド鎖から構成される場合、立体構造を持つそれぞれのペプチド鎖をサブユニットと呼ぶ。 強固な結合や共有結合をしている補因子を補欠分子族(ほけつぶんしぞく、英: prosthetic group)という。補欠分子族は有機化合物のこともあるが、酵素から遊離しうる補因子を補欠分子族と区別して、補酵素と呼ぶ。 カタラーゼ、P450などの活性中心に存在するヘム鉄などが代表的な補欠分子族である。金属プロテアーゼの亜鉛イオンなど、直接タンパク質と結合していることもある。生体が要求する微量金属元素は、補欠分子族として酵素に組み込まれていることが多い。 有機化合物の補因子を補酵素という。遊離しない場合は補欠分子族という。アポ酵素との結合が弱い、有機化合物の補欠分子族を補酵素とし、補酵素は補欠分子族の一種ととらえる考えもある。とはいえ、たとえば、酵素と共有結合していても遊離しうるリポ酸が補酵素と区別されるなど、補酵素であるか補欠分子族であるかの基準は厳密ではない。 補酵素は、常時酵素の構造に組み込まれていないが、酵素反応が生じる際に基質と共存することが必要とされる。酵素活性のときに取り込まれ、ホロ酵素を生じさせる。したがって、酵素反応の進行によって基質とともに消費され、典型的な補欠分子族とは異なる。 酵素タンパク質が熱によって変性し失活するのに対して、補酵素は比較的耐熱性が高く、かつ透析によって酵素タンパク質から分離することが可能であるため、補因子として早い時期からその存在が知られていた。1931年にはオットー・ワールブルクによって初めて補酵素が発見されている。ビタミンあるいはビタミンの代謝物に補酵素となるものが多い。 NAD、NADP、FMN、FAD、チアミン二リン酸、ピリドキサールリン酸、補酵素A、α-リポ酸、葉酸などが代表的な補酵素であり、サプリメントとして健康食品に利用されるものも多い。 酵素が複数のペプチド鎖(タンパク質鎖)から構成されることがある。その場合、各ペプチド鎖はそれぞれ固有の三次構造(立体構造)をとり、サブユニットと呼ばれる。サブユニット構成を酵素の四次構造と呼ぶこともある。 たとえばヒトにおける乳酸デヒドロゲナーゼ(LDH; E.C. 1.1.1.27)は4つのサブユニットから構成される四量体だが、体内組織の位置によってサブユニット構成が異なることが知られている。この場合、サブユニットは心筋型(H)と骨格筋型(M)の2種類であり、そのいずれか4つが組み合わされて乳酸デヒドロゲナーゼが構成される(たとえばH2個とM2個から構成されるH2M2など)。したがって5タイプの乳酸デヒドロゲナーゼが存在するが、これらは同じ基質で同じ生化学反応を担当するアイソザイムの関係にある。これを応用すると、たとえば臨床検査で乳酸デヒドロゲナーゼのアイソザイムタイプを同定(電気泳動で同定できる)して、疾患が肝炎であるか心筋疾患であるかを識別することができる。 なお、ここに示した以外の要因(遺伝子変異による一次構造の変化など)によってアイソザイムとなることもある。 一連の代謝過程を担当する複数の酵素がクラスターを形成して複合酵素となることも多い。 代表例として脂肪酸合成系の複合酵素を示す。これらは [ACP]S-アセチルトランスフェラーゼ(AT; E.C. 2.3.1.38)、マロニルトランスフェラーゼ(MT; E,C.2.3.1.39)、3-オキソアシル-ACPシンターゼI(KS)、3-オキソアシル-ACPレダクターゼ(KR; E.C. 1.1.1.100)、クロトニル-ACPヒドラターゼ(DH; E.C. 4.2.1.58)、エノイル-ACPレダクターゼ(ER; E.C. 1.3.1.10)の6種類の酵素がアシルキャリアタンパク質(ACP)とともにクラスターとなって複合酵素を形成している。脂肪酸合成系はほとんどが複合酵素で、単独の酵素はアセチルCoAカルボギラーゼ(TE; E.C. 6.4.1.2)だけである。 日本工業規格に「酵素は選択的な触媒作用をもつタンパク質を主成分とする生体高分子物質」(JIS K 3600:2000-1418)と定義されているように触媒として利用されるが、化学工業などで用いられる典型的な金属触媒とは反応の特性が異なる。 第一に酵素反応の場合、基質濃度[S]が高くなると反応速度が飽和する現象が見られる。酵素の場合、基質濃度を高く変えると、反応速度は飽和最大速度 Vmax へと至る双曲線を描く。一方、金属触媒の場合、反応初速度 [ν] は触媒濃度に依存せず基質濃度 [S] の一次式で決定される。 これは、酵素と金属触媒との粒子状態の違いによって説明できる。金属触媒の場合、触媒粒子の表面は金属原子で覆われており、無数の触媒部位が存在する。それに対して酵素の場合は、酵素分子が基質に比べて巨大な場合が多く、活性中心を多くても数か所程度しか持たない。したがって、金属触媒に比べて、基質と触媒(酵素)とが衝突しても(活性中心に適合し)反応を起こす頻度が小さい。そして基質濃度が高まると、少ない酵素の活性中心を基質が取り合うようになるため、飽和現象が生じる。このように酵素反応では、酵素と基質が組み合った基質複合体を作る過程が反応速度を決める律速過程になっていると考えられる。 1913年、L・ミカエリスとM・メンテンは酵素によるショ糖の加水分解反応を測定し、「鍵と鍵穴」モデルと実験結果から酵素基質複合体モデルを導き出し、酵素反応を定式化した。このモデルによると、酵素は次のように示される。 すなわち、酵素反応は、酵素と基質が一時的に結びついて酵素基質複合体を形成する第1の過程と、酵素基質複合体が酵素と生産物とに分離する第2の過程とに分けられる。 きわめて分子活性の高い酵素に炭酸脱水酵素があるが、この酵素は1秒あたり100万個の二酸化炭素を炭酸イオンに変化させる(kcat = 10 s)。 酵素の反応速度は、基質と構造の似た分子の存在や、後述のアロステリック効果によって影響を受ける(阻害される)。阻害作用の種類によって、酵素の反応速度の応答の様式(阻害様式)が変わる。そこで、反応速度や反応速度パラメータを解析して阻害様式を調べることで、逆にどのような阻害作用を受けているかを識別することができる。どのような阻害様式であるかを調べることによって、酵素がどのような調節作用を受けているか類推することができる。医薬品開発では、調節作用を研究することは、酵素作用を制御することによって症状を改善する新たな治療薬の開発に応用されている。 阻害様式は大きく分けると次のように分類される。 一般に化学反応の進行する方向は化学ポテンシャルが小さくなる方向(エネルギーを消費する方向)に進行し、反応速度は反応の活性化エネルギーが高いか否かに大きく左右される(化学平衡や反応速度論を参照)。 酵素反応は触媒反応で、化学反応の一種なので、その性質は同様である。ただし、一般に触媒反応は化学反応の中でも活性化エネルギーが低いのが通常であるが、酵素反応の活性化エネルギーは特に低いものが多い。 一般に活性エネルギーが15,000cal/molから10,000cal/molに低下すると、反応速度定数はおよそ4.5×10倍になる。 単純な構造の無機触媒や酸塩基触媒等とは異なり、酵素は基質特異性を発揮し、ターゲットとする反応のみの活性化エネルギーを下げている。こういった、酵素特有の特徴を生み出す酵素反応の機構については、いまだ統一的な見解は得られていない。しかし今日では、構造生物学の発展や組み換えタンパク質等の変異導入といった諸技法によって、その片鱗が明らかにされつつある。 たとえば、タンパク質分解酵素セリンプロテアーゼでは、酵素と複合体を形成することで基質は遷移状態に近い分子構造で束縛され(反応系のエントロピー減少)、その結果として活性化エネルギーの低下(反応の促進)が起こる(エントロピー・トラップ)。。 酵素と結合した基質は、酵素の活性中心付近において分子構造が規制され(誘導適合)、より反応しやすい状態となり、生成物への反応が進行する。ここでは、セリンプロテアーゼの一種であるキモトリプシンの例を示す。 酵素反応において、酵素基質複合体から生成物へと変化する過程では、原子間の結合距離や角度などが変形した分子構造となる遷移状態や反応中間体を経由する。 言い換えると、化学反応がしやすい分子の形状が遷移状態であり、酵素は酵素基質複合体が誘導適合することでその状態を作り出している。遷移状態は活性ポテンシャルの高い状態に相当するため、少ないエネルギーで反応中間体の状態を乗り越えて生成物へと変化する。 遷移状態を作ることが酵素タンパクの主たる役割だとすれば、結合によって遷移状態を作り出すことができれば酵素になるとも考えられる。実際に酵素と同じように分子構造を識別し、その分子と結合する生体物質に抗体がある。1986年、アメリカのトラモンタノらは、酵素と同じ働きをするように意図して製造した抗体が意図どおりの酵素作用を示すことを発見し、抗体酵素(abzyme)と名づけた。 超分子化合物によって、人工酵素を作り出す研究も成果を上げている。 生体が酵素活性の大小を制御するには、酵素の量を制御する場合と、酵素の性質を変化させる場合とがある。それらは次のように分類される。 1.の調整は遺伝子の発現量の転写調節によって実現し、2.や3.については酵素の質的な変化であり、1.の転写制御より素早い応答を示す。 2.や3.の調節の例として「フィードバック阻害」が挙げられる。フィードバック阻害によって生産物が過剰になると酵素活性が低減し、生産物が減ると酵素活性は復元する。 大きく次の4つに分けられる。 各酵素にはもっとも活発に機能するpHがあり、これを最適pH(英: optimal pH)、もしくは至適PHという。ほとんどの酵素は各環境の生理的pHで活動がもっとも激しくなる。たとえばヒトの体内では通常最適pHは7付近であるが、胃液の中に含まれるペプシンの最適pHは1.5、トリプシンの最適pHは約8、アルギナーゼ(en:Arginase)の最適pHは9.5である。最適pHが酵素をもっとも安定化させるpHではないことに注意が必要である。 最適pHと同様に、酵素の活動がもっとも激しくなる温度が存在する。これを最適温度(optimal temperature)、もしくは至適温度ともいう。ヒトの酵素の場合、通常は生理的温度である35°Cから40°C付近とされる。最適pHと同様に、最適温度が酵素をもっとも安定化させる温度ではないことに注意が必要である。 酵素の機能は基質の濃度に依存する。基本的には、基質の濃度が上がるほど反応速度が上がるが、ある一定の濃度で飽和を迎える。さらに基質の濃度を増やすことで、逆に酵素の機能が著しく阻害されることもある。これら酵素と基質濃度の関係は、酵素や基質の種類によってさまざまである。 酵素の機能は酵素自体の濃度にも依存する。基本的には、酵素の濃度が上がるほど反応速度が上昇する。生体内での酵素濃度は、遺伝子の発現によって制御される。In vitroでは、酵素の溶解度に依存するが、濃度を高めすぎた結果沈殿した酵素は構造が破壊されている場合がほとんどであり、再び溶解させても機能を回復させることは難しい。 酵素は実生活のさまざまな場面で応用されている。1つは酵素自体を利用するもので、代表的な分野として食品加工業が挙げられる。もう1つは生体が持つ酵素を観測・制御するもので、代表的な分野として医療・製薬業が挙げられる。 人間は有史以前から、保存食などを作り出すために発酵を利用してきた。たとえば、味噌や醤油、酒などの発酵食品の製造には、伝統的に麹や麦芽などの生物を利用してきた。 蒸米や蒸麦に種麹を与え、40時間ほどおくと麹菌が増殖し、米麹や麦麹となるが、こうした麹には各種の酵素、プロテアーゼ、アミラーゼ、リパーゼなどが蓄積される。発酵とは、これらの酵素が食品中のタンパク質をペプチドやアミノ酸へと分解して旨味となり、炭水化物を乳酸菌や酵母が利用できる糖へと分解し甘味となり、独特の風味となっていく。 今日では、酵素の実体や機能の詳細が判明したため、発酵食品であっても生物を使わずに酵素自体を作用させて製造することもあり、酵素を使って食品の性質を意図したように変化させることが可能になっている。 酵素反応は、一般に流通している加工食品の多くにおいて製造工程中に利用されているほか、でん粉を原料とした各種糖類の製造にも用いられている。また、果汁の清澄化や苦味除去、肉の軟化といった品質改良や、リゾチームによる日持ち向上などにも用いられている。最初に発見された酵素であるジアスターゼはアミラーゼの一種であり、消化剤として用いられる。 以下に挙げるような分野で酵素が使われている。 これらの酵素は生物由来の天然物とされるため、食品関連法規で求められる原材料表示では省略されていることが多い。また、発酵食品を除く加工食品では、酵素は加工助剤として利用するため、製造工程中に失活または除去されて、完成した食品中には存在しない。したがって、これらの酵素は食品添加物とは異なる扱いになっている。 キモトリプシンとトリプシン(牛)、パンクレアチンは牛や豚の膵臓から、パンクレリパーゼ(豚)は医薬品として、ブロメライン(パイナップル)やパパイン(パパイヤ)はタンパク質消化を助ける健康食品としてよく用いられる。酵素を含む消化酵素剤が、第2類医薬品や医薬部外品として販売されている。高峰譲吉が小麦の皮フスマから発酵培養させたデンプン分解酵素のタカヂアスターゼも、配合される酵素のひとつである。消化酵素剤が病院で処方されることもあり、体内の消化酵素不足による消化器症状や血流、皮膚症状を起こしている状態を改善することが目的である。また消化酵素剤は膵臓の病気による酵素不足のために医療として用いられ有効である。 日本では傷の壊死組織を除去するためのブロメラインの軟膏の医薬品がある。日本国外では同じ目的でパパインの軟膏が利用できる国もあり、健康な皮膚組織には影響を与えにくい。パパインが含まれるパックや洗顔料も市販されている。 今日では、洗剤や化粧品などの日用品に高い付加価値をつけるために酵素が利用される場合が多い。 たとえば洗濯の場合、汗しみや食べ物しみは石鹸だけでは落としにくい。単純な油しみと違って固形物であるタンパク質を含んでおり、しみ成分が固形分と絡まって衣類の繊維に強く接着しているため、界面活性剤だけで洗濯しても汚れを落としきれない。そこで、タンパク質を分解する酵素であるプロテアーゼを含んだ酵素入り洗剤が広く利用されている。 ただし、通常のプロテアーゼは石鹸が溶けたアルカリ性領域では作用しないため、アルカリ性領域で良好に作用する(至適pHを持つ)アルカリプロテアーゼが利用されている。 アルカリプロテアーゼは、1947年にオッテセン(M. Ottesen)らが好アルカリ菌から発見した。今日ではアルカリプロテアーゼは酵素入り洗剤用に大量生産されており、工業製品として生産されるプロテアーゼの60%以上を占めるようになっている。 プロテアーゼ以外には、衣類のセルロース繊維を部分的に分解して汚れが拡散しやすいようにするために、セルラーゼを添加している洗剤もある。 同じような例として、食器の洗剤に酵素であるプロテアーゼ(タンパク質汚れ)やリパーゼ(油汚れ)を添加することで汚れ落ちを増強したり、アミラーゼ(澱粉質の糊)を添加することで流水だけで洗浄する自動食器洗浄機でも汚れが落ちるように工夫したりしている例が挙げられる。なお、洗剤用酵素の安全性はよく調べられており、環境中で容易かつ究極的に分解する。 化粧品への酵素の応用例としては、脱毛剤にケラチンを分解する酵素パパイン(プロテアーゼの一種)を添加することで、皮膚から突出したむだ毛を分解切断する例などがある。 歯磨きへの酵素の応用例として、歯垢に含まれるデキストランを分解する酵素デキストラナーゼを添加している製品がある。 20世紀に入って増大した酵素に対する知見は、医療や治療薬に劇的な改革をもたらした。ヒトの体内で生じている代謝には酵素が関与しているため、酵素の存在量を測定する臨床検査によって疾病を診断することが可能になっている(サブユニットとアイソザイム節の乳酸デヒドロゲナーゼの例を参照)。 また酵素による調節〈ホメオスタシス〉の失調が病気の原因である場合は、酵素活性を抑制する治療薬によって症状を治療することができる(例:高血圧におけるアンジオテンシン変換酵素阻害薬、糖尿病におけるインクレチン分解酵素を阻害するDPP4阻害薬など)。 逆に、酵素が欠損する先天性の代謝異常疾患が知られているが、発病前に酵素の量を検査して、発症を抑える治療を行うことができる〈記事 遺伝子疾患に詳しい〉(例:ゴーシェ病)。 製品には含まれなくても、食品工業から香料・医薬品原料などファインケミカルの分野まで多方面の食品原料や化成品の製造に酵素が利用されている。 たとえば、生体から抽出された酵素を工業化学で利用する際の技術として、酵素の固定化が一般化している。固定化とは、工業用酵素を土台となる物質(担体)に固定して用いる方法である。経済的に生産するためには、逆反応が起こらないように反応系から生成物を効率よく除去する必要がある。しかし、このとき同時に酵素も除去してしまうと、本来は再生・再利用可能な触媒である酵素も使い捨てになってしまう。固定化は、この問題を解決する方法である。 今日では、固定化酵素は、バイオリアクター技術として食品工業から香料・医薬品原料などファインケミカルの分野まで多方面の化成品の製造に利用されている。バイオリアクターは、ポンプで基質(原料)を注入すると同時に生成物を流出させる生産装置であり、酵素を担体とともに柱状の反応装置内に固定することによって、酵素のリサイクルの問題や連続生産による経済性の向上などの問題点を解決している。バイオリアクター用の酵素あるいは酵素を含む微生物の固定化には、紅藻類から単離される多糖類のκ-カラギーナン(食品・化粧品のゲル化剤にも利用される)が汎用される。 世界で初めて固定化酵素を使った工業化に成功したのは千畑一郎、土佐哲也らであり、1967年に DEAE-Sepadex担体に固定化したアミノアシラーゼ(E.C. 3.5.1.14)を使って、ラセミ体であるN-アシル-DL-アミノ酸の混合物から目的のL-アミノ酸だけを不斉加水分解して光学活性なアミノ酸を得る方法を開発した。 酵素の基質特異性と反応性を利用して化学物質を検出するセンサーが実用化されている。これらは生体由来の機能を利用することからバイオセンサーと呼ばれ、1960年代に研究が始まり1976年にアメリカでグルコースセンサーが市販されて以来、医療診断や環境測定などの場面で用いられてきた。酵素を用いるバイオセンサーは特に酵素センサーと呼ばれる。 電気化学と酵素の化学が組み合わせられたグルコースセンサーでは、電極の上にグルコースオキシダーゼが固定化されている。検体中にグルコースが存在してグルコースオキシダーゼが作用すると酸化還元反応によって電極に電流が流れ、グルコースを定量することができる。糖尿病患者が自身の血糖値を調べるために用いる市販の血糖値測定器では、このグルコースセンサーが利用されている。 このほか、蛍光発光、水晶振動子、表面プラズモン共鳴などの原理と酵素とを組み合わせたバイオセンサーが研究されている。 現存するすべての生物種において、酵素を含むすべてのタンパク質の設計図はDNA上の遺伝情報であるゲノムに基づいている。一方、DNA自身の複製や合成にも酵素を必要としている。つまり、酵素の存在はDNAの存在が前提であり、一方でDNAの存在は酵素の存在が前提であるから、ゲノムの起源においてDNAの確立が先か酵素の確立が先かというパラドックスが存在していた。最近の研究では、このパラドックスについて、いまだ確証はないものの以下のように説明している。 1986年にアメリカのトーマス・チェックらによって発見されたリボザイムは、触媒作用を持つRNAであり、次の3種類の反応を触媒することが知られている。 特性1.および2.からは、RNAは自己複製していた段階の存在があるとも考えられる。また、特性3.からは、RNAが酵素の役割も担う場合があることがわかる。このことから、仮説ではあるが、現在のゲノムの発現機構(セントラルドグマと言い表される)が確立する前段階において、遺伝子と酵素との役割を同じRNAが担っているRNAワールドという段階が存在したと考えられている。 なお、特性3.の例として挙げた23S rRNAは、大腸菌のタンパク質を合成するリボゾーム内に存在する。大腸菌のリボゾームにおいては、アミノアシルtRNAから合成されるペプチドにアミノ酸を転位・結合させる酵素の活性中心の主役が、タンパク質ではなく23S rRNAとなっている。さらに、この場合の酵素作用(ペプチジルトランスフェラーゼ活性)は、23S rRNAのドメインVに依存することも判明している。 また、リボザイムが自己切断する際には鉛イオンが関与する例が判明している。このことから、RNAもタンパク質酵素の補因子と共通の仕組みを持っているという可能性が示唆されている。 RNAワールド説によると、ゲノムを保持する役割はDNAへ、酵素機能はタンパク質へと淘汰が進んで、RNAワールドが今日のセントラルドグマへと進化したと考えられている。その段階では、次のようなRNAの特性が進化の要因として寄与したと推定されている。 遺伝子の保管庫がDNAではなくRNAであったと仮定した場合、RNAには不利な特性がある。それは、リボース2'位の水酸基が存在するため、エステル交換によって環状ヌクレオシド(環状AMPなど)を形成してヌクレオチドが切断されやすいという性質である。これに対してDNAは、リボース2'位の水酸基を欠くため環状リン酸エステルを形成せず、RNAの場合より安定なヌクレオチドを形成する。 また、立体構造の多様性について考察すると、RNAの立体構造はタンパク質に比べて高次構造が単純になることが判明している。したがって、RNAから構成される酵素に比べ、タンパク質から構成される酵素の方が立体構造の多様性が大きく、基質特異性の面や遷移状態モデルを形成する上でより性能のよい酵素になると考えられる。 分子構造が分子認識と遷移状態の形成に関与していることが判明して以来、酵素の構造を変化させることで人工的な酵素(人工酵素)を作り出す試みがなされている。そのアプローチ方法としては が挙げられる。 前者は1980年代ごろから試みられており、アミノ酸配列を変異させて酵素の特性がどのように変化するのか、試行錯誤的に研究がなされた。異種の生物間でゲノムを比較できるようになり、異なる生物に由来する同一酵素について共通性の高い部分とそうでない部分とが明確になったため、それを踏まえて配列を変化させるのである(いわゆるバイオテクノロジー技術の一環)。1990年代以降にはコンピュータの大幅な速度向上とデータの大容量化が進行し、実際のタンパク質を測定することなく、コンピュータシミュレーションによって一次配列からタンパク質の立体構造を設計し、物性を予測することができつつある。また、2000年代に入るとゲノムの完全解読がさまざまな生物種で完了し、遺伝子情報から分子生物学上の問題を解決しようとする試み(バイオインフォマティクス技術)がなされている。そして現在、バイオインフォマティクス情報からタンパク質機能を解明するプロテオミックス技術へと応用が展開されつつある。2008年には、計算科学的な手法によって設計された、実際にケンプ脱離の触媒として機能する酵素が報告されている。 後者の超分子化合物を設計する方法については、1980年代ごろから、分子認識を行う超分子化合物(すなわち基質特異性をモデル化した化合物)の研究が開始された。当初は基質構造の細部までは認識できなかったため、分子の嵩高さを識別することから始められた。ただし早い時期から、ほかの分子と静電相互作用で結合する包摂化合物(シクロデキストリンやクラウンエーテルなど)は知られていた。そこで最初の人工酵素として、リング状の構造を持つシクロデキストリンに活性中心を模倣した側鎖構造を修飾することによって、中心空洞にはまり込む化合物に対してだけ反応する化学物質が設計された。今日では分子を認識すると蛍光を発するような超分子化合物も設計されている。 また、活性中心で生じている遷移状態を作り出す方法論は反応場理論として体系付けられている。反応場理論の1つの応用が、2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治やバリー・シャープレスらの不斉触媒として成果を挙げている。 代表的な酵素の一覧を示す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "酵素(こうそ、英: enzyme)とは、生体内外で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子である。酵素によって触媒される反応を「酵素的」反応という。このことについて酵素の構造や反応機構を研究する古典的な学問領域が、酵素学 (こうそがく、英: enzymology)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "酵素は生物が物質を消化する段階から吸収・分布・代謝・排泄に至るまでのあらゆる過程(ADME)に関与しており、生体が物質を変化させて利用するのに欠かせない。したがって、酵素は生化学研究における一大分野であり、早い段階から研究対象になっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "最近の研究では、擬似酵素分析(英語版)の新しい分野が成長し、進化の間、いくつかの酵素において、アミノ酸配列および異常な「擬似触媒」特性にしばしば反映されている生物学的触媒を行う能力が失われたことが認識されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多くの酵素は生体内で作り出されるタンパク質を主成分として構成されている。したがって、生体内での生成や分布の特性、加熱やpHの変化によって変性して活性を失う(失活)といった特徴などは、ほかのタンパク質と同様である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "生体を機関に例えると、核酸塩基配列が表すゲノムが設計図に相当するのに対して、生体内における酵素は組立て工具に相当する。酵素はその特徴として、作用する物質(基質)をえり好みし(基質特異性)、目的の反応だけを進行させること(反応選択性あるいは反応特異性とも)によって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こす。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "酵素の人為的な利用として、古来から人類は酵素を用いた発酵による食品・飲料の製造を行ってきた。今日では、酵素の利用は食品製造だけにとどまらず、化学工業製品の製造や日用品の機能向上、医療などの広い分野に応用されている。とりわけ医療分野には、酵素は深く関わっている。たとえば、消化酵素を消化酵素剤として処方したり、疾患による酵素量の増減を検査や診断に利用している。また、ほとんどの医薬品は、ターゲットとなる酵素の作用の大小を調節することで効果を発現している。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "生体内での酵素の役割は、生命を構成する有機化合物や無機化合物を取り込み、必要な化学反応を引き起こすことにある。生命現象は多くの代謝経路を含み、それぞれの代謝経路は多段階の化学反応からなっている。", "title": "主な役割" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "細胞内では、その中で起こるさまざまな化学反応を担当する形で多種多様な酵素が働いている。それぞれの酵素は自分の形に合った特定の原料化合物(基質)を外から取り込み、担当する化学反応を触媒し、生成物を外へと放出する。そして再び次の反応のために基質を取り込み、目的の物質を生成し続ける。", "title": "主な役割" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ここで放出された生成物は、別の化学反応を担当する酵素の作用を受けて、さらに別の生体物質へと代謝されていく。このような酵素の触媒反応の繰り返しで必要な物質の生成や不必要な物質の分解が進行し、生命活動が維持されていく。", "title": "主な役割" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "生体内では化学工業のプラントのように基質と生成物の容器が隔てられているわけではなく、さまざまな物質が渾然一体となって存在している。しかし、生命現象を作る代謝経路でいろいろな化合物が無秩序に反応してしまっては生命活動は維持できない。", "title": "主な役割" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "したがって酵素は、生体内の物質の中から作用するべきものを選び出さなければならない。また、反応で余分なものを作り出してしまうと周囲に悪影響を及ぼしかねないので、ある基質に対して起こす反応は決まっていなければならない。酵素は生体内の化学反応を秩序立てて進めるために、このように高度な基質選択性と反応選択性を持つ。", "title": "主な役割" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "さらにアロステリズム、阻害などによって化学反応の進行を周りから制御される機構を備えた酵素もある。それらの選択性や制御性を持つことで、酵素は渾然とした細胞内で必要なときに必要な原料を選択し、目的の生成物だけを産生するのである。", "title": "主な役割" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "このように、細胞よりも小さいスケールで組織的な作用をするのが酵素の役割である。人類が先史時代から利用していた発酵も細胞内外で起こる酵素反応によって行われる。", "title": "主な役割" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "最初に発見された酵素はジアスターゼ(アミラーゼ)であり、1833年にA・パヤンとJ・F・ペルソ(Jean Francois Persoz)によるものである。彼らは麦芽の無細胞抽出液によるでんぷんの糖化を発見し、生命(細胞)が存在しなくても、発酵のプロセスの一部が進行することを初めて発見した。酵素の命名法の一部である語尾の「-ase」はジアスターゼ (diastase)が由来となっている。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、1836年にはT・シュワンによって、胃液中からタンパク質分解酵素のペプシンが発見・命名されている。このころの酵素は生体から抽出されたまま、実体不明の因子として分離・発見されている。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「酵素(enzyme)」という語は酵母の中(in yeast)という意味のギリシア語の \"εν ζυμη\"(en zymi)に由来し、1876年にドイツのウィルヘルム・キューネによって命名された。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "19世紀当時、ルイ・パスツールによって、生命は自然発生せず、生命がないところでは発酵(腐敗)現象が起こらないことが示されていた。したがって「有機物は生命の助けを借りなければ作ることができない」とする生気説が広く信じられており、酵素作用が生命から切り離すことができる化学反応(生化学反応)のひとつにすぎないということは画期的な発見であった。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかし、酵素は生物から抽出するしか方法がなく、微生物と同様に加熱すると失活する性質を持っていたため、その現象は酵素が引き起こしているのか、それとも目に見えない生命(細胞)が混入して引き起こしているのかを区別することは困難であった。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "したがって、酵素が生化学反応を起こすという考え方はすぐには受け入れられなかった。当時のヨーロッパの学会では、酵素の存在を否定するパスツールらの生気説派と酵素の存在を認めるユストゥス・フォン・リービッヒらの発酵素説派とに分かれて論争が続いた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "最終的には、1896年にエドゥアルト・ブフナーが酵母の無細胞抽出物を用いてアルコール発酵を達成したことによって生気説は完全に否定され、酵素の存在が認知された。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "上述したように、19世紀後半にはまだ酵素は生物から抽出される実体不明の因子と考えられていたが、酵素の性質に関する研究は進んだ。その研究の早い段階で、酵素の特徴として基質特異性と反応特異性が認識されていた。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これを概念モデルとして集大成したのが、1894年にドイツのエミール・フィッシャーが発表した鍵と鍵穴説である。これは、基質の形状と酵素のある部分の形状が鍵と鍵穴の関係にあり、形の似ていない物質は触媒されない、と酵素の特徴を概念的に表した説である。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "現在でも酵素の反応素過程のモデルとして十分に通用する。ただし、フィッシャーはこのモデルの実体が何であるかについては科学的な実証を行っていない。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1926年にジェームズ・サムナーがナタマメウレアーゼの結晶化に成功し、初めて酵素の実体を発見した。サムナーは自らが発見した酵素ウレアーゼはタンパク質であると実験結果とともに提唱したが、当時サムナーが研究後進国の米国で研究していたこともあり、酵素の実体がタンパク質であるという事実はなかなか認められなかった。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "その後、タンパク質からなる酵素の存在がジョン・ノースロップとウェンデル・スタンレーによって証明され、酵素の実体がタンパク質であるということが広く認められるようになった。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "20世紀後半になると、X線回折をはじめとした生体分子の分離・分析技術が向上し、生命現象を分子の構造が引き起す機能として理解する分子生物学と、細胞内の現象を細胞小器官の機能とそれに関係する生体分子の挙動として理解する細胞生物学が成立した。これらの学問によってさらに酵素研究が進展する。すなわち、酵素の機能や性質が、酵素や酵素を形成するタンパク質の構造やそのコンホメーション変化によって説明づけられるようになった。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "酵素の機能がタンパク質の構造に起因するものであれば、何らかの酵素に適した構造を持つものは酵素としての機能を発現しうると考えることができる。実際に、1986年にはトーマス・チェックらが、タンパク質以外で初めて酵素作用を示す物質(リボザイム)を発見している。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "今日においては、この酵素の構造論と機能論に基づいて人工的な触媒作用を持つ超分子(人工酵素)を設計し開発する研究も進められている。", "title": "発見" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "酵素は生体内での代謝経路のそれぞれの生化学反応を担当するために、有機化学で使用されるいわゆる触媒とは異なる基質特異性や反応特異性などの機能上の特性を持つ。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、酵素はタンパク質をもとに構成されているため、ほかのタンパク質と同様に失活の特性、すなわち熱やpHによって変性し活性を失う特性を持つ。次に酵素に共通の特性である基質特異性、反応特異性、および失活について説明する。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "酵素は作用する物質を選択する能力を持ち、その特性を基質特異性(英: substrate specificity)と呼ぶ。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "たとえば、あるペプチド分解酵素(ペプチターゼ)を作用させてタンパク質を分解する場合は、特定の部位のペプチド結合を加水分解するため、部位によっては基質として認識せずにまったく作用しない。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方、タンパク質を(酵素ではなく)酸・塩基触媒で加水分解する場合は、ペプチド結合の任意の箇所に作用する。また、ペプチド分解酵素はペプチド結合だけに反応し、ほかの結合(エステルやグリコシド結合)には作用しないが、酸・塩基触媒ならばペプチド結合もほかの結合も区別することなく分解する。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この特性は酵素研究のごく初期から認識されており、鍵と鍵穴に例えたモデルで説明されていた。20世紀中頃以降、X線結晶解析で酵素分子の立体構造が特定できるようになり、鍵穴の仕組みの手がかりが入手できるようになった。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "すなわち、酵素であるタンパク質の立体構造にはさまざまな大きさや形状のくぼみが存在し、それはタンパク質の一次配列(アミノ酸の配列順序)に応じて決定されている。前述の鍵穴はまさにタンパク質立体構造のくぼみ(クラフト)である。酵素は、くぼみに合った基質だけをくぼみの奥に存在する酵素の活性中心へ導くことで、酵素作用を発現する。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "今日では、X線結晶解析によって立体構造を決定しなくても、過去の知見や計算機化学に基づき、タンパク質の一次配列情報やその設計図となる遺伝子の塩基配列情報から立体構造を予測することが可能になりつつある。さらに、生物界に存在しないタンパク質酵素を設計することも、タンパク質以外の物質で同様な手法によって人工酵素を設計することも可能である。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "生物界に存在する酵素に適合する基質を研究することで、逆に各種酵素の阻害剤を作ることも可能となる。すなわち、本来の基質よりも強く酵素の活性部位に結合する物質を設計することで、酵素の機能を阻害させる試みである。酵素や阻害剤が設計できるようになったことは、医薬品や分子生物学研究の発展に役立っている。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "酵素と基質が複合体を形成すると、酵素と基質のそれぞれで立体構造の変化が起こる。その際に基質のエントロピーが減少するというモデルがあり、計算科学の手法等からそのエントロピーの変化が検証されている。具体的には、酵素の基質との結合によって、酵素・基質ともに触媒反応により適した分子形状へと変化すると考えられている。酵素との複合化を通じて、基質の立体構造は束縛・規制され(エントロピーの減少)、遷移状態に近いものへと変化する。すなわち、反応の活性化エネルギーが低下した状態にあると考えられている。これらの酵素と基質の双方の構造変化によって、誘導的な化学反応が生じるというモデルは誘導適合と呼ばれる。。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "誘導適合は基質特異性を発現するうえでも重要である。アロステリック効果なども含めて、酵素活性の発現およびその制御において重要な役割を担っているとされる。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "生体内ではある1つの基質に着目しても、作用する酵素が違えば生成物も変わってくる。通常、酵素は1つの化学反応しか触媒しない性質を持ち、これを酵素の反応特異性と呼ぶ。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "酵素が反応特異性を持つため、消化酵素などいくつかの例外を除けば、通常1つの酵素は生体内の複雑な代謝経路の1か所だけを担当している。これは、生体を恒常的に維持するための重要な性質である。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "まず、ある代謝経路が存在するかどうかは、その代謝経路を担当する固有の酵素が存在するかどうかに左右されるため、その酵素タンパク質を産生する遺伝子の発現によって制御できる。また、代謝産物の1つが過剰になった場合、その代謝経路を担当する固有の酵素の活性にフィードバック阻害が起こるため、過剰な生産が動的に制御される。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "酵素はそれぞれに固有の基質と生化学反応を担当するが、同じ生体内でも組織や細胞の種類が異なると、別種の酵素が同じ基質の同じ生化学反応を担当する場合がある。このような関係の酵素を互いにアイソザイム(英: isozyme)と呼ぶ。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "酵素が役割を果たすとき、またはその活性を失う原因には、酵素を構成するタンパク質の立体構造(コンホメーション)が深く関与している。失活の原因となる要因としては、熱、pH、塩濃度、溶媒、ほかの酵素による作用などが知られている。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "タンパク質は熱、pH、塩濃度、溶媒など置かれた条件の違いによって容易に立体構造を替えるが、条件が大きく変わると立体構造が不可逆的に大きく変わり、酵素の場合は失活することもある。したがって、酵素反応は至適温度・至適pHや水溶媒など条件が限定される。場合によっては、汚染した微生物が発生するペプチダーゼなどの消化酵素によってタンパク質の構造が失われて失活することもある。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ただし、生物の多様性は非常に広いため、好熱菌、好酸性菌、好アルカリ菌などの持つ酵素(イクストリーモザイム)のように極端な温度やpHに耐えうるとされるものや、有機溶媒中でも活性が保たれるものもあり、こうした酵素の工業利用が現実的になり始めている。", "title": "特性" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "酵素の分類方法はいくつかあるが、ここでは酵素の所在による分類と、基質と酵素反応の種類(基質特異性と反応特異性の違い)による系統的分類を取り上げる。後者による分類は酵素の命名法と関連している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "酵素は生物体内における反応のすべてを起こしているといっても過言ではない。したがって、代謝反応の関与する生物体内であれば普遍的に存在している。酵素は、生体膜(細胞膜や細胞小器官の膜)に結合している膜酵素と、細胞質や細胞外に存在する可溶型酵素とに分類される。可溶型酵素のうち、細胞外に分泌される酵素を特に分泌型酵素と呼ぶ。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "このような酵素の種類の違いは、酵素以外のタンパク質の種類の違い(膜タンパク質、分泌型タンパク質)と同様に、立体構造における疎水性側鎖と親水性側鎖の一次構造上の分布(タンパク質配列のモチーフ)の違いによる。ほかのタンパク質と同様に酵素も細胞内のリボゾームで生合成されるが、アミノ酸配列は遺伝子に依存するため、その構造は酵素の進化を反映している。遺伝的に近隣の酵素は類似のモチーフを持ち、酵素群のグループを形成する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "生体膜に存在する膜酵素はエネルギー保存や物質輸送に関与するものも多く、生体膜の機能を担う重要な酵素群(ATPアーゼ、ATP合成酵素、呼吸鎖複合体、バクテリオロドプシンなど)が多い。生体膜と酵素との位置関係によって3種類に大分できる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "生体膜は内部が疎水性で外部が親水性であるため(=脂質二重膜と呼ばれる)、膜酵素であるタンパク質の部分構造(側鎖)の性質も、膜に接しているところは疎水性が強くて膜脂質への親和性がきわめて高く、膜から突出しているところは親水性が強くなっている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "細胞質に存在している酵素は、水に比較的よく溶ける。細胞質での代謝にはこの可溶性酵素が多く関わっている。可溶性酵素は、外部には親水性アミノ酸、内部には疎水性アミノ酸が集まって、球形の立体構造をとっている場合が多い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "酵素は細胞内で産生されるが、産生後に細胞外に分泌されるものもあり、分泌型酵素と呼ばれる。消化酵素が代表例であり、細胞外に存在する物質を取り込みやすいように消化するために分泌される。その形状は可溶性酵素と同じく球形をしている場合が多い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "生物に対して何らかの刺激(熱、pH、圧力などの変化)を与えると、その刺激に対してエキソサイトーシスと呼ばれる分泌形態で分泌型酵素を放出する現象が見られる場合がある。構造生物学の進歩において、最初に結晶化され立体構造が決定されていった酵素の多くは分泌型酵素であった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "酵素を反応特異性と基質特異性の違いによって分類すると、系統的な分類が可能となる。このような系統的分類を表す記号として、EC番号がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "EC番号は \"EC\"に続けた4個の番号 \"EC X.X.X.X\"(Xは数字)によって表し、数字の左から右にかけて分類が細かくなっていく。EC番号では、まず反応特異性を、酸化還元反応、転移反応、加水分解反応、解離反応、異性化反応、ATPの補助を伴う合成、イオンや分子を生体膜を超えての輸送の合計7つのグループに分類している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "さらに各グループで分類基準は異なるが、反応特異性と基質特異性との違いとで細分化していく。すべての酵素についてこのEC番号が割り振られており、現在約3,000種類ほどの反応が見つかっている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、ある活性を担う酵素がほかの活性を持つことも多く、ATPアーゼなどはATP加水分解反応のほかにタンパク質の加水分解反応への活性も持っている(EC番号、酸化還元酵素、転移酵素、加水分解酵素、リアーゼ、異性化酵素、リガーゼなどを参照)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "酵素の名前は国際生化学連合の酵素委員会によって命名され、同時にEC番号が与えられる。酵素の名称には「常用名」と「系統名」が付される。常用名と系統名の違いについて例を挙げながら説明する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "古くに発見され命名された酵素については、上述の規則ではなく当時の名称がそのまま使用されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "などがこれにあたる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "RNAを除いて、酵素はタンパク質から構成されるが、タンパク質だけで構成される場合もあれば、非タンパク質性の構成要素(補因子)を含む場合(複合タンパク質)もある。酵素が複合タンパク質の場合、補因子と結合していないと活性が発現しない。このとき、補因子と結合していないタンパク質をアポ酵素、アポ酵素と補因子とが結合した酵素をホロ酵素という。以下では、特に断らない限り、タンパク質以外の、金属を組み込んでいない有機化合物を単に有機化合物と呼称する。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "補因子の例としては、無機イオン(英語版)、有機化合物(補酵素)があり、金属含有有機化合物のこともある。いくつかのビタミンは補酵素であることが知られている。補因子は酵素との結合の強弱で分類されるが、その境界は曖昧である。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "また、酵素を構成するタンパク質鎖(ペプチド鎖)は複数本であったり、複数種類であったりする場合がある。複数本のペプチド鎖から構成される場合、立体構造を持つそれぞれのペプチド鎖をサブユニットと呼ぶ。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "強固な結合や共有結合をしている補因子を補欠分子族(ほけつぶんしぞく、英: prosthetic group)という。補欠分子族は有機化合物のこともあるが、酵素から遊離しうる補因子を補欠分子族と区別して、補酵素と呼ぶ。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "カタラーゼ、P450などの活性中心に存在するヘム鉄などが代表的な補欠分子族である。金属プロテアーゼの亜鉛イオンなど、直接タンパク質と結合していることもある。生体が要求する微量金属元素は、補欠分子族として酵素に組み込まれていることが多い。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "有機化合物の補因子を補酵素という。遊離しない場合は補欠分子族という。アポ酵素との結合が弱い、有機化合物の補欠分子族を補酵素とし、補酵素は補欠分子族の一種ととらえる考えもある。とはいえ、たとえば、酵素と共有結合していても遊離しうるリポ酸が補酵素と区別されるなど、補酵素であるか補欠分子族であるかの基準は厳密ではない。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "補酵素は、常時酵素の構造に組み込まれていないが、酵素反応が生じる際に基質と共存することが必要とされる。酵素活性のときに取り込まれ、ホロ酵素を生じさせる。したがって、酵素反応の進行によって基質とともに消費され、典型的な補欠分子族とは異なる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "酵素タンパク質が熱によって変性し失活するのに対して、補酵素は比較的耐熱性が高く、かつ透析によって酵素タンパク質から分離することが可能であるため、補因子として早い時期からその存在が知られていた。1931年にはオットー・ワールブルクによって初めて補酵素が発見されている。ビタミンあるいはビタミンの代謝物に補酵素となるものが多い。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "NAD、NADP、FMN、FAD、チアミン二リン酸、ピリドキサールリン酸、補酵素A、α-リポ酸、葉酸などが代表的な補酵素であり、サプリメントとして健康食品に利用されるものも多い。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "酵素が複数のペプチド鎖(タンパク質鎖)から構成されることがある。その場合、各ペプチド鎖はそれぞれ固有の三次構造(立体構造)をとり、サブユニットと呼ばれる。サブユニット構成を酵素の四次構造と呼ぶこともある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "たとえばヒトにおける乳酸デヒドロゲナーゼ(LDH; E.C. 1.1.1.27)は4つのサブユニットから構成される四量体だが、体内組織の位置によってサブユニット構成が異なることが知られている。この場合、サブユニットは心筋型(H)と骨格筋型(M)の2種類であり、そのいずれか4つが組み合わされて乳酸デヒドロゲナーゼが構成される(たとえばH2個とM2個から構成されるH2M2など)。したがって5タイプの乳酸デヒドロゲナーゼが存在するが、これらは同じ基質で同じ生化学反応を担当するアイソザイムの関係にある。これを応用すると、たとえば臨床検査で乳酸デヒドロゲナーゼのアイソザイムタイプを同定(電気泳動で同定できる)して、疾患が肝炎であるか心筋疾患であるかを識別することができる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、ここに示した以外の要因(遺伝子変異による一次構造の変化など)によってアイソザイムとなることもある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "一連の代謝過程を担当する複数の酵素がクラスターを形成して複合酵素となることも多い。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "代表例として脂肪酸合成系の複合酵素を示す。これらは [ACP]S-アセチルトランスフェラーゼ(AT; E.C. 2.3.1.38)、マロニルトランスフェラーゼ(MT; E,C.2.3.1.39)、3-オキソアシル-ACPシンターゼI(KS)、3-オキソアシル-ACPレダクターゼ(KR; E.C. 1.1.1.100)、クロトニル-ACPヒドラターゼ(DH; E.C. 4.2.1.58)、エノイル-ACPレダクターゼ(ER; E.C. 1.3.1.10)の6種類の酵素がアシルキャリアタンパク質(ACP)とともにクラスターとなって複合酵素を形成している。脂肪酸合成系はほとんどが複合酵素で、単独の酵素はアセチルCoAカルボギラーゼ(TE; E.C. 6.4.1.2)だけである。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "日本工業規格に「酵素は選択的な触媒作用をもつタンパク質を主成分とする生体高分子物質」(JIS K 3600:2000-1418)と定義されているように触媒として利用されるが、化学工業などで用いられる典型的な金属触媒とは反応の特性が異なる。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "第一に酵素反応の場合、基質濃度[S]が高くなると反応速度が飽和する現象が見られる。酵素の場合、基質濃度を高く変えると、反応速度は飽和最大速度 Vmax へと至る双曲線を描く。一方、金属触媒の場合、反応初速度 [ν] は触媒濃度に依存せず基質濃度 [S] の一次式で決定される。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "これは、酵素と金属触媒との粒子状態の違いによって説明できる。金属触媒の場合、触媒粒子の表面は金属原子で覆われており、無数の触媒部位が存在する。それに対して酵素の場合は、酵素分子が基質に比べて巨大な場合が多く、活性中心を多くても数か所程度しか持たない。したがって、金属触媒に比べて、基質と触媒(酵素)とが衝突しても(活性中心に適合し)反応を起こす頻度が小さい。そして基質濃度が高まると、少ない酵素の活性中心を基質が取り合うようになるため、飽和現象が生じる。このように酵素反応では、酵素と基質が組み合った基質複合体を作る過程が反応速度を決める律速過程になっていると考えられる。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1913年、L・ミカエリスとM・メンテンは酵素によるショ糖の加水分解反応を測定し、「鍵と鍵穴」モデルと実験結果から酵素基質複合体モデルを導き出し、酵素反応を定式化した。このモデルによると、酵素は次のように示される。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "すなわち、酵素反応は、酵素と基質が一時的に結びついて酵素基質複合体を形成する第1の過程と、酵素基質複合体が酵素と生産物とに分離する第2の過程とに分けられる。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "きわめて分子活性の高い酵素に炭酸脱水酵素があるが、この酵素は1秒あたり100万個の二酸化炭素を炭酸イオンに変化させる(kcat = 10 s)。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "酵素の反応速度は、基質と構造の似た分子の存在や、後述のアロステリック効果によって影響を受ける(阻害される)。阻害作用の種類によって、酵素の反応速度の応答の様式(阻害様式)が変わる。そこで、反応速度や反応速度パラメータを解析して阻害様式を調べることで、逆にどのような阻害作用を受けているかを識別することができる。どのような阻害様式であるかを調べることによって、酵素がどのような調節作用を受けているか類推することができる。医薬品開発では、調節作用を研究することは、酵素作用を制御することによって症状を改善する新たな治療薬の開発に応用されている。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "阻害様式は大きく分けると次のように分類される。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "一般に化学反応の進行する方向は化学ポテンシャルが小さくなる方向(エネルギーを消費する方向)に進行し、反応速度は反応の活性化エネルギーが高いか否かに大きく左右される(化学平衡や反応速度論を参照)。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "酵素反応は触媒反応で、化学反応の一種なので、その性質は同様である。ただし、一般に触媒反応は化学反応の中でも活性化エネルギーが低いのが通常であるが、酵素反応の活性化エネルギーは特に低いものが多い。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "一般に活性エネルギーが15,000cal/molから10,000cal/molに低下すると、反応速度定数はおよそ4.5×10倍になる。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "単純な構造の無機触媒や酸塩基触媒等とは異なり、酵素は基質特異性を発揮し、ターゲットとする反応のみの活性化エネルギーを下げている。こういった、酵素特有の特徴を生み出す酵素反応の機構については、いまだ統一的な見解は得られていない。しかし今日では、構造生物学の発展や組み換えタンパク質等の変異導入といった諸技法によって、その片鱗が明らかにされつつある。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "たとえば、タンパク質分解酵素セリンプロテアーゼでは、酵素と複合体を形成することで基質は遷移状態に近い分子構造で束縛され(反応系のエントロピー減少)、その結果として活性化エネルギーの低下(反応の促進)が起こる(エントロピー・トラップ)。。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "酵素と結合した基質は、酵素の活性中心付近において分子構造が規制され(誘導適合)、より反応しやすい状態となり、生成物への反応が進行する。ここでは、セリンプロテアーゼの一種であるキモトリプシンの例を示す。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "酵素反応において、酵素基質複合体から生成物へと変化する過程では、原子間の結合距離や角度などが変形した分子構造となる遷移状態や反応中間体を経由する。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "言い換えると、化学反応がしやすい分子の形状が遷移状態であり、酵素は酵素基質複合体が誘導適合することでその状態を作り出している。遷移状態は活性ポテンシャルの高い状態に相当するため、少ないエネルギーで反応中間体の状態を乗り越えて生成物へと変化する。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "遷移状態を作ることが酵素タンパクの主たる役割だとすれば、結合によって遷移状態を作り出すことができれば酵素になるとも考えられる。実際に酵素と同じように分子構造を識別し、その分子と結合する生体物質に抗体がある。1986年、アメリカのトラモンタノらは、酵素と同じ働きをするように意図して製造した抗体が意図どおりの酵素作用を示すことを発見し、抗体酵素(abzyme)と名づけた。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "超分子化合物によって、人工酵素を作り出す研究も成果を上げている。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "生体が酵素活性の大小を制御するには、酵素の量を制御する場合と、酵素の性質を変化させる場合とがある。それらは次のように分類される。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1.の調整は遺伝子の発現量の転写調節によって実現し、2.や3.については酵素の質的な変化であり、1.の転写制御より素早い応答を示す。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2.や3.の調節の例として「フィードバック阻害」が挙げられる。フィードバック阻害によって生産物が過剰になると酵素活性が低減し、生産物が減ると酵素活性は復元する。", "title": "生化学" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "大きく次の4つに分けられる。", "title": "酵素が働く条件" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "各酵素にはもっとも活発に機能するpHがあり、これを最適pH(英: optimal pH)、もしくは至適PHという。ほとんどの酵素は各環境の生理的pHで活動がもっとも激しくなる。たとえばヒトの体内では通常最適pHは7付近であるが、胃液の中に含まれるペプシンの最適pHは1.5、トリプシンの最適pHは約8、アルギナーゼ(en:Arginase)の最適pHは9.5である。最適pHが酵素をもっとも安定化させるpHではないことに注意が必要である。", "title": "酵素が働く条件" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "最適pHと同様に、酵素の活動がもっとも激しくなる温度が存在する。これを最適温度(optimal temperature)、もしくは至適温度ともいう。ヒトの酵素の場合、通常は生理的温度である35°Cから40°C付近とされる。最適pHと同様に、最適温度が酵素をもっとも安定化させる温度ではないことに注意が必要である。", "title": "酵素が働く条件" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "酵素の機能は基質の濃度に依存する。基本的には、基質の濃度が上がるほど反応速度が上がるが、ある一定の濃度で飽和を迎える。さらに基質の濃度を増やすことで、逆に酵素の機能が著しく阻害されることもある。これら酵素と基質濃度の関係は、酵素や基質の種類によってさまざまである。", "title": "酵素が働く条件" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "酵素の機能は酵素自体の濃度にも依存する。基本的には、酵素の濃度が上がるほど反応速度が上昇する。生体内での酵素濃度は、遺伝子の発現によって制御される。In vitroでは、酵素の溶解度に依存するが、濃度を高めすぎた結果沈殿した酵素は構造が破壊されている場合がほとんどであり、再び溶解させても機能を回復させることは難しい。", "title": "酵素が働く条件" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "酵素は実生活のさまざまな場面で応用されている。1つは酵素自体を利用するもので、代表的な分野として食品加工業が挙げられる。もう1つは生体が持つ酵素を観測・制御するもので、代表的な分野として医療・製薬業が挙げられる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "人間は有史以前から、保存食などを作り出すために発酵を利用してきた。たとえば、味噌や醤油、酒などの発酵食品の製造には、伝統的に麹や麦芽などの生物を利用してきた。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "蒸米や蒸麦に種麹を与え、40時間ほどおくと麹菌が増殖し、米麹や麦麹となるが、こうした麹には各種の酵素、プロテアーゼ、アミラーゼ、リパーゼなどが蓄積される。発酵とは、これらの酵素が食品中のタンパク質をペプチドやアミノ酸へと分解して旨味となり、炭水化物を乳酸菌や酵母が利用できる糖へと分解し甘味となり、独特の風味となっていく。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "今日では、酵素の実体や機能の詳細が判明したため、発酵食品であっても生物を使わずに酵素自体を作用させて製造することもあり、酵素を使って食品の性質を意図したように変化させることが可能になっている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "酵素反応は、一般に流通している加工食品の多くにおいて製造工程中に利用されているほか、でん粉を原料とした各種糖類の製造にも用いられている。また、果汁の清澄化や苦味除去、肉の軟化といった品質改良や、リゾチームによる日持ち向上などにも用いられている。最初に発見された酵素であるジアスターゼはアミラーゼの一種であり、消化剤として用いられる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "以下に挙げるような分野で酵素が使われている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "これらの酵素は生物由来の天然物とされるため、食品関連法規で求められる原材料表示では省略されていることが多い。また、発酵食品を除く加工食品では、酵素は加工助剤として利用するため、製造工程中に失活または除去されて、完成した食品中には存在しない。したがって、これらの酵素は食品添加物とは異なる扱いになっている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "キモトリプシンとトリプシン(牛)、パンクレアチンは牛や豚の膵臓から、パンクレリパーゼ(豚)は医薬品として、ブロメライン(パイナップル)やパパイン(パパイヤ)はタンパク質消化を助ける健康食品としてよく用いられる。酵素を含む消化酵素剤が、第2類医薬品や医薬部外品として販売されている。高峰譲吉が小麦の皮フスマから発酵培養させたデンプン分解酵素のタカヂアスターゼも、配合される酵素のひとつである。消化酵素剤が病院で処方されることもあり、体内の消化酵素不足による消化器症状や血流、皮膚症状を起こしている状態を改善することが目的である。また消化酵素剤は膵臓の病気による酵素不足のために医療として用いられ有効である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "日本では傷の壊死組織を除去するためのブロメラインの軟膏の医薬品がある。日本国外では同じ目的でパパインの軟膏が利用できる国もあり、健康な皮膚組織には影響を与えにくい。パパインが含まれるパックや洗顔料も市販されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "今日では、洗剤や化粧品などの日用品に高い付加価値をつけるために酵素が利用される場合が多い。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "たとえば洗濯の場合、汗しみや食べ物しみは石鹸だけでは落としにくい。単純な油しみと違って固形物であるタンパク質を含んでおり、しみ成分が固形分と絡まって衣類の繊維に強く接着しているため、界面活性剤だけで洗濯しても汚れを落としきれない。そこで、タンパク質を分解する酵素であるプロテアーゼを含んだ酵素入り洗剤が広く利用されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ただし、通常のプロテアーゼは石鹸が溶けたアルカリ性領域では作用しないため、アルカリ性領域で良好に作用する(至適pHを持つ)アルカリプロテアーゼが利用されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "アルカリプロテアーゼは、1947年にオッテセン(M. Ottesen)らが好アルカリ菌から発見した。今日ではアルカリプロテアーゼは酵素入り洗剤用に大量生産されており、工業製品として生産されるプロテアーゼの60%以上を占めるようになっている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "プロテアーゼ以外には、衣類のセルロース繊維を部分的に分解して汚れが拡散しやすいようにするために、セルラーゼを添加している洗剤もある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "同じような例として、食器の洗剤に酵素であるプロテアーゼ(タンパク質汚れ)やリパーゼ(油汚れ)を添加することで汚れ落ちを増強したり、アミラーゼ(澱粉質の糊)を添加することで流水だけで洗浄する自動食器洗浄機でも汚れが落ちるように工夫したりしている例が挙げられる。なお、洗剤用酵素の安全性はよく調べられており、環境中で容易かつ究極的に分解する。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "化粧品への酵素の応用例としては、脱毛剤にケラチンを分解する酵素パパイン(プロテアーゼの一種)を添加することで、皮膚から突出したむだ毛を分解切断する例などがある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "歯磨きへの酵素の応用例として、歯垢に含まれるデキストランを分解する酵素デキストラナーゼを添加している製品がある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "20世紀に入って増大した酵素に対する知見は、医療や治療薬に劇的な改革をもたらした。ヒトの体内で生じている代謝には酵素が関与しているため、酵素の存在量を測定する臨床検査によって疾病を診断することが可能になっている(サブユニットとアイソザイム節の乳酸デヒドロゲナーゼの例を参照)。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "また酵素による調節〈ホメオスタシス〉の失調が病気の原因である場合は、酵素活性を抑制する治療薬によって症状を治療することができる(例:高血圧におけるアンジオテンシン変換酵素阻害薬、糖尿病におけるインクレチン分解酵素を阻害するDPP4阻害薬など)。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "逆に、酵素が欠損する先天性の代謝異常疾患が知られているが、発病前に酵素の量を検査して、発症を抑える治療を行うことができる〈記事 遺伝子疾患に詳しい〉(例:ゴーシェ病)。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "製品には含まれなくても、食品工業から香料・医薬品原料などファインケミカルの分野まで多方面の食品原料や化成品の製造に酵素が利用されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "たとえば、生体から抽出された酵素を工業化学で利用する際の技術として、酵素の固定化が一般化している。固定化とは、工業用酵素を土台となる物質(担体)に固定して用いる方法である。経済的に生産するためには、逆反応が起こらないように反応系から生成物を効率よく除去する必要がある。しかし、このとき同時に酵素も除去してしまうと、本来は再生・再利用可能な触媒である酵素も使い捨てになってしまう。固定化は、この問題を解決する方法である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "今日では、固定化酵素は、バイオリアクター技術として食品工業から香料・医薬品原料などファインケミカルの分野まで多方面の化成品の製造に利用されている。バイオリアクターは、ポンプで基質(原料)を注入すると同時に生成物を流出させる生産装置であり、酵素を担体とともに柱状の反応装置内に固定することによって、酵素のリサイクルの問題や連続生産による経済性の向上などの問題点を解決している。バイオリアクター用の酵素あるいは酵素を含む微生物の固定化には、紅藻類から単離される多糖類のκ-カラギーナン(食品・化粧品のゲル化剤にも利用される)が汎用される。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "世界で初めて固定化酵素を使った工業化に成功したのは千畑一郎、土佐哲也らであり、1967年に DEAE-Sepadex担体に固定化したアミノアシラーゼ(E.C. 3.5.1.14)を使って、ラセミ体であるN-アシル-DL-アミノ酸の混合物から目的のL-アミノ酸だけを不斉加水分解して光学活性なアミノ酸を得る方法を開発した。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "酵素の基質特異性と反応性を利用して化学物質を検出するセンサーが実用化されている。これらは生体由来の機能を利用することからバイオセンサーと呼ばれ、1960年代に研究が始まり1976年にアメリカでグルコースセンサーが市販されて以来、医療診断や環境測定などの場面で用いられてきた。酵素を用いるバイオセンサーは特に酵素センサーと呼ばれる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "電気化学と酵素の化学が組み合わせられたグルコースセンサーでは、電極の上にグルコースオキシダーゼが固定化されている。検体中にグルコースが存在してグルコースオキシダーゼが作用すると酸化還元反応によって電極に電流が流れ、グルコースを定量することができる。糖尿病患者が自身の血糖値を調べるために用いる市販の血糖値測定器では、このグルコースセンサーが利用されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "このほか、蛍光発光、水晶振動子、表面プラズモン共鳴などの原理と酵素とを組み合わせたバイオセンサーが研究されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "現存するすべての生物種において、酵素を含むすべてのタンパク質の設計図はDNA上の遺伝情報であるゲノムに基づいている。一方、DNA自身の複製や合成にも酵素を必要としている。つまり、酵素の存在はDNAの存在が前提であり、一方でDNAの存在は酵素の存在が前提であるから、ゲノムの起源においてDNAの確立が先か酵素の確立が先かというパラドックスが存在していた。最近の研究では、このパラドックスについて、いまだ確証はないものの以下のように説明している。", "title": "生命の起源と酵素" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "1986年にアメリカのトーマス・チェックらによって発見されたリボザイムは、触媒作用を持つRNAであり、次の3種類の反応を触媒することが知られている。", "title": "生命の起源と酵素" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "特性1.および2.からは、RNAは自己複製していた段階の存在があるとも考えられる。また、特性3.からは、RNAが酵素の役割も担う場合があることがわかる。このことから、仮説ではあるが、現在のゲノムの発現機構(セントラルドグマと言い表される)が確立する前段階において、遺伝子と酵素との役割を同じRNAが担っているRNAワールドという段階が存在したと考えられている。", "title": "生命の起源と酵素" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "なお、特性3.の例として挙げた23S rRNAは、大腸菌のタンパク質を合成するリボゾーム内に存在する。大腸菌のリボゾームにおいては、アミノアシルtRNAから合成されるペプチドにアミノ酸を転位・結合させる酵素の活性中心の主役が、タンパク質ではなく23S rRNAとなっている。さらに、この場合の酵素作用(ペプチジルトランスフェラーゼ活性)は、23S rRNAのドメインVに依存することも判明している。", "title": "生命の起源と酵素" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "また、リボザイムが自己切断する際には鉛イオンが関与する例が判明している。このことから、RNAもタンパク質酵素の補因子と共通の仕組みを持っているという可能性が示唆されている。", "title": "生命の起源と酵素" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "RNAワールド説によると、ゲノムを保持する役割はDNAへ、酵素機能はタンパク質へと淘汰が進んで、RNAワールドが今日のセントラルドグマへと進化したと考えられている。その段階では、次のようなRNAの特性が進化の要因として寄与したと推定されている。", "title": "生命の起源と酵素" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "遺伝子の保管庫がDNAではなくRNAであったと仮定した場合、RNAには不利な特性がある。それは、リボース2'位の水酸基が存在するため、エステル交換によって環状ヌクレオシド(環状AMPなど)を形成してヌクレオチドが切断されやすいという性質である。これに対してDNAは、リボース2'位の水酸基を欠くため環状リン酸エステルを形成せず、RNAの場合より安定なヌクレオチドを形成する。", "title": "生命の起源と酵素" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "また、立体構造の多様性について考察すると、RNAの立体構造はタンパク質に比べて高次構造が単純になることが判明している。したがって、RNAから構成される酵素に比べ、タンパク質から構成される酵素の方が立体構造の多様性が大きく、基質特異性の面や遷移状態モデルを形成する上でより性能のよい酵素になると考えられる。", "title": "生命の起源と酵素" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "分子構造が分子認識と遷移状態の形成に関与していることが判明して以来、酵素の構造を変化させることで人工的な酵素(人工酵素)を作り出す試みがなされている。そのアプローチ方法としては", "title": "人工酵素" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "が挙げられる。", "title": "人工酵素" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "前者は1980年代ごろから試みられており、アミノ酸配列を変異させて酵素の特性がどのように変化するのか、試行錯誤的に研究がなされた。異種の生物間でゲノムを比較できるようになり、異なる生物に由来する同一酵素について共通性の高い部分とそうでない部分とが明確になったため、それを踏まえて配列を変化させるのである(いわゆるバイオテクノロジー技術の一環)。1990年代以降にはコンピュータの大幅な速度向上とデータの大容量化が進行し、実際のタンパク質を測定することなく、コンピュータシミュレーションによって一次配列からタンパク質の立体構造を設計し、物性を予測することができつつある。また、2000年代に入るとゲノムの完全解読がさまざまな生物種で完了し、遺伝子情報から分子生物学上の問題を解決しようとする試み(バイオインフォマティクス技術)がなされている。そして現在、バイオインフォマティクス情報からタンパク質機能を解明するプロテオミックス技術へと応用が展開されつつある。2008年には、計算科学的な手法によって設計された、実際にケンプ脱離の触媒として機能する酵素が報告されている。", "title": "人工酵素" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "後者の超分子化合物を設計する方法については、1980年代ごろから、分子認識を行う超分子化合物(すなわち基質特異性をモデル化した化合物)の研究が開始された。当初は基質構造の細部までは認識できなかったため、分子の嵩高さを識別することから始められた。ただし早い時期から、ほかの分子と静電相互作用で結合する包摂化合物(シクロデキストリンやクラウンエーテルなど)は知られていた。そこで最初の人工酵素として、リング状の構造を持つシクロデキストリンに活性中心を模倣した側鎖構造を修飾することによって、中心空洞にはまり込む化合物に対してだけ反応する化学物質が設計された。今日では分子を認識すると蛍光を発するような超分子化合物も設計されている。", "title": "人工酵素" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "また、活性中心で生じている遷移状態を作り出す方法論は反応場理論として体系付けられている。反応場理論の1つの応用が、2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治やバリー・シャープレスらの不斉触媒として成果を挙げている。", "title": "人工酵素" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "代表的な酵素の一覧を示す。", "title": "代表的な酵素の一覧" } ]
酵素とは、生体内外で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子である。酵素によって触媒される反応を「酵素的」反応という。このことについて酵素の構造や反応機構を研究する古典的な学問領域が、酵素学 である。 酵素は生物が物質を消化する段階から吸収・分布・代謝・排泄に至るまでのあらゆる過程(ADME)に関与しており、生体が物質を変化させて利用するのに欠かせない。したがって、酵素は生化学研究における一大分野であり、早い段階から研究対象になっている。 最近の研究では、擬似酵素分析の新しい分野が成長し、進化の間、いくつかの酵素において、アミノ酸配列および異常な「擬似触媒」特性にしばしば反映されている生物学的触媒を行う能力が失われたことが認識されている。 多くの酵素は生体内で作り出されるタンパク質を主成分として構成されている。したがって、生体内での生成や分布の特性、加熱やpHの変化によって変性して活性を失う(失活)といった特徴などは、ほかのタンパク質と同様である。 生体を機関に例えると、核酸塩基配列が表すゲノムが設計図に相当するのに対して、生体内における酵素は組立て工具に相当する。酵素はその特徴として、作用する物質(基質)をえり好みし(基質特異性)、目的の反応だけを進行させること(反応選択性あるいは反応特異性とも)によって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こす。 酵素の人為的な利用として、古来から人類は酵素を用いた発酵による食品・飲料の製造を行ってきた。今日では、酵素の利用は食品製造だけにとどまらず、化学工業製品の製造や日用品の機能向上、医療などの広い分野に応用されている。とりわけ医療分野には、酵素は深く関わっている。たとえば、消化酵素を消化酵素剤として処方したり、疾患による酵素量の増減を検査や診断に利用している。また、ほとんどの医薬品は、ターゲットとなる酵素の作用の大小を調節することで効果を発現している。
{{Expand English|Enzyme|date=2021年8月}} [[ファイル:Purine Nucleoside Phosphorylase.jpg|thumb|核酸塩基代謝に関与するプリンヌクレオシドフォスフォリラーゼの構造([[リボンダイアグラム|リボン図]])。酵素の研究に利用される、構造を[[抽象化]]した図の一例。]] {{Biochemistry sidebar}}{{読み仮名_ruby不使用|'''酵素'''|こうそ|{{lang-en-short|enzyme}}}}とは、生体内外で起こる[[代謝|化学反応]]に対して[[触媒]]として機能する[[分子]]である。酵素によって触媒される反応を「酵素的」反応という。このことについて酵素の構造や反応機構を研究する古典的な学問領域が、'''酵素学''' (こうそがく、{{lang-en-short|enzymology}})である。 酵素は生物が[[物質]]を[[消化]]する段階から[[吸収]]・[[ADME#分布|分布]]・[[代謝]]・[[排泄]]に至るまでのあらゆる過程([[ADME]])に関与しており、生体が物質を[[化学反応|変化]]させて利用するのに欠かせない。したがって、酵素は[[生化学]]研究における一大分野であり、早い段階から研究対象になっている。 最近{{いつ|date=2023年8月}}の研究では、{{仮リンク|擬似酵素分析|en|Pseudoenzyme}}の新しい分野が成長し、[[進化]]の間、いくつかの酵素において、[[アミノ酸]]配列および異常な「擬似触媒」特性にしばしば反映されている生物学的触媒を行う能力が失われたことが認識されている<ref>{{cite journal | author = Murphy JM, Farhan H, Eyers PA | year = 2017 | title = Bio-Zombie: the rise of pseudoenzymes in biology | journal = Biochem Soc Trans | volume = 45 | issue = 2| pages = 537–544 | doi=10.1042/bst20160400| pmid = 28408493 }}</ref><ref name="pmid24107129">{{cite journal |author=Murphy JM, et al. | title = A robust methodology to subclassify pseudokinases based on their nucleotide-binding properties | journal = Biochemical Journal | volume = 457 | issue = 2 | pages = 323–334 | year = 2014 | pmid = 24107129 | doi = 10.1042/BJ20131174| pmc=5679212}}</ref>。 多くの酵素は生体内で作り出される[[タンパク質]]を主成分として構成されている。したがって、生体内での生成や分布の特性、[[熱|加熱]]や[[水素イオン指数|pHの変化]]によって[[変性]]して活性を失う(失活)といった特徴などは、ほかのタンパク質と同様である。 生体を[[機械|機関]]に例えると、[[核酸]]塩基配列が表す[[ゲノム]]が[[設計図]]に相当するのに対して、生体内における酵素は[[工具|組立て工具]]に相当する。酵素はその特徴として、作用する物質([[基質 (化学)|基質]])をえり好みし([[基質特異性]])、目的の反応だけを進行させること(反応選択性あるいは反応特異性とも)によって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こす。 酵素の人為的な利用として、古来から人類は酵素を用いた[[発酵]]による食品・飲料の製造を行ってきた。今日では、酵素の利用は食品製造だけにとどまらず、[[化学工業]]製品の製造や日用品の機能向上、医療などの広い分野に応用されている。とりわけ医療分野には、酵素は深く関わっている。たとえば、[[消化酵素]]を消化酵素剤として処方したり<ref name="酵素剤投与1"/><ref name="酵素剤投与2"/>、疾患による酵素量の増減を検査や診断に利用している<ref name="diagnosis">{{cite journal|doi= 10.3923/biotech.2011.51.59|title=Enzymes Application in Diagnostic Prospects| year=2011|last1=Raja|first1=MMM|last2=Raja|first2=A|last3=Imran|first3=MM|last4=Santha|first4=AMI|last5=Devasena|first5=K|journal=Biotechnology|volume=10|issue=1|pages=51-59}}</ref>。また、ほとんどの医薬品は、ターゲットとなる酵素の作用の大小を調節することで効果を発現している。 == 主な役割 == {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} [[ファイル:Metabolism 790px.png|thumb|left|細胞内の主要代謝経路]] [[ファイル:A thaliana metabolic network.png|thumb|left|[[細胞呼吸]]における酵素の調節機構(上記経路図の緑・紫矢印部分)<br />赤点が酵素、黒線が調節機構を表す。丸く配置された赤点が[[TCAサイクル]]である。]] 生体内での酵素の役割は、生命を構成する[[有機化合物]]や[[無機化合物]]を取り込み、必要な[[化学反応]]を引き起こすことにある。生命現象は多くの[[代謝]]経路を含み、それぞれの代謝経路は多段階の化学反応からなっている。 細胞内では、その中で起こるさまざまな化学反応を担当する形で多種多様な酵素が働いている。それぞれの酵素は自分の形に合った特定の原料化合物([[基質 (化学)|基質]])を外から取り込み、担当する化学反応を触媒し、[[生成物]]を外へと放出する。そして再び次の反応のために基質を取り込み、目的の物質を生成し続ける。 ここで放出された生成物は、別の化学反応を担当する酵素の作用を受けて、さらに別の[[生体物質]]へと代謝されていく。このような酵素の触媒反応の繰り返しで必要な物質の生成や不必要な物質の分解が進行し、生命活動が維持されていく。 生体内では化学工業のプラントのように基質と生成物の容器が隔てられているわけではなく、さまざまな物質が渾然一体となって存在している。しかし、生命現象を作る代謝経路でいろいろな化合物が無秩序に反応してしまっては生命活動は維持できない。 したがって酵素は、生体内の物質の中から作用するべきものを選び出さなければならない。また、反応で余分なものを作り出してしまうと周囲に悪影響を及ぼしかねないので、ある基質に対して起こす反応は決まっていなければならない。酵素は生体内の化学反応を秩序立てて進めるために、このように高度な基質選択性と反応選択性を持つ。 さらに[[アロステリック効果|アロステリズム]]、[[#阻害様式と酵素反応速度|阻害]]などによって化学反応の進行を周りから制御される機構を備えた酵素もある。それらの選択性や制御性を持つことで、酵素は渾然とした細胞内で必要なときに必要な原料を選択し、目的の生成物だけを産生するのである。 このように、細胞よりも小さいスケールで組織的な作用をするのが酵素の役割である。人類が[[先史時代]]から利用していた[[発酵]]も細胞内外で起こる酵素反応によって行われる。<!-- 細胞内の[[小器官]]の機能がほとんど分かっていなかった時代から、すでに酵素の研究は行われ始めていた。人間が有史以前から利用していた[[発酵]]も細胞内外で起こる酵素反応であるが、[[19世紀]]に入ると、発酵現象や消化現象など細胞の外でも研究が可能な生化学反応が対象となった。生体内で起こっている化学反応を直接観測することは難しいが、対象を細胞外のもとへと広げることを通じて、酵素の役割や実体が解明されていった。-->{{-}} == 発見 == [[ファイル:Salivary alpha-amylase 1SMD.png|thumb|ヒトの唾液に含まれる[[アミラーゼ]](リボン図)。薄黄はカルシウムイオン、黄緑は塩化物イオン。]] [[ファイル:Eduardbuchner.jpg|thumb|[[エドゥアルト・ブフナー]]<br />[[ノーベル化学賞]][[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]]]] [[ファイル:Убеншвуаншвышь.jpg|thumb|[[エミール・フィッシャー]]]] 最初に発見された酵素は[[ジアスターゼ]]([[アミラーゼ]])であり、[[1833年]]に[[アンセルム・ペイアン|A・パヤン]]とJ・F・ペルソ(Jean Francois Persoz)によるものである。彼らは麦芽の無細胞抽出液による[[デンプン|でんぷん]]の糖化を発見し、生命(細胞)が存在しなくても、発酵のプロセスの一部が進行することを初めて発見した<ref>{{cite journal|last1=Payen|first1=A|last2=Persoz|first2=JF|year=1833|title=Mémoire sur la diastase, les principaux produits de ses réactions et leurs applications aux arts industriels|language=French trans-title=Memoir on diastase, the principal products of its reactions, and their applications to the industrial arts|journal=Annales de chimie et de physique|series=2nd|volume=53|url=https://books.google.com/?id=Q9I3AAAAMAAJ&pg=PA73|pages=73-92}}</ref>。酵素の命名法の一部である語尾の「-ase」はジアスターゼ (diastase)が由来となっている。 また、[[1836年]]には[[テオドール・シュワン|T・シュワン]]によって、胃液中からタンパク質分解酵素の[[ペプシン]]が発見・命名されている<ref>[http://www.britannica.com/eb/article-9066255/Theodor-Schwann Theodor Schwann]. ''[http://www.britannica.com Encyclopædia Britannica].'' 2007. Encyclopædia Britannica Online.</ref>。このころの酵素は生体から抽出されたまま、実体不明の因子として分離・発見されている。 「酵素(enzyme)」という語は酵母の中(in yeast)という意味のギリシア語の {{lang|el|"εν ζυμη"}}(en zymi)に由来し、[[1876年]]に[[ドイツ]]の[[ウィルヘルム・キューネ]]によって命名された<ref>Harper, D (2001). "[http://www.etymonline.com/index.php?term=enzyme enzyme]". ''[http://www.etymonline.com/index.php Online Etymology Dictionary]''.</ref><ref> {{cite journal | author=Kühne W|year=1876|url=https://books.google.com/?id=jzdMAAAAYAAJ&pg=PA190|language=German|title=Über das Verhalten verschiedener organisirter und sog. ungeformter Fermente|trans-title=On the behavior of various organized and so-called unformed ferments|journal=Verhandlungen des naturhistorisch-medicinischen Vereins zu Heidelberg|series=new series|volume=1|issue=3|pages=190-193}}</ref>。 [[19世紀]]当時、[[ルイ・パスツール]]によって、生命は自然発生せず、生命がないところでは発酵(腐敗)現象が起こらないことが示されていた。したがって「有機物は生命の助けを借りなければ作ることができない」とする[[生気論|生気説]]が広く信じられており、酵素作用が生命から切り離すことができる化学反応(生化学反応)のひとつにすぎないということは画期的な発見であった。 しかし、酵素は生物から抽出するしか方法がなく、微生物と同様に加熱すると失活する性質を持っていたため、その現象は酵素が引き起こしているのか、それとも目に見えない生命(細胞)が混入して引き起こしているのかを区別することは困難であった。 したがって、酵素が生化学反応を起こすという考え方はすぐには受け入れられなかった。当時の[[ヨーロッパ]]の学会では、酵素の存在を否定するパスツールらの生気説派と酵素の存在を認める[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]らの発酵素説派とに分かれて論争が続いた。 最終的には、[[1896年]]に[[エドゥアルト・ブフナー]]が酵母の無細胞抽出物を用いてアルコール発酵を達成したことによって生気説は完全に否定され、酵素の存在が認知された<ref name="世界大百科事典">徳重正信、「酵素」『世界大百科事典』(CD-ROM版、第2版)、日立デジタル平凡社、1998年。</ref>。 === 鍵と鍵穴説 === 上述したように、19世紀後半にはまだ酵素は生物から抽出される実体不明の因子と考えられていたが、酵素の性質に関する研究は進んだ。その研究の早い段階で、酵素の特徴として基質特異性と反応特異性が認識されていた。 これを概念モデルとして集大成したのが、[[1894年]]に[[ドイツ]]の[[エミール・フィッシャー]]が発表した'''鍵と鍵穴説'''である<ref>{{cite journal |author = Fischer E |year = 1894 |title = Einfluss der Configuration auf die Wirkung der Enzyme |journal = Ber Dt Chem Ges |volume = 27 |pages = 2985-93 |url = http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k90736r/f364.chemindefer }}</ref>。これは、基質の形状と酵素のある部分の形状が'''鍵'''と'''鍵穴'''の関係にあり、形の似ていない物質は触媒されない、と酵素の特徴を概念的に表した説である。 現在でも酵素の反応素過程のモデルとして十分に通用する。ただし、フィッシャーはこのモデルの実体が何であるかについては科学的な実証を行っていない。 === 酵素の実体の発見 === [[1926年]]に[[ジェームズ・サムナー]]が[[ナタマメ]][[ウレアーゼ]]の[[結晶化]]に成功し、初めて酵素の実体を発見した<ref>[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1946/summary/ 1946 Nobel prize for Chemistry laureates at http://nobelprize.org]</ref>。サムナーは自らが発見した酵素ウレアーゼは'''[[タンパク質]]'''であると実験結果とともに提唱したが、当時サムナーが研究後進国の米国で研究していたこともあり、酵素の実体がタンパク質であるという事実はなかなか認められなかった。 その後、タンパク質からなる酵素の存在が[[w:John Howard Northrop|ジョン・ノースロップ]]と[[w:Wendell Meredith Stanley|ウェンデル・スタンレー]]によって証明され、酵素の実体がタンパク質であるということが広く認められるようになった<ref>{{cite web|url=https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1946/summary/|title=The Nobel Prize in Chemistry 1946|website=The Nobel Prize|publisher=NobelPrize.org|access-date=Nov. 4, 2018}}</ref>。 === 酵素と分子細胞生物学 === [[20世紀]]後半になると、[[X線回折]]をはじめとした生体分子の分離・分析技術が向上し、生命現象を分子の構造が引き起す機能として理解する[[分子生物学]]と、細胞内の現象を細胞小器官の機能とそれに関係する生体分子の挙動として理解する[[細胞生物学]]が成立した。これらの学問によってさらに酵素研究が進展する。すなわち、酵素の機能や性質が、酵素や酵素を形成するタンパク質の構造やその[[立体配座#高分子の立体配座|コンホメーション]]変化によって説明づけられるようになった。 酵素の機能がタンパク質の構造に起因するものであれば、何らかの酵素に適した構造を持つものは酵素としての機能を発現しうると考えることができる。実際に、[[1986年]]には[[トーマス・チェック]]らが、タンパク質以外で初めて酵素作用を示す物質([[リボザイム]])を発見している<ref>[https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1989/summary/ 1989 Nobel prize for Chemistrylaureates at http://nobelprize.org]</ref>。 今日においては、この酵素の構造論と機能論に基づいて人工的な触媒作用を持つ[[超分子]](人工酵素)を設計し開発する研究も進められている<ref>{{cite journal|author=Eisenmesser EZ, Bosco DA, Akke M, Kern D|year=2002|title=Enzyme dynamics during catalysis|journal=Science|volume=295|pages=1520-3}} {{PMID|11859194}}.</ref><ref>{{cite journal |author = Agarwal PK |title = Role of protein dynamics in reaction rate enhancement by enzymes. journal=J Am Chem Soc |year = 2005 |volume = 127 |pages = 15248-56 }} {{PMID|16248667}}.</ref><ref>{{cite journal|author=Eisenmesser EZ, Millet O, Labeikovsky W, Korzhnev DM, Wolf-Watz M, Bosco DA, Skalicky JJ, Kay LE, Kern D|year=2005|title=Intrinsic dynamics of an enzyme underlies catalysis|journal=Nature|volume=438|pages=117-21}} {{PMID|16267559}}.</ref>。 == 特性 == {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} 酵素は生体内での代謝経路のそれぞれの生化学反応を担当するために、有機化学で使用されるいわゆる触媒とは異なる'''基質特異性'''や'''反応特異性'''などの機能上の特性を持つ。 また、酵素はタンパク質をもとに構成されているため、ほかのタンパク質と同様に'''失活'''の特性、すなわち熱やpHによって変性し活性を失う特性を持つ。次に酵素に共通の特性である基質特異性、反応特異性、および失活について説明する。 === 基質特異性 === [[ファイル:説明図 ペプシン.gif|thumb|right|基質に結合する酵素]] {{main|基質特異性}} 酵素は作用する物質を選択する能力を持ち、その特性を[[基質特異性]]({{lang-en-short|substrate specificity}})と呼ぶ。 たとえば、あるペプチド分解酵素(ペプチターゼ)を作用させてタンパク質を分解する場合は、特定の部位の[[ペプチド結合]]を[[加水分解]]するため、部位によっては基質として認識せずにまったく作用しない。 一方、タンパク質を(酵素ではなく)酸・塩基触媒で加水分解する場合は、ペプチド結合の任意の箇所に作用する。また、ペプチド分解酵素はペプチド結合だけに反応し、ほかの結合(エステルやグリコシド結合)には作用しないが、酸・塩基触媒ならばペプチド結合もほかの結合も区別することなく分解する。 この特性は酵素研究のごく初期から認識されており、'''[[鍵]]'''と'''鍵穴'''に例えたモデルで説明されていた。20世紀中頃以降、[[X線回折|X線結晶解析]]で酵素分子の[[立体構造]]が特定できるようになり、鍵穴の仕組みの手がかりが入手できるようになった。 すなわち、酵素であるタンパク質の立体構造にはさまざまな大きさや形状のくぼみが存在し、それはタンパク質の一次配列(アミノ酸の配列順序)に応じて決定されている。前述の鍵穴はまさにタンパク質立体構造のくぼみ(クラフト)である。酵素は、くぼみに合った基質だけをくぼみの奥に存在する酵素の活性中心へ導くことで、酵素作用を発現する。 今日では、X線結晶解析によって立体構造を決定しなくても、過去の知見や[[計算機化学]]に基づき、タンパク質の一次配列情報やその設計図となる遺伝子の塩基配列情報から立体構造を予測することが可能になりつつある。さらに、生物界に存在しないタンパク質酵素を設計することも、タンパク質以外の物質で同様な手法によって人工酵素を設計することも可能である。 生物界に存在する酵素に適合する基質を研究することで、逆に各種酵素の[[阻害剤]]を作ることも可能となる。すなわち、本来の基質よりも強く酵素の活性部位に結合する物質を設計することで、酵素の機能を阻害させる試みである。酵素や阻害剤が設計できるようになったことは、[[医薬品]]や[[分子生物学]]研究の発展に役立っている。 ==== 誘導適合 ==== {{Main|誘導適合}} [[ファイル:説明図 酵素誘導適合.png|thumb|left|酵素と基質の結合で、複合体の立体構造が変化する様子(誘導適合モデル)]] 酵素と基質が複合体を形成すると、酵素と基質のそれぞれで[[立体配座|立体構造]]の変化が起こる。その際に基質の[[エントロピー]]が減少するというモデルがあり、計算科学の手法等からそのエントロピーの変化が検証されている<ref>{{Cite journal|author=Åqvist, J., Kazemi, M., Isaksen, G. V., Brandsdal, B. O.|year=2017|title=Entropy and Enzyme Catalysis|journal=Acc. Chem. Res.|volume=50|issue=2|pages=199–207|doi=10.1021/acs.accounts.6b00321}}</ref>。<!-- 基質を結合させた酵素はあらゆるストレス(熱やpHの変化など)に対して安定度が増すことが多い。 -->具体的には、酵素の基質との結合によって、酵素・基質ともに触媒反応により適した分子形状へと変化すると考えられている<ref>{{Cite journal|author=Koshland Jr., D. E.|year=1958|title=Application of a Theory of Enzyme Specificity to Protein Synthesis|journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A.|volume=44|issue=2|pages=98-104|doi=10.1073/pnas.44.2.98}}</ref>。{{要検証範囲|date=2018年11月|酵素との複合化を通じて、基質の立体構造は束縛・規制され(エントロピーの減少)、[[遷移状態]]に近いものへと変化する。すなわち、反応の活性化エネルギーが低下した状態にあると考えられている<!--遷移状態に向かう反応の過程がエントロピーの減少とともに促進されることによって、反応の活性化エネルギーを低下させている--><!-- ←正しいか? -->。これらの酵素と基質の双方の構造変化によって、誘導的な化学反応が生じるというモデルは'''誘導適合'''と呼ばれる。}}。 誘導適合は基質特異性を発現するうえでも重要である。[[アロステリック効果]]なども含めて、酵素活性の発現およびその制御において重要な役割を担っているとされる。 === 反応特異性 === 生体内ではある1つの基質に着目しても、作用する酵素が違えば生成物も変わってくる。通常、酵素は1つの化学反応しか触媒しない性質を持ち、これを酵素の'''反応特異性'''と呼ぶ。 酵素が反応特異性を持つため、[[消化酵素]]などいくつかの例外を除けば、通常1つの酵素は生体内の複雑な代謝経路の1か所だけを担当している。これは、生体を恒常的に維持するための重要な性質である。 まず、ある代謝経路が存在するかどうかは、その代謝経路を担当する固有の酵素が存在するかどうかに左右されるため、その酵素タンパク質を産生する[[遺伝子]]の[[発現]]によって制御できる。また、代謝産物の1つが過剰になった場合、その代謝経路を担当する固有の酵素の活性に[[フィードバック阻害]]が起こるため、過剰な生産が動的に制御される。 酵素はそれぞれに固有の基質と生化学反応を担当するが、同じ生体内でも組織や細胞の種類が異なると、別種の酵素が同じ基質の同じ生化学反応を担当する場合がある。このような関係の酵素を互いに[[アイソザイム]]({{lang-en-short|isozyme}})と呼ぶ。 === 酵素作用の失活 === 酵素が役割を果たすとき、またはその活性を失う原因には、酵素を構成するタンパク質の立体構造([[立体配座|コンホメーション]])が深く関与している。失活の原因となる要因としては、[[熱]]、[[水素イオン指数|pH]]、塩濃度、[[溶媒]]、ほかの酵素による作用などが知られている。 タンパク質は熱、pH、塩濃度、溶媒など置かれた条件の違いによって容易に立体構造を替えるが、条件が大きく変わると立体構造が不可逆的に大きく変わり、酵素の場合は'''失活'''することもある。したがって、酵素反応は至適温度・至適pHや水溶媒など条件が限定される。場合によっては、汚染した[[微生物]]が発生する[[ペプチダーゼ]]などの消化酵素によってタンパク質の構造が失われて失活することもある。 ただし、[[生物]]の[[多様性]]は非常に広いため、[[好熱菌]]、[[好酸性菌]]、[[好アルカリ菌]]などの持つ酵素(イクストリーモザイム)のように極端な温度やpHに耐えうるとされるものや、有機溶媒中でも活性が保たれるものもあり、こうした酵素の工業利用が現実的になり始めている。 == 分類 == {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} 酵素の分類方法はいくつかあるが、ここでは酵素の'''所在による分類'''と、基質と酵素反応の種類(基質特異性と反応特異性の違い)による'''系統的分類'''を取り上げる。後者による分類は酵素の命名法と関連している。 === 所在による分類 === 酵素は生物体内における反応のすべてを起こしているといっても過言ではない。したがって、代謝反応の関与する生物体内であれば普遍的に存在している。酵素は、[[生体膜]](細胞膜や細胞小器官の膜)に結合している'''膜酵素'''と、[[細胞質]]や細胞外に存在する'''可溶型酵素'''とに分類される。可溶型酵素のうち、細胞外に分泌される酵素を特に'''分泌型酵素'''と呼ぶ。 このような酵素の種類の違いは、酵素以外のタンパク質の種類の違い(膜タンパク質、分泌型タンパク質)と同様に、立体構造における疎水性側鎖と親水性側鎖の一次構造上の分布(タンパク質配列のモチーフ)の違いによる。ほかのタンパク質と同様に酵素も細胞内の[[リボゾーム]]で生合成されるが、アミノ酸配列は遺伝子に依存するため、その構造は酵素の進化を反映している。遺伝的に近隣の酵素は類似のモチーフを持ち、酵素群のグループを形成する。 ==== 膜酵素 ==== [[ファイル:Cell membrane scheme.png|thumb|膜酵素の模式図。左から埋没型、貫通型、付着型。]] [[生体膜]]に存在する膜酵素はエネルギー保存や物質輸送に関与するものも多く、生体膜の機能を担う重要な酵素群([[ATPアーゼ]]、[[ATP合成酵素]]、[[呼吸鎖複合体]]、[[バクテリオロドプシン]]など)が多い。生体膜と酵素との位置関係によって3種類に大分できる。 *'''埋没型''' - 生体膜に埋没しているタイプ([[レセプター]]タンパクなど) *'''貫通型''' - 生体膜を貫通しているタイプ([[チャネル]]、[[トランスポーター]]、[[ATP合成酵素]]など) *'''付着型''' - 生体膜に酵素の一部が付着しているタイプ([[ヒドロゲナーゼ]]など) 生体膜は内部が[[疎水性]]で外部が[[親水性]]であるため(=[[脂質二重膜]]と呼ばれる)、膜酵素であるタンパク質の部分構造(側鎖)の性質も、膜に接しているところは疎水性が強くて膜脂質への親和性がきわめて高く、膜から突出しているところは親水性が強くなっている。 ==== 可溶型酵素 ==== 細胞質に存在している酵素は、水に比較的よく溶ける。細胞質での代謝にはこの可溶性酵素が多く関わっている。可溶性酵素は、外部には[[親水性]]アミノ酸、内部には[[疎水性]]アミノ酸が集まって、球形の[[立体構造]]をとっている場合が多い。 ===== 分泌型酵素 ===== 酵素は細胞内で産生されるが、産生後に細胞外に[[分泌]]されるものもあり、'''分泌型酵素'''と呼ばれる。消化酵素が代表例であり、細胞外に存在する物質を取り込みやすいように[[消化]]するために分泌される。その形状は可溶性酵素と同じく球形をしている場合が多い。 生物に対して何らかの刺激(熱、pH、圧力などの変化)を与えると、その刺激に対して[[エキソサイトーシス]]と呼ばれる分泌形態で分泌型酵素を放出する現象が見られる場合がある。[[構造生物学]]の進歩において、最初に結晶化され立体構造が決定されていった酵素の多くは分泌型酵素であった。 === 系統的分類 === {{main|EC番号}} 酵素を反応特異性と基質特異性の違いによって分類すると、系統的な分類が可能となる。このような系統的分類を表す記号として、[[EC番号 (酵素番号)|EC番号]]がある。 EC番号は "EC"{{efn|"E.C." や "EC." と表記される例もある。}}に続けた4個の番号 "EC X.X.X.X"(Xは数字)によって表し、数字の左から右にかけて分類が細かくなっていく。EC番号では、まず反応特異性を、酸化還元反応、転移反応、加水分解反応、解離反応、異性化反応、ATPの補助を伴う合成、イオンや分子を生体膜を超えての輸送の合計7つのグループに分類している。 *[[EC番号 (酵素番号)#EC 1.-(酸化還元酵素)|EC 1.X.X.X]] — [[酸化還元酵素]] *[[EC番号 (酵素番号)#EC 2.-(転移酵素)|EC 2.X.X.X]] — [[転移酵素]] *[[EC番号 (酵素番号)#EC 3.-(加水分解酵素)|EC 3.X.X.X]] — [[加水分解酵素]] *[[EC番号 (酵素番号)#EC 4.-(付加脱離酵素(リアーゼ))|EC 4.X.X.X]] — [[リアーゼ]] *[[EC番号 (酵素番号)#EC 5.-(異性化酵素)|EC 5.X.X.X]] — [[異性化酵素]] *[[EC番号 (酵素番号)#EC 6.-(合成酵素)|EC 6.X.X.X]] — [[リガーゼ]] *[[EC番号 (酵素番号)#EC 7- (輸送酵素)|EC 7.X.X.X]] — [[ABC輸送体]] さらに各グループで分類基準は異なるが、反応特異性と基質特異性との違いとで細分化していく。すべての酵素についてこのEC番号が割り振られており、現在約3,000種類ほどの反応が見つかっている{{efn|EC番号は酵素の特性によって分類されるので、同じ EC番号であっても異なる配列のタンパク質の酵素が含まれる。}}。 また、ある活性を担う酵素がほかの活性を持つことも多く、[[ATPアーゼ]]などはATP加水分解反応のほかにタンパク質の加水分解反応への活性も持っている([[EC番号 (酵素番号)|EC番号]]、[[酸化還元酵素]]、[[転移酵素]]、[[加水分解酵素]]、[[リアーゼ]]、[[異性化酵素]]、[[リガーゼ]]などを参照)。 ==== 命名法 ==== 酵素の名前は[[国際生化学連合]]の酵素委員会によって命名され、同時にEC番号が与えられる。酵素の名称には「常用名」と「系統名」が付される。常用名と系統名の違いについて例を挙げながら説明する。 :(例)次の酵素は同一の酵素(EC番号=EC 1.1.1.1) *系統名 — アルコール:NAD{{sup|+}} オキシドレダクターゼ(酸化還元酵素) *:基質分子の名称(複数の場合は併記)と反応の名称を連結して命名される。系統名における反応の名称には規制がある。 *常用名 — [[アルコールデヒドロゲナーゼ]](脱水素酵素) *:系統名と同じ規則で命名されるが、基質の一部を省略して短縮されている。また、命名規則に従わない酵素も多く、[[DNAポリメラーゼ]]などはそのひとつである。 古くに発見され命名された酵素については、上述の規則ではなく当時の名称がそのまま使用されている。 :[[ペプシン]]、[[トリプシン]]、[[キモトリプシン]]、[[カタラーゼ]] などがこれにあたる。 == 構成 == [[ファイル:説明図 酵素と補因子.png|thumb|left|酵素と補因子の関係]] [[RNA#触媒作用を持つRNA|RNA]]を除いて、酵素はタンパク質から構成されるが、タンパク質だけで構成される場合もあれば、非タンパク質性の構成要素(補因子)を含む場合(複合タンパク質)もある。酵素が複合タンパク質の場合、補因子と結合していないと活性が発現しない。このとき、補因子と結合していないタンパク質を[[アポ酵素]]、アポ酵素と補因子とが結合した酵素を[[ホロ酵素]]という。以下では、特に断らない限り、タンパク質以外の、金属を組み込んでいない有機化合物を単に''有機化合物''と呼称する。 補因子の例としては、{{仮リンク|無機イオン|en|Inorganic ions}}、有機化合物(補酵素)があり、金属含有有機化合物のこともある。いくつかの[[ビタミン]]は補酵素であることが知られている<ref>吉岡 政七, 遠藤 克己『新生化学ガイドブック』南江堂、1969年、82-119ページ。</ref>。補因子は酵素との結合の強弱で分類されるが、その境界は曖昧である。 また、酵素を構成するタンパク質鎖([[ペプチド]]鎖)は複数本であったり、複数種類であったりする場合がある。複数本のペプチド鎖から構成される場合、立体構造を持つそれぞれのペプチド鎖を'''サブユニット'''と呼ぶ。 === 補欠分子族 === {{main|補因子}}<div style="float:right"> {|border=0 |+style="padding: 0.3em; font-size:x-small"|酵素と必須元素<ref name="酵素の化学" /><ref>{{cite journal|author=Sang-Hwan Oh, Ganther HE, Hoekstra WG|year=1974|title=Selenium as a Component of Glutathione Peroxidase Isolated from Ovine Erythrocytest|journal=Biochemistry|volume=13|pages=1825-9}} [http://pubs.acs.org/cgi-bin/archive.cgi/bichaw/1974/13/i09/pdf/bi00706a008.pdf]</ref> |- |valign=top| {|class="wikitable" !元素名!!酵素名 |- |[[鉄]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|シトクロームcオキシダーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=2EIL E.C. 1.9.3.1]<ref name="PDBMOM" />)、コレステロールモノオキシゲナーゼ(E.C. 1.14.15.6)、リボヌクレオシド二リン酸レダクターゼ[http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1R65 E.C. 1.17.4.1]<ref name="PDBMOM" />、アコニターゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1AMJ E.C. 4.2.1.3]<ref name="PDBMOM" />) |- |[[亜鉛]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|DNAポリメラーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1BPX E.C. 2.7.7.7]<ref name="PDBMOM" />)、RNAポリメラーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1R9S E.C. 2.7.7.6]<ref name="PDBMOM" />)、[[炭酸脱水酵素|カルボネートデヒドラターゼ]](E.C. 4.2.1.1,)、アルカリホスファターゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1ZEB E.C. 3.1.3.1]<ref name="PDBMOM" />)、アルドラーゼ(E.C. 4.2.1.1)、カルボキシペプチダーゼA/B(E.C. 3.4.17.1/2)、ロイシンアミノペプチダーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1BPM E.C. 3.4.11.1]<ref name="PDBMOM" />)、[[アルコールデヒドロゲナーゼ]]([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1CDO E.C. 1.1.1.1]<ref name="PDBMOM" />) |} |valign=top| {| class="wikitable" !元素名!!150px|酵素名 |- |[[銅]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|L-アスコルビン酸オキシダーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1AOZ E.C. 1.10.3.3]<ref name="PDBMOM" />)、[[ラッカーゼ]]([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1GYC E.C. 1.10.3.2]<ref name="PDBMOM" />)、モノフェノールモノオキシゲナー([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1WX2 E.C. 1.14.18.1]<ref name="PDBMOM" />)、カテコールオキシダーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1GYC E.C. 1.10.3.2]<ref name="PDBMOM" />) |- |[[カルシウム]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|[[カルパイン]]([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1ALW E.C. 3.4.22.17]<ref name="PDBMOM" />) |- |[[マンガン]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|スーパーオキシドディスムター([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1AR5 E.C. 1.15.1.1]<ref name="PDBMOM" />) |- |[[モリブデン]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|キサンチンオキシダーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1FIQ E.C. 1.1.3.22]<ref name="PDBMOM" />)、亜硫酸オキシダーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=2A9A E.C. 1.8.3.1]<ref name="PDBMOM" />)、ニトロゲナーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1L5H E.C. 1.18.6.1]<ref name="PDBMOM" />) |- |[[コバルト]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|ビタミンB12レダクターゼ(E.C. 1.6.99.9) |- |[[ニッケル]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|ウレアーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=2UBP E.C. 3.5.1.5]<ref name="PDBMOM" />) |- |[[セレン]]||width="200px" style="font-size:xx-small"|グルタチオンペルオキシダーゼ([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1GP1 E.C. 1.11.1.9]<ref name="PDBMOM" />) |} |} </div>強固な結合や共有結合をしている補因子を'''補欠分子族'''(ほけつぶんしぞく、{{lang-en-short|prosthetic group}})という。補欠分子族は有機化合物のこともあるが、酵素から遊離しうる補因子を補欠分子族と区別して、補酵素と呼ぶ。 [[カタラーゼ]]、[[P450]]などの活性中心に存在する[[ヘム|ヘム鉄]]などが代表的な補欠分子族である。金属プロテアーゼの[[亜鉛]]イオンなど、直接タンパク質と結合していることもある。生体が要求する微量金属元素は、補欠分子族として酵素に組み込まれていることが多い。 === 補酵素 === {{main|補酵素}} 有機化合物の補因子を'''補酵素'''という。遊離しない場合は補欠分子族という。アポ酵素との結合が弱い、有機化合物の補欠分子族を補酵素とし、補酵素は補欠分子族の一種ととらえる考えもある<ref>長倉三郎他編「補欠分子族」『理化学辞典』5版、岩波書店、1998年。長倉三郎他編「補酵素」『理化学辞典』5版、岩波書店、1998年。</ref>。とはいえ、たとえば、酵素と共有結合していても遊離しうる[[リポ酸]]が補酵素と区別されるなど、補酵素であるか補欠分子族であるかの基準は厳密ではない。 補酵素は、常時酵素の構造に組み込まれていないが、酵素反応が生じる際に基質と共存することが必要とされる。酵素活性のときに取り込まれ、ホロ酵素を生じさせる。したがって、酵素反応の進行によって基質とともに消費され、典型的な補欠分子族とは異なる<ref>『レーニンジャーの新生化学[上]』第4版、廣川書店、監修/山科郁男 編集/中山和久</ref>。 酵素タンパク質が熱によって変性し失活するのに対して、補酵素は比較的耐熱性が高く、かつ透析によって酵素タンパク質から分離することが可能であるため、補因子として早い時期からその存在が知られていた。1931年には[[オットー・ワールブルク]]によって初めて補酵素が発見されている。[[ビタミン]]あるいはビタミンの代謝物に補酵素となるものが多い。 [[ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド|NAD]]、[[ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸|NADP]]、[[リボフラビン#補酵素型の諸特徴|FMN]]、[[FAD]]、[[チアミン|チアミン二リン酸]]、[[ピリドキサールリン酸]]、[[補酵素A]]、[[α-リポ酸]]、[[葉酸]]などが代表的な補酵素であり、[[サプリメント]]として[[健康食品]]に利用されるものも多い。 === サブユニットとアイソザイム === [[ファイル:1UPM fill.png|thumb|left|ホウレンソウ[[RubisCO]]は大サブユニットと小サブユニットのヘテロダイマーの8量体で構成される(サブユニットごとに色分け)。]] 酵素が複数のペプチド鎖(タンパク質鎖)から構成されることがある。その場合、各ペプチド鎖はそれぞれ固有の[[三次構造]](立体構造)をとり、'''サブユニット'''と呼ばれる。サブユニット構成を酵素の[[四次構造]]と呼ぶこともある。 {|class="wikitable" style="margin: 0 auto 0 1em; float: right" |+ style="padding: 0.3em; font-size:small" |ヒト乳酸デヒドロゲナーゼと<br />アイソザイムタイプ !style="font-size:small"|アイソザイム<br />タイプ !style="font-size:small"|サブユニット<br />構成 !style="font-size:small"|組織分布 |- |LD1||H{{sub|4}}||心臓 |- |LD2||H{{sub|3}}M||rowspan=3|骨格筋<br />・横隔膜<br />・腎臓など |- |LD3||H{{sub|2}}M{{sub|2}} |- |LD4||HM{{sub|3}} |- |LD5||M{{sub|4}}||肝臓 |} たとえば[[ヒト]]における[[乳酸デヒドロゲナーゼ]](LDH; E.C. 1.1.1.27)は4つのサブユニットから構成される四量体だが、体内組織の位置によってサブユニット構成が異なることが知られている。この場合、サブユニットは心筋型([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1I0Z H]<ref name="PDBMOM">"Molecule of the Month" RCSB PDB</ref>)と骨格筋型([http://www.rcsb.org/pdb/explore.do?structureId=1I10 M]<ref name="PDBMOM" />)の2種類であり、そのいずれか4つが組み合わされて乳酸デヒドロゲナーゼが構成される(たとえばH2個とM2個から構成されるH{{sub|2}}M{{sub|2}}など)。したがって5タイプの乳酸デヒドロゲナーゼが存在するが、これらは同じ基質で同じ生化学反応を担当する'''[[アイソザイム]]'''の関係にある。これを応用すると、たとえば[[臨床検査]]で乳酸デヒドロゲナーゼのアイソザイムタイプを同定([[電気泳動]]で同定できる)して、疾患が肝炎であるか心筋疾患であるかを識別することができる。 なお、ここに示した以外の要因(遺伝子変異による一次構造の変化など)によってアイソザイムとなることもある。 === 複合酵素 === [[ファイル:説明図 酵素 複合酵素.jpg|thumb|right|複合酵素の模式図<br />脂肪酸生成系]] 一連の代謝過程を担当する複数の酵素がクラスターを形成して'''複合酵素'''となることも多い。 代表例として脂肪酸合成系の複合酵素を示す。これらは <nowiki>[ACP]</nowiki>S-アセチルトランスフェラーゼ(AT; E.C. 2.3.1.38)、マロニルトランスフェラーゼ(MT; E,C.2.3.1.39)、3-オキソアシル-ACPシンターゼI(KS)、3-オキソアシル-ACPレダクターゼ(KR; E.C. 1.1.1.100)、クロトニル-ACPヒドラターゼ(DH; E.C. 4.2.1.58)、エノイル-ACPレダクターゼ(ER; E.C. 1.3.1.10)の6種類の酵素がアシルキャリアタンパク質(ACP)とともにクラスターとなって複合酵素を形成している。脂肪酸合成系はほとんどが複合酵素で、単独の酵素はアセチルCoAカルボギラーゼ(TE; E.C. 6.4.1.2)だけである<ref name="酵素の化学" />。 == 生化学 == {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} === 酵素反応速度 === {{main|酵素反応速度論}} [[日本工業規格]]に「'''酵素は選択的な触媒作用をもつタンパク質を主成分とする生体高分子物質'''」(JIS K 3600:2000-1418<ref>{{Cite jis|K|3600|2000}}</ref>)と定義されているように[[触媒]]として利用されるが、[[化学工業]]などで用いられる典型的な[[金属]]触媒とは反応の特性が異なる。 [[ファイル:説明図 酵素反応速度曲線.PNG|thumb|right|500px]] 第一に酵素反応の場合、基質濃度[S]が高くなると'''[[反応速度]]が[[飽和]]'''する現象が見られる。酵素の場合、基質濃度を高く変えると、反応速度は'''飽和最大速度 ''V''{{sub|max}}''' へと至る[[双曲線]]を描く。一方、金属触媒の場合、反応初速度 [ν] は触媒濃度に依存せず基質濃度 [S] の一次式で決定される。 これは、酵素と金属触媒との粒子状態の違いによって説明できる。金属触媒の場合、触媒粒子の表面は金属原子で覆われており、無数の触媒部位が存在する。それに対して酵素の場合は、酵素分子が基質に比べて巨大な場合が多く、活性中心を多くても数か所程度しか持たない。したがって、金属触媒に比べて、基質と触媒(酵素)とが衝突しても(活性中心に適合し)反応を起こす頻度が小さい。そして基質濃度が高まると、少ない酵素の活性中心を基質が取り合うようになるため、飽和現象が生じる。このように酵素反応では、酵素と基質が組み合った'''基質複合体'''を作る過程が反応速度を決める律速過程になっていると考えられる。 ==== 酵素反応の定式化 ==== {{main|酵素反応#酵素反応の定式化}} [[1913年]]、[[レオノール・ミカエリス|L・ミカエリス]]と[[モード・メンテン|M・メンテン]]は酵素による[[ショ糖]]の加水分解反応を測定し、「鍵と鍵穴」モデルと実験結果から'''酵素基質複合体モデル'''を導き出し、酵素反応を定式化した。このモデルによると、酵素は次のように示される。 :酵素(E)+ 基質(S)<math>\rightleftarrows</math> 酵素基質複合体(ES)→ 酵素(E)+ 生成物(P) すなわち、酵素反応は、酵素と基質が一時的に結びついて酵素基質複合体を形成する第1の過程と、酵素基質複合体が酵素と生産物とに分離する第2の過程とに分けられる。 きわめて分子活性の高い酵素に[[炭酸脱水酵素]]があるが、この酵素は1秒あたり100万個の[[二酸化炭素]]を[[炭酸イオン]]に変化させる(''k''{{sub|cat}} = 10{{sup|6}} s{{sup|&minus;1}})。 ==== 阻害様式と酵素反応速度 ==== [[ファイル:説明図 酵素 阻害様式と反応速度.png|thumb|350px|酵素の反応速度曲線を、阻害剤のない原系を青線、阻害剤の存在する系を赤線で示す]] {{main|酵素反応#阻害様式と酵素反応速度}} 酵素の反応速度は、基質と構造の似た分子の存在や、後述のアロステリック効果によって影響を受ける(阻害される)。阻害作用の種類によって、酵素の反応速度の応答の様式('''阻害様式''')が変わる。そこで、反応速度や反応速度パラメータを解析して阻害様式を調べることで、逆にどのような阻害作用を受けているかを識別することができる。どのような阻害様式であるかを調べることによって、酵素がどのような調節作用を受けているか類推することができる。[[医薬品]]開発では、調節作用を研究することは、酵素作用を制御することによって症状を改善する新たな治療薬の開発に応用されている。 阻害様式は大きく分けると次のように分類される。 *[[拮抗阻害]](競争阻害) *拮抗的ではない阻害 **[[非拮抗阻害]] **[[不拮抗阻害]] *混合型阻害 ==== 酵素反応の活性化エネルギー ==== {|class="wikitable" style="margin: 0 auto 0 1em; float:right" |+style="padding: 0.3em"|触媒の活性化エネルギー比較<ref>吉岡 政七, 遠藤 克己『新生化学ガイドブック』南江堂、1969年、89ページ。</ref> !反応名 !触媒/酵素† !エネルギー値<br />([[カロリー|cal]]/[[モル|mol]]{{efn|1,000cal/molが約4.2kJ/molに相当する。}} |- |rowspan=3|[[過酸化水素|H<sub>2</sub>O<sub>2</sub>]]の分解||(なし)||align="right"|18,000 |- |白金コロイド||align="right"|11,000 |- |[[カタラーゼ]]†<br />Catalase; [[肝臓|肝]])||align="right"|5,000 |- |rowspan=2|[[ショ糖]]の加水分解||H<sup>+</sup>||align="right"|26,500 |- |[[サッカラーゼ]]†<br />(酵母)||align="right"|11,500 |- |rowspan=2|[[カゼイン]]<br />の加水分解||HCl aq.||align="right"|20,000 |- |[[キモトリプシン]]†<br />(Trypsin)||align="right"|12,000 |- |rowspan=2|[[酢酸エチル]]の<br />加水分解||H<sup>+</sup>||align="right"|13,200 |- |[[リパーゼ]]†<br />(Lipase; [[膵臓|膵]])||align="right"|4,200 |} 一般に化学反応の進行する方向は[[化学ポテンシャル]]が小さくなる方向(エネルギーを消費する方向)に進行し、反応速度は反応の[[活性化エネルギー]]が高いか否かに大きく左右される([[化学平衡]]や[[反応速度論]]を参照)。 酵素反応は触媒反応で、化学反応の一種なので、その性質は同様である。ただし、一般に触媒反応は化学反応の中でも活性化エネルギーが低いのが通常であるが、酵素反応の活性化エネルギーは特に低いものが多い。 一般に活性エネルギーが15,000cal/molから10,000cal/molに低下すると、[[反応速度定数]]はおよそ4.5×10{{sup|7}}倍になる。 === 反応機構モデル === {{main|酵素反応#反応機構モデル}} 単純な構造の無機触媒や[[酸]][[塩基]]触媒等とは異なり、酵素は基質特異性を発揮し、ターゲットとする反応のみの[[活性化エネルギー]]を下げている。こういった、酵素特有の特徴を生み出す'''酵素反応の機構'''については、いまだ統一的な見解は得られていない。しかし今日では、[[構造生物学]]の発展や[[組み換えタンパク質]]等の[[変異導入]]といった諸技法によって、その片鱗が明らかにされつつある。 {{要検証範囲|date=2018年11月|たとえば、タンパク質分解酵素[[セリンプロテアーゼ]]では、酵素と複合体を形成することで基質は遷移状態に近い分子構造で束縛され(反応系の[[エントロピー]]減少)、その結果として活性化エネルギーの低下(反応の促進)が起こる('''エントロピー・トラップ''')。}}。 [[ファイル:説明図 酵素 酸塩基触媒部位.png|350px|thumb|キモトリプシンの酸塩基触媒部位]] {{要検証範囲|date=2018年11月|酵素と結合した基質は、酵素の活性中心付近において分子構造が規制され(誘導適合)、より反応しやすい状態となり、生成物への反応が進行する}}。ここでは、セリンプロテアーゼの一種である[[キモトリプシン]]の例を示す。 #[[ヒスチジン|His{{sup|57}}]]が[[水素イオン|プロトン]]を負に荷電した[[アスパラギン酸|Asp{{sup|102}}]]に譲渡する。 #His{{sup|57}}が塩基となり、活性中心の[[セリン|Ser{{sup|195}}]]からプロトンを奪う。 #Ser{{sup|195}}が活性化されて(負に荷電して)基質を攻撃する。 #His{{sup|57}}がプロトンを基質に譲渡する #Asp{{sup|102}}からHis{{sup|57}}がプロトンを奪い、1.の状態に戻る。 ==== 遷移状態と抗体酵素 ==== {{main|酵素反応#遷移状態と抗体酵素}} 酵素反応において、酵素基質複合体から生成物へと変化する過程では、原子間の結合距離や角度などが変形した分子構造となる'''遷移状態'''や'''反応中間体'''を経由する。 言い換えると、化学反応がしやすい分子の形状が遷移状態であり、酵素は酵素基質複合体が誘導適合することでその状態を作り出している。遷移状態は活性ポテンシャルの高い状態に相当するため、少ないエネルギーで反応中間体の状態を乗り越えて生成物へと変化する。 遷移状態を作ることが酵素タンパクの主たる役割だとすれば、結合によって遷移状態を作り出すことができれば酵素になるとも考えられる。実際に酵素と同じように分子構造を識別し、その分子と結合する生体物質に[[抗体]]がある。[[1986年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のトラモンタノらは、酵素と同じ働きをするように意図して製造した抗体が意図どおりの酵素作用を示すことを発見し、[[抗体酵素]](abzyme)と名づけた。 超分子化合物によって、[[人工酵素]]を作り出す研究も成果を上げている。 === 酵素反応の調節機構 === {{main|酵素反応#酵素反応の調節機構}} [[生物|生体]]が酵素活性の大小を制御するには、酵素の量を[[制御]]する場合と、酵素の[[性質]]を変化させる場合とがある。それらは次のように分類される<ref>長倉三郎他編「代謝調節」 『理化学辞典』5版、岩波書店、1998年。</ref>。 #酵素タンパク質の合成量制御による酵素量の増大 #酵素タンパク質が他の生体分子と可逆的に作用することによる酵素活性の変化 #酵素タンパク質が修飾されることによる酵素活性の変化 1.の調整は遺伝子の発現量の[[転写 (生物学)|転写調節]]によって実現し、2.や3.については酵素の質的な変化であり、1.の転写制御より素早い応答を示す。 2.や3.の調節の例として「[[フィードバック阻害]]」が挙げられる。フィードバック阻害によって生産物が過剰になると酵素活性が低減し、生産物が減ると酵素活性は復元する。 == 酵素が働く条件== {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} 大きく次の4つに分けられる。 # 最適pH # 最適温度 # 基質の濃度 # 酵素の濃度 === 最適pH === 各酵素にはもっとも活発に機能するpHがあり、これを'''最適pH'''({{lang-en-short|optimal pH}})、もしくは至適PHという。ほとんどの酵素は各環境の生理的pHで活動がもっとも激しくなる。たとえばヒトの体内では通常最適pHは7付近であるが、胃液の中に含まれる[[ペプシン]]の最適pHは1.5、[[トリプシン]]の最適pHは約8、[[アルギナーゼ]]([[:en:Arginase]])の最適pHは9.5である。最適pHが酵素をもっとも安定化させるpHではないことに注意が必要である。 === 最適温度 === 最適pHと同様に、酵素の活動がもっとも激しくなる温度が存在する。これを'''最適温度'''(optimal temperature)、もしくは至適温度ともいう。ヒトの酵素の場合、通常は生理的温度である35℃から40℃付近とされる。最適pHと同様に、最適温度が酵素をもっとも安定化させる温度ではないことに注意が必要である。 === 基質の濃度 === {{main|酵素反応速度論}} 酵素の機能は基質の濃度に依存する。基本的には、基質の濃度が上がるほど反応速度が上がるが、ある一定の濃度で飽和を迎える。さらに基質の濃度を増やすことで、逆に酵素の機能が著しく阻害されることもある。これら酵素と基質濃度の関係は、酵素や基質の種類によってさまざまである。 === 酵素の濃度 === {{main|酵素反応速度論}} 酵素の機能は酵素自体の濃度にも依存する。基本的には、酵素の濃度が上がるほど反応速度が上昇する。生体内での酵素濃度は、遺伝子の発現によって制御される。''[[In vitro]]''では、酵素の溶解度に依存するが、濃度を高めすぎた結果[[沈殿]]した酵素は構造が破壊されている場合がほとんどであり、再び[[溶解]]させても機能を回復させることは難しい。 == 利用 == 酵素は実生活のさまざまな場面で応用されている。1つは酵素自体を利用するもので、代表的な分野として食品加工業が挙げられる。もう1つは生体が持つ酵素を観測・制御するもので、代表的な分野として医療・製薬業が挙げられる。 === 食品 === [[ファイル:Production of cheese 1.jpg|thumb|left|チーズの製造にはレンネットが利用される]] 人間は有史以前から、保存食などを作り出すために[[発酵]]を利用してきた。たとえば、[[味噌]]や[[醤油]]、[[酒]]などの[[発酵食品]]の製造には、伝統的に[[麹]]や[[麦芽]]などの生物を利用してきた。 蒸米や蒸麦に種麹を与え、40時間ほどおくと麹菌が増殖し、米麹や麦麹となるが、こうした麹には各種の酵素、プロテアーゼ、アミラーゼ、リパーゼなどが蓄積される<ref name="今井">今井誠一『味噌』農山漁村文化協会、2002年。27-29頁。</ref>。発酵とは、これらの酵素が食品中のタンパク質をペプチドやアミノ酸へと分解して旨味となり、炭水化物を乳酸菌や酵母が利用できる糖へと分解し甘味となり、独特の風味となっていく<ref name="今井"/>。 今日では、酵素の実体や機能の詳細が判明したため、発酵食品であっても生物を使わずに酵素自体を作用させて製造することもあり、酵素を使って食品の性質を意図したように変化させることが可能になっている。 酵素反応は、一般に流通している[[加工食品]]の多くにおいて製造工程中に利用されているほか、[[でん粉]]を原料とした各種糖類の製造にも用いられている。また、果汁の清澄化や苦味除去、肉の軟化といった品質改良や、[[リゾチーム]]による日持ち向上などにも用いられている。最初に発見された酵素であるジアスターゼはアミラーゼの一種であり、消化剤として用いられる。 <div style="float:right; font-size:xx-small"> {|class="wikitable" border="1" |+style="padding: 0.3em" |酵素の工業利用 |- |目的||style="font-size:x-small"|[[たんぱく質]]を<br />分解||style="font-size:x-small"|[[でんぷん]]類を<br />分解||style="font-size:x-small"|[[セルロース]]、<br />[[木部|木質]]を分解||style="font-size:x-small"|成分を変換||rowspan="2" style="font-size:xx-small"|その他 |- !酵素名!!プロテアーゼ類!!アミラーゼ類!!セルラーゼ類!!イソメラーゼ類 |- |[[化粧品]]・[[日用品]]||[[アルカリプロテアーゼ]]<br/>[[セリンプロテアーゼ]]||[[デキストラナーゼ]]||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp; |- |[[食品]]工業||[[グルタミナーゼ]]||[[α-アミラーゼ]]<br />[[β-アミラーゼ]]<br />[[アミロプルラナーゼ]]<br />[[グルコアミラーゼ]]<br />||[[ヘミセルラーゼ]]<br />[[アラバナーゼ]]||width="75px"|イソメラーゼ全般<br />[[グルコースイソメラーゼ]]([[転化糖]])||&nbsp; |- |[[醸造]]工業||[[プロテアーゼ]]全般||'''α-アミラーゼ'''<br />[[β-グルカナーゼ]]||[[セルラーゼ]]全般<br />'''ヘミセルラーゼ'''||&nbsp;||&nbsp; |- |[[飼料]]用||&nbsp;||'''α-アミラーゼ'''||'''セルラーゼ'''全般<br />'''ヘミセルラーゼ'''<br />[[ペクチナーゼ]]<br />[[フィターゼ]]||&nbsp;||&nbsp; |- |[[洗剤]]用<br />[[繊維]]加工用||'''アルカリプロテアーゼ'''||'''アミロプルラナーゼ'''||'''セルラーゼ全般'''<br />[[プロトペクチナーゼ]]<br />[[ペクチナーゼ]]||&nbsp;||width="75px"|[[リパーゼ]]<br />([[油]]分分解)<br />[[ペルオキシダーゼ]]<br />([[漂白]]) |- |[[紙]]・[[パルプ]]関連||&nbsp;||&nbsp;||[[キシラナーゼ]]||&nbsp;||'''リパーゼ'''<br />([[エステル]]交換) |} </div>以下に挙げるような分野で酵素が使われている。 *糖類の製造 **[[アミラーゼ|α-アミラーゼ]] - 水あめの製造 **[[アミラーゼ|β-アミラーゼ]] - [[麦芽糖]]の製造 **[[グルコースイソメラーゼ]] - [[異性化糖]]([[果糖]])の製造 **[[アミラーゼ|グルコアミラーゼ]] - [[ブドウ糖]]の製造 **トレハロース生成酵素とトレハロース遊離酵素 - [[トレハロース]]の製造 *食肉・乳製品加工 **[[パパイン]] - 食肉の軟化 **[[レンネット]] - [[チーズ]]の製造 *食品の改質 **[[グルタミナーゼ]] - [[グルタミン酸ナトリウム|L-グルタミン酸]]への変換による味質向上 **[[ペクチナーゼ]] - 果汁・果実酒の清澄化 **[[ヘミセルラーゼ]] - [[パン]]の改質<br />(澱粉とグルテンの相互作用によるパンの老化を低減する) **卵白[[リゾチーム]] - 保存性の向上 これらの酵素は生物由来の天然物とされるため、食品関連法規で求められる[[原材料表示]]では省略されていることが多い。また、発酵食品を除く加工食品では、酵素は[[加工助剤]]として利用するため、製造工程中に失活または除去されて、完成した食品中には存在しない。したがって、これらの酵素は[[食品添加物]]とは異なる扱いになっている。 === 健康効果を標榜する製品 === [[キモトリプシン]]とトリプシン(牛)、パンクレアチンは牛や豚の膵臓から、パンクレリパーゼ(豚)は医薬品として、[[ブロメライン]](パイナップル)や[[パパイン]](パパイヤ)はタンパク質消化を助ける健康食品としてよく用いられる<ref name="pmid19152478">{{cite journal |author=Roxas M |title=The role of enzyme supplementation in digestive disorders |journal=Altern Med Rev |volume=13 |issue=4 |pages=307–14 |date=2008-12 |pmid=19152478 |doi= |url=https://altmedrev.com/wp-content/uploads/2019/02/v13-4-307.pdf |format=pdf }}</ref>。酵素を含む[[消化酵素|消化酵素剤]]が、第2類医薬品や医薬部外品として販売されている。[[高峰譲吉]]が小麦の皮フスマから発酵培養させたデンプン分解酵素の[[タカヂアスターゼ]]も、配合される酵素のひとつである<ref>[https://www.pharm.or.jp/souyaku/takadiastase.shtml タカヂアスターゼ] 日本薬学会</ref>。消化酵素剤が病院で処方されることもあり、体内の消化酵素不足による消化器症状や血流、皮膚症状を起こしている状態を改善することが目的である<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/drugdic/article/556e7e5c83815011bdcf82c0.html |title=消化酵素製剤解説 処方薬辞典 |publisher=日経メディカル |accessdate=2018-07-26}}</ref>。また消化酵素剤は膵臓の病気による酵素不足のために医療として用いられ有効である<ref name="酵素剤投与1">{{Cite journal |和書|author=北川裕久、田島秀浩 、中川原寿俊ら |date=2013-04-25 |title=膵頭部癌術後の消化吸収障害に対する高力価・腸溶性膵消化酵素剤投与の有用性についての検討 |journal=膵臓 |volume=28 |issue=2 |pages=178-184 |naid=10031178027 |doi=10.2958/suizo.28.178 |url=https://doi.org/10.2958/suizo.28.178}}</ref><ref name="酵素剤投与2">{{Cite journal |和書|author=伊藤鉄英、安田幹彦、河辺顕ら |date=2007-12-05 |title=慢性膵炎の栄養療法 |journal=日本消化器病學會雜誌 |volume=104 |issue=12 |pages=1722-1727 |doi=10.11405/nisshoshi.104.1722 |url=https://doi.org/10.11405/nisshoshi.104.1722}}</ref>。 {{See also|消化酵素}} 日本では傷の壊死組織を除去するためのブロメラインの軟膏の医薬品がある。日本国外では同じ目的でパパインの軟膏が利用できる国もあり、健康な皮膚組織には影響を与えにくい<ref name="pmid23405827">{{cite journal |authors=Leite AP, de Oliveira BG, Soares MF, Barrocas DL |title=Use and effectiveness of papain in the wound healing process: a systematic review |journal=Rev Gaucha Enferm |volume=33 |issue=3 |pages=198–207 |date=2012-9 |pmid=23405827 |doi=10.1590/s1983-14472012000300026 |url=https://doi.org/10.1590/s1983-14472012000300026 }}</ref>。パパインが含まれるパックや洗顔料も市販されている。 === 日用品 === {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} 今日では、[[洗剤]]や[[化粧品]]などの[[日用品]]に高い付加価値をつけるために酵素が利用される場合が多い。 たとえば[[洗濯]]の場合、汗しみや食べ物しみは[[石鹸]]だけでは落としにくい。単純な油しみと違って固形物であるタンパク質を含んでおり、しみ成分が固形分と絡まって衣類の繊維に強く[[接着]]しているため、[[界面活性剤]]だけで[[洗濯]]しても汚れを落としきれない。そこで、タンパク質を分解する酵素である[[プロテアーゼ]]を含んだ酵素入り洗剤が広く利用されている。 ただし、通常のプロテアーゼは[[石鹸]]が溶けた[[アルカリ性]]領域では作用しないため、アルカリ性領域で良好に作用する(至適pHを持つ)アルカリプロテアーゼが利用されている。 アルカリプロテアーゼは、1947年にオッテセン(M. Ottesen)らが好アルカリ菌から発見した。今日ではアルカリプロテアーゼは酵素入り洗剤用に大量生産されており、工業製品として生産されるプロテアーゼの60%以上を占めるようになっている<ref name="酵素の化学" />。 [[ファイル:Papain cartoon.png|thumb|パパイヤから得るパパイン(リボン図)]] プロテアーゼ以外には、衣類の[[セルロース]]繊維を部分的に分解して汚れが拡散しやすいようにするために、[[セルラーゼ]]を添加している洗剤もある。 同じような例として、食器の洗剤に酵素である[[プロテアーゼ]](タンパク質汚れ)や[[リパーゼ]](油汚れ)を添加することで汚れ落ちを増強したり、[[アミラーゼ]](澱粉質の糊)を添加することで流水だけで洗浄する自動食器洗浄機でも汚れが落ちるように工夫したりしている例が挙げられる。なお、洗剤用酵素の安全性はよく調べられており、環境中で容易かつ究極的に分解する<ref>{{cite web|url=https://www.heraproject.com/RiskAssessment.cfm?SUBID=22|title=Risk Assessments|website=HERA Human and Environmental Risk Assessment on ingredients of household cleaning products|publisher=HERA|access-date=Nov. 4, 2018}}</ref>。 化粧品への酵素の応用例としては、脱毛剤に[[ケラチン]]を分解する酵素[[パパイン]]([[プロテアーゼ]]の一種)を添加することで、皮膚から突出したむだ毛を分解切断する例などがある。 歯磨きへの酵素の応用例として、[[歯垢]]に含まれる[[デキストラン]]を分解する酵素[[デキストラナーゼ]]を添加している製品がある。 === 医療 === {{医学の情報源|section|date=2021年12月}} 20世紀に入って増大した酵素に対する知見は、医療や治療薬に劇的な改革をもたらした。[[ヒト]]の体内で生じている[[代謝]]には酵素が関与しているため、酵素の存在量を測定する[[臨床検査]]によって疾病を診断することが可能になっている([[#サブユニットとアイソザイム|サブユニットとアイソザイム]]節の乳酸デヒドロゲナーゼの例を参照)。 また酵素による調節〈[[ホメオスタシス]]〉の失調が病気の原因である場合は、酵素活性を抑制する[[医薬品|治療薬]]によって症状を治療することができる(例:[[高血圧]]における[[アンジオテンシン]]変換酵素阻害薬、[[糖尿病]]における[[インクレチン]]分解酵素を阻害するDPP4阻害薬など)。 逆に、酵素が欠損する[[遺伝子疾患|先天性の代謝異常疾患]]が知られているが、発病前に酵素の量を検査して、発症を抑える治療を行うことができる〈記事 [[遺伝子疾患]]に詳しい〉(例:[[ゴーシェ病]])。 === 工業利用の技術(固定化酵素) === [[ファイル:Two chemostats.png|thumb|バイオリアクター装置(小型)]] 製品には含まれなくても、食品工業から香料・医薬品原料などファインケミカルの分野まで多方面の[[食品]]原料や[[化成品]]の製造に酵素が利用されている。 たとえば、生体から抽出された酵素を工業化学で利用する際の技術として、酵素の'''固定化'''が一般化している。固定化とは、工業用酵素を土台となる物質([[担体]])に固定して用いる方法である。経済的に生産するためには、逆反応が起こらないように反応系から生成物を効率よく除去する必要がある。しかし、このとき同時に酵素も除去してしまうと、本来は再生・再利用可能な触媒である酵素も使い捨てになってしまう。固定化は、この問題を解決する方法である。 今日では、固定化酵素は、[[バイオリアクター]]技術として食品工業から香料・医薬品原料などファインケミカルの分野まで多方面の[[化成品]]の製造に利用されている。バイオリアクターは、ポンプで基質(原料)を注入すると同時に生成物を流出させる生産装置であり、酵素を担体とともに柱状の反応装置内に固定することによって、酵素のリサイクルの問題や連続生産による経済性の向上などの問題点を解決している。バイオリアクター用の酵素あるいは酵素を含む微生物の固定化には、[[紅藻]]類から単離される[[多糖]]類の[[カラギーナン|κ-カラギーナン]](食品・化粧品の[[ゲル]]化剤にも利用される)が汎用される。 世界で初めて固定化酵素を使った工業化に成功したのは千畑一郎、土佐哲也らであり、[[1967年]]に DEAE-Sepadex担体に固定化したアミノアシラーゼ(E.C. 3.5.1.14)を使って、[[ラセミ体]]である''N''-アシル-<small>DL</small>-[[アミノ酸]]の混合物から目的の<small>L</small>-アミノ酸だけを不斉加水分解して光学活性なアミノ酸を得る方法を開発した<ref name="酵素の化学">一島英治『酵素の化学』朝倉書店、1995年。ISBN 4-254-14555-1</ref>。 === バイオセンサー === {{main|バイオセンサー}} 酵素の基質特異性と反応性を利用して化学物質を検出するセンサーが実用化されている。これらは生体由来の機能を利用することから[[バイオセンサー]]と呼ばれ、1960年代に研究が始まり1976年にアメリカでグルコースセンサーが市販されて以来、医療診断や環境測定などの場面で用いられてきた<ref>高機能バイオセンサー事業部会編『高機能バイオセンサー』化学工業日報社、2003年。ISBN 4-87326-429-4</ref>。酵素を用いるバイオセンサーは特に酵素センサーと呼ばれる。 [[電気化学]]と酵素の化学が組み合わせられたグルコースセンサーでは、電極の上にグルコースオキシダーゼが固定化されている。検体中にグルコースが存在してグルコースオキシダーゼが作用すると酸化還元反応によって電極に電流が流れ、グルコースを定量することができる。糖尿病患者が自身の[[血糖値]]を調べるために用いる市販の血糖値測定器では、このグルコースセンサーが利用されている。 このほか、[[蛍光]]発光、[[水晶振動子]]、[[表面プラズモン共鳴]]などの原理と酵素とを組み合わせたバイオセンサーが研究されている。<!--ここまでの記述の出典は上記の「高機能バイオセンサー」です--> == 生命の起源と酵素 == {{See also|生命の起源}} 現存するすべての生物種において、酵素を含むすべてのタンパク質の設計図は[[デオキシリボ核酸|DNA]]上の遺伝情報である[[ゲノム]]に基づいている。一方、DNA自身の[[DNA複製|複製]]や[[DNA合成|合成]]にも酵素を必要としている。つまり、酵素の存在はDNAの存在が前提であり、一方でDNAの存在は酵素の存在が前提であるから、ゲノムの起源においてDNAの確立が先か酵素の確立が先かという[[パラドックス]]が存在していた。最近の研究では、このパラドックスについて、いまだ確証はないものの以下のように説明している。 [[ファイル:Ribozyme.jpg|thumb|right|リボザイムの作用機序。リボザイムは配列を認識してmRNAを特定部位で切断する。]] [[1986年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[トーマス・チェック]]らによって発見された'''[[リボザイム]]'''は、触媒作用を持つ[[リボ核酸|RNA]]であり、次の3種類の反応を触媒することが知られている<ref name="ゲノム">T.A. Brown著、村松正實監訳『ゲノム 新しい生命情報システムへのアプローチ』メディカル・サイエンス・インターナショナル、2000年。ISBN 4-89592-237-5</ref>。 #自分自身に作用してRNAを切断する。(グループ I, II, III [[イントロン]]の[[自己スプライシング]]) #他の RNA に作用してRNAを切断する。([[リボヌクレアーゼP]]) #[[ペプチド結合]]の形成。([[23SリボソームRNA|リボゾーム23S rRNA]]) 特性1.および2.からは、RNAは自己複製していた段階の存在があるとも考えられる。また、特性3.からは、RNAが酵素の役割も担う場合があることがわかる。このことから、仮説ではあるが、現在のゲノムの発現機構('''[[セントラルドグマ]]'''と言い表される)が確立する前段階において、遺伝子と酵素との役割を同じRNAが担っている'''[[RNAワールド]]'''という段階が存在したと考えられている。 なお、特性3.の例として挙げた23S rRNAは、大腸菌のタンパク質を合成する[[リボゾーム]]内に存在する。大腸菌のリボゾームにおいては、[[アミノアシルtRNA]]から合成されるペプチドにアミノ酸を転位・結合させる酵素の活性中心の主役が、タンパク質ではなく23S rRNAとなっている<ref>{{cite journal |author = Nitta I, Ueda T, Watanabe K |year = 1998 |title = Possivble involvement of Escherichia coli 23S ribosomal RNA in peptide bond formation |journal = RNA |volume = 4 |pages = 257-67 }}</ref>。さらに、この場合の酵素作用(ペプチジルトランスフェラーゼ活性)は、23S rRNAのドメインVに依存することも判明している<ref>{{cite journal|author=Nitta I, Kamada Y, Noda H, Ueda T, Watanabe K|year=1998|title=Reconstitution of peptide bond formation with Escherichia coli 23S ribosomal RNA domains|journal=Science|volume=281|pages=666-9}} {{PMID|9685252}}.</ref>。 また、リボザイムが自己切断する際には[[鉛]]イオンが関与する例が判明している。このことから、RNAもタンパク質酵素の補因子と共通の仕組みを持っているという可能性が示唆されている<ref>{{cite journal|author=Scott WG, Klug A|year=1996|title=Ribozymes: structure and mechanism in RNA catalysis|journal=Trends Biochem Sci|volume=21|pages=351-5}}<!-- {{PMID|8744356}}でしょうか? - Kzhr --></ref>。 '''RNAワールド'''説によると、ゲノムを保持する役割はDNAへ、酵素機能はタンパク質へと淘汰が進んで、RNAワールドが今日の'''セントラルドグマ'''へと進化したと考えられている。その段階では、次のようなRNAの特性が進化の要因として寄与したと推定されている<ref>{{cite journal |author = Szathmary E, Smith JM |year = 1993 |title = The evolution of chromosomes. II. Molecular mechanisms |journal = J Theoret Biol |volume = 164 |pages = 447-54 }}</ref>。 遺伝子の保管庫がDNAではなくRNAであったと仮定した場合、RNAには不利な特性がある。それは、リボース2'位の水酸基が存在するため、エステル交換によって環状ヌクレオシド([[環状AMP]]など)を形成して[[ヌクレオチド]]が切断されやすいという性質である。これに対してDNAは、リボース2'位の水酸基を欠くため環状リン酸エステルを形成せず、RNAの場合より安定なヌクレオチドを形成する。 また、立体構造の多様性について考察すると、RNAの立体構造はタンパク質に比べて高次構造が単純になることが判明している。したがって、RNAから構成される酵素に比べ、タンパク質から構成される酵素の方が立体構造の多様性が大きく、基質特異性の面や遷移状態モデルを形成する上でより性能のよい酵素になると考えられる<ref>{{cite journal |author = Csermely P |year = 1997 |title = Proteins, RNAs and chaperones in enzyme evolution: a folding perspective |journal = Trends Biochem Sci |volume = 22 |pages = 147-9 }}</ref>。 == 人工酵素 == {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} 分子構造が分子認識と遷移状態の形成に関与していることが判明して以来、酵素の構造を変化させることで人工的な酵素([[人工酵素]])を作り出す試みがなされている。そのアプローチ方法としては #酵素タンパク質の設計を変える方法 #超分子化合物を設計する方法 が挙げられる。 前者は[[1980年代]]ごろから試みられており、アミノ酸配列を変異させて酵素の特性がどのように変化するのか、試行錯誤的に研究がなされた。異種の生物間で[[ゲノム]]を比較できるようになり、異なる生物に由来する同一酵素について共通性の高い部分とそうでない部分とが明確になったため、それを踏まえて配列を変化させるのである(いわゆる[[バイオテクノロジー]]技術の一環)。[[1990年代]]以降には[[コンピュータ]]の大幅な速度向上とデータの大容量化が進行し、実際のタンパク質を測定することなく、コンピュータシミュレーションによって一次配列からタンパク質の[[立体構造]]を設計し、物性を予測することができつつある。また、[[2000年代]]に入ると[[ゲノム]]の完全解読がさまざまな生物種で完了し、遺伝子情報から分子生物学上の問題を解決しようとする試み([[バイオインフォマティクス]]技術)がなされている。そして現在、バイオインフォマティクス情報からタンパク質機能を解明する[[プロテオミックス]]技術へと応用が展開されつつある。2008年には、計算科学的な手法によって設計された、実際に[[ケンプ脱離]]の触媒として機能する酵素が報告されている<ref>Giovanna Ghirlanda, "Old enzymes, new tricks", ''Nature'' '''453''', 164-166 (2008). {{DOI|10.1038/453164a}}</ref>。 後者の超分子化合物を設計する方法については、1980年代ごろから、分子認識を行う超分子化合物(すなわち基質特異性をモデル化した化合物)の研究が開始された。当初は基質構造の細部までは認識できなかったため、分子の嵩高さを識別することから始められた。ただし早い時期から、ほかの分子と静電相互作用で結合する[[包摂化合物]]([[シクロデキストリン]]や[[クラウンエーテル]]など)は知られていた。そこで最初の人工酵素として、リング状の構造を持つシクロデキストリンに活性中心を模倣した側鎖構造を修飾することによって、中心空洞にはまり込む化合物に対してだけ反応する化学物質が設計された。今日では分子を認識すると蛍光を発するような超分子化合物も設計されている。 また、活性中心で生じている遷移状態を作り出す方法論は[[反応場理論]]として体系付けられている。反応場理論の1つの応用が、[[2001年]]に[[ノーベル化学賞]]を受賞した[[野依良治]]や[[バリー・シャープレス]]らの[[不斉触媒]]として成果を挙げている。 == 代表的な酵素の一覧 == {{main2|分類|EC番号|酵素記事の総覧|:Category:酵素}} 代表的な酵素の一覧を示す。 #消化・同化作用・異化作用・エネルギー代謝に関与する酵素 #*[[プロテアーゼ]](タンパク質分解酵素) #**[[ペプシン]]、[[トリプシン]] – タンパク質消化酵素 #**[[パパイン]]、[[ブロメライン]] – 食物由来の消化酵素 #**[[トロンビン]] – 血液凝固系の酵素 #*[[脂質分解酵素]] #**[[リパーゼ]] – 中性脂肪の消化 #***[[リポ蛋白質リパーゼ]] – 体内脂質輸送 #*酸化酵素(オキシゲナーゼ) #**モノオキシゲナーゼ #***[[シトクロムP450]] – 薬物分解酵素 #**ペルオキシダーゼ #***[[カタラーゼ]] – 過酸化水素〈活性酸素の生成物のひとつ〉の分解 #*エネルギー代謝に関する酵素 #**[[ATP合成酵素]] – [[呼吸鎖複合体]]における[[アデノシン三リン酸|ATP]]産生 #**[[リブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ]]〈RubisCO〉– 炭酸固定〈[[光合成]]〉 #遺伝に関与する酵素 #*[[DNAポリメラーゼ]] – DNAの複製・修復 #*[[RNAポリメラーゼ]] – m-RNAへの転写、遺伝子の発現 #*[[ヌクレアーゼ]]– DNA・m-RNAの編集、核酸代謝 #**[[制限酵素]] – [[遺伝子工学]]。 #*[[アミノアシルtRNAシンセテース]] – t-RNAの合成 #細胞内のシグナル伝達・分子修飾に関与する酵素 #*[[リン酸化酵素]]([[キナーゼ]])– シグナル化 #*[[脱リン酸化酵素]]([[フォスファターゼ]])– 脱シグナル化 #*[[グリコシルトランスフェラーゼ]] – 糖鎖の修飾 #*[[DNAメチラーゼ]] – 遺伝子発現の制御 == 酵素に関する年表 == {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} {{see_also|生化学の歴史#酵素}} *19世紀 **[[1833年]] [[フランス]]の[[アンセルム・ペイアン|アンセルム・パヤン]]と[[ジャン・フランソワ・ペルソ]]は、[[麦芽]]の抽出液から[[デンプン]]を分解して[[単糖]]([[グルコース]])にする物質を分離した。彼らはこの物質を「[[ジアスターゼ]]」(現在、フランス語で「酵素」を意味する)と名づけた。 **[[1836年]] [[ドイツ]]の[[テオドール・シュワン]]は[[胃液]]が動物の肉を溶かす作用があることを発見し、胃液から原因物質を分離した。この物質は「[[ペプシン]]」と名づけられた。これは[[植物]]だけでなく[[動物]]にも同様の活性が存在することを証明したものである。 **[[1857年]] フランスの[[ルイ・パスツール]]が[[アルコール発酵]]過程が[[微生物]](当時は[[酵母]]の研究)活動に基づくものであると発表した。ただし、これは酵素という無生物が起こすものとはパスツールは証明しなかった。しかし、ドイツの[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]は微生物ではなく、細胞外の無生物因子(当時は「発酵素(fermente)」という用語を用いた)が発酵に関与しているとして、この説を否定した。 **[[1873年]] [[スウェーデン]]の[[イェンス・ベルセリウス]]が「[[化学反応]]は[[触媒]]作用によって進行する」という概念を提唱した(この概念は酵素の概念が認められたためである)。 **[[1878年]] ドイツの[[ウィルヘルム・キューネ]]が酵母(ギリシャ語で "zyme")の内部(ギリシャ語で"en")で発酵が起きることを受けて「'''酵素'''('''en-zyme''')」という概念を提唱。 **[[1894年]] ドイツの[[エミール・フィッシャー]]が酵素の基質特異性を説明するために、酵素と基質の「鍵と鍵穴説」を発表した。 **[[1894年]] 日本の[[高峰譲吉]]がタカジアスターゼを発見した。 **[[1897年]] ドイツの[[エドゥアルト・ブフナー]]が、酵母抽出液からアルコール発酵が起きることを証明した。 *20世紀 **[[1902年]] [[イギリス]]の[[フェルディナント・ブラウン]]とフランスの[[アンリ・ルシャトリエ]]は、[[スクラーゼ]]の活性は酵素濃度に規定されることを観察し、反応の最中に基質と酵素は酵素基質複合体を作るという考えに至った([[反応速度論]]の始まり)。 **[[1907年]] [[エドゥアルト・ブフナー]]が前述の功績を受けて[[ノーベル化学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1913年]] [[レオノール・ミカエリス|ミカエリス]]、[[モード・メンテン|メンテン]]らがブラウンとルシャトリエの結果を受けて「[[ミカエリス・メンテン式]]」を発表。 **[[1925年]] [[G・E・ブリッグス]]と[[J・B・S・ホールデン]]がミカエリス・メンテン式を発展させた「[[ブリッグス・ホールデンの速度論]]」を発表。 **[[1926年]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジェームズ・サムナー]]が[[ナタ豆]]から「[[ウレアーゼ]]」と呼ばれる酵素を結晶化して、酵素の本体が[[タンパク質]]であることを突き止めた(ただしこの実験は当時評価されなかった)。 **[[1930年]] アメリカの[[ジョン・ノースロップ]]が[[ペプシン]]、[[トリプシン]]、[[キモトリプシン]]をタンパク質の結晶として抽出した。 **[[1931年]] [[ドイツ]]の[[オットー・ワールブルク]]が、呼吸酵素の特性および作用機構の発見によって[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1945年]] アメリカの[[ジョージ・ウェルズ・ビードル]]と[[エドワード・ローリー・タータム]]は1つの遺伝子が1つの酵素に対応することを発表した([[一遺伝子一酵素説]])。 **[[1946年]] サムナーとノースロップは酵素の本体がタンパク質であることを証明し、[[ノーベル化学賞]]を受賞した。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1955年]] サンガーらはインスリンの一次構造を決定した。 **[[1955年]] [[スウェーデン]]の[[ヒューゴ・テオレル]]が、[[酸化酵素]]の研究によって[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1960年]] アメリカの[[ウィリアム・スタイン]]と[[スタンフォード・ムーア]]によって、[[リボヌクレアーゼ]]の[[アミノ酸]]配列が決定された。 **[[1962年]] [[ジョン・ケンドリュー]]と[[マックス・ペルーツ]]が、球状タンパク質の構造研究によってノーベル化学賞を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1965年]] イギリスの[[デビッド・フィリップス]]は[[リゾチーム]]と基質の複合体の[[立体構造]]を明らかにした(酵素として立体構造が決定されたのはこれが初めて)。 **[[1965年]] [[フランス]]の[[フランソワ・ジャコブ]]、[[アンドレ・ルウォフ]]、[[ジャック・モノー]]が、酵素およびウイルスの合成の遺伝的調節に関する研究によって[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1965年]] [[高崎義幸]]らが、グルコースイソメラーゼを用いて[[異性化糖]]の製造法を発明。 **[[1968年]] H.O.Smith, K.W.ウィルコックスらがDNAの[[制限酵素]]を発見した。 **[[1968年]]アメリカのジョー・マッコード、アーウィン・フリドビッチがフリーラジカルを排除する酵素、スーパーオキシドジスムターゼ(SOD)を発見。 **[[1969年]] アメリカの[[ロバート・メリフィールド]]が、[[ペプチド固相合成法]]を用いて、化学的にリポヌクレアーゼを合成した。 **[[1972年]] スタインとムーアは酵素の[[一次構造]]決定によって[[ノーベル化学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1975年]] [[オーストラリア]]の[[ジョン・コーンフォース]]が、酵素による触媒反応の立体化学的研究によって[[ノーベル化学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1978年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ダニエル・ネーサンズ]]、[[ハミルトン・スミス]]、[[スイス]]の[[ヴェルナー・アーバー]]が制限酵素の発見と分子遺伝学への応用によって[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1986年]] アメリカの[[トーマス・チェック]]らによって触媒作用を有する[[リボ核酸|RNA]]である「[[リボザイム]]」が発見された。これによって、触媒作用はタンパク質に依らないという概念ができた。さらに生命の起源はRNAから始まったとする「[[RNAワールド仮説]]」の元になっている。 **[[1986年]] アメリカのトラモンタノらは抗体酵素(abzyme)を発見した。 **[[1989年]] チェックらはリボザイムの発見によって[[ノーベル化学賞]]を受賞した。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1992年]] [[スイス]]の[[エドモンド・フィッシャー]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[エドヴィン・クレープス]]が生体制御機構としての可逆的タンパク質リン酸化の発見によって([[タンパク質キナーゼ]]) [[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[1997年]] [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ポール・ボイヤー]]、[[イギリス]]の[[ジョン・E・ウォーカー]]が、[[アデノシン三リン酸]](ATP)の合成の基礎となる酵素機構の解明によって([[ATPシンターゼ]])、[[デンマーク]]の[[イェンス・スコウ]]が[[イオン輸送酵素]]、Na{{sup|+}}、K{{sup|+}}-ATPアーゼの最初の発見によって[[ノーベル化学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] *21世紀 **[[2009年]] アメリカの[[エリザベス・H・ブラックバーン]]、[[キャロル・W・グライダー]]、[[ジャック・W・ショスタク]]が[[テロメア]]と[[テロメラーゼ]]酵素の仕組みの発見によって[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] **[[2018年]] アメリカの[[フランシス・アーノルド]]が{{仮リンク|指向性進化|en|Directed evolution}}により人工的に酵素を合成する手法を開発し、2018年に[[ノーベル化学賞]]を受賞した。[[ファイル:Nobel prize medal.svg|20px]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 関連項目 == {{commonscat|enzymes}} {{Wiktionary|酵素}} * [[EC番号 (酵素番号)|EC番号]] * [[消化酵素]] * [[酵素反応]] * [[リガーゼ]] * [[異性化糖]] * [[酵素反応速度論]] * [[ローフード]](生食) == 外部リンク == * {{Kotobank}} *{{Cite journal |和書|author=谷川実|year=2018|title=酵素反応の基礎 —名前はよく聞くが,よくわからない「酵素」を知るために—|journal=化学と教育|volume=66|issue=12|pages=584-587|publisher=日本化学会|doi=10.20665/kakyoshi.66.12_584}} {{酵素}} {{解糖系の酵素}} {{Featured article}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうそ}} [[Category:酵素|*]] [[Category:生化学]] [[Category:タンパク質]] [[Category:和製漢語]]
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1734年
1734年(1734 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
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1734年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1734}} {{year-definition|1734}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]19年 ** [[皇紀]]2394年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]12年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]10年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4067年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[龍徳 (黎朝)|龍徳]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2276年 - 2277年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1146年 - 1147年 * [[ユダヤ暦]] : 5494年 - 5495年 * [[ユリウス暦]] : 1733年12月21日 - 1734年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1734}} == できごと == * [[4月22日]]-[[6月6日]]、イギリスで[[1727年イギリス総選挙|総選挙]]。[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]内閣の与党ウォルポール派[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]が多数派を維持するも与野党の議席差が縮まる。 == 誕生 == {{see also|Category:1734年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月10日]](享保19年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[麻田剛立]]、[[天文学者]](+ [[1799年]]) * [[7月25日]](享保19年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]])- [[上田秋成]]、[[読本]]作者・[[歌人]]・[[国学者]](+ [[1809年]]) * [[11月2日]] - [[ダニエル・ブーン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Daniel-Boone Daniel Boone American frontiersman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[探検家]](+ [[1820年]]) * [[12月26日]] - [[ジョージ・ロムニー (画家)|ジョージ・ロムニー]]、[[イギリス]]の肖像画家(+ [[1802年]]) == 死去 == {{see also|Category:1734年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月26日]]([[享保]]19年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]])? - [[紀伊國屋文左衛門]]、[[商人]](* [[1669年]]?) * [[6月12日]] - [[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズ]]、[[フランス王国|フランス]]の軍人(* [[1670年]]) * [[6月17日]] - [[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール]]、フランスの軍人・政治家(* [[1653年]]) * [[9月9日]](享保19年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[室鳩巣]]、[[儒学者]](* [[1658年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1734}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1734ねん}} [[Category:1734年|*]]
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1747年
1747年(1747 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1747年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1747}} [[ファイル:Hua Yan - Birds and Flowers - Google Art Project.jpg|サムネイル|《鳥獸圖》1747年[[揚州八怪]]の一人、{{仮リンク|華嵒|zh|華嵒|}}(かがん)筆|240x240ピクセル]] {{year-definition|1747}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[延享]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2407年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]12年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]23年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4080年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]8年 * [[仏滅紀元]] : 2289年 - 2290年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1159年 - 1160年 * [[ユダヤ暦]] : 5507年 - 5508年 * [[ユリウス暦]] : 1746年12月21日 - 1747年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1747}} == できごと == [[ファイル:South west prospet of mount Vesuvius - September 1747 issue of The Gentleman's Magazine.jpg|サムネイル|1747年9月号の『{{仮リンク|ジェントルマンズ・マガジン|en|The Gentleman's Magazine}}』誌に掲載された、南西から臨む[[ヴェスヴィオ山]]。この雑誌は、[[1731年]]に創刊された、世界で初めて"magazine"の語を用いた[[逐次刊行物]]であった。]] [[ファイル:Chocolate Pot And Lid (Germany), 1780–1800 (CH 18350635).jpg|サムネイル|フュルステンベルグ窯の蓋付きショコラティエール(チョコレート・ポット)。1780年から1800年頃生産。[[クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館]]蔵。]] * [[フランス王国|フランス]] - アントワーヌ=クロード・マイユが、[[パリ]]の{{仮リンク|サンタンドレ・デ・ザール通り|fr|Rue Saint-André-des-Arts}}で「[[マイユ]]」を開業<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.maille.jp/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%81%A8%E3%81%AF/270%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ |title=maille.jp : マイユ 270年の歴史 |access-date=2022-04-24 |publisher=[[マイユ]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20220424132346/http://www.maille.jp/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%81%A8%E3%81%AF/270%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ |archive-date=2022-04-24}}</ref>。[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の御用達となる。 * [[ベトナム]] - [[広南国]]の王、[[阮福濶]]が、[[カンボジア]]で新たに即位した{{仮リンク|アントン (カンボジア国王)|en|Ang Tong|label=アントン}}に対する反乱を支援するため、同地に軍隊を派遣。阮氏の軍隊は[[ソクチャン]]を占領し、カンボジアの首都である[[ウドン (カンボジア)|ウドン城]]まで進撃した。 * [[清]] - {{仮リンク|大小金川の戦い|en|Jinchuan campaigns}}([[十全武功]]) - [[乾隆帝]]が[[雲貴総督]]の張廣泗に、[[四川省|四川]]で発生した[[チベット民族|チベット系]]{{仮リンク|ギャロン人|zh|嘉絨人}}間の抗争の鎮圧を命じる<ref>{{Cite book|和書|author=高田時雄|authorlink=高田時雄|title=乾隆得勝圖平定金川戰圖|date=2012年|series=臨川書店|isbn=4653040729|url=http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~takata/TAKATA_Jinchuan.pdf|accessdate=2021-02-14}}</ref>(-[[1749年]])。 *日本 - [[丹羽正伯]]が『[[庶物類纂|庶物類纂増補]]』(54巻)を完成したことにより、『庶物類纂』が現在の形となる{{Sfn|山本|2007|p=122}}。[[1697年]]から段階的に編纂が進められていた。 === 1月-3月 === * [[1月11日]] &#x2013;ドイツ7大名窯のひとつ、{{仮リンク|フュルステンベルグ窯|en|Fürstenberg China}}(現在の[[ニーダーザクセン州]][[フュルステンベルク (ヴェーザー)|フュルステンベルク]])が開業。 * [[1月31日]] &#x2013; 性病専門の病院([[駆黴院]])としては世界初の{{仮リンク|ロンドン駆黴院|en|London Lock Hospital|label=}}が開業(-[[1952年]])。 * [[2月11日]] &#x2013; [[ジョージ王戦争]] - [[グランプレの戦い]]。{{仮リンク|ニコラ・アントワーヌ・クロン・デ・ヴィラーズ2世|en|Nicolas Antoine II Coulon de Villiers|label=}}率いる[[ヌーベルフランス]]の軍隊と[[ミクマク|ミクマク族]]の民兵が、[[ノバスコシア州]]、[[グラン=プレ]]でイギリス軍を破る。 * [[3月7日]] &#x2013; [[スペイン領フィリピンの総督|スペイン領フィリピン総督]]代理の[[司教]]フアン・デ・アルチェデラが、スペイン軍と[[スールー王国|スールー・スルタン]]の{{仮リンク|アジム・ウッディーン1世(スールー王国)|en|Azim ud-Din I|label=アジム・ウッディーン1世}}(Azim ud-Din I)の軍勢を統合させる。 [[ビサヤ諸島]]で発生していた[[モロ|モロ人]]の反乱を鎮圧が目的であった<ref>"The Baptism of Sultan Azim ud-Din of Sulu", by Ebrhard Crailsheim, in ''Image - Object - Performance: Mediality and Communication in Cultural Contact Zones of Colonial Latin America and the Philippines'' (Waxmann Verlag, 2013) p101</ref>。 * [[3月19日]] &#x2013; [[スコットランド]]の貴族、[[サイモン・フレイザー (第11代ラヴァト卿)|ラヴァト卿サイモン・フレイザー]]が、[[チャールズ・エドワード・ステュアート]]を王位につけんがためにイギリス王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]に対して起こした、[[1745年ジャコバイト蜂起]]の首謀者の一人であった廉で[[反逆罪]]に問われ、有罪・死刑判決を受ける<ref>"Simon Fraser, Lord Lovat", by J.W. Allen, in ''Lives of Twelve Bad Men: Original Studies of Eminent Scoundrels by Various Hands'' (T. Fisher Unwin, 1894) p196</ref>。[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]で行われた7日間の弾劾裁判と有罪判決の後、フレイザーは最終判決の同日に[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]に処されることに決まる。しかしながら、この判決はジョージ2世によって[[斬首刑]]に変更された。 === 4月-6月 === * [[4月9日|4月9日 &#x2013;]] ラヴァト卿ジョン・フレイザーが斬首によって[[公開処刑]]される。執行人は[[ジョン・スリフト]]。これはイギリス史上最後の斬首刑となった。 *[[4月20日]](延享4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]])&#x2013;[[遠江]]で、[[東海道]]の盗賊[[日本左衛門]]([[歌舞伎]]『[[白浪五人男]]』の日本駄右衛門のモデル)が[[見附]]で[[獄門]]に処される。 *[[ファイル:Ricercare a 6 from The Musical Offering.jpg|サムネイル|『音楽の捧げもの』六声のリチェルカーレ譜面。[[ドイツ]]、[[ベルリン州立図書館]]蔵。]][[5月7日]] &#x2013; [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]が、[[ポツダム]]で[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]と謁見、御前で即興演奏を行う。同年7月には楽譜に書き起こしてフリードリヒ2世に献呈し、さらに9月末には新しく作曲した[[カノン (音楽)|カノン]]と[[リチェルカーレ]]、フルートの参加する[[トリオ・ソナタ]]を加えたものを『[[音楽の捧げもの]]』として出版する。 *[[5月14日]] &#x2013; オーストリア継承戦争 &#x2013; [[第一次フィニステレ岬の海戦]]。提督[[ジョージ・アンソン (初代アンソン男爵)|ジョージ・アンソン]]率いるイギリスの艦隊がフランスの艦隊を破る。 * [[5月24日]](延享4年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]])&#x2013; [[江戸城]]二の丸が焼失する。 * [[6月9日]](延享4年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]) &#x2013; [[桜町天皇]]の譲位により[[桃園天皇]]が受禅[[践祚]]。改元は翌年に行われた。 *[[6月24日]]-[[10月14日]] &#x2013; ウィリアム・ムーア船長とフランシス・スミス船長の指揮のもと、イギリスのガレー船ドッブス号とカルフォルニア号が[[ハドソン湾]]を探検航海し、この湾経由の[[北西航路]]は存在しないこと発見する。この探検についての報告は、のちに[[ジョージア植民地]]の[[ジョージア植民地総督|総督]]となるヘンリー・エリスによって出版された。 * [[6月26日]]-[[8月4日]] &#x2013; イギリスで[[1747年イギリス総選挙|総選挙]]。[[ヘンリー・ペラム|ペラム]]内閣の与党ペラム派[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の勝利。 *[[4月]] - **[[ウィレム4世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム4世]]が、オランダ各州の総督職を全てひとつに併合した[[オランダ総督]]に就く。 **[[カーナティック戦争]] - ナンジャ・ラージャ([[クリシュナ・ラージャ2世]]の兄弟)率いる[[マイソール王国]]の軍隊が[[デーヴァナハッリ城]]を攻略する。この戦役に従軍した[[ハイダル・アリー]]が軍功を認められ、軍人として名を挙げることとなった{{Sfn|太田|2022|p=383}}。 === 7月-9月 === * [[7月2日]] &#x2013; オーストリア継承戦争 &#x2013; [[ラウフフェルトの戦い]]。[[モーリス・ド・サックス]]元帥率いるフランス軍が[[ハノーファー王国|ハノーファー]]・[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]・[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント]]の同盟軍相手に決定的な勝利を収める。これによって、フランス・オーストリア戦争の趨勢がほぼ決した。 *[[7月19日]] &#x2013; [[ナーディル・シャー]]暗殺。以後[[アフシャール朝]]は崩壊しながら衰退し、[[1796年]]に[[ガージャール朝]]によってとどめを刺されることとなる。 * [[8月15日]] &#x2013; イギリス、ロシア、ネーデルラントの三国が、フランスとプロイセンへの対抗を目的とした{{仮リンク|サンクトペテルブルク協定(1747年)|en|Convention of Saint Petersburg (1747)}}に合意。 * [[8月24日]] &#x2013; [[キプロス島|キプロス]]の[[太守]]であった{{仮リンク|サイイド・アブドゥラ・パシャ|en|Seyyid Abdullah Pasha}}が[[オスマン帝国]]の[[大宰相]]に就任し、[[1750年]]まで勤める。 * [[9月13日]] &#x2013; オーストリア継承戦争 - [[ベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦 (1747年)|ベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦]]。70日間の攻防の末、[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント]]の街、[[ベルヘン・オプ・ゾーム]]がフランス軍によって陥落させられる<ref>Henry L. Fulton, ''Dr. John Moore, 1729–1802: A Life in Medicine, Travel, and Revolution'' (Rowman & Littlefield, 2014) p76</ref>。 * [[9月21日]] &#x2013; [[カリブ海]]で発生した[[ハリケーン]]が、主に[[セント・キッツ島]]に停泊していた軍監を中心に11隻沈没させる。 *[[9月19日]](延享4年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) &#x2013; 「細川宗孝殺害事件」。江戸城殿中で、[[旗本]][[板倉勝該]]が[[熊本藩|熊本藩主]]の[[細川宗孝]]を刺殺{{Sfn|山本|2007|p=122}}。 *9月 &#x2013; **ヨハン・セバスティアン・バッハが『[[音楽の捧げもの]]』を出版。 **[[ベンジャミン・フランクリン]]が[[英国王立協会|英国王立研究所]][[フェロー]]の[[ピーター・コリンソン (植物学者)|ピーター・コリンソン]]宛に、[[静電気]]を蓄える装置、[[ライデン瓶]]についての実験報告を送る。翌1748年ふたたび送った手紙のなかでフランクリンは、電気の概念([[蓄電|充電]]、[[放電]])について触れていた。これらの用語および概念を史上初めて用いたのはフランクリンであった{{Sfn|矢田|2020|pp=9-10}}。  === 10月-12月 === * [[ファイル:Coronation_of_Ahmad_Shah_Durrani_in_1747_by_Breshna.jpg|サムネイル|10月:[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]が[[ドゥッラーニー帝国|アフガン帝国]]の[[シャー]]に即位。]][[10月1日]] - [[ヒジュラ暦]]1160年{{仮リンク|シャウワール|en|Shawwal}} (第10月)7日、[[カンダハール]]の[[パシュトゥーン人|パシュトゥーン]]族長たちが大会議([[ロヤ・ジルガ]])を開き、アフガニスタンの指導者にアフマド・シャー・ドゥッラニーを選出する。これをもって[[ドゥッラーニー帝国|ドゥッラニー帝国]]が建国された。 * [[10月21日]] - ジョージ2世が、[[カンタベリー大主教]]{{仮リンク|ジョン・ポター (司教)|en|John Potter (bishop)|label=ジョン・ポター}}の死を受けて、その3日目のこの日に、[[ヨーク大主教]]であった{{仮リンク|トーマス・ヘリング|en|Thomas Herring}}を後任に異動させる。[[ファイル:Bando Matsugoro I as the fox Tadanobu (5759526792).jpg|サムネイル|『義経千本桜』。[[坂東三津五郎 (初代)|初代坂東三津五郎]]演じる[[佐藤忠信|源九郎狐]]。[[勝川春常]]画。サンディエゴ美術館蔵。]] * [[10月24日]] - カリブ海のハリケーンが、イギリスとフランスの間で領有権が争われていた[[セント・キッツ島]]を襲う。イギリスの貨物船12隻とフランスの貨物船1隻が沈没<ref>[https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.32044105232839&view=1up&seq=214&size=125 ''Lloyd's List'' No. 1259], December 18, 1747</ref>。 * [[10月25日]] - オーストリア継承戦争 - [[第二次フィニステレ岬の海戦]]。イギリス海軍がまたもフランス艦隊を破る。 * [[11月9日]] - [[アムステルダム]]で政治改革を求める暴動が勃発<ref>{{cite journal|last=Van den Heuvel|first=Danielle|date=Spring 2012|title=The Multiple Identities of Early Modern Dutch Fishwives|journal=[[Signs (journal)|Signs]]|volume=37|issue=3|pages=587–594|publisher=University of Chicago Press|language=en|doi=10.1086/662705|jstor=10.1086/662705|quote=... in 1747 fishwives organized a large political demonstration in Amsterdam, and in 1748 the Amsterdam fish hawker Marretje Arents was one of the principal initiators of a tax riot in the city.}}</ref>。 * [[11月11日]] - ドイツ7大名窯のひとつ、{{仮リンク|ニンフェンブルク磁器製造所|en|Nymphenburg Porcelain Manufactory}}(現在の[[バイエルン州]][[ミュンヘン]])が、[[ニンフェンブルク宮殿]]内で開業。 * [[11月17日]]から19日 &#x2013; [[マサチューセッツ湾植民地]]、[[ボストン]]で{{仮リンク|ノウルズ暴動|en|Knowles Riot}} が3日間に渡って発生。[[イギリス海軍]]による[[強制徴募]]に抗議するものであった。 * [[12月7日]] - [[ベンジャミン・フランクリン]]が[[ペンシルベニア植民地]]初の民兵組織であるペンシルバニア{{仮リンク|アソシエイターズ (民兵)|en|Associators|label=アソシエイターズ}}を組織する。同植民地は平和主義であった[[クエーカー|クエーカー教徒]]によって整備されたため、既存の民兵組織が無かった<ref>T"Associators", by Paul G. Pierpaoli, Jr., in ''American Revolution: The Definitive Encyclopedia and Document Collection'' (ABC-CLIO, 2018) p85</ref>。 * [[12月13日]] - [[メリーランド植民地]]船籍の貨物船であった[[スループ船]]エンデヴァー号の漂流。[[アナポリス (メリーランド州)|アナポリス]]を出港して[[西インド諸島]]に向かって航海を行っている最中に、ハリケーンに巻き込まれる。マストと索具が失われたままエンデヴァー号は6ヶ月ものあいだ漂流したのち、[[スコットランド]]、[[タイリー島]]に漂着した<ref>Rosemary F. Williams, ''Maritime Annapolis: A History of Watermen, Sails & Midshipmen'' (Arcadia Publishing, 2009)</ref>。 * [[12月17日]](延享4年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]) &#x2013; [[大坂]]、[[竹本座]]で[[竹田出雲]]ら作『[[義経千本桜]]』が初演され成功する。 * [[12月27日]] - イギリス議会が1740年帰化法を修正し、非[[英国国教会]]系[[プロテスタント]]教派にも適応範囲を拡げた<ref>George W. Forell, ed., ''Nine Public Lectures on Important Subjects in Religion'' by Nicholaus Ludwig Count von Zinzendorf (Wipf and Stock Publishers, 1998) p xxix</ref>。{{Clear}} == 誕生 == {{see also|Category:1747年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月4日]] - {{仮リンク|ヴィヴィアン・デノン|en|Vivant Denon}} - [[フランス]]の画家、[[外交官]](+[[1825年]]) * [[1月10日]] - [[アブラアム=ルイ・ブレゲ]] - [[スイス]]の時計職人、[[発明家]](+[[1823年]]) *[[1月19日]] - [[ヨハン・ボーデ]] - [[ドイツ]]の[[天文学者]](+[[1826年]])[[ファイル:Johann_Elert_Bode_reversed.jpg|サムネイル|ヨハン・ボーデ]] *[[1月22日]] - [[ティモシー・デクスター]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[実業家]]、[[奇人]](+[[1806年]]) *[[2月10日]] - [[アンドレ・トワン]] - フランスの[[植物学者]]、[[農学者]](+[[1824年]]) *[[2月16日]] - [[ハインリヒ13世 (ロイス=グライツ侯)|ハインリヒ13世]] - [[ロイス=グライツ侯国]]の統治者、軍人(+[[1817年]]) * [[3月20日]]([[延享]]4年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[会田安明]] - [[幕臣]]、[[和算家]](+1817年) *[[3月25日]] - [[アレクサンドル・ベズボロドコ]] - [[ロシア帝国]]の{{仮リンク|ロシア帝国宰相|en|Chancellor (Russia)|label=宰相}}(+[[1799年]]) *[[3月29日]] - [[ヨハン・ヴィルヘルム・ヘスラー]] - ドイツの作曲家、演奏家 *[[3月31日]] - [[ヨハン・アブラハム・ペーター・シュルツ]] - ドイツの作曲家(+1824年) *[[4月13日]] - [[ガニング・ベッドフォード・ジュニア]] - アメリカの軍人、政治家(+[[1812年]]) *[[4月14日]]([[洗礼]]) - [[ユーヴドール・プライス]] - イギリスの貴族、[[造園家]](+[[1829年]]) *[[5月4日]] - [[フィリップ=ジャン・ペルタン]] - フランスの[[外科医]](+1829年) * [[5月5日]] - [[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]] - [[神聖ローマ皇帝]](+[[1792年]])[[ファイル:Heinrich_Friedrich_Füger_007.png|サムネイル|晩年の神聖ローマ皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]] [[ハインリヒ・フリードリヒ・フューガー|ハインリヒ・フリードリヒ・フューガ]]ー筆]] *[[5月10日]] - [[ヨロ・モルガヌグ]] - [[ウェールズ]]の[[収集家]]、作家、文学[[贋作|贋作者]](+1826年) *[[6月12日]](延享4年) - [[源琦]] - [[円山派]]の[[絵師]](+[[1797年]]) * [[6月15日]](延享4年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[高山彦九郎]] - [[尊皇]]思想家(+[[1793年]]) *[[6月26日]] - [[レオポルト・アントニーン・コジェルフ]] - [[ボヘミア]]の作曲家(+[[1818年]]) *[[7月6日]] - [[ジョン・ポール・ジョーンズ (軍人)|ジョン・ポール・ジョーンズ]] - [[大陸海軍]]および[[ロシア帝国海軍]]の[[提督]](+1792年) *[[7月10日]] - [[ヴィルヘルミーネ・カロリーネ・ア・ダンマーク]] - [[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン侯]]妃(+[[1820年]]) *[[7月15日]] - [[テレーザ・マルゲリータ・レディ]] - [[トスカーナ大公国|トスカーナ]]の[[修道女]]、[[聖人]] *[[7月25日]] - [[ロジェ・デュコ]] - [[フランス革命|フランス革命期]]・[[フランス第一帝政|第一帝政期]]の政治家(+[[1816年]]) *[[9月11日]] - [[フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム]] - [[オランダ共和国|オランダ]]の軍人、[[ヘッセン=ルンペンハイム家]]の始祖(+1837年) *[[9月29日]] - [[ユゼフ・ヴィビツキ]] - [[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]の貴族、軍人、文筆家人(+[[1822年]]) *[[9月30日]] - [[フリードリヒ・ユスティン・ベルトゥッヒ]] - ドイツの[[出版|出版者]]、[[パトロン]](+1822年) *[[10月6日]] - [[ジャン=フランソワ・ルーベル]] - フランス革命期の政治家(+[[1807年]]) *[[10月7日]] - [[アントワーヌ・ニコラ・デュシェーヌ]] - フランスの植物学者、園芸家(+[[1827年]]) *10月20日 - [[フランソワ・ド・バルテルミー]] - フランス革命期の政治家、[[外交官]](+[[1830年]]) * [[イワン・ハンドシキン]] - ロシアのヴァイオリン奏者、作曲家(+[[1804年]]) *[[ヴィンセンツォ・ブレンナ]] - ロシアで活躍した建築家(+1820年) *[[グリゴリー・シェリホフ]] - ロシアの[[商人]]、[[探検家]](+[[1795年]]) *[[司馬江漢]] - 絵師、[[蘭学者]](+1818年) == 死去 == [[ファイル:LucdeClapiers-marquisdeVauvenarges.jpg|サムネイル|[[リュック・ド・クラピエ・ド・ヴォーヴナルグ|リュック・クラピエ・ド・ヴォーヴナルグ]]]] {{see also|Category:1747年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月2日]] - [[ジャン=フェリ・ルベル]] - フランスの作曲家 (*1666年) * [[3月19日]] - [[カタジナ・オパリンスカ]] - ポーランド王[[スタニスワフ・レシチニスキ]]の妃(*1682年) *[[4月9日]] - [[サイモン・フレイザー (第11代ラヴァト卿)]] - [[スコットランド]]の貴族、[[ジャコバイト]](*[[1667年]]頃) *[[5月28日]] - [[リュック・ド・クラピエ・ド・ヴォーヴナルグ]] - フランスの貴族、著作家、[[モラリスト]](*1715年) *[[5月31日]] - [[アンドレイ・オステルマン]] - ロシア帝国の[[外務大臣|外相]]、政治家(*1686年) * [[7月9日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ]] - [[イタリア]]の[[作曲家]](* [[1670年]]) * [[7月11日]](延享4年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - 初代[[竹田出雲]]、[[日本]]の[[浄瑠璃]]作者、[[文人]](* 不詳) *[[7月19日]] - [[ナーディル・シャー]] - [[アフシャール朝]]初代皇帝(* [[1688年]]) * [[10月4日]] - [[アマロ・ロドリゲス・フェリペ]] - [[スペイン]]の[[海賊]](* [[1678年]])[[ファイル:Amaro_Pargo.jpg|サムネイル|”アマロ・パルゴ”こと、[[アマロ・ロドリゲス・フェリペ]]]] * [[11月8日]](延享4年[[10月6日]]) - [[寺坂信行|寺坂吉右衛門]]、[[赤穂四十七士]]の一人(*[[1655年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}'''注釈'''{{Reflist|group="注"}}'''出典'''{{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |title=アジア人物史 第8巻 アジアのかたちの完成 |date=2022-12-01 |publisher=集英社 |page=288 |isbn=978-4081571086 |ref={{SfnRef|太田|2022}} |editor=姜 尚中 |editor-link=姜尚中 |chapter=第6章 比類なき盛世の果てに――清朝全盛期 |author=太田信宏 |author-link=太田信宏}} * {{Cite book|和書|title=電気技術発展の秘話 ―技術を陰で支えた人々―|date=2020-03-19|year=2020|publisher=[[オーム社]]|author=矢田恒二|ref={{SfnRef|矢田|2020}}|url=https://books.google.co.jp/books?id=S9DWDwAAQBAJ&lpg=PA9&ots=V6Rqg1GUnj&dq=1747%E5%B9%B4%20%E9%9B%BB%E6%B0%97&hl=ja&pg=PA9#v=onepage&q=1747%E5%B9%B4%20%E9%9B%BB%E6%B0%97&f=false|accessdate=2021-12-18|isbn=978-4274225246}} *{{Cite book|title=見る、読む、調べる 江戸時代年表|publisher=[[小学館]]|date=2007-10-10|editor=[[山本博文]]|isbn=978-4-09-626606-9}} == 関連項目 == {{Commonscat|1747}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1747ねん}} [[Category:1747年|*]]
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すべり台
すべり台(すべりだい)とは、公園によく置かれている遊具または非常時の避難器具のひとつである。遊具として用いられる場合は、高所へ上がり、そこから滑り降りて楽しむ。避難器具として用いられる場合は、高低差のある場所を迅速かつ円滑に避難させるために用いられる。 はしごや階段などで上へ登り、登ったところから斜面を座って滑り降りるものである。住宅地に作られた公園では、金属製のものがよく見られる。屋内用幼児向け遊具としてのすべり台は、プラスチックで作られることが多い。種類によっては滑り面が波打っているウェーブスライダーや全体がトンネル状になっているトンネルスライダーもある。 変則的な降り方に、立ったまま滑る、腹ばいになって滑るなどがあるが、危険な滑り方である。また、滑り板を駆け上がろうとした際の事故例などの報告がある。 滑り台の設置・管理においては突起物や隙間への対策や安全領域内の衝撃緩和措置などが必要とされる。 埼玉県南埼玉郡宮代町にある宮代町立百間小学校の滑り台は大正時代に築造され、その文化的価値から2020年に国の登録有形文化財に登録された。 タコ型すべり台は全国に存在するが、発祥は東京都足立区とされる。また富士山型のすべり台は名古屋に多く存在する。 北海道滝上町(童話村)がふるさと創生事業で国鉄渚滑線跡に設置した虹の橋には二階建ての橋の間にすべり台が設置されている。 ほぼ垂直のフリーフォールすべり台は全国に存在する:
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すべり台(すべりだい)とは、公園によく置かれている遊具または非常時の避難器具のひとつである。遊具として用いられる場合は、高所へ上がり、そこから滑り降りて楽しむ。避難器具として用いられる場合は、高低差のある場所を迅速かつ円滑に避難させるために用いられる。
{{Otheruses|避難器具・子供用の遊具|シンガーソングライター[[森翼]]の楽曲|すべり台 (森翼の曲)}} {{Redirect|すべりだい|[[椎名林檎]]の同名の楽曲|幸福論 (曲)}} [[File:Slide2005.jpg|thumb|300px|一般的なすべり台]] <!-- 説明にある「滑降部のローラー」が確認出来ないため。 [[File:Fureai Slide.jpg|thumb|200px|滑降部がローラーのすべり台]]--> '''すべり台'''(すべりだい)とは、[[公園]]によく置かれている[[遊具]]または非常時の避難器具のひとつである。遊具として用いられる場合は、高所へ上がり、そこから滑り降りて楽しむ。避難器具として用いられる場合は、高低差のある場所を迅速かつ円滑に避難させるために用いられる。 == 遊具としてのすべり台 == [[はしご]]や[[階段]]などで上へ登り、登ったところから斜面を座って滑り降りるものである。住宅地に作られた公園では、金属製のものがよく見られる。屋内用幼児向け遊具としてのすべり台は、プラスチックで作られることが多い。種類によっては滑り面が波打っているウェーブスライダーや全体がトンネル状になっているトンネルスライダーもある。 === 特殊なすべり台 === ; コンクリート製すべり台 : 公園によってはなだらかな斜面をコンクリートで覆うように整えた大型すべり台もある{{Sfn|松野 & 山本 2006|p=112}}。コンクリートで独立型の山型を造形する[[プレイマウント]](富士山すべり台)と呼ばれるものも存在し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/west/news/161104/wst1611040043-n1.html |title=名古屋の滑り台は「富士山」形?180キロも離れた地で多数設置されているのはなぜ? |author=産経WEST |date=2016-11-04 |accessdate=2021-03-03}}</ref>、さらに大きめの公園では滑り降りる先が複数存在する[[タコの山]]と呼ばれるものも存在している。 ; ローラーすべり台 : 滑降部が面ではなくゴム製の[[ローラー]]をならべたものとなっているすべり台{{Sfn|松野 & 山本 2006|p=113}}。丘の斜面を利用した長大なものもある。有名なものに[[日本平動物園]]のローラースライダーがある。 ; 垂直落下型すべり台 : 一般的なすべり台よりも滑降部が長く、このうち滑り出し部分が垂直になっておりその上部に固定されたセイフティーバーにぶら下がった上で手を放して滑降していくもの{{Sfn|松野 & 山本 2006|pp=115-117}}。 ; ウォータースライダー等 : ウォーターパーク型の施設で[[プール]]などに向かって流れるすべり台もある。ウォーターパークのものの中には滑り降りる部分に水が流れている場合もある。近年では[[ウォータースライダー]]と呼ばれる、チューブ状で長く、とぐろを巻いたすべり台も増えている。ウォータースライダーの中にはゴムボートに乗ったまま滑り降りるものもある。 ; 雪製、雪像一体型 : [[北海道]][[札幌市]]の[[さっぽろ雪まつり]]<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.snowfes.com/ |title=さっぽろ雪まつり2020 |publisher=さっぽろ雪まつり公式サイト |accessdate=2019-06-24}}</ref>、[[苫小牧市]]の[[とまこまいスケートまつり]]<ref>{{Cite web|和書|date=2019年 |url= http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/files/00043700/00043734/20190121165711.pdf|title=第53回とまこまいスケートまつり |format=PDF |publisher=苫小牧市 |accessdate=2019-06-24}}</ref>など、積雪地域のイベント会場では期間限定の雪製のすべり台が造成される。 === 安全性の問題 === 変則的な降り方に、立ったまま滑る、腹ばいになって滑るなどがあるが、危険な滑り方である。また、滑り板を駆け上がろうとした際の事故例などの報告がある{{Sfn|松野 & 山本 2006|p=106}}。 滑り台の設置・管理においては突起物や隙間への対策や安全領域内の衝撃緩和措置などが必要とされる{{Sfn|松野 & 山本 2006|pp=107-112}}。 == 避難器具としてのすべり台 == {{Main|滑り台 (避難器具)}} * 2階建て以上の[[幼稚園]]には、避難設備として、[[避難階段|非常階段]]とは別に[[滑り台 (避難器具)|非常すべり台]]が設置されている。これは、階段を使用した避難に難のある幼児でも迅速な避難が可能であり、また緊急時に幼児が[[パニック]]状態になることを防ぐことができるためである。 [[File:Emergency exit slide.jpg|thumb|200px|旅客機の脱出用スライダー]] * [[旅客機]]には、[[緊急脱出スライド]]が装備されている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.jal.com/ja/flight/safety/equipment/escape.html |title=緊急脱出のための装備 |publisher=日本航空 |accessdate=2019-12-16}}</ref>。[[アメリカ連邦航空局]](FAA)および欧州共同航空当局(JAA)の規定により、非常時の脱出の際には、片側の非常口から90秒以内に乗客全員を脱出させることとなっていることから、[[非常口]]が開いたときに空気圧で展開する装置(すべり台)を装備している。また、すべり台の使用方法は、搭乗時に全乗客に知らされることとなっている。 * [[東京湾アクアライン]]のトンネル[[アクアトンネル]]では、避難経路が道路下に造られているため、自動車通行帯から下部にかけて避難用のすべり台が300mおきに設置されている。 == すべり台の例 == {{節スタブ}} [[埼玉県]][[南埼玉郡]][[宮代町]]にある宮代町立百間小学校の滑り台は大正時代に築造され、その文化的価値から[[2020年]]に国の[[登録有形文化財]]に登録された<ref>{{cite news|title=大正期の滑り台が文化財に|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52702200Y9A121C1CR0000/|accessdate=2023年4月12日|publisher=日本経済新聞}}</ref>。 タコ型すべり台は全国に存在するが、発祥は東京都足立区とされる<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20220501-OYT1T50206/ タコ滑り台の「聖地」足立区、誕生のきっかけは区担当者の「頭をつけてタコにしろ」] 読売新聞 2022年5月2日</ref>。また富士山型のすべり台は名古屋に多く存在する<ref>[https://www.tokai-tv.com/tokainews/feature/article_20220626_19662 今も公園に90か所程残る…『富士山すべり台』なぜ名古屋にだけ多いのか 背景に昭和40年代の“人口急増”] 東海テレビ 2022年6月26日</ref>。 [[北海道]][[滝上町]](童話村)が[[ふるさと創生事業]]で国鉄[[渚滑線]]跡に設置した[[虹の橋]]<ref>[https://town.takinoue.hokkaido.jp/shokai/shisetsu/kankou/nijinohashi.html 虹の橋] 滝上町役場</ref>には二階建ての橋の間にすべり台が設置されている。 <!-- * おりづるタワーのスパイラルスロープ --> === 高傾斜のすべり台 === ほぼ垂直の[[フリーフォールすべり台]]は全国に存在する: * [[秋田ふるさと村]]ワンダーキャッスル なまはげフリーフォール<ref name="icotto-freefall">[https://icotto.jp/presses/8651 最大傾斜80度の恐怖体験!全国の「フリーフォール滑り台」がある公園 - icotto(イコット)] [[カカクコム]]</ref> - [[秋田県]][[横手市]] * [[フィールドアスレチック]]横浜つくし野コース(つくし野アスレチック)<ref name="icotto-freefall"/> - [[神奈川県]][[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]][[長津田町]] * [[安久路公園]]<ref name="icotto-freefall"/> - [[静岡県]][[磐田市]] * [[びわ湖こどもの国]]<ref name="icotto-freefall"/> - [[滋賀県]][[高島市]][[安曇川町]] * [[彩都なないろ公園]]<ref name="icotto-freefall"/> - [[大阪府]][[箕面市]] * [[グリーンパークほどの]]<ref>『るるぶ高知 四万十 '19』 p.55 [[JTBパブリッシング]] 2018年2月8日 ISBN 978-4533123931</ref> - [[高知県]][[吾川郡]][[いの町]] * [[ふれあいの森総合公園]]<ref name="icotto-freefall"/> - [[福岡県]][[宗像市]] * [[時津文化の森公園]]<ref name="icotto-freefall"/> - [[長崎県]][[西彼杵郡]][[時津町]] * [[ハウステンボス]]メルヘン不思議の森<ref>『るるぶハウステンボス』 p.35 [[JTBパブリッシング]] 2016年10月26日 {{ISBN2| 978-4533114656}} </ref> - [[長崎県]][[佐世保市]] === 長いすべり台 === * [[丹波山村]]ローラーすべり台 - [[山梨県]][[北都留郡]][[丹波山村]]の[[丹波山]]にある全長247m、高低差42mのローラーすべり台<ref>[https://www.vill.tabayama.yamanashi.jp/kanko/suberidai.html ローラーすべり台] 丹波山村役場</ref>。[[ふるさと創生事業]]により設置された。 * [[静岡市]]営[[日本平動物園]]のローラースライダー - 全長390m、高低差47mのローラーすべり台<ref>[https://www.pref.shizuoka.jp/kensei/information/myshizuoka/1002263/1040951/1011343.html 日本一長いローラースライダー日本平動物園] 静岡県</ref><ref>[https://www.jalan.net/news/article/438237/ ローラー滑り台にボブスレー!長い滑り台ランキング【全国】 - じゃらんニュース] リクルート</ref>。 === 高低差の大きいすべり台 === * [[丸山総合公園 (加西市)|丸山総合公園]]のローラー滑り台 - 兵庫県加西市。<!--標高110m〜?--> === 使用停止中のすべり台 === * [[立石寺]]のすべり台 - [[山形県]][[山形市]]の立石寺には全長約300m、高低差約150mの[[立石寺#その他|下山用すべり台]]が存在したが、けが人が相次いで1965年半ば以降使用中止となった<ref>『父・福田恆存』 [[福田逸]] 2017年7月28日 {{ISBN2|978-4163906881}}</ref>。 * [[中尾城公園]]のスパイラルスライダー - [[長崎県]][[長与町]]の中尾城公園にある全長63m、高低差26mのすべり台<ref name="nordot-spiral"/><ref>[https://nordot.app/541986969032475745 スライダー「再開にめど」 長与・中尾城公園の巨大遊具 安全改修工事の設計へ] 長崎新聞 2019年9月5日</ref>。[[ふるさと創生事業]]による同公園の開設と共に設置された<ref name="nordot-spiral"/>。事故が相次いで2015年以降使用中止となっている<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM5T5GG7M5TTIPE00K.html 「どうするの、これ」 2.8億円の滑り台、町の重荷に] 朝日新聞 2019年5月27日</ref><ref name="nordot-spiral">[https://nordot.app/657412164529079393?c=174761113988793844 中尾城公園・スパイラルスライダー 長与町長「利用再開の可能性低い」 負傷者が相次ぎ利用中止の大型滑り台] 長崎新聞 2020年7月19日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|和書|last1=松野 |first1=敬子 |author1=松野敬子 |last2=山本 |first2=恵梨 |author2=山本恵梨 |title=楽しく遊ぶ 安全に遊ぶ 遊具事故防止マニュアル |publisher=かもがわ出版 |year=2006 |ref={{SfnRef|松野 & 山本 2006}}}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Playground slides}} * [[複合遊具]] * [[ウォータースライダー]] * [[スーパースライダー]] * [[修羅 (林業)]] [[Category:遊具|すへりたい]]
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棒倒し
棒倒し(ぼうたおし)は、自チームの棒を倒そうとする相手チームからの攻撃を耐えつつ、相手チームの棒を攻撃してこれを倒すことを目的とする競技である。主に運動会・体育祭といったイベントの1種目として行われる。 原則として陸上競技だが水上で行われることもあり、2008年にはグラビアアイドルらが大磯ロングビーチで「水中棒倒し」を行った。 棒には、人の身長よりも長く(おおよそ3~5m)、かつ、よじ登れるほどの強度を持つ丸太状の木柱を使用する。この棒には立てて支えるためのロープを数本取り付けられている場合がある。 1チームに対し1本または複数割り当てられた棒を決められた位置に立て、防御メンバーの一部がこれを取り囲んで安定させる。攻撃メンバーは競技場内を移動し、相手チームの棒を倒しにかかる。棒が倒された場合、その棒を守るチームは負けとなる。あるいは1チームに複数の棒が割り当てられている場合は、その棒の防衛を構成する競技者は競技から脱落する。 棒が倒されたと判定される基準としては、以下のような基準が使用されることが多い。 棒を倒しあうことが目的の競技であるため、最も基本的な基準は1といえる。4は比較的安全なため、小学校等での競技の際に使用される。 危険防止のため、競技は裸足で行うことが多い。ラグビー用のヘッドキャップを着用する、爪を切るといった指導がされることもある。また、衣類を掴まれて頭から落ちないように、また衣類によって首が絞まらないように、男子は上半身裸になることもある。同様な理由で鉢巻も禁止の場合もある。一般に殴る蹴るなどの暴力行為・危険行為が反則とされることが多い。男女別、男女混合のいずれで行うかは組織により異なる。 自チームの棒の周囲と相手チームの棒の周囲のそれぞれに主な競技の場が出現する性質の競技であることなどから、一般にチーム内でメンバーごとに異なった役割が与えられることとなる。下記に主な役割を大別列挙するが、1チームあたりの人数の多寡や作戦により役割のバリエーションにも変化が生ずる。 1984年9月、福岡大学附属大濠中学校・高等学校の体育祭の棒倒しで、2年生男子生徒が催しの最中、腹部を蹴られて転倒、演目中そのまま他生徒に踏みつけられて内臓破裂の重症を負う。1989年8月、本人を含む両親が「事故回避の注意義務を怠った」として、同校を経営する学校法人福岡大学を相手取り約5000万円の損害賠償を求めて提訴。1992年4月21日福岡地方裁判所小倉支部 (綱脇和久裁判長) は原告の請求を棄却。 防衛大学校において、棒倒しは、1954年(昭和29年。同年7月1日に自衛隊および防衛庁発足に合わせ保安大学校から防衛大学校へ改称)以降、毎年の開校祭において行われ、春のカッター競技、年度末の断郊競技と合わせて3大競技とされている。 競技は各大隊対抗で行われる。棒倒しが、そもそも陸軍士官学校・陸軍航空士官学校・海軍兵学校といった帝国陸軍・帝国海軍の士官養成校で主に行われていた競技であることを継承している。参加者は所属する大隊の名誉をかけ激しく戦い、各大隊毎に緻密な作戦が立てられ、他大隊の練習情報を収集する部隊まで編成される(主に女子学生が行う)ほどである。 参加者は各大隊の精鋭150名であり、攻撃部隊、防御部隊に分けられる。ルールは至って簡単で、まず棒が競技場内に描かれた円の中に設置される。防御部隊はその円内でのみ行動ができる。試合開始の合図と共に双方の攻撃部隊は相手方の棒に攻撃をかけ、2分以内に相手方の棒を先に倒せば勝利となる(棒が3秒間30度倒れた時点で倒れたとみなされる)。 攻撃役は上着に各大隊のカラー(赤・青・緑・橙)に染められたシャツを着用、防御役は白のシャツを着用する。試合開始前には、体育学教室の教官(幹部自衛官)や助教(曹)らの下、人員の点呼が行われ、彼らにより爪が伸びていないかなどの安全点検がなされる。また空手道部やボクシング部などの打撃系校友会(クラブ活動)の学生は攻撃部隊に参加できず、防御部隊を務める。優勝大隊には「棒倒し優勝大隊」と記された看板、優勝旗、優勝カップなどが授与され、学生宿舎に飾られる。 各大隊は勝利のため部隊をさまざまなパートに分けて態勢を整えている。その編成は大隊によってさまざまであるが、一例を以下に記す。 なお、2002年に行われた陸上自衛隊北部方面隊創隊50周年記念行事において、札幌ドームで同様の各師団対抗棒倒しが行われた。このときの優勝は第7師団(隷下に主に第11普通科連隊、第71・第72・第73戦車連隊)である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "棒倒し(ぼうたおし)は、自チームの棒を倒そうとする相手チームからの攻撃を耐えつつ、相手チームの棒を攻撃してこれを倒すことを目的とする競技である。主に運動会・体育祭といったイベントの1種目として行われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "原則として陸上競技だが水上で行われることもあり、2008年にはグラビアアイドルらが大磯ロングビーチで「水中棒倒し」を行った。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "棒には、人の身長よりも長く(おおよそ3~5m)、かつ、よじ登れるほどの強度を持つ丸太状の木柱を使用する。この棒には立てて支えるためのロープを数本取り付けられている場合がある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1チームに対し1本または複数割り当てられた棒を決められた位置に立て、防御メンバーの一部がこれを取り囲んで安定させる。攻撃メンバーは競技場内を移動し、相手チームの棒を倒しにかかる。棒が倒された場合、その棒を守るチームは負けとなる。あるいは1チームに複数の棒が割り当てられている場合は、その棒の防衛を構成する競技者は競技から脱落する。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "棒が倒されたと判定される基準としては、以下のような基準が使用されることが多い。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "棒を倒しあうことが目的の競技であるため、最も基本的な基準は1といえる。4は比較的安全なため、小学校等での競技の際に使用される。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "危険防止のため、競技は裸足で行うことが多い。ラグビー用のヘッドキャップを着用する、爪を切るといった指導がされることもある。また、衣類を掴まれて頭から落ちないように、また衣類によって首が絞まらないように、男子は上半身裸になることもある。同様な理由で鉢巻も禁止の場合もある。一般に殴る蹴るなどの暴力行為・危険行為が反則とされることが多い。男女別、男女混合のいずれで行うかは組織により異なる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "自チームの棒の周囲と相手チームの棒の周囲のそれぞれに主な競技の場が出現する性質の競技であることなどから、一般にチーム内でメンバーごとに異なった役割が与えられることとなる。下記に主な役割を大別列挙するが、1チームあたりの人数の多寡や作戦により役割のバリエーションにも変化が生ずる。", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1984年9月、福岡大学附属大濠中学校・高等学校の体育祭の棒倒しで、2年生男子生徒が催しの最中、腹部を蹴られて転倒、演目中そのまま他生徒に踏みつけられて内臓破裂の重症を負う。1989年8月、本人を含む両親が「事故回避の注意義務を怠った」として、同校を経営する学校法人福岡大学を相手取り約5000万円の損害賠償を求めて提訴。1992年4月21日福岡地方裁判所小倉支部 (綱脇和久裁判長) は原告の請求を棄却。", "title": "事故" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "防衛大学校において、棒倒しは、1954年(昭和29年。同年7月1日に自衛隊および防衛庁発足に合わせ保安大学校から防衛大学校へ改称)以降、毎年の開校祭において行われ、春のカッター競技、年度末の断郊競技と合わせて3大競技とされている。", "title": "防衛大学校の棒倒し" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "競技は各大隊対抗で行われる。棒倒しが、そもそも陸軍士官学校・陸軍航空士官学校・海軍兵学校といった帝国陸軍・帝国海軍の士官養成校で主に行われていた競技であることを継承している。参加者は所属する大隊の名誉をかけ激しく戦い、各大隊毎に緻密な作戦が立てられ、他大隊の練習情報を収集する部隊まで編成される(主に女子学生が行う)ほどである。", "title": "防衛大学校の棒倒し" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "参加者は各大隊の精鋭150名であり、攻撃部隊、防御部隊に分けられる。ルールは至って簡単で、まず棒が競技場内に描かれた円の中に設置される。防御部隊はその円内でのみ行動ができる。試合開始の合図と共に双方の攻撃部隊は相手方の棒に攻撃をかけ、2分以内に相手方の棒を先に倒せば勝利となる(棒が3秒間30度倒れた時点で倒れたとみなされる)。", "title": "防衛大学校の棒倒し" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "攻撃役は上着に各大隊のカラー(赤・青・緑・橙)に染められたシャツを着用、防御役は白のシャツを着用する。試合開始前には、体育学教室の教官(幹部自衛官)や助教(曹)らの下、人員の点呼が行われ、彼らにより爪が伸びていないかなどの安全点検がなされる。また空手道部やボクシング部などの打撃系校友会(クラブ活動)の学生は攻撃部隊に参加できず、防御部隊を務める。優勝大隊には「棒倒し優勝大隊」と記された看板、優勝旗、優勝カップなどが授与され、学生宿舎に飾られる。", "title": "防衛大学校の棒倒し" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "各大隊は勝利のため部隊をさまざまなパートに分けて態勢を整えている。その編成は大隊によってさまざまであるが、一例を以下に記す。", "title": "防衛大学校の棒倒し" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、2002年に行われた陸上自衛隊北部方面隊創隊50周年記念行事において、札幌ドームで同様の各師団対抗棒倒しが行われた。このときの優勝は第7師団(隷下に主に第11普通科連隊、第71・第72・第73戦車連隊)である。", "title": "防衛大学校の棒倒し" } ]
棒倒し(ぼうたおし)は、自チームの棒を倒そうとする相手チームからの攻撃を耐えつつ、相手チームの棒を攻撃してこれを倒すことを目的とする競技である。主に運動会・体育祭といったイベントの1種目として行われる。 原則として陸上競技だが水上で行われることもあり、2008年にはグラビアアイドルらが大磯ロングビーチで「水中棒倒し」を行った。
{{Otheruses|相手チームの棒を倒すスポーツ競技|棒を倒さないように砂山を崩すゲーム|山崩し}} [[File:NDAJ Bo-taoshi 3.JPG|thumb|250px|[[防衛大学校]]の棒倒し(2010年)]] {{出典の明記|date=2016年12月}} '''棒倒し'''(ぼうたおし)は、自チームの棒を倒そうとする相手チームからの攻撃を耐えつつ、相手チームの棒を攻撃してこれを倒すことを目的とする競技である。主に[[運動会|運動会・体育祭]]といったイベントの1種目として行われる。 原則として陸上競技だが水上で行われることもあり、[[2008年]]には[[グラビアアイドル]]らが[[大磯ロングビーチ]]で「水中棒倒し」を行った<ref>[http://www.zakzak.co.jp/gei/200809/g2008090104_all.html 夏はまだ続く!「水中棒倒し」で何かが起こる水泳大会]([[夕刊フジ|ZAKZAK]] 2008年[[9月1日]])</ref>。 == ルール == 棒には、人の身長よりも長く(おおよそ3~5m)、かつ、よじ登れるほどの強度を持つ丸太状の木柱を使用する。この棒には立てて支えるためのロープを数本取り付けられている場合がある。 1チームに対し1本または複数割り当てられた棒を決められた位置に立て、防御メンバーの一部がこれを取り囲んで安定させる。攻撃メンバーは競技場内を移動し、相手チームの棒を倒しにかかる。棒が倒された場合、その棒を守るチームは負けとなる。あるいは1チームに複数の棒が割り当てられている場合は、その棒の防衛を構成する競技者は競技から脱落する。 棒が倒されたと判定される基準としては、以下のような基準が使用されることが多い。 #棒が物理的に倒れた場合、あるいは決められた角度以上に傾いた場合 #棒の地面に接するべき部分のすべてが地面から離れた場合 #棒の地面に接するべき部分の一部が地面から離れた場合 #棒の先端に取り付けられた旗などを奪われた場合 棒を倒しあうことが目的の競技であるため、最も基本的な基準は1といえる。4は比較的安全なため、小学校等での競技の際に使用される。 危険防止のため、競技は[[裸足]]で行うことが多い。[[ラグビーフットボール|ラグビー]]用のヘッドキャップを着用する、[[爪]]を切るといった指導がされることもある。また、[[衣類]]を掴まれて頭から落ちないように、また衣類によって[[首]]が絞まらないように、男子は上半身[[裸]]になることもある。同様な理由で[[鉢巻]]も禁止の場合もある。一般に殴る蹴るなどの暴力行為・危険行為が反則とされることが多い。男女別、男女混合のいずれで行うかは組織により異なる。 == 戦術 == 自チームの棒の周囲と相手チームの棒の周囲のそれぞれに主な競技の場が出現する性質の競技であることなどから、一般にチーム内でメンバーごとに異なった役割が与えられることとなる。下記に主な役割を大別列挙するが、1チームあたりの人数の多寡や作戦により役割のバリエーションにも変化が生ずる。 *攻撃 **一般的には徒党を組み、相手の防御する棒に突入する。主に先に突入して他の攻撃メンバーが棒にとびかかるための経路を確保する者、先行の攻撃メンバーやや下記の[[スクラム]]が切り開いた場所などから棒に飛びかかり棒を倒しにかかる者などの役割分担がなされる。 **場合によってはスクラムが使用されることもある。これはスクラムを組んで相手側防御の形成するサークルに突入し、後からくる攻撃メンバーが棒に取りかかる道を開く、もしくは相手の棒に圧力を加えて傾きやすくするものである。 *守備 **一般に棒を取り囲みそれを直接支えるメンバーと、その周囲を周回して相手の攻撃メンバーの突入を防ぐメンバーとに大別される。 <!-- [[綱引き]]のように公式ルールがあるかもしれません。詳しい方是非加筆お願いします。'' --> == 事故 == 1984年9月、[[福岡大学附属大濠中学校・高等学校]]の体育祭の棒倒しで、2年生男子生徒が催しの最中、腹部を蹴られて転倒、演目中そのまま他生徒に踏みつけられて内臓破裂の重症を負う。1989年8月、本人を含む両親が「事故回避の注意義務を怠った」として、同校を経営する学校法人福岡大学を相手取り約5000万円の損害賠償を求めて提訴。1992年4月21日福岡地方裁判所小倉支部 <small>(綱脇和久裁判長)</small> は原告の請求を棄却。 == 防衛大学校の棒倒し == [[防衛大学校]]において、棒倒しは、[[1954年]](昭和29年。同年7月1日に[[自衛隊]]および[[防衛庁]]発足に合わせ保安大学校から防衛大学校へ改称)以降、毎年の開校祭において行われ、春の[[カッター (船)|カッター]]競技、年度末の断郊競技と合わせて3大競技とされている。 競技は各[[大隊]]<ref>防大の学生は普段から4つの大隊に分かれ寝食を共にしており、また何かイベントがあるときは大隊ごとに集められる。詳細は[[防衛大学校#学生隊]]を参照。</ref>対抗で行われる。棒倒しが、そもそも[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]・[[陸軍航空士官学校]]・[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]といった[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍|帝国海軍]]の[[軍学校|士官養成校]]で主に行われていた競技であることを継承している。参加者は所属する大隊の名誉をかけ激しく戦い、各大隊毎に緻密な作戦が立てられ、他大隊の練習情報を収集する部隊まで編成される(主に女子学生が行う)ほどである。 参加者は各大隊の精鋭150名であり、攻撃部隊、防御部隊に分けられる。ルールは至って簡単で、まず棒が競技場内に描かれた円の中に設置される。防御部隊はその円内でのみ行動ができる。試合開始の合図と共に双方の攻撃部隊は相手方の棒に攻撃をかけ、2分以内に相手方の棒を先に倒せば勝利となる(棒が3秒間30度倒れた時点で倒れたとみなされる)。 攻撃役は上着に各大隊のカラー(赤・青・緑・橙)に染められたシャツを着用、防御役は白のシャツを着用する。試合開始前には、体育学教室の教官([[幹部自衛官]])や[[助教]]([[下士官|曹]])らの下、人員の点呼が行われ、彼らにより爪が伸びていないかなどの安全点検がなされる。また空手道部やボクシング部などの打撃系校友会(クラブ活動)の学生は攻撃部隊に参加できず、防御部隊を務める。優勝大隊には「棒倒し優勝大隊」と記された看板、優勝旗、優勝カップなどが授与され、学生宿舎に飾られる。 各大隊は勝利のため部隊をさまざまなパートに分けて態勢を整えている。その編成は大隊によってさまざまであるが、一例を以下に記す。 *攻撃部隊 **スクラム - スクラムを組んで棒に突進する、また突攻の踏み台となる **突攻 - 跳びついて棒を倒す **遊撃 - 攻撃全般支援 *防御部隊 **棒持ち - 棒を支え続け倒れないようにする **上乗り - 棒の上に乗り、跳んでくる突攻を蹴り落とす **サークル - 棒を囲んで守る **キラー - 攻めてくる敵を妨害する **イージス - 能動的に機動しスクラムを無効化する防御系スクラム、[[イージスシステム]]にちなむ なお、2002年に行われた[[陸上自衛隊]][[北部方面隊]]創隊50周年記念行事において、札幌ドームで同様の各[[師団]]対抗棒倒しが行われた。このときの優勝は[[第7師団 (陸上自衛隊)|第7師団]](隷下に主に[[第11普通科連隊]]、[[第71戦車連隊|第71]]・[[第72戦車連隊|第72]]・[[第73戦車連隊]])である。 ==登場する作品== * 『[[無法松の一生 (1943年の映画)]]』(映画、1943年公開、[[稲垣浩]]監督) * 『[[棒たおし!]]』(映画、2003年公開、[[前田哲]]監督) == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:ほうたおし}} [[Category:子供の遊び]] [[Category:運動会の競技]]
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ゴムとび
ゴムとび(ゴム跳び)は、二人の人の体や電柱にゴムひもを渡し、跳ぶ人が歌に合わせて、ゴムを足や体に引っ掛けたり捻ったりする、子供の遊び。主に女の子が遊ぶことが多い。 地域によっては、ゴム段(ごむだん)とも呼ばれる。 遊戯参加者が「アルプス一万尺」「さくまのキャンロップ」といったテーマ曲に合わせて、足だけでゴムを引っ掛けたり、離したり、ねじったりして演技を行う。ミスなく演技をクリアすると、ゴム段の高さを足首、ひざ、腰と高くしたり、ゴム幅を狭くしたりして難易度を上げていく。途中演技に失敗すると演技者が交代する。 女子児童を中心に広く楽しまれているが、小学校高学年の男子児童までスポーティーにアレンジすることで幅広く楽しまれている。 足を前に高く上げてゴムを引っ掛けて跳ぶ「男跳び」、奥のゴムを手前に交差させてから跳ぶ「名古屋跳び」などの様々な<ワザ>があるが、地域により名称が異なる模様。
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ゴムとび(ゴム跳び)は、二人の人の体や電柱にゴムひもを渡し、跳ぶ人が歌に合わせて、ゴムを足や体に引っ掛けたり捻ったりする、子供の遊び。主に女の子が遊ぶことが多い。 地域によっては、ゴム段(ごむだん)とも呼ばれる。
{{出典の明記|date=2015年3月29日 (日) 16:05 (UTC)}} [[ファイル:Gummitwist-1998Kinder1.jpg|サムネイル|200x200ピクセル]] [[ファイル:Coiled_Chinese_jump_rope.jpg|サムネイル|200x200ピクセル]] '''ゴムとび'''(ゴム跳び)は、二人の人の体や電柱に[[ゴムひも]]を渡し、跳ぶ人が歌に合わせて、ゴムを足や体に引っ掛けたり捻ったりする、[[こどもの文化|子供の遊び]]。主に女の子が遊ぶことが多い。 地域によっては、ゴム段(ごむだん)とも呼ばれる<ref>{{Cite journal|和書|author=平松左枝子|title=ゴム段・ゴムとび ちょっと考察|journal=多摩のあゆみ|number=101|publisher=たましん地域文化財団|date=2001-02|pages=46-49|language=日本語}}</ref>。 == 解説 == 遊戯参加者が「アルプス一万尺」「さくまのキャンロップ」といったテーマ曲に合わせて、足だけでゴムを引っ掛けたり、離したり、ねじったりして演技を行う。ミスなく演技をクリアすると、ゴム段の高さを足首、ひざ、腰と高くしたり、ゴム幅を狭くしたりして難易度を上げていく。途中演技に失敗すると演技者が交代する。 女子児童を中心に広く楽しまれているが、小学校高学年の男子児童までスポーティーにアレンジすることで幅広く楽しまれている。 足を前に高く上げてゴムを引っ掛けて跳ぶ「男跳び」、奥のゴムを手前に交差させてから跳ぶ「名古屋跳び」などの様々な<ワザ>があるが、地域により名称が異なる模様。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{デフォルトソート:こむとひ}} [[Category:子供の遊び]]
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ゴムひも
ゴムひも(ゴム紐)は、ゴムあるいは伸縮糸を丸打ちあるいは平打ちして加工した紐である。イラスティック(英語:Elastic、Elastic cord)とも呼ばれ、主に洋裁などに使われる。 洋裁用の製品としては、丸ゴム、ウエスト用ゴム、肌着用ゴムなどがある。よく伸縮することと簡単にはのびきらないことが良いゴムひもの第一の条件であるが、手芸用や髪どめ用など、カラフルかつ多様なデザインのゴムひもも存在する。 また、自動車や自転車、二輪車の荷台に荷物をくくりつけるため、ある程度の太さと強度を持たせたものも販売されている。これは「ゴムロープ」などとも呼ばれ、二輪車でもツーリングネットなどの他の積載手段と比べて非常に安価であることから、幅広く用いられている。 はじいたときの衝撃が緩和されるため、ゴムとびに利用する子供も多い。 1970年代までは、押し売りが商う商品の代名詞でもあった。 日本のお笑いコンビ・ゆーとぴあは1970年代から80年代にかけ、極太ゴムひもを使ったゴムパッチン芸で一躍脚光を浴びた。 ニュージーランドの方言でゴムひものことをバンジー(英:Bungee)と呼び、フック付きの髪どめ用ゴムひもなどを、バンジーフック(英:Bungee-Hook)、また、引っ掛け金具(フック)付きゴムロープのことをバンジーコード(英:Bungee cord)と呼ばれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ゴムひも(ゴム紐)は、ゴムあるいは伸縮糸を丸打ちあるいは平打ちして加工した紐である。イラスティック(英語:Elastic、Elastic cord)とも呼ばれ、主に洋裁などに使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "洋裁用の製品としては、丸ゴム、ウエスト用ゴム、肌着用ゴムなどがある。よく伸縮することと簡単にはのびきらないことが良いゴムひもの第一の条件であるが、手芸用や髪どめ用など、カラフルかつ多様なデザインのゴムひもも存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、自動車や自転車、二輪車の荷台に荷物をくくりつけるため、ある程度の太さと強度を持たせたものも販売されている。これは「ゴムロープ」などとも呼ばれ、二輪車でもツーリングネットなどの他の積載手段と比べて非常に安価であることから、幅広く用いられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "はじいたときの衝撃が緩和されるため、ゴムとびに利用する子供も多い。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1970年代までは、押し売りが商う商品の代名詞でもあった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本のお笑いコンビ・ゆーとぴあは1970年代から80年代にかけ、極太ゴムひもを使ったゴムパッチン芸で一躍脚光を浴びた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ニュージーランドの方言でゴムひものことをバンジー(英:Bungee)と呼び、フック付きの髪どめ用ゴムひもなどを、バンジーフック(英:Bungee-Hook)、また、引っ掛け金具(フック)付きゴムロープのことをバンジーコード(英:Bungee cord)と呼ばれる。", "title": "その他" } ]
ゴムひも(ゴム紐)は、ゴムあるいは伸縮糸を丸打ちあるいは平打ちして加工した紐である。イラスティックとも呼ばれ、主に洋裁などに使われる。
'''ゴムひも'''(ゴム紐)は、[[ゴム]]あるいは伸縮糸を丸打ちあるいは平打ちして加工した[[紐]]である<ref name="名前なし-1">『繊維の百科事典』 丸善、2002年</ref>。'''イラスティック'''(英語:[[:en:Elastic|Elastic]]、Elastic cord)とも呼ばれ、主に[[洋裁]]などに使われる。 == 概要 == 洋裁用の製品としては、丸ゴム、ウエスト用ゴム、肌着用ゴムなどがある<ref name="名前なし-1"/>。よく伸縮することと簡単にはのびきらないことが良い'''ゴムひも'''の第一の条件であるが、手芸用や髪どめ用など、カラフルかつ多様なデザインの'''ゴムひも'''も存在する。 また、[[自動車]]や[[自転車]]、[[オートバイ|二輪車]]の荷台に荷物をくくりつけるため、ある程度の太さと強度を持たせたものも販売されている。これは「ゴムロープ」などとも呼ばれ、二輪車でもツーリングネットなどの他の積載手段と比べて非常に安価であることから、幅広く用いられている。 == その他 == はじいたときの衝撃が緩和されるため、[[ゴムとび]]に利用する子供も多い。 1970年代までは、[[訪問販売|押し売り]]が商う商品の代名詞でもあった。 日本のお笑いコンビ・[[ゆーとぴあ]]は1970年代から80年代にかけ、極太ゴムひもを使ったゴムパッチン芸で一躍脚光を浴びた。 ニュージーランドの方言でゴムひものことを'''バンジー'''(英:Bungee)と呼び、フック付きの髪どめ用ゴムひもなどを、'''バンジーフック'''(英:Bungee-Hook)、また、引っ掛け金具(フック)付きゴムロープのことを'''バンジーコード'''(英:[[:en:Bungee cord|Bungee cord]])と呼ばれる。 == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:こむひも}} [[Category:手芸]] [[Category:ゴム]] [[Category:裁縫道具]]
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7,794
有限温度への拡張
有限温度への拡張(ゆうげんおんどへのかくちょう):密度汎関数法は、絶対零度を前提とした理論であり、有限温度での電子状態を正しく求める保証はどこにもなかった。これを有限温度まで取り扱えるように拡張させるアプローチが、有限温度への拡張である。最も初期の試みは、マーミンによるものがある。現在も様々な試行が続いているが、確立された理論は出来ていない。
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有限温度への拡張(ゆうげんおんどへのかくちょう):密度汎関数法は、絶対零度を前提とした理論であり、有限温度での電子状態を正しく求める保証はどこにもなかった。これを有限温度まで取り扱えるように拡張させるアプローチが、有限温度への拡張である。最も初期の試みは、マーミンによるものがある。現在も様々な試行が続いているが、確立された理論は出来ていない。
'''有限温度への拡張'''(ゆうげんおんどへのかくちょう):[[密度汎関数法]]は、[[絶対零度]]を前提とした理論であり、有限温度での[[電子状態]]を正しく求める保証はどこにもなかった。これを有限温度まで取り扱えるように拡張させるアプローチが、'''有限温度への拡張'''である。最も初期の試みは、マーミンによるものがある<ref>N. D. Mermin, Phys. Rev. '''137''' (1965) A1441.</ref>。現在も様々な試行が続いているが、確立された理論は出来ていない。 == 参考文献 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[第一原理バンド計算]] [[Category:固体物理学|ゆうけんおんとへのかくちよう]]
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会社
会社(かいしゃ)は、日本法上、株式会社、合名会社、合資会社および合同会社をいう。また、外国法における類似の概念(イギリスにおけるcompany(カンパニー)、アメリカにおけるcorporation(コーポレーション)など)の訳語としても用いられる。 本項では、日本法上の会社に加え、それに類似する各国の会社形態についても記述する。 日本法下では、会社法施行後においては株式会社、合名会社、合資会社および合同会社の4つが会社とされている(会社法2条1号)。いずれも、登記(商業登記)によって成立する。 従来は、商法第2編で定められていた株式会社、合名会社および合資会社(さらに昔は株式合資会社も)に加え、昭和13年に制定された有限会社法で有限会社の設立が認められていたが、2005年(平成17年)制定の新会社法で有限会社は株式会社に統合された。それとともに、出資者の有限責任が確保され、会社の内部関係については組合的規律が適用される新たな会社形態として合同会社が新設された。 会社法が施行される前は、会社は商法上は「商行為ヲ為スヲ業トスル目的ヲ以テ設立シタル社団」と定義され、株式会社、合資会社および合名会社の3種(株式合資会社の廃止前はこれを含む4種)とされていた。それに加えて有限会社も株式会社と同様に出資者を有限責任とする有限会社法の規定によって設立された会社であった。また「営利ヲ目的トスル社団」で商法第2編(会社)の規定によって設立された商行為をなすを業としないもの、営利目的であるが商法上の商行為に該当しない農林水産業などを営むもの(民事会社)も会社とみなされた。結局、学説においては会社の定義を「営利を目的とする社団法人」としていた。 日本法上の会社の通有的性質として、営利を目的とする社団法人であるという点が挙げられる。 明治時代、「会社」の語は、英語のcompanyの訳語としても用いられる一方で、大陸法の組合=会社概念(羅societas、仏société、独Gesellschaft)の訳語として用いられた。すなわち、旧民法財産取得編第6章「会社」は会社契約(現在の組合契約)の規定を置き、民事目的の会社、すなわち民事会社(現在の民法上の組合。ただし、営利目的・事業・職業目的に限定される点、法人化することができる点において現在の新民法とは大きく異なる。)について規律し、商事目的の会社、すなわち商事会社については商法に規定を委ねていた(ただし、民事会社であっても「資本を株式に分つとき」は商法の規定が準用された。)。そして、これを受けて商法は会社(商事会社)として合名会社や株式会社の規定をおいた。 明治29年制定の新民法においては、政府案においてはやはり「会社」の語が用いられたが、衆議院にて「組合」に改められた。こうして、民法の「組合」と商法の「会社」というように、異なる語が用いられることとなったのである。 当初、商行為主義が採られていたことから、商法上は、会社とは、商行為を業として為すを目的とするもの(いわゆる商事会社)に限られる一方で、民法において、商法の会社の規定に従って営利目的社団法人(合名会社や株式会社)を設立することができる旨の規定がおかれ(いわゆる民事会社)、後に、商法にも民事会社の規定が置かれて商事会社と同様に商人として扱われることが明確化され、ついには民法から民事会社の規定が削除されるに至り、現在の会社法では商行為目的か否かによる区別は全くおかれていない。 2008年(平成20年)10月末現在、会社法上の会社は334万1000社(清算中の会社を除く)あり、うち株式会社(特例有限会社を除く)が139万4000社、合名会社が1万8000社、合資会社が8万5000社、合同会社が、1万4000社である。 また、2007年(平成19年)において、会社法上の会社の設立件数は10万1981件、うち株式会社が9万5363件(93.5%)、合名会社が52件(0.0%)、合資会社が490件(0.5%)、合名会社が6076件(6.0%)であった。 以下のは社団法人、会社と同種のもの又は会社に類似するものであり、いずれも商法上の商人と位置付けられる。 以下の社団法人は、名称に「会社」を含んでいる、もしくは持分会社の規定を準拠しているという特徴を有するが、いずれも会社ではなく、商法上の商人にも該当しない。 アメリカ合衆国における会社形態で、最も一般的なのが、コーポレーション(corporation)であり、法人格を有し株主の有限責任が認められている点で日本の株式会社に近い。 公開会社(publicly held corporation)の数は1万社から1万5000社、一方、閉鎖会社(closely held corporation)は400万社以上と推定されている。公開会社は数の上では少ないが、1万社前後の公開会社によってアメリカの事業資産の90%以上が所有されているとされる。 ジェネラル・パートナーシップは、無限責任を負う組合員(partner)のみからなり、リミテッド・パートナーシップは無限責任組合員(general partner)と有限責任組合員(limited partner)からなる。1994年統一パートナーシップ法によると、ジェネラル・パートナーシップは、物的財産および人的財産をその名において所有し、また、その名において訴え、あるいは訴えられることができるなどとされている。 また、1970年代以降に各州で生まれたLLC(limited liability company)は、出資者全員の有限責任が認められると同時に、機関設計や意思決定手続が柔軟で、パススルー課税が認められることから、近年、中小規模の会社形態として選ばれることが増えている。 2006年会社法(Companies Act 2006)における会社(company)は以下のように分類される。このほか、特別法や勅許による会社(company)が存在する。 また、次のような分類もある。 このほか、ジェネラル・パートナーシップは、無限責任を負う組合員(partner)のみからなり、合名会社に相当する。リミテッド・パートナーシップは無限責任組合員(general partner)と有限責任組合員(limited partner)からなり、合資会社に相当する。また、各組合員の責任が限定されたリミテッド・ライアビリティ・パートナーシップ(limited liability partnership; LLP)も創設されており、これは法人格を有する点で他のパートナーシップと異なるが、合同会社や有限責任事業組合に相当する。 ドイツ法では、組合(Gesellschaft)(会社(Handelsgesellschaft)を含む。)は資本会社(独: Kapitalgesellschaft)と人的組合(独: Personengesellschaft:定訳は人的会社だが、ここでは便宜上このように訳す。)に区別される。また、会社(Handelsgesellschaft)のうち、人的組合(独: Personengesellschaft)であるものは、人的会社(Personenhandelsgesellschaft)という。 フランス法においては、民法典により、組合(société;「会社」との訳もある。)は、「出資から生じることのある利益を分配し、又は節約の利益を得るために、共同事業に財産又は労務を出資することを契約により合意する2名又は数名の者によって、設立される。」として、民事組合(société civile;「民事会社」との訳も)と匿名組合(société en participation)が規定されている。さらに、商法(Code de commerce)により、組合のうち、形態または目的に照らして商事性を有するものは会社(société commerciale;「商事会社」との訳もある。)とされる(なお、会社法(la loi no 66-537 du 24 juillet 1966 sur les sociétés commerciales;「商事会社法」との訳もある。)施行前は原則として商行為を目的とするか否かにより商事性の有無が区別された。)。会社(商事会社)は、登記によって法人格を取得する。また、会社(商事会社)は、商人として扱われることとなる。 その形態によって、目的にかかわらず当然に会社(商事会社)とされるものは以下のとおり。 以上のほか、民事組合(民事会社)(仏: société civile;SC)や匿名組合(仏: société en participation;SEP)、事実上の会社(société de fait)については目的によって会社(商事会社)とされ得るが、いずれも法人格を付与されることはない。 会社法(la loi du 10 août 1915 concernant les sociétés commerciales)では、商行為を目的とする組合(société)が会社(société commerciale)(「商事会社」との訳もある。)である。また、民事目的においても合名会社、(単純)合資会社、株式会社、株式合資会社、有限会社又は協同会社を設立することができ、その場合にはその取引は商事的なものとして商事法・商慣習に服することとなる(日本におけるかつての民事会社に相当)。 欧州経済領域では、欧州会社法に基づく会社形態 その他のEU規則に基づく会社形態 各国の主として営利目的に利用される一般的な会社、組合の形態をおおざっぱに整理したものである。
