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エリ・カルタン
エリ・カルタン(Élie Joseph Cartan, 1869年4月9日 - 1951年5月6日)はフランスの数学者。リー群、微分幾何学に大きな業績を残した。数学界の巨人のひとり。 イゼール県ドロミューで、父親は鍛冶屋、母は絹織物工で、幼時より非凡な才能を示し、記憶力は抜群であった。 高等師範学校にすすみ、エミール・ピカールなどの講義をうける。ソルボンヌ大学にも通い、グルサやエルミートの講義などに感激した。 25歳の時に出した学位論文「有限次元連続変換群の構造について」は学者としての地位を約束するものであった。この論文によりみとめられ、1894年、モンペリエ大学の講師に任命される。 その後、40歳でパリ大学の講師に任命される。研究は多岐におよび、対称空間の発見、微分形式の導入(1899年)、接続の概念の提唱など基本的な重要な仕事をした。リー群論、スピノル理論、連続群論、微分幾何学、積分不変式など。 子供は4人、3男1女、長男アンリは関数論の専門家、次男ジャンは作曲家だが夭逝、三男ルイは物理学者、長女エレーヌは数学教師。
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エリ・カルタンはフランスの数学者。リー群、微分幾何学に大きな業績を残した。数学界の巨人のひとり。
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エヴァリスト・ガロア
エヴァリスト・ガロア(Évariste Galois, 1811年10月25日 - 1832年5月31日)は、フランスの数学者であり革命家である。フランス語の原音(IPA: [evaʁist ɡalwa])に忠実に「ガロワ」と表記されることもある。 数学者として10代のうちにガロア理論の構成要素である体論や群論の先見的な研究を行った。ガロアはガロア理論を用い、ニールス・アーベルによる「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」という定理(アーベル-ルフィニの定理)の証明を大幅に簡略化し、また、より一般にどんな場合に与えられた方程式が代数的な解の表示を持つかについての特徴付けを与えた。また、数学史上初めてカテゴリー論的操作によって自らの理論の基礎を構築している。 群論は数学の分野において重要であるだけでなく、数学以外、例えば物理学では相対性理論や量子力学などを厳密に(形式的に)記述するツールとして用いられる。また、計算機科学、特に理論計算機科学においてガロア体、特に位数2のガロア体 F2 は最も多用される数学的ツールのひとつである。 このように代数学で重要な役割を果たす「ガロア理論」は、現代数学の扉を開くとともに、20世紀、21世紀科学のあらゆる分野に絶大な影響を与えている。しかし、ガロアの業績の真実と重要性、先見性は当時世界最高の研究機関であったパリ科学アカデミーを初め、ガウスやコーシー、ヤコビと言った歴史に名を残した同時代の偉大な数学者達にさえ理解されず、生前に評価されることはなかった。群論の基礎概念とも言える集合論がゲオルク・カントールによって提唱され、「ガロア理論」へと通じる数学領域が構築されるのでさえ、ガロアによるガロア理論構築の50年も後のことである。 ガロアの遺書となった友人宛の手紙には、後の数学者たちにとって永年の研究対象となる理論に対する着想が「僕にはもう時間がない」 (je n'ai pas le temps) という言葉と共に書き綴られている。 例えば、代数的には解けない五次以上の方程式の解を与える、楕円モジュラー関数による超越的解の公式の存在をガロアは予言し、そのアイデアを記している。なお、この手法はガロアの死後50年の時を経てシャルル・エルミートによって確立される。 ガロアについては、群論の内容が難解な事もあり、一般にはその激動の生涯の方がよく知られている。その数学的業績はガロアの死後40年経ってから注目を集めるようになったが、一方でガロアの生涯やその人物像に関しては長年顧みられることがなかった。ガロアの生涯に関する最初の本格的な研究の成果は、1896年に発表された高等師範学校(École Normale Supérieure)の歴史学教授ポール・デュピュイ(fr)の約70ページの論文「エヴァリスト・ガロアの生涯」(La vie d'Evariste Galois)であった。デュピュイはガロアの母方の親戚や、姉の遺族、および当時まだ存命だったガロアの学友の証言を得た上で、様々な資料をまとめ上げてこの論文を完成させた。また、有名なガロアの15歳頃の肖像画も、姉の遺族が所有していたものがデュピュイによって同時に発表されている。この論文は、後世における全てのガロアの生涯研究における原典となり、現代まで影響を与えている。以下の記述も注記がない限りはデュピュイの論文に基づいている。 ガロアは1811年、パリ郊外の町ブール=ラ=レーヌに生まれた。父ニコラ・ガブリエル・ガロアは当時公立学校の校長で、のちに町長に任命された。社交的な性格であり、即興で詩を作ることが得意だったという。母アデライド・マリ・ドマントは親族に法学と古典の教授が多かったこともあり、教養の深い人物であった。また、2歳上の姉ナタリー・テオドール(後のシャントロー夫人)、3歳年下の弟アルフレッドがいて、この5人家族は明るい家庭を築いていたようである。エヴァリストは12歳までは母親の元で教育を受けていたが、1823年からはパリの名門リセである寄宿制のリセ・ルイ=ル=グランに入学した。 ガロアが入学した当時、王政復古とイエズス会の影響もあって校長は保守的・宗教的であり、生徒達は校長にしばしば反抗した。このような校内の雰囲気が、ガロアの性格や思想に影響を与えたようである。一方、学業においては入学した翌年の第3学年にはラテン語の優秀賞やギリシア語の最優秀賞を受けるなど良好であった。しかし翌年の第2学年になると学業をおろそかにするようになり、また、健康も優れていなかったので、校長からは第2学年をもう一度やり直した方が良いという意見が出された。当初は予定通り修辞学級(第1学級)に進んだものの、やはり態度は改まらず、結局2学期から留年することとなった。 そこで時間を持て余したガロアは、数学準備級の授業にも出席するようになった。当時のフランスでは数学教育は重視されておらず、数学は将来の進む方向によって補習科で教えられていたのみだった。当時の数学教師ヴェルニエ(本名ジャン・イポリット・ヴェロン)は若く熱心であり、エウクレイデスからアドリアン=マリー・ルジャンドルに至るまでの幾何学を教えていた。ガロアの学友によれば、ガロアはルジャンドルが著した初等幾何学の教科書を読み始めたところ、すっかり熱中してしまい、2年間の教材を2日間で読み解いてしまったという。また同時に、彼は五次方程式の解法を発見したと錯覚し、凡庸な数学的才能しか持たないヴェルニエは対応に苦慮したようである。記録によれば、ヴェルニエを初めとする教師のガロアへの評価は時間を経るごとに低下したようであり、また学校は「数学への熱狂に支配されている」と評価している。 1897年に『ガロア全集』に序文を加えたエミール・ピカールは、ガロアが数学の才能を開花させたことで「過度の自尊心が芽生えてしまった」と評している。また1828年に理工科学校(École Polytechnique)の試験に挑戦したが、失敗している。 同年にはガロアは飛び級で数学特別級に進級した。この時修めた物理と化学では「少しも勉強しない」と酷評されている。一方、数学ではルイ・ポール・エミール・リシャール(fr)という優れた教師に出会い、リシャールもガロアを高く評価した。またリシャールから代数方程式解法に関するジョゼフ=ルイ・ラグランジュの論文を薦められたようで、その影響で1829年4月1日に最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」(Démonstration d'un théorème sur les fractions continues périodique)を発表している。約1ヵ月後、ガロアは17歳の若さで素数次方程式を代数的に解く方法を発見し、その研究論文をオーギュスタン=ルイ・コーシーに預けフランス学士院に提出するように頼んだが、実際には提出されなかった。 1971年に数学史家ルネ・タトン(fr)が発見した書簡によれば、コーシーはガロアに面会し、その論文を1830年1月18日の学士院会合の場で発表すると約束しておきながら、その日は体調不良により欠席し、それ以降の会合でもガロアに言及する事はなく、結果的にガロアの論文は紛失された。こうしたコーシーの若い才能に対する無関心は、現代に至るまで後述のリガテリなどによって批判されている。ただし、この経緯には異説もあり、加藤文元はコーシーがガロアの理論を高く評価し、アカデミーの数学論文大賞に応募するためにこの論文を新たに提出させたと主張している。コーシーはその後、フランス7月革命を契機にフランスを離れ、帰国したのはそれから8年後だった。 さらに1829年7月2日、ガロアの父がパリのアパートで自殺した。ガロアの親族がデュピュイに語った内容によると、当時は王政復古の影響で教会は保守的な勢力で占められ、教会の司祭たちは、自由主義的な思想の町長であるガロアの父に対して何かと反発していた。そこで彼らは、ガロアの父の詩の文体を真似て卑猥な詩を作り、それが彼のものであると言いふらした。その中には家族を傷つけるものもあった。ガロアの父は精神を病むにいたり、その結果自殺したという。父を敬愛していたエヴァリストにとっては、当然この事件は深い傷となった。 さらにその同月または1ヵ月後には、ガロアは再び理工科学校への受験に挑戦したが失敗した。伝説によれば、この時の口述試験の担当者が対数に関する愚問をしつこく出し、ガロアの回答に満足しなかったために、頭に来たガロアがその試験官に向かって黒板消しを投げつけたという。理工科学校は最も高等な数学が教えられ、さらに自由主義的な雰囲気に満ちていたためにガロアは入学を切望していたが、その入学試験は2回までと制限されていたため、ガロアの望みは絶たれてしまった。 その後、ガロアはルイ・ル・グランに隣接するもう1つの有名な大学・準備学校(École Préparatoire、後の高等師範学校)を目指す事にした。願書受付期間は既に過ぎていたが、リシャールなどの後押しによって8月20日から25日まで入学試験を受験し、10月25日に入学が認められた。さらに12月には文科及び理科のバカロレアにも合格した。なお、理科の試験において、数学では10点満点中8点を与えられ、「才能に恵まれており、非常に注目すべき研究精神を持っている」と賞賛されたが、物理では「彼は全く何も知らず、とてもよい教師になれそうもない」と酷評されている。1830年2月20日には学費支給を受ける代わりに、卒業後は10年間公教育のために働く旨の契約書を提出している。 宣誓書提出の少し前に、ガロアは以前コーシーが紛失した論文を書き直した上で、改めてフランス学士院に提出した。だが、その審査員で論文を預かっていたジョゼフ・フーリエが急死したため、またしても論文は紛失してしまった。こうして立て続けに起きた不運や挫折は、ガロアの政治活動をますます活発にさせた。 準備学校において、ガロアはオーギュスト・シュヴァリエ(fr)という共和主義者と出会っている。シュヴァリエの影響で共和主義に傾倒していったガロアは、フランス7月革命が起きた時に自分も参加しようと試みた。しかし、日和見的な校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーはそれを許さず生徒を校舎に閉じ込め、革命収束後に発足した旧態依然の臨時政府に従う旨を決定した。武器を手にして革命に参加し、戦火に身を投じた理工科学校とのあまりの対応の違いに、ガロアは反発を強めていった。 8月6日、準備学校は「師範学校」(École Normale)と改められ、修業期間が2年から3年に延びたため、早い卒業を望んでいたガロアを一層苛立たせた。ガロアは急進共和派の秘密結社「民衆の友の会」(Société des amis du peuple)(fr)に加わり、さらに度々校長の言動に反発したため、目を付けられるようになった。 12月3日、一連のギニョーの対応を嘲笑するようなガロアの記事を学校新聞で発表したため、ギニョーは12月9日にガロアを追放し、1831年1月3日に正式な放校処分が決定した。 以前、ガロアが執筆した論文が不運によって2度も紛失したことに同情した学士院のシメオン・ドニ・ポアソンが、ガロアにもう一度学士院に論文を提出するよう呼びかけ、その誘いに応じて1831年1月17日に再度11ページの論文「方程式の冪根による可解条件についての考察」(Mémoire sur les conditions de résolubilité des équations par radicaux)を提出した。また彼は1月13日より毎週木曜日、ソルボンヌ通りのカイヨー書店において、いくつかの新理論を含めた代数学の講義を行うなど、数学的活動を続けていた。一方で、その頃のガロアは相当荒んでいたようで、数学の会合で悪態をつき、さらに家庭でも生活態度を改めなかったために母は家を出ざるを得ない状況となり、まるで狂ってしまったようだったという。また、親族の言い伝えによれば、ガロアは家族の前で「もし民衆を蜂起させるために誰かの死体が必要なら、僕がなってもいい」と口にしていたという。 4月、解散を命じられた国民軍19人が制服を着用してパリの街中を歩いたために逮捕された。この事件は5月2日に無罪判決が出たが、その日の夜にレストランで開催された祝宴会において、ガロアはナイフの切先をグラスに突き出す形で「ルイ・フィリップに乾杯」と叫んだ。これが王の命を脅かすものとして、翌日ガロアは逮捕された。6月15日に開かれた裁判では、ガロアは自分が不利になる供述も平然と行ったが、弁護士の努力により無罪となった。この裁判の模様は、アレクサンドル・デュマの回顧録にも詳細に記載されている。 7月14日、ガロアは法学の学生で同じ「民衆の友の会」会員のヴァンサン・デュシャートレと共に、国民軍の制服と以前王の命を脅かしたナイフを着用してパリ市内を行進し、ポン・ヌフ橋上で逮捕された。 12月3日に有罪が確定し、デュシャートレは禁固3ヵ月、ガロアは禁固6ヵ月の刑を宣告された。 投獄されたサント・ペラジー刑務所(fr)において、かつてポアソンに送った論文が「説明不十分で理解できないから、もっとわかりやすく書き直して欲しい」というポアソンの返事と共にガロアに返却された。加えて、刑務所内でガロアは他の囚人からいじめられ、飲酒を強要されることもあったことが、同時期に獄中にいた薬学者のフランソア・ヴァンサン・ラスパイユ(fr)の獄中記に記されている。また、姉ナタリーや弟アルフレッドは何度かガロアの元へ面会に訪れているが、12月付けのナタリーの日記には弟がひどく不健康で老け込んだ様子が記されている。また、同じ共和主義者のオーギュスト・シュヴァリエも何度も面会に訪れ、友情を深めていたようである。 この年の暮れよりパリ市内でコレラが流行し、ガロアは刑期を1ヵ月残して1832年3月16日、監獄から数百メートル離れたフォートリエ療養所へ仮出所した。 その後、そこで失恋を経験したようで、5月25日には今後の予定を記しつつ、絶望に打ちひしがれた心境を綴った手紙をシュヴァリエに送っている。 そして5月29日、「すべての共和主義者」及びイニシャルのみ記した2人の友人への2通の手紙にガロアは「つまらない色女に引っかかって決闘を申し込まれた」という旨を記している。 同時に、ポアソンから返却された論文の添削やシュヴァリエへの数学的な発想を断片的に書いた手紙を、ガロアは「僕にはもう時間がない」と走り書きしつつ大急ぎでしたため、ドイツの数学者であるカール・フリードリヒ・ガウスやカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビに意見を求めるよう依頼している。 そして30日早朝、パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの沼の付近で決闘は行われた。その決闘の結果、ガロアは負傷し、その場で放置され、午前9時になって近くの農夫によってコシャン病院(fr)に運ばれた。ガロアが牧師の立会いを拒否した後しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。弟の涙ぐむ姿をみて、ガロアはこう言ったという。 それがガロアの最後の言葉となり、夕方には腹膜炎を起こし、31日午前10時に息を引き取った(享年20歳)。 ガロアの葬儀は6月2日にモンパルナスの共同墓地で行われ、2000~3000人の共和主義者が集まり、「民衆の友の会」の2人の会員が弔辞を読み上げた。現在その墓地は跡形も残っていない。 1982年、ガロア没後150年を記念した墓碑がブール=ラ=レーヌに建てられた。 ガロアの死後、シュヴァリエは遺書に従って1832年に『百科評論雑誌』(Revue encyclopédique)に「死者小伝」(Nécrologie)と題したガロアの論文等を掲載した。また、ガロアの弟アルフレッドと共に、複数の著名な数学者へ論文の写しを送ったものの、当初は誰も理解できるものはいなかったようである。しかし、何らかのきっかけで、その写しがジョゼフ・リウヴィルの手元に渡った。リウヴィルはこの論文を理解しようと努め、ついに1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』(Journal de mathématique pures et appliquées)に掲載された。その際、ガロアが生前認められなかった理由を、簡潔にまとめようという意識が過剰であり、明快さに欠けたためと分析している。リヒャルト・デーデキントは1855年から1857年にかけてゲッティンゲン大学でガロア理論に関する最初の講義をおこなった。カミーユ・ジョルダンによって1870年に発表された667ページに及ぶ著書『置換と代数方程式論』 (Traité des substitutions et des équations algebraique) はガロア理論に関する包括的な解説として最も古いものである。ジョルダンはその序文において、「本書はガロアの諸論文の注釈に過ぎない」と述べている。 1848年には『ル・マガザン・ピトレスク』(Magasin Pittoresque、挿絵付雑誌の意)に、ガロアに関する匿名の短い伝記が、弟のアルフレッドが記憶をたどって描いた肖像画と共に掲載されている。1872年には、ガロアの母が84歳で亡くなっている。1897年には、エミール・ピカールの序文付きでリウヴィルの編集した『ガロア全集』が刊行されている。 ガロアが起こした決闘の原因はある女性の名誉を守るためといわれていたが、忠実な共和党員であった彼の死は、反動派か秘密警察によるものという説もあった。その中でも有名なのがレオポルト・インフェルトの1948年の著書『神々の愛でし人』(Whom the gods love)である。その根拠としてインフェルトは、以下の点を挙げている。 しかしながら、インフェルトは自説に都合の悪い箇所はわざと隠していた。デュピュイがガロアの親族から聞いた言い伝えによれば、ガロアは恋愛相手の女性の叔父と許婚を自称する2人の人物から決闘を申し込まれた。ガロアの遺書によれば、2人は愛国者であった。またアレクサンドル・デュマは回顧録において、ガロアは「民衆の友の会」の一員であるペシュー・デルバンヴィルという人物によって決闘で殺されたという一文を残している。これらの資料を基に、インフェルトはデルバンヴィルが決闘によってガロアを殺したスパイであったと記述している。だが、共和主義者の秘密結社に潜入していた警察側のスパイの正体は、1848年の2月革命の折に、そのスパイの1人であったルシアン・ド・ラ・オッドによって全て暴露された。その時、デルバンヴィルはフォンテーヌブロー城の管理という重要な役目を任されており、彼がスパイだったということはあり得ないとデュピュイは記している。 さらに、ガロアがサント・ペラジー刑務所において「僕はつまらない色女のために、決闘で死ぬこととなるだろう」という自分の将来に対する予言がラスパイユの獄中記に書かれていた事実を、インフェルトは意図的に自身の作品に書かなかった。なお、この決闘にまつわるガロアの親族の言い伝えは不自然な点が含まれるため、いずれもアルフレッドの創作ではないかとデュピュイは推理している。 インフェルトがこのような作品を記したのは、自身の祖国ポーランドがナチス・ドイツの侵攻を受け、ガロアに自身の姿を重ね合わせたためと思われる。なお、インフェルトは伝記の文頭と文末に、新しい証拠が発見されて真相がさらに明らかとなる可能性は極めて疑わしいと述べている。だが、後述の通り、その予想は14年後に覆される事となった。 1962年、アメリカ合衆国ニューヨーク州のイサカで科学史の国際会議が行われた時、ウルグアイの数学者カルロス・アルベルト・インファントッシによって、決闘の原因と言われていた女性の素性が明らかとなった。彼女の名はステファニー・フェリス・ポトラン・デュ・モテル(1812年5月11日 - 1893年1月25日)といい、ガロアが最後に暮らしたフォートリエ療養所の医師で所長だったジャン・ルイ・ポトラン・デュ・モテルの娘であった。彼らは親子共に親切な人物で、ガロアは次第にステファニーに恋愛感情を抱くようになって求婚したらしく、それに対する5月14日付でのステファニーによる断りの手紙の文面が、ガロア自身の筆跡でシュヴァリエへの書簡の裏に転記されていた。その内容は文面を見る限り礼儀正しいものであり、少なくとも残された文章を見た印象では彼女が「つまらない色女」と表現されるような人物などではなく、そもそもガロアの遺書自体が真実を記したものとは言い切れないことも明らかになった。なお、ステファニーは1840年1月11日に言語学者のオスカー・テオフィル・バリューと結婚している。 1993年、イタリアの数学史研究家ラウラ・トティ・リガテッリはガロアの生涯に関する著書『バリケードの中の数学』(Matematica sulla barricate)を発表した。彼女は新資料として、ガロアの死に関する記事が掲載された、1832年6月1日付のリヨンの新聞『先駆者』(Précurseur)を挙げている。記事にはガロアの年齢を22歳であったとか、ルイ・フィリップ乾杯事件で有罪になったなどの誤記が含まれるものの、文章自体は良くまとまったものであった。その記事によれば、ガロアはかつて同時に法廷に出たことのある友人「L.D.」によって殺され、その際は用意した拳銃の片方にだけ弾丸を込め、くじを引いてどの拳銃を使うかを決めたということである。なお前述の通り、ガロアと一緒に法廷に出た人物といえばデュシャートレしかいない。その上でリガテッリは、決闘であるならば勝つ可能性もあるのに、ガロアの死を確信した遺書に対する不自然性を指摘し、決闘の真相を次のように解釈している。
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}, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ガロアの遺書となった友人宛の手紙には、後の数学者たちにとって永年の研究対象となる理論に対する着想が「僕にはもう時間がない」 (je n'ai pas le temps) という言葉と共に書き綴られている。", "title": "数学的業績" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "例えば、代数的には解けない五次以上の方程式の解を与える、楕円モジュラー関数による超越的解の公式の存在をガロアは予言し、そのアイデアを記している。なお、この手法はガロアの死後50年の時を経てシャルル・エルミートによって確立される。", "title": "数学的業績" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ガロアについては、群論の内容が難解な事もあり、一般にはその激動の生涯の方がよく知られている。その数学的業績はガロアの死後40年経ってから注目を集めるようになったが、一方でガロアの生涯やその人物像に関しては長年顧みられることがなかった。ガロアの生涯に関する最初の本格的な研究の成果は、1896年に発表された高等師範学校(École Normale Supérieure)の歴史学教授ポール・デュピュイ(fr)の約70ページの論文「エヴァリスト・ガロアの生涯」(La vie d'Evariste Galois)であった。デュピュイはガロアの母方の親戚や、姉の遺族、および当時まだ存命だったガロアの学友の証言を得た上で、様々な資料をまとめ上げてこの論文を完成させた。また、有名なガロアの15歳頃の肖像画も、姉の遺族が所有していたものがデュピュイによって同時に発表されている。この論文は、後世における全てのガロアの生涯研究における原典となり、現代まで影響を与えている。以下の記述も注記がない限りはデュピュイの論文に基づいている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ガロアは1811年、パリ郊外の町ブール=ラ=レーヌに生まれた。父ニコラ・ガブリエル・ガロアは当時公立学校の校長で、のちに町長に任命された。社交的な性格であり、即興で詩を作ることが得意だったという。母アデライド・マリ・ドマントは親族に法学と古典の教授が多かったこともあり、教養の深い人物であった。また、2歳上の姉ナタリー・テオドール(後のシャントロー夫人)、3歳年下の弟アルフレッドがいて、この5人家族は明るい家庭を築いていたようである。エヴァリストは12歳までは母親の元で教育を受けていたが、1823年からはパリの名門リセである寄宿制のリセ・ルイ=ル=グランに入学した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ガロアが入学した当時、王政復古とイエズス会の影響もあって校長は保守的・宗教的であり、生徒達は校長にしばしば反抗した。このような校内の雰囲気が、ガロアの性格や思想に影響を与えたようである。一方、学業においては入学した翌年の第3学年にはラテン語の優秀賞やギリシア語の最優秀賞を受けるなど良好であった。しかし翌年の第2学年になると学業をおろそかにするようになり、また、健康も優れていなかったので、校長からは第2学年をもう一度やり直した方が良いという意見が出された。当初は予定通り修辞学級(第1学級)に進んだものの、やはり態度は改まらず、結局2学期から留年することとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "そこで時間を持て余したガロアは、数学準備級の授業にも出席するようになった。当時のフランスでは数学教育は重視されておらず、数学は将来の進む方向によって補習科で教えられていたのみだった。当時の数学教師ヴェルニエ(本名ジャン・イポリット・ヴェロン)は若く熱心であり、エウクレイデスからアドリアン=マリー・ルジャンドルに至るまでの幾何学を教えていた。ガロアの学友によれば、ガロアはルジャンドルが著した初等幾何学の教科書を読み始めたところ、すっかり熱中してしまい、2年間の教材を2日間で読み解いてしまったという。また同時に、彼は五次方程式の解法を発見したと錯覚し、凡庸な数学的才能しか持たないヴェルニエは対応に苦慮したようである。記録によれば、ヴェルニエを初めとする教師のガロアへの評価は時間を経るごとに低下したようであり、また学校は「数学への熱狂に支配されている」と評価している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1897年に『ガロア全集』に序文を加えたエミール・ピカールは、ガロアが数学の才能を開花させたことで「過度の自尊心が芽生えてしまった」と評している。また1828年に理工科学校(École Polytechnique)の試験に挑戦したが、失敗している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "同年にはガロアは飛び級で数学特別級に進級した。この時修めた物理と化学では「少しも勉強しない」と酷評されている。一方、数学ではルイ・ポール・エミール・リシャール(fr)という優れた教師に出会い、リシャールもガロアを高く評価した。またリシャールから代数方程式解法に関するジョゼフ=ルイ・ラグランジュの論文を薦められたようで、その影響で1829年4月1日に最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」(Démonstration d'un théorème sur les fractions continues périodique)を発表している。約1ヵ月後、ガロアは17歳の若さで素数次方程式を代数的に解く方法を発見し、その研究論文をオーギュスタン=ルイ・コーシーに預けフランス学士院に提出するように頼んだが、実際には提出されなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1971年に数学史家ルネ・タトン(fr)が発見した書簡によれば、コーシーはガロアに面会し、その論文を1830年1月18日の学士院会合の場で発表すると約束しておきながら、その日は体調不良により欠席し、それ以降の会合でもガロアに言及する事はなく、結果的にガロアの論文は紛失された。こうしたコーシーの若い才能に対する無関心は、現代に至るまで後述のリガテリなどによって批判されている。ただし、この経緯には異説もあり、加藤文元はコーシーがガロアの理論を高く評価し、アカデミーの数学論文大賞に応募するためにこの論文を新たに提出させたと主張している。コーシーはその後、フランス7月革命を契機にフランスを離れ、帰国したのはそれから8年後だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "さらに1829年7月2日、ガロアの父がパリのアパートで自殺した。ガロアの親族がデュピュイに語った内容によると、当時は王政復古の影響で教会は保守的な勢力で占められ、教会の司祭たちは、自由主義的な思想の町長であるガロアの父に対して何かと反発していた。そこで彼らは、ガロアの父の詩の文体を真似て卑猥な詩を作り、それが彼のものであると言いふらした。その中には家族を傷つけるものもあった。ガロアの父は精神を病むにいたり、その結果自殺したという。父を敬愛していたエヴァリストにとっては、当然この事件は深い傷となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "さらにその同月または1ヵ月後には、ガロアは再び理工科学校への受験に挑戦したが失敗した。伝説によれば、この時の口述試験の担当者が対数に関する愚問をしつこく出し、ガロアの回答に満足しなかったために、頭に来たガロアがその試験官に向かって黒板消しを投げつけたという。理工科学校は最も高等な数学が教えられ、さらに自由主義的な雰囲気に満ちていたためにガロアは入学を切望していたが、その入学試験は2回までと制限されていたため、ガロアの望みは絶たれてしまった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その後、ガロアはルイ・ル・グランに隣接するもう1つの有名な大学・準備学校(École Préparatoire、後の高等師範学校)を目指す事にした。願書受付期間は既に過ぎていたが、リシャールなどの後押しによって8月20日から25日まで入学試験を受験し、10月25日に入学が認められた。さらに12月には文科及び理科のバカロレアにも合格した。なお、理科の試験において、数学では10点満点中8点を与えられ、「才能に恵まれており、非常に注目すべき研究精神を持っている」と賞賛されたが、物理では「彼は全く何も知らず、とてもよい教師になれそうもない」と酷評されている。1830年2月20日には学費支給を受ける代わりに、卒業後は10年間公教育のために働く旨の契約書を提出している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "宣誓書提出の少し前に、ガロアは以前コーシーが紛失した論文を書き直した上で、改めてフランス学士院に提出した。だが、その審査員で論文を預かっていたジョゼフ・フーリエが急死したため、またしても論文は紛失してしまった。こうして立て続けに起きた不運や挫折は、ガロアの政治活動をますます活発にさせた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "準備学校において、ガロアはオーギュスト・シュヴァリエ(fr)という共和主義者と出会っている。シュヴァリエの影響で共和主義に傾倒していったガロアは、フランス7月革命が起きた時に自分も参加しようと試みた。しかし、日和見的な校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーはそれを許さず生徒を校舎に閉じ込め、革命収束後に発足した旧態依然の臨時政府に従う旨を決定した。武器を手にして革命に参加し、戦火に身を投じた理工科学校とのあまりの対応の違いに、ガロアは反発を強めていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "8月6日、準備学校は「師範学校」(École Normale)と改められ、修業期間が2年から3年に延びたため、早い卒業を望んでいたガロアを一層苛立たせた。ガロアは急進共和派の秘密結社「民衆の友の会」(Société des amis du peuple)(fr)に加わり、さらに度々校長の言動に反発したため、目を付けられるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "12月3日、一連のギニョーの対応を嘲笑するようなガロアの記事を学校新聞で発表したため、ギニョーは12月9日にガロアを追放し、1831年1月3日に正式な放校処分が決定した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "以前、ガロアが執筆した論文が不運によって2度も紛失したことに同情した学士院のシメオン・ドニ・ポアソンが、ガロアにもう一度学士院に論文を提出するよう呼びかけ、その誘いに応じて1831年1月17日に再度11ページの論文「方程式の冪根による可解条件についての考察」(Mémoire sur les conditions de résolubilité des équations par radicaux)を提出した。また彼は1月13日より毎週木曜日、ソルボンヌ通りのカイヨー書店において、いくつかの新理論を含めた代数学の講義を行うなど、数学的活動を続けていた。一方で、その頃のガロアは相当荒んでいたようで、数学の会合で悪態をつき、さらに家庭でも生活態度を改めなかったために母は家を出ざるを得ない状況となり、まるで狂ってしまったようだったという。また、親族の言い伝えによれば、ガロアは家族の前で「もし民衆を蜂起させるために誰かの死体が必要なら、僕がなってもいい」と口にしていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "4月、解散を命じられた国民軍19人が制服を着用してパリの街中を歩いたために逮捕された。この事件は5月2日に無罪判決が出たが、その日の夜にレストランで開催された祝宴会において、ガロアはナイフの切先をグラスに突き出す形で「ルイ・フィリップに乾杯」と叫んだ。これが王の命を脅かすものとして、翌日ガロアは逮捕された。6月15日に開かれた裁判では、ガロアは自分が不利になる供述も平然と行ったが、弁護士の努力により無罪となった。この裁判の模様は、アレクサンドル・デュマの回顧録にも詳細に記載されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "7月14日、ガロアは法学の学生で同じ「民衆の友の会」会員のヴァンサン・デュシャートレと共に、国民軍の制服と以前王の命を脅かしたナイフを着用してパリ市内を行進し、ポン・ヌフ橋上で逮捕された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "12月3日に有罪が確定し、デュシャートレは禁固3ヵ月、ガロアは禁固6ヵ月の刑を宣告された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "投獄されたサント・ペラジー刑務所(fr)において、かつてポアソンに送った論文が「説明不十分で理解できないから、もっとわかりやすく書き直して欲しい」というポアソンの返事と共にガロアに返却された。加えて、刑務所内でガロアは他の囚人からいじめられ、飲酒を強要されることもあったことが、同時期に獄中にいた薬学者のフランソア・ヴァンサン・ラスパイユ(fr)の獄中記に記されている。また、姉ナタリーや弟アルフレッドは何度かガロアの元へ面会に訪れているが、12月付けのナタリーの日記には弟がひどく不健康で老け込んだ様子が記されている。また、同じ共和主義者のオーギュスト・シュヴァリエも何度も面会に訪れ、友情を深めていたようである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "この年の暮れよりパリ市内でコレラが流行し、ガロアは刑期を1ヵ月残して1832年3月16日、監獄から数百メートル離れたフォートリエ療養所へ仮出所した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その後、そこで失恋を経験したようで、5月25日には今後の予定を記しつつ、絶望に打ちひしがれた心境を綴った手紙をシュヴァリエに送っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "そして5月29日、「すべての共和主義者」及びイニシャルのみ記した2人の友人への2通の手紙にガロアは「つまらない色女に引っかかって決闘を申し込まれた」という旨を記している。 同時に、ポアソンから返却された論文の添削やシュヴァリエへの数学的な発想を断片的に書いた手紙を、ガロアは「僕にはもう時間がない」と走り書きしつつ大急ぎでしたため、ドイツの数学者であるカール・フリードリヒ・ガウスやカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビに意見を求めるよう依頼している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "そして30日早朝、パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの沼の付近で決闘は行われた。その決闘の結果、ガロアは負傷し、その場で放置され、午前9時になって近くの農夫によってコシャン病院(fr)に運ばれた。ガロアが牧師の立会いを拒否した後しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。弟の涙ぐむ姿をみて、ガロアはこう言ったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "それがガロアの最後の言葉となり、夕方には腹膜炎を起こし、31日午前10時に息を引き取った(享年20歳)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ガロアの葬儀は6月2日にモンパルナスの共同墓地で行われ、2000~3000人の共和主義者が集まり、「民衆の友の会」の2人の会員が弔辞を読み上げた。現在その墓地は跡形も残っていない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1982年、ガロア没後150年を記念した墓碑がブール=ラ=レーヌに建てられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ガロアの死後、シュヴァリエは遺書に従って1832年に『百科評論雑誌』(Revue encyclopédique)に「死者小伝」(Nécrologie)と題したガロアの論文等を掲載した。また、ガロアの弟アルフレッドと共に、複数の著名な数学者へ論文の写しを送ったものの、当初は誰も理解できるものはいなかったようである。しかし、何らかのきっかけで、その写しがジョゼフ・リウヴィルの手元に渡った。リウヴィルはこの論文を理解しようと努め、ついに1846年に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』(Journal de mathématique pures et appliquées)に掲載された。その際、ガロアが生前認められなかった理由を、簡潔にまとめようという意識が過剰であり、明快さに欠けたためと分析している。リヒャルト・デーデキントは1855年から1857年にかけてゲッティンゲン大学でガロア理論に関する最初の講義をおこなった。カミーユ・ジョルダンによって1870年に発表された667ページに及ぶ著書『置換と代数方程式論』 (Traité des substitutions et des équations algebraique) はガロア理論に関する包括的な解説として最も古いものである。ジョルダンはその序文において、「本書はガロアの諸論文の注釈に過ぎない」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1848年には『ル・マガザン・ピトレスク』(Magasin Pittoresque、挿絵付雑誌の意)に、ガロアに関する匿名の短い伝記が、弟のアルフレッドが記憶をたどって描いた肖像画と共に掲載されている。1872年には、ガロアの母が84歳で亡くなっている。1897年には、エミール・ピカールの序文付きでリウヴィルの編集した『ガロア全集』が刊行されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ガロアが起こした決闘の原因はある女性の名誉を守るためといわれていたが、忠実な共和党員であった彼の死は、反動派か秘密警察によるものという説もあった。その中でも有名なのがレオポルト・インフェルトの1948年の著書『神々の愛でし人』(Whom the gods love)である。その根拠としてインフェルトは、以下の点を挙げている。", "title": "決闘" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかしながら、インフェルトは自説に都合の悪い箇所はわざと隠していた。デュピュイがガロアの親族から聞いた言い伝えによれば、ガロアは恋愛相手の女性の叔父と許婚を自称する2人の人物から決闘を申し込まれた。ガロアの遺書によれば、2人は愛国者であった。またアレクサンドル・デュマは回顧録において、ガロアは「民衆の友の会」の一員であるペシュー・デルバンヴィルという人物によって決闘で殺されたという一文を残している。これらの資料を基に、インフェルトはデルバンヴィルが決闘によってガロアを殺したスパイであったと記述している。だが、共和主義者の秘密結社に潜入していた警察側のスパイの正体は、1848年の2月革命の折に、そのスパイの1人であったルシアン・ド・ラ・オッドによって全て暴露された。その時、デルバンヴィルはフォンテーヌブロー城の管理という重要な役目を任されており、彼がスパイだったということはあり得ないとデュピュイは記している。", "title": "決闘" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "さらに、ガロアがサント・ペラジー刑務所において「僕はつまらない色女のために、決闘で死ぬこととなるだろう」という自分の将来に対する予言がラスパイユの獄中記に書かれていた事実を、インフェルトは意図的に自身の作品に書かなかった。なお、この決闘にまつわるガロアの親族の言い伝えは不自然な点が含まれるため、いずれもアルフレッドの創作ではないかとデュピュイは推理している。", "title": "決闘" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "インフェルトがこのような作品を記したのは、自身の祖国ポーランドがナチス・ドイツの侵攻を受け、ガロアに自身の姿を重ね合わせたためと思われる。なお、インフェルトは伝記の文頭と文末に、新しい証拠が発見されて真相がさらに明らかとなる可能性は極めて疑わしいと述べている。だが、後述の通り、その予想は14年後に覆される事となった。", "title": "決闘" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1962年、アメリカ合衆国ニューヨーク州のイサカで科学史の国際会議が行われた時、ウルグアイの数学者カルロス・アルベルト・インファントッシによって、決闘の原因と言われていた女性の素性が明らかとなった。彼女の名はステファニー・フェリス・ポトラン・デュ・モテル(1812年5月11日 - 1893年1月25日)といい、ガロアが最後に暮らしたフォートリエ療養所の医師で所長だったジャン・ルイ・ポトラン・デュ・モテルの娘であった。彼らは親子共に親切な人物で、ガロアは次第にステファニーに恋愛感情を抱くようになって求婚したらしく、それに対する5月14日付でのステファニーによる断りの手紙の文面が、ガロア自身の筆跡でシュヴァリエへの書簡の裏に転記されていた。その内容は文面を見る限り礼儀正しいものであり、少なくとも残された文章を見た印象では彼女が「つまらない色女」と表現されるような人物などではなく、そもそもガロアの遺書自体が真実を記したものとは言い切れないことも明らかになった。なお、ステファニーは1840年1月11日に言語学者のオスカー・テオフィル・バリューと結婚している。", "title": "決闘" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1993年、イタリアの数学史研究家ラウラ・トティ・リガテッリはガロアの生涯に関する著書『バリケードの中の数学』(Matematica sulla barricate)を発表した。彼女は新資料として、ガロアの死に関する記事が掲載された、1832年6月1日付のリヨンの新聞『先駆者』(Précurseur)を挙げている。記事にはガロアの年齢を22歳であったとか、ルイ・フィリップ乾杯事件で有罪になったなどの誤記が含まれるものの、文章自体は良くまとまったものであった。その記事によれば、ガロアはかつて同時に法廷に出たことのある友人「L.D.」によって殺され、その際は用意した拳銃の片方にだけ弾丸を込め、くじを引いてどの拳銃を使うかを決めたということである。なお前述の通り、ガロアと一緒に法廷に出た人物といえばデュシャートレしかいない。その上でリガテッリは、決闘であるならば勝つ可能性もあるのに、ガロアの死を確信した遺書に対する不自然性を指摘し、決闘の真相を次のように解釈している。", "title": "決闘" 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エヴァリスト・ガロアは、フランスの数学者であり革命家である。フランス語の原音()に忠実に「ガロワ」と表記されることもある。
{{Infobox scientist |name = エヴァリスト・ガロア<br />Évariste Galois |image = Evariste galois.jpg |image_width = 250px |alt = |caption = 15歳頃のガロアの肖像画 |birth_name = |birth_date = {{生年月日と年齢|1811|10|25|no}} |birth_place = {{FRA1804}}、[[パリ]]、[[ブール=ラ=レーヌ]] |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1811|10|25|1832|5|31}} |death_place = {{FRA1830}}、[[パリ]] |death_cause = [[決闘]]による[[腹膜炎]] |residence = <!-- 居住 --> |citizenship = <!-- 市民権 --> |nationality = {{FRA}} |field = [[数学]] |workplaces = <!-- 研究機関 --> |alma_mater = [[高等師範学校 (フランス)|師範学校]] |doctoral_advisor = <!-- 博士課程指導教員 --> |academic_advisors = ヴェルニエ、[[ルイ・ポール・エミール・リシャール|リシャール]] |doctoral_students = <!-- 博士課程指導学生 --> |notable_students = <!-- 他の指導学生 --> |known_for = [[ガロア理論]]、[[楕円関数論]]、[[群論]]、[[連分数]] |influences = [[アドリアン=マリー・ルジャンドル|ルジャンドル]]<br />[[ニールス・アーベル]] |influenced = [[ジョゼフ・リウヴィル]]<br />[[リヒャルト・デーデキント]]<br />[[カミーユ・ジョルダン]]<br />[[シャルル・エルミート]]<br />[[エミール・ピカール]] |awards = <!-- 主な受賞歴 --> |author_abbreviation_bot = <!-- 命名者名略表記(植物学) --> |author_abbreviation_zoo 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(フランス)|パリ科学アカデミー]]を初め、[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]や[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]、[[カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ|ヤコビ]]と言った歴史に名を残した同時代の偉大な数学者達にさえ理解されず、生前に評価されることはなかった<ref>ただしその原因は、後述の通りガロア自身によるところも大きい。</ref>。群論の基礎概念とも言える[[集合論]]が[[ゲオルク・カントール]]によって提唱され、「ガロア理論」へと通じる数学領域が構築されるのでさえ、ガロアによるガロア理論構築の50年も後のことである。 ガロアの遺書となった友人宛の手紙には、後の数学者たちにとって永年の研究対象となる理論に対する着想が'''「僕にはもう時間がない」''' ({{fr|je n'ai pas le temps}}) という言葉と共に書き綴られている。 例えば、代数的には解けない五次以上の方程式の解を与える、[[モジュラー形式|楕円モジュラー関数]]による超越的解の公式の存在をガロアは予言し、そのアイデアを記している。なお、この手法はガロアの死後50年の時を経て[[シャルル・エルミート]]によって確立される。 ==生涯== [[ファイル:Dupuy-1895.jpg|thumb|ポール・デュピュイ]] ガロアについては、群論の内容が難解な事もあり、一般にはその激動の生涯の方がよく知られている。その数学的業績はガロアの死後40年経ってから注目を集めるようになったが、一方でガロアの生涯やその人物像に関しては長年顧みられることがなかった。ガロアの生涯に関する最初の本格的な研究の成果は、[[1896年]]に発表された[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]](''École Normale Supérieure'')の[[歴史学]]教授ポール・デュピュイ([[:fr:Paul Dupuy (ENS)|fr]])の約70ページの論文「エヴァリスト・ガロアの生涯」(''La vie d'Evariste Galois'')であった。デュピュイはガロアの母方の親戚や、姉の遺族、および当時まだ存命だったガロアの学友の証言を得た上で、様々な資料をまとめ上げてこの論文を完成させた。また、有名なガロアの15歳頃の肖像画も、姉の遺族が所有していたものがデュピュイによって同時に発表されている。この論文は、後世における全てのガロアの生涯研究における原典となり、現代まで影響を与えている。以下の記述も注記がない限りはデュピュイの論文に基づいている。 === 誕生 === [[ファイル:Bourg-la-Reine-Lieutier-G2.jpg|thumb|ニコラ・ガブリエル・ガロア]] ガロアは1811年、[[パリ]]郊外の町[[ブール=ラ=レーヌ]]に生まれた。父ニコラ・ガブリエル・ガロアは当時公立学校の校長で、のちに町長に任命された。社交的な性格であり、即興で詩を作ることが得意だったという。母アデライド・マリ・ドマントは親族に[[法学]]と古典の教授が多かったこともあり、教養の深い人物であった。また、2歳上の姉ナタリー・テオドール(後のシャントロー夫人)、3歳年下の弟アルフレッドがいて、この5人家族は明るい家庭を築いていたようである。エヴァリストは12歳までは母親の元で教育を受けていたが、[[1823年]]からはパリの名門[[リセ]]である寄宿制の[[リセ・ルイ=ル=グラン]]に入学した。 === ルイ・ル・グラン在籍時 === ガロアが入学した当時、[[フランス復古王政|王政復古]]と[[イエズス会]]の影響もあって校長は[[保守]]的・宗教的であり、生徒達は校長にしばしば反抗した。このような校内の雰囲気が、ガロアの性格や思想に影響を与えたようである。一方、学業においては入学した翌年の第3学年には[[ラテン語]]の優秀賞や[[ギリシア語]]の最優秀賞を受けるなど良好であった。しかし翌年の第2学年<ref>フランスの学制では始業は9月からで、進級する度に3年、2年、1年と年次が減っていく。</ref>になると学業をおろそかにするようになり、また、健康も優れていなかったので、校長からは第2学年をもう一度やり直した方が良いという意見が出された。当初は予定通り修辞学級(第1学級)に進んだものの、やはり態度は改まらず、結局2学期から留年することとなった。 そこで時間を持て余したガロアは、数学準備級の授業にも出席するようになった。当時のフランスでは[[数学]]教育は重視されておらず、数学は将来の進む方向によって補習科で教えられていたのみだった。当時の数学教師ヴェルニエ(本名ジャン・イポリット・ヴェロン)は若く熱心であり、[[エウクレイデス]]から[[アドリアン=マリー・ルジャンドル]]に至るまでの幾何学を教えていた。ガロアの学友によれば、ガロアはルジャンドルが著した初等幾何学の教科書を読み始めたところ、すっかり熱中してしまい、2年間の教材を2日間で読み解いてしまったという。また同時に、彼は五次方程式の解法を発見したと錯覚し、凡庸な数学的才能しか持たないヴェルニエは対応に苦慮したようである。記録によれば、ヴェルニエを初めとする教師のガロアへの評価は時間を経るごとに低下したようであり、また学校は「数学への熱狂に支配されている」と評価している。 [[1897年]]に『ガロア全集』に序文を加えた[[エミール・ピカール]]は、ガロアが数学の才能を開花させたことで「過度の自尊心が芽生えてしまった」と評している。また[[1828年]]に[[エコール・ポリテクニーク|理工科学校]](''École Polytechnique'')の試験に挑戦したが、失敗している。 [[File:E.Galois article 1829.JPG|thumb|1829年のコンクール応募のための答案の冒頭]] 同年にはガロアは[[飛び級]]で数学特別級に進級した。この時修めた物理と化学では「少しも勉強しない」と酷評されている。一方、数学ではルイ・ポール・エミール・リシャール([[:fr:Louis Richard|fr]])という優れた教師に出会い、リシャールもガロアを高く評価した<ref>リシャールは他にも[[ユルバン・ルヴェリエ]]、[[シャルル・エルミート]]、ジョゼフ・セレー([[:fr:Joseph-Alfred Serret|fr]])の才能も見出している。</ref>。またリシャールから代数方程式解法に関する[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]の論文を薦められたようで、その影響で[[1829年]][[4月1日]]に最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」(''Démonstration d'un théorème sur les fractions continues périodique'')を発表している。約1ヵ月後、ガロアは17歳の若さで素数次方程式を代数的に解く方法を発見し、その研究論文を[[オーギュスタン=ルイ・コーシー]]に預け[[フランス学士院]]に提出するように頼んだが、実際には提出されなかった。 [[1971年]]に数学史家ルネ・タトン([[:fr:René Taton|fr]])が発見した書簡によれば、コーシーはガロアに面会し、その論文を[[1830年]][[1月18日]]の学士院会合の場で発表すると約束しておきながら、その日は体調不良により欠席し、それ以降の会合でもガロアに言及する事はなく、結果的にガロアの論文は紛失された<ref>コーシーはそれ以前にもアーベルの論文をまともに取り合わなかった。</ref>。こうしたコーシーの若い才能に対する無関心は、現代に至るまで後述のリガテリなどによって批判されている。ただし、この経緯には異説もあり、[[加藤文元]]はコーシーがガロアの理論を高く評価し、アカデミーの数学論文大賞に応募するためにこの論文を新たに提出させたと主張している<ref>[[#加藤2010|加藤(2010)]] {{要ページ番号|date=2012年6月}}</ref>。コーシーはその後、[[フランス7月革命]]を契機にフランスを離れ、帰国したのはそれから8年後だった。 さらに1829年[[7月2日]]、ガロアの父がパリのアパートで自殺した。ガロアの親族がデュピュイに語った内容によると、当時は王政復古の影響で教会は保守的な勢力で占められ、教会の司祭たちは、[[自由主義]]的な思想の町長であるガロアの父に対して何かと反発していた。そこで彼らは、ガロアの父の詩の文体を真似て卑猥な詩を作り、それが彼のものであると言いふらした。その中には家族を傷つけるものもあった。ガロアの父は精神を病むにいたり、その結果自殺したという。父を敬愛していたエヴァリストにとっては、当然この事件は深い傷となった。 さらにその同月または1ヵ月後には、ガロアは再び理工科学校への受験に挑戦したが失敗した。伝説によれば、この時の口述試験の担当者が[[対数]]に関する愚問をしつこく出し、ガロアの回答に満足しなかったために、頭に来たガロアがその試験官に向かって黒板消しを投げつけたという<ref>ただし数学者ジョゼフ・ベルトラン([[:fr:Joseph Bertrand|fr]])はこの伝説を否定している。</ref>。理工科学校は最も高等な数学が教えられ、さらに自由主義的な雰囲気に満ちていたためにガロアは入学を切望していたが、その入学試験は2回までと制限されていたため、ガロアの望みは絶たれてしまった。 その後、ガロアはルイ・ル・グランに隣接するもう1つの有名な大学・準備学校(''École Préparatoire''、後の[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]])を目指す事にした。願書受付期間は既に過ぎていたが、リシャールなどの後押しによって8月20日から25日まで入学試験を受験し、[[10月25日]]に入学が認められた。さらに12月には文科及び理科の[[バカロレア]]にも合格した。なお、理科の試験において、数学では10点満点中8点を与えられ、「才能に恵まれており、非常に注目すべき研究精神を持っている」と賞賛されたが、物理では「彼は全く何も知らず、とてもよい教師になれそうもない」と酷評されている。1830年[[2月20日]]には学費支給を受ける代わりに、卒業後は10年間公教育のために働く旨の契約書を提出している。 [[ファイル:Galois-1830.JPG|thumb|ガロアの契約書]] === 師範学校時代 === 宣誓書提出の少し前に、ガロアは以前コーシーが紛失した論文を書き直した上で、改めてフランス学士院に提出した。だが、その審査員で論文を預かっていた[[ジョゼフ・フーリエ]]が急死したため、またしても論文は紛失してしまった。こうして立て続けに起きた不運や挫折は、ガロアの政治活動をますます活発にさせた。 準備学校において、ガロアはオーギュスト・シュヴァリエ([[:fr:Auguste Chevalier (1809-1868)|fr]])という共和主義者と出会っている。シュヴァリエの影響で[[共和主義]]に傾倒していったガロアは、[[フランス7月革命]]が起きた時に自分も参加しようと試みた。しかし、日和見的な校長のジョセフ・ダニエル・ギニョーはそれを許さず生徒を校舎に閉じ込め、革命収束後に発足した旧態依然の臨時政府に従う旨を決定した。武器を手にして革命に参加し、戦火に身を投じた理工科学校とのあまりの対応の違いに、ガロアは反発を強めていった。 [[8月6日]]、準備学校は「師範学校」(''École Normale'')と改められ、修業期間が2年から3年に延びたため、早い卒業を望んでいたガロアを一層苛立たせた。ガロアは急進共和派の秘密結社「民衆の友の会」(''Société des amis du peuple'')([[:fr:Société des amis du peuple|fr]])に加わり、さらに度々校長の言動に反発したため、目を付けられるようになった。 [[12月3日]]、一連のギニョーの対応を嘲笑するようなガロアの記事を学校新聞で発表したため、ギニョーは[[12月9日]]にガロアを追放し、[[1831年]][[1月3日]]に正式な放校処分が決定した。 === 政治活動の激化 === 以前、ガロアが執筆した論文が不運によって2度も紛失したことに同情した学士院の[[シメオン・ドニ・ポアソン]]が、ガロアにもう一度学士院に論文を提出するよう呼びかけ、その誘いに応じて1831年[[1月17日]]に再度11ページの論文「方程式の[[冪根]]による可解条件についての考察」(''Mémoire sur les conditions de résolubilité des équations par radicaux'')を提出した<ref>この論文が後に「ガロア理論」として名を残す。</ref>。また彼は[[1月13日]]より毎週木曜日、ソルボンヌ通りのカイヨー書店において、いくつかの新理論を含めた代数学の講義を行うなど、数学的活動を続けていた。一方で、その頃のガロアは相当荒んでいたようで、女性数学者[[ソフィ・ジェルマン]]はその様子を記した書簡を残している<ref>デュピュイはこの手紙の存在に言及していない。</ref>。それによると、ガロアは数学の会合で悪態をつき、さらに家庭でも生活態度を改めなかったために母は家を出ざるを得ない状況となり、まるで狂ってしまったようだったという。また、親族の言い伝えによれば、ガロアは家族の前で「''もし民衆を蜂起させるために誰かの死体が必要なら、僕がなってもいい''」と口にしていたという。 4月、解散を命じられた国民軍<ref>フランス革命の際に自警団の役割を担って市民の間で結成された。</ref>19人が制服を着用してパリの街中を歩いたために逮捕された。この事件は[[5月2日]]に無罪判決が出たが、その日の夜にレストランで開催された祝宴会において、ガロアはナイフの切先をグラスに突き出す形で「[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]に乾杯」と叫んだ。これが王の命を脅かすものとして、翌日ガロアは逮捕された。[[6月15日]]に開かれた裁判では、ガロアは自分が不利になる供述も平然と行ったが、弁護士の努力により無罪となった。この裁判の模様は、[[アレクサンドル・デュマ・ペール|アレクサンドル・デュマ]]の回顧録にも詳細に記載されている。 [[7月14日]]、ガロアは法学の学生で同じ「民衆の友の会」会員のヴァンサン・デュシャートレと共に、国民軍の制服と以前王の命を脅かしたナイフを着用してパリ市内を行進し、[[ポン・ヌフ橋]]上で逮捕された<ref>国民軍は再結成されていたものの2人は登録していなかった。</ref>。 [[12月3日]]に有罪が確定し、デュシャートレは禁固3ヵ月、ガロアは禁固6ヵ月の刑を宣告された<ref>ガロアの方が刑が重いのは、問題のナイフを所持していたためである。</ref>。 === 投獄と死 === [[ファイル:E. Galois Letter.jpg|thumb|オーギュスト・シュヴァリエ宛のガロアの書簡]] 投獄されたサント・ペラジー刑務所([[:fr:Prison Sainte-Pélagie|fr]])において、かつてポアソンに送った論文が「説明不十分で理解できないから、もっとわかりやすく書き直して欲しい」というポアソンの返事と共にガロアに返却された。加えて、刑務所内でガロアは他の囚人からいじめられ、飲酒を強要されることもあったことが、同時期に獄中にいた薬学者のフランソア・ヴァンサン・ラスパイユ([[:fr:François-Vincent Raspail|fr]])の獄中記に記されている。また、姉ナタリーや弟アルフレッドは何度かガロアの元へ面会に訪れているが、12月付けのナタリーの日記には弟がひどく不健康で老け込んだ様子が記されている。また、同じ共和主義者のオーギュスト・シュヴァリエも何度も面会に訪れ、友情を深めていたようである。 [[ファイル:Tombe galois.JPG|thumb|[[ブール=ラ=レーヌ]]の墓地にあるガロアの墓碑。ガロアの遺体は別の共同墓地に葬られ、現在は正確な位置が不明である。]] この年の暮れよりパリ市内で[[コレラ]]が流行し、ガロアは刑期を1ヵ月残して[[1832年]][[3月16日]]、監獄から数百メートル離れたフォートリエ療養所へ仮出所した。 その後、そこで失恋を経験したようで、[[5月25日]]には今後の予定を記しつつ、絶望に打ちひしがれた心境を綴った手紙をシュヴァリエに送っている。 そして5月29日、「すべての共和主義者」及びイニシャルのみ記した2人の友人への2通の手紙にガロアは「つまらない色女に引っかかって[[決闘]]を申し込まれた」という旨を記している。 同時に、ポアソンから返却された論文の添削やシュヴァリエへの数学的な発想<ref>ガロア理論の「原始的方程式」への応用や[[楕円関数]]に関する[[モジュラー方程式]]の考察、[[リーマン面]]理論の[[超越関数]]理論への応用と推察されている。</ref>を断片的に書いた手紙を、ガロアは'''「僕にはもう時間がない」'''と走り書きしつつ大急ぎでしたため、ドイツの数学者である[[カール・フリードリヒ・ガウス]]や[[カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビ]]に意見を求めるよう依頼している。 そして30日早朝、パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの沼の付近で決闘は行われた。その決闘の結果、ガロアは負傷し、その場で放置され、午前9時になって近くの農夫によってコシャン病院([[:fr:Hôpital Cochin|fr]])に運ばれた。ガロアが[[牧師]]の立会いを拒否した後しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。弟の涙ぐむ姿をみて、ガロアはこう言ったという。 :''Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans!'' :''泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから!'' それがガロアの最後の言葉となり、夕方には[[腹膜炎]]を起こし、[[5月31日|31日]]午前10時に息を引き取った(享年20歳)。 ガロアの葬儀は[[6月2日]]に[[モンパルナス]]の共同墓地で行われ、2000~3000人の共和主義者が集まり、「民衆の友の会」の2人の会員が弔辞を読み上げた。現在その墓地は跡形も残っていない。 [[1982年]]、ガロア没後150年を記念した墓碑がブール=ラ=レーヌに建てられた。 === 死後の動き === ガロアの死後、シュヴァリエは遺書に従って1832年に『百科評論雑誌』(''[[ルビュー・アンシクロペディーク|Revue encyclopédique]]'')に「死者小伝」(''Nécrologie'')と題したガロアの論文等を掲載した。また、ガロアの弟アルフレッドと共に、複数の著名な数学者へ論文の写しを送ったものの、当初は誰も理解できるものはいなかったようである。しかし、何らかのきっかけで、その写しが[[ジョゼフ・リウヴィル]]の手元に渡った。リウヴィルはこの論文を理解しようと努め、ついに[[1846年]]に自身が編集する『純粋・応用数学雑誌』(''Journal de mathématique pures et appliquées'')に掲載された。その際、ガロアが生前認められなかった理由を、簡潔にまとめようという意識が過剰であり、明快さに欠けたためと分析している。[[リヒャルト・デーデキント]]は[[1855年]]から[[1857年]]にかけて[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]でガロア理論に関する最初の講義をおこなった<ref name="satake">[[佐武一郎]]「解説「ガロア理論」について」、[[#アルティン2010|アルティン(2010)]] p. 215</ref>。[[カミーユ・ジョルダン]]によって[[1870年]]に発表された667ページに及ぶ著書『置換と代数方程式論』 (''Traité des substitutions et des équations algebraique'') はガロア理論に関する包括的な解説として最も古いものである。ジョルダンはその序文において、「本書はガロアの諸論文の注釈に過ぎない」と述べている。 [[1848年]]には『[[ル・マガザン・ピトレスク]]』(''Magasin Pittoresque''、挿絵付雑誌の意)に、ガロアに関する匿名<ref>デュピュイの調査では、ルイ・ル・グラン及び師範学校でのガロアの学友フロジェルグが記したとの証言がある。</ref>の短い伝記が、弟のアルフレッドが記憶をたどって描いた肖像画と共に掲載されている。[[1872年]]には、ガロアの母が84歳で亡くなっている<ref>彼女が長寿であったため、デュピュイがガロアの親族を探し出すのは比較的容易であった。</ref>。[[1897年]]には、エミール・ピカールの序文付きでリウヴィルの編集した『ガロア全集』が刊行されている。 ==決闘== === 陰謀説=== [[ファイル:E. Galois Portrait No.2.jpg|thumb|弟アルフレッドによるガロアの肖像画]] ガロアが起こした[[決闘]]の原因はある女性の名誉を守るためといわれていたが、忠実な共和党員であった彼の死は、反動派か秘密警察によるものという説もあった。その中でも有名なのが[[レオポルト・インフェルト]]の[[1948年]]の著書『神々の愛でし人』(''Whom the gods love'')である。その根拠としてインフェルトは、以下の点を挙げている。 *ガロアの弟アルフレッドは、生涯にわたり兄エヴァリストは謀殺されたと主張していた *ラスパイユによれば、1831年7月29日、ガロアが収監されていた部屋に銃撃された事があった *介添人がいたにも関わらず、決闘で負傷して倒れたガロアはそのまま放置されていた *当時の警視総監アンリ・ジョゼフ・ジスケ([[:fr:Henri Gisquet|fr]])が[[1840年]]に著した回顧録において、当時ガロアの葬儀の際に蜂起しようと共和主義者が計画していたところを事前に察知して検挙した事実を記録している しかしながら、インフェルトは自説に都合の悪い箇所はわざと隠していた。デュピュイがガロアの親族から聞いた言い伝えによれば、ガロアは恋愛相手の女性の叔父と許婚を自称する2人の人物から決闘を申し込まれた。ガロアの遺書によれば、2人は愛国者であった。また[[アレクサンドル・デュマ・ペール|アレクサンドル・デュマ]]は回顧録において、ガロアは「民衆の友の会」の一員であるペシュー・デルバンヴィルという人物によって決闘で殺されたという一文を残している。これらの資料を基に、インフェルトはデルバンヴィルが決闘によってガロアを殺した[[スパイ]]であったと記述している。だが、共和主義者の秘密結社に潜入していた警察側のスパイの正体は、[[1848年]]の[[1848年のフランス革命|2月革命]]の折に、そのスパイの1人であったルシアン・ド・ラ・オッドによって全て暴露された。その時、デルバンヴィルは[[フォンテーヌブロー城]]の管理という重要な役目を任されており、彼がスパイだったということはあり得ないとデュピュイは記している。 さらに、ガロアがサント・ペラジー刑務所において「僕はつまらない色女のために、決闘で死ぬこととなるだろう」という自分の将来に対する予言がラスパイユの獄中記に書かれていた事実を、インフェルトは意図的に自身の作品に書かなかった。なお、この決闘にまつわるガロアの親族の言い伝えは不自然な点が含まれるため、いずれもアルフレッドの創作ではないかとデュピュイは推理している。 インフェルトがこのような作品を記したのは、自身の祖国[[ポーランド]]が[[ナチス・ドイツ]]の侵攻を受け、ガロアに自身の姿を重ね合わせたためと思われる。なお、インフェルトは伝記の文頭と文末に、新しい証拠が発見されて真相がさらに明らかとなる可能性は極めて疑わしいと述べている。だが、後述の通り、その予想は14年後に覆される事となった。 === 新資料の発見 === [[1962年]]、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]]の[[イサカ (ニューヨーク州)|イサカ]]で[[科学史]]の国際会議が行われた時、[[ウルグアイ]]の数学者カルロス・アルベルト・インファントッシによって、決闘の原因と言われていた女性の素性が明らかとなった。彼女の名はステファニー・フェリス・ポトラン・デュ・モテル([[1812年]][[5月11日]] - [[1893年]][[1月25日]])<ref name=CNRS20180514>{{Cite web|last=Courcelle|first=Olivier|date=2018-05-14|url=https://images.math.cnrs.fr/Itineraire-d-une-infame-coquette.html|title=Itinéraire d'une infâme coquette|website=Images des mathématiques|publisher=[[フランス国立科学研究センター|CNRS]]|language=フランス語|accessdate=2019-04-30}}</ref>といい、ガロアが最後に暮らしたフォートリエ療養所の医師で所長だったジャン・ルイ・ポトラン・デュ・モテルの娘であった。彼らは親子共に親切な人物で、ガロアは次第にステファニーに恋愛感情を抱くようになって求婚したらしく、それに対する[[5月14日]]付でのステファニーによる断りの手紙の文面が、ガロア自身の筆跡でシュヴァリエへの書簡の裏に転記されていた。その内容は文面を見る限り礼儀正しいものであり、少なくとも残された文章を見た印象では彼女が「つまらない色女」と表現されるような人物などではなく、'''そもそもガロアの遺書自体が真実を記したものとは言い切れない'''ことも明らかになった。なお、ステファニーは[[1840年]][[1月11日]]に言語学者のオスカー・テオフィル・バリューと結婚している<ref name=CNRS20180514 />。 [[1993年]]、[[イタリア]]の数学史研究家ラウラ・トティ・リガテッリはガロアの生涯に関する著書『バリケードの中の数学』(''Matematica sulla barricate'')を発表した。彼女は新資料として、ガロアの死に関する記事が掲載された、1832年[[6月1日]]付の[[リヨン]]の新聞『先駆者』(''Précurseur'')を挙げている。記事にはガロアの年齢を22歳であったとか、ルイ・フィリップ乾杯事件で有罪になったなどの誤記が含まれるものの、文章自体は良くまとまったものであった。その記事によれば、ガロアはかつて同時に法廷に出たことのある友人「'''L.D.'''」によって殺され、その際は用意した拳銃の片方にだけ弾丸を込め、くじを引いてどの拳銃を使うかを決めたということである。なお前述の通り、ガロアと一緒に法廷に出た人物といえばデュシャートレしかいない<ref>ただし彼のイニシャルは「V.D.」である。</ref>。その上でリガテッリは、決闘であるならば勝つ可能性もあるのに、ガロアの死を確信した遺書に対する不自然性を指摘し、決闘の真相を次のように解釈している。 :ステファニーに失恋したガロアは、「民衆の友の会」の会員と共に民衆を蜂起させる方法を考えていた時、ガロアが自分が犠牲となってその機会を作ることを提案した。(作中では「D」と名前を明確にしていないが)デュシャートレがその相手を務めることとなり、ガロアは共和主義者の感情を煽るためにわざと無念を強調した遺書をしたためた。そして、予定通り決闘を装った工作が行われてガロアは死亡し、あとは葬儀において蜂起するだけとなった。ところが葬儀の当日、フランスの英雄である[[ジャン・マクシミリアン・ラマルク]]将軍の訃報が伝わり、ならばそれを契機に蜂起した方が良いと急遽予定が変更された、ということである(その後に起きた[[六月暴動]]の様子は[[ヴィクトル・ユーゴー]]の『[[レ・ミゼラブル]]』に詳しい)。 == 補足 == *サント・ペラジー刑務所に収監された際の、ガロアに関する記録がデュピュイの論文に転記されている。それによると、身長は167cm、髪や眉は栗色、瞳は褐色であり、職業は[[家庭教師]](''[[:fr:Répétiteur|Répétiteur]]'')を名乗っていた。また、姓を「''Ga'''ll'''ois''」と誤って記入されていた。 *シュヴァリエが1832年に『百科評論雑誌』に寄せた記述によれば、ガロアのノートには以下の詩が残されていたという。ただし、インフェルトの調査ではこの詩が書かれたノートを探し出すことは出来ず、本当にこの詩がガロアの創作であるかは確実ではない。 {{col-begin}} {{col-2}} ::''L'éternel cyprès m'environne:'' ::''Plus pâle que la pâle automne,'' ::''Je m'incline vers le tombeau.'' {{col-2}} :久遠の[[糸杉]]が私を囲む :色褪せた秋よりもなお青ざめて :私は自ら墓場へ赴く <!--訳詩修正意図。「éternel」後置ならば肯定的に「久遠の」で可、しかし前置なので皮肉に「果てしない」と訳す。ガロアを苛みつづける環境(environment)を想起せよ。「le cyprès」なぜ単数か不明だが、éternelと対応して、ひとかたまりに果てしなく続く悪夢のごときイメージと解す。糸杉は死の象徴、墓地の木。「pâle」日本語では秋に紅葉のイメージあり、「青白い秋」とすると奇矯な感じを与えてしまうので「色あせた」と訳した。なお、糸杉は常緑樹。実りの秋ではなく、冬(死)の予兆としての秋。「s'incliner」尊敬で「頭を下げる」意味と解す場合、le tombeauは先に逝った革命同志の象徴ということになる。が、その場合devant(〜の御前に)やà(〜を指して)が適当。vers(〜の方角へ)であるので、自らの命が死(の方角)へと避けがたく傾きつつあることを言う。(2008年5月14日 (水) 07:47 Hibiki-c)--><!--再訳詩編集意図→「久遠」という言葉自体には肯定も否定も含まない。また語調を整えた上で訳詩を修正(2009年8月2日 (日) 19:11 ユキポン)-->{{col-end}} == 著書 == *{{Cite book|和書|author=アーベル|authorlink=ニールス・アーベル|coauthors=ガロア|others=[[守屋美賀雄]] 訳・解説|date=1975-04-20|title=群と代数方程式|series=現代数学の系譜 11|publisher=[[共立出版]]|isbn=4-320-01164-3|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320011649|ref={{Harvid|アーベル|ガロア|1975}}}} *{{Cite book|和書|author=アーベル|coauthors=ガロア|others=[[高瀬正仁]] 訳|date=1998-04-25|title=楕円関数論|series=数学史叢書|publisher=[[朝倉書店]]|isbn=4-254-11459-1|url=http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-11459-1/|ref={{Harvid|アーベル|ガロア|1998}}}} == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2012年1月|section=1}} *{{Cite book|和書|author=エミール・アルティン|authorlink=エミール・アルティン|others=[[寺田文行]]訳|date=1974-10|title=ガロア理論入門|publisher=[[東京図書]]|isbn=4-489-01093-1|ref=アルティン1974}} **{{Cite book|和書|author=エミール・アルティン|others=寺田文行訳、[[佐武一郎]]解説|date=2010-04|title=ガロア理論入門|series=ちくま学芸文庫|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-09283-0|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480092830/|ref=アルティン2010}} *{{Cite book|和書|author=彌永昌吉|authorlink=彌永昌吉|year=1999|month=7|title=ガロアの時代・ガロアの数学 第1部|edition=時代篇|series=シュプリンガー数学クラブ|publisher=[[シュプリンガー・フェアラーク東京]]|isbn=4-431-70688-7|ref=彌永1999}} *{{Cite book|和書|author=彌永昌吉|year=2002|month=8|title=ガロアの時代・ガロアの数学 第2部|edition=数学篇|series=シュプリンガー数学クラブ|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|isbn=4-431-70802-2|ref=彌永2002}} *{{Cite book|和書|author=レオポルト・インフェルト|authorlink=レオポルト・インフェルト|others=[[市井三郎]]訳|year=1950|title=神々の愛でし人 世紀の数学者エヴァリスト・ガロアの生涯|publisher=[[日本評論社]]|ref=インフェルト1950}} - 原タイトル:''Whom the gods love.'' **{{Cite book|和書|author=L・インフェルト|others=市井三郎訳|year=2008|month=9|title=ガロアの生涯 神々の愛でし人|edition=新装版|publisher=日本評論社|isbn=978-4-535-78620-2|url=http://www.nippyo.co.jp/book/3967.html|ref=インフェルト2008}} *{{Cite book|和書|author=加藤文元|authorlink=加藤文元|date=2010-12-20|title=ガロア 天才数学者の生涯|series=中公新書|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4-12-102085-7|url=http://www.chuko.co.jp/shinsho/2010/12/102085.html|ref=加藤2010}} *{{Cite book|和書|author=木村俊一|authorlink=木村俊一 (数学者)|date=2001-11-10|title=天才数学者はこう解いた、こう生きた 方程式四千年の歴史|series=講談社選書メチエ 225|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-258225-2|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195185|ref=木村2001}} *{{Cite book|和書|author=F.クライン|authorlink=フェリックス・クライン|others=[[石井省吾]]・[[渡辺弘]]訳|year=1995|month=9|title=クライン:19世紀の数学|publisher=[[共立出版]]|isbn=4-320-01493-6|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320014930|ref=クライン1995}} *{{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|date=1995-08-18|title=近世数学史談|publisher=[[岩波書店]]|series=岩波文庫 青939-1|isbn=4-00-339391-0|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/0/3393910.html|ref=高木1995}} *{{Cite book|和書|author=高木貞治|date=1996-12-10|title=近世数学史談・数学雑談|edition=復刻版|publisher=共立出版|isbn=4-320-01551-7|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320015517|ref=高木1996}} *{{Cite book|和書|author=P.デュピュイ|others=[[辻雄一]]訳|date=1972-11-25|title=ガロア その真実の生涯|publisher=[[東京図書]]|ref=デュピュイ1972}} *{{Cite book|和書|editor=日本数学会|editor-link=日本数学会|date=2007-03-15|title=岩波 数学辞典|edition=第4版|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-080309-0|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/08/3/0803090.html|ref=日本数学会2007}} *{{Cite book|和書|author=藤原正彦|authorlink=藤原正彦|year=2002-05-15|title=天才の栄光と挫折 数学者列伝|series=[[新潮選書]]|publisher=新潮社|isbn=4-10-603511-1|ref=藤原2002}} **{{Cite book|和書|author=藤原正彦|date=2008-09-10|title=天才の栄光と挫折 数学者列伝|series=[[文春文庫]]|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-774902-6|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167749026|ref=藤原2008}} *{{Cite book|和書|author=E.T.ベル|others=[[田中勇 (数学者)|田中勇]]・[[銀林浩]]訳|date=2003-10-17|title=数学をつくった人びと 2|series=ハヤカワ文庫 NF 284|publisher=[[早川書房]]|isbn=4-15-050284-6|url=http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/90284.html|ref=ベル2003}} *{{Cite book|和書|author=結城浩|authorlink=結城浩|date=2012-05-30|title=数学ガール ガロア理論|publisher=ソフトバンククリエイティブ|isbn=978-4-7973-6754-6|url=http://www.sbcr.jp/products/4797367546.html|ref=結城2012}} *{{Cite book|last=Rigatelli|first=Laura Toti|year=1996|title=Evariste Galois (1811-1832)|publisher=Birkhäuser|location=Basel, Switzerland|isbn=3-7643-5410-0|ref=Rigatelli1996}} *{{Cite book|last=Neumann|first=Peter|year=2011|title=The mathematical writings of Evariste Galois|publisher= European Mathematical Society|location=Zürich, Switzerland|isbn=978-3-03719-104-0|url=https://uberty.org/wp-content/uploads/2015/11/Peter_M._Neumann_The_Mathematical_Writings.pdf|ref=Neumann2011}} == 関連項目 == *[[ガロア理論]] *[[群論]] *[[楕円関数論]] *[[有限体]] {{commons|Evariste Galois}} == 外部リンク == *{{Kotobank|ガロア}} *{{MacTutor|id=Galois|title=Evariste Galois}} *[http://www.galois-group.net/group/FR/ Les archives de Evariste Galois] - [[ドイツ語|独]]・[[英語|英]]・[[フランス語|仏]]・[[スペイン語|西]]・[[ルーマニア語|ルーマニア]]・[[中国語|中]]・[[ロシア語|露]]の各言語による紹介 *[http://www.galois-group.net/dupuy/index.php La vie d'Évariste Galois] - ポール・デュピュイの論文「エヴァリスト・ガロアの生涯」の原文(証拠文書は除く) *[http://archive.numdam.org/ARCHIVE/ASENS/ASENS_1896_3_13_/ASENS_1896_3_13__197_0/ASENS_1896_3_13__197_0.pdf Recherche et téléchargement d’archives de revues mathématiques numérisées] - 上記のデュピュイによる論文の原本の複写 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かろあ えうありすと}} [[Category:エヴァリスト・ガロア|*]] [[Category:フランスの数学者]] [[Category:19世紀の数学者|111025]] [[Category:7月王政の人物]] [[Category:決闘死した人物]] [[Category:1811年生]] [[Category:1832年没]] [[Category:数学に関する記事]]
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空間
空間(くうかん、英: space)とは、 哲学、物理学、数学、建築、地理学、社会学等々において用いられており、意味・説明は分野ごとに異なるので、それぞれ説明する。 自然哲学における理解を解説する。 アリストテレスは、自然学の基礎的概念として、事物の場所「トポス topos」としての空間概念を用い、物事の運動kinesisを説明した。トポスは「接触面」として、諸元素に対して能動的な作用を及ぼす実在であって、それぞれの本性により、火は上方に、土は下方の場所へと運動する、とした。→『トポス論』 後にアリストテレスの自然哲学はクラウディオス・プトレマイオスの天文学と合体し、性質的な差異と階層構造をもつ有限宇宙が想定された。月下界には月下界特有の性質・法則があり、月の向こう側の空間には、そこ独特の性質・法則があると考えられていた。空間というのは、位置によって性質が異なる、と一般に考えられていたのである。人々は、空間は位置により性質が違うから、地上のものは落下するが、惑星は落ちないまま円運動を続けている、と考えていた。空間は相対的なものであった(宇宙論を参照)。 ルネ・デカルトが1633年に執筆した『宇宙論』の原稿においては、物体とは独立の空間を認めており、運動というのは空間の中のある位置から別の位置への移動」として簡潔に定義できるものであった(だが、この書はデカルトの生前には出版されなかった。出版は死後である。)。その後のデカルトの渦動説によれば、空間にはすきまなく目に見えない何かが満ちており、物が移動すると渦が生じている、物体は「渦」によって動かされている、と説明された(重力を説明する古典力学的理論を参照)。 自然哲学者アイザック・ニュートンは、上述のデカルトの渦動説は本で読んだものの、その体系に相当無理があると気づいていた。ニュートンは一般に公表はされなかったものの、『重力および流体の平衡について』という書きかけの手稿(『自然哲学の数学的諸原理』が出版される相当前に書かれたもの)を残しており、そこでデカルトの渦動説を名指しで批判している。そして、その手稿で「場所とは物体が占める空間の一部」とし、「静止とは同じ場所にとどまること」「運動とは場所の変化である」としていた(ただしこれは公表されなかった)。 ニュートンは、古代以来の「場所により空間の性質が異なる」という考え方に変化をもたすことにもなった。ニュートンは、天界の惑星の運動と地上の物体の落下が同一のしくみによってもたらされているとしても説明可能だと見抜き、「万有引力の法則」を公表した(『自然哲学の数学的諸原理』)。ニュートンはユークリッド幾何学を用いて、自らの理論体系を構築した。(当時、人類が知っていた幾何学はユークリッド幾何学だけであった。。)よって、ニュートン力学においては空間は、無限に広がる3次元のユークリッド空間と想定されていることになる。 『自然哲学の数学的諸原理』の冒頭部分の「定義」に続く箇所において、絶対空間と絶対時間という概念を導入した。「そのnature本性において、外界のいかなるものとも関係がなく、常に同じままで、不動の」と説明されている。ニュートンの力学体系では、空間は均一の性質で広がるものと想定されるようになり「絶対空間」と呼ばれたのである。また、ニュートンは同著においてその説明につづいて、絶対運動および相対運動について説明を行ない、バケツの中に水を入れ回転させる実験の説明を行った。 また、ニュートンは宇宙の空間のすべての位置・点が、全ての天体の位置と質量を知っているということから、空間というのは「神の感覚中枢 (sensorium dei)」であると述べた。神は絶対性を有しており、宇宙のあらゆる空間に神はあまねく存在している(遍在している)としたのである。(『光学』)。 ライプニッツは空間というのは、同時に存在する事物の秩序、ととらえた。空間は表象と表象との関係によって定義される、とした。よってライプニッツの考えでは、ニュートンが言うような絶対空間というようなものは否定した。 絶対空間と相対空間の考え方について議論が行なわれた。 絶対空間は、英国の自然哲学者ニュートンが唱えた空間概念で、連続的で均質な無限の広がりを想定している。 これは、ドイツのライプニッツによる批判の対象となった。ライプニッツは、相対空間という概念を提示した。ライプニッツによれば、空間とは諸物の関係であり、空間の存在は、その中の諸物の関係を、幾何学などにより合理的に説明できれば証明されるとした。これは、空間の性質を、諸物の位置ならびに位置相互にある距離として表現するものであった。ニュートン(およびその支持者)とライプニッツ(およびその支持者)の間には、激しい論争が闘わされ、何度も書簡(第1-5書簡)のやりとりがなされた。 ライプニッツの第2書簡においては、宇宙における物質の量に関してニュートンを批判しつつ、真空などという概念はないときっぱりと否定した。ライプニッツはその理由として、宇宙に物質の量が多ければ多いほど神の力と知恵を行使できる機会が多いのだから、物質のない虚ろな空間はありえない、とした。第5書簡では、水銀をいれたガラスのチューブを用いたトリチェリの実験(1643年)も引き合いに出し、アリストテレス主義者やデカルト主義者らの見解も提示しつつ「空気を抜かれたガラスのチューブには光線が通過することからして小さな穴があいているに決まっている。そしてその穴は空気は通さないけれど、磁気などの希薄な流体を通すのであって、ガラス容器の中にはそのような微小な物質がつまっていると考えるべきである」と述べた。(ライプニッツのこの説明は、現在の物理学における磁場などの、目に見ることも触れることもできない「場」の概念を先見するものだったとも評価されている。 第4書簡では、万有引力についても攻撃し、「離れた物体同士が、まったく仲介するものなしで互いに引き合うとか、(ある物体のまわりを)物体がまわる(接線方向に進んでゆくことを妨げるものがないのにそうならない)ということも、超自然的だ。このようなことは、ものごとの本性からは説明できない」と非難した。ライプニッツの支持者らもニュートンの万有引力の理論を「オカルトだ」と非難した。 ニュートンはニュートン力学を、3次元ユークリッド空間、すなわち、すべての方向に無限に拡がる果てしのない均質なもので物質の存在から独立した空虚な容器であり、やはり均質に空間や物質とは切り離されて存在し進行する時間がある、という大前提のもとに記述した(いわゆる「絶対空間」と「絶対時間」、時間#ニュートン力学での時間も参照)。 19世紀後半には、ニュートン力学の再構成が盛んになり、できれば「絶対空間」という概念(仕組み)は抜きで運動を理解しよう、とする試みが盛んに行なわれるようになった。なぜなら、たとえばマクスウェルの方程式(1864)から、光速はいかなる観測者からも一定、という、絶対空間と絶対時間という枠組から見ると奇妙な結論が得られる。そういったほころびが目立つようになってきたからである。 エルンスト・マッハ(1838-1916)は、観察されることをそのまま記述する方法で科学を再構築することを構想しており、ニュートン力学体系における「絶対空間」や「絶対時間」の概念を、形而上学的な要素の残滓(のこりかす)だとして否定した(『力学の発展史』)。また、カール・ノイマンやルートヴィヒ・ランゲは、ニュートンのように先に空間と時間を仮定してから運動を定義するのではなく、反対に、(観察される)運動と運動の法則から「慣性系」という基準系の構造を構築しようとした。「絶対空間」と呼ばれるものを見たり認識したことがある人は、未だかつて誰もいなかったのである。マッハの思想は後述するアインシュタインに影響を与えた。 ローレンツは、「絶対空間においてエーテルが静止している」とし「宇宙は絶対静止しているエーテルと運動する荷電粒子からなる」とする宇宙論によって、ニュートン的な絶対空間の概念を保持していた。 この考え方を支持する人は多く、地球のエーテルに対する運動の効果を地上で測定するという実験が繰り返し行なわれた。マイケルソン・モーリーの実験である。実験結果はエーテルの存在を証明するものではなかった。ローレンツは、「運動する時計は遅れる」とする仮説と、「運動するものさしは収縮する」とする仮説によって、実験結果も受け入れつつ なんとかしてエーテルの存在を認めつづけようとした。 アルベルト・アインシュタインは、ローレンツの考えとは異なった観点から着想し、「全ての慣性基準系は対等であって、特権的な基準系はない」とする仮説と、「あらゆる慣性基準系において真空中の光の速度は一定である」とする仮説によって、ニュートン力学の理論体系を組みなおし、空間と時間に関して新しい考え方を提示した(相対性理論を参照)。ここにおいて、空間は時間と連関して扱われることになり、4次元の時空という概念が現れた。 アインシュタインの一般相対性理論以来、重力は空間の歪みと考えられ、空間は曲率がゼロのユークリッド空間ではなく一般にはリーマン空間で表されることになった。そして重力の源は質量であるので、空間は内部の物体とは無関係に存在する単なる容器ではなく、内部の質量自体が空間の構造に影響を与えていることになる。 エドウィン・ハッブルらによって、島宇宙(銀河)が遠ざかっていることが発見されてからは、やがて宇宙は一定であるとする定常宇宙論以外に、宇宙が膨張しているとするビッグバン仮説が登場し、両者は拮抗するようにもなり、やがてビッグバン理論の支持者の割合が大きくなった(宇宙論を参照)。 また、20世紀初頭からはじまった数々の物理実験によって、真空は何も含まない「無」なのではなく、エネルギーや構造を持つことが解明された(例えば「ディラックの海」、「カシミール効果」を参照のこと)。このような真空の性質を記述するために場の量子論が1930年代に登場し、やがて素粒子の標準模型へと進化した。標準模型においては、真空と不可分な電磁場や電子場、ヒッグス場などが存在し(電磁場、量子場、ヒッグス場も参照)、粒子は真空を構成する場の励起状態であると解釈されている。宇宙のあらゆる場所に共通の電子の場が存在するために、どこで電子を生成しても、その質量や電荷などの諸性質は全く同一になる(例えば、他のものに比べて質量の小さい電子は生成できない)。また、磁石は真空を構成する電磁場を影響するために、遠距離でも目に見えない引力や斥力が発生すると解釈される。電荷を勢いよく振動させると、電磁場中に光子が励起され無限遠に向かって伝搬する。こうした真空の概念の転換によって、原子や素粒子の性質が極めて正確に予言できるようになった。1960年代には、電磁相互作用と弱い相互作用を統一した電弱理論が確立され、1980年代に実験的に検証された。現在、さらに電弱理論と強い相互作の理論を統一する統一場理論を作り上げようと努力しているが、理論の予測と陽子崩壊等の実験結果に矛盾があるために、困難に直面している。 なお、19世紀末に信じられていたエーテル仮説では、真空中にエーテルと呼ばれる媒質が満たされており、地球がエーテル中を運動するとエーテル風が観測されると考えられていた。エーテルは真空と分離可能で直接観測が可能な液体のような媒質であると考えられていたが、該当する現象が観測されなかったために、エーテルの存在は現在では実験的に否定されている。一方、場の量子論における「場」とは、電磁場のように真空と分離することのできない広がりをもったものを指す。携帯電話に電波が届くのは、空間中のあらゆる場所に目に見えない電磁場が満たされており、携帯電話がその電磁場を励起するからである。電波が伝搬しない真空を作り出すことが不可能であるように、電磁場は真空とは不可分であると考えられる。したがって、エーテル風に類似する効果は場の量子論ではおこらない。 現代の自然科学者は、物理学における空間を「物理的空間」、数学などにおける空間を「抽象空間」と呼ぶこともある。 超弦理論においては、空間は9次元である、としている。ただし9次元のうち6次元は、現在観測できないほどに小さく折りたたまれていて観測できないとする。超弦理論では、「9次元空間 + 時間」の「10次元時空」が想定されている。小さな6次元は、カラビヤウ多様体のような形態であるという。 数学においては、ある集合を「入れ物」に、特定の条件を構造(とくに幾何学的構造)としていれて「幾何学的対象」と考えるとき、入れ物となる集合を空間 (くうかん、space)と呼ぶことがある。その場合、集合の元は空間の点と呼ばれる。入れ物となる空間に複数の構造が考えられるときには、構造ごとに異なる空間があると考えることが自然であることも少なくない。この場合、空間とは「入れ物となる集合とその集合の上に定義される構造との組のことである」として考えていることになる。 集合と条件から公理的に構成される空間をとくに抽象空間(ちゅうしょうくうかん、abstract space)と呼んで、具体的な空間と区別することがある。たとえば、ベクトル空間は線型演算の定義できる集合という条件で定まる抽象空間のことだが、実数全体の成す集合 R のような具体的な空間がベクトル空間の構造を持つかどうかということとは独立に、ベクトル空間の公理のみによってその性質などについて統一的に論じることができる。 空間に定義される幾何学的な構造とは、たとえば 「近さ」「向き」「位置関係」「広がり」 のようなものがそうなのであるが、座標や函数のような、通常は代数学的な構造であるとか解析学的な構造であると見なされるようなものも、一部に含んでいる。ホモトピーやホモロジー、コホモロジーは、空間やその幾何学を計算のしやすい代数系によって捉えるという代数的位相幾何学の思想に基づく産物である一方、不変量として空間を規定する幾何学的な構造の一種であると捉えられる。 ユークリッド空間は空間の雛形として幾何学的な構造を様々に含んでいる。たとえば、「近さ」について、ユークリッド距離と呼ばれる距離函数によって距離空間の構造を備えている。空間(の中の図形)が閉じているとか開いているとか、あるいは「広がり」具合に関して限界があるとか、繋がっているとか離れているとか、収束・発散、とかいった概念は、ユークリッド空間であれば距離の言葉で解釈して、論じることができる。一般には距離を定めることのできない抽象空間で近さを論じるために、位相空間や一様空間といった抽象空間の類が定義される。また、ユークリッド空間上の函数やその解析学は、ユークリッド空間の局所的な振る舞いを明らかにし、微分構造を備えた多様体としての姿を浮き彫りにする。それは、座標による表示を通して、空間上の微分が存在する接空間のベクトル空間としての構造と、その張り合わせとして捉えることもできる。とくに三次元空間では、空間の向きや距離をベクトルの内積や外積などによって把握するベクトル解析が詳しく展開される。 位相空間は、開集合や閉集合の全体がどうなっているべきであるかを明らかにすることで定義されるが、それによって他の多くの幾何学的な構造が統一的に調べられる、非常に広い空間概念である。一方、函数や収束・発散あるいは完備といった、空間の解析学を展開するために必要な性質は一様空間の性質として理解されることも少なくはない。 多様体の場合に限らず、集合上の函数の集まりは、空間の持つ情報を様々に写し取るために、それを空間と双対的な存在の「空間」と見なすようなこともしばしば行われる。こういった函数空間の考察は、多くの場合代数的な道具を空間の研究に導入する便宜を提供することになる。 空間に対して、空間上の自己準同型のつくる作用素環などの函数環および、その上の加群を新たな空間として考えたり、非可換環上の幾何学を展開する場としての非可換空間を通常の空間の変形版と見なす非可換幾何を考察したりといった直接的な影響に留まらず、点の集まりとして定義される空間という点集合論を超えて、詳細な情報を得るには点の不足している空間に対して、函数空間の代数的な情報によって元の空間の情報を引き出したりするようなこと、あるいは抽象代数的な構造物を積極的に幾何学的な空間として捕らえるような代数幾何学的な思想が、現われてくる。 代数幾何学やその応用としての数論幾何学では、局所コンパクト群であるユークリッド空間のようなよく知られた(ふつうの)空間のみならず、たとえば位相空間として離散空間となるさまざまな有限群や離散群のような、およそ図形とは思えないようなものが各所で重要な意味を持つなど、興味深いたくさんの抽象空間が扱われる。 社会科学において、地理学は、空間をその論理契機として枢要な位置にすえている。地理学的空間、地理学用語としての空間は、地表部の一部を指し、3次元空間を地理的要素が分布する2次元的広がりに転用して用いる。一般的に地帯地方地域地区領域などと呼び、地域計画の分野では地理学的空間を立地空間としてとらえ、土地利用、土地所有、家屋分布、道路網、景観等の基礎調査で3次元空間を2次元空間に置きかえることが成されて、踏襲している。相対空間の距離が輸送費・移動に伴う労苦や事業所・社会集団の立地点として、また、絶対空間の広がりが需要空間や国土領域などとしてとらえられ、その理論体系に重要な役割を演じている。新しい経済地理学は、物理的空間と経済・社会との連関を、経済社会による空間の包摂としてとらえ、均質な物理的空間から異質な経済・社会空間が生産される過程をこの包摂過程から体系的に説明している。 経済・社会は、その容器として絶対空間を必ず充用しなければならないが、絶対空間は同時に、連続性をもち、その中に存在する物体や主体を関係付けて均質化してしまう。このため、市場主体や社会集団の自立性は損なわれる。これが、「絶対空間の形式的包摂」である。これを否定するため、経済・社会を支配する主体は、空間を仕切って、市場主体や社会集団の自立性を回復しなければならない。これが有界化という、「絶対空間の実質的包摂」の過程である。例えば、最近市場原理主義の下で語られるコモンズの悲劇の問題において、コモンズ(入会地、共有地)は、形式的に包摂された絶対空間であり、これを有界化して各区画を私有とすることは、市場経済への絶対空間の実質的包摂である。 経済・社会はまた、その主体の活動位置の特定のため相対空間も充用しなければならない。だが、相対空間は同時に距離の性質をもち、活動する主体を引き離す。このため、市場など経済・社会組織の統合は困難となる。これが、「相対空間の形式的包摂」である。これを否定するため、経済・社会を支配する主体は、相対空間の各位置を結びつけて、市場主体や社会集団の統合を回復しなければならない。これが空間統合と呼ばれる、「相対空間の実質的包摂」の過程である。しかし多くの場合、空間統合は2次元の平面の広がりがつくる距離を1次元の線分の集合たるネットワークによって否定しようとする行為であるので、新幹線や高速道路の建設は、この空間統合をより効率的に行う試みであるが、高速交通手段であるほど単位距離あたりコストがより多くかかり、ネットワークが疎になるので、空間の不均質性はかえって拡大してしまう。これを、空間統合のパラドクスという。 これらの絶対・相対空間の実質的包摂を通じて、物理的空間上に、不均質性をもつ、経済・社会の空間編成が刻み込まれる。これが、空間の生産である。とくに、生産された空間が可視的な物体の形をとる場合、その空間のシステムとなった総体を建造環境と呼ぶ。また、物理的(原初的)空間と生産された空間の編成との相互、ならびに実質的包摂の結果生産された領域と空間統合との相互が全体として絡み合った空間を、相関空間と呼ぶ。 造園計画やランドスケープデザインの対象となって創出されたり、または環境保全されたり景観操作された、一つのまとまった構造をもつ空間を造園空間という。ここでの一つのまとまりとは、周囲を囲まれた園、つまり物的なまとまりとしての空間だけを指すのでなく、景色や風景として一望できるまとまりある構造をも指している。造園空間の特徴をその空間構成の形式の点から建築空間との比較でいうと、ひとつ目の特徴は屋根のない床や壁による構成であり、すなわち外部空間であることが挙げられる。二つ目の特徴は、空間の構成要素が生命ある植物や水、土、石といった自然材であること、三つ目に、空間構成の観点が用と景にたとえられるように機能と外観のデザインが相互調整におかれることがあげられる。 造園空間の史的展開を空間事例であげると、フランスやスペインでは宮殿の庭園として発展し、イタリアではヴィラと呼ばれる別荘の庭園として、日本では寺院庭園等として、イギリスでは狩猟園地としてのパークや共有地としてのボストンコモンが都市公園として展開してきたことを知る。またアメリカ合衆国では、近代都市公園と国立公園としての自然公園が発生、展開した。 現在日本で成立している造園空間を示すと個人庭園から公館庭園までを含む各種庭園、都市公園に代表されるが、遊園地・スキー場・ゴルフ場・別荘地までを含む各種レクリエーション空間やリゾート空間、並木道や緑道から高速道路造園といった交通系の造園空間がある。これらの造園空間は、そうした空間が立地成立する地域空間の序列を備えていて、日常生活圏域で見受けられる造園空間から、より広域的な圏域に数箇所限定して成立するものまである。また、造園空間の土地所有や運営、経営の面からみると、公的造園空間と私的造園空間とがある。 この分野では造園作品と造園空間とを区分してとらえる傾向がある。 社会学における空間分析において決定的な影響を与えたのが1960-1970年代の空間論的転回である。空間論的転回によって、空間は社会的活動にとっての基本的な素材とみなしつつ、同時に社会的に生産されたものと考えられるようになった。したがって、たとえば、「社会空間」は、この両義性を含み合わせた概念として使用される。この流れを生み出したのは、アンリ・ルフェーヴル、ミシェル・ド・セルトー、デヴィッド・ハーヴェイらである。 社会学における社会空間論としては、マニュエル・カステルの「フローの空間」論、アルジュン・アパデュライの「スケイプ」論がよく知られている。 哲学・地理学・社会学からの派生・応用になるが、ユネスコが世界遺産や無形文化遺産に考え方を反映させている。 人間の空間認識は、空間を表現する言語と関係が深い。 縦と横、前後、左右、上下など空間の関係に関する言葉はたくさんある。 大小、長い・短い、太い・細いなど、空間を占める状態を表す言葉もたくさんある。
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"これは、ドイツのライプニッツによる批判の対象となった。ライプニッツは、相対空間という概念を提示した。ライプニッツによれば、空間とは諸物の関係であり、空間の存在は、その中の諸物の関係を、幾何学などにより合理的に説明できれば証明されるとした。これは、空間の性質を、諸物の位置ならびに位置相互にある距離として表現するものであった。ニュートン(およびその支持者)とライプニッツ(およびその支持者)の間には、激しい論争が闘わされ、何度も書簡(第1-5書簡)のやりとりがなされた。", "title": "自然哲学における空間" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ライプニッツの第2書簡においては、宇宙における物質の量に関してニュートンを批判しつつ、真空などという概念はないときっぱりと否定した。ライプニッツはその理由として、宇宙に物質の量が多ければ多いほど神の力と知恵を行使できる機会が多いのだから、物質のない虚ろな空間はありえない、とした。第5書簡では、水銀をいれたガラスのチューブを用いたトリチェリの実験(1643年)も引き合いに出し、アリストテレス主義者やデカルト主義者らの見解も提示しつつ「空気を抜かれたガラスのチューブには光線が通過することからして小さな穴があいているに決まっている。そしてその穴は空気は通さないけれど、磁気などの希薄な流体を通すのであって、ガラス容器の中にはそのような微小な物質がつまっていると考えるべきである」と述べた。(ライプニッツのこの説明は、現在の物理学における磁場などの、目に見ることも触れることもできない「場」の概念を先見するものだったとも評価されている。", "title": "自然哲学における空間" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第4書簡では、万有引力についても攻撃し、「離れた物体同士が、まったく仲介するものなしで互いに引き合うとか、(ある物体のまわりを)物体がまわる(接線方向に進んでゆくことを妨げるものがないのにそうならない)ということも、超自然的だ。このようなことは、ものごとの本性からは説明できない」と非難した。ライプニッツの支持者らもニュートンの万有引力の理論を「オカルトだ」と非難した。", "title": 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"ローレンツは、「絶対空間においてエーテルが静止している」とし「宇宙は絶対静止しているエーテルと運動する荷電粒子からなる」とする宇宙論によって、ニュートン的な絶対空間の概念を保持していた。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この考え方を支持する人は多く、地球のエーテルに対する運動の効果を地上で測定するという実験が繰り返し行なわれた。マイケルソン・モーリーの実験である。実験結果はエーテルの存在を証明するものではなかった。ローレンツは、「運動する時計は遅れる」とする仮説と、「運動するものさしは収縮する」とする仮説によって、実験結果も受け入れつつ なんとかしてエーテルの存在を認めつづけようとした。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アルベルト・アインシュタインは、ローレンツの考えとは異なった観点から着想し、「全ての慣性基準系は対等であって、特権的な基準系はない」とする仮説と、「あらゆる慣性基準系において真空中の光の速度は一定である」とする仮説によって、ニュートン力学の理論体系を組みなおし、空間と時間に関して新しい考え方を提示した(相対性理論を参照)。ここにおいて、空間は時間と連関して扱われることになり、4次元の時空という概念が現れた。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アインシュタインの一般相対性理論以来、重力は空間の歪みと考えられ、空間は曲率がゼロのユークリッド空間ではなく一般にはリーマン空間で表されることになった。そして重力の源は質量であるので、空間は内部の物体とは無関係に存在する単なる容器ではなく、内部の質量自体が空間の構造に影響を与えていることになる。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "エドウィン・ハッブルらによって、島宇宙(銀河)が遠ざかっていることが発見されてからは、やがて宇宙は一定であるとする定常宇宙論以外に、宇宙が膨張しているとするビッグバン仮説が登場し、両者は拮抗するようにもなり、やがてビッグバン理論の支持者の割合が大きくなった(宇宙論を参照)。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、20世紀初頭からはじまった数々の物理実験によって、真空は何も含まない「無」なのではなく、エネルギーや構造を持つことが解明された(例えば「ディラックの海」、「カシミール効果」を参照のこと)。このような真空の性質を記述するために場の量子論が1930年代に登場し、やがて素粒子の標準模型へと進化した。標準模型においては、真空と不可分な電磁場や電子場、ヒッグス場などが存在し(電磁場、量子場、ヒッグス場も参照)、粒子は真空を構成する場の励起状態であると解釈されている。宇宙のあらゆる場所に共通の電子の場が存在するために、どこで電子を生成しても、その質量や電荷などの諸性質は全く同一になる(例えば、他のものに比べて質量の小さい電子は生成できない)。また、磁石は真空を構成する電磁場を影響するために、遠距離でも目に見えない引力や斥力が発生すると解釈される。電荷を勢いよく振動させると、電磁場中に光子が励起され無限遠に向かって伝搬する。こうした真空の概念の転換によって、原子や素粒子の性質が極めて正確に予言できるようになった。1960年代には、電磁相互作用と弱い相互作用を統一した電弱理論が確立され、1980年代に実験的に検証された。現在、さらに電弱理論と強い相互作の理論を統一する統一場理論を作り上げようと努力しているが、理論の予測と陽子崩壊等の実験結果に矛盾があるために、困難に直面している。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、19世紀末に信じられていたエーテル仮説では、真空中にエーテルと呼ばれる媒質が満たされており、地球がエーテル中を運動するとエーテル風が観測されると考えられていた。エーテルは真空と分離可能で直接観測が可能な液体のような媒質であると考えられていたが、該当する現象が観測されなかったために、エーテルの存在は現在では実験的に否定されている。一方、場の量子論における「場」とは、電磁場のように真空と分離することのできない広がりをもったものを指す。携帯電話に電波が届くのは、空間中のあらゆる場所に目に見えない電磁場が満たされており、携帯電話がその電磁場を励起するからである。電波が伝搬しない真空を作り出すことが不可能であるように、電磁場は真空とは不可分であると考えられる。したがって、エーテル風に類似する効果は場の量子論ではおこらない。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "現代の自然科学者は、物理学における空間を「物理的空間」、数学などにおける空間を「抽象空間」と呼ぶこともある。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "超弦理論においては、空間は9次元である、としている。ただし9次元のうち6次元は、現在観測できないほどに小さく折りたたまれていて観測できないとする。超弦理論では、「9次元空間 + 時間」の「10次元時空」が想定されている。小さな6次元は、カラビヤウ多様体のような形態であるという。", "title": "物理学における空間" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "数学においては、ある集合を「入れ物」に、特定の条件を構造(とくに幾何学的構造)としていれて「幾何学的対象」と考えるとき、入れ物となる集合を空間 (くうかん、space)と呼ぶことがある。その場合、集合の元は空間の点と呼ばれる。入れ物となる空間に複数の構造が考えられるときには、構造ごとに異なる空間があると考えることが自然であることも少なくない。この場合、空間とは「入れ物となる集合とその集合の上に定義される構造との組のことである」として考えていることになる。", "title": "数学における空間" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "集合と条件から公理的に構成される空間をとくに抽象空間(ちゅうしょうくうかん、abstract space)と呼んで、具体的な空間と区別することがある。たとえば、ベクトル空間は線型演算の定義できる集合という条件で定まる抽象空間のことだが、実数全体の成す集合 R のような具体的な空間がベクトル空間の構造を持つかどうかということとは独立に、ベクトル空間の公理のみによってその性質などについて統一的に論じることができる。", "title": "数学における空間" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "空間に定義される幾何学的な構造とは、たとえば 「近さ」「向き」「位置関係」「広がり」 のようなものがそうなのであるが、座標や函数のような、通常は代数学的な構造であるとか解析学的な構造であると見なされるようなものも、一部に含んでいる。ホモトピーやホモロジー、コホモロジーは、空間やその幾何学を計算のしやすい代数系によって捉えるという代数的位相幾何学の思想に基づく産物である一方、不変量として空間を規定する幾何学的な構造の一種であると捉えられる。", "title": "数学における空間" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ユークリッド空間は空間の雛形として幾何学的な構造を様々に含んでいる。たとえば、「近さ」について、ユークリッド距離と呼ばれる距離函数によって距離空間の構造を備えている。空間(の中の図形)が閉じているとか開いているとか、あるいは「広がり」具合に関して限界があるとか、繋がっているとか離れているとか、収束・発散、とかいった概念は、ユークリッド空間であれば距離の言葉で解釈して、論じることができる。一般には距離を定めることのできない抽象空間で近さを論じるために、位相空間や一様空間といった抽象空間の類が定義される。また、ユークリッド空間上の函数やその解析学は、ユークリッド空間の局所的な振る舞いを明らかにし、微分構造を備えた多様体としての姿を浮き彫りにする。それは、座標による表示を通して、空間上の微分が存在する接空間のベクトル空間としての構造と、その張り合わせとして捉えることもできる。とくに三次元空間では、空間の向きや距離をベクトルの内積や外積などによって把握するベクトル解析が詳しく展開される。", "title": "数学における空間" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "位相空間は、開集合や閉集合の全体がどうなっているべきであるかを明らかにすることで定義されるが、それによって他の多くの幾何学的な構造が統一的に調べられる、非常に広い空間概念である。一方、函数や収束・発散あるいは完備といった、空間の解析学を展開するために必要な性質は一様空間の性質として理解されることも少なくはない。", "title": "数学における空間" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "多様体の場合に限らず、集合上の函数の集まりは、空間の持つ情報を様々に写し取るために、それを空間と双対的な存在の「空間」と見なすようなこともしばしば行われる。こういった函数空間の考察は、多くの場合代数的な道具を空間の研究に導入する便宜を提供することになる。", "title": "数学における空間" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "空間に対して、空間上の自己準同型のつくる作用素環などの函数環および、その上の加群を新たな空間として考えたり、非可換環上の幾何学を展開する場としての非可換空間を通常の空間の変形版と見なす非可換幾何を考察したりといった直接的な影響に留まらず、点の集まりとして定義される空間という点集合論を超えて、詳細な情報を得るには点の不足している空間に対して、函数空間の代数的な情報によって元の空間の情報を引き出したりするようなこと、あるいは抽象代数的な構造物を積極的に幾何学的な空間として捕らえるような代数幾何学的な思想が、現われてくる。", "title": "数学における空間" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "代数幾何学やその応用としての数論幾何学では、局所コンパクト群であるユークリッド空間のようなよく知られた(ふつうの)空間のみならず、たとえば位相空間として離散空間となるさまざまな有限群や離散群のような、およそ図形とは思えないようなものが各所で重要な意味を持つなど、興味深いたくさんの抽象空間が扱われる。", "title": "数学における空間" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "社会科学において、地理学は、空間をその論理契機として枢要な位置にすえている。地理学的空間、地理学用語としての空間は、地表部の一部を指し、3次元空間を地理的要素が分布する2次元的広がりに転用して用いる。一般的に地帯地方地域地区領域などと呼び、地域計画の分野では地理学的空間を立地空間としてとらえ、土地利用、土地所有、家屋分布、道路網、景観等の基礎調査で3次元空間を2次元空間に置きかえることが成されて、踏襲している。相対空間の距離が輸送費・移動に伴う労苦や事業所・社会集団の立地点として、また、絶対空間の広がりが需要空間や国土領域などとしてとらえられ、その理論体系に重要な役割を演じている。新しい経済地理学は、物理的空間と経済・社会との連関を、経済社会による空間の包摂としてとらえ、均質な物理的空間から異質な経済・社会空間が生産される過程をこの包摂過程から体系的に説明している。", "title": "地理学における空間" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "経済・社会は、その容器として絶対空間を必ず充用しなければならないが、絶対空間は同時に、連続性をもち、その中に存在する物体や主体を関係付けて均質化してしまう。このため、市場主体や社会集団の自立性は損なわれる。これが、「絶対空間の形式的包摂」である。これを否定するため、経済・社会を支配する主体は、空間を仕切って、市場主体や社会集団の自立性を回復しなければならない。これが有界化という、「絶対空間の実質的包摂」の過程である。例えば、最近市場原理主義の下で語られるコモンズの悲劇の問題において、コモンズ(入会地、共有地)は、形式的に包摂された絶対空間であり、これを有界化して各区画を私有とすることは、市場経済への絶対空間の実質的包摂である。", "title": "地理学における空間" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "経済・社会はまた、その主体の活動位置の特定のため相対空間も充用しなければならない。だが、相対空間は同時に距離の性質をもち、活動する主体を引き離す。このため、市場など経済・社会組織の統合は困難となる。これが、「相対空間の形式的包摂」である。これを否定するため、経済・社会を支配する主体は、相対空間の各位置を結びつけて、市場主体や社会集団の統合を回復しなければならない。これが空間統合と呼ばれる、「相対空間の実質的包摂」の過程である。しかし多くの場合、空間統合は2次元の平面の広がりがつくる距離を1次元の線分の集合たるネットワークによって否定しようとする行為であるので、新幹線や高速道路の建設は、この空間統合をより効率的に行う試みであるが、高速交通手段であるほど単位距離あたりコストがより多くかかり、ネットワークが疎になるので、空間の不均質性はかえって拡大してしまう。これを、空間統合のパラドクスという。", "title": "地理学における空間" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これらの絶対・相対空間の実質的包摂を通じて、物理的空間上に、不均質性をもつ、経済・社会の空間編成が刻み込まれる。これが、空間の生産である。とくに、生産された空間が可視的な物体の形をとる場合、その空間のシステムとなった総体を建造環境と呼ぶ。また、物理的(原初的)空間と生産された空間の編成との相互、ならびに実質的包摂の結果生産された領域と空間統合との相互が全体として絡み合った空間を、相関空間と呼ぶ。", "title": "地理学における空間" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "造園計画やランドスケープデザインの対象となって創出されたり、または環境保全されたり景観操作された、一つのまとまった構造をもつ空間を造園空間という。ここでの一つのまとまりとは、周囲を囲まれた園、つまり物的なまとまりとしての空間だけを指すのでなく、景色や風景として一望できるまとまりある構造をも指している。造園空間の特徴をその空間構成の形式の点から建築空間との比較でいうと、ひとつ目の特徴は屋根のない床や壁による構成であり、すなわち外部空間であることが挙げられる。二つ目の特徴は、空間の構成要素が生命ある植物や水、土、石といった自然材であること、三つ目に、空間構成の観点が用と景にたとえられるように機能と外観のデザインが相互調整におかれることがあげられる。", "title": "造園における空間" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "造園空間の史的展開を空間事例であげると、フランスやスペインでは宮殿の庭園として発展し、イタリアではヴィラと呼ばれる別荘の庭園として、日本では寺院庭園等として、イギリスでは狩猟園地としてのパークや共有地としてのボストンコモンが都市公園として展開してきたことを知る。またアメリカ合衆国では、近代都市公園と国立公園としての自然公園が発生、展開した。", "title": "造園における空間" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "現在日本で成立している造園空間を示すと個人庭園から公館庭園までを含む各種庭園、都市公園に代表されるが、遊園地・スキー場・ゴルフ場・別荘地までを含む各種レクリエーション空間やリゾート空間、並木道や緑道から高速道路造園といった交通系の造園空間がある。これらの造園空間は、そうした空間が立地成立する地域空間の序列を備えていて、日常生活圏域で見受けられる造園空間から、より広域的な圏域に数箇所限定して成立するものまである。また、造園空間の土地所有や運営、経営の面からみると、公的造園空間と私的造園空間とがある。", "title": "造園における空間" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この分野では造園作品と造園空間とを区分してとらえる傾向がある。", "title": "造園における空間" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "社会学における空間分析において決定的な影響を与えたのが1960-1970年代の空間論的転回である。空間論的転回によって、空間は社会的活動にとっての基本的な素材とみなしつつ、同時に社会的に生産されたものと考えられるようになった。したがって、たとえば、「社会空間」は、この両義性を含み合わせた概念として使用される。この流れを生み出したのは、アンリ・ルフェーヴル、ミシェル・ド・セルトー、デヴィッド・ハーヴェイらである。", "title": "社会学における空間" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "社会学における社会空間論としては、マニュエル・カステルの「フローの空間」論、アルジュン・アパデュライの「スケイプ」論がよく知られている。", "title": "社会学における空間" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "哲学・地理学・社会学からの派生・応用になるが、ユネスコが世界遺産や無形文化遺産に考え方を反映させている。", "title": "文化考における空間" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "人間の空間認識は、空間を表現する言語と関係が深い。 縦と横、前後、左右、上下など空間の関係に関する言葉はたくさんある。 大小、長い・短い、太い・細いなど、空間を占める状態を表す言葉もたくさんある。", "title": "人間の空間認識" } ]
空間とは、 (日常の用語)大きさを持った入れ物。 (哲学)時間と共に物質界を成立させる基礎形式。アリストテレスなどに古代ギリシアの思想では、個々の物が占有する場所(トポス)である。カントは空間を時間とともに人間精神の「直観形式」だとする立場を呈示した。 (物理)ニュートンは、空間を3次元のユークリッド空間、すなわち、3方向に無限に拡がるものとする数学を用いてニュートン力学体系を構築した。そして「(空間は)そのnature(本性)において、外界のいかなるものとも関係がなく、常に同じままで(不変)、不動」と記述した。 「万有引力」という考え方(遠隔作用論の一種)を提示し、宇宙の空間のすべての点が、全ての天体の位置と質量を「知って」いる、と考え、空間というのは「神の感覚中枢」であると述べた。空間を絶対と見なしたニュートンに対して、(ニュートン同様に大御所であった)ライプニッツは空間は相対的なものである、と見なし、論戦が繰り広げられた。アインシュタインの特殊相対性理論では、空間と時間はミンコフスキー時空という一体のものとして記述され、さらに一般相対性理論では、物質(質量)の存在により「曲がる」4次元リーマン空間として記述された。20世紀後半に発展した超弦理論では空間は9次元だとされる。→#自然哲学における空間、#物理学における空間。 (数学)→#数学における空間。ユークリッド空間、非ユークリッド空間、空間 (数学)(集合に幾何学的構造を併せて考えたもの)など。 (建築) →#建築における空間 哲学、物理学、数学、建築、地理学、社会学等々において用いられており、意味・説明は分野ごとに異なるので、それぞれ説明する。
{{wikipediaPage|[[ウィキペディア]]での[[名前空間]]については「[[Help:名前空間]]」を参照。}} {{読み仮名_ruby不使用|'''空間'''|くうかん|{{Lang-en-short|space}}}}とは、 #(日常の用語)大きさを持った[[入れ物]]。 #(哲学)時間と共に物質界を成立させる基礎形式。[[アリストテレス]]などに古代ギリシアの思想では、個々の物が占有する場所([[トポス]])である。[[カント]]は空間を[[時間]]とともに人間[[精神]]の「[[直観]]形式」だとする立場を呈示した。 #(物理)[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]は、空間を[[3次元]]の[[ユークリッド空間]]、すなわち、3方向に[[無限]]に拡がるものとする数学を用いて[[ニュートン力学]]体系を構築した。そして「(空間は)そのnature(本性)において、外界のいかなるものとも関係がなく、常に同じままで(不変)、不動」と記述した。<ref group="注">ニュートン力学を整理・発展させた物理学・力学を[[古典物理学]]・[[古典力学]]でも空間の扱いは基本的にニュートン力学と同様である。</ref> 「[[万有引力]]」という考え方([[遠隔作用論]]の一種)を提示し、宇宙の空間のすべての点が、全ての天体の位置と質量を「知って」いる、と考え、空間というのは「神の感覚中枢 (sensorium dei)」であると述べた<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=104}}</ref>。空間を絶対と見なしたニュートンに対して、(ニュートン同様に大御所であった)ライプニッツは空間は相対的なものである、と見なし、論戦が繰り広げられた。アインシュタインの[[特殊相対性理論]]では、空間と時間は[[ミンコフスキー空間|ミンコフスキー時空]]という一体のものとして記述され、さらに[[一般相対性理論]]では、物質(質量)の存在により「曲がる」[[4次元]][[リーマン空間]]として記述された。20世紀後半に発展した超弦理論では空間は9次元だとされる。→[[#自然哲学における空間]]、[[#物理学における空間]]。 #(数学)→[[#数学における空間]]。[[ユークリッド空間]]、[[非ユークリッド幾何学|非ユークリッド空間]]、[[空間 (数学)]](集合に幾何学的構造を併せて考えたもの)など。 #(建築) →[[#建築における空間]] [[哲学]]、[[物理学]]、[[数学]]、[[建築]]、[[地理学]]、[[社会学]]等々において用いられており、意味・説明は分野ごとに異なるので、それぞれ説明する。 == 自然哲学における空間 == [[file:Aristotle Altemps Inv8575.jpg|thumb|left|120px|<span style="font-size:90%;>アリストテレス</span>]] [[Image:Ptolemaicsystem-small.png|thumb|right|200px|古代から中世にかけての空間理解がわかる説明図の一例。[[ペトルス・アピアヌス]]の ''Cosmographia'' (アントワープ、[[1539年]])]] [[自然哲学]]における理解を解説する。 [[アリストテレス]]は、[[自然学]]の基礎的概念として、事物の場所「[[トポス]] topos」としての空間概念を用い、物事の運動kinesisを説明した。トポスは「接触面」として、[[四元素|諸元素]]に対して能動的な作用を及ぼす実在であって、それぞれの本性により、火は上方に、土は下方の場所へと運動する、とした。→[[トピカ (アリストテレス)|『トポス論』]] [[file:Ptolemy 16century.jpg|thumb|left|120px|<span style="font-size:90%;>プトレマイオス</span>]] 後にアリストテレスの[[自然哲学]]は[[クラウディオス・プトレマイオス]]の天文学と合体し、性質的な差異と階層構造をもつ有限宇宙が想定された。月下界には月下界特有の性質・法則があり、月の向こう側の空間には、そこ独特の性質・法則があると考えられていた。空間というのは、位置によって性質が異なる、と一般に考えられていたのである。人々は、空間は位置により性質が違うから、地上のものは落下するが、惑星は落ちないまま円運動を続けている、と考えていた。空間は相対的なものであった([[宇宙論]]を参照)。 [[file:Frans Hals - Portret van René Descartes.jpg|thumb|left|120px|<span style="font-size:90%;>デカルト</span>]] [[Image:Descartes Aetherwirbel.jpg|thumb|right|200px|[[ルネ・デカルト|デカルト]]の『哲学原理』(1647年)に掲載されている、エーテルの渦と天体の図]] [[ルネ・デカルト]]が1633年に執筆した『宇宙論』の原稿においては、物体とは独立の空間を認めており、運動というのは空間の中のある位置から別の位置への移動」として簡潔に定義できるものであった(だが、この書はデカルトの生前には出版されなかった。出版は死後である。)。その後のデカルトの[[渦動説]]によれば、空間にはすきまなく目に見えない何かが満ちており、物が移動すると渦が生じている、物体は「[[渦]]」によって動かされている、と説明された<ref name="Barbour">Julian Barbour, ''The Discovery of Dynamics: A Study from a Machian Point of View of the Discovery and the Structure of Dynamical Theories'' 2001. ISBN 0-19-513202-5 ([[ジュリアン・バーバー]]『動力学の発見』)</ref><ref name="Uchii">内井惣七 『空間の謎・時間の謎 - 宇宙の始まりに迫る物理学と哲学』 中公新書、2006年、ISBN 412101829X</ref>([[重力を説明する古典力学的理論]]を参照)。 [[自然哲学者]][[アイザック・ニュートン]]は、上述のデカルトの渦動説は本で読んだものの、その体系に相当無理があると気づいていた。ニュートンは一般に公表はされなかったものの、『重力および流体の平衡について』という書きかけの手稿(『[[自然哲学の数学的諸原理]]』が出版される相当前に書かれたもの)を残しており、そこでデカルトの渦動説を名指しで批判している。そして、その手稿で「場所とは物体が占める空間の一部」とし、「静止とは同じ場所にとどまること」「運動とは場所の変化である」としていた(ただしこれは公表されなかった)<ref name="Uchii" />。 [[file:GodfreyKneller-IsaacNewton-1689.jpg|thumb|left|120px|<span style="font-size:90%;>ニュートン</span>]] [[file:Gottfried Wilhelm von Leibniz.jpg|thumb|left|120px|<span style="font-size:90%;>ライプニッツ</span>]] ニュートンは、古代以来の「場所により空間の性質が異なる」という考え方に変化をもたすことにもなった。ニュートンは、天界の惑星の運動と地上の物体の落下が同一のしくみによってもたらされているとしても説明可能だと見抜き、「[[万有引力]]の法則」を公表した(『[[自然哲学の数学的諸原理]]』)。ニュートンは[[ユークリッド幾何学]]を用いて、自らの理論体系を構築した。(当時、人類が知っていた幾何学はユークリッド幾何学だけであった。<ref name="Uchii" />。)よって、[[ニュートン力学]]においては空間は、無限に広がる3次元の[[ユークリッド空間]]と想定されていることになる。 『[[自然哲学の数学的諸原理]]』の冒頭部分の「定義」に続く箇所において、絶対空間と絶対時間という概念を導入した。「そのnature本性において、外界のいかなるものとも関係がなく、常に同じままで、不動の」と説明されている。ニュートンの力学体系では、空間は均一の性質で広がるものと想定されるようになり「絶対空間」と呼ばれたのである。また、ニュートンは同著においてその説明につづいて、絶対運動および相対運動について説明を行ない、バケツの中に水を入れ回転させる実験の説明を行った<ref name="Uchii" />。 また、ニュートンは宇宙の空間のすべての位置・点が、全ての天体の位置と質量を知っているということから、空間というのは「[[神]]の感覚中枢 (sensorium dei)」であると述べた。神は絶対性を有しており、宇宙のあらゆる空間に神はあまねく存在している(遍在している)としたのである。(『光学』<ref> 「このようなことが手際よく処理されているということは、物質的ではなく、生きており、知性があり、何処にでも遍在する神のいることが諸現象によって示されているのではないだろうか。神は、いわば彼の感覚器官とでも言える無限の空間において、すべてのものごとが彼に対して直接に立ち現れていることから、それらを深く見通し、完璧に知覚し、完全に理解なさる。」(アイザック・ニュートン『光学』1704年。「問い28」)</ref>)。 [[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]は空間というのは、同時に存在する事物の秩序、ととらえた。空間は表象と表象との関係によって定義される、とした。よってライプニッツの考えでは、ニュートンが言うような絶対空間というようなものは否定した。 {{-}} ===2種類の空間概念にまつわる議論=== 絶対空間と相対空間の考え方について議論が行なわれた。 '''絶対空間'''は、英国の[[自然哲学者]][[アイザック・ニュートン|ニュートン]]が唱えた空間概念で、連続的で均質な無限の広がりを想定している。 これは、ドイツのライプニッツによる批判の対象となった。[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]は、'''相対空間'''という概念を提示した。ライプニッツによれば、空間とは諸物の関係であり、空間の存在は、その中の諸物の関係を、幾何学などにより合理的に説明できれば証明されるとした。これは、空間の性質を、諸物の位置ならびに位置相互にある距離として表現するものであった。ニュートン(およびその支持者)とライプニッツ(およびその支持者)の間には、激しい論争が闘わされ、何度も[[書簡]](第1-5書簡)のやりとりがなされた<ref name="Uchii" />。 ライプニッツの第2書簡においては、宇宙における物質の量に関してニュートンを批判しつつ、[[真空]]などという概念はないときっぱりと否定した。ライプニッツはその理由として、宇宙に物質の量が多ければ多いほど神の力と知恵を行使できる機会が多いのだから、物質のない虚ろな空間はありえない、とした<ref name="Uchii" />。第5書簡では、水銀をいれたガラスのチューブを用いた[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ|トリチェリ]]の実験(1643年)も引き合いに出し、アリストテレス主義者や[[デカルト主義]]者らの見解も提示しつつ「空気を抜かれたガラスのチューブには光線が通過することからして小さな穴があいているに決まっている。そしてその穴は空気は通さないけれど、磁気などの希薄な流体を通すのであって、ガラス容器の中にはそのような微小な物質がつまっていると考えるべきである」と述べた<ref name="Uchii" />。(ライプニッツのこの説明は、現在の物理学における[[磁場]]などの、目に見ることも触れることもできない「場」の概念を先見するものだったとも評価されている<ref name="Uchii" />。 第4書簡では、万有引力についても攻撃し、「離れた物体同士が、まったく仲介するものなしで互いに引き合うとか、(ある物体のまわりを)物体がまわる(接線方向に進んでゆくことを妨げるものがないのにそうならない)ということも、[[超自然]]的だ。このようなことは、ものごとの本性からは説明できない」と非難した<ref name="Uchii" />。ライプニッツの支持者らもニュートンの万有引力の理論を「[[オカルト]]だ」と非難した。 == 物理学における空間 == {{古典力学}} === ニュートン力学での空間 === [[アイザック・ニュートン|ニュートン]]は[[ニュートン力学]]を、[[3次元]][[ユークリッド空間]]、すなわち、すべての方向に無限に拡がる果てしのない均質なもので物質の存在から独立した空虚な容器であり、やはり均質に空間や物質とは切り離されて存在し進行する時間がある、という大前提のもとに記述した(いわゆる[[絶対時間と絶対空間|「絶対空間」と「絶対時間」]]、[[時間#ニュートン力学での時間]]も参照)。 === ニュートン力学の再構成 === 19世紀後半には、ニュートン力学の再構成が盛んになり、できれば「絶対空間」という概念(仕組み)は抜きで運動を理解しよう、とする試みが盛んに行なわれるようになった<ref name="Barbour" />。なぜなら、たとえば[[マクスウェルの方程式]](1864)から、[[光速]]はいかなる観測者からも一定、という、絶対空間と絶対時間という枠組から見ると奇妙な結論が得られる。そういったほころびが目立つようになってきたからである。 [[エルンスト・マッハ]](1838-1916)は、観察されることをそのまま記述する方法で科学を再構築することを構想しており、ニュートン力学体系における「絶対空間」や「絶対時間」の概念を、[[形而上学]]的な要素の残滓(のこりかす)だとして否定した(『力学の発展史』<ref>日本語訳あり。『マッハ力学』</ref><ref name="Uchii" />)。また、[[カール・ノイマン]]や[[ルートヴィヒ・ランゲ]]は、ニュートンのように先に空間と時間を仮定してから運動を定義するのではなく、反対に、(観察される)運動と運動の法則から「[[慣性系]]」という基準系の構造を構築しようとした<ref name="Barbour" /><ref name="Uchii" />。「絶対空間」と呼ばれるものを見たり認識したことがある人は、未だかつて誰もいなかったのである<ref name="Uchii" />。マッハの思想は後述するアインシュタインに影響を与えた。 [[file:Jan Veth05.jpg|thumb|left|120px|<span style="font-size:90%;>ローレンツ</span>]] [[ヘンドリック・ローレンツ|ローレンツ]]は、「絶対空間において[[エーテル (物理)|エーテル]]が静止している」とし「宇宙は絶対静止しているエーテルと運動する荷電粒子からなる」とする[[宇宙論]]によって、ニュートン的な絶対空間の概念を保持していた<ref name="Uchii" />。 この考え方を支持する人は多く、地球のエーテルに対する運動の効果を地上で測定するという実験が繰り返し行なわれた。[[マイケルソン・モーリーの実験]]である。実験結果はエーテルの存在を証明するものではなかった。ローレンツは、「運動する時計は遅れる」とする[[仮説]]と、「運動するものさしは収縮する」とする仮説によって、実験結果も受け入れつつ なんとかしてエーテルの存在を認めつづけようとした<ref>関連:[[アドホックな仮説]]</ref>。 === 相対性理論での空間 === [[file:Albert Einstein Head.jpg|thumb|left|120px|<span style="font-size:90%;>アインシュタイン</span>]] [[アルベルト・アインシュタイン]]は、ローレンツの考えとは異なった観点から着想し、「全ての慣性基準系は対等であって、特権的な基準系はない」とする[[仮説]]と、「あらゆる慣性基準系において真空中の[[光]]の速度は一定である」とする仮説によって、ニュートン力学の理論体系を組みなおし、空間と時間に関して新しい考え方を提示した([[相対性理論]]を参照)<ref name="Uchii" />。ここにおいて、空間は時間と連関して扱われることになり、4次元の[[時空]]という概念が現れた。 アインシュタインの[[一般相対性理論]]以来、[[重力]]は空間の歪みと考えられ、空間は曲率がゼロのユークリッド空間ではなく一般には[[リーマン空間]]で表されることになった。そして重力の源は[[質量]]であるので、空間は内部の物体とは無関係に存在する単なる容器ではなく、内部の質量自体が空間の構造に影響を与えていることになる。 === 宇宙論・量子論・場の理論 === [[エドウィン・ハッブル]]らによって、[[島宇宙]]([[銀河]])が遠ざかっていることが発見されてからは、やがて宇宙は一定であるとする[[定常宇宙論]]以外に、宇宙が膨張しているとする[[ビッグバン仮説]]が登場し、両者は拮抗するようにもなり、やがてビッグバン理論の支持者の割合が大きくなった([[宇宙論]]を参照)。 また、20世紀初頭からはじまった数々の物理実験によって、真空は何も含まない「無」なのではなく、エネルギーや構造を持つことが解明された(例えば「[[ディラックの海]]」、「[[カシミール効果]]」を参照のこと)。このような真空の性質を記述するために場の量子論が1930年代に登場し、やがて素粒子の標準模型へと進化した。標準模型においては、真空と不可分な電磁場や電子場、ヒッグス場などが存在し([[電磁場]]、[[量子場]]、[[ヒッグス場]]も参照)、粒子は真空を構成する場の励起状態であると解釈されている。宇宙のあらゆる場所に共通の電子の場が存在するために、どこで電子を生成しても、その質量や電荷などの諸性質は全く同一になる(例えば、他のものに比べて質量の小さい電子は生成できない)。また、磁石は真空を構成する電磁場を影響するために、遠距離でも目に見えない引力や斥力が発生すると解釈される。電荷を勢いよく振動させると、電磁場中に光子が励起され無限遠に向かって伝搬する。こうした真空の概念の転換によって、原子や素粒子の性質が極めて正確に予言できるようになった。1960年代には、電磁相互作用と弱い相互作用を統一した電弱理論が確立され、1980年代に実験的に検証された。現在、さらに電弱理論と強い相互作の理論を統一する[[統一場理論]]を作り上げようと努力しているが、理論の予測と陽子崩壊等の実験結果に矛盾があるために、困難に直面している。 なお、19世紀末に信じられていたエーテル仮説では、真空中にエーテルと呼ばれる媒質が満たされており、地球がエーテル中を運動するとエーテル風が観測されると考えられていた。エーテルは真空と分離可能で直接観測が可能な液体のような媒質であると考えられていたが、該当する現象が観測されなかったために、エーテルの存在は現在では実験的に否定されている。一方、場の量子論における「場」とは、電磁場のように真空と分離することのできない広がりをもったものを指す。携帯電話に電波が届くのは、空間中のあらゆる場所に目に見えない電磁場が満たされており、携帯電話がその電磁場を励起するからである。電波が伝搬しない真空を作り出すことが不可能であるように、電磁場は真空とは不可分であると考えられる。したがって、エーテル風に類似する効果は場の量子論ではおこらない。 現代の自然科学者は、物理学における空間を「物理的空間」、数学などにおける空間を「抽象空間」と呼ぶこともある。 {{seealso|時空|非局所性}} === 超弦理論における空間 === [[超弦理論]]においては、空間は9次元である、としている<ref name="sugimoto">[http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~shigeki.sugimoto/YITP50.pdf 京都大学基礎物理学研究所杉本茂樹「超弦理論の魅力」]</ref>。ただし9次元のうち6次元は、現在観測できないほどに小さく折りたたまれていて観測できないとする<ref name="sugimoto" />。超弦理論では、「9次元空間 + 時間」の「10次元時空」が想定されている<ref name="sugimoto" />。小さな6次元は、[[カラビ・ヤウ多様体|カラビヤウ多様体]]のような形態であるという。 ;物理関連項目 * [[宇宙空間]]、[[空間群]]、[[対称性]]、[[位相空間 (物理学)]]、[[量子情報科学|量子情報]] == 数学における空間 == {{出典の明記|section=1|date=2010年1月}} {{main|空間 (数学)}} [[数学]]においては、ある集合を「入れ物」に、特定の条件を[[数学的構造|構造]](とくに幾何学的構造)としていれて「幾何学的対象」と考えるとき、入れ物となる集合を'''空間''' (くうかん、{{Lang|en|space}})と呼ぶことがある。その場合、集合の元は空間の[[点 (数学)|点]]と呼ばれる。入れ物となる空間に複数の構造が考えられるときには、構造ごとに異なる空間があると考えることが自然であることも少なくない。この場合、空間とは「入れ物となる集合とその集合の上に定義される構造との[[タプル|組]]のことである」として考えていることになる。 集合と条件から公理的に構成される空間をとくに'''抽象空間'''(ちゅうしょうくうかん、{{lang|en|abstract space}})と呼んで、具体的な空間と区別することがある。たとえば、[[ベクトル空間]]は線型演算の定義できる集合という条件で定まる抽象空間のことだが、実数全体の成す集合 '''R''' のような具体的な空間がベクトル空間の構造を持つかどうかということとは独立に、ベクトル空間の公理のみによってその性質などについて統一的に論じることができる。 空間に定義される幾何学的な構造とは、たとえば 「近さ」「向き」「位置関係」「広がり」 のようなものがそうなのであるが、[[座標]]や[[函数]]のような、通常は代数学的な構造であるとか解析学的な構造であると見なされるようなものも、一部に含んでいる。[[ホモトピー]]や[[ホモロジー (数学)|ホモロジー]]、[[コホモロジー]]は、空間やその幾何学を計算のしやすい代数系によって捉えるという[[代数的位相幾何学]]の思想に基づく産物である一方、[[不変量]]として空間を規定する幾何学的な構造の一種であると捉えられる。 [[ユークリッド空間]]は空間の雛形として幾何学的な構造を様々に含んでいる。たとえば、「近さ」について、ユークリッド距離と呼ばれる距離函数によって[[距離空間]]の構造を備えている。空間(の中の[[図形]])が[[閉集合|閉]]じているとか[[開集合|開]]いているとか、あるいは「広がり」具合に関して[[有界|限界がある]]とか、[[連結空間|繋がって]]いるとか[[分離公理|離れて]]いるとか、[[収束]]・発散、とかいった概念は、ユークリッド空間であれば距離の言葉で解釈して、論じることができる。一般には距離を定めることのできない抽象空間で近さを論じるために、[[位相空間]]や[[一様空間]]といった抽象空間の類が定義される。また、ユークリッド空間上の函数やその解析学は、ユークリッド空間の局所的な振る舞いを明らかにし、[[微分構造]]を備えた[[多様体]]としての姿を浮き彫りにする。それは、座標による表示を通して、空間上の微分が存在する[[接空間]]の[[ベクトル空間]]としての構造と、その[[ベクトル束|張り合わせ]]として捉えることもできる。とくに三次元空間では、空間の向きや距離をベクトルの内積や外積などによって把握する[[ベクトル解析]]が詳しく展開される。 位相空間は、開集合や閉集合の全体がどうなっているべきであるかを明らかにすることで定義されるが、それによって他の多くの幾何学的な構造が統一的に調べられる、非常に広い空間概念である。一方、函数や収束・発散あるいは[[完備]]といった、空間の解析学を展開するために必要な性質は[[一様空間]]の性質として理解されることも少なくはない。 多様体の場合に限らず、集合上の函数の集まりは、空間の持つ情報を様々に写し取るために、それを空間と[[双対]]的な存在の「空間」と見なすようなこともしばしば行われる。こういった[[函数空間]]の考察は、多くの場合代数的な道具を空間の研究に導入する便宜を提供することになる。 空間に対して、空間上の自己準同型のつくる[[作用素環]]などの[[函数環]]および、その上の加群を新たな空間として考えたり、[[環 (数学)|非可換環]]上の幾何学を展開する場としての非可換空間を通常の空間の変形版と見なす[[非可換幾何]]を考察したりといった直接的な影響に留まらず、点の集まりとして定義される空間という点集合論を超えて、詳細な情報を得るには点の不足している空間に対して、函数空間の代数的な情報によって元の空間の情報を引き出したりするようなこと、あるいは抽象代数的な構造物を積極的に幾何学的な空間として捕らえるような[[代数幾何学]]的な思想が、現われてくる。 代数幾何学やその応用としての数論幾何学では、[[局所コンパクト群]]であるユークリッド空間のようなよく知られた(ふつうの)空間のみならず、たとえば位相空間として[[離散空間]]となるさまざまな[[有限群]]や[[離散群]]のような、およそ図形とは思えないようなものが各所で重要な意味を持つなど、興味深いたくさんの抽象空間が扱われる。 ;数学関連項目 * [[ヒルベルト空間]]、[[零空間]]、[[アフィン空間]]、[[T1空間]]、[[LF空間]]、[[離散空間]]、[[射影空間]]、[[可分空間]]、[[位相空間論]]、[[コルモゴロフ空間]]、[[ハウスドルフ空間]]、[[密着空間]]、[[商空間]]、[[双対ベクトル空間]]、[[ノルム線型空間]]、[[一様空間]]、[[線型位相空間]]、[[計量ベクトル空間]]、[[確率空間]]、[[コンパクト空間]]、[[線型部分空間]]、[[バナッハ空間]]、[[連結空間]]、[[関数空間]]、[[空間充填]]、[[情報幾何学]]、[[位相幾何学]] == 地理学における空間 == {{Redirect|地理空間|『地理空間』と訳されるフランスの学術雑誌|:fr:L'Espace géographique|[[地理空間学会]]の学会誌|地理空間学会#機関誌「地理空間」}} {{出典の明記|section=1|date=2010年1月}} 社会科学において、[[地理学]]は、空間をその論理契機として枢要な位置にすえている。地理学的空間、地理学用語としての空間は、地表部の一部を指し、[[3次元空間]]を地理的要素が分布する[[2次元]]的広がりに転用して用いる。一般的に地帯地方地域地区領域などと呼び、地域計画の分野では地理学的空間を立地空間としてとらえ、[[土地利用]]、土地所有、家屋分布、道路網、[[景観]]等の基礎調査で3次元空間を2次元空間に置きかえることが成されて、踏襲している。相対空間の距離が輸送費・移動に伴う労苦や事業所・社会集団の立地点として、また、絶対空間の広がりが需要空間や国土領域などとしてとらえられ、その理論体系に重要な役割を演じている。新しい[[経済地理学]]は、物理的空間と経済・社会との連関を、経済社会による空間の[[包摂]]としてとらえ、均質な物理的空間から異質な経済・社会空間が生産される過程をこの包摂過程から体系的に説明している。 経済・社会は、その容器として絶対空間を必ず充用しなければならないが、絶対空間は同時に、連続性をもち、その中に存在する物体や主体を関係付けて均質化してしまう。このため、[[市場]]主体や[[社会集団]]の自立性は損なわれる。これが、「絶対空間の形式的包摂」である。これを否定するため、経済・社会を支配する主体は、空間を仕切って、市場主体や社会集団の自立性を回復しなければならない。これが[[有界化]]という、「絶対空間の実質的包摂」の過程である。例えば、最近市場原理主義の下で語られる[[コモンズの悲劇]]の問題において、コモンズ([[入会地]]、共有地)は、形式的に包摂された絶対空間であり、これを有界化して各区画を私有とすることは、市場経済への絶対空間の実質的包摂である。 経済・社会はまた、その主体の活動位置の特定のため相対空間も充用しなければならない。だが、相対空間は同時に距離の性質をもち、活動する主体を引き離す。このため、市場など経済・社会組織の統合は困難となる。これが、「相対空間の形式的包摂」である。これを否定するため、経済・社会を支配する主体は、相対空間の各位置を結びつけて、市場主体や社会集団の統合を回復しなければならない。これが[[空間統合]]と呼ばれる、「相対空間の実質的包摂」の過程である。しかし多くの場合、空間統合は2次元の平面の広がりがつくる距離を1次元の線分の集合たるネットワークによって否定しようとする行為であるので、[[新幹線]]や[[高速道路]]の建設は、この空間統合をより効率的に行う試みであるが、高速交通手段であるほど単位距離あたりコストがより多くかかり、ネットワークが疎になるので、空間の不均質性はかえって拡大してしまう。これを、空間統合のパラドクスという。 これらの絶対・相対空間の実質的包摂を通じて、物理的空間上に、不均質性をもつ、経済・社会の[[空間編成]]が刻み込まれる。これが、[[空間の生産]]である。とくに、生産された空間が可視的な物体の形をとる場合、その空間のシステムとなった総体を[[建造環境]]と呼ぶ。また、物理的(原初的)空間と生産された空間の編成との相互、ならびに実質的包摂の結果生産された領域と空間統合との相互が全体として絡み合った空間を、[[相関空間]]と呼ぶ。 == 造園における空間 == {{main|ランドスケープデザイン空間論}} [[造園計画]]や[[ランドスケープデザイン]]の対象となって創出されたり、または[[環境保全]]されたり景観操作された、一つのまとまった構造をもつ空間を造園空間という。ここでの一つのまとまりとは、周囲を囲まれた[[園]]、つまり物的なまとまりとしての空間だけを指すのでなく、景色や風景として一望できるまとまりある構造をも指している。造園空間の特徴をその空間構成の形式の点から建築空間との比較でいうと、ひとつ目の特徴は屋根のない床や壁による構成であり、すなわち[[外部空間]]であることが挙げられる。二つ目の特徴は、空間の構成要素が生命ある植物や水、土、石といった自然材であること、三つ目に、空間構成の観点が用と景にたとえられるように機能と外観のデザインが相互調整におかれることがあげられる。 造園空間の史的展開を空間事例であげると、[[フランス]]や[[スペイン]]では[[宮殿]]の[[庭園]]として発展し、[[イタリア]]では[[ヴィラ]]と呼ばれる[[別荘]]の庭園として、[[日本]]では[[寺院]]庭園等として、[[イギリス]]では[[狩猟]]園地としての[[公園|パーク]]や共有地としての[[ボストンコモン]]が[[都市公園]]として展開してきたことを知る。また[[アメリカ合衆国]]では、近代[[都市公園]]と[[国立公園]]としての[[自然公園]]が発生、展開した。 現在日本で成立している造園空間を示すと個人庭園から公館庭園までを含む各種庭園、都市公園に代表されるが、[[遊園地]]・[[スキー場]]・[[ゴルフ場]]・[[別荘地]]までを含む各種[[レクリエーション]]空間や[[リゾート]]空間、[[並木道]]や[[緑道]]から[[高速道路]]造園といった交通系の造園空間がある。これらの造園空間は、そうした空間が立地成立する地域空間の序列を備えていて、日常生活圏域で見受けられる造園空間から、より広域的な圏域に数箇所限定して成立するものまである。また、造園空間の土地所有や運営、経営の面からみると、公的造園空間と私的造園空間とがある。 この分野では[[造園作品]]と造園空間とを区分してとらえる傾向がある。<ref name=注 group=注>進土五十八(1977):東京の緑:東京都造園建設業協同組合『私はこれまで「造園作品」と「造園空間」を区別して考えるべきだと話してきた。額縁の中に収めた立体絵画が「造園作品」である。「造園作品」の中に利用者が多数入り込むとその良さは半減する。「造園空間」はこの逆に人間のいる風景である。多数の利用者が入り込むことで活気が生じ好ましい雰囲気が醸成する。そんな構成が要件である。この二つの違いは,私園と公園の差に典型的であるが,和洋の違いや,観賞式の室町期の庭に対する廻遊式の江戸期との違いとも対応する。これを各空間構成の相違として考察すると,「作品」は定位置からの高い注視密度に耐えうるためか造形的構成が緻密で次第に芸術性や高踏的な美の追及へとエスカレートしやすい。「空間」は多方面からの眺望が前提なので各部分は余り注視されない。むしろ変化に重きが置かれ,全体的編成と各種利用目的に対する空間分割のバランスが重視される。これはまた,精巧に組みたてられた細部をつないで出来上がった庭と全体構成(全体のフレーム)が構成されていて細部が後から続く庭との違いとも言える。…中略…よい立地環境の中で,よい材料を用いて,よい技術者を集めて,しかもただひたすらに造形的な美を構成するのは容易であろう。…中略…「作品づくり」に対して「空間づくり」をまとめるには美しさが弱いだけ大変だとも言える。…中略…多目的の機能を満たしながら有機的な空間を構成しなければならないのである。』 </ref> == 建築における空間 == {{Main|Category:空間プロデュース}} == 社会学における空間 == [[社会学]]における空間分析において決定的な影響を与えたのが1960-1970年代の[[空間論的転回]]である。空間論的転回によって、空間は社会的活動にとっての基本的な素材とみなしつつ、同時に社会的に生産されたものと考えられるようになった。したがって、たとえば、「社会空間」は、この両義性を含み合わせた概念として使用される。この流れを生み出したのは、[[アンリ・ルフェーヴル]]、[[ミシェル・ド・セルトー]]、[[デヴィッド・ハーヴェイ]]らである。 社会学における社会空間論としては、[[マニュエル・カステル]]の「[[フローの空間]]」論、[[アルジュン・アパデュライ]]の「[[スケイプ]]」論がよく知られている。 == 文化考における空間 == 哲学・地理学・社会学からの派生・応用になるが、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が[[世界遺産]]や[[無形文化遺産]]に考え方を反映させている。 {{Main|文化的空間}} == 人間の空間認識 == 人間の空間認識は、空間を表現する言語と関係が深い。 [[縦と横]]、[[前後]]、[[左右]]、[[上下]]など空間の関係に関する言葉はたくさんある。 [[大小]]、[[長い]]・[[短い]]、太い・細いなど、空間を占める状態を表す言葉もたくさんある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=内井惣七|authorlink=内井惣七|coauthors = |editor = |others = |title = 空間の謎・時間の謎 - 宇宙の始まりに迫る物理学と哲学 |edition = |year = 2006 |publisher = [[中央公論新社]] |series = [[中公新書]] |isbn = 412101829X |pages = }} == 関連項目 == {{Wiktionary|空間}} {{Commonscat|Space}} * [[特別:検索/intitle:空間|「空間」を含む記事名一覧]] *{{intitle}} * [[時間]] * [[空 (仏教)]] * [[自由空間]] * [[色空間]] * [[距離空間]] * [[名前空間]] * [[実空間]] * [[緑空間]] * [[広場空間]] * [[アドレス空間]] * [[逆格子空間]] * [[地理空間情報]] == 関連文献 == *アブラアム・A.モル、 エリザベト・ロメル『空間の心理学』叢書・ウニベルシタス、法政大学出版局、1984 ISBN 4588001302 *加藤孝義『空間感覚の心理学―左が好き?右が好き?』新曜社、1997 ISBN 4788505916 *長山泰久、矢守一彦『空間移動の心理学』 (応用心理学講座)、福村出版、1992 *[[日本建築学会]]『都市・建築空間の科学―環境心理生理からのアプローチ』技報堂出版、2002.12 ISBN 9784765524643 *安原盛彦『続 西洋建築空間史―壁から柱へ』技報堂出版、2002、ISBN 9784765524643 *井上充夫『日本建築の空間』 (SD選書 37)鹿島出版会、2000、ISBN 4306050378 *日本建築学会『建築空間のヒューマナイジング―環境心理による人間空間の創造』彰国社、2001、ISBN 4395005896 *日本建築学会『空間デザイン事典』井上書院、2006、ISBN 475300032X *[[岡本耕平]]、寺本潔、若林芳樹『ハンディキャップと都市空間―地理学と心理学の対話』古今書院、2006、ISBN 4772270191 *苧阪良二『環境音楽―快適な生活空間を創る』 (現代心理学ブックス) 大日本図書(新訂版、1992)ISBN 4477002092 {{自然}} {{音楽}}{{科学哲学}}{{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くうかん}} [[Category:空間|*]] [[Category:時空]] [[Category:和製漢語]] [[Category:哲学の和製漢語]]