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会社(かいしゃ)は、日本法上、株式会社、合名会社、合資会社および合同会社をいう。また、外国法における類似の概念(イギリスにおけるcompany、アメリカにおけるcorporationなど)の訳語としても用いられる。 本項では、日本法上の会社に加え、それに類似する各国の会社形態についても記述する。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年3月 }} '''会社'''(かいしゃ)は、[[日本法]]上、[[株式会社 (日本)|株式会社]]、[[合名会社]]、[[合資会社]]および[[合同会社]]をいう。また、外国法における類似の概念([[イギリス]]におけるcompany(カンパニー)、[[アメリカ]]におけるcorporation([[コーポレーション]])など)の訳語としても用いられる。 本項では、日本法上の会社に加え、それに類似する各国の会社形態についても記述する。 == 日本 == === 会社の定義 === [[日本]]法下では、[[会社法]]施行後においては[[株式会社 (日本)|株式会社]]、[[合名会社]]、[[合資会社]]および[[合同会社]]の4つが会社とされている([[b:会社法第2条|会社法2条]]1号)。いずれも、[[登記]]([[商業登記]])によって成立する。 従来は、[[商法#日本の商法|商法]]第2編で定められていた株式会社、合名会社および合資会社(さらに昔は株式合資会社も)に加え、昭和13年に制定された[[有限会社法]]で[[有限会社]]の設立が認められていたが、2005年(平成17年)制定の新会社法で有限会社は株式会社に統合された<ref>概要・第2の1(1)。</ref><ref group="注釈">[[有限会社法]]は会社法の施行(2006年5月1日)に伴って廃止され、従来の[[有限会社]](旧有限会社)は、株式会社として存続することとされた([[会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律]]2条1項)。この株式会社は、商号中に「有限会社」という文字を用いることとされ、[[特例有限会社]]と呼ばれる(同法3条)。また「株式会社」へと商号変更することにより通常の株式会社に移行することもできる(同法45条)。</ref>。それとともに、出資者の有限責任が確保され、会社の内部関係については組合的規律が適用される新たな会社形態として[[合同会社]]が新設された<ref>会社法575条以下、概要・第2の4(1)。</ref>。 会社法が施行される前は、会社は商法上は「商行為ヲ為スヲ業トスル目的ヲ以テ設立シタル社団」と定義され、株式会社、合資会社および合名会社の3種(株式合資会社の廃止前はこれを含む4種)とされていた。それに加えて有限会社も株式会社と同様に出資者を有限責任とする有限会社法の規定によって設立された会社であった。また「営利ヲ目的トスル社団」で商法第2編(会社)の規定によって設立された[[商行為]]をなすを業としないもの、[[営利]]目的であるが商法上の商行為に該当しない農林水産業などを営むもの([[民事会社]])も会社とみなされた。結局、学説においては会社の定義を「営利を目的とする社団法人」としていた。 === 会社の通有的性質 === 日本法上の会社の通有的性質として、営利を目的とする社団法人であるという点が挙げられる<ref>神田 (2009: 4-7) 参照。</ref>。 ; 法人性 : [[法人]]とは、団体自身の名において[[権利]]を有し[[義務]]を負う資格があることをいう<ref>神田 (2009: 4)。[[b:会社法第3条|会社法3条]]参照。</ref>。 : もっとも、常に[[自然人]]と同様の権利能力を有するわけではなく、性質上又は法令による制限を受けるほか、[[定款]]に定められた目的によって制限を受ける。そして、目的外の行為は[[無効]]となるのが原則である([[ウルトラ・ヴィーレスの法理]])。かつては、[[判例]]は定款の目的条項を厳格に解釈していたが、後に柔軟な解釈をするようになり、今日では会社の行為が目的外であるとして無効とされることはまずない<ref>神田 (2009: 5)。</ref>。 : また、法人格の濫用又は法人格の形骸化が認められる場合には、判例上、法人格が否認されることがある([[法人格否認の法理]])<ref>神田 (2009: 4-5)。</ref>。 ; 営利法人性 : [[法人#営利法人と非営利法人|営利法人]]とは、[[事業]]を行い、それによって得た利益を出資者に分配することを目的とする法人をいう<ref>神田 (2009: 5-6)。</ref>。 ; 社団性 : [[社団]]とは、伝統的な民法学説によると、構成員が、構成員どうしの[[契約]]によって結び付くのではなく、団体との関係(社員関係)を介して間接的に結び付く団体をいう。この点で、構成員どうしの契約関係で結び付く[[組合]]と区別される。もっとも、会社が社団であるという場合には、もはやこのような民法学説は前提とすることができないと考えられている。そもそも合名会社や合資会社には組合類似の規律がなされているからである。会社における社団性とは、単に人の集まりという意味(すなわち、[[財団]]とは異なり、構成員(社員)が存在するということ)以上のものではないと考えられている。社団の構成員を[[社員]]といい<ref group="注釈">[[法学]]上、[[社員]]とは社団の構成員を指し、日常用語にいう社員が[[従業員]]を指すのとは異なる。神田 (2009: 6-7)。</ref>、会社の社員(株式会社においては[[株主]]と呼ばれる。)は会社の出資者であり、会社の経営に対する最終的なコントロール権が付与されている<ref>神田 (2009: 6)。</ref>。 === 「会社」の沿革 === 明治時代、「会社」の語は、英語のcompanyの訳語としても用いられる一方で、[[大陸法]]の組合=会社概念(羅societas、仏société、独Gesellschaft)の訳語として用いられた。すなわち、旧民法財産取得編第6章「会社」は会社契約(現在の[[組合#民法上の組合|組合契約]])の規定を置き、民事目的の会社、すなわち民事会社(現在の民法上の組合。ただし、営利目的・事業・職業目的に限定される点、法人化することができる点において現在の新民法とは大きく異なる。)について規律し、商事目的の会社、すなわち商事会社については商法に規定を委ねていた(ただし、民事会社であっても「資本を株式に分つとき」は商法の規定が準用された。)。そして、これを受けて商法は会社(商事会社)として合名会社や株式会社の規定をおいた。 明治29年制定の新民法においては、政府案においてはやはり「会社」の語が用いられたが、[[衆議院]]にて「組合」に改められた。こうして、民法の「組合」と商法の「会社」というように、異なる語が用いられることとなったのである。 当初、商行為主義が採られていたことから、商法上は、会社とは、商行為を業として為すを目的とするもの(いわゆる[[商事会社]])に限られる一方で、民法において、商法の会社の規定に従って営利目的社団法人(合名会社や株式会社)を設立することができる旨の規定がおかれ(いわゆる[[民事会社]])、後に、商法にも民事会社の規定が置かれて商事会社と同様に商人として扱われることが明確化され、ついには民法から民事会社の規定が削除されるに至り、現在の会社法では商行為目的か否かによる区別は全くおかれていない。 === 会社の数 === 2008年(平成20年)10月末現在、会社法上の会社は334万1000社([[清算]]中の会社を除く)あり、うち株式会社([[特例有限会社]]を除く)が139万4000社、合名会社が1万8000社、合資会社が8万5000社、合同会社が、1万4000社である<ref>神田 (2009: 8)。</ref>。 また、2007年(平成19年)において、会社法上の会社の設立件数は10万1981件、うち株式会社が9万5363件(93.5%)、合名会社が52件(0.0%)、合資会社が490件(0.5%)、合名会社が6076件(6.0%)であった<ref>2007年商業・法人登記統計([http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/Xlsdl.do?sinfid=000001223694 第33表 会社及び登記の種類別 会社の登記の件数] (XLS))。</ref>。 === 廃止された会社形態 === * [[株式合資会社]](昭和25年改正前[[商法]]、[[1951年|昭和26年]]7月1日に改正法が施行されてから、5年の経過期間を経て廃止) * [[有限会社]](旧[[有限会社法]]、[[2006年]](平成18年)5月1日に会社法施行によって廃止され、株式会社の一種である「特例有限会社」として存続) === 会社類似の社団法人 === 以下のは社団法人、会社と同種のもの又は会社に類似するものであり、いずれも[[商法]]上の[[商人]]と位置付けられる。 ;[[特定目的会社]] :[[資産の流動化に関する法律]]に基づき設立される、資産流動化取引のための特別目的会社としての利用が想定された社団法人。 ;[[投資法人]] :[[投資信託及び投資法人に関する法律]]に基づき設立される、会社型投資信託のための特別目的会社としての利用が想定された社団法人。会社と同じく商人である。 ;[[外国会社]] :外国の法律に準拠して設立された社団法人。会社と同種のもの又は会社に類似するものである。 === 社団法人 === 以下の社団法人は、名称に「会社」を含んでいる、もしくは[[持分会社]]の規定を準拠しているという特徴を有するが、いずれも会社ではなく、商法上の商人にも該当しない。 ; [[相互会社]] :[[保険業法]]に基づき設立される、保険会社としての利用が想定された[[社団法人]]。社団法人であるが、社員と保険の加入者が一致する構造であることから、営利(対外的営利活動による利益の分配)を目的としない。 ;[[監査法人]]・[[税理士法人]]・[[弁護士法人]]・[[司法書士法人]]・[[行政書士法人]]・[[特許業務法人]]・[[土地家屋調査士法人]]・[[社会保険労務士法人]] :それぞれ[[公認会計士法]]、[[税理士法]]、[[弁護士法]]、[[司法書士法]]、[[行政書士法]]、[[弁理士法]]、[[土地家屋調査士法]]、[[社会保険労務士法]]に基づき設立される特殊な法人であり、持分会社の規定の一部を各士業の特性に合わせて準用している。法人の利益を社員に分配し得るため営利法人に分類されるが、当該社員の資格は原則として[[国家資格]]保有者に限定されており、上記の根拠法に基づき種々の規制が課せられるため、その営利性は会社よりも限定的である。 == アメリカ合衆国 == [[アメリカ合衆国]]における会社形態で、最も一般的なのが、[[コーポレーション]](corporation)であり、法人格を有し株主の有限責任が認められている点で日本の株式会社に近い。 公開会社(publicly held corporation)の数は1万社から1万5000社、一方、閉鎖会社(closely held corporation)は400万社以上と推定されている。公開会社は数の上では少ないが、1万社前後の公開会社によってアメリカの事業資産の90%以上が所有されているとされる<ref>Hamilton (2000: 377)。</ref>。 [[ジェネラル・パートナーシップ]]は、無限責任を負う組合員(partner)のみからなり、[[リミテッド・パートナーシップ]]は無限責任組合員(general partner)と有限責任組合員(limited partner)からなる。1994年統一パートナーシップ法によると、ジェネラル・パートナーシップは、[[不動産|物的財産]]および[[動産|人的財産]]をその名において所有し、また、その名において訴え、あるいは訴えられることができるなどとされている<ref>Hamilton (2000: 11-12)。</ref>。 また、1970年代以降に各州で生まれた[[LLC]](limited liability company)は、出資者全員の有限責任が認められると同時に、機関設計や意思決定手続が柔軟で、パススルー課税<ref group="注釈">通常の法人課税では、企業の利益に対し所得課税がされた上で、株主が企業から受け取る[[配当]]についても、株主個人の所 得課税が行われる(二重課税)のに対し、'''パススルー課税''' (pass through taxation) とは、企業に損益が生じた時点でこれを株主に帰属したものとみなし、企業に対する課税は行わず、株主に対する所得課税のみを行うものである。Hamilton (2000: 28-30)。</ref>が認められることから、近年、中小規模の会社形態として選ばれることが増えている<ref>Hamilton (2000: 23-26, 40-41)。</ref>。 == イギリス == 2006年会社法(Companies Act 2006)における会社(company)は以下のように分類される。このほか、特別法や勅許による会社(company)が存在する。 * [[有限責任会社]](limited company) ** 株式有限責任会社(「株式会社」とも)(company limited by shares):日本の株式会社に相当 ** 保証有限責任会社(「保証会社」、「保証有限会社」、「担保有限会社([[中国語|中]]:{{lang|zh-HK|擔保有限公司}})」とも)(company limited by guarantee):株式資本(share capital)を有するものとそうでないものがある。 * [[無限責任会社]](unlimited company):日本の合名会社に相当 また、次のような分類もある。 * [[公開会社]](public company):株式有限責任会社(company limited by shares)と株式資本を有する保証有限責任会社(company limited by guarantee and having a share capital)のうち、基本定款(certificate of incorporation)において公開会社である旨の定めをおき、かつ、公開会社としての登記または再登記に関する一定の要件を充足するもの。 ** [[公開有限会社|有限責任公開会社]](public limited company):公開会社である有限責任会社。原則として、その名称に"public limited company"または"p.l.c."(ウェールズの会社については、"cwmnicyfyngedig cyhoeddus"または"c.c.c."も可。)を付さなければならない。 * [[私会社]](private company):公開会社以外の会社。 ** 有限責任私会社(private limited company):原則として、その名称に"limited"または"ltd."(ウェールズの会社については"cyfyngedig"または"cyf."も可。)を付さなければならない。株式有限責任私会社(private company limited by shares)は[[有限会社]]に相当する。 このほか、[[ジェネラル・パートナーシップ]]は、無限責任を負う組合員(partner)のみからなり、合名会社に相当する。[[リミテッド・パートナーシップ]]は無限責任組合員(general partner)と有限責任組合員(limited partner)からなり、合資会社に相当する。また、各組合員の責任が限定された[[リミテッド・ライアビリティ・パートナーシップ]](limited liability partnership; LLP)も創設されており、これは法人格を有する点で他のパートナーシップと異なるが、合同会社や有限責任事業組合に相当する。 == ドイツ == ドイツ法では、組合(Gesellschaft)(会社(Handelsgesellschaft)を含む。)は資本会社({{lang-de-short|Kapitalgesellschaft}})と人的組合({{lang-de-short|Personengesellschaft}}:定訳は人的会社だが、ここでは便宜上このように訳す。)に区別される。また、会社(Handelsgesellschaft)のうち、人的組合({{lang-de-short|Personengesellschaft}})であるものは、人的会社(Personenhandelsgesellschaft)という。 * [[物的会社|資本会社]]({{lang-de-short|Kapitalgesellschaft}} ):法人格を有し、法人課税が適用される。 **[[株式会社 (ドイツ)|株式会社]]({{lang-de-short|Aktiengesellschaft}};AG):ドイツの株式法(AktG)を根拠法とし、会社(Handelsgesellschaft)とみなされる。一人会社が許容される。 ** [[有限会社 (ドイツ)|有限会社]]({{lang-de-short|Gesellschaft mit beschränkter Haftung}};GmbH):ドイツの有限会社法(GmbHG)を根拠法とし、会社(Handelsgesellschaft)とみなされる。一人会社が許容される。 *** 有限責任事業者会社({{lang-de-short|Unternehmergesellschaft (haftungsbeschränkt)}};UG (haftungsbeschränkt):定訳はない):[[2008年]]の改正有限会社法により創設された、EUR 1.00の資本金で設立できる“ミニ有限会社”({{lang-de-short|"Mini-GmbH"}})。一人会社が許容される。 ** [[株式合資会社]] ({{lang-de-short|Kommanditgesellschaft auf Aktien}};KGaA):ドイツの株式法(AktG)において、無限責任社員と株主からなる株式会社 (AG) の特殊形態とされる。無限責任社員が会社を代表し業務執行を行い、[[取締役会#ドイツの監査役会|監査役会 {{lang|de|(Aufsichtsrat)}} ]]が業務を監査する。有限責任の法人を無限責任社員とすることで、事実上有限責任の会社形態として利用することもできる。 *** [[株式・株式合資会社|株式・株式合資会社 (AG & Co. KGaA)]] : AGを無限責任社員とするKGaA *** [[有限株式合資会社|有限株式合資会社 (GmbH & Co. KGaA)]] : GmbHを無限責任社員とするKGaA *** Stiftung & Co. KGaA:[[財団法人]]を無限責任社員とするKGaA * 人的組合({{lang-de-short|Personengesellschaft}}):法人格は有せず、構成員課税が適用される。 ** [[人的会社]]({{lang-de-short|Personenhandelsgesellschaft}}) *** [[合名会社]] ({{lang-de-short|offene Handelsgesellschaft}};OHG):ドイツの商法典(HGB)を根拠法とする会社(Handelsgesellschaft)。法人格は有しないにもかかわらず、法的主体性を有する。量販体制での事業経営を目的とする民法組合 (GbR) は自動的に OHG と見なされる。有限責任の法人を無限責任社員とすることで、事実上有限責任の会社形態として利用することもできる。 **** AG & Co. OHG : AGを無限責任社員とするOHG **** [[有限合名会社|有限合名会社 (GmbH & Co. OHG)]] : GmbHを無限責任社員とするOHG *** [[合資会社]] ({{lang-de-short|Kommanditgesellschaft}};KG):ドイツの商法典(HGB)を根拠法とする会社(Handelsgesellschaft)で、合名会社 (OHG) の特殊形態とされる。OHG と同様に法人格は有しないにもかかわらず、法的主体性を有する。有限責任の法人を無限責任社員とすることで、事実上有限責任の会社形態として利用することもできる。 **** [[株式・合資会社|株式・合資会社 (AG & Co. KG)]] : AGを無限責任社員とするKG **** [[有限合資会社|有限合資会社 (GmbH & Co. KG)]] : GmbHを無限責任社員とするKG **** UG (haftungsbeschränkt) & Co. KG : UGを無限責任社員とするKG **** Stiftung & Co. KG:財団法人を無限責任社員とするKG * 人的会社以外の人的組合は省略。 == フランス == フランス法においては、[[フランス民法典|民法典]]により、組合(société;「会社」との訳もある。)は、「出資から生じることのある利益を分配し、又は節約の利益を得るために、共同事業に財産又は労務を出資することを契約により合意する2名又は数名の者によって、設立される。」として、民事組合(société civile;「民事会社」との訳も)と匿名組合(société en participation)が規定されている。さらに、商法(Code de commerce)により、組合のうち、形態または目的に照らして商事性を有するものは会社(société commerciale;「商事会社」との訳もある。)とされる(なお、会社法(la loi no 66-537 du 24 juillet 1966 sur les sociétés commerciales;「商事会社法」との訳もある。)施行前は原則として商行為を目的とするか否かにより商事性の有無が区別された。)。会社(商事会社)は、登記によって法人格を取得する。また、会社(商事会社)は、[[商人 (商法)|商人]]として扱われることとなる。 その形態によって、目的にかかわらず当然に会社(商事会社)とされるものは以下のとおり。 * 株式制会社({{lang-fr-short|société par actions}}:定訳はない。):これらの会社形態では法人課税が適用される。株式会社に相当。 ** [[株式会社]]({{lang-fr-short|société anonyme}};SA) ** [[簡易株式制会社]]({{lang-fr-short|société par actions simplifiée}};SAS:定訳はない):[[株主総会]]と[[役員 (会社)#簡易株式会社 (SAS) のプレジダン|代表者]]は必置の機関であるが、[[取締役会]]等の機関について定款自治が認められている(設置義務がない)。[[1994年]]の法改正で新たに創設された会社形態。[[合弁事業|合弁会社]]や[[子会社]]としての利用を想定し、当初は設立時社員を2社以上の会社としていたが、[[1999年]]の法改正で社員資格を[[自然人]]に拡大し、一人簡易株式制会社({{lang-fr-short|SASU, SAS unipersonnelle}})が許容されるようになった。 ** [[株式合資会社]]({{lang-fr-short|société en commandite par actions}};SCA):株主 ({{lang|fr|commanditaires}}) と、株主から選任される無限責任社員 ({{lang|fr|commandités}}) とで構成される。無限責任社員は株主でもある。無限責任社員は[[商人 (商法)|商人]]資格([[商行為]]を為し得る地位)を有する。無限責任社員の指名と株主の同意を得て選任される[[役員 (会社)#ジェラン|取締役 ({{lang|fr|gérant}}) ]]が会社の業務執行を行い、取締役は株主で構成される[[取締役会#フランスの監査役会|監査役会 ({{lang|fr|conseil de surveillance}}) ]]によって監督される。無限責任社員が本人自身を取締役に指名することもある。 * [[有限会社 (フランス)|有限会社]]({{lang-fr-short|société à responsabilité limitée}};SARL):[[1925年]]にドイツ法における[[有限会社 (ドイツ)|有限会社(GmbH)]]に倣ってフランスに導入された。[[1985年]]の法改正により一人有限会社({{lang-fr-short|SARL unipersonnelle}}、実務上は有限責任一人企業 {{lang|fr|EURL, Entreprise unipersonnelle à responsabilité limitée}} と呼ばれる)が許容されている。法人課税が適用される。 * [[合資会社|(単純)合資会社]]({{lang-fr-short|société en commandite simple}};SCS):フランスの税法では原則として無限責任社員に限り構成員課税である。法人課税を選択することもできる。 * [[合名会社]]({{lang-fr-short|société en nom collectif}};SNC):フランスの税法では原則として構成員課税である。法人課税を選択することもできる。 以上のほか、民事組合(民事会社)({{lang-fr-short|société civile}};SC)や[[匿名組合]]({{lang-fr-short|société en participation}};SEP)、事実上の会社(société de fait)については目的によって会社(商事会社)とされ得るが、いずれも法人格を付与されることはない。 == ルクセンブルク == 会社法(la loi du 10 août 1915 concernant les sociétés commerciales)では、商行為を目的とする組合(société)が会社(société commerciale)(「商事会社」との訳もある。)である。また、民事目的においても合名会社、(単純)合資会社、株式会社、株式合資会社、有限会社又は協同会社を設立することができ、その場合にはその取引は商事的なものとして商事法・商慣習に服することとなる(日本におけるかつての[[民事会社]]に相当)。 * 会社(société commerciale) ** 固有の意味における会社(société commerciale proprement dite):法人格を有する。 *** 合名会社(société en nom collectif) *** (単純)合資会社(société en commandite simple) *** 株式会社(société anonyme) *** 株式合資会社(société en commandite par actions) *** [[有限会社 (ルクセンブルク)|有限会社]](société à responsabilité limitée) *** 協同組合(société coopérative) *** 欧州会社(société européenne (SE)):後述 ** 商事社団(association commerciale):法人格を有しない。 *** 商事当座社団(association commerciale momentanée) *** 商事匿名社団(association commerciale en participation) == 欧州経済領域 == [[欧州経済領域]]では、[[欧州会社法]]に基づく会社形態 * [[欧州会社法|欧州会社]]({{lang-la-short|Societas Europaea (SE)}}):株式会社に相当 <!-- * 欧州私会社({{lang-la-short|Societas Privata Europaea (SPE) }}):旧有限会社に相当 提案中の制度 --> その他の[[規則 (EU)|EU規則]]に基づく会社形態 * 欧州経済利益団体({{lang-en-short|European economic interest grouping (EEIG)}}, {{lang-fr-short|Groupement européen d'intérêt économique (GEIE)}}, {{lang-de-short|Europäische wirtschaftliche Interessenvereinigung (EWIV)}}):フランス法における経済利益団体 (GIE) に倣って欧州経済領域に導入された。 * 欧州協同組合({{lang-la-short|Societas Cooperativa Europaea (SCE)}}):協同組合に相当 == 各国の会社 == 各国の主として営利目的に利用される一般的な会社、組合の形態をおおざっぱに整理したものである。<!--したがって、中間法人(相互会社や協同組合)や公益法人は含めないものとしている。特定事業に特化したものも含めない。--> {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 各国の会社、組合 !rowspan="2" colspan="2"|法域!!colspan="3"|有限責任の構成員のみから構成されるもの!!colspan="2"|有限責任の構成員と無限責任の構成員から構成されるもの!!colspan="2"|無限責任の構成員のみから構成されるもの |- !公開型の株式会社に相当するもの!!閉鎖型の株式会社に相当するもの!!その他!!株式合資会社に相当するもの!!合資会社に相当するもの!!合名会社に相当するもの!!その他 |- !rowspan="2" colspan="2"|アメリカ合衆国<br />デラウェア州 |style="border-bottom:none"| ||style="border-bottom:none"|close corporations||rowspan="2"|limited liability companies||rowspan="2" colspan="2"|limited partnerships||rowspan="2"|general partnerships||rowspan="2"| |- |style="border-top:none;border-bottom:none" colspan="2"|[[コーポレーション|stock corporations]] |- !rowspan="2" colspan="2"|日本 |style="border-bottom:none"|[[公開会社]]||style="border-bottom:none"|[[公開会社でない株式会社]]||合同会社||rowspan="2"|N/A||rowspan="2"|合資会社||rowspan="2"|合名会社||rowspan="2"| |- |style="border-top:none" colspan="2"|[[株式会社 (日本)|株式会社]]||[[有限責任事業組合]] |- !colspan="2"|大韓民国 |주식회사 / 株式會社||유한회사 / 有限會社||||||합자회사 / 合資會社||합명회사 / 合名會社 || |- !colspan="2"|中華人民共和国(香港・マカオを除く) |上市公司の股份有限公司<br>(設立時2~200名の発起人)||上市公司ではない股份有限公司<br>(設立時2~200名の発起人)||一人有限責任公司<br>(一個人または一法人が株主)<hr>国有独資公司<br>(政府単独出資)<hr>有限責任公司<br>(2~50名の株主)||||有限合作企業||普通合作企業||全民所有制企業<hr>集団所有制企業 |- !colspan="2"|香港 |公衆股份有限公司<br>/public companies limited by shares||私人股份有限公司<br>/private companies limited by shares||無股本的担保有限公司<br>/companies limited by guarantee not having a share capital||||||有股本的私人無限公司<br>/private companies unlimited by shares<hr>有股本的公衆無限公司<br>/public companies unlimited by shares|| |- !colspan="2"|中華民国(台湾) |股份有限公司||有限公司||||||兩合公司||無限公司|| |- !style="border-right:none" rowspan="26"| ||style="border-left:none"|欧州経済領域諸国 |[[欧州会社|Societas Europaea]]||N/A||N/A||N/A||N/A||la groupement européen d'intérêt économique<br>/ european economic interest groupings<br>/ die Europäische wirtschaftliche Interessenvereinigung || |- !|ベルギー |la société anonyme<br />/ de naamloze vennootschap||la société privée à responsabilité limitée<br />/ besloten vennootschap met beperkte aansprakelijkheid||||la société en commandite par actions<br />/ commanditaire vennootschap op aandelen||la société en commandite simple<br />/ Gewone commanditaire vennootschap||la société en nom collectif<br />/vennootschap onder firma|| |- !|デンマーク |aktieselskaber||anpartselskaber||||||kommanditselskab||interessentskab|| |- !|ドイツ |[[株式会社 (ドイツ)|die Aktiengesellschaft]]||[[有限会社 (ドイツ)|die Gesellschaft mit beschränkter Haftung]]||||die Kommanditgesellschaft auf Aktien||die Kommanditgesellschaft||die offene Handelsgesellschaft|| |- !ギリシャ |ανώνυμη εταιρία||εταιρία περιομένης ευθύνης||||||ετερόρρυθμος εταιρία||ομόρρυθμος εταιρία|| |- !スペイン |la sociedad anónima||la sociedad de responsabilidad limitada||||||la sociedad comanditaria||la sociedad colectiva|| |- !rowspan="2"|フランス共和国 |rowspan="2"|la société anonyme||[[有限会社 (フランス)|la société à responsabilité limitée]]||rowspan="2"| ||rowspan="2"|la société en commandite par actions||rowspan="2"|la société en commandite simple||la société en nom collectif||rowspan="2"| |- |la société par actions simplifiée||la groupement d'intérêt économique |- !rowspan="4"|アイルランド |style="border-bottom:none"|public companies limited by shares||style="border-bottom:none"|private companies limited by shares||rowspan="4"| ||rowspan="4"| ||rowspan="4"| ||rowspan="4"| ||rowspan="4"| |- |style="border-top:none" colspan="2"|companies limited by shares |- |style="border-bottom:none"|public companies limited by guarantee having a share capital||style="border-bottom:none"|private companies limited by guarantee having a share capital |- |style="border-top:none" colspan="2"|companies limited by guarantee having a share capital |- !イタリア |società per azioni||società a responsabilità limitata||||società in accomandita per azioni||società in accomandita semplice||società in nome collettivo|| |- !ルクセンブルク |la société anonyme||[[有限会社 (ルクセンブルク)|la société à responsabilité limitée]]||||la société en commandite par actions||la société en commandite simple||la société en nom collectif|| |- !オランダ 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* [[コーポレートアイデンティティ]] ( CI ) == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{日本の法人}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいしや}} [[Category:会社法|*かいしや]] [[Category:企業法]] [[Category:企業]]
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国風文化
国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。 江戸時代から用例はあるが、「国風文化」という用法は小島憲之の『国風暗黒時代の文学』により国文学史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とはくにぶり(地方の習俗)の意味であり「雅(みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている。国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。 中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風(和風・倭風)文化と呼んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い。 11世紀に確立された「日本的な美」の特徴は、美しい色彩とやわらかく穏やかな造形の組み合わせによる、調和のとれた優美さにあると言える。平安時代は日本史上最も女性の感性が大切にされた時代であり、王朝文化が醸成していく過程では、女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映された。 内裏では調度を整えるにあたり、公式な場やハレの場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風に誂えたが、私的な場、ケの場では和風に誂えるという使い分けをした。 以前は寛平6年(894年)の遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。 しかし、遣唐使は、9世紀には頻度が減り、仁明天皇の治世に相当する、承和年間(834年 - 848年)の派遣が最後となった。その一方で、9世紀には中国からの海商が多数渡航するようになったため、遣唐使をわざわざ派遣しなくても中国の文物を多く入手できるようになった。 そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。 日本仏教では、末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した。9世紀前半に円仁が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えており、源信が『往生要集』を著して天台浄土教を大成した。往生伝。また空也は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。浄土信仰は京の貴族に深く浸透し、国風文化の仏教建築、仏像、絵画などにその影響を残した。 藤原氏(藤原北家)による摂関政治は、外戚政策(天皇家に子女を入内させ、その子を天皇として外祖父となり権力を握ること)に立脚するものだった。藤原氏は子女を入内させると天皇の歓心を得るために有能な女性を選抜し、女房として近侍させた。女房は受領階級などの中級貴族の子女が多く、中級貴族たちは藤原氏に取り入るべく子女の教育に努力を惜しまなかった。そのため、清少納言や紫式部など多くの女流作家が生まれることとなった。 奈良時代から日本語を表記するため漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、この時代になって仮名文字(ひらがな、カタカナ)が広く使われるようになった。カタカナは漢字の一部に由来し(例:伊→イ)、漢文を訓読する際の補助文字として使われた。また、ひらがなは漢字の草書体を元にしたもので(安→あ)主に女性が用い始めた。紀貫之が書いた『古今和歌集』の「仮名序」は、漢文の用法を遺しながらも平仮名で書かれた和文として初期のものである。 湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良いゆったりとしたシルエットになった。 貴族住宅が寝殿造の様式で建てられた。平等院にはその影響が見られる。 仏教建築としては浄土教の影響を受けた阿弥陀堂が多く建立された。 阿弥陀堂以外の建築としては天暦5年(951年)建立の醍醐寺五重塔が知られる。 阿弥陀如来像を大量生産するため、分けて造った部品を組み立てる寄木造の技法が用いられた。この技法を完成させたとされるのが定朝である。彫りが浅く平行して流れる衣文、丸い顔に細い目の穏やかで瞑想的な表情が特徴で、こうした仏像を定朝様式と呼ぶ。 大和絵と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた障屏画(山水屏風など)や壁画(平等院鳳凰堂扉絵など)が描かれたが仏教絵画を除いて少数しか現存していない。また、多くの物語絵(冊子または絵巻物)が制作されたことが推測されているが、11世紀末以前に制作された作品は現存していない。 仏教絵画では来迎図がよく描かれた。 小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と呼ばれた。11世紀にはかな書道の古典とされる高野切が制作され、12世紀まで多様なかなの書風が展開した。 日本刀の様式(鎬造・彎刀)の確立期である。 奈良時代に日本で考案された蒔絵の技法が大きく発展した。
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国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。 江戸時代から用例はあるが、「国風文化」という用法は小島憲之の『国風暗黒時代の文学』により国文学史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とはくにぶり(地方の習俗)の意味であり「雅(みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている。国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。
'''国風文化'''(こくふうぶんか)とは、[[日本]]の歴史的[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の一つである。[[10世紀]]の初め頃から[[11世紀]]の[[摂関政治]]期を中心とする文化であり、[[12世紀]]の[[院政期文化]]にも広く影響を与えた。 [[江戸時代]]から用例はあるが、「国風文化」という用法は[[小島憲之]]の『国風暗黒時代の文学』により[[国文学]]史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とは'''くにぶり'''(地方の習俗)の意味であり「[[雅]](みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている{{sfn|村井 |1990|pp=13-15}}。'''国風文化'''(こくふうぶんか)とは、[[日本]]の歴史的[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の一つである。 == 特色 == 中国の影響が強かった[[奈良時代]]の文化('''唐風''')に対して、これを国風(和風・倭風)文化と呼んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い<ref group="注釈">後世から、「[[日本文化]]」の「[[有職故実]]」の「正統な源流」とされる。実際、[[古代]]の「[[聖徳太子]]」・「[[大化の改新]]」・「[[壬申の乱]]」を描いた[[絵巻物]]では、「太子」や「[[蘇我入鹿]]」らの装いは[[平安時代]]の[[正装]]である「[[衣冠束帯]]」であり、[[大鎧]]を着、[[太刀]]を揮って[[中世]]さながらの[[合戦]]をしている。[[古代]]の実像が明らかとなったのは、永く続いた[[中世]](「乱世」)が落ち着いた[[近世]]・[[江戸時代]]の中期で[[古文辞学]]([[古学]])・[[歌学]]・[[国学]]・[[陵墓]]研究が盛んになった時代以降のことである。</ref>。 11世紀に確立された「日本的な美」の特徴は、美しい色彩とやわらかく穏やかな造形の組み合わせによる、調和のとれた優美さにあると言える{{sfn|千野 |1993|p=36}}。平安時代は日本史上最も女性の感性が大切にされた時代であり、王朝文化が醸成していく過程では、女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映された{{sfn|千野 |1993|p=40}}。 [[内裏]]では[[調度]]を整えるにあたり、公式な場や[[ハレとケ|ハレ]]の場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風に誂えたが、私的な場、[[ハレとケ|ケ]]の場では和風に誂えるという使い分けをした<ref>{{Cite book |和書 |author = 河添房江 |title = 唐物の文化史:舶来品からみた日本 |date = 2014 |publisher = 岩波新書 |isbn = 9784004314776 |ref = harv }}pp.87-88.</ref>。 === 遣唐使の停止 === 以前は[[寛平]]6年([[894年]])の[[遣唐使]]停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。 しかし、遣唐使は、9世紀には頻度が減り、[[仁明天皇]]の治世に相当する、[[承和 (日本)|承和]]年間(834年 - 848年)の派遣が最後となった。その一方で、9世紀には中国からの[[海商]]が多数渡航するようになったため、遣唐使をわざわざ派遣しなくても中国の文物を多く入手できるようになった。 そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は[[奈良時代]]から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。 === 浄土教の流行 === [[日本の仏教|日本仏教]]では、[[末法思想]]を背景に[[浄土教]](浄土信仰)が流行した。[[9世紀]]前半に[[円仁]]が中国[[五台山 (中国)|五台山]]の念仏三昧法を[[比叡山]]に伝えており、[[源信 (僧侶)|源信]]が『[[往生要集]]』を著して[[天台宗|天台]]浄土教を大成した。往生伝。また[[空也]]は庶民に対しても浄土教を広め、'''市の聖'''と呼ばれた。浄土信仰は京の貴族に深く浸透し、国風文化の[[仏教建築]]、[[仏像]]、[[絵画]]などにその影響を残した。 === 女房文学の発達 === [[藤原氏]]([[藤原北家]])による[[摂関政治]]は、[[外戚]]政策(天皇家に子女を入内させ、その子を天皇として外祖父となり権力を握ること)に立脚するものだった。藤原氏は子女を入内させると天皇の歓心を得るために有能な女性を選抜し、[[女房]]として近侍させた。女房は[[受領]]階級などの中級貴族の子女が多く、中級貴族たちは藤原氏に取り入るべく子女の教育に努力を惜しまなかった。そのため、[[清少納言]]や[[紫式部]]など多くの女流作家が生まれることとなった。 === かな文字の使用 === 奈良時代から[[日本語]]を表記するため[[漢字]]の音訓を借りた[[万葉仮名]]が使われていたが、この時代になって[[仮名 (文字)|仮名文字]]([[平仮名|ひらがな]]、[[片仮名|カタカナ]])が広く使われるようになった。カタカナは漢字の一部に由来し(例:伊→イ)、[[漢文]]を訓読する際の[[補助文字]]として使われた。また、ひらがなは漢字の[[草書体]]を元にしたもので(安→あ)主に女性が用い始めた。[[紀貫之]]が書いた『[[古今和歌集]]』の「[[古今和歌集仮名序|仮名序]]」は、漢文の用法を遺しながらも平仮名で書かれた[[和文]]として初期のものである。 == 文学 == === 和歌 === *[[古今和歌集]]:[[延喜]]5年([[905年]])に[[醍醐天皇]]が[[紀貫之]]、[[紀友則]]、[[凡河内躬恒]]、[[壬生忠岑]]等に編纂を命じて出来た最初の[[勅撰和歌集]]。 *[[和漢朗詠集]]:[[寛仁]]2年([[1018年]])頃に[[藤原公任]]が編集した漢詩集。 === 物語 === *[[竹取物語]]:現存する最古の仮名の物語。 *[[伊勢物語]]:[[在原業平]]を主人公にしたといわれている[[歌物語]]。 *[[うつほ物語]]:遣唐副使・清原俊蔭とその子孫を主人公とした物語。 *[[落窪物語]]:継子いじめに苦しむ姫が貴公子と結婚して幸せになるまでを描いた物語。 *[[源氏物語]]:[[王朝物語]]の最高傑作。 === 日記・随筆 === *[[土佐日記]]:紀貫之が土佐守の任務を終えて帰る旅の途中のことを女性を装って平仮名で書いている。 *[[蜻蛉日記]]:[[藤原道綱母]]が夫[[藤原兼家]]との生活の不満を綴った日記。 *[[和泉式部日記]]:[[和泉式部]]が自らの恋愛について綴った日記。 *[[紫式部日記]]:[[紫式部]]が宮中に仕えている時の事を綴った日記。 *[[枕草子]]:[[清少納言]]の[[随筆]]。これら2つは、鎌倉時代の随筆。[[鴨長明]]の『[[方丈記]]』、[[卜部兼好|兼好法師]]の『[[徒然草]]』と並んで[[日本三大一覧#三大随筆|日本三大随筆]]と称される。 *[[更級日記]]:[[菅原孝標女]]が自分の人生を自伝的に綴った回想録。 *[[小右記]]:[[藤原実資]]の日記。(漢文) *[[御堂関白記]]:[[藤原道長]]の日記。 === その他 === *[[倭名類聚抄]]:[[源順]]が編纂した日本最初の百科事典。 *[[六歌仙]]:[[在原業平]]、[[小野小町]]、[[遍昭|僧正遍昭]]、[[喜撰|喜撰法師]]、[[文屋康秀]]、[[大友黒主]]の6人の歌人の総称。 == 服装 == 湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良いゆったりとした[[シルエット]]になった。 ;男性用 *[[衣冠]] *[[束帯]] *[[直衣]] *[[狩衣]] ;女性用 *[[十二単]](女房装束) *[[細長]] == 楽器 == *[[和琴]] == 宗教 == *[[御霊信仰]] *[[陰陽道]] *[[本地垂迹説]] == 建築 == [[ファイル:Byodo-in Uji03bs2640.jpg|thumb|220x220px|平等院鳳凰堂]] [[ファイル:Daigoji Kyoto02bs4200.jpg|thumb|220x220px|醍醐寺五重塔]] 貴族住宅が[[寝殿造]]の様式で建てられた。[[平等院]]にはその影響が見られる。 仏教建築としては浄土教の影響を受けた[[阿弥陀如来|阿弥陀]]堂が多く建立された。 *[[法成寺]]無量寿院:寛仁4年([[1020年]])に[[藤原道長]]が建立。現存せず。 *平等院鳳凰堂:[[天喜]]元年([[1053年]])に[[藤原頼通]]が建立。 *[[法界寺]]阿弥陀堂:[[永承]]5年([[1050年]])頃、[[藤原資業|日野資業]]が自分の別荘を寺にしたもの。[[承久の乱]]で焼失し、再建。 阿弥陀堂以外の建築としては[[天暦]]5年([[951年]])建立の[[醍醐寺]]五重塔が知られる。 == 彫刻 == 阿弥陀如来像を大量生産するため、分けて造った部品を組み立てる[[寄木造]]の技法が用いられた。この技法を完成させたとされるのが[[定朝]]である。彫りが浅く平行して流れる衣文、丸い顔に細い目の穏やかで瞑想的な表情が特徴で、こうした仏像を定朝様式と呼ぶ。 *平等院鳳凰堂阿弥陀如来像:定朝作で唯一現存する作品 *法界寺阿弥陀如来像 *平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像 == 絵画 == [[Image:Byodoin Wall Painting JYOHIN-CHUSEI South.JPG|thumb|right|100px|平等院壁画]] [[大和絵]]と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた障屏画(山水屏風など)や壁画(平等院鳳凰堂扉絵など)が描かれたが仏教絵画を除いて少数しか現存していない。また、多くの物語絵(冊子または[[絵巻物]])が制作されたことが推測されているが、11世紀末以前に制作された作品は現存していない。 仏教絵画では[[来迎図]]がよく描かれた。 *[[高野山]] 涅槃図(1086年) *[[高野山]] 聖衆来迎図 *[[東寺]] 十二天(1127年) *[[東京国立博物館]] 普賢菩薩像 *平等院鳳凰堂扉絵(1053年前後) *[[京都国立博物館]] 山水屏風 *[[源氏物語絵巻]](平家時代または[[院政]]期) *[[信貴山縁起]]([[院政]]期) *[[伴大納言絵巻]]([[院政]]期) *[[鳥獣人物戯画]]甲乙巻([[院政]]期)<ref group="注釈">鳥獣人物戯画は4巻のうち2巻が[[鎌倉時代]]の作とされる。</ref> == 書道 == [[小野道風]]・[[藤原佐理]]・[[藤原行成]]が[[三蹟]]と呼ばれた。11世紀にはかな書道の古典とされる[[高野切]]が制作され、12世紀まで多様なかなの書風が展開した。 == 工芸 == === 刀剣 === [[日本刀]]の様式(鎬造・彎刀)の確立期である。 *[[三条宗近]]([[三日月宗近]]) *[[小烏丸]]([[天国 (人物)|天国]]) *[[備前国]]友成 *[[童子切安綱]]([[安綱]]) === 蒔絵 === [[奈良時代]]に日本で考案された[[蒔絵]]の技法が大きく発展した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author = 千野香織 |title = 10-13世紀の美術:王朝美の世界 |date = 1993 |publisher = 岩波書店 |isbn = 4000084534 |ref = harv }} * {{Cite |和書 |author = 村井康彦 |title = 花と茶の世界:伝統文化史論 |date = 1990 |publisher = 三一書房 |isbn = 4380902447 |ref = harv }} == 関連項目 == *[[平安時代]] *[[日本の文化]] *[[日本の中古文学史]] *[[王朝国家]]・[[摂関政治]] *[[菅原道真]] *[[延喜・天暦の治]] *[[国学]] *[[古式復興]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{日本の文化史区分}} {{DEFAULTSORT:こくふうふんか}} [[Category:平安時代]] [[Category:平安時代の文化|*こくふうふんか]] [[Category:日本の文化史]] [[Category:日本の反中感情]]
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天文台
天文台(てんもんだい、英語: Astronomical observatory)は、天体や天文現象の観測を行ったり、観測結果を解析して天文学の研究を行うための施設。現代では学術研究目的以外に、宇宙の観察や学習といった天文教育・普及活動の拠点としての性格を持つ天文台もある。 古代以来の天文学の重要な役割に、天体観測によって正確な時刻を確定し正確な暦を作るという目的がある。このためには天体の会合や出没・南中時刻などを地球上の同一の地点から継続的に観測する必要がある。また、17世紀に望遠鏡が発明され、より微弱な天体の光を捉えるために望遠鏡が大型化していくと、固定した建物の中に望遠鏡を据え付けて観測するというスタイルが一般的になった。このような理由で造られた観測施設が天文台の始まりであると考えられる。 世界四大文明と呼ばれる地域では、天体観測が王国の威信を懸けて行われていた。様々な目的があるが、エジプト文明の場合には、ナイル川の氾濫の時期を予測して、農業などを行う際の基準として暦が編纂されていた。 アンデス・アステカ・マヤ文明などでも、同じような目的で天体観測が行われ、精密な暦が編纂されていたが、言語学的な資料が乏しいため詳しいことは分かっていない。 イスラム圏では、1420年代にティムール朝の王族(のちに君主)にして天文学者であったウルグ・ベグが、サマルカンド郊外に天文台を建設した(のちにウルグ・ベク天文台と呼ばれる)。この天文台は15世紀半ばに破壊されたが、20世紀に発掘された。 ヨーロッパでは、チコ・ブラーエが北欧に設立した天文台まで、記録が残っていない。オランダの眼鏡職人ハンス・リッペルハイが発明したとされる、ガリレオ式天体望遠鏡やチコ・ブラーエの下で天体観測データの解析を通じて、惑星運動のケプラーの法則に名を残すヨハネス・ケプラーによって考案された、ケプラー式天体望遠鏡などが開発されてから、天体観測所として人類の宇宙観を大きく変える発見がなされた。その後も、イギリスのアイザック・ニュートンが開発した、ニュートン式反射天体望遠鏡が天体観測装置の精密化や大口径化を後押しした。 中国では、暦の制作や占星術のために天文学が発達し、天体現象が観測され記録された。 周代には太史(中国語版)という官職が設けられ、歴史記録などとともに暦や天文を管掌した。唐代には暦と天文を専門に扱う司天台(中国語版)という官職が設けられ、宋・元代には司天監、明・清代には欽天監(中国語版)と呼ばれた。 明代の1442年、北京に天文台(北京古観象台)が開設された。 日本最古の天文台は、『日本書紀』天武天皇3年(674年)条に登場する「占星台」であり、その名の通り、当時の天文学の主たる目的の1つであった占星術を目的としていた。「天文台」という言葉で知られているのは、天明2年(1782年)に江戸浅草に作られた江戸幕府天文方の「浅草天文台」であるが、「天文台」という言葉はむしろ少数派で、天文方の著作である『寛政暦書』では、「測量台」が採用されて、別名として「司天台」「観象台」などを併記するが「天文台」はない。なお、「司天台」は浅草移転前の天文方の天文台の呼称であるとともに、陰陽頭の土御門家が京都梅小路に作った天文台に用いられた。「観象台」は明治初期に東京大学や海軍省が採用している(当時は気象台の機能を兼ねていた)。明治21年(1888年)に設立された東京天文台が「天文台」の名称を採用して以後、日本で「天文台」という呼称が定着した。 現代の天文台には、保時・編暦や天文学の研究を担うために各国の公的機関や大学、高等学校の付属施設として設立された天文台と、個人や私企業、財団等によって作られた私設の天文台がある。また、日本においては地方公共団体などが運用を行う公開天文台も多数存在する。 天文台の立地条件としては、天体からの微かな光を観測するために、市街地から離れた光害のない暗い場所を選ぶことが絶対条件である。また、晴天率が高いこと、気流が安定していること、広い視界を確保できる地形であることも求められる。そのため、近年の大型望遠鏡を擁する天文台はハワイのマウナケア山頂やチリのアンデス山脈、カナリア諸島などの高山に造られることが多い。電波望遠鏡の場合にも、観測を妨げる電波が少ない山間部や砂漠などが選ばれることが多い。 天文台には観測のための望遠鏡が一つまたは複数設置されている。近年では望遠鏡を格納する部屋の温度環境を一定にするため、望遠鏡の設置場所とは別の観測室から遠隔操作で観測を行う天文台も多い。また、天体観測は複数夜にわたって行われることも多いため、観測者用の宿泊施設などが付随する場合もある。 天文台の主な観測装置は以下の通りである。 宇宙の観測は天体からやってくる電磁波、特に可視光線を受けて分析するという手段にほぼ限られるため、天文台には必ずと言って良いほど望遠鏡が設置されている。望遠鏡には光を捉え分析するための観測装置として冷却CCDカメラや分光器、光電測光器、赤外観測装置などが備えられている。 詳しくは天体望遠鏡を参照のこと。 歴史の古い天文台には、子午儀や子午環が設置されている所がある(天体の子午線通過 (transit) を観測する装置で、transit instrumentと総称される)。 子午儀は子午線上(南北方向)にのみ向きを移動できるように作られた天体望遠鏡の一種である。子午儀で恒星の子午線通過時刻を計測することで、その恒星の赤経や子午儀の設置地点の経度を正確に求めることができる。子午儀には、レプソルド子午儀、バンベルヒ子午儀などがある。 また子午環(Meridian circle)は、子午儀に目標天体の高度を測定する機能を付加したもので、これを用いると天体の赤緯や観測地の緯度も測定できる。 かつては標準時や暦の編纂のために子午儀・子午環は不可欠な装置であった。現代でも GPS や原子時計を用いて決められた測地系や時刻系の較正のために使われている。 研究機関の天文台では望遠鏡は共同利用の形式を取り、観測計画を公募して観測時間を複数のグループに細かく割り振る場合が多い。このような利用形式は、長期間の監視観測や多くのサンプルを集めなければならない観測(サーベイ観測)、超新星爆発などの突発的な現象の観測には不利になる場合がある。この点を補完する存在として、私設天文台や公開天文台の望遠鏡による観測も重要な役割を担っている。 日本の場合、教育機関(高等学校・大学)附属の天文台や国立天文台以外に、地方公共団体や企業によって運営されている一般公開を前提とした天文台が存在し、公開天文台と呼ばれている。 多くの場合、公開天文台は光学望遠鏡を備え、天体観望や天文関連情報の広報、画像等の天文資料の展示・解説、講演会、学習会、イベント開催などを行うのが一般的である。日本の公開天文台数は100を優に超えており、世界に例を見ない天文台大国となっている。 日本における最初の公共天文台は、1926年(大正15年)11月に創立された倉敷天文台で、当時としては日本国内最大級の口径32cm反射望遠鏡(ガルバー鏡)を設置していた。これは、山本一清京大教授の天文普及の理念の感化を受けた原澄治倉敷紡績専務が私財を投じた全国初の民間天文台だった。当時の天文台はすべて官立で一般の天文愛好家は利用できなかったので、天文学普及のため誰でも観望できるようにと無料公開された施設だった。1941年(昭和16年)以来、同天文台主事として本田実が活躍し、氏は新彗星12個、新星11個を発見した。 公開天文台の中には、国民の豊かな自然観を育むことを目的とする生涯学習施設として位置づけられるものもあれば、観光資源の一つとして集客による経済効果を期待されるものもある。望遠鏡の維持や施設管理には設置時の数%程度の経費を毎年要するため、後者のうち特に1990年代にふるさと創生資金を活用して設置されたものの中には自治体の財政難から閉鎖されるものも出始めている。 公開天文台の望遠鏡を用いた観測は前述のように、研究機関が保有する望遠鏡による観測を補完するものとして、比較的自由度の大きな観測を行える利点を持つ。ただし、現状の日本の公開天文台の望遠鏡は口径50cm~1mクラスのものが多く、世界の研究用天文台で3~4mクラスの望遠鏡が珍しくないことを考えると研究用途としてはやや不利である。兵庫県立西はりま天文台には世界最大口径(2m)の公開望遠鏡「なゆた」があり活用されているが、日本の空は気候的・地理的に気流が良くないことが多く、可視光観測では撮像よりも分光観測に向く空であるとされている。一方赤外線では様相が異なり、日本の空でも十分な星像を得られることが多い。したがって、公開天文台における研究観測では、メリットを生かせる観測対象の選択や、望遠鏡と空に見合った観測装置の整備が求められている。 公開天文台では観測者が様々な天文現象を観測することを目的に活動をしており、太陽観測や惑星観測、変光星観測(測光観測)、分光観測(太陽などが中心)、撮像観測(太陽・月・惑星・太陽系内天体の写真など)において多くの成果が発信されている。
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"日本における最初の公共天文台は、1926年(大正15年)11月に創立された倉敷天文台で、当時としては日本国内最大級の口径32cm反射望遠鏡(ガルバー鏡)を設置していた。これは、山本一清京大教授の天文普及の理念の感化を受けた原澄治倉敷紡績専務が私財を投じた全国初の民間天文台だった。当時の天文台はすべて官立で一般の天文愛好家は利用できなかったので、天文学普及のため誰でも観望できるようにと無料公開された施設だった。1941年(昭和16年)以来、同天文台主事として本田実が活躍し、氏は新彗星12個、新星11個を発見した。", "title": "日本における公開天文台" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "公開天文台の中には、国民の豊かな自然観を育むことを目的とする生涯学習施設として位置づけられるものもあれば、観光資源の一つとして集客による経済効果を期待されるものもある。望遠鏡の維持や施設管理には設置時の数%程度の経費を毎年要するため、後者のうち特に1990年代にふるさと創生資金を活用して設置されたものの中には自治体の財政難から閉鎖されるものも出始めている。", "title": "日本における公開天文台" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "公開天文台の望遠鏡を用いた観測は前述のように、研究機関が保有する望遠鏡による観測を補完するものとして、比較的自由度の大きな観測を行える利点を持つ。ただし、現状の日本の公開天文台の望遠鏡は口径50cm~1mクラスのものが多く、世界の研究用天文台で3~4mクラスの望遠鏡が珍しくないことを考えると研究用途としてはやや不利である。兵庫県立西はりま天文台には世界最大口径(2m)の公開望遠鏡「なゆた」があり活用されているが、日本の空は気候的・地理的に気流が良くないことが多く、可視光観測では撮像よりも分光観測に向く空であるとされている。一方赤外線では様相が異なり、日本の空でも十分な星像を得られることが多い。したがって、公開天文台における研究観測では、メリットを生かせる観測対象の選択や、望遠鏡と空に見合った観測装置の整備が求められている。", "title": "日本における公開天文台" }, { "paragraph_id": 25, 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天文台は、天体や天文現象の観測を行ったり、観測結果を解析して天文学の研究を行うための施設。現代では学術研究目的以外に、宇宙の観察や学習といった天文教育・普及活動の拠点としての性格を持つ天文台もある。
[[ファイル:Sapporo observatory.JPG|thumb|right|300px|天文台の一例([[札幌市天文台]])]] [[ファイル:SOFIA ED10-0182-01 full.jpg|thumb|航空機を利用した{{ill2|空中天文台|en|Airborne observatory}}の[[成層圏赤外線天文台]]。その他にも[[高高度気球]]の活用などがある。]] [[File:Laser Towards Milky Ways Centre.jpg|thumb|レーザーガイドを使用した[[チリ|チリ共和国]]にある[[パラナル天文台]]。画像は2010年度Wikicommons年間画像大賞作品<ref>{{Cite web |url=https://commons.wikimedia.org/wiki/Commons:Picture_of_the_Year/2010 |title=Commons:Picture of the Year/2010 - Wikimedia Commons |access-date=2022-11-14 |website=commons.wikimedia.org |language=en}}</ref>。]] '''天文台'''(てんもんだい、{{Lang-en|Astronomical observatory}})は、[[天体]]や[[天文現象]]の観測を行ったり、観測結果を解析して[[天文学]]の研究を行うための[[観測施設|施設]]。現代では学術研究目的以外に、[[宇宙]]の観察や学習といった天文教育・普及活動の拠点としての性格を持つ天文台もある。 == 天文台の歴史 == {{see also|天文学史}} 古代以来の天文学の重要な役割に、天体観測によって正確な[[時刻]]を確定し正確な[[暦]]を作るという目的がある。このためには天体の[[合_(天文)|会合]]や出没・[[正中|南中]]時刻などを[[地球]]上の同一の地点から継続的に観測する必要がある。また、[[17世紀]]に[[望遠鏡]]が発明され、より微弱な天体の光を捉えるために望遠鏡が大型化していくと、固定した建物の中に望遠鏡を据え付けて観測するというスタイルが一般的になった。このような理由で造られた観測施設が天文台の始まりであると考えられる。 === 初期文明 === [[ファイル:Chichen Itza Observatory 2 1.jpg|thumb|250px|[[マヤ]]の天文台 「[[チチェン・イッツァ|El Caracol(カタツムリ)]]」]] [[世界四大文明]]と呼ばれる地域では、[[天体観測]]が王国の威信を懸けて行われていた。様々な目的があるが、エジプト文明の場合には、[[ナイル川]]の氾濫の時期を予測して、農業などを行う際の基準として暦が編纂されていた。 [[アンデス文明|アンデス]]・[[アステカ]]・[[マヤ文明]]などでも、同じような目的で天体観測が行われ、精密な暦が編纂されていたが、言語学的な資料が乏しいため詳しいことは分かっていない。 === イスラム圏 === [[ファイル:Ulugh Beg observatory.JPG|thumb|250px|right|サマルカンドの[[ウルグ・ベク天文台]]。地下に掘られた観測機構([[象限儀]])。]] イスラム圏では、1420年代にティムール朝の王族(のちに君主)にして天文学者であった[[ウルグ・ベグ]]が、[[サマルカンド]]郊外に天文台を建設した(のちに[[ウルグ・ベク天文台]]と呼ばれる)。この天文台は15世紀半ばに破壊されたが、20世紀に発掘された。 === ヨーロッパ === [[ヨーロッパ]]では、[[チコ・ブラーエ]]が北欧に設立した天文台まで、記録が残っていない。オランダの眼鏡職人[[ハンス・リッペルハイ]]が発明したとされる、ガリレオ式[[天体望遠鏡]]やチコ・ブラーエの下で天体観測データの解析を通じて、惑星運動のケプラーの法則に名を残す[[ヨハネス・ケプラー]]によって考案された、ケプラー式天体望遠鏡などが開発されてから、天体観測所として人類の宇宙観を大きく変える発見がなされた。その後も、イギリスの[[アイザック・ニュートン]]が開発した、ニュートン式反射天体望遠鏡が天体観測装置の精密化や大口径化を後押しした。 === 東洋 === {{see also|中国の科学技術史}} 中国では、暦の制作や占星術のために天文学が発達し、天体現象が観測され記録された。 周代には{{仮リンク|太史|zh|太史}}という官職が設けられ、歴史記録などとともに暦や天文を管掌した。唐代には暦と天文を専門に扱う{{仮リンク|司天台|zh|司天台}}という官職が設けられ、宋・元代には司天監、明・清代には{{仮リンク|欽天監|zh|钦天监}}と呼ばれた。 明代の1442年、北京に天文台([[北京古観象台]])が開設された。 === 日本 === [[File:Hokusai, Fuji at Torigoe.jpg|thumb|left|200px|[[葛飾北斎]]画:『[[鳥越の不二]]』<br>浅草天文台にて]] 日本最古の天文台は、『[[日本書紀]]』[[天武天皇]]3年([[674年]])条に登場する「占星台」であり、その名の通り、当時の天文学の主たる目的の1つであった[[占星術]]を目的としていた。「天文台」という言葉で知られているのは、[[天明]]2年([[1782年]])に[[江戸]][[浅草]]に作られた[[江戸幕府]][[天文方]]の「浅草天文台」であるが、「天文台」という言葉はむしろ少数派で、天文方の著作である『[[寛政暦書]]』では、「測量台」が採用されて、別名として「司天台」「観象台」などを併記するが「天文台」はない。なお、「司天台」は浅草移転前の天文方の天文台の呼称であるとともに、[[陰陽寮#職員|陰陽頭]]の[[土御門家 (安倍氏)|土御門家]]が[[京都]][[梅小路]]に作った天文台に用いられた。「観象台」は[[明治]]初期に[[東京大学]]や[[海軍省]]が採用している(当時は[[気象台]]の機能を兼ねていた)。明治21年([[1888年]])に設立された[[東京天文台]]が「天文台」の名称を採用して以後、日本で「天文台」という呼称が定着した。 === 現代 === 現代の天文台には、保時・編暦や天文学の研究を担うために各国の公的機関や[[大学]]、[[高等学校]]の付属施設として設立された天文台と、個人や私企業、財団等によって作られた私設の天文台がある。また、日本においては[[地方公共団体]]などが運用を行う公開天文台も多数存在する。 == 天文台の施設・装置 == 天文台の立地条件としては、天体からの微かな光を観測するために、市街地から離れた[[光害]]のない暗い場所を選ぶことが絶対条件である。また、晴天率が高いこと、気流が安定していること、広い視界を確保できる地形であることも求められる。そのため、近年の大型望遠鏡を擁する天文台は[[ハワイ]]の[[マウナケア山]]頂や[[チリ]]の[[アンデス山脈]]、[[カナリア諸島]]などの高山に造られることが多い。[[電波望遠鏡]]の場合にも、観測を妨げる[[電波]]が少ない山間部や砂漠などが選ばれることが多い。 天文台には観測のための望遠鏡が一つまたは複数設置されている。近年では望遠鏡を格納する部屋の温度環境を一定にするため、望遠鏡の設置場所とは別の観測室から遠隔操作で観測を行う天文台も多い。また、天体観測は複数夜にわたって行われることも多いため、観測者用の宿泊施設などが付随する場合もある。 天文台の主な観測装置は以下の通りである。 === 天体望遠鏡 === 宇宙の観測は天体からやってくる[[電磁波]]、特に[[可視光線]]を受けて分析するという手段にほぼ限られるため、天文台には必ずと言って良いほど望遠鏡が設置されている。望遠鏡には光を捉え分析するための[[観測装置]]として[[冷却CCDカメラ]]や[[分光器]]、[[光電測光器]]、[[赤外観測装置]]などが備えられている。 詳しくは[[天体望遠鏡]]を参照のこと。 === 子午儀・子午環 === [[ファイル:Abbadia lunette.png|thumb|right|170px|子午儀(フランス・Abbadia城)]] [[File:Meridian Circle - Kuffner Observatory.jpg|thumb|right|170px|子午環([[ウィーン]]・[[:en:Kuffner Observatory|Kuffner Observatory]])]] 歴史の古い天文台には、子午儀や子午環が設置されている所がある(天体の[[子午線]][[通過 (天文)|通過]] (transit) を観測する装置で、[[:en:transit instrument|transit instrument]]と総称される)。 '''子午儀'''は子午線上(南北方向)にのみ向きを移動できるように作られた天体望遠鏡の一種である。子午儀で[[恒星]]の子午線通過時刻を計測することで、その恒星の[[赤経]]や子午儀の設置地点の[[経度]]を正確に求めることができる。子午儀には、レプソルド子午儀、バンベルヒ子午儀などがある<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.nikkei-science.com/201706_102.html |title = レプソルド子午儀と子午儀室(上) |accessdate = 2018-03-04 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = http://www.nikkei-science.com/201709_102.html |title = 樺太国境を決めたバンベルヒ子午儀 |accessdate = 2018-03-04 }}</ref>。 また'''[[子午環]]'''([[:en:Meridian circle|Meridian circle]])は、子午儀に目標天体の高度を測定する機能を付加したもので、これを用いると天体の[[赤緯]]や観測地の[[緯度]]も測定できる。 かつては[[標準時]]や暦の編纂のために子午儀・子午環は不可欠な装置であった。現代でも [[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]] や[[原子時計]]を用いて決められた[[測地系]]や[[時刻系]]の較正のために使われている。 === その他 === ;ソフト面 :コンピューター時代の天体観測では、観測データ量が膨大になるため、観測装置の電子化や画像情報のデジタル化などにより、[[コンピュータ]]やデータベースシステムを運用している天文台が多い。遠隔地にある観測装置の運用を目的として、通信ネットワークを活用した自動遠隔操作やデータ解析ソフトウエアなどの開発を行っている。 :他に際立った特徴としては、大型の天文台では電波望遠鏡や電子[[測定機器]]類による、デジタル分析装置を運用していることである。他には、様々な測定機器類を用いた精密データ解析を実施。 ;ハード面 :大気による観測への影響を避けるため航空機に設置した{{ill2|空中天文台|en|Airborne observatory}}([[成層圏赤外線天文台]]など) :気球に望遠鏡を搭載した{{ill2|Balloon-borne telescope|en|Balloon-borne telescope}} :大気圏外・軌道上に設置された宇宙天文台([[ハッブル宇宙望遠鏡]]など) == 天文台の利用形態 == [[研究機関]]の天文台では望遠鏡は[[共同利用]]の形式を取り、観測計画を公募して観測時間を複数のグループに細かく割り振る場合が多い。このような利用形式は、長期間の監視観測や多くのサンプルを集めなければならない観測([[サーベイ]]観測)、[[超新星]]爆発などの突発的な現象の観測には不利になる場合がある。この点を補完する存在として、私設天文台や公開天文台の望遠鏡による観測も重要な役割を担っている。 == 国際的に著名な天文台の例 == * [[グリニッジ天文台]] - [[世界時]]や経度の基準となった[[イギリス]]の天文台。 * [[パロマー山天文台]] - かつて世界最大の口径であった5mヘール望遠鏡を持つ。 * [[アメリカ海軍天文台]] (USNO) - 代表的な天体暦である ''The Astronomical Almanac'' を発行している。 * [[スミソニアン天体物理観測所]] - 太陽系内天体の観測データを下に予報を行うセンター等が設置されている。 * [[ヨーロッパ南天天文台]] - 南半球最大の観測装置を運用する天文台。 * [[アメリカ国立電波天文台]] - 世界最大規模の地上VLBIを運用する天文台。 * [[ヤーキース天文台]] - [[シカゴ大学]]附属の天文台。世界最大の屈折式望遠鏡([[天体望遠鏡]]を参照)を運用している。 * [[国立天文台]] (NAOJ) - 日本の代表的な天文学の研究機関。[[理科年表]]の編纂等を行う。 * [[海上保安庁]] - 日本の代表的な天体観測データ'''天体観測表'''を発行している。 * [[ジェミニ天文台]] - 存続のため、観測時間が売却されている。[[マウナケア天文台群]]の1つ。 == 日本における公開天文台 == === 概略 === 日本の場合、教育機関(高等学校・大学)附属の天文台や国立天文台以外に、地方公共団体や企業によって運営されている一般公開を前提とした天文台が存在し、公開天文台と呼ばれている<ref group="注">公共性の高い施設であるため、公共天文台と呼ばれることもある。英語の"public observatory"の"public"を「公共」と訳すか「公開」と訳すかの問題である。用例から判断すれば、publicは公開とする例が多い。公共の場合には、officialを当てる例が多い。つまり、public observatoryの場合には、研究成果などが公開されている天文台となる。</ref>。 多くの場合、公開天文台は光学望遠鏡を備え、[[天体観望]]や天文関連情報の広報、画像等の天文資料の展示・解説、講演会、学習会、イベント開催などを行うのが一般的である。日本の公開天文台数は100を優に超えており、世界に例を見ない天文台大国となっている。 === 公開天文台の歴史 === 日本における最初の公共天文台は、1926年(大正15年)11月に創立された[[倉敷天文台]]で、当時としては日本国内最大級の口径32cm反射望遠鏡(ガルバー鏡)を設置していた。これは、[[山本一清]]京大教授の天文普及の理念の感化を受けた[[原澄治]]倉敷紡績専務が私財を投じた全国初の民間天文台だった。当時の天文台はすべて官立で一般の天文愛好家は利用できなかったので、天文学普及のため誰でも観望できるようにと無料公開された施設だった。1941年(昭和16年)以来、同天文台主事として[[本田実]]が活躍し、氏は新彗星12個、新星11個を発見した。 === 公開天文台の目的と状況 === 公開天文台の中には、国民の豊かな[[自然観]]を育むことを目的とする[[生涯学習]]施設として位置づけられるものもあれば、[[観光]]資源の一つとして集客による経済効果を期待されるものもある。望遠鏡の維持や施設管理には設置時の数%程度の経費を毎年要するため、後者のうち特に[[1990年]]代に[[ふるさと創生資金]]を活用して設置されたものの中には[[地方公共団体|自治体]]の財政難から閉鎖されるものも出始めている。 === 大型天文台との比較 === 公開天文台の望遠鏡を用いた観測は前述のように、研究機関が保有する望遠鏡による観測を補完するものとして、比較的自由度の大きな観測を行える利点を持つ。ただし、現状の日本の公開天文台の望遠鏡は口径50cm~1mクラスのものが多く、世界の研究用天文台で3~4mクラスの望遠鏡が珍しくないことを考えると研究用途としてはやや不利である。[[兵庫県立西はりま天文台]]には世界最大口径(2m)の公開望遠鏡「なゆた」があり活用されているが、日本の空は気候的・地理的に気流が良くないことが多く、可視光観測では[[撮像]]よりも[[分光]]観測に向く空であるとされている。一方[[赤外線]]では様相が異なり、日本の空でも十分な[[星像]]を得られることが多い。したがって、公開天文台における研究観測では、メリットを生かせる観測対象の選択や、望遠鏡と空に見合った[[観測装置]]の整備が求められている<ref group="注">天文台は都市部では設置が難しいため、大型観測施設は圧倒的に地方山間部が多い。夜間の地球を撮影した画像等からも分かるように、日本は夜間の照明が多く、夜空が明るい。これは観測の妨げにはなるが、防犯や事故防止などの理由もあり、いかしかたの無いことでもある。しかし、以前に比べればよい条件を整えた観測施設が増えたことも確かである。今後は、より小さく・より高度な観測機器(具体的には、感度や精度が高い機器類のこと)の開発が公開天文台からの要望であるように思われる。</ref>。 === 公開天文台の成果 === 公開天文台では観測者が様々な天文現象を観測することを目的に活動をしており、太陽観測や惑星観測、変光星観測([[測光 (天文)|測光観測]])、分光観測(太陽などが中心)、撮像観測(太陽・月・惑星・太陽系内天体の写真など)において多くの成果が発信されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == === 観測設備 === * [[望遠鏡]] - [[天体望遠鏡]] * [[測定器具]] - [[観測装置]] * [[ドーム]](天体観測ドーム)- スライディングルーフ観測所 === 天文学・宇宙物理学 === * [[国際天文学連合]] - [[天文台コード]] === 日本の公共天文台 === * [[公開天文台一覧]] === 世界の天文台 === * [[天文台一覧]] * [[国際観測所]] == 外部リンク == {{Commonscat|Observatories}} * [https://www.nao.ac.jp/ 国立天文台] * [http://www.obs.jp/links/shisetsu/koukai.html 公開天文台ホームページ] <!----- *[http://www.nao.ac.jp/links/Domestic_J_2.html 公開天文台・公開天文関連施設などの一覧](国立天文台)-各施設の許諾を得ていないため廃止した -----> * [http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/link/okayamaken/1/hara.htm 倉敷天文台(原澄治・本田實記念館)] * [https://www.astroarts.co.jp/hoshinavi/pao/index-j.shtml PAONAVI](アストロアーツ) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんもんたい}} [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:天文台|*]] [[Category:施設]] [[Category:観測]]
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芝(しば)とは、1種類あるいは数種類の芝草を人工的に群生させ、適宜刈り込みなどの管理を行い、地表面を緻密に被覆するような生育を維持させ、ある程度の広がりをもち、運動や休養や鑑賞や保安の目的に利用されるイネ科の多年草の総称である。芝草とも呼び複数の種類がある。シバ属のシバ (ノシバ) (英語版)(Zoysia japonica Steud.)という和名の植物もあり、これも芝として利用されるが、シバ属以外の植物にも芝として使われるものは多い。 芝(天然芝)は、大きく日本芝と西洋芝に分けられ、そこからさらに夏型芝や冬型芝に分けられる。日本芝は夏型芝のみであるが、西洋芝は夏型と冬型の両方の種類がある。 芝草が密集して生えていて、絨毯のように一面に生えている状態を指して芝生(しばふ)と呼ぶ。スポーツ施設など芝による舗装を芝舗装といい、天然芝による舗装のほか人工芝による舗装もある。 なお、漢字の「芝」は、中国ではキノコを指し、芝草の意味は日本での国訓である。 芝生は西洋では庭園に利用されてきた。ローマ帝国の崩壊後、西洋庭園の造園に貢献したのは僧侶で、その多くはローマ風の庭園を習ったものであったが、稀に芝生を敷き詰めた庭園も見られた。 日本では万葉集や日本書紀の和歌に「芝」の記述が見られるものが、歴史上確認されているなかでもっとも古い。ここでの芝は、おそらく自生する日本芝の一種の野芝である。一方で、平安時代に書かれた日本最古の造園書「作庭記」には、「芝をふせる」という記述が見られるために、芝が造園植物材料としてこの時代には認識されていたものと思われる。また、明治時代に入り諸外国との交流が活発化すると、各地で西洋芝が導入された。 日本芝は、日本に自生している植物である。全てがシバ属に属し、英語圏では一般にゾイシア(Zoysia)と呼ばれる。 夏型で高温期に生育するが、冬季は休眠し枯れたようになる。高温多湿に適応した芝で、生育適温が23 - 35°Cと高い。そのため、通常の管理をしていれば、日本の夏でも耐えることができる。しかし、気温が23°C以下になる11月から3月の冬季には、生育が停止し、葉に黄変が見られるようになる。 日本芝は匍匐型(ほふく型)である。その成育形態はランナーが伸びることによる節間伸張である。草丈が低く硬いためチクチクした感触であるが、刈込回数は少なくて済む。 日本芝は張芝(栄養体繁殖も参照)による繁殖も特徴であり、西洋芝に比べて新設するのに労力がかかる。 葉幅では次のように区分される。 西洋芝は、耐陰性、繁殖性などの点で日本芝より優れた特性を備えているものが多い。その一方で日本芝より多くの刈り込みを必要とするものが多く、西洋芝の中には病害に対する抵抗力が弱いものもあり、農薬の散布を必要とする。このことが、西洋芝を使用したゴルフ場による環境破壊へつながっている側面もある。 夏型芝は、日本芝の性質とほぼ同じである。 西洋芝(冬型芝)は、生育適温が16 - 24°Cで1 - 7°Cの低温まで耐えることができる。冬型芝は冬季でも緑色をしているものが多い。冷涼な気候を好み、日本での生育適地は北海道である。 株立型で草丈は高く葉も柔らかいが頻繁に草刈りをしなければならない。生育は分蘖(株分け)で増殖する品種のほか、日本芝同様ランナーや地下茎による増殖を行う品種もある。 繁殖は主に種子の播種(種まき)によって行うため労力は少なくて済む。一部品種では張芝により行うこともできる。 日本芝に比べると踏圧に弱いものが多く、夏の高温多湿時には病気になりやすい。また、酸性土壌には不向きで肥料を多く要するほか、乾燥に弱いため特に夏場は頻繁に灌水を要する。 日本には明治以降に芝生の植栽材料として輸入された。もともとは牧草から転用したイネ科植物である。 芝生の造成の方法には蒔芝法(播種法)と芝付法の2種類がある。 種子を蒔く方法。多くの西洋芝は種子により繁殖する。蒔芝の時期は湿気のある土壌であれば年中時期を選ばずに造成可能であるが春が適期とされている。冬が近くなると霜の影響を受けやすくなり、春に補植が必要になるおそれがある。また、夏季は他の雑草の影響を受けて成長が阻害されたり、乾燥による発芽の阻害を受けるおそれがある。 なお、日本独特の方法として種子ではなく切芝(芝の地下茎)を種子のように蒔いて覆土し灌水する根蒔法がある。 株分けした芝(種芝)を予め繁殖させ、十分に広がったところで適当な大きさに切り取って予定の箇所に張り付けていく方法である。切芝を張り付けてゆく方法は張芝という。日本芝は張芝により繁殖する。 なお、匍匐茎をほぐして株を分け一定間隔(4~5 cm)で植え付ける植芝という方法もある。 マット状である切芝の大きさは、生産地で異なる。鳥取県では、37.1 cm×30cmの切芝を9枚で1束としている。静岡県では、36 cm×28cmの切芝を10枚で1束としている。 また、屋上緑化用に、育成基盤と芝が一体となったターフマットでは、50 cm×50cmの切芝を4枚で1束としているものや、50 cm×2mの細長い芝を巻き取りロール状としているものもある。 切芝の張り方には、ベタ張り、目地張り、筋張り、互の目張り、市松張りなどがある。 芝生の管理には、いくつかの作業があるが、いずれも短期・長期にわたって芝生の品質に影響を与える。 春の芽出時には成長点近くで低く刈り込み、成長に合わせて刈高を上げるが、生育期間中の刈高は2~3cmを維持する。 芝刈りには芝刈り機を用いるが、樹木の根元や施設の周囲は手刈りを行う。 刈り込み頻度および刈高は、利用目的や草種によって大きく変化するが芝生の生育期においては概ね、以下の通りである。 芝生には、さび病、葉腐病(ブラウンパッチやラージパッチ)、葉枯れ病、いもち病、雪腐れ病、ビシウムブライトなどが発生することがあるため防除を行う。 春には成長を促すため窒素分の多い有機肥料を施す(春肥という)。秋には耐寒性を強めるための遅効性の有機肥料を施す(秋肥という)。 除草には、除草ホークなどによる抜き取り除草と薬剤防除がある。公園などで周辺環境に考慮する必要がある場合には薬剤は使用しない。 以上の天然芝のほかに舗装材として人工芝と呼ばれる合成樹脂製のものもある。また、天然芝と人工芝(または人工繊維)の混合芝であるハイブリッド芝もあり、このハイブリッド芝は耐久性が高められているが管理の点では総天然芝とほぼ変わらない。 公園や運動場で、見栄えのために植えたり、運動をしやすくするためのクッションとして植えられることが多い。しかし、芝へ立ち入ると芝が荒れる可能性があるので、立ち入り禁止がたびたび行われる矛盾について、しばしば議論を呼ぶ。 最近では、校庭(運動場)に芝生を植えた小学校が増えつつある。はだし教育として裸足で運動しても痛くないなどのメリットがあり、また緑化として効果があるとされる。 野球場のフィールドには、選手の膝や足にかかる負担を軽減できるため、芝が敷き詰められる。とくにメジャーリーグベースボールで使用される球場は、内外野総天然芝であることが多く、人工芝の球場は2023年現在で全30本拠地中トロピカーナ・フィールド、ロジャーズ・センター、チェイス・フィールド、グローブライフ・フィールド、ローンデポ・パークの5球場のみ、内野が土のみの球場はメジャー及びトリプルAでは皆無である。 一方、日本では、球場が屋根付きであるために天然芝を育てられない、野球以外のコンサートなどへの貸し出しや天候の変化に対応するための芝の保守・管理コストが安いなどの理由により、日本野球機構管轄のプロ野球の一軍公式戦で使用される球場ではほとんどが人工芝を利用している。二軍や独立リーグ、アマチュア野球を主たる利用とする地方球場は外野こそ天然芝であるも内野が土のみであることがほとんどであり、軟式野球やソフトボール専用の球場では外野すら芝が敷かれていない、あるいは常緑でないこともままある。2023年現在、天然芝を利用するプロ野球一軍本拠地球場は阪神甲子園球場、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島、楽天モバイルパーク宮城、エスコンフィールドHOKKAIDOの4球場のみである。 またメジャーリーグの球場が、ケンタッキーブルーグラスに代表される冬芝により1年を通じて常緑の状態を維持しているのに対し、寒冷地を除く日本では冬芝を夏季に維持することは気候上困難であるため、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島と阪神甲子園球場では、夏芝ティフトン419と冬芝ペレニアル・ライグラスのオーバーシード(二毛作方式)を採用している。一方楽天モバイルパーク宮城はケンタッキーブルーグラスの通年利用である。 日本サッカー協会では、開催試合に応じて競技場を5クラス(S・1・2・3・4)に分けられ、Jリーグの公式試合が開催可能なクラス2以上の競技場は常緑の天然芝が義務づけられており、そのために多くの競技場でウインターオーバーシーディングが盛んに行われている。2017年にはJリーグ規約が一部改正され、天然芝と人工繊維を編み込んだハイブリッド芝(グラスマスターに代表される強化天然芝)の敷設を承認し、翌2018年よりノエビアスタジアム神戸がその第1号として導入することになった。 1994年に設けられたスポーツターフ研究会は、芝生管理技術の向上に後援したり、財団法人都市緑化技術開発機構主催の「スポーツターフ管理者のための研修会」に後援したり、校庭の芝生化支援に取り組むなど、何かと芝生に対する関わりの深い組織である。 アメリカンフットボールの場合、シーズンの気候及び競技の性質から天然芝ではフィールドが傷みやすいことと、プレーのスピードが出やすいとの理由から人工芝の球技場も目立つ。特に日本では、ノエビアスタジアム神戸のように芝の維持を理由にアメリカンフットボールへの貸し出しを中止する球技場もある。野球同様選手への負担面からNFLでは球技場を新装する際に天然芝に変えるスタジアムも少なくないが、ジレット・スタジアムやNRGスタジアムのように天然芝から人工芝に変更した例もある。NFLにおける天然芝球技場のうち、ステートファーム・スタジアムは芝に対する負担を軽減するための施策として、年間350日ほどフィールドを球技場外に出し、試合時のみ球技場内に戻して使用する可動式システムを採用している。アレジアント・スタジアムも同様のシステムを採用しているが、内部には人工芝のフィールドが敷かれており、NFLの試合は天然芝プレートを使用する一方で、カレッジフットボールは人工芝で試合を行っている。 近年は上述の強化天然芝を採用した例もある。しかしながら、その特性上暖地芝を利用できず暑い時期の利用に難があること等の理由から、NFLのホームスタジアムではグラスマスターを導入した4スタジアムのうち3つ(ハインツ・フィールド、スポーツ・オーソリティ・フィールド・アット・マイル・ハイ、リンカーン・フィナンシャル・フィールド)では通常の天然芝に切り替えており、2016シーズン時点で使用しているのは寒冷地にあるランボー・フィールドのみである。 競馬場のコースには、芝コースとダートコース、オールウェザーコースなどがあるが、ヨーロッパの競馬場は芝コースが主体で、かつ、芝コースだけを持つところがほとんどである。日本、アメリカなどでは芝コース、ダートコースの両方が用いられる。芝のコースはダートのコースに比べ傷みやすく、馬場の状態は天候に左右されやすい。日本のように雨が多く、かつ、ヨーロッパに比べて競馬場あたりの施行レース数が多い環境では、芝コースを保護するためにダートコースとの併用が行われることとなった。また、かつては日本の競馬場は野芝のみで冬は黄色くなってしまうことから、1992年に阪神競馬場で採用されたのを皮切りに、順次各競馬場でオーバーシードを用いて夏は野芝、冬は洋芝を生やすことによって一年中芝コースは緑色を保つようになった。(夏に高温にならない北海道の札幌競馬場・函館競馬場は洋芝のみ。また、冬季に開催が行われない新潟競馬場は野芝のみを使用する)また、21世紀初頭から、高麗芝をベースとして、より根付きの丈夫な「エクイターフ」という品種が開発され、順次採用されている。日本の中央競馬ではダートのコースより芝のコースの方がよく用いられるが、地方競馬ではそもそも芝コースを持つのが盛岡競馬場のみであり、圧倒的多数のレースはダートのコースで行われる。 ゴルフ場のコースには、グリーンやフェアウェイやティーグラウンドやラフと呼ばれる場所がある。これらには、それぞれ違った種類の芝が植えられる。日本では1980年代後半、芝の維持のために使われる農薬が含まれたゴルフ場排水が社会問題化した。それに伴い、千葉県では、1990年以降建設されるゴルフ場では農薬の散布が禁止 され、既存のゴルフ場では農薬散布を少なくするなど指導要項を制定し、国としては環境省が1990年に「ゴルフ場で使用される農薬による水質汚濁の防止に係る暫定指導指針」を定めるなどした。 アメリカ合衆国では、一軒家の軒先から道路(歩道の)、隣接地の境界まで芝生を引き詰め、地域の景観として管理を義務づけている地域がある。散水、刈り込みといった管理を怠ると地域のコミュニティから非難される、州や自治体が罰金を科すといったペナルティが生じることがある。 日本では、一部の学校の校庭が芝生化している。このことを、校庭芝生化と言う。複数の学校が導入している。2008年、都内で最も広い芝生の校庭が小金井市立小金井第二小学校。今でも校庭の芝生化が増えている。 普通に見かける芝生は、上記のように人工的な物であるが、自然のままで芝生が成立している例もある。日本では琉球列島の海岸線で、石灰岩の上で天然の芝生が成立している。植物社会学ではこれをイソフサギクラスの下にソナレムグラ - コウライシバ群落として認めている。より岩の多い場所ではナハエボシグサやハリツルマサキが混じる。このような物の代表的な物が万座毛で見られる。また、牧畜によって生じる二次植生としても類似の群落が見られる場合がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "芝(しば)とは、1種類あるいは数種類の芝草を人工的に群生させ、適宜刈り込みなどの管理を行い、地表面を緻密に被覆するような生育を維持させ、ある程度の広がりをもち、運動や休養や鑑賞や保安の目的に利用されるイネ科の多年草の総称である。芝草とも呼び複数の種類がある。シバ属のシバ (ノシバ) (英語版)(Zoysia japonica Steud.)という和名の植物もあり、これも芝として利用されるが、シバ属以外の植物にも芝として使われるものは多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "芝(天然芝)は、大きく日本芝と西洋芝に分けられ、そこからさらに夏型芝や冬型芝に分けられる。日本芝は夏型芝のみであるが、西洋芝は夏型と冬型の両方の種類がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "芝草が密集して生えていて、絨毯のように一面に生えている状態を指して芝生(しばふ)と呼ぶ。スポーツ施設など芝による舗装を芝舗装といい、天然芝による舗装のほか人工芝による舗装もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、漢字の「芝」は、中国ではキノコを指し、芝草の意味は日本での国訓である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "芝生は西洋では庭園に利用されてきた。ローマ帝国の崩壊後、西洋庭園の造園に貢献したのは僧侶で、その多くはローマ風の庭園を習ったものであったが、稀に芝生を敷き詰めた庭園も見られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本では万葉集や日本書紀の和歌に「芝」の記述が見られるものが、歴史上確認されているなかでもっとも古い。ここでの芝は、おそらく自生する日本芝の一種の野芝である。一方で、平安時代に書かれた日本最古の造園書「作庭記」には、「芝をふせる」という記述が見られるために、芝が造園植物材料としてこの時代には認識されていたものと思われる。また、明治時代に入り諸外国との交流が活発化すると、各地で西洋芝が導入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本芝は、日本に自生している植物である。全てがシバ属に属し、英語圏では一般にゾイシア(Zoysia)と呼ばれる。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "夏型で高温期に生育するが、冬季は休眠し枯れたようになる。高温多湿に適応した芝で、生育適温が23 - 35°Cと高い。そのため、通常の管理をしていれば、日本の夏でも耐えることができる。しかし、気温が23°C以下になる11月から3月の冬季には、生育が停止し、葉に黄変が見られるようになる。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本芝は匍匐型(ほふく型)である。その成育形態はランナーが伸びることによる節間伸張である。草丈が低く硬いためチクチクした感触であるが、刈込回数は少なくて済む。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本芝は張芝(栄養体繁殖も参照)による繁殖も特徴であり、西洋芝に比べて新設するのに労力がかかる。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "葉幅では次のように区分される。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "西洋芝は、耐陰性、繁殖性などの点で日本芝より優れた特性を備えているものが多い。その一方で日本芝より多くの刈り込みを必要とするものが多く、西洋芝の中には病害に対する抵抗力が弱いものもあり、農薬の散布を必要とする。このことが、西洋芝を使用したゴルフ場による環境破壊へつながっている側面もある。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "夏型芝は、日本芝の性質とほぼ同じである。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "西洋芝(冬型芝)は、生育適温が16 - 24°Cで1 - 7°Cの低温まで耐えることができる。冬型芝は冬季でも緑色をしているものが多い。冷涼な気候を好み、日本での生育適地は北海道である。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "株立型で草丈は高く葉も柔らかいが頻繁に草刈りをしなければならない。生育は分蘖(株分け)で増殖する品種のほか、日本芝同様ランナーや地下茎による増殖を行う品種もある。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "繁殖は主に種子の播種(種まき)によって行うため労力は少なくて済む。一部品種では張芝により行うこともできる。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本芝に比べると踏圧に弱いものが多く、夏の高温多湿時には病気になりやすい。また、酸性土壌には不向きで肥料を多く要するほか、乾燥に弱いため特に夏場は頻繁に灌水を要する。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本には明治以降に芝生の植栽材料として輸入された。もともとは牧草から転用したイネ科植物である。", "title": "芝の種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "芝生の造成の方法には蒔芝法(播種法)と芝付法の2種類がある。", "title": "芝生の造成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "種子を蒔く方法。多くの西洋芝は種子により繁殖する。蒔芝の時期は湿気のある土壌であれば年中時期を選ばずに造成可能であるが春が適期とされている。冬が近くなると霜の影響を受けやすくなり、春に補植が必要になるおそれがある。また、夏季は他の雑草の影響を受けて成長が阻害されたり、乾燥による発芽の阻害を受けるおそれがある。", "title": "芝生の造成" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、日本独特の方法として種子ではなく切芝(芝の地下茎)を種子のように蒔いて覆土し灌水する根蒔法がある。", "title": "芝生の造成" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "株分けした芝(種芝)を予め繁殖させ、十分に広がったところで適当な大きさに切り取って予定の箇所に張り付けていく方法である。切芝を張り付けてゆく方法は張芝という。日本芝は張芝により繁殖する。", "title": "芝生の造成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、匍匐茎をほぐして株を分け一定間隔(4~5 cm)で植え付ける植芝という方法もある。", "title": "芝生の造成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "マット状である切芝の大きさは、生産地で異なる。鳥取県では、37.1 cm×30cmの切芝を9枚で1束としている。静岡県では、36 cm×28cmの切芝を10枚で1束としている。 また、屋上緑化用に、育成基盤と芝が一体となったターフマットでは、50 cm×50cmの切芝を4枚で1束としているものや、50 cm×2mの細長い芝を巻き取りロール状としているものもある。", "title": "芝生の造成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "切芝の張り方には、ベタ張り、目地張り、筋張り、互の目張り、市松張りなどがある。", 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"以上の天然芝のほかに舗装材として人工芝と呼ばれる合成樹脂製のものもある。また、天然芝と人工芝(または人工繊維)の混合芝であるハイブリッド芝もあり、このハイブリッド芝は耐久性が高められているが管理の点では総天然芝とほぼ変わらない。", "title": "人工芝とハイブリッド芝" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "公園や運動場で、見栄えのために植えたり、運動をしやすくするためのクッションとして植えられることが多い。しかし、芝へ立ち入ると芝が荒れる可能性があるので、立ち入り禁止がたびたび行われる矛盾について、しばしば議論を呼ぶ。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "最近では、校庭(運動場)に芝生を植えた小学校が増えつつある。はだし教育として裸足で運動しても痛くないなどのメリットがあり、また緑化として効果があるとされる。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "野球場のフィールドには、選手の膝や足にかかる負担を軽減できるため、芝が敷き詰められる。とくにメジャーリーグベースボールで使用される球場は、内外野総天然芝であることが多く、人工芝の球場は2023年現在で全30本拠地中トロピカーナ・フィールド、ロジャーズ・センター、チェイス・フィールド、グローブライフ・フィールド、ローンデポ・パークの5球場のみ、内野が土のみの球場はメジャー及びトリプルAでは皆無である。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一方、日本では、球場が屋根付きであるために天然芝を育てられない、野球以外のコンサートなどへの貸し出しや天候の変化に対応するための芝の保守・管理コストが安いなどの理由により、日本野球機構管轄のプロ野球の一軍公式戦で使用される球場ではほとんどが人工芝を利用している。二軍や独立リーグ、アマチュア野球を主たる利用とする地方球場は外野こそ天然芝であるも内野が土のみであることがほとんどであり、軟式野球やソフトボール専用の球場では外野すら芝が敷かれていない、あるいは常緑でないこともままある。2023年現在、天然芝を利用するプロ野球一軍本拠地球場は阪神甲子園球場、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島、楽天モバイルパーク宮城、エスコンフィールドHOKKAIDOの4球場のみである。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "またメジャーリーグの球場が、ケンタッキーブルーグラスに代表される冬芝により1年を通じて常緑の状態を維持しているのに対し、寒冷地を除く日本では冬芝を夏季に維持することは気候上困難であるため、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島と阪神甲子園球場では、夏芝ティフトン419と冬芝ペレニアル・ライグラスのオーバーシード(二毛作方式)を採用している。一方楽天モバイルパーク宮城はケンタッキーブルーグラスの通年利用である。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本サッカー協会では、開催試合に応じて競技場を5クラス(S・1・2・3・4)に分けられ、Jリーグの公式試合が開催可能なクラス2以上の競技場は常緑の天然芝が義務づけられており、そのために多くの競技場でウインターオーバーシーディングが盛んに行われている。2017年にはJリーグ規約が一部改正され、天然芝と人工繊維を編み込んだハイブリッド芝(グラスマスターに代表される強化天然芝)の敷設を承認し、翌2018年よりノエビアスタジアム神戸がその第1号として導入することになった。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1994年に設けられたスポーツターフ研究会は、芝生管理技術の向上に後援したり、財団法人都市緑化技術開発機構主催の「スポーツターフ管理者のための研修会」に後援したり、校庭の芝生化支援に取り組むなど、何かと芝生に対する関わりの深い組織である。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アメリカンフットボールの場合、シーズンの気候及び競技の性質から天然芝ではフィールドが傷みやすいことと、プレーのスピードが出やすいとの理由から人工芝の球技場も目立つ。特に日本では、ノエビアスタジアム神戸のように芝の維持を理由にアメリカンフットボールへの貸し出しを中止する球技場もある。野球同様選手への負担面からNFLでは球技場を新装する際に天然芝に変えるスタジアムも少なくないが、ジレット・スタジアムやNRGスタジアムのように天然芝から人工芝に変更した例もある。NFLにおける天然芝球技場のうち、ステートファーム・スタジアムは芝に対する負担を軽減するための施策として、年間350日ほどフィールドを球技場外に出し、試合時のみ球技場内に戻して使用する可動式システムを採用している。アレジアント・スタジアムも同様のシステムを採用しているが、内部には人工芝のフィールドが敷かれており、NFLの試合は天然芝プレートを使用する一方で、カレッジフットボールは人工芝で試合を行っている。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "近年は上述の強化天然芝を採用した例もある。しかしながら、その特性上暖地芝を利用できず暑い時期の利用に難があること等の理由から、NFLのホームスタジアムではグラスマスターを導入した4スタジアムのうち3つ(ハインツ・フィールド、スポーツ・オーソリティ・フィールド・アット・マイル・ハイ、リンカーン・フィナンシャル・フィールド)では通常の天然芝に切り替えており、2016シーズン時点で使用しているのは寒冷地にあるランボー・フィールドのみである。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": 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"アメリカ合衆国では、一軒家の軒先から道路(歩道の)、隣接地の境界まで芝生を引き詰め、地域の景観として管理を義務づけている地域がある。散水、刈り込みといった管理を怠ると地域のコミュニティから非難される、州や自治体が罰金を科すといったペナルティが生じることがある。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本では、一部の学校の校庭が芝生化している。このことを、校庭芝生化と言う。複数の学校が導入している。2008年、都内で最も広い芝生の校庭が小金井市立小金井第二小学校。今でも校庭の芝生化が増えている。", "title": "芝の利用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "普通に見かける芝生は、上記のように人工的な物であるが、自然のままで芝生が成立している例もある。日本では琉球列島の海岸線で、石灰岩の上で天然の芝生が成立している。植物社会学ではこれをイソフサギクラスの下にソナレムグラ - コウライシバ群落として認めている。より岩の多い場所ではナハエボシグサやハリツルマサキが混じる。このような物の代表的な物が万座毛で見られる。また、牧畜によって生じる二次植生としても類似の群落が見られる場合がある。", "title": "自然植生としての芝生" } ]
芝(しば)とは、1種類あるいは数種類の芝草を人工的に群生させ、適宜刈り込みなどの管理を行い、地表面を緻密に被覆するような生育を維持させ、ある程度の広がりをもち、運動や休養や鑑賞や保安の目的に利用されるイネ科の多年草の総称である。芝草とも呼び複数の種類がある。シバ属のシバ (ノシバ) という和名の植物もあり、これも芝として利用されるが、シバ属以外の植物にも芝として使われるものは多い。 芝(天然芝)は、大きく日本芝と西洋芝に分けられ、そこからさらに夏型芝や冬型芝に分けられる。日本芝は夏型芝のみであるが、西洋芝は夏型と冬型の両方の種類がある。 芝草が密集して生えていて、絨毯のように一面に生えている状態を指して芝生(しばふ)と呼ぶ。スポーツ施設など芝による舗装を芝舗装といい、天然芝による舗装のほか人工芝による舗装もある。 なお、漢字の「芝」は、中国ではキノコを指し、芝草の意味は日本での国訓である。
{{Otheruseslist|イネ科植物|日本の地名|芝 (地名)|植物学上のシバ|シバ属}} [[File:Grass.jpg|thumb|right|250px|芝]] [[File:StripedLawn.jpg|thumb|right|250px|芝生]] '''芝'''(しば)とは、1種類あるいは数種類の芝草を人工的に群生させ、適宜刈り込みなどの管理を行い、地表面を緻密に被覆するような生育を維持させ、ある程度の広がりをもち、運動や休養や鑑賞や保安の目的に利用される[[イネ科]]の多年草の総称である。芝草とも呼び複数の種類がある。[[シバ属]]の{{仮リンク|シバ (ノシバ) |en|Zoysia japonica }}(''Zoysia japonica'' Steud.)という和名の植物もあり、これも芝として利用されるが、シバ属以外の植物にも芝として使われるものは多い。 芝(天然芝)は、大きく日本芝と西洋芝に分けられ、そこからさらに夏型芝や冬型芝に分けられる。日本芝は夏型芝のみであるが、西洋芝は夏型と冬型の両方の種類がある。 芝草が密集して生えていて、絨毯のように一面に生えている状態を指して芝生(しばふ)と呼ぶ。スポーツ施設など芝による舗装を芝舗装といい、天然芝による舗装のほか[[人工芝]]による舗装もある。 なお、漢字の「芝」は、中国ではキノコを指し、芝草の意味は日本での[[国訓]]である<ref>沖森卓也ほか『図解 日本の文字』三省堂、2011年、52頁</ref>。 == 歴史 == 芝生は西洋では庭園に利用されてきた。ローマ帝国の崩壊後、西洋庭園の造園に貢献したのは僧侶で、その多くはローマ風の庭園を習ったものであったが、稀に芝生を敷き詰めた庭園も見られた<ref>{{Cite book |和書 |author=大屋霊城 |year=1920 |title=庭園の設計と施工 |page=88 |publisher=裳華房 }}</ref>。 日本では[[万葉集]]や[[日本書紀]]の和歌に「芝」の記述が見られるものが、歴史上確認されているなかでもっとも古い。ここでの芝は、おそらく自生する日本芝の一種の野芝である。一方で、[[平安時代]]に書かれた日本最古の造園書「[[作庭記]]」には、「芝をふせる」という記述が見られるために、芝が造園植物材料としてこの時代には認識されていたものと思われる。また、[[明治|明治時代]]に入り諸外国との交流が活発化すると、各地で西洋芝が導入された。 == 芝の種類 == === 日本芝 === ==== 特徴 ==== 日本芝は、日本に自生している植物である。全てがシバ属に属し、英語圏では一般にゾイシア(Zoysia)と呼ばれる。 夏型で高温期に生育するが、冬季は休眠し枯れたようになる<ref name="pocketbook54">{{Cite book |和書 |author=木村 了 |year=2008 |title=わかりやすい造園実務ポケットブック |page=54 }}</ref>。高温多湿に適応した芝で、生育適温が23 - 35{{℃}}と高い。そのため、通常の管理をしていれば、日本の[[夏]]でも耐えることができる。しかし、気温が23{{℃}}以下になる11月から3月の[[冬]]季には、生育が停止し、葉に黄変が見られるようになる。 日本芝は匍匐型(ほふく型)である<ref name="pocketbook54" />。その成育形態は[[匍匐茎|ランナー]]が伸びることによる節間伸張である。草丈が低く硬いためチクチクした感触であるが、刈込回数は少なくて済む<ref name="pocketbook54" />。 日本芝は張芝([[栄養体繁殖]]も参照)による繁殖も特徴であり、西洋芝に比べて新設するのに労力がかかる<ref name="pocketbook54" />。 葉幅では次のように区分される。 *中芝 - 葉幅3.6mm以上 *大高麗芝 - 3.3〜3.6mm *高麗芝 - 2.7〜3.2mm *姫高麗芝 - 1.7〜2.5mm *エメラルドゾイシア - 2.1mm前後 *朝鮮芝 - 1.2〜1.6mm ==== 代表的な種類 ==== ; ノシバ(標準和名はシバ) : 山芝や地芝や砂芝とも呼ぶ。[[北海道]]北部以外の日本全土に分布・自生している。環境への適応力が高く病害虫に強い<ref name="pocketbook54" />。河川堤防や公園などに利用される<ref name="pocketbook54" />。また、[[飛行場]]や[[法面]]の植栽もこのノシバである。草丈10cm以上で、草幅は概ね4mm程度である。茎葉は粗野で硬い<ref name="pocketbook54" />。この芝は日本芝のなかではもっとも硬いといわれ、節間が粗く繁殖方向が直線的で伸びが速いために、緻密な芝になりにくい。5 - 6月に花茎を出し開花する。休眠は日本芝ではもっとも早い10 - 11月である。 ; コウライシバ : 本高麗とも呼ぶ。[[本州]]から[[九州]]に分布しており、生育適温は30{{℃}}と高い。草丈は約7.4cmで葉長は4.5 - 11cmである。コウライシバの代表的品種である。耐寒性は、大高麗に比べ劣るために、[[北海道]]では生育しない。耐隠性・耐湿性にすぐれ踏圧にも耐える。公園や庭園、[[ゴルフ場]]などに利用<ref name="pocketbook54" />。[[琉球諸島]]の隆起サンゴ礁の海岸では、岩の上にコウライシバを中心とした芝が自生している。この芝は、本コウライと呼びほかのコウライ系の芝と区別することがある。 ; ヒメコウライシバ : コウライシバよりもさらにきめ細かい。ゴルフのグリーンに利用される。 ; ビロードシバ : 日本芝の中では繊細で触り心地がよい<ref name="pocketbook54" />。非常にきめが細かいために、小庭園の観賞用として用いられることが多い<ref name="pocketbook54" />。生育は遅く環境への適応力は低い<ref name="pocketbook54" />。 === 西洋芝 === 西洋芝は、耐陰性、繁殖性などの点で日本芝より優れた特性を備えているものが多い。その一方で日本芝より多くの刈り込みを必要とするものが多く、西洋芝の中には病害に対する抵抗力が弱いものもあり、[[農薬]]の散布を必要とする。このことが、西洋芝を使用した[[ゴルフ場]]による環境破壊へつながっている側面もある。 ==== 夏型芝 ==== 夏型芝は、日本芝の性質とほぼ同じである。 ; バーミューダグラス類 : 日本芝に近い性質を持ち、草丈は20 - 50cmで[[匍匐茎|ランナー]]で繁殖する。日本芝より休眠期間は短くほかの西洋芝より葉は細かく濃緑色で鮮やかである。耐乾性があり砂地でも生育する<ref name="pocketbook54" />。また耐潮性に富み[[海浜公園]]などにも適する。標準[[和名]]は[[ギョウギシバ]]であり、こう呼ばれることもある。代表的な品種としてティフトン419があり、これは米国のティフトン農業試験場において[[品種改良]]で作られた作られた改良バミューダの一種である。暑い地方のサッカー場やラグビー場などでよく使われており、またオーバーシード(下記野球場の項目を参照)のベースとしても利用される。 ; セント・オーガスチングラス : ランナーで繁殖する。葉幅の広い品種であり、また夏型芝としては耐陰性に優れる。 ; シーショア・パスパラム : パスパラム類の芝であり、ランナーで繁殖する。耐塩性に優れており、海岸のゴルフ場や競技場での利用に適している。 ==== 冬型芝 ==== [[File:Poa pratensis seeds 20101113.jpg|thumb|ケンタッキーブルーグラスの種子]] 西洋芝(冬型芝)は、生育適温が16 - 24{{℃}}で1 - 7{{℃}}の低温まで耐えることができる。冬型芝は冬季でも緑色をしているものが多い<ref name="pocketbook54" />。冷涼な気候を好み、日本での生育適地は[[北海道]]である。 株立型で草丈は高く葉も柔らかいが頻繁に草刈りをしなければならない<ref name="pocketbook54" />。生育は[[分蘖]](株分け)で増殖する品種のほか、日本芝同様ランナーや地下茎による増殖を行う品種もある。 繁殖は主に種子の[[播種]](種まき)によって行うため労力は少なくて済む<ref name="pocketbook54" />。一部品種では張芝により行うこともできる。 日本芝に比べると踏圧に弱いものが多く、夏の高温多湿時には病気になりやすい<ref name="pocketbook54" />。また、酸性土壌には不向きで肥料を多く要するほか、乾燥に弱いため特に夏場は頻繁に灌水を要する<ref name="pocketbook54" />。 日本には[[明治]]以降に芝生の植栽材料として輸入された。もともとは[[牧草]]から転用したイネ科植物である。 ; ベントグラス類({{Anchors|ベント芝}}ベント芝) : 草丈は30 - 50cm程度である。生育気温は、15 - 25{{℃}}と耐寒性が高い。緻密な芝でゴルフ場の[[グリーン (ゴルフ)|グリーン]]用の芝として利用されている<ref name="pocketbook54" />。特に園芸品種であるクリーピングベントグラスはその名の通りランナーで繁殖する芝で低い刈り込みにも耐えられる。[[酸性]]土に弱いので、場所によっては土壌を中和する必要がある。耐暑性がないために、[[庭園]]には適していない。この品種の改良型であるシーサイドベントグラスは、耐潮性があり[[海岸]]近くにも植栽することができる。 ; ライグラス類 : 生育が速く密度が濃いために、[[運動場]]などで利用される。運動場ではその初期生育の速さからペレニアルライグラス等がオーバーシード環境の冬芝として利用される。寒さに強いが暑さに弱い。踏圧に弱い。株分けで増殖する。 ; ブルーグラス類 : ベントグラスよりも寒地に適応した品種である。病害には強いが生育が遅い。高温乾燥に弱い。ゴルフ場のフェアウェイや法面緑化に利用されている<ref name="pocketbook54" />。地下茎で増殖する。 ; フェスク類 : 寒地型と暖地型の両方の性質を持ち、気温に対する適応力に富む品種である。道路工事の際に[[法面]]の保護に使われることが多い。最近は園芸品種であるトールフェスクが運動場などでも利用されている。株分けで増殖する。 == 芝生の造成 == 芝生の造成の方法には蒔芝法(播種法)と芝付法の2種類がある<ref>{{Cite book |和書 |author=大屋霊城 |year=1920 |title=庭園の設計と施工 |page=528 |publisher=裳華房 }}</ref>。 === 蒔芝法(播種法) === 種子を蒔く方法。多くの西洋芝は種子により繁殖する<ref name="pocketbook54" />。蒔芝の時期は湿気のある土壌であれば年中時期を選ばずに造成可能であるが春が適期とされている<ref>{{Cite book |和書 |author=大屋霊城 |year=1920 |title=庭園の設計と施工 |page=532 |publisher=裳華房 }}</ref>。冬が近くなると霜の影響を受けやすくなり、春に補植が必要になるおそれがある<ref name="oya533">{{Cite book |和書 |author=大屋霊城 |year=2012 |title=庭園の設計と施工 |page=533 |publisher=裳華房 }}</ref>。また、夏季は他の雑草の影響を受けて成長が阻害されたり、乾燥による発芽の阻害を受けるおそれがある<ref name="oya533" />。 なお、日本独特の方法として種子ではなく切芝(芝の地下茎)を種子のように蒔いて覆土し灌水する根蒔法がある<ref>{{Cite book |和書 |author=大屋霊城 |year=1920 |title=庭園の設計と施工 |page=536 |publisher=裳華房 }}</ref>。 === 芝付法 === 株分けした芝(種芝)を予め繁殖させ、十分に広がったところで適当な大きさに切り取って予定の箇所に張り付けていく方法である<ref>{{Cite book |和書 |author=大屋霊城 |year=2012 |title=庭園の設計と施工 |page=537 |publisher=裳華房 }}</ref>。切芝を張り付けてゆく方法は張芝という<ref name="pocketbook101">{{Cite book |和書 |author=木村 了 |year=2008 |title=わかりやすい造園実務ポケットブック |page=101 }}</ref>。日本芝は張芝により繁殖する<ref name="pocketbook54" />。 なお、匍匐茎をほぐして株を分け一定間隔(4~5&nbsp;cm)で植え付ける植芝という方法もある<ref name="pocketbook101" />。 ==== 芝の産地 ==== [[File:Lawn Field in Tsukuba.jpg|thumb|200px|right|つくば市[[豊里町 (茨城県)|豊里地域]]の芝畑]] * [[茨城県]] - [[つくば市]]の作付け面積は日本一である<ref>[http://www.pref.ibaraki.jp/nourin/noucenter/brand/2009/6104/index.html 茨城県農業総合センター こだわりの産地 日本一の芝産地]</ref>。新品種の開発が盛ん。 * [[静岡県]] - 富士山麓の地域<ref>[http://www.maff.go.jp/kanto/shizuoka/santi_guide/shiba_fujisan.html 関東農政局 > SAFF-RIN 静岡農林水産地域情報ネットワーク > 産地ガイド > 富士山麓の富士芝]</ref>。 * [[鳥取県]] * [[鹿児島県]] ==== 芝の規格 ==== マット状である切芝の大きさは、生産地で異なる。鳥取県では、37.1&nbsp;cm×30cmの切芝を9枚で1束としている。静岡県では、36&nbsp;cm×28cmの切芝を10枚で1束としている。 また、屋上緑化用に、育成基盤と芝が一体となったターフマットでは、50&nbsp;cm×50cmの切芝を4枚で1束としているものや、50&nbsp;cm×2mの細長い芝を巻き取りロール状としているものもある。 ==== 芝の張り方 ==== 切芝の張り方には、ベタ張り、目地張り、筋張り、互の目張り、市松張りなどがある<ref name="pocketbook101" />。 ; ベタ張り : 芝を隙間なく敷き詰める張り方である。施工後すぐに図面通りの姿になることが利点である。単位面積あたりの芝の量が多いために、もっとも高価な張り方である。 ; 目地張り : 芝と芝の隙間を数cmほど空けレンガのように交互にずらす張り方である。 ; 市松張り : 施工面を[[市松模様]]にする張り方である。単位面積あたりの芝の量が少ないために、もっとも安価な張り方である。芝が施工面全体に広がるまでの期間が長いために、裸地に雑草が生えてしまう。 == 芝生の管理 == 芝生の管理には、いくつかの作業があるが、いずれも短期・長期にわたって芝生の品質に影響を与える。 === 芝刈り === 春の芽出時には成長点近くで低く刈り込み、成長に合わせて刈高を上げるが、生育期間中の刈高は2~3cmを維持する<ref name="pocketbook102">{{Cite book |和書 |author=木村 了 |year=2008 |title=わかりやすい造園実務ポケットブック |page=102 }}</ref>。 芝刈りには[[芝刈り機]]を用いるが、樹木の根元や施設の周囲は手刈りを行う<ref name="pocketbook102" />。 刈り込み頻度および刈高は、利用目的や草種によって大きく変化するが芝生の生育期においては概ね、以下の通りである。 * ゴルフ場グリーン - 刈高3.5〜5mm 毎日1回(トーナメント時は1日1〜3回) * ゴルフ場ティ - 刈高6〜10mm  週2〜3回 * ゴルフ場フェアウエー - 刈高8〜12mm  週1〜2回 * ゴルフ場ラフ - 刈高30〜50mm 月1〜2回(トーナメント時は刈高50〜100mm程度) * 競技場 - 刈高18〜30mm 週1〜3回 * 学校校庭 - 刈高25〜40mm 年間数回〜週1回 === 病害虫防除 === 芝生には、さび病、葉腐病(ブラウンパッチやラージパッチ)、葉枯れ病、[[いもち病]]、雪腐れ病、ビシウムブライトなどが発生することがあるため防除を行う<ref name="pocketbook102" />。 === 施肥 === 春には成長を促すため窒素分の多い有機肥料を施す(春肥という)<ref name="pocketbook103">{{Cite book |和書 |author=木村 了 |year=2008 |title=わかりやすい造園実務ポケットブック |page=103 }}</ref>。秋には耐寒性を強めるための遅効性の有機肥料を施す(秋肥という)<ref name="pocketbook103" />。 === 除草 === 除草には、除草ホークなどによる抜き取り除草と薬剤防除がある<ref name="pocketbook103" />。公園などで周辺環境に考慮する必要がある場合には薬剤は使用しない<ref name="pocketbook103" />。 == 人工芝とハイブリッド芝 == {{Main|人工芝|ハイブリッド芝}} 以上の天然芝のほかに舗装材として人工芝と呼ばれる合成樹脂製のものもある。また、天然芝と人工芝(または人工繊維)の混合芝であるハイブリッド芝もあり、このハイブリッド芝は耐久性が高められているが管理の点では総天然芝とほぼ変わらない<ref>{{Cite news|url=http://nikkankensetsukogyo2.blogspot.com/2017/05/blog-post_52.html|title=【球技場に-注目集めるハイブリッド芝】ピッチの強度・耐久性大幅向上、稼働率アップも|publisher=日刊建設工業新聞|date=2017-05-02|accessdate=2018-06-22}}</ref>。 == 芝の利用 == === 公園・運動場 === [[File:Turf,imperial palace plaza,chiyoda-city,japan.JPG|thumb|200px|きれいに手入れされた芝生([[皇居前広場]])]] 公園や運動場で、見栄えのために植えたり、運動をしやすくするためのクッションとして植えられることが多い。しかし、芝へ立ち入ると芝が荒れる可能性があるので、立ち入り禁止がたびたび行われる矛盾について、しばしば議論を呼ぶ。 最近では、校庭(運動場)に芝生を植えた[[小学校]]が増えつつある。[[はだし教育]]として[[裸足]]で運動しても痛くないなどのメリットがあり、また緑化として効果があるとされる。 === スポーツ施設 === ==== 野球場 ==== [[Image:USCellularFld.JPG|thumb|200px|内外野総天然芝の野球場([[ギャランティード・レート・フィールド|USセルラー・フィールド]])]] [[Image:Summer Koshien 2009 Final.jpg|thumb|200px|外野のみ天然芝の野球場([[阪神甲子園球場]])]] 野球場のフィールドには、選手の膝や足にかかる負担を軽減できるため、芝が敷き詰められる。とくに[[メジャーリーグベースボール]]で使用される球場は、内外野総天然芝であることが多く、人工芝の球場は2023年現在で全30本拠地中[[トロピカーナ・フィールド]]、[[ロジャーズ・センター]]、[[チェイス・フィールド]]、[[グローブライフ・フィールド]]、[[ローンデポ・パーク]]の5球場のみ、内野が土のみの球場はメジャー及びトリプルAでは皆無である。 一方、日本では、[[ドーム球場|球場が屋根付き]]であるために天然芝を育てられない、野球以外のコンサートなどへの貸し出しや天候の変化に対応するための芝の保守・管理コストが安いなどの理由により、[[日本野球機構]]管轄の[[日本のプロ野球|プロ野球]]の一軍公式戦で使用される球場ではほとんどが人工芝を利用している。二軍や[[独立リーグ]]、アマチュア野球を主たる利用とする地方球場は外野こそ天然芝であるも内野が土のみであることがほとんどであり、軟式野球やソフトボール専用の球場では外野すら芝が敷かれていない、あるいは常緑でないこともままある。2023年現在、天然芝を利用するプロ野球一軍本拠地球場は[[阪神甲子園球場]]、[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]、[[宮城球場|楽天モバイルパーク宮城]]、[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]の4球場のみである。 またメジャーリーグの球場が、[[ケンタッキーブルーグラス]]に代表される冬芝により1年を通じて常緑の状態を維持しているのに対し、寒冷地を除く日本では冬芝を夏季に維持することは気候上困難であるため、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島と阪神甲子園球場では、夏芝[[ティフトン419]]と冬芝[[ホソムギ|ペレニアル・ライグラス]]の[[オーバーシード]]([[二毛作]]方式)を採用している。一方楽天モバイルパーク宮城はケンタッキーブルーグラスの通年利用である。 ==== サッカー場 ==== [[ファイル:Saitamastadium0417.jpg|thumb|200px|サッカー場([[埼玉スタジアム2002]])]] [[日本サッカー協会]]では、開催試合に応じて競技場を5クラス(S・1・2・3・4)に分けられ、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の公式試合が開催可能なクラス2以上の競技場は常緑の天然芝が義務づけられており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/documents/pdf/basic/07/01.pdf |title=スタジアム標準 サッカースタジアムの建設・改修にあたってのガイドライン |publisher=公益財団法人日本サッカー協会 |accessdate=2015-09-17 |format=PDF }}</ref>、そのために多くの競技場で[[オーバーシード|ウインターオーバーシーディング]]が盛んに行われている。2017年にはJリーグ規約が一部改正され、天然芝と人工繊維を編み込んだハイブリッド芝([[グラスマスター]]に代表される強化天然芝)の敷設を承認し、翌2018年より[[御崎公園球技場|ノエビアスタジアム神戸]]がその第1号として導入することになった<ref>{{Cite news |title=ハイブリッド芝、初導入へ ノエスタ神戸で来季から |url=https://www.sankei.com/photo/daily/news/170921/dly1709210019-n1.html |newspaper=産経新聞 |date=2017-09-21 |accessdate=2018-02-12 }}</ref>。 [[1994年]]に設けられたスポーツターフ研究会は、芝生管理技術の向上に後援したり、財団法人[[都市緑化技術開発機構]]主催の「スポーツターフ管理者のための研修会」に後援したり、校庭の芝生化支援に取り組むなど、何かと芝生に対する関わりの深い組織である。 ==== アメリカンフットボール場 ==== [[ファイル:University of Phoenix Stadium field 01.jpg|200px|サムネイル|ステートファーム・スタジアムの可動式天然芝]] アメリカンフットボールの場合、シーズンの気候及び競技の性質から天然芝ではフィールドが傷みやすいことと、プレーのスピードが出やすいとの理由から人工芝の球技場も目立つ。特に日本では、ノエビアスタジアム神戸のように芝の維持を理由にアメリカンフットボールへの貸し出しを中止する球技場もある。野球同様選手への負担面から[[NFL]]では球技場を新装する際に天然芝に変えるスタジアムも少なくないが、[[ジレット・スタジアム]]や[[NRGスタジアム]]のように天然芝から人工芝に変更した例もある。NFLにおける天然芝球技場のうち、[[ステートファーム・スタジアム]]は芝に対する負担を軽減するための施策として、年間350日ほどフィールドを球技場外に出し、試合時のみ球技場内に戻して使用する可動式システムを採用している。[[アレジアント・スタジアム]]も同様のシステムを採用しているが、内部には人工芝のフィールドが敷かれており、NFLの試合は天然芝プレートを使用する一方で、カレッジフットボールは人工芝で試合を行っている。 近年は上述の強化天然芝を採用した例もある。しかしながら、その特性上暖地芝を利用できず暑い時期の利用に難があること等の理由から、NFLのホームスタジアムではグラスマスターを導入した4スタジアムのうち3つ([[ハインツ・フィールド]]、[[スポーツオーソリティ・フィールド・アット・マイル・ハイ|スポーツ・オーソリティ・フィールド・アット・マイル・ハイ]]、[[リンカーン・フィナンシャル・フィールド]])では通常の天然芝に切り替えており、2016シーズン時点で使用しているのは寒冷地にある[[ランボー・フィールド]]のみである<ref>[https://www.si.com/nfl/2015/10/01/nfl-stadium-turf-grass-rankings Turf time: Which stadiums have the best and worst fields in the NFL?], 2015/9/29, Sports Illustrated</ref>。 ==== テニスコート ==== {{see|テニスコート}} ==== 競馬場 ==== 競馬場のコースには、芝コースと[[ダート]]コース、[[オールウェザー (競馬)|オールウェザー]]コースなどがあるが、[[ヨーロッパの競馬|ヨーロッパ]]の競馬場は芝コースが主体で、かつ、芝コースだけを持つところがほとんどである。日本、[[アメリカ合衆国の競馬|アメリカ]]などでは芝コース、ダートコースの両方が用いられる。芝のコースはダートのコースに比べ傷みやすく、馬場の状態は天候に左右されやすい。日本のように雨が多く、かつ、ヨーロッパに比べて競馬場あたりの施行レース数が多い環境では、芝コースを保護するためにダートコースとの併用が行われることとなった。また、かつては日本の競馬場は野芝のみで冬は黄色くなってしまうことから、[[1992年]]に[[阪神競馬場]]で採用されたのを皮切りに、順次各競馬場で[[オーバーシード]]を用いて夏は野芝、冬は洋芝を生やすことによって一年中芝コースは緑色を保つようになった。(夏に高温にならない[[北海道]]の[[札幌競馬場]]・[[函館競馬場]]は洋芝のみ。また、冬季に開催が行われない[[新潟競馬場]]は野芝のみを使用する)また、[[21世紀]]初頭から、高麗芝をベースとして、より根付きの丈夫な「[[エクイターフ]]」という品種が開発され、順次採用されている。日本の[[中央競馬]]ではダートのコースより芝のコースの方がよく用いられるが、[[地方競馬]]ではそもそも芝コースを持つのが[[盛岡競馬場]]のみであり、圧倒的多数のレースはダートのコースで行われる。 ==== ゴルフ場 ==== [[File:Kobe golf club04s1024.jpg|thumb|200px|日本のゴルフ場]] [[ゴルフ場]]のコースには、グリーンやフェアウェイやティーグラウンドやラフと呼ばれる場所がある。これらには、それぞれ違った種類の芝が植えられる。日本では[[1980年代]]後半、芝の維持のために使われる農薬が含まれたゴルフ場排水が社会問題化した。それに伴い、[[千葉県]]では、[[1990年]]以降建設されるゴルフ場では農薬の散布が禁止<ref>[https://www.pref.chiba.lg.jp/syozoku/i_tokei/toshikeikaku/07-4-2-10.html 千葉県の都市計画(7.都市計画制限・開発行為)]「千葉県におけるゴルフ場等開発計画の取扱い方針(平成4年4月1日施行)」</ref> され、既存のゴルフ場では農薬散布を少なくするなど指導要項を制定し、国としては[[環境省]]が1990年に「ゴルフ場で使用される農薬による水質汚濁の防止に係る暫定指導指針」を定めるなどした。 === 一般家庭の庭 === [[アメリカ合衆国]]では、一軒家の軒先から道路(歩道の)、隣接地の境界まで芝生を引き詰め、地域の景観として管理を義務づけている地域がある。散水、刈り込みといった管理を怠ると地域のコミュニティから非難される、州や自治体が罰金を科すといったペナルティが生じることがある<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0FN0PG20140718|title=米加州の節水要請で芝生枯らした米カップル、景観害したと市が警告|work=ロイター |publisher=ロイター通信社|date=2014-07-18|accessdate=2014-07-21}}</ref>。 === 学校の校庭=== ==== 小学校庭 ==== [[ファイル:小諸市立水明小学校校庭.jpg|サムネイル|日本の学校の校庭(小諸市立水明小学校)]] [[日本]]では、一部の[[学校]]の[[校庭]]が芝生化している。このことを、[[校庭芝生化]]と言う。複数の学校が導入している。[[2008年]]、都内で最も広い芝生の校庭が[[小金井市立小金井第二小学校]]<ref>{{Citation|title="小金井市の小学校 都内で最も広い芝生の校庭""完成"""|url=https://www.youtube.com/watch?v=drDyZQ-4PLg|language=ja-JP|access-date=2023-01-26}}</ref>。今でも校庭の芝生化が増えている。 == 自然植生としての芝生 == 普通に見かける芝生は、上記のように人工的な物であるが、自然のままで芝生が成立している例もある。日本では琉球列島の海岸線で、石灰岩の上で天然の芝生が成立している。植物社会学ではこれを[[イソフサギ]]クラスの下に[[ソナレムグラ]] - コウライシバ群落として認めている。より岩の多い場所では[[ナハエボシグサ]]や[[ハリツルマサキ]]が混じる。このような物の代表的な物が[[万座毛]]で見られる。また、[[牧畜]]によって生じる二次植生としても類似の群落が見られる場合がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} * [[ビッグエッグターフ]] - 異なる競技に対応できるよう開発された簡易装着型の天然芝 * [[芝政ワールド]] - 100万m{{Sup|2}}の芝生をメインに用いたテーマパーク * [[4月8日]] - 長野県造園建設業協会がこの日付を「芝の日」と制定している == 外部リンク == * [http://www.jsts-online.com/start/ 日本芝草学会] {{庭と庭園、園芸とガーデニング}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しは}} [[Category:芝|*]] [[Category:草]] [[Category:造園|材 しは]] [[Category:競技場]] [[Category:競馬場]]
2003-05-05T06:30:35Z
2023-12-01T06:14:07Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D
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ローマ帝国
ローマ帝国(ローマていこく、ラテン語: Imperium Romanum)は、古代ローマの共和制後の時代以降を指す言葉である。この時代、古代ローマはイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展していった。 1世紀から2世紀頃の最盛期には地中海沿岸全域に加え、ヨーロッパはヒスパニア、ゲルマニア、ガリア、ブリタンニア、クリミア、北アフリカ一帯、西アジアではメソポタミア、シリア、アルメニア、ペルシア西部などをはじめとする広大な地域を中心とした大規模な領土を皇帝(アウグストゥス)が支配していた。カエサル・アウグストゥスの即位から3世紀の軍事的無政府状態まで、それはイタリアを中心的な領土(メトロポール)とし、ローマ市を唯一の首都としたプリンキパトゥスだった(紀元前27年-紀元後286年)。 軍事危機の間に断片化されたが、帝国は強制的に再編成され、その後、西ローマ帝国(ミラノと後にラヴェンナに拠点を置く)と東ローマ帝国(ニコメディアとアンティオキアを中心に、後にコンスタンティノープルに拠点を置く)で支配を分ける複数の皇帝によって支配された。ローマは、オドアケルの蛮族によるラヴェンナの奪取とロムルス・アウグストゥルスの退位に続いて、コンスタンティノープルに帝国記章が送られた西暦476年まで両部分の名目上の首都のままであった。西ローマ帝国がゲルマン人の王たちに支配され、東ローマ帝国がビザンチン帝国へとヘレニズム化したことで、古代ローマの終わりと中世の始まりを告げることになる。 「ローマ帝国」は「ローマの命令権が及ぶ範囲」を意味するラテン語の “Imperium Romanum” の訳語である。インペリウム (imperium) は元々はローマの「命令権(統治権)」という意味であったが、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指すようになった。Imperium Romanum の語は共和政時代から用いられており、その意味において共和政時代からの古代ローマを指す名称である。日本語の「帝国」には「皇帝の支配する国」という印象が強いために、しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられているが、西洋における「帝国」は皇帝の存在を前提とした言葉ではなく統治の形態にのみ着目した言葉であり、「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味の言葉である。ちなみに、現代の日本では帝政ローマにおいてインペリウムを所持したインペラトルが皇帝と訳されているが、インペリウムは共和政ローマにおいてもコンスルとプロコンスル、およびプラエトルとプロプラエトルに与えられていた。また、ローマが帝政に移行した後も、元首政(プリンキパトゥス)期においては名目上は帝国は共和制であった。 中世における「ローマ帝国」である、東ローマ帝国やドイツの神聖ローマ帝国と区別するために、西ローマ帝国における西方正帝の消滅までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。 ローマ帝国の前身であるローマ共和国(紀元前6世紀にローマの君主制に代わっていた)は、一連の内戦や政治的対立の中で深刻に不安定になった。紀元前1世紀半ばにガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官に任命され、紀元前44年に暗殺された。その後も内戦やプロスクリプティオは続き、紀元前31年のアクティウムの海戦でカエサルの養子であるオクタウィアヌスがマルクス・アントニウスとクレオパトラに勝利したことで最高潮に達した。翌年、オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトを征服し、紀元前4世紀のマケドニア王国のアレキサンダー大王の征服から始まったヘレニズム時代に終止符を打った。その後、オクタウィアヌスの権力は揺るぎないものとなり、紀元前27年にローマ元老院は正式にオクタウィアヌスに全権と新しい称号アウグストゥスを与え、事実上彼を最初のローマ皇帝とした。 帝国の最初の2世紀は、前例のない安定と繁栄の時代であり、「パクス・ロマーナ」として知られている。ローマはトラヤヌスの治世(98-117 AD)の間にその最大の領土の広がりに達した。また、トラヤヌスの後任であるハドリアヌスの治世では、ローマ帝国は最盛期を迎え、繁栄を謳歌した。その後のアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスは先帝の平和を受け継ぎ繁栄を維持したが、アウレリウス帝の治世の後半ごろには疫病や異民族の侵入などによって繁栄に陰りが見えはじめた。トラブルの増加と衰退の期間は、アウレリウス帝の息子コンモドゥス(177-192)の治世で始まった。コンモドゥスの暗殺の後は混乱が続く状況となった。3世紀には、ガリア帝国とパルミラ帝国がローマ国家から離脱し、短命の皇帝が続出し、多くの場合は軍団の権勢を以て帝国を率いていたため、帝国はその存続を脅かす危機に見舞われた(3世紀の危機)。帝国はアウレリアヌス(R.270-275)のもとで再統一された。その後再び混乱は続くが、3帝国を安定させるための努力として、ディオクレティアヌスは286年にギリシャの東およびラテン西の2つの異なった宮廷を設置し、ディオクレティアヌスによって専制政治が開始された。ディオクレティアヌスの退位後は複数の皇帝たちの相互の争いによって帝国は分断されたが、最終的にはコンスタンティヌス1世がその強大な権力を以て帝国を再統一した。大帝とも称されるコンスタンティヌスは伝統的に最初にキリスト教を信仰した皇帝であるとされる。313年のミラノ勅令に続く4世紀には一時的に危機はあったもののキリスト教徒が権力を握るようになり、皇帝の多くもキリスト教を信仰した。コンスタンティヌス死後の混乱を経てテオドシウス1世によってふたたび帝国は一人の皇帝のもとに統べられた。テオドシウスはキリスト教を国教として異教を禁止、彼の死後には2人の子供が東西に分割された領域をそれぞれ支配した。その後すぐに、寒冷化などに端を発するゲルマン人やアッティラのフン族による大規模な侵略を含む移住時代が西方のローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退につながった。ゲルマン人の勢力はローマ宮廷内で権力を握り、最終的にはローマから宮廷が移されたラヴェンナの秋にゲルマン人のヘルール族とオドアケルによって476 ADにロムルス・アウグストゥルスが退位し、西ローマ帝国は一旦崩壊した。 東方のローマ皇帝ゼノンはオドアケルからの「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする書簡を受けて正式に480 ADにそれを廃止した。しかし、旧西ローマ帝国の領土内のフランスおよびドイツに位置した神聖ローマ帝国は、ローマ皇帝の最高権力を継承しており、800年のローマ・カトリック教皇レオ3世によるカールの戴冠によって西ローマ帝国は復活したと主張し、その後10世紀以上にわたって神聖ローマ帝国は存続した。東ローマ帝国は、通常、現代の歴史家によってビザンチン帝国として記述され、コンスタンティノープルが1453年にスルタン・メフメト2世のオスマン帝国に落ち皇帝コンスタンティノス11世が戦死し崩壊するまで、別の千年紀を生き延び、変質こそしたものの、古代ローマ帝国の命脈を保った。 ローマ帝国の広大な範囲と長期にわたる存続のために、ローマの制度と文化は、ローマが統治していた地域の言語、宗教、芸術、建築、哲学、法律、政府の形態の発展に深く、永続的な影響を与えた。ローマ人のラテン語は中世と近代のロマンス語へと発展し、中世ギリシャ語は東ローマ帝国の言語となった。帝国がキリスト教を採用したことで、中世のキリスト教が形成された。ギリシャとローマの芸術は、イタリア・ルネッサンスに大きな影響を与えた。ローマの建築の伝統は、ロマネスク様式、ルネサンス建築、新古典主義建築の基礎となり、また、イスラーム建築に強い影響を与えた。ローマ法のコーパスは、ナポレオン法典のような今日の世界の多くの法制度にその子孫を持っているが、ローマの共和制制度は、中世のイタリアの都市国家の共和国、初期の米国やその他の近代的な民主的な共和国に影響を与え、永続的な遺産を残している。 古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。 紀元前27年よりローマ帝国は共和政から帝政へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。この段階をプリンキパトゥス(元首政)という。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。 330年にコンスタンティヌス1世が、後に帝国東方において皇帝府の所在地となるローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)の町を建設した。テオドシウス1世は、古くからの神々を廃し、392年にキリスト教を国教とした。395年、テオドシウス1世の2人の息子による帝国の分担統治が始まる。以後の東方正帝と西方正帝が支配した領域を、現在ではそれぞれ東ローマ帝国と西ローマ帝国と呼び分けている。 西ローマ帝国の皇帝政権は、経済的に豊かでない国家で兵力などの軍事的基盤が弱く、ゲルマン人の侵入に抗せず、476年以降に西方正帝の権限が東方正帝に吸収された。6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、7世紀以降の東ローマ帝国は領土を大きく減らし、国家体制の変化が進行した。東ローマ帝国は、8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが、オスマン帝国により、1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落し、完全に滅亡した。 ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:テヴェレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。当初はエトルリア人などの王を擁していたローマは、紀元前509年に7代目の王であったタルクィニウス・スペルブスを追放して、貴族(パトリキ)による共和政を布いた。共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、クァエストル(財務官)など公職経験者から成る元老院が圧倒的な権威を有しており、国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。やがて平民(プレブス)の力が増大し、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて身分闘争が起きたが、十二表法やリキニウス・セクスティウス法の制定により対立は緩和されていき、紀元前287年のホルテンシウス法制定によって身分闘争には終止符が打たれた。 都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍で紀元前272年にはイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。 しかし、前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。こうした中で、スッラ及びユリウス・カエサルは絶対的な権限を有する終身独裁官に就任、元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。 以降、帝政初期のユリウス=クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。 これらに加え、皇帝たちは必要な場合年次職の執政官やケンソル(監察官)などの共和政上の公職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、神格化されることも少なくなかった。例えばアウグストゥスはガリア属州に祭壇が設けられ、2世紀末まで公的に神として祀られ続けた。一方、独裁的権限を所持していたにもかかわらず、ローマ皇帝はあくまでも「元老院、ローマ市民の代表者」という立場であったため、ローマ市民という有力者の支持を失うと元老院に「国家の敵」とみなされ自殺に追い込まれたり、コロッセウムなどで姿をみせると容赦ないブーイングを浴びるなど、官僚制と多数の文武官による専制体制が確立したオリエント的君主とは違った存在であった。 また、国家の要職だけでなく最高権力者である皇帝位でさえも、ローマに征服された地域や民族の者が就くことが可能であった。例えば、セウェルス朝創始者のセプティミウス・セウェルス帝はアフリカ属州出身であったし、五賢帝の一人であるトラヤヌス帝はヒスパニア属州出身であった。 このようにアウグストゥスの皇帝就任とユリウス=クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、ティベリウスの死後あたりから、政治・軍事の両面で徐々に変化が起こった。軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、徴兵制が破綻し、代わって傭兵制が取られたが、それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。 やがて、世襲の弊害により、カリグラやネロなど無軌道な皇帝が登場すると、彼らは対立候補を挙げて決起し、また複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、結果、ユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになる。 ただし、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかった。むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いており、43年にはクラウディウス帝によってグレートブリテン島南部が占領されて属州ブリタンニアが創設されるなどしている。 また、時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加した。それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。ローマの領域内は安定を見せたものの、賢帝とされるアウグストゥスやクラウディウスの時代にもヌミディアより西に位置するアフリカでは強圧的な支配と土地の召し上げ・収奪に対する抵抗と反乱が絶えないなど、周辺属州民にとっても善政だったかどうかは疑問がある。 時系列的には、初代皇帝アウグストゥスの時代に常備軍の創設や補助兵制度の正式化、通貨制度の整備、ローマ市の改造や属州制度の改革(元老院属州と皇帝属州の創設)などを行い、帝国の基盤が整えられた。さらに防衛のしやすい自然国境を定め、そこまでの地域を征服したため、帝国の領域は拡大し、安定した防衛線に守られた帝国領内は安定して、パクス・ロマーナと呼ばれる平和が長く続くこととなった。14年にアウグストゥスが没した後に帝位を継いだティベリウスも内政の引き締めを行って大過なく国を治めたものの、3代カリグラは暴政を行って暗殺された。次のクラウディウスはカリグラの破綻させた内政を再建し、再び安定した国家を築きあげた。続くネロの統治は当初は善政だったものの、次第に暴政の色を濃くし、ネロは68年に反乱を受け自害した。ネロが死ぬと皇位継承戦争が発生した。4人の皇帝が次々と擁立されたことから、この時期を四皇帝の年とも呼ぶ。これによって一時帝国は複数の属州軍閥に分割され、これにガリアなどローマ化の進んでいた属州やユダヤ人など東方の反乱も同期したが、やがてウェスパシアヌスが勝利し70年にフラウィウス朝を開始すると、ローマは小康状態を取り戻した。 フラウィウス朝はウェスパシアヌス、ティトゥスと名君が続いたが、次のドミティアヌスが暗殺され、後継ぎがなかったためにフラウィウス朝は断絶した。 ドミティアヌスが暗殺されたのち、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。 のちにかなり理想化された歴史の叙述によれば、彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス=クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。しかしながら五賢帝は、やや遠いながらも血縁関係があり、またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだことから、この時代の理想化を避けた観点からは、ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代を、ネルウァ=アントニヌス朝とも呼ぶ。 またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。 マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、実子であるコンモドゥス帝の悪政により社会は混乱し、彼が192年に暗殺されると内乱が勃発した。193年には5人の皇帝が乱立し、五皇帝の年と呼ばれる混乱が起きた。この内戦を制したセプティミウス・セウェルスによって193年にセウェルス朝が開かれた。セウェルス朝は軍事力をバックに成立し、当初から軍事色の強い政権であった。 五賢帝時代の末期頃に天然痘の流行により人口が減少し、その後各地で反乱が頻発するようになり、また軍団兵・補助兵ともなり手不足から編成に支障をきたした。これに対処すべく、212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによって厳しい階級社会だったローマ社会における、非ローマ市民の著しい不平等(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)は多少なりとも緩和されたが、これによってローマ市民権の価値が崩壊し、政治バランスが激変して、以後長く続く混乱の一因となった。また、それまで属州出身の補助兵は25年勤め上げるとローマ市民権を得ることができたために精強な補助兵が大量に供給されてきたが、市民権に価値がなくなったために帝国内の補助兵のなり手が急減し、さらに不足した兵力はゲルマン人などの周辺蛮族から補充されたため、軍事力の衰退を招いた。 235年、アレクサンデル・セウェルス帝が軍の反乱によって殺害されたことでセウェルス朝は断絶し、以後ローマ帝国は軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していく。 いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持ったため、反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。約50年間に26人が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。 パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。 284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首政と呼ばれる、言わば終身大統領のような存在の皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。 ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。 ディオクレティアヌスが305年に引退した後、テトラルキアは急速に崩壊していった。混乱が続く中、西方副帝だったコンスタンティヌス1世が有力となり、324年には唯一の皇帝となった。コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブール)に遷都して国の立て直しを図った。この街はコンスタンティヌス帝の死後にコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの街)と改名した。コンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。378年には皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)でゴート族に敗死した。 帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストの創始したキリスト教は、徐々に信徒数を増やしてゆき、2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して後に単独の皇帝となるコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、当時の東帝リキニウスと共同で、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。その後もキリスト教の影響力は増大を続け、ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められ、異教は禁止されることになった(392年)。394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やすことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消された。 コンスタンティヌス1世の没後、帝国では再び分担統治が行われるようになった。テオドシウス1世も、395年の死に際して長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れなかった。もっとも3世紀後半以降、東西の皇帝権が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり、経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり、また自由農民が温存された東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、東西の分裂は早い段階から進行していた。今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼び分ける。ただし、史料などからは当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。 ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地は首都ローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。西ローマ帝国の皇帝政権はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され西方正帝の地位が消滅した。その後もガリア地方北部にはシアグリウスが維持するソワソン管区がローマ領として存続したが、486年にゲルマン系新興国メロヴィング朝フランク王国のクローヴィス1世による攻撃を受け消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって、全ローマ帝国の皇帝となった東の皇帝の宗主権を仰ぎ、ローマ皇帝に任命された西ローマ帝国の地方長官として統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人的認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、ゲルマン系諸王はローマ帝国の官人としてローマ帝国の印璽を用い、住民達もまた自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。 東ローマ帝国(395年-1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。この国は古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいたが、完全なキリスト教国であり、また徐々にギリシア的性格を強めていった。 東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、またいくつかの部族に対して西へ行くよう計らった。西ローマ帝国における西方正帝の消滅後、東ローマ帝国の皇帝が唯一のローマ皇帝として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。 東ローマ帝国による帝国の再建は何度か試みられ、実際に5世紀のレオ1世や12世紀のマヌエル1世の様に、アフリカやイタリア征服を試みた皇帝もいた。6世紀のユスティニアヌス1世によるものは一定の成功を収め、地中海の広範な地帯が再びローマ皇帝領となった。ユスティニアヌスは、ローマ法の集大成であるローマ法大全の編纂でも知られている。 ユスティニアヌス没後は混乱と縮小の時代に入り、7〜8世紀にかけイスラム帝国やスラヴ人などの侵入により領土が大幅に縮小した。統治体制は再編を余儀なくされ、テマと呼ばれる軍閥制が敷かれた。ラテン語が使用されていた帝国西方との隔絶は公用語のギリシャ語化(7世紀)を促し、8世紀にはローマやラヴェンナを含む北イタリア管区を失い、また、西欧に対する影響力も低下した。一連の出来事は帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。 9〜10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。しかし、その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、13世紀に十字軍により首都コンスタンティノポリスを占領された。13世紀末にコンスタンティノポリスを取り戻すも、以後は内乱の頻発もあり、オスマン帝国等に領土を侵食されていった。 1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落した。最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは戦死し、東ローマ帝国は滅亡した。 この東ローマ帝国の滅亡は、中世の終わりを象徴する大きな出来事の1つではあったが、通常「ローマ帝国の滅亡」として認識されることは少ない。これは、東ローマ帝国がその長い歴史の中で性質を大きく変化させ、自らの認識とは裏腹に古代ローマとは異なる国へと変貌したことに起因している。中期以降の東ローマ帝国は、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。このため、特にローマ帝国全史を取り上げたい場合を除いて西ローマ帝国の「滅亡」をもってローマ帝国の「滅亡」とすることが一般的である。 コンスタンティノープルを領有した東ローマ帝国の滅亡後、まだ東ローマ系の国家はいくつか存在したが、それも長くは持たなかった。モレアス専制公領が1459年に、トレビゾンド帝国も1461年に、やはりオスマン帝国によって滅ぼされた。最終的に、クリミア半島にトレビゾンド帝国と関係の深かった小国家・テオドロ公国が残されたが、この国も1475年にオスマン帝国の攻撃を受けた。モルドバやクリミア・ハン国からの援軍も加えて激しい戦いが行われたが、約6ヶ月間の防戦の末、1475年12月にマングプが陥落し滅亡した。 西方正帝の消滅後に西ローマ帝国の地を統治したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命されたローマ帝国の官僚の資格で統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人の認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、住民達も自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。しかし、フランク王国がカロリング朝の時代を迎え、800年にカールが教皇レオ3世によりローマ皇帝に戴冠されたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実ともに離脱し、ローマ帝国は東西に分裂した。ここに後世神聖ローマ帝国と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年のライン同盟結成まで継続した。 東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国の君主(スルターン)であるメフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。もともと東ローマ帝国においては帝国を征服した辺境の異民族が帝国そのものとなったり帝位簒奪者が定着することは幾度となく繰り返されてきた歴史でもあり、このことについて吉村忠典は「第三のローマとしては、モスクワよりイスタンブールの方が本家のように思える」とする感想を述べている。ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。 その他にも、ロシア帝国(ロシア・ツァーリ国)はローマ帝国とギリシア帝国に続く第三のローマ帝国としてローマ帝国の後継者を称した。ただし、君主はロシア皇帝を自称するも、当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。その後、国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ皇帝の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。 現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しないが、ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味である。そのルーマニア国歌「目覚めよ、ルーマニア人!」とイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある他、それぞれトラヤヌスとスキピオの名(正確には、スキピオは家名)が歌詞に入っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ローマ帝国(ローマていこく、ラテン語: Imperium Romanum)は、古代ローマの共和制後の時代以降を指す言葉である。この時代、古代ローマはイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展していった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1世紀から2世紀頃の最盛期には地中海沿岸全域に加え、ヨーロッパはヒスパニア、ゲルマニア、ガリア、ブリタンニア、クリミア、北アフリカ一帯、西アジアではメソポタミア、シリア、アルメニア、ペルシア西部などをはじめとする広大な地域を中心とした大規模な領土を皇帝(アウグストゥス)が支配していた。カエサル・アウグストゥスの即位から3世紀の軍事的無政府状態まで、それはイタリアを中心的な領土(メトロポール)とし、ローマ市を唯一の首都としたプリンキパトゥスだった(紀元前27年-紀元後286年)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "軍事危機の間に断片化されたが、帝国は強制的に再編成され、その後、西ローマ帝国(ミラノと後にラヴェンナに拠点を置く)と東ローマ帝国(ニコメディアとアンティオキアを中心に、後にコンスタンティノープルに拠点を置く)で支配を分ける複数の皇帝によって支配された。ローマは、オドアケルの蛮族によるラヴェンナの奪取とロムルス・アウグストゥルスの退位に続いて、コンスタンティノープルに帝国記章が送られた西暦476年まで両部分の名目上の首都のままであった。西ローマ帝国がゲルマン人の王たちに支配され、東ローマ帝国がビザンチン帝国へとヘレニズム化したことで、古代ローマの終わりと中世の始まりを告げることになる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「ローマ帝国」は「ローマの命令権が及ぶ範囲」を意味するラテン語の “Imperium Romanum” の訳語である。インペリウム (imperium) は元々はローマの「命令権(統治権)」という意味であったが、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指すようになった。Imperium Romanum の語は共和政時代から用いられており、その意味において共和政時代からの古代ローマを指す名称である。日本語の「帝国」には「皇帝の支配する国」という印象が強いために、しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられているが、西洋における「帝国」は皇帝の存在を前提とした言葉ではなく統治の形態にのみ着目した言葉であり、「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味の言葉である。ちなみに、現代の日本では帝政ローマにおいてインペリウムを所持したインペラトルが皇帝と訳されているが、インペリウムは共和政ローマにおいてもコンスルとプロコンスル、およびプラエトルとプロプラエトルに与えられていた。また、ローマが帝政に移行した後も、元首政(プリンキパトゥス)期においては名目上は帝国は共和制であった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中世における「ローマ帝国」である、東ローマ帝国やドイツの神聖ローマ帝国と区別するために、西ローマ帝国における西方正帝の消滅までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ローマ帝国の前身であるローマ共和国(紀元前6世紀にローマの君主制に代わっていた)は、一連の内戦や政治的対立の中で深刻に不安定になった。紀元前1世紀半ばにガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官に任命され、紀元前44年に暗殺された。その後も内戦やプロスクリプティオは続き、紀元前31年のアクティウムの海戦でカエサルの養子であるオクタウィアヌスがマルクス・アントニウスとクレオパトラに勝利したことで最高潮に達した。翌年、オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトを征服し、紀元前4世紀のマケドニア王国のアレキサンダー大王の征服から始まったヘレニズム時代に終止符を打った。その後、オクタウィアヌスの権力は揺るぎないものとなり、紀元前27年にローマ元老院は正式にオクタウィアヌスに全権と新しい称号アウグストゥスを与え、事実上彼を最初のローマ皇帝とした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "帝国の最初の2世紀は、前例のない安定と繁栄の時代であり、「パクス・ロマーナ」として知られている。ローマはトラヤヌスの治世(98-117 AD)の間にその最大の領土の広がりに達した。また、トラヤヌスの後任であるハドリアヌスの治世では、ローマ帝国は最盛期を迎え、繁栄を謳歌した。その後のアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスは先帝の平和を受け継ぎ繁栄を維持したが、アウレリウス帝の治世の後半ごろには疫病や異民族の侵入などによって繁栄に陰りが見えはじめた。トラブルの増加と衰退の期間は、アウレリウス帝の息子コンモドゥス(177-192)の治世で始まった。コンモドゥスの暗殺の後は混乱が続く状況となった。3世紀には、ガリア帝国とパルミラ帝国がローマ国家から離脱し、短命の皇帝が続出し、多くの場合は軍団の権勢を以て帝国を率いていたため、帝国はその存続を脅かす危機に見舞われた(3世紀の危機)。帝国はアウレリアヌス(R.270-275)のもとで再統一された。その後再び混乱は続くが、3帝国を安定させるための努力として、ディオクレティアヌスは286年にギリシャの東およびラテン西の2つの異なった宮廷を設置し、ディオクレティアヌスによって専制政治が開始された。ディオクレティアヌスの退位後は複数の皇帝たちの相互の争いによって帝国は分断されたが、最終的にはコンスタンティヌス1世がその強大な権力を以て帝国を再統一した。大帝とも称されるコンスタンティヌスは伝統的に最初にキリスト教を信仰した皇帝であるとされる。313年のミラノ勅令に続く4世紀には一時的に危機はあったもののキリスト教徒が権力を握るようになり、皇帝の多くもキリスト教を信仰した。コンスタンティヌス死後の混乱を経てテオドシウス1世によってふたたび帝国は一人の皇帝のもとに統べられた。テオドシウスはキリスト教を国教として異教を禁止、彼の死後には2人の子供が東西に分割された領域をそれぞれ支配した。その後すぐに、寒冷化などに端を発するゲルマン人やアッティラのフン族による大規模な侵略を含む移住時代が西方のローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退につながった。ゲルマン人の勢力はローマ宮廷内で権力を握り、最終的にはローマから宮廷が移されたラヴェンナの秋にゲルマン人のヘルール族とオドアケルによって476 ADにロムルス・アウグストゥルスが退位し、西ローマ帝国は一旦崩壊した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東方のローマ皇帝ゼノンはオドアケルからの「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする書簡を受けて正式に480 ADにそれを廃止した。しかし、旧西ローマ帝国の領土内のフランスおよびドイツに位置した神聖ローマ帝国は、ローマ皇帝の最高権力を継承しており、800年のローマ・カトリック教皇レオ3世によるカールの戴冠によって西ローマ帝国は復活したと主張し、その後10世紀以上にわたって神聖ローマ帝国は存続した。東ローマ帝国は、通常、現代の歴史家によってビザンチン帝国として記述され、コンスタンティノープルが1453年にスルタン・メフメト2世のオスマン帝国に落ち皇帝コンスタンティノス11世が戦死し崩壊するまで、別の千年紀を生き延び、変質こそしたものの、古代ローマ帝国の命脈を保った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ローマ帝国の広大な範囲と長期にわたる存続のために、ローマの制度と文化は、ローマが統治していた地域の言語、宗教、芸術、建築、哲学、法律、政府の形態の発展に深く、永続的な影響を与えた。ローマ人のラテン語は中世と近代のロマンス語へと発展し、中世ギリシャ語は東ローマ帝国の言語となった。帝国がキリスト教を採用したことで、中世のキリスト教が形成された。ギリシャとローマの芸術は、イタリア・ルネッサンスに大きな影響を与えた。ローマの建築の伝統は、ロマネスク様式、ルネサンス建築、新古典主義建築の基礎となり、また、イスラーム建築に強い影響を与えた。ローマ法のコーパスは、ナポレオン法典のような今日の世界の多くの法制度にその子孫を持っているが、ローマの共和制制度は、中世のイタリアの都市国家の共和国、初期の米国やその他の近代的な民主的な共和国に影響を与え、永続的な遺産を残している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "紀元前27年よりローマ帝国は共和政から帝政へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。この段階をプリンキパトゥス(元首政)という。ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "330年にコンスタンティヌス1世が、後に帝国東方において皇帝府の所在地となるローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)の町を建設した。テオドシウス1世は、古くからの神々を廃し、392年にキリスト教を国教とした。395年、テオドシウス1世の2人の息子による帝国の分担統治が始まる。以後の東方正帝と西方正帝が支配した領域を、現在ではそれぞれ東ローマ帝国と西ローマ帝国と呼び分けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "西ローマ帝国の皇帝政権は、経済的に豊かでない国家で兵力などの軍事的基盤が弱く、ゲルマン人の侵入に抗せず、476年以降に西方正帝の権限が東方正帝に吸収された。6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、7世紀以降の東ローマ帝国は領土を大きく減らし、国家体制の変化が進行した。東ローマ帝国は、8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが、オスマン帝国により、1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落し、完全に滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:テヴェレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。当初はエトルリア人などの王を擁していたローマは、紀元前509年に7代目の王であったタルクィニウス・スペルブスを追放して、貴族(パトリキ)による共和政を布いた。共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、クァエストル(財務官)など公職経験者から成る元老院が圧倒的な権威を有しており、国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。やがて平民(プレブス)の力が増大し、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて身分闘争が起きたが、十二表法やリキニウス・セクスティウス法の制定により対立は緩和されていき、紀元前287年のホルテンシウス法制定によって身分闘争には終止符が打たれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍で紀元前272年にはイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし、前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。こうした中で、スッラ及びユリウス・カエサルは絶対的な権限を有する終身独裁官に就任、元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "以降、帝政初期のユリウス=クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "これらに加え、皇帝たちは必要な場合年次職の執政官やケンソル(監察官)などの共和政上の公職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、神格化されることも少なくなかった。例えばアウグストゥスはガリア属州に祭壇が設けられ、2世紀末まで公的に神として祀られ続けた。一方、独裁的権限を所持していたにもかかわらず、ローマ皇帝はあくまでも「元老院、ローマ市民の代表者」という立場であったため、ローマ市民という有力者の支持を失うと元老院に「国家の敵」とみなされ自殺に追い込まれたり、コロッセウムなどで姿をみせると容赦ないブーイングを浴びるなど、官僚制と多数の文武官による専制体制が確立したオリエント的君主とは違った存在であった。 また、国家の要職だけでなく最高権力者である皇帝位でさえも、ローマに征服された地域や民族の者が就くことが可能であった。例えば、セウェルス朝創始者のセプティミウス・セウェルス帝はアフリカ属州出身であったし、五賢帝の一人であるトラヤヌス帝はヒスパニア属州出身であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このようにアウグストゥスの皇帝就任とユリウス=クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、ティベリウスの死後あたりから、政治・軍事の両面で徐々に変化が起こった。軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、徴兵制が破綻し、代わって傭兵制が取られたが、それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "やがて、世襲の弊害により、カリグラやネロなど無軌道な皇帝が登場すると、彼らは対立候補を挙げて決起し、また複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、結果、ユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ただし、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかった。むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いており、43年にはクラウディウス帝によってグレートブリテン島南部が占領されて属州ブリタンニアが創設されるなどしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加した。それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。ローマの領域内は安定を見せたものの、賢帝とされるアウグストゥスやクラウディウスの時代にもヌミディアより西に位置するアフリカでは強圧的な支配と土地の召し上げ・収奪に対する抵抗と反乱が絶えないなど、周辺属州民にとっても善政だったかどうかは疑問がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "時系列的には、初代皇帝アウグストゥスの時代に常備軍の創設や補助兵制度の正式化、通貨制度の整備、ローマ市の改造や属州制度の改革(元老院属州と皇帝属州の創設)などを行い、帝国の基盤が整えられた。さらに防衛のしやすい自然国境を定め、そこまでの地域を征服したため、帝国の領域は拡大し、安定した防衛線に守られた帝国領内は安定して、パクス・ロマーナと呼ばれる平和が長く続くこととなった。14年にアウグストゥスが没した後に帝位を継いだティベリウスも内政の引き締めを行って大過なく国を治めたものの、3代カリグラは暴政を行って暗殺された。次のクラウディウスはカリグラの破綻させた内政を再建し、再び安定した国家を築きあげた。続くネロの統治は当初は善政だったものの、次第に暴政の色を濃くし、ネロは68年に反乱を受け自害した。ネロが死ぬと皇位継承戦争が発生した。4人の皇帝が次々と擁立されたことから、この時期を四皇帝の年とも呼ぶ。これによって一時帝国は複数の属州軍閥に分割され、これにガリアなどローマ化の進んでいた属州やユダヤ人など東方の反乱も同期したが、やがてウェスパシアヌスが勝利し70年にフラウィウス朝を開始すると、ローマは小康状態を取り戻した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "フラウィウス朝はウェスパシアヌス、ティトゥスと名君が続いたが、次のドミティアヌスが暗殺され、後継ぎがなかったためにフラウィウス朝は断絶した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ドミティアヌスが暗殺されたのち、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "のちにかなり理想化された歴史の叙述によれば、彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス=クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。しかしながら五賢帝は、やや遠いながらも血縁関係があり、またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだことから、この時代の理想化を避けた観点からは、ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代を、ネルウァ=アントニヌス朝とも呼ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、実子であるコンモドゥス帝の悪政により社会は混乱し、彼が192年に暗殺されると内乱が勃発した。193年には5人の皇帝が乱立し、五皇帝の年と呼ばれる混乱が起きた。この内戦を制したセプティミウス・セウェルスによって193年にセウェルス朝が開かれた。セウェルス朝は軍事力をバックに成立し、当初から軍事色の強い政権であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "五賢帝時代の末期頃に天然痘の流行により人口が減少し、その後各地で反乱が頻発するようになり、また軍団兵・補助兵ともなり手不足から編成に支障をきたした。これに対処すべく、212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによって厳しい階級社会だったローマ社会における、非ローマ市民の著しい不平等(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)は多少なりとも緩和されたが、これによってローマ市民権の価値が崩壊し、政治バランスが激変して、以後長く続く混乱の一因となった。また、それまで属州出身の補助兵は25年勤め上げるとローマ市民権を得ることができたために精強な補助兵が大量に供給されてきたが、市民権に価値がなくなったために帝国内の補助兵のなり手が急減し、さらに不足した兵力はゲルマン人などの周辺蛮族から補充されたため、軍事力の衰退を招いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "235年、アレクサンデル・セウェルス帝が軍の反乱によって殺害されたことでセウェルス朝は断絶し、以後ローマ帝国は軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持ったため、反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。約50年間に26人が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首政と呼ばれる、言わば終身大統領のような存在の皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ディオクレティアヌスが305年に引退した後、テトラルキアは急速に崩壊していった。混乱が続く中、西方副帝だったコンスタンティヌス1世が有力となり、324年には唯一の皇帝となった。コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブール)に遷都して国の立て直しを図った。この街はコンスタンティヌス帝の死後にコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの街)と改名した。コンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。378年には皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)でゴート族に敗死した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストの創始したキリスト教は、徐々に信徒数を増やしてゆき、2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して後に単独の皇帝となるコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、当時の東帝リキニウスと共同で、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。その後もキリスト教の影響力は増大を続け、ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められ、異教は禁止されることになった(392年)。394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やすことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "コンスタンティヌス1世の没後、帝国では再び分担統治が行われるようになった。テオドシウス1世も、395年の死に際して長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れなかった。もっとも3世紀後半以降、東西の皇帝権が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり、経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり、また自由農民が温存された東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、東西の分裂は早い段階から進行していた。今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼び分ける。ただし、史料などからは当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地は首都ローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。西ローマ帝国の皇帝政権はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され西方正帝の地位が消滅した。その後もガリア地方北部にはシアグリウスが維持するソワソン管区がローマ領として存続したが、486年にゲルマン系新興国メロヴィング朝フランク王国のクローヴィス1世による攻撃を受け消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって、全ローマ帝国の皇帝となった東の皇帝の宗主権を仰ぎ、ローマ皇帝に任命された西ローマ帝国の地方長官として統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人的認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、ゲルマン系諸王はローマ帝国の官人としてローマ帝国の印璽を用い、住民達もまた自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "東ローマ帝国(395年-1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。この国は古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいたが、完全なキリスト教国であり、また徐々にギリシア的性格を強めていった。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、またいくつかの部族に対して西へ行くよう計らった。西ローマ帝国における西方正帝の消滅後、東ローマ帝国の皇帝が唯一のローマ皇帝として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "東ローマ帝国による帝国の再建は何度か試みられ、実際に5世紀のレオ1世や12世紀のマヌエル1世の様に、アフリカやイタリア征服を試みた皇帝もいた。6世紀のユスティニアヌス1世によるものは一定の成功を収め、地中海の広範な地帯が再びローマ皇帝領となった。ユスティニアヌスは、ローマ法の集大成であるローマ法大全の編纂でも知られている。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ユスティニアヌス没後は混乱と縮小の時代に入り、7〜8世紀にかけイスラム帝国やスラヴ人などの侵入により領土が大幅に縮小した。統治体制は再編を余儀なくされ、テマと呼ばれる軍閥制が敷かれた。ラテン語が使用されていた帝国西方との隔絶は公用語のギリシャ語化(7世紀)を促し、8世紀にはローマやラヴェンナを含む北イタリア管区を失い、また、西欧に対する影響力も低下した。一連の出来事は帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "9〜10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。しかし、その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、13世紀に十字軍により首都コンスタンティノポリスを占領された。13世紀末にコンスタンティノポリスを取り戻すも、以後は内乱の頻発もあり、オスマン帝国等に領土を侵食されていった。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落した。最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは戦死し、東ローマ帝国は滅亡した。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "この東ローマ帝国の滅亡は、中世の終わりを象徴する大きな出来事の1つではあったが、通常「ローマ帝国の滅亡」として認識されることは少ない。これは、東ローマ帝国がその長い歴史の中で性質を大きく変化させ、自らの認識とは裏腹に古代ローマとは異なる国へと変貌したことに起因している。中期以降の東ローマ帝国は、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。このため、特にローマ帝国全史を取り上げたい場合を除いて西ローマ帝国の「滅亡」をもってローマ帝国の「滅亡」とすることが一般的である。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "コンスタンティノープルを領有した東ローマ帝国の滅亡後、まだ東ローマ系の国家はいくつか存在したが、それも長くは持たなかった。モレアス専制公領が1459年に、トレビゾンド帝国も1461年に、やはりオスマン帝国によって滅ぼされた。最終的に、クリミア半島にトレビゾンド帝国と関係の深かった小国家・テオドロ公国が残されたが、この国も1475年にオスマン帝国の攻撃を受けた。モルドバやクリミア・ハン国からの援軍も加えて激しい戦いが行われたが、約6ヶ月間の防戦の末、1475年12月にマングプが陥落し滅亡した。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "西方正帝の消滅後に西ローマ帝国の地を統治したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命されたローマ帝国の官僚の資格で統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人の認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、住民達も自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。しかし、フランク王国がカロリング朝の時代を迎え、800年にカールが教皇レオ3世によりローマ皇帝に戴冠されたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実ともに離脱し、ローマ帝国は東西に分裂した。ここに後世神聖ローマ帝国と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年のライン同盟結成まで継続した。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国の君主(スルターン)であるメフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。もともと東ローマ帝国においては帝国を征服した辺境の異民族が帝国そのものとなったり帝位簒奪者が定着することは幾度となく繰り返されてきた歴史でもあり、このことについて吉村忠典は「第三のローマとしては、モスクワよりイスタンブールの方が本家のように思える」とする感想を述べている。ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "その他にも、ロシア帝国(ロシア・ツァーリ国)はローマ帝国とギリシア帝国に続く第三のローマ帝国としてローマ帝国の後継者を称した。ただし、君主はロシア皇帝を自称するも、当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。その後、国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ皇帝の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。", "title": "帝国の衰退" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しないが、ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味である。そのルーマニア国歌「目覚めよ、ルーマニア人!」とイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある他、それぞれトラヤヌスとスキピオの名(正確には、スキピオは家名)が歌詞に入っている。", "title": "帝国の衰退" } ]
ローマ帝国は、古代ローマの共和制後の時代以降を指す言葉である。この時代、古代ローマはイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展していった。 1世紀から2世紀頃の最盛期には地中海沿岸全域に加え、ヨーロッパはヒスパニア、ゲルマニア、ガリア、ブリタンニア、クリミア、北アフリカ一帯、西アジアではメソポタミア、シリア、アルメニア、ペルシア西部などをはじめとする広大な地域を中心とした大規模な領土を皇帝(アウグストゥス)が支配していた。カエサル・アウグストゥスの即位から3世紀の軍事的無政府状態まで、それはイタリアを中心的な領土(メトロポール)とし、ローマ市を唯一の首都としたプリンキパトゥスだった(紀元前27年-紀元後286年)。 軍事危機の間に断片化されたが、帝国は強制的に再編成され、その後、西ローマ帝国(ミラノと後にラヴェンナに拠点を置く)と東ローマ帝国(ニコメディアとアンティオキアを中心に、後にコンスタンティノープルに拠点を置く)で支配を分ける複数の皇帝によって支配された。ローマは、オドアケルの蛮族によるラヴェンナの奪取とロムルス・アウグストゥルスの退位に続いて、コンスタンティノープルに帝国記章が送られた西暦476年まで両部分の名目上の首都のままであった。西ローマ帝国がゲルマン人の王たちに支配され、東ローマ帝国がビザンチン帝国へとヘレニズム化したことで、古代ローマの終わりと中世の始まりを告げることになる。
{{基礎情報 過去の国 |略名 = ローマ帝国 |日本語国名 = ローマ帝国 |公式国名 = {{native name|la|IMPERIVM·ROMANVM|italic=no}}<br>{{native name|grc|Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων|italic=no}} |建国時期 = [[紀元前27年|前27年]] |亡国時期 = [[1453年]] |先代1 = 共和政ローマ |先旗1 = Spqrstone.jpg |先代2 = プトレマイオス朝 |次代1 = 東ローマ帝国 |次旗1 = Simple Labarum.svg |次旗1縁 = no |次代2 = 西ローマ帝国 |次旗2 = Labarum.svg |次旗2縁 = no |次代3 = オスマン帝国 |次旗3 = Ottoman Flag.svg |次代4 = イスラム帝国 |次代5 = 東ゴート王国 |次代6 = 西ゴート王国 |次代7 = ブルグント王国 |次代8 = ヴァンダル王国 |次代9 = スエビ王国 |次代10 = フランク王国 |次代11 = ブルガリア帝国 |次代12 = ヴェネツィア共和国 |次旗12 = Flag of Most Serene Republic of Venice.svg |国旗画像 = Vexilloid of the Roman Empire.svg |国旗リンク = |国旗幅 = 90px |国旗縁 = no |国章画像 = Better Imperial Aquila.png |国章リンク = |国章幅 = 95px |標語 = {{Smallcaps|{{Lang|la|[[SPQR|Senatus Populusque Romanus]]}}}}{{la icon}}<br />''ローマの元老院と市民'' |国歌 = |国歌追記 = |位置画像 = Roman Empire (orthographic projection).svg |位置画像説明 = {{Legend|DarkGreen|西暦117年当時のローマ帝国の最大版図}}{{Legend|#3BC03B|間接的に支配した地域}} |公用語 = [[ラテン語]]<br>[[ギリシャ語]]<br>{{smaller|([[準公用語]]、[[629年]]からは公用語)}} |首都 = [[ローマ]]<br>{{smaller|(前27年-286年)}}<br>[[ニコメディア]]<br>{{smaller|(東、286年-330年)}}<br>[[メディオラヌム]]<br>{{smaller|(西、286年-330年)}}<br>[[コンスタンティノープル]]<br>{{smaller|(330年-395年)}}<br>[[コンスタンティノープル]]<br>{{smaller|(東、395年-1453年)}}<br>[[メディオラヌム]]<br>{{smaller|(西、395年-401年)}}<br>[[ラヴェンナ]]<br>{{smaller|(西、401年-403年、408年-450年、457年-461年、475年-476年)}}<br>[[ローマ]]<br>{{smaller|(西、403年-408年、450年-457年、461年-475年)}} |元首等肩書 = [[ローマ皇帝|皇帝]] |元首等氏名1 = [[アウグストゥス]] |元首等年代始1 = 前27年 |元首等年代終1 = 14年 |元首等氏名2 = [[トラヤヌス]] |元首等年代始2 = 98年 |元首等年代終2 = 117年 |元首等氏名3 = [[コンスタンティヌス1世]] |元首等年代始3 = 307年 |元首等年代終3 = 337年 |元首等氏名4 = [[テオドシウス1世]] |元首等年代始4 = 379年 |元首等年代終4 = 395年 |元首等氏名5 = [[コンスタンティノス11世パレオロゴス]] |元首等年代始5 = 1449年 |元首等年代終5 = 1453年 |首相等肩書 = [[執政官]] |首相等年代始1 = 前27年 |首相等年代終1 = 前23年 |首相等氏名1 = [[アウグストゥス]] |首相等年代始2 = 476年 |首相等年代終2 = 476年 |首相等氏名2 = [[バシリスクス]] |面積測定時期1 = 前25年<ref name="size">{{cite journal|journal=Social Science History |title=Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D. |author=Rein Taagepera|volume=3 |issue=3/4 |year=1979 |pages=125 |url=http://links.jstor.org/sici?sici=0145-5532%281979%293%3A3%2F4%3C115%3ASADOEG%3E2.0.CO%3B2-H |doi=10.2307/1170959}}</ref><ref>John D. Durand, ''Historical Estimates of World Population: An Evaluation'', 1977, pp. 253-296.</ref> |面積値1 = 2,750,000 |面積測定時期2 = 50年<ref name="size" /> |面積値2 = 4,200,000 |面積測定時期3 = 117年<ref name="size" /> |面積値3 = 5,000,000 |面積測定時期4 = 390年<ref name="size" /> |面積値4 = 4,400,000 |人口測定時期1 = 前25年<ref>John D. Durand, ''Historical Estimates of World Population: An Evaluation'', 1977, pp. 253–296.</ref> |人口値1 = 56,800,000 |人口測定時期2 = |人口値2 = |変遷1 = [[オクタウィアヌス]]が[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]の尊称を戴く |変遷年月日1 = 前27年1月16日 |変遷2 = [[トラヤヌス]]治世下でローマ帝国が最大版図を実現 |変遷年月日2 = 117年 |変遷3 = [[ディオクレティアヌス]]が即位、[[テトラルキア|分担統治]]の開始 |変遷年月日3 = 285年 |変遷4 = 東西分裂 |変遷年月日4 = 395年 |変遷5 = [[ゲルマン人]][[傭兵]][[オドアケル]]の反乱により[[西ローマ皇帝]]が廃位、東西皇帝位の統一 |変遷年月日5 = 476年 |変遷6 = [[オスマン帝国]]の攻撃により[[東ローマ帝国]]が[[コンスタンティノープルの陥落|滅亡]] |変遷年月日6 = 1453年5月29日 |通貨 = [[ソリドゥス金貨]]<br>[[アウレウス]]<br>[[デナリウス]]<br>[[セステルティウス]]<br>[[アス (青銅貨)|アス]] |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |国際電話番号追記 = |注記 = }} [[ファイル:Simple Labarum2.svg|150px|サムネイル|コンスタンティヌス朝以降の国章[[ラバルム]](ギリシア語でキリストを意味する言葉の頭文字の[[Χ]]・[[Ρ]]を重ね合わせた組み文字)。]] {{ローマの政治体制}} '''ローマ帝国'''(ローマていこく、{{lang-la|'''Imperium Romanum'''}})は、[[古代ローマ]]の[[共和政ローマ|共和制]]後の時代以降を指す言葉である。この時代、古代ローマは[[イタリア半島]]に誕生した[[都市国家]]から、[[地中海]]にまたがる領域国家へと発展していった。 [[1世紀]]から[[2世紀]]頃の最盛期には[[地中海]]沿岸全域に加え、[[ヨーロッパ]]は[[ヒスパニア]]、[[ゲルマニア]]、[[ガリア]]、[[ブリタンニア]]、[[クリミア]]、[[北アフリカ]]一帯、[[西アジア]]では[[メソポタミア]]、[[シリア]]、[[アルメニア]]、[[ペルシア]]西部などをはじめとする広大な地域を中心とした大規模な[[領土]]を[[ローマ皇帝|皇帝]]([[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]])が支配していた。[[アウグストゥス|カエサル・アウグストゥス]]の即位から[[3世紀の危機|3世紀の軍事的無政府状態]]まで、それはイタリアを中心的な領土(メトロポール)とし、ローマ市を唯一の首都とした[[プリンキパトゥス]]だった(紀元前27年-紀元後286年)。 軍事危機の間に断片化されたが、帝国は強制的に再編成され、その後、[[西ローマ帝国]]([[ミラノ]]と後に[[ラヴェンナ]]に拠点を置く)と[[東ローマ帝国]]([[ニコメディア]]と[[アンティオキア]]を中心に、後に[[コンスタンティノープル]]に拠点を置く)で支配を分ける[[ドミナートゥス|複数の皇帝]]によって支配された。ローマは、[[オドアケル]]の蛮族によるラヴェンナの奪取と[[ロムルス・アウグストゥルス]]の退位に続いて、コンスタンティノープルに帝国記章が送られた西暦476年まで両部分の名目上の首都のままであった。西ローマ帝国が[[ゲルマン人]]の王たちに支配され、東ローマ帝国がビザンチン帝国へと[[ヘレニズム]]化したことで、[[古代ローマ]]の終わりと[[中世]]の始まりを告げることになる。 == 名称 == 「ローマ帝国」は「ローマの命令権が及ぶ範囲」を意味する[[ラテン語]]の “{{lang|la|Imperium Romanum}}” の訳語である。[[インペリウム]] ({{lang|la|imperium}}) は元々はローマの「命令権(統治権)」という意味であったが、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指すようになった<ref>[[#吉村2003|吉村2003]], pp53-58</ref>。{{lang|la|Imperium Romanum}} の語は[[共和政ローマ|共和政]]時代から用いられており、その意味において[[共和政]]時代からの[[古代ローマ]]を指す名称である。[[日本語]]の「[[帝国]]」には「[[皇帝]]の支配する国」という印象が強いために、しばしば[[帝政]]以降のみを示す言葉として用いられているが、西洋における「帝国」は皇帝の存在を前提とした言葉ではなく統治の形態にのみ着目した言葉であり<ref name="y55">[[#吉村2003|吉村2003]], pp55-56</ref>、「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味の言葉である。ちなみに、現代の日本では帝政ローマにおいてインペリウムを所持した[[インペラトル]]が皇帝と訳されているが、インペリウムは共和政ローマにおいても[[コンスル]]と[[プロコンスル]]、および[[プラエトル]]と[[プロプラエトル]]に与えられていた。また、ローマが帝政に移行した後も、元首政([[プリンキパトゥス]])期においては名目上は帝国は共和制であった。 中世における「ローマ帝国」である、[[東ローマ帝国]]や[[ドイツ]]の[[神聖ローマ帝国]]と区別するために、[[西ローマ帝国]]における西方正帝の消滅までを'''古代ローマ帝国'''と呼ぶことも多い。 ==概要== ローマ帝国の前身である[[共和政ローマ|ローマ共和国]](紀元前6世紀に[[王政ローマ|ローマの君主制]]に代わっていた)は、一連の[[ローマの内戦|内戦]]や政治的対立の中で深刻に不安定になった。紀元前1世紀半ばに[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が終身[[独裁官]]に任命され、紀元前44年に暗殺された<ref>{{Cite web|和書|title=「ブルータス」カエサル暗殺後敗北者となった理由|url=https://president.jp/articles/-/5308|website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2012-01-20|accessdate=2020-10-07|language=ja}}</ref>。その後も内戦や[[プロスクリプティオ]]は続き、紀元前31年の[[アクティウムの海戦]]でカエサルの養子である[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]が[[マルクス・アントニウス]]と[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]]に勝利したことで最高潮に達した。翌年、[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]は[[プトレマイオス朝]]エジプトを征服し、紀元前4世紀の[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]の征服から始まったヘレニズム時代に終止符を打った<ref>{{Cite web|和書|title=プトレマイオス朝とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9%E6%9C%9D-125473|website=コトバンク|accessdate=2020-10-08|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,旺文社世界史事典|last=三訂版}}</ref>。その後、[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]の権力は揺るぎないものとなり、紀元前27年に[[元老院 (ローマ)|ローマ元老院]]は正式に[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]に全権と新しい称号アウグストゥスを与え、事実上彼を[[ローマ皇帝一覧|最初のローマ皇帝]]とした<ref>{{Cite web|和書|title=アウグストゥスとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9-422026|website=コトバンク|accessdate=2020-10-08|language=ja|first=デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),旺文社世界史事典|last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。 帝国の最初の2世紀は、前例のない安定と繁栄の時代であり、「[[パクス・ロマーナ]]」として知られている<ref>{{Cite web|和書|title=パックス・ロマーナとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%8A-114968|website=コトバンク|accessdate=2020-10-07|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典|last=小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。ローマは[[トラヤヌス]]の治世(98-117 AD)の間にその最大の領土の広がりに達した。また、トラヤヌスの後任であるハドリアヌスの治世では、ローマ帝国は最盛期を迎え、繁栄を謳歌した。その後の[[アントニヌス・ピウス]]と[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]は先帝の平和を受け継ぎ繁栄を維持したが、アウレリウス帝の治世の後半ごろには疫病や異民族の侵入などによって繁栄に陰りが見えはじめた。トラブルの増加と衰退の期間は、アウレリウス帝の息子[[コンモドゥス]](177-192)の治世で始まった。コンモドゥスの暗殺の後は混乱が続く状況となった。3世紀には、[[ガリア帝国]]と[[パルミラ帝国]]がローマ国家から離脱し、[[軍人皇帝|短命の皇帝]]が続出し、多くの場合は軍団の権勢を以て帝国を率いていたため、帝国はその存続を脅かす[[3世紀の危機|危機]]に見舞われた([[3世紀の危機]])。帝国は[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス]](R.270-275)のもとで再統一された。その後再び混乱は続くが、3帝国を安定させるための努力として、[[ディオクレティアヌス]]は286年に[[東方ギリシア世界と西方ラテン世界|ギリシャの東およびラテン西]]の2つの異なった宮廷を設置し、ディオクレティアヌスによって[[ドミナートゥス|専制政治]]が開始された。ディオクレティアヌスの退位後は複数の皇帝たちの相互の争いによって帝国は分断されたが、最終的には[[コンスタンティヌス1世]]がその強大な権力を以て帝国を再統一した。大帝とも称されるコンスタンティヌスは伝統的に最初にキリスト教を信仰した皇帝であるとされる。313年の[[ミラノ勅令]]に続く4世紀には一時的に危機はあったもののキリスト教徒が権力を握るようになり、皇帝の多くもキリスト教を信仰した。コンスタンティヌス死後の混乱を経て[[テオドシウス1世]]によってふたたび帝国は一人の皇帝のもとに統べられた。テオドシウスはキリスト教を[[国教]]として異教を禁止、彼の死後には2人の子供が東西に分割された領域をそれぞれ支配した。その後すぐに、寒冷化などに端を発する[[ゲルマン人]]や[[アッティラ]]の[[フン族]]による大規模な侵略を含む移住時代が西方のローマ帝国([[西ローマ帝国]])の衰退につながった。ゲルマン人の勢力はローマ宮廷内で権力を握り、最終的にはローマから宮廷が移された[[ラヴェンナ]]の秋にゲルマン人の[[ヘルール族]]と[[オドアケル]]によって476 ADに[[ロムルス・アウグストゥルス]]が退位し、西ローマ帝国は一旦崩壊した。 [[東ローマ皇帝|東方のローマ皇帝]][[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]はオドアケルからの「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする書簡を受けて正式に480 ADにそれを廃止した。しかし、旧西ローマ帝国の領土内の[[フランス]]および[[ドイツ]]に位置した[[神聖ローマ帝国]]は、ローマ皇帝の最高権力を継承しており、[[800年]]のローマ・カトリック教皇レオ3世による[[カール大帝#カールの戴冠|カールの戴冠]]によって西ローマ帝国は復活したと主張し、その後10世紀以上にわたって神聖ローマ帝国は存続した。東ローマ帝国は、通常、現代の歴史家によってビザンチン帝国として記述され、コンスタンティノープルが1453年にスルタン・[[メフメト2世]]の[[オスマン帝国]]に落ち皇帝[[コンスタンティノス11世]]が戦死し崩壊するまで、別の千年紀を生き延び、変質こそしたものの、古代ローマ帝国の命脈を保った。 ローマ帝国の広大な範囲と長期にわたる存続のために、ローマの制度と文化は、ローマが統治していた地域の言語、宗教、[[ローマ美術|芸術]]、建築、哲学、[[ローマ法|法律]]、[[政務官 (ローマ)|政府の形態の発展]]に深く、永続的な影響を与えた。ローマ人の[[ラテン語]]は中世と近代の[[ロマンス諸語|ロマンス語]]へと発展し、中世ギリシャ語は東ローマ帝国の言語となった。帝国が[[キリスト教の歴史|キリスト教を採用]]したことで、中世のキリスト教が形成された。[[ギリシア美術|ギリシャ]]と[[ローマ美術|ローマの芸術]]は、[[イタリア・ルネサンス年表|イタリア・ルネッサンス]]に大きな影響を与えた。ローマの建築の伝統は、[[ロマネスク建築|ロマネスク様式]]、[[ルネサンス建築]]、[[新古典主義建築]]の基礎となり、また、[[イスラーム建築]]に強い影響を与えた。ローマ法の[[コーパス]]は、[[フランス民法典|ナポレオン法典]]のような今日の世界の多くの[[法系の一覧|法制度]]にその子孫を持っているが、ローマの共和制制度は、中世のイタリアの都市国家の共和国、初期の米国やその他の近代的な民主的な共和国に影響を与え、永続的な遺産を残している。 == 歴史 == 古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。 [[紀元前27年]]よりローマ帝国は共和政から帝政へと移行する。ただし初代皇帝[[アウグストゥス]]は共和政の守護者として振る舞った。この段階を[[プリンキパトゥス]]([[プリンキパトゥス|元首政]])という。[[ディオクレティアヌス]]帝が即位した[[285年]]以降は専制君主制([[ドミナートゥス]])へと変貌した。 [[330年]]に[[コンスタンティヌス1世]]が、後に帝国東方において皇帝府の所在地となるローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]](コンスタンティノープル)の町を建設した。[[テオドシウス1世]]は、古くからの神々を廃し、[[392年]]に[[キリスト教]]を国教とした。[[395年]]、テオドシウス1世の2人の息子による帝国の分担統治が始まる。以後の東方正帝と西方正帝が支配した領域を、現在ではそれぞれ東ローマ帝国と西ローマ帝国と呼び分けている。 西ローマ帝国の皇帝政権は、経済的に豊かでない国家で兵力などの軍事的基盤が弱く、ゲルマン人の侵入に抗せず、[[476年]]以降に西方正帝の権限が東方正帝に吸収された。6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、7世紀以降の東ローマ帝国は領土を大きく減らし、国家体制の変化が進行した。東ローマ帝国は、8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが、[[オスマン帝国]]により、[[1453年]]に首都コンスタンティノポリスが陥落し、完全に滅亡した。 === 帝政の開始 === [[ファイル:Colosseum_in_Rome,_Italy_-_April_2007.jpg|thumb|left|170px|[[コロッセオ]]。]] [[ファイル:Pont_du_Gard_FRA_001.jpg|thumb|left|170px|[[ポン・デュ・ガール]]。ローマの[[水路橋|水道橋]]。]] [[ファイル:Julius Caesar Coustou Louvre MR1798.jpg|thumb|170px|left|[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]。]] ローマ帝国の起源は、[[紀元前8世紀]]中ごろに[[イタリア半島]]を南下した[[ラテン人]]の一派がティベリス川(現:[[テヴェレ川]])のほとりに形成した[[都市国家]]ローマである([[王政ローマ]])。当初は[[エトルリア人]]などの王を擁していたローマは、[[紀元前509年]]に7代目の王であった[[タルクィニウス・スペルブス]]を追放して、貴族([[パトリキ]])による[[共和政]]を布いた。共和政下では2名の[[執政官|コンスル]]を国家の指導者としながらも、[[クァエストル]](財務官)など公職経験者から成る[[元老院 (ローマ)|元老院]]が圧倒的な権威を有しており、国家運営に大きな影響を与えた([[共和政ローマ]])。やがて平民([[プレブス]])の力が増大し、[[紀元前4世紀]]から[[紀元前3世紀]]にかけて身分闘争が起きたが、[[十二表法]]や[[リキニウス・セクスティウス法]]の制定により対立は緩和されていき、[[紀元前287年]]の[[ホルテンシウス法]]制定によって身分闘争には終止符が打たれた。 都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする[[重装歩兵]]部隊を中核とした市民軍で[[紀元前272年]]にはイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。[[紀元前1世紀]]には[[ローマ市民権]]を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱([[同盟市戦争]])を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。 しかし、前3世紀から2世紀、3度にわたる[[ポエニ戦争]]の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「[[内乱の一世紀]]」と呼ばれた時代になると[[ガイウス・マリウス|マリウス]]など一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。こうした中で、[[ルキウス・コルネリウス・スッラ|スッラ]]及び[[ガイウス・ユリウス・カエサル|ユリウス・カエサル]]は絶対的な権限を有する[[終身独裁官]]に就任、元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。[[紀元前44年]]にカエサルが暗殺された後、[[共和主義者]]の打倒で協力した[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]と[[マルクス・アントニウス]]が覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが[[紀元前27年]]に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院は[[プリンケプス]](元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]](尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。 以降、帝政初期の[[ユリウス=クラウディウス朝]]の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には[[共和制]]を尊重して[[プリンケプス]](元首)としてふるまった。これを'''[[プリンキパトゥス]]'''(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。 * 「[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]」と「[[カエサル (称号)|カエサル]]」の称号。 * 「[[インペラトル]]」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)。 * 「[[プリンケプス]]」(市民の中の第一人者)の称号。本来は元老院において、最初に発言する第一人者の意味。 * 「[[執政官|執政官命令権]]」を持っており、最高政務官である執政官職に就かずして、首都ローマとイタリアに対して政治的・軍事的権限を行使した。 * 「[[プロコンスル|プロコンスル命令権]]」により皇帝属州の総督任命権と元老院属州の総督に対する上級命令権を有していた。また、エジプトは皇帝の直轄地として位置づけられた。 * 「[[護民官|護民官職権]]」を持っており、実際に護民官には就任していないにもかかわらず権限を行使した。これには身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。 * 「[[最高神祇官]]」の職。多神教が基本のローマ社会において、その祭事を主催する。 これらに加え、皇帝たちは必要な場合年次職の[[執政官]]や[[ケンソル]](監察官)などの共和政上の公職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、神格化されることも少なくなかった。例えばアウグストゥスはガリア属州に祭壇が設けられ、2世紀末まで公的に神として祀られ続けた。一方、独裁的権限を所持していたにもかかわらず、ローマ皇帝はあくまでも「元老院、ローマ市民の代表者」という立場であったため、ローマ市民という有力者の支持を失うと元老院に「国家の敵」とみなされ自殺に追い込まれたり、コロッセウムなどで姿をみせると容赦ないブーイングを浴びるなど、官僚制と多数の文武官による専制体制が確立した[[オリエント]]的君主とは違った存在であった。 また、国家の要職だけでなく最高権力者である皇帝位でさえも、ローマに征服された地域や民族の者が就くことが可能であった。例えば、[[セウェルス朝]]創始者の[[セプティミウス・セウェルス]]帝は[[アフリカ属州]]出身であったし、[[五賢帝]]の一人である[[トラヤヌス]]帝は[[ヒスパニア・バエティカ|ヒスパニア属州]]出身であった<ref>アルベルト・アンジェラ著 ローマ帝国1万5千キロの旅 p.493 ISBN 978-4-309-22589-0</ref>。 === ユリウス=クラウディウス朝と内乱期 === このように[[アウグストゥス]]の皇帝就任とユリウス=クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、[[ティベリウス]]の死後あたりから、政治・軍事の両面で徐々に変化が起こった。軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、徴兵制が破綻し、代わって傭兵制が取られたが、それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。 やがて、世襲の弊害により、[[カリグラ]]や[[ネロ]]など無軌道な皇帝が登場すると、彼らは対立候補を挙げて決起し、また複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、結果、ユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになる。 ただし、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかった。むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いており、43年には[[クラウディウス]]帝によって[[グレートブリテン島]]南部が占領されて属州[[ブリタンニア]]が創設されるなどしている。 また、時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占める[[ゲルマン人]]など周辺蛮族の割合は増加した。それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。ローマの領域内は安定を見せたものの、賢帝とされるアウグストゥスやクラウディウスの時代にもヌミディアより西に位置するアフリカでは強圧的な支配と土地の召し上げ・収奪に対する抵抗と反乱が絶えないなど、周辺属州民にとっても善政だったかどうかは疑問がある。 時系列的には、初代皇帝アウグストゥスの時代に[[常備軍]]の創設や補助兵制度の正式化、[[通貨]]制度の整備、ローマ市の改造や[[属州]]制度の改革([[元老院属州]]と[[皇帝属州]]の創設)などを行い、帝国の基盤が整えられた。さらに防衛のしやすい自然国境を定め、そこまでの地域を征服したため、帝国の領域は拡大し、安定した防衛線に守られた帝国領内は安定して、[[パクス・ロマーナ]]と呼ばれる平和が長く続くこととなった。[[14年]]にアウグストゥスが没した後に帝位を継いだ[[ティベリウス]]も内政の引き締めを行って大過なく国を治めたものの、3代カリグラは暴政を行って暗殺された。次のクラウディウスはカリグラの破綻させた内政を再建し、再び安定した国家を築きあげた。続く[[ネロ]]の統治は当初は善政だったものの、次第に暴政の色を濃くし、ネロは68年に反乱を受け自害した。ネロが死ぬと皇位継承戦争が発生した。4人の皇帝が次々と擁立されたことから、この時期を[[四皇帝の年]]とも呼ぶ。これによって一時帝国は複数の属州軍閥に分割され、これにガリアなどローマ化の進んでいた属州やユダヤ人など東方の反乱も同期したが、やがて[[ウェスパシアヌス]]が勝利し[[70年]]に[[フラウィウス朝]]を開始すると、ローマは小康状態を取り戻した。 フラウィウス朝はウェスパシアヌス、[[ティトゥス]]と名君が続いたが、次の[[ドミティアヌス]]が暗殺され、後継ぎがなかったためにフラウィウス朝は断絶した。 === 五賢帝の時代(ネルウァ=アントニヌス朝) === ドミティアヌスが暗殺されたのち、紀元[[1世紀]]の末から[[2世紀]]にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を[[五賢帝]]という。 のちにかなり理想化された歴史の叙述によれば、彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス=クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。しかしながら五賢帝は、やや遠いながらも血縁関係があり、またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだことから、この時代の理想化を避けた観点からは、ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代を、[[ネルウァ=アントニヌス朝]]とも呼ぶ。 またこの時代には、法律([[ローマ法]])、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。 * [[96年]] - [[98年]] [[ネルウァ]] ** 元老院から選出される。後継者にトラヤヌスを指名した。 * 98年 - [[117年]] [[トラヤヌス]] ** 「至高の皇帝」。最大領土を現出。ダキア、アラビア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアを占領して属州を置き、帝国領土は東は[[メソポタミア]]、西は[[イベリア半島]]、南は[[エジプト]]、北は[[ブリテン島]]にまでおよんだ。 * 117年 - [[138年]] [[ハドリアヌス]] ** [[パルティア]]と和平してアルメニア、メソポタミア、アッシリアから撤退し、東方国境を安定させる。全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアの[[ハドリアヌスの長城]]に代表される防衛体制の確立に努めた。 * 138年 - [[161年]] [[アントニヌス・ピウス]] ** 内政の改革や財政の健全化に努めた。 * 161年 - [[180年]] [[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]] ** 「哲人皇帝」。[[ストア派|ストア哲学]]を熱心に学んだ。晩年は各地の反乱や災害やゲルマン人ら異民族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。 * 161年 - [[169年]] [[ルキウス・ウェルス]] ** マルクス・アウレリウスと共同皇帝、パルティア戦争に従事。その後の蛮族の侵攻の最中に食中毒で病死。 * 180年 - [[192年]] [[コンモドゥス]] ** マルクス・アウレリウスの嫡子、ローマ帝国で二例目の直系継承を果たしたが悪政の末に暗殺されネルウァ=アントニヌス朝は断絶した。 === セウェルス朝 === マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、実子である[[コンモドゥス]]帝の悪政により社会は混乱し、彼が[[192年]]に暗殺されると内乱が勃発した。[[193年]]には5人の皇帝が乱立し、五皇帝の年と呼ばれる混乱が起きた。この内戦を制した[[セプティミウス・セウェルス]]によって193年に[[セウェルス朝]]が開かれた。セウェルス朝は軍事力をバックに成立し、当初から軍事色の強い政権であった。 五賢帝時代の末期頃に[[天然痘]]の流行により人口が減少し、その後各地で反乱が頻発するようになり、また軍団兵・補助兵ともなり手不足から編成に支障をきたした。これに対処すべく、[[212年]]、[[カラカラ]]帝の「[[アントニヌス勅令]]」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによって厳しい階級社会だったローマ社会における、非ローマ市民の著しい不平等(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)は多少なりとも緩和されたが、これによって[[ローマ市民権]]の価値が崩壊し、政治バランスが激変して、以後長く続く混乱の一因となった。また、それまで属州出身の補助兵は25年勤め上げるとローマ市民権を得ることができたために精強な補助兵が大量に供給されてきたが、市民権に価値がなくなったために帝国内の補助兵のなり手が急減し、さらに不足した兵力はゲルマン人などの周辺蛮族から補充されたため、軍事力の衰退を招いた<ref>[[#菊池 2002|菊池 2002]], pp. 32-33.</ref>。 [[235年]]、[[アレクサンデル・セウェルス]]帝が軍の反乱によって殺害されたことでセウェルス朝は断絶し、以後ローマ帝国は軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していく。 === 混乱と分裂 === {{main|3世紀の危機}} いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持ったため、反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。約50年間に26人<ref group="注釈">僭称者とされる皇帝も含めるとその数は更に増える。</ref>が皇帝位に就いたこの時代は[[軍人皇帝時代]]と称される。 [[パクス・ロマーナ]](ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりに[[コロヌス]](土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った[[小作]]制の'''[[コロナートゥス]]'''が発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。 [[284年]]に最後の[[軍人皇帝]]となった[[ディオクレティアヌス]](在位:[[284年]]-[[305年]])は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首政と呼ばれる、言わば終身大統領のような存在の皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「'''[[ドミナートゥス]]'''(専制君主制)」と呼ぶ。また'''[[テトラルキア]]'''(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝([[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]])と副帝([[カエサル (称号)|カエサル]])によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。 ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。 ディオクレティアヌスが305年に引退した後、テトラルキアは急速に崩壊していった。混乱が続く中、西方副帝だった[[コンスタンティヌス1世]]が有力となり、324年には唯一の皇帝となった。コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東の[[サーサーン朝]]ペルシアの攻撃に備えるため、[[330年]]に交易ルートの要衝[[ビュザンティオン]](ビザンティウム。現在の[[トルコ]]領[[イスタンブール]])に遷都して国の立て直しを図った。この街はコンスタンティヌス帝の死後に[[コンスタンティノポリス]](コンスタンティヌスの街)と改名した。コンスタンティヌスの死後、北方の[[ゲルマン人]]の侵入は激化、特に[[375年]]以降の[[ゲルマン民族の大移動]]が帝国を揺さ振ることとなった。[[378年]]には皇帝[[ウァレンス]]が[[ハドリアノポリスの戦い]]([[ゴート戦争 (376年–382年)|ゴート戦争]])でゴート族に敗死した。 === キリスト教の浸透 === 帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれた[[イエス・キリスト]]の創始したキリスト教は、徐々に信徒数を増やしてゆき、2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して後に単独の皇帝となる[[コンスタンティヌス1世]]([[大帝]]。在位:副帝[[306年]]-、正帝[[324年]]-[[337年]])は、当時の東帝[[リキニウス]]と共同で、[[313年]]に[[ミラノ勅令]]を公布して[[キリスト教]]を公認した。その後もキリスト教の影響力は増大を続け、[[ユリアヌス]]帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、後の[[テオドシウス1世]](在位:[[379年]]-[[395年]])のときには[[国教]]に定められ、異教は禁止されることになった([[392年]])。[[394年]]には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、[[フォロ・ロマーノ]]にありローマの建国期より火を絶やすことのなかった[[ウェスタ神殿]]の[[ウェスタ]]の聖なる炎も消された。 == 帝国の衰退 == === 帝国の分裂 === [[File:Theodosius I's empire.png|right|thumb|250px|[[テオドシウス1世]]没後、395年のローマ帝国の分割。両者の国境線は黒線にて表示 (白線は現代の国境線) {{legend|#B53637|[[西ローマ帝国]]}} {{legend|#8F36B5|[[東ローマ帝国]]}}]] コンスタンティヌス1世の没後、帝国では再び分担統治が行われるようになった。[[テオドシウス1世]]も、395年の死に際して長男[[アルカディウス]]に東を、次男[[ホノリウス]]に西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れなかった。もっとも3世紀後半以降、東西の皇帝権が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり、経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり、また自由農民が温存された東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、東西の分裂は早い段階から進行していた。今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼び分ける。ただし、史料などからは当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。 ==== 西ローマ帝国 ==== {{Main|西ローマ帝国}} [[ディオクレティアヌス]]帝以降、皇帝の所在地は首都ローマから[[ミラノ]]、後に[[ラヴェンナ]]に移っていた。西ローマ帝国の皇帝政権は[[ゲルマン人]]の侵入に耐え切れず、[[イタリア半島]]の維持さえおぼつかなくなった末、[[476年]]ゲルマン人の傭兵隊長[[オドアケル]]によって[[ロムルス・アウグストゥルス]](在位:[[476年]])が廃位され西方正帝の地位が消滅した。その後も[[ガリア]]地方北部には[[シアグリウス]]が維持する[[ソワソン管区]]がローマ領として存続したが、[[486年]]にゲルマン系新興国[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の[[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]による攻撃を受け消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって、全ローマ帝国の皇帝となった東の皇帝の宗主権を仰ぎ、ローマ皇帝に任命された西ローマ帝国の地方長官として統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人的認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、ゲルマン系諸王はローマ帝国の官人としてローマ帝国の印璽を用い、住民達もまた自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた<ref name="Michel2016">ミシェル・ソ、ジャン=パトリス・ブデ、アニータ・ゲロ=ジャラベール『中世フランスの文化』 桐村泰次訳、諭創社、2016年3月</ref>。 ==== 東ローマ帝国 ==== [[File:Byzantium Location 550 1025.svg|250px|thumb|東ローマ帝国の最大進出域 {{legend|#6bbf6b|550年([[ユスティニアヌス1世]])}} {{legend|#007f00|1025年([[バシレイオス2世]])}}]] {{Main|東ローマ帝国}} [[東ローマ帝国]]([[395年]]-[[1453年]])は、首都を[[コンスタンティノポリス]]とし、[[15世紀]]まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世'''ビザンツ帝国'''あるいは'''ビザンティン帝国'''と呼ばれるが、正式な国号は'''「ローマ帝国」'''のままであった。この国は古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいたが、完全なキリスト教国であり、また徐々にギリシア的性格を強めていった。 東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、またいくつかの部族に対して西へ行くよう計らった。西ローマ帝国における西方正帝の消滅後、東ローマ帝国の皇帝が唯一のローマ皇帝として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。 東ローマ帝国による帝国の再建は何度か試みられ、実際に5世紀の[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]や12世紀の[[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世]]の様に、アフリカやイタリア征服を試みた皇帝もいた。6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]によるものは一定の成功を収め、地中海の広範な地帯が再びローマ皇帝領となった。ユスティニアヌスは、ローマ法の集大成である[[ローマ法大全]]の編纂でも知られている。 ユスティニアヌス没後は混乱と縮小の時代に入り、7〜8世紀にかけ[[イスラム帝国]]や[[スラヴ人]]などの侵入により領土が大幅に縮小した。統治体制は再編を余儀なくされ、[[テマ]]と呼ばれる軍閥制が敷かれた。ラテン語が使用されていた帝国西方との隔絶は公用語のギリシャ語化(7世紀)を促し、8世紀にはローマやラヴェンナを含む北イタリア管区を失い、また、西欧に対する影響力も低下した。一連の出来事は帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。 9〜10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。しかし、その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、13世紀に[[十字軍]]により首都コンスタンティノポリスを占領された。13世紀末にコンスタンティノポリスを取り戻すも、以後は内乱の頻発もあり、[[オスマン帝国]]等に領土を侵食されていった。 1453年4月、[[オスマン帝国]]の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落した。最後の皇帝[[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]は戦死し、東ローマ帝国は滅亡した。 この東ローマ帝国の滅亡は、中世の終わりを象徴する大きな出来事の1つではあったが、通常「ローマ帝国の滅亡」として認識されることは少ない。これは、東ローマ帝国がその長い歴史の中で性質を大きく変化させ、自らの認識とは裏腹に古代ローマとは異なる国へと変貌したことに起因している。中期以降の東ローマ帝国は、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。このため、特にローマ帝国全史を取り上げたい場合<ref group="注釈">例えば[[エドワード・ギボン]]『[[ローマ帝国衰亡史]]』。</ref>を除いて西ローマ帝国の「滅亡」をもってローマ帝国の「滅亡」とすることが一般的である。<ref group="注釈">[[カール大帝]]の代に[[フランク・ローマ皇帝|分裂した東ローマ帝国の帝権]]の後継者を自任する[[神聖ローマ帝国]]が[[1806年]]まで存在していたが、帝国解散の宣言は「ドイツ皇帝」の名義でなされている。</ref> コンスタンティノープルを領有した東ローマ帝国の滅亡後、まだ東ローマ系の国家はいくつか存在したが、それも長くは持たなかった。[[モレアス専制公領]]が1459年に、[[トレビゾンド帝国]]も1461年に、やはり[[オスマン帝国]]によって滅ぼされた。最終的に、[[クリミア半島]]に[[トレビゾンド帝国]]と関係の深かった小国家・[[テオドロ公国]]が残されたが、この国も1475年にオスマン帝国の攻撃を受けた。[[モルドバ]]や[[クリミア・ハン国]]からの援軍も加えて激しい戦いが行われたが、約6ヶ月間の防戦の末、1475年12月に[[マングプ (都市)|マングプ]]が陥落し滅亡した。 === 継承国家 === 西方正帝の消滅後に西ローマ帝国の地を統治したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命されたローマ帝国の官僚の資格で統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人の認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、住民達も自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた<ref name="Michel2016" />。しかし、フランク王国が[[カロリング朝]]の時代を迎え、800年に[[カール大帝|カール]]が教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]によりローマ皇帝に戴冠されたことで、[[ローマ教皇|ローマ総大司教]]管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実ともに離脱し、ローマ帝国は東西に分裂した。ここに後世[[神聖ローマ帝国]]と呼ばれる政体に結実する[[フランク・ローマ皇帝|ローマ皇帝と帝権]]が誕生し、[[1806年]]の[[ライン同盟]]結成まで継続した。 東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国の君主([[スルターン]])である[[メフメト2世]]および[[スレイマン1世]]は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。もともと東ローマ帝国においては帝国を征服した辺境の異民族が帝国そのものとなったり帝位簒奪者が定着することは幾度となく繰り返されてきた歴史でもあり、このことについて吉村忠典は「[[第三のローマ]]としては、[[モスクワ]]より[[イスタンブール]]の方が本家のように思える<ref>[[#吉村2003|吉村2003]], p35</ref>」とする感想を述べている。ただし[[バヤズィト2世]]のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。 その他にも、[[ロシア帝国]]([[ロシア・ツァーリ国]])はローマ帝国とギリシア帝国<ref group="注釈">当時のロシアで東ローマ帝国を指す名称</ref>に続く第三のローマ帝国としてローマ帝国の後継者を称した。ただし、君主は[[ロシア皇帝]]を自称するも、当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「[[モスクワ大公国|モスクワ国]]の[[大公]]」として扱われている。その後、国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ皇帝の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。 現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しないが、[[ルーマニア]]の国名は「ローマ人の国」という意味である。そのルーマニア国歌「[[目覚めよ、ルーマニア人!]]」とイタリア国歌「[[マメーリの賛歌]]」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある他、それぞれ[[トラヤヌス]]と[[スキピオ家|スキピオ]]の名(正確には、スキピオは家名)が歌詞に入っている。 == 歴代皇帝 == {{See|ローマ皇帝一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=菊池良生|authorlink=菊池良生|title=傭兵の二千年史 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社現代新書]] 1587 |date=2002-01 |isbn=978-4-06-149587-6 |ref=菊池 2002 }} * {{Cite book|和書|author=樺山紘一|authorlink=樺山紘一|year=1998|title=岩波講座 世界歴史 第5巻 帝国と支配」|publisher=岩波書店|isbn=9784000108256|ref=樺山1998}} * {{Cite book|和書|author=吉村忠典|year=2003|title=古代ローマ帝国の研究|publisher=岩波書店|isbn=9784000228329|ref=吉村2003}} == 関連文献 == * [[青柳正規]] 『皇帝たちの都ローマ 都市に刻まれた権力者像』 [[中央公論新社]]〈[[中公新書]] 1100〉、1992年10月。ISBN 978-4-12-101100-8。 * [[エドワード・ギボン|ギボン]]『ローマ帝国衰亡史』 全11巻および第11巻別冊、[[中野好夫]]ほか訳、[[筑摩書房]]、1976年11月-1993年9月、{{NCID|BN00312086}}。 ** のち[[ちくま学芸文庫]]に全10巻で収録。1995年12月-1996年9月、{{NCID|BN13688244}}。 * [[本村凌二]] 『地中海世界とローマ帝国』 [[講談社]]〈興亡の世界史 04〉、2007年8月、ISBN 978-4-06-280704-3。 === 小説 === * [[塩野七生]] 『[[ローマ人の物語]]』 全14巻(15冊)、[[新潮社]]、1992年-2006年、{{NCID|BN07931596}}。 ** のち[[新潮文庫]]に収録。2002年6月-2011年9月。 == 関連項目 == {{Commonscat|Ancient Rome}}<!-- 外部リンク節ができたら移動してください --> * [[SPQR]] * [[ローマ軍団]] * [[ローマ帝国の人口学]] * [[ローマ帝国時代の服飾]]<!-- 文化 --> * [[古代ローマの通貨]]<!-- 文化 --> * [[ローマ帝国初期のゲルマニア戦役]]<!-- 歴史 --> * [[ローマ帝国支配下のギリシャ]]<!-- 歴史 --> * [[ローマ帝国の国境線]]<!-- 遺跡 --> == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{ローマ帝国}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろおまていこく}} [[Category:ローマ帝国|*]] [[Category:1世紀のヨーロッパ]] [[Category:2世紀のヨーロッパ]] [[Category:3世紀のヨーロッパ]] [[Category:4世紀のヨーロッパ]] [[Category:5世紀のヨーロッパ]] [[Category:6世紀のヨーロッパ]] [[Category:7世紀のヨーロッパ]] [[Category:8世紀のヨーロッパ]] [[Category:9世紀のヨーロッパ]] [[Category:10世紀のヨーロッパ]] [[Category:11世紀のヨーロッパ]] [[Category:12世紀のヨーロッパ]] [[Category:13世紀のヨーロッパ]] [[Category:イタリアの歴史]]
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カイロ (曖昧さ回避)
カイロ
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カイロ
{{TOCright}} '''カイロ''' == Cairo == === 地名 === * [[カイロ]] - [[エジプト]]の首都。[[ナイル川]]に臨み、[[四大文明]]のひとつ・[[古代エジプト文明]]発祥地の一部でもある。 ** [[カイロ県]] - エジプトの県。 ** [[カイロ歴史地区]] - エジプトの市街地の[[世界遺産]] * [[カイロ (イリノイ州)]] - [[アメリカ合衆国]][[イリノイ州]]の都市。 * [[カイロ (ジョージア州)]] - アメリカ合衆国[[ジョージア州]]の都市。 === 姓 === * [[ウルバーノ・カイロ]] - [[イタリア]]の実業家。 * [[ミゲル・カイロ]] - [[ベネズエラ]]出身のメジャーリーグベースボール選手。内野手。 === その他 === * [[カイロ (砲艦)]] - [[南北戦争]]時代の北軍の軍艦 (1861–1862)。 * [[カイロ (軽巡洋艦)]] - イギリス海軍の軽巡洋艦 (1918–1942)。 * [[カイロ (バンド)]] - プログレッシブ・ロックのバンド。 * [[Cairo]] - グラフィックライブラリ。 * [[Cairo (オペレーティングシステム)]] - 1990年代に失敗して中止された[[Microsoft Windows NT|Windows NT系]]OSの開発コード名。 * [[チューリップ]]の品種。 == Chiro == * [[カイロプラクティック]] (Chiropractic)の略。代替医療の一種。 == Kylo == * 『[[スター・ウォーズ]]』の登場人物[[カイロ・レン]](Kylo Ren) == その他 == * [[懐炉]](かいろ) - 懐中に入れて暖をとる携帯用の暖房用具。 * [[カイロソフト]] - 日本のゲーム制作会社。 * [[カイロ団長]] - [[宮沢賢治]]の短編小説。 == 関連項目 == * {{Prefix|カイロ}} {{aimai}} {{デフォルトソート:かいろ}} [[Category:イタリア語の姓]] [[Category:スペイン語の姓]] [[Category:同名の地名]] [[Category:同名の船]]
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懐炉
懐炉(かいろ)とは、化学発熱体や蓄熱材等を内蔵し携帯して身体を暖めるもの。 古い時代(落窪物語に記述あり)には、懐中に入れて暖を取るものとして温石が利用されていた。滑石等を火鉢などで加熱し、適度に冷ますか布に包むなどして使用するものの他、塩のみ、又は塩と糠を混ぜたものを炒って布に包んだもの(塩温石)も同様に使用されており、江戸時代くらいまでは一般的だったようである。当時から布団の足下に置くなどして睡眠時に使用されていたが、中世ヨーロッパでも同様に使っていたらしい。 江戸時代の元禄期初期には、懐炉灰(木炭粉末に、保温力の強いナスの茎の灰などを混ぜたもの)を通気孔の開いた金属容器に入れ、燃焼させるカイロがあったことが知られている。この木炭粉末に混ぜる灰は、麻殻や桐灰も使われた。 明治時代に入ると、金属製の筐体にロックウールを保持媒体として内蔵する灰式カイロを製造するメーカーが国内に多数現れ、同様の構造を持つ豆炭行火と共に、安価で簡便な暖房器具として大いに普及した。1904年(明治37年)には麻の一大生産地である栃木県で麻殻を再利用した懐炉灰の大量生産が始まった事も、その普及を後押しした。なお、灰式カイロは 1888年(明治21年) に米国ウィスコンシン州の地方紙に "The Jap's Pocket Stove" として紹介されている。明治から大正に掛けて製品化された懐炉灰は、棒状に整形されて紙に包まれており、紙に点火することで容易に着火が可能な形態となっていた。内部にロックウールを内蔵せず、複雑に通気穴が開けられた二重構造の金属筐体を持つものもあり、円形の比較的大きな筐体を有するものもあった。円形の灰式カイロ向けには、渦巻き型に整形された懐炉灰が用いられた。 灰式カイロは大正時代に後述の白金触媒式が登場すると徐々に市場シェアを縮小させていき、昭和時代中期に使い捨てカイロが台頭して以降は桐灰化学、マイコール、楠灰製造などごく僅かなメーカーのみが製造を継続する状況となっていった。この時期の灰式カイロは懐炉灰に点火すると8時間程度発熱する設計となっており、持続時間では白金触媒式、利用の簡便さでは使い捨てカイロに大きく劣る状況であったが、燃焼時に水分を全く発生させない構造から、特にカメラや天体望遠鏡のレンズを温めて結露を除去する用途で根強い需要が存在し続けており、登山カメラマンの間でも燃料の携帯が安全かつ容易なことから、この形式の人気は根強いものがあった。 2010年代初頭、国内で最後まで灰式カイロを製造していた楠灰製造が登山用品メーカーのハイマウント社向けのOEM供給品の生産を終了し、日本国内ではこの形式のカイロを製造するメーカーは皆無となった。海外ではイギリスのアウトドア用品メーカーであるゲラート (会社)(英語版)社が製造販売を継続しているが、国内企業からは懐炉灰の供給も途絶えているため、愛好者は輸入品、もしくは香炉で用いられる香炭を代用燃料として利用している状況である。 白金触媒式のカイロとは、プラチナによる燃料の酸化発熱を利用したカイロである。ベンジンを主な燃料としている。 大正末期、的場仁市がイギリスのプラチナ触媒式ライターを参考に、「プラチナ(白金)の触媒作用を利用して、気化したベンジンをゆっくりと酸化発熱させる」懐炉を独自に発明し、1923年に「ハクキンカイロ(白金懐炉)」の商品名で発売した。ベンジンが稀少であった第二次世界大戦前や戦中は郵便局や軍隊などが利用の中心だったが、戦後はハクキンカイロ社以外の製品も登場し一般にも広く普及した。 ベンジンなどの石油系炭化水素を、白金(プラチナ)の触媒作用により、摂氏300度 - 400度の比較的低温域で、緩やかに二酸化炭素と水へ酸化分解させ、その過程で反応熱を取り出す。炭化水素を燃料とするが、比較的低温な反応のため窒素酸化物をごく微量しか生成しない。反応の結果は燃焼に酷似する。 触媒となるプラチナをマット状ガラス繊維に粒子として付着させてあり、効率的に反応が進行する。ベンジン1cc当り約11,500cal(≒48,116J)と、使い捨てカイロの約13倍の熱量を持ちながら、機種により差はあるがおよそ燃料1ccで、表面温度60度の状態を約1 - 2時間保持可能。補給する燃料の量によって持続時間を調節でき、24時間以上使える製品もある。反応開始時は触媒を130°C以上まで加熱する必要がある。ライターなどの遠火であぶるか、電熱線が付属するものはそれを使うようになっている。ハクキンカイロの輸出仕様には、紙巻タバコ点火目的の穴が蓋部分に開けられている製品が存在する。 燃料については、ハクキンカイロではカイロ用ベンジンが、ジッポーハンディウォーマーではジッポーオイルが、ハクキンカイロの輸出用製品ではジッポーオイルとホワイトガソリンが指定されている。自己責任で指定外の燃料を使用する者もいるが、製品の寿命・性能などが低下したり、不快なにおい・有毒なガスが発生することがあるため注意が必要。自動車用のガソリンや染み抜き用ベンジンを使用すると発熱はするものの、添加物のために火口を汚損したり不快なにおいが出ることがあり、カイロ燃料としては不向きである。なお引火性液体の航空機内への持ち込みは法令によって禁止されているため、ベンジンなどを使ったカイロ本体も同様に持ち込みが禁止されることがある。JRについては燃料を充填したカイロの持ち込みは規定量までは可能。ただし燃料単体は、2015年6月30日に発生した東海道新幹線での放火事件を受け、2016年4月28日より持ち込み禁止となった。 現在、日本国内メーカー製造・販売のベンジンを燃料とする白金触媒式カイロは、ハクキンカイロ株式会社が販売する「ハクキンカイロ」、マルカイコーポレーションが販売するジッポーブランドの「ハンディウォーマー」及びマルカイオリジナルブランドの「ハンディウォーマーミニ」等がある。なお川崎精機製作所(東京都荒川区)が「KAWASAKIポケットウォーマー」を販売し、2006年から新規参入している。白金触媒式カイロは、本体材質が真鍮かそれ以外の材料の差違がある程度で、基本構造及び本体形状は元祖たるハクキンカイロにほぼ準じている。 ハクキンカイロと異なる形状・構造を持つ白金触媒式カイロとしては、1953年に松下電器産業(現:パナソニック)から発売されたナショナル黄金カイロ(またはナショナルカイロ)が存在した。黄金カイロはドーナツに似た円盤状の本体を持ち、乾電池を利用した専用点火具で電熱線を熱することで点火を行う形式で、本体中央部に嵌め込まれた円筒状の触媒ユニットを回転させて触媒と燃料タンク開口部をずらしてしまう事で任意に発熱反応を停止出来る事も特徴の一つであった。そのため、女性や子供でも扱いやすく平置きにも支障がない白金触媒式カイロとして長くハクキンカイロと市場シェアを争い続けた。ナショナルカイロはハクキンカイロ標準モデルとほぼ同じ燃焼時間の「標準型」の他、本体の厚さを薄くした「うす型」、本体の小型化を行った「ミニ」などのモデルが存在したが、使い捨てカイロ登場に伴う市場の縮小から1993年4月に全てのモデルの販売を終了した。そのため火口などの純正部品の供給も、すでに終了している。 なおナショナルカイロの販売終了後、松下電器産業アイロン事業部からナショナルほっとベルト及びナショナルほっとベストなる商品も発売された。単三乾電池2本を電源とする電磁ポンプにより、専用カートリッジ内ブタンガスを白金触媒ヒーター部に送り込み、酸化発熱させる原理。メーカーによれば「使い捨てカイロの約20倍のパワー(ほっとベストの場合)」、任意のON・OFF、三段階温度調節、オフタイマー機能、ガス燃料のためベンジンのように臭わず燃料補充も容易などの長所を持っていた。 1975年、アメリカ陸軍が使用していたフットウォーマーを元に、旭化成工業(現・旭化成)が鍼灸師ルート等を通じて全国で「アッタカサン」を販売。それを原型にして、日本純水素(現:日本パイオニクス)が1978年に開発、ロッテ電子工業(後のロッテ健康産業→現在はロッテ本体に吸収合併)が「ホカロン」の商品名で使い捨てカイロを全国発売し、これがヒット商品となって一般に普及した。それぞれの発明者は、「アッタカサン」が旭化成工業の山下巌と飛高幹生、「ホカロン」が日本純水素の田浦照親と戸室美智男とされている。なお、ロッテがホカロンを最初に開発したという情報がメディアには流れているが、ロッテはあくまで販売元であり、開発元は脱酸素剤の委託先だった日本純水素である。同社はカイロの外袋を開封することで発熱が開始するタイプとし、かつ量産化のための技術開発を行った。空気に触れさせず不織布に鉄粉を詰めて密封、量産化する過程こそ、脱酸素剤の外袋開発にヒントを得たものである。ロッテ側は、脱酸素剤を開発中に化学反応による薬剤の発熱がみられたことを応用して開発したものと喧伝しているものの、鉄粉が酸化される際の発熱自体は前述の「フットウォーマー」や「アッタカサン」でも既に利用されている技術である。後になって、ホカロンの日本国内市販に向けてロッテ電子工業によって発売開始。なお、日本純水素は三菱ガス化学のグループ企業であり、資本関係は一切持っていない。しかしながら、ロッテは当時から菓子用の脱酸素剤を製造委託していたため、日本パイオニクスも2010年までOEMとしてホカロンを受託製造していた。なお、桐灰化学は旭化成の1年後に1976年に携帯カイロ「ハンドウォーマー」を販売しているが、後に他社と同様に不織布を用いた「ニューハンドウォーマー」に切り替えた。 前述したように、今日見るような不織布に入った使い捨てカイロが登場したのは1978年にロッテ電子工業(現・ロッテ健康産業)から「ホカロン」が発売されて以降である。このタイプの使い捨てカイロは記録的寒波到来と相まって、急速に販売を伸ばしていった。後にカイロ灰専業のマイコールが1978年に参入、それを皮切りに桐灰化学、白元、大日本除虫菊、フマキラーなどの家庭日用品メーカーが追随した。1979年に白元が当時比較的高価だった使い捨てカイロをコストダウン化させ、1枚100円の「ホッカイロ」を発売し北日本を中心に大ヒット、使い捨てカイロの代名詞とまでなった。翌年の1980年には大日本除虫菊が従来品を改良した「金鳥どんと」を発売、1981年にはフマキラーがミスター・ホットでカイロ業界参入。また、1981年には業界に先駆け、マイコールが衣類のポケットに収まるミニサイズの使い捨てカイロを開発した。 日本で使い捨てカイロの市場が一気に拡大したのは1980年の冬であり、国内販売額は1978年には2億円弱、1979年には10億円程度だったが、1980年には100億円以上に上昇した。 シール付きの使い捨てカイロ、いわば貼るタイプのカイロが発売されたのは1988年であり、マイコールが業界に先駆けて販売し、成功を収めた。その貼るカイロに目を付けたのが、それまで市場進出に乗り遅れていた桐灰化学であり、翌年の1989年に「桐灰はる」を発売。東日本地盤だったマイコールに対し西日本での地盤固めに成功し、インパクトのあるCMと相まって貼るカイロの知名度を高め、1997年には群馬県にも製造工場を設けて東日本に本格進出、長年使い捨てカイロ業界の首位に立つ契機となった。現在ではミニサイズ、靴下用、肩用、座布団サイズな様々なバリエーションが発売されており、冬場商品の定番となっているだけでなく、市場も貼るタイプが主力となっている。 一方で、貼らないタイプの利用目的が主に手元を温めるためというマーケティング結果に目を付け、2017年には桐灰化学が「めっちゃ熱いカイロ桐灰マグマ」を販売、専ら外での作業、レジャー向けに作られた高温(最高温度73°C)カイロであり、大きく注目を浴びた。その後はエステーが「オンパックス極熱」、興和が「ホッカイロHEAT CHARGER」、オカモトが「快温くんプラス鬼熱」、ロッテが「快速ホカロン」、アイリスオーヤマが「ぽかぽか家族屋外専用」を販売するなどして市場に追随している。一方で、従来品より最高温度を下げる代わりに長時間持続する商品も開発されているなど多様化している。 使い捨てカイロは主に以下のブランドが発売しており、販売ルートの関係から、ロッテ以外のメーカーでは、殺虫剤・芳香剤などの家庭用衛生薬品メーカーに関与しているところが多い。また、秋から春に掛けては生活雑貨を取り扱う小売店やコンビニエンスストアのほとんどで販売されている。2020年の国内シェアによるとトップは小林製薬(桐灰カイロ)で、以下エステー(オンパックス)、興和(ホッカイロ)、アイリスオーヤマ、ロッテの順である。このタイプはハクキンカイロに代わって現在主流の方式となっており、また、海外輸出も盛んに行われている。一方で市場競争による価格破壊が著しく、2000年代後半にフマキラーがカイロ事業から撤退、白元が企業再生の一環でホッカイロを手放したりしているほか、廉価品を多売するアイリスオーヤマがそれまで業界4位だったロッテからシェアを奪ったりしている。また、使い捨てカイロ最大手だった桐灰化学も前述の競争激化や冬期の販売不振などが影響し、結果的に小林製薬へ吸収合併されている。また、業界2位だったマイコールもエステーに一度吸収された後、2018年に分社化される変遷を辿っている。 その他、日本カイロ工業会によると三宝化学、紀陽除虫菊、児玉兄弟商会、立石春洋堂などの販売企業があり、かつてホッカイロを製造販売していた白元(現:白元アース)も、後述の電子レンジカイロの商材を持っているため当会に加盟している。なお、大手ではかつてフマキラーがミスター・ホットという使い捨てカイロを生産していたが事業撤退した後、当会を脱会している。 使い捨てカイロは、鉄粉の酸化作用を利用したカイロであり、不織布や紙の袋に空気中で酸化発熱する鉄粉を入れたものが一般的である。その他、通常触媒として鉄の酸化を速める食塩とそれを保持する高分子吸水剤、酸素を取り込むための活性炭、鉄の錆びを促進する水、水を保水するためのバーミキュライトが入れられている。安価で簡便なことなどから現在カイロの主流となっている。 この種のカイロの長所としては、「構造が簡単」「各種原料が安価」「火を用いず通常環境での最高温度が約80度以下で安全性が高い」「使用方法が簡易」などがあげられる。使用前は真空パックや無酸素包装などで酸素に触れない様に密封されており、使用時にはこれを開封する事で酸化が始まり発熱する。一方で、低温やけどに注意しなければいけない点があるため、就寝時、圧迫部や長時間同じ部位への使用、また前述の高温カイロにおいては、ほとんどの商品が屋内での使用を禁止している。 大きさや用途などにもよるが、貼らないタイプで約18 - 20時間、貼るタイプで約12 - 14時間くらいの持続時間をもつ商品が主流である。これら各商品に表示される数値はすべて同一の試験方法によって測定されたもので、JIS規格(JIS S 4100)に項目や測定方法などについての定めがある。 なお日本産業規格JIS S 4100において表記上は「使いすてかいろ」と平仮名であるが、「使い捨てカイロと(片仮名で)表記しても良い」とされる。また、日本カイロ工業会では「使い切りタイプのかいろ」という表記をしている。 使い捨てカイロの由来については、米軍の携帯保温器が原型ともされるが、基本特許が明治時代に成立していた古いものということもあり、はっきりしない。1906年より、宇那原美喜三の宇那原支店が「火も湯もいらぬ」「不思議のあんか」「一名徳用こたつ」と銘打った製品広告を新聞各紙に出した。広告では「火を用ひざれば火災の患ひなく夜中に消え又は蒲團の損じると更に無し」「熱度は御好み次第百五十度位迄は御随意なり」「一度入れば四ヶ月熱す」などと謳っていた。定価は並一円、中一円二十銭、上一円四十銭、特製一円七十銭、送料いずれも三十銭。『滑稽新聞』155号(1908年1月20日号)によれば、本製品を取り寄せたという記事がある。製法は「鐵粉に何かを混ぜそれに水分を加へて温氣を發せしめるもの」で、使い捨てカイロそのものだが、記者によれば「幾分の熱度は放散するがそれも直に冷却して再び用を作さない、しかも一種の悪臭を放つなど、衛生上にもよからぬもので、經濟上一圓五十錢ばかり損をした」という。 その原理が酸化による発熱反応の典型であることから、中学校の理科の実験で学生が製作することがある。また、保温状態のカイロを放置することによる発火への懸念が、消費者より度々寄せられるが、一定量の酸化発熱作用である限りは発火点に到達することはまずないため、カイロ使用による失火は起こり得ない。また、日本ではカイロ工業会の規格により、規定温度以上に到達する恐れのあるカイロは生産されていない。 中にゲル状の保温材や小豆やセラミックビーズなどが封入され、使用時に電子レンジで加熱して蓄熱させる方式のカイロ。日本ではもっぱら湯たんぽ代替として商品化されている。白元(現:白元アース)が「ゆたぽん」シリーズを2000年に発売してから一般化し、使い捨てカイロに対し就寝時にも使用できる(一部使用不可のものもあり)ため、冷え性に悩む成人女性に訴求し、ロングランヒット商品となった。ゲル状保温材で7~8時間、小豆、セラミックビーズ保温材のもので1時間ほど温熱が持続し、他カイロと比較して、温熱効果が緩やかであるため、就寝時に使用できることを訴求した商品が多く、また肩や腰、臀部のほか目元をリラックスさせる商品もある。白元アースの他、花王「めぐりズム」、小林製薬(桐灰シリーズ)などが生産、販売している。かつては、水や液体を保温材としたものも多かったが、破損によるやけど事故が相次ぎリコール対象となったため、ほとんど製造、発売されなくなった。また、小豆使用のものは虫による食害に注意せねばならない。 電池式のカイロ。日本国内だけではなく、日本国外でも人気があり多く使用されている。使用開始・停止が容易で、燃焼ガスやゴミが発生しないという大きな利点があるが、電池や回路部品の耐熱温度の関係で使い捨てカイロより発熱温度が低いものが多い。2006年10月31日に三洋電機が充電式カイロ「eneloop kairo」を発表、同年12月1日に発売している。この三洋のeneloop kairo(リチウムイオンモデル)のOEM供給を受け、ELPA(朝日電器)が『エコカイロ』として発売していた。中国製の電池式ハンドウォーマーの存在説があるが定かではない。近年では、スマートフォンを充電するためのモバイルバッテリーやLEDライトとしての機能を兼ね備えた物も販売されている。 酢酸ナトリウムの物理反応を利用したカイロ。使用後吸熱させることで再利用が可能。最近は酢酸水溶液などの溶液とコイン状の金属片を封入したビニールパックが「エコカイロ」などの名前で売られている。溶液は常温で過冷却状態であり、内封の金属片で刺激すると結晶化し、約50°C前後の発熱を1時間ほど持続する。放熱後は熱湯に入れ吸熱させることで繰り返し使用が可能。なお破裂する恐れがあるため、電子レンジでの加熱は禁止されている。
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"ハクキンカイロと異なる形状・構造を持つ白金触媒式カイロとしては、1953年に松下電器産業(現:パナソニック)から発売されたナショナル黄金カイロ(またはナショナルカイロ)が存在した。黄金カイロはドーナツに似た円盤状の本体を持ち、乾電池を利用した専用点火具で電熱線を熱することで点火を行う形式で、本体中央部に嵌め込まれた円筒状の触媒ユニットを回転させて触媒と燃料タンク開口部をずらしてしまう事で任意に発熱反応を停止出来る事も特徴の一つであった。そのため、女性や子供でも扱いやすく平置きにも支障がない白金触媒式カイロとして長くハクキンカイロと市場シェアを争い続けた。ナショナルカイロはハクキンカイロ標準モデルとほぼ同じ燃焼時間の「標準型」の他、本体の厚さを薄くした「うす型」、本体の小型化を行った「ミニ」などのモデルが存在したが、使い捨てカイロ登場に伴う市場の縮小から1993年4月に全てのモデルの販売を終了した。そのため火口などの純正部品の供給も、すでに終了している。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なおナショナルカイロの販売終了後、松下電器産業アイロン事業部からナショナルほっとベルト及びナショナルほっとベストなる商品も発売された。単三乾電池2本を電源とする電磁ポンプにより、専用カートリッジ内ブタンガスを白金触媒ヒーター部に送り込み、酸化発熱させる原理。メーカーによれば「使い捨てカイロの約20倍のパワー(ほっとベストの場合)」、任意のON・OFF、三段階温度調節、オフタイマー機能、ガス燃料のためベンジンのように臭わず燃料補充も容易などの長所を持っていた。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1975年、アメリカ陸軍が使用していたフットウォーマーを元に、旭化成工業(現・旭化成)が鍼灸師ルート等を通じて全国で「アッタカサン」を販売。それを原型にして、日本純水素(現:日本パイオニクス)が1978年に開発、ロッテ電子工業(後のロッテ健康産業→現在はロッテ本体に吸収合併)が「ホカロン」の商品名で使い捨てカイロを全国発売し、これがヒット商品となって一般に普及した。それぞれの発明者は、「アッタカサン」が旭化成工業の山下巌と飛高幹生、「ホカロン」が日本純水素の田浦照親と戸室美智男とされている。なお、ロッテがホカロンを最初に開発したという情報がメディアには流れているが、ロッテはあくまで販売元であり、開発元は脱酸素剤の委託先だった日本純水素である。同社はカイロの外袋を開封することで発熱が開始するタイプとし、かつ量産化のための技術開発を行った。空気に触れさせず不織布に鉄粉を詰めて密封、量産化する過程こそ、脱酸素剤の外袋開発にヒントを得たものである。ロッテ側は、脱酸素剤を開発中に化学反応による薬剤の発熱がみられたことを応用して開発したものと喧伝しているものの、鉄粉が酸化される際の発熱自体は前述の「フットウォーマー」や「アッタカサン」でも既に利用されている技術である。後になって、ホカロンの日本国内市販に向けてロッテ電子工業によって発売開始。なお、日本純水素は三菱ガス化学のグループ企業であり、資本関係は一切持っていない。しかしながら、ロッテは当時から菓子用の脱酸素剤を製造委託していたため、日本パイオニクスも2010年までOEMとしてホカロンを受託製造していた。なお、桐灰化学は旭化成の1年後に1976年に携帯カイロ「ハンドウォーマー」を販売しているが、後に他社と同様に不織布を用いた「ニューハンドウォーマー」に切り替えた。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前述したように、今日見るような不織布に入った使い捨てカイロが登場したのは1978年にロッテ電子工業(現・ロッテ健康産業)から「ホカロン」が発売されて以降である。このタイプの使い捨てカイロは記録的寒波到来と相まって、急速に販売を伸ばしていった。後にカイロ灰専業のマイコールが1978年に参入、それを皮切りに桐灰化学、白元、大日本除虫菊、フマキラーなどの家庭日用品メーカーが追随した。1979年に白元が当時比較的高価だった使い捨てカイロをコストダウン化させ、1枚100円の「ホッカイロ」を発売し北日本を中心に大ヒット、使い捨てカイロの代名詞とまでなった。翌年の1980年には大日本除虫菊が従来品を改良した「金鳥どんと」を発売、1981年にはフマキラーがミスター・ホットでカイロ業界参入。また、1981年には業界に先駆け、マイコールが衣類のポケットに収まるミニサイズの使い捨てカイロを開発した。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本で使い捨てカイロの市場が一気に拡大したのは1980年の冬であり、国内販売額は1978年には2億円弱、1979年には10億円程度だったが、1980年には100億円以上に上昇した。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "シール付きの使い捨てカイロ、いわば貼るタイプのカイロが発売されたのは1988年であり、マイコールが業界に先駆けて販売し、成功を収めた。その貼るカイロに目を付けたのが、それまで市場進出に乗り遅れていた桐灰化学であり、翌年の1989年に「桐灰はる」を発売。東日本地盤だったマイコールに対し西日本での地盤固めに成功し、インパクトのあるCMと相まって貼るカイロの知名度を高め、1997年には群馬県にも製造工場を設けて東日本に本格進出、長年使い捨てカイロ業界の首位に立つ契機となった。現在ではミニサイズ、靴下用、肩用、座布団サイズな様々なバリエーションが発売されており、冬場商品の定番となっているだけでなく、市場も貼るタイプが主力となっている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一方で、貼らないタイプの利用目的が主に手元を温めるためというマーケティング結果に目を付け、2017年には桐灰化学が「めっちゃ熱いカイロ桐灰マグマ」を販売、専ら外での作業、レジャー向けに作られた高温(最高温度73°C)カイロであり、大きく注目を浴びた。その後はエステーが「オンパックス極熱」、興和が「ホッカイロHEAT CHARGER」、オカモトが「快温くんプラス鬼熱」、ロッテが「快速ホカロン」、アイリスオーヤマが「ぽかぽか家族屋外専用」を販売するなどして市場に追随している。一方で、従来品より最高温度を下げる代わりに長時間持続する商品も開発されているなど多様化している。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "使い捨てカイロは主に以下のブランドが発売しており、販売ルートの関係から、ロッテ以外のメーカーでは、殺虫剤・芳香剤などの家庭用衛生薬品メーカーに関与しているところが多い。また、秋から春に掛けては生活雑貨を取り扱う小売店やコンビニエンスストアのほとんどで販売されている。2020年の国内シェアによるとトップは小林製薬(桐灰カイロ)で、以下エステー(オンパックス)、興和(ホッカイロ)、アイリスオーヤマ、ロッテの順である。このタイプはハクキンカイロに代わって現在主流の方式となっており、また、海外輸出も盛んに行われている。一方で市場競争による価格破壊が著しく、2000年代後半にフマキラーがカイロ事業から撤退、白元が企業再生の一環でホッカイロを手放したりしているほか、廉価品を多売するアイリスオーヤマがそれまで業界4位だったロッテからシェアを奪ったりしている。また、使い捨てカイロ最大手だった桐灰化学も前述の競争激化や冬期の販売不振などが影響し、結果的に小林製薬へ吸収合併されている。また、業界2位だったマイコールもエステーに一度吸収された後、2018年に分社化される変遷を辿っている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その他、日本カイロ工業会によると三宝化学、紀陽除虫菊、児玉兄弟商会、立石春洋堂などの販売企業があり、かつてホッカイロを製造販売していた白元(現:白元アース)も、後述の電子レンジカイロの商材を持っているため当会に加盟している。なお、大手ではかつてフマキラーがミスター・ホットという使い捨てカイロを生産していたが事業撤退した後、当会を脱会している。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "使い捨てカイロは、鉄粉の酸化作用を利用したカイロであり、不織布や紙の袋に空気中で酸化発熱する鉄粉を入れたものが一般的である。その他、通常触媒として鉄の酸化を速める食塩とそれを保持する高分子吸水剤、酸素を取り込むための活性炭、鉄の錆びを促進する水、水を保水するためのバーミキュライトが入れられている。安価で簡便なことなどから現在カイロの主流となっている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この種のカイロの長所としては、「構造が簡単」「各種原料が安価」「火を用いず通常環境での最高温度が約80度以下で安全性が高い」「使用方法が簡易」などがあげられる。使用前は真空パックや無酸素包装などで酸素に触れない様に密封されており、使用時にはこれを開封する事で酸化が始まり発熱する。一方で、低温やけどに注意しなければいけない点があるため、就寝時、圧迫部や長時間同じ部位への使用、また前述の高温カイロにおいては、ほとんどの商品が屋内での使用を禁止している。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "大きさや用途などにもよるが、貼らないタイプで約18 - 20時間、貼るタイプで約12 - 14時間くらいの持続時間をもつ商品が主流である。これら各商品に表示される数値はすべて同一の試験方法によって測定されたもので、JIS規格(JIS S 4100)に項目や測定方法などについての定めがある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお日本産業規格JIS S 4100において表記上は「使いすてかいろ」と平仮名であるが、「使い捨てカイロと(片仮名で)表記しても良い」とされる。また、日本カイロ工業会では「使い切りタイプのかいろ」という表記をしている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "使い捨てカイロの由来については、米軍の携帯保温器が原型ともされるが、基本特許が明治時代に成立していた古いものということもあり、はっきりしない。1906年より、宇那原美喜三の宇那原支店が「火も湯もいらぬ」「不思議のあんか」「一名徳用こたつ」と銘打った製品広告を新聞各紙に出した。広告では「火を用ひざれば火災の患ひなく夜中に消え又は蒲團の損じると更に無し」「熱度は御好み次第百五十度位迄は御随意なり」「一度入れば四ヶ月熱す」などと謳っていた。定価は並一円、中一円二十銭、上一円四十銭、特製一円七十銭、送料いずれも三十銭。『滑稽新聞』155号(1908年1月20日号)によれば、本製品を取り寄せたという記事がある。製法は「鐵粉に何かを混ぜそれに水分を加へて温氣を發せしめるもの」で、使い捨てカイロそのものだが、記者によれば「幾分の熱度は放散するがそれも直に冷却して再び用を作さない、しかも一種の悪臭を放つなど、衛生上にもよからぬもので、經濟上一圓五十錢ばかり損をした」という。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その原理が酸化による発熱反応の典型であることから、中学校の理科の実験で学生が製作することがある。また、保温状態のカイロを放置することによる発火への懸念が、消費者より度々寄せられるが、一定量の酸化発熱作用である限りは発火点に到達することはまずないため、カイロ使用による失火は起こり得ない。また、日本ではカイロ工業会の規格により、規定温度以上に到達する恐れのあるカイロは生産されていない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "中にゲル状の保温材や小豆やセラミックビーズなどが封入され、使用時に電子レンジで加熱して蓄熱させる方式のカイロ。日本ではもっぱら湯たんぽ代替として商品化されている。白元(現:白元アース)が「ゆたぽん」シリーズを2000年に発売してから一般化し、使い捨てカイロに対し就寝時にも使用できる(一部使用不可のものもあり)ため、冷え性に悩む成人女性に訴求し、ロングランヒット商品となった。ゲル状保温材で7~8時間、小豆、セラミックビーズ保温材のもので1時間ほど温熱が持続し、他カイロと比較して、温熱効果が緩やかであるため、就寝時に使用できることを訴求した商品が多く、また肩や腰、臀部のほか目元をリラックスさせる商品もある。白元アースの他、花王「めぐりズム」、小林製薬(桐灰シリーズ)などが生産、販売している。かつては、水や液体を保温材としたものも多かったが、破損によるやけど事故が相次ぎリコール対象となったため、ほとんど製造、発売されなくなった。また、小豆使用のものは虫による食害に注意せねばならない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "電池式のカイロ。日本国内だけではなく、日本国外でも人気があり多く使用されている。使用開始・停止が容易で、燃焼ガスやゴミが発生しないという大きな利点があるが、電池や回路部品の耐熱温度の関係で使い捨てカイロより発熱温度が低いものが多い。2006年10月31日に三洋電機が充電式カイロ「eneloop kairo」を発表、同年12月1日に発売している。この三洋のeneloop kairo(リチウムイオンモデル)のOEM供給を受け、ELPA(朝日電器)が『エコカイロ』として発売していた。中国製の電池式ハンドウォーマーの存在説があるが定かではない。近年では、スマートフォンを充電するためのモバイルバッテリーやLEDライトとしての機能を兼ね備えた物も販売されている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "酢酸ナトリウムの物理反応を利用したカイロ。使用後吸熱させることで再利用が可能。最近は酢酸水溶液などの溶液とコイン状の金属片を封入したビニールパックが「エコカイロ」などの名前で売られている。溶液は常温で過冷却状態であり、内封の金属片で刺激すると結晶化し、約50°C前後の発熱を1時間ほど持続する。放熱後は熱湯に入れ吸熱させることで繰り返し使用が可能。なお破裂する恐れがあるため、電子レンジでの加熱は禁止されている。", "title": "種類" } ]
懐炉(かいろ)とは、化学発熱体や蓄熱材等を内蔵し携帯して身体を暖めるもの。