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ゲオルク・カントール
ゲオルク・フェルディナント・ルートヴィッヒ・フィーリップ・カントール(Georg Ferdinand Ludwig Philipp Cantor [ˈkantoːɐ̯], 1845年3月3日 - 1918年1月6日)は、ドイツで活躍した数学者。 素朴集合論の確立者。自然数と実数の間に全単射が存在しないことを対角線論法によって示す一方、R と R の間に全単射が存在することを証明した。連続体仮説に興味を持ち研究を続けたが、存命中に成果は得られなかった。連続体仮説については、後にゲーデルとポール・コーエンの結果によって一応の解決をみている。自身の集合論の矛盾も発見しているが、カントール自身はこうしたパラドックスは集合論を発展させていく上でプラスになる存在であると考え、あまり問題視していなかった。 1845年にロシアのサンクトペテルブルクで生まれた。父はカトリック教徒のゲオルク・ボルデマー・カントール (Georg Woldemar Cantor)、母は音楽家の家系のマリア・アンナ (Maria Anna) 。ユダヤ人の血筋で音楽家や宗教家などを輩出した家系であった。 デデキントとの交流は、初期集合論の発展のきっかけとなった。ドイツのライプツィヒ近郊のハレ大学で教えていた。晩年、次第に精神を病み、最後はハレのサナトリウム (Halle Nervenklinik) でこの世を去った。 ゲオルグ・カントールは1845年にロシアのサンクトペテルブルク西部の商人の入植地で生まれ、そこで11歳まで育てられた。6人兄弟で最年長だったカントールは傑出したバイオリニストとみなされていた。彼の祖父フランツ・ベーム(バイオリニストのヨーゼフ・ベームの兄)はロシア帝国のオーケストラで有名な音楽家・ソリストだった 。 カントールの父はサンクトペテルブルク株式取引所のメンバーだった。彼が病気になったとき、1856年に家族はサンクトペテルブルクよりも冬が穏やかな地を求めてドイツに移住した。初めはヴィースバーデンに、その後フランクフルトに移った。 1860年、カントールはダルムシュタットの実科学校を優秀な成績で卒業した。彼の卓越した数学の能力、特に三角法の能力が特筆された。1862年8月、ダルムシュタット高等商業学校(現在のダルムシュタット工科大学)を卒業した。 1862年、カントールはチューリッヒ工科大学に入学した。1863年7月の父の死に際して相当な遺産を受け取った。 カントールはベルリン・フンボルト大学に移り、レオポルト・クロネッカーやカール・ワイエルシュトラス、エルンスト・クンマーらの講義を受けた。彼は1866年の夏をゲッティンゲン大学で、その後数学の研究所で過ごした。カントールは優秀な学生で、彼は1867年に博士号を得た。
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ゲオルク・フェルディナント・ルートヴィッヒ・フィーリップ・カントールは、ドイツで活躍した数学者。
[[画像:Matematiker georg cantor.jpg|thumb|ゲオルク・カントール]]{{No footnotes|date=2021-2-15}} '''ゲオルク・フェルディナント・ルートヴィッヒ・フィーリップ・カントール'''('''Georg Ferdinand Ludwig Philipp Cantor''' {{IPA-de|ˈkantoːɐ̯|}}<ref>Duden Aussprachewörterbuch (Duden Band 6), Auflage 6, ISBN 978-3-411-04066-7</ref>, [[1845年]][[3月3日]] - [[1918年]][[1月6日]])は、[[ドイツ]]で活躍した[[数学者]]。 == 業績 == [[素朴集合論]]の確立者。[[自然数]]と[[実数]]の間に[[全単射]]が存在しないことを[[カントールの対角線論法|対角線論法]]によって示す一方、'''R''' と '''R'''<sup>''n''</sup> の間に全単射が存在することを証明した。[[連続体仮説]]に興味を持ち研究を続けたが、存命中に成果は得られなかった。連続体仮説については、後に[[クルト・ゲーデル|ゲーデル]]と[[ポール・コーエン (数学者)|ポール・コーエン]]の結果によって一応の解決をみている。自身の集合論の矛盾も発見しているが、カントール自身はこうしたパラドックスは集合論を発展させていく上でプラスになる存在であると考え、あまり問題視していなかった。 == 生涯 == 1845年に[[ロシア]]の[[サンクトペテルブルク]]で生まれた。父は[[カトリック教会|カトリック]]教徒のゲオルク・ボルデマー・カントール (Georg Woldemar Cantor)、母は音楽家の家系のマリア・アンナ (Maria Anna) 。ユダヤ人の血筋で音楽家や宗教家などを輩出した家系であった。 [[リヒャルト・デーデキント|デデキント]]との交流は、初期[[集合論]]の発展のきっかけとなった。ドイツの[[ライプツィヒ]]近郊の[[ハレ大学]]で教えていた。晩年、次第に精神を病み、最後はハレの[[サナトリウム]] (Halle Nervenklinik) でこの世を去った<ref> [[遠山啓]]『無限と連続』 pp.2-4.</ref>。 <!-- 病因についての記述を削除した。 病因についていくつかの推測はあるが、今となっては診断のしようがない。 実証が不可能なことを事実として百科事典に載せるべきではないので、ここに書くべきではない。 どうしても書きたければ、推測にすぎないことを明記して書くこと。 --> ===青年期と学業=== [[File:Georg Cantor3.jpg|thumb|right|1870年ごろのカントール]] ゲオルグ・カントールは1845年にロシアの[[サンクトペテルブルク]]西部の商人の入植地で生まれ、そこで11歳まで育てられた。6人兄弟で最年長だったカントールは傑出したバイオリニストとみなされていた。彼の祖父フランツ・ベーム(バイオリニストの[[ヨーゼフ・ベーム]]の兄)はロシア帝国のオーケストラで有名な音楽家・ソリストだった <ref>[http://dic.academic.ru/dic.nsf/enc_music/924/Бём 音楽大百科 (Музыкальная энциклопедия)]</ref>。 カントールの父は[[旧証券取引所とロストラ柱|サンクトペテルブルク株式取引所]]のメンバーだった。彼が病気になったとき、1856年に家族はサンクトペテルブルクよりも冬が穏やかな地を求めてドイツに移住した。初めは[[ヴィースバーデン]]に、その後[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]に移った。 1860年、カントールは[[ダルムシュタット]]の[[実科学校]]を優秀な成績で卒業した。彼の卓越した数学の能力、特に[[三角法]]の能力が特筆された。1862年8月、ダルムシュタット高等商業学校(現在の[[ダルムシュタット工科大学]])を卒業した<ref>{{Cite web|url=http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/history/Biographies/Cantor.html|title=Georg Cantor (1845-1918)|website=www-groups.dcs.st-and.ac.uk|access-date=2021-09-17}}</ref><ref>{{Cite book|title=Georg Cantor 1845-1918|publisher=Birkhauser|year=1985|isbn=978-3764317706}}</ref>。 1862年、カントールは[[チューリッヒ工科大学]]に入学した。1863年7月の父の死に際して相当な遺産を受け取った<ref name=":0">{{Cite web|url=https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Cantor/|title=Georg Cantor (1845 - 1918) - Biography - MacTutor History of Mathematics|website=www-history.mcs.st-andrews.ac.uk|access-date=2021-09-17}}</ref>。 カントールは[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン・フンボルト大学]]に移り、[[レオポルト・クロネッカー]]や[[カール・ワイエルシュトラス]]、[[エルンスト・クンマー]]らの講義を受けた。彼は1866年の夏を[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]で、その後数学の研究所で過ごした。カントールは優秀な学生で、彼は1867年に博士号を得た<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite book|title=Math and mathematicians: the history of math discoveries around the world|last1=Bruno|first1=Leonard C.|year=1999|publisher=U X L|last2=Baker|first2=Lawrence W.|isbn=978-0787638139|location=Detroit, Mich.|page=[https://archive.org/details/mathmathematicia00brun/page/54 54]|oclc=41497065|url=https://archive.org/details/mathmathematicia00brun/page/54}}</ref>。 == 主な著作 == * 「実無限に関するさまざまな立場について」(1885) * 「[[ゴットロープ・フレーゲ|フレーゲ]]『算術の基礎』書評」(1885) * 「集合論の一つの基本的問題について」(1890-91) * 「超限集合論の基礎に対する寄与」(1895-97) == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=カントル|others=[[功力金二郎]]・[[村田全]]訳・解説|year=1979|month=9|title=超限集合論|series=現代数学の系譜 8|publisher=[[共立出版]]|isbn=4-320-01161-9|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320011618}} *アミール・D・アクゼル『「無限」に魅入られた天才数学者たち』[[青木薫]]訳、 [[早川書房]]、2002年。ISBN 4-15-208402-2 **原著:Amir D. Aczel, ''Mystery of the Aleph: Mathematics, the [[カバラ|Kabbalah]], and the Search for Infinity'', Washington Square Pr; New Ed, 2001. ISBN 0-7434-2299-6 *[[竹内外史]]『新装版 集合とはなにか』[[講談社]]〈ブルーバックス B1332〉、2001年、224-239頁。ISBN 4-06-257332-6。 *Joseph W. Dauben, ''Georg Cantor: His Mathematics and Philosophy of the Infinite'', Princeton Univ Pr; Reprint, 1990. (Hardcover) ISBN 0691085838 /(Paperback) ISBN 0-691-02447-2 *E・T・ベル『数学をつくった人びと』第Ⅲ巻、田中勇・銀林浩訳、[[早川書房]]〈ハヤカワ文庫 NF 285〉、2003年。ISBN 4-15-050285-4 -- 詳細な伝記 **原著:Eric Temple Bell, ''Men of Mathematics'', Simon and Schuster, New York, 1986. (Hardcover) ISBN 0-671-46400-0 /(Paperback) ISBN 0-671-62818-6 *[[遠山啓]]『無限と連続』、岩波書店、1952年。 == 関連項目 == * [[カントール集合]] * [[カントールの対角線論法]] * [[カントールの定理]] * [[レオポルト・クロネッカー]] * [[シェイクスピア別人説]] == 外部リンク == * O'Connor, John J; Edmund F. Robertson "[http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Cantor.html Georg Cantor]". [[:en:MacTutor_History_of_Mathematics_archive|MacTutor History of Mathematics archive.]](英語) {{Mathematician-stub}} {{集合論}} {{Logic}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんとおる けおるく}} [[Category:ゲオルク・カントール|*]] [[Category:19世紀ドイツの哲学者]] [[Category:20世紀ドイツの哲学者]] [[Category:19世紀の数学者|450303]] [[Category:20世紀の数学者|-450303]] [[Category:19世紀の論理学者]] [[Category:20世紀の論理学者]] [[Category:ドイツの集合論研究者]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの教員]] [[Category:チューリッヒ工科大学出身の人物]] [[Category:サンクトペテルブルク県出身の人物]] [[Category:サンクトペテルブルク出身の人物]] [[Category:1845年生]] [[Category:1918年没]]
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ジョエル・シルバー
ジョエル・シルバー(Joel Silver, 1952年7月14日 - )は、アメリカ合衆国の映画プロデューサー。 『リーサル・ウェポン』、『ダイ・ハード』、『マトリックス』の各シリーズなど、実力ある監督たちと組み、派手な視覚効果を満載したアクション映画を製作して知られる人物である。シルバー・ピクチャーズを率いるほか、1999年にロバート・ゼメキスと共同でホラー映画専門の制作会社ダーク・キャッスル・エンターテインメントを設立した。 シルバーはニュージャージー州サウスオレンジで育った。彼は同州メープルウッドにある名門コロンビア高校に在籍中、友人らとフリスビーをしているうちに「アルティメット・フリスビー」(現在のアルティメット)という競技の創始者の一人になった。1970年にペンシルベニア州のラファイエット・カレッジ進学後、彼は初の大学アルティメットチームを結成している。彼は映画教育などで知られるニューヨーク大学の芸術学部、ティッシュ・スクール・オブ・アーツで学位号を得た。 彼は映画界に進んだ。ローレンス・ゴードンの製作会社「ローレンス・ゴードン・ピクチャーズ」で働き、最初に名前がクレジットされたのは1979年公開の映画『ウォリアーズ』だった。1980年には自身の製作会社「シルバー・ピクチャーズ」を設立した。最初に製作したのは1984年公開の映画『ストリート・オブ・ファイヤー』だった。
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ジョエル・シルバーは、アメリカ合衆国の映画プロデューサー。 『リーサル・ウェポン』、『ダイ・ハード』、『マトリックス』の各シリーズなど、実力ある監督たちと組み、派手な視覚効果を満載したアクション映画を製作して知られる人物である。シルバー・ピクチャーズを率いるほか、1999年にロバート・ゼメキスと共同でホラー映画専門の制作会社ダーク・キャッスル・エンターテインメントを設立した。
{{存命人物の出典明記|date=2013年2月4日 (月) 04:22 (UTC)}} {{ActorActress | 芸名 = Joel Silver | ふりがな = ジョエル・シルバー | 画像ファイル = Joel Silver in New York City 2008.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 出生地 = {{USA}} [[ニュージャージー州]]サウスオレンジ | 死没地 = | 国籍 = {{USA}} | 身長 = | 血液型 = | 生年 =1952 | 生月 =7 | 生日 =14 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[映画プロデューサー]] | 活動期間 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[コマンドー]]』<br>『[[プレデター (映画)|プレデター]]』シリーズ<br>『[[ダイ・ハード]]』シリーズ<br>『[[リーサルウェポン]]』シリーズ<br>『[[マトリックス]]』シリーズ<br>『[[Vフォー・ヴェンデッタ]]』<br>『[[シャーロック・ホームズ]]』シリーズ | ゴールデンラズベリー賞 = '''[[ゴールデンラズベリー賞 最低作品賞|最低作品賞]]'''<br />[[1990年]]『[[フォード・フェアレーンの冒険]]』<br>[[1991年]]『[[ハドソン・ホーク]]』 | 備考 = }} '''ジョエル・シルバー'''('''Joel Silver''', [[1952年]][[7月14日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[映画プロデューサー]]。 『[[リーサル・ウェポン]]』、『[[ダイ・ハード]]』、『[[マトリックス (映画)|マトリックス]]』の各シリーズなど、実力ある監督たちと組み、派手な視覚効果を満載したアクション映画を製作して知られる人物である。[[シルバー・ピクチャーズ]]を率いるほか、1999年に[[ロバート・ゼメキス]]と共同で[[ホラー映画]]専門の制作会社[[ダーク・キャッスル・エンターテインメント]]を設立した。 == 来歴 == シルバーは[[ニュージャージー州]]サウスオレンジで育った。彼は同州メープルウッドにある名門コロンビア高校に在籍中、友人らと[[フライングディスク|フリスビー]]をしているうちに「アルティメット・フリスビー」(現在の[[アルティメット]])という競技の創始者の一人になった。1970年に[[ペンシルベニア州]]のラファイエット・カレッジ進学後、彼は初の大学アルティメットチームを結成している。彼は映画教育などで知られる[[ニューヨーク大学]]の芸術学部、ティッシュ・スクール・オブ・アーツで学位号を得た。 彼は映画界に進んだ。[[ローレンス・ゴードン]]の製作会社「ローレンス・ゴードン・ピクチャーズ」で働き、最初に名前がクレジットされたのは1979年公開の映画『[[ウォリアーズ (1979年の映画)|ウォリアーズ]]』だった。1980年には自身の製作会社「[[シルバー・ピクチャーズ]]」を設立した。最初に製作したのは1984年公開の映画『[[ストリート・オブ・ファイヤー]]』だった。 == 人物 == * 彼のラフな服装や大声で早口でしゃべるなどのラフな態度は多くの映画会社幹部を怒らせてきた。多くの会社で出入り禁止となり、ヒット作『[[48時間 (映画)|48時間]]』の続編『[[48時間PART2/帰って来たふたり]]』や、『ダイ・ハード』の続編『[[ダイ・ハード3]]』などからは製作にかかわることができなくなった。 * 彼は『[[ロジャー・ラビット]]』で映画出演を果たしている。冒頭、短編アニメ映画『Something's Cookin』の監督役として登場するのが彼である。 * 1999年7月10日、彼は自分のプロダクション・アシスタントを務めてきた女性カリン・フィールズと結婚した。 * 彼は建築家[[フランク・ロイド・ライト]]のファンであり、彼の設計した住宅を数軒所有・保全している。1984年に[[ウェスト・ハリウッド (カリフォルニア州)|ウェスト・ハリウッド]]にあった「ストーラー邸」を買い、建設当時の姿に修復した。ストーラー邸の内装にある、特徴ある四角い形態の連続したレリーフは、シルバー・ピクチャーズのロゴマークとなっている。1986年には[[サウス・カロライナ州]]にある長年放置されてきた「オールドプラス・プランテーション」を買っている。 * 来日の際、日本の映画について訊かれアニメ『[[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]]』がお気に入りであると述べており、実際、映画化権を取得(ただし映画化には至らず2021年公開予定の[[タイカ・ワイティティ]]監督作品には関与無い模様)。2008年には『スピードレーサー』が世界公開。大ヒットした『マトリックス』はウォシャウスキー監督がプレゼンテーションで見せた『[[攻殻機動隊]]』の実写化を念頭にゴーサインを出している。 * 『[[トロピック・サンダー/史上最低の作戦]]』で[[トム・クルーズ]]が演じたプロデューサーのモデルとなった人物の一人であると言われている。 == フィルモグラフィー == {{see also|シルバー・ピクチャーズ}} {| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;" ! rowspan="2" |公開年 ! rowspan="2" |日本語題 ! rowspan="2" |原題 ! colspan="5" |役職 ! rowspan="2" |備考 |- ! style="white-space:nowrap;" |製作 ! style="white-space:nowrap;" |製作総指揮 ! style="white-space:nowrap;" |製作補 ! style="white-space:nowrap;" |共同製作 ! style="white-space:nowrap;" |出演 |- |1976 | - |''Max'' |○ | | | | | |- |1979 |[[ウォリアーズ (1979年の映画)|ウォリアーズ]] |''The Warriors'' | | |○ | | | |- |1980 |[[ザナドゥ (映画)|ザナドゥ]] |''Xanadu'' | | | |○ | | |- |rowspan=2|1982 | - |Jekyll and Hyde... Together Again | |○ | | | | |- |[[48時間 (映画)|48時間]] |''48 Hrs.'' |○ | | | | | |- |1984 |[[ストリート・オブ・ファイヤー]] |''Streets of Fire'' |○ | | | | | |- |rowspan=3|1985 |マイナー・ブラザース 史上最大の賭け |''Brewster's Millions'' |○ | | | | | |- |ときめきサイエンス |''Weird Science'' |○ | | | | | |- |[[コマンドー]] |''Commando'' |○ | | | | | |- |1986 |ジャンピン・ジャック・フラッシュ |''Jumpin' Jack Flash'' |○ | | | | | |- |rowspan=2|1987 |[[リーサル・ウェポン]] |''Lethal Weapon'' |○ | | | | | |- |[[プレデター (映画)|プレデター]] |''Predator'' |○ | | | | | |- |rowspan=3|1988 |[[アクション・ジャクソン/大都会最前線]] |''Action Jackson'' |○ | | | | | |- |[[ダイ・ハード]] |''Die Hard'' |○ | | | | | |- |[[ロジャー・ラビット]] |''Who Framed Roger Rabbit'' | | | | |○ | |- |rowspan=2|1989 |[[ロードハウス/孤独の街]] |''Roadhouse'' |○ | | | | | |- |[[リーサル・ウェポン2/炎の約束]] |''Lethal Weapon 2'' |○ | | | | | |- |rowspan=3|1990 |[[ダイ・ハード2]] |''Die Hard 2'' |○ | | | | | |- |[[フォード・フェアレーンの冒険]] |''The Adventures of Ford Fairlane'' |○ | | | | | |- |[[プレデター2]] |''Predator 2'' |○ | | | | | |- |rowspan=3|1991 |[[ハドソン・ホーク]] |''Hudson Hawk'' |○ | | | | | |- |[[リコシェ (映画)|リコシェ]] |''Ricochet'' |○ | | | | | |- |[[ラスト・ボーイスカウト]] |''The Last Boy Scout'' |○ | | | | | |- |1992 |[[リーサル・ウェポン3]] |''Lethal Weapon 3'' |○ | | | | | |- |1993 |[[デモリションマン]] |''Demolition Man'' |○ | | | | | |- |1994 |[[リッチー・リッチ]] |''Ri¢hie Ri¢h'' |○ | | | | | |- |rowspan=3|1995 |[[デーモン・ナイト (映画)|デーモン・ナイト]] |''Tales from the Crypt: Demon Knight'' | |○ | | | | |- |[[暗殺者 (映画)|暗殺者]] |''Assassins'' |○ | | | | | |- |[[フェア・ゲーム (1995年の映画)|フェア・ゲーム]] |''Fair Game'' |○ | | | | | |- |rowspan=2|1996 |[[エグゼクティブ・デシジョン]] |''Executive Decision'' |○ | | | | | |- |[[ボーデロ・オブ・ブラッド/血まみれの売春宿]] |''Tales from the Crypt Presents: Bordello of Blood'' | |○ | | | | |- |rowspan=3|1997 |[[ファーザーズ・デイ]] |''Fathers' Day'' |○ | | | | | |- |[[陰謀のセオリー]] |''Conspiracy Theory'' |○ | | | | | |- | - |''Double Tap'' |○ | | | | | |- |1998 |[[リーサル・ウェポン4]] |''Lethal Weapon 4'' |○ | | | | | |- |rowspan=3|1999 |[[マトリックス (映画)|マトリックス]] |''The Matrix'' |○ | | | | | |- | - |''Made Men'' |○ | | | | | |- |[[TATARI タタリ]] |''House on Haunted Hill'' |○ | | | | | |- |rowspan=2|2000 |[[ロミオ・マスト・ダイ]] |''Romeo Must Die'' |○ | | | | | |- |[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]] |''Dungeons & Dragons'' | |○ | | | | |- |rowspan=4|2001 |[[DENGEKI 電撃]] |''Exit Wounds'' |○ | | | | | |- |JUSTICE 必殺 |''Proximity'' | |○ | | | | |- |[[ソードフィッシュ (映画)|ソードフィッシュ]] |''Swordfish'' |○ | | | | | |- |[[13ゴースト]] |''Thir13en Ghosts'' |○ | | | | | |- |rowspan=2|2002 |[[デス・ヴィレッジ]] |''Tales from the Crypt Presents: Ritual'' | |○ | | | | |- |[[ゴーストシップ]] |''Ghost Ship'' |○ | | | | | |- |rowspan=5|2003 |[[ブラック・ダイヤモンド]] |''Cradle 2 the Grave'' |○ | | | | | |- |[[アニマトリックス]] |''The Animatrix'' | |○ | | | | |- |[[マトリックス リローデッド]] |''The Matrix Reloaded'' |○ | | | | | |- |[[マトリックス・レボリューションズ]] |''The Matrix Revolutions'' |○ | | | | | |- |[[ゴシカ]] |''Gothika'' |○ | | | | | |- |rowspan=2|2005 |[[蝋人形の館 (映画)|蝋人形の館]] |''House of Wax'' |○ | | | | | |- |[[キスキス,バンバン]] |''Kiss Kiss Bang Bang'' |○ | | | | | |- |2006 |[[Vフォー・ヴェンデッタ (映画)|Vフォー・ヴェンデッタ]] |''V for Vendetta'' |○ | | | | | |- |rowspan=5|2007 |[[リーピング]] |''The Reaping'' |○ | | | | | |- |[[インベージョン]] |''The Invasion'' |○ | | | | | |- |[[ブレイブ ワン]] |''The Brave One'' |○ | | | | | |- |TATARIタタリ/呪いの館 |''Return to House on Haunted Hill'' | |○ | | | | |- |ブラザーサンタ |''Fred Claus'' |○ | | | | | |- |2007-2008 | - 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アレクサンドル・グロタンディーク
アレクサンドル・グロタンディーク(Alexander Grothendieck, 1928年3月28日 - 2014年11月13日)は、主にフランスで活躍した、ドイツ出身のユダヤ系フランス人の数学者である。 日本の数学界では彼は「グロタンディク」、「グロタンディック」、「グロタンディエク」、「グロタンディエック」、「グロテンディーク」、「グローテーンディーク」などと表記されている。 主要な業績にスキームの考案による代数幾何学の大幅な書き直し、l-進コホモロジー(エタール・コホモロジー)、クリスタリンヌ・コホモロジーの発見によるヴェイユ予想への貢献、モチーフおよびモチヴィック・ガロア群の考察、遠アーベル幾何学の提唱、子供のデッサン(Dessins d'enfants)の考察等、基本的かつ深い洞察から多くの新たなる分野を開拓した。他降下理論、グロタンディーク群によるK理論への貢献、トポスの理論、アーベル圏によるホモロジー代数の統合、ガロア圏および淡中圏によるガロア理論の一般化などの業績がある。またドリーニュ、イリュージー、ベルテロ等多くの有名な数学者を育てた。数論幾何という用語を提案したのもグロタンディークである。 実父はウクライナ出身でアナキストのサシャ・シャピロ(英語版)、母はハンブルク出身でジャーナリストのヨハンナ・ハンカ・グロテンディク(フランス語版)。出生時は母の結婚相手ヨハネス・ラダッツ(Johannes Raddatz)の子として「アレクサンダー・ラダッツ」と命名された。しかし二人は1929年に離婚、シャピロは彼を認知したがハンカと結婚はしなかった。ベルリンで過ごしたのち、ナチスを避けて父がフランスへ渡ったのに続いて母と共にパリへ移る。 その後ナチスのフランス占領に伴い拘留され、母親と共にフランスの収容所へ送られたが脱走、母はギュルス強制収容所で終戦を迎え、グロタンディークはオート=ロワール県ル・シャンボン=シュル=リニョン(英語版)で潜伏生活を送った。父サシャも戦時中、アウシュヴィッツ強制収容所に収容された。シャンボンのセヴェンヌ高校(現在のLe Collège-Lycée Cévenol International)で数学の魅力に開眼した。 終戦後にモンペリエ大学を卒業、ナンシー大学に移りデュドネのもとで研究を始めた。初期の業績に関数解析学に関する研究がある。その後、セールらの影響から彼の関心は代数幾何学へ移り、1950年代後半からのスキーム論による代数幾何学の書き換え、ホモロジー代数、層論、圏論などへの貢献(特に1957年の論文 グロタンディークのトーホク・ペーパー(英語版))はそれぞれの分野だけでなく数学全体に決定的な影響を与えた。ヴェイユ予想の解決を目標と定め、そのために代数幾何を根底から書き直し、「代数幾何原論 (Éléments de Géométrie Algébrique, ÉGA)」をエウクレイデスの「原論」と同様に13巻刊行しようとした。しかし1巻から4巻まで約1500ページのみが書かれ、5巻以降は未完成。13巻までの内容は弟子たちとともに行われた「マリーの森の代数幾何セミナー (SGA)」という書物となって刊行されている。(1巻から7巻まであり、約6500ページである)。Weil予想に最も貢献したのはGrothendieckの発見した新しいコホモロジー、「エタール・コホモロジー(Cohomologie étale)」であり、Cohomologie l-adique, Cohomologie cristallineなど新しいコホモロジー論を発見。また、Faltings によるMordell予想の解決もGrothendieckのスキーム論を使ったものであった。彼の業績は、数論、代数幾何、位相幾何を統合するものだと評される。ヴェイユ予想そのものは、グロタンディークが切り開いた道具立てを用い、弟子のピエール・ルネ・ドリーニュにより未解決の二つが解決された。ジャン・デュドネとともにIHÉSの最初のパーマネントの数学の教授に選ばれる。1966年にフィールズ賞を受賞、1988年にクラフォード賞を受賞(本人は辞退)。1980年代初頭にフランスの市民権を申請したが認められたかは明らかではない。 反戦運動と環境問題に熱心だったことから、1970年頃にIHÉSに軍からの資金援助があることを知ると、彼は即座にIHÉSを辞職。その後は、数学から距離を置いた隠遁生活を送るようになった。1985年には自伝的作品"Récoltes et semailles"を執筆しており、これは邦訳が1993年に出版されている(邦題は「収穫と蒔いた種と」)。1988年に彼とドリーニュに対して Crafoord Prize が与えられたが、彼は受賞を固辞した。1991年に彼は家族のもとを去り、その後ピレネー山脈のふもとのアリエージュ県ラセール(英語版)で隠遁生活を送り、タンポポのスープなどの粗食で命をつないでいた(同地に住んでいたことは死後に判明した)。2003年8月には「グロタンディークは元気だが、あいかわらずだれにも会いたがらない」と伝えられている。 2010年1月、グロタンディークはリュック・イリュージー(英語版)に手紙を書き、許諾のないすべての著作を削除する依頼をした。 これを受けて、多くのインターネットコンテンツが削除された。 2014年11月13日の朝、ラセール近くのサン=ジロンの病院で死亡。86歳没。 2017年5月、遺された膨大な手書きメモや草稿、タイプ原稿、などの一部(約1万8千ページ)がデジタルアーカイブとして仏モンペリエ大学のサイトにて公開された。 Récoltes et Semaillesにおいてグロタンディークは研究すべき12テーマをあげている。 自然数57は「グロタンディーク素数」と呼ばれる。57は素数ではない(3 × 19 = 57)が、これはグロタンディークが素数に関する一般論について講演をした際に、具体的な素数を用いて例を挙げることを求められたとき、彼が誤って57を選んだことに由来する。このエピソードは、彼の思考が最初から抽象的で、具体例で考察せずに一般論を構築していたことを示すものだという数学者(デヴィッド・マンフォード)もいる。
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アレクサンドル・グロタンディークは、主にフランスで活躍した、ドイツ出身のユダヤ系フランス人の数学者である。 日本の数学界では彼は「グロタンディク」、「グロタンディック」、「グロタンディエク」、「グロタンディエック」、「グロテンディーク」、「グローテーンディーク」などと表記されている。
{{Infobox Scientist | name = アレクサンドル・グロタンディーク<br />Alexander Grothendieck | image = Alexander Grothendieck.jpg | caption = <!--画像の説明--> | birth_date = {{生年月日と年齢|1928|3|28|no}} | birth_place = {{DEU1919}}、[[ベルリン]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1928|3|28|2014|11|13}} | death_place = {{FRA}}、[[アリエージュ県]][[サン=ジロン]] | residence = | nationality = 無国籍 | field = [[数学]] | work_institution = [[IHÉS]] | alma_mater = [[モンペリエ大学]]<br />[[ナンシー大学]] | doctoral_advisor = [[ローラン・シュヴァルツ]] | doctoral_students = [[Pierre Berthelot]]<br />[[ピエール・ルネ・ドリーニュ|ピエール・ドリーニュ]]<br />[[Michel Demazure]]<br />[[Jean Giraud (mathematician)|Jean Giraud]]<br />[[Luc Illusie]]<br />[[Michel Raynaud]]<br />[[Jean-Louis Verdier]] | known_for = [[関数解析学]]、[[数論]]、[[代数幾何学]] | prizes = [[フィールズ賞]]([[1966年]])<br />[[クラフォード賞]]([[1988年]]、辞退) | footnotes = <!--備考--> }} '''アレクサンドル・グロタンディーク'''(''Alexander Grothendieck'', [[1928年]][[3月28日]] - [[2014年]][[11月13日]]<ref>[http://www.liberation.fr/sciences/2014/11/13/alexandre-grothendieck-ou-la-mort-d-un-genie-qui-voulait-se-faire-oublier_1142614 Alexandre Grothendieck, ou la mort d'un génie qui voulait se faire oublier] Liberation 2014年11月13日</ref>)は、主に[[フランス]]で活躍した、[[ドイツ]]出身の[[ユダヤ系]]フランス人の[[数学者]]である。 日本の数学界では彼は「グロタンディク」、「グロタンディック」、「グロタンディエク」、「グロタンディエック」、「グロテンディーク」、「グローテーンディーク」などと表記されている<ref>[[#山下2003|山下(2003)]], pp.&nbsp;9–10.</ref><ref group="注">「Grothendieck という名は、オランダ起源です。オランダにはこの名と類似の名(en dyck など)はよくあるものです。それは『大きな堤防』の意味です。私は(オランダ語よみやフランス語よみでなく)ドイツ語の発音―グロテンディーク―にしたがっています。」{{harv|グロタンディーク|2015}}</ref>。 == 業績 == 主要な業績に[[概型|スキーム]]の考案による代数幾何学の大幅な書き直し、''l''-進コホモロジー([[エタール・コホモロジー]])、[[クリスタリンヌ・コホモロジー]]の発見による[[ヴェイユ予想]]への貢献、[[モチーフ (数学)|モチーフ]]および[[モチヴィック・ガロア群]]の考察、[[遠アーベル幾何学]]の提唱、[[子供のデッサン]](Dessins d'enfants)の考察等、基本的かつ深い洞察から多くの新たなる分野を開拓した。他[[降下理論]]、[[グロタンディーク群]]による[[K理論]]への貢献、[[トポス (数学)|トポス]]の理論、[[アーベル圏]]による[[ホモロジー代数]]の統合、[[ガロア圏]]および[[淡中圏]]による[[ガロア理論]]の一般化などの業績がある。また[[ピエール・ルネ・ドリーニュ|ドリーニュ]]、[[リュック・イリュージー|イリュージー]]、[[ベルテロ]]等多くの有名な数学者を育てた。[[数論幾何]]という用語を提案したのもグロタンディークである。 == 略歴 == 実父は[[ウクライナ]]出身で[[アナキスト]]の{{仮リンク|サシャ・シャピロ|en|Sascha Schapiro}}、母は[[ハンブルク]]出身でジャーナリストの{{仮リンク|ハンカ・グロタンディーク|label=ヨハンナ・ハンカ・グロテンディク|fr|Hanka Grothendieck}}。出生時は母の結婚相手ヨハネス・ラダッツ(Johannes Raddatz)の子として「アレクサンダー・ラダッツ」と命名された。しかし二人は1929年に離婚、シャピロは彼を認知したがハンカと結婚はしなかった。ベルリンで過ごしたのち、[[ナチス]]を避けて父がフランスへ渡ったのに続いて母と共に[[パリ]]へ移る。 その後ナチスのフランス占領に伴い拘留され、母親と共にフランスの収容所へ送られたが脱走、母は[[ギュルス収容所|ギュルス強制収容所]]で終戦を迎え、グロタンディークは[[オート=ロワール県]]{{仮リンク|ル・シャンボン=シュル=リニョン|en|Le Chambon-sur-Lignon}}で潜伏生活を送った。父サシャも戦時中、[[アウシュヴィッツ強制収容所]]に収容された。シャンボンのセヴェンヌ高校(現在の[[:w:Le Collège-Lycée Cévenol International|Le Collège-Lycée Cévenol International]])で数学の魅力に開眼した。 終戦後に[[モンペリエ大学]]を卒業、[[ナンシー大学]]に移り[[ジャン・デュドネ|デュドネ]]のもとで研究を始めた。初期の業績に[[関数解析学]]に関する研究がある。その後、[[ジャン=ピエール・セール|セール]]らの影響から彼の関心は[[代数幾何学]]へ移り、1950年代後半からのスキーム論による代数幾何学の書き換え、[[ホモロジー代数]]、[[層 (数学)|層論]]、[[圏論]]などへの貢献(特に1957年の論文 {{仮リンク|グロタンディークのトーホク・ペーパー|en|Grothendieck's Tôhoku paper}}<ref>''[http://projecteuclid.org/euclid.tmj/1178244839 Sur quelques points d’algèbre homologique]'', Tohoku Math. J. (2) '''9''', 119-221.</ref>)はそれぞれの分野だけでなく数学全体に決定的な影響を与えた。[[ヴェイユ予想]]の解決を目標と定め、そのために代数幾何を根底から書き直し、「[[代数幾何原論]] (Éléments de Géométrie Algébrique, ÉGA)」をエウクレイデスの「原論」と同様に13巻刊行しようとした。しかし1巻から4巻まで約1500ページのみが書かれ、5巻以降は未完成。13巻までの内容は弟子たちとともに行われた「マリーの森の代数幾何セミナー ([[SGA]])」という書物となって刊行されている。(1巻から7巻まであり、約6500ページである)。Weil予想に最も貢献したのはGrothendieckの発見した新しいコホモロジー、「[[エタール・コホモロジー]](Cohomologie étale)」であり、Cohomologie l-adique, Cohomologie cristallineなど新しいコホモロジー論を発見。また、[[ゲルト・ファルティングス|Faltings]] による[[モーデル予想|Mordell予想]]の解決もGrothendieckの[[スキーム]]論を使ったものであった。彼の業績は、[[数論]]、代数幾何、[[位相幾何学|位相幾何]]を統合するものだと評される。[[ヴェイユ予想]]そのものは、グロタンディークが切り開いた道具立てを用い、弟子の[[ピエール・ルネ・ドリーニュ]]により未解決の二つが解決された。[[ジャン・デュドネ]]とともに[[IHÉS]]の最初のパーマネントの数学の教授に選ばれる。[[1966年]]に[[フィールズ賞]]を受賞、[[1988年]]に[[クラフォード賞]]を受賞(本人は辞退)。1980年代初頭にフランスの市民権を申請したが認められたかは明らかではない。<!-- 1971年にフランス国籍を取得した。 --> 反戦運動と環境問題に熱心だったことから、1970年頃に[[IHÉS]]に軍からの資金援助があることを知ると、彼は即座に[[IHÉS]]を辞職。その後は、数学から距離を置いた隠遁生活を送るようになった。[[1985年]]には自伝的作品"[[:fr:Récoltes et semailles|Récoltes et semailles]]"を執筆しており、これは邦訳が[[1993年]]に出版されている(邦題は「収穫と蒔いた種と」)。[[1988年]]に彼とドリーニュに対して Crafoord Prize が与えられたが、彼は受賞を固辞した。[[1991年]]に彼は家族のもとを去り、その後[[ピレネー山脈]]のふもとの[[アリエージュ県]]{{仮リンク|ラセール|en|Lasserre, Ariège}}で隠遁生活を送り、[[タンポポ]]のスープなどの粗食で命をつないでいた(同地に住んでいたことは死後に判明した)。[[2003年]]8月には「グロタンディークは元気だが、あいかわらずだれにも会いたがらない」と伝えられている<ref>[[#山下2003|山下(2003)]], p. 173.</ref>。 [[2010年]]1月、グロタンディークは{{ill|リュック・イリュージー|en|Luc Illusie}}に手紙を書き、許諾のないすべての著作を削除する依頼をした。 これを受けて、多くのインターネットコンテンツが削除された<ref>{{Cite web|date=2010-02-09|url=http://sbseminar.wordpress.com/2010/02/09/grothendiecks-letter/|title=Grothendieck’s letter|publisher=|accessdate=2011-06-12}}</ref>。 [[2014年]]11月13日の朝、ラセール近くの[[サン=ジロン]]の病院で死亡。86歳没。 2017年5月、遺された膨大な手書きメモや草稿、タイプ原稿、などの一部(約1万8千ページ)がデジタルアーカイブとして仏モンペリエ大学のサイトにて公開された<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3127837 変人天才数学者の「落書き」約1万8000ページ、ネットで公開] AFPBB News 2017年5月11日 </ref><ref>[https://grothendieck.umontpellier.fr/archives-grothendieck/# Archives Grothendieck]{{Fr_icon}}</ref>。 == 12テーマ == ''Récoltes et Semailles''においてグロタンディークは研究すべき12テーマをあげている。 # [[位相的テンソル核]]と[[核型空間]] # "連続"と"離散"の[[双対性]] ([[導来圏]]と六つの演算) # グロタンディーク‐[[リーマン・ロッホの定理]]の一般化 ([[K理論|K-理論]]、交叉理論との関係) # [[概型|スキーム]] # [[トポス (数学)|トポス]] # ''l''-進[[エタール・コホモロジー]] # [[モチーフ (数学)|モチーフ]]と[[モチヴィック・ガロア群]] # クリスタルと[[クリスタリンヌ・コホモロジー]] # [[トポロジー代数]]、∞-[[スタック (層理論)|スタック]]、"デリヴァトゥール"("dérivateurs") (新しいホモトピーによるトポスのコホモロジーによる定式化) # [[穏和トポロジー]] # [[遠アーベル幾何学]]、ガロア・タイヒミュラー理論 # 正多面体と正規配位図形のスキーム的、数論的な観点からの研究 == 逸話 == 自然数[[57]]は「'''グロタンディーク素数'''<ref>{{Cite web |url = https://hsm.stackexchange.com/questions/6358/story-of-grothendiecks-prime-number|title = Grothendieck Prime|website = hsm.stackexchange.com|publisher = hsm.stackexchange.com|date = |accessdate = 2021-06-02}}</ref>」と呼ばれる。57は素数ではない(3 × 19 = 57)が、これはグロタンディークが素数に関する一般論について講演をした際に、具体的な素数を用いて例を挙げることを求められたとき、彼が誤って57を選んだことに由来する。このエピソードは、彼の思考が最初から抽象的で、具体例で考察せずに一般論を構築していたことを示すものだという数学者([[デヴィッド・マンフォード]])もいる<ref>[http://www.ams.org/notices/200410/fea-grothendieck-part2.pdf A. Jackson, "Comme Appelé du Néant— As If Summoned from the Void: The Life of Alexandre Grothendieck", NOTICES OF THE AMS, Vol. 51, No. 10, Part II, pp.1196-1212 (2004), p.1196右下段落~p.1197左上段落]</ref>。 == 著作 == * [[代数幾何原論|''Éléments de Géométrie Algébrique,1960-67'' ]] * [[Séminaire de Géométrie Algébrique du Bois Marie|''Séminaire de Géométrie Algébrique'' ]] *''La Longue Marche à Travers la Théorie de Galois,1981'' *''Esquisse d'un Programme'' *''Les Dérivateurs'' *''Récoltes et Semailles,1983-1985'' === 翻訳書 === *『数学者の孤独な冒険―数学と自己の発見への旅』[[辻雄一]]訳、[[現代数学社]]、[[1989年]]。ISBN 4-7687-0191-4 *『数学と裸の王様―ある夢と数学の埋葬』辻雄一訳、現代数学社、[[1990年]]。ISBN 4-7687-0192-2 *『ある夢と数学の埋葬―<ruby><rb>陰</rb><rp>(</rp><rt>イン</rt><rp>)</rp></ruby>と<ruby><rb>陽</rb><rp>(</rp><rt>ヤン</rt><rp>)</rp></ruby>の鍵』辻雄一訳、現代数学社、[[1993年]]。ISBN 4-7687-0186-8 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=アレクサンドル・グロタンディーク|others=辻雄一 訳|date=2015-7-15|title=新装版 数学者の孤独な冒険|publisher=現代数学社|isbn=978-4-7687-0446-2|ref={{harvid|グロタンディーク|2015}}}} *{{Cite book|和書|author=山下純一|authorlink=山下純一|date=2003-10-10|title=グロタンディーク 数学を超えて|publisher=日本評論社|isbn=4-535-78394-2|ref=山下2003}} *{{Cite book|和書|author=山下純一|year=2015|month=4|title=数学思想の未来史 グロタンディーク巡礼|publisher=現代数学社|isbn=978-4-7687-0444-8|url=http://www.gensu.co.jp/book_print.cgi?isbn=978-4-7687-0444-8|ref={{Harvid|山下|2015}}}} *{{Cite book|洋書|author=Allyn Jackson|date=2004-09|title=Comme Appelé du Néant— As If Summoned from the Void: The Life of Alexandre Grothendieck, Part I (pp.1038-1056), Part II (pp.1196-1212)|publisher=アメリカ数学会|isbn=4-535-78394-2|ref=Jackson04}} == 関連項目 == *[[ヴェイユ予想]] *[[エタール・コホモロジー]] *[[関数解析学]] *[[クラフォード賞]] *[[グロタンディーク宇宙]] *[[57]] *[[代数幾何学]] *[[トポス (数学)]] *[[フィールズ賞]] *[[ブルバキ]] **[[アンドレ・ヴェイユ]] **[[ジャン・デュドネ]] **[[ローラン・シュヴァルツ]] * [[Séminaire de Géométrie Algébrique du Bois Marie|SGA]] * [[代数幾何原論|EGA]] == 外部リンク == {{Commonscat|Alexander Grothendieck}} *{{Kotobank|グロタンディエク}} *[http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Grothendieck.html Alexander Grothendieck] ''MacTutor History of Mathematics archive.''(英語) *[http://www.ihes.fr/IHES-A/Publication/Pub-commandeA.html#C EGA by Alexander GROTHENDIECK special offer](EGAの入手先)(英語) *[http://modular.fas.harvard.edu/sga/sga/pdf/ Répertoire : ''sga-pdf''](SGAのPDFファイル)(フランス語) *[http://modular.fas.harvard.edu/scans/anonymous_scanner/ TIFF files of EGA &amp; SGA](EGAとSGAのTIFFファイル)(フランス語) *[http://arXiv.org/abs/math.AG/0206203 Revêtements étales et groupe fondamental (SGA 1)](SGAプロジェクトのSGA1)(フランス語) *[http://www.math.jussieu.fr/~maltsin/groth/Derivateurs.html ''Les Dérivateurs''](フランス語) *[http://www.grothendieckcircle.org/ ''Grothendieck Circle''] (著作の多くのスキャンがある) (英語) {{フィールズ賞}} {{圏論}} {{典拠管理}} {{mathematician-stub}} {{DEFAULTSORT:くろたんていいく あれくさんとる}} [[Category:20世紀の数学者|280328]] [[Category:21世紀の数学者|-280328]] [[Category:フランスの代数幾何学者]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:フィールズ賞受賞者]]<!-- 1966年 --> [[Category:エミール・ピカール・メダルの受賞者]]<!-- 1977年 --> <!-- クラフォード賞は辞退 1988年 --> [[Category:フランス国立科学研究センターの人物]] [[Category:ブルバキ]] [[Category:ベルリン出身の人物]] [[Category:無国籍の人物]] [[Category:モンペリエ大学出身の人物]] [[Category:モンペリエ大学の教員]] [[Category:ユダヤ人の後裔]] [[Category:ユダヤ系フランス人]] [[Category:IHÉSの人物]] [[Category:1928年生]] [[Category:2014年没]] [[Category:ナンシー大学出身の人物]] [[Category:数学に関する記事]]
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ダフィット・ヒルベルト
ダーヴィット・ヒルベルト(David Hilbert, ドイツ語: [ˈdaːvɪt/ˈdaːfɪt ˈhɪlbɐt], 1862年1月23日 - 1943年2月14日)は、ドイツの数学者。「現代数学の父」と呼ばれる。名はダフィット、ダヴィット、ダヴィド、ダーフィットなどとも表記される。 当時プロイセン王国領だったケーニヒスベルク(現・ロシア領カリーニングラード)に生まれた。 ケーニヒスベルク大学に進学し、ハインリッヒ・ウェーバー、フェルディナント・フォン・リンデマンから学んだ。特にウェーバーはドイツ数学の影響をヒルベルトに与えた。また、同大学でヘルマン・ミンコフスキーとアドルフ・フルヴィッツと知り合った。特にミンコフスキーは「最良にして本当の友人」であり、ミンコフスキーが亡くなった際は悲しみに暮れた。1885年に卒業、不変式論で学位を取得した。 1895年、ゲッティンゲン大学教授に就任。19世紀末から20世紀初頭にかけての指導的な数学者となった。弟子の育成にも努め、マックス・デーン、エーリヒ・ヘッケ、ヘルマン・ワイル、ヴィルヘルム・アッカーマン、パウル・ベルナイスなど著名な数学者を輩出することになった。ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン(のちのジョン・フォン・ノイマン)の論文を評価し、当時22歳であったノイマンをゲッティンゲン大学に招いた。日本人では高木貞治がドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。 1943年、死去。 不変式論(英語版)、抽象代数学、代数的整数論、積分方程式、関数解析学、幾何学の公理系の研究、一般相対性理論など業績は非常に多岐にわたる。彼の公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれる。その他ヒルベルト空間、ヒルベルトの零点定理などに名前が残っている。 1900年のパリにおける国際数学者会議において「ヒルベルトの23の問題」を発表した。さまざまな数学者がこの問題に取り組んだことで、ヒルベルトの講演は20世紀の数学の方向性を形作るものになった。その中には、リーマン仮説など現在も未解決の問題もある。また、代数幾何の基礎づけの問題のように、どのような解決をすればよいかの指針がないようなものもある。 ヒルベルト–アインシュタイン優先権論争とは、1915年、アインシュタインが一般相対性理論の中で発表した場の方程式とりわけ共変方程式をめぐって、この共変方程式を先に創案したのは、アルベルト・アインシュタインかダフィット・ヒルベルトか、ということに関する先取権論争、優先権争い。1915年以降、一般相対性理論をめぐって起こってきた論争の一つであるが、1997年に既に、アインシュタイン側に優先権があるとして解決したとされる。 “1997年、場の方程式の先取権をめぐる論争は、「サイエンス」誌に掲載された L・コリー、J・レン、J・スタッチェル による共著論文「ヒルベルト-アインシュタイン先取権論争の遅ればせながらの判定」(1997年11月14日発行の第278号1270~3頁)を通じて、結論が確定された。この三人の著者は、これまで未発表で注目されることがなかった、ヒルベルトがゲッチンゲン科学紀要に送り1915年12月16日に受領された校正刷りの現物について調査を行った。それによれば、アインシュタインがヒルベルトの著作を剽窃した可能性はまったくなく、さらにアインシュタインが方程式を正しく導いている一方で、ヒルベルトはアインシュタインの研究が発表されるまでは正しい方程式にたどりつけなかったことが証明されている。この校正刷りのなかでヒルベルトは、相対性の文脈のなかで重力の問題について妥当な記述を行う場合に要求されるほどには、自分の方程式は一般的に共変でない、と告白している。”
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ダーヴィット・ヒルベルトは、ドイツの数学者。「現代数学の父」と呼ばれる。名はダフィット、ダヴィット、ダヴィド、ダーフィットなどとも表記される。
{{Redirect|ヒルベルト|その他}} {{Infobox Scientist | name = David Hilbert<br>ダーフィト・ヒルベルト | image = Hilbert.jpg | image_size = 200px | caption = ダーフィト・ヒルベルト(1912) | birth_date = [[1862年]][[1月23日]] | birth_place = {{PRU1803}}・[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1862|1|23|1943|2|14}} | death_place = {{DEU1935}}・[[ゲッティンゲン]] | residence = <!--居住国--> | nationality = {{DEU1935}} | field = [[数学]]、[[物理学]] | work_institution = [[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]] | alma_mater = [[アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク|ケーニヒスベルク大学]] | thesis_title = On Invariant Properties of Special Binary Forms, Especially of Spherical Functions | thesis_year = 1885 | doctoral_advisor = {{仮リンク|ハインリッヒ・ウェーバー|en|Heinrich Martin Weber}}、[[フェルディナント・フォン・リンデマン]] | doctoral_students = [[マックス・デーン]]、[[エーリヒ・ヘッケ]]、[[ヘルマン・ワイル]]、[[ヴィルヘルム・アッカーマン]]、[[パウル・ベルナイス]]、[[高木貞治]]、[[ジョン・フォン・ノイマン]] | known_for = [[不変式論]]、[[抽象代数学]]、[[代数的整数論]]、[[積分方程式]]、[[幾何学基礎論]]、[[数学基礎論]]、[[一般相対性理論]] | prizes = [[ボヤイ賞]]([[1910年]]) | religion = <!--信仰--> | footnotes = <!--備考--> }} [[ファイル:David Hilbert 1886.jpg|thumb|ケーニヒスベルクにて私講師を務めていた頃(1886年)]] [[ファイル:Göttingen Stadtfriedhof Grab David Hilbert.jpg|thumb|ヒルベルトの墓碑。「[[我々は知らない、知ることはないだろう#反応|我々は知らねばならない、我々は知るだろう]]」と記されている。]] '''ダーヴィット<ref>「ヒルベルトの忘れられた問題」岩波書店</ref>・ヒルベルト'''(David Hilbert, {{IPA-de|ˈdaːvɪt/ˈdaːfɪt ˈhɪlbɐt|lang}}<ref>Duden Aussprachewörterbuch (Duden Band 6), Auflage 6, ISBN 978-3-411-04066-7</ref><ref>[https://www.duden.de/rechtschreibung/David David | Rechtschreibung, Bedeutung, Definition, Herkunft] [[Duden]]</ref>, [[1862年]][[1月23日]] - [[1943年]][[2月14日]])は、[[ドイツ]]の[[数学者]]。「'''現代数学の父'''」と呼ばれる。名は'''ダフィット'''、'''ダヴィット'''、'''ダヴィド'''、'''ダーフィット'''などとも表記される。 == 経歴 == 当時[[プロイセン王国]]領だった[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]](現・[[ロシア]]領[[カリーニングラード]])に生まれた。 [[アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク|ケーニヒスベルク大学]]に進学し、[[ハインリッヒ・ウェーバー]]、[[フェルディナント・フォン・リンデマン]]から学んだ。特にウェーバーはドイツ数学の影響をヒルベルトに与えた。また、同大学で[[ヘルマン・ミンコフスキー]]と[[アドルフ・フルヴィッツ]]と知り合った。特にミンコフスキーは「最良にして本当の友人」であり、ミンコフスキーが亡くなった際は悲しみに暮れた。[[1885年]]に卒業、[[不変式]]論で[[学位]]を取得した。 [[1895年]]、[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]教授に就任。19世紀末から20世紀初頭にかけての指導的な数学者となった。弟子の育成にも努め、[[マックス・デーン]]、[[エーリヒ・ヘッケ]]、[[ヘルマン・ワイル]]、[[ヴィルヘルム・アッカーマン]]、[[パウル・ベルナイス]]など著名な数学者を輩出することになった。ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン(のちの[[ジョン・フォン・ノイマン]])の論文を評価し、当時22歳であったノイマンをゲッティンゲン大学に招いた。日本人では[[高木貞治]]がドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。 1943年、死去。 == 業績 == {{仮リンク|不変式論|en|Invariant theory}}、[[抽象代数学]]、[[代数的整数論]]、[[積分方程式]]、[[関数解析学]]、幾何学の公理系の研究、一般相対性理論など業績は非常に多岐にわたる。彼の公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画は'''[[ヒルベルト・プログラム]]'''と呼ばれる。その他[[ヒルベルト空間]]、[[ヒルベルトの零点定理]]などに名前が残っている。 === ヒルベルトの23の問題 === [[1900年]]のパリにおける国際数学者会議において「[[ヒルベルトの23の問題]]」を発表した<ref>[[#一松1984|一松(1984)]]</ref><ref>[[#杉浦1997|杉浦(1997)]]</ref><ref>[[#グレイ2003|グレイ(2003)]]</ref>。さまざまな数学者がこの問題に取り組んだことで、ヒルベルトの講演は20世紀の数学の方向性を形作るものになった。その中には、[[リーマン予想|リーマン仮説]]など現在も未解決の問題もある。また、代数幾何の基礎づけの問題のように、どのような解決をすればよいかの指針がないようなものもある。 === ヒルベルト–アインシュタイン優先権論争 === '''ヒルベルト–アインシュタイン優先権論争'''とは、1915年、アインシュタインが一般相対性理論の中で発表した[[場の方程式]]とりわけ[[共変方程式]]をめぐって、この共変方程式を先に創案したのは、[[アルベルト・アインシュタイン]]かダフィット・ヒルベルトか、ということに関する先取権論争、優先権争い。1915年以降、一般相対性理論をめぐって起こってきた論争の一つであるが、1997年に既に、アインシュタイン側に優先権があるとして解決したとされる。 “1997年、場の方程式の先取権をめぐる論争は、「サイエンス」誌に掲載された L・コリー、J・レン、J・スタッチェル による共著論文「ヒルベルト-アインシュタイン先取権論争の遅ればせながらの判定」(1997年11月14日発行の第278号1270~3頁)を通じて、結論が確定された。この三人の著者は、これまで未発表で注目されることがなかった、ヒルベルトがゲッチンゲン科学紀要に送り1915年12月16日に受領された校正刷りの現物について調査を行った。それによれば、アインシュタインがヒルベルトの著作を剽窃した可能性はまったくなく、さらにアインシュタインが方程式を正しく導いている一方で、ヒルベルトはアインシュタインの研究が発表されるまでは正しい方程式にたどりつけなかったことが証明されている。この校正刷りのなかでヒルベルトは、相対性の文脈のなかで重力の問題について妥当な記述を行う場合に要求されるほどには、自分の方程式は一般的に共変でない、と告白している。”<ref name="physics_1">『相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学――アインシュタインと膨張する宇宙』(アミール・D・アクゼル著/林一訳 ハヤカワ文庫)304頁より引用。</ref> == 受賞・栄誉 == *[[1903年]] - [[ポンスレ賞]] *[[1906年]] - [[コテニウス・メダル]] *[[1910年]] - [[ボーヤイ賞]] *[[1930年]] - ケーニヒスベルク市名誉市民 == 著作 == * {{Cite book|和書|others=[[林鶴一]]・[[小野藤太]]訳|year=1913|title=幾何学原理|series=数学叢書 第15編|publisher=[[大倉書店]]|url={{近代デジタルライブラリーURL|43004832}}}} * {{Cite book|和書|others=[[高津巌]]訳註|year=1937|title=公理的考察|series=独逸科学論文対訳叢書 第2編|publisher=[[大学書林]]}} * {{Cite book|和書|others=[[中村幸四郎]]訳|year=1943|title=幾何学基礎論|series=科学古典叢書|publisher=弘文堂書房}} ** {{Cite book|和書|others=中村幸四郎訳|year=1969|title=幾何学基礎論|publisher=清水弘文堂書房}} ** {{Cite book|和書|others=中村幸四郎訳|year=2005|month=12|title=幾何学基礎論|series=ちくま学芸文庫|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=4-480-08953-5|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089533/}} * {{Cite book|和書|others=[[一松信]]訳・解説|year=1969|title=数学の問題|series=現代数学の系譜 4|publisher=7[[共立出版]]|ref=一松1969}} ** {{Cite book|和書|others=一松信訳・解説|year=1984|title=数学の問題|series=現代数学の系譜 4|edition=増補版|publisher=共立出版|isbn=4-320-01157-0|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/series/keifu.html#4|ref=一松1984}} * {{Cite book|和書|others=[[寺阪英孝]]・[[大西正男]]訳・解説|year=1970|title=幾何学の基礎|series=現代数学の系譜 7|publisher=共立出版|isbn=4-320-01160-0|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/series/keifu.html#7}} === 共著 === * {{Cite book|和書|author=アッケルマン|authorlink=ヴィルヘルム・アッカーマン|others=[[伊藤誠]]{{要曖昧さ回避|date=2016年2月}}訳|year=1954|title=記号論理学の基礎|publisher=大阪教育図書}} ** {{Cite book|和書|author=アッケルマン|others=[[石本新]]・[[竹尾治一郎]]訳|year=1974|title=記号論理学の基礎|edition=改訂最新版|publisher=大阪教育図書}} * {{Cite book|和書|author=R・クーラン|authorlink=リヒャルト・クーラント|year=1959|title=数理物理学の方法|volume=第1巻|publisher=商工出版}} * {{Cite book|和書|author=R・クーラン|year=1959|title=数理物理学の方法|volume=第2巻|publisher=商工出版}} * {{Cite book|和書|author=R・クーラン|year=1962|title=数理物理学の方法|volume=第3巻|publisher=[[東京図書]]}} * {{Cite book|和書|author=R・クーラン|year=1968|title=数理物理学の方法|volume=第4巻|publisher=東京図書}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|authorlink=リヒャルト・クーラント|others=[[斎藤利弥]]監訳|year=1984|month=6|title=数理物理学の方法|publisher=東京図書|isbn=4-489-01145-8}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=斎藤利弥監訳|year=1989|month=6|title=数理物理学の方法|volume=1|publisher=東京図書|isbn=4-489-00293-9}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=斎藤利弥監訳|year=1989|month=6|title=数理物理学の方法|volume=2|publisher=東京図書|isbn=4-489-00294-7}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=斎藤利弥監訳|year=1989|month=6|title=数理物理学の方法|volume=3|publisher=東京図書|isbn=4-489-00295-5}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=斎藤利弥監訳|year=1989|month=6|title=数理物理学の方法|volume=4|publisher=東京図書|isbn=4-489-00296-3}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=[[丸山滋弥]]訳|year=1995|month=9|title=数理物理学の方法|volume=1|publisher=東京図書|isbn=4-489-00487-7}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=[[銀林浩]]訳|year=1995|month=9|title=数理物理学の方法|volume=2|publisher=東京図書|isbn=4-489-00488-5}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=[[麻嶋格次郎]]訳|year=1995|month=9|title=数理物理学の方法|volume=3|publisher=東京図書|isbn=4-489-00489-3}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=[[筒井孝胤]]訳|year=1995|month=9|title=数理物理学の方法|volume=4|publisher=東京図書|isbn=4-489-00490-7}} ** {{Cite book|和書|author=リヒャルト・クーラント|others=[[藤田宏]]・[[高見頴郎]]・[[石村直之]]訳|year=2013|month=1|title=数理物理学の方法|volume=上|series=シュプリンガー数学クラシックス 第26巻|publisher=丸善出版|isbn=978-4-621-06525-9|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621065259.html}} * {{Cite book|和書|author=S・コーン・フォッセン|authorlink=S・コーン・フォッセン|others=[[芹沢正三]]訳|year=1960|title=直観幾何学|volume=第1|publisher=みすず書房}} * {{Cite book|和書|author=S・コーン・フォッセン|others=芹沢正三訳|year=1961|title=直観幾何学|volume=第2|publisher=みすず書房}} ** {{Cite book|和書|author=S・コーン・フォッセン|others=芹沢正三訳|date=1966-08-30|title=直観幾何学|publisher=みすず書房|isbn=4-622-02451-9|url=http://www.msz.co.jp/book/detail/02451.html}} * {{Cite book|和書|author=P・ベルナイス|authorlink=パウル・ベルナイス|others=[[吉田夏彦]]・[[淵野昌]]訳|year=1993|month=10|title=数学の基礎|series=シュプリンガー数学クラシックス|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|isbn=4-431-70654-2}} ** {{Cite book|和書|author=P・ベルナイス|others=吉田夏彦・渕野昌訳|year=2007|month=3|title=数学の基礎|edition=復刻版|series=シュプリンガー数学クラシックス 第4巻|publisher=シュプリンガー・ジャパン|isbn=978-4-431-71241-1}} ** {{Cite book|和書|author=P・ベルナイス|others=吉田夏彦・渕野昌訳|year=2007|month=3|title=数学の基礎|edition=復刻版|series=シュプリンガー数学クラシックス 第4巻|publisher=丸善出版|isbn=978-4-621-06405-4|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621064054.html}} === 論文集 === * {{Cite book |year = 1932 |title = Gesammelte Abhandlungen |volume = 1. Band: Zahlentheorie |url = https://gdz.sub.uni-goettingen.de/id/PPN237821559 }} ** {{cite wikisource | year = 1932 | title = David Hilbert Gesammelte Abhandlungen Erster Band – Zahlentheorie | wslanguage = de }} * {{Cite book |year = 1933 |title = Gesammelte Abhandlungen |volume = 2. Band: Algebra, Invariantentheorie, Geometrie |url = https://gdz.sub.uni-goettingen.de/id/PPN237833719 }} * {{Cite book |year = 1935 |title = Gesammelte Abhandlungen |volume = 3. Band: Analysis, Grundlagen der Mathematik, Physik, Verschiedenes, Lebensgeschichte |url = https://gdz.sub.uni-goettingen.de/id/PPN237834022 }} == 関連項目 == * [[イグノラムス・イグノラビムス]] * {{仮リンク|幾何学基礎論|en|Foundations of geometry|preserve=1}} * [[ミレニアム懸賞問題]] * [[ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス]] * [[ヒルベルト変換]] * [[ヒルベルトの零点定理]] * [[ヒルベルトの基底定理]] * [[ヒルベルト・ポワンカレ級数]] * [[ヒルベルトの定理90]] * [[ヒルベルト空間]] * [[ヒルベルト・シュミット作用素]] * {{仮リンク|ダフィット・ヒルベルトに因む事物の一覧|en|List of things named after David Hilbert}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=ジェレミー・J・グレイ|authorlink=ジェレミー・J・グレイ|others=[[好田順治]]・[[小野木明恵]]訳|year=2003|month=12|title=ヒルベルトの挑戦 世紀を超えた23の問題|publisher=[[青土社]]|isbn=4-7917-6079-4|ref=グレイ2003}} * {{Cite book|和書|editor=杉浦光夫|editor-link=杉浦光夫|year=1997|month=2|title=ヒルベルト23の問題|publisher=日本評論社|isbn=4-535-78239-3|url=http://www.nippyo.co.jp/book/1201.html|ref=杉浦1997}} * {{Cite book|和書|author=J・ファング|authorlink=J・ファング|others=[[高木亮一]]訳|year=1977|month=3|title=ヒルベルトの世界|publisher=東京図書|ref=ファング1977}} * {{Cite book|和書|author=C・リード|authorlink=コンスタンス・リード|others=[[弥永健一]]訳|year=1972|title=ヒルベルト 現代数学の巨峰|publisher=岩波書店|ref=リード1972}} - 巻末に[[ヘルマン・ワイル]]の解説「ダヴィド・ヒルベルトとその数学的業績」を収録。 ** {{Cite book|和書|author=C・リード|others=[[彌永健一]]訳|date=2010-07-16|title=ヒルベルト 現代数学の巨峰|series=岩波現代文庫|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-600240-4|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/8/6002400.html|ref=リード2010}} - 巻末にヘルマン・ワイルの解説「ダーフィット・ヒルベルトとその数学的業績」を収録。 == 外部リンク == {{Commons&cat|David Hilbert|David Hilbert}} * {{Kotobank|ヒルベルト}} * {{MacTutor|id=Hilbert|title=David Hilbert}} * {{青空文庫|001398|50907|新字新仮名|回顧と展望}} * {{青空文庫|001398|50908|新字新仮名|ヒルベルト訪問記}} {{functional analysis}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひるへると たふいつと}} [[Category:ダフィット・ヒルベルト|*]] [[Category:ドイツの数論学者]] [[Category:ドイツの代数学者]] [[Category:ドイツの幾何学者]] [[Category:ドイツの不可知論者]] [[Category:形式主義 (演繹推論)]] [[Category:19世紀の数学者|620123]] [[Category:20世紀の数学者|-620123]] [[Category:王立協会外国人会員]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:プロイセン科学アカデミー会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:バイエルン科学アカデミー会員]] [[Category:米国科学アカデミー外国人会員]] [[Category:アメリカ哲学協会会員]] [[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ソビエト連邦科学アカデミー名誉会員]] [[Category:ロシア科学アカデミー外国人会員]] [[Category:ハンガリー科学アカデミー会員]] [[Category:スウェーデン王立科学アカデミー会員]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:アッカデーミア・デイ・リンチェイ会員]] [[Category:ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンの教員]] [[Category:ケーニヒスベルク大学の教員]] [[Category:ケーニヒスベルク出身の人物]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:1862年生]] [[Category:1943年没]]
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三池崇史
三池 崇史(みいけ たかし、1960年8月24日 - )は、日本の映画監督。大阪府八尾市出身。バイオレンスの巨匠とも謳われている。既婚。 幼少時代を三重県で過ごし、大阪工業大学高等学校時代はラグビーを行っていたが、入部した瞬間にレベルの違いを思い知って挫折。ラグビーを断念してバイクサーキットのライセンス取得に挑したが、走りにくい状態で前を走る人間を抜く欲求が生まれなかったため、これも断念。大学へ内部進学できなくなっていた三池は横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に進学、横浜にあった今村昌平の私塾で映画を学ぶが、大師匠の大庭秀雄が最初の授業で書いた「脚本とは芸術である」という言葉に、自分が場違いであることに気付かされてこれも挫折。最終的に専門学校は卒業するがほとんど中退状態となり、横浜のディスコでアルバイトを行った。専門学校2年生の時に専門学校の先輩からテレビの仕事の手伝いを頼まれ、これを引き受けた。真面目に専門学校に行っている生徒は卒業制作を作っている時期ではあったため学校は先輩の依頼を一度断ったが、先輩が学校の先生に「まともに学校に行っていない生徒でもいいから紹介してくれ」と頼んだところ、その筆頭として三池の名前が挙がったというのが真相であり、学校の職員がアルバイト先のディスコまで来て依頼を持ちかけたという。卒業後、ディスコのアルバイトをそのままやっていくのはなんだからと、その先輩の手伝いを行うようになった。フリーの助監督として今村昌平、恩地日出夫、野田幸男、西村潔、井上梅次、舛田利雄、村川透らの現場に就いた後、1991年にビデオ映画『突風!ミニパト隊』で監督デビュー、1995年の『新宿黒社会』で初の劇場用オリジナル作品を手掛けた。以降、コメディからバイオレンス、ホラーなど多岐に渡るジャンルで制作活動を続ける。1998年に、『TIME』誌がこれから活躍が期待される非英語圏の監督として、ジョン・ウーと並び10位に選出。クエンティン・タランティーノ、イーライ・ロス、パク・チャヌクなど、海外の監督にも影響を与えた(『殺し屋1』など)。また、オマー・ロドリゲス・ロペス、フライング・ロータスなど、海外ミュージシャンにもファンが多いことでも知られる。『極道恐怖大劇場 牛頭』はVシネマとして初めてカンヌ国際映画祭に出品された。旧名は三池モバ。ジャンルを問わず「仕事は来たもん順で受ける」「映像化可能であれば、まず何でもやってみる」と公言しており、多作である。 三池のその映画制作スタイルは鮮烈な暴力描写を伴うため、しばしば論争を巻き起こすものの海外での評価は高い。2001年のトロント国際映画祭での『殺し屋1』の上映時には、エチケット袋を観客に配り、暴力描写が自分の持ち味であることをアピールした。海外での受賞は『極道戦国志 不動』でポルト国際映画祭審査員特別賞。『オーディション』でロッテルダム国際映画祭で国際批評家連盟賞とオランダジャーナリズム連盟賞。『カタクリ家の幸福』でジェルミナーレ国際ファンタスティック映画祭審査員特別賞。『牛頭』で第36回シッチェス・カタロニア国際映画祭審査員特別ビジュアルエフェクト賞など多数。フランシス・コッポラやウェイ・ワンがアジア人監督作品をプロデュースする企画に日本から参加が発表されるなど、ハリウッドからの引き合いもあったが、長期間携わる上に他の仕事に関わることを禁じる契約がある依頼は自分の気質には合わないため、断っているという。 2004年『IZO』(イゾウ)は、R-15指定。幕末時代の殺し屋・岡田以蔵をモチーフに、過去・未来を通じ、時間を超越した殺戮を繰り広げる様を描く。豪華な出演陣が話題となった。ヴェネチア国際映画祭に正式招待された。 2006年にはアメリカのケーブルテレビ局Showtimeが企画した、ホラー映画の巨匠13人によるオムニバステレビシリーズ『マスターズ・オブ・ホラー』の第1シーズンに、日本人唯一の参加を果たした。しかし、実際に三池が製作した『インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜』(原作・岩井志麻子)はアメリカのテレビで最も表現規制が緩いとされる有料チャンネルの放送コードにさえ引っ掛かってしまう内容のもので、北米での放映は見送られることとなり、話題となった。また、日本では角川ヘラルド・ピクチャーズ(現・KADOKAWA)配給で映画館公開も計画されていたが、映倫が審査を拒否したため、映倫の審査が必要ないイメージフォーラムで単館上映した。 2007年11月、米『TIME』誌の調査による「Top 25 Horror Movies(ホラー映画ベスト25)」に唯一の日本映画として『オーディション』が選出された。 2014年、第9回ローマ国際映画祭ガラ部門にて、監督作品「神さまの言うとおり」が、日本人初の「マーベリック賞」を授与される事が決定された。 2015年、第6回オアハカ映画祭にて、監督作品『極道大戦争』で最優秀監督賞を受賞。 好きな映画監督は黒澤明、五社英雄、デヴィッド・リンチ、ポール・バーホーベン、デヴィッド・クローネンバーグ。好きな映画は『燃えよドラゴン』、『スターシップ・トゥルーパーズ』、『雲霧仁左衛門』、『闇の狩人』、『七人の侍』、『座頭市シリーズ(特に1962年の第1作目)』など。 最近は一般層向けの作品以外にも、漫画やアニメを原作とした作品の監督、女児向け特撮テレビドラマ「ガールズ×戦士シリーズ」(総監督)など、特定の需要に応えた作品のディレクションにも積極的に取り組んでいる。 ※ 三池監督が受賞した映画賞については監督のフィルモグラフィーから各作品のWikipediaページに詳しく記載。
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三池 崇史は、日本の映画監督。大阪府八尾市出身。バイオレンスの巨匠とも謳われている。既婚。
{{ActorActress | 芸名 = 三池 崇史 | ふりがな = みいけ たかし | 画像ファイル = Miike Takashi from "Lumberjack the Monster" at Red Carpet of the Tokyo International Film Festival 2023 (53348089341).jpg | 画像サイズ = 220px | 画像コメント = 2023年 [[第36回東京国際映画祭]]にて | 出生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[八尾市]] | 死没地 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1960 | 生月 = 8 | 生日 = 24 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[映画監督]] | ジャンル = [[ホラー映画|ホラー]]・[[コメディ]]・[[バイオレンス]] | 活動期間 = [[1991年]] - | 配偶者 = あり | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 東京国際映画祭 = '''アジア映画賞'''<br />[[第12回東京国際映画祭|1999年]]『[[DEAD OR ALIVE 犯罪者]]』 | 日本アカデミー賞 = '''優秀監督賞'''<br />[[2010年]]『[[十三人の刺客 (2010年の映画)|十三人の刺客]]』 | その他の賞 = '''[[日本映画プロフェッショナル大賞]]'''<br />'''作品賞'''<br />[[2001年]]『[[殺し屋1]]』<br />'''監督賞'''<br />[[1997年]]『[[岸和田少年愚連隊|岸和田少年愚連隊 血煙純情篇]]』<br />2001年『殺し屋1』<hr />'''[[高崎映画祭]]'''<br />'''最優秀監督賞'''<br />[[1998年]]『[[中国の鳥人]]』<hr />'''[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]'''<br />'''審査員特別賞'''<br />[[2003年]]『[[極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU]]』<hr>'''[[セントルイス映画批評家協会賞]]'''<br />'''外国語映画賞'''<br />[[2011年]]『[[十三人の刺客]]』<hr 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name="kaminoge"/>。フリーの助監督として[[今村昌平]]、[[恩地日出夫]]、[[野田幸男]]、[[西村潔]]、[[井上梅次]]、[[舛田利雄]]、[[村川透]]らの現場に就いた後、[[1991年]]にビデオ映画『突風!ミニパト隊』で監督デビュー、[[1995年]]の『新宿黒社会』で初の劇場用オリジナル作品を手掛けた。以降、[[コメディ]]から[[バイオレンス]]、[[ホラー]]など多岐に渡るジャンルで制作活動を続ける。[[1998年]]に、『[[TIME]]』誌がこれから活躍が期待される非英語圏の監督として、[[ジョン・ウー]]と並び10位に選出。[[クエンティン・タランティーノ]]、[[イーライ・ロス]]、[[パク・チャヌク]]など、海外の監督にも影響を与えた(『[[殺し屋1]]』など)。また、[[オマー・ロドリゲス・ロペス]]、[[フライング・ロータス]]など、海外ミュージシャンにもファンが多いことでも知られる。『極道恐怖大劇場 牛頭』は[[Vシネマ]]として初めて[[カンヌ国際映画祭]]に出品された。旧名は三池モバ。ジャンルを問わず「仕事は来たもん順で受ける」「映像化可能であれば、まず何でもやってみる」と公言しており、多作である。 三池のその映画制作スタイルは鮮烈な暴力描写を伴うため、しばしば論争を巻き起こすものの海外での評価は高い。[[2001年]]の[[トロント国際映画祭]]での『殺し屋1』の上映時には、[[エチケット袋]]を観客に配り、暴力描写が自分の持ち味であることをアピールした。海外での受賞は『極道戦国志 不動』で[[ポルト国際映画祭]]審査員特別賞。『[[オーディション (映画)|オーディション]]』で[[ロッテルダム国際映画祭]]で国際批評家連盟賞とオランダジャーナリズム連盟賞。『カタクリ家の幸福』でジェルミナーレ国際ファンタスティック映画祭審査員特別賞。『牛頭』で第36回[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]審査員特別ビジュアルエフェクト賞など多数。[[フランシス・コッポラ]]やウェイ・ワンがアジア人監督作品をプロデュースする企画に日本から参加が発表されるなど、[[ハリウッド]]からの引き合いもあったが、長期間携わる上に他の仕事に関わることを禁じる契約がある依頼は自分の気質には合わないため、断っているという。 [[2004年]]『IZO』(イゾウ)は、R-15指定。幕末時代の殺し屋・岡田以蔵をモチーフに、過去・未来を通じ、時間を超越した殺戮を繰り広げる様を描く。豪華な出演陣が話題となった。ヴェネチア国際映画祭に正式招待された。 [[2006年]]にはアメリカのケーブルテレビ局[[Showtime]]が企画した、ホラー映画の巨匠13人によるオムニバステレビシリーズ『[[マスターズ・オブ・ホラー]]』の第1シーズンに、日本人唯一の参加を果たした。しかし、実際に三池が製作した『[[インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜]]』(原作・[[岩井志麻子]])はアメリカのテレビで最も表現規制が緩いとされる有料チャンネルの[[放送コード]]にさえ引っ掛かってしまう内容のもので、北米での放映は見送られることとなり、話題となった。また、日本では[[角川ヘラルド・ピクチャーズ]](現・[[KADOKAWA]])配給で映画館公開も計画されていたが、[[映画倫理委員会|映倫]]が審査を拒否したため、映倫の審査が必要ない[[イメージフォーラム]]で単館上映した。 [[2007年]]11月、米『[[TIME]]』誌の調査による「Top 25 Horror Movies(ホラー映画ベスト25)」に唯一の[[日本映画]]として『[[オーディション (映画)|オーディション]]』が選出された。 [[2014年]]、第9回[[ローマ国際映画祭]]ガラ部門にて、監督作品「神さまの言うとおり」が、日本人初の「マーベリック賞」を授与される事が決定された。<ref>[http://www.hochi.co.jp/entertainment/20140921-OHT1T50105.html 三池崇史監督にローマ国際映画祭特別賞 日本人初]スポーツ報知 2014年9月21日</ref> [[2015年]]、第6回オアハカ映画祭にて、監督作品『[[極道大戦争]]』で最優秀監督賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/163303|title=三池崇史、メキシコの映画祭にて「極道大戦争」で最優秀監督賞を受賞|publisher=映画ナタリー|date=2015-10-19|accessdate=2015-10-19}}</ref>。 好きな映画監督は[[黒澤明]]<ref name="guardian">[https://www.theguardian.com/film/2011/may/05/takeshi-miike-japanese-samurai-classics Takashi Miike: Why I am bringing Japanese classics back to life - The Guardian]</ref>、[[五社英雄]]<ref>[https://www.facebook.com/note.php?note_id=268783396469656 『私と東映』 x 三池 崇史監督 第1回 - 東映株式会社]</ref>、[[デヴィッド・リンチ]]<ref name="suicidegirls">[https://www.suicidegirls.com/girls/anderswolleck/blog/2678983/takashi-miike-director-of-gozu/ SuicideGirls Interviews Takashi Miike Director Of Gozu]</ref>、[[ポール・バーホーベン]]<ref name="suicidegirls" />、[[デヴィッド・クローネンバーグ]]<ref name="suicidegirls" />。好きな映画は『[[燃えよドラゴン]]』<ref>[http://eiga.com/movie/53119/interview/ ヤッターマン インタビュー: 三池崇史監督が語る「ヤッターマン」 - 映画.com]</ref>、『[[スターシップ・トゥルーパーズ]]』<ref name="suicidegirls" />、『[[雲霧仁左衛門 (映画)|雲霧仁左衛門]]』<ref name="guardian" />、『[[闇の狩人]]』<ref name="guardian" />、『[[七人の侍]]』<ref name="guardian" />、『[[座頭市|座頭市シリーズ]](特に1962年の[[座頭市物語|第1作目]])』<ref name="guardian" />など。 最近は一般層向けの作品以外にも、漫画やアニメを原作とした作品の監督、女児向け特撮テレビドラマ「[[ガールズ×戦士シリーズ]]」(総監督)など、特定の需要に応えた作品のディレクションにも積極的に取り組んでいる。 == エピソード == ※ 三池監督が受賞した映画賞については監督のフィルモグラフィーから各作品のWikipediaページに詳しく記載。 * 2017年3月にミュージシャンの[[MIYAVI]]と共に行った対談ではMIYAVIから「ボクの大好きな映画監督です」「人間って汚いものじゃないですか? いま綺麗な映画が多いと思うんですけど、その汚さを日本人映画監督として、[[大衆|ポップ]]、[[マイノリティー]]ではなく第一線として『どう表現するか?』というところで闘っている監督だと思っています」と評されている。同じ対談で三池は映画監督としての自身を「ボクには向上心がない。だから逆に言うとMIYAVIさんたちの世代って『ぬるい』っていう風に自覚せざるを得ない世代でしょ? 我々はそう思ってなかったから」「俺はぬるい状況であったからこそ生きてられた。それを30ぐらいで監督になった時にかなり強く感じたんですよ」と評価している<ref name="kaminoge">東邦出版『KAMINOGE』vol.65 p74-85</ref>。 * 現場と作品以外からはずっとなにかから逃げていると語る人物でもあり、大学進学の見込みが無くなった際もラジオで「大学落ちたら横浜放送映画専門学院!」というCMを聴いて、大学進学に失敗した自分の逃げ道として映画を学び始めた<ref name="kaminoge"/>。 * 現場では逃げ道がないため、俳優からの演技に関する質問には全部答えるなど熱心に仕事をこなすが、現場を離れると、資料としてプロデューサーから渡される映画に一切目を通さないなど、気の抜けた姿勢になる。ただし、娯楽としては映画を楽しんで観賞する性分である<ref name="kaminoge"/>。 * 『[[ひみつ×戦士 ファントミラージュ!]]』の出演陣は三池監督について最初は怖い印象であったが、実際には優しく和ませてくれる人物であり、演技指導でも自ら実演するなど具体的でわかりやすかったと述べている{{R|U168}}。 * インタビュアーの[[吉田豪]]と、[[哀川翔]]との対談の中では哀川の武勇伝が幾つか語られているが、その中で三池監督の名前を出している。映画の現場で一番暴れるのは自分達俳優より監督だと発言しており、その中でも三池監督は「ハンパじゃない」と評している。 == 監督作品 == === 映画 === * [[第三の極道]](1995年1月17日公開、[[ヒーロー]]配給) * 黒社会([[大映]]配給) ** {{ill2|新宿黒社会 チャイナ マフィア戦争|en|Shinjuku Triad Society}}(1995年8月26日公開) ** {{ill2|極道黒社会 RAINY DOG|en|Rainy Dog}}(1997年6月28日公開) ** [[日本黒社会 LEY LINES]](1999年5月22日公開) * [[極道戦国志 不動]](1996年10月12日公開、[[ギャガ]]配給) * [[岸和田少年愚連隊]] ** {{ill2|岸和田少年愚連隊 血煙り純情篇 |en|Young Thugs: Innocent Blood}}(1997年6月21日公開、[[シネマ・ドゥ・シネマ]]配給) ** {{ill2|岸和田少年愚連隊 望郷|en|Young Thugs: Nostalgia}}(1998年9月26日公開、[[松竹]]配給) * {{ill2|中国の鳥人 (1998年の映画)|en|The Bird People in China|label =中国の鳥人}}(1998年6月10日公開、シネマ・ドゥ・シネマ/セディック インターナショナル配給) * [[アンドロメディア]](1998年7月11日公開、[[松竹]]配給) * {{仮リンク|BLUES HARP|en|Blues Harp (film)}}(1998年7月15日公開、[[ボノボ]]/[[パノラマ・コミュニケーションズ]]配給) * [[サラリーマン金太郎 (高橋克典のテレビドラマ)#映画|サラリーマン金太郎]](1999年11月13日公開、[[東宝]]配給) * DEAD OR ALIVE([[大映]]配給) ** [[DEAD OR ALIVE 犯罪者]](1999年11月27日公開) ** [[DEAD OR ALIVE 2 逃亡者]](2000年12月2日公開) ** [[DEAD OR ALIVE FINAL]](2002年1月12日公開) * [[オーディション (映画)|オーディション]](2000年3月3日公開、[[アートポート]]配給) * {{ill2|漂流街 THE HAZARD CITY|en|The City of Lost Souls}}(2000年11月11日公開、[[東宝]]配給) * [[ビジターQ]](2001年3月17日公開、[[シネロケット]]配給) * FAMILY ** {{ill2|FAMILY (2001年の映画)|en|Family (2001 film)|label=FAMILY}}(2001年3月31日公開、[[エクセレントフィルム]]配給)兼 撮影 ** {{ill2|FAMILY2|en|Family 2 (film)}}(2001年製作、未公開) * [[天国から来た男たち]](2001年6月16日公開、[[日活]]配給) * [[殺し屋1#映画|殺し屋1]](2001年製作、日本/香港/韓国合作) * [[カタクリ家の幸福]](2002年2月23日公開、[[松竹]]配給) * {{ill2|熊本物語|en|Kumamoto Stories}}(2002年7月20日公開) * {{ill2|荒ぶる魂たち|en|Agitator (film)}}(2002年3月30日公開、大映配給) * {{ill2|新・仁義の墓場|en|Graveyard of Honor (2002 film)}}(2002年6月22日公開、大映配給) * [[多重人格探偵サイコ#映像作品|MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION]](2002年7月6日公開、[[物語環境開発]]配給)演出 * {{ill2|金融破滅ニッポン 桃源郷の人々|en|Shangri-La}}(2002年9月7日公開、大映配給)<ref>{{Cite web|和書|title=公式ホームページ|url=https://web.archive.org/web/20031007224955/http://kadokawa-daiei.com/togenkyo/index.html|website=|accessdate=2022-08-19|language=ja}}</ref> * {{ill2|実録・ 安藤昇侠道伝 烈火|en|Deadly Outlaw: Rekka}}(2002年9月21日公開、[[東映ビデオ]]配給) * [[SABU 〜さぶ〜]](2002年10月5日公開、[[キネマ旬報社]]配給)※同年放送のテレビドラマの再編集劇場版 * [[許されざる者 (2003年の映画)|許されざる者]](2003年3月29日公開、[[シネマパラダイス]]配給) * [[極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU]](2003年) * [[美しい夜、残酷な朝]] (2004製作、香港/日本/韓国合作) * [[着信アリ#着信アリ|着信アリ]](2004年1月17日公開、[[東宝]]配給) * ゼブラーマンシリーズ([[東映]]配給) ** [[ゼブラーマン]](2004年2月14日公開) ** [[ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-]](2010年5月1日公開) * [[IZO (映画)|IZO]](2004年8月21日公開、[[チームオクヤマ]]配給) * [[インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜]](2005年製作、アメリカ映画)※レイトショーのみでの上映 * [[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]](2005年8月6日公開、[[松竹]]配給)兼 脚本 * [[WARU]](2006年2月25日公開、[[真樹プロダクション]]配給) * [[46億年の恋]](2006年8月26日公開、[[エスピーオー]]配給) * [[太陽の傷]](2006年9月16日公開、[[シネマパラダイス]]配給) * [[龍が如く 劇場版]](2007年3月3日公開、東映配給) * [[スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ]](2007年9月15日公開、[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント (日本)|ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]配給)兼 脚本 * クローズ(東宝配給) ** [[クローズZERO]](2007年10月27日公開) ** [[クローズZERO#クローズZERO II|クローズZERO II]](2009年4月11日公開) * [[神様のパズル#映画|神様のパズル]](2008年6月7日公開、東映配給) * [[ヤッターマン (映画)|ヤッターマン]](2009年3月7日公開、[[松竹]]/[[日活]]配給) * [[十三人の刺客 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(2019年の映画)|初恋]] ''FIRST LOVE''(2020年2月28日公開、東映配給)<ref>{{Cite web|和書|title=初恋 : 作品情報|url=https://eiga.com/movie/91189/|website=映画.com|accessdate=2020-02-05|language=ja}}</ref> * [[ひみつ×戦士 ファントミラージュ!#映画|劇場版 ひみつ×戦士 ファントミラージュ! 〜映画になってちょーだいします〜]](2020年7月23日公開、KADOKAWA / イオンエンターテイメント配給) * 劇場版 ポリス×戦士 ラブパトリーナ! 〜怪盗からの挑戦! ラブでパパッとタイホせよ!〜(2021年5月21日公開、KADOKAWA/イオンエンターテイメント配給) * [[妖怪大戦争 ガーディアンズ]](2021年8月13日公開、東宝 / KADOKAWA配給) * [[怪物の木こり#映画|怪物の木こり]](2023年12月1日公開、ワーナー・ブラザース映画配給)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/527505|title=亀梨和也×菜々緒×吉岡里帆で「怪物の木こり」実写化、サイコパスと猟奇殺人犯が対決|date=2023-06-07|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2023-06-07}}</ref> === テレビドラマ === * [[疾走フェラーリ250GTO/ラスト・ラン〜愛と裏切りの百億円]](1992年、[[テレビ東京]]) * 天然少女 萬([[WOWOW]]) ** [[天然少女 萬]](1999年) ** [[天然少女萬NEXT-横浜百夜篇]](1999年) * [[多重人格探偵サイコ|多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還]](2000年、WOWOW)兼 脚本 * [[SABU 〜さぶ〜]](2002年、[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]])※再編集され劇場公開 * パートタイム探偵(テレビ東京) ** [[パートタイム探偵]](2002年) ** [[パートタイム探偵|パートタイム探偵2]](2004年、テレビ東京) * [[交渉人 (小説)|交渉人]](2003年、WOWOW) * [[ウルトラマンマックス]](2005年、[[CBCテレビ|中部日本放送]])監督・特技監督、第15話・第16話 * [[ケータイ捜査官7]](2008年、テレビ東京)シリーズ監督、監督:第1話・第23話・第45話 * [[QP (漫画)#テレビドラマ|QP]](2011年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])監督 * [[ガールズ×戦士シリーズ]](2017年 - 、テレビ東京)総監督 ** [[アイドル×戦士 ミラクルちゅーんず!]](2017年 - 2018年) 監督:第1話・第2話 ** [[魔法×戦士 マジマジョピュアーズ!]](2018年 - 2019年) 監督:第1話・第2話 ** [[ひみつ×戦士 ファントミラージュ!]](2019年 - 2020年)監督:第1話・第2話・第25話・第26話 ** [[ポリス×戦士 ラブパトリーナ!]](2020年 - 2021年) 監督:第1話・第2話 ** [[ビッ友×戦士 キラメキパワーズ!]](2021年 - ) 監督:第1話・第2話・第3話 * [[リズスタ -Top of Artists!-]](2022年 - 、テレビ東京)総監督 * [[コネクト (配信ドラマ)|コネクト]](2022年、[[Disney+]]) * [[警部補ダイマジン#テレビドラマ|警部補ダイマジン]](2023年、[[テレビ朝日]]) === オリジナルビデオ === * {{ill2|レディハンター/殺しのプレリュード|en|Lady Hunter: Prelude to Murder}}(1991年製作) * {{ill2|突風!ミニパト隊/アイキャッチジャンクション|en|Eyecatch Junction}}(1991年製作) * {{ill2|人間兇器/愛と怒りのリング|en|A Human Murder Weapon}}(1992年製作) * [[ボディガード牙]](1993年製作) * 俺達は天使(カタギ)じゃない(原作[[安部譲二]]著『[[俺達は天使じゃない]]』) ** [[俺達は天使(カタギ)じゃない|俺達は天使(カタギ)じゃない]](1993年製作) ** [[俺達は天使(カタギ)じゃない2|俺達は天使(カタギ)じゃない2]](1993年製作) * 修羅の黙示録 ボディガード牙 ** {{ill2|修羅の黙示録 ボディガード牙|en|Bodyguard Kiba: Apocalypse of Carnage}}(1994年製作) ** {{ill2|修羅の黙示録2 ボディガード牙|en|Bodyguard Kiba: Apocalypse of Carnage 2}}(1995年製作) * {{ill2|なにわ遊侠伝|en|Osaka Tough Guys}}(1995年製作) * {{ill2|新宿アウトロー|en|Shinjuku Outlaw}}(1994年製作) * [[第三の極道|新・第三の極道]] 勃発関西極道ウォーズ!!(1995年製作) * [[第三の極道|新・第三の極道II]](1995年製作) * 仁義なき野望 ** {{ill2|仁義なき野望|en|Ambition Without Honor}}(1996年製作) ** {{ill2|仁義なき野望2|en|Ambition Without Honor 2}}(1997年製作) * [[喧嘩の花道|大阪最強伝説 喧嘩の花道]](1996年製作) * {{ill2|ピイナッツ -落華星-|en|Peanuts (1996 film)}}(1996年製作) * [[FULL METAL 極道]](1997年製作) * {{ill2|シルバー (映画)|en|Silver (film)}}(1999年製作) * {{ill2|鬼哭 KIKOKU|en|Kikoku}}(2003年製作) * [[極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU|極道恐怖大劇場 牛頭(ごず)]](2003年製作) * {{ill2|探偵物語 (2007年の映画)|en|Detective Story (2007 film)|label =探偵物語}}(2007年9月29日公開、[[真樹プロダクション]]配給) * [[平和への誓約|平和への誓約(うけい)]][[山鹿灯籠まつり|山鹿灯篭]]・[[松尾敬宇]]とその母(2007年製作アニメ)※[[靖国神社]][[遊就館]]広間で上映されている === 舞台 === * [[夜叉ヶ池 (戯曲)#2004年版|夜叉ヶ池]](2004年)主演:[[武田真治]] * [[座頭市#舞台(リメイク)|座頭市]](2007年)出演:哀川翔 阿部サダヲ 遠藤憲一 * [[醉いどれ天使]](2021年)出演:桐谷健太 高橋克典 * 六本木歌舞伎シリーズ ** 『[[座頭市#舞台(リメイク)|座頭市(仮)]]』(2017年)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/206523|title=六本木歌舞伎、新作は海老蔵&寺島しのぶ!三池崇史×リリー・フランキー版座頭市|newspaper=ステージナタリー|date=2016-10-23|accessdate=2016-10-24}}</ref> ** 『座頭市、新解釈。』(2018年) ** 『[[羅生門 (小説)|羅生門]]』(2019年) === アニメ === * [[プチプチ・アニメ]]「[[ころがし屋のプン]]」(2016年、[[NHK教育テレビ|NHK Eテレ]]) - 監督・著作・主人公 プンの声も担当<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/177980|title=三池崇史が監督したコマ撮りアニメ「ころがし屋のプン」、明日Eテレで放送|newspaper=映画ナタリー|date=2016-03-20|accessdate=2016-03-22}}</ref>。 * [[鬼武者]](2023年、[[Netflix]]) - 総監督<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/495018|title=ゲーム「鬼武者」初アニメ化!主人公・宮本武蔵のモデルは三船敏郎、総監督に三池崇史|newspaper=映画ナタリー|date=2022-09-25|accessdate=2022-09-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/9b2db9746c6fb28b8d8f028e74fdeb23f66d061f|title=アニメ『鬼武者』11月2日配信開始 宮本武蔵役大塚明夫主演 佐々木小次郎は関俊彦|publisher=YAHOO!ニュースJAPAN|accessdate=2023-09-20}}</ref> == 出演作品 == * OV『[[恐怖!!寄生虫館の三姉妹]]』(1996年製作、[[宮坂武志]]監督) - 黛家父親 ※特別出演 ※三池ドコモ名義 * OV『[[蘇える金狼#1998年|蘇える金狼2 復活篇]]』(1998年製作、[[渡辺武 (映画監督)|渡辺武]]監督)※三池ドコモ名義 * OV『[[広島やくざ戦争|広島やくざ戦争 完結編]]』(2000年) - 呉 コジマ組幹部 ミヤモリテルオ * OV『[[肉体警備員 裂かれた制服]]』(2001年製作、[[熊沢尚人]]監督)※特別出演 * OVA『[[殺し屋1|殺し屋1 THE ANIMATION EPISODE 0]]』(2002年製作、[[石平信司]]監督) - 垣原(声の出演) * OV『岸和田少年愚連隊 カオルちゃん最強伝説 EPISODE FINAL STAND BY ME』(2002年、宮坂武志監督) - 阪神タイガースのキャップを被ったおっさん ※特別出演 * 映画『[[荒ぶる魂たち]]』(2002年3月30日公開、[[大映]]配給、三池崇史監督) - 白根組組員 ※三池モバ名義 * 映画『[[地球で最後のふたり]]』(2003年製作、タイ/日本/オランダ/フランス/シンガポール合作、[[ペンエーグ・ラッタナルアーン]]監督) * OV『[[極道刑事]]』(2003年製作、[[佐藤佐吉 (映画監督)|佐藤佐吉]]監督) * 岸和田少年愚連隊 カオルちゃん最強伝説 妖怪地獄(2004年) - ロク(故買屋)※三池イエロー名義 * 映画『[[恋の門]]』(2004年10月9日公開、[[アスミック・エース]]配給、[[松尾スズキ]]監督) - イメクラ店長 * 岸和田少年愚連隊 カオルちゃん最強伝説 マレーの虎(2005年) - ロク(故買屋)※三池イエロー名義 * 映画『[[ホステル (映画)|ホステル]]』(2005年製作、アメリカ映画、[[イーライ・ロス]]監督)※特別出演 * OV『[[岸和田少年愚連隊]] マレーの虎』(2005年製作、[[宮坂武志]]監督) - 三池イエロー名義 * 映画『[[隣人13号#映画|隣人13号]]』(2005年4月2日公開、[[メディア・スーツ]]配給、[[井上靖雄]]監督) - 金田 ※友情出演 * 映画『[[劇場版 どうぶつの森]]』(2006年12月16日公開、[[東宝]]配給、[[志村錠児]]監督) - ラコスケ(声の出演) * テレビドラマ『[[天地人 (NHK大河ドラマ)|天地人]]』(2009年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]) - 刈安兵庫 * トーク番組『[[スタジオパークからこんにちは]]』(2010年9月17日、NHK) * ゲーム『[[NO MORE HEROES 2 DESPERATE STRUGGLE]]』(2010年) - ビショップの友人(声の出演) * テレビドラマ『[[QP (漫画)|QP]]』第5話(2011年11月2日、[[日本テレビ]]) - 鬼頭 ※三池タカシ名義 * テレビドラマ『[[相棒#season10|相棒 Season10]]』第16話「宣誓」(2012年2月15日、[[テレビ朝日]]) - 龍翠会幹部 高梨宣夫 * [[プチプチ・アニメ]]『ころがし屋のプン』(2016年3月21日、NHK) - プン(声の出演) == その他の参加作品 == === 映画 === * [[この愛の物語]](1987年9月12日公開、[[松竹富士]]配給、[[舛田利雄]]監督)セカンド助監督 * [[トップ・ファイター]](1988年12月3日公開、松竹富士配給、[[中島芳人]]監督)助監督 * [[黒い雨 (映画)|黒い雨]](1989年5月13日公開、[[東映]]配給、[[今村昌平]]監督)助監督 * [[ペエスケ ガタピシ物語]](1990年5月12日公開、[[松竹]]配給、[[後藤秀司]]監督)助監督 * [[四万十川 (小説)|四万十川]](1991年12月7日公開、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|ヘラルド]]/[[アスミック・エース|ヘラルド・エース]]配給、[[恩地日出夫]]監督)助監督 * [[難波金融伝・ミナミの帝王|難波金融伝・ミナミの帝王 スペシャル劇場版 ローンシャーク…追い込み]](1995年7月1日公開、[[ケイエスエス]]配給、[[萩庭貞明]]監督)プロデュース === テレビドラマ === * [[ブラック・ジャック (実写版)#連続ドラマ(1981年・加山雄三版)|加山雄三のブラック・ジャック]](1981年、[[テレビ朝日]])助監督 * [[闇を斬れ]](1981年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]])助監督 * [[江戸川乱歩の美女シリーズ|天国と地獄の美女]](1982年、テレビ朝日)助監督 * [[父と娘]](1983年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])助監督 * [[還らざる海]](1983年、[[TBSテレビ|TBS]])助監督 * [[ザ・ハングマン]] シリーズ3 - 6(1983年 - 1987年、[[朝日放送テレビ|朝日放送]])演出助手 * [[特命刑事ザ・コップ]](1985年、朝日放送)助監督 * [[草壁署迷宮課おみやさん|迷宮課刑事おみやさん]](1985年、朝日放送)監督助手 * [[白の死刑]](1986年、テレビ朝日)助監督([[石鐵県死刑囚蘇生事件]]を題材) * [[墓場から生きかえった男]](1988年、テレビ朝日)助監督 * [[心中の構図 夫が私を殺そうとしている]](1990年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])監督助手 * [[父と子の疑惑]](初放送時期不明、フジテレビ)助監督 * [[西遊記 (1993年のテレビドラマ)|西遊記]](1993年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])ラインプロデューサー * [[ダムド・ファイル]](2003年7月4日放送開始、[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]])オープニング・タイトル * [[ダムド・ファイル エピソード・ゼロ]](2003年製作、名古屋テレビ)オープニング・タイトル * [[彼岸島]](2013年、MBS)総監修 === OV === * [[銀と金|闇金の帝王 銀と金2]](1993年製作、[[中原俊]]監督)プロデューサー、出演 * [[極道ジハード 〜聖戦〜]](2002年製作、[[横井健司]]監督)監修 * [[極道ジハードII 〜聖戦〜]](2002年製作、横井健司監督)監修 * [[極道ジハードIII 〜聖戦〜]](2002年製作、横井健司監督)監修 * [[龍が如く 劇場版#龍が如く 〜序章〜|龍が如く 〜序章〜]](2006年製作、[[宮坂武志]]監督)総合監督 === 歌舞伎 === * 地球投五郎宇宙荒事 (2015年2月、EXシアター六本木) 演出<ref>{{Cite web|和書|date=2015年2月 |url=https://www.kabuki-bito.jp/theaters/other/play/284 |title=六本木歌舞伎 地球投五郎宇宙荒事 |publisher=歌舞伎美人 |accessdate=2015-02-16}}</ref> == 出典 == {{Reflist |refs= <ref name="U168">{{Cite journal|和書|date=2020-04-01|title=[座談会][[菱田未渚美]]×[[山口綺羅]]×[[原田都愛]]×[[石井蘭]]|journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=vol.168|issue=(SPRING 2020.春)|publisher=[[ホビージャパン]]|pages=86-87|isbn=978-4-7986-2182-1}}</ref> }} == 外部リンク == * {{jmdb name |0139690 }} * {{allcinema name |128290 }} * {{kinejun name |122040 }} * {{Movie Walker name|id=115394|name=三池崇史}} * {{imdb name |id=0586281 |name=三池崇史 }} * {{Tvdrama-db name}} {{三池崇史}} {{毎日映画コンクール監督賞}} {{日刊スポーツ映画大賞監督賞}} {{ヨコハマ映画祭監督賞}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:みいけ たかし}} [[Category:日本の映画監督]] [[Category:ホラー映画の監督]] [[Category:ヤクザ映画の監督]] [[Category:特撮スタッフ]] [[Category:日本映画大学出身の人物]] [[Category:常翔学園高等学校出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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マサチューセッツ州