'''懐炉'''(かいろ)とは、化学発熱体や蓄熱材等を内蔵し携帯して身体を暖めるもの<ref name="jpo-card-D4">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/D4.pdf 意匠分類定義カード(D4)] {{Wayback|url=https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/D4.pdf |date=20140414130737 }} [[特許庁]]</ref>。 == 種類 == === 温石 === {{main|温石}} 古い時代(落窪物語に記述あり)には、懐中に入れて暖を取るものとして温石が利用されていた。滑石等を火鉢などで加熱し、適度に冷ますか布に包むなどして使用するものの他、[[塩]]のみ、又は塩と[[糠]]を混ぜたものを炒って布に包んだもの(塩温石)も同様に使用されており、[[江戸時代]]くらいまでは一般的だったようである<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.maibun.net/image/42-p7.pdf | archiveurl = https://web.archive.org/web/20070928031305/http://www.maibun.net/image/42-p7.pdf | format = PDF | title = 埋文コラム「発掘から見えてきた暖房具の歴史」 | work = 埋文にいがたNo.42 | publisher = 新潟県埋蔵文化財センター | accessdate = 2013-1-21 | archivedate = 2007-9-28 | deadlinkdate = 2018年11月27日 }}</ref>。当時から布団の足下に置くなどして睡眠時に使用されていたが、中世ヨーロッパでも同様に使っていたらしい。 === 灰式カイロ === 江戸時代の[[元禄]]期初期には、懐炉灰([[木炭]]粉末に、保温力の強い[[ナス]]の茎の灰などを混ぜたもの)を通気孔の開いた金属容器に入れ、燃焼させるカイロがあったことが知られている。この木炭粉末に混ぜる灰は、[[麻]]殻や[[桐]]灰も使われた。 明治時代に入ると、金属製の筐体に[[ロックウール]]を保持媒体として内蔵する灰式カイロを製造するメーカーが国内に多数現れ、同様の構造を持つ[[豆炭]][[行火]]と共に、安価で簡便な暖房器具として大いに普及した。1904年(明治37年)には麻の一大生産地である栃木県で麻殻を再利用した懐炉灰の大量生産が始まった事も、その普及を後押しした<ref name="kitatama">[https://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_103.html 懐炉と懐炉灰] - 北多摩薬剤師会 おくすり博物館</ref>。なお、灰式カイロは 1888年(明治21年) に米国ウィスコンシン州の地方紙に "The Jap's Pocket Stove<ref>{{Cite news|title=Jasper W Grubb - Pension|url=https://www.newspapers.com/clip/34276243/jasper-w-grubb-pension/|work=The Watertown News|date=1888-04-18|accessdate=2021-01-26|pages=3}}</ref>" として紹介されている。明治から大正に掛けて製品化された懐炉灰は、棒状に整形されて紙に包まれており、紙に点火することで容易に着火が可能な形態となっていた<ref name="mukashi">[https://ameblo.jp/maoayumi/entry-10452802598.html またまた カイロの話] - 昔の暮らしの道具考</ref>。内部にロックウールを内蔵せず、複雑に通気穴が開けられた二重構造の金属筐体を持つものもあり<ref name="ishi">[http://1481010.blog.fc2.com/blog-entry-14.html 明治時代のカイロ!!灰式カイロ!!] - 意志は、自由だ。</ref>、円形の比較的大きな筐体を有するものもあった<ref name="kitatama"/>。円形の灰式カイロ向けには、渦巻き型に整形された懐炉灰が用いられた<ref name="kitatama"/>。 灰式カイロは大正時代に後述の白金触媒式が登場すると徐々に市場シェアを縮小させていき、昭和時代中期に使い捨てカイロが台頭して以降は[[桐灰化学]]、[[マイコール]]、楠灰製造などごく僅かなメーカーのみが製造を継続する状況となっていった<ref name="hakukin">[http://hakkin1923warmer.g1.xrea.com/siryo31.html 灰式カイロ(楠灰カイロ)] - ハクキンカイロ非公式ファンサイト</ref>。この時期の灰式カイロは懐炉灰に点火すると8時間程度発熱する設計となっており<ref name="mukashi"/>、持続時間では白金触媒式、利用の簡便さでは使い捨てカイロに大きく劣る状況であったが、燃焼時に水分を全く発生させない構造から、特に[[カメラ]]や[[天体望遠鏡]]のレンズを温めて結露を除去する用途で根強い需要が存在し続けており<ref name="kitatama"/>、登山カメラマンの間でも燃料の携帯が安全かつ容易なことから、この形式の人気は根強いものがあった<ref name="kamiyama">[https://kamiyama-online.com/gelert-hand-warmer-for-mountaineering/ 灰式カイロを登山で使う] - 神山オンライン</ref>。 2010年代初頭、国内で最後まで灰式カイロを製造していた楠灰製造が登山用品メーカーのハイマウント社向けの[[OEM供給]]品の生産を終了し、日本国内ではこの形式のカイロを製造するメーカーは皆無となった<ref name="hakukin"/>。海外ではイギリスのアウトドア用品メーカーである{{仮リンク|ゲラート (会社)|en|Gelert (company)}}社が製造販売を継続しているが<ref name="kamiyama"/>、国内企業からは懐炉灰の供給も途絶えているため、愛好者は輸入品、もしくは[[香炉]]で用いられる香炭を代用燃料として利用している状況である<ref name="ishi"/>。 <gallery> ファイル:Kohle-Taschenofen, ungenutzt.jpg|灰式カイロと固形の懐炉灰 ファイル:Taschenofen_mit_Kohle.jpg|燃焼中の灰式カイロ </gallery> === 白金触媒式カイロ === 白金触媒式のカイロとは、プラチナによる燃料の酸化発熱を利用したカイロである。ベンジンを主な燃料としている。 [[大正]]末期、的場仁市が[[イギリス]]の[[プラチナ]][[触媒]]式[[ライター]]を参考に、「プラチナ(白金)の触媒作用を利用して、気化した[[ベンジン]]をゆっくりと酸化発熱させる」懐炉を独自に発明し、[[1923年]]に「[[ハクキンカイロ (企業)|ハクキンカイロ]](白金懐炉)」の商品名で発売した。[[ベンジン]]が稀少であった[[戦前|第二次世界大戦前]]や[[戦中]]は郵便局や軍隊などが利用の中心だったが、[[戦後]]はハクキンカイロ社以外の製品も登場し一般にも広く普及した。 ベンジンなどの石油系炭化水素を、白金(プラチナ)の触媒作用により、[[セルシウス度|摂氏]]300度 - 400度の比較的低温域で、緩やかに[[二酸化炭素]]と[[水]]へ酸化分解させ、その過程で反応熱を取り出す。炭化水素を燃料とするが、比較的低温な反応のため[[窒素酸化物]]をごく微量しか生成しない{{要出典|date=2023-3}}。反応の結果は燃焼に酷似する。 触媒となるプラチナをマット状[[ガラス繊維]]に粒子として付着させてあり、効率的に反応が進行する。ベンジン1[[立方センチメートル|cc]]当り約11,500[[カロリー|cal]](≒48,116[[ジュール|J]])と、使い捨てカイロの約13倍の熱量を持ちながら、機種により差はあるがおよそ燃料1ccで、表面温度60度の状態を約1 - 2時間保持可能。補給する燃料の量によって持続時間を調節でき、24時間以上使える製品もある。反応開始時は触媒を130℃以上まで加熱する必要がある。ライターなどの遠火であぶるか、電熱線が付属するものはそれを使うようになっている。{{要出典範囲|date=2023-3|ハクキンカイロの輸出仕様には、紙巻[[タバコ]]点火目的の穴が蓋部分に開けられている製品が存在する}}。 燃料については、ハクキンカイロではカイロ用ベンジンが、ジッポーハンディウォーマーではジッポーオイルが、ハクキンカイロの輸出用製品ではジッポーオイルと[[ホワイトガソリン]]が指定されている。自己責任で指定外の燃料を使用する者もいるが、製品の寿命・性能などが低下したり、不快なにおい・有毒なガスが発生することがあるため注意が必要。自動車用のガソリンや染み抜き用ベンジンを使用すると発熱はするものの、添加物のために火口を汚損したり不快なにおいが出ることがあり、カイロ燃料としては不向きである。なお引火性液体の航空機内への持ち込みは法令によって禁止されているため、ベンジンなどを使ったカイロ本体も同様に持ち込みが禁止されることがある<ref group="注">1964年の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]や1998年の[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]の[[オリンピック聖火|聖火]]は、関係官庁の許可を得てハクキンカイロを使用し航空機で運ばれた。参照:[http://www.hakukin.co.jp/shiryo02.html ハクキンカイロ資料館「聖火輸送 ハクキンの技術はオリンピックにも貢献していた」]</ref>。[[JR]]については燃料を充填したカイロの持ち込みは規定量<ref group="注">2リットル以内または容器を含む重さが2キログラム以内。</ref>までは可能。ただし燃料単体は、2015年6月30日に発生した[[東海道新幹線火災事件|東海道新幹線での放火事件]]を受け、2016年4月28日より持ち込み禁止となった<ref>[http://response.jp/article/2016/03/31/272584.html ガソリンなど鉄道車内への持ち込み禁止へ…『のぞみ』放火事件受け]レスポンス、2016年3月31日</ref>。 現在、日本国内メーカー製造・販売のベンジンを燃料とする白金触媒式カイロは、[[ハクキンカイロ (企業)|ハクキンカイロ株式会社]]が販売する「ハクキンカイロ」、[[マルカイコーポレーション]]が販売する[[ジッポー]]ブランドの「ハンディウォーマー」<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.marukai.co.jp/zippo/handy_warmer.php | archiveurl = https://web.archive.org/web/20060627222104/http://www.marukai.co.jp/zippo/handy_warmer.php | title = ハンディーウォーマー | publisher = [[マルカイコーポレーション]] | accessdate = 2006-8-29 | archivedate = 2006-6-27 | deadlinkdate = 2018年11月27日 }}</ref>及びマルカイオリジナルブランドの「ハンディウォーマーミニ」<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.marukai.co.jp/handy_warmer_mini.htm | archiveurl = https://web.archive.org/web/20051128051120/http://www.marukai.co.jp/handy_warmer_mini.htm | title = ハンディウォーマー mini | publisher = [[マルカイコーポレーション]] | accessdate = 2005-11-14 | archivedate = 2005-11-28 }}</ref>等がある。なお川崎精機製作所([[東京都]][[荒川区]])が「KAWASAKIポケットウォーマー」を販売し、2006年から新規参入している<ref>[https://web.archive.org/web/20090311123003/http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/071209/sty0712090820001-n2.htm]</ref>。白金触媒式カイロは、本体材質が[[真鍮]]かそれ以外の材料<ref group="注">川崎精機製は[[アルミニウム]]。なお、ハクキンカイロ社製品も戦中は真鍮材供出により1940年から45年まで[[ステンレス]]で製造された。</ref>の差違がある程度で、基本構造及び本体形状は元祖たるハクキンカイロにほぼ準じている。 ハクキンカイロと異なる形状・構造を持つ白金触媒式カイロとしては、1953年に[[パナソニック|松下電器産業]](現:[[パナソニック]])から発売された'''ナショナル黄金カイロ'''(または'''ナショナルカイロ''')が存在した。黄金カイロはドーナツに似た円盤状の本体を持ち、[[乾電池]]を利用した専用点火具で電熱線を熱することで点火を行う形式<ref group="注">この形式はナショナルカイロが初採用。同じ松下グループの松下電池工業が当時大々的に拡販しつつあった高性能[[マンガン乾電池]]のブランドイメージも手伝い、モダンな形式として人気を集めた。後にハクキンも電池着火式のカイロを発売してナショナルカイロに対抗する。</ref>で、本体中央部に嵌め込まれた円筒状の触媒ユニットを回転させて触媒と燃料タンク開口部をずらしてしまう事で任意に発熱反応を停止出来る事も特徴<ref group="注">ハクキンカイロでも蓋を外して触媒を取り外すことで反応を止める事が出来るが、素手で触媒パーツに触れると[[火傷]]をする恐れがある。</ref>の一つであった。そのため、女性や子供でも扱いやすく平置きにも支障がない白金触媒式カイロとして長くハクキンカイロと市場シェアを争い続けた。ナショナルカイロはハクキンカイロ標準モデルとほぼ同じ燃焼時間の「標準型」の他、本体の厚さを薄くした「うす型」、本体の小型化を行った「ミニ」などのモデルが存在したが、使い捨てカイロ登場に伴う市場の縮小から1993年4月に全てのモデルの販売を終了した。そのため火口などの純正部品の供給も、すでに終了している。 なおナショナルカイロの販売終了後、松下電器産業[[アイロン]]事業部から'''ナショナルほっとベルト'''及び'''ナショナルほっとベスト'''なる商品も発売された。単三[[乾電池]]2本を電源とする電磁ポンプにより、専用カートリッジ内[[ブタン]]ガスを白金触媒ヒーター部に送り込み、酸化発熱させる原理。メーカーによれば「使い捨てカイロの約20倍のパワー(ほっとベストの場合)」、任意のON・OFF、三段階温度調節、オフタイマー機能、ガス燃料のためベンジンのように臭わず燃料補充も容易などの長所を持っていた<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/stapa/7939.html]</ref>。 <gallery> PEACOCK Pocket Wamer.jpg|[[白金]]触媒式カイロ。[[ベンジン]]を使用する。 Jippo-hakkinnkairo.JPG|zippo[[ジッポー]]ハンディウォーマーと[[オイル]] ハクキン純正ベンジン.jpg|ハクキンカイロ専用ベンジン </gallery> === 使い捨てカイロ === [[1975年]]、[[アメリカ陸軍]]が使用していたフットウォーマーを元に、旭化成工業(現・[[旭化成]])が[[鍼灸師]]ルート等を通じて全国で<ref>片岡金吉: "開発千夜一夜 -旭化成で育った開発バカ - ", 開発社,1986年11月10日</ref>「アッタカサン」を販売<ref group="注">この「アッタカサン」は、不織布袋の左右に異なる鉄粉や薬品を分けて封入し、ヘアピン状のプラスチックピンで中間を挟み込んで仕切ったもので、ピンを外して中身を混ぜることによって酸化熱を発生させる構造となっていた。</ref>。それを原型にして、日本純水素(現:日本パイオニクス)が[[1978年]]に開発、[[ロッテ]]電子工業(後のロッテ健康産業→現在はロッテ本体に吸収合併)が「ホカロン」の商品名で使い捨てカイロを全国発売し<ref>[http://www.dreammail.jp/magazine/seishun/20100110/ 【ホカロン】使い捨てカイロは偶然の産物?(男の浪漫伝説 Vol.58) | ドリームメール]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>、これがヒット商品となって一般に普及した。それぞれの発明者は、「アッタカサン」が旭化成工業の山下巌と飛高幹生<ref>実願昭49-93668「発熱性保温袋」</ref>、「ホカロン」が日本純水素の田浦照親と戸室美智男<ref>実願昭52-140547「温熱袋」</ref>とされている<ref>[https://samuel-knight.sakura.ne.jp/kan166.htm 2005年11月18日 『環』第166号「九州は携帯カイロの故郷」]</ref>。なお、ロッテがホカロンを最初に開発したという情報がメディアには流れているが、ロッテはあくまで販売元であり、開発元は脱酸素剤の委託先だった日本純水素である。同社はカイロの外袋を開封することで発熱が開始するタイプとし、かつ量産化のための技術開発を行った。空気に触れさせず不織布に鉄粉を詰めて密封、量産化する過程こそ、脱酸素剤の外袋開発にヒントを得たものである。ロッテ側は、脱酸素剤を開発中に化学反応による薬剤の発熱がみられたことを応用して開発したものと喧伝しているものの、鉄粉が酸化される際の発熱自体は前述の「フットウォーマー」や「アッタカサン」でも既に利用されている技術である。後になって、ホカロンの日本国内市販に向けてロッテ電子工業によって発売開始。なお、日本純水素は[[三菱ガス化学]]のグループ企業であり、資本関係は一切持っていない。しかしながら、ロッテは当時から菓子用の脱酸素剤を製造委託していたため、日本パイオニクスも2010年までOEMとしてホカロンを受託製造していた。なお、[[桐灰化学]]は旭化成の1年後に1976年に携帯カイロ「ハンドウォーマー」を販売しているが、後に他社と同様に不織布を用いた「ニューハンドウォーマー」に切り替えた<!-- 初代ハンドウォーマーがどういった商品だったかご存知の方、加筆よろしくお願いします。 -->。 前述したように、今日見るような不織布に入った使い捨てカイロが登場したのは[[1978年]]に[[ロッテ|ロッテ電子工業]](現・[[ロッテ|ロッテ健康産業]])から「ホカロン」が発売されて以降である。このタイプの使い捨てカイロは記録的寒波到来と相まって<ref group="注">当時は1981年や1984年など厳冬が多かった。</ref>、急速に販売を伸ばしていった。後にカイロ灰専業の[[マイコール]]が1978年に参入、それを皮切りに[[桐灰化学]]、[[白元]]、[[大日本除虫菊]]、[[フマキラー]]などの家庭日用品メーカーが追随した。1979年に[[白元]]が当時比較的高価だった使い捨てカイロをコストダウン化させ、1枚100円の「ホッカイロ」を発売し北日本を中心に大ヒット、使い捨てカイロの代名詞とまでなった。翌年の1980年には[[大日本除虫菊]]が従来品を改良した<ref group="注">当時の使い捨てカイロは鉄粉が固まりやすく、開封後よく内容物を揉まないと保温性が保てなかった。それに対し鉄粉に吸水成分を持つバーミキュライト等を混合し、揉む必要がなくすぐに振って使えるようにした。当時のCMのキャッチフレーズでも「もまずにあったまる金鳥どんと」である</ref>「金鳥どんと」を発売、1981年には[[フマキラー]]がミスター・ホットでカイロ業界参入<ref group="注">当時としては最長クラスの15時間保温持続を実現させている。</ref>。また、1981年には業界に先駆け、マイコールが衣類のポケットに収まるミニサイズの使い捨てカイロを開発した。 日本で使い捨てカイロの市場が一気に拡大したのは1980年の冬であり、国内販売額は1978年には2億円弱、1979年には10億円程度だったが、1980年には100億円以上に上昇した<ref>{{Cite journal|和書|title=バカ受けの使い捨てカイロ|journal=オール大衆|volume=34|issue=2|publisher=経済通信社|date=1981-02-01|pages=69|id={{NDLJP|2247104/35}}}}</ref>。 シール付きの使い捨てカイロ、いわば貼るタイプのカイロが発売されたのは[[1988年]]であり、[[マイコール]]が業界に先駆けて販売し、成功を収めた。その貼るカイロに目を付けたのが、それまで市場進出に乗り遅れていた桐灰化学であり、翌年の1989年に「桐灰はる」を発売。東日本地盤だったマイコールに対し西日本での地盤固めに成功し、インパクトのあるCMと相まって貼るカイロの知名度を高め、1997年には群馬県にも製造工場を設けて東日本に本格進出、長年使い捨てカイロ業界の首位に立つ契機となった<ref>[https://maonline.jp/articles/global_warming_kills_pocketheater_manufacturer191125 日本初!「地球温暖化」で姿消す 使い捨てカイロ大手の桐灰化学 ]</ref>。現在ではミニサイズ、[[靴下]]用、肩用、[[座布団]]サイズな様々なバリエーションが発売されており、冬場商品の定番となっているだけでなく、市場も貼るタイプが主力となっている。 一方で、貼らないタイプの利用目的が主に手元を温めるためというマーケティング結果に目を付け、2017年には桐灰化学が「めっちゃ熱いカイロ桐灰マグマ」を販売、専ら外での作業、レジャー向けに作られた高温(最高温度73℃)カイロであり、大きく注目を浴びた<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/economy/385083 73℃のめっちゃ熱いカイロ高温のしくみ]</ref>。その後はエステーが「オンパックス極熱」、興和が「ホッカイロHEAT CHARGER」、オカモトが「快温くんプラス鬼熱」、ロッテが「快速ホカロン」、アイリスオーヤマが「ぽかぽか家族屋外専用」を販売するなどして市場に追随している。一方で、従来品より最高温度を下げる代わりに長時間持続する商品も開発されているなど多様化している。 使い捨てカイロは主に以下のブランドが発売しており、販売ルートの関係から、ロッテ以外のメーカーでは、[[殺虫剤]]・[[芳香剤]]などの家庭用衛生薬品メーカーに関与しているところが多い。また、秋から春に掛けては生活雑貨を取り扱う小売店や[[コンビニエンスストア]]のほとんどで販売されている。2020年の国内シェアによるとトップは小林製薬(桐灰カイロ)で、以下エステー(オンパックス)、興和(ホッカイロ)、アイリスオーヤマ、ロッテの順である<ref>[https://www2.fgn.jp/mpac/_data/1/?d=048301 使い捨てカイロの市場規模とメーカー]</ref>。このタイプはハクキンカイロに代わって現在主流の方式となっており、また、海外輸出も盛んに行われている。一方で市場競争による価格破壊が著しく、2000年代後半にフマキラーがカイロ事業から撤退、白元が企業再生の一環でホッカイロを手放したりしているほか、廉価品を多売するアイリスオーヤマがそれまで業界4位だったロッテからシェアを奪ったりしている。また、使い捨てカイロ最大手だった桐灰化学も前述の競争激化や冬期の販売不振などが影響し、結果的に小林製薬へ吸収合併されている<ref>。[https://maonline.jp/articles/global_warming_kills_pocketheater_manufacturer191125 日本初!「地球温暖化」で姿消す 使い捨てカイロ大手の桐灰化学 ]</ref>。また、業界2位だったマイコールもエステーに一度吸収された後、2018年に分社化される変遷を辿っている。 * 桐灰カイロ([[小林製薬]]、元は[[桐灰化学]]で販売業務提携のち、2008年に子会社化。2018年に桐灰小林製薬と改組した後2020年に吸収合併) * オンパックス・ダンダン([[エステー]]、後者は[[ウエルシア]]との共同開発による廉価版。元は[[マイコール]]で販売業務提携ののち吸収合併、2018年にエステーマイコールとして子会社分社化) * ホッカイロ・ホッカイロぬくぬく当番([[白元]]→2014年より[[興和]]。製造:興和白元古河ファクトリー→興和古河ファクトリー) * ぬくっ子→ぽかぽか家族・あったカイロ([[アイリスオーヤマ]]→アイリスファインプロダクツ。前身は新日鉄子会社のニッテツファインプロダクツ) * ホカロン([[ロッテ|ロッテ健康産業]]、製造:日本パイオニクスにて2010年まで実施→ロッテ) * 快温くん・温楽→あったかくん・ダンボー([[オカモト]]。パッケージに除湿剤『水とりぞうさん』のキャラクターを採用) * どんと([[大日本除虫菊]]、井脇製缶のOEM) * 冬っ子・はるっ子(タカビシ化学) * ホットドリーム(井脇製缶。商社を通した海外輸出が多い。その他、金鳥どんとなど多数のOEMを手掛ける) <!-- * ミスターホット([[フマキラー]])※現在は製造していない。--> その他、日本カイロ工業会によると三宝化学、紀陽除虫菊、児玉兄弟商会、立石春洋堂などの販売企業があり、かつてホッカイロを製造販売していた白元(現:白元アース)も、後述の電子レンジカイロの商材を持っているため当会に加盟している。なお、大手ではかつて[[フマキラー]]がミスター・ホットという使い捨てカイロを生産していたが事業撤退した後、当会を脱会している。 使い捨てカイロは、[[鉄]]粉の[[酸化]]作用を利用したカイロであり、[[不織布]]や紙の袋に空気中で酸化発熱する鉄粉を入れたものが一般的である。その他、通常[[触媒]]として鉄の酸化を速める[[食塩]]とそれを保持する[[高分子吸水剤]]、酸素を取り込むための[[活性炭]]、鉄の錆びを促進する[[水]]、水を保水するための[[バーミキュライト]]が入れられている。安価で簡便なことなどから現在カイロの主流となっている<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000141112 使い捨てカイロには何が入っていて、どのような仕組みで温かくなるのか。 | レファレンス協同データベース]</ref>。 この種のカイロの長所としては、「構造が簡単」「各種原料が安価」「火を用いず通常環境での最高温度が約80度以下で安全性が高い」「使用方法が簡易」などがあげられる。使用前は[[真空]]パックや無酸素包装などで酸素に触れない様に密封されており、使用時にはこれを開封する事で酸化が始まり発熱する。一方で、[[低温やけど]]に注意しなければいけない点があるため、就寝時、圧迫部や長時間同じ部位への使用、また前述の高温カイロにおいては、ほとんどの商品が屋内での使用を禁止している。 大きさや用途などにもよるが、貼らないタイプで約18 - 20時間、貼るタイプで約12 - 14時間くらいの持続時間をもつ商品が主流である。これら各商品に表示される数値はすべて同一の試験方法によって測定されたもので、[[日本工業規格|JIS]]規格(JIS S 4100)に項目や測定方法などについての定めがある。 なお[[日本産業規格]]JIS S 4100において表記上は「使いすてかいろ」と[[平仮名]]であるが、「使い捨てカイロと([[片仮名]]で)表記しても良い」とされる。また、日本カイロ工業会では「使い切りタイプのかいろ」という表記をしている。 使い捨てカイロの由来については、米軍の携帯保温器が原型ともされるが、基本特許が明治時代に成立していた古いものということもあり、はっきりしない。[[1906年]]より、宇那原美喜三の宇那原支店が「火も湯もいらぬ」「不思議の[[あんか]]」「一名徳用こたつ」と銘打った製品広告を新聞各紙<ref>『[[東京朝日新聞]]』1906年[[12月25日]]号([[日本図書センター]]刊「朝日新聞復刻版 明治編 第Ⅲ期 第2回」ISBN 4-8205-4626-0)など。</ref>に出した。広告では「火を用ひざれば火災の患ひなく夜中に消え<!--原文[[変体仮名]]-->又は蒲團の損じると<!--変体仮名、判読できず。仮に近い字体の「と」に-->更に無し」「熱度は御好み次第百五十度位迄は御随意なり」「一度入れば四ヶ月熱す」などと謳っていた。定価は並一[[円 (通貨)|円]]、中一円二十[[銭]]、上一円四十銭、特製一円七十銭、送料いずれも三十銭。『[[宮武外骨|滑稽新聞]]』155号([[1908年]]1月20日号)によれば、本製品を取り寄せたという記事がある。製法は「鐵粉に何かを混ぜそれに水分を加へて温氣を發せしめるもの」で、使い捨てカイロそのものだが、記者によれば「幾分の熱度は放散するがそれも直に冷却して再び用を作さない、しかも一種の悪臭を放つなど、衛生上にもよからぬもので、經濟上一圓五十錢ばかり損をした」という<ref group="注">使い捨てカイロの製法で4カ月熱が保つことはあり得ず、明らかに誇大広告だったといえる。</ref>。 その原理が[[酸化]]による[[発熱反応]]の典型であることから、中学校の理科の実験で学生が製作することがある。また、保温状態のカイロを放置することによる発火への懸念が、消費者より度々寄せられるが、一定量の酸化発熱作用である限りは発火点に到達することはまずないため、カイロ使用による失火は起こり得ない。また、日本ではカイロ工業会の規格により、規定温度以上に到達する恐れのあるカイロは生産されていない。 <gallery> ファイル:Handwaermer11.jpg|使い捨てカイロのパッケージ ファイル:Handwarmers.JPG|使い捨てカイロの本体 ファイル:Hotwarmer jp.jpg|日本の市販使い捨てカイロ(貼らないタイプ) ファイル:くつ専用カイロ_(50543296072).jpg|靴下に貼って使うタイプの使い捨てカイロ </gallery> === 電子レンジカイロ === 中に[[ゲル]]状の保温材や小豆やセラミックビーズなどが封入され、使用時に[[電子レンジ]]で加熱して蓄熱させる方式のカイロ。日本ではもっぱら[[湯たんぽ]]代替として商品化されている。白元(現:白元アース)が「ゆたぽん」シリーズを2000年に発売してから一般化し、使い捨てカイロに対し就寝時にも使用できる(一部使用不可のものもあり)ため、冷え性に悩む成人女性に訴求し、ロングランヒット商品となった<ref>[http://blog.fmk.fm/glory-old/2011/12/post-1a65.php ホッカイロの「白元」のヒミツ]</ref>。ゲル状保温材で7~8時間、小豆、セラミックビーズ保温材のもので1時間ほど温熱が持続し、他カイロと比較して、温熱効果が緩やかであるため、就寝時に使用できることを訴求した商品が多く、また肩や腰、臀部のほか目元をリラックスさせる商品もある。白元アースの他、花王「めぐりズム」、小林製薬(桐灰シリーズ)などが生産、販売している。かつては、水や液体を保温材としたものも多かったが、破損によるやけど事故が相次ぎリコール対象となったため、ほとんど製造、発売されなくなった。また、小豆使用のものは虫による食害に注意せねばならない。 === 電池式・充電式カイロ === 電池式のカイロ。日本国内だけではなく、日本国外でも人気があり多く使用されている。使用開始・停止が容易で、燃焼ガスやゴミが発生しないという大きな利点があるが、電池や回路部品の耐熱温度の関係で使い捨てカイロより発熱温度が低いものが多い。[[2006年]][[10月31日]]に[[三洋電機]]が充電式カイロ「[[eneloop]] kairo」を発表、同年[[12月1日]]に発売している<ref>[http://www.sanyo.co.jp/koho/hypertext4/0610news-j/1031-1.html 使い捨てない「充電式カイロ」を発売] {{Wayback|url=http://www.sanyo.co.jp/koho/hypertext4/0610news-j/1031-1.html |date=20061206021515 }}(ニュースリリース@三洋電機HP)</ref>。この三洋のeneloop kairo(リチウムイオンモデル)のOEM供給を受け、[[朝日電器|ELPA(朝日電器)]]が『エコカイロ』として発売していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.elpa.co.jp/product/he99/elpa171.html |title=生産完了品 充電式カイロ EM-KIR1 |accessdate=2011年9月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120308094041/http://www.elpa.co.jp/product/he99/elpa171.html |archivedate=2012年3月8日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。中国製の電池式ハンドウォーマーの存在説があるが定かではない。近年では、[[スマートフォン]]を充電するためのモバイルバッテリーや[[発光ダイオード|LED]]ライトとしての機能を兼ね備えた物も販売されている<ref>[https://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20121210/1046244/ 【連載:ヒットの芽】カイロ、ライト、充電…1台3役スティック型バッテリーが好調][[日経トレンディ]]ネット(2012年12月12日)2018年12月18日閲覧。</ref>。 <gallery> XGUO HandWarmer.jpg|充電式カイロ </gallery> === ケミカルカイロ === [[酢酸ナトリウム]]の物理反応を利用したカイロ。使用後吸熱させることで再利用が可能。最近は[[酢酸]]水溶液などの溶液とコイン状の金属片を封入したビニールパックが「エコカイロ」などの名前で売られている。溶液は常温で[[過冷却]]状態であり、内封の金属片で刺激すると結晶化し、約50℃前後の発熱を1時間ほど持続する。放熱後は熱湯に入れ吸熱させることで繰り返し使用が可能。なお破裂する恐れがあるため、電子レンジでの加熱は禁止されている。 <gallery> Ecokairo.JPG|カイロと、封入されているコイン状衝撃材 Hand warmer activation.webm|結晶化の様子 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.kairo.jp/ 日本カイロ工業会] * [http://www.hakukin.co.jp/ ハクキンカイロ株式会社] * [http://www.marukai.co.jp/ マルカイコーポレーション] zippo オイルライター * [https://web.archive.org/web/20051109021831/http://www.highmount.co.jp/ ハイマウント] - 灰式カイロ販売元 * [https://web.archive.org/web/20061205035634/http://kusubai.co.jp/ 楠灰製造株式会社] - 灰式カイロ販売元 * [http://www.hakugen-earth.co.jp/products/warmer/yutapon/ ゆたぽん] {{デフォルトソート:かいろ}} [[カテゴリ:日用品]] [[カテゴリ:冬]] [[カテゴリ:冬の季語]] [[カテゴリ:加熱]] [[カテゴリ:金属製品]]
2003-05-05T08:30:53Z
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稲作
稲作(いなさく)とは、イネ(稲)を栽培することである。収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、藁(わら)がとれるが、主に米を得るため稲作が行われている。 稲の栽培には水田や畑が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。栽培品種は大きくジャポニカ米とインディカ米に分けることができ、ジャポニカ米はさらに熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)と温帯ジャポニカに区分される。形状によっても、短粒種、中粒種、長粒種に分類される。ジャポニカ米は短粒種で、インディカ米は長粒種とされるが、長粒種のジャポニカ米も存在するため正確ではない。 現在は、北緯50度から南緯35度の範囲にある世界各地域で栽培されている。米生産の約90%をアジアが占め、アジア以外では南アメリカのブラジルやコロンビア、アフリカのエジプトやセネガル、マダガスカルでも稲作が行われている。 稲作が広く行われた理由として、 などが考えられている。 稲作の起源地は、栽培イネOryza sativa 1083品種とその起源種とされる野生イネO. rufipogon 446系統 などのゲノム解析や考古学的な調査により、約1万年前の中国の珠江中流域あるいは長江流域と考えられている。 かつては雲南省の遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた。 ゲノム解析の結果と、遺跡から発掘されたイネの遺物から、まず野生イネから熱帯ジャポニカ祖先系統が栽培化され、それに異なる野生系統が複数回交配してインディカ組成系統が生じ、熱帯ジャポニカ祖先系統に人為選択が加わって温帯ジャポニカ祖先系統が生まれたと考えられている。長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下る。ゲノム解析の結果から、白米化は野生イネが熱帯ジャポニカ祖先系統に栽培化される過程で生じ、紫黒米と餅米は熱帯ジャポニカ祖先系統から生じたと考えられている。 中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。 従来、紀元前5~4世紀頃に水田稲作から始まったとされていたが、現在は、縄文時代後晩期(約3000–4000年前)には水田稲作が行われていた可能性が高いと考えられている。水田稲作の伝来経路としては、山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされるが、詳細は後述する。近年は、水田稲作伝来以前からの熱帯ジャポニカ種の陸稲栽培の可能性が指摘されるようになったが、決定的な証拠は発見されていない。これも詳細は後述する。 無文土器時代前期にあたる平壌市南京里遺跡で発見されたイネが最古であるが、陸稲であった可能性が高いとされる。水田稲作に関しては朝鮮半島南部では、3100年前の水田跡が慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡から、2500年前の水田跡が松菊里遺跡で見つかっている。 古代の東アジアにおける結核は稲作文化とセットで中国から広まったと考えられている。 2019年時点では、中国・朝鮮半島・日本列島から出土した人骨にある結核による脊椎カリエスの痕跡の年代と場所の関係から、結核と稲作文化は長江流域にある広富林遺跡(現在の上海市)の付近から日本に伝播した可能性が示唆されている。 東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる。 東南アジアにおいても、稲作文化と同時に結核も伝播したという指摘がある。 トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である。 栽培史の解明は不十分とされているが、現在のアフリカで栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ Oryza sativa )である。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカマリ共和国のニジェール川内陸三角州で栽培化され、周辺国のセネガル、ガンビア、ギニアビサウの沿岸部、シエラレオネへと拡散したとされている。 アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 O. barthii と多年生種 O. longistaminata などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。植民地支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種ネリカ米が開発された。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性に劣っていると報告している。 ローマ帝国崩壊後の7世紀から8世紀にムーア人によってイベリア半島にもたらされ、バレンシア近郊で栽培が始まった。しばらく後にはシチリア島に伝播し、15世紀にはイタリアのミラノ近郊のポー河流域で、主に粘りけの少ないインディカ種の水田稲作が行われる。 16 - 17世紀にはスペイン人、ポルトガル人により南北アメリカ大陸に持ち込まれ、プランテーション作物となった。 イネの栽培がはじまっていたと確実視されるのは、水田遺構が発見されている縄文時代晩期から弥生時代前期であり、現在まで主要な穀類のひとつとしてイネは連綿と栽培され続けている。 日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だった。宮城県の枡形囲貝塚の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、1925年の山内清男の論文「石器時代にも稲あり」が縄文稲作を指摘していたが、後に山内は縄文時代の稲作には否定的になった。しかし、1988年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡で、約2800年前と推定される米粒がみつかった。さらに、近年、縄文時代後期かそれ以前から稲を含む農耕があったとする説がまた唱えられている。 縄文時代の地層の土壌中からイネのプラント・オパール(植物珪酸体化石)が発見され、縄文時代から上層の土壌でイネ属花粉が増加していることは、縄文稲作と整合的である。プラント・オパールは採取した層位から年代を特定することができ、2013年にはプラント・オパール自体の年代を測定する方法が開発されている。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌からジャポニカ種のプラント・オパールが得られた。鹿児島大学構内遺跡からは縄文時代中期の地層からプラント・オパールが得られ、これが最古のものとなる。千葉県八千代市新川低地のボーリング調査では3700年前の地層からイネ属花粉が出現している。 ただし、攪拌により上層から下層への混入が懸念されるため、土壌データは証拠として積極的に採用しない研究者もいる。イネのプラント・オパールは20–60ミクロンと小さく、土壌中の生物や植物の根系などの攪拌によって下層に入りこむこともあるため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできない。鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、発見地層の年代を栽培の時期とすると、稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となってしまう。岡山県の朝寝鼻貝塚から約6000年前のイネのプラント・オパールが見つかっているが、同時にコムギのプラント・オパールも検出されており、コムギも中国よりも遥かに年代が遡ることになってしまう。もっとも、約7300年前の鬼界カルデラの噴火に伴う倭族の民族大移動を考えれば、自生種の穀物を採集して食していた倭族が日本から大陸に移動して、食料が乏しい移動先で栽培を開始したという説明は成り立つ。 縄文稲作の有力な考古学的証拠は、イネ籾の土器圧痕と、土器胎土中のプラント・オパールである。1991年に、縄文時代後期(約4000–3000年前)に属する岡山県南溝手遺跡の土器に籾の痕が発見された。縄文時代中期(約5000–4000年前)に属する岡山県美甘村姫笹原遺跡の土器胎土内、後期に属する南溝手遺跡や岡山県津島岡大遺跡の土器胎土内から、イネのプラント・オパールが発見された。土壌中のプラント・オパールには、攪乱による混入の可能性もあるが、砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる。さらに、土器の生地となった粘土中にイネの葉が含まれていたということになるが、籾と異なりイネの葉を他地域からわざわざ持ち込む必要は考えられない。 しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。土器の年代に対し疑問が出されており、籾や米粒は外から持ち込まれた可能性もあり、籾の土器圧痕は本当にイネか断定できない場合があり、土器胎土中のプラント・オパールも検出できる量が僅かでコンタミネーションの懸念は払拭できない。多方面からの分析が必要と指摘されている。また、縄文稲作が行われたとするのであれば、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。稲作にともなう農具や水田址が見つかり、確実に稲作がはじまったと言えるのは縄文時代晩期後半以降である。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない。 農具を用いない稲作として、畑での陸稲栽培、特に焼畑農業が注目されている。弥生時代に、現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている。しかし、陸稲栽培を示す遺構などは発見されておらず、熱帯ジャポニカも水田耕作が可能なため陸稲栽培が行われたことを強くは示さない。陸稲栽培が行われていたとしても、他の雑穀との混作や「焼畑の稲作」あるいは「水陸未分化」であり、広い面積が田に占められたり、ひとつの場所が長期にわたって耕されるという環境にはなかったと考えられる。一方で、これは自然に大規模に自生していた稲を採集していたことを否定するものではない。豊葦原中国というぐらいススキや葦を古くから利用してきた歴史から考えれば、同じような植生の稲や麦を採集していなかったと否定することの方が難しい。 イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、(1)朝鮮半島経由説((1a)華北から陸伝いに朝鮮半島を縦断、(1b)山東半島から黄海を渡り遼東半島を経由し朝鮮半島を縦断、(1c)山東半島から黄海を渡り朝鮮半島南西海岸から南下)、(2)江南説(直接ルート)、(3)南方経由説の3説ないし5説があり、山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされるが、2023年現在の農林水産省の最新の公式見解では「朝鮮半島南部を経由したという説、または、中国の江南地方あたりから直接伝わった説が有力ですが、台湾を経由したという説もあります。」と述べられ、朝鮮半島経由説と江南説のどちらが有力であるかについては明言されていない。 長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、紀元前5~6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとする説などである。実際に、日韓合わせて最古の水稲耕作遺跡は蔚山市のオクキョン遺跡であり、日本最古の水稲耕作遺跡である佐賀県菜畑遺跡からは、韓国慶尚南道晋陽郡大坪里遺跡出土土器の系統から影響を受けた「朝鮮無文土器系甕」や、朝鮮式の石包丁、鍬などが出土している。朝鮮半島の無文土器文化の担い手は、長江文明の流れを汲んだY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)であり、朝鮮半島に水稲農耕をもたらしたのも同集団であると考えられている。 従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされている。しかし、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が出た。また、水田稲作(水稲)についても渡来時期が5世紀早まり、紀元前10世紀(約3000年前)には渡来し、長い時間をかけて浸透していった可能性が指摘されたため、朝鮮半島を経由する説の中にも下記のように時期や集団規模などに違いのある複数の説が登場した。しかし、稲作・水稲がそれぞれ約6000年前・約1000年前に伝播したという説は、 と否定されている。 農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接稲作が日本に伝播されたとする説。考古学者では、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。気候による耕作穀物の境界になる秦嶺・淮河線および、弥生時代の炭化米と日中韓のイネの在来種の遺伝子分布、弥生時代と長江文明の文化的類似性が、江南説を支持する者がよく列挙する根拠である。 江南説を支持する者は「中国北方や朝鮮半島では気候が寒冷であるため稲作は伝播しなかった」と主張する場合があるが、5000年から4000年前の竜山文化に属する山東省膠州市趙家荘遺跡では水田跡が発見されており、現在では小麦地帯に入る山東半島で稲作が行われていた他、甲元眞之によって紀元前3000年以降にはさらに北方の遼東半島、同2000年以降には朝鮮半島まで伝播したと明らかになっている。気候を理由に江南説は支持されない。 近代的な育種により品種改良された改良種よりも前から栽培され、自家採種により世代交代をしていたという定義での在来稲および近畿の遺跡から発掘された弥生時代の炭化米に、朝鮮半島の在来稲にない遺伝子を持つと言う意味で「中国から直接伝来したタイプの稲」と考えられる品種は確認されているものの、それらが日本の稲作の始まりで栽培されていた証拠は存在しない。2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いことや、日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを指摘した。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心である。これは日本育種学会の追試で再現が確認された。ただしこれは「日本に伝来したRM1-a、RM1-b、RM1-cのうち、朝鮮半島に見られない(中国から直接伝播したと考えられる)RM1-bが割合的に最も多い」ことを示しているだけであり、「中国からの直接伝播が日本における稲作の始まりであり、朝鮮半島からは伝播しなかった(あるいは日本から朝鮮半島に稲作が伝播した)」と証明できたわけではない。日本では中世から近世にかけて西日本を中心にインディカ米の一種の大唐米(占城稲)の栽培が広まっていたことが知られており、自殖性の高いイネでも条件に応じて1%未満から5%程度の自然交雑が起きる。佐藤自身も、2010年のインタビュー記事では「約1万前に中国の長江流域で始まったと推定される稲作は、中国大陸から、もしくは朝鮮半島を経由して日本に伝わりましたが、それがいつ頃なのかははっきり分かりません。」、2001年のインタビュー記事では「私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。」と述べており、伝播の経路について明確な主張を行っていない。2008年、農業生物資源研究所の研究チームが、イネの粒幅を決める遺伝子qSW5を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、ジャポニカ米の起源が東南アジアで、中国で温帯ジャポニカが生まれ、日本に伝播した新しい仮説を提案しているが、中国から日本への伝播経路については言及はない。 長江文明が朝鮮半島の遺跡より、弥生時代の遺構に類似しているとは言えない。農具、武器、土器は、朝鮮半島の発掘物に酷似したものが見られるものの、長江文明では見られない。朝鮮半島では見られない高床倉庫が長江文明と弥生時代の遺跡で確認できるが、世界各地で見られる技術であり、日本でも水田稲作伝播前の縄文時代中期には確認できる。 江南説を前提として「朝鮮半島には陸稲のみが伝えられて、水稲は日本が朝鮮に伝えたものである」という主張も存在するが、朝鮮半島経由説で述べたとおり、朝鮮半島の水田の方が時代が遡るので支持されない。甲元眞之は平壌市にある無文土器文化時代前期(紀元前1500年代)の南京里遺跡では水稲農耕が行われていたと指摘している。加えて、蔚山市にあるオクキョン遺跡(紀元前1000年頃)は、日韓合わせて最古の水田遺跡である。日本最古の水稲農耕の遺跡は、佐賀県の菜畑遺跡(紀元前930年頃)である。 柳田國男の最後の著書「海上の道」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説。 石田英一郎、可児弘明、安田喜憲、梅原猛などの民俗学者に支持され。佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。 北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘しており、生化学の観点からは渡部忠世や佐藤洋一郎が陸稲(熱帯ジャポニカ)の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している。 しかしながら、考古学の観点からは沖縄の貝塚時代に稲作の痕跡がないことから、南方ルート成立の可能性は低いとされている。 現在、確認されている最古の水田跡は今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃の佐賀県の菜畑遺跡で、これは干潟後背の海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画された小規模(10~20平方メートル)のものであった。農耕具としては石庖丁、扁平片刃石斧、蛤刃石斧、磨製石鏃などが出土している。 同時代頃の宮崎県の坂元遺跡からも水田跡が発掘され、九州北部に伝わった水田稲作が大きな時間をあけずに九州南部まで伝わったことを示している。 本州最北端の青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている。弥生時代の中期には種籾を直接本田に撒く直播栽培からイネの苗を植える田植えへ変化し、北部九州地域では農耕具も石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。古墳時代には鉄器が日本全土へ広く普及すると共に土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用のため池が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの畦畔に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の小区画水田と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった。 律令体制導入以降の朝廷は、水田を条里制によって区画化し、国民に一定面積の水田を口分田として割りあて、収穫を納税させる班田収授制を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の地租改正にいたるまで日本の租税の基軸となった。稲作儀礼も朝廷による「新嘗祭」「大嘗祭」などが平安時代には整えられ、民間でも稲作の予祝儀礼として田楽などが行われるようになった。大分県の田染荘は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。 鎌倉時代になると西日本を中心に牛馬耕が行われるようになり、その糞尿を利用した厩肥も普及していった。また、西日本を中心に夏に水田で水稲を栽培し、冬は水を落とした畑地化にして麦を栽培する水田の米麦二毛作が行われるようになった。室町時代には、日照りに強く降水量の少ない土地でも良く育つ占城稲が中国から渡来し、降水量の少ない地域などで生産されるようになったが、味が悪いためかあまり普及しなかった。戦国時代になると、大名たちは新田開発のための大規模な工事や水害防止のための河川改修を行った。武田信玄によって築かれた山梨県釜無川の信玄堤は、その技術水準の高さもあり特に有名である。また、農業生産高の把握するため検地も行われた。天下を掌握した豊臣秀吉が全国に対して行った太閤検地によって、土地の稲作生産量を石という単位で表す石高制が確立し、農民は石高に応じた租税を義務付けられた。この制度は江戸幕府にも継承され、武士階級の格付けとしても石高は重視されていた。 江戸時代は人口が増加したため、為政者たちは利根川や信濃川など手付かずだった大河流域の湿地帯や氾濫原で新田の開墾を推進し、傾斜地にも棚田を設けて米の増産を図った。幕府も見沼代用水や深良用水などの農業用用水路を盛んに設けたり、諸国山川掟を発して山林の伐採による土砂災害を防ぐなどの治水に勤めた。その結果、16世紀末の耕地面積は全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度だったものが、18世紀前半の元禄ならびに享保時代になると、耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達した。農業知識の普及も進み、宮崎安貞による日本最古の体系的農書である農業全書や大蔵永常の農具便利論などが出版されている。地方農村では二宮尊徳や大原幽学、渡部斧松などの農政学者が活躍した。農具も発達し、備中鍬や穀物の選別を行う千石通し、脱穀の千歯扱などの農具が普及した。肥料としては人間の排泄物が利用されるようになり、慶安の御触書でも雪隠を用意して、糞尿を集めるように勧めている。また、江戸時代は寒冷な時期が多く、やませの影響が強い東北地方の太平洋側を中心に飢饉も多発しており、江戸時代からは北海道渡島半島で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。 明治時代に入ると、柔らかい湿地を人間が耕す方法から硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行わるようになった。肥料も排泄物ではなく干鰯や鰊粕、油粕など金肥と呼ばれる栄養価の高いものが使われるようになっていった。交通手段の発達を背景に、各地の篤農家(老農)の交流も盛んになり、江戸時代以来の在来農業技術の集大成がなされた(明治農法)。ドイツから派遣されたオスカル・ケルネルらによって西洋の科学技術も導入され農業試験場などの研究施設も創設された。稲の品種改良も進み、コシヒカリの先祖にあたる亀の尾などの品種が作られた。 江戸時代から北海道南部(道南)の渡島半島南部では稲作が行われていたが、明治に入ると道央の石狩平野でも栽培されるようになった。中山久蔵などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行い、かつて不毛の泥炭地が広がっていた石狩平野や上川盆地は広大な水田地帯に変じ(道央水田地帯)、新潟県と一二を争う米どころへ変化していく。 こうして昭和初年には、米の生産高は明治11〜15年比で2倍以上に増加したが、それにもかかわらず昭和初期には幕末の3倍近くにまで人口が膨れ上がったことにより、日本内地の米不足は深刻であり、朝鮮や台湾からの米の移入で不足分を賄い、それでも足りないので南米や満州へ移民を送り出す有様となった。 戦後、技術の発展により国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。1960年代以降、食生活の多様化により一人当たりの米の消費量の減少が進み、1970年を境に米の生産量が消費量を大きく越え、米余りの時代に突入。政府によって減反政策などの生産調整が行われるようになった。 品種改良は当初耐寒性の向上や収量増を重点に行われた。近代的育種手法で育成されたイネのさきがけである陸羽132号は耐寒性が強く多収量品種であったことから、昭和初期の大冷害の救世主となり、その子品種である水稲農林1号は第二次世界大戦中・戦後の食糧生産に大きく貢献した。特筆すべきは陸羽132号、農林1号は食味に優れた品種でもあったことで、その系統を引くコシヒカリなど冷涼地向きの良食味品種が普及することにより、日本の稲作地帯の中心は北日本に移っていき、日本の稲作地図を塗り替えることになった。 「米余り」となった1970年以降、稲の品種改良においては、従来重点をおかれていた耐寒性や耐病性の強化から、食味の向上に重点をおかれるようになった。1989年から1994年の間、農林水産省による品種改良プロジェクトスーパーライス計画が行われ、ミルキークイーンなどの低アミロース米が開発された。 21世紀には西日本を中心に猛暑日が増え、高温による稲の登熟障害や米の品質低下が問題となっている。耐高温品種の育成、高温条件下に適合した稲栽培技術の確立が急がれている。 気候的に可能な場合は三毛作も行われている。 稲の水田による栽培を水田稲作と呼び、水田で栽培するイネを水稲(すいとう)という。 田に水を張り(水田)、底に苗を植えて育てる。日本では、種(種籾)から苗までは土で育てる方が一般的であるが、東南アジアなどでは、水田の中に種籾を蒔く地域もある。深い水深で、人の背丈より長く育つ栽培品種もある。畑よりも、水田の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどが、水田を使っている。水田による稲作は、他の穀物の畑作に比べ、連作障害になりにくい。 畑で栽培される稲を陸稲(りくとう、おかぼ)という。 水稲ではほとんど起こらないが、同じ土壌で陸稲の栽培を続けると連作障害が発生する。 初めに田畑にじかに種もみを蒔く直播(じかまき)栽培と、仕立てた苗を水田に植え替える苗代(なわしろ/なえしろ)栽培がある。 省力化を主な目的とした水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法である。 生産コスト低減と収量安定を目的とした栽培方法。普及段階の栽培方法で、「耕作者による差や地域差を抑え平均した生育・収量が期待できる」として期待されているが、地域の利水権、水利慣行など導入に際し解決すべき問題も多い。 稲作文化は稲を生産するための農耕技術から稲の食文化、稲作に関わる儀礼祭祀など様々な要素で構成されている。 農耕技術では稲作のための農具や収穫具、動物を用いた畜力利用や、水田の形態、田植えや施肥などの栽培技術、虫追いや鳥追い、カカシなど鳥獣避けの文化も存在する。また、穂刈したあとの藁は様々な用途があり、藁細工や信仰とも関わりが深い。食文化では粥や強飯、餅やちまきなど多様な食べ方・調理法が存在した。また、高倉などの貯蔵法や、醸造して酒にするなど幅広い利用が行われていた。水田の光景は、日本の伝統的文化の1つといえ、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、田遊び・田植・田植踊・御田祭・御田植・御田舞等、豊作を祈るための多くの予祝儀式・収穫祭・民俗芸能が伝承されている。 宮中祭祀においても天皇が皇居の御田で収穫された稲穂を天照大神(アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝する新嘗祭がおこなわれている。天皇徳仁は、皇居内生物学研究所などで、水稲手蒔き、田植え、稲刈りをみずからおこなっている(宮内庁サイト)。尚、漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていた。 水田稲作農耕がその地の環境に与える負荷は限定的である。数千年間にわたって東アジア・東南アジアの各地で水田稲作農耕が行われてきているが、農地が耕作不能になった例はあまり知られていない。麦作が引き起こしてきた土壌破壊の歴史と比べて注目に値する。 水田環境は、1000種を超える生物多様性を擁する「時空間的に安定した一時的湿地あるいは水辺」ととらえることができ、代替的自然としての高い持続性・安定性を評価できる
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "稲作(いなさく)とは、イネ(稲)を栽培することである。収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、藁(わら)がとれるが、主に米を得るため稲作が行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "稲の栽培には水田や畑が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。栽培品種は大きくジャポニカ米とインディカ米に分けることができ、ジャポニカ米はさらに熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)と温帯ジャポニカに区分される。形状によっても、短粒種、中粒種、長粒種に分類される。ジャポニカ米は短粒種で、インディカ米は長粒種とされるが、長粒種のジャポニカ米も存在するため正確ではない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現在は、北緯50度から南緯35度の範囲にある世界各地域で栽培されている。米生産の約90%をアジアが占め、アジア以外では南アメリカのブラジルやコロンビア、アフリカのエジプトやセネガル、マダガスカルでも稲作が行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "稲作が広く行われた理由として、", "title": "伝播の理由" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "などが考えられている。", "title": "伝播の理由" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "稲作の起源地は、栽培イネOryza sativa 1083品種とその起源種とされる野生イネO. rufipogon 446系統 などのゲノム解析や考古学的な調査により、約1万年前の中国の珠江中流域あるいは長江流域と考えられている。 かつては雲南省の遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ゲノム解析の結果と、遺跡から発掘されたイネの遺物から、まず野生イネから熱帯ジャポニカ祖先系統が栽培化され、それに異なる野生系統が複数回交配してインディカ組成系統が生じ、熱帯ジャポニカ祖先系統に人為選択が加わって温帯ジャポニカ祖先系統が生まれたと考えられている。長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下る。ゲノム解析の結果から、白米化は野生イネが熱帯ジャポニカ祖先系統に栽培化される過程で生じ、紫黒米と餅米は熱帯ジャポニカ祖先系統から生じたと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "従来、紀元前5~4世紀頃に水田稲作から始まったとされていたが、現在は、縄文時代後晩期(約3000–4000年前)には水田稲作が行われていた可能性が高いと考えられている。水田稲作の伝来経路としては、山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされるが、詳細は後述する。近年は、水田稲作伝来以前からの熱帯ジャポニカ種の陸稲栽培の可能性が指摘されるようになったが、決定的な証拠は発見されていない。これも詳細は後述する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "無文土器時代前期にあたる平壌市南京里遺跡で発見されたイネが最古であるが、陸稲であった可能性が高いとされる。水田稲作に関しては朝鮮半島南部では、3100年前の水田跡が慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡から、2500年前の水田跡が松菊里遺跡で見つかっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "古代の東アジアにおける結核は稲作文化とセットで中国から広まったと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2019年時点では、中国・朝鮮半島・日本列島から出土した人骨にある結核による脊椎カリエスの痕跡の年代と場所の関係から、結核と稲作文化は長江流域にある広富林遺跡(現在の上海市)の付近から日本に伝播した可能性が示唆されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東南アジアにおいても、稲作文化と同時に結核も伝播したという指摘がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "栽培史の解明は不十分とされているが、現在のアフリカで栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ Oryza sativa )である。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカマリ共和国のニジェール川内陸三角州で栽培化され、周辺国のセネガル、ガンビア、ギニアビサウの沿岸部、シエラレオネへと拡散したとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 O. barthii と多年生種 O. longistaminata などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。植民地支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種ネリカ米が開発された。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性に劣っていると報告している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ローマ帝国崩壊後の7世紀から8世紀にムーア人によってイベリア半島にもたらされ、バレンシア近郊で栽培が始まった。しばらく後にはシチリア島に伝播し、15世紀にはイタリアのミラノ近郊のポー河流域で、主に粘りけの少ないインディカ種の水田稲作が行われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "16 - 17世紀にはスペイン人、ポルトガル人により南北アメリカ大陸に持ち込まれ、プランテーション作物となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イネの栽培がはじまっていたと確実視されるのは、水田遺構が発見されている縄文時代晩期から弥生時代前期であり、現在まで主要な穀類のひとつとしてイネは連綿と栽培され続けている。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だった。宮城県の枡形囲貝塚の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、1925年の山内清男の論文「石器時代にも稲あり」が縄文稲作を指摘していたが、後に山内は縄文時代の稲作には否定的になった。しかし、1988年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡で、約2800年前と推定される米粒がみつかった。さらに、近年、縄文時代後期かそれ以前から稲を含む農耕があったとする説がまた唱えられている。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "縄文時代の地層の土壌中からイネのプラント・オパール(植物珪酸体化石)が発見され、縄文時代から上層の土壌でイネ属花粉が増加していることは、縄文稲作と整合的である。プラント・オパールは採取した層位から年代を特定することができ、2013年にはプラント・オパール自体の年代を測定する方法が開発されている。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌からジャポニカ種のプラント・オパールが得られた。鹿児島大学構内遺跡からは縄文時代中期の地層からプラント・オパールが得られ、これが最古のものとなる。千葉県八千代市新川低地のボーリング調査では3700年前の地層からイネ属花粉が出現している。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ただし、攪拌により上層から下層への混入が懸念されるため、土壌データは証拠として積極的に採用しない研究者もいる。イネのプラント・オパールは20–60ミクロンと小さく、土壌中の生物や植物の根系などの攪拌によって下層に入りこむこともあるため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできない。鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、発見地層の年代を栽培の時期とすると、稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となってしまう。岡山県の朝寝鼻貝塚から約6000年前のイネのプラント・オパールが見つかっているが、同時にコムギのプラント・オパールも検出されており、コムギも中国よりも遥かに年代が遡ることになってしまう。もっとも、約7300年前の鬼界カルデラの噴火に伴う倭族の民族大移動を考えれば、自生種の穀物を採集して食していた倭族が日本から大陸に移動して、食料が乏しい移動先で栽培を開始したという説明は成り立つ。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "縄文稲作の有力な考古学的証拠は、イネ籾の土器圧痕と、土器胎土中のプラント・オパールである。1991年に、縄文時代後期(約4000–3000年前)に属する岡山県南溝手遺跡の土器に籾の痕が発見された。縄文時代中期(約5000–4000年前)に属する岡山県美甘村姫笹原遺跡の土器胎土内、後期に属する南溝手遺跡や岡山県津島岡大遺跡の土器胎土内から、イネのプラント・オパールが発見された。土壌中のプラント・オパールには、攪乱による混入の可能性もあるが、砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の土層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる。さらに、土器の生地となった粘土中にイネの葉が含まれていたということになるが、籾と異なりイネの葉を他地域からわざわざ持ち込む必要は考えられない。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。土器の年代に対し疑問が出されており、籾や米粒は外から持ち込まれた可能性もあり、籾の土器圧痕は本当にイネか断定できない場合があり、土器胎土中のプラント・オパールも検出できる量が僅かでコンタミネーションの懸念は払拭できない。多方面からの分析が必要と指摘されている。また、縄文稲作が行われたとするのであれば、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。稲作にともなう農具や水田址が見つかり、確実に稲作がはじまったと言えるのは縄文時代晩期後半以降である。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "農具を用いない稲作として、畑での陸稲栽培、特に焼畑農業が注目されている。弥生時代に、現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている。しかし、陸稲栽培を示す遺構などは発見されておらず、熱帯ジャポニカも水田耕作が可能なため陸稲栽培が行われたことを強くは示さない。陸稲栽培が行われていたとしても、他の雑穀との混作や「焼畑の稲作」あるいは「水陸未分化」であり、広い面積が田に占められたり、ひとつの場所が長期にわたって耕されるという環境にはなかったと考えられる。一方で、これは自然に大規模に自生していた稲を採集していたことを否定するものではない。豊葦原中国というぐらいススキや葦を古くから利用してきた歴史から考えれば、同じような植生の稲や麦を採集していなかったと否定することの方が難しい。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、(1)朝鮮半島経由説((1a)華北から陸伝いに朝鮮半島を縦断、(1b)山東半島から黄海を渡り遼東半島を経由し朝鮮半島を縦断、(1c)山東半島から黄海を渡り朝鮮半島南西海岸から南下)、(2)江南説(直接ルート)、(3)南方経由説の3説ないし5説があり、山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされるが、2023年現在の農林水産省の最新の公式見解では「朝鮮半島南部を経由したという説、または、中国の江南地方あたりから直接伝わった説が有力ですが、台湾を経由したという説もあります。」と述べられ、朝鮮半島経由説と江南説のどちらが有力であるかについては明言されていない。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、紀元前5~6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとする説などである。実際に、日韓合わせて最古の水稲耕作遺跡は蔚山市のオクキョン遺跡であり、日本最古の水稲耕作遺跡である佐賀県菜畑遺跡からは、韓国慶尚南道晋陽郡大坪里遺跡出土土器の系統から影響を受けた「朝鮮無文土器系甕」や、朝鮮式の石包丁、鍬などが出土している。朝鮮半島の無文土器文化の担い手は、長江文明の流れを汲んだY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)であり、朝鮮半島に水稲農耕をもたらしたのも同集団であると考えられている。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされている。しかし、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が出た。また、水田稲作(水稲)についても渡来時期が5世紀早まり、紀元前10世紀(約3000年前)には渡来し、長い時間をかけて浸透していった可能性が指摘されたため、朝鮮半島を経由する説の中にも下記のように時期や集団規模などに違いのある複数の説が登場した。しかし、稲作・水稲がそれぞれ約6000年前・約1000年前に伝播したという説は、", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "と否定されている。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接稲作が日本に伝播されたとする説。考古学者では、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。気候による耕作穀物の境界になる秦嶺・淮河線および、弥生時代の炭化米と日中韓のイネの在来種の遺伝子分布、弥生時代と長江文明の文化的類似性が、江南説を支持する者がよく列挙する根拠である。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "江南説を支持する者は「中国北方や朝鮮半島では気候が寒冷であるため稲作は伝播しなかった」と主張する場合があるが、5000年から4000年前の竜山文化に属する山東省膠州市趙家荘遺跡では水田跡が発見されており、現在では小麦地帯に入る山東半島で稲作が行われていた他、甲元眞之によって紀元前3000年以降にはさらに北方の遼東半島、同2000年以降には朝鮮半島まで伝播したと明らかになっている。気候を理由に江南説は支持されない。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "近代的な育種により品種改良された改良種よりも前から栽培され、自家採種により世代交代をしていたという定義での在来稲および近畿の遺跡から発掘された弥生時代の炭化米に、朝鮮半島の在来稲にない遺伝子を持つと言う意味で「中国から直接伝来したタイプの稲」と考えられる品種は確認されているものの、それらが日本の稲作の始まりで栽培されていた証拠は存在しない。2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いことや、日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを指摘した。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心である。これは日本育種学会の追試で再現が確認された。ただしこれは「日本に伝来したRM1-a、RM1-b、RM1-cのうち、朝鮮半島に見られない(中国から直接伝播したと考えられる)RM1-bが割合的に最も多い」ことを示しているだけであり、「中国からの直接伝播が日本における稲作の始まりであり、朝鮮半島からは伝播しなかった(あるいは日本から朝鮮半島に稲作が伝播した)」と証明できたわけではない。日本では中世から近世にかけて西日本を中心にインディカ米の一種の大唐米(占城稲)の栽培が広まっていたことが知られており、自殖性の高いイネでも条件に応じて1%未満から5%程度の自然交雑が起きる。佐藤自身も、2010年のインタビュー記事では「約1万前に中国の長江流域で始まったと推定される稲作は、中国大陸から、もしくは朝鮮半島を経由して日本に伝わりましたが、それがいつ頃なのかははっきり分かりません。」、2001年のインタビュー記事では「私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。」と述べており、伝播の経路について明確な主張を行っていない。2008年、農業生物資源研究所の研究チームが、イネの粒幅を決める遺伝子qSW5を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、ジャポニカ米の起源が東南アジアで、中国で温帯ジャポニカが生まれ、日本に伝播した新しい仮説を提案しているが、中国から日本への伝播経路については言及はない。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "長江文明が朝鮮半島の遺跡より、弥生時代の遺構に類似しているとは言えない。農具、武器、土器は、朝鮮半島の発掘物に酷似したものが見られるものの、長江文明では見られない。朝鮮半島では見られない高床倉庫が長江文明と弥生時代の遺跡で確認できるが、世界各地で見られる技術であり、日本でも水田稲作伝播前の縄文時代中期には確認できる。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "江南説を前提として「朝鮮半島には陸稲のみが伝えられて、水稲は日本が朝鮮に伝えたものである」という主張も存在するが、朝鮮半島経由説で述べたとおり、朝鮮半島の水田の方が時代が遡るので支持されない。甲元眞之は平壌市にある無文土器文化時代前期(紀元前1500年代)の南京里遺跡では水稲農耕が行われていたと指摘している。加えて、蔚山市にあるオクキョン遺跡(紀元前1000年頃)は、日韓合わせて最古の水田遺跡である。日本最古の水稲農耕の遺跡は、佐賀県の菜畑遺跡(紀元前930年頃)である。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "柳田國男の最後の著書「海上の道」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "石田英一郎、可児弘明、安田喜憲、梅原猛などの民俗学者に支持され。佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘しており、生化学の観点からは渡部忠世や佐藤洋一郎が陸稲(熱帯ジャポニカ)の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかしながら、考古学の観点からは沖縄の貝塚時代に稲作の痕跡がないことから、南方ルート成立の可能性は低いとされている。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "現在、確認されている最古の水田跡は今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃の佐賀県の菜畑遺跡で、これは干潟後背の海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画された小規模(10~20平方メートル)のものであった。農耕具としては石庖丁、扁平片刃石斧、蛤刃石斧、磨製石鏃などが出土している。 同時代頃の宮崎県の坂元遺跡からも水田跡が発掘され、九州北部に伝わった水田稲作が大きな時間をあけずに九州南部まで伝わったことを示している。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "本州最北端の青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている。弥生時代の中期には種籾を直接本田に撒く直播栽培からイネの苗を植える田植えへ変化し、北部九州地域では農耕具も石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。古墳時代には鉄器が日本全土へ広く普及すると共に土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用のため池が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの畦畔に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の小区画水田と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "律令体制導入以降の朝廷は、水田を条里制によって区画化し、国民に一定面積の水田を口分田として割りあて、収穫を納税させる班田収授制を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の地租改正にいたるまで日本の租税の基軸となった。稲作儀礼も朝廷による「新嘗祭」「大嘗祭」などが平安時代には整えられ、民間でも稲作の予祝儀礼として田楽などが行われるようになった。大分県の田染荘は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "鎌倉時代になると西日本を中心に牛馬耕が行われるようになり、その糞尿を利用した厩肥も普及していった。また、西日本を中心に夏に水田で水稲を栽培し、冬は水を落とした畑地化にして麦を栽培する水田の米麦二毛作が行われるようになった。室町時代には、日照りに強く降水量の少ない土地でも良く育つ占城稲が中国から渡来し、降水量の少ない地域などで生産されるようになったが、味が悪いためかあまり普及しなかった。戦国時代になると、大名たちは新田開発のための大規模な工事や水害防止のための河川改修を行った。武田信玄によって築かれた山梨県釜無川の信玄堤は、その技術水準の高さもあり特に有名である。また、農業生産高の把握するため検地も行われた。天下を掌握した豊臣秀吉が全国に対して行った太閤検地によって、土地の稲作生産量を石という単位で表す石高制が確立し、農民は石高に応じた租税を義務付けられた。この制度は江戸幕府にも継承され、武士階級の格付けとしても石高は重視されていた。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "江戸時代は人口が増加したため、為政者たちは利根川や信濃川など手付かずだった大河流域の湿地帯や氾濫原で新田の開墾を推進し、傾斜地にも棚田を設けて米の増産を図った。幕府も見沼代用水や深良用水などの農業用用水路を盛んに設けたり、諸国山川掟を発して山林の伐採による土砂災害を防ぐなどの治水に勤めた。その結果、16世紀末の耕地面積は全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度だったものが、18世紀前半の元禄ならびに享保時代になると、耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達した。農業知識の普及も進み、宮崎安貞による日本最古の体系的農書である農業全書や大蔵永常の農具便利論などが出版されている。地方農村では二宮尊徳や大原幽学、渡部斧松などの農政学者が活躍した。農具も発達し、備中鍬や穀物の選別を行う千石通し、脱穀の千歯扱などの農具が普及した。肥料としては人間の排泄物が利用されるようになり、慶安の御触書でも雪隠を用意して、糞尿を集めるように勧めている。また、江戸時代は寒冷な時期が多く、やませの影響が強い東北地方の太平洋側を中心に飢饉も多発しており、江戸時代からは北海道渡島半島で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "明治時代に入ると、柔らかい湿地を人間が耕す方法から硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行わるようになった。肥料も排泄物ではなく干鰯や鰊粕、油粕など金肥と呼ばれる栄養価の高いものが使われるようになっていった。交通手段の発達を背景に、各地の篤農家(老農)の交流も盛んになり、江戸時代以来の在来農業技術の集大成がなされた(明治農法)。ドイツから派遣されたオスカル・ケルネルらによって西洋の科学技術も導入され農業試験場などの研究施設も創設された。稲の品種改良も進み、コシヒカリの先祖にあたる亀の尾などの品種が作られた。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "江戸時代から北海道南部(道南)の渡島半島南部では稲作が行われていたが、明治に入ると道央の石狩平野でも栽培されるようになった。中山久蔵などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行い、かつて不毛の泥炭地が広がっていた石狩平野や上川盆地は広大な水田地帯に変じ(道央水田地帯)、新潟県と一二を争う米どころへ変化していく。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "こうして昭和初年には、米の生産高は明治11〜15年比で2倍以上に増加したが、それにもかかわらず昭和初期には幕末の3倍近くにまで人口が膨れ上がったことにより、日本内地の米不足は深刻であり、朝鮮や台湾からの米の移入で不足分を賄い、それでも足りないので南米や満州へ移民を送り出す有様となった。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "戦後、技術の発展により国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。1960年代以降、食生活の多様化により一人当たりの米の消費量の減少が進み、1970年を境に米の生産量が消費量を大きく越え、米余りの時代に突入。政府によって減反政策などの生産調整が行われるようになった。", "title": "日本列島での歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "品種改良は当初耐寒性の向上や収量増を重点に行われた。近代的育種手法で育成されたイネのさきがけである陸羽132号は耐寒性が強く多収量品種であったことから、昭和初期の大冷害の救世主となり、その子品種である水稲農林1号は第二次世界大戦中・戦後の食糧生産に大きく貢献した。特筆すべきは陸羽132号、農林1号は食味に優れた品種でもあったことで、その系統を引くコシヒカリなど冷涼地向きの良食味品種が普及することにより、日本の稲作地帯の中心は北日本に移っていき、日本の稲作地図を塗り替えることになった。", "title": "日本における栽培技術と品種改良" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「米余り」となった1970年以降、稲の品種改良においては、従来重点をおかれていた耐寒性や耐病性の強化から、食味の向上に重点をおかれるようになった。1989年から1994年の間、農林水産省による品種改良プロジェクトスーパーライス計画が行われ、ミルキークイーンなどの低アミロース米が開発された。", "title": "日本における栽培技術と品種改良" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "21世紀には西日本を中心に猛暑日が増え、高温による稲の登熟障害や米の品質低下が問題となっている。耐高温品種の育成、高温条件下に適合した稲栽培技術の確立が急がれている。", "title": "日本における栽培技術と品種改良" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "気候的に可能な場合は三毛作も行われている。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "稲の水田による栽培を水田稲作と呼び、水田で栽培するイネを水稲(すいとう)という。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "田に水を張り(水田)、底に苗を植えて育てる。日本では、種(種籾)から苗までは土で育てる方が一般的であるが、東南アジアなどでは、水田の中に種籾を蒔く地域もある。深い水深で、人の背丈より長く育つ栽培品種もある。畑よりも、水田の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどが、水田を使っている。水田による稲作は、他の穀物の畑作に比べ、連作障害になりにくい。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "畑で栽培される稲を陸稲(りくとう、おかぼ)という。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "水稲ではほとんど起こらないが、同じ土壌で陸稲の栽培を続けると連作障害が発生する。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "初めに田畑にじかに種もみを蒔く直播(じかまき)栽培と、仕立てた苗を水田に植え替える苗代(なわしろ/なえしろ)栽培がある。", "title": "方式" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "省力化を主な目的とした水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法である。", "title": "手順" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "生産コスト低減と収量安定を目的とした栽培方法。普及段階の栽培方法で、「耕作者による差や地域差を抑え平均した生育・収量が期待できる」として期待されているが、地域の利水権、水利慣行など導入に際し解決すべき問題も多い。", "title": "手順" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "", "title": "手順" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "稲作文化は稲を生産するための農耕技術から稲の食文化、稲作に関わる儀礼祭祀など様々な要素で構成されている。", "title": "稲作文化" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "農耕技術では稲作のための農具や収穫具、動物を用いた畜力利用や、水田の形態、田植えや施肥などの栽培技術、虫追いや鳥追い、カカシなど鳥獣避けの文化も存在する。また、穂刈したあとの藁は様々な用途があり、藁細工や信仰とも関わりが深い。食文化では粥や強飯、餅やちまきなど多様な食べ方・調理法が存在した。また、高倉などの貯蔵法や、醸造して酒にするなど幅広い利用が行われていた。水田の光景は、日本の伝統的文化の1つといえ、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、田遊び・田植・田植踊・御田祭・御田植・御田舞等、豊作を祈るための多くの予祝儀式・収穫祭・民俗芸能が伝承されている。", "title": "稲作文化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "宮中祭祀においても天皇が皇居の御田で収穫された稲穂を天照大神(アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝する新嘗祭がおこなわれている。天皇徳仁は、皇居内生物学研究所などで、水稲手蒔き、田植え、稲刈りをみずからおこなっている(宮内庁サイト)。尚、漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていた。", "title": "稲作文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "水田稲作農耕がその地の環境に与える負荷は限定的である。数千年間にわたって東アジア・東南アジアの各地で水田稲作農耕が行われてきているが、農地が耕作不能になった例はあまり知られていない。麦作が引き起こしてきた土壌破壊の歴史と比べて注目に値する。", "title": "稲作文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "水田環境は、1000種を超える生物多様性を擁する「時空間的に安定した一時的湿地あるいは水辺」ととらえることができ、代替的自然としての高い持続性・安定性を評価できる", "title": "稲作文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "", "title": "稲作文化" } ]
稲作(いなさく)とは、イネ(稲)を栽培することである。収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、藁(わら)がとれるが、主に米を得るため稲作が行われている。 稲の栽培には水田や畑が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は陸稲(りくとう、おかぼ)とよばれる。栽培品種は大きくジャポニカ米とインディカ米に分けることができ、ジャポニカ米はさらに熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)と温帯ジャポニカに区分される。形状によっても、短粒種、中粒種、長粒種に分類される。ジャポニカ米は短粒種で、インディカ米は長粒種とされるが、長粒種のジャポニカ米も存在するため正確ではない。 現在は、北緯50度から南緯35度の範囲にある世界各地域で栽培されている。米生産の約90%をアジアが占め、アジア以外では南アメリカのブラジルやコロンビア、アフリカのエジプトやセネガル、マダガスカルでも稲作が行われている。
{{観点|date=2016年1月14日 (木) 12:44 (UTC)}} [[ファイル:Tranplant-rice-tahiland.JPG|250px|thumb|[[タイ王国|タイヤキ]]の田植え。[[東南アジア]]の稲作では1ヘクタールに満たない水田でも、田植え、除草、収穫に農業労働者が雇用されることが多い]] [[ファイル:Rijstvelden Myanmar 2006.jpg|thumb|250px|[[ミャンマー]]の水田における農作業]] '''稲作'''(いなさく)とは、[[イネ]](稲)を[[栽培]]することである。収穫後の稲からは、米、[[米糠]](ぬか)、[[籾殻]](もみがら)、[[藁]](わら)がとれるが、主に<!-- 食用 -->[[米]]を得るため稲作が行われている。 稲の栽培には[[田|水田]]や[[畑]]が利用され、それぞれの環境や需要にあった品種が用られる。水田での栽培は水稲(すいとう)、畑地の栽培は[[陸稲]](りくとう、おかぼ)とよばれる。栽培品種は大きく[[ジャポニカ米]]と[[インディカ米]]に分けることができ、ジャポニカ米はさらに熱帯ジャポニカ([[ジャバニカ米]])と温帯ジャポニカに区分される。形状によっても、短粒種、中粒種、長粒種に分類される。ジャポニカ米は短粒種で、インディカ米は長粒種とされるが、長粒種のジャポニカ米も存在するため正確ではない。 現在は、[[北緯]]50[[度 (角度)|度]]から[[南緯]]35度の範囲にある世界各地域で栽培されている。米生産の約90%を[[アジア]]が占め、アジア以外では[[南アメリカ]]の[[ブラジル]]や[[コロンビア]]、[[アフリカ]]の[[エジプト]]や[[セネガル]]、[[マダガスカル]]でも稲作が行われている。 == 伝播の理由 == 稲作が広く行われた理由として、 * 米の味が優れており、かつ脱穀・精米・調理が比較的容易である<ref name="sasaki">佐々木高明『東アジア農耕論 焼畑と稲作』(弘文堂、1988年)P359-361</ref>。 * イネは連作が可能で他の作物よりも生産性が高く、収穫が安定している(特に水田はその要素が強い)<ref name="sasaki"/>。 * 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない<ref name="sasaki"/>。 * 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P71</ref>。 などが考えられている<ref>福田一郎、「[https://doi.org/10.2740/jisdh.6.2_2 コメ食民族の食生活誌]」『日本食生活学会誌』 1995年 6巻 2号 p.2-6, {{doi|10.2740/jisdh.6.2_2}}</ref>。 == 歴史 == === 起源 === {{Otheruses|稲の栽培史である稲作の起源|植物としてのイネの起源|イネ}} [[ファイル:Naathu Naduthal.jpg|thumb|250px|[[インド]]の田植え]] [[ファイル:Rice fields mazandaran.jpg|thumb|250px|[[イラン]]北部、[[マーザンダラーン州]]の田植え]] [[ファイル:Arroz pinda.JPG|thumb|250px|[[ブラジル]][[ブラジル南東部|南東部]][[サンパウロ州]][[パライーバ渓谷]]の水田]] [[ファイル:Kerbau Jawa.jpg|thumb|250px|[[インドネシア]]、[[ジャワ島]]の牛耕田]] [[ファイル:Planting Paddy Nepal.jpg|thumb|250px|[[ネパール]]の田植え]] 稲作の起源地は、栽培イネOryza sativa 1083品種とその起源種とされる野生イネO. rufipogon 446系統<ref name="nig1110">{{Cite journal |title=A map of rice genome variation reveals the origin of cultivated rice. |author=Xuehui Huang, Nori Kurata, Xinghua Wei, Zi-Xuan Wang, Ahong Wang, Qiang Zhao, Yan Zhao, Kunyan Liu, Hengyun Lu, Wenjun Li, Yunli Guo, Yiqi Lu, Congcong Zhou, Danlin Fan, Qijun Weng, Chuanrang Zhu, Tao Huang, Lei Zhang, Yongchun Wang, Lei Feng, Hiroyasu Furuumi, Takahiko Kubo, Toshie Miyabayashi, Xiaoping Yuan, Qun Xu, Guojun Dong, Qilin Zhan, Canyang Li, Asao Fujiyama, Atsushi Toyoda, Tingting Lu, Qi Feng, Qian Qian, Jiayang Li, Bin Han |journal=Nature |volume=490 |pages=497-501 |date=2012 |doi=10.1038/nature11532}}</ref><ref name="Kurata2012">{{Cite web |和書 |author=倉田のり |author2=久保貴彦 |title=イネの栽培化の起源がゲノムの全域における変位比較解析により判明した |website=ライフサイエンス新着論文レビュー |date=2012 |url=http://first.lifesciencedb.jp/archives/6056 |doi=10.7875/first.author.2012.139 |accessdate=2023-05-01}}</ref> などのゲノム解析や考古学的な調査により、約1万年前の[[中国]]の[[珠江]]中流域<ref name="nig1110" />あるいは[[長江]]流域<ref name="BLGross2013">{{Cite journal |author= Briana L. Gross |author2= Zhijun Zhao |title=Archaeological and genetic insights into the origins of domesticated rice |journal= PNAS |volume=111 |number= 17 |pages= 6190-6197 |doi= 10.1073/pnas.1308942110 }}</ref>と考えられている。 かつては[[雲南省]]の[[遺跡]]から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺から[[インド]][[アッサム州]]周辺にかけての地域が発祥地とされていた<ref name="nig1110"/><ref>池橋宏、「[https://doi.org/10.11248/jsta1957.47.322 イネはどこから来たか-水田稲作の起源-]」『熱帯農業』 2003年 47巻 5号 p.322-338, {{doi|10.11248/jsta1957.47.322}}</ref><ref>インドマニプール州の在来イネ品種における遺伝的多様性と亜種分化 Breeding science 46(2), 159-166, 1996-06, {{NAID|110001815365}}</ref>。 [[ゲノミクス|ゲノム解析]]の結果と、遺跡から発掘されたイネの遺物から、まず野生イネから熱帯ジャポニカ祖先系統が栽培化され、それに異なる野生系統が複数回交配してインディカ組成系統が生じ、熱帯ジャポニカ祖先系統に人為選択が加わって温帯ジャポニカ祖先系統が生まれたと考えられている<ref name=":5">{{Cite journal|last=毅|first=井澤|date=2017|title=遺伝子の変化から見たイネの起源|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan/112/1/112_15/_article/-char/ja/|journal=日本醸造協会誌|volume=112|issue=1|pages=15–21|doi=10.6013/jbrewsocjapan.112.15}}</ref>。長江流域にある[[草鞋山遺跡]]の[[プラント・オパール]]分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下る<ref>王才林、宇田津徹朗、湯陵華、鄒江石 ほか、「[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.387 プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋山遺跡(6000年前 - 現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷]」『育種学雑誌』 1998年 48巻 4号 p.387-394, {{doi|10.1270/jsbbs1951.48.387}}, {{naid|110001807929}}</ref>。ゲノム解析の結果から、白米化は野生イネが熱帯ジャポニカ祖先系統に栽培化される過程で生じ、紫黒米と餅米は熱帯ジャポニカ祖先系統から生じたと考えられている<ref name=":5" />。 === 東アジア === ==== 中国 ==== 中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は[[黄河]]流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降[[山東半島]]先端部にまで分布した。 ==== 日本 ==== 従来、紀元前5~4世紀頃に水田稲作から始まったとされていたが、現在は、[[縄文時代]]後晩期(約3000–4000年前)には水田稲作が行われていた可能性が高いと考えられている<ref>農林水産省「[https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1601/spe1_01.html 特集1 米(1)]」 『aff(あふ)』2016年1月号</ref>。水田稲作の伝来経路としては、山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされる<ref name=":4">{{Cite book|和書 |title=詳説日本史研究 |date=2017/8/31 |year=2017 |publisher=山川出版社 |pages=18-19 |isbn=978-4634010734}}</ref>が、詳細は後述する。近年は、水田稲作伝来以前からの[[熱帯ジャポニカ]]種の陸稲栽培の可能性が指摘されるようになったが、決定的な証拠は発見されていない。これも詳細は後述する。 ==== 朝鮮半島 ==== 無文土器時代前期にあたる平壌市南京里遺跡で発見されたイネが最古であるが、陸稲であった可能性が高いとされる。水田稲作に関しては[[朝鮮半島]]南部では、3100年前の水田跡が慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡から、2500年前の水田跡が松菊里遺跡で見つかっている。 ==== 結核との関連 ==== 古代の東アジアにおける[[結核]]は稲作文化とセットで中国から広まったと考えられている<ref>{{Cite news|title=記者ノート/古病理学が解き明かすもの|newspaper=[[読売新聞]] 朝刊|date=2017-02-15|at=文化面}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=5千年前の人骨に結核痕跡 中国・上海|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40872680U9A200C1CR8000/|website=日本経済新聞|date=2019-02-04|accessdate=2019-02-05|publisher=日本経済新聞}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=結核、稲作と一緒に日本へ渡来? 5千年前の人骨に痕跡:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASM216F9GM21ULZU014.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2019-02-05|publisher=朝日新聞|date=2019-02-04}}</ref>。 2019年時点では、中国・朝鮮半島・日本列島から出土した人骨にある結核による[[脊椎カリエス]]の痕跡の年代と場所の関係から、[[結核]]と稲作文化は長江流域にある広富林遺跡(現在の[[上海市]])の付近から日本に伝播した可能性が示唆されている<ref name=":0" /><ref name=":1" />。 === 東南アジア・南アジア === [[東南アジア]]、[[南アジア]]へは紀元前2500年以降に広まった<ref>Fabio Silva , Chris J. Stevens, Alison Weisskopf, Cristina Castillo, Ling Qin, Andrew Bevan, Dorian Q. Fuller (2015) Modelling the Geographical Origin of Rice Cultivation in Asia Using the Rice Archaeological Database ; PLOS ONE, published: September 1, 2015, {{doi|10.1371/journal.pone.0137024}}.</ref>。その担い手は[[オーストロネシア語族]]を話す[[ハプログループO-M95 (Y染色体)]]に属する人々と考えられる<ref>崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅 多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?』(昭和堂 2008年)</ref>。 東南アジアにおいても、稲作文化と同時に結核も伝播したという指摘がある<ref name=":1" />。 === 中央アジア・西アジア === [[トルコ]]へは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、[[インド]]から[[ペルシャ]]を経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である<ref>大野盛雄、「[https://doi.org/10.5356/jorient.35.97 現代から見た「米の道」-トルコの事例-]」『オリエント』 1992年 35巻 1号 p.97-109, {{doi|10.5356/jorient.35.97}}</ref>。 === アフリカ === 栽培史の解明は不十分とされているが、現在の[[アフリカ]]で栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ ''Oryza glaberrima'' )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ ''Oryza sativa'' )である<ref name="nettai.6.18">田中耕司, 「[https://doi.org/10.11248/nettai.6.18 アフリカのイネ,その生物史とアジアとの交流の歴史]」『熱帯農業研究』 2013年 6巻 1号 p.18-21, 日本熱帯農業学会, {{doi|10.11248/nettai.6.18}}</ref>。アフリカイネの栽培開始時期には諸説有り2000年から3000年前に、西アフリカ[[マリ共和国]]の[[ニジェール川]]内陸[[三角州]]で栽培化され、周辺国の[[セネガル]]、[[ガンビア]]、[[ギニアビサウ]]の沿岸部、[[シエラレオネ]]へと拡散したとされている<ref>Olga F. Linares, "[https://doi.org/10.1073/pnas.252604599 African rice (''Oryza glaberrima''): History and future potential.]" National Academy of Sciences. December 10, 2002 vol.99 no.25, 16360–16365, {{doi|10.1073/pnas.252604599}}</ref>。 アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 ''O. barthii'' と多年生種 ''O. longistaminata'' などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。[[植民地]]支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった<ref name="nettai.6.18" />。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種[[ネリカ]]米が開発された<ref name="Jones">Jones MP ''et al.'' (2004). "[https://doi.org/10.1023/A:1002969932224 Interspecific Oryza Sativa L. x O. Glaberrima Steud. progenies in upland rice]". ''Euphytica'', '''94''': 237-246, {{doi|10.1023/A:1002969932224}}.</ref><ref name="NERICA_1">WARDA (2008) - [http://www.warda.org/publications/nerica-comp/Nerica%20Compedium.pdf NERICA:the New Rice for Africa – a Compendium. (PDF)] P.12-13</ref>。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は<ref name=jshwr.21.0.145.0>藤巻晴行、林詩音、佐藤政良、「[https://doi.org/10.11520/jshwr.21.0.145.0 ネリカ米の耐乾性および耐塩性の評価]」『水文・水資源学会研究発表会要旨集』 第21回(2008年度)水文・水資源学会総会・研究発表会 セッションID:G-1, {{doi|10.11520/jshwr.21.0.145.0}}</ref>、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性に劣っていると報告している<ref name=jshwr.21.0.145.0 />。 [[ファイル:Campagne Riso Carpiano.jpg|サムネイル|イタリア、ミラノ近郊の水田]] === ヨーロッパ === [[ローマ帝国]]崩壊後の7世紀から8世紀に[[ムーア人]]によって[[イベリア半島]]にもたらされ、[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]近郊で栽培が始まった。しばらく後には[[シチリア島]]に伝播し、15世紀にはイタリアの[[ミラノ]]近郊の[[ポー河]]流域で、主に粘りけの少ない[[インディカ米|インディカ種]]の水田稲作が行われる<ref>{{PDFlink|[http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/review/pdf/primaffreview2005-15-6.pdf ヨーロッパのコメと稲作] 農林水産省}}</ref><ref>田渕俊雄:[https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.54.11_1013 イタリアの稲作と潅漑排水] 農業土木学会誌 Vol.54 (1986) No.11 P1013-1017,a1 {{doi|10.11408/jjsidre1965.54.11_1013}}</ref>。 === アメリカ大陸 === 16 - 17世紀にはスペイン人、ポルトガル人により南北アメリカ大陸に持ち込まれ、[[プランテーション]]作物となった{{sfn|Harold McGee |2008|p=458}}。 == 日本列島での歴史 == {{節スタブ|date=2014年2月}} イネの栽培がはじまっていたと確実視されるのは、水田遺構が発見されている縄文時代晩期から弥生時代前期であり、現在まで主要な穀類のひとつとしてイネは連綿と栽培され続けている。 === 縄文稲作の可能性 === 日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だった。[[宮城県]]の[[枡形囲貝塚]]の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、[[1925年]]の[[山内清男]]の論文「石器時代にも稲あり」が縄文稲作を指摘していたが<ref>山内清男、「[[doi:10.1537/ase1911.40.181|石器時代にも稻あり]]」『人類學雜誌』 1925年 40巻 5号 p.181-184, 日本人類学会, {{doi|10.1537/ase1911.40.181}}</ref>、後に山内は縄文時代の稲作には否定的になった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川書店、2002年)14-15頁。</ref>。しかし、[[1988年]]には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の[[風張遺跡]]で、約2800年前と推定される米粒がみつかった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』15-18頁。</ref><ref>吉崎昌一, 「[[doi:10.4116/jaqua.36.343|縄文時代の栽培植物]]」『第四紀研究』 1997年 36巻 5号 p.343-346, {{doi|10.4116/jaqua.36.343}}。</ref>。さらに、近年、縄文時代後期かそれ以前から稲を含む農耕があったとする説がまた唱えられている。 縄文時代の地層の土壌中からイネの[[プラント・オパール]](植物珪酸体化石)が発見され、縄文時代から上層の土壌でイネ属花粉が増加していることは、縄文稲作と整合的である。プラント・オパールは採取した層位から年代を特定することができ、2013年にはプラント・オパール自体の年代を測定する方法が開発されている<ref>中村俊夫、宇田津徹朗、田崎博之、外山秀一 ほか、「[[doi:10.18999/sumrua.24.123|プラント・オパール中の炭素抽出とその{{sub|14}}C 年代測定の試み]]」『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書』 v.24, 2013, p.123-132, {{hdl|2237/20152}}, {{naid|120005438138}}, {{doi|10.18999/sumrua.24.123}}</ref><ref>宇田津徹朗(2013)、[[doi:10.18999/sumrua.24.113|東アジアにおける水田稲作技術の成立と発達に関する研究 : その現状と課題(日本と中国のフィールド調査から)]]」『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書』 v.24, 2013, p.113-122, {{hdl|2237/20151}}, {{doi|10.18999/sumrua.24.113}}</ref>。縄文時代晩期の宮崎県[[桑田遺跡]]の土壌からジャポニカ種のプラント・オパールが得られた<ref>宇田津徹朗、藤原宏志、「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11087848?tocOpened=1 吉野ケ里遺跡および桑田遺跡出土試料におけるイネ(''O.satiua'')のプラント・オパール形状特性]」『日本作物学会九州支部会報』 (58), 70-72, 1991,{{naid|110001785880}}</ref>。鹿児島大学構内遺跡からは縄文時代中期の地層からプラント・オパールが得られ、これが最古のものとなる<ref name=":3">{{Cite journal|last=那須|first=浩郎|last2=ナス|first2=ヒロオ|last3=Nasu|first3=Hiroo|date=2014-07-31|title=雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態|url=https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/300|journal=国立歴史民俗博物館研究報告|volume=187|pages=95–110|language=ja|doi=10.15024/00000284}}</ref>。千葉県八千代市新川低地のボーリング調査では3700年前の地層からイネ属花粉が出現している<ref>{{Cite journal|last=晃|first=稲田|last2=岳由|first2=齋藤|last3=尊|first3=楡井|last4=祥子|first4=西村|last5=和子|first5=大浜|last6=静子|first6=金子|last7=陽子|first7=金子|last8=健二|first8=島村|last9=里美|first9=志水|date=2008|title=千葉県八千代市新川低地における完新世の植生変遷と稲作の開始時期|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua/47/5/47_5_313/_article/-char/ja/|journal=第四紀研究|volume=47|issue=5|pages=313–327|doi=10.4116/jaqua.47.313}}</ref>。 ただし、攪拌により上層から下層への混入が懸念されるため、土壌データは証拠として積極的に採用しない研究者もいる<ref name=":3" />。イネのプラント・オパールは20–60ミクロンと小さく、土壌中の生物や植物の根系などの攪拌によって下層に入りこむこともあるため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできない。[[鹿児島県]]の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、発見地層の年代を栽培の時期とすると、稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となってしまう<ref>甲元眞之, 木下尚子, 蔵冨士寛, 新里亮人, 「[https://hdl.handle.net/2298/2462 九州先史時代遺跡出土種子の年代的検討(平成14年度研究プロジェクト報告)]」『熊本大学社会文化研究』 1巻 p.72-74 2003年, {{issn|1348-530X}}</ref>。岡山県の朝寝鼻貝塚から約6000年前のイネのプラント・オパールが見つかっているが、同時にコムギのプラント・オパールも検出されており、コムギも中国よりも遥かに年代が遡ることになってしまう。 縄文稲作の有力な考古学的証拠は、イネ籾の土器圧痕と、土器[[胎土]]中のプラント・オパールである。1991年に、縄文時代後期(約4000–3000年前)に属する岡山県[[南溝手遺跡]]の土器に籾の痕が発見された<ref name=":2" /><ref>{{Cite journal|author=山本悦世|year=2012|title=縄文時代後期~「突帯文期」におけるマメ・イネ圧痕—圧痕レプリカ法による岡山南部平野における調査成果から—|journal=岡山大学埋蔵文化財調査研究センター紀要|volume=2010|pages=17-26}}</ref>。[[縄文時代]]中期(約5000–4000年前)に属する岡山県美甘村姫笹原遺跡の[[土器]]胎土内、後期に属する[[南溝手遺跡]]や岡山県[[津島岡大遺跡]]の[[土器]]胎土内から、イネのプラント・オパールが発見された<ref>{{Cite web|和書|title=変化する縄文時代観 - 岡山県ホームページ |url=https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/636561.html |website=www.pref.okayama.jp |access-date=2023-11-20}}</ref>。土壌中のプラント・オパールには、攪乱による混入の可能性もある<ref name="SEI0002_037-040">甲元眞之, 「[https://hdl.handle.net/2298/22905 稲作の伝来]」『青驪』 2巻, 2005-7-15 p.37-40, {{hdl|2298/22905}}</ref>が、砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の[[土層 (考古学)|土層]]から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』126-129頁。佐藤洋一郎『稲の日本史』26-27頁。</ref>。さらに、土器の生地となった粘土中にイネの葉が含まれていたということになるが、籾と異なりイネの葉を他地域からわざわざ持ち込む必要は考えられない<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=稲作ことはじめ - 岡山県ホームページ |url=https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/632621.html |website=www.pref.okayama.jp |access-date=2023-11-19}}</ref>。 しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。土器の年代に対し疑問が出されており<ref name="那須2014">那須浩郎, 「[[doi:10.15024/00000284|雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態)]]」『国立歴史民俗博物館研究報告』 187巻 p.95-110 2014年, 国立歴史民俗博物館, {{issn|0286-7400}}, {{doi|10.15024/00000284}}。</ref>、籾や米粒は外から持ち込まれた可能性もあり<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』17-18頁。</ref>、籾の土器圧痕は本当にイネか断定できない場合があり<ref name="那須2014" />、土器胎土中のプラント・オパールも検出できる量が僅かでコンタミネーションの懸念は払拭できない<ref>{{Cite book|和書 |title=「弥生初期水田に関する総合的研究」—文理融合研究の新展開—講演要旨集 |date=2019年3月2日 |year=2019 |publisher=奈良県立橿原考古学研究所}}</ref>。多方面からの分析が必要と指摘されている<ref name="那須2014" />。また、縄文稲作が行われたとするのであれば、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。稲作にともなう農具や水田址が見つかり、確実に稲作がはじまったと言えるのは縄文時代晩期後半以降である<ref name="那須2014" />。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』18頁。</ref>。 農具を用いない稲作として、畑での陸稲栽培<ref>外山秀一、「[https://doi.org/10.4116/jaqua.33.317 プラントオパールからみた稲作農耕の開始と土地条件の変化]」『第四紀研究』 1994年 33巻 5号 p.317-32, {{doi|10.4116/jaqua.33.317}}</ref>、特に[[焼畑農業]]が注目されている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』(岩波書店、1998年)132-134頁。佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川書店、2002年)27-28頁、39-40頁。</ref>。弥生時代に、現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』132-133頁。</ref>。しかし、陸稲栽培を示す遺構などは発見されておらず、熱帯ジャポニカも水田耕作が可能なため陸稲栽培が行われたことを強くは示さない<ref name=":3" />。陸稲栽培が行われていたとしても、他の雑穀との混作や「焼畑の稲作」あるいは「水陸未分化」であり、広い面積が田に占められたり、ひとつの場所が長期にわたって耕されるという環境にはなかった<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』角川ソフィア文庫2018年</ref>と考えられる。 === 水田稲作の伝来ルート === イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、(1)朝鮮半島経由説((1a)華北から陸伝いに朝鮮半島を縦断、(1b)山東半島から黄海を渡り遼東半島を経由し朝鮮半島を縦断、(1c)山東半島から黄海を渡り朝鮮半島南西海岸から南下)、(2)江南説(直接ルート)、(3)南方経由説の3説{{R|"jbrewsocjapan1988.87.732"}}<ref name="池橋62">池橋 宏『稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る 』p62、講談社選書</ref>ないし5説があり、山東半島から黄海を横断し朝鮮半島を経て日本に伝来した経路が有力とされる<ref name=":4" />が、[[2023年]]現在の[[農林水産省]]の最新の公式見解では「朝鮮半島南部を経由したという説、または、中国の江南地方あたりから直接伝わった説が有力ですが、台湾を経由したという説もあります。」と述べられ、朝鮮半島経由説と江南説のどちらが有力であるかについては明言されていない<ref>農林水産省「お米が日本に入ってきたルートをおしえてください。[https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0004/06.html]」2023年11月16日閲覧。</ref>。 ==== 朝鮮半島経由説 ==== 長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、紀元前5~6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとする説<ref name="池橋62" />などである。実際に、日韓合わせて最古の水稲耕作遺跡は[[蔚山市]]の[[オクキョン遺跡]]であり、日本最古の水稲耕作遺跡である[[佐賀県]][[菜畑遺跡]]からは、[[韓国]][[慶尚南道]][[晋陽郡]][[大坪里遺跡]]出土土器の系統から影響を受けた「朝鮮[[無文土器文化|無文土器]]系甕」や、朝鮮式の石包丁、鍬などが出土している<ref>藤尾慎一郎「水稲農耕と突帯文土器[https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko.html]」2023年11月17日閲覧</ref>。[[朝鮮半島]]の[[無文土器文化]]の担い手は、[[長江文明]]の流れを汲んだ[[ハプログループO-M268 (Y染色体)|Y染色体ハプログループO1b]]([[ハプログループO1b1 (Y染色体)|O1b1]]/[[ハプログループO-M176 (Y染色体)|O1b2]])であり、朝鮮半島に水稲農耕をもたらしたのも同集団であると考えられている<ref>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版、2009年)</ref>。 *2001年当時、[[佐原真]]は「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」と述べ有力であった事を示しており、[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としていた<ref>佐原真『古代を考える稲・金属・戦争』p5-p6</ref>。[[趙法鐘]]は、[[弥生]]早期の稲作は[[松菊里]]文化に由来し「水稲農耕、[[灌漑]]農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」韓半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は韓半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている<ref>趙法鐘ྂ『古代韓日関係の成立 -弥生文化の主体研究についての検討』p55 、[http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/1-03j.pdf]</ref>。 *[[分子人類学]]者の[[崎谷満]]は、[[ハプログループO1b2 (Y染色体)]]に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に[[水稲]]をもたらしたとしている<ref>『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。 *[[池橋宏]]は、[[長江]]流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5~6世紀には[[呉 (春秋)|呉]]・[[越]]を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており<ref name="池橋62">池橋 宏『稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る 』p62、講談社選書</ref>、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている<ref name="池橋62"/>。 従来、'''稲作'''は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされている。しかし、[[2005年]][[岡山県]][[彦崎貝塚]]の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲の[[プラントオパール]]がみつかっており<ref>2005年2月18日共同通信「岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、稲の[[プラントオパール]]大量発見」</ref>、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が出た<ref>2005年7月20日読売新聞、西谷正(九州大名誉教授:考古学)の論など</ref>。また、水田稲作(水稲)についても渡来時期が5世紀早まり、紀元前10世紀(約3000年前)には渡来し、長い時間をかけて浸透していった可能性が指摘されたため<ref>広瀬和雄『弥生時代はどう変わるか 歴博フォーラム 炭素14年代と新しい古代像を求めて』p169</ref>、朝鮮半島を経由する説の中にも下記のように時期や集団規模などに違いのある複数の説が登場した。しかし、稲作・水稲がそれぞれ約6000年前・約1000年前に伝播したという説は、 *約6000〜3000年前にかけての稲作は中国の[[黄河]]流域が北限である([[甲元眞之]]は、紀元前3000年以降には[[遼東半島]]、同2000年以降には[[朝鮮半島]]まで伝播したとする。[[遼東半島]]にて実際に稲が確認できる現時点で最古の例は、[[大連市]]にある双砣子3期(紀元前2000年代後半)の[[大嘴子遺跡]]、[[朝鮮半島]]の場合は[[平壌市]]にある[[無文土器文化]]時代前期(紀元前1500年代)の[[南京里遺跡]](甲元は当遺跡は水稲栽培であった可能性があると指摘している)である<ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕[https://kumadai.repo.nii.ac.jp/records/25547]」2023年11月16日閲覧</ref>)。 *プラントオパールは[[黄砂]]のように風によって飛来しただけである。 *この年代遡上説に関しては時期が確定してない。 と否定されている<ref>丸地三郎「[https://nihonkodaishi.net/knq/21mar/beginning_of_the_yayoi-period.html 弥生時代の開始時期]」『季刊「古代史ネット」第2号』古代史ネットワーク、2021年。</ref><ref>新井宏「[https://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku292.htm 炭素14年代法と古墳年代遡上論の問題点]」『第292回特別講演会』、季刊邪馬台国の会、2021年6月29日閲覧。</ref><ref>鷲崎弘朋「[http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/ronbun1.html 木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について]」『東アジアの古代文化』136号、[[大和書房]]、2008年。</ref><ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕[https://kumadai.repo.nii.ac.jp/records/25547]」2023年11月16日閲覧</ref>。 * [[広瀬和雄]]は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている<ref>広瀬和雄『弥生時代はどう変わるか 歴博フォーラム 炭素14年代と新しい古代像を求めて』p169</ref>。 *[[藤尾慎一郎]]は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている<ref>藤尾慎一郎『<新>弥生時代 500年早かった水田稲作』p34</ref>。 *山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは[[支石墓]]を伴った[[全羅南道]]の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない[[慶尚道]]の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている<ref>広瀬和雄『弥生時代はどう変わるか 歴博フォーラム 炭素14年代と新しい古代像を求めて』p172</ref>。 *[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]は、[[2010年]]のインタビュー記事では「約1万前に中国の長江流域で始まったと推定される稲作は、中国大陸から、もしくは朝鮮半島を経由して日本に伝わりましたが、それがいつ頃なのかははっきり分かりません。」、[[2001年]]のインタビュー記事にて「私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。」と述べている<ref>at home こだわりアカデミー「稲のたどってきた道[https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html]」</ref><ref>日本内閣府「米が育んだ日本の歴史と文化[https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202011/202011_01_jp.html]」2023年11月16日閲覧。</ref>。 ==== 江南説(対馬暖流ルート) ==== 農学者の[[安藤広太郎]]によって提唱された中国の[[長江]]下流域から直接稲作が日本に伝播されたとする説<ref>蔡鳳書、[http://id.nii.ac.jp/1368/00000682/ 「山東省の古代文化と日本弥生文化の源流 : 考古学資料を中心として」] 『日本研究』 25, 263-277, 2002-04, {{doi|10.15055/00000682}}</ref><ref>今西一、「[https://hdl.handle.net/10252/5129 稲作文化と日本人-日本史雑記貼1-]」 小樽商科大学 『大学進学研究』 6巻 2号 p.58-61, 1984-07, {{hdl|10252/5129}}, {{naid|120005255466}}</ref><ref>「稲の日本史」著:佐藤洋一郎 角川選書 2002/6 ISBN 978-4047033375, p99</ref>。考古学者では、[[八幡一郎]]が「稲作と弥生文化」(1982年)で「[[呉楚七国の乱]]の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており<ref>賀川光夫、[http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=dk03104 「西日本の土偶出現期と土偶の祭式」] 『別府大学紀要』 No.31 (1990.1), p.1-10, 別府大学会, {{issn|02864983}}。</ref>、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。気候による耕作穀物の境界になる[[秦嶺・淮河線]]および、弥生時代の炭化米と日中韓のイネの在来種の遺伝子分布、弥生時代と長江文明の文化的類似性が、江南説を支持する者がよく列挙する根拠である。 江南説を支持する者は「中国北方や朝鮮半島では気候が寒冷であるため稲作は伝播しなかった」と主張する場合があるが、5000年から4000年前の竜山文化に属する山東省膠州市趙家荘遺跡では水田跡が発見されており、現在では小麦地帯に入る[[山東半島]]で稲作が行われていた他、[[甲元眞之]]によって紀元前3000年以降にはさらに北方の[[遼東半島]]{{efn|[[大連市]]にある双砣子3期(紀元前2000年代後半)の[[大嘴子遺跡]]}}、同2000年以降には[[朝鮮半島]]{{efn|[[平壌市]]にある[[無文土器文化]]時代前期(紀元前1500年代)の[[南京里遺跡]]}}まで伝播したと明らかになっている。気候を理由に江南説は支持されない。 近代的な育種により品種改良された改良種よりも前から栽培され、自家採種により世代交代をしていたという定義での在来稲および近畿の遺跡から発掘された弥生時代の炭化米に、朝鮮半島の在来稲にない遺伝子を持つと言う意味で「中国から直接伝来したタイプの稲」と考えられる品種は確認されているものの、'''それらが日本の稲作の始まりで栽培されていた証拠は存在しない'''。2002年に農学者の[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)の[[マイクロサテライト|SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー]]領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類の[[DNA]]多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いことや、日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを指摘した。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心である<ref>「稲の日本史」著:佐藤洋一郎 角川選書 2002/6 ISBN 978-4047033375, P104〜p106</ref>。これは日本育種学会の[[追試]]で再現が確認された<ref>平野 智之、飛奈 宏幸、佐藤 洋一郎、『日中韓の水稲品種のマイクロサテライト多型』 育種学研究 Breeding research 2(2), 233, 2000-09-25, {{NAID|10006112180}}</ref><ref>大越昌子、胡景杰、石川隆二、藤村達人、「[[doi:10.1270/jsbbr.6.125|マイクロサテライトマーカーを用いた日本の在来イネの分類]]」『育種学研究』 Vol.6 (2004) No.3 p.125-133, {{DOI|10.1270/jsbbr.6.125}}, p.126</ref>。ただしこれは「日本に伝来したRM1-a、RM1-b、RM1-cのうち、朝鮮半島に見られない(中国から直接伝播したと考えられる)RM1-bが割合的に最も多い」ことを示しているだけであり、「中国からの直接伝播が日本における稲作の始まりであり、朝鮮半島からは伝播しなかった(あるいは日本から朝鮮半島に稲作が伝播した)」と証明できたわけではない。日本では中世から近世にかけて西日本を中心にインディカ米の一種の大唐米([[占城稲]])の栽培が広まっていたことが知られており<ref>{{Cite journal|last=小川|first=正巳|date=2007-09|title=江戸時代におけるインディカ型のイネ|url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564288651499264|journal=農業および園芸 = Agriculture and horticulture|volume=82|issue=9|pages=967–980|language=ja}}</ref><ref>{{Cite journal|last=富雄|first=猪谷|last2=正巳|first2=小川|date=2004|title=わが国における赤米栽培の歴史と最近の研究情勢|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcs/73/2/73_2_137/_article/-char/ja/|journal=日本作物学会紀事|volume=73|issue=2|pages=137–147|doi=10.1626/jcs.73.137}}</ref>、自殖性の高いイネでも条件に応じて1%未満から5%程度の自然交雑が起きる<ref>{{Cite journal|last=OECD|date=2022-05-03|title=Biology of Rice (Oryza sativa)|url=https://www.oecd-ilibrary.org/environment/safety-assessment-of-transgenic-organisms-in-the-environment-volume-9_e13a54f7-en|location=Paris|language=en|doi=10.1787/e13a54f7-en}}</ref>。佐藤自身も、2010年のインタビュー記事では「約1万前に中国の長江流域で始まったと推定される稲作は、中国大陸から、もしくは朝鮮半島を経由して日本に伝わりましたが、それがいつ頃なのかははっきり分かりません。」、2001年のインタビュー記事では「私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。」と述べており、伝播の経路について明確な主張を行っていない<ref>日本内閣府「米が育んだ日本の歴史と文化[https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202011/202011_01_jp.html]」2023年11月16日閲覧。</ref><ref>at home こだわりアカデミー「稲のたどってきた道[https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html]」2023年11月16日閲覧</ref>。2008年、[[農業生物資源研究所]]の研究チームが、イネの粒幅を決める遺伝子qSW5を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、ジャポニカ米の起源が東南アジアで、中国で温帯ジャポニカが生まれ、日本に伝播した新しい仮説を提案している<ref name="nias.h20.Shomura">井澤毅、正村純彦、小西左江子、江花薫子、矢野昌裕、{{PDFlink|[http://www.nias.affrc.go.jp/seika/nias/h20/h20pdf.pdf コメの粒幅を大きくしたDNA変異の同定とイネ栽培化における役割の解明 (平成20年度の主な研究成果)] 農業生物試験研究所}}</ref><ref>Ayahiko Shomura, Takeshi Izawa, Kaworu Ebana, Takeshi Ebitani, Hiromi Kanegae, Saeko Konishi & Masahiro Yano, [http://www.nature.com/ng/journal/v40/n8/full/ng.169.html Deletion in a gene associated with grain size increased yields during rice domestication.] Nature Genetics 40, 1023 - 1028 (2008)Published online: 6 July 2008 ,{{DOI|10.1038/ng.169}}</ref>が、中国から日本への伝播経路については言及はない。 長江文明が朝鮮半島の遺跡より、弥生時代の遺構に類似しているとは言えない。農具、武器、土器は、朝鮮半島の発掘物に酷似したものが見られる<ref>{{Cite journal|last=李|first=亨源|last2=Yi|first2=Hyungwon|date=2014-02-28|title=韓半島の初期青銅器文化と初期弥生文化 : 突帯文土器と集落を中心に|url=https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/280|journal=国立歴史民俗博物館研究報告|volume=185|pages=63–92|language=ja|doi=10.15024/00000264}}</ref>ものの、長江文明では見られない。朝鮮半島では見られない[[高床式倉庫|高床倉庫]]が長江文明と弥生時代の遺跡で確認できるが、世界各地で見られる技術であり、日本でも水田稲作伝播前の縄文時代中期には確認できる。 江南説を前提として「朝鮮半島には陸稲のみが伝えられて、水稲は日本が朝鮮に伝えたものである」という主張も存在するが、朝鮮半島経由説で述べたとおり、朝鮮半島の水田の方が時代が遡るので支持されない。甲元眞之は[[平壌市]]にある[[無文土器文化]]時代前期(紀元前1500年代)の[[南京里遺跡]]では水稲農耕が行われていたと指摘している。加えて、[[蔚山市]]にある[[オクキョン遺跡]](紀元前1000年頃)は、日韓合わせて最古の水田遺跡である。日本最古の水稲農耕の遺跡は、[[佐賀県]]の[[菜畑遺跡]](紀元前930年頃)である<ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕[https://kumadai.repo.nii.ac.jp/records/25547]」2023年11月16日閲覧</ref>。 ==== 南方経由説(黒潮ルート) ==== [[柳田國男]]の最後の著書「海上の道<ref>『海上の道』 著:柳田國男 岩波文庫 1978/10 ISBN 978-4003313862</ref>」で提唱した中国の[[長江]]下流域からの[[南西諸島]]を経由して稲作が日本に伝播されたとする説。 [[石田英一郎]]、[[可児弘明]]、[[安田喜憲]]、[[梅原猛]]などの民俗学者に支持され<ref>佐々木高明、「[https://doi.org/10.15021/00003911 戦後の日本民族文化起源論―その回顧と展望―]」『国立民族学博物館研究報告』 34(2): p.211–228 (2009), {{doi|10.15021/00003911}}</ref><ref>『森の思想が人類を救う』 著:梅原猛 小学館 (1995/03), ISBN 978-4094600704, p178</ref>。[[佐々木高明]]が提唱した[[照葉樹林文化論]]も柳田の南方経由説の強い影響を受けている<ref>「南からの日本文化」(上・下)佐々木 高明</ref>。 [[北里大学]]の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称される[[ALDH2]](2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘しており<ref>[http://mainichi.jp/articles/20161221/dde/018/040/023000c 「歴史の鍵穴 酒に弱い人の遺伝子 中国南部から伝来か=専門編集委員・佐々木泰造」] 毎日新聞 2016年12月21日</ref>、生化学の観点からは[[渡部忠世]]や佐藤洋一郎が陸稲('''熱帯ジャポニカ''')の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している<ref>稲の日本史 (角川選書)P66 遺伝子の分布と稲の渡来</ref><ref>カガヤン河下流域の考古学調査 ―狩猟採集民と農耕民の相互依存関係の歴史過程の解明― 「黒潮文化」青柳洋治の項目</ref>。 しかしながら、考古学の観点からは沖縄の[[沖縄県の歴史#沖縄貝塚文化|貝塚時代]]に稲作の痕跡がないことから、南方ルート成立の可能性は低いとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-12480028/124800282003kenkyu_seika_hokoku_gaiyo/|title=縄文時代における稲作伝播ルートに関する実証的研究|accessdate=2021/07/19|publisher=科学研究費助成事業データベース(国立情報学研究所)}}</ref>。 === 古代の稲作 === [[File:Nakanishi Site (Gose) in 2019-2.jpg|thumb|250px|right|{{center|[[弥生時代]]前期の[[小区画水田]]の例}}{{small|中西遺跡(奈良県[[御所市]])2019年発掘調査時}}]] 現在、確認されている最古の水田跡は今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃の佐賀県の[[菜畑遺跡]]で、これは[[干潟]]後背の海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画された小規模(10~20平方メートル)のものであった。農耕具としては石庖丁、扁平片刃石斧、蛤刃石斧、磨製石鏃などが出土している<ref>{{Cite web|和書|title=国指定史跡 菜畑遺跡 |url=https://www.city.karatsu.lg.jp/manabee/kyoiku/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazaihogo/nabatakeiseki.html |website=唐津市 |access-date=2022-04-25 |language=ja |last=唐津市}}</ref>。 同時代頃の宮崎県の[[坂元遺跡]]からも水田跡が発掘され、九州北部に伝わった水田稲作が大きな時間をあけずに九州南部まで伝わったことを示している。 本州最北端の[[青森県]]の[[砂沢遺跡]]から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている<ref name="jbrewsocjapan1988.87.732">佐藤洋一郎、「日本のイネの伝播経路」『日本醸造協会誌』 87巻 10号 1992年 p.732-738, {{doi|10.6013/jbrewsocjapan1988.87.732}}</ref><ref>公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構 [http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html]</ref>。弥生時代の中期には種籾を直接本田に撒く直播栽培からイネの[[苗]]を植える[[田植え]]へ変化し、北部九州地域では農耕具も石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。古墳時代には鉄器が日本全土へ広く普及すると共に土木技術も発達し、[[茨田堤]]などの[[灌漑]]用の[[ため池]]が築造された。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2・3メートルの[[畦畔]]に囲まれ、一面の面積が最小5平方メートル程度の[[小区画水田]]と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田地帯を形成するものだった<ref>若狭 2013 pp.68~71</ref>。 [[律令制|律令体制]]導入以降の朝廷は、水田を[[条里制]]によって区画化し、国民に一定面積の水田を[[口分田]]として割りあて、収穫を納税させる[[班田収授制]]を652年に実施した。以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の[[地租改正]]にいたるまで日本の租税の基軸となった。[[稲作儀礼]]も朝廷による「[[新嘗祭]]」「[[大嘗祭]]」などが平安時代には整えられ、民間でも稲作の[[予祝儀礼]]として[[田楽]]などが行われるようになった。大分県の[[田染荘]]は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。 === 中世の稲作 === [[鎌倉時代]]になると西日本を中心に[[牛馬耕]]が行われるようになり、その糞尿を利用した厩肥も普及していった。また、西日本を中心に夏に水田で水稲を栽培し、冬は水を落とした畑地化にして麦を栽培する水田の米麦[[二毛作]]が行われるようになった。[[室町時代]]には、日照りに強く降水量の少ない土地でも良く育つ[[占城稲]]が中国から渡来し、降水量の少ない地域などで生産されるようになったが、味が悪いためかあまり普及しなかった。戦国時代になると、[[大名]]たちは[[新田開発]]のための大規模な工事や水害防止のための河川改修を行った。[[武田信玄]]によって築かれた[[山梨県]][[釜無川]]の[[信玄堤]]は、その技術水準の高さもあり特に有名である。また、農業生産高の把握するため[[検地]]も行われた。天下を掌握した[[豊臣秀吉]]が全国に対して行った[[太閤検地]]によって、土地の稲作生産量を石という単位で表す[[石高制]]が確立し、農民は石高に応じた租税を義務付けられた。この制度は江戸幕府にも継承され、武士階級の格付けとしても石高は重視されていた。 === 近世の稲作 === [[ファイル:Riziere Oki.jpg|thumb|[[浮世絵]]に描かれた田植え風景]] 江戸時代は人口が増加したため、為政者たちは[[利根川]]や[[信濃川]]など手付かずだった大河流域の湿地帯や氾濫原で[[新田]]の開墾を推進し、傾斜地にも[[棚田]]を設けて米の増産を図った。幕府も[[見沼代用水]]や[[深良用水]]などの農業用用水路を盛んに設けたり、[[諸国山川掟]]を発して山林の伐採による土砂災害を防ぐなどの治水に勤めた。その結果、16世紀末の耕地面積は全国で150万町歩、米の生産量は約1800万石程度だったものが、18世紀前半の[[元禄]]ならびに[[享保]]時代になると、耕地面積が300万町歩、生産量も2600万石に達した<ref>公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構 3-1 水の供給技術の進歩が米の増産につながった [http://www.komenet.jp/bunkatorekishi03/30.html 水の供給技術の進歩が米の増産につながった] 米穀安定供給確保支援機構</ref>。農業知識の普及も進み、[[宮崎安貞]]による日本最古の体系的農書である[[農業全書]]や[[大蔵永常]]の[[農具便利論]]などが出版されている。地方農村では[[二宮尊徳]]や[[大原幽学]]、[[渡部斧松]]などの農政学者が活躍した。農具も発達し、[[備中鍬]]や穀物の選別を行う[[千石通し]]、脱穀の[[千歯扱]]などの農具が普及した。肥料としては人間の排泄物が利用されるようになり、[[慶安の御触書]]でも[[雪隠]]を用意して、糞尿を集めるように勧めている。また、江戸時代は寒冷な時期が多く、[[やませ]]の影響が強い東北地方の太平洋側を中心に[[江戸四大飢饉|飢饉]]も多発しており、江戸時代からは[[北海道]][[渡島半島]]で稲が栽培され始まったが、その規模は微々たるものであった。 === 近代の稲作 === [[ファイル:Rice Fields - Plowing Up The Soup, in Japan (1914 by Elstner Hilton).jpg|サムネイル|農耕馬を使った大正時代の代掻き]] [[ファイル:Rice Fields - Rice Being Replanted in Japan (1914 by Elstner Hilton).jpg|サムネイル|大正時代の田植えの様子]] 明治時代に入ると、柔らかい湿地を人間が耕す方法から硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行わるようになった。肥料も排泄物ではなく[[干鰯]]や[[鰊粕]]、[[油粕]]など[[金肥]]と呼ばれる栄養価の高いものが使われるようになっていった。交通手段の発達を背景に、各地の篤農家([[老農]])の交流も盛んになり、江戸時代以来の在来農業技術の集大成がなされた([[明治農法]])。ドイツから派遣された[[オスカル・ケルネル]]らによって西洋の科学技術も導入され[[農業試験場]]などの研究施設も創設された。稲の品種改良も進み、[[コシヒカリ]]の先祖にあたる[[亀の尾]]などの品種が作られた。 江戸時代から北海道南部([[道南]])の[[渡島半島]]南部では稲作が行われていたが、明治に入ると[[道央]]の[[石狩平野]]でも栽培されるようになった。[[中山久蔵]]などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行い、かつて不毛の[[泥炭地]]が広がっていた石狩平野や[[上川盆地]]は広大な水田地帯に変じ(道央水田地帯)、新潟県と一二を争う米どころへ変化していく。 こうして昭和初年には、米の生産高は明治11〜15年比で2倍以上に増加したが<ref>持田恵三[http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/nosoken/nogyosogokenkyu/pdf/nriae1969-23-1-1.pdf 米穀市場の近代化] ,{{naid|40003119227}}</ref>、それにもかかわらず昭和初期には幕末の3倍近くにまで[[人口爆発|人口が膨れ上がった]]ことにより、日本内地の米不足は深刻であり、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]や[[日本統治時代の台湾|台湾]]からの米の移入で不足分を賄い、それでも足りないので南米や満州へ移民を送り出す有様となった。 === 現代の稲作 === 戦後、技術の発展により国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。[[1960年代]]以降、食生活の多様化により一人当たりの米の消費量の減少が進み、[[1970年]]を境に米の生産量が消費量を大きく越え、米余りの時代に突入。政府によって[[減反政策]]などの生産調整が行われるようになった。 == 日本における栽培技術と品種改良 == {{節スタブ|date=2014年2月}} 品種改良は当初[[耐寒性]]の向上や収量増を重点に行われた。近代的育種手法で育成されたイネのさきがけである[[陸羽132号]]は耐寒性が強く多収量品種であったことから、[[昭和農業恐慌|昭和初期の大冷害]]の救世主となり、その子品種である[[水稲農林1号]]は第二次世界大戦中・戦後の食糧生産に大きく貢献した。特筆すべきは陸羽132号、農林1号は食味に優れた品種でもあったことで、その系統を引く[[コシヒカリ]]など冷涼地向きの良食味品種が普及することにより、日本の稲作地帯の中心は北日本に移っていき、日本の稲作地図を塗り替えることになった。 「米余り」となった1970年以降、稲の品種改良においては、従来重点をおかれていた耐寒性や耐病性の強化から、食味の向上に重点をおかれるようになった。1989年から1994年の間、農林水産省による品種改良プロジェクト[[スーパーライス計画]]が行われ、[[ミルキークイーン]]などの[[低アミロース米]]が開発された<ref>春原嘉弘, 「{{PDFlink|[http://www.naro.affrc.go.jp/org/tarc/to-noken/DB/DATA/e03/e03-005.pdf スーパーライス計画の背景と展望]}}」『東北農業研究』 別号 3 p.5-13 1990年(平成2年)12月</ref>。 21世紀には[[西日本]]を中心に猛暑日が増え、高温による稲の登熟障害や米の品質低下が問題となっている<ref>[https://www.ondanka-net.jp/index.php?category=measure&view=detail&article_id=71 農業温暖化ネット/水稲の登熟不良(白未熟粒、充実不足の発生)]</ref>。耐高温品種の育成、高温条件下に適合した稲栽培技術の確立が急がれている。 == 方式 == === 二期作と二毛作 === * [[二期作]] - 1年の間に2回稲作を行うこと。減反政策などで行われなくなったが、[[2004年]]頃から、[[四国地方]]で復活している。 * [[二毛作]] - 稲作の終了後、[[コムギ|小麦]]など、他の[[食料]]を生産すること。 気候的に可能な場合は三毛作も行われている。 === 水田稲作と陸稲 === ==== 水稲 ==== 稲の水田による栽培を水田稲作と呼び、水田で栽培するイネを'''水稲'''(すいとう)という。 [[田]]に水を張り(水田)、底に苗を植えて育てる。日本では、種(種籾)から苗までは土で育てる方が一般的であるが、[[東南アジア]]などでは、水田の中に種籾を蒔く地域もある。深い水深で、人の背丈より長く育つ栽培品種もある。畑よりも、水田の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどが、水田を使っている。水田による稲作は、他の穀物の畑作に比べ、[[連作障害]]になりにくい。 ==== 陸稲 ==== {{main|陸稲}} 畑で栽培される稲を'''陸稲'''(りくとう、おかぼ)という。 水稲ではほとんど起こらないが、同じ土壌で陸稲の栽培を続けると連作障害が発生する<ref>陸稲の連作障害に関する研究 日本土壌肥料学会講演要旨集 (4), 13-14, 1958-04-01, {{NAID|110001768016}}</ref>。 === 栽培法 === 初めに田畑にじかに'''種もみ'''を蒔く'''直播(じかまき)栽培'''と、仕立てた苗を水田に植え替える'''[[苗代]](なわしろ/なえしろ)栽培'''がある。 * [[移植栽培]] * [[不耕起移植栽培]] * [[不耕起直播栽培]] * [[湛水直播栽培]] == 手順 == [[ファイル:Rice-planting-machine,katori-city,japan.JPG|thumb|250px|(春)乗用[[田植機]]による田植え]] [[ファイル:Oryza sativa Rice sprouts ja01.jpg|250px|thumb|(初夏)田植え後の水田]] [[ファイル:Ine inaho.jpg|250px|thumb|(秋)稲穂]] [[ファイル:Rice-combine-harvester, Katori-city, Japan.jpg|thumb|250px|(秋)[[自脱型コンバイン]]による稲刈り]] [[ファイル:IwateGarben.JPG|250px|thumb|(秋)刈田と稲の天日干し(稲杭掛け)]] [[ファイル:Ine karita.jpg|250px|thumb|(秋)刈田と稲の天日干し(稲架掛け)]] === 古くからの伝統的な方法 === # 田の土を砕いて[[緑肥]]などを鋤き込む([[田起こし]])。 # [[圃場]]に水を入れさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。 # 苗代(なわしろ/なえしろ)に稲の種・[[種籾]](たねもみ)をまき、[[種子|発芽]]させる([[籾撒き]])。 # 苗代にてある程度育った稲を本田(圃場)に移植する(田植え)。※明治期以降は田植縄や田植枠(田植定規)などによって整然と植え付けがなされるようになった。 # 定期的な[[雑草]]取り、肥料散布等を行う。 # 稲が実ったら刈り取る([[稲刈り]])。 # [[稲木]]で[[天日干し]]にし乾燥させる。※稲架(馳)を使用したハセ掛け、棒杭を使用したホニオ掛けなど # [[脱穀]]を行う([[籾]]=もみにする)。 # [[籾摺り]](もみすり)を行う([[玄米]]にする)。 # 精白(搗精)を行う([[白米]]にする)。 === 最近の一般的な方法 === # まず、[[育苗箱]]に稲の種・種籾(たねもみ)まき、[[育苗器]]で発芽させる。 # 次に、[[ビニールハウス]]に移して、ある程度まで大きく育てる。 # [[トラクター]]にて、田の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)。 # 圃場に水を入れ、トラクターにてさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。小学生などの体験授業で代掻きの代わりに泥遊びをすることもある。この場合も、土は細かくなる。 # 育った苗を、[[田植機]](手押し又は乗用)で、本田に移植する(田植え)。 # 定期的な[[雑草]]取り、[[農薬]]散布、肥料散布等を行う(専用の[[農業機械]]を使う)。 # 稲が実ったら稲刈りと脱穀を同時に行う[[コンバインハーベスター|コンバイン]]で刈り取る。 # 通風型の[[穀物乾燥機|乾燥機]]で乾燥する(水分量15%前後に仕上げるのが普通)。 # [[籾すり機]]で籾すりを行う(玄米)。 # 精米機にかける(白米)。 * 上記方法が標準方法というわけではない。その中でも栽培に関しては、さまざまな方法がみられる。特に、1,2で述べられている育苗の方法は、地域や播種時期、品種、農家の育苗思想・主義などからきわめて多様である。 * 稲作には従来より[[除草剤]]を使用してきた。近年{{いつ|date=2012年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の[[無農薬]]栽培法では除草剤を使用しないことがあるので、[[ノビエ]]など[[イネ科]]の雑草を手作業で除草しなくてはならなくなることがある。 === 生育段階 === * 育苗期 # 播種期 # 出芽期 # 緑化期:発芽器を使用しない、または発芽器から出した後にハウスなどで育苗・養生しない場合、緑化期はない # 硬化期 * 本田期 # 移植期 # 活着期 # [[分蘖]]期 # 最高分蘖(げつ)期 # 頴花分化期 # 幼穂形成期<br/>この時期は低温に弱く、やませの常襲地帯では深水管理が推奨されている。 # 減数分裂期<br/>花粉の基礎が形成される時期で、この時期にやませに遭うと障害型冷害が発生しやすい。 # 穂孕み期 # 出穂始期:圃場出穂割合10 - 20% # [[出穂期]](出穂盛期):圃場出穂割合40 - 50% # 穂揃い期:圃場出穂割合80 - 90% # [[開花期]]※稲は出穂しながら抽出した先端から順次開花をする # 乳熟期<br/>この時期、猛烈な残暑に襲われると玄米の品質が低下する。 # 黄熟期 # 傾穂期 # 登熟期(糊熟期) # 成熟期 === 日程の例(鳥取県地方の早期栽培) === {| class="wikitable" |- |4/2 - 5 |発芽器で苗を発芽・育成(育成に3日間必要)<br/>育てた苗は畑の小さいハウスに移動し、田植えまでそのまま育てる。 |- |4/16 |耕起(田起こし)。土を[[耕うん機]]で耕すこと。田には水は入れない。 |- |4/17 - 29 |荒かき。田に水を入れて土を耕うん機で耕す。 |- |4/30 |代掻き。土をさらに細かくする。田植えの3 - 4日前に実施。 |- |5/3,4,5 |田植え。[[田植え機]]使用による機械移植。 |- |5/7 |除草剤振り1回目。田植え後1週間以内に実施。 |- |5/13 |[[追肥]]。田植え後10日以内に実施。稲の元気が出るため。 |- |5/28 |除草剤振り2回目。田植え後25日以内に実施。<br/>草刈。 |- |6月 |[[防除]](=[[カメムシ]]、[[イモチ]]など病害虫の駆除)1回目。出穂前に実施。<br/>防除2回目。出穂後の穂ぞろい期に実施。 |- |7/23 - 8/6 |穂肥(ほごえ)のための肥料まき1回目。 |- |8/13 | ↑ 2回目 |- |9/2,3 |稲刈り。 |} === 不耕起栽培 === {{Main|不耕起栽培}} 省力化を主な目的とした水田や畑を耕さないまま農作物を栽培する農法である<ref>中山秀貴、 佐藤紀男、「[https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010672761 水稲無代かき栽培による生育収量と土壌理化学性の改善]」『東北農業研究』 54号 p.51-52, 2001-12, {{NAID|80015345064}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.applenet.jp/~gosyo-aec/Kanden_M.pdf 西北地域 水稲乾田直播栽培マニュアル 平成21年3月] 青森県 西北地域県民局 地域農林水産部普及指導室}}</ref>。 ==== 冬季代かきによる方法例 ==== <ref>濱田千裕、中嶋泰則 ほか、「[https://doi.org/10.1626/jcs.76.508 水稲における不耕起V溝直播栽培の開発 -「冬季代かき」による栽培の安定化]」『日本作物学会紀事』 2007年 76巻 4号 p.508-518, 日本作物学会, {{doi|10.1626/jcs.76.508}}</ref>生産コスト低減と収量安定を目的とした栽培方法。普及段階の栽培方法で、「耕作者による差や地域差を抑え平均した生育・収量が期待できる」として期待されているが、地域の利水権、水利慣行など導入に際し解決すべき問題も多い。 # 12月 - 翌年3月に代掻きをし、水が澄むのをまって水を落とす。 # 圃場が固くなってから、溝に直接[[肥料]]と種籾を播く。 # 2 - 3葉期を過ぎたら水を張る。 # 必要に応じ、中干しを行う。 ==== 米ヌカを播く方法例 ==== <ref>[http://www.ruralnet.or.jp/gn/200211/ine.htm 不耕起有機栽培で10俵どり!?]{{リンク切れ|date=2015年5月}}月刊 現代農業 2002年11月号</ref><ref>會川香菜子、{{PDFlink|[http://agri.mine.utsunomiya-u.ac.jp/hpj/deptj/plaj/Labo/Crop/ronbun/08aikawa.pdf 水稲有機栽培における米ぬか表面散布および再生紙マルチの除草効果と水稲の生育・収量]}} 宇都宮大学農学部 卒業論文</ref> # 1月に米[[ヌカ]]をまいて、水を溜める(湛水)。 # 3 - 4月に一旦水を抜き、耕す(但し、状態によっては不要)。 # 再度湛水し、田植え。 # 必要に応じ、中干しを行う。 # 稲刈り後、湛水([[冬期湛水]])。 == 稲作文化 == === 稲作文化 === 稲作文化は稲を生産するための農耕技術から稲の[[食文化]]、稲作に関わる儀礼祭祀など様々な要素で構成されている。 農耕技術では稲作のための[[農具]]や収穫具、[[動物]]を用いた[[畜力]]利用や、水田の形態、田植えや施肥などの栽培技術、虫追いや鳥追い、[[カカシ]]など鳥獣避けの文化も存在する。また、穂刈したあとの[[藁]]は様々な用途があり、藁細工や信仰とも関わりが深い。食文化では[[粥]]や[[強飯]]、[[餅]]や[[ちまき]]など多様な食べ方・調理法が存在した。また、高倉などの[[貯蔵]]法や、[[醸造]]して[[酒]]にするなど幅広い利用が行われていた。水田の光景は、[[日本]]の伝統的文化の1つといえ、日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、[[田遊び]]・田植・[[田植踊]]・[[御田祭]]・[[御田植]]・[[御田舞]]等、[[豊作]]を祈るための多くの[[予祝儀式]]・[[収穫祭]]・[[民俗芸能]]が[[伝承]]されている。 [[宮中祭祀]]においても[[天皇]]が[[皇居]]の[[御田]]で収穫された[[稲穂]]を[[天照大神]](アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝する[[新嘗祭]]がおこなわれている。天皇徳仁は、<!--昭和天皇の代から??-->皇居内生物学研究所などで、水稲手蒔き、田植え、稲刈りをみずからおこなっている(宮内庁サイト)。尚、漢字の「年」は、元々は「秊」(禾 / 千)と表記された字で、部首に「禾」が入っている点からも解るように、稲を栽培する周期を1年に見立てていた。 === 水田稲作農耕のもつ高い持続性 === 水田稲作農耕がその地の環境に与える負荷は限定的である。数千年間にわたって東アジア・東南アジアの各地で水田稲作農耕が行われてきているが、農地が耕作不能になった例はあまり知られていない。麦作が引き起こしてきた土壌破壊の歴史と比べて注目に値する。 水田環境は、1000種を超える生物多様性を擁する「時空間的に安定した一時的湿地あるいは水辺」ととらえることができ、代替的自然としての高い持続性・安定性を評価できる<ref name="Hidaka1998">{{Cite journal |author=日鷹一雅 |title=水田における生物多様性保全と環境修復型農法 |journal=日本生態学会誌 |volume=48 |pages=167-178 |date=1998 |doi=10.18960/seitai.48.2_167}}</ref> <!--=== 弥生草創期、縄文晩期における、考古学・民俗学・遺伝学における事実 === {{出典の明記|date=2019年9月|section=1}} ===== 考古学 ===== ====== 農耕具加工 抉入片刃石斧 ====== 縄文時代、稲の遺物であるプラントオパールはBC4500年ころから数多く見つかっている<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』、佐藤洋一郎『稲の日本史』</ref>。しかし、稲作の道具は、焼き畑をする南方の人が使うこん棒の様な穴掘り器具だけで、それ以外の水田稲作の農具は、縄文時代には存在していない<ref>プラントオパールや道具は、佐藤洋一郎「稲の日本史」など、縄文の本にはほとんどすべて書いてある</ref>。そして、弥生時代、稲作の完成された農耕具が多数発見された。この農具は、大陸と半島で共通し、どちらから来たとも言えない。 しかし、半島由来を確定させる決定的な証拠がある。それは、抉入片刃石斧で、抉り入りは半島で改良追加されたものである。考古学者は、この農具で水田稲作が半島由来とし、考古学者で水田稲作が大陸から直接伝来したと考えるものは少ない<ref>考古学の巨人、佐原真『古代を考える稲・金属・戦争』など、ほとんどの考古学、古代史の書籍で触れられている。</ref>。 *抉入片刃石斧は半島独自で、他の日本の弥生時代の多くの農具は、大陸と半島で共通している。この抉り入りが、農具が半島から来た決定的な証拠とされる。 *ただし、石器のほぼ半数は、打製で縄文時代からの石器を使っている。半島や大陸からの石器は磨製石器である。抉り入りは、磨製石器の一つである。 ====== 支石墓と甕棺 ====== また、九州の北西部には、半島に固有の支石墓が見つかっている。しかし、一つの問題は、九州の北西部において、初期の支石墓では、水田稲作の跡が全くないことである<ref>もみ殻が出るのは、他の縄文時代と同じで、水田が無い。</ref>。要するに、水田の無い支石墓でしかない<ref>九州や半島南部での遠洋漁業者の交流で、支石墓が造られたという意見もある。</ref>。そして、支石墓と菜畑の関係は次である。 *菜畑は支石墓の地域である。しかし、菜畑遺跡の墓という証拠はない。むしろ菜畑遺跡で発見された墓は土壙墓・甕棺墓で伝統的な日本の墓である。<ref>甕棺の一般は、藤尾 慎一郎「九州の甕棺-弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」</ref> *初期の支石墓は水田が伴わず、逆に、最初の水田を持つ菜畑遺跡など初期の遺跡には、支石墓がない。 甕棺に関してさらに次がある。北九州西部の支石墓には、甕棺が収められ、甕棺の内部に死者が埋葬されている<ref>藤尾 慎一郎 「九州の甕棺 -弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」、橋口 達也「甕棺と弥生時代年代論」2005など、多くの考古学関連の書籍にみられる</ref>。この甕棺が問題なのである。 甕棺は九州北部の埋葬の様式で、この時代には半島には甕棺の埋葬がない<ref>従って、支石墓の主が半島からの移住者かどうか解らないのだ。</ref>。そして、注意すべきは、墓の様式は、民俗文化に固有である。 実際、九州の北西を中心とした遠洋漁業者と、半島東部を中心とした遠洋漁業者の交流があり、この交流のもとで支石墓が伝わったのではないかという意見がある。理由は、遠洋漁業者の地域の中心が、支石墓と重なり、初期において水田が伴わないためであるとされている。 墓が集団固有の習俗であることは、例えば次である。半島南部の狗奴韓国のあたりでは、墓の形式が激変し、北方の高句麗系の墓に変わった。これをもって、支配層が入れ替わったとされる。その根拠は、墓は文化集団、すなわち、人に固有なことが理由として説明されている。従って、 *この半島と日本の墓の形式が混じっている状態からは、移住者が半島由来か、日本の古代人が墓の様式を借りたか、判別できない<ref>文化借用以外に、男だけが来て日本の女と結婚し、文化が混合した。</ref><ref>支石墓と、甕棺などの混合形式の墓のありかたは、多くの書籍にあるが、例えば、次がある。藤尾 慎一郎 「九州の甕棺 -弥生時代甕棺墓の分布とその変還-」、橋口 達也「甕棺と弥生時代年代論」2005など。九州北西部の支石墓に触れた書籍で、甕棺などにふれないものは、純粋の考古学の書籍では、無いだろう。</ref>。 ===== 考古学、水田 ===== さらに、重大な問題がある。水田稲作が見いだされた菜畑などの九州北部の環濠集落の年代は、炭素同位元素法によれば、半島南部の水田遺構の年代より100年、古いことである<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、2011、など炭素14を使う考古学関連の本には必ず記載あり</ref>。 日本の方が100年古い。この事実は重い。従って、遺跡からは半島から日本に水田が伝わったとは現状では言えない。そして、これら水田が発見されて、もう何十年にもなり、爆発的に遺跡の発掘がなされた<ref>韓国考古学会編「概説 韓国考古学」2013</ref>。しかし、多くの発掘にもかかわらず、半島南部でも日本の北九州でも、これより古い水田遺構を持つ遺跡はいまだに発見されていない。このことを中心に半島での農業を見てみよう。 *半島南部においてここ数十年にわたる大量の発掘でも、より古い水田の跡はひとつも発見されていない。菜畑に100年遅い状態を覆す遺跡はない、発見されていない。 もちろん、半島中部では稲のもみを伴う古い遺跡が見いだされている。しかし、この遺跡は畑であり、水田ではない。畑作であるのは理由がある。大陸でのアワ、コウリャンを主とした畑作が、北回りで半島に伝わり、畑作が半島の北部から南へと波及していく<ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕」青驪 No.5、早乙女 雅博「朝鮮半島の考古学」2000、韓国考古学会「概説 韓国考古学」2013、など。日本への稲作伝来を書く書物も、ほとんどがこの事実に触れている。</ref>。 このため、半島の農業は、少なくとも中北部では、水田ではない。畑作であった<ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕」青驪 No.5、早乙女 雅博「朝鮮半島の考古学」2000、韓国考古学会「概説 韓国考古学」2013</ref>。 *半島の中北部の農業は、畑作である。従って、日本の弥生時代の水田とは農業形態が根本的に違う、別系統である。 このように、畑作の時代を追った南下は、遺跡として年代順にたどれる。しかし、この南下は、水田稲作ではなく、アワ、コウリャンなどの畑作である。そして、畑作の農作物の一部として、陸稲が南下していった。このように、半島中北部の稲は、水田稲作ではない。半島中北部の畑作は、元来水田稲作とは系統が違う。両者は系統の違う農業でしかない<ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕」青驪 No.5、早乙女 雅博「朝鮮半島の考古学」2000、韓国考古学会「概説 韓国考古学」2013</ref>。これが考古学での、半島北部中部での実情である。 *異なる農業体系は、環境が変わる場所に移動しても維持し続けられる。<ref>「世界農業史」</ref> したがって、半島北部の稲の遺物は、陸稲の系統であり、水田ではない<ref>甲元眞之「東アジアの先史農耕」青驪 No.5、早乙女 雅博「朝鮮半島の考古学」2000、韓国考古学会「概説 韓国考古学」2013</ref>。根本的に異なる農業体系である。水を入れ、冠水する技術を見ても違いが分かる<ref>農学での常識であるし、素人でもわかる。例えば、「世界農業史」</ref>。これが肝要である。こうして見ると、半島中部での畑作での稲作(陸稲)が、日本の水田稲作に影響したとは考えにくい。ほぼ不可能だろう。 では半島南部での遺跡はどうなのだろう。南部での遺跡はさらに大きな問題がある。問題は、日本に水田を伝えたという半島南部の水田跡の年代が、北九州の遺跡の年代より100年若く、新しい事である<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、2011</ref>。半島から九州に水田農業が伝わったことを示す遺跡はひとつもない<ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」、2011</ref>。 *要するに、日本の水田遺構が、半島より100年古い。半島の水田遺跡が日本より100年新しい。これが考古学での現状である。 半島の水田遺構から、日本の100年古い水田の遺構に水田技術が、時間を逆行して、伝えられたと日本や韓国の考古学者は主張する<ref>佐原真『古代を考える稲・金属・戦争』、広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」</ref><ref>時間を逆行するのに気が引ける場合、水田と別系統の半島中部の畑作を日本の水田の起源とする。半島中部から、いきなり半島南部を飛び越えて、北九州にわたり、しかも、畑作が水田に姿を変えるだろうか。</ref>。半島南部から北九州に水田農業が伝わったと言う根拠は、水田遺構に関する限り、まったくない。この証拠がない限り、半島から北九州に水田稲作が伝わったという主張は、考古学者の、事実に基づかない、たんなる推測、願望である<ref>学問的な基礎が抜けた単なる主張である。</ref><ref>広瀬 和雄 (編集), 国立歴史民俗博物館 (編集)「弥生時代はどう変わるか―炭素14年代と新しい古代像を求めて」 2007、藤尾 慎一郎 「〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作」 2011</ref>。 繰り返す。こうしてみれば、半島から水田稲作が九州に伝わったと言う決定的な、遺跡上の証拠はない。<ref>さらに、半島南部の水田は畑ではないかと言う意見まである。</ref> ===== 考古学、まとめ ===== したがって、考古学者の主張は、遺跡、遺物と言う根拠を持たない。確かに、農具の一部は、確実に半島由来だが、肝心の水田の由来が、半島にあるとする確たる根拠は、学問上では見当たらない。このように、半島からの稲(水田)の伝来と言う考古学者の主張には、考古学上の決定的な証拠が欠けている。現状では、日本の方が水田の年代が100年も古いという逆転が何十年も続いていて、水田の伝来の経路は不明なままである。この事は、次の民俗学での証拠にも関連する。 ===== 民俗学 ===== 民俗学者は、日本の風俗は、チベットから長江を経て、山東半島、日本列島へ続く照葉樹林文化帯の文化であると主張する<ref>照葉樹林文化論の提唱者、中尾佐助著作集〈第6巻〉照葉樹林文化論</ref>。一方、半島に伝わった伝統文化は、大陸北方の文化である<ref>中尾佐助著作集〈第6巻〉照葉樹林文化論</ref>。文化の系統が半島と日本では、根本的に異なる。この日本と半島の文化の違いを理由に、民俗学者は、水田が半島経由ではなく、大陸から直接に、日本に伝来したと主張する<ref>古くは民俗学の創始者にして巨人、柳田國男「海上の道」、沖縄経由説だが</ref>。半島経由なら、文化は今の日本の文化、照葉樹林文化とは異なった、半島のような北方畑作文化になっていただろう、こういう考えである。 *歌垣、鵜飼、弓、正月の風習など **畑作と水田の違いも挙げることができまいか。 この民俗学の事実から分かることは、次である。たとえ、水田稲作が伝来したのが、半島経由であるとしても、少なくとも水田が伝来した初期に、大量の移住民が半島や大陸から移って来たのではない。民俗学からは、この推定が成り立つ。 *民俗学の事実は、水田の伝来については直接の証拠にはならない。直接の証拠が出た後で、歴史の状況を割り出していく。民俗学は、そう言う役割を果たす。それでも、半島系の文化と列島の文化は系列が異なる。この事実は重い。 さらに、文化を離れて、稲そのものを見てみよう。 ===== 稲の遺伝学 ===== 佐藤洋一郎は、イネの遺伝子の分析から、少なくとも稲の一部は大陸から直接列島に来たことを示した<ref>「稲の日本史」</ref>。日本の稲の遺伝子には、半島の稲にない遺伝子が含まれていたのである。しかも、その量は稲のほぼ半分に達している。 *ただし、水田の伝来の地域と、水稲の伝来の地域が異なるという可能性はある。 佐藤洋一郎は、残るもう一つの遺伝子は、半島からとする。理由として、佐藤は、大陸の稲には、この遺伝子が少ないことを挙げている。もっともに聞こえる。<ref>「稲の日本史」</ref> *しかし、この遺伝子は、大陸の稲の25%近くを占めている<ref>「稲の日本史」RM1-bは6割強</ref>。この点から見ると、稲の半分は半島由来とする佐藤の主張には、遺伝学的な根拠はない<ref>「稲の日本史」によると半島ではRM1-aは6割強,大陸ではRM1-aは25%弱</ref>。従って、佐藤が半島由来とする遺伝子は、半島由来とも、大陸由来ともどちらでも可能であると言うことになる。 また、米粒の形は、半島ではなく、大陸の稲に類似しているとする学者の報告がある。しかし、米粒の形の判別はその道の専門家でないと難しい。そして、稲に関連する学会の大勢がこの説を認めているか不明である。 こうしてみると、水田の稲が半島由来であるとする遺伝学上の決定的な証拠はないと言えまいか。もちろん、水田が直接大陸から入ってきたとする証拠もない。 ===== 日本への伝来ルートを示す、考古学・民俗学・遺伝学の事実 ===== 稲、水田の稲作が日本に来た経路が、北回りの朝鮮半島を通ったとする証拠はない。同時に、長江、山東半島から直接来たとする証拠もない。ただし、日本の文化の系統は半島の文化の系統とは異なることは言える。現状は以上である。 *抉り入り片刃石斧は半島由来である。考古学者はこのことをもって、稲作が半島経由と主張する。しかし水田遺構を直接示す証拠ではない。 *半島中北部の稲は畑作で、日本の水田農業とは、系統が異なる。 *水田遺構は、半島南部より北九州の方が100年古い。従って、水田稲作が半島由来とする確証はない。 *民俗学的には、日本は照葉樹林帯文化である。半島のコウリャンアワの系統に属する北方畑作文化(土器などでは、遠くシベリア文化に由来)とは異なる。 *遺伝学的には、水稲の半数は大陸由来である。残りの半数は、大陸由来か半島由来か不明である。 現状は、こんな状態であり、各説入り乱れて、根拠が無いのだ。農具、稲そのもの、文化のどれを重視するかで、説が分かれる。これらは水田そのものの伝来を示すわけではない。水田は年代が逆転し、日本の水田遺跡が半島の水田遺跡より100年早いため、半島から水田農業が来たという証拠とならない。半島経由か、大陸から直接来たかについては、共に間接証拠しかないのが現状である。 以上、水田農耕が日本にどこから渡来したか、現状では決定的な証拠がないことを、考古学的な文献を中心に論じ、文化や稲の資料で捕捉した。 ===== 補足 日本人の遺伝子 ===== 東日本の縄文人の遺伝子情報では、12%から53%が縄文人からである<ref>分析で異なる。参考文献は後で</ref>。また、別のデータでは、弥生人では、縄文人の割合は60%で、現代人では40%に減っている。この分析を行った研究者は、弥生以後も半島から人が移住してきたことを示すという。 縄文末期、西日本では人口は希少で、少数の移住者で大きな割合を占めることになる。常識的に考えれば、半島からの移住者であるとできる。これから見れば、水田は半島からと推定して無理はない。 しかし、縄文末において、県単位で数千人しか人口がなく大陸からの移住も考えられる。実際、特定遺伝子からは、そういうデータも2,3ある。もっと詳しいデータが必要で、近いうちに結論がでるだろう。しかし、あくまで水田の渡来については、参考データにしかすぎない。 なぜなら、菜畑などの人骨が得られていない以上、菜畑を造った人が渡来人か、半島からか大陸からか確かめようがない。そして、弥生人口が増えた後でも移住で縄文人の割合が大きく減っている事を考えれば、移住が次々に起こっているため、弥生の平均的な遺伝子では、最初の水田を造った人間が誰か分からない。<ref>データでは、日本人に近いのは、満州の鮮卑の末裔と称するシボ族である。この一派が南下して、半島で高句麗王朝、百済王朝を開いている。半島南部の釜山付近で弁韓の中心勢力を滅ぼしたのもこの流れである。青海省のトウ族も非常に近い。シボ族、トウ族に次いで、半島の民や北京の漢人もほとんど同じで、列島に近い。なお、高句麗の言語はほとんど分からないが、数詞は残っていて、半数近くが大和言葉と同じである。</ref> *水田伝来の証拠になど決してならないが、山東半島には、列島に移住したという伝説を持つ地域がある。山東半島の人々の特殊な変異遺伝子が、列島にあるという調査もある。しかし、決定的な証拠はどこにもない。!--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2009年9月|section=1}} * 池橋宏、「[https://doi.org/10.11248/jsta1957.47.322 イネはどこから来たか-水田稲作の起源-]」 『熱帯農業』2003年 47巻 5号 p.322-338, {{doi|10.11248/jsta1957.47.322}} * 池橋宏、『稲作の起源 イネ学から考古学への挑戦』(講談社選書メチエ)、講談社、2005年、ISBN 4-06-258350-X * {{Cite journal|和書|author=尹紹亭 |title=亜洲稲作起源研究的回顧 : アジア稲作起源研究についての回顧 |date=2004-03-25 |journal=龍谷大学国際社会文化研究所紀要 |volume=6 |naid=110004520088 |pages=86-92 |ref=harv}} * 上垣外憲一『倭人と韓人』(講談社学術文庫)、講談社、2003年、ISBN 4-06-159623-3 * 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「[https://doi.org/10.11248/jsta1957.5.2_32 熱帯アメリカにおける稲作概観]」『熱帯農業』 1961年 5巻 2号 p.32-35, 日本熱帯農業学会, {{doi|10.11248/jsta1957.5.2_32}} * 川島鉄三郎, 「[https://doi.org/10.11300/fmsj1963.6.2_28 稲作農業機械化の経営的考察]」『農業経営研究』 1968年 6巻 2号 p.28-50, 日本農業経営学会, {{doi|10.11300/fmsj1963.6.2_28}} * 高見晋一, 「[https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.54.11_1033 自然環境からみたオーストラリアの稲作]」『農業土木学会誌』 1986年 54巻 11号 p.1033-1038,a1, 農業農村工学会, {{doi|10.11408/jjsidre1965.54.11_1033}} * 立岩寿一, 「[https://doi.org/10.11472/nokei.79.190 1910年代後半のカリフォルニアにおける日本人稲作経営の発展過程]」『農業経済研究』 2008年 79巻 4号 p.190-198, 日本農業経済学会, {{doi|10.11472/nokei.79.190}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いなさく}} [[Category:稲作|*]] [[Category:技術史]] [[Category:アジアの文化]] [[Category:中国の経済史]] [[Category:長江文明]]
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イネ
イネ(稲、稻、禾)は、イネ科イネ属の植物。属名Oryza は古代ギリシア語由来のラテン語で「米」または「イネ」を意味する。種小名 sativa は「栽培されている」といった意味である。収穫物は米と呼ばれ、トウモロコシやコムギ(小麦)とともに世界三大穀物の一つとなっている。稲禾(とうか)、禾稲(かとう)などとも呼ばれる。 イネ科イネ属の植物には23種77系統が知られている。このうち20種が野生イネであり、2種が栽培イネである。栽培イネの2種とはアジア栽培イネ(アジアイネ、Oryza sativa)とアフリカ栽培イネ(アフリカイネ、グラベリマイネ、Oryza glaberrima)である。結実後も親株が枯れず株が生き続ける多年生型と、種子により毎年繁殖して枯れる一年生型があるが、2型の変位は連続的で、中間型集団も多く存在する。原始的栽培型は、一年生型と多年生型の中間的性質を有した野性イネから生じたとする研究がある。なお、いくつかの野生イネは絶滅したとされている。 アジアイネはアジアのほか、広くヨーロッパ、南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸で栽培されている。これに対してアフリカイネは西アフリカで局地的に栽培されているにすぎない。イネは狭義にはアジアイネを指す。 アジアイネには耐冷性の高いジャポニカ種(日本型)と耐冷性の低いインディカ種(インド型)の2つの系統がある。また、これらの交雑による中間的品種群が多数存在する。 日本の農学者加藤茂苞による研究が嚆矢となったことから、彼の用いた「日本型」「インド型」という呼称が広く使われているが、両者が存在する中国では、加藤の研究以前からこれに相当する「コウ」(粳稻)と「セン」(籼稻)という分類が存在している。中国では、淮河と長江との中間地域で両者が混交し、長江以南でセン、淮河以北でコウが優占する。 加藤による命名が象徴するように、それぞれの生態型の栽培地域には耐寒性による地理的勾配が知られている。日本や中国東北部、朝鮮半島では主にジャポニカ種が栽培され、中国南部や東南アジア山岳部ではジャバニカ種が多く、中国南部からインドにかけての広い地域でインディカ種という具合である。ただし、こうした栽培地域の地理的分離は絶対的なものではなく、両方が栽培されている地域も広範囲にわたる。特に中国雲南省からインド島北部アッサム地方にかけての地域は、山岳地域ならではの栽培環境の多様性もあり、多くの遺伝変異を蓄積しているとされる。 栽培イネの祖先種とされるのはオリザ・ルフィポゴン(Oryza rufipogon)である。このオリザ・ルフィポゴンの生態型には多年生型と一年生型があり、特に一年生型がOryza nivaraとして別種扱いされることもある。しかし、分子マーカーによる集団構造の解析によっても一年生型と多年生型が種として分化しているという証拠は得られていない。なお、交雑が進んだ結果、今日では栽培イネから遺伝子浸透を受けていない個体群はインドやインドネシアの山岳地帯に残るにすぎない。 イネには亜種や近隣種が多いために予期せぬ雑種交配が起こることがある。特に、亜種の多様な東南アジアにおいては顕著である。日本では雑種交配を防止するため、耕作地周辺の頻繁な雑草刈りで予防している。 栽培イネではなく雑草として生じるものを雑草イネという。こうした雑草イネは生態的および形態的特徴が栽培イネのそれと類似するため、駆除が極めて難しい。雑草イネは水田の強雑草で栽培イネの生育障害、脱粒、収穫種子に赤米として混入し品質低下を引き起こしている。日本では乾田直播栽培で発生しやすい。栽培稲の生産性を落とすだけでなく、栽培イネと交雑することで品質劣化を起こす。東南アジアでは特に顕著で、食用稲の生産性向上の課題となっている。一方で、祖先型野生稲は遺伝資源としての有用性も指摘されており、種子銀行などの施設での保存のほかに、自生地(in situ)での保全の試みもある。 栽培イネ以外ではO. officinalis(薬稲)が救荒植物として利用されることがある。 約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域。かつては雲南省の遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドのアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた。 長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという。前4200年前に始まった寒冷化によって、前4000年以降次第に品種が多様化し長江流域から黄河中下流域や南方への拡散が始まった。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている。 日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はなく、栽培技術や食文化などと共に伝播したものと考えられている。日本列島への伝播については、いくつかの説があり、概ね以下のいずれかの経路によると考えられている。 ただし、多様な伝播経路を考慮すべきとの指摘もある。 本格的に稲作が始まった時期は地域によって差があり、一説では最も早いのは九州西北部で弥生時代早期にあたる紀元前9世紀からとされ、初期の稲作は用水路などの栽培環境が整備された水田ではなく、自然地形を利用する形態で低湿地と隣接する微高地を利用していたとされている。杉田浩一編『日本食品大事典』によれば、水稲作の日本への伝来は縄文時代後期にあたる紀元前11世紀頃であり、本格的な栽培が始まるのは近畿地方では紀元前2世紀頃、関東地方では2世紀頃、本州北端では12世紀頃、北海道では明治時代以降であるとされている。 しかし、近年、縄文時代前期の遺跡から複数のイネ科植物の遺骸であるプラント・オパールが出土している。稲のプラント・オパールは20~60ミクロンと小さいため、雨水と共に地下に浸透することも考えられるため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。 現在日本で栽培されるイネは、ほぼ全てが温帯日本種に属する品種であるが、過去には熱帯日本種(ジャバニカ種)も伝播し栽培されていた形跡(2005年2月、岡山市の彦崎貝塚で、縄文時代前期(約6000年前)の土層からイネのプラント・オパールが多量に出土した。同市の朝寝鼻遺跡でも同時期の発見例があり、縄文時代前期から畑作によるイネの栽培が始まっていた可能性が高まった)ともみれるが、他地域で栽培されたものが持ち込まれた可能性も否定できないとの見解もある。また、2008年国立歴史民俗博物館の研究者らは、岡山県彦崎貝塚のサンプルには異なった時代の付着物もあったことから、時代測定資料の選別は慎重に行うべきであるとしている。 多くの節を持つ管状の稈を多数分岐させ、節ごとに1枚の細長い肉薄の葉を有する。また、葉の付け根には葉舌という器官がある。葉の表皮細胞(機動細胞・ケイ酸細胞)にはケイ酸が蓄積し、葉の物理的な強度を高めている。枯れた葉などの有機成分は土壌中で分解されるが、ケイ酸は分解されにくいためプラントオパールとして残存し、過去の生態や農耕の様子を調べる手がかりとして利用される。薄手の葉が直立する草型のため、密集状態での受光効率が高い。稈は節の詰まったロゼット状になっており、生殖成長期になると徒長して穂を1つ付ける。栄養成長期と生殖成長期が明確に分かれており、穂を付けるのは稈を増やす時期が終了してからであり、籾(もみ)が成熟して生殖成長が終わると、ひこばえ(蘖)が生え再び栄養成長を再開する。 他殖性の風媒花であり、開花前に稈が徒長して穂を草叢から突き出すのは、開花時に花粉を飛ばしやすくするためである。ただし開花前に花粉が熟し、開花時に葯が破裂するため、栽培稲では98%程度が自家受粉する。開花時間は午前中から昼頃までの2-3時間と短い。花は、頴花(えいか)と呼ばれ、開花前後の外観は緑色をした籾そのものである。籾の先端には、しなやかな芒(ぼう)が発達する。芒は元々は種子を拡散するための器官であるが、栽培上不要なため近代品種では退化している。 農業上、種子として使われる籾は、生物学上の果実である玄米を穎(籾殻)が包んでいるもの。白米は、玄米から糠(ぬか)層、胚など取り除いた、胚乳の一部である。 元来、イネは湿性植物である。水田で栽培するイネを水稲(すいとう、lowland rice)、耐旱性が強く畑地で栽培するイネを陸稲(りくとう、おかぼ、upland rice)という。日本では明確に水稲と陸稲が区別されるが、他の国では水稲と陸稲とは明確には区別されていない。 水稲には、灌漑稲、天水稲、深水稲、浮稲といった種類がある。水位が著しく上昇して葉が水没するような状況では、節間を急速に伸ばすことで水面から葉を出し、窒息を免れることができる。節間の伸張能力は品種により著しい差があり、数センチから十数メートルまで伸張する品種がある。特に著しく伸張させることができる品種は浮稲(うきいね)と呼称される。 陸稲は水稲に比べて食味の点で劣るとされ、日本においては近年では糯種などが栽培されているにすぎない。 稲の食用部分の主成分であるでんぷんは、分子構造の違いからアミロースとアミロペクチンに分けられる。お米の食感は、両者の含有配分によって大きく異なる。すなわちアミロース含量が少ないお米は加熱時にやわらかくモチモチした食感になり、アミロース含量が多いとパサパサした食感になる。日本人の食文化では、低アミロースのお米を「美味しい」と感じる。この好みは、世界的には少数派となっている。 通常の米は20%程度のアミロースを含んでいるが、遺伝的欠損によりアミロース含量が0%の品種があり。これがモチ性品種であり、日本ではもち米と呼ばれる。この特質を持つ作物は稲だけではなく、他にアワ、キビ、ハトムギ、モロコシ、トウモロコシ、オオムギ、アマランサス(けいとう)に見つかっている。また珍しいモチ性作物としてジャガイモの品種(ELIANE)がある。これらのモチ性作物は世界中で栽培されているにもかかわらず、モチ性品種が栽培されている地域は東南アジア山岳部の照葉樹林帯に限定されている。その特異性から、その地域を「モチ食文化圏」と呼称されることがある。 早晩性により早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)などに分類される。一般には早生(わせ)、中生(なかて)、晩生(おくて)と表記されるが、イネの場合には特に早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)と表記される。 イネの早晩性には基本栄養生長性、感光性、感温性が関わっており、株が出穂可能になるまでの栄養生長期間の長さと、出穂可能になってから実際に出穂するまでの生殖生長期間の長さによって決まる。栄養生長期の長さは温度のみに影響されるが、生殖生長期間は温度と日長性両方の影響を受ける。 日長の影響には品種間差があり、一般的に早生品種ほど小さく、晩生品種ほど大きい。このため、北海道や東北地方といった夏の日照時間が長く温度が上がりにくい高緯度の地域では早生品種、九州等比較的低緯度で夏の日照時間があまり長くなく気温が高い地域では晩生品種が作られる。 品種登録上の特性としては栽培地域を7つ(寒地、寒冷地北部、寒冷地南部、温暖地東部、温暖地西部、暖地)に区分したうえで、それぞれについて早晩性の基準品種を定義し、9段階で評価している。 黒米、赤米、緑米などを総称して有色米という。野生種に近い米であるとされるものの、販売されている有色米の多くは近代品種である。例を挙げると、黒米では「おくのむらさき(種苗法登録は2003年)」、「朝紫(種苗法登録は1998年)」、「むらさきの舞(種苗法登録は2002年)」等があり、赤米では「ベニロマン(種苗法登録は1998年)」、「紅衣(種苗法登録は2005年)」がある。これらの品種を「古代米」や「在来種、在来米、在来稲」と、あたかも在来品種であるように呼び宣伝文句にするケースが散見されるが、在来品種ではないため注意が必要である。 また、以上の野生稲や在来品種とは異なる有色米が雑草稲と呼ばれ問題となっている。雑草稲が収穫した米に混入すると、品質低下の原因となる。 うるち米には次のような品種がある。 日本国内における代表的な栽培品種は以下の通り(2009年の収穫量順)。 作付高上位10品種で80.4%、上位20品種で88.6%を占める。 1980年代に良食味品種として代表格であったササニシキとコシヒカリは互いに近縁の関係にあり、両品種以降の後の良食味米は多くはコシヒカリの遺伝子を引き継いでいる。 日本で栽培される稲は遺伝的に近縁の品種が多い。そのため、天候不良や特定の病虫害によって大きく収量を落とす可能性がある。従って、食料の安定生産という観点からより多くの遺伝資源を利用した品種改良が必要である。例えば、IR8という短稈品種(短稈とは背が低いという意味である)は、背が低くて強風で倒れにくい品種の開発に利用されている。稲や麦は肥料を多く与えると、背が高くなりすぎて倒れやすくなる性質がある。そこでIR8のような背の低い品種と交配することで肥料を多く与えて収穫量を増やしながらも、倒れにくい品種が開発されるのである。ちなみにIR8とは国際稲研究所(IRRI)で開発されたインディア・ライス8という意味である。 主に加工用や飼料用に使われる収量の多い多収品種の米が栽培されている。これらは食用として流通しないため、食味を考慮する必要がないのでインディカ品種との交雑なども行われている。 一般的には知られていないが、イネには食用米品種以外に観賞用品種が存在する。観賞用稲は米を収穫することが目的ではなく、鮮やかに染まった葉や穂を鑑賞して楽しむためのイネである。切り花やドライフラワーなどに適している。また、近年では青森県田舎館村などで取り組まれている田んぼアートにも用いられている。 農研機構や農業試験場といった公的機関で品種改良されたものの他、在来品種にも葉色が鮮やかなものがあるため観賞用として販売されている例がある。 稲を栽培する農業を稲作(いなさく)という。 栽培する土地を田または田圃(たんぼ)といい、特に水を張っている田を指して水田(すいでん)ともいう。 水田で育成されたものを水稲(すいとう)、畠で育成されたものを陸稲(りくとう、おかぼ)と呼ぶ。水稲と陸稲を比較すると、水稲は収穫までの間に大量の水を使うが、地力の低下が小さく、永久連作(二期作)が可能である。一方、陸稲は水が少なくて済むが、面積あたりの収穫量が少ない上に、連作障害が発生する。日本では、近年では陸稲は少なくなっている。 イネは夏期にある程度高温になる温暖湿潤の気候が適している。しかし寒冷地向け品種の作出と栽培法の確立により、寒冷地での栽培も可能となった。日本では、現在では総生産高のうち、北海道および東北地方が占める割合が最も大きい。東北地方や新潟県の内陸部は夜間の気温が低いため、イネの消耗が少なく、良食味の米が収穫できるとされる。近年の食味検査ランキングでは東北地方および新潟県の産米が上位を占めている。しかし、1931年(昭和6年)に並河成資によって世界初の寒冷地用水稲・早稲である農林1号の育成が成功するまでは、現在米どころとされている新潟県、山形県、秋田県など冷涼地の晩稲は「鳥またぎ」とされ、食味では台湾米の比するところではなかった。 なお、温帯原産である温帯日本型は本来熱帯気候には適しておらず、温帯に属する日本でも、夏期に猛暑が続くと登熟障害を起こす。近年は地球温暖化に伴い西日本を中心に猛暑日が増え、登熟障害や食味の低下が問題になっている。栽培技術による対応だけで無く、耐高温品種の作出も行われている。 イネは、基本的には自家受精を行う事で自分と同じ遺伝子型の子孫を残す自殖性植物である。自殖性植物は数世代にわたって自家受粉を繰り返すため、遺伝子がホモ接合型である個体が集団内で多数を占める。ホモ接合体の個体から種子を得ると、子孫は全て親と同じ遺伝子型を持つ。これを育種学では純系(pure line)と呼ぶ。 イネの品種改良では、一部の例外を除き純系の品種を作り出すことを目的としている。この育種体系を純系改良方式という。 純系改良方式では、まずは同質の遺伝子で固定された純系である親品種から、何らかの方法(交配、突然変異誘発等)でヘテロ接合状態の雑種個体を発生させる。その後雑種個体の子孫を自殖により増殖させると、各遺伝子座がホモ接合化し、数世代を経ると、元の親とは異なった遺伝子型の組合せを持つ純系個体の集団が得られる。この状態を形質が固定された、と表現する。こうして得た純系個体集団から品種として好ましい形質(例えば、病気に強い、冷害に強い、倒れにくい、収量性が高い、食味が良い等)を持った個体を選抜する。その後、更に自殖を繰り返し、選抜した個体と同じ遺伝子型の種子を増やすことで系統として確立させる。また、同時に系統の栽培特性等を調査する。調査の結果有望と見られた系統は新たな品種となる。現在、日本で育成され栽培されている品種のほとんどは純系改良方式で育成されており、例えば令和元年度品種別作付け動向の統計に表れる品種は全て純系改良方式で育成されたものである。 純系改良方式は雑種個体を得る方法やその後純系を得る方法によって、複数の方法に分類されている。 純系分離法とも呼ぶ。前述の通りイネは自殖性植物であり、同一の親から得た子孫は基本的には親と同じ遺伝子型である。しかし、長期に渡って栽培すると突然変異の自然発生、1%以下の低確率ではあるが他の品種と他家交配行われる等して、遺伝的変異が蓄積し、多様な変異を持つ雑種集団となる。平年の栽培条件では看過されるような変異が異常気象(冷害等)の発生年では、有利な形質として認識され、選抜されて次世代に引き継がれる。農業試験場が設立される以前、近代的な育種が導入される以前はこの方法で在来品種の改良が行われてきた。 農業試験場設立後も、在来品種を試験場が収集し、その中から個体選抜を行い、純系系統化することで育成された品種も多い(亀の尾4号、陸羽20号 等)。 雑種集団を得るために純系品種同士を人工交配し、雑種集団を得る方法。雑種集団の親が2品種のみの場合を単交配といい一般的に広く用いられている。コシヒカリやひとめぼれ、あきたこまち、ゆめぴりか等多数の品種がこの方法で育成された。 他には、品種Aと品種Bを交配した雑種第一代を更に他の品種Cと交配して雑種集団を得る三系交配、品種Aのある特定の形質のみを改良するために品種Bと交配した後に品種Aを反復して交配する戻し交配といった交配方法がある。 三系交配で育成された品種には、青森県の青天の霹靂、富山県の富富富等がある。 また、戻し交配で育成された品種には、コシヒカリに、いもち病の抵抗性遺伝子を戻し交配で導入することによって育成されたコシヒカリBLという品種群がある。現在、「新潟県産コシヒカリ」という銘柄はコシヒカリ及びコシヒカリBL品種群の玄米に与えられており、そのうちコシヒカリBL品種群が9割を占めると言われている。 交配によって作られた雑種集団の選抜方法で、交配育種法は更に系統育種法と集団育種法に分けられる。 系統育種法では、遺伝子型及び形質にばらつきが現れ始める雑種第2世代(F2世代)で個体選抜を行い、その子供のF3世代以降を系統として扱い、系統の種子数を増やしつつ遺伝子的に固定されていない個体を排除しながら系統として確立する方法である。早期から不要な形質を排除することが出来るが、F2世代では多くの遺伝子座がヘテロ接合であることが多いため、その自殖後代もばらつきが多く、それらの排除が必要であるため効率が低い。 現在、交配育種法の中でも広く普及している方法が、温室や暖地栽培による世代促進を利用した、集団育種法である。これは、多くの遺伝子座がホモ接合となり、各々の雑種個体が遺伝的に固定するまでは、無選抜で自殖させ、雑種第5世代(F5世代)くらいに個体選抜を行う方法である。ほとんどの場合、一年に2回以上収穫出来るような温暖地(九州、沖縄等)や、温室を利用して年に2~3回収穫期を迎えさせ、自殖を繰り返させる。これを世代促進という。世代促進を行わない場合は、一年に1回しか収穫できないため、遺伝的に固定するまで雑種集団を自殖させるのに5~6年かかるが、世代促進を行うことで、3~4年に短縮することができる。また遺伝的固定度が高い状態から選抜し、系統化するため効率的である。 親品種に人工的な手段によって突然変異を誘発し、雑種集団を得る方法。最も古くには稲品種フジミノリにガンマ線照射を行う事で、短稈で倒れにくい変異体を選抜することで育成したレイメイがある。また、近年ではコシヒカリに化学的突然変異原N-methyl-N-nitrosoureaを処理したことで発生した突然変異体からアミロース含有量の少ない個体を選抜して育成したミルキークイーンがある。 理化学研究所では、重イオンビーム照射により、一般品種の1.5倍の耐塩性を獲得した品種の開発に成功。塩害で耕作ができなくなった土地での栽培により、生産可能地域が広がり食糧問題の解決に貢献することが期待される。 親とする品種を交配した後のF1個体の葯を組織培養し(葯培養)、半数体を作り出してから、染色体を倍加させる。このようにすると、純系個体の集団を得るまでに、通常は数世代の自殖が必要なところが、1世代のみで済むため育種年限の短縮ができる。しかし、組織培養の過程で突然変異が誘発されることで、親となる品種の形質を遺伝させられなくなることもある。 純系の品種ではない例としては、純系の親同士を掛け合わせたF1(雑種第一代)を種子として販売する方式のF1品種がある(三井化学アグロ「みつひかり」等)。トマト等の野菜では普及が進んでいるが(タキイ種苗「桃太郎」等)、イネではさほど普及していない。 イネは、生物学や農学において、植物のモデル生物として用いられている。イネは主要穀物の中ではゲノムサイズが小さく(トウモロコシの1/6、小麦の1/40)、穀物の遺伝情報を知る上でモデルとして好適とされる。 農研機構(旧農業生物資源研究所)がコシヒカリ・ファミリーである「コシヒカリ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」「ヒノヒカリ」を分析した結果、6つのDNAを共通して受け継いでいることが判明している。特に興味深いのは明治時代に東西の横綱と称された「亀の尾」「旭」のDNAを引いていることが挙げられる。 ゲノム研究所 (TIGR) やイネゲノム研究プログラム (RGP) 国際チームが「日本晴」のゲノムプロジェクトが進行しており、イネゲノムの塩基配列は、2002年12月に重要部分の解読が完了し、2004年12月には完全解読が達成されている。先述のようにイネは単子葉植物のモデル生物であり、植物としては双子葉植物であるシロイヌナズナに続いて2番目、単子葉植物としては初めての全ゲノム完全解読となった。 イネは洪水などで水没すると呼吸が出来ず枯れてしまうのが弱点だが、名古屋大学の芦苅基行教授らが水没に耐えられるような茎を伸ばす遺伝子を解明した。他にも、いもち病にかかりにくいが食感の悪い「おかぼ」の遺伝子を研究し、食感が失われない「ともほなみ」を2009年に開発している。 自然では相互に受粉はしないコムギとの雑種を、精細胞と卵細胞の電気刺激による人為的な融合で作出することに成功したと、東京都立大学と鳥取大学が2021年10月6日に発表した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イネ(稲、稻、禾)は、イネ科イネ属の植物。属名Oryza は古代ギリシア語由来のラテン語で「米」または「イネ」を意味する。種小名 sativa は「栽培されている」といった意味である。収穫物は米と呼ばれ、トウモロコシやコムギ(小麦)とともに世界三大穀物の一つとなっている。稲禾(とうか)、禾稲(かとう)などとも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イネ科イネ属の植物には23種77系統が知られている。このうち20種が野生イネであり、2種が栽培イネである。栽培イネの2種とはアジア栽培イネ(アジアイネ、Oryza sativa)とアフリカ栽培イネ(アフリカイネ、グラベリマイネ、Oryza glaberrima)である。結実後も親株が枯れず株が生き続ける多年生型と、種子により毎年繁殖して枯れる一年生型があるが、2型の変位は連続的で、中間型集団も多く存在する。原始的栽培型は、一年生型と多年生型の中間的性質を有した野性イネから生じたとする研究がある。なお、いくつかの野生イネは絶滅したとされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アジアイネはアジアのほか、広くヨーロッパ、南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸で栽培されている。これに対してアフリカイネは西アフリカで局地的に栽培されているにすぎない。イネは狭義にはアジアイネを指す。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アジアイネには耐冷性の高いジャポニカ種(日本型)と耐冷性の低いインディカ種(インド型)の2つの系統がある。また、これらの交雑による中間的品種群が多数存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本の農学者加藤茂苞による研究が嚆矢となったことから、彼の用いた「日本型」「インド型」という呼称が広く使われているが、両者が存在する中国では、加藤の研究以前からこれに相当する「コウ」(粳稻)と「セン」(籼稻)という分類が存在している。中国では、淮河と長江との中間地域で両者が混交し、長江以南でセン、淮河以北でコウが優占する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "加藤による命名が象徴するように、それぞれの生態型の栽培地域には耐寒性による地理的勾配が知られている。日本や中国東北部、朝鮮半島では主にジャポニカ種が栽培され、中国南部や東南アジア山岳部ではジャバニカ種が多く、中国南部からインドにかけての広い地域でインディカ種という具合である。ただし、こうした栽培地域の地理的分離は絶対的なものではなく、両方が栽培されている地域も広範囲にわたる。特に中国雲南省からインド島北部アッサム地方にかけての地域は、山岳地域ならではの栽培環境の多様性もあり、多くの遺伝変異を蓄積しているとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "栽培イネの祖先種とされるのはオリザ・ルフィポゴン(Oryza rufipogon)である。このオリザ・ルフィポゴンの生態型には多年生型と一年生型があり、特に一年生型がOryza nivaraとして別種扱いされることもある。しかし、分子マーカーによる集団構造の解析によっても一年生型と多年生型が種として分化しているという証拠は得られていない。なお、交雑が進んだ結果、今日では栽培イネから遺伝子浸透を受けていない個体群はインドやインドネシアの山岳地帯に残るにすぎない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "イネには亜種や近隣種が多いために予期せぬ雑種交配が起こることがある。特に、亜種の多様な東南アジアにおいては顕著である。日本では雑種交配を防止するため、耕作地周辺の頻繁な雑草刈りで予防している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "栽培イネではなく雑草として生じるものを雑草イネという。こうした雑草イネは生態的および形態的特徴が栽培イネのそれと類似するため、駆除が極めて難しい。雑草イネは水田の強雑草で栽培イネの生育障害、脱粒、収穫種子に赤米として混入し品質低下を引き起こしている。日本では乾田直播栽培で発生しやすい。栽培稲の生産性を落とすだけでなく、栽培イネと交雑することで品質劣化を起こす。東南アジアでは特に顕著で、食用稲の生産性向上の課題となっている。一方で、祖先型野生稲は遺伝資源としての有用性も指摘されており、種子銀行などの施設での保存のほかに、自生地(in situ)での保全の試みもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "栽培イネ以外ではO. officinalis(薬稲)が救荒植物として利用されることがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域。かつては雲南省の遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドのアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた。", "title": "原産と伝播" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという。前4200年前に始まった寒冷化によって、前4000年以降次第に品種が多様化し長江流域から黄河中下流域や南方への拡散が始まった。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている。", "title": "原産と伝播" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はなく、栽培技術や食文化などと共に伝播したものと考えられている。日本列島への伝播については、いくつかの説があり、概ね以下のいずれかの経路によると考えられている。", "title": "原産と伝播" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ただし、多様な伝播経路を考慮すべきとの指摘もある。", "title": "原産と伝播" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "本格的に稲作が始まった時期は地域によって差があり、一説では最も早いのは九州西北部で弥生時代早期にあたる紀元前9世紀からとされ、初期の稲作は用水路などの栽培環境が整備された水田ではなく、自然地形を利用する形態で低湿地と隣接する微高地を利用していたとされている。杉田浩一編『日本食品大事典』によれば、水稲作の日本への伝来は縄文時代後期にあたる紀元前11世紀頃であり、本格的な栽培が始まるのは近畿地方では紀元前2世紀頃、関東地方では2世紀頃、本州北端では12世紀頃、北海道では明治時代以降であるとされている。", "title": "原産と伝播" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし、近年、縄文時代前期の遺跡から複数のイネ科植物の遺骸であるプラント・オパールが出土している。稲のプラント・オパールは20~60ミクロンと小さいため、雨水と共に地下に浸透することも考えられるため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。", "title": "原産と伝播" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現在日本で栽培されるイネは、ほぼ全てが温帯日本種に属する品種であるが、過去には熱帯日本種(ジャバニカ種)も伝播し栽培されていた形跡(2005年2月、岡山市の彦崎貝塚で、縄文時代前期(約6000年前)の土層からイネのプラント・オパールが多量に出土した。同市の朝寝鼻遺跡でも同時期の発見例があり、縄文時代前期から畑作によるイネの栽培が始まっていた可能性が高まった)ともみれるが、他地域で栽培されたものが持ち込まれた可能性も否定できないとの見解もある。また、2008年国立歴史民俗博物館の研究者らは、岡山県彦崎貝塚のサンプルには異なった時代の付着物もあったことから、時代測定資料の選別は慎重に行うべきであるとしている。", "title": "原産と伝播" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "多くの節を持つ管状の稈を多数分岐させ、節ごとに1枚の細長い肉薄の葉を有する。また、葉の付け根には葉舌という器官がある。葉の表皮細胞(機動細胞・ケイ酸細胞)にはケイ酸が蓄積し、葉の物理的な強度を高めている。枯れた葉などの有機成分は土壌中で分解されるが、ケイ酸は分解されにくいためプラントオパールとして残存し、過去の生態や農耕の様子を調べる手がかりとして利用される。薄手の葉が直立する草型のため、密集状態での受光効率が高い。稈は節の詰まったロゼット状になっており、生殖成長期になると徒長して穂を1つ付ける。栄養成長期と生殖成長期が明確に分かれており、穂を付けるのは稈を増やす時期が終了してからであり、籾(もみ)が成熟して生殖成長が終わると、ひこばえ(蘖)が生え再び栄養成長を再開する。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "他殖性の風媒花であり、開花前に稈が徒長して穂を草叢から突き出すのは、開花時に花粉を飛ばしやすくするためである。ただし開花前に花粉が熟し、開花時に葯が破裂するため、栽培稲では98%程度が自家受粉する。開花時間は午前中から昼頃までの2-3時間と短い。花は、頴花(えいか)と呼ばれ、開花前後の外観は緑色をした籾そのものである。籾の先端には、しなやかな芒(ぼう)が発達する。芒は元々は種子を拡散するための器官であるが、栽培上不要なため近代品種では退化している。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "農業上、種子として使われる籾は、生物学上の果実である玄米を穎(籾殻)が包んでいるもの。白米は、玄米から糠(ぬか)層、胚など取り除いた、胚乳の一部である。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "元来、イネは湿性植物である。水田で栽培するイネを水稲(すいとう、lowland rice)、耐旱性が強く畑地で栽培するイネを陸稲(りくとう、おかぼ、upland rice)という。日本では明確に水稲と陸稲が区別されるが、他の国では水稲と陸稲とは明確には区別されていない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "水稲には、灌漑稲、天水稲、深水稲、浮稲といった種類がある。水位が著しく上昇して葉が水没するような状況では、節間を急速に伸ばすことで水面から葉を出し、窒息を免れることができる。節間の伸張能力は品種により著しい差があり、数センチから十数メートルまで伸張する品種がある。特に著しく伸張させることができる品種は浮稲(うきいね)と呼称される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "陸稲は水稲に比べて食味の点で劣るとされ、日本においては近年では糯種などが栽培されているにすぎない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "稲の食用部分の主成分であるでんぷんは、分子構造の違いからアミロースとアミロペクチンに分けられる。お米の食感は、両者の含有配分によって大きく異なる。すなわちアミロース含量が少ないお米は加熱時にやわらかくモチモチした食感になり、アミロース含量が多いとパサパサした食感になる。日本人の食文化では、低アミロースのお米を「美味しい」と感じる。この好みは、世界的には少数派となっている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "通常の米は20%程度のアミロースを含んでいるが、遺伝的欠損によりアミロース含量が0%の品種があり。これがモチ性品種であり、日本ではもち米と呼ばれる。この特質を持つ作物は稲だけではなく、他にアワ、キビ、ハトムギ、モロコシ、トウモロコシ、オオムギ、アマランサス(けいとう)に見つかっている。また珍しいモチ性作物としてジャガイモの品種(ELIANE)がある。これらのモチ性作物は世界中で栽培されているにもかかわらず、モチ性品種が栽培されている地域は東南アジア山岳部の照葉樹林帯に限定されている。その特異性から、その地域を「モチ食文化圏」と呼称されることがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "早晩性により早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)などに分類される。一般には早生(わせ)、中生(なかて)、晩生(おくて)と表記されるが、イネの場合には特に早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)と表記される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "イネの早晩性には基本栄養生長性、感光性、感温性が関わっており、株が出穂可能になるまでの栄養生長期間の長さと、出穂可能になってから実際に出穂するまでの生殖生長期間の長さによって決まる。栄養生長期の長さは温度のみに影響されるが、生殖生長期間は温度と日長性両方の影響を受ける。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日長の影響には品種間差があり、一般的に早生品種ほど小さく、晩生品種ほど大きい。このため、北海道や東北地方といった夏の日照時間が長く温度が上がりにくい高緯度の地域では早生品種、九州等比較的低緯度で夏の日照時間があまり長くなく気温が高い地域では晩生品種が作られる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "品種登録上の特性としては栽培地域を7つ(寒地、寒冷地北部、寒冷地南部、温暖地東部、温暖地西部、暖地)に区分したうえで、それぞれについて早晩性の基準品種を定義し、9段階で評価している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "黒米、赤米、緑米などを総称して有色米という。野生種に近い米であるとされるものの、販売されている有色米の多くは近代品種である。例を挙げると、黒米では「おくのむらさき(種苗法登録は2003年)」、「朝紫(種苗法登録は1998年)」、「むらさきの舞(種苗法登録は2002年)」等があり、赤米では「ベニロマン(種苗法登録は1998年)」、「紅衣(種苗法登録は2005年)」がある。これらの品種を「古代米」や「在来種、在来米、在来稲」と、あたかも在来品種であるように呼び宣伝文句にするケースが散見されるが、在来品種ではないため注意が必要である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、以上の野生稲や在来品種とは異なる有色米が雑草稲と呼ばれ問題となっている。雑草稲が収穫した米に混入すると、品質低下の原因となる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "うるち米には次のような品種がある。", "title": "一般的な品種" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本国内における代表的な栽培品種は以下の通り(2009年の収穫量順)。", "title": "一般的な品種" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "作付高上位10品種で80.4%、上位20品種で88.6%を占める。", "title": "一般的な品種" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1980年代に良食味品種として代表格であったササニシキとコシヒカリは互いに近縁の関係にあり、両品種以降の後の良食味米は多くはコシヒカリの遺伝子を引き継いでいる。", "title": "一般的な品種" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本で栽培される稲は遺伝的に近縁の品種が多い。そのため、天候不良や特定の病虫害によって大きく収量を落とす可能性がある。従って、食料の安定生産という観点からより多くの遺伝資源を利用した品種改良が必要である。例えば、IR8という短稈品種(短稈とは背が低いという意味である)は、背が低くて強風で倒れにくい品種の開発に利用されている。稲や麦は肥料を多く与えると、背が高くなりすぎて倒れやすくなる性質がある。そこでIR8のような背の低い品種と交配することで肥料を多く与えて収穫量を増やしながらも、倒れにくい品種が開発されるのである。ちなみにIR8とは国際稲研究所(IRRI)で開発されたインディア・ライス8という意味である。", "title": "一般的な品種" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "主に加工用や飼料用に使われる収量の多い多収品種の米が栽培されている。これらは食用として流通しないため、食味を考慮する必要がないのでインディカ品種との交雑なども行われている。", "title": "一般的な品種" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一般的には知られていないが、イネには食用米品種以外に観賞用品種が存在する。観賞用稲は米を収穫することが目的ではなく、鮮やかに染まった葉や穂を鑑賞して楽しむためのイネである。切り花やドライフラワーなどに適している。また、近年では青森県田舎館村などで取り組まれている田んぼアートにも用いられている。", "title": "一般的な品種" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "農研機構や農業試験場といった公的機関で品種改良されたものの他、在来品種にも葉色が鮮やかなものがあるため観賞用として販売されている例がある。", "title": "一般的な品種" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "稲を栽培する農業を稲作(いなさく)という。", "title": "栽培" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "栽培する土地を田または田圃(たんぼ)といい、特に水を張っている田を指して水田(すいでん)ともいう。", "title": "栽培" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "水田で育成されたものを水稲(すいとう)、畠で育成されたものを陸稲(りくとう、おかぼ)と呼ぶ。水稲と陸稲を比較すると、水稲は収穫までの間に大量の水を使うが、地力の低下が小さく、永久連作(二期作)が可能である。一方、陸稲は水が少なくて済むが、面積あたりの収穫量が少ない上に、連作障害が発生する。日本では、近年では陸稲は少なくなっている。", "title": "栽培" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "イネは夏期にある程度高温になる温暖湿潤の気候が適している。しかし寒冷地向け品種の作出と栽培法の確立により、寒冷地での栽培も可能となった。日本では、現在では総生産高のうち、北海道および東北地方が占める割合が最も大きい。東北地方や新潟県の内陸部は夜間の気温が低いため、イネの消耗が少なく、良食味の米が収穫できるとされる。近年の食味検査ランキングでは東北地方および新潟県の産米が上位を占めている。しかし、1931年(昭和6年)に並河成資によって世界初の寒冷地用水稲・早稲である農林1号の育成が成功するまでは、現在米どころとされている新潟県、山形県、秋田県など冷涼地の晩稲は「鳥またぎ」とされ、食味では台湾米の比するところではなかった。", "title": "栽培" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、温帯原産である温帯日本型は本来熱帯気候には適しておらず、温帯に属する日本でも、夏期に猛暑が続くと登熟障害を起こす。近年は地球温暖化に伴い西日本を中心に猛暑日が増え、登熟障害や食味の低下が問題になっている。栽培技術による対応だけで無く、耐高温品種の作出も行われている。", "title": "栽培" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "イネは、基本的には自家受精を行う事で自分と同じ遺伝子型の子孫を残す自殖性植物である。自殖性植物は数世代にわたって自家受粉を繰り返すため、遺伝子がホモ接合型である個体が集団内で多数を占める。ホモ接合体の個体から種子を得ると、子孫は全て親と同じ遺伝子型を持つ。これを育種学では純系(pure line)と呼ぶ。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "イネの品種改良では、一部の例外を除き純系の品種を作り出すことを目的としている。この育種体系を純系改良方式という。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "純系改良方式では、まずは同質の遺伝子で固定された純系である親品種から、何らかの方法(交配、突然変異誘発等)でヘテロ接合状態の雑種個体を発生させる。その後雑種個体の子孫を自殖により増殖させると、各遺伝子座がホモ接合化し、数世代を経ると、元の親とは異なった遺伝子型の組合せを持つ純系個体の集団が得られる。この状態を形質が固定された、と表現する。こうして得た純系個体集団から品種として好ましい形質(例えば、病気に強い、冷害に強い、倒れにくい、収量性が高い、食味が良い等)を持った個体を選抜する。その後、更に自殖を繰り返し、選抜した個体と同じ遺伝子型の種子を増やすことで系統として確立させる。また、同時に系統の栽培特性等を調査する。調査の結果有望と見られた系統は新たな品種となる。現在、日本で育成され栽培されている品種のほとんどは純系改良方式で育成されており、例えば令和元年度品種別作付け動向の統計に表れる品種は全て純系改良方式で育成されたものである。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "純系改良方式は雑種個体を得る方法やその後純系を得る方法によって、複数の方法に分類されている。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "純系分離法とも呼ぶ。前述の通りイネは自殖性植物であり、同一の親から得た子孫は基本的には親と同じ遺伝子型である。しかし、長期に渡って栽培すると突然変異の自然発生、1%以下の低確率ではあるが他の品種と他家交配行われる等して、遺伝的変異が蓄積し、多様な変異を持つ雑種集団となる。平年の栽培条件では看過されるような変異が異常気象(冷害等)の発生年では、有利な形質として認識され、選抜されて次世代に引き継がれる。農業試験場が設立される以前、近代的な育種が導入される以前はこの方法で在来品種の改良が行われてきた。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "農業試験場設立後も、在来品種を試験場が収集し、その中から個体選抜を行い、純系系統化することで育成された品種も多い(亀の尾4号、陸羽20号 等)。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "雑種集団を得るために純系品種同士を人工交配し、雑種集団を得る方法。雑種集団の親が2品種のみの場合を単交配といい一般的に広く用いられている。コシヒカリやひとめぼれ、あきたこまち、ゆめぴりか等多数の品種がこの方法で育成された。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "他には、品種Aと品種Bを交配した雑種第一代を更に他の品種Cと交配して雑種集団を得る三系交配、品種Aのある特定の形質のみを改良するために品種Bと交配した後に品種Aを反復して交配する戻し交配といった交配方法がある。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "三系交配で育成された品種には、青森県の青天の霹靂、富山県の富富富等がある。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、戻し交配で育成された品種には、コシヒカリに、いもち病の抵抗性遺伝子を戻し交配で導入することによって育成されたコシヒカリBLという品種群がある。現在、「新潟県産コシヒカリ」という銘柄はコシヒカリ及びコシヒカリBL品種群の玄米に与えられており、そのうちコシヒカリBL品種群が9割を占めると言われている。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "交配によって作られた雑種集団の選抜方法で、交配育種法は更に系統育種法と集団育種法に分けられる。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "系統育種法では、遺伝子型及び形質にばらつきが現れ始める雑種第2世代(F2世代)で個体選抜を行い、その子供のF3世代以降を系統として扱い、系統の種子数を増やしつつ遺伝子的に固定されていない個体を排除しながら系統として確立する方法である。早期から不要な形質を排除することが出来るが、F2世代では多くの遺伝子座がヘテロ接合であることが多いため、その自殖後代もばらつきが多く、それらの排除が必要であるため効率が低い。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "現在、交配育種法の中でも広く普及している方法が、温室や暖地栽培による世代促進を利用した、集団育種法である。これは、多くの遺伝子座がホモ接合となり、各々の雑種個体が遺伝的に固定するまでは、無選抜で自殖させ、雑種第5世代(F5世代)くらいに個体選抜を行う方法である。ほとんどの場合、一年に2回以上収穫出来るような温暖地(九州、沖縄等)や、温室を利用して年に2~3回収穫期を迎えさせ、自殖を繰り返させる。これを世代促進という。世代促進を行わない場合は、一年に1回しか収穫できないため、遺伝的に固定するまで雑種集団を自殖させるのに5~6年かかるが、世代促進を行うことで、3~4年に短縮することができる。また遺伝的固定度が高い状態から選抜し、系統化するため効率的である。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "親品種に人工的な手段によって突然変異を誘発し、雑種集団を得る方法。最も古くには稲品種フジミノリにガンマ線照射を行う事で、短稈で倒れにくい変異体を選抜することで育成したレイメイがある。また、近年ではコシヒカリに化学的突然変異原N-methyl-N-nitrosoureaを処理したことで発生した突然変異体からアミロース含有量の少ない個体を選抜して育成したミルキークイーンがある。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "理化学研究所では、重イオンビーム照射により、一般品種の1.5倍の耐塩性を獲得した品種の開発に成功。塩害で耕作ができなくなった土地での栽培により、生産可能地域が広がり食糧問題の解決に貢献することが期待される。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "親とする品種を交配した後のF1個体の葯を組織培養し(葯培養)、半数体を作り出してから、染色体を倍加させる。このようにすると、純系個体の集団を得るまでに、通常は数世代の自殖が必要なところが、1世代のみで済むため育種年限の短縮ができる。しかし、組織培養の過程で突然変異が誘発されることで、親となる品種の形質を遺伝させられなくなることもある。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "純系の品種ではない例としては、純系の親同士を掛け合わせたF1(雑種第一代)を種子として販売する方式のF1品種がある(三井化学アグロ「みつひかり」等)。トマト等の野菜では普及が進んでいるが(タキイ種苗「桃太郎」等)、イネではさほど普及していない。", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "", "title": "品種改良" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "イネは、生物学や農学において、植物のモデル生物として用いられている。イネは主要穀物の中ではゲノムサイズが小さく(トウモロコシの1/6、小麦の1/40)、穀物の遺伝情報を知る上でモデルとして好適とされる。", "title": "モデル植物研究" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "農研機構(旧農業生物資源研究所)がコシヒカリ・ファミリーである「コシヒカリ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」「ヒノヒカリ」を分析した結果、6つのDNAを共通して受け継いでいることが判明している。特に興味深いのは明治時代に東西の横綱と称された「亀の尾」「旭」のDNAを引いていることが挙げられる。", "title": "モデル植物研究" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ゲノム研究所 (TIGR) やイネゲノム研究プログラム (RGP) 国際チームが「日本晴」のゲノムプロジェクトが進行しており、イネゲノムの塩基配列は、2002年12月に重要部分の解読が完了し、2004年12月には完全解読が達成されている。先述のようにイネは単子葉植物のモデル生物であり、植物としては双子葉植物であるシロイヌナズナに続いて2番目、単子葉植物としては初めての全ゲノム完全解読となった。", "title": "モデル植物研究" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "イネは洪水などで水没すると呼吸が出来ず枯れてしまうのが弱点だが、名古屋大学の芦苅基行教授らが水没に耐えられるような茎を伸ばす遺伝子を解明した。他にも、いもち病にかかりにくいが食感の悪い「おかぼ」の遺伝子を研究し、食感が失われない「ともほなみ」を2009年に開発している。", "title": "モデル植物研究" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "自然では相互に受粉はしないコムギとの雑種を、精細胞と卵細胞の電気刺激による人為的な融合で作出することに成功したと、東京都立大学と鳥取大学が2021年10月6日に発表した。", "title": "モデル植物研究" } ]
イネ(稲、稻、禾)は、イネ科イネ属の植物。属名Oryza は古代ギリシア語由来のラテン語で「米」または「イネ」を意味する。種小名 sativa は「栽培されている」といった意味である。収穫物は米と呼ばれ、トウモロコシやコムギ(小麦)とともに世界三大穀物の一つとなっている。稲禾(とうか)、禾稲(かとう)などとも呼ばれる。
{{redirect|稲穂}} {{Otheruses|植物|その他}} {{生物分類表 |名称 = イネ |色 = lightgreen |画像 = [[ファイル:US long grain rice.jpg|220px]] |画像キャプション = 成熟期のイネ([[インディカ米|長粒種]]) |界 = [[植物界]] {{Sname||Plantae}} |門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||Angiosperms}} |綱階級なし = [[単子葉類]] {{Sname||Monocots}} |目 = [[イネ目]] {{sname||Poales}} |科 = [[イネ科]] {{Sname||Poaceae}} |亜科 = [[イネ亜科]] {{Sname||Oryzoideae}} |属 = [[イネ属]] {{Snamei||Oryza}} |種 = '''イネ''' ''O. sativa'' |学名 = ''Oryza sativa'' |和名 = イネ(アジアイネ) |英名 = {{Sname||Rice}} }} [[File:Oryza sativa MHNT.BOT.2015.2.52.jpg|thumb|''Oryza sativa'']] '''イネ'''('''稲'''、'''稻'''、'''禾''')は、[[イネ科]]イネ属の[[植物]]<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105">[[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]]編『最新農業技術事典』([[農山漁村文化協会]] 2006年)p.105</ref>。[[属 (分類学)|属]]名''Oryza'' は[[古代ギリシア語]]由来の[[ラテン語]]で「[[米]]」または「イネ」を意味する。[[種小名]] ''sativa'' は「栽培されている」といった意味である。収穫物は'''米'''と呼ばれ、[[トウモロコシ]]や[[コムギ]](小麦)とともに[[世界三大穀物]]の一つとなっている。'''稲禾'''(とうか)、'''禾稲'''(かとう)などとも呼ばれる。 == 概要 == イネ科イネ属の植物には23種77系統が知られている<ref name="jsbbr.1.233">森島啓子「[https://doi.org/10.1270/jsbbr.1.233 イネの進化研究を考える]」『育種学研究』Vol.1 (1999) No.4 pp.233-241, {{doi|10.1270/jsbbr.1.233}}</ref>。このうち20種が'''野生イネ'''であり、2種が'''栽培イネ'''である<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。栽培イネの2種とは'''アジア栽培イネ'''(アジアイネ、''Oryza sativa'')と'''アフリカ栽培イネ'''([[アフリカイネ]]、グラベリマイネ、''Oryza glaberrima'')である<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/><ref name="sakumotsugakuyougojiten_p218">日本作物学会編『作物学用語事典』(農山漁村文化協会 2010年)p.218</ref>。結実後も親株が枯れず株が生き続ける'''多年生型'''と、[[種子]]により毎年繁殖して枯れる'''一年生型'''があるが、2型の変位は連続的で、中間型集団も多く存在する<ref name="jbrewsocjapan1915.78.680">森島啓子「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1915.78.680 イネの祖先を探る]」『日本釀造協會雜誌』Vol.78 (1983) No.9 P.680-683, {{doi|10.6013/jbrewsocjapan1915.78.680}}</ref>。原始的栽培型は、一年生型と多年生型の中間的性質を有した野性イネから生じたとする研究がある<ref name="jbrewsocjapan1915.78.680"/>。なお、いくつかの野生イネは絶滅したとされている<ref name="jbrewsocjapan1915.78.680"/>。 アジアイネは[[アジア]]のほか、広く[[ヨーロッパ]]、南北[[アメリカ大陸]]、[[オーストラリア大陸]]、[[アフリカ大陸]]で栽培されている<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。これに対してアフリカイネは[[西アフリカ]]で局地的に栽培されているにすぎない<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p9">杉田浩一編『日本食品大事典』(医歯薬出版 2008年)p.9</ref>。イネは狭義にはアジアイネを指す<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p218"/>。 アジアイネには耐冷性の高い'''[[ジャポニカ米|ジャポニカ種]]'''(日本型)と耐冷性の低い'''[[インディカ種]]'''(インド型)の2つの系統がある<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/><ref name="sakumotsugakuyougojiten_p218"/>。また、これらの[[交雑]]による中間的[[品種]]群が多数存在する<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p218"/>。 ; ジャポニカ種(日本型、島嶼型、''Oryza sativa'' subsp. ''japonica'') : [[日本]]、[[朝鮮半島]]、[[中国]]など[[温帯]]~[[亜熱帯]]の地域で栽培されている<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。ジャポニカ種は温帯日本型と熱帯日本型([[ジャバニカ種]])に分けられる<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。 :; 温帯日本型(温帯島嶼型) :: 主に日本や中国[[遼寧省]]で栽培されている<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。 :; 熱帯日本型(ジャバニカ種、熱帯島嶼型、ジャワ型、''Oryza sativa'' subsp. ''javanica'') :: 中国南部などで栽培されている<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。なお、ジャポニカ種(日本型)、インディカ種(インド型)、ジャバニカ種(ジャワ型)に並列的に分けられることもある<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p411">『丸善食品総合辞典』([[丸善]] 1998年)p.411</ref><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p9"/>。 ; インディカ種(インド型、''Oryza sativa'' subsp. ''indica'') : [[インド]]、[[スリランカ]]、[[台湾]]南部、中国南部、[[東南アジア]]など[[熱帯]]・亜熱帯の地域で栽培されている<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。インディカ種(インド型)はジャポニカ種(日本型)以上に分化している<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。 日本の農学者[[加藤茂苞]]による研究が嚆矢となったことから、彼の用いた「日本型」「インド型」という呼称が広く使われているが、両者が存在する中国では、加藤の研究以前からこれに相当する「コウ」(粳稻)と「セン」(籼稻)という分類が存在している。中国では、[[淮河]]と[[長江]]との中間地域で両者が混交し、長江以南でセン、淮河以北でコウが優占する。 加藤による命名が象徴するように、それぞれの生態型の栽培地域には耐寒性による地理的勾配が知られている。日本や[[中国東北部]]、朝鮮半島では主にジャポニカ種が栽培され、中国南部や東南アジア山岳部ではジャバニカ種が多く、中国南部からインドにかけての広い地域でインディカ種という具合である。ただし、こうした栽培地域の地理的分離は絶対的なものではなく、両方が栽培されている地域も広範囲にわたる。特に中国[[雲南省]]からインド島北部[[アッサム地方]]にかけての地域は、山岳地域ならではの栽培環境の多様性もあり、多くの遺伝変異を蓄積しているとされる。 栽培イネの祖先種とされるのは[[オリザ・ルフィポゴン]](''Oryza rufipogon'')である<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p218"/>。この[[オリザ・ルフィポゴン]]の生態型には多年生型と一年生型があり、特に一年生型が''Oryza nivara''として別種扱いされることもある。しかし、[[分子マーカー]]による[[集団構造]]の解析によっても一年生型と多年生型が種として分化しているという証拠は得られていない<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p218"/>。なお、交雑が進んだ結果、今日では栽培イネから[[遺伝子浸透]]を受けていない個体群はインドや[[インドネシア]]の山岳地帯に残るにすぎない<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p218"/>。 イネには[[亜種]]や近隣種が多いために予期せぬ雑種交配が起こることがある。特に、亜種の多様な東南アジアにおいては顕著である。日本では雑種交配を防止するため、耕作地周辺の頻繁な[[雑草]]刈りで予防している。 栽培イネではなく雑草として生じるものを'''雑草イネ'''という<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p219">日本作物学会編『作物学用語事典』(農山漁村文化協会 2010年)p.219年</ref>。こうした雑草イネは生態的および形態的特徴が栽培イネのそれと類似するため、駆除が極めて難しい。雑草イネは[[水田]]の強雑草で栽培イネの生育障害、脱粒、収穫種子に赤米として混入し品質低下を引き起こしている<ref name="jsbbs1951.47.153">湯陵華、森島啓子「[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.47.153 雑草イネの遺伝的特性とその起源に関する考察]」『育種学雑誌』Vol.47 (1997) No.2 pp.153-160, {{doi|10.1270/jsbbs1951.47.153}}</ref>。日本では乾田直播栽培で発生しやすい<ref name="jsbbs1951.47.153"/>。栽培稲の生産性を落とすだけでなく、栽培イネと交雑することで品質劣化を起こす。東南アジアでは特に顕著で、食用稲の生産性向上の課題となっている。一方で、祖先型野生稲は遺伝資源としての有用性も指摘されており<ref name="jsbbs1951.47.153"/>、[[種子銀行]]などの施設での保存のほかに、自生地([[in situ]])での保全の試みもある。 栽培イネ以外では''O. officinalis''(薬稲)が[[救荒植物]]として利用されることがある。 == 原産と伝播 == === 原産地 === 約1万年前の中国[[長江]]流域の[[湖南省]]周辺地域。かつては雲南省の[[遺跡]]から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドの[[アッサム州]]周辺にかけての地域が発祥地とされていた<ref name="nig1110"/><ref>池橋宏「[https://doi.org/10.11248/jsta1957.47.322 イネはどこから来たか-水田稲作の起源-]」『熱帯農業 』2003年 47巻 5号 pp.322-338, {{doi|10.11248/jsta1957.47.322}}</ref><ref>「インド[[マニプール州]]の在来イネ品種における遺伝的多様性と亜種分化」『Breeding』 science 46(2), 159-166, 1996-06, {{NAID|110001815365}}</ref>。 長江流域にある[[草鞋山遺跡]]の[[プラント・オパール]]分析によれば、約6000年前にその地では[[ジャポニカ米]]が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという<ref>王才林、宇田津徹朗、湯陵華、鄒江石 ほか「[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.387 プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋山遺跡(6000年前 - 現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷]」『育種学雑誌』1998年 48巻 4号 p.387-394, {{doi|10.1270/jsbbs1951.48.387}}, {{naid|110001807929}}</ref>。前4200年前に始まった寒冷化によって、前4000年以降次第に品種が多様化し長江流域から黄河中下流域や南方への拡散が始まった。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、[[インディカ米]]の系統が生じたと考えられている<ref name="nig1110"/>。 === 日本への伝播と普及 === 日本国内に稲の祖先型野生種が存在した形跡はなく、栽培技術や食文化などと共に伝播したものと考えられている。[[日本列島]]への伝播については、いくつかの説があり、概ね以下のいずれかの経路によると考えられている<ref name="nengai2012">宇田津徹朗「[https://hdl.handle.net/2237/20151 東アジアにおける水田稲作技術の成立と発達に関する研究 : その現状と課題(日本と中国のフィールド調査から)]」『[[名古屋大学]][[加速器]][[質量分析]]計業績報告書』v.24, 2013, p.113-122, {{hdl|2237/20151}}</ref>。 #江南地方(長江下流域)から[[九州]]北部への直接ルート、 #江南地方(長江下流域)から朝鮮半島南西部を経由したルート、 #南方の[[照葉樹林]]文化圏から[[黒潮]]に乗ってやって来た「[[海上の道]]」ルートである<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p307">『料理食材大事典』(主婦の友社 1996年)p.307</ref><ref>逆転の日本史編集部『日本人のルーツがわかる本』p83~p85、佐藤洋一郎論文「日本列島に最初に稲作を持ち込んだのは縄文人だった」</ref>。 ただし、多様な伝播経路を考慮すべきとの指摘もある<ref>徐光輝、林留根「[https://hdl.handle.net/10519/2341 長江流域の農耕集落について]」『[[龍谷大学]]国際社会文化研究所紀要』6号(2004年)pp.57-70, {{hdl|10519/2341}}</ref>。 {{see also|稲作#日本国内での歴史}} 本格的に稲作が始まった時期は地域によって差があり、一説では最も早いのは九州西北部で[[弥生時代]]早期にあたる[[紀元前9世紀]]からとされ<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p219"/>、初期の稲作は[[用水路]]などの栽培環境が整備された水田ではなく、自然地形を利用する形態で[[低湿地]]と隣接する微高地を利用していたとされている<ref name="nengai2012"/><ref>宇田津徹朗、湯陵華、王才林、鄭雲飛、佐々木章、柳沢一男、藤原宏志「{{PDFlink|[http://www.jssscp.org/files/backnumbers/vol43_4.pdf 中国・草畦山遺跡における占代水田趾調査(第3報)]」日本文化財科学会 学会誌『考古学と自然科学』ISSN 0288-5964 No.43 pp.51-64}}</ref>。杉田浩一編『日本食品大事典』によれば、水稲作の日本への伝来は[[縄文時代]]後期にあたる紀元前11世紀頃であり<ref name="nihonsyokuhindaijiten_p9"/>、本格的な栽培が始まるのは[[近畿地方]]では[[紀元前2世紀]]頃、[[関東地方]]では[[2世紀]]頃、[[本州]]北端では[[12世紀]]頃<ref name="nihonsyokuhindaijiten_p9"/>、[[北海道]]では[[明治時代]]以降であるとされている<ref name="nihonsyokuhindaijiten_p9"/>。 しかし、近年、縄文時代前期の遺跡から複数のイネ科植物の遺骸である[[プラント・オパール]]が出土している<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p218"/>。稲のプラント・オパールは20~60[[マイクロン|ミクロン]]と小さいため、雨水と共に地下に浸透することも考えられるため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできないが、[[鹿児島県]]の遺跡では12,000年前の[[薩摩]][[火山灰]]の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている<ref>甲元眞之, 木下尚子, 蔵冨士寛, 新里亮人「[https://hdl.handle.net/2298/2462 九州先史時代遺跡出土種子の年代的検討(平成14年度研究プロジェクト報告)]」『熊本大学社会文化研究』1巻 pp.172-174, 2003年 ,{{ISSN|1348-530X}}</ref>。 現在日本で栽培されるイネは、ほぼ全てが温帯日本種に属する品種であるが、過去には熱帯日本種([[ジャバニカ種]])も伝播し栽培されていた形跡(2005年2月、[[岡山市]]の彦崎[[貝塚]]で、縄文時代前期(約6000年前)の[[土層 (考古学)|土層]]からイネのプラント・オパールが多量に出土した。同市の朝寝鼻遺跡でも同時期の発見例があり、縄文時代前期から畑作によるイネの栽培が始まっていた可能性が高まった<ref>「6000年前の稲作遺物」『[[知恵蔵]]2014』{{信頼性要検証|date=2015年2月}}</ref>)ともみれるが、他地域で栽培されたものが持ち込まれた可能性も否定できないとの見解もある<ref>平井泰男:[http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu5.html 大地からのメッセージ(5) 稲作ことはじめ(グラフおかやま1997年8月号より転載)] 岡山県古代吉備文化財センター</ref>。また、2008年[[国立歴史民俗博物館]]の研究者らは、岡山県彦崎貝塚のサンプルには異なった時代の付着物もあったことから、時代測定資料の選別は慎重に行うべきであるとしている<ref>遠部慎、宮田佳樹ほか「{{PDFlink|[https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun6/pdf/137016.pdf 炭素14年代測定に関するサンプリングの実践と課題]」『[[国立歴史民俗博物館]]研究報告』第137集 [共同研究]高精度年代測定法の活用による歴史資料の総合的研究}}</ref>。 == 形態 == [[ファイル:Oryza sativa - Köhler–s Medizinal-Pflanzen-232.jpg|thumb|イネの植物図]] 多くの節を持つ管状の[[稈]]を多数分岐させ、節ごとに1枚の細長い肉薄の[[葉]]を有する。また、葉の付け根には葉舌という器官がある。葉の表皮細胞(機動細胞・ケイ酸細胞)には[[ケイ酸]]が蓄積し、葉の物理的な強度を高めている<ref>{{Citation|title=葉の表面構造と撥水性の発現機構 -イネの葉における微細構造とロータス効果-|url=https://doi.org/10.24480/bsj-review.6b5.00071|publisher=公益社団法人 日本植物学会|date=2015|accessdate=2019-11-28|doi=10.24480/bsj-review.6b5.00071|first=彩織|last=相賀|first2=純一|last2=伊藤}}</ref>。枯れた葉などの[[有機物|有機成分]]は[[土壌]]中で分解されるが、ケイ酸は分解されにくいため[[プラントオパール]]として残存し、過去の生態や農耕の様子を調べる手がかりとして利用される<ref>{{Cite book|title=稲の日本史|url=https://books.google.co.jp/books?id=B2axxn3-y3AC&pg=PA21&lpg=PA21&dq=%E8%91%89%E8%84%88+%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B9%E4%BD%93&source=bl&ots=0z3-cNAlSE&sig=ACfU3U1rrdGdQ_OHOQ5Sx8il5DQI-LftgQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjou5br4YvmAhVpGaYKHQ9EAygQ6AEwEnoECAoQAQ#v=onepage&q=%E8%91%89%E8%84%88%20%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B9%E4%BD%93&f=false|publisher=角川学芸出版|date=2002-06|isbn=978-4-04-703337-5|language=ja|last=佐藤洋一郎}}</ref>。薄手の葉が直立する草型のため、密集状態での受光効率が高い。稈は節の詰まった[[ロゼット]]状になっており、生殖成長期になると徒長して[[穂]]を1つ付ける。栄養成長期と生殖成長期が明確に分かれており、穂を付けるのは稈を増やす時期が終了してからであり、[[籾]](もみ)が成熟して生殖成長が終わると、[[蘖|ひこばえ]](蘖)が生え再び栄養成長を再開する。 他殖性の[[風媒花]]であり、開花前に稈が徒長して穂を草叢から突き出すのは、開花時に[[花粉]]を飛ばしやすくするためである。ただし開花前に花粉が熟し、開花時に[[葯]]が破裂するため、栽培稲では98%程度が[[自家受粉]]する。開花時間は午前中から昼頃までの2-3時間と短い。花は、頴花(えいか)と呼ばれ、開花前後の外観は緑色をした籾そのものである。籾の先端には、しなやかな芒(ぼう)が発達する。芒は元々は種子を拡散するための器官であるが、栽培上不要なため近代品種では退化している。 [[農業]]上、[[種子]]として使われる籾は、[[生物学]]上の[[果実]]である[[玄米]]を穎([[籾殻]])が包んでいるもの。[[白米]]は、玄米から[[糠]](ぬか)層、[[胚]]など取り除いた、[[胚乳]]の一部である。 {{Center|<gallery> Rice-flower,katori-city,japan.JPG|イネの花 Ine harvest japonica zoomup OCT2004.jpg|収穫期の穂の拡大写真 Unhulled rice.jpg|籾 Oryza sativa Hikibae1.jpg|[[稲刈り]]後に伸びるひこばえ </gallery>}} == 分類 == === 水稲と陸稲 === {{右|<gallery> ファイル:Rice fields Chiang Mai.jpg|水田の水稲 ファイル:4 upland rice field.jpg|陸稲 </gallery>}} 元来、イネは湿性植物である<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p220">日本作物学会編『作物学用語事典』(農山漁村文化協会 2010年)p.220年</ref>。水田で栽培するイネを'''水稲'''(すいとう、''lowland rice'')、耐旱性が強く畑地で栽培するイネを'''[[陸稲]]'''(りくとう、おかぼ、''upland rice'')という<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/><ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p411"/><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p11">杉田浩一編『日本食品大事典』(医歯薬出版 2008年)p.11</ref>。日本では明確に水稲と陸稲が区別されるが<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>、他の国では水稲と陸稲とは明確には区別されていない<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。 水稲には、灌漑稲、天水稲、深水稲、浮稲といった種類がある<ref name="sakumotsugakuyougojiten_p220"/>。水位が著しく上昇して葉が水没するような状況では、節間を急速に伸ばすことで水面から葉を出し、窒息を免れることができる。節間の伸張能力は品種により著しい差があり、数センチから十数メートルまで伸張する品種がある。特に著しく伸張させることができる品種は浮稲(うきいね)と呼称される。 陸稲は水稲に比べて食味の点で劣るとされ、日本においては近年では糯種などが栽培されているにすぎない<ref name="nihonsyokuhindaijiten_p11"/>。 === 糯粳性による分類 === 稲の食用部分の主成分である[[でんぷん]]は、分子構造の違いから[[アミロース]]と[[アミロペクチン]]に分けられる。お米の[[食感]]は、両者の含有配分によって大きく異なる。すなわちアミロース含量が少ないお米は加熱時にやわらかくモチモチした食感になり、アミロース含量が多いとパサパサした食感になる。日本人の[[食文化]]では、低アミロースのお米を「美味しい」と感じる。この好みは、世界的には少数派となっている。 通常の米は20%程度のアミロースを含んでいるが、遺伝的欠損によりアミロース含量が0%の品種があり。これがモチ性品種であり、日本では[[もち米]]と呼ばれる。この特質を持つ作物は稲だけではなく、他に[[アワ]]、[[キビ]]、[[ハトムギ]]、[[モロコシ]]、[[トウモロコシ]]、[[オオムギ]]、[[アマランサス]](けいとう)に見つかっている。また珍しいモチ性作物としてジャガイモの品種(ELIANE)がある。これらのモチ性作物は世界中で栽培されているにもかかわらず、モチ性品種が栽培されている地域は東南アジア山岳部の照葉樹林帯に限定されている。その特異性から、その地域を「モチ食文化圏」と呼称されることがある。 === 早晩性による分類 === [[早晩性]]により早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)などに分類される。一般には早生(わせ)、中生(なかて)、晩生(おくて)と表記されるが、イネの場合には特に早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)と表記される。 イネの早晩性には基本栄養生長性、[[光周性|感光性]]、感温性が関わっており、株が出穂可能になるまでの栄養生長期間の長さと、出穂可能になってから実際に出穂するまでの生殖生長期間の長さによって決まる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=水稲の幼穂形成に及ぼす気温と水温の作用メカニズム|url=https://www.naro.affrc.go.jp/org/tarc/seika/jyouhou/H19/to07023.html|website=www.naro.affrc.go.jp|accessdate=2021-04-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Memo 稲の作期と品種 -BONO's page|url=http://www2t.biglobe.ne.jp/~bono/study/memo/rice_period.htm|website=www2t.biglobe.ne.jp|accessdate=2021-04-15}}</ref>。栄養生長期の長さは温度のみに影響されるが、生殖生長期間は温度と日長性両方の影響を受ける<ref name=":0" />。 日長の影響には品種間差があり、一般的に早生品種ほど小さく、晩生品種ほど大きい<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.jeinou.com/benri/rice/2009/04/260939.html|title=作期の選定|稲編|農作業便利帳|みんなの農業広場|accessdate=2021-04-15|publisher=(一社)全国農業改良普及支援協会 ・(株)[[クボタ]]}}</ref>。このため、北海道や[[東北地方]]といった夏の日照時間が長く温度が上がりにくい高緯度の地域では早生品種、九州等比較的低緯度で夏の日照時間があまり長くなく気温が高い地域では晩生品種が作られる<ref name=":1" />。 品種登録上の特性としては栽培地域を7つ(寒地、寒冷地北部、寒冷地南部、温暖地東部、温暖地西部、暖地)に区分したうえで、それぞれについて早晩性の基準品種を定義し、9段階で評価している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hinshu2.maff.go.jp/info/sinsakijun/kijun/1440.pdf|title=農林水産植物種類別審査基準【稲種】|accessdate=2021-04-15|publisher=農林水産省}}</ref>。 === 有色米 === [[黒米]]、[[赤米]]、[[緑米]]などを総称して有色米という<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p307"/>。野生種に近い米である<ref name="ryourisyokuzaidaijiten_p307"/>とされるものの、販売されている有色米の多くは近代品種である。例を挙げると、黒米では「[[おくのむらさき]](種苗法登録は2003年)」、「[[朝紫]](種苗法登録は1998年)」、「むらさきの舞(種苗法登録は2002年)」等があり、赤米では「ベニロマン(種苗法登録は1998年)」、「紅衣(種苗法登録は2005年)」がある。これらの品種を「[[古代米]]」や「在来種、在来米、在来稲」と、あたかも在来品種であるように呼び宣伝文句にするケースが散見されるが、在来品種ではないため注意が必要である。 また、以上の野生稲や在来品種とは異なる有色米が雑草稲と呼ばれ問題となっている。雑草稲が収穫した米に混入すると、品質低下の原因となる。 [[ファイル:Oryza sativa subsp ear of rice.jpg|thumb|240px|{{要出典|黒米ではなく緑米の稲穂|date=2021年11月22日}}]] ; 黒米(くろまい、くろごめ) : 果皮の色が黒い米。[[胚乳]]部分は普通の米と同様に白い。よって、ぬか部分を完全にとってしまうと品種の特徴は消えてしまう。 : 中国や東南アジアでは、一般の食品や酒造原料としても利用されている。一方、日本では希少なため、赤米と共に神事の際に神饌として用いる機会が多い。黒く見える色素は[[ポリフェノール]]の一種である[[アントシアニン]]に起因しており、非常に濃い紫色である。白米と混ぜて炊飯した時、お米が赤飯のように紫っぽくなるため、[[紫黒米]]とも呼ぶ。日本での代表的な品種は、「おくのむらさき」、「朝紫」、「むらさきの舞」、「紫黒苑」等がある。 :なお、日本の在来品種に黒米は存在せず、前述の「おくのむらさき」、「朝紫」、「むらさきの舞」等、近年になって育成された品種を、在来種あるいは在来米と呼ぶのは明確に誤りである。しかし、それらの黒米を「在来品種」であるかのように宣伝するような傾向があり、誤解が広まっている。 :また、[[イタリア]]ではインディカ種白米とジャポニカ種黒米とによる交配研究の結果、1997年に[[:it:Venere_(riso)|Riso Venere]]という新たな黒米品種が誕生、現在は[[ヴェルチェッリ]]県と[[ノヴァーラ]]県を中心に農作されている。 : ; 赤米(あかまい) : 種皮の色が赤い米。胚乳部分は普通の米と同様に白い。種皮(ぬか)の組織が強固で精米によって完全に取り除くことが難しく、赤い玄米状態で利用することになるため赤米と呼称される。祖先型野生稲は全て赤米であることが知られており、普通稲は種皮の組織をつくる遺伝子の欠損によって生じたものと考えられる。そのため赤米は、ジャポニカ種・インディカ種、陸稲・水稲、粳米・糯米にかかわらず存在する。 : 玄米の表面の層が赤いのは[[タンニン]]系の色素を含有しているためである。そのため、白米と混ぜて炊くとピンクがかった色になる。 : 日本では8世紀頃の[[平城京]]の[[木簡]]から栽培が確認される。また14世紀頃に「[[大唐米]]」という長粒種が渡来した。[[江戸時代]]には[[関東]]から西、特に薩摩など南九州で多く栽培されていた。タンニンを含み味が悪いことから、[[明治]]以降は近代品種の普及活動、特に主要農作物種子法(通称、種子法)により[[神事]]用以外の品種は駆逐された。近年は古代米と称して、そのような在来品種の子孫にあたる品種の栽培が行われている。現在の日本での代表的品種は「国司」、「神丹穂」、「ベニロマン」、「紅衣」など。また、日本には粳米しかなかったが、品種改良により糯米ができた。 : ; 緑米(みどりまい) : 種皮の色が緑色をしたもち米。日本での代表的な品種はアクネモチ(別名、みどり糯)である。アクネモチの稲穂は黒いので、玄米も黒い品種と勘違いされることが多い。 === その他 === * [[香り米]] * [[低アミロース米]] * [[低グルテリン米]] * その他 困窮地域などでの[[栄養]]不足を補うために、[[ビタミン]]などを強化した品種もある。 == 一般的な品種 == {{commonscat|Rice varieties of Japan|日本米の品種}} === 日本国内の品種 === ==== うるち(粳) ==== うるち米には次のような品種がある。 {| class="wikitable" |+ うるち米の主な品種(年代順) !登録番号・名称!!地方番号(旧系統名)!!交配品種!!育成機関!!登録年 |- ||[[水稲農林1号]] ||北陸4号 ||森多早生/陸羽132号 ||[[新潟県]]農事試験場 ||1931年 |- ||[[水稲農林20号]] ||北海86号 ||水稲農林1号/胆振早稲 ||[[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]](旧北海道農業試験場) ||1941年 |- ||水稲農林100号([[コシヒカリ]]) ||越南17号 ||水稲農林22号/水稲農林1号 ||農研機構(旧[[東海地方|東海]][[近畿]]農業試験場) ||1956年 |- ||水稲農林106号([[ヤマビコ]]) ||東海7号 ||中京旭/水稲農林22号 ||[[福井県]]農事試験場 ||1958年 |- ||水稲農林150号([[ササニシキ]]) ||東北78号 ||奥羽224号/ササシグレ ||[[宮城県]]農業試験場 ||1963年 |- ||[[日本晴]] ||北海86号 ||ヤマビコ/幸風 ||[[愛知県]]総合農業試験場 ||1963年 |- ||[[あきたこまち]] ||秋田31号 ||コシヒカリ/奥羽292号 ||[[秋田県]]農業試験場 ||1984年 |- ||水稲農林290号([[キヌヒカリ]]) ||北陸122号 ||収2800/北陸100号/北陸96号 ||農研機構(旧北陸農業試験場) ||1988年 |- ||[[きらら397]] ||上育397号 ||渡育214号/道北36号 ||北海道[[上川地方|上川]]農業試験場 ||1988年 |- ||水稲農林299号([[ヒノヒカリ]]) ||南海102号 ||愛知40号/コシヒカリ ||[[宮崎県]]総合農業試験場 ||1989年 |- ||水稲農林313号([[ひとめぼれ]]) ||東北143号 ||コシヒカリ/初星 ||宮城県[[古川市|古川]]農業試験場 ||1991年 |- ||[[どまんなか]] ||山形35号 ||中部42号/庄内29号 ||[[山形県]]農業試験場 ||1992年 |- ||[[はえぬき]] ||山形45号 ||庄内29号/秋田31号 ||山形県農業試験場 ||1992年 |- ||水稲農林340号([[ほしのゆめ]]) ||上育418号 ||あきたこまち/道北48号/上育397号 ||北海道上川農業試験場 ||1996年 |- ||[[つがるロマン]] ||青系115号 ||ふ系141号/あきたこまち ||[[青森県]]農業試験場 ||1997年 |- ||[[ななつぼし]] ||空育163号 ||ひとめぼれ/空系90242A/空育150号 ||北海道中央農業試験場 ||2001年 |} 日本国内における代表的な[[栽培品種]]は以下の通り(2009年の収穫量順)<ref>[[農林水産省]]『[http://www.syokuryo.maff.go.jp/archives/data/21kome-sakutsuke.pdf 平成21年産水稲うるち米の作付状況について]』『[http://www.maff.go.jp/j/tokei/pdf/syukaku_suitou_09.pdf 平成21年産水稲の品種別収穫量]』</ref>。 {| class="wikitable" |+ 作付面積上位20品種(2009年) ! 順位 !! 品種名 !! 作付比率(%) !! 収穫高 !! 収穫高比率(カッコ内順位) |- ||1||コシヒカリ |align="center"|37.3% |align="right"|3,094,000t |align="center"|36.5%(1) |- ||2||ひとめぼれ |align="center"|10.6% |align="right"|842,700t |align="center"|10.0%(2) |- ||3||ヒノヒカリ |align="center"|10.3% |align="right"|805,300t |align="center"|9.5%(3) |- ||4||あきたこまち |align="center"|7.8% |align="right"|656,700t |align="center"|7.8%(4) |- ||5||キヌヒカリ |align="center"|3.3% |align="right"|257,500t |align="center"|3.0%(6) |- ||6||ななつぼし |align="center"|3.0% |align="right"|200,900t |align="center"|2.4%(7) |- ||7||はえぬき |align="center"|2.8% |align="right"|258,400t |align="center"|3.1%(5) |- ||8||きらら397 |align="center"|2.4% |align="right"|167,400t |align="center"|2.0%(8) |- ||9||つがるロマン |align="center"|1.6% |align="right"|155,300t |align="center"|1.8t(9) |- ||10||[[まっしぐら]] |align="center"|1.3% |align="right"|118,000t |align="center"|1.4%(10) |- ||11||[[あさひの夢]] |align="center"|1.2% |align="right"|101,100t |align="center"|1.2%(11) |- ||12||[[夢つくし]] |align="center"|1.1% |align="right"|72,400t |align="center"|0.9%(14) |- ||13||[[こしいぶき]] |align="center"|1.1% |align="right"|89,900t |align="center"|1.1%(12) |- ||14||ほしのゆめ |align="center"|1.0% |align="right"|67,100t |align="center"|0.8%(15) |- ||15||[[あいちのかおり]] |align="center"|0.9% |align="right"|82,200t |align="center"|1.0%(13) |- ||16||[[ハナエチゼン]] |align="center"|0.6% |align="center"|- |align="center"|- |- ||17||[[ハツシモ]] |align="center"|0.6% |align="center"|- |align="center"|- |- ||18||ササニシキ |align="center"|0.6% |align="center"|- |align="center"|- |- ||19||[[彩のかがやき]] |align="center"|0.6% |align="center"|- |align="center"|- |- ||20||[[おぼろづき]] |align="center"|0.5% |align="center"|- |align="center"|- |} 作付高上位10品種で80.4%、上位20品種で88.6%を占める。 1980年代に良食味品種として代表格であったササニシキとコシヒカリは互いに近縁の関係にあり{{refnest|group="注釈"|両品種とも明治時代の良食味品種[[亀の尾]]と朝日の血統を、[[水稲農林1号]](「亀の尾」の孫)と水稲農林22号(「朝日」の孫)を通して引き継いでいる<ref>[http://ineweb.narcc.affrc.go.jp/search/inedata_top.html?ineCode=ETU00170 品種情報:越南17号(コシヒカリ)]・[http://ineweb.narcc.affrc.go.jp/search/inedata_top.html?ineCode=TOH00780 品種情報:東北78号(ササニシキ)]</ref>。}}、両品種以降の後の良食味米は多くはコシヒカリの遺伝子を引き継いでいる。 <!-- 自家採種すると品種の劣化が起きるので、通常は自家採種種子は使いません。特別の場合を除いて、[[原種]]圃場で厳密に増殖した種子を使います。国内の代表的品種は純系(全ての遺伝子がホモ接合である状態)なので、正しく自家受精し、突然変異も起きていなければ収穫した籾は元の稲と同じ遺伝子型になります。ただ、実際は突然変異や他家受粉の発生によって親と同じじゃない籾が発生するので、そういう個体を排除しながら栽培しなければ品種特性を保持できません。それを行う為の圃場が原種圃場です。品種としての厳密性をそこまで求めていない(多くは自家受粉なのでわずかに雑種が混入しても気にしない)場合なら、農家は収穫した籾の一部を次年度の種籾にできます。なお、雑種強勢を利用したF1品種の作物では、そもそも遺伝的に純系でないので、元の品種と同じ種子を自家受粉では得ることができません(F1の親の純系同士を交配しなければ同じ種子が得られない)。その場合は(ちゃんとした親を保存している)育成者から入手しなければなりません。 --> 日本で栽培される稲は遺伝的に近縁の品種が多い。そのため、天候不良や特定の病虫害によって大きく収量を落とす可能性がある。従って、食料の安定生産という観点からより多くの遺伝資源を利用した品種改良が必要である。例えば、IR8という短稈品種(短稈とは背が低いという意味である)は、背が低くて強風で倒れにくい品種の開発に利用されている。稲や麦は肥料を多く与えると、背が高くなりすぎて倒れやすくなる性質がある。そこでIR8のような背の低い品種と交配することで肥料を多く与えて収穫量を増やしながらも、倒れにくい品種が開発されるのである。ちなみにIR8とは国際稲研究所([[IRRI]])で開発されたインディア・ライス8という意味である。 ==== もち(糯) ==== {{see|もち米}} ==== 酒米 ==== {{see|酒米}} ==== 多収米品種 ==== 主に加工用や[[飼料]]用に使われる収量の多い多収品種の米が栽培されている。これらは食用として流通しないため、食味を考慮する必要がないのでインディカ品種との交雑なども行われている。 *べこごのみ *北陸193号 *モグモグあおば ==== 観賞用 ==== 一般的には知られていないが、イネには食用米品種以外に観賞用品種が存在する<ref>[[平成]]17年3月発行のパンフレット『知っていますか?私たちのごはん』(農林水産省総合食料局総務課)より引用。</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=東北農業研究センター:観賞用の稲 {{!}} 農研機構|url=https://www.naro.go.jp/laboratory/tarc/contents/deco/index.html|website=www.naro.go.jp|accessdate=2021-04-20|publisher=国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構}}</ref><ref name=":3">{{Cite web|和書|title=観賞用稲種子の配付 {{!}} 地方独立行政法人 青森県産業技術センター|url=https://www.aomori-itc.or.jp/soshiki/nourin_sougou/syokai/syushihaifu.html|website=www.aomori-itc.or.jp|accessdate=2021-04-20|publisher=地方独立行政法人 青森県産業技術センター}}</ref>。観賞用稲は米を収穫することが目的ではなく、鮮やかに染まった葉や穂を鑑賞して楽しむためのイネである。切り花やドライフラワーなどに適している。また、近年では青森県[[田舎館村]]などで取り組まれている[[田んぼアート]]にも用いられている。 農研機構や農業試験場といった公的機関で品種改良されたものの他、在来品種にも葉色が鮮やかなものがあるため観賞用として販売されている例がある<ref>{{Cite web|和書|title=観賞用稲 - 百笑米オンラインショップ|url=http://hyakusyoumai.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=1402114&csid=7|website=観賞用稲 - 百笑米オンラインショップ|accessdate=2021-04-20|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=古代米・特殊米種籾(籾種) - 黒米で20種類、古代米220種類の種籾(籾種)販売なら古代米.net|url=http://www.seedrice.net/ancient/index.html|website=www.seedrice.net|accessdate=2021-04-20}}</ref>。 ===== 公的機関で育成された観賞用稲 ===== * 祝い茜(奥羽観378号)<ref name=":2" /> - 農研機構 東北農業研究センター育成 * 祝い紫(奥羽観379号)<ref name=":2" /> - 農研機構 東北農業研究センター育成 * 奥羽観383号<ref name=":2" /> - 農研機構 東北農業研究センター育成 * 西海観246号<ref>{{Cite web|和書|title=西海観246号 {{!}} 農研機構|url=https://www.naro.go.jp/collab/breed/0100/0107/001417.html|website=www.naro.go.jp|accessdate=2021-04-20}}</ref> - 農研機構 九州沖縄農業研究センター育成 * ゆきあそび<ref name=":3" /><ref name=":4">{{Cite web|和書|title=葉色が白い観賞用水稲新品種「ゆきあそび」の育成|url=https://www.naro.affrc.go.jp/org/tarc/seika/jyouhou/H22/suitou/H22suitou001.html|website=www.naro.affrc.go.jp|accessdate=2021-04-20}}</ref> - 青森県産業技術センター農林総合研究所育成 * べにあそび<ref name=":3" /> - 青森県産業技術センター農林総合研究所育成 * あかねあそび<ref name=":3" /> - 青森県産業技術センター農林総合研究所育成 *赤穂波<ref name=":3" /> - 青森県産業技術センター農林総合研究所育成 *紫穂波<ref name=":3" /> - 青森県産業技術センター農林総合研究所育成 *白穂波<ref name=":3" /> - 青森県産業技術センター農林総合研究所育成 ===== 在来品種の観賞用稲 ===== * 短稈紫稲<ref name=":4" /> * 黄色稲<ref name=":4" /> * 観稲<ref name=":4" /> * 黄色大黒<ref>{{Cite web|和書|title=種籾 黄色大黒 - 百笑米オンラインショップ|url=http://hyakusyoumai.shop-pro.jp/?pid=120789662|website=種籾 黄色大黒 - 百笑米オンラインショップ|accessdate=2021-04-20|language=ja}}</ref> === 日本以外の品種 === * インド ** [[バスマティ]] * タイ ** [[カオ・ホーム・マリ]] * スペイン ** [[ボンバ米]] * イタリア ** [[アルボリオ]] [[:en:Arborio rice|arborio]] ** [[カルナローリ]] [[w:Carnaroli|carnaroli]] ** [[ヴィアローネ・ナノ]] vialone nano * アフリカ ** [[ネリカ|ネリカ米]] NERICA - アフリカの食糧事情改善を目的に開発されたアジアイネ(''O. sativa'')とアフリカイネ(''O. glaberrima'')の交雑種。 == 栽培 == [[ファイル:Oryza sativa Rice sprouts ja01.jpg|thumb|180px|[[田植え]]後の早苗(初夏)]] [[ファイル:Kari-ire_9100232.jpg|thumb|180px|稲刈りは地方や気候によって時期に違いがある。]] [[ファイル:ine_syukakugo.jpg|thumb|180px|[[はさ|ハザ]]干しの様子]] 稲を栽培する[[農業]]を[[稲作]](いなさく)という。 栽培する土地を'''[[田]]'''または'''田圃(たんぼ)'''といい、特に水を張っている田を指して'''水田'''(すいでん)ともいう。 水田で育成されたものを'''水稲'''(すいとう)、畠で育成されたものを'''[[陸稲]]'''(りくとう、おかぼ)と呼ぶ。水稲と陸稲を比較すると、水稲は収穫までの間に大量の[[水]]を使うが、地力の低下が小さく、永久[[連作]]<ref>黒田治之「[[doi:10.11402/cookeryscience1995.32.2_151|わが国果樹栽培技術の課題と展望]]」『日本調理科学会誌』Vol.32 (1999年) No.2 pp.151-160, {{DOI|10.11402/cookeryscience1995.32.2_151}}</ref>([[二期作]])が可能である。一方、陸稲は水が少なくて済むが、面積あたりの収穫量が少ない上に、[[連作障害]]が発生する。日本では、近年では陸稲は少なくなっている。 イネは[[夏期]]にある程度高温になる温暖湿潤の気候が適している。しかし[[寒冷地]]向け品種の作出と栽培法の確立により、寒冷地での栽培も可能となった。日本では、現在では総生産高のうち、北海道および東北地方が占める割合が最も大きい。東北地方や新潟県の内陸部は夜間の気温が低いため、イネの消耗が少なく、良食味の米が収穫できるとされる。近年の[[食味検査]]ランキングでは東北地方および新潟県の産米が上位を占めている<ref>[http://www.mitinoku.or.jp/topics/syokumi.htm 食味ランキング特A] みちのく村山農業協同組合</ref>。しかし、[[1931年]](昭和6年)に[[並河成資]]によって世界初の寒冷地用水稲・早稲である[[水稲農林1号|農林1号]]の育成が成功するまでは、{{要出典範囲|現在米どころとされている新潟県、山形県、秋田県など[[冷涼地]]の晩稲は「鳥またぎ」とされ、食味では[[台湾]]米の比するところではなかった|date=2016-11}}。 なお、温帯原産である温帯日本型は本来熱帯気候には適しておらず、温帯に属する日本でも、夏期に[[猛暑]]が続くと登熟障害を起こす。近年は[[地球温暖化]]に伴い西日本を中心に[[猛暑日]]が増え、登熟障害<ref>森田敏「[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010780920 水稲高温登熟障害の生理生態学的解析]」『農研機構九州沖縄農業研究センター報告』(52), 1-78, 2009年8月, {{naid|120005319212}}</ref>や食味の低下が問題になっている<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/070109/gaiyou/001/documents/6.7.pdf 水稲の高温登熟障害の発生要因と対策]}} 和歌山県</ref>。栽培技術による対応<ref>[http://www.jeinou.com/benri/rice/othermethod/2009/04/300959.html 高温障害に強い稲の栽培法] みんなの農業広場(2020年2月13日閲覧)</ref>だけで無く、耐高温品種の作出も行われている<ref>{{PDFlink|[https://www.pref.saitama.lg.jp/b0909/documents/619704.pdf 高温登熟性の高い水稲品種「彩のきずな」の高温条件下における光合成特性]}}『埼玉農総研研報』(13)28-33,2014(2020年2月13日閲覧)</ref>。 == 主要病害虫 == * [[いもち病]](稲熱病) * [[白葉枯病]] * [[縞葉枯病]] * 立枯細菌病 * [[馬鹿苗病]] * 籾枯細菌病 * 紋枯病 * [[イネシンガレセンチュウ]] * [[イネミズゾウムシ]] * [[セジロウンカ]] * [[ヒメトビウンカ]] * [[トビイロウンカ]] * [[ツマグロヨコバイ]] * [[ニカメイチュウ]] * [[イネツトムシ]] * [[フタオビコヤガ]] * [[カメムシ]]類([[斑点米]]を作る) == 品種改良 == イネは、基本的には[[自家受粉|自家受精]]を行う事で自分と同じ[[遺伝子型]]の子孫を残す'''自殖性植物'''である。自殖性植物は数世代にわたって自家受粉を繰り返すため、[[遺伝子]]が[[ホモ接合型]]である個体が集団内で多数を占める<ref name=":5">{{Cite book|和書|title=植物育種学 第3版|date=2000/7/20|publisher=文永堂出版株式会社|pages=55-56|isbn=4-8300-4096-3}}</ref>。ホモ接合体の個体から種子を得ると、子孫は全て親と同じ遺伝子型を持つ。これを[[育種学]]では'''純系'''(pure line)と呼ぶ<ref name=":5" />。 イネの品種改良では、一部の例外を除き純系の品種を作り出すことを目的としている。この育種体系を'''純系改良方式'''という<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=植物育種原理|date=2003/11/20|publisher=養賢堂|page=194|author=藤巻宏}}</ref>。 純系改良方式では、まずは同質の遺伝子で固定された純系である親品種から、何らかの方法([[交配]]、[[突然変異]]誘発等)で[[ヘテロ接合型|ヘテロ接合]]状態の[[雑種第一代|雑種]]個体を発生させる。その後雑種個体の子孫を自殖により増殖させると、各遺伝子座がホモ接合化し、数世代を経ると、元の親とは異なった遺伝子型の組合せを持つ純系個体の集団が得られる。この状態を形質が'''固定'''された、と表現する。こうして得た純系個体集団から品種として好ましい形質(例えば、病気に強い、冷害に強い、倒れにくい、収量性が高い、食味が良い等)を持った個体を選抜する。その後、更に自殖を繰り返し、選抜した個体と同じ遺伝子型の種子を増やすことで系統として確立させる。また、同時に系統の栽培特性等を調査する。調査の結果有望と見られた系統は新たな品種となる。現在、日本で育成され栽培されている品種のほとんどは純系改良方式で育成されており、例えば令和元年度品種別作付け動向の統計<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.komenet.jp/pdf/R01sakutuke.pdf|title=令和元年産 水稲の品種別作付動向について|accessdate=2021/08/18|publisher=公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構}}</ref>に表れる品種は全て純系改良方式で育成されたものである。 純系改良方式は雑種個体を得る方法やその後純系を得る方法によって、複数の方法に分類されている。 === 純系選抜法 === '''純系分離法'''とも呼ぶ。前述の通りイネは自殖性植物であり、同一の親から得た子孫は基本的には親と同じ遺伝子型である。しかし、長期に渡って栽培すると突然変異の自然発生、1%以下の低確率ではあるが他の品種と他家交配行われる等して、遺伝的変異が蓄積し、多様な変異を持つ雑種集団となる<ref>{{Cite book|和書|title=植物遺伝学 第3版|date=2000/07/20|publisher=文永堂株式会社|page=222|isbn=4-8300-4096-3}}</ref>。平年の栽培条件では看過されるような変異が異常気象([[冷害]]等)の発生年では、有利な形質として認識され、選抜されて次世代に引き継がれる。農業試験場が設立される以前、近代的な育種が導入される以前はこの方法で[[在来品種]]の改良が行われてきた。 農業試験場設立後も、在来品種を試験場が収集し、その中から個体選抜を行い、純系系統化することで育成された品種も多い([[亀の尾|亀の尾4号]]<ref>{{Cite web|和書|title=イネ品種 データベース 検索システム 交配 系譜図|url=https://ineweb.narcc.affrc.go.jp/search/ine.cgi?action=kouhai&ineCode=Z000000102|website=ineweb.narcc.affrc.go.jp|accessdate=2021-08-18}}</ref>、陸羽20号<ref>{{Cite web|和書|title=イネ品種 データベース 検索システム「 陸羽20号( 陸羽20号 ) 」品種情報 |url=https://ineweb.narcc.affrc.go.jp/search/ine.cgi?action=inedata_top&ineCode=RIK0000200|website=ineweb.narcc.affrc.go.jp|accessdate=2021-08-18}}</ref> 等)。 === 交配育種法 === 雑種集団を得るために純系品種同士を人工交配し、雑種集団を得る方法。雑種集団の親が2品種のみの場合を'''単交配'''といい一般的に広く用いられている<ref name=":7">{{Cite book|和書|title=植物育種原理|date=2003/11/20|publisher=養賢堂|page=196|author=藤巻宏}}</ref>。[[コシヒカリ]]や[[ひとめぼれ]]、[[あきたこまち]]、[[ゆめぴりか]]等多数の品種がこの方法で育成された。 他には、品種Aと品種Bを交配した雑種第一代を更に他の品種Cと交配して雑種集団を得る'''三系交配'''、品種Aのある特定の形質のみを改良するために品種Bと交配した後に品種Aを反復して交配する'''[[戻し交配]]'''といった交配方法がある<ref name=":7" />。 三系交配で育成された品種には、青森県の[[青天の霹靂 (米)|青天の霹靂]]、富山県の[[富富富]]等がある。 また、戻し交配で育成された品種には、コシヒカリに、いもち病の抵抗性遺伝子を戻し交配で導入することによって育成された[[コシヒカリBL]]という品種群がある。現在、「新潟県産コシヒカリ」という銘柄はコシヒカリ及びコシヒカリBL品種群の玄米に与えられており、そのうちコシヒカリBL品種群が9割を占めると言われている。 ==== 系統育種法 ==== 交配によって作られた雑種集団の選抜方法で、交配育種法は更に系統育種法と集団育種法に分けられる。 系統育種法では、遺伝子型及び形質にばらつきが現れ始める雑種第2世代(F2世代)で個体選抜を行い、その子供のF3世代以降を系統として扱い、系統の種子数を増やしつつ遺伝子的に固定されていない個体を排除しながら系統として確立する方法である。早期から不要な形質を排除することが出来るが、F2世代では多くの遺伝子座がヘテロ接合であることが多いため、その自殖後代もばらつきが多く、それらの排除が必要であるため効率が低い<ref name=":7" />。 ==== 集団育種法 ==== 現在、交配育種法の中でも広く普及している方法が、温室や暖地栽培による世代促進を利用した、集団育種法である。これは、多くの遺伝子座がホモ接合となり、各々の雑種個体が遺伝的に固定するまでは、無選抜で自殖させ、雑種第5世代(F5世代)くらいに個体選抜を行う方法である<ref name=":7" />。ほとんどの場合、一年に2回以上収穫出来るような温暖地([[九州]]、[[沖縄県|沖縄]]等)や、温室を利用して年に2~3回収穫期を迎えさせ、自殖を繰り返させる。これを'''世代促進'''という<ref>{{Cite web|和書|title=東北農業研究センター:お米のよくある質問集:品種改良はどれくらい早くできるようになりましたか? {{!}} 農研機構|url=https://www.naro.go.jp/laboratory/tarc/rice_faq/variety/025101.html|website=www.naro.go.jp|accessdate=2021-11-05}}</ref>。世代促進を行わない場合は、一年に1回しか収穫できないため、遺伝的に固定するまで雑種集団を自殖させるのに5~6年かかるが、世代促進を行うことで、3~4年に短縮することができる。また遺伝的固定度が高い状態から選抜し、系統化するため効率的である<ref name=":7" />。 === 突然変異育種法 === 親品種に人工的な手段によって突然変異を誘発し、雑種集団を得る方法。最も古くには稲品種フジミノリに[[ガンマ線]]照射を行う事で、短稈で倒れにくい変異体を選抜することで育成したレイメイがある<ref>{{Cite web|和書|title=水稲「レイメイ」が告げた放射線育種の黎明|url=http://rada.or.jp/database/home4/normal/ht-docs/member/synopsis/020140.html|website=rada.or.jp|accessdate=2021-08-18}}</ref>。また、近年ではコシヒカリに化学的突然変異原N-methyl-N-nitrosoureaを処理したことで発生した突然変異体からアミロース含有量の少ない個体を選抜して育成した[[ミルキークイーン]]がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.naro.go.jp/publicity_report/publication/archive/files/2-2.pdf|title=低アミロース良食味水稲品種「ミルキークイーン」の育成|accessdate=2021/08/18}}</ref>。 [[理化学研究所]]では、重イオンビーム照射により、一般品種の1.5倍の耐塩性を獲得した品種の開発に成功<ref>[http://www.riken.jp/r-world/info/release/news/2007/nov/index.html#frol_02 重イオンビームで新しい植物をつくる] 理化学研究所ニュース November 2007</ref>。[[塩害]]で耕作ができなくなった土地での栽培により、生産可能地域が広がり食糧問題の解決に貢献することが期待される。 === 葯培養 === 親とする品種を交配した後のF1個体の[[葯]]を[[組織培養]]し([[葯培養]])、[[倍数性|半数体]]を作り出してから、染色体を倍加させる。このようにすると、純系個体の集団を得るまでに、通常は数世代の自殖が必要なところが、1世代のみで済むため育種年限の短縮ができる。しかし、組織培養の過程で突然変異が誘発されることで、親となる品種の形質を遺伝させられなくなることもある<ref name=":7" />。 === 純系品種ではない品種 === 純系の品種ではない例としては、純系の親同士を掛け合わせたF1([[雑種第一代]])を種子として販売する方式の'''[[F1品種]]'''がある(三井化学アグロ「みつひかり」<ref>{{Cite web|和書|title=ハイブリッドライスみつひかり {{!}} 三井化学アグロ株式会社|url=https://www.mitsui-agro.com/product/tabid/114/Default.aspx|website=www.mitsui-agro.com|accessdate=2021-08-18}}</ref>等)。トマト等の野菜では普及が進んでいるが([[タキイ種苗]]「桃太郎」等)、イネではさほど普及していない。 == モデル植物研究 == イネは、[[生物学]]や[[農学]]において、植物の[[モデル生物]]として用いられている。イネは主要穀物の中では[[ゲノム]]サイズが小さく(トウモロコシの1/6、小麦の1/40)、穀物の遺伝情報を知る上でモデルとして好適とされる。 [[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]](旧農業生物資源研究所)がコシヒカリ・ファミリーである「コシヒカリ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」「ヒノヒカリ」を分析した結果、6つのDNAを共通して受け継いでいることが判明している。特に興味深いのは明治時代に東西の横綱と称された「[[亀の尾]]」「[[旭 (米)|旭]]」のDNAを引いていることが挙げられる<ref>[http://sankei.jp.msn.com/science/science/100621/scn1006210836000-n1.htm 【科学】イネの遺伝子研究、ゲノムで加速 国産米の系譜明らかに][[産経新聞]]ニュース</ref>。 ゲノム研究所 (TIGR) やイネゲノム研究プログラム (RGP) 国際チームが「[[日本晴]]」の[[ゲノムプロジェクト]]が進行しており、イネゲノムの塩基配列は、2002年12月に重要部分の解読が完了し、2004年12月には完全解読が達成されている<ref>[http://www.nias.affrc.go.jp/pressrelease/2002/20021210.html Pressrease - イネゲノム塩基配列解読記念式典を開催] - [[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]](旧農業生物資源研究所)、社団法人農林水産先端技術産業振興センター</ref><ref>[http://www.nias.affrc.go.jp/pressrelease/2004/20041210.html Pressrease - イネゲノム塩基配列完全解読を達成] -農研機構(旧農業生物資源研究所)、社団法人農林水産先端技術産業振興センター</ref>。先述のようにイネは[[単子葉植物]]のモデル生物であり、植物としては[[双子葉植物]]である[[シロイヌナズナ]]に続いて2番目、単子葉植物としては初めての全ゲノム完全解読となった<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p105"/>。 イネは洪水などで水没すると呼吸が出来ず枯れてしまうのが弱点だが、[[名古屋大学]]の[[芦苅基行]]教授らが水没に耐えられるような茎を伸ばす遺伝子を解明した。他にも、いもち病にかかりにくいが食感の悪い「おかぼ」の遺伝子を研究し、食感が失われない「ともほなみ」を[[2009年]]に開発している。 === コムギとの雑種作出 === 自然では相互に受粉はしないコムギとの雑種を、[[精細胞]]と[[卵細胞]]の電気刺激による人為的な融合で作出することに成功したと、[[東京都立大学 (2020-)|東京都立大学]]と[[鳥取大学]]が2021年10月6日に発表した<ref>稲×小麦 雑種誕生/性質「いいとこどり」期待/世界初、都立大と鳥取大『[[日本農業新聞]]』2021年10月7日1面</ref>。 == 稲に関わる語彙 == * [[早苗 (曖昧さ回避)|早苗]](さなえ) - 女性の名前にも見られる。 * [[稲妻]](いなづま)・[[稲光]](いなびかり) - 稲穂の実る時期に[[雷]]が多いことから、古来「雷が稲を実らせる」と考えられていた。 *[[早稲田]](わせだ)- [[神田川 (東京都)|神田川]]に近く川が入り組んだ地形から、 水稲の田圃が多くあり、凶作に備えて普通の田植えより、早い時期に植える田があった事に由来<ref>{{Cite web|和書|title=早稲田 -地名の由来- {{!}} 地域情報TOKYOさんぽ|url=https://www.jk-tokyo.tv/2014/03/31/早稲田 -地名の由来/|website=www.jk-tokyo.tv|date=2014-03-31|accessdate=2021-10-17|language=ja}}</ref>。 == 参考画像 == <gallery> Rice_field_on_Japan_20070829.jpg|頭を垂れるジャポニカ種[[コシヒカリ]]系の稲穂(2007年8月29日) Ine-Oct1.jpg|10月初旬の稲穂 5JPY.JPG|[[五円硬貨]]の表には稲穂がデザインされている。 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|2|refs= <ref name="nig1110">A map of rice genome variation reveals the origin of cultivated rice. Xuehui Huang, Nori Kurata, Xinghua Wei, Zi-Xuan Wang, Ahong Wang, Qiang Zhao, Yan Zhao, Kunyan Liu, Hengyun Lu, Wenjun Li, Yunli Guo, Yiqi Lu, Congcong Zhou, Danlin Fan, Qijun Weng, Chuanrang Zhu, Tao Huang, Lei Zhang, Yongchun Wang, Lei Feng, Hiroyasu Furuumi, Takahiko Kubo, Toshie Miyabayashi, Xiaoping Yuan, Qun Xu, Guojun Dong, Qilin Zhan, Canyang Li, Asao Fujiyama, Atsushi Toyoda, Tingting Lu, Qi Feng, Qian Qian, Jiayang Li, Bin Han Nature, 490, 497-501 (2012)</ref> }} == 参考文献 == * 『新編食用作物』養賢堂、星川清親著、1980年 * 【子ども向け】「『米』で総合学習みんなで調べて育てて食べよう」シリーズ(全4巻)[[金の星社]]、2002年 == 関連項目 == {{commonscat|Rice}} * [[米]] * [[藁]] * [[稲作]] * [[稲妻]] * [[田]]、[[神田]](御田) * [[棚田]] * [[陸田]]、[[乾田]]、[[湿田]] * [[深田 (農業)|深田]] * [[掘り上げ田]]、[[掘り下げ田]] * [[田の神]] * [[作況指数]] * [[モミラクトンB]] == 外部リンク == * [https://ineweb.narcc.affrc.go.jp/ 国立研究開発法人農研機構] イネ品種特性データベース * [http://www.shigen.nig.ac.jp/rice/oryzabase/top/top.jsp Oryzabase(イネ(稲)データベース)] [[ナショナルバイオリソースプロジェクト]]の一部。 * [https://cir.nii.ac.jp/crid/1390282679700503808 イネにおける生態型と日本品種との系統発生学的研究]育種學雜誌 32(4) pp.333-340 * [http://www.nias.affrc.go.jp/project/inegenome/2004inegenome/index.htm イネゲノムプロジェクト] ** [http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2005/050624/index.html イネの収量を決定する重要遺伝子を同定 -「第2の緑の革命」につながる世界初の成果- 2005/6/24] 理化学研究所 ** [http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2005/051019/index.html 完全解読されたイネゲノムの遺伝子3万個を貼付けた「DNAブック(R)」完成 2005/10/19] 理化学研究所 ** [http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2007/070208/index.html イネの収量ホルモンを活性化する遺伝子発見] 理化学研究所 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いね}} [[Category:イネ|*]] [[Category:穀物]] [[Category:主食]] [[Category:米|*いね]] [[Category:モデル生物]] [[Category:1753年に記載された植物]] [[Category:秋の季語]]
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コドン
コドン(英: codon)とは、核酸の塩基配列が、タンパク質を構成するアミノ酸配列へと生体内で翻訳されるときの、各アミノ酸に対応する3つの塩基配列のことで、特に、mRNAの塩基配列を指す。DNAの配列において、ヌクレオチド3個の塩基の組み合わせであるトリプレットが、1個のアミノ酸を指定する対応関係が存在する。この関係は、遺伝暗号、遺伝コード(英: genetic code)等と呼ばれる。 ほぼ全ての遺伝子は厳密に同じコードを用いるから(#RNAコドン表を参照)、このコードは、しばしば基準遺伝コード(英: canonical genetic code)とか、標準遺伝コード(英: standard genetic code)、あるいは単に遺伝コードと呼ばれる。ただし、実際は変形コードは多い。つまり、基準遺伝コードは普遍的なものではない。例えば、ヒトではミトコンドリア内のタンパク質合成は基準遺伝コードの変形したものを用いている。 遺伝情報の全てが遺伝コードとして保存されているわけではないということを知ることは重要である。全ての生物のDNAは調節性塩基配列、遺伝子間断片、染色体の構造領域を含んでおり、これらは表現型の発現に寄与するが、異なった規則のセットを用いて作用する。これらの規則は、すでに十分に解明された遺伝コードの根底にあるコドン対アミノ酸パラダイムのように明解なものかも知れないし、それほど明解なものではないかも知れない。 コドンは、厳密には実際のタンパク質の設計図として機能するmRNA中に存在している、アミノ酸1個に対応したヌクレオチドの塩基3個の配列のことを指す。RNAのヌクレオチドの塩基は、A(アデニン)、C(シトシン)、G(グアニン)、U(ウラシル)の4種類がある。そして、mRNA中の塩基の配列は、細胞で遺伝情報を保持しているDNAから転写されて作製されるので、コドンをDNA中の塩基の配列と考えることもできる。その場合、塩基のU(ウラシル)をT(チミン)に置き換えて読む。 タンパク質を構成する主要なアミノ酸は20種類ある。一方、DNAの構成要素であるヌクレオチドの塩基は、上記のようにわずか4種類である。アミノ酸20種類を区別して指定するのに、塩基1つでは4種類しか区別できず、また、塩基2つの組み合わせでも4×4 = 16種類しか区別できないので足りない。実際の生体内では3個ずつの塩基が1セットになって、アミノ酸1個に対応する形でタンパク質をコードしている。塩基3個の場合、理論的には、4×4×4 = 64種類を区別してコードすることが可能である。実際には、20種類のアミノ酸に加え、どのアミノ酸にも対応しないコドンもあり、ペプチド鎖合成の終了を意味している。これは終止コドンと呼ばれる。また、1つのアミノ酸は複数のコドンと対応している場合が多い。 RNAコドン表は、mRNA上にあるコドンとそれが指定するアミノ酸との関係を示した表である。 原核生物と真核生物など、生物の種類によって用いているコドンは下記のコドン表とは一部異なっている場合もある。 また、複数のコドンが対応しているアミノ酸では、生物種によって、また同種生物内でも遺伝子によって同義コドンを用いる頻度の傾向が大きく異なり、自己組織化写像などを用いることによってDNA断片から生物種を推定することが出来る。この頻度の違いをコドン出現頻度 (codon usage, codon frequency)の違いという。コドン出現頻度の違いは遺伝子の発現量やそのコドンに対応する tRNA の量と関係があることが知られている。発現量の多い遺伝子のコドン出現頻度の偏りは大きくなり、頻出するコドンに対応する tRNA は細胞内の存在量も多い。これは組換えタンパク質を本来の生物種とは異なる生物種で発現させる際などに問題になる。例えば、ある導入遺伝子に使われているコドンが、ホスト細胞では頻度の低いコドンである場合には、導入遺伝子産物の生産が少ないといったことが起こりうる。このような場合には導入遺伝子にサイレント突然変異を起こしコドンを最適化したり、導入細胞側にマイナー tRNA を過剰に発現させたりすると改善される場合もある。 DNAの構造がジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンス、ロザリンド・フランクリンらによって解明されたあと、タンパク質が生体内でどのようにコードされているかということの解明に向けて真剣な努力が払われた。ジョージ・ガモフは、生体の細胞内でタンパク質をコードするのに用いられている20ほどの異なるアミノ酸を指定するのに3文字の暗号が用いられていると仮定した(なぜなら4が少なくとも20以上であるようなnは3が最小だから)。コドンがまさにDNAの3塩基に対応しているという事実を最初に示したのはクリックとシドニー・ブレナーらの実験である 。はじめて一つのコドンを明らかにしたのは1961年、アメリカ国立衛生研究所のマーシャル・ニーレンバーグとハインリッヒ・マッタイであった 。彼らは無細胞系でポリウラシルRNA配列(これは生化学的記号でUUUUU....と表される)を翻訳した。合成できたポリペプチドはフェニルアラニンのみからなるものであることを発見した。このことから、コドンUUUがアミノ酸フェニルアラニンを指定すると推定した。ニーレンバーグと共同研究者らはこの研究を推し進めていって、個々のコドンのヌクレオチド組成を決定することができた。配列の順序を決定するのに3ヌクレオチドがリボソームに固定され、アミノアシルtRNAを放射線標識して、どのアミノ酸がコドンに対応するかを決定した。ニーレンバーググループは64コドン中54の配列を決定できた。続いてハー・ゴビンド・コラナが残りのコドンを決定することができた。その後程なくロバート・W・ホリー が翻訳の際のアダプター分子であるtRNAの構造を明らかにした。この研究は、1959年にRNA合成の酵素学に関する研究によってノーベル賞を受賞したセベロ・オチョアの初期の研究に基づいていた。1968年にコラナ、ホリー、ニーレンバーグらも生理学あるいは医学ノーベル賞を受賞した。 生物のゲノムはDNA中に刻まれている。ウイルスの中にはゲノムがRNAに刻まれているものもある。ゲノム中で1つのタンパク質あるいは1つのRNAをコードしている部分を遺伝子という。タンパク質をコードしている遺伝子はコドンと呼ばれる3ヌクレオチドの単位から構成されており、各コドンは1つのアミノ酸をコードしている。コドンのサブユニットである各ヌクレオチドはさらにリン酸、デオキシリボース、窒素を含んだ4種類のヌクレオチド塩基のうちの1つ、という要素からなる。プリン塩基のアデニン(A)とグアニン(G)は大きな塩基で芳香環を2つもつ。ピリミジン塩基のシトシン(C)とチミン(T)は小さい塩基で芳香環を1つしかもたない。DNA鎖は2重らせん構造を取るとき、塩基対結合として知られる配置によって水素結合で互いに会合している。これらの結合はほとんど常に、一方の鎖のアデニンと他方の鎖のチミンの間、同じくシトシンとグアニンの間で行われる。これは2重らせん中のAとTの数、同様にGとCの数が同じであることを意味している。RNAの場合はチミン(T)の代わりにウラシル(U)が用いられ、デオキシリボースの代わりにリボースが用いられる。 タンパク質をコードする遺伝子はDNAに類縁のポリマーRNAである鋳型分子、メッセンジャーRNAあるいはmRNAに転写される。この分子は続いてリボソーム上でアミノ酸鎖つまりポリペプチドに翻訳される。翻訳プロセスは個々のアミノ酸に特異的なトランスファーRNAを必要とする。アミノ酸はtRNAに共有結合している。グアノシン3リン酸(GTP)がエネルギー源となり、一群の翻訳因子も必要である。tRNAはmRNAのコドンに相補的なアンチコドンをもっており、3'末端のCCAで共有結合によってアミノ酸を結合・保持する。各tRNAは特異的なアミノ酸をアミノアシルtRNA合成酵素によって結合・保持する。この酵素はアミノ酸と、対応するtRNAの双方に高い特異性をもっている。これらの酵素に高い特異性があることが、タンパク質の翻訳が厳密に行われることの主要な理由である。 3ヌクレオチドからなるトリプレットコドンによって可能なコドンの組合せは、4=64種類ある。実際、標準遺伝コードの64コドン全てがアミノ酸あるいは翻訳ストップシグナルに割り当てられている。例えばRNAの塩基配列がUUUAAACCCであったとしよう。読み枠は先頭のU(慣例により5'から3'とする)から始めてコドンを当てはめると3コドンが得られる。つまり、UUU、AAA、CCCである。各コドンは1つのアミノ酸に対応し、このRNAの塩基配列は3アミノ酸からなる配列に翻訳される。コンピュータ科学に比較対照されるものを求めると、コドンはワードに相当し、データ操作の標準的な単位であり(タンパク質のアミノ酸1つのように)、ヌクレオチド1つは1ビットに相当する。 標準遺伝コードが次の表に示されている。表1は64コドン各々がどのアミノ酸に対応するかを示す。表2は翻訳される標準的なアミノ酸20個の各々がどのコドンに対応するかを示す。これらは、それぞれ、コドン対照表およびコドン逆対照表と呼ばれる。例えばコドンAAUはアスパラギンに対応し、UGUとUGCはシステインに対応する(アミノ酸を標準的な3文字記号で表すとそれぞれAsnとCysである)。 コドンの割り当ては翻訳が開始される先頭のヌクレオチドから行われる。例えば塩基鎖がGGGAAACCCで先頭から読まれるとすると、コドンはGGG、AAA、CCCとなり、2番目から読まれるとすると、コドンはGGA、AAC、3番目から読まれるとすると、GAA、ACCとなる。この例ではコドンが部分的な場合は無視した。このように塩基配列がどうであれ、読み枠は3つ(の塩基)であり、各々異なるアミノ酸配列を生じる(この例では順に、Gly-Lys-Pro、Gly-Asp、Glu-Thrである)。2本鎖DNAには可能な読み枠は6つあり、一方の鎖に3つ読み枠があり(他方の鎖に)反対方向に3つある。 タンパク質のアミノ酸配列に翻訳される実際の読み枠は開始コドンによって割り当てられ、通常、それはmRNAの配列の最初のAUGコドンである。ヌクレオチド塩基が3の倍数以外の数だけ挿入されたり欠失を起こした場合に生ずる、読み枠が乱されるような突然変異はフレームシフト変異として知られる。このような突然変異は、たとえタンパク質として産生されても、その機能を損うため、生体内のタンパク質をコードしている配列の中でまれなものとなる。しばしばそのような誤って作られたタンパク質はタンパク質分解性の崩壊プロセスのターゲットとなる。加えてフレームシフト突然変異は往々にして終止コドンを生じ、タンパク質産生を中途終止させる(例)。次代に遺伝するフレームシフト突然変異がまれな理由は、もし翻訳されるタンパク質が、その生物が直面する選択圧のもとで生育に必須なものであるとしたら、機能をもったタンパク質が存在しないことによって、その生物が生存する以前に致死となるかも知れないからである。 翻訳は核酸鎖の開始コドンから始まる。終止コドンと違って、開始コドンだけでは翻訳プロセスが始められるには十分でない。開始コドン近くの配列の条件や開始因子も翻訳開始に必要である。最も一般的な開始コドンはAUGであり、これはメチオニンをコードするため、アミノ酸鎖の先頭で最も多いのはメチオニンである。終止コドンは3つあってそれぞれ名称がある:UAGはアンバー(amber)、UGAはオパール(opal)(ときにアンバーumberと呼ばれる)、UAAはオーカー(ochre)。「アンバーamber」は発見者Richard EpsteinとCharles Steinbergによって彼らの友人Harris Bernsteinがファミリー名をドイツ語でamberということに因んで命名された。他の2つの終止コドンは色彩名をつける原則によって命名された。終止コドンは停止コドンとも呼ばれこれら終止シグナルコドンに相補的なアンチコドンをもった対応するtRNAというのはないが、解離因子を結合させることによって、作られたばかりのポリペプチドをリボソームから解離するシグナルとなる。 遺伝コードは冗長であるが多義性はない(上掲のコドン表で全ての対応を見よ)。例えばコドン(GAA、GAG)はどちらもグルタミン酸を指定するが(冗長性)、どちらも他のアミノ酸を指定するということはない(非多義性)。一つのアミノ酸をコードするコドンは3つのヌクレオチドのうちどこかで異なる場合がある。例えば、グルタミン酸はコドン(GAA、GAG)によって指定されるが(第3番目の位置でヌクレオチドが異なる)、ロイシンはコドン(UUA、UUG、CUU、CUC、CUA、CUG)によって指定され(先頭と3番目の位置で異なる)、セリンはコドン(UCU、UCC、UCA、UCG、AGU、AGC)によって指定される(先頭、2番目、3番目の位置で異なる)。コドンのヌクレオチドの3つの位置の一つで異なるヌクレオチドによって同じアミノ酸が指定される場合、4重に縮重していると言われる。例えばグリシンのコドン(GGU、GGC、GGA、GGG)の塩基の第3番目の位置はこの位置でのヌクレオチドの置換全てが同義であるため、つまり、対応するアミノ酸に変化を起こさないため4重に縮重した位置である。コドンのうち3番目の位置のみで4重に縮重したものがある。コドンの3つの位置のうち一つであり得る4種のヌクレオチドの2つのみで同じアミノ酸が指定される場合2重に縮重していると言われる。例えばグルタミン酸のコドン(GAA、GAG)の3番目の位置は2重に縮重しており、ロイシンのコドン(UUA、UUG、CUU、CUC、CUA、CUG)の先頭位置も同じである。2重に縮重した位置においては同義性ヌクレオチドは常に何れもがプリンであるか(A/G)、ピリミジンであるか(C/U)であるため、2重に縮重した位置ではトランスバージョン置換(プリンからピリミジンあるいはその逆)のみが非同義である。コドンの3つの位置のいずれかでヌクレオチド置換によってアミノ酸が変化する場合、その位置は縮重がないといわれる。3重に縮重した位置は1つだけあって、4つのヌクレオチドのうち3つの変化がアミノ酸に変化をもたらさないが、残りの1つのヌクレオチドに変わるとアミノ酸が変わる。これはイソロイシンコードの3番目の位置である。コドン(AUU、AUC、AUA)は全てイソロイシンをコードするが、コドン(AUG)はメチオニンをコードする。計算上はこの位置はしばしば2重縮重位置として扱う。 6つの異なったコドンでコードされているアミノ酸は3つある:セリン、ロイシン、アルギニンである。ただ1つのコドンで指定されているアミノ酸は2つだけある。1つはメチオニンで、コドン(AUG)で指定され、これは翻訳の開始も指定する。もう1つはトリプトファンでコドン(UGG)で指定される。遺伝コードの縮重はサイレント突然変異の存在を裏付ける。 縮重があるのはトリプレットコードが20のアミノ酸と1つの終止コドンを指定するからである。塩基が4つあるトリプレットコドンで少なくとも21の異なったコードを実現しなければならない。例えばコドンが2つの塩基だったら16アミノ酸しかコードできない(4=16であるから)。少なくとも21コード必要なので4=64のコドンが実現できてしまうことになって、縮重が起こるのが当然となる。 遺伝コードはこのような性質によって点突然変異のようなエラーに堪えるものとなっている。例えば、理論上4重縮重のあるコドンは3番目の位置の点突然変異がどのように起こっても問題はない。実際は多くの生物でコドンの利用の偏りがこのことに制限を与えるが。2重縮重のあるコドンは3番目の位置の可能な3つの点突然変異のうち1つが起こっても問題はない。トランジション突然変異(プリンからプリンへの、あるいはピリミジンからピリミジンへの突然変異)のほうがトランスバージョン突然変異(プリンからピリミジンへの突然変異、あるいはその逆)よりも起こりやすいから、このような2重縮重位置でのプリンの同等性あるいはピリミジンの同等性は、エラーに強い性質が付け加わることになる。 冗長性のもたらす実際上の結果は、エラーが遺伝コードに起こってもそれはサイレントであって、同じアミノ酸への置換しか起こさないから、タンパク質が変化して疎水性や親水性に変化を及ぼすというようなことはなく、タンパク質に影響の及ばないエラーであるということである。例えばNUN(Nはヌクレオチドを示す)というコドンは親水性のアミノ酸をコードする傾向がある。NCNはアミノ酸残基の大きさが小さく疏水親水性が中間的であり、NANは平均サイズの親水性アミノ酸残基、UNNは非親水性のアミノ酸残基をコードする。 そうは言っても点突然変異が起こると機能の損われたタンパク質が作られる可能性がある。ヘモグロビン遺伝子に突然変異が起こって鎌状赤血球症が起こされる例を取り挙げてみよう。この点突然変異では親水性のグルタミン酸(Glu)が1ヵ所疎水性のバリン(Val)に置き換わっており、β-グロビンの可溶性が低下している。この場合には、突然変異によって、ヘモグロビンは、バリンのグループ間の疎水性相互作用が変化し、それが原因となって直鎖ポリマーとなり、赤血球は鎌状細胞に変形する。鎌状赤血球症は一般に新規の突然変異によっては起こらない。むしろ、マラリア常在地域においてこの遺伝子ヘテロの人々がマラリアのPlasmodium寄生体にいくほどかの抵抗性(ヘテロ体の有利さ)をもつことによって、自然選択作用によって存続している(サラセミアと同様なやり方である)。 このようにアミノ酸に対するコードに変化がもたらされる理由は、tRNAのアンチコドン1番目の塩基が修飾されることにある。こうして形成される塩基対はゆらぎ塩基対と呼ばれる。修飾される塩基はイノシンであったり非Watson-Crick対であるU-G塩基対であったりする。 標準遺伝コードにはわずかな変動があるだろうということは早くから予見されていたが、1979年までは発見されなかった。同年、ヒトミトコンドリア遺伝子の研究者が異なるコードを発見した。以来、わずかに変形したものが数多く発見された。 それらは種々のミトコンドリアのコードであったり、Mycoplasmaの、コドンUGAをトリプトファンに翻訳するようなわずかな変更の見られるものであった。細菌と古細菌ではGUGとUUGが共通する開始コドンである。珍しい例では、同じ種でも特定のタンパク質で、通常使われるのと異なる開始コドンが使われる場合がある。 タンパク質の中には、mRNA上のシグナル配列に変動があり、それに伴って標準的な終止コドンに他の非標準的なアミノ酸が置き換っている場合がある。関連文献で議論されているように、UGAはセレノシステインをコードし、UAGはピロリシン(注:ピロリジンではない)をコードしている場合がある。セレノシステインは現在、21番目のアミノ酸と見なされており、ピロリシンは22番目のアミノ酸と見なされている。遺伝コードの変形の詳細はNCBIウェブサイトで見ることができる。 これまでに知られたコードにはこのような違いはあるにせよ、それらの間には顕著な共通性が見られるし、総ての生物でこのコード機構は同じであると考えられる。つまり、3塩基コドンであり、tRNA、リボソームを必要とし、コード読み取り方向は同じであり、コードの3文字を一度に翻訳してアミノ酸に変える点である。 地球上の生命体によって用いられている遺伝コードには変形は見られるにせよ互いによく似ている。地球上の生命体にとって、同様な利用価値のある遺伝コードはほかに多くの可能性があるのだから、進化論的には、生命の歴史のきわめて初期に遺伝コードが確立したことが、次のことを考慮しても示唆される。tRNAの系統学的解析によって、今日のアミノアシルtRNA合成酵素のセットが存在する以前にtRNA分子が進化してきたと推定された。 遺伝コードはアミノ酸へのランダムな対応ではない。例えば同じ生合成経路に関与するアミノ酸はコドンの第1塩基が同じ傾向がある。物理的性質の似たアミノ酸はよく似たコドンに対応している傾向がある。 遺伝コードの進化を説明しようとしている多くの理論に貫かれている3つのテーマがある(3つのパターンはこれが起源である)。1つは最近のアプタマー(リガンド結合能のあるオリゴヌクレオチド)実験で説明されている。アミノ鎖の中にはコードする3塩基トリプレットに選択的な化学的親和性をもっているものがある。これは、現在のtRNAと関連酵素によって行われている複雑な翻訳機構は後代になって発達してきたものであって、元々はタンパク質のアミノ酸配列は塩基配列を直接の鋳型としていたことを示唆する。もう一つは、今日われわれが目にする標準遺伝コードはもっと簡単なコードから生合成的な拡張プロセスを経て発達したと考える。この考えは、原始生命体は新しいアミノ酸を(例えば代謝の副産物として)発見し、のちに遺伝コードの機構に組み入れて行った、とする。現在に比べ過去にはアミノ酸は種類が少なかったと示唆される状況証拠は沢山あるが、どのアミノ酸がどういう順でコードに入れられたかの正確かつ詳細な仮説は議論が大きく分かれている。なお、2018年1月現在、チロシンとトリプトファンについては、20-24億年前の酸素増大イベント(大酸化イベント)に耐えるために獲得された可能性を、量子化学計算と生化学実験から提示した研究が発表されており、アミノ酸の機能的特性が遺伝暗号を決定づけていたことを示唆している。3番目は、遺伝コードでのコードの割り当ては、突然変異の効果が最小となるように自然選択が作用してなされたとする。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "コドン(英: codon)とは、核酸の塩基配列が、タンパク質を構成するアミノ酸配列へと生体内で翻訳されるときの、各アミノ酸に対応する3つの塩基配列のことで、特に、mRNAの塩基配列を指す。DNAの配列において、ヌクレオチド3個の塩基の組み合わせであるトリプレットが、1個のアミノ酸を指定する対応関係が存在する。この関係は、遺伝暗号、遺伝コード(英: genetic code)等と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ほぼ全ての遺伝子は厳密に同じコードを用いるから(#RNAコドン表を参照)、このコードは、しばしば基準遺伝コード(英: canonical genetic code)とか、標準遺伝コード(英: standard genetic code)、あるいは単に遺伝コードと呼ばれる。ただし、実際は変形コードは多い。つまり、基準遺伝コードは普遍的なものではない。例えば、ヒトではミトコンドリア内のタンパク質合成は基準遺伝コードの変形したものを用いている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "遺伝情報の全てが遺伝コードとして保存されているわけではないということを知ることは重要である。全ての生物のDNAは調節性塩基配列、遺伝子間断片、染色体の構造領域を含んでおり、これらは表現型の発現に寄与するが、異なった規則のセットを用いて作用する。これらの規則は、すでに十分に解明された遺伝コードの根底にあるコドン対アミノ酸パラダイムのように明解なものかも知れないし、それほど明解なものではないかも知れない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "コドンは、厳密には実際のタンパク質の設計図として機能するmRNA中に存在している、アミノ酸1個に対応したヌクレオチドの塩基3個の配列のことを指す。RNAのヌクレオチドの塩基は、A(アデニン)、C(シトシン)、G(グアニン)、U(ウラシル)の4種類がある。そして、mRNA中の塩基の配列は、細胞で遺伝情報を保持しているDNAから転写されて作製されるので、コドンをDNA中の塩基の配列と考えることもできる。その場合、塩基のU(ウラシル)をT(チミン)に置き換えて読む。", "title": "簡易解説・コドン" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "タンパク質を構成する主要なアミノ酸は20種類ある。一方、DNAの構成要素であるヌクレオチドの塩基は、上記のようにわずか4種類である。アミノ酸20種類を区別して指定するのに、塩基1つでは4種類しか区別できず、また、塩基2つの組み合わせでも4×4 = 16種類しか区別できないので足りない。実際の生体内では3個ずつの塩基が1セットになって、アミノ酸1個に対応する形でタンパク質をコードしている。塩基3個の場合、理論的には、4×4×4 = 64種類を区別してコードすることが可能である。実際には、20種類のアミノ酸に加え、どのアミノ酸にも対応しないコドンもあり、ペプチド鎖合成の終了を意味している。これは終止コドンと呼ばれる。また、1つのアミノ酸は複数のコドンと対応している場合が多い。", "title": "簡易解説・コドン" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "RNAコドン表は、mRNA上にあるコドンとそれが指定するアミノ酸との関係を示した表である。 原核生物と真核生物など、生物の種類によって用いているコドンは下記のコドン表とは一部異なっている場合もある。", "title": "簡易解説・コドン" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、複数のコドンが対応しているアミノ酸では、生物種によって、また同種生物内でも遺伝子によって同義コドンを用いる頻度の傾向が大きく異なり、自己組織化写像などを用いることによってDNA断片から生物種を推定することが出来る。この頻度の違いをコドン出現頻度 (codon usage, codon frequency)の違いという。コドン出現頻度の違いは遺伝子の発現量やそのコドンに対応する tRNA の量と関係があることが知られている。発現量の多い遺伝子のコドン出現頻度の偏りは大きくなり、頻出するコドンに対応する tRNA は細胞内の存在量も多い。これは組換えタンパク質を本来の生物種とは異なる生物種で発現させる際などに問題になる。例えば、ある導入遺伝子に使われているコドンが、ホスト細胞では頻度の低いコドンである場合には、導入遺伝子産物の生産が少ないといったことが起こりうる。このような場合には導入遺伝子にサイレント突然変異を起こしコドンを最適化したり、導入細胞側にマイナー tRNA を過剰に発現させたりすると改善される場合もある。", "title": "簡易解説・コドン" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "DNAの構造がジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンス、ロザリンド・フランクリンらによって解明されたあと、タンパク質が生体内でどのようにコードされているかということの解明に向けて真剣な努力が払われた。ジョージ・ガモフは、生体の細胞内でタンパク質をコードするのに用いられている20ほどの異なるアミノ酸を指定するのに3文字の暗号が用いられていると仮定した(なぜなら4が少なくとも20以上であるようなnは3が最小だから)。コドンがまさにDNAの3塩基に対応しているという事実を最初に示したのはクリックとシドニー・ブレナーらの実験である 。はじめて一つのコドンを明らかにしたのは1961年、アメリカ国立衛生研究所のマーシャル・ニーレンバーグとハインリッヒ・マッタイであった 。彼らは無細胞系でポリウラシルRNA配列(これは生化学的記号でUUUUU....と表される)を翻訳した。合成できたポリペプチドはフェニルアラニンのみからなるものであることを発見した。このことから、コドンUUUがアミノ酸フェニルアラニンを指定すると推定した。ニーレンバーグと共同研究者らはこの研究を推し進めていって、個々のコドンのヌクレオチド組成を決定することができた。配列の順序を決定するのに3ヌクレオチドがリボソームに固定され、アミノアシルtRNAを放射線標識して、どのアミノ酸がコドンに対応するかを決定した。ニーレンバーググループは64コドン中54の配列を決定できた。続いてハー・ゴビンド・コラナが残りのコドンを決定することができた。その後程なくロバート・W・ホリー が翻訳の際のアダプター分子であるtRNAの構造を明らかにした。この研究は、1959年にRNA合成の酵素学に関する研究によってノーベル賞を受賞したセベロ・オチョアの初期の研究に基づいていた。1968年にコラナ、ホリー、ニーレンバーグらも生理学あるいは医学ノーベル賞を受賞した。", "title": "遺伝コードの解読" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "生物のゲノムはDNA中に刻まれている。ウイルスの中にはゲノムがRNAに刻まれているものもある。ゲノム中で1つのタンパク質あるいは1つのRNAをコードしている部分を遺伝子という。タンパク質をコードしている遺伝子はコドンと呼ばれる3ヌクレオチドの単位から構成されており、各コドンは1つのアミノ酸をコードしている。コドンのサブユニットである各ヌクレオチドはさらにリン酸、デオキシリボース、窒素を含んだ4種類のヌクレオチド塩基のうちの1つ、という要素からなる。プリン塩基のアデニン(A)とグアニン(G)は大きな塩基で芳香環を2つもつ。ピリミジン塩基のシトシン(C)とチミン(T)は小さい塩基で芳香環を1つしかもたない。DNA鎖は2重らせん構造を取るとき、塩基対結合として知られる配置によって水素結合で互いに会合している。これらの結合はほとんど常に、一方の鎖のアデニンと他方の鎖のチミンの間、同じくシトシンとグアニンの間で行われる。これは2重らせん中のAとTの数、同様にGとCの数が同じであることを意味している。RNAの場合はチミン(T)の代わりにウラシル(U)が用いられ、デオキシリボースの代わりにリボースが用いられる。", "title": "遺伝コードを介して情報を伝達する" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "タンパク質をコードする遺伝子はDNAに類縁のポリマーRNAである鋳型分子、メッセンジャーRNAあるいはmRNAに転写される。この分子は続いてリボソーム上でアミノ酸鎖つまりポリペプチドに翻訳される。翻訳プロセスは個々のアミノ酸に特異的なトランスファーRNAを必要とする。アミノ酸はtRNAに共有結合している。グアノシン3リン酸(GTP)がエネルギー源となり、一群の翻訳因子も必要である。tRNAはmRNAのコドンに相補的なアンチコドンをもっており、3'末端のCCAで共有結合によってアミノ酸を結合・保持する。各tRNAは特異的なアミノ酸をアミノアシルtRNA合成酵素によって結合・保持する。この酵素はアミノ酸と、対応するtRNAの双方に高い特異性をもっている。これらの酵素に高い特異性があることが、タンパク質の翻訳が厳密に行われることの主要な理由である。", "title": "遺伝コードを介して情報を伝達する" }, { 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"翻訳は核酸鎖の開始コドンから始まる。終止コドンと違って、開始コドンだけでは翻訳プロセスが始められるには十分でない。開始コドン近くの配列の条件や開始因子も翻訳開始に必要である。最も一般的な開始コドンはAUGであり、これはメチオニンをコードするため、アミノ酸鎖の先頭で最も多いのはメチオニンである。終止コドンは3つあってそれぞれ名称がある:UAGはアンバー(amber)、UGAはオパール(opal)(ときにアンバーumberと呼ばれる)、UAAはオーカー(ochre)。「アンバーamber」は発見者Richard EpsteinとCharles Steinbergによって彼らの友人Harris Bernsteinがファミリー名をドイツ語でamberということに因んで命名された。他の2つの終止コドンは色彩名をつける原則によって命名された。終止コドンは停止コドンとも呼ばれこれら終止シグナルコドンに相補的なアンチコドンをもった対応するtRNAというのはないが、解離因子を結合させることによって、作られたばかりのポリペプチドをリボソームから解離するシグナルとなる。", "title": "重要な特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "遺伝コードは冗長であるが多義性はない(上掲のコドン表で全ての対応を見よ)。例えばコドン(GAA、GAG)はどちらもグルタミン酸を指定するが(冗長性)、どちらも他のアミノ酸を指定するということはない(非多義性)。一つのアミノ酸をコードするコドンは3つのヌクレオチドのうちどこかで異なる場合がある。例えば、グルタミン酸はコドン(GAA、GAG)によって指定されるが(第3番目の位置でヌクレオチドが異なる)、ロイシンはコドン(UUA、UUG、CUU、CUC、CUA、CUG)によって指定され(先頭と3番目の位置で異なる)、セリンはコドン(UCU、UCC、UCA、UCG、AGU、AGC)によって指定される(先頭、2番目、3番目の位置で異なる)。コドンのヌクレオチドの3つの位置の一つで異なるヌクレオチドによって同じアミノ酸が指定される場合、4重に縮重していると言われる。例えばグリシンのコドン(GGU、GGC、GGA、GGG)の塩基の第3番目の位置はこの位置でのヌクレオチドの置換全てが同義であるため、つまり、対応するアミノ酸に変化を起こさないため4重に縮重した位置である。コドンのうち3番目の位置のみで4重に縮重したものがある。コドンの3つの位置のうち一つであり得る4種のヌクレオチドの2つのみで同じアミノ酸が指定される場合2重に縮重していると言われる。例えばグルタミン酸のコドン(GAA、GAG)の3番目の位置は2重に縮重しており、ロイシンのコドン(UUA、UUG、CUU、CUC、CUA、CUG)の先頭位置も同じである。2重に縮重した位置においては同義性ヌクレオチドは常に何れもがプリンであるか(A/G)、ピリミジンであるか(C/U)であるため、2重に縮重した位置ではトランスバージョン置換(プリンからピリミジンあるいはその逆)のみが非同義である。コドンの3つの位置のいずれかでヌクレオチド置換によってアミノ酸が変化する場合、その位置は縮重がないといわれる。3重に縮重した位置は1つだけあって、4つのヌクレオチドのうち3つの変化がアミノ酸に変化をもたらさないが、残りの1つのヌクレオチドに変わるとアミノ酸が変わる。これはイソロイシンコードの3番目の位置である。コドン(AUU、AUC、AUA)は全てイソロイシンをコードするが、コドン(AUG)はメチオニンをコードする。計算上はこの位置はしばしば2重縮重位置として扱う。", "title": "重要な特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "6つの異なったコドンでコードされているアミノ酸は3つある:セリン、ロイシン、アルギニンである。ただ1つのコドンで指定されているアミノ酸は2つだけある。1つはメチオニンで、コドン(AUG)で指定され、これは翻訳の開始も指定する。もう1つはトリプトファンでコドン(UGG)で指定される。遺伝コードの縮重はサイレント突然変異の存在を裏付ける。", "title": "重要な特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "縮重があるのはトリプレットコードが20のアミノ酸と1つの終止コドンを指定するからである。塩基が4つあるトリプレットコドンで少なくとも21の異なったコードを実現しなければならない。例えばコドンが2つの塩基だったら16アミノ酸しかコードできない(4=16であるから)。少なくとも21コード必要なので4=64のコドンが実現できてしまうことになって、縮重が起こるのが当然となる。", "title": "重要な特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "遺伝コードはこのような性質によって点突然変異のようなエラーに堪えるものとなっている。例えば、理論上4重縮重のあるコドンは3番目の位置の点突然変異がどのように起こっても問題はない。実際は多くの生物でコドンの利用の偏りがこのことに制限を与えるが。2重縮重のあるコドンは3番目の位置の可能な3つの点突然変異のうち1つが起こっても問題はない。トランジション突然変異(プリンからプリンへの、あるいはピリミジンからピリミジンへの突然変異)のほうがトランスバージョン突然変異(プリンからピリミジンへの突然変異、あるいはその逆)よりも起こりやすいから、このような2重縮重位置でのプリンの同等性あるいはピリミジンの同等性は、エラーに強い性質が付け加わることになる。", "title": "重要な特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "冗長性のもたらす実際上の結果は、エラーが遺伝コードに起こってもそれはサイレントであって、同じアミノ酸への置換しか起こさないから、タンパク質が変化して疎水性や親水性に変化を及ぼすというようなことはなく、タンパク質に影響の及ばないエラーであるということである。例えばNUN(Nはヌクレオチドを示す)というコドンは親水性のアミノ酸をコードする傾向がある。NCNはアミノ酸残基の大きさが小さく疏水親水性が中間的であり、NANは平均サイズの親水性アミノ酸残基、UNNは非親水性のアミノ酸残基をコードする。", "title": "重要な特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "そうは言っても点突然変異が起こると機能の損われたタンパク質が作られる可能性がある。ヘモグロビン遺伝子に突然変異が起こって鎌状赤血球症が起こされる例を取り挙げてみよう。この点突然変異では親水性のグルタミン酸(Glu)が1ヵ所疎水性のバリン(Val)に置き換わっており、β-グロビンの可溶性が低下している。この場合には、突然変異によって、ヘモグロビンは、バリンのグループ間の疎水性相互作用が変化し、それが原因となって直鎖ポリマーとなり、赤血球は鎌状細胞に変形する。鎌状赤血球症は一般に新規の突然変異によっては起こらない。むしろ、マラリア常在地域においてこの遺伝子ヘテロの人々がマラリアのPlasmodium寄生体にいくほどかの抵抗性(ヘテロ体の有利さ)をもつことによって、自然選択作用によって存続している(サラセミアと同様なやり方である)。", "title": "重要な特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このようにアミノ酸に対するコードに変化がもたらされる理由は、tRNAのアンチコドン1番目の塩基が修飾されることにある。こうして形成される塩基対はゆらぎ塩基対と呼ばれる。修飾される塩基はイノシンであったり非Watson-Crick対であるU-G塩基対であったりする。", "title": "重要な特徴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "標準遺伝コードにはわずかな変動があるだろうということは早くから予見されていたが、1979年までは発見されなかった。同年、ヒトミトコンドリア遺伝子の研究者が異なるコードを発見した。以来、わずかに変形したものが数多く発見された。 それらは種々のミトコンドリアのコードであったり、Mycoplasmaの、コドンUGAをトリプトファンに翻訳するようなわずかな変更の見られるものであった。細菌と古細菌ではGUGとUUGが共通する開始コドンである。珍しい例では、同じ種でも特定のタンパク質で、通常使われるのと異なる開始コドンが使われる場合がある。", "title": "標準遺伝コードの変形" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "タンパク質の中には、mRNA上のシグナル配列に変動があり、それに伴って標準的な終止コドンに他の非標準的なアミノ酸が置き換っている場合がある。関連文献で議論されているように、UGAはセレノシステインをコードし、UAGはピロリシン(注:ピロリジンではない)をコードしている場合がある。セレノシステインは現在、21番目のアミノ酸と見なされており、ピロリシンは22番目のアミノ酸と見なされている。遺伝コードの変形の詳細はNCBIウェブサイトで見ることができる。", "title": "標準遺伝コードの変形" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これまでに知られたコードにはこのような違いはあるにせよ、それらの間には顕著な共通性が見られるし、総ての生物でこのコード機構は同じであると考えられる。つまり、3塩基コドンであり、tRNA、リボソームを必要とし、コード読み取り方向は同じであり、コードの3文字を一度に翻訳してアミノ酸に変える点である。", "title": "標準遺伝コードの変形" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "地球上の生命体によって用いられている遺伝コードには変形は見られるにせよ互いによく似ている。地球上の生命体にとって、同様な利用価値のある遺伝コードはほかに多くの可能性があるのだから、進化論的には、生命の歴史のきわめて初期に遺伝コードが確立したことが、次のことを考慮しても示唆される。tRNAの系統学的解析によって、今日のアミノアシルtRNA合成酵素のセットが存在する以前にtRNA分子が進化してきたと推定された。", "title": "遺伝コードの起源についての理論" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "遺伝コードはアミノ酸へのランダムな対応ではない。例えば同じ生合成経路に関与するアミノ酸はコドンの第1塩基が同じ傾向がある。物理的性質の似たアミノ酸はよく似たコドンに対応している傾向がある。", "title": "遺伝コードの起源についての理論" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "遺伝コードの進化を説明しようとしている多くの理論に貫かれている3つのテーマがある(3つのパターンはこれが起源である)。1つは最近のアプタマー(リガンド結合能のあるオリゴヌクレオチド)実験で説明されている。アミノ鎖の中にはコードする3塩基トリプレットに選択的な化学的親和性をもっているものがある。これは、現在のtRNAと関連酵素によって行われている複雑な翻訳機構は後代になって発達してきたものであって、元々はタンパク質のアミノ酸配列は塩基配列を直接の鋳型としていたことを示唆する。もう一つは、今日われわれが目にする標準遺伝コードはもっと簡単なコードから生合成的な拡張プロセスを経て発達したと考える。この考えは、原始生命体は新しいアミノ酸を(例えば代謝の副産物として)発見し、のちに遺伝コードの機構に組み入れて行った、とする。現在に比べ過去にはアミノ酸は種類が少なかったと示唆される状況証拠は沢山あるが、どのアミノ酸がどういう順でコードに入れられたかの正確かつ詳細な仮説は議論が大きく分かれている。なお、2018年1月現在、チロシンとトリプトファンについては、20-24億年前の酸素増大イベント(大酸化イベント)に耐えるために獲得された可能性を、量子化学計算と生化学実験から提示した研究が発表されており、アミノ酸の機能的特性が遺伝暗号を決定づけていたことを示唆している。3番目は、遺伝コードでのコードの割り当ては、突然変異の効果が最小となるように自然選択が作用してなされたとする。", "title": "遺伝コードの起源についての理論" } ]
コドンとは、核酸の塩基配列が、タンパク質を構成するアミノ酸配列へと生体内で翻訳されるときの、各アミノ酸に対応する3つの塩基配列のことで、特に、mRNAの塩基配列を指す。DNAの配列において、ヌクレオチド3個の塩基の組み合わせであるトリプレットが、1個のアミノ酸を指定する対応関係が存在する。この関係は、遺伝暗号、遺伝コード等と呼ばれる。 ほぼ全ての遺伝子は厳密に同じコードを用いるから(#RNAコドン表を参照)、このコードは、しばしば基準遺伝コードとか、標準遺伝コード、あるいは単に遺伝コードと呼ばれる。ただし、実際は変形コードは多い。つまり、基準遺伝コードは普遍的なものではない。例えば、ヒトではミトコンドリア内のタンパク質合成は基準遺伝コードの変形したものを用いている。 遺伝情報の全てが遺伝コードとして保存されているわけではないということを知ることは重要である。全ての生物のDNAは調節性塩基配列、遺伝子間断片、染色体の構造領域を含んでおり、これらは表現型の発現に寄与するが、異なった規則のセットを用いて作用する。これらの規則は、すでに十分に解明された遺伝コードの根底にあるコドン対アミノ酸パラダイムのように明解なものかも知れないし、それほど明解なものではないかも知れない。
[[image:RNA-codons.png|thumb|mRNA分子に沿って一連のコドンを示している。各コドンは3ヌクレオチドからなり、一つの[[アミノ酸]]を指定している。]] <!-- 英語版「genetic code」の冒頭 '''遺伝コード'''とは、遺伝物質([[DNA]]あるいは[[RNA]]の[[塩基配列]])に埋め込まれた情報が生体内の[[細胞]]によって[[タンパク質]]([[アミノ酸配列]])に翻訳される際の規則のセットのことである。特にこのコードはコドン(codon)と呼ばれる3ヌクレオチド配列とアミノ酸の間の対応を定義し、核酸のヌクレオチド配列中のヌクレオチドのトリプレット一つにただ一つのアミノ酸を指定する。 --> <!-- 日本語版の、以下の部分の方がよい --> '''コドン'''({{lang-en-short|codon}})とは、[[核酸]]の[[塩基配列]]が、[[タンパク質]]を構成する[[アミノ酸]]配列へと生体内で[[翻訳 (生物学)|翻訳]]されるときの、各アミノ酸に対応する3つの塩基配列のことで、特に、[[mRNA]]の塩基配列を指す。[[デオキシリボ核酸|DNA]]の配列において、[[ヌクレオチド]]3個の塩基の組み合わせであるトリプレットが、1個のアミノ酸を指定する対応関係が存在する。この関係は、'''遺伝暗号'''、'''遺伝コード'''({{lang-en-short|genetic code}})等と呼ばれる。 <!-- 英語版(1) --> ほぼ全ての[[遺伝子]]は厳密に同じコードを用いるから([[#RNAコドン表]]を参照)、このコードは、しばしば基準遺伝コード({{lang-en-short|canonical genetic code}})とか、標準遺伝コード({{lang-en-short|standard genetic code}})、あるいは単に遺伝コードと呼ばれる。ただし、実際は変形コードは多い。つまり、基準遺伝コードは普遍的なものではない。例えば、[[ヒト]]では[[ミトコンドリア]]内のタンパク質合成は基準遺伝コードの変形したものを用いている。 遺伝情報の全てが遺伝コードとして保存されているわけではないということを知ることは重要である。全ての生物のDNAは調節性塩基配列、遺伝子間断片、染色体の構造領域を含んでおり、これらは[[表現型]]の発現に寄与するが、異なった規則のセットを用いて作用する。これらの規則は、すでに十分に解明された遺伝コードの根底にあるコドン対アミノ酸パラダイムのように明解なものかも知れないし、それほど明解なものではないかも知れない。 == 簡易解説・コドン == === コドンはmRNA上にある === コドンは、厳密には実際の[[タンパク質]]の設計図として機能する[[mRNA]]中に存在している、アミノ酸1個に対応したヌクレオチドの塩基3個の配列のことを指す。[[リボ核酸|RNA]]のヌクレオチドの塩基は、A([[アデニン]])、C([[シトシン]])、G([[グアニン]])、U([[ウラシル]])の4種類がある。そして、mRNA中の塩基の配列は、[[細胞]]で遺伝情報を保持しているDNAから[[転写 (生物学)|転写]]されて作製されるので、コドンをDNA中の塩基の配列と考えることもできる。その場合、塩基のU(ウラシル)をT([[チミン]])に置き換えて読む。 === 遺伝コードにおける塩基とアミノ酸の対応 === タンパク質を構成する主要なアミノ酸は20種類ある。一方、DNAの構成要素であるヌクレオチドの塩基は、上記のようにわずか4種類である。アミノ酸20種類を区別して指定するのに、塩基1つでは4種類しか区別できず、また、塩基2つの組み合わせでも4×4 = 16種類しか区別できないので足りない。実際の生体内では3個ずつの塩基が1セットになって、アミノ酸1個に対応する形でタンパク質をコードしている。塩基3個の場合、理論的には、4×4×4 = 64種類を区別してコードすることが可能である。実際には、20種類のアミノ酸に加え、どのアミノ酸にも対応しないコドンもあり、ペプチド鎖合成の終了を意味している。これは[[終止コドン]]と呼ばれる。また、1つのアミノ酸は複数のコドンと対応している場合が多い。 === 生物種による利用コドンの偏り === RNAコドン表は、mRNA上にあるコドンとそれが指定するアミノ酸との関係を示した表である。 原核生物と真核生物など、生物の種類によって用いているコドンは下記のコドン表とは一部異なっている場合もある。 また、複数のコドンが対応しているアミノ酸では、生物種によって、また同種生物内でも遺伝子によって同義コドンを用いる頻度の傾向が大きく異なり、[[自己組織化写像]]などを用いることによってDNA断片から生物種を推定することが出来る。この頻度の違いをコドン出現頻度 (codon usage, codon frequency)の違いという。コドン出現頻度の違いは遺伝子の発現量やそのコドンに対応する [[転移RNA|tRNA]] の量と関係があることが知られている。発現量の多い遺伝子のコドン出現頻度の偏りは大きくなり、頻出するコドンに対応する tRNA は細胞内の存在量も多い。これは組換えタンパク質を本来の生物種とは異なる生物種で発現させる際などに問題になる。例えば、ある導入遺伝子に使われているコドンが、ホスト細胞では頻度の低いコドンである場合には、導入遺伝子産物の生産が少ないといったことが起こりうる。このような場合には導入遺伝子にサイレント突然変異を起こしコドンを最適化したり、導入細胞側にマイナー tRNA を過剰に発現させたりすると改善される場合もある。 == 遺伝コードの解読 == [[Image:GeneticCode21-version-2.svg|thumb|The genetic code]] DNAの構造が[[ジェームズ・ワトソン]]、[[フランシス・クリック]]、[[モーリス・ウィルキンス]]、[[ロザリンド・フランクリン]]らによって解明されたあと、タンパク質が生体内でどのようにコードされているかということの解明に向けて真剣な努力が払われた。[[ジョージ・ガモフ]]は、生体の細胞内でタンパク質をコードするのに用いられている20ほどの異なるアミノ酸を指定するのに3文字の暗号が用いられていると仮定した(なぜなら4<sup>n</sup>が少なくとも20以上であるようなnは3が最小だから)。コドンがまさにDNAの3塩基に対応しているという事実を最初に示したのはクリックと[[シドニー・ブレナー]]らの実験である <ref>Crick FH, Barnett L, Brenner S, Watts-Tobin RJ. 1961. General nature of the genetic code for proteins. ''Nature'' 192:1227-32.</ref>。はじめて一つのコドンを明らかにしたのは1961年、[[アメリカ国立衛生研究所]]の[[マーシャル・ニーレンバーグ]]とハインリッヒ・マッタイであった <ref>Nirenberg MW, Matthaei JH. 1961. The dependence of cell-free protein synthesis in E. coli upon naturally occurring or synthetic polyribonucleotides. ''Proc Natl Acad Sci USA'' 47:1588-602.</ref>。彼らは無細胞系でポリウラシルRNA配列(これは生化学的記号でUUUUU....と表される)を翻訳した。合成できたポリペプチドはフェニルアラニンのみからなるものであることを発見した。このことから、コドンUUUがアミノ酸フェニルアラニンを指定すると推定した。ニーレンバーグと共同研究者らはこの研究を推し進めていって、個々のコドンのヌクレオチド組成を決定することができた。配列の順序を決定するのに3ヌクレオチドがリボソームに固定され、アミノアシルtRNAを放射線標識して、どのアミノ酸がコドンに対応するかを決定した。ニーレンバーググループは64コドン中54の配列を決定できた。続いて[[ハー・ゴビンド・コラナ]]が残りのコドンを決定することができた。その後程なく[[ロバート・W・ホリー]] が翻訳の際の'''アダプター分子'''であるtRNAの構造を明らかにした。この研究は、1959年にRNA合成の酵素学に関する研究によってノーベル賞を受賞した[[セベロ・オチョア]]の初期の研究に基づいていた。1968年にコラナ、ホリー、ニーレンバーグらも生理学あるいは医学ノーベル賞を受賞した。 == 遺伝コードを介して情報を伝達する == 生物のゲノムはDNA中に刻まれている。ウイルスの中にはゲノムがRNAに刻まれているものもある。ゲノム中で1つのタンパク質あるいは1つのRNAをコードしている部分を遺伝子という。タンパク質をコードしている遺伝子はコドンと呼ばれる3ヌクレオチドの単位から構成されており、各コドンは1つのアミノ酸をコードしている。コドンのサブユニットである各[[ヌクレオチド]]はさらにリン酸、デオキシリボース、[[窒素]]を含んだ4種類のヌクレオチド塩基のうちの1つ、という要素からなる。プリン塩基の[[アデニン]](A)と[[グアニン]](G)は大きな塩基で芳香環を2つもつ。ピリミジン塩基の[[シトシン]](C)と[[チミン]](T)は小さい塩基で芳香環を1つしかもたない。DNA鎖は2重らせん構造を取るとき、塩基対結合として知られる配置によって水素結合で互いに会合している。これらの結合はほとんど常に、一方の鎖のアデニンと他方の鎖のチミンの間、同じくシトシンとグアニンの間で行われる。これは2重らせん中のAとTの数、同様にGとCの数が同じであることを意味している。RNAの場合はチミン(T)の代わりに[[ウラシル]](U)が用いられ、デオキシリボースの代わりに[[リボース]]が用いられる。 タンパク質をコードする遺伝子はDNAに類縁のポリマーRNAである鋳型分子、メッセンジャーRNAあるいはmRNAに転写される。この分子は続いて[[リボソーム]]上でアミノ酸鎖つまり[[ポリペプチド]]に翻訳される。翻訳プロセスは個々の[[アミノ酸]]に特異的なトランスファーRNAを必要とする。アミノ酸はtRNAに共有結合している。グアノシン3リン酸(GTP)がエネルギー源となり、一群の翻訳因子も必要である。tRNAはmRNAのコドンに相補的なアンチコドンをもっており、3'末端のCCAで共有結合によってアミノ酸を結合・保持する。各tRNAは特異的なアミノ酸をアミノアシルtRNA合成酵素によって結合・保持する。この酵素はアミノ酸と、対応するtRNAの双方に高い特異性をもっている。これらの酵素に高い特異性があることが、タンパク質の翻訳が厳密に行われることの主要な理由である。 3ヌクレオチドからなるトリプレットコドンによって可能なコドンの組合せは、4<sup>3</sup>=64種類ある。実際、標準遺伝コードの64コドン全てがアミノ酸あるいは翻訳ストップシグナルに割り当てられている。例えばRNAの塩基配列がUUUAAACCCであったとしよう。読み枠は先頭のU(慣例により5'から3'とする)から始めてコドンを当てはめると3コドンが得られる。つまり、UUU、AAA、CCCである。各コドンは1つのアミノ酸に対応し、このRNAの塩基配列は3アミノ酸からなる配列に翻訳される。コンピュータ科学に比較対照されるものを求めると、コドンは[[ワード]]に相当し、データ操作の標準的な単位であり(タンパク質のアミノ酸1つのように)、ヌクレオチド1つは1ビットに相当する。 標準遺伝コードが次の表に示されている。表1は64コドン各々がどのアミノ酸に対応するかを示す。表2は翻訳される標準的なアミノ酸20個の各々がどのコドンに対応するかを示す。これらは、それぞれ、コドン対照表およびコドン逆対照表と呼ばれる。例えばコドンAAUはアスパラギンに対応し、UGUとUGCはシステインに対応する(アミノ酸を標準的な3文字記号で表すとそれぞれAsnとCysである)。 == RNAコドン表 == {|class="wikitable" |+表1.64コドンと各々に対応するアミノ酸を示したもの。mRNAの方向は5'から3'である。 !rowspan=2 colspan=2| !colspan=4 border=0|2つ目の塩基 |- !axis="2つ目の塩基" scope="col"|U !axis="2つ目の塩基" scope="col"|C !axis="2つ目の塩基" scope="col"|A !axis="2つ目の塩基" scope="col"|G |- !rowspan="4" border="0"|1つ目の塩基 !axis="1つ目の塩基" scope="row"|U | UUU→Phe/F、<br> UUC→Phe/F、<br> UUA→Leu/L、<br> UUG→Leu/L | UCU→Ser/S、<br> UCC→Ser/S、<br> UCA→Ser/S、<br> UCG→Ser/S | UAU→Tyr/Y、<br> UAC→Tyr/Y、<br> UAA&nbsp;Ochre→終止、<br> UAG&nbsp;Amber→終止 | UGU→Cys/C、<br> UGC→Cys/C、<br> UGA&nbsp;Opal→終止、<br> UGG→Trp/W |- !axis="1つ目の塩基" scope="row"|C | CUU→Leu/L、<br> CUC→Leu/L、<br> CUA→Leu/L、<br> CUG→Leu/L | CCU→Pro/P、<br> CCC→Pro/P、<br> CCA→Pro/P、<br> CCG→Pro/P | CAU→His/H、<br> CAC→His/H、<br> CAA→Gln/Q、<br> CAG→Gln/Q | CGU→Arg/R、<br> CGC→Arg/R、<br> CGA→Arg/R、<br> CGG→Arg/R |- !axis="1つ目の塩基" scope="row"|A | AUU→Ile/I、<br> AUC→Ile/I、<br> AUA→Ile/I・開始、<br> AUG→Met/M・開始<ref group="注釈">コドンAUGにはメチオニンに対するコードとしての働きと翻訳開始位置としての働きがある。mRNAのコード領域において初めてAUGが現れるとタンパク質への翻訳が開始される。</ref> | ACU→Thr/T、<br> ACC→Thr/T、<br> ACA→Thr/T、<br> ACG→Thr/T | AAU→Asn/N、<br> AAC→Asn/N、<br> AAA→Lys/K、<br> AAG→Lys/K | AGU→Ser/S、<br> AGC→Ser/S、<br> AGA→Arg/R、<br> AGG→Arg/R |- !axis="1つ目の塩基" scope="row"|G | GUU→Val/V、<br> GUC→Val/V、<br> GUA→Val/V、<br> GUG→Val/V・開始 | GCU→Ala/A、<br> GCC→Ala/A、<br> GCA→Ala/A、<br> GCG→Ala/A | GAU→Asp/D、<br> GAC→Asp/D、<br> GAA→Glu/E、<br> GAG→Glu/E | GGU→Gly/G、<br> GGC→Gly/G、<br> GGA→Gly/G、<br> GGG→Gly/G |} {|class="wikitable sortable" |+ 表2.コドン逆対照表 !3文字記号!!1文字記号!!呼称!!class="unsortable"|コドン |- |Ala||A||[[アラニン]]||GCU、GCC、GCA、GCG |- |Arg||R||[[アルギニン]]||CGU、CGC、CGA、CGG、AGA、AGG |- |Asn||N||[[アスパラギン]]||AAU、AAC |- |Asp||D||[[アスパラギン酸]]||GAU、GAC |- |Cys||C||[[システイン]]||UGU、UGC |- |Gln||Q||[[グルタミン]]||CAA、CAG |- |Glu||E||[[グルタミン酸]]||GAA、GAG |- |Gly||G||[[グリシン]]||GGU、GGC、GGA、GGG |- |His||H||[[ヒスチジン]]||CAU、CAC |- |Ile||I||[[イソロイシン]]||AUU、AUC、AUA |- |Leu||L||[[ロイシン]]||UUA、UUG、CUU、CUC、CUA、CUG |- |Lys||K||[[リシン]]||AAA、AAG |- |Met||M||[[メチオニン]]||AUG |- |Phe||F||[[フェニルアラニン]]||UUU、UUC |- |Pro||P||[[プロリン]]||CCU、CCC、CCA、CCG |- |Ser||S||[[セリン]]||UCU、UCC、UCA、UCG、AGU、AGC |- |Thr||T||[[トレオニン]]||ACU、ACC、ACA、ACG |- |Trp||W||[[トリプトファン]]||UGG |- |Tyr||Y||[[チロシン]]||UAU、UAC |- |Val||V||[[バリン]]||GUU、GUC、GUA、GUG |- |colspan=2|&mdash;||開始コドン||AUG、(AUA)、(GUG) |- |colspan=2|&mdash;||終止コドン||UAG、UGA、UAA |} == 重要な特徴 == === 塩基配列の読み枠 === コドンの割り当ては翻訳が開始される先頭のヌクレオチドから行われる。例えば塩基鎖がGGGAAACCCで先頭から読まれるとすると、コドンはGGG、AAA、CCCとなり、2番目から読まれるとすると、コドンはGGA、AAC、3番目から読まれるとすると、GAA、ACCとなる。この例ではコドンが部分的な場合は無視した。このように塩基配列がどうであれ、読み枠は3つ(の塩基)であり、各々異なるアミノ酸配列を生じる(この例では順に、Gly-Lys-Pro、Gly-Asp、Glu-Thrである)。2本鎖DNAには可能な読み枠は6つあり、一方の鎖に3つ読み枠があり(他方の鎖に)反対方向に3つある。 タンパク質のアミノ酸配列に翻訳される実際の読み枠は開始コドンによって割り当てられ、通常、それはmRNAの配列の最初のAUGコドンである。ヌクレオチド塩基が3の倍数以外の数だけ挿入されたり欠失を起こした場合に生ずる、読み枠が乱されるような突然変異は[[フレームシフト変異]]として知られる。このような突然変異は、たとえタンパク質として産生されても、その機能を損うため、生体内のタンパク質をコードしている配列の中でまれなものとなる。しばしばそのような誤って作られたタンパク質はタンパク質分解性の崩壊プロセスのターゲットとなる。加えてフレームシフト突然変異は往々にして終止コドンを生じ、タンパク質産生を中途終止させる(例[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=PubMed&list_uids=8723688&dopt=Abstract])。次代に遺伝するフレームシフト突然変異がまれな理由は、もし翻訳されるタンパク質が、その生物が直面する選択圧のもとで生育に必須なものであるとしたら、機能をもったタンパク質が存在しないことによって、その生物が生存する以前に致死となるかも知れないからである。 === 開始コドン、終止コドン === 翻訳は核酸鎖の開始コドンから始まる。終止コドンと違って、開始コドンだけでは翻訳プロセスが始められるには十分でない。開始コドン近くの配列の条件や開始因子も翻訳開始に必要である。最も一般的な開始コドンはAUGであり、これはメチオニンをコードするため、アミノ酸鎖の先頭で最も多いのはメチオニンである。終止コドンは3つあってそれぞれ名称がある:UAGはアンバー(amber)、UGAはオパール(opal)(ときにアンバーumberと呼ばれる)、UAAはオーカー(ochre)。「アンバーamber」は発見者Richard EpsteinとCharles Steinbergによって彼らの友人Harris Bernsteinがファミリー名をドイツ語でamberということに因んで命名された。他の2つの終止コドンは色彩名をつける原則によって命名された。終止コドンは停止コドンとも呼ばれこれら終止シグナルコドンに相補的なアンチコドンをもった対応するtRNAというのはないが、解離因子を結合させることによって、作られたばかりのポリペプチドをリボソームから解離するシグナルとなる。 === 遺伝コードの縮重 === 遺伝コードは冗長であるが多義性はない(上掲のコドン表で全ての対応を見よ)。例えばコドン(GAA、GAG)はどちらも[[グルタミン酸]]を指定するが(冗長性)、どちらも他のアミノ酸を指定するということはない(非多義性)。一つのアミノ酸をコードするコドンは3つのヌクレオチドのうちどこかで異なる場合がある。例えば、グルタミン酸はコドン(GAA、GAG)によって指定されるが(第3番目の位置でヌクレオチドが異なる)、ロイシンはコドン(UUA、UUG、CUU、CUC、CUA、CUG)によって指定され(先頭と3番目の位置で異なる)、セリンはコドン(UCU、UCC、UCA、UCG、AGU、AGC)によって指定される(先頭、2番目、3番目の位置で異なる)。コドンのヌクレオチドの3つの位置の一つで異なるヌクレオチドによって同じアミノ酸が指定される場合、4重に縮重していると言われる。例えばグリシンのコドン(GGU、GGC、GGA、GGG)の塩基の第3番目の位置はこの位置でのヌクレオチドの置換全てが同義であるため、つまり、対応するアミノ酸に変化を起こさないため4重に縮重した位置である。コドンのうち3番目の位置のみで4重に縮重したものがある。コドンの3つの位置のうち一つであり得る4種のヌクレオチドの2つのみで同じアミノ酸が指定される場合2重に縮重していると言われる。例えばグルタミン酸のコドン(GAA、GAG)の3番目の位置は2重に縮重しており、ロイシンのコドン(UUA、UUG、CUU、CUC、CUA、CUG)の先頭位置も同じである。2重に縮重した位置においては同義性ヌクレオチドは常に何れもがプリンであるか(A/G)、ピリミジンであるか(C/U)であるため、2重に縮重した位置ではトランスバージョン置換(プリンからピリミジンあるいはその逆)のみが非同義である。コドンの3つの位置のいずれかでヌクレオチド置換によってアミノ酸が変化する場合、その位置は縮重がないといわれる。3重に縮重した位置は1つだけあって、4つのヌクレオチドのうち3つの変化がアミノ酸に変化をもたらさないが、残りの1つのヌクレオチドに変わるとアミノ酸が変わる。これはイソロイシンコードの3番目の位置である。コドン(AUU、AUC、AUA)は全てイソロイシンをコードするが、コドン(AUG)はメチオニンをコードする。計算上はこの位置はしばしば2重縮重位置として扱う。<ref>[http://www.sci.sdsu.edu/~smaloy/MicrobialGenetics/topics/rev-sup/amber-name.html How nonsense mutations got their names<!-- Bot generated title -->]</ref> 6つの異なったコドンでコードされているアミノ酸は3つある:セリン、ロイシン、アルギニンである。ただ1つのコドンで指定されているアミノ酸は2つだけある。1つはメチオニンで、コドン(AUG)で指定され、これは翻訳の開始も指定する。もう1つはトリプトファンでコドン(UGG)で指定される。遺伝コードの縮重は[[サイレント突然変異]]の存在を裏付ける。 縮重があるのはトリプレットコードが20のアミノ酸と1つの終止コドンを指定するからである。塩基が4つあるトリプレットコドンで少なくとも21の異なったコードを実現しなければならない。例えばコドンが2つの塩基だったら16アミノ酸しかコードできない(4<sup>2</sup>=16であるから)。少なくとも21コード必要なので4<sup>3</sup>=64のコドンが実現できてしまうことになって、縮重が起こるのが当然となる。 遺伝コードはこのような性質によって点突然変異のようなエラーに堪えるものとなっている。例えば、理論上4重縮重のあるコドンは3番目の位置の点突然変異がどのように起こっても問題はない。実際は多くの生物でコドンの利用の偏りがこのことに制限を与えるが。2重縮重のあるコドンは3番目の位置の可能な3つの点突然変異のうち1つが起こっても問題はない。トランジション突然変異(プリンからプリンへの、あるいはピリミジンからピリミジンへの突然変異)のほうがトランスバージョン突然変異(プリンからピリミジンへの突然変異、あるいはその逆)よりも起こりやすいから、このような2重縮重位置でのプリンの同等性あるいはピリミジンの同等性は、エラーに強い性質が付け加わることになる。 [[Image:Genetic_Code_Bias_2.svg|thumb|アミノ酸残基の分子量(縦軸)と疎水親水性(横軸)でグループ分けしたコドン]] 冗長性のもたらす実際上の結果は、エラーが遺伝コードに起こってもそれはサイレントであって、同じアミノ酸への置換しか起こさないから、タンパク質が変化して疎水性や親水性に変化を及ぼすというようなことはなく、タンパク質に影響の及ばないエラーであるということである。例えばNUN(Nはヌクレオチドを示す)というコドンは親水性のアミノ酸をコードする傾向がある。NCNはアミノ酸残基の大きさが小さく疏水親水性が中間的であり、NANは平均サイズの親水性アミノ酸残基、UNNは非親水性のアミノ酸残基をコードする。<ref>Yang ''et al''. 1990. In Reaction Centers of Photosynthetic Bacteria. M.-E. Michel-Beyerle. (Ed.) (Springer-Verlag, Germany) 209-218</ref><ref>Genetic Algorithms and Recursive Ensemble Mutagenesis in Protein Engineering http://www.complexity.org.au/ci/vol01/fullen01/html/</ref> そうは言っても[[点突然変異]]が起こると機能の損われたタンパク質が作られる可能性がある。[[ヘモグロビン]]遺伝子に突然変異が起こって[[鎌状赤血球症]]が起こされる例を取り挙げてみよう。この点突然変異では親水性のグルタミン酸(Glu)が1ヵ所疎水性のバリン(Val)に置き換わっており、β-グロビンの可溶性が低下している。この場合には、突然変異によって、ヘモグロビンは、バリンのグループ間の疎水性相互作用が変化し、それが原因となって直鎖ポリマーとなり、赤血球は鎌状細胞に変形する。鎌状赤血球症は一般に新規の突然変異によっては起こらない。むしろ、[[マラリア]]常在地域においてこの遺伝子ヘテロの人々がマラリアのPlasmodium寄生体にいくほどかの抵抗性(ヘテロ体の有利さ)をもつことによって、自然選択作用によって存続している([[サラセミア]]と同様なやり方である)。 このようにアミノ酸に対するコードに変化がもたらされる理由は、tRNAのアンチコドン1番目の塩基が修飾されることにある。こうして形成される塩基対はゆらぎ塩基対と呼ばれる。修飾される塩基はイノシンであったり非Watson-Crick対であるU-G塩基対であったりする。 == 標準遺伝コードの変形 == 標準遺伝コードにはわずかな変動があるだろうということは早くから予見されていたが、<ref>Crick, F. H. C. and Orgel, L. E. (1973) "Directed panspermia." Icarus 19:341-346. p. 344: "It is a little surprising that organisms with somewhat different codes do not coexist." (Further discussion at [http://www.talkorigins.org/faqs/comdesc/section1.html])</ref>1979年までは発見されなかった。同年、ヒトミトコンドリア遺伝子の研究者が異なるコードを発見した。以来、わずかに変形したものが数多く発見された。<ref name="ncbi">[http://130.14.29.110/Taxonomy/Utils/wprintgc.cgi?mode=c NCBI: "The Genetic Codes", Compiled by Andrzej (Anjay) Elzanowski and Jim Ostell]</ref> それらは種々のミトコンドリアのコードであったり、<ref>[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=PubMed&list_uids=2253709&dopt=Abstract Jukes TH, Osawa S, ''The genetic code in mitochondria and chloroplasts.'', Experientia. 1990 Dec 1;46(11-12):1117-26.]</ref>Mycoplasmaの、コドンUGAをトリプトファンに翻訳するようなわずかな変更の見られるものであった。細菌と古細菌ではGUGとUUGが共通する開始コドンである。珍しい例では、同じ種でも特定のタンパク質で、通常使われるのと異なる開始コドンが使われる場合がある。<ref name=ncbi /> タンパク質の中には、mRNA上のシグナル配列に変動があり、それに伴って標準的な終止コドンに他の非標準的なアミノ酸が置き換っている場合がある。関連文献で議論されているように、UGAは[[セレノシステイン]]をコードし、UAGは[[ピロリシン]](注:[[ピロリジン]]ではない)をコードしている場合がある。セレノシステインは現在、21番目のアミノ酸と見なされており、ピロリシンは22番目のアミノ酸と見なされている。遺伝コードの変形の詳細はNCBIウェブサイトで見ることができる。<ref name=ncbi /> これまでに知られたコードにはこのような違いはあるにせよ、それらの間には顕著な共通性が見られるし、総ての生物でこのコード機構は同じであると考えられる。つまり、3塩基コドンであり、tRNA、リボソームを必要とし、コード読み取り方向は同じであり、コードの3文字を一度に翻訳してアミノ酸に変える点である。 == 遺伝コードの起源についての理論 == 地球上の生命体によって用いられている遺伝コードには変形は見られるにせよ互いによく似ている。地球上の生命体にとって、同様な利用価値のある遺伝コードはほかに多くの可能性があるのだから、進化論的には、生命の歴史のきわめて初期に遺伝コードが確立したことが、次のことを考慮しても示唆される。tRNAの系統学的解析によって、今日のアミノアシルtRNA合成酵素のセットが存在する以前にtRNA分子が進化してきたと推定された。<ref name="De1998">{{cite journal | author = De Pouplana, L.R. | coauthors = Turner, R.J.; Steer, B.A.; Schimmel, P. | year = 1998 | title = Genetic code origins: tRNAs older than their synthetases? | journal = Proceedings of the National Academy of Sciences | volume = 95 | issue = 19 | pages = 11295 | doi =10.1073/pnas.95.19.11295 |url=http://www.pnas.org/cgi/content/full/95/19/11295 | pmid = 9736730}}</ref> 遺伝コードはアミノ酸へのランダムな対応ではない。<ref>{{cite journal |author=Freeland SJ, Hurst LD |title=The genetic code is one in a million |journal=J. Mol. Evol. |volume=47 |issue=3 |pages=238--48 |year=1998 |month=September |pmid=9732450 |url=http://link.springer-ny.com/link/service/journals/00239/bibs/47n3p238.html |doi=10.1007/PL00006381}}</ref>例えば同じ生合成経路に関与するアミノ酸はコドンの第1塩基が同じ傾向がある。<ref>{{cite journal |author=Taylor FJ, Coates D |title=The code within the codons |journal=BioSystems |volume=22 |issue=3 |pages=177--87 |year=1989 |pmid=2650752 |doi=10.1016/0303-2647(89)90059-2}}</ref>物理的性質の似たアミノ酸はよく似たコドンに対応している傾向がある。<ref>{{cite journal |author=Di Giulio M |title=The extension reached by the minimization of the polarity distances during the evolution of the genetic code |journal=J. Mol. Evol. |volume=29 |issue=4 |pages=288--93 |year=1989 |month=October |pmid=2514270 |doi=10.1007/BF02103616}}</ref><ref>{{cite journal |author=Wong JT |title=Role of minimization of chemical distances between amino acids in the evolution of the genetic code |journal=Proc. Natl. Acad. Sci. U.S.A. |volume=77 |issue=2 |pages=1083--6 |year=1980 |month=February |pmid=6928661 |doi=10.1073/pnas.77.2.1083}}</ref> 遺伝コードの進化を説明しようとしている多くの理論に貫かれている3つのテーマがある(3つのパターンはこれが起源である)。<ref>Knight, R.D.; Freeland S. J. and Landweber, L.F. (1999) [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=pubmed&dopt=Abstract&list_uids=10366854 The 3 Faces of the Genetic Code.] ''Trends in the Biochemical Sciences'' '''24'''(6), 241-247.</ref>1つは最近のアプタマー(リガンド結合能のあるオリゴヌクレオチド)実験で説明されている。アミノ鎖の中にはコードする3塩基トリプレットに選択的な[[化学的親和性]]をもっているものがある。<ref>Knight, R.D. and Landweber, L.F. (1998). [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=pubmed&dopt=Abstract&list_uids=9751648 Rhyme or reason: RNA-arginine interactions and the genetic code.]</ref>これは、現在のtRNAと関連酵素によって行われている複雑な翻訳機構は後代になって発達してきたものであって、元々はタンパク質のアミノ酸配列は塩基配列を直接の鋳型としていたことを示唆する。もう一つは、今日われわれが目にする標準遺伝コードはもっと簡単なコードから生合成的な拡張プロセスを経て発達したと考える。この考えは、原始生命体は新しいアミノ酸を(例えば代謝の副産物として)発見し、のちに遺伝コードの機構に組み入れて行った、とする。現在に比べ過去にはアミノ酸は種類が少なかったと示唆される状況証拠は沢山あるが、<ref>Brooks, Dawn J.; Fresco, Jacques R.; Lesk, Arthur M.; and Singh, Mona. (2002). [http://mbe.oupjournals.org/cgi/content/full/19/10/1645 Evolution of Amino Acid Frequencies in Proteins Over Deep Time: Inferred Order of Introduction of Amino Acids into the Genetic Code]. ''Molecular Biology and Evolution'' '''19''', 1645-1655.</ref>どのアミノ酸がどういう順でコードに入れられたかの正確かつ詳細な仮説は議論が大きく分かれている。<ref>Amirnovin R. (1997) [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=pubmed&dopt=Abstract&list_uids=9115171 An analysis of the metabolic theory of the origin of the genetic code.] ''Journal of Molecular Evolution'' '''44'''(5), 473-6.</ref><ref>Ronneberg T.A.; Landweber L.F. and Freeland S.J. (2000) [http://www.pnas.org/cgi/content/full/97/25/13690 Testing a biosynthetic theory of the genetic code: Fact or artifact?] ''Proceedings of the National Academy of Sciences, USA'' '''97'''(25), 13690-13695.</ref>なお、2018年1月現在、チロシンとトリプトファンについては、20-24億年前の酸素増大イベント(大酸化イベント)に耐えるために獲得された可能性を、量子化学計算と生化学実験から提示した研究が発表されており、アミノ酸の機能的特性が遺伝暗号を決定づけていたことを示唆している。<ref>{{Cite journal|last=Moosmann|first=Bernd|last2=Irimie|first2=Florin-Dan|last3=Toşa|first3=Monica Ioana|last4=Hajieva|first4=Parvana|last5=Granold|first5=Matthias|date=2018-01-02|title=Modern diversification of the amino acid repertoire driven by oxygen|url=https://www.pnas.org/content/115/1/41|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=115|issue=1|pages=41–46|language=en|doi=10.1073/pnas.1717100115|issn=1091-6490|pmid=29259120|pmc=5776824}}</ref>3番目は、遺伝コードでのコードの割り当ては、突然変異の効果が最小となるように自然選択が作用してなされたとする。<ref>Freeland S.J.; Wu T. and Keulmann N. (2003) [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=pubmed&dopt=Abstract&list_uids=14604186 The Case for an Error Minimizing Genetic Code.] ''Orig Life Evol Biosph.'' '''33'''(4-5), 457-77.</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == *蛋白質核酸酵素 '''51'''(7), 2006:遺伝暗号解読40周年 [[西村暹]]、[[三浦謹一郎]]編 [[共立出版]] {{ISSN|0039-9450}} == 関連項目 == {{Commons category|Genetic code}} * [[アンチコドン]] * [[tRNA]] * [[mRNA]] * [[rRNA]] * [[タンパク質を構成するアミノ酸]] * [[開始コドン]] * [[終止コドン]] == 外部リンク == * [https://bunseiri.com/?p=93 コドンと翻訳・蛋白合成] ([https://bunseiri.com// ビジュアル生理学] 内の項目) * [https://www.nig.ac.jp/museum/evolution/04.html 遺伝暗号(コドン)使用の種による多様性] - 遺伝子電子館、[[国立遺伝学研究所]] {{遺伝子発現}} {{タンパク質を構成するアミノ酸}} {{デフォルトソート:ことん}} [[Category:遺伝学]] [[Category:遺伝子発現]] [[Category:タンパク質生合成]] [[Category:分子遺伝学]] [[Category:分子生物学]]
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千葉都市モノレール
千葉都市モノレール株式会社(ちばとしモノレール、英: Chiba Urban Monorail Co.,Ltd.)は、千葉県千葉市内で2路線のサフェージュ式懸垂式モノレールを運営している軌道事業者。千葉市や千葉県などの出資による第三セクター方式で設立された第三セクター鉄道の一つである。本社は千葉市稲毛区に所在。 通称は「千葉モノレール」で、運行しているモノレールの愛称は「タウンライナー」。マスコットキャラクターは、サルの「モノちゃん」である。ロゴマークは、英文社名の頭文字の「C」と「U」と「M」の3文字を組み合わせたもので、青地に「C」を模った白丸が描かれ、「C」の中の青丸部分に「U」と「M」が描かれている。 千葉みなと駅から県庁前駅を結ぶ1号線と、千葉駅から千城台駅を結ぶ2号線の2路線を持つ。1988年(昭和63年)3月28日に最初の区間である2号線スポーツセンター駅 - 千城台駅間が開業し、1999年(平成11年)3月24日に1号線を含めた全線が開通した。総営業距離15.2kmは懸垂式モノレールとしては世界最長で、2001年(平成13年)にギネス世界記録に認定されている。 周辺地域人口の伸び悩みや開業の遅れに加え、減価償却費の負担の重さも重なり、開業以来赤字が継続していた。平成6年度以降は債務超過状態に陥っていた。産業活力再生特別措置法に基づく事業再構築計画が2006年(平成18年)4月28日に国土交通省から認定を受け、累積損失の解消と単年度黒字化が図られた。同年5月に99%減資するとともに、千葉県と千葉市が債権者となっている貸付金204億円を現物出資する形で第三者割当増資による新株発行が行われ(債務の株式化、デット・エクイティ・スワップ)、これにより一時的に資本金が205億円となった。さらに同年8月には千葉県出資分100%、千葉市出資分98.2%、民間出資分80%それぞれの減資(計102億円分の減資)と資本準備金5億円の取り崩しを行うとともに、軌道資産の一部(簿価90億円相当)を千葉市に無償譲渡して減価償却費と設備更新費の大幅削減を行った。この譲渡損90億円については資本準備金の取り崩しを行った。これらの施策の結果、同年度決算では最終黒字が1億9600万円、営業係数が96と、開業以来初の黒字を計上した。 合理化策の一環として、現在はモノレール車両の動力車操縦者(運転士)が車両基地における車両検査要員を兼任することで人員削減を図っている。 開業当初より自動券売機専用のプリペイドカードである「モノレールカード」(プレミアム付き)を2009年(平成21年)2月まで発行していた。JR東日本を除く首都圏の公民鉄における磁気カード式のプリペイドカードとしては最後まで運用されたカードであった。パスネットには当初より対応しなかったが、利用者から対応について要望が多数寄せられたため、パスネット協議会に加盟していたこともある(パスネット自体は導入しなかった)。次世代ICカード乗車券の協議機関であるPASMO協議会には設立当初より参加し、準備期間を経て2009年3月14日に運用を開始している。ただし、交通系ICカード全国相互利用サービスの対象外であり、PASMOとSuica以外のIC乗車券は使用できない。 2021年(令和3年)6月25日付で、元千葉市職員の小池浩和が社長に就任した。 2つの路線を運営しており、全線の全ての列車がワンマン運転である。駅ナンバリングの路線記号は「CM」。 1号線を千葉市立青葉病院まで延伸する計画があった(詳細は1号線の延伸計画を参照)。また、穴川駅より、稲毛駅・稲毛海岸駅への延伸構想があった。 2019年(令和元年)9月4日付けで、千葉市はモノレール病院ルート(県庁前駅 - 市立青葉病院間)について、延伸計画を廃止とし、稲毛ルート(穴川駅 - JR稲毛海岸駅間)については、モノレール導入は行わないことを決定したと発表した。 大人普通旅客運賃(小児半額・ICカード利用の場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。2019年(令和元年)10月1日改定。 通常の乗客輸送以外に、車内で落語が楽しめる「天空寄席」のようなイベント運行を実施することがある。 2018年には千葉経済大学、千葉経済短期大学と地域活性化や人材育成、情報発信などを目的とした連携協定を結んだ。 近年はテレビドラマやCMなどの撮影に対し、同じ千葉市のちばしフィルムコミッションなどと連携して積極的な誘致を図っており、同社の場合、駅や車両での撮影だけではなく、本社社屋や車両基地も積極的にロケーション撮影用に貸し出しているのが特徴である。 ライトノベルおよびそれを原作としたテレビアニメ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に、千葉駅付近や千葉公園等から見たモノレールが度々登場したことに伴い、様々な取り組みが行なわれた。 2011年5月には、キャラクターを描いた記念切符が発売された。 2013年3月30日から2014年3月31日まで、同作品のラッピングを施した車両が運行された。声優によるアナウンスは当初日中10時から16時に行われたが、10月以降は土休日のみとなった。 ライトノベルおよびそれを原作としたテレビアニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』とコラボレーションし、2015年5月2日から2016年4月1日までのラッピング車両の運行とグッズ販売が行われた。 2020年9月より、アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』とコラボレーションし、同月13日から2021年3月31日までのラッピング車両の運行とグッズ販売が発表された。車両の運行期間は2度延長し、2022年4月1日まで運行された。 2017年10月・11月に『ステーションメモリーズ!』に登場するキャラクター、1000形と0形がモチーフの作草部チコ・マコ姉妹が公認キャラクターになったことを記念し、コラボラッピング車両が同年12月7日から2020年12月7日まで運行された。また、2019年11月には軌道作業車がモチーフの天台ヤコが公認キャラクターとなり、コラボイベントが開催された。 2018年、バーチャルシンガー 初音ミクのライブ「初音ミク マジカルミライ2018」が開催、千葉モノレールも出展することから、初音ミク仕様のラッピング車両「MIKU FLYER」が8月10日から9月30日まで運行された。 2019年、「マジカルミライ 2019」開催に際しラッピング車両「MIKU FLYER-Evo.」が7月1日から10月31日まで運行された。 2020年、「マジカルミライ 2020」開催に際しラッピング車両「MIKU FLYER-Evo.II」が12月9日から2021年3月9日まで運行された。 2021年、「マジカルミライ 2021」開催に際しても、ラッピング車両が2021年11月1日より2022年3月10日まで運行された。車両の愛称は公募され「URBAN FLYER 39-type」と決定した。 いずれも、グッズ販売が同時に行われている。 2019年4月25日、千葉モノレール初の鉄道むすめ「葭川となみ」がデビューした。これを記念し、4月27日からデビューイベントを実施した。7月31日までヘッドマークを掲出した記念車両も運行された。 このほか、多種多様な車体ラッピング広告が行われている。多くの編成が全面的に企業広告を纏っているうえ、道路の真上など目立つ場所を走行すること等から注目されている。
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千葉都市モノレール株式会社は、千葉県千葉市内で2路線のサフェージュ式懸垂式モノレールを運営している軌道事業者。千葉市や千葉県などの出資による第三セクター方式で設立された第三セクター鉄道の一つである。本社は千葉市稲毛区に所在。 通称は「千葉モノレール」で、運行しているモノレールの愛称は「タウンライナー」。マスコットキャラクターは、サルの「モノちゃん」である。ロゴマークは、英文社名の頭文字の「C」と「U」と「M」の3文字を組み合わせたもので、青地に「C」を模った白丸が描かれ、「C」の中の青丸部分に「U」と「M」が描かれている。
{{基礎情報 会社 | 社名 = 千葉都市モノレール株式会社 | 英文社名 = Chiba Urban Monorail Co.,Ltd. | ロゴ = Chiba Urban Monorail Logo.svg | ロゴサイズ = 200px | 画像 = 千葉都市モノレール 本社.jpg | 画像サイズ = 300px | 画像説明 = 千葉都市モノレールの本社 | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = 千葉モノレール | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 263-0012 | 本社所在地 = [[千葉県]][[千葉市]][[稲毛区]]萩台町199番地1 | 設立 = [[1979年]]([[昭和]]54年)[[3月20日]]<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=6 }}</ref> | 業種 = 陸運業・建設業など | 事業内容 = [[軌道法]]による一般運輸業など | 代表者 = 代表取締役社長 小池 浩和 | 資本金 = 1億円<br />(令和5年3月31日現在<ref name="kessan04">令和4年度決算公告</ref>) | 売上高 = 32億8614万5000円<br />(令和5年3月期<ref name="kessan04" />) | 営業利益 = 1億3511万6000円<br />(令和5年3月期<ref name="kessan04" />) | 経常利益 = 1億8151万1000円<br />(令和5年3月期<ref name="kessan04" />) | 純利益 = 2億1593万3000円<br />(令和5年3月期<ref name="kessan04" />) | 純資産 = 73億7788万3000円<br />(令和5年3月31日現在<ref name="kessan04" />) | 総資産 = 152億9255万7000円<br />(令和5年3月31日現在<ref name="kessan04" />) | 従業員数 = 160人<br />(平成30年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>) | 決算期 = 3月31日 | 主要株主 = [[千葉市]] 92.97%<br />[[JFEスチール]] 1.57%<br />[[三菱重工エンジニアリング]] 1.12%<br />[[千葉銀行]] 1.00%<br />[[東京電力エナジーパートナー]] 0.63%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>) | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://chiba-monorail.co.jp/ | 特記事項 = }} '''千葉都市モノレール株式会社'''(ちばとしモノレール、{{Lang-en-short|Chiba Urban Monorail Co.,Ltd.}})は、[[千葉県]][[千葉市]]内で2路線の[[モノレール#サフェージュ式|サフェージュ式懸垂式モノレール]]を運営している[[軌道法|軌道]]事業者。千葉市や千葉県などの出資による[[第三セクター]]方式で設立された[[第三セクター鉄道]]の一つである。本社は千葉市[[稲毛区]]に所在。 通称は「'''千葉モノレール'''」で、運行しているモノレールの愛称は「'''タウンライナー'''」。[[マスコットキャラクター]]は、[[サル]]の「'''モノちゃん'''」である。[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]は、英文社名の頭文字の「'''C'''」と「'''U'''」と「'''M'''」の3文字を組み合わせたもので、青地に「C」を模った白丸が描かれ、「C」の中の青丸部分に「U」と「M」が描かれている。 == 概要 == [[千葉みなと駅]]から[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]]を結ぶ[[千葉都市モノレール1号線|1号線]]と、[[千葉駅]]から[[千城台駅]]を結ぶ[[千葉都市モノレール2号線|2号線]]の2路線を持つ。[[1988年]]([[昭和]]63年)[[3月28日]]に最初の区間である2号線[[スポーツセンター駅]] - 千城台駅間が開業し、[[1999年]]([[平成]]11年)[[3月24日]]に1号線を含めた全線が開通した。総営業距離15.2kmは懸垂式モノレールとしては世界最長で、[[2001年]](平成13年)に[[ギネス世界記録]]に認定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/about-monorail/ |title=営業距離世界最長 |access-date=2023-09-25 |publisher=千葉都市モノレール}}</ref><ref group="注">跨座式を含めた場合、日本国内最長のモノレールは[[大阪府]]にある[[大阪モノレール本線|大阪モノレール]]、世界最長のモノレールは[[中華人民共和国|中国]][[重慶市]]にある[[重慶軌道交通]]である。</ref>。 周辺地域人口の伸び悩みや開業の遅れに加え、減価償却費の負担の重さも重なり、開業以来赤字が継続していた。平成6年度以降は債務超過状態に陥っていた<ref>{{Cite web|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/company-info/|title=会社概要|publisher=千葉都市モノレール|accessdate=2022-01-01}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/company-info/ |date=20220531081313 }}</ref>。[[産業活力再生特別措置法]]に基づく事業再構築計画が[[2006年]](平成18年)[[4月28日]]に[[国土交通省]]から認定を受け、累積損失の解消と単年度黒字化が図られた。同年5月に99%[[減資]]するとともに、千葉県と千葉市が債権者となっている貸付金204億円を[[現物出資]]する形で[[第三者割当増資]]による[[新株発行]]が行われ([[債務の株式化]]、[[デット・エクイティ・スワップ]])、これにより一時的に[[資本金]]が205億円となった。さらに同年[[8月]]には千葉県出資分100%、千葉市出資分98.2%、民間出資分80%それぞれの減資(計102億円分の減資)と[[資本準備金]]5億円の取り崩しを行うとともに、軌道資産の一部([[簿価]]90億円相当)を千葉市に無償譲渡して[[減価償却]]費と設備更新費の大幅削減を行った。この譲渡損90億円については資本準備金の取り崩しを行った。これらの施策の結果、同年度決算では最終黒字が1億9600万円、[[営業係数]]が96と、開業以来初の黒字を計上した。 合理化策の一環として、現在はモノレール車両の[[動力車操縦者]](運転士)が[[車両基地]]における車両検査要員を兼任することで人員削減を図っている<ref>『[[川島令三&向谷実の鉄道マニア倶楽部|鉄道マニア倶楽部 Vol.3]]』([[MONDO21]])第6回</ref>。 開業当初より[[自動券売機]]専用の[[プリペイドカード]]である「モノレールカード」(プレミアム付き)を[[2009年]](平成21年)2月まで発行していた。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]を除く[[首都圏 (日本)|首都圏]]の公民鉄における磁気カード式のプリペイドカードとしては最後まで運用されたカードであった。[[パスネット]]には当初より対応しなかったが、利用者から対応について要望が多数寄せられたため、パスネット協議会に加盟していたこともある(パスネット自体は導入しなかった)。次世代[[ICカード]]乗車券の協議機関である[[PASMO]]協議会には設立当初より参加し、準備期間を経て2009年3月14日に運用を開始している。ただし、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]の対象外であり、PASMOと[[Suica]]以外のIC乗車券は使用できない<ref>{{PDFlink|[https://www.pasmo.co.jp/area/train/simple.pdf PASMO・Suicaご利用路線図(簡略版)]}}</ref>。 [[2021年]]([[令和]]3年)[[6月25日]]付で、元[[千葉市]]職員の小池浩和が社長に就任した。 == 沿革 == * [[1979年]]([[昭和]]54年)[[3月20日]] - 会社設立<ref name="sone30"/>。 * [[1982年]](昭和57年)[[1月29日]] - 起工式。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月28日]] - 2号線 スポーツセンター駅 - 千城台駅間開業<ref name="sone30"/>。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[9月18日]] - 累計乗車人数1千万人達成<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=累計乗車5億人達成について|url=https://chiba-monorail.co.jp/|website=千葉都市モノレール|accessdate=2021-06-06|date=2021-05-31}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/ |date=20080915184123 }}</ref>。 * [[1991年]](平成3年)[[6月12日]] - 2号線 千葉駅 - スポーツセンター駅間開業<ref name="sone30" />。 * [[1994年]](平成6年)[[3月7日]] - 累計乗車人数5千万人達成<ref name=":0" />。 * [[1995年]](平成7年)[[8月1日]] - 1号線 千葉みなと駅 - 千葉駅間開業<ref name="sone30"/>。 * [[1997年]](平成9年)[[6月17日]] - 累計乗車人数1億人達成<ref name=":0" />。 * [[1999年]](平成11年)[[3月24日]] - 1号線 千葉駅 - 県庁前駅間開業<ref name="sone30"/>。同時に2号線で一割程度の所要時間短縮や全駅への自動精算機設置、千葉駅中央口への継続定期券自動発行機設置も行われた。 * [[2006年]](平成18年) ** [[4月28日]] - 産業活力再生法に基づく事業再構築計画が認定される。 ** [[6月21日]] - 2号線 作草部駅 - 千葉公園駅間で下水道工事中の[[移動式クレーン|クレーン車]]のアームと列車が衝突する事故が起きる。 * [[2007年]](平成19年)[[3月19日]] - これまで行われていた4両編成での運転が全廃。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]] - [[PASMO]]を導入<ref name="sone30" />。 * [[2012年]](平成24年)[[7月8日]] - 新型車両「[[千葉都市モノレール0形電車|Urban Flyer 0-type]]」営業運転開始。 * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) ** [[2月20日]] - [[2020年東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]開催を見据え、全駅への[[駅ナンバリング]]導入を発表<ref>{{Cite web|和書|title=駅ナンバリングを導入します|publisher=千葉都市モノレール|date=2019-02-20|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20190218nanbering/|accessdate=2021-02-12|archivedate=2019-02-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190223000830/https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20190218nanbering/}}</ref>。 ** [[8月31日]] - 千葉駅に初のホーム柵(固定柵)を設置<ref>{{Cite web|和書|title=ホーム柵の設置により千葉駅ホームの安全が向上します。|publisher=千葉都市モノレール|date=2019-08-29|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20190829chiba_home-saku/|accessdate=2022-03-06}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20190829chiba_home-saku/ |date=20200125004536 }}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[9月9日]] - 変電所更新作業中に受託事業者が誤ってケーブルを切断したことにより火災が発生し、全線が運休。 * [[2021年]](令和3年)[[5月31日]] - 累計乗車人数5億人達成<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=千葉都市モノレール5億人達成 開業から33年|url=https://www.sankei.com/article/20210605-URQZ6KMENROLPDFUTP74VK4MTY/|website=産経新聞|date=2021-06-05|accessdate=2021-06-06}} {{Wayback|url=https://www.sankei.com/article/20210605-URQZ6KMENROLPDFUTP74VK4MTY/ |date=20210605145929 }}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)7月8日 - 「Urban Flyer 0-type」営業運転開始10周年の記念事業を開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/urbanflyer-10th-anniversary/ |title=アーバンフライヤー0形車両運行10周年記念事業を開催します! |publisher=千葉都市モノレール |date=2022-07-05 |accessdate=2022-07-05 }} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/urbanflyer-10th-anniversary/ |date=20220706054419 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/urbanflyer-10th-anniversary-ticket/ |title=「0形車両URBANFLYERデビュー10周年記念硬券セット」を販売いたします! |publisher=千葉都市モノレール |date=2022-07-05 |accessdate=2022-07-05 }} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/urbanflyer-10th-anniversary-ticket/ |date=20220705054626 }}</ref>。 == 路線 == 2つの路線を運営しており、全線の全ての列車が[[ワンマン運転]]である。[[駅ナンバリング]]の路線記号は「CM」。 * [[千葉都市モノレール1号線|1号線]]:[[千葉みなと駅]](CM01) - [[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]](CM18)間 3.2km * [[千葉都市モノレール2号線|2号線]]:[[千葉駅]](CM03) - [[千城台駅]](CM15)間 12.0km 1号線を[[千葉市立青葉病院]]まで延伸する計画があった(詳細は[[千葉都市モノレール1号線#延伸計画|1号線の延伸計画]]を参照)。また、[[穴川駅 (千葉県)|穴川駅]]より、[[千葉都市モノレール稲毛駅・稲毛海岸駅への延伸構想|稲毛駅・稲毛海岸駅への延伸構想]]があった<ref name="mainichi20180127">{{Cite web|和書|title=千葉都市モノレール:市が延伸想定調査へ 来年度予算案に /千葉 |url=https://mainichi.jp/articles/20180127/ddl/k12/020/185000c |website=毎日新聞 |access-date=2022-07-01 |language=ja }} {{Wayback|url=https://mainichi.jp/articles/20180127/ddl/k12/020/185000c |date=20180130204703 }}</ref>。 2019年(令和元年)9月4日付けで、千葉市はモノレール病院ルート(県庁前駅 - 市立青葉病院間)について、延伸計画を廃止とし、稲毛ルート(穴川駅 - JR稲毛海岸駅間)については、モノレール導入は行わないことを決定したと発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/r01_monorail_drawing_verification_results.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210118232139/https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/r01_monorail_drawing_verification_results.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千葉都市モノレール延伸計画について|publisher=千葉市都市局都市部交通政策課|date=2019-09-04|accessdate=2021-01-18|archivedate=2021-01-18}}</ref>。 == 車両 == ; [[千葉都市モノレール1000形電車|1000形]] : 開業当初からの車両。製造年次によって[[方向幕|行先表示器]]や座席などに違いがある。1988年から1999年の間に合計20編成40両が製造された。2023年6月現在、8編成16両(第13 - 20編成)が運用されている。 : 1次車(第1 - 8編成)と2次車(第9 - 12編成)は後述の0形で置き換えられ、全車廃車となった。一部の車両は[[ポッポの丘|いすみポッポの丘]]などに保存されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/about-monorail/sharyou/|title=車両紹介|publisher=千葉都市モノレール|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/about-monorail/sharyou/ |date=20210828090309 }}</ref>。 ; [[千葉都市モノレール0形電車|0形]] 「URBAN FLYER 0-type(アーバン・フライヤー・ゼロ-タイプ)」 : 2012年度より、1000形の置き換えを目的に製造、導入された新型車両<ref>[http://www.chiba-monorail.co.jp/4_know/urban-flyer.html URBAN FLYER 0-type (アーバンフライヤー ゼロタイプ)製作に着手しました。] {{Wayback|url=http://www.chiba-monorail.co.jp/4_know/urban-flyer.html |date=20120125010555 }} - 千葉都市モノレール、2012年1月19日閲覧。</ref>(当初は2009年度導入予定であった<ref>[https://web.archive.org/web/20070409144217/http://www.chiba-monorail.co.jp/uf-otype/urban-flyer.html 千葉モノレール 新型車両「URBAN FLYER 0-type」](Internet Archive) - 千葉都市モノレール、2007年4月9日のアーカイブ。</ref>)。従来車両をベースに[[バリアフリー]]化や新しい技術基準への適合などが行われている。 :* 先頭部の乗務員室床下にはガラス窓を採用するなど、「都市内を空中散歩する」感覚を目指している。車内では黒を基調としオレンジをアクセントとした個別いすタイプの座席などを採用している。 :* バリアフリーのため、[[車椅子スペース]]やドア上に開閉チャイム付きの案内表示器を設置する。 :* [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]方式や、[[回生ブレーキ]]を採用し、エネルギー効率及び乗り心地の向上を行う。 : 5次車は、1000形1次車を置き換えた。2012年7月8日に営業運転を開始し<ref>{{Cite web|和書|title=千葉モノレール0形「URBAN FLYER」が営業運転を開始|url=http://railf.jp/news/2012/07/09/190000.html|publisher=[[交友社]]『鉄道ファン』railf.jp|date=2012-07-09|accessdate=2012-07-10}} {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2012/07/09/190000.html |date=20120712093019 }}</ref>、同年度中に3編成(第21 - 23編成)、2014年春に1編成2両(第24編成)が導入されている。 : 6次車は、1000形2次車を置き換えた。2019年12月から2020年7月にかけて4編成8両(第25 - 28編成)が導入された。5次車と比べ、車外、車内ともに仕様が一部変更されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20191219new-urbanflyer/ |title=「新0形 アーバンフライヤー(6次車)」の運行を開始します! |publisher=千葉都市モノレール |date=2019-12-19 |accessdate=2021-08-28 }} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20191219new-urbanflyer/ |date=20210828090039 }}</ref>。 : 2023年6月現在、8編成16両が運用されている。今後も増備が行われ、1000形の全編成を置き換える予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/wp/wp-content/uploads/mirai_torikumi2021.pdf |title=千葉都市モノレール 未来への取組み ~低炭素化社会への貢献と持続する公共交通であるために~ |publisher=千葉都市モノレール |accessdate=2021-08-28 }} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/wp/wp-content/uploads/mirai_torikumi2021.pdf |date=20220626081202 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/c02-2021.pdf |title=千葉都市モノレール 路線および区間全体の省CO2化計画 |publisher=千葉市 |accessdate=2021-08-28 }} {{Wayback|url=https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/documents/c02-2021.pdf |date=20210828123933 }}</ref>。 <gallery heights="180" widths="200"> ファイル:Chiba Urban Monorail Series 1000 0003.jpg|1000形 ファイル:Chiba Urban Monorail 0 series 20120809.jpg|0形「URBAN FLYER 0-type」 </gallery> == 運賃 == 大人普通旅客[[運賃]](小児半額・ICカード利用の場合は1円未満の端数切り捨て、切符利用の場合は10円未満の端数切り上げ)。2019年(令和元年)10月1日改定<ref>{{Cite press release |1=和書 |title=運賃改定についてのご案内 |publisher=千葉都市モノレール |date=2019年9月6日 |url=https://chiba-monorail.co.jp/wp/wp-content/uploads/eda234a4c381ad066131b1968672e5a0.pdf |format=PDF |accessdate=2019-10-01 |archive-date=2020年6月5日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200605043751/https://chiba-monorail.co.jp/wp/wp-content/uploads/eda234a4c381ad066131b1968672e5a0.pdf |url-status=live }}</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center; margin-left:3em;" |- !rowspan="2" style="width:6em;"| キロ程 !style="text-align:center;" colspan="2"| 運賃(円) |- ! ICカード !! 切符利用 |- |初乗り2km||style="text-align:right;"|199||style="text-align:right;"|200 |- |3||style="text-align:right;"|220||style="text-align:right;"|220 |- |4 - 5||style="text-align:right;"|283||style="text-align:right;"|290 |- |6 - 7||style="text-align:right;"|335||style="text-align:right;"|340 |- |8 - 9||style="text-align:right;"|388||style="text-align:right;"|390 |- |10 - 11||style="text-align:right;"|430||style="text-align:right;"|430 |- |12 - 13||style="text-align:right;"|471||style="text-align:right;"|480 |- |14||style="text-align:right;"|513||style="text-align:right;"|520 |} === 企画乗車券 === * お昼のお出かけフリーきっぷ - 平日10時から18時まで利用可能なフリーきっぷで、販売額は大人630円(小児320円)。 * ホリデーフリーきっぷ - 土休日に利用可能なフリーきっぷで、販売額は大人630円(小児320円)。 * 2-Dayフリーきっぷ - 連続する土休日2日間に利用可能なフリーきっぷで、販売額は大人1050円(小児530円)。 == 知名度向上や沿線活性化への取り組み == 通常の乗客輸送以外に、車内で[[落語]]が楽しめる「天空[[寄席]]」<ref>[http://chiba-monorail.co.jp/index.php/181111tenkuu-yose-2nd/ 爆笑!痛快!天空寄席 - 千葉都市モノレール] {{Wayback|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/181111tenkuu-yose-2nd/ |date=20181111133733 }}(2018年11月11日閲覧)。</ref>のようなイベント運行を実施することがある。 2018年には[[千葉経済大学]]、[[千葉経済短期大学]]と地域活性化や人材育成、情報発信などを目的とした連携協定を結んだ<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO3712015030102018TCN000/ 「千葉経済大、モノレールと連携」] {{Wayback|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO3712015030102018TCN000/ |date=20181111133543 }}『日本経済新聞』朝刊2018年10月31日(大学面)2018年11月11日閲覧。</ref>。 === ロケーション撮影サービス === 近年は[[テレビドラマ]]や[[コマーシャルメッセージ|CM]]などの撮影に対し、同じ千葉市の[[フィルム・コミッション|ちばしフィルムコミッション]]などと連携して積極的な誘致を図っており、同社の場合、駅や車両での撮影だけではなく、本社社屋や車両基地も積極的に[[ロケーション撮影]]用に貸し出しているのが特徴である<ref>[http://www.chiba-monorail.co.jp/loca/loca.html ロケーションサービスのご案内] {{Wayback|url=http://www.chiba-monorail.co.jp/loca/loca.html |date=20131003090742 }} - 千葉都市モノレール</ref>。 ; 映画 :* 『[[バタアシ金魚]]』([[1990年]]) ; テレビドラマ :* 『[[警部補 矢部謙三]]』([[テレビ朝日]]系) :* 『[[TAXMEN]]』([[東京メトロポリタンテレビジョン|MXTV]]ほか) :* 『[[逃亡弁護士 (テレビドラマ)|逃亡弁護士]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系) === アニメ・小説等とのコラボレーション === {{Multiple image |align=right |direction=vertical |image1=俺の妹がこんなに可愛いわけがないのラッピング車両.jpg |width1=240 |caption1=アニメ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』ラッピング車両 |image2=アニメ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」ラッピング車両.jpg |width2=240 |caption2=アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』ラッピング車両 |image3= ChibaUrbanMonorail010-009 OREGAIRU.jpeg |width3=240 |caption3= アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』ラッピング車両 }} ==== 俺の妹がこんなに可愛いわけがない ==== [[ライトノベル]]およびそれを原作としたテレビアニメ『[[俺の妹がこんなに可愛いわけがない (アニメ)|俺の妹がこんなに可愛いわけがない]]』に、千葉駅付近や[[千葉公園]]等から見たモノレールが度々登場したことに伴い、様々な取り組みが行なわれた。 2011年5月には、キャラクターを描いた記念切符が発売された<ref>{{Cite news |url=http://news.dengeki.com/elem/000/000/364/364838/ |title=桐乃と黒猫が駅員さんに!? 『俺の妹』と千葉モノレールのコラボ切符が発売決定!! |newspaper=DENGEKIONLINE |publisher=[[アスキー・メディアワークス]] |date=2011-05-02 |accessdate=2011-05-03 |language=日本語 |archive-date=2011年5月3日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110503232648/http://news.dengeki.com/elem/000/000/364/364838/ }}</ref>。 2013年3月30日から2014年3月31日<ref group="注">当初は6月30日までの予定であったが、要望を受け2度延長された。</ref>まで、同作品の[[ラッピング車両|ラッピングを施した車両]]が運行された<ref>{{Cite web|和書|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/event-goods/orenoimouto/oreimo-wrapping/ |title=スペシャルコラボラッピングモノレール 3月30日運行開始 |publisher=千葉都市モノレール |date=2013-03-17 |accessdate=2013-09-30 |language=日本語 }} {{Wayback|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/event-goods/orenoimouto/oreimo-wrapping/ |date=20131003090748 }}</ref>。[[声優]]によるアナウンスは当初日中10時から16時に行われたが、10月以降は土休日のみとなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/20130927/ |title=俺の妹。スペシャルコラボラッピングモノレールの運行期間を延長します。 |publisher=千葉都市モノレール |date=2013-09-27 |accessdate=2013-09-30 |language=日本語 }} {{Wayback|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/20130927/ |date=20131003090833 }}</ref>。 ==== やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 ==== ライトノベルおよびそれを原作としたテレビアニメ『[[やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。]]』とコラボレーションし、2015年5月2日から2016年4月1日までのラッピング車両の運行とグッズ販売が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/20150424 |title=俺ガイルラッピングモノレール運行&グッズ発売決定!(ラッピングデザイン公開!) |publisher=千葉都市モノレール |date=2015-04-27 |accessdate=2015-05-08 |language=日本語 }} {{Wayback|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/20150424 |date=20150427021133 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/event-goods/gairu/ |title=俺ガイル×ちばモノ |publisher=千葉都市モノレール |accessdate=2016-04-03 }} {{Wayback|url=http://chiba-monorail.co.jp/index.php/event-goods/gairu/ |date=20160403213617 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2016/03/30/170000.html|title=千葉都市モノレール「俺ガイル」ラッピング編成に「LAST RUN」ヘッドマーク|publisher=交友社『鉄道ファン』railf.jp|date=2016-03-30|accessdate=2016-04-03}} {{Wayback|url=http://railf.jp/news/2016/03/30/170000.html |date=20160402013110 }}</ref>。 2020年9月より、アニメ『[[やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完]]』とコラボレーションし、同月13日から2021年3月31日までのラッピング車両の運行とグッズ販売が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/oregairu-collaboration_train2020/|title=「千葉モノレール」×「俺ガイル」コラボを実施します。|publisher=千葉都市モノレール|date=2020-09-09|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/oregairu-collaboration_train2020/ |date=20210816210210 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20201007oregairu_goods-hatsubai/|title=「千葉モノレール」×「俺ガイル」コラボグッズ発売のお知らせ|publisher=千葉都市モノレール|date=2020-10-08|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20201007oregairu_goods-hatsubai/ |date=20210917135657 }}</ref>。車両の運行期間は2度延長し、2022年4月1日まで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/post-27159/|title=「千葉モノレール」×「俺ガイル」ラッピング列車の運行を延長します|publisher=千葉都市モノレール|date=2021-03-25|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/post-27159/ |date=20210828090038 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/post-27985/|title=「千葉モノレール」×「俺ガイル」ラッピング列車の運行を延長します|publisher=千葉都市モノレール|date=2021-09-24|accessdate=2021-09-26}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/post-27985/ |date=20210926054803 }}</ref>。 ==== ステーションメモリーズ! ==== 2017年10月・11月に『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター、[[千葉都市モノレール1000形電車|1000形]]と[[千葉都市モノレール0形電車|0形]]がモチーフの作草部チコ・マコ姉妹が公認キャラクターになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20171031ekimemo-collabo/|title=「千葉都市モノレール」×「駅メモ!」コラボイベントを開催、「作草部チコ」を公認キャラクターに認定しました!|publisher=千葉都市モノレール|date=2017-10-31|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20171031ekimemo-collabo/ |date=20210917201026 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/171128ekimemo-gutsinfo/|title=千葉モノレール✕駅メモ!コラボグッズ公開!!新公認キャラは…!?「作草部マコ」|publisher=千葉都市モノレール株式会社|date=2017-11-28|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/171128ekimemo-gutsinfo/ |date=20210920013028 }}</ref>ことを記念し、コラボラッピング車両が同年12月7日から2020年12月7日まで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/171117ekimemo-wrapping/|title=【千葉モノレール×駅メモ!】アーバンフライヤー初ラッピング車両「駅メモ!号」がデビュー!!|publisher=千葉都市モノレール|date=2017-11-27|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/171117ekimemo-wrapping/ |date=20210929012808 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20201106ekimemo_train-lustrun/|title=(運行終了しました)『駅メモ!号』運行終了のお知らせ|publisher=千葉都市モノレール|date=2020-11-06|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20201106ekimemo_train-lustrun/ |date=20210917123045 }}</ref>。また、2019年11月には軌道作業車がモチーフの天台ヤコが公認キャラクターとなり、コラボイベントが開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20191125ekimemo-collaboevent/|title=『千葉モノレール×駅メモ!』コラボキャンペーンを開催します!!|publisher=千葉都市モノレール|date=2019-11-25|accessdate=2021-08-28}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20191125ekimemo-collaboevent/ |date=20210828090037 }}</ref>。 ==== 千葉市×初音ミクコラボ事業 ==== {{See also|初音ミク「マジカルミライ」#千葉市×初音ミクコラボ事業}} 2018年、バーチャルシンガー [[初音ミク]]のライブ「[[初音ミク「マジカルミライ」|初音ミク マジカルミライ]]2018」が開催、千葉モノレールも出展することから、初音ミク仕様のラッピング車両「MIKU FLYER」が8月10日から9月30日まで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20180807hatsunemiku-korabo/ |title=『初音ミク』とのコラボが決定!マジカルミライ2018に出展、スペシャル車両MIKU FLYERを運行します! |publisher=千葉都市モノレール |date=2018-08-07 |accessdate=2022-07-02 }} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20180807hatsunemiku-korabo/ |date=20220701222101 }}</ref>。 2019年、「マジカルミライ 2019」開催に際しラッピング車両「MIKU FLYER-Evo.」が7月1日から10月31日まで運行された<ref>[https://chiba-monorail.co.jp/index.php/2019hatsune-miku-corabo/ 今年も『千葉モノレール×初音ミク』コラボが決定!特別車両「MIKU FLYER-Evo.」を運行、『初音ミク「マジカルミライ 2019」』に出展します!] {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/2019hatsune-miku-corabo/ |date=20190714113858 }} - 千葉都市モノレール、2019年6月27日</ref>。 2020年、「マジカルミライ 2020」開催に際しラッピング車両「MIKU FLYER-Evo.Ⅱ」が12月9日から2021年3月9日まで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20201120hatsune_miku-collaboration2020/ |title=今年も「千葉都市モノレール×初音ミク」コラボが決定!特別車両「MIKU_FLYER-Evo.Ⅱ」を運行、『初音ミク「マジカルミライ 2020 in TOKYO」』に出展します!! |publisher=千葉都市モノレール |date=2020-11-20 |accessdate=2021-08-28 }} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20201120hatsune_miku-collaboration2020/ |date=20210801013431 }}</ref>。 2021年、「マジカルミライ 2021」開催に際しても、ラッピング車両が2021年11月1日より2022年3月10日まで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20211105hatsune_miku-collaboration2021/|title=今年もやります! 千葉モノレール×初音ミクコラボ|publisher=千葉都市モノレール|date=2021-10-04|accessdate=2021-11-26}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20211105hatsune_miku-collaboration2021/ |date=20211126135935 }}</ref>。車両の愛称は公募され「URBAN FLYER 39-type」と決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20211105hatsune_miku-collaboration2021_2/|title=「千葉モノレール×初音ミクコラボ」ラッピングモノレール全貌公開!!!愛称募集開始!!!|publisher=千葉都市モノレール|date=2021-10-15|accessdate=2021-11-26}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20211105hatsune_miku-collaboration2021_2/ |date=20211126135937 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/post-28442/|title=「千葉モノレール×初音ミクコラボ」ラッピングモノレールの愛称決定!!!|publisher=千葉都市モノレール|date=2021-11-15|accessdate=2021-11-26}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/post-28442/ |date=20211126135933 }}</ref>。 いずれも、グッズ販売が同時に行われている。 === 鉄道むすめ === 2019年4月25日、千葉モノレール初の[[鉄道むすめ]]「葭川となみ」がデビューした。これを記念し、4月27日からデビューイベントを実施した。7月31日までヘッドマークを掲出した記念車両も運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20190425tetsumusu-debut/|title=鉄道むすめ『葭川となみ』デビュー!!|publisher=千葉都市モノレール|date=2019-04-25|accessdate=2021-09-26}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/20190425tetsumusu-debut/ |date=20210926054757 }}</ref>。 === ラッピング広告 === このほか、多種多様な車体[[ラッピング広告]]が行われている。多くの編成が全面的に企業広告を纏っているうえ、道路の真上など目立つ場所を走行すること等から注目されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/service/advertisement/train-wrapping/|title=車体広告(ラッピング車両)|publisher=千葉都市モノレール|accessdate=2022-01-01}} {{Wayback|url=https://chiba-monorail.co.jp/index.php/service/advertisement/train-wrapping/ |date=20220101111918 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[舞浜リゾートライン]]([[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]) - 同じ千葉県内にあるモノレール路線を運営している会社(跨座式)。 * [[湘南モノレール]] - 同じ懸垂式のモノレール路線を運営している会社([[神奈川県]])。 == 外部リンク == {{Commonscat|Chiba Urban Monorail}} * [https://chiba-monorail.co.jp/ 千葉都市モノレール 公式サイト] * [https://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/kotsu/monorail_portal.html 千葉市:千葉モノレールに関する情報(都市局都市部交通政策課)] * {{PDFlink|[https://www.mhi.co.jp/technology/review/pdf/472/472010.pdf 「千葉都市モノレール “アーバンフライヤー”」『三菱重工技報』第47巻 第2号]}} * {{Twitter|chibamonoPR|モノちゃん@千葉モノレール}} * {{Instagram|chiba_monorail|千葉モノレール}} {{日本のモノレール}} {{PASMO}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちはとしものれえる}} [[Category:千葉都市モノレール|*]] [[Category:日本の軌道事業者]] [[Category:千葉県の交通|ちはとしものれえる]] [[Category:稲毛区の企業]] [[Category:第三セクター鉄道]] [[Category:日本のモノレール]] [[Category:日本のギネス世界記録]] [[Category:1979年設立の企業]] [[Category:房総の魅力500選]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB
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NHKマイルカップ
NHKマイルカップ(エヌエイチケイマイルカップ)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 競走名の「NHK」は寄贈賞を提供している日本放送協会の略称で、東京都渋谷区神南に本部を置く公共放送を提供する特殊法人。 正賞はNHK杯、日本馬主協会連合会会長賞。 1953年から1995年まで東京優駿(日本ダービー)のトライアル競走として施行されていた「NHK杯」を前身としている。当時はクラシック競走に出走できなかった外国産馬や短距離適性のある馬に目標となる大レースを4歳(現3歳)春季に創設しようという気運が高まり、1996年に春の4歳(現3歳)マイル王決定戦として新設された。それゆえ、創設時は「マル外ダービー」といわれたこともある。ただし、こうした外国産馬を主体とするような見方に対しては異論もあり、当時業務部にて競馬番組の変更に関与していたJRA理事の吉崎一郎によれば、「短距離適性のある3歳馬のためのGI競走が必要」とする意見自体は以前からあり、そこに当時の外国産馬の状況を踏まえて「外国産馬が多く出走してくる」という予測があった。それゆえに、レース設立の最大かつ本来の目的は外国産馬絡みのものがメインではなく、あくまで「3歳馬の短距離GI」であるとする見解もある。 創設当初より外国産馬が出走可能なほか、指定交流競走として所定の条件を満たした地方競馬所属馬も出走が可能となっている。2009年より国際競走となり、外国馬も出走可能になった。 ただ、第1回の1996年は出走した18頭のうち14頭がマル外であるなど、ごく初期は「マル外ダービー」が示す通り、外国産馬が過半数出走しており、2001年まではいづれも外国産馬が優勝、内国産馬は3着(2頭)までという状態であったが、「外国産馬の出走制限緩和8カ年計画」(1992年策定)に呼応するように、国外からトニービン、ブライアンズタイム、サンデーサイレンスを「3大種牡馬」として輸入されたタイミングで、その子孫を中心とした内国産馬の出走が増えるようになる。実際、2002年に内国産馬で初めて当競走を優勝したテレグノシス以後、2021年のシュネルマイスター(ドイツ生産)が優勝するまでの延べ19年間、内国産馬の優勝が続いていた。その大半の父馬は血統にサンデーサイレンス系統が入っていた。 NHK交響楽団のメンバー(正式には、正団員以外を交えた「NHK交響楽団とその仲間たちによる金管アンサンブル」)が、発走前のファンファーレを生演奏するのが恒例となっている。また、過去のダービートライアルとしてのNHK杯からの名残りで、八大競走のうちの牡馬三冠・天皇賞・有馬記念などと同格扱いで、NHK総合テレビジョンから生中継されている。 以下の内容は、2023年現在のもの。 出走資格:サラ系3歳牡馬・牝馬(出走可能頭数:最大18頭) 負担重量:定量(牡馬57kg、牝馬55kg) 出馬投票を行った馬のうち優先出走権のある馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金の総計が多い順に割り当てる(出走申込馬が出走可能頭数を超え、かつ収得賞金が同額の馬が複数いる場合は抽選)。 収得賞金がない馬(未勝利馬・未出走馬など)は原則として出走できないが、ニュージーランドトロフィー及びアーリントンカップで2着以内の成績を収め、優先出走権を得れば出走できる。 地方競馬所属馬は、同一年度に行われる下表のステップ競走で所定の成績を収めた馬に優先出走権が与えられる。 上記のほか、JRAで行われる芝の3歳重賞競走優勝馬にも出走資格が与えられる。 2023年の1着賞金は1億3000万円で、以下2着5200万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1300万円。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 コース種別を記載していない距離は、芝コースを表す。
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NHKマイルカップ(エヌエイチケイマイルカップ)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 競走名の「NHK」は寄贈賞を提供している日本放送協会の略称で、東京都渋谷区神南に本部を置く公共放送を提供する特殊法人。 正賞はNHK杯、日本馬主協会連合会会長賞。
{{競馬の競走 |馬場 = 芝 |競走名 = NHKマイルカップ<br />NHK Mile Cup<ref name="IFHA" /> |画像 = [[File:NHK Mile Cup 2023.jpg|280px]] |画像説明 = 第28回NHKマイルカップ(2023年5月7日) |開催国 = {{JPN}} |主催者 = [[日本中央競馬会]] |競馬場 = [[東京競馬場]] |創設 = 1996年5月12日 |年次 = 2023 |距離 = 1600m |格付け = GI |1着賞金 = 1億3000万円 |賞金総額 = |条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド|サラ]]系3歳[[牡馬]]・[[牝馬]](国際)(指定)}} |負担重量 = 定量(牡馬57kg、牝馬55kg) |出典 = <ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo2-1" /> }} '''NHKマイルカップ'''(エヌエイチケイマイルカップ)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[東京競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。 競走名の「NHK」は寄贈賞を提供している[[日本放送協会]]の略称で、[[東京都]][[渋谷区]][[神南]]に本部を置く[[公共放送]]を提供する[[特殊法人]]<ref name="特別レース名解説" />。 正賞は[[NHK杯]]、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo2-1" />。 == 概要 == 1953年から1995年まで[[東京優駿]](日本ダービー)の[[トライアル競走]]として施行されていた「[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]」を前身としている<ref name="JRA注目" />。当時はクラシック競走に出走できなかった外国産馬や短距離適性のある馬に目標となる大レースを4歳(現3歳)春季に創設しようという気運が高まり、1996年に春の4歳(現3歳)[[マイル]]王決定戦として新設された<ref name="JRA注目" />{{Refnest|group="注"|回次は1996年の競走を第1回としているが、JRA-VANでは「NHK杯のGI昇格<ref name="VAN" />」とする考え方も示されている。ただしNHK杯は距離2000mであった。}}。それゆえ、創設時は「'''マル外ダービー'''」<ref>[https://prc.jp/jra2015derby/story/kingkamehameha.html JRA優駿×JRAレーシングビュアー東京優駿物語・豪脚を武器に他馬をねじ伏せ ついに誕生した“新・二冠馬”キングカメハメハ]</ref>といわれたこともある。ただし、こうした外国産馬を主体とするような見方に対しては異論もあり、当時業務部にて競馬番組の変更に関与していたJRA理事の吉崎一郎によれば、「短距離適性のある3歳馬のためのGI競走が必要」とする意見自体は以前からあり、そこに当時の外国産馬の状況を踏まえて「外国産馬が多く出走してくる」という予測があった<ref name="nikkan20180501">{{Cite web|和書|url= https://p.nikkansports.com/goku-uma/guide/column/article.zpl?topic_id=10096&id=201805010000134&mode=past&year=2018&month=5&day=1 |title= 外国産タイキフォーチュン初代王者/NHKマイルC |work= |publisher= 日刊スポーツ |date= 2018-05-01 |accessdate= 2023-05-07}}</ref>。それゆえに、レース設立の最大かつ本来の目的は外国産馬絡みのものがメインではなく、あくまで「3歳馬の短距離GI」であるとする見解もある<ref name="nikkan20180501"/>。 創設当初より[[外国産馬]]が出走可能なほか、[[指定交流競走]]として所定の条件を満たした[[地方競馬]]所属馬も出走が可能となっている<ref name="JRA注目" />。2009年より[[国際競走]]となり、[[外国馬]]も出走可能になった<ref name="JRA注目" />。 ただ、第1回の[[1996年]]は出走した18頭のうち14頭がマル外であるなど、ごく初期は「マル外ダービー」が示す通り、外国産馬が過半数出走しており、[[2001年]]まではいづれも外国産馬が優勝、内国産馬は3着(2頭)までという状態であったが、「外国産馬の出走制限緩和8カ年計画」(1992年策定)に呼応するように、国外から[[トニービン]]、[[ブライアンズタイム]]、[[サンデーサイレンス]]を「3大[[種牡馬]]」として輸入されたタイミングで、その子孫を中心とした内国産馬の出走が増えるようになる。実際、[[2002年]]に内国産馬で初めて当競走を優勝した[[テレグノシス]]以後、[[2021年]]の[[シュネルマイスター]]([[ドイツ]]生産)が優勝するまでの延べ19年間、内国産馬の優勝が続いていた。その大半の父馬は血統にサンデーサイレンス系統が入っていた。<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO15980020S7A500C1000000/ 様相一変、脅威はいずこに? 外国産馬盛衰史 2017年5月6日 6:30]([[日本経済新聞]]・[[野元賢一]]寄稿)</ref> [[NHK交響楽団]]のメンバー(正式には、正団員以外を交えた「NHK交響楽団とその仲間たちによる[[金管楽器|金管]][[アンサンブル]]」)が、発走前の[[ファンファーレ (競馬)|ファンファーレ]]を生演奏するのが恒例となっている<ref>[http://www.nhkso.or.jp/about/contents/12781/ NHKマイルカップでファンファーレ] 活動報告 [[NHK交響楽団]] 2015年5月19日</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://company.jra.jp/7403/press/201804/201804141103.pdf|format=PDF|title=平成30年第2回東京競馬(第1日~第8日)開催日イベントのお知らせ|publisher=日本中央競馬会|date=2018年4月14日|accessdate=2019年4月27日}}</ref>。また、過去のダービートライアルとしてのNHK杯からの名残りで、[[八大競走]]のうちの牡馬三冠・[[天皇賞]]・[[有馬記念]]などと同格扱いで、[[NHK総合テレビジョン]]から生中継されている。 === 競走条件 === 以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo2-1" />のもの。 出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]3歳牡馬・牝馬(出走可能頭数:最大18頭) * JRA所属馬 * 地方競馬所属馬(後述) * 外国調教馬(優先出走) * [[せん馬|騸馬]](去勢した牡馬)は出走できない<ref group="注">ただしクラシック競走と違い、本競走では騸馬排除の根拠とされる「繁殖馬の選定」を明確に謳っているわけではない。これは[[朝日杯フューチュリティステークス]]、[[ニュージーランドトロフィー]]でも同様である。</ref>。 負担重量:定量(牡馬57kg、牝馬55kg) 出馬投票を行った馬のうち優先出走権のある馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金の総計が多い順に割り当てる(出走申込馬が出走可能頭数を超え、かつ収得賞金が同額の馬が複数いる場合は抽選)<ref name="競馬番組一般事項" />。 === JRA所属馬の優先出走権 === {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離!!必要な着順 |- |[[ニュージーランドトロフィー]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝1600m||3着以内 |- |[[アーリントンカップ]]||GIII||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝1600m||3着以内 |} 収得賞金がない馬(未勝利馬・未出走馬など)は原則として出走できないが、ニュージーランドトロフィー及びアーリントンカップで2着以内の成績を収め、優先出走権を得れば出走できる<ref name="競馬番組一般事項" />{{Refnest|重賞競走では収得賞金が2着まで加算される<ref name="競馬番組一般事項" />ため、未勝利馬がトライアル競走で2着以内に入れば収得賞金を得ることができる。|group=注}}。 ==== 地方競馬所属馬の出走資格 ==== 地方競馬所属馬は、同一年度に行われる下表のステップ競走で所定の成績を収めた馬に優先出走権が与えられる<ref name="ステップ競走" /><ref name="競馬番組一般事項" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離!!必要な着順 |- |ニュージーランドトロフィー||GII||{{Flagicon|JPN}}中山競馬場||芝1600m||3着以内 |- |[[桜花賞]]||GI||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝1600m||2着以内 |- |アーリントンカップ||GIII||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝1600m||3着以内 |- |[[皐月賞]]||GI||{{Flagicon|JPN}}中山競馬場||芝2000m||2着以内 |} 上記のほか、JRAで行われる芝の3歳重賞競走優勝馬にも出走資格が与えられる<ref name="JRA注目" />。 === 賞金 === 2023年の1着賞金は1億3000万円で、以下2着5200万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1300万円<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo2-1" />。 == 歴史 == === 年表 === * 1996年 - 4歳牡馬・牝馬限定の重賞競走(GI<ref group="注">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>)として新設<ref name="JRA注目" />。 * 2001年 - [[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、出走資格を「3歳牡馬・牝馬」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIに変更<ref name="JRA注目" />。 * 2009年 ** [[国際競走]]に変更され、外国調教馬が9頭まで出走可能となる<ref name="JRA注目" />。 ** 格付表記をGI(国際格付)に変更<ref name="JRA注目" />。 * 2020年 - 新型コロナウイルス感染症([[2019新型コロナウイルスによる急性呼吸器疾患|COVID-19]])の感染拡大防止のため「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施<ref name="jranews042303" />(2021年も同様<ref name="jranews042308" />)。 == 歴代優勝馬 == 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 コース種別を記載していない距離は、芝コースを表す。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||1996年5月12日||東京||1600m||[[タイキフォーチュン]]||牡3||1:32.6||[[柴田善臣]]||[[高橋祥泰]]||(有)[[大樹ファーム]] |- |style="text-align:center"|第2回||1997年5月11日||東京||1600m||[[シーキングザパール]]||牝3||1:33.1||[[武豊]]||[[森秀行]]||植中倫子 |- |style="text-align:center"|第3回||1998年5月17日||東京||1600m||[[エルコンドルパサー]]||牡3||1:33.7||[[的場均]]||[[二ノ宮敬宇]]||[[渡邊隆]] |- |style="text-align:center"|第4回||1999年5月16日||東京||1600m||[[シンボリインディ]]||牡3||1:33.8||[[横山典弘]]||[[藤沢和雄]]||[[シンボリ牧場]] |- |style="text-align:center"|第5回||2000年5月7日||東京||1600m||[[イーグルカフェ]]||牡3||1:33.5||[[岡部幸雄]]||[[小島太]]||[[西川清]] |- |style="text-align:center"|第6回||2001年5月6日||東京||1600m||[[クロフネ]]||牡3||1:33.0||武豊||[[松田国英]]||[[金子真人]] |- |style="text-align:center"|第7回||2002年5月4日||東京||1600m||[[テレグノシス]]||牡3||1:33.1||[[勝浦正樹]]||[[杉浦宏昭]]||(有)[[社台レースホース]] |- |style="text-align:center"|第8回||2003年5月11日||東京||1600m||[[ウインクリューガー]]||牡3||1:34.2||[[武幸四郎]]||[[松元茂樹]]||(株)[[ウイン]] |- |style="text-align:center"|第9回||2004年5月9日||東京||1600m||[[キングカメハメハ]]||牡3||1:32.5||[[安藤勝己]]||松田国英||金子真人 |- |style="text-align:center"|第10回||2005年5月8日||東京||1600m||[[ラインクラフト]]||牝3||1:33.6||[[福永祐一]]||[[瀬戸口勉]]||[[大澤繁昌]] |- |style="text-align:center"|第11回||2006年5月7日||東京||1600m||[[ロジック (競走馬)|ロジック]]||牡3||1:33.2||武豊||[[橋口弘次郎]]||[[前田幸治]] |- |style="text-align:center"|第12回||2007年5月6日||東京||1600m||[[ピンクカメオ]]||牝3||1:34.3||[[内田博幸]]||[[国枝栄]]||[[金子真人ホールディングス]](株) |- |style="text-align:center"|第13回||2008年5月11日||東京||1600m||[[ディープスカイ]]||牡3||1:34.2||[[四位洋文]]||[[昆貢]]||[[深見敏男]] |- |style="text-align:center"|第14回||2009年5月10日||東京||1600m||[[ジョーカプチーノ]]||牡3||1:32.4||[[藤岡康太]]||[[中竹和也]]||[[上田けい子]] |- |style="text-align:center"|第15回||2010年5月9日||東京||1600m||[[ダノンシャンティ]]||牡3||1:31.4||安藤勝己||松田国英||(株)[[ダノックス]] |- |style="text-align:center"|第16回||2011年5月8日||東京||1600m||[[グランプリボス]]||牡3||1:32.2||[[クレイグ・ウィリアムズ|C.ウィリアムズ]]||[[矢作芳人]]||(株)[[グランプリ (企業)|グランプリ]] |- |style="text-align:center"|第17回||2012年5月6日||東京||1600m||[[カレンブラックヒル]]||牡3||1:34.5||[[秋山真一郎]]||[[平田修]]||[[鈴木隆司]] |- |style="text-align:center"|第18回||2013年5月5日||東京||1600m||[[マイネルホウオウ]]||牡3||1:32.7||[[柴田大知]]||[[畠山吉宏]]||(株)[[サラブレッドクラブ・ラフィアン]] |- |style="text-align:center"|第19回||2014年5月11日||東京||1600m||[[ミッキーアイル]]||牡3||1:33.2||[[浜中俊]]||[[音無秀孝]]||[[野田みづき]] |- |style="text-align:center"|第20回||2015年5月10日||東京||1600m||[[クラリティスカイ]]||牡3||1:33.5||横山典弘||[[友道康夫]]||[[杉山忠国]] |- |style="text-align:center"|第21回||2016年5月8日||東京||1600m||[[メジャーエンブレム]]||牝3||1:32.8||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[田村康仁]]||(有)[[サンデーレーシング]] |- |style="text-align:center"|第22回||2017年5月7日||東京||1600m||[[アエロリット]]||牝3||1:32.3||横山典弘||[[菊沢隆徳]]||(有)サンデーレーシング |- |style="text-align:center"|第23回||2018年5月6日||東京||1600m||[[ケイアイノーテック]]||牡3||1:32.8||[[藤岡佑介]]||[[平田修]]||[[亀田和弘]] |- |style="text-align:center"|第24回||2019年5月5日||東京||1600m||[[アドマイヤマーズ]]||牡3||1:32.4||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[友道康夫]]||[[近藤利一]] |- |style="text-align:center"|第25回||2020年5月10日||東京||1600m||[[ラウダシオン]]||牡3||1:32.5||M.デムーロ||[[斉藤崇史]]||(有)[[シルクレーシング]] |- |style="text-align:center"|第26回||2021年5月9日||東京||1600m||[[シュネルマイスター]]||牡3||1:31.6||C.ルメール||[[手塚貴久]]||(有)サンデーレーシング |- |style="text-align:center"|第27回||2022年5月8日||東京||1600m||[[ダノンスコーピオン]]||牡3||1:32.7||[[川田将雅]]||[[安田隆行]]||(株)ダノックス |- |style="text-align:center"|第28回||2023年5月7日||東京||1600m||[[シャンパンカラー]]||牡3||1:33.8||内田博幸||[[田中剛]]||[[青山洋一]] |} <!-- Wikipediaは競馬速報ではありません。レースの結果を書き込むときは、*同時*に各回競走結果の出典に信頼できる出典の記載をお願いします。 --> <!-- ウィキプロジェクト 競馬にて、競走の結果の加筆についての合意がありますので、編集前に御一読下さい。 --> == NHKマイルカップの記録 == * レースレコード - 1:31.4(第15回優勝馬ダノンシャンティ)<ref name="JRA注目" /> ** 優勝タイム最遅記録 - 1:34.5(第17回優勝馬カレンブラックヒル) * 最多優勝騎手 - 3勝 ** 武豊(第2回・第6回・第11回)、横山典弘(第4回・第20回・第22回)<ref>連覇としてはミルコ・デムーロ(第24回・第25回)が記録</ref> * 最多優勝調教師 - 3勝 ** 松田国英(第6回・第9回・第15回) * 最多勝利種牡馬 - 3勝 ** [[ダイワメジャー]](第17回・第21回・第24回) == 脚注・出典 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=16 |title=重賞競走一覧(レース別・関東) |publisher=日本中央競馬会 |page=16 |accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="IFHA">{{Cite web|url=https://www.ifhaonline.org/default.asp?section=Racing&area=8&racepid=75640 |title=IFHA Race Detail NHK Mile Cup|accessdate=2022年5月2日}}</ref> <ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0507_1/race.html |title=歴史・コース:NHKマイルカップ 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="bangumi_2023tokyo2-1">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/tokyo2-1.pdf |title=令和5年第2回東京競馬番組(第1日 - 第6日)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2023/0205.pdf#page=4 |title=2023年度第2回東京競馬特別レース名解説|page=4|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="VAN">[http://jra-van.jp/fun/tokusyu/090510_02_02.html 「第14回NHK杯マイルカップ特集(歴代優勝馬ピックアップ:タイキフォーチュン)」] - JRA-VAN、2015年4月12日閲覧</ref> <ref name="競馬番組一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi_ippan.pdf#page=18 |title=競馬番組一般事項 「V 出馬投票」|publisher=日本中央競馬会 |year=2023|page=18 |accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="ステップ競走">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/kakuchi.pdf |title=「地」が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和5年度】|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="jranews042303">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202004/042303.html |title=4月25日(土曜)から5月31日(日曜)までの中央競馬の開催等について|publisher=日本中央競馬会|date=2020年4月23日|accessdate=2021年5月4日}}</ref> <ref name="jranews042308">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202104/042308.html |title=4月25日(日曜)からの無観客競馬の実施とウインズ等の営業取りやめ|publisher=日本中央競馬会|date=2021年4月23日|accessdate=2021年5月4日}}</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== ; 馬主名義を含む競走結果 * JRA年度別全成績 ** (2023年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-2tokyo6.pdf#page=6 |title=第2回 東京競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2023年5月9日}}(索引番号:11071) ** (2022年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-2tokyo6.pdf#page=6 |title=第2回 東京競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2022年5月9日}}(索引番号:11071) ** (2021年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-2tokyo6.pdf#page=6 |title=第2回 東京競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2021年5月10日}}(索引番号:11071) ** (2020年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-2tokyo6.pdf#page=6 |title=第2回 東京競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年10月23日}}(索引番号:11071) ** (2019年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-2tokyo6.pdf#page=6 |title=第2回 東京競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年10月23日}}(索引番号:12068) ** (2018年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-2tokyo6.pdf#page=6 |title=第2回 東京競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年10月23日}}(索引番号:12071) ** (2017年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-2tokyo6.pdf#page=6 |title=第2回 東京競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2017年5月8日}}(索引番号:12071) ** (2016年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-2tokyo6.pdf#page=6 |title=第2回 東京競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年5月9日}}(索引番号:12071) ** (2015年){{Cite 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web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2005/2tokyo.pdf#page=81 |title=第2回 東京競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=1295-1296|accessdate=2016年5月9日}}(索引番号:11071) ** (2004年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2004/2-tok.pdf#page=83 |title=第2回 東京競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=1293-1294|accessdate=2016年5月9日}}(索引番号:11071) ** (2003年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2003/1-tok.pdf#page=80 |title=第1回 東京競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=1284-1285|accessdate=2016年5月9日}}(索引番号:11071) ** (2002年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/3-tok.pdf#page=78 |title=第3回 東京競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=1140-1141|accessdate=2016年5月9日}}(索引番号:10071) * netkeiba.comより(最終閲覧日:2023年5月9日) ** {{Netkeiba-raceresult|1996|05030811}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|05020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|05020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|05020811}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|05030611}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|05010611}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|05020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|05020611}} * JBISサーチより(最終閲覧日:2017年5月8日) ** {{JBIS-raceresult|2015|0510|105|11}}、{{JBIS-raceresult|2016|0508|105|11}}、{{JBIS-raceresult|2017|0507|105|11}} ; 馬主名義を除く競走結果 * [https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/index.html JRAデータファイル NHKマイルカップ] - 最終閲覧日:2017年5月8日。 ** [https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc1996.html 1回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc1997.html 2回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc1998.html 3回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc1999.html 4回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2000.html 5回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2001.html 6回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2002.html 7回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2003.html 8回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2004.html 9回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2005.html 10回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2006.html 11回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2007.html 12回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2008.html 13回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2009.html 14回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2010.html 15回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2011.html 16回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2012.html 17回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2013.html 18回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2014.html 19回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2015.html 20回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2016.html 21回]、[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/nmc/result/nmc2017.html 22回] == 関連項目 == * [[NHK杯]] - NHK主催の各種競技大会 * [[きさらぎ賞]] - 1962年から2023年までNHKより優勝杯が提供されており、「NHK賞」の副称が付いていた == 外部リンク == {{Commonscat|NHK Mile Cup|NHKマイルカップ}} * [https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0507_1/ レース分析:NHKマイルカップ 今週の注目レース] - 日本中央競馬会 {{中央競馬の重賞競走}} {{NHK}} {{デフォルトソート:えぬえいちけいまいるかつふ}} [[Category:中央競馬の競走]] [[Category:東京競馬場の競走]] [[Category:NHK杯|まいるかつふ]] [[Category:1996年開始のスポーツイベント]]
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ケンタッキーダービー
ケンタッキーダービー(Kentucky Derby)は、アメリカクラシック三冠の第1冠として、ケンタッキー州ルイビルにあるチャーチルダウンズ競馬場で行われる競馬の競走である。 アメリカ合衆国の競馬における3歳牡馬の最大目標でアメリカの数ある競走としても最高峰のイベントとされ、ブリーダーズカップなどを凌ぐ視聴率や観客動員数を保っている。競馬界のみならずスポーツイベントとしてもアメリカ国内で非常に知名度が高いもので、競走時間から「スポーツの中で最も偉大な2分間」(The Most Exciting Two Minutes in Sports)などと形容される。また優勝馬にはバラのレイが掛けられることから、「ラン・フォー・ザ・ローゼス(Run for the roses)」の通称も持つ。 アメリカ合衆国の競馬におけるダービー相当の競走で、例年5月最初の土曜日に行われる。開催の前日には、同じく3歳牝馬の最高峰競走に当たるケンタッキーオークスが行われる。アメリカクラシック三冠の第1戦に当たり、同競走の2週間後に第2戦のプリークネスステークスが行われる。 馬場条件はダート、距離は10ハロン(1マイル1/4・約2012メートル)で行われる。出走条件は3歳限定だが、イギリスのダービーステークスと違い騸馬の出走も可能である。出走可能頭数は20頭。 ケンタッキーダービーはアメリカ競馬、およびチャーチルダウンズ競馬場のあるルイビルにおける最大のイベントでありケンタッキーダービーの行われる時期には2週間をかけた「ケンタッキーダービー・フェスティバル」がルイビルで催されている。また観戦の際にも伝統があり、出走馬の本馬場入場の際にはミント・ジュレップ(Mint Julep)を飲みルイビル大学のマーチングバンドの演奏のもとケンタッキーの我が家(My Old Kentucky Home)を観客全員で歌うのが習わしとなっている。 2006年以降はヤムブランドがメインスポンサーとなっており、対外的な呼称を「Kentucky Derby Presented by Yum! Brands」としていた。2018年からはウッドフォードリザーブがメインスポンサーとなり、対外的な呼称「Kentucky Derby presented by Woodford Reserve」となった。 2013年からケンタッキーダービーに向かうまでの主な競走にロード・トゥ・ザ・ケンタッキーダービーのポイントが設定され、プレップシーズン(1着10ポイント、2着4ポイント、3着3ポイント、4着2ポイント、5着1ポイント)、セレクトプレップレース(1着20ポイント、2着8ポイント、3着6ポイント、4着4ポイント、5着2ポイント)、チャンピオンシップシリーズ前半(1着50ポイント、2着20ポイント、3着15ポイント、4着10ポイント、5着5ポイント)、チャンピオンシップシリーズ後半(1着100ポイント、2着40ポイント、3着30ポイント、4着20ポイント、5着10ポイント)、最終戦のワイルドカード(1着20ポイント、2着8ポイント、3着6ポイント、4着4ポイント、5着2ポイント)の各競走で獲得したポイント上位順に出走権が与えられることになっている。2022年まではポイントの付与対象が4着までであったが、2023年より5着までに変更された。また2009年にのみ存在したケンタッキーダービーチャレンジステークスには優先出走権が与えられていた。 2016年、ラニが日本馬として初めてアメリカクラシック三冠競走の全レースを走った。特に、ベルモントステークスでは3着に好走するなど、ラニの挑戦は日本でも注目を集めた。これを受け、チャーチルダウンズ社は日本馬に向けたケンタッキーダービー出走馬選定ポイントシリーズである「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」を創設。日本馬が国内のレースだけで出走権を得ることが可能になった。 出典: 施行初年の2016年は、ラニが出走したカトレア賞・2017年(明け3歳時の)ヒヤシンスステークスの2レースを対象として開催。2017年から全日本2歳優駿、2018年から2019年(明け3歳時の)伏竜ステークスが追加され、現在の4競走で争われる形態となった。なお、カトレア賞は2020年よりオープン特別に昇格しカトレアステークスとして施行される。 ケンタッキーダービーの施行が延期された2020年に限り、ユニコーンステークス(GIII・東京D1600m)とジャパンダートダービー(JpnI・大井D2000m)の2レースがJAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBYシリーズ構成競走に指定されている。いずれもポイントは40-16-8-4で割り振られる。 出典: ケンタッキーダービーの創設は1875年で、当時のチャーチルダウンズ競馬場運営者のメリウェザー・ルイス・クラークによってイギリスのダービーステークスやフランスのパリ大賞典を模範として創設された。第1回は15頭立てで行われ1万人の観客が駆け付けたという。創設当時は本場のダービーステークスと同じく1マイル1/2(約2414メートル)で行われており、後の1896年に現在と同じ1マイル1/4に改定された。 アメリカ合衆国では戦争や賭博に対する禁止措置などから開催中止に追い込まれた競走がよく存在するが、ケンタッキーダービーは現在まで一度も中断されたことのない数少ない競走である。また、分割競走なども行われたことがない。 創設当時から大競走として名のあるものであったわけではなく、大馬主のサミュエル・ドイル・リドルやジェームズ・ロバート・キーンなどはケンタッキー州までの輸送を嫌って積極的に出走させなかったくらいであった。しかし20世紀初頭からの関係者の尽力により1930年当時にはすでに大きな権威とされるようになり、ギャラントフォックスに対する「三冠」の称号とともにケンタッキーダービーの権威は高く定義づけられるものとなった。リドルもその後ウォーアドミラルを出走させている。 以下は同競走における主な年表である。
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ケンタッキーダービーは、アメリカクラシック三冠の第1冠として、ケンタッキー州ルイビルにあるチャーチルダウンズ競馬場で行われる競馬の競走である。 アメリカ合衆国の競馬における3歳牡馬の最大目標でアメリカの数ある競走としても最高峰のイベントとされ、ブリーダーズカップなどを凌ぐ視聴率や観客動員数を保っている。競馬界のみならずスポーツイベントとしてもアメリカ国内で非常に知名度が高いもので、競走時間から「スポーツの中で最も偉大な2分間」などと形容される。また優勝馬にはバラのレイが掛けられることから、「ラン・フォー・ザ・ローゼス」の通称も持つ。
{{競馬の競走 |馬場 = ダート |競走名 = ケンタッキーダービー<br />{{Lang|en|Kentucky Derby}} |画像 = [[File:I'll Have Another.jpg|250px]] |画像説明 = 2012年ケンタッキーダービー |開催国 = {{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国の競馬|アメリカ]] |主催者 = |競馬場 = [[チャーチルダウンズ競馬場]] |年次 = 2019 |格付け = {{G1}}([[1973年]] - ) |1着賞金 = 186万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]<ref name="equibase2019"/> |賞金総額 = 300万ドル<ref name="equibase2019"/> |距離 = 10[[ハロン (単位)|ハロン]] |条件 = [[サラブレッド]]3歳 |負担重量 = 126[[ポンド (質量)|ポンド]](約57.2[[キログラム|キロ]])<br />牝馬121ボンド(54.9キロ) |創設 = [[1875年]]5月17日 }} '''ケンタッキーダービー'''({{Lang|en|Kentucky Derby}})は、[[アメリカクラシック三冠]]の第1冠として、[[ケンタッキー州]][[ルイビル (ケンタッキー州)|ルイビル]]にある[[チャーチルダウンズ競馬場]]で行われる[[競馬の競走]]である。 [[アメリカ合衆国の競馬]]における3歳牡馬の最大目標でアメリカの数ある競走としても最高峰のイベントとされ、[[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ|ブリーダーズカップ]]などを凌ぐ[[視聴率]]や観客動員数を保っている。競馬界のみならずスポーツイベントとしてもアメリカ国内で非常に知名度が高いもので、競走時間から「スポーツの中で最も偉大な2分間」(The Most Exciting Two Minutes in Sports)などと形容される。また優勝馬には[[バラ]]の[[優勝レイ|レイ]]が掛けられることから、「ラン・フォー・ザ・ローゼス(Run for the roses)」の通称も持つ。 == 概要 == アメリカ合衆国の競馬における[[ダービー (競馬)|ダービー]]相当の競走で、例年5月最初の[[土曜日]]に行われる。開催の前日には、同じく3歳牝馬の最高峰競走に当たる[[ケンタッキーオークス]]が行われる。[[アメリカクラシック三冠]]の第1戦に当たり、同競走の2週間後に第2戦の[[プリークネスステークス]]が行われる。 馬場条件は[[ダート]]、距離は10[[ハロン (単位)|ハロン]](1[[マイル]]1/4・約2012[[メートル]])で行われる。出走条件は3歳限定だが、イギリスの[[ダービーステークス]]と違い[[騸馬|&#39480;馬]]の出走も可能である。出走可能頭数は20頭。 ケンタッキーダービーはアメリカ競馬、およびチャーチルダウンズ競馬場のある[[ルイビル (ケンタッキー州)|ルイビル]]における最大のイベントでありケンタッキーダービーの行われる時期には2週間をかけた「ケンタッキーダービー・フェスティバル」がルイビルで催されている。また観戦の際にも伝統があり、出走馬の本馬場入場の際には[[ミント・ジュレップ]](Mint Julep)を飲みルイビル大学のマーチングバンドの演奏のもと[[ケンタッキーの我が家]](My Old Kentucky Home)を観客全員で歌うのが習わしとなっている。 [[2006年]]以降は[[ヤムブランド]]がメインスポンサーとなっており、対外的な呼称を「Kentucky Derby Presented by Yum! 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DERBY」を創設。日本馬が国内のレースだけで出走権を得ることが可能になった<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201609/091304.html ケンタッキーダービー出走馬選定ポイントシリーズ「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」の創設について]日本中央競馬会、2016年9月13日閲覧</ref><ref name="JRttKD">{{Cite web|和書|url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/post_9803.html|title=【ケンタッキーダービー】~日本馬を対象としたポイントシリーズ創設|publisher=ラジオNIKKEI|date=2016-09-13|accessdate=2016-11-02}}</ref>。 === ロード・トゥ・ザ・ケンタッキーダービー対象競走 === ==== プレップシーズン ==== {| class="wikitable" !競走名!![[競馬の競走格付け|格]]!!施行競馬場!!施行距離!!ポイント(1着-2着-3着-4着-5着) |- |[[イロコイステークス]]||2歳{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[チャーチルダウンズ競馬場|チャーチルダウンズ]]||D8.5f||10-4-3-2-1 |- |[[シャンペンステークス (アメリカ合衆国)|シャンペンステークス]]||2歳{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|USA}}[[ベルモントパーク競馬場|ベルモントパーク]]||D8f||10-4-3-2-1 |- |[[アメリカンファラオステークス]]||2歳{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|USA}}[[サンタアニタパーク競馬場|サンタアニタパーク]]||D8.5f||10-4-3-2-1 |- |[[ブリーダーズフューチュリティステークス]]||2歳{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|USA}}[[キーンランド競馬場|キーンランド]]||D8.5f||10-4-3-2-1 |- |[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル]]||2歳{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|USA}}持ち回り||D8.5f||30-12-9-6-3 |- |[[ケンタッキージョッキークラブステークス]]||2歳{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[チャーチルダウンズ競馬場|チャーチルダウンズ]]||D8.5f||10-4-3-2-1 |- |[[レムゼンステークス]]||2歳{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[アケダクト競馬場|アケダクト]]||D9f||10-4-3-2-1 |- |[[ロスアラミトスフューチュリティ]]||2歳{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[ロスアラミトス競馬場|ロスアラミトス]]||D8.5f||10-4-3-2-1 |- |[[スプリングボードマイルステークス]]||2歳||{{Flagicon|USA}}[[レミントンパーク競馬場|レミントンパーク]]||AW8f||10-4-3-2-1 |- |[[ガンランナーステークス]]||2歳||{{Flagicon|USA}}[[フェアグラウンズ競馬場|フェアグラウンズ]]||D8.5f||10-4-3-2-1 |- |[[スマーティージョーンズステークス]]|| ||{{Flagicon|USA}}[[オークローンパーク競馬場|オークローンパーク]]||D8f||10-4-3-2-1 |- |[[ジェロームステークス]]|| ||{{Flagicon|USA}}[[アケダクト競馬場|アケダクト]]||D8f70y||10-4-3-2-1 |- |[[シャムステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[サンタアニタパーク競馬場|サンタアニタパーク]]||D8f||10-4-3-2-1 |- |[[ルコントステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[フェアグラウンズ競馬場|フェアグラウンズ]]||D8f||20-8-6-4-2 |- |[[サウスウェストステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[オークローンパーク競馬場|オークローンパーク]]||D8.5f||20-8-6-4-2 |- |[[ホーリーブルステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[ガルフストリームパーク競馬場|ガルフストリームパーク]]||D8f||20-8-6-4-2 |- |[[ロバート・B・ルイスステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[サンタアニタパーク競馬場|サンタアニタパーク]]||D8.5f||20-8-6-4-2 |- |[[ウィザーズステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[アケダクト競馬場|アケダクト]]||D8.5f||20-8-6-4-2 |- |[[サム・F・デイヴィスステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[タンパベイダウンズ競馬場|タンパベイダウンズ]]||D8.5f||20-8-6-4-2 |- |[[エルカミーノレアルダービー]]|| ||{{Flagicon|USA}}[[ゴールデンゲートフィールズ競馬場|ゴールデンゲートフィールズ]]||D9f||10-4-3-2-1 |- |[[ジョンバタグリアメモリアルステークス]] | |{{Flagicon|USA}}[[ターフウェイパーク競馬場|ターフウェイパーク]] |AW8.5f |20-8-6-4-2 |} ==== チャンピオンシップシリーズ ==== {| class="wikitable" !競走名!![[競馬の競走格付け|格]]!!施行競馬場!!施行距離!!ポイント(1着-2着-3着-4着-5着) |- |[[リズンスターステークス]]||{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[フェアグラウンズ競馬場|フェアグラウンズ]]||D8.5f||50-20-15-10-5 |- |[[レベルステークス]]||{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[オークローンパーク競馬場|オークローンパーク]]||D8.5f||50-20-15-10-5 |- |[[ファウンテンオブユースステークス]]||{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[ガルフストリームパーク競馬場|ガルフストリームパーク]]||D8.5f||50-20-15-10-5 |- |[[ゴーサムステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[アケダクト競馬場|アケダクト]]||D8.5f||50-20-15-10-5 |- |[[サンフェリペステークス]]||{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[サンタアニタパーク競馬場|サンタアニタパーク]]||D8.5f||50-20-15-10-5 |- |[[タンパベイダービー]]||{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[タンパベイタウンズ競馬場|タンパベイタウンズ]]||D8.5f||50-20-15-10-5 |- |[[UAEダービー]]||{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|UAE}}[[メイダン競馬場|メイダン]]||D1900m<ref>[[国際競馬統括機関連盟]] [http://www.horseracingintfed.com/default.asp?section=Racing&area=8&racepid=58987 2015 UAE Derby Sponsored By The Saeed & Mohammed Al Naboodah Group] 2015年2月8日閲覧。</ref>||100-40-30-20-10 |- |[[ルイジアナダービー]]||{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|USA}}[[フェアグラウンズ競馬場|フェアグラウンズ]]||D9f||100-40-30-20-10 |- |[[ジェフルビーステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[ターフウェイパーク競馬場|ターフウェイパーク]]||AW9f||100-40-30-20-10 |- |[[サンランドダービー]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[サンランドパーク競馬場|サンランドパーク]]||D9f||50-20-15-10-5 |- |[[フロリダダービー]]||{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|USA}}[[ガルフストリームパーク競馬場|ガルフストリームパーク]]||D9f||100-40-30-20-10 |- |[[アーカンソーダービー]]||{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|USA}}[[オークローンパーク競馬場|オークローンパーク]]||D9f||100-40-30-20-10 |- |[[ウッドメモリアルステークス]]||{{Color|blue|G2}}<ref>[http://www.bloodhorse.com/horse-racing/articles/218110/blue-grass-wood-memorial-downgraded Blue Grass, Wood Memorial Downgraded]bloodhorse.com、2017年2月20日閲覧</ref>||{{Flagicon|USA}}[[アケダクト競馬場|アケダクト]]||D9f||100-40-30-20-10 |- |[[ブルーグラスステークス]]||{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|USA}}[[キーンランド競馬場|キーンランド]]||D9f<ref>[http://www.racingpost.com/horses/result_home.sd?race_id=623207&r_date=2015-04-04&popup=yes#results_top_tabs=re_&results_bottom_tabs=ANALYSIS 2015年ブルーグラスステークス結果] - racingpost 2015年4月5日閲覧</ref>||100-40-30-20-10 |- |[[サンタアニタダービー]]||{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|USA}}[[サンタアニタパーク競馬場|サンタアニタパーク]]||D9f||100-40-30-20-10 |- |[[レキシントンステークス]]||{{Color|green|G3}}||{{Flagicon|USA}}[[キーンランド競馬場|キーンランド]]||D8.5f<ref>[http://www.racingpost.com/horses/result_home.sd?race_id=624011&r_date=2015-04-11&popup=yes#results_top_tabs=re_&results_bottom_tabs=ANALYSIS 2015年レキシントンステークス結果] - racingpost 2015年4月13日閲覧</ref>||20-8-6-4-2 |} ==== 日本(JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY) ==== 出典:<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201709/090105.html 「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」平成30年度シリーズ構成競走について]日本中央競馬会、2017年9月2日閲覧</ref><ref>[http://www.jra.go.jp/news/201809/091304.html 2018-19年度「JAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBY」について]日本中央競馬会、2018年9月13日閲覧</ref> {| class="wikitable" !競走名!![[競馬の競走格付け|格]]!!施行競馬場!!施行距離!!ポイント(1着-2着-3着-4着-5着) |- |カトレアステークス||OP||{{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場|東京]]||D1600m||10-4-3-2-1 |- |[[全日本2歳優駿]]||{{Color|red|JpnI}}||{{Flagicon|JPN}}[[川崎競馬場|川崎]]||D1600m||20-8-6-4-2 |- |ヒヤシンスステークス||L||{{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場|東京]]||D1600m||30-12-9-6-3 |- |伏竜ステークス||OP||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場|中山]]||D1800m||40-16-12-8-4 |} 施行初年の2016年は、[[ラニ (競走馬)|ラニ]]が出走したカトレア賞・2017年(明け3歳時の)ヒヤシンスステークスの2レースを対象として開催。2017年から全日本2歳優駿、2018年から2019年(明け3歳時の)伏竜ステークスが追加され、現在の4競走で争われる形態となった。なお、カトレア賞は2020年よりオープン特別に昇格しカトレアステークスとして施行される。 ケンタッキーダービーの施行が延期された2020年に限り、[[ユニコーンステークス]](GIII・東京D1600m)と[[ジャパンダートダービー]](JpnI・大井D2000m)の2レースがJAPAN ROAD TO THE KENTUCKY DERBYシリーズ構成競走に指定されている。いずれもポイントは40-16-8-4で割り振られる。 ==== ヨーロッパ(European Road to the Kentucky Derby) ==== 出典:<ref>[https://www.kentuckyderby.com/uploads/wysiwyg/assets/uploads/20170831_Europe_RTKD_News_Release.pdf NEW ‘EUROPEAN ROAD TO KENTUCKY DERBY’ WILL GIVE OVERSEAS HORSES PATH TO AMERICA’S GREATEST RACE]2017年9月2日閲覧</ref> {| class="wikitable" !競走名!![[競馬の競走格付け|格]]!!施行競馬場!!施行距離!!ポイント(1着-2着-3着-4着-5着) |- |ベレスフォードステークス||2歳{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|IRL}}[[カラ競馬場|カラ]]||芝8f||10-4-3-2-1 |- |ロイヤルロッジステークス||2歳{{Color|blue|G2}}||{{Flagicon|UK}}[[ニューマーケット競馬場|ニューマーケット]]||芝8f||10-4-3-2-1 |- |[[ジャンリュックラガルデール賞]]||2歳{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|FRA}}[[パリロンシャン競馬場|パリロンシャン]]||芝1400m||10-4-3-2-1 |- |[[フューチュリティトロフィー]]||2歳{{Color|red|G1}}||{{Flagicon|UK}}[[ドンカスター競馬場|ドンカスター]]||芝8f||10-4-3-2-1 |- |ロードトゥザダービーコンディションステークス|| ||{{Flagicon|UK}}[[ケンプトンパーク競馬場|ケンプトンパーク]]||AW8f||20-8-6-4-2 |- |パットンステークス||L||{{Flagicon|IRL}}[[ダンダーク競馬場|ダンダーク]]||AW8f||20-8-6-4-2 |- |カーディナルコンディションステークス|| ||{{Flagicon|UK}}[[ニューカッスル競馬場|ニューカッスル]]||AW8f||30-12-9-6-3 |} * Dは[[ダート]]、AWは[[オールウェザー (競馬)|オールウェザー]]の略。1f([[ハロン (単位)|ハロン]])は約201[[メートル]]。 == 歴史 == ケンタッキーダービーの創設は[[1875年]]で、当時のチャーチルダウンズ競馬場運営者のメリウェザー・ルイス・クラークによってイギリスの[[ダービーステークス]]やフランスの[[パリ大賞典]]を模範として創設された。第1回は15頭立てで行われ1万人の観客が駆け付けたという。創設当時は本場のダービーステークスと同じく1マイル1/2(約2414メートル)で行われており、後の[[1896年]]に現在と同じ1マイル1/4に改定された。 アメリカ合衆国では戦争や賭博に対する禁止措置などから開催中止に追い込まれた競走がよく存在するが、ケンタッキーダービーは現在まで一度も中断されたことのない数少ない競走である。また、[[分割競走]]なども行われたことがない。 創設当時から大競走として名のあるものであったわけではなく、大馬主の[[サミュエル・ドイル・リドル]]や[[ジェームズ・ロバート・キーン]]などはケンタッキー州までの輸送を嫌って積極的に出走させなかったくらいであった。しかし20世紀初頭からの関係者の尽力により[[1930年]]当時にはすでに大きな権威とされるようになり、[[ギャラントフォックス]]に対する「三冠」の称号とともにケンタッキーダービーの権威は高く定義づけられるものとなった。リドルもその後[[ウォーアドミラル]]を出走させている。 以下は同競走における主な年表である。 * [[1875年]] - 創設。 * [[1891年]] - [[アイザック・マーフィー]]が騎手として史上初の連覇。 * [[1896年]] - 施行距離が1マイル1/4に変更。 * [[1915年]] - 牝馬の[[リグレット (競走馬)|リグレット]]が優勝。 * [[1933年]] ** 騎手同士が掴みあいをしながらゴールする珍事が起きる(ファイティング・フィニッシュ)。 ** ハーバート・J・トンプソンが調教師として史上初の連覇。 **未勝利馬の[[ブローカーズティップ]]が優勝。 * [[1952年]] - 初めてテレビによる全国放送が行われる。 * [[1968年]] - 1位入線をした[[ダンサーズイメージ]](Dancer's Image)が競走後の尿検査で当時の禁止薬物が検出され失格となり、2位入線をした[[フォワードパス (競走馬)|フォワードパス]](Forward Pass)が繰り上がり1着となる。 * [[1971年]] - [[ベネズエラ]]調教馬の[[キャノネロ]]が優勝。 * [[1973年]] ** [[セクレタリアト]]が1分59秒2/5のレースレコードを樹立。 ** [[競馬の競走格付け|グレード制]]が導入され、G1に設定される。 * [[1995年]] - 日本調教馬の[[スキーキャプテン]]が参戦、14着という結果だった。 * [[2000年]] - フサイチの冠名で有名な[[関口房朗]]の所有馬・[[フサイチペガサス]](Fusaichi Pegasus)が1番人気で勝利した。 * [[2007年]] ** 前年の[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル]]馬として初めて[[ストリートセンス]](Street Sense)が優勝した。前年の2歳チャンピオンが優勝したのは[[1979年]]の[[スペクタキュラービッド]](Spectacular Bid)以来28年ぶり。 ** イギリス女王・[[エリザベス2世]]が訪問、観戦する。 * [[2016年]] - [[ラニ (競走馬)|ラニ]]が21年ぶりに日本調教馬として参戦し、9着だった。 * [[2019年]] - 1位入線をした[[マキシマムセキュリティ]](Maximum Security)が他馬の進路を妨害したとして17着に降着。2位入線の[[カントリーハウス (競走馬)|カントリーハウス]](Country House)が繰り上がり優勝<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2019/05/06/kiji/20190505s00004050505000c.html 【米ケンタッキーダービー】4戦無敗マキシマム進路妨害…1位入線も17着に]スポーツニッポン、2019年5月6日閲覧</ref>。また、[[マスターフェンサー]]が通算3頭目の日本調教馬、史上初の日本産馬として出走し、6着だった。 * [[2020年]] - [[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の感染拡大の影響で、5月2日の開催から9月5日に延期された。また、クラシック三冠競走の順序も入れ替わったため当年のみケンタッキーダービーが三冠競走の最終レースとなった。観客も最大23000人までを上限として入場を認める予定であったが、最終的に無観客での施行となった<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=175072 【海外競馬】ケンタッキーダービーは観客を2万3000人以内に制限 新型コロナウイルス感染防止のため](netkeiba.com)</ref><ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=175455 【海外競馬】ケンタッキーダービーは無観客競馬に変更 新型コロナウイルス感染防止のため]</ref>。 * [[2021年]] - 1位入線をした[[メディーナスピリット]](Medina Spirit)から競走後の尿検査により禁止薬物が検出・失格となり、2位入線をした[[マンダルーン]]が繰り上がり1着となる。 == 歴代優勝馬 == {| class="wikitable" !回数!!施行日!!優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||style="white-space:nowrap"|[[1875年]][[5月17日]]||[[アリスティデス (競走馬)|Aristides]]||牡3||style="white-space:nowrap"|2:37 3/4||O.Lewis||[[アンゼル・ウィリアムソン|A.Williamson]]||H.McGrath |- |style="text-align:center"|第2回||[[1876年]][[5月15日]]||Vagrant||&#39480;3||2:38 1/4||B.Swim||J.Williams||W.Astor |- |style="text-align:center"|第3回||[[1877年]][[5月22日]]||Baden Baden||牡3||2:38 0/4||B.Wallker||[[エドワード・ダドリー・ブラウン|E.Brown]]||D.Swigert |- |style="text-align:center"|第4回||[[1878年]][[5月21日]]||Day Star||牡3||2:37 1/4||J.Carter||L.Paul||T.Nichols |- |style="text-align:center"|第5回||[[1879年]][[5月20日]]||Lord Murphy||牡3||2:37 0/4||C.Shauer||G.Rice||G.Darden & Co |- |style="text-align:center"|第6回||[[1880年]][[5月18日]]||Fonso||牡3||2:37 1/2||G.Lewis||T.Hutsell||J.Shawhan |- |style="text-align:center"|第7回||[[1881年]]5月17日||[[ヒンドゥー (競走馬)|Hindoo]]||牡3||2:40 0/4||J.McLaughlin||[[ジェームズ・ゴードン・ロウ・シニア|J.Rowe]]||Dwyer Brothers |- |style="text-align:center"|第8回||[[1882年]][[5月16日]]||[[アポロ (競走馬)|Apollo]]||&#39480;3||2:40 0/4||B.Hurd||G.Morris||Morris & Patton |- |style="text-align:center"|第9回||[[1883年]][[5月23日]]||Leonatus||牡3||2:43 0/4||B.Donohue||J.McGinty||Chinn & Morgan |- |style="text-align:center"|第10回||[[1884年]]5月16日||Buchanan||牡3||2:40 1/4||[[アイザック・マーフィー|I.Murphy]]||W.Bird||W.Cottrill |- |style="text-align:center"|第11回||[[1885年]][[5月14日]]||Joe Cotton||牡3||2:37 1/4||B.Henderson||A.Perry||J.Williams |- |style="text-align:center"|第12回||[[1886年]]5月14日||Ben Ali||牡3||2:36 1/2||P.Duffy||J.Murphy||J.Ali Haggin |- |style="text-align:center"|第13回||[[1887年]][[5月11日]]||Montrose||牡3||2:39 1/4||I.Lewis||J.McGinty||Labold Brothers |- |style="text-align:center"|第14回||[[1888年]]5月14日||Macbeth||&#39480;3||2:38 0/4||G.Covington||J.Campbell||Chicago Stable |- |style="text-align:center"|第15回||[[1889年]][[5月9日]]||Spokane||牡3||2:34 1/2||T.Kiley||J.Rodegap||N.Armstrong |- |style="text-align:center"|第16回||[[1890年]]5月14日||Riley||牡3||2:45 0/4||I.Murphy||E.Corrigan||E.Corrigan |- |style="text-align:center"|第17回||[[1891年]][[5月13日]]||Kingman||牡3||2:52 1/4||I.Murphy||D.Allen||Jacobin Stable |- |style="text-align:center"|第18回||[[1892年]]5月11日||Azra||牡3||2:41 1/2||L.Clayton||J.Morris||Bashford Manor Stable |- |style="text-align:center"|第19回||[[1893年]][[5月10日]]||Lookout||牡3||2:39 1/4||E.Kunze||W.McDaniel||Cushing & Orth |- |style="text-align:center"|第20回||[[1894年]]5月15日||Chant||牡3||2:41 0/4||F.Goodale||E.Leigh||Leigh & Rose |- |style="text-align:center"|第21回||[[1895年]][[5月6日]]||Halma||牡3||2:37 1/2||S.Perkins||B.McClelland||M.Dwyer |- |style="text-align:center"|第22回||[[1896年]]5月6日||[[ベンブラッシュ|Ben Brush]]||牡3||2:07 3/4||W.Simms||H.Campbell|| |- |style="text-align:center"|第23回||[[1897年]][[5月12日]]||Typhoon||牡3||2:12 1/2||B.Garner||J.Cahn||J.Cahn |- |style="text-align:center"|第24回||[[1898年]]5月4日||[[プローディト|Plaudit]]||牡3||2:09 0/4||W.Simms||[[ジョン・エドワード・マッデン|J.Madden]]||J.Madden |- |style="text-align:center"|第25回||[[1899年]]5月4日||Manuel||牡3||2:12 0/4||F.Taral||R.Walden||A. & D.Morris |- |style="text-align:center"|第26回||[[1900年]][[5月3日]]||Lieut. Gibson||牡3||2:06 1/4||J.Boland||C.Hughes||C.Smith |- |style="text-align:center"|第27回||[[1901年]][[4月29日]]||His Eminence||牡3||2:07 3/4||[[ジミー・ウィンクフィールド|J.Winkfirld]]||F.van Meter||F.van Meter |- |style="text-align:center"|第28回||[[1902年]]5月3日||Alan-a-Dale||牡3||2:08 3/4||J.Winkfield||T.McDowell||T.McDowell |- |style="text-align:center"|第29回||[[1903年]][[5月2日]]||Judge Himes||牡3||2:09 0/4||H.Booker||J.Mayberry||C.Ellison |- |style="text-align:center"|第30回||[[1904年]]5月2日||Elwood||牡3||2:08 1/2||S.Prior||C.Durnell||Mrs. C.Durnell |- |style="text-align:center"|第31回||[[1905年]]5月10日||Agile||牡3||2:10 3/4||J.Martin||R.Tucker||S.Brown |- |style="text-align:center"|第32回||[[1906年]]5月2日||Sir Huon||牡3||2:08 4/5||R.Troxler||P.Coyne||Bashford Manor Stable |- |style="text-align:center"|第33回||[[1907年]]5月6日||Pink Star||牡3||2:12 3/5||A.Minder||W.Fizer||J.Woodford |- |style="text-align:center"|第34回||[[1908年]][[5月5日]]||Stone Street||牡3||2:15 1/5||A.Pickens||J.Hall||C. & J.Hamilton |- |style="text-align:center"|第35回||[[1909年]]5月3日||Wintergreen||牡3||2:08 1/5||V.Powers||C.Mack||J.Respess |- |style="text-align:center"|第36回||[[1910年]]5月10日||Donau||牡3||2:06 2/5||F.Herbert||G.Ham||W.Gerst |- |style="text-align:center"|第37回||[[1911年]]5月13日||Meridian||牡3||2:05 0/5||G.Archibald||A.Ewing||R.Carman |- |style="text-align:center"|第38回||[[1912年]]5月11日||Worth||牡3||2:09 2/5||C.Shilling||F.Taylor||H.Hallenbeck |- |style="text-align:center"|第39回||[[1913年]]5月10日||Donerail||牡3||2:04 4/5||R.Goose||T.Hayes||T.Hayes |- |style="text-align:center"|第40回||[[1914年]]5月9日||[[オールドローズバド|Old Rosebud]]||牡3||2:03 2/5||J.McCabe||F.Weir||H.Applegate |- |style="text-align:center"|第41回||[[1915年]][[5月8日]]||[[リグレット (競走馬)|Regret]]||牝3||2:05 2/5||J.Motter||J.Rowe||[[ハリー・ペイン・ホイットニー|H.Whitney]] |- |style="text-align:center"|第42回||[[1916年]]5月13日||George Smith||牡3||2:04 0/5||J.Loftus||H.Hughes||J.Sanford |- |style="text-align:center"|第43回||[[1917年]]5月12日||[[ウマルハイヤーム (競走馬)|Omar Khayyam]]||牡3||2:04 3/5||C.Borel||C.Patterson||Billings & Johnson |- |style="text-align:center"|第44回||[[1918年]]5月11日||[[エクスターミネーター|Exterminator]]||&#39480;3||2:10 4/5||W.Knapp||H.McDaniel||W.Kilmer |- |style="text-align:center"|第45回||[[1919年]]5月10日||[[サーバートン|Sir Barton]]||牡3||2:09 4/5||J.Loftus||H.Bedwell||J.Ross |- |style="text-align:center"|第46回||[[1920年]]5月8日||Paul Jones||&#39480;3||2:09 0/5||T.Rice||B.Garth||R.Parr |- |style="text-align:center"|第47回||[[1921年]][[5月7日]]||Behave Yourself||牡3||2:04 1/5||C.Thompson||D.Thompson||[[エドワード・ライリー・ブラッドリー|E.Bradley]] |- |style="text-align:center"|第48回||[[1922年]]5月13日||Morvich||牡3||2:04 3/5||A.Johnson||F.Burlew||B.Block |- |style="text-align:center"|第49回||[[1923年]][[5月19日]]||[[ゼヴ|Zev]]||牡3||2:05 2/5||E.Sande||D.Leary||Rancocas Stable |- |style="text-align:center"|第50回||[[1924年]]5月17日||Black Gold||牡3||2:05 1/5||J.Mooney||H.Webb||Mrs. R.Hoots |- |style="text-align:center"|第51回||[[1925年]]5月16日||Flying Ebony||牡3||2:07 3/5||E.Sande||W.Duke||C.Cochran |- |style="text-align:center"|第52回||[[1926年]]5月15日||Bubbling Over||牡3||2:03 4/5||A.Johnson||D.Thompson||E.Bradley |- |style="text-align:center"|第53回||[[1927年]]5月14日||Whiskery||牡3||2:06 0/5||L.McAtee||F.Hopkins||H.Whitney |- |style="text-align:center"|第54回||[[1928年]]5月19日||[[リーカウント|Reigh Count]]||牡3||2:10 2/5||C.Lang||B.Michell||B.Michell |- |style="text-align:center"|第55回||[[1929年]]5月18日||Clyde Van Dusen||&#39480;3||2:10 4/5||L.McAtee||C.V.Dusen||H.Gardner |- |style="text-align:center"|第56回||[[1930年]]5月17日||[[ギャラントフォックス|Gallant Fox]]||牡3||2:07 3/5||E.Sande||[[ジェームズ・エドワード・フィッツシモンズ|J.Fitzsimmons]]||W.Woodward |- |style="text-align:center"|第57回||[[1931年]]5月16日||[[トゥエンティグランド|Twenty Grand]]||牡3||2:01 4/5||[[チャールズ・カートシンガー|C.Kurtsinger]]||J.Rowe Jr.||Greentree Stable |- |style="text-align:center"|第58回||[[1932年]]5月7日||Burgoo King||牡3||2:05 1/5||E.James||D.Thompson||E.Bradley |- |style="text-align:center"|第59回||[[1933年]]5月6日||[[ブローカーズティップ|Brokers Tip]]||牡3||2:06 4/5||D.Meade||D.Thompson||E.Bradley |- |style="text-align:center"|第60回||[[1934年]]5月5日||Cavalcade||牡3||2:04 0/5||M.Garner||B.Smith||Brookmeade Farm |- |style="text-align:center"|第61回||[[1935年]][[5月4日]]||[[オマハ (競走馬)|Omaha]]||牡3|||2:05 0/5||W.Saunders||J.Fitzsimmons||Belair Stud |- |style="text-align:center"|第62回||[[1936年]]5月2日||Bold Venture||牡3||2:03 3/5||I.Hanford||M.Hirsch||M.Schwartz |- |style="text-align:center"|第63回||[[1937年]]5月8日||[[ウォーアドミラル|War Admiral]]||牡3||2:03 1/5||C.Kurtsinger||G.Conway||Glen Riddle Farm |- |style="text-align:center"|第64回||[[1938年]]5月7日||Lawrin||牡3||2:04 4/5||[[エディ・アーキャロ|E.Arcaro]]||B.Jones||Woolford Farm |- |style="text-align:center"|第65回||[[1939年]]5月6日||[[ジョンズタウン (競走馬)|Johnstown]]||牡3||2:03 2/5||J.Stout||J.Fitzsimmons||Belair Stud |- |style="text-align:center"|第66回||[[1940年]]5月4日||Gallahadion||牡3||2:05 0/5||C.Bierman||R.Waldron||Milky Way Farms |- |style="text-align:center"|第67回||[[1941年]]5月3日||[[ワーラウェイ|Whirlaway]]||牡3||2:01 2/5||E.Arcaro||B.Jones||[[カルメットファーム|Calumet Farm]] |- |style="text-align:center"|第68回||[[1942年]]5月2日||[[シャットアウト (競走馬)|Shut Out]]||牡3||2:04 2/5||W.Wright||J.Gaver||Greentree Stable |- |style="text-align:center"|第69回||[[1943年]][[5月1日]]||[[カウントフリート|Count Fleet]]||牡3||2:04 0/5||[[ジョニー・ロングデン|J.Longden]]||D.Cameron||Mrs. J.Hertz |- |style="text-align:center"|第70回||[[1944年]]5月6日||[[ペンシヴ|Pensive]]||牡3||2:04 1/5||C.McCreary||B.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第71回||[[1945年]]6月9日||[[フープジュニア|Hoop Jr.]]||牡3||2:07 0/5||E.Arcaro||I.Parke||F.W.Hooper |- |style="text-align:center"|第72回||[[1946年]]5月4日||[[アソールト|Assault]]||牡3||2:06 3/5||W.Mehrtens||M.Hirsch||K.Ranch |- |style="text-align:center"|第73回||[[1947年]]5月3日||[[ジェットパイロット|Jet Pilot]]||牡3||2:06 4/5||E.Guerin||[[ロバート・トーマス・スミス|T.Smith]]||Maine Chance Farm |- |style="text-align:center"|第74回||[[1948年]]5月1日||[[サイテーション (競走馬)|Citation]]||牡3||2:05 2/5||E.Arcaro||B.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第75回||[[1949年]]5月7日||[[ポンダー|Ponder]]||牡3||2:04 1/5||S.Brooks||B.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第76回||[[1950年]]5月6日||[[ミドルグラウンド|Middleground]]||牡3||2:01 3/5||W.Boland||M.Hirsch||K.Ranch |- |style="text-align:center"|第77回||[[1951年]]5月5日||[[カウントターフ|Count Turf]]||牡3||2:02 3/5||C.McCreary||S.Rutchick||J.Amiel |- |style="text-align:center"|第78回||[[1952年]]5月3日||[[ヒルゲイル|Hill Gail]]||牡3||2:01 3/5||E.Arcaro||B.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第79回||[[1953年]]5月2日||[[ダークスター (競走馬)|Dark Star]]||牡3||2:02 0/5||H.Moreno||E.Hayward||Cain Hoy Stable |- |style="text-align:center"|第80回||[[1954年]]5月1日||[[ディターミン|Determine]]||牡3||2:03 0/5||R.York||W.Molter||A.Crevolin |- |style="text-align:center"|第81回||[[1955年]]5月7日||[[スワップス|Swaps]]||牡3||2:01 4/5||[[ウィリー・シューメーカー|W.Shoemaker]]||M.Tenney||R.C.Ellsworth |- |style="text-align:center"|第82回||[[1956年]]5月5日||[[ニードルズ|Needles]]||牡3||2:03 2/5||D.Erb||H.Fontaine||H.Fontaine |- |style="text-align:center"|第83回||[[1957年]]5月4日||[[アイアンリージ|Iron Liege]]||牡3||2:02 1/5||[[ビル・ハータック|W.Hartack]]||J.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第84回||[[1958年]]5月3日||[[ティムタム (競走馬)|Tim Tam]]||牡3||2:05 0/5||I.Valenzuela||J.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第85回||[[1959年]]5月2日||[[トミーリー|Tomy Lee]]||牡3||2:02 1/5||W.Shoemaker||F.Childs||Mr. & Mrs. F.Turner Jr. |- |style="text-align:center"|第86回||[[1960年]]5月7日||[[ヴェネティアンウェイ|Venetian Way]]||牡3||2:02 2/5||W.Hartack||V.Sovinski||Sunny Blue Farm |- |style="text-align:center"|第87回||[[1961年]]5月6日||[[キャリーバック|Carry Back]]||牡3||2:04 0/5||[[ジョニー・セラーズ|J.Sellers]]||J.Price||Mrs. K.Price |- |style="text-align:center"|第88回||[[1962年]]5月5日||[[ディサイデッドリー|Decidedly]]||牡3||2:00 2/5||W.Hartack||[[ホレイショ・ルロ|H.Luro]]||E.Ranch |- |style="text-align:center"|第89回||[[1963年]]5月4日||[[シャトーゲイ (競走馬)|Chateaugay]]||牡3||2:01 4/5||[[ブラウリオ・バエザ|B.Baeza]]||J.Conway||[[ダービーダンファーム|Darby Dan Farm]] |- |style="text-align:center"|第90回||[[1964年]]5月2日||[[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]||牡3||2:00 0/5||W.Hartack||H.Luro||[[エドワード・プランケット・テイラー|Windfields Farm]] |- |style="text-align:center"|第91回||[[1965年]]5月1日||[[ラッキーデボネア|Lucky Debonair]]||牡3||2:01 1/5||[[ウィリー・シューメーカー|W.Shoemaker]]||F.Catrone||Mrs. A.Rice |- |style="text-align:center"|第92回||[[1966年]]5月7日||[[カウアイキング|Kauai King]]||牡3||2:02 0/5||D.Brumfield||H.Forrest||Ford Stable |- |style="text-align:center"|第93回||[[1967年]]5月6日||[[プラウドクラリオン|Proud Clarion]]||牡3||2:00 3/5||B.Ussery||L.Gentry||Darby Dan Farm |- |style="text-align:center"|第94回||[[1968年]]5月4日||[[フォワードパス (競走馬)|Forward Pass]]||牡3||2:02 1/5||I.Valenzuela||H.Forrest||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第95回||[[1969年]]5月3日||[[マジェスティックプリンス|Majestic Prince]]||牡3||2:01 4/5||W.Hartack||[[ジョニー・ロングデン|J.Longden]]||F.McMahon |- |style="text-align:center"|第96回||[[1970年]]5月2日||[[ダストコマンダー|Dust Commander]]||牡3||2:03 2/5||M.Manganello||D.Combs||R.Lehmann |- |style="text-align:center"|第97回||[[1971年]]5月1日||[[キャノネロ|Canonero]]||牡3||2:03 1/5||G.Avila||J.Arias||E.Caibett |- |style="text-align:center"|第98回||[[1972年]]5月6日||[[リヴァリッジ|Riva Ridge]]||牡3||2:01 4/5||[[ロン・ターコット|R.Turcotte]]||L.Laurin||[[ヘレン・チェナリー|Meadow Stable]] |- |style="text-align:center"|第99回||[[1973年]]5月5日||[[セクレタリアト|Secretariat]]||牡3||<span style="color:red"> 1:59 2/5</span>|||R.Turcotte||L.Laurin||Meadow Stable |- |style="text-align:center; white-space:nowrap"|第100回||[[1974年]]5月4日||[[キャノネード|Cannonade]]||牡3||2:04 0/5||[[アンヘル・コルデロ・ジュニア|A.Cordero Jr.]]||W.Stephens||Hudson County |- |style="text-align:center"|第101回||[[1975年]]5月3日||[[フーリッシュプレジャー|Foolish Pleasure]]||牡3||2:02 0/5||[[ファシント・ヴァスケス|J.Vasquez]]||L.Jolley||J.Greer |- |style="text-align:center"|第102回||[[1976年]]5月1日||[[ボールドフォーブス|Bold Forbes]]||牡3||2:01 3/5||A.Cordero Jr.||L.Barrera||E.R.Tizol |- |style="text-align:center"|第103回||[[1977年]]5月7日||[[シアトルスルー|Seattle Slew]]||牡3||2:02 1/5||[[ジャン・クリュゲ|J.Cruguet]]||B.Turner||K.Taylor |- |style="text-align:center"|第104回||[[1978年]]5月6日||[[アファームド|Affirmed]]||牡3||2:01 1/5||[[スティーブ・コーゼン|S.Cauthen]]||L.Barrera||Harbor View Farm |- |style="text-align:center"|第105回||[[1979年]]5月5日||[[スペクタキュラービッド|Spectacular Bid]]||牡3||2:02 2/5||R.Franklin||B.Delp||Hawksworth Farm |- |style="text-align:center"|第106回||[[1980年]]5月3日||[[ジェニュインリスク|Genuine Risk]]||牝3||2:02 0/5||J.Vasquez||L.Jolley||Mrs B.Firestone |- |style="text-align:center"|第107回||[[1981年]]5月2日||[[プレザントコロニー|Pleasant Colony]]||牡3||2:02 0/5||[[ホルヘ・ヴェラスケス|J.Velasquez]]||J.Campo||Buckland Farm |- |style="text-align:center"|第108回||[[1982年]]5月1日||[[ガトデルソル|Gato Del Sol]]||牡3||2:02 2/5||style="white-space:nowrap"|[[エディー・デラフーセイ|E.Delahousasye]]||E.Gregson||Hancock & Peters |- |style="text-align:center"|第109回||[[1983年]]5月7日||[[サニーズヘイロー|Sunny's Halo]]||牡3||2:02 1/5||E.Delahoussaye||C.Cross Jr.||D.Foster |- |style="text-align:center"|第110回||[[1984年]]5月5日||[[スウェイル|Swale]]||牡3||2:02 2/5||[[ラフィット・ピンカイ・ジュニア|L.Pincay Jr.]]||W.Stephens||Claiborne Farm |- |style="text-align:center"|第111回||[[1985年]]5月4日||[[スペンドアバック|Spend a Buck]]||牡3||2:00 1/5||A.Cordero Jr.||C.Gambolati||Hunter Farm |- |style="text-align:center"|第112回||[[1986年]]5月3日||[[ファーディナンド (競走馬)|Ferdinand]]||牡3||2:02 4/5||W.Shoemaker||[[チャーリー・ウィッティンガム|C.Whittingham]]||Mrs. E.Keck |- |style="text-align:center"|第113回||[[1987年]]5月2日||[[アリシーバ|Alysheba]]||牡3||2:03 2/5||[[クリス・マッキャロン|C.McCarron]]||J.van Berg||D. & P.Scharbauer |- |style="text-align:center"|第114回||[[1988年]]5月7日||[[ウイニングカラーズ|Winning Colors]]||牝3||2:02 1/5||[[ゲイリー・スティーヴンス (競馬)|G.Stevens]]||[[ウェイン・ルーカス|D.Lukas]]||E.Klein |- |style="text-align:center"|第115回||[[1989年]]5月6日||[[サンデーサイレンス|Sunday Silence]]||牡3||2:05 0/5||[[パット・ヴァレンズエラ|P.Valenzuela]]||C.Whittingham||Gaillard, Hancock, Whittingham |- |style="text-align:center"|第116回||[[1990年]]5月5日||[[アンブライドルド|Unbridled]]||牡3||2:02 0/5||C.Perret||C.Nafzger||Genter Stable Inc |- |style="text-align:center"|第117回||[[1991年]]5月4日||[[ストライクザゴールド|Strike the Gold]]||牡3||2:03 0/5||[[クリス・アントレー|C.Antley]]||[[ニコラス・ジトー|N.Zito]]||Brophy, Condren, Cornacchia |- |style="text-align:center"|第118回||[[1992年]]5月2日||[[リルイーティー|Lil E.Tee]]||牡3||2:03 0/5||[[パット・デイ|P.Day]]||L.Whiting||W.Partee |- |style="text-align:center"|第119回||[[1993年]]5月1日||[[シーヒーロー|Sea Hero]]||牡3||2:02.42||[[ジェリー・ベイリー|J.Bailey]]||M.Miller||Rokeby Stables |- |style="text-align:center"|第120回||[[1994年]]5月7日||[[ゴーフォージン|Gor for Gin]]||牡3||2:03.72||C.McCarron||N.Zito||Cornacchia & Condren |- |style="text-align:center"|第121回||[[1995年]]5月6日||[[サンダーガルチ|Thunder Gulch]]||牡3||2:01.27||G.Stevens||D.Lukas||[[マイケル・テイバー|M.Tabor]] |- |style="text-align:center"|第122回||[[1996年]]5月4日||[[グラインドストーン|Grindstone]]||牡3||2:01.06||J.Bailey||D.Lukas||Overbrook Farm |- |style="text-align:center"|第123回||[[1997年]]5月3日||[[シルバーチャーム|Silver Charm]]||牡3||2:02.44||G.Stevens||[[ボブ・バファート|B.Baffert]]||R. & B.Lewis |- |style="text-align:center"|第124回||[[1998年]]5月2日||[[リアルクワイエット|Real Quiet]]||牡3||2:02.38||[[ケント・デザーモ|K.Desormeaux]]||B.Baffert||M.Pegram |- |style="text-align:center"|第125回||[[1999年]]5月1日||[[カリズマティック|Charismatic]]||牡3||2:03.29||C.Antley||D.Lukas||R. & B.Lewis |- |style="text-align:center"|第126回||[[2000年]]5月6日||style="white-space:nowrap"|[[フサイチペガサス|Fusaichi Pegasus]]||牡3||2:01.12||K.Desormeaux||[[ニール・ドライスデール|N.Drysdale]]||[[関口房朗]] |- |style="text-align:center"|第127回||[[2001年]]5月5日||[[モナーコス|Monarchos]]||牡3||1:59.97||[[ホルヘ・チャヴェス|J.Chavez]]||J.Ward||I.C.Oxley |- |style="text-align:center"|第128回||[[2002年]]5月4日||[[ウォーエンブレム|War Emblem]]||牡3||2:01.13||[[ビクター・エスピノーザ|V.Espinoza]]||B.Baffert||The Throughbred Corporation |- |style="text-align:center"|第129回||[[2003年]]5月3日||[[ファニーサイド|Funny Cide]]||&#39480;3||2:01.19||[[ホセ・サントス|J.Santos]]||B.Tagg||Sackatoga Stable |- |style="text-align:center"|第130回||[[2004年]]5月1日||[[スマーティージョーンズ|Smarty Jones]]||牡3||2:04.06||S.Elliott||J.Servis||Someday Farm |- |style="text-align:center"|第131回||[[2005年]]5月7日||[[ジャコモ (競走馬)|Giacomo]]||牡3||2:02.75||[[マイク・スミス|M.Smith]]||J.Shirreffs||Closing Argument |- |style="text-align:center"|第132回||[[2006年]]5月6日||[[バーバロ|Barbaro]]||牡3||2:01.36||[[エドガー・プラード|E.Prado]]||M.Matz||Lael Stables |- |style="text-align:center"|第133回||[[2007年]]5月5日||[[ストリートセンス|Street Sense]]||牡3||2:02.17||[[カルヴィン・ボレル|C.Borel]]||C.Nafzger||James B Tafel LLC |- |style="text-align:center"|第134回||[[2008年]]5月3日||[[ビッグブラウン|Big Brown]]||牡3||2:01.82||K.Desormeaux||R.Dutrow||IEAH Stables & P.Pompa Jr. et al |- |style="text-align:center"|第135回||[[2009年]]5月2日||[[マインザットバード|Mine That Bird]]||&#39480;3||2:02.66||C.Borel||B.Woolley Jr.||Double Eagle Ranch & Bueno Suerte Equine |- |style="text-align:center"|第136回||[[2010年]]5月1日||[[スーパーセイヴァー|Super Saver]]||牡3||2:04.45||C.Borel||[[トッド・プレッチャー|T.Pletcher]]||WinStar Farm LLC |- |style="text-align:center"|第137回||[[2011年]]5月7日||[[アニマルキングダム|Animal Kingdom]]||牡3||2:02.04||J.Velazquez||H.Motion||Team Valor International |- |style="text-align:center"|第138回||[[2012年]]5月5日||[[アイルハヴアナザー|I'll Have Another]]||牡3||2:01.83||[[マリオ・グティエレス|M.Gutierrez]]||[[ダグ・オニール|D.O'Neill]]||Reddam Racing LLC |- |style="text-align:center"|第139回||[[2013年]]5月4日||[[オーブ (競走馬)|Orb]]||牡3||2:02.89||[[ジョエル・ロサリオ|J.Rosario]]||style="white-space:nowrap"|[[クロード・マゴーヒー|C.McGaughey III]]||S.Janney III & Phipps Stable |- |style="text-align:center"|第140回||[[2014年]]5月3日||[[カリフォルニアクローム|California Chrome]]||牡3||2:03.66||V.Espinoza||A.Sherman||S.Coburn & P.Martin |- |style="text-align:center"|第141回||[[2015年]]5月2日||[[アメリカンファラオ|American Pharoah]]||牡3||2:03.66||V.Espinoza||B.Baffert||Zayat Stables LLC |- |style="text-align:center"|第142回||[[2016年]]5月7日||[[ナイキスト (競走馬)|Nyquist]]||牡3||2:01.31||M.Gutierrez||D.O'Neill||J.Paul Reddam |- |style="text-align:center"|第143回||[[2017年]]5月6日||[[オールウェイズドリーミング|Always Dreaming]]||牡3||2:03.59||[[ジョン・ヴェラスケス|J.Velazquez]]||T.Pletcher||MeB Racing, Brooklyn Boyz, Teresa Viola, St Elias, Siena Farm and West Point |- |style="text-align:center"|第144回||[[2018年]]5月5日|| [[ジャスティファイ|Justify]]||牡3||2:04.20|| M.Smith|| B.Baffert|| China Horse Club, Head of Plains Partners, Starlight Racing and [[ウィンスターファーム|WinStar Farm]] |- |style="text-align:center"|第145回||[[2019年]]5月4日||[[カントリーハウス (競走馬)|Country House]]||牡3||2:03.93||F.Prat||B.Mott||Mrs. J.V. Shields, Jr., E. J. M. McFadden, Jr. and LNJ Foxwoods |- |style="text-align:center"|第146回||[[2020年]]5月2日<br>(予定)||colspan="6" style="text-align:center"|新型コロナウイルス感染拡大に伴い中止 |- |style="text-align:center"|第146回<br>(代替)||[[2020年]]9月5日||[[オーセンティック|Authentic]]||牡3||2:00.61||J.Velazquez||B.Baffert||Spendthrift Farm LLC, MyRaceHorse Stable, Madaket Stables LLC, and Starlight Racing |- |style="text-align:center"|第147回||[[2021年]]5月1日|| [[マンダルーン|Mandaloun]]{{efn|2位入線1着繰り上がり}}||牡3|| 2:01.02 | [[フローレン・ジェルー|F.Geroux]] | B.Cox | [[ジュドモントファーム|Juddmonte Farm]] |- |style="text-align:center"|第148回||[[2022年]]5月7日|| [[リッチストライク|Rich Strike]]||牡3|| 2:02.61 | S.Leon | E.Reed | RED TR-Racing LLC |- |style="text-align:center"|第149回||[[2023年]]5月6日|| [[メイジ (競走馬)|Mage]]||牡3|| 2:01.50 | [[ハビエル・カステリャーノ|J.Castellano]] | G.Delgado | Owner's Group |} === 日本調教馬の成績 === {{Main|日本調教馬の日本国外への遠征#ケンタッキーダービー}} == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 参考文献 === * ケンタッキー・ダービー・ストーリーズ([[1996年]] 原著:ジム・ボウラス 翻訳:桧山三郎 出版:荒地出版社 ISBN 4-7521-0098-3) === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= * <ref name="equibase2019">[http://www.equibase.com/premium/chartEmb.cfm?track=CD&raceDate=05/04/2019&cy=USA&rn=12 Equibase CHURCHILL DOWNS - May 4,2019 - Race 12] 2020年2月28日閲覧。</ref> * <ref name="Road-kentucky-derby">[http://chronicle.augusta.com/sports/other-sports/2012-06-14/road-kentucky-derby-will-be-less-complex-2013/ ジ・オーガスタ・クルニクル電子版](英語) 2014年11月28日閲覧。</ref> * <ref name="Kentucky Derby">[http://www.kentuckyderby.com/road/about/ ケンタッキーダービー公式サイト](英語) 2014年11月28日閲覧。</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== * レーシング・ポストより(最終閲覧日:2015年5月3日) ** {{Racing Post|626056|2015|05|02}} == 関連項目 == * [[プリークネスステークス]] * [[ベルモントステークス]] * [[トラヴァーズステークス]] * [[ケンタッキーオークス]] * [[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ]] * [[ダービー (競馬)]] * [[ミント・ジュレップ]] * [[アメリカクラシック三冠]] == 外部リンク == * [https://www.kentuckyderby.com/ Kentucky Derby] - ケンタッキーダービー公式サイト * [https://www.kentuckyderby.jp/ ケンタッキーダービー] - ケンタッキーダービー日本語サイト * [https://www.churchilldowns.com/ Chuechill Downs]- チャーチルダウンズ競馬場 * [https://kdf.org/ Kentucky Derby Festival] - ケンタッキーダービーフェスティバル * [http://www.equibase.com/profiles/Results.cfm?type=Stakes&stkid=897 Equibase ケンタッキーダービー] * {{YouTube|user=kentuckyderby|kentuckyderby}} {{アメリカ競馬三冠}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:けんたつきたひ}} [[Category:アメリカ合衆国の競馬の競走]] [[Category:ルイビルのスポーツ]]