マサチューセッツ州(マサチューセッツしゅう、英: Commonwealth of Massachusetts、[ˌmæsəˈtʃuːsɪts] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国の州。北東部ニューイングランド6州の一つでもある。独立13州の一つ。マサチューセッツ州は「州」(State) の代わりにコモンウェルスを使っているが、日本語では他州と同様に「州」と訳されている。2020年国勢調査時点での人口は7,029,917人である。アメリカ合衆国の誕生から政治・経済・商工業・文化・教育の中心地として、リーダー的役割を果たしてきた。名称は、先住民のマサチューセッツ人に由来する。 南はロードアイランド州とコネチカット州、西はニューヨーク州、北はバーモント州とニューハンプシャー州に接している。東は大西洋である。アメリカ合衆国50州の中で陸地面積では第44位、人口では第15位、人口密度が第3位である。東部のボストン大都市圏と、西部のスプリングフィールド大都市圏という2つの中心地がある。人口の約3分の2はボストン大都市圏に住んでいる。州都はボストン市であり、人口最大の都市でもある。ボストン大都市圏にはハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などがあるケンブリッジやサマービル、クインシーなどの市町が含まれている。 マサチューセッツ州は、アメリカ史の中で各分野にわたって重要な役割を演じてきた。1620年、メイフラワー号の乗船客ピルグリムによって、プリマス植民地が設立された。1636年に設立されたハーバード大学は国内最古の高等教育機関である。1692年、セイラムとその周辺ではセイラム魔女裁判と呼ばれる忌まわしい事件が起こった。18世紀、大西洋圏を席捲したプロテスタントの第一次大覚醒運動は、ノーサンプトンの説教師ジョナサン・エドワーズに端を発していた。18世紀後半には、アメリカ独立戦争とイギリスからの独立に繋がる扇動によって、ボストンは「自由の揺籃」とも呼ばれた。1777年にヘンリー・ノックス将軍が設立したスプリングフィールド造兵廠は、産業革命の時代に交換部品など多くの重要な技術進歩を促進した。1786年、州西部の農夫によるポピュリスト革命、シェイズの反乱が直接アメリカ合衆国憲法制定会議の開催に繋がる要因になった。 南北戦争以前の時代には、禁酒運動、超越論的思想、奴隷制度廃止運動の中心になった。1837年、コネチカット川バレーのサウスハドリーの町に、国内初の女子カレッジであるマウント・ホリヨーク大学が開校した。19世紀、州西部の都市、スプリングフィールドとホリヨークでバスケットボールとバレーボールが発明された。2004年、州最高裁判所の判決により、国内で初めて同性結婚を法律で認める州になった。州内からはアダムズ家やケネディ家など多くの著名政治家を輩出してきた。 マサチューセッツ州は当初漁業、農業、貿易業に依存していたが、産業革命の間に工業の中心に変わった。20世紀にはその経済が工業からサービス業に転換された。21世紀には、高等教育、医療技術、ハイテクと金融業で指導的存在である。 マサチューセッツ州の前身マサチューセッツ湾植民地の名称はかつてマサチューセッツ湾の周辺に居住していたインディアン部族、マサチューセッツ族にちなむ。この部族の名はマサチューセット語(英語版)で「大きな丘の場所」を意味し、ボストンの南のミルトンとカントンの間にある小さな山(今日の「ブルー・ヒルズ」)を指している。mass-adchu-s-et と綴られ、mass- は 「大きい」、-adchu- は「岡」、-s- は「小さい」を意味する指小辞、-et は場所を表す所格である。 別の説として、クインシーにあるモスウィタセット・ハンモック(鏃のような形の岡という意味)の名前から派生したとするものがある。ここで1621年に、プリマス植民地の指導者マイルス・スタンディッシュと通訳のスカントが、インディアンの酋長チカトーバットと出遭った。 州の公式名は "Commonwealth of Massachusetts" であり、口語では単純に "Commonwealth" と呼ばれることが多い。その意味合いで "State" との違いは無く、他州と同じ位置づけと権限がある。2020年11月、それまで全米最長の正式名称であったロードアイランドおよびプロビデンス・プランテーション州が短縮され、繰り上がりで50州の中では最も長い公式名称をもつ州となった(自治領などを含めれば北マリアナ諸島が最長)。 マサチューセッツ州となった地域に住んでいたのは、ワンパノアグ族、ナラガンセット族、ニプマク族、ポコンタック族、モヒカン族、マサチューセッツ族など、アルゴンキン語族だった。その食料を補うためにカボチャやトウモロコシを栽培する一方で、狩猟漁労採集に依存していた。集落はウィグワムやロングハウスと呼ばれる小屋の集まりだった。サッチェムと呼ばれる男あるいは女の長老が部族を率いていた。 1600年代初期、アメリカ合衆国北東部のインディアンは、天然痘、麻疹、インフルエンザ、レプトスピラ症など免疫力の無かった疫病によって、大きく人口を減らした。1617年から1619年に、マサチューセッツ湾のインディアンの90%が天然痘で殺されたと報告されている。 1620年、メイフラワー号で北アメリカに到着したピルグリム・ファーザーズはプリマス植民地に入植した。彼等はワンパノアグ族インディアンと良好な関係を築いた。北アメリカではジェームズタウンに続いてイングランド人による2つめの植民地になった。その後に他の清教徒たちも続き、1630年にはボストンにマサチューセッツ湾植民地が建設された。 清教徒はイングランド国教会に不満があり、中でも聖職階級制に拘りすぎていると考え、信教の自由を求めてマサチューセッツに来ていた。ただし、プリマス植民地とは異なり、マサチューセッツ湾植民地は王室勅許の下に設立された。清教徒たちは信仰の自由を求めてマサチューセッツに来たものの、彼らは異なる教義に寛容ではなかった。そのため、アン・ハッチンソン、ロジャー・ウィリアムズ、トマス・フッカー(英語版)らはマサチューセッツを離れ、南に向かった。ウィリアムズはロードアイランド植民地を建て、フッカーはコネチカット植民地を建てた。 フィリップ王戦争(1675年 - 1676年)は植民地時代初期におけるワンパノアグ族を中心としたインディアンとの戦いで最も血なまぐさいものとなり、コネチカット川流域のパイオニアバレイ(英語版)とプリマス植民地でも大きな戦闘があった。ニューイングランド南部の諸植民地がこの戦いの傷から立ち直るのには長い年月を要した。 1686年5月、ジョセフ・ダドリーがイギリス王ジェームズ2世によりニューイングランドの長官に任命され、マサチューセッツ湾植民地は終わりを迎えた。ダドリーはその後、ニューハンプシャー植民地とキングズプロビンス(今日のロードアイランド州の一部)に本拠を置いた。エドマンド・アンドロス卿が到着してニューイングランド自治領の総督に就任すると、ダドリーはアンドロス総督の議会の一員となった。 1689年、ウィリアム3世とメアリ2世のイギリス国王即位の知らせに、ボストン入植者たちは反乱をおこした。アンドロス卿と彼の部下たちはキャッスル島で拘束され、囚人としてイギリス本土に送還された。アンドロス卿は謀反の疑いが晴れたあと、1692年から1698年までバージニア植民地の知事を務めている。 1691年、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地は合併して、新たにマサチューセッツ湾植民地となった。その植民地初代総督ウィリアム・フィップスが到着して直後の1692年、セイラム魔女裁判事件が起こり、多くの男女が絞首刑にされた。 この時代の著名な総督は、トマス・ハッチンソン、フランシス・バーナード卿およびトマス・ゲイジなどである。ゲイジは英領マサチューセッツの最後の総督となった。 1755年、ニューイングランドでは最大級の地震が発生し、マサチューセッツ全土にかなりの被害を生じさせた。 マサチューセッツはイギリスによる支配に最初に反旗を翻した植民地としてアメリカ独立戦争を扇動した。1775年2月9日、英国議会はマサチューセッツは反乱していると宣言し、植民地秩序回復のため追加の軍隊を送った。 1770年3月5日、フレイミングハムからボストンを訪れていた黒人のクリスパス・アタックス(英語版)らがボストン虐殺事件として知られる武力衝突で英軍兵士に殺された。アタックスはしばしばアメリカ独立戦争最初の犠牲者と考えられている。 1773年12月16日にはボストン茶会事件が起こった。 サミュエル・アダムズやジョン・ハンコックなどによるイギリスの議会に反対する活動があり、これに対してイギリス政府が反発したことで、13植民地が結束することとなり、アメリカ独立戦争勃発に繋がっていった。 レキシントン・コンコードの戦い、バンカーヒルの戦い、ボストン包囲戦を含むアメリカ独立戦争初期の戦いのいくつかはマサチューセッツで起こった。1776年春にイギリス軍がそれまで占領していたボストン市を明け渡した。ボストン市のあるサフォーク郡では現在も開放の日が祝われている。 この戦中にセイラムは私掠船活動の中心地となった。文書は不完全ながら、約1,700通の私掠免許状が発行された。800隻近い船舶が私掠船として活動し、約600隻のイギリス船舶を捕獲あるいは破壊したとされている。 ボストン出身のジョン・アダムズは「独立のアトラス」とも呼ばれ、独立闘争とアメリカ合衆国形成期に重要な役割を果たした。アダムズは1780年にマサチューセッツ憲法を起草した。この憲法は普遍的な権利を宣言し、奴隷制度を廃止した最初のものとされている。後にアダムズはアメリカ初期の外交問題に関わり、ジョージ・ワシントンの後継大統領になった。その息子のジョン・クインシー・アダムズも第6代大統領になった。 ジョン・ハンコックがマサチューセッツ州初代知事となった。 独立後のアメリカ合衆国政府形成期だった1786年から1787年に、州西部でシェイズの反乱と呼ばれる武装蜂起が起こった。この反乱に参加したのは戦争の負債と税金に憤った小農が大半だった。これを切っ掛けにそれまでの連合規約に代わる強力な国家憲法を立案する必要があるという判断がなされた。 アメリカ合衆国憲法は1787年の憲法制定会議で制定され、翌年発効した。1788年2月8日、マサチューセッツ州はアメリカで6番目にこの憲法を批准した。 1790年の人口調査によれば、マサチューセッツ州には奴隷は全くいなかったという。 米英戦争(1812年-1815年)の時に私掠船が復活した。 1820年3月15日、ミズーリ妥協の結果として、メイン地区はマサチューセッツ州から分離し、独立した23番目の州として合衆国に加わった。 19世紀、マサチューセッツ州はアメリカ産業革命の先導役になった。ボストン周辺の工場では繊維と靴、スプリングフィールド周辺では工具と紙が生産された。農業に依存していた経済は工業依存に転換され、当初は水力を使っていたものが蒸気の力を生かすようになり、運河さらに後には鉄道が製品の輸送形態を変えた。その労働力として最初は自給自足農家からヤンキーを雇っていたが、後にはヨーロッパやカナダからの移民に頼るようになった。 南北戦争に向かう時代、マサチューセッツ州は進歩主義と奴隷制度廃止運動の中心になった。ホーレス・マンが州の教育体系を作り、国のモデルになった。ヘンリー・デイヴィッド・ソローやラルフ・ウォルド・エマーソンがアメリカの思想界を形作った。超越論的思想運動員が自然界の重要性と人間性を訴えた。 マサチューセッツ州では奴隷制度廃止運動にかなりの反対の声もあり、1835年から1837年には暴動も起こったが、その後は奴隷制度に反対する動きが次第に高まっていった。運動家の働きが南北戦争の間に採った州の行動に反映された。白人士官の下に黒人連隊を組織し、訓練し、武装させた最初の州になった。ボストンコモンにあるロバート・グールド・ショー記念碑には、この第54マサチューセッツ志願歩兵連隊を表す浮き彫りが収められている。 20世紀初期に多くの製造業がマサチューセッツ州を離れ、工業経済は衰退を始めた。1920年代までにアメリカ合衆国南部や中西部との競合があり、これに続いて世界恐慌が発生したことで、マサチューセッツ州における3大産業の繊維、靴製造、輸送が崩壊した。この衰退は20世紀後半に入っても続き、1950年から1979年の間に、繊維産業に関わる州民の数は264,000人から63,000人にまで激減した。20世紀後半の40年間における脱工業化により、州西部の高給を取る職種の者が出て行った 。 第二次世界大戦のとき、州内では軍需産業生産高の3.4%を製造し、48州の中で第10位だった。戦後、州東部では経済が重工業からサービス業とハイテク産業に移っていった。政府調達、民間投資、研究施設が新しく改善された産業構造を作り、失業率を下げ、一人当たり収入を上げた。郊外化が進行し、1970年代にはマサチューセッツ州道128号線沿いにハイテク企業が点在し、高等教育機関の中でも優秀な大学を卒業した者を多く採用した。 20世紀のマサチューセッツ州政界ではケネディ家が特筆される存在だった。実業家と外交官であるジョセフ・P・ケネディ・シニアの子供達には、上院議員とアメリカ合衆国大統領を務め、1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ、上院議員、司法長官を歴任し大統領候補となっていた1968年に暗殺されたロバート・ケネディ、1962年からその死の2009年まで上院議員を務めたテッド・ケネディ、またスペシャルオリンピックスの共同設立者となったユーニス・ケネディ・シュライバーがいた。有名なケネディ・コンパウンドはケープコッドのハイアニスポートにある。 政治的には民主党が圧倒的な強さを示す地盤であった。1970年には宣戦布告を行わずに進められたベトナム戦争の正当性が州議会で審議され、同年1970年4月1日、州議会の上院と下院で「州の市民は宣戦布告をしない戦争には参加しなくともよい」との趣旨の州法が可決するに至った。同年11月9日に連邦最高裁が州法の発効を否決したため、戦争の継続に直接の影響は生じなかったが、州の存在感を高める結果となった。 1987年、マサチューセッツ州はセントラル・アーテリー/トンネルプロジェクトに州の予算手当を受けた。「ビッグ・ディッグ」と呼ばれるこのプロジェクトは当時、連邦政府でも最大級の道路建設工事となった。このプロジェクトはボストン市中心街の地下に中心動脈となるトンネルを造り、他の主要高規格道路を再配置するものだった。この工事には異論もあり、汚職や管理ミスも指摘され、工事費は当初の25億米ドルから150億米ドルにまで膨らんだが、それでもボストン市中心街の様相を一変させて完成した。かつては高架道路で分断されていた地域を繋ぎ、接続道路の交通状況を改善した。 2003年11月にマサチューセッツ州最高裁判所で、一般の結婚の権利から同性結婚を除外することは違憲であるとの判決が下り、2004年5月17日、マサチューセッツ州は国内で初めて同性結婚を法律で認める州になった。 マサチューセッツ州は総面積10,555平方マイル (27,340 km) と、国内50州の中で7番目に小さな州であり、アメリカ合衆国北東部のニューイングランド地方に位置している。 北はニューハンプシャー州及びバーモント州と、西はニューヨーク州、南はコネチカット州及びロードアイランド州、並びに東が大西洋と隣接している。マサチューセッツ州の南東部端はケープコッドと呼ばれる大きな、砂質の、ひじを曲げた腕のような形状の半島である。マーサズ・ヴィニヤード島及びナンタケット島はケープコッドの南に位置している。 マサチューセッツ州は、州の東部海岸にあるマサチューセッツ湾及びケープコッド湾、並びに南部のバザーズ湾、マサチューセッツ州 – ロードアイランド州境のナラガンセット湾など複数の大きな湾を持つために「湾の州」として知られている。マサチューセッツという名称は、「大きな丘のふもと」または「青い丘陵の地」という意味のアルゴンキン語インディアンのマサチューセッツ族の名称から来ている。 最大都市ボストンは、マサチューセッツ湾の最奥部、マサチューセッツ州で一番長い川であるチャールズ川の河口に位置している。アパラチア山脈の東端が州内西部まで伸びてきており、大西洋岸の砂浜や磯浜と対照をなしている。 アメリカ合衆国国立公園局の保護及び管理下に置かれている地域は以下の通りである。 州内陸部の主要な植生は温帯落葉樹林である。農業開墾のために森林はほとんど伐採されたが、孤立した地域に原生林が僅かに残され、農場が放棄されるにつれて、多くの田園部で森林が再生されてきた。現在は州域の62%が森林に覆われている。人間の開発によって最も影響された地域は東部のボストン大都市圏と西部のスプリングフィールド大都市圏、および農業地帯のパイオニア・バレーである。過去数世紀で絶滅した動物としては、ハイイロオオカミ、エルク、クズリ、マウンテンライオンがある。 州内の都市化は進んだが、多くの生物種が生息している。ハヤブサは大都市の高層ビルをねぐらにしている。ゴミや動物の死骸をあさるコヨーテは近年その個体数を増加させている。オジロジカ、アライグマ、野生のシチメンチョウやトウブハイイロリスも州全体で見られる。州西部の田園地帯では、農業の衰退によって森林化が進んだために、より大型のヘラジカやアメリカクロクマが戻ってきている。 マサチューセッツ州は大西洋岸にそった渡りの水禽類の飛行コースであるアトランティック・フライウェイに位置している。州中央部の湖群、特にクィアビン貯水池には、ハシグロアビが生息し、ナンタケット島近くではかなりの数のコオリガモが越冬する。海岸沖の小島や海浜はベニアジサシが生息し、絶滅が危惧されるフエチドリ(英語版)など野鳥の繁殖地になっている。モノモイ国立野生生物保護区など保護地域は海岸に生息する鳥類の重要な繁殖地となり、またハイイロアザラシなど様々な海洋性生物も多い。 淡水魚としては、バス、コイ、ナマズ、マスがおり、海にはタイセイヨウダラ、コダラ、アメリカン・ロブスターが多い。その他にもゼニガタアザラシ、絶滅危惧種のタイセイヨウセミクジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラ、ミンククジラ、タイセイヨウカマイルカが見られる。 2020年国勢調査時点でのマサチューセッツ州の人口は7,029,917人で、2010年国勢調査での6,547,629人から7.37%増加していた。2000年時点での人口密度は346人/kmであり、ニュージャージー州、ロードアイランド州に次いで第3位だった。 2008年のマサチューセッツ州の人口には919,771人の外国生まれの住民が含まれている。 マサチューセッツ州の人口の大部分はボストン地域、ノースショア、サウスショア、及び西部郊外を含む、大ボストンに住んでおり、おおよそ5,800,000人である。もう一つの大都市圏はスプリングフィールド大都市圏であり、コネチカット川バレーを中心に、再活性化されたスプリングフィールド市、大学町の並び(アマースト、ノーサンプトンなど)と北部や西部の田園地帯がある。マサチューセッツ州の人口重心はネイティックの町にある。 アメリカ合衆国北東部の州と同様、マサチューセッツ州の人口は過去数十年間増え続けたが、南部や西部の州よりも伸びは鈍化している。最新2010年国勢調査では2000年時点から3.9%増加しており、国内平均の10%近い値に比べれば低い。マサチューセッツ州を去る人々は住宅費と生活費の高さをその要因に挙げている。もう1つの要因は製造業経済からハイテク産業への転換であり、熟練度の落ちる労働者、特に男性は雇用機会が限られている 。 この国内への転出を外国からの移民が補い、2010年国勢調査では増加を続けている結果になった。2005年の調査に拠れば、外国からの移民の40%は中南米からのものである。スプリングフィールド大都市圏に入ってきた者の多くはプエルトリコ出身だと言っている。州内の多くの地域は2000年から2010年まで人口の変化は比較的安定したものだった。ボストン市の準郊外部と海岸地域が急速に増加し、最西部バークシャー郡やケープコッドのバーンスタブル郡の2郡のみは人口が減少していた。これら2郡は「第2の家」が多く、州内の観光地を構成している。 2005年時点で州民の79%は家庭で英語を話し、7%がスペイン語、3.5%がポルトガル語、1%がフランス語か中国語を話している。 2010年国勢調査では人口の48.4%(3,166,628 人)が男性、51.6%(3,381,001 人)が女性だった。年齢構成では18歳以上が78.3%、65歳以上が13.8%おり、平均年齢は39.1歳だった。男性の平均年齢は37.7歳、女性は40.3歳だった。 2012年推計に拠れば、マサチューセッツ州の人種による人口構成は次のようになっている 。 州内で最も多い人種である非ヒスパニック白人は、1970年の95.4%から2012年の75.8%まで減少してきた。2011年時点で非ヒスパニック白人は出生数の63.6%に関わっている。 マサチューセッツ州内で申告された祖先による構成比は:アイルランド系 (22.5%)、イタリア系 (13.5%)、イギリス系 (11.4%)、フランス系 (8%)、ドイツ系 (5.9%)。 その他に、かつてニューベッドフォードはカーボベルデ系アメリカ人の中心都市であった。 1795年時点では州民の95%近くがイギリス系の子孫だった。19世紀初期から中期、移民が大量に入ってくるようになり、1840年代のアイルランド系が始まりだった。今日アイルランド系とその混血が人口の25%近くを占め、先祖別では最大である。その後にはケベック州や、イタリア、ポーランドなどヨーロッパ各所からの移民が続いた。20世紀初期、多くのアフリカ系アメリカ人が州内に入ってきたが、他の北部州と比べれば少なかった。20世紀の後半、ラテンアメリカ、アフリカ、東アジアからの移民がかなり増加した。ハイチ出身の州民数では国内第3位である。 州内にはポルトガル系の子孫が比較的多い。その移民の多くは19世紀にニューベッドフォードなどの町で捕鯨産業に携わるために、アゾレス諸島から移ってきていた。後には繊維産業での職を求め、第2の波があった。ローウェルには国内でも第2位のカンボジア出身者がいる。インディアンのワンパノアグ族はマーサズ・ヴィニヤードのアクィナ、グラフトン、ケープ・コッドのマシュピーで居留地を維持している。ニプマク族は州中央部で州が認定した居留地2か所を維持している。マサチューセッツ州はアメリカの他州で見られたような人種間暴力闘争を避けてきたが、1850年代の移民排斥主義者(主に反カトリック)のノウ・ナッシング、1920年代の議論の多かったサッコ・ヴァンゼッティ事件の処刑、1970年のボストンにおけるバスの人種統合反対など、マサチューセッツ州の人種の歴史は完全に調和あるものではなかった。 マサチューセッツ州は1628年に清教徒によって設立され開拓された。その子孫は様々な教会に属している。直接継承しているのは会衆派教会/キリスト連合教会であり、またユニタリアン・ユニバーサリスト協会である。州民の大半はキリスト教徒である。ユニタリアン・ユニバーサリスト協会の本郡はボストン市のビーコンヒルにある 。 今日、プロテスタントは州人口の4分の1に満たない。アイルランド、さらにイタリア、ポルトガル、ケベック、ラテンアメリカからの大量の移民が入ってきたので、ローマ・カトリック教徒が最大の宗派である。1820年から1920年には大勢のユダヤ教徒がボストンやスプリングフィールド地域に移って来た。メリー・ベーカー・エディはクリスチャン・サイエンスの世界本部であるボストン・マザー教会を設立した。仏教徒、ペイガニズム教徒、ヒンドゥー教徒、セブンスデー・アドベンチスト教会員、イスラム教徒、モルモン教徒も見られる。ストックブリッジのクリパル・センター、スプリングフィールドの少林寺瞑想所、バリーの洞察力瞑想センターは、州内でアブラハムの宗教ではない宗教集会所の例である。宗教データアーカイブ協会に拠れば、信徒数最大の会派はローマ・カトリックの3,092,296人である。続いてキリスト連合教会の121,826人、米国聖公会の98,963人となっていた。ユダヤ教徒は約27万5千人である。 マサチューセッツ州 (2011年現在) の州民の宗教宗派別構成比は次のようになっている。 マサチューセッツ州では、マヒカン族、マサチューセッツ族、ナウセット族、ニプマク族、ペンナクック族、ポコムチュク族、ワンパノアグ族などのインディアン部族が、トウモロコシやカボチャを育て、農耕狩猟生活を営み、また沿岸周辺の島をカヌーで行き来し交流した。17世紀から始まるイギリス人の入植によって、上記されているような血生臭い入植戦争にさらされ、どの部族も虐殺されて壊滅的な被害を受け、数を減らした。 この州にはワンパノアグ族を中心に、ニューイングランドのインディアン部族が結成する「ニューイングランド・アメリカインディアン連合」の本拠があり、この団体は「ピルグリムファーザーズ」の「上陸記念感謝祭」にぶつけて同じ日に、「全米哀悼の日」のデモ抗議を毎年行っている。 1970年、プリマスで行われた「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」には、全米最大のインディアン権利団体「アメリカインディアン運動(AIM)」のインディアン活動家のラッセル・ミーンズらが、復元した「メイフラワー2世号」に乗りこんで、マストにAIMの旗を掲げ、さらに「プリマスの岩」をトラック一台分の土砂で埋めてみせるという抗議行動を行った。 現在アメリカ連邦政府が公認し、保留地(Reservation)を領有する部族はワンパノアグ族の「ゲイヘッド(アクインナー)・バンド」と、「マシュピー・バンド」だけである。「ゲイヘッド・バンド」は1987年に内務省から連邦公認を受け、485エーカー(1.96km2)の土地を得て「復活」した。「マシュピー・バンド」は2007年2月に公認を受け、同州のケープコッド・マシュピーに140エーカー(約0.6km2)の保留地を得た。 同じワンパノアグ族でも、多くの支族(バンド)が現在、アメリカ連邦政府から部族認定を抹消されており、保留地その他のインディアンとしての権利を行使できないでいる。また、連邦から公認されていないが、マサチューセッツ州政府から公認されている部族もあり、多数の部族がより大きな権限を持つ連邦認定を求め、係争中である。 ニプマク族は州の公認を受けている部族であるが、2004年に内務省BIA(インディアン管理局)はニプマク族の連邦公認要求に対して、連邦が「部族国家」と承認するための7つの条件のうち、彼らには4条件が足りず、公認できないと返答した。 2007年春、マシュピー・ワンパノアグ族は、同州ミドルボロ市に539エーカー(約219万m2)の土地を購入し、10億ドル級の部族カジノを建設すると発表した。部族は7月からミドルボロ市とカジノ交渉を終え、2007年8月にこの土地を内務省に申請し、「連邦信託地(Reservation)」とし、同州のケープコッド・マシュピーにも140エーカー(約57万m2)の土地を確保した。 これはバイロン・ドルガン上院議員(ノースダコタ州選出)による、「インディアン再編成法」(1934年制定)の改正処置案に後押しされたもので、この改正案はインディアン部族が公認され復活した時期に関係なく、すべてのインディアン部族が、土地を内務省に連邦信託する権限を与えるものである。 2009年2月、マシュピー・ワンパノアグ族部族会議議長のグレン・マーシャルが、違法キャンペーンと寄付金の個人横領によって連邦裁判所で有罪となり、このカジノ計画の行方が危ぶまれた。2月8日に新選任された議長セドリック・クロムウェルは評議会を一新し、デヴァル・パトリック州知事と部族カジノの正式交渉を再開。クロムウェルは「我々は、我々の部族を取り戻すつもりです」と宣言した。 一連のカジノ計画が実現すれば、この土地は連邦法で大部分の国税規約から免除されることとなり、1500人のマシュピー・ワンパノアグ部族員の雇用と甚大な部族の福利厚生基金を生むものと大きく期待されている。 州内には、14の郡がある。 さらには、50の都市と301の町がある。11の町が「町」を自称しているが、タウンミーティングではなく、市長・市政委員会あるいはマネジャー・市政委員会形式の政府としているため、法的には「市」である。 ボストン市が州都かつ人口最大の都市である。市の人口は2020年時点で675,647人(全米24位)であり、ボストン大都市圏では4,941,632人と全米10位の大都市圏となっている。人口が10万人を超える都市としては、他にウースター(206,518人)、スプリングフィールド(155,929人)、ケンブリッジ(118,403人)、ローウェル(115,554人)、ブロックトン(105,643人)、クインシー(101,636人)、リン(101,253人)、ニューベッドフォード(101,079人)の各市がある。プリマス町が面積最大の自治体である。 マサチューセッツ州はニューイングランドの他の5州とともにニューイングランド・タウンと呼ばれる地方政府形態を採っている。この形態では、法人化された町が地方政府としての責任と権限の多くを保有している。1997年に郡政府のうちの8つが廃止され、州政府の一部として保安官と土地登記官のみを選出している。5郡(バーンスタブル郡、ブリストル郡、デュークス郡、ノーフォーク郡、プリマス郡)は郡レベルの地方政府を残し、1郡(ナンタケット郡)は郡と市を統合した政府としている。 マサチューセッツ州政府は行政府、立法府、司法府の三権が分立している。これまでの歴史の中で、1620年のメイフラワー誓約、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地の並列時代、それらが統合されたマサチューセッツ植民地の時代と移って来た。マサチューセッツ州憲法は、アメリカ独立戦争が進行中の1780年に批准された。連合規約に遅れること4年、現行アメリカ合衆国憲法に先立つこと8年だった。この憲法はジョン・アダムズが起草し、世界でも連続して有効な憲法としては最古のものである 。 近年は概して民主党が州政界を支配し、国内でもリベラルな州という評判がある。1974年、エレーヌ・ノーブルは州議会下院議員の候補者として初めてレズビアンであることを公表した。ゲイであることを公表したゲリー・スタッズも州選出アメリカ合衆国下院議員だった。 マサチューセッツ州知事が行政府の長である。その任務は法案の承認あるいは拒否、司法府や州機関役人の指名、恩赦の発行、年間予算の立案、マサチューセッツ州軍の指揮などである。2013年時点の州知事はデヴァル・パトリックであり、民主党員、ミルトン出身である。行政府には、8人の選挙で選ばれる委員と副知事で構成される行政委員会がある。行政委員会の機能としては、知事が任命する者の確認や選挙結果の認証がある。 立法府は定員160人の下院と、同40人の上院がある。両院の指導者は互選で選ばれる。下院指導者は議長(スピーカー)と呼ばれ、上院の指導者はプレジデントと呼ばれる。両院の下には幾つかの委員会がある。両院の議員共に任期は2年間である。 司法府の最高位にあるのは州最高裁判所であり、その下に多くの下級裁判所がある。最高裁判所には1人の首席判事と6人の陪席判事がいる。判事は州知事が任命し、行政委員会が確認する。 マサチューセッツ州から選出しているアメリカ合衆国上下院議員は全て民主党で占められている(2013年時点)。下院議員は8人である。 アメリカ合衆国裁判所に掛かる事件は、アメリカ合衆国地区裁判所マサチューセッツ地区で審問され、アメリカ合衆国控訴裁判所第1巡回地区に控訴できる。アメリカ合衆国大統領選挙では、11人の選挙人を割り当てられている。他州と同様に総取り方式である。 20世紀の半ばから、マサチューセッツ州は共和党寄りの政治から圧倒的に民主党の強い州に転換されてきた。1952年のアメリカ合衆国上院議員選挙で、民主党ジョン・F・ケネディ候補が、現職の共和党ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを破ったのが、その転換点だったとされている。弟のテッド・ケネディは1962年からその死の2009年まで上院議員を務めた。それ以来マサチューセッツ州はリベラルな州としての評判を獲得し、近代リベラリズムの原型として使われることも多い。「マサチューセッツ・リベラル」という言葉も使われている。 マサチューセッツ州はボストン大都市圏を中核に、ケープと諸島部、西部において繰り返し民主党を支持してきている。共和党が強い地域は州間高速道路495号線に沿った中央部と、南部および北部の海岸にある町である。1984年の大統領選挙でロナルド・レーガンを支持して以来、大統領選挙で共和党候補を支持したことは無い。2010年に、テッド・ケネディの後任に当選した共和党スコット・ブラウンはこの民主党優位の州で奇跡と呼ばれた。ただし、2012年の選挙では落選した。 2006年の選挙では、共和党がマサチューセッツ州議会両院の13%しか議席を確保できなかった。 共和党は1991年から2007年まで州知事を取っていたが、国内でも中道寄りの指導者だった。2004年アメリカ合衆国大統領選挙では、州出身の民主党ジョン・ケリーに61.9%の支持を与え、国内最高の支持率とした。2008年では、バラク・オバマが61.8%の支持を集めた。 現在、マサチューセッツ州においては、死刑制度は廃止されている。 現在の全国的な問題の多くが、マサチューセッツ州の決定事項に影響されてきた。2003年、州最高裁判所は同性結婚を認める判断を下した。2006年には州民全員に健康保険加入を強制する法を成立させた。2008年、少量の大麻所有を犯罪とは認めない住民発議を成立させた。また2012年には、大麻の医療利用を合法化することを住民投票で承認した。 アメリカ合衆国商務省経済分析局は2008年のマサチューセッツ州の州総生産高を3,650億米ドルだったと推計している。2008年の一人当たりの収入は50,735米ドルであり、国内第3位だった。フォーチュン500に入る会社は、13社が州内にあり、その中でも大きなものはボストン市のリバティ相互保険グループとスプリングフィールド市のマスミューチュアル生命保険だった。CNBCによる「2010年事業のための上位州」リストでは、マサチューセッツ州を第5位に挙げていた。 州経済に重要な産業は、高等教育、バイオテクノロジー、金融、医療、観光業がある。州道128号線沿いはコンピュータと電子技術の開発の中心である。ハイテクは現在でも重要な部門だが、大規模な技術主導の会社は少ない。近年は観光業が重要な部門となり、ボストンやケープコッドが大きな観光地になっている。その他にもセイラム、プリマス、バークシャーズ(西部の高原)が観光地になっている。2013年4月時点で州内の失業率は6.4%であり、全国平均の7.6%より低い。 2005年時点で州内に7,700の農場があり、その総面積は52万エーカー (2,100 km)、1農場当たり68エーカー(0.28 km)となっている。2007年時点でほぼ2,300の農場が生産高2,500米ドル以下だった。農業生産品は、タバコ(国内第11位)、家畜(国内第17位)、果物、木の実、ベリー類(国内第16位)である。オーシャン・スプレー(Ocean Spray)農業組合を擁するマサチューセッツ州は、ウィスコンシン州に続きアメリカ合衆国内で2番目に大きなクランベリー生産州である。 マサチューセッツ州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。 マサチューセッツ州の州税と地方税を合わせた税負担率は国内第11位である。個人所得税は定率の5.25%を採用している。一定額以下の収入は免税だが、その額は年々変化している。法人所得税は8.8%であり、短期のキャピタルゲインについては12%である 。 消費税は6.25%%だが、外食を除き食品は非課税であり、衣料品も一定額(175米ドル、これを超えた額が課税)以下は非課税となる。不動産と動産は、法によって免除されない限り課税対象である。資産税は国内第8位の高さである。相続税は無く、連邦の資産税に関連して定額までの州資産税が徴収される。 州内の発電市場は1998年に自由化され、消費者は発電会社を変えることなく供給業者を変更できることとした。住民の大半は従来の発電会社に頼っているが、2011年7月時点で発電量43億キロワット時の大半が競合の中で発電されている。2011年、マサチューセッツ州は国内でエネルギー効率の最も良い州に挙げられた。 マサチューセッツ州には都市圏企画組織が10あり、都市圏以外の地域を担当する組織も3ある。マサチューセッツ州交通省が担当している。 アムトラックが都市間輸送を担当している。アセラ・エクスプレスなどにより、ロードアイランド州プロビデンス市、コネチカット州ニューヘイブン市、ニューヨーク市、ワシントンD.C.、シカゴ市、メイン州ポートランド市などへの中長距離列車を走らせている。 マサチューセッツ湾交通局 (MBTA) が地下鉄、バス、フェリーの形態で、ボストン大都市圏の公共交通を担当している。長距離の通勤鉄道もウースター市やプロビデンス市まで運行している。2013年夏の時点で、ケープコッド地域交通局が、マサチューセッツ湾交通局やマサチューセッツ州交通省と協業して、ボストンとケープコッドの間に旅客鉄道のケープフライアーを運行している。 その他15の地域交通局がその地方でバス便を運行している。ケープコッド中央鉄道とバークシャー景観鉄道は保存鉄道として運行されている。 2006年時点で多くの貨物鉄道が運行されており、その代表格がCSXトランスポーテーションである。貨物線の総延長は1,079マイル (1,736 km) ある。ウッズホール・マーサズ・ヴィニヤード・アンド・ナンタケット蒸気船局が諸島への貨物乗客フェリーを運航している。 州内の主要空港はローガン国際空港 (BOS)である。2007年には2,800万人が利用し、約50社が就航している。国内の多くの都市や、国外ではカナダ、メキシコ、カリブ海、ヨーロッパ、アジアにも路線がある。このローガン国際空港と、ベッドフォードにあるハンスコム飛行場、およびウースター地域空港を州の独立機関であるマサチューセッツ州港湾局が運営している。州内には他に43の公共用途空港や、200以上の民間着陸点がある。幾つかの空港はマサチューセッツ州交通省と連邦航空局から運営予算の補助を受けている。 州内には全長31,300マイル (50,400 km) の州間高速道路と高規格道路がある。州間高速道路90号線、別名マサチューセッツ・ターンパイクが州間高速道路では最長である。ニューヨーク州境のウエストストックブリッジ町近くから東西に136マイル (219 km) を通っており、スプリングフィールド市の直ぐ北を抜け、ウースター市の南を通り、フラミンガムを抜け、ボストン市のローガン国際空港で終わる。州間高速道路91号線はコネチカット川沿いを南北に走り、同93号線はボストン市中央を南北に通ってマシュエンを抜け、ニューハンプシャー州へ入る。同95号線は大西洋岸を辿り、ロードアイランド州プロビデンスとボストン大都市圏を繋ぎ、都市化された地域を環状に迂回して海岸沿いを北に向かう。 州間高速道路495号線はボストン大都市圏の外郭を環状に繋いでいる。その他の州間高速道路では、291号線、391号線、84号線、195号線、395号線、290号線、190号線がある。またアメリカ国道1号線、同3号線、6号線、20号線、マサチューセッツ州道24号線と128号線も幹線道である。州内の州間高速道路の大半は20世紀半ばに建設された。当時は議論も多く、特にボストン市中心を通る95号線が問題とされた。建設反対の声が高まり、1970年には州知事のフランシス・W・サージェントが、ボストンの95号線と州道128号線に囲まれる地域で新たな高規格道路の建設を禁止した。近年のビッグ・ディッグと呼ばれる州間高速道路93号線を地下に通す大規模工事は、市民の厳しい監視の目にさらされている。 冬の積雪量は、都市によってはかなりの量となるが、チェーンの装着は禁止されている。主要道路は降雪が始まるとほぼ同時に除雪が始まる。ただし、除雪予算には限りがあり、雪の多い年は、除雪が間に合わない道路なども出る。 マサチューセッツ州は1647年に教育法を成立させ、自治体が教師を指名するかグラマースクールを設立することを求めた最初の州になった。19世紀にウェストフィールド州立大学の創設者ホーレス・マンが進めた教育改革では、当代の普遍的公共教育の基盤を築いた。州内には、国内最古の公立小学校(1639年設立のザ・マザー・スクール)や、最古の高校(1635年設立のボストン・ラテン・スクール)、最古のボーディングスクール(1763年設立のガバナーズ・アカデミー)、最古のカレッジ(1636年設立のハーバード大学)、最古の女子カレッジ(1837年設立のマウントホリヨーク・カレッジ) がある。 1852年、マサチューセッツ州は義務教育法を成立させた最初の州になった。2004年、公立の小学校と中等学校での(幼稚園生から12年生)児童生徒一人当たりの教育費は11,681米ドルであり、国内第5位だった。2007年の全国教育進行度評価プログラムのテストでは、数学で第1位になった。 州内には121の高等教育機関がある。ケンブリッジにあるハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が世界の大学ランキングでも常に上位にある。その他USニューズ&ワールド・レポートのランキングで常に40位以内にある大学として、タフツ大学(2013年は第28位)、ボストンカレッジ(同第31位)、ブランダイス大学(同第33位)がある。 リベラル・アーツ・カレッジでは、ウィリアムズ大学(第1位)、アマースト大学(第2位)、ウェルズリー大学(第6位)がランク入りしている。その他常に40位以内にある大学として、スミス大学(第19位)、ホーリークロス大学(第29位)、マウントホリヨーク・カレッジ(同じく第29位)がある。このランキングで研究開発型大学40傑に5校(12.5%)、リベラル・アーツ・カレッジ40傑に6校(15%)が入っていることは、国内人口の2%しかいない州として驚異的な数字である。 公立のマサチューセッツ大学は旗艦キャンパスであるアマースト校を含め州内に5つのキャンパスがあり、学生数は25,000人以上である。 以下の表はマサチューセッツ州内のプロフェッショナルスポーツチームの一覧である。マサチューセッツ州はバスケットボール殿堂(スプリングフィールド)、バレーボール殿堂 (ホールヨーク)、及びケープコッド野球リーグ(英語版)の本拠地でもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州(マサチューセッツしゅう、英: Commonwealth of Massachusetts、[ˌmæsəˈtʃuːsɪts] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国の州。北東部ニューイングランド6州の一つでもある。独立13州の一つ。マサチューセッツ州は「州」(State) の代わりにコモンウェルスを使っているが、日本語では他州と同様に「州」と訳されている。2020年国勢調査時点での人口は7,029,917人である。アメリカ合衆国の誕生から政治・経済・商工業・文化・教育の中心地として、リーダー的役割を果たしてきた。名称は、先住民のマサチューセッツ人に由来する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "南はロードアイランド州とコネチカット州、西はニューヨーク州、北はバーモント州とニューハンプシャー州に接している。東は大西洋である。アメリカ合衆国50州の中で陸地面積では第44位、人口では第15位、人口密度が第3位である。東部のボストン大都市圏と、西部のスプリングフィールド大都市圏という2つの中心地がある。人口の約3分の2はボストン大都市圏に住んでいる。州都はボストン市であり、人口最大の都市でもある。ボストン大都市圏にはハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などがあるケンブリッジやサマービル、クインシーなどの市町が含まれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州は、アメリカ史の中で各分野にわたって重要な役割を演じてきた。1620年、メイフラワー号の乗船客ピルグリムによって、プリマス植民地が設立された。1636年に設立されたハーバード大学は国内最古の高等教育機関である。1692年、セイラムとその周辺ではセイラム魔女裁判と呼ばれる忌まわしい事件が起こった。18世紀、大西洋圏を席捲したプロテスタントの第一次大覚醒運動は、ノーサンプトンの説教師ジョナサン・エドワーズに端を発していた。18世紀後半には、アメリカ独立戦争とイギリスからの独立に繋がる扇動によって、ボストンは「自由の揺籃」とも呼ばれた。1777年にヘンリー・ノックス将軍が設立したスプリングフィールド造兵廠は、産業革命の時代に交換部品など多くの重要な技術進歩を促進した。1786年、州西部の農夫によるポピュリスト革命、シェイズの反乱が直接アメリカ合衆国憲法制定会議の開催に繋がる要因になった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "南北戦争以前の時代には、禁酒運動、超越論的思想、奴隷制度廃止運動の中心になった。1837年、コネチカット川バレーのサウスハドリーの町に、国内初の女子カレッジであるマウント・ホリヨーク大学が開校した。19世紀、州西部の都市、スプリングフィールドとホリヨークでバスケットボールとバレーボールが発明された。2004年、州最高裁判所の判決により、国内で初めて同性結婚を法律で認める州になった。州内からはアダムズ家やケネディ家など多くの著名政治家を輩出してきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州は当初漁業、農業、貿易業に依存していたが、産業革命の間に工業の中心に変わった。20世紀にはその経済が工業からサービス業に転換された。21世紀には、高等教育、医療技術、ハイテクと金融業で指導的存在である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州の前身マサチューセッツ湾植民地の名称はかつてマサチューセッツ湾の周辺に居住していたインディアン部族、マサチューセッツ族にちなむ。この部族の名はマサチューセット語(英語版)で「大きな丘の場所」を意味し、ボストンの南のミルトンとカントンの間にある小さな山(今日の「ブルー・ヒルズ」)を指している。mass-adchu-s-et と綴られ、mass- は 「大きい」、-adchu- は「岡」、-s- は「小さい」を意味する指小辞、-et は場所を表す所格である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "別の説として、クインシーにあるモスウィタセット・ハンモック(鏃のような形の岡という意味)の名前から派生したとするものがある。ここで1621年に、プリマス植民地の指導者マイルス・スタンディッシュと通訳のスカントが、インディアンの酋長チカトーバットと出遭った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "州の公式名は \"Commonwealth of Massachusetts\" であり、口語では単純に \"Commonwealth\" と呼ばれることが多い。その意味合いで \"State\" との違いは無く、他州と同じ位置づけと権限がある。2020年11月、それまで全米最長の正式名称であったロードアイランドおよびプロビデンス・プランテーション州が短縮され、繰り上がりで50州の中では最も長い公式名称をもつ州となった(自治領などを含めれば北マリアナ諸島が最長)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州となった地域に住んでいたのは、ワンパノアグ族、ナラガンセット族、ニプマク族、ポコンタック族、モヒカン族、マサチューセッツ族など、アルゴンキン語族だった。その食料を補うためにカボチャやトウモロコシを栽培する一方で、狩猟漁労採集に依存していた。集落はウィグワムやロングハウスと呼ばれる小屋の集まりだった。サッチェムと呼ばれる男あるいは女の長老が部族を率いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1600年代初期、アメリカ合衆国北東部のインディアンは、天然痘、麻疹、インフルエンザ、レプトスピラ症など免疫力の無かった疫病によって、大きく人口を減らした。1617年から1619年に、マサチューセッツ湾のインディアンの90%が天然痘で殺されたと報告されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1620年、メイフラワー号で北アメリカに到着したピルグリム・ファーザーズはプリマス植民地に入植した。彼等はワンパノアグ族インディアンと良好な関係を築いた。北アメリカではジェームズタウンに続いてイングランド人による2つめの植民地になった。その後に他の清教徒たちも続き、1630年にはボストンにマサチューセッツ湾植民地が建設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "清教徒はイングランド国教会に不満があり、中でも聖職階級制に拘りすぎていると考え、信教の自由を求めてマサチューセッツに来ていた。ただし、プリマス植民地とは異なり、マサチューセッツ湾植民地は王室勅許の下に設立された。清教徒たちは信仰の自由を求めてマサチューセッツに来たものの、彼らは異なる教義に寛容ではなかった。そのため、アン・ハッチンソン、ロジャー・ウィリアムズ、トマス・フッカー(英語版)らはマサチューセッツを離れ、南に向かった。ウィリアムズはロードアイランド植民地を建て、フッカーはコネチカット植民地を建てた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "フィリップ王戦争(1675年 - 1676年)は植民地時代初期におけるワンパノアグ族を中心としたインディアンとの戦いで最も血なまぐさいものとなり、コネチカット川流域のパイオニアバレイ(英語版)とプリマス植民地でも大きな戦闘があった。ニューイングランド南部の諸植民地がこの戦いの傷から立ち直るのには長い年月を要した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1686年5月、ジョセフ・ダドリーがイギリス王ジェームズ2世によりニューイングランドの長官に任命され、マサチューセッツ湾植民地は終わりを迎えた。ダドリーはその後、ニューハンプシャー植民地とキングズプロビンス(今日のロードアイランド州の一部)に本拠を置いた。エドマンド・アンドロス卿が到着してニューイングランド自治領の総督に就任すると、ダドリーはアンドロス総督の議会の一員となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1689年、ウィリアム3世とメアリ2世のイギリス国王即位の知らせに、ボストン入植者たちは反乱をおこした。アンドロス卿と彼の部下たちはキャッスル島で拘束され、囚人としてイギリス本土に送還された。アンドロス卿は謀反の疑いが晴れたあと、1692年から1698年までバージニア植民地の知事を務めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1691年、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地は合併して、新たにマサチューセッツ湾植民地となった。その植民地初代総督ウィリアム・フィップスが到着して直後の1692年、セイラム魔女裁判事件が起こり、多くの男女が絞首刑にされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この時代の著名な総督は、トマス・ハッチンソン、フランシス・バーナード卿およびトマス・ゲイジなどである。ゲイジは英領マサチューセッツの最後の総督となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1755年、ニューイングランドでは最大級の地震が発生し、マサチューセッツ全土にかなりの被害を生じさせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "マサチューセッツはイギリスによる支配に最初に反旗を翻した植民地としてアメリカ独立戦争を扇動した。1775年2月9日、英国議会はマサチューセッツは反乱していると宣言し、植民地秩序回復のため追加の軍隊を送った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1770年3月5日、フレイミングハムからボストンを訪れていた黒人のクリスパス・アタックス(英語版)らがボストン虐殺事件として知られる武力衝突で英軍兵士に殺された。アタックスはしばしばアメリカ独立戦争最初の犠牲者と考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1773年12月16日にはボストン茶会事件が起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "サミュエル・アダムズやジョン・ハンコックなどによるイギリスの議会に反対する活動があり、これに対してイギリス政府が反発したことで、13植民地が結束することとなり、アメリカ独立戦争勃発に繋がっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "レキシントン・コンコードの戦い、バンカーヒルの戦い、ボストン包囲戦を含むアメリカ独立戦争初期の戦いのいくつかはマサチューセッツで起こった。1776年春にイギリス軍がそれまで占領していたボストン市を明け渡した。ボストン市のあるサフォーク郡では現在も開放の日が祝われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この戦中にセイラムは私掠船活動の中心地となった。文書は不完全ながら、約1,700通の私掠免許状が発行された。800隻近い船舶が私掠船として活動し、約600隻のイギリス船舶を捕獲あるいは破壊したとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ボストン出身のジョン・アダムズは「独立のアトラス」とも呼ばれ、独立闘争とアメリカ合衆国形成期に重要な役割を果たした。アダムズは1780年にマサチューセッツ憲法を起草した。この憲法は普遍的な権利を宣言し、奴隷制度を廃止した最初のものとされている。後にアダムズはアメリカ初期の外交問題に関わり、ジョージ・ワシントンの後継大統領になった。その息子のジョン・クインシー・アダムズも第6代大統領になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ジョン・ハンコックがマサチューセッツ州初代知事となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "独立後のアメリカ合衆国政府形成期だった1786年から1787年に、州西部でシェイズの反乱と呼ばれる武装蜂起が起こった。この反乱に参加したのは戦争の負債と税金に憤った小農が大半だった。これを切っ掛けにそれまでの連合規約に代わる強力な国家憲法を立案する必要があるという判断がなされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国憲法は1787年の憲法制定会議で制定され、翌年発効した。1788年2月8日、マサチューセッツ州はアメリカで6番目にこの憲法を批准した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1790年の人口調査によれば、マサチューセッツ州には奴隷は全くいなかったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "米英戦争(1812年-1815年)の時に私掠船が復活した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1820年3月15日、ミズーリ妥協の結果として、メイン地区はマサチューセッツ州から分離し、独立した23番目の州として合衆国に加わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "19世紀、マサチューセッツ州はアメリカ産業革命の先導役になった。ボストン周辺の工場では繊維と靴、スプリングフィールド周辺では工具と紙が生産された。農業に依存していた経済は工業依存に転換され、当初は水力を使っていたものが蒸気の力を生かすようになり、運河さらに後には鉄道が製品の輸送形態を変えた。その労働力として最初は自給自足農家からヤンキーを雇っていたが、後にはヨーロッパやカナダからの移民に頼るようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "南北戦争に向かう時代、マサチューセッツ州は進歩主義と奴隷制度廃止運動の中心になった。ホーレス・マンが州の教育体系を作り、国のモデルになった。ヘンリー・デイヴィッド・ソローやラルフ・ウォルド・エマーソンがアメリカの思想界を形作った。超越論的思想運動員が自然界の重要性と人間性を訴えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州では奴隷制度廃止運動にかなりの反対の声もあり、1835年から1837年には暴動も起こったが、その後は奴隷制度に反対する動きが次第に高まっていった。運動家の働きが南北戦争の間に採った州の行動に反映された。白人士官の下に黒人連隊を組織し、訓練し、武装させた最初の州になった。ボストンコモンにあるロバート・グールド・ショー記念碑には、この第54マサチューセッツ志願歩兵連隊を表す浮き彫りが収められている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "20世紀初期に多くの製造業がマサチューセッツ州を離れ、工業経済は衰退を始めた。1920年代までにアメリカ合衆国南部や中西部との競合があり、これに続いて世界恐慌が発生したことで、マサチューセッツ州における3大産業の繊維、靴製造、輸送が崩壊した。この衰退は20世紀後半に入っても続き、1950年から1979年の間に、繊維産業に関わる州民の数は264,000人から63,000人にまで激減した。20世紀後半の40年間における脱工業化により、州西部の高給を取る職種の者が出て行った 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦のとき、州内では軍需産業生産高の3.4%を製造し、48州の中で第10位だった。戦後、州東部では経済が重工業からサービス業とハイテク産業に移っていった。政府調達、民間投資、研究施設が新しく改善された産業構造を作り、失業率を下げ、一人当たり収入を上げた。郊外化が進行し、1970年代にはマサチューセッツ州道128号線沿いにハイテク企業が点在し、高等教育機関の中でも優秀な大学を卒業した者を多く採用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "20世紀のマサチューセッツ州政界ではケネディ家が特筆される存在だった。実業家と外交官であるジョセフ・P・ケネディ・シニアの子供達には、上院議員とアメリカ合衆国大統領を務め、1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ、上院議員、司法長官を歴任し大統領候補となっていた1968年に暗殺されたロバート・ケネディ、1962年からその死の2009年まで上院議員を務めたテッド・ケネディ、またスペシャルオリンピックスの共同設立者となったユーニス・ケネディ・シュライバーがいた。有名なケネディ・コンパウンドはケープコッドのハイアニスポートにある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "政治的には民主党が圧倒的な強さを示す地盤であった。1970年には宣戦布告を行わずに進められたベトナム戦争の正当性が州議会で審議され、同年1970年4月1日、州議会の上院と下院で「州の市民は宣戦布告をしない戦争には参加しなくともよい」との趣旨の州法が可決するに至った。同年11月9日に連邦最高裁が州法の発効を否決したため、戦争の継続に直接の影響は生じなかったが、州の存在感を高める結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1987年、マサチューセッツ州はセントラル・アーテリー/トンネルプロジェクトに州の予算手当を受けた。「ビッグ・ディッグ」と呼ばれるこのプロジェクトは当時、連邦政府でも最大級の道路建設工事となった。このプロジェクトはボストン市中心街の地下に中心動脈となるトンネルを造り、他の主要高規格道路を再配置するものだった。この工事には異論もあり、汚職や管理ミスも指摘され、工事費は当初の25億米ドルから150億米ドルにまで膨らんだが、それでもボストン市中心街の様相を一変させて完成した。かつては高架道路で分断されていた地域を繋ぎ、接続道路の交通状況を改善した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2003年11月にマサチューセッツ州最高裁判所で、一般の結婚の権利から同性結婚を除外することは違憲であるとの判決が下り、2004年5月17日、マサチューセッツ州は国内で初めて同性結婚を法律で認める州になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州は総面積10,555平方マイル (27,340 km) と、国内50州の中で7番目に小さな州であり、アメリカ合衆国北東部のニューイングランド地方に位置している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "北はニューハンプシャー州及びバーモント州と、西はニューヨーク州、南はコネチカット州及びロードアイランド州、並びに東が大西洋と隣接している。マサチューセッツ州の南東部端はケープコッドと呼ばれる大きな、砂質の、ひじを曲げた腕のような形状の半島である。マーサズ・ヴィニヤード島及びナンタケット島はケープコッドの南に位置している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州は、州の東部海岸にあるマサチューセッツ湾及びケープコッド湾、並びに南部のバザーズ湾、マサチューセッツ州 – ロードアイランド州境のナラガンセット湾など複数の大きな湾を持つために「湾の州」として知られている。マサチューセッツという名称は、「大きな丘のふもと」または「青い丘陵の地」という意味のアルゴンキン語インディアンのマサチューセッツ族の名称から来ている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "最大都市ボストンは、マサチューセッツ湾の最奥部、マサチューセッツ州で一番長い川であるチャールズ川の河口に位置している。アパラチア山脈の東端が州内西部まで伸びてきており、大西洋岸の砂浜や磯浜と対照をなしている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国国立公園局の保護及び管理下に置かれている地域は以下の通りである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "州内陸部の主要な植生は温帯落葉樹林である。農業開墾のために森林はほとんど伐採されたが、孤立した地域に原生林が僅かに残され、農場が放棄されるにつれて、多くの田園部で森林が再生されてきた。現在は州域の62%が森林に覆われている。人間の開発によって最も影響された地域は東部のボストン大都市圏と西部のスプリングフィールド大都市圏、および農業地帯のパイオニア・バレーである。過去数世紀で絶滅した動物としては、ハイイロオオカミ、エルク、クズリ、マウンテンライオンがある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "州内の都市化は進んだが、多くの生物種が生息している。ハヤブサは大都市の高層ビルをねぐらにしている。ゴミや動物の死骸をあさるコヨーテは近年その個体数を増加させている。オジロジカ、アライグマ、野生のシチメンチョウやトウブハイイロリスも州全体で見られる。州西部の田園地帯では、農業の衰退によって森林化が進んだために、より大型のヘラジカやアメリカクロクマが戻ってきている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州は大西洋岸にそった渡りの水禽類の飛行コースであるアトランティック・フライウェイに位置している。州中央部の湖群、特にクィアビン貯水池には、ハシグロアビが生息し、ナンタケット島近くではかなりの数のコオリガモが越冬する。海岸沖の小島や海浜はベニアジサシが生息し、絶滅が危惧されるフエチドリ(英語版)など野鳥の繁殖地になっている。モノモイ国立野生生物保護区など保護地域は海岸に生息する鳥類の重要な繁殖地となり、またハイイロアザラシなど様々な海洋性生物も多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "淡水魚としては、バス、コイ、ナマズ、マスがおり、海にはタイセイヨウダラ、コダラ、アメリカン・ロブスターが多い。その他にもゼニガタアザラシ、絶滅危惧種のタイセイヨウセミクジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラ、ミンククジラ、タイセイヨウカマイルカが見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2020年国勢調査時点でのマサチューセッツ州の人口は7,029,917人で、2010年国勢調査での6,547,629人から7.37%増加していた。2000年時点での人口密度は346人/kmであり、ニュージャージー州、ロードアイランド州に次いで第3位だった。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2008年のマサチューセッツ州の人口には919,771人の外国生まれの住民が含まれている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州の人口の大部分はボストン地域、ノースショア、サウスショア、及び西部郊外を含む、大ボストンに住んでおり、おおよそ5,800,000人である。もう一つの大都市圏はスプリングフィールド大都市圏であり、コネチカット川バレーを中心に、再活性化されたスプリングフィールド市、大学町の並び(アマースト、ノーサンプトンなど)と北部や西部の田園地帯がある。マサチューセッツ州の人口重心はネイティックの町にある。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国北東部の州と同様、マサチューセッツ州の人口は過去数十年間増え続けたが、南部や西部の州よりも伸びは鈍化している。最新2010年国勢調査では2000年時点から3.9%増加しており、国内平均の10%近い値に比べれば低い。マサチューセッツ州を去る人々は住宅費と生活費の高さをその要因に挙げている。もう1つの要因は製造業経済からハイテク産業への転換であり、熟練度の落ちる労働者、特に男性は雇用機会が限られている 。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "この国内への転出を外国からの移民が補い、2010年国勢調査では増加を続けている結果になった。2005年の調査に拠れば、外国からの移民の40%は中南米からのものである。スプリングフィールド大都市圏に入ってきた者の多くはプエルトリコ出身だと言っている。州内の多くの地域は2000年から2010年まで人口の変化は比較的安定したものだった。ボストン市の準郊外部と海岸地域が急速に増加し、最西部バークシャー郡やケープコッドのバーンスタブル郡の2郡のみは人口が減少していた。これら2郡は「第2の家」が多く、州内の観光地を構成している。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2005年時点で州民の79%は家庭で英語を話し、7%がスペイン語、3.5%がポルトガル語、1%がフランス語か中国語を話している。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2010年国勢調査では人口の48.4%(3,166,628 人)が男性、51.6%(3,381,001 人)が女性だった。年齢構成では18歳以上が78.3%、65歳以上が13.8%おり、平均年齢は39.1歳だった。男性の平均年齢は37.7歳、女性は40.3歳だった。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2012年推計に拠れば、マサチューセッツ州の人種による人口構成は次のようになっている 。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "州内で最も多い人種である非ヒスパニック白人は、1970年の95.4%から2012年の75.8%まで減少してきた。2011年時点で非ヒスパニック白人は出生数の63.6%に関わっている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州内で申告された祖先による構成比は:アイルランド系 (22.5%)、イタリア系 (13.5%)、イギリス系 (11.4%)、フランス系 (8%)、ドイツ系 (5.9%)。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その他に、かつてニューベッドフォードはカーボベルデ系アメリカ人の中心都市であった。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1795年時点では州民の95%近くがイギリス系の子孫だった。19世紀初期から中期、移民が大量に入ってくるようになり、1840年代のアイルランド系が始まりだった。今日アイルランド系とその混血が人口の25%近くを占め、先祖別では最大である。その後にはケベック州や、イタリア、ポーランドなどヨーロッパ各所からの移民が続いた。20世紀初期、多くのアフリカ系アメリカ人が州内に入ってきたが、他の北部州と比べれば少なかった。20世紀の後半、ラテンアメリカ、アフリカ、東アジアからの移民がかなり増加した。ハイチ出身の州民数では国内第3位である。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "州内にはポルトガル系の子孫が比較的多い。その移民の多くは19世紀にニューベッドフォードなどの町で捕鯨産業に携わるために、アゾレス諸島から移ってきていた。後には繊維産業での職を求め、第2の波があった。ローウェルには国内でも第2位のカンボジア出身者がいる。インディアンのワンパノアグ族はマーサズ・ヴィニヤードのアクィナ、グラフトン、ケープ・コッドのマシュピーで居留地を維持している。ニプマク族は州中央部で州が認定した居留地2か所を維持している。マサチューセッツ州はアメリカの他州で見られたような人種間暴力闘争を避けてきたが、1850年代の移民排斥主義者(主に反カトリック)のノウ・ナッシング、1920年代の議論の多かったサッコ・ヴァンゼッティ事件の処刑、1970年のボストンにおけるバスの人種統合反対など、マサチューセッツ州の人種の歴史は完全に調和あるものではなかった。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州は1628年に清教徒によって設立され開拓された。その子孫は様々な教会に属している。直接継承しているのは会衆派教会/キリスト連合教会であり、またユニタリアン・ユニバーサリスト協会である。州民の大半はキリスト教徒である。ユニタリアン・ユニバーサリスト協会の本郡はボストン市のビーコンヒルにある 。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "今日、プロテスタントは州人口の4分の1に満たない。アイルランド、さらにイタリア、ポルトガル、ケベック、ラテンアメリカからの大量の移民が入ってきたので、ローマ・カトリック教徒が最大の宗派である。1820年から1920年には大勢のユダヤ教徒がボストンやスプリングフィールド地域に移って来た。メリー・ベーカー・エディはクリスチャン・サイエンスの世界本部であるボストン・マザー教会を設立した。仏教徒、ペイガニズム教徒、ヒンドゥー教徒、セブンスデー・アドベンチスト教会員、イスラム教徒、モルモン教徒も見られる。ストックブリッジのクリパル・センター、スプリングフィールドの少林寺瞑想所、バリーの洞察力瞑想センターは、州内でアブラハムの宗教ではない宗教集会所の例である。宗教データアーカイブ協会に拠れば、信徒数最大の会派はローマ・カトリックの3,092,296人である。続いてキリスト連合教会の121,826人、米国聖公会の98,963人となっていた。ユダヤ教徒は約27万5千人である。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州 (2011年現在) の州民の宗教宗派別構成比は次のようになっている。", "title": "人口動態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州では、マヒカン族、マサチューセッツ族、ナウセット族、ニプマク族、ペンナクック族、ポコムチュク族、ワンパノアグ族などのインディアン部族が、トウモロコシやカボチャを育て、農耕狩猟生活を営み、また沿岸周辺の島をカヌーで行き来し交流した。17世紀から始まるイギリス人の入植によって、上記されているような血生臭い入植戦争にさらされ、どの部族も虐殺されて壊滅的な被害を受け、数を減らした。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "この州にはワンパノアグ族を中心に、ニューイングランドのインディアン部族が結成する「ニューイングランド・アメリカインディアン連合」の本拠があり、この団体は「ピルグリムファーザーズ」の「上陸記念感謝祭」にぶつけて同じ日に、「全米哀悼の日」のデモ抗議を毎年行っている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1970年、プリマスで行われた「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」には、全米最大のインディアン権利団体「アメリカインディアン運動(AIM)」のインディアン活動家のラッセル・ミーンズらが、復元した「メイフラワー2世号」に乗りこんで、マストにAIMの旗を掲げ、さらに「プリマスの岩」をトラック一台分の土砂で埋めてみせるという抗議行動を行った。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "現在アメリカ連邦政府が公認し、保留地(Reservation)を領有する部族はワンパノアグ族の「ゲイヘッド(アクインナー)・バンド」と、「マシュピー・バンド」だけである。「ゲイヘッド・バンド」は1987年に内務省から連邦公認を受け、485エーカー(1.96km2)の土地を得て「復活」した。「マシュピー・バンド」は2007年2月に公認を受け、同州のケープコッド・マシュピーに140エーカー(約0.6km2)の保留地を得た。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "同じワンパノアグ族でも、多くの支族(バンド)が現在、アメリカ連邦政府から部族認定を抹消されており、保留地その他のインディアンとしての権利を行使できないでいる。また、連邦から公認されていないが、マサチューセッツ州政府から公認されている部族もあり、多数の部族がより大きな権限を持つ連邦認定を求め、係争中である。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ニプマク族は州の公認を受けている部族であるが、2004年に内務省BIA(インディアン管理局)はニプマク族の連邦公認要求に対して、連邦が「部族国家」と承認するための7つの条件のうち、彼らには4条件が足りず、公認できないと返答した。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2007年春、マシュピー・ワンパノアグ族は、同州ミドルボロ市に539エーカー(約219万m2)の土地を購入し、10億ドル級の部族カジノを建設すると発表した。部族は7月からミドルボロ市とカジノ交渉を終え、2007年8月にこの土地を内務省に申請し、「連邦信託地(Reservation)」とし、同州のケープコッド・マシュピーにも140エーカー(約57万m2)の土地を確保した。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "これはバイロン・ドルガン上院議員(ノースダコタ州選出)による、「インディアン再編成法」(1934年制定)の改正処置案に後押しされたもので、この改正案はインディアン部族が公認され復活した時期に関係なく、すべてのインディアン部族が、土地を内務省に連邦信託する権限を与えるものである。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2009年2月、マシュピー・ワンパノアグ族部族会議議長のグレン・マーシャルが、違法キャンペーンと寄付金の個人横領によって連邦裁判所で有罪となり、このカジノ計画の行方が危ぶまれた。2月8日に新選任された議長セドリック・クロムウェルは評議会を一新し、デヴァル・パトリック州知事と部族カジノの正式交渉を再開。クロムウェルは「我々は、我々の部族を取り戻すつもりです」と宣言した。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "一連のカジノ計画が実現すれば、この土地は連邦法で大部分の国税規約から免除されることとなり、1500人のマシュピー・ワンパノアグ部族員の雇用と甚大な部族の福利厚生基金を生むものと大きく期待されている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "州内には、14の郡がある。", "title": "郡、都市と町" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "さらには、50の都市と301の町がある。11の町が「町」を自称しているが、タウンミーティングではなく、市長・市政委員会あるいはマネジャー・市政委員会形式の政府としているため、法的には「市」である。", "title": "郡、都市と町" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ボストン市が州都かつ人口最大の都市である。市の人口は2020年時点で675,647人(全米24位)であり、ボストン大都市圏では4,941,632人と全米10位の大都市圏となっている。人口が10万人を超える都市としては、他にウースター(206,518人)、スプリングフィールド(155,929人)、ケンブリッジ(118,403人)、ローウェル(115,554人)、ブロックトン(105,643人)、クインシー(101,636人)、リン(101,253人)、ニューベッドフォード(101,079人)の各市がある。プリマス町が面積最大の自治体である。", "title": "郡、都市と町" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州はニューイングランドの他の5州とともにニューイングランド・タウンと呼ばれる地方政府形態を採っている。この形態では、法人化された町が地方政府としての責任と権限の多くを保有している。1997年に郡政府のうちの8つが廃止され、州政府の一部として保安官と土地登記官のみを選出している。5郡(バーンスタブル郡、ブリストル郡、デュークス郡、ノーフォーク郡、プリマス郡)は郡レベルの地方政府を残し、1郡(ナンタケット郡)は郡と市を統合した政府としている。", "title": "郡、都市と町" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州政府は行政府、立法府、司法府の三権が分立している。これまでの歴史の中で、1620年のメイフラワー誓約、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地の並列時代、それらが統合されたマサチューセッツ植民地の時代と移って来た。マサチューセッツ州憲法は、アメリカ独立戦争が進行中の1780年に批准された。連合規約に遅れること4年、現行アメリカ合衆国憲法に先立つこと8年だった。この憲法はジョン・アダムズが起草し、世界でも連続して有効な憲法としては最古のものである 。 近年は概して民主党が州政界を支配し、国内でもリベラルな州という評判がある。1974年、エレーヌ・ノーブルは州議会下院議員の候補者として初めてレズビアンであることを公表した。ゲイであることを公表したゲリー・スタッズも州選出アメリカ合衆国下院議員だった。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州知事が行政府の長である。その任務は法案の承認あるいは拒否、司法府や州機関役人の指名、恩赦の発行、年間予算の立案、マサチューセッツ州軍の指揮などである。2013年時点の州知事はデヴァル・パトリックであり、民主党員、ミルトン出身である。行政府には、8人の選挙で選ばれる委員と副知事で構成される行政委員会がある。行政委員会の機能としては、知事が任命する者の確認や選挙結果の認証がある。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "立法府は定員160人の下院と、同40人の上院がある。両院の指導者は互選で選ばれる。下院指導者は議長(スピーカー)と呼ばれ、上院の指導者はプレジデントと呼ばれる。両院の下には幾つかの委員会がある。両院の議員共に任期は2年間である。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "司法府の最高位にあるのは州最高裁判所であり、その下に多くの下級裁判所がある。最高裁判所には1人の首席判事と6人の陪席判事がいる。判事は州知事が任命し、行政委員会が確認する。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州から選出しているアメリカ合衆国上下院議員は全て民主党で占められている(2013年時点)。下院議員は8人である。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国裁判所に掛かる事件は、アメリカ合衆国地区裁判所マサチューセッツ地区で審問され、アメリカ合衆国控訴裁判所第1巡回地区に控訴できる。アメリカ合衆国大統領選挙では、11人の選挙人を割り当てられている。他州と同様に総取り方式である。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "20世紀の半ばから、マサチューセッツ州は共和党寄りの政治から圧倒的に民主党の強い州に転換されてきた。1952年のアメリカ合衆国上院議員選挙で、民主党ジョン・F・ケネディ候補が、現職の共和党ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニアを破ったのが、その転換点だったとされている。弟のテッド・ケネディは1962年からその死の2009年まで上院議員を務めた。それ以来マサチューセッツ州はリベラルな州としての評判を獲得し、近代リベラリズムの原型として使われることも多い。「マサチューセッツ・リベラル」という言葉も使われている。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州はボストン大都市圏を中核に、ケープと諸島部、西部において繰り返し民主党を支持してきている。共和党が強い地域は州間高速道路495号線に沿った中央部と、南部および北部の海岸にある町である。1984年の大統領選挙でロナルド・レーガンを支持して以来、大統領選挙で共和党候補を支持したことは無い。2010年に、テッド・ケネディの後任に当選した共和党スコット・ブラウンはこの民主党優位の州で奇跡と呼ばれた。ただし、2012年の選挙では落選した。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2006年の選挙では、共和党がマサチューセッツ州議会両院の13%しか議席を確保できなかった。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "共和党は1991年から2007年まで州知事を取っていたが、国内でも中道寄りの指導者だった。2004年アメリカ合衆国大統領選挙では、州出身の民主党ジョン・ケリーに61.9%の支持を与え、国内最高の支持率とした。2008年では、バラク・オバマが61.8%の支持を集めた。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "現在、マサチューセッツ州においては、死刑制度は廃止されている。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "現在の全国的な問題の多くが、マサチューセッツ州の決定事項に影響されてきた。2003年、州最高裁判所は同性結婚を認める判断を下した。2006年には州民全員に健康保険加入を強制する法を成立させた。2008年、少量の大麻所有を犯罪とは認めない住民発議を成立させた。また2012年には、大麻の医療利用を合法化することを住民投票で承認した。", "title": "法律及び行政" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国商務省経済分析局は2008年のマサチューセッツ州の州総生産高を3,650億米ドルだったと推計している。2008年の一人当たりの収入は50,735米ドルであり、国内第3位だった。フォーチュン500に入る会社は、13社が州内にあり、その中でも大きなものはボストン市のリバティ相互保険グループとスプリングフィールド市のマスミューチュアル生命保険だった。CNBCによる「2010年事業のための上位州」リストでは、マサチューセッツ州を第5位に挙げていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "州経済に重要な産業は、高等教育、バイオテクノロジー、金融、医療、観光業がある。州道128号線沿いはコンピュータと電子技術の開発の中心である。ハイテクは現在でも重要な部門だが、大規模な技術主導の会社は少ない。近年は観光業が重要な部門となり、ボストンやケープコッドが大きな観光地になっている。その他にもセイラム、プリマス、バークシャーズ(西部の高原)が観光地になっている。2013年4月時点で州内の失業率は6.4%であり、全国平均の7.6%より低い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2005年時点で州内に7,700の農場があり、その総面積は52万エーカー (2,100 km)、1農場当たり68エーカー(0.28 km)となっている。2007年時点でほぼ2,300の農場が生産高2,500米ドル以下だった。農業生産品は、タバコ(国内第11位)、家畜(国内第17位)、果物、木の実、ベリー類(国内第16位)である。オーシャン・スプレー(Ocean Spray)農業組合を擁するマサチューセッツ州は、ウィスコンシン州に続きアメリカ合衆国内で2番目に大きなクランベリー生産州である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州の州税と地方税を合わせた税負担率は国内第11位である。個人所得税は定率の5.25%を採用している。一定額以下の収入は免税だが、その額は年々変化している。法人所得税は8.8%であり、短期のキャピタルゲインについては12%である 。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "消費税は6.25%%だが、外食を除き食品は非課税であり、衣料品も一定額(175米ドル、これを超えた額が課税)以下は非課税となる。不動産と動産は、法によって免除されない限り課税対象である。資産税は国内第8位の高さである。相続税は無く、連邦の資産税に関連して定額までの州資産税が徴収される。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "州内の発電市場は1998年に自由化され、消費者は発電会社を変えることなく供給業者を変更できることとした。住民の大半は従来の発電会社に頼っているが、2011年7月時点で発電量43億キロワット時の大半が競合の中で発電されている。2011年、マサチューセッツ州は国内でエネルギー効率の最も良い州に挙げられた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州には都市圏企画組織が10あり、都市圏以外の地域を担当する組織も3ある。マサチューセッツ州交通省が担当している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "アムトラックが都市間輸送を担当している。アセラ・エクスプレスなどにより、ロードアイランド州プロビデンス市、コネチカット州ニューヘイブン市、ニューヨーク市、ワシントンD.C.、シカゴ市、メイン州ポートランド市などへの中長距離列車を走らせている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ湾交通局 (MBTA) が地下鉄、バス、フェリーの形態で、ボストン大都市圏の公共交通を担当している。長距離の通勤鉄道もウースター市やプロビデンス市まで運行している。2013年夏の時点で、ケープコッド地域交通局が、マサチューセッツ湾交通局やマサチューセッツ州交通省と協業して、ボストンとケープコッドの間に旅客鉄道のケープフライアーを運行している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "その他15の地域交通局がその地方でバス便を運行している。ケープコッド中央鉄道とバークシャー景観鉄道は保存鉄道として運行されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2006年時点で多くの貨物鉄道が運行されており、その代表格がCSXトランスポーテーションである。貨物線の総延長は1,079マイル (1,736 km) ある。ウッズホール・マーサズ・ヴィニヤード・アンド・ナンタケット蒸気船局が諸島への貨物乗客フェリーを運航している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "州内の主要空港はローガン国際空港 (BOS)である。2007年には2,800万人が利用し、約50社が就航している。国内の多くの都市や、国外ではカナダ、メキシコ、カリブ海、ヨーロッパ、アジアにも路線がある。このローガン国際空港と、ベッドフォードにあるハンスコム飛行場、およびウースター地域空港を州の独立機関であるマサチューセッツ州港湾局が運営している。州内には他に43の公共用途空港や、200以上の民間着陸点がある。幾つかの空港はマサチューセッツ州交通省と連邦航空局から運営予算の補助を受けている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "州内には全長31,300マイル (50,400 km) の州間高速道路と高規格道路がある。州間高速道路90号線、別名マサチューセッツ・ターンパイクが州間高速道路では最長である。ニューヨーク州境のウエストストックブリッジ町近くから東西に136マイル (219 km) を通っており、スプリングフィールド市の直ぐ北を抜け、ウースター市の南を通り、フラミンガムを抜け、ボストン市のローガン国際空港で終わる。州間高速道路91号線はコネチカット川沿いを南北に走り、同93号線はボストン市中央を南北に通ってマシュエンを抜け、ニューハンプシャー州へ入る。同95号線は大西洋岸を辿り、ロードアイランド州プロビデンスとボストン大都市圏を繋ぎ、都市化された地域を環状に迂回して海岸沿いを北に向かう。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "州間高速道路495号線はボストン大都市圏の外郭を環状に繋いでいる。その他の州間高速道路では、291号線、391号線、84号線、195号線、395号線、290号線、190号線がある。またアメリカ国道1号線、同3号線、6号線、20号線、マサチューセッツ州道24号線と128号線も幹線道である。州内の州間高速道路の大半は20世紀半ばに建設された。当時は議論も多く、特にボストン市中心を通る95号線が問題とされた。建設反対の声が高まり、1970年には州知事のフランシス・W・サージェントが、ボストンの95号線と州道128号線に囲まれる地域で新たな高規格道路の建設を禁止した。近年のビッグ・ディッグと呼ばれる州間高速道路93号線を地下に通す大規模工事は、市民の厳しい監視の目にさらされている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "冬の積雪量は、都市によってはかなりの量となるが、チェーンの装着は禁止されている。主要道路は降雪が始まるとほぼ同時に除雪が始まる。ただし、除雪予算には限りがあり、雪の多い年は、除雪が間に合わない道路なども出る。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州は1647年に教育法を成立させ、自治体が教師を指名するかグラマースクールを設立することを求めた最初の州になった。19世紀にウェストフィールド州立大学の創設者ホーレス・マンが進めた教育改革では、当代の普遍的公共教育の基盤を築いた。州内には、国内最古の公立小学校(1639年設立のザ・マザー・スクール)や、最古の高校(1635年設立のボストン・ラテン・スクール)、最古のボーディングスクール(1763年設立のガバナーズ・アカデミー)、最古のカレッジ(1636年設立のハーバード大学)、最古の女子カレッジ(1837年設立のマウントホリヨーク・カレッジ) がある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1852年、マサチューセッツ州は義務教育法を成立させた最初の州になった。2004年、公立の小学校と中等学校での(幼稚園生から12年生)児童生徒一人当たりの教育費は11,681米ドルであり、国内第5位だった。2007年の全国教育進行度評価プログラムのテストでは、数学で第1位になった。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "州内には121の高等教育機関がある。ケンブリッジにあるハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が世界の大学ランキングでも常に上位にある。その他USニューズ&ワールド・レポートのランキングで常に40位以内にある大学として、タフツ大学(2013年は第28位)、ボストンカレッジ(同第31位)、ブランダイス大学(同第33位)がある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "リベラル・アーツ・カレッジでは、ウィリアムズ大学(第1位)、アマースト大学(第2位)、ウェルズリー大学(第6位)がランク入りしている。その他常に40位以内にある大学として、スミス大学(第19位)、ホーリークロス大学(第29位)、マウントホリヨーク・カレッジ(同じく第29位)がある。このランキングで研究開発型大学40傑に5校(12.5%)、リベラル・アーツ・カレッジ40傑に6校(15%)が入っていることは、国内人口の2%しかいない州として驚異的な数字である。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "公立のマサチューセッツ大学は旗艦キャンパスであるアマースト校を含め州内に5つのキャンパスがあり、学生数は25,000人以上である。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "以下の表はマサチューセッツ州内のプロフェッショナルスポーツチームの一覧である。マサチューセッツ州はバスケットボール殿堂(スプリングフィールド)、バレーボール殿堂 (ホールヨーク)、及びケープコッド野球リーグ(英語版)の本拠地でもある。", "title": "芸術・文化" } ]
マサチューセッツ州は、アメリカ合衆国の州。北東部ニューイングランド6州の一つでもある。独立13州の一つ。マサチューセッツ州は「州」(State) の代わりにコモンウェルスを使っているが、日本語では他州と同様に「州」と訳されている。2020年国勢調査時点での人口は7,029,917人である。アメリカ合衆国の誕生から政治・経済・商工業・文化・教育の中心地として、リーダー的役割を果たしてきた。名称は、先住民のマサチューセッツ人に由来する。
{{redirect|マサチューセッツ}} {{基礎情報 アメリカ合衆国の州 | 公式名称 = Commonwealth of Massachusetts | 州旗 = Flag of Massachusetts.svg | 州章 =Seal_of_Massachusetts.svg | 地図 = Massachusetts in United States.svg | 愛称 = 入り江の州<br>Bay State | 州都 = [[ボストン]] | 最大都市 = ボストン | 州知事 = {{ill2|マウラ・ヒーリー|en|Maura Healey}} | 公用語 = 不文律:[[アメリカ英語|英語]] <!--1975年?--> | 面積順位 = 44 | 総面積 = 27,336 | 面積大きさ = 1 E10 | 陸地面積 = 20,306 | 水域面積 = 7,031 | 水面積率 = 25.7 | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 15 | 人口値 = 7,029,917 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口密度 = 346.2 | 加入順 = 6 | 加入日 = [[1788年]][[2月6日]] | 時間帯 = -5 | 夏時間 = -4 | 緯度 = 41°14' - 42°53' | 経度 = 69°56' - 73°30' | 幅 = 295 | 長さ = 182 | 最高標高 = 1,063 | 平均標高 = 150 | 最低標高 = 0 | ISOコード = US-MA | Website = www.mass.gov | 上院議員 = [[エリザベス・ウォーレン]]<br> [[:en:Ed Markey|エド・マーキー]] }} [[ファイル:National-atlas-massachusetts.png|thumb|280px|マサチューセッツ州の主要道路と都市]] '''マサチューセッツ州'''(マサチューセッツしゅう、{{lang-en-short|Commonwealth of Massachusetts}}、{{IPAc-en|audio=en-us-Massachusetts.ogg|ˌ|m|æ|s|ə|ˈ|tʃ|uː|s|ᵻ|t|s}})は、[[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ合衆国の州|州]]。[[アメリカ合衆国北東部|北東部]][[ニューイングランド]]6州の一つでもある。独立13州の一つ。マサチューセッツ州は「州」(State) の代わりに[[コモンウェルス (米国州)|コモンウェルス]]を使っているが、日本語では他州と同様に「州」と訳されている。[[2020年]]国勢調査時点での[[人口]]は7,029,917人である<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。アメリカ合衆国の誕生から政治・経済・商工業・文化・教育の中心地として、リーダー的役割を果たしてきた。名称は、先住民のマサチューセッツ人に由来する。 == 概要 == 南は[[ロードアイランド州]]と[[コネチカット州]]、西は[[ニューヨーク州]]、北は[[バーモント州]]と[[ニューハンプシャー州]]に接している。東は[[大西洋]]である。アメリカ合衆国50州の中で陸地面積では第44位、人口では第15位、人口密度が第3位である。東部の[[ボストン]]大都市圏と、西部の[[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド]]大都市圏という2つの中心地がある。人口の約3分の2はボストン大都市圏に住んでいる。州都はボストン市であり、人口最大の都市でもある。ボストン大都市圏には[[ハーバード大学]]、[[マサチューセッツ工科大学]]などがある[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]や[[サマービル (マサチューセッツ州)|サマービル]]、[[クインシー (マサチューセッツ州)|クインシー]]などの市町が含まれている。 マサチューセッツ州は、アメリカ史の中で各分野にわたって重要な役割を演じてきた。1620年、''[[メイフラワー号]]''の乗船客[[ピルグリム・ファーザーズ|ピルグリム]]によって、[[プリマス植民地]]が設立された。1636年に設立されたハーバード大学は国内最古の高等教育機関である。1692年、[[セイラム (マサチューセッツ州)|セイラム]]とその周辺では[[セイラム魔女裁判]]と呼ばれる忌まわしい事件が起こった。18世紀、大西洋圏を席捲した[[プロテスタント]]の[[第一次大覚醒]]運動は、ノーサンプトンの説教師[[ジョナサン・エドワーズ (神学者)|ジョナサン・エドワーズ]]に端を発していた。18世紀後半には、[[アメリカ独立戦争]]と[[イギリス]]からの独立に繋がる扇動によって、ボストンは「自由の揺籃」とも呼ばれた。1777年に[[ヘンリー・ノックス]]将軍が設立した[[スプリングフィールド造兵廠]]は、[[産業革命]]の時代に交換部品など多くの重要な技術進歩を促進した。1786年、州西部の農夫による[[ポピュリズム|ポピュリスト]]革命、[[シェイズの反乱]]が直接[[フィラデルフィア憲法制定会議|アメリカ合衆国憲法制定会議]]の開催に繋がる要因になった。 南北戦争以前の時代には、[[禁酒運動]]、[[超越論哲学|超越論的思想]]、[[奴隷制度廃止運動]]の中心になった。1837年、[[コネチカット川]]バレーのサウスハドリーの町に、国内初の女子カレッジである[[マウント・ホリヨーク大学]]が開校した。19世紀、州西部の都市、スプリングフィールドとホリヨークで[[バスケットボール]]と[[バレーボール]]が発明された。2004年、州最高裁判所の判決により、国内で初めて[[同性結婚]]を法律で認める州になった。州内からはアダムズ家や[[ケネディ家]]など多くの著名政治家を輩出してきた。 マサチューセッツ州は当初漁業、農業、貿易業に依存していたが、産業革命の間に工業の中心に変わった。20世紀にはその経済が工業からサービス業に転換された。21世紀には、高等教育、医療技術、ハイテクと金融業で指導的存在である。 == 歴史 == {{main|マサチューセッツ州の歴史}} === 名称 === マサチューセッツ州の前身[[マサチューセッツ湾植民地]]の名称はかつて[[マサチューセッツ湾]]の周辺に居住していた[[インディアン]]部族、[[マサチューセッツ族]]にちなむ。この部族の名は{{仮リンク|マサチューセット語|en|Massachusett language}}で「大きな丘の場所」を意味し、ボストンの南の[[ミルトン (マサチューセッツ州)|ミルトン]]とカントンの間にある小さな山(今日の「ブルー・ヒルズ」)を指している<ref name="Camp">Salwen, Bert, 1978. ''Indians of Southern New England and Long Island: Early Period''. In "Northeast", ed. Bruce G. Trigger. Vol. 15 of "Handbook of North American Indians", ed. William C. Sturtevant, pp. 160–76. Washington DC: Smithsonian Institution. Quoted in: Campbell, Lyle. 1997. ''American Indian Languages: The Historical Linguistics of Native America''. Oxford: Oxford University Press, p. 401</ref><ref>Bright, William (2004). ''Native American Place Names of the United States''. Norman: University of Oklahoma Press, p. 270</ref>。''mass-adchu-s-et'' と綴られ、''mass-'' は 「大きい」、''-adchu-'' は「岡」、''-s-'' は「小さい」を意味する指小辞、''-et'' は場所を表す所格である<ref>{{Cite book | first = William Wallace | last = Tooker | url = https://books.google.co.jp/books?id=U5cqAAAAYAAJ&pg=PA175&redir_esc=y&hl=ja | title = Algonquian Names of some Mountains and Hills | year = 1904 | postscript = }}.</ref>。 別の説として、クインシーにあるモスウィタセット・ハンモック(鏃のような形の岡という意味)の名前から派生したとするものがある。ここで1621年に、プリマス植民地の指導者[[マイルス・スタンディッシュ]]と通訳のスカントが、インディアンの酋長チカトーバットと出遭った<ref name="tcpl-hummock">{{cite web|url=http://thomascranelibrary.org/htm/436.htm|title=East Squantum Street (Moswetuset Hummock)|year=1986|work = Quincy, Mass. Historical and Architectural Survey|publisher= Thomas Crane Public Library|accessdate= June 24, 2009}}</ref><ref name="neal-history-of-ne">{{cite book|last=Neal|first= Daniel|title= The history of New-England|publisher= A. Ward| location = London | year= 1747|edition=2|volume=2|page=216|chapter=XIV: The Present State of New England|oclc=8616817|url = https://books.google.co.jp/books?id=u3opAAAAYAAJ&pg=PA216&redir_esc=y&hl=ja |accessdate=June 24, 2009}}</ref>。 州の公式名は "Commonwealth of Massachusetts" であり<ref>{{cite web | title = Part One: Concise Facts – Name | publisher=Secretary of the Commonwealth of Massachusetts | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.sec.state.ma.us/cis/cismaf/mf1a.htm}}</ref>、口語では単純に "Commonwealth" と呼ばれることが多い。その意味合いで "State" との違いは無く、他州と同じ位置づけと権限がある<ref>{{cite web | title = Kentucky as a Commonwealth | publisher=Kentucky Department for Libraries and Archives | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.kdla.ky.gov/resources/KYCommonwealth.htm}}</ref>。2020年11月、それまで全米最長の正式名称であった[[ロードアイランド州|ロードアイランドおよびプロビデンス・プランテーション州]]が短縮され、繰り上がりで50州の中では最も長い公式名称をもつ州となった(自治領などを含めれば北マリアナ諸島が最長<ref>{{Cite web |url=https://patch.com/rhode-island/newport/what-state-has-longest-name-now |title=Which State Has The Longest Name Now? |publisher=[[:en:Patch (website)|Patch]] |date=2020-11-06 |accessdate=2021-01-25}}</ref>)。 === インディアン === マサチューセッツ州となった地域に住んでいたのは、[[ワンパノアグ]]族、[[ナラガンセット]]族、[[ニプマク]]族、ポコンタック族、[[モヒカン族]]、[[マサチューセッツ族]]など、[[アルゴンキン語族]]だった{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 6–7}}<ref name="Mohican">{{cite web | title = Origin & Early Mohican History | publisher=Stockbridge-Munsee Community&nbsp;— Band of Mohican Indians | accessdate =October 21, 2009 | url = http://mohican-nsn.gov/Departments/Library-Museum/Mohican_History/origin-and-early.htm}}</ref>。その食料を補うためにカボチャやトウモロコシを栽培する一方で、狩猟漁労採集に依存していた{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 6–7}}。集落は[[ウィグワム]]やロングハウスと呼ばれる小屋の集まりだった<ref name="Mohican" />。サッチェムと呼ばれる男あるいは女の長老が部族を率いていた{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 7}}。 === マサチューセッツ湾植民地時代(1629年-1686年) === [[ファイル:Mayflower in Plymouth Harbor, by William Halsall.jpg|thumb|250px|プリマス港の''[[メイフラワー号]]''、ウィリアム・ハルシャル画、1882年。ピルグリムは1620年にプリマス植民地を設立した清教徒の集団だった。]] 1600年代初期、[[アメリカ合衆国北東部]]のインディアンは、[[天然痘]]、[[麻疹]]、[[インフルエンザ]]、[[レプトスピラ症]]など免疫力の無かった疫病によって、大きく人口を減らした<ref name="hoxie-164">{{cite book|last=Hoxie|first=Frederick E |title = Encyclopedia of North American Indians|publisher= Houghton Mifflin Harcourt|year= 1996|location= Boston|page= 164|isbn= 978-0-395-66921-1 | oclc= 34669430|url= https://books.google.com/?id=o-BNU7QuJkYC&pg=PA164|accessdate= July 30, 2009}}</ref><ref>{{Cite journal | doi = 10.3201/e0di1602.090276 | last1 = Marr | first1 = JS | last2 = Cathey | first2 = JT | title = New hypothesis for cause of an epidemic among Native Americans, New England, 1616–1619 | journal = Emerging Infectious Disease | year = 2010 | month = Feb | postscript = }}</ref>。1617年から1619年に、マサチューセッツ湾のインディアンの90%が天然痘で殺されたと報告されている{{Sfn | Koplow| 2004|p = 13}}。 [[1620年]]、[[メイフラワー号]]で[[北アメリカ]]に到着した[[ピルグリム・ファーザーズ]]は[[プリマス植民地]]に入植した。彼等はワンパノアグ族インディアンと良好な関係を築いた。北アメリカでは[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]に続いてイングランド人による2つめの植民地になった。その後に他の[[清教徒]]たちも続き、[[1630年]]にはボストンに[[マサチューセッツ湾植民地]]が建設された{{Sfn | Goldfield| Abbott| Anderson| Argersinger| 1998|p = 30}}。 清教徒は[[イングランド国教会]]に不満があり、中でも聖職階級制に拘りすぎていると考え、信教の自由を求めてマサチューセッツに来ていた。ただし、プリマス植民地とは異なり、マサチューセッツ湾植民地は王室勅許の下に設立された。清教徒たちは信仰の自由を求めてマサチューセッツに来たものの、彼らは異なる教義に寛容ではなかった。そのため、[[アン・ハッチンソン]]、[[ロジャー・ウィリアムズ]]、{{仮リンク|トマス・フッカー|en|Thomas Hooker}}らはマサチューセッツを離れ、南に向かった。ウィリアムズは[[ロードアイランド植民地]]を建て、フッカーは[[コネチカット植民地]]を建てた{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 30–32}}。 [[フィリップ王戦争]]([[1675年]] - [[1676年]])は植民地時代初期における[[ワンパノアグ|ワンパノアグ族]]を中心としたインディアンとの戦いで最も血なまぐさいものとなり、[[コネチカット川]]流域の{{仮リンク|パイオニアバレイ|en|Pioneer Valley}}とプリマス植民地でも大きな戦闘があった。ニューイングランド南部の諸植民地がこの戦いの傷から立ち直るのには長い年月を要した。 === 英領ニューイングランド(1686年-1692年) === [[1686年]]5月、[[ジョセフ・ダドリー]]がイギリス王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]によりニューイングランドの長官に任命され、マサチューセッツ湾植民地は終わりを迎えた。ダドリーはその後、[[ニューハンプシャー植民地]]とキングズプロビンス(今日の[[ロードアイランド州]]の一部)に本拠を置いた。[[エドマンド・アンドロス]]卿が到着してニューイングランド自治領の総督に就任すると、ダドリーはアンドロス総督の議会の一員となった。 [[1689年]]、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]と[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリ2世]]のイギリス国王即位の知らせに、ボストン入植者たちは反乱をおこした。アンドロス卿と彼の部下たちは[[キャッスル島]]で拘束され、囚人としてイギリス本土に送還された。アンドロス卿は謀反の疑いが晴れたあと、[[1692年]]から[[1698年]]まで[[バージニア植民地]]の知事を務めている。 [[1691年]]、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地は合併して、新たにマサチューセッツ湾植民地となった{{Sfn | Goldfield| Abbott| Anderson| Argersinger| 1998|p = 66}}。その植民地初代総督[[ウィリアム・フィップス]]が到着して直後の[[1692年]]、[[セイラム魔女裁判]]事件が起こり、多くの男女が絞首刑にされた{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 50}}。 === 英領植民地マサチューセッツ(1692年-1774年) === この時代の著名な総督は、[[トマス・ハッチンソン]]、[[フランシス・バーナード (初代準男爵)|フランシス・バーナード卿]]および[[トマス・ゲイジ]]などである。ゲイジは[[マサチューセッツ湾直轄植民地|英領マサチューセッツ]]の最後の総督となった。 1755年、ニューイングランドでは最大級の地震が発生し、マサチューセッツ全土にかなりの被害を生じさせた<ref>{{Cite journal | publisher = USGS | title = Historic Earthquakes | contribution = The Great Earthquake of 1755 | url = http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/states/events/1755_11_18_hs.php | accessdate = February 7, 2011 | postscript = | archiveurl = https://web.archive.org/web/20111110190706/http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/states/events/1755_11_18_hs.php | archivedate = 2011年11月10日 | deadurldate = 2017年9月 }}</ref><ref>{{Cite news | title = Memorandum | newspaper = Boston Gazette | date = November 24, 1755 | page = 1 | postscript = }}.</ref>。 === 植民地独立へ(1760年代-1780年代) === [[ファイル:Percy's Rescue at Lexington Detail.jpg|thumb|left|250px|[[レキシントン・コンコードの戦い]]を描いたイラスト{{Cite journal | title = パーシーのレキシントン救出 | author1-link = | first1 = Ralph | last1 = Earl | first2 = Amos | last2 = Doolittle | year = 1775 | type = illustration | postscript = }}。]] マサチューセッツはイギリスによる支配に最初に反旗を翻した[[植民地]]としてアメリカ独立戦争を扇動した。[[1775年]]2月9日、英国議会はマサチューセッツは反乱していると宣言し、植民地秩序回復のため追加の軍隊を送った。 [[1770年]]3月5日、[[フレイミングハム (マサチューセッツ州)|フレイミングハム]]からボストンを訪れていた黒人の{{仮リンク|クリスパス・アタックス|en|Crispus Attucks}}らが[[ボストン虐殺事件]]として知られる武力衝突で英軍兵士に殺された。アタックスはしばしばアメリカ独立戦争最初の犠牲者と考えられている。 [[1773年]]12月16日には[[ボストン茶会事件]]が起こった。 [[サミュエル・アダムズ]]や[[ジョン・ハンコック]]などによる[[イギリスの議会]]に反対する活動があり、これに対してイギリス政府が反発したことで、[[13植民地]]が結束することとなり、[[アメリカ独立戦争]]勃発に繋がっていった{{Sfn | Goldfield| Abbott| Anderson| Argersinger| 1998|pp = 88–90}}。 [[レキシントン・コンコードの戦い]]{{Sfn | Goldfield| Abbott| Anderson| Argersinger| 1998|pp = 95–96}}、[[バンカーヒルの戦い]]、[[ボストン包囲戦]]を含む[[アメリカ独立戦争]]初期の戦いのいくつかはマサチューセッツで起こった。1776年春にイギリス軍がそれまで占領していたボストン市を明け渡した。ボストン市のある[[サフォーク郡 (マサチューセッツ州)|サフォーク郡]]では現在も開放の日が祝われている<ref>{{cite web | title = Massachusetts Legal Holidays | publisher = Secretary of the Commonwealth | accessdate = May 22, 2010 | url = http://www.sec.state.ma.us/cis/cishol/holidx.htm}}</ref>。 この戦中にセイラムは[[私掠船]]活動の中心地となった。文書は不完全ながら、約1,700通の[[私掠免許]]状が発行された。800隻近い船舶が私掠船として活動し、約600隻のイギリス船舶を捕獲あるいは破壊したとされている<ref>{{cite web|url=http://www.nps.gov/revwar/about_the_revolution/privateers.html|title=John Fraylor. Salem Maritime National Historic Park|publisher=Nps.gov|accessdate=2012-09-03}}</ref>。 === マサチューセッツ州初期(1780年-1820年) === ボストン出身の[[ジョン・アダムズ]]は「独立のアトラス」とも呼ばれ、独立闘争とアメリカ合衆国形成期に重要な役割を果たした<ref name="Adams">{{cite web | url = http://www.nps.gov/adam/john-adams-biography.htm | title = John Adams | type = biography | publisher=National Park Service | accessdate = May 30, 2010}}</ref>。アダムズは1780年にマサチューセッツ憲法を起草した。この憲法は普遍的な権利を宣言し、[[奴隷制度]]を廃止した最初のものとされている<ref name="Adams" /><ref name="sjc-slavery">{{cite web|url=http://www.mass.gov/courts/sjc/constitution-slavery-e.html|title=Massachusetts Constitution, Judicial Review, and Slavery&nbsp;– The Quock Walker Case|year=2007|publisher=Massachusetts Judicial Branch|accessdate=December 11, 2009}}</ref>{{Refn |1 = The Constitution of the Vermont Republic, adopted in 1777, prohibited involuntary servitude. Vermont became a state in 1791 and subsequently ratified a newer constitution in 1793. The Pennsylvania Gradual Abolition Act of 1780<ref>{{cite web | url = http://explorepahistory.com/odocument.php?docId=341 | title = Explore PA history | postscript = |accessdate=2013-08-26}}.</ref> made Pennsylvania the first state to abolish slavery by statute.<ref>{{Cite journal | title = Visitor information | contribution = PA history | place = PA, US | url = http://www.legis.state.pa.us/WU01/VC/Visitor_info/pa_history/II.htm | publisher = Legislature | postscript = }}.</ref>|group = "lower-alpha"}}。後にアダムズはアメリカ初期の外交問題に関わり、[[ジョージ・ワシントン]]の後継大統領になった<ref name="Adams" />。その息子の[[ジョン・クインシー・アダムズ]]も第6代大統領になった<ref name="Adams" />。 [[ジョン・ハンコック]]がマサチューセッツ州初代知事となった。 独立後のアメリカ合衆国政府形成期だった1786年から1787年に、州西部で[[シェイズの反乱]]と呼ばれる武装蜂起が起こった。この反乱に参加したのは戦争の負債と税金に憤った小農が大半だった。これを切っ掛けにそれまでの[[連合規約]]に代わる強力な国家憲法を立案する必要があるという判断がなされた<ref>{{cite web | title = Shays Rebellion | publisher=National Park Service | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.nps.gov/spar/historyculture/shays-rebellion.htm}}</ref>。 [[アメリカ合衆国憲法]]は[[1787年]]の憲法制定会議で制定され、翌年発効した。[[1788年]]2月8日、マサチューセッツ州はアメリカで6番目にこの憲法を批准した。 [[1790年]]の人口調査によれば、マサチューセッツ州には[[奴隷]]は全くいなかったという。 [[米英戦争]](1812年-1815年)の時に私掠船が復活した。 [[1820年]]3月15日、[[ミズーリ妥協]]の結果として、[[メイン地区]]はマサチューセッツ州から分離し、独立した23番目の[[メイン州|州]]として合衆国に加わった<ref>{{cite web | url = http://www.maine.gov/legis/senate/statehouse/history/hstry5.htm | location = Maine | work = History | title = Statehood | publisher = Senate | accessdate = April 11, 2008 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20080504060335/http://www.maine.gov/legis/senate/statehouse/history/hstry5.htm | archivedate = 2008年5月4日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 === 19世紀 === [[ファイル:Mill Building (now museum), Lowell, Massachusetts.JPG|thumb|250px|ローウェルにある繊維工場、マサチューセッツ州はアメリカ産業革命の先導役になった。]] 19世紀、マサチューセッツ州はアメリカ産業革命の先導役になった。ボストン周辺の工場では繊維と靴、スプリングフィールド周辺では工具と紙が生産された{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 129}}{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 211}}。農業に依存していた経済は工業依存に転換され、当初は水力を使っていたものが蒸気の力を生かすようになり、運河さらに後には鉄道が製品の輸送形態を変えた{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 202}}。その労働力として最初は自給自足農家からヤンキーを雇っていたが、後にはヨーロッパやカナダからの移民に頼るようになった{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 133–36}}{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 179}}。 [[南北戦争]]に向かう時代、マサチューセッツ州は進歩主義と奴隷制度廃止運動の中心になった。[[ホーレス・マン]]が州の教育体系を作り、国のモデルになった{{Sfn | Goldfield| Abbott| Anderson| Argersinger| 1998|p = 251}}。[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]や[[ラルフ・ワルド・エマーソン|ラルフ・ウォルド・エマーソン]]がアメリカの思想界を形作った{{Sfn | Goldfield| Abbott| Anderson| Argersinger| 1998|p = 254}}。超越論的思想運動員が自然界の重要性と人間性を訴えた{{Sfn | Goldfield| Abbott| Anderson| Argersinger| 1998|p = 254}}。 マサチューセッツ州では奴隷制度廃止運動にかなりの反対の声もあり、1835年から1837年には暴動も起こったが{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 185}}、その後は奴隷制度に反対する動きが次第に高まっていった{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 183}}{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 187–93}}。運動家の働きが南北戦争の間に採った州の行動に反映された。白人士官の下に黒人連隊を組織し、訓練し、武装させた最初の州になった<ref>{{cite web | title = Robert Gould Shaw and the 54th Regiment | publisher=National Park Service | accessdate =October 19, 2009 | url = http://www.nps.gov/boaf/historyculture/shaw.htm}}</ref>。[[ボストンコモン]]にあるロバート・グールド・ショー記念碑には、この第54マサチューセッツ志願歩兵連隊を表す浮き彫りが収められている<ref>{{cite web | title = Augustus Saint-Gaudens | publisher=National Gallery of Art | accessdate = October 19, 2009 | url = http://www.nga.gov/education/schoolarts/gaudens.htm}}</ref>。 === 20世紀 === 20世紀初期に多くの製造業がマサチューセッツ州を離れ、工業経済は衰退を始めた。1920年代までに[[アメリカ合衆国南部]]や[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]との競合があり、これに続いて[[世界恐慌]]が発生したことで、マサチューセッツ州における3大産業の繊維、靴製造、輸送が崩壊した<ref>Brown and Tager, p. 246.</ref>。この衰退は20世紀後半に入っても続き、1950年から1979年の間に、繊維産業に関わる州民の数は264,000人から63,000人にまで激減した{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 276}}。20世紀後半の40年間における脱工業化により、州西部の高給を取る職種の者が出て行った<ref>{{Cite journal | publisher = UML | url = http://www.uml.edu/com/cita/05paperforrantmuckensturm.pdf | title = Job Loss, Shrinking Revenues, and Grinding Decline in Springfield, Massachusetts: Is A Finance Control Board the Answer? | postscript = }}.</ref> 。 [[第二次世界大戦]]のとき、州内では軍需産業生産高の3.4%を製造し、48州の中で第10位だった<ref>Peck, Merton J. & Scherer, Frederic M. ''The Weapons Acquisition Process: An Economic Analysis'' (1962) Harvard Business School p.111</ref>。戦後、州東部では経済が重工業からサービス業とハイテク産業に移っていった{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 275–83}}。政府調達、民間投資、研究施設が新しく改善された産業構造を作り、失業率を下げ、一人当たり収入を上げた。郊外化が進行し、1970年代にはマサチューセッツ州道128号線沿いにハイテク企業が点在し、高等教育機関の中でも優秀な大学を卒業した者を多く採用した{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 284}}。 20世紀のマサチューセッツ州政界では[[ケネディ家]]が特筆される存在だった。実業家と外交官である[[ジョセフ・P・ケネディ・シニア]]の子供達には、上院議員と[[アメリカ合衆国大統領]]を務め、1963年に暗殺された[[ジョン・F・ケネディ]]、上院議員、司法長官を歴任し大統領候補となっていた1968年に暗殺された[[ロバート・ケネディ]]、1962年からその死の2009年まで上院議員を務めた[[エドワード・ケネディ|テッド・ケネディ]]<ref>{{cite web | title = Biography: Edward Moore Kennedy |work=American Experience | accessdate =May 28, 2010 | url = http://www.pbs.org/wgbh/americanexperience/features/general-article/kennedys-bio-edward-kennedy/}}</ref>、また[[スペシャルオリンピックス]]の共同設立者となった[[ユーニス・ケネディ・シュライバー]]がいた<ref>{{cite web | title = The Kennedys: A Family Tree | work= St. Petersburg Times | accessdate =May 28, 2010 | url = http://www.sptimes.com/News/111199/JFK/family-tree.shtml}}</ref>。有名なケネディ・コンパウンドは[[ケープコッド]]のハイアニスポートにある<ref>{{cite web | title = Kennedy Compound | publisher= National Park Service | accessdate =May 28, 2010 | url = http://www.nps.gov/history/history/online_books/presidents/site30.htm}}</ref>。 政治的には民主党が圧倒的な強さを示す地盤であった。[[1970年]]には[[宣戦布告]]を行わずに進められた[[ベトナム戦争]]の正当性が州議会で審議され、同年[[1970年]][[4月1日]]、州議会の上院と下院で「州の市民は宣戦布告をしない戦争には参加しなくともよい」との趣旨の州法が可決するに至った。同年11月9日に連邦最高裁が州法の発効を否決した<ref>米最高裁が却下 マサチューセッツの反戦訴訟『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月10日朝刊 12版 23面</ref>ため、戦争の継続に直接の影響は生じなかったが、州の存在感を高める結果となった。 === 近年 === 1987年、マサチューセッツ州はセントラル・アーテリー/トンネルプロジェクトに州の予算手当を受けた。「ビッグ・ディッグ」と呼ばれるこのプロジェクトは当時、連邦政府でも最大級の道路建設工事となった<ref name="BigDig1">Grunwald, Michael. ''Dig the Big Dig'' [http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/08/04/AR2006080401755.html] ''The Washington Post''. August 6, 2006. . Retrieved May 31, 2010.</ref>。このプロジェクトはボストン市中心街の地下に中心動脈となるトンネルを造り、他の主要高規格道路を再配置するものだった<ref name="BigDig2">{{cite web | url = http://www.massdot.state.ma.us/Highway/bigdig/projectbkg.aspx | title = The Big Dig | publisher = Massachusetts Department of Transportation | accessdate = May 31, 2010 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20091213200252/http://www.massdot.state.ma.us/Highway/bigdig/projectbkg.aspx | archivedate = 2009年12月13日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。この工事には異論もあり、汚職や管理ミスも指摘され、工事費は当初の25億米ドルから150億米ドルにまで膨らんだが、それでもボストン市中心街の様相を一変させて完成した<ref name="BigDig1" />。かつては高架道路で分断されていた地域を繋ぎ、接続道路の交通状況を改善した<ref name="BigDig1" /><ref name="BigDig2" />。 2003年11月にマサチューセッツ州最高裁判所で、一般の結婚の権利から同性結婚を除外することは違憲であるとの判決が下り、2004年5月17日、マサチューセッツ州は国内で初めて同性結婚を法律で認める州になった<ref>{{cite web |url=http://law-library.rutgers.edu/SSM.html |title=Same Sex Marriage: A Selective Bibliography |publisher=Law-library.rutgers.edu |date= |accessdate=2013-07-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120424141558/http://law-library.rutgers.edu/SSM.html |archivedate=2012年4月24日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 == 地理 == :''主要記事:[[w:Geography of Massachusetts|マサチューセッツ州の地理]]'' マサチューセッツ州は総面積10,555平方マイル (27,340 km<sup>2</sup>) と<ref name="2000census">{{cite web | url = http://factfinder.census.gov/servlet/GCTTable?_bm=n&_lang=en&mt_name=DEC_2000_SF1_U_GCTPH1R_US9S&format=US-9S&_box_head_nbr=GCT-PH1-R&ds_name=DEC_2000_SF1_U&geo_id=01000US | title = Population, Housing Units, Area, and Density (geographically ranked by total population): 2000 | publisher=United States Census Bureau | accessdate =May 30, 2010}}</ref>、国内50州の中で7番目に小さな州であり、アメリカ合衆国北東部のニューイングランド地方に位置している。 北は[[ニューハンプシャー州]]及び[[バーモント州]]と、西は[[ニューヨーク州]]、南は[[コネチカット州]]及び[[ロードアイランド州]]、並びに東が[[大西洋]]と隣接している。マサチューセッツ州の南東部端は[[ケープコッド]]と呼ばれる大きな、砂質の、ひじを曲げた腕のような形状の半島である。[[マーサズ・ヴィニヤード]]島及び[[ナンタケット (マサチューセッツ州)|ナンタケット]]島はケープコッドの南に位置している。 マサチューセッツ州は、州の東部海岸にある[[マサチューセッツ湾]]及び[[ケープコッド湾]]、並びに南部の[[バザーズ湾]]、マサチューセッツ州 – ロードアイランド州境の[[ナラガンセット湾]]など複数の大きな[[湾]]を持つために「湾の州」として知られている。マサチューセッツという名称は、「大きな丘のふもと」または「青い丘陵の地」という意味の[[アルゴンキン語]][[インディアン]]の[[マサチューセッツ族]]の名称から来ている。 最大都市[[ボストン]]は、マサチューセッツ湾の最奥部、マサチューセッツ州で一番長い川である[[チャールズ川]]の河口に位置している。[[アパラチア山脈]]の東端が州内西部まで伸びてきており、大西洋岸の砂浜や磯浜と対照をなしている。 [[アメリカ合衆国国立公園局]]の保護及び管理下に置かれている地域は以下の通りである<ref name="NPS1">{{cite web | title = Massachusetts | publisher=National Park Service | accessdate =May 26, 2010 | url = http://www.nps.gov/state/MA/}}</ref><ref>{{cite web | title = Massachusetts State Parks | publisher=Massachusetts Department of Conservation and Recreation | accessdate =May 26, 2010 | url = http://www.mass.gov/dcr/listing.htm}}</ref><ref>{{cite web | title = Trail Maps | publisher=Massachusetts Department of Conservation and Recreation | accessdate =May 26, 2010 | url = http://www.mass.gov/dcr/parks/trails.htm}}</ref><ref>{{cite web | title = Getting Wet! | publisher=Massachusetts Department of Conservation and Recreation | accessdate =May 26, 2010 | url = http://www.mass.gov/dcr/recreate/swimming.htm}}</ref>。 * [[アダムス国立歴史公園]]([[クインシー (マサチューセッツ州)|クインシー]]近郊) * {{仮リンク|ロングフェロー国立史跡|en|Longfellow National Historic Site}}([[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]) * [[アパラチアン・トレイル]](アパラチア国立景勝街道、州西部) * {{仮リンク|ローウェル国立歴史公園|en|Lowell National Historical Park}}([[ローウェル (マサチューセッツ州)|ローウェル]]) * {{仮リンク|ブラックストーン河谷国立遺産回廊|en|Blackstone Valley}}([[ウースター郡 (マサチューセッツ州)|ウースター郡]]) * {{仮リンク|ミニットマン国立歴史公園|en|Minute Man National Historical Park}}([[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード]]) * {{仮リンク|ボストンアフリカ系アメリカ人国立史跡|en|Boston African American National Historic Site}}([[ボストン]]) * {{仮リンク|ニューベッドフォード捕鯨国立歴史公園|en|New Bedford Whaling National Historical Park}}([[ニューベッドフォード (マサチューセッツ州)|ニューベッドフォード]]) * {{仮リンク|ボストン湾島嶼群国立リクリエーション地域|en|Boston Harbor Islands National Recreation Area}} * クィネボーグ及びシェタケット河谷国立遺産回廊 * {{仮リンク|セイラム海洋国立史跡|en|Salem Maritime National Historic Site}}([[セイラム (マサチューセッツ州)|セイラム]]) * [[ケープコッド国立海岸]] * {{仮リンク|ソーガス製鉄所国立史跡|en|Saugus Iron Works National Historic Site}}({{仮リンク|ソーガス (マサチューセッツ州)|label=ソーガス|en|Saugus, Massachusetts}}) * エセックス国立遺産地域(セイラム) * [[スプリングフィールド造兵廠|スプリングフィールド国営造兵廠国立史跡]]([[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド]]近郊) * [[フレデリック・ロー・オルムステッド]]国立史跡([[ブルックライン]]) * サドベリー、アサベットおよびコンコード天然景勝河川(Sudbury, Assabet, and Concord Wild and Scenic Rivers) * {{仮リンク|ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ国立史跡|en|John Fitzgerald Kennedy National Historic Site}}(ブルックライン) * ウェストフィールド天然景勝河川([[ウェストフィールド (マサチューセッツ州)|ウェストフィールド]]近郊) === 生態系 === 州内陸部の主要な植生は温帯[[落葉樹林]]である。農業開墾のために森林はほとんど伐採されたが、孤立した地域に[[原生林]]が僅かに残され、農場が放棄されるにつれて、多くの田園部で森林が再生されてきた<ref>{{Cite news | last = Stocker | first = Carol | title = Old growth, grand specimens drive big-tree hunters | url = http://www.boston.com/yourlife/home/articles/2005/11/17/old_growth_grand_specimens_drive_big_tree_hunters/ | newspaper = [[The Boston Globe]] | date = November 17, 2005 | accessdate = October 17, 2009 | postscript = }}.</ref>。現在は州域の62%が森林に覆われている<ref>{{cite web | title = Current Research&nbsp;— Working Landscapes | publisher=The Center for Rural Massachusetts&nbsp;— The University of Massachusetts Amherst | accessdate =March 19, 2009 | url= http://www.umass.edu/ruralmass/currentresearch.html}}</ref><ref>{{cite web | title = Massachusetts Forests | publisher = MassWoods Forest Conservation Program&nbsp;— The University of Massachusetts Amherst | accessdate = March 19, 2009 | url = http://www.masswoods.net/index.php/forests | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090312092446/http://www.masswoods.net/index.php/forests | archivedate = 2009年3月12日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。人間の開発によって最も影響された地域は東部のボストン大都市圏と西部のスプリングフィールド大都市圏、および農業地帯のパイオニア・バレーである<ref>{{cite web | title = Northeastern Coastal Zone&nbsp;— Ecoregion Description | publisher=[[United States Geological Survey]] | accessdate =October 17, 2009 | url = http://landcovertrends.usgs.gov/east/eco59Report.html}}</ref>。過去数世紀で絶滅した動物としては、[[オオカミ|ハイイロオオカミ]]、[[アメリカアカシカ|エルク]]、[[クズリ]]、[[ピューマ|マウンテンライオン]]がある<ref name="mammallist">{{cite web | title = State Mammal List | publisher=Massachusetts Division of Fisheries & Wildlife | accessdate =October 17, 2009 | url = http://www.mass.gov/dfwele/dfw/wildlife/facts/mammals/mammal_list.htm}}</ref>。 [[ファイル:Charadrius-melodus-004 edit.jpg|thumb|250px|right|マサチューセッツ州の多くの海岸地域はフエチドリなど野鳥の生息域になっている。]] 州内の都市化は進んだが、多くの生物種が生息している。[[ハヤブサ]]は大都市の高層ビルをねぐらにしている<ref>{{cite web | title = Peregrine Falcon | publisher= Massachusetts Division of Fisheries & Wildlife | accessdate =May 26, 2010 | format = PDF | url = http://www.mass.gov/dfwele/dfw/nhesp/species_info/nhfacts/falco_peregrinus.pdf}}</ref>。ゴミや動物の死骸をあさる[[コヨーテ]]は近年その個体数を増加させている<ref>{{cite web | title = Eastern Coyote in Massachusetts | publisher =Massachusetts Division of Fisheries & Wildlife | accessdate =May 26, 2010 | url = http://www.mass.gov/dfwele/dfw/wildlife/living/living_with_coyotes.htm}}</ref>。[[オジロジカ]]、[[アライグマ]]、野生の[[シチメンチョウ]]や[[トウブハイイロリス]]も州全体で見られる<ref name="mammallist" /><ref>{{cite web | title = Wild Turkey in Massachusetts | publisher=Massachusetts Division of Fisheries & Wildlife | accessdate =May 26, 2010 | format = PDF | url = http://www.mass.gov/dfwele/dfw/wildlife/living/pdf/living%20_with_turkeys.pdf}}</ref>。州西部の田園地帯では、農業の衰退によって森林化が進んだために、より大型の[[ヘラジカ]]や[[アメリカグマ|アメリカクロクマ]]が戻ってきている<ref>{{cite web | title = Moose in Massachusetts | publisher=Massachusetts Division of Fisheries & Wildlife | accessdate =May 26, 2010 | url = http://www.mass.gov/dfwele/dfw/wildlife/living/living_with_moose.htm}}</ref><ref>{{cite web | title = Black Bears in Massachusetts | publisher=Massachusetts Division of Fisheries & Wildlife | accessdate =May 26, 2010 | url = http://www.mass.gov/dfwele/dfw/wildlife/living/living_with_bears.htm}}</ref>。 マサチューセッツ州は大西洋岸にそった渡りの水禽類の飛行コースであるアトランティック・フライウェイに位置している<ref>{{cite web | title = Atlantic Flyway | publisher=University of Nebraska | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.unl.edu/nac/atlas/Map_Html/Biodiversity/National/Atlantic_flyway/Atlantic_Flyway.htm}}</ref>。州中央部の湖群、特にクィアビン貯水池には、[[ハシグロアビ]]が生息し<ref>{{cite web | title = Common Loon | publisher = Massachusetts Division of Fisheries & Wildlife | accessdate =May 28, 2010 | format = PDF | url = http://www.mass.gov/dfwele/dfw/nhesp/species_info/nhfacts/gavia_immer.pdf}}</ref>、ナンタケット島近くではかなりの数の[[コオリガモ]]が越冬する<ref>{{cite web | title = Telemetry Research:Long-Tailed Ducks | publisher = Mass Audubon | accessdate = May 28, 2010 | url = http://www.massaudubon.org/Conservation_Science/Tracking/LTDUresearch.php | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100708200139/http://www.massaudubon.org/Conservation_Science/Tracking/LTDUresearch.php | archivedate = 2010年7月8日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。海岸沖の小島や海浜は[[ベニアジサシ]]が生息し、絶滅が危惧される{{仮リンク|フエチドリ|en|Piping plover}}など野鳥の繁殖地になっている<ref>{{cite web | title = Roseate Tern | publisher=Massachusets | url= http://www.mass.gov/eea/agencies/dfg/dfg-site-help.html|accessdate=2013-08-26}}</ref><ref>{{cite web | title = Coastal Waterbird Program | publisher= Mass Audubon | accessdate = May 28, 2010 | url = http://www.massaudubon.org/cwp/}}</ref>。モノモイ国立野生生物保護区など保護地域は海岸に生息する鳥類の重要な繁殖地となり、また[[ハイイロアザラシ]]など様々な海洋性生物も多い<ref>{{cite web | title = Monomoy National Wildlife Refuge – Wildlife and Habitat | publisher = United States Fish and Wildlife Service | accessdate = May 26, 2010 | url = http://www.fws.gov/northeast/monomoy/wildlife.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100624085928/http://www.fws.gov/northeast/monomoy/wildlife.html | archivedate = 2010年6月24日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 淡水魚としては、[[バス (魚)|バス]]、[[コイ]]、[[ナマズ目|ナマズ]]、[[マス]]がおり<ref>{{cite web | url = http://www.mass.gov/dfwele/dfw/recreation/fishing/best_bets/best_bets_home.htm | title = Best Bets for Fishing | publisher = Massachusetts Division of Wildlife & Fisheries | accessdate =May 30, 2010}}</ref>、海には[[タイセイヨウダラ]]、[[コダラ]]、[[ロブスター|アメリカン・ロブスター]]が多い<ref>{{cite web | url = http://www.mass.gov/dfwele/dmf/recreationalfishing/species.htm | title = Species Profiles | publisher=Massachusetts Division of Marine Fisheries | accessdate =May 30, 2010}}</ref>。その他にも[[ゼニガタアザラシ]]、絶滅危惧種の[[タイセイヨウセミクジラ]]、[[ザトウクジラ]]、[[ナガスクジラ]]、[[ミンククジラ]]、[[タイセイヨウカマイルカ]]が見られる<ref name="mammallist" />。 == 人口動態 == [[ファイル:Massachusetts population map.png|thumb|350px|マサチューセッツ州の人口密度図。]] === 人口 === {{USCensusPop |1790= 378787 |1800= 422845 |1810= 472040 |1820= 523287 |1830= 610408 |1840= 737699 |1850= 994514 |1860= 1231066 |1870= 1457351 |1880= 1783085 |1890= 2238947 |1900= 2805346 |1910= 3366416 |1920= 3852356 |1930= 4249614 |1940= 4316721 |1950= 4690514 |1960= 5148578 |1970= 5689170 |1980= 5737037 |1990= 6016425 |2000= 6349097 |2010= 6547629 |2020= 7029917 |footnote=<ref name="PopEstUS"/><ref>{{Cite journal|place=US|url=http://www.census.gov/population/censusdata/table-16.pdf|title=Population: 1790 to 1990|size=35.4 KB|publisher=census|postscript=}}.</ref><ref>{{Cite journal|url=http://www.census.gov/population/cen2000/tab02.txt|title=Resident Population of the 50 States, the District of Columbia, and Puerto Rico|publisher=Census|year=2000|place=US|postscript=}}.</ref><ref>{{cite web |url=http://2010.census.gov/2010census/data/|title=2010 Data|publisher=Census|location=US|accessdate=February 1, 2011}}</ref> }} 2020年国勢調査時点でのマサチューセッツ州の人口は7,029,917人で、2010年国勢調査での6,547,629人から7.37%増加していた<ref name="Census2020_QuickFacts" />。2000年時点での人口密度は346人/km<sup>2</sup>であり、ニュージャージー州、ロードアイランド州に次いで第3位だった。 2008年のマサチューセッツ州の人口には919,771人の外国生まれの住民が含まれている。 マサチューセッツ州の人口の大部分はボストン地域、[[w:North Shore (Massachusetts)|ノースショア]]、[[w:South Shore (Massachusetts)|サウスショア]]、及び西部郊外を含む、[[w:Greater Boston|大ボストン]]に住んでおり、おおよそ5,800,000人である。もう一つの大都市圏はスプリングフィールド大都市圏であり、コネチカット川バレーを中心に、再活性化されたスプリングフィールド市、大学町の並び([[アマースト (マサチューセッツ州)|アマースト]]、[[ノーサンプトン (マサチューセッツ州)|ノーサンプトン]]など)と北部や西部の田園地帯がある。マサチューセッツ州の[[人口重心]]は[[ネイティック (マサチューセッツ州)|ネイティック]]の町にある<ref>{{Cite journal | format = plain text | url = http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt | title = Population and Population Centers by State: 2000 | location = United States | publisher = Census Bureau, Deparatment of Commerce | accessdate = January 14, 2007 | postscript = }}.</ref>。 アメリカ合衆国北東部の州と同様、マサチューセッツ州の人口は過去数十年間増え続けたが、南部や西部の州よりも伸びは鈍化している<ref name="GlobeDemographics1">{{Cite news | last = Mishra | first = Raja | title = State's population growth on stagnant course | url = http://www.boston.com/news/local/articles/2006/12/22/states_population_growth_on_stagnant_course/ | newspaper = Boston Globe | date = December 22, 2006 | accessdate = June 5, 2010 | postscript = }}.</ref>。最新2010年国勢調査では2000年時点から3.9%増加しており、国内平均の10%近い値に比べれば低い。マサチューセッツ州を去る人々は住宅費と生活費の高さをその要因に挙げている<ref>{{Cite news | url = http://www.metrowestdailynews.com/news/x1840140755/Experts-say-housing-costs-schools-key-to-job-creation-in-Massachusetts | title = Experts say housing costs, schools key to job creation in Massachusetts | place = Framingham, MA | newspaper = The MetroWest Daily News | postscript = }}.</ref>。もう1つの要因は製造業経済からハイテク産業への転換であり、熟練度の落ちる労働者、特に男性は雇用機会が限られている<ref name="GlobeDemographics2">{{Cite news | last = Levenson | first = Michael | title = Bay state's labor force diminishing | url = http://www.boston.com/jobs/news/articles/2006/12/10/bay_states_labor_force_diminishing/ | newspaper = Boston Globe | date = December 10, 2006 | accessdate = June 5, 2010 | postscript = }}.</ref> 。 この国内への転出を外国からの移民が補い、2010年国勢調査では増加を続けている結果になった<ref name="GlobeDemographics1" /><ref name="USAToday1">{{Cite news | last = Bayles | first = Fred | title = Minorities account for state population growth | url = http://www.usatoday.com/news/nation/census/ma.htm | newspaper = USA Today | date = March 21, 2001 | accessdate = June 5, 2010 | postscript = }}.</ref>。2005年の調査に拠れば、外国からの移民の40%は中南米からのものである。スプリングフィールド大都市圏に入ってきた者の多くは[[プエルトリコ]]出身だと言っている<ref name="GlobeDemographics1" />。州内の多くの地域は2000年から2010年まで人口の変化は比較的安定したものだった<ref name="USAToday1" />。ボストン市の準郊外部と海岸地域が急速に増加し、最西部[[バークシャー郡 (マサチューセッツ州)|バークシャー郡]]やケープコッドの[[バーンスタブル郡 (マサチューセッツ州)|バーンスタブル郡]]の2郡のみは人口が減少していた<ref name="USAToday1" />。これら2郡は「第2の家」が多く、州内の観光地を構成している。 2005年時点で州民の79%は家庭で[[英語]]を話し、7%が[[スペイン語]]、3.5%が[[ポルトガル語]]、1%が[[フランス語]]か[[中国語]]を話している<ref>{{Cite journal | url = http://www.mla.org/map_data_results&state_id=25&mode=state_tops | contribution = Most spoken languages in Massachusetts | title = Language Map Data Center | publisher = Modern Language Association | accessdate = February 23, 2007 | postscript = }}.</ref>。 2010年国勢調査では人口の48.4%(3,166,628 人)が男性、51.6%(3,381,001 人)が女性だった。年齢構成では18歳以上が78.3%、65歳以上が13.8%おり、平均年齢は39.1歳だった。男性の平均年齢は37.7歳、女性は40.3歳だった。 === 人種及び祖先 === 2012年推計に拠れば、マサチューセッツ州の人種による人口構成は次のようになっている<ref name="census" /><ref>{{Cite journal | publisher = Census | place = US | title = Fact finder | url = http://factfinder2.census.gov/faces/tableservices/jsf/pages/productview.xhtml?pid=DEC_10_DP_DPDP1&prodType=table | postscript = |accessdate=2013-08-26}}.</ref> 。 * 83.7% [[白人]](非ヒスパニック白人は75.8%) * 7.9% [[黒人]] * 5.8% [[アジア系アメリカ人|アジア]] * 0.8% [[インディアン]] * 0.1%未満 太平洋諸島系 * 4.7% その他の人種 * 2.0% 混血 * 10.1% [[ヒスパニック]](人種に拠らない、[[プエルトリコ]]出身は4.1%) 州内で最も多い人種である非ヒスパニック白人は、1970年の95.4%から2012年の75.8%まで減少してきた<ref name="census">{{cite web |url=http://quickfacts.census.gov/qfd/states/25000.html |title=Massachusetts QuickFacts | location =US | publisher = Census Bureau|accessdate=2013-08-26}}</ref><ref>{{cite web| title= Massachusetts – Race and Hispanic Origin: 1790 to 1990| location = US | publisher = Census Bureau | url =http://www.census.gov/population/www/documentation/twps0056/twps0056.html|accessdate=2013-08-26}}</ref>。2011年時点で非ヒスパニック白人は出生数の63.6%に関わっている<ref>{{cite news|url = http://www.cleveland.com/datacentral/index.ssf/2012/06/americas_under_age_1_populatio.html |title= Americans under age 1 now mostly minorities, but not in Ohio: Statistical Snapshot|last=Exner|first=Rich|date=June 3, 2012|work=The Plain Dealer}}</ref>。 マサチューセッツ州内で申告された祖先による構成比は:[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]] (22.5%)、[[イタリア系アメリカ人|イタリア系]] (13.5%)、[[w:British American|イギリス系]] (11.4%)、[[w:French American|フランス系]] (8%)、[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]] (5.9%)。 その他に、かつて[[ニューベッドフォード (マサチューセッツ州)|ニューベッドフォード]]は[[カーボベルデ系アメリカ人]]の中心都市であった。 1795年時点では州民の95%近くがイギリス系の子孫だった{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 173}}。19世紀初期から中期、移民が大量に入ってくるようになり、1840年代のアイルランド系{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 173–79}}が始まりだった。今日アイルランド系とその混血が人口の25%近くを占め、先祖別では最大である。その後には[[ケベック州]]や、イタリア、[[ポーランド]]などヨーロッパ各所からの移民が続いた{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 203}}。20世紀初期、多くのアフリカ系アメリカ人が州内に入ってきたが、他の北部州と比べれば少なかった{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 301}}。20世紀の後半、ラテンアメリカ、アフリカ、東アジアからの移民がかなり増加した。[[ハイチ]]出身の州民数では国内第3位である<ref>{{cite web | format = PDF | url = http://www.bostonredevelopmentauthority.org/pdf/ResearchPublications//Haitian%20UPDATE%20FINAL.pdf | title = Imagine all the people: Haitian immigrants in Boston | publisher=Boston Development Authority | accessdate =May 30, 2010}}</ref>。 州内には[[ポルトガル]]系の子孫が比較的多い。その移民の多くは19世紀にニューベッドフォードなどの町で捕鯨産業に携わるために、[[アゾレス諸島]]から移ってきていた<ref>{{cite web | url = http://www.loc.gov/rr/hispanic/portam/bedford.html | title = Whaling Industry and Portuguese Immigration Centered in New Bedford, Mass | publisher=Library of Congress | accessdate =June 1, 2010}}</ref>{{Sfn | Brettell| 2003|pp = xii–xiv}}。後には繊維産業での職を求め、第2の波があった{{Sfn | Brettell| 2003|pp = xii–xiv}}。ローウェルには国内でも第2位の[[カンボジア]]出身者がいる<ref>{{Cite news | last = Schweitzer | first = Sarah | title = Lowell hopes to put 'Little Cambodia' on the map | url = http://www.boston.com/news/local/massachusetts/articles/2010/02/15/lowell_hopes_to_put_little_cambodia_on_the_map/ | newspaper = The Boston Globe | date = February 15, 2010 | accessdate = May 31, 2010 | postscript = }}.</ref>。インディアンのワンパノアグ族はマーサズ・ヴィニヤードのアクィナ、グラフトン、ケープ・コッドのマシュピーで居留地を維持している<ref>{{cite news | agency = Associated Press | url = http://wbztv.com/topstories/local_story_046132927.html | title = Wampanoag Tribe Receives Federal Recognition | newspaper = WBZ-TV | place = Boston, MA | accessdate = February 20, 2007 | postscript = | archiveurl = https://web.archive.org/web/20070928041708/http://wbztv.com/topstories/local_story_046132927.html | archivedate = 2007年9月28日 | deadurldate = 2017年9月 }}.</ref><ref>{{Cite news | last = Weber | first = David | url = http://www.boston.com/news/local/massachusetts/articles/2007/02/15/mashpee_wampanoag_indians_receive_federal_recognition/ | title = Mashpee Wampanoag Indians receive federal recognition | newspaper = The Boston Globe | date = February 15, 2007 | accessdate = February 20, 2007 | postscript = }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}.</ref>。ニプマク族は州中央部で州が認定した居留地2か所を維持している。マサチューセッツ州はアメリカの他州で見られたような人種間暴力闘争を避けてきたが、1850年代の移民排斥主義者(主に反カトリック)の[[ノウ・ナッシング]]{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 180–82}}、1920年代の議論の多かった[[サッコ・ヴァンゼッティ事件]]の処刑{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 257–58}}、1970年のボストンにおけるバスの人種統合反対など{{Sfn | Brown| Tager| 2000|pp = 300–4}}、マサチューセッツ州の人種の歴史は完全に調和あるものではなかった。 === 宗教 === マサチューセッツ州は1628年に清教徒によって設立され開拓された。その子孫は様々な教会に属している。直接継承しているのは[[会衆派教会]]/[[キリスト連合教会]]であり、また[[ユニテリアン・ユニヴァーサリズム|ユニタリアン・ユニバーサリスト協会]]である。州民の大半はキリスト教徒である。ユニタリアン・ユニバーサリスト協会の本郡はボストン市のビーコンヒルにある<ref>{{cite web | url = http://www.bluehillsuu.org/aboutuu.html | title = About Unitarian Universalism | publisher=Blue Hills Unitarian Universalist Fellowship | accessdate =May 30, 2010}}</ref> 。 今日、プロテスタントは州人口の4分の1に満たない。アイルランド、さらにイタリア、ポルトガル、ケベック、ラテンアメリカからの大量の移民が入ってきたので、[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]教徒が最大の宗派である。1820年から1920年には大勢の[[ユダヤ教]]徒がボストンやスプリングフィールド地域に移って来た。[[メリー・ベーカー・エディ]]は[[クリスチャン・サイエンス]]の世界本部であるボストン・マザー教会を設立した。[[仏教]]徒、[[ペイガニズム]]教徒、[[ヒンドゥー教]]徒、[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]員、[[イスラム教]]徒、[[モルモン教]]徒も見られる。ストックブリッジのクリパル・センター、スプリングフィールドの少林寺瞑想所、バリーの洞察力瞑想センターは、州内でアブラハムの宗教ではない宗教集会所の例である。宗教データアーカイブ協会に拠れば、信徒数最大の会派はローマ・カトリックの3,092,296人である。続いてキリスト連合教会の121,826人、[[米国聖公会]]の98,963人となっていた。ユダヤ教徒は約27万5千人である<ref>{{cite web|url = http://www.thearda.com/mapsReports/reports/state/25_2000.asp | publisher =The Association of Religion Data Archives | title = Maps & Reports | accessdate=February 1, 2011}}</ref>。 [[ファイル:OldShipEntrance.jpg|thumb|250px|1681年に建設されたオールド・シップ教会、連続的に州境に使われていることでアメリカ最古の教会<ref>{{Cite news | last = Butterfield | first = Fox | title = The Perfect New England Town | url = http://www.nytimes.com/1989/05/14/travel/the-perfect-new-england-village.html?sec=&spon= | newspaper = The New York Times | date = May 14, 1989 | accessdate = May 30, 2010 | postscript = }}</ref>。]] マサチューセッツ州 (2011年現在) の州民の宗教宗派別構成比は次のようになっている<ref>{{cite web | type = image | url = http://www.gc.cuny.edu/CUNY_GC/media/CUNY-Graduate-Center/Images/faculty%20publications/Aris/exhibit-15.jpg | format = JPEG | title= American Religious Identification Survey | work=Exhibit 15 | publisher= The Graduate Center, City University | location = New York | accessdate = September 21, 2007}}</ref>。 * [[キリスト教]] - 69% ** [[カトリック教会|カトリック]] - 44% ** [[プロテスタント]] - 25% *** [[バプテスト教会|バプテスト]] - 4% *** [[会衆派教会]]/[[キリスト連合教会]] - 3% *** [[米国聖公会]] - 3% *** 他のプロテスタントまたは一般的なプロテスタント - 15% * [[ユダヤ教]] - 2% * [[イスラム教]] - 1% * その他の宗教 - 7% * [[無宗教]] - 16% * 回答拒否 - 7% == インディアン部族 == [[ファイル:Tribal Territories Southern New England.png|thumb|left|300px|同州周辺のインディアン部族のかつての勢力図。]] [[ファイル:Plymouth Rock.JPG|right|thumb|150px|「[[プリマス・ロック|プリマスの岩]]」]] [[ファイル:Aquinnah ma highlight.png|thumb|right|150px|ワンパノアグ族ゲイヘッド・バンドの保留地は、このアクインナー島の最西部(赤い部分)にある。]] マサチューセッツ州では、[[モヒカン族|マヒカン族]]、[[マサチューセッツ族]]、[[ナウセット族]]、[[ニプマク族]]、[[ペンナクック族]]、[[ポコムチュク族]]、[[ワンパノアグ族]]などの[[インディアン]]部族が、トウモロコシやカボチャを育て、農耕狩猟生活を営み、また沿岸周辺の島を[[カヌー]]で行き来し交流した。17世紀から始まるイギリス人の入植によって、上記されているような血生臭い入植戦争にさらされ、どの部族も虐殺されて壊滅的な被害を受け、数を減らした。 この州にはワンパノアグ族を中心に、ニューイングランドのインディアン部族が結成する「[[ユナイテッド・アメリカ・インディアン・オブ・ニューイングランド|ニューイングランド・アメリカインディアン連合]]」の本拠があり、この団体は「[[ピルグリムファーザーズ]]」の「[[感謝祭|上陸記念感謝祭]]」にぶつけて同じ日に、「[[:en:National Day of Mourning (United States protest)|全米哀悼の日]]」のデモ抗議を毎年行っている。 1970年、プリマスで行われた「[[ピルグリム・ファーザーズ]]上陸350周年記念の日」には、全米最大のインディアン権利団体「[[アメリカインディアン運動]]([[w:American Indian Movement|AIM]])」のインディアン活動家の[[ラッセル・ミーンズ]]らが、復元した「メイフラワー2世号」に乗りこんで、マストにAIMの旗を掲げ、さらに「[[プリマス・ロック|プリマスの岩]]」をトラック一台分の土砂で埋めてみせるという抗議行動を行った。 現在アメリカ連邦政府が公認し、[[インディアン居留地|保留地]](Reservation)を領有する部族はワンパノアグ族の「ゲイヘッド(アクインナー)・バンド」と、「マシュピー・バンド」だけである。「ゲイヘッド・バンド」は1987年に内務省から連邦公認を受け、485エーカー(1.96㎢)の土地を得て「復活」した。「マシュピー・バンド」は2007年2月に公認を受け、同州のケープコッド・マシュピーに140エーカー(約0.6㎢)の保留地を得た。 同じワンパノアグ族でも、多くの支族(バンド)が現在、アメリカ連邦政府から部族認定を抹消されており、保留地その他のインディアンとしての権利を行使できないでいる。また、連邦から公認されていないが、マサチューセッツ州政府から公認されている部族もあり、多数の部族がより大きな権限を持つ連邦認定を求め、係争中である。 ニプマク族は州の公認を受けている部族であるが、2004年に内務省BIA(インディアン管理局)はニプマク族の連邦公認要求に対して、連邦が「部族国家」と承認するための7つの条件のうち、彼らには4条件が足りず、公認できないと返答した。 {| width="800px" |- valign=top |width="45%"| ≪アメリカ連邦政府が公式承認している部族≫ *「[[ワンパノアグ族]] **「ゲイヘッド(アクインナー)・バンド」(1987年に公認) **「マシュピー・バンド」(2007年に公認) ≪アメリカ連邦政府が公式承認していない部族・部族団体≫ *「[[ニプマク族]]」 **「クインシガモンド・バンド」 **「ナチック・ニプマク族」 *「[[ナラガンセット族]]」 *「[[ワンパノアグ族]]」 **「アゾネット・バンド」 **「ポカノケット・バンド」 *「西[[アベナキ族]]」 **「コアサック・バンド」 *「旧プリマス・インディアン連邦」 *「[[シャーチコーク族]]・ニューイングランド沿岸会議」 *「[[ポンカポアグ族]]部族会議」 *「レベル・ディーフ・パンサー部族インターナショナル」 *「[[ユナイテッド・アメリカ・インディアン・オブ・ニューイングランド|ニューイングランド・アメリカインディアン連合]]」 |width="45%"| ≪アメリカ連邦政府は公認していないが、州政府は公認している部族・部族団体≫ *「ニプマク族」 **「ハッサナミスコ・バンド」 **「チャウブナグンガマウグ・バンド」 *「ワンパノアグ族」 **「チャップクイディック・ワンパノアグ族」 **「ヘリング・ポンド・ワンパノアグ族」 **「ポカスセット・ワンパノアグ族」 **「シーコンケ・ワンパノアグ族」 |} <gallery> Map of Massachusetts highlighting Barnstable County.svg|ワンパノアグ族マシュピー・バンドの保留地は、[[ケープコッド]](赤い部分)の一角にある。 Webster ma highlight.png|ニプマク族の「チャウブナグンガマウグ保留地」は、ウェブスター(赤い部分)の一角にある。 Grafton ma highlight.png|ニプマク族の「ハッサナミスコ保留地」は、グラフトン(赤い部分)の一角にある。 Bandera Nipmuc Nation.PNG|ニプマク族の部族国旗。 Flag of Western Abenaki.svg|西アベナキ族の部族国旗。 Bandera Pennacook Abnaki.png|西アベナキ族コアサック・バンドの部族国旗。 </gallery> === インディアン・カジノ === 2007年春、マシュピー・ワンパノアグ族は、同州ミドルボロ市に539エーカー(約219万㎡)の土地を購入し、10億ドル級の部族カジノを建設すると発表した。部族は7月からミドルボロ市とカジノ交渉を終え、2007年8月にこの土地を内務省に申請し、「連邦信託地(Reservation)」とし、同州のケープコッド・マシュピーにも140エーカー(約57万㎡)の土地を確保した。 これはバイロン・ドルガン上院議員(ノースダコタ州選出)による、「インディアン再編成法」(1934年制定)の改正処置案に後押しされたもので、この改正案はインディアン部族が公認され復活した時期に関係なく、すべてのインディアン部族が、土地を内務省に連邦信託する権限を与えるものである。 2009年2月、マシュピー・ワンパノアグ族部族会議議長のグレン・マーシャルが、違法キャンペーンと寄付金の個人横領によって連邦裁判所で有罪となり、このカジノ計画の行方が危ぶまれた。2月8日に新選任された議長セドリック・クロムウェルは評議会を一新し、デヴァル・パトリック州知事と部族カジノの正式交渉を再開。クロムウェルは「我々は、我々の部族を取り戻すつもりです」と宣言した。 一連のカジノ計画が実現すれば、この土地は連邦法で大部分の国税規約から免除されることとなり、1500人のマシュピー・ワンパノアグ部族員の雇用と甚大な部族の福利厚生基金を生むものと大きく期待されている。 == 郡、都市と町 == [[ファイル:DowntownBoston.jpg|thumb|250px|州都ボストン市の市街地。]] {{main|マサチューセッツ州の郡一覧}} 州内には、[[マサチューセッツ州の郡一覧|14の郡]]がある<ref name="MassCities1">{{cite web|url=http://www.sec.state.ma.us/cis/cisctlist/ctlistidx.htm|title= Information and Historical Data on Cities, Towns, and Counties in the Commonwealth of Massachusetts|publisher=Secretary of the Commonwealth of Massachusetts |accessdate=June 8, 2010}}</ref>。 さらには、[[w:List of municipalities in Massachusetts|50の都市と301の町]]がある。11の町が「町」を自称しているが、タウンミーティングではなく、市長・市政委員会あるいはマネジャー・市政委員会形式の政府としているため、法的には「市」である<ref>See [[w:Administrative divisions of Massachusetts#The city/town distinction]].</ref>。 * [[:Category:マサチューセッツ州の都市]] ボストン市が州都かつ人口最大の都市である。市の人口は2020年時点で675,647人(全米24位)であり、ボストン大都市圏では4,941,632人と全米10位の大都市圏となっている。人口が10万人を超える都市としては、他に[[ウースター (マサチューセッツ州)|ウースター]](206,518人)、[[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド]](155,929人)、[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]](118,403人)、[[ローウェル (マサチューセッツ州)|ローウェル]](115,554人)、[[ブロックトン (マサチューセッツ州)|ブロックトン]](105,643人)、[[クインシー (マサチューセッツ州)|クインシー]](101,636人)、[[リン (マサチューセッツ州)|リン]](101,253人)、[[ニューベッドフォード (マサチューセッツ州)|ニューベッドフォード]](101,079人)の各市がある<ref name="Census2020_QuickFacts" />。[[プリマス (マサチューセッツ州)|プリマス町]]が面積最大の自治体である<ref name="MassCities1" />。 マサチューセッツ州はニューイングランドの他の5州とともにニューイングランド・タウンと呼ばれる地方政府形態を採っている{{Sfn | Sokolow| 1997|pp = 293–6}}。この形態では、法人化された町が地方政府としての責任と権限の多くを保有している。1997年に郡政府のうちの8つが廃止され、州政府の一部として保安官と土地登記官のみを選出している<ref name="Counties1">{{cite web | url = http://www.lwvma.org/govcounty.shtml | title = Massachusetts Government: County Government | publisher=League of Women Voters | accessdate =October 19, 2009}}</ref>。5郡([[バーンスタブル郡 (マサチューセッツ州)|バーンスタブル郡]]、[[ブリストル郡 (マサチューセッツ州)|ブリストル郡]]、[[デュークス郡 (マサチューセッツ州)|デュークス郡]]、[[ノーフォーク郡 (マサチューセッツ州)|ノーフォーク郡]]、[[プリマス郡 (マサチューセッツ州)|プリマス郡]])は郡レベルの地方政府を残し、1郡([[ナンタケット (マサチューセッツ州)|ナンタケット郡]])は郡と市を統合した政府としている<ref name="naco">{{cite web|url=http://www.naco.org/Template.cfm?Section=Find_a_County&Template=/cffiles/counties/state.cfm&statecode=ma|title=Find a County|work=National Association of Counties|accessdate=19 July 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070608061239/http://www.naco.org/Template.cfm?Section=Find_a_County&Template=%2Fcffiles%2Fcounties%2Fstate.cfm&statecode=ma|archivedate=2007年6月8日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 == 法律及び行政 == [[ファイル:Mass statehouse eb1.jpg|thumb|250px|[[マサチューセッツ州会議事堂]]、[[ボストンコモン]]に面して建っている。]] :''主要記事:[[w:Government of Massachusetts|マサチューセッツ州の政治]]'' :''参照:[[w:Massachusetts Constitution|マサチューセッツ州の憲法]] 及び [[w:Governor of Massachusetts|マサチューセッツ州の知事]]'' マサチューセッツ州政府は行政府、立法府、司法府の三権が分立している。これまでの歴史の中で、1620年の[[メイフラワー誓約]]、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地の並列時代、それらが統合されたマサチューセッツ植民地の時代と移って来た。マサチューセッツ州憲法は、アメリカ独立戦争が進行中の1780年に批准された。[[連合規約]]に遅れること4年、現行[[アメリカ合衆国憲法]]に先立つこと8年だった。この憲法はジョン・アダムズが起草し、世界でも連続して有効な憲法としては最古のものである<ref>{{cite book|last=Levy|first=Leonard|title=Seasoned Judgments: The American Constitution, Rights, and History|year=1995|page=307|url=https://books.google.co.jp/books?id=-7lKq0dfs54C&pg=PA307&dq=Massachusetts+world%27s+oldest+constitution&hl=en&sa=X&ei=0yr7Tt6YC6Hw0gHimcSNAg&redir_esc=y#v=onepage&q=Massachusetts%20world%27s%20oldest%20constitution&f=false}}</ref><ref name="Kemp">{{cite book|last=Kemp|first=Roger|title=Documents of American Democracy|year=2010|page=59|url=https://books.google.co.jp/books?id=JHawgM-WnlUC&pg=PA59&dq=Massachusetts+world%27s+oldest+constitution&hl=en&sa=X&ei=0yr7Tt6YC6Hw0gHimcSNAg&redir_esc=y#v=onepage&q=Massachusetts%20world%27s%20oldest%20constitution&f=false}}</ref><ref>{{cite book|last=Murrin|first=John|title=Liberty, Power, and Equality: A History|year=2011|url=https://books.google.co.jp/books?id=CADtJymgzk4C&pg=PT222&dq=Massachusetts+world%27s+oldest+constitution&hl=en&sa=X&ei=Iiz7TprzA-fo0QGVp51s&redir_esc=y#v=onepage&q=Massachusetts%20world%27s%20oldest%20constitution&f=false}}</ref><ref name="sjc-massgov">{{cite web|url=http://www.mass.gov/courts/sjc/john-adams-b.html|title=John Adams and the Massachusetts Constitution|year=2007|publisher=Massachusetts Judicial Branch, mass.gov|accessdate=July 18, 2009}}</ref> 。 近年は概して[[民主党 (アメリカ)|民主党]]が州政界を支配し、国内でもリベラルな州という評判がある。1974年、エレーヌ・ノーブルは州議会下院議員の候補者として初めてレズビアンであることを公表した<ref name="glbtq">{{cite web |last = Gianoulis |first = Tina |title = Noble, Elaine |publisher = glbtq: An Encyclopedia of Gay, Lesbian, Bisexual, Transgender, and Queer Culture |date = October 13, 2005 |url = http://www.glbtq.com/social-sciences/noble_e.html |accessdate = 2007-09-24 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20071030032157/http://www.glbtq.com/social-sciences/noble_e.html |archivedate = 2007年10月30日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。ゲイであることを公表したゲリー・スタッズも州選出アメリカ合衆国下院議員だった。 === 州政府 === マサチューセッツ州知事が行政府の長である。その任務は法案の承認あるいは拒否、司法府や州機関役人の指名、恩赦の発行、年間予算の立案、マサチューセッツ州軍の指揮などである<ref name="MassPol1">{{cite web | url = http://www.sec.state.ma.us/cis/cismaf/mf1b.htm | title = Massachusetts Facts: Politics | publisher = Secretary of the Commonwealth of Massachusetts | accessdate =June 1, 2010}}</ref>。2013年時点の州知事は[[:en:Deval Patrick|デヴァル・パトリック]]であり、民主党員、ミルトン出身である。行政府には、8人の選挙で選ばれる委員と副知事で構成される行政委員会がある<ref name="MassPol1" />。行政委員会の機能としては、知事が任命する者の確認や選挙結果の認証がある<ref name="MassPol1" />。 立法府は定員160人の下院と、同40人の上院がある<ref name="MassPol1" />。両院の指導者は互選で選ばれる。下院指導者は議長(スピーカー)と呼ばれ、上院の指導者はプレジデントと呼ばれる<ref name="MassPol1" />。両院の下には幾つかの委員会がある。両院の議員共に任期は2年間である。 司法府の最高位にあるのは州最高裁判所であり、その下に多くの下級裁判所がある<ref name="MassPol1" />。最高裁判所には1人の首席判事と6人の陪席判事がいる<ref name="MassPol1" />。判事は州知事が任命し、行政委員会が確認する<ref name="MassPol1" />。 マサチューセッツ州から選出しているアメリカ合衆国上下院議員は全て民主党で占められている(2013年時点)<ref name="USSenate">{{cite web |url= http://www.senate.gov/general/contact_information/senators_cfm.cfm|title=Members of the 111th Congress |publisher =United States Senate |accessdate=October 18, 2009}}</ref><ref name="USHouse">{{cite web |url = http://www.sec.state.ma.us/cis/cispdf/ma_uscongress.pdf |title=Massachusetts Congressional Districts |publisher= Massachusetts Secretary of the Commonwealth |format=PDF |accessdate=October 18, 2009}}</ref>。下院議員は8人である。 アメリカ合衆国裁判所に掛かる事件は、アメリカ合衆国地区裁判所マサチューセッツ地区で審問され、アメリカ合衆国控訴裁判所第1巡回地区に控訴できる<ref name="autogenerated1">{{cite web | location = US | url = http://www.uscourts.gov/images/CircuitMap.pdf |title=Geographic Boundaries of United States Courts of Appeals and United States District Courts |publisher= Courts |format=PDF |accessdate=October 18, 2009}}</ref>。アメリカ合衆国大統領選挙では、11人の選挙人を割り当てられている<ref>{{cite web | work = Electoral College | title = 2008 Presidential Election | publisher= Archives | location = US | accessdate =June 2, 2010 | url = http://archives.gov/federal-register/electoral-college/2008/allocation.html}}</ref>。他州と同様に総取り方式である<ref>{{cite web | location = US | work = Electoral College | title = Frequently Asked Questions | publisher = Archives | accessdate =June 2, 2010 | url = http://www.archives.gov/federal-register/electoral-college/faq.html}}</ref>。 === 政治 === {{Main|w:Politics of Massachusetts}} {| class="wikitable" style="float:right; font-size:100%;" |+ '''大統領選挙の結果''' |- style="background:lightgrey;" ! 年 ! [[共和党 (アメリカ)|共和党]] ! [[民主党 (アメリカ)|民主党]] |- | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙|2012年]] | style="text-align:center; background:#fff3f3;" |38% ''1,178,510'' | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |'''61%''' ''1,906,319'' |- | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年]] | style="text-align:center; background:#fff3f3;" |36% ''1,108,854'' | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |'''62%''' ''1,904,098'' |- | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004年]] | style="text-align:center; background:#fff3f3;" |37% ''1,070,109'' | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |'''62%''' ''1,803,801'' |- | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000年]] | style="text-align:center; background:#fff3f3;" |33% ''878,502'' | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |'''60%''' ''1,616,487'' |- | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙|1996年]] | style="text-align:center; background:#fff3f3;" |28% ''718,107'' | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |'''62%''' ''1,571,763'' |- | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|1992年]] | style="text-align:center; background:#fff3f3;" |29% ''805,049'' | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |'''48%''' ''1,318,662'' |- | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙|1988年]] | style="text-align:center; background:#fff3f3;" |46% ''1,194,635'' | style="text-align:center; background:#f0f0ff;" |'''53%''' ''1,401,416'' |} 20世紀の半ばから、マサチューセッツ州は共和党寄りの政治から圧倒的に民主党の強い州に転換されてきた。1952年のアメリカ合衆国上院議員選挙で、民主党[[ジョン・F・ケネディ]]候補が、現職の共和党[[ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア]]を破ったのが、その転換点だったとされている。弟の[[エドワード・ケネディ|テッド・ケネディ]]は1962年からその死の2009年まで上院議員を務めた{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 310}}。それ以来マサチューセッツ州はリベラルな州としての評判を獲得し、近代リベラリズムの原型として使われることも多い。「マサチューセッツ・リベラル」という言葉も使われている<ref>{{cite news|url=http://www.usatoday.com/news/politicselections/nation/president/2004-07-25-mass-liberal_x.htm|title= Does 'Massachusetts liberal' label still matter?| first1 =Susan | last1 = Page | first2 = Jill | last2 = Lawrence|work= USA Today|date= July 11, 2004|accessdate = October 17, 2009}}</ref>。 マサチューセッツ州はボストン大都市圏を中核に、ケープと諸島部、西部において繰り返し民主党を支持してきている。共和党が強い地域は州間高速道路495号線に沿った中央部と、南部および北部の海岸にある町である<ref>{{cite web | url = http://www.r-bloggers.com/mapping-ma-election-results/ | publisher = R bloggers | title = Mapping MA election results | postscript = |accessdate=2013-08-26}}.</ref>。1984年の大統領選挙で[[ロナルド・レーガン]]を支持して以来、大統領選挙で共和党候補を支持したことは無い。2010年に、テッド・ケネディの後任に当選した共和党[[スコット・ブラウン (政治家)|スコット・ブラウン]]はこの民主党優位の州で奇跡と呼ばれた。ただし、2012年の選挙では落選した<ref>{{cite news | title=Interactive Map, Election Results and Analysis |work=The New York Times | last1=Bloch | first1=Matthew | last2=Cox | first2=Amanda | last3=Ericson | first3=Matthew | last4=Hossain | first4 = Farhana | last5=Tse | first5=Archie | date=January 19, 2010 | accessdate=May 22, 2010 | url = http://www.nytimes.com/interactive/2010/01/19/us/politics/massachusetts-election-map.html}}</ref><ref>{{cite web | title=Fiery consumer advocate Elizabeth Warren beats Scott Brown in Massachusetts Senate race | date=November 6, 2011 | accessdate=July 31, 2013 | url = http://www.boston.com/metrodesk/2012/11/06/polls-close-mass-suspense-builds-race-for-senate/sBRjd1kjA1q5fiiQRA2xcL/story.html}}</ref>。 2006年の選挙では、共和党がマサチューセッツ州議会両院の13%しか議席を確保できなかった<ref>{{Cite journal | url = http://www.ncsl.org/ncsldb/elect98/profile.cfm?yearsel=2006&statesel=MA | title = State Vote 2006: Election Profile, Massachusetts | journal = State Legislatures Magazine | publisher = National Conference of State Legislatures | accessdate = November 17, 2007 | postscript = }}.</ref>。 共和党は1991年から2007年まで州知事を取っていたが、国内でも中道寄りの指導者だった<ref>{{Cite news | last = Gordon | first = Meryl | title = Weld at Heart | url = http://nymag.com/nymetro/news/politics/national/features/5574/ | newspaper = New York | date = January 14, 2002 | accessdate = May 23, 2010 | postscript = }}.</ref><ref>{{Cite news | last = Vennochi | first = Joan | title = Romney's liberal shadow | url = http://www.boston.com/news/globe/editorial_opinion/oped/articles/2007/06/17/romneys_liberal_shadow/ | newspaper = [[The Boston Globe]] | date = June 17, 2007 | accessdate = May 23, 2010 | postscript = }}.</ref>。[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、州出身の民主党[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]に61.9%の支持を与え、国内最高の支持率とした<ref>{{Cite journal | title = Federal Elections 2004 | page = 22 | publisher = Federal Election Commission | accessdate =October 17, 2009 | format = PDF | url = http://www.fec.gov/pubrec/fe2004/federalelections2004.pdf | postscript = }}</ref>。[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年]]では、[[バラク・オバマ]]が61.8%の支持を集めた<ref>{{cite web | title = 2008 Presidential Popular Vote Summary| format = PDF | publisher =Federal Election Commission | accessdate =October 17, 2009 | url = http://www.fec.gov/pubrec/fe2008/tables2008.pdf}}</ref>。 === 州法 === 現在、マサチューセッツ州においては、[[死刑制度]]は廃止されている<ref>[http://www.deathpenaltyinfo.org/massachusetts-0 Death Penalty Information Center>State by State>State Pages>Massachusetts] 2012年6月19日閲覧</ref>。 現在の全国的な問題の多くが、マサチューセッツ州の決定事項に影響されてきた。2003年、州最高裁判所は同性結婚を認める判断を下した<ref>{{cite web | title= Same-sex couples ready to make history in Massachusetts | publisher = CNN | accessdate=July 31,2013 | url= https://edition.cnn.com/2004/LAW/05/17/mass.gay.marriage/}}</ref>。2006年には州民全員に健康保険加入を強制する法を成立させた<ref>{{cite web |url= http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=11689698 | title =Massachusetts Makes Health Insurance Mandatory |publisher=[[National Public Radio]] |date=July 3, 2007 | accessdate = October 18, 2009}}</ref>。2008年、少量の[[大麻]]所有を犯罪とは認めない住民発議を成立させた<ref>{{cite web |format=PDF | url = http://www.sec.state.ma.us/ele/elepdf/2008%20Return%20of%20Votes%20Complete.pdf |title=2008 Return of Votes Complete | publisher =Massachusetts Secretary of the Commonwealth |date= December 17, 2008 |accessdate= October 18, 2009}}</ref>。また2012年には、大麻の医療利用を合法化することを住民投票で承認した<ref>{{cite web | url = http://www.boston.com/metrodesk/2012/11/06/massachusetts-voters-approve-ballot-measure-legalize-medical-marijuana/EpDzgJGfBjnOAkoXpJwm1K/story.html | title = Massachusetts voters approve ballot measure to legalize medical marijuana | publisher = NY Times Co. | accessdate = April 13, 2013}}</ref>。 == 経済 == [[ファイル:USCurrency Federal Reserve.jpg|thumb|150px|right|[[ダルトン (マサチューセッツ州)|ダルトン]]にある[[w:Crane Paper Company|クレイン製紙会社]] はアメリカ合衆国 [[w:Federal Reserve Note|紙幣]]を印刷するために使用する紙を生産している。]] [[アメリカ合衆国商務省経済分析局]]は2008年のマサチューセッツ州の州総生産高を3,650億米ドルだったと推計している<ref>{{cite web | url = http://www.bea.gov/regional/gsp/ | title = Gross Domestic Product by State | publisher=Bureau of Economic Analysis | accessdate =June 1, 2010}}</ref>。2008年の一人当たりの収入は50,735米ドルであり、国内第3位だった<ref name="PCI1">{{cite web | url = http://www.bea.gov/newsreleases/regional/spi/2009/pdf/spi0309.pdf | title = State Personal Income 2008 | publisher=Bureau of Economic Analysis | accessdate =June 8, 2010}}</ref>。フォーチュン500に入る会社は、13社が州内にあり、その中でも大きなものはボストン市のリバティ相互保険グループとスプリングフィールド市の[[マスミューチュアル生命保険]]だった<ref>{{cite news| date = July 27, 2010 | url = http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2010/states/MA.html | title =Fortune 500 – States|publisher= CNN | accessdate = July 27, 2010}}</ref>。CNBCによる「2010年事業のための上位州」リストでは、マサチューセッツ州を第5位に挙げていた<ref>{{Cite journal | title = America's Top States for Business 2010 | publisher = CNBC | type = special report | year = 2010 | edition = Web | date = May 9, 2011 | url = http://www.cnbc.com/id/37516043/ | issue = 1 | postscript = | archiveurl = https://web.archive.org/web/20111226183123/http://www.cnbc.com/id/37516043 | archivedate = 2011年12月26日 | deadurldate = 2017年9月 }}.</ref>。 [[ファイル:Sunset on Cape Cod Bay.jpg|thumb|250px|[[ケープコッド湾]]、州内の主要観光地となっている。]] 州経済に重要な産業は、高等教育、バイオテクノロジー、金融、医療、観光業がある。州道128号線沿いはコンピュータと電子技術の開発の中心である{{Sfn | Brown| Tager| 2000|p = 284}}。ハイテクは現在でも重要な部門だが、大規模な技術主導の会社は少ない。近年は観光業が重要な部門となり、ボストンやケープコッドが大きな観光地になっている。その他にもセイラム、プリマス、バークシャーズ(西部の高原)が観光地になっている。2013年4月時点で州内の失業率は6.4%であり<ref>{{cite web | url = http://www.boston.com/businessupdates/2012/06/14/mass-unemployment-rate-fell-percent-may-down-from-percent-april/ud9YL9UbI60fqjrAXXiQmL/story.html?p1=News_links | date = 2012‐6‐14 | title = Mass. unemployment rate falls to 6.0% in March, down from 6.9% in February |work=Boston Globe | accessdate = June 14, 2011}}</ref>、全国平均の7.6%より低い。 2005年時点で州内に7,700の農場があり、その総面積は52万エーカー (2,100 km<sup>2</sup>)、1農場当たり68エーカー(0.28 km<sup>2</sup>)となっている<ref name="USDA2">{{cite web | url = http://www.nass.usda.gov/Statistics_by_State/Ag_Overview/AgOverview_MA.pdf | title = 2009 State Agriculture Overview (Massachusetts) | publisher = United States Department of Agriculture | accessdate = June 1, 2010 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20061110135440/http://www.nass.usda.gov/Statistics_by_State/Ag_Overview/AgOverview_MA.pdf | archivedate = 2006年11月10日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。2007年時点でほぼ2,300の農場が生産高2,500米ドル以下だった<ref name="USDA2" />。農業生産品は、タバコ(国内第11位)、家畜(国内第17位)、果物、木の実、ベリー類(国内第16位)である<ref name="USDA2" />。[[オーシャン・スプレー]]([[w:Ocean Spray (cooperative)|Ocean Spray]])農業組合を擁するマサチューセッツ州は、[[ウィスコンシン州]]に続きアメリカ合衆国内で2番目に大きなクランベリー生産州である<ref>{{cite web| date =January 26, 2007 | url =http://www.nass.usda.gov/nh/jan07cran.pdf| title =Massachusetts Cranberries| publisher=United States Department of Agriculture| accessdate =May 23, 2010}}</ref>。 :''参照:[[w:Massachusetts locations by per capita income|州民一人当たりの所得によるマサチューセッツ州の地域一覧]]'' === 主な会社など === マサチューセッツ州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。 * [[レイセオン]] * [[スプリングフィールド・アーモリー]] * [[ダンキンドーナツ]] * [[オーシャン・スプレー]] ([[w:Ocean Spray (cooperative)|Ocean Spray]]) * [[w:Axcelis Technologies|アクセリス・テクノロジーズ]] * [[w:Varian semiconductors|ヴァリアン・セミコンダクター]] * [[BOSE]] * [[Euro-Pro Operating LLC|ユーロプロ・オペレーティング・エルエルシー]] === 税 === マサチューセッツ州の州税と地方税を合わせた税負担率は国内第11位である<ref name="MassTaxes1">{{cite web | title = Massachusetts | publisher=The Tax Foundation | accessdate =May 24, 2010 | url = http://www.taxfoundation.org/research/topic/35.html}}</ref>。個人[[所得税]]は定率の5.25%を採用している<ref>{{cite web | title = Mass. income tax rate cut by .05 percent | publisher=Yahoo | accessdate =May 10, 2012 | url = http://finance.yahoo.com/news/mass-income-tax-rate-cut-175739133.html}}</ref>。一定額以下の収入は免税だが、その額は年々変化している。法人所得税は8.8%であり<ref name="MassTaxes1" />、短期のキャピタルゲインについては12%である<ref name="MassTax2">{{cite web | title = Tax Rates | publisher=Massachusetts Department of Revenue | accessdate =May 24, 2010 | url = http://www.mass.gov/?pageID=dorterminal&L=5&L0=Home&L1=Individuals+and+Families&L2=Personal+Income+Tax&L3=Current+Year+Tax+Information&L4=Guide+to+Personal+Income+Tax&sid=Ador&b=terminalcontent&f=dor_help_guides_abate_amend_personal_issues_ratestax&csid=Ador}}</ref> 。 [[消費税]]は6.25%%だが<ref name="MassTaxes1" /><ref>{{cite web | title = TIR 13-10: Sales and Use Tax on Computer and Software Services Law Changes Effective July 31, 2013 | accessdate =July 29, 2013 | url = http://www.mass.gov/dor/businesses/help-and-resources/legal-library/tirs/tirs-by-years/2013-releases/tir-13-10.html}}</ref>、外食を除き食品は非課税であり、衣料品も一定額(175米ドル、これを超えた額が課税)以下は非課税となる<ref name="SalesTax1">{{cite web | title = A Guide to Sales and Use Tax | location = MA, US | publisher = Department of Revenue | accessdate =May 24, 2010 | url = http://www.mass.gov/?pageID=dorterminal&L=6&L0=Home&L1=Individuals+and+Families&L2=Personal+Income+Tax&L3=Forms+%26+Publications&L4=Publications&L5=Publications+Index&sid=Ador&b=terminalcontent&f=dor_publ_sales_use&csid=Ador}}</ref>。不動産と動産は、法によって免除されない限り課税対象である。資産税は国内第8位の高さである<ref name="MassTaxes1" />。相続税は無く、連邦の資産税に関連して定額までの州資産税が徴収される<ref name="MassTax2" />。 === エネルギー === 州内の発電市場は1998年に自由化され、消費者は発電会社を変えることなく供給業者を変更できることとした<ref>{{Cite journal | url = http://www.goodenergy.com/electricity_deregulation/massachusetts.aspx | title = Electricity deregulation | publisher = Good Energy | contribution = Massachusetts | postscript = }}.</ref>。住民の大半は従来の発電会社に頼っているが、2011年7月時点で発電量43億キロワット時の大半が競合の中で発電されている。2011年、マサチューセッツ州は国内でエネルギー効率の最も良い州に挙げられた<ref>{{cite web | first =Andrew | last = Shen | date =October 25, 2011 |url= http://www.businessinsider.com/most-energy-efficient-states-2011-10 |title=Massachusetts Passes California As The Most Energy Efficient State |publisher=Business insider | accessdate =2012-01-25}}</ref>。 {{-}} == 交通 == [[ファイル:MBTA services sampling excluding MBTA Boat.jpg|thumb|250px|[[マサチューセッツ湾交通局]]、ボストン大都市圏の交通を担当している。]] マサチューセッツ州には都市圏企画組織が10あり、都市圏以外の地域を担当する組織も3ある。マサチューセッツ州交通省が担当している。 === 鉄道 === [[アムトラック]]が都市間輸送を担当している。[[アセラ・エクスプレス]]などにより、ロードアイランド州[[プロビデンス (ロードアイランド州)|プロビデンス市]]、コネチカット州[[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン市]]、[[ニューヨーク]]市、[[ワシントンD.C.]]、[[シカゴ]]市、[[メイン州]][[ポートランド (メイン州)|ポートランド市]]などへの中長距離列車を走らせている<ref>{{cite web | work = Routes | title = Acela Express | publisher =[[Amtrak]] | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.amtrak.com/servlet/ContentServer/AM_Route_C/1241245664867/1237405732511}}</ref>。 === 地域交通 === [[マサチューセッツ湾交通局]] (MBTA) が[[地下鉄]]<ref>{{cite web | title = Subway Map | publisher=Massachusetts Bay Transit Authority | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.mbta.com/schedules_and_maps/subway/}}</ref>、バス<ref>{{cite web | title = Bus Schedules & Maps | publisher=Massachusetts Bay Transit Authority | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.mbta.com/schedules_and_maps/bus/}}</ref>、フェリー<ref>{{cite web | title = Boat Map and Schedules | publisher=Massachusetts Bay Transit Authority | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.mbta.com/schedules_and_maps/boats/}}</ref>の形態で、ボストン大都市圏の公共交通を担当している。長距離の通勤鉄道もウースター市やプロビデンス市まで運行している<ref>{{cite web | title = Commuter Rail Maps and Schedules | publisher=Massachusetts Bay Transit Authority | accessdate =May 22, 2010 | url = http://www.mbta.com/schedules_and_maps/rail/}}</ref>。2013年夏の時点で、ケープコッド地域交通局が、マサチューセッツ湾交通局やマサチューセッツ州交通省と協業して、ボストンとケープコッドの間に旅客鉄道のケープフライアーを運行している<ref>{{cite web | title = CapeFlyer | accessdate =July 29, 2013 | url = http://capeflyer.com/}}</ref><ref>{{cite web | title = T announces summer Cape Cod train service | publisher=WCVB-TV || accessdate =July 29, 2013 | url = http://www.wcvb.com/news/local/boston-south/T-announces-summer-Cape-Cod-train-service/-/9848842/19557134/-/f7pi02/-/index.html}}</ref>。 その他15の地域交通局がその地方でバス便を運行している<ref>{{cite web | title = Your Transit Authorities | publisher=Massachusetts Association of Regional Transit Authorities | accessdate =May 23, 2010 | url = http://www.matransit.com/}}</ref>。ケープコッド中央鉄道とバークシャー景観鉄道は保存鉄道として運行されている<ref>{{cite web | title = Cape Cod Central Railroad | publisher=Cape Cod Central Railroad | accessdate =May 23, 2010 | url = http://www.capetrain.com/}}</ref><ref>{{cite web | title = 2010 Scenic Train Schedule | publisher=Berkshire Scenic Railway Museum | accessdate =May 23, 2010 | url = http://berkshirescenicrailroad.org/schedules.php}}</ref>。 2006年時点で多くの貨物鉄道が運行されており、その代表格が[[CSXトランスポーテーション]]である。貨物線の総延長は1,079マイル (1,736 km) ある<ref>{{cite web | url = http://www.aar.org/PubCommon/Documents/AboutTheIndustry/RRState_MA.pdf | title = Railroad Service in Massachusetts | publisher=Association of American Railroads | accessdate =June 2, 2010}}</ref>。ウッズホール・マーサズ・ヴィニヤード・アンド・ナンタケット蒸気船局が諸島への貨物乗客フェリーを運航している<ref>{{cite web | url = http://www.steamshipauthority.com/ssa/about.cfm | title = Background | publisher=The Woods Hole, Martha's Vineyard and Nantucket Steamship Authority | accessdate =May 24, 2010}}</ref>。 === 空港 === [[ファイル:Downtown Worcester, Massachusetts.jpg|thumb|[[ウースター (マサチューセッツ州)|ウースター市]]、州内第2の都市である。背景の山頂にウースター地域空港がある。]] 州内の主要空港は[[ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港|ローガン国際空港]] (BOS)である。2007年には2,800万人が利用し、約50社が就航している<ref name="MassPort1">{{cite web | title = Who We Are | publisher = Massachusetts Port Authority | accessdate = May 24, 2010 | url = http://www.massport.com/about/about.html}}</ref>。国内の多くの都市や、国外ではカナダ、メキシコ、カリブ海、ヨーロッパ、アジアにも路線がある。このローガン国際空港と、ベッドフォードにあるハンスコム飛行場、およびウースター地域空港を州の独立機関であるマサチューセッツ州港湾局が運営している<ref name="MassPort1" />。州内には他に43の公共用途空港や、200以上の民間着陸点がある<ref>{{cite web | title = Massa aeronautics | url = http://www.massaeronautics.org/default.asp?pgid=AeroAbout&sid=level2 | postscript = |accessdate=2013-08-26}}.</ref>。幾つかの空港はマサチューセッツ州交通省と連邦航空局から運営予算の補助を受けている。 === 道路 === [[ファイル:Boston CAT Project-construction view from air.jpeg|thumb|right|チャールズ川の橋梁架け替え工事 右が旧橋]] 州内には全長31,300マイル (50,400 km) の[[州間高速道路]]と高規格道路がある<ref>{{cite web | url = http://www.sec.state.ma.us/cis/ciswel/weltomas.htm#trans | title = Transportation | publisher=Secretary of the Commonwealth of Massachusetts | accessdate =May 31, 2010}}</ref>。[[州間高速道路90号線]]、別名マサチューセッツ・ターンパイクが州間高速道路では最長である。ニューヨーク州境のウエストストックブリッジ町近くから東西に136マイル (219 km) を通っており、スプリングフィールド市の直ぐ北を抜け、ウースター市の南を通り、フラミンガムを抜け、ボストン市のローガン国際空港で終わる。州間高速道路91号線はコネチカット川沿いを南北に走り、同93号線はボストン市中央を南北に通ってマシュエンを抜け、[[ニューハンプシャー州]]へ入る。同95号線は大西洋岸を辿り、ロードアイランド州プロビデンスとボストン大都市圏を繋ぎ、都市化された地域を環状に迂回して海岸沿いを北に向かう。 州間高速道路495号線はボストン大都市圏の外郭を環状に繋いでいる。その他の州間高速道路では、291号線、391号線、84号線、195号線、395号線、290号線、190号線がある。また[[国道1号線 (アメリカ合衆国)|アメリカ国道1号線]]、同3号線、6号線、20号線、マサチューセッツ州道24号線と128号線も幹線道である。州内の州間高速道路の大半は20世紀半ばに建設された。当時は議論も多く、特にボストン市中心を通る95号線が問題とされた。建設反対の声が高まり、1970年には州知事のフランシス・W・サージェントが、ボストンの95号線と州道128号線に囲まれる地域で新たな高規格道路の建設を禁止した<ref>Brown and Tager, pp. 283–284.</ref>。近年のビッグ・ディッグと呼ばれる州間高速道路93号線を地下に通す大規模工事は、市民の厳しい監視の目にさらされている<ref name="BigDig1" />。 冬の積雪量は、都市によってはかなりの量となるが、チェーンの装着は禁止されている。主要道路は降雪が始まるとほぼ同時に除雪が始まる。ただし、除雪予算には限りがあり、雪の多い年は、除雪が間に合わない道路なども出る。 == 教育 == {{multiple image | direction = vertical | width = 220 | align = right | footer = [[ハーバード大学]](上)と[[マサチューセッツ工科大学]]、どちらも世界的に認められる学術研究型大学である。 | image1 = HarvardWidenerLibrary.jpg | image2 = MIT_Building_10_and_the_Great_Dome,_Cambridge_MA.jpg}} マサチューセッツ州は1647年に教育法を成立させ、自治体が教師を指名するかグラマースクールを設立することを求めた最初の州になった{{Sfn | Dejnozka| Gifford| Kapel| Kapel| 1982|p = 313}}。19世紀にウェストフィールド州立大学の創設者[[ホーレス・マン]]が進めた教育改革では、当代の普遍的公共教育の基盤を築いた{{Sfn | Dejnozka| Gifford| Kapel| Kapel| 1982|p = 311}}{{Sfn | Goldfield| Abbott| Anderson| Argersinger| 1998|pp = 251–52}}。州内には、国内最古の公立小学校(1639年設立のザ・マザー・スクール)や、最古の高校(1635年設立の[[ボストン・ラテン・スクール]])<ref>{{Cite news | last = Ramírez | first = Eddy | title = The First Class State | url = http://www.usnews.com/articles/education/high-schools/2007/11/29/the-first-class-state.html | newspaper = U.S. News & World Report | date = November 29, 2007 | accessdate = June 5, 2010 | postscript = }}.</ref>、最古のボーディングスクール(1763年設立のガバナーズ・アカデミー)、最古のカレッジ(1636年設立の[[ハーバード大学]])<ref>{{Cite news | last1 = Rimer | first1 = Sara | last2 = Finder | first2 = Alan | title = Harvard Plans to Name First Female President | url = http://www.nytimes.com/2007/02/10/education/10harvard.html?_r=1 | newspaper = The New York Times | date = February 10, 2007 | accessdate = June 5, 2010 | postscript = }}.</ref>、最古の女子カレッジ(1837年設立の[[マウント・ホリヨーク大学|マウントホリヨーク・カレッジ]])<ref>{{Cite journal | url = http://www.studypoint.com/admissions/mount-holyoke/ | contribution = Mount Holyoke | title = Admissions | publisher = StudyPoint | postscript = }}.</ref> がある。 1852年、マサチューセッツ州は義務教育法を成立させた最初の州になった<ref>{{Cite journal | url = http://www.ncsl.org/programs/educ/CompulsoryEd.htm | title = Compulsory Education | publisher = National Conference of State Legislatures | accessdate = December 28, 2006 | postscript = }}.</ref>。2004年、公立の小学校と中等学校での(幼稚園生から12年生)児童生徒一人当たりの教育費は11,681米ドルであり、国内第5位だった<ref>{{Cite journal | url = http://www.nea.org/edstats/RankFull06b.htm#T5 | contribution = Table 5. Current Expenditures ($) per Student in Public K-12 Schools, 2004–05 | at = footnote Rankings & Estimates 2005–2006, Rankings, Table H-11 | type = research | title = Estimates Database | year = 2006 | publisher = National Education Association | accessdate = January 12, 2007 | postscript = | archiveurl = https://web.archive.org/web/20071013030028/http://www.nea.org/edstats/RankFull06b.htm#T5 | archivedate = 2007年10月13日 | deadurldate = 2017年9月 }}.</ref>。2007年の全国教育進行度評価プログラムのテストでは、数学で第1位になった<ref>{{cite web | title = 2007 NAEP Tests: Summary of Results for Massachusetts | publisher= MA, Department of Elemtary & Secondary Education | accessdate =May 22, 2010 | format = PDF | url = http://www.doe.mass.edu/mcas/naep/results/07read_math.pdf}}</ref>。 州内には121の高等教育機関がある<ref name="Education1">{{cite web | url = http://www.sec.state.ma.us/cis/ciswel/weltomas.htm#edu | title = A Practical Guide to Living in the State – Education | publisher= Secretary of the Commonwealth | location = MA, US | accessdate =June 2, 2010}}</ref>。[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]にある[[ハーバード大学]]と[[マサチューセッツ工科大学]]が世界の大学ランキングでも常に上位にある<ref>{{cite web | title = World's Best Universities:Top 400 |work=US News & World Report | accessdate =May 25, 2010 | date = 2010‐2‐25 | url = http://www.usnews.com/articles/education/worlds-best-universities/2010/02/25/worlds-best-universities-top-400.html}}</ref><ref>{{cite web | title = Academic Rankings of World Universities – 2009 | publisher = Academic Ranking of World Universities | accessdate = May 25, 2010 | url = http://www.arwu.org/ARWU2009.jsp | archiveurl = https://web.archive.org/web/20130323035909/http://www.arwu.org/ARWU2009.jsp | archivedate = 2013年3月23日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web | title = Top 200 World Universities | work =Times Higher Education World University Rankings | accessdate = May 25, 2010 | location = UK | publisher = The Times | url = http://www.timeshighereducation.co.uk/hybrid.asp?typeCode=438}}</ref>。その他[[USニューズ&ワールド・レポート]]のランキングで常に40位以内にある大学として、[[タフツ大学]](2013年は第28位)、[[ボストンカレッジ]](同第31位)、[[ブランダイス大学]](同第33位)がある。 リベラル・アーツ・カレッジでは、[[ウィリアムズ大学]](第1位)、[[アマースト大学]](第2位)、[[ウェルズリー大学]](第6位)がランク入りしている。その他常に40位以内にある大学として、[[スミス大学]](第19位)、[[ホーリークロス大学]](第29位)、[[マウント・ホリヨーク大学|マウントホリヨーク・カレッジ]](同じく第29位)がある。このランキングで研究開発型大学40傑に5校(12.5%)、リベラル・アーツ・カレッジ40傑に6校(15%)が入っていることは、国内人口の2%しかいない州として驚異的な数字である。 公立の[[マサチューセッツ大学]]は旗艦キャンパスである[[マサチューセッツ大学アマースト校|アマースト校]]を含め州内に5つのキャンパスがあり、学生数は25,000人以上である<ref>{{cite web | url = http://www.massachusetts.edu/system/about.html | title = The UMass System | publisher=University of Massachusetts Amherst | accessdate =May 25, 2010}}</ref><ref>{{cite web | url = http://media.umassp.edu/massedu/ir/facts2009-10.pdf | title = UMass – Facts 2009–2010 | publisher=University of Massachusetts Amherst | format = PDF | accessdate =May 25, 2010}}</ref>。 === 主な高等教育機関の一覧 === :''参照:[[w:List of colleges and universities in Massachusetts]]'' {| width="800px" |- valign=top |width="35%"| * [[バンカーヒル短期大学]] * [[アマースト大学]] * [[ウィリアムズ大学]] * [[スミス大学]] * [[タフツ大学]] * [[ハーバード大学]] ** [[ハーバード歯科医学校]] ** [[ハーバード大学医学大学院]] ** [[ハーバード・ビジネス・スクール]] ** [[ハーバード・ロー・スクール]] ** [[ハーバード大学デザイン大学院]] ** [[ケネディスクール]] * [[ハルト・インターナショナル・ビジネススクール]] * {{仮リンク|ハンプシャー大学|en|Hampshire College}} |width="35%"| * [[ボストン・カレッジ]] ** [[ボストンカレッジ・ロースクール]] * [[ボストン大学]] * [[ブランダイス大学]] * [[マウント・ホリヨーク大学]] * [[マサチューセッツ大学]] ** [[マサチューセッツ大学アマースト校]] * [[マサチューセッツ工科大学]] * [[ノースイースタン大学]] * {{仮リンク|シモンズ・カレッジ|en|Simmons College}} * [[ウェルズリー大学]] * {{仮リンク|ベントリー・カレッジ|en|Bentley College}} * [[エマーソン大学]] |width="35%"| * [[バブソン大学]] * {{仮リンク|エマニュエル・カレッジ (ボストン)|label=エマニュエル・カレッジ|en|Emmanuel College, Boston}} * [[ホーリークロス大学]] * [[クラーク大学 (マサチューセッツ州)|クラーク大学]] * [[ウースター工科大学]] * [[エマーソン大学]] * [[マサチューセッツ海事大学]] * [[マサチューセッツ芸術大学]] * [[バークリー音楽大学]] * [[ニューイングランド音楽院]] * [[ボストン音楽院]] * {{仮リンク|セーラム州立大学|en|Salem State College}} * [[サフォーク大学]] * {{仮リンク|ウェントワース工科大学|en|Wentworth Institute of Technology}} |} === ボーディングスクール === * {{仮リンク|ウォルナット・ヒル・スクール|en|Walnut Hill School}} * [[フィリップス・アカデミー]] * {{仮リンク|ディアフィールド・アカデミー|en|Deerfield Academy}} * [[ボクストン・スクール]] === 公立学校 === * [[ニュートン南高等学校]] * [[ボストン・ラテン・スクール]] == 芸術・文化 == <!-- === 劇場 === --> === 美術館・博物館 === * [[イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館]] - [[イザベラ・スチュワート・ガードナー]]が若年期から収集してきた世界各地の美術品を展示するためにボストンに設立した、私邸を兼ねた美術館。米国内でも特に重要な美術館のひとつ。 * {{仮リンク|エリック・カーレ絵本美術館|en|Eric Carle Museum of Picture Book Art}} * [[ボストン・チルドレンズ・ミュージアム]] * [[ボストン美術館]] - 州内最大の規模であり、知名度、規模とも米国内にとどまらず世界有数。 * {{仮リンク|マサチューセッツ現代美術館|en|Massachusetts Museum of Contemporary Art}} * [[ピーボディ・エセックス博物館]] === オーケストラなど === * [[ボストン交響楽団]] * [[ボストン・ポップス・オーケストラ]] === スポーツチーム === 以下の表はマサチューセッツ州内のプロフェッショナルスポーツチームの一覧である。マサチューセッツ州は[[バスケットボール殿堂]]([[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド]])、[[バレーボール殿堂]] ([[ホールヨーク]])、及び{{仮リンク|ケープコッド野球リーグ|en|Cape Cod Baseball League}}の本拠地でもある。 {|class=wikitable |- !チーム !スポーツ !設立日 !リーグ !競技場 |- |[[ボストン・レッドソックス]] |[[野球]] |[[1901年]] |[[メジャーリーグベースボール|MLB]]:[[アメリカンリーグ]] |[[フェンウェイ・パーク]] |- |{{仮リンク|ローウェル・スピナーズ|en|Lowell Spinners}} |野球 |[[1996年]] |[[マイナーリーグ|マイナーリーグシングルA]] |{{仮リンク|エドワード・A・ルラシャー・パーク|en|Edward A. LeLacheur Park}} |- |{{仮リンク|ノースショア・スピリット|en|North Shore Spirit}} |野球 |[[2003年]] |[[カナディアン・アメリカン・リーグ|ノース・イーストリーグ]] |{{仮リンク|フレーザー・フィールド|en|Fraser Field}} |- |[[ブロックトン・ロックス]] |野球 |[[2002年]] |ノース・イーストリーグ |{{仮リンク|キャンパネッリ・スタジアム|en|Campanelli Stadium}} |- |[[ウースター・トーネイドーズ]] |野球 |[[2005年]] |ノース・イーストリーグ |{{仮リンク|フィットン・フィールド|en|Fitton Field}} |- |[[ボストン・セルティックス]] |[[バスケットボール]] |[[1946年]] |[[NBA]]:[[イースタン・カンファレンス (NBA)|イースタン・カンファレンス]] |[[TDガーデン]] |- |[[ニューイングランド・ペイトリオッツ]] |[[アメリカンフットボール|フットボール]] |[[1971年]] |[[NFL]]:[[アメリカン・フットボール・カンファレンス]] |[[ジレット・スタジアム]] |- |[[ボストン・ブルーインズ]] |[[アイスホッケー]] |[[1924年]] |[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]] |TDガーデン |- |{{仮リンク|ローウェル・ロック・モンスターズ|en|Lowell Lock Monsters}} |アイスホッケー |[[1998年]] |[[アメリカン・ホッケー・リーグ]] |{{仮リンク|ツォンガス・アリーナ|en|Tsongas Arena}} |- |{{仮リンク|スプリングフィールド・ファルコンズ|en|Springfield Falcons}} |アイスホッケー |[[1994年]] |アメリカン・ホッケー・リーグ |{{仮リンク|マスミューチュアル・センター|en|MassMutual Center}} |- |{{仮リンク|ボストン・キャノンズ|en|Boston Cannons}} |[[ラクロス]] |[[2001年]] |[[メジャーリーグ・ラクロス]] |{{仮リンク|ハーバード・スタジアム|en|Harvard Stadium}} |- |[[ニューイングランド・レボリューション]] |[[サッカー]] |[[1995年]] |[[メジャーリーグサッカー]] |ジレット・スタジアム |- |{{仮リンク|ウェスタンマス・パイオニアーズ|en|Western Mass Pioneers}} |サッカー |[[1998年]] |{{仮リンク|ユナイテッドサッカーリーグ2部|en|USL Second Division}} |{{仮リンク|ルシターノ・スタジアム|en|Lusitano Stadium}} |- |{{仮リンク|ボストン・ロブスターズ|en|Boston Lobsters}} |[[テニス]] |[[1974年]] |{{仮リンク|ワールド・チームテニス|en|World TeamTennis}} |ベレン・テニス・センター(Beren Tennis Center、ハーバード大学キャンパス内) |- |{{仮リンク|ケープコッド・フレンジー|en|Cape Cod Frenzy}} |バスケットボール |[[2004年]] |[[アメリカン・バスケットボール・アソシエーション]] |{{仮リンク|ノーセット高等学校|en|Nauset Regional High School}}アリーナ |- |[[ニューイングランド・フリージャックス]] |[[ラグビーフットボール|ラグビー]] |[[2018年]] |[[メジャーリーグラグビー]] |{{仮リンク|ユニオン・ポイント・スポーツ・コンプレックス|en|Union Point Sports Complex}} |} * この他、[[1880年]]から[[1882年]]までプロ野球チーム[[ウースター・ルビーレッグス]]が存在した。 <!-- == 日本との関係 == --> == その他 == === 同州出身の有名人 === * [[マサチューセッツ州出身著名人の一覧]]を参照。 === 州の象徴など === * 州のモットー - Ense petit placidam sub libertate quietem(剣をもって自由のもとの平和のみを求む) * 州の鳥 - [[アメリカコガラ]] * 州の狩猟鳥 - [[シチメンチョウ]] * 州の木 - [[アメリカニレ]](英語版 [[:w:American elm|American elm]]) * 州の花 - {{仮リンク|アメリカイワナシ|en|Epigaea repens}} 、別名メイフラワー * 州の海洋性哺乳類 - [[タイセイヨウセミクジラ]] * 州の魚 - [[タイセイヨウダラ]] * 州の昆虫 - [[テントウムシ]] * 州の貝 - [[ニューイングランドエゾボラ]] * 州のイヌ - [[ボストン・テリア]] * 州のネコ - 縞ネコ(タビー) * 州の馬 - {{仮リンク|モーガン (馬)|en|Morgan horse|label=モーガン}} * 州の豆 - ネイビービーン(小粒の白[[インゲンマメ]])の[[ベイクドビーンズ]] * 州の[[ベリー]] - [[クランベリー]] * 州の飲料 - クランベリージュース * 州のクッキー - [[チョコレートチップクッキー]] * 州のマフィン - コーン[[マフィン]] * 州のデザート - {{仮リンク|ボストンクリームパイ|en|Boston cream pie}} * 州の舞踊 - [[スクウェアダンス]] * 州の化石 - 恐竜の足跡の[[生痕化石]] * 州の鉱物 - {{仮リンク|バビントナイト|en|Babingtonite}} * 州の貴石 - [[ばら輝石]] * 州のヒーロー - [[ジョニー・アップルシード]] * 州のヒロイン - {{仮リンク|デボラ・サンプソン|en|Deborah Sampson}} === 姉妹州 === * [[広東省]]、[[中国]](1983年) * [[北海道]]、[[日本]](1990年) * [[バーゼル]]、[[スイス]](2002年) * [[アゾレス諸島]]、[[ポルトガル]](2008年) === 日本の姉妹都市 === *(日本) - (州内)、[[年]] *([[北海道]][[滝川市]]) - ([[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド市]]) *(北海道[[七飯町]]) - ([[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード市]]) *([[岩手県]][[金ケ崎町]]) - ([[アマースト (マサチューセッツ州)|アマースト市]]) *([[宮城県]][[七ヶ浜町]]) - ([[プリマス (マサチューセッツ州)|プリマス市]]) *([[茨城県]][[つくば市]]) - ([[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]) *([[東京都]][[大田区]]) - ([[セイラム (マサチューセッツ州)|セイラム市]]) *(東京都[[あきる野市]]) - ([[マールボロ (マサチューセッツ州)|マールボロ市]]) *([[京都府]][[京都市]]) - ([[ボストン]]) *(京都府[[長岡京市]]) - ([[アーリントン (マサチューセッツ州)|アーリントン市]]) *([[岡山県]][[玉野市]]) - ([[グロスター (マサチューセッツ州)|グロスター市]]) *([[高知県]][[土佐清水市]]) - ([[ニューベッドフォード (マサチューセッツ州)|ニューベッドフォード市]]) *([[宮崎県]][[延岡市]]) - ([[メドフォード (マサチューセッツ州)|メドフォード市]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=lower-alpha}} === 出典 === {{reflist|2|refs= <ref name="PopEstUS">{{cite web|url=http://www.census.gov/popest/data/state/totals/2012/tables/NST-EST2012-01.csv|title=Annual Estimates of the Population for the United States, Regions, States, and Puerto Rico: April 1, 2010 to July 1, 2012|format=CSV|work=2012 Population Estimates|publisher=United States Census Bureau, Population Division|date=December 2012|accessdate=December 22, 2012}}</ref> }} == 参考文献 == * [http://www.shgresources.com/ma/symbols/ Massachusetts State Symbols, Emblems, and Mascots - SHG Resources] === 概論と研究 === * Hall, Donald. ed. ''The Encyclopedia of New England'' (2005) * Works Progress Administration. ''Guide to Massachusetts'' (1939) === 二次史料 === {{Refbegin|2}} * Abrams, Richard M. ''Conservatism in a Progressive Era: Massachusetts Politics, 1900–1912'' (1964) * Adams, James Truslow. ''Revolutionary New England, 1691–1776'' (1923) * Adams, James Truslow. ''New England in the Republic, 1776–1850'' (1926) * Andrews, Charles M. ''The Fathers of New England: A Chronicle of the Puritan Commonwealths'' (1919), short survey * Conforti, Joseph A. ''Imagining New England: Explorations of Regional Identity from the Pilgrims to the Mid-Twentieth Century'' (2001) * Cumbler, John T. ''Reasonable Use: The People, the Environment, and the State, New England, 1790–1930'' (1930), environmental history * Fischer, David Hackett. ''Paul Revere's Ride'' (1994), 1775 in depth * Flagg, Charles Allcott, [https://books.google.co.jp/books?id=0Atgy_Y0lRwC&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja ''A Guide to Massachusetts local history''], Salem : Salem Press Company, 1907. * Green, James R., William F. Hartford, and Tom Juravich. ''Commonwealth of Toil: Chapters in the History of Massachusetts Workers and Their Unions'' (1996) * Huthmacher, J. Joseph. ''Massachusetts People and Politics, 1919–1933'' (1958) * Labaree, Benjamin Woods. ''Colonial Massachusetts: A History'' (1979) * Morison, Samuel Eliot. ''The Maritime History of Massachusetts, 1783–1860'' (1921) * Peirce, Neal R. ''The New England States: People, Politics, and Power in the Six New England States'' (1976), 1960–75 era * Porter, Susan L. ''Women of the Commonwealth: Work, Family, and Social Change in Nineteenth-Century Massachusetts'' (1996) * Sletcher, Michael. ''New England'' (2004). * Starkey, Marion L. ''The Devil in Massachusetts'' (1949), Salem witches * Tager, Jack, and John W. Ifkovic, eds. ''Massachusetts in the Gilded Age: Selected Essays'' (1985), ethnic groups * Zimmerman, Joseph F. ''[http://www.questia.com/library/book/the-new-england-town-meeting-democracy-in-action-by-joseph-f-zimmerman.jsp The New England Town Meeting: Democracy in Action]'' (1999) {{Refend}} == 関連項目 == * [[マサチューセッツ州の都市圏の一覧]] * [[マサチューセッツ州の郡一覧]] * [[マサチューセッツ (戦艦)]] * [[チャーゴグガゴグマンチャウグガゴグチャウバナガンガマウグ]] * [[アメリカンウォーターフロント]] * [[フリーズポップ]] == 外部リンク == {{commons|Category:Massachusetts}} * {{Official website}} * [http://massvacation.jp/ マサチューセッツ州政府観光局公式サイト] * [http://www.state.ma.us/ Commonwealth of Massachusetts] {{en icon}} * [http://www.massvacation.com Massachusetts Massachusetts Office of Travel and Tourism] {{en icon}} * [http://www.visit-massachusetts.com/ Visit New England] {{en icon}} <!--* [https://www.boston.us.emb-japan.go.jp/ja/index.html 在ボストン日本国総領事館]--> * [http://www.us-japan.org/boston/ ボストン日本協会] * {{Curlie|Regional/North_America/United_States/Massachusetts}} * [http://www.masshist.org/ Massachusetts Historical Society] * [http://www.loc.gov/rr/program/bib/states/massachusetts/index.html Massachusetts State Guide] from the Library of Congress * [http://tonto.eia.doe.gov/state/state_energy_profiles.cfm?sid=MA Energy Profile for Massachusetts- Economic, environmental, and energy data] * [http://www.usgs.gov/state/state.asp?State=MA USGS real-time, geographic, and other scientific resources of Massachusetts] * [http://www.geo.umass.edu/stategeologist Massachusetts Geological Survey] * [http://www.lib.utexas.edu/maps/massachusetts.html Maps of Massachusetts] * [http://newenglandtowns.org/massachusetts/ 1837 descriptions of Massachusetts cities, towns, mountains, lakes, and rivers, from ''Hayward's New England Gazetteer.''] * [http://www.sec.state.ma.us/cis/cismaf/mf1a.htm Massachusetts State Symbols] * [http://www.sec.state.ma.us/cis/cismaf/mf4.htm Miscellaneous Massachusetts Facts] * [http://www.ers.usda.gov/StateFacts/MA.htm Massachusetts State Facts from USDA] * [http://www.law.cornell.edu/states/massachusetts.html Massachusetts Constitution and Laws] * [http://www.nps.gov/nr/travel/maritime/ Maritime History of Massachusetts, a National Park Service ''Discover Our Shared Heritage'' Travel Itinerary] * [http://www.salemdeeds.com/atlases.asp?atlastype=MassWorld&atlastown=ESSEX+COUNTY&atlName=&PAGEPREFIX=&submittype= Atlases of Massachusetts]. 1871-Walling&Gray, 1891-Walker, 1892-Mass., 1904-Walker. Large Images at Salemdeeds. * {{Osmrelation|61315}} * {{Googlemap|マサチューセッツ州}} {{Normdaten}} {{マサチューセッツ州}} {{アメリカ合衆国の州}} {{デフォルトソート:まさちゆうせつつ}} [[Category:アメリカ合衆国の州]] [[Category:マサチューセッツ州|*]]
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1576年
1576年(1576 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1576年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1576}} {{year-definition|1576}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天正]]4年 *** [[私年号|光永]]元年([[私年号]]) ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2236年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]4年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]9年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3909年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[崇康]]11年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[嘉泰 (黎朝)|嘉泰]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2118年 - 2119年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 983年 - 984年 * [[ユダヤ暦]] : 5336年 - 5337年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1576|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[織田信長]]、[[安土城]]を築城。 * ディエゴ・ガルシア・デ・パラシオ([[スペイン人]])、[[ホンジュラス]]・[[コパン]]を訪れる。 == 誕生 == {{see also|Category:1576年生}} * [[浅野幸長]]、[[紀伊国]][[紀州藩]]の初代藩主(+ [[1613年]]) * [[丹羽長正]]、[[備中守]](+ [[1620年]]) == 死去 == {{see also|Category:1576年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月19日]] - [[ハンス・ザックス]]、[[マイスタージンガー]]・[[詩人]]・[[劇作家]](* [[1494年]]) * [[3月11日]] - [[フアン・デ・サルセード]]、[[探検家]](* [[1549年]]) * [[8月27日]] - [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]、[[画家]](* [[1490年]]頃) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1576}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1576ねん}} [[Category:1576年|*]]
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1501年
1501年(1501 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。金曜日から始まる。16世紀最初の年である。
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1501年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。金曜日から始まる。16世紀最初の年である。
{{出典の明記|date=2020年8月25日 (火) 14:47 (UTC)}} {{年代ナビ|1501}} {{year-definition|1501}}金曜日から始まる。[[16世紀]]最初の年である。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明応]]10年、[[文亀]]元年2月29日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2161年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[弘治 (明)|弘治]]14年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[燕山君]]7年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3835年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景統]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2043年 - 2044年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 906年 - 907年 * [[ユダヤ暦]] : 5261年 - 5262年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1501|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[3月18日]](明応10年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]) - 日本、[[改元]]して[[文亀]]元年。 * [[4月]] - [[タタール]]の[[ダヤン・ハーン]]、[[明]]軍を破り[[オルドス地方|オルドス]]侵入。 * [[11月14日]] - [[イングランド王国|イングランド]]皇太子[[アーサー・テューダー]]と[[キャサリン・オブ・アラゴン]]結婚。 * [[イスマーイール1世]]、[[白羊朝]]の首都[[タブリーズ]]に入城し[[サファヴィー朝]]( - [[1736年]])成立。 * [[アメリゴ・ヴェスプッチ]]、[[ブラジル]]海岸踏査。(-[[1502年]]) * [[ポーランド・リトアニア合同]]の再確認。 == 誕生 == {{see also|Category:1501年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月17日]] - [[レオンハルト・フックス]]、[[ドイツ]]の[[医師]]、[[植物学者]](+ [[1566年]]) * [[2月1日]] - [[文定王后]]、[[李氏朝鮮]]第11代国王[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の3人目の王妃(+ [[1565年]]) * [[3月29日]](文亀元年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]) - [[村上義清]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[戦国大名]](+ [[1573年]]) * [[3月31日]](文亀元年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - [[相良長祗]]、戦国時代の戦国大名。[[相良氏]]の第14代当主(+ [[1525年]]) * [[4月19日]](文亀元年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]) - [[策彦周良]]、戦国時代の[[臨済宗]]の禅僧、[[外交官]](+ [[1579年]]) * [[5月6日]] - [[マルケルス2世 (ローマ教皇)|マルケルス2世]]、第222代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1555年]]) * [[5月18日]] - [[イサベル・デ・アウストリア]]、[[デンマーク]]王[[クリスチャン2世 (デンマーク王)|クリスチャン2世]]の王妃(+ [[1525年]]) * [[6月26日]] - [[曺植]]、李氏朝鮮の[[儒学者]](+ [[1572年]]) * [[9月24日]] - [[ジェロラモ・カルダーノ]]、[[イタリア]]の[[数学者]](+ [[1576年]]) * [[12月24日]] - [[李滉]]、李氏朝鮮の儒学者(+ [[1570年]]) * [[蠣崎基広]]、戦国時代の[[武将]](+ [[1548年]]) * [[ジローラモ・ダ・カルピ]]、イタリアの[[画家]](+ [[1556年]]) * [[島津忠長 (播磨家)|島津忠長]]、戦国時代の武将。[[越前家 (島津氏)|播磨島津氏]]第15代当主(+ [[1534年]]) * [[土御門有春]]、戦国時代の[[公卿]]、[[陰陽家]]。[[土御門家]]の29代目当主(+ [[1569年]]) * [[内藤清長]]、戦国時代の武将(+ [[1564年]]) * [[文嘉]]、[[明|明代]]の[[書家]]、[[画家]]、[[文人]](+ [[1583年]]) * [[三好元長]]、戦国時代の武将(+ [[1532年]]) == 死去 == {{see also|Category:1501年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月3日]] - [[ミール・アリー・シール・ナヴァーイー]]、[[ティムール朝]]ヘラート政権の[[政治家]]、文人、詩人(* [[1441年]]) * [[2月1日]] - [[ジギスムント (バイエルン公)|ジギスムント]]、[[バイエルン大公|上バイエルン=ミュンヘン公]](* [[1439年]]) * [[3月17日]]([[明応]]10年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[蘭坡景茝]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1417年]]) * [[3月28日]] - [[ジャン・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ]]、[[オーヴェルニュ]]伯およびロラゲ伯(* [[1467年]]) * [[6月17日]] - [[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[1459年]]) * [[7月22日]]([[文亀]]元年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[柳原資綱]]、[[室町時代]]の[[公家]]、[[柳原家]]当主(* [[1419年]]) * [[8月5日]](文亀元年閏[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[長尾忠景]]、戦国時代の武将。[[長尾氏|総社長尾家]]当主(* 生年未詳) * [[8月14日]] - [[ルイ2世 (モンパンシエ伯)|ルイ2世]]、[[フランス王国|フランス]]王家傍系[[ブルボン家]]の公子。モンパンシエ伯(* [[1483年]]) * [[9月20日]](文亀元年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]])? - [[横瀬成繁 (室町時代)|横瀬成繁]]、戦国時代の武将。[[横瀬氏]]の第5代当主(* 生年未詳) * [[9月22日]](文亀元年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[松平親忠]]、戦国時代の武将。[[松平氏]]の第4代当主(* [[1431年]]) * [[11月29日]] - [[フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ]]、[[彫刻家]]・[[画家]]・[[建築家]]・建築理論家・軍事技術者(* [[1439年]]) * [[アンナ・ヴァシリエヴナ (リャザン大公妃)|アンナ・ヴァシリエヴナ]]、[[リャザン公国|リャザン大公]][[ヴァシーリー・トレトノイ|ヴァシーリー3世]]の妃(* [[1451年]]) * [[アゴスティーノ・バルバリーゴ]]、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の元首(* [[1420年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1501}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1501ねん}} [[Category:1501年|*]]
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1630年
1630年(1630 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1630年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1630}} {{year-definition|1630}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]7年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2290年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]3年 ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]4年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3963年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[徳隆]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2172年 - 2173年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1039年 - 1040年 * [[ユダヤ暦]] : 5390年 - 5391年 * [[ユリウス暦]] : 1629年12月22日 - 1630年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1630}} == できごと == * [[スウェーデン]]王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]が[[三十年戦争]]に参戦。 * [[イギリス]]人、[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]に大量移住(-[[1642年]])。 * [[ピューリタン]]が[[ボストン]]の街を建設。 * [[北イタリア]]で[[ペスト]]大流行。 * [[林羅山]]が[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家光|家光]]から[[江戸]][[上野]]忍岡の地を与えられ学寮([[忍岡聖堂]])を建設。[[昌平坂学問所]]の基礎となる。 == 誕生 == {{see also|Category:1630年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月12日]]([[寛永]]7年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[鉄眼道光]]、[[黄檗宗]]の[[禅僧]](+ [[1682年]]) * [[4月29日]](寛永7年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[了翁道覚]]、黄檗宗の禅僧(+ [[1707年]]) * [[5月29日]] - [[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]、[[イングランド王国|イングランド王]](+ [[1685年]]) * [[12月17日]]([[寛永]]7年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]) - [[貝原益軒]]、[[博物学|本草学者]]、[[儒学者]](+ [[1714年]]) * [[スチェパン・ラージン]](ステンカ・ラージン)、[[コサック]]の頭領(+ [[1671年]]) == 死去 == {{see also|Category:1630年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月26日]] - [[ヘンリー・ブリッグス]]、数学者(* [[1556年]]) * [[2月26日]] - [[ウィリアム・ブレイド]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1560年]]) * [[3月24日]] - {{仮リンク|イザイーア・ホロヴィッツ|en|Isaiah Horowitz}}、[[ラビ]](* [[1565年]]頃) * [[3月27日]]([[寛永]]7年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[永田徳本]]、[[医師]](* [[1513年]]?) * [[4月22日]](寛永7年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[日奥]]、[[日蓮宗不受不施派]]の開祖(* [[1565年]]) * [[6月10日]](寛永7年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]) - [[織田信雄]]、[[織田信長]]の次男(* [[1558年]]) * [[7月5日]](寛永7年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[末次政直|末次平蔵]]、貿易商人・[[長崎代官]](* [[1546年]]?) * [[11月9日]](寛永7年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[藤堂高虎]]、[[伊勢国]][[津藩]]初代[[藩主]](* [[1556年]]) * [[11月15日]] - [[ヨハネス・ケプラー]]、[[ドイツ]]の数学者、[[自然哲学|自然哲学者]]、[[天体物理学|天体物理学者]](* [[1571年]]) * [[11月19日]] - [[ヨハン・シャイン|ヨハン・ヘルマン・シャイン]]、作曲家(* [[1586年]]) * [[12月19日]](寛永7年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]) - [[松倉重政]]、[[島原の乱]]の原因を作った[[肥前国]][[島原藩]]藩主(* [[1574年]]?) * [[山田長政]]、[[アユタヤ日本人町]]の頭領(* [[1590年]]頃) * [[袁崇煥]]、[[明]]の武将(* [[1584年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1630}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1630ねん}} [[Category:1630年|*]]
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日本の政治
日本の政治(にほんのせいじ)では、日本における政治制度について解説する。 戦後10年間は小党が分立する状態が続いたが、1955年(昭和30年)に日本社会党の右派と左派が統一し、日本民主党と自由党が合同(保守合同)して自由民主党が成立したことにより、55年体制が確立した。55年体制では自由民主党が常に与党となり、国会では自由民主党の総裁が内閣総理大臣に指名された。自由民主党の一部議員が離党して作った新自由クラブとの連立政権が組まれた時期(1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)まで)を除き、長らく自由民主党の単独内閣が続いた。 1993年(平成5年)に自由民主党が分裂し、宮沢内閣の不信任決議案が衆議院で可決され、宮沢内閣は衆議院解散を選択した。自由民主党の一部議員は離党して新党さきがけ、新生党を結成し、このあと行われた総選挙で、自由民主党は公示前の勢力をほぼ維持したものの過半数を割り込んだ。この選挙後に召集された特別国会で、日本新党の細川護煕が内閣総理大臣に指名され、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の連立により、細川内閣が組まれ、55年体制は崩壊した。この連立は次の羽田内閣でも維持されたものの、首相指名直後に日本社会党が連立離脱を表明したため、少数与党内閣となった。 1994年(平成6年)6月に羽田内閣は在任わずか64日で内閣総辞職を行い、国会は日本社会党の村山富市を内閣総理大臣に指名し、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの連立内閣(自社さ連立政権)が組まれた。この連立は次の第1次橋本内閣でも維持された(閣外協力は第2次橋本内閣の1998年(平成10年)6月まで)。 1999年(平成11年)1月、小渕内閣は自由民主党と自由党の連立内閣(小渕第1次改造内閣)となり、同年10月には公明党も加わった(小渕第2次改造内閣、自自公連立内閣)。翌2000年(平成12年)に自由党は分裂して、離党した一部議員が保守党(後に保守新党)を結成し、連立に残留した(第1次森内閣、自公保政権)。この連立は、次の小泉内閣でも維持されたが、2003年(平成15年)11月の第43回衆議院議員総選挙後に保守新党が自民党に吸収され、自民党・公明党の連立(自公連立政権)となり、2009年(平成21年)8月の第45回衆議院議員総選挙において、自民党、公明党が大敗し、野党になるまで続いた。 2012年(平成24年)12月16日に執行された第46回衆議院議員総選挙において、与党の民主党、国民新党が大敗し、同年12月26日に自由民主党、公明党による連立政権が発足した。現在、内閣総理大臣は自由民主党総裁の岸田文雄が務めている。 国会に議席を持つ政党 トランスペアレンシー・インターナショナル(ドイツのNGO)によると、2015年における当国の腐敗認識指数は167ヶ国中18位(下位であるほど腐敗している)である。 代議制をとる民主主義の国である。日本の政治は日本国憲法に基づいて行われる。そのため、日本は、立憲主義に基づく国家(立憲国家)であると言える。また、日本の行政・司法は、憲法と国会が定める法律以下、明文化された法令等に基づいて行われる。そのため、日本は法治国家であるとも言える。 日本国憲法は、主権が国民に存する国民主権を定める。また、政治上の権力を立法権・行政権・司法権の三権に分け、それぞれを国会・内閣・裁判所に配する権力分立の体制を定める。国会を「国権の最高機関」とする議会制民主政治が行われ、国会と内閣の協働による議院内閣制が採られる。憲法第1章では、主権者たる日本国民の総意に基づいて「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」の地位にある天皇を置く(象徴天皇制)。天皇は国政に関する権能を有しないと憲法で定めており、内閣の助言と承認により国事行為のみを行う。 日本国憲法はまた、地方自治を定める。日本の地方自治は、全国を47の地域に隈なく分けた都道府県と、都道府県の中をいくつかの地域に分けた市町村の、2段階の地方公共団体によって担われる。すべての都道府県と市町村には、各々、議事機関である地方議会と執行機関である首長(都道府県知事、市町村長)が置かれる。地方公共団体は、法律の範囲内で条例を制定することができる。 日本国憲法の三大原理としてよく挙げられるのは、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つである。 国民の代表者たる国会議員が国会において政治に参画し、民主主義を実現する制度(間接民主制)。この他憲法改正の国民投票においては直接民主制を採用する。 国会における内閣総理大臣指名選挙によって国会議員の中から内閣総理大臣が選出され、内閣総理大臣を首長とする内閣が組織され、その内閣は国会と連帯して責任を負う制度。 衆議院は内閣不信任決議を可決あるいは内閣信任決議を否決して、内閣に総辞職を迫ることができ、内閣はこれに対抗して衆議院を解散することができる。なお、この場合によらず、内閣は任意に衆議院を解散できると解釈される。 日本国憲法で規定された、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする制度。 日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)。国政に関する権能を全く有さない(第4条)。 日本の元首について、様々な見解がある。外交権を持つ内閣ないしその首長たる内閣総理大臣とする説、戦前と同様に天皇とする説等である。 憲法上は国会を「国権の最高機関」と定め、「国の唯一の立法機関」としていることから、付与される政治上の権力は国会が最も大きい(日本国憲法第41条)。もっとも、憲法は、内閣総理大臣に内閣を代表して議案(内閣提出法案)を提出する権限を付与しており(日本国憲法第72条)、国会で成立する法案の大半は内閣提出法案となっている。そのため、実質的には内閣の権限が国会に優越するほど大きく、内閣の下に置かれる行政機関の影響力も非常に大きい(いわゆる行政国家現象の顕在化)。さらに、行政機関の内部では、資格任用制により採用される幹部職員、いわゆる官僚(キャリア公務員)が、政治任用される大臣・副大臣・大臣政務官の政務三役をしのぐ影響力を持っていたため、長らく「官僚国家」であるとされてきたが、内閣人事局を通じてキャリア公務員の人事権を政務三役が掌握することで、政務三役のキャリア公務員に対する権限が格段に強化されている。 また、憲法は、裁判所に違憲立法審査権を付与している(日本国憲法第81条)。裁判所は、法律をはじめとする国の法令や行政行為について、それが憲法に適合しているか否か宣言することができる。この権限は、国家の行為の適否について、終局的に判断する権限であることから、最も強い権限のはずである。このような体制を指して、「司法国家」と言われる。しかし、裁判所はいわゆる司法消極主義に立つとされ、国会や内閣(いわゆる政治部門)の判断に対し、異議を差し挟むことには謙抑的である。特に、高度の政治性を有する国家行為に対する合憲性の審査は裁判所の権限外とする「統治行為論」を採用した場合、裁判所はただ時の政権に追従するのみになってしまうとの批判がある。なお、司法に主権者たる国民の意見を反映させる機会としては、最高裁判所裁判官に対する「国民審査」制度や刑事裁判における「裁判員」制度などがある。 日本国憲法は、国会を「国権の最高機関」であり「国の唯一の立法機関」と定める。国会は、衆議院と参議院からなる(二院制)。いずれも国民から直接選挙され、全国民を代表する国会議員で構成される。衆議院議員と参議院議員を兼ねることはできない。 衆議院議員の任期は4年だが、衆議院が解散された場合には任期前に資格を失う。衆議院解散は内閣が決定し、天皇が行う。衆議院解散の実質的決定権については論争はあるが、今日、内閣は天皇の国事行為に助言と承認を行う立場(日本国憲法第7条)にあることから、実務上、天皇の国事行為に責任を負う内閣が実質的決定権を有するとされる。内閣不信任決議が可決されて10日間に内閣総辞職をしない場合は衆議院解散をしなければならないが(日本国憲法第69条)、それ以外でも内閣は憲法7条に基づいてその裁量により衆議院を解散できると解されている。なお、衆議院解散の実質的決定権という点については学説に争いがあるものの、少なくとも衆議院解散の形式的宣示権は憲法上天皇にあり(日本国憲法第7条3号)、今日、解散詔書の文言については日本国憲法第69条により内閣不信任決議が可決あるいは内閣信任決議が否決された場合か否かを問わず「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」との表現が確立している。これは衆議院解散は詔書をもって行われるが、詔書の直接の根拠は日本国憲法第7条にあり、また、この文言は解散の理由を問わないため、一般的には、いかなる場合の衆議院解散についても適用しうるものと解されているためである。詳細については衆議院解散を参照。 衆議院の解散または衆議院議員の任期満了に伴う選挙を、すべての議員が選ばれるため「総選挙」という。参議院議員の任期は6年で、3年ごとに半数が改選される。参議院議員の任期満了に伴う選挙を通常選挙という。 衆議院の総選挙は小選挙区制と比例代表制(拘束名簿式)からなる小選挙区比例代表並立制が採用され、参議院の通常選挙は選挙区制(大選挙区制、中選挙区制)と比例代表制(非拘束名簿式)が併用されている。定数は、衆議院が465(小選挙区選出議員289、比例代表選出議員176)、参議院が242(選挙区選出議員146、比例代表選出議員96)。 国会は毎年1回の召集が義務づけられており、これを常会(通常国会)という。また、内閣が自ら、あるいは一定数の国会議員の要求により、内閣が臨時に国会の召集を決定することもでき、これを臨時会(臨時国会)という。1992年(平成4年)以降は例年1月に常会が召集され、9月頃に臨時会が召集される。衆議院議員総選挙後には特別会(特別国会)が召集され、内閣総理大臣を指名する。 国会は会期制が採られており、会期不継続の原則と一事不再議の原則が定められている。会期不継続の原則とは、会期独立の原則ともいわれ、継続審議の議決がなされない限り、会期中に議決に至らなかった議案は廃案(消滅)となる原則である。一事不再議の原則とは、一度議決された議案は、同一会期中に再度提出できないという原則である。 常会の会期は150日間で、延長は1回のみ可能。臨時会と特別会の会期はその都度両院一致の議決で定め、延長は2回まで可能。会期の決定及び延長については衆議院の優越が認められ、衆参の議決が不一致の場合及び参議院が議決をしない場合は衆議院の議決による。 法律案(法案)は、各々の国会議員、および内閣により提出される。国会議員から提出された法案を議員立法あるいは衆法(衆議院議員が提出した法案)・参法(参議院議員が提出した法案)といい、内閣から提出された法案を内閣提出法案(政府提出法案)あるいは閣法という。現在、1会期における提出法案のうち、おおむね30%が議員立法で、70%が内閣提出法案となっている。成立率(提出された法案のうち成立したものの割合)は、議員立法が20%程度で、内閣提出法案は80%以上。したがって、成立する法律のほとんどは内閣が提出したものである。これは、国会から内閣総理大臣を選出し、その内閣総理大臣が内閣を組む議院内閣制を採っていることの帰結である。内閣総理大臣を輩出する与党と内閣は、協働して内閣提出法案の成立に努める。 内閣提出法案の成立過程 議員立法の成立過程 国会に提出された法律案の過程 日本国憲法には政党に関する規定はない。政治資金規正法は、「政治団体」のうち、国会議員を5人以上有するもの、または直近の総選挙または直近の通常選挙もしくは直近の通常選挙の前の通常選挙における得票総数が有効投票総数の100分の2以上あるものを「政党」と定義している。 この「政党」には、届出・収支報告義務を定め、政治資金の透明化を行うとともに、政党のうち、国会議員を有するものに政党交付金による助成を行っている。 行政権は内閣に属する(日本国憲法第65条)。 国会議員の中から、国会の議決によって内閣総理大臣が指名される(日本国憲法第67条1項)。内閣総理大臣は天皇に任命される。内閣総理大臣は国務大臣を任命し、内閣総理大臣と国務大臣の合議体である内閣を構成する。内閣総理大臣は国務大臣を任意に罷免することができる。内閣総理大臣は国会議員の中から指名されるが、国務大臣は過半数が国会議員であればよい。 以下の場合には内閣は総辞職する。 司法権は最高裁判所および法律により設置される下級裁判所に属する。 終審裁判所である最高裁判所は、長たる裁判官(最高裁判所長官)とその他の最高裁判所裁判官から構成される。最高裁判所長官は内閣が指名し、天皇が任命する。その他の最高裁判所裁判官は、内閣が任命する。最高裁判所長官とその他の最高裁判所裁判官は、任命後、国民審査を受ける。その後10年を経過するごとに、さらに国民審査を受ける。最高裁判所の裁判官は、法律で定めた年齢(70歳)に達すると退官する。 下級裁判所(高等裁判所・地方裁判所・家庭裁判所・簡易裁判所)の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。下級裁判所の裁判官の定年は65歳(簡易裁判所裁判官は70歳)である。 都道府県および市町村の議会の議員、都道府県知事および市町村長は、すべて住民に選挙され、任期はいずれも4年間である。 日本は国際連合の加盟国で、安全保障理事会の常任理事国入りを目指しているG4諸国の一つである他に、東アジアにおいて重要な役割を果たしている。 日本国憲法は、日本が武力を以て、他国との間で戦闘を交えることを禁じている。一方で、日本には、陸海空から成る自衛隊が組織されており、2003年から2009年にかけて、自衛隊がイラクへ派遣された。これは、第二次世界大戦以降では、日本が初めて海外に武装組織を派遣した瞬間だった。 経済大国としては、日本は主要国首脳会議 (G8) およびアジア太平洋経済協力 (APEC) の参加国である他、ASEANとの間では、ASEAN+3として関係を発展させている上に、東アジアサミットにも参加している。国際援助および開発支援の場でも日本は大きな貢献者であり、2004年には、同年の国民総所得の0.19%を援助金に充てた。 日本の領土に関しては、北方領土を巡ってロシアと対立している他に、韓国から日本固有の領土である竹島を、独島と称して自国の領土であると主張されたり、日本海の呼称を東海に変更するよう求める活動を実施されたりしている。また、中国(中華人民共和国と中華民国)との間には尖閣諸島に関する問題、さらに中国との間では沖ノ鳥島の位置付けを巡る議論がある。これらの領土問題は、ある面では、それらの島の周囲の海域に埋蔵されていると推定される、石油や天然ガスといった天然資源および海洋生物資源を自国の支配下に置くための紛争であると見ることもできる。 北朝鮮との間では、同国による日本人の拉致と核兵器開発疑惑に関連する問題が現在進行中である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本の政治(にほんのせいじ)では、日本における政治制度について解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "戦後10年間は小党が分立する状態が続いたが、1955年(昭和30年)に日本社会党の右派と左派が統一し、日本民主党と自由党が合同(保守合同)して自由民主党が成立したことにより、55年体制が確立した。55年体制では自由民主党が常に与党となり、国会では自由民主党の総裁が内閣総理大臣に指名された。自由民主党の一部議員が離党して作った新自由クラブとの連立政権が組まれた時期(1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)まで)を除き、長らく自由民主党の単独内閣が続いた。", "title": "政治史・事情" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1993年(平成5年)に自由民主党が分裂し、宮沢内閣の不信任決議案が衆議院で可決され、宮沢内閣は衆議院解散を選択した。自由民主党の一部議員は離党して新党さきがけ、新生党を結成し、このあと行われた総選挙で、自由民主党は公示前の勢力をほぼ維持したものの過半数を割り込んだ。この選挙後に召集された特別国会で、日本新党の細川護煕が内閣総理大臣に指名され、日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の連立により、細川内閣が組まれ、55年体制は崩壊した。この連立は次の羽田内閣でも維持されたものの、首相指名直後に日本社会党が連立離脱を表明したため、少数与党内閣となった。", "title": "政治史・事情" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)6月に羽田内閣は在任わずか64日で内閣総辞職を行い、国会は日本社会党の村山富市を内閣総理大臣に指名し、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの連立内閣(自社さ連立政権)が組まれた。この連立は次の第1次橋本内閣でも維持された(閣外協力は第2次橋本内閣の1998年(平成10年)6月まで)。", "title": "政治史・事情" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)1月、小渕内閣は自由民主党と自由党の連立内閣(小渕第1次改造内閣)となり、同年10月には公明党も加わった(小渕第2次改造内閣、自自公連立内閣)。翌2000年(平成12年)に自由党は分裂して、離党した一部議員が保守党(後に保守新党)を結成し、連立に残留した(第1次森内閣、自公保政権)。この連立は、次の小泉内閣でも維持されたが、2003年(平成15年)11月の第43回衆議院議員総選挙後に保守新党が自民党に吸収され、自民党・公明党の連立(自公連立政権)となり、2009年(平成21年)8月の第45回衆議院議員総選挙において、自民党、公明党が大敗し、野党になるまで続いた。", "title": "政治史・事情" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)12月16日に執行された第46回衆議院議員総選挙において、与党の民主党、国民新党が大敗し、同年12月26日に自由民主党、公明党による連立政権が発足した。現在、内閣総理大臣は自由民主党総裁の岸田文雄が務めている。", "title": "政治史・事情" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国会に議席を持つ政党", "title": "政治史・事情" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "トランスペアレンシー・インターナショナル(ドイツのNGO)によると、2015年における当国の腐敗認識指数は167ヶ国中18位(下位であるほど腐敗している)である。", "title": "政治史・事情" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "代議制をとる民主主義の国である。日本の政治は日本国憲法に基づいて行われる。そのため、日本は、立憲主義に基づく国家(立憲国家)であると言える。また、日本の行政・司法は、憲法と国会が定める法律以下、明文化された法令等に基づいて行われる。そのため、日本は法治国家であるとも言える。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本国憲法は、主権が国民に存する国民主権を定める。また、政治上の権力を立法権・行政権・司法権の三権に分け、それぞれを国会・内閣・裁判所に配する権力分立の体制を定める。国会を「国権の最高機関」とする議会制民主政治が行われ、国会と内閣の協働による議院内閣制が採られる。憲法第1章では、主権者たる日本国民の総意に基づいて「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」の地位にある天皇を置く(象徴天皇制)。天皇は国政に関する権能を有しないと憲法で定めており、内閣の助言と承認により国事行為のみを行う。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本国憲法はまた、地方自治を定める。日本の地方自治は、全国を47の地域に隈なく分けた都道府県と、都道府県の中をいくつかの地域に分けた市町村の、2段階の地方公共団体によって担われる。すべての都道府県と市町村には、各々、議事機関である地方議会と執行機関である首長(都道府県知事、市町村長)が置かれる。地方公共団体は、法律の範囲内で条例を制定することができる。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本国憲法の三大原理としてよく挙げられるのは、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つである。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国民の代表者たる国会議員が国会において政治に参画し、民主主義を実現する制度(間接民主制)。この他憲法改正の国民投票においては直接民主制を採用する。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "国会における内閣総理大臣指名選挙によって国会議員の中から内閣総理大臣が選出され、内閣総理大臣を首長とする内閣が組織され、その内閣は国会と連帯して責任を負う制度。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "衆議院は内閣不信任決議を可決あるいは内閣信任決議を否決して、内閣に総辞職を迫ることができ、内閣はこれに対抗して衆議院を解散することができる。なお、この場合によらず、内閣は任意に衆議院を解散できると解釈される。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本国憲法で規定された、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする制度。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)。国政に関する権能を全く有さない(第4条)。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本の元首について、様々な見解がある。外交権を持つ内閣ないしその首長たる内閣総理大臣とする説、戦前と同様に天皇とする説等である。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "憲法上は国会を「国権の最高機関」と定め、「国の唯一の立法機関」としていることから、付与される政治上の権力は国会が最も大きい(日本国憲法第41条)。もっとも、憲法は、内閣総理大臣に内閣を代表して議案(内閣提出法案)を提出する権限を付与しており(日本国憲法第72条)、国会で成立する法案の大半は内閣提出法案となっている。そのため、実質的には内閣の権限が国会に優越するほど大きく、内閣の下に置かれる行政機関の影響力も非常に大きい(いわゆる行政国家現象の顕在化)。さらに、行政機関の内部では、資格任用制により採用される幹部職員、いわゆる官僚(キャリア公務員)が、政治任用される大臣・副大臣・大臣政務官の政務三役をしのぐ影響力を持っていたため、長らく「官僚国家」であるとされてきたが、内閣人事局を通じてキャリア公務員の人事権を政務三役が掌握することで、政務三役のキャリア公務員に対する権限が格段に強化されている。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、憲法は、裁判所に違憲立法審査権を付与している(日本国憲法第81条)。裁判所は、法律をはじめとする国の法令や行政行為について、それが憲法に適合しているか否か宣言することができる。この権限は、国家の行為の適否について、終局的に判断する権限であることから、最も強い権限のはずである。このような体制を指して、「司法国家」と言われる。しかし、裁判所はいわゆる司法消極主義に立つとされ、国会や内閣(いわゆる政治部門)の判断に対し、異議を差し挟むことには謙抑的である。特に、高度の政治性を有する国家行為に対する合憲性の審査は裁判所の権限外とする「統治行為論」を採用した場合、裁判所はただ時の政権に追従するのみになってしまうとの批判がある。なお、司法に主権者たる国民の意見を反映させる機会としては、最高裁判所裁判官に対する「国民審査」制度や刑事裁判における「裁判員」制度などがある。", "title": "国家形態・政治体制" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日本国憲法は、国会を「国権の最高機関」であり「国の唯一の立法機関」と定める。国会は、衆議院と参議院からなる(二院制)。いずれも国民から直接選挙され、全国民を代表する国会議員で構成される。衆議院議員と参議院議員を兼ねることはできない。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "衆議院議員の任期は4年だが、衆議院が解散された場合には任期前に資格を失う。衆議院解散は内閣が決定し、天皇が行う。衆議院解散の実質的決定権については論争はあるが、今日、内閣は天皇の国事行為に助言と承認を行う立場(日本国憲法第7条)にあることから、実務上、天皇の国事行為に責任を負う内閣が実質的決定権を有するとされる。内閣不信任決議が可決されて10日間に内閣総辞職をしない場合は衆議院解散をしなければならないが(日本国憲法第69条)、それ以外でも内閣は憲法7条に基づいてその裁量により衆議院を解散できると解されている。なお、衆議院解散の実質的決定権という点については学説に争いがあるものの、少なくとも衆議院解散の形式的宣示権は憲法上天皇にあり(日本国憲法第7条3号)、今日、解散詔書の文言については日本国憲法第69条により内閣不信任決議が可決あるいは内閣信任決議が否決された場合か否かを問わず「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」との表現が確立している。これは衆議院解散は詔書をもって行われるが、詔書の直接の根拠は日本国憲法第7条にあり、また、この文言は解散の理由を問わないため、一般的には、いかなる場合の衆議院解散についても適用しうるものと解されているためである。詳細については衆議院解散を参照。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "衆議院の解散または衆議院議員の任期満了に伴う選挙を、すべての議員が選ばれるため「総選挙」という。参議院議員の任期は6年で、3年ごとに半数が改選される。参議院議員の任期満了に伴う選挙を通常選挙という。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "衆議院の総選挙は小選挙区制と比例代表制(拘束名簿式)からなる小選挙区比例代表並立制が採用され、参議院の通常選挙は選挙区制(大選挙区制、中選挙区制)と比例代表制(非拘束名簿式)が併用されている。定数は、衆議院が465(小選挙区選出議員289、比例代表選出議員176)、参議院が242(選挙区選出議員146、比例代表選出議員96)。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国会は毎年1回の召集が義務づけられており、これを常会(通常国会)という。また、内閣が自ら、あるいは一定数の国会議員の要求により、内閣が臨時に国会の召集を決定することもでき、これを臨時会(臨時国会)という。1992年(平成4年)以降は例年1月に常会が召集され、9月頃に臨時会が召集される。衆議院議員総選挙後には特別会(特別国会)が召集され、内閣総理大臣を指名する。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "国会は会期制が採られており、会期不継続の原則と一事不再議の原則が定められている。会期不継続の原則とは、会期独立の原則ともいわれ、継続審議の議決がなされない限り、会期中に議決に至らなかった議案は廃案(消滅)となる原則である。一事不再議の原則とは、一度議決された議案は、同一会期中に再度提出できないという原則である。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "常会の会期は150日間で、延長は1回のみ可能。臨時会と特別会の会期はその都度両院一致の議決で定め、延長は2回まで可能。会期の決定及び延長については衆議院の優越が認められ、衆参の議決が不一致の場合及び参議院が議決をしない場合は衆議院の議決による。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "法律案(法案)は、各々の国会議員、および内閣により提出される。国会議員から提出された法案を議員立法あるいは衆法(衆議院議員が提出した法案)・参法(参議院議員が提出した法案)といい、内閣から提出された法案を内閣提出法案(政府提出法案)あるいは閣法という。現在、1会期における提出法案のうち、おおむね30%が議員立法で、70%が内閣提出法案となっている。成立率(提出された法案のうち成立したものの割合)は、議員立法が20%程度で、内閣提出法案は80%以上。したがって、成立する法律のほとんどは内閣が提出したものである。これは、国会から内閣総理大臣を選出し、その内閣総理大臣が内閣を組む議院内閣制を採っていることの帰結である。内閣総理大臣を輩出する与党と内閣は、協働して内閣提出法案の成立に努める。", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "内閣提出法案の成立過程", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "議員立法の成立過程", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "国会に提出された法律案の過程", "title": "立法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本国憲法には政党に関する規定はない。政治資金規正法は、「政治団体」のうち、国会議員を5人以上有するもの、または直近の総選挙または直近の通常選挙もしくは直近の通常選挙の前の通常選挙における得票総数が有効投票総数の100分の2以上あるものを「政党」と定義している。", "title": "政党" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この「政党」には、届出・収支報告義務を定め、政治資金の透明化を行うとともに、政党のうち、国会議員を有するものに政党交付金による助成を行っている。", "title": "政党" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "行政権は内閣に属する(日本国憲法第65条)。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国会議員の中から、国会の議決によって内閣総理大臣が指名される(日本国憲法第67条1項)。内閣総理大臣は天皇に任命される。内閣総理大臣は国務大臣を任命し、内閣総理大臣と国務大臣の合議体である内閣を構成する。内閣総理大臣は国務大臣を任意に罷免することができる。内閣総理大臣は国会議員の中から指名されるが、国務大臣は過半数が国会議員であればよい。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以下の場合には内閣は総辞職する。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所および法律により設置される下級裁判所に属する。", "title": "司法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "終審裁判所である最高裁判所は、長たる裁判官(最高裁判所長官)とその他の最高裁判所裁判官から構成される。最高裁判所長官は内閣が指名し、天皇が任命する。その他の最高裁判所裁判官は、内閣が任命する。最高裁判所長官とその他の最高裁判所裁判官は、任命後、国民審査を受ける。その後10年を経過するごとに、さらに国民審査を受ける。最高裁判所の裁判官は、法律で定めた年齢(70歳)に達すると退官する。", "title": "司法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "下級裁判所(高等裁判所・地方裁判所・家庭裁判所・簡易裁判所)の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。下級裁判所の裁判官の定年は65歳(簡易裁判所裁判官は70歳)である。", "title": "司法" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "都道府県および市町村の議会の議員、都道府県知事および市町村長は、すべて住民に選挙され、任期はいずれも4年間である。", "title": "地方の政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本は国際連合の加盟国で、安全保障理事会の常任理事国入りを目指しているG4諸国の一つである他に、東アジアにおいて重要な役割を果たしている。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本国憲法は、日本が武力を以て、他国との間で戦闘を交えることを禁じている。一方で、日本には、陸海空から成る自衛隊が組織されており、2003年から2009年にかけて、自衛隊がイラクへ派遣された。これは、第二次世界大戦以降では、日本が初めて海外に武装組織を派遣した瞬間だった。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "経済大国としては、日本は主要国首脳会議 (G8) およびアジア太平洋経済協力 (APEC) の参加国である他、ASEANとの間では、ASEAN+3として関係を発展させている上に、東アジアサミットにも参加している。国際援助および開発支援の場でも日本は大きな貢献者であり、2004年には、同年の国民総所得の0.19%を援助金に充てた。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本の領土に関しては、北方領土を巡ってロシアと対立している他に、韓国から日本固有の領土である竹島を、独島と称して自国の領土であると主張されたり、日本海の呼称を東海に変更するよう求める活動を実施されたりしている。また、中国(中華人民共和国と中華民国)との間には尖閣諸島に関する問題、さらに中国との間では沖ノ鳥島の位置付けを巡る議論がある。これらの領土問題は、ある面では、それらの島の周囲の海域に埋蔵されていると推定される、石油や天然ガスといった天然資源および海洋生物資源を自国の支配下に置くための紛争であると見ることもできる。", "title": "外交関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "北朝鮮との間では、同国による日本人の拉致と核兵器開発疑惑に関連する問題が現在進行中である。", "title": "外交関係" } ]