2003-05-05T13:16:18Z
2023-12-19T02:29:34Z
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ツォルンの補題
集合論においてツォルンの補題(ツォルンのほだい、英: Zorn's lemma)またはクラトフスキ・ツォルンの補題(クラトフスキ・ツォルンのほだい)とは次の定理をいう。 この定理は数学者マックス・ツォルンとカジミェシュ・クラトフスキに因む。選択公理と同値な命題の一つ。 この補題で使われている用語の定義は以下のとおりである。集合 P と順序関係 ≤ によって定まる半順序集合を(P, ≤) とする。順序関係において、元 s とt が s ≤ t かつ s ≠ t であるとき、s < tと表す。部分集合 T が 全順序 であるとは、 T の各元 s と t について、s ≤ t または t ≤ s が必ず成り立つことを言う。T が P に上界 u を持つとは、T の元 t がつねに t ≤ u を満たすことをいう。注意として、u は P の元であればよく、T の元である必要はない。P の元 m が 極大元 であるとは、P の元 x で、 m < x となるものは存在しないことをいう。 部分集合としての空集合は自明な鎖であり、上界を持つ必要がある。空な鎖の上界は任意の元なので、このことから 上記の命題においてP が少なくともひとつの元を持つこと、すなわち空集合でないことが分かる。よって、以下の同値な定式化が可能となる。 これらの違いは微妙なものであるが、ツォルンの補題を使った証明において半順序として包含関係に代表されるような集合同士の関係を用いる場合、鎖を集合族として/その上界を鎖となった集合族の合併としてとる事があり、その際に空な族の合併は空集合になる一方で空なる鎖の上界は任意の「空でない集合」であるという不一致が、台集合に元として空集合が所属していない場合に起こるので、予め定義において空な鎖について考えなくてよいとの明言が議論を簡単にするという点で使い分けることができる。 ZF集合論において、ツォルンの補題は整列可能定理や選択公理と同値である。すなわち、ひとつを仮定すると残りを証明することができる。この補題は関数解析学においてはハーン・バナッハの定理を、線型代数においては基底の存在を、位相空間論においては「任意のコンパクト集合の直積はまたコンパクトである」というチコノフの定理を、そして代数学においては全てのゼロでない環は極大イデアルを持ち、任意の体における代数的閉包の存在をそれぞれ証明する際に使われる。 ツォルンの補題を使って、単位元を持つ自明でない全ての環 R が極大イデアルを持つことを示すことができる。上記の用語でいうと、P は R の(両側)イデアルのうち R 自身以外からなる集合とする。これは自明なイデアル {0} を含むので空ではない。この集合は包含関係により半順序集合である。極大イデアルを見つけることは P の極大元を見つけることと同じである。ここで、R を取り除いたのは極大イデアルの定義には、R に等しくないことが入っているからである。 ツォルンの補題を適用するために、P の空でない全順序部分集合 T をとる。T に上界が存在することを示す必要がある、つまり、イデアル I ⊆ R が存在して、それは T のどの要素より以上であり、しかも R よりは厳密に小さい (そうでなければ、P の要素ではなくなる)ことを示す必要がある。I を T の全てのイデアルの和集合とする。T は少なくともひとつ元を持ち、それは 0 を含んでいるので、和集合 I も 0 を含み、よって空集合ではない。I がイデアルであることを示すため、a と b を I の元とすると、ふたつのイデアル J, K ∈ T が存在し、a は J の元であり、b は K の元である。T は全順序であったので、J ⊆ K または K ⊆ J である。前者の場合は、a も b もともに K の元であり、和 a + b も K の元である。よって、a + b は I の元である。後者の場合は、a も b もともに J の元であるから、同様に a + b は I の元である。さらに、任意の r ∈ R に対して、ar と ra は J の元であるから、I の元でもある。以上により、I は R のイデアルであることが分かった。 そして、イデアルが R と一致することは 1 を含むことと同値である(明らかに R に等しければ 1 を含むし、1を含んでいたとすると任意の R の元 r に対して、r1 = r もこのイデアルの元であり、R と等しいことが分かる)。そこで、I が R に等しいと仮定すると、それは 1 を含み、T のある要素が 1 を含むことになり、それは R と一致する。しかし、これは P から R を除いていたことに矛盾する。 ツォルンの補題の条件は確認できたので、P には極大元が存在する。言い換えると、R には極大イデアルが存在する。 この証明は環 R が乗法単位元 1 を持っていることに依存していることに注意しよう。これ無しではこの証明は無効であり、さらにこの言明は偽になりうる。例えば、Q に通常の加法と自明な乗法(つねに ab = 0)を入れた環は極大イデアルも 1 も持たない: この環のイデアルは加法による部分群そのものである。真部分群 A による商群 Q/A は可除群である。よって、有限生成にはならず、A を真に含む自明でない部分群が存在する。 選択公理を仮定したツォルンの補題の証明を概略する。補題が成り立たないと仮定する。このとき半順序集合 P を、全ての鎖が上界を持つにもかかわらず、どの元もそれより大きな元を持つように取れる。各鎖 T について、それより真に大きな元 b(T) が存在する。なぜなら、T は上界を持ち、さらにそれより大きな元が存在するからである。関数 b を実際に定義するには選択公理を使う必要がある。 この関数 b を使うことで、P の元の列 a0 < a1 < a2 < a3 < ... を定めることができる。この列は本当に長い、添え字の範囲は単なる自然数ではなく、全ての順序数を動く。実は P と比較しても長すぎる。順序数の全体は真クラスを成すほど大きすぎて、普通の集合より大きくなる。そして、この長さにより集合 P の元を使い尽くすことで矛盾を得る。 aiは次の超限帰納法で定義する。まず、a0 は P の元から勝手に選ぶ(これは P が空の鎖の上界を持ち、空でないことから可能である)。他の順序数 w については、aw = b({av: v < w}) で定める。{av: v < w} は全順序であるので、この定義は正しい超限帰納法である。 実際には、この証明はより強い形のツォルンの補題が正しいことを示している。 ハウスドルフの極大原理(英語版)はツォルンの補題に似た初期の定理である。 クラトフスキは1922年に現在の定式化に近い形で証明した(包含関係により順序付いた集合と整列した鎖の和集合の場合)。現在のものと本質的に同等の定式化(整列ではなく任意の鎖に弱めた場合)はツォルンにより独立に1935年に与えられた。彼は整列可能定理に代わる集合論の公理として提案し、代数におけるいくつかの応用を行って見せた。また、他の論文で選択公理との同値性を示すとしていたが、それは公開されることはなかった。 「ツォルンの補題」という名前はジョン・テューキーの1940年の著書「Convergence and Uniformity in Topology」で使用されたことによる。ブルバキの「Théorie des Ensembles」では1939年に「le théorème de Zorn」として同様の極大原理を引用している。「クラトフスキ・ツォルンの補題」という名前はポーランドとロシアで使われている。 ツォルンの補題は三つの主要な成果と(ZFにおいて)同値である さらに、ツォルンの補題(または同値な命題)は数学の各分野で重要な成果を導く。例えば、 アメリカのテレビアニメーションであるザ・シンプソンズには、数学ネタがちりばめられている。ザ・シンプソンズではこの補題が「Bart’s New Friend」の回で言及された。
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集合論においてツォルンの補題またはクラトフスキ・ツォルンの補題(クラトフスキ・ツォルンのほだい)とは次の定理をいう。 この定理は数学者マックス・ツォルンとカジミェシュ・クラトフスキに因む。選択公理と同値な命題の一つ。
[[File:4x4 grid spanning tree.svg|thumb|ツォルンの補題により全ての連結[[グラフ (離散数学)|グラフ]]が[[全域木]]を持つことが分かる。部分グラフのうち、木であるものからなる集合は包含関係により順序付けられ、鎖の和集合は上界となる。ツォルンの補題により極大の木が存在する。グラフが連結であるため、これは全域木である。この図のような有限グラフについてはツォルンの補題は不要である。]] [[集合論]]において'''ツォルンの補題'''(ツォルンのほだい、{{lang-en-short|Zorn's lemma}})または'''クラトフスキ・ツォルンの補題'''(クラトフスキ・ツォルンのほだい)とは次の定理をいう。 ; 命題 (Zorn の補題) : [[半順序集合]]''P''は、その全ての鎖(つまり、[[全順序]][[部分集合]])が''P''に[[順序集合#上界|上界]]を持つとする。このとき、''P''は少なくともひとつの[[極大元]]を持つ。 この定理は数学者[[マックス・ツォルン]]と[[カジミェシュ・クラトフスキ]]に因む。[[選択公理]]と同値な命題の一つ。 ==準備== この補題で使われている用語の定義は以下のとおりである。集合 {{mvar|P}} と[[順序関係]] {{math|&le;}} によって定まる半順序集合を{{math|(''P'', &le;)}} とする。順序関係において、元 {{mvar|s}} と{{mvar|t}} が {{math|''s'' &le; ''t''}} かつ {{math|''s'' &ne; ''t''}} であるとき、{{math|''s'' &lt; ''t''}}と表す。部分集合 {{mvar|T}} が '''全順序''' であるとは、 {{mvar|T}} の各元 {{mvar|s}} と {{mvar|t}} について、{{math|''s'' &le; ''t''}} または {{math|''t'' &le; ''s''}} が必ず成り立つことを言う。{{mvar|T}} が {{mvar|P}} に'''上界''' {{mvar|u}} を持つとは、{{mvar|T}} の元 {{mvar|t}} がつねに {{math|''t'' &le; ''u''}} を満たすことをいう。注意として、{{mvar|u}} は {{mvar|P}} の元であればよく、{{mvar|T}} の元である必要はない。{{mvar|P}} の元 {{mvar|m}} が '''極大元''' であるとは、{{mvar|P}} の元 {{mvar|x}} で、 {{math|''m'' &lt; ''x''}} となるものは存在しないことをいう。 部分集合としての空集合は自明な[[鎖複体|鎖]]であり、上界を持つ必要がある。空な鎖の上界は任意の元なので、このことから 上記の命題において{{mvar|P}} が少なくともひとつの元を持つこと、すなわち空集合でないことが分かる。よって、以下の同値な定式化が可能となる。 ; 命題 : {{mvar|P}}を空でない半順序集合で、その任意の空でない鎖は {{mvar|P}} に上界を持つとする。このとき {{mvar|P}} は少なくともひとつ極大元を持つ。 これらの違いは微妙なものであるが、ツォルンの補題を使った証明において半順序として[[包含関係]]に代表されるような'''集合同士の関係'''を用いる場合、鎖を[[集合族]]として/その上界を鎖となった集合族の[[和集合|合併]]としてとる事があり、その際に[[和集合#空なる合併|空な族の合併]]は空集合になる一方で空なる鎖の上界は任意の「空でない集合」であるという不一致が、'''[[数学的構造#定義|台集合]]に元として空集合が所属していない'''場合に起こるので、予め定義において空な鎖について考えなくてよいとの明言が議論を簡単にするという点で使い分けることができる。 [[公理的集合論|ZF]]集合論において、ツォルンの補題は[[整列可能定理]]や[[選択公理]]と同値である。すなわち、ひとつを仮定すると残りを証明することができる。この補題は[[関数解析学]]においては[[ハーン・バナッハの定理]]を、[[線型代数]]においては[[基底 (線型代数学)|基底]]の存在を、[[位相空間論]]においては「任意の[[コンパクト集合]]の直積はまたコンパクトである」という[[チコノフの定理]]を、そして[[代数学]]においては全てのゼロでない[[環 (数学)|環]]は[[極大イデアル]]を持ち、任意の[[可換体|体]]における[[代数的閉包]]の存在をそれぞれ証明する際に使われる。 ==例== ツォルンの補題を使って、単位元を持つ自明でない全ての環 ''R'' が極大イデアルを持つことを示すことができる。上記の用語でいうと、''P'' は ''R'' の(両側)[[イデアル (環論)|イデアル]]のうち ''R'' 自身以外からなる集合とする。これは自明なイデアル {0} を含むので空ではない。この集合は[[包含関係]]により半順序集合である。極大イデアルを見つけることは ''P'' の極大元を見つけることと同じである。ここで、''R'' を取り除いたのは極大イデアルの定義には、''R'' に等しくないことが入っているからである。 ツォルンの補題を適用するために、''P'' の空でない全順序部分集合 ''T'' をとる。''T'' に上界が存在することを示す必要がある、つまり、イデアル ''I'' ⊆ ''R'' が存在して、それは ''T'' のどの要素より以上であり、しかも ''R'' よりは厳密に小さい (そうでなければ、''P'' の要素ではなくなる)ことを示す必要がある。''I'' を ''T'' の全てのイデアルの和集合とする。''T'' は少なくともひとつ元を持ち、それは 0 を含んでいるので、和集合 ''I'' も 0 を含み、よって空集合ではない。''I'' がイデアルであることを示すため、''a'' と ''b'' を ''I'' の元とすると、ふたつのイデアル ''J'', ''K'' ∈ ''T'' が存在し、''a'' は ''J'' の元であり、''b'' は ''K'' の元である。''T'' は全順序であったので、''J'' ⊆ ''K'' または ''K'' ⊆ ''J'' である。前者の場合は、''a'' も ''b'' もともに ''K'' の元であり、和 ''a'' + ''b'' も ''K'' の元である。よって、''a'' + ''b'' は ''I'' の元である。後者の場合は、''a'' も ''b'' もともに ''J'' の元であるから、同様に ''a'' + ''b'' は ''I'' の元である。さらに、任意の ''r'' ∈ ''R'' に対して、''ar'' と ''ra'' は ''J'' の元であるから、''I'' の元でもある。以上により、''I'' は ''R'' のイデアルであることが分かった。 そして、イデアルが ''R'' と一致することは 1 を含むことと同値である(明らかに ''R'' に等しければ 1 を含むし、1を含んでいたとすると任意の ''R'' の元 ''r'' に対して、''r1'' = ''r'' もこのイデアルの元であり、''R'' と等しいことが分かる)。そこで、''I'' が ''R'' に等しいと仮定すると、それは 1 を含み、''T'' のある要素が 1 を含むことになり、それは ''R'' と一致する。しかし、これは ''P'' から ''R'' を除いていたことに矛盾する。 ツォルンの補題の条件は確認できたので、''P'' には極大元が存在する。言い換えると、''R'' には極大イデアルが存在する。 この証明は環 ''R'' が[[乗法単位元]] [[1]] を持っていることに依存していることに注意しよう。これ無しではこの証明は無効であり、さらにこの言明は偽になりうる。例えば、{{math|'''Q'''}} に[[加法|通常の加法]]と自明な乗法(つねに ab = 0)を入れた環は極大イデアルも 1 も持たない: この環のイデアルは加法による部分群そのものである。真部分群 {{mvar|A}} による商群 {{math|'''Q'''/''A''}} は[[可除群]]である。よって、有限生成にはならず、{{mvar|A}} を真に含む自明でない部分群が存在する。 == 証明の概略 == 選択公理を仮定したツォルンの補題の証明を概略する。補題が成り立たないと仮定する。このとき半順序集合 ''P'' を、全ての鎖が上界を持つにもかかわらず、どの元もそれより大きな元を持つように取れる。各鎖 ''T'' について、それより真に大きな元 ''b''(''T'') が存在する。なぜなら、''T'' は上界を持ち、さらにそれより大きな元が存在するからである。関数 ''b'' を実際に定義するには選択公理を使う必要がある。 この関数 ''b'' を使うことで、''P'' の元の列 ''a''<sub>0</sub> < ''a''<sub>1</sub> < ''a''<sub>2</sub> < ''a''<sub>3</sub> < ... を定めることができる。この列は'''本当に長い'''、添え字の範囲は単なる[[自然数]]ではなく、全ての[[順序数]]を動く。実は ''P'' と比較しても長すぎる。順序数の全体は[[真クラス]]を成すほど大きすぎて、普通の集合より大きくなる。そして、この長さにより集合 ''P'' の元を使い尽くすことで矛盾を得る。 ''a<sub>i</sub>''は次の[[超限帰納法]]で定義する。まず、''a''<sub>0</sub> は ''P'' の元から勝手に選ぶ(これは ''P'' が空の鎖の上界を持ち、空でないことから可能である)。他の順序数 ''w'' については、''a''<sub>''w''</sub> = ''b''({''a''<sub>''v''</sub>: ''v'' < ''w''}) で定める。{''a''<sub>''v''</sub>: ''v'' < ''w''} は全順序であるので、この定義は正しい超限帰納法である。 実際には、この証明はより強い形のツォルンの補題が正しいことを示している。 ; 命題 : ''P''を半順序集合で、その全ての整列部分集合が上界を持ち、''x''を''P''の元とする。このとき、''P''の極大元で、''x''以上のものが存在する。すなわち、''x''と比較できる極大元が存在する ==歴史== {{仮リンク|ハウスドルフの極大原理|en|Hausdorff maximal principle}}はツォルンの補題に似た初期の定理である。 クラトフスキは1922年に<ref>{{cite journal |first=Casimir |last=Kuratowski |title=Une méthode d'élimination des nombres transfinis des raisonnements mathématiques |trans-title=A method of disposing of transfinite numbers of mathematical reasoning |journal=[[Fundamenta Mathematicae]] |volume=3 |issue= |year=1922 |pages=76–108 |url=http://matwbn.icm.edu.pl/ksiazki/fm/fm3/fm3114.pdf |format=pdf |accessdate=2013-04-24 |language=French}}</ref>現在の定式化に近い形で証明した(包含関係により順序付いた集合と整列した鎖の和集合の場合)。現在のものと本質的に同等の定式化(整列ではなく任意の鎖に弱めた場合)はツォルンにより独立に1935年に与えられた<ref>{{cite journal |first=Max |last=Zorn |title=A remark on method in transfinite algebra |journal=Bulletin of the American Mathematical Society |volume=41 |year=1935 |issue=10 |pages=667–670 |doi=10.1090/S0002-9904-1935-06166-X }}</ref>。彼は整列可能定理に代わる集合論の公理として提案し、代数におけるいくつかの応用を行って見せた。また、他の論文で選択公理との同値性を示すとしていたが、それは公開されることはなかった。 「ツォルンの補題」という名前は[[ジョン・テューキー]]の1940年の著書「Convergence and Uniformity in Topology」で使用されたことによる。[[ブルバキ]]の「Théorie des Ensembles」では1939年に「le théorème de Zorn」として同様の極大原理を引用している<ref>{{harvnb|Campbell|1978|p=82}}.</ref>。「クラトフスキ・ツォルンの補題」という名前はポーランドとロシアで使われている。 ==ツォルンの補題と同値な命題== ツォルンの補題は三つの主要な成果と(ZFにおいて)同値である # ハウスドルフの極大原理 # 選択公理 # 整列可能定理 # [[テューキーの補題]] さらに、ツォルンの補題(または同値な命題)は数学の各分野で重要な成果を導く。例えば、 # バナッハの拡張定理は関数解析のもっとも基本的な成果である[[ハーン・バナッハの定理]]の証明に使われる # 全ての線型空間は[[基底 (線型代数学)|基底]]を持つ。これは線型代数における成果であり、ツォルンの補題と同値である<ref>{{cite journal |last = Blass |first = Andreas |year = 1984 |title = Existence of bases implies the Axiom of Choice |journal=Contemp. Math. |volume = 31 |pages = 31–33 |ref=blass |doi=10.1090/conm/031/763890 }}</ref> # 全ての単位的可換環は極大イデアルを持つ。環論における成果 # 位相空間論におけるチコノフの定理。これも同値である<ref>{{cite journal |last = Kelley |first = John L. |year = 1950 |title= The Tychonoff product theorem implies the axiom of choice | journal= Fundamenta mathematica | volume = 37 | pages = 75–76 | ref=kelley }}</ref> <!-- In this sense, we see how Zorn's lemma can be seen as a powerful tool, especially in the sense of unified mathematics{{Clarify|date=June 2011}}. --> ==大衆文化における言及== アメリカのテレビアニメーションである[[ザ・シンプソンズ]]には、数学ネタがちりばめられている<ref>[[#singh2016|サイモン・シン(2016)]]</ref>。ザ・シンプソンズではこの補題が「Bart’s New Friend」の回で言及された<ref>http://www.watchcartoononline.com/the-simpsons-season-26-episode-11-barts-new-friend</ref><ref>[[#singh2016|サイモン・シン(2016), pp.391-392]]</ref>。 == 脚注 == <references/> ==参考文献== * {{cite journal | last = Campbell | first = Paul J. |date=February 1978 | title = The Origin of ‘Zorn's Lemma’ | journal = Historia Mathematica | volume = 5 | issue = 1 | pages = 77–89 | doi = 10.1016/0315-0860(78)90136-2 | ref = harv }} *{{cite book |title=Set Theory for the Working Mathematician |last=Ciesielski |first=Krzysztof |location= |publisher=[[Cambridge University Press]] |year=1997 |isbn=0-521-59465-0 }} *{{Cite book |和書 |title= 数学者たちの楽園―「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち― |author1= サイモン・シン |authorlink1=サイモン・シン |others=青木薫(訳) |publisher=[[新潮社]] |year=2016 |isbn=978-4-10-539306-9 |ref=singh2016}} ==外部リンク== *[http://www.apronus.com/provenmath/choice.htm Zorn's Lemma at ProvenMath] contains a formal proof down to the finest detail of the equivalence of the axiom of choice and Zorn's Lemma. *[http://us.metamath.org/mpegif/zorn.html Zorn's Lemma] at [[Metamath]] is another formal proof. ([http://us.metamath.org/mpeuni/zorn.html Unicode version] for recent browsers.) {{DEFAULTSORT:つおるんのほたい}} [[Category:選択公理]] [[Category:補題]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学のエポニム]] [[Category:順序構造]]
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オイラーの等式
オイラーの等式(オイラーのとうしき、英: Euler's identity)とは、ネイピア数 e、虚数単位 i、円周率 π の間に成り立つ等式のことである: ここで である。 式の名はレオンハルト・オイラーに因る。 オイラーの等式は、その数学的な美によって特筆すべきものと多くの人に認識されている。 この等式は次の5つの基本的な数学定数を含んでいる。 かつ、それらが次の3つの基本的な算術演算によって簡潔に結び付けられている。 幾何学、解析学、代数学の分野でそれぞれ独立に定義された三つの定数 (π, e, i) がこのような簡単な等式で関連付いている。なお、一般的に解析学では方程式は片側(概ね右辺)に「0」を置く形で記される。 数学誌のThe Mathematical Intelligencer の読者調査によると、この等式は「数学における最も美しい定理」 (The most beautiful theorem in mathematics) に選出されている。また、2004年に実施された Physics World 誌での読者調査ではマクスウェルの方程式と並び、「史上最も偉大な等式」(Greatest equation ever) に選出されている。 ポール・ネイヒン(ニューハンプシャー大学(英語版) 名誉教授)の著書「オイラー博士の偉大な式」(Dr. Euler's Fabulous Formula) [2006] では、この等式のために400ページも充てている。本著書ではこの等式を「数学的な美の絶対的基準」(The gold standard for mathematical beauty) としている。 コンスタンス・レイド(英語版) は、オイラーの等式を「全ての数学分野において最も有名な式」(The most famous formula in all mathematics) であると主張した。 カール・フリードリヒ・ガウスは「この式を見せられた学生がすぐにその意味を理解できなければ、その学生は第一級の数学者には決してなれない」(If this formula was not immediately apparent to a student on being told it, the student would never be a first-class mathematician.) と指摘している。 この等式がベンジャミン・パース (19世紀の数学者、ハーバード大学教授) の講義で紹介されたあと、「全く逆説的なことだ、我々はそれを理解できないし、それがどんな意義を持っているかも分からない。だが我々はそれを証明したし、それゆえにそれが間違いのない真実であると知っている」(It is absolutely paradoxical; we cannot understand it, and we don't know what it means, but we have proved it, and therefore we know it must be the truth.) と付け加えた。 スタンフォード大学の数学の教授、キース・デブリン(英語版) は「愛の本質そのものをとらえるシェークスピアのソネットのように、あるいは、単なる表面でなくはるかに深い内面から人間の形の美しさを引き出す絵画のように、オイラーの等式は存在の遥かな深遠にまで到達している」(Like a Shakespearean sonnet that captures the very essence of love, or a painting that brings out the beauty of the human form that is far more than just skin deep, Euler's equation reaches down into the very depths of existence.) と記している。 Bob Palaisが2001年に公開したエッセイ "π is wrong!" の中では、円周率πの代わりに、「τ=2π」なる数τ、すなわち円の周の半径に対する比率を用いれば、この式は e i τ = 1 {\displaystyle e^{i\tau }=1} という、よりシンプルな表現になると述べられている。 この等式は複素関数論における、任意の実数 φ {\displaystyle \varphi } に対して成り立つオイラーの公式 の特別な場合である。ここで三角関数 sin と cos の引数 φ {\displaystyle \varphi } の表示は弧度法である。両辺に φ = π {\displaystyle \varphi =\pi } を代入すると、 より ゆえに を得る。 オイラーの等式は、1の冪根に関する次の等式の特別な場合と見なせる。 一般的なこの式は、2 以上の整数 n に対して、1 の n 乗根の総和は 0 であることを意味している。n = 2 とするとオイラーの等式を得る。 本項の主題は「オイラーの等式」と呼ばれるが、これがオイラーに帰属するべきものであるかは明らかでない。オイラーは e を cos と sin と関連付ける式を記したが、より簡潔な「オイラーの等式」の導出過程を示す記録は残っていない。 オイラーの等式は1748年に出版された彼の解析学の記念碑的研究に現れるということが主張されてきた。しかし、特にこの概念がオイラーに帰属できるものであるかどうかは、彼がそれを表示しなかったため、疑われてもいる(オイラーはIntroductio に「オイラーの公式」と呼ばれるもの、複素数の世界で e をコサインとサインの言葉に結び付けるもの、について書き、イギリスの数学者ロジャー・コーツもこの公式について知っている)。
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オイラーの等式とは、ネイピア数 e、虚数単位 i、円周率 π の間に成り立つ等式のことである: ここで である。 式の名はレオンハルト・オイラーに因る。
{{Otheruses|[[オイラーの公式]]の特別な場合|オイラーの名が冠されたその他の式|オイラーの式}} [[画像:ExpIPi.gif|300px|thumb|[[指数関数]] {{mvar|e{{sup|z}}}} は {{math|(1 + ''z''/''N''){{sup|''N''}}}} の {{mvar|N}} が無限に大きくなるときの[[極限]]として定義でき、{{mvar|e{{sup|iπ}}}} は {{math|(1 + ''iπ''/''N''){{sup|''N''}}}} の極限である。このアニメーションでは、{{mvar|N}} の値を {{math|1}} から {{math|100}} まで増加させている。[[複素数平面]]において {{math|1 + ''iπ''/''N''}} の[[冪乗|累乗]]を点で表示しており、折れ線の端点が {{math|(1 + ''iπ''/''N''){{sup|''N''}}}} である。これにより、{{mvar|N}} の増加に伴って {{math|(1 + ''iπ''/''N''){{sup|''N''}}}} が {{math|&minus;1}} に近付く様子が観察される。]]{{ネイピア数e}} '''オイラーの等式'''(オイラーのとうしき、{{lang-en-short|Euler's identity}})とは、[[ネイピア数]] {{mvar|[[e]]}}、[[虚数単位]] {{mvar|[[i]]}}、[[円周率]] {{mvar|[[π]]}} の間に成り立つ[[等式]]のことである: :{{math|1=''e{{sup|iπ}}'' + 1 = 0}} ここで :{{mvar|[[e]]}}:[[ネイピア数]]([[自然対数]]の[[底]]) :{{mvar|[[i]]}}:[[虚数単位]]([[自乗]]すると {{math|&minus;1}} となる[[数]]) :{{mvar|[[π]]}}:[[円周率]]([[円 (数学)|円]]の[[直径]]に対する周の比率) である。 式の名は[[レオンハルト・オイラー]]に因る。 == 等式の要素 == {{出典の明記|section=1|date=2018-04}} オイラーの等式は、その[[数学的な美]]によって特筆すべきものと多くの人に認識されている。 この等式は次の5つの基本的な[[数学定数]]を含んでいる。 *[[1]]:乗法に関する[[単位元]] *[[0]]:加法に関する単位元、すなわち[[加法単位元|零元]] *{{mvar|[[π]]}}:[[円周率]]。[[三角比]]、[[ユークリッド幾何学]]、[[微分積分学]]で頻出。およそ 3.14159 である。 *{{mvar|e}}: [[ネイピア数]]。[[自然対数]]の底でもあり、[[微分積分学]]で広く出現。およそ 2.71828 である。 *{{mvar|i}}:[[虚数単位]]。[[複素数]]における虚数単位であり、[[積分]]などの多くの演算においてより深い洞察に導く。 かつ、それらが次の3つの基本的な[[算術]]演算によって簡潔に結び付けられている。 *[[加法]] *[[乗法]] *[[指数関数]] 幾何学、解析学、代数学の分野でそれぞれ独立に定義された三つの定数 ({{mvar|π}}, {{mvar|e}}, {{mvar|i}}) がこのような簡単な等式で関連付いている。なお、一般的に解析学では方程式は片側(概ね右辺)に「[[0]]」を置く形で記される。 == 人々による評価 == 数学誌の'''[[:en:The Mathematical Intelligencer|The Mathematical Intelligencer]]''' <ref>http://www.springer.com/math/journal/283</ref>の読者調査によると、この等式は「数学における最も美しい定理」 (''The most beautiful theorem in mathematics'') に選出されている<ref>Nahin, 2006, p.2&ndash;3 (poll published in summer 1990 issue).</ref>。また、2004年に実施された '''[[:en:Physics World|Physics World]]''' 誌での読者調査では[[マクスウェルの方程式]]と並び、「史上最も偉大な等式」(''Greatest equation ever'') に選出されている<ref>Crease, 2004.</ref>。 [[ポール・ネイヒン]]({{仮リンク|ニューハンプシャー大学|en|University of New Hampshire}} 名誉教授)の著書「オイラー博士の偉大な式」(Dr. Euler's Fabulous Formula) [2006] では、この等式のために400ページも充てている。本著書ではこの等式を「[[数学的な美]]の絶対的基準」(''The gold standard for mathematical beauty'') としている<ref>Cited in Crease, 2007.</ref>。 {{仮リンク|コンスタンス・レイド|en|Constance Reid}} は、オイラーの等式を「全ての数学分野において最も有名な式」(''The most famous formula in all mathematics'') であると主張した<ref>Reid.</ref>。 [[カール・フリードリヒ・ガウス]]は「この式を見せられた学生がすぐにその意味を理解できなければ、その学生は第一級の数学者には決してなれない」(''If this formula was not immediately apparent to a student on being told it, the student would never be a first-class mathematician.'') と指摘している<ref>Derbyshire p.210.</ref>。 この等式が[[ベンジャミン・パース]] (19世紀の[[数学者]]、[[ハーバード大学]]教授) の講義で紹介されたあと、「全く逆説的なことだ、我々はそれを理解できないし、それがどんな意義を持っているかも分からない。だが我々はそれを証明したし、それゆえにそれが間違いのない真実であると知っている」(''It is absolutely paradoxical; we cannot understand it, and we don't know what it means, but we have proved it, and therefore we know it must be the truth.'') と付け加えた<ref>Maor p.160 and Kasner & Newman pp.103-104.</ref>。 [[スタンフォード大学]]の数学の教授、{{仮リンク|キース・デブリン|en|Keith Devlin}} は「愛の本質そのものをとらえる[[シェークスピア]]の[[ソネット]]のように、あるいは、単なる表面でなくはるかに深い内面から人間の形の美しさを引き出す絵画のように、オイラーの等式は存在の遥かな深遠にまで到達している」(''Like a Shakespearean sonnet that captures the very essence of love, or a painting that brings out the beauty of the human form that is far more than just skin deep, Euler's equation reaches down into the very depths of existence.'') と記している<ref>Nahin, 2006, p.1.</ref>。 Bob Palaisが2001年に公開したエッセイ "π is wrong!" の中では、円周率πの代わりに、「τ=2π」なる数[[τ (数学定数)|τ]]、すなわち[[円 (数学)|円]]の周の[[半径]]に対する比率を用いれば、この式は<math>e^{i \tau} = 1</math> という、よりシンプルな表現になると述べられている。 == 導出 == [[画像:Euler's Formula J.svg|300px|thumb|一般の角度に対するオイラーの公式]] この等式は[[複素関数論]]における、任意の[[実数]] <math>\varphi</math> に対して成り立つ[[オイラーの公式]] :<math>e^{i\varphi} = \cos \varphi + i \sin \varphi</math> の特別な場合である。ここで[[三角関数]] sin と cos の引数 <math>\varphi</math> の表示は[[ラジアン|弧度法]]である。両辺に <math>\varphi = \pi</math> を代入すると、 :<math>\cos \pi = -1</math> :<math>\sin \pi = 0</math> より :<math>e^{i \pi} = -1</math> ゆえに :<math>e^{i \pi} +1 = 0</math> を得る。 == 一般化 == オイラーの等式は、[[1の冪根]]に関する次の等式の特別な場合と見なせる。 :<math>\textstyle\sum\limits_{k=0}^{n-1} e^{i\cdot \frac{2 \pi}{n}k} = 0</math> 一般的なこの式は、2 以上の整数 {{mvar|n}} に対して、1 の {{mvar|n}} 乗根の総和は 0 であることを意味している。{{math|''n'' {{=}} 2}} とするとオイラーの等式を得る。 == 特記事項 == 本項の主題は「オイラーの等式」と呼ばれるが、これがオイラーに帰属するべきものであるかは明らかでない。オイラーは ''e'' を cos と sin と関連付ける式を記したが、より簡潔な「オイラーの等式」の導出過程を示す記録は残っていない。 == 歴史 == オイラーの等式は[[1748年]]に出版された彼の解析学の記念碑的研究に現れるということが主張されてきた<ref>Conway and Guy, pp. 254–255.</ref>。しかし、特にこの概念がオイラーに帰属できるものであるかどうかは、彼がそれを表示しなかったため、疑われてもいる<ref name=Sandifer2007>Sandifer, p. 4.</ref>(オイラーは''Introductio'' に「[[オイラーの公式]]」と呼ばれるもの、複素数の世界で {{math|''e''}} を''コサイン''と''サイン''の言葉に結び付けるもの、について書き<ref>Euler, p.147.</ref>、イギリスの数学者[[ロジャー・コーツ]]もこの公式について知っている<ref name=Sandifer2007/>)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * G. レイコフ (著), R.E. ヌーニェス (著)「数学の認知科学」丸善出版 * Conway, John Horton, and Guy, Richard (1996). ''[https://books.google.co.jp/books?id=0--3rcO7dMYC&pg=PA254&redir_esc=y&hl=ja The Book of Numbers]'' (Springer, 1996). ISBN 978-0-387-97993-9. * Crease, Robert P., "[http://physicsweb.org/articles/world/17/10/2 The greatest equations ever]", PhysicsWeb, October 2004. * Crease, Robert P. "[http://physicsweb.org/articles/world/20/3/3/1 Equations as icons]," PhysicsWeb, March 2007. * Derbyshire, J. ''Prime Obsession: Bernhard Riemann and the Greatest Unsolved Problem in Mathematics'' (New York: Penguin, 2004). * Euler, Leonhard. ''[http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k69587.image.r=%22has+celeberrimas+formulas%22.f169.langEN Leonhardi Euleri opera omnia. 1, Opera mathematica. Volumen VIII, Leonhardi Euleri introductio in analysin infinitorum. Tomus primus]'' (Leipzig: B. G. Teubneri, 1922). * Kasner, E., and Newman, J., ''Mathematics and the Imagination'' (Bell and Sons, 1949). * Maor, Eli, ''e: The Story of a number'' (Princeton University Press, 1998), ISBN 0-691-05854-7 * Nahin, Paul J., ''Dr. Euler's Fabulous Formula: Cures Many Mathematical Ills'' (Princeton University Press, 2006), ISBN 978-0691118222 * Reid, Constance, ''From Zero to Infinity'' (Mathematical Association of America, various editions). * Sandifer, C. Edward. ''[https://books.google.co.uk/books?id=sohHs7ExOsYC&pg=PA4&hl=en Euler's Greatest Hits]'' (Mathematical Association of America, 2007). ISBN 978-0-88385-563-8 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|none|32px]]}} *[[ド・モアブルの定理]] *[[オイラーの公式]] *[[複素指数函数]] *[[ゲルフォントの定数]] {{デフォルトソート:おいらあのとうしき}} [[Category:数学定数]] [[Category:複素数]] [[Category:複素解析の定理]] [[Category:ネイピア数]] [[Category:指数関数]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:レオンハルト・オイラー]] [[Category:人名を冠した数式]] [[pl:Wzór Eulera#Tożsamość Eulera]]
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原宿駅
原宿駅(はらじゅくえき)は、東京都渋谷区神宮前一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。駅番号はJY 19。 駅名は、開業当時に近隣にあった地名である原宿(東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿)から。 特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。また、近接する東京地下鉄(東京メトロ)千代田線の明治神宮前駅との連絡運輸が実施されている。なお、東京メトロ副都心線との接続駅は渋谷駅となるため、この駅での連絡運輸はないが、車内自動放送においては双方とも乗り換え案内がなされている。 原宿の玄関口であり、駅東側は表参道や竹下通りを中心にファッション・ショッピングの街が広がり、若者を中心に賑わいをみせている。一方、西側は明治神宮や代々木公園の森林に接している。 二代目となる旧駅舎は1924年に竣工した木造建築で、都内で現存する木造駅舎で最も古かった。建物は二階建てで、尖塔付きの屋根に白い外壁、露出した骨組という特徴を持つイギリス調のハーフティンバー様式が用いられていた。窓格子は二重斜格子文で、階段に使用されていた廃レールには「1950」の刻印が見られていた。新宿ゴールデン街とともに外国人観光客の注目を集めるスポットとして紹介されていた。 開業時は乗降客が少なかったが、1919年(大正8年)に明治神宮が造営された後には発展を続けた。乗降客が増加した1929年(昭和4年)には坂下口地下道(現・竹下改札)、1939年(昭和14年)には明治神宮側臨時プラットホーム(現在の2番線ホーム)が設置されている。 戦災からの復興の過程で、隣接する千駄ヶ谷地区には連れ込み宿が林立、原宿駅前にも同様の旅館が出現した。それらを一掃しようという運動が近隣住民やPTAを中心に行われ、原宿駅を含む原宿地区は1957年(昭和32年)、文教地区の指定を受けた。その結果、風俗営業は姿を消した。 単式ホーム2面2線を有する地上駅。 表参道口にはトイレが設置され、改札外に東京地下鉄(東京メトロ)の明治神宮前駅への乗り換え口がある。コンコースとホームを連絡するエスカレーターとエレベーターが設置されており、バリアフリー措置が取られているが、竹下口にはこのような設備はなく、改札口があるのみである。また、竹下口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝・深夜はインターホンによる案内となる。 元々は島式ホーム1面2線として供用していたが、2020年(令和2年)3月21日より外回り(2番線)ホームを明治神宮に面する単式ホームに移し、方向別のホームとなった。それまでの明治神宮側のホーム(旧・3番線ホーム、1940年元日より供用開始)は例年、明治神宮の初詣客が集中する期間のみ使用する臨時ホームとなっており、この際の外回り電車は臨時ホーム側で乗降を扱い、島式ホーム側(旧・2番線ホーム)は使用を中止していた。 (出典:JR東日本:駅構内図) 外回り・内回りともに当駅オリジナルのメロディが使われている。なお、2011年3月1日から3月20日までは期間限定でmiwaの楽曲『春になったら』が採用され、1番線ではサビ、2番線では冒頭部を使用していた。かつての臨時ホーム(3番線、現在の2番線)では発車ベルが使われていた。 駅北側(代々木駅寄り)の貨物線線路から分岐する形で設置されている、当駅に属する皇室専用の駅施設。この分岐は、明治神宮造営工事の資材輸送に使われた引き込み線を転用している。 正式な名称は原宿駅側部乗降場であるが、「北部乗降場」や「北乗降場」、「帝室御乗降場」などとも呼称され、「宮廷ホーム」の通称でも知られる。設置以来、お召し列車の発着に使われ、2013年(平成25年)時点では財務省とJR東日本の共同所有となっている。 有効長は217メートル、ホーム長は171メートルある。一般客が乗り降りする山手線のホームとは厳格に区別された宮廷ホームは簡素な造りで、屋根には古レールが使われているなど派手さはない。これは宮廷ホームが造られた当時、大正天皇が病気療養中だったためで、あまり派手な駅を作ると療養中の天皇が利用している姿が人目につき、健康を害している天皇の姿を国民が目の当たりにしたら、社会に動揺が広がることにもなりかねないと考えられ、あえて控えめに造られたとされている。敷地内にはホームの他に、信号扱所、貴賓室、待合室がある。 このホームが使用される際のみ、原宿駅は運転取扱駅へと一時的に昇格する。通常は当ホームの出発信号機・場内信号機はレンズ部分に黒い蓋をして使用停止とし、山手貨物線本線(通過線)側の出発信号機・場内信号機は閉塞信号機として扱っている。 大正天皇が宮城(きゅうじょう、皇居の旧称)から沼津御用邸や葉山御用邸等へ静養に出発するための専用駅として設置された。 工事は1925年(大正14年)夏、旧原宿駅跡地、および旧原宿変電所跡地とその側線を転用する形で着工され、同年10月15日に完成した。同年12月17日には試運転が行われ、大正天皇が初めて利用したのは、1926年(大正15年)8月10日、葉山御用邸に出発する際であった。 しかしながら大正天皇は同年12月25日に葉山御用邸にて崩御。生前に利用したのは1度だけであった。同27日、皇居へ戻るに際して霊柩列車がこのホームに到着した。 昭和時代には昭和天皇・香淳皇后が那須御用邸(栃木県那須町)や須崎御用邸(静岡県下田市)、全国植樹祭などへ向かう(行幸啓)場合などに運行される専用のお召し列車が年に数回発着していた。また、香淳皇后が須崎・那須両御用邸へ静養のために向かう際には、このホーム発の専用列車に乗車していた。 昭和天皇がこのホームを利用する場合、三権の長(内閣総理大臣・衆議院議長・参議院議長・最高裁判所長官)、国務大臣、日本国有鉄道(国鉄)総裁、東京鉄道管理局(1969年(昭和44年)4月以降は東京西鉄道管理局)長が揃って「お見送り」をすることが、国鉄時代の慣わしであった。 皇族専用ホームは皇族による利用のほか、1979年(昭和54年)には201系電車の試作車展示や、1988年(昭和63年)にはパビリオン列車「アメリカントレイン」の出発式といった、各種イベントにも用いられた。 平成の時代になると天皇・皇后は東京駅を利用することが多く、それ以前に他交通機関の発達もあって鉄道利用が少なく、お召し列車の運行自体が稀になっている。 天皇が原宿駅の皇室専用ホームを最後に使用したのは2001年(平成13年)5月21日、第52回全国植樹祭から帰った際である。以来、第126代天皇徳仁が即位した令和時代も含め、皇室専用ホームを皇族が利用した実績はない。 原宿駅・皇室専用ホームが利用されなくなった背景には、山手貨物線が埼京線の延伸や湘南新宿ラインの運行開始などにより過密ダイヤとなり、お召し列車の運行には不適切になっているという事情もあるという。乗降場の周囲では草刈りは定期的に実施されているものの、場内信号機は白い蓋で塞がれており、分岐器が使用停止のまま長らく列車の発着がないためにレールが錆び付くなど、即座には使用できない状態となっている。一方、皇室専用ホームは廃止されたわけではなく、宮内庁では今後、国賓の地方への案内といった場合に使用される可能性が示唆されている。2020年には皇室専用ホーム周囲に新たにフェンスが設置された。 2016年10月30日に、原宿駅開業110周年の記念として、ホームと貴賓室の一般公開が行われた。 2016年6月8日、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて、千駄ケ谷駅、信濃町駅とともに駅舎の建て替えを含む改良工事が発表された。 年始のみ使用している臨時ホームを新宿・池袋方面行き外回り専用ホームとして常設化する。他、2階建ての駅舎に建て替え、エレベーターとエスカレーターの増設、トイレや表参道改札口と通路の拡張などが行われる。また、新駅舎は明治神宮側にも出入口が設置される。なお、今回常設化される外回り専用ホームにはホームドアも設置され、改良工事後の島式ホームは内回り渋谷・品川方面行き専用ホームになる。これらは、2020年3月21日より供用開始されている。 工事の影響により2019年の正月三が日はこのホームは使用されなかった。JR東日本は、駅舎2階の連絡通路から明治神宮側への降車専用仮通路階段を開設(2018年12月31日午後11時 - 2019年1月3日午後5時)するとともに、代々木駅での乗降を呼び掛けた。 新駅舎の供用開始後、現駅舎は解体され、跡地は現駅舎のデザインを防火基準に即した建材で再現した商業施設となる。2016年に改良工事の計画が発表されたのち、渋谷区長の長谷部健や地元住民が駅舎の解体に反対し保存の声を上げたが、法律が定める耐火性能を保てないことなどを理由として解体されることとなった。2020年8月7日にJR東日本は、新駅舎の隣に、旧駅舎に使われていた資材を可能な限り使用して、かつ外観も旧駅舎を極力再現して建て替えることを発表し、同年8月24日より解体工事に着手している。 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は57,724人であり、JR東日本全体では武蔵境駅に次いで第65位。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 最寄りバス停留所は原宿駅、原宿駅入口、明治神宮の各停留所となる。 駅構内のホーム沿いに設置されている大型看板「原宿ファッションジョイボード」(縦3 m×横4 m)の17面全てを1週間限定で貸し切り、社会的・文化的メッセージのあるポスターの連作を展示する広告展開企画で、1979年12月から春と秋の年2回開催している。
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原宿駅(はらじゅくえき)は、東京都渋谷区神宮前一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。駅番号はJY 19。
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[[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面2線<ref group="注">この他、[[代々木駅]]寄りに原宿駅側部乗降場を設置。</ref> |開業年月日 = [[1906年]]([[明治]]39年)[[10月30日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 57,724 |統計年度 = 2022年<!--リンク不要--> |乗換 = {{駅番号r|C|03|#00bb85|4}} {{駅番号r|F|15|#9c5e31|4}} [[明治神宮前駅]]<ref name="transfer">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200512081618/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=●JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-05-12|accessdate=2020-07-26|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref><br />([[東京メトロ千代田線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]) |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|竹下口に導入<ref name="StationCd=1256_230911" />。}}<ref name="StationCd=1256_230911" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅 }} |備考全幅 = {{Reflist|group="注"}} }} [[File:JRE-Harajuku-Station-05.jpg|thumb|竹下口(2011年9月)]] '''原宿駅'''(はらじゅくえき)は、[[東京都]][[渋谷区]][[神宮前 (渋谷区)|神宮前]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[山手線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JY 19'''。 == 概要 == 駅名は、開業当時に近隣にあった[[地名]]である[[原宿]]([[東京府]][[豊多摩郡]][[千駄ヶ谷町|千駄ヶ谷村]][[大字]]原宿)から。 [[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。また、近接する[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ千代田線|千代田線]]の[[明治神宮前駅]]との[[連絡運輸]]が実施されている。なお、[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ副都心線|副都心線]]との接続駅は[[渋谷駅]]となるため、この駅での連絡運輸はないが、車内自動放送においては双方とも乗り換え案内がなされている。 原宿の玄関口であり、駅東側は[[表参道 (原宿)|表参道]]や[[竹下通り]]を中心にファッション・ショッピングの街が広がり、若者を中心に賑わいをみせている。一方、西側は[[明治神宮]]や[[代々木公園]]の森林に接している。 二代目となる旧駅舎は[[1924年]]に竣工した[[木構造 (建築)|木造建築]]で<ref name="onoda-1" />、都内で現存する木造駅舎で最も古かった<ref group="新聞" name="sankei-20200321">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/life/news/200321/lif2003210049-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200321115329/https://www.sankei.com/smp/life/news/200321/lif2003210049-s1.html|title=【原宿駅舎物語】(下)現役退くハーフティンバー 今秋の解体待つ|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-03-21|accessdate=2020-03-21|archivedate=2020-03-21}}</ref>。建物は二階建てで、尖塔付きの屋根に白い外壁、露出した骨組という特徴を持つ[[イギリス]]調の[[ハーフティンバー様式]]が用いられていた<ref group="新聞" name="sankei-20200321"/><ref name="islands">アイランズ『東京の戦前 昔恋しい散歩地図』[[草思社]] 2004年1月30日発行第1刷</ref>。窓格子は二重斜格子文で、階段に使用されていた廃[[軌条|レール]]には「1950」の刻印が見られていた。[[新宿ゴールデン街]]とともに外国人観光客の注目を集めるスポットとして紹介されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://toyokeizai.net/articles/-/151486|title=「原宿駅解体」が示す日本的観光政策の大問題 観光客が見たいのは最新鋭のビルじゃない|date=2016-12-28|publisher=[[東洋経済新報社]]|work=東洋経済オンライン|accessdate=2020-07-26|archivedate=2016-12-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161229034917/http://toyokeizai.net/articles/-/151486}}</ref>。 == 歴史 == [[File:Harajuku Station.19630626.jpg|thumb|原宿駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] 開業時は乗降客が少なかったが、[[1919年]](大正8年)に[[明治神宮]]が造営された後には発展を続けた<ref name="islands"/>。乗降客が増加した[[1929年]]([[昭和]]4年)には坂下口地下道(現・竹下[[改札]])、[[1939年]](昭和14年)には明治神宮側臨時[[プラットホーム]](現在の2番線ホーム)が設置されている<ref name="islands"/>。 === 戦前 === * [[1906年]]([[明治]]39年) ** [[10月30日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業。同時に貨物営業も開始。駅は現在位置より[[代々木駅]]寄りにあった<ref name="onoda-1">{{Cite book|和書|author=小野田滋|date=2011-01-01|title=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|chapter=東京鉄道遺産をめぐる22 大正浪漫の駅 -原宿駅(その1)-|volume=51|issue=1|pages=134-139|publisher=[[交友社]]}}</ref><ref group="注釈">現在駅と「宮廷ホーム」の間付近に本屋(駅舎)とホームが位置した。</ref>。 ** [[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]され、[[鉄道省|国有鉄道]]の駅となる。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により山手線の所属となる。 * [[1914年]]([[大正]]3年) ** [[5月24日]]:[[昭憲皇太后]]の葬儀が隣接する[[ワシントンハイツ (在日米軍施設)#代々木練兵場|代々木練兵場]]で行われる。原宿駅南方より引き込み線を敷設し、霊柩列車出発用の代々木仮停車場を設ける<ref name="onoda-2">{{Cite book|和書|author=小野田滋|date=2011-02-01|title=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|chapter=東京鉄道遺産をめぐる22 大正浪漫の駅 -原宿駅(その2)-|volume=51|issue=2|pages=138-143|publisher=[[交友社]]|ref=小野田2011-2}}</ref>。 ** [[12月18日]]:駅北側(代々木駅寄り)に原宿[[変電所]]設置<ref name="onoda-2" />。京浜線[[鉄道の電化|電化]]にあたって新設された矢口変電所から受電し、総容量1,000&nbsp;[[ワット (単位)|kW]]で[[直流]]600&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]を給電した<ref name="onoda-2" />。 * [[1916年]](大正5年)1月:明治神宮造営のために駅北部から分岐する引き込み線を設置<ref name="onoda-1" />。 * [[1920年]](大正9年)11月1日:明治神宮が完成、鎮座祭が行われる<ref name="onoda-1" />。 * [[1922年]](大正11年) ** [[7月12日]]:渋谷駅 - 当駅間が[[複々線]]化<ref name="onoda-1" />。 ** [[11月11日]]:原宿変電所廃止<ref name="onoda-2" />。 * [[1923年]](大正12年)[[9月1日]]:[[関東大震災]]。 * [[1924年]](大正13年) ** 6月:開業当初よりも南寄り(渋谷駅寄り)の現在地に移動<ref name="furusato">東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編『渋谷区の歴史』名著出版 1978年9月30日発行 p.206</ref>。現在に続くイギリス風木造駅舎が竣工、設計は[[鉄道省]]技師の長谷川馨<ref name="onoda-1" />。 ** 12月:当駅 - [[新大久保駅]]間が複々線化。 * [[1925年]](大正14年)[[10月15日]]:原宿変電所跡地に[[#皇室専用ホーム|原宿駅側部乗降場(宮廷ホーム)]]が完成。[[大正天皇]]が[[日光市|日光]]・[[沼津御用邸|沼津]]・[[葉山御用邸|葉山]]の[[御用邸]]へ静養に出発する専用の目的で建設された。 * [[1940年]]([[昭和]]15年)[[1月1日]]:臨時ホームの使用を開始<ref name="RP454_50" />。 * [[1941年]](昭和16年)[[2月1日]]:貨物取り扱いを廃止。 * [[1945年]](昭和20年)[[4月14日]]:[[太平洋戦争]]下の[[日本本土空襲|空襲]]により駅舎に直撃弾を受けるも全て[[不発弾|不発]]で、焼失を免れる。 === 戦後 === 戦災からの復興の過程で、隣接する[[千駄ヶ谷]]地区には[[ラブホテル#日本における歴史|連れ込み宿]]が林立、原宿駅前にも同様の旅館が出現した<ref name="jingumae42">神宮前五丁目『原宿 1995』コム・プロジェクト 穏田表参道商店会 1994年12月25日発行 p.42</ref>。それらを一掃しようという運動が近隣住民や[[PTA]]を中心に行われ、原宿駅を含む原宿地区は[[1957年]](昭和32年)、[[文教地区]]の指定を受けた。その結果、[[風俗営業]]は姿を消した<ref name="jingumae42"/>。 * [[1952年]](昭和27年)[[10月14日]]:鉄道開業80周年を記念して「[[皇室]]専用ホーム」の一般公開を実施。復元された[[北海道]]最初の[[蒸気機関車]][[国鉄7100形蒸気機関車#1952年に復元された「義經」と「しづか」|「義經」「しづか」]]が展示された。 * [[1972年]](昭和47年)[[10月20日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)の[[明治神宮前駅]]が付近に開業。 * [[1976年]](昭和51年)7月:[[みどりの窓口]]の営業を開始<ref>国鉄監修『交通公社の時刻表』1976年8月号</ref>。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅(山手線所属)となる。 ** [[7月1日]]:[[目白駅]]とともにホームの全面禁煙を試行(1994年9月まで<ref group="新聞">{{Cite news|url=|title=全面禁煙駅 8年目の&#8220;挫折&#8221; JR山手線の原宿・目白|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1994-08-04|page=15(夕刊)}}</ref>)<ref group="新聞">{{Cite news|title=終日ダメ原宿・目白駅 来月から煙害追放の第一弾|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1987-06-25|page=27(朝刊)}}</ref>。なお、他の駅で喫煙コーナー設置による分煙が採用されたため、統一する形でいったん取りやめとなった後、2009年4月より再度全面禁煙化された。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月8日]]:表参道改札に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1992年]](平成4年)[[12月4日]]:竹下口に[[自動改札機]]を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[1997年]](平成9年):「[[関東の駅百選]]」に認定される<ref name="stations" />。選定理由は「神宮の森の緑とマッチしている西洋風の駅舎」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=40 - 41・226頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[12月13日]]:[[ホームドア]]の使用を開始。 * [[2017年]](平成29年)[[1月31日]]:みどりの窓口の営業を終了。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月21日]]:新駅舎が供用開始<ref group="報道" name="press/20191119_to03"/><ref group="新聞" name="asahi-20200321">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASN3P0TRCN3NUTIL00B.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200321041637/https://www.asahi.com/articles/ASN3P0TRCN3NUTIL00B.html|title=原宿駅、木造駅舎での営業終える 21日朝から新駅舎に|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2020-03-21|accessdate=2020-03-21|archivedate=2020-03-21}}</ref><ref group="新聞" name="2019-11-19-mainichi">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20191119/k00/00m/040/224000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191119103213/https://mainichi.jp/articles/20191119/k00/00m/040/224000c|title=JR東の原宿駅、建て替えへ 東京五輪・パラリンピック後 商業施設に|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2019-11-19|accessdate=2019-11-19|archivedate=2019-11-19}}</ref>。外回りホーム(旧2番線)が新ホームへと移動<ref group="報道" name="press/20191119_to03">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20191119_to03.pdf|title=原宿駅新駅舎・新ホームの供用開始のお知らせと年末年始の混雑緩和に向けたご協力のお願い|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-11-19|accessdate=2019-11-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191119051048/https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20191119_to03.pdf|archivedate=2019-11-19}}</ref><ref group="新聞" name="asahi-20200321"/><ref group="新聞" name="2019-11-19-mainichi"/>。 == 駅構造 == [[プラットホーム#単式ホーム|単式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。 表参道口には[[便所|トイレ]]が設置され、改札外に[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[明治神宮前駅]]への乗り換え口がある。コンコースとホームを連絡する[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が設置されており、[[バリアフリー]]措置が取られているが、竹下口にはこのような設備はなく、改札口があるのみである。また、竹下口には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝・深夜はインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=1256_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1256|title=駅の情報(原宿駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911140425/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1256|archivedate=2023-09-11}}</ref>。 元々は島式ホーム1面2線として供用していたが、[[2020年]]([[令和]]2年)[[3月21日]]より外回り(2番線)ホームを[[明治神宮]]に面する単式ホームに移し、方向別のホームとなった<ref group="報道" name="press/20191119_to03"/>。それまでの明治神宮側のホーム(旧・3番線ホーム、[[1940年]]元日より供用開始<ref name="RP454_50">{{Cite book|和書|author=沢柳健一|title=[[鉄道ピクトリアル]]|chapter=山手線にまつわるエピソード集|volume=35|issue=10|pages=50-51|date=1985-10-01|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>)は例年、明治神宮の[[初詣]]客が集中する期間のみ使用する臨時ホームとなっており、この際の外回り電車は臨時ホーム側で乗降を扱い、島式ホーム側(旧・2番線ホーム)は使用を中止していた。 === のりば === <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR_JY_line_symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center"|内回り |[[渋谷駅|渋谷]]・[[品川駅|品川]]・[[浜松町駅|浜松町]]・[[東京駅|東京]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|外回り |[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]・[[上野駅|上野]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1256.html JR東日本:駅構内図]) {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:Harajuku Station 200321i.jpg|表参道改札と切符売り場(2020年3月) |File:JRE Harajuku-STA Takeshita-Gate.jpg|竹下改札(2023年1月) |File:JRE Harajuku-STA Platform1.jpg|1番線ホーム(2022年8月) |File:JRE Harajuku-STA Platform2.jpg|2番線ホーム(2022年8月) |File:JRE-Harajuku-Station-03.jpg|旧駅舎(2011年9月) |File:JR East Harajuku Station Extra-Platform for Newyear period.jpg|駅改良工事前の臨時ホームに立てられていた駅名板(2002年頃) |File:Harajuku Station 191224e.jpg|かつて明治神宮にあった臨時出入口(2019年12月) }} === 発車メロディ === 外回り・内回りともに当駅オリジナルのメロディが使われている<ref>{{Cite book|和書|title=東京の電車に乗ろう!|publisher=昭文社|year=2008|page=26}}</ref>。なお、[[2011年]][[3月1日]]から[[3月20日]]までは期間限定で[[miwa]]の楽曲『[[春になったら]]』が採用され、1番線ではサビ、2番線では冒頭部を使用していた<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/music/news/46092|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110311121006/http://natalie.mu/music/news/46092|title=ドア閉まりまーす! miwaの話題曲がJR原宿駅発車メロディに|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]|date=2011-03-08|accessdate=2020-07-26|archivedate=2011-03-11}}</ref>。かつての臨時ホーム(3番線、現在の2番線)では発車ベルが使われていた。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] |原宿a |- !2 |原宿b |} == 皇室専用ホーム == [[画像:Harajuku-Kyutei-Platform.jpg|thumb|皇室専用ホームの入口付近(2008年9月)]] 駅北側([[代々木駅]]寄り)の[[山手線#山手貨物線|貨物線]]線路から分岐する形で設置されている、当駅に属する[[皇室]]専用の駅施設。この分岐は、明治神宮造営工事の資材輸送に使われた引き込み線を転用している<ref group="新聞" name="朝日20191026"/>。 正式な名称は'''原宿駅側部乗降場'''であるが<ref group="新聞" name="tetsudou20161030">{{Cite news|url=https://tetsudo-shimbun.com/article/topic/entry-891.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190514083425/https://tetsudo-shimbun.com/article/topic/entry-891.html|title=ベールに包まれたもう1つの原宿駅「宮廷ホーム」に行ってみた|newspaper=鉄道新聞|date=2016-10-30|accessdate=2020-08-08|archivedate=2019-05-14}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星山一男|title=お召し列車百年|publisher=[[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]|date=1973-05-20|isbn=|edition=初版|page=61}}</ref>、「北部乗降場」や「北乗降場<ref>鉄道省編『大正天皇大喪記録』</ref>」、「帝室御乗降場」などとも呼称され<ref name="onoda-2" />、「'''宮廷ホーム'''」の通称<ref group="新聞" name="朝日20191026">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14229696.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191028063337/https://www.asahi.com/articles/DA3S14229696.html|title=(歴史のダイヤグラム)丸の内駅舎と宮廷ホーム|newspaper=朝日新聞|date=2019-10-26|author=原武史|edition=土曜朝刊別刷り[[be (朝日新聞)|be]]|accessdate=2021-04-11|page=4|archivedate=2019-10-28}}</ref><ref group="新聞" name="tetsudou20161030"/>でも知られる。設置以来、[[お召し列車]]の発着に使われ、2013年([[平成]]25年)時点では[[財務省 (日本)|財務省]]とJR東日本の共同所有となっている<ref name="小川">{{Cite book |和書 |author=小川裕夫 |year=2013 |title=封印された鉄道史 |pages=104 - 105|publisher=[[彩図社]] |location= |isbn=978-4-88392-901-6 |quote= }}</ref>。 [[有効長]]は217メートル、ホーム長は171メートルある<ref group="新聞" name="tetsudou20161030"/>。一般客が乗り降りする山手線のホームとは厳格に区別された宮廷ホームは簡素な造りで、屋根には古レールが使われているなど派手さはない<ref name="小川" />。これは宮廷ホームが造られた当時、[[大正天皇]]が病気療養中だったためで、あまり派手な駅を作ると療養中の天皇が利用している姿が人目につき、健康を害している天皇の姿を国民が目の当たりにしたら、社会に動揺が広がることにもなりかねないと考えられ、あえて控えめに造られたとされている<ref name="小川" />。敷地内にはホームの他に、信号扱所、[[貴賓室]]、待合室がある<ref group="新聞" name="tetsudou20161030"/>。 このホームが使用される際のみ、原宿駅は[[運転取扱駅]]へと一時的に昇格する。通常は当ホームの[[日本の鉄道信号#出発信号機|出発信号機]]・[[日本の鉄道信号#場内信号機|場内信号機]]はレンズ部分に黒い蓋をして使用停止とし、[[山手線|山手貨物線]]本線(通過線)側の出発信号機・場内信号機は[[日本の鉄道信号#閉塞信号機|閉塞信号機]]として扱っている。 === 大正 === [[大正天皇]]が宮城(きゅうじょう、[[皇居]]の旧称)から[[沼津御用邸]]や[[葉山御用邸]]等へ静養に出発するための専用駅として設置された。 工事は[[1925年]](大正14年)夏、旧原宿駅跡地、および旧原宿変電所跡地とその側線を転用する形で着工され<ref name="onoda-2" />、同年[[10月15日]]に完成した<ref group="報道" name="press20160930"/>。同年[[12月17日]]には[[試運転]]が行われ、大正天皇が初めて利用したのは、[[1926年]](大正15年)[[8月10日]]、葉山御用邸に出発する際であった。 しかしながら大正天皇は同年[[12月25日]]に葉山御用邸にて[[崩御]]。生前に利用したのは1度だけであった。同[[12月27日|27日]]、皇居へ戻るに際して[[皇室用客車#3号御料車(初代)→13号御料車|霊柩列車]]がこのホームに到着した<ref name="onoda-2" />。 === 昭和 === [[File:183royal.JPG|thumb|right|皇室専用ホームに入線する[[国鉄183系電車|183系]](貴賓車[[国鉄157系電車#貴賓車クロ157形|クロ157-1]]牽引)]] [[画像:201 900 prototype.JPG|thumb|right|201系試作車展示会<br/>(1979年5月)]] 昭和時代には[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]が那須御用邸([[栃木県]][[那須町]])や須崎御用邸([[静岡県]][[下田市]])、[[全国植樹祭]]などへ向かう([[行幸|行幸啓]])場合などに運行される専用のお召し列車が年に数回発着していた。また、香淳皇后が須崎・那須両御用邸へ静養のために向かう際には、このホーム発の専用列車に乗車していた。 昭和天皇がこのホームを利用する場合、[[三権の長]]([[内閣総理大臣]]・[[衆議院議長]]・[[参議院議長]]・[[最高裁判所長官]])、[[国務大臣]]、[[日本国有鉄道]](国鉄)[[総裁#法人・機関|総裁]]、東京[[鉄道管理局]](1969年(昭和44年)4月以降は東京西鉄道管理局)長が揃って「お見送り」をすることが、国鉄時代の慣わしであった。 皇族専用ホームは皇族による利用のほか、[[1979年]](昭和54年)には[[国鉄201系電車|201系電車]]の試作車展示や<ref name="onoda-2" />、[[1988年]](昭和63年)にはパビリオン列車「[[アメリカントレイン]]」の出発式といった、各種イベントにも用いられた。 === 平成・令和 === 平成の時代になると[[上皇明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]は[[東京駅]]を利用することが多く、それ以前に他交通機関の発達もあって鉄道利用が少なく、お召し列車の運行自体が稀になっている。 天皇が原宿駅の皇室専用ホームを最後に使用したのは[[2001年]](平成13年)[[5月21日]]、第52回[[全国植樹祭]]から帰った際である。以来、第126代天皇[[徳仁]]が即位した[[令和時代]]も含め、皇室専用ホームを皇族が利用した実績はない。 原宿駅・皇室専用ホームが利用されなくなった背景には、山手貨物線が[[埼京線]]の延伸や[[湘南新宿ライン]]の運行開始などにより過密[[ダイヤグラム|ダイヤ]]となり、お召し列車の運行には不適切になっているという事情もあるという<ref group="新聞" name="asahi">{{Cite news|url = http://www.asahi.com/travel/rail/news/TKY201008300426.html |title = 原宿駅の北、宮廷ホームひっそり 皇室専用、9年不使用 |newspaper =朝日新聞|date = 2010-08-31 |accessdate = 2020-07-26|archiveurl = https://web.archive.org/web/20100901104335/http://www.asahi.com/travel/rail/news/TKY201008300426.html |archivedate =2010-09-01|deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。乗降場の周囲では草刈りは定期的に実施されているものの、場内信号機は白い蓋で塞がれており、[[分岐器]]が使用停止のまま長らく列車の発着がないためにレールが錆び付くなど、即座には使用できない状態となっている。一方、皇室専用ホームは廃止されたわけではなく、[[宮内庁]]では今後、[[国賓]]の地方への案内といった場合に使用される可能性が示唆されている<ref group="新聞" name="asahi" />。2020年には皇室専用ホーム周囲に新たにフェンスが設置された<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/03/09/181303.html|title=原宿駅皇室専用ホームにフェンスが設置される|website=[https://railf.jp/news/ 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース]|publisher=交友社|date=2020-03-09|accessdate=2021-04-11}}</ref>。 2016年10月30日に、原宿駅開業110周年の記念として、ホームと貴賓室の一般公開が行われた<ref group="報道" name="press20160930">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/tokyo/20160930_t02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200808000830/https://www.jreast.co.jp/press/2016/tokyo/20160930_t02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=恵比寿・原宿・代々木駅開業110周年記念イベントを開催します!|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2016-09-30|accessdate=2020-08-08|archivedate=2020-08-08}}</ref><ref group="新聞" name="tetsudou20161030"/>。 == 駅改良工事 == 2016年6月8日、[[2020年東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]に向けて、[[千駄ケ谷駅]]、[[信濃町駅]]とともに駅舎の建て替えを含む改良工事が発表された<ref group="報道" name="2020tokyo">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160605.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190818210947/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160605.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅改良の工事計画について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-06-08|archivedate=2019-08-18|accessdate=2019-11-19}}</ref>。 年始のみ使用している臨時ホームを[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]方面行き外回り専用ホームとして常設化する。他、2階建ての駅舎に建て替え、エレベーターとエスカレーターの増設、トイレや表参道改札口と通路の拡張などが行われる。また、新駅舎は明治神宮側にも出入口が設置される<ref group="報道" name="2020tokyo"/>。なお、今回常設化される外回り専用ホームにはホームドアも設置され、改良工事後の島式ホームは内回り渋谷・品川方面行き専用ホームになる。これらは、2020年3月21日より供用開始されている<ref group="報道" name="press/20191119_to03" /><ref group="新聞" name="2019-11-19-mainichi"/>。 工事の影響により2019年の[[正月三が日]]はこのホームは使用されなかった。JR東日本は、駅舎2階の連絡通路から明治神宮側への降車専用仮通路階段を開設(2018年12月31日午後11時 - 2019年1月3日午後5時)するとともに、[[代々木駅]]での乗降を呼び掛けた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20181118_t03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181215043831/http://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20181118_t03.pdf|format=PDF|language=日本語|title=原宿駅改良工事に伴う年末年始の混雑緩和に向けたご協力のお願い|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2018-11-27|accessdate=2020-07-26|archivedate=2018-12-15}}</ref>。 新駅舎の供用開始後、現駅舎は解体され、跡地は現駅舎のデザインを防火基準に即した建材で再現した商業施設となる<ref group="報道" name="press/20191119_to03" /><ref group="新聞" name="2019-11-19-mainichi"/>。2016年に改良工事の計画が発表されたのち、渋谷区長の[[長谷部健]]や地元住民が駅舎の解体に反対し保存の声を上げたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://toyokeizai.net/articles/-/158389|title=「原宿駅改良計画」に渋谷区が不安を抱く理由 外国人を魅了する建築物が姿を消す可能性も|date=2017-02-15|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2020-07-26|archivedate=2017-02-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170215041359/http://toyokeizai.net/articles/-/158389}}</ref>、法律が定める耐火性能を保てないことなどを理由として解体されることとなった<ref group="新聞" name="asahi-20200321"/>。[[2020年]][[8月7日]]にJR東日本は、新駅舎の隣に、旧駅舎に使われていた資材を可能な限り使用して、かつ外観も旧駅舎を極力再現して建て替えることを発表し、同年[[8月24日]]より解体工事に着手している<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200807_to01.pdf|title=旧原宿駅舎は、地域に親しまれてきた西洋風建物の外観を再現して建替えます|format=PDF|language=日本語|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2020-08-07|accessdate=2020-08-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200807051023/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200807_to01.pdf|archivedate=2020-08-07}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20200808-OYT1T50189/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200808061845/https://www.yomiuri.co.jp/national/20200808-OYT1T50189/|title=旧原宿駅舎、24日から解体…五輪待たずにお別れ|newspaper=[[読売新聞]]|date=2020-08-08|accessdate=2020-08-08|archivedate=2020-08-08}}</ref>。 == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''57,724人'''であり<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>、JR東日本全体では[[武蔵境駅]]に次いで第65位。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/kankobutsu/shibuya_gaiyo/index.html 渋谷区勢概要] - 渋谷区</ref> !rowspan="2"|年度 !colspan="3"|1日平均乗車人員 !rowspan="2"|出典 |- !定期外!!定期!!合計 |- |1989年(平成元年) | | |70,838 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成元年)]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) | | |69,709 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | | |69,331 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | | |68,156 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | | |67,208 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | | |66,301 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) | | |67,265 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | | |70,586 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | | |71,058 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | | |71,819 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>71,946 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>71,364 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>72,392 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>72,463 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref> 72,400 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>71,685 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>73,446 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>75,149 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>76,788 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>74,524 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>75,581 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>71,456 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>69,750 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR" name="jreast-2012" />47,354 |<ref group="JR" name="jreast-2012" />24,117 |<ref group="JR" name="jreast-2012">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>71,472 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR" name="jreast-2013" />47,713 |<ref group="JR" name="jreast-2013" />23,152 |<ref group="JR" name="jreast-2013">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>70,866 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR" name="jreast-2014" />48,090 |<ref group="JR" name="jreast-2014" />22,676 |<ref group="JR" name="jreast-2014">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>70,766 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR" name="jreast-2015" />50,476 |<ref group="JR" name="jreast-2015" />23,256 |<ref group="JR" name="jreast-2015">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>73,733 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR" name="jreast-2016" />52,754 |<ref group="JR" name="jreast-2016" />23,330 |<ref group="JR" name="jreast-2016">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>76,084 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR" name="jreast-2017" />51,091 |<ref group="JR" name="jreast-2017" />23,262 |<ref group="JR" name="jreast-2017">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>74,353 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR" name="jreast-2018" />51,669 |<ref group="JR" name="jreast-2018" />23,672 |<ref group="JR" name="jreast-2018">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>75,341 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR" name="jreast-2019" />48,861 |<ref group="JR" name="jreast-2019" />23,717 |<ref group="JR" name="jreast-2019">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>72,579 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR" name="jreast-2020" />24,058 |<ref group="JR" name="jreast-2020" />17,021 |<ref group="JR" name="jreast-2020">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>41,080 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR" name="jreast-2021" />29,967 |<ref group="JR" name="jreast-2021" />16,488 |<ref group="JR" name="jreast-2021">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>46,455 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="jreast-2022" />40,615 |<ref group="JR" name="jreast-2022" />17,109 |<ref group="JR" name="jreast-2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>57,724 | |} == 駅周辺 == {{See also|原宿|神宮前 (渋谷区)|神南|代々木神園町|千駄ヶ谷|明治神宮前駅#駅周辺}} * [[明治神宮]] * [[代々木公園]] * [[東郷神社 (渋谷区)|東郷神社]]、原宿東郷記念館 * [[原宿警察署|警視庁原宿警察署]] * [[明治通り (東京都)|明治通り]] * [[竹下通り]] * [[表参道 (原宿)|表参道]] * [[国立代々木競技場]] * [[アドヴァン]]本社 * [[原宿駅前ステージ]] - アイドルグループ「[[原駅ステージA]]」と「ふわふわ」の専用劇場。 * [[明治神宮前駅]]([[東京メトロ千代田線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]) == バス路線 == <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 最寄り[[バス停留所]]は'''原宿駅前'''、'''原宿駅入口'''、'''明治神宮'''の各停留所となる。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !停留所名!!運行事業者!!系統・行先 |- |style="text-align:center;"|'''原宿駅前''' |style="text-align:center;"|[[都営バス]] |[[都営バス新宿支所#早81系統|'''早81''']]:[[早稲田大学|早大正門]] / [[渋谷駅|渋谷駅東口]](循環) |- |style="text-align:center;"|'''原宿駅入口''' |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[ハチ公バス]] |{{Unbulleted list|[[ハチ公バス#春の小川ルート|'''春の小川ルート''']]:[[代々木八幡駅|代々木八幡]]・[[新国立劇場]]方面 / 渋谷区役所|[[ハチ公バス#神宮の杜ルート|'''神宮の杜ルート''']]:[[表参道駅]]・[[千駄ケ谷駅|千駄ヶ谷駅]]方面 / 渋谷駅ハチ公口}} |- |style="text-align:center;"|'''明治神宮''' |'''神宮の杜ルート''':表参道駅・千駄ヶ谷駅方面 |} == 原宿ファッションジョイボード文化展 == 駅構内のホーム沿いに設置されている大型看板「原宿ファッションジョイボード」(縦3&nbsp;m×横4&nbsp;m)の17面全てを1週間限定で貸し切り、社会的・文化的メッセージのあるポスターの連作を展示する広告展開企画で、[[1979年]]12月から春と秋の年2回開催している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nkb.co.jp/news/201504101437.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190514144704/http://www.nkb.co.jp/news/201504101437.html|title=若い世代が多数訪れる原宿駅を舞台 大型看板に「胸キュン」シーンでパスワードの大切さを啓発|date=2015-04-10|archivedate=2019-05-14|accessdate=2021-04-10|publisher=エヌケービー|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 * 1979年冬:原宿ものがたり * 2002年春:ワールドカップ 日本代表がんばれ * 2014年春:ブレイブサークル大腸がん撲滅キャンペーン”40歳になったら毎年、大腸がん検診を受けましょう! * 2014年秋:『福島魅力再発見の旅』〜「福が満開、福のしま。」でお待ちしております〜 * 2015年春:パスワード―もっと強くキミを守りたい―<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ipa.go.jp/security/keihatsu/munekyun-pw/photo/index.html|title=原宿ファッションジョイボード文化展に「パスワード」をテーマにしたマンガポスターを出展中!|publisher=[[情報処理推進機構]]|date=2015-04-03日|accessdate=2019-11-26}}</ref> == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR_JY_line_symbol.svg|15px|JY]] 山手線 :: [[渋谷駅]] (JY 20) - '''原宿駅 (JY 19)''' - [[代々木駅]] (JY 18) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JRの1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; JRの統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=大正天皇大喪記録|publisher=鉄道省|year=1928|ref=鉄道省1928}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1256|name=原宿}} {{山手線}} {{関東の駅百選}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=原宿駅側部乗降場|1=皇室の施設|2=1926年開業の鉄道駅}} {{デフォルトソート:はらしゆくえき}} [[Category:渋谷区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 は|らしゆく]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:1906年開業の鉄道駅]] [[Category:原宿]] [[Category:神宮前 (渋谷区)]] [[Category:1924年竣工の日本の建築物]] [[Category:西洋館]] [[Category:日本の木造建築物]]
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7,821
帰納的集合
指示関数が帰納的関数となるような集合を帰納的集合(きのうてきしゅうごう)という。 端的に言えば、決定可能な集合であり、チャーチのテーゼを認めるならば、計算可能な集合である。 たとえば、素数の集合は、帰納的集合である。一方で停止性問題(実行すると停止するプログラムと入力の組の集合)は帰納的でない。
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代々木駅
代々木駅(よよぎえき)は、東京都渋谷区代々木一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 JR東日本の中央本線と山手線の2路線、都営地下鉄の大江戸線が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線に駅番号が付与されている。 JR東日本の駅は、中央本線を所属線としている。中央本線・山手線とも複々線で、中央本線は緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみ、山手線は電車線で運行される環状路線としての山手線電車のみがそれぞれ停車し、急行線を走行する中央線快速や山手貨物線を走行する埼京線・湘南新宿ラインおよび特急列車は停車しない。 特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。 当駅に近かった代々木村に因む。 ただし、当駅所在地は代々木村(駅開業時点は合併して代々幡町)ではなく千駄ヶ谷町であり、在来の代々木地域には含まれない。地元住民にとって代々木といえば、当駅周辺より上原や富ケ谷といった地域を指していた。 開業当時、代々木村に駅がなく(小田急小田原線と京王線は開通前)人口が多かった(合併後で7万人)ことが背景と見られる。 2面2線の相対式ホームが1面2線の島式ホームを挟み、合計3面4線を有する高架駅。 中央部の2・3番線島式ホームは、中央緩行線下り線と山手線内回りが同一ホームであり、千駄ケ谷方面から渋谷方面への乗り換え利便性を図っている。ホームの新宿寄りには段差があり、柵が設置されている。こうした段差を持つ島型ホームは極めて珍しいが、これは代々木駅が極端な勾配を持つためである。 出入口は西口・東口と北口の3か所で、西口と北口には指定席券売機が設置されており、都営地下鉄大江戸線の乗換ルートにもなっている。かつては、西口にみどりの窓口が設けられていた。東口は、当駅南端にある線路高架下を西から東方向へとくぐる狭隘な一方通行道路の先(東端)にある山手貨物線の踏切を越えた先にあり、特徴的なドーム型出入口である。また、東口と北口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、東口は終日、北口は一部の時間帯はインターホンによる案内となる。 北口改札内コンコースには各ホームとの間にエスカレーターがあり、北口出口に都営地下鉄大江戸線改札口までエレベーターが設けられている。東口・西口改札内コンコースには各ホームとの間にエレベーターが設けられている他、スロープや多機能トイレが設置されている。 北隣の新宿駅が度重なる改良工事で当駅方に相次いで延長された。そのため、2016年現在で新宿駅5・6番線ホーム南端と当駅のホーム北端はわずか100メートル程度しか離れていない。山手線の運転士にとって新宿駅から代々木駅への進入は、ホームに入ってからもカーブがあり見通しが悪く、アップダウンもあるためブレーキのタイミングが計りづらい、山手線随一の難所ともされた。 (出典:JR東日本:駅構内図) 1970年代半ばから1990年頃まで、2番線ホームの先頭にある階段脇の壁に「らくがきコーナー」と呼ばれるスペースが設けられ、駅員は毎朝ここにB0大の白紙を貼り出し、駅の乗客に自由に書き込ませていた。当初は一般的な伝言板としての利用を見込んでのものだったが、いつしか代ゼミなどの予備校生や、代アニや東京デザイナー学院などの専門学校生といった絵心のある若者たちの書き込みで占拠されるようになり、毎日夕方までには彼らの描いた漫画やアニメのキャラクターなど、緻密で時には極彩色のイラストの寄せ書きで紙面が埋め尽くされるようになった。同時期にはJR水道橋駅にも同じような落書きボードがあり、そちらは「やおい」などの女子高生の参加者が多かった。 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。 北隣の新宿駅は地上に上がるまでに時間を要するため、JR山手線、中央・総武線との乗り換えは当駅が至便である。 A3出口とコンコースを結ぶエレベーターは両側にドアがあり、JR北口からも利用できるようになっている。改札内コンコースとホームを結ぶ階段・エスカレーターには、周辺施設パネルが設置されている。 (出典:東京都交通局:構内立体図) 各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。 小田急小田原線の南新宿駅まで西へ、新宿駅まで北へそれぞれ数百メートルの距離にある。 渋谷区代々木一丁目の北寄り、および二丁目方面。 渋谷区代々木一丁目の南寄り、および千駄ヶ谷四丁目方面。 渋谷区千駄ヶ谷五丁目方面。なお、都営地下鉄からは一旦A2出口を出てJR線をくぐる道路経由で東側へ行ける。 2011年5月11日から2016年4月3日まで、新宿駅JR高速バスターミナルが東口付近にあり、京都・大阪・神戸方面、名古屋駅行、仙台行ほか多数の便が出発していたが、バスタ新宿の供用開始に伴い閉鎖された。
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代々木駅(よよぎえき)は、東京都渋谷区代々木一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses|東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局の代々木駅|過去に存在した京王線の駅|代々木駅 (京王電気軌道)}} {{出典の明記|date=2011年10月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 代々木駅 |画像 = Yoyogi-Station-01.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2012年7月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=16|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point |marker=rail|marker2=rail-metro |coord={{coord|35|40|59|N|139|42|7.5|E}}|marker-color=008000|title=JR 代々木駅 |coord2={{coord|35|40|58.8|N|139|42|6.2|E}}|marker-color2=ce045b|title2=東京都交通局 代々木駅 |frame-latitude=35.683042|frame-longitude=139.701969 }} |よみがな = よよぎ |ローマ字 = Yoyogi |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]]) }} |所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[代々木]]一丁目 |乗換 = |備考 = }} '''代々木駅'''(よよぎえき)は、[[東京都]][[渋谷区]][[代々木]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[中央本線]]と[[山手線]]の2路線、都営地下鉄の[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]が乗り入れ、接続駅となっている。また、各路線に[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。 * JR東日本:各線(後述) * 都営地下鉄:[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 大江戸線 - 駅番号「'''E 26'''」 JR東日本の駅は、中央本線を[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としている。中央本線・山手線とも複々線で、中央本線は[[急行線|緩行線]]を走る[[中央・総武緩行線|中央・総武線各駅停車]]のみ、山手線は[[電車線・列車線|電車線]]で運行される[[環状線|環状路線]]としての山手線電車のみがそれぞれ停車し、[[急行線]]を走行する[[中央線快速]]や[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]および[[特別急行列車|特急列車]]は停車しない。 * [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]]:電車線を走行する[[環状線|環状路線]] - 駅番号「'''JY 18'''」 * [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]:緩行線を走行する中央本線の近距離電車 - 駅番号「'''JB 11'''」 [[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属する。 == 歴史 == [[File:Yoyogi Station.19630626.jpg|thumb|代々木駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] === 開業前 === * [[1885年]]([[明治]]18年)[[3月1日]]:[[日本鉄道]]の品川 - 赤羽間が単線開業。現在の代々木駅付近に鉄道線路が敷設される。 * [[1894年]](明治27年) ** [[9月23日]]:[[大日本帝国陸軍]]の軍用線が新宿駅 - 青山軍用停車場間に開設<ref name="sone05-22">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、22頁</ref>。 ** [[10月9日]]:[[甲武鉄道]]新宿 - [[牛込駅|牛込]]間が開業{{R|sone05-22}}。 * [[1895年]](明治28年)[[12月30日]]:甲武鉄道の新宿 - [[飯田町駅|飯田町]]間が複線化{{R|sone05-22}}。 * [[1904年]](明治37年)[[8月21日]]:甲武鉄道の飯田町 - [[中野駅 (東京都)|中野]]間が[[鉄道の電化|電化]]{{R|sone05-22}}。 * [[1905年]](明治38年):日本鉄道品川線の渋谷 - 新宿間が複線化。 === 開業後 === * [[1906年]](明治39年) ** 9月23日:甲武鉄道の駅として開業<ref>[{{NDLDC|2950319/8}} 「停車場設置」『官報』1906年10月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。当時は後に中央本線となる路線のみに駅があった(高架線の相対式ホーム)。 ** [[10月1日]]:[[鉄道国有法]]により国有化<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1909年]](明治42年) ** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(後の中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。 ** [[12月16日]]:品川線が山手線と改称。山手線列車が代々木駅に停車開始。当時は現在の山手貨物線付近にホームが存在していた(地上線の相対式ホーム)。 * [[1923年]]([[大正]]12年)9月:関東大震災でほぼ完成していた代々木駅の新駅舎に若干の被害が出る。 * [[1924年]](大正13年)[[12月5日]]:山手貨物線の原宿 - 新大久保開業に伴い、山手線・中央線のホームが現在地(高架線の3面4線)に移転。 * [[1925年]](大正14年) ** 4月:代々木 - 新宿間に中央線下りの乗り越し線完成。新宿駅の乗り換えが方面別に。 ** 11月:山手線が環状運転開始。 * [[1927年]]([[昭和]]2年) ** [[2月7日]]:[[新宿御苑]]で[[大正天皇]]の[[大喪の礼]]が執り行われ、代々木 - 新宿御苑仮停車場間が開業(9日まで)。 ** 3月1日:代々木駅 - 信濃町駅間が複々線化。 * [[1976年]](昭和51年)[[7月1日]]:[[みどりの窓口]]の営業を開始<ref>{{Cite news|title=代々木、武蔵溝ノ口駅にみどりの窓口|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会|date=1976-07-01|page=2}}</ref><ref>国鉄監修『交通公社の時刻表』1976年8月号</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅(中央本線所属)となる<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、27頁</ref>。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月15日]]:西口に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[4月20日]]:都営地下鉄大江戸線新宿駅 - 国立競技場駅間開通と同時に同局の駅が開業<ref name="RJ704_78-86">{{Cite journal|和書|author=平野元哉(東京都交通局建設工務部計画課)|title=大江戸線の構想から完成まで|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻第704号)|pages=78 - 86|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。この開業に合わせ、JR東日本は西口駅舎を改築し、新宿寄りの乗り換え地下通路を延伸して北口駅舎を新設した。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2002年]](平成14年)[[5月30日]]:JR駅構内で火災が発生。山手線が全線ストップし、走行していた列車も緊急停車した。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京都交通局でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[11月14日]]:みどりの窓口の営業を終了。 * [[2015年]](平成27年)[[10月24日]]:1・2番線(山手線ホーム)で[[ホームドア]]の使用を開始。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[7月7日]]:3・4番線(中央・総武緩行線ホーム)でホームドアの使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200407_ho01.pdf|title=より安全な駅ホーム・踏切の実現に向けた取組みについて|language=日本語|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-07|accessdate=2020-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200407061032/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200407_ho01.pdf|archivedate=2020-04-07}}</ref>。 === 駅名の由来 === 当駅に近かった[[代々木村]]に因む。 ただし、当駅所在地は代々木村(駅開業時点は合併して[[代々幡町]])ではなく[[千駄ヶ谷町]]であり、在来の[[代々木]]地域には含まれない。地元住民にとって代々木といえば、当駅周辺より[[代々木上原|上原]]や[[富ケ谷]]といった地域を指していた。 開業当時、代々木村に駅がなく([[小田急小田原線]]と[[京王線]]は開通前)[[人口]]が多かった(合併後で7万人)ことが背景と見られる。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 代々木駅 |画像 = Yoyogi Station1.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 北口(2018年10月) |よみがな = よよぎ |ローマ字 = Yoyogi |電報略号 = ヨヨ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[代々木]]一丁目34-1 |座標 = {{coord|35|40|59|N|139|42|7.5|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 代々木駅}} |開業年月日 = [[1906年]]([[明治]]39年)[[9月23日]] |廃止年月日 = |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 3面4線 |乗車人員 = <ref group="JR" name="jreast-2022" />51,096 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#ffd400|■}}[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]{{Refnest|group="*"|線路名称上は、千駄ケ谷方は[[中央本線]]、新宿方は[[山手線]]。}} |駅番号1 = {{駅番号r|JB|11|#ffd400|1}} |前の駅1 = JB 12 [[千駄ケ谷駅|千駄ケ谷]] |駅間A1 = 1.0 |駅間B1 = 0.7 |次の駅1 = [[新宿駅|新宿]] JB 10 |キロ程1 = 8.3&nbsp;km([[神田駅 (東京都)|神田]]起点)<br />[[千葉駅|千葉]]から45.7 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]] |駅番号2 = {{駅番号r|JY|18|#9acd32|1}} |前の駅2 = JY 19 [[原宿駅|原宿]] |駅間A2 = 1.5 |駅間B2 = 0.7 |次の駅2 = 新宿 JY 17 |キロ程2 = 9.9 |起点駅2 = [[品川駅|品川]] |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|東口と北口に導入<ref name="StationCd=1654_230911" />。}}<ref name="StationCd=1654_230911" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} 2面2線の[[相対式ホーム]]が1面2線の[[島式ホーム]]を挟み、合計3面4線を有する[[高架駅]]。 中央部の2・3番線島式ホームは、中央緩行線下り線と山手線内回りが同一ホームであり、千駄ケ谷方面から渋谷方面への乗り換え利便性を図っている。ホームの新宿寄りには段差があり、柵が設置されている。こうした段差を持つ島型ホームは極めて珍しい<ref name="bijutsutecho_2021-12-13" />が、これは代々木駅が極端な勾配を持つためである<ref name="bijutsutecho_2021-12-13">{{Cite web|和書| author=中島水緒 | date=2021-12-13 | url=https://bijutsutecho.com/magazine/review/24947 | title=内と外のふたつの視点から解読する。中島水緒評 中島りか「I tower over my dead body.」展 | work=美術手帖 | publisher=美術出版社 | accessdate=2022-01-10}}</ref>。 出入口は西口・東口と北口の3か所で、西口と北口には[[指定席券売機]]が設置されており、都営地下鉄大江戸線の乗換ルートにもなっている。かつては、西口にみどりの窓口が設けられていた。東口は、当駅南端にある線路高架下を西から東方向へとくぐる狭隘な一方通行道路の先(東端)にある山手貨物線の踏切を越えた先にあり、特徴的なドーム型出入口である。また、東口と北口には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、東口は終日、北口は一部の時間帯はインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=1654_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1654|title=駅の情報(代々木駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911144742/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1654|archivedate=2023-09-11}}</ref>。 北口改札内コンコースには各ホームとの間に[[エスカレーター]]があり、北口出口に都営地下鉄大江戸線改札口まで[[エレベーター]]が設けられている。東口・西口改札内コンコースには各ホームとの間にエレベーターが設けられている他、[[斜路|スロープ]]や多機能[[便所|トイレ]]が設置されている。 北隣の新宿駅が度重なる改良工事で当駅方に相次いで延長された。そのため、2016年現在で新宿駅5・6番線ホーム南端と当駅のホーム北端はわずか100メートル程度しか離れていない。山手線の運転士にとって新宿駅から代々木駅への進入は、ホームに入ってからもカーブがあり見通しが悪く、アップダウンもあるためブレーキのタイミングが計りづらい、山手線随一の難所ともされた<ref>東京新聞 2005年10月27日 朝刊 p.30</ref>。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center;"|外回り |[[新宿駅|新宿]]・[[池袋駅|池袋]]・[[上野駅|上野]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|内回り |[[原宿駅|原宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]・[[品川駅|品川]]方面 |- !3 |rowspan="2"|[[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) |style="text-align:center;"|西行 |[[中野駅 (東京都)|中野]]・[[三鷹駅|三鷹]]方面 |- !4 |style="text-align:center;"|東行 |[[千駄ケ谷駅|千駄ケ谷]]・[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]・[[千葉駅|千葉]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1654.html JR東日本:駅構内図]) * [[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正以降、3・4番線の早朝・深夜に設定されていた[[東京駅]]発着の各駅停車が消滅した<ref name="pr20191213">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191213080612/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191213_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2020年3月ダイヤ改正について|page=6|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-12-13|accessdate=2020-07-23|archivedate=2019-12-13}}</ref>。 <gallery> Yoyogi Station east entrance 2023-02-12.jpg|東口(2023年2月) JRE Yoyogi-STA West-Gate.jpg|西口改札(2022年11月) JRE Yoyogi-STA East-Gate.jpg|東口改札(2022年11月) JRE Yoyogi-STA North-Gate.jpg|北口改札(2022年11月) JRE Yoyogi-STA Platform1.jpg|1番線ホーム(2022年11月) JRE Yoyogi-STA Platform2-3.jpg|2・3番線ホーム(2022年11月) Yoyogi Station (JR East) track 2 and 3 (steps and fences) 2022-01-20.jpg|2・3番線ホームの段差(2022年1月) JRE Yoyogi-STA Platform4.jpg|4番線ホーム(2022年11月) </gallery> ==== らくがきコーナー ==== 1970年代半ばから1990年頃まで、2番線ホームの先頭にある階段脇の壁に「らくがきコーナー」と呼ばれるスペースが設けられ、駅員は毎朝ここに[[紙の寸法#B列|B0]]大の白紙を貼り出し、駅の乗客に自由に書き込ませていた<ref name="otaku_104" />。当初は一般的な[[伝言板]]としての利用を見込んでのものだったが、いつしか[[代々木ゼミナール|代ゼミ]]などの予備校生や、[[代々木アニメーション学院|代アニ]]や[[東京デザイナー学院]]などの専門学校生といった絵心のある若者たちの書き込みで占拠されるようになり、毎日夕方までには彼らの描いた漫画やアニメのキャラクターなど、緻密で時には極彩色のイラストの寄せ書きで紙面が埋め尽くされるようになった<ref name="otaku_104" />。同時期にはJR[[水道橋駅]]にも同じような落書きボードがあり、そちらは「[[やおい]]」などの女子高生の参加者が多かった<ref name="otaku_104">{{Cite book | 和書 | title=おたくの本 | year=1989 | publisher=[[JICC出版局]] | series=別冊宝島 104 | pages=222 - 223 | chapter=代々木駅らくがきコーナーの謎!}}</ref>。 === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 代々木駅 |画像 = Toei Yoyogi-STA Entrance-A1.jpg |pxl = 300 |画像説明 = A1出入口(2022年11月) |よみがな = よよぎ |ローマ字 = Yoyogi |副駅名 = |電報略号 = 代(駅名略称) |所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[代々木]]一丁目35-5 |座標 = {{coord|35|40|58.8|N|139|42|6.2|E|region:JP_type:railwaystation|name=都営地下鉄 代々木駅}} |開業年月日 = [[2000年]]([[平成]]12年)[[4月20日]]<ref name="RJ704_78-86" /> |廃止年月日 = |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />27,628 |統計年度 = 2022年 |所属路線 = {{color|#ce045b|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] |前の駅 = E 25 [[国立競技場駅|国立競技場]] |駅間A = 1.5 |駅間B = 0.6 |次の駅 = [[新宿駅|新宿]] E 27 |駅番号 = {{駅番号r|E|26|#ce045b|4}}<ref name="tokyosubway"/> |キロ程 = 27.2 |起点駅 = [[都庁前駅|都庁前]] |乗換 = |備考 = }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]である。 北隣の新宿駅は地上に上がるまでに時間を要するため、JR山手線、中央・総武線との乗り換えは当駅が至便である。 A3出口とコンコースを結ぶエレベーターは両側にドアがあり、JR北口からも利用できるようになっている。改札内コンコースとホームを結ぶ階段・エスカレーターには、周辺施設パネルが設置されている。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/oedo/E26BD.html |title=代々木 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan="2"|[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線 |[[六本木駅|六本木]]・[[大門駅 (東京都)|大門]]方面 |- !2 |[[都庁前駅|都庁前]]・[[光が丘駅|光が丘]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/yoyogi.html 東京都交通局:構内立体図]) <gallery> Toei Yoyogi-STA Entrance-A3.jpg|A2出入口(2022年11月、隣接するNewDaysはみどりの窓口跡に設置された) Toei Yoyogi-STA Gate.jpg|改札口(2022年11月) Toei Yoyogi-STA Platform.jpg|大江戸線ホーム(2022年11月) </gallery> {{clear}} == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''51,096人'''である<ref group="JR" name="jreast-2022" />。 *: JR東日本管内全体では[[南浦和駅]]に次いで第80位。 * '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''27,628人'''(乗車人員:13,776人、降車人員:13,852人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 都営大江戸線全38駅中23位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="統計" name="shibuya">[https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/kankobutsu/shibuya_gaiyo/index.html 渋谷区勢概要] - 渋谷区</ref> |- !rowspan=2|年度 !colspan=2|都営地下鉄 |- !1日平均<br/>乗降人員 !増加率 |- |2003年(平成15年) |27,392 |13.8% |- |2004年(平成16年) |28,783 |5.1% |- |2005年(平成17年) |30,258 |5.1% |- |2006年(平成18年) |31,950 |5.3% |- |2007年(平成19年) |35,180 |10.4% |- |2008年(平成20年) |34,197 |&minus;2.8% |- |2009年(平成21年) |33,045 |&minus;3.4% |- |2010年(平成22年) |33,005 |&minus;0.1% |- |2011年(平成23年) |32,525 |&minus;1.5% |- |2012年(平成24年) |34,939 |7.4% |- |2013年(平成25年) |34,940 |0.0% |- |2014年(平成26年) |35,389 |1.3% |- |2015年(平成27年) |36,892 |4.2% |- |2016年(平成28年) |37,232 |0.9% |- |2017年(平成29年) |37,678 |1.2% |- |2018年(平成30年) |38,758 |2.9% |- |2019年(令和元年) |38,284 |&minus;1.2% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="都交" name="toei2020" />23,965 |&minus;37.4% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="都交" name="toei2021" />24,812 |3.5% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="都交" name="toei2022" />27,628 |11.3% |} === 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !日本鉄道 /<br/>国鉄 !出典 |- |1906年(明治39年) |<ref group="備考">1906年9月23日開業。</ref> | |- |1907年(明治40年) |714 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/191?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |1,051 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |1,307 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |2,026 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |2,413 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/133?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |2,628 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/126?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |2,775 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |2,326 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |2,703 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |3,759 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/265?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |5,238 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/301?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |6,542 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |6,946 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |7,930 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |7,509 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |7,516 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |7,417 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |8,094 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |7,985 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |7,397 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |7,076 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |6,933 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |6,982 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |7,162 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |7,263 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br/>JR東日本 !都営地下鉄 !出典 |- |1953年(昭和28年) |17,307 |rowspan=47 style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 11ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |17,822 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 9ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |19,340 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 9ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |20,725 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 9ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |21,885 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 9ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |22,766 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 9ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |23,321 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |26,864 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |30,388 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |34,188 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |36,318 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |37,921 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |40,263 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |41,317 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |43,091 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |43,911 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |36,461 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |41,334 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |42,350 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |44,671 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |45,181 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |49,101 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |51,891 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |54,047 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |52,696 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |51,964 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |51,634 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |53,704 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |56,523 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |57,718 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |58,388 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |60,433 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |52,077 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |56,557 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |60,077 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |60,293 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |61,005 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |61,723 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |61,358 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |60,578 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |58,236 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |56,819 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |55,631 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |54,858 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |52,431 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |51,104 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>51,342 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>55,062 |<ref group="備考">2000年4月20日開業。開業日から翌年3月31日までの計346日間を集計したデータ。</ref>7,127 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="shibuya" /> !rowspan="2"|年度 !colspan="3"|JR東日本!!rowspan="2"|都営地下鉄!!rowspan="2"|出典 |- !定期外!!定期!!合計 |- |2001年(平成13年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>59,431 |10,630 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>65,427 |11,770 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>66,650 |13,325 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>67,768 |14,055 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>68,471 |14,822 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>69,830 |15,637 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>74,536 |17,308 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>71,660 |16,876 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>70,269 |16,333 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>69,704 |16,388 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) | | |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>69,466 |16,152 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR" name="jreast-2012" />36,224 |<ref group="JR" name="jreast-2012" />34,194 |<ref group="JR" name="jreast-2012">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>70,418 |17,394 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR" name="jreast-2013" />36,325 |<ref group="JR" name="jreast-2013" />33,690 |<ref group="JR" name="jreast-2013">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>70,016 |17,382 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR" name="jreast-2014" />36,475 |<ref group="JR" name="jreast-2014" />32,771 |<ref group="JR" name="jreast-2014">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>69,246 |17,603 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR" name="jreast-2015" />37,144 |<ref group="JR" name="jreast-2015" />33,056 |<ref group="JR" name="jreast-2015">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>70,200 |18,313 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR" name="jreast-2016" />36,946 |<ref group="JR" name="jreast-2016" />32,720 |<ref group="JR" name="jreast-2016">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>69,667 |18,529 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR" name="jreast-2017" />37,378 |<ref group="JR" name="jreast-2017" />32,557 |<ref group="JR" name="jreast-2017">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>69,935 |18,758 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR" name="jreast-2018" />37,632 |<ref group="JR" name="jreast-2018" />32,847 |<ref group="JR" name="jreast-2018">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>70,479 |19,282 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR" name="jreast-2019" />36,469 |<ref group="JR" name="jreast-2019" />33,183 |<ref group="JR" name="jreast-2019">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>69,653 |19,087 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR" name="jreast-2020" />19,242 |<ref group="JR" name="jreast-2020" />24,397 |<ref group="JR" name="jreast-2020">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>43,640 |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>11,927 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR" name="jreast-2021" />22,624 |<ref group="JR" name="jreast-2021" />23,308 |<ref group="JR" name="jreast-2021">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>45,933 |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>12,378 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="jreast-2022" />27,099 |<ref group="JR" name="jreast-2022" />23,996 |<ref group="JR" name="jreast-2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>51,096 |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>13,776 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == 小田急小田原線の南新宿駅まで西へ、新宿駅まで北へそれぞれ数百メートルの距離にある。 === 北口・A3出口 === 渋谷区代々木一丁目の北寄り、および二丁目方面。 {{columns-list|2| * [[東京スクールオブビジネス]] * [[新宿サザンテラス]] ** [[小田急サザンタワー]] *** 小田急ホテルセンチュリーサザンタワー ** 東日本旅客鉄道 本社 * [[代々木アニメーション学院]] 東京本部校 * [[JR東京総合病院]] * 酪農会館ビル * [[山野美容専門学校]] ** [[山野ホール]] * [[新宿マインズタワー]] * [[日本マクドナルド|マクドナルド]] 代々木店 - マクドナルドの日本2号店であり現存する最古の店舗 * [[南新宿駅]] - [[小田急小田原線]] * [[代々木ゼミナール]] 本部校([[代々木ゼミナール本部校代ゼミタワー|代ゼミタワー]]) |}} === 西口・A1・A2出口 === 渋谷区代々木一丁目の南寄り、および千駄ヶ谷四丁目方面。 {{columns-list|2| * [[代々木会館]] * 代々木ゼミナール 法人事務局・テレビスタジオ・国際教育センター(旧代々木本校) ** Y-SAPIX * [[ミューズ音楽院]]・[[ミューズ・モード音楽院|ミューズモード音楽院]] * 代々木駅前通郵便局 * [[日本共産党中央委員会#本部ビル|日本共産党本部ビル]](中央委員会) ** [[東京勤労者医療会]]代々木診療所 * [[軟式野球]]会館 * [[新日本出版社]] ** 美和書店 * 覚王山フルーツ大福弁才天 * 渋谷区千駄ヶ谷出張所 * 小田急電鉄[[南新宿駅]] * [[修養団SYDビル]] ** [[修養団]] ** SYDホール ** [[フジタ]]本社 * [[大京]]本社 * 東京メトロ[[北参道駅]] * 補助57号線 * 代々木山谷通り * [[日本ムスリム協会]] * [[明治神宮]]北参道 ** [[神社本庁]] * [[日本ナレーション演技研究所]] * [[東海大学医学部付属東京病院]] * [[さくら国際高等学校 東京校]] * [[新宿御苑]] * [[鉄緑会]] * [[エフエム富士|FM FUJI]] スタジオVIVID * [[スタイルキューブ]] * [[ハチ公バス]]代々木駅停留所 |}} === 東口 === 渋谷区千駄ヶ谷五丁目方面。なお、都営地下鉄からは一旦A2出口を出てJR線をくぐる道路経由で東側へ行ける。 {{columns-list|2| * [[NTTドコモ代々木ビル]] * [[全国農業協同組合連合会|JA全農]]新宿ビル * [[服部栄養専門学校]] * [[タカシマヤタイムズスクエア]] ** [[髙島屋]]新宿店 ** [[紀伊國屋サザンシアター]] ** [[ハンズ (小売業)|ハンズ]]新宿店 * [[東京都立新宿高等学校]] * 新宿御苑 * [[丸正チェーン商事|丸正]] * [[ハナ信用組合]] * [[西武信用金庫]] * [[ミューズ音楽院]] * [[しんぶん赤旗]]編集局 * [[東京勤労者医療会]]代々木歯科 * [[東京俳優生活協同組合]] * [[日本デザイン専門学校]] * [[新宿三丁目駅]] - [[東京メトロ丸ノ内線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]、[[都営地下鉄新宿線]] |}} 2011年5月11日から2016年4月3日まで、[[新宿駅のバス乗り場#新宿駅JR高速バスターミナル|新宿駅JR高速バスターミナル]]が東口付近にあり、京都・大阪・神戸方面、名古屋駅行、仙台行ほか多数の便が出発していたが、[[バスタ新宿]]の供用開始に伴い閉鎖された。 <gallery> JR TOKYO General Hospital.jpg|JR東京総合病院 Jinjahoncho 1.jpg|駅西方にある神社本庁 Japanese Communist Party Central Comittee 1.jpg|日本共産党本部ビル。当駅に近いことから、「代々木」と呼ばれることがある。 Takashimaya Times Square.jpg|当駅と新宿駅の間にあるタカシマヤタイムズスクエア。先鋭のビルはNTTドコモ代々木ビル。 東京都立新宿高等学校1.jpg|東京都立新宿高等学校 AS-building sendagaya.jpg|しんぶん赤旗編集局が入居するASビル MY Tower 01.JPG|山野美容専門学校などが入居するMYタワー(代々木一丁目) Yoyogi Seminar Tower.JPG|代々木ゼミナール新校舎(代々木二丁目) Shinjuku Station JR Expressway Bus Terminal 20110518.jpg|2016年4月まで存在した新宿駅JR高速バスターミナル。「新宿駅」を名乗るが、当駅の方が近かった。 </gallery> == 登場作品 == * 映画『[[君の名は。]]』 **ホームドア設置前と設置後の2つの時代の当駅が登場する。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JB line symbol.svg|15px|JB]] 中央・総武線(各駅停車) :: [[千駄ケ谷駅]] (JB 12) - '''代々木駅 (JB 11)''' - [[新宿駅]] (JB 10) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 :: [[原宿駅]] (JY 19) - '''代々木駅 (JY 18)''' - 新宿駅 (JY 17) ; 東京都交通局 : [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線 :: [[国立競技場駅]] (E 25) - '''代々木駅 (E 26)''' - 新宿駅 (E 27) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|25em}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="統計"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|16em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|16em}}'' == 参考文献 == * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Yoyogi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1654|name=代々木}} * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/yoyogi.html 代々木駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] {{総武・中央緩行線}} {{山手線}} {{都営地下鉄大江戸線}} {{デフォルトソート:よよきえき}} [[Category:渋谷区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 よ|よき]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:中央・総武緩行線]] [[Category:甲武鉄道の鉄道駅]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1906年開業の鉄道駅]] [[Category:代々木]]
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知識
知識(ちしき、希: ἐπιστήμη, epistēmē、羅: scientia、仏: connaissance、独: Wissen、英: knowledge)とは、認識によって得られた成果、あるいは、人間や物事について抱いている考えや、技能のことである。 認識(英: cognition)とほぼ同義の語であるが、認識は基本的に哲学用語であり、知識は主に認識によって得られた「成果」を意味するが、認識は成果のみならず、対象を把握するに至る「作用」を含む概念である なお、英語の knowledge はオックスフォード英語辞典によれば次のように定義されている。 知識に関して人類がどのようなことを述べたり考察してきたのかについて解説すると、古くは旧約聖書の創世記のアダムとイブのくだりに「善悪の知識の木」が登場しており、各信仰ごとに知識について様々な考え方がある。 知識について哲学的に論じられるようになったのは、古代ギリシアのプラトンが知識を「正当化された真なる信念」としたのが始まりであり、現代にいたるまで様々な哲学的な考察が続けられている。16~17世紀のフランシス・ベーコンは知識獲得の方法について考察を行ったが、彼の考えは近代科学の成立に大きな役割を果たすことになった。(現代の心理学的に言うと)知識獲得には、知覚、記憶、経験、コミュニケーション、連想、推論といった複雑な認識過程が関係する、ということになる。 なお、今でも、万人が合意できるような“知識についての唯一の定義”などいうものは存在せず、学問領域ごとに異なった理論があり、それらの中には相互に対立するような理論も存在している。 キリスト教においては、旧約聖書の創世記に登場するアダムとイブが神から善悪の知識の木の実を食べてはいけないといいつけられていたにもかかわらず、蛇にそそのかされイブが、それに続いてアダムまでそれを食べてしまい、その結果人間は神から隔てられてしまった、とされている(創世記 3:22)。 カトリシズムや聖公会などのキリスト教では、知識を 《 聖霊(Holy Spirit)の7つの贈り物》の1つとしている。 イスラム教においても知識(アラビア語: علم, ʿilm)は重要である。アッラーフの99の美名の1つに「全知者」 "The All-Knowing" (アラビア語: العليم, al-ʿAlīm) がある。クルアーンには「知識は神がもたらす」とあり (2:239)、ハディースにも知識の獲得を奨励する言葉がある。「ゆりかごから墓場まで知識を求めよ」とか「正に知識を持つ者は預言者の相続人だ」といった言葉はムハンマドのものと言われている。イスラムの聖職者をウラマーと呼ぶが、これは「知る者」を意味する。 グノーシス主義はそもそも「グノーシス」という言葉が「知識」を意味し、知識を獲得しデミウルゴスの物質世界から脱することを目的としている。セレマにおいては、知識獲得と聖守護天使との会話を人生の目的とする。このような傾向は多くの神秘主義的宗教に見られる。 ヒンドゥー教の聖典には Paroksha Gnyana と Aporoksha Gnyana という2種類の知識が示されている。Paroksha Gnyana (Paroksha-Jnana) とは受け売りの知識を意味する。本から得た知識、噂などである。Aporoksha Gnyana (Aparoksha-Jnana) は、直接的な経験から得た知識であり、自ら発見した知識である。 プラトンの『テアイテトス』では、「知識」が主題的に扱われ、その定義についてソクラテスとテアイテトスが議論している。そこでは、知識とは「感覚」「真なる思いなし」「真なる思いなしに言論を加えたもの」であるとする3つの考えが提示され、検討されるが、これらのいずれも知識ではないと否定されることになる。 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のなかで、知識を「ソフィア」(希: Σοφια)と「フロネシス」(希: φρόνησις)の2種類に区別している。 その後知識の定義については、認識論という分野で哲学者らが、今にいたるまで議論を続けている。 現代英米の分析哲学では、知識の古典的定義としてプラトンの記述を考慮して、以下のものが用いられる。 ある認知者Aが「Xである」という知識を持つのは以下の場合、その場合にかぎる。 これを一言で言えば、「知識とは正当化された真なる信念である」ということになり、「客観的知識」と「主観的信念」とに単純に2分類してしまうような分析が長らく主流であった。 この様な硬直的な分析・決めつけに対しては、1950年代にゲティアが強力な反例を出した(ゲティア問題)。ゲティア問題とは、簡単にいえば、正当化された真なる信念を持っているにもかかわらず、どう考えても知っているとはいえないような状況が想像できる、という問題である。これをうけて、その後の分析系認識論では、ロバート・ノージックやサイモン・ブラックバーン、Richard Kirkham といった哲学者が知識の古典的定義に様々な形で手を加えて満足のいく分析を模索してきた。 それとは対照的にウィトゲンシュタインはムーアのパラドックスを発展させ、「彼はそれを信じているが、それは真ではない」とは言えるが「彼はそれを知っているが、それは真ではない」とは言えないと述べた。彼はそれに続けて、それらは個々の精神状態に対応するのではなく、むしろ信念について語る個々の方法だという主張を展開する。ここで異なるのは、話者の精神状態ではなく、話者の従事している活動である。例えば、やかんが沸騰していることを「知る」というのは精神が特定の状態になることを意味するのではなく、やかんが沸騰しているという論述に従って何らかの作業を実行することを意味している。ウィトゲンシュタインは「知識」が自然言語の中で使われる方法に目を向けることで、その定義の困難さを回避しようとした。彼は知識を家族的類似の一例と見た。この考え方に従えば、「知識」は関連する特徴を表す概念の集合体として再構築され、定義によって正確に捉えられるものではないということになる。 認識論は知識とその獲得方法について考察する。フランシス・ベーコンは知識獲得の方法の発展に重大な貢献をした。著作で帰納的方法論を確立し一般化し、現代の科学的探究の礎となったのである。彼の金言「知識は力なり (knowledge is power)」はよく知られている(この金言は 彼の著書『Meditations Sacrae』(1957) に記されている)。 scientiaスキエンティアという言葉は元々は単に知識という意味でしかなく、ベーコンの時代でもそうであった。scientific method(scientific methodは元の意味では「知識に関する方法論」)が徐々に発展したことは、我々の知識についての理解に重要な寄与をした。さまざまな経緯を経て、知識の探究の方法は、観測可能で再現可能で測定可能な証拠を集め、それらに具体的な推論規則をあてはめていく形で行われなければならないとされるようになった。現在では科学的方法(scientific method)は、観測や実験によるデータ収集と、仮説の定式化と、検証から構成されている、とされている。科学とは「計算された実験によって得られた事実に基づいて推論する際の論理的に完全な思考法」ともされる。そして、科学や科学的知識の性質というのも哲学の主題のひとつとされるようになった(科学哲学)。 科学の発達と共に、生物学や心理学から知識についての新たな考え方が生まれた。ジャン・ピアジェの発生的認識論である。 近年まで特に西洋では単純に、知識とは人間(および神)が持てるもの、特に成人だけが持てるものだと見なされていた(東洋では必ずしもそうではなかった)。西洋では時には「コプト文化の持つ知識」といったように社会が知識を持つ、といった言い回しが無かったわけではないが、それは確立されたものではなかった。そしてまた西洋では、「無意識の」知識を体系的に扱うことはほとんどなかった。それが行われるようになったのは、フロイトがその手法を一般化した後である。 上記のような知識以外に「知識」が存在するといわれているものに、例えば生物学の領域では、「免疫系」と「遺伝コードのDNA」がある。(カール・ポパー(1975)とTraill(2008)らが指摘している) このような、生体システムが持つ知識までカバーするためには、「知識」という用語の新たな定義が必要とされるように見える。生物学者は、システムは意識を持つ必要はない、と考えるが、知識はシステムにおいて有効に利用可能でなければならない。すると、次のような基準が出てくる。 ハーバード大学医学部によると、知識は最高の薬であり、その情報源が違いを生む。 信頼できる証拠に基づく健康コンテンツに必要な権限と必要な影響を提供する情報源は、間違いなく健康を改善する。2021年のハーバード大学の研究では、ウィキペディアなどのネット上の健康情報が正しい診断につながることもあることが示唆されている。 症状と重篤な病気との関連付けを誤ると、多くのストレスにつながる可能性があるが、情報源を確認し、信頼できるものに固執すれば、健康には役に立つ。 知識は様々な観点で分類される。カテゴリーは時代によって変化する。 心理学では、知識は長期記憶として扱われ、記憶の分類そのままに、表象化された知識を「宣言的知識」、行動的な知識を「手続き的知識」と分類している。 宣言的知識の例としては、科学的法則についての知見(九九、地球上での重力定数など)や、社会的規約についての知見(「日本の首都は東京である」など)が挙げられる。 手続き的知識の例としては、箸の使い方、ピアノの弾き方、車の運転の仕方などが挙げられる。 前者を「knowing that」 、後者を「knowing how」と呼ぶこともある。 形式化、伝達方法の観点から、知識は「形式知」と「暗黙知」に分類される。ナレッジマネジメントなどの世界で利用される分類である。 暗黙知 とは、宣言的に記述することが不可能か、極めて難しい知見のこと。手続き的知識や直観的認識内容は暗黙知とされる。例えば「美人」についての知識は誰でも持っているが、それを明確に定義することはできない。 哲学や生物学的な立場から、人間に生まれながらにして備わっている知識を「アプリオリな知識(先天的知識)」、誕生後に社会生活などを通して獲得する知識を「アポステリオリな知識(後天的知識)」と分類することもある。 アプリオリな知識が存在するかどうかは認識論において長年の問題であった。大陸合理論の系譜においてはデカルトをはじめ、なんらかのアプリオリな知識を認める立場が主流であった。このような立場を生得説という。 イギリス経験論においてはアプリオリな知識の存在を否定し、心を白紙としてみる経験主義の立場がロックらによって提唱された(→タブラ・ラサ)。 理論的な知識と実践的な知識に分けられる。これは、哲学者の知識と実践者の知識との区別であり、また「科学」(scientia)と「技芸」(ars)との区別とも言われた。 認識論の一分野では不完全な知識 (partial knowledge) に着目する。ある分野について徹底的な理解を達成することは現実にはほとんどあり得ないため、我々は自らの知識が「完全でない」すなわち不完全だという事実を念頭に置いておく必要がある。現実世界の問題の多くは、その背景やデータについての不完全な理解の中で解決しなければならない。それに対して、算数や初等数学の問題は全てのデータと問題を解くのに必要な方程式についての完全な理解があって初めて解けるという点で大きく異なる。 この考え方は限定合理性とも関係が深い。
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知識とは、認識によって得られた成果、あるいは、人間や物事について抱いている考えや、技能のことである。
{{Otheruses|人間社会一般における知識|仏教における知識|知識 (仏教)}} [[ファイル:Efez Celsus Library 5 RB.jpg|thumb|upright|180px|知識を人格化した像({{Lang-el|Επιστημη}}、[[エピステーメー]])。トルコ、[[エフェソス]]]] [[ファイル:Knowledge-Reid-Highsmith.jpeg|thumb|right|180px|[[:en:Robert Reid (painter)|Robert Reid]] 画 ''Knowledge'' (1896)。[[アメリカ議会図書館]]]] [[ファイル:Books HD (8314929977).jpg|thumb|right|180px|[[本]]は、しばしば大きな知識の源である。]] '''知識'''(ちしき、{{lang-el-short|ἐπιστήμη}}, epistēmē、{{lang-la-short|scientia}}、{{lang-fr-short|connaissance}}、{{lang-de-short|Wissen}}、{{lang-en-short|knowledge}})とは、[[認識]]によって得られた成果、あるいは、[[人間]]や物事について抱いている考えや、[[技能]]のことである。 == 概要 == 認識({{lang-en-short|cognition}})とほぼ同義の語であるが、認識は基本的に哲学用語であり、知識は主に認識によって得られた「成果」を意味するが、認識は成果のみならず、対象を把握するに至る「作用」を含む概念である<ref>『岩波哲学小事典』</ref> なお、[[英語]]の ''knowledge'' は[[オックスフォード英語辞典]]によれば次のように[[定義]]されている。 # [[経験]]または[[教育]]を通して人が獲得した専門的技能。ある[[主題]]についての[[理論]]的または実用的な[[理解]]。 # 特定分野または一般に知られていること。事実と[[情報]]。 # 事実または状況を経験することで得られた認識または知悉。 知識に関して人類がどのようなことを述べたり考察してきたのかについて解説すると、古くは旧約聖書の創世記のアダムとイブのくだりに「善悪の知識の木」が登場しており、各信仰ごとに知識について様々な考え方がある。 知識について[[哲学]]的に論じられるようになったのは、古代ギリシアの[[プラトン]]が知識を「正当化された真なる[[信念]]」としたのが始まりであり、現代にいたるまで様々な哲学的な考察が続けられている。16~17世紀の[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]は知識獲得の方法について考察を行ったが、彼の考えは近代[[科学]]の成立に大きな役割を果たすことになった。(現代の[[心理学]]的に言うと)知識獲得には、[[知覚]]、[[記憶]]、[[経験]]、[[コミュニケーション]]、[[連想]]、[[推論]]といった複雑な認識過程が関係する、ということになる。 なお、今でも、万人が合意できるような“知識についての唯一の定義”などいうものは存在せず、学問領域ごとに異なった理論があり、それらの中には相互に対立するような理論も存在している。 == 知識と信仰 == [[Image:Adam and Eve expelled from Paradise.png|right|100px|thumb|善悪の知識の木の実を食べてしまい楽園から追放される[[アダムとイブ]]]] [[キリスト教]]においては、[[旧約聖書]]の[[創世記]]に登場する[[アダムとイブ]]が[[神]]から[[知恵の樹|善悪の知識の木]]の実を食べてはいけないといいつけられていたにもかかわらず、[[蛇]]にそそのかされイブが、それに続いてアダムまでそれを食べてしまい、その結果[[人間]]は神から隔てられてしまった、とされている([[創世記]] 3:22)。 [[カトリシズム]]や[[聖公会]]などのキリスト教では、知識を 《 [[聖霊]](Holy Spirit)の7つの贈り物》の1つとしている<ref>{{cite web|url= http://www.scborromeo.org/ccc/p3s1c1a7.htm#1831|title=Part Three, No. 1831|work=Catechism of the Catholic Church|accessdate=2007-04-20}}</ref>。 [[イスラム教]]においても知識({{Lang-ar|علم}}, ''ʿilm'')は重要である。[[アッラーフの99の美名]]の1つに「全知者」 "The All-Knowing" ({{Lang-ar|العليم}}, ''al-ʿAlīm'') がある<ref>Q 2:115</ref>。[[クルアーン]]には「知識は神がもたらす」とあり ({{cite quran|2|239|style=nosup|expand=no}})、[[ハディース]]にも知識の獲得を奨励する言葉がある。「ゆりかごから墓場まで知識を求めよ」とか「正に知識を持つ者は預言者の相続人だ」といった言葉は[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]のものと言われている。イスラムの聖職者を[[ウラマー]]と呼ぶが、これは「知る者」を意味する。 [[グノーシス主義]]はそもそも「グノーシス」という言葉が「知識」を意味し、知識を獲得し[[デミウルゴス]]の物質世界から脱することを目的としている。[[セレマ]]においては、知識獲得と聖[[守護天使]]との会話を人生の目的とする。このような傾向は多くの[[神秘主義]]的宗教に見られる。 [[ヒンドゥー教]]の聖典には ''Paroksha Gnyana'' と ''Aporoksha Gnyana'' という2種類の知識が示されている。''Paroksha Gnyana'' (''Paroksha-Jnana'') とは受け売りの知識を意味する。本から得た知識、噂などである。''Aporoksha Gnyana'' (''Aparoksha-Jnana'') は、直接的な経験から得た知識であり、自ら発見した知識である<ref>{{cite web|url= http://www.swami-krishnananda.org/panch/panch_07.html|title=Chapter 7|work=The Philosophy of the Panchadasi|author= Swami Krishnananda|publisher= The Divine Life Society|accessdate=2008-07-05}}</ref>。 == 知識と哲学 == [[プラトン]]の『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』では、「知識」が主題的に扱われ、その定義について[[ソクラテス]]とテアイテトスが議論している。そこでは、知識とは「感覚」「真なる思いなし」「真なる思いなしに言論を加えたもの」であるとする3つの考えが提示され、検討されるが、これらのいずれも知識ではないと否定されることになる。 [[アリストテレス]]は『[[ニコマコス倫理学]]』のなかで、知識を「[[ソフィア]]」({{lang-el-short|Σοφια}})と「[[フロネシス]]」({{lang-el-short|φρόνησις}})の2種類に区別している。 その後知識の定義については、[[認識論]]という分野で[[哲学者]]らが、今にいたるまで[[ディベート|議論]]を続けている。 {{See also|認識論}} 現代英米の分析哲学では、知識の古典的定義としてプラトンの記述を考慮して、以下のものが用いられる。 [[ファイル:Classical Definition of Knowledg - ja.svg|thumb|250px|right| [[プラトン]]が『テアイトス』においてソクラテスとテアイトスの対話の形で提示した諸定義などをふまえつつ、古典的な[[認識論]]では長らく知識というものを「正当化された真なる信念」と分析した。もう少し分解すると「知識というのは、真であり、なおかつ、信じられている[[命題]]の[[部分集合]]」とも表現される。それを[[ベン図]]で表すと上記のようになる。]] ある認知者Aが「Xである」という知識を持つのは以下の場合、その場合にかぎる。 #Aは「Xである」と[[信念|信じており]]、かつ、 #Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ #「Xである」は[[真理|真]]である。 これを一言で言えば、「知識とは正当化された真なる信念である」ということになり、「客観的知識」と「主観的信念」とに単純に2分類してしまうような分析が長らく主流であった。 この様な硬直的な分析・決めつけに対しては、[[1950年代]]にゲティアが強力な反例を出した([[ゲティア問題]])。ゲティア問題とは、簡単にいえば、正当化された真なる信念を持っているにもかかわらず、どう考えても知っているとはいえないような状況が想像できる、という問題である。これをうけて、その後の分析系認識論では、[[ロバート・ノージック]]や[[サイモン・ブラックバーン]]、[[:en:Richard Kirkham|Richard Kirkham]]<ref>Kirkham, Richard L. [http://www.centenary.edu/attachments/philosophy/aizawa/courses/epistemologyf2008/kirkham1984.pdf ''Does the Gettier Problem Rest on a Mistake?'']</ref> といった哲学者が知識の古典的定義に様々な形で手を加えて満足のいく分析を模索してきた。 それとは対照的に[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]は[[ムーアのパラドックス]]を発展させ、「彼はそれを信じているが、それは真ではない」とは言えるが「彼はそれを知っているが、それは真ではない」とは言えないと述べた<ref>[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|Ludwig Wittgenstein]], ''[[:en:On Certainty|On Certainty]]'', remark 42</ref>。彼はそれに続けて、それらは個々の精神状態に対応するのではなく、むしろ信念について語る個々の方法だという主張を展開する。ここで異なるのは、話者の精神状態ではなく、話者の従事している活動である。例えば、[[やかん]]が[[沸騰]]していることを「知る」というのは精神が特定の状態になることを意味するのではなく、やかんが沸騰しているという論述に従って何らかの作業を実行することを意味している。ウィトゲンシュタインは「知識」が[[自然言語]]の中で使われる方法に目を向けることで、その定義の困難さを回避しようとした。彼は知識を[[家族的類似]]の一例と見た。この考え方に従えば、「知識」は関連する特徴を表す概念の集合体として再構築され、定義によって正確に捉えられるものではないということになる<ref>Gottschalk-Mazouz, N. (2008): „Internet and the flow of knowledge“, in: Hrachovec, H.; Pichler, A. (Hg.): Philosophy of the Information Society. Proceedings of the 30. International Ludwig Wittgenstein Symposium Kirchberg am Wechsel, Austria 2007. Volume 2, Frankfurt, Paris, Lancaster, New Brunswik: Ontos, S. 215-232. http://sammelpunkt.philo.at:8080/2022/1/Gottschalk-Mazouz.pdf</ref>。 == 知識と科学 == [[ファイル:Francis Bacon.jpg|thumb|150px|right|[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]](1561年 - 1626年)は知識獲得の方法の発展に重大な貢献をした。]] [[認識論]]は知識とその獲得方法について考察する。[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]は知識獲得の方法の発展に重大な貢献をした。著作で[[帰納法|帰納的方法論]]を確立し一般化し、現代の科学的探究の礎となったのである。彼の金言「[[知識は力なり]] (knowledge is power)」はよく知られている(この金言は 彼の著書『''Meditations Sacrae''』(1957) に記されている<ref>{{cite web| title = Sir Francis Bacon - Quotationspage.com| url = http://www.quotationspage.com/quote/2060.html| accessdate = 2009-07-08}}</ref>)。 scientiaスキエンティアという言葉は元々は単に知識という意味でしかなく、ベーコンの時代でもそうであった。scientific method(scientific methodは元の意味では「知識に関する方法論」)が徐々に発展したことは、我々の知識についての理解に重要な寄与をした。さまざまな経緯を経て、知識の探究の方法は、[[オブザーバブル|観測可能]]で再現可能で[[測定]]可能な[[エビデンス (科学)|証拠]]を集め、それらに具体的な[[推論]]規則をあてはめていく形で行われなければならない<ref>"[4] Rules for the study of [[自然哲学|natural philosophy]]", {{harvnb|Newton|1999|pp=794-6}}, from the [[:en:General Scholium|General Scholium]], which follows Book '''3''', ''The System of the World''. </ref>とされるようになった。現在では[[科学的方法]](scientific method)は、[[観測]]や[[実験]]による[[データ]]収集と、[[仮説]]の定式化と、[[検証]]から構成されている、とされている<ref>[http://www.m-w.com/dictionary/scientific%20method scientific method], ''[[:en:Merriam-Webster|Merriam-Webster Dictionary]]''.</ref>。科学とは「計算された実験によって得られた事実に基づいて推論する際の論理的に完全な思考法」ともされる。そして、科学や科学的知識の性質というのも[[哲学]]の主題のひとつとされるようになった([[科学哲学]])。 科学の発達と共に、生物学や心理学から知識についての新たな考え方が生まれた。[[ジャン・ピアジェ]]の[[発生的認識論]]である。 [[画像:Sigmund Freud LIFE.jpg|100px|right|thumb|[[ジークムント・フロイト|フロイト]](1914年)]] 近年まで特に[[西洋]]では単純に、知識とは[[人間]](および[[神]])が持てるもの、特に[[成人]]だけが持てるものだと見なされていた([[東洋]]では必ずしもそうではなかった)。西洋では時には「[[コプト]]文化の持つ知識」といったように社会が知識を持つ、といった言い回しが無かったわけではないが、それは確立されたものではなかった。そしてまた西洋では、「[[無意識]]の」知識を体系的に扱うことはほとんどなかった。それが行われるようになったのは、[[ジークムント・フロイト|フロイト]]がその手法を一般化した後である。 上記のような知識以外に「知識」が存在するといわれているものに、例えば生物学の領域では、「[[免疫系]]」と「遺伝コードの[[DNA]]」がある。([[カール・ポパー]](1975)<ref>詳しくは[[カール・ポパー|Popper, K.R.]] (1975). "The rationality of scientific revolutions"; in Rom Harré (ed.), ''Problems of Scientific Revolution: Scientific Progress and Obstacles to Progress in the Sciences''. Clarendon Press: Oxford.</ref>とTraill(2008)らが指摘している<ref>Traill, Robert R. (2008) [http://www.ondwelle.com/OSM02.pdf ''Thinking by Molecule, Synapse, or both? - From Piaget's Schema, to the Selecting/Editing of ncRNA'']: Table&nbsp;S, page&nbsp;31の4つの "epistemological domains" の一覧を参照。また、それらから[[ニールス・イェルネ]]への参照がある。</ref>) このような、生体システムが持つ知識までカバーするためには、「知識」という用語の新たな定義が必要とされるように見える。生物学者は、システムは[[意識]]を持つ必要はない、と考えるが、知識はシステムにおいて有効に利用可能でなければならない。すると、次のような基準が出てくる。 * システムは一見して動的で[[自己組織性|自己組織的]]である(単なる本のようなものではない)。 * 知識には、「外界 ※」についての何らかの表現、または外界を(直接または間接に)扱う方法が含まれていなければならない。(※ この「外界」には当の[[有機体]]の別のサブシステムも含まれる) * [[システム]]には有効に働く程度に素早く[[情報]]にアクセスする何らかの手段があるはずである。 <!-- 書きかけなのでバランス上、一旦、コメントアウト ==各伝統での知識についての分析== ===ギリシャ-西欧 === 西欧哲学の伝統では、知識とは何かということも問題とされており、その分野は「'''[[認識論]]'''」と呼ばれている。 その伝統では、知識とそうでないものとを区別する基準として正確性を無条件に採用し、「知識=真なる知識」と同一視した流れもある。(だが、他の文化圏では事情は異なり、もっと柔軟な観点もあった) ===インド=== ===イスラム=== --> == 知識と健康 == [[ハーバード大学医学大学院|ハーバード大学医学部]]によると、知識は最高の薬であり、その[[情報源]]が違いを生む。 信頼できる[[証拠]]に基づく健康コンテンツに必要な権限と必要な影響を提供する情報源は、間違いなく健康を改善する<ref>{{Cite web|title=Health Information and Medical Information|url=https://www.health.harvard.edu/|website=Harvard Health|accessdate=2021-10-20|language=en}}</ref>。[[2021年]]の[[ハーバード大学]]の研究では、ウィキペディアなどのネット上の健康情報が正しい診断につながることもあることが示唆されている。 症状と重篤な病気との関連付けを誤ると、多くの[[ストレス (生体)|ストレス]]につながる可能性があるが、情報源を確認し、信頼できるものに固執すれば、健康には役に立つ<ref>{{Cite web|title=Harvard study: Internet searches sometimes lead to the right diagnosis|url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/harvard-study-internet-searches-sometimes-lead-to-the-right-diagnosis|website=Harvard Health|date=2021-07-01|accessdate=2021-06-27|language=en|first=Heidi|last=Godman}}</ref>。 == 知識の分類 == 知識は様々な観点で分類される。カテゴリーは時代によって変化する{{Sfn| ピーター・バーク|2004|p=128}}。 === 宣言的知識 / 手続き的知識 === [[心理学]]では、知識は[[長期記憶]]として扱われ、[[記憶]]の分類そのままに、表象化された知識を「'''[[宣言的知識]]'''」、行動的な知識を「'''[[手続き的知識]]'''」と分類している。 宣言的知識の例としては、科学的法則についての知見(九九、地球上での重力定数など)や、社会的規約についての知見(「日本の首都は東京である」<!--例としては、微妙に不適切と思われ。 赤信号が点灯したら停止する-->など)が挙げられる。 手続き的知識の例としては、[[箸]]の使い方、[[ピアノ]]の弾き方、[[自動車|車]]の運転の仕方などが挙げられる。 前者を「'''knowing that'''」 、後者を「'''knowing how'''」と呼ぶこともある。 === 形式知 / 暗黙知 === 形式化、伝達方法の観点から、知識は「'''[[形式知]]'''」と「'''[[暗黙知]]'''」に分類される。[[ナレッジマネジメント]]などの世界で利用される分類である。 '''[[暗黙知]]''' とは、宣言的に記述することが不可能か、極めて難しい知見のこと。手続き的知識や直観的認識内容は暗黙知とされる。例えば「美人」についての知識は誰でも持っているが、それを明確に定義することはできない。 === アプリオリな知識 / アポステリオリな知識 === [[哲学]]や[[生物学]]的な立場から、人間に生まれながらにして備わっている知識を「'''アプリオリ'''な知識('''先天的知識''')」、誕生後に社会生活などを通して獲得する知識を「'''アポステリオリ'''な知識('''後天的知識''')」と分類することもある。 アプリオリな知識が存在するかどうかは認識論において長年の問題であった。[[大陸合理論]]の系譜においては[[ルネ・デカルト|デカルト]]をはじめ、なんらかのアプリオリな知識を認める立場が主流であった。このような立場を[[生得説]]という。 イギリス経験論においてはアプリオリな知識の存在を否定し、心を白紙としてみる経験主義の立場が[[ジョン・ロック|ロック]]らによって提唱された(→[[タブラ・ラサ]])。 === 理論的知識 / 実践的知識 === 理論的な知識と実践的な知識に分けられる{{Sfn|ピーター・バーク|2004|p=128}}。これは、哲学者の知識と実践者の知識との区別であり、また「科学」(scientia)と「技芸」(ars)との区別とも言われた{{Sfn|ピーター・バーク|2004|p=128}}。 <!-- === その他の分類名 === *公共的な知識と「私的な」知識 *「より高い」知識と「より低い」知識 *リベラルな(自由)知識と「有用な」知識 *特殊化した知識と普遍的な知識 --> == 不完全な知識 == [[認識論]]の一分野では不完全な知識 (partial knowledge) に着目する。ある分野について徹底的な理解を達成することは現実にはほとんどあり得ないため、我々は自らの知識が「完全でない」すなわち不完全だという事実を念頭に置いておく必要がある。現実世界の問題の多くは、その背景やデータについての不完全な理解の中で解決しなければならない。それに対して、算数や初等数学の問題は全てのデータと問題を解くのに必要な方程式についての完全な理解があって初めて解けるという点で大きく異なる。 この考え方は[[限定合理性]]とも関係が深い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *粟田賢三・古在由重編『岩波哲学小事典』岩波書店、1979 *{{Citation|last=Newton|first=Isaac|year=1999|author-link=アイザック・ニュートン|date=1687, 1713, 1726|title=[[自然哲学の数学的諸原理|Philosophiae Naturalis Principia Mathematica]]|publisher=University of California Press| isbn= 0-520-08817-4}}, Third edition. From I. Bernard Cohen and Anne Whitman's 1999 translation, 974 pages. *{{Cite |和書 | author = ピーター・バーク | translator = 井上弘幸, 城戸淳 | title = 知識の社会史:知と情報はいかにして商品化したか | date = 2004 | publisher = 新曜社 | ref = harv }} == 関連項目 == {{wiktionary}} *[[知恵]]、[[知能]]、[[知性]] *[[学習]]、[[学問]]、[[経験]] *[[情報]]、[[科学]]、[[知識工学]] *[[雑学]]、[[トリビア]] *[[認識論]] - 知識の獲得がいかに可能であるか、正しい知識の獲得の方法や知識の正しさの確認方法などについて研究する哲学の一種 *[[唯識]] - 仏教哲学の一種で、知識の分類、体系化、それらの知識の生成過程などについて考察するもの。 *[[ナレッジマネジメント]] - 組織経営や地域開発などにおいて用いられる知識の共有を促進するための方法、またはその方法を研究するための学問分野 *[[宣言的知識]] *[[データマイニング]] * [[認識論理]] * [[直観]] - 知識の[[無意識]]な形態 * [[メタ知識]] == 外部リンク == * {{SEP|knowledge-analysis|The Analysis of Knowledge}} * {{PhilP|knowledge|Knowledge}} * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちしき}} [[Category:知識|*ちしき]] [[Category:心理学]] [[Category:哲学の和製漢語]] [[Category:認識論の概念]] [[Category:信念]]
2003-05-05T14:19:17Z
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エルサレム
エルサレムまたはイェルサレム(ヘブライ語: יְרוּשָׁלַיִם Yerushaláyim; アラビア語: القدس, اَلْقُدْسُ, al-Quds, アル=クドゥス al-Quds)は、西アジアにある都市。エルサレムは世界最古の都市の一つであり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖市と見なされている。東エルサレムは国際法上ではパレスチナに分類されイスラエルによる実効支配下にある。イスラエルはエルサレムを首都と宣言しているが国連決議では認められていない。パレスチナ政府も東エルサレムを首都と宣言している。 ヘブライ語: יְרוּשָׁלַיִם (イェルシャライム)、アラビア語: القُدس(اَلْقُدْسُ, al-Quds, アル=クドゥス)、英語: Jerusalem (英語発音: [ʤəˈruːsələm] ジャルーサラム)。 ラテン語では Hierosolyma (ヒエロソリュマ)で、これはギリシア語名の Ἱεροσόλυμα をそのままローマ字に音写したもの である。 文語アラビア語(フスハー)発音ではアル=クドゥスだが、早口で発音すると直前のdの影響を受けた語末sのz化などによりアル=クッズに近く聞こえることもある。 またパレスチナ内に複数の口語方言があるため、ق(q)の声門閉鎖音(声門破裂音)ء(ʾ)置き換わりによるアル=ウドゥス、ق(q)の g 置き換わりによるアル=グドゥスといった読み方も並存している。 地中海から内陸部に入った標高800メートルの小高い丘の上に位置する。ユダヤ人が住む西エルサレムと、アラブ人居住区である東エルサレムから成り立つ。古代イスラエル・ユダ王国の首都で、エルサレム神殿がかつて存在した。イエス・キリストが処刑された地でもあり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地となっている。 西部はイスラエルの行政区画であるエルサレム地区に属する。東エルサレムは第三次中東戦争(1967年)でイスラエルが占領し、編入を宣言しエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、イスラエルと国交を持つ諸国や、国際連合など国際社会、パレスチナ自治政府はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。またパレスチナ自治政府は東エルサレムをヨルダン川西岸地区エルサレム県に含まれるとして領有権を主張し、パレスチナ独立後の首都と規定している。 イスラエルによる東エルサレムへの入植は、国際法違反として度々国連安全保障理事会で非難決議が行われるが、ほとんどの場合アメリカ合衆国が拒否権を行使して廃案になる。 このために大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきたが、2017年にアメリカのドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、2018年5月に大使館をテルアビブからエルサレムに移転させた。 第一次中東戦争(1948~1949年)によってヨルダンの支配下に置かれた地区が東エルサレムである。住民の大半はパレスチナ人で1949年以前のエルサレム市域の20%を占めるが、本来のエルサレムである城壁に囲まれた旧市街は東エルサレムに含まれ、1967年の第三次中東戦争によってイスラエルに占領された。占領後、イスラエルは旧ヨルダン領の28の地方自治体をエルサレムに統合し、エルサレムの面積は大幅に拡大した。この新市域にイスラエルは大型のユダヤ人入植地を次々と建設している。 旧市街のすぐ東にはオリーブ山がある。ここはイエス・キリストの足跡が多く、多くのキリスト教徒が訪れるほか、旧約聖書のゼカリヤ書においても、最後の審判の日に神が現れ、死者がよみがえる場所とされているため、ユダヤ人の聖地ともなっている。 旧市街の北側には、ロックフェラー博物館や、中東における聖公会の主教座聖堂である聖ジョージ大聖堂がある。旧市街の南側にはシオンの山(丘)があり、ダビデ王の墓やキリストにかかわる旧跡がある。 旧市街はユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地であり、嘆きの壁や聖墳墓教会、岩のドームといった各宗教縁の施設を訪れる人々が絶えない。旧市街は城壁に囲まれ、東西南北に宗派ごとで四分割されている。北東はムスリム地区、北西はキリスト教徒地区、南西はアルメニア正教徒地区、南東はユダヤ人地区となっている。現在の城壁はオスマン・トルコ皇帝のスレイマン1世によって建設されたものである。城壁には北側中央にあるダマスクス門から時計回りに、ヘロデ門、獅子門、黄金門、糞門、シオン門、ヤッフォ門、新門の八つの門があり、ここからしか出入りができない。19世紀に作られた新門以外はスレイマン時代より存在する門である。 嘆きの壁はユダヤ人地区の東端にある。嘆きの壁の上はムスリム地区に属し、神殿の丘と呼ばれる、かつてのエルサレム神殿の跡で、ここにはイスラム教の聖地アル=アクサー・モスクやイスラーム建築の傑作とされる岩のドームが建っている。 旧市街がヨルダン領であった時代にはユダヤ人は旧市街より追放され、イスラエルからは限られた時期にアラブ人のみが入国することができた。このため、イスラエルのユダヤ人は嘆きの壁を訪れることができなかった。1967年にイスラエルが旧市街を占領したことによって、イスラエルのユダヤ人は再び聖地を訪れることが可能となった。一方、イスラエルにはアラブ人のイスラム教徒が一定数存在していたため、イスラエル統治下ではイスラム教徒が聖地を訪れることは可能となった。しかし、現在でもイスラエルと国交のないアラブ国家は多く、そういった国の国民であるイスラム教徒はイスラエルに入国できないため、エルサレムにも行くことはできない。 旧市街は「エルサレムの旧市街とその城壁群」の名で1981年に世界遺産に登録された(ヨルダンによる申請)。 元々のパレスチナ人の村の跡地にはナビー・アカシャ・モスクのような建物も残るが、西側は新市街と呼ばれる近代的な都市で、1949年以前のエルサレム市域の80%を占める。1950年にイスラエルが西エルサレムを占領するとテルアビブより首都機能が移され、ヘブライ大学、イスラエル博物館、ハイテク工業団地や国会、各省庁などが立地する、イスラエルの政治・文化の中心となった。ただし、国防省に関しては、軍事的な観点で、エルサレムではなくテルアビブに立地している。メインストリートは旧市街のヤッフォ門から北西に伸びるヤッフォ通りで、市庁舎や市場、西端には中央バスターミナルがあり、ライトレールも走っている。途中のシオン広場から西へ延びるベン・イェフダ通りは繁華街となっている。西エルサレムの北東にあるメーアー・シェアーリームはユダヤ教超正統派の町として知られ、東欧やロシアから移住して来た当時のたたずまいを残す町並みとなっている。エルサレムの西端には国立共同墓地であるヘルツルの丘があり、テオドール・ヘルツルやレヴィ・エシュコル、ゴルダ・メイア、イツハク・ラビンなどが埋葬されている。この丘の西側にはホロコースト博物館であるヤド・ヴァシェムが立っている。 紀元前30世紀頃、カナンと呼ばれていた土地において古代セム系民族がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。エルサレムの地名は古代エジプトの記録(アマルナ文書)などにまず見られる。紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立すると、2代目のダビデ王によって都と定められた。その後、3代目のソロモン王によって王国は絶頂期を迎え、エルサレム神殿(第一神殿)が建設されたが、その死後の紀元前930年ごろに王国は南北に分裂、エルサレムはユダ王国の都となった。 その後、エルサレムは300年以上ユダ王国の都として存続したものの、王国は紀元前597年に新バビロニア王国の支配下に入り、新バビロニア王ネブカドネザル2世によってエルサレムの住民約3000人がバビロンへと連行された。ついで紀元前586年7月11日、ユダ王国は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、住民はすべてバビロンへと連行された。バビロン捕囚である。 紀元前539年に新バビロニアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされると、ペルシア王キュロス2世はユダヤ人のエルサレムへの帰還を認め、エルサレムは再建された。紀元前515年にエルサレム神殿も再建(第二神殿)された。紀元前332年のガザ包囲戦でアレクサンドロス3世が勝利し、大きな歴史の画期となった。それ以降エルサレムはアレクサンドロス帝国、セレウコス朝シリアの支配下となった。紀元前140年頃にはユダヤ人がハスモン朝を建てて自立したものの、ローマ帝国の影響が強まり、紀元前37年にはローマの宗主権のもと、ヘロデ大王によってヘロデ朝が創始され、ローマの支配下におかれた。ヘロデは第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設した。 この後は6年にユダヤ属州が創設され、州都はカイサリアに置かれたが、エルサレムは宗教の中心として栄え続けた。この頃、イエス・キリストがエルサレムに現れ、30年ごろに属州総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されたとされる。 しかし、66年にはユダヤ戦争が勃発し、ユダヤ人はエルサレムに拠って抵抗したものの、エルサレム攻囲戦 (70年) によってエルサレムは陥落した。これ以後、それまでユダヤ人への配慮からカイサリアに置かれていたローマ軍団がエルサレムへと駐屯するようになり、エルサレムにはユダヤ人の居住は禁止された。ハドリアヌスの治世になるとエルサレムの再建が計画されたものの、ユダヤ神殿の跡にユーピテルの神殿を築き、都市名をアエリア・カピトリナと改名することを知ったユダヤ人は激怒し、132年にバル・コクバの乱を起こしたが鎮圧された。エルサレムはローマ植民市アエリア・カピトリナとして再建された。 その結果、エルサレムを追われ、離散(ディアスポラ)することになったユダヤ人たちは、エルサレム神殿での祭祀に代り、律法の学習を拠り所とするようになった。 313年にはローマ帝国がミラノ勅令によってキリスト教を公認し、320年ごろにコンスタンティヌス1世の母太后である聖ヘレナが巡礼を行ったことで、エルサレムはキリスト教の聖地化した。市名は再びエルサレムに戻され、聖墳墓教会が立てられた。ユリアヌス帝の時代には、ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった。 638年、アラブ軍による征服でエルサレムはイスラーム勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、7世紀末に岩のドームが建設された。970年より、シーア派を掲げるファーティマ朝の支配下に入った。しかし、11世紀後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地をスンナ派のセルジューク朝が占領した。この征服を率いた軍人アトスズは、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。 1098年にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回する。しかし、翌年には第一次十字軍の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺した(エルサレム攻囲戦)。そして、1099年にエルサレム王国を成立させた。ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。しかし、12世紀後半にアイユーブ朝のスルタンであるサラーフッディーンがエルサレムを奪回(英語版)し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。このときカトリックは追放されたものの、正教会やユダヤ人の居住は許可された。1229年、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝スルタンのアル=カーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。 それ以後はマムルーク朝やオスマン帝国の支配下に置かれた。 19世紀後半に入るとヨーロッパに住むユダヤ人の間でシオニズムが高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増した。中でも特に移住者が多かったのは聖都エルサレムであり、19世紀後半にはエルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。1892年には地中海沿岸から鉄道が開通し、人口はさらに増加した。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、この地域は大英帝国・国際連盟によってユダヤ人シオニストのハーバート・サミュエル卿が高等弁務官として治めるイギリス委任統治領パレスチナとなり、エルサレムにその首都が置かれた。このことでエルサレムの政治的重要性がさらに増す一方で、委任統治領政府はエルサレムの近代化に力を入れ、1925年にはヘブライ大学も開学した。 第二次世界大戦後の1947年に国際連合のパレスチナ分割決議において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国連の永久信託統治とする案が決議された。この決議を基にイスラエルが独立宣言をするが、直後に第一次中東戦争が勃発。1949年の休戦協定により西エルサレムはイスラエルが、旧市街を含め東エルサレムをヨルダンが統治することになり、エルサレムは東西に分断された。1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)を経て、ヨルダンが統治していた東エルサレムは現在までイスラエルの実効支配下にある。イスラエルは東エルサレムの統合を主張しており、また、第三次中東戦争による「再統合」を祝う「エルサレムの日」を設けている(ユダヤ暦からの換算になるため、グレゴリオ暦では毎年変動がある。2010年は5月12日が「エルサレムの日」であった)。 イスラエルは東エルサレムの実効支配を既成事実化するため、ユダヤ人入植を精力的に進めており、2010年時点で入植者は20万人を超える。イスラエルは今後の数年間で、先の1600戸を合わせ5万戸の入植を計画している。一方、エルサレム市当局は、パレスチナ人の住居が無許可であるとの理由で、しばしばその住居を破壊している。 エルサレムは単に地理的に要所であるのではなく、アブラハムの宗教全ての聖地であることが最大の問題である。このことがエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、パレスチナ問題の解決を一層困難にしている。 エルサレムは19世紀後半よりユダヤ人の方がアラブ人よりも常に人口で上回っており、1949年にエルサレムが東西に分割されるとその傾向はさらに強まった。東エルサレムは経済の伸び悩んだヨルダン領にあった上、首都はアンマンに置かれてエルサレムの開発は進められず、人口は停滞した。一方、イスラエル側の西エルサレムは独立後すぐに首都が移され、イスラエルの政治の中心として大規模な開発が進められたため、人口が急増した。1967年に東エルサレムがイスラエルに占領されると多くのアラブ人がエルサレムから流出し、その差はさらに開いた。1967年にはユダヤ人はエルサレムの人口の74.6%を占め、アラブ人は25.4%に過ぎなかった。イスラエルは占領後旧ヨルダン領にあった28の地方自治体をエルサレムに統合したが、その地区にはユダヤ人の大規模入植地が建設され、多くのユダヤ人が流入した。しかしエルサレムのアラブ人の出生率は高く、ユダヤ人入植地の大量建設をもってしても人口比率を増やすことはできなかった。2007年には、エルサレムのアラブ人の割合は34%にまで伸び、ユダヤ人の比率は66%にまで落ちた。このままの人口推移が続けば、2035年にはエルサレムの人口比率はユダヤ人とアラブ人がほぼ同数になると考えられている。 また、エルサレムはユダヤ教の中心都市であるため、国内比率に比べてユダヤ教超正統派の占める割合が非常に高く、エルサレム人口の3分の1を占めており、なお増加中である。 エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄えたが、経済的には必ずしも重要な位置を占めてきたわけではない。そのためエルサレムを領土に収めた代々の国家のうち、エルサレムを首都としてきた国家はほとんどない。 古代のユダ王国や、十字軍国家であるエルサレム王国を除いては、エルサレムは一地方都市にとどまっていた。しかし宗教的には非常に重要な土地であり、イギリスの委任統治領時代に首都がおかれたこともあって、政治的重要性も増した。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。 しかし第二次世界大戦後、イスラエル建国・第一次中東戦争などによってパレスチナ問題が起こると、歴史的経緯により国家の正統性にも関わるエルサレムの領有問題も、にわかに浮上する。第一次中東戦争の休戦協定により、エルサレムが東西を分断された後、西エルサレムを占領したイスラエルは、1950年に議会でエルサレムを首都と宣言して、テルアビブの首都機能を西エルサレムに移転。その後、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東西ともに占領し、1980年には、改めてイスラエル議会により、統一エルサレムはイスラエルの不可分・永遠の首都であると宣言するエルサレム基本法案を可決した。 イスラエルによる統一エルサレムの首都宣言に対し、国際連合安全保障理事会は「イスラエルの統一エルサレムの首都宣言は無効だとして破棄すべきものである」「エルサレムに外交使節を設立している国際連合加盟国は外交使節を、エルサレムから撤収させる」とする国際連合安全保障理事会決議478を可決し(アメリカ合衆国は拒否権を発動せずに棄権)、国際連合総会は東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議した。 1967年までは、13カ国の大使館が西エルサレムに置かれていたが、イスラエルによる東エルサレムの併合に抗議して、これらの国家も大使館を移転。一度は大使館を移転したものの、エルサレムに大使館を再び置いたコスタリカ(1982年から)とエルサルバドル(1984年から)も2006年に大使館を移転した。国連加盟各国は、イスラエル建国初期に首都機能があったテルアビブに大使館を集中して置いている。 1993年のオスロ合意では、エルサレムの最終的地位については、イスラエルとパレスチナが話し合って決めることとされた。 2009年、欧州連合(EU)議長国のスウェーデンは、エルサレムをイスラエル、パレスチナ自治政府、両方の首都とするよう求める発議を行った。イスラエルはこれに反発し、EU加盟各国に抗議を行った。 アメリカ合衆国は、二大政党である民主党と共和党は、党綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めており、1995年にアメリカ合衆国議会で、大使館のエルサレム移転を求めるエルサレム大使館法が可決・成立された。しかし、歴代のアメリカ合衆国大統領(クリントン、ブッシュ、オバマ)は、大使館移転は中東和平実現の障害になるとの観点から、法律で認められた条項を根拠に半年ごとに実施を延期してきた。 2016年のアメリカ合衆国大統領選挙では「駐イスラエル大使館のエルサレム移転」を公約したドナルド・トランプが当選し、2017年6月には前述の法案実施について半年延期したものの、同年12月6日には、エルサレムをイスラエルの首都と認定して、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転する手続きを始めるよう指示したことを正式に表明した(エルサレムをイスラエルの首都とするアメリカ合衆国の承認)。なおトランプは「エルサレムの最終的な地位については、イスラエルとパレスチナの当事者間で解決すべきで、米国は特定の立場を取らない」とした。 この決定の撤回を求める決議(英語版)が、2017年12月21日(日本時間22日未明)に開かれた国際連合総会で採択された(賛成128カ国、反対9カ国、棄権35カ国、欠席21カ国)。 2018年5月14日、アメリカ合衆国が駐イスラエル大使館を公式にエルサレムに移転した。これを受けてガザ地区とイスラエルの国境沿いでパレスチナ市民がデモを行い、イスラエル軍がパレスチナ市民61人を殺害した。2018年3月30日から5月19日現在までに、ガザ地区との国境において、118人のパレスチナ市民がイスラエル軍により殺害されている。 それぞれの態度(国連・EU・各国) 国連:1947年11月29日に合意された国連総会決議181「パレスチナ分割決議(パレスチナぶんかつけつぎ 、英: United Nations Partition Plan for Palestine)」は、当時のパレスチナ問題を解決するために出された国連総会決議。この案は「経済同盟を伴う分割案(Plan of Partition with Economic Union)」と述べられ、イギリスの委任統治を終わらせアラブ人とユダヤ人の国家を創出し、エルサレムを特別な都市とすることとなっていた。1947年11月29日国際連合総会において、この案の採用と実施を勧告する決議が決議181号として採択された。 エルサレムは地中海性気候に区分されており、冬に一定の降水があるが夏は日ざしが強く乾燥する。冬には1、2度の軽い降雪があるが、平均すると3、4年ごとにまとまった雪が降る。1月が1年で最も寒い月で、最も暑いのは7月と8月である。昼夜の寒暖差が大きいため、大抵は夏でさえ晩には涼しくなる。年平均降水量は590mm程度で、そのほとんどは10月から5月の間に降る。 エルサレムはイスラエル最大の都市ではあるが、経済や産業の中心はテルアビブにあり、エルサレムの主な産業は政府関係や大学などの公的サービス、ならびに世界各地から訪れる観光客や巡礼客相手の観光産業であり、第三次産業が大きな割合を占める。エルサレムにはイスラエルの政府機能が置かれ、これがエルサレムの都市としての成長を促した。一方で、エルサレムの住民は、パレスチナ人やユダヤ教超正統派といった、あまり豊かでないグループの割合が大きい。そのうえ目立った産業が少なく、限られた雇用も政府関係が主であることから、エルサレムの貧困率は高く、2004年にはエルサレムの人口がイスラエル全体の10.27%だったのに対し、エルサレムの貧困人口は全国の19.29%を占めた。 テルアビブ・エルサレム間は高速道路で1時間、エゲッドバスが急行で1時間3本程度テルアビブの中央バスセンターから出ている。 エルサレム市内はエゲッドバスが網羅している。エゲッドバスはヤッファ通り西端にあるエルサレム中央バスセンターに発着し、そこからヨルダン川西岸を抜け、死海沿岸を通りゴラン高原方面へ北上するものや、同じく死海沿岸のリゾート地を通ってネゲブ方面へ南下するもの、テルアビブやハイファなど国内主要都市へ向けて走るものなど、国内全域に路線網がある。 鉄道は、市内郊外のエルサレム・マルハ駅とロード、テルアビブを1時間半で結ぶ路線(テルアビブ=エルサレム線)があったが、2018年に高速新線が開通して市内中心部の地下80mの深さに作られたエルサレム・イツハク・ナヴォン駅(英語版)までを結んでいる。ベン・グリオン国際空港からの所要時間は30分ほどである。 ユダヤ人居住地の西エルサレムとアラブ人居住地の東エルサレムでは市内バスの運行会社が異なっており、西エルサレムはエゲットバス、東エルサレムはアラブバスが運行されている。ユダヤ人はアラブバスはほとんど利用しない。 1925年に開校されたイスラエルの最高学府であるヘブライ大学を始めとする多くの大学があり、大学都市としての一面もある。ヘブライ大学のキャンパスは開校時はエルサレム東郊(現東エルサレム)のスコーパス山にあったが、第一次中東戦争によってこのキャンパスは飛び地となった ため、西エルサレムのギブアット・ラムに新キャンパスを建設した。第三次中東戦争によって飛び地状態が解消するとスコーパスキャンパスが復旧され、現在では人文系のスコーパスキャンパスと自然科学系のギブアット・ラムキャンパスの2つのキャンパスがある。他にも、ベツァルエル美術デザイン学院やエルサレム工科大学などといった単科大学が存在している。 サッカーのイスラエル・プレミアリーグの有力チームのひとつであるベイタル・エルサレムFCが、西エルサレム南西部のテディ・スタジアムを本拠地としている。 グランツールと呼ばれる自転車競技(ロードレース)世界三大大会、ジロ・デ・イタリアが2018年にエルサレムにて開幕。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エルサレムまたはイェルサレム(ヘブライ語: יְרוּשָׁלַיִם Yerushaláyim; アラビア語: القدس, اَلْقُدْسُ, al-Quds, アル=クドゥス al-Quds)は、西アジアにある都市。エルサレムは世界最古の都市の一つであり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖市と見なされている。東エルサレムは国際法上ではパレスチナに分類されイスラエルによる実効支配下にある。イスラエルはエルサレムを首都と宣言しているが国連決議では認められていない。パレスチナ政府も東エルサレムを首都と宣言している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ヘブライ語: יְרוּשָׁלַיִם (イェルシャライム)、アラビア語: القُدس(اَلْقُدْسُ, al-Quds, アル=クドゥス)、英語: Jerusalem (英語発音: [ʤəˈruːsələm] ジャルーサラム)。", "title": "名称・表記" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ラテン語では Hierosolyma (ヒエロソリュマ)で、これはギリシア語名の Ἱεροσόλυμα をそのままローマ字に音写したもの である。", "title": "名称・表記" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "文語アラビア語(フスハー)発音ではアル=クドゥスだが、早口で発音すると直前のdの影響を受けた語末sのz化などによりアル=クッズに近く聞こえることもある。", "title": "名称・表記" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "またパレスチナ内に複数の口語方言があるため、ق(q)の声門閉鎖音(声門破裂音)ء(ʾ)置き換わりによるアル=ウドゥス、ق(q)の g 置き換わりによるアル=グドゥスといった読み方も並存している。", "title": "名称・表記" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "地中海から内陸部に入った標高800メートルの小高い丘の上に位置する。ユダヤ人が住む西エルサレムと、アラブ人居住区である東エルサレムから成り立つ。古代イスラエル・ユダ王国の首都で、エルサレム神殿がかつて存在した。イエス・キリストが処刑された地でもあり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西部はイスラエルの行政区画であるエルサレム地区に属する。東エルサレムは第三次中東戦争(1967年)でイスラエルが占領し、編入を宣言しエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、イスラエルと国交を持つ諸国や、国際連合など国際社会、パレスチナ自治政府はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。またパレスチナ自治政府は東エルサレムをヨルダン川西岸地区エルサレム県に含まれるとして領有権を主張し、パレスチナ独立後の首都と規定している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "イスラエルによる東エルサレムへの入植は、国際法違反として度々国連安全保障理事会で非難決議が行われるが、ほとんどの場合アメリカ合衆国が拒否権を行使して廃案になる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このために大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきたが、2017年にアメリカのドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、2018年5月に大使館をテルアビブからエルサレムに移転させた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "第一次中東戦争(1948~1949年)によってヨルダンの支配下に置かれた地区が東エルサレムである。住民の大半はパレスチナ人で1949年以前のエルサレム市域の20%を占めるが、本来のエルサレムである城壁に囲まれた旧市街は東エルサレムに含まれ、1967年の第三次中東戦争によってイスラエルに占領された。占領後、イスラエルは旧ヨルダン領の28の地方自治体をエルサレムに統合し、エルサレムの面積は大幅に拡大した。この新市域にイスラエルは大型のユダヤ人入植地を次々と建設している。", "title": "市内の地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "旧市街のすぐ東にはオリーブ山がある。ここはイエス・キリストの足跡が多く、多くのキリスト教徒が訪れるほか、旧約聖書のゼカリヤ書においても、最後の審判の日に神が現れ、死者がよみがえる場所とされているため、ユダヤ人の聖地ともなっている。", "title": "市内の地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "旧市街の北側には、ロックフェラー博物館や、中東における聖公会の主教座聖堂である聖ジョージ大聖堂がある。旧市街の南側にはシオンの山(丘)があり、ダビデ王の墓やキリストにかかわる旧跡がある。", "title": "市内の地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "旧市街はユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地であり、嘆きの壁や聖墳墓教会、岩のドームといった各宗教縁の施設を訪れる人々が絶えない。旧市街は城壁に囲まれ、東西南北に宗派ごとで四分割されている。北東はムスリム地区、北西はキリスト教徒地区、南西はアルメニア正教徒地区、南東はユダヤ人地区となっている。現在の城壁はオスマン・トルコ皇帝のスレイマン1世によって建設されたものである。城壁には北側中央にあるダマスクス門から時計回りに、ヘロデ門、獅子門、黄金門、糞門、シオン門、ヤッフォ門、新門の八つの門があり、ここからしか出入りができない。19世紀に作られた新門以外はスレイマン時代より存在する門である。", "title": "市内の地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "嘆きの壁はユダヤ人地区の東端にある。嘆きの壁の上はムスリム地区に属し、神殿の丘と呼ばれる、かつてのエルサレム神殿の跡で、ここにはイスラム教の聖地アル=アクサー・モスクやイスラーム建築の傑作とされる岩のドームが建っている。", "title": "市内の地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "旧市街がヨルダン領であった時代にはユダヤ人は旧市街より追放され、イスラエルからは限られた時期にアラブ人のみが入国することができた。このため、イスラエルのユダヤ人は嘆きの壁を訪れることができなかった。1967年にイスラエルが旧市街を占領したことによって、イスラエルのユダヤ人は再び聖地を訪れることが可能となった。一方、イスラエルにはアラブ人のイスラム教徒が一定数存在していたため、イスラエル統治下ではイスラム教徒が聖地を訪れることは可能となった。しかし、現在でもイスラエルと国交のないアラブ国家は多く、そういった国の国民であるイスラム教徒はイスラエルに入国できないため、エルサレムにも行くことはできない。", "title": "市内の地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "旧市街は「エルサレムの旧市街とその城壁群」の名で1981年に世界遺産に登録された(ヨルダンによる申請)。", "title": "市内の地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "元々のパレスチナ人の村の跡地にはナビー・アカシャ・モスクのような建物も残るが、西側は新市街と呼ばれる近代的な都市で、1949年以前のエルサレム市域の80%を占める。1950年にイスラエルが西エルサレムを占領するとテルアビブより首都機能が移され、ヘブライ大学、イスラエル博物館、ハイテク工業団地や国会、各省庁などが立地する、イスラエルの政治・文化の中心となった。ただし、国防省に関しては、軍事的な観点で、エルサレムではなくテルアビブに立地している。メインストリートは旧市街のヤッフォ門から北西に伸びるヤッフォ通りで、市庁舎や市場、西端には中央バスターミナルがあり、ライトレールも走っている。途中のシオン広場から西へ延びるベン・イェフダ通りは繁華街となっている。西エルサレムの北東にあるメーアー・シェアーリームはユダヤ教超正統派の町として知られ、東欧やロシアから移住して来た当時のたたずまいを残す町並みとなっている。エルサレムの西端には国立共同墓地であるヘルツルの丘があり、テオドール・ヘルツルやレヴィ・エシュコル、ゴルダ・メイア、イツハク・ラビンなどが埋葬されている。この丘の西側にはホロコースト博物館であるヤド・ヴァシェムが立っている。", "title": "市内の地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "紀元前30世紀頃、カナンと呼ばれていた土地において古代セム系民族がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。エルサレムの地名は古代エジプトの記録(アマルナ文書)などにまず見られる。紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立すると、2代目のダビデ王によって都と定められた。その後、3代目のソロモン王によって王国は絶頂期を迎え、エルサレム神殿(第一神殿)が建設されたが、その死後の紀元前930年ごろに王国は南北に分裂、エルサレムはユダ王国の都となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、エルサレムは300年以上ユダ王国の都として存続したものの、王国は紀元前597年に新バビロニア王国の支配下に入り、新バビロニア王ネブカドネザル2世によってエルサレムの住民約3000人がバビロンへと連行された。ついで紀元前586年7月11日、ユダ王国は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、住民はすべてバビロンへと連行された。バビロン捕囚である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "紀元前539年に新バビロニアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされると、ペルシア王キュロス2世はユダヤ人のエルサレムへの帰還を認め、エルサレムは再建された。紀元前515年にエルサレム神殿も再建(第二神殿)された。紀元前332年のガザ包囲戦でアレクサンドロス3世が勝利し、大きな歴史の画期となった。それ以降エルサレムはアレクサンドロス帝国、セレウコス朝シリアの支配下となった。紀元前140年頃にはユダヤ人がハスモン朝を建てて自立したものの、ローマ帝国の影響が強まり、紀元前37年にはローマの宗主権のもと、ヘロデ大王によってヘロデ朝が創始され、ローマの支配下におかれた。ヘロデは第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この後は6年にユダヤ属州が創設され、州都はカイサリアに置かれたが、エルサレムは宗教の中心として栄え続けた。この頃、イエス・キリストがエルサレムに現れ、30年ごろに属州総督ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、66年にはユダヤ戦争が勃発し、ユダヤ人はエルサレムに拠って抵抗したものの、エルサレム攻囲戦 (70年) によってエルサレムは陥落した。これ以後、それまでユダヤ人への配慮からカイサリアに置かれていたローマ軍団がエルサレムへと駐屯するようになり、エルサレムにはユダヤ人の居住は禁止された。ハドリアヌスの治世になるとエルサレムの再建が計画されたものの、ユダヤ神殿の跡にユーピテルの神殿を築き、都市名をアエリア・カピトリナと改名することを知ったユダヤ人は激怒し、132年にバル・コクバの乱を起こしたが鎮圧された。エルサレムはローマ植民市アエリア・カピトリナとして再建された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その結果、エルサレムを追われ、離散(ディアスポラ)することになったユダヤ人たちは、エルサレム神殿での祭祀に代り、律法の学習を拠り所とするようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "313年にはローマ帝国がミラノ勅令によってキリスト教を公認し、320年ごろにコンスタンティヌス1世の母太后である聖ヘレナが巡礼を行ったことで、エルサレムはキリスト教の聖地化した。市名は再びエルサレムに戻され、聖墳墓教会が立てられた。ユリアヌス帝の時代には、ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "638年、アラブ軍による征服でエルサレムはイスラーム勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、7世紀末に岩のドームが建設された。970年より、シーア派を掲げるファーティマ朝の支配下に入った。しかし、11世紀後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地をスンナ派のセルジューク朝が占領した。この征服を率いた軍人アトスズは、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1098年にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回する。しかし、翌年には第一次十字軍の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺した(エルサレム攻囲戦)。そして、1099年にエルサレム王国を成立させた。ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。しかし、12世紀後半にアイユーブ朝のスルタンであるサラーフッディーンがエルサレムを奪回(英語版)し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。このときカトリックは追放されたものの、正教会やユダヤ人の居住は許可された。1229年、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝スルタンのアル=カーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "それ以後はマムルーク朝やオスマン帝国の支配下に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "19世紀後半に入るとヨーロッパに住むユダヤ人の間でシオニズムが高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増した。中でも特に移住者が多かったのは聖都エルサレムであり、19世紀後半にはエルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。1892年には地中海沿岸から鉄道が開通し、人口はさらに増加した。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、この地域は大英帝国・国際連盟によってユダヤ人シオニストのハーバート・サミュエル卿が高等弁務官として治めるイギリス委任統治領パレスチナとなり、エルサレムにその首都が置かれた。このことでエルサレムの政治的重要性がさらに増す一方で、委任統治領政府はエルサレムの近代化に力を入れ、1925年にはヘブライ大学も開学した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の1947年に国際連合のパレスチナ分割決議において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国連の永久信託統治とする案が決議された。この決議を基にイスラエルが独立宣言をするが、直後に第一次中東戦争が勃発。1949年の休戦協定により西エルサレムはイスラエルが、旧市街を含め東エルサレムをヨルダンが統治することになり、エルサレムは東西に分断された。1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)を経て、ヨルダンが統治していた東エルサレムは現在までイスラエルの実効支配下にある。イスラエルは東エルサレムの統合を主張しており、また、第三次中東戦争による「再統合」を祝う「エルサレムの日」を設けている(ユダヤ暦からの換算になるため、グレゴリオ暦では毎年変動がある。2010年は5月12日が「エルサレムの日」であった)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "イスラエルは東エルサレムの実効支配を既成事実化するため、ユダヤ人入植を精力的に進めており、2010年時点で入植者は20万人を超える。イスラエルは今後の数年間で、先の1600戸を合わせ5万戸の入植を計画している。一方、エルサレム市当局は、パレスチナ人の住居が無許可であるとの理由で、しばしばその住居を破壊している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "エルサレムは単に地理的に要所であるのではなく、アブラハムの宗教全ての聖地であることが最大の問題である。このことがエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、パレスチナ問題の解決を一層困難にしている。", "title": "宗教とエルサレム" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "エルサレムは19世紀後半よりユダヤ人の方がアラブ人よりも常に人口で上回っており、1949年にエルサレムが東西に分割されるとその傾向はさらに強まった。東エルサレムは経済の伸び悩んだヨルダン領にあった上、首都はアンマンに置かれてエルサレムの開発は進められず、人口は停滞した。一方、イスラエル側の西エルサレムは独立後すぐに首都が移され、イスラエルの政治の中心として大規模な開発が進められたため、人口が急増した。1967年に東エルサレムがイスラエルに占領されると多くのアラブ人がエルサレムから流出し、その差はさらに開いた。1967年にはユダヤ人はエルサレムの人口の74.6%を占め、アラブ人は25.4%に過ぎなかった。イスラエルは占領後旧ヨルダン領にあった28の地方自治体をエルサレムに統合したが、その地区にはユダヤ人の大規模入植地が建設され、多くのユダヤ人が流入した。しかしエルサレムのアラブ人の出生率は高く、ユダヤ人入植地の大量建設をもってしても人口比率を増やすことはできなかった。2007年には、エルサレムのアラブ人の割合は34%にまで伸び、ユダヤ人の比率は66%にまで落ちた。このままの人口推移が続けば、2035年にはエルサレムの人口比率はユダヤ人とアラブ人がほぼ同数になると考えられている。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、エルサレムはユダヤ教の中心都市であるため、国内比率に比べてユダヤ教超正統派の占める割合が非常に高く、エルサレム人口の3分の1を占めており、なお増加中である。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄えたが、経済的には必ずしも重要な位置を占めてきたわけではない。そのためエルサレムを領土に収めた代々の国家のうち、エルサレムを首都としてきた国家はほとんどない。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "古代のユダ王国や、十字軍国家であるエルサレム王国を除いては、エルサレムは一地方都市にとどまっていた。しかし宗教的には非常に重要な土地であり、イギリスの委任統治領時代に首都がおかれたこともあって、政治的重要性も増した。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし第二次世界大戦後、イスラエル建国・第一次中東戦争などによってパレスチナ問題が起こると、歴史的経緯により国家の正統性にも関わるエルサレムの領有問題も、にわかに浮上する。第一次中東戦争の休戦協定により、エルサレムが東西を分断された後、西エルサレムを占領したイスラエルは、1950年に議会でエルサレムを首都と宣言して、テルアビブの首都機能を西エルサレムに移転。その後、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東西ともに占領し、1980年には、改めてイスラエル議会により、統一エルサレムはイスラエルの不可分・永遠の首都であると宣言するエルサレム基本法案を可決した。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "イスラエルによる統一エルサレムの首都宣言に対し、国際連合安全保障理事会は「イスラエルの統一エルサレムの首都宣言は無効だとして破棄すべきものである」「エルサレムに外交使節を設立している国際連合加盟国は外交使節を、エルサレムから撤収させる」とする国際連合安全保障理事会決議478を可決し(アメリカ合衆国は拒否権を発動せずに棄権)、国際連合総会は東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議した。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1967年までは、13カ国の大使館が西エルサレムに置かれていたが、イスラエルによる東エルサレムの併合に抗議して、これらの国家も大使館を移転。一度は大使館を移転したものの、エルサレムに大使館を再び置いたコスタリカ(1982年から)とエルサルバドル(1984年から)も2006年に大使館を移転した。国連加盟各国は、イスラエル建国初期に首都機能があったテルアビブに大使館を集中して置いている。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1993年のオスロ合意では、エルサレムの最終的地位については、イスラエルとパレスチナが話し合って決めることとされた。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2009年、欧州連合(EU)議長国のスウェーデンは、エルサレムをイスラエル、パレスチナ自治政府、両方の首都とするよう求める発議を行った。イスラエルはこれに反発し、EU加盟各国に抗議を行った。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国は、二大政党である民主党と共和党は、党綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めており、1995年にアメリカ合衆国議会で、大使館のエルサレム移転を求めるエルサレム大使館法が可決・成立された。しかし、歴代のアメリカ合衆国大統領(クリントン、ブッシュ、オバマ)は、大使館移転は中東和平実現の障害になるとの観点から、法律で認められた条項を根拠に半年ごとに実施を延期してきた。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2016年のアメリカ合衆国大統領選挙では「駐イスラエル大使館のエルサレム移転」を公約したドナルド・トランプが当選し、2017年6月には前述の法案実施について半年延期したものの、同年12月6日には、エルサレムをイスラエルの首都と認定して、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転する手続きを始めるよう指示したことを正式に表明した(エルサレムをイスラエルの首都とするアメリカ合衆国の承認)。なおトランプは「エルサレムの最終的な地位については、イスラエルとパレスチナの当事者間で解決すべきで、米国は特定の立場を取らない」とした。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この決定の撤回を求める決議(英語版)が、2017年12月21日(日本時間22日未明)に開かれた国際連合総会で採択された(賛成128カ国、反対9カ国、棄権35カ国、欠席21カ国)。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2018年5月14日、アメリカ合衆国が駐イスラエル大使館を公式にエルサレムに移転した。これを受けてガザ地区とイスラエルの国境沿いでパレスチナ市民がデモを行い、イスラエル軍がパレスチナ市民61人を殺害した。2018年3月30日から5月19日現在までに、ガザ地区との国境において、118人のパレスチナ市民がイスラエル軍により殺害されている。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "それぞれの態度(国連・EU・各国)", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "国連:1947年11月29日に合意された国連総会決議181「パレスチナ分割決議(パレスチナぶんかつけつぎ 、英: United Nations Partition Plan for Palestine)」は、当時のパレスチナ問題を解決するために出された国連総会決議。この案は「経済同盟を伴う分割案(Plan of Partition with Economic Union)」と述べられ、イギリスの委任統治を終わらせアラブ人とユダヤ人の国家を創出し、エルサレムを特別な都市とすることとなっていた。1947年11月29日国際連合総会において、この案の採用と実施を勧告する決議が決議181号として採択された。", "title": "首都問題" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "エルサレムは地中海性気候に区分されており、冬に一定の降水があるが夏は日ざしが強く乾燥する。冬には1、2度の軽い降雪があるが、平均すると3、4年ごとにまとまった雪が降る。1月が1年で最も寒い月で、最も暑いのは7月と8月である。昼夜の寒暖差が大きいため、大抵は夏でさえ晩には涼しくなる。年平均降水量は590mm程度で、そのほとんどは10月から5月の間に降る。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "エルサレムはイスラエル最大の都市ではあるが、経済や産業の中心はテルアビブにあり、エルサレムの主な産業は政府関係や大学などの公的サービス、ならびに世界各地から訪れる観光客や巡礼客相手の観光産業であり、第三次産業が大きな割合を占める。エルサレムにはイスラエルの政府機能が置かれ、これがエルサレムの都市としての成長を促した。一方で、エルサレムの住民は、パレスチナ人やユダヤ教超正統派といった、あまり豊かでないグループの割合が大きい。そのうえ目立った産業が少なく、限られた雇用も政府関係が主であることから、エルサレムの貧困率は高く、2004年にはエルサレムの人口がイスラエル全体の10.27%だったのに対し、エルサレムの貧困人口は全国の19.29%を占めた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "テルアビブ・エルサレム間は高速道路で1時間、エゲッドバスが急行で1時間3本程度テルアビブの中央バスセンターから出ている。 エルサレム市内はエゲッドバスが網羅している。エゲッドバスはヤッファ通り西端にあるエルサレム中央バスセンターに発着し、そこからヨルダン川西岸を抜け、死海沿岸を通りゴラン高原方面へ北上するものや、同じく死海沿岸のリゾート地を通ってネゲブ方面へ南下するもの、テルアビブやハイファなど国内主要都市へ向けて走るものなど、国内全域に路線網がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "鉄道は、市内郊外のエルサレム・マルハ駅とロード、テルアビブを1時間半で結ぶ路線(テルアビブ=エルサレム線)があったが、2018年に高速新線が開通して市内中心部の地下80mの深さに作られたエルサレム・イツハク・ナヴォン駅(英語版)までを結んでいる。ベン・グリオン国際空港からの所要時間は30分ほどである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ユダヤ人居住地の西エルサレムとアラブ人居住地の東エルサレムでは市内バスの運行会社が異なっており、西エルサレムはエゲットバス、東エルサレムはアラブバスが運行されている。ユダヤ人はアラブバスはほとんど利用しない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1925年に開校されたイスラエルの最高学府であるヘブライ大学を始めとする多くの大学があり、大学都市としての一面もある。ヘブライ大学のキャンパスは開校時はエルサレム東郊(現東エルサレム)のスコーパス山にあったが、第一次中東戦争によってこのキャンパスは飛び地となった ため、西エルサレムのギブアット・ラムに新キャンパスを建設した。第三次中東戦争によって飛び地状態が解消するとスコーパスキャンパスが復旧され、現在では人文系のスコーパスキャンパスと自然科学系のギブアット・ラムキャンパスの2つのキャンパスがある。他にも、ベツァルエル美術デザイン学院やエルサレム工科大学などといった単科大学が存在している。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "サッカーのイスラエル・プレミアリーグの有力チームのひとつであるベイタル・エルサレムFCが、西エルサレム南西部のテディ・スタジアムを本拠地としている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "グランツールと呼ばれる自転車競技(ロードレース)世界三大大会、ジロ・デ・イタリアが2018年にエルサレムにて開幕。", "title": "スポーツ" } ]
エルサレムまたはイェルサレムは、西アジアにある都市。エルサレムは世界最古の都市の一つであり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖市と見なされている。東エルサレムは国際法上ではパレスチナに分類されイスラエルによる実効支配下にある。イスラエルはエルサレムを首都と宣言しているが国連決議では認められていない。パレスチナ政府も東エルサレムを首都と宣言している。