日本の政治(にほんのせいじ)では、日本における政治制度について解説する。
{{出典の明記|date=2018年10月}} {{日本の統治機構}} [[Image:National Diet Building.jpg|thumb|280px|[[国会議事堂]]]] '''日本の政治'''(にほんのせいじ)では、[[日本]]における[[政治]]制度について解説する。 ==政治史・事情== {{main|日本の政治史}} === 55年体制 === 戦後10年間は小党が分立する状態が続いたが、[[1955年]](昭和30年)に[[日本社会党]]の右派と左派が統一し、[[日本民主党]]と[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]が合同([[保守合同]])して[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が成立したことにより、[[55年体制]]が確立した。55年体制では自由民主党が常に与党となり、国会では自由民主党の総裁が内閣総理大臣に指名された。自由民主党の一部議員が離党して作った[[新自由クラブ]]との[[連立政権]]が組まれた時期([[1983年]](昭和58年)から[[1986年]](昭和61年)まで)を除き、長らく自由民主党の単独内閣が続いた。 === 細川非自民連立政権から自公連立政権までの経緯 === [[1993年]](平成5年)に自由民主党が分裂し、[[宮沢内閣改造内閣|宮沢内閣]]の[[不信任決議案]]が衆議院で可決され、宮沢内閣は衆議院解散を選択した。自由民主党の一部議員は離党して[[新党さきがけ]]、[[新生党]]を結成し、このあと行われた総選挙で、自由民主党は公示前の勢力をほぼ維持したものの過半数を割り込んだ。この選挙後に召集された[[特別会|特別国会]]で、[[日本新党]]の[[細川護煕]]が内閣総理大臣に指名され、[[日本社会党]]、[[新生党]]、[[公明党]]、[[日本新党]]、[[民社党]]、[[新党さきがけ]]、[[社会民主連合]]、[[民主改革連合]]の連立により、[[細川内閣]]が組まれ、[[55年体制]]は崩壊した。この連立は次の[[羽田内閣]]でも維持されたものの、首相指名直後に日本社会党が連立離脱を表明したため、少数与党内閣となった。 [[1994年]](平成6年)6月に羽田内閣は在任わずか64日で[[内閣総辞職]]を行い、国会は日本社会党の[[村山富市]]を内閣総理大臣に指名し、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの連立内閣([[自社さ共同政権構想|自社さ連立政権]])が組まれた。この連立は次の[[第1次橋本内閣]]でも維持された([[閣外協力]]は[[第2次橋本内閣改造内閣|第2次橋本内閣]]の[[1998年]](平成10年)6月まで)。 [[1999年]](平成11年)1月、[[小渕内閣]]は自由民主党と[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]の連立内閣([[小渕内閣 (第1次改造)|小渕第1次改造内閣]])となり、同年10月には公明党も加わった([[小渕内閣 (第2次改造)|小渕第2次改造内閣]]、自自公連立内閣)。翌[[2000年]](平成12年)に自由党は分裂して、離党した一部議員が[[保守新党|保守党]](後に保守新党)を結成し、連立に残留した([[第1次森内閣]]、自公保政権)。この連立は、次の[[小泉内閣]]でも維持されたが、[[2003年]](平成15年)11月の[[第43回衆議院議員総選挙]]後に保守新党が自民党に吸収され、自民党・公明党の連立(自公連立政権)となり、[[2009年]](平成21年)8月の[[第45回衆議院議員総選挙]]において、自民党、公明党が大敗し、野党になるまで続いた。 === 現在の政治状況 === [[2012年]](平成24年)[[12月16日]]に執行された[[第46回衆議院議員総選挙]]において、与党の[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]、[[国民新党]]が大敗し、同年[[12月26日]]に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]、[[公明党]]による連立政権が発足した。現在、[[内閣総理大臣]]は[[自由民主党総裁]]の[[岸田文雄]]が務めている。 '''国会に議席を持つ政党''' {{main|日本の政党|日本の政党一覧}} * [[与党]] ** [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] ** [[公明党]] * [[野党]] ** [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] ** [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] ** [[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]] ** [[日本共産党]] ** [[れいわ新選組]] ** [[教育無償化を実現する会]] ** [[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]] ** [[みんなでつくる党]] ** [[参政党]] === 政治の清廉度 === [[トランスペアレンシー・インターナショナル]]([[ドイツ]]の[[非政府組織|NGO]])によると、2015年における当国の[[腐敗認識指数]]は167ヶ国中18位(下位であるほど腐敗している)である<ref>{{cite web |url=http://www.transparency.org/cpi2015/results |title=CPI 2015 table |publisher=Transparency International |accessdate=2016-01-28}}{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>。 == 国家形態・政治体制 == [[ファイル:Democracy Index 2022.svg|サムネイル|320x320ピクセル|[[エコノミスト]]の[[民主主義指数]]による2022年の世界の民主主義の[[デ・ファクト|デ・ファクト(事実上)]]の状態<ref>{{Cite web |url=https://www.eiu.com/n/campaigns/democracy-index-2022/ |title=Democracy Index 2022 – Economist Intelligence Unit |website=EIU.com |access-date=4 February 2023 |archive-url= |archive-date= |url-status=}}</ref>。濃い緑が最も民主的(指数10)、濃い赤が最も非民主的(指数0)]] 代議制をとる[[民主主義]]の国である<ref group="注釈" name="DI2014">[https://www.eiu.com/topic/democracy-index] 民主主義指数は[[エコノミスト]]誌系列の調査研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]が発表している。2020年版において日本は10点満点のうち8.13と数値化され、「完全な民主主義」の下層に位置づけられている。</ref>。日本の政治は[[日本国憲法]]に基づいて行われる。そのため、[[日本]]は、[[立憲主義]]に基づく[[国家]]([[立憲国家]])であると言える。また、日本の[[行政]]・[[司法]]は、[[憲法]]と[[国会]]が定める[[法律]]以下、明文化された[[法令]]等に基づいて行われる。そのため、日本は[[法治国家]]であるとも言える。 日本国憲法は、[[主権]]が[[国民]]に存する[[国民主権]]を定める。また、政治上の[[権力]]を[[立法|立法権]]・[[行政|行政権]]・[[司法|司法権]]の三権に分け、それぞれを国会・[[内閣 (日本)|内閣]]・[[裁判所]]に配する[[権力分立]]の体制を定める。国会を「国権の最高機関」とする[[民主主義|議会制民主政治]]が行われ、国会と内閣の協働による[[議院内閣制]]が採られる。憲法第1章では、主権者たる日本国民の総意に基づいて「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」の地位にある[[天皇]]を置く([[象徴天皇制]])。天皇は国政に関する権能を有しないと憲法で定めており、内閣の助言と承認により[[国事行為]]のみを行う。 日本国憲法はまた、[[地方自治]]を定める。日本の地方自治は、全国を47の地域に隈なく分けた[[都道府県]]と、都道府県の中をいくつかの地域に分けた[[市町村]]の、2段階の[[地方公共団体]]によって担われる。すべての都道府県と市町村には、各々、議事機関である[[日本の地方議会|地方議会]]と[[執行機関]]である首長([[都道府県知事]]、[[市町村長]])が置かれる。地方公共団体は、法律の範囲内で[[条例]]を制定することができる。 日本国憲法の三大原理としてよく挙げられるのは、国民主権、基本的[[人権]]の尊重、[[平和主義]]の3つである。 === 政治制度 === {{main|間接民主制|象徴天皇制|議院内閣制}} ==== 議会制民主主義 ==== 国民の代表者たる[[日本の国会議員|国会議員]]が国会において政治に参画し、民主主義を実現する制度(間接民主制)。この他[[憲法改正]]の[[国民投票]]においては[[直接民主制]]を採用する。 ==== 議院内閣制 ==== 国会における[[内閣総理大臣指名選挙]]によって国会議員の中から内閣総理大臣が選出され、内閣総理大臣を[[首長]]とする内閣が組織され、その内閣は国会と連帯して責任を負う制度。 衆議院は内閣不信任決議を可決あるいは内閣信任決議を否決して、内閣に総辞職を迫ることができ、内閣はこれに対抗して衆議院を解散することができる。なお、この場合によらず、内閣は任意に衆議院を解散できると解釈される。 ==== 象徴天皇制 ==== 日本国憲法で規定された、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする制度。 日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)。国政に関する権能を全く有さない(第4条)。 === 元首 === {{main|日本の元首}} 日本の[[元首]]について、様々な見解がある。[[外交権]]を持つ[[内閣 (日本)|内閣]]ないしその首長たる[[内閣総理大臣]]とする説{{sfn|田中浩|2016|p=「元首」}}{{Full citation needed|date=2021年4月}}{{sfn|芦部信喜|2016|p=47}}{{Full citation needed|date=2021年4月}}{{sfn|長野和夫|2006|p=170}}{{Full citation needed|date=2021年4月}}、戦前と同様に[[天皇]]とする説等である。 === 国政 === [[画像:Politics Under Constitution of Japan 02.png|thumb|280px|日本の統治機構]] 憲法上は国会を「国権の最高機関」と定め、「国の唯一の立法機関」としていることから、付与される政治上の権力は国会が最も大きい([[日本国憲法第41条]])。もっとも、憲法は、内閣総理大臣に内閣を代表して議案(内閣提出法案)を提出する権限を付与しており([[日本国憲法第72条]])、国会で成立する法案の大半は内閣提出法案となっている。そのため、実質的には内閣の権限が国会に優越するほど大きく、内閣の下に置かれる[[日本の行政機関|行政機関]]の影響力も非常に大きい(いわゆる[[行政国家現象]]の顕在化)。さらに、行政機関の内部では、[[資格任用制]]により採用される幹部職員、いわゆる[[官僚]]([[キャリア (国家公務員)|キャリア公務員]])が、[[政治任用制|政治任用]]される[[大臣 (日本)|大臣]]・[[副大臣]]・[[大臣政務官]]の政務三役をしのぐ影響力を持っていたため、長らく「官僚国家」であるとされてきたが、[[内閣人事局]]を通じて[[キャリア (国家公務員)|キャリア公務員]]の人事権を[[政務三役]]が掌握することで、政務三役のキャリア公務員に対する権限が格段に強化されている。 また、憲法は、裁判所に[[違憲立法審査権]]を付与している([[日本国憲法第81条]])。裁判所は、法律をはじめとする国の法令や行政行為について、それが憲法に適合しているか否か宣言することができる。この権限は、国家の行為の適否について、終局的に判断する権限であることから、最も強い権限のはずである。このような体制を指して、「司法国家」と言われる。しかし、裁判所はいわゆる[[司法消極主義]]に立つとされ、国会や内閣(いわゆる政治部門)の判断に対し、異議を差し挟むことには謙抑的である。特に、高度の政治性を有する国家行為に対する合憲性の審査は裁判所の権限外とする「[[統治行為論]]」を採用した場合、裁判所はただ時の政権に追従するのみになってしまうとの批判がある。なお、司法に主権者たる国民の意見を反映させる機会としては、[[最高裁判所裁判官]]に対する「[[最高裁判所裁判官国民審査|国民審査]]」制度や刑事裁判における「[[裁判員]]」制度などがある。 ==== 国の政治制度 ==== {{main|日本国政府}} *[[立法]] **[[国会 (日本)|国会]] ***[[衆議院]] ***[[参議院]] *[[行政]] **[[内閣 (日本)|内閣]] ***[[内閣総理大臣]] **[[日本の行政機関|中央省庁]] *[[司法]] **[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]] == 立法 == 日本国憲法は、国会を「国権の最高機関」であり「国の唯一の立法機関」と定める。国会は、[[衆議院]]と[[参議院]]からなる([[二院制]])。いずれも国民から[[直接選挙]]され、全国民を代表する国会議員で構成される。衆議院議員と参議院議員を兼ねることはできない。 === 国会議員 === 衆議院議員の任期は4年だが、衆議院が解散された場合には任期前に資格を失う。[[衆議院解散]]は内閣が決定し、天皇が行う。衆議院解散の実質的決定権については論争はあるが<ref name="satou-58-59">佐藤幸治編 『要説コンメンタール 日本国憲法』 三省堂、1991年、58-59頁</ref>、今日、内閣は天皇の国事行為に助言と承認を行う立場([[日本国憲法第7条]])にあることから、実務上、天皇の国事行為に責任を負う内閣が実質的決定権を有するとされる<ref name="matsuzawa-341">松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、341頁</ref>。[[内閣不信任決議]]が可決されて10日間に[[内閣総辞職]]をしない場合は衆議院解散をしなければならないが([[日本国憲法第69条]])、それ以外でも内閣は憲法7条に基づいてその裁量により衆議院を解散できると解されている。なお、衆議院解散の実質的決定権という点については学説に争いがあるものの、少なくとも衆議院解散の形式的宣示権は憲法上天皇にあり([[日本国憲法第7条]]3号)<ref name="satou-58">佐藤幸治編 『要説コンメンタール 日本国憲法』 三省堂、1991年、58頁</ref>、今日、解散詔書の文言については日本国憲法第69条により内閣不信任決議が可決あるいは内閣信任決議が否決された場合か否かを問わず「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」との表現が確立している。これは衆議院解散は詔書をもって行われるが、詔書の直接の根拠は日本国憲法第7条にあり、また、この文言は解散の理由を問わないため、一般的には、いかなる場合の衆議院解散についても適用しうるものと解されているためである<ref name="kokkai-35">浅野一郎・河野久著 『新・国会事典―用語による国会法解説』 有斐閣、2003年、35頁</ref><ref name="ashibe-513-514">芦部信喜編 『演習憲法』 青林書院、1984年、513-514頁</ref>。詳細については[[衆議院解散]]を参照。 衆議院の解散または衆議院議員の任期満了に伴う選挙を、すべての議員が選ばれるため「[[衆議院議員総選挙|総選挙]]」という。参議院議員の任期は6年で、3年ごとに半数が改選される。参議院議員の任期満了に伴う選挙を[[参議院議員通常選挙|通常選挙]]という。 衆議院の総選挙は[[小選挙区制]]と[[比例代表制]](拘束名簿式)からなる[[小選挙区比例代表並立制]]が採用され、参議院の通常選挙は選挙区制([[大選挙区制]]、[[中選挙区制]])と比例代表制([[非拘束名簿式]])が併用されている。定数は、衆議院が465(小選挙区選出議員289、比例代表選出議員176)、参議院が242(選挙区選出議員146、比例代表選出議員96)<ref name=":0">{{Cite web|和書|url= https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo03.html|title=総務省|選挙の種類|publisher=[[総務省]]|accessdate=2023-03-25}}</ref><ref name=":0" />。 === 国会の種類・会期 === 国会は毎年1回の[[召集]]が義務づけられており、これを常会([[通常国会]])という。また、内閣が自ら、あるいは一定数の国会議員の要求により、内閣が臨時に国会の召集を決定することもでき、これを臨時会([[臨時国会]])という。[[1992年]](平成4年)以降は例年1月に常会が召集され、9月頃に臨時会が召集される。衆議院議員総選挙後には特別会([[特別国会]])が召集され、内閣総理大臣を指名する。 国会は[[会期制]]が採られており、会期不継続の原則と[[一事不再議]]の原則が定められている。会期不継続の原則とは、会期独立の原則ともいわれ、[[継続審議]]の議決がなされない限り、会期中に議決に至らなかった議案は廃案(消滅)となる原則である。一事不再議の原則とは、一度議決された議案は、同一会期中に再度提出できないという原則である。 常会の会期は150日間で、延長は1回のみ可能。臨時会と特別会の会期はその都度両院一致の議決で定め、延長は2回まで可能。会期の決定及び延長については[[衆議院の優越]]が認められ、衆参の議決が不一致の場合及び参議院が議決をしない場合は衆議院の議決による。 === 立法過程 === 法律案(法案)は、各々の国会議員、および内閣により提出される。国会議員から提出された法案を議員立法あるいは衆法(衆議院議員が提出した法案)・参法(参議院議員が提出した法案)といい、内閣から提出された法案を内閣提出法案(政府提出法案)あるいは閣法という。現在、1会期における提出法案のうち、おおむね30%が議員立法で、70%が内閣提出法案となっている。成立率(提出された法案のうち成立したものの割合)は、議員立法が20%程度で、内閣提出法案は80%以上。したがって、成立する法律のほとんどは内閣が提出したものである。これは、国会から内閣総理大臣を選出し、その内閣総理大臣が内閣を組む[[議院内閣制]]を採っていることの帰結である。内閣総理大臣を輩出する与党と内閣は、協働して内閣提出法案の成立に努める。 内閣提出法案の成立過程 #内閣提出法案の原案は、それを所管する各省庁が「第一次案」を作成し、関係省庁や与党との意見調整、審議会への諮問、公聴会での意見聴取などが行われる。 #法律案提出の見通しがつくと、主管官庁は法文化作業を行い、法律案の「原案」を作成する。 #主管官庁で法律案の原案ができると、原案は[[内閣法制局]]の予備審査を受ける。内閣法制局では、憲法や他の法令との整合性、法文の配列や用語などについて審査する。 #予備審査が終わると、主任の国務大臣から内閣総理大臣に対し、国会提出について閣議請議の手続を行う。閣議請議の窓口である[[内閣官房]]は、受け付けた「請議案」を内閣法制局に送付する。内閣法制局は最終的な審査を行い、必要に応じて修正し、内閣官房に回付する。 #閣議請議された請議案は、閣議において、[[内閣法制局長官]]からその概要の説明が行われる。異議なく閣議決定されると、正式な「法律案」となる。この法律案は、内閣総理大臣から国会(衆議院または参議院)に提出される。 議員立法の成立過程 #議員は、法律案の策定にあたって、[[公設秘書]]・私設秘書、[[国会議員政策担当秘書|政策担当秘書]]、[[議院法制局]]や[[国立国会図書館]]の職員、関係省庁や[[地方公共団体]]の職員、その他のブレーン、民間企業や団体、一般国民など、多くのスタッフと協議する。特に、議院法制局は、立法技術の専門的な見地から、憲法や他の法令との整合性調査、法律案要綱の作成、法律案の条文化などを行い、法律案の局内審査と法制局長決裁を行う。 #議院法制局の審査を経た法律案は、依頼者である議員に手交され、所属政党内の法案審査手続きにかけられる。 #議員が議案を発議するには、衆議院においては議員20人以上、参議院においては議員10人以上の賛成を要する。ただし、予算を伴う法律案を発議するには、衆議院においては議員50人以上、参議院においては議員20人以上の賛成を要する。 #議院法制局の審査を経て、所定の賛成者をそろえた法律案は、議長に提出される。 国会に提出された法律案の過程 #提出された法律案は、提出された議院(先議の議院)の議長により、適当な委員会に付託される。 #法律案を付託された委員会では、まず、主任の国務大臣が法律案の提案理由説明を行い、審査に入る。審査は、議員から国務大臣・副大臣・大臣政務官その他の公務員などに対し、法律案に関する質疑応答の形式で行われる。委員会での質疑、討論が終局したときには、委員長が終局を宣言し、表決に付す。 #委員会における法律案の審査が終了した後、法律案の審議は本会議に移される。本会議では、法律案を付託された委員長から委員会での審査について報告が行われる。必要に応じて討論として、法律案に反対の立場からの演説、賛成の立場からの演説が行われる。討論の後、議長から委員会表決の結果報告が告知され、採決に入る。 #本会議で法律案が可決されると、議長から他の議院に法律案が送付される。送付を受けた議院においても、委員会の審査、本会議の審議を経て、採決が行われる。 #法律案は、憲法に特別の定めのある場合([[地方自治特別法]]など)を除き、衆議院および参議院の両議院で可決したとき「法律」となる([[日本国憲法第59条]]1項)。 #法律が成立したときは、後議の議院の議長から、内閣を経由して天皇に奏上される。奏上された案文は天皇が決裁(自筆の署名をし、御璽を押印)し、内閣に戻される。 #法律は、奏上された日から30日以内に[[公布]]されなければならない。法律の公布に当たっては、[[主任の大臣|主任の国務大臣]]が署名し、[[内閣総理大臣]]が連署する。法律は[[官報]]に掲載することで公布される。 #公布された法律は、[[附則]]に定められた日に[[施行]]される。施行日は、「公布の日から起算して○年を超えない範囲内において政令で定める日」と附則に定めることもできる。 == 政党 == 日本国憲法には[[日本の政党|政党]]に関する規定はない。[[政治資金規正法]]は、「[[政治団体]]」のうち、国会議員を5人以上有するもの、または直近の総選挙または直近の通常選挙もしくは直近の通常選挙の前の通常選挙における得票総数が有効投票総数の100分の2以上あるものを「政党」と定義している。 この「政党」には、届出・収支報告義務を定め、政治資金の透明化を行うとともに、政党のうち、国会議員を有するものに[[政党交付金]]による助成を行っている。 == 行政 == [[ファイル:Soridaijinkantei2.jpg|thumb|280px|谷側から見た[[内閣総理大臣官邸|総理大臣官邸]]]] 行政権は内閣に属する([[日本国憲法第65条]])。 国会議員の中から、国会の議決によって[[内閣総理大臣]]が指名される([[日本国憲法第67条]]1項)。内閣総理大臣は天皇に任命される。内閣総理大臣は[[国務大臣]]を任命し、内閣総理大臣と国務大臣の合議体である内閣を構成する。内閣総理大臣は国務大臣を任意に罷免することができる。内閣総理大臣は国会議員の中から指名されるが、国務大臣は過半数が国会議員であればよい。 以下の場合には内閣は総辞職する。 *衆議院による内閣不信任→衆議院が解散されないとき *内閣総理大臣が欠けたとき *衆議院議員の総選挙の後に初めて国会が召集されたとき == 司法 == [[Image:Saikosaibansho.jpg|thumb|280px|[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]]] 司法権は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]および法律により設置される下級裁判所に属する。 終審裁判所である[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は、長たる裁判官(最高裁判所長官)とその他の最高裁判所裁判官から構成される。最高裁判所長官は内閣が指名し、天皇が任命する。その他の最高裁判所裁判官は、内閣が任命する。最高裁判所長官とその他の最高裁判所裁判官は、任命後、国民審査を受ける。その後10年を経過するごとに、さらに国民審査を受ける。最高裁判所の裁判官は、法律で定めた年齢(70歳)に達すると退官する。 下級裁判所([[高等裁判所]]・[[地方裁判所]]・[[家庭裁判所]]・[[簡易裁判所]])の裁判官は、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の指名した者の名簿により、内閣が任命する。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。下級裁判所の裁判官の定年は65歳(簡易裁判所裁判官は70歳)である。 == 地方の政治 == 都道府県および市町村の議会の議員、都道府県知事および市町村長は、すべて住民に[[日本の選挙|選挙]]され、任期はいずれも4年間である。 === 地方の政治制度 === * [[都道府県]] ** [[都道府県知事]] ** [[日本の地方議会|都道府県議会]] * [[市町村]] ** [[市町村長]] ** [[日本の地方議会|市町村議会]] == 外交関係 == {{Main|日本の国際関係}} 日本は[[国際連合]]の[[国際連合加盟国|加盟国]]で、[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]の常任理事国入りを目指している[[G4諸国]]の一つである他に、[[東アジア]]において重要な役割を果たしている。 日本国憲法は、日本が[[軍事力|武力]]を以て、他国との間で[[交戦権|戦闘を交えること]]を禁じている。一方で、日本には、陸海空から成る[[自衛隊]]が組織されており、2003年から2009年にかけて、[[自衛隊イラク派遣|自衛隊がイラクへ派遣]]された。これは、第二次世界大戦以降では、日本が初めて海外に武装組織を派遣した瞬間だった。 経済大国としては、日本は[[主要国首脳会議]] (G8) および[[アジア太平洋経済協力]] (APEC) の参加国である他、[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]との間では、[[ASEAN+3]]として関係を発展させている上に、[[東アジアサミット]]にも参加している。[[外国援助|国際援助]]および開発支援の場でも日本は大きな貢献者であり、2004年には、同年の[[国民総所得]]の0.19%を援助金に充てた<ref>{{PDFlink|[http://www.oecd.org/dataoecd/40/3/35389786.pdf Net Official Development Assistance In 2004]|32.9&nbsp;[[Kibibyte|KiB]]<!-- application/pdf, 33766 bytes -->}}{{リンク切れ|date=2021年4月}}, Organisation for Economic Co-operation and Development, 11 April 2005. Retrieved 14 May 2006.</ref>。 [[カイロ宣言|日本の領土]]に関しては、[[北方地域|北方領土]]を巡って[[ロシア]]と対立している他に、[[大韓民国|韓国]]から日本固有の領土である[[竹島 (島根県)|竹島]]を、独島と称して自国の領土であると主張されたり、[[日本海呼称問題|日本海の呼称を東海に変更するよう求める]]活動を実施されたりしている。また、[[中華人民共和国|中国]]([[中華人民共和国]]と[[中華民国]])との間には[[尖閣諸島問題|尖閣諸島に関する問題]]、さらに中国との間では[[沖ノ鳥島]]の位置付けを巡る議論がある。これらの領土問題は、ある面では、それらの島の周囲の海域に埋蔵されていると推定される、[[石油]]や[[天然ガス]]といった天然資源および海洋生物資源を自国の支配下に置くための紛争であると見ることもできる。 [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]との間では、同国による[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人の拉致]]と[[北朝鮮核問題|核兵器開発疑惑]]に関連する問題が現在進行中である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == *[[日本政治史]] *[[日本国憲法]] *[[日本の国家機関]] *[[日本の選挙]] *[[日本の政党]] {{各年の政治}} {{日本関連の項目}} {{アジアの政治|}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:にほんのせいし}} [[Category:日本の政治|*]] [[bn:জাপান#রাজনীতি]]
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日本の宗教
日本の宗教(2018年NHK調査) 日本の宗教(にほんのしゅうきょう、にっぽんのしゅうきょう)は、神道と仏教が多数派を占めている。現在の日本においては、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(日本国憲法第20条)と定められ、国教は定められていない。また、特定の宗教を信仰していないとして自身を無宗教と認識する者も多い。 2020年(令和2年)12月31日現在、日本には総計180,544の宗教法人がある。うち文部科学大臣所轄の宗教法人は神道系212、仏教系483、キリスト教系328、諸教124となっている。都道府県知事所轄の宗教法人は神道系84,361、仏教系76,572、キリスト教系4,492、諸教13,972である。 各宗教の信者数は、文化庁『宗教年鑑』令和3年(2021年)版によると、2020年12月31日時点で、神道系が8792万4087人(48.5%)、仏教系が8397万1139人(46.4%)、キリスト教系が191万5294人(1.1%)、諸教(神道系・仏教系・キリスト教系以外であるもの)733万5572人(4.0%)、合計1億8114万6092人となり、これは日本の総人口(約1億2600万人)のおよそ1.5倍にあたる。したがって複数の宗教の「信者」として数え上げられている国民が確実にいることになるが、一方で個々の国民へのアンケート調査などでは、「何らかの信仰・信心を持っている、あるいは信じている」人は2割から3割という結果が出ることが多く、逆に総人口を大幅に下回る数しか宗教の「信者」がいない、または「信者である」と思っていない、ということになる。 こうした数値になる要因として、以下が挙げられている。 「神道系」「仏教系」「キリスト教系」「諸教」の種別についても、便宜上の整理に過ぎない。宗教統計調査に際して文化庁が一定の判断をしているが、4つの項目の中から各宗教法人が選択して自己申告しているものである。「日本の宗教は4種類に大別される」と文化庁が認定しているわけではなく、宗教学上の分類でもない。かつて教派神道であった天理教は「諸教」と届け出ており、この分類が必ずしも実際の教義や儀礼、信仰の様相、歴史的経緯等と一致するものではない。 「宗教を信仰しているかどうか」という調査の場合は、また異なる数字が出ている。NHK放送文化研究所による「ISSP国際比較調査(宗教)2008」によると、「あなた自身は、何か宗教を信仰していますか」という問いに対して、「宗教を信仰していない」(無宗教)49.4%、仏教34%、神道2.7%、その他の宗教1.1%、プロテスタント0.7%、カトリック0.2%などとなっており、「宗教を信仰していない」人49.4%に対して「宗教を信仰している」人は38.7%となっている。したがって、「宗教を信仰している」人の中では仏教が多数である。キリスト教信者は少数であり、かつその他の宗教(諸教)の信者よりも少ない、という点は文化庁『宗教年鑑』の宗教統計調査の数字とおおむね一致するが、『宗教年鑑』では仏教とほぼ同じだけ信者がいることになっている神道を「信仰している」と思っている人は仏教に比べ相当少ない、ということになる(なお、NHK放送文化研究所の調査においては伝統宗教と新宗教の区別はしていない)。 また同調査によると、神の存在については、「神の存在を信じない」人は8.7%と少数であるが、「神の存在に疑問を感じることもあるが、神は存在すると信じている」人が11.9%、「実際に神が存在することを知っており、神の存在に何の疑いも持っていない」人は4.3%となっており、神の存在を積極的に肯定する人も少数である。一方、「神が存在するかどうかわからないし、存在するかどうかを明らかにする方法もないと思う」という不可知論的な立場を表明する人も19.2%で必ずしも多くはない。「神がいるとは思わないが、何か超自然的な力はあると思う」人が23.2%、「神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある」人が32.0%となっており、時と場合によっては人知を超えた宗教的とも言い得るものが存在しているような気がする、といった意識を持っている人が半数以上を占めており、多数派である。また、多くのものに神の存在を感じたり、祀ったりする気持ちについて、「理解できる」人が25.9%、「どちらかといえば、理解できる」人が52.9%で、汎神論的感覚を肯定する人も多数となっているため、「宗教を信仰していない」人(無宗教)が約半数であっても、単純に「無神論者や不可知論者が約半数」とは言えない、という結果となっている。 ギャラップインターナショナルによる2017年の調査(調査対象68カ国、約6万6千人)によれば、日本は人口の29%が神を信じていない無神論者とされ、この無神論者の割合において、日本は中国に次いで世界2位となっている。 2018年のISSP調査では、「神仏を拝む頻度」「お天道様がみている」「人知を超えた力の存在」「自然に宿る神」などの信仰に関する数値が低下し、さらに信仰心が薄くなっている状況が明らかになった。 日本国憲法第20条には との条文があり、日本国では信教の自由が認められ、国教は定められていない。 日本では神道と仏教の信徒が大多数を占めている。日本では神仏習合(シンクレティズムの一種)の時代が長く続いた。明治維新で神仏分離がなされた後も神道と仏教の間の区別には曖昧な面が残っている。また、廃仏毀釈を逃れるため、もとは寺であったものが神社になった例も多い。これらの理由により、神棚を祀り仏壇も置いている家庭、仏教寺院の檀家であると同時に神社の氏子でもある家庭は少なくない。これが、神道を信仰する者と仏教に帰依している者を合わせると2億人を超えるといわれる所以である。 視点を変えると、神道と仏教という2つの宗教が並立して日本に存在したと捉えるのではなく、神道と仏教が互いを飲み込んで渾然一体となった日本固有の信仰があった(あるいは今もある)というのが自然であるとも考えられる。歴史的に見ても現在においても、誕生祝い・七五三・成人式や祈願事などのハレの行事は神道が、葬儀・供養や死生観にまつわることなどのケガレは仏教が担うように機能を分担しており、両者を合わせて一つの宗教観を構成しているともいえる。 縄文時代の狩猟や漁労、あるいは自然物の採集が主だった頃に、人々は、土地や家の神々に礼拝し、自然現象に霊の存在を認め、畏怖し、呪術によって災難を避け、自然の恩恵を祈る風習があったことが考えられる。晩期縄文時代には、稲作が日本に伝わり、急速に日本列島に広まり、弥生時代を迎える。 日本人の信仰のベースとして自然宗教に近い宗教ともいえる、神道の前の宗教を指す。 『古事記』には皇室や神話などの情報が詳しく記されている。『日本書紀』や『古語拾遺』なども成立し、それらを神道は規範としている。神道の「神」とは、自然や人間や動物・植物を含めた万物の中でも、特に優れた徳を持ち、人々がおそれ慎む存在であると考える。しかし、病気をもたらす「疫神」のように、恐ろしい神もある。また「雨の神」は、豊かな水を与えてくれるが、大雨を降らし、洪水を引きおこすこともある。神をおそれ、かしこむことは、自然のルールを守り、自然と共存して生きていくことを誓う意味もある。奈良時代になると、神社に神宮寺が建てられ、寺に神がまつられるようになり、「神仏習合」の時代が長く続いた。ただし出雲大社のように、早くから神仏分離をした神社もある。明治維新で政府は、神道と仏教との区別を明確にしようと「神仏判然令」を発布し「神仏分離」を行った。第二次世界大戦の終戦後、GHQにより「神道指令」が発布され、いわゆる「国家神道」は廃止され、神社は「国家の宗祀」の地位を失い「宗教法人」となった。現在の神道は、八百万神々(やおよろずのかみがみ)と祖先を祀り、皇室や日本の文化や伝統を重んじ、「浄き心、明き心、正しき心、直き心」で「世のため人のために尽くすこと」を眼目にしている。神道信者や神道施設(神社等)の数は、日本の宗教の中で最大だと言われている。神道(神社神道)は「神は言挙げをせぬ(ものをはっきり言わない)」という思想に見られるように、明確な教義が存在せず(教派神道系のセクト宗教(新宗教)には明確な教義が存在する)、厳密な入信規定もない。氏子入りがこれに近いが、特定の神社の氏子でない日本人が神棚の設置、神社への寄付、祭事への参加などを行うこともあり、これをもって信者と見る向きが多い。 日本の仏教はほとんどが大乗仏教である。鎌倉時代に成立した宗派(鎌倉仏教)が今日の仏教の礎となっており、日本の歴史に深く影響を与え、現在に至るまで信者数も多く、日本の仏教徒の大部分を占める。 歴史を遡れば、仏教は6世紀に日本に伝来したとされている。奈良時代には「南都六宗」と呼ばれた三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが広まった。平安時代には遣唐使とともに唐(中国)に渡り仏教を学ぶ僧が多くいた。代表的な存在として、最澄は帰国後に法華経や密教を中心とした天台宗を開き、空海は太陽を神格化して生み出された大日如来を宇宙の中心と説く密教を学び、帰国後に真言宗を開いた。仏典には、釈迦が教えを説いてから千年間は正しく教えが伝わり実践されるが(正法)、その後千年は教えが形骸化し(像法)、像法の後は末法すなわち仏法を正しく聞くことが出来ず、正しく理解する者がいなくなるという、すなわち暗黒時代が到来するとの思想が記されている(末法思想)。日本では平安時代、(いくつか見方はあるものの)1051年などに末法に入ったと見なし、すでに末法に入ったという痛切な意識は人々の中にいくつかの動きを生んだ。ひとつの動きは、この世に絶望し来世の幸福を願い阿弥陀如来にすがる信仰(浄土思想)で、これは貴族や貧しく力のない一般庶民の間にも広がり、この信仰に基づいた寺院が全国規模で建立された。 すでに末法に入ったとされていた鎌倉時代、実際に世は戦乱や疫病で乱れ、人々は絶望の淵にいた。そうした人々の間では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続けることで阿弥陀如来に救済され、極楽浄土に往生することが出来るとする法然の浄土宗や、男尊女卑や女人不浄が当然と考えられていた時代に男女平等や女人往生を説き、罪深い自分たちだからこそ女性も男性もありのままの生き方のまま浄土往生できるとする悪人正機を説いた親鸞の浄土真宗が全国に広がっていった。こうした後に日蓮は、末法に入ったからこそ「南無妙法蓮華経」(法華経)と日々題目を唱えることで菩薩に至ることができ、安寧を得ることができると説き、日蓮宗を開いた。これら方向性の異なる2つの思潮は、それぞれ現代社会にまでつづく大きな潮流をかたちづくり、今もなお大きな影響力を持っている。またこの時代に中国から禅宗が伝わり、臨済宗や曹洞宗などの流れが生まれた。日本の仏教は、全体的に見れば戒律はほとんどなく、他宗派との表立った論争も少ない。なお、戒名(浄土真宗においては法名、曹洞宗においては安名、以下同じ)は、本来は仏弟子として生きることを誓った人に僧侶から授かる仏弟子としての名前であって、生前に授かることが本来の慣習であるが、多くの日本人の場合は、自身の葬儀の場において戒名(または法名)を得ることにより仏門に入ることになる。 1898年にインド北部で発見されシャムのラーマ5世に譲渡された仏舎利は、1900年にアジアの仏教国へ一部が分与されたが、この際にはビルマやセイロンに加え日本も含まれており、当時のシャムでは仏教徒が多い国と認知されていた。 史料によって、確実に日本にキリスト教が伝わったことがわかるものは、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教である。戦国時代のさなか、1549年のことであり、当初はほぼザビエルたちイエズス会の宣教師のみで布教が開始された、とされている。ザビエルたちは初め鹿児島に入り、そこから布教を開始した。その後、フランシスコ会なども来日し、布教を行った。これらはカトリックがほとんどで、「耶蘇教」「天主教」と呼ばれていた。当時は新興の教えであったプロテスタントはまだ入ってきていなかった、と見られている。 当初、勢力拡大に明け暮れていた各地の戦国大名たちは、最新の知識や技術を持った彼らヨーロッパ人たちを基本的に歓迎しており、キリスト教も比較的スムーズに広まっていった。大名の中には、新しい思想であるキリスト教に惹かれて入信した者もおり、彼らはキリシタン大名と呼ばれた。しかし、サン=フェリペ号事件などいくつかの事件をきっかけに、権力者から忌避されるようになり、やがて天下統一を果たした豊臣秀吉によって1587年に伴天連追放令が発布され、キリスト教は禁止されることとなった。 その後、江戸時代が訪れるとキリスト教は一時的に解禁されたが、すぐに禁止された上に、また江戸幕府が鎖国政策が敷いたため、宣教師ばかりか一般の外国人も入国できなくなり、日本国内のキリスト教は衰退した。当時の日本人キリスト教徒は、棄教するか隠れキリシタンとなった。この隠れキリシタンたちは、密かに信仰を伝えていくこととなった。江戸幕府はヨーロッパ諸国の中で、プロテスタント国家のオランダとだけ、オランダ商館を通じて貿易を継続した。オランダは幕府のキリスト教禁教政策を尊重したため、幕末まで日本にキリスト教が広がることはなかった。 明治政府も五榜の掲示第三札に見られるように当初はキリスト教禁教政策を引き継いだが、1873年、キリシタン禁制の高札が撤去され、いくつかの制限がつきながらも布教が容認された(背景には、キリスト教国がほとんどの欧米諸国からキリスト教禁止に抗議や非難が相次いだことによる)。西洋諸国から宣教師が来日し、教会を開いた。隠れキリシタンも公に信仰できるようになった。1889年2月に発布された大日本帝国憲法において信教の自由が明文化されたが、政府は「神道は宗教ではなく(神道非宗教説)、国家の祭祀(≒国教)であり、臣民に義務がある」として国家神道を創始した。宮城遥拝が国民に義務付けられ、キリスト教団体もこれを受け入れざるを得なかった。教派神道(後に十三派が成立)と仏教(十三宗五十六派)が管長のもとに各教派・各宗派を組織した法的根拠は、1884年8月の太政官布達第十九号「神仏教導職ヲ廃シ住職ヲ任免シ教師ノ等級進退ハ各管長ニ委任等ノ儀」であった。しかしキリスト教については宗教行政上「神仏道以外ノ宗教」として扱われていたのみであり、法制度の外に置かれていた。禁教が解かれたとはいえ、日本の伝統宗教とそうではないキリスト教の扱いにはなお少なからず差があり、西洋諸国との条約改正交渉の中でそのことが問題になった。そこで政府は1899年5月、キリスト教の宣教を正式に公認することを表明し、同年12月には仏教と「神仏道以外ノ宗教」を対象とする宗教法案を元老院に提出した。しかし今度は「耶蘇と同列に扱われる」として仏教界の猛烈な反対があり、結局成立しなかった。キリスト教は法的根拠を持つ教団を創設できず、内村鑑三による無教会主義の提唱など、日本独特のキリスト教信仰のあり方が生まれた。 その後しばらく宗教団体に関する一般法は提案されなかったが、1913年6月、内務省の宗教局が文部省に移管され、仏教と「神仏道以外ノ宗教」が文部省の管轄となってから再び議論されるようになった。しかしその後も仏教界の反発が続いた。紆余曲折があったが、戦時下の1940年に至り、教派神道も対象とした宗教団体法が成立した。この宗教団体法において初めて「神仏道以外ノ宗教」ではなく「基督教」という単語が使われ、包括団体として神道の「教派」、仏教の「宗派」と制度上同様のものとして、「基督教」の「教団」が根本法の中に規定されることになった。この時、教派神道十三派(国家神道に準じた特権的地位のいくつかは廃止)と仏教十三宗五十六派(二十八宗派に整理統合)とともに、カトリックの「日本天主公教教団」とプロテスタントの「日本基督教団」の2教団が文部大臣より認可された。これによってはじめて国法上の宗教団体、かつ法人たるキリスト教教団が成立し、教勢の差こそ大きいものの、キリスト教が教派神道、仏教と法的に同じ地位を得た。この枠組みが戦後も継承され、神道、仏教、キリスト教の3つとそれ以外(諸教)という現在の宗教行政上の分類となっている。第二次世界大戦敗戦後、日本国憲法の制定により憲法第20条の下、日本ではほぼ完全な形での信仰の自由が保証された。 明治時代以来、キリスト教は西洋文化の一つとして、日本の文化に様々な影響を与えている。一般化されたクリスマスなどキリスト教由来の年中行事のみならず、西洋のキリスト教徒の形式を模して成立したキリスト教式の結婚式も人気が高い。布教の一環としてキリスト教の教団や宣教師らによって開設された学校は現在まで存続しており、文化財に指定されている教会建築物、宣教師が開いた避暑地(軽井沢)なども知られていて、日本にキリスト教が存在し、一定の活動を行ってきたこと自体は日本の社会に認識されていると言える。学校に関しては広く人気の高い学校も含まれており、寺の子に生まれ、長じて僧侶になった人物が、カトリック系の中学校・高校に通っていたという例さえある。 しかしそれらは、キリスト教文化が表層的に受容されていることを示しているに過ぎない。キリスト教の信者(クリスチャン)そのものは、プロテスタントおよび日本聖公会、カトリック、オーソドックス(東方正教会)の全てを合わせても、日本人全体の1%前後と言われている。文化庁『宗教年鑑』平成29年版ではキリスト教系の信者数は191万4196人、割合で1.1%となっている。東京基督教大学国際宣教センター日本宣教リサーチ「JMR調査レポート2017年度版」記載のキリスト新聞社『キリスト教年鑑2018』によるデータでは、2017年の日本のキリスト教人口は97万6434人、日本の全人口のうち0.82%となっている。菅義偉内閣までの首相63人のうち7人がキリスト教信者であるという事実はあるが、全人口に対する信者の比率はその1/10以下にとどまっている。 いずれにしてもこの割合は、近隣のアジア各国と比較しても際立った低さである(これに匹敵するタイ、ラオス、ネパールなどの国もある)。日本のキリスト教団体の多くは、ヨーロッパやアメリカはもちろん、韓国、中国、台湾、ベトナムと比べても小規模である。特に地方のプロテスタント教会では信徒が10名に満たない団体も多く存在する。教団単位では日本発祥の新宗教で戦後教勢を伸ばした創価学会(公称827万世帯、実数は不明)、立正佼成会(272万5561人)(両教団とも分類は仏教で法華信仰の教団)は単独で日本の全キリスト系信者数を上回っている。またカトリック教会の信者数は44万1107人で、日本のキリスト教主流派およびキリスト教系新宗教すべてを含むキリスト教系教団の中では最大勢力とみられるが、宗教教団全体では天照皇大神宮教(47万9067人)、生長の家(45万9531人)、円応教(44万9090人)などの日本発祥の新宗教を下回る教勢に留まる。キリスト教最大の教派であり世界最大の宗教教団と目されるカトリックが、日本においては霊友会(127万2581人)、天理教(119万9955人)、佛所護念会教団(111万5343人)、パーフェクトリバティー教団(PL教団、81万8467人)、妙智会教団(68万5145人)、世界救世教(60万4015人)など、世界的な広がりという点では到底及ばない新宗教各教団の勢力を大きく下回っているという事実は、「日本ではキリスト教が広まっていない」ということを端的に象徴している。こうした数字からも、日本のキリスト教系信者の割合が小さいことが見てとれる。 またNHK放送文化研究所による「ISSP国際比較調査(宗教)2008」によると、日本人の日常の宗教的行動においてもキリスト教が果たしている役割は神道・仏教に比べて微少である。「初もうでに行く」ことについて「よくする」人が54.9%、「したことがある」人が36.7%、「お盆やお彼岸に墓参りをする」ことについて「よくする」人が65.8%、「したことがある」人が28.4%、 「神社で参拝をする」ことについて「よくする」人が26.2%、「したことがある」人が53.7%となっており、神社参拝や寺院参詣に行ったり、各家々の神道や仏教に関わる行事に参加した経験を持つ日本人が大半であるのに対し、「教会の礼拝に行く」ことについて「よくする」人は1.4%、「したことがある」人は8.0%と合わせて1割に満たず、「しない」人が87.9%と大多数である。日本のキリスト教会には文化財や世界遺産などに指定され知名度の高いものや、観光名所になっているものも少なくなく、キリスト教会側も「礼拝には誰でも参加できる」「気軽に教会に立ち寄って欲しい」とその宗教活動について広く門戸を開いている。しかしほとんどの日本人にとって、日常の宗教的行動の対象としては神社や寺院に比べキリスト教会は縁遠いものになっていることが窺われる。 神道、仏教に加えて、宗教として意識されることは少ないものの、葬儀、死生観を中心に儒教も大きな影響を残している。祖霊信仰などの観念は現在では仏教に組み込まれているが、本来は仏教哲学と矛盾するものであり、古来の民間信仰と儒教に由来する。位牌、法事など、先祖供養に関わる重要な習慣が、主にその形式において儒教起源である。思想、道徳、政治的規範としての儒学は支配階級を中心に学ばれ、明治時代以降は一般庶民にも直接、間接に影響を与えた。 アイヌの宗教はアニミズムに分類される。 沖縄県には琉球神道という独自の信仰がある。その他にも仏教など様々な信仰があるが、詳細は琉球における信仰を参照。 日本人のイスラム教徒人口はさまざまな数字が出されているが、いずれも正確な数字ではない。日本には、国内のイスラム教徒の動向を把握している、統一された組織や団体が存在しないためである。5万人とする説もあれば、20万人近い数字を挙げる者もいる。いずれの数字もかなり多めに見積もられた数字だとも考えられ、「実際に日本国内でイスラムを実践している日本人信徒の数は数百人から、多くても1000人は超えないのではないか」とも言われている。日本国内で催されるイスラム教関係の行事、祭典の日本人信者の出席者、日本各地の礼拝所の日本人の礼拝参加者の数から推測してもそれに近い。宗教法人日本ムスリム協会は、日本国内のムスリムの数を10万人前後としており、これは日本の全人口の0.08%に満たない。 日本は韓国と並んで、アジアでは最もイスラム教が普及していない国の一つであり、現地人(日本人)が主体になって運営されているイスラム教組織や宗教施設はほとんど存在しない。タイ南部・フィリピン南部・ベトナム南部のようなイスラム教を信仰する少数民族が住む地域もなく、中国の回族やインドのムスリムのような、現地の文化や言語、民族に同化したイスラム教徒の集団も存在しない。 日本国内に存在するイスラム教組織や宗教施設の信者の大半は、パキスタン人、バングラデシュ人、トルコ人、インドネシア人、スリランカ人、イラン人などの在日外国人とその日本人配偶者である。大半がスンニー派であるが、その中でもハナフィー学派とシャーフィイー学派が日本には多い。パキスタン、バングラデシュ、トルコなどの出身者にはハナフィー学派の信者が多く、インドネシア人、スリランカ・ムーア人などにシャーフィー学派の信者が多い。ハナフィー派は比較的自由な解釈を行う学派であり、シャーフィーはそれよりもクルアーンなどイスラム法に解釈に重きを置く。両者は対立することはなく、互いに尊重しあい一緒に礼拝しているが、礼拝の方法や戒律に小さな違いが見られる。宗派や学派の違いとは別に、トルコ出身者は日本国内においてもトルコ共和国内で採用された暦を採用する者が多く、他国出身のイスラム教徒と行事の日程などがずれることがある。イラン人にはシーア派の信者が多く、スンニー派とは別に礼拝所や宗教団体を運営しているケースが多いが、スンニー派の宗教施設を利用したり、行事に参加するシーア派の信者も少なくない。 日本で比較的、熱心に布教活動をしているイスラム教系グループにアフマディーヤ教団がある。主にパキスタン出身者により、街頭で布教活動などがなされている。ただし、アフマディーヤ教団は正統派のイスラム教徒からはイスラム教とはみなされないことが多い。 2013年から、日本ではビザ緩和などによって、東南アジア諸国からの観光客が急増している。ムスリムの多いマレーシアやインドネシアも例外ではなく、彼らに対応するために、ハラールなどムスリムの習慣に対する勉強会が各地で開かれるようになっている。イスラム式の礼拝堂の設置も増えてきている。 新宗教とは、幕末・明治以後、近現代に成立した宗教であり、統一した教義や戒律などはない。新興宗教(しんこうしゅうきょう)とも呼ばれる。 民間信仰的要素は歴史的経緯もあり、複雑な様相を成している。これらは主にアニミズムを基盤としており、社殿以前の磐座や山岳信仰などに顕著であるが、神仏習合の影響も受け、形を変えて受け継がれているものも多い(道祖神と地蔵菩薩、えびす信仰など)。 密教などの影響を受け、仏教や神道の枠に収まりがたい発展を遂げた宗教には、修験道、陰陽道、山岳信仰などがあり、真言陀羅尼や功徳を積んだ法力への期待から御霊会など怨霊の鎮魂を担っていた。現代でも地鎮祭などにはこの考えが残っている。 クリスマスやハロウィンなど欧米由来の風習も民間に根付いている。 いわゆる世界宗教以外の民族宗教についても日本国内に外国人主体の宗教施設を持つ教団は複数確認され、それらの宗教の信徒との結婚などで改宗した人々も存在する。 世界的に有力な外来宗教では、イスラム教信者が約12万人から18万人、バハイ教信者が約1万2000人、ヒンドゥー教信者が約5000人、ユダヤ教信者が約2000人、シク教信者が約2000人であるという。ゾロアスター教の信者も極少数ながら存在する。 在日ベトナム人を中心にカオダイ教、ホアハオ教の信者がいる。 中国三大宗教の一つとされる道教の寺院(道観)や日本人が設立した道教の団体もあるが、信者と呼べる人の数は不明である。法輪功や天道の信者も在日華人を中心に存在する。 朝鮮半島のシャーマニズムである巫俗を在日コリアンを中心とした人々が信仰しており、生駒山の山麓に所在する複数の韓寺はその信仰の中心となっている。天道教、円仏教の信者も在日コリアンを中心に信者がいる。 欧米由来のネオペイガニズムの一派であるウイッカが日本では魔女宗として受容されており、日本人魔女も存在している。 宗教の概念に入るかは議論が分かれるが、神智学やニューエイジやスピリチュアリティ・心霊主義は日本の文化にも一定の影響を与えている。異星文明への信仰などの信奉者も一定数は存在している。 サイエントロジーやUFO宗教のラエリアン・ムーブメントは日本にも拠点を置いている。フェミニスト霊性運動(Thealogy)、ディープエコロジーの影響は日本にも及んでいる。 日本でも受容されているジャマイカ発祥のレゲエを通して、ラスタファリアニズムも日本の文化に影響を与えている。 もともと日本においては、平安時代以降明治維新以前は浄土真宗を除き神仏習合が基本で、神道と仏教が分けられない場合が一般的だった。寺院内に鳥居があったり、「八幡神(八幡大菩薩)」と神社の神を菩薩の呼び方で呼ぶ事例などに名残を見ることができる(ただし、どの時代にも熱心な仏教信者がいた)。 江戸時代に戸籍管理を目的として、仏教宗派のいずれかの寺院か、神社への帰属が義務付けられた(寺請制度)ことによって様々な習慣が生まれたが、今日では希薄となっている。また、七五三や結婚式が神社で行われるようになったのは明治以後のことで、宗門改めに起因するわけではない。 二宮尊徳(1787年 - 1856年)の話をまとめた『二宮翁夜話』という書物には、宗教多元主義を示すような譬え話も書かれている。 世の中に本当の真理はただ一つしかないが、その真理に近づく入り口はいくつもある。仏教、神道、あるいは仏教でも天台宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗などいろいろあるが、これらは何れも一つの真理へ到達するための道に付いている沢山の入口の名前に過ぎない。例えば富士山に登るのに、吉田から、須走りから、須山から、それぞれ登れるが、最終的に頂上に至れば同じ所である。これを、違う目的に到達できる別々の道がある、と考えるのは誤りなのだ。入り口が幾つかあっても、最終的に到達する場所は同じ一つの場所なのだ。ところが世の中では、これらを別々な道であると言い真理が幾つもあるかのように解釈されがちなのだが、もともと仏教思想は紀元前に一人のブッダ釈尊によってとかれたもので、そうして顕された沢山の教義のなかから根本経典を選び出し、それぞれの宗派に分かれて守り伝えていっているに過ぎないのだ。 小説家の芥川龍之介(1892年 - 1927年)は、日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から「八百万の神」を崇める、神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人という扱いになる、といった主旨のことを短編小説「神神の微笑」の中で登場人物に語らせている。また同時に、日本人が海外の思想に変化を加えて自分のものにする様子を「造りかへる力」とも表現している。 小説家の井沢元彦(1954年 - )は、日本には無意識の強烈な「怨霊」信仰と、怨霊を発生させない「和」への信仰があり、神道はその上に成立し、仏教も結局は怨霊を鎮魂するための道具として活用されたと解説している。来日した外国人や、熱心な宗教信者となった日本人は、多くの日本人が無意識のうちに「和」を至上のものとする思想を持つことを見い出すことができるという。また井沢は日本人の持つ「言霊」への特異な信仰を見出している。 『読売新聞』が2005年8月6日、7日に行った「宗教」に関する世論調査では、「宗教を信じていない(無宗教あるいは無神論)」という選択肢を選んだ人が75%に上り、「信じている」を選んだ人は23%と、1979年の調査の34%と比べて11%減り、大枠では無神論者が増えている。ただし「神や仏にすがりたいと思ったことがあるか?」に関しては、54%の人が「ある」と答え、44%の人が「ない」と答えた(「宗教を信じていない」を選択した人でも47%が「ある」と答えた)。「幸せな生活を送るうえで宗教を大切に思うか?」に関しては、35%の人が「大切に思う」を選び、60%の人が「思わない」を選んだ。 現代の日本人の大多数は、実際にはいわゆる宗教儀礼に参加してはいるものの、特定の宗教組織に対する帰属意識は薄く、自分のことを「無宗教」と考える者が多い。この場合の「無宗教」は、神や仏の存在を否定する無神論とは異なり、何かしらそれなりに信じているが、それを「宗教」とは認識していない、また特定の宗教組織や教義に全人格的に帰属してはいないということである。 日本において宗教団体は、宗教法人として法人格を得ることができる。宗教法人の認証は、宗教法人法に基づいて行われており、主たる事務所の所在地を管轄する都道府県知事が行う。ただし、他の都道府県内に境内建物を備える場合や他の都道府県内にある宗教法人を包括する宗教法人の場合などは、文部科学大臣が認証を行う。認証の後、事務所の所在地において設立の登記をすることにより成立する。ただし、民間信仰や新宗教などの宗教団体は宗教法人格を得ていない場合も多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本の宗教(2018年NHK調査)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の宗教(にほんのしゅうきょう、にっぽんのしゅうきょう)は、神道と仏教が多数派を占めている。現在の日本においては、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(日本国憲法第20条)と定められ、国教は定められていない。また、特定の宗教を信仰していないとして自身を無宗教と認識する者も多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)12月31日現在、日本には総計180,544の宗教法人がある。うち文部科学大臣所轄の宗教法人は神道系212、仏教系483、キリスト教系328、諸教124となっている。都道府県知事所轄の宗教法人は神道系84,361、仏教系76,572、キリスト教系4,492、諸教13,972である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "各宗教の信者数は、文化庁『宗教年鑑』令和3年(2021年)版によると、2020年12月31日時点で、神道系が8792万4087人(48.5%)、仏教系が8397万1139人(46.4%)、キリスト教系が191万5294人(1.1%)、諸教(神道系・仏教系・キリスト教系以外であるもの)733万5572人(4.0%)、合計1億8114万6092人となり、これは日本の総人口(約1億2600万人)のおよそ1.5倍にあたる。したがって複数の宗教の「信者」として数え上げられている国民が確実にいることになるが、一方で個々の国民へのアンケート調査などでは、「何らかの信仰・信心を持っている、あるいは信じている」人は2割から3割という結果が出ることが多く、逆に総人口を大幅に下回る数しか宗教の「信者」がいない、または「信者である」と思っていない、ということになる。", "title": "日本の宗教人口" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "こうした数値になる要因として、以下が挙げられている。", "title": "日本の宗教人口" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「神道系」「仏教系」「キリスト教系」「諸教」の種別についても、便宜上の整理に過ぎない。宗教統計調査に際して文化庁が一定の判断をしているが、4つの項目の中から各宗教法人が選択して自己申告しているものである。「日本の宗教は4種類に大別される」と文化庁が認定しているわけではなく、宗教学上の分類でもない。かつて教派神道であった天理教は「諸教」と届け出ており、この分類が必ずしも実際の教義や儀礼、信仰の様相、歴史的経緯等と一致するものではない。", "title": "日本の宗教人口" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「宗教を信仰しているかどうか」という調査の場合は、また異なる数字が出ている。NHK放送文化研究所による「ISSP国際比較調査(宗教)2008」によると、「あなた自身は、何か宗教を信仰していますか」という問いに対して、「宗教を信仰していない」(無宗教)49.4%、仏教34%、神道2.7%、その他の宗教1.1%、プロテスタント0.7%、カトリック0.2%などとなっており、「宗教を信仰していない」人49.4%に対して「宗教を信仰している」人は38.7%となっている。したがって、「宗教を信仰している」人の中では仏教が多数である。キリスト教信者は少数であり、かつその他の宗教(諸教)の信者よりも少ない、という点は文化庁『宗教年鑑』の宗教統計調査の数字とおおむね一致するが、『宗教年鑑』では仏教とほぼ同じだけ信者がいることになっている神道を「信仰している」と思っている人は仏教に比べ相当少ない、ということになる(なお、NHK放送文化研究所の調査においては伝統宗教と新宗教の区別はしていない)。", "title": "日本の宗教人口" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また同調査によると、神の存在については、「神の存在を信じない」人は8.7%と少数であるが、「神の存在に疑問を感じることもあるが、神は存在すると信じている」人が11.9%、「実際に神が存在することを知っており、神の存在に何の疑いも持っていない」人は4.3%となっており、神の存在を積極的に肯定する人も少数である。一方、「神が存在するかどうかわからないし、存在するかどうかを明らかにする方法もないと思う」という不可知論的な立場を表明する人も19.2%で必ずしも多くはない。「神がいるとは思わないが、何か超自然的な力はあると思う」人が23.2%、「神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある」人が32.0%となっており、時と場合によっては人知を超えた宗教的とも言い得るものが存在しているような気がする、といった意識を持っている人が半数以上を占めており、多数派である。また、多くのものに神の存在を感じたり、祀ったりする気持ちについて、「理解できる」人が25.9%、「どちらかといえば、理解できる」人が52.9%で、汎神論的感覚を肯定する人も多数となっているため、「宗教を信仰していない」人(無宗教)が約半数であっても、単純に「無神論者や不可知論者が約半数」とは言えない、という結果となっている。", "title": "日本の宗教人口" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ギャラップインターナショナルによる2017年の調査(調査対象68カ国、約6万6千人)によれば、日本は人口の29%が神を信じていない無神論者とされ、この無神論者の割合において、日本は中国に次いで世界2位となっている。", "title": "日本の宗教人口" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2018年のISSP調査では、「神仏を拝む頻度」「お天道様がみている」「人知を超えた力の存在」「自然に宿る神」などの信仰に関する数値が低下し、さらに信仰心が薄くなっている状況が明らかになった。", "title": "日本の宗教人口" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本国憲法第20条には", "title": "政府と宗教" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "との条文があり、日本国では信教の自由が認められ、国教は定められていない。", "title": "政府と宗教" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本では神道と仏教の信徒が大多数を占めている。日本では神仏習合(シンクレティズムの一種)の時代が長く続いた。明治維新で神仏分離がなされた後も神道と仏教の間の区別には曖昧な面が残っている。また、廃仏毀釈を逃れるため、もとは寺であったものが神社になった例も多い。これらの理由により、神棚を祀り仏壇も置いている家庭、仏教寺院の檀家であると同時に神社の氏子でもある家庭は少なくない。これが、神道を信仰する者と仏教に帰依している者を合わせると2億人を超えるといわれる所以である。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "視点を変えると、神道と仏教という2つの宗教が並立して日本に存在したと捉えるのではなく、神道と仏教が互いを飲み込んで渾然一体となった日本固有の信仰があった(あるいは今もある)というのが自然であるとも考えられる。歴史的に見ても現在においても、誕生祝い・七五三・成人式や祈願事などのハレの行事は神道が、葬儀・供養や死生観にまつわることなどのケガレは仏教が担うように機能を分担しており、両者を合わせて一つの宗教観を構成しているともいえる。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "縄文時代の狩猟や漁労、あるいは自然物の採集が主だった頃に、人々は、土地や家の神々に礼拝し、自然現象に霊の存在を認め、畏怖し、呪術によって災難を避け、自然の恩恵を祈る風習があったことが考えられる。晩期縄文時代には、稲作が日本に伝わり、急速に日本列島に広まり、弥生時代を迎える。 日本人の信仰のベースとして自然宗教に近い宗教ともいえる、神道の前の宗教を指す。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "『古事記』には皇室や神話などの情報が詳しく記されている。『日本書紀』や『古語拾遺』なども成立し、それらを神道は規範としている。神道の「神」とは、自然や人間や動物・植物を含めた万物の中でも、特に優れた徳を持ち、人々がおそれ慎む存在であると考える。しかし、病気をもたらす「疫神」のように、恐ろしい神もある。また「雨の神」は、豊かな水を与えてくれるが、大雨を降らし、洪水を引きおこすこともある。神をおそれ、かしこむことは、自然のルールを守り、自然と共存して生きていくことを誓う意味もある。奈良時代になると、神社に神宮寺が建てられ、寺に神がまつられるようになり、「神仏習合」の時代が長く続いた。ただし出雲大社のように、早くから神仏分離をした神社もある。明治維新で政府は、神道と仏教との区別を明確にしようと「神仏判然令」を発布し「神仏分離」を行った。第二次世界大戦の終戦後、GHQにより「神道指令」が発布され、いわゆる「国家神道」は廃止され、神社は「国家の宗祀」の地位を失い「宗教法人」となった。現在の神道は、八百万神々(やおよろずのかみがみ)と祖先を祀り、皇室や日本の文化や伝統を重んじ、「浄き心、明き心、正しき心、直き心」で「世のため人のために尽くすこと」を眼目にしている。神道信者や神道施設(神社等)の数は、日本の宗教の中で最大だと言われている。神道(神社神道)は「神は言挙げをせぬ(ものをはっきり言わない)」という思想に見られるように、明確な教義が存在せず(教派神道系のセクト宗教(新宗教)には明確な教義が存在する)、厳密な入信規定もない。氏子入りがこれに近いが、特定の神社の氏子でない日本人が神棚の設置、神社への寄付、祭事への参加などを行うこともあり、これをもって信者と見る向きが多い。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本の仏教はほとんどが大乗仏教である。鎌倉時代に成立した宗派(鎌倉仏教)が今日の仏教の礎となっており、日本の歴史に深く影響を与え、現在に至るまで信者数も多く、日本の仏教徒の大部分を占める。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "歴史を遡れば、仏教は6世紀に日本に伝来したとされている。奈良時代には「南都六宗」と呼ばれた三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが広まった。平安時代には遣唐使とともに唐(中国)に渡り仏教を学ぶ僧が多くいた。代表的な存在として、最澄は帰国後に法華経や密教を中心とした天台宗を開き、空海は太陽を神格化して生み出された大日如来を宇宙の中心と説く密教を学び、帰国後に真言宗を開いた。仏典には、釈迦が教えを説いてから千年間は正しく教えが伝わり実践されるが(正法)、その後千年は教えが形骸化し(像法)、像法の後は末法すなわち仏法を正しく聞くことが出来ず、正しく理解する者がいなくなるという、すなわち暗黒時代が到来するとの思想が記されている(末法思想)。日本では平安時代、(いくつか見方はあるものの)1051年などに末法に入ったと見なし、すでに末法に入ったという痛切な意識は人々の中にいくつかの動きを生んだ。ひとつの動きは、この世に絶望し来世の幸福を願い阿弥陀如来にすがる信仰(浄土思想)で、これは貴族や貧しく力のない一般庶民の間にも広がり、この信仰に基づいた寺院が全国規模で建立された。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "すでに末法に入ったとされていた鎌倉時代、実際に世は戦乱や疫病で乱れ、人々は絶望の淵にいた。そうした人々の間では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続けることで阿弥陀如来に救済され、極楽浄土に往生することが出来るとする法然の浄土宗や、男尊女卑や女人不浄が当然と考えられていた時代に男女平等や女人往生を説き、罪深い自分たちだからこそ女性も男性もありのままの生き方のまま浄土往生できるとする悪人正機を説いた親鸞の浄土真宗が全国に広がっていった。こうした後に日蓮は、末法に入ったからこそ「南無妙法蓮華経」(法華経)と日々題目を唱えることで菩薩に至ることができ、安寧を得ることができると説き、日蓮宗を開いた。これら方向性の異なる2つの思潮は、それぞれ現代社会にまでつづく大きな潮流をかたちづくり、今もなお大きな影響力を持っている。またこの時代に中国から禅宗が伝わり、臨済宗や曹洞宗などの流れが生まれた。日本の仏教は、全体的に見れば戒律はほとんどなく、他宗派との表立った論争も少ない。なお、戒名(浄土真宗においては法名、曹洞宗においては安名、以下同じ)は、本来は仏弟子として生きることを誓った人に僧侶から授かる仏弟子としての名前であって、生前に授かることが本来の慣習であるが、多くの日本人の場合は、自身の葬儀の場において戒名(または法名)を得ることにより仏門に入ることになる。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1898年にインド北部で発見されシャムのラーマ5世に譲渡された仏舎利は、1900年にアジアの仏教国へ一部が分与されたが、この際にはビルマやセイロンに加え日本も含まれており、当時のシャムでは仏教徒が多い国と認知されていた。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "史料によって、確実に日本にキリスト教が伝わったことがわかるものは、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教である。戦国時代のさなか、1549年のことであり、当初はほぼザビエルたちイエズス会の宣教師のみで布教が開始された、とされている。ザビエルたちは初め鹿児島に入り、そこから布教を開始した。その後、フランシスコ会なども来日し、布教を行った。これらはカトリックがほとんどで、「耶蘇教」「天主教」と呼ばれていた。当時は新興の教えであったプロテスタントはまだ入ってきていなかった、と見られている。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "当初、勢力拡大に明け暮れていた各地の戦国大名たちは、最新の知識や技術を持った彼らヨーロッパ人たちを基本的に歓迎しており、キリスト教も比較的スムーズに広まっていった。大名の中には、新しい思想であるキリスト教に惹かれて入信した者もおり、彼らはキリシタン大名と呼ばれた。しかし、サン=フェリペ号事件などいくつかの事件をきっかけに、権力者から忌避されるようになり、やがて天下統一を果たした豊臣秀吉によって1587年に伴天連追放令が発布され、キリスト教は禁止されることとなった。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後、江戸時代が訪れるとキリスト教は一時的に解禁されたが、すぐに禁止された上に、また江戸幕府が鎖国政策が敷いたため、宣教師ばかりか一般の外国人も入国できなくなり、日本国内のキリスト教は衰退した。当時の日本人キリスト教徒は、棄教するか隠れキリシタンとなった。この隠れキリシタンたちは、密かに信仰を伝えていくこととなった。江戸幕府はヨーロッパ諸国の中で、プロテスタント国家のオランダとだけ、オランダ商館を通じて貿易を継続した。オランダは幕府のキリスト教禁教政策を尊重したため、幕末まで日本にキリスト教が広がることはなかった。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "明治政府も五榜の掲示第三札に見られるように当初はキリスト教禁教政策を引き継いだが、1873年、キリシタン禁制の高札が撤去され、いくつかの制限がつきながらも布教が容認された(背景には、キリスト教国がほとんどの欧米諸国からキリスト教禁止に抗議や非難が相次いだことによる)。西洋諸国から宣教師が来日し、教会を開いた。隠れキリシタンも公に信仰できるようになった。1889年2月に発布された大日本帝国憲法において信教の自由が明文化されたが、政府は「神道は宗教ではなく(神道非宗教説)、国家の祭祀(≒国教)であり、臣民に義務がある」として国家神道を創始した。宮城遥拝が国民に義務付けられ、キリスト教団体もこれを受け入れざるを得なかった。教派神道(後に十三派が成立)と仏教(十三宗五十六派)が管長のもとに各教派・各宗派を組織した法的根拠は、1884年8月の太政官布達第十九号「神仏教導職ヲ廃シ住職ヲ任免シ教師ノ等級進退ハ各管長ニ委任等ノ儀」であった。しかしキリスト教については宗教行政上「神仏道以外ノ宗教」として扱われていたのみであり、法制度の外に置かれていた。禁教が解かれたとはいえ、日本の伝統宗教とそうではないキリスト教の扱いにはなお少なからず差があり、西洋諸国との条約改正交渉の中でそのことが問題になった。そこで政府は1899年5月、キリスト教の宣教を正式に公認することを表明し、同年12月には仏教と「神仏道以外ノ宗教」を対象とする宗教法案を元老院に提出した。しかし今度は「耶蘇と同列に扱われる」として仏教界の猛烈な反対があり、結局成立しなかった。キリスト教は法的根拠を持つ教団を創設できず、内村鑑三による無教会主義の提唱など、日本独特のキリスト教信仰のあり方が生まれた。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "その後しばらく宗教団体に関する一般法は提案されなかったが、1913年6月、内務省の宗教局が文部省に移管され、仏教と「神仏道以外ノ宗教」が文部省の管轄となってから再び議論されるようになった。しかしその後も仏教界の反発が続いた。紆余曲折があったが、戦時下の1940年に至り、教派神道も対象とした宗教団体法が成立した。この宗教団体法において初めて「神仏道以外ノ宗教」ではなく「基督教」という単語が使われ、包括団体として神道の「教派」、仏教の「宗派」と制度上同様のものとして、「基督教」の「教団」が根本法の中に規定されることになった。この時、教派神道十三派(国家神道に準じた特権的地位のいくつかは廃止)と仏教十三宗五十六派(二十八宗派に整理統合)とともに、カトリックの「日本天主公教教団」とプロテスタントの「日本基督教団」の2教団が文部大臣より認可された。これによってはじめて国法上の宗教団体、かつ法人たるキリスト教教団が成立し、教勢の差こそ大きいものの、キリスト教が教派神道、仏教と法的に同じ地位を得た。この枠組みが戦後も継承され、神道、仏教、キリスト教の3つとそれ以外(諸教)という現在の宗教行政上の分類となっている。第二次世界大戦敗戦後、日本国憲法の制定により憲法第20条の下、日本ではほぼ完全な形での信仰の自由が保証された。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "明治時代以来、キリスト教は西洋文化の一つとして、日本の文化に様々な影響を与えている。一般化されたクリスマスなどキリスト教由来の年中行事のみならず、西洋のキリスト教徒の形式を模して成立したキリスト教式の結婚式も人気が高い。布教の一環としてキリスト教の教団や宣教師らによって開設された学校は現在まで存続しており、文化財に指定されている教会建築物、宣教師が開いた避暑地(軽井沢)なども知られていて、日本にキリスト教が存在し、一定の活動を行ってきたこと自体は日本の社会に認識されていると言える。学校に関しては広く人気の高い学校も含まれており、寺の子に生まれ、長じて僧侶になった人物が、カトリック系の中学校・高校に通っていたという例さえある。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "しかしそれらは、キリスト教文化が表層的に受容されていることを示しているに過ぎない。キリスト教の信者(クリスチャン)そのものは、プロテスタントおよび日本聖公会、カトリック、オーソドックス(東方正教会)の全てを合わせても、日本人全体の1%前後と言われている。文化庁『宗教年鑑』平成29年版ではキリスト教系の信者数は191万4196人、割合で1.1%となっている。東京基督教大学国際宣教センター日本宣教リサーチ「JMR調査レポート2017年度版」記載のキリスト新聞社『キリスト教年鑑2018』によるデータでは、2017年の日本のキリスト教人口は97万6434人、日本の全人口のうち0.82%となっている。菅義偉内閣までの首相63人のうち7人がキリスト教信者であるという事実はあるが、全人口に対する信者の比率はその1/10以下にとどまっている。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "いずれにしてもこの割合は、近隣のアジア各国と比較しても際立った低さである(これに匹敵するタイ、ラオス、ネパールなどの国もある)。日本のキリスト教団体の多くは、ヨーロッパやアメリカはもちろん、韓国、中国、台湾、ベトナムと比べても小規模である。特に地方のプロテスタント教会では信徒が10名に満たない団体も多く存在する。教団単位では日本発祥の新宗教で戦後教勢を伸ばした創価学会(公称827万世帯、実数は不明)、立正佼成会(272万5561人)(両教団とも分類は仏教で法華信仰の教団)は単独で日本の全キリスト系信者数を上回っている。またカトリック教会の信者数は44万1107人で、日本のキリスト教主流派およびキリスト教系新宗教すべてを含むキリスト教系教団の中では最大勢力とみられるが、宗教教団全体では天照皇大神宮教(47万9067人)、生長の家(45万9531人)、円応教(44万9090人)などの日本発祥の新宗教を下回る教勢に留まる。キリスト教最大の教派であり世界最大の宗教教団と目されるカトリックが、日本においては霊友会(127万2581人)、天理教(119万9955人)、佛所護念会教団(111万5343人)、パーフェクトリバティー教団(PL教団、81万8467人)、妙智会教団(68万5145人)、世界救世教(60万4015人)など、世界的な広がりという点では到底及ばない新宗教各教団の勢力を大きく下回っているという事実は、「日本ではキリスト教が広まっていない」ということを端的に象徴している。こうした数字からも、日本のキリスト教系信者の割合が小さいことが見てとれる。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "またNHK放送文化研究所による「ISSP国際比較調査(宗教)2008」によると、日本人の日常の宗教的行動においてもキリスト教が果たしている役割は神道・仏教に比べて微少である。「初もうでに行く」ことについて「よくする」人が54.9%、「したことがある」人が36.7%、「お盆やお彼岸に墓参りをする」ことについて「よくする」人が65.8%、「したことがある」人が28.4%、 「神社で参拝をする」ことについて「よくする」人が26.2%、「したことがある」人が53.7%となっており、神社参拝や寺院参詣に行ったり、各家々の神道や仏教に関わる行事に参加した経験を持つ日本人が大半であるのに対し、「教会の礼拝に行く」ことについて「よくする」人は1.4%、「したことがある」人は8.0%と合わせて1割に満たず、「しない」人が87.9%と大多数である。日本のキリスト教会には文化財や世界遺産などに指定され知名度の高いものや、観光名所になっているものも少なくなく、キリスト教会側も「礼拝には誰でも参加できる」「気軽に教会に立ち寄って欲しい」とその宗教活動について広く門戸を開いている。しかしほとんどの日本人にとって、日常の宗教的行動の対象としては神社や寺院に比べキリスト教会は縁遠いものになっていることが窺われる。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "神道、仏教に加えて、宗教として意識されることは少ないものの、葬儀、死生観を中心に儒教も大きな影響を残している。祖霊信仰などの観念は現在では仏教に組み込まれているが、本来は仏教哲学と矛盾するものであり、古来の民間信仰と儒教に由来する。位牌、法事など、先祖供養に関わる重要な習慣が、主にその形式において儒教起源である。思想、道徳、政治的規範としての儒学は支配階級を中心に学ばれ、明治時代以降は一般庶民にも直接、間接に影響を与えた。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "アイヌの宗教はアニミズムに分類される。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "沖縄県には琉球神道という独自の信仰がある。その他にも仏教など様々な信仰があるが、詳細は琉球における信仰を参照。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本人のイスラム教徒人口はさまざまな数字が出されているが、いずれも正確な数字ではない。日本には、国内のイスラム教徒の動向を把握している、統一された組織や団体が存在しないためである。5万人とする説もあれば、20万人近い数字を挙げる者もいる。いずれの数字もかなり多めに見積もられた数字だとも考えられ、「実際に日本国内でイスラムを実践している日本人信徒の数は数百人から、多くても1000人は超えないのではないか」とも言われている。日本国内で催されるイスラム教関係の行事、祭典の日本人信者の出席者、日本各地の礼拝所の日本人の礼拝参加者の数から推測してもそれに近い。宗教法人日本ムスリム協会は、日本国内のムスリムの数を10万人前後としており、これは日本の全人口の0.08%に満たない。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本は韓国と並んで、アジアでは最もイスラム教が普及していない国の一つであり、現地人(日本人)が主体になって運営されているイスラム教組織や宗教施設はほとんど存在しない。タイ南部・フィリピン南部・ベトナム南部のようなイスラム教を信仰する少数民族が住む地域もなく、中国の回族やインドのムスリムのような、現地の文化や言語、民族に同化したイスラム教徒の集団も存在しない。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本国内に存在するイスラム教組織や宗教施設の信者の大半は、パキスタン人、バングラデシュ人、トルコ人、インドネシア人、スリランカ人、イラン人などの在日外国人とその日本人配偶者である。大半がスンニー派であるが、その中でもハナフィー学派とシャーフィイー学派が日本には多い。パキスタン、バングラデシュ、トルコなどの出身者にはハナフィー学派の信者が多く、インドネシア人、スリランカ・ムーア人などにシャーフィー学派の信者が多い。ハナフィー派は比較的自由な解釈を行う学派であり、シャーフィーはそれよりもクルアーンなどイスラム法に解釈に重きを置く。両者は対立することはなく、互いに尊重しあい一緒に礼拝しているが、礼拝の方法や戒律に小さな違いが見られる。宗派や学派の違いとは別に、トルコ出身者は日本国内においてもトルコ共和国内で採用された暦を採用する者が多く、他国出身のイスラム教徒と行事の日程などがずれることがある。イラン人にはシーア派の信者が多く、スンニー派とは別に礼拝所や宗教団体を運営しているケースが多いが、スンニー派の宗教施設を利用したり、行事に参加するシーア派の信者も少なくない。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本で比較的、熱心に布教活動をしているイスラム教系グループにアフマディーヤ教団がある。主にパキスタン出身者により、街頭で布教活動などがなされている。ただし、アフマディーヤ教団は正統派のイスラム教徒からはイスラム教とはみなされないことが多い。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2013年から、日本ではビザ緩和などによって、東南アジア諸国からの観光客が急増している。ムスリムの多いマレーシアやインドネシアも例外ではなく、彼らに対応するために、ハラールなどムスリムの習慣に対する勉強会が各地で開かれるようになっている。イスラム式の礼拝堂の設置も増えてきている。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "新宗教とは、幕末・明治以後、近現代に成立した宗教であり、統一した教義や戒律などはない。新興宗教(しんこうしゅうきょう)とも呼ばれる。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "民間信仰的要素は歴史的経緯もあり、複雑な様相を成している。これらは主にアニミズムを基盤としており、社殿以前の磐座や山岳信仰などに顕著であるが、神仏習合の影響も受け、形を変えて受け継がれているものも多い(道祖神と地蔵菩薩、えびす信仰など)。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "密教などの影響を受け、仏教や神道の枠に収まりがたい発展を遂げた宗教には、修験道、陰陽道、山岳信仰などがあり、真言陀羅尼や功徳を積んだ法力への期待から御霊会など怨霊の鎮魂を担っていた。現代でも地鎮祭などにはこの考えが残っている。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "クリスマスやハロウィンなど欧米由来の風習も民間に根付いている。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "いわゆる世界宗教以外の民族宗教についても日本国内に外国人主体の宗教施設を持つ教団は複数確認され、それらの宗教の信徒との結婚などで改宗した人々も存在する。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "世界的に有力な外来宗教では、イスラム教信者が約12万人から18万人、バハイ教信者が約1万2000人、ヒンドゥー教信者が約5000人、ユダヤ教信者が約2000人、シク教信者が約2000人であるという。ゾロアスター教の信者も極少数ながら存在する。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "在日ベトナム人を中心にカオダイ教、ホアハオ教の信者がいる。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "中国三大宗教の一つとされる道教の寺院(道観)や日本人が設立した道教の団体もあるが、信者と呼べる人の数は不明である。法輪功や天道の信者も在日華人を中心に存在する。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "朝鮮半島のシャーマニズムである巫俗を在日コリアンを中心とした人々が信仰しており、生駒山の山麓に所在する複数の韓寺はその信仰の中心となっている。天道教、円仏教の信者も在日コリアンを中心に信者がいる。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "欧米由来のネオペイガニズムの一派であるウイッカが日本では魔女宗として受容されており、日本人魔女も存在している。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "宗教の概念に入るかは議論が分かれるが、神智学やニューエイジやスピリチュアリティ・心霊主義は日本の文化にも一定の影響を与えている。異星文明への信仰などの信奉者も一定数は存在している。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "サイエントロジーやUFO宗教のラエリアン・ムーブメントは日本にも拠点を置いている。フェミニスト霊性運動(Thealogy)、ディープエコロジーの影響は日本にも及んでいる。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本でも受容されているジャマイカ発祥のレゲエを通して、ラスタファリアニズムも日本の文化に影響を与えている。", "title": "個々の宗教" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "もともと日本においては、平安時代以降明治維新以前は浄土真宗を除き神仏習合が基本で、神道と仏教が分けられない場合が一般的だった。寺院内に鳥居があったり、「八幡神(八幡大菩薩)」と神社の神を菩薩の呼び方で呼ぶ事例などに名残を見ることができる(ただし、どの時代にも熱心な仏教信者がいた)。", "title": "日本人の宗教観" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "江戸時代に戸籍管理を目的として、仏教宗派のいずれかの寺院か、神社への帰属が義務付けられた(寺請制度)ことによって様々な習慣が生まれたが、今日では希薄となっている。また、七五三や結婚式が神社で行われるようになったのは明治以後のことで、宗門改めに起因するわけではない。", "title": "日本人の宗教観" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "二宮尊徳(1787年 - 1856年)の話をまとめた『二宮翁夜話』という書物には、宗教多元主義を示すような譬え話も書かれている。", "title": "日本人の宗教観" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "世の中に本当の真理はただ一つしかないが、その真理に近づく入り口はいくつもある。仏教、神道、あるいは仏教でも天台宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗などいろいろあるが、これらは何れも一つの真理へ到達するための道に付いている沢山の入口の名前に過ぎない。例えば富士山に登るのに、吉田から、須走りから、須山から、それぞれ登れるが、最終的に頂上に至れば同じ所である。これを、違う目的に到達できる別々の道がある、と考えるのは誤りなのだ。入り口が幾つかあっても、最終的に到達する場所は同じ一つの場所なのだ。ところが世の中では、これらを別々な道であると言い真理が幾つもあるかのように解釈されがちなのだが、もともと仏教思想は紀元前に一人のブッダ釈尊によってとかれたもので、そうして顕された沢山の教義のなかから根本経典を選び出し、それぞれの宗派に分かれて守り伝えていっているに過ぎないのだ。", "title": "日本人の宗教観" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "小説家の芥川龍之介(1892年 - 1927年)は、日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から「八百万の神」を崇める、神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人という扱いになる、といった主旨のことを短編小説「神神の微笑」の中で登場人物に語らせている。また同時に、日本人が海外の思想に変化を加えて自分のものにする様子を「造りかへる力」とも表現している。", "title": "日本人の宗教観" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "小説家の井沢元彦(1954年 - )は、日本には無意識の強烈な「怨霊」信仰と、怨霊を発生させない「和」への信仰があり、神道はその上に成立し、仏教も結局は怨霊を鎮魂するための道具として活用されたと解説している。来日した外国人や、熱心な宗教信者となった日本人は、多くの日本人が無意識のうちに「和」を至上のものとする思想を持つことを見い出すことができるという。また井沢は日本人の持つ「言霊」への特異な信仰を見出している。", "title": "日本人の宗教観" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "『読売新聞』が2005年8月6日、7日に行った「宗教」に関する世論調査では、「宗教を信じていない(無宗教あるいは無神論)」という選択肢を選んだ人が75%に上り、「信じている」を選んだ人は23%と、1979年の調査の34%と比べて11%減り、大枠では無神論者が増えている。ただし「神や仏にすがりたいと思ったことがあるか?」に関しては、54%の人が「ある」と答え、44%の人が「ない」と答えた(「宗教を信じていない」を選択した人でも47%が「ある」と答えた)。「幸せな生活を送るうえで宗教を大切に思うか?」に関しては、35%の人が「大切に思う」を選び、60%の人が「思わない」を選んだ。", "title": "日本人の宗教観" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "現代の日本人の大多数は、実際にはいわゆる宗教儀礼に参加してはいるものの、特定の宗教組織に対する帰属意識は薄く、自分のことを「無宗教」と考える者が多い。この場合の「無宗教」は、神や仏の存在を否定する無神論とは異なり、何かしらそれなりに信じているが、それを「宗教」とは認識していない、また特定の宗教組織や教義に全人格的に帰属してはいないということである。", "title": "日本人の宗教観" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本において宗教団体は、宗教法人として法人格を得ることができる。宗教法人の認証は、宗教法人法に基づいて行われており、主たる事務所の所在地を管轄する都道府県知事が行う。ただし、他の都道府県内に境内建物を備える場合や他の都道府県内にある宗教法人を包括する宗教法人の場合などは、文部科学大臣が認証を行う。認証の後、事務所の所在地において設立の登記をすることにより成立する。ただし、民間信仰や新宗教などの宗教団体は宗教法人格を得ていない場合も多い。", "title": "現代日本における宗教団体" } ]
日本の宗教(にほんのしゅうきょう、にっぽんのしゅうきょう)は、神道と仏教が多数派を占めている。現在の日本においては、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(日本国憲法第20条)と定められ、国教は定められていない。また、特定の宗教を信仰していないとして自身を無宗教と認識する者も多い。 2020年(令和2年)12月31日現在、日本には総計180,544の宗教法人がある。うち文部科学大臣所轄の宗教法人は神道系212、仏教系483、キリスト教系328、諸教124となっている。都道府県知事所轄の宗教法人は神道系84,361、仏教系76,572、キリスト教系4,492、諸教13,972である。
{{複数の問題|出典の明記=2015年10月|脚注の不足=2015年10月}} {{Pie chart |thumb = right |caption = 日本の宗教(2018年[[NHK]]調査<ref>[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf 日本人の宗教的意識や行動はどう変わったか] 放送研究と調査 2019年4月</ref><ref>[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/20190401_7.html 日本人の宗教的意識や行動はどう変わったか] NHK放送文化研究所 2019年4月1日公開 2022年5月26日閲覧。</ref>) |label1 = [[仏教]] |value1 = 31 |color1 = Gold |label2 = [[神道]] |value2 = 3 |color2 = OrangeRed |label3 = [[キリスト教]] |value3 = 1 |color3 = blue |label4 = その他 |value4 = 1 |color4 = purple |label5 = 無回答 |value5 = 2 |color5 = Gray |label6 = [[無宗教|信仰宗教なし]] |value6 = 62 |color6 = white }} {{bar box |title=日本の宗教の信者比率 |titlebar=#ddd |float=right |width=420px |bars= {{bar percent|[[神道]]|FireBrick|70.4}} {{bar percent|[[仏教]]|Gold|69.8}} {{bar percent|[[キリスト教]]|blue|1.5}} {{bar percent|その他|purple|6.9}} |caption=[[中央情報局|CIA]]の『[[ザ・ワールド・ファクトブック]]』に記された[[2015年]]の調査の数値(複数回答形式)<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/resources/the-world-factbook/geos/ja.html CIA World Factbook "Japan"]2020年3月18日閲覧。</ref> }} [[File:Eight statues and a mirror in Hassei-den.jpg|thumb|right|[[横浜市八聖殿郷土資料館]]に置かれた「八聖」の像と[[神鏡]]]] [[File:Kumano Kodo pilgrimage route Kumano Nachi Taisha World heritage 熊野古道 熊野那智大社07.JPG|thumb|right|[[熊野那智大社]]([[和歌山県]][[東牟婁郡]][[那智勝浦町]])]] [[File:浅草寺 本堂.jpg|thumb|right|180px|[[浅草寺]]([[東京都]][[台東区]][[浅草]])]] '''日本の宗教'''(にほんのしゅうきょう、にっぽんのしゅうきょう)は、[[神道]]と[[日本の仏教|仏教]]が多数派を占めている<ref name="Dentsu2006">{{Cite |和書|title=世界60カ国価値観データブック |author=電通総研, 日本リサーチセンター |date=2004 |isbn=978-4496036644 |url=http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9460.html}}</ref>。現在の日本においては、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」([[日本国憲法第20条]])と定められ、[[国教]]は定められていない。また、特定の宗教を信仰していないとして自身を[[無宗教]]と認識する者も多い。 [[2020年]]([[令和]]2年)[[12月31日]]現在、日本には総計180,544の[[宗教法人]]がある<ref name=":0">[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/r03nenkan.pdf 『宗教年鑑 令和3年版』] 令和3年12月28日 文化庁編</ref>。うち[[文部科学大臣]]所轄の宗教法人は神道系212、仏教系483、[[キリスト教]]系328、諸教124となっている。[[都道府県知事]]所轄の宗教法人は神道系84,361、仏教系76,572、キリスト教系4,492、諸教13,972である。 == 日本の宗教人口 == === 信者数に関する調査結果 === 各宗教の[[信者]]数は、[[文化庁]]『宗教年鑑』[[令和3年]]([[2021年]])版によると、2020年12月31日時点で、[[神道]]系が8792万4087人(48.5%)、[[仏教]]系が8397万1139人(46.4%)、[[キリスト教]]系が191万5294人(1.1%)、諸教(神道系・仏教系・キリスト教系以外であるもの{{refnest|group="分"|「諸教とは、'''神道系、仏教系、キリスト教系のそのいずれとも特定しえない教団'''をいう。すなわち、神道と仏教、あるいは神道と仏教とキリスト教など、複数の宗教が混合してできた宗教や、それらの宗教のいずれとも関係なく、独自に創唱された宗教などである。」「戦前、公認された宗教は、神道、仏教、キリスト教の三教のみであり、非公認の宗教団体は、行政上、「類似宗教」として扱われたのであった。[[宗教団体法]]では、教派、宗派、教団、寺院、教会以外はこの法における宗教団体としては認められなかった。ただし、これらの宗教団体以外に、教義を宣布したり儀式の執行を行う組織については、宗教結社として届出させるものとした。大正末期から昭和期にかけて、新宗教が多く出現しているが、これらは公認されている宗教団体の中に所属して活動したり、非公認の類似宗教団体として活動し、宗教団体法下にあっては宗教結社として活動するなどした。しかし終戦後、宗教法人令により宗教法人の設立が届出制になると、いわゆる新宗教も、それぞれ宗教法人を設立していった。」<ref name="名前なし-1">[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/h29nenkan.pdf 宗教年鑑 平成29年版]文化庁 24頁</ref> したがって、[[解脱会]](戦前は[[真言宗醍醐派]]に属した)や[[円応教]]のように[[神仏混淆]]([[シンクレティズム]])の宗教は「神道系かつ仏教系」とはされず、どちらとも特定しえないので「諸教」に分類される。また[[世界救世教]]のように神道、仏教、キリスト教いずれの要素も包含しているものや、[[天照皇大神宮教]]、[[GLA (宗教法人)|GLA]]のようにまさに神道系、仏教系、キリスト教系いずれとも特定し難いもの、[[イスラム教]]のように神道系、仏教系、キリスト教系いずれでもないことが明らかな宗教も「諸教」となる。[[天理教]]は戦後自ら[[教派神道]]ではないと表明して「諸教」となり(後述)、[[パーフェクト リバティー教団]]は上部団体の神道教派から独立して「諸教」となっている。日本発祥の一部の[[新宗教]]と[[世界宗教]]であるイスラム教が日本の宗教行政上は同じ「諸教」になっている、という事実は非常に特徴的であるが、「諸教」なる分類が「戦前、公認された宗教は、神道、仏教、キリスト教の三教のみ」であり、いかなる教会・団体も必ず三教のうちどれかに属していなければ公認されなかった、という経緯を受けて新設された分類項目であることによるものである。}})733万5572人(4.0%)、合計1億8114万6092人となり、これは日本の総人口(約1億2600万人)のおよそ1.5倍にあたる{{Refnest|[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/r03nenkan.pdf 『宗教年鑑 令和3年版』] 令和3年12月28日 文化庁編<ref group="数">文化庁の調査における「信者」の定義については、「信者は、各宗教団体が、それぞれ氏子、檀徒、教徒、信者、会員、同志、崇敬者、修道者、道人、同人などと称するものの全てを含んでいます。信者の定義、資格などはそれぞれの宗教団体で定められ、その数え方もおのおの独自の方法がとられています。」と注記されている通り、文化庁が信者の要件を定めているわけではなく、各宗教団体に共通する一定の基準もない。</ref>}}。したがって複数の宗教の「信者」として数え上げられている国民が確実にいることになるが、一方で個々の国民へのアンケート調査などでは、「何らかの[[信仰]]・[[信心]]を持っている、あるいは信じている」人は2割から3割という結果が出ることが多く、逆に総人口を大幅に下回る数しか宗教の「信者」がいない、または「信者である」と思っていない、ということになる。 こうした数値になる要因として、以下が挙げられている。 *統計調査は、[[宗教法人]]を回答者として申告制で行うため、各宗教団体が必然的に自団体の信者数を多めに申告する傾向にある。 *[[キリスト教]]や[[イスラム教]]などでは定期的に[[礼拝]]に参加していても、信徒と非信徒とを明確に区別しており、[[洗礼]]や[[シャハーダ]]などの入会儀式を受けるまでは信徒として扱われない。また多くのキリスト教団体では、音信不通となった場合は数年で除名されるのが一般である。しかし神道や[[日本の仏教]]では入会儀式や音信の類は考慮されず、[[神社]]の[[氏子]]地域住民や崇敬会(地域を限定しない崇敬者(信者)の団体)に加入している世帯の家族全員を信者とみなす例、仏教では他教の信者となったり[[無宗教]]を表明する者でも生家が所属する[[寺院]]の[[檀家制度|檀家]]にカウントされている例、神社・寺院への[[初詣]]の参拝者も信徒数に含める例、[[御守り]]や[[神札|御札]]などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例がある。 *現在の日本社会では一般的に、どの宗教・[[宗派]]を信仰しているかはさほど重視されず、また個々人も自らの信仰を(無宗教を自認する場合を含めて)ことさらに意識することが少ない。そのため、上記のような杜撰ともいえる調査方法にも抗議の声が上がることは少なく、また実生活で不都合が起こることも少ない。加えて宗教一般に対する否定的な見方もあり、他人に信仰を尋ねること自体がタブー視される風潮もある。 「神道系」「仏教系」「キリスト教系」「諸教」の種別についても、便宜上の整理に過ぎない。宗教統計調査に際して文化庁が一定の判断をしているが、4つの項目の中から各宗教法人が選択して自己申告しているものである。「日本の宗教は4種類に大別される」と文化庁が認定しているわけではなく、[[宗教学]]上の分類でもない。かつて[[教派神道]]であった[[天理教]]は「諸教」と届け出ており{{refnest|group="分"|「[[天理教]]は、もと神道教派13派のひとつであったが、その後、自らの教団が[[神道]]でないことを表明したため、現在、諸教の中に含まれている。天理教系の[[ほんみち]]も元は教派神道に数えられていたが、諸教に移った。」<ref name="名前なし-1"/>}}、この分類が必ずしも実際の教義や儀礼、信仰の様相、歴史的経緯等と一致するものではない{{refnest|group="分"|「Q5 この統計表に用いた各欄について教えて下さい。A イ 系統は、由緒、沿革、教典、教義、儀式などから見て、また、各宗教団体の判断によって、整理の便宜上、神道系、仏教系、キリスト教系、諸教の4つとし、更に神道系を神社神道系、教派神道系、新教派系、仏教系を天台系、真言系、浄土系、禅系、日蓮系、奈良仏教系、その他、キリスト教系を旧教、新教としました。諸教には、神道、仏教、キリスト教各系統のいずれにも入らないと見なされる諸派を入れました。したがって、伝統宗教、新宗教などの分類によるものではありません。」<ref>[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/h29nenkan.pdf 宗教年鑑 平成29年版]文化庁 32頁</ref> }}。 === 信仰に関する調査結果 === 「宗教を信仰しているかどうか」という調査の場合は、また異なる数字が出ている。[[NHK放送文化研究所]]による「ISSP国際比較調査(宗教)2008<ref name="名前なし-2">世論調査部(社会調査) 西久美子[https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2009_05/090505.pdf “宗教的なもの” にひかれる日本人〜ISSP国際比較調査(宗教)から〜] 社会や政治に関する世論調査 [https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/month/2009/2009_05/index.html 『放送研究と調査』(月報)2009年5月]NHK放送文化研究所</ref>」によると、「あなた自身は、何か宗教を信仰していますか」という問いに対して、「宗教を信仰していない」([[無宗教]])49.4%、仏教34%、神道2.7%、その他の宗教1.1%、[[プロテスタント]]0.7%、[[日本におけるカトリック教会|カトリック]]0.2%などとなっており、「宗教を信仰していない」人49.4%に対して「宗教を信仰している」人は38.7%となっている。したがって、「宗教を信仰している」人の中では仏教が多数である。キリスト教信者は少数であり、かつその他の宗教(諸教)の信者よりも少ない、という点は文化庁『宗教年鑑』の宗教統計調査の数字とおおむね一致するが、『宗教年鑑』では仏教とほぼ同じだけ信者がいることになっている神道を「信仰している」と思っている人は仏教に比べ相当少ない、ということになる(なお、NHK放送文化研究所の調査においては[[伝統宗教]]と[[新宗教]]の区別はしていない)。 また同調査によると、神の存在については、「神の存在を信じない」人は8.7%と少数であるが、「神の存在に疑問を感じることもあるが、神は存在すると信じている」人が11.9%、「実際に神が存在することを知っており、神の存在に何の疑いも持っていない」人は4.3%となっており、神の存在を積極的に肯定する人も少数である。一方、「神が存在するかどうかわからないし、存在するかどうかを明らかにする方法もないと思う」という[[不可知論]]的な立場を表明する人も19.2%で必ずしも多くはない。「神がいるとは思わないが、何か超自然的な力はあると思う」人が23.2%、「神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある」人が32.0%となっており、時と場合によっては人知を超えた宗教的とも言い得るものが存在しているような気がする、といった意識を持っている人が半数以上を占めており、多数派である。また、多くのものに神の存在を感じたり、祀ったりする気持ちについて、「理解できる」人が25.9%、「どちらかといえば、理解できる」人が52.9%で、[[汎神論]]的感覚を肯定する人も多数となっているため、「宗教を信仰していない」人(無宗教)が約半数であっても、単純に「[[無神論]]者や[[不可知論]]者が約半数」とは言えない、という結果となっている。 [[ギャラップ国際協会|ギャラップインターナショナル]]による2017年の調査(調査対象68カ国、約6万6千人)によれば、日本は人口の29%が神を信じていない無神論者とされ、この無神論者の割合において、日本は[[中華人民共和国|中国]]に次いで世界2位となっている<ref>{{cite news |title=世界の7割「神を信じる」 日本は無神論者の割合で世界2位 ギャラップ国際調査 |newspaper=[[クリスチャントゥデイ]]|date=2018-6-1 |url=https://www.christiantoday.co.jp/articles/25615/20180601/religion-prevails-in-the-world-gallup-international.htm| accessdate=2019-1-5}}</ref>。 2018年のISSP調査では、「神仏を拝む頻度」「お天道様がみている」「人知を超えた力の存在」「自然に宿る神」などの信仰に関する数値が低下し、さらに信仰心が薄くなっている状況が明らかになった<ref>[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/20190401_7.html 日本人の宗教的意識や行動はどう変わったか|NHK放送文化研究所]</ref>。 == 政府と宗教 == {{main|宗教#日本の主な宗教問題}} [[日本国憲法第20条]]には : 一 [[信教の自由]]は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 : 三 国及びその機関は、[[宗教教育]]その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 との条文があり、日本国では信教の自由が認められ、[[国教]]は定められていない。 == 個々の宗教 == === 神仏習合 === [[File:Inari-Jogyo-ji.jpg|thumb|right|100px|[[シンクレティズム]]の例。 [[仏塔]]と[[稲荷神|稲荷]]が合体している。]] {{出典の明記|date=2015年8月|section=1}} {{main|神仏習合}} 日本では[[神道]]と[[仏教]]の信徒が大多数を占めている。日本では[[神仏習合]]([[シンクレティズム]]の一種)の時代が長く続いた。[[明治維新]]で[[神仏分離]]がなされた後も神道と仏教の間の区別には曖昧な面が残っている。また、[[廃仏毀釈]]を逃れるため、もとは寺であったものが神社になった例も多い。これらの理由により、[[神棚]]を祀り[[仏壇]]も置いている家庭、仏教寺院の[[檀家]]であると同時に神社の[[氏子]]でもある家庭は少なくない。これが、神道を信仰する者と仏教に帰依している者を合わせると2億人を超えるといわれる所以である。 視点を変えると、神道と仏教という2つの宗教が並立して日本に存在したと捉えるのではなく、神道と仏教が互いを飲み込んで渾然一体となった日本固有の信仰があった(あるいは今もある)というのが自然であるとも考えられる。歴史的に見ても現在においても、誕生祝い・[[七五三]]・[[成人式]]や祈願事などの[[ハレとケ|ハレ]]の行事は神道が、葬儀・供養や死生観にまつわることなどの[[ハレとケ|ケガレ]]は仏教が担うように機能を分担しており、両者を合わせて一つの宗教観を構成しているともいえる。 [[File:Izumo-taisha14bs4592.jpg|thumb|right|180px|[[出雲大社]]([[神道]][[神社]]、[[島根県]][[出雲市]])]] ==== 自然宗教 ==== [[縄文時代]]の狩猟や漁労、あるいは自然物の採集が主だった頃に、人々は、土地や家の神々に礼拝し、自然現象に霊の存在を認め、畏怖し、呪術によって災難を避け、自然の恩恵を祈る風習があったことが考えられる。晩期縄文時代には、[[稲作]]が日本に伝わり、急速に日本列島に広まり、[[弥生時代]]を迎える。 日本人の信仰のベースとして自然宗教に近い宗教ともいえる、神道の前の宗教を指す。 ==== 神道 ==== {{main|神道}} {{See also|日本神話}} 『[[古事記]]』には[[皇室]]や神話などの情報が詳しく記されている。『[[日本書紀]]』や『古語拾遺』なども成立し、それらを神道は規範としている。神道の「[[神 (神道)|神]]」とは、自然や人間や動物・植物を含めた万物の中でも、特に優れた徳を持ち、人々がおそれ慎む存在であると考える。しかし、病気をもたらす「疫神」のように、恐ろしい神もある。また「雨の神」は、豊かな水を与えてくれるが、大雨を降らし、洪水を引きおこすこともある。神をおそれ、かしこむことは、自然のルールを守り、自然と共存して生きていくことを誓う意味もある。[[奈良時代]]になると、神社に[[神宮寺]]が建てられ、寺に神がまつられるようになり、「[[神仏習合]]」の時代が長く続いた。ただし[[出雲大社]]のように、早くから神仏分離をした神社もある。[[明治維新]]で[[明治政府|政府]]は、神道と仏教との区別を明確にしようと「神仏判然令」を発布し「[[神仏分離]]」を行った。第二次世界大戦の[[日本の降伏|終戦]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により「[[神道指令]]」が発布され、いわゆる「[[国家神道]]」は廃止され、神社は「[[国教|国家の宗祀]]」の地位を失い「[[宗教法人]]」となった。現在の神道は、[[神 (神道)|八百万神々]](やおよろずのかみがみ)と祖先を祀り、皇室や[[日本の文化]]や伝統を重んじ、「浄き心、明き心、正しき心、直き心」で「世のため人のために尽くすこと」を眼目にしている。神道信者や神道施設(神社等)の数は、日本の宗教の中で最大だと言われている<ref>『神道のしきたりと心得』平成2年神社本庁教学所発行全217頁。</ref>。神道([[神社神道]])は「神は言挙げをせぬ(ものをはっきり言わない)」という思想に見られるように、明確な教義が存在せず(教派神道系のセクト宗教([[新宗教]])には明確な教義が存在する)、厳密な入信規定もない。[[氏子]]入りがこれに近いが、特定の神社の氏子でない日本人が[[神棚]]の設置、神社への寄付、祭事への参加などを行うこともあり、これをもって信者と見る向きが多い。 [[ファイル:Horyu-ji10s3200.jpg|thumb|right|180px|[[法隆寺]]([[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]] [[ファイル:Buddism in japan.svg|thumb|right|350px|[[日本の仏教]]宗派]] ==== 仏教 ==== {{main|日本の仏教}} 日本の仏教はほとんどが[[大乗仏教]]である。[[鎌倉時代]]に成立した宗派([[鎌倉仏教]])が今日の仏教の礎となっており、[[日本の歴史]]に深く影響を与え、現在に至るまで信者数も多く、日本の仏教徒の大部分を占める。 歴史を遡れば、仏教は6世紀に日本に伝来したとされている。[[奈良時代]]には「[[南都六宗]]」と呼ばれた[[三論宗]]、[[成実宗]]、[[法相宗]]、[[倶舎宗]]、[[律宗]]、[[華厳宗]]などが広まった。[[平安時代]]には[[遣唐使]]とともに[[唐]](中国)に渡り仏教を学ぶ僧が多くいた。代表的な存在として、[[最澄]]は帰国後に[[法華経]]や[[密教]]を中心とした[[天台宗]]を開き、[[空海]]は太陽を神格化して生み出された[[大日如来]]を宇宙の中心と説く密教を学び、帰国後に[[真言宗]]を開いた。仏典には、釈迦が教えを説いてから千年間は正しく教えが伝わり実践されるが([[正法]])、その後千年は教えが形骸化し([[像法]])、像法の後は[[末法]]すなわち仏法を正しく聞くことが出来ず、正しく理解する者がいなくなるという、すなわち暗黒時代が到来するとの思想が記されている([[末法思想]])。日本では平安時代、(いくつか見方はあるものの)1051年などに末法に入ったと見なし、すでに末法に入ったという痛切な意識は人々の中にいくつかの動きを生んだ。ひとつの動きは、この世に絶望し[[来世]]の幸福を願い[[阿弥陀如来]]にすがる信仰([[浄土思想]])で、これは貴族や貧しく力のない一般庶民の間にも広がり、この信仰に基づいた寺院が全国規模で建立された。 すでに末法に入ったとされていた[[鎌倉時代]]、実際に世は戦乱や疫病で乱れ、人々は絶望の淵にいた。そうした人々の間では「南無阿弥陀仏」と[[念仏]]を唱え続けることで阿弥陀如来に救済され、[[極楽浄土]]に往生することが出来るとする[[法然]]の[[浄土宗]]や、[[男尊女卑]]や女人不浄が当然と考えられていた時代に[[男女平等]]や女人往生を説き、罪深い自分たちだからこそ女性も男性もありのままの生き方のまま浄土往生できるとする[[悪人正機]]を説いた[[親鸞]]の[[浄土真宗]]が全国に広がっていった。こうした後に[[日蓮]]は、末法に入ったからこそ「南無妙法蓮華経」([[法華経]])と日々[[題目]]を唱えることで[[菩薩]]に至ることができ、安寧を得ることができると説き、[[日蓮宗]]を開いた。これら方向性の異なる2つの思潮は、それぞれ現代社会にまでつづく大きな潮流をかたちづくり、今もなお大きな影響力を持っている。またこの時代に[[中国]]から[[禅宗]]が伝わり、[[臨済宗]]や[[曹洞宗]]などの流れが生まれた。日本の仏教は、全体的に見れば[[戒律]]はほとんどなく、他宗派との表立った論争も少ない。なお、[[戒名]](浄土真宗においては[[法名 (浄土真宗)|法名]]、曹洞宗においては[[安名]]{{refnest|group="仏"|禅宗で新たに得度受戒した者に初めて法諱を付与すること、またその文書のことをいい、現代曹洞宗では法諱自体を表すようになった<ref>[http://www.sotozen-net.or.jp/ceremony/special/tokudoshiki 得度式 | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET 公式ページ] 2017年10月3日閲覧</ref>。}}、以下同じ)は、本来は仏弟子として生きることを誓った人に[[僧#日本仏教における僧伽|僧侶]]から授かる仏弟子としての名前であって、生前に授かることが本来の慣習である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.narita-san.com/kaimyo.html|title=実は戒名とは本当は生前に授かるものです 戒名は「亡くなられた後、お寺から貰う名前」と思われて居ませんか? |author=成田山上総寺|accessdate=2015年8月30日}}</ref>が、多くの日本人の場合は、自身の葬儀の場において戒名(または法名)を得ることにより仏門に入ることになる。 1898年に[[インド]]北部で発見され[[タイ王国|シャム]]の[[ラーマ5世]]に譲渡された[[仏舎利]]は、1900年にアジアの仏教国へ一部が分与されたが、この際には[[ビルマ]]や[[セイロン]]に加え日本も含まれており、当時のシャムでは仏教徒が多い国と認知されていた。 === キリスト教 === [[File:St._Ignatius_Church_00.jpg|thumb|right|180px|[[聖イグナチオ教会]]([[カトリック教会]]、[[東京都]][[千代田区]])]] [[ファイル:Tokyo Resurrection Cathedral 201000.jpg|thumb|right|180px|[[ニコライ堂]]([[日本正教会]]、東京都千代田区)。国の[[重要文化財]]]] {{See also|日本のキリスト教史|Category:日本のキリスト教史|日本におけるカトリック教会|日本のプロテスタント教派一覧|日本ハリストス正教会}} 史料によって、確実に日本に[[キリスト教]]が伝わったことがわかるものは、[[イエズス会]]の[[フランシスコ・ザビエル]]による布教である。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]のさなか、[[1549年]]のことであり、当初はほぼザビエルたちイエズス会の[[宣教師]]のみで布教が開始された、とされている。ザビエルたちは初め[[鹿児島市|鹿児島]]に入り、そこから布教を開始した。その後、[[フランシスコ会]]なども来日し、布教を行った。これらは[[カトリック教会|カトリック]]がほとんどで、「耶蘇教」「天主教」と呼ばれていた。当時は新興の教えであった[[プロテスタント]]はまだ入ってきていなかった、と見られている。 当初、勢力拡大に明け暮れていた各地の[[戦国大名]]たちは、最新の知識や技術を持った彼らヨーロッパ人たちを基本的に歓迎しており、キリスト教も比較的スムーズに広まっていった。大名の中には、新しい思想であるキリスト教に惹かれて入信した者もおり、彼らは[[キリシタン大名]]と呼ばれた。しかし、[[サン=フェリペ号事件]]などいくつかの事件をきっかけに、権力者から忌避されるようになり、やがて天下統一を果たした[[豊臣秀吉]]によって[[1587年]]に[[バテレン追放令|伴天連追放令]]が発布され、キリスト教は禁止されることとなった。 その後、[[江戸時代]]が訪れるとキリスト教は一時的に解禁されたが、すぐに禁止された上に、また[[江戸幕府]]が[[鎖国]]政策が敷いたため、宣教師ばかりか一般の外国人も入国できなくなり、日本国内のキリスト教は衰退した。当時の日本人キリスト教徒は、棄教するか[[隠れキリシタン]]となった。この隠れキリシタンたちは、密かに信仰を伝えていくこととなった。江戸幕府はヨーロッパ諸国の中で、プロテスタント国家の[[オランダ]]とだけ、[[オランダ商館]]を通じて貿易を継続した。オランダは幕府のキリスト教禁教政策を尊重したため、[[幕末]]まで日本にキリスト教が広がることはなかった。 [[明治政府]]も[[五榜の掲示]]第三札に見られるように当初はキリスト教禁教政策を引き継いだが、[[1873年]]、キリシタン禁制の[[高札]]が撤去され、いくつかの制限がつきながらも布教が容認された(背景には、キリスト教国がほとんどの[[欧米]]諸国からキリスト教禁止に抗議や非難が相次いだことによる)。西洋諸国から宣教師が来日し、教会を開いた。隠れキリシタンも公に信仰できるようになった。[[1889年]]2月に発布された[[大日本帝国憲法]]において信教の自由が明文化されたが、政府は「神道は宗教ではなく(神道非宗教説)、国家の[[祭#神道|祭祀]](≒[[国教]])であり、臣民に義務がある」として国家神道を創始した。[[宮城遥拝]]が国民に義務付けられ、キリスト教団体もこれを受け入れざるを得なかった。教派神道(後に十三派が成立)と仏教(十三宗五十六派)が管長のもとに各教派・各宗派を組織した法的根拠は、[[1884年]]8月の[[太政官布告・太政官達|太政官布達]]第十九号「神仏[[教導職]]ヲ廃シ住職ヲ任免シ教師ノ等級進退ハ各[[管長]]ニ委任等ノ儀」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994271/159?tocOpened=1 第十九号「神仏教導職ヲ廃シ住職ヲ任免シ教師ノ等級進退ハ各管長ニ委任等ノ儀」(159)][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994271/160?tocOpened=1 第十九号「神仏教導職ヲ廃シ住職ヲ任免シ教師ノ等級進退ハ各管長ニ委任等ノ儀」(160)]『明治十七年 太政官布達』 [[国立国会図書館]]デジタルコレクション</ref>であった。しかしキリスト教については宗教行政上「神仏道以外ノ宗教」として扱われていたのみであり、法制度の外に置かれていた。[[禁教]]が解かれたとはいえ、日本の伝統宗教とそうではないキリスト教の扱いにはなお少なからず差があり、西洋諸国との[[条約改正]]交渉の中でそのことが問題になった。そこで政府は[[1899年]]5月、キリスト教の宣教を正式に公認することを表明し、同年12月には仏教と「神仏道以外ノ宗教」を対象とする宗教法案を[[元老院 (日本)|元老院]]に提出した。しかし今度は「耶蘇と同列に扱われる」として仏教界の猛烈な反対があり、結局成立しなかった。キリスト教は法的根拠を持つ教団を創設できず、[[内村鑑三]]による[[無教会主義]]の提唱など、日本独特のキリスト教信仰のあり方が生まれた。 その後しばらく[[宗教団体]]に関する[[一般法]]は提案されなかったが<ref name=21seikino>{{Citation |和書 |author=紀藤正樹 |author-link=紀藤正樹 |title=21世紀の宗教法人法 |publisher=[[朝日新聞社]] |year=1995}}</ref>、[[1913年]]6月、[[内務省 (日本)|内務省]]の宗教局が[[文部省]]に移管され、仏教と「神仏道以外ノ宗教」が文部省の管轄となってから再び議論されるようになった。しかしその後も仏教界の反発が続いた。紆余曲折があったが、戦時下の[[1940年]]に至り、[[教派神道]]も対象とした[[宗教団体法]]が成立した。この宗教団体法において初めて「神仏道以外ノ宗教」ではなく「基督教」という単語が使われ、包括団体として神道の「教派」、仏教の「宗派」と制度上同様のものとして、「基督教」の「教団」が根本法の中に規定されることになった。この時、教派神道十三派(国家神道に準じた特権的地位のいくつかは廃止)と仏教十三宗五十六派(二十八宗派に整理統合)とともに、カトリックの「[[カトリック中央協議会|日本天主公教教団]]」とプロテスタントの「[[日本基督教団]]」の2教団が[[文部大臣]]より認可された。これによってはじめて国法上の[[宗教団体]]、かつ[[法人 (日本法)|法人]]たるキリスト教教団が成立し、教勢の差こそ大きいものの、キリスト教が教派神道、仏教と法的に同じ地位を得た。この枠組みが戦後も継承され、神道、仏教、キリスト教の3つとそれ以外(諸教)という現在の宗教行政上の分類となっている。[[日本の降伏|第二次世界大戦敗戦]]後、[[日本国憲法]]の制定により[[日本国憲法第20条|憲法第20条]]の下、日本ではほぼ完全な形での[[信仰の自由]]が保証された。 ==== キリスト教の現況 ==== [[明治]]時代以来、キリスト教は[[西洋文化]]の一つとして、日本の文化に様々な影響を与えている。一般化された[[クリスマス]]などキリスト教由来の年中行事のみならず、西洋のキリスト教徒の形式を模して成立したキリスト教式の[[結婚式]]も人気が高い。布教の一環としてキリスト教の教団や宣教師らによって開設された学校は現在まで存続しており、[[文化財]]に指定されている教会建築物、宣教師が開いた避暑地([[軽井沢]])なども知られていて、日本にキリスト教が存在し、一定の活動を行ってきたこと自体は日本の社会に認識されていると言える。学校に関しては広く人気の高い学校も含まれており、寺の子に生まれ、長じて僧侶になった人物が、カトリック系の中学校・高校に通っていたという例さえある<ref>[https://logmi.jp/ 「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは - ログミー<nowiki>[o_O]</nowiki>]</ref>。 しかしそれらは、キリスト教文化が表層的に受容されていることを示しているに過ぎない。キリスト教の信者(クリスチャン)そのものは、プロテスタントおよび[[日本聖公会]]、[[日本におけるカトリック教会|カトリック]]、オーソドックス([[正教会|東方正教会]])の全てを合わせても、日本人全体の1%前後と言われている。[[文化庁]]『宗教年鑑』平成29年版ではキリスト教系の信者数は191万4196人、割合で1.1%となっている。[[東京基督教大学]]国際宣教センター日本宣教リサーチ「JMR調査レポート2017年度版」記載の[[キリスト新聞社]]『キリスト教年鑑2018』によるデータでは、[[2017年]]の日本のキリスト教人口は97万6434人、日本の全人口のうち0.82%となっている{{refnest|group="キ"|[[東京基督教大学]]国際宣教センター日本宣教リサーチ[http://www.tci.ac.jp/wp-content/uploads/2015/08/JMR_report_2017.pdf JMR調査レポート2017年度版](2018年4月)参照。この数字は文化庁の調査にいうキリスト教系信者数の半数に満たない。『キリスト教年鑑』の数字はプロテスタントおよび日本聖公会、カトリック、オーソドックス(東方正教会)の合計である。ただ同レポートにおいてはこれら伝統的な主流派の多くから[[教学]]上「[[異端]]」と公に認定されている教団([[日本の末日聖徒イエス・キリスト教会|末日聖徒イエス・キリスト教会]](モルモン教)、[[ものみの塔聖書冊子協会#宗教法人ものみの塔聖書冊子協会|ものみの塔聖書冊子協会]]([[エホバの証人]])、[[世界平和統一家庭連合]](世界基督教統一神霊協会(統一教会))は「キリスト教ではないもの」(伝統的な主流派の多くからは「三大異端」と称される)として扱われており言及自体がなく、キリスト教人口にも算入されていない。また同レポートにおいて「教義上あるいは信仰の実践上、キリスト教もしくはプロテスタントの一派と見なすことが困難とされるグループや教会は除いている」(同レポート、12頁)と記し、「[[イエス之御霊教会]]教団、[[萬国福音教団]]、聖書研究会、[[基督心宗教団]]、復元イエス・キリスト教会([[コミュニティ・オブ・クライスト]]。末日聖徒イエス・キリスト教会の分派)、[[真イエス教会]]日本総会、[[セブンスデー・アドベンチスト教会|セブンスデー・アドベンチスト教団]](SDAキリスト教会)、アメン教団(あいのひかり教団)、日本基督召団、[[地元にあって合一である立場に立つ教会|地元に在って合一である立場に立つ教会]]、原始福音([[キリストの幕屋]]。宗教法人キリスト聖書塾)・同仁キリスト教会(基督教同仁社団。[[ユニテリアン・ユニヴァーサリズム]]))」の各教団を挙げ、東京基督教大学国際宣教センター日本宣教リサーチの判断によりキリスト教人口に入れていない(実際には「聖書研究会」は掲載されており、統計に含まれている。聖書研究会は「東京基督教大学(TCU)支援会員」であるという<ref>以下を参照「[http://www.skk-jpn.com/mission.html 聖書研究会 私たちの働き 日本での働き]」聖書研究会本部</ref>。またセブンスデー・アドベンチスト教会については『キリスト教年鑑』には他のプロテスタント各派と共に収録されており、判断が分かれている。同教会については伝統的な主流派の複数の教団・教会からも「キリスト教に含まれる」という態度表明がなされている)。このほか同様に伝統的な主流派の多くから「教義上あるいは信仰の実践上、キリスト教もしくはプロテスタントの一派と見なすことが困難とされるグループや教会」との指摘がある[[東京キリストの教会]]、[[キリスト者学生会]](KGK)、[[ヨハン早稲田キリスト教会]](ヨハン教会連合)、[[キリスト教福音宣教会]](摂理)、[[聖神中央教会]]、[[喜びのニュース宣教会]]、[[神様の教会世界福音宣教協会]]、[[新天地イエス教証しの幕屋聖殿]]、[[ファミリー・インターナショナル]](愛の家族、神の子供たち)、天宙統一真の王国連合(世界基督教統一神霊協会の分派)、[[全能神]]教会なども除かれている。末日聖徒イエス・キリスト教会(12万6500人)やものみの塔聖書冊子協会([[2014年]]現在、21万6472人<ref>[http://www.rirc.or.jp/xoops/modules/xxxxx05/detail.php?id=23 エホバの証人]2014年 公益財団法人国際宗教研究所宗教情報リサーチセンター</ref>)、世界平和統一家庭連合([[2009年]]現在の累計入会数56万人というが実際は6万人という<ref>[[米本和広]]「日本を揺るがした新宗教 瀬戸際に立った統一教会」『Books Esoterica別冊[図説]宗教と事件』所収、[[2010年]]、学研マーケティング</ref>などは日本において相当数の信者があり、他も一定数の信者がいるが、同レポートの数字には算入されていない。なお文化庁『宗教年鑑』では末日聖徒イエス・キリスト教会、セブンスデー・アドベンチスト教会、イエス之御霊教会教団、萬国福音教団、基督心宗教団については「新教」、またあいのひかり教団についても「キリスト教系」(単位宗教法人を包括する宗教団体に[[宗教法人]]格がない)に、キリスト者学生会も「単立宗教法人(キリスト教系)」にそれぞれ分類されている。文化庁『宗教年鑑』の統計上、末日聖徒イエス・キリスト教会は[[日本基督教団]](11万7773人)、[[日本聖公会]](4万9228人)、[[日本バプテスト連盟]](3万3984人)など主流派を上回る信者数がある日本最大のキリスト教新教教団である。なお、「三大異端」及び「教義上あるいは信仰の実践上、キリスト教もしくはプロテスタントの一派と見なすことが困難とされるグループや教会」とされているものはすべて[[19世紀]]以降、さらには[[第二次世界大戦]]以降、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、日本、[[大韓民国|韓国]]、また[[改革開放]]後の[[中華人民共和国|中国]]で創始された[[新宗教]]教団・教会である。}}。[[菅義偉内閣]]までの[[内閣総理大臣|首相]]63人のうち7人<ref group="キ">[[原敬]]、[[片山哲]]、[[鳩山一郎]]、[[大平正芳]]、[[細川護熙]]、[[麻生太郎]]、[[鳩山由紀夫]]の7人。</ref>がキリスト教信者であるという事実はあるが、全人口に対する信者の比率はその1/10以下にとどまっている。 いずれにしてもこの割合は、近隣の[[アジア]]各国と比較しても際立った低さである(これに匹敵する[[タイ王国|タイ]]、[[ラオス]]、[[ネパール]]などの国もある)。日本のキリスト教団体の多くは、ヨーロッパやアメリカはもちろん、[[大韓民国|韓国]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[台湾]]、[[ベトナム]]と比べても小規模である。特に地方のプロテスタント教会では信徒が10名に満たない団体も多く存在する。教団単位では日本発祥の[[新宗教]]で戦後教勢を伸ばした[[創価学会]](公称827万世帯<ref>[http://www.rirc.or.jp/xoops/modules/xxxxx05/detail.php?id=77 創価学会]2014年 公益財団法人国際宗教研究所宗教情報リサーチセンター</ref>、実数は不明{{refnest|group="数"|創価学会は「[[文部科学大臣]]所轄[[宗教法人#単位宗教法人と包括宗教法人|単位宗教法人]](仏教系)」に分類される[[単立]]宗教法人である<ref>文化庁『宗教年鑑』平成29年版、139頁</ref>。文化庁『宗教年鑑』に創価学会単独の信者数は記載されていないが、文部科学大臣所轄単位宗教法人(仏教系)全体の信者数は3471万4707人である<ref>文化庁『宗教年鑑』平成29年版、52頁から53頁</ref>ので、統計上創価学会の信者数はこの中に含まれている。}})、[[立正佼成会]](272万5561人<ref>文化庁『宗教年鑑』平成29年版、78頁から79頁</ref>)(両教団とも分類は仏教で法華信仰の教団)は単独で日本の全キリスト系信者数を上回っている。またカトリック教会の信者数は44万1107人で、日本のキリスト教主流派およびキリスト教系新宗教すべてを含むキリスト教系教団の中では最大勢力とみられるが、宗教教団全体では[[天照皇大神宮教]](47万9067人)、[[生長の家]](45万9531人)、[[円応教]](44万9090人)などの日本発祥の新宗教を下回る教勢に留まる。キリスト教最大の[[キリスト教諸教派の一覧|教派]]であり世界最大の宗教教団と目されるカトリックが、日本においては[[霊友会]](127万2581人)、[[天理教]](119万9955人)、[[佛所護念会教団]](111万5343人)、[[パーフェクトリバティー教団]](PL教団、81万8467人)、[[妙智会教団]](68万5145人)、[[世界救世教]](60万4015人)など、世界的な広がりという点では到底及ばない[[新宗教]]各教団の勢力を大きく下回っているという事実は、「日本ではキリスト教が広まっていない」ということを端的に象徴している。こうした数字からも、日本のキリスト教系信者の割合が小さいことが見てとれる。 またNHK放送文化研究所による「ISSP国際比較調査(宗教)2008」<ref name="名前なし-2"/>によると、日本人の日常の宗教的行動においてもキリスト教が果たしている役割は神道・仏教に比べて微少である。「[[初詣|初もうで]]に行く」ことについて「よくする」人が54.9%、「したことがある」人が36.7%、「お盆やお彼岸に墓参りをする」ことについて「よくする」人が65.8%、「したことがある」人が28.4%、 「神社で参拝をする」ことについて「よくする」人が26.2%、「したことがある」人が53.7%となっており、神社参拝や寺院参詣に行ったり、各家々の神道や仏教に関わる行事に参加した経験を持つ日本人が大半であるのに対し、「教会の礼拝に行く」ことについて「よくする」人は1.4%、「したことがある」人は8.0%と合わせて1割に満たず、「しない」人が87.9%と大多数である。日本のキリスト教会には文化財や[[世界遺産]]などに指定され知名度の高いものや、観光名所になっているものも少なくなく、キリスト教会側も「礼拝には誰でも参加できる」「気軽に教会に立ち寄って欲しい」とその宗教活動について広く門戸を開いている。しかしほとんどの日本人にとって、日常の宗教的行動の対象としては神社や寺院に比べキリスト教会は縁遠いものになっていることが窺われる。 === 儒教 === {{出典の明記|date=2015年8月|section=1}} {{Main|日本の儒教}} 神道、仏教に加えて、宗教として意識されることは少ないものの、[[葬儀]]、[[死生観]]を中心に[[儒教]]も大きな影響を残している。[[祖霊信仰]]などの観念は現在では仏教に組み込まれているが、本来は仏教哲学と矛盾するものであり、古来の民間信仰と儒教に由来する。[[位牌]]、法事など、先祖供養に関わる重要な習慣が、主にその形式において儒教起源である。思想、道徳、政治的規範としての[[儒学]]は支配階級を中心に学ばれ、明治時代以降は一般庶民にも直接、間接に影響を与えた。 === アイヌの宗教 === [[アイヌ]]の宗教は[[アニミズム]]に分類される。 === 沖縄の宗教 === [[沖縄県]]には[[琉球神道]]という独自の信仰がある。その他にも仏教など様々な信仰があるが、詳細は[[琉球における信仰]]を参照。 === イスラム教 === {{see also|日本のイスラム社会}} 日本人のイスラム教徒人口はさまざまな数字が出されているが、いずれも正確な数字ではない。日本には、国内のイスラム教徒の動向を把握している、統一された組織や団体が存在しないためである。5万人とする説もあれば<ref name="nhk20130705">{{cite news |title=東南アジアからの観光客をもてなすには |publisher=[[日本放送協会|NHK]]|date=2013-7-5 |url=http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/161421.html | accessdate=2013-12-15}}</ref>、20万人近い数字を挙げる者もいる<ref name="jbpress20130807" />。いずれの数字もかなり多めに見積もられた数字だとも考えられ、「実際に日本国内でイスラムを実践している日本人信徒の数は数百人から、多くても1000人は超えないのではないか」とも言われている{{誰|date=2011-8}}。{{独自研究範囲|日本国内で催されるイスラム教関係の行事、祭典の日本人信者の出席者、日本各地の礼拝所の日本人の礼拝参加者の数から推測してもそれに近い|date=2016年8月}}。[[宗教法人]][[日本ムスリム協会]]は、日本国内のムスリムの数を10万人前後としており、これは日本の全人口の0.08%に満たない<ref>{{cite news |title=調査捕鯨母船「日新丸」、ハラル認証を取得 |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2014-1-23 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3007075 |accessdate=2016-8-29 }}</ref>。 日本は韓国と並んで、アジアでは最もイスラム教が普及していない国の一つであり、現地人(日本人)が主体になって運営されているイスラム教組織や宗教施設はほとんど存在しない。[[タイ王国|タイ]]南部・[[フィリピン]]南部・[[ベトナム]]南部のようなイスラム教を信仰する少数民族が住む地域もなく、[[中華人民共和国|中国]]の[[回族]]や[[インド]]の[[ムスリム]]のような、現地の文化や言語、民族に同化した[[ムスリム|イスラム教徒]]の集団も存在しない。 日本国内に存在するイスラム教組織や宗教施設の信者の大半は、[[在日パキスタン人|パキスタン人]]、[[在日バングラデシュ人|バングラデシュ人]]、[[在日トルコ人|トルコ人]]、[[在日インドネシア人|インドネシア人]]、[[在日スリランカ人|スリランカ人]]、[[在日イラン人|イラン人]]などの[[在日外国人]]とその日本人配偶者である。大半が[[スンニー派]]であるが、その中でも[[ハナフィー学派]]と[[シャーフィイー学派]]が日本には多い。[[パキスタン]]、[[バングラデシュ]]、[[トルコ]]などの出身者にはハナフィー学派の信者が多く、[[インドネシア]]人、[[スリランカ]]・ムーア人などにシャーフィー学派の信者が多い。ハナフィー派は比較的自由な解釈を行う学派であり、シャーフィーはそれよりも[[クルアーン]]などイスラム法に解釈に重きを置く。両者は対立することはなく、互いに尊重しあい一緒に礼拝しているが、礼拝の方法や[[戒律]]に小さな違いが見られる。宗派や学派の違いとは別に、トルコ出身者は日本国内においてもトルコ共和国内で採用された暦を採用する者が多く、他国出身のイスラム教徒と行事の日程などがずれることがある。イラン人には[[シーア派]]の信者が多く、スンニー派とは別に礼拝所や宗教団体を運営しているケースが多いが、スンニー派の宗教施設を利用したり、行事に参加するシーア派の信者も少なくない。 日本で比較的、熱心に布教活動をしているイスラム教系グループに[[アフマディーヤ]]教団がある。主にパキスタン出身者により、街頭で[[宣教|布教]]活動などがなされている。ただし、アフマディーヤ教団は正統派のイスラム教徒からはイスラム教とはみなされないことが多い。 2013年から、日本では[[日本の査証政策#短期滞在査証免除措置国と地域の一覧|ビザ緩和]]などによって、[[東南アジア]]諸国からの観光客が急増している。[[ムスリム]]の多い[[マレーシア]]や[[インドネシア]]も例外ではなく、彼らに対応するために、[[ハラール]]などムスリムの習慣に対する勉強会が各地で開かれるようになっている<ref name="nhk20130705" />。イスラム式の礼拝堂の設置も増えてきている<ref>{{cite news |title=ポスト中国は東南アジア観光客! イスラム対応に急ぐ日本政府の本気 |newspaper=デイリー・ダイヤモンド|date=2013-7-3|url=http://dw.diamond.ne.jp/articles/-/6004| accessdate=2013-12-15}}</ref>。 === 日本の新宗教 === {{main|新宗教}} 新宗教とは、幕末・明治以後、近現代に成立した宗教であり、統一した教義や戒律などはない。新興宗教(しんこうしゅうきょう)とも呼ばれる。 === 日本の民間信仰 === {{出典の明記|date=2015年8月|section=1}} [[民間信仰]]的要素は歴史的経緯もあり、複雑な様相を成している。これらは主に[[アニミズム]]を基盤としており、[[社殿]]以前の[[磐座]]や[[山岳信仰]]などに顕著であるが、神仏習合の影響も受け、形を変えて受け継がれているものも多い([[道祖神]]と[[地蔵菩薩]]、[[えびす信仰]]など)。 [[密教]]などの影響を受け、仏教や神道の枠に収まりがたい発展を遂げた宗教には、[[修験道]]、[[陰陽道]]、[[山岳信仰]]などがあり、[[真言]][[陀羅尼]]や功徳を積んだ法力への期待から[[御霊会]]など[[怨霊]]の鎮魂を担っていた。現代でも[[地鎮祭]]などにはこの考えが残っている。 [[クリスマス]]や[[ハロウィン]]など欧米由来の風習も民間に根付いている。 === 日本国外の民族宗教や新宗教など === [[File:Sakado_Xientengong_Tenmon_20110203_1.jpg|thumb|right|180px|[[埼玉県]][[坂戸市]][[五千頭の龍が昇る聖天宮|聖天宮]]([[道教]])]] いわゆる[[世界宗教]]以外の[[民族宗教]]についても日本国内に外国人主体の宗教施設を持つ教団は複数確認され、それらの宗教の信徒との結婚などで改宗した人々も存在する。 世界的に有力な外来宗教では、[[イスラム教]]信者が約12万人<ref>http://www.missionislam.com/knowledge/japan.htm{{cite web|title = International Religious Freedom Report 2008|work =|publisher = US Department of State|year = 2008|url =http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2008/108408.htm|format =|doi =|accessdate = 2011-03-22}}</ref>から18万人<ref name="jbpress20130807">{{cite news |title=200兆円の超巨大市場「ハラルビジネス」を狙え! 京懐石料理の美濃吉も参入、ニッポンは“ハラルしやすい国” |newspaper=[[日本ビジネスプレス]] |date=2013-8-7|author=末永恵 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38328 |accessdate=2013-8-11}}</ref>、[[バハイ教]]信者が約1万2000人<ref>{{cite web|title = Japan Profile|work = About Asia|publisher = Overseas Missionary Fellowship International|year = 2006|url =http://www.omf.org/omf/canada/about_asia/countries__1/japan_profile|format =|doi =|accessdate = 2008-02-20}}</ref>、[[ヒンドゥー教]]信者が約5000人、[[ユダヤ教]]信者が約2000人<ref>Golub, Jennifer, JAPANESE ATTITUDES TOWARD JEWS. PACIFIC RIM INSTITUTE OF THE AMERICAN JEWISH COMMITTEE</ref>、[[シク教]]信者が約2000人<!-- 信徒数の出典は英語版ウィキペディアより。ヒンドゥー教徒数・シク教徒数は根拠不明 -->であるという。[[ゾロアスター教]]の信者も極少数ながら存在する。 [[在日ベトナム人]]を中心に[[カオダイ教]]、[[ホアハオ教]]の信者がいる。 [[中国]]三大[[宗教]]の一つとされる[[道教]]の寺院(道観)や日本人が設立した道教の団体もあるが、信者と呼べる人の数は不明である。[[法輪功]]や[[天道 (新宗教)|天道]]の信者も[[在日華人]]を中心に存在する。 朝鮮半島の[[シャーマニズム]]である[[巫俗]]を[[在日コリアン]]を中心とした人々が信仰しており、[[生駒山]]の山麓に所在する複数の[[朝鮮寺|韓寺]]はその信仰の中心となっている。[[天道教]]、[[円仏教]]の信者も在日コリアンを中心に信者がいる。 欧米由来の[[ネオペイガニズム]]の一派である[[ウイッカ]]が日本では[[ウィッカ#日本における現代魔女|魔女宗]]として受容されており、日本人魔女も存在している。 === 精神世界とスピリチュアリティなど === 宗教の概念に入るかは議論が分かれるが、[[神智学]]や[[ニューエイジ]]や[[スピリチュアリティ]]・[[心霊主義]]は日本の文化にも一定の影響を与えている。[[UFO宗教|異星文明への信仰]]などの信奉者も一定数は存在している。 [[サイエントロジー]]や[[UFO宗教]]の[[ラエリアン・ムーブメント]]は日本にも拠点を置いている。[[フェミニスト霊性運動]]([[:en:Thealogy|Thealogy]])、[[ディープエコロジー]]の影響は日本にも及んでいる。 日本でも受容されている[[ジャマイカ]]発祥の[[レゲエ]]を通して、[[ラスタファリアニズム]]も日本の文化に影響を与えている。 == 日本人の宗教観 == [[File:Sendai Shirō - Santa Claus 01.jpg|thumb|[[トナカイ]]に曳かれたそりに乗る[[サンタクロース]]姿の仙台四郎の[[インフレータブルバルーン#エアブロー人形|エアブロー人形]](2016年12月)。[[注連縄]]([[神道]])が飾られた[[三瀧山不動院]]([[仏教]])の[[クリスマス]]([[キリスト教]])装飾に民間信仰([[人神]])の[[仙台四郎]]が用いられている。]] [[ファイル:RIMG0334.JPG|thumb|[[上椎葉ダム]]の建設工事にともなう殉職者を慰霊するために建立された仏教・キリスト教・[[水神]]の3女神像。]] [[ファイル:Kamidana.jpg|thumb|180px|[[神棚]]]] [[ファイル:Butsudan at ShinDo Buddhist Temple.jpg|thumb|100px|[[仏壇]]]] もともと日本においては、[[平安時代]]以降[[明治維新]]以前は[[浄土真宗]]を除き[[神仏習合]]が基本で、神道と仏教が分けられない場合が一般的だった。[[寺院]]内に[[鳥居]]があったり、「[[八幡神]](八幡大菩薩)」と[[神#神道|神社の神]]を[[菩薩]]の呼び方で呼ぶ事例などに名残を見ることができる(ただし、どの時代にも熱心な仏教信者がいた)。 [[江戸時代]]に[[戸籍]]管理を目的として、[[日本の仏教|仏教宗派]]のいずれかの寺院か、神社への帰属が義務付けられた([[寺請制度]])ことによって様々な習慣が生まれたが、今日では希薄となっている。また、[[七五三]]や[[結婚式]]が神社で行われるようになったのは明治以後のことで、[[宗門改め]]に起因するわけではない。 [[二宮尊徳]](1787年 - 1856年)の話をまとめた『二宮翁夜話』という書物には、[[宗教多元主義]]を示すような譬え話も書かれている。 <blockquote>世の中に本当の真理はただ一つしかないが、その真理に近づく入り口はいくつもある。仏教、神道、あるいは仏教でも天台宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗などいろいろあるが、これらは何れも一つの真理へ到達するための道に付いている沢山の入口の名前に過ぎない。例えば富士山に登るのに、吉田から、須走りから、須山から、それぞれ登れるが、最終的に頂上に至れば同じ所である。これを、違う目的に到達できる別々の道がある、と考えるのは誤りなのだ。入り口が幾つかあっても、最終的に到達する場所は同じ一つの場所なのだ。ところが世の中では、これらを別々な道であると言い真理が幾つもあるかのように解釈されがちなのだが、もともと仏教思想は紀元前に一人のブッダ[[釈尊]]によってとかれたもので、そうして顕された沢山の教義のなかから根本経典を選び出し、それぞれの宗派に分かれて守り伝えていっているに過ぎないのだ。</blockquote> 小説家の[[芥川龍之介]](1892年 - 1927年)は、日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から「八百万の神」を崇める、神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、[[釈迦]]も[[イエス・キリスト]]も日本にくれば神々の一人という扱いになる、といった主旨のことを短編小説「神神の微笑」<ref>[[青空文庫]]で閲覧可(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html])。他に{{ISBN2|4101025045}} {{ISBN2|4480020845}}<nowiki/>など。</ref>の中で登場人物に語らせている。また同時に、日本人が海外の思想に変化を加えて自分のものにする様子を「造りかへる力」とも表現している<ref group="注釈">これに類似する現象としては、[[ヒンドゥー教]]のシステムでも、他の宗教の究極の信仰対象を勝手に、ヒンドゥーの神々の一人という扱いにしてしまうことが知られている。仏教が台頭した時も、ヒンドゥー教の指導層の[[バラモン]]階級は(対抗策として)[[ブッダ]]もあくまでヒンドゥーの神々の一人という扱いにしている。また、現代ではイエス・キリストもヒンドゥー教の神々の一人という位置づけにされることがある(NHKのある番組でもヒンドゥー教徒らがヒンドゥーの神々の一人としてのイエス・キリスト(の肖像)に、他の神々同様に蝋燭の火を捧げる様子が放送された)。</ref>。 小説家の[[井沢元彦]](1954年 - )は、日本には無意識の強烈な「[[怨霊]]」信仰と、怨霊を発生させない「[[和]]」への信仰があり、神道はその上に成立し、仏教も結局は怨霊を鎮魂するための道具として活用されたと解説している。来日した外国人や、熱心な宗教信者となった日本人は、多くの日本人が無意識のうちに「和」を至上のものとする思想を持つことを見い出すことができるという。また井沢は日本人の持つ「[[言霊]]」への特異な信仰を見出している<ref>『世界の宗教と戦争講座』徳間書店2003年 {{ISBN2|4198919062}}。『[[逆説の日本史]]』シリーズ。『井沢式「日本史入門」講座 1(和とケガレの巻)』徳間書店2006年 {{ISBN2|9784198622312}}。など</ref>。 === 現代 === 『[[読売新聞]]』が2005年8月6日、7日に行った「宗教」に関する世論調査では、「宗教を信じていない([[無宗教]]あるいは[[無神論]])」という選択肢を選んだ人が75%に上り、「信じている」を選んだ人は23%と、1979年の調査の34%と比べて11%減り、大枠では[[無神論者]]が増えている。ただし「神や仏にすがりたいと思ったことがあるか?」に関しては、54%の人が「ある」と答え、44%の人が「ない」と答えた(「宗教を信じていない」を選択した人でも47%が「ある」と答えた)。「幸せな生活を送るうえで宗教を大切に思うか?」に関しては、35%の人が「大切に思う」を選び、60%の人が「思わない」を選んだ<ref>[http://www.christiantoday.co.jp/main/society-news-315.html 宗教信じない75% 神仏すがりたい54% 読売新聞が世論調査 - CHRISTIAN TODAY 2005年09月02日]2009年5月22日閲覧。</ref>。 現代の日本人の大多数は、実際にはいわゆる宗教儀礼に参加してはいるものの、特定の宗教組織に対する帰属意識は薄く、自分のことを「無宗教」と考える者が多い。この場合の「無宗教」は、神や仏の存在を否定する[[無神論]]とは異なり、何かしらそれなりに信じているが、それを「宗教」とは認識していない、また特定の宗教組織や教義に全人格的に帰属してはいないということである<ref>{{Cite journal|last=LeFebvre|first=Jesse|date=2015-11-02|title=Christian Wedding Ceremonies "Nonreligiousness" in Contemporary Japan|url=http://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/4454|journal=Japanese Journal of Religious Studies|volume=42|issue=2|doi=10.18874/jjrs.42.2.2015.185-203}}</ref>。 == 現代日本における宗教団体 == 日本において[[宗教団体]]は、[[宗教法人]]として[[法人]]格を得ることができる。宗教法人の認証は、[[宗教法人法]]に基づいて行われており、主たる事務所の所在地を管轄する[[都道府県知事]]が行う。ただし、他の[[都道府県]]内に境内建物を備える場合や他の都道府県内にある宗教法人を包括する宗教法人の場合などは、[[文部科学大臣]]が認証を行う。認証の後、事務所の所在地において設立の登記をすることにより成立する。ただし、[[民間信仰]]や[[新宗教]]などの宗教団体は宗教法人格を得ていない場合も多い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} ==== 宗教の分類 ==== {{Reflist|group="分"}} ==== 信者数 ==== {{Reflist|group="数"}} ==== 仏教関係 ==== {{Reflist|group="仏"}} ==== キリスト教関係 ==== {{Reflist|group="キ"}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == *『日本宗教事典』弘文堂、1985年(現在は縮刷版あり。『縮刷版 日本宗教事典』弘文堂、1994 {{ISBN2|978-4-335-16024-0}}) == 関連項目 == {{div col}} *[[神仏習合]] **[[神道]] **[[仏教]] - [[日本の仏教]] *[[日本神話]] **[[古事記]] **[[日本書紀]] *[[神社本庁]] *[[山岳仏教]] *[[大乗仏教]] *[[富士講]] *[[琉球神道]] - [[琉球における信仰]] *[[日本宗教連盟]] *[[新日本宗教団体連合会]](新宗連) *[[新宗教]] *[[宗教法人]] *[[民間信仰]] *[[無宗教]] *[[無神論]] {{div col end}} == 外部リンク == *[https://www.bunka.go.jp/seisaku/shukyohojin/ 宗教法人と宗務行政 | 文化庁] *[http://www.iisr.jp/ 財団法人国際宗教研究所] *[http://www.rirc.or.jp/ 宗教情報リサーチセンター] {{アジアの題材|宗教}} {{日本関連の項目}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんのしゆうきよう}} [[Category:日本の宗教|*]] [[Category:日本の思想史|*しゆうきよう]] [[Category:非有神論]]