{{Otheruses|都市|その他のエルサレムの用法|エルサレム (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 イスラエルの自治体 |名称 = エルサレム |ヘブライ語表記 = ירושלים |アラビア語表記 = القدس |画像 = Jerusalem infobox image.JPG |画像サイズ = 300px |画像説明 = |自治体旗 = |自治体章 = |愛称 = |標語 = |名称の由来 = 平和の町・聖なる家 |位置図 = Jerusalem.PNG |位置図サイズ = |位置図説明 = エルサレムの位置 |位置図2 = Jerusalem Israel Map.png |位置図サイズ2 = |位置図説明2 = エルサレムの位置(イスラエルとヨルダン川西岸地区の狭間) |緯度度= 31|緯度分= 47|緯度秒= |N(北緯)及びS(南緯)= N |経度度= 35|経度分= 13|経度秒= |E(東経)及びW(西経)= E |成立区分 = 起源 |成立日 = 紀元前30世紀 |成立区分1 = |成立日1 = |成立区分2 = |成立日2 = |創設者 = |地区 = [[エルサレム地区]] |郡 = |自治体区分 = 市 |首長氏名 = [[w:Moshe Lion|モシェ・レオン]] |首長所属党派 = |議長氏名 = |議長所属党派 = |総面積(平方キロ) = 126 |総面積(平方マイル) = |陸上面積(平方キロ) = |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) = |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 = |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) = |標高(フィート) = |人口の時点 = 2016年 |人口に関する備考 = |総人口 = 874,186 |人口密度(平方キロ当たり) = 6,938 |人口密度(平方マイル当たり) = |市街地人口 = |市街地人口密度(平方キロ当たり) = |市街地人口密度(平方マイル当たり) = |都市圏人口 = |都市圏人口密度(平方キロ当たり) = |都市圏人口密度(平方マイル当たり) = |郵便番号区分 = |郵便番号 = |市外局番 = |ナンバープレート = |ISOコード = |備考 = |公式サイト = [https://www.jerusalem.muni.il/he The Jerusalem Website] }} '''エルサレム'''または'''イェルサレム'''({{lang-he-n|יְרוּשָׁלַיִם}} <small>{{Audio|He-Jerusalem.ogg|help=no|''{{transl|he|Yerushaláyim}}''}}</small>; {{lang-ar|القدس}}, اَلْقُدْسُ, al-Quds, アル=クドス <small>{{Audio|ArAlquds.ogg|help=no|''{{transl|ar|al-Quds}}''}}</small>)は、[[西アジア]]にある[[都市]]。エルサレムは[[現在まで継続的に人が居住する都市の一覧|世界最古の都市の一つ]]であり、[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]の[[宗教都市|聖市]]と見なされている。[[東エルサレム]]は国際法上ではパレスチナに分類されイスラエルによる実効支配下にある。イスラエルはエルサレムを[[首都]]と宣言しているが国連決議では認められていない。パレスチナ政府も東エルサレムを首都と宣言している。 == 名称・表記 == {{lang-he|יְרוּשָׁלַיִם}} (イェルシャライム)、{{lang-ar|القُدس}}(اَلْقُدْسُ, al-Quds, アル=クドス)、{{lang-en|''Jerusalem''}} ({{IPA-en|ʤəˈruːsələm}} ジャ'''ルー'''サラム)。 [[ラテン語]]では ''Hierosolyma'' (ヒエロ'''ソ'''リュマ)で、これは[[ギリシア語]]名の {{lang|el|Ἱεροσόλυμα}} をそのままローマ字に音写したもの である。 文語アラビア語([[フスハー]])発音ではアル=クドスだが、早口で発音すると直前のdの影響を受けた語末sのz化などによりアル=クッズに近く聞こえることもある。 またパレスチナ内に複数の口語方言があるため、<span lang="ar" dir="rtl">ق</span>(q)の声門閉鎖音(声門破裂音)<span lang="ar" dir="rtl">ء</span>(ʾ)置き換わりによるアル=ウドゥス、<span lang="ar" dir="rtl">ق</span>(q)の g 置き換わりによるアル=グドゥスといった読み方も並存している。 == 概要 == [[地中海]]から[[内陸]]部に入った標高800[[メートル]]の小高い[[丘]]の上に位置する。[[ユダヤ人]]が住む[[西エルサレム]]と、[[アラブ人]]居住区である[[東エルサレム]]から成り立つ。[[古代イスラエル]]・[[ユダ王国]]の首都で、[[エルサレム神殿]]がかつて存在した。[[イエス・キリスト]]が処刑された地でもあり、[[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]・[[イスラム教]]共通の[[聖地]]となっている<ref name=news1/>。 西部は[[イスラエル]]の行政区画である[[エルサレム地区]]に属する。[[東エルサレム]]は[[第三次中東戦争]](1967年)でイスラエルが占領し、編入を宣言しエルサレムが自国の「[[首都]]」であると宣言しているものの、イスラエルと[[国交]]を持つ諸国や、[[国際連合]]など国際社会、[[パレスチナ自治政府]]はこれを認めておらず<ref name="news1" /><ref name="news2" />、イスラエルの首都は[[テルアビブ]]であるとみなしている<ref name="news1" /><ref name="news2" />。また[[パレスチナ自治政府]]は東エルサレムを[[ヨルダン川西岸地区]][[エルサレム県]]に含まれるとして領有権を主張し、パレスチナ独立後の首都と規定している。 イスラエルによる東エルサレムへの[[入植]]は、国際法違反として度々[[国連安全保障理事会]]で非難決議が行われるが、ほとんどの場合[[アメリカ合衆国]]が[[拒否権]]を行使して廃案になる<ref>{{Cite news |title=イスラエル入植非難決議を採択 米が拒否権行使せず |newspaper=日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM24H0W_U6A221C1NNE000/ |accessdate=2023-1-30}}</ref>。 このために大使館や領事館はエルサレムでなく[[テルアビブ]]に置いてきたが、2017年にアメリカの[[ドナルド・トランプ]]大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し<ref name="news1">{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600552&g=use|title=米大使館、エルサレムに移るの?-ニュースを探るQ&A|newspaper=時事通信|date=2017-1-27|accessdate=2017-1-27}}</ref><ref name="news2">{{cite news|url=http://www.cnn.co.jp/world/35094909.html|title=米大使館のエルサレム移転、5月にも発表か 国際社会は警告|newspaper=CNN.co.jp|date=2017-01-12|accessdate=2017-01-27}}</ref>、2018年5月に大使館をテルアビブからエルサレムに移転させた<ref>{{Cite news |title=ガザでの衝突を受け、外務報道官談話 |newspaper=Qnewニュース |date=2018-5-15 |url=https://qnew-news.net/news/2018-5/2018051508.html |accessdate=2018-7-11}}</ref>。 == 市内の地理 == === 東エルサレム === {{Main|東エルサレム}} [[第一次中東戦争]](1948~1949年)によって[[ヨルダン]]の支配下に置かれた地区が東エルサレムである。住民の大半はパレスチナ人で1949年以前のエルサレム市域の20%を占めるが、本来のエルサレムである[[エルサレム旧市街|城壁に囲まれた旧市街]]は東エルサレムに含まれ、[[1967年]]の第三次中東戦争によってイスラエルに占領された。占領後、イスラエルは旧ヨルダン領の28の地方自治体をエルサレムに統合し、エルサレムの面積は大幅に拡大した。この新市域にイスラエルは大型の[[ユダヤ人]][[入植地]]を次々と建設している。 旧市街のすぐ東には[[オリーブ山]]がある。ここはイエス・キリストの足跡が多く、多くの[[キリスト教徒]]が訪れるほか、[[旧約聖書]]の[[ゼカリヤ書]]においても、最後の審判の日に神が現れ、死者がよみがえる場所とされているため、ユダヤ人の聖地ともなっている。 旧市街の北側には、ロックフェラー博物館や、中東における[[聖公会]]の[[主教座聖堂]]である[[聖ジョージ大聖堂 (エルサレム)|聖ジョージ大聖堂]]がある。旧市街の南側には[[シオンの山]](丘)があり、[[ダビデ]]王の墓やキリストにかかわる旧跡がある。 === 旧市街 === [[ファイル:Austrian Hospice Jerusalem April 2007.JPG|thumb|right|古い街並みを残す旧市街]] {{Main|エルサレム旧市街}} 旧市街は[[ユダヤ教]]・[[イスラム教]]・[[キリスト教]]の[[聖地]]であり、[[嘆きの壁]]や[[聖墳墓教会]]、[[岩のドーム]]といった各宗教縁の施設を訪れる人々が絶えない。旧市街は城壁に囲まれ、東西南北に宗派ごとで四分割されている。北東は[[ムスリム]]地区、北西はキリスト教徒地区、南西は[[アルメニア正教徒]]地区、南東はユダヤ人地区となっている。現在の城壁は[[オスマン・トルコ]]皇帝の[[スレイマン1世]]によって建設されたものである。城壁には北側中央にあるダマスクス門から時計回りに、ヘロデ門、獅子門、黄金門、[[糞門]]、シオン門、ヤッフォ門、新門の八つの門があり、ここからしか出入りができない。[[19世紀]]に作られた新門以外はスレイマン時代より存在する門である。 嘆きの壁はユダヤ人地区の東端にある。嘆きの壁の上はムスリム地区に属し、[[神殿の丘]]と呼ばれる、かつてのエルサレム神殿の跡で、ここには[[イスラム教]]の聖地[[アル=アクサー・モスク]]や[[イスラーム建築]]の傑作とされる岩のドームが建っている。 旧市街がヨルダン領であった時代にはユダヤ人は旧市街より追放され、イスラエルからは限られた時期にアラブ人のみが入国することができた。このため、イスラエルのユダヤ人は嘆きの壁を訪れることができなかった。1967年にイスラエルが旧市街を占領したことによって、イスラエルのユダヤ人は再び聖地を訪れることが可能となった。一方、イスラエルにはアラブ人のイスラム教徒が一定数存在していたため、イスラエル統治下ではイスラム教徒が聖地を訪れることは可能となった。しかし、現在でもイスラエルと国交のないアラブ国家は多く、そういった国の国民であるイスラム教徒はイスラエルに入国できないため、エルサレムにも行くことはできない。 旧市街は「[[エルサレムの旧市街とその城壁群]]」の名で[[1981年]]に[[世界遺産]]に登録された([[ヨルダン]]による申請)。 {{Clearleft}} === 西エルサレム === [[ファイル:JLM King George.jpg|thumb|近代的な建物が並ぶ新市街]] {{main|西エルサレム}} 元々のパレスチナ人の村の跡地には[[ナビー・アカシャ・モスク]]のような建物も残るが、西側は新市街と呼ばれる[[近代]]的な[[都市]]で、1949年以前のエルサレム市域の80%を占める。1950年にイスラエルが西エルサレムを占領するとテルアビブより首都機能が移され、[[ヘブライ大学]]、[[イスラエル博物館]]、ハイテク工業団地や国会、各省庁などが立地する、[[イスラエル]]の[[政治]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の中心となった。ただし、[[国防省 (イスラエル)|国防省]]に関しては、軍事的な観点で、エルサレムではなくテルアビブに立地している。メインストリートは旧市街のヤッフォ門から北西に伸びる[[ヤッファ通り|ヤッフォ通り]]で、市庁舎や市場、西端には中央バスターミナルがあり、[[ライトレール]]も走っている。途中のシオン広場から西へ延びるベン・イェフダ通りは繁華街となっている。西エルサレムの北東にある[[メーアー・シェアーリーム]]はユダヤ教超正統派の町として知られ、東欧やロシアから移住して来た当時のたたずまいを残す町並みとなっている{{sfn|臼杵陽|2009|p=4-5}}。エルサレムの西端には国立共同墓地である[[ヘルツルの丘]]があり、[[テオドール・ヘルツル]]や[[レヴィ・エシュコル]]、[[ゴルダ・メイア]]、[[イツハク・ラビン]]などが埋葬されている。この丘の西側には[[ホロコースト]]博物館である[[ヤド・ヴァシェム]]が立っている。 == 歴史 == === 初期 === [[紀元前30世紀]]頃、[[カナン]]と呼ばれていた土地において古代[[セム語族|セム系民族]]がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。エルサレムの地名は[[古代エジプト]]の記録([[アマルナ文書]])などにまず見られる。[[紀元前1000年]]頃に[[ヘブライ王国]]が成立すると、2代目の[[ダビデ]]王によって都と定められた。その後、3代目の[[ソロモン]]王によって王国は絶頂期を迎え、[[エルサレム神殿]](第一神殿)が建設されたが、その死後の[[紀元前930年]]ごろに王国は南北に分裂、エルサレムは[[ユダ王国]]の都となった。 その後、エルサレムは300年以上ユダ王国の都として存続したものの、王国は[[紀元前597年]]に[[新バビロニア|新バビロニア王国]]の支配下に入り、新バビロニア王[[ネブカドネザル2世]]によってエルサレムの住民約3000人が[[バビロン]]へと連行された。ついで[[紀元前586年]]7月11日、ユダ王国は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、住民はすべてバビロンへと連行された。[[バビロン捕囚]]である。 === 再建と再破壊 === [[ファイル:Jerusalem Modell BW 2.JPG|thumb|考古学を元に再現された[[1世紀]]のエルサレム]] 紀元前539年に新バビロニアが[[アケメネス朝]]ペルシアに滅ぼされると、ペルシア王[[キュロス2世]]はユダヤ人のエルサレムへの帰還を認め、エルサレムは再建された。[[紀元前515年]]にエルサレム神殿も再建([[第二神殿]])された。[[紀元前332年]]の[[ガザ包囲戦]]で[[アレクサンドロス3世]]が勝利し、大きな歴史の画期となった。それ以降エルサレムは[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス帝国]]、[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]の支配下となった。[[紀元前140年]]頃にはユダヤ人が[[ハスモン朝]]を建てて自立したものの、[[ローマ帝国]]の影響が強まり、[[紀元前37年]]にはローマの宗主権のもと、[[ヘロデ大王]]によって[[ヘロデ朝]]が創始され、ローマの支配下におかれた。ヘロデは第二神殿をほぼ完全に改築し、ヘロデ神殿と呼ばれる巨大な神殿を建設した。 この後は[[6年]]に[[ユダヤ属州]]が創設され、州都は[[カイサリア・マリティマ|カイサリア]]に置かれたが、エルサレムは宗教の中心として栄え続けた。この頃、[[イエス・キリスト]]がエルサレムに現れ、[[30年]]ごろに属州総督[[ポンティウス・ピラトゥス]]によって処刑されたとされる。 しかし、[[66年]]には[[ユダヤ戦争]]が勃発し、ユダヤ人はエルサレムに拠って抵抗したものの、[[エルサレム攻囲戦 (70年)]] によってエルサレムは陥落した。これ以後、それまでユダヤ人への配慮からカイサリアに置かれていたローマ軍団がエルサレムへと駐屯するようになり、エルサレムにはユダヤ人の居住は禁止された。[[ハドリアヌス]]の治世になるとエルサレムの再建が計画されたものの、ユダヤ神殿の跡に[[ユーピテル]]の神殿を築き、都市名を[[アエリア・カピトリナ]]と改名することを知ったユダヤ人は激怒し、132年に[[バル・コクバの乱]]を起こしたが鎮圧された。エルサレムは[[コロニア (古代ローマ)|ローマ植民市]]アエリア・カピトリナとして再建された。 その結果、エルサレムを追われ、離散([[ディアスポラ]])することになったユダヤ人たちは、エルサレム神殿での祭祀に代り、[[律法]]の学習を拠り所とするようになった。 === キリスト教とイスラム教の聖地化 === [[ファイル:Jerusalem Holy Sepulchre BW 19.JPG|thumb|[[聖墳墓教会]]]] [[313年]]にはローマ帝国が[[ミラノ勅令]]によってキリスト教を公認し、[[320年]]ごろに[[コンスタンティヌス1世]]の母太后である[[聖ヘレナ]]が巡礼を行ったことで、エルサレムはキリスト教の聖地化した。市名は再びエルサレムに戻され、聖墳墓教会が立てられた。[[ユリアヌス]]帝の時代には、ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった。 [[638年]]、アラブ軍による征服でエルサレムは[[イスラーム]]勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、[[7世紀]]末に[[岩のドーム]]が建設された。[[970年]]より、[[シーア派]]を掲げる[[ファーティマ朝]]の支配下に入った。しかし、[[11世紀]]後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地を[[スンナ派]]の[[セルジューク朝]]が占領した。この征服を率いた軍人[[アトスズ]]は、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。 === 十字軍 === [[ファイル:1099jerusalem.jpg|thumb|left|180px|十字軍の[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻略]]]] [[1098年]]にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回する。しかし、翌年には[[第一次十字軍]]の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺した([[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻囲戦]])。そして、[[1099年]]に[[エルサレム王国]]を成立させた。ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。しかし、[[12世紀]]後半に[[アイユーブ朝]]の[[スルタン]]である[[サラーフッディーン]]が{{仮リンク|エルサレム攻囲戦 (1187年)|en|Siege of Jerusalem (1187)|label=エルサレムを奪回}}し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。このとき[[カトリック教会|カトリック]]は追放されたものの、[[正教会]]やユダヤ人の居住は許可された。[[1229年]]、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]は、アイユーブ朝スルタンの[[アル=カーミル]]との交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。 それ以後は[[マムルーク朝]]や[[オスマン帝国]]の支配下に置かれた。 {{Clearleft}} === シオニズム === 19世紀後半に入ると[[ヨーロッパ]]に住むユダヤ人の間で[[シオニズム]]が高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増した。中でも特に移住者が多かったのは聖都エルサレムであり、19世紀後半にはエルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。[[1892年]]には地中海沿岸から鉄道が開通し、人口はさらに増加した。[[第一次世界大戦]]でオスマン帝国が敗れると、この地域は[[大英帝国]]・[[国際連盟]]によってユダヤ人シオニストの[[ハーバート・サミュエル]]卿が高等弁務官として治める[[イギリス委任統治領パレスチナ]]となり、エルサレムにその首都が置かれた。このことでエルサレムの政治的重要性がさらに増す一方で、委任統治領政府はエルサレムの近代化に力を入れ、1925年には[[ヘブライ大学]]も開学した。 === イスラエル建国 === [[第二次世界大戦]]後の1947年に[[国際連合]]の[[パレスチナ分割決議]]において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国連の永久信託統治とする案が決議された。この決議を基にイスラエルが[[イスラエル独立宣言|独立宣言]]をするが、直後に[[第一次中東戦争]]が勃発。[[1949年]]の休戦協定により西エルサレムはイスラエルが、旧市街を含め東エルサレムを[[ヨルダン]]が統治することになり、エルサレムは東西に分断された。[[1967年]]6月の[[第三次中東戦争]](六日間戦争)を経て、ヨルダンが統治していた東エルサレムは現在まで[[イスラエル]]の[[イスラエルの東エルサレム併合|実効支配]]下にある。イスラエルは東エルサレムの統合を主張しており、また、第三次中東戦争による「再統合」を祝う「エルサレムの日」を設けている([[ユダヤ暦]]からの換算になるため、[[グレゴリオ暦]]では毎年変動がある。[[2010年]]は[[5月12日]]が「エルサレムの日」であった)。 イスラエルは東エルサレムの[[実効支配]]を既成事実化するため、ユダヤ人[[入植地|入植]]{{Refnest|group="注釈"|イスラエルの[[ベンヤミン・ネタニヤフ|ネタニヤフ]]首相は「エルサレムは入植地ではない。我々の首都だ」との見解を示しており、入植地であること自体を認めていない<ref>{{Cite news|url= https://www.afpbb.com/articles/-/2712203?pid=5527800 |title= 「エルサレムは入植地ではなく首都」、イスラエル首相が言明 |newspaper= AFPBB News |date= 2010-03-23 |accessdate= 2020-07-08 }}</ref>。}}を精力的に進めており、2010年時点で入植者は20万人を超える。イスラエルは{{いつ範囲|date=2021年5月|今後の数年間}}で、先の1600戸を合わせ5万戸の入植を計画している<ref>{{Cite news|url= http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/100312-211053.html |title= バイデン米副大統領、中東和平交渉の進展を促す |newspaper= [[世界日報]] |date= 2010-03-12 |accessdate= 2020-07-08 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20120310160613/http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/100312-211053.html |archivedate= 2012-03-10 }}</ref>。一方、エルサレム市当局は、パレスチナ人の住居が無許可であるとの理由で、しばしばその住居を破壊している{{Refnest|group="注釈"|イスラエル側は、パレスチナ人住居建設は当局の許可が必要と主張している。しかし実際にパレスチナ人の住居建設の許可が下りることは少なく、当局側は「不法」を取り締まっているというよりも、それを口実にパレスチナ人の住居を破壊している<ref>{{Cite news|url= https://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-07-15/2010071507_01_1.html |title= 東エルサレムのパレスチナ人住居/イスラエルが破壊/和平交渉 再開の動き覆す/国際社会が非難 |newspaper= [[しんぶん赤旗]] |date= 2010-07-15 |accessdate= 2020-07-08 }}</ref>。}}。 == 宗教とエルサレム == [[ファイル:Israel-Western Wall.jpg|thumb|160px|嘆きの壁]] [[ファイル:Jerusalem Dome of the rock BW 3.JPG|thumb|200px|岩のドーム]] エルサレムは単に地理的に要所であるのではなく、[[アブラハムの宗教]]全ての聖地であることが最大の問題である。このことがエルサレムの帰属をめぐる紛争の火種となっており、[[パレスチナ問題]]の解決を一層困難にしている。 *[[ユダヤ教]]にとっては、エルサレムはその信仰を集めていた[[エルサレム神殿]]が置かれていた聖地であり、[[ユダ王国]]の首都であった場所でもある。現在でも幾つかの神聖とされる場所が残っている。中でも[[嘆きの壁]]は有名で、これは[[70年]]に[[ローマ帝国]]がエルサレム神殿を破壊した時に外壁の一部が残されたものである。将来的にメシア(救世主)の預言が成就し、メシアの王国の首都エルサレムに神殿が再建された時に「地のすべての国々はエルサレムに集まって来る」こと([[ゼカリヤ書]]12章)を信じている。 *[[キリスト教]]にとっては、エルサレムは[[イエス・キリスト]]が教えを述べ、そして[[キリストの磔刑|処刑]]され、埋葬され、[[復活 (キリスト教)|復活]]した場所である。それらの遺跡とされる場所には、現在はそれぞれ[[教会]]が建っている。イエスこそがユダヤ教の聖書(旧約聖書)に預言されたメシアで、新約聖書の黙示録には、将来的にエルサレムは再臨したイエスが治める王国の首都となると記されている。 *[[イスラム教]]にとっては、エルサレムは[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされる。[[コーラン]]は、[[メディナ]]に居住していたムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわち[[メッカ]]の[[カアバ神殿]]から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」までの旅をしたと語っている(17章1節)。しかし、これがユダヤ人のエルサレム神殿のあった場所と読み替えられるようになったのはムハンマドの死後100年程経った頃である。伝承によると、ムハンマドは「遠隔の礼拝堂」の上の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったのだという。この伝承から、[[ウマイヤ朝]]の時代にはエルサレム神殿跡の丘の上に[[岩のドーム]]が築かれ、そこからムハンマドが昇天したということになった。その後、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念する[[アル=アクサー・モスク]]が建設されたが、エルサレムがイスラム教の「聖地」として現在のように重要視され始めたのは20世紀に入ってからのことである。また、エルサレムは、[[メッカ]]及び[[メディナ]]と同格の聖地ではない。なぜならメッカとメディナは「禁域」の聖地とされ、異教徒の立ち入りや、樹木の伐採や狩猟すら禁止されているからである。これには、エルサレムが、ムハンマドの時代には東ローマ帝国の支配下にあり、「禁域」となり得なかったという事情がある。第2代のカリフである[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]が東ローマ帝国から引き渡された後も、エルサレムが「禁域」とされることはなく、キリスト教徒とユダヤ教徒、ムスリムが共存する異教徒禁制とは無縁な国際的な宗教都市としてして現在に至っている。 == 人口 == エルサレムは[[19世紀]]後半より[[ユダヤ人]]の方が[[アラブ人]]よりも常に人口で上回っており、1949年にエルサレムが東西に分割されるとその傾向はさらに強まった。東エルサレムは経済の伸び悩んだヨルダン領にあった上、首都は[[アンマン]]に置かれてエルサレムの開発は進められず、人口は停滞した。一方、イスラエル側の西エルサレムは独立後すぐに首都が移され、イスラエルの政治の中心として大規模な開発が進められたため、人口が急増した。1967年に東エルサレムがイスラエルに占領されると多くのアラブ人がエルサレムから流出し、その差はさらに開いた。1967年にはユダヤ人はエルサレムの人口の74.6%を占め、アラブ人は25.4%に過ぎなかった。イスラエルは占領後旧ヨルダン領にあった28の地方自治体をエルサレムに統合したが、その地区にはユダヤ人の大規模入植地が建設され、多くのユダヤ人が流入した。しかしエルサレムのアラブ人の出生率は高く、ユダヤ人入植地の大量建設をもってしても人口比率を増やすことはできなかった。2007年には、エルサレムのアラブ人の割合は34%にまで伸び、ユダヤ人の比率は66%にまで落ちた。このままの人口推移が続けば、2035年にはエルサレムの人口比率はユダヤ人とアラブ人がほぼ同数になると考えられている<ref>{{Cite news|url= https://www.afpbb.com/articles/-/2317343?pid=2396522 |title= 【図解】エルサレムの人口比率の変遷 |newspaper= AFPBB News |date= 2007-11-26 |accessdate= 2020-07-08 }}</ref>。 また、エルサレムはユダヤ教の中心都市であるため、国内比率に比べてユダヤ教[[超正統派 (ユダヤ教)|超正統派]]の占める割合が非常に高く、エルサレム人口の3分の1を占めており、なお増加中である。 == 首都問題 == {{main|エルサレムの地位}} [[ファイル:Hutz.JPG|thumb|西エルサレムに建てられた[[外務省 (イスラエル)|外務省]]庁舎]] エルサレムは、古くより三つの宗教の聖地として栄えたが、経済的には必ずしも重要な位置を占めてきたわけではない。そのためエルサレムを領土に収めた代々の国家のうち、エルサレムを[[首都]]としてきた[[国家]]はほとんどない。 古代のユダ王国や、十字軍国家であるエルサレム王国を除いては、エルサレムは一地方都市にとどまっていた。しかし宗教的には非常に重要な土地であり、イギリスの[[委任統治領]]時代に首都がおかれたこともあって、政治的重要性も増した。現在においても、エルサレムは、議会や首相府、中央省庁などがある政治と文化の中心であり、イスラエル最大の都市である。 しかし第二次世界大戦後、イスラエル建国・第一次中東戦争などによってパレスチナ問題が起こると、歴史的経緯により国家の正統性にも関わるエルサレムの領有問題も、にわかに浮上する。第一次中東戦争の休戦協定により、エルサレムが東西を分断された後、西エルサレムを占領したイスラエルは、[[1950年]]に議会でエルサレムを首都と宣言して、テルアビブの首都機能を西エルサレムに移転。その後、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東西ともに占領し、[[1980年]]には、改めてイスラエル議会により、統一エルサレムはイスラエルの不可分・永遠の首都であると宣言する[[エルサレム基本法|エルサレム基本法案]]を可決した。 イスラエルによる統一エルサレムの首都宣言に対し、[[国際連合安全保障理事会]]は「イスラエルの統一エルサレムの首都宣言は無効だとして破棄すべきものである」「エルサレムに外交使節を設立している[[国際連合加盟国]]は外交使節を、エルサレムから撤収させる」とする[[国際連合安全保障理事会決議478]]を可決し(アメリカ合衆国は[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を発動せずに棄権)、[[国際連合総会]]は東エルサレムの占領を非難し、その決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議した。 1967年までは、13カ国の大使館が西エルサレムに置かれていたが、イスラエルによる東エルサレムの併合に抗議して、これらの[[国家]]も大使館を移転。一度は大使館を移転したものの、エルサレムに大使館を再び置いた[[コスタリカ]](1982年から)と[[エルサルバドル]](1984年から)も2006年に大使館を移転した。国連加盟各国は、イスラエル建国初期に首都機能があった[[テルアビブ]]に[[大使館]]を集中して置いている<ref name=news1/><ref name=news2/>。 1993年の[[オスロ合意]]では、エルサレムの最終的地位については、イスラエルとパレスチナが話し合って決めることとされた。 [[2009年]]、[[欧州連合]](EU)議長国の[[スウェーデン]]は、エルサレムをイスラエル、[[パレスチナ自治政府]]、両方の首都とするよう求める発議を行った。イスラエルはこれに反発し、EU加盟各国に抗議を行った。 アメリカ合衆国は、二大政党である[[民主党 (アメリカ)|民主党]]と[[共和党 (アメリカ)|共和党]]は、党綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めており、1995年に[[アメリカ合衆国議会]]で、大使館のエルサレム移転を求める[[エルサレム大使館法]]が可決・成立された。しかし、歴代の[[アメリカ合衆国大統領]]([[ビル・クリントン|クリントン]]、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]、[[バラク・オバマ|オバマ]])は、大使館移転は中東和平実現の障害になるとの観点から、法律で認められた条項を根拠に半年ごとに実施を延期してきた。 2016年の[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ合衆国大統領選挙]]では「駐イスラエル大使館のエルサレム移転」を公約した[[ドナルド・トランプ]]が当選し<ref name=news1/><ref name=news2/>、2017年6月には前述の法案実施について半年延期したものの、同年[[12月6日]]には、エルサレムをイスラエルの[[首都]]と認定して、テルアビブにある大使館をエルサレムに移転する手続きを始めるよう指示したことを正式に表明した([[エルサレムをイスラエルの首都とするアメリカ合衆国の承認]])<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/trump-jerusalem-1206-idJPKBN1E02Z5?il|title=トランプ米大統領、エルサレムをイスラエル首都と正式認定|agency=[[ロイター]]|date=2017-12-07|accessdate=2017-12-07}}</ref>。なおトランプは「エルサレムの最終的な地位については、イスラエルとパレスチナの当事者間で解決すべきで、米国は特定の立場を取らない」とした<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24356420X01C17A2000000/|title=「エルサレムを首都に認定」トランプ氏が正式表明|agency=日本経済新聞|date=2017-12-07|accessdate=2019-05-19}}</ref>。 この{{仮リンク|決定の撤回を求める決議|en|United Nations General Assembly resolution ES-10/L.22}}が、2017年12月21日(日本時間22日未明)に開かれた[[国際連合総会]]で採択された(賛成128カ国、反対9カ国、棄権35カ国、欠席21カ国){{Refnest|group="注釈"|反対にまわったのはアメリカの他は[[グアテマラ]]、[[ホンジュラス]]、[[イスラエル]]、[[マーシャル諸島]]、[[ミクロネシア]]、[[ナウル]]、[[パラオ]]、[[トーゴ]]であった<ref>{{Cite news|url= https://www.asahi.com/articles/ASKDQ6DJXKDQUHBI02N.html |title= 米圧力、揺れた東欧や小国 エルサレム決議に棄権や欠席 |newspaper= 朝日新聞デジタル |publisher= 朝日新聞社 |date= 2017-12-23 |accessdate= 2020-07-08 }}</ref>。}}。 2018年5月14日、アメリカ合衆国が駐イスラエル大使館を公式にエルサレムに移転した。これを受けてガザ地区とイスラエルの国境沿いでパレスチナ市民がデモを行い、イスラエル軍がパレスチナ市民61人を殺害した。2018年3月30日から5月19日現在までに、ガザ地区との国境において、118人のパレスチナ市民がイスラエル軍により殺害されている<ref>{{Cite news|url= https://www.20minutes.fr/monde/2274059-20180519-gaza-deux-palestiniens-succombent-blessures-infligees-lundi-nouveau-bilan-61-morts |title= Gaza: Deux Palestiniens succombent à leurs blessures infligées lundi, nouveau bilan de 61 morts |newspaper= 20 Minutes |date= 2018-05-19 |accessdate= 2018-05-21 |language= fr }}</ref>。 '''[[エルサレムの地位|それぞれの態度(国連・EU・各国)]]''' 国連:1947年11月29日に合意された国連総会決議181「'''[[パレスチナ分割決議]]'''(パレスチナぶんかつけつぎ 、[[英語|英]]: United Nations Partition Plan for Palestine)」は、当時のパレスチナ問題を解決するために出された[[国際連合総会決議|国連総会決議]]。この案は「経済同盟を伴う分割案(Plan of Partition with Economic Union)」と述べられ、[[イギリス委任統治領パレスチナ|イギリスの委任統治]]を終わらせ[[アラブ人]]と[[ユダヤ人]]の国家を創出し、エルサレムを特別な都市とすることとなっていた。1947年11月29日[[国際連合総会]]において、この案の採用と実施を勧告する決議が決議181号として採択された。 == 気候 == エルサレムは[[地中海性気候]]に区分されており、冬に一定の降水があるが夏は日ざしが強く乾燥する。冬には1、2度の軽い降雪があるが、平均すると3、4年ごとにまとまった[[雪]]が降る。1月が1年で最も寒い月で、最も暑いのは7月と8月である。昼夜の寒暖差が大きいため、大抵は夏でさえ晩には涼しくなる。年平均[[降水量]]は590mm程度で、そのほとんどは10月から5月の間に降る。 {{Weather box |location=エルサレム (1881–2007) |metric first=Y |single line=Y |Jan record high C=23.4 |Feb record high C=25.3 |Mar record high C=27.6 |Apr record high C=35.3 |May record high C=37.2 |Jun record high C=36.8 |Jul record high C=40.6 |Aug record high C=44.4 |Sep record high C=37.8 |Oct record high C=33.8 |Nov record high C=29.4 |Dec record high C=26 |year record high C=44.4 |Jan humidity=72 |Feb humidity=69 |Mar humidity=63 |Apr humidity=58 |May humidity=41 |Jun humidity=44 |Jul humidity=52 |Aug humidity=57 |Sep humidity=58 |Oct humidity=56 |Nov humidity=61 |Dec humidity=69 |Jan high C=11.8 |Feb high C=12.6 |Mar high C=15.4 |Apr high C=21.5 |May high C=25.3 |Jun high C=27.6 |Jul high C=29.0 |Aug high C=29.4 |Sep high C=28.2 |Oct high C=24.7 |Nov high C=18.8 |Dec high C=14.0 |year high C=21.5 |Jan mean C=9.1 |Feb mean C=9.5 |Mar mean C=11.9 |Apr mean C=17.1 |May mean C=20.5 |Jun mean C=22.7 |Jul mean C=24.2 |Aug mean C=24.5 |Sep mean C=23.4 |Oct mean C=20.7 |Nov mean C=15.6 |Dec mean C=11.2 |year mean C=17.5 |Jan low C=6.4 |Feb low C=6.4 |Mar low C=8.4 |Apr low C=12.6 |May low C=15.7 |Jun low C=17.8 |Jul low C=19.4 |Aug low C=19.5 |Sep low C=18.6 |Oct low C=16.6 |Nov low C=12.3 |Dec low C=8.4 |year low C=13.5 |Jan record low C=-6.7 |Feb record low C=-2.4 |Mar record low C=-0.3 |Apr record low C=0.8 |May record low C=7.6 |Jun record low C=11 |Jul record low C=14.6 |Aug record low C=15.5 |Sep record low C=13.2 |Oct record low C=9.8 |Nov record low C=1.8 |Dec record low C=0.2 |year record low C=-6.7 |Jan rain mm=133.2 |Feb rain mm=118.3 |Mar rain mm=92.7 |Apr rain mm=24.5 |May rain mm=3.2 |Jun rain mm=0 |Jul rain mm=0 |Aug rain mm=0 |Sep rain mm=0.3 |Oct rain mm=15.4 |Nov rain mm=60.8 |Dec rain mm=105.7 |year rain mm=554.1 |Jan rain days=12.9 |Feb rain days=11.7 |Mar rain days=9.6 |Apr rain days=4.4 |May rain days=1.3 |Jun rain days=0 |Jul rain days=0 |Aug rain days=0 |Sep rain days=0.3 |Oct rain days=3.6 |Nov rain days=7.3 |Dec rain days=10.9 |Jan sun=192.2 |Feb sun=226.3 |Mar sun=243.6 |Apr sun=267.0 |May sun=331.7 |Jun sun=381.0 |Jul sun=384.4 |Aug sun=365.8 |Sep sun=309.0 |Oct sun=275.9 |Nov sun=228.0 |Dec sun=192.2 |year sun= |source 1=Israel Meteorological Service<ref>{{cite web |url=http://ims.gov.il/IMS/CLIMATE/LongTermInfo |title=Long Term Climate Information for Israel |date=June 2011|accessdate = 2012年5月4日}}</ref><ref>{{cite web |url=http://ims.gov.il/IMS/CLIMATE/TopClimetIsrael/ |title=Record Data in Israel|accessdate = 2012年5月4日}}</ref> |source 2= [[香港天文台]]より日照時間データ<ref>{{cite web |url=http://www.weather.gov.hk/wxinfo/climat/world/eng/europe/gr_tu/jerusalem_e.htm |title=Climatological Information for Jerusalem, Israel|publisher=Hong Kong Observatory|accessdate = 2012年5月4日}}</ref>|date=August 2010}} == 経済 == [[ファイル:Hotzvimview.jpg|thumb|ハーホツビムの産業団地]] エルサレムはイスラエル最大の都市ではあるが、経済や産業の中心はテルアビブにあり、エルサレムの主な産業は政府関係や大学などの公的サービス、ならびに世界各地から訪れる観光客や巡礼客相手の観光産業であり、[[第三次産業]]が大きな割合を占める。エルサレムにはイスラエルの政府機能が置かれ、これがエルサレムの都市としての成長を促した。一方で、エルサレムの住民は、パレスチナ人やユダヤ教超正統派といった、あまり豊かでないグループの割合が大きい。そのうえ目立った産業が少なく、限られた雇用も政府関係が主であることから、エルサレムの貧困率は高く、2004年にはエルサレムの人口がイスラエル全体の10.27%だったのに対し、エルサレムの貧困人口は全国の19.29%を占めた{{sfn|笈川博一|2010|p=223}}。 == 交通 == [[ファイル:Begin road (Jerusalem).JPG|thumb|ベギン・ロード]] [[ファイル:Porush Bus.JPG|thumb|[[エルサレム中央バスステーション]]]] [[ファイル:Jerusalem Light Rail02.JPG|thumb|[[エルサレム・ライトレール]]]] [[テルアビブ]]・エルサレム間は高速道路で1時間、[[エゲッドバス]]が急行で1時間3本程度[[テルアビブ]]の中央バスセンターから出ている。 エルサレム市内はエゲッドバスが網羅している。エゲッドバスはヤッファ通り西端にあるエルサレム中央バスセンターに発着し、そこから[[ヨルダン川西岸]]を抜け、[[死海]]沿岸を通り[[ゴラン高原]]方面へ北上するものや、同じく死海沿岸のリゾート地を通って[[ネゲブ]]方面へ南下するもの、テルアビブやハイファなど国内主要都市へ向けて走るものなど、国内全域に路線網がある。 鉄道は、市内郊外の[[:en:Jerusalem–Malha railway station|エルサレム・マルハ駅]]と[[ロード (イスラエル)|ロード]]、テルアビブを1時間半で結ぶ路線([[テルアビブ=エルサレム線]])があったが、2018年に高速新線が開通して市内中心部の地下80mの深さに作られた{{仮リンク|エルサレム・イツハク・ナヴォン駅|en|Jerusalem–Yitzhak Navon railway station}}までを結んでいる。[[ベン・グリオン国際空港]]からの所要時間は30分ほどである。 ユダヤ人居住地の西エルサレムとアラブ人居住地の東エルサレムでは市内バスの運行会社が異なっており、西エルサレムは[[エゲットバス]]、東エルサレムはアラブバスが運行されている。ユダヤ人はアラブバスはほとんど利用しない。 * [[エルサレム・ライトレール]]・・・[[2011年]]12月1日にはライトレールが、西のヘルツルの丘から中央バスステーション、ヤッファ通りを抜け、旧市街北西をかすめて東エルサレムへと向かう路線の営業開始。途中の[[エルサレム中央バスステーション]]駅ではイスラエル鉄道の{{仮リンク|エルサレム・イツハク・ナヴォン駅|en|Jerusalem–Yitzhak Navon railway station}}に接続している。 == 観光 == * [[岩のドーム]] * [[聖墳墓教会]] * [[シロアム]]の池(キリストが奇跡を起こした池) * ギホンの泉 * ヒゼキヤの水道 * リベルテンの会堂(リベルテンのシナゴーグ) * ヒッポドローム(ヒッポドロームの[[オベリスク]]) * フルダ門、[[糞門]]など *[[ヤド・ヴァシェム]]([[ホロコースト]]記念館) *[[イスラエル博物館]]([[聖書館]]を含む) *[[ロックフェラー博物館]] == 教育 == [[1925年]]に開校されたイスラエルの最高学府である[[ヘブライ大学]]を始めとする多くの大学があり、大学都市としての一面もある。ヘブライ大学のキャンパスは開校時はエルサレム東郊(現東エルサレム)のスコーパス山にあったが、第一次中東戦争によってこのキャンパスは飛び地となった{{sfn|高橋正男|2003|p=114}} ため、西エルサレムのギブアット・ラムに新キャンパスを建設した。第三次中東戦争によって飛び地状態が解消するとスコーパスキャンパスが復旧され、現在では人文系のスコーパスキャンパスと自然科学系のギブアット・ラムキャンパスの2つのキャンパスがある。他にも、[[ベツァルエル美術デザイン学院]]やエルサレム工科大学などといった単科大学が存在している。 == スポーツ == サッカーの[[イスラエル・プレミアリーグ]]の有力チームのひとつである[[ベイタル・エルサレムFC]]が、西エルサレム南西部の[[テディ・スタジアム]]を本拠地としている。 [[グランツール]]と呼ばれる[[自転車競技]]([[ロードレース]])世界三大大会、[[ジロ・デ・イタリア]]が[[ジロ・デ・イタリア2018|2018年]]にエルサレムにて開幕。 == 友好都市 == * {{flagicon|JPN}} [[綾部市]]([[日本]]・[[京都府]]) * {{flagicon|USA}} [[ニューヨーク]]市([[アメリカ合衆国]]・[[ニューヨーク州]]) * {{flagicon|ESP}} [[トレド]]市([[スペイン]]・[[カスティーリャ=ラ・マンチャ州]]) * {{flagicon|UK}}{{flagicon|SCO}} [[グラスゴー]]市([[イギリス]]・[[スコットランド]]) == 画像 == <gallery> ファイル:Knesset building (edited).jpg|[[クネセト]]は、イスラエルの立法府([[国会]])である ファイル:Elyon.JPG|{{仮リンク|最高裁判所_(イスラエル)|en|Supreme Court (Israel)|label=イスラエルの最高裁判所}} ファイル:BankIsrael01 ST 06.jpg|[[イスラエル銀行]] ファイル:HaMate HaArtzy 2 Jerusalem.jpg|[[イスラエル警察本部]] ファイル:Julius Jacobs house.jpg|総理大臣官邸 ファイル:Shaaey old.JPG|イスラエル放送局 ファイル:2014-06 Israel - Jerusalem 099 (14753225607).jpg|[[神殿研究所]] ファイル:Jerusalem Schrein des Buches BW 1.JPG|[[イスラエル博物館]] ファイル:The National Library of Israel building - Amitay Katz.jpg|[[イスラエル国立図書館]] ファイル:Yad Vashem entrance.jpg|[[ヤド・ヴァシェム]] ファイル:Mount Herzl IMG 1149.JPG|[[ヘルツルの丘]] ファイル:Filmfestival2009.jpg|[[エルサレム・シネマテーク]] ファイル:Binyanei-HaUmah.JPG|国際会議センター ファイル:Bible Lands Museum Jerusalem.JPG|[[聖書の土地博物館]] ファイル:JerusalemMunicipalityP4190026.JPG|エルサレム市役所 ファイル:-Jerusalem Old City.jpg|東エルサレム ファイル:AlbertEinsteinStatue-InIsraelAcademyOfSciencesAndHumanities-ByRobertBerks.JPG|[[イスラエル科学・人文アカデミー]] ファイル:Academy of the Hebrew Language.JPG|[[ヘブライ語アカデミー]] ファイル:הגן הבוטני הלאומי ע"ש מונטגיו למפורט - הר הצופים.jpg|[[イスラエル国立植物園]] ファイル:Jerusalem Zoo lake.jpg|{{仮リンク|エルサレム聖書動物園|en|Jerusalem Biblical Zoo}} </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite |和書 | author = 高橋正男 | authorlink = 高橋正男 | title = 図説 聖地イェルサレム | date = 2003-01 | publisher = [[河出書房新社]] | series = ふくろうの本 | isbn = 978-4309760254 | ref = harv }} * {{Cite |和書 | author = 臼杵陽 | authorlink = 臼杵陽 | title = イスラエル | date = 2009-04 | publisher = [[岩波書店]] | series = [[岩波新書]] | isbn = 978-4004311829 | ref = harv }} * {{Cite |和書 | author = 笈川博一 | authorlink = 笈川博一 | title = 物語 エルサレムの歴史 | date = 2010-07 | publisher = [[中央公論新社]] | series = [[中公新書]] | isbn = 978-4121020673 | ref = harv }} == 関連項目 == {{Commons&cat|Jerusalem|Jerusalem}} {{Wikivoyage|Jerusalem|エルサレム{{en icon}}}} * [[エルサレム総主教庁]]([[正教会]]) * [[エルサレム王国]] * [[エルサレム神殿]] * [[マンデルバウム門]] * [[嘆きの壁]] * [[神殿の丘]] * [[オリーブ山]] * [[スコーパス山]] * [[モリヤ (聖書)]] * ゲーヒンノーム (ヒンノムの谷、[[ゲヘナ]]) [[:en:Gehinnom|GeyHinnom]] * ガト=シェマーニーム gath-shmanim, Gethsemane ([[オリーブ]]の酒舟、ゲッセマネ、ゲッセマネの園) (新約) *: ガト(gath)とは[[ブドウ|葡萄]]を足踏みで搾るために、岩に掘られた窪みのこと * シロアムの坑 (ニクバト=ハッ=シーローアハ, niqbath-hašŠīlôach) * エルサレム・シンドローム [[:en:Jerusalem syndrome|Jerusalem syndrome]] * [[イェルーザレム]] (ドイツ語読み。またドイツ語圏にみられる姓) * [[教会のしるし]] * [[千年王国]] * [[ファリサイ派]] * [[ティトゥス]] == 外部リンク == * [https://www.jerusalem.muni.il/ Municipality of Jerusalem](公式サイト){{he icon}}{{en icon}}{{ar icon}} * {{NHK for School clip|D0005310432_00000|聖地エルサレム}} * {{Kotobank}} * {{Kotobank|エルサレム(パレスチナ)}} {{coord|31|47|N|35|13|E|type:city|display=title}} {{アジアの首都}} {{世界歴史都市連盟加盟都市}} {{古代イスラエルの町}} {{新約聖書の町}} {{聖書地理}} {{使徒パウロの第二回伝道旅行}} {{使徒パウロの第三回伝道旅行}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えるされむ}} [[Category:エルサレム|*]] [[Category:イスラエルの都市]] [[Category:イスラエルの古都]] [[Category:パレスチナの古都]] [[Category:アジアの首都]] [[Category:聖書に登場する地名]] [[Category:キリスト教の聖地]] [[Category:世界歴史都市連盟]] [[Category:分割都市]]
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品川区
品川区(しながわく)は、東京都の区部南部に位置する特別区。 1947年に、旧品川区と旧荏原区が合併して発足した。新しい区名は、「大井区」「東海区」「城南区」「八ツ山区」「港区」などの候補があったが、旧品川区が踏襲された。同時期に東京都内に誕生した特別区の中で唯一、これまでの区名が新たな区名に採用された。区名は東海道の宿場町である品川宿が由来。品川宿は東海道の1つ目の宿場である。 ターミナル駅・ビジネス街として有名な品川駅は、港区高輪及び港南に所在しており、品川区内ではない(一方で、目黒駅は目黒区ではなく、品川区に所在する)。東京湾に面する臨海部の埋立地は品川コンテナ埠頭(東京港)や東京貨物ターミナル駅が位置しており、大規模な産業用地が広がっている。山手線の大崎駅・五反田駅周辺(大崎副都心)や東品川(天王洲アイル・品川シーサイド)は、再開発によりオフィスビルが立ち並ぶビジネス街となっている。五反田は歓楽街かつITベンチャーの街としての性格をもつ。また、大井町駅は3社3路線が乗り入れる交通の結節点であり、駅前には大規模商業施設が複数立地する。 基本的に区域のほとんどは、住宅街で構成されている。御殿山など城南五山と呼ばれている地域は、山手の高級住宅街である。戸越銀座商店街で知られる戸越など、庶民的な住宅地も多い。 東京都区部では南寄りにあり、西は山の手台地、東は東京湾に面する。区域は東海道の旧品川宿を含む。 台地と低地があり、東部は東京湾(東京港)に面する埋立地である。 台地は、目黒川の北に芝白金台、目黒川と立会川の間に目黒台、立会川の南には荏原台がある。どれも武蔵野台地の末端である。 低地は、品川地域や大井地域および川沿いに広がっている。 また、飛び地状の孤立した位置関係に東八潮が存在し、東京港トンネルにて接続している。 北は港区と渋谷区に区境を接する。西は目黒区、南は大田区で、東は港区、江東区と接する。 『東京23区生活実感ランキング2006』(2006年9月、HOME'Sリサーチ)で東京23区の中で各区住民による総合満足度ナンバーワンに選ばれた。 区内は旧町の地域をもとにした5つの地区に分けられる。 品川区では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。 1964年(昭和39年)をピークに減少が続いた後、1998年(平成10年)から上昇へ転じ、2019年(令和元年)7月1日時点の統計で40万人を突破した。 区民の平均年齢は43.82歳である(2008年(平成20年)1月1日時点)。 2015年(平成27年)国勢調査の結果によると夜間人口(居住者)は386,855人で、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は544,022人。昼間人口は夜間人口の1.406倍である。 なお東京都編集『東京都の昼間人口2005』(平成20年発行)128,129ページによると、国勢調査では年齢不詳の者が東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳の者を含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる。 品川の名の起こりについては目黒川を参照。 古墳時代以後の奈良時代、平安時代には既に平安京と国府の中継地点や駅家(うまや)として機能していたという記録があり、交通拠点となっていたと考えられる。令制国としては武蔵国の一部。 五街道中で最も交通量が多い東海道の、江戸から数えて第一の宿場(品川宿)として発展していった。 幕末の文久2年(1863年)には英国公使館焼き討ち事件が起きた。 住民票、印鑑証明、戸籍証明などの交付業務を行う。 高層ビルは品川区の超高層建築物・構築物の一覧も参照。 五反田駅周辺を中心にベンチャーの起業が進んでおり、米国シリコンバレーにちなんで「五反田バレー」と呼ばれている。2018年7月には、その名称をとった団体が発足した。 職業能力開発促進法に基づく職業訓練施設として以下のものがある。 延べ40の鉄道駅が区内にあり。大井町駅や五反田駅、目黒駅はターミナル駅になっている。なお区名と同じ品川駅は港区に所在する。 山手線の南端部が通るほか、東京都心と大田区(羽田空港を含む)、神奈川県を結ぶ複数の鉄道路線が南北を縦貫する。 路線バスが60系統以上走っているほか、2022年3月にコミュニティバス「しなバス」の試験運行が西大井駅前-大森駅前で始まった。 品川区は東京運輸支局本庁舎の管轄エリアで、品川ナンバーを交付される。 品川区内には、東海七福神と荏原七福神の2つの七福神めぐりのコースがある。 区内各地に寺院があり、特に旧東海道付近に多く見られる。 上大崎の寺院群は芝増上寺下屋敷に由来し、幕末の江戸の七大荼毘所(火葬場)の一つである。 例祭・例大祭・大祭などで呼ばれる祭りで、神輿の練り歩きが行われ、各地で見物できる
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品川区(しながわく)は、東京都の区部南部に位置する特別区。
{{東京都の特別区 |画像 = Osaki-Sta-201606.JPG |画像の説明 = [[大崎 (品川区)|大崎]]の[[高層建築物|高層ビル]]群 |区旗 = [[File:Flag of Shinagawa, Tokyo.svg|border|100px]] |区旗の説明 = 品川[[市町村旗|区旗]] |区章 = [[File:東京都品川区区章.svg|75px]] |区章の説明 = 品川[[市町村章|区章]]<br />1956年10月1日制定 |自治体名 = 品川区 |コード = 13109-1 |隣接自治体 = [[港区 (東京都)|港区]]、[[江東区]]、[[大田区]]、[[目黒区]]、[[渋谷区]] |木 = [[シイノキ]]<br />[[カエデ]] |花 = [[サツキ]] |シンボル名 = 区の鳥 |鳥など = [[ユリカモメ]] |郵便番号 = 140-8715 |所在地 = 品川区[[広町 (品川区)|広町]]二丁目1番36号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[画像:Shinagawa ward office.JPG|250px|center|品川区役所]] |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|109|image=Shinagawa-ku in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=35.618|frame-longitude=139.73}} |特記事項 = }} {{読み仮名_ruby不使用|'''品川区'''|しながわく}}は、[[東京都]]の[[東京都区部|区部]]南部に位置する[[特別区]]。 ==概要== [[1947年]]に、旧品川区と旧[[荏原区]]が合併して発足した。新しい区名は、「大井区」「東海区」「城南区」「八ツ山区」「港区」などの候補があったが、旧品川区が踏襲された<ref>{{Cite web|和書|title=墨田区と隅田川、「すみ」の表記なぜ違う? 23区に幻の区名|ライフコラム|NIKKEI STYLE |url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB02003_S2A001C1000000?page=2 |website=NIKKEI STYLE |accessdate=2021-04-01 |author=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。同時期に東京都内に誕生した特別区の中で唯一、これまでの区名が新たな区名に採用された。区名は[[東海道]]の[[宿場|宿場町]]である[[品川宿]]が由来。品川宿は東海道の1つ目の宿場である。 [[ターミナル駅]]・[[オフィス街|ビジネス街]]として有名な[[品川駅]]は、[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]及び[[港南 (東京都港区)|港南]]に所在しており、品川区内ではない(一方で、[[目黒駅]]は[[目黒区]]ではなく、品川区に所在する)。[[東京湾]]に面する臨海部の埋立地は[[品川コンテナ埠頭]]([[東京港]])や[[東京貨物ターミナル駅]]が位置しており、大規模な産業用地が広がっている。[[山手線]]の[[大崎駅]]・[[五反田駅]]周辺([[大崎副都心]])や[[東品川]]([[天王洲アイル]]・[[品川シーサイドフォレスト|品川シーサイド]])は、[[都市再開発|再開発]]によりオフィスビルが立ち並ぶ[[オフィス街|ビジネス街]]となっている。[[五反田]]は[[歓楽街]]かつITベンチャーの街としての性格をもつ。また、[[大井町駅]]は3社3路線が乗り入れる交通の結節点であり、駅前には大規模商業施設が複数立地する。 基本的に区域のほとんどは、住宅街で構成されている。[[御殿山 (品川区)|御殿山]]など[[城南五山]]と呼ばれている地域は、[[山の手|山手]]の[[高級住宅街]]である。[[戸越銀座|戸越銀座商店街]]で知られる[[戸越]]など、庶民的な住宅地も多い。 ==地理== ===位置=== [[東京都区部]]では南寄りにあり、西は[[山の手#東京における山の手|山の手]][[台地]]、東は[[東京湾]]に面する。区域は[[東海道]]の旧[[品川宿]]を含む<ref>[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kuseizyoho/kuseizyoho-siryo/kuseizyoho-siryo-youkososhinagawa/index.html 品川区の紹介] 品川区役所(2020年1月11日閲覧)</ref>。 ===地形=== 台地と[[低地]]があり、東部は東京湾([[東京港]])に面する[[埋立地]]である。 台地は、[[目黒川]]の北に芝白金台、目黒川と[[立会川]]の間に目黒台、立会川の南には荏原台がある。どれも[[武蔵野台地]]の末端である。 低地は、[[品川 (東京都)|品川]]地域や[[大井 (品川区)|大井]]地域および川沿いに広がっている。 また、[[飛び地]]状の孤立した位置関係に[[東八潮]]が存在し、[[東京港トンネル]]にて接続している。 ====河川==== ;主な川 *[[目黒川]] *[[立会川]] ;主な運河 *[[京浜運河]] *[[天王洲運河]] *天王洲南運河 *勝島運河 *勝島南運河 ===隣接自治体=== 北は[[港区 (東京都)|港区]]と[[渋谷区]]に区境を接する。西は[[目黒区]]、南は[[大田区]]で、東は[[港区 (東京都)|港区]]、[[江東区]]と接する。 ===地域=== 『東京23区生活実感ランキング2006』(2006年9月、HOME'Sリサーチ)で東京23区の中で各区住民による総合満足度ナンバーワンに選ばれた。 ====地区==== 区内は旧町の地域をもとにした5つの地区に分けられる。 * 品川地区 - もと品川宿、天王洲・[[東品川]]の埋立地。 * [[大崎 (品川区)|大崎]]地区 - もと大崎町。[[大崎駅]] - [[五反田駅]] - [[目黒駅]]一帯。 * [[荏原 (品川区)|荏原]]地区 - もと荏原町。[[下神明駅]] - [[中延駅]] - [[旗の台駅]]一帯。 * 大井地区 - もと大井町。[[大井町駅]] - [[西大井駅]] - [[大森駅 (東京都)|大森駅]]一帯。 * [[八潮 (品川区)|八潮]]地区 - 埋立地 ====地名==== {{See also|品川区の町名}} {{Col| * [[荏原 (品川区)|荏原]] * [[大井 (品川区)|大井]] * [[大崎 (品川区)|大崎]] * [[勝島]] * [[上大崎]]| * [[北品川]] * [[小山 (品川区)|小山]] * [[小山台]] * [[戸越]] * [[中延]]| * [[西大井]] * [[西五反田]] * [[西品川]] * [[西中延]] * [[旗の台]]| * [[東大井]] * [[東五反田]] * [[東品川]] * [[東中延]] * [[東八潮]]| * [[平塚 (品川区)|平塚]] * [[広町 (品川区)|広町]] * [[二葉 (品川区)|二葉]] * [[南大井]] * [[南品川]]| * [[八潮 (品川区)|八潮]] * [[豊町 (品川区)|豊町]]}} ====町名==== 品川区では、全域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。 =====品川区役所管内===== {|class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:15%"|町名 !style="width:15%"|町区新設年月日 !style="width:15%"|住居表示実施年月日 !style="width:40%"|住居表示実施直前町名 !style="width:25%"|備考 |+品川区役所管内(123町丁) |{{ruby|'''[[荏原 (品川区)|荏原]]'''|えばら}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |荏原1〜7(全)、平塚1〜5、西大崎2 | |- |'''荏原二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |荏原1〜7(全)、平塚1〜5、西大崎2 | |- |'''荏原三丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |荏原1〜7(全)、平塚1〜5、西大崎2 | |- |'''荏原四丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |荏原1〜7(全)、平塚1〜5、西大崎2 | |- |'''荏原五丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |荏原1〜7(全)、平塚1〜5、西大崎2 | |- |'''荏原六丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |荏原1〜7(全)、平塚1〜5、西大崎2 | |- |'''荏原七丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |荏原1〜7(全)、平塚1〜5、西大崎2 | |- |{{ruby|'''[[大井 (品川区)|大井]]'''|おおい}}'''一丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井鎧町、大井山中町、大井倉田町、大井鹿島町、大井滝王子町、大井庚塚町(以上全)、大井権現町、大井森下町、大井出石町、二葉町1 | |- |'''大井二丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井鎧町、大井山中町、大井倉田町、大井鹿島町、大井滝王子町、大井庚塚町(以上全)、大井権現町、大井森下町、大井出石町、二葉町1 | |- |'''大井三丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井鎧町、大井山中町、大井倉田町、大井鹿島町、大井滝王子町、大井庚塚町(以上全)、大井権現町、大井森下町、大井出石町、二葉町1 | |- |'''大井四丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井鎧町、大井山中町、大井倉田町、大井鹿島町、大井滝王子町、大井庚塚町(以上全)、大井権現町、大井森下町、大井出石町、二葉町1 | |- |'''大井五丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井鎧町、大井山中町、大井倉田町、大井鹿島町、大井滝王子町、大井庚塚町(以上全)、大井権現町、大井森下町、大井出石町、二葉町1 | |- |'''大井六丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井鎧町、大井山中町、大井倉田町、大井鹿島町、大井滝王子町、大井庚塚町(以上全)、大井権現町、大井森下町、大井出石町、二葉町1 | |- |'''大井七丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井鎧町、大井山中町、大井倉田町、大井鹿島町、大井滝王子町、大井庚塚町(以上全)、大井権現町、大井森下町、大井出石町、二葉町1 | |- |{{ruby|'''[[大崎 (品川区)|大崎]]'''|おおさき}}'''一丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東大崎2・3・5(全)、東大崎1・4、西品川1、北品川3、西大崎1 | |- |'''大崎二丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東大崎2・3・5(全)、東大崎1・4、西品川1、北品川3、西大崎1 | |- |'''大崎三丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東大崎2・3・5(全)、東大崎1・4、西品川1、北品川3、西大崎1 | |- |'''大崎四丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東大崎2・3・5(全)、東大崎1・4、西品川1、北品川3、西大崎1 | |- |'''大崎五丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東大崎2・3・5(全)、東大崎1・4、西品川1、北品川3、西大崎1 | |- |{{ruby|'''[[勝島]]'''|かつしま}}'''一丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |勝島町(全)(三丁目は運河埋立地) | |- |'''勝島二丁目''' |1964年1月1日 |1964年1月1日 |勝島町(全)(三丁目は運河埋立地) | |- |'''勝島三丁目''' |1982年2月1日 |1982年2月1日 |勝島町(全)(三丁目は運河埋立地) | |- |{{ruby|'''[[上大崎]]'''|かみおおさき}}'''一丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |上大崎1〜3・5(全)、上大崎長者丸(全)、上大崎中丸、下大崎2 | |- |'''上大崎二丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |上大崎1〜3・5(全)、上大崎長者丸(全)、上大崎中丸、下大崎2 | |- |'''上大崎三丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |上大崎1〜3・5(全)、上大崎長者丸(全)、上大崎中丸、下大崎2 | |- |'''上大崎四丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |上大崎1〜3・5(全)、上大崎長者丸(全)、上大崎中丸、下大崎2 | |- |{{ruby|'''[[北品川]]'''|きたしながわ}}'''一丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |北品川1・2・4・6(全)、北品川3・5、南品川1・4、東大崎1 | |- |'''北品川二丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |北品川1・2・4・6(全)、北品川3・5、南品川1・4、東大崎1 | |- |'''北品川三丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |北品川1・2・4・6(全)、北品川3・5、南品川1・4、東大崎1 | |- |'''北品川四丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |北品川1・2・4・6(全)、北品川3・5、南品川1・4、東大崎1 | |- |'''北品川五丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |北品川1・2・4・6(全)、北品川3・5、南品川1・4、東大崎1 | |- |'''北品川六丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |北品川1・2・4・6(全)、北品川3・5、南品川1・4、東大崎1 | |- |{{ruby|'''[[小山 (品川区)|小山]]'''|こやま}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山1〜7(全)、西大崎3 | |- |'''小山二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山1〜7(全)、西大崎3 | |- |'''小山三丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山1〜7(全)、西大崎3 | |- |'''小山四丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山1〜7(全)、西大崎3 | |- |'''小山五丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山1〜7(全)、西大崎3 | |- |'''小山六丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山1〜7(全)、西大崎3 | |- |'''小山七丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山1〜7(全)、西大崎3 | |- |{{ruby|'''[[小山台]]'''|こやまだい}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山台1〜2(全)、西大崎4 | |- |'''小山台二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |小山台1〜2(全)、西大崎4 | |- |{{ruby|'''[[戸越]]'''|とごし}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |東戸越1〜5(全)、西戸越1・2、東中延1〜3、西品川3 | |- |'''戸越二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |東戸越1〜5(全)、西戸越1・2、東中延1〜3、西品川3 | |- |'''戸越三丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |東戸越1〜5(全)、西戸越1・2、東中延1〜3、西品川3 | |- |'''戸越四丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |東戸越1〜5(全)、西戸越1・2、東中延1〜3、西品川3 | |- |'''戸越五丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |東戸越1〜5(全)、西戸越1・2、東中延1〜3、西品川3 | |- |'''戸越六丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |東戸越1〜5(全)、西戸越1・2、東中延1〜3、西品川3 | |- |{{ruby|'''[[中延]]'''|なかのぶ}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |中延1〜5(全)、東中延2〜4 | |- |'''中延二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |中延1〜5(全)、東中延2〜4 | |- |'''中延三丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |中延1〜5(全)、東中延2〜4 | |- |'''中延四丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |中延1〜5(全)、東中延2〜4 | |- |'''中延五丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |中延1〜5(全)、東中延2〜4 | |- |'''中延六丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |中延1〜5(全)、東中延2〜4 | |- |{{ruby|'''[[西大井]]'''|にしおおい}}'''一丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井森前町、大井原町、大井金子町(以上全)、大井伊藤町、大井出石町、二葉町6、東中延4 | |- |'''西大井二丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井森前町、大井原町、大井金子町(以上全)、大井伊藤町、大井出石町、二葉町6、東中延4 | |- |'''西大井三丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井森前町、大井原町、大井金子町(以上全)、大井伊藤町、大井出石町、二葉町6、東中延4 | |- |'''西大井四丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井森前町、大井原町、大井金子町(以上全)、大井伊藤町、大井出石町、二葉町6、東中延4 | |- |'''西大井五丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井森前町、大井原町、大井金子町(以上全)、大井伊藤町、大井出石町、二葉町6、東中延4 | |- |'''西大井六丁目''' |1964年9月15日 |1964年9月15日 |大井森前町、大井原町、大井金子町(以上全)、大井伊藤町、大井出石町、二葉町6、東中延4 | |- |{{ruby|'''[[西五反田]]'''|にしごたんだ}}'''一丁目''' |1966年9月16日 |1966年9月16日 |五反田2・4(全)、大崎本町1〜3(全)、西大崎1〜4、上大崎4、五反田1・3、西大崎1、東大崎4 | |- |'''西五反田二丁目''' |1966年9月16日 |1966年9月16日 |五反田2・4(全)、大崎本町1〜3(全)、西大崎1〜4、上大崎4、五反田1・3、西大崎1、東大崎4 | |- |'''西五反田三丁目''' |1966年9月16日 |1966年9月16日 |五反田2・4(全)、大崎本町1〜3(全)、西大崎1〜4、上大崎4、五反田1・3、西大崎1、東大崎4 | |- |'''西五反田四丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |五反田2・4(全)、大崎本町1〜3(全)、西大崎1〜4、上大崎4、五反田1・3、西大崎1、東大崎4 | |- |'''西五反田五丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |五反田2・4(全)、大崎本町1〜3(全)、西大崎1〜4、上大崎4、五反田1・3、西大崎1、東大崎4 | |- |'''西五反田六丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |五反田2・4(全)、大崎本町1〜3(全)、西大崎1〜4、上大崎4、五反田1・3、西大崎1、東大崎4 | |- |'''西五反田七丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |五反田2・4(全)、大崎本町1〜3(全)、西大崎1〜4、上大崎4、五反田1・3、西大崎1、東大崎4 | |- |'''西五反田八丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |五反田2・4(全)、大崎本町1〜3(全)、西大崎1〜4、上大崎4、五反田1・3、西大崎1、東大崎4 | |- |{{ruby|'''[[西品川]]'''|にししながわ}}'''一丁目''' |1964年9月15日 | |西品川5(全)、西品川1〜4、南品川6、豊町1・2 | |- |'''西品川二丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |西品川5(全)、西品川1〜4、南品川6、豊町1・2 | |- |'''西品川三丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |西品川5(全)、西品川1〜4、南品川6、豊町1・2 | |- |{{ruby|'''[[西中延]]'''|にしなかのぶ}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延1・2(全)、平塚4〜6 | |- |'''西中延二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延1・2(全)、平塚4〜6 | |- |'''西中延三丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延1・2(全)、平塚4〜6 | |- |{{ruby|'''[[旗の台]]'''|はたのだい}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延3〜5(全)、小山8(全)、平塚6(全)、平塚7・8 | |- |'''旗の台二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延3〜5(全)、小山8(全)、平塚6(全)、平塚7・8 | |- |'''旗の台三丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延3〜5(全)、小山8(全)、平塚6(全)、平塚7・8 | |- |'''旗の台四丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延3〜5(全)、小山8(全)、平塚6(全)、平塚7・8 | |- |'''旗の台五丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延3〜5(全)、小山8(全)、平塚6(全)、平塚7・8 | |- |'''旗の台六丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |西中延3〜5(全)、小山8(全)、平塚6(全)、平塚7・8 | |- |{{ruby|'''[[東大井]]'''|ひがしおおい}}'''一丁目''' |1964年1月1日 | |大井鮫洲町、大井林町、大井元芝町、大井北浜川町、大井関ヶ原町、大井立会町(以上全) | |- |'''東大井二丁目''' |1964年1月1日 | |大井鮫洲町、大井林町、大井元芝町、大井北浜川町、大井関ヶ原町、大井立会町(以上全) | |- |'''東大井三丁目''' |1964年1月1日 | |大井鮫洲町、大井林町、大井元芝町、大井北浜川町、大井関ヶ原町、大井立会町(以上全) | |- |'''東大井四丁目''' |1964年1月1日 | |大井鮫洲町、大井林町、大井元芝町、大井北浜川町、大井関ヶ原町、大井立会町(以上全) | |- |'''東大井五丁目''' |1964年1月1日 | |大井鮫洲町、大井林町、大井元芝町、大井北浜川町、大井関ヶ原町、大井立会町(以上全) | |- |'''東大井六丁目''' |1964年1月1日 | |大井鮫洲町、大井林町、大井元芝町、大井北浜川町、大井関ヶ原町、大井立会町(以上全) | |- |{{ruby|'''[[東五反田]]'''|ひがしごたんだ}}'''一丁目''' |1966年9月16日 | |五反田5〜6(全)、下大崎1(全)、五反田1・3、下大崎2、上大崎中丸、北品川5 | |- |'''東五反田二丁目''' |1966年9月16日 | |五反田5〜6(全)、下大崎1(全)、五反田1・3、下大崎2、上大崎中丸、北品川5 | |- |'''東五反田三丁目''' |1966年9月16日 | |五反田5〜6(全)、下大崎1(全)、五反田1・3、下大崎2、上大崎中丸、北品川5 | |- |'''東五反田四丁目''' |1967年2月1日 | |五反田5〜6(全)、下大崎1(全)、五反田1・3、下大崎2、上大崎中丸、北品川5 | |- |'''東五反田五丁目''' |1966年9月16日 | |五反田5〜6(全)、下大崎1(全)、五反田1・3、下大崎2、上大崎中丸、北品川5 | |- |{{ruby|'''[[東品川]]'''|ひがししながわ}}'''一丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東品川1〜4(全)、天王洲町(全)、東品川5 | |- |'''東品川二丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東品川1〜4(全)、天王洲町(全)、東品川5 | |- |'''東品川三丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東品川1〜4(全)、天王洲町(全)、東品川5 | |- |'''東品川四丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |東品川1〜4(全)、天王洲町(全)、東品川5 | |- |'''東品川五丁目''' |1967年8月1日 | |東品川1〜4(全)、天王洲町(全)、東品川5 | |- |{{ruby|'''[[東中延]]'''|ひがしなかのぶ}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |東中延1〜3 | |- |'''東中延二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |東中延1〜3 | |- |{{ruby|'''[[東八潮]]'''|ひがしやしお}} |1983年2月1日 | |埋立地 | |- |{{ruby|'''[[平塚 (品川区)|平塚]]'''|ひらつか}}'''一丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |平塚1〜3、西戸越1・2、西大崎1 | |- |'''平塚二丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |平塚1〜3、西戸越1・2、西大崎1 | |- |'''平塚三丁目''' |1965年9月1日 |1965年9月1日 |平塚1〜3、西戸越1・2、西大崎1 | |- |{{ruby|'''[[広町 (品川区)|広町]]'''|ひろまち}}'''一丁目''' |1964年9月15日 | |西品川1・2、南品川6、大井権現町 | |- |'''広町二丁目''' |1964年9月15日 | |西品川1・2、南品川6、大井権現町 |- |{{ruby|'''[[二葉 (品川区)|二葉]]'''|ふたば}}'''一丁目''' |1964年9月15日 | |二葉2〜5(全)、大井森下町、大井伊藤町、東中延4、二葉1・6 | |- |'''二葉二丁目''' |1964年9月15日 | |二葉2〜5(全)、大井森下町、大井伊藤町、東中延4、二葉1・6 | |- |'''二葉三丁目''' |1964年9月15日 | |二葉2〜5(全)、大井森下町、大井伊藤町、東中延4、二葉1・6 | |- |'''二葉四丁目''' |1964年9月15日 | |二葉2〜5(全)、大井森下町、大井伊藤町、東中延4、二葉1・6 | |- |{{ruby|'''[[南大井]]'''|みなみおおい}}'''一丁目''' |1964年1月1日 | |大井寺下町、大井坂下町、大井南浜川町、大井鈴ヶ森町、大井海岸町、大井水神町、大井関ヶ原町(以上全) | |- |'''南大井二丁目''' |1964年1月1日 | |大井寺下町、大井坂下町、大井南浜川町、大井鈴ヶ森町、大井海岸町、大井水神町、大井関ヶ原町(以上全) | |- |'''南大井三丁目''' |1964年1月1日 | |大井寺下町、大井坂下町、大井南浜川町、大井鈴ヶ森町、大井海岸町、大井水神町、大井関ヶ原町(以上全) | |- |'''南大井四丁目''' |1964年1月1日 | |大井寺下町、大井坂下町、大井南浜川町、大井鈴ヶ森町、大井海岸町、大井水神町、大井関ヶ原町(以上全) | |- |'''南大井五丁目''' |1964年1月1日 | |大井寺下町、大井坂下町、大井南浜川町、大井鈴ヶ森町、大井海岸町、大井水神町、大井関ヶ原町(以上全) | |- |'''南大井六丁目''' |1964年1月1日 | |大井寺下町、大井坂下町、大井南浜川町、大井鈴ヶ森町、大井海岸町、大井水神町、大井関ヶ原町(以上全) | |- |{{ruby|'''[[南品川]]'''|みなみしながわ}}'''一丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |南品川2・3・5(全)、南品川1・4・6、北品川3、東品川5 | |- |'''南品川二丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |南品川2・3・5(全)、南品川1・4・6、北品川3、東品川5 | |- |'''南品川三丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |南品川2・3・5(全)、南品川1・4・6、北品川3、東品川5 | |- |'''南品川四丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |南品川2・3・5(全)、南品川1・4・6、北品川3、東品川5 | |- |'''南品川五丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |南品川2・3・5(全)、南品川1・4・6、北品川3、東品川5 | |- |'''南品川六丁目''' |1967年2月1日 |1967年2月1日 |南品川2・3・5(全)、南品川1・4・6、北品川3、東品川5 | |- |{{ruby|'''[[八潮 (品川区)|八潮]]'''|やしお}}'''一丁目''' |1980年2月1日 |1980年2月1日 |埋立地 | |- |'''八潮二丁目''' |1980年2月1日 |1980年2月1日 |埋立地 | |- |'''八潮三丁目''' |1980年2月1日 |1980年2月1日 |埋立地 | |- |'''八潮四丁目''' |1980年2月1日 |1980年2月1日 |埋立地 | |- |'''八潮五丁目''' |1980年2月1日 |1980年2月1日 |埋立地 | |- |{{ruby|'''[[豊町 (品川区)|豊町]]'''|ゆたかちょう}}'''一丁目''' |1964年9月15日 | |豊町3〜6(全)、豊町1・2、西品川4、東中延3 | |- |'''豊町二丁目''' |1964年9月15日 | |豊町3〜6(全)、豊町1・2、西品川4、東中延3 | |- |'''豊町三丁目''' |1964年9月15日 | |豊町3〜6(全)、豊町1・2、西品川4、東中延3 | |- |'''豊町四丁目''' |1964年9月15日 | |豊町3〜6(全)、豊町1・2、西品川4、東中延3 | |- |'''豊町五丁目''' |1964年9月15日 | |豊町3〜6(全)、豊町1・2、西品川4、東中延3 | |- |'''豊町六丁目''' |1964年9月15日 | |豊町3〜6(全)、豊町1・2、西品川4、東中延3 | |} ==人口== 1964年([[昭和]]39年)をピークに減少が続いた後、1998年([[平成]]10年)から上昇へ転じ、2019年([[令和]]元年)7月1日時点の統計で40万人を突破した<ref>[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/shinagawaphotonews/shinagawaphotonews-2019/20190701171513.html 品川区の人口が40万人突破!] 品川区役所(2019年7月2日)2020年1月11日閲覧</ref>。 {{人口統計|code=13109|name=品川区|image=Population distribution of Shinagawa, Tokyo, Japan.svg}} 区民の平均年齢は43.82歳である(2008年(平成20年)1月1日時点)。 ===昼夜間人口=== 2015年(平成27年)[[国勢調査]]の結果によると夜間[[人口]]([[居住]]者)は386,855人で、区外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である[[昼間人口]]は544,022人<ref>{{Cite web|和書|title=数字でみる品川|品川区 |url=https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kuseizyoho/kuseizyoho-siryo/kuseizyoho-siryo-toukei/hpg000014929.html |website=品川区役所 |accessdate=2020-06-02 |publisher=}}</ref>。昼間人口は夜間人口の1.406倍である。 なお東京都編集『東京都の昼間人口2005』(平成20年発行)128,129ページによると、国勢調査では[[年齢]]不詳の者が東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳の者を含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる。 ==歴史== [[File:Hiroshige02 shinagawa.jpg|thumb|200px|[[東海道]][[品川宿]]]] [[File:Katsushika Hokusai, Goten-yama hill, Shinagawa on the Tōkaidō, ca. 1832.jpg|thumb|200px|品川御殿山]] 品川の名の起こりについては[[目黒川]]を参照。 {{節スタブ}} ===近世以前=== [[古墳時代]]以後の[[奈良時代]]、[[平安時代]]には既に[[平安京]]と[[国府]]の中継地点や[[駅家]](うまや)として機能していたという記録があり、交通拠点となっていたと考えられる。[[令制国]]としては[[武蔵国]]の一部。 ===近世=== ;[[江戸時代]] [[五街道]]中で最も交通量が多い[[東海道]]の、[[江戸]]から数えて第一の宿場([[品川宿]])として発展していった。 [[幕末]]の[[文久]]2年([[1863年]])には[[英国公使館焼き討ち事件]]が起きた。 ===近代=== ;[[明治]] *[[1889年]]([[明治]]22年)5月1日 **[[町村制]]施行により現在の品川区の領域では以下の町村が誕生。 ***[[東京府]][[荏原郡]]:[[品川町]]、[[大井町 (東京府)|大井村]]、[[大崎町 (東京府)|大崎村]]、[[平塚村]] *[[1908年]](明治41年)8月1日 **大井村が町制施行して大井町になる。 **大崎村が町制施行して大崎町になる。 ;[[大正]] *[[1922年]]([[大正]]11年)6月 **現在の[[小山 (品川区)|小山]]七丁目において[[洗足田園都市]]の分譲が開始される。 *[[1926年]](大正15年)4月1日 **平塚村が町制施行して平塚町になる。 ;[[昭和]] *[[1927年]]([[昭和]]2年)7月1日 **平塚町が改称して荏原町になる。 *[[1932年]](昭和7年)10月1日 **上記4町が[[東京市]]に編入され、品川町、大井町、大崎町の3町域をもって(旧)品川区が、荏原町の町域をもって[[荏原区]]がそれぞれ誕生。 ===現代=== ;昭和 *[[1947年]](昭和22年)3月15日 **東京特別区制実施により、旧・品川区地域と旧・荏原区地域により'''特別区としての品川区'''が発足<ref group="注釈">[[行政区]]制から特別区制への移行のため、旧・品川区および旧・荏原区は共に消滅。これは旧・東京市各区(単独移行区を含む)全てで同様である。</ref>。 *[[1964年]]([[昭和]]39年) - [[品川勝島倉庫爆発火災]] *[[1981年]](昭和56年)4月1日 ** [[防災行政無線]]運用開始。 *[[1987年]](昭和62年) - [[大井火力発電所爆発事故]] ;平成 *[[1995年]]([[平成]]7年) - [[公証人役場事務長逮捕監禁致死事件]] *[[2002年]](平成14年)4月1日 **防災行政無線放送など変更。 == 行政 == === 区長 === *区長:[[森澤恭子]](1期目) ** 任期:2022年12月4日 - 2026年12月3日(予定) *** この時行われた[[2022年品川区長選挙]]は東京23区初の[[再選挙]]となった(森澤は2回とも最多得票)。また、品川区初の女性区長である。 === 地域センター・出張所 === [[画像:Ebara Dai-go Community Center.jpg|200px|thumb|[[荏原第五地域センター]]]] [[住民票]]、[[印鑑証明]]、[[戸籍]]証明などの交付業務を行う。 {{Col| * 品川第一地域センター * 品川第二地域センター * 大崎第一地域センター * 大崎第二地域センター * 大井第一地域センター| * 大井第二地域センター * 大井第三地域センター * 荏原第一地域センター * 荏原第二地域センター * 荏原第三地域センター| * 荏原第四地域センター * [[荏原第五地域センター]] * 八潮地域センター * 大井町サービスコーナー([[東日本旅客鉄道|JR]][[京浜東北線]][[大井町]][[駅ビル]]「[[アトレ]]」中央西口階段下) * 武蔵小山サービスコーナー([[小山 (品川区)|小山]]三丁目27番5号)}} === 災害対策 === *[[東京都都市整備局]]の地域危険度測定調査では、過去に上位ランキングを占めた地域も2012年時点で大きく改善し、危険度はさほど高くないエリアに様変わりしつつある<ref>[https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/chousa_6/home.htm 地震に関する地域危険度測定調査(第8回)][[東京都都市整備局]](2020年1月11日閲覧)</ref>。 *区は継続して防災活動に力を入れており、防災生活道路整備・地区防災不燃化促進事業、密集住宅市街地整備促進事業、ならびに[[しながわ中央公園]]にヘリポートなど防災機能を備えた公園の拡張<ref>[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/shinagawaphotonews/shinagawaphotonews-2017/hpg000030311.html しながわ中央公園 防災機能を備えてオープン] 品川区役所(2020年1月11日閲覧)</ref>、独自に[[品川シェルター]]という[[住宅]]の[[耐震補強]]工法を開発などを進めている。 *[[1981年]]([[昭和]]56年)4月1日には[[防災行政無線]]が開局し、[[2002年]](平成14年)4月1日には防災行政無線のチャイムの音色が変更された。 *2020年の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]を受け、品川区は、全区民に3万円(中学生以下は5万円)を給付すると発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20210621194007/https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kuseizyoho/kuseizyoho-koho/kuseizyoho-koho-sonota/shinagawakatsuryokukyufukin.html しながわ活力応援給付金について]</ref>。 === 広報 === *[[テレビ東京]]『[[しながわ探検隊]]』提供(製作著作フォックス・21)1989年 - 1995年 *南東京ケーブルテレビ(現:[[ケーブルテレビ品川]])に出資(1996年開局) **放送枠『しながわホッとホット』の放映作品を制作 *しながわのチカラ **「しながわのチカラ第1回-ファインダーが見つめるしながわ-」 **全国広報コンクール 2008年:日本広報協会 映像部門1席/東京都広報コンクール最優秀賞受賞 *[[エフエムしながわ]] 『ほっとラジオしながわ』(毎日 11:00 - 11:30、同日22:00 - 22:30に再放送) == 議会 == === 品川区議会 === {{main|品川区議会}} === 都議会 === ;[[2021年東京都議会議員選挙]] * 選挙区:品川区選挙区 * 定数:4人 * 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日 * 投票日:2021年7月4日 * 当日有権者数:333,647人 * 投票率:43.19% {|class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 伊藤興一 || style="background-color:#ffc0cb;text-align:center"| 当 || style="text-align:center"| 60 || [[公明党]] || style="text-align:center"| 現 || 23,188票 |- | 森澤恭子 || style="background-color:#ffc0cb;text-align:center"| 当 || style="text-align:center"| 42 || [[無所属]] || style="text-align:center"| 現 || 22,413票 |- | 白石民男 || style="background-color:#ffc0cb;text-align:center"| 当 || style="text-align:center"| 39 || [[日本共産党]] || style="text-align:center"| 現 || 20,552票 |- | 阿部祐美子 || style="background-color:#ffc0cb;text-align:center"| 当 || style="text-align:center"| 48 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center"| 新 || 20,087票 |- | 筒井洋介 || style="text-align:center"| 落 || style="text-align:center"| 41 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center"| 新 || 19,696票 |- | 田中豪 || style="text-align:center"| 落 || style="text-align:center"| 58 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||style="text-align:center"| 元 || 18,281票 |- | 沢田洋和 || style="text-align:center"| 落 || style="text-align:center"| 40 || 自由民主党 || style="text-align:center"|新 || 16,610票 |- | 佐藤政昭 || style="text-align:center"| 落 || style="text-align:center"| 67 || 無所属 || style="text-align:center"| 新 || style="text-align:right;"| 804票 |} ;[[2017年東京都議会議員選挙]] * 選挙区:品川区選挙区 * 定数:4人 * 投票日:2017年7月2日 * 当日有権者数:318,560人 * 投票率:52.005% {|class="wikitable" !候補者名!!当落!!年齢!!所属党派!!新旧別!!得票数 |- |森澤恭子||style="background-color:#ffc0cb;text-align:center"|当||style="text-align:center"|38||都民ファーストの会||style="text-align:center"|新||32,261票 |- |[[山内晃]]||style="background-color:#ffc0cb;text-align:center"|当||style="text-align:center"|48||都民ファーストの会 ||style="text-align:center"|現||28,591票 |- |伊藤興一||style="background-color:#ffc0cb;text-align:center"|当||style="text-align:center"|56||公明党||style="text-align:center"|現||26,184票 |- |白石民男||style="background-color:#ffc0cb;text-align:center"|当||style="text-align:center"|35||日本共産党||style="text-align:center"|現||23,176票 |- |田中豪||style="text-align:center"|落||style="text-align:center"|54||自由民主党||style="text-align:center"|現||19,546票 |- |阿部祐美子||style="text-align:center"|落||style="text-align:center"|52||[[民進党]]||style="text-align:center"|新||17,612票 |- |沢田洋和||style="text-align:center"|落||style="text-align:center"|36||自由民主党||style="text-align:center"|新||15,807票 |} === 衆議院 === ;東京都第3区 * 選挙区:[[東京都第3区|東京3区]](品川区の一部、[[大田区]]の一部、[[東京都島嶼部|島嶼部]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:470,083人 * 投票率:59.87% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb;" | align="center" | 当 || [[松原仁]] || align="center" | 65 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 124,961票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || [[石原宏高]] || align="center" | 57 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 116,753票 || align="center" | ○ |- | || 香西克介 || align="center" | 45 || [[日本共産党]] || align="center" | 新 || align="right" | 30,648票 || |} ;東京都第7区 * 選挙区:[[東京都第7区|東京7区]]([[渋谷区]]、[[中野区]]の一部、[[杉並区]]方南、品川区の一部、[[目黒区]]の一部) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:459,575人 * 投票率:56.47% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[長妻昭]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 61 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 124,541票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || [[松本文明]] || style="text-align:center;" | 72 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center;" | 前 || style="text-align:right;" | 81,087票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 辻健太郎 || style="text-align:center;" | 35 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 37,781票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 込山洋 || style="text-align:center;" | 47 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 5,665票 || |- | || 猪野恵司 || style="text-align:center;" | 38 || <small>[[NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で]]</small> || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 3,822票 || |} ==国家機関== [[File:Kanto District Transport Bureau Tokyo Transport Branch Office, MLIT 01.JPG|thumb|200px|東京運輸支局]] ===法務省=== *[[東京法務局]]品川出張所 ===財務省=== ;[[国税庁]] *[[東京国税局]] **品川税務署(品川地区・大崎地区・大井地区・八潮地区を管轄。庁舎は港区高輪にある) **荏原税務署(荏原地区を管轄。中延1丁目1番5号) ===国土交通省=== *[[東京運輸支局]] ==施設== [[File:Museum of Maritime Science.JPG|200px|[[船の科学館]]]] [[File:Sea fort square tennouzu higashishinagawa shingawa tokyo 2009-3.JPG|200px|[[天王洲 銀河劇場]]]] ===警察=== ;本部 *[[警視庁]][[警視庁#第二方面|第二方面本部]] - 品川区[[勝島]]一丁目3番12号 **担当区:'''品川区'''・[[大田区]]([[東京湾岸警察署]]管轄区域を除く) **識別章所属表示はLB *警視庁[[警視庁#第一方面|第一方面本部]] - [[千代田区]][[霞が関]]二丁目1番1号 **当区:千代田区・[[中央区 (東京都)|中央区]]・[[港区 (東京都)|港区]]・[[島嶼]]部及び'''品川区'''・大田区・[[江東区]]の東京湾岸警察署管轄区域 **識別章所属表示はLA *運転免許試験場 **[[鮫洲運転免許試験場]] *警察署 **[[品川警察署]] **[[大崎警察署]] **[[大井警察署]] **[[荏原警察署]] **[[東京湾岸警察署]] - 庁舎は江東区[[青海 (江東区)|青海]]にある。 ===消防=== ;[[東京消防庁]] * [[品川消防署]]([[北品川]]三丁目7番31号)[[救急隊]]1 ** 東品川出張所([[東品川]]三丁目32番12号)救急隊無 ** 大崎出張所([[西品川]]一丁目7番9号)[[特別消火中隊]]・救急隊1 ** 五反田出張所([[西五反田]]七丁目25番14号)救急隊1 * 大井消防署([[東大井]]三丁目6番12号)[[化学機動中隊]]・救急隊1 ** 滝王子出張所([[大井 (品川区)|大井]]五丁目17番9号)特別消火中隊・救急隊無 ** 八潮出張所([[八潮 (品川区)|八潮]]五丁目8番3号)救急隊1 * 荏原消防署([[平塚 (品川区)|平塚]]三丁目16番20号)救急隊2 ** 戸越出張所([[戸越]]五丁目20番15号)救急隊無 ** 小山出張所(小山五丁目12番11号)救急隊無 ** 旗の台出張所([[旗の台]]六丁目24番11号)[[東京消防庁#特別消火中隊 (A-one Fire unit)|特別消火中隊]]・救急隊無 ===医療=== ;主な病院 *[[昭和大学病院]] *[[昭和大学病院附属東病院]] *旗の台脳神経外科病院 *[[NTT東日本関東病院]] *[[いすゞ病院]] *第三北品川病院 *[[東京品川病院]] ;プール {{Col| * 総合体育館 * [[品川区立戸越台中学校]]温水プール * 荏原文化センター * [[品川区立八潮学園]]温水プール * [[品川区立品川学園]]温水プール * [[品川区立豊葉の杜学園]]温水プール * しながわ区民公園屋外プール(夏期のみ) * 区立小・中学校プール(夏期のみ)}} ===郵便局=== ;主な郵便局 *[[品川郵便局]] ===図書館=== {{Col| * 品川図書館 * 大井図書館 * 二葉図書館 * 源氏前図書館 * 大崎図書館 * 大崎駅西口図書取次施設(おおさきこども図書室)| * 荏原図書館 * 南大井図書館 * 五反田図書館 * 八潮図書館 * ゆたか図書館 * 大崎図書館分館}} ===文化施設=== ;博物館・美術館 *[[船の科学館]] *[[しながわ水族館]] *[[品川区立品川歴史館]] *O(オー)美術館<ref>[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/shisetsu/shisetsu-bunka/shisetsu-bunka-bunka/hpg000000317.html O(オー)美術館] 品川区役所(2020年1月11日閲覧)</ref> *[[学校法人杉野学園|杉野学園衣装博物館]] *[[建築倉庫ミュージアム]] *[[久米美術館]] *[[容器文化ミュージアム]] *自転車文化センター *品川区立五反田文化センタープラネタリウム ;劇場・ホール *[[品川区立総合区民会館]](きゅりあん) *[[天王洲 銀河劇場]] *[[六行会]]ホール *[[喜多六平太 (14世)|十四世喜多六平太]]記念[[能楽]]堂 *品川区立五反田文化センター音楽ホール ==対外関係== ===姉妹都市・提携都市=== ====国内==== ;提携都市 *{{Flagicon|神奈川県}}[[山北町]]([[関東地方]] [[神奈川県]]) **[[1988年]](昭和63年)1月「ふれあい交流協定」を締結 *{{Flagicon|山梨県}}[[早川町]]([[中部地方]] [[山梨県]] [[南巨摩郡]]) **[[1990年]](平成2年)4月「ふるさと交流協定」を締結 *{{Flagicon|高知県}}[[高知県]]([[四国地方]]) **[[2018年]](平成30年)8月に交流協定を締結。[[土佐藩]][[江戸藩邸|下屋敷]]が区内にあった縁などにより、[[明治維新]]150年を記念<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO34370100Q8A820C1L92000/ 「維新150年記念 高知県と連携 品川区、地域振興など」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年8月21日(首都圏経済面)2018年8月24日閲覧</ref>。 ;その他 *{{Flagicon|JPN}}[[坂本龍馬|龍馬の絆都市間交流]] *:[[2014年]]([[平成]]26年)[[11月15日]] 龍馬の絆で結ぶ都市間交流宣言締結<ref>{{Cite news |title=都市間交流宣言:龍馬の絆で結ぶ協定 全国8市区、観光・防災で交流へ | url= https://archive.ph/dWs14 |date=2014-11-16 |newspaper=『[[毎日新聞]]』}}{{リンク切れ|date=2020年1月}}</ref><ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/shinagawaphotonews/shinagawaphotonews-2014/hpg000023808.html| title = 「坂本龍馬」にゆかりのある8自治体が都市間交流宣言をし災害時相互応援協定を締結| date = 2014| publisher = 品川区| accessdate = 2021-06-29}}</ref> ====海外==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|USA}} [[ポートランド (メイン州)|ポートランド]]([[アメリカ合衆国]] [[メイン州]]) **[[1984年]](昭和59年)9月9日、姉妹都市提携 *{{Flagicon|SUI}} [[ジュネーヴ]]([[スイス連邦]]) ;提携都市 **[[1991年]](平成3年)、友好都市提携 *{{Flagicon|NZL}} [[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]([[ニュージーランド|ニュージーランド王国]]) **[[1993年]](平成5年)、友好都市提携 *{{Flagicon|CHN}} [[ハルビン市|哈爾浜(ハルビン)市]]([[中華人民共和国]] [[黒竜江省]]) **[[1981年]](昭和56年)、教育交流都市提携 ===大使館=== *{{Flagicon|INA}} [[駐日インドネシア共和国大使館|インドネシア大使館]] *{{Flagicon|MKD}} [[駐日北マケドニア大使館|北マケドニア大使館]] *{{Flagicon|COL}} [[駐日コロンビア共和国大使館|コロンビア大使館]] *{{Flagicon|ZAM}} [[駐日ザンビア大使館|ザンビア大使館]] *{{Flagicon|DJI}} [[駐日ジブチ共和国大使館|ジブチ大使館]] *{{Flagicon|THA}} [[駐日タイ王国大使館|タイ大使館]] *{{Flagicon|BRU}} [[ブルネイ]]大使館 *{{Flagicon|BLR}} [[駐日ベラルーシ大使館|ベラルーシ大使館]] *{{Flagicon|MYA}} [[駐日ミャンマー大使館|ミャンマー大使館]] ===領事館=== ;総領事館 *{{Flagicon|BRA}} [[在東京ブラジル総領事館]] *{{Flagicon|PER}} [[在東京ペルー総領事館]] ==経済== ===商業=== [[画像:ThinkPark.JPG|thumb|200px|シンクパーク]] [[画像:Shinagawa seaside overview 2009.JPG|200px|thumb|品川シーサイドフォレスト]] ====商業施設==== ; [[大崎 (品川区)|大崎]] * [[ThinkPark]] * [[NBF大崎ビル]] * [[ゲートシティ大崎]] * [[大崎ニューシティ]] * 大崎ウィズシティ ; [[品川シーサイド]] * [[イオン品川シーサイドショッピングセンター]] ; [[天王洲アイル]] * [[シーフォートスクエア]] * 天王洲オーシャンスクエア ショッピングプラザ NAGI ; [[大井 (品川区)|大井町]] * [[アトレ]]大井町 * アトレ大井町2 * [[イトーヨーカドー]]大井町店 * [[阪急百貨店#阪急大井食品館|阪急]]大井町ガーデン * [[ヤマダデンキ]] LABI品川大井町(旧・丸井大井町店) * エトモ大井町 ; [[五反田]] * 五反田東急スクエア(旧remy gotanda) * アトレ五反田1 (旧・アトレヴィ五反田) * アトレ五反田2 * [[テーオーシー|TOC]] ; [[上大崎|目黒]](上大崎) * アトレ目黒 * アトレ目黒2 * [[目黒セントラルスクエア]] * 目黒MARC  ; [[南大井|大森]](南大井) * [[西友]]大森店 ; [[武蔵小山]] * エトモ武蔵小山(旧・[[東急]]武蔵小山駅ビル<ref>{{Cite web|和書|title=武蔵小山駅ビルを憩いや交流の生まれる施設にリニューアル!武蔵小山駅直結 「エトモ武蔵小山」 が9月14日(木)開業!|ニュースリリース|東急株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/company/news/list/Pid=2591.html|website=www.tokyu.co.jp|accessdate=2020-06-02}}</ref>) 高層ビルは[[品川区の超高層建築物・構築物の一覧]]も参照。 [[File:Nbf osaki building 2014.jpg|200px|thumb|[[ソニー]]の主要事業所である[[NBF大崎ビル]]。2013年、ソニーは信託受益権を売却済]] ===区内に拠点を置く企業=== ;[[南大井]] *[[日立製作所]](本社部門の一部が[[南大井]]にある) *[[パナソニック カーエレクトロニクス]]本社 ;[[大井 (品川区)|大井]]・[[東大井]] *[[日学]]本社 *[[三菱鉛筆]]本社 ; ;[[小山 (品川区)|小山]] ;* [[日本酸素ホールディングス]]本社 ; ;[[東品川]] *[[BIGLOBE]]本社 *[[富士通コンポーネント]]本社 *[[ニトムズ]]本社 *[[ソニーネットワークコミュニケーションズ]]本社 *[[メルセデスベンツ]]日本本社 *[[日立ソリューションズ]]本社 *[[マーベラス (企業)|マーベラス]]本社 *[[ゼネラルモーターズ]]ジャパン本社 *[[モンデリーズ・ジャパン]]本社 *[[三菱総研DCS]]本社 *[[プリマハム]]本社 *[[NTTデータCCS]] *[[福西電機]]本社 *[[イートアンド]]本社 (大阪王将) *[[サーコム・ジャパン]]本社 *[[コナミスポーツクラブ]]本社 *[[帝産観光バス]]本社 *[[寺田倉庫]]本社 *[[JTB]]本社 *[[日本軽金属ホールディングス]]本社 *[[シグマ アルドリッチ ジャパン]]本社 *[[住友ベークライト]] 本社 *[[日本航空]]本社 *[[コダック#日本法人|コダック]]本社 *NTTカードソリューション本社 *[[サブウェイ#日本サブウェイ|日本サブウェイ]]本社 *[[MCフードスペシャリティーズ]] *[[DHL]]ジャパン本社 *[[SOMPOケア]]本社 *[[ブロードリーフ|ブロードリーフ本社]] *[[ライフコーポレーション]]東京本社(2024年2月移転予定) ;[[西品川]] *[[セガサミーホールディングス]]本社 *[[サミー]]本社 *[[セガ]]本社 *[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]本社 *[[セガ・ロジスティクスサービス]]本社 ;[[大崎 (品川区)|大崎]]・[[北品川]] *[[神戸製鋼所]]東京本社 *[[リンガーハット]]本社 *[[日本精工]]本社 *[[三菱電機クレジット]]本社 *[[アドビ]]本社 *[[東芝テック]]本社 *[[日本製鋼所]]本社 *[[富士電機]]本社 *[[三井金属鉱業]]本社 *[[ローソン]]本社 *[[インフィニオン・テクノロジーズ#日本法人|インフォニオン・テクノロジーズ]]本社 *[[サンリオ]]本社 *[[日立システムズ]]本社 *[[フェリカネットワークス]]本社 *[[ユナイテッド・シネマ]]本社 *[[日本アクセス]]本社 *[[日鉄エンジニアリング]]本社 *[[明電舎]] - 「[[ThinkPark]]」は同社の工場跡地。ThinkPark Tower内に本社がある。 *[[クオラス]]本社 *[[住友建機]]・[[住友重機械工業]]本社 *[[インターネットインフィニティー]]本社 *[[So-net|ソネットエンターテインメント]]本社 *[[日本ピュアフード]]・[[マリンフーズ]]本社 *[[日本ルナ]]本社 - 2020年に京都府八幡市より移転。ただし、本店機能は八幡市に存置したまま。 *[[プーマ]]ジャパン本社 *[[モスフードサービス]]本社 *[[ダッソー・システムズ]]本社 *[[ニッセイ・ウェルス生命保険]]本社 *[[ソニー]] - 北品川・大崎に拠点がある *[[ネオファースト生命保険]]本社 *[[スリーエム ジャパン]]本社 *[[Chubb損害保険]]本社 *[[コベルコ建機]]本社 *[[ジャガー・ランドローバージャパン]]本社 ;[[南品川]] *[[ミモザ (企業)|ミモザ]] *JTB印刷 *泉南 ;[[二葉 (品川区)|二葉]] *[[文化堂]] ;[[東五反田]]・[[西五反田]] *[[城南信用金庫]] *[[日本酸素ホールディングス]]本社 *[[学研ホールディングス]] *[[テーオーシー|TOC]]本社 *[[電波新聞社]]本社 *[[コムシスホールディングス]]本社 *[[IMAGICA Lab.|イマジカ]]本社 *[[タキゲン製造]]本社 *[[ポーラ (企業)|ポーラ]]本社 *[[マミヤ・オーピー]]本社 *[[THK (機械メーカー)|THK]]本社 *[[東京日産自動車販売]] *[[星製薬]]本社 *[[丸和油脂]]本社 *[[大谷工業]]本社 *[[フルキャストホールディングス]]・[[フルキャストアドバンス]]本社 *[[NTTインターネット]] *[[アキュートロジック]]本社 ;[[上大崎]] *[[エヌ・ティ・ティ出版]]本社 *[[モンデリーズ・ジャパン]]本社 *[[スターバックスコーヒー]]ジャパン本社 *[[バスキン・ロビンス#日本での展開|B-R サーティワン アイスクリーム]]本社 *[[ソニーPCL]]本社 *[[アカツキ (ゲーム会社)]]本社 *[[USEN-NEXT HOLDINGS]]本社  ===五反田バレー=== 五反田駅周辺を中心に[[ベンチャー]]の起業が進んでおり、米国[[シリコンバレー]]にちなんで「五反田バレー」と呼ばれている。2018年7月には、その名称をとった団体が発足した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33405420V20C18A7XY0000/ 起業家集う「五反田バレー」6社が交流団体]『[[日経産業新聞]]』2018年7月26日(1面)および『日本経済新聞』朝刊2018年7月31日(首都圏経済面)2018年8月24日閲覧</ref>。 * [[オールコネクト]]東京支社 * [[モバイルファクトリー]]本社 * [[freee]]本社 * [[フェンリル (企業)|フェンリル]]東京支社 * [[ココナラ]]本社 * [[ジモティー]]本社 * compass本社 * [[データセクション]]本社 * CAMI&co.本社 * [[ハートコア]]本社 * タケロボ本社 ===区内発祥とする企業=== *[[ニチバン]] - [[セロテープ]]で知られる製造業。[[1918年]]、現在の[[南品川]]にて製薬会社として創業。現在の本社は東京都[[文京区]]。 *[[ソニー]] - 創業翌年の[[1947年]]から[[2007年]]まで北品川に本社を置いていた。現在の本社は東京都[[港区 (東京都)|港区]]。 *[[いすゞ自動車]] - [[自動車メーカー]]。現在の本社は[[神奈川県]][[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]。 *ベリテ - 宝飾品・時計販売 1948年に区内で設立。本店は[[小山 (品川区)|小山]]。 ==情報通信== ===マスメディア=== [[画像:Fujitv-annex.JPG|thumb|フジテレビ別館]] ===放送局=== *[[フジテレビジョン]]別館 - 東品川 *[[テレビ東京天王洲スタジオ]] - 東品川 *[[ケーブルテレビ品川]] *[[エフエムしながわ]] - 上記ケーブルテレビが筆頭株主。局舍も同一箇所。 ==生活基盤== ===ライフライン=== ====上下水道==== *[[東京都水道局]] ==教育== ===大学=== ;私立 *[[昭和大学]] *[[杉野服飾大学]] **[[杉野服飾大学短期大学部]] *[[星薬科大学]] *[[立正大学]] *[[清泉女子大学]] *[[東京医療保健大学]] 五反田キャンパス ;都立 *[[東京都立産業技術大学院大学]] - [[東京都公立大学法人]]が設置。[[東京都立産業技術高等専門学校]]と同じ校舎にある。 ===高等専門学校=== ;都立 *[[東京都立産業技術高等専門学校]]品川キャンパス - 2006年に[[東京都立工業高等専門学校]]を継承して開学。 ===専修学校=== *[[昭和大学医学部附属看護専門学校]] *学校法人[[東京マックス美容専門学校]] *池見東京医療専門学校 *池見東京歯科衛生士専門学校 *東京健康科学専門学校 *品川介護福祉専門学校 *宮川文化服装専門学校 *[[日建学院]] 五反田校 *日本書道専門学校 *[[東京歯科技工専門学校]](閉校) ===高等学校=== ;都立 *[[東京都立大崎高等学校|大崎高等学校]] *[[東京都立小山台高等学校|小山台高等学校]] *[[東京都立八潮高等学校|八潮高等学校]] ;私立 *[[品川翔英中学・高等学校|品川翔英高等学校]]※中高併設 旧小野学園女子高等学校 *[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社高等学校]]※中高併設 *[[香蘭女学校中等科・高等科|香蘭女学校高等科]]※中高併設 *[[品川エトワール女子高等学校]] *[[品川女子学院中等部・高等部|品川女子学院高等部]]※中高併設 *[[青稜中学校・高等学校|青稜高等学校]]※中高併設 *[[品川学藝高等学校]] *[[文教大学付属中学校・高等学校|文教大学付属高等学校]]※中高併設 *[[朋優学院高等学校]](旧・[[中延学園高等学校]]) ===中学校=== ;区立 {{columns-list|3| *[[品川区立東海中学校|東海中学校]] *大崎中学校 *浜川中学校 *鈴ヶ森中学校 *[[品川区立冨士見台中学校|冨士見台中学校]] *荏原第一中学校 *[[品川区立荏原第五中学校|荏原第五中学校]] *[[品川区立伊藤中学校|伊藤中学校]] *荏原第六中学校 *[[品川区立戸越台中学校|戸越台中学校]]}} ;私立 *[[品川翔英中学・高等学校|品川翔英中学校]]※中高併設 旧小野学園女子中学校 *[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社中学校]]※中高併設 *[[香蘭女学校中等科・高等科|香蘭女学校中等科]]※中高併設 *[[品川女子学院中等部・高等部|品川女子学院中等部]]※中高併設 *[[青稜中学校・高等学校|青稜中学校]]※中高併設 *[[文教大学付属中学校・高等学校|文教大学付属中学校]]※中高併設 ===小学校=== ;区立 {{columns-list|3| *[[品川区立城南小学校|城南小学校]] *[[品川区立浅間台小学校|浅間台小学校]] *三木小学校 *御殿山小学校 *[[品川区立城南第二小学校|城南第二小学校]] *第一日野小学校 *[[品川区立芳水小学校|芳水小学校]] *[[品川区立第三日野小学校|第三日野小学校]] *[[品川区立第四日野小学校|第四日野小学校]] *大井第一小学校 *鮫浜小学校 *山中小学校 *立会小学校 *浜川小学校 *鈴ヶ森小学校 *[[品川区立伊藤小学校|伊藤小学校]] *[[品川区立台場小学校|台場小学校]] *[[品川区立京陽小学校|京陽小学校]] *[[品川区立延山小学校|延山小学校]] *中延小学校 *小山小学校 *大原小学校 *宮前小学校 *[[品川区立源氏前小学校|源氏前小学校]] *[[品川区立第二延山小学校|第二延山小学校]] *後地小学校 *[[品川区立戸越小学校|戸越小学校]] *[[品川区立旗台小学校|旗台小学校]] *[[品川区立上神明小学校|上神明小学校]] *[[品川区立清水台小学校|清水台小学校]] *小山台小学校}} ;私立 *[[品川翔英小学校]] ===小中一貫校=== [[File:Shinagawa-City-Unified-Elementary-Through-Junior-High-School-Houyou-no-Mori-Gakuen-1.jpg|200px|thumb|[[品川区立豊葉の杜学園]]]] * 小中一貫教育([[2006年]](平成18年)4月より実施) ** 従来ありがちな小学校から中学校への進学に伴う学習指導や生活指導の連携の悪さを解消し、小学校6年間・中学校3年間に当たる計9年間に一貫した[[カリキュラム]]を編成・実践することで、子どもの個性と能力の伸長を図ることを目的とする。 ** 9年間を大きく4年間と、5年間に分割。さらに後半の5年間を3年間と2年間に分割し、それぞれ教育内容や教育方法を変化させる。 *** 最初の4年間は、学級担任制とし、基礎・基本の習得に重点を置く。 *** 後半5年間は教科担任制とし個性・能力を伸ばす学習を重視する。最初の3年間は、基礎・基本を徹底させる期間として[[習熟度別学習]]を充実させる。 *** 最後の2年間は個性と能力の更なる伸長を目指し、自主学習を重視したカリキュラムをとる。 ** カリキュラムの特徴として1年生より英語科の授業を行う。また、人間形成を目的として、社会の中で生きていくのに役立つ、正しい認知と具体的な行動を身に付けさせる、'''市民科'''を9年間通して学習する。 ** 小中一貫教育は特定の一貫校だけではなく、区内全ての小学校中学校で導入される(2006年度より)。 ===義務教育学校=== ;区立 *[[品川区立日野学園]] *[[品川区立伊藤学園]] *[[品川区立八潮学園]] *[[品川区立荏原平塚学園]] *[[品川区立品川学園]] *[[品川区立豊葉の杜学園]] ===特別支援学校など=== *東京都立品川特別支援学校 *[[明晴学園|明晴学園幼稚部小学部]] *品川区立清水台小学校さいかち学級 - [[昭和大学病院]]内の[[院内学級]]。 ===職業訓練校=== [[職業能力開発促進法]]に基づく[[職業訓練施設]]として以下のものがある。 ;公共職業訓練 *東京都立城南職業能力開発センター ;認定職業訓練 *[[東京グリーンコーディネータカレッジ|東京園芸装飾専門校]](東京グリーンサービス事業協同組合) ===過去に存在した学校=== ;中学校 * 日野中学校 ** 2006年4月に第二日野小学校と一体化し小中一貫校日野学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立日野学園となる。 * [[品川区立伊藤中学校|伊藤中学校]] ** 2007年4月に原小学校と一体化し小中一貫校伊藤学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立伊藤学園となる。 * [[品川区立城南中学校|城南中学校]] ** 2011年4月に品川小学校と一体化し小中一貫校品川学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立品川学園となる。 * 八潮中学校・八潮南中学校 ** 2008年4月に統合され八潮学園中学校となる。 * 八潮学園中学校 ** 2008年4月に八潮学園小学校と一体化し小中一貫校八潮学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立八潮学園となる。 * 荏原第二中学校・平塚中学校 ** 2008年4月に統合され荏原平塚中学校となる。 * 荏原平塚中学校 ** 2010年4月に平塚小学校と一体化し小中一貫校荏原平塚学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立荏原平塚学園となる。 * 荏原第三中学校・荏原第四中学校 ** 2011年4月に統合され豊葉の杜中学校となる。 * 豊葉の杜中学校 ** 2013年4月に豊葉の杜小学校と一体化し小中一貫校豊葉の杜学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立豊葉の杜学園となる。 ;小学校 * 第二日野小学校 ** 2006年4月に日野中学校と一体化し小中一貫校日野学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立日野学園となる。 * 原小学校 ** 2007年4月に伊藤中学校と一体化し小中一貫校伊藤学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立伊藤学園となる。 * [[品川区立品川小学校|品川小学校]] ** 2011年4月に城南中学校と一体化し小中一貫校品川学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立品川学園となる。 * 八潮北小学校・八潮小学校・八潮南小学校 ** 2008年4月に統合され八潮学園小学校となる。 * 八潮学園小学校 ** 2008年4月に八潮学園中学校と一体化し小中一貫校八潮学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立八潮学園となる。 * 平塚小学校 ** 2010年4月に荏原平塚中学校と一体化し小中一貫校荏原平塚学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立荏原平塚学園となる。 * 杜松小学校・大間窪小学校 ** 2013年4月に統合され豊葉の杜小学校となる。 * 豊葉の杜小学校 ** 2013年4月に豊葉の杜中学校と一体化し小中一貫校豊葉の杜学園となり、2016年4月に義務教育学校・品川区立豊葉の杜学園となる。 ==交通== ===鉄道=== 延べ40の[[鉄道駅]]が区内にあり<ref name="しなバス">[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kankyo/kankyo-toshiseibi/20211220205530.html 【3月28日(月)正午より】コミュニティバスの試行運行を開始]品川区(2022年3月15日更新)2022年5月5日閲覧</ref>。[[大井町駅]]や[[五反田駅]]、[[目黒駅]]は[[ターミナル駅]]になっている。なお区名と同じ[[品川駅]]は港区に所在する。 ====鉄道路線==== [[山手線]]の南端部が通るほか、[[東京都心]]と大田区([[東京国際空港|羽田空港]]を含む)、[[神奈川県]]を結ぶ複数の[[鉄道路線]]が南北を縦貫する。 ;[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) *[[File:JR JY line symbol.svg|17px|JY]] [[山手線]]: [[大崎駅]] - [[五反田駅]] - [[目黒駅]] *[[File:JR JK line symbol.svg|17px|JK]] [[京浜東北線]]: [[大井町駅]] - [[大森駅 (東京都)|大森駅]]:大森駅の所在地は大田区[[大森北]]だが、北口出入口が品川区[[南大井]]である。 *[[File:JR JA line symbol.svg|17px|JA]] [[埼京線]]: 大崎駅 *[[File:JR JT line symbol.svg|17px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]([[上野東京ライン]]): 区内を縦断するが、停車駅はない。 *[[File:JR JO line symbol.svg|17px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]]: [[西大井駅]] *[[File:JR JS line symbol.svg|17px|JS]] [[湘南新宿ライン]]: 大崎駅 - 西大井駅 *[[ファイル:Sotetsu_line_symbol.svg|15x15ピクセル|SO]] [[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]: 大崎駅 - 西大井駅 *{{Color|gray|■}} [[東京総合車両センター]] ;[[日本貨物鉄道]](JR貨物) *{{Color|#7D0552|■}} [[東京貨物ターミナル駅]] :[[貨物駅]]としては日本国内最大の面積を持つ。また、旅客列車発着の設定はないがJR東日本の旅客駅扱いにもなっている。 ;[[東海旅客鉄道]](JR東海) *[[東海道新幹線]]:区内を通るが駅はない。区内には[[大井車両基地]]がある。 ;[[東急電鉄]](東急) *[[File:Tokyu MG line symbol.svg|17px|MG]] [[東急目黒線|目黒線]]: 目黒駅 - [[不動前駅]] - [[武蔵小山駅]] - [[西小山駅]] *[[File:Tokyu OM line symbol.svg|17px|OM]] [[東急大井町線|大井町線]]: 大井町駅 - [[下神明駅]] - [[戸越公園駅]] - [[中延駅]] - [[荏原町駅]] - [[旗の台駅]] *[[File:Tokyu IK line symbol.svg|17px|IK]] [[東急池上線|池上線]]: 五反田駅 - [[大崎広小路駅]] - [[戸越銀座駅]] - [[荏原中延駅]] - 旗の台駅 ;[[東京臨海高速鉄道]] (TWR) *[[File:Rinkai Line symbol.svg|17px|R]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]: [[天王洲アイル駅]] - [[品川シーサイド駅]] - 大井町駅 - 大崎駅 ;[[東京モノレール]] *[[File:Tokyo Monorail Line symbol.svg|17px|MO]] [[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]](東京モノレール): 天王洲アイル駅 - [[大井競馬場前駅]] ;[[京浜急行電鉄]](京急) *[[File:Number prefix Keikyū.svg|17px|KK]] [[京急本線|本線]]: [[北品川駅]] - [[新馬場駅]] - [[青物横丁駅]] - [[鮫洲駅]] - [[立会川駅]] - [[大森海岸駅]] ;[[東京地下鉄]](東京メトロ) *[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|17px|N]] [[東京メトロ南北線|南北線]]:目黒駅 ;[[東京都交通局]](都営地下鉄) *[[File:Toei Mita line symbol.svg|17px|I]] [[都営地下鉄三田線|都営三田線]]:目黒駅 *[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|17px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]:五反田駅 - [[戸越駅]] - 中延駅 ===バス=== [[路線バス]]が60系統以上走っているほか、2022年3月に[[コミュニティバス]]「しなバス」の試験運行が西大井駅前-大森駅前で始まった<ref name="しなバス"/>。 ====路線バス==== *[[都営バス]]:区内に[[都営バス品川営業所|品川営業所]]がある。以前は目黒駅前に目黒営業所→支所→分駐所も所在した。 *[[京浜急行バス]] *[[東急バス]]:区内に[[東急バス荏原営業所|荏原営業所]]がある。 ====高速バス==== {{main|大崎駅#大崎駅西口バスターミナル}} ===道路=== ====高速道路==== *[[首都高速道路]] **[[首都高速1号羽田線]] **[[首都高速2号目黒線]] **[[首都高速湾岸線]] **[[首都高速中央環状線]] ====国道==== *[[国道1号]] *[[国道15号]] *[[国道357号]] ====都道==== *[[東京都道2号東京丸子横浜線]](中原街道) *[[東京都道312号白金台町等々力線]](目黒通り) *[[東京都道317号環状六号線]](山手通り) *[[東京都道318号環状七号線]](環七通り) *[[東京都道418号北品川四谷線]] *[[東京都道420号鮫洲大山線]](26号線通り) *[[東京都道421号東品川下丸子線]](池上通り) *[[東京都道480号品川埠頭線]] ===航路=== ====港湾==== *[[東京港]] ====船舶==== ;[[東京都観光汽船]] *[[船の科学館]]・[[しながわ水族館]]ライン(海上バス):船の科学館 - [[大井ふ頭中央海浜公園|大井海浜公園]] - しながわ水族館 ===ナンバープレート=== 品川区は[[東京運輸支局]]本庁舎の管轄エリアで、品川ナンバーを交付される。 ==観光== 品川区内には、[[東海七福神]]と[[荏原七福神]]の2つの七福神めぐりのコースがある<ref>[https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/shinagawaphotonews/shinagawaphotonews-2007/hpg000003360.html 区内の七福神めぐりに行きませんか?] 品川区役所(2021年4月30日閲覧)</ref>。 [[File:Shinagawa-jinja-syaden.jpg|200px|thumb|品川神社]] [[File:Ebara jinja.JPG|200px|thumb|荏原神社]] [[File:Irugi jinja.JPG|200px|thumb|居木神社]] [[File:Kamishinmei tenso jinja futaba shinagawa tokyo 2009.JPG|200px|thumb|[[蛇窪神社]]]] [[File:Shimoshinmei tenso jinja futaba shinagawa tokyo 2017-1.jpg|200px|thumb|[[下神明天祖神社]]]] ===名所・旧跡=== ;神社 {{Columns-list|2| * [[品川神社]] : [[東海七福神]]:[[大黒天]] : [[准勅祭社]]、[[東京十社]]、[[郷社]] * [[荏原神社]] : [[東海七福神]]:[[恵比須]] : [[准勅祭社]]、[[郷社]] * [[天祖・諏訪神社]] : [[東海七福神]]:[[福禄寿]] * [[磐井神社]] : [[東海七福神]]:[[弁財天]] * [[大井蔵王権現神社]] : [[荏原七福神]]:[[福禄寿]] * [[蛇窪神社]] : [[荏原七福神]]:[[弁財天]] * [[小山八幡神社]] : [[荏原七福神]]:[[大黒天]] * [[下神明天祖神社]] * [[貴船神社 (品川区)]] * [[雉子神社]] * [[氷川神社 (品川区)]] * [[居木神社]] * [[鹿嶋神社 (品川区)]] * [[鮫洲八幡神社]] * [[旗岡八幡神社]] * [[戸越八幡神社]] * [[三谷八幡神社]] * [[荏原金刀比羅神社]]}} ;寺院 区内各地に寺院があり、特に旧東海道付近に多く見られる。 {{columns-list|2| * 養願寺 ** [[東海七福神]]:[[布袋]] * [[一心寺 (品川区)]] ** [[東海七福神]]:[[寿老人]] * [[品川寺]] (「品川」は"ホンセン"と読む) ** [[東海七福神]]:[[毘沙門天]] ** [[江戸六地蔵]]第一番 * [[東光寺 (品川区)]] - 戦没の動物供養塔・[[東司]](トイレ)の[[守護神]] **[[荏原七福神]]:[[毘沙門天]] * [[養玉院]] **[[荏原七福神]]:[[布袋]] * [[法蓮寺 (品川区)|法蓮寺]] **[[荏原七福神]]:[[恵比寿]] * [[摩耶寺]] **[[荏原七福神]]: [[寿老人]] * [http://www.terahakase.com/temple/detail/id/9754/ 正信寺] * [http://www.tokyonanbushumusho.com/kobetsu/043.html 清光寺] * [http://www.terahakase.com/temple/detail/id/9750/ 蓮長寺] * [https://tesshow.jp/shinagawa/temple_soi_daikei.html 大経寺] * [[安養院]] * [[行慶寺]] * [[正徳寺]] * [[東海寺]]}} 上大崎の寺院群は[[増上寺|芝増上寺]]下屋敷に由来し、[[幕末]]の江戸の七大荼毘所([[火葬場]])の一つである。 ;主な史跡 * [[洗足田園都市]](小山七丁目) * [[伊藤博文]]の墓(西大井) * [[板垣退助]]の墓(品川神社内) * 山内豊信([[山内容堂]])墓(東大井四丁目大井公園内) * [[岩倉具視]]の墓(海晏寺内) * [[沢庵宗彭]]の墓(東海寺内) * [[賀茂真淵]]の墓(東海寺内) * [[清泉女子大学]](旧[[島津公爵]]邸、[[島津山]]) * [[ねむの木の庭公園]](旧正田邸、[[城南五山|池田山]]) * [[鈴ヶ森刑場]]跡 * [[大森貝塚]]…大森は現在では大田区の地名であるが、貝塚は品川区内にあった。 * 品川砲台跡(幕末期に現在の[[立会川駅]]の東側の当時の海岸を埋め立てて設けられた[[砲台]]、{{coord|35|35|51|N|139|44|26|E}} ===観光スポット=== [[画像:Shinagawa Chuo Park heliport (multipurpose area) included disaster prevention function.jpg|200px|thumb|[[しながわ中央公園]]]] ;レジャー *[[大井競馬場]] ;公園 {{Col| * [[潮風公園]] * [[林試の森公園]] * [[大井ふ頭中央海浜公園]] * [[みなとが丘ふ頭公園]] * [[京浜運河緑道公園]] * [[大井ふ頭緑道公園]] * [[東八潮緑道公園]] * [[品川南ふ頭公園]] * [[八潮北公園]] * [[戸越公園]] * [[神明児童遊園]] * [[東八ツ山公園]]| * [[池田山公園]] * [[ねむの木の庭]]([[上皇后美智子]]の生家である正田邸の跡地) * [[しながわ区民公園]](公園内に[[しながわ水族館]]がある) * [[しながわ中央公園]] * 子供の森公園}} ==文化・名物== ===祭事・催事=== * [[七福神]]巡り([[東海七福神]]、[[荏原七福神]])- 1月 * [[西恋山イルミネーション]]([[西小山駅|西小山]])- 2月~3月 * なかのぶ[[ジャズ|JAZZ]]フェスティバル([[中延]])- 3月 * 五反田桜まつり([[五反田駅]]周辺)- 4月 * しながわ運河まつり・花火大会([[天王洲]])- 春と秋 * [https://www.facebook.com/gotafes/ ゴタフェス] 五反田夏祭り([[五反田駅]]東口 ロータリー)- 7月~8月 * 品川納涼祭([[西大井]])- 8月 * 大井[[どんたく]]夏祭り([[大井町駅]])- 8月下旬の土・日 * [[目黒のさんま#品川区上大崎 「目黒のさんま祭り」|目黒のさんま祭り]] - 9月中旬 * [[中延]][[YOSAKOI|よさこい祭り]](ふるさと祭り)- 9月中旬 * [[品川宿|しながわ宿場]]まつり([[北品川]]・[[新馬場]]・[[青物横丁]])- 9月下旬 * しながわ・おおた水辺の観光フェスタ -9月末 ** [[東品川海上公園]]花火大会 ** [[八潮 (品川区)|八潮]]かもめ橋ナイアガラ花火大会 * しながわ夢さん橋([[大崎 (品川区)|大崎]]) - 9月 * 品川区民芸術祭([[品川区立総合区民会館|きゅりあん]] 他)- 9月 - 11月 * [[天妙国寺]] お会式([[青物横丁]])- 10月 * えばら観光フェア 西小山物語 - 10月下旬 * [[ハロウィン]]([[大井 (品川区)|大井]]・[[戸越銀座]])- 10月 * [[目黒川みんなのイルミネーション]] - 11月 - 1月<ref group="注釈">開催初年の2010年から2015年までは[[12月25日]]([[クリスマス]]当日)までだったが、2016年からは翌年の1月第2月曜日([[成人の日]])及び第1日曜日まで延長。</ref> * [[例祭]] 例祭・例大祭・大祭などで呼ばれる祭りで、[[神輿]]の練り歩きが行われ、各地で見物できる<ref>[http://www.sinakan.jp/entry-info.html?id=38226&bc=true しながわ観光協会]{{リンク切れ|date=2020年1月}}</ref> {| |-style="background-color:#eeeeee" !No.!!名称!!最寄り!!日時 |- |1||千躰荒神大祭/秋([[海雲寺 (品川区)|海雲寺]])||[[新馬場駅]]・[[北品川]]駅||3月27・28日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |2||虚空蔵尊春の大祭([[養願寺]])||[[青物横丁駅]]||4月13日に近い土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |3||[[袖ヶ崎神社]]例大祭||[[高輪台駅]]||5月第4土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |4||[[貴船神社 (品川区)|貴船神社]]例大祭||[[下神明駅]]・[[大崎駅]]||6月初旬 |-style="background-color:#f5fffa" |- |5||[[品川神社]]例大祭(北の[[天王祭]])||[[新馬場駅]]||6月初旬の金~日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |6||[[荏原神社]]例大祭(南の[[天王祭]]・かっぱ祭)||[[新馬場駅]]||6月初旬の金~日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |7||[[天祖諏訪神社]]例大祭||[[立会川駅]]||8月第1金~日曜 |-style="background-color:#f5fffa" |- |8||[[鮫洲八幡神社]]例大祭||[[鮫洲駅]]||8月中旬の金~日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |9||[[居木神社]]例大祭||[[大崎駅]]||8月第3金~日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |10||[[小山八幡神社]]・[[三谷八幡神社]]<br />(小山両社祭)||[[武蔵小山駅]]||9月6・7日に近い土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |11||[[戸越八幡神社]]例大祭||[[戸越銀座駅]]||9月第2土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |12||[[旗岡八幡神社]]例大祭||[[旗の台駅]]||9月第2土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |13||[[氷川神社 (品川区)]]例大祭||[[不動前駅]]||9月13日に近い金~日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |14||[[下神明天祖神社#年中行事|下神明天祖神社例大祭]]||[[下神明駅]]・[[大井町駅]]||9月16日に近い土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |15||[[蛇窪神社]]例大祭||[[戸越公園駅]]・[[中延駅]]||9月16日に近い土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |16||[[雉子神社]]例大祭||[[五反田駅]]||10月第1土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |17||[[誕生八幡神社]]例大祭||[[目黒駅]]||10月10日に近い土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |18||[[鹿嶋神社 (品川区)|鹿嶋神社]]例大祭||[[大森駅 (東京都)|大森駅]]||10月第3土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |19||虚空蔵尊秋の大祭([[養願寺]])||[[青物横丁駅]]||11月13日に近い土・日 |-style="background-color:#f5fffa" |- |20||千躰荒神大祭/秋([[海雲寺 (品川区)|海雲寺]])||[[新馬場駅]]・[[北品川]]駅||11月27・28日 |-style="background-color:#f5fffa" |} ===名産・特産=== *[[品川縣ビール]] **日本初の[[ビール]]工場があったとされ、21世紀になって「品川縣ビール」として復刻版が登場し、街おこしに一役買っている。「品川縣ビール」の工場の存在を発見したのは1989年の品川区提供番組『しながわ探検隊』。 *[[海苔巻き|品川巻]] *[[屋形船]] *[[沢庵宗彭#沢庵漬け|沢庵漬け]]<ref>[http://www.sinakan.jp/entry-info.html?id=74830 しながわみやげ物産展]{{リンク切れ|date=2020-01}}</ref>([[沢庵宗彭]]を開基とする[[東海寺 (品川区)|東海寺]]が[[北品川]]にある) ==出身関連著名人== ;政治家 *[[浮島敏男]] - 元[[衆議院議員]] *[[武井雅昭]] - 東京都[[港区 (東京都)|港区長]] *[[山田美樹]] - 政治家、通産官僚 ;経済 *[[小原鐵五郎]] - [[城南信用金庫]]・[[信金中央金庫]]・[https://www.shinkin.org/ 全国信用金庫協会] 元理事長・会長 *[[石津進也]] - [[旭硝子]]元社長・会長・取締役会議長 *[[数原洋二]] - [[三菱鉛筆]]名誉会長、元社長・会長 *[[松井清人]] - [[文藝春秋社]]元社長 ;芸能{{Anchors|芸能}} *[[林家彦六]]([[落語家]]、旧:下荏原郡品川町) *[[古今亭志ん輔]]([[落語家]]) *[[桂宮治]](落語家) *[[三笑亭茶楽]](落語家) *[[黒澤明]]([[映画監督]]) *[[安田公義]](映画監督) *[[獅子てんや]]([[漫才]]) *[[石橋蓮司]]([[俳優]]) *[[真田広之]](俳優) *[[遠藤憲一]](俳優) *[[淡路恵子]](女優) *[[大竹しのぶ]](女優) *[[片平なぎさ]](女優) *[[白川由美]](女優) *[[高橋ひとみ]](女優) *[[広瀬えり子]](女優/モデル) *[[深水藤子]](女優) *[[山田麻衣子]](女優) *[[森川智之]]([[声優]]) *[[神奈延年]](声優) *[[石井隆夫]](声優) *[[松野太紀]]<ref name="goo">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/松野太紀/ |title=松野太紀(まつのたいき)の解説 - goo人名事典 |accessdate=2020-11-15}}</ref>(声優) *[[真琴つばさ]](元[[宝塚歌劇団]][[月組]]トップスター) *[[風間柚乃]](宝塚歌劇団月組男役) *[[井ノ原快彦]](ジャニーズアイランド代表取締役兼タレント・歌手:[[20th Century (グループ)|20th Century]]) *[[島倉千代子]]([[演歌歌手]]) *[[高中正義]](ミュージシャン:[[ギタリスト]]、[[音楽プロデューサー]]) *[[石川よしひろ]](ミュージシャン:[[シンガーソングライター]]) *[[後藤次利]](ミュージシャン:[[ベーシスト]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]、音楽プロデューサー) *[[御木惇史]]([[ドラムセット|ドラム]]奏者/[[パーカッション|打楽器奏者]]) *[[水野有平]]([[作詞作曲家]]) *[[御木裕樹]](和太鼓奏者、[[音楽家]]) *[[毒蝮三太夫]](俳優/[[タレント]]) *[[菊池桃子]](女優/タレント) *[[佐野光来]](モデル/タレント:2005[[クラリオンガール]]グランプリ) *[[大堀恵]](アイドル:[[SDN48]]) *[[Char]](ミュージシャン、[[ギタリスト]]) *[[西原俊次]](ミュージシャン、[[キーボーディスト]]) *[[前田知洋]](プロ[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]) *[[南道郎]](俳優/[[漫才師]]) *[[前田隣]]([[ナンセンストリオ]])(コメディアン) *[[大川ひろし]]([[アンクルベイビー]])(コメディアン) *[[和田アキラ]](ミュージシャン:[[ギタリスト]]、[[プリズム (バンド)|プリズム]]) *[[sequick]]([[ディスクジョッキー|DJ]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]、トークボックスプレーヤー) *[[宇治正高]](元[[イーグルス (ジャニーズ)|イーグルス]]) *[[斉藤敏豪]] (テレビ番組演出家) *[[戸田信子 (作曲家)|戸田信子]] (作曲家) ;文化人・研究者 *[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]](地理学者) *[[浅古弘]](法学者) *[[岩崎英二郎]]([[ドイツ語]]学者) *[[岸井大太郎]]([[法学者]]) *[[杉全直]](洋画家) *[[高河ゆん]]([[漫画家]]) *[[竹内誠 (小説家)|竹内誠]]([[小説家]]) *[[野崎六助]](小説家、文芸評論家) *[[結城昌治]](小説家) *[[西川慶二]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]]) *[[稲田和浩]](演芸作家、落語評論家) *[[藤井省三]](中国文学者) ;スポーツ選手 *[[松平康隆]] - [[日本バレーボール協会]]「名誉顧問 *[[西沢道夫]] - 元[[プロ野球選手]] *[[石川柊太]] - プロ野球選手 *[[三吉央起]] - 野球選手 *[[八木沼純子]] - スケート *[[東海稔]] - 元[[大相撲]][[力士]]([[前頭]]) *[[澤勇智和]] - 大相撲力士 *[[藤井脩祐]] - [[フルコンタクト空手]]選手・[[極真拳武会]]所属 *[[藤井将貴]] - フルコンタクト空手選手・極真拳武会所属 *[[聖菜]] - [[プロレスラー]]・元[[アイスリボン]]所属 *[[里歩]] - プロレスラー・[[我闘雲舞]]所属 *[[江畑佳代子]] - [[プロボクサー]] ;アナウンサー *[[河出奈都美]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] *[[杉上佐智枝]] - 日本テレビ エグゼクティブアナウンサー *[[滝沢雄一]] - 元[[秋田テレビ]] *[[武内絵美]] - [[テレビ朝日]] *[[須田哲夫]] - 元[[フジテレビジョン|フジテレビ]] ゼネラルアナウンサー *[[中村光宏]] - フジテレビ *[[菅佐原隆幸]] - [[福島中央テレビ]] *[[森武史]] - 元[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]] *[[石川小百合]] - [[フリーアナウンサー]]、元[[テレビ静岡]] *[[深川仁志]] - [[日本放送協会|NHK]] *[[高橋真麻]] - 元フジテレビ *[[徳増ないる]] - [[静岡第一テレビ]]アナウンサー *[[馬野雅行]] - [[毎日放送]]アナウンサー *[[吉崎典子]] - 元フジテレビ *[[小林雅美]] - フリーアナウンサー、[[気象予報士]] ;その他 *[[瀧島未香]] - [[フィットネス]][[インストラクター]] *[[笠原章弘]] - [[鍼灸師]]、[[整体師]]、[[作家]] *[[矢作芳人]] - [[調教師]] ==品川区を舞台とした作品== * ゴジラシリーズ ** [[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]([[1954年]]) ** [[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]]([[1984年]]) ** [[ゴジラvsデストロイア]]([[1995年]]) ** [[ゴジラ×メカゴジラ]]([[2002年]]) ** [[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]([[2003年]]) ** [[シン・ゴジラ]]([[2016年]]) * [[深夜にようこそ]]([[1986年]]) - [[千葉真一]][[主演]]による[[テレビドラマ]]で[[西大井]]が舞台。 * [[日本沈没]] - [[小松左京]]による[[1973年]]の[[SF小説]]、およびその映画化作品。 * [[浮浪雲]] - [[ジョージ秋山]]によって1973年から連載中の[[漫画]]、およびそのテレビドラマ化作品。 * [[ガメラ 大怪獣空中決戦]](1995年) * [[幕末太陽傳]]([[1957年]]) - 幕末の品川宿が舞台。 * ピカ☆ンチシリーズ - [[八潮 (品川区)|八潮]]団地をモデルにした「品川区八塩団地」が舞台。 ** [[ピカ☆ンチ LIFE IS HARDだけどHAPPY]]([[2002年]]) ** [[ピカ☆☆ンチ LIFE IS HARDだからHAPPY]]([[2004年]]) ** [[ピカ☆★☆ンチ LIFE IS HARD たぶんHAPPY]]([[2014年]]) * [[品川猿]]([[2005年]]) - [[村上春樹]]による短編小説。[[品川区役所]]が重要な舞台として登場する。 * [[ラッキーセブン (テレビドラマ)|ラッキーセブン]]([[2012年]]) - [[松本潤]]主演による[[テレビドラマ]]で[[北品川]]が舞台([[ロケーション撮影|ロケ]]地は[[東大井]])。 * [[時代屋の女房]] - [[村松友視]]によって1982年に発表され[[直木賞]]にも輝いた同名小説と、1983年と1985年に発表されたその映画化作品。 * [[GANTZ]] - [[佐藤信介]]監督[[渡辺雄介]]脚本によって2011年に発表された同名漫画のSF映画化作品。主人公が命を落とすシーンで、りんかい線大井町駅が撮影現場として利用された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == {{Multimedia|品川区の画像}} * [[:Category:品川区]] * [[品川 (東京都)]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website|name=品川区}} * [https://shinagawa-kanko.or.jp/ しながわ観光協会] * {{Osmrelation}} * {{Wikivoyage-inline|ja:品川区|品川区{{ja icon}}}} {{品川区の町名}} {{東京都の自治体}} {{東京35区}} {{しながわ大学連携推進協議会}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しなかわく}} [[Category:品川区|*]] [[Category:東京都の特別区]] [[Category:東京市の区]]
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2011年
2011年(2011 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。平成23年。 この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。
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2011年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。平成23年。 この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses||日本ローカルの事柄|2011年の日本}} {{出典の明記|date=2011年1月}} {{年代ナビ|2011}} {{YearInTopic | 年 = 2011 }} {{year-definition|2011}} この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。 == 他の紀年法 == {{Year in other calendars|year=2011}} * [[干支]]:[[辛卯]](かのと う) * [[日本]](月日は一致) ** [[平成]]23年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2671年 * [[大韓民国]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4344年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]100年 * [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]100年 * [[仏滅紀元]]:2553年閏9月11日 - 2554年10月7日 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1432年1月25日 - 1433年2月5日 * [[ユダヤ暦]]:5771年4月25日 - 5772年4月5日 * [[UNIX時間|Unix Time]]:1293840000 - 1325375999 * [[修正ユリウス日]](MJD):55562 - 55926 * [[リリウス日]](LD):156403 - 156767 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=2011}} == できごと == <imagemap>File:2011 Events Collage.png|'''上段''': (左)[[ウォール街を占拠せよ]]に参加している抗議者は、オキュパイ運動の始まりを告げている。(中央)10月に[[ムアンマル・アル=カッザーフィーの死|殺害]]されたリビアの独裁者[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]に対する抗議。(右)[[南スーダン]]の独立を祝う若者。<br />'''中段''': (左)2010年から2011年にかけて[[アラブの春]]と呼ばれる反政府運動が起こった。(右)2011年の[[東日本大震災]]と津波は東日本を荒廃させ、2万人近くの人々が死亡した。<br />'''下段''': (左)米国の国家安全保障チームが[[アルカイダ]]の指導者[[ウサマ・ビン・ラディン]]を殺害した[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|ネプチューン・スピア作戦]]の進行状況を監視するための[[シチュエーションルーム|ホワイトハウス・シチュエーション・ルーム]]。(中央)[[ノルウェー連続テロ事件]]は、西側での[[右翼テロ|白人至上主義者]]によるテロリズムの台頭を示している(右)[[Minecraft]]が発売され、ベストセラーのビデオゲームになった。|430x430px|thumb rect 0 0 200 200 [[ウォール街を占拠せよ]] rect 200 0 400 200 [[ムアンマル・アル=カッザーフィーの死]] rect 400 0 600 200 [[南スーダン]] rect 0 200 300 400 [[アラブの春]] rect 300 200 600 400 [[東日本大震災]] rect 0 400 200 600 [[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|ネプチューン・スピア作戦]] rect 200 400 400 600 [[ノルウェー連続テロ事件]] rect 400 400 600 600 [[Minecraft]]</imagemap> === 1月 === * 前年末から、[[エルニーニョ・南方振動|ラニーニャ現象]]の影響により[[オーストラリア]]で多雨になるほか<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1101/14b/world20110114.html |title=オーストラリア東部の異常多雨について |date=2011-01-14 |publisher=気象庁 |accessdate=2020-12-08}}</ref>、[[ブラジル]]など世界各地で大規模な[[水害]]が多発<ref>[http://www.nhk.or.jp/news/html/20110113/t10013389771000.html 豪など世界各地で大雨の被害] NHKニュース 2011年1月13日付{{リンク切れ|date=2021年3月}}</ref>。 * 1月1日 ** ブラジルで初の[[選出もしくは任命された女性の元首の一覧|女性元首]]、[[ジルマ・ルセフ]]大統領が就任<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2781077?pid=6623674 ルセフ大統領が就任、ブラジル初の女性大統領] AFPBB News 2011年1月2日付.</ref>。 ** [[エストニア]]が欧州単一通貨[[ユーロ]]を導入。[[ソビエト連邦|旧ソビエト連邦諸国]]では初めて<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011010101000107.html|title=エストニアがユーロ流通を開始 17番目の導入国誕生|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727192642/http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011010101000107.html|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 ** [[エジプト]]の[[アレクサンドリア]]で、[[コプト正教会]]の教会を狙った[[自爆テロ]]が発生し、21人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011010101000165.html|title=教会前で車爆発、21人死亡 エジプト、新年ミサ標的か|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110102160138/http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011010101000165.html|archivedate=2011-01-02}}</ref>。翌2日、首都[[カイロ]]では、抗議のため集まった一部信徒が暴徒化した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2781125?pid=6625291 コプト教会爆破事件、抗議デモが一部暴徒化 エジプト] AFPBB News 2011年1月3日付.</ref>。 ** [[中華人民共和国|中国]]の[[北京市]]が、自動車の[[中国のナンバープレート|ナンバープレート]]発行を年間24万台に制限する渋滞対策を実施<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110109-OYT1T00468.htm 北京で渋滞対策…ナンバー発行、年24万台まで] 読売新聞 2011年1月9日付.{{リンク切れ|date=2020年9月}}</ref>。 ** [[フィンランド]]の[[ウーシマー県]]と[[東ウーシマー県]]が合併し、新たなウーシマー県が発足<ref>{{cite web |url=http://www.valtioneuvosto.fi/ajankohtaista/tiedotteet/tiedote/fi.jsp?oid=274585 |title=Valtioneuvosto päätti Uudenmaan ja Itä-Uudenmaan maakuntien yhdistämisestä |date=2009-10-22 |publisher=Ministry of Finance |language=Finnish |accessdate=2010-12-30|deadlinkdate=2020-09-29}}</ref>。 <!--** [[大韓民国|韓国]]で[[韓国の運転免許|運転免許]]関連業務を[[運転免許試験管理団]]から[[道路交通公団]]に権限を移譲。([[WP:IINFO]])--> * 1月2日 - [[香港]]や[[台湾]]、[[中国]]本土などの華人系の民間団体が、[[尖閣諸島]](釣魚台)の領有権を主張する「[[世界華人保釣連盟]]」を設立。 * 1月3日 ** [[シンガポール]]の通商産業省が、[[2010年]]の[[国内総生産]](GDP)成長率を、過去最高の14.7%(推計値)と発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011010301000180.html|title=シンガポールが14%成長 2010年、過去最高の水準|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727191826/https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011010301000180.html|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 ** [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]]の[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]知事が退任。 * 1月5日 ** [[国際連合食糧農業機関|FAO]]が、世界の食料価格は2010年12月に過去最高に達したと発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=aP4brQ07Hl5k|title=世界食料価格:12月に過去最高更新、砂糖値上がり-FAO(Update1)|publisher=bloomberg|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727180007/https://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=aP4brQ07Hl5k|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 ** [[中華人民共和国|中国]]の[[李克強]]副首相が、約60億[[ユーロ]](約6,500億円)の[[スペイン]][[公債]]の購入を表明。 * 1月6日 ** [[フランス]]の自動車会社・[[ルノー]]で、[[日産自動車|日産]]と共同開発する[[電気自動車]]に関する[[情報漏洩]]が発覚。 ** [[Apple]]が、[[Mac (コンピュータ)|Mac]]用の[[アプリケーションソフトウェア|アプリ]]を提供する[[Mac App Store]]をオープン。アプリの[[ダウンロード]]数が初日に100万を超える。 * 1月7日 - [[カタール]]で[[AFCアジアカップ2011]]開催。([[1月29日]]まで) * 1月8日 ** アメリカ・[[アリゾナ州]]で、[[民主党 (アメリカ)|民主党]][[アメリカ合衆国下院|下院]]議員の遊説中に銃乱射事件が発生し、6名が死亡、議員は[[重体]]。 ** [[ニジェール]]で、駐留[[フランス軍]]などによる救出作戦が失敗し、[[アルカーイダ]]に誘拐されていた[[フランス人]]2人が死亡。 * 1月9日 **[[インド]]の[[デリー]]が40年ぶりの[[寒波]]を記録し、近隣の[[ウッタル・プラデーシュ州]]では[[ホームレス]]80人以上が死亡。 ** [[イラン]]で、[[イラン航空]]の国内便旅客機[[ボーイング727]]が墜落し、乗客乗員105名のうち77名が死亡。(詳細は「[[イラン航空277便墜落事故]]」を参照) ** [[チュニジア]]で、失業と食料インフレに抗議するデモ隊が、前日から治安部隊と衝突し、この日までに14人以上が死亡。 ** [[タイ王国|タイ]]の[[反独裁民主戦線|タクシン派]]が、首都[[バンコク]]で約2万人の参加する大規模集会。[[非常事態宣言]]の解除後では初。 * 1月10日 ** 米中の国防相が[[北京市|北京]]で会談し、[[台湾]]への武器売却問題で約1年間中断していた米中軍事交流の再開を合意。 ** [[中華人民共和国|中国]]で貿易統計が発表され、2010年の中国の輸出、輸入の金額がともに過去最高を更新。輸出は2年連続で世界一。 ** 中国汽車工業協会が、2010年の[[中華人民共和国|中国]]の新車販売台数が、2年連続で世界一になったと発表。 ** [[バングラデシュ]]で、[[W:Dhaka Stock Exchange|ダッカ証券取引所]]の株価が9.25%急落し、取引が停止。一部の投資家が暴徒化。 * 1月11日 ** [[オーストラリア]]北東部の[[クイーンズランド州]]が、前日に発生した[[鉄砲水]]により、10人が死亡、78人が[[行方不明]]と発表。 ** [[中華人民共和国|中国]]の[[第5世代ジェット戦闘機|第5世代]][[ステルス機|ステルス戦闘機]]「[[J-20|殲-20]]」が、初の試験飛行に成功。 ** インドの[[格安航空会社]]・[[IndiGo]]が、[[エアバス]]から[[エアバスA320|A320]]系180機(156億ドル相当)を購入。商用機では過去最大の契約。 * 1月12日 ** [[レバノン]]で、[[シーア派|イスラム教シーア派]]武装組織[[ヒズボラ]]の閣僚らが一斉に辞任し、[[挙国一致内閣]]が崩壊。 ** [[ベトナム共産党大会]]が開幕。(1月19日まで) ** [[パキスタン]]北西部で[[自爆テロ]]があり、20人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011011201001089.html|title=パキスタン、警察に自爆テロ 20人死亡|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727191833/https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011011201001089.html|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 * 1月13日 ** [[ブラジル]]南東部の[[リオデジャネイロ州]]で、[[集中豪雨|大雨]]の被害による死者が、この日までに500人を超える。 ** [[スリランカ]]政府が、[[洪水]]により、これまでに少なくとも23人が死亡、325,000人が避難と発表。 ** オーストラリア北東部の[[洪水]]が、同国第3の都市[[ブリスベン]]に達し、都市機能がマヒ。 * 1月14日 ** [[チュニジア]]で[[ジャスミン革命]]が発生<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/biz/world/article/g=96958A9C93819499E3EBE2E28B8DE3EBE2E3E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E7E2E0E0E2E3E2E6E1E0E0|title=チュニジアで起きた史上初のサイバー発革命 ツイッターが広げた蜂起の波|publisher=日本経済新聞|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110122081230/http://www.nikkei.com/biz/world/article/g=96958A9C93819499E3EBE2E28B8DE3EBE2E3E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E7E2E0E0E2E3E2E6E1E0E0|archivedate=2011-01-22}}</ref>。[[ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー|ベン=アリー]]大統領は[[サウジアラビア]]へ脱出し、23年間の[[独裁政治|独裁政権]]が崩壊<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782375?pid=6668146 チュニジア政権崩壊、大統領はサウジに] AFPBB News 2011年1月15日付.</ref>。 ** [[イタリア]]の[[検察官|検察]]当局が、未成年[[売春|買春]]などの疑いで、[[シルヴィオ・ベルルスコーニ|ベルルスコーニ]]首相の捜査を開始<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782381?pid=6665805 未成年者買春容疑でベルルスコーニ首相を捜査、イタリア] AFPBB News 2011年1月15日付.</ref>。 ** [[イギリス]]石油大手[[BP (企業)|BP]]と、[[ロシア]]国営石油大手[[ロスネフチ]]が、[[株式持ち合い]]を中心とする資本・業務提携で合意。 ** [[南インド]]・[[ケーララ州]]の[[ヒンドゥー教]]寺院近くで、参拝者が[[将棋倒し]]になり、100人以上が死亡。 * 1月15日 - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[羅先特別市]](中国との国境沿いに所在)に[[中国人民解放軍|中国軍]]が進駐したと『[[朝鮮日報]]』が報道<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chosunonline.com/news/20110115000009|title=中国軍が北朝鮮・羅先特区に駐屯、港湾施設など警備|publisher=朝鮮日報|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110118000837/http://www.chosunonline.com/news/20110115000009|archivedate=2011-01-18}}</ref>。[[中華人民共和国|中国]]外務省は翌々17日、公式に否定<ref>[http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C9381959FE3E5E2E1978DE3E5E2E3E0E2E3E39494E3E2E2E2;at=ALL 中国、北朝鮮への進駐否定 報道「根拠ない」] 日本経済新聞 2011年1月17日付.</ref>。 * 1月17日 ** [[Apple]]の[[スティーブ・ジョブズ]][[最高経営責任者|CEO]]が、病気治療のため休養すると発表<ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19060420110118 米アップルのジョブズCEOが病気療養で休職、株価急落] ロイター通信 2011年1月18日付.</ref>。 ** [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]政府が、[[洪水]]による死者・[[行方不明|行方不明者]]が40人以上に上ると発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011011801000015.html|title=南ア洪水で40人死亡・不明 9州中7州が災害激甚地に|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727191843/https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011011801000015.html|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 ** [[パキスタン]]北西部で、[[バス (交通機関)|バス]]が爆弾[[テロリズム|テロ]]に遭い、19人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011011701001020.html|title=バスに爆弾テロ、19人死亡 パキスタン北西部|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727191838/http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011011701001020.html|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 * 1月18日 - [[イラク]]北部で[[自爆テロ]]があり、65人が死亡。翌19日には、イラク中部の自爆テロで15人が死亡した。<ref>[https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-19080220110119 イラク北部の自爆攻撃で60人死亡、警官志願者狙う] ロイター通信 2011年1月19日付.</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/international/update/0119/TKY201101190511.html|title=救急車で自爆テロ、15人死亡 イラクの警察訓練施設|publisher=朝日新聞|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727194540/www.asahi.com/international/update/0119/TKY201101190511.html|archivedate=2011-07-27}}</ref> * 1月19日 ** [[ワシントンD.C.]]で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[バラク・オバマ|オバマ]]大統領と、[[中華人民共和国|中国]]の[[胡錦濤]][[中華人民共和国主席|国家主席]]が会談<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782787?pid=6698506 米中首脳会談、国際問題での協調を確認 人権問題では相違] AFPBB News 2011年1月20日付.</ref>。450億ドルの対中商談が成立<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782799?pid=6699172 米中、総額3.7兆円の大型商談成立 ボーイング200機受注も] AFPBB News 2011年1月20日付.</ref>。 ** [[チュニジア]]で、前大統領派を中心とした暫定政権が発足するも、抗議デモは収まらず<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782573?pid=6684531 チュニジア暫定政権発足、主要閣僚は留任] AFPBB News 2011年1月18日付.</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782637?pid=6692660 チュニジア暫定政権、野党4氏が就任辞退] AFPBB News 2011年1月19日付.</ref>。 ** [[欧州連合|EU]]が、[[クラッカー (コンピュータセキュリティ)|クラッカー]]による排出枠の盗難を理由に、[[欧州連合域内排出量取引制度|温室効果ガス排出量の取引市場]](EU-ETS)を1週間停止<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782823?pid=6699780 「排出枠」がハッカーに盗まれシステム停止、チェコは7.7億円の被害に] AFPBB News 2011年1月20日付.</ref>。 * 1月20日 ** [[中華人民共和国|中国]]の2010年[[国内総生産]](GDP)が[[日本]]を抜き、世界第2位となることが確実に<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/business/update/0120/TKY201101200149.html|title=中国、GDP世界2位へ 前年比10.3%増で日本抜く|publisher=朝日新聞|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110121213952/www.asahi.com/business/update/0120/TKY201101200149.html|archivedate=2011-01-21}}</ref>。 ** [[アメリカ合衆国|アメリカ]][[連邦捜査局|FBI]]が、[[ニューヨーク]]周辺で[[コーサ・ノストラ|イタリア系マフィア]]を史上最大規模の一斉摘発<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782898?pid=6702761 NYマフィア127人逮捕、米捜査当局] AFPBB News 2011年1月21日付.</ref>。 ** [[イラク]]で、[[シーア派|イスラム教シーア派]]の[[聖地]]を狙った連続爆破[[テロリズム|テロ]]があり、50人以上が死亡<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2782881?pid=6702222 イラクで連続爆弾攻撃、シーア派信者ら50人死亡] AFPBB News 2011年1月21日付.</ref>。 * 1月21日 ** [[大韓民国国軍|韓国軍]]が、[[ソマリア]]の[[海賊]]に乗っ取られた[[大韓民国|韓国]]船から、人質を全員救出し、海賊8名が銃撃戦で死亡<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2011/01/21/0800000000AJP20110121003800882.HTML|title=差し替え:韓国軍がソマリアで拉致の韓国船救出、作戦成功|publisher=聯合ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110726153126/http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2011/01/21/0800000000AJP20110121003800882.HTML|archivedate=2011-07-26}}</ref>。 ** [[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]世界最大手の[[Facebook]]が15億ドルを調達し、[[企業価値]]は約500億ドルと評価される<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20110727093102/http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=aZCdhvLnTHDs|title=米フェースブック:15億ドル調達、企業価値は500億ドル(Update1)|publisher=bloomberg|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727093102/http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=aZCdhvLnTHDs|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 ** [[ベラルーシ]]で、「欧州最後の独裁者」[[アレクサンドル・ルカシェンコ|ルカシェンコ]]大統領が4期目の就任式<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011012202000033.html 「独裁大統領」孤立の船出 ベラルーシ就任式] 東京新聞 2011年1月22日付 朝刊{{リンク切れ|date=2020年9月}}</ref>。 ** [[国際連合人権高等弁務官事務所|OHCHR]]、[[2010年コートジボワール危機|コートジボワール危機]]で、これまで1カ月間の死者が最低260人に上ると発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110121/mds1101212331067-n1.htm|title=混乱の死者計260人 コートジボワール|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110122230947/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110121/mds1101212331067-n1.htm|archivedate=2011-01-22}}</ref>。 * 1月23日 ** [[オーストラリア]]のスワン財務相が、北東部の[[洪水]]の被害額は同国史上最悪の規模になると語った<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/30001583.html 洪水被害額、最悪規模に 豪州財務省見通し] CNN.co.jp 2011年1月24日付.{{リンク切れ|date=2020年9月}}</ref>。 ** [[パキスタン]]南部で、[[バス (交通機関)|バス]]の居眠り事故が発生し、32人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011012301000463.html|title=バス居眠り事故で32人死亡 パキスタン南部|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110124192546/http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011012301000463.html|archivedate=2011-01-24}}</ref>。 ** イラクの[[バグダード]]とその周辺で、連続爆破テロがあり、少なくとも10人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110123/mds1101232140061-n1.htm|title=連続爆弾テロで10人死亡 バグダッド|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110211111307/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110123/mds1101232140061-n1.htm|archivedate=2011-02-11}}</ref>。 * 1月24日 **[[ロシア]]・[[モスクワ]]の[[ドモジェドヴォ空港]]で[[自爆テロ]]があり、少なくとも35人が死亡<ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19168020110124 モスクワの空港で自爆攻撃、最低35人死亡・約130人負傷] ロイター通信 2011年1月25日付.</ref>。(詳細は「[[ドモジェドヴォ空港爆破事件]]」を参照) ** イラクの[[カルバラー]]周辺で、イスラム教シーア派を狙った連続爆弾テロがあり、最低33人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/world/30001592.html|title=イラクで連続爆弾テロ、巡礼者など30人以上が死亡|publisher=CNN.co.jp|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110126070726/https://www.cnn.co.jp/world/30001592.html|archivedate=2011-01-26}}</ref>。 ** [[イラン]]政府が、アメリカから釈放を要求されていた反政府活動家2人の[[死刑]]を執行したと発表<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783226?pid=6721274 イラン、活動家2人の死刑執行 09年大統領選の抗議デモに参加] AFPBB News 2011年1月24日付.</ref>。 ** [[コートジボワール]]で、[[アラサン・ワタラ|ワタラ派]]が[[ココア]]と[[コーヒー]]の輸出を一時停止<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783225?pid=6718924 コートジボワールのワタラ氏、ココア・コーヒー輸出禁止を命じる] AFPBB News 2011年1月24日付.</ref>。これを受け、ココア価格が上昇<ref>[https://jp.reuters.com/article/stocksNews/idJPnTK051422220110125 〔株価トレンド〕コートジボワールの輸出禁止でカカオ豆上昇、菓子メーカー株価の重しに] ロイター通信 2011年1月25日付.</ref>。 * 1月25日 ** [[エジプト]]各地で、[[チュニジア]]の[[ジャスミン革命]]に触発され数万人規模の反体制デモが始まる<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783415?pid=6728908 エジプトで大規模デモ、3人死亡 チュニジア「ジャスミン革命」が波及] AFPBB News 2011年1月26日付.</ref>。(詳細は「[[エジプト革命 (2011年)]]」を参照) ** [[中華人民共和国|中国]]の[[昆明市]]で、戦略的パートナーシップの推進をテーマに、中国と[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]の[[外務大臣|外相]]会議が開かれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011012501000334.html|title=中国とASEANの外相会議開く 戦略パートナーシップ議論|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727193848/https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011012501000334.html|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 ** [[パキスタン]]各地で、イスラム教シーア派を狙った連続自爆テロがあり、計16人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cnn.co.jp/world/30001610.html|title=シーア派狙った自爆テロ、犯人は十代少年 パキスタン|publisher=CNN.co.jp|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110203001615/http://www.cnn.co.jp/world/30001610.html|archivedate=2011-02-03}}</ref>。 ** [[フィリピン]]の[[マニラ首都圏]]中心部[[マカティ]]で、[[バス (交通機関)|バス]]が爆発し、4人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/international/update/0125/TKY201101250401.html|title=マニラでバス爆発、18人死傷 テロの可能性|publisher=朝日新聞|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110128004217/www.asahi.com/international/update/0125/TKY201101250401.html|archivedate=2011-01-28}}</ref>。 * 1月26日 ** [[国際電気通信連合|ITU]]が、世界の[[インターネット]]利用者は20億人、[[携帯電話]]の契約件数は50億件を超えたと発表<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783650?pid=6735818 世界のネット利用者20億人、ケータイ契約数は50億件に] AFPBB News 2011年1月27日付.</ref>。 ** [[コロンビア]]北東部の地下[[炭鉱]]で爆発があり、作業員20人が死亡<ref>[https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-19230620110127 コロンビアの炭鉱で爆発、作業員20人死亡=地質鉱山研究所] ロイター通信 2011年1月27日付.</ref>。 ** [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が、これまで見つかった中で最も古い[[銀河]]を発見したと発表<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783613?pid=6733552 「最古の銀河」を発見、NASA] AFPBB News 2011年1月27日付.</ref>。 <!--** [[板野友美]]が[[Dear J]]でソロデビュー。--> * 1月27日 ** [[イエメン]]で数千人規模の反政府[[デモ活動|デモ]]が発生<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783766?pid=6738089 イエメンで大規模反政府デモ、チュニジアから波及] AFPBB News 2011年1月28日付.</ref>。翌28日には、[[ヨルダン]]の主要都市で大規模な反政府デモ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/world/30001648.html|title=ヨルダンでも大規模反政府デモ、首相退陣求め|publisher=CNN.co.jp|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110203014404/https://www.cnn.co.jp/world/30001648.html|archivedate=2011-02-03}}</ref>。 ** [[中華人民共和国|中国]]政府が不動産税の導入を発表し、[[上海市]]と[[重慶市]]で翌28日から先行導入<ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19246220110127 中国が不動産税導入へ、全国に先駆け上海と重慶で28日から] ロイター通信 2011年1月28日付.</ref>。 ** イラクの首都[[バグダード]]のシーア派地区で、爆弾テロが相次ぎ、53人が死亡<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783697?pid=6739101 イラク首都のシーア派地区で爆弾攻撃、53人死亡] AFPBB News 2011年1月28日付.</ref>。 ** [[イギリス]]の捜査当局が、[[ウィキリークス]]支持の[[クラッカー (コンピュータセキュリティ)|クラッカー]]集団5人を逮捕し、アメリカではFBIが[[捜索|家宅捜索]]<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783784?pid=6741070 ウィキリークス支持のハッカー集団を英米で捜査、5人を逮捕] AFPBB News 2011年1月28日付.</ref>。 * 1月28日 ** [[エジプト]]各地で、[[ホスニー・ムバーラク|ムバーラク]]政権下では最大の反政府[[デモ活動|デモ]]が発生し、[[民主化]]指導者の[[モハメド・エルバラダイ|エルバラダイ]]が[[軟禁]]される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011012801001050.html|title=エジプト数万人デモ、衝突で死者 エルバラダイ氏軟禁か|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727192652/https://www.47news.jp/CN/201101/CN2011012801001050.html|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 ** [[国際連合食糧農業機関|FAO]]が、「最悪の[[口蹄疫]]が[[大韓民国|韓国]]で発生した」として、[[アジア]]各国に警戒令<ref>[http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2011012971088 農食品部長官が辞意表明、FAOはアジア諸国に警戒令] 東亜日報 2011年1月29日付.</ref>。 ** [[スペイン]]の[[失業率]]が、[[先進国]]で最悪の水準となる20.33%に悪化したと発表される<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783808?pid=6745273 スペイン、失業率20.33%に 先進国で最悪水準] AFPBB News 2011年1月29日付.</ref>。 * 1月29日 ** エジプト革命 (2011年)の死者が100人を超える<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783838?pid=6749606 エジプト、副大統領と首相の指名後もデモ続く 死者100人超える] AFPBB News 2011年1月30日付.</ref>。[[エジプト軍|国軍]]は騒乱を黙認し、事実上の[[無政府状態]]に<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/international/update/0129/TKY201101290358.html|title=エジプト、事実上の無政府状態 軍が治安維持にあたらず|publisher=朝日新聞|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110130220410/www.asahi.com/international/update/0129/TKY201101290358.html|archivedate=2011-01-30}}</ref>。 ** [[ドイツ]]東部で、[[旅客列車]]と[[貨物列車]]の衝突事故があり、10人が死亡<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783839?pid=6750409 ドイツで旅客列車と貨物列車が衝突、10人死亡] AFPBB News 2011年1月30日付.</ref>。 * 1月30日 ** [[2011年南部スーダン独立住民投票|スーダン南部の独立を問う住民投票]]の暫定結果が発表され、[[独立]]賛成が全体の約99%<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2783849?pid=6751325 スーダン南部住民投票、99%近くが独立賛成] AFPBB News 2011年1月30日付.</ref>。 ** [[2011年アジア冬季競技大会|第7回冬季アジア大会]]が、[[カザフスタン]]の[[アスタナ]]と[[アルマトイ]]で開幕(2月6日まで)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011013001000602.html|title=冬季アジア大会が開幕 日本は103選手が参加|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110204201215/http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011013001000602.html|archivedate=2011-02-04}}</ref>。 * 1月31日 ** エジプト革命で、[[エジプト軍|国軍]]が民衆の立場を支持し、民衆への武力行使を否定する声明を発表<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784042?pid=6759546 エジプト軍「民衆に武力行使しない」] AFPBB News 2011年2月1日付.</ref>。 ** [[ブレント原油|北海ブレント原油]][[商品先物取引|先物]]が、エジプト騒乱の影響で、2008年以降で初めて1[[バレル]]100ドルを突破<ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19308320110131 北海原油が100ドル突破、エジプト情勢めぐる不透明感で] ロイター通信 2011年2月1日付.</ref>。 ** [[スマートフォン]][[オペレーティングシステム|OS]]の前四半期[[市場占有率|シェア]]で、[[Google]]の「[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]」が、[[ノキア|Nokia]]の「[[Symbian OS|Symbian]]」を抜き、首位に<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920010&sid=awhCv9uExzAE|title=スマートフォンOS市場、グーグルのアンドロイドが首位に-カナリス|publisher=bloomberg|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727172751/https://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920010&sid=awhCv9uExzAE|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 ** [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]]の[[アメリカ合衆国連邦裁判所|連邦地裁]]が、全国民に加入を義務付けた[[W:Health care reform in the United States|医療保険改革法(英語版)]]に、2例目の違憲判断<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784081?pid=6760131 米医療保険改革法、地裁が違憲判断] AFPBB News 2011年2月1日付.</ref>。 ** [[ミャンマー]]で、1962年の[[クーデター]]以来となる、[[複数政党制|複数政党]]参加の[[W:Pyidaungsu Hluttaw|新議会(英語版)]]が招集される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011013101000249.html|title=ミャンマーで新議会 軍政に終止符、民政移管へ|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727192657/http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011013101000249.html|archivedate=2011-07-27}}</ref>。 === 2月 === * 2月1日 ** [[エジプト]]の[[カイロ]]と[[アレクサンドリア]]で「百万人の行進」が行われ<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784135?pid=6761421 エジプト、「百万人の行進」始まる] AFPBB News 2011年2月1日付.</ref>、[[ホスニー・ムバーラク|ムバーラク]]が同年9月の大統領選の不出馬を表明<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784145?pid=6762877 ムバラク大統領、次期選挙不出馬を表明 デモは100万人達成] AFPBB News 2011年2月2日付.</ref>。 ** 反政府[[デモ活動|デモ]]の続く[[ヨルダン]]で、[[アブドゥッラー2世|国王アブドゥッラー2世]]が首相を[[更迭]]<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784147?pid=6762304 反政府デモ続くヨルダン、国王が首相更迭] AFPBB News 2011年2月2日付.</ref>。 * 2月2日 ** [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が、[[太陽系外惑星]]の候補約1,200個を発見し、うち54個には[[液体]]の[[水]]の存在する可能性があると発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011020301000227.html|title=惑星候補1200個を発見 NASA、54個には水?|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110204192808/http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011020301000227.html|archivedate=2011-02-04}}</ref>。 ** 超大型の[[サイクロン]]「[[W:Severe Tropical Cyclone Yasi|ヤシ(英語版)]]」が、[[オーストラリア]]北東部に上陸し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cnn.co.jp/world/30001687.html|title=カテゴリー5の超大型サイクロン、豪州北東部に上陸|publisher=CNN.co.jp|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110204204751/http://www.cnn.co.jp/world/30001687.html|archivedate=2011-02-04}}</ref>、この影響で、[[粗糖]]相場が約30年ぶりの高値<ref>[https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-19371620110203 粗糖相場が30年ぶり高値、豪サイクロンでサトウキビに被害大] ロイター通信 2011年2月3日付.</ref>。 ** [[エジプト]]の[[カイロ]]で、反政府[[デモ活動|デモ]]隊と[[ホスニー・ムバーラク|ムバーラク]]大統領支持派が衝突し、3人が死亡<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784260?pid=6765398 デモ隊と大統領支持派が衝突、3人死亡 エジプト] AFPBB News 2011年2月3日付.</ref>。 * 2月3日 ** [[国際連合食糧農業機関|FAO]]が、前月の世界の食料価格指数が、1990年の統計開始以来過去最高となったと発表<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784425?pid=6769959 1月の世界の食料価格、過去最高に] AFPBB News 2011年2月4日付.</ref>。 ** [[イエメン]]の首都[[サナア|サヌア]]で、[[アリー・アブドッラー・サーレハ|サーレハ]]大統領の即時退陣を求める2万人以上の[[デモ活動|デモ]]が発生<ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19374420110203 イエメンの首都サヌアで反政府デモ、2万人以上が参加] ロイター通信 2011年2月3日付.</ref>。 ** [[マイクロソフト]]が、Vailの正式名称を、[[Microsoft Windows Home Server 2011]]に決定し、[[Microsoft Windows Home Server 2011]]の製品候補版を公開。 ** [[ICANN]]が、[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]の管理する現行の[[IPアドレス]]「[[IPv4]]」の最後の在庫がすべて[[地域インターネットレジストリ|RIR]]に割り当てられ、無くなったと発表<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784445?pid=6770427 現行IPアドレスが在庫切れに] AFPBB News 2011年2月4日付.</ref>。RIRの在庫も数年内に全て枯渇すると予測されている<ref>[http://www.potaroo.net/tools/ipv4/index.html IPv4 Address Report]</ref>([[IPアドレス枯渇問題]])。 * 2月4日 ** [[タイ王国|タイ]]、[[カンボジア]]国境の[[プレアヴィヒア寺院]]付近で、両国軍の交戦が始まる<ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19404520110204 タイとカンボジア、国境のヒンズー寺院付近で銃撃戦] ロイター通信 2011年2月4日付.</ref><ref>[https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-19418620110207 タイとカンボジア、世界遺産周辺の国境付近で3日連続交戦] ロイター通信 2011年2月7日付.</ref>。 ** [[エジプト]]で、[[ホスニー・ムバーラク|ムバーラク]]大統領の即時辞任を求める「追放の金曜日」[[デモ活動|デモ]]が行われ、[[カイロ]]では推定20万人が集まる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/CN/201102/CN2011020401000653.html|title=即時辞任求め20万人デモ エジプト「追放の金曜日」|publisher=共同通信|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110323050423/https://www.47news.jp/CN/201102/CN2011020401000653.html|archivedate=2011-03-23}}</ref>。 ** [[ミャンマー]]大統領に、首相(当時)で軍出身の[[テイン・セイン]]が選出され、同国の「民政移管」が完了<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784454?pid=6770976 ミャンマー大統領にテイン・セイン首相] AFPBB News 2011年2月4日付.</ref>。 * 2月6日 - [[南部スーダン|スーダン南部]]で、[[武装#非武装化|武装解除]]を拒否する[[民兵]]による[[反乱]]があり、この日までに50人以上が死亡<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2784693?pid=6784009 スーダン南部で民兵が反乱、50人死亡] AFPBB News 2011年2月7日付.</ref>。 * 2月11日 - [[エジプト]]の[[オマル・スレイマーン]]副大統領が国営テレビで[[ホスニー・ムバーラク]]大統領の辞任を発表し権限を[[エジプト軍最高評議会|軍最高評議会]]に委譲(詳細は「[[エジプト革命 (2011年)]]」を参照)。 * 2月14日 - 選択的[[夫婦別姓]]の制度を求め、[[民法]]の夫婦同姓規定を違憲として国家賠償を求める訴訟が提議される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi-net.or.jp/~dv3m-ymsk/tusin.html|title=別姓訴訟を支える会通信バックナンバー|publisher=別姓訴訟を支える会|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140422025342/http://www.asahi-net.or.jp/~dv3m-ymsk/tusin.html|archivedate=2014-04-22}}</ref>。 * 2月22日 - [[ニュージーランド]]南島の[[クライストチャーチ]]付近にて現地時間午後0時51分、[[マグニチュード]]6.3の[[地震]]が発生した<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110222/asi11022214590002-n1.htm|title=ニュージーランドでM6・3地震 首相「死者少なくとも65人」 建物が倒壊|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110225102705/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110222/asi11022214590002-n1.htm|archivedate=2011-02-25}}</ref>。この地震により、[[日本]]の[[富山県]]の外国語学校留学生の関係者が多数死亡した(詳細は「[[カンタベリー地震 (2011年2月)]]」を参照)。 * 2月24日 - [[アルジェリア]]の[[アブデルアジズ・ブーテフリカ]]大統領が、1992年以来同国にて発令されてきた非常事態宣言を解除<ref>{{Cite news |url=https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-19716720110225 |title=アルジェリアが非常事態宣言を解除、反体制派に譲歩 |work=ロイター |publisher=[[ロイター]] |date=2011-02-25 |accessdate=2011-02-25 }}</ref>。 * 2月26日 - [[ニンテンドー3DS]]発売。 === 3月 === * 3月9日  ** 11時45分頃([[日本標準時|JST]])に[[三陸沖]]を[[震源]]として[[気象庁マグニチュード|M]]7.3 ([[モーメント・マグニチュード|M<sub>w</sub>]]7.3)の地震が発生した。[[東日本大震災]]の前震とされる。詳しくは、[[三陸沖地震 (2011年3月)]]を参照 * 3月11日 ** [[日本]]の[[東北地方]][[太平洋|太平洋岸]]沖を震源とする、マグニチュード9.0の地震が発生<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110311/dst11031116150040-n1.htm|title=東北で震度7 M8・8 釜石で津波4メートル 被害甚大|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110314183624/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110311/dst11031116150040-n1.htm|archivedate=2011-03-14}}</ref>。M9.0という規模は世界で[[1900年]]以降4番目で日本国内観測史上最大(詳細は「[[東北地方太平洋沖地震]]」を参照)。また、この地震によって[[東日本大震災]]が引き起こされた。 ** この地震で[[福島第一原子力発電所]]が被害を受け、それによって大規模な原子力事故が発生した(詳細は「[[福島第一原子力発電所事故]]」を参照)<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201103/2011031200517 福島第1原発の建屋が爆発] 時事通信 2011年3月13日閲覧{{リンク切れ|date=2020年9月}}</ref>。これ以外にも太平洋沿岸の原子力発電所・火力発電所が津波によって被害を受けて操業を停止した影響により、東京電力管内では3月14日から28日まで[[計画停電]]が実施された。 **[[ロシア連邦議会]]で[[9月3日]]を「[[日本帝国主義]]者に対する勝利の日」と定める法案が提出されたが[[統一ロシア]]の反対により否決された。 * 3月12日 ** [[九州新幹線|九州新幹線鹿児島ルート]]([[博多駅]]〜[[鹿児島中央駅]])全線開業。前日に起きた東日本大震災の影響で記念式典を取りやめる。 <!-- 日本ローカル? ** [[札幌駅前通地下歩行空間]]が、開通した。 --> <!-- 日本ローカル? ** [[長野県北部地震 (2011年)|長野県北部地震]]発生。この地震により[[長野県]][[栄村]]や[[新潟県]][[津南町]]・[[十日町市]]などが大きな被害を受けた。 --> <!-- 日本ローカル? * [[3月15日]] - [[静岡県東部地震]]発生。 --> * 3月17日 ** [[国際連合安全保障理事会]]が、[[リビア]]に対する軍事介入を容認する決議([[国際連合安全保障理事会決議1973]])を採択。 ** [[円相場]]が一時、1ドル=77円台をつけ、1973年の導入以来最高値になった。その後、[[為替介入]]で急落した。 * 3月18日 - [[フィンランド]]総選挙が施行され、与党:[[フィンランド中央党]]が勝利し、第一党となった<ref>[https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-25163120070318 フィンランド総選挙、与党・中央党がきん差で勝利] ロイター・ジャパン 2011年3月19日閲覧</ref>。 * 3月19日 - [[満月]]となった[[月]]が[[地球]]から35万6577kmまで接近し、[[満月#スーパームーン|スーパームーン]]が観測された。19年ぶりの最接近となる。 === 4月 === * 4月2日 - 英領北アイルランド中部[[オマー]]で車の下に仕掛けられた爆弾が爆発し警官1人が死亡。オマーでは1998年に[[リアルIRA]]によって複数の爆弾テロが起こされている。 * 4月11日 - [[ベラルーシ]]の首都[[ミンスク]]の地下鉄駅にて仕掛けられた爆弾が爆発し市民15人が死亡、外国人を含む204人が負傷。 * 4月12日 - 東京電力福島第一原発事故の[[国際原子力事象評価尺度|国際評価]]をレベル7に引き上げ。旧ソ連・[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]と同レベル評価。 * 4月15日 - RIRのうち、[[APNIC]]の管理するIPv4アドレスが最初に枯渇した([[IPアドレス枯渇問題]])。 * 4月20日 - キューバの[[フィデル・カストロ]]前国家評議会議長が[[キューバ共産党]]第一書記から正式に退任すると発表。これによりカストロ前議長は全ての公職から引退することとなった。 * 4月21日 - [[PlayStation Network]]にて世界規模の接続障害が発生。4月27日には、システムの[[クラッキング (コンピュータ)|不正侵入]]によって引き起こされた、およそ7700万件にも及ぶ過去最悪の[[個人情報流出事件]]が発覚する([[PlayStation Network個人情報流出事件|PSN個人情報流出事件]])。 * 4月29日 - 英[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム王子]]の[[ウィリアム王子とキャサリン・ミドルトンの婚礼|結婚式]]。一般家庭出身の[[キャサリン (プリンセス・オブ・ウェールズ)|キャサリン・ミドルトン]]とロンドンの[[ウェストミンスター寺院]]で行われた。 === 5月 === * 5月2日 - 国際テロ組織[[アル・カーイダ]]の最高指導者:[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ウサマ・ビンラディン]]容疑者がアメリカ合衆国の諜報機関により、[[パキスタン]]の[[アボッターバード]]にて[[ウサーマ・ビン・ラーディンの死|銃撃戦の末に殺害]]されたとCNNテレビが報道した<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110502/mds11050212370003-n1.htm|title=米諜報機関が殺害 遺体を確保 パキスタン首都で家族と一緒…|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110505063457/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110502/mds11050212370003-n1.htm|archivedate=2011-05-05}}</ref>。 * 5月6日 - [[イギリス]]で選挙制度改革の是非を問う国民投票が施行され、『制度改革に反対』とする票が67.9%、『制度改革に賛成』とする票が32.1%となった。この結果、イギリスの選挙制度改革は大差で否決され、現行の制度が維持される可能性が強まった<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110507/erp11050718080008-n1.htm|title=英国民投票 選挙制度改革を大差で否決 「連立政権のわかりにくさ」を嫌気|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110801065714/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110507/erp11050718080008-n1.htm|archivedate=2011-08-01}}</ref>。 * 5月12日 - [[東京都]][[立川市]]で[[立川6億円強奪事件]]が発生。 * 5月21日 - マイクロソフトが、次期ホームサーバー用OS[[Microsoft Windows Home Server 2011]]をリリース。 * 5月26日 - [[フランス]]:[[ドーヴィル]]で[[第37回主要国首脳会議]]が開催された。 === 6月 === * 6月4日 - [[チリ]]南部の[[プジェウエ=コルドン・カウジェ火山群|プジェウエ火山]]が半世紀ぶりに噴火。南アメリカ、ニュージーランド、オーストラリア全体で航空交通のキャンセルを引き起こし、3000人以上が避難を余儀なくされる。 * 6月12日 - [[トルコ]]総選挙。 * 6月16日 - 世界各地で[[皆既月食]]が起こる<ref>{{cite news|url=http://www.cnn.co.jp/fringe/30003089.html|title=世界の広い範囲でロングバージョンの皆既月食|publisher=CNN.co.jp|date=2011-06-16|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110619200027/http://www.cnn.co.jp/fringe/30003089.html|archivedate=2011-06-19}}</ref>。 * 6月26日〜7月17日 - [[ドイツ]]で[[2011 FIFA女子ワールドカップ]]が開催され、[[サッカー日本女子代表]]がアジアのチームでは男女を通じて初優勝を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110718/scr11071806360016-n1.htm|title=なでしこジャパンが世界一 最優秀選手は沢|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110718155318/http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110718/scr11071806360016-n1.htm|archivedate=2011-07-18}}</ref>。 * 6月29日 - [[米国]]の[[ネバダ州]]で、[[ロボットカー|自動運転車]]の公道走行を受け入れる法案が可決した。(詳細は「[[Google ドライバーレスカー]]」を参照)。 * 6月30日 - [[中華人民共和国]]の[[北京市]]〜[[上海市]]を結ぶ[[中華人民共和国の高速鉄道|高速鉄道]]「[[京滬高速鉄道]]」が営業運転を開始。 * 6月30日 - [[西気東輸]]二線パイプラインの[[寧夏回族自治区|寧夏]][[中衛市|中衛]]から[[広州市|広州]]までの区間が完成し主幹線が完成する。 === 7月 === * 7月1日 - [[中華人民共和国]]では『[[国防動員法]]』が正式発効。この日は[[中国共産党]]創設90周年。 * 7月1日〜24日 - [[アルゼンチン]]で[[コパ・アメリカ2011]](サッカー南米選手権)開催。[[ウルグアイ]]が15回目の優勝<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.daily.co.jp/soccer/2011/07/26/0004305250.shtml|title=ウルグアイが15度目V!フォルラン2発|publisher=デイリースポーツ|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110725234441/http://www.daily.co.jp/soccer/2011/07/26/0004305250.shtml|archivedate=2011-07-25}}</ref>。 * 7月3日 - [[タイ王国]]で総選挙を施行し、野党の[[タイ貢献党]]が第一党となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110703/asi11070318230004-n1.htm|title=【タイ総選挙】タクシン派が過半数 初の女性首相誕生へ 元首相復権も|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110711230323/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110703/asi11070318230004-n1.htm|archivedate=2011-07-11}}</ref>。 * 7月6日 - [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[ダーバン]]で開催される[[国際オリンピック委員会総会]]にて[[平昌オリンピック|2018年冬季オリンピック]]開催地が決定。[[ミュンヘン]](ドイツ)、[[アヌシー]]([[フランス]])、[[平昌郡|平昌]]([[大韓民国|韓国]])の3候補地から、平昌が選ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110707/oth11070700210000-n1.htm|title=2018年冬季五輪は韓国・平昌|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110710041137/http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110707/oth11070700210000-n1.htm|archivedate=2011-07-10}}</ref>。 * 7月8日〜7月21日 - [[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・アトランティス|アトランティス]]が最終飛行([[STS-135]])、スペースシャトルが全機退役。 * 7月9日 - [[スーダン]]の南部が[[南スーダン|南スーダン共和国]]として分離独立<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110709/mds11070920310012-n1.htm|title=南スーダン独立宣言、南北関係進展ないまま船出|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110711231320/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110709/mds11070920310012-n1.htm|archivedate=2011-07-11}}</ref>。 * 7月15日 - [[アフガニスタン]]の在留米軍の撤収開始。 * 7月20日 - [[Apple]]が[[Mac OS X v10.6]] (Snow Leopard)の次期OS、[[Mac OS X Lion]] を[[Mac App Store]]にて一般ユーザー向けにリリース。 * 7月22日 - [[ノルウェー]]の首都[[オスロ]]にある首相府で爆破テロ事件発生<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110722-OYT1T01126.htm|title=ノルウェー首相府に爆弾テロ、17人死傷|work=YOMIURI ONLINE|newspaper=[[読売新聞]]|date=2011-07-23|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110724022310/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110722-OYT1T01126.htm|archivedate=2011-07-24}}</ref>、ウトヤ島でも銃乱射事件が発生<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110723-OYT1T00186.htm|title=ノルウェーで爆弾テロに続き銃乱射、10人死亡|work=YOMIURI ONLINE|newspaper=[[読売新聞]]|date=2011-07-23|accessdate=2011-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110724022310/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110722-OYT1T01126.htm|archivedate=2011-07-24}}</ref>([[ノルウェー連続テロ事件]])。 * 7月23日 - [[中華人民共和国]][[高速鉄道]]の[[杭州市|杭州]] - [[福州市|福州]]間で車両の脱線・追突事故が発生し、40人が死亡([[2011年温州市鉄道衝突脱線事故]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110724/chn11072401580006-n1.htm|title=【中国高速脱線】浙江省で高速鉄道2両が橋から落下 「新幹線型」車両、脱線事故か|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110723220217/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110724/chn11072401580006-n1.htm|archivedate=2011-07-23}}</ref>。 * 7月24日 - 日本のテレビ放送において、[[東日本大震災]]で大きな被害を受けた[[岩手県|岩手]]・[[福島県|福島]]・[[宮城県|宮城]]の3県(被災3県)を除く44都道府県で、[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタルテレビ放送]]へ全面移行。同日に日本の[[日本における衛星放送#アナログによる衛星放送|アナログBS放送]]も停波した。被災3県については、8か月遅れとなる[[2012年]][[3月31日]]に延期、この日をもって被災3県の[[アナログ放送]]についても停波し、日本全国で[[日本の地上デジタルテレビ放送|完全デジタル化]]が完了した。これで、アナログ放送は'''完全に'''廃止され、約60年の歴史に幕を閉じた。 * 7月28日 - 大韓民国[[済州特別自治道]]のテレビ放送において、[[KBS済州放送総局|KBS第一テレビジョン]]の[[地上デジタルテレビ放送]]への移行をもってアナログ放送廃止。 * 7月29日 - [[ベネズエラ]]で[[ラ米・カリブ首脳会議]]開催。「[[ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体]]」([[:en:Community of Latin American and Caribbean States]])の結成を宣言。 === 8月 === * 8月4日 - ニューヨーク株式市場の平均株価が634ドル急落し、1万800ドル台に。 * 8月6日 - [[ロンドン]]北部で黒人男性が警官に射殺された事件が起こり、これをきっかけに暴動に発展。([[イギリス暴動]])<ref>{{Cite web|和書 |date=2011年8月7日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2818622 |title=警官による男性射殺、ロンドン北部で暴動に 放火や略奪も |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2020-10-15}}</ref> * 8月15日 - [[本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星]]が[[地球]]に最接近。 * 8月19日 - ニューヨーク外国為替市場で円が1ドル=75円台後半を記録。史上最高値を5か月ぶりに更新。 * 8月23日 - [[内戦]]状態に陥っていた[[リビア]]で、[[リビア国民評議会|国民評議会]]を筆頭にした反体制派陣営による軍が首都[[トリポリ]]を制圧し、40年以上の長期政権となっていた[[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ]]政権が事実上の崩壊を迎えた(詳細は「[[2011年リビア内戦]]」を参照)。 * 8月24日 - [[バージニア地震]]発生、M5.8。[[バージニア州]]で起きた地震としては史上最大規模だった。 * 8月26日 - [[菅直人]][[内閣総理大臣|総理]]が内閣総理大臣と民主党代表の職を辞することを表明。 * 8月27日 - [[シンガポール]]大統領選挙。与党の支持を実質受けた[[トニー・タン]]が得票率35%、7000票余りの差で勝利。 * 8月29日 - オランダで[[2011年デジノター事件]]が発生。[[不正アクセス]]により、偽の[[Transport Layer Security|SSL]]証明書が大量に発行された。 === 9月 === * 9月2日 - 日本で[[野田佳彦]]を第95代[[内閣総理大臣]]とする[[野田内閣]]が発足する。 * 9月17日 - [[貧困]]と[[格差社会]]の解決を求める[[ウォール街]]の一角の占拠が開始される(「[[ウォール街を占拠せよ]]」)。 * 9月18日 - [[インド]]・[[ネパール]]国境でマグニチュード6.9の[[インド北東部地震|地震]]、死者100人。(「[[インド北東部地震]]」) === 10月 === * 10月5日 - 元[[Apple]] CEO、[[スティーブ・ジョブズ]]、膵臓腫瘍の[[転移 (医学)|転移]]による[[呼吸不全|呼吸停止]]により妻や親族に看取られながらパロアルトの自宅で死去<ref name="reuter_death_datail">[https://jp.reuters.com/article/technologyNews/idJPJAPAN-23563020111011 ジョブズ氏の死因は膵臓腫瘍による呼吸停止、妻が看取る | テクノロジーニュース | Reuters]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2011/10/05Statement-by-Apples-Board-of-Directors/|title=Apple取締役会による声明|publisher=apple|accessdate=2020-09-29}}</ref>。{{没年齢|1955|2|24|2011|10|5}}。 * 10月11日 - [[大津市中2いじめ自殺事件]]: 日本の[[滋賀県]][[大津市]]で[[大津市立皇子山中学校|市立皇子山中学校]]に通っていた2年生の男子生徒が[[いじめ]]を苦に自殺する事件が発生、日本でいじめが社会問題化する契機となる。 * 10月15日 - 「[[ウォール街を占拠せよ]]」の呼びかけに応えて世界中で「占拠」が行われた。 * 10月20日 - [[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国]]最高指導者であった[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]が自身のお膝元であった[[スルト (リビア)|シルト]]にて[[リビア国民評議会]]軍の攻勢を受けて拘束され、その際に[[ムアンマル・アル=カッザーフィーの死|死亡]]したことが確認された<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/111020/mds11102023070008-n1.htm|title=【カダフィ大佐死亡】国民評議会副議長が確認 リビア全土解放を宣言へ|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111020144614/http://sankei.jp.msn.com/world/news/111020/mds11102023070008-n1.htm|archivedate=2011-10-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20111021k0000m030157000c.html|title=リビア:カダフィ大佐 故郷のシルトで最後を迎える|publisher=毎日新聞|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111023182841/http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20111021k0000m030157000c.html|archivedate=2011-10-23}}</ref>。また、シルト制圧により国民評議会が全土を掌握。 * 10月23日 ** [[ラグビーワールドカップ2011|2011 IRBワールドカップ]]決勝が[[ニュージーランド]]・[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]の[[イーデン・パーク]]で行われる。 ** トルコ東部のワン近郊でマグニチュード7.1の地震が発生。(詳細は「[[トルコ東部地震 (2011年10月)]]」を参照) ** [[オルフェーヴル]]が[[中央競馬クラシック三冠]]達成 * 10月31日 ** 外国為替市場で1ドル=75円31銭を付け、ドルの最安値を記録。その後、[[為替介入]]で79円55銭まで下落したが、円高の勢いは続いた。 ** 国連の推計で[[世界人口]]が70億人に達する<ref>{{Cite web|和書|url=https://tokyo.unfpa.org/ja/publications/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%99%BD%E6%9B%B8-2011|title=世界人口白書 2011|publisher=国連人口基金東京事務所|accessdate=2020-09-29}}</ref>。 * 日付不明 - [[タイ王国]]において過去50年間で最悪の水害が発生し、国土の3分の1が水没、8割が被災した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011101719300789/|title=タイ洪水支援へ街頭募金 AMDA|publisher=山陽新聞|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111018133505/http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011101719300789/|archivedate=2011-10-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/world/news/20111020ddm007030106000c.html|title=タイ洪水:100万人に避難準備指示 「浸水、どこまで」高まる不安|publisher=毎日新聞|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111022143233/http://mainichi.jp/select/world/news/20111020ddm007030106000c.html|archivedate=2011-10-22}}</ref><ref>[https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-23648820111016?feedType=RSS&feedName=worldNews タイ洪水で工業団地も閉鎖 バンコクは大きな被害回避へ] ロイター、2011年10月17日</ref>。水没は工業団地に及び、現地の複数の日本企業の工場が操業停止になっている<ref>[http://mainichi.jp/select/biz/news/20111019ddm002030064000c.html タイ洪水:最大工業団地、9割冠水 「成長率減」 日本企業、供給遅れも] 毎日新聞、2011年10月19日{{リンク切れ|date=2020年9月}}</ref>。 === 11月 === * 11月3日・4日 - フランス:[[カンヌ]]で[[G20]]首脳会議。コミュニケと最終宣言、行動計画が発表された。 * 11月5日 - [[ギリシャ]]国会は、[[ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ|パパンドレウ]]内閣の信任投票を行い、信任多数(153票で過半数をわずか上回った)で信任した。 * 11月6日 - [[ニカラグア]]で大統領・国会議員選挙が行われた。同日、オクラホマ州でM5.6の地震、州内での史上最大規模。 * 11月8日 ** [[イタリア]]の[[シルヴィオ・ベルルスコーニ|ベルルスコーニ]]首相が辞任を表明した。下院での決算関連法案の採決で過半数を獲得できなかったことを受けての辞任表明。 ** 23時28分(UTC)に、直径400mの308635番[[小惑星]][[(308635) 2005 YU55|2005 YU<sub>55</sub>]]が地球から32万5000kmのところを通過。観測史上初めて、直径が100mを超える小惑星が月の軌道の内側に入り込んだ。 * 11月11日 - 「1」が6つ並ぶ日。11時11分11秒に[[デジタル時計]]と記念撮影する人などが世界各地で見られた。 * 11月12日 - [[ホノルル]]で[[アジア太平洋経済協力会議]](APEC)首脳会議が開かれ、13日に「ホノルル宣言」を採択し閉会した。 * 11月17日 ** 17〜19日まで第19回[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)関連首脳会議がインドネシア・[[ヌサドゥア]]で開かれる。 ** アメリカ大統領、オーストラリア連邦議会でアジア太平洋地域を軍事的最優先に位置づける演説を行った。 * 11月18日 - 「[[気候変動に関する政府間パネル]]」(IPCC)は、異常気象などの「極端な現象」に関する特別報告を発表した。 ** [[マルクス・ペルソン]](Notch)と[[Mojang Studios]]の社員が世界的[[オープンワールド|サンドボックス]][[コンピュータゲーム|ビデオゲーム]]、[[Minecraft]]を正式リリース * 11月23日 - [[イエメン]]の[[アリー・アブドッラー・サーレハ|サーレハ]]大統領が[[サウジアラビア]]の[[リヤド]]で、30日以内に大統領権限を委譲することや90日以内に大統領選挙を行うことなどが盛り込まれた[[湾岸協力会議]](GCC)や欧米の調停案に署名した。 * 11月28日 - [[エジプト]]人民議会(下院に相当)選挙の第1回投票が、カイロ、アレクサンドリアなどの大都市を中心に開始された。 === 12月 === * 12月4日 - [[ロシア]]下院選挙。 * 12月10日 - [[2011年12月10日の月食|皆既月食が観測される]]。 * 12月12日 - [[欧州合同原子核研究機構]](CERN)は[[LHC]]の実験データの中に[[ヒッグス粒子]]と示唆される[[粒子]]のデータがあったことを発表した。 * 12月14日 - イギリスで史上最大の[[2011年発覚イギリス競馬八百長事件|競馬八百長事件]]が2年前の2009年に行われていたことが発覚。 * 12月17日 - [[朝鮮民主主義人民共和国]]の最高指導者[[金正日]]総書記が死去。 * 12月18日 - 年内の完全撤収を予定していた[[イラク]]駐留米軍がこの日撤退を完了。 * 12月29日 - [[サモア]]が自国の標準時を[[UTC-11]]から[[UTC+13]]に変更([[日付変更線]]の東側から西側に移動)、同日午後11時59分からの日付変更時に翌30日の24時間分を飛ばして31日午前0時となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/111230/asi11123018290003-n1.htm|title=サモアが標準時変更作戦 日付変更線の東→西に 驚きの1日分“消去”|publisher=msn産経ニュース|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111230220915/http://sankei.jp.msn.com/world/news/111230/asi11123018290003-n1.htm|archivedate=2011-12-30}}</ref>。 * 12月30日 - [[ユーロ]]対[[円相場]]が2001年6月初旬以来の一時100円割れ。 == 周年 == <!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください。 --> * 4月12日 - [[アメリカ南北戦争]]開戦から150年が経ち、戦争終結150周年となるまでの5年間、様々なイベントが催される。 * 9月11日 - [[アメリカ同時多発テロ事件]]から10年<ref>{{Cite web|和書 |date=2011年9月12日 |url=https://news.ntv.co.jp/category/international/190441 |title=同時多発テロから10年 NYで追悼式典 |publisher=日テレNEWS24 |accessdate=2019-04-08}}</ref>。 * 10月10日 - [[辛亥革命]]勃発から100年<ref>{{Cite web|和書 |date=2011年10月11日 |url=http://j.people.com.cn/94638/94659/7613915.html |title=南京の若者が孫中山を偲ぶパフォーマンス |publisher=人民網日本語版 |accessdate=2019-04-08}}</ref>。 <!-- 日本ローカル? * [[12月1日]] - [[湘南新宿ライン]]運行開始10周年 --> * 12月8日 - [[真珠湾攻撃]]から70年<ref>{{Cite web|和書 |date=2011年12月9日 |url=http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-12/09/content_24112630.htm |title=真珠湾攻撃70周年、日本の再認識は低調 |publisher=中国網 日本語 |accessdate=2019-04-08}}</ref>。 * 12月14日 - [[ロアール・アムンセン]]による人類初の[[南極点]]到達から100年。 * 12月25日 - [[ソビエト連邦の崩壊]]から20年。 == イベント・行事 == === 国際年 === {{seealso|国際年}} * 国際森林年(International Year of Forests) * [[世界化学年]](International Year of Chemistry) * アフリカ系の人々のための国際年(International Year for People of African Descent) * 世界獣医年(World Veterinary Year) == 芸術・文化・ファッション == === 世相 === * [[アラブ世界]]において長期政権に対する[[レジスタンス運動|反政府運動]]が前年末から継続。この年に入って実際に[[独裁政権]]が打倒される[[民主化ドミノ]]にも発展する([[アラブの春]])。 * [[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])によって引き起こされた日本の[[福島第一原子力発電所事故|福島第一原発事故]]により、世界各国で[[原子力発電所]]の[[廃炉|廃止]]・継続議論が活発化した。 * 2010年に露呈した[[ギリシャの経済#ギリシャ経済危機 (2010年-)|ギリシャ財政危機]]から続く、[[欧州]]における[[経済]]・[[債務]]先行き不安の連鎖は今年に入っても解決の目処が立たず、さらに[[ユーロ圏]]第三位の[[イタリア]]情勢が深刻化するなどユーロ圏の根本に関わる大きな問題へと発展する。 === スポーツ === {{see|2011年のスポーツ}} === 音楽 === {{see|2011年の音楽}} === 映画 === {{main|2011年の映画}} * [[アーティスト (映画)|アーティスト]] * [[宇宙人ポール]] * [[裏切りのサーカス]] * [[X-MEN:ファースト・ジェネレーション]] * [[最強のふたり]] * [[サニー 永遠の仲間たち]] * [[ザ・レイド]] * [[セデック・バレ]] * [[タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密]] * [[ツリー・オブ・ライフ (映画)|ツリー・オブ・ライフ]] * [[ドライヴ]] * [[ドラゴン・タトゥーの女]] * [[ニーチェの馬]] * [[ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2]] * [[ヒューゴの不思議な発明]] * [[別離 (2011年の映画)|別離]] * [[マネーボール (映画)|マネーボール]] * [[ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル]] * [[ミッドナイト・イン・パリ]] * [[ランゴ]] <!--* [[カーズ2]]--> <!--* [[くまのプーさん (2011年の映画)|くまのプーさん]]--> <!--* [[カンフー・パンダ2]]--> <!--* [[アーサー・クリスマスの大冒険]]--> <!--* [[スマーフ (映画)|スマーフ]]--> <!--* [[長ぐつをはいたネコ (2011年の映画)|長ぐつをはいたネコ]]--> <!--* [[ハッピー フィート2 踊るペンギンレスキュー隊]]--> <!--* [[ブルー 初めての空へ]]--> === 文学 === {{see|2011年の文学}} === ゲーム === [[ファイル:Nintendo-3DS-AquaOpen.png|thumb|200px|ニンテンドー3DS]] [[ファイル:PlayStation-Vita-1101-FL.png|thumb|220px|PlayStation Vita]] {{See also|Category:2011年のコンピュータゲーム}} * 2月26日 - [[任天堂]]が[[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]「'''[[ニンテンドー3DS]]'''」を日本で発売。[[欧米]]や[[オーストラリア]]では翌3月に発売されている。 * 4月1日 - [[ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ|ソニー・エリクソン]]がイギリスなどで、世界初の [[PlayStation Mobile|PlayStation Certified]] スマートフォン「[[SO-01D|Xperia Play]]」を発売。 * 7月15日 - 任天堂が[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]初登場作品となる「[[ドンキーコング]]」を発売してから30年目を迎えた。 * 7月28日 - 任天堂が各国でのニンテンドー3DSの価格改定を発表。日本では8月11日に25000円から15000円、アメリカでは8月12日に$249.99から$169.99、など発売から半年足らずで前例のない大幅値下げ。 * 9月28日 - 任天堂が[[ゼルダの伝説シリーズ]]25周年記念として、[[ニンテンドーDSiウェア]]『[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣#ゼルダの伝説 4つの剣 25周年記念エディション|ゼルダの伝説 4つの剣 25周年記念エディション]]』を配信開始。 * 11月8日 - [[アクティビジョン]]が[[PlayStation 3|PS3]]・[[Xbox 360]]・PC用ソフト『[[コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア3]]』を発売。発売から24時間で北米・イギリスで合わせて650万本以上を売上。 * 11月18日 - [[Mojang]]がPC用ソフト『[[Minecraft]]』正式版をリリース。 * 12月1日 - [[セガ]]が[[ソニックシリーズ|ソニック]]20周年記念作品『[[ソニック ジェネレーションズ]]』を発売。 * 12月17日 - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]が携帯型ゲーム機「'''[[PlayStation Vita]]'''」を日本で発売。[[北アメリカ|北米]]や[[ヨーロッパ]]などでは翌年に発売されている。 == 誕生 == {{更新|date=2022年11月|section=1}}{{see also|2011年の日本#誕生|Category:2011年生}} === 1月 === * [[1月5日]] - [[稲垣来泉]]、[[子役]] * [[1月8日]] - [[ヴィンセント (デンマーク王子)|ヴィンセント]]、デンマークの王子 * 1月8日 - [[ヨセフィーネ (デンマーク王女)|ヨセフィーネ]]、デンマークの王女 * [[1月15日]] - [[大野遥斗]]、子役 * [[1月18日]] - [[志水透哉]]、子役 === 2月 === * [[2月9日]] - [[松田芹香]]、子役 * [[2月22日]] -[[中村勘太郎 (3代目)|三代目中村勘太郎]]、歌舞伎役者 * [[2月28日]] - [[倉持春希]]、子役 === 3月 === * [[3月1日]] - [[田中絆菜]]、子役 * [[3月2日]] - [[世古恋羽]]、[[女性アイドル]]、[[ファッションモデル]]、[[RepiDoll]]メンバー * [[3月18日]] - [[清水美怜]]、子役 === 4月 === * [[4月8日]] - [[盛永晶月]]、子役、[[タレント]] * [[4月25日]] - [[小林優仁]]、子役、[[ミュージシャン]]、[[YouTuber]] === 5月 === * [[5月9日]] - [[野澤しおり]]、子役 * [[5月31日]] - [[大塩優芽]]、子役、モデル === 6月 === * [[6月14日]] - [[竹内一加]]、子役 * [[6月16日]] - [[大沢一菜]]、俳優 * [[6月20日]] - [[笹木祐良]]、子役 * [[6月21日]] - [[山田羽久利]]、子役 * 6月21日 - [[佐々木みゆ]]、子役 * [[6月24日]] - [[HIMARI (ヴァイオリニスト)|HIMARI]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[6月26日]] - [[SOTARO]]、[[歌手]] === 7月 === * [[7月3日]] - [[中田理智]]、子役 * [[7月23日]] - [[森島律斗]]、子役 * [[7月25日]] - [[市川ぼたん (4代目)|堀越麗禾(四代目市川ぼたん)]]、[[舞踊家]]、女優 === 8月 === * [[8月3日]] - [[川北れん]]、子役 === 9月 === * [[9月1日]] - [[大野琉功]]、子役 * [[9月10日]] - [[柊木陽太]]、子役 * [[9月15日]] - [[竹野谷咲]]、子役 * 9月15日 - [[潤浩]]、子役 * [[9月25日]] - [[毎田暖乃]]、子役 * [[9月27日]] - [[庄野凛]]、子役 === 10月 === * [[10月8日]] - [[早坂ひらら]]、子役 * 10月8日 - [[嶺岸煌桜]]、子役 * [[10月13日]] - [[岡本望来]]、子役 === 11月 === * [[11月8日]] - [[チョン・ヒョンジュン]]、子役 * [[11月22日]] - [[前田虎徹]]、子役 === 12月 === * [[12月3日]] - [[青木遥]]、[[声優]] * [[12月9日]] - [[米村莉子]]、子役 === 日付不詳 === * [[Alyssa T]]、子役 == 人物以外 == * 2月25日 - [[ヌーヴォレコルト]]、競走馬 * 3月11日 - [[トーホウジャッカル]]、競走馬 * 3月14日 - [[トーセンスターダム]]、競走馬 == 死去 == {{See|訃報 2011年}} == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]]:[[ソール・パールマッター]]、[[ブライアン・P・シュミット]]、[[アダム・リース]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]]:[[ダニエル・シェヒトマン]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]]:[[ブルース・ボイトラー]]、[[ジュール・ホフマン]]、[[ラルフ・スタインマン]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]]:[[トーマス・トランストロンメル]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]]:[[エレン・ジョンソン・サーリーフ]]、[[レイマ・ボウィ]]、[[タワックル・カルマン]] * [[ノーベル経済学賞|経済学賞]]:[[トーマス・サージェント]]、[[クリストファー・シムズ]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年2011|date=2012年1月}} === 映画 === * 4月4日 - のび太が無断で注文した「ミニドラ」が、のび太の悪筆のせいでこの日の野比家に届いてしまう。(『[[ミニドラSOS!!]]』) * 不明 - ニューヨークをはじめとする北アメリカ大陸東部一帯を大地震が直撃し、大規模な地盤沈下が発生。それから1週間後には南北アメリカ大陸が沈没する。その後は中国大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸といった日本列島以外のほとんどの陸地が沈没してしまい、生き残った各国首脳を含む多くの難民が世界中から日本へ殺到する。(『[[日本以外全部沈没]]』) === 特撮 === * 2月20日 - 五色田功・五色田美都子がトジテンドによって誘拐される。(『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』) === ドラマ === * 4月22日 - リバー・ソングが歴史の固定ポイントである[[ドクター (ドクター・フー)|ドクター]]殺害を阻止したため時空間が崩壊、この日が永遠に続き歴史上のすべての事象が同時進行することとなる。(『[[ドクター・フー]]』シリーズ6) * 12月25日 - 「クリスマス警官射殺事件」発生。[[12月30日|同月30日]]には同じ犯人により誘拐事件発生。警視庁が警察庁警備局の指揮、監督のもと事件の捜査にあたる。(『[[相棒]]』season10元日スペシャル) * 不明 - ジャック・ハークネスが不死身でなくなる。一方でジャック以外の全人類が不死身になり、地球は大混乱に陥る。(『[[秘密情報部トーチウッド]]』シリーズ4) * 不明 - ロンドン地下に潜伏していた[[サイバーマン]]がサイバーキングを新たに作り、地上の征服を目論む。(『[[ドクター・フー]]』シリーズ6) === アニメ === *11月30日 - 天才子役である星川リリィ(本名: 豪正雄)が、精神的ショックによる心臓麻痺のため死去(死因は過労死)。享年12。(『[[ゾンビランドサガ]]』)<ref>{{Cite web|url=https://zombielandsaga.com/character/7.php|title=CHARACTER|work=TVアニメ「ゾンビランドサガ リベンジ」公式サイト|accessdate=2021-04-25}}</ref> *[[デストロン]]破壊大帝[[ガルバトロン]]が地球の氷山で[[サイバトロン]]ヘッドマスターに敗北する。(『[[トランスフォーマー ザ☆ヘッドマスターズ]]』) === 漫画 === * 3月 - 大震災によりM県S市杜王町の海岸から内陸へ数百mの地点で『壁の目』が出現。『壁の目』付近の地中から出てきた身元不明の少年を広瀬康穂が発見し「東方定助」と命名する。(『[[ジョジョリオン|ジョジョの奇妙な冒険 Part8 ジョジョリオン]]』) * 11月 - [[空条徐倫]]、[[空条承太郎]]を誘き寄せるプッチ神父の策略により、「州立グリーン・ドルフィン・ストリート重警備刑務所」(略称「G.D.st刑務所」、通称「水族館」)に収監される。(『[[ストーンオーシャン|ジョジョの奇妙な冒険第6部ストーンオーシャン]])』) === ゲーム === * 2月 - 東スラブ共和国の内戦が終結。米露合同の暫定政府が樹立。(『[[バイオハザード ダムネーション]]』) * 3月 - [[海上都市]]「セントラルアイランド」にて大地震が発生。地震発生から3日後、セントラルアイランドは完全に水没。(『[[絶体絶命都市3 -壊れゆく街と彼女の歌-]]』) * 6月 - アメリカで行われたショーのカンファレンスでアッソルートの[[コンセプトカー]]「プロメッサ」が登場。復活がアナウンスされ、半年後に市販バージョン、レースバージョンが開発される。(『[[リッジレーサー (PlayStation Vita)|リッジレーサー]]』) * 不明 - 香港の投資会社 ジーファが自動車会社としてのジーファを創設する。(『リッジレーサー』) * 不明 - 米日露合同の「火星有人探査計画」が行われ、ジョナサン・イングラムら5名の宇宙飛行士が人類初の[[火星]]着陸を成功させる。(『[[ポリスノーツ]]』)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.konami.jp/gs/game/policenauts/charactor/poli-jona.html|title=JONATHAN INGRAM ジョナサン・イングラム|publisher=コナミ|accessdate=2020-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110829192230/http://www.konami.jp/gs/game/policenauts/charactor/poli-jona.html|archivedate=2011-08-29}}</ref> === 小説 === * 4月 - 4月2日、[[北朝鮮]]から侵入してきた「高麗遠征軍」を名乗る武装コマンド部隊が[[福岡市]]一帯を占領、[[日本]]からの独立を宣言する。しかし4月11日、何者かの破壊工作によって遠征軍は全滅し、その目論見は失敗に終わる。(『[[半島を出よ]]』) * 8月30日 - [[アドルフ・ヒトラー]]が[[ベルリン]]市内の空き地で復活する。(『[[帰ってきたヒトラー]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ティムール・ヴェルメシュ|authorlink=ティムール・ヴェルメシュ |title = 帰ってきたヒトラー 上 |publisher = [[河出書房新社]] |year = 2016 |pages = 14-28 |isbn = 978-4-309-46422-0}}</ref> * \/11月 - ズッコケ三人組たちのかつての恩師である[[ズッコケ三人組|宅和源太郎]]が[[脳溢血]]のため死去。享年88。(『[[ズッコケ中年三人組|ズッコケ中年三人組Age46]]』) * 不明 - [[アゼルバイジャン共和国]]の[[認知科学]]者イムラン・イスマイロフらの実験により、被験者全員が[[超能力]]を獲得。その後、超能力者の数が世界の総人口の0.3%にまで増加。(『[[新世界より (小説)|新世界より]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 貴志祐介|authorlink=貴志祐介 |title = 新世界より(上) |publisher = [[講談社]] |year = 2011 |pages = 229-231 |isbn = 978-4-06-276853-5}}</ref> * 不明 - 北部合衆国のアマチュア天文家アレン・チャンドリスが、自作した[[電波望遠鏡]]で[[カシオペア座]]方面から放たれた[[宇宙人|地球外知性体]]からのものと思われる信号を傍受する。(『{{仮リンク|アースライズ|en|The Trigon Disunity}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= マイクル・P・キュービー=マクダウエル|authorlink=マイクル・P・キュービー=マクダウエル |title = アースライズ 上 |publisher = [[東京創元社]] |year = 1991 |pages = 27-51 |isbn = 978-4-488-70101-7}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = マイクル・P・キュービー=マクダウエル |title = アースライズ 下 |publisher = [[東京創元社]] |year = 1991 |pages = 313-315 |isbn = 978-4-488-70101-7}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commons&cat|2011|2011}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] * {{日本語版にない記事リンク|2011年における世界各地の指導者一覧|en|List of state leaders in 2011}} {{十年紀と各年|世紀=21|年代=2000}} {{Navboxes | title = 2011年の各国 | list1 = {{各年のアメリカ|2011|unit=1||List=1}} {{各年のヨーロッパ|2011|unit=1||List=1}} {{各年のアフリカ|2011|unit=1||List=1}} {{各年のアジア|2011|unit=1||List=1}} {{各年のオセアニア|2011|unit=1||List=1}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:2011ねん}} [[Category:2011年|*]]
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2050年代
2050年代(にせんごじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2050年から2059年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた2050年代について記載する。
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2050年代(にせんごじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2050年から2059年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた2050年代について記載する。
{{Decadebox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 21 | 年代 = 2050 | 年 = 2050 }} '''2050年代'''(にせんごじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])2050年から2059年までの10年間を指す[[十年紀]]。この項目では、国際的な視点に基づいた2050年代について記載する。 == 予定・予測されるできごと == * [[国際連合大学]]「環境と人間の安全保障研究所」によると、[[地球温暖化]]の影響により世界的に[[洪水]]の被害が深刻化し、2050年には[[2004年]]の2倍に当たる約20億人が大洪水の危険にさらされる。 * [[国立環境研究所]]などのチームは、南極上空で[[オゾン層]]の回復が進み、このころには[[オゾンホール]]ができなくなると予測している。 * 少子・高齢化により[[東南アジア諸国連合]]諸国にも[[社会の高齢化]]が到来。 === 2050年 === {{main|2050年}} * 第29回[[FIFAワールドカップ]]が開催予定。[[日本サッカー協会]]はこの大会を日本で開催し、さらに日本代表が優勝することを目標としている([[JFA2005年宣言]])<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.jfa.jp/about_jfa/dream/ | title=JFA 2005年宣言 | publisher=公益財団法人 日本サッカー協会 | accessdate=2023-07-30}}</ref>。一方、[[ロボカップ]]の目標として、この年に発達した[[人工知能]]を持つ人型[[ロボット]]チームがワールドカップ優勝チームに勝つことが提示されている。 * この頃には[[世界人口]]が97億人を超えている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=インドの人口 来年世界最多に 中国を上回る推計を国連が発表 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220712/k10013712811000.html |website=NHKニュース |date=2022-07-12 |access-date=2022-07-12 |last=日本放送協会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220713173556/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220712/k10013712811000.html |archivedate=2022-07-13}}</ref>一方で、年間の[[人口]]増加は750〜1500万人の規模と予測され、しだいに増加幅は縮小していく([[国際連合|国連]]の中位予測)。 * [[インド]]の人口は16億6800万人に達する<ref name=":0" />。 * [[ロシア連邦|ロシア]]の人口が1億人を切る<ref>[https://web.archive.org/web/20051214093911/http://www.geocities.jp/putniki/Newspapers/jinko.htm ロシアの人口問題]</ref>。ただし、2010年国連中位予測では1億2611.8万人であり、同予測における[[日本]]の予測人口(1億854.9万人)より1800万人程度多い<ref name="esa.un"/>。 * [[欧州連合]] (EU) はこの年までに[[温室効果ガス]]排出量の実質ゼロ([[脱炭素社会]])を目指している。また、日本も同目標を掲げることを[[菅義偉]]前首相が[[2020年]]10月の[[所信表明演説]]で宣言した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASNBP7R70NBPULFA038.html 温室効果ガス、2050年に実質ゼロ 首相が表明へ調整](朝日新聞デジタル 2020年10月21日)</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20201026/k00/00m/040/255000c 温室効果ガス排出ゼロ宣言 菅首相が達成時期を初めて明示した舞台裏](毎日新聞 2020年10月26日)</ref>。 === 2057年 === {{main|2057年}} * [[日本国有鉄道清算事業団|国鉄清算事業団]]による[[日本国有鉄道#国鉄長期債務償還とその破綻|償還スキーム破綻]]にともない、[[1998年]]に政府一般会計に繰り入れられ国民負担となった[[日本国有鉄道]]の政府保証付長期債務(総額24兆2000億円)の償還が終了する。 * [[2001年]]に宇宙へ向けて送信された「[[ティーンエイジ・メッセージ]]」が[[ふたご座37番星]]に到達<ref>{{cite web|url=http://www.cplire.ru/rus/ra&sr/VAK-2004.html |title=Передача и поиски разумных сигналов во Вселенной |publisher=Cplire.ru |date= |accessdate=2008-09-14}}</ref>。 === 2058年 === {{main|2058年}} * 第39回[[参議院議員通常選挙]] * 国連の世界人口推計2022年版では、この頃に[[地球]]の総人口が100億人に達すると予測している(中位推計)<ref name="tokyo.unfpa-wpp2022">[https://tokyo.unfpa.org/ja/news/wpp2022 世界人口は今年11月に80億人に:国連が「世界人口推計2022年版」を発表]([[国際連合人口基金|国連人口基金]]駐日事務所 2022年7月12日、2022年8月7日閲覧)</ref>。 * 国連の世界人口推計2019年版では、この頃に日本の人口が1億人を下回ると予測している(中位推計)<ref name="unic2019">[https://www.unic.or.jp/news_press/info/33789/ 世界人口の増大が鈍化、2050年に97億人に達した後、 2100年頃に110億人で頭打ちか:国連報告書(プレスリリース日本語訳)*世界人口推計2019年版データブックレット(日本語訳)をアップしました!]/{{PDF|[https://www.unic.or.jp/files/8dddc40715a7446dae4f070a4554c3e0.pdf 世界人口推計2019年版 データブックレット]}} - [[国連広報センター]] (2019年7月2日)</ref><ref name="asahi20190618">[https://www.asahi.com/articles/ASM6J7JHXM6JUHBI018.html 日本の人口、2100年に7500万人 減少見通し加速] - 朝日新聞デジタル (2019年6月18日)</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年代2050|date=2011年7月}} * [[2050年]] - [[1983年]]からウラシマ・エフェクトで少年(ウラシマ・リュウ)がタイムスリップ。(アニメ『[[未来警察ウラシマン]]』) * [[2050年]] - 西暦[[23世紀|2300年]]の未来から、エルダー星人が地球に侵攻。(アニメ『[[宇宙大帝ゴッドシグマ]]』) * [[2050年]]頃 - 異星人「ウエスター」の無敵艦隊が、[[オリオン座イプシロン星|アルニラム]]付近から太陽系方面へ向けて出発する。(小説『{{仮リンク|アグレッサー・シックス|en|Aggressor Six}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ウィル・マッカーシイ|authorlink=ウィル・マッカーシイ |title = アグレッサー・シックス |publisher = [[早川書房]] |year = 2005 |pages = 19,44-47,365 |isbn = 978-4-15-011507-4}}</ref> * [[2050年]]頃 - 銀河系の[[生物|非機械的知性]]を調査・矯正すべく、銀河系外に存在する惑星から[[更新世|約100万年前]]に旅立った[[人工知能|機械知性]]の「十字軍」が、[[わし座]]方面から地球近辺に到達する見込み。(小説『{{仮リンク|十字軍 (小説)|label = 十字軍|en|Crusade (short story)}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 太陽からの風 |publisher = 早川書房 |year = 1978 |pages = 183-189 |isbn = 978-4-15-010292-0}}</ref> * [[2052年]] - ゴドム人が地球に侵攻、占領。(アニメ『[[宇宙空母ブルーノア]]』) * [[2054年]] - 映画『[[ルネッサンス (映画)|ルネッサンス]]』の舞台。 * [[2054年]] - 劇場版アニメ『[[交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい]]』の舞台。 * [[2054年]] - 世界主要都市で核爆発が発生。([[水木楊]]の小説『2055年までの人類史』) * [[2055年]]頃 - 「アルタイル航宙」開始。[[2015年]]に地球を攻撃した結晶状生命体「クリスタロイド」の母星が存在するとみられる[[アルタイル]]系を攻撃すべく、旗艦「セレステ」以下6隻の航宙艦が遠征の途につく。(小説『[[キャッチワールド]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= クリス・ボイス|authorlink=:en:Chris Boyce |title = キャッチワールド |publisher = 早川書房 |year = 1981 |pages = 9-17,35-45,259,317 |isbn = 978-4-15-010431-3}}</ref> * [[2056年]] - [[初音島]]の「一年中枯れない[[サクラ|桜]]」が普通の桜になる。(ゲーム『[[D.C.II 〜ダ・カーポII〜]]』) * [[2057年]] - 映画『[[サンシャイン 2057]]』の舞台。 * [[2059年]] - アニメ『[[マクロスF]]』の舞台。 <!--* 初頭 - 未知の生命体「アラガミ」が出現し、地球上のあらゆる対象を捕食しだす。(ゲーム・アニメ『[[ゴッドイーター]]』)<ref>[http://anime.godeater.jp/keyword/ KEYWORD] - アニメ版『ゴッドイーター』公式サイト。2016年1月10日閲覧。</ref>--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{notelist2}} ===出典=== {{Reflist|refs= <ref name="esa.un">[http://esa.un.org/unpd/wpp/unpp/panel_population.htm UN. Department of economic and social affairs(世界人口動態)]</ref> }} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=3|世紀=21|年代=2000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:2050ねんたい}} [[Category:2050年代|*]]
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2012年
2012年(2012 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。平成24年。 この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。 AppleのMobileMeのサービスが終了した。 2012年は金環および皆既日食、金星の太陽面通過、木星食、金星食など食に関する天文現象の当たり年であった。以下は本年に観測された主な天文現象の一覧である。日付はUTCとなっている。