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ぷよぷよ
『ぷよぷよ』(Puyo Puyo)は、コンパイルが開発し、1991年10月25日に徳間書店インターメディアから発売された落ち物パズルゲーム。また、本作および以降の作品(ぷよぷよシリーズ)にブロックとして登場するスライムタイプのモンスターの名前でもある。どちらも縮めて「ぷよ」とよばれている。 『テトリス』の登場により空前の落ち物パズルゲームブームとなり、1980年代末から1990年代初頭に掛けて各社から二匹目のドジョウを狙った多くの亜流作品のパズルゲームが登場した。『ぷよぷよ』もまた、そのような時代に生まれたパズルゲームの一つであり、80年代当時に徳間書店より発行されていたゲーム専門雑誌『ファミマガ』の読者参加型企画「ファミマガディスク」から生まれた企業とのタイアップゲームとして開発された。 ディレクター&サウンド担当の塚本雅信及びデザイナーの森田健吾は当時『DiscStation』に掲載されたユーザー投稿ゲームに着想を得て、ドミノの牌が降ってきて、同じ数字や連番になるように積む『どーみのす』というゲームを開発していたが、遊べる段階まで実際に作ってみたところ全く面白くなかったため、作り直すことになった。その際コンピュータRPG『魔導物語』のスタッフ(初代開発者である田中貢がプロジェクトの合間に遊びで作っていたものを元に、米光一成を中心としたチーム)が関わり、落下するブロックを『魔導物語』に登場するぷよぷよに置き換え、それに伴いルールも一新した別のゲームに作り変える形で開発した。 米光によると、当時スタッフはやる気をなくしていた上に、デザイナーが次の企画に入っていたため新しいデザインが用意できなかったとニュースイッチとのインタビューの中で振り返っており、スタッフのやる気を出すためにぷよぷよに置き換えたと明かしている。 米光はぷよぷよを選んだ別の理由として「自分が大好きな『テトリス』の、横一直線に並ぶと消える数学的でソリッドなルールが面白いと思っていた。ただし、それを踏襲すると二番煎じになるため、ソリッドの正反対であるソフトをテーマにすると全く違うものになると考えていた。」と説明している。 その後、本作は1991年10月25日にMSX2ならびにファミコン ディスクシステム用ソフトとして徳間書店インターメディアから発売された。この時点では、雑誌「マイコンBASICマガジン」上で記事を執筆していたライターの手塚一郎が対人戦の面白さを大いに評価していたものの、大きな話題を呼ぶことはなかった。 旧ぷよの発売後、アーケード向けにアレンジした『ぷよぷよ』をセガから発売することとなった。コンパイルは創業以来セガとの資金・制作面における関係が深かったことから、当初よりぷよぷよの新作はセガハード版から優先して開発されており、アーケード基板もセガ製のものだった。セガも落ちものパズル『コラムス』のソースコードを提供するといった協力体制が組まれた。また、セガからは一人用モードをエンドレス形式にするという提案もあったが、ロケテストでの結果が思わしくなかったことから、アーケード版への採用は見送られた。一方で、コンパイル社長の仁井谷正充が提案した「ひとりでぷよぷよ(対コンピュータ戦)」は、テストの評判が良く採用されることになった。その後、画面とサウンドを強化し、モードや操作性などに大幅な改良を加え、対戦モード「ひとりでぷよぷよ(対コンピュータ戦)」「ふたりでぷよぷよ(対人戦)」をメインにしたアーケード版が1992年10月にセガから発売された。それから2か月後の1992年12月18日には、エンドレスモードに相当する「とことんぷよぷよ」などを搭載したメガドライブへの移植版がセガから発売された。 この他、本作が当時斬新だった点として「連鎖ボイス」が挙げられる。これは、『魔導物語』に搭載されていたキャラクターボイスを引き継いだものとなっている。制作元がセガに移った後の作品にも、非常に大きな連鎖をしたときに「ば・ば・ば・ばよえ〜ん!!」と声が重なる演出が存在するが、これも『魔導物語』に登場する魔力倍加魔法「ダイアキュート」が元になっている(倍率が上がるごとに重なる回数が増えていく)。なお、『魔導物語』から継承した点としてキャラクターと連鎖ボイスが有名だが、それ以外にもBGMやフィールドを囲っている枠、状況に応じたキャラクターの表情変化などにも『魔導物語』に通じる意匠が散見される。なお、「ばよえ〜ん」の由来は伊集院光がボヨヨンロックをオペラ風に「ぼよよん」と唄っていたのを、開発者には「ばよえん」と聞こえておりその響きが気に入ったからだという。 ぷよぷよは基本的に人間もしくはコンピュータとの対戦に主眼が置かれている。 『ぷよぷよ』シリーズの元祖となる作品。次世代の『ぷよぷよ』(新ぷよ)とタイトルが同一であるため、区別のために電波新聞社から発売されたムック『ALL ABOUT ぷよぷよ』では旧ぷよと呼ばれていたほか、一部のメディアでは「旧ぷよぷよ」が通称として扱われていた。後に、1998年発売のムック『ディスクステーション Vol.21』にて『ぷよぷよ〜ん』の発表にあわせて特集されたシリーズ紹介の記事や、Game Watchによる2019年のインタビュー記事ではプロトタイプぷよという呼称が用いられていた。このほかにも単にMSX2版やFC版と呼ばれることも多く、セガの奥成洋輔は2020年のインタビューの中で、ディスク版と呼んでいた。現在「旧ぷよ」という用語は『ぷよぷよフィーバー』以降の作品に対してコンパイル時代の作品を区別する際にも使われる。 この当時はまだシステムが確立されておらず、後の「とことんぷよぷよ」に相当する1人でエンドレスでプレイするモードがメインであり、コンピュータとの対戦や「連鎖ボイス」が搭載されていないなど、後続のシリーズとはシステムが若干異なる。 また、いずれのバージョンにおいても、後にシリーズで主人公を務めるアルルはパッケージやタイトル画面(MSX2版のみ)に登場するのみに留まっており、ゲーム本編には登場しない。 ぷよの色は最大6色(緑・赤・黄・灰色・黄緑・青)存在し(後の作品では最大5色)、軸ぷよではない方のぷよは設置するまで顔が表示されない。オプション設定により、ぷよぷよの形状を「ヒューマン(人型)」に変更できる。「ヒューマン(人型)」変更時は同じ色の人が上下に重なると肩車をし、横に並ぶと手をつなぐ。 一方で、相手側に一度に送りつけることができるおじゃまぷよ(ストック)の最大数の制限は、これ以降のシリーズにも引き継がれていくことになる。 ゲームモードは以下の3つ。プレイ中のBGMと効果音はそれぞれ3種類から選択可能で、後の新ぷよにも本作のBGMが使用されている。エンディング曲はMSX2版・ファミコン版共通で本作のみのオリジナル。 前述の旧世代『ぷよぷよ』(旧ぷよ)をベースに、対戦要素やキャラクター性を強化してリニューアルした作品。こちらは区別のために『無印』、『ぷよ1』などと呼ばれ、『ぷよぷよ! Puyopuyo 15th anniversary』などの作品では『初代ぷよぷよ』とも称されている。ゲームの基本的なシステムは、本作で確立している。 なお、旧世代『ぷよぷよ』(旧ぷよ)ではなぜぷよが消滅するのかに関しての設定や説明は特に設けられていなかったが、本作のゲームの取扱説明書などで呪文「オワニモ」によるものという『ぷよぷよ』オリジナルの設定が設けられた。この設定は後に『魔導物語』にも逆輸入され、『魔導物語 道草異聞』などの外伝作品が作られた。 この新ぷよでは「ひとりでぷよぷよ」(対CPU戦)や自キャラの連鎖ボイス、キャラクターなどが登場し、ぷよの色は最大5色(緑・赤・青・黄・紫)に設定され、一回の連鎖でのおじゃまぷよの予告数の制限がなくなる(画面に一度に降るのは最大30個で、予告では岩ぷよ1個分で表現される)。表示される予告ぷよの最大単位は30個(岩ぷよ)×6までだが、内部的にはそれ以上も計算されている。次作『ぷよぷよ通』以降に採用される「相殺」システムがないため相手からの攻撃を防ぐ手段がなく、いかに素早く連鎖を組んで相手を攻撃するかが競われていた。 フィールド内で連鎖が可能となる物理的な回数の限界は19連鎖まで。コンパイルからの回答によると「実際のところは14、15連鎖が限度のようです」との事。 「ひとりでぷよぷよ」では、画面中央のスペースにコンピュータが操る敵キャラクターの顔アニメが大きく表示され、状況に応じて表情や汗の演出などが変化する。各ステージ間に加えられた主人公アルルと敵キャラの会話デモ(後に「漫才デモ」と呼称される)や、タイトルでの操作デモも特徴的だった。また、敵キャラクターのうちハーピーとウィッチに限り特殊なぷよの消え方のアニメーションが採用されており、ハーピーは音符、ウィッチは小さな星が飛び出すようになっている。『ぷよぷよ通』以降はこの演出が拡張され、『ぷよぷよ〜ん』まで多くのキャラクターが特殊な消え方を持つようになった。 ゲームギア版以外はエンディングでゲーム中のキャラクターが順番に登場し、BGMとして「魔導物語音頭」のアレンジ版である「ONDO OF PUYOPUYO」が流れる。 ボイスはPCエンジン版を除いて基本的にMSX2版及びPC-9801版『魔導物語1-2-3』からの流用であり、対戦相手側の連鎖ボイスはアルルから音程を下げたものである。ルルーのみ『魔導物語1-2-3』にボイスが入っていなかったため、それに倣って本作でもボイスが用意されなかった。 大別すると、最初に世に出た「アーケードゲーム」版(アーケード版)、ほぼ同時期に開発・リリースされた「メガドライブ版」および独自に開発されたその他の機種版に分けられる。「アーケード版」と「メガドライブ版」はどちらも見た目はほとんど同じだが、細かい仕様やプレイフィーリングに差異があり、メガドライブ版はアーケード版の移植作品ではないと言えることから、21世紀以降にリリースされた他機種版では、どちらの版を移植したのか公式に言及されることが多い。 次々に現れるコンピュータの操る敵キャラクターと対戦するストーリー付きのモード。MSX2版とファミコン版当時には存在せず、アーケード版以降で初搭載された。 バックストーリーは、4匹以上の同色の魔物を時空の狭間へ消し去る呪文「オワニモ」を解き放った魔導師の卵の少女アルル・ナジャが、「ぷよぷよ地獄」に立ち向かう、というもの。 ストーリー中の会話デモは『魔導物語1-2-3』のエピソード3終了後を踏まえた形となっており、登場キャラクターの出典も全てMSX2版『1-2-3』までに登場していたもので、終盤のボスもエピソード2・3の登場人物達である。主人公のアルルの衣装はPC-98版『1-2-3』のものに近いデザインが採用されている。 本作の「ひとりでぷよぷよ」は3種類の難易度から選択する。なお、本作の『むずい』レベルは序盤の3ステージが自動的に省略された上でステージ4のハーピーから開始となる点を除いて、『ふつう』レベルと全く同じとなっている。 それぞれMSX2・ファミコン版の「2PLAYER」、「ENDLESS」、「MISSION」がベースとなっている。 「旧ぷよ」・「初代ぷよ」に深く関わったコアスタッフのみ記載。 なお、MSX2・ディスクシステム版の企画・監督を務めた米光一成は、アーケード版以降の本作には携わっていない。 日本国外では、『魔導物語』のキャラクターではなく、別キャラクターに差し替えられて発売されるケースがある。 『魔導物語』のコミカライズ作品は魔導物語#漫画を参照。下記の他、雑誌形式のディスクステーションにも『ぷよぷよ』や『魔導物語』関連のショートコミックが掲載されていた。また、複数のゲームを取り扱ったアンソロジーコミックの一部にも『ぷよぷよ』を基にしたものが存在する。
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『ぷよぷよ』は、コンパイルが開発し、1991年10月25日に徳間書店インターメディアから発売された落ち物パズルゲーム。また、本作および以降の作品(ぷよぷよシリーズ)にブロックとして登場するスライムタイプのモンスターの名前でもある。どちらも縮めて「ぷよ」とよばれている。
{{otheruseslist|パズルゲームシリーズの第1作|シリーズ全体|ぷよぷよシリーズ|この作品の同名モンスター|ぷよぷよ (ゲームキャラクター)}} 『'''ぷよぷよ'''』('''Puyo Puyo''')は、[[コンパイル (企業)|コンパイル]]が開発し、[[1991年]][[10月25日]]に[[徳間書店インターメディア]]から発売された[[落ち物パズル|落ち物パズルゲーム]]。また、本作および以降の作品([[ぷよぷよシリーズ]])にブロックとして登場する[[スライム]]タイプの[[怪物|モンスター]]の名前でもある。どちらも縮めて「ぷよ」とよばれている。 == 制作 == === 開発(旧ぷよ) === 『[[テトリス]]』の登場により空前の[[落ち物パズル]]ゲームブームとなり、1980年代末から1990年代初頭に掛けて各社から二匹目のドジョウを狙った多くの亜流作品のパズルゲームが登場した。『'''ぷよぷよ'''』もまた、そのような時代に生まれたパズルゲームの一つであり<ref name="allabout13_001">{{Cite book|和書 |chapter = 仁井谷コンパイル社長インタビュー |title = ALL ABOUT ぷよぷよ通 |publisher = 電波新聞社 |date = 1996-04-30 |page = 134 - 135 }}</ref>、80年代当時に徳間書店より発行されていたゲーム専門雑誌『ファミマガ』の読者参加型企画「ファミマガディスク」から生まれた企業とのタイアップゲームとして開発された。 ディレクター&サウンド担当の塚本雅信及びデザイナーの森田健吾は当時『[[ディスクステーション|DiscStation]]』に掲載されたユーザー投稿ゲームに着想を得て、[[ドミノ]]の牌が降ってきて、同じ数字や連番になるように積む『'''どーみのす'''』というゲームを開発していたが、遊べる段階まで実際に作ってみたところ全く面白くなかったため、作り直すことになった<ref name="allabout2_001">{{Cite book|和書 |chapter = 開発者スタッフに直撃インタビュー |title = ALL ABOUT ぷよぷよ |publisher = 電波新聞社 |date = 1993-12-30 |page = 108 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=『ぷよぷよ』誕生秘話に大興奮 『魔導同窓会!コンパイルナイト!!』レポート|url=https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/609/2609295/|website=週刊アスキー|accessdate=2021-08-30|date=2012年03月29日}}</ref>。その際[[コンピュータRPG]]『[[魔導物語]]』のスタッフ(初代開発者である田中貢がプロジェクトの合間に遊びで作っていたものを元に、[[米光一成]]を中心としたチーム)が関わり、落下するブロックを『魔導物語』に登場する[[ぷよぷよ (ゲームキャラクター)|ぷよぷよ]]に置き換え、それに伴いルールも一新した別のゲームに作り変える形で開発した<ref name="allabout13_001"/>。 米光によると、当時スタッフはやる気をなくしていた上に、デザイナーが次の企画に入っていたため新しいデザインが用意できなかったとニュースイッチとのインタビューの中で振り返っており、スタッフのやる気を出すためにぷよぷよに置き換えたと明かしている<ref name="newswitch20191121">{{Cite web|和書|title=「ぷよぷよ」は「テトリス」のよさを反転させて生まれた|ニュースイッチ by 日刊工業新聞社|url=https://newswitch.jp/p/20082|website=ニュースイッチ Newswitch|accessdate=2021-09-05|date=2019年11月21日}}</ref>。 米光はぷよぷよを選んだ別の理由として「自分が大好きな『[[テトリス]]』の、横一直線に並ぶと消える数学的でソリッドなルールが面白いと思っていた。ただし、それを踏襲すると二番煎じになるため、ソリッドの正反対であるソフトをテーマにすると全く違うものになると考えていた。」と説明している{{R|newswitch20191121}}。 その後、本作は[[1991年]][[10月25日]]に[[MSX2]]ならびに[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ファミコン ディスクシステム]]用ソフトとして[[徳間書店インターメディア]]から発売された<ref name="gamewatch20200115">{{Cite web|和書|title=「ぷよぷよ」細山田Pも飛び入り参加! 「SEGA AGES ぷよぷよ通」インタビュー 壮大な「ぷよぷよ」の歴史がいま語られる。あのアーケードの傑作がさらに手軽に遊びやすく!|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/interview/1224876.html|website=GAME Watch|date=2020-01-15|accessdate=2020-02-11|publisher=インプレス}}</ref>。この時点では、雑誌「[[マイコンBASICマガジン]]」上で記事を執筆していたライターの[[手塚一郎]]が対人戦の面白さを大いに評価していたものの{{Full citation needed|date=2020年2月}}、大きな話題を呼ぶことはなかった{{R|gamewatch20200115}}。 === 開発(無印ぷよ) === 旧ぷよの発売後、アーケード向けにアレンジした『ぷよぷよ』を[[セガ]]から発売することとなった{{R|gamewatch20200115}}。コンパイルは創業以来セガとの資金・制作面における関係が深かったことから、当初よりぷよぷよの新作はセガハード版から優先して開発されており、アーケード基板もセガ製のものだった。セガも落ちものパズル『[[コラムス]]』の[[ソースコード]]を提供するといった協力体制が組まれた{{R|gamewatch20200115}}。また、セガからは一人用モードをエンドレス形式にするという提案もあったが、ロケテストでの結果が思わしくなかったことから、アーケード版への採用は見送られた{{R|allabout13_001}}。一方で、コンパイル社長の[[仁井谷正充]]が提案した「ひとりでぷよぷよ(対コンピュータ戦)」は、テストの評判が良く採用されることになった<ref name="allabout13_001"/>。その後、画面とサウンドを強化し、モードや操作性などに大幅な改良を加え、対戦モード「ひとりでぷよぷよ(対コンピュータ戦)」「ふたりでぷよぷよ(対人戦)」をメインにしたアーケード版が[[1992年]]10月にセガから発売された{{R|gamewatch20200115}}。それから2か月後の[[1992年]][[12月18日]]{{R|gamewatch20200115}}には、エンドレスモードに相当する「とことんぷよぷよ」などを搭載した[[メガドライブ]]への移植版がセガから発売された{{R|gamewatch20200115}}。 この他、本作が当時斬新だった点として「連鎖ボイス」が挙げられる。これは、『魔導物語』に搭載されていたキャラクターボイスを引き継いだものとなっている。制作元がセガに移った後の作品にも、非常に大きな連鎖をしたときに「ば・ば・ば・ばよえ〜ん!!」と声が重なる演出が存在するが、これも『魔導物語』に登場する魔力倍加魔法「ダイアキュート」が元になっている(倍率が上がるごとに重なる回数が増えていく)。なお、『魔導物語』から継承した点としてキャラクターと連鎖ボイスが有名だが、それ以外にもBGMやフィールドを囲っている枠、状況に応じたキャラクターの表情変化などにも『魔導物語』に通じる意匠が散見される。なお、「ばよえ〜ん」の由来は[[伊集院光]]が[[ボヨヨンロック]]をオペラ風に「ぼよよん」と唄っていたのを、開発者には「ばよえん」と聞こえておりその響きが気に入ったからだという<ref>『[[伊集院光とらじおと]]』2019年12月2日放送分より</ref>。 == ゲームシステム == === 基本的なルール === * フィールドは基本的に縦12マス×横6マスの格子で構成される。格子の1マスにつき1個のブロック('''ぷよぷよ'''、略して'''ぷよ''')を置くことができる。ただし、上方向は、画面外に1マス分だけぷよを置くことができる。 * 上から'''ぷよ'''が2つ1組で落下してくる(「'''組ぷよ'''」と呼ばれる<ref group="注">『ぷよぷよBOX』などのゲーム内で「組ぷよ」の表記が使用されている。</ref>)。ぷよは種類ごとに色が異なり、色は3-5色(通常は4色)ある。プレイヤーは'''ぷよ'''に対して回転、横移動、高速落下のいずれかの操作を行う。 * 次に落下する'''ぷよ'''はフィールドの枠外に「'''NEXTぷよ'''(ネクストぷよ)」として予告される。{{要出典範囲|配られる組ぷよの配分は[[麻雀]]の[[ツモ]]に例えられている|date=2017年11月}}。 * 落下してきた'''ぷよ'''がフィールドの床やほかの'''ぷよ'''に衝突すると、その位置に'''ぷよ'''が固定される。ただし、組ぷよを横にして置いたりなどして、ぷよに1マス分でも下方向に空白がある場合は、強制的にそのぷよだけ落下する。 * 固定された'''ぷよ'''と同色の'''ぷよ'''が周囲4方向(縦横のみで斜めではない)にいる場合、それらは互いにくっつく。 * '''ぷよ'''が4個以上くっつくと消滅し得点となる。 [[File:Puyo-2rensa.gif|thumb|『ぷよぷよ』における2連鎖のイメージ]] * '''ぷよ'''の消滅により上にあった'''ぷよ'''が落下する。このとき再び'''ぷよ'''が4個以上くっつくと消滅し、連鎖が起きる<ref name="natsumega"/>。なお、普通に4つ色を並べて消す行為のみでも'''1連鎖'''と考え、消滅した回数(○回)に応じて○連鎖と呼ばれる。複数色を同時に消した場合や同色を別箇所で消した場合でも、1連鎖扱いとなる。 * ぷよを消したときに入る得点は、消したぷよの数に、設定された「連鎖倍率」を掛けることで計算できる。 * 左から3列目が一番上まで埋まると「窒息」して[[ゲームオーバー]]となる。 === 対戦ルール === ぷよぷよは基本的に人間もしくはコンピュータとの対戦に主眼が置かれている。 * 互いに配られるぷよは共通(アーケード版『ぷよぷよ』以降)。例外的に最初期の作品であるMSX2版とファミコンディスク版や、コンピュータ戦で一部のキャラクターがNEXTぷよを強制的に書き換えた場合、一部作品の『ひとりでぷよぷよ』の難易度設定や対戦モードのハンデ設定により互いのぷよの色数が異なる場合などは一致しない。 * 対戦形式の場合、ぷよを消すと得点に比例した量の「おじゃまぷよ」と呼ばれる透明なぷよが相手のフィールドに降る<ref name="natsumega">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『懐かしのメガドライブ 蘇れメガドライバー !!』マイウェイ出版発行、2018年。{{ISBN2|9784865118704}} p38-39</ref>。画面に一度にまとめて降る最大量は30個(=5列)。それ以上のおじゃまぷよを送りつけられている場合、2回以上に分けて降ってくる。 ** 「おじゃまぷよ」同士は4つ以上くっついても消滅しない。おじゃまぷよの近くで通常の色ぷよを同色4つ以上つなげて消滅させると、その上下左右に隣接していたおじゃまぷよもつられて一緒に消える。 ** 相手に送れるおじゃまぷよの個数は、連鎖による得点を「おじゃまレート」で割ることで計算できる。 *** 多くのタイトルでは「'''マージンタイム'''」と呼ばれる時間制限が実装されており、この制限時間を過ぎるとおじゃまレートの数値が徐々に減少していき、互いにおじゃまぷよの降る数が多くなるため、マージンタイム以降は早期に決着がつきやすくなる。 ** おじゃまぷよが降って来る前に、相手側のフィールド上部(一部機種は側面)に「'''予告ぷよ'''」が表示される(アーケード版『ぷよぷよ』以降で実装)。なお、本作に限りアーケード版やメガドライブ版など一部の機種では、1プレイヤー側と2プレイヤー側で予告ぷよが左右対称に表示されるという特徴がある<ref group="注">「通」以降の作品では、2プレイヤー側の表示順で統一されている。</ref>。 *** 『魔導物語』のシステムになぞらえ、降ってくる個数はファミコン版を除いて具体的には表示されず、小ぷよは一個単位、大ぷよ(中ぷよ)が1列である6個単位、その他30個単位の岩ぷよ(隕石ぷよ) *** 予告表示後おじゃまぷよが降ってくるのは、相手の連鎖が止まり、送られた予告ぷよの数が確定した後に出現している最初のぷよが接地し、NEXT表示されているぷよが落下態勢に入る直前。 * 通常の場合、先に左から3列目が上まで埋まった方が「'''窒息'''」して敗北となる。 * 通常は、「ひとりでぷよぷよ」では1本先取、「ふたりでぷよぷよ」では2本先取で勝敗を決する。ただし、多くの機種ではオプションで対人戦の先取本数を変更可能。 == 旧世代ぷよぷよ(旧ぷよ) == {{コンピュータゲーム |Title = ぷよぷよ <small>(旧世代版)</small> |Genre = 落ち物パズルゲーム<br />(初出時の公称はアクションパズル) |Plat = MSX2/2+ [MSX2]<br />ファミリーコンピュータ ディスクシステム [FCD]<br />ファミリーコンピュータ [FC]<br />[[Microsoft Windows 8.1]]/[[Microsoft Windows 10|10]]/[[Microsoft Windows 11|11]] |Dev = コンパイル |Pub = '''MSX2:''' コンパイル <br />'''FCD, FC:''' 徳間書店インターメディア <br />'''Win:''' [[D4エンタープライズ]] |Play = 1 - 2人 |Media = '''MSX2:''' 3.5インチ 2DD[[フロッピーディスク]]1枚<br />'''FCD:''' ディスクカード両面<br />'''FC:''' 1Mbit[[ロムカートリッジ]]<br />'''Win:''' [[CD-ROM]] |Date = '''MSX2, FCD:''' 1991年10月25日{{R|igcc20181109}}<ref name="famitsu20211025">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202110/25237985.html|title=元祖『ぷよぷよ』が発売30周年。対戦パズルの定番タイトルとして幅広い層に愛された人気シリーズで、いまではeスポーツの競技としても注目を集める【今日は何の日?】|accessdate=2021-11-08|date=2021.10.25}}</ref><br />'''FC:''' 1993年7月23日<br /> '''Win 8.1/10/11:''' 2023年4月7日 *『魔導物語 超きゅ〜きょく大全 ぷよぷよ入り』に上記全機種版を収録 |etc = '''FCD:''' ディスクライター書き換え専用 }} {{external media |image1=[[:en:File:PuyoPuyo.png]]<br />MSX2版ぷよぷよ}} 『ぷよぷよ』シリーズの元祖となる作品。次世代の『ぷよぷよ』(新ぷよ)とタイトルが同一であるため、区別のために[[電波新聞社]]から発売された[[ムック (出版)|ムック]]『ALL ABOUT ぷよぷよ』では'''旧ぷよ'''と呼ばれていたほか、一部のメディアでは「旧ぷよぷよ」が通称として扱われていた<ref name="igcc20181109">{{Cite web|和書|title=落ち物ゲーム界の金字塔『ぷよぷよ』 その歴史の始まりを体感した日|url=https://igcc.jp/ぷよぷよ/|author=藤沢文太|publisher=ゲーム文化保存研究所|date=2018-11-09|accessdate=2020-02-12}}</ref>。後に、1998年発売のムック『[[ディスクステーション]] Vol.21』にて『ぷよぷよ〜ん』の発表にあわせて特集されたシリーズ紹介の記事や、Game Watchによる2019年のインタビュー記事{{R|segaages}}では'''プロトタイプぷよ'''という呼称が用いられていた。このほかにも単にMSX2版やFC版と呼ばれることも多く、セガの奥成洋輔は2020年のインタビューの中で、ディスク版と呼んでいた{{R|gamewatch20200115}}。現在「旧ぷよ」という用語は『ぷよぷよフィーバー』以降の作品に対してコンパイル時代の作品を区別する際にも使われる<ref group="注">『フィーバー』以降のセガ製作の作品は「セガぷよ」と呼ばれる。なお、2001年発売の『みんなでぷよぷよ』はセガより発売されたが、開発にコンパイルの元スタッフが参加していることや、キャラクターや世界観がコンパイル時代から変更されていないため『フィーバー』以降の作品とは区別されることが多い。</ref>。 この当時はまだシステムが確立されておらず、後の「とことんぷよぷよ」に相当する1人でエンドレスでプレイするモードがメインであり、コンピュータとの対戦や「連鎖ボイス」が搭載されていない{{R|igcc20181109|famitsu20211025}}など、後続のシリーズとはシステムが若干異なる。 また、いずれのバージョンにおいても、後にシリーズで主人公を務めるアルルはパッケージやタイトル画面(MSX2版のみ)に登場するのみに留まっており、ゲーム本編には登場しない。 ぷよの色は最大6色(緑・赤・黄・灰色・黄緑・青)存在し(後の作品では最大5色)、軸ぷよではない方のぷよは設置するまで顔が表示されない。オプション設定により、ぷよぷよの形状を「ヒューマン(人型)」に変更できる。「ヒューマン(人型)」変更時は同じ色の人が上下に重なると肩車をし、横に並ぶと手をつなぐ。 一方で、相手側に一度に送りつけることができるおじゃまぷよ(ストック)の最大数の制限は、これ以降のシリーズにも引き継がれていくことになる。 ; [[MSX2]]/[[MSX2+|2+]]版 : コンパイルから発売。先述の通りぷよは6色で、接着時のいわゆる「ぷよぷよ感」はまだなかったが、ぷよのデザインが色別にそれぞれ異なっており、後に新ぷよ以降でも多く使われた形状のベースとなっている<ref group="注">黄緑ぷよの形状が後の紫ぷよに相当し、灰色ぷよはそれを反対向きにした形状。</ref>。タイトル画面やパッケージでは[[魔導物語#MSX2版 魔導物語1-2-3|MSX2版『魔導物語1-2-3』]]の主人公の少女(後の[[アルル・ナジャ]])が描かれているが、衣装は同作のものに準拠しており、後のアーケード版以降のものとは異なっている。また、プレイ中にはアルルは一切登場しない。 : 隠しコマンドでぷよの形状を「ヒューマン」型、黄色ぷよのみを「カーバンクル」に変更できるモードがある。 :操作方法も試行錯誤な状態だったのか、開発中のバージョンの一つには『魔導物語』の様に、カーソルキーのみで操作できる仕様のものも存在した。 ; [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]版(書き換え専用) : MSX2版と同時発売で、ゲーム内容もほぼ同様。こちらは全色のぷよの形状が同じデザインに統一され、MSX2版における「みどりぷよ」型(丸い[[中華まん]]のような形状)に似たものとなっている。タイトル画面は『ぷよぷよ』のロゴが青い文字で大書きされているのみで、アルルは一切登場しない。オプションでぷよの形状を「ヒューマン」型に変更することが可能。MSX2版や後のシリーズとは異なり、可視フィールドが13段目まで存在する。 : 販売は[[徳間書店インターメディア]]で、「[[ファミマガディスク]]」シリーズのVol.5として発売された。このシリーズのいくつかは一般公募作品だが、本作品は一般公募作品ではない。また、書き換え専用ソフトのためパッケージ販売はされていない。 ; [[ファミリーコンピュータ]]([[ロムカートリッジ]])版 : 前述のディスクシステム版をベースとし、[[ロムカートリッジ]]版として再発売。販売は同じく徳間書店インターメディア。後述のアーケード版やメガドライブ版などの新ぷよ登場後に改めて移植された作品で、2人対戦時に新ぷよの要素が一部取り入れられている。本作は[[バッテリーバックアップ]]機能を搭載していない事情から、ミッションモードの進行状況の記録は[[パスワード (コンピュータゲーム)|パスワード]]方式に変更された。文字色などのデザインがディスクシステム版から僅かに変更され、タイトル画面やパッケージのタイトルロゴも新ぷよと同様の書体で赤色の文字に変更された。パッケージイラストのアルルの衣装は新ぷよ準拠に変更されているが、ディスクシステムと同じくゲーム中には登場しない。 : 既に新ぷよが登場した後に発売されたため、対戦時に降ってくるネクストぷよが後のシリーズ同様に両側のプレイヤーで一致した順番で降ってくるように変更され、対戦時に発生するおじゃまぷよの最大リミット数を18個、24個、30個、42個、60個、255個から変更できる機能が追加されている(一度に降る量は新ぷよと同じく最大30個まで)。最大値である255個に設定すれば、より新ぷよに近いルールになる。またそれに合わせて、両フィールドの画面下に、相手から送られた予告おじゃまぷよの数値表示と、対戦の通算勝利数カウント表示が追加されている。 ; Windows版『魔導物語 超きゅ〜きょく大全 ぷよぷよ入り』 : 限定復刻パッケージとして、MSX2・FC・FCD・PC-98版『ぷよぷよ』とPC-98版『なぞぷよ』を収録。 : {{Main|魔導物語#コレクション作品}} === ゲームモード(旧ぷよ) === ゲームモードは以下の3つ。プレイ中のBGMと効果音はそれぞれ3種類から選択可能で、後の新ぷよにも本作のBGM<ref group="注">タイトルBGM「BAROQUE OF PUYOPUYO」、プレイBGM「ONDO OF PUYOPUYO」「MORNING OF PUYOPUYO」「TOY OF PUYOPUYO」の計4曲。</ref>が使用されている。エンディング曲はMSX2版・ファミコン版共通で本作のみのオリジナル。 ; 1PLAYER :; ENDLESS :: 後の「とことんぷよぷよ」、通称とこぷよ。エンドレスに降ってくるぷよぷよをひたすら消し続けるモード。 :: 開始時にMSX2版では1-5、ファミコン版2種では1-4のレベル選択が可能な他、お助けキャラクターとして「カーバンクル(置いた場所からランダムで移動し、動いた軌跡のぷよを全て同じ色にする)」か「びっぐぷよ(置いた場所の縦2列分を全て消去する)」のどちらか、もしくは登場させないかを選択できる。この要素は、後述の新ぷよや『ぷよぷよ通』の一部機種にも継承された。 :; MISSION :: 後の「なぞなぞぷよぷよ」(通称[[なぞぷよ]])に相当する、提示される条件に沿ってぷよぷよを消していくモード。 :: 全52問を収録。MSX2版とディスクシステム版は進行状況をディスクに保存できるが、ロムカセット版はパスワードコンティニュー形式となっている。52問全てクリアすると、エンディング<ref group="注">MSX2版とファミコン版2種で内容が異なり、後者はスタッフクレジットも同時に流れる。</ref>を観ることが出来る。 ; 2PLAYER : 後の「ふたりでぷよぷよ」、通称ふたぷよ。人間2人で対戦するモード。 : ハンディキャップ設定としてそれぞれMSX2版では1-5、ファミコン版2種では1-4のレベル選択が可能。 {{-}} == ぷよぷよ == {{コンピュータゲーム |Title = ぷよぷよ |Genre = 落ち物パズルゲーム |Plat = アーケード([[セガ・システムC|システムC2]]) [AC]<br>メガドライブ [MD]<br>ゲームギア [GG]<br>PC-9801 [PC98]<br>スーパーファミコン [SFC]<br>FM TOWNS [FMT]<br>PCエンジン [PCE]<br>X68000 [X68]<br>ゲームボーイ [GB]<br>Windows 3.1 [Win3.1]<br>Windows 95 [Win95]<br>Macintosh PPC [Mac]<br>CX-100<br>Panasonic U1 [U1]<br>Windows CE [WinCE]<br>Wii バーチャルコンソール [VC]<ref group="注">2019年1月31日で配信終了</ref><br>ニンテンドー3DS バーチャルコンソール [VC]<br/>Nintendo Switch<ref group="注">[[SEGA AGES]]シリーズ(ネット配信のみ)</ref><br />S!アプリ<br>ウィルコム<br />Windows 8.1/10/11 [Win11] |Dev = コンパイル<br />'''PCE:''' Goo!<br />'''X68:'''[[エス・ピー・エス|SPS]]<br />'''GB:'''[[ウィンキーソフト]]<br />'''Win3.1:'''[[クエスト (ゲーム会社)|クエスト]]<br />'''Switch:'''[[M2 (ゲーム会社)|エムツー]] |Pub = '''AC, MD, GG:''' セガ・エンタープライゼス<br>'''PC98:''' コンパイル<br>'''SFC, GB:''' バンプレスト<br>'''FMT:''' CSK総合研究所<br>'''PCE:''' NECアベニュー<br>'''X68:''' SPS<br>'''Win3.1, Win95, Mac, WinCE:''' ボーステック<br>'''U1:''' マイクロキャビン<br />'''VC:''' セガ<br />'''Switch:''' セガゲームス<br />'''Win11:''' D4エンタープライズ |Play = 1 - 2人 |Media = '''MD:''' 4Mbitロムカートリッジ<br>'''GG, GB:''' 2Mbitロムカートリッジ<br>'''SFC:''' 8Mbitロムカートリッジ<br>'''PC98, X68, Win3.1(FD版):''' フロッピーディスク<br>'''FMT, PCE, Win3.1, Win95:''' CD-ROM |Date = '''AC:''' 1992年10月<br>'''MD:''' 1992年12月18日<ref>{{Cite web|和書|url=http://sega.jp/archive/segahard/md/soft.html|title=[セガハード大百科] メガドライブ対応ソフトウェア(セガ発売)|publisher=[[セガ]]|accessdate=2015-05-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120523211044/http://sega.jp/archive/segahard/md/soft.html|archivedate=2012年5月23日}}</ref><br>'''GG, PC98:''' 1993年3月19日<ref>{{Cite web|和書|url=http://sega.jp/archive/segahard/gg/soft.html|title=[セガハード大百科] ゲームギア対応ソフトウェア(セガ発売)|publisher=[[セガ]]|accessdate=2015-05-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120601115130/http://sega.jp/archive/segahard/gg/soft.html|archivedate=2012年6月1日}}</ref><br>'''SFC:''' 1993年12月10日<br>'''FMT:''' 1994年3月18日<br>'''PCE:'''1994年4月22日<br>'''X68:''' 1994年7月29日<br>'''GB:''' 1994年7月31日<br>'''Win3.1:''' 1995年5月28日<br>'''CX-100:''' 1995年<br>'''U1:''' 1995年7月<br>'''Win95:''' 1996年8月2日<br>'''Mac:''' 1996年12月28日<br>'''WinCE:''' 1998年5月<br>'''VC(MD):''' 2006年12月2日<br>'''VC(AC):''' 2011年4月12日<br>'''VC(GG):''' 2013年1月30日<br>'''Switch:''' 2019年3月28日<br />'''Win 8.1/10/11:''' 2023年4月7日 *『魔導物語 超きゅ〜きょく大全 ぷよぷよ入り』にPC98版を収録 '''Win 10/11:''' 2023年10月17日 *[[プロジェクトEGG]]よりPC98版を配信 |Rating = '''VC:''' {{CERO-A}} |etc = '''VC(AC):''' Wi-Fiコネクション対応(2人) }} 前述の旧世代『ぷよぷよ』(旧ぷよ)をベースに、対戦要素やキャラクター性を強化してリニューアルした作品。こちらは区別のために『'''無印'''』、『'''ぷよ1'''』などと呼ばれ、『ぷよぷよ! Puyopuyo 15th anniversary』などの作品では『'''初代ぷよぷよ'''』とも称されている。ゲームの基本的なシステムは、本作で確立している<ref name="segaages">{{Cite web|和書|date=2019-03-28 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/interview/1168069.html |title=「SEGA AGES ぷよぷよ」インタビュー |work=GAME Watch |accessdate=2019-03-28}}</ref>。 なお、旧世代『ぷよぷよ』(旧ぷよ)ではなぜぷよが消滅するのかに関しての設定や説明は特に設けられていなかったが、本作のゲームの取扱説明書などで呪文「オワニモ」によるものという『ぷよぷよ』オリジナルの設定が設けられた<ref group=注>ただし、この設定に関してはゲーム内のストーリーには特に反映されていない。</ref>。この設定は後に『[[魔導物語]]』にも逆輸入され、『魔導物語 道草異聞』などの外伝作品が作られた。 === 各機種共通の特徴 === この新ぷよでは「ひとりでぷよぷよ」(対CPU戦)や自キャラの連鎖ボイス<ref group=注>1P(プレイヤー)側連鎖ボイスの「ファイヤー」「アイスストーム」「ダイアキュート」「ばよえ〜ん」はそれぞれ『魔導物語』でアルルが使用していた魔法、2P(CPU)側連鎖ボイスの「やったなー」「げげげ」「大打撃」「うわぁー」はアルルがダメージを受けた時の悲鳴となっている。</ref>{{R|famitsu20211025}}、キャラクターなどが登場し、ぷよの色は最大5色(緑・赤・青・黄・紫)に設定され<ref group=注>メガドライブ版のサンプル版ではMSX2版と同様に最大6色で水色ぷよが存在していたが、製品版では削除された{{要出典|date=2019年1月}}。</ref>、一回の連鎖でのおじゃまぷよの予告数の制限がなくなる(画面に一度に降るのは最大30個で、予告では岩ぷよ1個分で表現される)。表示される予告ぷよの最大単位は30個(岩ぷよ)×6までだが、内部的にはそれ以上も計算されている。次作『ぷよぷよ通』以降に採用される「相殺」システムがないため<ref group=注>ただし、実際にはこの「相殺」システムは既にスーパーファミコン版『す〜ぱ〜ぷよぷよ』の時点で完成されていたが、次作のために製品版では正式採用が見送られたと、電波新聞社のムック『ALL ABOUT ぷよぷよ通』のインタビューで語られている。なお、SFC版『す〜ぱ〜ぷよぷよ』やFC・ROMカセット版『ぷよぷよ』では、実際のゲームでは未使用のシステムとして内部的には相殺が実装されており、SFC版では改造コードを使って開発オプションを無理やり開くことにより、相殺モードでプレイすることも可能。相殺時に花火を模したエフェクトは発生しないが、相殺のシステムは通とほぼ同様である。</ref>相手からの攻撃を防ぐ手段がなく、いかに素早く連鎖を組んで相手を攻撃するかが競われていた。 フィールド内で連鎖が可能となる物理的な回数の限界は19連鎖まで。コンパイルからの回答によると「実際のところは14、15連鎖が限度のようです」との事<ref>{{Cite book|和書 |title=じゅげむ 表紙 [[中山エミリ]] ゲームの大疑問100 |date=1995年11月1日 |year=1995 |publisher=リクルート |page=18 |issue=通巻7号}}</ref>。 「ひとりでぷよぷよ」では、画面中央<ref group=注>ただし、スーパーファミコンへの移植版である「す〜ぱ〜ぷよぷよ」に限り、CPUのフィールド内に表示される(同作は、「おぷしょん」にて位置を変えたり、非表示にすることも可能)。</ref>のスペースにコンピュータが操る敵キャラクターの顔アニメが大きく表示され、状況に応じて表情や汗の演出などが変化する。各ステージ間に加えられた主人公アルルと敵キャラの会話デモ(後に「'''漫才デモ'''」と呼称される)や、タイトルでの操作デモも特徴的だった。また、敵キャラクターのうちハーピーとウィッチに限り特殊なぷよの消え方のアニメーションが採用されており<ref group=注>ただし、ゲームギア版やPC版、『ぷよぷよBOX』内の復刻盤など一部の機種では両者とも他のキャラクターと同様の通常のアニメーションが用いられている。</ref>、ハーピーは音符、ウィッチは小さな星が飛び出すようになっている。『ぷよぷよ通』以降はこの演出が拡張され、『ぷよぷよ〜ん』まで多くのキャラクターが特殊な消え方を持つようになった。 ゲームギア版以外はエンディングでゲーム中のキャラクターが順番に登場し、BGMとして「魔導物語音頭」のアレンジ版である「ONDO OF PUYOPUYO」が流れる。 ボイスはPCエンジン版を除いて基本的に[[魔導物語#MSX2版 魔導物語1-2-3|MSX2版]]及び[[魔導物語#PC-9801版 魔導物語1-2-3|PC-9801版『魔導物語1-2-3』]]からの流用であり、対戦相手側の連鎖ボイスはアルルから音程を下げたものである。ルルーのみ『魔導物語1-2-3』にボイスが入っていなかったため、それに倣って本作でもボイスが用意されなかった。 === 各機種版の特徴 === 大別すると、最初に世に出た「アーケードゲーム」版(アーケード版)、ほぼ同時期に開発・リリースされた「メガドライブ版」および独自に開発されたその他の機種版に分けられる。「アーケード版」と「メガドライブ版」はどちらも見た目はほとんど同じだが、細かい仕様やプレイフィーリングに差異があり、メガドライブ版はアーケード版の移植作品ではないと言えることから、21世紀以降にリリースされた他機種版では、どちらの版を移植したのか公式に言及されることが多い。 ; [[アーケードゲーム|アーケード]]版 : メガドライブ上位互換である[[アーケードゲーム基板|アーケード用の基板]]・「[[セガ・システムC|System C2]]」で開発ならびにリリースされた。ゲームモードは「ひとりでぷよぷよ」と「ふたりでぷよぷよ」の2つの対戦モードのみで、このアーケード版には前述の旧世代『ぷよぷよ』のメインモードであり、当時人気を博していた『テトリス』のようなエンドレスモード「とことんぷよぷよ」は収録されておらず、当時としては異色な作品だった。アーケード版には「マージンタイム」と呼ばれる制限時間が設定されており、対戦が長引くにつれ、おじゃまぷよの量が徐々に増加してゆく<ref group=注>[[コンシューマーゲーム|コンシューマ]]版ではマージンタイムは標準でオフとなっているが、設定変更で有効にできるものが多い。</ref>。ぷよの回転を行うボタンが1つしか設定されていない事情から、右方向にしか回転させることができない<ref group=注>なお、後述のコンシューマ版では左回転も可能となっているが、いずれの機種も操作説明のデモでは修正や変更は行われておらず、回転ボタンが1つのままとなっている。</ref>。 : 本作と後述のメガドライブ版では、ネームエントリーにおいて「.(ピリオド)」がゲームクリア時のネームエントリーの時しか入力できないという不具合がある。 : 2011年4月12日、[[Wii]]の[[バーチャルコンソールアーケード]]で配信開始、800Wiiポイント。アーケード版の内容に加え、新たに[[ニンテンドーWi-Fiコネクション]]によるネット対戦機能が追加されたが「ニンテンドーWi-Fiコネクション」のサービスが2014年5月20日23時を以って終了したため、以降はネット対戦不可。2019年1月31日14時59分を以って「Wiiショッピングチャンネル」サービス終了に伴い、配信は終了<ref>{{Cite web|和書|date=2018-08-09 |url=https://www.nintendo.co.jp/support/information/2018/0809.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_content=20180809&utm_campaign=support |title=「Wiiショッピングチャンネル」サービス終了に伴う払い戻しについて |website=任天堂公式サイト・サポートページ・お客様へのお知らせ |accessdate=2018-12-17 }}</ref>。 : 2019年3月28日より[[Nintendo Switch]]用ダウンロードソフトが新生[[SEGA AGES]]シリーズの1作として配信されている。Wiiのネット対戦サービス終了後5年ほど途絶えていた「初代ぷよ」のネット対戦に対応した。また続編シリーズからいくつかのシステム・操作方法を逆採用し、続編の操作方法に慣れているプレイヤーに配慮する(左方向への回転ボタンを別途用意し2ボタンで操作する方法の実装、『通』から「クイックターン」システムを実装 など)。海外版を同時収録することで、英語圏のプレイヤーにも対応する。 <!--閲覧のシェイプ化を図るため、開発エピソードについてはコメントアウトとさせていただきます。ご了承ください。 : SEGA AGESの立ち上げ当初から松岡から「『ぷよぷよ』をやりたいです」と依頼し、着手してオンラインは最初から取り組み、「きちんと発売できそう」とタイミングの状況を見て、細山田水を初めとするぷよぷよのチームスタッフと相談して「ぷよぷよチャンピオンシップで発表しよう」と提案し、発表したが<ref name="segaages"/>、オンラインプレイの導入で開発が難航していた<ref name="segaages" /> --> : 2020年12月17日には1980年代から1990年代にかけてセガが発売し、各種施設で稼働させたアーケードゲーム作品36タイトル(+おまけ1タイトル)を[[プリインストール]]した復刻系ゲーム機・[[アストロシティミニ]]に、アーケード版が『ぷよぷよ通』のアーケード版と共に収録された<ref>{{Cite web|和書|title=【アストロシティミニ全タイトルレビュー】「ぷよぷよ」 AC版はアルルのかわいさも3割増し!「ぷよぷよ」シリーズ第1作 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1294501.html |website=GAME Watch |date=2020-12-14 |accessdate=2022-03-19 |publisher=株式会社インプレス|author=池紀彦}}</ref>。 ; [[メガドライブ]]版 : 新ぷよとしては最初のコンシューマーへの移植作。アーケード版に非常に忠実な移植だが、ハード性能や容量の事情から4連鎖分×2人分=8種類あった連鎖ボイスが2種類(両サイドの2連鎖目のみ)しかなく、収録されているボイスは先述の連鎖ボイスとタイトルコール「ぷよぷよ」を合わせた3種類のみで、敵キャラクターの登場ボイスも全て削除されている。さらに、連鎖ボイス再生時はBGMが一旦停止する。タイトル画面が敵キャラクターらの行進から魔法を唱えるアルルのアニメーションに変更され、以降の移植機種もX68000版など一部を除いてこれを継承している。アーケード版には収録されなかったエンドレスの「とことんぷよぷよ」モード(通称とこぷよ)、スタッフロールが追加されている。メガドライブ本体とセットになったバージョンも発売され、メガドライブのキラーソフトとなった。 :;移植版 :*[[セガゲーム本舗]]にて配信実績あり。(詳細はリンク先を参照) :* [[Wii]]版[[バーチャルコンソール]] - 2006年12月2日から2019年1月31日まで配信(購入には600[[ニンテンドーポイント|Wiiポイント]]が必要)。 :* [[メガドライブ ミニ]] -2019年9月19日セガ自ら手掛けリリースされる復刻系ゲーム機本体にプリインストールされる42作品(+EX2作品)の1つとして収録。(日本をのぞいた東アジア版のみにデフォルト収録。北米・ユーロ版は海外版『[[ドクターエッグマンのミーンビーンマシーン]]』のオプションにある「[[リージョン]]設定」を操作することでプレイ可能) :* [[セガ メガドライブ for Nintendo Switch Online]] - 2021年10月26日から[[任天堂]]の有料オンラインサービス・[[Nintendo Switch Online]]加入者向けの有料追加コンテンツ(パック)の1つとして収録<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202110/26238467.html |title=“Nintendo Switch Online+追加パック”が本日よりサービス開始。ニンテンドウ64やメガドラソフトが楽しめる! 11/5からは『あつ森』DLCも!! |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |language= [[日本語]] |date=2021-10-26 |accessdate=2021-10-31}}</ref>。なお、任天堂が制作・販売する加入者限定商品「セガ メガドライブ ファイティングパッド 6B」を購入すれば、メガドライブ2の同梱コントローラである[[メガドライブ#セガ純正|ファイティングパッド6B]]版と殆ど変わらない操作感が得られる、 ; [[ゲームギア]]版 : ハードの制約上ぷよが単色表示で、形状もすべて同じとなっている。2台で通信対戦が可能。ぷよの接地回数に制限がないために、ぷよを回転し続け接地を繰り返すだけで永遠に固定しない<ref group=注>他のバージョンでは、8回程度接地するとすぐに固定される制限がある。</ref>という特徴がある。オープニングなどのBGMも一部変更となり、ボイスと漫才デモは収録されていない。この機種のみエンディングでのキャラクター紹介が無く、スタッフロールのBGMがメガドライブ版や以降の機種とは異なるオリジナルの曲となっている。また、敵キャラクター固有の思考ルーチン(ハーピーの特殊な積み方など)が存在しない。全30問の「なぞなぞぷよぷよ」モードを収録<ref group="注">これが好評だったことにより、後に問題を一新して本体同梱や単体でも発売された。</ref>。海外仕様の本体で起動すると、メッセージのみが英訳された『Puzlow Kids』というバージョンに変わるが、実際には本バージョンは日本国内でしか発売されなかった<ref group=注>後に内容を変更し、前述した『ドクターエッグマンのミーンビーンマシーン』のGG版が発売されている。</ref>。 : 2013年1月30日より、[[ニンテンドー3DS]]版バーチャルコンソールで配信開始(購入価格は税込み300円)。 ; [[PC-9800シリーズ|PC-9801]]版 : [[画面解像度]]が当時としては高く(640x400)、それに合わせて漫才デモ等のグラフィックが全面的に描き直されアーケード版より高画質化されている。フィールドの天井がなく、予告ぷよが画面左右端の壁の中へ縦に並んで表示されるのが特徴。内容は同時発売のゲームギア版に概ね沿っており、タイトルのBGMは音源違いだがゲームギア版と同様で、漫才デモこそあるが対戦中のボイスや敵キャラクター固有の思考ルーチンが無い。音源部分がメガドライブとほぼ同じであり、BGMもメガドライブ版に近いものが使われている。ゲームギア版とは異なる全50問の「なぞなぞぷよぷよ」モードを収録<ref group="注">後述する後に発売されたWindowsなどのパーソナルコンピュータへの移植版にも、同じ問題が収録されている。</ref>。特典として4コマ漫画などのブックレットが付属していた。さらに、最終ボスのサタンに勝利した直後に隠しコマンドを入力することによって、エンディングのアルルのグラフィックが魔導酒を飲んで酔っている状態に変化するというギミックがある。 : 上記Windows版『魔導物語 超きゅ〜きょく大全 ぷよぷよ入り』にも復刻収録。 : 2023年10月17日より、[[プロジェクトEGG]]にて配信開始<ref>{{Cite web |url=https://www.famitsu.com/news/202310/17320816.html |title=『ぷよぷよ』(PC-9801版)、『魔導物語1-2-3』(MSX2版)が“プロジェクトEGG”にて本日(10/17)より配信。アルルやカーバンクルがついに登場 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |date=2023-10-17 |accessdate=2023-10-18}}</ref><ref>{{Cite web |author=maru |date=2023-10-17 |url=https://www.4gamer.net/games/008/G000896/20231017026/ |title=「魔導物語1-2-3(MSX2版)」「ぷよぷよ(PC-9801版)」プロジェクトEGGで配信開始。ぷよぷよシリーズの原点が同時リリース |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2023-10-18}}</ref><ref>{{Cite web |author=吉田航平 |date=2023-10-17 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1539739.html |title=「ぷよぷよ(PC-9801版)」と「魔導物語1-2-3(MSX2版)」がプロジェクトEGGにて配信開始! |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2023-10-18}}</ref>。 ; す〜ぱ〜ぷよぷよ([[スーパーファミコン]]版) : コンパイルが開発を経て、[[バンダイナムコエンターテインメント|バンプレスト]]から販売。他の機種とはハード仕様に起因する解像度が異なる事情からレイアウトが変更され、敵キャラクターの顔グラフィックはCPU側のフィールド内に表示される<ref group="注">「おぷしょん」にて位置を調整したり、非表示にすることも可能。なお、「ふたりでぷよぷよ」で決着時にランダムで表示される敵キャラクターの顔グラフィックは、他の機種と同様に画面中央に表示される。</ref>。アーケード版にあるボイスはすべて収録されており、思考ルーチンなども再現されている。独自要素として、おぷしょんの隠しモードに入ることによっておじゃまぷよのレート(消したぷよの量に対して相手に送りつけるおじゃまぷよの量)を大まかに変更したり、任意のステージから開始できるステージセレクト、CPU同士の対戦を見る(ウォッチモード)ことなどが可能。売上本数は約170万本を記録し、[[サテラビュー]]での製品版データ配信や、[[ニンテンドウパワー]]での書き換えも行っていた。 ; [[FM TOWNS]]版 : 当初は『[[ゴルビーのパイプライン大作戦]]』に引き続き、コンパイル自らが[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]版をベースに移植を行う予定だったが、諸事情により発売中止となる。その後、アーケード版の人気を経て、CSK総合研究所(後の[[CRI・ミドルウェア]])がアーケード版をベースに移植することとなった。画面レイアウトはアーケード版に準拠。BGMはCD-DAで再生されるが、後述のPCエンジン版の一部BGMのように大幅なアレンジはされていない。グラフィックは非常に忠実に移植されているが、操作性や動きが鈍い(例えばぷよ回転ボタンの連打がきかない)、操作デモンストレーションが省かれているなど、中身の完成度の面では至らない部分がある。 ; ぷよぷよCD([[PCエンジン]]版) :[[NECアベニュー]]から販売。各ボイスを著名の声優が担当しており、音声付き(フルボイス)の漫才デモが[[CD-DA]]で再生される唯一の移植作となっている。また、アルル以外の敵キャラクターにも各声優が演じた連鎖ボイスが用意されており、おじゃまぷよが降る際には連鎖数に応じたダメージボイスが流れる<ref group="注">ただし、連鎖・ダメージボイスの台詞の種類は全員共通でアルルと同じものとなっている。</ref>。これに伴い、ふたりでぷよぷよでは使用キャラクターを選択出来る。ぞう大魔王戦のフィールド揺れは搭載されていない。この機種では、アーケード版などで用意されていなかったルルーの登場ボイスが新たに追加されている。さらに、『ひとりで - 』でのコンティニュー時に漫才デモを再度見るか、漫才デモを省略して直接戦闘に入るかをメニューで選択出来る。一部BGMは[[田中勝己]]によって編曲されたものが使われている。全面クリア後に2周目として、若干台詞が異なる漫才デモのアレンジバージョンが収録されている<ref group="注">ただし、「やさしい」の3体(スケルトンT、ナスグレイブ、マミー)は変化せず、パノッティやルルーなどごく僅かにしか変化しないパターンもある。</ref>。また、バックアップRAMの容量が無い時や2P側にコントローラーが繋がっていない状態で「ふたりでぷよぷよ」を選んだ時など、オリジナルのエラー画面が表示される。 :以下、担当声優の一覧をエンディングでの登場順に記載する。この声優陣はPCエンジンでの続編『ぷよぷよCD通』にも一部を除いて引き継がれた([[ぷよぷよ通#PCエンジン版(ぷよぷよCD通)]]も参照)。 {{Col-begin}} {{Col-3}} * [[三石琴乃]] - [[アルル・ナジャ]] * [[千葉繁]] - [[スケルトンT]]、さそりまん * [[堀川りょう|堀川亮(現・堀川りょう)]] - ナスグレイブ * [[塩沢兼人]] - マミー * [[水谷優子]] - [[ドラコケンタウロス]]、スキヤポデス {{Col-3}} * [[青野武]] - [[すけとうだら (キャラクター)|すけとうだら]] * [[山崎和佳奈]] - ハーピー * [[日髙のり子]] - パノッティ * [[田中一成]] - ゾンビ * [[榎本明美]] - [[ウィッチ (キャラクター)|ウィッチ]]、[[カーバンクル (魔導物語)|カーバンクル]] {{Col-3}} * [[郷里大輔]] - ぞう大魔王 * [[井上和彦 (声優)|井上和彦]] - [[シェゾ・ウィグィィ]] * [[尼子狂児]] - ミノタウロス * [[冬馬由美]] - [[ルルー (魔導物語)|ルルー]] * [[矢尾一樹]] - [[サタン (魔導物語)|サタン]] {{Col-end}} ; [[X68000]]版 : 開発はSPS。アーケード版準拠の移植だが、隠しモードとして「とことんぷよぷよ」も収録。PC-9801版同様、音源部分がメガドライブとほぼ同じ関係上、BGMもメガドライブ版に近いものが使われている。 ; [[ゲームボーイ]]版 : 開発は[[ウィンキーソフト]]、販売はバンプレスト。表示領域の狭いモノクロ画面のため、GB本体でプレイする時は白黒の濃淡と形状でぷよを区別することになる<ref name="gbkuso">[http://qbq.jp/ 株式会社QBQ]編 『ゲームボーイクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2017年。{{ISBN2|9784865117790}} p102</ref>。[[スーパーゲームボーイ]]にも対応しており、これを使えばカラー表示となり、ソフト単体で2人対戦も可能。ただし、SGB用の専用フレームは用意されていない。SGBでプレイした場合は、色数の事情から緑ぷよが無く、青ぷよが水色ぷよ、緑ぷよが青ぷよに変更されている。ボイスは出力されず、曲数・音数も少ないが、漫才デモはアニメーションや台詞などが一部変更・簡略化されてはいるものの、ほぼすべて収録されている。タイトルのBGMはゲームギア版と同様で、個別の思考ルーチンも存在しない。スタッフロールのBGMは、OPと同じBGMが使用されている。操作性や反応は多少鈍く、落下速度が遅い前半ステージなどでは↓キーでの高速落下の処理も同時に遅くなっている。「とことんぷよぷよ」にはタイムアタック機能も搭載。ソフトパッケージには一切画面写真が無かった<ref name="gbkuso"/>。 ; ぷよぷよ for Windows([[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]版) : [[WinG]]を使用。開発は[[クエスト (ゲーム会社)|クエスト]]、販売は[[ボーステック]]。主にPC-9801版に準拠した移植だが、それに加えてアーケード版のボイスがすべて収録されている。ルルーの登場ボイスも追加されているが、アルルのボイスの流用となっている。320x200の低解像度サイズも備えており画面サイズを2種類から選択できるが、全画面モードはない<ref group="注">あらかじめWindows側の画面解像度を640x400に設定しておけばフルスクリーンに近い状態にはなるが、タイトルバーがあるためウィンドウの高さが400ラインを超え、画面下部が若干はみ出す(ただしその状態でも動作要件を満たす画面解像度であり、プレーに支障はない)。</ref>。640x400ではPC-9801版と同様のグラフィックを使用しており、画面レイアウトもPC-9801版と全く同じで、天井ではなく側面におじゃまぷよが表示される形式。320x200でのグラフィックはほぼ従来版に近いデザインだが、バトル中のレイアウトはPC-9801版と同じ。PC-9801版と同じく、なぞぷよモード50問が収録されている。CD-ROMにはオマケとしてWindowsデスクトップ用の壁紙が収録されている。至るところでデモ版CD-ROMが配布された。雑誌付録CD-ROMでアップデータも配布され、若干のバグフィックスが行われた。本作は後に「Windows 95対応版」としても発売されたが、後述のWin95専用版とは異なる。 ; ぷよぷよ for Windows 95([[Microsoft Windows 95|Windows 95]]版) : 基本的にWindows 3.1版からの移植。グラフィックはPC-9801版に近い高解像度のものだが、漫才デモの細かなアニメーションなどが描き直されている。画面レイアウトはWindows 3.1版と同様で、予告ぷよが画面横に表示される。フルスクリーン専用。ハーピーなどの特殊な積み方がアーケード版に忠実になった。なぞぷよモードも収録されているが、壁紙は削除された。後に『 - for Windows 95/98』としても発売。また、2000年代中頃まで、[[セガゲーム本舗]]名義で「WindowsXP対応版」のパッケージで[[メディアカイト]]から安価に販売されていた(内容はWindows 95版と同一)。2002年8月9日には『Wセレクション6 ぷよぷよ&[[マジカルドロップ|マジカルドロップIII]]』としてもカップリング発売。 : なお、当時のセガゲーム本舗では同時にオンラインでメガドライブ版もネット配信されていたが、こちらとは内容が異なる。 ; ぷよぷよ for Macintosh([[Macintosh]] [[PowerPC|PPC]]版) : Windows 95版の移植で、内容もほぼ同一。ただし、こちらでは画面レイアウトが変更され、予告ぷよは他機種同様に画面上部に表示されるようになった。 ; ぷよぷよ([[CX-100]]版) : カシオのカラー[[ワードプロセッサ|ワープロ]]版。 ; ぷよぷよ([[U1]]版) : パナソニックのカラーワープロ版。 ; ぷよぷよ for CE([[Microsoft Windows CE|Windows CE]]版) : ひとりでぷよぷよ専用。 ; ぷよぷよ for CE2(Windows CE版) : カラーディスプレイに対応した。 ; [[ぷよぷよBOX]]([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版) : モードのひとつとして、メガドライブ版をベースに移植した「ぷよぷよ復刻盤」を収録。歴代PlayStationハードにおいてプレイ可能な初代『ぷよぷよ』は本作が唯一だが、おじゃまぷよに得点が設定されているなど、他機種版と異なる点もある。 ; ぷよぷよ([[S!アプリ]] 50K版) : S!アプリへの移植版。 ; ぷよぷよ豪華版(S!アプリ 256K版) : 上記の豪華版。 ; ぷよぷよ([[ウィルコム]]版) : ウィルコム端末への移植版。 === ゲームモード === ==== ひとりでぷよぷよ ==== 次々に現れるコンピュータの操る敵キャラクターと対戦するストーリー付きのモード。MSX2版とファミコン版当時には存在せず、アーケード版以降で初搭載された。 バックストーリーは、4匹以上の同色の魔物を時空の狭間へ消し去る呪文「[[ぷよぷよ (ゲームキャラクター)#オワニモ|オワニモ]]」を解き放った魔導師の卵の少女[[アルル・ナジャ]]が、「ぷよぷよ地獄」に立ち向かう、というもの。 ストーリー中の会話デモは『[[魔導物語#MSX2版 魔導物語1-2-3|魔導物語1-2-3]]』のエピソード3終了後を踏まえた形となっており、登場キャラクターの出典も全てMSX2版『1-2-3』までに登場していたもので、終盤のボスもエピソード2・3の登場人物達である。主人公のアルルの衣装はPC-98版『1-2-3』のものに近いデザインが採用されている。 本作の「ひとりでぷよぷよ」は3種類の難易度から選択する。なお、本作の『むずい』レベルは序盤の3ステージが自動的に省略された上でステージ4のハーピーから開始となる点を除いて、『ふつう』レベルと全く同じとなっている。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !colspan="4"|『ひとりでぷよぷよ』対戦表 |- !ステージ||やさしい||ふつう||むずい |- !1 |スケルトン-T<ref group="注">このステージは一部の機種を除いて、ヒントが表示される。</ref>||ドラコケンタウロス||- |- !2 |ナスグレイブ||すけとうだら||- |- !3 |マミー||スキヤポデス||- |- !4 | - ||colspan="2"|ハーピー |- !5 | - ||colspan="2"|サソリマン |- !6 | - ||colspan="2"|パノッティ |- !7 | - ||colspan="2"|ゾンビ |- !8 | - ||colspan="2"|ウィッチ |- !9 | - ||colspan="2"|ぞう大魔王 |- !10 | - ||colspan="2"|シェゾ・ウィグィィ |- !11 | - ||colspan="2"|ミノタウロス |- !12 | - ||colspan="2"|ルルー |- !13 | - ||colspan="2"|サタン |} ==== その他のゲームモード ==== それぞれMSX2・ファミコン版の「2PLAYER」、「ENDLESS」、「MISSION」がベースとなっている。 ; ふたりでぷよぷよ : 人間2人で対戦するモード。アーケード版以外は旧作同様、それぞれハンディキャップ設定としてレベルを選択できる。各レベルの名称は1-5の数字とともに「激甘」「甘口」「中辛」「辛口」「激辛」と、[[カレーライス]]のイラストと共に辛さに例えた名称になっている。このレベル名称は、後のシリーズにも継承されている。 ; とことんぷよぷよ : 前述した旧世代『ぷよぷよ』のメインモードだった、エンドレスにぷよぷよを消していくモード。アーケード版には収録されていないが、メガドライブ版以降はほとんどの機種に収録されており、据え置き機版ではほとんどの機種で2人同時プレイが可能になっている。開始時のレベル選択は1・3・5で「激甘」「中辛」「激辛」の3段階。旧作にも存在したお助けキャラクターも出現し、激甘の場合はびっぐぷよとカーバンクルの両方、中辛はカーバンクルのみ、激辛はびっぐぷよのみ出現する。 : 一部の機種では、1P側と2P側で別々にポーズをかけることが出来る。 ; なぞなぞぷよぷよ : 提示される条件に沿ってぷよぷよを消していくモード。一部の機種のみに収録。ゲームギア版では全30問で、パスワードコンティニュー形式。PC-9801、Windows 3.1、Windows 95、Macintosh版では全50問で、途中経過をセーブ保存可能。全問クリアすると、ひとりでぷよぷよとは別のエンディングが流れる<ref group="注">ゲームギア版とPC-9801版などで、内容が異なっている。</ref>。 : 後に各機種で発売された単品版『[[なぞぷよ]]』のシステムのベースとなっている。 === スタッフ === 「旧ぷよ」・「初代ぷよ」に深く関わったコアスタッフのみ記載。 * プロデューサー - [[仁井谷正充|Moo仁井谷]] * シナリオ・キャラクターデザイン - [[氷樹むう]] * グラフィックデザイン - JANUS、寺本、ケロル、TOKIFURU MORITA(21)、村長さわ * 音楽 - 塚本雅信、長尾英之助 * 監督 - 塚本雅信 なお、MSX2・ディスクシステム版の企画・監督を務めた[[米光一成]]は、アーケード版以降の本作には携わっていない。 === 日本国外の作品 === 日本国外では、『魔導物語』のキャラクターではなく、別キャラクターに差し替えられて発売されるケースがある。 {{Main|ぷよぷよシリーズ#日本国外の作品}} == 関連商品 == === 攻略本 === ; ぷよぷよ メガドライブ&ゲームギア公式ガイドブック(ワンダーライフスペシャル) : 1993年5月20日に[[小学館]]より発売。付録として田中勝己による楽曲アレンジが収録されたシングルCD『ぷよぷよ Rave Revenge』が付属。 ; す〜ぱ〜ぷよぷよ 必勝のスーパー問題集(電撃攻略王) : 1993年12月20日に[[メディアワークス]]より発売。 ; ALL ABOUT ぷよぷよ(ALL ABOUTシリーズ) : 1993年12月30日に[[電波新聞社]]より発売。 ; 朝まです〜ぱ〜ぷよぷよ PUYO2 FAN BOOK : 1994年1月3日に[[勁文社]]より発売。 ; す〜ぱ〜ぷよぷよ必勝攻略法(スーパーファミコン完璧攻略シリーズ) : 1994年1月21日に[[双葉社]]より発売。 ; す〜ぱ〜ぷよぷよ攻略本 ぷよマスターへの道 : 1994年1月30日に[[辰巳出版]]より発売。 ; す〜ぱ〜ぷよぷよ大百科(ケイブンシャの大百科) : 1994年7月15日に勁文社より発売。 ; スーパーゲームボーイぷよぷよ 公式ガイドブック : 1994年9月9日に勁文社より発売。 ; ぷよマスターへの道 連鎖攻略のための完全マニュアル : 1995年7月5日に勁文社より発売。 === 漫画 === 『魔導物語』のコミカライズ作品は[[魔導物語#漫画]]を参照。下記の他、雑誌形式の[[ディスクステーション]]にも『ぷよぷよ』や『魔導物語』関連のショートコミックが掲載されていた。また、複数のゲームを取り扱ったアンソロジーコミックの一部にも『ぷよぷよ』を基にしたものが存在する。 ; ぷよずらんど by コンパイル : [[ソフトバンク]]『BEEP!メガドライブ』誌上に1992年11月号から1993年5月号まで連載されていた。作者は壱。未単行本化。 ; ぷよぷよ : [[新声社]]『[[コミックゲーメスト]]』3号(1993年6月30日発売)に掲載された読み切り作品。作者は[[島田ひろかず]]。未単行本化。 ; す〜ぱ〜ぷよぷよ -魔導物語より- : [[講談社]]『[[別冊フレンド]]』誌上に1994年1月号から12月号まで連載されていた。作者は[[かずはしとも]]。未単行本化。 ; すーぱーぷよぷよ ぎゃぐまどう物語 : [[小学館]]『[[月刊コロコロコミック]]』と『コロコロコミック新年増刊号』1994年1月号にそれぞれ掲載。作者は[[松本しげのぶ]](デビュー作)。未単行本化。 ; カーバンクル争奪戦 : [[角川書店]]『(勝)スーパーファミコン』19号(1994年11月25日発売)付録の『ギャグ勝スーパーファミコン』に掲載された読み切り作品。作者は[[藤凪かおる]]。未単行本化。 ; とっても!ぷよぷよ([[てんとう虫コミックス|てんとう虫コミックススペシャル]]) : [[小学館]]の[[小学館の学年別学習雑誌]]各誌上に連載されていた。作者は[[たちばな真未]]。 : 『小学三年生』1995年4月号から2000年3月号までの連載をメインに、『小学四年生』1996年4月号から1998年9月号、『小学二年生』1997年4月号から1998年9月号にも短期連載。 : 同作者による関連作として、『小学一年生』1995年9月号から1998年10月号まで連載された『ぷよぷよパラダイス・アルルちゃん』、『学習幼稚園』1996年5月号から1998年2月号まで連載された『ぷよぷよ少女 アルルちゃん』、『小学二年生』1997年1月号に掲載された『ぽけっとぷよ通3コマ』、『ぷっちぐみ』2011年9月号に掲載された『ぷよぷよ!!』などがあり、前記のうち『ぷよぷよパラダイス・アルルちゃん』のエピソードの一部は『とっても!ぷよぷよ』の単行本に収録された。 : 単行本は全6巻。ただし、単行本未収録のエピソードも多数存在する。 :* 第1巻 - 1996年10月発売、{{ISBN2|4-09-149291-6}} :* 第2巻 - 1997年5月発売、{{ISBN2|4-09-149292-4}} :* 第3巻 - 1997年12月発売、{{ISBN2|4-09-149293-2}} :* 第4巻 - 1998年11月発売、{{ISBN2|4-09-149294-0}} :* 第5巻 - 1999年6月発売、{{ISBN2|4-09-149295-9}} :* 第6巻 - 2000年5月発売、{{ISBN2|4-09-149296-7}} ; ぷよぷよ天国(マンガボーイズコミックススペシャル) : [[徳間書店]]より発行された[[アンソロジー]]コミック。全2巻。 :* 第1巻 - 1995年4月22日発売、{{ISBN2|4-19-950012-X}} :* 第2巻 - 1995年8月23日発売、{{ISBN2|4-19-950020-0}} ; ぷよぷよ(火の玉ゲームコミックシリーズ) : [[光文社]]より発行されたアンソロジーコミック。全8巻。 :* 4コマギャグバトル 第1巻 - 1995年11月発売、{{ISBN2|4-334-80296-6}} :* 4コマギャグバトル PART2 - 1996年4月発売、{{ISBN2|4-334-80322-9}} :* 4コマギャグバトル 辛口編 - 1996年10月発売、{{ISBN2|4-334-80350-4}} :* 4コマギャグバトル こんがり編 - 1996年4月発売、{{ISBN2|4-334-80375-X}} :* ギャグパラダイス - 1997年7月発売、{{ISBN2|4-334-80390-3}} :* ショートコミック天国 - 1997年12月発売、{{ISBN2|4-334-80410-1}} :* 4コマギャグバトル とことん編 - 1998年5月発売、{{ISBN2|4-334-80424-1}} :* 4コマギャグバトル ファイヤー編 - 1998年10月発売、{{ISBN2|4-334-80438-1}} ; ばよえ〜んすぺしゃる(ラポートコミックス) : [[ラポート]]より発行されたアンソロジーコミック。全3巻。 :* 第1巻 - 1995年12月9日発売、{{ISBN2|4-89799-188-9}} :* 通 - 1996年7月発売、{{ISBN2|4-89799-216-8}} :* SUN - 1997年12月発売、{{ISBN2|4-89799-274-5}} ; ぷよぷよ4コマまんが王国(ACTION COMICS) : [[双葉社]]より発行されたアンソロジーコミック。全2巻。 :* 第1巻 - 1996年12月14日発売、{{ISBN2|4-575-93482-8}} :* 第2巻 - 1997年7月28日発売、{{ISBN2|4-575-93524-7}} ; ぷよぷよ大行進!(講談社コミックス) : 講談社『[[コミックボンボン]]』誌上に1996年1月号から8月号まで連載されていた(原題は『ぷよぷよ4コマ ぷよよん』)。作者は[[平野豊]]。 :* 第1巻 - 1997年4月4日発売、{{ISBN2|4-06-319790-5}} ; ぷよぷよ・4コマコミック きめろ!ぷよぷよ(G COLLECTION) : 1998年4月15日に[[ムービック]]より発売されたアンソロジーコミック。{{ISBN2|4-89601-352-2}} ; ぷよぷよ(ハイパーGコミックアンソロジー 3) : 1999年1月8日にエニックスより発売されたアンソロジーコミック。ハイパーGコミックアンソロジーシリーズの第3弾。{{ISBN2|4-87025-437-9}} ; ぷよぷよ KINGSシリーズ(DNAメディアコミックス) : [[一迅社|スタジオDNA]]より発売されたアンソロジーコミック。『ぷよぷよ』シリーズのものが2巻、『フィーバー』のものが1巻発売された。 :* 4コマKINGS - 1999年2月12日発売、{{ISBN2|4-921066-04-3}} :* ショートコミックKINGS - 1999年3月12日発売、{{ISBN2|4-921066-09-4}} :* ぷよぷよフィーバー 4コマKINGS - 2004年6月発売、{{ISBN2|4-7580-0187-1}} ; ぷよぷよだ〜! : 小学館『[[別冊コロコロコミック|別冊コロコロコミックSpecial]]』誌上(隔月刊)に1999年6月号から12月号まで連載されていた。作者は[[むさしのあつし]]。未単行本化。 ; ボクとトラさん。 : 2009年4月3日より2015年4月24日までセガの携帯電話・スマートフォン用サイト「★ぷよぷよ!セガ」にて連載された4コマ漫画<ref>[http://sp.puyosega.com/boku_to_torasan/bokutora.do?mode=backnumber ボクとトラさん。 バックナンバー] - ★ぷよぷよ!セガ</ref>。作者は[[剣持まよ]]。『ぷよぷよ』が下手な主人公のサラリーマン・石田アキトと、動いて喋って『ぷよぷよ』も得意なネコ型携帯ストラップのトラさんを中心とした漫画。作中でゲームとしての『ぷよぷよ』が多く題材になっている。 : 2015年4月24日掲載の「第314回」をもって「★ぷよぷよ!セガ」での連載が一旦終了し、同年5月よりセガのコミュニティサイト「it-tells(いってる)」でバックナンバーの再掲が5話ずつ開始されている<ref>[https://ittells.jp/ittells/app/community/top?communityCode=3729 ゆるゆる4こま漫画『ボクとトラさん。』] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150526213845/https://ittells.jp/ittells/app/community/top?communityCode=3729 |date=2015年5月26日 }} - it-tells(いってる)</ref>。2016年4月25日に「it-tells」のサービスが終了したことに伴い、翌4月26日より全話のバックナンバーが読めるようになった。 ; ボクとトラさん。ネオ! : 2015年5月14日より2016年4月21日までセガのコミュニティサイト「it-tells(いってる)」内のコーナー「今週もいったる!」にて連載された4コマ漫画<ref> ボクとトラさん。ネオ!([http://sega.jp/ittells/italls/backnumber.html?comic.html パソコン版]/[http://sega.jp/ittells/italls_sp/comic.html スマートフォン版])</ref>。『ボクとトラさん。』の続編にあたり、ストーリーを引き継いでいるが話数がリセットされている。 : 2016年4月25日に「it-tells」のサービスが終了することに伴い、2016年4月21日掲載の「第25話」をもって最終回を迎え、こちらも連載が一旦終了し、同年4月26日より全話のバックナンバーが読めるようになった。 === CD・カセットテープ === ; ばよえ〜ん!! THE MEGA TRACKS OF ぷよぷよCD : 1994年4月21日発売。発売元はNECアベニュー。PCエンジン版『ぷよぷよCD』のオリジナルサウンドトラック(ごく一部)+新規テクノアレンジトラック(大半)+[[ドラマCD]]。ボイスドラマ部分の担当声優はPCエンジン版と同じ。 ; ぷよぷよ の〜てんSPECIAL : 1995年7月1日発売。ボイスドラマを収録したカセットテープ。脚本は[[山口宏 (脚本家)|山口宏]]、音楽は[[河野英雄]]。 ; ぷよぷよDX. Complete Best Album 1 : 1998年7月23日発売。発売元はテイチク。『ぷよぷよ』のアレンジサウンドトラック。上記『ばよえ〜ん!!』を中心に、『魔導物語音楽館』、『ぷよぷよ Rave Revenge』、『大打撃』等からの再録・リメイク音源で構成。編曲は[[田中勝己]]。 == CM出演者 == {{dl2 |す〜ぱ〜ぷよぷよ| * [[藤沢かりん]] * [[秋山仁]] |ぷよぷよ(ゲームボーイ版)| * 藤沢かりん * [[緒方賢一]] - ナレーションを担当 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2009年6月|section=1}} * 『ALL ABOUT ぷよぷよ』スタジオベントスタッフ編、電波新聞社、1993年。 * 『ALL ABOUT ぷよぷよ通』スタジオベントスタッフ編、電波新聞社、1996年。 * 『コンプリート・コンパイル』ゲークラ編集部編、ビー・エヌ・エヌ、1998年。 {{ISBN2|4-89369-645-9}} === 新聞・業界紙など === *{{Cite web|和書|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19980501p.pdf|title=ゲームマシン 563号|accessdate=2020-03-20|publisher=アミューズメントプレス|date=1994年10月1日|ref=GameMachine563}} ** {{Wikicite|ref=CompileBankrupted|reference=「『ぷよぷよ』開発、コンパイル破綻」、1ページ}} == 関連項目 == * [[魔導物語及びぷよぷよシリーズの登場人物]] * [[ディスクステーション]] * [[魔導物語]] * [[ぷよまん]] * [[全日本ぷよ協会]] (AJPA) ** 全日本ぷよマスターズ大会 * [[コンパイル (企業)|コンパイル]] ** [[コンパイルサポートアソシエーション]] * [[アイキ]] * [[セガホールディングス]] ** [[セガ]] ** [[セガ・インタラクティブ]] == 外部リンク == ;各ゲーム機版の公式情報ページ(特記していない場合は全てセガの公式サイト) * [https://sega.jp/history/arcade/product/9156/ セガ・アーケードゲームヒストリー ぷよぷよ] - アーケード版の情報を簡易記載。 * [https://vc.sega.jp/vc_puyo/ バーチャルコンソール ぷよぷよ(メガドライブ/MD版)] ::「クリックでムービーを再生」とあるが、MD版のみ作成当時web動画のデファクトスタンダードであった[[Adobe Flash|Flash]]を用いており、現在は視聴出来ない。 * [http://vc.sega.jp/vca_puyo/ バーチャルコンソール ぷよぷよ(アーケード版)] * [http://vc.sega.jp/3ds/puyo/index.html バーチャルコンソール ぷよぷよ(ゲームギア/GG版)] :: GG版ムービー掲載ページへのリンクがあるが、これは、下記任天堂サイトで視聴出来るものと同じYouTube公式アップロードムービー。 * {{3DSバーチャルコンソール|garj|ぷよぷよ(ゲームギア版)}} - 任天堂公式サイトにおける本作情報ページ * [https://archives.sega.jp/segaages/puyo/ SEGA AGES ぷよぷよ] - Nintendo Switch版の本作情報ページ {{ぷよぷよ}} {{デフォルトソート:ふよふよ}} [[Category:ぷよぷよ|*]] [[Category:1991年のコンピュータゲーム]] [[Category:1992年のアーケードゲーム]] [[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]] [[Category:MSX/MSX2用ソフト]] [[Category:ディスクシステム用ソフト]] [[Category:メガドライブ用ソフト]] [[Category:ゲームギア用ソフト]] [[Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:スーパーファミコン用ソフト]] [[Category:FM TOWNS用ゲームソフト]] [[Category:PCエンジン用ソフト]] [[Category:X68000用ゲームソフト]] [[Category:ゲームボーイ用ソフト]] [[Category:Windows用ゲームソフト]] [[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]] [[Category:携帯電話アプリゲーム]] [[Category:ニンテンドウパワー書き換えソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Nintendo Switch用ソフト]] [[Category:セガ メガドライブ for Nintendo Switch Online収録ソフト]] [[Category:プロジェクトEGG対応ソフト]]
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千葉市
千葉市(ちばし)は、千葉県の中央部にある市。千葉県の県庁所在地及び人口最多の市であり、政令指定都市の一つ。 都市雇用圏における東京都市圏の中心都市の一つであり、6区の行政区を持つ。業務核都市、国家戦略特区、構造改革特区、都市再生特別地区、国際会議観光都市、保健所政令市、グローバルMICE都市に指定されている。仙台市に次いで日本の市町村で12番目の人口を持つ都市であり、100万人未満の市の中で最多である。 千葉県中央部に位置し、日本の首都である東京都の都心や成田国際空港・東京国際空港から約25 - 35キロメートル圏内にある、東京湾に面した県内最大の都市である。市政の中心地は亥鼻地区(中央区の本千葉駅、県庁前駅周辺)、市域の中央駅は千葉駅(中央区)、経済活動の中心地は千葉都心(中央区の千葉駅・千葉中央駅・千葉都市モノレール1号線沿線周辺)、蘇我副都心(中央区の蘇我駅周辺)、幕張新都心(美浜区の海浜幕張駅周辺)、教育の中心は稲毛区であり千葉大学の本部をはじめとして、多数の私立大学や高等学校が存在する。 国際拠点港・日本三大貿易港の千葉港を有する港湾都市で、京葉工業地帯の中核・工業都市である。市内にはアジア地域有数の国際見本市である幕張メッセがあり、首都圏の中でも多種業務機能が集積した首都機能の一翼を担い、中心業務地区 (CBD) の千葉都心・幕張新都心を中心に世界に開かれた国際都市の役割を担う。 1126年、千葉氏の実質的な初代当主である千葉常重が猪鼻台(現在の亥鼻城址周辺)に居館を築いたことにより広義の城下町として繁栄し、その後は千葉妙見宮(千葉神社)の小規模な門前町となる。近世には千葉佐倉街道(千葉街道)や東金御成街道の宿場町となり、佐倉藩の外港でもあった。1873年、千葉県庁が千葉町(現在の千葉市中央区本千葉町)に置かれたことにより、千葉県内の政治・経済・文化の中心地、交通の要衝として発展し、ウォーターフロント開発による千葉港や京葉工業地帯の整備による港湾都市・工業都市として、約100万規模を有する都市へと成長した。また、東京都の都心と成田国際空港の中間地点に位置することから首都圏の中でも幕張新都心や千葉港のような国際戦略に重要な機能・施設が多く、グローバル都市としての役割が強い。先端技術産業の集積地となっている。 東京都特別区部への通勤率は20.0%(約20万人)といわゆる「千葉都民」が一定数存在する(2015年国勢調査)ものの、昼夜間人口比率は97.5% とベッドタウンとしての機能都市が強い東京の周辺に位置する首都圏の都市では昼間人口が比較的多い方であり、関東有数の巨大商圏による商業集積や企業の本社を持つ一方で、独立した支店経済都市として東京都の都心だけに依存しない独自の経済圏(千葉都市圏)を形成している。また、一部の企業が支店や支社を千葉市に置いて首都圏(特に東関東)を管轄下に置いているケースも見られ、広義の拠点都市としての機能もある。 千葉市には、都心・新都心・副都心と異なる名称を与えられた地区があるが、3者とも機能的には「都心」としている。 千葉市都市計画マスタープラン によると下記のような集約型都市構造としている。 千葉県の中央部(ほぼ中西部)に位置し、中心市街地は東京都の都心と成田国際空港の中間地点(約25 - 35キロメートル)である。 地形は、臨海部および各河川下流域に広がる関東平野の平地とその周辺部は下総台地の台地・谷津から構成される。郊外や臨海部を中心に大規模な住宅団地が多くある一方、若葉区、緑区には豊かな自然環境と住宅地が共存している。かつての海岸線は現在の国道14号・国道357号・国道16号をなぞる線にほぼ等しく、遠浅の海が広がっていたが高度経済成長期以降の大規模な海面埋立により、新たに広大な土地が誕生した。美浜区のほぼ全域および中央区の一部がこれに該当する。現在の海岸線は中央区部分ではほぼ工業施設または港湾で占められている一方、美浜区部分には長大な人工海浜(いなげの浜、検見川の浜、幕張の浜)も造成されている。美浜区全域、中央区と花見川区の一部を除いて標高20メートル以上の台地に位置しており、緑区土気町など標高90メートル以上に位置する地域も存在する。なお最高地点は緑区板倉町の標高103.6メートル、最低地点は美浜区豊砂の標高0.7メートルである。 地域によって気候は異なるが、一般には夏季はそれほど猛暑にはならず、冬季も若葉区や緑区など内陸部を除き暖かくて温和な太平洋側気候である。年平均気温は、過ごしやすい16.2度である。 千葉特別地域気象観測所(旧千葉測候所)の観測によると、1月の平均気温は6.1°C、最低気温は2.4°Cと高く、沿岸部は東京湾からの風や高い水温の影響で冬日になることは少なく、過去最低気温(1966年4月 - )は-5.2°C(1967年2月13日)とかなり高い。一方、若葉区、緑区などの内陸部は風が弱く、放射冷却により冬日になりやすく氷点下まで冷え込むこともある。そのため中央区の港湾部に立地し都市部特有のヒートアイランドによる影響も強い千葉特別地域気象観測所の観測気温と内陸部の気温とでは大きく異なることがある。実際に千葉特別地域気象観測所では2016年(平成28年)1月24日から25日にかけての寒波の時、南西諸島や伊豆諸島、小笠原諸島などの島嶼部を除いた全国の観測地(気象官署・アメダス)の中で唯一、冬日を観測しなかった。 8月の平均気温は27.1°C、最低気温は24.3°Cであり、共に千葉県内の気象観測地点の中では高めの傾向にある。これは、ヒートアイランドの影響に加え、沿岸部の埋立地に立地する千葉特別地域気象観測所は東京湾から吹き付ける湿度の高い熱風の影響で夜になっても気温が下がりにくいからである。そのため、東京湾沿岸地域の日中は海のない内陸県のような猛暑(35°C以上)とはなりにくいものの、夜は蒸し暑くなりやすい。過去最高気温は38.5°C(2015年8月7日)である。 冬季、南関東を南岸低気圧が通過する場合、千葉市付近は暖気と寒気の境界線となりやすく、県内北西部(東葛・葛南地域)や東京・横浜が大雪の場合でも県内南部(君津・木更津地域)などでは雨や霙となり、それほどの積雪量にならない場合も多く、年間平均降雪量も7センチメートルと東京(8センチ)や横浜(9センチメートル)に及ばない。しかし、寒気の引き込みが強い場合は、標高が100メートル前後と高く気温が低い地区(緑区土気周辺など)で降雪量が多くなりやすく、毎年10センチメートル前後の積雪となるのも珍しくない。過去に1951年(昭和26年)2月14日から15日にかけての関東平野部(1都6県)では記録的大雪を観測しており、南岸低気圧の影響で内陸部の白井(現・若葉区野呂町)で133センチメートル、市街地に近い仁戸名(現・中央区仁戸名町)で91センチメートル、市街地の都(現・中央区都町)で80センチ の積雪となったことがあるなど、低気圧の進路や寒冷渦の影響などによっては稀に雪の積雪量が多くなることがある。 千葉市若葉区桜木には世界でも最大規模の貝塚および環状集落である特別史跡「加曽利貝塚」がある。縄文時代の痕跡が色濃く残っており、この場所では約7000年前の竪穴建物跡が発見されているが、当時の貝塚は残されていない。巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前の縄文中期である。初期には小規模な貝塚と住居があったが、後にその上に直径約130メートルのドーナツ形の貝塚が約1000年かけて作られていることからも、多くの人々が暮らしていたとされている。 『日本後紀』大同元年正月癸巳(1月28日)(806年2月20日)条に、「千葉国造(ちはのくにのみやつこ)大私部直(おおきさいべのあたい、直はカバネ)善人」という人物が登場しており、大化の改新以前より千葉市に国造が置かれていた可能性が高く、律令制成立後も下総国千葉郡と呼ばれる郡が成立した。さらに『倭名類聚鈔』には千葉郡にあった7つの郷の一つに「千葉郷」と呼ばれる郷があったことが記されており、同郷は現在の稲毛区穴川・黒砂付近を指していたと考えられている。 平安時代に平常重が千葉郡千葉郷・池田郷一帯に千葉荘を開き、1126年(大治元年)、猪鼻台(現在の亥鼻城址・亥鼻公園周辺)に居館(亥鼻城)を築いて、千葉介を名乗り 千葉氏の実質的な初代当主となる(千葉常重)。都川周辺は広義の城下町 として繁栄した。常重の子、千葉常胤は鎌倉幕府を開いた源頼朝の重鎮となる。以後、子孫が室町時代まで下総国守護職として周辺を支配した。 下総国から西へ東京湾を渡った相模国金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)の称名寺には、鎌倉時代の千葉寺や千葉市の大日寺で書写された仏教関係の文書が多数残されている。東京湾対岸の称名寺に多数残されているのは、僧侶が東京湾の水運を使って下総国と相模国の間を往来していたためとされ、都川河口(現在の千葉市中央区寒川町付近)は下総国の地方船着場(湊)として利用されていた。しかし、享徳の乱に乗じた原胤房と馬加康胤によって千葉胤宣が討たれ、千葉氏宗家が滅びた後は、千葉妙見宮(千葉神社)の小規模な門前町となった。 江戸時代には、現在の千葉市域の大半が佐倉藩の所領となった他、市域内に生実藩・曽我野藩の2小藩が置かれた。その他に幕府領(天領および旗本・与力知行所)となっている地域もあった。 後に江戸から佐倉城を結ぶ佐倉街道が整備されると、船橋宿から分岐して寒川湊(現在の千葉港)を結ぶ千葉佐倉道(千葉街道)や東金御成街道が整備され、将軍が休息・宿泊する為に千葉御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、千葉御殿(千葉市中央区中央)も造られた。千葉市内には御殿が2カ所存在し、小規模な宿場町となる。 江戸時代末期ごろから海運業が盛んとなり、曽我野浦(曽我野県、現在の千葉市中央区蘇我)や登戸浦(現在の千葉市中央区登戸)は、物資を江戸へと船で運ぶ拠点となっていた。曽我野浦では、東金や九十九里沿岸から馬の背で輸送された〆粕・干鰯・年貢米・鮮魚などを荷受けし、五大力船で江戸に廻送した。登戸浦は、江戸築地に荷揚場を持ち、都川の水運で運ばれた年貢米や海産物を房総半島から江戸に運び、佐倉藩の外港でもあった。江戸時代後期の浮世絵師である葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「登戶浦」に当時の活気が描かれている。 戊辰戦争後の1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県では、現千葉市は印旛県の領内に入れられた。しかし、明治初期の1873年(明治6年)には印旛県と木更津県が合併されて千葉県が誕生し、旧両県の境で千葉氏の本拠地でもあった現千葉市(亥鼻地区)に県庁が設置され、これ以後は千葉県の県庁所在地として発展することとなる。1894年(明治27年)には国鉄による総武鉄道の開通により、政治と交通の中心地として整備が進んだ。 市制施行により千葉市が誕生したのは、1921年(大正10年)1月1日のことである。この時点での市域は、現在の中央区の北半分から稲毛区の南東部にわたり、これは1889年(明治22年)に設定された千葉町の町域をそのまま引き継いだものであった。その後、徐々に周辺の町村を編入するとともに、海面の埋め立てを進め、1922年(大正11年)5月27日、内務省告示第131号により港湾指定を受け、後の千葉港となる。1940年(昭和15年)には、東京湾臨海工業地帯計画が内務省土木会議で決定され、その一環として、千葉市今井町地先海面300ヘクタールの埋め立てを計画して200ヘクタールの埋立てを行い、市域は拡大していく。 戦前(第二次世界大戦勃発前)には、現在の川崎町の埋立地に日立航空機製作所と日立製作所などの軍施設が集中する軍都「千葉」として軍都「習志野」とともに発展した。千葉市内には1908年ごろの陸軍歩兵学校、気球聯隊など陸軍関係の学校や施設が多く残り、例として千葉公園内には戦跡として練習用トンネル、架橋演習用橋脚、荒木山などが残されている。1945年(昭和20年)6月10日と7月7日に連合国軍による大規模な空襲(千葉空襲・七夕空襲)に見舞われ市域の7割が壊滅する甚大な被害を受け、その後、第二次世界大戦は終結となる。 戦後、宮内三朗市長(名誉市民第1号)の元で大規模な埋め立てと市町村合併が行われた。現在の緑区のうち、旧土気町であった部分はかつては上総国山辺郡(今の山武郡)に属していた地域である。1948年(昭和23年)7月16日、千葉港の港則法に基づく港域が決定され、日本における戦災復興都市計画の一環として川崎製鉄株式会社(現在のJFEスチール株式会社)を今井町地先埋立地(現在の蘇我副都心)に誘致し、京葉工業地帯の中心都市として再建された。周辺は企業城下町の雰囲気を色濃く残し、西口がある川崎町にはJFEスチール東日本製鉄所、東口にはJFE体育館(旧:川鉄体育館)・千葉メディカルセンター(旧:川鉄病院)・JFEスチールの社宅や独身寮などが建設され、工業都市として発展した。 1954年(昭和29年)2月27日、千葉港が法務省令第14号により出入国管理令上の出入国港に指定、同年3月20日港則法に基づく特定港に指定され、1953年(昭和28年)7月1日、政令第150号により国際貿易港として関税法上の開港に指定。これにより後の1982年(昭和57年)10月に、千葉港開港記念日を「7月1日」として制定された。 「日本の政治、経済、文化等の中心としてふさわしい首都圏の建設とその秩序ある発展を図る」ことを目的として1956年(昭和31年)に「首都圏整備法」制定され、千葉市が近郊整備地帯に指定された。これにより、1960年(昭和35年)には、大宮団地の整備事業が開始され、以後土地区画整理事業が相次いだ。特に、1967年(昭和42年)には、海浜ニュータウン計画を発表、稲毛、検見川、幕張に計画人口約24万人の大規模なニュータウン建設が計画された。その後、独立都市の計画として「幕張新都心(A地区)基本計画」を発表し、業務中枢機能の東京一極集中に歯止めをかけることを目的に、住宅中心の土地利用計画を大幅に見直し、業務機能を持つ「新都心」を建設することを決定した。 『千葉県新総合五ケ年計画』では、千葉県内における進学率の上昇、学生数の増加に対応して幕張新都心に教育文化機能を充実させる「学園のまち」構想を示した。1981年(昭和56年)より順次、大学、高校などの文化・教育施設が立地し、西千葉駅周辺(稲毛区)、本千葉駅周辺(中央区)、おゆみ野(緑区)、幕張新都心文教地区(美浜区)に文教都市を形成した。また、首都高速湾岸線や東関東自動車道、JR京葉線などのインフラ整備が急ピッチで進む。 1983年(昭和58年)千葉新産業三角構想策定(基幹プロジェクト)および幕張新都心事業化計画(千葉新産業三角構想)を策定し「幕張新都心構想」「かずさアカデミアパーク構想」「成田国際空港都市構想」の3つを基幹プロジェクトとした『千葉新産業三角構想』が決定。東京都心と成田国際空港の中間に位置する千葉市は、業務機能の集積を核とした新都心として構想されるようになり、その開発誘導施設として幕張メッセを位置づける「幕張新都心事業化計画」も同年発表される。1989年(平成元年)10月、国際見本市として幕張メッセが完成。同月、第28回「東京モーターショー」が幕張メッセで開催され、史上最高の15カ国が参加。192万人が訪れ、幕張新都心は名実ともに国際コンベンション都市として誕生した。1990年(平成2年)3月には、幕張メッセの海側に総面積(延床)4万4782平方メートル、3万人収容という国際級規模の千葉マリンスタジアムがオープンし、1992年(平成4年)3月からは千葉ロッテマリーンズのホームグラウンドとなっている。また、幕張テクノガーデンのオープンを皮きりに、業務地域の建設が順調に進んだ。幕張新都心の総合的な街づくりに対して、日本都市計画学会賞「石川賞」が千葉県に贈られ、質の高いインフラ整備と優れたデザインによって事業者を誘導するなど、先進的で官民一体となった業績が評価され、自治体では初の受賞となった。 1992年4月1日には、全国12番目の政令指定都市に移行し、6つの行政区が発足した。 蘇我副都心では、JFEスチール東日本製鉄所の沖合い埋立地区への移転に伴い、千葉市が蘇我特定地区整備計画を策定し、ハーバーシティ蘇我として再開発が行われた。2005年(平成17年)4月27日に第1期として開業し、その後千葉市蘇我スポーツ公園内にフクダ電子アリーナが整備され、同年10月16日に開業してからはジェユナイテッド市原・千葉のホームスタジアムとなっている。フクダ電子アリーナの完成後、蘇我スポーツ公園内(スタジアムの東隣)に多目的広場(フクダ電子スクエア)などが建設されたほか、隣接地にジェフのクラブハウスや練習所を兼ね備えたユナイテッドパークが整備されている。これにより、延べで年間2000万人が来場する施設となった。 千葉駅は2011年(平成23年)から建て替え工事が進められてきており、2016年(平成28年)11月20日、53年ぶりに新しい「千葉駅」として開業した。改札など駅機能を3階に集約することで、ターミナル駅として利便性も向上している。駅西口には2013年(平成25年)10月1日に千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設として複合施設のウェストリオ (WESTRIO) が開業し、ビルが3棟並ぶ。2018年(平成30年)6月28日には千葉ステーションビル主体の駅ビル「ペリエ千葉 (Perie)」が開業し、構内にはエキナカ(地上3、4階の2フロア)、改札外にはペリエ千葉の本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2と約8万3000平方メートルの大規模な駅ビルが隣接している。駅周辺は都市の国際競争力強化の観点から特に重要な地域として都市再生緊急整備地域に指定されており、千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区) など、更なる都市再開発事業が続いている。 2015年(平成27年)、幕張海浜公園にて「レッドブル・エアレース・千葉 2015」が日本初開催される。更に幕張海浜公園D・Eブロックが「JFAナショナルフットボールセンター」の建設候補地となる。2016年(平成28年)、千葉市が東京圏の国家戦略特別区域に指定され、ドローン宅配便や自動運転モビリティなどの実用化に向けた検討を行う近未来技術実証や、規制改革メニュー活用事業、児童福祉施設の設備および運営に関する基準の緩和や都市部におけるオンライン服薬指導の実施などの規制改革提案が行われている。 2020年には幕張メッセにおいて東京2020オリンピック競技大会の3競技(フェンシング、レスリング、テコンドー)、東京2020パラリンピック競技大会の4競技(ゴールボール、シッティングバレーボール、車いすフェンシング、テコンドー)の会場となることが決定。更に2018年(平成30年)10月15日、重点戦略5の都市資源を活用し、統合型リゾート(IR)導入の可能性に国の動向を注視しながら検討を進めている。 2003年(平成15年)2月、隣接する四街道市の住民の発議によって法定合併協議会が設置され、千葉市への編入として行政区名を「四街道区」とする方針が決まったが、四街道市議会内で編入への賛否が拮抗したことから賛成派・反対派双方による発議により編入の是非を問う住民投票が行われることになり、2004年(平成16年)5月16日の投票で反対意見が賛成を上回り、6月28日に千葉県に合併協議会の解散を届け出て編入は白紙となった。 2015年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.05%増の971,882人であり、増減率は千葉県下54市町村中12位、60行政区域中15位。 千葉市役所を中心として6つの区が設置されている。 以下の6区で構成されている。人口はいずれも2023年11月1日時点の推計人口。 2000年(平成12年)には市制施行80周年を記念して、各区の「イメージカラー」と「シンボルマーク」が発表された。なお、シンボルマークの使用については各区の許可が必要である。 千葉市に置かれる国際機関は以下の通り。 千葉市に置かれる主な国の行政機関は以下の通り。 行政機関 司法機関 千葉市に置かれる主な県・市の行政機関は以下の通り。 工業 臨海部(中央区川崎町、新浜町、蘇我町、美浜区新港を中心とした地域)は千葉港を中心とした京葉工業地帯の一角をなし、中央区部分にはJFEスチール東日本製鉄所(旧川崎製鉄千葉製鉄所)、JERA千葉火力発電所などが所在し、美浜区新港には食品や金属加工関連の事業所が多い。また、北部地域(花見川区千種町、稲毛区六方町を中心とした地域)では、鉄鋼加工や機械工業が盛んである。 商業 第二次大戦前には旧:省線千葉駅(のちの旧:国鉄千葉駅 (初代))、旧:京成千葉駅、県庁を結ぶ現・栄町通りがメインストリートとなっていた。しかし、戦災(千葉空襲)を経て第二次大戦後の都市整備に伴い、両千葉駅が移転したことで新駅周辺に商業集積が移動。特に国鉄千葉駅(二代目。現:JR千葉駅)前にはそごう千葉店、ニューナラヤ(現:千葉三越跡)といった大型小売店が店舗を構えたことから、千葉県最大・関東有数の商業拠点として栄えてきた。 バブル景気の時期には、幕張新都心、蘇我副都心、千葉みなとなどの臨海部に商業施設が建設され、郊外での大型ショッピングセンターなどが相次いで建設された。これ以来、地域が幕張(美浜区)を中心とした西半分と、亥鼻城周辺(中央区)を中心とする東半分に大きく二分されている。 概して、幕張新都心は大企業や多国籍企業が多く立地し、中心市街地(JR・千葉都市モノレール千葉駅、JR東千葉駅、JR本千葉駅、亥鼻城近辺)は古くからの地元商店街的な色彩が目立つ。 また、一部の企業が支店や支社を千葉市に置いて千葉県と茨城県を管轄下に置いているケースも見られ、広義の東関東の拠点都市としての機能がある。 農業 東京大都市圏の近郊型農業地。都市化の進展による農地の減少が課題となってはいるが、若葉区や緑区、花見川区北部に農地が広がる。 市街地の後背部に都市近郊の優良農地を有し、水田を中心とした土地基盤整備を始め、施設・機械の近代化など生産基盤の強化を図る。農業生産基盤である農地は、本来の生産機能の他に、防災機能、治水機能、環境保全・自然景観の保持やレクリエーションの場の提供など、都市の緑の空間としても重要な役割を果たしている。落花生やニンジンなどの畑作が中心だが、ブドウや梨などの果樹栽培もある。酪農も盛んで、飼養頭数、産出額は県下2位である。また落花生の生産量、作付け面積共に、隣接する八街市についで全国2位である。 千葉市の中心市街地は千葉都心(千葉駅から千葉中央駅、本千葉駅、千葉みなと駅周辺)、蘇我副都心、幕張新都心近辺に位置するが、東部の千葉都心・蘇我副都心と、西部の幕張新都心に大きく二分されている(詳細は後述の#商業の節)。一般的に「千葉市街地」というと千葉駅から千葉中央駅にかけて、もしくは千葉都市モノレール1号線沿い(千葉みなと駅から県庁前駅間)にかけての市街地を指すことが多い。 JR東日本「千葉駅」から京成電鉄「千葉中央駅」、千葉都市モノレール「葭川公園駅」にかけての中心市街地(富士見地区から中央地区)には企業のオフィスビル、銀行や商業施設、家電量販店などが林立する繁華街となっており、関東有数の市場規模である巨大商圏となっている。また市街地中心部に位置する中央公園(葭川公園駅最寄り)は市民の憩いの場として様々なイベントが行われている。 千葉駅には駅ビル(ペリエ千葉)、複合施設(ウェストリオ)、ホテル(サンルート千葉)、センシティ(センシティタワー、そごう千葉店、オーロラモールジュンヌ)、商業施設(シーワン)が入居・接続しており、千葉駅から千葉中央駅の両駅間は約1キロメートルほどの商業施設(建物)で繋がっている。 市街地は地場資本の奈良屋(後に専門店ビル・セントラルプラザ)・田畑(後の千葉パルコ)・扇屋(後にジャスコ傘下入り)といった百貨店が並び、ダイエーや丸井、十字屋、緑屋が進出するなど活況を呈していたが、現在では駅直結のそごう千葉店、オーロラモールジュンヌなど駅付近に商業施設が集中し、駅から離れた場所にあった商業施設はマンションなどに転用されている。また、市街地から少し逸れた中央区栄町地区は、かつては県下一の賑わいをみせていたが、千葉空襲の被害を受けたあと、風俗店、キャバレー、コリアンタウン、小料理屋などが集中する歓楽街と化し、国鉄千葉駅が現在の位置に移転した後は商業拠点も駅に近い中央区富士見地区に移転した。市は地元商店会と共に栄町の再生に取り組み始めている。 駅周辺は都市再生緊急整備地域に指定されており、千葉駅東口地区、西口地区の再開発事業が続いている。 千葉市の古くからの中心部であり、周辺は官庁街のほか、千葉大学(医、薬、看護)をはじめ千葉県立千葉中学校・高等学校などが集約する文教地区として知られる。千葉中央駅にはシーワンと接続の商業施設(ミーオ)、ホテル(京成ホテルミラマーレ)、シネマコンプレックス(京成ローザ10イースト・ウエスト)などを有している。 JR東日本「千葉駅」から千葉都市モノレール「県庁前駅」周辺には、かつての下総国守護所があった亥鼻城跡(亥鼻公園)を囲むように、千葉県庁、千葉県議会棟庁舎、千葉県警察本部、千葉市消防局、千葉地方検察庁・千葉区検察庁、千葉地方裁判所・千葉家庭裁判所など行政機関が集中する。 JR東日本「千葉みなと駅」周辺には国際拠点港湾である千葉港の港湾地区を中心に千葉ポートタワーや千葉県立美術館、千葉市役所をはじめ、港湾施設(千葉みなと桟橋、ケーズハーバーなど)、複合施設(千葉ポートスクエア)、商業施設(ミハマニューポートリゾートなど)、企業(京葉銀行千葉みなと本部など)、ホテル(オークラ千葉ホテルなど)、結婚式場(ベイサイドパーク迎賓館など)など港湾都市として整備されており、ウォーターフロントの開発が集中する。歴史的建造物として国の登録有形文化財に登録されている日本勧業銀行本店(現在の千葉トヨペット本社)がある。 蘇我地区は戦災復興の一環として誘致された川崎製鉄の企業城下町である。千葉市は、蘇我駅周辺地区を千葉都心・幕張新都心に続く第三の都心と位置付け、2003年から川崎町地区の旧川鉄千葉製鉄所のほぼ全域と蘇我駅周辺地区を含めた蘇我臨海地区土地区画整理事業を開始し、大型商業施設や球技場を中核とした商業地区や公園施設の整備が行われている。これに伴い、土地区画整理後に商業施設やフクダ電子アリーナが建設され、将来的な周辺人口増による利用者増を見越して、千葉市とJR東日本により駅施設の拡充が行われている。2004年8月に駅本屋の拡充が、2005年に西口駅前広場の整備が終了している。JR東日本蘇我駅周辺にはハーバーシティ蘇我などの大型商業施設やジェフユナイテッド市原・千葉のホームスタジアムであるフクダ電子アリーナなどが整備されている。 幕張新都心地区には、大規模見本市や国際会議などが開かれる幕張メッセ(国際展示場・国際会議場)・幕張イベントホールをはじめ、日本を代表する多国籍企業や外資系企業が入居する超高層ビル(ワールドビジネスガーデン・幕張テクノガーデン)、宿泊施設および大規模商業施設が数多く進出しており、国際機関および国家機関(官公庁)の研究・研修機関を中心とした教育・研究施設や、幕張ベイタウン・幕張ベイパークの中高層マンション群などにより「職・住・学・遊」の複合機能の集積が進む。ベイエリアには、人工海浜やヨットハーバーなどが整備されている。最寄り駅はJR東日本「海浜幕張駅」。 サッカー日本代表の拠点である高円宮記念JFA夢フィールドや本田圭佑自社グラウンドゾゾパークホンダフットボールエリア、プロ野球チーム・千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉マリンスタジアムを有し、国際千葉駅伝、レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ日本会場(幕張海浜公園)、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技会場(幕張メッセ)など、一大スポーツ拠点ともなっている。 東京都心・東京国際空港と成田国際空港のほぼ中間地に位置するため、そのアクセスの良さから年間約2,700万人が訪れる。 各区の重要地域拠点(稲毛、幕張、都賀、鎌取)、生活拠点(検見川浜、稲毛海岸、土気、誉田、千城台、西千葉、検見川、幕張本郷、浜野)の市街地はそれぞれの拠点駅前を中心に形成されている。 生活拠点地区は駅前に拠点性を持つ大型商業施設(複合施設)や動線整備がされている。 元々の市外局番は「0472」だったが、政令指定都市昇格4週間後の1992年(平成4年)4月29日から「043」に変更され、市内局番は200番台になった。新規加入は300番台が割り当てられる(市外局番「0434」であった佐倉市、四街道市、八街市なども同日に「043」になり、市内局番は400番台になった)。ただし、花見川区の八千代市に接している一部の地域(柏井町・柏井・横戸町・横戸台など)は買い物などの生活基盤が八千代市であることなどを理由に住民の希望で市外局番が「047」(変更前は0474-8nで単位料金区域も八千代市扱い)となっており、同じ千葉市内でありながら「043」地域から「047」地域に電話をする際(逆も)には市外局番からかけなければならない。 「花の都・ちば」のシンボルキャラクターとして、ちはなちゃんが使用されている。パンフレットや看板などによく印画されているため、街中でも見ることができる。 宿泊施設 千葉市は、1市で1つの二次医療圏(千葉保健医療圏)を構成する。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。 医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。 一次医療圏(市内) 中央区 美浜区 花見川区 稲毛区 若葉区 緑区 二次医療圏 構造改革特区に指定されており、千葉国際教育特区構想が認可された。 ※千葉市内に本部を置く大学は太字で表示 国公立 私立 私立 私立32校の専修学校がある。以下、主な専修学校一覧。 県立 市立 私立 学校名のリストおよび各学校の記事については、各区記事および「千葉県小学校一覧#千葉市」または「千葉県中学校一覧#千葉市」を参照。 千葉市の小学校・中学校の数は、以下の表の通り(千葉市教育委員会事務局、学校教育部学事課より)。 国立 各種学校 学校教育以外の教育訓練施設 高等学校 1950年(昭和25年)から1961年(昭和36年)まで、以下の高等学校はナンバースクールであった。 一高 千葉高等学校 二高 千葉女子高等学校 三高 千葉東高等学校 中学校 1947年(昭和22年)から、以下の中学校はナンバースクールであった。1952年(昭和27年)の新宿中学校・蘇我中学校の開校により、ナンバースクールは廃止された。 ※四中の椿森中学校は、校舎が定まらず翌1948年(昭和23年)に開校した。 現在では、緑町中学校の校章が数字の「五」を象っていることや、中学校の名簿の順番が加曽利中学校から始まることなどに名残が残っている。 千葉市の施設 千葉県の施設 その他 野球 サッカー バスケットボール バレーボール 陸上競技 プロレス ボクシング 千葉市で開催された主な大会一覧。 車いすバスケットボール日本選手権を3連覇した強豪の千葉ホークスの本拠地であり、また世界的に有名な競技用車椅子メーカーのオーエックスエンジニアリングが千葉市内に本社に持つ。 熊谷俊人市長は「車椅子スポーツのメッカを目指す」と発言するなど障害者スポーツに力を入れている。2015年10月には車いすバスケットボールの「2015IWBFアジアオセアニアチャンピオンシップ」が千葉ポートアリーナで開催された。 市内に空港はなく、千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)もしくは東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)が最寄りとなる。 成田国際空港 鉄道網が発達しており、3つの事業者が運行する12の旅客鉄道路線と、46の鉄道駅がある。このうち千葉駅・海浜幕張駅・稲毛駅は、JR東日本の乗車人員ランキング上位100位内にランクインする。 東日本旅客鉄道(JR東日本) 総武緩行線 総武快速線 京葉線 ■ 総武本線 ■ 外房線 ■ 内房線 京成千葉線 京成千原線 1号線 2号線 中心となるバス停:千葉駅バスターミナル 市域のほとんどで広義の京成グループの会社の手による路線バスが運行されている。また、公営交通(市営バス)の運行は実施してない。 乗車方法は一部の均一路線を除き、基本的に後乗り前降り後払い方式。運賃は整理券を用いた区間制を採っている。 市内において、バス共通回数券は現在発行されていない。ただし、九十九里鉄道を除く各社では非接触型ICカードであるPASMO・Suicaが利用できる。 首都高速湾岸線 - E51東関東自動車道 E66首都高速7号小松川線 - E14京葉道路 E14館山自動車道 首都圏中央連絡自動車道(圏央道) E82千葉東金道路 千葉外房有料道路(千葉県道67号生実本納線) 中央区中央・本町の広小路交差点は国道14号の終点と国道51号の起点を兼ねており、戦前から千葉市における国道の結節点であった。 千葉市道 千葉市道路には以下の愛称が付けられている。 旅客船・遊覧船としては千葉中央港旅客船桟橋(千葉みなと桟橋)より運航されている。 他、幕張ビーチ花火フェスタ(千葉市民花火大会)の納涼船なども期間限定で出航している。 市内には稲毛ヨットハーバーなど係留ないし保管する機能を持つ港湾施設もある。 東京湾を望む幕張地区(美浜区)に、全国的に有名なイベントや会議などが開催される複合的コンベンション施設の幕張メッセや、千葉ロッテマリーンズの本拠地千葉マリンスタジアムなどがある。近年では、「花の都・ちば」を都市イメージとして確立すべく事業を展開している。 「千葉市観光協会」も参照 ※前述の旧跡や文化施設を除く名所 幕張メッセ(幕張イベントホール)ではアジア地域有数の国際見本市会場及びMICE施設として大規模なイベントが多数行われている。 毎年あるいは数年おきに開催される主なイベントを以下に記す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "千葉市(ちばし)は、千葉県の中央部にある市。千葉県の県庁所在地及び人口最多の市であり、政令指定都市の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "都市雇用圏における東京都市圏の中心都市の一つであり、6区の行政区を持つ。業務核都市、国家戦略特区、構造改革特区、都市再生特別地区、国際会議観光都市、保健所政令市、グローバルMICE都市に指定されている。仙台市に次いで日本の市町村で12番目の人口を持つ都市であり、100万人未満の市の中で最多である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "千葉県中央部に位置し、日本の首都である東京都の都心や成田国際空港・東京国際空港から約25 - 35キロメートル圏内にある、東京湾に面した県内最大の都市である。市政の中心地は亥鼻地区(中央区の本千葉駅、県庁前駅周辺)、市域の中央駅は千葉駅(中央区)、経済活動の中心地は千葉都心(中央区の千葉駅・千葉中央駅・千葉都市モノレール1号線沿線周辺)、蘇我副都心(中央区の蘇我駅周辺)、幕張新都心(美浜区の海浜幕張駅周辺)、教育の中心は稲毛区であり千葉大学の本部をはじめとして、多数の私立大学や高等学校が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国際拠点港・日本三大貿易港の千葉港を有する港湾都市で、京葉工業地帯の中核・工業都市である。市内にはアジア地域有数の国際見本市である幕張メッセがあり、首都圏の中でも多種業務機能が集積した首都機能の一翼を担い、中心業務地区 (CBD) の千葉都心・幕張新都心を中心に世界に開かれた国際都市の役割を担う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1126年、千葉氏の実質的な初代当主である千葉常重が猪鼻台(現在の亥鼻城址周辺)に居館を築いたことにより広義の城下町として繁栄し、その後は千葉妙見宮(千葉神社)の小規模な門前町となる。近世には千葉佐倉街道(千葉街道)や東金御成街道の宿場町となり、佐倉藩の外港でもあった。1873年、千葉県庁が千葉町(現在の千葉市中央区本千葉町)に置かれたことにより、千葉県内の政治・経済・文化の中心地、交通の要衝として発展し、ウォーターフロント開発による千葉港や京葉工業地帯の整備による港湾都市・工業都市として、約100万規模を有する都市へと成長した。また、東京都の都心と成田国際空港の中間地点に位置することから首都圏の中でも幕張新都心や千葉港のような国際戦略に重要な機能・施設が多く、グローバル都市としての役割が強い。先端技術産業の集積地となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "東京都特別区部への通勤率は20.0%(約20万人)といわゆる「千葉都民」が一定数存在する(2015年国勢調査)ものの、昼夜間人口比率は97.5% とベッドタウンとしての機能都市が強い東京の周辺に位置する首都圏の都市では昼間人口が比較的多い方であり、関東有数の巨大商圏による商業集積や企業の本社を持つ一方で、独立した支店経済都市として東京都の都心だけに依存しない独自の経済圏(千葉都市圏)を形成している。また、一部の企業が支店や支社を千葉市に置いて首都圏(特に東関東)を管轄下に置いているケースも見られ、広義の拠点都市としての機能もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "千葉市には、都心・新都心・副都心と異なる名称を与えられた地区があるが、3者とも機能的には「都心」としている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "千葉市都市計画マスタープラン によると下記のような集約型都市構造としている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "千葉県の中央部(ほぼ中西部)に位置し、中心市街地は東京都の都心と成田国際空港の中間地点(約25 - 35キロメートル)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "地形は、臨海部および各河川下流域に広がる関東平野の平地とその周辺部は下総台地の台地・谷津から構成される。郊外や臨海部を中心に大規模な住宅団地が多くある一方、若葉区、緑区には豊かな自然環境と住宅地が共存している。かつての海岸線は現在の国道14号・国道357号・国道16号をなぞる線にほぼ等しく、遠浅の海が広がっていたが高度経済成長期以降の大規模な海面埋立により、新たに広大な土地が誕生した。美浜区のほぼ全域および中央区の一部がこれに該当する。現在の海岸線は中央区部分ではほぼ工業施設または港湾で占められている一方、美浜区部分には長大な人工海浜(いなげの浜、検見川の浜、幕張の浜)も造成されている。美浜区全域、中央区と花見川区の一部を除いて標高20メートル以上の台地に位置しており、緑区土気町など標高90メートル以上に位置する地域も存在する。なお最高地点は緑区板倉町の標高103.6メートル、最低地点は美浜区豊砂の標高0.7メートルである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "地域によって気候は異なるが、一般には夏季はそれほど猛暑にはならず、冬季も若葉区や緑区など内陸部を除き暖かくて温和な太平洋側気候である。年平均気温は、過ごしやすい16.2度である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "千葉特別地域気象観測所(旧千葉測候所)の観測によると、1月の平均気温は6.1°C、最低気温は2.4°Cと高く、沿岸部は東京湾からの風や高い水温の影響で冬日になることは少なく、過去最低気温(1966年4月 - )は-5.2°C(1967年2月13日)とかなり高い。一方、若葉区、緑区などの内陸部は風が弱く、放射冷却により冬日になりやすく氷点下まで冷え込むこともある。そのため中央区の港湾部に立地し都市部特有のヒートアイランドによる影響も強い千葉特別地域気象観測所の観測気温と内陸部の気温とでは大きく異なることがある。実際に千葉特別地域気象観測所では2016年(平成28年)1月24日から25日にかけての寒波の時、南西諸島や伊豆諸島、小笠原諸島などの島嶼部を除いた全国の観測地(気象官署・アメダス)の中で唯一、冬日を観測しなかった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "8月の平均気温は27.1°C、最低気温は24.3°Cであり、共に千葉県内の気象観測地点の中では高めの傾向にある。これは、ヒートアイランドの影響に加え、沿岸部の埋立地に立地する千葉特別地域気象観測所は東京湾から吹き付ける湿度の高い熱風の影響で夜になっても気温が下がりにくいからである。そのため、東京湾沿岸地域の日中は海のない内陸県のような猛暑(35°C以上)とはなりにくいものの、夜は蒸し暑くなりやすい。過去最高気温は38.5°C(2015年8月7日)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "冬季、南関東を南岸低気圧が通過する場合、千葉市付近は暖気と寒気の境界線となりやすく、県内北西部(東葛・葛南地域)や東京・横浜が大雪の場合でも県内南部(君津・木更津地域)などでは雨や霙となり、それほどの積雪量にならない場合も多く、年間平均降雪量も7センチメートルと東京(8センチ)や横浜(9センチメートル)に及ばない。しかし、寒気の引き込みが強い場合は、標高が100メートル前後と高く気温が低い地区(緑区土気周辺など)で降雪量が多くなりやすく、毎年10センチメートル前後の積雪となるのも珍しくない。過去に1951年(昭和26年)2月14日から15日にかけての関東平野部(1都6県)では記録的大雪を観測しており、南岸低気圧の影響で内陸部の白井(現・若葉区野呂町)で133センチメートル、市街地に近い仁戸名(現・中央区仁戸名町)で91センチメートル、市街地の都(現・中央区都町)で80センチ の積雪となったことがあるなど、低気圧の進路や寒冷渦の影響などによっては稀に雪の積雪量が多くなることがある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "千葉市若葉区桜木には世界でも最大規模の貝塚および環状集落である特別史跡「加曽利貝塚」がある。縄文時代の痕跡が色濃く残っており、この場所では約7000年前の竪穴建物跡が発見されているが、当時の貝塚は残されていない。巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前の縄文中期である。初期には小規模な貝塚と住居があったが、後にその上に直径約130メートルのドーナツ形の貝塚が約1000年かけて作られていることからも、多くの人々が暮らしていたとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "『日本後紀』大同元年正月癸巳(1月28日)(806年2月20日)条に、「千葉国造(ちはのくにのみやつこ)大私部直(おおきさいべのあたい、直はカバネ)善人」という人物が登場しており、大化の改新以前より千葉市に国造が置かれていた可能性が高く、律令制成立後も下総国千葉郡と呼ばれる郡が成立した。さらに『倭名類聚鈔』には千葉郡にあった7つの郷の一つに「千葉郷」と呼ばれる郷があったことが記されており、同郷は現在の稲毛区穴川・黒砂付近を指していたと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "平安時代に平常重が千葉郡千葉郷・池田郷一帯に千葉荘を開き、1126年(大治元年)、猪鼻台(現在の亥鼻城址・亥鼻公園周辺)に居館(亥鼻城)を築いて、千葉介を名乗り 千葉氏の実質的な初代当主となる(千葉常重)。都川周辺は広義の城下町 として繁栄した。常重の子、千葉常胤は鎌倉幕府を開いた源頼朝の重鎮となる。以後、子孫が室町時代まで下総国守護職として周辺を支配した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "下総国から西へ東京湾を渡った相模国金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)の称名寺には、鎌倉時代の千葉寺や千葉市の大日寺で書写された仏教関係の文書が多数残されている。東京湾対岸の称名寺に多数残されているのは、僧侶が東京湾の水運を使って下総国と相模国の間を往来していたためとされ、都川河口(現在の千葉市中央区寒川町付近)は下総国の地方船着場(湊)として利用されていた。しかし、享徳の乱に乗じた原胤房と馬加康胤によって千葉胤宣が討たれ、千葉氏宗家が滅びた後は、千葉妙見宮(千葉神社)の小規模な門前町となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "江戸時代には、現在の千葉市域の大半が佐倉藩の所領となった他、市域内に生実藩・曽我野藩の2小藩が置かれた。その他に幕府領(天領および旗本・与力知行所)となっている地域もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "後に江戸から佐倉城を結ぶ佐倉街道が整備されると、船橋宿から分岐して寒川湊(現在の千葉港)を結ぶ千葉佐倉道(千葉街道)や東金御成街道が整備され、将軍が休息・宿泊する為に千葉御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、千葉御殿(千葉市中央区中央)も造られた。千葉市内には御殿が2カ所存在し、小規模な宿場町となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "江戸時代末期ごろから海運業が盛んとなり、曽我野浦(曽我野県、現在の千葉市中央区蘇我)や登戸浦(現在の千葉市中央区登戸)は、物資を江戸へと船で運ぶ拠点となっていた。曽我野浦では、東金や九十九里沿岸から馬の背で輸送された〆粕・干鰯・年貢米・鮮魚などを荷受けし、五大力船で江戸に廻送した。登戸浦は、江戸築地に荷揚場を持ち、都川の水運で運ばれた年貢米や海産物を房総半島から江戸に運び、佐倉藩の外港でもあった。江戸時代後期の浮世絵師である葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「登戶浦」に当時の活気が描かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "戊辰戦争後の1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県では、現千葉市は印旛県の領内に入れられた。しかし、明治初期の1873年(明治6年)には印旛県と木更津県が合併されて千葉県が誕生し、旧両県の境で千葉氏の本拠地でもあった現千葉市(亥鼻地区)に県庁が設置され、これ以後は千葉県の県庁所在地として発展することとなる。1894年(明治27年)には国鉄による総武鉄道の開通により、政治と交通の中心地として整備が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "市制施行により千葉市が誕生したのは、1921年(大正10年)1月1日のことである。この時点での市域は、現在の中央区の北半分から稲毛区の南東部にわたり、これは1889年(明治22年)に設定された千葉町の町域をそのまま引き継いだものであった。その後、徐々に周辺の町村を編入するとともに、海面の埋め立てを進め、1922年(大正11年)5月27日、内務省告示第131号により港湾指定を受け、後の千葉港となる。1940年(昭和15年)には、東京湾臨海工業地帯計画が内務省土木会議で決定され、その一環として、千葉市今井町地先海面300ヘクタールの埋め立てを計画して200ヘクタールの埋立てを行い、市域は拡大していく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "戦前(第二次世界大戦勃発前)には、現在の川崎町の埋立地に日立航空機製作所と日立製作所などの軍施設が集中する軍都「千葉」として軍都「習志野」とともに発展した。千葉市内には1908年ごろの陸軍歩兵学校、気球聯隊など陸軍関係の学校や施設が多く残り、例として千葉公園内には戦跡として練習用トンネル、架橋演習用橋脚、荒木山などが残されている。1945年(昭和20年)6月10日と7月7日に連合国軍による大規模な空襲(千葉空襲・七夕空襲)に見舞われ市域の7割が壊滅する甚大な被害を受け、その後、第二次世界大戦は終結となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "戦後、宮内三朗市長(名誉市民第1号)の元で大規模な埋め立てと市町村合併が行われた。現在の緑区のうち、旧土気町であった部分はかつては上総国山辺郡(今の山武郡)に属していた地域である。1948年(昭和23年)7月16日、千葉港の港則法に基づく港域が決定され、日本における戦災復興都市計画の一環として川崎製鉄株式会社(現在のJFEスチール株式会社)を今井町地先埋立地(現在の蘇我副都心)に誘致し、京葉工業地帯の中心都市として再建された。周辺は企業城下町の雰囲気を色濃く残し、西口がある川崎町にはJFEスチール東日本製鉄所、東口にはJFE体育館(旧:川鉄体育館)・千葉メディカルセンター(旧:川鉄病院)・JFEスチールの社宅や独身寮などが建設され、工業都市として発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1954年(昭和29年)2月27日、千葉港が法務省令第14号により出入国管理令上の出入国港に指定、同年3月20日港則法に基づく特定港に指定され、1953年(昭和28年)7月1日、政令第150号により国際貿易港として関税法上の開港に指定。これにより後の1982年(昭和57年)10月に、千葉港開港記念日を「7月1日」として制定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「日本の政治、経済、文化等の中心としてふさわしい首都圏の建設とその秩序ある発展を図る」ことを目的として1956年(昭和31年)に「首都圏整備法」制定され、千葉市が近郊整備地帯に指定された。これにより、1960年(昭和35年)には、大宮団地の整備事業が開始され、以後土地区画整理事業が相次いだ。特に、1967年(昭和42年)には、海浜ニュータウン計画を発表、稲毛、検見川、幕張に計画人口約24万人の大規模なニュータウン建設が計画された。その後、独立都市の計画として「幕張新都心(A地区)基本計画」を発表し、業務中枢機能の東京一極集中に歯止めをかけることを目的に、住宅中心の土地利用計画を大幅に見直し、業務機能を持つ「新都心」を建設することを決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "『千葉県新総合五ケ年計画』では、千葉県内における進学率の上昇、学生数の増加に対応して幕張新都心に教育文化機能を充実させる「学園のまち」構想を示した。1981年(昭和56年)より順次、大学、高校などの文化・教育施設が立地し、西千葉駅周辺(稲毛区)、本千葉駅周辺(中央区)、おゆみ野(緑区)、幕張新都心文教地区(美浜区)に文教都市を形成した。また、首都高速湾岸線や東関東自動車道、JR京葉線などのインフラ整備が急ピッチで進む。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)千葉新産業三角構想策定(基幹プロジェクト)および幕張新都心事業化計画(千葉新産業三角構想)を策定し「幕張新都心構想」「かずさアカデミアパーク構想」「成田国際空港都市構想」の3つを基幹プロジェクトとした『千葉新産業三角構想』が決定。東京都心と成田国際空港の中間に位置する千葉市は、業務機能の集積を核とした新都心として構想されるようになり、その開発誘導施設として幕張メッセを位置づける「幕張新都心事業化計画」も同年発表される。1989年(平成元年)10月、国際見本市として幕張メッセが完成。同月、第28回「東京モーターショー」が幕張メッセで開催され、史上最高の15カ国が参加。192万人が訪れ、幕張新都心は名実ともに国際コンベンション都市として誕生した。1990年(平成2年)3月には、幕張メッセの海側に総面積(延床)4万4782平方メートル、3万人収容という国際級規模の千葉マリンスタジアムがオープンし、1992年(平成4年)3月からは千葉ロッテマリーンズのホームグラウンドとなっている。また、幕張テクノガーデンのオープンを皮きりに、業務地域の建設が順調に進んだ。幕張新都心の総合的な街づくりに対して、日本都市計画学会賞「石川賞」が千葉県に贈られ、質の高いインフラ整備と優れたデザインによって事業者を誘導するなど、先進的で官民一体となった業績が評価され、自治体では初の受賞となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1992年4月1日には、全国12番目の政令指定都市に移行し、6つの行政区が発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "蘇我副都心では、JFEスチール東日本製鉄所の沖合い埋立地区への移転に伴い、千葉市が蘇我特定地区整備計画を策定し、ハーバーシティ蘇我として再開発が行われた。2005年(平成17年)4月27日に第1期として開業し、その後千葉市蘇我スポーツ公園内にフクダ電子アリーナが整備され、同年10月16日に開業してからはジェユナイテッド市原・千葉のホームスタジアムとなっている。フクダ電子アリーナの完成後、蘇我スポーツ公園内(スタジアムの東隣)に多目的広場(フクダ電子スクエア)などが建設されたほか、隣接地にジェフのクラブハウスや練習所を兼ね備えたユナイテッドパークが整備されている。これにより、延べで年間2000万人が来場する施設となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "千葉駅は2011年(平成23年)から建て替え工事が進められてきており、2016年(平成28年)11月20日、53年ぶりに新しい「千葉駅」として開業した。改札など駅機能を3階に集約することで、ターミナル駅として利便性も向上している。駅西口には2013年(平成25年)10月1日に千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設として複合施設のウェストリオ (WESTRIO) が開業し、ビルが3棟並ぶ。2018年(平成30年)6月28日には千葉ステーションビル主体の駅ビル「ペリエ千葉 (Perie)」が開業し、構内にはエキナカ(地上3、4階の2フロア)、改札外にはペリエ千葉の本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2と約8万3000平方メートルの大規模な駅ビルが隣接している。駅周辺は都市の国際競争力強化の観点から特に重要な地域として都市再生緊急整備地域に指定されており、千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区) など、更なる都市再開発事業が続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)、幕張海浜公園にて「レッドブル・エアレース・千葉 2015」が日本初開催される。更に幕張海浜公園D・Eブロックが「JFAナショナルフットボールセンター」の建設候補地となる。2016年(平成28年)、千葉市が東京圏の国家戦略特別区域に指定され、ドローン宅配便や自動運転モビリティなどの実用化に向けた検討を行う近未来技術実証や、規制改革メニュー活用事業、児童福祉施設の設備および運営に関する基準の緩和や都市部におけるオンライン服薬指導の実施などの規制改革提案が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2020年には幕張メッセにおいて東京2020オリンピック競技大会の3競技(フェンシング、レスリング、テコンドー)、東京2020パラリンピック競技大会の4競技(ゴールボール、シッティングバレーボール、車いすフェンシング、テコンドー)の会場となることが決定。更に2018年(平成30年)10月15日、重点戦略5の都市資源を活用し、統合型リゾート(IR)導入の可能性に国の動向を注視しながら検討を進めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)2月、隣接する四街道市の住民の発議によって法定合併協議会が設置され、千葉市への編入として行政区名を「四街道区」とする方針が決まったが、四街道市議会内で編入への賛否が拮抗したことから賛成派・反対派双方による発議により編入の是非を問う住民投票が行われることになり、2004年(平成16年)5月16日の投票で反対意見が賛成を上回り、6月28日に千葉県に合併協議会の解散を届け出て編入は白紙となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2015年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.05%増の971,882人であり、増減率は千葉県下54市町村中12位、60行政区域中15位。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "千葉市役所を中心として6つの区が設置されている。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "以下の6区で構成されている。人口はいずれも2023年11月1日時点の推計人口。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)には市制施行80周年を記念して、各区の「イメージカラー」と「シンボルマーク」が発表された。なお、シンボルマークの使用については各区の許可が必要である。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "千葉市に置かれる国際機関は以下の通り。", "title": "国政・県政" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "千葉市に置かれる主な国の行政機関は以下の通り。", "title": "国政・県政" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "行政機関", "title": "国政・県政" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "司法機関", "title": "国政・県政" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "千葉市に置かれる主な県・市の行政機関は以下の通り。", "title": "国政・県政" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "工業", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "臨海部(中央区川崎町、新浜町、蘇我町、美浜区新港を中心とした地域)は千葉港を中心とした京葉工業地帯の一角をなし、中央区部分にはJFEスチール東日本製鉄所(旧川崎製鉄千葉製鉄所)、JERA千葉火力発電所などが所在し、美浜区新港には食品や金属加工関連の事業所が多い。また、北部地域(花見川区千種町、稲毛区六方町を中心とした地域)では、鉄鋼加工や機械工業が盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "商業", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "第二次大戦前には旧:省線千葉駅(のちの旧:国鉄千葉駅 (初代))、旧:京成千葉駅、県庁を結ぶ現・栄町通りがメインストリートとなっていた。しかし、戦災(千葉空襲)を経て第二次大戦後の都市整備に伴い、両千葉駅が移転したことで新駅周辺に商業集積が移動。特に国鉄千葉駅(二代目。現:JR千葉駅)前にはそごう千葉店、ニューナラヤ(現:千葉三越跡)といった大型小売店が店舗を構えたことから、千葉県最大・関東有数の商業拠点として栄えてきた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "バブル景気の時期には、幕張新都心、蘇我副都心、千葉みなとなどの臨海部に商業施設が建設され、郊外での大型ショッピングセンターなどが相次いで建設された。これ以来、地域が幕張(美浜区)を中心とした西半分と、亥鼻城周辺(中央区)を中心とする東半分に大きく二分されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "概して、幕張新都心は大企業や多国籍企業が多く立地し、中心市街地(JR・千葉都市モノレール千葉駅、JR東千葉駅、JR本千葉駅、亥鼻城近辺)は古くからの地元商店街的な色彩が目立つ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、一部の企業が支店や支社を千葉市に置いて千葉県と茨城県を管轄下に置いているケースも見られ、広義の東関東の拠点都市としての機能がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "農業", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "東京大都市圏の近郊型農業地。都市化の進展による農地の減少が課題となってはいるが、若葉区や緑区、花見川区北部に農地が広がる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "市街地の後背部に都市近郊の優良農地を有し、水田を中心とした土地基盤整備を始め、施設・機械の近代化など生産基盤の強化を図る。農業生産基盤である農地は、本来の生産機能の他に、防災機能、治水機能、環境保全・自然景観の保持やレクリエーションの場の提供など、都市の緑の空間としても重要な役割を果たしている。落花生やニンジンなどの畑作が中心だが、ブドウや梨などの果樹栽培もある。酪農も盛んで、飼養頭数、産出額は県下2位である。また落花生の生産量、作付け面積共に、隣接する八街市についで全国2位である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "千葉市の中心市街地は千葉都心(千葉駅から千葉中央駅、本千葉駅、千葉みなと駅周辺)、蘇我副都心、幕張新都心近辺に位置するが、東部の千葉都心・蘇我副都心と、西部の幕張新都心に大きく二分されている(詳細は後述の#商業の節)。一般的に「千葉市街地」というと千葉駅から千葉中央駅にかけて、もしくは千葉都市モノレール1号線沿い(千葉みなと駅から県庁前駅間)にかけての市街地を指すことが多い。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "JR東日本「千葉駅」から京成電鉄「千葉中央駅」、千葉都市モノレール「葭川公園駅」にかけての中心市街地(富士見地区から中央地区)には企業のオフィスビル、銀行や商業施設、家電量販店などが林立する繁華街となっており、関東有数の市場規模である巨大商圏となっている。また市街地中心部に位置する中央公園(葭川公園駅最寄り)は市民の憩いの場として様々なイベントが行われている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "千葉駅には駅ビル(ペリエ千葉)、複合施設(ウェストリオ)、ホテル(サンルート千葉)、センシティ(センシティタワー、そごう千葉店、オーロラモールジュンヌ)、商業施設(シーワン)が入居・接続しており、千葉駅から千葉中央駅の両駅間は約1キロメートルほどの商業施設(建物)で繋がっている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "市街地は地場資本の奈良屋(後に専門店ビル・セントラルプラザ)・田畑(後の千葉パルコ)・扇屋(後にジャスコ傘下入り)といった百貨店が並び、ダイエーや丸井、十字屋、緑屋が進出するなど活況を呈していたが、現在では駅直結のそごう千葉店、オーロラモールジュンヌなど駅付近に商業施設が集中し、駅から離れた場所にあった商業施設はマンションなどに転用されている。また、市街地から少し逸れた中央区栄町地区は、かつては県下一の賑わいをみせていたが、千葉空襲の被害を受けたあと、風俗店、キャバレー、コリアンタウン、小料理屋などが集中する歓楽街と化し、国鉄千葉駅が現在の位置に移転した後は商業拠点も駅に近い中央区富士見地区に移転した。市は地元商店会と共に栄町の再生に取り組み始めている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "駅周辺は都市再生緊急整備地域に指定されており、千葉駅東口地区、西口地区の再開発事業が続いている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "千葉市の古くからの中心部であり、周辺は官庁街のほか、千葉大学(医、薬、看護)をはじめ千葉県立千葉中学校・高等学校などが集約する文教地区として知られる。千葉中央駅にはシーワンと接続の商業施設(ミーオ)、ホテル(京成ホテルミラマーレ)、シネマコンプレックス(京成ローザ10イースト・ウエスト)などを有している。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "JR東日本「千葉駅」から千葉都市モノレール「県庁前駅」周辺には、かつての下総国守護所があった亥鼻城跡(亥鼻公園)を囲むように、千葉県庁、千葉県議会棟庁舎、千葉県警察本部、千葉市消防局、千葉地方検察庁・千葉区検察庁、千葉地方裁判所・千葉家庭裁判所など行政機関が集中する。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "JR東日本「千葉みなと駅」周辺には国際拠点港湾である千葉港の港湾地区を中心に千葉ポートタワーや千葉県立美術館、千葉市役所をはじめ、港湾施設(千葉みなと桟橋、ケーズハーバーなど)、複合施設(千葉ポートスクエア)、商業施設(ミハマニューポートリゾートなど)、企業(京葉銀行千葉みなと本部など)、ホテル(オークラ千葉ホテルなど)、結婚式場(ベイサイドパーク迎賓館など)など港湾都市として整備されており、ウォーターフロントの開発が集中する。歴史的建造物として国の登録有形文化財に登録されている日本勧業銀行本店(現在の千葉トヨペット本社)がある。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "蘇我地区は戦災復興の一環として誘致された川崎製鉄の企業城下町である。千葉市は、蘇我駅周辺地区を千葉都心・幕張新都心に続く第三の都心と位置付け、2003年から川崎町地区の旧川鉄千葉製鉄所のほぼ全域と蘇我駅周辺地区を含めた蘇我臨海地区土地区画整理事業を開始し、大型商業施設や球技場を中核とした商業地区や公園施設の整備が行われている。これに伴い、土地区画整理後に商業施設やフクダ電子アリーナが建設され、将来的な周辺人口増による利用者増を見越して、千葉市とJR東日本により駅施設の拡充が行われている。2004年8月に駅本屋の拡充が、2005年に西口駅前広場の整備が終了している。JR東日本蘇我駅周辺にはハーバーシティ蘇我などの大型商業施設やジェフユナイテッド市原・千葉のホームスタジアムであるフクダ電子アリーナなどが整備されている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "幕張新都心地区には、大規模見本市や国際会議などが開かれる幕張メッセ(国際展示場・国際会議場)・幕張イベントホールをはじめ、日本を代表する多国籍企業や外資系企業が入居する超高層ビル(ワールドビジネスガーデン・幕張テクノガーデン)、宿泊施設および大規模商業施設が数多く進出しており、国際機関および国家機関(官公庁)の研究・研修機関を中心とした教育・研究施設や、幕張ベイタウン・幕張ベイパークの中高層マンション群などにより「職・住・学・遊」の複合機能の集積が進む。ベイエリアには、人工海浜やヨットハーバーなどが整備されている。最寄り駅はJR東日本「海浜幕張駅」。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "サッカー日本代表の拠点である高円宮記念JFA夢フィールドや本田圭佑自社グラウンドゾゾパークホンダフットボールエリア、プロ野球チーム・千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉マリンスタジアムを有し、国際千葉駅伝、レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ日本会場(幕張海浜公園)、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技会場(幕張メッセ)など、一大スポーツ拠点ともなっている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "東京都心・東京国際空港と成田国際空港のほぼ中間地に位置するため、そのアクセスの良さから年間約2,700万人が訪れる。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "各区の重要地域拠点(稲毛、幕張、都賀、鎌取)、生活拠点(検見川浜、稲毛海岸、土気、誉田、千城台、西千葉、検見川、幕張本郷、浜野)の市街地はそれぞれの拠点駅前を中心に形成されている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "生活拠点地区は駅前に拠点性を持つ大型商業施設(複合施設)や動線整備がされている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "元々の市外局番は「0472」だったが、政令指定都市昇格4週間後の1992年(平成4年)4月29日から「043」に変更され、市内局番は200番台になった。新規加入は300番台が割り当てられる(市外局番「0434」であった佐倉市、四街道市、八街市なども同日に「043」になり、市内局番は400番台になった)。ただし、花見川区の八千代市に接している一部の地域(柏井町・柏井・横戸町・横戸台など)は買い物などの生活基盤が八千代市であることなどを理由に住民の希望で市外局番が「047」(変更前は0474-8nで単位料金区域も八千代市扱い)となっており、同じ千葉市内でありながら「043」地域から「047」地域に電話をする際(逆も)には市外局番からかけなければならない。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "「花の都・ちば」のシンボルキャラクターとして、ちはなちゃんが使用されている。パンフレットや看板などによく印画されているため、街中でも見ることができる。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "宿泊施設", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "千葉市は、1市で1つの二次医療圏(千葉保健医療圏)を構成する。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "一次医療圏(市内)", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "中央区", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "美浜区", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "花見川区", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "稲毛区", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "若葉区", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "緑区", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "二次医療圏", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "構造改革特区に指定されており、千葉国際教育特区構想が認可された。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "※千葉市内に本部を置く大学は太字で表示", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "国公立", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "私立", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "私立", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "私立32校の専修学校がある。以下、主な専修学校一覧。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "県立", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "市立", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "私立", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "学校名のリストおよび各学校の記事については、各区記事および「千葉県小学校一覧#千葉市」または「千葉県中学校一覧#千葉市」を参照。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "千葉市の小学校・中学校の数は、以下の表の通り(千葉市教育委員会事務局、学校教育部学事課より)。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "国立", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "各種学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "学校教育以外の教育訓練施設", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "高等学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)から1961年(昭和36年)まで、以下の高等学校はナンバースクールであった。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "一高 千葉高等学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "二高 千葉女子高等学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "三高 千葉東高等学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "中学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)から、以下の中学校はナンバースクールであった。1952年(昭和27年)の新宿中学校・蘇我中学校の開校により、ナンバースクールは廃止された。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "※四中の椿森中学校は、校舎が定まらず翌1948年(昭和23年)に開校した。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "現在では、緑町中学校の校章が数字の「五」を象っていることや、中学校の名簿の順番が加曽利中学校から始まることなどに名残が残っている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "千葉市の施設", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "千葉県の施設", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "その他", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "野球", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "サッカー", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "バスケットボール", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "バレーボール", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "陸上競技", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "プロレス", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ボクシング", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "千葉市で開催された主な大会一覧。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "車いすバスケットボール日本選手権を3連覇した強豪の千葉ホークスの本拠地であり、また世界的に有名な競技用車椅子メーカーのオーエックスエンジニアリングが千葉市内に本社に持つ。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "熊谷俊人市長は「車椅子スポーツのメッカを目指す」と発言するなど障害者スポーツに力を入れている。2015年10月には車いすバスケットボールの「2015IWBFアジアオセアニアチャンピオンシップ」が千葉ポートアリーナで開催された。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "市内に空港はなく、千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)もしくは東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)が最寄りとなる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "成田国際空港", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "鉄道網が発達しており、3つの事業者が運行する12の旅客鉄道路線と、46の鉄道駅がある。このうち千葉駅・海浜幕張駅・稲毛駅は、JR東日本の乗車人員ランキング上位100位内にランクインする。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "総武緩行線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "総武快速線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "京葉線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "■ 総武本線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "■ 外房線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "■ 内房線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "京成千葉線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "京成千原線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "1号線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "2号線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "中心となるバス停:千葉駅バスターミナル", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "市域のほとんどで広義の京成グループの会社の手による路線バスが運行されている。また、公営交通(市営バス)の運行は実施してない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "乗車方法は一部の均一路線を除き、基本的に後乗り前降り後払い方式。運賃は整理券を用いた区間制を採っている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "市内において、バス共通回数券は現在発行されていない。ただし、九十九里鉄道を除く各社では非接触型ICカードであるPASMO・Suicaが利用できる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "首都高速湾岸線 - E51東関東自動車道", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "E66首都高速7号小松川線 - E14京葉道路", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "E14館山自動車道", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "首都圏中央連絡自動車道(圏央道)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "E82千葉東金道路", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "千葉外房有料道路(千葉県道67号生実本納線)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "中央区中央・本町の広小路交差点は国道14号の終点と国道51号の起点を兼ねており、戦前から千葉市における国道の結節点であった。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "千葉市道", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "千葉市道路には以下の愛称が付けられている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "旅客船・遊覧船としては千葉中央港旅客船桟橋(千葉みなと桟橋)より運航されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "他、幕張ビーチ花火フェスタ(千葉市民花火大会)の納涼船なども期間限定で出航している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "市内には稲毛ヨットハーバーなど係留ないし保管する機能を持つ港湾施設もある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "東京湾を望む幕張地区(美浜区)に、全国的に有名なイベントや会議などが開催される複合的コンベンション施設の幕張メッセや、千葉ロッテマリーンズの本拠地千葉マリンスタジアムなどがある。近年では、「花の都・ちば」を都市イメージとして確立すべく事業を展開している。", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "「千葉市観光協会」も参照", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "※前述の旧跡や文化施設を除く名所", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "幕張メッセ(幕張イベントホール)ではアジア地域有数の国際見本市会場及びMICE施設として大規模なイベントが多数行われている。", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "毎年あるいは数年おきに開催される主なイベントを以下に記す。", "title": "名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事" } ]