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2012年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。平成24年。 この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses||日本ローカルの事柄|2012年の日本}} {{年代ナビ|2012}} {{YearInTopic | 年 = 2012 }} {{year-definition|2012}} この項目では、国際的な視点に基づいた2012年について記載する。 == 他の紀年法 == {{Year in other calendars|year=2012}} * [[干支]]:[[壬辰]](みずのえ たつ) * [[日本]](月日は一致) ** [[平成]]24年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2672年 * [[大韓民国]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4345年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]101年 * [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]101年 * [[仏滅紀元]]:2554年10月8日 - 2555年閏9月3日 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1433年2月6日 - 1434年2月17日 * [[ユダヤ暦]]:5772年4月6日 - 5773年4月18日 * [[UNIX時間|Unix Time]]:1325376000 - 1356998399 * [[修正ユリウス日]](MJD):55927 - 56292 * [[リリウス日]](LD):156768 - 157133 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=2012}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[アメリカ航空宇宙局]]の月探査機[[GRAIL|グレイルB]]が周回軌道に到着<ref>{{cite news |title=NASAの月探査機が周回軌道に到着、地下構造の解明に期待 |newspaper=ロイター |date=2012-01-02 |url=https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE80100V20120102 |accessdate=2012-01-05}}</ref>。 * [[1月6日]] - [[北朝鮮漂流船問題]]。 * [[1月13日]]〜[[1月22日|22日]] - 【オーストリア】 [[インスブルック]]で[[インスブルックユースオリンピック|第1回冬季ユースオリンピック]]開催。 * [[1月13日]] ** 【イタリア】 [[トスカーナ州]][[ジリオ島]]近海海上で貨客船コスタ・コンコルディア号が座礁転覆事故を起こす(詳細は[[コスタ・コンコルディアの座礁事故]]を参照)<ref>[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/01/14/kiji/K20120114002430020.html 「イタリアの豪華客船座礁、3人死亡14人けが」] スポーツニッポン 2012年1月15日閲覧</ref>。 ** [[S&P]]社が[[ユーロ圏]]9ヶ国について格付けを引き下げ、[[フランス]]については「トリプルA」格付けを1段階引き下げた<ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE80C06V20120114 S&Pがユーロ圏9カ国一斉格下げ、フランスはトリプルA失う] ロイター・ジャパン 2012年1月14日閲覧</ref>。 * [[1月14日]] - 【台湾】 [[2012年中華民国総統選挙|総統選挙]]が施行され、即日開票の結果、[[中国国民党]]候補の現職・[[馬英九]]総統が再選<ref>[https://web.archive.org/web/20120517174933/http://news24.jp/articles/2012/01/14/10198135.html 台湾総統選、馬英九氏が再選果たす] 日テレNEWS24 2012年1月14日閲覧</ref>。 * [[1月20日]] - 【ナイジェリア】 [[カノ]]市内で[[ボコ・ハラム]]による連続爆弾攻撃と銃撃戦が発生。少なくとも178人の死亡が確認<ref>[https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE81K01V20120123 ナイジェリア第2の都市で爆発と銃撃、178人死亡] ロイター 2012年1月24日閲覧</ref>。 * [[1月21日]] - 【エジプト】 選管当局が昨年11月から行われていた議会選の最終結果を発表、[[ムスリム同胞団]]傘下の[[自由と公正党|自由公正党]]が235議席(全体の約47%)を獲得し第一党となった。第二党は約25%を獲得した[[サラフィー主義]]を唱える[[ヌール党]]で、主要イスラム政党が全体の7割以上を占めている<ref>[https://web.archive.org/web/20120121221525/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120121/mds12012123110007-n1.htm エジプト議会選最終結果 ムスリム同胞団系47%で第1党](MSN産経ニュース/産経新聞 2012年1月21日)</ref>。 * [[1月22日]] - 【クロアチア】 [[欧州連合|EU]]加盟(2013年を予定)の是非に関する[[国民投票]]が行われ、約66%が加盟に賛成した(投票率同47%)<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LY7ZDG6TTDS001.html クロアチア国民投票:約66%がEU加盟に賛成-開票率98%](Bloomberg 2012年1月23日)</ref>。 * [[1月27日]] - [[フィッチ・レーティングス]]は、ユーロ圏5カ国の国債を格下げ、[[イタリア]]、[[スペイン]]などは2段階格下げした<ref>[http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2012012801001121/1.htm ユーロ圏5カ国の国債を格下げ] @niftyNEWS 2012年1月28日閲覧{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 === 2月 === * [[2月5日]] -【フィンランド】 大統領選挙の決選投票が行われ、[[サウリ・ニーニスト]]が当選した。 * [[2月6日]] - 【フィリピン】 [[ネグロス島]]沖で[[マグニチュード|Mw]]6.7の地震発生、43人が死亡([[ネグロス島沖地震]]を参照)。 * [[2月21日]] - 【イエメン】 暫定大統領選挙(任期2年)が施行され、唯一の立候補者である副大統領(大統領権限は既に移譲されていた)の[[アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー]]が当選。[[2月25日]]に就任の宣誓を行い、[[アリー・アブドッラー・サーレハ]]政権は正式に終了した<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/international/update/0225/TKY201202250324.html |title=ハディ氏得票率99.8% イエメン暫定大統領に当選 |work=asahi.com |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2012-02-25 |accessdate=2012-02-25 }}</ref>。これにより中東での「[[アラブの春]]」で退陣した国家指導者は4人目となった。 * [[2月29日]] - 【日本】 高さ634mを誇り、自立式鉄塔としては世界一となる[[東京スカイツリー]]が日本で竣工。なお、人工[[建造物]]の中では[[ブルジュ・ハリファ|ブルジュ・ハリーファ]](828m)に次ぎ世界第2位<ref>[http://mainichi.jp/hokkaido/shakai/news/20120229ddr001040002000c.html 東京スカイツリー:完成、世界一] 毎日新聞 2012年3月13日閲覧{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 === 3月 === * [[3月2日]] - 【イラン】 国会議員選挙で反大統領派が圧勝した<ref>[https://web.archive.org/web/20120304124046/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120304/mds12030400270000-n1.htm イラン国会議員選挙 反大統領派が圧勝へ 対外姿勢、さらに硬化か](MSN産経ニュース 2012年3月4日)</ref>。 * [[3月4日]] - 【ロシア】 [[2012年ロシア大統領選挙|大統領選挙]]。第一回投票で[[ウラジーミル・プーチン]]候補が6割を越える得票で当選。任期は[[2018年]]までの6年間<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012030500020 プーチン氏当選=涙で勝利宣言-4年ぶり返り咲き-抗議デモ再燃も・ロシア大統領選] 時事通信 2012年3月13日閲覧</ref>。 * [[3月10日]] - 【スロバキア】 [[2012年スロバキア国民議会選挙|国民議会選挙]]が行われ、[[方向・社会民主主義|スメル党]]が150議席中83議席の単独過半数を獲得し政権奪還<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120311-OYT1T00550.htm スロバキア総選挙で中道左派が単独過半数確保](読売新聞 2012年3月11日)</ref>。 * [[3月11日]] - 【フランス】 [[トゥールーズ]]で[[ミディ=ピレネー連続銃撃事件]]の最初の銃撃事件が発生<ref>{{Cite web|和書|date=2012年3月19日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2866616 |title=南仏のユダヤ人学校で発砲、4人死亡 バイク男の銃撃事件相次ぐ |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2020-10-14}}</ref>。 * [[3月12日]] - 【世界】 [[アメリカ合衆国国勢調査局|国勢調査局]]の推計で[[世界人口]]が70億人を突破する<ref>[http://www.census.gov/population/international/data/idb/worldpopinfo.php International Data Base : World Population Summary](U.S. Census Bureau)</ref><ref>{{cite news |title=世界の人口70億人、こんなに増えて大丈夫か |newspaper=47NEWS |date=2011-10-27 |url=http://www.47news.jp/47topics/premium/e/221830.php |accessdate=2012-01-05}}</ref><ref>{{cite news |title=世界人口70億人突破、なぜこの日に? |publisher=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本語版 |date=2011-10-31 |url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/5123/ |accessdate=2016-06-15}}</ref>([[国際連合人口基金|国連人口基金]]による2011年版「世界人口白書」の推計では前年に突破)。 * [[3月17日]](報道発表日) - 【ベラルーシ】 昨年4月地下鉄爆破テロに関与した、死刑囚2人に銃殺刑を執行した(執行日は不明)<ref>[http://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/yomiuri-20120318-00566/1.htm 地下鉄爆破テロ犯2人を銃殺刑…ベラルーシ]@niftyNEWS 2012年3月18日閲覧</ref>。 * [[3月21日]] - 【マリ共和国】 [[マリ軍事クーデター (2012年)|軍事クーデター]]が発生<ref>{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2867107?pid=8680748 |title=マリでクーデター、反乱軍が大統領府制圧 憲法停止表明 |work=AFPBB News |publisher=[[フランス通信社]] |date=2012-03-22 |accessdate=2012-03-22 }}</ref>。 === 4月 === * [[4月1日]] 【ミャンマー】 議会補欠選挙が実施され、[[国民民主連盟]](NLD)は[[アウンサンスーチー]]を含む44人の候補者を擁立、同氏含む40人が当選した<ref>[https://web.archive.org/web/20120404055927/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120402-OYT1T00956.htm スー・チーさんのNLD、40人当選と選管発表](読売新聞 2012年4月2日)</ref>。 * [[4月2日]] - 【アメリカ】 カリフォルニア州の[[オイコス大学]]にて[[オイコス大学銃乱射事件|銃乱射事件]]が発生、学生7人が死亡<ref>{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2869311?pid=8741129 |title=学生たちを並ばせて殺害、米キリスト教系大学銃乱射事件 |work=AFPBB News |publisher=[[フランス通信社]] |date=2012-04-04 |accessdate=2012-04-08 }}</ref>。 * [[4月6日]] - 【マリ】 北部の独立紛争を続けてきた反政府組織MNLA([[トゥアレグ|トゥアレグ族]]による軍事組織)が一方的に[[アザワド]]の[[アザワド独立宣言|独立を宣言]]<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20120406141520/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120406/mds12040616430007-n1.htm |title=マリ北部の「独立」宣言 遊牧民の反政府武装勢力 |work=MSN産経ニュース |newspaper=[[産経新聞]] |date=2012-04-06 |accessdate=2012-04-07 }}</ref>。 * [[4月11日]] **【北朝鮮】 [[金正恩]]が[[朝鮮労働党]]の[[第一書記]]に就任。また、二日後の13日には[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会|国防委員会]]第一委員長にも就任している。 **【インドネシア】 [[スマトラ島]]でM8.6の巨大地震発生、5人死亡。横ずれ地震としては最大規模。{{See also|スマトラ島沖地震 (2012年4月)}} * [[4月12日]] - 【中国】 [[渝新欧(重慶)物流有限公司]]が開業する。 * [[4月13日]] - 【北朝鮮】 午前7時39分頃(UTC 22時39分)、[[平安北道]][[鉄山郡]][[東倉里]]付近のミサイル基地から[[北朝鮮によるミサイル発射実験 (2012年4月)|ミサイルと見られる飛翔体を発射]]<ref>[https://web.archive.org/web/20120413170220/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120413/kor12041308210005-n1.htm 発射は午前7時39分 韓国国防省報道官、成否を確認中] 産経新聞 2012年4月13日閲覧</ref>。 <!-- 日本ローカル? * [[4月14日]] - 【日本】 [[新東名高速道路]] [[御殿場ジャンクション|御殿場JCT]] - [[浜松いなさジャンクション|浜松いなさJCT]]の全長162kmが開通。日本の高速道路の新規開通距離としては過去最長。 --> * [[4月16日]] - 北朝鮮の長距離弾道ミサイル発射に対して[[国連安全保障理事会]]は、議長声明を全会一致で採択した<ref>[http://www.asahi.com/international/update/0416/TKY201204160589.html 北朝鮮を「強く非難」 国連安保理が議長声明採択] 朝日新聞デジタル 2012年4月17日閲覧</ref>。 * [[4月20日]] - 【パキスタン】 首都・[[ラーワルピンディー]]で[[イスラマバード国際空港]]付近で[[ボジャ航空]]213便([[ボーイング737]]-236A)が墜落し、乗員乗客127人全員が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2872933 |title=パキスタンで旅客機墜落、127人全員死亡 |access-date=2012年4月21日 |publisher=AFPBB NEWS}}</ref>。 * [[4月22日]] - 【フランス】 大統領選挙の1回目の投票が行われる。過半数を獲得する候補者が現れなかったため、5月6日に決選投票が実施された([[2012年フランス大統領選挙]])。 === 5月 === * [[5月6日]] ** 【フランス】 大統領選挙の決選投票が実施された。4月22日の1回目の投票による上位2名、[[ニコラ・サルコジ]]と[[フランソワ・オランド]]による決戦で、財政緊縮路線に異を唱えるオランドが勝利した。これにより、円高ユーロ安が急激に進み、[[5月7日|翌日]]には1ユーロ=103円台に急落。[[社会党 (フランス)|フランス社会党]]の大統領としては17年ぶり、2人目となる<ref>[https://web.archive.org/web/20120522032559/http://www.sankeibiz.jp/macro/news/120508/mcb1205080504017-n1.htm 緊縮派敗北 欧州に転機 仏大統領にオランド氏、ドイツと対立も](SankeiBiz 2012年5月8日)</ref><ref>[https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE84601F20120507 オランド支持派数万人が歓喜、フランスで17年ぶり社会党大統領](ロイター 2012年5月7日)</ref>。 ** 【ギリシャ】 [[2012年5月ギリシャ議会総選挙|議会選挙]]が実施された。EUなどとの合意により財政緊縮政策を進める連立与党が2席差で過半数獲得ならず。反緊縮派の[[急進左派連合]]が躍進、また極右政党「[[黄金の夜明け (ギリシャ)|Golden Dawn]]」が[[1993年]]の結党以来、国政で初めて議席を獲得した。<ref>[http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C9381959FE2E5E2E6868DE2E5E2E7E0E2E3E09F9FEAE2E2E2;at=ALL ギリシャ総選挙、連立与党過半数割れ 連立協議入り](日経新聞 2012年5月8日)</ref><ref>[https://jp.reuters.com/article/mostViewedNews/idJPTJE84601820120507 ギリシャ第1党が連立協議を断念、再選挙実施の可能性も](ロイター 2012年5月8日)</ref>。しかし、その後の野党との連立協議が失敗し6月に再選挙が行われることとなった。 * [[5月7日]] - 【シリア】 [[複数政党制]]が容認された2月の[[憲法改正]]後初となる議会選挙が実施される。しかし、抵抗を続ける反体制派は「軍事的威圧の中で公正な選挙は不可能」として選挙を[[ボイコット]]<ref>[http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C889DE6E3E3E6E7EBE7E2E2EAE2E7E0E2E3E09494E3E2E2E2;at=DGXZZO0195570008122009000000 シリア、複数政党で初の議会選 反体制派は不参加 ](日経新聞 2012年5月8日)</ref>、また[[国連事務総長]]の[[潘基文]]は現在も反体制派への弾圧が続いて死者が出ていることに触れ、「このような状況下では正当性がない」と批判している<ref>[http://jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012050800045 シリア議会選、正当性ない=国連総長](時事通信 2012年5月8日)</ref>。 * [[5月9日]] -【中国】 [[中国海洋石油総公司]]の第6世代深水[[石油プラットフォーム#半潜水式プラットフォーム|半潜水式石油プラットフォーム]]{{仮リンク|海洋石油981|zh|海洋石油981}}が[[南シナ海]]の[[香港島]]南東320km[[深海]]で掘削することに成功する。<ref>{{cite news |title=「海洋石油981」が南中国海で初掘削に成功|newspaper=人民網日本語版|date=2012-05-09|url=http://j.people.com.cn/95952/7813591.html|accessdate=2014-05-17}}</ref> * [[5月20日]] - [[北太平洋]]上を中心に、[[中華人民共和国|中国]]、[[日本]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで[[日食|金環日食]]を観測<ref>[http://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEplot/SEplot2001/SE2012May20A.GIF]</ref>(日本を含む[[国際日付変更線|日付変更線]]の西側では[[5月21日]])。{{main|2012年5月20日の日食}} * [[5月22日]] - 【日本】 [[東京都]][[墨田区]]に自立電波塔の高さとして世界一の[[東京スカイツリー]]が開業した。 * [[5月23日]]・[[5月24日|24日]] - 【エジプト】 [[ホスニー・ムバーラク|ムバラク]]政権崩壊後初となる大統領選挙の1回目の投票が行われる。過半数を獲得する候補者が現れなかったため、6月に決選投票が実施された([[2012年エジプト大統領選挙]])<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20120530234246/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120529-OYT1T00065.htm |title=エジプト大統領選、イスラム系と元首相で決選へ |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2012-05-29 |accessdate=2012-05-30 }}</ref>。 * [[5月26日]] - [[竹内洋岳]]がヒマラヤ山脈の[[ダウラギリ]]に登頂し、日本人としてはじめてヒマラヤ山脈の8000メートル級の山14峰をすべて登頂<ref>{{Cite web|和書|date=2012-05-26 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZZO41829260V20C12A5000000/ |title=日本人初の快挙、8000メートル峰14座登頂 竹内洋岳 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2020-10-15}}</ref>。 === 6月 === * [[6月1日]] - 外国為替市場でユーロが一時、1ユーロ=95円58銭を記録。その後も、1ユーロ=90円台の取引が続いた。 * [[6月2日]] - 【エジプト】 [[ホスニー・ムバーラク|ムバラク]]前大統領に[[終身刑]]が言い渡される<ref>[https://web.archive.org/web/20120602131850/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120602/mds12060217330001-n1.htm ムバラク前大統領に終身刑]MSN 産経新聞 2012年6月2日閲覧。</ref>。 * [[6月4日]] - 世界の各地で[[部分月食]]観測。 * [[6月5日]]・[[6月6日|6日]] ** [[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]東部、[[大韓民国|韓国]]、[[フィリピン]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、西[[太平洋]]上、[[ハワイ]]、および[[北アメリカ]]の一部で[[金星の太陽面通過]]観測<ref>http://eclipse.gsfc.nasa.gov/transit/venus0412.html</ref>。 ** [[World IPv6 Launch]] が行われた。 * [[6月14日]] - 【スペイン】 国債の利回りが7%を超え「危険水域」になる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDC14009_U2A610C1EA2000/ スペインの国債利回り7%を超える]日本経済新聞 2012年6月15日閲覧。</ref>。 * [[6月16日]] - 【中国】 18:37(JST19:37)に[[中華人民共和国|中国]]で中国初の女性宇宙飛行士を乗せた有人宇宙船「[[神舟9号]]」が打ち上げられた<ref>[https://web.archive.org/web/20120619092327/http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120616-OYT1T00764.htm 中国の有人宇宙船、初の女性飛行士乗せ打ち上げ]YOMIURIONLINE 2012年6月17日閲覧。</ref>。 * [[6月17日]] - 【ギリシャ】 5月の選挙後に連立与党が野党との連立協議に失敗したため、再び[[2012年6月ギリシャ議会総選挙|議会選挙]]を実施。[[緊縮財政]]政策支持派の[[新民主主義党]](ND)が票を伸ばし第1党となり、第3党の[[全ギリシャ社会主義運動]](PASOK)と連立政権樹立に成功。 * [[6月18日]] - 【メキシコ】 [[ロスカボス]]で[[G20]]の首脳会議で[[国際通貨基金|IMF]]の追加拠出確認へ<ref>[https://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPTK816616520120618 G20、首脳会議でIMFへの追加拠出確認へ 新興国の発言権拡大が課題に]ロイター 2012年6月18日閲覧。</ref>。 * [[6月24日]] - 【エジプト】 [[2012年エジプト大統領選挙|エジプト大統領選挙]]、選挙管理委員会が[[ムハンマド・ムルシー]]の当選を発表<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20120627150333/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120624-OYT1T00996.htm |title=エジプト大統領選、イスラム主義候補の当選発表 |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2012-06-24 |accessdate=2012-06-25 }}</ref>。 * [[6月25日]] - 【スペイン】 同国が[[欧州連合]]に銀行部門への支援を正式要請した<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012062500698&j4 スペイン、支援を正式要請=ユーロ圏4カ国目、銀行資本を増強]時事ドットコム 2012年6月25日閲覧。</ref>。 * [[6月30日]] - 【世界】 3年半ぶりに[[うるう秒]]が挿入された。 Appleの[[MobileMe]]のサービスが終了した。 === 7月 === * [[7月1日]] - 【メキシコ】 大統領選挙および総選挙が実施された。 * [[7月4日]] - [[欧州合同原子核研究機構]](CERN)は新たな[[粒子]]を発見したと発表、今回のデータからは[[ヒッグス粒子]]とは確定されていないが、更なる実験の続行により同粒子の存在が高い精度で確認できるのではないかと期待されている。 * [[7月8日]] - [[アフガン支援国会議]]で[[2015年]]までの4年間で計160億ドル(約1兆2800億円)超を資金拠出するとした「[[東京宣言 (2012年)|東京宣言]]」を採択した<ref>[https://web.archive.org/web/20120711131520/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120708-OYT1T00571.htm アフガン支援国会議、1兆2千億円拠出を採択]YOMIURIONLINE 2012年7月8日閲覧。</ref>。 * [[7月13日]] - [[ムーディーズ]]は[[イタリア]]の国債の格付けを2段階引き下げた<ref>[https://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPTK819095720120713 UPDATE3: ムーディーズ、イタリア国債格付けを2段階引き下げ 景気・改革の状況悪化ならさらに格下げも]ロイター 2012年7月13日閲覧。</ref>。 * [[7月20日]] - 【アメリカ】 [[コロラド州]][[オーロラ (コロラド州)|オーロラ]]で[[オーロラ銃乱射事件|銃乱射事件]]が発生。死者12人、負傷者58人<ref>{{Cite news |url=https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE86K00U20120721 |title=米銃乱射容疑者は博士課程の医学生、映画の悪役名乗る |work=ロイター |publisher=[[ロイター]] |date=2012-07-21 |accessdate=2012-07-21 }}</ref>。 * [[7月21日]] - 【スペイン】 同国に最大1000億ユーロ(約10兆円)の支援を決定する。使用目的は金融機関の資本増強に限定する<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20120721k0000m020086000c.html ユーロ圏財務相:スペイン支援正式決定も国債売り止まらず]毎日新聞 2012年7月21日閲覧。</ref>。 * [[7月22日]] - 【インド】 大統領選挙、前財務大臣の[[プラナブ・ムカルジー]]当選(7月25日就任)<ref>{{Cite news |url= |title= |work=asahi.com |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2012-01-01 |accessdate=2012-01-01 |language=日本語 }}</ref>。 * [[7月24日]] - [[2010年欧州ソブリン危機|欧州債務問題]]の影響により外国為替市場でユーロが約12年ぶりのユーロ安となる1ユーロ=94円12銭まで急落した。 * [[7月27日]]〜[[8月12日]] - 【イギリス】 [[ロンドン]]にて第30回[[ロンドンオリンピック (2012年)|夏季オリンピック]]開催。 === 8月 === * 8月5日 - 【アメリカ合衆国】 [[ウィスコンシン州シク寺院銃乱射事件|ウィスコンシン州の宗教施設で銃乱射事件]]が発生。死者6名、負傷者4名。犯人は自殺。 * [[8月6日]] - [[アメリカ航空宇宙局]]の火星探査機[[マーズ・サイエンス・ラボラトリー|キュリオシティ]]が[[火星]]に到着(着陸)した<ref>[http://www.cnn.co.jp/fringe/35020123.html 火星探査機キュリオシティが無事着陸 火星から初の映像送信]CNN-JAPAN 2012年8月6日閲覧。</ref>。 * [[8月10日]] - 【韓国】 [[大韓民国]]の[[李明博]]大統領が日韓両国が領有権を主張する[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]に上陸した<ref>[http://www.asahi.com/international/update/0810/TKY201208100228.html 韓国大統領、竹島に上陸 野田首相「極めて遺憾」] 朝日新聞デジタル 2012年8月10日閲覧。</ref>。 * [[8月14日]] - [[オホーツク海南部深発地震]]。Mj7.3・Mw7.7は震源が600kmより深い[[深発地震]]としては大規模なもの。 * [[8月15日]] - [[中華民国]]政府が「[[東シナ海|東海]]和平倡議」を発表し[[尖閣諸島]]領有権を主張する。 * [[8月22日]] - 【ロシア】 [[世界貿易機関]](WTO)に加盟。 * [[8月25日]] - [[ボイジャー1号]]が[[太陽]]から約190億kmの地点で、[[太陽圏]]を離脱した初めての人工物となる。 * [[8月29日]]〜[[9月9日]] - 【イギリス】 [[ロンドンパラリンピック]]開催。 === 9月 === * [[9月3日]] - [[世界基督教統一神霊協会]](統一教会)の創始者([[教祖]])、[[文鮮明]]死去。92歳没。 * [[9月6日]] - [[アジア太平洋経済協力]]会議が環境関連物品54品目を[[2015年]]までに関税を5%以下に引き下げる閣僚声明をまとめた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120906-OYT1T01186.htm 環境54物品関税引き下げへ…APEC閣僚声明]YOMIURI ONLINE 2012年9月6日閲覧。</ref>。 * [[9月11日]] - 【エジプト・リビア】 [[2012年アメリカ在外公館襲撃事件]]が発生。リビアのアメリカ領事館では[[クリストファー・スティーブンス]]米大使と職員3人の合計4人が殺害された<ref>{{Cite news |url=https://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPJT823188120120912 |title=駐リビア米大使、領事館襲撃で死亡 米国は強く非難 |work=ロイター |publisher=[[ロイター]] |date=2012-09-13 |accessdate=2012-09-13 }}</ref>。 * [[9月15日]]〜 - 【中国】 全土で[[尖閣諸島]]国有化に反発して反日デモが発生する([[2012年の中国における反日活動]])<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012091500189 中国反日デモ、暴徒化拡大=日系企業に放火、略奪-30都市、72年以降最悪に]時事通信 2012年9月16日閲覧。</ref>。 === 10月 === * [[10月7日]] - 【ベネズエラ】 [[ベネズエラの大統領|大統領]]選挙の投開票が行われ[[ウゴ・チャベス]]が4選を果たした<ref>{{Cite news | url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0800E_Y2A001C1000000/ | title=ベネズエラ大統領選、現職のチャベス氏4選 20年の長期政権に | newspaper=日本経済新聞 | date=2012-10-08 | accessdate=2012-10-28}}</ref>。 * [[10月9日]] - 【パキスタン】 [[ターリバーン]]を批判し、女性の権利向上のために活動していた少女[[マララ・ユサフザイ]]がターリバーンとみられる男たちに銃撃され、負傷。後にターリバーンが犯行声明を出した。 * [[10月12日]] - [[ノーベル平和賞]]に[[欧州連合|EU]][[欧州連合]]が選ばれた<ref>[https://web.archive.org/web/20121015010036/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20121012-OYT1T01097.htm ノーベル平和賞、EUに…危機克服への期待こめ]YOMIURI ONLINE 2012年10月13日閲覧。</ref>。 * [[10月14日]] - [[ジェンティルドンナ]]が[[中央競馬クラシック三冠|中央競馬クラシック牝馬三冠]]を達成。 * [[10月26日]] - [[マイクロソフト]]のOS「[[Microsoft Windows 8]]」発売。 * [[10月29日]] - 【アメリカ】 東海岸で[[ハリケーン・サンディ]]が発生して、[[ニューヨーク証券取引所]]が29日と30日は取引停止をした<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM30027_Q2A031C1MM0000/ ハリケーン米東部に直撃]日本経済新聞 2012年10月30日閲覧。</ref>。 === 11月 === * [[11月6日]] - 【アメリカ】 大統領選挙、[[アメリカ合衆国上院|上院]]、[[アメリカ合衆国下院|下院]]各選挙投票日([[2012年アメリカ合衆国大統領選挙]])。[[バラク・オバマ]]大統領([[民主党 (アメリカ)|民主党]]・現職)の再選が決まるも、同日行われた議会選挙で下院は民主が過半数割れとなりねじれ現象が続く。 * [[11月8日]] - 【中国】 第18回[[中国共産党全国代表大会|中国共産党党大会]]開催。閉幕翌日の[[11月15日|15日]]に開催された第18期中央委員会第1回総会で[[胡錦濤]][[中国共産党中央委員会総書記|党総書記]]・[[中国共産党中央軍事委員会|中軍委主席]]の後継として[[習近平]]が選出される。 * [[11月13日]] - 【オセアニア】 [[オーストラリア]]・[[クイーンズランド州]]および[[ノーザン・テリトリー]]の北部の一部で[[日食|皆既日食]]を観測(オーストラリアを含む日付変更線の西側では14日)<ref>http://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEplot/SEplot2001/SE2012Nov13T.GIF</ref>。 * [[11月28日]] - [[日本]]、[[オーストラリア]]などを中心に、[[東アジア]]、[[オセアニア]]ほぼ全域と[[ロシア]]の大部分、および[[北アメリカ]]の北西部の一部で[[月食|半影月食]]観測<ref>http://eclipse.gsfc.nasa.gov/LEplot/LEplot2001/LE2012Nov28N.GIF</ref>。 === 12月 === * [[12月1日]] - 【クウェート】 [[2012年12月クウェート国民議会選挙|国民議会選挙]]。 * [[12月7日]] - 北朝鮮のミサイル発射で森本防衛相(当時)が自衛隊に破壊措置命令を発令<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/news/202212060000881.html|title=米アポロ計画最後のアポロ17号打ち上げ/今日は?|publisher=日刊スポーツ|date=2022-12-07|accessdate=2022-12-09}}</ref>。 * [[12月12日]] - 【北朝鮮】 人工衛星[[弾道ミサイル]]を発射([[北朝鮮によるミサイル発射実験 (2012年12月)|今回のミサイル発射実験詳細]])。 * [[12月14日]] - 【米国】 東部の[[コネチカット州]]で銃乱射事件が発生([[サンディフック小学校銃乱射事件]])。子供20人を含む26人が死亡、容疑者も死亡した<ref>[https://web.archive.org/web/20121215021641/http://sankei.jp.msn.com/world/news/121215/amr12121509160001-n1.htm 米小学校で銃乱射、26人殺害 子供20人犠牲、容疑者死亡 コネティカット州]MSN産経新聞 2012年12月15日閲覧。</ref>。 * [[12月16日]] - 【日本】 [[第46回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自民党]]が大勝し、3年ぶりに[[与党]]に返り咲いた([[政権交代]])。 * [[12月19日]] - 【韓国】 [[大統領 (大韓民国)|大統領]]選挙([[2012年大韓民国大統領選挙]])。与党・[[セヌリ党]]の[[朴槿恵]]が勝利した。 * [[12月21日]]〜[[12月23日|23日]] - [[京都議定書]]規定の、[[2008年]]から5年間の温室効果ガス年平均排出量削減目標期限。 * [[12月26日]] - 【日本】 [[安倍晋三]]が日本の[[内閣総理大臣]]に再就任([[2007年]]以来)。[[第2次安倍内閣]]発足。 == 周年 == <!-- [[2012年の日本]]への分割時には有名及び主要なもの、または50年の倍数の周年のみ残し、国際的ではない日本にのみ関連するものは「2012年の日本」へ転記 --> <!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください。 --> * [[米英戦争]]開戦から200年。 * 日本の[[近代オリンピック|オリンピック]]初参加から100年。 * [[4月15日]] ** [[金日成]]生誕100周年。 ** [[タイタニック (客船)|タイタニック号]]の[[タイタニック号沈没事故|沈没]]から100年。 <!-- 周年であること自体を特記すべき情報ですか? * [[5月31日]] - [[2002 FIFAワールドカップ]]開幕から10年。 --> <!-- 周年であること自体を特記すべき情報ですか? * [[7月19日]] - [[ヘルシンキオリンピック]]から60年。 --> * [[9月20日]]鈴鹿サーキット開園50周年 * [[10月5日]] - [[ビートルズ]]の[[レコード]]デビュー(「[[ラヴ・ミー・ドゥ]]」)から50周年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0600W_W2A001C1CC0000/|title=「ビートルズ」と「007」、英国でデビュー50年祝う|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2012-10-06|accessdate=2018-02-10}}</ref>。 <!-- 周年であること自体を特記すべき情報ですか? * [[11月4日]] - [[カムチャツカ地震]]から60年。 --> == イベント・行事 == === スポーツ === {{main|2012年のスポーツ}} * [[7月27日]]-[[8月12日]] ** [[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]] === 国際年 === {{seealso|国際年}} * [[国際協同組合年]](International Year of Cooperative) * すべての人のための持続可能エネルギーの国際年(International Year of Sustainable Energy for All) == 天文現象 == {{seealso|2012年の気象・地象・天象}} 2012年は金環および皆既[[日食]]、[[金星の太陽面通過]]、木星食、金星食など[[食 (天文)|食]]に関する[[天文現象]]の当たり年であった。以下は本年に観測された主な天文現象の一覧である。日付は[[協定世界時|UTC]]となっている。 * [[5月5日]] - 世界各地で[[満月#スーパームーン|スーパームーン]]を観測。 * [[5月20日]] - 金環日食:中国や日本、アメリカなどで中心食が観測された([[2012年5月20日の日食]])。 * [[6月4日]] - 部分[[月食]]:三分の一程の食。 * [[6月6日]] - 金星の太陽面通過:8年ぶりの観測であったが、次回は105年後の2117年である。 * [[7月15日]] - 木星食:[[月]]による[[木星]]の食。 * [[8月13日]] - 金星食:月による[[金星]]の食。 * [[11月13日]] - 皆既日食:オーストラリア北部の[[ケアンズ]]などで中心食が観測された。 * [[11月28日]] - 半影月食 * 12月中旬 - [[ふたご座流星群]]:ピーク(極大)の[[12月13日]]頃は[[朔]](新月)に近いため、月明かりが少なく好条件。 == 経済 == {{main|2012年の経済}} {{節スタブ}} == 政治 == {{main|2012年の政治|2012年問題}} * <!--[[北朝鮮]]、-->[[中華民国]]([[台湾]])、[[ロシア]]、[[フランス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]<!--、[[日本]]-->といった世界の情勢や経済に大きな影響を与える複数の国・地域で、[[首脳]]の任期が満了し、選挙又は交代期を一斉に迎えた。この他、[[日本]]でも自民党が与党に返り咲き、3年ぶりに[[政権交代]]が起きた。 * [[2009年]]の政権交代を機に明るみに出た[[ギリシャの経済#ギリシャ経済危機 (2010年-)|ギリシャ財政危機]]は[[2010年欧州ソブリン危機|欧州全体の経済危機]]にも波及していたが、[[ギリシャ]]国内においても政治が動乱し、5月と6月の二度に渡って議会[[総選挙]]が実施された。[[緊縮財政政策]]は[[欧州連合|EU]]からの金融支援を受けるのに不可欠なため、その賛否を問う選挙の結果は世界中から注目されたが、[[2012年6月ギリシャ議会総選挙|6月の再選挙]]では同政策支持派の第1党・[[新民主主義党]](ND)が[[連立政権]]の樹立に成功し、事態の沈静化が図られた。 == 芸術・文化・ファッション == === 映画 === {{main|2012年の映画}} {{seealso|2012年の日本公開映画}} * [[愛、アムール]] * [[アベンジャーズ (2012年の映画)|アベンジャーズ]] * [[アルゴ (映画)|アルゴ]] * [[クロニクル (映画)|クロニクル]] * [[ザ・マスター]] * [[ジャンゴ 繋がれざる者]] * [[ガーディアンズ 伝説の勇者たち]] * [[ロラックスおじさんの秘密の種]] * [[マダガスカル3]] * [[モンスター・ホテル]] * [[シュガー・ラッシュ]] * [[007 スカイフォール]] * [[ゼロ・ダーク・サーティ]] * [[ダークナイト ライジング]] * [[チョコレートドーナツ]] * [[テッド (映画)|テッド]] * [[パラノーマン ブライス・ホローの謎]] * [[ハンナ・アーレント (映画)|ハンナ・アーレント]] * [[フライト (映画)|フライト]] * [[ホーリー・モーターズ]] * [[ホビット 思いがけない冒険]] * [[メリダとおそろしの森]] * [[ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日]] * [[レ・ミゼラブル (2012年の映画)|レ・ミゼラブル]] * [[アイス・エイジ4/パイレーツ大冒険]] * [[ザ・パイレーツ! バンド・オブ・ミスフィッツ]] === ゲーム === [[File:Wii U Console and Gamepad.png|thumb|Wii U([[タッチパネル]]の専用コントローラー「Wii U GamePad」と本体)]] * [[12月18日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]のゲームソフト[[平壌レーサー]]がリリース。北朝鮮製のゲームソフトが国外向けに発売されたのは、これが初である。 * [[任天堂]]の[[家庭用ゲーム機]]「'''[[Wii U]]'''」を発売。 ** [[北アメリカ|北米]] - 2012年11月18日発売 ** [[ヨーロッパ]]・[[オーストラリア]] - 2012年11月30日発売 ** [[日本]] - 2012年12月8日発売 === 音楽 === {{see|2012年の音楽}} === 文学 === {{see|2012年の文学}} === 流行 === * '''[[2012年人類滅亡説]]''' - [[マヤ文明]]の[[長期暦]]の一つが[[12月21日]]([[冬至]])-[[12月23日|23日]]頃に区切りを迎えるとされることから生まれた[[終末論]]。[[西洋]]を中心に世界各地で注目され、一種の流行りとなった。 <!--- === 世相 === ---> == 誕生 == {{see also|2012年の日本#誕生|Category:2012年生}} <!--世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「2012年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記)--> === 1月 === * [[1月24日]] - [[アテナ (デンマーク王女)|アテナ]]、[[デンマーク]]王族 === 2月 === * [[2月23日]] - [[エステル (エステルイェートランド公)|エステル]]、[[スウェーデン]]王室 === 3月 === * [[3月29日]] - [[アイラ・フィリップス]]、[[イギリス王室]] === 4月 === === 5月 === === 6月 === * [[6月15日]] - [[レクシー・レイブ]]、アメリカ合衆国の女優 === 7月 === === 8月 === === 9月 === === 10月 === === 11月 === === 12月 === === 動物 === * [[4月4日]]<ref name="about">[http://www.grumpycats.com/about-grumpy-cat/ About Grampy Cat]. 公式サイト. 2020年10月29日閲覧.</ref> - [[グランピー・キャット]]、[[アメリカ合衆国]]の[[猫]](+ [[2019年]]) <!-- 日本ローカル? * [[8月10日]] - [[優浜]]、日本で誕生した[[パンダ]] --> == 死去 == * 2012年6月24日 - [[ピンタゾウガメ]]の最後の個体、[[ロンサム・ジョージ]]が死亡し、ピンタゾウガメは絶滅した。 {{see|訃報 2012年}} == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]]:[[セルジュ・アロシュ]]、[[デービッド・ワインランド]] * [[ノーベル化学賞|化学賞]]:[[ロバート・レフコウィッツ]]、[[ブライアン・コビルカ]] * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]]:[[ジョン・ガードン (生物学者)|ジョン・ガードン]]、[[山中伸弥]] * [[ノーベル文学賞|文学賞]]:[[莫言]] * [[ノーベル平和賞|平和賞]]:[[欧州連合]] (EU) * [[ノーベル経済学賞|経済学賞]]:[[アルヴィン・ロス]]、[[ロイド・シャープレー|ロイド・シャプリー]] == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年2012|date=2011年7月}} <!--* [[2月]] - アトム、宇宙空港サービス・ステーションでアルバイト(初版では「家出による密航」)、ロケット「タイタン号」は月面不時着。(漫画『[[鉄腕アトム]]』「イワンのばかの巻」) / 朝日ソノラマ「サンコミックス」版では1995年。講談社「手塚治虫漫画全集」版では2010年。--> * [[3月]] - ファントムを生み出すため、[[日食]]の儀式「サバト」がワイズマンの手により実行される。(特撮テレビ番組『[[仮面ライダーウィザード]]』) * 3月 - [[警視庁]]特命係所属の刑事・[[相棒の登場人物#特命係|神戸尊]]警部補が警察庁長官官房付へ異動。(テレビドラマ『[[相棒|相棒 season10]]』) * [[4月]] - バリバリー博士率いる秘密結社「エジプト陰謀団」が[[エジプト]]に現れる。(漫画『[[鉄腕アトム]]』「エジプト陰謀団の巻」) * [[7月21日]] - 午後3時46分頃、[[東京湾]]北部を震源とする[[マグニチュード]]8.0の巨大地震が発生。(アニメ『[[東京マグニチュード8.0]]』) * [[8月]] - ロボット「ガデム」が暴れる。(漫画『鉄腕アトム』「ガデムの巻」) * 8月 - 小田原張珍が人工衛星110号を強奪する。(漫画『鉄腕アトム』「人工衛星SOSの巻) * 夏 - 地球侵略をもくろむ[[宇宙人|エイリアン]]の宇宙船が[[オアフ島]]近海の海中や[[香港]]などの世界各地に落下。うちオアフ島近海に降下した宇宙船はオアフ島の周囲をバリアで覆い、[[環太平洋合同演習]](RIMPAC)に参加中だった艦艇のうちバリア内にいた[[アメリカ海軍]][[アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦|駆逐艦]]『[[ジョン・ポール・ジョーンズ (ミサイル駆逐艦)|ジョン・ポール・ジョーンズ]]』『[[サンプソン (ミサイル駆逐艦・2代)|サンプソン]]』および[[海上自衛隊]][[護衛艦]]『[[みょうこう (護衛艦)|みょうこう]]』がこれと交戦する。(映画『[[バトルシップ (映画)|バトルシップ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ピーター・デイヴィッド|authorlink=ピーター・デイヴィッド |title = バトルシップ |publisher = [[リンダブックス]] |year = 2012 |pages = 36-38,80-311 |isbn = 978-4-8030-0320-8}}</ref> * [[10月]] - [[警視庁]]中根警察署刑事課捜査一係所属の刑事・[[相棒の登場人物#特命係|甲斐享]]巡査部長が警視庁特命係へ異動。(テレビドラマ『相棒 season11』) * [[10月23日]] - “[[スーパーマン (架空の人物)|スーパーマン]]”クラーク・ケント、[[1938年]]から70余年にわたって勤めたデイリー・プラネット紙を退社し、フリージャーナリストとなる。(漫画『[[スーパーマン]]』) * [[12月22日]] - 宇宙人による地球への入植の開始予定日。(テレビドラマ『[[Xファイル]]』最終話「[[真実 (Xファイルのエピソード)|真実]]」) * [[12月]] - [[手塚漫画のキャラクター一覧#あ行|お茶の水博士]]の作った「人工太陽球」が[[手塚漫画のキャラクター一覧#か行|金三角]]に奪われる。(漫画『[[鉄腕アトム]]』「人工太陽球の巻」) * 12月 - [[東欧]]のイドニア共和国にて[[内戦]]が発生し、ジュアヴォの存在が確認される (ゲーム『[[バイオハザード6]]』) * 「2012年の[[冬至]]ごろに世界の終末が訪れる」としていた古代[[マヤ人]]の予言通り、地球上の各地で未曽有の[[地殻変動|地殻大変動]]が起き始める。(映画『[[2012 (映画)|2012]]』) * クルピン・ウィルスの流行によって[[ニューヨーク]]が荒廃。抗体のあったロバート・ネビルは1人でワクチン開発を続ける。(映画『[[アイ・アム・レジェンド]]』) * [[アメリカ合衆国]][[ユタ州]]に位置するエイリアン博物館で[[ダーレク]]族最後の生き残りが覚醒し、軍人・医者・弁護士などスタッフ200人が抹殺される。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)<ref name=ドクター・フー>{{Cite web|和書|url=https://www.vap.co.jp/doctorwho/chronological.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200628235553/https://www.vap.co.jp/doctorwho/chronological.html |archivedate=2020-06-28 |accessdate=2021-01-23 |publisher=[[バップ]] |title=ドクター・フー世界年表}}</ref> * [[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]の聖火ランナーが走る住宅街で、子供の行方不明事件が多発し、オリンピック関係者全員も突如として消失する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * [[アメリカ合衆国|アメリカ]]のボヌウィル核兵器研究所とヨーロッパ合衆国連邦科学研究所が、[[中間子]]力学理論を用いた放射能汚染を生じさせない[[核爆弾]]を共同開発。[[サハラ砂漠]]で[[核実験|実験]]が行われ、それが世界各国の軍備放棄を後押しする。(小説『[[星を継ぐもの]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= ジェイムズ・P・ホーガン|authorlink=ジェイムズ・P・ホーガン |title = 星を継ぐもの |publisher = [[東京創元社]] |year = 1980 |pages = 27,28,41-48,144 |isbn = 978-4-488-66301-8}}</ref> == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons&cat|2012|2012}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] * {{日本語版にない記事リンク|2012年における世界各地の指導者一覧|en|List of state leaders in 2012}} {{十年紀と各年|世紀=21|年代=2000}} {{Navboxes | title = 2012年の各国 | list1 = {{各年のアメリカ|2012|unit=1||List=1}} {{各年のヨーロッパ|2012|unit=1||List=1}} {{各年のアフリカ|2012|unit=1||List=1}} {{各年のアジア|2012|unit=1||List=1}} {{各年のオセアニア|2012|unit=1||List=1}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:2012ねん}} [[Category:2012年|*]]
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2060年代
2060年代(にせんろくじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2060年から2069年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた2060年代について記載する。
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{{Decadebox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 21 | 年代 = 2060 | 年 = 2060 }} '''2060年代'''(にせんろくじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])2060年から2069年までの10年間を指す[[十年紀]]。この項目では、国際的な視点に基づいた2060年代について記載する。 == 予定・予測されるできごと == === 2060年 === {{main|2060年}} * 日本の人口が8,674万人となり65歳以上の高齢者が総人口の4割になる([[国立社会保障・人口問題研究所]])。 * 平城京を横断する[[近鉄奈良線]]の移転工事が完了予定。 === 2061年 === * [[ハレー彗星]]が[[地球]]に接近。最接近は[[7月29日]]([[近日点]]通過)。 === 2063年 === * [[8月24日]]、[[津軽海峡]]を挟む形で[[北海道]]と[[青森県]]で[[皆既日食]]。 === 2064年 === * 日本の高齢者の割合がピークになる(国立社会保障・人口問題研究所)。 === 2065年 === * [[チェルノブイリ原子力発電所事故]]の被曝による癌での死者数が、この年までの累計で約1万6000人に達すると予測されている。 * 韓国の高齢化率が46%に達し日本を追い抜く見込み。 * [[10月12日]]、[[小惑星]] {{mpl|(66063) 1998 RO|1}} が[[火星]]からわずか81万4000kmのところを通過する。 * [[11月22日]]、[[金星]]が[[木星]]面を[[通過 (天文)|通過]]する。惑星同士の[[通過 (天文)|通過]]・[[掩蔽]]は、[[1818年]][[1月3日]]以来247年ぶりのことで、1818年の[[通過 (天文)|通過]]も[[金星]]が[[木星]]面を[[通過 (天文)|通過]]するものだった。 === 2068年 === * 早ければこの年に[[ヘリン・ローマン・クロケット彗星]]([[w:111P/Helin-Roman-Crockett]])が[[木星]]に捕獲され、一時的に衛星となり、周りを6回周回すると見られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/1674/|title=木星、彗星を捕獲して衛星にしていた|work=[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナル ジオグラフィック]]|publisher=[[ナショナル ジオグラフィック協会]]|date=2009-09-14|accessdate=2023-11-25}}</ref>。 * [[4月12日]]、直径300[[メートル]]以上の[[小惑星]][[アポフィス (小惑星)|アポフィス]]が地球に接近。[[ヤルコフスキー効果]]の影響などによる衝突リスクも僅かながらに懸念されており、2020年時点の衝突確率は“Palermo Technical Impact Hazard Scale”の推定で15万分の1程度([[トリノスケール]]は0、[[パレルモスケール]]は-2.88、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の脅威度ランキングで3位)<ref>[https://cneos.jpl.nasa.gov/sentry/ Sentry: Earth Impact Monitoring]: [https://cneos.jpl.nasa.gov/sentry/details.html#?des=99942 99942 Apophis (2004 MN4) -- Earth Impact Risk Summary] - NASA Jet Propulsion Laboratory (JPL), 2020年11月3日閲覧.</ref>、[[イタリア]]のNEODySインパクトモニターサービスの推定による現実的な可能性として53万分の1程度(ヤルコフスキー効果も考慮した数値)とされている<ref>[https://www.gizmodo.jp/2020/11/asteroid-apophis-remains-a-threat-to-hit-earth-in-2068.html 2068年4月、小惑星アポフィスが地球に衝突するかもしれない。] - [[ギズモード]]・ジャパン (2020年11月2日)</ref><ref>[https://sorae.info/astronomy/20201106-apophis.html 小惑星アポフィスの軌道変化を検出、2068年の衝突リスクに影響?] - sorae (2020年11月6日)</ref>。 === 2069年 === * [[1999年]]に宇宙へ向けて送信されたメッセージ「[[コズミック・コール1]]」が[[はくちょう座16番星]]に到達<ref>{{cite web|url=http://www.cplire.ru/rus/ra&sr/VAK-2004.html |title=Передача и поиски разумных сигналов во Вселенной |publisher=Cplire.ru |date= |accessdate=2008-09-14}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年代2060|date=2011年7月}} * [[2060年]] - [[パンダ]]の祖先の化石が[[冥王星]]で発見される。(小説『[[人類圏シリーズ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 田中啓文|authorlink=田中啓文 |title = 銀河帝国の弘法も筆の誤り |publisher = [[早川書房]] |year = 2001 |page = 274 |isbn = 978-4-15-030658-8}}</ref> * [[2061年]] - 伊藤展安と[[福島正実]]による未来予想図『2061年の東京』の舞台<ref>{{Cite web|和書|title=平成27年版 情報通信白書|概観~ICT端末 |url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc113330.html |website=www.soumu.go.jp |access-date=2022-10-06}}</ref>。 * 2061年1月8日 - [[アメリカ合衆国]]に対して攻撃を仕掛けた[[民間軍事会社]]、アトラス社のジョナサン・アイアンズを止めるため多国籍部隊のセンチネルは彼の拠点であるイラクのニューバグダッドを襲撃するが、化学兵器マンティコアによって隊はほぼ壊滅、生き残ったミッチェル、イロナ、ギデオン、コーマックたちはアトラスの留置施設に送られる。そこで彼らはアイアンズの攻撃計画を知りアトラス総司令部襲撃を決意する。ミッチェル達は指令部を急襲してアトラスのミサイルを破壊しアイアンズを止めることに成功する。(ゲーム『[[コール オブ デューティ アドバンスド・ウォーフェア|コール・オブ・デューティ アドバンスド・ウォーフェア]]』) * 2061年 - [[木星]]軌道上で宇宙客船「ギャラクシー号」がテロリストにハイジャックされ、[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]に不時着。[[ハレー彗星]]に着陸し探査を行っていた同型船「ユニバース号」が救助に向かう。(小説『[[2061年宇宙の旅]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= アーサー・C・クラーク|authorlink=アーサー・C・クラーク |title = 2061年宇宙の旅 |publisher = 早川書房 |year = 1995 |pages = 101-215 |isbn = 978-4-15-011096-3}}</ref> * 2061年 - [[タリム盆地|タリム]][[内海]]から[[シベリア]]や旧[[中華人民共和国|中国]]へと流れる「東幹線水路」にて、原因不明の断水が発生。調査によって、[[キリク川|キリク河]]上流付近の地下水路内で水の流れがどこかへ消失していることが判明する。(小説『[[宇宙年代記|幹線水路二〇六一年]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 光瀬龍|authorlink=光瀬龍 |title = 宇宙年代記1 宇宙救助隊二一八〇年 |publisher = 早川書房 |year = 1975 |pages = 199-212,218 |isbn = 978-4-15-030058-6}}</ref> * 2061年 - 有人探査機1号機「コメット」と2号機「ころな」が、ハレー彗星探査のために相次いで[[宇宙ステーション|スカイラブ]]「ジーザス」を発進。その後、艦内でハレー彗星から採取したガスの調査をしていた「コメット」が、ガスの中に潜んでいた異種生命体の襲撃を受けて通信を途絶させる。これを受け、「ころな」に搭載されている快速艇「いなづま」が調査に向かう。(ゲーム『[[ジーザス (ゲーム)|ジーザス]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=ゲーム構成 雅孝司|authorlink1=雅孝司|author2=文 あかほりさとる|authorlink2=あかほりさとる |title = ゲームブック ジーザス ハレー2061・謎の妖星獣 |publisher = [[エニックス]] |year = 1989 |pages = 10,17-24,33-35,52,65,109,112-114,168-170,173,174 |isbn = 978-4-900527-09-6}}</ref> * 2061年 - 謎の宇宙生命体がハレー大彗星を拠点として地球を攻撃。5次に渡るハレー攻撃の失敗により艦隊が全滅した後、人類が総力を集めて完成させた1機のスターシップによる「第6次ハレー攻撃作戦」が開始される。(ゲーム『[[ハレーズコメット#移植版|ハレーウォーズ]]』)<ref>[[ゲームギア]]版『ハレーウォーズ』パッケージ、[[タイトー]]、1991年、裏面。</ref> * [[2062年]]- 宇宙船「ファイアボールXL-5」が発進。(特撮テレビ番組『[[宇宙船XL-5]]』) * 2062年 - 「ファミコン人間国宝ありの」の時代設定。(バラエティ番組『[[ゲームセンターCX]]』) * 2062年 - [[軌道エレベーター|軌道エレベータ]]の所有権を巡り自由宇宙軍と対立陣営が交戦。自由宇宙軍による軌道エレベータのエネルギープラント破壊作戦の際に使用された「時空震動弾」が暴走し、世界は複数の[[平行宇宙|多元世界]]が混じり合った「混乱時空」と化してしまう。(アニメ『[[超時空世紀オーガス]]』)<ref>[http://www.toei-video.co.jp/BD/orguss.html 超時空世紀オーガス/超時空世紀オーガス02 特集] - [[東映ビデオ]]公式サイト。2016年6月19日閲覧。</ref> * [[2063年]][[4月5日]] - [[ゼフラム・コクレーン]]が建造した宇宙船「フェニックス号」が人類初のワープ航宙に成功し、[[ヴァルカン人]]とファーストコンタクトする。(映画『[[スタートレック ファーストコンタクト]]』) * 2063年 - 東洋人の物理学者が「自我次元理論」を発表。自我の発生メカニズムが物理的に証明される。(TRPG『[[永い後日談のネクロニカ]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 神谷涼|authorlink=神谷涼 (ゲームデザイナー) |title = 永い後日談のネクロニカ |publisher = [[パッチワークス]] |year = 2013 |pages = 22, 28,31,32 |isbn = 978-4-9905804-0-7}}</ref> * [[2064年]]7月 - 救世軍(サルベージョン・アーミー)により敵性生物「プラネリアム」の大規模生成晶集積「L.O.P.」に対する殲滅作戦「シナリオ11」が行われ、強襲偵察部隊のうちルノア・キササゲ曹長ら3名が作戦を成功させ生還する。(小説『[[E.G.コンバット]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 秋山瑞人|authorlink=秋山瑞人 |title = E.G.コンバット |publisher = [[メディアワークス]] |year = 1998 |pages = 35,36,50,83,84 |isbn = 978-4-8402-0900-7}}</ref> * 2064年 - 銀河中心方向へ定加速航行を続ける航空宇宙軍外宇宙艦隊のオディセウス級観測艦、通称「オディセウス-0」が、太陽系近傍宙域から銀河中心へと延びる「シャフト」(超光速空間流)を発見。その後、シャフトからの離脱を試みた際に発生した事故によって、マヤ・シマザキ中尉とサイボーグ探査船「ヴィシュヌ」を除くオディセウス-0の全乗員が死亡する。(小説『[[航空宇宙軍史]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 谷甲州|authorlink=谷甲州 |title = [[仮装巡洋艦バシリスク|航空宇宙軍史 仮装巡洋艦バシリスク]] |publisher = 早川書房 |year = 1985 |pages = 65-73,106-111 |isbn = 978-4-15-030200-9}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 谷甲州 |title = 航空宇宙軍史 終わりなき索敵〔上〕 |publisher = 早川書房 |year = 1996 |pages = 193,216-228 |isbn = 978-4-15-030569-7}}</ref> * [[2065年]][[12月24日]] - [[オーストラリア]]の原子ステーションが爆発。(特撮人形劇『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』) * 2065年 - 「MOON・CHILD」を名乗る組織が、機動兵器軍を用いて統合地球国家を攻撃し地球を制圧。S・D・F(宇宙軍)壊滅後に建設途中のコロニーに軟禁されていたエリノア・ワイゼンが、特殊戦闘機「G.G.アレスタ」を駆って地球奪還に挑む。(ゲーム『[[アレスタ#シリーズ作品|GGアレスタ]]』)<ref>『GGアレスタ』取扱説明書 [[コンパイル (企業)|コンパイル]]、1991年、6・7頁。</ref> * 2065年 - 有人[[火星探査機|火星探査船]]「ゼロX号」が地球を発進しようとするが、妨害工作によって海上に墜落する。(映画『[[サンダーバード 劇場版]]』) * 2065年 - [[銀河系]]脱出を目前にした宇宙艦「ヴァリアント号」が[[銀河バリア]]に接触し遭難、その後何らかの原因によって破壊される。(特撮テレビドラマ『[[宇宙大作戦]]』) * [[2066年]] - 世界連邦樹立。地球の平和・安全を守るための組織「テクノボイジャー」が結成される。(アニメ『[[科学救助隊テクノボイジャー]]』) * 2066年冬 - [[中華人民共和国|中国]]軍が米・[[アラスカ]]に侵攻。[[アンカレッジ]]が戦場と化す。(ゲーム『[[Fallout3|Fallout]]』シリーズ) * [[2067年]][[4月19日]] - 救世軍のルノア・キササゲ大尉が、第十三期オルドリン訓練生・多脚機甲戦略学科第二群222班D隊の教官として月面オルドリン基地に着任する。(小説『[[E.G.コンバット]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = 秋山瑞人 |title = E.G.コンバット |publisher = メディアワークス |year = 1998 |pages = 22-24,34,66-76,128-137 |isbn = 978-4-8402-0900-7}}</ref> * 2067年 - 再建されたゼロX号が地球を発進し、6週間の旅を経て人類初の火星着陸に成功する。(映画『サンダーバード 劇場版』) * 2067年 - 星間[[宇宙探査機|探査機]]「フレンドシップ1号」が打ち上げられるが、デルタ宇宙域で行方不明になる。(テレビドラマ『[[スタートレック:ヴォイジャー]]』) * 2067年 - 日本、ハイテクを国力の根拠に鎖国を決行。(映画『[[ベクシル 2077日本鎖国|ベクシル -2077日本鎖国-]]』)<ref>[http://www.vexille.jp/story.html STORY] - ベクシル -2077日本鎖国- Vexille 公式サイト。2016年6月19日閲覧。</ref> * [[2068年]] - [[スペースガード]]によって、探査機「エクスカリバー」を用いた[[太陽系小天体]]の軌道の大々的な調査が行われる。(小説『[[神の鉄槌]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author = アーサー・C・クラーク |title = 神の鉄槌 |publisher = 早川書房 |year = 1998 |pages = 122-127 |isbn = 978-4-15-011235-6}}</ref> * 2068年 - ブラック大尉ら特殊安全機構軍「スペクトラム」の火星派遣軍が、誤って宇宙生命体「ミステロン」の火星基地を攻撃。これを受けてミステロンは地球攻撃を宣言する。(特撮ドラマ『[[キャプテン・スカーレット]]』)<ref>[http://www.superdramatv.com/line/c_scarlet/story/ キャプテンスカーレット 完全版 ストーリー] - [[スーパー!ドラマTV|スーパー!ドラマTV]]。2016年6月19日閲覧。</ref> * 2068年 - アイザック・オリードによって有機生命体を放出源とする特異素粒子「霊子」の存在と、それに基づく力学説「霊子力学」が提唱される。実証は[[22世紀|2137年]]。(ゲーム『[[サイヴァリア]]』)<ref>[https://www.success-corp.co.jp/software/ac/revision/prologue.html プロローグ] - 『サイヴァリア リビジョン』公式サイト。2018年10月31日閲覧。</ref> * [[2069年]] - アメリカの有知類探査隊が火星で宝石「星のかけら」を発見。これは[[22世紀|2148年]]に、第1異星人「グレートワイズマン」が残した空間接続素子だと判明する。(ゲーム『[[絢爛舞踏祭]]』)<ref>[https://web.archive.org/web/20061216133938/http://www.kenran.net/worldview10.html 絢爛世界の紹介 第10回「第1異星人」] - 『絢爛舞踏祭』公式サイト([[インターネットアーカイブ]])、2016年2月25日閲覧。</ref> * 2069年 - 人類と異星人「ネイラム第三氏族」が友好的に接触する。また、日本政府および日本スターシステム社が開発を行っていたN-1星系で最初の植民衛星が完成する。(小説『[[地球連邦の興亡]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 佐藤大輔|authorlink=佐藤大輔 |title = 地球連邦の興亡1 オリオンに我らの旗を |year = 2015 |publisher = [[中央公論新社]] |pages = 113,114,168-171 |isbn = 978-4-12-206167-5 }}</ref> * 2069年 - [[ケンタウルス座]]方面から[[くじら座タウ星|鯨座タウ星]]へと向かうコースを取って、異星人「スターホルム人」の恒星間宇宙探測機「スターグライダー」が太陽系を通過。その間にスターグライダーと人類の間で通信による情報交換が行われる。(小説『{{仮リンク|楽園の泉|en|The Fountains of Paradise}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author = アーサー・C・クラーク |title = 楽園の泉 |publisher = 早川書房 |year = 1987 |pages = 98-101,109,110,240,241 |isbn = 978-4-15-011546-3}}</ref> == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=3|世紀=21|年代=2000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:2060ねんたい}} [[Category:2060年代|*]]
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ユーロ紙幣
ユーロ紙幣(ユーロしへい)とは、ユーロ圏などで使用されている通貨ユーロの紙幣。ユーロ紙幣は2002年から流通され、発券は欧州中央銀行が担っており、各紙幣には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。現在発行されているユーロ紙幣には5ユーロから200ユーロまでの6種類があり、発券はユーロ圏の各国で行なわれているが、ユーロ硬貨と違ってデザインはユーロ圏で統一されている。 2002年から発行されたユーロ初の紙幣である。紙は純綿繊維で、独特の手触りを持つほか、耐久性に優れている。第一シリーズには7つの金種があり、それぞれ異なる色と大きさになっていたが、のちに500ユーロ紙幣については他の主要通貨と比しても高額であり、マネーロンダリングに使用される懸念などがあったことから2019年4月26日までにすべてのユーロ加盟国において印刷が終了している。既に発行済の500ユーロ紙幣についてはこれまでどおり使用が可能であるが、市中にはほぼ出回っていない。 これらのデザインは1996年2月12日から開始された欧州通貨機構の理事会による選考で集められた44の図案から選ばれたものである。選ばれた図案はオーストリア国立銀行のロベルト・カリーナ(英語)が作成したもので、1996年12月3日に採用が決定された。 すべての紙幣に共通して印刷されているのは、欧州旗、欧州中央銀行の5つの言語における略称(BCE, ECB, EZB, ΕΚΤ, EKP)、裏面のヨーロッパの地図、ユーロのラテン文字表記 (EURO) とギリシア文字表記(ΕΥΡΩ)、現任の欧州中央銀行総裁の署名である。また欧州旗に描かれている12個の星の円環も描かれている。 各金種のデザインは時代ごとのヨーロッパの建築物という共通の主題を持っている。紙幣表面は窓や門が描かれているのに対して、裏面は橋が描かれている。紙幣に描かれた建造物は欧州連合域内の名所旧跡を連想させるように描かれており、ヨーロッパ中にある無数の歴史的な橋や門に普遍的な要素を合成した、各時代の建築様式を表現した架空のもので、実在の建造物ではない。たとえば5ユーロ紙幣は古典古代を表現したもので、10ユーロ紙幣はロマネスク、20ユーロ紙幣はゴシック、50ユーロ紙幣はルネサンス、100ユーロ紙幣はバロックとロココ、200ユーロ紙幣はアール・ヌーヴォー(鉄とガラスの時代)、500ユーロ紙幣は近代の様式を表現している。ところがオランダ銀行による調査では、5ユーロ紙幣の主題がわかったのは 2%、50ユーロ紙幣にいたっては 1% しかわからなかったという結果が出されている。ユーロ紙幣には特定の建築物の特徴を描いてはならないということになっていたが、ロベルト・カリーナによる原案では、ヴェネツィアのリアルト橋やパリのヌイイ橋といった実際の橋を描いたものとなっていたため、のちに一般的な建築様式の特徴に改められた。ところが決定稿では試作のデザインにきわめて似たものとなったため、完全に一般的な表現とはいえないものとなっている。 裏面に描かれている地図にはユーロを導入している加盟国の海外領土(アゾレス諸島、フランス領ギアナ、グアドループ、マデイラ諸島、マルティニーク、レユニオン、カナリア諸島)が描かれている。 表面には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。当初の紙幣にはウィム・ドイセンベルクのものが、2003年11月以降に印刷された紙幣にはジャン=クロード・トリシェの署名が入っている。 欧州中央銀行では7年から8年ごとに紙幣を再設計することになっており、それに従って二番目のシリーズが開発され、2013年から順次発行・切り替えが行われた。金種は第一シリーズから1種類減って6つとなった。 第二シリーズでは2002年以降に27にまで増えた欧州連合加盟国がデザインに反映された。新しい製造技術と偽造防止技術が採用されたが、基本的なデザインや色調は第一シリーズから踏襲された。また欧州中央銀行の略称表記も、従来のものに、キリル文字(ЕЦБ)、ハンガリー語 (EKB)、マルタ語 (BĊE)、ポーランド語 (EBC) によるものが加えられる。さらに「ユーロ」の表記についてもキリル文字の「ЕВРO」が加えられる。ユーロ圏各国では「ユーロ」の表記についてさまざまなものがありえるが、欧州中央銀行の方針ではラテン文字を使う国についてはすべて euro で統一することとしている。 欧州中央銀行総裁のサインが入る伝統も踏襲され、当初発行された第二シリーズにはマリオ・ドラギのサインが入った。 2021年12月、欧州中央銀行は2024年までにユーロ紙幣のデザインを変更する計画を発表した。 ユーロ圏各国から1名ずつで構成されるテーマアドバイザリーグループが選ばれ、欧州中央銀行にテーマ案を提出した。案の中から一般市民の投票でテーマが決定された後、デザインコンペティションが開催される予定である。 ユーロに移行する以前の通貨の紙幣にも視覚障害者のための工夫がなされていたが、ユーロの導入にあたっては視覚障害者の団体に意見を求め、ユーロ紙幣には当初から視覚障害者団体と協力して取り入れた様々な工夫がある。全盲者のためのものに加え、ロービジョン者(紙幣そのものは見えるが印刷内容が読み取れない視覚障害者)のためのものもある。 ユーロ紙幣は額面とともにその寸法も大きくなっており、視覚障害者や全盲者が金種を判別できるようになっている。また紙幣の基調色も金種の順番で暖色と寒色が交互になっており、色を判別できる人に対して近い2つの額面を混同させにくくしている。さらに額面部分の印刷には凹版印刷が施されており、指先の触覚だけで金種を判別できるようにしている。5, 10, 20ユーロの低額紙幣には表面右側にホログラムの入った帯状の金属箔が、高額紙幣にはホログラムの入った四角の金属箔が付けられている。200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣の縁には触知できる模様があり、200ユーロ紙幣には下部中央から右の角にかけて縦の線が、500ユーロ紙幣には右端に斜めの線が走っている。 欧州中央銀行はユーロ紙幣の安全対策のなかでも基本的なものの一部を明らかにしており、一般の人が見た目でユーロ紙幣の真贋を判断できるようにしている。その一方で安全性の観点から、安全対策の全般は極秘となっている。 公式に明らかにされているもの、また一般の人が独自に見つけたものを数えると、ユーロ紙幣には少なくとも13の安全対策が施されている。 5, 10, 20ユーロ紙幣には表面右側にホログラムの入った帯状の金属箔が貼り付けられている。この金属箔には紙幣の額面が浮かび上がるようになっている。 他方で50ユーロ以上の額面の紙幣には帯状のものではなく、四角形のようなシールが貼り付けられている。 低額紙幣には右隅に、50ユーロ以上の額面の紙幣には裏面に光学的変化インクが使われている。角度を変えて見ると紫から緑に変色するようになっている。 紙幣には1枚ずつに記番号が記されている。この記番号の末尾の数字は1から9で表される検査数字であり、記番号は次の規則を満たすものとなっている。先頭の文字をアルファベットの順番の数字(L は12、M は13...、Z は26)に置き換え、すべての数字の和を9で割ったときの余りが8となるようにされている。なおある数を9で割ったときの余りを容易に確認するには、その数の各桁の数の和を求め、その和が2桁以上であれば和が1桁になるまで各桁の数を足す計算を繰り返し、和が1桁になればその数が求める余りとなる。 例として紙幣の記番号が Z10708476264 であれば、まずは Z を26と考えたうえで残りの番号の数を足していけばよい。つまり、26 + 1 + 0 + 7 + 0 + 8 + 4 + 7 + 6 + 2 + 6 + 4 = 71、 7 + 1 = 8 となり、規則を満たすものとなっている。 記番号の先頭の文字を別の法則で置き換えると異なる余りが得られることになる。例えば先頭の文字を ASCII の10進数の数値とすれば、記番号の数の和を9で割ると余りは0となる。 別の例として紙幣の記番号が Z10708476264 であれば、ASCII コードで Z に割り当てられている10進数は90であるから、記番号は 9010708476264 に置き換えられる。この番号の各桁の数の和は 9 + 0 + 1 + 0 + 7 + 0 + 8 + 4 + 7 + 6 + 2 + 6 + 4 = 54 で、5 + 4 = 9 となるため、この記番号は9で割り切れ、余りは0となる。 ユーロ紙幣には「ユーリオン」と呼ばれる、紙幣の複製防止のために用いられる模様が入れられている。コピー機や画像処理ソフトウェアの中には、ユーリオンが含まれている画像の複写や使用を受け付けないように設定されているものがある。 各金種にはそれぞれで透かしが入れられている。この透かしは紙幣を光にかざすと浮かび上がるようになっている。 ユーリオンのように、デジマーク社の電子透かしが紙幣に埋め込まれている。Adobe Photoshop や Corel Paint Shop Pro などの画像編集ソフトウェアは紙幣の加工を受け付けないようになっている。 紙幣に赤外線を照射すると、金種によって異なるが、黒っぽくなる部分がある。また紫外線光を照射するとよりはっきりとユーリオン模様が見え、蛍光糸が浮かび上がる。 表面左上隅の紙幣額面と裏面右上隅の紙幣額面は、光を透かして紙幣を見ると、額面が完全に表示されるようになるレジストレーションが施されている。真券は表裏でずれることなく額面が表示されるようになっているが、偽紙幣など正確に印刷されていないものは数字がずれて表示される。 ユーロ紙幣にはほかの部分と違う質感を持つ部分がある。"BCE ECB EZB" と印刷されている部分は隆起しているように感じられる。 ユーロ紙幣を光に向けてかざすと、透かしの右のあたりに金属のような複数の線が見える。この線の数と幅で紙幣の金種がわかるようになっている。この部分はマンチェスター符号としてスキャンされる。 (裏面から見て、濃いバーを1、薄いバーを0とする) 紙幣を光源の反対側に置くと、中央部分の黒く磁気を帯びた筋が見える。この筋には紙幣の額面と "EURO" の文字が記されている。 紙幣の一部には磁気インクで印刷された箇所がある。たとえば20ユーロ紙幣に描かれている教会の1番右側の窓とその上方にある大きな 0 の文字は磁気を帯びている。 表面下方にある線、例えば10ユーロ紙幣のΕΥΡΩの右側にあるものは非常に小さい文字で EURO ΕΥΡΩと印刷されている。 縦の帯状の部分に45度の角度で光を当てるとユーロ記号と額面が浮かび上がるようになっている。この加工は5, 10, 20ユーロのみに施されている。 2002年の流通開始からユーロ紙幣・硬貨の偽造は急速に増加している。 2003年には551,287枚の偽造紙幣が、26,191枚の偽造硬貨が回収されている。2004年、フランスの警察は2か所の工場から10ユーロと20ユーロのおよそ180万ユーロに相当する偽造紙幣を押収しており、この工場で製造された偽造紙幣145,000枚が市中に出回っているものと見られている。 2008年7月、欧州中央銀行は偽ユーロ紙幣の枚数は増え続けており、2008年上半期に押収された偽造紙幣の枚数は前期比で15%以上も増加したと発表した。このうち50ユーロと20ユーロの偽造紙幣が多くを占めており、また精度の高い200ユーロや500ユーロの偽造紙幣も作られているとも述べている。 硬貨とは異なり、ユーロ紙幣はその紙幣を発券した国が独自にデザインを定めているものではない。そのかわり、紙幣の記番号の先頭の文字で発券された国がわかるようになっている。 記番号の先頭の文字はその紙幣を発券した国を示すものである。その後に続く13桁の数字は上述のチェックサムとなっており、各桁の数を足していき、その和が2桁以上であれば再度各桁の数の和を求め、1桁になったその数によっても発券した国がわかるようになっている。チェックサムの規則のため記番号は連続したものとなっておらず、9ずつ増加したものとなっている。 記番号の先頭に使われる文字でも、W, K, J は、現在ユーロを導入していない欧州連合加盟国が将来使用するために残されている。また R はユーロを導入していても発券を行なっていない国に割り当てられている。 記番号の先頭の文字は Z から順に、それぞれの国の公用語で表記した国名のアルファベット順で決められている。 アルファベット以外の11桁の記番号のチェックサム ルクセンブルクはユーロ紙幣の印刷を行なったことがなく、記番号の先頭の文字が「R」となっているユーロ紙幣は流通していない。 ユーロ圏が拡大した2007年1月からはスロベニアにも記番号の先頭の文字が割り当てられたが、導入された当初、スロベニアはほかの国で印刷されたユーロ紙幣が流通された。そのためスロベニアではなくフランスで2008年4月以前に印刷された、記番号の先頭の文字が「H」のユーロ紙幣が流通している。 キプロスとマルタは2009年にはじめてユーロ紙幣(20ユーロ)を印刷した。 記番号の先頭の文字はユーロ紙幣の流通開始の時点におけるすべての欧州連合加盟国に割り振られており、上記のような順番で「J」までが決められたが、それ以降に欧州連合に加盟した国に割り振られる文字は、ユーロを導入した順番に指定されていくことになる。同時に2か国以上がユーロを導入したときには、上述の順番で文字が指定される。つまり、その国の名称を公用語で表記したさいに、その先頭のアルファベットの順番で記番号の先頭の文字を決めることになる。2007年にユーロを導入したスロベニアには「J」のひとつ前のアルファベットである「H」が割り当てられた。2008年にユーロを導入したキプロスとマルタについては、国名の公用語表記の先頭が K であるキプロスが「G」を、「M」であるマルタが「F」を割り当てられた。さらに、2009年にユーロを導入したスロバキアには「E」が指定されている。 2002年に発券されたユーロ紙幣にはウィム・ドイセンベルクの署名が入っており、この紙幣は全7金種がフィンランド銀行、ポルトガル銀行、オーストリア国立銀行、オランダ銀行、イタリア銀行、アイルランド中央銀行、フランス銀行、スペイン銀行、ドイツ連邦銀行、ギリシャ銀行、ベルギー国立銀行の各中央銀行によって発券された。ただしポルトガル銀行は200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣を、アイルランド中央銀行は200ユーロ紙幣をそれぞれ発券しなかった。このためドイセンベルクの署名が印刷されたユーロ紙幣の発券国と金種の組み合わせは74通り存在することになる。 2002年のユーロ紙幣の流通が開始されたあと、ユーロ圏各国の中央銀行は一部の金種のみを発券していくようになった。たとえば50ユーロ紙幣の発券はユーロ圏のすべての中央銀行のうち、4行のみが担っている。このような分散して発券する体制によって、各中央銀行は発券に先立って別の国で発券された金種と交換しなければならず、またときには複数の印刷所から自らが発券した紙幣を調達することもある。これはつまり、一部の発券国・署名の組み合わせのユーロ紙幣がほかの組み合わせと比べて希少になっているとのである。とくにドイセンベルクの署名が印刷されたフィンランド発券の200ユーロ紙幣、ポルトガル発券の100ユーロ紙幣、アイルランド発券の100ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣、ギリシャ発券の200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣は数が少ない。また2003年以降に発券されたジャン=クロード・トリシェの署名が印刷されたユーロ紙幣は必ずしもすべての金種がすべてのユーロ圏の国で見かけることができるものではない。2007年末の時点で、トリシェの署名が印刷されたユーロ紙幣の発券国と金種の組み合わせは77通りがありえるはずだが、実際には30通りしか確認されていなかった。また2008年にはスロベニア銀行が発券した、記番号の先頭の文字が "H" となっている紙幣が流通されるようになり、発券国・金種の組み合わせは増えていくことになる。 7種のそれぞれの額面の紙幣には、印刷情報が特定できるような6文字の小さな印刷コードが記載されている。 この印刷コードは、先頭はアルファベット、続いて3桁の数字、アルファベット1文字、1桁の数字で構成されている(例:G013B6)。 先頭の文字は印刷所を示している。たとえば「G」はオランダのヨハン・エンシェーデのコードである。続く3桁の数字は紙幣の印刷版の版数を示している。例の「013」はその印刷所で作成された13番目の印刷版で印刷したということを示す。5桁目にあるアルファベットと6桁目の数字はそれぞれ印刷版の縦と横の位置を示しており、「B6」は縦の2段目、横の6列目を表している。 紙幣は複数のものがつながったシートの形で印刷されるが、印刷所によってシートの大きさが異なっている。これは額面が高くなるにつれて紙幣が大きくなるためで、同じ大きさのシートであれば作成される紙幣の枚数は少なくなる。たとえばドイツの2つの印刷所では1枚のシートで5ユーロ紙幣を60枚(縦10段、横6列)印刷するが、10ユーロ紙幣であれば54枚(縦9段、横6列)、20ユーロ紙幣であれば45枚(縦9段、横5列)が印刷される。 印刷所コードは国別コードと一致させる必要はなく、ある国が発券した紙幣が別の国で印刷されるということがある。紙幣を印刷する工場には国有のもののほかに民間のものがあり、それらの工場はユーロ以前にはそれぞれの旧通貨を印刷していた。紙幣を発券する国にはそれぞれ1か所ずつ、国有の(あるいは国有だった)印刷所があるが、ドイツについては、旧東ドイツと旧西ドイツのそれぞれの印刷所があり、これらは両方ともが現在はユーロ紙幣を印刷している。またフランスも民間のフランソワ=シャルル・オーベルテュールとフランス銀行印刷所の2か所がある。現在はユーロを印刷していないものの、イギリスも民間のデ・ラ・ルーとイングランド銀行印刷所の2か所がある。 ユーロ紙幣のうち200ユーロ紙幣の紙幣流通総量に占める割合は4%(2018年現在)、流通金額は500億ユーロで約6兆円である(2019年5月7日現在)。また、100ユーロ紙幣の紙幣流通総量に占める割合は23%(2018年現在)、流通金額は2,720億ユーロで約34兆円である(2019年5月7日現在)。 イタリア、ギリシャ、オーストリアとスロベニアでは低額のユーロ紙幣の導入が求められてきた。欧州中央銀行は「1ユーロ紙幣1枚あたりの印刷費用は1ユーロ硬貨1枚あたりの鋳造費用よりも高く、また耐久性が低い」としている。また、2004年11月18日には、きわめて低い額面の紙幣はユーロ圏全体での需要が少ないとも判断した。ところが、2005年10月25日、欧州議会において半数以上の議員が欧州委員会と欧州中央銀行に対して1ユーロ紙幣と2ユーロ紙幣の導入の明確な必要性を認識するよう求める動議を採択している。ただし、この動議の採択があっても欧州中央銀行は欧州議会に対してただちに回答する義務を負ってはいない。 ユーロ圏では記念紙幣として額面が0のユーロ紙幣が発行されている。2017年5月に宗教改革500年を記念してマルチン・ルターの肖像入り0ユーロ紙幣がドイツの宗教研究団体gott.netによって作られた。価格は2ユーロ。 2018年4月にはカール・マルクスの生誕200年を記念し、出身地であるトリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0ユーロ紙幣を3ユーロで発売したところ、購入希望者が殺到したため増刷する事態となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ユーロ紙幣(ユーロしへい)とは、ユーロ圏などで使用されている通貨ユーロの紙幣。ユーロ紙幣は2002年から流通され、発券は欧州中央銀行が担っており、各紙幣には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。現在発行されているユーロ紙幣には5ユーロから200ユーロまでの6種類があり、発券はユーロ圏の各国で行なわれているが、ユーロ硬貨と違ってデザインはユーロ圏で統一されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2002年から発行されたユーロ初の紙幣である。紙は純綿繊維で、独特の手触りを持つほか、耐久性に優れている。第一シリーズには7つの金種があり、それぞれ異なる色と大きさになっていたが、のちに500ユーロ紙幣については他の主要通貨と比しても高額であり、マネーロンダリングに使用される懸念などがあったことから2019年4月26日までにすべてのユーロ加盟国において印刷が終了している。既に発行済の500ユーロ紙幣についてはこれまでどおり使用が可能であるが、市中にはほぼ出回っていない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これらのデザインは1996年2月12日から開始された欧州通貨機構の理事会による選考で集められた44の図案から選ばれたものである。選ばれた図案はオーストリア国立銀行のロベルト・カリーナ(英語)が作成したもので、1996年12月3日に採用が決定された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "すべての紙幣に共通して印刷されているのは、欧州旗、欧州中央銀行の5つの言語における略称(BCE, ECB, EZB, ΕΚΤ, EKP)、裏面のヨーロッパの地図、ユーロのラテン文字表記 (EURO) とギリシア文字表記(ΕΥΡΩ)、現任の欧州中央銀行総裁の署名である。また欧州旗に描かれている12個の星の円環も描かれている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "各金種のデザインは時代ごとのヨーロッパの建築物という共通の主題を持っている。紙幣表面は窓や門が描かれているのに対して、裏面は橋が描かれている。紙幣に描かれた建造物は欧州連合域内の名所旧跡を連想させるように描かれており、ヨーロッパ中にある無数の歴史的な橋や門に普遍的な要素を合成した、各時代の建築様式を表現した架空のもので、実在の建造物ではない。たとえば5ユーロ紙幣は古典古代を表現したもので、10ユーロ紙幣はロマネスク、20ユーロ紙幣はゴシック、50ユーロ紙幣はルネサンス、100ユーロ紙幣はバロックとロココ、200ユーロ紙幣はアール・ヌーヴォー(鉄とガラスの時代)、500ユーロ紙幣は近代の様式を表現している。ところがオランダ銀行による調査では、5ユーロ紙幣の主題がわかったのは 2%、50ユーロ紙幣にいたっては 1% しかわからなかったという結果が出されている。ユーロ紙幣には特定の建築物の特徴を描いてはならないということになっていたが、ロベルト・カリーナによる原案では、ヴェネツィアのリアルト橋やパリのヌイイ橋といった実際の橋を描いたものとなっていたため、のちに一般的な建築様式の特徴に改められた。ところが決定稿では試作のデザインにきわめて似たものとなったため、完全に一般的な表現とはいえないものとなっている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "裏面に描かれている地図にはユーロを導入している加盟国の海外領土(アゾレス諸島、フランス領ギアナ、グアドループ、マデイラ諸島、マルティニーク、レユニオン、カナリア諸島)が描かれている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "表面には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。当初の紙幣にはウィム・ドイセンベルクのものが、2003年11月以降に印刷された紙幣にはジャン=クロード・トリシェの署名が入っている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "欧州中央銀行では7年から8年ごとに紙幣を再設計することになっており、それに従って二番目のシリーズが開発され、2013年から順次発行・切り替えが行われた。金種は第一シリーズから1種類減って6つとなった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第二シリーズでは2002年以降に27にまで増えた欧州連合加盟国がデザインに反映された。新しい製造技術と偽造防止技術が採用されたが、基本的なデザインや色調は第一シリーズから踏襲された。また欧州中央銀行の略称表記も、従来のものに、キリル文字(ЕЦБ)、ハンガリー語 (EKB)、マルタ語 (BĊE)、ポーランド語 (EBC) によるものが加えられる。さらに「ユーロ」の表記についてもキリル文字の「ЕВРO」が加えられる。ユーロ圏各国では「ユーロ」の表記についてさまざまなものがありえるが、欧州中央銀行の方針ではラテン文字を使う国についてはすべて euro で統一することとしている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "欧州中央銀行総裁のサインが入る伝統も踏襲され、当初発行された第二シリーズにはマリオ・ドラギのサインが入った。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2021年12月、欧州中央銀行は2024年までにユーロ紙幣のデザインを変更する計画を発表した。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ユーロ圏各国から1名ずつで構成されるテーマアドバイザリーグループが選ばれ、欧州中央銀行にテーマ案を提出した。案の中から一般市民の投票でテーマが決定された後、デザインコンペティションが開催される予定である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ユーロに移行する以前の通貨の紙幣にも視覚障害者のための工夫がなされていたが、ユーロの導入にあたっては視覚障害者の団体に意見を求め、ユーロ紙幣には当初から視覚障害者団体と協力して取り入れた様々な工夫がある。全盲者のためのものに加え、ロービジョン者(紙幣そのものは見えるが印刷内容が読み取れない視覚障害者)のためのものもある。", "title": "視覚障害者に対する工夫" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ユーロ紙幣は額面とともにその寸法も大きくなっており、視覚障害者や全盲者が金種を判別できるようになっている。また紙幣の基調色も金種の順番で暖色と寒色が交互になっており、色を判別できる人に対して近い2つの額面を混同させにくくしている。さらに額面部分の印刷には凹版印刷が施されており、指先の触覚だけで金種を判別できるようにしている。5, 10, 20ユーロの低額紙幣には表面右側にホログラムの入った帯状の金属箔が、高額紙幣にはホログラムの入った四角の金属箔が付けられている。200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣の縁には触知できる模様があり、200ユーロ紙幣には下部中央から右の角にかけて縦の線が、500ユーロ紙幣には右端に斜めの線が走っている。", "title": "視覚障害者に対する工夫" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "欧州中央銀行はユーロ紙幣の安全対策のなかでも基本的なものの一部を明らかにしており、一般の人が見た目でユーロ紙幣の真贋を判断できるようにしている。その一方で安全性の観点から、安全対策の全般は極秘となっている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "公式に明らかにされているもの、また一般の人が独自に見つけたものを数えると、ユーロ紙幣には少なくとも13の安全対策が施されている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "5, 10, 20ユーロ紙幣には表面右側にホログラムの入った帯状の金属箔が貼り付けられている。この金属箔には紙幣の額面が浮かび上がるようになっている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "他方で50ユーロ以上の額面の紙幣には帯状のものではなく、四角形のようなシールが貼り付けられている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "低額紙幣には右隅に、50ユーロ以上の額面の紙幣には裏面に光学的変化インクが使われている。角度を変えて見ると紫から緑に変色するようになっている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "紙幣には1枚ずつに記番号が記されている。この記番号の末尾の数字は1から9で表される検査数字であり、記番号は次の規則を満たすものとなっている。先頭の文字をアルファベットの順番の数字(L は12、M は13...、Z は26)に置き換え、すべての数字の和を9で割ったときの余りが8となるようにされている。なおある数を9で割ったときの余りを容易に確認するには、その数の各桁の数の和を求め、その和が2桁以上であれば和が1桁になるまで各桁の数を足す計算を繰り返し、和が1桁になればその数が求める余りとなる。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "例として紙幣の記番号が Z10708476264 であれば、まずは Z を26と考えたうえで残りの番号の数を足していけばよい。つまり、26 + 1 + 0 + 7 + 0 + 8 + 4 + 7 + 6 + 2 + 6 + 4 = 71、 7 + 1 = 8 となり、規則を満たすものとなっている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "記番号の先頭の文字を別の法則で置き換えると異なる余りが得られることになる。例えば先頭の文字を ASCII の10進数の数値とすれば、記番号の数の和を9で割ると余りは0となる。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "別の例として紙幣の記番号が Z10708476264 であれば、ASCII コードで Z に割り当てられている10進数は90であるから、記番号は 9010708476264 に置き換えられる。この番号の各桁の数の和は 9 + 0 + 1 + 0 + 7 + 0 + 8 + 4 + 7 + 6 + 2 + 6 + 4 = 54 で、5 + 4 = 9 となるため、この記番号は9で割り切れ、余りは0となる。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ユーロ紙幣には「ユーリオン」と呼ばれる、紙幣の複製防止のために用いられる模様が入れられている。コピー機や画像処理ソフトウェアの中には、ユーリオンが含まれている画像の複写や使用を受け付けないように設定されているものがある。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "各金種にはそれぞれで透かしが入れられている。この透かしは紙幣を光にかざすと浮かび上がるようになっている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ユーリオンのように、デジマーク社の電子透かしが紙幣に埋め込まれている。Adobe Photoshop や Corel Paint Shop Pro などの画像編集ソフトウェアは紙幣の加工を受け付けないようになっている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "紙幣に赤外線を照射すると、金種によって異なるが、黒っぽくなる部分がある。また紫外線光を照射するとよりはっきりとユーリオン模様が見え、蛍光糸が浮かび上がる。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "表面左上隅の紙幣額面と裏面右上隅の紙幣額面は、光を透かして紙幣を見ると、額面が完全に表示されるようになるレジストレーションが施されている。真券は表裏でずれることなく額面が表示されるようになっているが、偽紙幣など正確に印刷されていないものは数字がずれて表示される。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ユーロ紙幣にはほかの部分と違う質感を持つ部分がある。\"BCE ECB EZB\" と印刷されている部分は隆起しているように感じられる。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ユーロ紙幣を光に向けてかざすと、透かしの右のあたりに金属のような複数の線が見える。この線の数と幅で紙幣の金種がわかるようになっている。この部分はマンチェスター符号としてスキャンされる。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "(裏面から見て、濃いバーを1、薄いバーを0とする)", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "紙幣を光源の反対側に置くと、中央部分の黒く磁気を帯びた筋が見える。この筋には紙幣の額面と \"EURO\" の文字が記されている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "紙幣の一部には磁気インクで印刷された箇所がある。たとえば20ユーロ紙幣に描かれている教会の1番右側の窓とその上方にある大きな 0 の文字は磁気を帯びている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "表面下方にある線、例えば10ユーロ紙幣のΕΥΡΩの右側にあるものは非常に小さい文字で EURO ΕΥΡΩと印刷されている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "縦の帯状の部分に45度の角度で光を当てるとユーロ記号と額面が浮かび上がるようになっている。この加工は5, 10, 20ユーロのみに施されている。", "title": "安全対策" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2002年の流通開始からユーロ紙幣・硬貨の偽造は急速に増加している。", "title": "偽造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2003年には551,287枚の偽造紙幣が、26,191枚の偽造硬貨が回収されている。2004年、フランスの警察は2か所の工場から10ユーロと20ユーロのおよそ180万ユーロに相当する偽造紙幣を押収しており、この工場で製造された偽造紙幣145,000枚が市中に出回っているものと見られている。", "title": "偽造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2008年7月、欧州中央銀行は偽ユーロ紙幣の枚数は増え続けており、2008年上半期に押収された偽造紙幣の枚数は前期比で15%以上も増加したと発表した。このうち50ユーロと20ユーロの偽造紙幣が多くを占めており、また精度の高い200ユーロや500ユーロの偽造紙幣も作られているとも述べている。", "title": "偽造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "硬貨とは異なり、ユーロ紙幣はその紙幣を発券した国が独自にデザインを定めているものではない。そのかわり、紙幣の記番号の先頭の文字で発券された国がわかるようになっている。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "記番号の先頭の文字はその紙幣を発券した国を示すものである。その後に続く13桁の数字は上述のチェックサムとなっており、各桁の数を足していき、その和が2桁以上であれば再度各桁の数の和を求め、1桁になったその数によっても発券した国がわかるようになっている。チェックサムの規則のため記番号は連続したものとなっておらず、9ずつ増加したものとなっている。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "記番号の先頭に使われる文字でも、W, K, J は、現在ユーロを導入していない欧州連合加盟国が将来使用するために残されている。また R はユーロを導入していても発券を行なっていない国に割り当てられている。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "記番号の先頭の文字は Z から順に、それぞれの国の公用語で表記した国名のアルファベット順で決められている。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "アルファベット以外の11桁の記番号のチェックサム", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ルクセンブルクはユーロ紙幣の印刷を行なったことがなく、記番号の先頭の文字が「R」となっているユーロ紙幣は流通していない。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ユーロ圏が拡大した2007年1月からはスロベニアにも記番号の先頭の文字が割り当てられたが、導入された当初、スロベニアはほかの国で印刷されたユーロ紙幣が流通された。そのためスロベニアではなくフランスで2008年4月以前に印刷された、記番号の先頭の文字が「H」のユーロ紙幣が流通している。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "キプロスとマルタは2009年にはじめてユーロ紙幣(20ユーロ)を印刷した。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "記番号の先頭の文字はユーロ紙幣の流通開始の時点におけるすべての欧州連合加盟国に割り振られており、上記のような順番で「J」までが決められたが、それ以降に欧州連合に加盟した国に割り振られる文字は、ユーロを導入した順番に指定されていくことになる。同時に2か国以上がユーロを導入したときには、上述の順番で文字が指定される。つまり、その国の名称を公用語で表記したさいに、その先頭のアルファベットの順番で記番号の先頭の文字を決めることになる。2007年にユーロを導入したスロベニアには「J」のひとつ前のアルファベットである「H」が割り当てられた。2008年にユーロを導入したキプロスとマルタについては、国名の公用語表記の先頭が K であるキプロスが「G」を、「M」であるマルタが「F」を割り当てられた。さらに、2009年にユーロを導入したスロバキアには「E」が指定されている。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2002年に発券されたユーロ紙幣にはウィム・ドイセンベルクの署名が入っており、この紙幣は全7金種がフィンランド銀行、ポルトガル銀行、オーストリア国立銀行、オランダ銀行、イタリア銀行、アイルランド中央銀行、フランス銀行、スペイン銀行、ドイツ連邦銀行、ギリシャ銀行、ベルギー国立銀行の各中央銀行によって発券された。ただしポルトガル銀行は200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣を、アイルランド中央銀行は200ユーロ紙幣をそれぞれ発券しなかった。このためドイセンベルクの署名が印刷されたユーロ紙幣の発券国と金種の組み合わせは74通り存在することになる。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2002年のユーロ紙幣の流通が開始されたあと、ユーロ圏各国の中央銀行は一部の金種のみを発券していくようになった。たとえば50ユーロ紙幣の発券はユーロ圏のすべての中央銀行のうち、4行のみが担っている。このような分散して発券する体制によって、各中央銀行は発券に先立って別の国で発券された金種と交換しなければならず、またときには複数の印刷所から自らが発券した紙幣を調達することもある。これはつまり、一部の発券国・署名の組み合わせのユーロ紙幣がほかの組み合わせと比べて希少になっているとのである。とくにドイセンベルクの署名が印刷されたフィンランド発券の200ユーロ紙幣、ポルトガル発券の100ユーロ紙幣、アイルランド発券の100ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣、ギリシャ発券の200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣は数が少ない。また2003年以降に発券されたジャン=クロード・トリシェの署名が印刷されたユーロ紙幣は必ずしもすべての金種がすべてのユーロ圏の国で見かけることができるものではない。2007年末の時点で、トリシェの署名が印刷されたユーロ紙幣の発券国と金種の組み合わせは77通りがありえるはずだが、実際には30通りしか確認されていなかった。また2008年にはスロベニア銀行が発券した、記番号の先頭の文字が \"H\" となっている紙幣が流通されるようになり、発券国・金種の組み合わせは増えていくことになる。", "title": "記番号" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "7種のそれぞれの額面の紙幣には、印刷情報が特定できるような6文字の小さな印刷コードが記載されている。", "title": "印刷工程" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "この印刷コードは、先頭はアルファベット、続いて3桁の数字、アルファベット1文字、1桁の数字で構成されている(例:G013B6)。", "title": "印刷工程" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "先頭の文字は印刷所を示している。たとえば「G」はオランダのヨハン・エンシェーデのコードである。続く3桁の数字は紙幣の印刷版の版数を示している。例の「013」はその印刷所で作成された13番目の印刷版で印刷したということを示す。5桁目にあるアルファベットと6桁目の数字はそれぞれ印刷版の縦と横の位置を示しており、「B6」は縦の2段目、横の6列目を表している。", "title": "印刷工程" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "紙幣は複数のものがつながったシートの形で印刷されるが、印刷所によってシートの大きさが異なっている。これは額面が高くなるにつれて紙幣が大きくなるためで、同じ大きさのシートであれば作成される紙幣の枚数は少なくなる。たとえばドイツの2つの印刷所では1枚のシートで5ユーロ紙幣を60枚(縦10段、横6列)印刷するが、10ユーロ紙幣であれば54枚(縦9段、横6列)、20ユーロ紙幣であれば45枚(縦9段、横5列)が印刷される。", "title": "印刷工程" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "印刷所コードは国別コードと一致させる必要はなく、ある国が発券した紙幣が別の国で印刷されるということがある。紙幣を印刷する工場には国有のもののほかに民間のものがあり、それらの工場はユーロ以前にはそれぞれの旧通貨を印刷していた。紙幣を発券する国にはそれぞれ1か所ずつ、国有の(あるいは国有だった)印刷所があるが、ドイツについては、旧東ドイツと旧西ドイツのそれぞれの印刷所があり、これらは両方ともが現在はユーロ紙幣を印刷している。またフランスも民間のフランソワ=シャルル・オーベルテュールとフランス銀行印刷所の2か所がある。現在はユーロを印刷していないものの、イギリスも民間のデ・ラ・ルーとイングランド銀行印刷所の2か所がある。", "title": "印刷工程" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ユーロ紙幣のうち200ユーロ紙幣の紙幣流通総量に占める割合は4%(2018年現在)、流通金額は500億ユーロで約6兆円である(2019年5月7日現在)。また、100ユーロ紙幣の紙幣流通総量に占める割合は23%(2018年現在)、流通金額は2,720億ユーロで約34兆円である(2019年5月7日現在)。", "title": "高額紙幣" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "イタリア、ギリシャ、オーストリアとスロベニアでは低額のユーロ紙幣の導入が求められてきた。欧州中央銀行は「1ユーロ紙幣1枚あたりの印刷費用は1ユーロ硬貨1枚あたりの鋳造費用よりも高く、また耐久性が低い」としている。また、2004年11月18日には、きわめて低い額面の紙幣はユーロ圏全体での需要が少ないとも判断した。ところが、2005年10月25日、欧州議会において半数以上の議員が欧州委員会と欧州中央銀行に対して1ユーロ紙幣と2ユーロ紙幣の導入の明確な必要性を認識するよう求める動議を採択している。ただし、この動議の採択があっても欧州中央銀行は欧州議会に対してただちに回答する義務を負ってはいない。", "title": "小額紙幣" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ユーロ圏では記念紙幣として額面が0のユーロ紙幣が発行されている。2017年5月に宗教改革500年を記念してマルチン・ルターの肖像入り0ユーロ紙幣がドイツの宗教研究団体gott.netによって作られた。価格は2ユーロ。", "title": "小額紙幣" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2018年4月にはカール・マルクスの生誕200年を記念し、出身地であるトリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0ユーロ紙幣を3ユーロで発売したところ、購入希望者が殺到したため増刷する事態となった。", "title": "小額紙幣" } ]
ユーロ紙幣(ユーロしへい)とは、ユーロ圏などで使用されている通貨ユーロの紙幣。ユーロ紙幣は2002年から流通され、発券は欧州中央銀行が担っており、各紙幣には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。現在発行されているユーロ紙幣には5ユーロから200ユーロまでの6種類があり、発券はユーロ圏の各国で行なわれているが、ユーロ硬貨と違ってデザインはユーロ圏で統一されている。
[[File:Euro banknotes, Europa series.png|thumb|282x282px|ユーロ紙幣|代替文=]] '''ユーロ紙幣'''(ユーロしへい)とは、[[ユーロ圏]]などで使用されている通貨[[ユーロ]]の[[紙幣]]。ユーロ紙幣は2002年から流通され、発券は[[欧州中央銀行]]が担っており、各紙幣には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。現在発行されているユーロ紙幣には5ユーロから200ユーロまでの6種類があり、発券はユーロ圏の各国で行なわれているが、[[ユーロ硬貨]]と違ってデザインはユーロ圏で統一されている。 == 特徴 == === 第一シリーズ === [[File:Mario Draghi signature.svg|thumb|right|103px|欧州中央銀行総裁[[マリオ・ドラギ]]の署名。ユーロ紙幣に印刷されている。]] [[2002年]]から発行されたユーロ初の紙幣である。紙は純綿繊維で、独特の手触りを持つほか、耐久性に優れている<ref>{{Cite web|url=http://www.ecb.europa.eu/euro/changeover/shared/data/PressKit_EN.pdf|title=PRESS KIT Euro banknotes and coins|publisher=European Central Bank|language=英語|format=PDF|accessdate=2009-08-30}}</ref>。第一シリーズには7つの金種があり、それぞれ異なる色と大きさになっていたが、のちに500ユーロ紙幣については他の主要通貨と比しても高額であり、マネーロンダリングに使用される懸念などがあったことから2019年4月26日までにすべてのユーロ加盟国において印刷が終了している。既に発行済の500ユーロ紙幣についてはこれまでどおり使用が可能であるが、市中にはほぼ出回っていない<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/world/news/190428/wor1904280009-n1.html|title=五百ユーロ紙幣の印刷終了 犯罪資金源の遮断狙う|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2019-04-28|accessdate=2020-07-21}}</ref>。 {|class="wikitable" style="font-size:85%; vertical-align:middle;" ! colspan="2" | 画像 !! rowspan="2" | 額面 !! rowspan="2" | 発行 !! rowspan="2" | 大きさ (mm)!! rowspan="2" colspan="2"| 基調色 !! colspan="2" | デザイン !! colspan="2" rowspan="2" | 記番号の位置 |- ! 表面 !! 裏面 !! 建築様式 !! 時代 |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:EUR 5 obverse (2002 issue).jpg|border|84px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 5 reverse (2002 issue).jpg|border|84px]] ! {{仮リンク|5ユーロ紙幣|en|5 euro note|label=€5|redirect=1}}<span id="5"></span> | rowspan="7" | 2002 | style="text-align:center;" | 120 × 62 | style="5%; background-color:#cccccc"| | グレー | [[古典建築|古典]] | 5世紀以前 | [http://www.eurotracer.net/information/notes.php?type=f5 図画の左端] |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:EUR 10 obverse (2002 issue).jpg|border|89px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 10 reverse (2002 issue).jpg|border|89px]] ! {{仮リンク|10ユーロ紙幣|en|10 euro note|label=€10|redirect=1}}<span id="10"></span> | style="text-align:center;" | 127 × 67 | style=" background-color:#ff9999" | | 赤 | [[ロマネスク建築|ロマネスク]] | 11-12世紀 | [http://www.eurotracer.net/information/notes.php?type=f10 星の円環の8時の位置] |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:EUR 20 obverse (2002 issue).jpg|border|93px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 20 reverse (2002 issue).jpg|border|93px]] ! {{仮リンク|20ユーロ紙幣|en|20 euro note|label=€20|redirect=1}}<span id="20"></span> | style="text-align:center;" | 133 × 72 | style=" background-color:#99ccff"| | 青 | [[ゴシック建築|ゴシック]] | 13-14世紀 | [http://www.eurotracer.net/information/notes.php?type=f20 星の円環の9時の位置] |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:EUR 50 obverse (2002 issue).jpg|border|98px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 50 reverse (2002 issue).jpg|border|98px]] ! {{仮リンク|50ユーロ紙幣|en|50 euro note|label=€50|redirect=1}}<span id="50"></span> | style="text-align:center;" | 140 × 77 | style=" background-color:#ff9933"| | オレンジ | [[ルネサンス建築|ルネサンス]] | 15-16世紀 | [http://www.eurotracer.net/information/notes.php?type=f50 図画の右端] |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:EUR 100 obverse (2002 issue).jpg|border|103px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 100 reverse (2002 issue).jpg|border|103px]] ! {{仮リンク|100ユーロ紙幣|en|100 euro note|label=€100|redirect=1}}<span id="100"></span> | style="text-align:center;" | 147 × 82 | style=" background-color:#33cc00"| | 緑 | [[バロック建築|バロック]] & [[ロココ建築|ロココ]] | 17-18世紀 | [http://www.eurotracer.net/information/notes.php?type=f100 星の円環の9時の右] |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:EUR 200 obverse (2002 issue).jpg|border|107px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 200 reverse (2002 issue).jpg|border|107px]] ! {{仮リンク|200ユーロ紙幣|en|200 euro note|label=€200|redirect=1}}<span id="200"></span> | style="text-align:center;" | 153 × 82 | style=" background-color:#ffcc33"| | 黄 | [[アール・ヌーヴォー]](鉄とガラスの時代) | 19-20世紀 | [http://www.eurotracer.net/information/notes.php?type=f200 星の円環の7時の下] |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:EUR 500 obverse (2002 issue).jpg|border|112px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 500 reverse (2002 issue).jpg|112px]] ! {{仮リンク|500ユーロ紙幣|en|500 euro note|label=€500|redirect=1}}<span id="500"></span> | style="text-align:center;" | 160 × 82 | style=" background-color:#b299cc"| | 紫 | [[モダニズム建築|現代]] | 20-21世紀 | [http://www.eurotracer.net/information/notes.php?type=f500 星の円環の9時の位置] |} これらのデザインは[[1996年]]2月12日から開始された[[欧州通貨機構]]の理事会による選考で集められた44の図案から選ばれたものである。選ばれた図案は[[オーストリア国立銀行]]の[[:en:Robert Kalina|ロベルト・カリーナ]]{{Languageicon|en}}が作成したもので、1996年12月3日に採用が決定された。 すべての紙幣に共通して印刷されているのは、[[欧州旗]]、欧州中央銀行の5つの言語における略称(BCE, ECB, EZB, ΕΚΤ, EKP)、裏面のヨーロッパの地図、ユーロの[[ラテン文字]]表記 (EURO) と[[ギリシア文字]]表記({{lang|el|ΕΥΡΩ}})、現任の欧州中央銀行総裁の署名である。また欧州旗に描かれている12個の星の円環も描かれている。 各金種のデザインは時代ごとのヨーロッパの[[建築物]]という共通の主題を持っている。紙幣表面は窓や門が描かれているのに対して、裏面は橋が描かれている。紙幣に描かれた建造物は欧州連合域内の名所旧跡を連想させるように描かれており、ヨーロッパ中にある無数の歴史的な橋や門に普遍的な要素を合成した、各時代の建築様式を表現した架空のもので、実在の建造物ではない<ref>{{Cite web|url=http://www.ecb.europa.eu/euro/banknotes/html/index.en.html#main|title=Banknotes|publisher=European Cenral Bank|language=英語|accessdate=2009-08-30}}</ref>。たとえば5ユーロ紙幣は[[古典古代]]を表現したもので、10ユーロ紙幣は[[ロマネスク建築|ロマネスク]]、20ユーロ紙幣は[[ゴシック建築|ゴシック]]、50ユーロ紙幣は[[ルネサンス]]、100ユーロ紙幣は[[バロック]]と[[ロココ]]、200ユーロ紙幣は[[アール・ヌーヴォー]](鉄とガラスの時代)、500ユーロ紙幣は[[近代]]の様式を表現している。ところが[[オランダ銀行]]による調査では、5ユーロ紙幣の主題がわかったのは 2%、50ユーロ紙幣にいたっては 1% しかわからなかったという結果が出されている。ユーロ紙幣には特定の建築物の特徴を描いてはならないということになっていたが、ロベルト・カリーナによる原案では、[[ヴェネツィア]]の[[リアルト橋]]や[[パリ]]の[[ヌイイ橋]]といった実際の橋を描いたものとなっていたため、のちに一般的な建築様式の特徴に改められた。ところが決定稿では試作のデザインにきわめて似たものとなったため、完全に一般的な表現とはいえないものとなっている<ref>{{Cite web|last=Schmid|first=John|date=2001-08-03|url=http://www.nytimes.com/2001/08/03/news/03iht-euro_ed3_.html|title=Etching the Notes of a New European Identity|publisher=New York Times|language=英語|accessdate=2009-08-30}}</ref>。 裏面に描かれている地図にはユーロを導入している[[欧州連合加盟国の特別領域|加盟国の海外領土]]([[アゾレス諸島]]、[[フランス領ギアナ]]、[[グアドループ]]、[[マデイラ諸島]]、[[マルティニーク]]、[[レユニオン]]、[[カナリア諸島]])が描かれている。 表面には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。当初の紙幣にはウィム・ドイセンベルクのものが、2003年11月以降に印刷された紙幣にはジャン=クロード・トリシェの署名が入っている。 === 第二シリーズ(エウロパシリーズ) === 欧州中央銀行では7年から8年ごとに紙幣を再設計することになっており、それに従って二番目のシリーズが開発され、[[2013年]]から順次発行・切り替えが行われた。金種は第一シリーズから1種類減って6つとなった。 {|class="wikitable" style="font-size:85%; vertical-align:middle;" ! colspan="2" | 画像 !! rowspan="2" | 額面 !! rowspan="2" | 発行 !! rowspan="2" | 大きさ (mm)!! rowspan="2" colspan="2"| 基調色 !! colspan="2" | デザイン !! colspan="2" rowspan="2" | 記番号の位置 |- ! 表面 !! 裏面 !! 建築様式 !! 時代 |- | style="text-align:center;" | [[File:EUR 5 obverse (2013 issue).png|border|86px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 5 reverse (2013 issue).png|border|86px]] ! €5 | 2013 | style="text-align:center;" | 120 × 62 | style="text-align:center; background:#ccc;"| | グレー | 古典 | 5世紀以前 | rowspan="6" style="text-align:center;" | 右上 |- | style="text-align:center;" | [[File:EUR 10 obverse (2014 issue).png|border|91px]] | style="text-align:center;" | [[File:EUR 10 reverse (2014 issue).png|border|91px]] ! €10 | 2014 | style="text-align:center;" | 127 × 67 | style="text-align:center; background:#f99;"| | 赤 | ロマネスク | 11–12世紀 |- | style="text-align:center;" | [[File:The Europa series 20 € obverse side.jpg|border|95px]] | style="text-align:center;" | [[File:The Europa series 20 € reverse side.jpg|border|95px]] ! €20 | 2015 | style="text-align:center;" | 133 × 72 | style="text-align:center; background:#9cf;"| | 青 | ゴシック | 12–14世紀 |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:The Europa series 50 € obverse side.png|border|100px]] | style="text-align:center;" | [[File:The Europa series 50 € reverse side.png|border|100px]] ! €50 | 2017 | style="text-align:center;" | 140 × 77 | style="text-align:center; background:#f93;"| | オレンジ | ルネサンス | 15–16世紀 |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:The Europa series 100 € obverse side.jpg|border|105px]] | style="text-align:center;" | [[File:The Europa series 100 € reverse side.jpg|border|105px]] ! €100 | rowspan="2" | 2019 | style="text-align:center;" | 147 × 77 | style="text-align:center; background:#8cd653;"| | 緑 | バロック & ロココ | 17-18世紀 |- style="height:62px" | style="text-align:center;" | [[File:The Europa series 200 € obverse side.jpg|border|109px]] | style="text-align:center;" | [[File:The Europa series 200 € reverse side.jpg|border|109px]] ! €200 | style="text-align:center;" | 153 × 77 | style="text-align:center; background:#ffcc33;;"| | 黄 | アール・ヌーヴォー(鉄とガラスの時代) | 19-20世紀 |} 第二シリーズでは2002年以降に27にまで増えた欧州連合加盟国がデザインに反映された。新しい製造技術と偽造防止技術が採用されたが、基本的なデザインや色調は第一シリーズから踏襲された<ref>{{Cite web|url=http://www.dnb.nl/en/payments/euro-banknotes-and-coins/euro-banknotes/the-life-cycle-of-a-banknote/index.jsp|title=The life cycle of a banknote|publisher=De Nederlandsche Bank|language=英語|accessdate=2009-08-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090906140044/http://www.dnb.nl/en/payments/euro-banknotes-and-coins/euro-banknotes/the-life-cycle-of-a-banknote/index.jsp|archivedate=2009年9月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。また欧州中央銀行の略称表記も、従来のものに、[[キリル文字]](ЕЦБ)、[[ハンガリー語]] (EKB)、[[マルタ語]] (BĊE)、[[ポーランド語]] (EBC) によるものが加えられる。さらに「ユーロ」の表記についてもキリル文字の「ЕВРO」が加えられる。ユーロ圏各国では「ユーロ」の表記についてさまざまなものがありえるが、欧州中央銀行の方針ではラテン文字を使う国についてはすべて ''euro'' で統一することとしている。 欧州中央銀行総裁のサインが入る伝統も踏襲され、当初発行された第二シリーズには[[マリオ・ドラギ]]のサインが入った<ref>{{Cite web|和書|url=http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2012/11/09/07euro/|title=来年から新ユーロ紙幣|publisher=産経新聞|accessdate=2012-11-09}}</ref>。 === 第三シリーズ === [[2021年]]12月、[[欧州中央銀行]]は[[2024年]]までにユーロ紙幣のデザインを変更する計画を発表した。 ユーロ圏各国から1名ずつで構成されるテーマアドバイザリーグループが選ばれ、欧州中央銀行にテーマ案を提出した。案の中から一般市民の投票でテーマが決定された後、デザインコンペティションが開催される予定である。 == 視覚障害者に対する工夫 == ユーロに移行する以前の通貨の紙幣にも視覚障害者のための工夫がなされていたが、ユーロの導入にあたっては視覚障害者の団体に意見を求め、ユーロ紙幣には当初から視覚障害者団体と協力して取り入れた様々な工夫がある。全盲者のためのものに加え、[[ロービジョン]]者(紙幣そのものは見えるが印刷内容が読み取れない視覚障害者)のためのものもある。 ユーロ紙幣は額面とともにその寸法も大きくなっており、視覚障害者や全盲者が金種を判別できるようになっている。また紙幣の基調色も金種の順番で暖色と寒色が交互になっており、色を判別できる人に対して近い2つの額面を混同させにくくしている。さらに額面部分の印刷には[[凹版印刷]]が施されており、指先の触覚だけで金種を判別できるようにしている。5, 10, 20ユーロの低額紙幣には表面右側に[[ホログラム]]の入った帯状の金属箔が、高額紙幣にはホログラムの入った四角の金属箔が付けられている。200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣の縁には触知できる模様があり、200ユーロ紙幣には下部中央から右の角にかけて縦の線が、500ユーロ紙幣には右端に斜めの線が走っている。 == 安全対策 == 欧州中央銀行はユーロ紙幣の安全対策のなかでも基本的なものの一部を明らかにしており、一般の人が見た目でユーロ紙幣の真贋を判断できるようにしている。その一方で安全性の観点から、安全対策の全般は極秘となっている。 公式に明らかにされているもの、また一般の人が独自に見つけたものを数えると、ユーロ紙幣には少なくとも13の安全対策が施されている。 === ホログラム === 5, 10, 20ユーロ紙幣には表面右側にホログラムの入った帯状の金属箔が貼り付けられている。この金属箔には紙幣の額面が浮かび上がるようになっている。 他方で50ユーロ以上の額面の紙幣には帯状のものではなく、四角形のようなシールが貼り付けられている。 === 光学的変化インク === 低額紙幣には右隅に、50ユーロ以上の額面の紙幣には裏面に光学的変化インクが使われている。角度を変えて見ると紫から緑に変色するようになっている。 === チェックサム === 紙幣には1枚ずつに記番号が記されている。この記番号の末尾の数字は1から9で表される[[チェックサム|検査数字]]であり、記番号は次の規則を満たすものとなっている。先頭の文字をアルファベットの順番の数字(L は12、M は13…、Z は26)に置き換え、すべての数字の和を9で割ったときの余りが8となるようにされている。なおある数を9で割ったときの余りを容易に確認するには、その数の各桁の数の和を求め、その和が2桁以上であれば和が1桁になるまで各桁の数を足す計算を繰り返し、和が1桁になればその数が求める余りとなる。 例として紙幣の記番号が Z10708476264 であれば、まずは Z を26と考えたうえで残りの番号の数を足していけばよい。つまり、26 + 1 + 0 + 7 + 0 + 8 + 4 + 7 + 6 + 2 + 6 + 4 = 71、 7 + 1 = '''8''' となり、規則を満たすものとなっている。 記番号の先頭の文字を別の法則で置き換えると異なる余りが得られることになる。例えば先頭の文字を [[ASCII]] の10進数の数値とすれば、記番号の数の和を9で割ると余りは0となる。 別の例として紙幣の記番号が Z10708476264 であれば、ASCII コードで Z に割り当てられている10進数は90であるから、記番号は 9010708476264 に置き換えられる。この番号の各桁の数の和は 9 + 0 + 1 + 0 + 7 + 0 + 8 + 4 + 7 + 6 + 2 + 6 + 4 = 54 で、5 + 4 = '''9''' となるため、この記番号は9で割り切れ、余りは0となる。 === ユーリオン === {{Main|ユーリオン}} ユーロ紙幣には「[[ユーリオン]]」と呼ばれる、紙幣の複製防止のために用いられる模様が入れられている。コピー機や画像処理ソフトウェアの中には、ユーリオンが含まれている画像の複写や使用を受け付けないように設定されているものがある。 === 透かし === ==== 通常の透かし ==== 各金種にはそれぞれで[[透かし]]が入れられている。この透かしは紙幣を光にかざすと浮かび上がるようになっている。 ==== 電子透かし ==== ユーリオンのように、[[デジマーク]]社の[[電子透かし]]が紙幣に埋め込まれている。[[Adobe Photoshop]] や [[Corel Paint Shop Pro]] などの画像編集ソフトウェアは紙幣の加工を受け付けないようになっている<ref>{{Cite web|last=Murdoch|first=Steven J.|url=http://www.cl.cam.ac.uk/~sjm217/projects/currency/|title=Software Detection of Currency|publisher=Computer Laboratory, University of Cambridge|language=英語|accessdate=2009-08-30}}</ref>。 ==== 赤外線・紫外線透かし ==== 紙幣に[[赤外線]]を照射すると、金種によって異なるが、黒っぽくなる部分がある。また[[紫外線|紫外線光]]を照射するとよりはっきりとユーリオン模様が見え、[[蛍光]]糸が浮かび上がる。 === レジストレーション === 表面左上隅の紙幣額面と裏面右上隅の紙幣額面は、光を透かして紙幣を見ると、額面が完全に表示されるようになる[[レジストレーション (印刷・映像)|レジストレーション]]が施されている。真券は表裏でずれることなく額面が表示されるようになっているが、偽紙幣など正確に印刷されていないものは数字がずれて表示される。 === 隆起印刷 === ユーロ紙幣にはほかの部分と違う[[テクスチャ|質感]]を持つ部分がある。"BCE ECB EZB" と印刷されている部分は隆起しているように感じられる。 === バーコード === ユーロ紙幣を光に向けてかざすと、透かしの右のあたりに金属のような複数の線が見える。この線の数と幅で紙幣の金種がわかるようになっている。この部分は[[マンチェスター符号]]としてスキャンされる。 {| class="floatleft wikitable" style="font-size:90%" |- ! 金種 !! バーコード !! マンチェスター |- | €5 || 0110 10 || 100 |- | €10 || 0101 10 || 110 |- | €20 || 1010 1010 || 0000 |- | €50 || 0110 1010 || 1000 |- | €100 || 0101 1010 || 1100 |- | €200 || 0101 0110 || 1110 |- | €500 || 0101 0101 || 1111 |} (裏面から見て、濃いバーを1、薄いバーを0とする) === セキュリティ・スレッド === 紙幣を光源の反対側に置くと、中央部分の黒く磁気を帯びた筋が見える。この筋には紙幣の額面と "EURO" の文字が記されている。 === 磁気インク === 紙幣の一部には磁気インクで印刷された箇所がある。たとえば20ユーロ紙幣に描かれている教会の1番右側の窓とその上方にある大きな 0 の文字は磁気を帯びている。 === マイクロ印刷 === 表面下方にある線、例えば10ユーロ紙幣の{{lang|el|ΕΥΡΩ}}の右側にあるものは非常に小さい文字で EURO {{lang|el|ΕΥΡΩ}}と印刷されている。 === マット加工 === 縦の帯状の部分に45度の角度で光を当てると[[ユーロ記号]]と額面が浮かび上がるようになっている。この加工は5, 10, 20ユーロのみに施されている。 == 偽造 == 2002年の流通開始からユーロ紙幣・硬貨の偽造は急速に増加している。 2003年には551,287枚の偽造紙幣が、26,191枚の偽造硬貨が回収されている。2004年、フランスの警察は2か所の工場から10ユーロと20ユーロのおよそ180万ユーロに相当する偽造紙幣を押収しており、この工場で製造された偽造紙幣145,000枚が市中に出回っているものと見られている。 2008年7月、欧州中央銀行は偽ユーロ紙幣の枚数は増え続けており、2008年上半期に押収された偽造紙幣の枚数は前期比で15%以上も増加したと発表した。このうち50ユーロと20ユーロの偽造紙幣が多くを占めており、また精度の高い200ユーロや500ユーロの偽造紙幣も作られているとも述べている<ref>{{Cite web|date=2008-08-29|url=http://www.ibiblio.org/theeuro/InformationWebsite.htm?http://www.ibiblio.org/theeuro/forum/viewtopic.php?f=41&t=97&start=0&st=0&sk=t&sd=a|title=Police seize 11 million fake euros in Colombia|publisher=Reuters|language=英語|accessdate=2009-08-30}}</ref>。 == 記番号 == 硬貨とは異なり、ユーロ紙幣はその紙幣を発券した国が独自にデザインを定めているものではない。そのかわり、紙幣の記番号の先頭の文字で発券された国がわかるようになっている。 記番号の先頭の文字はその紙幣を発券した国を示すものである。その後に続く13桁の数字は上述のチェックサムとなっており、各桁の数を足していき、その和が2桁以上であれば再度各桁の数の和を求め、1桁になったその数によっても発券した国がわかるようになっている。チェックサムの規則のため記番号は連続したものとなっておらず、9ずつ増加したものとなっている。 記番号の先頭に使われる文字でも、W, K, J は、現在ユーロを導入していない欧州連合加盟国が将来使用するために残されている。また R はユーロを導入していても発券を行なっていない国に割り当てられている。 記番号の先頭の文字は Z から順に、それぞれの国の公用語で表記した国名のアルファベット順で決められている。 {| class="floatleft wikitable" |+ 国別コード |- ! rowspan="2" | 金種 ! colspan="2" | 国名 ! rowspan="2" | チェックサム<sup>(1)</sup> |- ! 日本語 ! 各国の公用語 |- | style="text-align:center" | '''Z''' | [[ベルギー]] | {{lang|nl|België}}({{ISO639言語名|nl}})<br>{{lang|fr|Belgique}}({{ISO639言語名|fr}})<br>{{lang|de|Belgien}}({{ISO639言語名|de}}) | style="text-align:center" | 9 |- | style="text-align:center" | '''Y''' | [[ギリシャ]] | {{lang|el|Ελλάδα}}<ref>{{lang-*-Latn|el|Ellada}}</ref>({{ISO639言語名|el}}) | style="text-align:center" | 1 |- | style="text-align:center" | '''X''' | [[ドイツ]] | {{lang|de|Deutschland}}({{ISO639言語名|de}}) | style="text-align:center" | 2 |- | style="text-align:center" | (W) | ([[デンマーク]]) | {{lang|da|Danmark}}({{ISO639言語名|da}}) | style="text-align:center" | (3) |- | style="text-align:center" | '''V''' | [[スペイン]] | {{lang|es|Espana}}({{ISO639言語名|es}}) | style="text-align:center" | 4 |- | style="text-align:center" | '''U''' | [[フランス]] | {{lang|fr|France}}({{ISO639言語名|fr}}) | style="text-align:center" | 5 |- | style="text-align:center" | '''T''' | [[アイルランド]] | {{lang|ga|Éire}}({{ISO639言語名|ga}})<br>{{lang|en|Ireland}}({{ISO639言語名|en}}) | style="text-align:center" | 6 |- | style="text-align:center" | '''S''' | [[イタリア]] | {{lang|it|Italia}}({{ISO639言語名|it}}) | style="text-align:center" | 7 |- | style="text-align:center" | (R) | ([[ルクセンブルク]]) | {{lang|fr|Luxembourg}}({{ISO639言語名|fr}})<br>{{lang|de|Luxemburg}}({{ISO639言語名|de}})<br>{{lang|lb|Lëtzebuerg}}({{ISO639言語名|lb}}) | style="text-align:center" | (8) |- | style="text-align:center" | (Q) | colspan="3" | 不使用 |- | style="text-align:center" | '''P''' | [[オランダ]] | {{lang|nl|Nederland}}({{ISO639言語名|nl}}) | style="text-align:center" | 1 |- | style="text-align:center" | (O) | colspan="3" | 不使用 |- | style="text-align:center" | '''N''' | [[オーストリア]] | {{lang|de|Österreich}}({{ISO639言語名|de}}) | style="text-align:center" | 3 |- | style="text-align:center" | '''M''' | [[ポルトガル]] | {{lang|pt|Portugal}}({{ISO639言語名|pt}}) | style="text-align:center" | 4 |- | style="text-align:center" | '''L''' | [[フィンランド]] | {{lang|fi|Suomi}}({{ISO639言語名|fr}})<br>{{lang|sv|Finland}}({{ISO639言語名|sv}}) | style="text-align:center" | 5 |- | style="text-align:center" | K | ([[スウェーデン]]) | {{lang|sv|Sverige}}({{ISO639言語名|sv}}) | style="text-align:center" | (6) |- | style="text-align:center" | J | ([[イギリス]]) | {{lang|en|United Kingdom}}({{ISO639言語名|en}}) | style="text-align:center" | (7) |- | style="text-align:center" | (I) | colspan="3" | 不使用 |- | style="text-align:center" | '''H''' | [[スロベニア]] | {{lang|sl|Slovenija}}({{ISO639言語名|sl}}) | style="text-align:center" | 9 |- | style="text-align:center" | '''G''' | [[キプロス]] | {{lang|el|Κύπρος}}({{ISO639言語名|el}})<ref>{{lang|la-tl|Kypros}}</ref><br>{{lang|tr|Kıbrıs}}({{ISO639言語名|tr}}) | style="text-align:center" | 1 |- | style="text-align:center" | '''F''' | [[マルタ]] | {{lang|mt|Malta}}({{ISO639言語名|mt}})<br>{{lang|en|Malta}}({{ISO639言語名|en}}) | style="text-align:center" | 2 |- | style="text-align:center" | '''E''' | [[スロバキア]] | {{lang|sk|Slovensko}}({{ISO639言語名|sk}}) | style="text-align:center" | 3 |- | style="text-align:center" | '''D''' | [[エストニア]] | {{lang|et|Eesti}}({{ISO639言語名|et}}) | style="text-align:center" | 4 |- | style="text-align:center" | '''C''' | [[ラトビア]] | {{lang|lv|Latvija}}({{ISO639言語名|lv}}) | style="text-align:center" | 5 |- | style="text-align:center" | '''B''' | [[リトアニア]] | {{lang|lt|Lietuva}}({{ISO639言語名|lt}}) | style="text-align:center" | 6 |} <sup>(1)</sup>アルファベット以外の11桁の記番号のチェックサム * 上記一覧でデンマークとギリシャの記番号の先頭の文字が入れ替わっているのは、[[ギリシア文字]]には「{{スペル|lang=el|[[Υ]]}}」があるが、「{{スペル|W}}」に相当する文字がないためである。 * アイルランドの第1公用語は[[アイルランド語]]であるが、上記一覧ではアイルランド語表記の {{lang|ga|''Éire''}} ではなく、[[英語]]表記の {{lang|en|Ireland}} にしたがっている。なおアイルランド語は2007年1月1日に[[欧州連合の言語|欧州連合の公用語]]となっている。 * フィンランドの公用語は[[フィンランド語]]と[[スウェーデン語]]の2つがあり、いずれも欧州連合の公用語となっているが、同国内では前者が多く使われていることもあって上記一覧では、スウェーデン語の {{lang|sv|''Finland''}} ではなくフィンランド語の {{lang|fi|''Suomi''}} に従ったものとなっている。 * ベルギーには3つの公用語があり、いずれも欧州連合の公用語となっている。またルクセンブルクにも公用語が3つあるが、そのうち2つが欧州連合の公用語となっている。ただいずれの言語の表記でも、国名の最初の文字はおなじであるため一覧の順番に影響を与えることがない。 ルクセンブルクはユーロ紙幣の印刷を行なったことがなく、記番号の先頭の文字が「{{スペル|R}}」となっているユーロ紙幣は流通していない。 ユーロ圏が拡大した2007年1月からはスロベニアにも記番号の先頭の文字が割り当てられたが、導入された当初、スロベニアはほかの国で印刷されたユーロ紙幣が流通された。そのためスロベニアではなくフランスで2008年4月以前に印刷された、記番号の先頭の文字が「{{スペル|H}}」のユーロ紙幣が流通している<ref>{{Cite web|url=http://forum.eurobilltracker.com/viewtopic.php?t=10994|title=Slovenian notes, serial number H|publisher=EuroBillTracker|language=英語|accessdate=2009-08-30}}</ref>。 キプロスとマルタは2009年にはじめてユーロ紙幣(20ユーロ)を印刷した<ref>{{Cite web|url=http://www.ecb.europa.eu/stats/euro/production/html/index.en.html#Y2009|title=Banknotes and coins production|publisher=European Central Bank|language=英語|accessdate=2009-08-30}}</ref>。 記番号の先頭の文字はユーロ紙幣の流通開始の時点におけるすべての欧州連合加盟国に割り振られており、上記のような順番で「{{スペル|J}}」までが決められたが、それ以降に欧州連合に加盟した国に割り振られる文字は、ユーロを導入した順番に指定されていくことになる。同時に2か国以上がユーロを導入したときには、上述の順番で文字が指定される。つまり、その国の名称を公用語で表記したさいに、その先頭のアルファベットの順番で記番号の先頭の文字を決めることになる。2007年にユーロを導入したスロベニアには「{{スペル|J}}」のひとつ前のアルファベットである「{{スペル|H}}」が割り当てられた。2008年にユーロを導入したキプロスとマルタについては、国名の公用語表記の先頭が K であるキプロス<ref>{{Lang-el|Κύπρος}}, {{Lang-*-Latn|el|Kypros}}、{{Lang-tr|Kıbrıs}} で、いずれも K が先頭となる。</ref>が「{{スペル|G}}」を、「{{スペル|M}}」であるマルタが「{{スペル|F}}」を割り当てられた。さらに、2009年にユーロを導入したスロバキアには「{{スペル|E}}」が指定されている。 2002年に発券されたユーロ紙幣にはウィム・ドイセンベルクの署名が入っており、この紙幣は全7金種が[[フィンランド銀行]]、[[ポルトガル銀行]]、オーストリア国立銀行、オランダ銀行、[[イタリア銀行]]、[[アイルランド中央銀行・金融サービス機構|アイルランド中央銀行]]、[[フランス銀行]]、[[スペイン銀行]]、[[ドイツ連邦銀行]]、[[ギリシャ銀行]]、[[ベルギー国立銀行]]の各中央銀行によって発券された。ただしポルトガル銀行は200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣を、アイルランド中央銀行は200ユーロ紙幣をそれぞれ発券しなかった。このためドイセンベルクの署名が印刷されたユーロ紙幣の発券国と金種の組み合わせは74通り存在することになる。 2002年のユーロ紙幣の流通が開始されたあと、ユーロ圏各国の中央銀行は一部の金種のみを発券していくようになった。たとえば50ユーロ紙幣の発券はユーロ圏のすべての中央銀行のうち、4行のみが担っている。このような分散して発券する体制によって、各中央銀行は発券に先立って別の国で発券された金種と交換しなければならず、またときには複数の印刷所から自らが発券した紙幣を調達することもある。これはつまり、一部の発券国・署名の組み合わせのユーロ紙幣がほかの組み合わせと比べて希少になっているとのである。とくにドイセンベルクの署名が印刷されたフィンランド発券の200ユーロ紙幣、ポルトガル発券の100ユーロ紙幣、アイルランド発券の100ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣、ギリシャ発券の200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣は数が少ない。また2003年以降に発券されたジャン=クロード・トリシェの署名が印刷されたユーロ紙幣は必ずしもすべての金種がすべてのユーロ圏の国で見かけることができるものではない。2007年末の時点で、トリシェの署名が印刷されたユーロ紙幣の発券国と金種の組み合わせは77通りがありえるはずだが、実際には30通りしか確認されていなかった。また2008年には[[スロベニア銀行]]が発券した、記番号の先頭の文字が "H" となっている紙幣が流通されるようになり、発券国・金種の組み合わせは増えていくことになる<ref name="sohier">{{Cite book|last=Sohier|first=Guy|title=Les eurobillets 2002-2007|origyear=2007|publisher=Editions Victor Gadoury|language=フランス語|isbn=978-2906602304}}</ref>。 == 印刷工程 == 7種のそれぞれの額面の紙幣には、印刷情報が特定できるような6文字の小さな印刷コードが記載されている。 この印刷コードは、先頭はアルファベット、続いて3桁の数字、アルファベット1文字、1桁の数字で構成されている(例:G013B6)。 先頭の文字は印刷所を示している。たとえば「{{スペル|G}}」はオランダの[[ヨハン・エンシェーデ]]のコードである。続く3桁の数字は紙幣の印刷版の版数を示している。例の「{{スペル|013}}」はその印刷所で作成された13番目の印刷版で印刷したということを示す。5桁目にあるアルファベットと6桁目の数字はそれぞれ印刷版の縦と横の位置を示しており、「{{スペル|B6}}」は縦の2段目、横の6列目を表している<ref>{{Cite web|last=Dinand|first=Jean-Michel|url=http://www.ecu-activities.be/documents/publications/publication/1996_3/dinand.htm|title=The preparation of euro banknotes|date=1996-05-08|publisher=Ecu-Activities|language=英語|accessdate=2009-08-30}}</ref>。 紙幣は複数のものがつながったシートの形で印刷されるが、印刷所によってシートの大きさが異なっている。これは額面が高くなるにつれて紙幣が大きくなるためで、同じ大きさのシートであれば作成される紙幣の枚数は少なくなる。たとえばドイツの2つの印刷所では1枚のシートで5ユーロ紙幣を60枚(縦10段、横6列)印刷するが、10ユーロ紙幣であれば54枚(縦9段、横6列)、20ユーロ紙幣であれば45枚(縦9段、横5列)が印刷される。 印刷所コードは国別コードと一致させる必要はなく、ある国が発券した紙幣が別の国で印刷されるということがある。紙幣を印刷する工場には国有のもののほかに民間のものがあり、それらの工場はユーロ以前にはそれぞれの旧通貨を印刷していた。紙幣を発券する国にはそれぞれ1か所ずつ、国有の(あるいは国有だった)印刷所があるが、ドイツについては、[[ドイツ民主共和国|旧東ドイツ]]と[[旧西ドイツ]]のそれぞれの印刷所があり、これらは両方ともが現在はユーロ紙幣を印刷している。またフランスも民間の[[フランソワ=シャルル・オーベルテュール]]とフランス銀行印刷所の2か所がある。現在はユーロを印刷していないものの、イギリスも民間の[[デ・ラ・ルー]]と[[イングランド銀行]]印刷所の2か所がある<ref name="sohier"/>。 {| class="wikitable" style="font-size:90%; width:auto; margin:0 auto" |+ 印刷所コード |- ! コード !! 印刷所 !! 所在地 !! 所在国 !! 発券中央銀行 |- | style="text-align:center" | (A) | (イングランド銀行印刷所) | ([[ラウトン]]) | (イギリス) | -- |- | style="text-align:center" | (B) | colspan="4" |未使用 |- | style="text-align:center" | (C) | ([[トゥンバ・ブルク]]) | ([[トゥンバ]]) | (スウェーデン) | -- |- | style="text-align:center" | '''D''' | [[セテック]] | [[ヴァンター]] | フィンランド | L(フィンランド) |- | style="text-align:center" | '''E''' | フランソワ=シャルル・オーベルテュール | [[シャンテピー]] | フランス | H(スロベニア)、L(フィンランド)、P(オランダ)、U(フランス) |- | style="text-align:center" | '''F''' | [[オーストリア紙幣保安印刷社]] | [[ウィーン]] | オーストリア | N(オーストリア)、P(オランダ)、S(イタリア)、T(アイルランド)、Y(ギリシャ) |- | style="text-align:center" | '''G''' | ヨハン・エンシェーデ | [[ハールレム]] | オランダ | L(フィンランド)、N(オーストリア)、P(オランダ)、V(スペイン)、Y(ギリシャ) |- | style="text-align:center" | '''H''' | デ・ラ・ルー | [[ゲーツヘッド]] | イギリス | L(フィンランド)、M(ポルトガル)、P(オランダ)、T(アイルランド) |- | style="text-align:center" | (I) | colspan="4" | 未使用 |- | style="text-align:center" | '''J''' | [[イタリア国立印刷造幣局]] | [[ローマ]] | イタリア | S(イタリア) |- | style="text-align:center" | '''K''' | アイルランド中央銀行 | [[ダブリン]] | アイルランド | T(アイルランド) |- | style="text-align:center" | '''L''' | フランス銀行 | [[シャマリエール]] | フランス | U(フランス) |- | style="text-align:center" | '''M''' | 王立スペイン造幣印刷局 | [[マドリード]] | スペイン | V(スペイン) |- | style="text-align:center" | '''N''' | ギリシャ銀行 | [[アテネ]] | ギリシャ | Y(ギリシャ) |- | style="text-align:center" | (O) | colspan="4" | 未使用 |- | style="text-align:center" | '''P''' | [[ギーゼッケ アンド デブリエント]] | [[ミュンヘン]]・[[ライプツィヒ]] | ドイツ | L(フィンランド)、M(ポルトガル)、P(オランダ)、U(フランス)、V(スペイン)、X(ドイツ)、Y(ギリシャ) |- | style="text-align:center" | (Q) | colspan="4" | 未使用 |- | style="text-align:center" | '''R''' | [[連邦印刷局 (ドイツ)|連邦印刷局]] | [[ベルリン]] | ドイツ | P(オランダ)、X(ドイツ)、Y(ギリシャ) |- | style="text-align:center" | (S) | ([[デンマーク国立銀行]]) | ([[コペンハーゲン]]) | (デンマーク) | -- |- | style="text-align:center" | '''T''' | [[ベルギー国立銀行]] | [[ブリュッセル]] | ベルギー | U(フランス)、V(スペイン)、Z(ベルギー) |- | style="text-align:center" | '''U''' | [[ヴァローラ]] - ポルトガル銀行 | [[カレガード]] | ポルトガル | M(ポルトガル) |} * A, C, S のコードはユーロ紙幣未発行の印刷所に割り当てるために未使用となっている。 * 上記一覧で、ある印刷所が特定の1つの国に対して紙幣を印刷していると表記されている場合は、そこで印刷される金種は1種類であるか、あるいは7種類すべてのいずれかであるということを示している。各国の中央銀行の中にはさまざまな額面の紙幣を複数の印刷所から調達するところもあり、また単一の金種の紙幣を複数の印刷所から調達しているところもある。前者の例として、ギリシャが5か所の印刷所から調達しており、後者の例にはオランダが2009年3月までに5ユーロ紙幣を5か所の印刷所から調達している。紙幣を発券している各中央銀行は公認されている印刷所から自由に紙幣を調達することができ、またその枚数もさまざまなものとなっている。2008年6月の時点で、ユーロ紙幣の印刷所・署名・発券国・額面の組み合わせは133通りとなっており、今後もこの組み合わせは増えていくことになる。 == 高額紙幣 == ユーロ紙幣のうち200ユーロ紙幣の紙幣流通総量に占める割合は4%(2018年現在)、流通金額は500億ユーロで約6兆円である(2019年5月7日現在)<ref name="ARC WATCHING 2019">{{Cite web|和書|url=https://arc.asahi-kasei.co.jp/member/watching/pdf/w_298-10.pdf|title=新1万円札は使われるのか|publisher=ARC WATCHING 2019年6月号|accessdate=2020-11-04}}</ref>。また、100ユーロ紙幣の紙幣流通総量に占める割合は23%(2018年現在)、流通金額は2,720億ユーロで約34兆円である(2019年5月7日現在)<ref name="ARC WATCHING 2019" />。 ==小額紙幣== === 1ユーロと2ユーロの紙幣 === イタリア、ギリシャ、オーストリアとスロベニアでは低額のユーロ紙幣の導入が求められてきた<ref>{{Cite web|date=2007-03-27|url=http://www.eubusiness.com/Euro/greece-euro.88|title=Greece presses demand for one-euro notes|publisher=EUbusiness.com|language=英語|accessdate=2009-08-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090108160731/http://www.eubusiness.com/Euro/greece-euro.88|archivedate=2009年1月8日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。欧州中央銀行は「1ユーロ紙幣1枚あたりの印刷費用は1ユーロ硬貨1枚あたりの鋳造費用よりも高く、また耐久性が低い」としている。また、2004年11月18日には、きわめて低い額面の紙幣はユーロ圏全体での需要が少ないとも判断した。ところが、2005年10月25日、[[欧州議会]]において半数以上の[[欧州議会議員|議員]]が欧州委員会と欧州中央銀行に対して1ユーロ紙幣と2ユーロ紙幣の導入の明確な必要性を認識するよう求める動議を採択している<ref>{{Cite web|date=2005-10-25|url=http://www.europarl.europa.eu/sides/getDoc.do;jsessionid=CE4B4BAF336F915BA6D2B84451EAD164.node2?language=EN&type=TA&reference=P6-TA-2005-0399|title=European Parliament declaration on the introduction of 1 and 2 euro banknotes|publisher=European Parliament|language=英語|accessdate=2009-08-30}}</ref>。ただし、この動議の採択があっても欧州中央銀行は欧州議会に対してただちに回答する義務を負ってはいない。 ===0ユーロ=== ユーロ圏では[[記念紙幣]]として額面が0のユーロ紙幣が発行されている<ref>[https://sputniknews.jp/20180808/5206230.html 額面0のユーロ紙幣はなぜ発行され、どうして必要なのか?] - Sputnik 日本</ref>。2017年5月に[[宗教改革]]500年を記念して[[マルチン・ルター]]の肖像入り0ユーロ紙幣がドイツの宗教研究団体gott.netによって作られた。価格は2ユーロ。 2018年4月には[[カール・マルクス]]の生誕200年を記念し、出身地であるトリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0ユーロ紙幣を3ユーロで発売したところ、購入希望者が殺到したため増刷する事態となった<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL4X1VGQL4XUHBI001.html?iref=com_rnavi_arank_nr05 生誕200年記念「マルクス紙幣」に注文殺到 額面は0] - [[朝日新聞]]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[紙幣追跡]] == 外部リンク == {{Commonscat|Euro banknotes|ユーロ紙幣}} * [http://www.ecb.europa.eu/ 欧州中央銀行](欧州連合公用23言語) * [http://www.fleur-de-coin.com/eurocoins/security.asp Security features on euro banknotes]{{En icon}} - Fleur de Coin * [http://www.fleur-de-coin.com/eurocoins/rfid.asp Euro banknotes embedded with RFID chips]{{En icon}} - Fleur de Coin * {{Wayback|url=http://www.geocities.com/euronote01/ |title=Online guide to &euro:uro notes Collection |date=20090210214017}}{{En icon}} * [http://www.admirabledesign.com/-Designs-de-l-euro- Designs de l’euro]{{En icon}} {{ユーロ硬貨}} {{DEFAULTSORT:ゆろしへい}} [[Category:ユーロ紙幣|*]]
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第一勧業銀行
株式会社第一勧業銀行(だいいちかんぎょうぎんこう、英語: The Dai-Ichi Kangyo Bank, Ltd.)は、かつて1971年から2002年まで存在した、日本の都市銀行。2000年より「みずほフィナンシャルグループ」の傘下に入っており、現在のみずほ銀行の前身にあたる。現在のみずほ銀行に至るまでは、東京証券取引所に上場していた。第一勧銀グループの中核企業。 通称は「第一勧銀」・「一勧(いちかん)」・「勧銀」、英略は「DKB」。 1971年、第一銀行(国内資金量順位6位)とかつての特殊銀行だった日本勧業銀行(同8位、勧銀)が合併し、総資産では富士銀行を抜いて国内第一位の都市銀行として誕生した。都市銀行同士の合併は第二次世界大戦後初であった。この合併には神戸銀行が加わる計画もあったが、同行は離脱、翌々年に太陽銀行と合併し太陽神戸銀行が発足する運びとなる。 第一・勧銀はこの合併について「第一の店舗は東京圏中心で、融資先には重化学工業が多い。一方、勧銀の店舗は地方部にも分散しており、融資先には中小製造業及び流通・運輸・小売業が多い。このため補完効果が高いうえ、互いに中位行でかつ非財閥系であり、対等合併が可能である」とその意義を説明した。特に第一側には財閥系銀行との合併にアレルギーを示す人間が多く(詳細は後述)、勧銀が非財閥系であることは合併相手の選定において極めて重要な要素だった。 大蔵省は、「規模の利益を生かし、経営基盤の強化を図り、さらに国民経済の要請に応えることは、金融効率の趣旨にかなうもの」とこれを評価し、後進のみずほ銀行はホームページにおいて非財閥系かつ全ての都道府県庁所在地に支店を置いた合併行の特徴を「国民各層と広範なお取引を頂き、真に国民的、中立的な銀行をつくり上げてきました」と評している。 存続会社は勧銀だが、統一金融機関コードは第一銀行の0001を使用、看板には赤地に白のハートのマークを使い「ハートの銀行」と称していた。勧銀の流れを受けて宝くじを取り扱い、その関係から全都道府県に支店を有していた。当初の本店は現在の丸の内センタービルの位置に所在した旧第一銀行本店に置かれたが、1981年に千代田区内幸町の旧日本勧業銀行本店跡に本店ビル(現:みずほ銀行内幸町本部ビル)を新築し、移転した。 旧第一銀行は第二次大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの、両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験を持っていた。このため、勧銀との合併以前に浮上した三菱銀行との統合計画は途上で白紙撤回され、非財閥系である勧銀との合併後もいわゆる「たすきがけ人事」や頭取の「順送り(第一・勧銀交互に選出)」が行われ、人事部も旧第一・旧勧銀で別々に置かれた。しかし、こういった人事は旧第一(D)・旧勧銀出身者(K)の対立を生んでしまって両者の融合が進まず、その収益性は富士・住友・三和・三菱などの他の上位都銀に比べると低いものであった。 一方、一勧以降の東京三菱銀行まで5件の都市銀行同士の合併と比較すると、いずれも合併コスト増大が資金調達コストの低減を上回っているのに対し、一勧は唯一コスト削減に成功しており、合併が効果的に働いていることがわかる。また、合併から20年を経た1991年3月期決算では、業務純益で都市銀行首位となったこともある。佐高信はバブル崩壊以降、都市銀行の不良債権問題に際し、「第一勧銀の不良債権比率が低いのは、旧行出身者による互いのチェック・アンド・バランスが働いているため」と分析しており、合併の評価は一様ではない。 1997年(平成9年)には、総会屋・小池隆一へ460億円にのぼる利益供与事件で、第一勧業銀行本店を東京地方検察庁特別捜査部に家宅捜索された。 近藤克彦頭取は、1997年(平成9年)5月23日に「(総会屋側に)多額の融資を行った最大の要因は、(歴代最高幹部が親しかった)元出版社社長の依頼を断れなかったことで、社長の死後もその呪縛が解けず、関係を断ち切れなかった...」と記者会見で述べ退任、次期頭取と紹介された副頭取藤田一郎の「以前から不正融資を知っていた」と記者会見で告白し、一銀幹部も驚く爆弾発言となった。 頭取経験者の11人に及ぶ逮捕や、宮崎邦次元会長の自殺という事態を引き起こし、更に調べ上げると、第一勧業銀行が1985年(昭和60年)から1996年(平成8年)まで、総会屋に提供した総額460億円にのぼる資金は、四大証券会社(山一證券・野村證券・日興証券・大和証券)を揺る資金元となり、銀行・証券界と監督当局との関係が明らかになった。大蔵省接待汚職事件とあいまって行き過ぎた金融不信となった。 この時も、逮捕された元頭取の中には「あれは旧第一銀行の案件で、自分は旧日本勧業銀行出身だから関係ない」などと刑事裁判で無責任な証言をした者がおり、いかに旧第一・勧業の関係が悪いものであったかを露呈してしまう結果になった。この不祥事以降、宝くじの広告から「受託 第一勧業銀行」の文字が消え、みずほ銀行となった後も、広告には表示されていない。 第一勧業銀行総会屋利益供与事件をきっかけに、この年出版された高杉良による経済小説『金融腐蝕列島』が耳目を集め、後年には事件を題材に続編である『呪縛ー金融腐蝕列島2』が書かれ、「金融腐蝕列島 呪縛」(1999年)として映画化もされた。タイトルは、近藤克彦頭取の「呪縛が解けなかった。」と、記者会見で述べた事に由来している。 出典。 1971年の合併成立時に制定したロゴマーク(ハートマーク及び同行の略称“DKB”を○で囲んだもの)やロゴタイプ、コーポレートカラーは、2002年に同行がみずほ銀に商号変更されるまで一切変更する事なく使用し続けた。同年3月時点で1970年代に制定したロゴマークやロゴタイプ、コーポレートカラーの全てを継続使用していたのは、都銀では第一勧銀が唯一のケースであった。 1971年の合併成立時から、同行独自のキャラクターを設定し広告媒体などに使用していたが、1992年新たに、サンリオのおさるのもんきちを採用し、広告媒体や販促品、通帳デザインなどに使用していた。その後、1998年にはサンリオのハローキティにキャラクターを変更し、みずほ銀成立時まで広告媒体や販促品、通帳デザインなどに使用していた。また、アートデザイン通帳として1990年代後半、タレントのジミー大西デザインによる通帳を発行していた時期がある。 1990年9月、イメージキャラクターとして小泉今日子を起用。同行のポスターや新聞広告のほか、1991年1月から銀行のテレビCMが解禁された際には小泉が出演するCMの出稿が開始され、3年間イメージキャラクターを務めた。1995年1月からは新たに西田ひかるを起用した。
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株式会社第一勧業銀行は、かつて1971年から2002年まで存在した、日本の都市銀行。2000年より「みずほフィナンシャルグループ」の傘下に入っており、現在のみずほ銀行の前身にあたる。現在のみずほ銀行に至るまでは、東京証券取引所に上場していた。第一勧銀グループの中核企業。 通称は「第一勧銀」・「一勧(いちかん)」・「勧銀」、英略は「DKB」。
{{Pathnav|みずほフィナンシャルグループ|みずほ銀行|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社第一勧業銀行 |英文社名 = The Dai-Ichi Kangyo Bank, Limited |ロゴ = [[File:日本第一劝业银行.png|250px]] |画像 = [[File:Mizuho Bank, Ltd. (head office).jpg|300px]] |画像説明 = [[みずほ銀行内幸町本部ビル|第一勧業銀行本店]]<br />(再開発のため、現存せず) |種類 = [[株式会社]] |機関設計 = [[監査役会設置会社]] |市場情報 = {{上場情報 | 東証1部 | 8311 | 1949年5月16日 | 2000年9月22日 }}{{上場情報 | 大証1部 | 8311 | 1949年5月16日 | 2000年9月22日 }}{{上場情報 | [[京都証券取引所|京証]] | 8311 | | 2000年9月22日 }}{{上場情報 | [[広島証券取引所|広証]] | 8311 | | 2000年3月<ref group="注釈">東証に吸収。</ref> }}{{上場情報 | [[新潟証券取引所|新証]] | 8311 | | 2000年3月<ref group="注釈">東証に吸収。</ref> }} |略称 = 第一勧銀、一勧、勧銀、DKBなど |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = |本社所在地 = |本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) = |本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) = |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = |本店郵便番号 = 100-8654 |本店所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[内幸町]]一丁目1番5号<br />[[みずほ銀行内幸町本部ビル|第一勧業銀行本店ビル]] |本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) = |本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) = |本店地図国コード = |設立 = [[1897年]]([[明治]]30年)[[6月7日]]<ref>『[https://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/data0103d_dkb/index.html 2001年度版ディスクロージャー誌]』株式会社みずほホールディングス、2001年7月</ref><br />(株式会社[[日本勧業銀行]]) |業種 = 7050 |法人番号 = |統一金融機関コード = 0001 |SWIFTコード = DKBLJPJT |事業内容 = [[普通銀行|普通銀行業務]] |代表者 = [[杉田力之]]<br />([[代表取締役]][[会長]]兼[[頭取]]) |資本金 = 8587億8400万円 |発行済株式総数 = |売上高 = 単体:1兆3980億4600万円<br />連結:1兆5459億1700万円<br />(経常収益、2001年3月期) |営業利益 = |経常利益 = 単体:1318億7600万円<br />連結:1515億8400万円<br />(同期) |純利益 = 単体:725億4100万円<br />連結:848億4600万円<br />(同期) |純資産 = 単体:2兆4979億4100万円<br />連結:2兆4624億4300万円<br />(同期末) |総資産 = 単体:51兆8182億8900万円<br />連結:52兆8336億8200万円<br />(同) |従業員数 = 14,714人(単体、同) |支店舗数 = 国内:'''319'''店<br />海外:'''31'''店<br />(※海外には出張所・駐在員事務所を含む) |決算期 = [[3月31日]] |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = [[みずほホールディングス]] 100% |主要部門 = |主要子会社 = {{PDFlink|[https://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/data0103d_dkb/index.html 第一勧業銀行のグループ企業系統図]}} - 後身の[[みずほフィナンシャルグループ|みずほFG]]ウェブサイトに掲載されている第一勧銀ディスクロージャー誌。 |関係する人物 = |外部リンク = [https://web.archive.org/web/20010707170318/http://www.dkb.co.jp/ 公式サイト]<br />([[インターネットアーカイブ]]) |特記事項 = いずれも2002年3月期決算。数値は、後身である「[[みずほフィナンシャルグループ]]」ホームページに掲載されている同行のディスクロージャー誌({{PDFlink|[https://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/data0103d_dkb/index.html 単体決算]}}、{{PDFlink|[https://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/data0103d_dkb/index.html 連結決算]}})によった。 }} {{基礎情報 銀行 |銀行 = 旧・第一勧業銀行 |英名 = The Dai-Ichi Kangyo Bank, Limited |英項名 =The Dai-Ichi Kangyo Bank, Limited |統一金融機関コード = '''0001''' |SWIFTコード = DKBLJPJT |店舗数 = 国内:'''319'''店<br />海外:'''31'''店<br />(※海外には出張所・駐在員事務所を含む) |従業員数 = |資本金 = |総資産 = |貸出金残高 = '''31'''兆'''5,509'''億'''4,500'''万円 |預金残高 = '''33'''兆'''8,831'''億'''9,200'''万円<br />(※単体。譲渡性預金を含む) |設立日 = |郵便番号 = |所在地 = |外部リンク = |特記事項 = いずれも2001年3月期決算。後身である「みずほフィナンシャルグループ」ホームページに掲載されている同行のディスクロージャー誌({{PDFlink|[https://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/dkb/pdf/data0103di/p66-113.pdf 単体決算]}})によった。 }} '''株式会社第一勧業銀行'''(だいいちかんぎょうぎんこう、{{lang-en|The Dai-Ichi Kangyo Bank, Ltd.}})は、かつて[[1971年]]から[[2002年]]まで存在した、[[日本]]の[[都市銀行]]。2000年より「[[みずほフィナンシャルグループ]]」の傘下に入っており、現在の'''[[みずほ銀行]]'''の前身にあたる。現在のみずほ銀行に至るまでは、[[東京証券取引所]]に上場していた。'''[[第一勧銀グループ]]'''の中核企業。 通称は「'''第一勧銀'''」・「'''一勧(いちかん)'''」・「'''勧銀'''」、英略は「'''DKB'''」。 == 歴史 == === 合併 === [[1971年]]、[[第一銀行]](国内資金量順位6位)とかつての[[特殊銀行]]だった[[日本勧業銀行]](同8位、勧銀)が合併し、総資産では[[富士銀行]]を抜いて国内第一位の都市銀行として誕生した。都市銀行同士の合併は[[第二次世界大戦]]後初であった。この合併には[[神戸銀行]]が加わる計画もあったが、同行は離脱、翌々年に[[太陽銀行]]と合併し[[太陽神戸銀行]]が発足する運びとなる。 第一・勧銀はこの合併について「第一の店舗は[[東京圏]]中心で、融資先には重化学工業が多い。一方、勧銀の店舗は地方部にも分散しており、融資先には中小製造業及び流通・運輸・[[小売|小売業]]が多い。このため補完効果が高いうえ、互いに中位行でかつ非財閥系であり、対等合併が可能である」とその意義を説明した。特に第一側には[[財閥]]系銀行との合併にアレルギーを示す人間が多く(詳細は後述)、勧銀が非財閥系であることは合併相手の選定において極めて重要な要素だった。 [[大蔵省]]は、「規模の利益を生かし、経営基盤の強化を図り、さらに国民経済の要請に応えることは、金融効率の趣旨にかなうもの」とこれを評価し、後進のみずほ銀行はホームページにおいて非財閥系かつ全ての都道府県庁所在地に支店を置いた合併行の特徴を「国民各層と広範なお取引を頂き、真に国民的、中立的な銀行をつくり上げてきました」と評している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mizuho-fg.co.jp/company/info/history/founding/index.html |title=<みずほ>の成り立ちと変革への取り組み |publisher=[[みずほ銀行]] |accessdate=2021-12-31}}</ref>。 === 経営・人事 === 存続会社は勧銀だが、[[統一金融機関コード]]は第一銀行の0001を使用、看板には赤地に白のハートのマークを使い「ハートの銀行」と称していた。勧銀の流れを受けて[[宝くじ]]を取り扱い<ref>{{cite news |title=みずほ銀に集まる権限、知られざる宝くじの裏側 |author= |agency=|publisher=週刊ダイヤモンド編集部 |date=2016-5-2|url=http://diamond.jp/articles/-/90389|accessdate=2017-1-14}}</ref>、その関係から全都道府県に支店を有していた<ref group="注釈">全県庁所在地に支店を置いている理由(本土返還から1984年まで那覇市には支店が存在しなかった。)として、正確には、大正時代に旧勧銀が全国の農工銀行を吸収ないしは譲受した関係による、受け皿支店の設置に伴うもので、厳密な意味では宝くじ関係は戦後に後付けされたものである。[[宝くじ]]の項目等を参照。</ref>。当初の本店は現在の[[丸の内センタービル]]の位置に所在した旧第一銀行本店に置かれたが、[[1981年]]に[[千代田区]][[内幸町]]の旧日本勧業銀行本店跡に本店ビル(現:[[みずほ銀行内幸町本部ビル]])を新築し、移転した。 旧第一銀行は第二次大戦中に[[三井銀行]]と合併して[[帝国銀行]]となったものの、両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験を持っていた。このため、勧銀との合併以前に浮上した[[三菱銀行]]との統合計画は途上で白紙撤回され、非財閥系である勧銀との合併後もいわゆる「[[たすきがけ人事]]」や頭取の「順送り(第一・勧銀交互に選出)」が行われ、人事部も旧第一・旧勧銀で別々に置かれた。しかし、こういった人事は旧第一(D)・旧勧銀出身者(K)の対立を生んでしまって両者の融合が進まず、その収益性は[[富士銀行|富士]]・[[住友銀行|住友]]・[[三和銀行|三和]]・三菱などの他の上位都銀に比べると低いものであった<ref group="注釈">前述のたすきがけ人事や二系統に分かれた人事管理などが影響し、他の銀行に比べ全体的に動きが鈍い傾向があることから、当時はそれらの点を揶揄する意味で、英字略称の「DKB」をもじった「デクノボー」という蔑称で呼ばれることがあった。</ref>。 一方、一勧以降の[[東京三菱銀行]]まで5件の都市銀行同士の合併と比較すると、いずれも合併コスト増大が資金調達コストの低減を上回っているのに対し、一勧は唯一コスト削減に成功しており、合併が効果的に働いていることがわかる<ref>橘木俊詔、羽根田明博「{{PDFlink|[http://www.mof.go.jp/f-review/r52/r_52_139_176.pdf 都市銀行の合併効果]}}」『フィナンシャル・レビュー』1999年12月号、大蔵省財政金融研究所</ref>。また、合併から20年を経た[[1991年]]3月期決算では、業務純益で都市銀行首位となったこともある。[[佐高信]]は[[バブル崩壊]]以降、都市銀行の[[不良債権]]問題に際し、「第一勧銀の不良債権比率が低いのは、旧行出身者による互いのチェック・アンド・バランスが働いているため」と分析しており、合併の評価は一様ではない。 === 総会屋利益供与事件 === [[1997年]](平成9年)には、[[総会屋]]・小池隆一へ460億円にのぼる[[小池隆一事件|利益供与事件]]で、[[みずほ銀行内幸町本部ビル|第一勧業銀行本店]]を[[東京地方検察庁]][[特別捜査部]]に[[捜索|家宅捜索]]された。 [[近藤克彦]]頭取は、1997年(平成9年)[[5月23日]]に「(総会屋側に)多額の融資を行った最大の要因は、(歴代最高幹部が親しかった)元出版社社長の依頼を断れなかったことで、社長の死後もその'''呪縛'''が解けず、関係を断ち切れなかった…」と[[記者会見]]で述べ退任、次期頭取と紹介された副頭取藤田一郎の「以前から不正融資を知っていた」と記者会見で告白し、一銀幹部も驚く爆弾発言となった<ref name="総会屋" />。 [[頭取]]経験者の11人に及ぶ[[逮捕]]や、[[宮崎邦次]]元会長の[[自殺]]という事態を引き起こし、更に調べ上げると、第一勧業銀行が[[1985年]]([[昭和]]60年)から[[1996年]]([[平成]]8年)まで、総会屋に提供した総額460億円にのぼる資金は、四大[[証券会社]]([[山一證券]]・[[野村證券]]・[[SMBC日興証券|日興証券]]・[[大和証券]])を揺る資金元となり、銀行・証券界と監督当局との関係が明らかになった。[[大蔵省接待汚職事件]]とあいまって行き過ぎた金融不信となった<ref name="総会屋">{{cite news| author = 久原 穏| url = http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2008/anohi/CK2007061502124479.html| title = 【特集・連載】1997年5月23日 旧第一勧銀が『呪縛』公表 闇勢力排除の契機に| newspaper = [[東京新聞]]| date = 2006-10-04| accessdate = 2017-08-14| archiveurl = https://web.archive.org/web/20160216013903/http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2008/anohi/CK2007061502124479.html| archivedate = 2016-02-16 }}</ref>。 この時も、逮捕された元頭取の中には「あれは旧[[第一銀行]]の案件で、自分は旧[[日本勧業銀行]]出身だから関係ない」などと[[刑事裁判]]で無責任な[[証言]]をした者がおり、いかに旧第一・勧業の関係が悪いものであったかを露呈してしまう結果になった。この不祥事以降、[[宝くじ]]の[[広告]]から「受託 第一勧業銀行」の文字が消え、[[みずほ銀行]]となった後も、広告には表示されていない<ref group="注釈">なお、宝くじ券面には受託銀行の表示がなされているが、これは宝くじの根拠法令である「[[当せん金付証票法]]」第9条第3号によって義務付けられているからである。</ref>。 第一勧業銀行総会屋利益供与事件をきっかけに、この年出版された[[高杉良]]による[[経済小説]]『[[金融腐蝕列島]]』が耳目を集め、後年には事件を題材に続編である『呪縛ー金融腐蝕列島2』が書かれ、「[[金融腐蝕列島 呪縛]]」([[1999年]])として映画化もされた。タイトルは、近藤克彦頭取の「呪縛が解けなかった。」と、[[記者会見]]で述べた事に由来している。 == 沿革 == : 合併以前の沿革は[[第一銀行]]、[[日本勧業銀行]]を、3行合併統合以後の沿革は[[みずほ銀行]]、[[みずほコーポレート銀行]]を参照のこと。 * [[1971年]]([[昭和]]46年) **10月 - 株式会社日本勧業銀行が株式会社第一銀行を合併。株式会社第一勧業銀行に商号変更。 **10月 - 第一勧銀の発足にあわせ、日本勧業信用組合が[[第一勧業信用組合]]に名称変更。 * [[1988年]](昭和63年) - [[勘定系システム]]「{{en|STEPS}}」が稼働開始。[[2018年]](平成30年)でも、みずほ銀行でシステム稼働中。 * [[2000年]](平成12年)9月29日 - 第一勧業銀行、株式会社[[富士銀行]]及び株式会社[[日本興業銀行]]が[[株式移転]]により株式会社[[みずほフィナンシャルストラテジー|みずほホールディングス]]を設立。3行はその完全子会社となる。 * [[2002年]](平成14年)4月1日 - 第一勧業銀行を存続銀行として株式会社[[みずほ統合準備銀行]](株式会社日本興業銀行のコンシューマー(リテール)バンキング業務を2002年(平成14年)4月1日に[[会社分割|分割]]承継した銀行)と合併し、あわせて富士銀行よりコンシューマー(リテール)バンキング業務を分割承継して、株式会社[[みずほ銀行]]と商号変更。同時にコーポレートバンキング業務を、株式会社[[みずほコーポレート銀行]]へ分割承継する。 == 歴代頭取 == {|class="wikitable" |- !代 !氏名 !期間 !備考 |- |1 |[[横田郁]] |1971年10月 - 1976年12月 |1969年2月、日本勧業銀行頭取に就任。 |- |2 |[[村本周三]] |1976年12月 - 1982年6月 | |- |3 |[[羽倉信也]] |1982年6月 - 1988年6月 | |- |4 |[[宮崎邦次]] |1988年6月 - 1992年3月 | |- |5 |[[奥田正司]] |1992年4月 - 1996年3月 | |- |6 |[[近藤克彦]] |1996年4月 - 1997年6月 | |- |7 |[[杉田力之]] |1997年6月 - 2002年3月 |代表取締役会長兼務 |} 出典<ref>『第一勧業銀行二十年史』p.448 - 456</ref><ref>『第一勧業銀行30年の歩み』p.212 - 213</ref>。 == 広報・広告関連 == === ロゴマーク・コーポレートカラー === 1971年の合併成立時に制定した[[ロゴタイプ|ロゴマーク]](ハートマーク及び同行の略称“DKB”を○で囲んだもの)やロゴタイプ、コーポレートカラーは、2002年に同行がみずほ銀に商号変更されるまで一切変更する事なく使用し続けた。同年3月時点で[[1970年代]]に制定したロゴマークやロゴタイプ、コーポレートカラーの全てを継続使用していたのは、都銀では第一勧銀が唯一のケースであった<ref group="注釈">同じみずほグループとなった日本興業銀行は都市銀行ではなかったが、第一勧銀同様に2002年の再編まで同じロゴ・コーポレートカラーを継続使用していた。</ref>。 === マスコットキャラクター === 1971年の合併成立時から、同行独自のキャラクターを設定し広告媒体などに使用していたが、[[1992年]]新たに、[[サンリオ]]の[[おさるのもんきち]]を採用し、広告媒体や販促品、通帳デザインなどに使用していた。その後、[[1998年]]には[[サンリオ]]の[[ハローキティ]]にキャラクターを変更し、みずほ銀成立時まで広告媒体や販促品、通帳デザインなどに使用していた<ref group="注釈">ハローキティのキャッシュカードや通帳はみずほ銀でも導入され、顧客の選択により利用が可能である。</ref>。また、アートデザイン通帳として1990年代後半、タレントの[[ジミー大西]]デザインによる通帳を発行していた時期がある。 === イメージキャラクター === [[1990年]]9月、[[イメージキャラクター]]として[[小泉今日子]]を起用。同行のポスターや新聞広告のほか、[[1991年]]1月から銀行のテレビCMが解禁された際には小泉が出演するCMの出稿が開始され<ref>「イメージキャラクターに小泉今日子 第一勧業銀行」『読売新聞』1990年9月5日</ref>、3年間イメージキャラクターを務めた。[[1995年]]1月からは新たに[[西田ひかる]]を起用した<ref>「第一勧銀 イメージキャラクターに西田ひかる」『毎日新聞』1994年11月12日</ref>。 == 出身者 == {{main|[[:Category:みずほフィナンシャルグループの人物]]}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[高杉良]]『大合併―小説第一勧業銀行』講談社、1989年。ISBN 978-4062045360 * 高杉良『大合併―小説第一勧業銀行』講談社文庫、1992年。ISBN 978-4061852341 * 第一勧業銀行調査部編『第一勧業銀行二十年史』第一勧業銀行、1992年。 *『[https://www.mizuho-fg.co.jp/investors/financial/disclosure/data0103d_dkb/index.html 2001年度版ディスクロージャー誌]』株式会社第一勧業銀行、2001年7月 *『[https://archive.is/jVxHu 1997年5月23日 旧第一勧銀が『呪縛』公表 闇勢力排除の契機に]』 - [[東京新聞]] 2006年10月4日 * 第一勧業銀行30年の歩み編纂委員会編『第一勧業銀行30年の歩み』第一勧業銀行30年の歩み編纂委員会、2014年。 == 関連項目 == * [[第一勧銀グループ]] - [[1980年]]発足。最大の規模を誇った企業グループであるが、その実態は旧行それぞれの企業グループを同行と[[伊藤忠商事]]が中心となって統合した物で、同一業種の企業が複数所属していることなどから結束力が他の企業グループよりも弱いと言われた。 * [[第一勧業信用組合]] - 東京都新宿区に本店を置く信用組合。日本勧業銀行(当時)の職員を対象とした職域信用組合「日本勧業信用組合」として設立され、その後の規模拡大に伴い地域信用組合に転換した。第一勧業銀行の誕生に合わせて現名称に改称しているが、当行がみずほ銀行となった際には特に名称変更はせず、現在も「第一勧業」の名を残している。また、看板の色や書体も、旧第一勧業銀行と同一のものを使用している。 * [[笑点]] - 1992年〜1995年ごろ提供。現在は同業の[[JAバンク]]が提供。 * [[小池隆一事件]] * [[大蔵省接待汚職事件]] == 外部リンク == {{Commonscat|Dai-Ichi Kangyo Bank}} * [https://web.archive.org/web/20011010194833/http://www.dkb.co.jp/index.html 第一勧業銀行 (Webアーカイブ)] {{みずほフィナンシャルグループ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいいちかんきようきんこう}} [[Category:第一勧銀グループ|*DKB]] [[Category:みずほ銀行の前身行|*DKB]] [[Category:かつて存在した都市銀行]] [[Category:かつて存在した東京都の企業]] [[Category:千代田区の歴史]] [[Category:2002年廃止の企業]]
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ドイツ連邦
ドイツ連邦(ドイツれんぽう)またはドイツ同盟(ドイツどうめい、ドイツ語: Deutscher Bund)は、旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市との連合体である。1815年のウィーン議定書に基づいてオーストリア帝国を盟主として発足し、1866年の普墺戦争でのプロイセン王国の勝利をもって解消された。 ドイツ連邦はあくまでも複数の主権国家の連合体、つまり国家連合(Staatenbund)であり、連邦国家(Bundesstaat)でない。そのため、「ドイツ連合」や「ドイツ国家連合」などとも訳される(下記「訳語」の項目を参照)。 ドイツ連邦はライン同盟の解体を受け、ウィーン会議を経て1815年6月8日のドイツ連邦規約に基づいて成立した。規約第17条では帝国郵便を営んできたトゥルン・ウント・タクシス家(ドイツ語版)の事業存続権が保証された。 オーストリア帝国(連邦議会議長)、プロイセン王国、4つの帝国自由都市(リューベック、フランクフルト、ブレーメン、ハンブルク)など39の領邦が同盟を構成した。なお、旧神聖ローマ帝国の領域を範囲としたため、オーストリアおよびプロイセンの領土は連邦の内と外にまたがっていた。 それまで神聖ローマ皇帝が司ってきたドイツ全体に関わる懸案の審議と議決を目的に、フランクフルトに連邦議会(ドイツ語版)(Bundestag des Deutschen Bundes あるいは Bundesversammlung)が常設された。軍隊、警察、関税は構成国の主権に属した。連邦議会の議員は諸邦の普通選挙で選ばれた官吏、大学教員等の市民階級の代表が務めた。プロイセンのビスマルクもその一人であった。 1848年の三月革命によって存続を危ぶまれたが、1849年に復活した。しかし、1866年の普墺戦争に勝利したプロイセンはドイツ連邦を解消、翌1867年プロイセンは北ドイツ連邦を成立させ、ドイツ統一の主導権を握り、後のドイツ帝国の母体とした。 Deutscher Bund はアメリカ合衆国のような連邦国家ではなく、国家の緩やかな連合体(国家連合)であるため、「ドイツ連邦」という訳語は問題があるとする考えもある。連邦国家でないものを「ドイツ連邦」と称するのは本来的にミスリーディングであり、「ドイツ同盟」と訳すほうが望ましいとする。また、訳語に用いられるほかの例としては、「ドイツ連合」や「ドイツ国家連合」などがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ドイツ連邦(ドイツれんぽう)またはドイツ同盟(ドイツどうめい、ドイツ語: Deutscher Bund)は、旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市との連合体である。1815年のウィーン議定書に基づいてオーストリア帝国を盟主として発足し、1866年の普墺戦争でのプロイセン王国の勝利をもって解消された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ドイツ連邦はあくまでも複数の主権国家の連合体、つまり国家連合(Staatenbund)であり、連邦国家(Bundesstaat)でない。そのため、「ドイツ連合」や「ドイツ国家連合」などとも訳される(下記「訳語」の項目を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ドイツ連邦はライン同盟の解体を受け、ウィーン会議を経て1815年6月8日のドイツ連邦規約に基づいて成立した。規約第17条では帝国郵便を営んできたトゥルン・ウント・タクシス家(ドイツ語版)の事業存続権が保証された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "オーストリア帝国(連邦議会議長)、プロイセン王国、4つの帝国自由都市(リューベック、フランクフルト、ブレーメン、ハンブルク)など39の領邦が同盟を構成した。なお、旧神聖ローマ帝国の領域を範囲としたため、オーストリアおよびプロイセンの領土は連邦の内と外にまたがっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "それまで神聖ローマ皇帝が司ってきたドイツ全体に関わる懸案の審議と議決を目的に、フランクフルトに連邦議会(ドイツ語版)(Bundestag des Deutschen Bundes あるいは Bundesversammlung)が常設された。軍隊、警察、関税は構成国の主権に属した。連邦議会の議員は諸邦の普通選挙で選ばれた官吏、大学教員等の市民階級の代表が務めた。プロイセンのビスマルクもその一人であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1848年の三月革命によって存続を危ぶまれたが、1849年に復活した。しかし、1866年の普墺戦争に勝利したプロイセンはドイツ連邦を解消、翌1867年プロイセンは北ドイツ連邦を成立させ、ドイツ統一の主導権を握り、後のドイツ帝国の母体とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "Deutscher Bund はアメリカ合衆国のような連邦国家ではなく、国家の緩やかな連合体(国家連合)であるため、「ドイツ連邦」という訳語は問題があるとする考えもある。連邦国家でないものを「ドイツ連邦」と称するのは本来的にミスリーディングであり、「ドイツ同盟」と訳すほうが望ましいとする。また、訳語に用いられるほかの例としては、「ドイツ連合」や「ドイツ国家連合」などがある。", "title": "訳語" } ]
ドイツ連邦(ドイツれんぽう)またはドイツ同盟は、旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市との連合体である。1815年のウィーン議定書に基づいてオーストリア帝国を盟主として発足し、1866年の普墺戦争でのプロイセン王国の勝利をもって解消された。 ドイツ連邦はあくまでも複数の主権国家の連合体、つまり国家連合(Staatenbund)であり、連邦国家(Bundesstaat)でない。そのため、「ドイツ連合」や「ドイツ国家連合」などとも訳される(下記「訳語」の項目を参照)。
{{Otheruses2|1815年に成立した国家連合|1949年に成立した「'''ドイツ連邦共和国'''」|ドイツ|西ドイツ}} {{基礎情報 過去の国 | 略名 = ドイツ | 日本語国名 = ドイツ連邦 | 公式国名 = {{native name|de|Deutscher Bund|italic=no}} | 建国時期 = [[1815年]] | 亡国時期 = [[1848年]]<br>([[ドイツ帝国 (1848-1849)|ドイツ帝国]]によって機能停止) | 先代1 = ライン同盟 | 先旗1 = Commemorative Medal of the Rhine Confederation.svg | 先代2 = オーストリア帝国 | 先旗2 = Flag of the Habsburg Monarchy.svg | 先代3 = プロイセン王国 | 先旗3 = Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg | 先代4 = ドイツ帝国 (1848年-1849年) | 先代4略 = ドイツ帝国 | 先旗4 = Imperial Coat of arms of Germany (1848).svg | 先旗4縁 = no | 先代5 = リンブルフ州 (1815年-1839年) | 先代5略 = リンブルフ州 | 先旗5 = Limburg_provinciewapen_oud.svg | 先旗5縁 = no | 次代1 = ドイツ帝国 (1848年-1849年) | 次代1略 = ドイツ帝国 | 次旗1 = Imperial Coat of arms of Germany (1848).svg | 次旗1縁 = no | 次代2 = 北ドイツ連邦 | 次旗2 = Flag of the German Empire.svg | 次代3 = オーストリア帝国 | 次旗3 = Flag of the Habsburg Monarchy.svg | 次代4 = バイエルン王国 | 次旗4 = Flag of Bavaria (striped).svg | 次代5 = ヴュルテンベルク王国 | 次旗5 = Flagge Königreich Württemberg.svg | 次代6 = バーデン大公国 | 次旗6 = Flagge Großherzogtum Baden (1891–1918).svg | 次代7 = リンブルフ州 (オランダ) | 次代7略 = リンブルフ州 | 次旗7 = Flag_of_Limburg_(Netherlands).svg | 次代8 = ルクセンブルク大公国 | 次旗8 = Flag of Luxembourg.svg | 次代9 = リヒテンシュタイン公国 | 次旗9 = Flag of Liechtenstein (1852-1921).svg | 次代10 = ヘッセン大公国 | 次旗10 = Flagge Großherzogtum Hessen ohne Wappen.svg | 国旗画像 = | 国旗リンク = | 国旗説明 = 軍艦旗 | 国旗幅 = | 国旗縁 = | 国章画像 = Wappen Deutscher Bund.svg | 国章リンク = | 国章幅 = | 標語 = | 国歌 = | 国歌追記 = | 位置画像 = Map-GermanConfederation.svg | 位置画像説明 = [[1820年]]のドイツ連邦<br>二大国の[[オーストリア帝国]](黄)と[[プロイセン王国]](青)は連邦の国境線(赤)外にも領土を有している。 | 位置画像幅 = 290 | 言語 = [[ドイツ語]]<br>[[イタリア語]]<br>[[低地ドイツ語]]<br>[[チェコ語]]<br>[[スロベニア語]]<br>[[ポーランド語]]<br>[[リンブルフ語]] | 宗教 = [[カトリック]]<br>[[プロテスタント]] | 首都 = [[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]] | 元首等肩書 = [[ドイツの君主一覧|連邦議会議長国の元首]] | 元首等年代始1 = 1815年 | 元首等年代終1 = 1835年 | 元首等氏名1 = [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]] | 元首等年代始2 = 1835年 | 元首等年代終2 = 1848年 | 元首等氏名2 = [[フェルディナント1世]] | 元首等年代始3 = 1848年 | 元首等年代終3 = 1849年 | 元首等氏名3 = [[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン]] | 元首等年代始4 = 1849年 | 元首等年代終4 = 1850年 | 元首等氏名4 = [[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]] | 元首等年代始5 = 1850年 | 元首等年代終5 = 1866年 | 元首等氏名5 = [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]] | 面積測定時期1 = | 面積値1 = | 人口測定時期1 = | 人口値1 = | 変遷1 = 発足 | 変遷年月日1 = 1815年6月8日 | 変遷2 = [[1848年革命#ドイツ・オーストリア3月革命|3月革命]]勃発 | 変遷年月日2 = 1848年3月13日 | 変遷3 = [[オルミュッツ協定]]成立 | 変遷年月日3 = 1850年11月29日 | 変遷4 = [[普墺戦争]]勃発 | 変遷年月日4 = 1866年6月15日 | 変遷5 = [[プラハ条約 (1866年)|プラハ条約]] | 変遷年月日5 = 1866年8月23日 | 通貨 = [[ターラー (通貨)|フェアアインスターラー]] | 時間帯 = | 夏時間 = | 時間帯追記 = | ccTLD = | ccTLD追記 = | 国際電話番号 = | 国際電話番号追記 = | 現在 = {{DEU}}<br>{{AUT}}<br>{{POL}}<br>{{CZE}}<br>{{NED}}<br>{{BEL}}<br>{{LUX}}<br>{{CRO}}<br>{{ITA}}<br>{{SLO}}<br>{{LIE}} | 注記 = | 建国時期2 = [[1850年]] | 亡国時期2 = [[1866年]] }} {{ドイツの歴史}} {{オーストリアの歴史}} [[File:Deutscher Bund.svg|thumb|right|300px|<center>ドイツ連邦内の各領邦と帝国自由都市(ドイツ語)。]] [[画像:Frankfurter Fürstentag 1863 Abschlußphoto.jpg|300px|right|thumb|[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]に集まった各加盟諸邦の君主たち([[1863年]])。]] '''ドイツ連邦'''(ドイツれんぽう)または'''ドイツ同盟'''(ドイツどうめい、{{lang-de|Deutscher Bund}})は、旧[[神聖ローマ帝国]]を構成していた[[ドイツ]]の35の[[領邦]]と4つの[[帝国自由都市]]との連合体である。1815年の[[ウィーン議定書]]に基づいて[[オーストリア帝国]]を盟主として発足し、[[1866年]]の[[普墺戦争]]での[[プロイセン王国]]の勝利をもって解消された。 ドイツ連邦はあくまでも複数の主権国家の連合体、つまり'''[[国家連合]]'''(Staatenbund)であり、'''[[連邦]]国家'''(Bundesstaat)でない。そのため、「ドイツ連合」や「ドイツ国家連合」などとも訳される(下記「訳語」の項目を参照)。 == 歴史 == ドイツ連邦は[[ライン同盟]]の解体を受け、[[ウィーン会議]]を経て[[1815年]]6月8日の[[ドイツ同盟規約|ドイツ連邦規約]]に基づいて成立した。規約第17条では[[帝国郵便]]を営んできた{{仮リンク|トゥルン・ウント・タクシス家|de|Thurn und Taxis}}の事業存続権が保証された<ref group="注釈">「自由な協定によって別の条約が締結されないならば、トゥルン・ウント・タクシス侯家は、1803年2月25日の[[帝国代表者会議主要決議]]あるいはその後の条約によって確認された連邦諸国における郵便の所有と利益を保持する。あらゆる場合において、先の帝国代表者会議主要決議の第13条により、タクシス侯家には、郵便の委託または適切な補償に基づく権利と要求が保証される。1803年以来、帝国代表者会議主要決議の内容に反して、郵便の廃止がすでに起こったところでも、その補償が条約によってまだ決定的に取り決められていない限り、このことは適用される。」</ref>。 [[オーストリア帝国]](連邦議会議長)、[[プロイセン王国]]、4つの[[自由都市|帝国自由都市]]([[リューベック]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]、[[ブレーメン州|ブレーメン]]、[[ハンブルク]])など39の[[領邦]]が[[同盟]]を構成した。なお、旧[[神聖ローマ帝国]]の領域を範囲としたため、オーストリアおよびプロイセンの領土は連邦の内と外にまたがっていた。 それまで[[神聖ローマ皇帝]]が司ってきたドイツ全体に関わる懸案の審議と議決を目的に、フランクフルトに{{仮リンク|連邦議会 (ドイツ連邦)|de|Bundestag (Deutscher Bund)|label=連邦議会}}(Bundestag des Deutschen Bundes あるいは Bundesversammlung)が常設された。軍隊、警察、関税は構成国の主権に属した。連邦議会の議員は諸邦の普通選挙で選ばれた官吏、大学教員等の市民階級の代表が務めた。プロイセンの[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]もその一人であった。 [[1848年]]の[[1848年革命|三月革命]]によって存続を危ぶまれたが、[[1849年]]に復活した。しかし、[[1866年]]の[[普墺戦争]]に勝利したプロイセンはドイツ連邦を解消、翌[[1867年]]プロイセンは[[北ドイツ連邦]]を成立させ、[[ドイツ統一]]の主導権を握り、後の[[ドイツ帝国]]の母体とした。 == 加盟諸邦 == === 連邦議会で4票を有する === *[[File:Flag_of_the_Habsburg_Monarchy.svg|25px|border]] [[オーストリア帝国]] *[[File:Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg|25px|border]] [[プロイセン王国]] *[[File:Flagge Königreich Sachsen (1815-1918).svg|25px|border]] [[ザクセン王国]] *[[File:Flag of Bavaria (striped).svg|25px|border]] [[バイエルン王国]] *[[File:Flag of Hanover 1837-1866.svg|25px|border]] [[ハノーファー王国]]<ref group="注釈">[[1837年]]まで君主は[[イギリス]]国王が兼ねていた。</ref> *[[File:Flagge Königreich Württemberg.svg|25px|border]] [[ヴュルテンベルク王国]] === 連邦議会で3票を有する === *[[File:Flagge Großherzogtum Baden (1871-1891).svg|25px|border]] [[バーデン (領邦)|バーデン大公国]] *[[File:Flag of Hesse.svg|25px|border]] [[ヘッセン選帝侯国]] *[[File:Flagge Großherzogtum Hessen ohne Wappen.svg|25px|border]] [[ヘッセン大公国|ヘッセン=ダルムシュタット大公国]] *[[File:Holstein_Arms.svg|25px|border]] [[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|ホルシュタイン公国]]<ref group="注釈">[[1864年]]まで君主は[[デンマーク]]国王が兼ね、以後はオーストリアとプロイセンの共同管理</ref> *{{Flagicon|LUX}} [[ルクセンブルク|ルクセンブルク大公国]]<ref group="注釈">君主は[[オランダ]]国王が兼ねる。</ref> === 連邦議会で2票を有する === *[[ファイル:Flagge Herzogtum Braunschweig.svg|25px|border]] [[ブラウンシュヴァイク公国]] *[[ファイル:Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg|25px|border]] [[メクレンブルク=シュヴェリン大公国]] *[[ファイル:Flagge Herzogtum Nassau (1806-1866).svg|25px|border]] [[ナッサウ公国]] === 連邦議会で1票を有する === * [[ファイル:Flagge Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach (1813-1897).svg|25px|border]] [[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国]] * [[ファイル:Banner of Saxony (1^1).svg|25px|border]] [[ザクセン=ゴータ公国]] * [[ザクセン=コーブルク公国]] *:ザクセン=ゴータ公国及びザクセン=コーブルク公国は、[[1825年]]に以下の3か国に再編された。 ** [[ファイル:Flagge Herzogtum Sachsen-Coburg-Gotha (1911-1920).svg|25px|border]] [[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国]] ** [[ファイル:Flagge Herzogtum Sachsen-Meiningen.svg|25px|border]] [[ザクセン=マイニンゲン公国]] ** [[ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国]] * [[ファイル:Flagge Großherzogtümer Mecklenburg.svg|25px|border]] [[メクレンブルク=シュトレーリッツ]]大公国 * [[オルデンブルク (領邦)|オルデンブルク大公国]] * [[アンハルト=デッサウ|アンハルト=デッサウ公国]] * [[アンハルト=ベルンブルク公国]] * [[アンハルト=ケーテン|アンハルト=ケーテン公国]] *:上記の3か国は[[1863年]]に下国に再編された。 ** [[ファイル:Flagge Herzogtum Anhalt.svg|25px|border]] [[アンハルト公国]] * [[ファイル:Flagge Fürstentum Schwarzburg-Sondershausen.png|25px|border]] [[シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国]] * [[ファイル:Flagge Fürstentümer Schwarzburg.svg|25px|border]] [[シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国]] * [[ファイル:Flag of Hohenzollern-Hechingen and Sigmaringen.png|25px|border]] {{仮リンク|ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯国|de|Hohenzollern-Hechingen}} * [[ファイル:Flag of Liechtenstein.svg|25px|border]] [[リヒテンシュタイン|リヒテンシュタイン侯国]] * [[ファイル:Flag of Hohenzollern-Hechingen and Sigmaringen.png|25px|border]] {{仮リンク|ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国|de|Hohenzollern-Sigmaringen}} * [[ファイル:Flag of Germany (3-2 aspect ratio).svg|25px|border]] [[ヴァルデック侯国]] * [[ファイル:Flagge Fürstentum Reuß ältere Linie.svg|25px|border]] [[ロイス=グライツ侯国|ロイス侯国(兄系)]] * [[ファイル:Flagge Fürstentum Reuß jüngere Linie.svg|25px|border]] [[ロイス=ゲーラ侯国|ロイス侯国(弟系)]](ロイス=ローベンシュタイン、ロイス=シュライツ、ロイス=エベルスドルフ) * [[ファイル:Flagge Fürstentum Schaumburg-Lippe.svg|25px|border]] [[シャウムブルク=リッペ侯国]] * [[ファイル:Flagge Fürstentum Lippe.svg|25px|border]] [[リッペ侯国]] * [[ファイル:Flag of the Free City of Lübeck.svg|25px|border]] [[自由ハンザ都市リューベック|自由都市リューベック]] * [[ファイル:Flag_of_the_Free_City_of_Frankfurt.svg|25px|border]] [[フランクフルト・アム・マイン|自由都市フランクフルト]] * [[ファイル:Flag of Bremen.svg|25px|border]] [[ブレーメン州|自由都市ブレーメン]] * [[ファイル:Flag of Hamburg.svg|25px|border]] [[ハンブルク|自由都市ハンブルク]] == 訳語 == Deutscher Bund は[[アメリカ合衆国]]のような[[連邦]]国家ではなく、国家の緩やかな連合体(国家連合)であるため、「ドイツ連邦」という訳語は問題があるとする考えもある。連邦国家でないものを「ドイツ連邦」と称するのは本来的にミスリーディングであり、「ドイツ同盟」と訳すほうが望ましいとする<ref>「ドイツ同盟」を用いる例に、イェリネク(芦部ほか訳)『一般国家学』学陽書房 や、栗城壽夫『一九世紀ドイツ憲法理論の研究』など。</ref>。また、訳語に用いられるほかの例としては、「ドイツ連合」<ref>「ドイツ連合」を用いる例に、小畑郁「国際法の主体」『国際法 第5版』松井芳郎ほか、有斐閣。</ref>や「ドイツ国家連合」<ref>「ドイツ国家連合」を用いる例に、福田耕治『国際行政学 国際公益と国際公共政策』有斐閣。</ref>などがある。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references/> == 関連項目 == * [[ライン同盟]] * [[フランクフルト国民議会]] * [[北ドイツ連邦]] {{Commonscat|German Confederation}} {{ドイツ統一}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:といつれんほう}} [[Category:ドイツ連邦|*]] [[Category:ドイツの歴史 (1806年-1870年)]] [[Category:オーストリア帝国]] [[Category:デンマークの歴史]] [[Category:オランダの歴史]] [[Category:ルクセンブルクの歴史]] [[Category:ベルギーの歴史]] [[Category:デンマークの国際関係]] [[Category:オランダの国際関係]] [[Category:ルクセンブルクの国際関係]]
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UCS
株式会社UCS(ユーシーエス、英: UCS CO., LTD.)は、パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス傘下の金融事業会社であり、クレジットカード事業を行う登録割賦購入あっせん業者・貸金業・保険代理店業者である。 国際ブランドとしてMasterCard、JCB及びVISAブランドのクレジットカードを発行している。かつては、VISAブランドの場合、 Visa TouchとQUICPayの両方に対応していたが、 Visa Touchについては、現在は受付を終了し、どのブランドでもUCS QUICPayが発行できるようになった。クレジットカード会員数は283万人、電子マネー会員数は223万人である。全社の取扱高は9164億円。(2019年(平成31年)2月現在) 電子マネーmajicaを発行している。かつては電子マネーunikoも発行・運用していたが2020年4月30日をもって終了した。 アフラック生命保険の代理店としてユニーのショッピングセンター内に店舗を設け、金融商品の販売も行っている。 UCSはかつて、ユニーグループで使用できるプリペイド方式の磁気型電子マネー「uniko」(ユニコ)を発行していた。 2013年11月21日よりサービスを開始、2020年4月30日をもって終了した。 アピタ、ピアゴ、およびアピタ・ピアゴ・MEGAドン・キホーテUNY内の一部専門店で利用ができた。2016年8月21日に廃止となったユーホームや2017年10月31日までピアゴ関東が運営していたベンガ・ベンガでも利用が可能であった。ユーホームから改装したDCMカーマやフレスコ関東の運営になったベンガベンガは利用不可で、当時ユニーグループ内だったminiピアゴにも導入されなかった。カードの申し込みは店頭のみで、ネット上では受け付けていなかった。 チャージ上限額の5万円を超えて支払う場合は、ユニコ残高からチャージ残高全額を引き、差額を現金、ユニー・ファミリーマートグループ商品券、UCSカードのいずれかで支払い、商品券やクレジットカードと併用可否は一部専門店は異なった。2020年4月2日から同月30日まではチャージ終了に伴い、ユニコ残高不足となる場合も同様だった。majicaと併用払いやunikoを含む支払いで、majicaのランク対象金額加算は一切出来なかった。 ポイントは200円につき1ポイント付与され、ファミリーマートを除いて即時還元されていたMEGAドン・キホーテUNY、ドン・キホーテUNYは専門店も含め2020年1月4日から、閉店店舗は閉店前からそれぞれ実施された。2020年5月1日時点で保有する残高、ポイントは2021年4月20日までの間、majicaポイントへ移行可能措置が取られた。 名称の由来は、あなたの「ユー」とユニーグループの「ユニー」、お客様の笑顔「ニコッ!」を足したもので、公式キャラクターは公募で「ゆにぴょん」とされた。 ユニー・ファミリーマートホールディングス発足後、ユニコカードはアピタ、ピアゴで利用が可能であった。 MEGAドン・キホーテUNYへ業態転換店舗は2020年1月31日まで利用可能であったが、アピタは毎月9日、19日、29日、ピアゴは毎週金曜日に行っていた5%OFF感謝デーなど特典の対象からUCSカード、majicaとともに除外された。一方ドン・キホーテグループの電子マネーであるmajicaで適用されている、1001円(税込)以上の買い物で支払い金額の1円単位の額を切り捨てる(2020年7月1日以降は5円未満の端数のみ)、円満快計などの特典がほぼ同等で受けられた。現在はmajicaの他にUCSカードでも受けられる。カードへのチャージもチャージ機のみの取り扱いとなっていた。2019年12月31日にチャージの取り扱いを先行終了し、通常のドン・キホーテは利用不可となる。 サークルK、サンクスは、ファミリーマートへ移行していない店舗は、統合当初から移行直前まで利用が可能で、カードの販売を継続する店舗もあった。ファミリーマートへ移行した店舗、以前からファミリーマートとして営業していた店舗、サークルKやサンクス以外からの転換店舗は、それぞれ利用できなかったが、2018年4月24日から全店舗で取り扱いを開始した。毎週土曜日、日曜日の2倍デーは対象外のほかポイント数の表示がされなかった。この他ファミリーマートではユニーグループのライバルに当たるイオングループ が手掛けるWAONを2009年10月より導入してきた。ユニコカードと競合する形になるが統合後も引き続き利用可能なほかサークルK、サンクスについても統合2日前の2016年8月30日よりWAONを導入し両方が利用可能となっていた。のちのuniko廃止後もファミリーマートではWAONが利用できる一方で、majicaは導入していない。スタイルワン商品でもファミリーマートコレクションに移行するまではサークルK、サンクスでWAONでの購入が可能であった。 ファミリーマートでは2020年3月31日23時に取り扱いを終了。他の加盟店舗は2020年4月1日に入金を、2020年4月30日にサービスをそれぞれ終了し、以降はmajicaへ移行した。アピタ、ピアゴ、MEGAドン・キホーテUNY店舗の専門店は2020年秋のmajica導入を予定していたが少し遅れて2020年12月より順次導入されている(専門店はチャージ、ランクアップ対象金額加算、5%OFFなどの割引特典、円満快計の対象外)。そのため、2020年5月1日から導入日(店舗により異なる)までの間はuniko、majicaのいずれも利用出来ない状態が続いていた。移行に際して2020年4月1日から12月31日(期間内にUDリテール運営店舗への転換、完全閉店の店舗は最終営業日)まで、アピタ・ピアゴ・ユーストア(MEGAドン・キホーテUNY転換店を除く)でuniko所持客にUNYmajicaを無償で配布していた。 2020年4月3日から2021年4月20日まで、majicaアプリで、2020年5月1日から2021年4月20日までアピタ・ピアゴ・ユーストアの店頭で、それぞれ残高をmajicaへ移行できた(カードの無料配布は2020年12月31日で終了したが以降も残高の移行は2021年4月20日までは可能であった。ただし2019年3月1日から2020年2月29日までに加算されたポイントは2021年2月28日をもって失効するため同年3月1日以降は移行できなかった)。 当社の発行する電子マネーカードとしては、uniko以外にmajicaも存在する。
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株式会社UCSは、パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス傘下の金融事業会社であり、クレジットカード事業を行う登録割賦購入あっせん業者・貸金業・保険代理店業者である。 国際ブランドとしてMasterCard、JCB及びVISAブランドのクレジットカードを発行している。かつては、VISAブランドの場合、 Visa TouchとQUICPayの両方に対応していたが、 Visa Touchについては、現在は受付を終了し、どのブランドでもUCS QUICPayが発行できるようになった。クレジットカード会員数は283万人、電子マネー会員数は223万人である。全社の取扱高は9164億円。(2019年2月現在) 電子マネーmajicaを発行している。かつては電子マネーunikoも発行・運用していたが2020年4月30日をもって終了した。
{{Otheruses|日本の[[クレジットカード]]業者|[[文字集合]]|ISO/IEC 10646}} {{Redirect3|uniko|日本の[[電子マネー]]「uniko」|[[手塚治虫]]の漫画作品|ユニコ|日本のシンガーソングライター|Unico}} {{出典の明記|date=2014年1月14日 (火) 06:47 (UTC)}} {{Pathnav|パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス|frame=1}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社UCS | 英文社名 = UCS Co., Ltd. | ロゴ = | 画像 = [[ファイル:Uny.honsha.JPG|270px|ユニーグループ本部]] | 画像説明 = 本社(ユニー稲沢本社内) | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = {{上場情報 | JASDAQ | 8787 | | 2018年4月25日}} | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 492-8686 | 本社所在地 = [[愛知県]][[稲沢市]][[天池五反田町]]1番地 | 設立 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[5月17日]]<br />(ユニーカードサービス) | 業種 = 7200 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 総合あっせん事業など | 代表者 = 代表取締役社長 後藤秀樹 | 資本金 = 16億1089万円<ref name="EDINET">{{Cite web|和書|url=https://disclosure.edinet-fsa.go.jp/E01EW/BLMainController.jsp?uji.verb=W00Z1010initialize&uji.bean=ek.bean.EKW00Z1010Bean&TID=W00Z1010&PID=W1E63011&SESSIONKEY=1518226288472&lgKbn=2&pkbn=0&skbn=1&dskb=&askb=&dflg=0&iflg=0&preId=1&mul=UCS&fls=on&cal=1&era=H&yer=&mon=&pfs=4&row=100&idx=0&str=&kbn=1&flg=&syoruiKanriNo=S100A9RF |title=有価証券報告書-第26期(平成28年3月1日-平成29年2月28日) |publisher=[[EDINET]] |accessdate=2018-02-10}}</ref> | 発行済株式総数 = 18,807,700株<br />(以下、2017年2月期)<ref name="EDINET" /> | 売上高 = 199億97百万円(営業収益)<ref name="EDINET" /> | 営業利益 = 3億01百万円<ref name="EDINET" /> | 純利益 = 19百万円<ref name="EDINET" /> | 純資産 = 242億16百万円<ref name="EDINET" /> | 総資産 = 1,504億42百万円<ref name="EDINET" /> | 従業員数 = 144人<ref name="EDINET" /> | 決算期 = 2月末 | 主要株主 = 株式会社パン・パシフィック・インターナショナルフィナンシャルサービス 100% | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = [https://www.ucscard.co.jp/ 株式会社UCS] | 特記事項 = 登録番号<br />東海財務局長(8)第00108号<br />日本貸金業協会会員(第002839号) }} '''株式会社UCS'''(ユーシーエス、{{Lang-en-short|''UCS CO., LTD.''}})は、[[パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス]]傘下の金融事業会社であり、[[クレジットカード]]事業を行う登録割賦購入あっせん業者・[[貸金業]]・[[保険]]代理店業者である。 国際ブランドとして[[マスターカード|MasterCard]]<ref group="注">プリンシパルメンバーとして加盟しているが、プロセシングは三菱UFJニコスが担当。</ref>、[[ジェーシービー|JCB]]及び[[Visa|VISA]]<ref group="注">[[三菱UFJニコス]]からのライセンス供与。発行開始当初には[[UFJカード]]のロゴも券面に記載されていた。</ref>ブランドのクレジットカードを発行している。かつては、VISAブランドの場合、 [[Visa Touch]]と[[QUICPay]]の両方に対応していたが、 Visa Touchについては、現在は受付を終了し、どのブランドでもUCS QUICPayが発行できるようになった<ref group="注">MasterCardブランドは[[Smartplus]]に非対応。</ref>。クレジットカード会員数は283万人、電子マネー会員数は223万人である。全社の取扱高は9164億円。([[2019年]](平成31年)[[2月]]現在) 電子マネー[[パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス#majica|majica]]を発行<ref group="注">運用は当社ではなく[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]が行う。</ref>している<ref name="majica" />。かつては電子マネー[[#uniko|uniko]]も発行・運用していたが2020年4月30日をもって終了した。 == クレジットカード == === 主要カード === ;UCSカード :パン・パシフィック・インターナショナルホールディングスの買収前のユニーの子会社時からある主要カード。アピタでは、毎月9のつく日にUCSカードを使って購入すると、衣料品、日用品などが5%OFFになる。ポイントは、200円に1ポイントで、majicaアプリに、登録するとmajicaポイントが、登録していないとUポイントが貯まる。一時、申し込みを停止していたが、再開した。国際ブランドは、Visa、Mastercard、JCB。年会費は、無料。 ;UCSカードmajica :前述のUCSカードの後継で、UCSカードの機能に、majica機能が一体になっているカード。券面も、縦型デザインになっており、カード番号なども、裏側になっている。そのほかは、UCSカードと同様。 ;UCSゴールドカード :UCSカードの機能に加えて、航空ラウンジとボーナスポイントなどに機能があるゴールドカード。年会費は、3300円。国際ブランドは、Visa、Mastercard、JCB。 ;UCS majica donpen card :ユニーの買収後に、追加されたカードで、SMBCファイナンスサービスと提携して発行していたカードのUCS版。UCSカードの機能に、majica会員サービスや、club donpen offなどが、プラスされている。国際ブランドは、Mastercard、JCB。 == 略歴 == * [[1973年]]([[昭和]]48年)- 株式会社ユニーサービス設立。 * [[1990年]]([[平成]]2年)- 株式会社ラブァンス設立。 * [[1991年]](平成3年)- 株式会社ユニーカードサービス設立<ref name="EDINET" />。 * [[1997年]](平成9年)- 株式会社ユーシーエスサービス設立<ref name="EDINET" />。 * [[1998年]](平成10年)- ユニーサービスがラブァンスを合併。 * [[2004年]](平成16年)- ユニーカードサービスを存続会社として、ユニーサービス及びユーシーエスサービスを合併。商号を'''株式会社UCS'''に変更<ref name="EDINET" />。 * [[2005年]](平成17年) ** センチュリーインシュアランスサービス株式会社(東京都江東区、保険代理店業)を合併<ref name="EDINET" />。 ** [[ジャスダック]]に上場<ref name="EDINET" />。 * [[2007年]](平成19年) ** モール型ショッピングセンター対応「WALKカード」発行。 ** 非接触IC決済「QUICPay」、「VisaTouch」発行。 * [[2010年]](平成22年) - [[SBIホールディングス]]系列の[[SBIモーゲージ]]と提携。住宅ローン事業に進出。 * [[2013年]](平成25年)11月21日 - 電子マネーunikoの供用を開始<ref name="EDINET" />。 * [[2018年]](平成30年) ** 4月25日 - [[上場廃止]]<ref name="uny">{{Cite web|和書|date=2018-02-06 |url=https://disclosure.edinet-fsa.go.jp/E01EW/BLMainController.jsp?uji.verb=W00Z1010initialize&uji.bean=ek.bean.EKW00Z1010Bean&TID=W00Z1010&PID=W1E63011&SESSIONKEY=1518226288472&lgKbn=2&pkbn=0&skbn=1&dskb=&askb=&dflg=0&iflg=0&preId=1&mul=UCS&fls=on&cal=1&era=H&yer=&mon=&pfs=4&row=100&idx=0&str=&kbn=1&flg=&syoruiKanriNo=S100A9RF |title=当社連結子会社による株式会社UCS(証券コード:8787)の株式交換による完全子会社化に関するお知らせ |format=PDF |publisher=ユニー・ファミリーマートホールディングス株式会社 |accessdate=2018-02-10}}</ref>。 ** 5月1日 - [[株式交換]]によりユニーの完全子会社となる<ref name="uny" />。 * [[2021年]](令和3年)10月 - 株式交換により、親会社がユニーからパン・パシフィック・インターナショナルフィナンシャルサービスに移管。 == 店舗 == [[アフラック生命保険]]の代理店としてユニーのショッピングセンター内に店舗を設け、金融商品の販売も行っている。 * UCS保険サービスショップ:[[けやきウォーク前橋]] [[リバーサイド千秋]] [[アクアウォーク大垣]]([[SBIホールディングス|SBI]]住宅ローン/SBI保険プラザ併設)、他計7店舗 * アフラックサービスショップ:[[ラザウォーク甲斐双葉]] [[リーフウォーク稲沢]]、他計27店舗 * よくわかる!ほけん案内:[[エアポートウォーク名古屋]]、1店舗 == 営業所 == * 関東営業所([[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]]) * 静岡営業所・静岡保険センター([[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]]) * 北陸営業所・北陸保険センター([[石川県]][[白山市]]) == uniko == UCSはかつて、ユニーグループで使用できるプリペイド方式の磁気型[[電子マネー]]「'''uniko'''」(ユニコ)を発行していた<ref name="uniko">{{Cite web|和書|date= 2013-10-08|url= http://www.unygroup-hds.com/company/news_release/release20131008.pdf |title= ユニーグループ電子マネー「uniko(ユニコ)カード」誕生! |format=PDF |publisher=ユニーグループ・ホールディングス |accessdate=2013-11-03}}</ref><ref>[https://uniko.ucscard.co.jp/membership/ ユニコカード会員規約]</ref>。 2013年11月21日よりサービスを開始、2020年4月30日をもって終了した。 [[アピタ]]、[[ピアゴ]]、およびアピタ・ピアゴ・MEGAドン・キホーテUNY内の一部専門店で利用ができた<ref name="uniko" />。2016年8月21日に廃止となった[[ユーホーム]]や2017年10月31日までピアゴ関東が運営していた[[エヌフーズ|ベンガ・ベンガ]]でも利用が可能であった。ユーホームから改装したDCMカーマやフレスコ関東の運営になったベンガベンガは利用不可で、当時ユニーグループ内だった[[miniピアゴ]]にも導入されなかった。カードの申し込みは店頭のみで、ネット上では受け付けていなかった。 チャージ上限額の5万円を超えて支払う場合は、ユニコ残高からチャージ残高全額を引き、差額を現金、ユニー・ファミリーマートグループ商品券、UCSカードのいずれかで支払い、商品券やクレジットカードと併用可否は一部専門店は異なった。2020年4月2日から同月30日まではチャージ終了に伴い、ユニコ残高不足となる場合も同様だった。majicaと併用払いやunikoを含む支払いで、majicaのランク対象金額加算は一切出来なかった。 ポイントは200円につき1ポイント付与され、ファミリーマートを除いて即時還元されていたMEGAドン・キホーテUNY、ドン・キホーテUNYは専門店も含め2020年1月4日から、閉店店舗は閉店前からそれぞれ実施された。2020年5月1日時点で保有する残高、ポイントは2021年4月20日までの間、majicaポイントへ移行可能措置が取られた。 名称の由来は、あなたの「ユー」とユニーグループの「ユニー」、お客様の笑顔「ニコッ!」を足したもので<ref name="uniko" />、公式キャラクターは公募で「ゆにぴょん」とされた。 === ユニー・ファミリーマートホールディングス発足後の取り扱い === [[ユニー・ファミリーマートホールディングス]]<ref group="注">2016年9月1日付でが[[ファミリーマート (企業)|(初代)ファミリーマート]]が[[ユニーグループ・ホールディングス]]を吸収合併。</ref>発足後、ユニコカードはアピタ、ピアゴで利用が可能であった。 MEGAドン・キホーテUNYへ業態転換店舗は2020年1月31日まで利用可能であったが、アピタは毎月9日、19日、29日、ピアゴは毎週金曜日に行っていた5%OFF感謝デーなど特典の対象からUCSカード、majicaとともに除外された。一方ドン・キホーテグループの電子マネーであるmajicaで適用されている、1001円(税込)以上の買い物で支払い金額の1円単位の額を切り捨てる(2020年7月1日以降は5円未満の端数のみ)、円満快計などの特典がほぼ同等で受けられた。現在はmajicaの他にUCSカードでも受けられる。カードへのチャージもチャージ機のみの取り扱いとなっていた。2019年12月31日にチャージの取り扱いを先行終了し、通常のドン・キホーテは利用不可となる。 [[サークルK]]、[[サンクス (コンビニエンスストア)|サンクス]]は、[[ファミリーマート]]へ移行していない店舗は、統合当初から移行直前まで利用が可能で、カードの販売を継続する店舗もあった。ファミリーマートへ移行した店舗、以前からファミリーマートとして営業していた店舗、サークルKやサンクス以外からの転換店舗は、それぞれ利用できなかったが、2018年4月24日から全店舗で取り扱いを開始した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/s/article/2017101490084702.html|title=ファミマでもユニコカード 来春、1万7000店に対応拡大|publisher=中日新聞|date=2017-10-14|accessdate=2017-10-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171014083553/http://www.chunichi.co.jp/s/article/2017101490084702.html|archivedate=2017-10-14}}</ref>。毎週土曜日、日曜日の2倍デーは対象外のほかポイント数の表示がされなかった。この他ファミリーマートではユニーグループのライバルに当たる[[イオングループ]] が手掛ける[[WAON]]を2009年10月より導入してきた。ユニコカードと競合する形になるが統合後も引き続き利用可能なほかサークルK、サンクスについても統合2日前の2016年8月30日よりWAONを導入し両方が利用可能となっていた。のちのuniko廃止後もファミリーマートではWAONが利用できる一方で、majicaは導入していない。スタイルワン商品でもファミリーマートコレクションに移行するまではサークルK、サンクスでWAONでの購入が可能であった。 ファミリーマートでは2020年3月31日23時に取り扱いを終了。他の加盟店舗は2020年4月1日に入金を、2020年4月30日にサービスをそれぞれ終了し、以降は[[パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス#majica|majica]]へ移行した。アピタ、ピアゴ、MEGAドン・キホーテUNY店舗の専門店は2020年秋のmajica導入を予定していたが少し遅れて2020年12月より順次導入されている(専門店はチャージ、ランクアップ対象金額加算、5%OFFなどの割引特典、円満快計の対象外)。そのため、2020年5月1日から導入日(店舗により異なる)までの間はuniko、majicaのいずれも利用出来ない状態が続いていた。移行に際して2020年4月1日から12月31日(期間内にUDリテール運営店舗への転換、完全閉店の店舗は最終営業日)まで、アピタ・ピアゴ・ユーストア(MEGAドン・キホーテUNY転換店を除く)でuniko所持客にUNYmajicaを無償で配布していた。 2020年4月3日から2021年4月20日まで、majicaアプリで<ref group="注">印刷物では同月6日とされていたがアプリ上では3日より対応していた。</ref>、2020年5月1日から2021年4月20日までアピタ・ピアゴ・ユーストアの店頭で、それぞれ残高をmajicaへ移行できた(カードの無料配布は2020年12月31日で終了したが以降も残高の移行は2021年4月20日までは可能であった。ただし2019年3月1日から2020年2月29日までに加算されたポイントは2021年2月28日をもって失効するため同年3月1日以降は移行できなかった)。 === 沿革 === * [[2013年]](平成25年)11月21日 - アピタ(精華台店は除く)・ピアゴでサービスを開始。 * [[2014年]](平成26年) ** 2月21日 - [[アピタタウンけいはんな|アピタ精華台店]]でのサービスを開始。 ** 7月18日 - サークルK・サンクスでサービス開始。 ** 7月22日 - アピタのインターネットショッピングでサービス開始。 ** 8月1日 - アピタ・ピアゴ78店舗のショッピングセンター内の専門店(アピタ田富店の専門店を除く)でサービス開始。 ** 8月21日 - アピタ田富店内の専門店でサービス開始。 ** 9月3日 - [[エヌフーズ#株式会社ナガイ|ナガイ]](現:フレスコ関東)が運営するベンガベンガの店舗へ導入開始(2017年10月31日利用終了)。 * [[2015年]](平成27年)2月20日 - UCSカード提示による現金支払いでの割引を終了(これをもってユニコに完全移行)。 * [[2018年]](平成30年)4月24日 - ファミリーマートでも当カードの取り扱いを開始。 * [[2019年]](令和元年) ** 10月1日 - ファミリーマートの店舗(一部店舗を除く)にてキャッシュレス還元の対象となる(即時2%還元)。 ** 12月31日 - ユニコカードの販売(新規入会)を終了<ref name="マジカ導入">{{Cite press release|和書|url=https://ppi-hd.co.jp/news/pdf/news_191023.pdf | title=ドン・キホーテの電子マネー「majica(マジカ)」 アピタ・ピアゴ全店でご利用可能に! 2020 年春よりサービス開始|publisher=[[パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス]] | date=2019年10月23日 | accessdate=2019年11月3日}}</ref> 。MEGAドン・キホーテUNY、ドン・キホーテUNYの店舗における、チャージの先行終了。 * [[2020年]](令和2年) ** 1月26日 - MEGAドン・キホーテUNY、ドン・キホーテUNYにて日曜日ユニコポイント2倍特典を終了。同時に通常のドン・キホーテを含めUCSカードでの日曜日Uポイント2倍も終了。 ** 1月31日 - MEGAドン・キホーテUNY、ドン・キホーテUNYの店舗にて支払い終了(ただし専門店(一部除く)は4月30日まで利用可)<ref name="ユニコ終了">{{Cite web|和書|url=https://uniko.ucscard.co.jp/unikoend/|title=ユニコ会員さまへ大事なお知らせ|website=アピタ・ピアゴの電子マネー ユニコ|publisher=株式会社UCS|date=2019年10月24日|accessdate=2019年11月3日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191103123132/https://uniko.ucscard.co.jp/unikoend/|archivedate=2019-11-03}}</ref>。 ** 2月17日 - UCSカードのUポイントからユニコへの交換終了。 ** 2月29日 - アピタ、ピアゴ店舗でのボーナスポイント特典終了(同時にUCSカードのクレジット払いでもボーナスポイント特典を終了)。 ** 3月1日 - アピタ、ピアゴの直営、専門店(対応店舗のみ)にて、支払時の残存ポイントがオートチャージされるようになる<ref name="ユニコ終了2">{{Cite web|和書|url=https://uniko.ucscard.co.jp/unikoend/|title=ユニコのご利用が終了となります。|website=アピタ・ピアゴの電子マネー ユニコ|publisher=株式会社UCS|accessdate=2021-05-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200212030506/https://uniko.ucscard.co.jp/unikoend/|archivedate=2020-02-12}}</ref>(2月29日に失効のポイントは対象外。ファミリーマートでは未実施。MEGAドン・キホーテUNY、ドン・キホーテUNYの専門店(ユニコ対応店舗のみ)はそれらの直営と同じ1月4日より対応している)。 ** 3月29日 - アピタ、ピアゴ店舗での日曜日ユニコポイント2倍特典終了(同時にUCSカードのクレジット払いで日曜日Uポイント2倍特典も終了)。 ** 3月31日 - 23時00分をもってファミリーマート店舗でのチャージ、取扱先行終了<ref name="ユニコ終了" /> 。これに伴い6月30日まで実施されたキャッシュレス還元もユニコは対象から外れる。またmajicaの導入予定はない。ユニコポイントのオートチャージは非対応であったほかmajicaへの交換も出来ない。 ** 4月1日 - アピタ、ピアゴ店舗でのチャージ終了<ref name="ユニコ終了2" />。またアピタ、ピアゴ店舗にてユニコ提示(返却不要)によるUNY majica配布開始(緑ベースのデザインのみ。アピタンデザインは無料配布の対象外)<ref name="ユニコ終了2" />。ユニコと現金の併用払いによる5%引き特典開始(アピタ宇都宮店など一部店舗では先行実施していた。他社クレジットカード、他社電子マネーの併用払いは割引対象外)。 ** 4月3日 - majicaアプリにてunikoからUNY majica以外を含むmajicaへの残高の移行を開始。 ** 4月5日 - アピタ、ピアゴ店舗のセルフレジでの取扱先行終了。 ** 4月6日 - アピタ、ピアゴ店舗の直営レジにmajica導入(専門店は2020年12月以降に順次対応、5月1日~当面の間ユニコ、majicaのいずれも利用不可だった)。majicaアプリでのunikoの残高移行開始<ref name="ユニコ終了3">{{Cite web|和書|url=https://uniko.ucscard.co.jp/unikoend/|title=ユニコのご利用が終了となります。|website=アピタ・ピアゴの電子マネー ユニコ|publisher=株式会社UCS|accessdate=2021-05-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200401041343/https://uniko.ucscard.co.jp/unikoend/|archivedate=2020-04-01}}</ref>。 ** 4月19日 - ユニコ(UCSカードも含む)でのPOSAカード購入取扱終了。アピタ宇都宮店の衣料品・暮らしの品売場での取扱先行終了(食品売場は新型コロナウイルス感染症の流行に伴い6月7日まで営業を継続したため、ユニコも他店同様4月30日まで利用可能であった)。 ** 4月24日 - ピアゴ店舗での5%引き終了。UCSカード、majicaでの割引は翌週の5月1日に愛知、三重県の一部店舗(1店舗しかなかった滋賀県もこの時点)で終了し同年11月20日をもって愛知、岐阜、三重県の店舗は終了した。静岡県の富士宮店(現在は「パワースーパーピアゴ」)、大覚寺店、福井県唯一の店舗である丸岡店も2021年2月26日をもって廃止した。石川県のユーストア金沢ベイ店は改装のタイミング(2021年6月18日)で廃止した。静岡県の大半の店舗と富山県の店舗、金沢ベイ店の改装に伴い石川県唯一のピアゴとなった白山店は現在も継続している。撤退した神奈川県の店舗は閉店まで継続していた。 ** 4月29日 - アピタ店舗での5%引き終了(UCSカード、majicaでの割引は継続、ただし松阪三雲店の食品レジ、KURADEN、アピタクロージングは対象外)。 ** 4月30日 - アピタ、ピアゴ店舗(ラスパ、ウォーク専門店も含む)、MEGAドン・キホーテUNY、ドン・キホーテUNYの店舗内に出店している専門店での支払い終了<ref name="マジカ導入"/><ref name="ユニコ終了"/>。これに伴い全ての加盟店での取扱を終了する。 ** 5月1日 - アピタ、ピアゴ店舗のサービスカウンターにてユニコからUNY majicaへの残高の移行を開始<ref name="ユニコ終了3" />。 ** 12月31日 - アピタ、ピアゴ店舗でのユニコ提示でのmajicaの無料配布を終了(ただしアピタ掛川店、ピアゴ香久山店、アピタ会津若松店、アピタ高森店、アピタ精華台店、ピアゴ吉良店は無料配布期間中の閉店に伴い先行終了している。MEGAドン・キホーテUNYでは無料配布対象外)<ref name="ユニコ終了3" />。 == majica == 当社の発行する電子マネーカードとしては、[[#uniko|uniko]]以外に'''majica'''も存在する<ref name="majica">[https://www.donki.com/majica/use_terms.php#terms1 majica規約]</ref>。 {{main|パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス#majica}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ユニー]] * [[モバイル決済推進協議会]] * [[QUICPay]](非接触ICカード) * [[Visa Touch]](非接触ICカード) == 外部リンク == * [https://www.ucscard.co.jp/ 株式会社UCS 公式サイト] *{{YouTube|c= UC5ObvHaqb0V9A8Zqi2NmtmQ |株式会社UCS 【公式】}} *{{Twitter| UCS_CARD |株式会社UCS【公式】}} *{{Twitter| UCScard_saiyo | UCS 採用担当【公式】}} {{PPIHグループ}} {{ユニー・ファミリーマート}} {{日本自動車リース協会連合会正会員名簿}} {{Company-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1 = Uniko |1-1 = ユニーの歴史 |1-2 = PPIHグループの歴史 |1-3 = 電子マネー |1-4 = ポイントカード |1-5 = 登録商標 |}} {{DEFAULTSORT:ゆうしいえす}} [[Category:PPIHグループ]] [[Category:ユニー]] [[Category:日本のクレジットカード事業者]] [[Category:稲沢市の企業]] [[Category:2005年上場の企業]] [[Category:1991年設立の企業]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/UCS
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2038年
2038年(2038 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
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2038年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|2038}} {{year-definition|2038}} <!-- この項目では、国際的な視点に基づいた2038年について記載する。 --> == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[戊午]](つちのえ うま) * [[日本]](月日は一致) ** [[令和]]20年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2698年 * [[大韓民国]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4371年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]127年 * [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]127年 * [[仏滅紀元]]:2580年閏9月10日 - 2581年10月6日 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1459年11月24日 - 1460年12月4日 * [[ユダヤ暦]]:5798年4月24日 - 5799年4月4日 * [[UNIX時間|Unix Time]]:2145916800 - 2177452799 *: 32[[ビット]][[符号付整数]] (signed int) によるシステムの場合、時刻が正しく扱えなくなる[[2038年問題]]が発生する。 * [[修正ユリウス日]](MJD):65424 - 65788 * [[リリウス日]](LD):166265 - 166629 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=2038}} == できごと == * [[1月5日]] - [[カリブ海]]、[[大西洋]]、[[アフリカ]]で[[日食]]が観測される。 * [[1月19日]] - [[2038年問題]]。日本時間12時14分7秒([[UTC]]3時14分7秒)を過ぎるとプログラムが誤作動を起こす可能性がある。 * [[12月26日]] - [[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]で[[皆既日食]]が観測される。 == 予測・予定 == * [[2036年]]から始まった[[ぎょしゃ座イプシロン星|ぎょしゃ座ε星]]の変光が終了すると予測されている。 == イベント == * 第28回[[冬季オリンピック]]が行われる。 * 第26回[[FIFAワールドカップ]]が行われる。 == 経済 == == 芸術・文化・ファッション == == 誕生 == == 没年 == == ノーベル賞 == ==フィクションのできごと== * 「イキトス事件」発生。[[ペルー]]・[[イキトス]]に存在する研究所が学生ら暴徒の襲撃を受ける。その中で、物理学者アレックス・ラスティグらによって発電目的で造られていた「安定した[[マイクロブラックホール|ミニ・ブラックホール]]」が、送電線を切断された際に磁場ケージから落下し、地下数千キロメートルの[[地殻]]内まで潜ってしまう。(小説『{{仮リンク|ガイア —母なる地球—|en|Earth (Brin novel)}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= デイヴィッド・ブリン|authorlink=デイヴィッド・ブリン |title = ガイア —母なる地球—〔上〕 |publisher = [[早川書房]] |year = 1996 |pages = 15-23,26,78 |isbn = 978-4-15-011131-1}}</ref> * 地球から58,550光年離れた[[銀河|銀河系外星雲]]内から放たれたディジタル信号が捕らえられ、翻訳の結果、[[宇宙人|知能を持つ生物]]が猛毒を持つ微生物に襲われ、自動的に発信される形で助けを求めたものだと判明する。この信号の観測は[[2040年]]まで続く。(小説『{{仮リンク|未来からの遺書|en|A Short History of the Future}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= W・ウォレン・ウエインジャー|authorlink=:en:W. Warren Wagar |title = 未来からの遺書 2200年の祖父から孫娘へ |publisher = [[二見書房]] |year = 1995 |pages = 356,357 |isbn = 978-4-576-95019-8}}</ref> *8月15日 - デトロイト市内のアパートメントで家庭用アンドロイドが自らの所有者一家の父親を殺害し、そのまま娘の少女を人質に屋上に立てこもる事件が発生。厳戒態勢の中、最新鋭の捜査補佐アンドロイドである型番RK800こと'''[[デトロイト ビカム ヒューマン#登場人物|コナー]]'''が交渉人として派遣される。以降、感情を持つようになったアンドロイド('''[[デトロイト ビカム ヒューマン#用語解説|変異体]]''')が各地で現れるようになる。(ビデオゲーム『[[デトロイト ビカム ヒューマン]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[2038年問題]] - 2038年の1月19日にコンピュータが誤作動する可能性があるという説。 * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=21|年代=2000}} {{デフォルトソート:2038ねん}} [[Category:2038年|*]]
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バーコード
バーコード(英: barcode)は、縞模様状の線の太さによって数値や文字を表す識別子の一種である。仕組みとしては、数字・文字・記号などの情報を一定の規則に従い、一次元のコードに変換している。これを主に店頭などで使われているレジスターや、流通過程で使用されている各種の管理用情報端末などの機械が、読み取りやすいデジタル情報として入出力できるようにしている。 バーコードは横方向にのみ意味があり、表すデータも数列や文字列でどちらも一次元だが、ドットを縦横に配列し多くの情報を表す、二次元コードも普及してきた。代表的なものにデンソーウェーブのQRコードがある。 なお、バーコードをラベルに印刷するプリンターを「バーコードラベルプリンター」といい、バーコードを読み取るスキャナを「バーコードリーダー」又は「バーコードスキャナ」という。 ほとんどのバーコードスキャナは、これらのいずれか、複数の規格に対応している。 統一商品コードは国番号(フラグ)2または3桁、メーカーの番号(メーカーコード)5桁または7桁、品物の番号(アイテムコード)5桁または3桁、間違い防止の番号(チェックデジット)1桁で出来ていて、全ての商品に異なった番号を付けることになっている。 日本が1978年に国際EAN協会に加盟した際、国番号として49を割り当てられたが、1992年に国際EAN協会から新たに45が付与され、現在では2つの国コードを持っている。 日本で使われているJANコードには、標準タイプ(13桁)と短縮タイプ(8桁)の2種類が存在する。さらに、標準タイプには、最初の7桁がJANメーカーコードとなっているものと、9桁(国番号2桁+メーカーコード7桁)がJANメーカーコードとなっているものに分けられる。2001年1月以降に申請した事業者には、原則として9桁のメーカーコードが付番貸与されている。9桁メーカーコード1つで、999アイテムまで付番することができる。 JANコードを登録申請するときは、全国の商工会議所、商工会や財団法人流通システム開発センターで販売されている「JAN企業(メーカー)コード利用の手引き」を入手した上で、その巻末の登録申請書を使用して申請を行う。約10日 - 2週間後にJANメーカーコードが付番貸与される。 インストアコードとは、商店や団体などが任意に付番できるコードのことであり、ポイントカードなどの会員証や生鮮食品などに利用される。当然、その商店などでしか通用せず、他店では別の意味を持つ。UPCでは2,4、EAN/JANでは02,04(UPC互換),20〜29で始まるコードが利用できる。UPCの2(日本ではJANコードとして02)で始まるコードは価格をデータベースから参照せずにコード内に持っているNON-PLU(non-price lookup)であり、特に計量商品などに利用される。4(04)で始まるコードは10桁が、20〜29で始まるコードは2の次からの11桁が任意に利用できる。20〜29は店独自の会員カードの会員番号などで利用されている。
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バーコードは、縞模様状の線の太さによって数値や文字を表す識別子の一種である。仕組みとしては、数字・文字・記号などの情報を一定の規則に従い、一次元のコードに変換している。これを主に店頭などで使われているレジスターや、流通過程で使用されている各種の管理用情報端末などの機械が、読み取りやすいデジタル情報として入出力できるようにしている。 バーコードは横方向にのみ意味があり、表すデータも数列や文字列でどちらも一次元だが、ドットを縦横に配列し多くの情報を表す、二次元コードも普及してきた。代表的なものにデンソーウェーブのQRコードがある。 なお、バーコードをラベルに印刷するプリンターを「バーコードラベルプリンター」といい、バーコードを読み取るスキャナを「バーコードリーダー」又は「バーコードスキャナ」という。
{{出典の明記|date=2020-04-15}} [[ファイル:Wikipedia-barcode-128B.png|thumb|200px|バーコード(一次元)<br />下段に書かれた文字(英字の「[[Wikipedia]]」)が記載されている|代替文=Wikipedia-barcode-128B.png]] [[ファイル:KEYENCE BL-N60UB.JPG|thumb|200px|バーコードスキャナ|代替文=KEYENCE BL-N60UB.JPG]] '''バーコード'''({{Lang-en-short|barcode}})は、[[縞模様]]状の[[線]]の太さによって[[数値]]や[[文字]]を表す[[識別子]]の一種である。仕組みとしては、[[数字]]・文字・[[記号]]などの情報を一定の規則に従い、[[一次元]]のコードに変換している。これを主に[[店頭]]などで使われている[[キャッシュレジスター|レジスター]]や、[[流通]]過程で使用されている各種の管理用[[情報端末]]などの機械が、読み取りやすい[[デジタル]]情報として入出力できるようにしている。 バーコードは横方向にのみ意味があり、表すデータも数列や文字列でどちらも一次元だが、ドットを縦横に配列し多くの情報を表す、[[二次元コード]]も普及してきた。代表的なものに[[デンソーウェーブ]]の[[QRコード]]がある。 なお、バーコードをラベルに印刷する[[プリンター]]を「バーコードラベルプリンター」といい、バーコードを読み取るスキャナを「バーコードリーダー」又は「バーコードスキャナ」という。 == 規格 == [[ファイル:Qr code-Main Page en.svg|200px|right|thumb|[[QRコード]](二次元コード)<br/>より多くの文字を記載できる]] [[ファイル:UPS MaxiCode example.png|100px|right|thumb|MaxiCode]] [[ファイル:Toys R Us Barcode price checker in Japan 2008.jpg|100px|right|thumb|[[トイザらス]]店内「プライスチェッカー」]] * 一般的な[[商品]]で使われるものは、日本が[[JANコード]]、ヨーロッパが[[EANコード]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=EANコード |url=https://www.jipdec.or.jp/library/word/csm0kn0000000jhj.html |website=一般財団法人 日本情報経済社会推進協会 |access-date=2023-08-02 |language=ja}}</ref>、北米がUPC<ref>{{Cite web|和書|title=UPC {{!}} バーコード講座 {{!}} キーエンス |url=https://www.keyence.co.jp/ss/products/autoid/codereader/basic-upc.jsp |website=www.keyence.co.jp |access-date=2023-08-02}}</ref>である。 * 物流用途では[[ITFコード]]、[[CODE39]]、[[CODE128]]、NW-7などが使われている。また[[郵便]]事業では[[カスタマバーコード]]<ref>{{Cite web|和書|title=郵便番号・バーコードマニュアル バーコード {{!}} 日本郵便株式会社 |url=https://www.post.japanpost.jp/zipcode/zipmanual/p10.html |website=www.post.japanpost.jp |access-date=2023-08-02}}</ref>などが使われる。 ほとんどのバーコードスキャナは、これらのいずれか、複数の規格に対応している<ref>{{Cite web|和書|title=C-41 一次元 有線ハンディスキャナ - UF1C41AMVD |url=https://www.elecom.co.jp/products/UF1C41AMVD.html |website=エレコム株式会社 - パソコン・スマートフォン・タブレット・デジタル周辺機器メーカー |access-date=2023-08-02 |language=ja}}</ref>。 === 統一商品コード === 統一商品コードは国番号(フラグ)2または3桁、メーカーの番号(メーカーコード)5桁または7桁、品物の番号(アイテムコード)5桁または3桁、間違い防止の番号(チェックデジット)1桁で出来ていて、全ての商品に異なった番号を付けることになっている。 日本が[[1978年]]に国際EAN協会に加盟した際、国番号として49を割り当てられたが、[[1992年]]に国際EAN協会から新たに45が付与され、現在では2つの国コードを持っている。 日本で使われているJANコードには、標準タイプ(13桁)と短縮タイプ(8桁)の2種類が存在する。さらに、標準タイプには、最初の7桁がJANメーカーコードとなっているものと、9桁(国番号2桁+メーカーコード7桁)がJANメーカーコードとなっているものに分けられる。[[2001年]]1月以降に申請した事業者には、原則として9桁のメーカーコードが付番貸与されている。9桁メーカーコード1つで、999アイテムまで付番することができる。 JANコードを登録申請するときは、全国の商工会議所、商工会や財団法人流通システム開発センターで販売されている「JAN企業(メーカー)コード利用の手引き」を入手した上で、その巻末の登録申請書を使用して申請を行う。約10日 - 2週間後にJANメーカーコードが付番貸与される。 === インストアコード === インストアコードとは、商店や団体などが任意に付番できるコードのことであり、ポイントカードなどの会員証や生鮮食品などに利用される。当然、その商店などでしか通用せず、他店では別の意味を持つ。UPCでは2,4、EAN/JANでは02,04(UPC互換),20〜29で始まるコードが利用できる。UPCの2(日本ではJANコードとして02)で始まるコードは価格をデータベースから参照せずにコード内に持っているNON-PLU(non-price lookup)であり、特に計量商品などに利用される。4(04)で始まるコードは10桁が、20〜29で始まるコードは2の次からの11桁が任意に利用できる。20〜29は店独自の会員カードの会員番号などで利用されている。 == 歴史 == {{節スタブ}} * [[1949年]][[10月20日]]、[[ドレクセル大学]]の大学院生であった、[[バーナード・シルバー]]と[[ノーマン・ジョセフ・ウッドランド]]が世界初のバーコードを[[米国特許商標庁]]に特許を申請し、[[1952年]][[10月7日]]に取得した<ref>{{Cite web|和書|title=バーコードの歴史|アイニックス株式会社 |url=https://www.ainix.co.jp/howto_autoid/barcode_symbol/5.html |website=www.ainix.co.jp |access-date=2023-08-02}}</ref><ref>{{Cite web |title=US2612994A - Classifying apparatus and method - Google Patents |url=https://patents.google.com/patent/US2612994A/ |website=patents.google.com |access-date=2023-09-26}}</ref><ref>{{Cite book | 和書| author = 小川進| year = 2020| title = QRコードの奇跡 : モノづくり集団の発想転換が革新を生んだ| publisher = 東洋経済新報社| page = 2| isbn = 4-492-53419-9}}</ref>。 * [[1954年]]と[[1956年]]にジェローム・レメルソン([[:en:Jerome_H._Lemelson|Jerome H. Lemelson]])が分割特許の形でバーコードの特許を取得。後にサブマリン特許(レメルソン特許)として問題になる<ref>{{Cite web|和書|title=日米特許最前線 |url=http://dndi.jp/08-hattori/hattori_1.php |website=dndi.jp |access-date=2023-08-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日米特許最前線 |url=http://dndi.jp/08-hattori/hattori_17.php |website=dndi.jp |access-date=2023-08-02}}</ref>。 * [[1967年]]、アメリカの食品[[チェーン店]]が、[[キャッシュレジスター|レジスター]]の行列を解消させる方策として実用化。 * [[1973年]]、[[1971年]]に[[IBM]]が発表したDelta Distance Codeをベースに、米国フードチェーン協会などが統一的なコード表記UPC(Universal Products Code)を設定した。 * [[1978年]]に EANに加盟した日本は、EANの統一商品コードを採用することになった<ref name=":0" />。 == その他 == [[ファイル:UPC A.svg|thumb|right|200px|左右と中央に2本のバーが見える]] * バーコードの一部に対してデザインを施した「デザインバーコード」といわれるものがある。 * [[頭髪]]の薄い男性が、残存する頭髪を長めにして頭髪のまばらな部位(頭頂部が多い)を覆い隠す髪型が、バーコードに似ていることから、俗にこのヘアスタイルを指して「バーコード」<ref>出典:米川明彦編『日本俗語大辞典(第3版)』東京堂出版 2006年 483頁</ref>「バーコードヘア」もしくは「バーコード頭」、「スダレ頭」とも呼ばれる。{{要出典範囲|特に日本でバーコードが普及した1980年代に、当時[[内閣総理大臣]]を務めていた[[中曽根康弘]]を揶揄して呼ぶことが多かった|date=2023年7月}}。漫画などでは中高年男性を表す特徴の一つとして銀縁眼鏡などとともに使用されることが多い。2004年の[[イグノーベル賞]]工学賞はバーコード頭を発明した米フロリダ州オーランドのフランク・スミスとドナルド・スミスの親子に贈られた。バーコード頭は英語では"[[:en:Comb over|Comb-over]]"という。 * EAN・JANコードやUPC等主なバーコードの左右と中央に位置する2本の線、レフトガードバー、ライトガードバー、センターバーを「6」のキャラクタであると解釈し、これが[[新約聖書]]の[[ヨハネの黙示録]]に記述されている[[獣の数字]]'''666'''であるとする説がある。この説は、[[疑似科学]]を扱う[[トンデモ本]]のほか、1990年代に講談社『[[週刊少年マガジン]]』の『[[MMR マガジンミステリー調査班]]』で取り上げられている。 {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Columns-list|2| * [[光学式マーク認識]] * [[二次元コード]] * [[POSシステム]] * [[QRコード]] * [[SPコード]] * [[カメレオン・コード]] * インタクタコード * [[XPANDコード]] * [[QR・バーコード決済]] * [[バーコードバトラー]] * [[スーパーバーコードウォーズ]] * [[ISBN]] * [[カスタマバーコード]] * [[郵便追跡サービス]] * [[ハゲ|バーコードハゲ]] ** [[中曽根康弘]] - 普及した当時の日本内閣総理大臣。頭髪の外見が酷似しているため揶揄された。 * [[Bokode]] * [[オプトエレクトロニクス]] - バーコードリーダーのレーザーエンジン世界2位、国内シェア8割を占める企業。 }} == 外部リンク == * [https://www.ainix.co.jp/howto_autoid/barcode_symbol/5.html アイニックス(バーコードの歴史)] * [http://www.dsri.jp/index.htm 財団法人流通システム開発センター(JANコードの登録、更新)] * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/japan_inf/DotNetBarcode |title=.NET用高性能無料バーコードライブラリー}} * [http://www.barcoderobot.com Barcode Robot (バーコードの画像をオンラインで生成)] * [http://home.opto.co.jp/ 株式会社オプトエレクトロニクス ] * [http://www.jpforms.net/lvs/verification_edu.htm 1-D、2-Dコードグレード検証とはなにか? 株式会社リベロ]{{Spedia|Bar_code_scanning|Bar code scanning}} * {{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}} * {{Britannica|technology|bar-code|Bar code (Technology)}} {{バーコード}} {{紙記録媒体}} {{Normdaten}} [[Category:バーコード|*]] [[Category:自動認識およびデータ取得]] [[Category:アメリカ合衆国の発明]]
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モーリス・ラヴェル
ジョゼフ・モーリス(モリス)・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel フランス語: [ʒɔzɛf mɔʁis ʁavɛl] 発音例, 1875年3月7日 - 1937年12月28日)は、フランスの作曲家。『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』『ボレロ』の作曲、『展覧会の絵』のオーケストレーションで知られる。 1875年3月にフランス南西部、スペインにほど近いフランス領バスク地方のシブールで生まれる。生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、アムステルダムの運河に面する建物さながらの完全なオランダ様式を呈しており、現存している(写真)。母マリー(1840年 - 1917年)はバスク人、父ジョゼフ(1832年 - 1908年)はスイス出身の発明家兼実業家だった。同年6月に家族がパリへ移住したあと、弟エドゥアール(1878年 - 1960年)が生まれた。ラヴェル自身が生後3カ月しか滞在しておらず、後の25年間戻ることがなかったことから、バスク地方の表現への直接的な影響については議論があった。だが、作家アービー・オレンシュタインによって書かれた伝記によれば、母親に非常に親しみを感じ、その存在を通じてバスクの文化的な遺産を学び、最初の思い出は母親が彼に歌ったバスク民謡だったという(成人後になると、定期的にサン=ジャン=ド=リュズに戻り、休日を過ごしたり仕事をしたりした)。 父親が音楽好きで幼少のころからピアノや作曲を学び、ラヴェルが音楽の道へ進むことを激励した。 幼い頃からわたしはあらゆる種類の音楽に敏感でした。わたしの父はおおくのファンよりもはるかに音楽に精通しており、わたしの趣味をどう発達させ、手ばやく情熱を刺激するかを知っていました (ラヴェル、Esquisse autobiographique、1928) やがて両親はパリ音楽院へ送り出した。音楽院に在籍した14年のあいだ、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらのもとで学んだラヴェルは、当時のパリの国際的で実験的な空気を背景に、若く革新的な芸術家と行動を共にし、強い影響と薫陶を受ける。 1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルはあくる20世紀に先んじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となった。いっぽうで作曲の大胆さと自身が「解放者」と目すシャブリエとサティへの賞賛は、伝統主義が支配的なサークル内でおおくの反目を買った。 1901年、ラヴェルの個性が確立された『水の戯れ』 (Jeux d’eau) が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなった。表現的慎ましさ、謙虚さ、エキゾチックでファンタジックな好み、形式的な完璧さに対するほとんど強迫観念とも言える探求により1901年から1908年の間に多くの作品が生みだされた。 『ソナチネ』(Sonatine, 1903年)、『序奏とアレグロ』(Introducción et allegro, 1906年)、『スペイン狂詩曲』(Rapsodie espagnole, 1907年)、組曲『マ・メール・ロワ』(Ma Mère l'Oye, 1908年)、『夜のガスパール』(Gaspard de la Nuit、1908年)は、アロイジウス・ベルトランの詩に触発されて書かれた。 1900年から5回にわたって、有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みる。1901年、2回目の挑戦ではカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった。1902年、1903年は本選において入賞を逃し、1904年はエントリーを見送った。翌1905年は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは大スキャンダルとなり、この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となった。 1907年、歌曲集『博物誌』の初演後、エドゥアール・ラロの息子ピエール・ラロはこの作品をドビュッシーの盗作として非難し、論争が起こった。しかし、『スペイン狂詩曲』が高い評価で受け入れられると批判はおさまった。そしてラヴェルは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者セルゲイ・ディアギレフからの委嘱により『ダフニスとクロエ』を作曲した。 1909年4月、ロンドンで初めての海外ツアーに参加し、自身がドーバー海峡の向こうで高く評価されていることを知る。1910年、保守的な「国民音楽協会」と決別、シャルル・ケックランらと現代的な音楽を促進、新しい音楽の創造を目指す団体「独立音楽協会」を旗揚げし、創立者のひとりとして名を連ねた。1911年、詩人フラン=ノアンによって台本の書かれたオペラ『スペインの時』(L'Heure espagnole)の初演が催されたが、大衆、とりわけ批評家から「ポルノ」呼ばわりされ、不評裡に終わった。当時は台本のユーモアも、ラヴェルの大胆なオーケストラもほとんど理解されなかった。 第一次世界大戦勃発後、パイロットとして志願したが、体重が規定に「2キログラム」満たなかったことからその希望は叶わなかった。1915年3月にトラック輸送兵として兵籍登録された。ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものであり、当時の前線ヴェルダン 付近まで到達した。道中、腹膜炎となり手術を受けた。結局、終生戦争の傷から回復することはなかった。 大戦中の1917年1月15日、最愛の母親が76歳でこの世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度作曲されていた組曲『クープランの墓』を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは極端に落ちてしまった。母の死から3年経とうとした1919年末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている。 こうしてラヴェルの「偉大な時代」は終わりを告げる。代わって、慎重に計算された愛情と優雅さの背後に隠された、自発的に冷たく控えめな男―「ダンディな男ラヴェル」のイメージが一般に広まるようになった。 1920年1月、レジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月、公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。 1920年代のフランスでは、エリック・サティを祖とするより前衛的な「フランス6人組」の登場や、複調・無調・アメリカのジャズなど新しい音楽のイディオムの広まりによって、ラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。さかんに演奏旅行を行う一方、ラヴェルの創作活動は低調になり、1923年には『ヴァイオリンソナタ』のスケッチしか残せていない。 1928年、初めてアメリカに渡り、4か月に及ぶ演奏旅行を行なった。ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルは世界的に有名になった。同年、オックスフォード大学の名誉博士号を授与される。 アメリカからの帰国後、ラヴェルが生涯に残せた楽曲は、『ボレロ』(1928年)、『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年)、『ピアノ協奏曲 ト長調』(1931年)、『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年)の、わずか4曲である。 1927年ごろから軽度の記憶障害や言語症に悩まされていたが、1932年、パリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。タクシー事故に遭った同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取りかかるが、楽譜や署名で頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。字を書くときに文字が震え、筆記体は活字体になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。動作が次第に緩慢になり、手足をうまく動かせなくなり、それまで得意だった水泳ができなくなった。言葉もスムーズに出なくなったことからたびたび癇癪を起した。また渡されたナイフの刃を握ろうとして周囲を慌てさせたが、自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを明確に指摘している(どんな病気にかかっていたか、またその原因が交通事故によるものなのかどうかは諸説ある)。 1933年11月、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、このころには手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化していた。コンサート終了後、ファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と告げたという。1934年には周囲の勧めでスイスのモンペルランで保養に入ったが一向に回復せず、病状は悪化の一途をたどった。1936年になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってぼんやりしていることが多くなった。たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させるなど、周囲を困惑させた。 病床にあって彼はオペラ『ジャンヌ・ダルク』などいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進めることができなくなったと伝えられる。あるときは友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟き、また別の友人には『ジャンヌ・ダルク』の構想を語ったあと、「だがこのオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね」とも述べたという。 同時期、失語症などの権威だった神経学者テオフィル・アラジョアニヌの診察を受けるが、博士は失語症や理解障害、観念運動失行など脳神経学的な症状であると判断した。しかし脳内出血などを疑っていたラヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得せず、1937年12月17日に血腫や脳腫瘍などの治療の専門家として名高かった脳外科医クロヴィス・ヴァンサンの執刀のもとで手術を受けた。しかし腫瘍も出血も発見されず、脳の一部に若干の委縮が見られただけだった。もともと万が一の可能性に賭けて手術という決断をしたヴァンサンは、ラヴェルが水頭症を発症していないことを確かめると萎縮した脳を膨らまそうとして生理食塩水を注入した。手術後は一時的に容体が改善したが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま12月28日に死去 (満62歳没) 。葬儀にはダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが立ち会い、遺体はルヴァロワ=ペレ(パリ西北郊)に埋葬された。 晩年を過ごしたイヴリーヌ県モンフォール=ラモーリーにあるラヴェルの最後の家「ベルヴェデーレ(fr:Le Belvédère)」は、現在モーリス・ラヴェル博物館(Musée Maurice Ravel)となっている。浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。 ラヴェルは一生独身を貫き、弟のエドゥワールも晩婚で子どもをもうけなかったため、ラヴェル家の血筋は亡くなった。 オーケストレーションの天才、管弦楽の魔術師と言われる卓越した管弦楽法とスイスの時計職人(ストラヴィンスキー談)と評された精緻な書法が特徴。入念な完璧さへの腐心と同時に人間的豊かさを併せ持った表現力は「知性の最も微妙なゲームと心の深く隠された領域に沁み入る」とされた(ディクシオネール・ル・ロベール)。 母方の血筋であるスペインへの関心はさまざまな楽曲に見出だされ、『ヴァイオリン・ソナタ』『左手のためのピアノ協奏曲』『ピアノ協奏曲 ト長調』などにはジャズの語法の影響も見られる。常に新しい音楽的刺激を追い求めジプシー音楽にも熱狂し、それが『ツィガーヌ』(1924年)へと繋がった。 ラヴェルはドビュッシーとともに印象派(印象主義)の作曲家に分類されることが多い。しかし、その作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は意に介さなかった。ただし自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、1902年には対面も果たしている。また、ドビュッシーもラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調を高く評価するコメントを発表している。 ラヴェル自身はモーツァルトおよびフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。また彼はエマニュエル・シャブリエ、エリック・サティの影響を自ら挙げており、「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。さらに先述のようにスペイン音楽・ジャズに加え、アジアの音楽およびフォークソング(民謡)を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていた。アジアの音楽については、パリ音楽院に入学した14歳の春に、パリ万国博覧会で出会ったカンボジアの寺院、タヒチ島の人々の踊り、インドネシアのガムランなどに大きな影響を受けている。 また、リヒャルト・ワーグナーの楽曲に代表されるような宗教的テーマを表現することを好まず、その代わりにインスピレーション重視の古典的神話に題を取ることを好んだ。 『ピアノ協奏曲ト長調』について、モーツァルトおよびサン=サーンスの協奏曲がそのモデルとして役立ったと語っている。1906年ごろに協奏曲『Zazpiak Bat』(「バスク風のピアノ協奏曲」(直訳では「7集まって1となる」というバスク人のスローガン)を書くつもりだったが、結局それが完成されることはなかった。ノートの残存や断片から、バスクの音楽から強い影響下にあることが確認される。ラヴェルはこの作品を放棄したが、かわりにピアノ協奏曲などほかの作品のいくつかの部分で、そのテーマとリズムを使用している。 ラヴェルは「作曲家で音楽理論家アンドレ・ジュダルジュ(André Gedalge)がわたしの作曲技術の開発において非常に重要な人でした」とコメントしている(ジュダルジュは対位法教程を残した最初期の作曲家でもある)。 また、ラヴェルは自身の創作姿勢については以下のように説明している。 「わたしは単純に芸術家の意識の錯乱を拒否します。 わたしたちは良い労働者であるべきです。 わたしの目標は「技術的な完成度」です。 そこにはけして到達できないと確信しているため、無限に到達しようと試みることができます。 重要なことは常に近づいていくことです。 まちがいなく芸術(作品)は作者以上の影響力を持っていますが、私の意見では、そこに別の目的を差し挟んではいけません」 (ラヴェル、Esquisse autobiographique、1928) 当時、一部の批評家はラヴェルの音楽を冷たく、空虚で人工的と評した。 芸術とメカニズムへの愛を決して否定しなかったラヴェルは、作家エドガー・アラン・ポーを引用し「感性と知性の中間点」と言う有名なフレーズで此れに反駁した。 「それにしても、人々は私が「自然に人工的」であるということを理解できないのだろうか?」 「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」というのがラヴェルの考え方だった。1928年、アメリカとカナダの25都市の大きなコンサートホールでピアノ公演を行うために渡米した際も、アメリカの作曲家たちに「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と述べており、一説によればオーケストレーションの教えを乞うたジョージ・ガーシュウィンに対して「あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と言ったといわれている。 彼の曲を得意とするピアニストはマルグリット・ロンや彼女の弟子のサンソン・フランソワなどがいるが、特にラヴェル本人から楽曲について細かいアドヴァイスを受ける機会があったヴラド・ペルルミュテールは、ラヴェルの意図を忠実に再現したラヴェル弾きと言われる。 ※括弧内の西暦は作曲年
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"彼の曲を得意とするピアニストはマルグリット・ロンや彼女の弟子のサンソン・フランソワなどがいるが、特にラヴェル本人から楽曲について細かいアドヴァイスを受ける機会があったヴラド・ペルルミュテールは、ラヴェルの意図を忠実に再現したラヴェル弾きと言われる。", "title": "後世への影響" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "※括弧内の西暦は作曲年", "title": "代表的な作品" } ]
ジョゼフ・モーリス(モリス)・ラヴェルは、フランスの作曲家。『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』『ボレロ』の作曲、『展覧会の絵』のオーケストレーションで知られる。
{{Redirect|ラヴェル|その他|ラベル (曖昧さ回避)}} {{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = モーリス・ラヴェル<br/>{{lang|fr|Maurice Ravel}} | Img = Maurice Ravel 1925.jpg | Img_capt = 1925年のラヴェル | Img_size = | Landscape = | Background = classic | Birth_name = Joseph Maurice Ravel | Alias = | Blood = <!-- 個人のみ --> | School_background = [[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]] | Born = {{生年月日と年齢|1875|3|7|死去}}<br/>{{FRA1870}}・[[シブール]] | Died = {{死亡年月日と没年齢|1875|3|7|1937|12|28}}<br/>{{FRA1870}}・[[パリ]] | Origin = {{FRA1870}}・[[パリ]] | Instrument = | Genre = [[クラシック音楽]] | Occupation = [[作曲家]] | Years_active = [[1892年]] - [[1932年]] | Label = | Production = | Associated_acts = | URL = | Notable_instruments = }} {{Portal クラシック音楽}} '''ジョゼフ・モーリス'''('''モリス''')'''・ラヴェル'''(Joseph Maurice Ravel {{IPA-fr|ʒɔzɛf mɔʁis ʁavɛl|lang}}<small> [http://ja.forvo.com/word/maurice_ravel#fr 発音例]</small>, [[1875年]][[3月7日]] - [[1937年]][[12月28日]])は、[[フランス]]の[[作曲家]]。『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』やバレエ音楽『[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]]』『[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]』の作曲、『[[展覧会の絵]]』の[[管弦楽法|オーケストレーション]]で知られる。 == 生涯 == [[ファイル:Ciboure - Maison natale Ravel.jpg|サムネイル|モーリス・ラヴェル出生のオランダ様式の建築。]] [[1875年]]3月にフランス南西部、[[スペイン]]にほど近い[[フランス領バスク]]地方の[[シブール]]で生まれる<ref>著者吉澤ヴィルヘルム、発行者矢野恵二『ピアニストガイド』株式会社青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、250ページ、ISBN 4-7872-7208-X</ref>。生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、[[アムステルダム]]の運河に面する建物さながらの完全なオランダ様式を呈しており、現存している(写真)。母マリー(1840年 - 1917年)は[[バスク人]]、父ジョゼフ(1832年 - 1908年)は[[スイス]]出身の発明家兼実業家だった。同年6月に家族が[[パリ]]へ移住したあと、弟エドゥアール(1878年 - 1960年)が生まれた。ラヴェル自身が生後3カ月しか滞在しておらず、後の25年間戻ることがなかったことから、バスク地方の表現への直接的な影響については議論があった。だが、作家アービー・オレンシュタインによって書かれた伝記によれば、母親に非常に親しみを感じ、その存在を通じてバスクの文化的な遺産を学び、最初の思い出は母親が彼に歌ったバスク民謡だったという(成人後になると、定期的に[[サン=ジャン=ド=リュズ]]に戻り、休日を過ごしたり仕事をしたりした)。 [[ファイル:Ravel Ciboure 1914.jpg|サムネイル|出生地の対岸で写真におさまるラヴェル。]] 父親が音楽好きで幼少のころからピアノや作曲を学び、ラヴェルが音楽の道へ進むことを激励した。<blockquote>幼い頃からわたしはあらゆる種類の音楽に敏感でした。わたしの父はおおくのファンよりもはるかに音楽に精通しており、わたしの趣味をどう発達させ、手ばやく情熱を刺激するかを知っていました (ラヴェル、Esquisse autobiographique、1928)</blockquote>やがて両親は[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]へ送り出した。音楽院に在籍した14年のあいだ、[[ガブリエル・フォーレ]]や[[エミール・ペサール]]らのもとで学んだラヴェルは、当時のパリの国際的で実験的な空気を背景に、若く革新的な芸術家と行動を共にし、強い影響と薫陶を受ける<ref>1900年頃には、ラヴェルらを中心とした音楽家や詩人たちによる芸術グループ「[[アパッシュ (芸術サークル)|アパッシュ]]」が結成された。</ref>。 [[1898年]][[3月5日]]の[[国民音楽協会]]第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルは<ref>[[マルト・ドロン]]と[[リカルド・ビニェス]]のピアノにより『耳で聴く風景』が演奏された。</ref>あくる20世紀に先んじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となった。いっぽうで作曲の大胆さと自身が「解放者」と目す[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]と[[エリック・サティ|サティ]]への賞賛は、伝統主義が支配的なサークル内でおおくの反目を買った。 1901年、ラヴェルの個性が確立された『[[水の戯れ]]』 (''Jeux d’eau'') が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなった。表現的慎ましさ、謙虚さ、エキゾチックでファンタジックな好み、形式的な完璧さに対するほとんど強迫観念とも言える探求により1901年から1908年の間に多くの作品が生みだされた。 『[[ソナチネ (ラヴェル)|ソナチネ]]』(''Sonatine'', [[1903年]])、『[[序奏とアレグロ (ラヴェル)|序奏とアレグロ]]』(''Introducción et allegro'', 1906年)、『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』(''Rapsodie espagnole'', [[1907年]])、組曲『[[マ・メール・ロワ]]』(''Ma Mère l'Oye'', [[1908年]])、『[[夜のガスパール (ラヴェル)|夜のガスパール]]』(''Gaspard de la Nuit''、[[1908年]])は、アロイジウス・ベルトランの詩に触発されて書かれた。 [[ファイル:Erik Satie en 1909.PNG|サムネイル|前衛作曲家エリック・サティ。ラヴェルは伝統主義に抗って、サティを称賛、擁護した。]] [[1900年]]から5回にわたって、有名な[[ローマ賞|ローマ大賞]]を勝ち取ろうと試みる。[[1901年]]、2回目の挑戦ではカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった<ref>この時の大賞は[[アンドレ・カプレ]]、2位は[[ガブリエル・デュポン]]</ref>。[[1902年]]、[[1903年]]は本選において入賞を逃し<ref>1902年の大賞は[[エメ・キュンク]]、1903年は[[ラウル・ラパラ]]</ref>、[[1904年]]はエントリーを見送った。翌[[1905年]]は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。すでに『[[亡き王女のためのパヴァーヌ]]』『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは大スキャンダルとなり、この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長の[[テオドール・デュボワ]]は辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となった<ref>アービー・オレンシュタイン、井上さつき訳『ラヴェル 生涯と作品』(音楽之友社、2006年、第2章)</ref>。 [[1907年]]、歌曲集『博物誌』の初演後、[[エドゥアール・ラロ]]の息子ピエール・ラロはこの作品を[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の盗作として非難し、論争が起こった。しかし、『スペイン狂詩曲』が高い評価で受け入れられると批判はおさまった。そしてラヴェルは、[[バレエ・リュス|バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)]]の主宰者[[セルゲイ・ディアギレフ]]からの委嘱により『[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]]』を作曲した。 1909年4月、[[ロンドン]]で初めての海外ツアーに参加し、自身が[[ドーバー海峡]]の向こうで高く評価されていることを知る。[[1910年]]、保守的な「国民音楽協会」と決別、[[シャルル・ケックラン]]らと現代的な音楽を促進、新しい音楽の創造を目指す団体「[[独立音楽協会]]」を旗揚げし、創立者のひとりとして名を連ねた。1911年、詩人フラン=ノアンによって台本の書かれたオペラ『[[スペインの時]]』(''L'Heure espagnole'')の初演が催されたが、大衆、とりわけ批評家から「ポルノ」呼ばわりされ、不評裡に終わった。当時は台本のユーモアも、ラヴェルの大胆なオーケストラもほとんど理解されなかった。 [[ファイル:Cheshire Regiment trench Somme 1916.jpg|サムネイル|第一次世界大戦。トラック輸送兵として参戦したラヴェルは終戦後、以前のような旺盛な創作欲を発揮することはなくなってしまう。]] [[第一次世界大戦]]勃発後、パイロットとして志願したが、体重が規定に「2キログラム」満たなかったことからその希望は叶わなかった。[[1915年]]3月にトラック輸送兵として兵籍登録された<ref>ラヴェルが運転するトラックは「アデライード号」と命名された(オレンシュタイン、前掲書、97ページ)</ref>。ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものであり<ref>オレンシュタイン、前掲書、97ページ</ref>、当時の前線[[ヴェルダン]] 付近まで到達した。道中、[[腹膜炎]]となり手術を受けた。結局、終生戦争の傷から回復することはなかった。 大戦中の[[1917年]][[1月15日]]、最愛の母親が76歳でこの世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、[[1914年]]にある程度作曲されていた組曲『[[クープランの墓]]』<ref>世界大戦で亡くなった友人たちの思い出に捧げられた。</ref>を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、[[1920年]]の『[[ラ・ヴァルス]]』以降も創作ペースは極端に落ちてしまった<ref>オレンシュタイン、前掲書、99ページ</ref>。母の死から3年経とうとした[[1919年]]末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている<ref>オレンシュタイン、前掲書、100ページ</ref>。 こうしてラヴェルの「偉大な時代」は終わりを告げる。代わって、慎重に計算された愛情と優雅さの背後に隠された、自発的に冷たく控えめな男―「ダンディな男ラヴェル」のイメージが一般に広まるようになった。 [[1920年]]1月、[[レジオンドヌール勲章]]叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月、公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。 [[1920年]]代のフランスでは、[[エリック・サティ]]を祖とするより前衛的な「[[フランス6人組]]」の登場や、[[複調]]・[[無調]]・[[アメリカ]]の[[ジャズ]]など新しい音楽のイディオムの広まりによって、ラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。さかんに演奏旅行を行う一方、ラヴェルの創作活動は低調になり、[[1923年]]には『[[ヴァイオリンソナタ (ラヴェル)|ヴァイオリンソナタ]]』のスケッチしか残せていない<ref>オレンシュタイン、前掲書、113ページ</ref>。 [[1928年]]、初めてアメリカに渡り、4か月に及ぶ演奏旅行を行なった。[[ニューヨーク]]では満員の聴衆の[[スタンディングオベーション]]を受ける一方、[[黒人霊歌]]やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルは世界的に有名になった。同年、[[オックスフォード大学]]の名誉博士号を授与される。 [[ファイル:Mucha-Maude-Adams-as-Joan-of-Arc.jpg|サムネイル|オペラ「[[ジャンヌ・ダルク]]」。病気に冒されたラヴェルの叶わぬ夢となった。 「だがこのオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね...」と供述している。]] アメリカからの帰国後、ラヴェルが生涯に残せた楽曲は、『[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]』([[1928年]])、『[[左手のためのピアノ協奏曲 (ラヴェル)|左手のためのピアノ協奏曲]]』([[1930年]])、『[[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|ピアノ協奏曲 ト長調]]』([[1931年]])、『[[ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ]]』([[1933年]])の、わずか4曲である。 [[1927年]]ごろから軽度の記憶障害や言語症に悩まされていたが、[[1932年]]、パリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。タクシー事故に遭った同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取りかかるが、楽譜や署名で頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。字を書くときに文字が震え、[[筆記体]]は[[活字体]]になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。動作が次第に緩慢になり、手足をうまく動かせなくなり、それまで得意だった水泳ができなくなった。言葉もスムーズに出なくなったことからたびたび癇癪を起した。また渡されたナイフの刃を握ろうとして周囲を慌てさせたが、自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを明確に指摘している(どんな病気にかかっていたか、またその原因が交通事故によるものなのかどうかは諸説ある<ref>[[ピック病]]・ウェルニッケ[[失語症]]・[[アルツハイマー型認知症]]の説があった。行動に支障をきたしながらも、正確な知覚を示す数々の記録から、全般的痴呆を伴わない緩徐進行性失語症 slowly progressive aphasia without global dementia が有力な候補として挙がっている。参考文献:[[岩田誠 (医師)|岩田誠]]『脳と音楽』メディカルレビュー社 2001年 ISBN 4896003764</ref>)。 [[1933年]]11月、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、このころには手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化していた。コンサート終了後、ファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と告げたという。[[1934年]]には周囲の勧めでスイスの[[モンペルラン]]で保養に入ったが一向に回復せず、病状は悪化の一途をたどった。[[1936年]]になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってぼんやりしていることが多くなった。たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させるなど、周囲を困惑させた。 病床にあって彼はオペラ『[[ジャンヌ・ダルク]]』などいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進めることができなくなったと伝えられる。あるときは友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟き、また別の友人には『ジャンヌ・ダルク』の構想を語ったあと、「だがこのオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね」とも述べたという。 同時期、失語症などの権威だった神経学者[[:en:Théophile_Alajouanine|テオフィル・アラジョアニヌ]]の診察を受けるが、博士は失語症や理解障害、[[失行#観念運動失行|観念運動失行]]<ref>アラジョアニヌは1968年の自著『芸術的能力と失語症』で「自分の内面にある音楽を表出させることができなくなった」ラヴェルの診察の所見をまとめており、岩田誠の本にも引用されている。</ref>など脳神経学的な症状であると判断した。しかし脳内出血などを疑っていたラヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得せず、[[1937年]][[12月17日]]に血腫や脳腫瘍などの治療の専門家として名高かった脳外科医[[:en:Clovis Vincent|クロヴィス・ヴァンサン]]の執刀のもとで手術を受けた。しかし腫瘍も出血も発見されず、脳の一部に若干の委縮が見られただけだった。もともと万が一の可能性に賭けて手術という決断をしたヴァンサンは、ラヴェルが水頭症を発症していないことを確かめると萎縮した脳を膨らまそうとして生理食塩水を注入した。手術後は一時的に容体が改善したが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま[[12月28日]]に死去 (満62歳没) 。葬儀には[[ダリウス・ミヨー]]、[[フランシス・プーランク]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]らが立ち会い、遺体は[[ルヴァロワ=ペレ]](パリ西北郊)に埋葬された。 晩年を過ごした[[イヴリーヌ県]][[モンフォール=ラモーリー]]にあるラヴェルの最後の家「ベルヴェデーレ([[:fr:Le Belvédère]])」は、現在モーリス・ラヴェル博物館([http://www.ville-montfort-l-amaury.fr/6_ravel/musee.htm Musée Maurice Ravel])<ref>[https://fondationmauriceravel.com/en/come-visit-le-belvedere/ モーリス・ラヴェル財団公式ホームページ(英語))]</ref>となっている。浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。 ラヴェルは一生独身を貫き、弟のエドゥワールも晩婚で子どもをもうけなかったため、ラヴェル家の血筋は亡くなった。 == 作風 == [[File:Ravel Gershwin Leide-Tedesco002.jpg|thumb|ラヴェルとガーシュウィン(右端)1928年]] [[File:Montfort-l%27Amaury_Maison_Ravel.jpg|thumb|モンフォール・ラモリーにあるモーリス・ラヴェル博物館]] '''オーケストレーションの天才'''、'''管弦楽の魔術師'''と言われる卓越した管弦楽法と'''スイスの時計職人'''([[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]談)と評された精緻な書法が特徴。入念な完璧さへの腐心と同時に人間的豊かさを併せ持った表現力は「知性の最も微妙なゲームと心の深く隠された領域に沁み入る」とされた(ディクシオネール・ル・ロベール)。 母方の血筋である[[スペイン]]への関心はさまざまな楽曲に見出だされ、『[[ヴァイオリンソナタ (ラヴェル)|ヴァイオリン・ソナタ]]』『[[左手のためのピアノ協奏曲 (ラヴェル)|左手のためのピアノ協奏曲]]』『[[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|ピアノ協奏曲 ト長調]]』などには[[ジャズ]]の語法の影響も見られる。常に新しい音楽的刺激を追い求めジプシー音楽にも熱狂し、それが『[[ツィガーヌ]]』(1924年)へと繋がった。 ラヴェルは[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]とともに[[印象主義音楽|印象派(印象主義)]]の作曲家に分類されることが多い。しかし、その作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は意に介さなかった。ただし自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、[[1902年]]には対面も果たしている。また、ドビュッシーもラヴェルの[[弦楽四重奏曲 (ラヴェル)|弦楽四重奏曲ヘ長調]]を高く評価するコメントを発表している。 ラヴェル自身は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]および[[フランソワ・クープラン]]からはるかに強く影響を受けていると主張した。また彼は[[エマニュエル・シャブリエ]]、[[エリック・サティ]]の影響を自ら挙げており、「[[エドヴァルド・グリーグ]]の影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。さらに先述のようにスペイン音楽・[[ジャズ]]に加え、[[アジア]]の音楽および[[フォークソング]](民謡)を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていた。アジアの音楽については、パリ音楽院に入学した14歳の春に、[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]で出会ったカンボジアの寺院、タヒチ島の人々の踊り、インドネシアの[[ガムラン]]などに大きな影響を受けている。 また、[[リヒャルト・ワーグナー]]の楽曲に代表されるような宗教的テーマを表現することを好まず、その代わりにインスピレーション重視の古典的神話に題を取ることを好んだ。 『[[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|ピアノ協奏曲ト長調]]』について、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]および[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の協奏曲がそのモデルとして役立ったと語っている。[[1906年]]ごろに協奏曲『Zazpiak Bat』(「バスク風のピアノ協奏曲」(直訳では「7集まって1となる」というバスク人のスローガン)を書くつもりだったが、結局それが完成されることはなかった。ノートの残存や断片から、バスクの音楽から強い影響下にあることが確認される。ラヴェルはこの作品を放棄したが、かわりにピアノ協奏曲などほかの作品のいくつかの部分で、そのテーマとリズムを使用している。 ラヴェルは「作曲家で音楽理論家[[アンドレ・ジェダルジュ|アンドレ・ジュダルジュ]]([[:fr:André Gedalge|André Gedalge]])<ref>ラヴェルのパリ音楽院時代の対位法及び和声学の恩師。</ref>がわたしの作曲技術の開発において非常に重要な人でした」とコメントしている(ジュダルジュは対位法教程を残した最初期の作曲家でもある)。 また、ラヴェルは自身の創作姿勢については以下のように説明している。<blockquote>「わたしは単純に芸術家の意識の錯乱を拒否します。 わたしたちは良い労働者であるべきです。 わたしの目標は「技術的な完成度」です。 そこにはけして到達できないと確信しているため、無限に到達しようと試みることができます。 重要なことは常に近づいていくことです。 まちがいなく芸術(作品)は作者以上の影響力を持っていますが、私の意見では、そこに別の目的を差し挟んではいけません」 (ラヴェル、Esquisse autobiographique、1928)</blockquote>当時、一部の批評家はラヴェルの音楽を冷たく、空虚で人工的と評した。 芸術とメカニズムへの愛を決して否定しなかったラヴェルは、作家[[エドガー・アラン・ポー]]を引用し「感性と知性の中間点」と言う有名なフレーズで此れに反駁した。<blockquote>「それにしても、人々は私が「'''自然に人工的'''」であるということを理解できないのだろうか?<ref>Fuente: Citado por Calvocoressi en ''Galerie de Musiciens'', Londres, Faber, 1933.</ref>」</blockquote> == 後世への影響 == 「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」というのがラヴェルの考え方だった。[[1928年]]、アメリカとカナダの25都市の大きなコンサートホールでピアノ公演を行うために渡米した際も、アメリカの作曲家たちに「ヨーロッパの模倣ではなく、[[民族主義]]スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と述べており、一説によればオーケストレーションの教えを乞うた[[ジョージ・ガーシュウィン]]に対して「あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と言ったといわれている。 彼の曲を得意とするピアニストは[[マルグリット・ロン]]や彼女の弟子の[[サンソン・フランソワ]]などがいるが、特にラヴェル本人から楽曲について細かいアドヴァイスを受ける機会があった[[ヴラド・ペルルミュテール]]は、ラヴェルの意図を忠実に再現した[[ラヴェル弾き]]と言われる。 == 代表的な作品 == {{main|ラヴェルの楽曲一覧}} ※括弧内の西暦は作曲年 === ピアノ作品 === *[[グロテスクなセレナード]](Sérénade grotesque、[[1893年]]ごろ) *:自筆譜では単に「セレナード」という題である。 *[[耳で聴く風景]](Les sites auriculaires) **ハバネラ(Habanera) **:ドビュッシーが『グラナダの夕べ』に盗作したのではないかと物議を醸した作品。のちにオーケストレーションして『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』の第3曲に使われている。 **鐘の鳴るなかで(Entre cloches) *[[口絵 (ラヴェル)|口絵]](Frontispice) *[[古風なメヌエット]](Menuet antique、[[1895年]]) *[[亡き王女のためのパヴァーヌ]](Pavane pour une infante défunte、[[1899年]]) *[[水の戯れ]](Jeux D’Eau、[[1901年]]) *[[ソナチネ (ラヴェル)|ソナチネ]](Sonatine、[[1903年]] - [[1905年]]) **中庸の速さで(Modéré) **メヌエットの速さで(Mouvement de menuet) **生き生きと(Animé) *[[メヌエット嬰ハ短調]](Menuet en ut dièse、[[1904年]]) *[[鏡 (ラヴェル)|鏡]](組曲)(Miroirs、[[1904年]] - [[1905年]]) **蛾(Noctuelles) **悲しい鳥(Oiseaux tristes) **海原の小舟(Une barque sur l'ocean) **道化師の朝の歌(Alborada del gracioso) **鐘の谷(La vallée des cloches) *[[夜のガスパール (ラヴェル)|夜のガスパール]](Gaspard de la Nuit、[[1908年]]) **オンディーヌ(Ondine) **絞首台(Le Gibet) **スカルボ(Scarbo) *[[マ・メール・ロワ]](組曲)(Ma Mère l'Oye、[[1908年]] - [[1910年]]) **眠りの森の美女のパヴァーヌ(Pavane de la belle au bois dormant) **親指小僧(Petit Poucet) **パゴダの女王レドロネット(Laideronnette, Impératrice des Pagodes) **美女と野獣の対話(Les Entretiens de la Belle et de la Bête) **妖精の園(Le Jardin Féerique) *[[ハイドンの名によるメヌエット]](Menuet sur le nom d'HAYDN、[[1909年]]) *[[高雅で感傷的なワルツ]](Valses nobles et sentimentales、[[1911年]]) **モデレ(Modéré - Très franc) **アッセ・ラン(Assez lent) **モデレ(Modéré) **アッセ・ザニメ(Assez animé) **プレスク・ラン(Presque lent) **アッセ・ヴィフ(Assez vif) **モワン・ヴィフ(Moins vif) **エピローグ、ラン(Épilogue: Lent) *[[ボロディン風に]](A la manière de Borodine、[[1913年]]) *[[シャブリエ風に]](A la manière de Emannuel Chabrier、[[1913年]]) *[[前奏曲 (ラヴェル)|前奏曲 イ短調]](Prélude、[[1913年]]) *[[クープランの墓]](Le Tombeau de Couperin、[[1914年]] - [[1917年]]) **[[前奏曲]](Prélude) **[[フーガ]](Fugue) **フォルラーヌ(Forlane) **リゴドン(Rigaudon) **[[メヌエット]](menuet) **[[トッカータ]](toccata) *[[パレード]](Le parade, [[1896年]]) === 協奏曲 === *[[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|ピアノ協奏曲ト長調]](Concerto pour piano et orchestre, sol majeur) **アレグラメンテ(allegramente) **アダージョ・アッサイ(adagio assai) **プレスト(presto) *:もともとはバスク風協奏曲として計画されていたもの。 *[[左手のためのピアノ協奏曲 (ラヴェル)|左手のためのピアノ協奏曲]](Concerto pour la main gauche) *:第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、[[パウル・ウィトゲンシュタイン]](哲学者として知られる[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の兄)の依頼によるもの。[[ジャズ]]の影響が色濃い。 === 管弦楽作品 === *[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]](Rapsodie espagnole、[[1907年]]) **夜への前奏曲(Prélude à la nuit) **マラゲーニャ(Malagueña) **ハバネラ(Habanera) **祭り(Feria) *[[マ・メール・ロワ]](組曲:ピアノ曲からの編曲、[[1912年]]) *[[クープランの墓]](組曲:ピアノ曲からの抜粋編曲、[[1919年]]) **前奏曲(Prélude) **フォルラーヌ(Forlane) **メヌエット(Menuet) **リゴードン(Rigaudon) *[[亡き王女のためのパヴァーヌ]](ピアノ曲からの編曲、[[1910年]]) *[[古風なメヌエット]](ピアノ曲からの編曲、[[1928年]]) *[[シェヘラザード (ラヴェル)|『シェエラザード』序曲]](Ouverture 'Shéhérazade') *海原の小舟(Une barque sur l'océan)(「[[鏡 (ラヴェル)|鏡]]」第3曲からの編曲) *道化師の朝の歌(Alborada del gracioso)(「[[鏡 (ラヴェル)|鏡]]」第4曲からの編曲) === オペラ === *[[スペインの時]](L'heure espagnole) *:1幕のオペラ。時計屋の女房に言い寄る男たちをコミカルに扱った歌劇。 *[[子供と魔法]](L'enfant et les sortilèges) *:『子供と呪文』という場合もある。2幕のオペラ。 === バレエ音楽 === *[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]](Boléro、[[1928年]]) *:ラヴェルの作品の中でもっとも有名な曲である。 *[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]](Daphnis et Chloé、[[1909年]] - [[1912年]]) *:合唱付きの全曲版、および合唱のない全曲版から抜粋した第1組曲、第2組曲がある。 *[[ラ・ヴァルス]](La Valse, Poème choréographique、[[1919年]] - [[1920年]]) *[[マ・メール・ロワ]](全曲版) :ジャック・ルーシェの依頼によるバレエのための編曲。組曲版とは順番が違い、前奏曲と間奏曲が付加され、全体が続けて演奏される。1912年に初演。 :*前奏曲(Prélude) :*第1場: 紡ぎ車の踊りと情景(Danse du rouet et scène) :*第2場: 眠りの森の美女のパヴァーヌ(Pavane de la belle au bois dormant) :*第3場: 美女と野獣の対話(Les entretiens de la Belle et de la Bête) :*第4場: 親指小僧(Petit poucet) :*第5場: パゴダの女王レドロネット(Laideronnette, impératrice des Pagodes) :*アポテオーズ: 妖精の国(Le jardin Féerique) *[[高雅で感傷的なワルツ]](アデライド、または花言葉)(ピアノ曲からの編曲、[[1912年]]) === 室内楽曲 === *[[ヴァイオリンソナタ (ラヴェル)|ヴァイオリンソナタ(遺作)]](1897年作曲、単一楽章) *[[弦楽四重奏曲 (ラヴェル)|弦楽四重奏曲ヘ長調]] *[[序奏とアレグロ (ラヴェル)|序奏とアレグロ]](Introduction et allegro) *[[ピアノ三重奏曲 (ラヴェル)|ピアノ三重奏曲イ短調]] *[[フォーレの名による子守歌]](Berceuse sur le nom de Gabriel Fauré) *[[ツィガーヌ (ラヴェル)|演奏会用狂詩曲『ツィガーヌ』]](Tzigane) *:ヴァイオリンと[[ピアノ・リュテアル]](またはピアノ)のための作品。ヴァイオリンと管弦楽にも編曲された。 *[[ヴァイオリンソナタ (ラヴェル)|ヴァイオリン・ソナタ]] *[[ヴァイオリンとチェロのためのソナタ (ラヴェル)|ヴァイオリンとチェロのためのソナタ]] **ドビュッシーの墓(トンボー)(Le tombeau de Claude Debussy) - ヴァイオリンとチェロのためのソナタの第1楽章となった。 === 声楽曲 === *暗く果てしない眠り *聖女(Sainte) *[[クレマン・マロ]]のエピグラム(2 Épigrammes de Clément Marot) *:クレマン・マロの2つの風物詩とも。 **私に雪を投げるアンヌへの(D'Anne qui me jecta de la neige) **スピネットを弾くアンヌへの(D'Anne jouant de l'epinette) *[[シェヘラザード_(ラヴェル)|シェエラザード]](Shéhérazade) **アジア(Asie) **魔法の笛(La flûte enchantée) **つれない人(L'indifférent) *おもちゃのクリスマス(Le Noël des jouets) *5つのギリシア民謡(5 Mélodies populaires grecques) *博物誌(Histories naturelles) **くじゃく(Le paon) **こおろぎ(Le grillon) **白鳥(Le cygne) **かわせみ(Le martin-pêcheur) **ほろほろ鳥(La pintade) *ハバネラ形式のヴォカリーズ(Vocalise - étude en forme de habanera) *草の上で(Sur l'herbe) *トリパトス(Tripatos) *民謡集(4曲; Chants populaires) *スコットランドの歌(Chanson écossaise) *[[ステファヌ・マラルメ]]の3つの詩(3 Poèmes de Stéphane Mallarmé) **ため息(Soupir) **むなしい願い(Placet futile) **壷のなかから一飛びに躍り出た(Surge de la croupe et du bond) :ドビュッシーが同時期に、第1曲、第2曲と同じ詩に作曲している。 *無伴奏混声合唱のための3つの歌(3 Chansons) **ニコレット(Nicolette) **3羽の美しい極楽鳥(3 Beaux oiseaux du paradis) **ロンド(Ronde) *2つのヘブライの歌(2 Mélodies hébraïques) **カディッシュ(Kaddish) **永遠の謎(L'énigme éternelle) *[[マダガスカル島民の歌]](Chansons madécasses) **ナアンドーヴ(Nahandove) **おーい(呼び声)(Aoua !) **休息-それは甘く(Repos - Il est doux) *[[ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ|ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ]](Don Quichotte à Dulcinée) **ロマンティックな歌(Chanson romanesque) **勇士の歌(Chanson épique) **乾杯の歌(Chanson à boire) *:もともと1933年の映画「[[ドン・キホーテ]]」(''[[:en:Don Quixote (1933 film)|Don Quixote]]'')の劇中歌として作られたが、映画では使用されなかった([[ジャック・イベール|イベール]]の曲が採用された)。 *アリッサ(Alyssa、1903年) *アルシオーヌ(Alcyone、1902年) === 合作 === *[[ジャンヌの扇]](L'éventail de Jeanne) *:[[ジャック・イベール]]、[[ロラン=マニュエル]]、[[アルベール・ルーセル]]、[[ダリウス・ミヨー]]、[[フランシス・プーランク]]、[[ジョルジュ・オーリック]]、[[フロラン・シュミット]]、[[マルセル・ドラノワ]]、[[ピエール・フェルー]]との合作。そのうち1曲目のファンファーレを担当。 === 編曲 === *[[展覧会の絵]](Tableaux d'une exposition、[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]のピアノ曲を管弦楽編曲) *[[謝肉祭 (シューマン)|謝肉祭]](1914年に[[ヴァーツラフ・ニジンスキー]]の委嘱により[[ロベルト・シューマン|シューマン]]のピアノ曲を管弦楽編曲。ただし現在楽譜が残されているのは、「前口上」「ドイツ風ワルツ―パガニーニ」「ペリシテ人と闘うダヴィッド同盟の行進曲」のみ) *[[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]]([[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]のオーケストラと女声合唱のための曲を2台のピアノのために編曲。着手は1901年だが、完成は遅く1909年。同年に出版された<ref name="today">「今日の音楽」20回記念 ミュージック・トゥデイ・セレクションズ WWCC 7107-10 ライナー・ノーツによる。</ref>) *[[牧神の午後への前奏曲]]([[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]のオーケストラ作品を連弾用に1910年に編曲<ref name="today"></ref>) *サラバンド([[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]のピアノ曲を管弦楽編曲) *舞曲([[シュタイアーマルク州|スティリー]]風タランテラ)(同上。1922年編曲<ref name="today"></ref>) *華やかなメヌエット([[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]のピアノ曲を管弦楽編曲) === 私家作品(未完、断片など) === *フーガ(紛失) *マズルカ(1ページの断片) *交響曲のスケッチ *モーヌ大将(構想のみで現存はしないが、作曲はしたという説あり) *スケート滑り(断片) *組曲(第1ピアノ部分欠落) *「室内」のための前奏曲(オペラ「室内」の未完原稿) *グリーグの主題による変奏曲 *カリロエ(現存せず) == 記念施設 == ;モーリス・ラヴェル博物館 :パリ郊外[[モンフォール=ラモーリー]](パリ・[[モンパルナス駅]]より約50分、駅前より徒歩45分または車)にある最晩年の家をそのまま保存し、博物館として展示している。 ;墓碑 :パリ近郊[[ルヴァロワ]](パリ・[[サン・ラザール駅]]より約15分)の墓地にある。 == 注釈 == <references/> == 外部リンク == {{commonscat|Maurice Ravel}} * {{IMSLP| id=Ravel,_Maurice | cname=ラヴェル}} * [https://note.com/happano/n/n6dc4e8bebbba ドビュッシーの音楽、ラヴェルの音楽 ] マデリーン・ゴス(1892 - 1960)の評伝 "Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)からの翻訳記事。 == 参考文献 == * ヴォーン・ウィリアムス『民族音楽論 「第4章 音楽的自叙伝」』塚谷晃弘訳、雄山閣 * ショーンバーグ『大作曲家の生涯 下』 亀井旭・玉木裕訳、共同通信社 * アービー・オレンシュタイン『ラヴェル 生涯と作品』 井上さつき訳、音楽之友社 2006  * ロジャー・ニコルス 『ラヴェル 生涯と作品』 渋谷和邦訳、[[泰流社]] 1987、新版1996 * H.H.シュトゥッケンシュミット 『モリス・ラヴェル その生涯と作品』 岩淵達治訳、[[音楽之友社]] 1983 * Orenstein, A. 2003 (1990). A Ravel reader: correspondence, articles, interviews. New York: Dover Publications. * Orenstein, A. 1991 (1975). Ravel: man and musician. New York: Dover Publications. {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らうえる もおりす}} [[Category:モーリス・ラヴェル|*]] [[Category:フランスの作曲家]] [[Category:近現代の作曲家]] [[Category:新古典主義の作曲家]] [[Category:オペラ作曲家]] [[Category:バレエ作曲家]] [[Category:フランスの無神論者]] [[Category:バスクの音楽家]] [[Category:19世紀フランスの音楽家]] [[Category:20世紀フランスの音楽家]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:スイス系フランス人]] [[Category:バスク系フランス人]] [[Category:ピレネー=アトランティック県出身の人物]] [[Category:1875年生]] [[Category:1937年没]]
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EANコード
EANコード(イアンコード、European Article Number)は、商品識別コードおよびバーコード規格の一種である。日本の規格は「JANコード」(Japanese Article Number) と称し、日本で最も普及している商品識別コードである。 EANコードから生成されたバーコードシンボルは、市販される多くの商品にソースマーキングとして印刷または貼付され、POSシステム、在庫管理、サプライチェーン・マネジメントの受発注システムなどで価格や商品名を検索するためのキーとして使われる。EANコードの前に1桁あるいは拡張型として0で始まる3桁の物流識別用の数字を付加したものは、集合包装用コード、あるいはバーコードシンボルの体系をそのまま呼称としてITFコードと呼ばれ、チェックディジット部は元のEANコードと異なる。 EANコードは単なる「コード」であるため単体では利用されず、商品名や価格などの情報を蓄積したデータベースシステムに連動し、検索キー入力作業を機械化する目的で使用される(EANコードは商品を識別する番号として使われ、商品番号、商品名、価格などの情報は別の台帳で管理される。EANコードの商品コードと商品番号は一致していることが多いが必須ではない。)。 JANコードは、欧州で規格化された「EANコード(イアンコード)」や、これより先に米国で規格化されて主に北米で使用される「UPCコード(英語版)」などと互換性がある。「JIS B 9550 共通商品コード用バーコードシンボル」として1978年に標準化され、1987年にX(情報処理)部門が新設されてJIS X 0501となった。 UPCコードを参考に規格化したEANコードをベースとしており、UPCコードに上位互換している。 JAN/EANは13桁または8桁で構成され、日本のPOSシステムは多くがUPCを利用可能だが、UPCは12桁または8桁で構成され、UPCのみに対応する北米のPOSシステムはJAN/EANを利用できない。8桁コードもUPCとJAN/EANは互換性がない。対象国を限定しない商品はUPC単記あるいはUPCとEAN併記している。 UPCは2005年からEAN/JANと同じコード体系へ移行し、国コードの10 - 13を米国とカナダに割り当てる。 日本は、国コード“49”または“45”の13桁標準タイプまたは8桁短縮タイプを使用している。13桁は または で構成する。 8桁は で構成する。 日本のメーカコードや商品コードなどの情報は「一般財団法人流通システム開発センター」が一元管理している。 生鮮食品や会員証など販売店がバーコードラベルを作成して貼付するインストアマーキングは、先頭の国コードにUPC互換の“02”“04”、または“20” - “29”を使用する。先頭が02のコードは、データベースの売価を参照しないNON-PLU (non-price lookup) で、計量商品などで使用する。 EANコード(JANコード)は、13桁または8桁の数字のみで構成する。これを幅の異なるスペースとバーで表現し、商品にマーキングする。バーコードは「白い隙間と黒棒」と表現されることが多いが、投射光に対する反射率の差異が規定を充たせば、色調に規定はない。 多くはバーコード下部に数字が記載され、バーコードスキャナで読取できない場合にコードを目視する。OCRBフォントが多い。 バーとスペースを構成する一定幅の単位要素を「モジュール」と呼び、各モジュールは白または黒の情報をもつ(即ちモジュールはバーあるいはスペースの最小幅であり、ここでいう白または黒の情報はそれぞれ最小幅のスペースとバーを指す)。このモジュールを複数並べて、いろいろな幅のバーやスペースを表現する。EANコードは、バーおよびスペースの幅が4種類ある「4値コード」で、1キャラクタ(1桁)は7モジュールで、2つのバーと2つのスペースで構成される。 1キャラクタ分の7モジュールを順に「白黒黒黒黒白黒」とした場合は、「幅が1のスペース」「幅が4のバー」「幅が1のスペース」「幅が1のバー」となる。これで1キャラクタとなり、このようにして作成したキャラクタを連続して配置する。さらに左右にマージンとガードバー、中央にセンターバーを配置し、合計113モジュールで13桁のEANコード「標準バーコード」となる。 8桁で構成される「短縮コード」の場合は、左右のマージンが7モジュールに短縮されることと、データキャラクタが4+3桁になる点が異なるだけで他は同様となり、全体では81モジュールで構成される。
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EANコードは、商品識別コードおよびバーコード規格の一種である。日本の規格は「JANコード」(Japanese Article Number) と称し、日本で最も普及している商品識別コードである。 EANコードから生成されたバーコードシンボルは、市販される多くの商品にソースマーキングとして印刷または貼付され、POSシステム、在庫管理、サプライチェーン・マネジメントの受発注システムなどで価格や商品名を検索するためのキーとして使われる。EANコードの前に1桁あるいは拡張型として0で始まる3桁の物流識別用の数字を付加したものは、集合包装用コード、あるいはバーコードシンボルの体系をそのまま呼称としてITFコードと呼ばれ、チェックディジット部は元のEANコードと異なる。 EANコードは単なる「コード」であるため単体では利用されず、商品名や価格などの情報を蓄積したデータベースシステムに連動し、検索キー入力作業を機械化する目的で使用される(EANコードは商品を識別する番号として使われ、商品番号、商品名、価格などの情報は別の台帳で管理される。EANコードの商品コードと商品番号は一致していることが多いが必須ではない。)。
{{出典の明記|date=2023年4月}} [[File:EAN13.svg|thumb|EANコードの例]] '''EANコード'''(イアンコード、European Article Number)は、商品識別コードおよびバーコード規格の一種である<ref>[https://www.jipdec.or.jp/library/word/csm0kn0000000jhj.html EANコード]一般財団法人日本情報経済社会推進協会.2023年12月5月閲覧</ref>。日本の規格は「'''JANコード'''」(Japanese Article Number) と称し、日本で最も普及している商品識別コードである<ref>[https://www.gs1jp.org/code/jan/about_jan.html GTIN(JANコード)]一般財団法人日本情報経済社会推進協会.2023年12月5月閲覧</ref>。 EANコードから生成されたバーコードシンボルは、市販される多くの商品にソースマーキングとして印刷または貼付され、POSシステム、在庫管理、サプライチェーン・マネジメントの受発注システムなどで価格や商品名を検索するためのキーとして使われる。EANコードの前に1桁あるいは拡張型として0で始まる3桁の物流識別用の数字を付加したものは、集合包装用コード、あるいはバーコードシンボルの体系をそのまま呼称としてITFコードと呼ばれ、チェックディジット部は元のEANコードと異なる。 EANコードは単なる「コード」であるため単体では利用されず、商品名や価格などの情報を蓄積したデータベースシステムに連動し、検索キー入力作業を機械化する目的で使用される(EANコードは商品を識別する番号として使われ、商品番号、商品名、価格などの情報は別の台帳で管理される。EANコードの商品コードと商品番号は一致していることが多いが必須ではない。)。 == JANコードの規格・構成 == JANコードは、[[ヨーロッパ|欧州]]で規格化された「'''EANコード'''(イアンコード)」や、これより先に[[アメリカ合衆国|米国]]で規格化されて主に[[北米]]で使用される「{{仮リンク|UPCコード|en|Universal Product Code}}」などと互換性がある。「[[日本工業規格|JIS]] B 9550 共通商品コード用バーコードシンボル」として[[1978年]]に標準化され、[[1987年]]にX(情報処理)部門が新設されてJIS X 0501となった。 [[UPC]]コードを参考に規格化したEANコードをベースとしており、UPCコードに[[上位互換]]している。 JAN/EANは13桁または8桁で構成され、日本のPOSシステムは多くがUPCを利用可能だが、UPCは12桁または8桁で構成され、UPCのみに対応する北米のPOSシステムはJAN/EANを利用できない。8桁コードもUPCとJAN/EANは互換性がない<ref name="upc-e" group="注釈">UPCの8桁コード(UPC-E)は、ソースマーキングの場合は元の12桁コード(UPC-A)の0を規則に従い省くことにより導き出す。先頭の数字は必ず0で、シンボル上には表現されない。チェックディジットは元の12桁で計算する。インストアコードの場合は中間の6桁を010000〜079999で表す</ref>。対象国を限定しない商品はUPC単記あるいはUPCとEAN併記している。 UPCは2005年からEAN/JANと同じコード体系へ移行し、国コードの10 - 13を米国と[[カナダ]]に割り当てる。 : ※UPCの体系変更に伴い、従来“10”と“11”を使用していた雑誌バーコードは、2004年6月1日発売分の[[雑誌]]から、“491”で始まる13桁にアドオンコード5桁を追加した合計18桁で構成するJANコード体系に沿った仕様へ変更した。 == コード体系 == [[日本]]は、国コード“49”または“45”の13桁標準タイプまたは8桁短縮タイプを使用している。13桁は * 国コード(2桁) * メーカコード(5桁) * 商品コード(5桁) * [[チェックディジット]](1桁) または * 国コード(2桁) * メーカコード(7桁) * 商品コード(3桁) * チェックディジット(1桁) で構成する。 8桁は * 国コード(2桁) * メーカコード(4桁) * 商品コード(1桁) * チェックディジット(1桁) で構成する。 日本のメーカコードや商品コードなどの情報は「[[流通システム開発センター|一般財団法人流通システム開発センター]]」が一元管理している。 [[食品#食品の分類|生鮮食品]]や会員証など販売店がバーコードラベルを作成して貼付するインストアマーキングは、先頭の国コードにUPC互換の“02”“04”、または“20” - “29”を使用する<ref name="invalid_number" group="注釈">商店によっては、ポイントカードの会員番号に“04”(UPC 4)・“20”〜“29”ではない番号から始まるものがあり、重複するコードの商品を扱えないという問題がある</ref>。先頭が02のコードは、データベースの売価を参照しないNON-PLU (non-price lookup) で、計量商品などで使用する。 * 国コード(2桁)02 ※UPCでは1桁で2 * 商品コード(5桁) * 価格チェックディジット(1桁) * 価格(4桁) * チェックディジット(1桁) == 仕様 == EANコード(JANコード)は、13桁または8桁の数字のみで構成する。これを幅の異なるスペースとバーで表現し、商品にマーキングする。バーコードは「白い隙間と黒棒」と表現されることが多いが、投射光に対する反射率の差異が規定を充たせば、色調に規定はない。 多くはバーコード下部に数字が記載され、[[バーコードスキャナ]]で読取できない場合にコードを目視する。OCRB[[フォント]]が多い。 バーとスペースを構成する一定幅の単位要素を「モジュール」と呼び、各モジュールは白または黒の情報をもつ(即ちモジュールはバーあるいはスペースの最小幅であり、ここでいう白または黒の情報はそれぞれ最小幅のスペースとバーを指す)。このモジュールを複数並べて、いろいろな幅のバーやスペースを表現する。EANコードは、バーおよびスペースの幅が4種類ある「4値コード」で、1キャラクタ(1桁)は7モジュールで、2つのバーと2つのスペースで構成される。 1キャラクタ分の7モジュールを順に「白黒黒黒黒白黒」とした場合は、「幅が1のスペース」「幅が4のバー」「幅が1のスペース」「幅が1のバー」となる。これで1キャラクタとなり、このようにして作成したキャラクタを連続して配置する。さらに左右にマージンとガードバー、中央にセンターバーを配置し、合計113モジュールで13桁のEANコード「標準バーコード」となる。 : ※左マージン(11)+左ガードバー(3)+データキャラクタ6桁(42)+センターバー(5)+データキャラクタ5桁(35)+チェックディジット1桁(7)+右ガードバー(3)+右マージン(7)=113モジュール 8桁で構成される「短縮コード」の場合は、左右のマージンが7モジュールに短縮されることと、データキャラクタが4+3桁になる点が異なるだけで他は同様となり、全体では81モジュールで構成される。 : ※左マージン(7)+左ガードバー(3)+データキャラクタ4桁(28)+センターバー(5)+データキャラクタ3桁(21)+チェックディジット1桁(7)+右ガードバー(3)+右マージン(7)=81モジュール == EAN国コード一覧 == {{columns-list|colwidth=30em| * 00 - 09 - (UPC互換用 0 - 9) ** 02 - (UPC 2)インストアコード NON-PLU ** 04 - (UPC 4)インストアコード * 10 - 13 - {{USA}}、{{CAN}}(2005年より) * 20 - 29 - 小売業インストアコード用 * 30 - 37 - {{FRA}} * 380 - {{BGR}} * 383 - {{SVN}} * 385 - {{HRV}} * 387 - {{BIH}} * 40 - 43、440 - {{DEU}} * 45 - {{JPN}}(1995年5月に追加。当初は「49」のみであった) * 46 - {{RUS}} * 470 - {{KGZ}} * 471 - {{ROC-TW}} * 474 - {{EST}} * 475 - {{LVA}} * 476 - {{AZE}} * 477 - {{LTU}} * 478 - {{UZB}} * 479 - {{LKA}} * 480 - {{PHL}} * 481 - {{BLR}} * 482 - {{UKR}} * 484 - {{MDA}} * 485 - {{ARM}} * 486 - {{GEO}} * 487 - {{KAZ}} * 489 - {{HKG}} * 49 - {{JPN}}(1995年5月に「45」が追加された) * 50 - {{GBR}} * 520 - {{GRC}} * 528 - {{LBN}} * 529 - {{CYP}} * 530 - {{ALB}} * 531 - {{MKD}} * 535 - {{MLT}} * 539 - {{IRL}} * 54 - {{BEL}}、{{LUX}} * 560 - {{PRT}} * 569 - {{ISL}} * 57 - {{DNK}} * 590 - {{POL}} * 594 - {{ROU}} * 599 - {{HUN}} * 600〜601 - {{ZAF}} * 603 - {{GHA}} * 608 - {{BHR}} * 609 - {{MUS}} * 611 - {{MAR}} * 613 - {{DZA}} * 616 - {{KEN}} * 618 - {{CIV}} * 619 - {{TUN}} * 621 - {{SYR}} * 622 - 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日本図書コード、[[ISBN]]コードのバーコード化 * [[雑誌コード#共通雑誌コード|共通雑誌コード]] * [[UPCコード]] * [[GS1]] == 外部リンク == * [https://www.dsri.jp 一般財団法人流通システム開発センター] ** [https://www.dsri.jp/jan/ GS1事業者コード・JANコード] ** [https://www.barcoderobot.com/ean-13.html Barcode Robot(バーコードの画像をオンラインで生成)] {{en icon}} {{DEFAULTSORT:EANこおと}} [[Category:バーコード]] [[Category:JIS]] [[Category:各国の一覧]]
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二進化十進表現
二進化十進数 (BCD、Binary-coded decimal ) とは、コンピュータにおける数値の表現方式の一つで、十進法の1桁を、0から9までを表す二進法の4桁で表したものである。「二進化十進符号」などとも呼ばれる。3増し符号など同じ目的の他の方式や、より一般的に、十進3桁を10ビットで表現するDensely packed decimalなども含めることもある。 一般に二進法の4桁(ニブル)は、0から15までの整数を表すことができる。二進化十進法ではこのうちの最初の10個を有効な数値として扱う。 例えば、127 という整数値は、 0001、0010、0111 という3つのBCDで表される。 二進化十進数には、ゾーン形式とパック形式があり、用途に応じて使い分けられる。 符号部を持たないパック形式では、ファイルなどの中の二進化十進数値を十六進法で表示すると十進と同じように表示される。例えば、十六進で「1234」と表示されるデータは、整数値 1234 のことである。また、機種や文字コードに依存するものの、一般にゾーン形式では8ビット文字表示すると十進と同じように表示される。ただし、符号部を持つ場合も多く、上記の表示が必ずしもわかりやすいとは言えないこともある。 簡単な利用法としては、電子回路上で、0 - 9を表示可能なBCD対応の数字表示素子1つに対してBCDの4桁を4本の入力信号として直接入力する、等の使われ方がある。二進法で扱う場合と違い、表示素子に入力する前の変換が要らずデータバス上の信号をそのまま利用できるというメリットがある。 二進法で計算を行う多くのコンピュータでは、二進化十進表現を使用する機能(または、計算結果を補正するための機能)を備えている。 本来、コンピュータでは二進法で演算するのがコンピュータ資源(レジスタ、メモリ、計算量)の有効利用になる。それでも二進化十進数が有効な場合があるのは、二進法と十進法との変換を回避することに「社会的な価値」があるからである。つまり二進化十進数は純粋なコンピュータの問題ではなく、十進法社会という現実からの要請による。 「社会的な価値」の具体例として、小数の丸め処理が挙げられる。0.1 のような値は十進法では有限桁で表記可能だが、二進法では無限桁の循環小数となる。このため、一般的な二進法の浮動小数点数演算では 0.1 の表現に丸め誤差があるので、それを繰り返し足し込むと誤差の影響が無視できなくなることがある。例えば以下の Java プログラムを実行すると、double 型を使って 0.1 を 10,000 回加えた結果は 1,000.0 ではなく 1,000.0000000001588 となることがわかる。 このような問題を避けるため、処理対象の値が十進の場合は、コンピュータ内の処理も二進化十進数で実装されることが少なくない。通貨を扱う事務アプリケーションなどが、しばしばこのケースに該当する。 なお、10.0 / 3.0 を計算する時には全く何も変わらない同様の問題を十進でも抱えている。このようなケースでは、二進化十進数でも正確に表す事はできない。 デ=ジュレ標準による標準化の要請が根強く存在していることもあって、浮動小数点表現の標準であるIEEE 754に2008年の改訂で十進浮動小数点が追加された。これには、より効率の良い Densely packed decimal(DPD)方式が採用された。
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二進化十進数 とは、コンピュータにおける数値の表現方式の一つで、十進法の1桁を、0から9までを表す二進法の4桁で表したものである。「二進化十進符号」などとも呼ばれる。3増し符号など同じ目的の他の方式や、より一般的に、十進3桁を10ビットで表現するDensely packed decimalなども含めることもある。
{{Redirect|BCD|Windows OSのブート構成データ|Windows Boot Manager}}{{出典の明記| date = 2021年7月}} '''二進化十進数''' ('''BCD'''、''Binary-coded decimal'' ) とは、[[コンピュータの数値表現|コンピュータにおける数値の表現]]方式の一つで、[[十進法]]の1桁を、0から9までを表す[[二進法]]の4桁で表したものである<ref>{{cite book |title=Computer Architecture and Organization |last=P.HAYES |first=JOHN |isbn=0-07-027363-4 |year=1978,1979 |date= |publisher=McGRAW-HILL INTERNATIONAL BOOK COMPANY | page=155-156}}</ref>。「二進化十進符号」などとも呼ばれる。[[3増し符号]]など同じ目的の他の方式や、より一般的に、十進3桁を10ビットで表現する[[Densely packed decimal]]なども含めることもある。 == 概要 == 一般に二進法の4桁([[ニブル]])は、0から15までの整数を表すことができる。二進化十進法ではこのうちの最初の10個を有効な数値として扱う。 {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center" ! 十進法!! BCD表現 |- | 0|| 0000 |- | 1|| 0001 |- | 2|| 0010 |- | 3|| 0011 |- | 4|| 0100 |- | 5|| 0101 |- | 6|| 0110 |- | 7|| 0111 |- | 8|| 1000 |- | 9|| 1001 |} 例えば、127 という整数値は、 0001、0010、0111 という3つのBCDで表される。 二進化十進数には、ゾーン形式とパック形式があり、用途に応じて使い分けられる。 符号部を持たないパック形式では、ファイルなどの中の二進化十進数値を[[十六進法]]で表示すると十進と同じように表示される。例えば、十六進で「1234」と表示されるデータは、整数値 1234 のことである。また、機種や文字コードに依存するものの、一般にゾーン形式では8[[ビット]]文字表示すると十進と同じように表示される。ただし、符号部を持つ場合も多く、上記の表示が必ずしもわかりやすいとは言えないこともある。 簡単な利用法としては、[[電子回路]]上で、0 - 9を表示可能なBCD対応の数字表示素子1つに対してBCDの4桁を4本の入力信号として直接入力する、等の使われ方がある。二進法で扱う場合と違い、表示素子に入力する前の変換が要らずデータバス上の信号をそのまま利用できるというメリットがある。 二進法で計算を行う多くのコンピュータでは、二進化十進表現を使用する機能(または、計算結果を補正するための機能)を備えている。<!-- [[メインフレーム]]、例えば[[日本電気|NEC]]の[[ACOS-6]]シリーズなどの大型のコンピュータに使用されるプロセッサでは、BCDを直接処理できる機械語命令を備え、事務処理演算の効率化を図っており、また、小型のコンピュータでも、この補正の処理を簡単にする命令を備えることも少なくない。BCDで数値の正負を扱う必要がある場合には、その絶対値とは別の領域に符号を格納することで表現する。例えば、[[インテル]]の32ビット・[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]「[[IA-32]]」で使用される「80ビット・パックドBCD整数」では、先頭から72番目までのビットで18桁の十進数を表し、末尾の80番目のビットに符号を格納している。←左記が代表例といえるのか疑問です。また、個々の製品のアーキテクチャまで書く必要があるか? --> 本来、コンピュータでは二進法で演算するのがコンピュータ資源(レジスタ、メモリ、計算量)の有効利用になる。それでも二進化十進数が有効な場合があるのは、二進法と十進法との変換を回避することに「社会的な価値」があるからである。つまり二進化十進数は純粋なコンピュータの問題ではなく、十進法社会という現実からの要請による。<!--コンピュータの能力が上がれば上がるほど、十進法への変換を必要としないというメリットより、数値どうしの演算に手間がかかるというデメリットのほうが大きくなり、計算には二進法を使ったほうがよくなる。--><!--コンピュータの能力が上がるほど、少々数値どうしの演算に手間が掛かっても問題ない、という理屈も成り立つ。この文が論の立て方がおかしい--> 「社会的な価値」の具体例として、小数の[[端数処理|丸め処理]]が挙げられる。0.1 のような値は十進法では有限桁で表記可能だが、二進法では無限桁の[[循環小数]]となる。このため、<!--入力値が''十進数表現で有限桁の小数''で定義されている場合に、二進数表現で丸め誤差を考慮せずに計算を進めると、十進数での演算では発生しなかった誤差が蓄積される可能性がある。-->一般的な[[二進法]]の[[浮動小数点数]]演算では 0.1 の表現に丸め誤差があるので、それを繰り返し足し込むと誤差の影響が無視できなくなることがある。例えば以下の [[Java]] プログラムを実行すると、double 型を使って 0.1 を 10,000 回加えた結果は 1,000.0 ではなく 1,000.0000000001588 となることがわかる。 <syntaxhighlight lang="java">public static void main(String[] args) { double sum = 0.0; for (int i = 0; i < 10000; i++) sum += 0.1; System.out.println("sum = " + sum); }</syntaxhighlight> このような問題を避けるため、処理対象の値が十進の場合は、コンピュータ内の処理も二進化十進数で実装されることが少なくない。[[通貨]]を扱う事務アプリケーションなどが、しばしばこのケースに該当する。 なお、10.0 / 3.0 を計算する時には全く何も変わらない同様の問題を十進でも抱えている。このようなケースでは、二進化十進数でも正確に表す事はできない。 [[デジュリスタンダード|デ=ジュレ標準]]による標準化の要請が根強く存在していることもあって、[[浮動小数点数|浮動小数点表現]]の標準である[[IEEE 754]]に2008年の改訂で十進浮動小数点が追加された。これには、より効率の良い [[Densely packed decimal]](DPD)方式が採用された。 == 出典 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[IBM 1401#アーキテクチャ|IBM 1401]] - BCDコード(二進化十進表現)を初めて用いたシステム * [[パック10進数]] * [[アンパック10進数]](ゾーン10進数) * [[3増し符号]] * [[二五進法]] * [[固定小数点数#固定小数点数の精度|固定小数点数]] * [[COBOL]] * [[MSX-BASIC]] - 単精度・倍精度実数演算はすべてBCDによって行われる * [[FP-1000]] * [[EBCDIC]] - BCDを拡張した[[IBM]]の文字コード * [[バイナリエディタ]] {{DEFAULTSORT:にしんかしゆつしんひようけん}} [[Category:コンピュータのデータ]] [[Category:コンピュータの算術]] [[Category:数の表現]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:広義の記数法]]
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気圧
気圧(きあつ、英語: air pressure)とは、気体の圧力のことである。単に「気圧」という場合は、大気圧(たいきあつ、英語: atmospheric pressure、大気の圧力)のことを指す場合が多い。 気圧は計量単位でもある。日本の計量法では、圧力の法定の単位として定められている(後述)。 気体の圧力は、温度や体積の影響を受ける。例えば、気体を一定の体積のまま(容器に閉じ込めた状態に相当する)加熱すると、気圧は温度とほぼ比例して上昇する。このような、気圧と体積、温度についての関係は、ボイルの法則、シャルルの法則、ボイル=シャルルの法則などにより示されている。 気体の圧力は、混合気体の場合、構成している気体のそれぞれの圧力(分圧)の合計となる。 空気も物質であるため、質量があり、地球の重力を受ける。これに対して圧縮応力があり、さらに、重力とこれがつりあうことで大気が力学的に平衡に近い状態にある。地球をおおっている大気の層によって、海面では、面積1cmあたり約1kgf(水銀柱で約76cm、水の場合約10mに相当)の圧力がかかる。これを大気圧または単に気圧という。高所ほど、その上方にある空気柱の高さが低くなるので、気圧は低くなる。海面での大気圧を 1 とする圧力の単位としても用いられる。 海上の水蒸気蒸発によって、上昇気流が発生する箇所の空気の密度がやや下がり、気圧がやや低くなることがあるなど、同じ海抜高度でも、少しずつ気圧は異なり、気圧の高低は常に変化する。この気圧の山や谷を高気圧、低気圧と呼ぶ。気圧の差が生じると、高気圧の空気が低気圧の領域に流れ込む。これが風のおもな成因になっている。 気圧の測定には気圧計やラジオゾンデを用いる(気象業務法第1条の2、気象業務法第1条の3も参照)。 気象情報では、気圧の単位は、かつてはCGS単位系のミリバール (mb)、トル (Torr) または水銀柱ミリメートル (mmHg) が使われていたが、現在は国際単位系 (SI) のヘクトパスカル (hPa) が使用されている。 大気圧は高度や緯度によっても変化する。標準大気圧(1気圧)は海面上で 1013.25 hPa とされるが、大気圧は上方の空気の重みを示す圧力であるから、高所へいくほど低下する。高度上昇と気圧低下の比率は、低高度では概ね 10 m の上昇に対して 1.2hPa であり、計算上富士山頂で約0.7気圧、高度5,500 m で約0.5気圧、エベレストの頂上では約0.3気圧になる。ただし、高度により(気圧により)空気の密度が異なるため、高度上昇に対する気圧低下の比率は一定ではない。高度が上がるに従い、高度上昇と気圧低下の比は緩やかなものとなる。このような高度による気圧の変化を利用した高度計も作られている。 また、大気が太陽光などの熱により、局所的に加熱される場合、体積が増して密度が低下する。膨張した軽い空気は周囲の重い空気により押し上げられるため、上昇気流を生む。逆に大気が冷却されると、体積が減少、密度が増して沈降し下降気流を生む。 緯度により、大気および地表が太陽から受ける熱のエネルギー密度は異なる。赤道周辺が、年間を通じて大気が暖められ高温であるのと比較し、極地周辺は、常に低温である。このような緯度による大気の温度差により、赤道直下や極地では特有の上昇流、下降流が生じ、それぞれ熱帯収束帯や極高圧帯を形成する。気圧差によって、高気圧地域から低気圧地域に向けて風が吹き、貿易風や偏西風、極東風となる。これらは、ハドレー循環(熱帯収束帯と亜熱帯高圧帯間)、フェレル循環(亜熱帯高圧帯と高緯度低圧帯間)、極循環(高緯度低圧帯と極高圧帯間)と呼ばれる。このような大気の大規模な循環を、大気循環と呼ぶ。また、海洋と陸地とを比較すると、海水の熱容量の大きさから、海洋は陸地より温度変化が少ない。よって、太陽光が強い状況では、陸地が海洋より高温になることが多く、陸地に低気圧、海洋に高気圧の配置となり、海洋から陸地に向け風が吹く。陸地が冷却される状況では、この逆である。これにより、海陸風やモンスーンが発生する。 その他、数々の日常事象や生命現象は、大気の圧力のもとで適応、利用されている。 上述のように、海面での大気圧は圧力(特に気圧や水圧)の単位としても用いられる。海面での大気圧を「1 気圧」とする。 単位としての「気圧」の元々の定義は「海面での大気圧」であるが、大気圧は場所や気象条件によって異なる。そこで、海面での大気圧の標準の値として標準大気圧を定め、この値を1気圧と定義した。 標準大気圧は、1954年の第10回国際度量衡総会 (CGPM) において、正確に 101 325 パスカル (Pa) と定められた。これは、元々は760 水銀柱ミリメートル (mmHg) をパスカルに換算し、小数点以下の端数を切り捨てたものである。 現在では、気圧は、国際単位系 (SI) においては定義されていない非SI単位である。しかし日本の計量法においては、法定の計量単位として定義されている。計量法における定義は、1954年CGPMにおけるものと同一の、101 325 パスカルである。 気圧の単位記号は、大気を意味する atmosphere に由来する atm である。 水銀柱ミリメートルとトルは、計量法体系において、全く同一の定義となっていて、どちらも正確に 101 325/760 Pa である。これは標準大気圧の⁄760という意味である。約 133.322 Pa に当たる。 また、1 気圧 は 1 バール に数値が近い(1atm = 正確に1.01325 バール)が 1.325%の差がある。
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気圧とは、気体の圧力のことである。単に「気圧」という場合は、大気圧のことを指す場合が多い。 気圧は計量単位でもある。日本の計量法では、圧力の法定の単位として定められている(後述)。
{{Redirect|空気圧|[[圧縮空気]]を用いて装置を駆動する方式|空圧}} {{出典の明記|date=2011年7月}} [[File:Barometer (6824817752).jpg|thumb|気圧計]] '''気圧'''(きあつ、{{Lang-en|air pressure}}<ref name="terms">{{Cite book|和書|author=文部省|authorlink=文部省|coauthors = [[日本気象学会]]編|title = [[学術用語集]] 気象学編|edition = 増訂版|url = http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi|year = 1987|publisher = [[日本学術振興会]]|isbn = 4-8181-8703-8|page = }}</ref>)とは、[[気体]]の[[圧力]]のことである。単に「気圧」という場合は、'''大気圧'''(たいきあつ、{{Lang-en|atmospheric pressure}}<ref name="terms" />、[[大気]]の圧力)のことを指す場合が多い。 '''気圧'''は計量単位でもある。日本の[[計量法]]では、[[圧力]]の法定の[[単位]]として定められている(後述)。 == 気体の圧力 == 気体の圧力は、[[温度]]や[[体積]]の影響を受ける。例えば、気体を一定の体積のまま(容器に閉じ込めた状態に相当する)[[加熱]]すると、気圧は温度とほぼ[[比例]]して上昇する。このような、気圧と体積、温度についての関係は、[[ボイルの法則]]、[[シャルルの法則]]、[[ボイル=シャルルの法則]]などにより示されている。 気体の圧力は、[[混合気体]]の場合、構成している気体のそれぞれの圧力([[分圧]])の合計となる。 == 大気圧 == [[空気]]も[[物質]]であるため、[[質量]]があり、地球の重力を受ける。これに対して[[圧縮応力]]があり、さらに、重力とこれがつりあうことで大気が力学的に平衡に近い状態にある。[[地球]]をおおっている大気の[[層]]によって、[[海面]]では、面積1cm<sup>2</sup>あたり約1kgf([[水銀]]柱で約76cm、[[水]]の場合約10mに相当)の圧力がかかる。これを'''大気圧'''または単に'''気圧'''という。高所ほど、その上方にある空気柱の高さが低くなるので、気圧は低くなる。海面での大気圧を 1 とする圧力の[[単位]]としても用いられる。 海上の[[水蒸気]][[蒸発]]によって、[[上昇気流]]が発生する箇所の空気の[[密度]]がやや下がり、気圧がやや低くなることがあるなど、同じ[[海抜]][[高度]]でも、少しずつ気圧は異なり、気圧の高低は常に変化する。この気圧の山や谷を[[高気圧]]、[[低気圧]]と呼ぶ。気圧の差が生じると、高気圧の空気が低気圧の領域に流れ込む。これが[[風]]のおもな成因になっている。 気圧の測定には[[気圧計]]や[[ラジオゾンデ]]を用いる(気象業務法第1条の2、気象業務法第1条の3も参照)。 [[天気予報|気象情報]]では、気圧の単位は、かつては[[CGS単位系]]の[[バール (単位)|ミリバール]] (mb)、[[トル]] (Torr) または[[水銀柱ミリメートル]] (mmHg) が使われていたが、現在は[[国際単位系]] (SI) の[[ヘクトパスカル]] (hPa) が使用されている。 == 大気圧の変動 == 大気圧は[[高度]]や[[緯度]]によっても変化する。標準大気圧(1気圧)は海面上で 1013.25 hPa とされるが、大気圧は上方の空気の重みを示す圧力であるから、高所へいくほど低下する。{{疑問点範囲|高度上昇と気圧低下の比率は、低高度では概ね 10 m の上昇に対して 1.2hPa であり、計算上富士山頂で約0.7気圧、高度5,500 m で約0.5気圧、エベレストの頂上では約0.3気圧になる。|date=2020年5月}}ただし、高度により(気圧により)空気の密度が異なるため、高度上昇に対する気圧低下の比率は一定ではない。高度が上がるに従い、高度上昇と気圧低下の比は緩やかなものとなる。このような高度による気圧の変化を利用した[[高度計]]も作られている。 また、大気が[[太陽光]]などの[[熱]]により、局所的に加熱される場合、体積が増して密度が低下する。膨張した軽い空気は周囲の重い空気により押し上げられるため、上昇気流を生む。逆に大気が冷却されると、体積が減少、密度が増して沈降し[[下降気流]]を生む。 緯度により、大気および地表が太陽から受ける熱の[[エネルギー密度]]は異なる。[[赤道]]周辺が、年間を通じて大気が暖められ高温であるのと比較し、[[極地]]周辺は、常に低温である。このような緯度による大気の温度差により、赤道直下や極地では特有の上昇流、下降流が生じ、それぞれ[[熱帯収束帯]]や[[極高圧帯]]を形成する。気圧差によって、高気圧地域から低気圧地域に向けて風が吹き、[[貿易風]]や[[偏西風]]、[[極東風]]となる。これらは、[[ハドレー循環]](熱帯収束帯と[[亜熱帯高圧帯]]間)、[[フェレル循環]](亜熱帯高圧帯と[[高緯度低圧帯]]間)、[[極循環]](高緯度低圧帯と極高圧帯間)と呼ばれる。このような大気の大規模な循環を、[[大気循環]]と呼ぶ。また、[[海洋]]と[[陸地]]とを比較すると、海水の[[熱容量]]の大きさから、海洋は陸地より温度変化が少ない。よって、太陽光が強い状況では、陸地が海洋より高温になることが多く、陸地に低気圧、海洋に高気圧の配置となり、海洋から陸地に向け風が吹く。陸地が冷却される状況では、この逆である。これにより、[[海陸風]]や[[モンスーン]]が発生する。 == 大気圧に関連する事象 == * [[ストロー]]で飲み物を飲む。 * [[真空ポンプ]]で水をくみ上げる。 * [[吸盤]]がくっつく。 * [[総入れ歯]]が安定する。 * [[布団]]圧縮袋。 * [[風船]]。 * [[空気銃]]および[[空気砲 (科学教材)|空気砲]]。 * [[スクーバダイビング]]などの後で高所に行くと[[減圧症]]になる危険がある。 その他、数々の日常事象や生命現象は、大気の圧力のもとで適応、利用されている。 == 単位としての気圧 == {{Main|標準気圧}} {{単位|名称=気圧(きあつ)|記号=atm|単位系=非SI単位|物理量=圧力|定義=101 325 Pa(計量法)|画像=}} 上述のように、海面での大気圧は圧力(特に気圧や[[水圧]])の単位としても用いられる。海面での大気圧を「1 気圧」とする。 単位としての「気圧」の元々の定義は「海面での大気圧」であるが、大気圧は場所や気象条件によって異なる。そこで、海面での大気圧の標準の値として[[標準大気圧]]を定め、この値を1気圧と定義した。 標準大気圧は、[[1954年]]の第10回[[国際度量衡総会]] (CGPM) において、正確に 101&nbsp;325 [[パスカル (単位)|パスカル]] (Pa) と定められた。これは、元々は760 [[水銀柱ミリメートル]] (mmHg) をパスカルに換算し、小数点以下の端数を切り捨てたものである。 現在では、気圧は、[[国際単位系]] (SI) においては定義されていない[[非SI単位]]である。しかし日本の[[計量法]]においては、法定の計量単位として定義されている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051#1359 計量法 別表第三] 圧力の欄、気圧</ref>。計量法における定義は、1954年CGPMにおけるものと同一の、101&nbsp;325 パスカルである<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#79 計量単位令 別表第三] 項番2、圧力、気圧の欄 「パスカル又はニュートン毎平方メートルの十万千三百二十五倍」</ref>。 === 単位記号 === 気圧の単位記号は、大気を意味する {{Lang|en|atmosphere}} に由来する {{Lang|en|atm}} である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#91 計量単位規則 別表第2] 圧力(2回目の欄)、気圧の欄、「atm」</ref>。 === 気圧、水銀柱ミリメートル、トルの関係 === [[水銀柱ミリメートル]]と[[トル]]は、計量法体系において、全く同一の定義となっていて、どちらも正確に {{sfrac|101 325|760}}&nbsp;[[パスカル (単位)|Pa]] である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82 計量単位令 別表第六]項番12、血圧の計量、水銀柱ミリメートル、「パスカル又はニュートン毎平方メートルの七百六十分の十万千三百二十五」 </ref><ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#82 計量単位令 別表第六]項番11、生体内の圧力の計量、トル、「パスカル又はニュートン毎平方メートルの七百六十分の十万千三百二十五」</ref>。これは[[標準大気圧]]の{{frac|760}}という意味である。約 133.322&nbsp;Pa に当たる。 また、1 気圧 は 1 [[バール (単位)|バール]] に数値が近い(1atm = 正確に1.01325 [[バール (単位)|バール]])が 1.325%の差がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary|大気圧}} {{Commonscat|Air pressure}} * [[標準気圧]] * [[気圧計]] * [[水銀柱ミリメートル]] * [[トル]] * [[マクデブルクの半球]] * [[圧縮空気]] * [[水圧]] * [[油圧]] * [[単位の換算一覧#圧力・応力]] == 外部リンク == * {{EoE|Atmospheric_pressure|Atmospheric pressure|大気圧}} {{気象要素}} {{圧力の単位}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きあつ}} [[Category:圧力]] [[Category:気体]] [[Category:大気]] [[Category:大気熱力学]] [[Category:流体力学]] [[Category:気象学]] [[Category:圧力の単位]]
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生化学
生化学(せいかがく、英: biochemistry)または生物化学(英: biological chemistry)は、生体内および生物に関連する化学的プロセスを研究する学問である。化学と生物学の下位分野である生化学は、構造生物学、酵素学、代謝学の3つの分野に分けられる。20世紀の最後の数十年間で、生化学はこれらの分野を通じて、生命現象を説明することに成功した。生命科学のほとんどの分野は、生化学的な方法論と研究によって解明され、発展してきた。生化学は、生きた細胞中や細胞間で生体分子に起こる過程を生み出す化学的基盤を理解することに重点を置いており、それにより組織や器官、そして生物の構造と機能をより深く理解するのにつなげている。また生化学は、生物現象の分子機構を研究する分子生物学とも密接に関係する。 生化学は、タンパク質、核酸、炭水化物、脂質などの生体高分子の構造、結合、機能、そして相互作用に大きく関わっている。これらの分子は、細胞の構造を作り、生命機能の多くの役割を担っている。また、細胞の化学的性質は、小分子やイオンの反応にも依存しており、それには、水や金属イオンなどの無機物や、タンパク質合成のためのアミノ酸などの有機物が含まれる。細胞が、化学反応によって環境からエネルギーを取り出す機構は、代謝として知られている。生化学の主な応用分野は、医学、栄養学、そして農業である。医学では生化学者は病気の原因や治療法を、栄養学では健康と幸福を維持する方法や、栄養不足の影響を研究している。農業では土壌や肥料を研究し、作物の栽培、貯蔵、害虫制御の改善を目標としている。生化学は、プリオンなどの複雑な対象を理解する上でも重要である。 生化学を最も広い意味で捉えると、生物の構成要素や組成、それらがどのように組み立てられて生命が作られているかを研究する学問と見なすことができる。この意味で、生化学の起源は古代ギリシャまでさかのぼることができるが、特定の科学分野(英語版)としての生化学は、19世紀のいつか、あるいはもう少し前に始まったといえる。生化学の正確な始まりは、焦点を当てる側面によって異なる。18世紀後半にカール・ヴィルヘルム・シェーレが生物から乳酸(1780年)やクエン酸(1784年)を単離したが、こうした有機化合物は生体からのみ抽出しうるものと考えられていた。1833年にアンセルム・ペイアンが最初の酵素であるジアスターゼ(現在のアミラーゼ)を発見したことを主張する人もいれば、1897年にエドゥアルト・ブフナーが無細胞抽出物でアルコール発酵の複雑な生化学過程を最初に証明したことを考える人もいる。また、ユストゥス・フォン・リービッヒが1842年に発表した『Animal chemistry, or, Organic chemistry in its applications to physiology and pathology』という、代謝の化学的理論を提示した影響力のある著作や、それ以前の18世紀のアントワーヌ・ラヴォアジエによる発酵と呼吸の研究を挙げる人もいる。近代生化学の創始者と呼ばれ、生化学の複雑な層を解明するのに貢献した多くの先駆者には、タンパク質の化学的性質を研究したエミール・フィッシャーや、酵素や生化学の動的性質を研究したフレデリック・ホプキンズが挙げられる。 生化学(英: biochemistry)という言葉は、生物学と化学の組み合わせに由来する。1877年、フェリクス・ホッペ=ザイラーが、『Zeitschrift für Physiologische Chemie』(現在のBiological Chemistry誌)の創刊号の序文で、生理化学(physiological chemistry)の同義語としてこの言葉(独: biochemie)を使用し、この分野に特化した研究機関の設立を提唱した。しかし、この言葉は1903年にドイツの化学者カール・ノイベルグが作ったとされることも多く、またフランツ・ホフマイスター(英語版)が作ったとする説もある。 かつては、生命やその材料には、非生物に見られるものとは異なる本質的な性質や物質があり、生命の分子を作り出せるのは生物だけであると広く信じられていた(生命原理(英語版)と呼ばれる)。1828年、フリードリヒ・ヴェーラーが、シアン酸カリウムと硫酸アンモニウムから尿素を合成した論文は、生命原理を覆し、有機化学を確立したとする見方もある。しかし、彼の手によって生気論が死んだとヴェーラー合成を否定する人もいて、論争を巻き起こした。その後、生化学は進歩し、特に20世紀半ば以降、クロマトグラフィー、X線回折、二重偏光干渉法、NMR分光法(英語版)、放射性同位体標識(放射性トレーサー)、電子顕微鏡、分子動力学シミュレーションなどの新しい技術が導入された。これらの技術により、物質を精製したり、解糖やクレブス回路(クエン酸回路)のような、多くの細胞内分子や代謝経路の発見と詳細な解析が可能となり、生化学を分子レベルで理解することにつながった。 遺伝子の発見と、細胞内での情報伝達に果たすその役割は、生化学の歴史におけるもうひとつの重要な出来事である。1950年代、ジェームズ・D・ワトソン、フランシス・クリック、ロザリンド・フランクリン、モーリス・ウィルキンスは、DNAの構造を解明し、遺伝情報の伝達との関係を示唆することに貢献した。1958年、ジョージ・ビードルとエドワード・タータムは、菌類において1つの遺伝子が1つの酵素を作り出すことを明らかにし、ノーベル賞を受賞した。1988年には、コリン・ピッチフォーク(英語版)がDNA証拠を使って殺人罪で初めて有罪判決を受け、法医学の発展につながった。最近では、アンドリュー・ファイアーとクレイグ・キャメロン・メローが、遺伝子発現を抑制するRNA干渉(RNAi)の役割を発見し、2006年のノーベル賞を共同受賞した。 さまざまな種類の生物学的な生命には、約20種類の化学元素が不可欠である。地球上の希少元素の大半(セレンとヨウ素は除く)は生命に必要ではなく、アルミニウムやチタンなど豊富に存在する一般的な元素の中には、生命に利用されないものもある。ほとんどの生物は同じような元素を必要とするが、植物と動物には若干の違いがある。たとえば、海洋性藻類は臭素を利用するが、陸上の動物や植物はまったく必要ないようである。また、ナトリウムはすべての動物で必要であるが、植物には必須ではない。逆に、植物にはケイ素とホウ素が必要だが、動物には不要か、あるいは極微量しか必要ない場合がある。 ヒトを含む生体細胞の質量のほぼ99%を、炭素、水素、窒素、酸素、カルシウム、リンのわずか6元素が占めている(完全な一覧は人体の構成(英語版)を参照)。人体の大部分を構成するこれら6種類の主要元素とは別に、ヒトはさらに18種類以上の元素を少量ずつ必要とする。 生化学における4種類の主要な分子(生体分子と呼ばれる)は、炭水化物、脂質、タンパク質、および核酸である。多くの生体分子はポリマー(重合体)である。この文脈ではモノマー(単量体)は比較的小さな高分子であり、それらが脱水合成と呼ばれる過程で互いに結合し、生体高分子と呼ばれる大きな高分子を形成している。また、さまざまな高分子が集合して、より大きな複合体を形成することがあり、これは生物学的活性に必要とされることも多い。 炭水化物は、主にエネルギーの貯蔵と構造の提供という機能を持っている。よく知られている糖類であるグルコースは炭水化物の一つであるが、すべての炭水化物が糖類というわけではない。炭水化物は、地球上に最も多く存在する生体分子であり、エネルギー貯蔵、遺伝情報の保存、細胞間の相互作用(英語版)やコミュニケーションなど、さまざまな役割を果たしている。 単糖は最も単純な炭水化物で、炭素、水素、酸素を通常は1:2:1の比率で含んでいる(一般式はCnH2nOn、nは少なくとも3)。グルコース(C6H12O6)は最も重要な炭水化物であり、その他には甘い果物に含まれるフルクトース(C6H12O6)や、DNAの構成要素であるデオキシリボース(C5H10O4)などがある。単糖には、非環式(開鎖型)と環式の状態がある。開鎖型は、一方の端のカルボニル基と他方の端のヒドロキシ基の酸素原子により架橋された炭素原子の環に変化したものである。この環状分子は、直鎖状がアルドースかケトースかによって、ヘミアセタール基かヘミケタール基を持つ。 これらの環状分子は、通常5個または6個の原子を含む環を持ち、それぞれフラノースおよびピラノースと呼ばれる。同様の炭素-酸素環を持つ最も単純な化合物であるフランおよびピラン(炭素-炭素二重結合を持たない)に類似していることから、その名が付けられた。たとえば、アルドヘキソースのグルコースは、炭素1の水酸基と炭素4の酸素の間でヘミアセタール結合を形成し、グルコフラノースと呼ばれる5員環の分子を作ることができる。同様の反応は炭素1と炭素5の間でも起こり、グルコピラノースと呼ばれる6員環の分子ができる。7員環のヘプトース (en:英語版) はまれである。 2つの単糖はグリコシド結合またはエステル結合で結合し、脱水反応によって水分子が放出されて二糖になる。二糖のグリコシド結合を切断して2つの単糖に分解する逆の反応を加水分解という。最もよく知られた二糖類はスクロース(普通の砂糖)で、グルコース分子とフルクトース分子が結合したものである。もう一つの重要な二糖類は、牛乳に含まれるラクトース(乳糖)で、これはグルコース分子とガラクトース分子が結合したものである。乳糖はラクターゼという酵素によって加水分解され、この酵素が欠乏すると乳糖不耐症になる。 単糖が数個(3-6個程度)結合したものをオリゴ糖と呼ぶ(オリゴは「少数」の意味)。この分子は、マーカー(英語版)やシグナルとして使われるなど、さまざまな用途も持っている。単糖が多数結合して多糖を形成する。これらは、1本の長い直鎖で結合することもあれば、分岐した構造になることもある。最も一般的な多糖にはセルロースとグリコーゲンがあり、どちらもグルコースモノマーの繰り返しから構成されている。セルロースは植物の細胞壁の重要な構造成分であり、グリコーゲンは動物のエネルギー源として貯蔵されている。 糖には還元末端または非還元末端がある。炭水化物の還元末端は、開鎖アルデヒド(アルドース)またはケト体(ケトース)と平衡状態にある炭素原子である。このような炭素原子でモノマーの結合が起こると、ピラノースやフラノース型の遊離ヒドロキシ基が他の糖のOH側鎖と交換され、完全なアセタールが生成される。これにより、アルデヒド型やケト型になることは抑止され、非還元性の修飾残基となる。ラクトースでは、グルコース部分は還元末端であり、ガラクトース部分はグルコースのC4-OH基と完全なアセタールを形成する。サッカロースでは、グルコースのアルデヒド炭素(C1)とフルクトースのケト炭素(C2)の間で完全なアセタールが形成されるため、還元末端は存在しない。 脂質は、生体由来の比較的水に溶けないまたは非極性(英語版)の化合物グループの総称である。この範ちゅうには、ワックス、脂肪酸、脂肪酸由来のリン脂質、スフィンゴ脂質、糖脂質、およびテルペノイド(レチノイドやステロイドなど)などが含まれる。脂質には、直鎖状の脂肪族分子もあれば、環状構造を持つものもある。また、芳香族(環状と平面状の構造を持つ)分子もあれば、非芳香族分子もある。脂質には柔軟なものもあれば、硬いものもある。 脂質は通常、グリセロールが他の分子と結合して作られている。バルク脂質の主要なグループであるトリグリセリドは、1分子のグリセロールと3つの脂肪酸が含まれる。ここでいう脂肪酸はモノマーとみなされ、飽和(炭素鎖に二重結合がない)または不飽和(炭素鎖に一つ以上の二重結合がある)のいずれかになる。 脂質は通常、非極性の部分と極性の部分の両方を持っている。脂質の主な構造は非極性、つまり疎水性(水をはじく)であり、水のような極性溶媒とは混ざりにくい。しかし、脂質には極性または親水性(水になじむ)の部分もあり、水などの極性溶媒と結合する傾向がある。このため脂質は、疎水性部と親水性部の両方を持つ両親媒性分子となっている。コレステロールを例に取れば、極性基は単なる-OH(ヒドロキシ基またはアルコール)である。リン脂質の場合、後述のように、より大きくて極性の強い極性基を持つ。 脂質は、私たちの毎日の食生活を支える重要なものである。バター、チーズ、ギーなど、料理や食事に使う油や乳製品のほとんどは脂肪でできている。植物油には、さまざまな多価不飽和脂肪酸(PUFA)が豊富に含まれている。脂質を含む食品は、体内で消化され、最終的な産物である脂肪酸とグリセロールに分解される。脂質、特にリン脂質は、非経口輸液などの共溶解剤として、あるいはリポソームやトランスファソーム(英語版)などの薬物担体(英語版)として、さまざまな医薬品にも使用されている。 タンパク質は、マクロバイオポリマーとも呼ばれる非常に大きな分子で、アミノ酸というモノマーから構成されている。各アミノ酸は、α炭素原子にアミノ基(–NH2)、カルボン酸基(–COOH、ただし生理学的条件下では–NH3や–COOとして存在する)、単一の水素原子、および固有の側鎖(一般に –R と表記される)が結合したものである。この側鎖「R」によって、20種類の標準的なアミノ酸がそれぞれ区別される。この側鎖基「R」がアミノ酸に異なる性質を与え、タンパク質の全体の立体構造に大きな影響を与える。たとえば神経伝達物質として機能するグルタミン酸のように、単独または修飾された形で機能を持つアミノ酸もある。アミノ酸は、脱水合成という過程でペプチド結合を形成し、互いに結合する。このとき、一方のアミノ酸のアミノ基の窒素と、別のアミノ酸のカルボン酸基の炭素が結びつき、水分子が放出される。こうして作られた分子をジペプチドと呼び、短いアミノ酸の配列(通常は30個以下)はペプチドまたはポリペプチド、より長い鎖はタンパク質と呼ばれる。たとえば、血清タンパク質であるアルブミンは、585個のアミノ酸残基から構成されている。 タンパク質は、構造的な役割と機能的な役割の両方に関与している。たとえば、アクチンとミオシンというタンパク質は、骨格筋の収縮を担っている。多くのタンパク質が持つ特性の1つは、特定の分子または分子群に特異的に結合する能力を持つことである。たとえば、抗体は、特定の1種類の分子に結合するタンパク質である。抗体は、2本の重鎖と2本の軽鎖が、アミノ酸間のジスルフィド結合によって結合して構成されている。抗体は、N末端ドメインの違いにより、標的分子と特異的に結合することができる。 酵素結合免疫吸着法(ELISA)は抗体を利用した検査法で、現代医学でがさまざまな生体分子を検出するための最も高感度な方法の一つである。しかし、酵素は最も重要なタンパク質であると考えられている。生細胞内でのほぼすべての反応は、反応の活性化エネルギーを低減させるために酵素が必要である。酵素の分子は、基質と呼ばれる特定の反応分子を識別し、それらの間の反応を触媒することができる。酵素は反応の活性化エネルギーを引き下げることで、その反応速度を10倍以上に向上させ、通常、自然に起こるのに3,000年以上かかる反応を、1秒以内に起こせる可能性がある。この過程で酵素自体が使い果たされることはなく、新たな一連の基質を用いて同じ反応を触媒し続けることができる。さまざまな修飾剤を用いることで、酵素の活性を調節し、細胞の生化学的な制御を行うことができる。 タンパク質の構造は、慣例で4段階に分類される。一次構造とは、たとえば「アラニン-グリシン-トリプトファン-セリン-グルタミン酸-アスパラギン-グリシン-リジン...」というように、アミノ酸が一列に並んだ状態のことである。二次構造は、局所的な形態に着目したもので、特定のアミノ酸の組み合わせが、αヘリックスというらせん状に巻きついたり、βシートという板状に折り重なる傾向がある。下の図には、いくつかのαヘリックスをもつヘモグロビンが示されている。三次構造とは、タンパク質の全体的な立体形状を指し、アミノ酸の配列によって決定される。実際、ヘモグロビンのα鎖には146個のアミノ酸残基が含まれ、その6位のグルタミン酸残基がバリン残基に置換された鎌状赤血球症のように、配列の一つの変えると構造全体が変わることがある。四次構造は、4つのサブユニットを持つヘモグロビンのように、複数のペプチドサブユニットを持つタンパク質の構造を扱っている。すべてのタンパク質が複数のサブユニットを持つわけではない。 摂取されたタンパク質は、通常、小腸で個々のアミノ酸やジペプチドに分解され、体内に吸収される。その後、再び組み合わされて新しいタンパク質が作られる。アミノ酸は、解糖、クエン酸回路、ペントースリン酸経路の中間生成物を使用して作られる。ほとんどの細菌や植物は、20種類すべてのアミノ酸を作るのに必要な酵素を持っている。しかし、ヒトをはじめとする哺乳類は一部の酵素を持たないため、イソロイシン、ロイシン、リシン、メチオニン、フェニルアラニン、トレオニン、トリプトファン、バリンを作ることができない。これらは食餌から摂取しなければならないため必須アミノ酸と呼ばれる。哺乳類は、アラニン、アスパラギン、アスパラギン酸、システイン、グルタミン酸、グルタミン、グリシン、プロリン、セリン、チロシンを合成することができ、これらは非必須アミノ酸と呼ぶ。アルギニンやヒスチジンは作ることができるが、成長期の動物には十分な量を産生できないので、必須アミノ酸とされることがある。 アミノ酸からアミノ基を取り除くと、α-ケト酸という炭素骨格が生成する。トランスアミナーゼ(アミノ基転移酵素)と呼ばれる酵素は、あるアミノ酸(α-ケト酸になる)から別のα-ケト酸(アミノ酸になる)へ、アミノ基を容易に転移させることができる。この過程はタンパク質生合成において重要である。多くの生化学的経路では、他の経路からの中間体がα-ケト酸骨格に変換された後、多くの場合、このアミノ基転移によってアミノ基が付加される。その後、アミノ酸が結合してタンパク質が形成されることもある。 タンパク質が分解される際にも、同様の過程で行われる。最初にタンパク質は加水分解され、個々のアミノ酸になる。血液中にアンモニウムイオン(NH4)として存在する遊離アンモニア(NH3)は、生物にとって有毒であるため、生物の必要に応じてさまざまな方法で排泄しなければならない。動物では、その必要性に応じて、さまざまな戦術が進化してきた。単細胞生物はアンモニアを環境中に放出する。同様に、硬骨魚類はアンモニアを水中に放出してすばやく希釈する。一般に、哺乳類は尿素回路によってアンモニアを尿素に変換する。 2つのタンパク質が近縁かどうか、換言すれば相同性があるかどうかを判断するために、科学者は配列アラインメントや構造アラインメント(英語版)などの手法を使用する。これらのツールは、関連する分子間の相同性を特定するのに役立ち、タンパク質群の進化パターンを形成する以上の意味を持っている。2つのタンパク質の配列がどの程度似ているかを調べることにより、その構造、さらには機能に関する知識を得ることができる。 核酸は、細胞核に多く存在する生体高分子群の総称であり、すべての生きた細胞やウイルスで遺伝情報の源として使用されている。核酸は、ヌクレオチドと呼ばれるモノマーから構成された、複雑で高分子量の生化学高分子である。各ヌクレオチドは、含窒素複素環塩基(プリンまたはピリミジン)、ペントース糖、およびリン酸基の3つの成分から構成されている。 もっともよく知られている核酸は、デオキシリボ核酸(DNA)とリボ核酸(RNA)の2種類である。これらの生体高分子では、各ヌクレオチドのリン酸基と糖が結合して骨格を形成し、窒素塩基の配列が遺伝情報の保存を担っている。一般的な窒素塩基は、アデニン、シトシン、グアニン、チミン、ウラシルの5種類である。核酸の鎖に含まれる核酸塩基は、水素結合によって互いに結合し、ジッパーのように相補的な窒素塩基の対を作る。アデニンはチミンまたはウラシルと結合し、チミンはアデニンとのみ、シトシンとグアニンとのみ結合する。ことができる。アデニンとチミン、アデニンとウラシルはそれぞれ2つの水素結合を形成し、シトシンとグアニンの間は3つの水素結合を形成する。 細胞の遺伝物質としての役割に加え、細胞内のセカンドメッセンジャーとしての役割を担うことも多い。また、すべての生物に存在する主要なエネルギー担体分子であるアデノシン三リン酸(ATP)の構成要素でもある。RNAとDNAの窒素塩基は異なり、アデニン、シトシン、グアニンは両方に存在し、チミンはDNAにのみ、ウラシルはRNAにのみ存在する。 グルコースはほとんどの生命体のエネルギー源である。たとえば、多糖は酵素によってモノマーに分解される(グリコーゲンホスホリラーゼは、多糖であるグリコーゲンからグルコース残基を切断する)。ラクトース(乳糖)やスクロース(ショ糖)などの二糖類は、2つの単糖に切断される。 グルコースは主に、解糖という非常に重要な10段階の経路によって代謝され、その結果、1分子のグルコースが2分子のピルビン酸に分解される。また、細胞のエネルギー通貨であるATP(アデノシン三リン酸)の正味2分子が生成され、2分子分のNAD(酸化型のニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)をNADH(還元型のニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)に変換する還元当量も生成される。これには酸素を必要としない。酸素がない場合(あるいは細胞が酸素を使えない場合)、ピルビン酸を乳酸(例: ヒト)またはエタノールと二酸化炭素(例: 酵母)に変換することでNADを回復される。ガラクトースやフルクトースなどの他の単糖も、解糖経路の中間体に変換される。 ヒトのほとんどの細胞のように、十分な酸素が存在する好気性細胞(英語版)では、ピルビン酸はさらに代謝される。ピルビン酸は不可逆的にアセチルCoAに変換され、1個の炭素原子が老廃物の二酸化炭素として排出され、別の還元当量としてNADHが生成される。次に、2分子のアセチルCoA(1分子のグルコースから)がクエン酸回路に入り、2分子のATP、さらに6分子のNADH、2つの還元型(ユビ)キノン(酵素結合補因子としてFADH2を経由)を生成し、残りの炭素原子を二酸化炭素として放出する。生成したNADとキノール分子は、呼吸鎖の酵素複合体に供給され、電子伝達系が電子を最終的に酸素に伝達し、放出されたエネルギーを生体膜(真核生物ではミトコンドリア内膜)を介したプロトン濃度勾配の形で保存する。こうして、酸素は水に還元され、元の電子受容体であるNADとキノンが再生される。ヒトが酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出すのはこのためである。NADHとキノールの高エネルギー状態から電子が移動することで放出されたエネルギーは、最初にプロトン勾配として蓄えられ、ATPシンターゼ(合成酵素)によってATPに変換される。これにより、さらに28分子のATPが生成され(8つのNADHから24、2つのキノールから4つ)、分解されたグルコース1分子あたり合計32分子のATPが保存される(解糖から2つ、クエン酸回路から2つ)。このように、酸素を使ってグルコースを完全に酸化することは、酸素に依存しない代謝機能よりもはるかに多くのエネルギーを生物に与えることは明らかで、これが、地球の大気に大量の酸素が蓄積された後に複雑な生命が出現した理由であると考えられている。 脊椎動物では、骨格筋が激しく収縮するとき(例: 重量挙げや全力疾走のとき)、エネルギー需要に見合うだけの酸素が供給されないため、グルコースを乳酸に変換するために嫌気性代謝(英語版)に切り替わる。脂肪やタンパク質などの炭水化物以外からのグルコースが組み合わせ。これは、肝臓のグリコーゲンの貯蔵が枯渇したときにのみ起こる。この経路は、ピルビン酸からグルコースへの解糖の根本的な逆転であり、アミノ酸、グリセロール、クレブス回路(クエン酸回路)のような多くの供給源を使用することができる。大規模なタンパク質と脂肪の異化は、通常、飢餓やある種の内分泌疾患に伴って起こる。肝臓は、糖新生と呼ばれる過程を通じてグルコースを再生成する。この過程は解糖と全く逆ではなく、実際には解糖の3倍のエネルギーを必要とする(解糖では2分子のATPが得られるのに対し、6分子のATPが使用される)。上記の反応と同様に、生成されたグルコースは、エネルギーを必要とする組織で解糖されたり、グリコーゲン(植物ではデンプン)として貯蔵されたり、他の単糖に変換されたり、二糖またはオリゴ糖に結合されたりする。運動中の解糖、血流を介した乳酸の肝臓への移動、その後の糖新生、そして血流へのグルコースの放出という経路を組み合わせたものをコリ回路と呼ぶ。 生化学の研究者は、生化学に特有の技術を使用するが、これらを遺伝学、分子生物学、生物物理学の分野で開発された技術や考え方と組み合わせることも多くなっている。これらの分野の間に明確な境界線はない。生化学は分子の生物学的活性に必要な化学を研究し、分子生物学は分子の生物学的活性を研究し、遺伝学はゲノムが担う分子の遺伝現象を研究する学問である。このことは、右上の図に示すように、各分野の関係を表す一つの可能性である。 生化学実験はIn vitro実験とも呼ばれるように生体細胞の細胞器官内で生じる生化学反応を、複雑な代謝経路や調節機構から切り離してまさに試験管のなかで再現することで研究が進展してきた。21世紀に入ると標識化技術や測定技術の進歩で生きている細胞内で生化学反応を間接的に追跡することも可能になってきたが、生体組織から目的の成分を分離精製する実験技術は生化学研究においては重要な研究技術である。 一般に消化酵素やホルモンのように分泌型の生体物質でない限りは、酵素や受容体を含めて目的の生体物質は特定の組織細胞の特定の細胞小器官にのみ発現・存在している。したがって、生化学実験は標的組織を多数採集し、そこから目的の生体物質を分離精製するところから始まる。 DNAのように細胞破砕後に、エタノール沈澱するだけで捕集できるものもあるが多くの場合、細胞破砕後に密度勾配法による遠心分離で目的の細胞内器官を密度により選択し捕集する。溶液には塩化セシウムなどが用いられる。この状態では多くの場合、酵素や受容体は細胞膜に取り込まれていたり、膜の二重層に埋め込まれているので、界面活性剤を使って脂質膜と分離〈可溶化〉する必要がある。 目的の生体高分子の精製は古くは半透膜による透析が行われたが、20世紀後半からはゲル濾過クロマトグラフィーやアフィニティークロマトグラフィーにより目的物を精製することが可能になった。 代謝による生体内物質の移動や変化の追跡にはトレーサー物質が利用される。古くから放射性あるいは非放射性同位体を組み込んだ生体内物質が広く利用された。しかし同位体置換した生体内物質を用意することは困難をともない、放射性トレーサーの場合はラジオアイソトープセンターなど専用実験施設が必要な為、今日では抗体染色やELISA法など同位体を使用しないトレーサーが広く利用されている。また、微量機器分析技術の進展によりMALDI法などの質量分析でクロマトグラフィ・スポット(ピーク)から直接、標的物質の同定も可能である。 イオンチャネルの研究においては、生体膜にガラスの毛細管を押し当てることで、管内にイオンチャネルを閉じ籠めて生化学実験を行うパッチクランプの実験技術によって上記のように生体成分を分離せずに実験を行う技法も開発された。 1990年代以降には特定の無機イオンに反応して蛍光を発する標識色素やルシフェラーゼ遺伝子を応用した形質導入によって、細胞外から蛍光顕微鏡で発光現象を追跡することで間接的に生化学反応をトレースすることも可能になってきている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "生化学(せいかがく、英: biochemistry)または生物化学(英: biological chemistry)は、生体内および生物に関連する化学的プロセスを研究する学問である。化学と生物学の下位分野である生化学は、構造生物学、酵素学、代謝学の3つの分野に分けられる。20世紀の最後の数十年間で、生化学はこれらの分野を通じて、生命現象を説明することに成功した。生命科学のほとんどの分野は、生化学的な方法論と研究によって解明され、発展してきた。生化学は、生きた細胞中や細胞間で生体分子に起こる過程を生み出す化学的基盤を理解することに重点を置いており、それにより組織や器官、そして生物の構造と機能をより深く理解するのにつなげている。また生化学は、生物現象の分子機構を研究する分子生物学とも密接に関係する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "生化学は、タンパク質、核酸、炭水化物、脂質などの生体高分子の構造、結合、機能、そして相互作用に大きく関わっている。これらの分子は、細胞の構造を作り、生命機能の多くの役割を担っている。また、細胞の化学的性質は、小分子やイオンの反応にも依存しており、それには、水や金属イオンなどの無機物や、タンパク質合成のためのアミノ酸などの有機物が含まれる。細胞が、化学反応によって環境からエネルギーを取り出す機構は、代謝として知られている。生化学の主な応用分野は、医学、栄養学、そして農業である。医学では生化学者は病気の原因や治療法を、栄養学では健康と幸福を維持する方法や、栄養不足の影響を研究している。農業では土壌や肥料を研究し、作物の栽培、貯蔵、害虫制御の改善を目標としている。生化学は、プリオンなどの複雑な対象を理解する上でも重要である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "生化学を最も広い意味で捉えると、生物の構成要素や組成、それらがどのように組み立てられて生命が作られているかを研究する学問と見なすことができる。この意味で、生化学の起源は古代ギリシャまでさかのぼることができるが、特定の科学分野(英語版)としての生化学は、19世紀のいつか、あるいはもう少し前に始まったといえる。生化学の正確な始まりは、焦点を当てる側面によって異なる。18世紀後半にカール・ヴィルヘルム・シェーレが生物から乳酸(1780年)やクエン酸(1784年)を単離したが、こうした有機化合物は生体からのみ抽出しうるものと考えられていた。1833年にアンセルム・ペイアンが最初の酵素であるジアスターゼ(現在のアミラーゼ)を発見したことを主張する人もいれば、1897年にエドゥアルト・ブフナーが無細胞抽出物でアルコール発酵の複雑な生化学過程を最初に証明したことを考える人もいる。また、ユストゥス・フォン・リービッヒが1842年に発表した『Animal chemistry, or, Organic chemistry in its applications to physiology and pathology』という、代謝の化学的理論を提示した影響力のある著作や、それ以前の18世紀のアントワーヌ・ラヴォアジエによる発酵と呼吸の研究を挙げる人もいる。近代生化学の創始者と呼ばれ、生化学の複雑な層を解明するのに貢献した多くの先駆者には、タンパク質の化学的性質を研究したエミール・フィッシャーや、酵素や生化学の動的性質を研究したフレデリック・ホプキンズが挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "生化学(英: biochemistry)という言葉は、生物学と化学の組み合わせに由来する。1877年、フェリクス・ホッペ=ザイラーが、『Zeitschrift für Physiologische Chemie』(現在のBiological Chemistry誌)の創刊号の序文で、生理化学(physiological chemistry)の同義語としてこの言葉(独: biochemie)を使用し、この分野に特化した研究機関の設立を提唱した。しかし、この言葉は1903年にドイツの化学者カール・ノイベルグが作ったとされることも多く、またフランツ・ホフマイスター(英語版)が作ったとする説もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつては、生命やその材料には、非生物に見られるものとは異なる本質的な性質や物質があり、生命の分子を作り出せるのは生物だけであると広く信じられていた(生命原理(英語版)と呼ばれる)。1828年、フリードリヒ・ヴェーラーが、シアン酸カリウムと硫酸アンモニウムから尿素を合成した論文は、生命原理を覆し、有機化学を確立したとする見方もある。しかし、彼の手によって生気論が死んだとヴェーラー合成を否定する人もいて、論争を巻き起こした。その後、生化学は進歩し、特に20世紀半ば以降、クロマトグラフィー、X線回折、二重偏光干渉法、NMR分光法(英語版)、放射性同位体標識(放射性トレーサー)、電子顕微鏡、分子動力学シミュレーションなどの新しい技術が導入された。これらの技術により、物質を精製したり、解糖やクレブス回路(クエン酸回路)のような、多くの細胞内分子や代謝経路の発見と詳細な解析が可能となり、生化学を分子レベルで理解することにつながった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "遺伝子の発見と、細胞内での情報伝達に果たすその役割は、生化学の歴史におけるもうひとつの重要な出来事である。1950年代、ジェームズ・D・ワトソン、フランシス・クリック、ロザリンド・フランクリン、モーリス・ウィルキンスは、DNAの構造を解明し、遺伝情報の伝達との関係を示唆することに貢献した。1958年、ジョージ・ビードルとエドワード・タータムは、菌類において1つの遺伝子が1つの酵素を作り出すことを明らかにし、ノーベル賞を受賞した。1988年には、コリン・ピッチフォーク(英語版)がDNA証拠を使って殺人罪で初めて有罪判決を受け、法医学の発展につながった。最近では、アンドリュー・ファイアーとクレイグ・キャメロン・メローが、遺伝子発現を抑制するRNA干渉(RNAi)の役割を発見し、2006年のノーベル賞を共同受賞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "さまざまな種類の生物学的な生命には、約20種類の化学元素が不可欠である。地球上の希少元素の大半(セレンとヨウ素は除く)は生命に必要ではなく、アルミニウムやチタンなど豊富に存在する一般的な元素の中には、生命に利用されないものもある。ほとんどの生物は同じような元素を必要とするが、植物と動物には若干の違いがある。たとえば、海洋性藻類は臭素を利用するが、陸上の動物や植物はまったく必要ないようである。また、ナトリウムはすべての動物で必要であるが、植物には必須ではない。逆に、植物にはケイ素とホウ素が必要だが、動物には不要か、あるいは極微量しか必要ない場合がある。", "title": "出発物質:生命の化学的要素" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ヒトを含む生体細胞の質量のほぼ99%を、炭素、水素、窒素、酸素、カルシウム、リンのわずか6元素が占めている(完全な一覧は人体の構成(英語版)を参照)。人体の大部分を構成するこれら6種類の主要元素とは別に、ヒトはさらに18種類以上の元素を少量ずつ必要とする。", "title": "出発物質:生命の化学的要素" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "生化学における4種類の主要な分子(生体分子と呼ばれる)は、炭水化物、脂質、タンパク質、および核酸である。多くの生体分子はポリマー(重合体)である。この文脈ではモノマー(単量体)は比較的小さな高分子であり、それらが脱水合成と呼ばれる過程で互いに結合し、生体高分子と呼ばれる大きな高分子を形成している。また、さまざまな高分子が集合して、より大きな複合体を形成することがあり、これは生物学的活性に必要とされることも多い。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "炭水化物は、主にエネルギーの貯蔵と構造の提供という機能を持っている。よく知られている糖類であるグルコースは炭水化物の一つであるが、すべての炭水化物が糖類というわけではない。炭水化物は、地球上に最も多く存在する生体分子であり、エネルギー貯蔵、遺伝情報の保存、細胞間の相互作用(英語版)やコミュニケーションなど、さまざまな役割を果たしている。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "単糖は最も単純な炭水化物で、炭素、水素、酸素を通常は1:2:1の比率で含んでいる(一般式はCnH2nOn、nは少なくとも3)。グルコース(C6H12O6)は最も重要な炭水化物であり、その他には甘い果物に含まれるフルクトース(C6H12O6)や、DNAの構成要素であるデオキシリボース(C5H10O4)などがある。単糖には、非環式(開鎖型)と環式の状態がある。開鎖型は、一方の端のカルボニル基と他方の端のヒドロキシ基の酸素原子により架橋された炭素原子の環に変化したものである。この環状分子は、直鎖状がアルドースかケトースかによって、ヘミアセタール基かヘミケタール基を持つ。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これらの環状分子は、通常5個または6個の原子を含む環を持ち、それぞれフラノースおよびピラノースと呼ばれる。同様の炭素-酸素環を持つ最も単純な化合物であるフランおよびピラン(炭素-炭素二重結合を持たない)に類似していることから、その名が付けられた。たとえば、アルドヘキソースのグルコースは、炭素1の水酸基と炭素4の酸素の間でヘミアセタール結合を形成し、グルコフラノースと呼ばれる5員環の分子を作ることができる。同様の反応は炭素1と炭素5の間でも起こり、グルコピラノースと呼ばれる6員環の分子ができる。7員環のヘプトース (en:英語版) はまれである。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2つの単糖はグリコシド結合またはエステル結合で結合し、脱水反応によって水分子が放出されて二糖になる。二糖のグリコシド結合を切断して2つの単糖に分解する逆の反応を加水分解という。最もよく知られた二糖類はスクロース(普通の砂糖)で、グルコース分子とフルクトース分子が結合したものである。もう一つの重要な二糖類は、牛乳に含まれるラクトース(乳糖)で、これはグルコース分子とガラクトース分子が結合したものである。乳糖はラクターゼという酵素によって加水分解され、この酵素が欠乏すると乳糖不耐症になる。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "単糖が数個(3-6個程度)結合したものをオリゴ糖と呼ぶ(オリゴは「少数」の意味)。この分子は、マーカー(英語版)やシグナルとして使われるなど、さまざまな用途も持っている。単糖が多数結合して多糖を形成する。これらは、1本の長い直鎖で結合することもあれば、分岐した構造になることもある。最も一般的な多糖にはセルロースとグリコーゲンがあり、どちらもグルコースモノマーの繰り返しから構成されている。セルロースは植物の細胞壁の重要な構造成分であり、グリコーゲンは動物のエネルギー源として貯蔵されている。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "糖には還元末端または非還元末端がある。炭水化物の還元末端は、開鎖アルデヒド(アルドース)またはケト体(ケトース)と平衡状態にある炭素原子である。このような炭素原子でモノマーの結合が起こると、ピラノースやフラノース型の遊離ヒドロキシ基が他の糖のOH側鎖と交換され、完全なアセタールが生成される。これにより、アルデヒド型やケト型になることは抑止され、非還元性の修飾残基となる。ラクトースでは、グルコース部分は還元末端であり、ガラクトース部分はグルコースのC4-OH基と完全なアセタールを形成する。サッカロースでは、グルコースのアルデヒド炭素(C1)とフルクトースのケト炭素(C2)の間で完全なアセタールが形成されるため、還元末端は存在しない。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "脂質は、生体由来の比較的水に溶けないまたは非極性(英語版)の化合物グループの総称である。この範ちゅうには、ワックス、脂肪酸、脂肪酸由来のリン脂質、スフィンゴ脂質、糖脂質、およびテルペノイド(レチノイドやステロイドなど)などが含まれる。脂質には、直鎖状の脂肪族分子もあれば、環状構造を持つものもある。また、芳香族(環状と平面状の構造を持つ)分子もあれば、非芳香族分子もある。脂質には柔軟なものもあれば、硬いものもある。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "脂質は通常、グリセロールが他の分子と結合して作られている。バルク脂質の主要なグループであるトリグリセリドは、1分子のグリセロールと3つの脂肪酸が含まれる。ここでいう脂肪酸はモノマーとみなされ、飽和(炭素鎖に二重結合がない)または不飽和(炭素鎖に一つ以上の二重結合がある)のいずれかになる。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "脂質は通常、非極性の部分と極性の部分の両方を持っている。脂質の主な構造は非極性、つまり疎水性(水をはじく)であり、水のような極性溶媒とは混ざりにくい。しかし、脂質には極性または親水性(水になじむ)の部分もあり、水などの極性溶媒と結合する傾向がある。このため脂質は、疎水性部と親水性部の両方を持つ両親媒性分子となっている。コレステロールを例に取れば、極性基は単なる-OH(ヒドロキシ基またはアルコール)である。リン脂質の場合、後述のように、より大きくて極性の強い極性基を持つ。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "脂質は、私たちの毎日の食生活を支える重要なものである。バター、チーズ、ギーなど、料理や食事に使う油や乳製品のほとんどは脂肪でできている。植物油には、さまざまな多価不飽和脂肪酸(PUFA)が豊富に含まれている。脂質を含む食品は、体内で消化され、最終的な産物である脂肪酸とグリセロールに分解される。脂質、特にリン脂質は、非経口輸液などの共溶解剤として、あるいはリポソームやトランスファソーム(英語版)などの薬物担体(英語版)として、さまざまな医薬品にも使用されている。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "タンパク質は、マクロバイオポリマーとも呼ばれる非常に大きな分子で、アミノ酸というモノマーから構成されている。各アミノ酸は、α炭素原子にアミノ基(–NH2)、カルボン酸基(–COOH、ただし生理学的条件下では–NH3や–COOとして存在する)、単一の水素原子、および固有の側鎖(一般に –R と表記される)が結合したものである。この側鎖「R」によって、20種類の標準的なアミノ酸がそれぞれ区別される。この側鎖基「R」がアミノ酸に異なる性質を与え、タンパク質の全体の立体構造に大きな影響を与える。たとえば神経伝達物質として機能するグルタミン酸のように、単独または修飾された形で機能を持つアミノ酸もある。アミノ酸は、脱水合成という過程でペプチド結合を形成し、互いに結合する。このとき、一方のアミノ酸のアミノ基の窒素と、別のアミノ酸のカルボン酸基の炭素が結びつき、水分子が放出される。こうして作られた分子をジペプチドと呼び、短いアミノ酸の配列(通常は30個以下)はペプチドまたはポリペプチド、より長い鎖はタンパク質と呼ばれる。たとえば、血清タンパク質であるアルブミンは、585個のアミノ酸残基から構成されている。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "タンパク質は、構造的な役割と機能的な役割の両方に関与している。たとえば、アクチンとミオシンというタンパク質は、骨格筋の収縮を担っている。多くのタンパク質が持つ特性の1つは、特定の分子または分子群に特異的に結合する能力を持つことである。たとえば、抗体は、特定の1種類の分子に結合するタンパク質である。抗体は、2本の重鎖と2本の軽鎖が、アミノ酸間のジスルフィド結合によって結合して構成されている。抗体は、N末端ドメインの違いにより、標的分子と特異的に結合することができる。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "酵素結合免疫吸着法(ELISA)は抗体を利用した検査法で、現代医学でがさまざまな生体分子を検出するための最も高感度な方法の一つである。しかし、酵素は最も重要なタンパク質であると考えられている。生細胞内でのほぼすべての反応は、反応の活性化エネルギーを低減させるために酵素が必要である。酵素の分子は、基質と呼ばれる特定の反応分子を識別し、それらの間の反応を触媒することができる。酵素は反応の活性化エネルギーを引き下げることで、その反応速度を10倍以上に向上させ、通常、自然に起こるのに3,000年以上かかる反応を、1秒以内に起こせる可能性がある。この過程で酵素自体が使い果たされることはなく、新たな一連の基質を用いて同じ反応を触媒し続けることができる。さまざまな修飾剤を用いることで、酵素の活性を調節し、細胞の生化学的な制御を行うことができる。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "タンパク質の構造は、慣例で4段階に分類される。一次構造とは、たとえば「アラニン-グリシン-トリプトファン-セリン-グルタミン酸-アスパラギン-グリシン-リジン...」というように、アミノ酸が一列に並んだ状態のことである。二次構造は、局所的な形態に着目したもので、特定のアミノ酸の組み合わせが、αヘリックスというらせん状に巻きついたり、βシートという板状に折り重なる傾向がある。下の図には、いくつかのαヘリックスをもつヘモグロビンが示されている。三次構造とは、タンパク質の全体的な立体形状を指し、アミノ酸の配列によって決定される。実際、ヘモグロビンのα鎖には146個のアミノ酸残基が含まれ、その6位のグルタミン酸残基がバリン残基に置換された鎌状赤血球症のように、配列の一つの変えると構造全体が変わることがある。四次構造は、4つのサブユニットを持つヘモグロビンのように、複数のペプチドサブユニットを持つタンパク質の構造を扱っている。すべてのタンパク質が複数のサブユニットを持つわけではない。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "摂取されたタンパク質は、通常、小腸で個々のアミノ酸やジペプチドに分解され、体内に吸収される。その後、再び組み合わされて新しいタンパク質が作られる。アミノ酸は、解糖、クエン酸回路、ペントースリン酸経路の中間生成物を使用して作られる。ほとんどの細菌や植物は、20種類すべてのアミノ酸を作るのに必要な酵素を持っている。しかし、ヒトをはじめとする哺乳類は一部の酵素を持たないため、イソロイシン、ロイシン、リシン、メチオニン、フェニルアラニン、トレオニン、トリプトファン、バリンを作ることができない。これらは食餌から摂取しなければならないため必須アミノ酸と呼ばれる。哺乳類は、アラニン、アスパラギン、アスパラギン酸、システイン、グルタミン酸、グルタミン、グリシン、プロリン、セリン、チロシンを合成することができ、これらは非必須アミノ酸と呼ぶ。アルギニンやヒスチジンは作ることができるが、成長期の動物には十分な量を産生できないので、必須アミノ酸とされることがある。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アミノ酸からアミノ基を取り除くと、α-ケト酸という炭素骨格が生成する。トランスアミナーゼ(アミノ基転移酵素)と呼ばれる酵素は、あるアミノ酸(α-ケト酸になる)から別のα-ケト酸(アミノ酸になる)へ、アミノ基を容易に転移させることができる。この過程はタンパク質生合成において重要である。多くの生化学的経路では、他の経路からの中間体がα-ケト酸骨格に変換された後、多くの場合、このアミノ基転移によってアミノ基が付加される。その後、アミノ酸が結合してタンパク質が形成されることもある。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "タンパク質が分解される際にも、同様の過程で行われる。最初にタンパク質は加水分解され、個々のアミノ酸になる。血液中にアンモニウムイオン(NH4)として存在する遊離アンモニア(NH3)は、生物にとって有毒であるため、生物の必要に応じてさまざまな方法で排泄しなければならない。動物では、その必要性に応じて、さまざまな戦術が進化してきた。単細胞生物はアンモニアを環境中に放出する。同様に、硬骨魚類はアンモニアを水中に放出してすばやく希釈する。一般に、哺乳類は尿素回路によってアンモニアを尿素に変換する。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2つのタンパク質が近縁かどうか、換言すれば相同性があるかどうかを判断するために、科学者は配列アラインメントや構造アラインメント(英語版)などの手法を使用する。これらのツールは、関連する分子間の相同性を特定するのに役立ち、タンパク質群の進化パターンを形成する以上の意味を持っている。2つのタンパク質の配列がどの程度似ているかを調べることにより、その構造、さらには機能に関する知識を得ることができる。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "核酸は、細胞核に多く存在する生体高分子群の総称であり、すべての生きた細胞やウイルスで遺伝情報の源として使用されている。核酸は、ヌクレオチドと呼ばれるモノマーから構成された、複雑で高分子量の生化学高分子である。各ヌクレオチドは、含窒素複素環塩基(プリンまたはピリミジン)、ペントース糖、およびリン酸基の3つの成分から構成されている。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "もっともよく知られている核酸は、デオキシリボ核酸(DNA)とリボ核酸(RNA)の2種類である。これらの生体高分子では、各ヌクレオチドのリン酸基と糖が結合して骨格を形成し、窒素塩基の配列が遺伝情報の保存を担っている。一般的な窒素塩基は、アデニン、シトシン、グアニン、チミン、ウラシルの5種類である。核酸の鎖に含まれる核酸塩基は、水素結合によって互いに結合し、ジッパーのように相補的な窒素塩基の対を作る。アデニンはチミンまたはウラシルと結合し、チミンはアデニンとのみ、シトシンとグアニンとのみ結合する。ことができる。アデニンとチミン、アデニンとウラシルはそれぞれ2つの水素結合を形成し、シトシンとグアニンの間は3つの水素結合を形成する。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "細胞の遺伝物質としての役割に加え、細胞内のセカンドメッセンジャーとしての役割を担うことも多い。また、すべての生物に存在する主要なエネルギー担体分子であるアデノシン三リン酸(ATP)の構成要素でもある。RNAとDNAの窒素塩基は異なり、アデニン、シトシン、グアニンは両方に存在し、チミンはDNAにのみ、ウラシルはRNAにのみ存在する。", "title": "生体分子" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "グルコースはほとんどの生命体のエネルギー源である。たとえば、多糖は酵素によってモノマーに分解される(グリコーゲンホスホリラーゼは、多糖であるグリコーゲンからグルコース残基を切断する)。ラクトース(乳糖)やスクロース(ショ糖)などの二糖類は、2つの単糖に切断される。", "title": "代謝" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "グルコースは主に、解糖という非常に重要な10段階の経路によって代謝され、その結果、1分子のグルコースが2分子のピルビン酸に分解される。また、細胞のエネルギー通貨であるATP(アデノシン三リン酸)の正味2分子が生成され、2分子分のNAD(酸化型のニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)をNADH(還元型のニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)に変換する還元当量も生成される。これには酸素を必要としない。酸素がない場合(あるいは細胞が酸素を使えない場合)、ピルビン酸を乳酸(例: ヒト)またはエタノールと二酸化炭素(例: 酵母)に変換することでNADを回復される。ガラクトースやフルクトースなどの他の単糖も、解糖経路の中間体に変換される。", "title": "代謝" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ヒトのほとんどの細胞のように、十分な酸素が存在する好気性細胞(英語版)では、ピルビン酸はさらに代謝される。ピルビン酸は不可逆的にアセチルCoAに変換され、1個の炭素原子が老廃物の二酸化炭素として排出され、別の還元当量としてNADHが生成される。次に、2分子のアセチルCoA(1分子のグルコースから)がクエン酸回路に入り、2分子のATP、さらに6分子のNADH、2つの還元型(ユビ)キノン(酵素結合補因子としてFADH2を経由)を生成し、残りの炭素原子を二酸化炭素として放出する。生成したNADとキノール分子は、呼吸鎖の酵素複合体に供給され、電子伝達系が電子を最終的に酸素に伝達し、放出されたエネルギーを生体膜(真核生物ではミトコンドリア内膜)を介したプロトン濃度勾配の形で保存する。こうして、酸素は水に還元され、元の電子受容体であるNADとキノンが再生される。ヒトが酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出すのはこのためである。NADHとキノールの高エネルギー状態から電子が移動することで放出されたエネルギーは、最初にプロトン勾配として蓄えられ、ATPシンターゼ(合成酵素)によってATPに変換される。これにより、さらに28分子のATPが生成され(8つのNADHから24、2つのキノールから4つ)、分解されたグルコース1分子あたり合計32分子のATPが保存される(解糖から2つ、クエン酸回路から2つ)。このように、酸素を使ってグルコースを完全に酸化することは、酸素に依存しない代謝機能よりもはるかに多くのエネルギーを生物に与えることは明らかで、これが、地球の大気に大量の酸素が蓄積された後に複雑な生命が出現した理由であると考えられている。", "title": "代謝" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "脊椎動物では、骨格筋が激しく収縮するとき(例: 重量挙げや全力疾走のとき)、エネルギー需要に見合うだけの酸素が供給されないため、グルコースを乳酸に変換するために嫌気性代謝(英語版)に切り替わる。脂肪やタンパク質などの炭水化物以外からのグルコースが組み合わせ。これは、肝臓のグリコーゲンの貯蔵が枯渇したときにのみ起こる。この経路は、ピルビン酸からグルコースへの解糖の根本的な逆転であり、アミノ酸、グリセロール、クレブス回路(クエン酸回路)のような多くの供給源を使用することができる。大規模なタンパク質と脂肪の異化は、通常、飢餓やある種の内分泌疾患に伴って起こる。肝臓は、糖新生と呼ばれる過程を通じてグルコースを再生成する。この過程は解糖と全く逆ではなく、実際には解糖の3倍のエネルギーを必要とする(解糖では2分子のATPが得られるのに対し、6分子のATPが使用される)。上記の反応と同様に、生成されたグルコースは、エネルギーを必要とする組織で解糖されたり、グリコーゲン(植物ではデンプン)として貯蔵されたり、他の単糖に変換されたり、二糖またはオリゴ糖に結合されたりする。運動中の解糖、血流を介した乳酸の肝臓への移動、その後の糖新生、そして血流へのグルコースの放出という経路を組み合わせたものをコリ回路と呼ぶ。", "title": "代謝" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "生化学の研究者は、生化学に特有の技術を使用するが、これらを遺伝学、分子生物学、生物物理学の分野で開発された技術や考え方と組み合わせることも多くなっている。これらの分野の間に明確な境界線はない。生化学は分子の生物学的活性に必要な化学を研究し、分子生物学は分子の生物学的活性を研究し、遺伝学はゲノムが担う分子の遺伝現象を研究する学問である。このことは、右上の図に示すように、各分野の関係を表す一つの可能性である。", "title": "他の「分子スケール」生物科学との関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "生化学実験はIn vitro実験とも呼ばれるように生体細胞の細胞器官内で生じる生化学反応を、複雑な代謝経路や調節機構から切り離してまさに試験管のなかで再現することで研究が進展してきた。21世紀に入ると標識化技術や測定技術の進歩で生きている細胞内で生化学反応を間接的に追跡することも可能になってきたが、生体組織から目的の成分を分離精製する実験技術は生化学研究においては重要な研究技術である。", "title": "生化学実験" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一般に消化酵素やホルモンのように分泌型の生体物質でない限りは、酵素や受容体を含めて目的の生体物質は特定の組織細胞の特定の細胞小器官にのみ発現・存在している。したがって、生化学実験は標的組織を多数採集し、そこから目的の生体物質を分離精製するところから始まる。", "title": "生化学実験" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "DNAのように細胞破砕後に、エタノール沈澱するだけで捕集できるものもあるが多くの場合、細胞破砕後に密度勾配法による遠心分離で目的の細胞内器官を密度により選択し捕集する。溶液には塩化セシウムなどが用いられる。この状態では多くの場合、酵素や受容体は細胞膜に取り込まれていたり、膜の二重層に埋め込まれているので、界面活性剤を使って脂質膜と分離〈可溶化〉する必要がある。", "title": "生化学実験" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "目的の生体高分子の精製は古くは半透膜による透析が行われたが、20世紀後半からはゲル濾過クロマトグラフィーやアフィニティークロマトグラフィーにより目的物を精製することが可能になった。", "title": "生化学実験" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "代謝による生体内物質の移動や変化の追跡にはトレーサー物質が利用される。古くから放射性あるいは非放射性同位体を組み込んだ生体内物質が広く利用された。しかし同位体置換した生体内物質を用意することは困難をともない、放射性トレーサーの場合はラジオアイソトープセンターなど専用実験施設が必要な為、今日では抗体染色やELISA法など同位体を使用しないトレーサーが広く利用されている。また、微量機器分析技術の進展によりMALDI法などの質量分析でクロマトグラフィ・スポット(ピーク)から直接、標的物質の同定も可能である。", "title": "生化学実験" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "イオンチャネルの研究においては、生体膜にガラスの毛細管を押し当てることで、管内にイオンチャネルを閉じ籠めて生化学実験を行うパッチクランプの実験技術によって上記のように生体成分を分離せずに実験を行う技法も開発された。", "title": "生化学実験" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1990年代以降には特定の無機イオンに反応して蛍光を発する標識色素やルシフェラーゼ遺伝子を応用した形質導入によって、細胞外から蛍光顕微鏡で発光現象を追跡することで間接的に生化学反応をトレースすることも可能になってきている。", "title": "生化学実験" } ]
生化学または生物化学は、生体内および生物に関連する化学的プロセスを研究する学問である。化学と生物学の下位分野である生化学は、構造生物学、酵素学、代謝学の3つの分野に分けられる。20世紀の最後の数十年間で、生化学はこれらの分野を通じて、生命現象を説明することに成功した。生命科学のほとんどの分野は、生化学的な方法論と研究によって解明され、発展してきた。生化学は、生きた細胞中や細胞間で生体分子に起こる過程を生み出す化学的基盤を理解することに重点を置いており、それにより組織や器官、そして生物の構造と機能をより深く理解するのにつなげている。また生化学は、生物現象の分子機構を研究する分子生物学とも密接に関係する。 生化学は、タンパク質、核酸、炭水化物、脂質などの生体高分子の構造、結合、機能、そして相互作用に大きく関わっている。これらの分子は、細胞の構造を作り、生命機能の多くの役割を担っている。また、細胞の化学的性質は、小分子やイオンの反応にも依存しており、それには、水や金属イオンなどの無機物や、タンパク質合成のためのアミノ酸などの有機物が含まれる。細胞が、化学反応によって環境からエネルギーを取り出す機構は、代謝として知られている。生化学の主な応用分野は、医学、栄養学、そして農業である。医学では生化学者は病気の原因や治療法を、栄養学では健康と幸福を維持する方法や、栄養不足の影響を研究している。農業では土壌や肥料を研究し、作物の栽培、貯蔵、害虫制御の改善を目標としている。生化学は、プリオンなどの複雑な対象を理解する上でも重要である。
{{Biochemistry sidebar}} '''生化学'''(せいかがく、{{Lang-en-short|biochemistry}})または'''生物化学'''({{Lang-en-short|biological chemistry}})は、[[生物|生体内]]および生物に関連する[[ケミカルプロセス|化学的プロセス]]を研究する学問である<ref>{{cite web |url=http://www.acs.org/content/acs/en/careers/college-to-career/areas-of-chemistry/biological-biochemistry.html.html |title=Biological/Biochemistry |work=acs.org |access-date=2014-02-06}}</ref>。[[化学]]と[[生物学]]の下位分野である生化学は、[[構造生物学]]、[[酵素学]]、[[代謝学]]の3つの分野に分けられる。20世紀の最後の数十年間で、生化学はこれらの分野を通じて、生命現象を説明することに成功した。[[生命科学]]のほとんどの分野は、生化学的な方法論と研究によって解明され、発展してきた<ref name="Voet_2005">[[#Voet|Voet]] (2005), p. 3.</ref>。生化学は、生きた細胞中や細胞間で[[生体分子]]に起こる過程を生み出す化学的基盤を理解することに重点を置いており<ref name="Karp2009">[[#Karp|Karp]] (2009), p. 2.</ref>、それにより[[組織 (生物学)|組織]]や[[器官]]、そして生物の構造と機能をより深く理解するのにつなげている<ref name="MillerSpoolman2012">[[#Miller|Miller]] (2012). p. 62.</ref>。また生化学は、生物現象の分子機構を研究する[[分子生物学]]とも密接に関係する<ref name="fn_1">[[#Astbury|Astbury]] (1961), p. 1124.</ref>。 生化学は、[[タンパク質]]、[[核酸]]、[[炭水化物]]、[[脂質]]などの生体[[高分子]]の構造、結合、機能、そして相互作用に大きく関わっている<ref>{{Cite journal |last=Srinivasan |first=Bharath |date=March 2022 |title=A guide to enzyme kinetics in early drug discovery |url=https://doi.org/10.1111/febs.16404 |journal=The FEBS Journal |doi=10.1111/febs.16404 |pmid=35175693 |s2cid=246903542 |issn=1742-464X}}</ref>。これらの[[分子]]は、細胞の構造を作り、生命機能の多くの役割を担っている<ref name="Biology">[[#Eldra|Eldra]] (2007), p. 45.</ref>。また、細胞の化学的性質は、[[小分子]]や[[イオン]]の反応にも依存しており、それには、[[水]]や[[金属]]イオンなどの[[無機物]]や、[[タンパク質生合成|タンパク質合成]]のための[[アミノ酸]]などの[[有機物]]が含まれる<ref name="Marks">[[#Peet|Marks]] (2012), Chapter 14.</ref>。細胞が、[[化学反応]]によって環境から[[細胞呼吸|エネルギーを取り出す]]機構は、[[代謝]]として知られている。生化学の主な応用分野は、[[医学]]、[[栄養学]]、そして[[農業]]である。医学では[[生化学者]]は[[病気]]の原因や[[医薬品|治療法]]を<ref>[[#Finkel|Finkel]] (2009), pp. 1–4.</ref>、栄養学では健康と幸福を維持する方法や、[[栄養不足]]の影響を研究している<ref name="FFL2010">[[#UNICEF|UNICEF]] (2010), pp. 61, 75.</ref>。農業では[[土壌]]や[[肥料]]を研究し、作物の栽培、貯蔵、[[害虫制御]]の改善を目標としている。生化学は、[[プリオン]]などの複雑な対象を理解する上でも重要である<ref>{{Cite journal |title=Prion Diseases and Their Biochemical Mechanisms - Nathan J. Cobb and Witold K. Surewicz |year=2009 |pmc=2805067 |last1=Cobb |first1=N. J. |last2=Surewicz |first2=W. K. |journal=Biochemistry |volume=48 |issue=12 |pages=2574–2585 |doi=10.1021/bi900108v |pmid=19239250 }}</ref>。 == 歴史 == {{Main|生化学の歴史}} [[File:Gerty Theresa Radnitz Cori (1896-1957) and Carl Ferdinand Cori - restoration1.jpg|thumb|upright|1947年、[[ゲルティー・コリ]]と[[カール・コリ]]は、RPMIでの[[コリ回路]]の発見により、共同でノーベル賞を受賞した。]] 生化学を最も広い意味で捉えると、生物の構成要素や組成、それらがどのように組み立てられて生命が作られているかを研究する学問と見なすことができる。この意味で、生化学の起源は[[古代ギリシア|古代ギリシャ]]までさかのぼることができるが、特定の{{Ill2|科学の分野|en|Branches of science|label=科学分野}}としての生化学は、19世紀のいつか、あるいはもう少し前に始まったといえる<ref name="history of science">[[#Helvoort|Helvoort]] (2000), p. 81.</ref>。生化学の正確な始まりは、焦点を当てる側面によって異なる。18世紀後半に[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]が生物から[[乳酸]](1780年)<ref name="Scheele 1780 Mjölk">{{cite journal|last1=Scheele|first1=Carl Wilhelm|date=1780|title=Om Mjölk och dess syra|url=https://books.google.com/books?id=9N84AAAAMAAJ&pg=PA116|journal=Kongliga Vetenskaps Academiens Nya Handlingar (New Proceedings of the Royal Academy of Science)|volume=1|pages=116–124|language=Swedish|trans-title=About milk and its acid}}</ref>や[[クエン酸]](1784年)<ref>{{cite journal|last1=Scheele|first1=Carl Wilhelm|date=1784|title=Anmärkning om Citron-Saft, samt sätt att crystallisera den samma|journal=Kongliga Vetenskaps Academiens Nya Handlingar (New Proceedings of the Royal Academy of Science)|volume=5|pages=105–109|language=Swedish|trans-title=Note on lemon juice, as well as ways to crystallize the same}}</ref>を単離したが、こうした有機化合物は生体からのみ抽出しうるものと考えられていた<ref name="SeikagakuDic713">[[生物学#生化学辞典(2版)|生化学辞典第2版、p.713 【生化学】]]</ref>。1833年に[[アンセルム・ペイアン]]が最初の[[酵素]]である[[ジアスターゼ]](現在の[[アミラーゼ]])を発見したことを主張する人もいれば<ref>[[#Hunter|Hunter]] (2000), p. 75.</ref>、1897年に[[エドゥアルト・ブフナー]]が無細胞抽出物で[[アルコール発酵]]の複雑な生化学過程を最初に証明したことを考える人もいる<ref name=":0">{{Cite journal|last=Srinivasan|first=Bharath|date=2020-09-27|title=Words of advice: teaching enzyme kinetics|journal=The FEBS Journal|volume=288|issue=7|pages=2068–2083|doi=10.1111/febs.15537|pmid=32981225|issn=1742-464X|doi-access=free}}</ref><ref>[[#Hamblin|Hamblin]] (2005), p. 26.</ref><ref>[[#Hunter|Hunter]] (2000), pp. 96–98.</ref>。また、[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]が1842年に発表した『''Animal chemistry, or, Organic chemistry in its applications to physiology and pathology''』という、代謝の化学的理論を提示した影響力のある著作や<ref name="history of science" />、それ以前の18世紀の[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]による[[発酵]]と[[呼吸]]の研究を挙げる人もいる<ref>[[#Clarence|Berg]] (1980), pp. 1–2.</ref><ref>[[#Holmes|Holmes]] (1987), p. xv.</ref>。近代生化学の創始者と呼ばれ、生化学の複雑な層を解明するのに貢献した多くの先駆者には、タンパク質の化学的性質を研究した[[エミール・フィッシャー]]や<ref>[[#Burton|Feldman]] (2001), p. 206.</ref>、酵素や生化学の動的性質を研究した[[フレデリック・ホプキンズ]]が挙げられる<ref>[[#Rayner|Rayner-Canham]] (2005), p. 136.</ref>。 生化学({{Lang-en-short|biochemistry}})という言葉は、[[生物学]]と[[化学]]の組み合わせに由来する。1877年、[[フェリクス・ホッペ=ザイラー]]が、『''[[:en:Zeitschrift für Physiologische Chemie|Zeitschrift für Physiologische Chemie]]''』(現在の''Biological Chemistry''誌)の創刊号の序文で、生理化学(physiological chemistry)の同義語としてこの言葉({{Lang-de-short|biochemie}})を使用し、この分野に特化した研究機関の設立を提唱した<ref>[[#Ziesak|Ziesak]] (1999), p. 169.</ref><ref>[[#Kleinkauf|Kleinkauf]] (1988), p. 116.</ref>。しかし、この言葉は1903年にドイツの[[化学者]][[カール・ノイベルグ]]が作ったとされることも多く<ref name="Ben-Menahem 2009">[[#Ben|Ben-Menahem]] (2009), p. 2982.</ref><ref>[[#Amsler|Amsler]] (1986), p. 55.</ref><ref>[[#Horton|Horton]] (2013), p. 36.</ref>、また{{Ill2|フランツ・ホフマイスター|en|Franz Hofmeister}}が作ったとする説もある<ref>[[#Kleinkauf|Kleinkauf]] (1988), p. 43.</ref>。 [[File:DNA orbit animated.gif|thumb|left|upright|DNAの構造 ({{PDB2|1D65}})<ref>[[#Edwards|Edwards]] (1992), pp. 1161–1173.</ref>]] かつては、生命やその材料には、非生物に見られるものとは異なる本質的な性質や物質があり、生命の分子を作り出せるのは生物だけであると広く信じられていた({{Ill2|生命原理|en|Vital principle}}と呼ばれる)<ref>[[#Fiske|Fiske]] (1890), pp. 419–20.</ref>。1828年、[[フリードリヒ・ヴェーラー]]が、シアン酸カリウムと硫酸アンモニウムから[[ヴェーラー合成|尿素を合成]]した論文は、生命原理を覆し、[[有機化学]]を確立したとする見方もある<ref>{{Cite journal|last=Wöhler|first=F.|date=1828|title=Ueber künstliche Bildung des Harnstoffs|url=https://doi.org/10.1002/andp.18280880206|journal=Annalen der Physik und Chemie|volume=88|issue=2|pages=253–256|doi=10.1002/andp.18280880206|bibcode=1828AnP....88..253W|issn=0003-3804}}</ref><ref name="Kauffman 20012">[[#Kauffman|Kauffman]] (2001), pp. 121–133.</ref>。しかし、彼の手によって[[生気論]]が死んだとヴェーラー合成を否定する人もいて、論争を巻き起こした<ref>{{Cite journal|last=Lipman|first=Timothy O.|date=August 1964|title=Wohler's preparation of urea and the fate of vitalism|url=https://doi.org/10.1021/ed041p452|journal=Journal of Chemical Education|volume=41|issue=8|pages=452|doi=10.1021/ed041p452|bibcode=1964JChEd..41..452L|issn=0021-9584}}</ref>。その後、生化学は進歩し、特に20世紀半ば以降、[[クロマトグラフィー]]、[[X線結晶構造解析|X線回折]]、[[二重偏光干渉法]]、{{仮リンク|タンパク質の核磁気共鳴分光法|en|Nuclear magnetic resonance spectroscopy of proteins|label=NMR分光法}}、[[放射性トレーサー|放射性同位体標識(放射性トレーサー)]]、[[電子顕微鏡]]、[[分子動力学法|分子動力学]]シミュレーションなどの新しい技術が導入された。これらの技術により、物質を精製したり、解糖や[[クエン酸回路|クレブス回路(クエン酸回路)]]のような、多くの細胞内分子や[[代謝経路]]の発見と詳細な解析が可能となり、生化学を分子レベルで理解することにつながった。 [[遺伝子]]の発見と、細胞内での情報伝達に果たすその役割は、生化学の歴史におけるもうひとつの重要な出来事である。1950年代、[[ジェームズ・ワトソン|ジェームズ・D・ワトソン]]、[[フランシス・クリック]]、[[ロザリンド・フランクリン]]、[[モーリス・ウィルキンス]]は、[[デオキシリボ核酸|DNA]]の構造を解明し、遺伝情報の伝達との関係を示唆することに貢献した<ref>[[#Tropp|Tropp]] (2012), pp. 19–20.</ref>。1958年、[[ジョージ・ウェルズ・ビードル|ジョージ・ビードル]]と[[エドワード・タータム]]は、菌類において[[一遺伝子一酵素説|1つの遺伝子が1つの酵素を作り出す]]ことを明らかにし、[[ノーベル賞]]を受賞した<ref name="Krebs 2012">[[#Krebs|Krebs]] (2012), p. 32.</ref>。1988年には、{{Ill2|コリン・ピッチフォーク|en|Colin Pitchfork}}が[[DNA型鑑定|DNA証拠]]を使って殺人罪で初めて有罪判決を受け、[[法医学]]の発展につながった<ref name="Butler 2009">[[#Butler|Butler]] (2009), p. 5.</ref>。最近では、[[アンドリュー・ファイアー]]と[[クレイグ・メロー|クレイグ・キャメロン・メロー]]が、[[遺伝子発現]]を抑制する[[RNA干渉]](RNAi)の役割を発見し、2006年のノーベル賞を共同受賞した<ref name="Sen 2007">[[#Chandan|Chandan]] (2007), pp. 193–194.</ref>。 == 出発物質:生命の化学的要素 == [[Image:201 Elements of the Human Body.02.svg|thumb|upright|人体を構成する主な元素を、質量比で多いものから少ないものへと示す。]] {{main|{{ill2|人体の構成|en|Composition of the human body}}|[[ミネラル]]|{{ill2|食餌無機質|en|Dietary mineral}}}} さまざまな種類の[[生物学的生命|生物学的な生命]]には、約20種類の[[化学元素]]が不可欠である。地球上の希少元素の大半([[セレン]]と[[ヨウ素]]は除く)は生命に必要ではなく<ref>{{cite book |last1=Cox, Nelson, Lehninger |title=Lehninger Principles of Biochemistry |date=2008 |publisher=Macmillan}}</ref>、[[アルミニウム]]や[[チタン]]など豊富に存在する一般的な元素の中には、生命に利用されないものもある。ほとんどの生物は同じような元素を必要とするが、[[植物]]と[[動物]]には若干の違いがある。たとえば、海洋性藻類は[[臭素]]を利用するが、陸上の動物や植物はまったく必要ないようである。また、[[ナトリウム]]はすべての動物で必要であるが、植物には必須ではない。逆に、植物には[[ケイ素]]と[[ホウ素]]が必要だが、動物には不要か、あるいは極微量しか必要ない場合がある。 [[ヒト]]を含む生体細胞の質量のほぼ99%を、[[炭素]]、[[水素]]、[[窒素]]、[[酸素]]、[[カルシウム]]、[[リン]]のわずか6元素が占めている(完全な一覧は{{Ill2|人体の構成|en|Composition of the human body}}を参照)。人体の大部分を構成するこれら6種類の主要元素とは別に、ヒトはさらに18種類以上の元素を少量ずつ必要とする<ref>[[#Nielsen|Nielsen]] (1999), pp. 283–303.</ref>。 == 生体分子 == {{main|生体分子}} 生化学における4種類の主要な分子([[生体分子]]と呼ばれる)は、[[炭水化物]]、[[脂質]]、[[タンパク質]]、および[[核酸]]である<ref name="slabaugh">[[#Slabaugh|Slabaugh]] (2007), pp. 3–6.</ref>。多くの生体分子は[[ポリマー]](重合体)である。この文脈では[[モノマー]](単量体)は比較的小さな[[高分子]]であり、それらが[[脱水反応|脱水合成]]と呼ばれる過程で互いに結合し、[[生体高分子]]と呼ばれる大きな高分子を形成している。また、さまざまな高分子が集合して、より大きな複合体を形成することがあり、これは[[生物学的活性]]に必要とされることも多い。 === 炭水化物 === {{Main|炭水化物|単糖|二糖|多糖}} {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = [[炭水化物]] | image1 = Beta-D-Glucose.svg | width1 = 220 | caption1 = 単糖の[[グルコース]] | image2 = Sucrose-inkscape.svg | width2 = 220 | caption2 = 二糖の[[スクロース]]([[グルコース]]+[[フルクトース]])の1分子。 | image3 = Amylose 3Dprojection.svg | width3 = 220 | caption3 =数千個のグルコースが結合した[[多糖]]の[[アミロース]]。 }} 炭水化物は、主にエネルギーの貯蔵と構造の提供という機能を持っている。よく知られている[[糖|糖類]]であるグルコースは炭水化物の一つであるが、すべての炭水化物が糖類というわけではない。炭水化物は、地球上に最も多く存在する生体分子であり、エネルギー貯蔵、[[デオキシリボース|遺伝情報]]の保存、{{Ill2|細胞間相互作用|en|Cell-cell interaction|label=細胞間の相互作用}}や[[細胞シグナル伝達|コミュニケーション]]など、さまざまな役割を果たしている。 単糖は最も単純な炭水化物で、炭素、水素、酸素を通常は1:2:1の比率で含んでいる(一般式は{{chem|C|''n''|H|2''n''|O|''n''}}、''n''は少なくとも3)。[[グルコース]]({{chem|C|6|H|12|O|6}})は最も重要な炭水化物であり、その他には[[甘味|甘い]][[果物]]に含まれる[[フルクトース]]({{chem|C|6|H|12|O|6}})や、[[デオキシリボ核酸|DNA]]の構成要素である[[デオキシリボース]]({{chem|C|5|H|10|O|4}})などがある<ref name="Whiting1970">[[#Whiting|Whiting]] (1970), pp. 1–31.</ref>{{Efn|果物に含まれる糖分はフルクトース(果糖)だけではない。グルコース(ブドウ糖)とスクロース(ショ糖)もさまざまな果物に含まれており、時にはフルクトースを上回ることもある。たとえば、[[デーツ]](ナツメヤシの果実)の可食部の32%はグルコースで、フルクトースは24%、スクロースは8%である。しかし、[[モモ]]にはフルクトース(0.93%)やグルコース(1.47%)よりも多くのスクロース(6.66%)が含まれている。<ref name=Whiting1970p5>[[#Whiting|Whiting]], G.C. (1970), p. 5.</ref>}}。単糖には、[[鎖式化合物|非環式]](開鎖型)と[[環式化合物|環式]]の状態がある。開鎖型は、一方の端の[[カルボニル基]]と他方の端の[[ヒドロキシ基]]の[[酸素]]原子により架橋された炭素原子の環に変化したものである。この環状分子は、直鎖状が[[アルドース]]か[[ケトース]]かによって、[[ヘミアセタール]]基か[[ヘミケタール]]基を持つ<ref>[[#Voet|Voet]] (2005), pp. 358–359.</ref>。 これらの環状分子は、通常5個または6個の原子を含む環を持ち、それぞれ[[フラノース]]および[[ピラノース]]と呼ばれる。同様の炭素-酸素環を持つ最も単純な化合物である[[フラン (化学)|フラン]]および[[ピラン (化学)|ピラン]](炭素-炭素[[二重結合]]を持たない)に類似していることから、その名が付けられた。たとえば、[[アルドヘキソース]]のグルコースは、炭素1の水酸基と炭素4の酸素の間でヘミアセタール結合を形成し、グルコフラノースと呼ばれる5員環の分子を作ることができる。同様の反応は炭素1と炭素5の間でも起こり、グルコピラノースと呼ばれる6員環の分子ができる。7員環の[[ヘプトース]]{{Enlink|Heptose|英語版|en}}はまれである。 2つの単糖は[[グリコシド結合]]または[[エステル結合]]で結合し、[[脱水反応]]によって水分子が放出されて[[二糖]]になる。二糖のグリコシド結合を切断して2つの単糖に分解する逆の反応を[[加水分解]]という。最もよく知られた二糖類は[[スクロース]](普通の[[砂糖]])で、[[グルコース]]分子と[[フルクトース]]分子が結合したものである。もう一つの重要な二糖類は、牛乳に含まれる[[ラクトース]](乳糖)で、これはグルコース分子と[[ガラクトース]]分子が結合したものである。乳糖は[[ラクターゼ]]という酵素によって加水分解され、この酵素が欠乏すると[[乳糖不耐症]]になる。 単糖が数個(3-6個程度)結合したものを[[オリゴ糖]]と呼ぶ(オリゴは「少数」の意味)。この分子は、{{Ill2|分子マーカー|en|Molecular marker|label=マーカー}}や[[細胞シグナル伝達|シグナル]]として使われるなど、さまざまな用途も持っている<ref name="Varki_1999">[[#Varki|Varki]] (1999), p. 17.</ref>。単糖が多数結合して[[多糖]]を形成する。これらは、1本の長い直鎖で結合することもあれば、[[分枝 (化学)|分岐]]した構造になることもある。最も一般的な多糖には[[セルロース]]と[[グリコーゲン]]があり、どちらもグルコース[[モノマー]]の繰り返しから構成されている。セルロースは植物の[[細胞壁]]の重要な構造成分であり、グリコーゲンは動物のエネルギー源として貯蔵されている。 糖には[[還元糖|還元末端]]または非還元末端がある。炭水化物の還元末端は、開鎖[[アルデヒド]]([[アルドース]])またはケト体([[ケトース]])と平衡状態にある炭素原子である。このような炭素原子でモノマーの結合が起こると、[[ピラノース]]や[[フラノース]]型の遊離ヒドロキシ基が他の糖のOH側鎖と交換され、完全な[[アセタール]]が生成される。これにより、アルデヒド型やケト型になることは抑止され、非還元性の修飾残基となる。ラクトースでは、グルコース部分は還元末端であり、ガラクトース部分はグルコースのC4-OH基と完全なアセタールを形成する。[[サッカロース]]では、グルコースのアルデヒド炭素(C1)とフルクトースのケト炭素(C2)の間で完全なアセタールが形成されるため、還元末端は存在しない。 === 脂質 === {{Main|脂質|グリセロール|脂肪酸}} [[File:Common lipids lmaps.png|thumb|right|320px|一般的な脂質の構造。上段の2つは[[コレステロール]]と[[オレイン酸]]<ref>[[#Stryer|Stryer]] (2007), p. 328.</ref>。中央は、グリセロール骨格に[[オレイン酸|オレオイル]]、[[ステアリン酸|ステアロイル]]、[[パルミチン酸|パルミトイル]]鎖が結合した[[トリグリセリド]]。下段は、一般的な[[リン脂質]]である[[ホスファチジルコリン]]<ref>[[#Voet|Voet]] (2005), Ch. 12 Lipids and Membranes.</ref>。]] [[脂質]]は、生体由来の比較的水に溶けないまたは{{Ill2|化学極性|en|Chemical polarity|label=非極性}}の化合物グループの総称である。この範ちゅうには、[[蝋|ワックス]]、[[脂肪酸]]、脂肪酸由来の[[リン脂質]]、[[スフィンゴ脂質]]、[[糖脂質]]、および[[テルペノイド]]([[レチノイド]]や[[ステロイド]]など)などが含まれる。脂質には、直鎖状の[[脂肪族化合物|脂肪族]]分子もあれば、環状構造を持つものもある。また、[[芳香族化合物|芳香族]](環状と平面状の構造を持つ)分子もあれば、非芳香族分子もある。脂質には柔軟なものもあれば、硬いものもある。 脂質は通常、[[グリセロール]]が他の分子と結合して作られている。バルク脂質の主要なグループである[[トリグリセリド]]は、1分子のグリセロールと3つの[[脂肪酸]]が含まれる。ここでいう脂肪酸はモノマーとみなされ、[[飽和脂肪酸|飽和]](炭素鎖に[[二重結合]]がない)または[[不飽和脂肪酸|不飽和]](炭素鎖に一つ以上の二重結合がある)のいずれかになる。 脂質は通常、非極性の部分と[[極性分子|極性]]の部分の両方を持っている。脂質の主な構造は非極性、つまり[[疎水性]](水をはじく)であり、水のような[[極性溶媒]]とは混ざりにくい。しかし、脂質には極性または[[親水性]](水になじむ)の部分もあり、水などの極性溶媒と結合する傾向がある。このため脂質は、疎水性部と親水性部の両方を持つ[[両親媒性分子]]となっている。[[コレステロール]]を例に取れば、極性基は単なる-OH(ヒドロキシ基またはアルコール)である。リン脂質の場合、後述のように、より大きくて極性の強い極性基を持つ。 脂質は、私たちの毎日の食生活を支える重要なものである。[[バター]]、[[チーズ]]、[[ギー]]など、料理や食事に使う[[油]]や[[乳製品]]のほとんどは[[脂肪]]でできている。[[植物油]]には、さまざまな[[多価不飽和脂肪酸]](PUFA)が豊富に含まれている。脂質を含む食品は、体内で消化され、最終的な産物である脂肪酸とグリセロールに分解される。脂質、特にリン脂質は、非経口輸液などの共溶解剤として、あるいは[[リポソーム]]や{{Ill2|トランスファソーム|en|Transfersome}}などの{{Ill2|薬物担体|en|Drug carrier}}として、さまざまな[[薬物|医薬品]]にも使用されている。 === タンパク質 === {{Main|タンパク質|アミノ酸}} [[File:AminoAcidball.svg|thumbnail|160px|α-アミノ酸の一般的な構造。左側が[[アミン|アミノ]]基、右側が[[カルボキシル]]基である。Rは側鎖基でアミノ酸ごとに異なる。]] [[タンパク質]]は、マクロバイオポリマーとも呼ばれる非常に大きな分子で、[[アミノ酸]]というモノマーから構成されている。各アミノ酸は、α炭素原子にアミノ基(–NH<sub>2</sub>)、[[カルボン酸]]基(–COOH、ただし生理学的条件下では–NH<sub>3</sub><sup>+</sup>や–COO<sup>−</sup>として存在する)、単一の水素原子、および固有の側鎖(一般に –R と表記される)が結合したものである。この側鎖「R」によって、20種類の[[タンパク質を構成するアミノ酸|標準的なアミノ酸]]がそれぞれ区別される。この側鎖基「R」がアミノ酸に異なる性質を与え、タンパク質の全体の[[三次構造|立体構造]]に大きな影響を与える。たとえば[[神経伝達物質]]として機能する[[グルタミン酸]]のように、単独または修飾された形で機能を持つアミノ酸もある。アミノ酸は、[[脱水反応|脱水合成]]という過程で[[ペプチド結合]]を形成し、互いに結合する。このとき、一方のアミノ酸のアミノ基の窒素と、別のアミノ酸のカルボン酸基の炭素が結びつき、水分子が放出される。こうして作られた分子を[[ジペプチド]]と呼び、短いアミノ酸の配列(通常は30個以下)はペプチドまたはポリペプチド、より長い鎖はタンパク質と呼ばれる。たとえば、[[血清]]タンパク質である[[アルブミン]]は、585個のアミノ酸残基から構成されている<ref name="Metzler 2001">[[#Metzler|Metzler]] (2001), p. 58.</ref>。 [[File:Amino acids 1.png|thumb|left|390px|一般的なアミノ酸の構造式を、(1)中性型、(2)生理的に存在する状態、(3)ジペプチドとして結合した状態で示す。]] [[File:1GZX Haemoglobin.png|thumb|right|160px|[[ヘモグロビン]]の模式図。赤と青のリボンはタンパク質の[[グロビン]]、緑の構造は[[ヘム|ヘム基]]を表す。]] タンパク質は、構造的な役割と機能的な役割の両方に関与している。たとえば、[[アクチン]]と[[ミオシン]]というタンパク質は、骨格筋の収縮を担っている。多くのタンパク質が持つ特性の1つは、特定の分子または分子群に特異的に結合する能力を持つことである。たとえば、[[抗体]]は、特定の1種類の分子に結合するタンパク質である。抗体は、2本の重鎖と2本の軽鎖が、アミノ酸間のジスルフィド結合によって結合して構成されている。抗体は、N末端ドメインの違いにより、[[生物学的標的|標的分子]]と特異的に結合することができる<ref>{{cite journal |doi=10.1016/j.tibs.2009.11.005 |pmid=20022755 |pmc=4716677 |title=How antibodies fold |journal=Trends in Biochemical Sciences |volume=35 |issue=4 |pages=189–198 |year=2010 |last1=Feige |first1=Matthias J. |last2=Hendershot |first2=Linda M. |last3=Buchner |first3=Johannes }}</ref>。 [[ELISA (分析法)|酵素結合免疫吸着法]](ELISA)は抗体を利用した検査法で、現代医学でがさまざまな生体分子を検出するための最も高感度な方法の一つである。しかし、[[酵素]]は最も重要なタンパク質であると考えられている。生細胞内でのほぼすべての反応は、反応の活性化エネルギーを低減させるために酵素が必要である。酵素の分子は、[[基質 (化学)|基質]]と呼ばれる特定の反応分子を識別し、それらの間の反応を[[触媒]]することができる<ref name=":0" />。酵素は反応の活性化エネルギーを引き下げることで、その反応速度を10<sup>11</sup>倍以上に向上させ<ref name=":0" />、通常、自然に起こるのに3,000年以上かかる反応を、1秒以内に起こせる可能性がある<ref>{{Cite journal|last=Srinivasan|first=Bharath|date=2021-07-16|title=A Guide to the Michaelis‐Menten equation: Steady state and beyond|journal=The FEBS Journal|volume=289 |issue=20 |language=en|pages=6086–6098|doi=10.1111/febs.16124|pmid=34270860|issn=1742-464X|doi-access=free}}</ref>。この過程で酵素自体が使い果たされることはなく、新たな一連の基質を用いて同じ反応を触媒し続けることができる。さまざまな修飾剤を用いることで、酵素の活性を調節し、細胞の生化学的な制御を行うことができる<ref name=":0" />。 タンパク質の構造は、慣例で4段階に分類される。[[一次構造]]とは、たとえば「アラニン-グリシン-トリプトファン-セリン-グルタミン酸-アスパラギン-グリシン-リジン…」というように、アミノ酸が一列に並んだ状態のことである。[[二次構造]]は、局所的な形態に着目したもので、特定のアミノ酸の組み合わせが、[[αヘリックス]]というらせん状に巻きついたり、[[βシート]]という板状に折り重なる傾向がある。下の図には、いくつかのαヘリックスをもつ[[ヘモグロビン]]が示されている。[[三次構造]]とは、タンパク質の全体的な立体形状を指し、アミノ酸の配列によって決定される。実際、[[ヘモグロビン]]のα鎖には146個のアミノ酸残基が含まれ、その6位の[[グルタミン酸]]残基が[[バリン]]残基に置換された[[鎌状赤血球症]]のように、配列の一つの変えると構造全体が変わることがある。[[四次構造]]は、4つのサブユニットを持つヘモグロビンのように、複数のペプチドサブユニットを持つタンパク質の構造を扱っている。すべてのタンパク質が複数のサブユニットを持つわけではない<ref>[[#Fromm|Fromm and Hargrove]] (2012), pp. 35–51.</ref>。[[File:Protein structure examples.png|thumb|800px|center|[[蛋白質構造データバンク]]からのタンパク質構造の例。]] [[File:Structural coverage of the human cyclophilin family.png|thumb|350px|right|タンパク質群のメンバーを示す([[イソメラーゼ]] [[タンパク質ドメイン|ドメイン]]のみを示す)。]] 摂取されたタンパク質は、通常、[[小腸]]で個々のアミノ酸やジペプチドに分解され、体内に吸収される。その後、再び組み合わされて新しいタンパク質が作られる。アミノ酸は、[[解糖系|解糖]]、[[クエン酸回路]]、[[ペントースリン酸経路]]の中間生成物を使用して作られる。ほとんどの[[細菌]]や植物は、20種類すべてのアミノ酸を作るのに必要な酵素を持っている。しかし、ヒトをはじめとする哺乳類は一部の酵素を持たないため、[[イソロイシン]]、[[ロイシン]]、[[リシン]]、[[メチオニン]]、[[フェニルアラニン]]、[[トレオニン]]、[[トリプトファン]]、[[バリン]]を作ることができない。これらは食餌から摂取しなければならないため[[必須アミノ酸]]と呼ばれる。哺乳類は、[[アラニン]]、[[アスパラギン]]、[[アスパラギン酸]]、[[システイン]]、[[グルタミン酸]]、[[グルタミン]]、[[グリシン]]、[[プロリン]]、[[セリン]]、[[チロシン]]を合成することができ、これらは非必須アミノ酸と呼ぶ。[[アルギニン]]や[[ヒスチジン]]は作ることができるが、成長期の動物には十分な量を産生できないので、必須アミノ酸とされることがある。 アミノ酸からアミノ基を取り除くと、α-[[ケト酸]]という炭素骨格が生成する。[[トランスアミナーゼ]](アミノ基転移酵素)と呼ばれる酵素は、あるアミノ酸(α-ケト酸になる)から別のα-ケト酸(アミノ酸になる)へ、アミノ基を容易に転移させることができる。この過程はタンパク質生合成において重要である。多くの生化学的経路では、他の経路からの中間体がα-ケト酸骨格に変換された後、多くの場合、この[[アミノ基転移]]によってアミノ基が付加される。その後、アミノ酸が結合してタンパク質が形成されることもある。 タンパク質が分解される際にも、同様の過程で行われる。最初にタンパク質は加水分解され、個々のアミノ酸になる。血液中に[[アンモニウム]]イオン(NH<sub>4</sub><sup>+</sup>)として存在する遊離[[アンモニア]](NH<sub>3</sub>)は、生物にとって有毒であるため、生物の必要に応じてさまざまな方法で排泄しなければならない。動物では、その必要性に応じて、さまざまな戦術が進化してきた。[[単細胞生物]]はアンモニアを環境中に放出する。同様に、[[硬骨魚類]]はアンモニアを水中に放出してすばやく希釈する。一般に、哺乳類は[[尿素回路]]によってアンモニアを[[尿素]]に変換する。 2つのタンパク質が近縁かどうか、換言すれば[[相同|相同性]]があるかどうかを判断するために、科学者は[[配列アラインメント]]や{{Ill2|構造アラインメント|en|Structural alignment}}などの手法を使用する。これらのツールは、関連する分子間の相同性を特定するのに役立ち、[[タンパク質ファミリー|タンパク質群]]の進化パターンを形成する以上の意味を持っている。2つのタンパク質の配列がどの程度似ているかを調べることにより、その構造、さらには機能に関する知識を得ることができる。 === 核酸 === {{Main|核酸|DNA|RNA|ヌクレオチド}} [[File:0322 DNA Nucleotides.jpg|thumbnail|350px|[[デオキシリボ核酸]](DNA)の構造。右上はモノマーが結合している様子を示す。]] [[核酸]]は、[[細胞核]]に多く存在する生体高分子群の総称であり、すべての生きた細胞やウイルスで[[核酸配列|遺伝情報]]の源として使用されている<ref name="Voet_2005" />。核酸は、[[ヌクレオチド]]と呼ばれるモノマーから構成された、複雑で高分子量の生化学高分子である。各ヌクレオチドは、含窒素複素環[[塩基]]([[プリン (化学)|プリン]]または[[ピリミジン]])、ペントース糖、および[[リン酸基]]の3つの成分から構成されている<ref>[[#Saenger|Saenger]] (1984), p. 84.</ref>。[[File:Nucleotides 1.svg|thumb|center|500px|一般的な核酸の構成要素。ヌクレオシド一リン酸、ヌクレオシド二リン酸、ヌクレオシド三リン酸は、少なくとも一つのリン酸基(赤色)を持つことから、ヌクレオチドと呼ばれる化合物である。([[ヌクレオシド]](黄色)はリン酸基を持たない)]] もっともよく知られている核酸は、[[デオキシリボ核酸]](DNA)と[[リボ核酸]](RNA)の2種類である。これらの生体高分子では、各ヌクレオチドの[[リン酸基]]と糖が結合して骨格を形成し、窒素塩基の配列が遺伝情報の保存を担っている。一般的な窒素塩基は、[[アデニン]]、[[シトシン]]、[[グアニン]]、[[チミン]]、[[ウラシル]]の5種類である。核酸の鎖に含まれる[[核酸塩基]]は、[[水素結合]]によって互いに結合し、ジッパーのように相補的な窒素塩基の対を作る。アデニンはチミンまたはウラシルと結合し、チミンはアデニンとのみ、シトシンとグアニンとのみ結合する。ことができる。アデニンとチミン、アデニンとウラシルはそれぞれ2つの水素結合を形成し、シトシンとグアニンの間は3つの水素結合を形成する。 細胞の遺伝物質としての役割に加え、細胞内の[[セカンドメッセンジャー]]としての役割を担うことも多い。また、すべての生物に存在する主要なエネルギー担体分子である[[アデノシン三リン酸]](ATP)の構成要素でもある。RNAとDNAの窒素塩基は異なり、アデニン、シトシン、グアニンは両方に存在し、チミンはDNAにのみ、ウラシルはRNAにのみ存在する。 == 代謝 == === エネルギー源としての炭水化物 === {{Main|炭水化物代謝|炭素循環}} グルコースはほとんどの生命体のエネルギー源である。たとえば、多糖は[[酵素]]によってモノマーに分解される([[グリコーゲンホスホリラーゼ]]は、多糖であるグリコーゲンからグルコース残基を切断する)。ラクトース(乳糖)やスクロース(ショ糖)などの二糖類は、2つの単糖に切断される。 ==== 解糖(嫌気性) ==== {{Annotated image 4 | caption = 解糖の[[代謝経路]]は、一連の中間代謝産物を経て[[グルコース]]を[[ピルビン酸]]に変換する。{{Legend inline|pink}}各段階で、化学修飾は異なる酵素によって行われる。{{Legend inline|#8f8fda}}段階1と3では[[アデノシン三リン酸|ATP]]が消費され、{{Legend inline|#e0d10f}}段階7と10ではATPが生成する。段階6-10はグルコース1分子につき2回行われるので、ATPの正味の生成につながる。 | alt = グルコースからピルビン酸への多段階の変換を示す、解糖の概略の経路図。経路の各段階は、それぞれ固有の酵素によって触媒される。 | image = Glycolysis metabolic pathway 3.svg | image-width = 400 | align = right | width = 400 | height = 240 | link = File:Glycolysis metabolic pathway 3 annotated.svg | annot-font-size = 14 | annot-text-align = centre | annotations = {{Annotation| 16| 6| [[グルコース]] }}<!-- Glucose --> {{Annotation| 98| 6| [[グルコース-6-リン酸 |G6P]] }}<!-- Glucose-6-phosphate --> {{Annotation|178| 6| [[フルクトース-6-リン酸 |F6P]] }}<!-- Fructose 6-phosphate --> {{Annotation|254| 6| [[フルクトース-1,6-ビスリン酸 |F1,6BP]] }}<!-- Fructose 1,6-bisphosphate --> {{Annotation|303| 80| [[グリセルアルデヒド-3-リン酸 |GADP]] }}<!-- Glyceraldehyde 3-phosphate --> {{Annotation|351| 80| [[ジヒドロキシアセトンリン酸 |DHAP]] }}<!-- Dihydroxyacetone phosphate --> {{Annotation|268|222| [[1,3-ビスホスホグリセリン酸 |1,3BPG]] }}<!-- 1,3-bisphosphoglycerate --> {{Annotation|214|222| [[3-ホスホグリセリン酸 |3PG]] }}<!-- 3-phosphoglycerate --> {{Annotation|152|222| [[2-ホスホグリセリン酸 |2PG]] }}<!-- 2-phosphoglycerate --> {{Annotation| 84|222| [[ホスホエノールピルビン酸 |PEP]] }}<!-- Phosphoenolpyruvate --> {{Annotation| 9|222| [[ピルビン酸]] }}<!-- Pyruvate --> {{Annotation| 62| 35| [[ヘキソキナーゼ |HK]] |font-size=11 }}<!-- Hexokinase --> {{Annotation|138| 35| [[グルコースリン酸イソメラーゼ |PGI]] |font-size=11 }}<!-- Phosphoglucose isomerase --> {{Annotation|217| 35| [[ホスホフルクトキナーゼ |PFK]] |font-size=11 }}<!-- Phosphofructokinase --> {{Annotation|322| 35| {{ill2|フルクトース二リン酸アルドラーゼ|en|Fructose-bisphosphate aldolase|label=ALDO}} |font-size=11 }}<!-- Fructose-bisphosphate aldolase --> {{Annotation|334|133| [[トリオースリン酸イソメラーゼ |TPI]] |font-size=11 }}<!-- Triosephosphate isomerase --> {{Annotation|313|201| {{ill2|グリセルアルデヒド3リン酸脱水素酵素|en|Glyceraldehyde phosphate dehydrogenase|label=GAPDH}} |font-size=11 }}<!-- Glyceraldehyde phosphate dehydrogenase --> {{Annotation|246|201| {{ill2|ホスホグリセリン酸キナーゼ|en|Phosphoglycerate kinase|label=PGK}} |font-size=11 }}<!-- Phosphoglycerate kinase --> {{Annotation|183|201| {{ill2|ホスホグリセリン酸ムターゼ|en|Phosphoglycerate mutase|label=PGM}} |font-size=11 }}<!-- Phosphoglycerate mutase --> {{Annotation|116|201| [[ホスホピルビン酸ヒドラターゼ |ENO]] |font-size=11 }}<!-- Enolase --> {{Annotation| 46|201| [[ピルビン酸キナーゼ |PK]] |font-size=11 }}<!-- Pyruvate kinase --> {{Annotation|115|109| [[解糖系]]<!--{{no selflink|}}--> |font-size=16 }}<!-- Glycolysis --> }} <!-- {{Glycolysis summary}} --> グルコースは主に、[[解糖系|解糖]]という非常に重要な10段階の[[代謝経路|経路]]によって代謝され、その結果、1分子のグルコースが2分子の[[ピルビン酸]]に分解される。また、細胞のエネルギー通貨である[[アデノシン三リン酸|ATP]](アデノシン三リン酸)の正味2分子が生成され、2分子分の[[ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド|NAD<sup>+</sup>]](酸化型のニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)をNADH(還元型のニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)に変換する還元当量も生成される。これには酸素を必要としない。酸素がない場合(あるいは細胞が酸素を使えない場合)、ピルビン酸を[[乳酸]](例: ヒト)または[[エタノール]]と二酸化炭素(例: [[酵母]])に変換することでNADを回復される。ガラクトースやフルクトースなどの他の単糖も、解糖経路の中間体に変換される<ref>[[#Fromm|Fromm and Hargrove]] (2012), pp. 163–180.</ref>。 ==== 好気性 ==== ヒトのほとんどの細胞のように、十分な酸素が存在する{{Ill2|好気発酵|en|Aerobic fermentation|label=好気性細胞}}では、ピルビン酸はさらに代謝される。ピルビン酸は不可逆的に[[アセチルCoA]]に変換され、1個の炭素原子が老廃物の[[二酸化炭素]]として排出され、別の還元当量として[[ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド|NADH]]が生成される。次に、2分子のアセチルCoA(1分子のグルコースから)が[[クエン酸回路]]に入り、2分子のATP、さらに6分子のNADH、2つの還元型([[ユビキノン|ユビ]])キノン(酵素結合補因子として[[フラビンアデニンジヌクレオチド|FADH<sub>2</sub>]]を経由)を生成し、残りの炭素原子を二酸化炭素として放出する。生成したNAD<sup>+</sup>とキノール分子は、呼吸鎖の酵素複合体に供給され、[[電子伝達系]]が電子を最終的に酸素に伝達し、放出されたエネルギーを生体膜([[真核生物]]では[[ミトコンドリア内膜]])を介した[[陽子|プロトン]]濃度[[電気化学的勾配|勾配]]の形で保存する。こうして、酸素は水に還元され、元の電子受容体であるNAD<sup>+</sup>とキノンが再生される。ヒトが酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出すのはこのためである。NADHとキノールの高エネルギー状態から電子が移動することで放出されたエネルギーは、最初にプロトン勾配として蓄えられ、[[ATPシンターゼ]](合成酵素)によってATPに変換される。これにより、さらに28分子のATPが生成され(8つのNADHから24、2つのキノールから4つ)、分解されたグルコース1分子あたり合計32分子のATPが保存される(解糖から2つ、クエン酸回路から2つ)<ref>[[#Voet|Voet]] (2005), Ch. 17 Glycolysis.</ref>。このように、酸素を使ってグルコースを完全に酸化することは、酸素に依存しない代謝機能よりもはるかに多くのエネルギーを生物に与えることは明らかで、これが、地球の大気に大量の酸素が蓄積された後に複雑な生命が出現した理由であると考えられている。 ==== 糖新生 ==== {{Main|糖新生}} [[脊椎動物]]では、[[骨格筋]]が激しく収縮するとき(例: 重量挙げや全力疾走のとき)、エネルギー需要に見合うだけの酸素が供給されないため、グルコースを乳酸に変換するために{{Ill2|発酵 (生化学)|en|Fermentation (biochemistry)|label=嫌気性代謝}}に切り替わる。脂肪やタンパク質などの炭水化物以外からのグルコースが組み合わせ。これは、肝臓の[[グリコーゲン]]の貯蔵が枯渇したときにのみ起こる。この経路は、ピルビン酸からグルコースへの[[解糖系|解糖]]の根本的な逆転であり、アミノ酸、グリセロール、[[クエン酸回路|クレブス回路(クエン酸回路)]]のような多くの供給源を使用することができる。大規模なタンパク質と脂肪の[[異化 (生物学)|異化]]は、通常、飢餓やある種の内分泌疾患に伴って起こる<ref>{{Cite book | url=https://www.oxfordreference.com/view/10.1093/acref/9780198714378.001.0001/acref-9780198714378 | isbn=9780198714378| title=A Dictionary of Biology| date=17 September 2015| publisher=Oxford University Press}}</ref>。[[肝臓]]は、[[糖新生]]と呼ばれる過程を通じてグルコースを再生成する。この過程は解糖と全く逆ではなく、実際には解糖の3倍のエネルギーを必要とする(解糖では2分子のATPが得られるのに対し、6分子のATPが使用される)。上記の反応と同様に、生成されたグルコースは、エネルギーを必要とする組織で解糖されたり、グリコーゲン(植物では[[デンプン]])として貯蔵されたり、他の単糖に変換されたり、二糖またはオリゴ糖に結合されたりする。運動中の解糖、血流を介した乳酸の肝臓への移動、その後の糖新生、そして血流へのグルコースの放出という経路を組み合わせたものを[[コリ回路]]と呼ぶ<ref>[[#Fromm|Fromm and Hargrove]] (2012), pp. 183–194.</ref>。 == 他の「分子スケール」生物科学との関係 == [[File:Schematic relationship between biochemistry, genetics and molecular biology.svg|thumb|'''生化学'''、[[遺伝学]]、[[分子生物学]]との関係図。]] 生化学の研究者は、生化学に特有の技術を使用するが、これらを[[遺伝学]]、[[分子生物学]]、[[生物物理学]]の分野で開発された技術や考え方と組み合わせることも多くなっている。これらの分野の間に明確な境界線はない。生化学は分子の生物学的活性に必要な[[化学]]を研究し、[[分子生物学]]は分子の生物学的活性を研究し、[[遺伝学]]は[[ゲノム]]が担う分子の遺伝現象を研究する学問である。このことは、右上の図に示すように、各分野の関係を表す一つの可能性である。 * '''生化学'''({{Lang-en-short|biochemistry}})は、[[生物|生体]]内で起こる化学物質と生命現象を研究する学問である。[[生化学者]]は、生体分子の役割、機能、および構造に重点を置いている。生物学的過程の背後にある化学の研究や、生物学的に活性な分子の合成は、生化学の応用である。生化学は、原子および分子のレベルでの生命の研究である。 * '''遺伝学'''({{Lang-en-short|genetics}})とは、生物における遺伝的な差異がもたらす影響を研究する学問である。多くの場合は、正常な構成要素(例: 1つの[[遺伝子]])の欠如から推測することができる。[[突然変異体|変異体]]、いわゆる[[野生型]]あるいは正常な[[表現型]]と比較して1つか複数の機能的構成要素を欠く生物の研究である。遺伝的相互作用([[エピスタシス]])は、このような「[[遺伝子ノックアウト|ノックアウト]]」研究の単純な解釈をしばしば混乱させる。 * '''分子生物学'''({{Lang-en-short|molecular biology}})は、分子の合成、修飾、機構、および相互作用に焦点を当てた、生命現象の分子基盤を研究する学問である。遺伝物質がRNAに転写され、さらに[[タンパク質]]に翻訳されるという[[セントラルドグマ|分子生物学のセントラルドグマ]]は、単純化されすぎてはいるものの、この分野を理解するための良い出発点となる。この概念は、[[リボ核酸|RNA]]の新たな役割の出現によって見直されている。 * '''[[化学生物学]]'''({{Lang-en-short|chemical biology}})は、[[小分子]]に基づく新しいツールを開発し、生体系への影響を最小限に抑えながら、その機能に関する詳細な情報を提供することを目指している。さらに、化学生物学では、生体分子と合成装置<!-- synthetic devices -->との非天然ハイブリッドを作り出すために生体システムを利用している(たとえば、[[遺伝子治療]]や[[調合薬|薬剤分子]]を送達できる空の[[キャプシド|ウイルスキャプシド]])。 == 生化学実験 == {{出典の明記| date = 2023年2月| section = 1}} 生化学実験はIn vitro実験とも呼ばれるように生体細胞の細胞器官内で生じる生化学反応を、複雑な代謝経路や調節機構から切り離してまさに試験管のなかで再現することで研究が進展してきた。[[21世紀]]に入ると標識化技術や測定技術の進歩で生きている細胞内で生化学反応を間接的に追跡することも可能になってきたが、生体組織から目的の成分を分離精製する実験技術は生化学研究においては重要な研究技術である。 一般に[[消化酵素]]や[[ホルモン]]のように分泌型の生体物質でない限りは、酵素や受容体を含めて目的の生体物質は特定の組織細胞の特定の細胞小器官にのみ発現・存在している。したがって、生化学実験は標的組織を多数採集し、そこから目的の生体物質を分離精製するところから始まる。 DNAのように細胞破砕後に、エタノール沈澱するだけで捕集できるものもあるが多くの場合、細胞破砕後に密度勾配法による遠心分離で目的の細胞内器官を密度により選択し捕集する。[[溶液]]には[[塩化セシウム]]などが用いられる。この状態では多くの場合、酵素や受容体は細胞膜に取り込まれていたり、膜の二重層に埋め込まれているので、[[界面活性剤]]を使って脂質膜と分離〈可溶化〉する必要がある。 目的の生体高分子の精製は古くは半透膜による[[透析]]が行われたが、20世紀後半からは[[ゲル濾過クロマトグラフィー]]や[[アフィニティークロマトグラフィー]]により目的物を精製することが可能になった<ref>{{Cite journal |author=Meir Wilchek, Talia Miron |date=1999 |title=Thirty years of affinity chromatography |journal=Reactive, Functional Polymers |volume=41 |issue=1 |pages=263-268 |ISSN=1381-5148 |url=https://doi.org/10.1016/S1381-5148(99)00042-5 |doi=10.1016/S1381-5148(99)00042-5}}</ref><ref>{{Cite journal |author=André M. Striegel, Wallace W. Yau, Joseph J. Kirkland, Donald D. Bly |year=2009 |title=Modern Size-Exclusion Liquid Chromatography: Practice of Gel Permeation and Gel Filtration Chromatography, Second Edition |url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/book/10.1002/9780470442876 |ISBN=9780471201724 |doi=10.1002/9780470442876}}</ref>。 代謝による生体内物質の移動や変化の追跡には[[トレーサー]]物質が利用される。古くから放射性あるいは非放射性同位体を組み込んだ生体内物質が広く利用された。しかし同位体置換した生体内物質を用意することは困難をともない、[[放射性トレーサー]]の場合はラジオアイソトープセンターなど専用実験施設が必要な為、今日では[[抗体染色]]や[[ELISA (分析法)|ELISA]]法など同位体を使用しないトレーサーが広く利用されている<ref>Voller, A., Bidwell, D. E., & Bartlett, A. (1979). The enzyme linked immunosorbent assay (ELISA). A guide with abstracts of microplate applications. Dynatech Europe, Borough House, Rue du Pre..</ref>。また、微量機器分析技術の進展により[[MALDI法]]などの[[質量分析]]でクロマトグラフィ・スポット(ピーク)から直接、標的物質の同定も可能である<ref>{{Cite journal |author=Hillenkamp, Franz; Jaskolla, Thorsten W; Karas, Michael |year=2014 |title=The MALDI process and method |journal=MALDI MS. A Practical Guide to Instrumentation, Methods, and Applications, 2nd Ed.(Ed.: F. Hillenkamp, J. Peter-Katalinic), Wiley Blackwell, Weinheim, Germany |publisher=Wiley Online Library |doi=10.1002/9783527335961 |url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/book/10.1002/9783527335961#page=16 }}</ref>。 [[イオンチャネル]]の研究においては、生体膜にガラスの毛細管を押し当てることで、管内にイオンチャネルを閉じ籠めて生化学実験を行う[[パッチクランプ]]の実験技術によって上記のように生体成分を分離せずに実験を行う技法も開発された。 [[1990年代]]以降には特定の無機イオンに反応して蛍光を発する標識色素やルシフェラーゼ遺伝子を応用した形質導入によって、細胞外から[[蛍光顕微鏡]]で発光現象を追跡することで間接的に生化学反応をトレースすることも可能になってきている。 == 参考項目 == {{Main|{{ill2|生化学の概要|en|Outline of biochemistry}}}} === 一覧 === {{div col|colwidth=22em}} * {{ill2|化学分野の重要な発表論文の一覧|en|List of important publications in chemistry#Biochemistry|label=生化学の重要論文の一覧}} * {{ill2|生化学の概要|en|Outline of biochemistry|label=生化学のトピックス一覧}} * {{ill2|生化学者の一覧|en|List of biochemists}} * {{ill2|生体分子の一覧|en|List of biomolecules}} * {{ill2|生化学的手法|en|Outline of biochemistry|label=生化学的手法の一覧}} {{div col end}} === 参照項目 === {{div col|colwidth=22em}} * [[宇宙生物学]] - 宇宙における生命の起源、初期進化、分布、未来を研究する学問分野 * ''[[Biochemistry]]'' - アメリカ化学会が発行する生化学分野の学術誌 * {{ill2|Biological Chemistry (雑誌)|en|Biological Chemistry (journal)|label=''Biological Chemistry''}} - 生物化学に特化した査読制の科学雑誌 * [[生物物理学]] - 生物現象を理解するために物理学で用いられてきたアプローチや手法を応用した学際的な科学研究の分野 * [[化学生態学]] - 生物間の相互作用に関わる化学物質について研究する学問 * {{ill2|計算論的生物モデル|en|Computational modeling}} - 生体系のコンピューターモデリングを目的とするシステム生物学や数理生物学の課題領域 * [[バイオプラスチック]] - 再生可能なバイオマス資源から生産されるプラスチック材料 * [[EC番号 (酵素番号)]] - 酵素が触媒する化学反応に基づく、酵素の数値的な分類体系 * [[代わりの生化学]] {{Enlink|Hypothetical types of biochemistry|英語版|en}} - 科学的な可能性は合意されていても、存在が証明されていない生化学の形態 * [[国際生化学・分子生物学連合]] - 生化学および分子生物学に関わる国際的な非政府組織 * [[メタボローム]] - 生体試料中に含まれる小分子化学物質の完全な集合 * [[メタボロミクス]] - 細胞の代謝物プロファイルに対する系統的研究 * [[分子生物学]] - 生体分子の合成、修飾、機構、相互作用など、細胞活動の分子基盤に対する生物学の一分野 * {{ill2|分子医学|en|Molecular medicine}} - 疾患の根本的な分子的・遺伝的エラーを特定し修正する分子的介入を開発する医学の一分野 * {{ill2|植物化学|en|Phytochemistry}} - 植物に由来する化学物質である植物化学物質を研究する学問 * [[タンパク質分解]] - タンパク質がより小さなポリペプチドやアミノ酸に分解されること * [[小分子]] - 低分子量(900ダルトン未満)の有機化合物 * [[構造生物学]] - 生物の構造をあらゆるレベルの組織で分析することを扱う学問分野 * [[クエン酸回路]] - 糖、脂質、タンパク質に由来するアセチルCoAを酸化して貯蔵エネルギーを放出する一連の化学反応 * [[口腔生化学]] * [[分子生物学]] - [[細胞生物学]] - [[生物工学]] - [[遺伝学]] - [[生物物理学]] - [[生物有機化学]] * [[日本生化学会]] - [[生化学若い研究者の会]] {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|20em}} === 参考文献 === {{refbegin|2}} * {{cite book |ref=Amsler |author=Amsler, Mark |url=https://books.google.com/books?id=I-X-ijtoD9QC&pg=PA55 |title=The Languages of Creativity: Models, Problem-solving, Discourse |publisher=University of Delaware Press |year=1986 |isbn=978-0-87413-280-9}} * {{cite journal|ref=Astbury|doi=10.1038/1901124a0|pmid=13684868|title=Molecular Biology or Ultrastructural Biology ?|journal=Nature|volume=190|issue=4781|pages=1124|year=1961|last1=Astbury|first1=W.T.|bibcode=1961Natur.190.1124A|s2cid=4172248|doi-access=free}} * {{cite book |ref=Ben |author=Ben-Menahem, Ari |title=Historical Encyclopedia of Natural and Mathematical Sciences |journal=Historical Encyclopedia of Natural and Mathematical Sciences by Ari Ben-Menahem. Berlin: Springer |url=https://books.google.com/books?id=9tUrarQYhKMC&pg=PA2982 |year=2009 |publisher=Springer |isbn=978-3-540-68831-0 |page=2982 |bibcode=2009henm.book.....B}} * {{cite book |ref=Burton |author=Burton, Feldman |url=https://books.google.com/books?id=xnckeeTICn0C&pg=PA206 |title=The Nobel Prize: A History of Genius, Controversy, and Prestige |publisher=Arcade Publishing |year=2001 |isbn=978-1-55970-592-9}} * {{cite book |ref=Butler |author=Butler, John M. |title=Fundamentals of Forensic DNA Typing |url=https://books.google.com/books?id=-OZeEmqzE4oC&pg=PA5 |year=2009 |publisher=Academic Press |isbn=978-0-08-096176-7}} * {{cite journal|ref=Chandan|doi=10.1089/dna.2006.0567|pmid=17465885|title=MiRNA: Licensed to Kill the Messenger|journal=DNA and Cell Biology|volume=26|issue=4|pages=193–194|year=2007|last1=Sen|first1=Chandan K.|last2=Roy|first2=Sashwati|s2cid=10665411}} * {{cite book |ref=Clarence |author=Clarence, Peter Berg |title=The University of Iowa and Biochemistry from Their Beginnings |url=https://books.google.com/books?id=XwQhAQAAIAAJ&pg=PA1 |year=1980 |isbn=978-0-87414-014-9}} * {{Cite journal|ref=Edwards|doi=10.1016/0022-2836(92)91059-x|pmid=1518049|title=Molecular structure of the B-DNA dodecamer d(CGCAAATTTGCG)2 an examination of propeller twist and minor-groove water structure at 2·2Åresolution|journal=Journal of Molecular Biology|volume=226|issue=4|pages=1161–1173|year=1992|last1=Edwards|first1=Karen J.|last2=Brown|first2=David G.|last3=Spink|first3=Neil|last4=Skelly|first4=Jane V.|last5=Neidle|first5=Stephen}} * {{cite book |ref=Eldra |author1=Eldra P. 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|url=https://books.google.com/books?id=bTgmlJNazxkC |access-date=16 February 2015}} * {{Cite book |ref=Finkel |last1=Finkel |first1=Richard |last2=Cubeddu |first2=Luigi |last3=Clark |first3=Michelle |year=2009 |title=Lippincott's Illustrated Reviews: Pharmacology |edition=4th |publisher=Lippincott Williams & Wilkins |isbn=978-0-7817-7155-9 |url=https://books.google.com/books?id=Q4hG2gRhy7oC}} * {{cite book |ref=Krebs |author1=Krebs, Jocelyn E. |author2=Goldstein, Elliott S. |author3=Lewin, Benjamin |author4=Kilpatrick, Stephen T. |title=Essential Genes |url=https://books.google.com/books?id=FzBs_QgihRIC&pg=PA32 |year=2012 |publisher=Jones & Bartlett Publishers |isbn=978-1-4496-1265-8}} * {{cite book |ref=Fromm |author1=Fromm, Herbert J. |author2=Hargrove, Mark |title=Essentials of Biochemistry |year=2012 |publisher=Springer |isbn=978-3-642-19623-2 |url=https://books.google.com/books?id=2eXILOD0Yl8C&q=editions:ISBN3642196241}} * {{cite book |ref=Hamblin |author=Hamblin, Jacob Darwin |url=https://books.google.com/books?id=mpiZRAiE0JwC&pg=PA26 |title=Science in the Early Twentieth Century: An Encyclopedia |publisher=ABC-CLIO |year=2005 |isbn=978-1-85109-665-7}} * {{cite book |ref=Helvoort |author=Helvoort, Ton van |url=https://books.google.com/books?id=fjhdAgAAQBAJ&pg=PA81 |title=Reader's Guide to the History of Science |editor=Arne Hessenbruch |publisher=Fitzroy Dearborn Publishing |year=2000 |isbn=978-1-884964-29-9}} * {{cite book |ref=Holmes |author=Holmes, Frederic Lawrence |url=https://books.google.com/books?id=MLY-x9a393QC&pg=PR15 |title=Lavoisier and the Chemistry of Life: An Exploration of Scientific Creativity |publisher=University of Wisconsin Press |year=1987 |isbn=978-0-299-09984-8}} * {{cite book |ref=Horton |editor=Horton, Derek |url=https://books.google.com/books?id=JQluAAAAQBAJ&pg=PA36 |title=Advances in Carbohydrate Chemistry and Biochemistry, Volume 70 |publisher=Academic Press |year=2013 |isbn=978-0-12-408112-3}} * {{cite book |ref=Hunter |author=Hunter, Graeme K. |title=Vital Forces: The Discovery of the Molecular Basis of Life |year=2000 |publisher=Academic Press |isbn=978-0-12-361811-5 |url=https://books.google.com/books?id=VdHV5ET4usoC}} * {{cite book |ref=Karp |author=Karp, Gerald |title=Cell and Molecular Biology: Concepts and Experiments |year=2009 |publisher=John Wiley & Sons |isbn=978-0-470-48337-4 |url=https://books.google.com/books?id=arRGYE0GxRQC}} * {{cite journal|ref=Kauffman|doi=10.1007/s00897010444a|title=Friedrich Wöhler (1800–1882), on the Bicentennial of His Birth|journal=The Chemical Educator|volume=6|issue=2|pages=121–133|year=2001|last1=Kauffman|first1=George B.|last2=Chooljian|first2=Steven H.|s2cid=93425404}} * {{cite book |ref=Kleinkauf |author1=Kleinkauf, Horst |author2=Döhren, Hans von |author3=Jaenicke Lothar |url=https://books.google.com/books?id=tuzwshIlng4C&pg=PA116 |title=The Roots of Modern Biochemistry: Fritz Lippmann's Squiggle and its Consequences |page=116 |publisher=Walter de 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Hulme |title=The Biochemistry of Fruits and their Products |volume=1 |place=London & New York |publisher=Academic Press |chapter-url=https://books.google.com/books?id=KYDwAAAAMAAJ |isbn=978-0-12-361201-4 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/biochemistryoffr0000hulm}} * {{cite book |ref=Ziesak |author1=Ziesak, Anne-Katrin |author2=Cram Hans-Robert |url=https://books.google.com/books?id=ulN4rKWA8c4C&pg=PA169 |title=Walter de Gruyter Publishers, 1749–1999 |publisher=Walter de Gruyter & Co |year=1999 |isbn=978-3-11-016741-2}} * {{cite news |last1=Ashcroft |first1=Steve |title=Professor Sir Philip Randle; Researcher into metabolism: [1st Edition] |newspaper=Independent |id={{ProQuest|311080685}}}} {{refend}} == 推薦文献 == {{refbegin|2}} * Fruton, Joseph S. ''Proteins, Enzymes, Genes: The Interplay of Chemistry and Biology''. 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'''1対1'''(one-to-one) の意味: == 数学とコミュニケーション == * [[単射]]関数とも呼ばれる1対1の関数 * [[全単射]]関数とも呼ばれる[[1対1対応]] * [[ポイント・ツー・ポイント|1対1 (コミュニケーション)]] 、個人が他の人とコミュニケーションをとる行為 * [[1対1 (データモデル)]] 、データモデルの関係 * [[ワントゥワンマーケティング|1対1マーケティング]]またはパーソナライズドマーケティング、各顧客に独自の製品を提供する試み == 関連項目 == * [[1対多|1対多 (曖昧さ回避)]] * [[1+1 (曖昧さ回避)]] * [[多対多]] * [[ワン・オン・ワン|ワン・オン・ワン (曖昧さ回避)]] * [[ワンウェイ|ワンウェイ (曖昧さ回避)]] {{デフォルトソート:いちたいいち}} {{aimai}}
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線型方程式系
数学において線型方程式系(せんけいほうていしきけい)とは、同時に成立する複数の線型方程式(一次方程式)の組のことである。線形等の用字・表記の揺れについては線型性を参照。 複数の方程式の組み合わせを方程式系あるいは連立方程式と呼ぶことから、線型方程式系のことを一次方程式系、連立線型方程式、連立一次方程式などとも呼ぶこともある。 以下の式は、2 変数の線型方程式系の例である。 左側の記号(中括弧)は、特に必要というわけではないが、方程式系であることを明示するためによく用いられる。 この式において、2 つの線型方程式を同時に満たす (x, y) = (1, 2) が解である。 与えられた線型方程式系に属するすべての方程式を同時に満たすような変数の値のことを線型方程式系の解といい、線型方程式系の解を求めることを線型方程式系を解くという。 線型方程式系が与えられたとき、変数の数と方程式の本数を比べれば、その解は大まかに言って のようになっていると考えることができる。また、変数の数が多いときには、いくつかの変数を勝手な値をとることができる定数と思ってやることで、変数の数と方程式の本数が同じであると考えることができる。したがって、普段は方程式の数と変数の数が一致する方程式系を考えることが多い。 解法でよく知られたものとして以下の方法がある。いずれの方法も変数を減らしていき、一変数の方程式に帰着させることによって解く方法である。 n 変数 m 本の線型方程式系は一般に mn 個の係数 ai,j (i = 1, 2, ..., m, j = 1, 2, ..., n) および m 個の定数 b1, b2, ..., bm を用いて の形に表される。これを、記法を改めて と表示したり、あるいはさらに行列やベクトルを用いて、A = [ai j], x = [xj], b = [bi] などと置いてやれば と記述することができる(歴史的には、このような表記法を考えることで行列の概念が作り出されたのである)。ここで A をこの方程式系の係数行列、x を変数ベクトルという。また特に b が零ベクトル 0(すべての成分が 0)である場合に、この線型方程式は斉次(あるいは同次、homogeneous)であるといい、そうでないとき非斉次(あるいは非同次、inhomogeneous)であるという。非斉次の方程式 Ax = b が与えられたとき、b = 0 と置いて得られる斉次方程式 Ax = 0 はもとの非斉次方程式に随伴する斉次方程式であるという(随伴という代わりに、同伴する、付随する、対応する、伴うなどともいう)。 V と W を有限次元ベクトル空間とし、変数ベクトル x は V の中を動くものとし、W の元 b と係数行列 A によって定まる線型方程式系 を考える。また、行列 A の定める線型写像を fA: V → W と記すことにすると、この線型方程式系を解くという問題は、一点集合 {b} の fA による逆像 fA(b) の状態(ここで fA は一般には写像にはならず、逆対応の意味である)を記述する問題であると捉えることができる。 方程式系が斉次形 (b = 0) ならば、この方程式は常に零ベクトル x = 0 を解に持つ。これを斉次方程式の自明な解とよぶ。また斉次形ならば方程式の解の重ね合わせが可能である。つまり、 x と y が斉次線型方程式系の解であるとき、任意のスカラー α と β に対して、 αx + βy も同じ方程式系の解となる。したがって斉次方程式系の解全体の集合 fA(0) は V の線型部分空間をなし、方程式系の解ベクトル空間あるいは省略して解空間と呼ばれる。斉次方程式の解空間 fA(0) は fA の(あるいは A の)核と呼ばれるもので、斉次方程式系の解空間が部分空間をなすという事実は核 が V の部分空間を成すということに同じである。特に、解空間の次元は fA の退化次数 nul fA に等しい。このことはさらに、n = nul fA とおくと、方程式の一般解が n 個の一次独立な解(基本解) x1, x2, ..., xn と n 個の任意定数(パラメータ)c1, c2, ..., cn によって の形に表されると言い換えることができる。 方程式系が非斉次 (b ≠ 0) であるとき、b が線型写像 fA の像に含まれていなければ方程式系の解は存在せず、b が A の像に属すならば少なくとも一つの解が存在する。さらに線型写像 fA が全射ならば、任意の b ∈ W に対して方程式系は解を持つ。列ベクトル a1, a2, ..., ak によって A = (a1, a2, ..., ak) と表すと、b が線型写像 fA の像に含まれるということは、a1, a2, ..., ak の線型結合として b が表されるということであり、またこれは階数を用いれば、行列 A と行列 B = (a1, a2, ..., ak, b) の間に等式 rank A = rank B が成立することと述べることもできる。 非斉次の線型方程式系が2つの解 x と y を持つとき、差 x − y は 写像 fA の線型性によって A(x − y) = 0 をみたす。したがって、非斉次の線型方程式系の二つの解は随伴する斉次方程式系の解を加える分の違いしか持たない。ゆえに非斉次方程式系の解の一つ(特殊解)と随伴斉次方程式系の一般解により、非斉次方程式のすべての解を記述することができる。つまり、 x0 が Ax = b の特殊解であるならば、非斉次方程式の解の全体は で与えられる。これは ker A に随伴したアファイン空間であり、やはり方程式系の解空間と呼ばれる。随伴斉次方程式の基本解 x1, x2, ..., xn を用いれば の形にすべての解を書くことができる。 線型方程式 Ax = b の解が一意であることは、線型写像 fA が単射であることを意味し、これは ker A = {0} であることと同値である。する。またこれは、階数と退化次数の関係から、fA が非退化 (full rank) であるとも言い換えられる。またこのとき、さらに V, W の次元が同じならば、行列式 |A| は零でない。 方程式の数と変数の数が一致する場合において、A が正則行列ならば、A の逆行列と呼ばれる行列 A を用いて、この線型方程式系の解を と求めることが(論理的には)可能である。しかし、逆行列を計算することは一般に困難であり、数値計算的には別の解法が各種提案されている。 以下の 2 つは、線型代数学に重要な解法である。 実用上に出てくる問題は、問題の規模(方程式の本数や変数の数)が小さく、係数行列 A が密なものか、問題の規模は大きいものの、行列 A は疎でなおかつ性質があるものが多い(疎行列)。また行列 A は変わらず、定数ベクトル b をいくつも変えて計算する必要も生じる。従って、それぞれの状況に適した解法を選ぶ必要がある。 A が2次正方行列のとき の解は次のようになる。 a 11 a 22 − a 12 a 21 ≠ 0 {\displaystyle a_{11}a_{22}-a_{12}a_{21}\neq 0} のとき である。 a 11 a 22 − a 12 a 21 = 0 {\displaystyle a_{11}a_{22}-a_{12}a_{21}=0} のとき、 | a 11 | 2 + | a 12 | 2 ≠ 0 {\displaystyle |a_{11}|^{2}+|a_{12}|^{2}\neq 0} のときは、方程式が と書けて、 b 2 ≠ k b 1 {\displaystyle b_{2}\neq kb_{1}} のとき解なし。 b 2 = k b 1 {\displaystyle b_{2}=kb_{1}} のとき となる。 | a 11 | 2 + | a 12 | 2 = 0 {\displaystyle |a_{11}|^{2}+|a_{12}|^{2}=0} のときは、方程式は であり、 | a 21 | 2 + | a 22 | 2 ≠ 0 {\displaystyle |a_{21}|^{2}+|a_{22}|^{2}\neq 0} のとき、 b 1 ≠ 0 {\displaystyle b_{1}\neq 0} のとき解なし。 b 1 = 0 {\displaystyle b_{1}=0} のとき となる。 | a 21 | 2 + | a 22 | 2 = 0 {\displaystyle |a_{21}|^{2}+|a_{22}|^{2}=0} のとき、 | b 1 | 2 + | b 2 | 2 ≠ 0 {\displaystyle |b_{1}|^{2}+|b_{2}|^{2}\neq 0} のとき解なし。 b 1 = b 2 = 0 {\displaystyle b_{1}=b_{2}=0} のとき となる。 線型方程式系は、数学において伝統的な問題である。またさまざまな応用がある。
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数学において線型方程式系(せんけいほうていしきけい)とは、同時に成立する複数の線型方程式(一次方程式)の組のことである。線形等の用字・表記の揺れについては線型性を参照。 複数の方程式の組み合わせを方程式系あるいは連立方程式と呼ぶことから、線型方程式系のことを一次方程式系、連立線型方程式、連立一次方程式などとも呼ぶこともある。
{{出典の明記|date=2021-09-22 05:57(UTC)}} [[数学]]において'''線型方程式系'''(せんけいほうていしきけい)とは、同時に成立する複数の[[線型方程式]](一次方程式)の組のことである。'''線形'''等の用字・表記の揺れについては[[線型性]]を参照。 複数の[[方程式]]の組み合わせを'''[[方程式系]]'''あるいは'''[[方程式系|連立方程式]]'''と呼ぶことから、線型方程式系のことを'''一次方程式系'''、'''連立線型方程式'''、'''連立一次方程式'''などとも呼ぶこともある。 == 初等的説明 == 以下の式は、2 変数の線型方程式系の例である。 : <math>\begin{cases} x + 2y = 5\\ 2x + 3y = 8 \end{cases}</math> 左側の記号([[約物|中括弧]])は、特に必要というわけではないが、方程式系であることを明示するためによく用いられる。 この式において、2 つの線型方程式を同時に満たす (''{{mvar|x}}'', ''{{mvar|y}}'') = (1, 2) が解である。 与えられた線型方程式系に属するすべての方程式を同時に満たすような変数の値のことを'''線型方程式系の解'''といい、線型方程式系の解を求めることを'''線型方程式系を解く'''という。 線型方程式系が与えられたとき、変数の数と方程式の本数を比べれば、その解は大まかに言って # 変数の数の方が多いならば、(変数の数) &minus; (方程式の本数)の分だけ変数を自由に定めることができ、解が一つに定まらない。 # 変数の数と方程式の本数が一致するならば、解が存在し、一つに定まる。 # 方程式の本数の方が多いならば、制約が過剰なので、解が存在しない。 のようになっていると考えることができる。また、変数の数が多いときには、いくつかの変数を勝手な値をとることができる定数と思ってやることで、変数の数と方程式の本数が同じであると考えることができる。したがって、普段は方程式の数と変数の数が一致する方程式系を考えることが多い。 解法でよく知られたものとして以下の方法がある。いずれの方法も変数を減らしていき、一変数の方程式に帰着させることによって解く方法である。 ; 代入法 : いずれかの方程式を一つの変数について解き、他の方程式に[[変数 (数学)|代入]]することによって、変数を減らし、方程式を簡単にしてから解く方法。 ; 等値法(等置法) : それぞれの方程式を、特定の変数について解いたときの値を等しいとして、変数を消去する方法。代入法の一種とも言える。 ; 加減法 : 方程式の両辺を定数倍したり、足し引きすることによって、変数を[[ガウスの消去法|消去]]する方法。 == 行列と線型方程式系 == ''{{mvar|n}}'' 変数 ''{{mvar|m}}'' 本の線型方程式系は一般に ''{{mvar|mn}}'' 個の係数 ''{{mvar|a}}''<sub>''{{mvar|i}}'',''{{mvar|j}}''</sub> (''{{mvar|i}}'' = 1, 2, ..., ''{{mvar|m}}'', ''{{mvar|j}}'' = 1, 2, ..., ''{{mvar|n}}'') および ''{{mvar|m}}'' 個の定数 ''{{mvar|b}}''<sub>1</sub>, ''{{mvar|b}}''<sub>2</sub>, ..., ''{{mvar|b}}''<sub>''{{mvar|m}}''</sub> を用いて : <math>\left\{\begin{matrix} a_{1,1}x_1 + a_{1,2}x_2 +\cdots + a_{1,n}x_n &=& b_1\\ a_{2,1}x_1 + a_{2,2}x_2 +\cdots + a_{2,n}x_n &=& b_2\\ \vdots &\vdots &\vdots \\ a_{m,1}x_1 + a_{m,2}x_2 +\cdots + a_{m,n}x_n &=& b_m \end{matrix}\right.</math> の形に表される。これを、記法を改めて : <math>\begin{bmatrix} a_{1,1} & a_{1,2} &\cdots & a_{1,n}\\ a_{2,1} & a_{2,2} &\cdots & a_{2,n}\\ \vdots & \vdots &\ddots & \vdots \\ a_{m,1} & a_{m,2} &\cdots & a_{m,n} \end{bmatrix}\begin{bmatrix} x_1 \\ x_2 \\ \vdots \\ x_n \end{bmatrix} = \begin{bmatrix} b_1 \\ b_2 \\ \vdots \\ b_m \end{bmatrix}</math> と表示したり、あるいはさらに[[行列 (数学)|行列]]や[[ベクトル空間|ベクトル]]を用いて、''{{mvar|A}}'' = [''{{mvar|a}}''<sub>''{{mvar|i j}}''</sub>], '''{{mvar|x}}''' = [''{{mvar|x}}''<sub>''{{mvar|j}}''</sub>], '''{{mvar|b}}''' = [''{{mvar|b}}''<sub>''{{mvar|i}}''</sub>] などと置いてやれば : <math>Ax = b</math> と記述することができる(歴史的には、このような表記法を考えることで行列の概念が作り出されたのである)。ここで ''{{mvar|A}}'' をこの方程式系の'''係数行列'''、'''{{mvar|x}}''' を変数ベクトルという。また特に '''{{mvar|b}}''' が零ベクトル '''0'''(すべての成分が 0)である場合に、この線型方程式は'''斉次'''(あるいは'''同次'''、<em lang="en">homogeneous</em>)であるといい、そうでないとき'''非斉次'''(あるいは'''非同次'''、<em lang="en">inhomogeneous</em>)であるという。非斉次の方程式 ''{{mvar|A}}'''''{{mvar|x}}''' = '''{{mvar|b}}''' が与えられたとき、'''{{mvar|b}}''' = '''0''' と置いて得られる斉次方程式 ''{{mvar|A}}'''''{{mvar|x}}''' = '''0''' はもとの非斉次方程式に'''随伴'''する斉次方程式であるという(随伴という代わりに、'''同伴'''する、'''付随'''する、'''対応'''する、伴うなどともいう)。 == 線型方程式系の解空間 == ''{{mvar|V}}'' と ''{{mvar|W}}'' を有限次元[[ベクトル空間]]とし、変数ベクトル '''{{mvar|x}}''' は ''{{mvar|V}}'' の中を動くものとし、''{{mvar|W}}'' の元 '''{{mvar|b}}''' と係数行列 ''{{mvar|A}}'' によって定まる線型方程式系 : <math> Ax = b</math> を考える。また、行列 ''{{mvar|A}}'' の定める[[線型写像]]を ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub>: ''{{mvar|V}}'' &rarr; ''{{mvar|W}}'' と記すことにすると、この線型方程式系を解くという問題は、一点集合 {'''{{mvar|b}}'''} の ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> による逆像 ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub><sup>&minus;1</sup>('''{{mvar|b}}''') の状態(ここで ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub><sup>&minus;1</sup> は一般には写像にはならず、[[対応 (数学)|逆対応]]の意味である)を記述する問題であると捉えることができる。 : <small>本項目は線型方程式の有限系を考察対象とするため、''{{mvar|V}}'' と ''{{mvar|W}}'' は有限次元であると仮定するが、基本的に以下の議論はベクトル空間 ''{{mvar|V}}'' と ''{{mvar|W}}'' が無限次元であってもほとんどの場合は、適当な読み替えのもとに成立する。一般の場合は[[線型方程式]]の項を参照されたい。</small> 方程式系が斉次形 ('''{{mvar|b}}''' = '''0''') ならば、この方程式は常に零ベクトル '''{{mvar|x}}''' = '''0''' を解に持つ。これを斉次方程式の'''自明な解'''とよぶ。また斉次形ならば方程式の'''解の重ね合わせ'''が可能である。つまり、 '''{{mvar|x}}''' と '''{{mvar|y}}''' が斉次線型方程式系の解であるとき、任意のスカラー &alpha; と &beta; に対して、 &alpha;'''{{mvar|x}}''' + &beta;'''{{mvar|y}}''' も同じ方程式系の解となる。したがって斉次方程式系の解全体の集合 ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub><sup>&minus;1</sup>('''0''') は ''{{mvar|V}}'' の[[線型部分空間]]をなし、方程式系の'''解ベクトル空間'''あるいは省略して'''解空間'''と呼ばれる。斉次方程式の解空間 ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub><sup>&minus;1</sup>('''0''') は ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> の(あるいは ''{{mvar|A}}'' の)[[零空間|核]]と呼ばれるもので、斉次方程式系の解空間が部分空間をなすという事実は核 : <math> \ker A = \ker f_A := x \in V \mid Ax=\mathbf{0} \} </math> が ''{{mvar|V}}'' の部分空間を成すということに同じである。特に、解空間の次元は ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> の[[行列の階数|退化次数]] nul ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> に等しい。このことはさらに、''{{mvar|n}}'' = nul ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> とおくと、方程式の一般解が ''{{mvar|n}}'' 個の一次独立な解('''基本解''') '''{{mvar|x}}'''<sub>1</sub>, '''{{mvar|x}}'''<sub>2</sub>, ..., '''{{mvar|x}}'''<sub>''{{mvar|n}}''</sub> と ''{{mvar|n}}'' 個の任意定数([[助変数|パラメータ]])''{{mvar|c}}''<sub>1</sub>, ''{{mvar|c}}''<sub>2</sub>, ..., ''{{mvar|c}}''<sub>''{{mvar|n}}''</sub> によって : <math>c_1x_1 + c_2x_2 + \cdots + c_nx_n</math> の形に表されると言い換えることができる。 方程式系が非斉次 ('''{{mvar|b}}''' &ne; '''0''') であるとき、'''{{mvar|b}}''' が線型写像 ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> の[[写像|像]]に含まれていなければ方程式系の解は存在せず、'''{{mvar|b}}''' が ''{{mvar|A}}'' の像に属すならば少なくとも一つの解が存在する。さらに線型写像 ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> が[[全射]]ならば、任意の '''{{mvar|b}}''' &isin; ''{{mvar|W}}'' に対して方程式系は解を持つ。列ベクトル '''{{mvar|a}}'''<sub>1</sub>, '''{{mvar|a}}'''<sub>2</sub>, ..., '''{{mvar|a}}'''<sub>''{{mvar|k}}''</sub> によって ''{{mvar|A}}'' = ('''{{mvar|a}}'''<sub>1</sub>, '''{{mvar|a}}'''<sub>2</sub>, ..., '''{{mvar|a}}'''<sub>''{{mvar|k}}''</sub>) と表すと、'''{{mvar|b}}''' が線型写像 ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> の像に含まれるということは、'''{{mvar|a}}'''<sub>1</sub>, '''{{mvar|a}}'''<sub>2</sub>, ..., '''{{mvar|a}}'''<sub>''{{mvar|k}}''</sub> の線型結合として '''{{mvar|b}}''' が表されるということであり、またこれは[[行列の階数|階数]]を用いれば、行列 ''{{mvar|A}}'' と行列 ''{{mvar|B}}'' = ('''{{mvar|a}}'''<sub>1</sub>, '''{{mvar|a}}'''<sub>2</sub>, ..., '''{{mvar|a}}'''<sub>''{{mvar|k}}''</sub>, '''{{mvar|b}}''') の間に等式 {{mvar|'''rank'''}} ''{{mvar|A}}'' = {{mvar|'''rank'''}} ''{{mvar|B}}'' が成立することと述べることもできる。 非斉次の線型方程式系が2つの解 '''{{mvar|x}}''' と '''{{mvar|y}}''' を持つとき、差 '''{{mvar|x}}''' &minus; '''{{mvar|y}}''' は 写像 ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> の線型性によって ''{{mvar|A}}''('''{{mvar|x}}''' &minus; '''{{mvar|y}}''') = '''0''' をみたす。したがって、非斉次の線型方程式系の二つの解は随伴する斉次方程式系の解を加える分の違いしか持たない。ゆえに非斉次方程式系の解の一つ(特殊解)と随伴斉次方程式系の一般解により、非斉次方程式のすべての解を記述することができる。つまり、 '''{{mvar|x}}'''<sub>0</sub> が ''{{mvar|A}}'''''{{mvar|x}}''' = '''{{mvar|b}}''' の特殊解であるならば、非斉次方程式の解の全体は : <math> x_0 + \ker f_A := x_0 + v \in V \mid Av = \mathbf{0} \}</math> で与えられる。これは ker ''{{mvar|A}}'' に随伴した[[アファイン空間]]であり、やはり方程式系の'''解空間'''と呼ばれる。随伴斉次方程式の基本解 '''{{mvar|x}}'''<sub>1</sub>, '''{{mvar|x}}'''<sub>2</sub>, ..., '''{{mvar|x}}'''<sub>''{{mvar|n}}''</sub> を用いれば : <math>x_0 + c_1x_1 + c_2x_2 + \cdots + c_nx_n</math> の形にすべての解を書くことができる。 線型方程式 ''{{mvar|A}}'''''{{mvar|x}}''' = '''{{mvar|b}}''' の解が一意であることは、線型写像 ''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> が[[単射]]であることを意味し、これは ker ''{{mvar|A}}'' = {'''0'''} であることと同値である。する。またこれは、階数と退化次数の関係から、''{{mvar|f}}''<sub>''{{mvar|A}}''</sub> が非退化 <span lang="en">(full rank)</span> であるとも言い換えられる。またこのとき、さらに ''{{mvar|V}}'', ''{{mvar|W}}'' の次元が同じならば、行列式 |''{{mvar|A}}''| は零でない。 == 解法 == 方程式の数と変数の数が一致する場合において、''{{mvar|A}}'' が[[正則行列]]ならば、''{{mvar|A}}'' の[[正則行列|逆行列]]と呼ばれる行列 ''{{mvar|A}}''<sup>&minus;1</sup> を用いて、この線型方程式系の解を : <math>x = A^{-1}b</math> と求めることが(論理的には)可能である。しかし、逆行列を計算することは一般に困難であり、数値計算的には別の解法が各種提案されている。 以下の 2 つは、[[線型代数学]]に重要な[[解法]]である。 * [[ガウスの消去法]] * [[行列の基本変形]] 実用上に出てくる[[問題]]は、問題の規模(方程式の本数や変数の数)が小さく、係数行列 ''{{mvar|A}}'' が[[密]]なものか、問題の規模は大きいものの、行列 ''{{mvar|A}}'' は[[疎]]でなおかつ性質があるものが多い([[疎行列]])。また行列 ''{{mvar|A}}'' は変わらず、定数ベクトル '''{{mvar|b}}''' をいくつも変えて計算する必要も生じる。従って、それぞれの状況に適した解法を選ぶ必要がある。 * [[LU分解]] * [[特異値分解]] * [[共役勾配法]] == 具体例 == ''{{mvar|A}}'' が2次正方行列のとき :<math> \begin{bmatrix} a_{1 1}&a_{1 2}\\ a_{2 1}&a_{2 2} \end{bmatrix} \begin{bmatrix} x_1\\ x_2 \end{bmatrix} = \begin{bmatrix} b_1\\ b_2 \end{bmatrix} </math> の解は次のようになる。 <math>a_{11}a_{22}-a_{12}a_{21}\ne 0</math> のとき :<math> \begin{bmatrix} x_1\\ x_2 \end{bmatrix} =\frac{1}{a_{11}a_{22}-a_{12}a_{21}} \begin{bmatrix} a_{22}b_1-a_{12}b_2\\ -a_{21}b_1+a_{11}b_2 \end{bmatrix} </math> である。 <math>a_{11}a_{22}-a_{12}a_{21}= 0</math> のとき、<math>|a_{11}|^2+|a_{12}|^2\ne 0</math>のときは、方程式が :<math> \begin{bmatrix} a_{11}&a_{12}\\ ka_{11}&ka_{12} \end{bmatrix} \begin{bmatrix} x_1\\ x_2 \end{bmatrix} = \begin{bmatrix} b_1\\ b_2 \end{bmatrix},\quad k=\frac{\overline{a_{11}}a_{21}+\overline{a_{12}}a_{22}}{|a_{11}|^2+|a_{12}|^2} </math> と書けて、<math>b_2\ne kb_1</math>のとき解なし。<math>b_2= kb_1</math>のとき :<math> \begin{bmatrix} x_1\\ x_2 \end{bmatrix} =\frac{b_1}{|a_{11}|^2+|a_{12}|^2} \begin{bmatrix} \overline{a_{11}}\\ \overline{a_{12}} \end{bmatrix} +t \begin{bmatrix} -a_{12}\\ a_{11} \end{bmatrix},\quad (t\in \mathbb{C}) </math> となる。 <math>|a_{11}|^2+|a_{12}|^2=0</math>のときは、方程式は :<math> \begin{bmatrix} 0&0\\ a_{21}&a_{22} \end{bmatrix} \begin{bmatrix} x_1\\ x_2 \end{bmatrix} = \begin{bmatrix} b_1\\ b_2 \end{bmatrix} </math> であり、 <math>|a_{21}|^2+|a_{22}|^2\ne 0</math>のとき、<math>b_1\ne 0 </math>のとき解なし。<math>b_1= 0 </math>のとき :<math> \begin{bmatrix} x_1\\ x_2 \end{bmatrix} =\frac{b_2}{|a_{21}|^2+|a_{22}|^2} \begin{bmatrix} \overline{a_{21}}\\ \overline{a_{22}} \end{bmatrix} +t \begin{bmatrix} -a_{22}\\ a_{21} \end{bmatrix},\quad (t\in \mathbb{C}) </math> となる。 <math>|a_{21}|^2+|a_{22}|^2= 0</math>のとき、<math>|b_1|^2+|b_2|^2\ne 0 </math>のとき解なし。 <math>b_1=b_2= 0 </math>のとき :<math> \begin{bmatrix} x_1\\ x_2 \end{bmatrix} =s \begin{bmatrix} 1\\ 0 \end{bmatrix} +t \begin{bmatrix} 0\\ 1 \end{bmatrix},\quad (s,\,t\in \mathbb{C}) </math> となる。 == 応用 == 線型方程式系は、数学において伝統的な問題である。またさまざまな応用がある。 * [[信号処理]] * [[線形計画問題|線型計画問題]] * [[線型近似]](たとえば[[ニュートン法]]、[[有限要素法]]等) == 関連項目 == * [[線型方程式]] * [[線型代数学]] * [[行列 (数学)|行列]] * [[クラメルの公式]] * [[疎行列]] * [[非線型方程式系]] == 脚注 == <references/> {{Linear algebra}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:せんけいほうていしきけい}} [[Category:線型代数学]] [[Category:初等数学]] [[Category:方程式]] [[Category:数学に関する記事]]
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