千葉市(ちばし)は、千葉県の中央部にある市。千葉県の県庁所在地及び人口最多の市であり、政令指定都市の一つ。 都市雇用圏における東京都市圏の中心都市の一つであり、6区の行政区を持つ。業務核都市、国家戦略特区、構造改革特区、都市再生特別地区、国際会議観光都市、保健所政令市、グローバルMICE都市に指定されている。仙台市に次いで日本の市町村で12番目の人口を持つ都市であり、100万人未満の市の中で最多である。
{{日本の市 | 自治体名 = 千葉市 | 画像 = Chiba City montage.jpg | 画像の説明 = {{crlf2}} {{(!}}style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse" {{!}}style="width:100%" colspan="6"{{!}}[[幕張新都心]]業務研究地区 {{!-}} {{!}}style="width:50%" colspan="3" style="vertical-align:middle"{{!}}[[幕張メッセ]]北ホール{{!!}}style="width:50%" colspan="3" style="vertical-align:middle"{{!}}[[千葉中央駅]]周辺 {{!-}} {{!}}style="width:33%" colspan="2" style="vertical-align:middle"{{!}}[[千葉都市モノレール]]{{!!}}style="width:34%" colspan="2"{{!}}[[亥鼻城|千葉市立<br />郷土博物館]]{{!!}}style="width:33%" colspan="2" style="vertical-align:middle"{{!}}[[千葉ポートタワー|千葉<br />ポートタワー]] {{!-}} {{!}}style="width:50%" colspan="3" style="vertical-align:middle"{{!}}[[JFEスチール東日本製鉄所|JFEスチール<br />東日本製鉄所]]{{!!}}style="width:50%" colspan="3" style="vertical-align:middle"{{!}}[[千葉マリンスタジアム]] {{!)}} | 市旗 = [[ファイル:Flag of Chiba, Chiba.svg|border|100px|千葉市旗]] | 市旗の説明 = 千葉[[市町村旗|市旗]]<br />[[1966年]][[12月28日]]制定 | 市章 = [[ファイル:Emblem of Chiba, Chiba.svg|75px|千葉市章]] | 市章の説明 = 千葉[[市町村章|市章]]<br />[[1921年]][[5月8日]]制定 | 都道府県 = 千葉県 | コード = 12100-2 | 隣接自治体 = [[佐倉市]]、[[四街道市]]、[[習志野市]]、[[八千代市]]、[[八街市]]、[[東金市]]、[[大網白里市]]、[[市原市]]、[[茂原市]] | 木 = [[ケヤキ]] | 花 = [[大賀ハス]] | シンボル名 = 市の花木<hr>市の鳥 | 鳥など = [[キョウチクトウ]]<hr>[[コアジサシ]] | 郵便番号 = 260-8722 | 所在地 = 千葉市中央区千葉港1番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm2nd_region:JP-12|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Chiba city hall (cropped).jpg|250px|千葉市役所]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|12|100|image=Chiba in Chiba Prefecture Ja.svg}}[[ファイル:政令市区画図_12100.svg|320x320px|千葉市行政区画図]] {{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=260|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=35.6|frame-longitude=140.13|text=市庁舎位置}} | 特記事項 = }} '''千葉市'''(ちばし)は、[[千葉県]]の中央部にある[[市]]。千葉県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]及び人口最多の市であり、[[政令指定都市]]の一つ。 [[都市雇用圏]]における[[東京都市圏]]の[[中心都市]]の一つであり、[[千葉市#行政|6区]]の[[行政区]]を持つ。[[業務核都市]]、[[国家戦略特区]]、[[構造改革特区]]<ref name=":152">{{Cite web|和書|title=地域の特色等を生かした特別の教育課程を編成する学校の取組:文部科学省|url=https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gaikokugo/jouhou/tokubetsu.htm|website=www.mext.go.jp|accessdate=2019-05-20}}</ref>、[[都市再生特別地区]]、[[国際会議観光都市]]、[[保健所政令市]]、グローバル[[MICE]]都市<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kankocho/page03_000049.html |title=グローバルMICE都市 {{!}} MICEの誘致・開催の推進 {{!}} 国際観光 {{!}} 政策について {{!}} 観光庁 |accessdate=2018-12-21 |website=www.mlit.go.jp}}</ref>に指定されている。[[仙台市]]に次いで[[日本の市の人口順位|日本の市町村で12番目の人口]]を持つ[[都市]]であり、100万人未満の市の中で最多である。 == 概要 == [[ファイル:Makuharicity2.jpg|なし|サムネイル|400x400ピクセル|[[幕張新都心]]業務研究地区の[[スカイライン (風景)|スカイライン]]]] [[千葉県]]中央部に位置し、[[日本の首都]]である[[東京都]]の[[都心]]や[[成田国際空港]]・[[東京国際空港]]から約25 - 35キロメートル圏内にある、[[東京湾]]に面した県内最大の[[都市]]である。市政の中心地は[[亥鼻]]地区([[中央区 (千葉市)|中央区]]の[[本千葉駅]]、[[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]]周辺)、市域の中央駅は[[千葉駅]](中央区)、経済活動の中心地は千葉都心(中央区の千葉駅・[[千葉中央駅]]・[[千葉都市モノレール]][[千葉都市モノレール1号線|1号線]]沿線周辺)、蘇我副都心(中央区の[[蘇我駅]]周辺)、[[幕張新都心]]([[美浜区]]の[[海浜幕張駅]]周辺)、教育の中心は[[稲毛区]]であり[[千葉大学]]の本部をはじめとして、多数の私立大学や高等学校が存在する。 [[国際拠点港湾|国際拠点港]]・日本三大貿易港の[[千葉港]]を有する[[港湾都市]]で、[[京葉工業地域|京葉工業地帯]]の中核・[[工業都市]]である。市内には[[アジア|アジア地域]]有数の[[国際見本市]]である[[幕張メッセ]]があり、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の中でも[[業務|多種業務機能]]が集積した[[首都|首都機能]]の一翼を担い<ref name=":22">{{Cite web|和書|url=http://www.city.chiba.jp/shimin/shimin/kohokocho/prfnenpy.html|title=千葉市のあゆみ・年表|accessdate=2018-12-21|last=千葉市|website=千葉市}}</ref>、[[中心業務地区]] (CBD) の千葉[[都心]]・[[幕張新都心]]を中心に世界に開かれた[[国際都市]]の役割を担う<ref>{{Cite web|和書|title=3.業務施設集積地区の区域及び整備の方針に関する事項|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/seisaku/keikaku/sougoukikaku/chiba/3-shuuseki-seibi.html|website=千葉県|accessdate=2019-05-10|last=千葉県}}</ref><ref name=":32">{{Cite web|和書|title=国家戦略特区|url=http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokku/tokku_index.html|website=千葉市|accessdate=2019-05-10|last=千葉市}}</ref>。 [[1126年]]、[[千葉氏]]の実質的な初代当主である[[千葉常重]]が[[猪鼻|猪鼻台]](現在の[[亥鼻城|亥鼻城址]]周辺)に居館を築いたことにより広義の[[城下町]]として繁栄し、その後は[[千葉妙見宮]](千葉神社)の小規模な[[門前町]]となる。近世には[[佐倉街道|千葉佐倉街道]]([[千葉街道]])や[[東金御成街道]]の[[宿場町]]となり、[[佐倉藩]]の[[外港]]でもあった<ref name=":42">[[平凡社]](1998年)『[[世界大百科事典]]』第2版「千葉市」より</ref>。[[1873年]]、千葉県庁が千葉町(現在の千葉市中央区[[本千葉町]])に置かれたことにより、千葉県内の政治・経済・文化の中心地、交通の要衝として発展し<ref name=":22" />、[[ウォーターフロント]]開発による[[千葉港]]や[[京葉工業地域|京葉工業地帯]]の整備による[[港湾都市]]・[[工業都市]]として、約100万規模を有する都市へと成長した。また、東京都の都心と成田国際空港の中間地点に位置することから[[首都圏 (日本)|首都圏]]の中でも幕張新都心や千葉港のような国際戦略に重要な機能・施設が多く、[[国際都市|グローバル都市]]としての役割が強い。[[先端技術|先端技術産業]]の集積地となっている<ref>{{Cite web|和書|title=千葉県の産業|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kouhou/profile/sangyou.html|website=千葉県|accessdate=2019-05-19|language=ja|last=千葉県}}</ref>。 [[東京都]][[東京都区部|特別区部]]への通勤率は20.0%(約20万人)といわゆる「[[千葉都民]]」が一定数存在する(2015年[[国勢調査 (日本)|国勢調査]])ものの、[[昼夜間人口比率]]は97.5%<ref>[https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/syuyoutoukei.html 千葉市:主要統計指標] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151029141347/http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/tokei/syuyoutoukei.html|date=2015年10月29日}}</ref> と[[ベッドタウン]]としての機能都市が強い東京の周辺に位置する首都圏の都市では[[昼間人口]]が比較的多い方であり、[[関東]]有数の巨大[[商圏]]による商業集積や[[企業]]の[[本社]]を持つ一方で、独立した[[支店経済都市]]として東京都の都心だけに依存しない独自の[[経済圏]](千葉都市圏)を形成している。また、一部の企業が支店や支社を千葉市に置いて首都圏(特に[[東関東]])を管轄下に置いているケースも見られ、広義の拠点都市としての機能もある。 === 都市計画 === 千葉市には、[[都心]]・新都心・副都心と異なる名称を与えられた地区があるが、3者とも機能的には「都心」としている。 千葉市[[都市計画マスタープラン]]<ref>{{Cite web|和書|title=千葉市都市計画マスタープラン(全体構想) |url=http://www.city.chiba.jp/toshi/somu/2016_masterplan.html |website=千葉市 |accessdate=2019-02-07 |last=千葉市}}</ref> によると下記のような集約型都市構造としている。 * 県都、都市圏の中核としての3都心、重要地域拠点の形成 ** 都心 - 千葉都心(中央区、[[千葉駅]]周辺・千葉中央地区・[[亥鼻]]地区・[[千葉みなと駅|千葉港]]周辺) ** 新都心 - 幕張新都心(美浜区、[[海浜幕張駅]]周辺) ** 副都心 - 蘇我副都心(中央区、[[蘇我駅]]周辺) ** 重要地域拠点(副都心機能)- [[稲毛区|稲毛]](稲毛区)、[[幕張]](花見川区)、[[都賀]](若葉区)、[[鎌取駅|鎌取]](緑区) * 日常生活の拠点の形成・確立と、広がりをコンパクトにした都市づくり ** 地域拠点(生活拠点) - [[浜野駅|浜野]](中央区)、[[検見川浜駅|検見川浜]]・[[稲毛海岸駅|稲毛海岸]](美浜区)、[[西千葉駅|西千葉]](稲毛区)、[[検見川町|検見川]]・[[幕張本郷]](花見川区)、[[千城台駅|千城台]](若葉区)、[[土気町|土気]]・[[誉田駅|誉田]](緑区) * 活力ある産業集積、農業振興 ** 産業拠点(産業集積地) - [[川崎町 (千葉市)|川崎町]]、[[新港 (千葉市)|新港]]、千種町など == 地理 == 千葉県の中央部(ほぼ中西部)に位置し、中心市街地は[[東京都]]の都心と[[成田国際空港]]の中間地点(約25 - 35キロメートル)である。 地形は、臨海部および各河川下流域に広がる[[関東平野]]の平地とその周辺部は[[下総台地]]の[[台地]]・[[谷津]]から構成される。郊外や臨海部を中心に大規模な[[住宅]][[団地]]が多くある一方、[[若葉区]]、[[緑区 (千葉市)|緑区]]には豊かな[[自然環境]]と[[住宅地]]が共存している。かつての海岸線は現在の[[国道14号]]・[[国道357号]]・[[国道16号]]をなぞる線にほぼ等しく、遠浅の海が広がっていたが[[高度経済成長]]期以降の大規模な海面埋立により、新たに広大な土地が誕生した。[[美浜区]]のほぼ全域および[[中央区 (千葉市)|中央区]]の一部がこれに該当する。現在の海岸線は中央区部分ではほぼ工業施設または港湾で占められている一方、美浜区部分には長大な[[人工海浜]](いなげの浜、検見川の浜、幕張の浜)も造成されている。美浜区全域、中央区と花見川区の一部を除いて[[標高]]20メートル以上の台地に位置しており、緑区土気町など標高90メートル以上に位置する地域も存在する。なお最高地点は緑区板倉町の標高103.6メートル、最低地点は美浜区豊砂の標高0.7メートルである。 === 気候 === 地域によって気候は異なるが、一般には夏季はそれほど猛暑にはならず、冬季も若葉区や緑区など内陸部を除き暖かくて温和な[[太平洋側気候]]である。年平均気温は、過ごしやすい16.2度である。 千葉特別地域気象観測所(旧千葉測候所)の観測によると、1月の平均気温は6.1℃、最低気温は2.4℃と高く、沿岸部は東京湾からの風や高い水温の影響で冬日になることは少なく、過去最低気温([[1966年]]4月 - )は-5.2℃([[1967年]]2月13日)とかなり高い。一方、若葉区、緑区などの内陸部は風が弱く、[[放射冷却]]により冬日になりやすく氷点下まで冷え込むこともある。そのため中央区の港湾部に立地し都市部特有の[[ヒートアイランド]]による影響も強い千葉特別地域気象観測所の観測気温と内陸部の気温とでは大きく異なることがある。実際に千葉特別地域気象観測所では[[2016年]]([[平成]]28年)1月24日から25日にかけての寒波の時、[[南西諸島]]や[[伊豆諸島]]、[[小笠原諸島]]などの島嶼部を除いた全国の観測地(気象官署・アメダス)の中で唯一、冬日を観測しなかった。 8月の平均気温は27.1℃、最低気温は24.3℃であり、共に千葉県内の気象観測地点の中では高めの傾向にある。これは、ヒートアイランドの影響に加え、沿岸部の埋立地に立地する千葉特別地域気象観測所は[[東京湾]]から吹き付ける湿度の高い熱風の影響で夜になっても気温が下がりにくいからである。そのため、東京湾沿岸地域の日中は海のない[[内陸県]]のような[[猛暑]](35℃以上)とはなりにくいものの、夜は蒸し暑くなりやすい。過去最高気温は38.5℃([[2015年]]8月7日)である。 冬季、南関東を南岸低気圧が通過する場合、千葉市付近は暖気と寒気の境界線となりやすく、県内北西部([[東葛地域|東葛・葛南地域]])や東京・[[横浜市|横浜]]が大雪の場合でも県内南部([[君津市|君津]]・[[木更津市|木更津]]地域)などでは雨や[[霙]]となり、それほどの積雪量にならない場合も多く、年間平均降雪量も7センチメートルと東京(8センチ)や横浜(9センチメートル)に及ばない。しかし、寒気の引き込みが強い場合は、標高が100メートル前後と高く気温が低い地区(緑区[[土気町|土気]]周辺など)で降雪量が多くなりやすく、毎年10センチメートル前後の積雪となるのも珍しくない。過去に[[1951年]]([[昭和]]26年)2月14日から15日にかけての[[関東平野]]部(1[[東京都|都]]6[[県]])では記録的大雪を観測しており、[[南岸低気圧]]の影響で内陸部の[[白井村|白井]](現・若葉区野呂町)で133センチメートル、市街地に近い仁戸名(現・中央区仁戸名町)で91センチメートル、市街地の都(現・中央区都町)で80センチ<ref>『千葉県の気候・気象(千葉県の自然誌本編3)』103、670頁、千葉県気象月報・区内気象月表原簿(昭和26年2月)</ref> の積雪となったことがあるなど、低気圧の進路や寒冷渦の影響などによっては稀に雪の積雪量が多くなることがある。[[ファイル:R1033343 stitch ec.jpg|thumb|市街地を流れる[[葭川]]|219x219px|代替文=]] {{Weather box |location = 千葉市中央区中央港(千葉特別地域気象観測所、標高3m) |metric first = yes |single line = yes |Jan record high C = 20.7 |Feb record high C = 24.7 |Mar record high C = 25.3 |Apr record high C = 28.7 |May record high C = 32.2 |Jun record high C = 36.4 |Jul record high C = 37.8 |Aug record high C = 38.5 |Sep record high C = 36.2 |Oct record high C = 32.8 |Nov record high C = 25.8 |Dec record high C = 24.3 |year record high C = 38.5 |Jan high C = 10.1 |Feb high C = 10.7 |Mar high C = 13.8 |Apr high C = 18.7 |May high C = 23.0 |Jun high C = 25.6 |Jul high C = 29.4 |Aug high C = 31.0 |Sep high C = 27.5 |Oct high C = 22.3 |Nov high C = 17.3 |Dec high C = 12.5 |year high C = 20.2 |Jan mean C = 6.1 |Feb mean C = 6.6 |Mar mean C = 9.6 |Apr mean C = 14.5 |May mean C = 18.9 |Jun mean C = 21.9 |Jul mean C = 25.7 |Aug mean C = 27.1 |Sep mean C = 23.8 |Oct mean C = 18.6 |Nov mean C = 13.4 |Dec mean C = 8.6 |year mean C = 16.2 |Jan low C = 2.4 |Feb low C = 2.8 |Mar low C = 5.7 |Apr low C = 10.6 |May low C = 15.4 |Jun low C = 19.0 |Jul low C = 23.0 |Aug low C = 24.3 |Sep low C = 21.0 |Oct low C = 15.6 |Nov low C = 9.9 |Dec low C = 4.9 |year low C = 12.9 |Jan record low C = -5.1 |Feb record low C = -5.2 |Mar record low C = -4.4 |Apr record low C = 0.4 |May record low C = 6.8 |Jun record low C = 9.1 |Jul record low C = 12.5 |Aug record low C = 16.5 |Sep record low C = 10.7 |Oct record low C = 5.8 |Nov record low C = -0.9 |Dec record low C = -3.7 |year record low C = -5.2 |Jan precipitation mm = 67.5 |Feb precipitation mm = 59.1 |Mar precipitation mm = 111.3 |Apr precipitation mm = 110.4 |May precipitation mm = 122.3 |Jun precipitation mm = 150.9 |Jul precipitation mm = 136.5 |Aug precipitation mm = 115.7 |Sep precipitation mm = 204.7 |Oct precipitation mm = 225.7 |Nov precipitation mm = 94.1 |Dec precipitation mm = 56.8 |year precipitation mm = 1454.7 |Jan snow cm = 2 |Feb snow cm = 4 |Mar snow cm = 0 |Apr snow cm = 0 |May snow cm = 0 |Jun snow cm = 0 |Jul snow cm = 0 |Aug snow cm = 0 |Sep snow cm = 0 |Oct snow cm = 0 |Nov snow cm = 0 |Dec snow cm = 0 |year snow cm = 7 |Jan humidity = 53 |Feb humidity = 55 |Mar humidity = 61 |Apr humidity = 66 |May humidity = 71 |Jun humidity = 77 |Jul humidity = 78 |Aug humidity = 77 |Sep humidity = 77 |Oct humidity = 73 |Nov humidity = 66 |Dec humidity = 57 |year humidity = 68 |unit precipitation days = 0.5 mm |Jan precipitation days = 6.2 |Feb precipitation days = 6.8 |Mar precipitation days = 11.2 |Apr precipitation days = 10.7 |May precipitation days = 11.2 |Jun precipitation days = 12.4 |Jul precipitation days = 10.7 |Aug precipitation days = 8.5 |Sep precipitation days = 12.0 |Oct precipitation days = 11.5 |Nov precipitation days = 8.8 |Dec precipitation days = 6.5 |year precipitation days = 116.6 |Jan snow days = 5.6 |Feb snow days = 5.9 |Mar snow days = 2.4 |Apr snow days = 0.4 |May snow days = 0.0 |Jun snow days = 0.0 |Jul snow days = 0.0 |Aug snow days = 0.0 |Sep snow days = 0.0 |Oct snow days = 0.0 |Nov snow days = 0.1 |Dec snow days = 2.5 |year snow days = 17.7 |Jan sun = 191.6 |Feb sun = 165.3 |Mar sun = 167.5 |Apr sun = 177.0 |May sun = 180.5 |Jun sun = 126.9 |Jul sun = 162.7 |Aug sun = 189.4 |Sep sun = 134.6 |Oct sun = 131.6 |Nov sun = 143.6 |Dec sun = 174.8 |year sun = 1945.5 |source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1966年-現在)<ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=45&block_no=47682&year=&month=&day=&view= | title = 平年値ダウンロード | accessdate = 2023-09 | publisher = 気象庁}} </ref><ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=45&block_no=47682&year=&month=&day=&view= | title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値) | accessdate = 2023-09 | publisher = 気象庁}} </ref> }} === 主要な河川 === ;[[一級河川]] * [[利根川]]水系:[[鹿島川 (千葉県)|鹿島川]]、[[花見川]](印旛疏水路)、[[勝田川]] ; [[二級河川]] * 浜田川水系:[[浜田川 (千葉県)|浜田川]] * 都川水系:[[都川]]、[[葭川]]、支川都川、坂月川 * 浜野川水系:浜野川 * 生実川水系:生実川 * 村田川水系:[[村田川]]、ミカダ川 == 歴史 == === 前史(古代) === [[ファイル:Kasori Shell Midden Dugouts.jpg|thumb|加曽利貝塚内の復元[[竪穴建物]]]] 千葉市[[若葉区]]桜木には世界でも最大規模の[[貝塚]]および[[環状集落]]である[[特別史跡]]「[[加曽利貝塚]]」がある。[[縄文時代]]の痕跡が色濃く残っており、この場所では約7000年前の[[竪穴建物]]跡が発見されているが、当時の貝塚は残されていない。巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前の縄文中期である。初期には小規模な貝塚と住居があったが、後にその上に直径約130メートルの[[ドーナツ]]形の貝塚が約1000年かけて作られていることからも、多くの人々が暮らしていたとされている。 『[[日本後紀]]』[[大同 (日本)|大同]]元年正月[[癸巳]]([[1月28日 (旧暦)|1月28日]])([[806年]]2月20日)条に、「[[千葉国造]](ちはのくにのみやつこ)大私部直(おおきさいべのあたい、直は[[カバネ]])善人」という人物が登場しており、[[大化の改新]]以前より千葉市に[[国造]]が置かれていた可能性が高く、[[律令制]]成立後も[[下総国]][[千葉郡]]と呼ばれる[[郡]]が成立した。さらに『[[倭名類聚鈔]]』には千葉郡にあった7つの[[郷]]の一つに「千葉郷」と呼ばれる郷があったことが記されており、同郷は現在の[[稲毛区]][[穴川 (千葉市)|穴川]]・黒砂付近を指していたと考えられている。 === 千葉氏の本拠地 === [[ファイル:Chiba-jinja 003.jpg|サムネイル|千葉妙見宮(千葉神社)]] [[平安時代]]に[[平常重]]が千葉郡千葉郷・池田郷一帯に[[千葉荘]]を開き、[[1126年]]([[大治 (日本)|大治]]元年)、[[猪鼻|猪鼻台]](現在の[[亥鼻城|亥鼻城址]]・亥鼻公園周辺)に居館([[亥鼻城]])を築いて、[[千葉介]]を名乗り [[千葉氏]]の実質的な初代当主となる(千葉常重)。[[都川]]周辺は広義の[[城下町]]<ref name=":4">平凡社(1998年)『世界大百科事典』第2版「千葉市」より</ref> として繁栄した。常重の子、[[千葉常胤]]は[[鎌倉幕府]]を開いた[[源頼朝]]の重鎮となる。以後、子孫が[[室町時代]]まで下総国[[守護職]]として周辺を支配した。 下総国から西へ[[東京湾]]を渡った[[相模国]][[金沢区|金沢]](現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])の[[称名寺 (横浜市)|称名寺]]には、鎌倉時代の[[千葉寺]]や千葉市の[[大日寺 (千葉市)|大日寺]]で書写された[[仏教]]関係の文書が多数残されている。東京湾対岸の称名寺に多数残されているのは、[[僧侶]]が東京湾の水運を使って下総国と相模国の間を往来していたためとされ<ref name=":03">{{Cite web|和書|title=03.「千葉港」と「千葉の湊」 |url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/sonohoka/kyoudo/higata/chiba.html |website=千葉県 |accessdate=2019-02-13 |last=千葉県}}</ref>、都川河口(現在の千葉市中央区寒川町付近)は[[下総国]]の地方船着場([[湊]])として利用されていた<ref>{{Cite web|和書|title=猪鼻城跡(含七天王塚)(市指定文化財) |url=http://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/inohanajoseki.html |website=千葉市 |accessdate=2019-02-13 |last=千葉市}}</ref><ref name=":12">[https://www.pref.chiba.lg.jp/kendosei/meiji150/documents/11tibakou1.pdf 千葉港のうつりかわり]</ref>。しかし、[[享徳の乱]]に乗じた[[原胤房]]と[[馬加康胤]]によって[[千葉胤宣]]が討たれ、千葉氏宗家が滅びた後は、[[千葉妙見宮]](千葉神社)の小規模な[[門前町]]となった。 === 徳川藩政時代の街道と湊整備 === [[ファイル:Bay of Noboto.jpg|thumb|葛飾北斎画『富嶽三十六景』「登戶浦」の様子|代替文=|左]] [[江戸時代]]には、現在の千葉市域の大半が[[佐倉藩]]の所領となった他、市域内に[[生実藩]]・[[曾我野藩|曽我野藩]]の2小藩が置かれた。その他に幕府領([[天領]]および[[旗本]]・与力[[知行地|知行所]])となっている地域もあった。 後に[[江戸]]から[[佐倉城]]を結ぶ[[佐倉街道]]が整備されると、船橋宿から分岐して寒川湊(現在の千葉港)を結ぶ千葉佐倉道([[千葉街道]])や[[東金御成街道]]が整備され、[[征夷大将軍|将軍]]が休息・宿泊する為に[[千葉御茶屋御殿]](千葉市[[若葉区]]御殿町)、[[千葉御殿]](千葉市中央区中央)も造られた<ref>本保弘文「郷土史ノートその2 土気の茶亭」(『房総路』9号、1981年)</ref>。千葉市内には御殿が2カ所存在し、小規模な[[宿場町]]となる<ref>梁瀬裕一「千葉におけるもう一つの御殿跡―千葉御殿と千葉御茶屋御殿―」(『千葉いまむかし』18号、2005年)</ref>。 [[江戸時代末期]]ごろから海運業が盛んとなり、曽我野浦(曽我野県、現在の千葉市中央区[[蘇我 (千葉市)|蘇我]])や登戸浦(現在の千葉市中央区登戸)は、物資を江戸へと船で運ぶ拠点となっていた。曽我野浦では、東金や九十九里沿岸から馬の背で輸送された〆粕・干鰯・年貢米・鮮魚などを荷受けし、五大力船で江戸に廻送した<ref>{{cite web|url=http://jlogos.com/docomosp/word.html?id=7294558|title=曽我野村(近世)|work=角川日本地名大辞典|accessdate=2022-11-03}}</ref>。登戸浦は、江戸[[築地]]に[[荷揚げ屋|荷揚場]]を持ち、都川の水運で運ばれた[[年貢米]]や[[海産物]]を[[房総半島]]から江戸に運び<ref>{{Cite web|和書|title=葛飾北斎 「富嶽三十六景」解説付き |url=http://fugaku36.net/free/nobuto |website=葛飾北斎 「富嶽三十六景」解説付き |accessdate=2019-02-13}}</ref>、[[佐倉藩]]の[[外港]]でもあった<ref name=":4" />。江戸時代後期の[[浮世絵師]]である[[葛飾北斎]]の『[[富嶽三十六景]]』の「登戶浦」に当時の活気が描かれている。 {{Clear}} === 千葉市誕生と軍都 === [[ファイル:大日本帝国陸軍鉄道連隊の演習に用いられた橋脚.jpg|240x240px|thumb|橋脚跡([[鉄道連隊]]遺構)|代替文=]] [[戊辰戦争]]後の[[1871年]][[8月29日]]([[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]])の[[廃藩置県]]では、現千葉市は[[印旛県]]の領内に入れられた。しかし、明治初期の[[1873年]](明治6年)には[[印旛県]]と[[木更津県]]が合併されて千葉県が誕生し、旧両県の境で千葉氏の本拠地でもあった現千葉市([[亥鼻]]地区)に県庁が設置され、これ以後は千葉県の県庁所在地として発展することとなる。[[1894年]](明治27年)には[[国鉄]]による[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]の開通により、政治と交通の中心地として整備が進んだ。 市制施行により千葉市が誕生したのは、[[1921年]]([[大正]]10年)1月1日のことである。この時点での市域は、現在の[[中央区 (千葉市)|中央区]]の北半分から[[稲毛区]]の南東部にわたり、これは[[1889年]](明治22年)に設定された千葉町の町域をそのまま引き継いだものであった。その後、徐々に周辺の町村を編入するとともに、海面の埋め立てを進め、[[1922年]](大正11年)5月27日、[[内務省 (日本)|内務省]]告示第131号により港湾指定を受け、後の[[千葉港]]となる<ref name=":12"/>。[[1940年]](昭和15年)には、東京湾臨海工業地帯計画が内務省土木会議で決定され、その一環として、千葉市今井町地先海面300[[ヘクタール]]の埋め立てを計画して200ヘクタールの埋立てを行い、市域は拡大していく<ref name=":22"/>。 [[戦前]]([[第二次世界大戦]]勃発前)には、現在の川崎町の埋立地に日立航空機製作所と[[日立製作所]]などの軍施設が集中する[[軍都]]「千葉」として軍都「習志野」とともに発展した。千葉市内には[[1908年]]ごろの[[陸軍歩兵学校]]、[[気球聯隊]]など陸軍関係の学校や施設が多く残り、例として[[千葉公園]]内には戦跡として練習用トンネル、架橋演習用橋脚、荒木山などが残されている。[[1945年]](昭和20年)6月10日と7月7日に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]による大規模な空襲([[千葉空襲]]・[[七夕]]空襲)に見舞われ市域の7割が壊滅する甚大な被害を受け、その後、第二次世界大戦は終結となる。 === 戦後の工業発展と開港 === 戦後、[[宮内三朗]]市長(名誉市民第1号)の元で大規模な埋め立てと[[市町村合併]]が行われた。現在の[[緑区 (千葉市)|緑区]]のうち、旧土気町であった部分はかつては[[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]](今の[[山武郡]])に属していた地域である。[[1948年]](昭和23年)7月16日、千葉港の港則法に基づく港域が決定され、[[日本]]における[[戦災復興都市計画]]の一環として[[川崎製鉄|川崎製鉄株式会社]](現在の[[JFEスチール|JFEスチール株式会社]])を今井町地先埋立地(現在の[[蘇我副都心]])に誘致し、[[京葉工業地域|京葉工業地帯]]の中心都市として再建された。周辺は[[企業城下町]]の雰囲気を色濃く残し、西口がある[[川崎町 (千葉市)|川崎町]]には[[JFEスチール東日本製鉄所]]、東口にはJFE体育館(旧:川鉄体育館)・[[千葉メディカルセンター]](旧:川鉄病院)・JFEスチールの社宅や独身寮などが建設され、[[工業都市]]として発展した。 [[1954年]](昭和29年)2月27日、千葉港が[[法務省]][[省令|令]]第14号により出入国管理令上の出入国港に指定、同年3月20日[[港則法]]に基づく[[特定港]]に指定され、[[1953年]](昭和28年)7月1日、[[政令]]第150号により国際貿易港として[[関税法|関税法上]]の[[開港]]に指定。これにより後の[[1982年]](昭和57年)10月に、千葉港開港記念日を「7月1日」として制定された<ref>{{Cite web|和書|title=千葉港開港記念日 |url=https://www.pref.chiba.lg.jp/syozoku/a_bunsyo/pp/koukai/mokuroku/2002/08152/04-008-0001.html |website=www.pref.chiba.lg.jp |accessdate=2019-02-14}}</ref>。 === 新都心計画と政令指定都市への移行 === {{main|幕張新都心#歴史}} [[ファイル:幕張ベイタウン.JPG|thumb|海浜ニュータウン([[幕張ベイタウン]])]] 「[[日本]]の政治、経済、文化等の中心としてふさわしい首都圏の建設とその秩序ある発展を図る」ことを目的として[[1956年]](昭和31年)に「[[首都圏整備法]]」制定され、千葉市が近郊整備地帯に指定された。これにより、[[1960年]](昭和35年)には、大宮団地の整備事業が開始され、以後[[土地区画整理事業]]が相次いだ。特に、[[1967年]](昭和42年)には、[[海浜ニュータウン]]計画を発表、[[稲毛海岸駅|稲毛]]、[[検見川浜駅|検見川]]、[[幕張]]に計画人口約24万人の大規模な[[日本のニュータウン|ニュータウン]]建設が計画された。その後、独立都市の計画として「幕張新都心(A地区)基本計画」を発表し、業務中枢機能の東京一極集中に歯止めをかけることを目的に、住宅中心の土地利用計画を大幅に見直し、業務機能を持つ「[[都心|新都心]]」を建設することを決定した<ref>{{Cite web|和書|title=「海浜ニュータウン」次の50年 |url=https://tousinojikan.com/kemigawahama-tatekae/ |website=【プロ厳選】注目のマンション 2019 |accessdate=2019-02-19 |last=author}}</ref>。 『千葉県新総合五ケ年計画』では、千葉県内における進学率の上昇、学生数の増加に対応して幕張新都心に教育文化機能を充実させる「学園のまち」構想を示した。[[1981年]](昭和56年)より順次、大学、高校などの文化・教育施設が立地し、[[西千葉駅]]周辺(稲毛区)、[[本千葉駅]]周辺(中央区)、[[おゆみ野]](緑区)、幕張新都心[[文教地区]](美浜区)に[[文教都市]]を形成した。また、[[首都高速湾岸線]]や[[東関東自動車道]]、JR[[京葉線]]などのインフラ整備が急ピッチで進む。 [[ファイル:Tms2007 01.jpg|左|サムネイル|2007年の東京モーターショー(幕張メッセ)]] [[1983年]](昭和58年)千葉新産業三角構想策定(基幹プロジェクト)および幕張新都心事業化計画(千葉新産業三角構想)を策定し「幕張新都心構想」「[[かずさアカデミアパーク]]構想」「[[成田国際空港]]都市構想」の3つを基幹プロジェクトとした『千葉新産業三角構想』が決定。東京都心と成田国際空港の中間に位置する千葉市は、業務機能の集積を核とした新都心として構想されるようになり、その開発誘導施設として幕張メッセを位置づける「幕張新都心事業化計画」も同年発表される。[[1989年]](平成元年)10月、国際見本市として[[幕張メッセ]]が完成。同月、第28回「[[東京モーターショー]]」が幕張メッセで開催され、史上最高の15カ国が参加。192万人が訪れ<ref>{{Cite web|和書|title=TOKYO MOTOR SHOW WEB SITE |url=http://www.tokyo-motorshow.com/ |website=TOKYO MOTOR SHOW WEB SITE|accessdate=2019-02-19 |language=ja |first=Japan Automobile Manufacturers Association |last=Inc}}</ref>、幕張新都心は名実ともに国際コンベンション都市として誕生した。[[1990年]](平成2年)3月には、幕張メッセの海側に総面積(延床)4万4782平方メートル、3万人収容という国際級規模の[[千葉マリンスタジアム]]がオープンし、[[1992年]](平成4年)3月からは[[千葉ロッテマリーンズ]]のホームグラウンドとなっている。また、[[幕張テクノガーデン]]のオープンを皮きりに、業務地域の建設が順調に進んだ。幕張新都心の総合的な街づくりに対して、[[日本都市計画学会#略歴|日本都市計画学会賞「石川賞」]]が千葉県に贈られ、質の高いインフラ整備と優れたデザインによって事業者を誘導するなど、先進的で官民一体となった業績が評価され、自治体では初の受賞となった。 1992年4月1日には、全国12番目の[[政令指定都市]]に移行し、6つの[[行政区]]が発足した。 {{Clear}} === 国際業務都市としての発展 === [[ファイル:View of Makuhari-New-City, Business area(cropped).jpg|thumb|幕張新都心メッセモール]] 蘇我副都心では、[[JFEスチール]]東日本製鉄所の沖合い埋立地区への移転に伴い、千葉市が蘇我特定地区整備計画を策定し<ref name="inage-np-2005-10-6">“〝フクダ電子アリーナ〟が完成”.『[[稲毛新聞]]』(稲毛新聞社). (2005年10月6日)</ref>、[[ハーバーシティ蘇我]]として再開発が行われた<ref name="nissyoku-2005-5-27-4G">“イトーヨーカ堂初の自社開発SC「アリオ蘇我」、新サービスも好評”. [[日本食糧新聞]](日本食糧新聞社). (2005年5月27日)</ref>。[[2005年]]([[平成]]17年)[[4月27日]]に第1期として開業し<ref name="nissyoku-2005-5-27-4G" />、その後千葉市蘇我スポーツ公園内に[[フクダ電子アリーナ]]が整備され、同年10月16日に開業してからは[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェユナイテッド市原・千葉]]のホームスタジアムとなっている。フクダ電子アリーナの完成後、蘇我スポーツ公園内(スタジアムの東隣)に多目的広場(フクダ電子スクエア)などが建設されたほか、隣接地にジェフのクラブハウスや練習所を兼ね備えた[[ユナイテッドパーク]]が整備されている。これにより、延べで年間2000万人が来場する施設となった<ref>{{Cite web|和書|title=千葉のハーバーシティ蘇我、今秋に新施設 ユニクロなど14店舗。|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFB07HAR_X00C17A3L71000/ |website=[[日本経済新聞]] 電子版 |accessdate=2019-05-10}}</ref>。 千葉駅は[[2011年]](平成23年)から建て替え工事が進められてきており、[[2016年]](平成28年)11月20日、53年ぶりに新しい「千葉駅」として開業した。改札など駅機能を3階に集約することで、ターミナル駅として利便性も向上している<ref>{{Cite web|和書|title=新しい「千葉駅」|千葉県|千葉市中央区|生活|交通|地域情報|チイコミ|url=https://chiicomi.com/r_news_detail?id=eab3f607-aee2-11e6-9669-a0369faf468c |website=chiicomi.com |accessdate=2019-03-26}}</ref>。駅西口には[[2013年]](平成25年)10月1日に千葉都市計画事業千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業の中核施設として複合施設のウェストリオ (WESTRIO) が開業し、ビルが3棟並ぶ<ref name=":04">{{Cite web|和書|title=千葉駅西口再開発ビルA棟「WESTRIO(ウェストリオ)」トップページ |url=http://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/toshinseibi/toshin/westriotop-test.html |website=千葉市 |accessdate=2019-03-26 |last=千葉市}}</ref>。[[2018年]](平成30年)6月28日には[[千葉ステーションビル]]主体の駅ビル「ペリエ千葉 (Perie)」が開業し、構内にはエキナカ(地上3、4階の2フロア)、改札外にはペリエ千葉の本館、ペリチカ、ストリート1、ストリート2と約8万3000平方メートルの大規模な駅ビルが隣接している<ref name=":13">ペリエ千葉 2018年6月28日(木)グランドオープンhttps://www.perie.co.jp/files/upload/1522201524059879900.pdf</ref>。駅周辺は都市の国際競争力強化の観点から特に重要な地域として[[都市再生緊急整備地域]]に指定されており、千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業<ref>{{Cite web|和書|title=千葉駅東口地区第一種市街地再開発事業 |url=http://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/shigaichi/chibaeki-higasiguti-saikaihathu.html |website=千葉市 |accessdate=2019-03-26 |last=千葉市}}</ref>、千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区)<ref>{{Cite web|和書|title=千葉駅西口地区第二種市街地再開発事業(B工区)特定建築者の決定について |url=http://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/toshinseibi/toshin/nisiguchibkoukutokuteikennchikushanokettei.html |website=千葉市 |accessdate=2019-03-26 |last=千葉市}}</ref> など、更なる[[都市再開発]]事業が続いている。 2015年(平成27年)、幕張海浜公園にて「[[レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ|レッドブル・エアレース]]・千葉 2015」が日本初開催される。更に幕張海浜公園D・Eブロックが「JFAナショナルフットボールセンター」の建設候補地となる。[[2016年]](平成28年)、千葉市が[[東京圏]]の[[国家戦略特別区域]]に指定され<ref name=":02">{{Cite web|和書|title=東京圏 国家戦略特別区域会議 |url=https://www.chisou.go.jp/tiiki/kokusentoc/tokyoken.html |website=www.kantei.go.jp |accessdate=2019-02-19}}</ref>、[[ドローン宅配便]]や自動運転モビリティなどの実用化に向けた検討を行う近未来技術実証や、規制改革メニュー活用事業、児童福祉施設の設備および運営に関する基準の緩和や都市部におけるオンライン服薬指導の実施などの規制改革提案が行われている<ref name=":32"/>。 [[2020年]]には幕張メッセにおいて[[東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会|東京2020オリンピック]]競技大会の3競技(フェンシング、レスリング、テコンドー)<ref>2021年6月23日 (1ヶ月前) に予定される「東京五輪直前!」という宣言が行われる。</ref>、東京2020パラリンピック競技大会の4競技(ゴールボール、シッティングバレーボール、車いすフェンシング、テコンドー)の会場となることが決定<ref>{{Cite web|和書|title=会場:幕張メッセ|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 |url=https://tokyo2020.org/jp/games/venue/makuhari-messe/ |website=東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 |accessdate=2019-02-19}}</ref>。更に[[2018年]](平成30年)10月15日、重点戦略5の都市資源を活用し、[[統合型リゾート]](IR)導入の可能性に国の動向を注視しながら検討を進めている<ref>{{Cite web|和書|title=誘致レース(473)千葉市=平成30年度 創生総合戦略(改訂)でIR導入検討を追加 |url=http://casino-ir-japan.com/?p=20808 |website=カジノ IR ジャパン |date=2018-10-26 |accessdate=2019-02-19}}</ref>。 === 年表 === * [[天治]]元年([[1124年]]) - [[千葉常重]]が[[猪鼻]]の地に居館を築く。 * [[享徳]]4年([[1455年]]) - [[原胤房]]に[[亥鼻#亥鼻(千葉)城について|千葉城]]を急襲され、千田庄(現在の[[香取郡]][[多古町]])に逃れた[[千葉胤宣]]が([[元号#日本の元号|元号]]が変わって[[康正]]元年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1455年]]9月23日)、原胤房に加担した[[馬加康胤]]に討たれ千葉氏宗家が滅亡した。 * [[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - 廃藩置県により、[[木更津県]]、[[印旛県]]、[[新治県]]が設置される。 * [[1873年]](明治6年)[[6月15日]] - 木更津県と印旛県が合併され、千葉県が設置される。県庁を両県の境となる[[千葉郡]]千葉町(現・千葉市中央区本千葉町)に設置。 * [[1875年]](明治8年)[[5月7日]] - 新治県が分割され、[[利根川]]以南が千葉県に編入される。現在の千葉県域が形成される。 * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - 町村制施行により、千葉町、寒川村、登戸村、千葉寺村、黒砂村が合併し、千葉郡'''千葉町'''が発足。 [[ファイル:Chiba map circa 1930.PNG|thumb|1930年ごろ([[昭和]]初頭)の千葉市周辺の地図。|代替文=|288x288px]] * [[1921年]]([[大正]]10年)[[1月1日]] - 千葉町が市制を施行し'''千葉市'''となる。全国で66番目・県内初の市制施行。 * [[1931年]]([[昭和]]6年) - [[千葉市歌]]を制定。 * [[1937年]](昭和12年)[[2月11日]] - 千葉郡[[蘇我町]]、[[検見川町]]、[[都賀村 (千葉県)|都賀村]]、[[都村 (千葉県)|都村]]を編入。 * [[1944年]](昭和19年)2月11日 - 千葉郡[[千城村]]を編入。 * [[1954年]](昭和29年)[[7月1日]] - 千葉郡[[犢橋村]]を編入。 * [[1954年]](昭和29年) ** [[7月6日]] - 千葉郡[[幕張町]]を編入。 ** [[8月1日]] - 千葉郡[[習志野市|津田沼町]]が千葉市の一部(旧幕張町北部:実籾、愛宕、安生津、長作、天戸)を編入して[[習志野市|習志野町]]と改称、即日市制を施行して[[習志野市]]となる。 ** [[8月28日]] - 習志野市の一部(旧幕張町北部:長作、天戸)を編入。 * [[1955年]](昭和30年)[[2月1日]] - 千葉郡[[生浜町]]、[[椎名村]]、[[誉田村 (千葉県)|誉田村]]を編入。 * [[1959年]](昭和34年)2月1日 - [[印旛郡]][[四街道市|四街道町]](現・[[四街道市]])大日の[[飛地]]を編入。 * [[1963年]](昭和38年)4月1日 - 千葉郡[[泉町 (千葉県)|泉町]]を編入。 * [[1969年]](昭和44年)[[7月15日]] - [[山武郡]][[土気町]]を編入。 ** [[10月1日]]〜[[1995年]](平成7年)10月1日 - 公有水面埋立([[海浜ニュータウン]]他)による編入。 * [[1985年]](昭和60年)[[6月1日]] - [[佐倉市]]の一部([[下志津原]]、[[上志津原]]、[[上志津]]、下志津の各一部)を編入。 * [[1990年]]([[平成]]2年)6月1日 - 四街道市と境界変更。 * [[1992年]](平成4年) ** 3月 - ロッテオリオンズの本拠地が[[川崎市|川崎]]から千葉へ移転。これを機に[[千葉ロッテマリーンズ]]へ改称<ref name="chibanippo199245">{{Cite news |title=華やかに開幕ゲーム 本処地マリンで 県民ファン生の迫力たんのう |newspaper=『[[千葉日報]]』 |pages=1, 10-12, 19 |publisher=千葉日報社 |date=1992-04-05}}</ref>。 ** 4月1日 - 政令指定都市に移行し、6区が発足<ref>{{Cite news |title=政令指定市千葉が誕生 |newspaper=『[[朝日新聞]]』夕刊 |date=1992-04-01 |publisher=朝日新聞社|page=15}}</ref><ref name="yomiuri199242">{{Cite news |title=制服 堅苦しい「官」から脱却 |newspaper=『[[読売新聞]]』 |page=17 |publisher=読売新聞社 |date=1992-04-02}}</ref><ref name="chibanippo199242">{{Cite news |title=首都圏東部に新中核都市 政令市・千葉が“始動” 市民生活向上推進へ |newspaper=千葉日報 |pages=1, 12, 19 |publisher=千葉日報社 |date=1992-04-02}}</ref>。全国で12番目の移行。 * [[1994年]](平成6年)10月1日 - [[茂原市]]と境界変更。同日、[[市原市]]とも境界変更。 * [[1995年]](平成7年) ** 10月1日 - 市原市と境界変更。 ** [[11月1日]] - [[千葉市美術館]]を開館<ref name="chibanippo1995112">{{Cite news |title=千葉の文化創造の拠点 市美術館がオープン 中央区役所との複合施設 |newspaper=『千葉日報』 |page=12 |publisher=千葉日報社 |date=1995-11-02}}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)[[5月28日]] - [[モントルー|モントルー市]]と[[姉妹都市]]提携に調印<ref name="chibanippo1996529">{{Cite news |title=欧州に初の友好懸け橋 モントルー市と姉妹提携 両市長が協定書に調印 千葉市 |newspaper=『千葉日報』 |page=12 |publisher=千葉日報社 |date=1996-05-29}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年)10月1日 - [[佐倉市]]と境界変更。 * [[2006年]](平成18年)[[12月1日]] - 一部を四街道市に編入(境界変更)。 * [[2010年]](平成22年)[[5月20日]] - 地域の福祉、健康などの増進及び人材の育成に貢献することを目的とし、[[淑徳大学]]と相互連携協定を締結。 * [[2019年]](平成31年/[[令和]]元年) **1月29日 - [[性的少数者]] ([[LGBT]]) や[[事実婚]]などのカップルに[[パートナー]]としての公的証明書を交付する「パートナーシップ宣誓証明制度」を開始。LBGTに限定しないパートナーシップ制度は全国初<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/life/news/190129/lif1901290017-n1.html |title=千葉市、パートナー証明を開始 LGBTに限定せず |accessdate=2019-01-29 |date=2019-01-29 |website=産経ニュース |publisher=[[産経新聞]]}}</ref>。 **7月11日 - [[日本電信電話]](NTT)と包括連携協定を締結<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47250940R10C19A7L71000/ 「自動運転・MaaS導入 行政のデジタル化推進、千葉市とNTT」] 日本経済新聞ニュースサイト(2019年7月11日)2020年3月1日閲覧</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** 1月4日 - 千葉市制100周年記念式典が開かれた<ref>{{Citenews|title=大正10年の市制施行から100年 千葉市が記念式典 市長「難局を乗り越えていく」|url=https://www.sankei.com/article/20210104-MHSNNCOIJFIW5KY7JFUN47227I/|newspaper=産經新聞|date=2021-01-04|accessdate=2021-01-04}}</ref>が、12月31日 (大晦日) でエンディングを迎える予定。 === 合併構想 === [[2003年]]([[平成]]15年)2月、隣接する[[四街道市]]の住民の発議によって[[市町村合併#合併協議会|法定合併協議会]]が設置され、千葉市への編入として行政区名を「四街道区」とする方針が決まったが<ref name="chibanippo20031120">{{Cite news |title=新区は「四街道区」 千葉・四街道合併協議会 合併の是非、来年5月以降に |newspaper=『千葉日報』 |page=13 |publisher=千葉日報社 |date=2003-11-20}}</ref>、四街道市議会内で編入への賛否が拮抗したことから賛成派・反対派双方による発議により編入の是非を問う[[住民投票]]が行われることになり<ref name="chibanippo200436">{{Cite news |title=住民投票5月16日 四街道 千葉市との合併是非“決着” 即日開票|newspaper=『千葉日報』 |page=14 |publisher=千葉日報社 |date=2004-03-06}}</ref>、[[2004年]](平成16年)[[5月16日]]の投票で反対意見が賛成を上回り<ref name="chibanippo2004517">{{Cite news |title=四街道市民、合併に反対 千葉市編入の是非問う住民投票 協議会は解散へ |newspaper=『千葉日報』 |page=1 |publisher=千葉日報社 |date=2004-05-17}}</ref>、[[6月28日]]に千葉県に合併協議会の解散を届け出て編入は白紙となった<ref name="chibanippo2004629">{{Cite news |title=四街道市との合併協解散へ 県に届け出 |newspaper=『千葉日報』 |page=12 |publisher=千葉日報社 |date=2004-06-29}}</ref>。 == 人口 == 2015年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.05%増の971,882人であり、増減率は千葉県下54市町村中12位、60行政区域中15位。 {{人口統計|code=12100|name=千葉市|image=Population distribution of Chiba, Chiba, Japan.svg}} == 行政 == === 市長 === {{Main|千葉市長}} === 行政区 === [[千葉市役所]]を中心として6つの区が設置されている。 <div style="position:relative;float:right;width:400px;height:384px;overflow:hidden;margin-left:15px"> <div style="position:absolute;top:0px;left:0px">[[ファイル:Map of wards in Chiba city.svg|400px]]</div> <div style="position:absolute;top:52%;left:36%">[[中央区 (千葉市)|{{Color|white|中央区}}]]</div> <div style="position:absolute;top:18%;left:15%">[[花見川区]]</div> <div style="position:absolute;top:30%;left:24%">[[稲毛区]]</div> <div style="position:absolute;top:45%;left:50%">[[若葉区]]</div> <div style="position:absolute;top:67%;left:57%">[[緑区 (千葉市)|緑区]]</div> <div style="position:absolute;top:34%;left:10%">[[美浜区|{{Color|white|美浜区}}]]</div> </div> 以下の6区で構成されている。人口はいずれも{{自治体人口/千葉県|date}}時点の推計人口。 {|class="wikitable sortable" ! [[全国地方公共団体コード|コード]]!!区名!!人口<br />(人)!!面積<br />(km<sup>2</sup>)!!人口密度<br />(人/km<sup>2</sup>)!!イメージカラー |- |12101-1 !data-sort-value="ちゆうおうく"|[[中央区 (千葉市)|中央区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市中央区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/千葉県|千葉市中央区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/千葉県|千葉市中央区}}/{{自治体面積/千葉県|千葉市中央区}}round0}}}} |{{Color|#FC0019|■}}エネルギッシュ・レッド |- |12106-1 ! data-sort-value="みはまく" |[[美浜区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市美浜区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/千葉県|千葉市美浜区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/千葉県|千葉市美浜区}}/{{自治体面積/千葉県|千葉市美浜区}}round0}}}} |{{Color|#0000CD|■}}マリンブルー |- |12103-7 ! data-sort-value="いなけく" |[[稲毛区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市稲毛区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/千葉県|千葉市稲毛区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/千葉県|千葉市稲毛区}}/{{自治体面積/千葉県|千葉市稲毛区}}round0}}}} |{{Color|#DAA520|■}}ブライト・イエロー |- |12102-9 !data-sort-value="はなみかわく"|[[花見川区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市花見川区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/千葉県|千葉市花見川区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/千葉県|千葉市花見川区}}/{{自治体面積/千葉県|千葉市花見川区}}round0}}}} |{{Color|#EE82EE|■}}フラワーピンク |- |12104-5 !data-sort-value="わかはく"|[[若葉区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市若葉区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/千葉県|千葉市若葉区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/千葉県|千葉市若葉区}}/{{自治体面積/千葉県|千葉市若葉区}}round0}}}} |{{Color|#6B8E23|■}}フレッシュ・グリーン |- |12105-3 !data-sort-value="みとりく"|[[緑区 (千葉市)|緑区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市緑区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/千葉県|千葉市緑区}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/千葉県|千葉市緑区}}/{{自治体面積/千葉県|千葉市緑区}}round0}}}} |{{Color|#3CB371|■}}エバー・グリーン |} [[2000年]]([[平成]]12年)には市制施行80周年を記念して、各区の「イメージカラー」と「シンボルマーク」が発表された。なお、シンボルマークの使用については各区の許可が必要である。 === 行政区概要 === *[[中央区 (千葉市)|中央区]] - 千葉県伝統の政治・経済・文化の中心地 ** 千葉都心・蘇我副都心 *** 生活拠点:[[浜野駅|浜野]] ***[[日本のニュータウン|ニュータウン]]:[[千葉寺駅|千葉寺]]、[[都町 (千葉市)|都町]] *** 中央区役所 {{〒}}260-8733 千葉市中央区中央三丁目10-8 *[[美浜区]] -「職・住・学・遊」が融合した未来型の国際都市をコンセプトにした[[幕張新都心|新都心]]を核とした国際街区 **[[幕張新都心]] *** 生活拠点:[[稲毛海岸駅|稲毛海岸]]、[[検見川浜駅|検見川浜]] *** ニュータウン:検見川・稲毛[[海浜ニュータウン]]、[[幸町 (千葉市)|幸町]]、幕張台、[[幕張ベイタウン]] *** 美浜区役所 {{〒}}261-8733 千葉市美浜区真砂五丁目15-1 *[[稲毛区]] - かつて文人たちに愛された海辺の保養地、千葉市有数の[[文教地区]] ** 重要地域拠点([[稲毛駅|稲毛]]) *** 生活拠点:[[西千葉駅|西千葉]] *** ニュータウン:千草台 *** 稲毛区役所 {{〒}}263-8733 千葉市稲毛区穴川四丁目12-1 *[[花見川区]] - 桜並木が点在し美しい河川景観、大規模な住宅造成地区 ** 重要地域拠点([[幕張]]) *** 生活拠点:[[新検見川駅|検見川]]、[[幕張本郷]] *** ニュータウン:み春野翼の丘、花見川、[[さつきが丘 (千葉市)|さつきが丘]]、[[こてはし台団地|こてはし]]、新検見川北 *** 花見川区役所 {{〒}}262-8733 千葉市花見川区瑞穂1-1 *[[若葉区]] - 縄文時代の大規模住居地区と周辺自然地形が残る地区 ** 重要地域拠点([[都賀駅|都賀]]) *** 生活拠点:[[千城台駅|千城台]] *** ニュータウン:大宮団地、千城台、東寺山 *** 若葉区役所 {{〒}}264-8733 千葉市若葉区桜木北二丁目1-1 *[[緑区 (千葉市)|緑区]] - 区民ひとり当たりの都市公園面積が市内で最も広い自然豊かな地区 ** 重要地域拠点([[鎌取駅|鎌取]]) *** 生活拠点:[[土気駅|土気]]、[[誉田駅|誉田]] *** ニュータウン:[[おゆみ野]]、[[あすみが丘]]、あすみが丘東、越智はなみずき台団地 *** 緑区役所 {{〒}}266-8733 千葉市緑区おゆみ野三丁目15-3 == 議会 == === 市議会 === {{main|千葉市議会}} === 千葉県議会 === * 定数:14人(千葉市全体) * 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日 {| class="wikitable" style="font-size:small" !選挙区!!氏名!!会派名 |- | rowspan="3" |[[中央区 (千葉市)|中央区]] (3)||本間進||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]千葉県議会議員会 |- |佐野彰||自由民主党千葉県議会議員会 |- |網中肇||[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]千葉県議会議員会 |- | rowspan="3" |[[花見川区]] (3)||宍倉登||自由民主党千葉県議会議員会 |- |[[田村耕作]]||[[公明党]]千葉県議会議員団 |- |大川忠夫||立憲民主党千葉県議会議員会 |- | rowspan="2" |[[稲毛区]] (2)||阿部紘一||自由民主党千葉県議会議員会 |- |天野行雄||千葉[[国民民主党 (日本 2018)|民主]]の会 |- | rowspan="2" |[[若葉区]] (2)||山中操||自由民主党千葉県議会議員会 |- |田中信行||千葉民主の会 |- | rowspan="2" |[[緑区 (千葉市)|緑区]] (2)||[[関政幸]]||自由民主党千葉県議会議員会 |- |竹内圭司||千葉民主の会 |- | rowspan="2" |[[美浜区]] (2)||河野俊紀||立憲民主党千葉県議会議員会 |- |[[臼井正一]]||自由民主党千葉県議会議員会 |} === 衆議院 === ;千葉県第1区 * 選挙区:[[千葉県第1区|千葉1区]](千葉市[[中央区 (千葉市)|中央区]]・[[稲毛区]]・[[美浜区]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:435,013人 * 投票率:54.51% {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[田嶋要]] || align="center" | 60 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 128,556票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd" | 比当 || [[門山宏哲]] || align="center" | 57 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || align="right" | 99,895票 || align="center" | ○ |} ;千葉県第2区 * 選挙区:[[千葉県第2区|千葉2区]](千葉市[[花見川区]]、[[習志野市]]、[[八千代市]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:465,009人 * 投票率:54.65% {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[小林鷹之]] || align="center" | 46 || 自由民主党 || align="center" | 前 || 153,017票 || align="center" | ○ |- | || [[黒田雄]] || align="center" | 62 || 立憲民主党 || align="center" | 元 || align="right" | 69,583票 || align="center" | ○ |- | || 寺尾賢 || align="center" | 45 || 日本共産党 || align="center" | 新 || align="right" | 24,052票 || align="center" | ○ |} ;千葉県第3区 * 選挙区:[[千葉県第3区|千葉3区]](千葉市[[緑区 (千葉市)|緑区]]、[[市原市]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:336,241人 * 投票率:52.36% {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[松野博一]] || align="center" | 59 || 自由民主党 || align="center" | 前 || 106,500票 || align="center" | ○ |- | || [[岡島一正]] || align="center" | 63 || 立憲民主党 || align="center" | 前 || align="right" | 65,627票 || align="center" | ○ |} ;千葉県第9区 * 選挙区:[[千葉県第9区|千葉9区]](千葉市[[若葉区]]、[[佐倉市]]、[[四街道市]]、[[八街市]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:407,331人 * 投票率:53.01% {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[奥野総一郎]] || align="center" | 57 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 107,322票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || [[秋本真利]] || align="center" | 46 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 102,741票 || align="center" | ○ |} == 国政・県政 == === 国際機関 === {{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = InstituteOfDevelopingEconomies20110917.jpg |説明1 = アジア経済研究所 (JETRO) |画像2 = |説明2 = |画像3 = |説明3 = }} 千葉市に置かれる国際機関は以下の通り。 * '''[[国際連合]]''' ** [[アジア太平洋統計研修所]] (SIAP) * '''[[日本貿易振興機構]]''' ** [[アジア経済研究所]] (JETRO) ** [[アジア経済研究所図書館]] ** [[アジア経済研究所開発スクール]] (IDEAS) * '''[[国際協力機構]]''' ** 国際協力機構千葉デスク (JICA) * '''[[自治体国際化協会]]''' ** 自治体国際化協会千葉県支部 (CLAIR) * その他 ** 千葉市国際交流協会 ** 千葉県国際交流センター === 国家機関 === 千葉市に置かれる主な国の行政機関は以下の通り。 '''行政機関''' {| width="90%" | valign="top" width="50%" | *'''[[総務省]]''' ** 関東[[管区行政評価局]]千葉行政監視行政相談センター ** 総務省[[政策統括官]]アジア太平洋統計研修所 *'''[[法務省]]''' **[[千葉刑務所]] **[[千葉地方検察庁]] *** 千葉地方検察庁南町分室 ** 千葉[[地方法務局]] ** 千葉[[保護観察所]] ** 千葉[[少年鑑別所]](千葉法務少年支援センター) **[[東京出入国在留管理局]]千葉出張所 ** 関東[[公安調査局]]千葉公安調査事務所 *'''[[財務省 (日本)|財務省]]''' ** 千葉税関支署 **[[関東財務局]][[千葉財務事務所]] **[[東京国税局]]税務相談室千葉東分室 ** 千葉西税務署 ** 千葉東税務署 ** 千葉南税務署 *'''[[厚生労働省]]''' ** 千葉[[検疫所]]支所 **[[関東信越厚生局]]千葉財務事務所 **[[千葉労働局]] *** 千葉[[労働基準監督署]] ***千葉[[公共職業安定所]] ****ハローワークプラザちば *** 千葉南公共職業安定所 **[[日本年金機構]]千葉年金相談センター([[特殊法人]]) ** アイル生活救済支援センター | valign="top" | *'''[[経済産業省]]''' ** 経済産業省公務員宿舎 *'''[[国土交通省]]''' **[[関東地方整備局]]千葉国道事務所 ** 関東地方整備局千葉港湾事務所 **[[関東運輸局]]千葉運輸支局 **[[海上保安庁]][[海上保安部|千葉海上保安部]] *** 千葉海上保安部航行援助センター **[[気象庁]][[地方気象台|銚子地方気象台千葉測候所]] **[[自動車事故対策機構]]千葉支所(独立行政法人) **[[自動車技術総合機構]]千葉事務所(独立行政法人) *'''[[防衛省]]''' **[[北関東防衛局]]千葉防衛事務所 **[[自衛隊千葉地方協力本部]] **[[下志津駐屯地|陸上自衛隊下志津駐屯地]] ***[[陸上自衛隊高射学校]] ***[[東部方面後方支援隊]] ***[[第2高射特科群]] ***[[東部方面システム通信群]] ***[[警務隊]] ***[[基地システム通信部隊#陸上自衛隊|第105基地システム通信大隊]] *'''[[文部科学省]]''' **[[量子科学技術研究開発機構]](独立行政法人) ***[[放射線医学総合研究所]] **[[国立情報学研究所]]千葉分館(大学共同利用機関法人) *'''[[農林水産省]]''' **[[関東農政局]]千葉県拠点 **[[千葉農政事務所]](現:関東農政局) **[[植物防疫所]]千葉出張所 ** 千葉森林管理事務所 |} '''司法機関''' * [[千葉地方裁判所]] * [[千葉家庭裁判所]] * [[千葉簡易裁判所]] <gallery widths="200"> Main building of Chiba over prison,Chiba-city,Japan.jpg|千葉刑務所 Chiba District Public Prosecutor's Office.jpg|千葉地方検察庁 Chiba District Court.jpg|千葉地方裁判所 NationalInstituteOfRadiologicalSciences20110326.jpg|放射線医学総合研究所 </gallery> === 県・市の機関 === 千葉市に置かれる主な県・市の行政機関は以下の通り。 {| width="90%" | valign="top" width="50%" | *[[千葉県公安委員会]] **[[千葉県警察]] ***[[千葉中央警察署]] ***[[千葉北警察署]] ***[[千葉西警察署]] ***[[千葉東警察署]] ***[[千葉南警察署]] **[[千葉県警察学校]] **[[千葉運転免許センター]] **[[千葉県企業庁]] | valign="top" | *[[千葉県教育委員会]] *[[千葉市消防局]] ** 中央消防署 ** 花見川消防署 ** 稲毛消防署 ** 若葉消防署 ** 緑消防署 ** 美浜消防署 *[[千葉県議会]] *[[千葉市教育委員会]] |} <gallery widths="200"> Chiba prefectural police headquarters,Chiba-city,Japan.JPG|千葉県警察 Safety Chiba Building.jpg|千葉市消防局 ChibaDriversLicenseCenter.jpg|千葉運転免許センター Chiba Prefectural Assembly Hall.jpg|千葉県議会棟庁舎 </gallery> == 経済 == {{独自研究|section=1|date=2013年12月}} === 産業 === '''工業''' [[ファイル:Chiba port .jpg|サムネイル|蘇我地区の工場夜景]] 臨海部(中央区川崎町、新浜町、蘇我町、美浜区新港を中心とした地域)は[[千葉港]]を中心とした[[京葉工業地域|京葉工業地帯]]の一角をなし、中央区部分には[[JFEスチール]][[JFEスチール東日本製鉄所|東日本製鉄所]](旧川崎製鉄千葉製鉄所)、[[JERA]][[千葉火力発電所]]などが所在し、美浜区新港には[[食品]]や[[金属]]加工関連の事業所が多い。また、北部地域(花見川区千種町、[[稲毛区]]六方町を中心とした地域)では、[[鉄鋼]]加工や[[機械]][[工業]]が盛んである。 '''商業''' [[ファイル:AEON Mall Makuhari-Shintoshin 'Grand Mall' under construction 20131201-2.jpg|サムネイル|イオンモール幕張新都心(旗艦店)]] 第二次大戦前には旧:[[千葉駅|省線千葉駅]](のちの旧:[[国鉄千葉駅 (初代)]])、旧:[[千葉中央駅|京成千葉駅]]、県庁を結ぶ現・栄町通りがメインストリートとなっていた。しかし、戦災(千葉空襲)を経て第二次大戦後の都市整備に伴い、両千葉駅が移転したことで新駅周辺に商業集積が移動。特に国鉄千葉駅(二代目。現:JR千葉駅)前には[[そごう千葉店]]、[[奈良屋 (百貨店)|ニューナラヤ]](現:千葉[[三越]]跡)といった大型小売店が店舗を構えたことから、千葉県最大・関東有数の商業拠点として栄えてきた。 [[バブル景気]]の時期には、[[幕張新都心]]、蘇我副都心、千葉みなとなどの臨海部に商業施設が建設され、郊外での大型ショッピングセンターなどが相次いで建設された。これ以来、地域が[[幕張]]([[美浜区]])を中心とした西半分と、[[亥鼻城]]周辺([[中央区 (千葉市)|中央区]])を中心とする東半分に大きく二分されている。 概して、幕張新都心は[[大企業]]や[[多国籍企業]]が多く立地し、中心市街地([[東日本旅客鉄道|JR]]・[[千葉都市モノレール]][[千葉駅]]、JR[[東千葉駅]]、JR[[本千葉駅]]、[[亥鼻城]]近辺)は古くからの地元[[商店街]]的な色彩が目立つ。 また、一部の企業が支店や支社を千葉市に置いて千葉県と茨城県を管轄下に置いているケースも見られ、広義の東関東の拠点都市としての機能がある。 '''農業''' [[首都圏 (日本)|東京大都市圏]]の[[近郊農業|近郊型農業地]]。都市化の進展による農地の減少が課題となってはいるが、若葉区や緑区、花見川区北部に農地が広がる。 市街地の後背部に都市近郊の優良農地を有し、水田を中心とした土地基盤整備を始め、施設・機械の近代化など生産基盤の強化を図る。農業生産基盤である農地は、本来の生産機能の他に、防災機能、治水機能、環境保全・自然景観の保持やレクリエーションの場の提供など、都市の緑の空間としても重要な役割を果たしている<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/keizainosei/nosei/nosei/nougyou-gaiyou.html|title=千葉市農業の概要|publisher=千葉市|date=2009-07-07|accessdate=2016-09-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091011015618/http://www.city.chiba.jp/keizainosei/nosei/nosei/nougyou-gaiyou.html|archivedate=2009-10-11|deadlinkdate=2017-09}}</ref>。落花生やニンジンなどの畑作が中心だが、ブドウや梨などの果樹栽培もある。酪農も盛んで、飼養頭数、産出額は県下2位である<ref name=":0" />。また[[落花生]]の生産量、作付け面積共に、隣接する[[八街市]]についで全国2位である<ref>{{Cite web|和書|url=http://wwwp.pref.chiba.lg.jp/pbmgm/12zukan/rakkasei.html|title=ちば旬鮮図鑑 ちばの落花生|publisher=千葉県|accessdate=2016-09-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141025213505/http://wwwp.pref.chiba.lg.jp/pbmgm/12zukan/rakkasei.html|archivedate=2014-10-25|deadlinkdate=2017-09}}</ref>。 === 企業 === ==== 千葉市に本社・本店を置く企業 ==== {{See also|Category:千葉市の企業}} {{Multicol}} あ * [[愛晃リサーチ]](中央区) * [[アコレ]](美浜区) * [[あすか交通]](美浜区) い * [[イウォレ京成]](中央区) * [[イオン (企業)|イオン]](美浜区) * [[イオンイーハート]](美浜区) * [[イオンコンパス]](美浜区) * [[イオンシネマズ]](美浜区) * [[イオンタウン]](美浜区) * [[イオントップバリュ]](美浜区) * [[イオンファンタジー]](美浜区) * [[イオンベーカリー]](美浜区) * [[イオンマーケティング]](美浜区) * [[イオンモール]](美浜区) * [[イオンリテール]](美浜区) * [[稲毛新聞]](稲毛区) * [[イースト・コミュニケーションズ]](緑区) う * [[ウェザーニューズ]](美浜区) * [[ウェザーニュース (BSデジタル放送)]](美浜区) え * [[エアーズネット]](美浜区) * [[エイジス (企業)]](花見川区) お * [[OKIデータ・インフォテック]](美浜区) * [[OPA]](美浜区) * [[オランダ家]](美浜区) * [[オーエックスエンジニアリング]](若葉区) * [[オートウェーブ]](稲毛区) か * [[KAIENTAI DOJO]](中央区) * [[加悦 (運送会社)|加悦]](美浜区) * [[かっぺ]](中央区) * [[川崎マイクロエレクトロニクス]](美浜区) き * [[キッツ]](美浜区) * [[鬼怒川ゴム工業]](稲毛区) * [[キヤノンカスタマーサポート]](美浜区) * [[QVCジャパン]](美浜区) け * [[京成ホテル]](中央区) * [[京葉学院]](中央区) * [[京葉銀行]](中央区) * [[京葉臨海鉄道]](中央区) * [[ケーヨー]](若葉区) し * [[JR千葉鉄道サービス]](中央区) * [[ジェイコム千葉セントラル]](中央区) * [[ジェフユナイテッド]](中央区) * [[秀穂]](緑区) * [[新日本建設]](美浜区) * [[新東日本製糖]](美浜区) * [[シー・ヴイ・エス・ベイエリア]](美浜区) す * [[須山歯研]](美浜区) せ * [[セイコーインスツル]](美浜区) そ * [[ソード (企業)]](美浜区) * [[ZOZO]](美浜区) {{Multicol-break}} た * [[大東製糖]](美浜区) * [[タカヨシ]](美浜区) * [[ダンロップスポーツクラブ]](美浜区) ち * [[千葉海浜交通]](美浜区) * [[千葉銀行]](中央区) * [[ちばぎん証券]](中央区) * [[ちばぎんディーシーカード]](中央区) * [[千葉興行]](中央区) * [[千葉興業銀行]](美浜区) * [[ちばシティバス]](美浜区) * [[千葉信用金庫]](中央区) * [[千葉シーサイドバス]](花見川区) * [[千葉ステーションビル]](中央区) * [[千葉製粉]](美浜区) * [[千葉中央バス]](緑区) * [[千葉テレビ放送]](中央区) * [[千葉都市モノレール]](稲毛区) * [[千葉日報]](中央区) * [[千葉プロパンガス販売]](中央区) * [[千葉マツダ]](稲毛区) * [[千葉みらい観光バス]](若葉区) * [[千葉薬品]](中央区) * [[千葉ロッテマリーンズ]](美浜区) * [[銚子丸]](美浜区) と * [[東京ベイ通信]](中央区) * [[東洋バス]](花見川区) * [[トップシークレット]](花見川区) * [[トップマート]](中央区) * [[トヨタ勝又グループ]](中央区) * [[トライ・インターナショナル]](美浜区) な * [[中村産業 (千葉市)]](花見川区) * [[ナカン]](花見川区) に * [[西岬観光]](緑区) * [[日産フィナンシャルサービス]](美浜区) * [[日産プリンス千葉販売]](中央区) は * [[博全社]](美浜区) ひ * [[ビィー・トランセホールディングス]](美浜区) ふ * [[フジフーズ]](美浜区) * [[古谷乳業]](中央区) * [[プロサイド]](美浜区) へ * [[ベイエフエム]](美浜区) * [[Babys breath]](花見川区) * [[平和交通 (千葉県)]](稲毛区) ま * [[マイスターエンジニアリング]](美浜区) * [[まいばすけっと]](美浜区) * [[幕張メッセ]](美浜区) * [[マックスバリュ関東]](美浜区) み * [[ミズノ興業]](中央区) * [[ミニストップ]](美浜区) * [[都一]](若葉区) *[[未来屋書店]](美浜区) {{Multicol-end}} <gallery widths="200"> Chiba Bank, headquarters.jpg|千葉銀行本店営業部 千葉みなと本部.jpg|京葉銀行千葉みなと本部 Chiba Kogyo Bank, headquarters.jpg|千葉興業銀行本店営業部 Aeon Tower 2(cropped).jpg|イオングループ本社ビル Seiko Instruments, headquarters.jpg|セイコーインスツル本社ビル QVC Japan headquarters.JPG|QVCジャパン本社 </gallery> == 姉妹都市・提携都市 == === 姉妹都市 === [[ファイル:ChibaCityFrendshipMonument.jpg|frame|千葉みなと駅近くの臨港プロムナードに建つ友好都市のモニュメント(2005年1月)|代替文=]] *{{Flagicon|PAR}} [[アスンシオン|アスンシオン市]]([[パラグアイ|パラグアイ共和国]]・[[首都]]) *:[[1970年]](昭和45年)[[1月1日]] 姉妹都市を締結。パラグアイ駐在名誉領事より都市提携について熱心な申し出があり、また[[1968年]](昭和43年)8月パラグアイ国大統領の就任式へ千葉県選出の代議士が日本の特派大使としてパラグアイを訪問したことを機会に提携の気運が高まり。千葉市制50年目を記念して姉妹都市を提携。 *{{Flagicon|CAN}} [[ノースバンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|ノースバンクーバー市]]([[カナダ]][[ブリティッシュコロンビア州]]) *:[[1970年]](昭和45年)[[1月1日]] 姉妹都市を締結。元々は、両市の[[ライオンズクラブ]]が姉妹関係を結んでいたが、市民対市民の友好関係を深めるために、両市が姉妹都市を結ぶ必要がある旨の申し出を千葉市のライオンズクラブが千葉市に提出。両市議会が満場一致し、千葉市制50年目を記念して姉妹都市を締結。 *{{Flagicon|USA}} [[ヒューストン|ヒューストン市]]([[アメリカ合衆国]][[テキサス州]]) *:[[1972年]](昭和47年)[[10月24日]] 両市長提携調印に署名。[[1972年]](昭和47年)3月ヒューストン市長が日本貿易振興会の招きで来日。都市形態のよく似ている都市との姉妹都市提携を結びたいという旨から、千葉市との姉妹都市提携の運びとなった。 *{{Flagicon|PHI}} [[ケソン|ケソン市]]([[フィリピン|フィリピン共和国]]) *:[[1972年]](昭和47年)[[11月9日]] 提携調印書に署名。元々は、千葉[[日本青年会議所|青年会議所]]とケソン青年会議所が[[1964年]](昭和39年)に姉妹会議所となり、様々な親交交流を続けてきた事に由来する。千葉青年会議所から、両都市が姉妹関係を結ぶことが望ましい旨の提案から提携の運びとなった。 *{{Flagicon|SUI}} [[モントルー|モントルー市]]([[スイス|スイス連邦]]) *:[[1996年]](平成8年)[[5月28日]] 姉妹友好協定書に調印<ref name="chibanippo1996529" />。[[1995年]](平成7年)6月、議会や市民の代表からなる「新たな姉妹・友好都市提携懇談会」を設置<ref name="chibanippo1995630">{{Cite news|title=新たな姉妹友好都市提携へ スイス・モントルー市 中国・呉江市|newspaper=『千葉日報』|page=12|publisher=千葉日報社|date=1995-06-30}}</ref>。以後、懇談会及び現地調査を実施し、スイス連邦モントルー市が適当であるとの答申から決定した<ref name="chibanippo199621">{{Cite news|title=千葉市の新しい姉妹都市に最適なのは…モントルー(スイス)と呉江(中国)懇談会答申|newspaper=『千葉日報』|page=12|publisher=千葉日報社|date=1996-02-01}}</ref>。 === 友好都市 === *{{Flagicon|CHN}} [[天津市]]([[中華人民共和国]]) *:[[1986年]](昭和61年)[[5月7日]] 友好都市締結調印。日中友好平和条約が締結されて以来、青少年スポーツ団体の交流、国鉄千葉駅と天津駅の友好駅としての交流などが行われてきた。[[1982年]](昭和57年)4月日中友好千葉市訪中団が天津市を訪問。[[1983年]](昭和58年)7月李瑞環天津市長一行が来葉し友好都市提携などについて話し合いが行われた。[[1986年]](昭和61年)5月締結代表団一行が天津市を訪問し、友好都市締結調印の運びとなった。 *{{Flagicon|CHN}} [[江蘇省]][[蘇州市]][[呉江区]](中華人民共和国) *:[[1996年]](平成8年)[[10月10日]]友好都市提携協定書に調印。[[1995年]](平成7年)6月「新たな姉妹・友好都市提携懇談会」を設置し<ref name="chibanippo1995630" />、懇談会及び現地調査を実施し、アジアでは中華人民共和国江蘇省呉江市が適当との答申から決定した<ref name="chibanippo199621" />。 == 地域 == 千葉市の中心市街地は千葉都心([[千葉駅]]から[[千葉中央駅]]、[[本千葉駅]]、[[千葉みなと駅]]周辺)、蘇我副都心、[[幕張新都心]]近辺に位置するが、東部の千葉都心・蘇我副都心と、西部の幕張新都心に大きく二分されている(詳細は後述の[[#商業]]の節)。一般的に「千葉市街地」というと千葉駅から千葉中央駅にかけて、もしくは[[千葉都市モノレール1号線]]沿い(千葉みなと駅から県庁前駅間)にかけての市街地を指すことが多い<ref>{{Cite web|和書|title=千葉市中心市街地ガイドマップ |url=http://www.chibacityguidemap.com/ |website=www.chibacityguidemap.com |accessdate=2019-02-07}}</ref>。 === 千葉都心 === ==== 千葉市街地 ==== [[ファイル:Sogō Chiba.jpg|サムネイル|そごう千葉店]] *[[千葉駅]]周辺([[富士見 (千葉市)|富士見]]、新町、[[センシティ]]、[[オーロラモールジュンヌ|オーロラモール]]、[[千葉ステーションビル|ペリエストリート]]、C-one、千葉駅東口地区の再開発) *[[栄町駅 (千葉県)|栄町駅]]周辺(栄町、東千葉) *[[葭川公園駅]]周辺(中央1丁目-4丁目、千葉中央ツインビル、[[Qiball]]、千葉銀座通り) * 新千葉地区(ウェストリオ、千葉駅西口地区の再開発) JR東日本「千葉駅」から京成電鉄「千葉中央駅」、千葉都市モノレール「葭川公園駅」にかけての[[中心市街地]]([[富士見 (千葉市)|富士見地区]]から[[中央 (千葉市)|中央地区]])には企業の[[オフィスビル]]、[[銀行]]や商業施設、[[家電量販店]]などが林立する[[繁華街]]となっており、関東有数の市場規模である巨大[[商圏]]となっている<ref>{{Cite web|和書|title=千葉駅新築開業、周辺滞在者16%増 そごうエリアに波及 |url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/404528 |website=www.chibanippo.co.jp |accessdate=2019-03-26}}</ref>。また市街地中心部に位置する中央公園(葭川公園駅最寄り)は市民の憩いの場として様々なイベントが行われている<ref>{{Cite web|和書|title=中央公園 – 検索結果: – |url=http://www.chibacity-ta.or.jp/?s=%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%85%AC%E5%9C%92&eo_month=2015-03 |website=千葉市観光協会公式サイト/千葉市観光ガイド |accessdate=2019-04-10}}</ref>。 千葉駅には駅ビル([[ペリエ (駅ビル)|ペリエ]]千葉)、複合施設(ウェストリオ)、[[ホテル]]([[サンルートホテルチェーン|サンルート]]千葉)、[[センシティ]]([[センシティタワー]]、[[そごう千葉店]]、[[オーロラモールジュンヌ]])、商業施設(シーワン)が入居・接続しており、千葉駅から千葉中央駅の両駅間は約1キロメートルほどの商業施設(建物)で繋がっている。 市街地は地場資本の[[奈良屋 (百貨店)|奈良屋]](後に専門店ビル・セントラルプラザ)・[[田畑百貨店|田畑]](後の千葉[[パルコ]])・扇屋(後に[[ジャスコ]]傘下入り)といった百貨店が並び、[[ダイエー]]や[[丸井]]、[[十字屋 (百貨店)|十字屋]]、[[緑屋]]が進出するなど活況を呈していたが、現在では駅直結のそごう千葉店、オーロラモールジュンヌなど駅付近に商業施設が集中し、駅から離れた場所にあった商業施設は[[マンション]]などに転用されている。また、市街地から少し逸れた中央区[[栄町駅 (千葉県)|栄町]]地区は、かつては県下一の賑わいをみせていたが、千葉空襲の被害を受けたあと、[[風俗店]]、[[キャバレー (接待飲食店)|キャバレー]]、[[コリアンタウン]]、小料理屋などが集中する[[歓楽街]]と化し、国鉄千葉駅が現在の位置に移転した後は商業拠点も駅に近い中央区富士見地区に移転した。市は地元商店会と共に栄町の再生に取り組み始めている<ref>{{Cite web|和書|title=栄町まちづくり社会実験 |url=http://www.rakuichi.org/news/090326.html |website=www.rakuichi.org |accessdate=2019-04-10}}</ref>。 駅周辺は[[都市再生緊急整備地域]]に指定されており、千葉駅東口地区、西口地区の再開発事業が続いている<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/toshisaisei/kinkyuseibi_list/pdf/07chiba-eki/p-chibaeki.pdf 千葉駅周辺地域プロジェクト一覧]</ref><ref>{{Cite web|和書|title=千葉市の市街地再開発事業の状況 |url=http://www.city.chiba.jp/toshi/toshi/shigaichi/saikaihatu.html |website=千葉市 |accessdate=2019-02-15 |last=千葉市}}</ref>。 {{Clear}} <gallery widths="200"> Chibastasouth.jpg|千葉駅(JR東日本・千葉都市モノレール) Chiba-ekimae Street 20120809-2.jpg|千葉駅前大通り Sen-City Tower.jpg|センシティタワー 20190223145429!Westrio Chiba 20140419(cropped).jpg|ウェストリオ Chuo Park, Chuo-ku, Chiba 20120809.jpg|千葉中央公園 Chiba Central Arch.jpg|千葉都市モノレールセントラルアーチ </gallery> ==== 本千葉 ==== [[ファイル:Chiba-Chūō Station 20120809.jpg|サムネイル|千葉中央駅(京成電鉄)]] *[[千葉中央駅|千葉中央]]地区(本千葉町、ミーオ、1番街-5番街) *本千葉駅周辺(長洲) * 市場町地区([[官庁街]]) * 亥鼻・葛城地区([[文教地区]]) 千葉市の古くからの中心部であり、周辺は官庁街のほか、[[千葉大学]](医、薬、看護)をはじめ[[千葉県立千葉中学校・高等学校]]などが集約する文教地区として知られる。千葉中央駅にはシーワンと接続の商業施設(ミーオ)、ホテル([[京成ホテルミラマーレ]])、[[シネマコンプレックス]](京成ローザ10イースト・ウエスト)などを有している。 JR東日本「千葉駅」から千葉都市モノレール「県庁前駅」周辺には、かつての下総国[[守護所]]があった[[亥鼻城|亥鼻城跡]]([[亥鼻公園]])を囲むように、[[千葉県庁]]、[[千葉県議会]]棟庁舎、[[千葉県警察]]本部、[[千葉市消防局]]、[[千葉地方検察庁]]・[[千葉区検察庁]]、[[千葉地方裁判所]]・[[千葉家庭裁判所]]など行政機関が集中する。 {{Clear}} <gallery widths="200"> Kenchō-mae Station, Chiba2.jpg|県庁前駅(千葉都市モノレール、関東の駅百選) View of the Chiba City Folk Museum from Chiba Prefectural Government Office Main Building.jpg|亥鼻城址(亥鼻公園・千葉市立郷土博物館) ChibaKencho.jpg|千葉県庁 Chiba-Univ-Faculty-of-Medicine01.jpg|千葉大学医学部本館 Chiba University Hospital.JPG|千葉大学医学部附属病院 ChibakenBunkaKaikan20100612.jpg|千葉県文化会館 </gallery> ==== 千葉港 ==== *[[千葉みなと駅]]周辺(千葉港、中央港、千葉ポートタウン、ケーズハーバー) JR東日本「[[千葉みなと駅]]」周辺には[[国際拠点港湾]]である[[千葉港]]の港湾地区を中心に[[千葉ポートタワー]]や[[千葉県立美術館]]、[[千葉市役所]]をはじめ、[[港湾施設]]([[千葉みなと桟橋]]、[[ケーズハーバー]]など)、複合施設([[千葉ポートスクエア]])、商業施設([[ミハマニューポートリゾート]]など)、[[企業]]([[京葉銀行]]千葉みなと本部など)、ホテル([[ホテルオークラ#国内チェーン|オークラ千葉ホテル]]など)、[[結婚式場]](ベイサイドパーク迎賓館など)など[[港湾都市]]として整備されており、[[ウォーターフロント]]の開発が集中する。歴史的建造物として国の[[登録有形文化財]]に登録されている[[日本勧業銀行]]本店(現在の[[千葉トヨペット]]本社)がある。 <gallery widths="200"> View from Chiba Port-Tower East.jpg|千葉港周辺 View from Chiba Prefectural Government Office Main Building, north side 005.jpg|県庁から千葉港方面 Chiba Port Square 20080822.JPG|千葉ポートスクエア Chiba Prefectural Museum of Art 2010.jpg|千葉県立美術館 Okura Chiba Hotel.jpg|オークラ千葉ホテル Views from Chiba Port Tower North20170610.jpg|千葉みなと桟橋周辺 </gallery> === 蘇我副都心 === 蘇我地区は[[日本本土空襲|戦災]]復興の一環として誘致された川崎製鉄の[[企業城下町]]である。千葉市は、蘇我駅周辺地区を千葉都心・[[幕張新都心]]に続く第三の都心と位置付け、[[2003年]]から川崎町地区の旧川鉄千葉製鉄所のほぼ全域と蘇我駅周辺地区を含めた蘇我臨海地区土地区画整理事業を開始し、大型商業施設や球技場を中核とした商業地区や公園施設の整備が行われている。これに伴い、土地区画整理後に商業施設やフクダ電子アリーナが建設され、将来的な周辺人口増による利用者増を見越して、千葉市とJR東日本により駅施設の拡充が行われている。[[2004年]]8月に駅本屋の拡充が、[[2005年]]に西口駅前広場の整備が終了している。JR東日本[[蘇我駅]]周辺には[[ハーバーシティ蘇我]]などの大型商業施設や[[ジェフユナイテッド市原・千葉]]のホームスタジアムである[[フクダ電子アリーナ]]などが整備されている。 <gallery widths="200"> Soga Station West.jpg|蘇我駅(JR東日本) Fukuda Denshi Arena 2011-12-10c.jpg|フクダ電子アリーナ UNITEDPARK.JPG|ユナイテッドパーク Harbor City Soga-FestivalWalk2.jpg|Festival Walk蘇我 T・ジョイ蘇我.jpg|T・ジョイ蘇我 National Hospital Organization Chiba-East-Hospital.jpg|国立病院機構千葉東病院 </gallery> === 幕張新都心 === [[幕張新都心]]地区には、大規模見本市や国際会議などが開かれる[[幕張メッセ]]([[国際展示場]]・[[国際会議場]])・幕張イベントホールをはじめ、日本を代表する[[多国籍企業]]や[[外資系企業]]が入居する[[超高層建築物|超高層ビル]]([[ワールドビジネスガーデン]]・[[幕張テクノガーデン]])、[[宿泊施設]]および[[商業施設|大規模商業施設]]が数多く進出しており、[[国際機関]]および[[国家機関]]([[官公庁]])の研究・研修機関を中心とした教育・研究施設や、[[幕張ベイタウン]]・幕張ベイパークの中高層マンション群などにより「職・住・学・遊」の複合機能の集積が進む。ベイエリアには、[[人工海浜]]や[[ヨットハーバー]]などが整備されている。最寄り駅はJR東日本「[[海浜幕張駅]]」。 [[サッカー日本代表]]の拠点である[[高円宮記念JFA夢フィールド]]や[[本田圭佑]]自社グラウンド[[ゾゾパークホンダフットボールエリア]]、[[プロ野球チーム一覧|プロ野球チーム]]・[[千葉ロッテマリーンズ]]の本拠地である[[千葉マリンスタジアム]]を有し、[[国際千葉駅伝]]、[[レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ]]日本会場([[幕張海浜公園]])、[[2020年東京オリンピック]]・[[パラリンピック]]競技会場(幕張メッセ)など、一大スポーツ拠点ともなっている。 [[東京都区部|東京都心]]・[[東京国際空港]]と[[成田国際空港]]のほぼ中間地に位置するため、そのアクセスの良さから年間約2,700万人が訪れる。 <gallery widths="200"> 幕張新都心.jpg|メッセ大通り(ホテルエリア) Kokusai O-dori Street in Makuhari New City.jpg|国際大通り(ビジネスエリア) World Business Garden.jpg|ワールドビジネスガーデン Makuhari Techno Garden.jpg|幕張テクノガーデン Entrance to Makuhari Event Hall, Chiba.jpg|幕張イベントホール 幕張ベイタウンの街並み.jpg|幕張ベイタウン </gallery> === 重要地域拠点・生活拠点 === 各区の重要地域拠点([[稲毛区|稲毛]]、[[幕張]]、[[都賀駅|都賀]]、[[鎌取駅|鎌取]])、生活拠点([[検見川浜駅|検見川浜]]、[[稲毛海岸駅|稲毛海岸]]、[[土気駅|土気]]、[[誉田駅|誉田]]、[[千城台駅|千城台]]、[[西千葉駅|西千葉]]、[[新検見川駅|検見川]]、[[幕張本郷]]、[[浜野駅|浜野]])の市街地はそれぞれの拠点駅前を中心に形成されている。 生活拠点地区は駅前に拠点性を持つ大型商業施設(複合施設)や[[動線]]整備がされている。 <gallery widths="200"> Tsuga Sta 005.jpg|都賀駅(JR東日本・千葉都市モノレール) Kamatori Southgate2021.jpg|鎌取駅(JR東日本) Honda st.jpg|誉田駅(JR東日本) Proud Tower Inage 20140419.jpg|稲毛駅前 Lapark-Chishirodai 01.jpg|千城台駅前 Oyumino-senntamol.jpg|おゆみ野センターモール(鎌取) FERIA, Kemigawahama Bayside Mall.jpg|ベイサイドモール(検見川浜) </gallery> === 市外局番 === 元々の[[市外局番]]は「0472」{{efn|[[緑区 (千葉市)|緑区]][[土気町|土気]]地区は、旧・[[山武郡]]域だったため、04757になっていた。}}だったが、政令指定都市昇格4週間後の[[1992年]](平成4年)[[4月29日]]から「043」に変更され、市内局番は200番台になった。新規加入は300番台が割り当てられる(市外局番「0434」であった佐倉市、四街道市、[[八街市]]なども同日に「043」になり、市内局番は400番台になった){{efn|ほかに、[[若葉区]]、[[稲毛区]]各一部が0434を使用していた。}}。ただし、[[花見川区]]の[[八千代市]]に接している一部の地域(柏井町・柏井・横戸町・横戸台など)は買い物などの生活基盤が八千代市であることなどを理由に住民の希望で市外局番が「047」(変更前は0474-8nで[[単位料金区域]]も八千代市扱い)となっており、同じ千葉市内でありながら「043」地域から「047」地域に電話をする際(逆も)には市外局番からかけなければならない。 === インフラ整備の状況 === * 下水道普及率:97.3%([[2017年]](平成29年)度末 公益社団法人[[日本下水道協会]]統計)、首都圏の政令指定都市の中では神奈川県[[横浜市]]、[[川崎市]]の次に整備されている。 === キャラクター === 「花の都・ちば」のシンボルキャラクターとして、[[ちはなちゃん]]が使用されている。パンフレットや看板などによく印画されているため、街中でも見ることができる。 === 施設 === [[ファイル:View of Makuhari-Messe from Nakase 2-chome crossing(cropped).jpg|サムネイル|幕張メッセ]] ==== コンベンションセンター ==== *[[幕張メッセ]] ==== 文化ホール ==== {{表2列|* [[千葉県文化会館]] * [[青葉の森公園芸術文化ホール]] * [[千葉市民会館]] * 千葉市文化センター|* 千葉市若葉文化ホール * 千葉市女性センター * 千葉市国際交流センター * 千葉市美浜文化ホール}} ==== 市民活動センター ==== *[[千葉市民活動支援センター]] '''宿泊施設''' [[ファイル:APA Hotel Tokyo Bay Makuhari 20140219.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|アパホテル&リゾート 東京ベイ幕張]] {{表2列| * [[ホテルスプリングス幕張]] * [[ホテルグリーンタワー幕張]] * [[ホテルフランクス]] * [[ホテル ザ・マンハッタン]] * [[ホテルニューオータニ幕張]] * [[アパホテル]] &リゾート東京ベイ幕張 * [[東横イン]]千葉みなと駅前 * [[オークラ]]千葉ホテル|* [[ホテルポートプラザちば]] * [[ホテルニューツカモト]] * [[京成ホテルミラマーレ]] * ザキューブホテル千葉 * [[スーパーホテル]]千葉駅前 * [[三井ガーデンホテル]]千葉 }} <gallery widths="200"> Hotel Francs in Chiba, Japan 20131201.jpg|ホテルフランクス Mitsui Garden Hotel Chiba.JPG|三井ガーデンホテル千葉 ザキューブホテル千葉.jpg|ザキューブホテル千葉 JP-12 Chiba Hotel New Otani.jpg|ホテルニューオータニ幕張 Okura Chiba Hotel.jpg|オークラ千葉ホテル HotelTheManhattan20110828.jpg|ホテル ザ・マンハッタン </gallery> == 医療 == {{See also|Category:千葉市の医療機関}}千葉市は、1市で1つの[[二次医療圏]](千葉保健医療圏)を構成する<ref name=":032">{{Cite web|和書|title=千葉県保健医療計画(平成30年度〜平成35年度)|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kenfuku/keikaku/kenkoufukushi/30hokeniryou.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。 [[医療法#医療提供施設|医療提供施設]]は特筆性の高いもののみを記載する<ref name=":032" />。 '''一次医療圏(市内)'''{{表2列|'''中央区''' * 区内の緊急指定病院 ** [[国立病院機構千葉東病院]] ** [[千葉県がんセンター]] ** 斎藤労災病院 * 区内の医療機関 ** [[石郷岡病院]] ** 井上記念病院 ** 柏戸病院 ** 木村病院 ** 三愛記念そが病院 ** 三愛記念病院 ** JCHO千葉病院 ** 千葉みなと病院 ** 千葉みなとリハビリテーション病院 ** 中村古峡記念病院 ** 増田病院 ** 三橋病院 '''美浜区''' * 区内の緊急指定病院 ** みはま病院 * 区内の医療機関 ** [[千葉県精神科医療センター]] ** 自動車事故対策機構千葉療護センター ** 東京歯科大学千葉病院 '''花見川区''' * 区内の緊急指定病院 ** 幸有会記念病院 ** 最成病院 ** 平山病院 * 区内の医療機関 ** [[千葉健生病院]]|'''稲毛区''' * 区内の緊急指定病院 ** 稲毛病院 ** 山王病院 ** 千葉脳神経外科病院 * 区内の医療機関 ** [[QST病院]](旧放射線医学総合研究所病院) ** いなげ西病院([[額田医学生物学研究所]]付属病院の入院診療を継続) ** 富家千葉病院 '''若葉区''' * 区内の緊急指定病院 ** 泉中央病院 ** 千葉中央メディカルセンター ** みつわ台総合病院 * 区内の医療機関 ** 篠﨑病院 ** 総泉病院 ** 千葉市桜木園 '''緑区''' * 区内の緊急指定病院 ** [[千葉県こども病院]] * 区内の医療機関 ** [[国立病院機構下総精神医療センター]] ** [[千葉県千葉リハビリテーションセンター]] ** おゆみの中央病院 ** 鏡戸病院 ** 千葉南病院 ** みどりのは葉記念病院}} '''二次医療圏''' *[[国立病院機構千葉医療センター]](中央区、[[千葉県災害拠点病院|災害拠点病院]]<ref>{{Cite web|和書|title=災害拠点病院の指定について|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/iryou/taiseiseibi/saigai/saigaikyotenbyouin.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>) *[[千葉市立青葉病院]](中央区、災害拠点病院) *[[千葉大学医学部附属病院]](中央区、災害拠点病院) *[[千葉メディカルセンター]](中央区、[[救命救急センター]]) *[[千葉県救急医療センター]](美浜区、災害拠点病院、救命救急センター) *[[千葉市立海浜病院]](美浜区、災害拠点病院) <gallery widths="200"> NationalHospitalOrganizationChibaMedicalCenter20110918.jpg|国立病院機構千葉医療センター ChibaAobaMunicipalHospital20110227.jpg|千葉市立青葉病院 Seikei-kai Chiba Medical Center 2019.jpg|千葉メディカルセンター ChibaEmergencyMedicalCenter20110917.jpg|千葉県救急医療センター ChibaKaihinMunicipalHospital20110911.jpg|千葉市立海浜病院 </gallery> == 教育 == [[構造改革特区]]に指定されており、千葉国際教育特区構想が認可された<ref name=":152"/>。 === 学校教育 === {{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Chiba University, Keyaki Hall.jpg |説明1 = 千葉大学(西千葉キャンパス) |画像2 = ChibaPrefecturalUniversityOfHealthSciences20110917.jpg |説明2 = 千葉県立保健医療大学 |画像3 = The Open University of Japan.jpg |説明3 = 放送大学 |画像4 = |説明4 = |画像5 = |説明5 = }} ==== 大学 ==== ※千葉市内に本部を置く大学は'''太字'''で表示 '''国公立''' * '''[[千葉大学]]''' ** 西千葉キャンパス(稲毛区) ** 亥鼻キャンパス(中央区) * '''[[千葉県立保健医療大学]]''' ** 幕張キャンパス(美浜区) * [[東京大学]] ** 生産技術研究所千葉実験所(稲毛区) ** 検見川セミナーハウス(花見川区) ** 総合運動場(花見川区) '''私立''' {{表2列|* '''[[淑徳大学]]''' ** 千葉キャンパス(中央区) ** 千葉第2キャンパス(中央区) * '''[[敬愛大学]]''' ** 稲毛キャンパス(稲毛区) * '''[[千葉経済大学]]''' ** 本部・キャンパス(稲毛区) * '''[[東京情報大学]]''' ** 本部・キャンパス(若葉区) * '''[[植草学園大学]]''' ** 本部・キャンパス(若葉区)|* '''[[神田外語大学]]''' ** 本部・キャンパス(美浜区) * '''[[放送大学]]''' ** 本部・千葉学習センター(美浜区) * [[東京歯科大学]] ** 千葉校舎(美浜区) * [[帝京平成大学]] ** 幕張キャンパス(美浜区)}} ==== 短期大学 ==== '''私立'''{{Col-begin}} {{Col-2}} * 中央区 ** [[千葉明徳短期大学]] * 若葉区 ** [[植草学園短期大学]] {{Col-2}} * 稲毛区 ** [[千葉経済大学短期大学部]] ** [[日本基督教短期大学]](廃止) {{Col-end}} ==== 専修学校 ==== {{See also|千葉県専修学校一覧#千葉市}}私立32校の専修学校がある。以下、主な専修学校一覧{{efn|記事化されているもののみ。}}。 {{Col-begin}} {{Col-2}} * 中央区 ** [[千葉女子専門学校]] ** [[国際医療福祉専門学校]] ** [[千葉日建工科専門学校]] ** [[上野法科ビジネス専門学校]] ** [[千葉市青葉看護専門学校]]{{Col-2}} * 稲毛区 ** [[国際理工専門学校]] * 美浜区 ** [[東京歯科大学歯科衛生士専門学校]] ** [[関東鍼灸専門学校]] {{Col-end}} ==== 高等学校 ==== '''県立'''{{Col-begin}} {{Col-2}} * 中央区 ** [[千葉県立千葉中学校・高等学校|千葉県立千葉高等学校]] ** [[千葉県立千葉商業高等学校]] ** [[千葉県立千葉工業高等学校]] ** [[千葉県立千葉南高等学校]] ** [[千葉県立生浜高等学校]] * 花見川区 ** [[千葉県立柏井高等学校]] ** [[千葉県立犢橋高等学校]] * 稲毛区 ** [[千葉県立千葉女子高等学校]] ** [[千葉県立千葉東高等学校]] ** [[千葉県立京葉工業高等学校]] ** [[千葉県立千葉北高等学校]] {{Col-2}} * 若葉区 ** [[千葉県立若松高等学校]] ** [[千葉県立千城台高等学校]] ** [[千葉県立泉高等学校]] ** [[千葉県立千葉大宮高等学校]] * 緑区 ** [[千葉県立土気高等学校]] * 美浜区 ** [[千葉県立検見川高等学校]] ** [[千葉県立磯辺高等学校]] ** [[千葉県立幕張総合高等学校]] ** [[千葉県立千葉西高等学校]] {{Col-end}}'''市立'''{{Col-begin}} {{Col-2}} * 稲毛区 ** [[千葉市立千葉高等学校]] {{Col-2}} * 美浜区 ** [[千葉市立稲毛高等学校]] {{Col-end}}'''私立'''{{Col-begin}} {{Col-2}} * 中央区 ** [[植草学園大学附属高等学校]] ** [[千葉聖心高等学校]] ** [[千葉明徳中学校・高等学校|千葉明徳高等学校]] ** [[明聖高等学校]] * 稲毛区 ** [[敬愛学園高等学校]] ** [[千葉経済大学附属高等学校]] {{Col-2}} * 若葉区 ** [[桜林高等学校]] * 美浜区 ** [[渋谷教育学園幕張中学校・高等学校|渋谷教育学園幕張高等学校]] ** [[昭和学院秀英中学校・高等学校|昭和学院秀英高等学校]] {{Col-end}} ===== 小学校・中学校 ===== {{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Chiba University, Faculty of Education, affiliated Junior high school.jpg |説明1 = 千葉大学教育学部附属中学校 |画像2 = Chiba University, Faculty of Education, affiliated Elementary school.jpg |説明2 = 千葉大学教育学部附属小学校 |画像3 = |説明3 = |画像4 = |説明4 = |画像5 = |説明5 = }}学校名のリストおよび各学校の記事については、各区記事および「[[千葉県小学校一覧#千葉市]]」または「[[千葉県中学校一覧#千葉市]]」を参照。 千葉市の小学校・中学校の数は、以下の表の通り([https://www.city.chiba.jp/kyoiku/gakkokyoiku/gakuji/index.html 千葉市教育委員会事務局、学校教育部学事課より])。 {| class="wikitable" !設置者 !小学校 !中学校 |- |千葉市立 |113校(1分校) |56校 |- |国立 |1校 |1校 |- |千葉県立 | - |1校 |- |私立 |1校 |3校 |} '''国立''' * [[千葉大学教育学部附属中学校]] * [[千葉大学教育学部附属小学校]] ==== 特別支援学校 ==== {{Col-begin}} {{Col-2}} '''国立''' * 稲毛区 ** [[千葉大学教育学部附属特別支援学校]] '''県立''' * 中央区 ** [[千葉県立仁戸名特別支援学校]] * 花見川区 ** [[千葉県立千葉特別支援学校]] * 若葉区 ** [[千葉県立桜が丘特別支援学校]] * 緑区 ** [[千葉県立袖ケ浦特別支援学校]] ** [[千葉県立千葉聾学校]]{{Col-2}} '''市立''' * 美浜区 ** 千葉市立養護学校真砂分校 ** [[千葉市立高等特別支援学校]] * 稲毛区 ** [[千葉市立養護学校]] * 若葉区 ** [[千葉市立第二養護学校]] {{Col-end}}'''各種学校''' * [[千葉朝鮮初中級学校]](花見川区) '''学校教育以外の教育訓練施設''' * [[養成機関]] ** [[アジア経済研究所開発スクール]](美浜区) * [[市民大学]] ** 千葉県生涯大学校(中央区) * [[職業能力開発促進法]]に基づく[[職業能力開発短期大学校]] ** [[関東職業能力開発大学校附属千葉職業能力開発短期大学校]](中央区) === 千葉市のナンバースクール === '''高等学校'''{{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Kenchiba-highschool.jpg |説明1 = 千葉県立千葉中学校・高等学校 |画像2 = Chiba Joshi HighSchool.jpg |説明2 = 千葉女子高等学校 |画像3 = |説明3 = |画像4 = |説明4 = |画像5 = |説明5 = }}[[1950年]](昭和25年)から[[1961年]](昭和36年)まで、以下の高等学校はナンバースクールであった。 一高 [[千葉県立千葉中学校・高等学校|千葉高等学校]] 二高 [[千葉県立千葉女子高等学校|千葉女子高等学校]] 三高 [[千葉県立千葉東高等学校|千葉東高等学校]] '''中学校''' [[1947年]](昭和22年)から、以下の中学校は[[ナンバースクール]]であった。[[1952年]](昭和27年)の[[千葉市立新宿中学校|新宿中学校]]・[[千葉市立蘇我中学校|蘇我中学校]]の開校により、ナンバースクールは廃止された。 * 一中 [[千葉市立加曽利中学校|加曽利中学校]] * 二中 [[千葉市立末広中学校|末広中学校]] * 三中 [[千葉市立葛城中学校|葛城中学校]] * 四中 [[千葉市立椿森中学校|椿森中学校]] * 五中 [[千葉市立緑町中学校|緑町中学校]] * 六中 [[千葉市立小中台中学校|小中台中学校]] * 七中 [[千葉市立花園中学校|花園中学校]] ※四中の椿森中学校は、校舎が定まらず翌[[1948年]](昭和23年)に開校した。 現在では、緑町中学校の校章が数字の「五」を象っていることや、中学校の名簿の順番が加曽利中学校から始まることなどに名残が残っている。 * == スポーツ == === スポーツ施設 === {{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Aobanomori Baseball Studium 01.jpg |説明1 = 青葉の森スポーツプラザ野球場 |画像2 = Inage Yacht harbour 20080903-2.jpg |説明2 = 稲毛ヨットハーバー |画像3 = Chiba Prefectural Athletic Stadium 2.jpg |説明3 = 千葉県総合スポーツセンター陸上競技場 |画像4 =QVC Marine Field, front.jpg |説明4 =千葉マリンスタジアム(QVC時代) |画像5 = |説明5 = }}'''千葉市の施設''' *[[青葉の森公園]] **[[青葉の森スポーツプラザ野球場]] ** 青葉の森公園陸上競技場 *[[千葉公園]] **[[千葉公園野球場]] **[[千葉競輪場]]([[千葉JPFドーム]]) *[[千葉市蘇我スポーツ公園]] **[[フクダ電子アリーナ]] *[[稲毛海浜公園]] **[[稲毛海浜公園球技場]] ** 稲毛海浜公園プール ** 稲毛ヨットハーバー ** いなげの浜 * アクアリンクちば * 花見川サイクリングコース *[[泉自然公園]] ** 泉自然公園・平和公園サイクリングコース *[[中田スポーツセンター球技場]] *[[千葉ポートパーク]] *[[千葉ポートアリーナ]] *[[ちばむらオートキャンパーズリゾート]]([[群馬県]][[利根郡]][[みなかみ町]]) '''千葉県の施設''' *[[千葉県総合スポーツセンター]] **[[千葉県総合スポーツセンター陸上競技場]] ** 千葉県総合スポーツセンター第2陸上競技場 **[[千葉県野球場]] ** 千葉県総合スポーツセンターサッカー・ラグビー場 '''その他''' *[[高円宮記念JFA夢フィールド]] *[[千葉マリンスタジアム]] - 2016年(平成28年)より[[命名権]]売却によりZOZOマリンスタジアムへと名称変更。 *[[東京大学検見川総合運動場]] *[[ゾゾパークホンダフットボールエリア]] === スポーツチーム === {{See also|Category:千葉市のスポーツチーム}}{{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Marines practice ground 2.jpg |説明1 = 千葉ロッテマリーンズ 屋内練習場 |画像2 = Jef United Clubhouse20091123.JPG |説明2 = ジェフ千葉クラブハウス |画像3 = |説明3 = |画像4 = |説明4 = |画像5 = |説明5 = }}'''野球''' * [[日本プロ野球|プロ野球]] ** [[千葉ロッテマリーンズ]]([[パシフィック・リーグ]]二軍は[[さいたま市]])[[1992年]](平成4年) - * [[社会人野球]] ** [[JFE東日本硬式野球部]](千葉市) ** [[JR千葉硬式野球部]](千葉市) '''サッカー''' * [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]] ** [[ジェフユナイテッド市原・千葉]] [[2003年]](平成15年) - ※ [[2010年]](平成22年)〜はJ2 * [[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]] ** [[ジェフユナイテッド市原・千葉レディース]] '''バスケットボール''' * [[アルティーリ千葉]]([[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]]) * [[千葉ホークス]](車椅子バスケット、日本選手権3連覇) '''バレーボール''' * [[千葉ZELVA]]([[V.LEAGUE]] DIVISION3 MEN) '''陸上競技''' * [[富士通陸上競技部]](千葉市美浜区) '''プロレス''' * [[KAIENTAI DOJO]](千葉市中央区、[[Blue Field]]) '''ボクシング''' * 本多ボクシングジム(千葉市中央区) * 稲毛ボクシングジム(千葉市稲毛区) === スポーツ史 === [[ファイル:Yoshihide Muroya 2 2015 Red Bull Air Race Chiba.jpg|サムネイル|2015年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ 千葉]] 千葉市で開催された主な大会一覧。{{表2列|* [[2008年J1最終節]] * [[キリンカップサッカー2009]] * [[国際千葉駅伝]] * [[第4回国民体育大会]] * [[第35回国民体育大会]] * [[1995年世界柔道選手権大会]] * [[第16回世界女子ソフトボール選手権]] * [[第41回世界卓球選手権]] * [[1994年世界フィギュアスケート選手権]] * [[昭和47年全日本6人制バレーボール総合選手権]] * [[昭和54年全日本6人制バレーボール総合選手権]] * [[第39回全日本中学校陸上競技選手権大会]]|* [[1964年東京オリンピックの近代五種競技]] * [[2020年東京オリンピックのテコンドー競技]] * [[2020年東京オリンピックのフェンシング競技]] * [[2020年東京オリンピックのレスリング競技]] * [[第28回日本選手権競輪]] * [[第34回日本選手権競輪]] * [[第37回日本選手権競輪]] * [[2015年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ 千葉]] * [[2016年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ 千葉]] * [[2017年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ 千葉]] * [[2018年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ 千葉]]}} === 障害者スポーツ === [[車いすバスケットボール]]日本選手権を3連覇した強豪の[[千葉ホークス]]の本拠地であり、また世界的に有名な競技用車椅子メーカーの[[オーエックスエンジニアリング]]が千葉市内に本社に持つ。 [[熊谷俊人]][[市町村長|市長]]は「車椅子スポーツのメッカを目指す」と発言するなど障害者スポーツに力を入れている。2015年10月には車いすバスケットボールの「2015IWBFアジアオセアニアチャンピオンシップ」が千葉ポートアリーナで開催された<ref>{{Cite news|url=http://www.chibanippo.co.jp/news/local/226244|title=「開催は非常に光栄」 千葉市で来年10月国際大会 車椅子バスケ 調印式、知事ら出席|newspaper=千葉日報|publisher=千葉日報社|date=2014-11-21|accessdate=2016-09-14}}</ref>。 == 交通 == === 空港 === 市内に空港はなく、[[千葉県]][[成田市]]の[[成田国際空港]](成田空港)もしくは[[東京都]][[大田区]]の[[東京国際空港]](羽田空港)が最寄りとなる。 '''成田国際空港''' * 鉄道路線 ** [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]では[[総武快速線]]([[成田線]]直通、[[成田エクスプレス]]など)が市内の主要駅(千葉駅など)と[[空港第2ビル駅]]および[[成田空港駅]]を結ぶ列車を運行している。 ** [[京成電鉄]]では京成本線が空港第2ビル駅および成田空港駅にアクセス可能である。 * リムジンバス ** 幕張・千葉エリア(千葉市海浜エリア系統) ‐ 成田空港行のリムジンバス(成田空港交通・[[ちばシティバス]]・京成バスなど)を中心に運行。中央区内(千葉駅、千葉中央駅、千葉みなと駅)や美浜区内(各主要駅、幕張地区各主要ホテル)などから運行<ref>{{Cite web|和書|title=成田空港交通|url=http://www.nariku.co.jp/|website=www.nariku.co.jp|accessdate=2019-02-07}}</ref>。 ; 東京国際空港 * 鉄道路線 ** [[京成電鉄]]では京成本線([[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京浜急行電鉄|京急線]]直通列車)が[[羽田空港第3ターミナル駅]]および[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]を結ぶ。 * リムジンバス ** 幕張・千葉エリア(千葉市海浜エリア系統) ‐ 羽田空港行のリムジンバス(京浜急行バス・ちばシティバス・京成バス・[[東京空港交通]])を中心に運行。中央区内(千葉駅、千葉中央駅、千葉みなと駅)や美浜区内(各主要駅、幕張地区各主要ホテル)などから運行<ref>{{Cite web|和書|title=幕張・千葉エリア(千葉市海浜エリア系統)|リムジンバスの東京空港交通|url=http://www.limousinebus.co.jp/areas/detail/hnd/chiba|website=東京空港交通オフィシャルサイト|accessdate=2019-02-07}}</ref>。 === 鉄道路線 === {{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Chiba Station east 20100206.JPG |説明1 = 千葉駅(JR東日本・千葉都市モノレール) |画像2 = Kaihin-Makuhari Sta. 20131201-1.jpg |説明2 = 海浜幕張駅(JR東日本) |画像3 = Chiba Urban Monorail 0 series 20120809.jpg |説明3 = 千葉都市モノレール(0形) |画像4 = |説明4 = |画像5 = |説明5 = }} 鉄道網が発達しており、3つの事業者が運行する12の旅客鉄道路線と、46の鉄道駅がある。このうち[[千葉駅]]・[[海浜幕張駅]]・[[稲毛駅]]は、JR東日本の乗車人員ランキング上位100位内にランクインする<ref>[https://www.jreast.co.jp/passenger/ JR東日本 各駅の乗車人員(2017年度)]</ref>。 '''[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)''' [[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JB]] [[総武緩行線]] * [[幕張本郷駅]] - [[幕張駅]] - [[新検見川駅]] - [[稲毛駅]] - [[西千葉駅]] - [[千葉駅]] [[ファイル:JR_JO_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JO]] [[総武快速線]] * [[稲毛駅]] - [[千葉駅]] [[ファイル:JR_JE_line_symbol.svg|15x15ピクセル|JE]] [[京葉線]] * [[蘇我駅]] - [[千葉みなと駅]] - [[稲毛海岸駅]] - [[検見川浜駅]] - [[海浜幕張駅]] - [[幕張豊砂駅]]<small>(2023年開業)</small> {{Color|#ffc20d|■}} [[総武本線]] * [[千葉駅]] - [[東千葉駅]] - [[都賀駅]] {{Color|#ff6600|■}} [[外房線]] * [[千葉駅]] - [[本千葉駅]] - [[蘇我駅]] - [[鎌取駅]] - [[誉田駅]] - [[土気駅]] {{Color|#00B2E5|■}} [[内房線]] * [[蘇我駅]] - [[浜野駅]] ; [[京成電鉄]] [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15x15ピクセル|KS]] [[京成千葉線]] * [[幕張本郷駅|京成幕張本郷駅]] - [[京成幕張駅]] - [[検見川駅]] - [[京成稲毛駅]] - [[みどり台駅]] - [[西登戸駅]] - [[新千葉駅]] - [[京成千葉駅]] - [[千葉中央駅]] [[ファイル:Number prefix Keisei.svg|15x15ピクセル|KS]] [[京成千原線]] * 千葉中央駅 - [[千葉寺駅]] - [[大森台駅]] - [[学園前駅 (千葉県)|学園前駅]] - [[おゆみ野駅]] ; [[千葉都市モノレール]] [[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15x15ピクセル|千葉都市モノレール]] [[千葉都市モノレール1号線|1号線]] * [[千葉みなと駅]] - [[市役所前駅 (千葉県)|市役所前駅]] - [[千葉駅]] - [[栄町駅 (千葉県)|栄町駅]] - [[葭川公園駅]] - [[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]] [[ファイル:Number prefix Chiba monorail.svg|15x15ピクセル|千葉都市モノレール]] [[千葉都市モノレール2号線|2号線]] * [[千葉駅]] - [[千葉公園駅]] - [[作草部駅]] - [[天台駅]] - [[穴川駅 (千葉県)|穴川駅]] - [[スポーツセンター駅]] - [[動物公園駅]] - [[みつわ台駅]] - [[都賀駅]] - [[桜木駅 (千葉県)|桜木駅]] - [[小倉台駅]] - [[千城台北駅]] - [[千城台駅]] === バス路線 === {{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Keiseibus 4823 Citaro-G Seagull-Makuhari.jpg |説明1 = シーガル幕張(京成バスの連節バス) |画像2 = |説明2 = |画像3 = |説明3 = |画像4 = |説明4 = |画像5 = |説明5 = }}中心となるバス停:'''[[千葉駅のバス乗り場|千葉駅バスターミナル]]''' ==== 路線バス ==== 市域のほとんどで広義の京成グループの会社の手による[[路線バス]]が運行されている。また、公営交通(市営バス)の運行は実施してない。 乗車方法は一部の均一路線を除き、基本的に後乗り前降り後払い方式。[[運賃]]は整理券を用いた区間制を採っている。 市内において、バス共通回数券は現在発行されていない。ただし、九十九里鉄道を除く各社では非接触型[[ICカード]]である[[PASMO]]・[[Suica]]が利用できる。{{表2列|; [[京成グループ]] * [[京成バス]] * [[ちばシティバス]] * [[ちばフラワーバス]] * [[千葉中央バス]] * [[小湊鉄道|小湊鉄道バス]] * [[九十九里鉄道|九十九里鐵道バス]] * [[千葉内陸バス]] * [[千葉海浜交通]] ; [[東洋バス|東洋バスグループ]] * [[東洋バス]] * [[千葉シーサイドバス]]|; [[日東交通 (千葉県)|日東交通グループ]] * [[日東交通 (千葉県)|日東交通]] ; その他のバス会社 * [[平和交通 (千葉県)|平和交通]] * [[あすか交通]] * [[成田空港交通]] * [[京浜急行バス]] * 千葉市コミュニティバス(千葉中央バスが運行)}} === 道路 === {{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Pasar Makuhari kudari 20181025 141524.jpg |説明1 = 幕張パーキングエリア(京葉道路) |画像2 = Japan National Route 14 and 357 in Inage Ward, Chiba City.jpg |説明2 = 国道14号・357号重複区間 |画像3 = Messe O-dori Street in Makuhari New City.jpg |説明3 = メッセ大通り |画像4 = |説明4 = |画像5 = |説明5 = }} ==== 高速道路 ==== ; [[首都高速道路]](接続)・[[東日本高速道路]](NEXCO東日本) [[首都高速湾岸線]] - {{Ja Exp Route Sign|E51}}[[東関東自動車道]] * [[湾岸幕張パーキングエリア|湾岸幕張PA]] - [[湾岸千葉インターチェンジ|湾岸千葉IC]] - [[宮野木ジャンクション|宮野木JCT]] - [[千葉北インターチェンジ|千葉北IC]] {{Ja Exp Route Sign|E66}}[[首都高速7号小松川線]] - {{Ja Exp Route Sign|E14}}[[京葉道路]] * [[幕張インターチェンジ|幕張IC]] - [[幕張パーキングエリア|幕張PA]] - [[武石インターチェンジ|武石IC]] - 宮野木JCT - [[穴川インターチェンジ|穴川IC(穴川中IC、穴川東IC)]] - [[貝塚インターチェンジ (千葉県)|貝塚IC]] - [[千葉東ジャンクション|千葉東JCT]] - [[松ヶ丘インターチェンジ|松ヶ丘IC]] - 蘇我IC *※幕張インターチェンジは[[習志野市]]との境界に存在する ; 東日本高速道路(NEXCO東日本) {{Ja Exp Route Sign|E14}}[[館山自動車道]] * [[蘇我インターチェンジ|蘇我IC]] [[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道) * 緑区を400メートル程通過している。 {{Ja Exp Route Sign|E82}}[[千葉東金道路]] * [[大宮インターチェンジ|大宮IC]] - [[高田インターチェンジ (千葉東金道路)|高田IC]] - [[中野インターチェンジ (千葉県)|中野IC]] - [[野呂パーキングエリア|野呂PA]] ==== 有料道路 ==== [[千葉外房有料道路]](千葉県道67号生実本納線) * - 鎌取IC(千葉方面起・終点) - 平山IC - 誉田PA(千葉方面のみ) - 高田IC - 誉田IC(両方向に出・入口) * - 大木戸IC - 大野PA(茂原方面のみ) - 板倉IC - ==== 一般国道 ==== 中央区中央・本町の[[広小路交差点]]は国道14号の終点と国道51号の起点を兼ねており、戦前から千葉市における[[国道]]の結節点であった。 * [[国道14号]]([[千葉街道]]) ** [[習志野市|習志野]]・[[船橋市|船橋]]・[[市川市|市川]]・[[東京]]方面 * [[国道16号]] ** [[柏市|柏]]・[[野田市|野田]]・[[春日部市|春日部]]・[[さいたま市|さいたま]]方面 * [[国道51号]]([[佐倉街道]]) ** [[四街道市|四街道]]・[[佐倉市|佐倉]]・[[成田市|成田]]・[[香取市|香取]]・[[鹿嶋市|鹿嶋]]・[[水戸市|水戸]]方面 * [[国道126号]]([[東金街道]]) ** [[八街市|八街]]・[[東金市|東金]]・[[匝瑳市|匝瑳]]・[[旭市|旭]]・[[銚子市|銚子]]方面 * [[国道128号]] ** [[茂原市|茂原]]・東金・[[勝浦市|勝浦]]・[[館山市|館山]]方面 * [[国道357号]] ** 習志野・船橋・[[浦安市|浦安]]・東京・[[川崎市|川崎]]・[[横浜市|横浜]]方面 ==== 都道府県道 ==== ; 主要地方道 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[千葉県道・茨城県道4号千葉竜ヶ崎線|千葉県道4号千葉竜ヶ崎線]] * [[千葉県道14号千葉茂原線]]([[茂原街道]]) * [[千葉県道20号千葉大網線]]([[大網街道]]) * [[千葉県道22号千葉八街横芝線]] * [[千葉県道24号千葉鴨川線]] * [[千葉県道40号東千葉停車場線]] * [[千葉県道53号千葉川上八街線]] {{Col-break}} * [[千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線]] * [[千葉県道64号千葉臼井印西線]] * [[千葉県道66号浜野四街道長沼線]] * [[千葉県道67号生実本納線]](千葉外房有料道路) * [[千葉県道69号長沼船橋線]] * [[千葉県道72号穴川天戸線]] {{Col-end}} ; 一般県道 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[千葉県道126号八幡菊間線]] * [[千葉県道128号日吉誉田停車場線]] * [[千葉県道129号誉田停車場中野線]] * [[千葉県道131号土気停車場千葉中線]] * [[千葉県道132号土気停車場金剛地線]] * [[千葉県道133号稲毛停車場穴川線]] {{Col-break}} * [[千葉県道134号稲毛停車場稲毛海岸線]] * [[千葉県道217号本千葉停車場線]] * [[千葉県道218号蘇我停車場線]] * [[千葉県道219号浜野停車場線]] * [[千葉県道262号幕張八千代線]] * [[千葉県道289号岩富山田台線]] {{Col-end}}'''千葉市道''' 千葉市道路には以下の愛称が付けられている<ref>{{Cite web|和書|title=道路愛称名一覧|url=http://www.city.chiba.jp/kensetsu/doboku/rosei/nickname.html|website=千葉市|accessdate=2019-06-22|language=ja|last=千葉市}}</ref>。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" !番号 !道路愛称名 !位置 |- !1 |御成街道 |若葉区若松町 - 若葉区富田町 |- !2 |学園通り |稲毛区弥生町 - 稲毛区緑町2丁目 |- !3 |京葉線通り |中央区中央港2丁目 - 美浜区幸町2丁目 |- !4 |臨港プロムナード |中央区中央港1丁目 - 中央区新千葉1丁目 |- !5 |千葉駅前大通り |中央区富士見1丁目 - 中央区富士見2丁目 |- !6 |末広街道 |中央区末広1丁目 - 中央区南町3丁目 |- !7 |青葉の森通り |中央区都町 - 中央区南町2丁目 |- !8 |タウンライナーストリート |若葉区都賀3丁目 - 若葉区千城台南4丁目 |- !9 |海浜大通り |美浜区高浜7丁目 - 美浜区豊砂1丁目 |- !10 |マリーナストリート |美浜区稲毛海岸5丁目 - 美浜区磯辺3丁目 |- !11 |海浜松風通り |美浜区高洲1丁目 - 美浜区高浜6丁目 |- !12 |海浜公園通り |美浜区高洲1丁目 - 美浜区高浜3丁目 |- !13 |こじま公園通り |美浜区高洲1丁目 - 美浜区真砂1丁目 |- !14 |けやき通り |美浜区幸町1丁目 - 美浜区幸町2丁目 |- !15 |ゆりの木通り |中央区弁天4丁目 - 稲毛区弥生町 |- !16 |作草部坂通り |中央区東千葉2丁目 - 稲毛区作草部町 |- !17 |こてはし台なか通り |花見川区横戸町 - 花見川区こてはし台1丁目 |- !18 |みつわ台大通り |若葉区殿台町 - 若葉区みつわ台5丁目 |- !19 |小倉いちょう大通り |若葉区若松町 - 若葉区小倉台2丁目 |- !20 |小桜橋通り |若葉区桜木町 - 若葉区千城台西1丁目 |- !21 |蘇我駅西口大通り |中央区今井2丁目 |- !22 |大宮台すずかけ通り |若葉区大宮台7丁目 - 若葉区大宮台3丁目 |- !23 |大賀ハス通り |花見川区浪花町 - 花見川区畑町 |- !24 |文教通り |稲毛区穴川3丁目 - 中央区松波2丁目 |- !25 |真砂くすのき通り |美浜区真砂2丁目 - 美浜区磯辺5丁目 |- !26 |中央区役所通り |中央区本千葉町 - 中央区中央3丁目 |- !27 |若葉北通り |若葉区貝塚町 - 若葉区若松町 |- !28 |大椎台さわやか通り |緑区大木戸町 - 緑区大椎町 |- !29 |東大グランド通り |花見川区検見川町5丁目 - 花見川区畑町 |- !30 |小仲台坂通り |稲毛区小仲台6丁目 - 稲毛区小仲台8丁目 |- !31 |都町中通り |中央区都町1丁目 - 若葉区加曽利町 |- !32 |都賀車坂通り |若葉区貝塚町 - 若葉区都賀4丁目 |- !33 |鎌取タウンセンター北通り |緑区おゆみ野3丁目 - 緑区おゆみ野5丁目 |- !34 |センターストリート |美浜区中瀬1丁目 |- !35 |国際大通り |美浜区中瀬2丁目 - 美浜区若葉2丁目 |- !36 |公園大通り |美浜区若葉2丁目 - 美浜区ひび野2丁目 |- !37 |ハイテク通り |美浜区ひび野1丁目 - 美浜区中瀬1丁目 |- !38 |メッセ大通り |美浜区打瀬3丁目 - 美浜区中瀬2丁目 |- !39 |ビジネス通り |美浜区中瀬2丁目 - 美浜区中瀬1丁目 |- !40 |花見川通り |美浜区打瀬3丁目 - 美浜区若葉2丁目 |- !41 |パークモール |美浜区中瀬2丁目 - 美浜区中瀬1丁目 |- !42 |公園中通り |美浜区ひび野2丁目 - 美浜区ひび野1丁目 |- !43 |浜田川通り |美浜区中瀬2丁目 - 美浜区中瀬1丁目 |- !44 |白帆通り |美浜区打瀬1丁目 |- !45 |打瀬北通り |美浜区打瀬3丁目 - 美浜区打瀬1丁目 |- !46 |打瀬東通り |美浜区打瀬1丁目 - 美浜区打瀬2丁目 |- !47 |打瀬南通り |美浜区打瀬2丁目 - 美浜区打瀬3丁目 |- !48 |打瀬中通り |美浜区打瀬2丁目 |- !49 |打瀬西通り |美浜区打瀬3丁目 |- !50 |美浜プロムナード |美浜区打瀬1丁目 - 美浜区打瀬2丁目 |- !51 |松波本通り |中央区松波2丁目 - 中央区松波1丁目 |- !52 |松波さくら通り |中央区松波2丁目 |- !53 |ふれあい通り |中央区松波2丁目 - 中央区松波4丁目 |- !54 |護国神社通り |中央区松波1丁目 - 中央区松波4丁目 |- !55 |公園通り |中央区松波4丁目 |- !56 |バレンタイン通り(英名:ValentineWay) |美浜区打瀬3丁目 - 美浜区打瀬1丁目 |- !57 |大木戸台ふれあい通り |緑区大木戸町 |- !58 |きぼーる通り |中央区本千葉町 - 中央区中央4丁目 |- !59 |つばさ記念ロード |美浜区幸町2丁目 - 美浜区稲毛海岸5丁目 |} ===== 道路元標位置 ===== * 大正八年十一月十四日千葉県告示第二百九十五号/大正九年一月九日千葉県告示第一号 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" !旧町村名 !番地先 !目標物 !状態 |- |千葉町 |寒川字北長洲989番ノ1地先 |羽衣公園 |現存 |- |蘇我町 |今井字神明前262番地先 |なし |不明 |- |生実浜野村 |浜野字東町1130番地先 |浜野交差点 |現存 |- |検見川町 |検見川字東上宿38番地先 |なし |不明 |- |幕張町 |馬加字南寺口806番地先 |なし |不明 |- |椎名村 |富岡字平台259番地先 |なし |不明 |- |誉田村 |野田字上宿291番地先 |野田十字路→緑土木事務所へ移設 |現存 |- |白井村 |野呂字北ノ谷218番地先 |白井小学校はす池 |現存 |- |更科村 |上泉字下表耕地111番地先 |消防団器具置場 |現存 |- |千城村 |大宮字宮ノ谷688番地先 |大宮神社 |現存 |- |都村 |加曽利字田向696番地先 |なし |不明 |- |都賀村 |作草部字屋舗748番地先 |なし |不明 |- |犢橋村 |長沼字屋敷24番地先 |なし |不明 |- |土気本郷町 |土気字馬場1727番地先 |なし |不明 |} === 船舶 === {{main|千葉港}} [[ファイル:Chibaportship.jpg|サムネイル|千葉中央港旅客船桟橋]] 旅客船・遊覧船としては[[千葉中央港旅客船桟橋]](千葉みなと桟橋)より運航されている。 * 千葉みなと1号さん橋 ** 千葉ポートサービス:「あるめりあ」千葉港内遊覧「港めぐりコース」、「[[幕張メッセ]]沖合遊覧コース」や「[[千葉港]]内工場夜景」クルーズが出航 * 千葉みなと2号さん橋 ** シャイニービュー(日東商船):「羽田沖滑走路飛行機見学クルーズ」、「チャータークルーズ」、「[[千葉港]]内クルーズ」が出航 ** (株)ケーエムシーコーポレーション:運航船舶:MYⅡ(エムワイツー) ** 伊豆大島臨時船(高速ジェット船) 他、幕張ビーチ花火フェスタ(千葉市民花火大会)の納涼船なども期間限定で出航している。 市内には[[稲毛ヨットハーバー]]など係留ないし保管する機能を持つ港湾施設もある。 == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == 東京湾を望む[[幕張]]地区(美浜区)に、全国的に有名なイベントや会議などが開催される複合的コンベンション施設の幕張メッセや、千葉ロッテマリーンズの本拠地千葉マリンスタジアムなどがある。近年では、「花の都・ちば」を都市イメージとして確立すべく事業を展開している。 === 名所・旧跡 === {{Vertical_images_list |幅 = 220px |枠幅 = 220px |画像1 = Senyo-ji 06.jpg |説明1 = 千葉寺(仁王門) |画像2 = |説明2 = |画像3 = |説明3 = |画像4 = |説明4 = }} * [[亥鼻城]]跡 * [[生実陣屋]] *[[園生貝塚]] *[[加曾利貝塚]] * 旧制[[千葉医科大学]]付属病院(現[[千葉大学]][[医学部]]本館) * 旧千葉県庁舎([[1911年]](明治44年)竣工のルネッサンス様式) * [[検見川送信所]] {| width="90%" | valign="top" width="50%" | * [[稲毛浅間神社]] * [[大宮神社 (千葉市)|大宮神社]] * [[検見川神社]] * [[子守神社 (千葉市)|子守神社]] * [[昆陽神社]] * [[寒川神社 (千葉市)|寒川神社]] * [[三代王神社]] * [[白幡神社 (千葉市)|白幡神社]] * [[蘇我比咩神社]] * [[千葉縣護國神社]] * [[千葉神社]] * [[登渡神社]] * [[胤重寺]] * [[栄福寺 (千葉市)|栄福寺]] * [[金城寺]] | valign="top" | * [[高徳寺 (千葉市)|高徳寺]] * [[駒形観音堂]] * [[真光寺 (千葉市)|真光寺]] * [[善勝寺 (千葉市緑区)|善勝寺]] * [[千葉寺]](板東札所第二十九番札所) * [[大巌寺]] * [[大日寺 (千葉市)|大日寺]](千葉氏歴代墓碑) * [[天福寺 (千葉市)|天福寺]] * [[東光院 (千葉市)|東光院]] * [[本行寺 (千葉市)|本行寺]] * [[妙興寺 (千葉市)|妙興寺]] * [[無量寺 (千葉市)|無量寺]] * [[来迎寺 (千葉市)|来迎寺]] * 宗胤寺 * 重俊院 |} <gallery widths="200"> InageSengenJinja.jpg|稲毛浅間神社 Sogahimeshrine01.jpg|蘇我比咩神社 ChibakenGokokuJinja20100501.jpg|千葉縣護國神社 Towatari-jinja 06.jpg|登渡神社 Koutoku-ji(chiba city) hondo.jpg|高徳寺 Dainichiji.jpg|大日寺 </gallery> === 観光スポット === {{節スタブ}}「[https://www.chibacity-ta.or.jp/spots?spot_category=watch 千葉市観光協会]」も参照 [[ファイル:千葉ポートタワー - panoramio.jpg|代替文=|サムネイル|千葉ポートタワー]] ※前述の旧跡や文化施設を除く名所{{表2列|* 中央区 ** [[千葉ポートタワー]] ** [[千葉市動物公園]] ** [[千葉中央公園]] ** [[千葉市都市緑化植物園]] ** [[千葉県立中央博物館]]生態園 ** [[青葉の森公園]] ** [[千葉公園]] ** [[千葉市蘇我スポーツ公園]] * 稲毛区 ** [[千葉市ゆかりの家・いなげ]] * 花見川区 ** [[花島公園]]|* 美浜区 ** [[稲毛海浜公園]] *** いなげの浜 *** 検見川の浜 ** [[幕張海浜公園]] *** 見浜園 * 若葉区 ** [[泉自然公園]]([[日本さくら名所100選]]) * 緑区 ** [[千葉市昭和の森公園]]}} <gallery widths="200"> Chiba zoo entrance.jpg|千葉市動物公園 Chiba Park with monorail.jpg|千葉公園 2007 - Shiba Windsurfers.jpg|稲毛海浜公園(検見川の浜) Makuhari Seaside Park 1.JPG|幕張海浜公園 HanashimaKouen20110710.jpg|花島公園 Izumi natural Park Sakura.JPG|泉自然公園(日本桜名所百選) </gallery> === 博物館 === [[ファイル:Hoki museum outside rear 001.jpg|サムネイル|ホキ美術館]] *[[千葉県立中央博物館]] - [[1989年]]([[平成]]元年)[[2月6日]]開館<ref name="chibanippo198927">{{Cite news|title=歴史、風土、自然の今昔ひと目で 千葉県立中央博物館 きょう開館|newspaper=『千葉日報』|pages=5-7|publisher=千葉日報社|date=1989-02-07}}</ref> * 千葉市立郷土博物館([[千葉城]]址内) * 千葉市立[[加曽利貝塚]]博物館 *[[稲毛民間航空記念館]]([[稲毛海浜公園]]) - [[1989年]]([[平成]]元年)[[4月29日]]開館<ref name="chibanippo1989430">{{Cite news|title=青空広がり行楽地に歓声 GW初日 航空博物館オープン|newspaper=『千葉日報』|page=12|publisher=千葉日報社|date=1989-04-30}}</ref> *[[千葉市花の美術館]] ==== 科学館 ==== *[[千葉市科学館]] - [[2007年]](平成19年)[[10月20日]]開館<ref name="chibanippo20071021">{{Cite news|title=「きぼーる」全館オープン 家族連れでにぎわう|newspaper=『千葉日報』|page=14|publisher=千葉日報社|date=2007-10-21}}</ref> ==== 美術館 ==== *[[千葉県立美術館]] *[[千葉市美術館]] - [[1995年]](平成7年)[[11月1日]]開館<ref name="chibanippo1995112" /> *[[ホキ美術館]] - [[2010年]](平成22年)[[11月3日]]開館<ref name="chibanippo20101017">{{Cite news|title=写実絵画の名品165点展示 緑区のホキ美術館来月3日オープン 斬新な回廊型ギャラリー|newspaper=『千葉日報』|page=14|publisher=千葉日報社|date=2010-10-17}}</ref> <gallery widths="200"> 千葉県立中央博物館02.jpg|千葉県立中央博物館 KasoriShellMoundsMuseum20110918.jpg|千葉市立加曽利貝塚博物館 Floral Museum of Chiba2.jpg|千葉市花の美術館 Qiball2.jpg|千葉市科学館 千葉県立美術館.jpg|千葉県立美術館 KyuuKawasakiGinkouChibashiten.jpg|千葉市美術館 </gallery> === 祭事・催事 === {{See also|幕張メッセ}} [[ファイル:Makuhari messe 1-8hall.jpg|サムネイル|幕張イベントホール]] 幕張メッセ(幕張イベントホール)ではアジア地域有数の[[国際見本市]]会場及び[[MICE]]施設として大規模なイベントが多数行われている。 毎年あるいは数年おきに開催される主なイベントを以下に記す。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" !月 !イベント名称 !開催場所 !備考 |- ! rowspan="2" |1月 |[[東京オートサロン]] | rowspan="3" |幕張メッセ |世界三大カスタムカーショー(1999年 - )<ref>[http://www.tokyoautosalon.jp/2016/ 東京オートサロン公式サイト(2017)]</ref> |- |[[日本レースクイーン大賞]]授賞式 |東京オートサロン同時開催(2011年 - ) |- !2月 |[[ワンダーフェスティバル]]冬 |世界最大の[[ガレージキット]](2009年 - )<ref>[http://gigazine.net/news/20090726_wf2009_s_matome/ ワンダーフェスティバル 2009[夏]開幕、全記事一覧まとめ] Gigazine 2009年7月26日</ref> |- ! rowspan="2" |3月 |さくら広場特別開園<ref>{{Cite web|和書|title=さくら広場(幕張) - さくら広場 - 体験・見学施設 - 広告・見学施設 - 企業情報 - Panasonic|url=https://www.panasonic.com/jp/corporate/ad/experience/sakura/makuhari.html|website=www.panasonic.com|accessdate=2019-03-08|language=ja}}</ref> |さくら広場 |4月ごろまで、ソメイヨシノ505本ライトアップなど |- |セント・パトリックス・デー・パレード千葉 |幕張海浜公園など |アイルランド祝日イベント |- !4月 |[[ニコニコ超会議]]<ref>[http://www.chokaigi.jp/2015/guide/access.html アクセス] ニコニコ超会議2015公式サイト</ref> | rowspan="2" |幕張メッセ |株式会社[[ドワンゴ]]主催(2012年 - ) |- ! rowspan="3" |5月 |幕張メッセ"どきどき"フリーマーケット<ref>[http://www.makuhari-dokidoki.com/pc/information.html 開催概要] 幕張メッセ"どきどき"フリーマーケット公式サイト</ref> |[[ピーアークホールディングス|ピーアーク]] presents |- |ベイタウンまつり<ref>{{Cite web|和書|title=ヨーロッパのように美しい街、幕張ベイタウン。恒例のお祭りは今年も大にぎわい!|URくらしのカレッジ|url=https://www.ur-net.go.jp/chintai/college/201806/000168.html|website=UR都市機構|accessdate=2019-03-08|first=Urban Renaissance|last=Agency}}</ref> |幕張ベイタウン | |- |レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ |幕張海浜公園 |若しくは6月実施(2015年 - ) |- !6月 |[[SATANIC CARNIVAL]] | rowspan="3" |幕張メッセ |[[PIZZA OF DEATH RECORDS]]主催、屋内ロックフェス(2014年 - ) |- ! rowspan="6" |7月 |[[THE MUSIC DAY]] |日本テレビ主催(2013年 - ) |- |ワンダーフェスティバル夏 |(2009年 - ) |- |幕張ビーチ花火フェスタ |幕張の浜 |旧称:千葉市民花火大会 |- |マリンスタジアム花火ナイター |千葉マリンスタジアム |7月~9月ごろのプロ野球試合終了後 |- |幕張ビアガーデン |幕張テクノガーデン | |- |稲毛浅間神社例大祭 |稲毛浅間神社 | |- ! rowspan="4" |8月 |[[サマーソニック|SUMMER SONIC]] |幕張メッセ、千葉マリンスタジアム |(2001年 - ) |- |マクハリ的粋祭り<ref>{{Cite web|和書|title=マクハリ的粋祭り2018開催のお知らせ {{!}} 幕張メッセ|url=https://www.m-messe.co.jp/information/detail/1621|website=www.m-messe.co.jp|accessdate=2019-03-08}}</ref> |幕張メッセ |幕張メッセ正面広場にて開催 |- |ベイタウン夏祭り |幕張ベイタウン | |- |千葉の親子三代夏祭り<ref>{{Cite web|和書|title=第44回 千葉の親子三代夏祭り 2019年8月17日(土)・18日(日)|url=http://www.oyakosandai.chiba.jp/|website=www.oyakosandai.chiba.jp|accessdate=2019-06-22}}</ref> |千葉中央公園 | |- !9月 |[[東京ゲームショウ]] | rowspan="4" |幕張メッセ |世界三大ゲームショウ(1997年 - )<ref>[http://expo.nikkeibp.co.jp/tgs/2015/index.html 東京ゲームショウ2015公式サイト]</ref> |- !10月 |[[CEATEC JAPAN]] |IT技術とエレクトロニクスの国際展示会(1991年 - )<ref>[http://www.ceatec.com/ja/outline/ CEATEC JAPAN2016 開催概要]</ref> |- ! rowspan="6" |11月 |[[日テレ系音楽の祭典 ベストアーティスト]] |日本テレビ主催(2010年 - ) |- |幕張メッセウィンターイルミネーション |1月ごろまで実施 |- | rowspan="2" |幕張ウィンターイルミネーション<ref>{{Cite web|和書|title=ChibaCityウィンターイルミネーション特集|url=http://www.chibacity-ta.or.jp/illumination|website=千葉市観光協会公式サイト/千葉市観光ガイド|accessdate=2019-03-08|language=ja}}</ref> |幕張テクノガーデン ホテルスプリングス |1月ごろまで実施 |- |イオンモール幕張新都心 三井アウトレットパーク幕張 |2月ごろまで実施 |- |見浜園灯ろうまつり |幕張海浜公園(見浜園) |秋の庭園ライトアップなど |- |ブラックフライデー |イオンモール幕張新都心 イオン幕張 コストコなど |イオン(流通大手)けん引のイベント(2016年 - )<ref>{{Cite web|和書|title=黒字になるから「『ブラック』フライデー」? イオンが11月に超激安セール|url=https://www.j-cast.com/tv/2016/10/25281654.html|website=J-CASTテレビウォッチ|date=2016-10-25|accessdate=2019-03-08}}</ref> |- ! rowspan="3" |12月 |[[ミュージックステーションスーパーライブ|ミュージックステーション スーパーライブ]] | rowspan="2" |幕張メッセ |テレビ朝日主催(2005年 - ) |- |[[COUNTDOWN JAPAN]] |年越しロック・J-ポップ・フェスティバル(2003年 - ) |- |クリスマスディスプレイ |ホテル ザ・マンハッタン | |- ! rowspan="2" |毎月 |マリンフェスタ |千葉マリンスタジアム |千葉ロッテマリーンズ主催[[ファン感謝デー]](2015年 - ) |- |アトリウムコンサート |幕張テクノガーデン |ほぼ毎月開催<ref>{{Cite web|和書|title=アトリウムコンサート情報|url=http://www.mtg-bld.co.jp/イベント/アトリウムコンサート情報/|website=mtg-bld ページ!|accessdate=2019-03-08|language=ja-JP}}</ref> |- ! rowspan="4" |不定期 |幕張ベイタウンオーケストラ |幕張ベイタウン・コア |定期演奏会 |- |ベイタウン・ミュージック・フェスタ |幕張ベイタウン・コア |定期演奏会(2002年 - ) |- |幕張マルシェ |幕張海浜公園 |幕張マルシェ実行委員会主催 |- |ベイサイドジャズ千葉 |千葉市文化センターなど | |}<!-- * ちばYOSAKOI ※ 2009年は中止、2010年以降の開催も不透明なのでコメントアウト --> === 文化財 === [[ファイル:ChibaToyopet.jpg|サムネイル|旧日本勧業銀行本店(国の登録有形文化財)]] * 市内の'''国指定[[文化財]]'''一覧 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:small" !番号 !style="width: 3em"|種別 !style="width:18em"|名称 !style="width:12em"|所在地 !style="width:10em"|所有者又は管理者 !style="width: 8em"|指定年月日 !style="width:28em"|備考 |- |1 |特別史跡 |加曽利貝塚 |若葉区桜木町141他 |千葉市 |平成29年10月13日 |縄文時代中期から後期。<br />日本最大級の馬蹄形貝塚。 |- |2 |史跡 |月ノ木貝塚 |中央区仁戸名町289-1他 |千葉市・他 |昭和53年3月16日<br />平成14年3月19日 |繩文時代中期から後期。馬蹄形貝塚。 |- |3 |〃 |荒屋敷貝塚 |若葉区貝塚町726-1他 |千葉市・他 |昭和54年3月13日 |縄文時代中期前半。馬蹄形貝塚。 |- |4 |〃 |犢橋貝塚 |花見川区さつきが丘1-18 |千葉市 |昭和56年12月9日 | - |} * 市内の'''[[登録有形文化財]]'''一覧 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:small" !番号 !style="width: 3em"|種別 !style="width:18em"|名称 !style="width:12em"|所在地 !style="width:10em"|所有者又は管理者 !style="width: 8em"|登録年月日 !style="width:28em"|備考 |- |1 |建造物 |千葉市民ギャラリー・いなげ<br />(旧[[神谷傳兵衛|神谷伝兵衛]]稲毛別荘) |稲毛区稲毛1-8-35 |千葉市 |平成9年5月7日 |大正7年竣工。鉄筋コンクリート2階建。 |- |2 |〃 |[[トヨタ勝又グループ|千葉トヨペット]]本社(旧勧業銀行本店) |美浜区稲毛海岸4-5-1 |千葉トヨペット株式会社 |平成9年7月15日 |明治32年6月竣工。昭和40年に現在地に移築。木造2階建。 |- |3 |〃 |千葉県水道局千葉高架水槽 |千葉市中央区矢作町670<br />(誉田給水場千葉分場内) |千葉県水道局 |平成19年7月31日 |昭和12年2月竣工。正12角形の配水塔。高さ30m、5階建。<br />[[土木学会選奨土木遺産]]。 |} * 市内の'''千葉県指定文化財'''は「[[千葉県指定文化財一覧]]」を参照。 {{Clear}} == 千葉市出身の人物 == {{See|千葉市出身の人物一覧}} == 千葉市を舞台・ロケ地とした作品 == === 映画 === * 『[[指導物語]]』 * 『[[ゴジラvsメカゴジラ]]』 * 『[[ゴジラ2000 ミレニアム]]』 * 『[[雨の翼]]』 * 『縮図』 === TVドラマ === * 『[[やっぱり猫が好き]]』 * 『[[民衆の敵〜世の中、おかしくないですか!?〜|民衆の敵]]』([[篠原涼子]]主演、[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|フジ月9]]、2017年10月〜12月) *: 架空の「あおば市」が舞台だが、市域の規模と都市、農村部、海が揃っている千葉市がモデルとなり、海浜幕張駅前や千葉市役所、千葉中央公園など、市内各所で[[ロケーション撮影|ロケ]]が行われた。 *『[[ドクターX〜外科医・大門未知子〜]]』千葉市中央区の大学病院で[[ロケーション撮影|ロケ]]が行われた。 *『[[CODE-願いの代償-]]』千葉県庁、幕張国際研修センター、ザキューブホテル、京葉銀行、VEGAアサヒボウリングセンターなど、市内各所で[[ロケーション撮影|ロケ]]が行われた<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://naminotes.com/code-rokechi/|title=CODE願いの代償ロケ地警察署は千葉県庁?撮影場所や目撃情報まとめ|publisher=naminotes|accessdate=2023-09-15}}</ref>。 === 小説・ライトノベル === * 『[[ニューロマンサー]]』([[ウィリアム・ギブスン]]) * 『[[俺の妹がこんなに可愛いわけがない]]』([[伏見つかさ]]) *: 主人公である「高坂京介」が千葉市に住んでいる。アニメ版では千葉駅周辺の景観をモデルとした風景も登場する。 * 『[[やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。]]』([[渡航]]) * [[プロジェクト・クオリディア]] === 漫画・アニメ === * 『[[うちの大家族]]』([[重野なおき]]) * 『[[幕張 (漫画)|幕張]]』([[木多康昭]]) * 『[[幕張サボテンキャンパス]]』([[みずしな孝之]]) * 『[[私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!]]』([[谷川ニコ]]) * 『[[弱虫ペダル]]』 * 『[[あっちこっち]]』 * 『[[ボールパークでつかまえて!]]』([[須賀達郎]]) * 『[[ひぐらしのなく頃に]]』(興宮の舞台として緑区土気周辺が使われている) * 『[[Re:ゼロから始める異世界生活]]』(第一話、主人公が立ち寄ったコンビニが、あすみが丘東一丁目のミニストップがモデルになっている。) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == <!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Sisterlinks |commons = 千葉市 |commonscat = Chiba, Chiba |q = no |v = no |voy = ja:千葉市 |d = Q170616 }} {{See also|Category:千葉市}} * [[全国市町村一覧]] * [[千葉市の地名一覧]] **[[都道府県庁所在地|県庁所在地]] ** [[東京大都市圏]](京浜葉大都市圏) ** [[東京圏]]([[首都圏 (日本)]]) ** [[東京都市圏]]([[都市雇用圏]]) ** [[政令指定都市]] ** [[業務核都市]] ** [[国際会議観光都市]] ** [[保健所政令市]] ** [[国家戦略特区]] ** [[構造改革特区]] ** [[都市再生特別地区]] **[[路上喫煙禁止条例]] **[[臼井荘]] ** [[高滝藩]] ** [[京葉工業地域|京葉工業地帯]] **[[幕張新都心]] **[[幕張]]([[広域地名]]) == 外部リンク == {{Multimedia|千葉市の画像}} {{osm box|r|2679956}} * {{Official website}} * {{Googlemap|千葉市}} * {{LINE公式アカウント|chibacity}} * {{Facebook|city.chiba.jp}} * {{ウィキトラベル インライン|千葉市|千葉市}} {{Geographic Location |Centre = 千葉市 |North = [[八千代市]]  [[佐倉市]]  [[四街道市]] |Northeast = 佐倉市 |East = [[八街市]]<br />[[東金市]] |Southeast = [[大網白里市]] |South = [[市原市]] [[茂原市]] |Southwest = |West = (東京湾) |Northwest = [[習志野市]] |image = }}{{千葉市の町・字}}{{日本の政令指定都市}} {{日本の都道府県庁所在地}} {{日本50大都市}} {{千葉県の自治体}} {{幕張新都心}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちはし}} [[Category:千葉県の市町村]] [[Category:千葉市|*]] [[Category:日本の港町]] [[Category:政令指定都市]] [[Category:都道府県庁所在地]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]]
2003-05-13T08:48:55Z
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機械
機械、器械(きかい、フランス語、英語、オランダ語:machine、ドイツ語:Maschine)とは、広義には、ある力が有用な働きをなし、あるいは他のエネルギーの形態に変化する力の伝達を行うような装置の総称(Brockhausによる定義)。 通常の用語では機械(machine)は一般に簡単な構造を有する器具(implements)または道具(tools)とは区別され、2つ以上の抵抗物を組み合わせて互いに相関的運動を行う工作物をいう。日本語で「機械」は主に人力以外の動力で動く複雑で大規模なものを言い、「器械」のほうは、人力で動く単純かつ小規模なものや道具を指すことが多い。 機械は英語のmachineにあたる語で、ギリシヤ語のmakkiné又はmekhané、ラテン語のmachinaを語源とし「手段」を意味するものであった。 Oxford English Dictionary(1933年)では、広義には力を伝達しその作用を変えるために用いられるものをいうとし、狭義には一定の機能を営む数多くの連結した部分品からできた機械的な力を使用するための装置をいうとする。 広義の機械には梃子や車軸のような単純機械とそれらを組み合わせた複合機械がある。この定義では支点に支えられた梃子、使用中のプライヤー、用力点のある滑車なども機械に含まれる。しかし、これらには相関的運動がみられないため通常の意味では機械に含めない。相関的運動がみられないハンマー、鋸、のみ、鉋などの道具も通常の意味の機械には含まれない。 Webster's New International Dictionary(1951年)では、機械学上の広い意味では、歯車、滑車、車軸や心棒、ロープ、鎖やベルト、カム、ばね、密閉した液体等の機械的部分品を多少とも複雑化した結合体であって、ある予想された一定の方式でものを変化させるために設計されたものをいうとする。なお、農業機械学では農業用の機械だけでなく道具や器具などの農具も研究対象にしており各分野の研究対象は機械に限られない場合がある。 機械の定義は時代によって移り変わっており、歴史的には以下のような定義がある。 蒸気機関が開発されるまでの機械についての定義は、現代における建築に関わる記述中によく見られる。 蒸気機関が開発されると、建築以外の分野でも機械が多用され、機械を作るための機械である工作機械も作られるようになり機械の定義が拡張された。これが現代における機械の定義の原型とされる。 ルーローの説より発展し、現在では機械とは次のような性質をもつ人工の道具を指すことが多くなった。 日本では江戸時代以前はおもにカラクリと呼ばれていた。明治時代以降、machineに対応する言葉として機械ということばを作った。 経済学でも様々な経済学者により機械が定義されてきた。 経済学的見地では、人間労働の技術的補助手段で、道具とは異なる自律作業能力をもち、人間の労働を軽減し同時に代替する作用を果たすものをいう。 機械は素朴な織機のように人力で動くものであったり、水車や風車、ウマなどを動力源として動いていた。 水車などに見られるように、動力源の単純な運動を別種の運動に変換する必要性から機械は徐々に複雑なものとなり、歯車やカム、滑車、クランクといった機構が次第に開発されていった。 こうした近代化以前の機械のなかでもっとも精巧なものは時計であり、1736年にはジョン・ハリソンが正確なクロノメーターを完成させるなど、18世紀ごろにはヨーロッパにおいてかなりの精度の時計が生産できるようになっていた。時計産業は多くの部品を必要としたため個人での制作は効率が悪く、必然的に分業により制作する方式を採用していたが、これによって精度の高い部品を正確に組み合わせることのできる高度な技能を持った職人集団が成立し、この技術を他の機械製作にも応用することで蒸気機関や紡績機といった高い精度の必要とされる機械の生産が可能となり、産業革命の技術的基礎となった。また、1690年にドニ・パパンが原始的な蒸気機関を開発し、1712年にはトマス・ニューコメンによって蒸気機関が実用化された。 産業革命はまず、紡織機械の改善からスタートした。 1733年にジョン・ケイが飛び杼を開発したのを皮切りに、1764年にはジェームズ・ハーグリーブスがジェニー紡績機を開発して紡績工程が改善され、1770年にはリチャード・アークライトが水力紡績機を開発することで紡績機械は人力から動力を利用するものへと変化した。 1769年にはジェームズ・ワットが復水器を独立させた新しい蒸気機関を開発し、これによって真に強力な動力源を得た人類は工業化を行うことが可能となった。 1785年にはエドモンド・カートライトが蒸気機関を動力とした力織機を開発した。蒸気機関を交通に応用することも行われ、1804年にはリチャード・トレビシックが蒸気機関車を発明し、1807年にはロバート・フルトンが蒸気船を実用化することで、輸送機械と呼ばれる新たな機械が誕生した。 また、1800年にはヘンリー・モーズリーが実用的なねじ切り旋盤を発明したことによってボルトとナットの生産が容易になり、機械化の基盤となった。このことから、モーズリーは工作機械の父とも呼ばれる。 19世紀に入るとこうした機械技術の進歩を基盤として工業化が急速に進むようになり、それまで人力によって行われていた工業分野が次々と機械化されていくようになった。 大規模な産業機械が工場に備え付けられるようになり、成立した工場制機械工業は世界の工業化を急速に推し進めることとなった。 19世紀後半にはミシンや洗濯機が発明され各家庭に徐々に普及し、家事労働にも機械が使われるようになっていった。 19世紀の終わりころにはアメリカで発明家トーマス・エジソンによって電力会社が設立され、そこで天才ニコラ・テスラも雇われたことで三相交流や電気モーターの研究・利用が推進されることになった。20世紀初期には電気式の掃除機も発明された。 産業分類(機械器具製造業)では、はん用機械器具、生産用機械器具、業務用機械器具、電気機械器具、情報通信機械器具、輸送用機械器具に分類される(他に電子部品・デバイス・電子回路も機械器具製造業に含む)。 機械遺産分類では、工作機械、動力・エネルギー機械、交通機械、産業機械、測定器・実験機器、機械構造物、機巧・機械要素、その他の資料に分類される。 メカとは、メカニズムの略語であるが、フィクションの分野(アニメやライトノベル、SF映画など)においては特に「空想的な機械装置」を指す用語になっている。
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機械、器械とは、広義には、ある力が有用な働きをなし、あるいは他のエネルギーの形態に変化する力の伝達を行うような装置の総称(Brockhausによる定義)。 通常の用語では機械(machine)は一般に簡単な構造を有する器具(implements)または道具(tools)とは区別され、2つ以上の抵抗物を組み合わせて互いに相関的運動を行う工作物をいう。日本語で「機械」は主に人力以外の動力で動く複雑で大規模なものを言い、「器械」のほうは、人力で動く単純かつ小規模なものや道具を指すことが多い。
{{Otheruses||小説|機械 (小説)}} '''機械'''、'''器械'''<ref name="koujien_kikai">{{cite book|和書|title=広辞苑|edition=第六版|editor=新村出|year=2009|isbn=978-4-00-080123-2|ncid=BA88799427 }}きかい 機械・器械】の項</ref>(きかい、[[フランス語]]、[[英語]]、[[オランダ語]]:machine、[[ドイツ語]]:Maschine)とは、広義には、ある力が有用な働きをなし、あるいは他の[[エネルギー]]の形態に変化する力の伝達を行うような装置の総称(Brockhausによる定義)<ref name="fukuda" />。 通常の用語では機械(machine)は一般に簡単な構造を有する器具(implements)または道具(tools)とは区別され、2つ以上の抵抗物を組み合わせて互いに相関的運動を行う工作物をいう<ref name="fukuda">{{Cite web|和書|author=福田稔 |url=http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/0/88/20160527164953893522/011_0087_0095.pdf |title=農業機械化の経済的意義に関する研究 |publisher=岡山大学 |accessdate=2019-11-14}}</ref>。[[日本語]]で「機械」は主に人力以外の動力で動く複雑で大規模なものを言い、「器械」のほうは、人力で動く単純かつ小規模なものや道具を指すことが多い<ref name="koujien_kikai" />。 == 説明 == === 広義と狭義 === 機械は英語のmachineにあたる語で、[[ギリシヤ語]]のmakkiné又はmekhané、[[ラテン語]]のmachinaを語源とし「手段」を意味するものであった<ref name="fukuda" />。 Oxford English Dictionary(1933年)では、広義には力を伝達しその作用を変えるために用いられるものをいうとし、狭義には一定の機能を営む数多くの連結した部分品からできた機械的な力を使用するための装置をいうとする<ref name="fukuda" />。 広義の機械には[[てこ|梃子]]や車軸のような[[単純機械]]とそれらを組み合わせた複合機械がある<ref name="fukuda" />。この定義では支点に支えられた梃子、使用中のプライヤー、用力点のある滑車なども機械に含まれる<ref name="fukuda" />。しかし、これらには相関的運動がみられないため通常の意味では機械に含めない<ref name="fukuda" />。相関的運動がみられないハンマー、鋸、のみ、鉋などの道具も通常の意味の機械には含まれない<ref name="fukuda" />。 === 機械学上の定義 === Webster's New International Dictionary(1951年)では、機械学上の広い意味では、[[歯車]]、[[滑車]]、[[車軸]]や心棒、[[ロープ]]、[[鎖]]や[[ベルト (機械)|ベルト]]、[[カム (機械要素)|カム]]、[[ばね]]、[[油圧|密閉した液体]]等の機械的部分品を多少とも複雑化した結合体であって、ある予想された一定の方式でものを変化させるために設計されたものをいうとする<ref name="fukuda" />。なお、農業機械学では農業用の機械だけでなく道具や器具などの農具も研究対象にしており各分野の研究対象は機械に限られない場合がある<ref name="fukuda" />。 機械の定義は時代によって移り変わっており、歴史的には以下のような定義がある<ref>{{Cite book |和書 |editor=萩原芳彦 監修 |title=ハンディブック 機械 |edition=改訂2版 |publisher=[[オーム社]] |date=2007-03-20 |pages=5-7 |isbn=9784274203664 |ncid=BA81640206 }}</ref>。 ==== 蒸気機関以前 ==== [[蒸気機関]]が開発されるまでの機械についての定義は、現代における[[建築]]に関わる記述中によく見られる。 * ウィトルウィウス説 {{Quotation|機械とは、重いものを移動するとき、極めて大いなる利益をもたらす、1個の物質的装置}} :古代ローマの建築家[[マルクス・ウィトルウィウス・ポリオ]]が『{{仮リンク|建築十書|en|De Architectura}}』に記述した定義。機械を定義した言葉としてはもっとも古いといわれる。 *ツァイジング説 {{Quotation|機械とは、重荷の移動に対して優れた本質を持つ一組の木製の装置}} :17世紀にツァイジング(''[[:en:Adolf Zeising|Zeising]]'')が原始的な[[クレーン]]から影響を受けて説いたと言われる定義。 ==== 蒸気機関以降 ==== [[蒸気機関]]が開発されると、建築以外の分野でも機械が多用され、機械を作るための機械である[[工作機械]]も作られるようになり機械の定義が拡張された。これが現代における機械の定義の原型とされる。 *ロイポルト説 {{Quotation|機械は人工的製作物であり、その助けを借りて運動を起こすことが出来て、時間や[[労働|労力]]が節約出来るもの}} :[[18世紀]]、ドイツの工学者ロイポルト(''[[:en:Jacob Leupold|Leupold]]'')が説いた説。ロイポルトは高圧蒸気機関の原型を考えだした人物である。 *ルーロー説 {{Quotation|機械とは、抵抗力を有する物体の組み合わせで、その助けにより一定の運動を生じるように組み合わされたもの}} :[[19世紀]]、イギリスの技師[[フランツ・ルーロー]]が『機械の力学』の中で説いた説。機械学者に支持が広まり、現在の定義の基礎となる。 ==== 近代以降 ==== ルーローの説より発展し、現在では機械とは次のような性質をもつ人工の道具を指すことが多くなった。 *外からの力に[[抗力|抵抗]]してそれ自身を保つことのできる(=非可塑性の)[[部品]]で構成されている *各部品が相対的かつ定まった[[仕事 (物理学)|運動]]をする *外部から供給された[[エネルギー]]を有効な仕事に変換する 日本では[[江戸時代]]以前はおもに[[カラクリ]]と呼ばれていた<ref group="注">今も「カラクリ人形」などと使われる。</ref>。[[明治時代]]以降、{{Lang|en|machine}}に対応する言葉として機械ということばを作った。 === 経済学上の定義 === 経済学でも様々な経済学者により機械が定義されてきた。 経済学的見地では、人間労働の技術的補助手段で、道具とは異なる自律作業能力をもち、人間の労働を軽減し同時に代替する作用を果たすものをいう<ref name="fukuda" />。 == 歴史 == === 古代から17世紀まで(産業革命以前) === 機械は素朴な[[織機]]のように人力で動くものであったり、[[水車]]や[[風車]]、[[ウマ]]などを動力源として動いていた。 水車などに見られるように、動力源の単純な運動を別種の運動に変換する必要性から機械は徐々に複雑なものとなり、[[歯車]]や[[カム (機械要素)|カム]]、[[滑車]]、[[クランク]]といった機構が次第に開発されていった。 こうした近代化以前の機械のなかでもっとも精巧なものは[[時計]]であり、[[1736年]]には[[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]が正確な[[クロノメーター]]を完成させるなど、[[18世紀]]ごろにはヨーロッパにおいてかなりの精度の時計が生産できるようになっていた。時計産業は多くの部品を必要としたため個人での制作は効率が悪く、必然的に分業により制作する方式を採用していたが、これによって精度の高い部品を正確に組み合わせることのできる高度な技能を持った職人集団が成立し、この技術を他の機械製作にも応用することで[[蒸気機関]]や[[紡績機]]といった高い精度の必要とされる機械の生産が可能となり、産業革命の技術的基礎となった<ref>{{Cite book |和書 |series=興亡の世界史13 |title=近代ヨーロッパの覇権 |pages=183-184 |author=福井憲彦 |publisher=講談社 |date=2008-12月-17 |edition=第1刷 |isbn=9784062807135 |cinii=BA88278322 }}</ref>。また、[[1690年]]に[[ドニ・パパン]]が原始的な[[蒸気機関]]を開発し、1712年には[[トマス・ニューコメン]]によって蒸気機関が実用化された<ref>「産業革命歴史図鑑 100の発明と技術革新」p14-15 サイモン・フォーティー著 大山晶訳 原書房 2019年9月27日初版第1刷発行</ref>。 {{Gallery|width=250px |File:Replica_catapult.jpg|古代から用いられていた[[カタパルト (投石機)|カタパルト(投石機)]]のレプリカ。 |File:Roda_de_Vitruvi.jpg|[[ウィトルウィウス]](紀元前1世紀の人物)の記述から復元した古代ローマの水力製粉機の模型。近・現代では「[[水車小屋]]」と呼ばれているもの。 |File:Dhaka weaving machine.JPG|人力の[[織機]] |File:Zytglogge-Bern-Movement_from_1530_by_Kasper_Bruner.jpg|[[ツィットグロッゲ]]のムーヴメント([[ベルン]]、[[1218年]]~)。現在も使われている大型の機械式[[時計]]。 |File:Design_for_a_Flying_Machine.jpg|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の[[航空機|飛行機械]]のアイディアスケッチ([[1488年]]) |File:Arts_et_Metiers_Pascaline_dsc03869.jpg|「Machine [[:fr:Arithmétique|Arithmétique]] マシーヌ・アリトゥメティック(算術機械)」や「Pascaline パスカリーヌ 」と呼ばれているもの(フランスの数学者・思想家の[[ブレーズ・パスカル]]が[[1645年]]に発明)。初期の[[機械式計算機]]。 }} === 産業革命以降 === [[産業革命]]はまず、紡織機械の改善からスタートした。 [[1733年]]に[[ジョン・ケイ (飛び杼)|ジョン・ケイ]]が[[飛び杼]]を開発したのを皮切りに<ref>「産業革命歴史図鑑 100の発明と技術革新」p19 サイモン・フォーティー著 大山晶訳 原書房 2019年9月27日初版第1刷発行</ref>、[[1764年]]には[[ジェームズ・ハーグリーブス]]が[[ジェニー紡績機]]を開発して紡績工程が改善され<ref>「産業革命歴史図鑑 100の発明と技術革新」p33 サイモン・フォーティー著 大山晶訳 原書房 2019年9月27日初版第1刷発行</ref>、[[1770年]]には[[リチャード・アークライト]]が[[水力紡績機]]を開発することで紡績機械は人力から動力を利用するものへと変化した<ref>「産業革命歴史図鑑 100の発明と技術革新」p36-37 サイモン・フォーティー著 大山晶訳 原書房 2019年9月27日初版第1刷発行</ref>。 1769年には[[ジェームズ・ワット]]が[[復水器]]を独立させた新しい[[蒸気機関]]を開発し、これによって真に強力な動力源を得た人類は[[工業化]]を行うことが可能となった。 [[1785年]]には[[エドモンド・カートライト]]が[[蒸気機関]]を動力とした[[力織機]]を開発した。蒸気機関を交通に応用することも行われ、[[1804年]]には[[リチャード・トレビシック]]が[[蒸気機関車]]を発明し、[[1807年]]には[[ロバート・フルトン]]が[[蒸気船]]を実用化することで、[[輸送機械]]と呼ばれる新たな機械が誕生した。 また、[[1800年]]には[[ヘンリー・モーズリー (技術者)|ヘンリー・モーズリー]]が実用的なねじ切り[[旋盤]]を発明した<ref>{{Cite book |和書 |title=火と人間 |page=113 |author=磯田浩 |publisher=法政大学出版局 |date=2004-04-20 |edition=初版第1刷 |isbn=4588713027 |ncid=BA66863078 }}</ref>ことによって[[ボルト (部品)|ボルト]]と[[ナット]]の生産が容易になり、機械化の基盤となった。このことから、モーズリーは[[工作機械]]の父とも呼ばれる。 {{Gallery|width=250px |File:Newcomens_Dampfmaschine_aus_Meyers_1890.png|ニューコメンの[[蒸気機関]]([[1712年]]) |File:Spinning jenny.jpg|[[ジェニー紡績機]]([[1764年]]開発) |File:Waterframe.jpg|アークライトの[[水力紡績機]]([[1771年]]開発) |ファイル:SteamEngine Boulton&Watt 1784.png|[[ジェームズ・ワット]]らの蒸気機関([[1784年]]) |File:Maudslay_screw-cutting_lathes_of_circa_1797_and_1800.png|[[ヘンリー・モーズリー (技術者)|ヘンリー・モーズリー]]の旋盤(1797年-1800年ころのもの) }} === 19世紀以降 === [[19世紀]]に入るとこうした機械技術の進歩を基盤として工業化が急速に進むようになり、それまで人力によって行われていた工業分野が次々と[[機械化]]されていくようになった。 大規模な産業機械が工場に備え付けられるようになり、成立した[[工場制機械工業]]は世界の[[工業化]]を急速に推し進めることとなった。 19世紀後半には[[ミシン]]や[[洗濯機]]が発明され各家庭に徐々に普及し、[[家事労働]]にも機械が使われるようになっていった。 {{Gallery|width=250px |File:Isaac_Singer's_1854_Patent_Model_For_Improvements_To_His_Sewing_Machine_At_The_National_Portrait_Gallery_(Washington,_DC).jpg|[[アイザック・メリット・シンガー|シンガー]]が1854年に特許を取得した[[ミシン]](縫製機械) |File:Bonsack machine.png|ボンサックのタバコ巻き上げ機([[1881年]] 特許取得) |File:Washing machine.jpg|19世紀の手回し式[[洗濯機]] }} 19世紀の終わりころにはアメリカで発明家[[トーマス・エジソン]]によって電力会社が設立され、そこで天才[[ニコラ・テスラ]]も雇われたことで[[三相交流]]や[[電気モーター]]の研究・利用が推進されることになった。20世紀初期には電気式の[[掃除機]]も発明された。 {{Gallery|width=250px |File:NORTH ACROSS WOODWORKING AREA IN NORTHWESTERN QUADRANT OF FACTORY ACROSS STACKED LUMBER ON SAWHORSES TOWARD CIRCA 1900 THICKNESS PLANER, SHOP-MADE BELT GUARD, AND BELOW THE HAER NEB,66-NEBCI,6-40.tif|20世紀前半の工場の機械でしばしば採用された[[布ベルト]]による動力伝達。当時は電気モーターは高価であったし、当時は工場内に電気配線を張り巡らすということもあまり一般的ではなかったので、むしろ工場内に大型の電動モーターを1台だけ設置して天井付近で長い軸を常時回転させておき、その動力(回転力)を工場内の各機械の付近で布ベルトへと伝え、各機械へと分配した。歴史のとても長い木工所や織物工場 等々では、2020年代になった現在でもこの布ベルト方式で工場のさまざまな機械が動いている。 |File:Late_model_Ford_Model_T.jpg|[[フォード・モデルT]] ([[1908年]]発表)。これを製造する中で、ベルトコンベアを用いた[[大量生産]]の基本形が出来上がっていった、とも評される。 |File:1924 Non-Stop Shuttle Change Toyoda Automatic Loom, Type G 1.jpg|[[豊田自動織機]]。([[豊田自動織機|無停止杼換式豊田自動織機]] G型、1924年)。[[自動織機]]の一種。現在の「世界のTOYOTA」の原点。 |File:Nilfisk 1920 Vacuum cleaner img 1392.jpg|Nilfiskの[[掃除機]]([[1920年]]のもの) |File:Tableau, factory, men, work, factory, paper factory, machine Fortepan 26036.jpg|[[製紙]]工場の紙製造機械とオペレーターたち(1930年代) |File:Glen Beck and Betty Snyder program the ENIAC in building 328 at the Ballistic Research Laboratory.jpg|黎明期の[[電子計算機]]の一例、[[1940年代]]の[[ENIAC]] |File:Commodore PET2001.jpg|[[PET 2001]](1977年)。[[パーソナルコンピュータ]](個人所有用のコンピュータ)として初期の一台。 |File:Honda_ASIMO.jpg|[[ASIMO]](2000年)。二足歩行する機械。 }} == 機械の分類 == === 産業分類上の分類 === 産業分類(機械器具製造業)では、はん用機械器具、生産用機械器具、業務用機械器具、電気機械器具、情報通信機械器具、輸送用機械器具に分類される(他に電子部品・デバイス・電子回路も機械器具製造業に含む)<ref name="kyoto">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/cmsfiles/contents/0000161/161725/2_3_8_2013.pdf|title=(8) 機械器具製造業|publisher=京都市|accessdate=2020-06-25}}</ref>。 {{Col-begin}} {{Col-2}} * はん用機械器具 ** [[ボイラ]]・[[原動機]] ** [[ポンプ]]・圧縮機器 ** 一般産業用機械・装置([[コンベア|コンベヤ]]、[[クレーン]]など) ** その他のはん用機械 * 生産用機械器具 ** [[農業機械|農業用機械]] ** [[建設機械]]・鉱山機械 ** 繊維機械 *** 化学繊維機械・[[紡績|紡績機械]] *** 製織機械・編組機械([[織機]]) *** 縫製機械([[ミシン]]など) ** 生活関連産業用機械 *** 食品機械 *** 木材加工機械 *** パルプ装置・製紙機械 *** 印刷・製本・紙工機械 *** 包装・荷造機械 ** 基礎素材産業用機械 ** 金属加工機械 ** 半導体・フラットパネルディスプレイ製造装置 ** その他の生産用機械 *** 真空装置 *** [[ロボット]] {{Col-2}} * 業務用機械器具 ** 事務用機械器具 ** サービス用・娯楽用機械 ** 計量器・測定器・分析機器・試験機・測量機械器具・理化学機械器具 ** 医療用機械器具 ** 光学機械(映画撮影機、[[映写機]]など) ** [[武器]] * 電気機械器具 ** 発電用・送電用・配電用電気機械器具 ** 産業用電気機械器具 ** 民生用電気機械器具 *** 厨房機器 *** 空調・住宅関連機器 *** 衣料衛生関連機器 * 情報通信機械器具 ** 通信機械器具([[電話機]]、[[ファクシミリ]]、[[携帯電話|携帯電話機]]など) ** 映像・音響機械器具([[ビデオカメラ]]、[[マイクロホン]]、[[ヘッドフォン]]など) ** [[電子計算機]] * 輸送用機械器具([[輸送機械]]) ** [[自動車]] ** [[鉄道車両]] ** [[自転車]] ** [[船舶]] ** [[航空機]] ** その他の輸送用機械([[フォークリフト]]など) {{Col-end}} === 機械遺産分類 === 機械遺産分類では、工作機械、動力・エネルギー機械、交通機械、産業機械、測定器・実験機器、機械構造物、機巧・機械要素、その他の資料に分類される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jsme.or.jp/kikaiisan/suisen/classification.pdf|title=機械遺産分類コードと分類項目|publisher=一般社団法人 日本機械学会|accessdate=2020-06-25}}</ref>。 {{Col-begin}} {{Col-2}} * [[工作機械]] ** 工作機械(切削加工) ** 工作機械(塑性加工) ** その他の工作機械 * 動力・エネルギー機械 ** [[外燃機関]] ** [[内燃機関]] ** 流体機械 ** [[発電機]]・[[電動機]] ** その他の動力機械 * 交通機械 ** 自動車 ** 鉄道 ** 船 ** 航空機 ** 自転車 ** その他の交通機械 {{Col-2}} * 産業機械1 ** 製鉄製鋼機械 ** 鋳造機械 ** 鉱山機械 ** 食品製造機械 ** 木工機械 ** 繊維機械 ** 製紙機械 ** 印刷機械 ** 化学機械 * 産業機械2 ** 農林水産機械 ** 土木建設機械 ** 医療機械 ** 窯業機械 ** 電気機械 ** 荷役・運搬機械 ** その他の産業機械 * 測定器・実験機器 * 機械構造物 * 機巧・機械要素 * その他の資料 {{Col-end}} == ギャラリー == {{Gallery|width=200px |File:Hydraulic excavator.jpg|[[建設機械]]の一例、[[油圧ショベル]] |File:Rotary_tiller_compact.jpg|[[農業機械]]の一例、[[耕運機]] |File:Southern_Motorway_Auckland_traffic_-_copyright-free_photo_released_to_public_domain.jpg|道路を走行する[[自動車]]のかずかず |File:Honda_RA168E_engine_rear_Honda_Collection_Hall.jpg|自動車の[[エンジン]]([[内燃機関]])の一例、[[フォーミュラ1|F1]]レース用エンジンの例 |File:Prius 3 Inv.jpg|[[ハイブリッド・カー]]のインバータ、動力源部分。 |File:US Park Police Bell Helicopter N412PP (27617960431).jpg|[[航空機]]の一例、[[ヘリコプター]] |File:Windturbine_propeller.jpg|[[風力発電機]] |File:Sewing machine Juki.jpg|産業用[[ミシン]]。布を使った製品の大量生産はミシン抜きでは実現しない。 |File:FANUC R2000iB AtWork.jpg|[[産業用ロボット]]の一例、腕型ロボット |File:Cnc lathe.png|[[CNC]]([[数値制御]])の[[工作機械]] |File:RepRap 'Mendel'.jpg|卓上型の[[3Dプリンター]] |File:HK_WTS_樂富廣場_Lok_Fu_Plaza_mall_drink_automatic_machine_Coke_Bonaqua_n_Vitasoy_May-2013.JPG|[[自動販売機]] |File:12kg 용량 ‘트롬 세탁기 씽큐’ 출시 - 50395243093.jpg|[[洗濯機]]と[[乾燥機]] |Dyson V6 Trigger HH08MH (2015-09-22).JPG|[[掃除機]] |File:Geschirrspuelmaschine.JPG|[[食器洗い機]] |File:Nexus_7_hands_on.jpg|[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]型[[コンピュータ]] |File:Instalación de fotocopiadora Canon.jpg|[[複写機|コピー機]]、多機能機。 |File:CNC Machine Facility.jpg|CNC機械が並ぶ工場 |File:TGFT25 Fadal CNC machines - Taylor Guitar Factory.jpg|[[ギター]]の工場に並ぶ[[CNC]]式の加工機械 |File:Spinning_machine_精紡機_-_panoramio.jpg|現代の[[紡績機]] |File:100916-F-1020B-021 (5092365053).jpg|ミシンと男性の職人たち |File:Sewing department in Hungary.jpg|縫製場にならぶミシンと職人たち |File:Bakker Floor bij een kneedmachine.jpg|[[パン生地]]こね機 |File:Unagi pie factory 03.jpg|食品工場にならぶ食品製造機械([[うなぎパイ]]の工場にて) |File:Offset printers in Sambad Press in Bhubaneswar, Odisha, India.jpg|印刷工場にならぶ[[オフセット印刷]]の[[印刷機]] |File:Tissue Paper Production Machine.jpg|[[ティッシュペーパー]]製造機械 }} == メカ == {{Main|メカ}} '''メカ'''とは、[[メカニズム]]の略語であるが、フィクションの分野([[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[ライトノベル]]、[[SF映画]]など)においては特に「'''''空想的な'''''機械装置」を指す用語になっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} [[File:NAMA_Machine_d'Anticythère_1.jpg|thumb|right|200px|[[アンティキティラ島の機械]]。紀元前150 - 100年に製作されたと考えられている天文計算機械。]] *[[機械工学]] *[[単純機械]] *[[ハードウェア]] *[[機械化]]・[[自動化]] *[[ロボット]] *[[オートメーション]] *[[日本の企業一覧 (機械)]] *[[からくり]] *[[装置]] *[[設備]] *[[部品]] *[[操縦]] *[[メカニックデザイン]] *[[メカニカルデザイン]] *[[マシニングセンタ]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きかい}} [[Category:機械|*きかい]]
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川崎市
川崎市(かわさきし)は、神奈川県の北東部に位置する市。人口は約154万人。 政令指定都市であり、7つの行政区がある(川崎区・幸区・中原区・高津区・多摩区・宮前区・麻生区)。 市内全域が旧武蔵国に属し、神奈川県内の市町村では唯一、旧相模国に属していた地域を含まない。 政令指定都市20市の中で面積が最も小さい。神奈川県内で横浜市に次ぐ第2の都市であり、非都道府県庁所在地の市では最大かつ唯一人口が100万人を超えている。財政状況が良く、財政力指数は1.02(2022年度)で政令指定都市としては最も財政に余裕がある。 多摩川を挟んで東京都と接している。東京へのアクセスが良いため人口は増加傾向にあり、市のほぼ全域で宅地化が進んでいる。市域面積が狭いので人口密度が高い。古くは東海道、中原道、大山道、津久井道が南北に通り、川崎宿などの宿場を中心にして発展してきた。 川崎大師は初詣発祥の地として多くの参拝客が訪れ、参拝客数は日本3位・県内で1位である。 市南東部の川崎駅・京急川崎駅周辺が中心市街地であり、特に川崎駅東口を中心に関東有数の繁華街・歓楽街が広がっているほか、西口にはショッピングセンターとして日本2位の売上を誇る巨大商業施設ラゾーナ川崎プラザが位置しており、駅周辺は非常に賑わっている。 東海道線や京急線を中心に古くからの市街地が形成されているほか、現在は新百合ヶ丘や武蔵小杉などの市の北西部を中心に東京近郊の新興住宅街(ベッドタウン)が広がる。特に多摩川沿いの武蔵小杉駅周辺には東京への通勤者向けのタワーマンションが林立している。また、臨海部は京浜工業地帯の中心的地区であり、工業製品出荷額は豊田市に次いで全国2位である。このように川崎市はエリアによって繁華街、工業地帯、超高層マンション街、郊外の新興住宅地と多様な面を併せ持っている。 2015年度の東京都へ通勤・通学する15歳以上就業者・通学者の割合は41.1%であり、いわゆる「神奈川都民(川崎都民)」が非常に多い。神奈川県内であるものの、県庁所在地である横浜市よりも東京との結びつきが非常に強い。2015年の昼夜間人口比率は88.3であり、政令指定都市でありながら東京のベッドタウンとしての側面が強いため、100を大きく下回っている。一方で、古くからの工業地帯であることから富士通や東芝などの大企業の本店・本社事務所も位置している。 市民の花は「つつじ」、市民の木は「つばき」、市民にゆかりの深いもの、親しみのあるもの、都市緑化にふさわしいものなどを考えて、多くの候補の中から市民投票で選ばれた(市制50周年を記念して1974年12月1日に制定)。 神奈川県の北東部、県の最東端に位置し横浜市と東京都に挟まれた細長い市域を持つ。県内では、横浜市以外の市町村とは隣接していない。市の北側を多摩川が流れ東京都との境となっている。 街道沿いには古くから栄えていた街が点在し、周辺は閑静な住宅地となっている。しかし、駅周辺は東京との近さから近年開発が進み、特に川崎駅前周辺は市内随一の繁華街で昼夜を問わず人が多い。 西部の多摩丘陵にはのどかな田園風景が広がり、新興住宅地が多い。東部の東京湾岸の埋立地は隣接する横浜市鶴見区沿岸部とともに大規模な重工業地帯となっているなど、多様な面を見せる。最高地点は麻生区黒川の町田市との境界付近で海抜148mとなっている。 東京のベッドタウンとしての性格が強く、東海道線、横須賀線、京急線、京王相模原線、東急東横線、東急田園都市線、小田急線などの通勤路線を通じて東京都心部との交流が深い。各路線ごとに東京区部・横浜市北部を含めた沿線地域圏を形成しているため、稲田堤や若葉台(京王相模原線)、登戸や新百合ヶ丘(小田急線)を始めとした北部では新宿や渋谷といった東京都心部のターミナルへの志向が強い。 川崎市は現在7区で構成される。なお、7区のどの名称も他の政令指定都市ではまったく使われていない、当市オリジナルの名称である。 ※括弧内は行政区を示す 北西部の丘陵地帯に人が定住したのは古く、黒川などでは旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認できる。しかし、多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだ。 7世紀に律令体制の整備により武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)の一部となり、奈良時代には現在の高津区に郡衙が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。平安時代からは荘園が発達し、稲毛氏が広い地域を支配した。 前述の稲毛氏の一族稲毛三郎重成は源頼朝の御家人の1人となって活躍した。また大治3年(1128年)には川崎大師(平間寺)が建立され、門前町の形成が始まる。その後鎌倉時代から戦国時代にかけては小規模領主による分治が進み、やがて北条氏の支配下に入った。 慶長16年(1611年)には小泉次大夫の指揮により二ヶ領用水が完成、中野島から大師・大島に至る多摩川流域平野のほぼ全域を流れ、農業生産力の向上をもたらした。二ヶ領用水で潤った水田で生産された米は稲毛米と呼ばれ、江戸で寿司飯として人気となる。また江戸幕府が成立したことで東海道や中原街道の重要性が高まり、川崎宿(現川崎駅周辺)の整備が進んだ。ただし、川崎宿が正式な宿場に指定されたのは東海道五十三次の中で最後となる元和9年(1623年)のことである。このとき多摩川の橋は流され、以後川崎宿は六郷の渡しの渡河点、及び川崎大師への玄関口として繁栄する。この他にも中原街道の丸子の渡し、大山街道の二子の渡し、津久井街道の登戸の渡しが整備され、いずれも後に東京への鉄道が建設される宿場町が形成された。 明治・大正期は川崎駅周辺で都市化が急速に進行する一方、丘陵地帯では従来の農山村も維持されていた。その後昭和前期になると鉄道路線の開業が相次ぎ、私鉄沿線には住宅地が、多摩川沿いの南武線沿線には主に工業地が展開した。 この他、明治以降の埋め立ての進行で市域は海に向かって拡大している。 江戸時代初期の二ヶ領用水の整備で、多摩川流域での水田開発が拡大し、農業生産力が向上した。また江戸時代以降、大消費地江戸に近い立地を利用して果樹栽培が営まれ、宿河原の桃や王禅寺の柿が知られた。中でも多摩川梨は明治20年代に新品種として長十郎が発見され、その栽培は全国に普及していった。しかし、その発見地である臨海部での果樹栽培は大正以降の工業開発によって失われた。内陸部でも、戦後は都市化の進行により急速に農地が減少した。現在は市の施策などで伝統的な名産品の復興などに力が注がれている。 京浜工業地帯の中にあり、明治時代の産業革命以降は重工業が発展した。特に昭和前期に臨海部での大規模な埋め立てが行われ、製鉄所や化学工場、機械・電機工業などの建設が進んだ。日本鋼管(現JFEスチール)、富士通、日本電気、東芝などの大規模工場と、それに関連する中小工場が多数建設され、現在に至っている。 近年では、先端技術の研究所なども多く立地する。かわさきマイコンシティ、かながわサイエンスパークの建設などもこれを促進している。一方臨海部の工業地帯では重化学工業不振からの再生が企画される一方、産業遺産としての保護も進められている。また、市では羽田空港の神奈川口整備を見越して、臨空型の工業整備を意図している。 川崎駅東口には地下街「アゼリア」、西口には「ラゾーナ川崎」が立地し、川崎駅周辺商業地の中核となっている。その他、特殊な例として近世からの歴史を持つ関東No.2の風俗街である堀之内と南町がある。川崎市の副都心として、溝の口駅には「丸井」、新百合ヶ丘駅には、「イオン」、「エルミロード」、「オーパ」などの商業施設が建設されている。また第三都心として、武蔵小杉駅も横須賀線の駅が出来たことで都市化が進んでいる。他、住宅地が多いため、中小規模の商店街やスーパーマーケットなどは市内全域で見られる。 しかし、2015年5月31日に百貨店のさいか屋川崎店が閉店したことで、日本全国の政令指定都市の中で唯一百貨店が存在しない都市となった。日本百貨店協会加盟店としてそごう・西武が小型店をその前年に開業させたものの、売上が思わしくなく3年足らずの2017年8月27日には閉店となった。さいか屋がその後ホテル内に開業させた小型店は協会加盟店ではない。 近年は芸術関係での産業振興に力を入れており、川崎駅周辺でのチネチッタプロジェクトやミューザ川崎の建設、麻生区では、新百合ヶ丘駅付近への昭和音楽大学、日本映画大学の誘致や、川崎市アートセンターの建設、KAWASAKIしんゆり映画祭の開催などが進められている。なかでも2004年(平成16年)にミューザ川崎がオープンした後に川崎市は「音楽のまち・かわさき」を推進している。 市内に空港はないが、多摩川を隔てて隣接している東京都大田区に東京国際空港(羽田空港、IATAコード:HND)がある。同空港の再拡張工事にともなって川崎区殿町地区を空港周辺区域「キングスカイフロント」として整備する計画が現在進められており、空港の「神奈川口」としてキングスカイフロントと羽田グローバルウイングズを結ぶ多摩川スカイブリッジが2022年3月に開通し実用に供されている。 東日本旅客鉄道(JR東日本) 東海旅客鉄道(JR東海) 京王電鉄(京王) 小田急電鉄(小田急) 京浜急行電鉄(京急) 東急電鉄(東急) 川崎市バスがほぼ全域で運行されているほか、概ね臨港バスが臨海部から東横線周辺まで、東急バスが川崎駅から小田急線まで、小田急バスが小田急沿線でそれぞれ運行している。また、横浜市営バスが川崎駅西口に、神奈川中央交通東バスが登戸に週1日(1往復)・柿生周辺に週1日(2往復)に、京浜急行バスが武蔵小杉駅に乗り入れてくる。 乗車方法は前乗り後降り先払い方式、運賃は均一制である。2022年10月現在の均一運賃は220円(現金、IC同額)だが、民営バスのみ210円(現金、IC同額)である。また、民営バスで東京都区内、東京多摩地区または横浜市内にまたがって運行する路線は、乗車時に事前に降車停留所を申告して運賃を支払う多区間制を採っている。なお神奈川中央交通東の淵24系統は乗車方法が中乗り前降り後払い方式で、運賃は整理券を用いた区間制である。すべての路線においてPASMO・Suica(非接触型ICカード)が利用できる。 ※は路線乗り入れのみで、川崎市内に所在しない営業所。 1952年に川崎球場が開設された当初は毎日オリオンズが準本拠として公式戦を使用していたが、川崎市を本拠地とするプロスポーツチームの公式な第1号は1954年結成の高橋ユニオンズだった。しかし、翌1955年に大洋ホエールズが本拠地を川崎に移転すると、セ・リーグ、とりわけスター選手の宝庫といわれた巨人との対戦を中心に観客動員が上昇。高橋球団は経営的な危機に立たされ、1957年のシーズン開幕前に大映スターズへの吸収合体が発表され、わずか3年で消滅した。 一方、大洋は人気の面では観客動員が飛躍的な伸びを見せるが、戦力は今ひとつで常に最下位争いが指定席だった。しかし、1960年に巨人の5連覇を阻止してリーグ初優勝。日本シリーズでも全試合とも1点差という僅差で4連勝して日本一を決めた。その後は1964年に阪神との大接戦を演じ優勝を逃したが、その後は再び最下位争いに定着してしまった。しかし、ライバル・巨人、特に世界のホームラン王・王貞治が一本足打法第1号(1962年)、日本プロ野球初の700号(1976年)など多くのホームランを打ち込んだのも一つの人気だった。 だが、大洋球団は1978年のシーズン開幕時に横浜市に新設される横浜スタジアムへの本拠地移転を示唆。川崎市民は本拠地の移転に反対したが、横浜移転は強行された。その後当時東京都近郊にメインスタジアムがなく、事実上仙台市を本拠としていたロッテ(前出の毎日オリオンズの後身)にアプローチをかけ、1978年から本拠地として使用することになった。川崎時代のロッテは観客動員に苦しむが、1980年の張本勲の3000本安打達成、1982・85・86年の落合博満の三冠王獲得、また1988年の近鉄のリーグ優勝をかけた10.19決戦など、注目の好カードが展開された。しかし、そのロッテも福岡市や千葉市など各地からの移転のラブコールがあり、川崎市が球場改修しないため、1992年のシーズンから千葉市に建設された市営の新球場「千葉マリンスタジアム」に移転。これが川崎市を本拠とする最後のプロ野球チームとなった。 また、川崎球場自体も1995年に発生した阪神大震災を契機に開かれた耐震調査で、震度5以上の大地震でスタンドが倒壊する恐れがあるということからスタンドの取り壊しが決定。2000年3月、横浜vs千葉ロッテのオープン戦を最後にプロ野球の開催球場から身を引くこととなる。現在、川崎市には等々力球場もあるが、設備の都合上1軍の試合は開催できず、プロ野球公式戦の開催予定は立っていない。 このほか、読売ジャイアンツが二軍の本拠地である読売ジャイアンツ球場を多摩区に設けている。かつては、二軍の本拠地として中原区の多摩川河川敷内に、日本ハムファイターズが前身の東映時代より日本ハム球団多摩川グランド(1961年-2011年)を、大洋ホエールズが大洋多摩川球場(1955年-1980年)を設置していた。 Jリーグ発足以前、川崎市には、東京都稲城市と多摩区にホームタウンを有する旧JSL1部に読売サッカークラブ、東芝堀川町サッカー部(東芝)、日本鋼管サッカー部(NKK)、同2部には富士通サッカー部がそれぞれ川崎市で多くの公式戦を開いていた。1993年のJリーグ開幕に当たって、東芝、NKK、富士通ともプロサッカークラブを川崎市で結成することに難色を示し、読売SCが川崎市を本拠地とするプロサッカークラブとなった。 読売は東京都を本拠としたい意向だったが、当時は東京都内にJリーグ開催規格のスタジアムが新宿区の国立競技場と世田谷区の駒沢しかなかった。しかし、国立はJリーグの方針により特定チームの本拠地とせず、各チームが試合開催できる中立的なスタジアムにすること、駒沢は目黒区にある国立病院機構東京医療センターが近接しており、騒音や夜間照明による光害のためナイトゲーム開催が不可能なため本拠地には出来なかった。そのため、やむなく等々力をホームに「ヴェルディ川崎」として活動することにした。 ラモス瑠偉、三浦知良、武田修宏、北澤豪など当時のスター選手を多く抱えていたヴェルディ川崎はJリーグ初代年間王者に輝き、翌年度も年間王者を達成。しかし、当時の川崎市は等々力競技場を市民利用のための公園施設であるとして川崎球場同様に大規模な改修には殆ど手を付けず、マダラ模様で痛んだピッチの芝生の上(砂の部分)に塗料を塗るなどぞんざいな対応だったため、当時の人気チームらしからぬスタジアムとしてファンからの悪評を買うことになってしまった。その後2年をかけて25000人収容のスタンドやピッチの拡張など、Jリーグ基準に適合したスタジアムへのリニューアルを実施したが、一方で市幹部からは「川崎には代わりのチームがある」とこちらもぞんざいな発言をしたりしていた。当時Jリーグにあっても企業スポーツであり続けようとしたヴェルディと、革新政権であった川崎市との乖離は著しく、この時点で「地域密着」の理念が実現されることはなかった。 この頃、NKKサッカー部は企業合理化のため、1993年の旧JFLを最後に廃部が発表。東芝は川崎市でプロ化するとヴェルディのような人気が見込めず、またチームを維持することも難しくなっていたこと、札幌市でプロサッカークラブの誘致が活発化したことにより意見が一致し、1996年に「コンサドーレ札幌」として移転した。富士通サッカー部は当初はプロ化には参加せず、アマチュアイズム重視を目指したが、等々力スタジアムのある中原区の商店街や青年会議所が中心となって実業団から市民クラブとして育てる事とし、チームもこれに応じる形で1996年(旧JFL)にまず名称を「富士通川崎サッカー部」と川崎市の名前を被せて、1997年にJリーグ準会員(JFL2位以内でJリーグ昇格の権利獲得)となるのを機に、富士通サッカー部を法人組織「富士通川崎スポーツマネジメント」、クラブ名も「川崎フロンターレ」として再スタートすることが決まった。 市対応の拙さから、プロ野球同様に2000年のシーズンを最後にヴェルディが東京都(東京(味の素)スタジアム)へ「東京ヴェルディ」として移転し、この時点で川崎市から1部リーグのチームは一旦消滅した。 一方川崎フロンターレは2001年にはJ2に降格したものの、2004年に元鹿島アントラーズの関塚隆を監督として迎え、J2・2回目の優勝、J1復帰を決めた。フロンターレは地域のコミュニティを重視し、試合だけに限らず様々なイベントに参加することをチーム運営の方針としている。2004年9月には川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー制定による認定を受け、さらに2006年4月にはフットサル施設「フロンタウン・さぎぬま」の指定管理者になっている。 2016年秋、Bリーグ開幕し、川崎ブレイブサンダースが川崎市とどろきアリーナをホームアリーナとするプロチームとなった。 工業都市として発展した地域のため、社員・職員の福利厚生と健康増進を目的とした、市内の企業(製造業)によるスポーツチームは数多く作られてきた。とくに野球は盛んであり、そのシンボル的存在として川崎球場(開設時は川崎スタヂアム)が誕生すると都市対抗野球で数多くのチームが活躍し、また他のスポーツでも全国リーグの展開やマスメディアの発達などにより社名の宣伝効果も期待されるようになった。 だが、企業内の「非生産的部門」ということから不況による企業の経営悪化などの影響を強く受け、休廃部や市外への転出・統合も数多く発生した。しかし2004年9月に川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーが制定されると、プロサッカークラブの川崎フロンターレと同様に「市内のスポーツ資源」という立場を得ることになり、市の広報などでも多く扱われるようになった。 川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーは、川崎市内を本拠地としてスポーツで活躍するチームや選手を対象に川崎市が認定する制度である。 川崎市として川崎競輪場、神奈川県と川崎市で共に神奈川県川崎競馬組合として川崎競馬場を主催している。 ※歌詞に横須賀市、横浜市、川崎市、東京都品川区の地名が出てくる 兵庫県神戸市に本社を置く二輪車や航空機などで著名な機械メーカーの川崎重工業(川崎正蔵が創立)、疾患の川崎病(川崎富作が発見)、岡山県倉敷市にある学校法人川崎学園が運営する川崎医科大学・川崎医療福祉大学など(川崎祐宣が運営法人を設立)はいずれもそれぞれの創業者・発見者・創立者に由来する名称であり、川崎市に由来する名称ではない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "川崎市(かわさきし)は、神奈川県の北東部に位置する市。人口は約154万人。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "政令指定都市であり、7つの行政区がある(川崎区・幸区・中原区・高津区・多摩区・宮前区・麻生区)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "市内全域が旧武蔵国に属し、神奈川県内の市町村では唯一、旧相模国に属していた地域を含まない。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "政令指定都市20市の中で面積が最も小さい。神奈川県内で横浜市に次ぐ第2の都市であり、非都道府県庁所在地の市では最大かつ唯一人口が100万人を超えている。財政状況が良く、財政力指数は1.02(2022年度)で政令指定都市としては最も財政に余裕がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "多摩川を挟んで東京都と接している。東京へのアクセスが良いため人口は増加傾向にあり、市のほぼ全域で宅地化が進んでいる。市域面積が狭いので人口密度が高い。古くは東海道、中原道、大山道、津久井道が南北に通り、川崎宿などの宿場を中心にして発展してきた。 川崎大師は初詣発祥の地として多くの参拝客が訪れ、参拝客数は日本3位・県内で1位である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "市南東部の川崎駅・京急川崎駅周辺が中心市街地であり、特に川崎駅東口を中心に関東有数の繁華街・歓楽街が広がっているほか、西口にはショッピングセンターとして日本2位の売上を誇る巨大商業施設ラゾーナ川崎プラザが位置しており、駅周辺は非常に賑わっている。 東海道線や京急線を中心に古くからの市街地が形成されているほか、現在は新百合ヶ丘や武蔵小杉などの市の北西部を中心に東京近郊の新興住宅街(ベッドタウン)が広がる。特に多摩川沿いの武蔵小杉駅周辺には東京への通勤者向けのタワーマンションが林立している。また、臨海部は京浜工業地帯の中心的地区であり、工業製品出荷額は豊田市に次いで全国2位である。このように川崎市はエリアによって繁華街、工業地帯、超高層マンション街、郊外の新興住宅地と多様な面を併せ持っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2015年度の東京都へ通勤・通学する15歳以上就業者・通学者の割合は41.1%であり、いわゆる「神奈川都民(川崎都民)」が非常に多い。神奈川県内であるものの、県庁所在地である横浜市よりも東京との結びつきが非常に強い。2015年の昼夜間人口比率は88.3であり、政令指定都市でありながら東京のベッドタウンとしての側面が強いため、100を大きく下回っている。一方で、古くからの工業地帯であることから富士通や東芝などの大企業の本店・本社事務所も位置している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "市民の花は「つつじ」、市民の木は「つばき」、市民にゆかりの深いもの、親しみのあるもの、都市緑化にふさわしいものなどを考えて、多くの候補の中から市民投票で選ばれた(市制50周年を記念して1974年12月1日に制定)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "神奈川県の北東部、県の最東端に位置し横浜市と東京都に挟まれた細長い市域を持つ。県内では、横浜市以外の市町村とは隣接していない。市の北側を多摩川が流れ東京都との境となっている。 街道沿いには古くから栄えていた街が点在し、周辺は閑静な住宅地となっている。しかし、駅周辺は東京との近さから近年開発が進み、特に川崎駅前周辺は市内随一の繁華街で昼夜を問わず人が多い。 西部の多摩丘陵にはのどかな田園風景が広がり、新興住宅地が多い。東部の東京湾岸の埋立地は隣接する横浜市鶴見区沿岸部とともに大規模な重工業地帯となっているなど、多様な面を見せる。最高地点は麻生区黒川の町田市との境界付近で海抜148mとなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "東京のベッドタウンとしての性格が強く、東海道線、横須賀線、京急線、京王相模原線、東急東横線、東急田園都市線、小田急線などの通勤路線を通じて東京都心部との交流が深い。各路線ごとに東京区部・横浜市北部を含めた沿線地域圏を形成しているため、稲田堤や若葉台(京王相模原線)、登戸や新百合ヶ丘(小田急線)を始めとした北部では新宿や渋谷といった東京都心部のターミナルへの志向が強い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "川崎市は現在7区で構成される。なお、7区のどの名称も他の政令指定都市ではまったく使われていない、当市オリジナルの名称である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "※括弧内は行政区を示す", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "北西部の丘陵地帯に人が定住したのは古く、黒川などでは旧石器時代や縄文時代の遺跡が確認できる。しかし、多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "7世紀に律令体制の整備により武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)の一部となり、奈良時代には現在の高津区に郡衙が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。平安時代からは荘園が発達し、稲毛氏が広い地域を支配した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前述の稲毛氏の一族稲毛三郎重成は源頼朝の御家人の1人となって活躍した。また大治3年(1128年)には川崎大師(平間寺)が建立され、門前町の形成が始まる。その後鎌倉時代から戦国時代にかけては小規模領主による分治が進み、やがて北条氏の支配下に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "慶長16年(1611年)には小泉次大夫の指揮により二ヶ領用水が完成、中野島から大師・大島に至る多摩川流域平野のほぼ全域を流れ、農業生産力の向上をもたらした。二ヶ領用水で潤った水田で生産された米は稲毛米と呼ばれ、江戸で寿司飯として人気となる。また江戸幕府が成立したことで東海道や中原街道の重要性が高まり、川崎宿(現川崎駅周辺)の整備が進んだ。ただし、川崎宿が正式な宿場に指定されたのは東海道五十三次の中で最後となる元和9年(1623年)のことである。このとき多摩川の橋は流され、以後川崎宿は六郷の渡しの渡河点、及び川崎大師への玄関口として繁栄する。この他にも中原街道の丸子の渡し、大山街道の二子の渡し、津久井街道の登戸の渡しが整備され、いずれも後に東京への鉄道が建設される宿場町が形成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "明治・大正期は川崎駅周辺で都市化が急速に進行する一方、丘陵地帯では従来の農山村も維持されていた。その後昭和前期になると鉄道路線の開業が相次ぎ、私鉄沿線には住宅地が、多摩川沿いの南武線沿線には主に工業地が展開した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この他、明治以降の埋め立ての進行で市域は海に向かって拡大している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "江戸時代初期の二ヶ領用水の整備で、多摩川流域での水田開発が拡大し、農業生産力が向上した。また江戸時代以降、大消費地江戸に近い立地を利用して果樹栽培が営まれ、宿河原の桃や王禅寺の柿が知られた。中でも多摩川梨は明治20年代に新品種として長十郎が発見され、その栽培は全国に普及していった。しかし、その発見地である臨海部での果樹栽培は大正以降の工業開発によって失われた。内陸部でも、戦後は都市化の進行により急速に農地が減少した。現在は市の施策などで伝統的な名産品の復興などに力が注がれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "京浜工業地帯の中にあり、明治時代の産業革命以降は重工業が発展した。特に昭和前期に臨海部での大規模な埋め立てが行われ、製鉄所や化学工場、機械・電機工業などの建設が進んだ。日本鋼管(現JFEスチール)、富士通、日本電気、東芝などの大規模工場と、それに関連する中小工場が多数建設され、現在に至っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "近年では、先端技術の研究所なども多く立地する。かわさきマイコンシティ、かながわサイエンスパークの建設などもこれを促進している。一方臨海部の工業地帯では重化学工業不振からの再生が企画される一方、産業遺産としての保護も進められている。また、市では羽田空港の神奈川口整備を見越して、臨空型の工業整備を意図している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "川崎駅東口には地下街「アゼリア」、西口には「ラゾーナ川崎」が立地し、川崎駅周辺商業地の中核となっている。その他、特殊な例として近世からの歴史を持つ関東No.2の風俗街である堀之内と南町がある。川崎市の副都心として、溝の口駅には「丸井」、新百合ヶ丘駅には、「イオン」、「エルミロード」、「オーパ」などの商業施設が建設されている。また第三都心として、武蔵小杉駅も横須賀線の駅が出来たことで都市化が進んでいる。他、住宅地が多いため、中小規模の商店街やスーパーマーケットなどは市内全域で見られる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかし、2015年5月31日に百貨店のさいか屋川崎店が閉店したことで、日本全国の政令指定都市の中で唯一百貨店が存在しない都市となった。日本百貨店協会加盟店としてそごう・西武が小型店をその前年に開業させたものの、売上が思わしくなく3年足らずの2017年8月27日には閉店となった。さいか屋がその後ホテル内に開業させた小型店は協会加盟店ではない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "近年は芸術関係での産業振興に力を入れており、川崎駅周辺でのチネチッタプロジェクトやミューザ川崎の建設、麻生区では、新百合ヶ丘駅付近への昭和音楽大学、日本映画大学の誘致や、川崎市アートセンターの建設、KAWASAKIしんゆり映画祭の開催などが進められている。なかでも2004年(平成16年)にミューザ川崎がオープンした後に川崎市は「音楽のまち・かわさき」を推進している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "市内に空港はないが、多摩川を隔てて隣接している東京都大田区に東京国際空港(羽田空港、IATAコード:HND)がある。同空港の再拡張工事にともなって川崎区殿町地区を空港周辺区域「キングスカイフロント」として整備する計画が現在進められており、空港の「神奈川口」としてキングスカイフロントと羽田グローバルウイングズを結ぶ多摩川スカイブリッジが2022年3月に開通し実用に供されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "東海旅客鉄道(JR東海)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "京王電鉄(京王)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "小田急電鉄(小田急)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "京浜急行電鉄(京急)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "東急電鉄(東急)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "川崎市バスがほぼ全域で運行されているほか、概ね臨港バスが臨海部から東横線周辺まで、東急バスが川崎駅から小田急線まで、小田急バスが小田急沿線でそれぞれ運行している。また、横浜市営バスが川崎駅西口に、神奈川中央交通東バスが登戸に週1日(1往復)・柿生周辺に週1日(2往復)に、京浜急行バスが武蔵小杉駅に乗り入れてくる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "乗車方法は前乗り後降り先払い方式、運賃は均一制である。2022年10月現在の均一運賃は220円(現金、IC同額)だが、民営バスのみ210円(現金、IC同額)である。また、民営バスで東京都区内、東京多摩地区または横浜市内にまたがって運行する路線は、乗車時に事前に降車停留所を申告して運賃を支払う多区間制を採っている。なお神奈川中央交通東の淵24系統は乗車方法が中乗り前降り後払い方式で、運賃は整理券を用いた区間制である。すべての路線においてPASMO・Suica(非接触型ICカード)が利用できる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "※は路線乗り入れのみで、川崎市内に所在しない営業所。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1952年に川崎球場が開設された当初は毎日オリオンズが準本拠として公式戦を使用していたが、川崎市を本拠地とするプロスポーツチームの公式な第1号は1954年結成の高橋ユニオンズだった。しかし、翌1955年に大洋ホエールズが本拠地を川崎に移転すると、セ・リーグ、とりわけスター選手の宝庫といわれた巨人との対戦を中心に観客動員が上昇。高橋球団は経営的な危機に立たされ、1957年のシーズン開幕前に大映スターズへの吸収合体が発表され、わずか3年で消滅した。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一方、大洋は人気の面では観客動員が飛躍的な伸びを見せるが、戦力は今ひとつで常に最下位争いが指定席だった。しかし、1960年に巨人の5連覇を阻止してリーグ初優勝。日本シリーズでも全試合とも1点差という僅差で4連勝して日本一を決めた。その後は1964年に阪神との大接戦を演じ優勝を逃したが、その後は再び最下位争いに定着してしまった。しかし、ライバル・巨人、特に世界のホームラン王・王貞治が一本足打法第1号(1962年)、日本プロ野球初の700号(1976年)など多くのホームランを打ち込んだのも一つの人気だった。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "だが、大洋球団は1978年のシーズン開幕時に横浜市に新設される横浜スタジアムへの本拠地移転を示唆。川崎市民は本拠地の移転に反対したが、横浜移転は強行された。その後当時東京都近郊にメインスタジアムがなく、事実上仙台市を本拠としていたロッテ(前出の毎日オリオンズの後身)にアプローチをかけ、1978年から本拠地として使用することになった。川崎時代のロッテは観客動員に苦しむが、1980年の張本勲の3000本安打達成、1982・85・86年の落合博満の三冠王獲得、また1988年の近鉄のリーグ優勝をかけた10.19決戦など、注目の好カードが展開された。しかし、そのロッテも福岡市や千葉市など各地からの移転のラブコールがあり、川崎市が球場改修しないため、1992年のシーズンから千葉市に建設された市営の新球場「千葉マリンスタジアム」に移転。これが川崎市を本拠とする最後のプロ野球チームとなった。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、川崎球場自体も1995年に発生した阪神大震災を契機に開かれた耐震調査で、震度5以上の大地震でスタンドが倒壊する恐れがあるということからスタンドの取り壊しが決定。2000年3月、横浜vs千葉ロッテのオープン戦を最後にプロ野球の開催球場から身を引くこととなる。現在、川崎市には等々力球場もあるが、設備の都合上1軍の試合は開催できず、プロ野球公式戦の開催予定は立っていない。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "このほか、読売ジャイアンツが二軍の本拠地である読売ジャイアンツ球場を多摩区に設けている。かつては、二軍の本拠地として中原区の多摩川河川敷内に、日本ハムファイターズが前身の東映時代より日本ハム球団多摩川グランド(1961年-2011年)を、大洋ホエールズが大洋多摩川球場(1955年-1980年)を設置していた。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "Jリーグ発足以前、川崎市には、東京都稲城市と多摩区にホームタウンを有する旧JSL1部に読売サッカークラブ、東芝堀川町サッカー部(東芝)、日本鋼管サッカー部(NKK)、同2部には富士通サッカー部がそれぞれ川崎市で多くの公式戦を開いていた。1993年のJリーグ開幕に当たって、東芝、NKK、富士通ともプロサッカークラブを川崎市で結成することに難色を示し、読売SCが川崎市を本拠地とするプロサッカークラブとなった。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "読売は東京都を本拠としたい意向だったが、当時は東京都内にJリーグ開催規格のスタジアムが新宿区の国立競技場と世田谷区の駒沢しかなかった。しかし、国立はJリーグの方針により特定チームの本拠地とせず、各チームが試合開催できる中立的なスタジアムにすること、駒沢は目黒区にある国立病院機構東京医療センターが近接しており、騒音や夜間照明による光害のためナイトゲーム開催が不可能なため本拠地には出来なかった。そのため、やむなく等々力をホームに「ヴェルディ川崎」として活動することにした。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ラモス瑠偉、三浦知良、武田修宏、北澤豪など当時のスター選手を多く抱えていたヴェルディ川崎はJリーグ初代年間王者に輝き、翌年度も年間王者を達成。しかし、当時の川崎市は等々力競技場を市民利用のための公園施設であるとして川崎球場同様に大規模な改修には殆ど手を付けず、マダラ模様で痛んだピッチの芝生の上(砂の部分)に塗料を塗るなどぞんざいな対応だったため、当時の人気チームらしからぬスタジアムとしてファンからの悪評を買うことになってしまった。その後2年をかけて25000人収容のスタンドやピッチの拡張など、Jリーグ基準に適合したスタジアムへのリニューアルを実施したが、一方で市幹部からは「川崎には代わりのチームがある」とこちらもぞんざいな発言をしたりしていた。当時Jリーグにあっても企業スポーツであり続けようとしたヴェルディと、革新政権であった川崎市との乖離は著しく、この時点で「地域密着」の理念が実現されることはなかった。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この頃、NKKサッカー部は企業合理化のため、1993年の旧JFLを最後に廃部が発表。東芝は川崎市でプロ化するとヴェルディのような人気が見込めず、またチームを維持することも難しくなっていたこと、札幌市でプロサッカークラブの誘致が活発化したことにより意見が一致し、1996年に「コンサドーレ札幌」として移転した。富士通サッカー部は当初はプロ化には参加せず、アマチュアイズム重視を目指したが、等々力スタジアムのある中原区の商店街や青年会議所が中心となって実業団から市民クラブとして育てる事とし、チームもこれに応じる形で1996年(旧JFL)にまず名称を「富士通川崎サッカー部」と川崎市の名前を被せて、1997年にJリーグ準会員(JFL2位以内でJリーグ昇格の権利獲得)となるのを機に、富士通サッカー部を法人組織「富士通川崎スポーツマネジメント」、クラブ名も「川崎フロンターレ」として再スタートすることが決まった。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "市対応の拙さから、プロ野球同様に2000年のシーズンを最後にヴェルディが東京都(東京(味の素)スタジアム)へ「東京ヴェルディ」として移転し、この時点で川崎市から1部リーグのチームは一旦消滅した。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一方川崎フロンターレは2001年にはJ2に降格したものの、2004年に元鹿島アントラーズの関塚隆を監督として迎え、J2・2回目の優勝、J1復帰を決めた。フロンターレは地域のコミュニティを重視し、試合だけに限らず様々なイベントに参加することをチーム運営の方針としている。2004年9月には川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー制定による認定を受け、さらに2006年4月にはフットサル施設「フロンタウン・さぎぬま」の指定管理者になっている。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2016年秋、Bリーグ開幕し、川崎ブレイブサンダースが川崎市とどろきアリーナをホームアリーナとするプロチームとなった。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "工業都市として発展した地域のため、社員・職員の福利厚生と健康増進を目的とした、市内の企業(製造業)によるスポーツチームは数多く作られてきた。とくに野球は盛んであり、そのシンボル的存在として川崎球場(開設時は川崎スタヂアム)が誕生すると都市対抗野球で数多くのチームが活躍し、また他のスポーツでも全国リーグの展開やマスメディアの発達などにより社名の宣伝効果も期待されるようになった。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "だが、企業内の「非生産的部門」ということから不況による企業の経営悪化などの影響を強く受け、休廃部や市外への転出・統合も数多く発生した。しかし2004年9月に川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーが制定されると、プロサッカークラブの川崎フロンターレと同様に「市内のスポーツ資源」という立場を得ることになり、市の広報などでも多く扱われるようになった。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナーは、川崎市内を本拠地としてスポーツで活躍するチームや選手を対象に川崎市が認定する制度である。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "川崎市として川崎競輪場、神奈川県と川崎市で共に神奈川県川崎競馬組合として川崎競馬場を主催している。", "title": "文化・名物" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "※歌詞に横須賀市、横浜市、川崎市、東京都品川区の地名が出てくる", "title": "川崎市を舞台とした作品" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "兵庫県神戸市に本社を置く二輪車や航空機などで著名な機械メーカーの川崎重工業(川崎正蔵が創立)、疾患の川崎病(川崎富作が発見)、岡山県倉敷市にある学校法人川崎学園が運営する川崎医科大学・川崎医療福祉大学など(川崎祐宣が運営法人を設立)はいずれもそれぞれの創業者・発見者・創立者に由来する名称であり、川崎市に由来する名称ではない。", "title": "広報・公聴関係" } ]
川崎市(かわさきし)は、神奈川県の北東部に位置する市。人口は約154万人。 政令指定都市であり、7つの行政区がある(川崎区・幸区・中原区・高津区・多摩区・宮前区・麻生区)。 市内全域が旧武蔵国に属し、神奈川県内の市町村では唯一、旧相模国に属していた地域を含まない。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{日本の市 | 画像 = Kawasaki montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"> <tr><td style="width:50%">[[平間寺|川崎大師]]<td style="width:50%">[[多摩川]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[ラゾーナ川崎プラザ]]<td style="width:50%" rowspan="2" style="vertical-align:middle">[[等々力陸上競技場]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[武蔵小杉]]の高層ビル群</tr> <tr><td style="width:100%" colspan="2">[[京浜工業地帯]]の工場群</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Kawasaki, Kanagawa.svg|100px|center|border|川崎市旗]] | 市章 = [[ファイル:神奈川県川崎市市章.svg|75px|center|川崎市章]] | 市旗の説明 = 川崎[[市町村旗|市旗]]<br />[[1965年]]([[昭和]]40年)[[6月18日]]制定 | 市章の説明 = 川崎[[市町村章|市章]]<br />[[1925年]]([[大正]]14年)[[4月15日]]制定 | 自治体名 = 川崎市 | 都道府県 = 神奈川県 | コード = 14130-5 | 隣接自治体 = [[横浜市]]<br />[[東京都]]:[[大田区]]、[[世田谷区]]、[[調布市]]、[[狛江市]]、[[稲城市]]、[[多摩市]]、[[町田市]]<br />[[千葉県]][[木更津市]](海上で隣接) | 木 = [[ツバキ]] | 花 = [[ツツジ]] | 郵便番号 = 210-8577 | 所在地 = 川崎市川崎区宮本町1番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm2nd_region:JP-14|display=inline,title}}<br />[[File:Gthumb.svg|250px]]<br />市庁舎(第一庁舎)建替中<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=250|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}} | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|14|130|image=Kawasaki in Kanagawa Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}}[[ファイル:政令市区画図_14130.svg|320x320px|川崎市行政区画図]] | 特記事項 = 市外局番:044(市内全域) }} [[ファイル:東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟-Ferry Boat Crossing the Rokugo River MET DP122176.jpg|サムネイル|川崎 [[六郷橋|六郷の渡し舟]] [[歌川広重]]]] '''川崎市'''(かわさきし)は、[[神奈川県]]の[[北東]]部に位置する[[市]]。[[人口]]は約154万人。 [[政令指定都市]]であり、7つの[[行政区]]がある([[川崎区]]・[[幸区]]・[[中原区]]・[[高津区]]・[[多摩区]]・[[宮前区]]・[[麻生区]])。 市内全域が旧[[武蔵国]]に属し、神奈川県内の[[市町村]]では唯一、旧[[相模国]]に属していた地域を含まない。 == 概要 == 政令指定都市20市の中で面積が最も小さい<ref>[http://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=2477&sub_id=2&flid=20221 熊本市PDF資料(P3参照)]</ref>。[[神奈川県]]内で[[横浜市]]に次ぐ第2の都市であり、非[[都道府県庁所在地]]の市では最大かつ唯一人口が100万人を超えている。財政状況が良く、[[財政力指数]]は1.02([[2022年]]度)で[[政令指定都市]]としては最も財政に余裕がある<ref>{{Cite web|和書|title=川崎市:財政状況資料集(令和3年度決算) |url=https://www.city.kawasaki.jp/230/page/0000149698.html |website=www.city.kawasaki.jp |access-date=2023-07-28}}</ref>。 [[多摩川]]を挟んで[[東京都]]と接している。東京へのアクセスが良いため人口は増加傾向にあり、市のほぼ全域で宅地化が進んでいる。市域面積が狭いので人口密度が高い<ref group="注釈">政令指定都市では、12,208人/km<sup>2</sup>の大阪市に次いで2位。</ref>。古くは[[東海道]]、[[中原街道|中原道]]、[[大山道]]、[[津久井道]]が南北に通り、[[川崎宿]]などの[[宿場]]を中心にして発展してきた。 [[平間寺|川崎大師]]は[[初詣]]発祥の地として多くの参拝客が訪れ、参拝客数は日本3位・県内で1位である<ref>{{Cite web|和書|title=【初詣】はいつからいつまで?正しい参拝方法や起源を徹底解説 |url=https://thegate12.com/jp/article/459 |website=THE GATE |access-date=2022-10-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=初詣 人気&人出 ランキング 全国ベスト20 |url=https://tabi-mag.jp/hatsumoude-best20/ |website=ニッポン旅マガジン |date=2019-12-18 |access-date=2022-10-30 |language=ja |last=プレスマンユニオン編集部}}</ref>。 市南東部の[[川崎駅]]・[[京急川崎駅]]周辺が[[中心市街地]]であり、特に川崎駅東口を中心に関東有数の[[繁華街]]・[[歓楽街]]が広がっているほか、西口には[[ショッピングセンター]]として日本2位の売上を誇る巨大商業施設[[ラゾーナ川崎プラザ]]が位置しており、駅周辺は非常に賑わっている。 [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]や[[京急本線|京急線]]を中心に古くからの市街地が形成されているほか、現在は[[新百合ヶ丘]]や[[武蔵小杉]]などの市の北西部を中心に東京近郊の新興住宅街([[ベッドタウン]])が広がる。特に[[多摩川]]沿いの[[武蔵小杉駅]]周辺には東京への通勤者向けの[[超高層マンション|タワーマンション]]が林立している。また、臨海部は[[京浜工業地帯]]の中心的地区であり、工業製品出荷額は[[豊田市]]に次いで全国2位である<ref>{{Cite web|和書|title=全国トップクラスの実力 水島臨海工業地帯 |url=https://citysales.city.kurashiki.okayama.jp/chishiki/2278/ |website=クラシキ文華 |access-date=2023-10-04 |language=ja}}</ref>。このように川崎市はエリアによって繁華街、工業地帯、超高層マンション街、郊外の新興住宅地と多様な面を併せ持っている。 [[2015年]]度の東京都へ通勤・通学する15歳以上就業者・通学者の割合は41.1%であり、いわゆる「[[神奈川都民]](川崎都民)」が非常に多い。神奈川県内であるものの、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である[[横浜市]]よりも東京との結びつきが非常に強い。2015年の昼夜間人口比率は88.3であり、政令指定都市でありながら東京のベッドタウンとしての側面が強いため、100を大きく下回っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kawasaki.jp/170/cmsfiles/contents/0000096/96770/h27cjinko.pdf|title=川崎市の|accessdate=2020/09/15|publisher=川崎市の昼間人口}}</ref>。一方で、古くからの工業地帯であることから[[富士通]]や[[東芝]]などの大企業の本店・本社事務所も位置している。 市民の花は「[[ツツジ|つつじ]]」、市民の木は「[[ツバキ|つばき]]」、市民にゆかりの深いもの、親しみのあるもの、都市緑化にふさわしいものなどを考えて、多くの候補の中から市民投票で選ばれた(市制50周年を記念して1974年12月1日に制定)。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/miryoku/category/63-1-0-0-0-0-0-0-0-0.html |title=川崎市プロフィール |access-date=2023-01-22}}</ref> == 地理 == 神奈川県の北東部、県の最東端に位置し[[横浜市]]と[[東京都]]に挟まれた細長い市域を持つ。県内では、横浜市以外の市町村とは隣接していない。市の北側を多摩川が流れ東京都との境となっている。 街道沿いには古くから栄えていた街が点在し、周辺は閑静な住宅地となっている。しかし、駅周辺は東京との近さから近年開発が進み、特に[[川崎駅]]前周辺は市内随一の繁華街で昼夜を問わず人が多い。 西部の[[多摩丘陵]]にはのどかな田園風景が広がり、新興住宅地が多い。東部の東京湾岸の埋立地は隣接する横浜市[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]沿岸部とともに大規模な重工業地帯となっているなど、多様な面を見せる。最高地点は麻生区黒川の町田市との境界付近で海抜148mとなっている<ref>{{Cite web|和書|title=川崎市麻生区:地形 |url=https://www.city.kawasaki.jp/asao/category/122-4-0-0-0-0-0-0-0-0.html |website=www.city.kawasaki.jp |access-date=2022-06-28}}</ref>。 ===地形=== ====河川==== ;一級河川 *[[多摩川]]水系:[[三沢川 (多摩川水系)|三沢川]]、山下川、[[五反田川 (神奈川県)|五反田川]]、[[二ヶ領用水|二ヶ領本川]]、[[平瀬川]]、[[多摩川]] *[[鶴見川]]水系:[[片平川]]、[[麻生川]]、[[真福寺川]]、[[二ヶ領用水#江川|江川]]、[[二ヶ領用水#渋川|渋川]]、[[矢上川]]、[[鶴見川]] ;運河 {{col-begin}} {{col-break}} * [[多摩運河]] * [[末広運河]] * [[千鳥運河]] * [[夜光運河]] * [[大師運河]] {{col-break}} * [[塩浜運河]] * [[水江運河]] * [[浅野運河]] * [[池上運河]] * [[南渡田運河]] {{col-break}} * [[田辺運河]] * [[白石運河]] * [[境運河]] * 入江崎運河 {{col-end}} ===地域=== 東京の[[ベッドタウン]]としての性格が強く、[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]、[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]、[[京急本線|京急線]]、[[京王相模原線]]、[[東急東横線]]、[[東急田園都市線]]、[[小田急小田原線|小田急線]]などの通勤路線を通じて東京都心部との交流が深い。各路線ごとに東京区部・横浜市北部を含めた沿線地域圏を形成しているため、[[稲田堤]]や[[若葉台駅|若葉台]](京王相模原線)、[[登戸 (川崎市)|登戸]]や[[新百合ヶ丘]](小田急線)を始めとした北部では[[新宿駅|新宿]]や[[渋谷駅|渋谷]]といった東京都心部のターミナルへの志向が強い。 ====行政区==== [[ファイル:Map of wards of Kawasaki city.png|thumb|right|400px]] [[ファイル:Map of wards of Kawasaki city.svg|thumb|right|300px]] * 世帯数 : 750,949世帯(2020年9月1日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/170/page/0000120800.html|title=川崎市の世帯数・人口、区別人口動態、区別市外移動人口(令和2年9月1日現在)|accessdate=2021年3月26日|publisher=川崎市}}</ref>) * 外国人登録者数 :45,168人(2021年4月9日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/250/page/0000117766.html|title=外国人国籍地域別統計(オープンデータ)(令和2年度分)|accessdate=2021年5月8日|publisher=川崎市}}</ref>) ;神奈川県川崎市の各区 川崎市は現在7区で構成される。なお、7区のどの名称も他の政令指定都市ではまったく使われていない、当市オリジナルの名称である。 {| class="wikitable sortable" style="margin: 1em;" ! [[全国地方公共団体コード|コード]] ! 区名 ! 人口<br />(人) ! 面積<br />(km²) ! 人口密度<br />(人/km²) |- |14131-3 ![[川崎区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市川崎区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市川崎区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市川崎区}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市川崎区}}round2}} }} |- |14132-1 !|[[幸区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市幸区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市幸区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市幸区}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市幸区}}round2}} }} |- |14133-0 ![[中原区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市中原区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市中原区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市中原区}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市中原区}}round2}} }} |- |14134-8 !|[[高津区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市高津区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市高津区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市高津区}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市高津区}}round2}} }} |- |14135-6 ![[多摩区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市多摩区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市多摩区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市多摩区}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市多摩区}}round2}} }} |- |14136-4 ![[宮前区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市宮前区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市宮前区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市宮前区}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市宮前区}}round2}} }} |- |14137-2 ![[麻生区]] |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市麻生区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市麻生区}} }} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市麻生区}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市麻生区}}round2}} }} |- | |'''合計''' |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市}}}} |style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市}}round2}}}} |} ;区役所 # [[川崎区]] - 区役所の最寄り駅は[[川崎駅]](京急川崎駅)。 # [[幸区]] - 区役所の最寄り駅は[[矢向駅]](徒歩15 - 20分)<ref name="saiwai" group="注釈">川崎駅、[[新川崎駅]]、[[武蔵小杉駅]]などからバス利用が便利。</ref>。 # [[中原区]] - 区役所の最寄り駅は[[武蔵小杉駅]]。 # [[高津区]] - 区役所の最寄り駅は[[溝の口駅]](武蔵溝ノ口駅)。 # [[多摩区]] - 区役所の最寄り駅は[[向ヶ丘遊園駅]]。 # [[宮前区]] - 区役所の最寄り駅は[[宮前平駅]]。 # [[麻生区]] - 区役所の最寄り駅は[[新百合ヶ丘駅]]。 ===人口=== {{人口統計|code=14130|name=川崎市|image=Population distribution of Kawasaki, Kanagawa, Japan.svg}} ===隣接する自治体・行政区=== ※括弧内は行政区を示す ;{{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]] *[[横浜市]]([[青葉区 (横浜市)|青葉区]]、[[都筑区]]、[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]、[[港北区]]) ;{{Flagicon|東京都}}[[東京都]] *[[大田区]] *[[世田谷区]] *[[調布市]] *[[狛江市]] *[[稲城市]] *[[多摩市]] *[[町田市]] ;{{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]](海上で隣接) *[[木更津市]] == 歴史 == [[ファイル:Rokugō no Watashi in the 1860's photographed by Felice Beato.jpg|サムネイル|六郷の渡し 1860年代|代替文=]] {{main|川崎市の歴史}} === 市成立前 === ==== 原始以前 ==== 北西部の丘陵地帯に人が定住したのは古く、黒川などでは[[日本列島の旧石器時代|旧石器時代]]や[[縄文時代]]の遺跡が確認できる。しかし、多摩川沿いや臨海部の低地はかつて海底だった場所が多く、多摩川の堆積作用や海面の低下により徐々に陸地化が進んだ。 ==== 古代 ==== 7世紀に律令体制の整備により[[武蔵国]][[橘樹郡]](たちばなぐん)の一部となり、[[奈良時代]]には現在の高津区に[[郡衙]]が置かれ、地域行政の中心になったと推定される。[[平安時代]]からは[[荘園 (日本)|荘園]]が発達し、[[稲毛氏]]が広い地域を支配した。 ==== 中世 ==== 前述の[[稲毛氏]]の一族[[稲毛重成|稲毛三郎重成]]は[[源頼朝]]の御家人の1人となって活躍した。また[[大治 (日本)|大治]]3年([[1128年]])には川崎大師([[平間寺]])が建立され、[[門前町]]の形成が始まる。その後[[鎌倉時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけては小規模領主による分治が進み、やがて[[後北条氏|北条氏]]の支配下に入った。 ==== 近世 ==== [[慶長]]16年([[1611年]])には[[小泉次大夫]]の指揮により[[二ヶ領用水]]が完成、[[中野島駅|中野島]]から大師・大島に至る多摩川流域平野のほぼ全域を流れ、農業生産力の向上をもたらした。二ヶ領用水で潤った水田で生産された米は稲毛米と呼ばれ、江戸で[[寿司飯]]として人気となる。また[[江戸幕府]]が成立したことで[[東海道]]や[[中原街道]]の重要性が高まり、川崎宿(現川崎駅周辺)の整備が進んだ。ただし、[[川崎宿]]が正式な[[宿場]]に指定されたのは[[東海道五十三次]]の中で最後となる[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])のことである。このとき多摩川の橋は流され、以後川崎宿は六郷の渡しの渡河点、及び川崎大師への玄関口として繁栄する。この他にも[[中原街道]]の[[丸子の渡し]]、[[大山道#青山通り大山道|大山街道]]の[[二子の渡し]]、[[津久井街道]]の登戸の渡しが整備され、いずれも後に東京への鉄道が建設される宿場町が形成された。 ==== 近代 ==== [[ファイル:Oyamakaido 06z1101s.jpg|サムネイル|大山街道の商店 溝の口]] 明治・大正期は川崎駅周辺で都市化が急速に進行する一方、丘陵地帯では従来の農山村も維持されていた。その後昭和前期になると鉄道路線の開業が相次ぎ、私鉄沿線には住宅地が、多摩川沿いの南武線沿線には主に工業地が展開した。 * [[明治]]5年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1872年]][[7月10日]]) - 日本最初の鉄道開業(現東海道線)に伴い[[川崎駅]]が設置される。その後、郵便・電気などの公共サービスが整備される。 * [[1883年]](明治16年) - 多摩川に六郷橋がかかる。 * [[1889年]](明治22年) - [[町村制]]施行により、後の市域を形成する[[橘樹郡]]川崎町、及び12か村(うち2村は都筑郡)が成立。 * [[1893年]](明治26年) - 大師河原村(現川崎区)の当麻辰二郎が[[ナシ|梨]]の新種「長十郎」を発見(ただし発見年には諸説あり)。 * [[1899年]](明治31年) - 大師電気鉄道(現在の[[京浜急行電鉄]])が[[京急大師線|大師線]]の一部を開業する。以後、[[品川 (東京都)|品川]]や[[横浜市|横浜]]に向けて路線を延長していく。 * [[1910年]](明治43年) - 日本蓄音機商会(現在は[[日本コロムビア]])が川崎町で創業。 * [[1912年]](明治45年) - 神奈川県と東京府(現東京都)との境界が多摩川を境に整理される。 * 1912年(明治45年) - 日本鋼管(後にNKK、現在は[[JFEスチール]])川崎製鉄所が設立。臨海部の工業化が開始される。 * [[1914年]]([[大正]]3年) - 川崎〜溝口(当時は高津村)間での乗合馬車運行が始まる。 * 1914年(大正3年) - [[味の素]]川崎工場が設置される<ref>[https://www.ajinomoto.co.jp/company/jp/aboutus/history/chronology/index.html 味の素グループ年表|社史・沿革]</ref>。 * [[1921年]](大正10年) - 川崎町で上水道整備が始まる。 === 市成立後 === ==== 近代 ==== [[ファイル:Tonen Chemical Kombinat, Kawasaki.jpg|thumb|right|京浜工業地帯]] * [[1924年]](大正13年)[[7月1日]] - 2町1村が合併して市制施行。市域は現在の川崎区西部と幸区東部。人口4万8394人<!--、面積km&sup2;-->。 * [[1926年]](大正15年)[[2月14日]] - 東京横浜電鉄(現在の[[東急]])東横線が小杉町内で開業。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[3月9日]] - 南武鉄道(現在のJR[[南武線]])川崎駅 - [[登戸駅]]が開業。 * 1927年(昭和2年)[[4月1日]] - [[小田急小田原線]]が全線開通、稲田登戸駅(現[[向ヶ丘遊園駅]])が開業。 * 1927年(昭和2年)[[7月15日]] - [[東急玉川線|玉川電気鉄道]]溝ノ口線(現[[東急田園都市線]])開業。 * [[1930年]](昭和5年) - 富士瓦斯紡績(現在の[[富士紡ホールディングス]])川崎工場での労働争議で[[煙突男]]が出現。 * [[1934年]](昭和9年) - 「[[川崎市歌]]」を制定。 * [[1935年]](昭和10年)[[1月7日]] - [[水道]]水が汚染され[[赤痢]]患者が大量発生([[川崎市の赤痢 (1935年)]])。同月末までの発病者は1357人<ref>{{Cite web|和書|date= |author=村島鐵男|url=http://journal.kansensho.or.jp/kansensho/backnumber/fulltext/09/770-778.pdf |title=川崎市に爆發流行せる赤痢の病原菌竝に、菌検出率に就いて |publisher=日本感染症学会 |accessdate=2020-02-09}}</ref>。 * 1935年(昭和10年)7月22日 - 川崎駅前にあった[[京急ストア|京浜デパート]]に20数名の暴漢が侵入して店内を破壊。後に大規模店の進出に反対していた川崎小売商店連盟メンバーら80余人が検挙された<ref>「川崎の小売商が結束、デパートを襲撃」『東京朝日新聞』1935年7月23日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.99 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1937年]](昭和12年) - 陸軍の研究所が現多摩区の生田村(1938年に川崎市へ編入)へ移転。 * [[1939年]](昭和14年)4月1日 - 都筑郡の分割併合により埋立地を除き現在の市域が確定。 * [[1942年]](昭和17年)[[2月1日]] - 味噌と醤油の配給制度が始まる([[横浜市]]、[[横須賀市]]、[[藤沢市]]、[[平塚市]]、[[鎌倉市]]、[[小田原市]]も同日から開始)<ref>「六大府県で味噌、醤油の割当配当」『朝日新聞』1942年1月8日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p.124 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。同時に[[衣料品]]にも点数切符制が導入された。 * [[1944年]](昭和19年)[[10月14日]] - [[川崎市電]]が開業。 * [[1945年]](昭和20年)[[4月15日]] - 川崎大空襲。[[川崎駅]]周辺の市街地や臨海部の工業地帯、寺社仏閣の[[川崎大師]]などに大きな被害が出る。 ==== 現代 ==== [[ファイル:Daisi bridge 03.jpg|サムネイル|大師橋]] * [[1946年]](昭和21年) - 初の民選市長として金刺不二太郎が当選。 * [[1947年]](昭和22年) - 戦後第1回市議会招集。 * [[1948年]](昭和23年) - 現[[多摩区]]に日本女子大付属中学・高校<ref group="注釈">現在の[[日本女子大学]]西生田キャンパス。</ref>が開校 * 1948年(昭和23年)8月2日 - 市内で[[竜巻]]が発生。戦災跡地に建てられていた[[バラック]]住宅が被害に遭い、死者3人、重軽傷者106人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=70 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1951年]](昭和26年) - 現多摩区に[[明治大学生田校舎]]が開設。 * [[1952年]](昭和27年) - 現[[川崎区]]の富士見公園内に[[川崎球場]](当時は川崎スタジアム)が開場。 * [[1952年]](昭和27年) - [[向ヶ丘遊園]]が遊具施設を充実し有料化。 * [[1957年]](昭和32年) - 現多摩区に[[専修大学]]生田校舎開設。 * 1957年(昭和32年) - 人口が50万人を突破。この頃から市北西部が首都圏住民の良好な住宅地として人気を博すようになり、政令市に指定されるまでに人口が急増する主因となった。このため、[[東京都]]心部へ向かう通勤・通学電車のラッシュは、全国有数の混雑となる。 * [[1960年]](昭和35年) - [[プロ野球]]・[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]が[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]で優勝し、市内でパレードを行う。 * [[1964年]](昭和39年) - 多摩区に[[よみうりランド]]が開業。西生田駅が[[読売ランド前駅]]に、東生田駅が[[生田駅 (神奈川県)|生田駅]]に改称。 * [[1966年]](昭和41年) - [[東急田園都市線]][[溝の口駅]] - [[長津田駅]]が開業。 * [[1967年]](昭和42年) - 現多摩区に[[日本民家園]]が開園。公営施設としては北部地域初の大規模文化施設。 * 1967年(昭和42年) - 多摩区(現在の[[麻生区]])東百合丘に[[田園調布学園大学短期大学部|調布学園女子短期大学]]が開設。 * [[1968年]](昭和43年)[[4月25日]] - [[東名高速道路]]が開通し、[[東名川崎インターチェンジ|東名川崎IC]](現[[宮前区]])開設。 * 1968年(昭和43年) - 市営鷺沼プールがオープン。 * [[1969年]](昭和44年)4月1日 - 市電が全廃。 * [[1971年]](昭和46年) - 第2代の民選市長に伊藤三郎が当選し、[[革新自治体]]の一員となる。 * 1971年(昭和46年) - [[かわさきおやこ劇場]]設立 * 1971年(昭和46年) - [[生田緑地]]に川崎市青少年科学館開設。 * 1971年(昭和46年) - 現宮前区菅生に[[聖マリアンナ医科大学]]開設。 * [[1972年]](昭和47年)4月1日 - 政令都市に指定され、川崎、幸、中原、高津、多摩の5区が設けられる<ref group="注釈">非道府県庁所在地では[[北九州市]]に次いで二つ目の政令指定都市。</ref>。 * 1972年(昭和47年) - 川崎市公害防止条例を施行する。[[夢見ヶ崎動物公園]]が開園。 * [[1974年]](昭和49年) - 人口が100万人を突破。 * [[1976年]](昭和51年) - 全国に先駆けて「川崎市環境影響評価に関する条例」を制定し環境アセスメントを開始した。 * [[1978年]](昭和53年) - 大洋ホエールズの[[横浜市|横浜]]移転により、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]が川崎球場をフランチャイズとする。 * 1978年(昭和53年) - 第1回かわさき市民祭りを開催。 * [[1979年]](昭和54年) - 政令指定都市移行を記念して高津区に川崎市民プラザ開設。 * [[1980年]](昭和55年) - 国鉄横須賀線の[[新川崎駅]]が開業、川崎駅を経由しなくなる。自動車の川崎ナンバーが誕生。 * [[1982年]](昭和57年) - 人口増加に伴い、高津区から宮前区を、多摩区から麻生区を分区し、7区制になる。 * 1982年(昭和57年) - 第1次[[川崎公害]]訴訟が提訴され、大気汚染について国や[[首都高速道路公団]]、各企業の責任が追及される。 * [[1984年]](昭和59年) - 「川崎市民の歌」を制作・発表。 * [[1985年]](昭和60年) - 川崎市男女共同社会をめざす計画を発表。 * [[1986年]](昭和61年) - 川崎駅東口に地下街[[川崎アゼリア]]が開業。 * 1986年(昭和61年) - 新百合ヶ丘駅前に日本映画学校が開校。 * [[1987年]](昭和62年) - 日本初の[[シネマコンプレックス]]と称する[[チネチッタ (川崎市)|チネチッタ]]が開業。 * [[1988年]](昭和63年) - [[川崎駅]]西口の再開発を巡って[[リクルート事件]]が発覚<ref group="注釈">当時の川崎市助役へのリクルート社からのリクルートコスモス株譲渡による利益供与が明らかになり、やがて中央政界に影響が波及する。</ref>。 * 1988年(昭和63年) - [[川崎市市民ミュージアム]]・ふれあい館・産業振興会館を開館。 * [[1989年]]([[平成]]元年) - [[かながわサイエンスパーク]](KSP)が高津区に設置される。 * 1989年(平成元年) - [[4月11日]]に高津区のある[[竹林]]で1億円の札束が発見される(竹やぶ騒動)。 * [[1990年]](平成2年) - 市民[[オンブズマン]]制度が発足。 * [[1991年]](平成3年) - ロッテオリオンズが千葉に移転し、川崎球場を本拠とするプロ野球チームが消滅する。 * 1991年(平成3年) - 毎月1日を「ノーカーデー」と定める。 * [[1992年]](平成4年) - 新百合ヶ丘駅南口にエルミロード<ref group="注釈">テナントのイトーヨーカドー新百合ヶ丘店は全国売り上げナンバーワンを記録。</ref>がオープンする。 * [[1993年]](平成5年) - Jリーグが開幕、<!--読売サッカークラブとして創立された-->[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]が[[等々力陸上競技場]]を本拠地にする。<!--ヴェルディ川崎は-->後期優勝<!--。[[鹿島アントラーズ]]を下-->しJリーグ初代年間王者に。 * [[1994年]](平成6年) - 市のシンボルマークが決まる。<!--ヴェルディ川崎が再びJリーグ年間王者となり、V2を達成する。--> * [[1995年]](平成7年) - とどろきアリーナがオープン。ポイ捨て禁止条例がスタート。 <!--* 1995年(平成7年) - ヴェルディ川崎が後期優勝するものの、年間王者は横浜マリノスに奪われる。--> * [[1996年]](平成8年) - 市職員採用試験の国籍条項を撤廃。かわさき市民放送開局。外国人市民代表者会議を設置。 * [[1997年]](平成9年) - [[富士通]]川崎サッカー部が[[プロフェッショナル|プロ]]化し[[川崎フロンターレ]]が誕生。 * 1997年(平成9年) - [[東京湾アクアライン]]が開通。これにより[[千葉県]]とも隣接するようになった。 * 1998年(平成10年) - 麻生区の新百合ヶ丘駅周辺地区が、[[建設省]]の都市景観大賞を受賞する。 * [[1999年]](平成11年) - 川崎公害訴訟が和解により決着する。[[生田緑地#施設|岡本太郎美術館]]がオープン。 * 2000年(平成12年) - 川崎球場スタンド撤去工事。翌年改修工事終了。 * [[2001年]](平成13年) - 川崎市子どもの権利に関する条例を施行。 * [[2002年]](平成14年) - 川崎市行財政改革プランを発表。 * 2002年(平成14年) - シネマコンプレックスのチネチッタが[[ラ チッタデッラ]]としてリニューアル。この頃から川崎駅周辺再開発が加速。 * 2002年(平成14年) - 向ヶ丘遊園が閉園。 * [[2003年]](平成15年) - 高津区に「川崎市 子ども夢パーク」がオープン。 * [[2004年]](平成16年) - 麻生区に[[小田急多摩線]][[はるひ野駅]]が開設。 * 2004年(平成16年) - [[川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー]]制度制定。 * 2004年(平成16年) - 川崎駅西口に[[ミューザ川崎シンフォニーホール]]が開設される。 * [[2005年]](平成17年) - 路上喫煙の防止に関する条例を制定。重点禁止区域内での路上喫煙に過料2000円を課す事になった。 * [[2006年]](平成18年) - 多摩区に市立多摩病院が開院。 * 2006年(平成18年) - 川崎駅西口に[[ラゾーナ川崎プラザ]]が開業。 * [[2007年]](平成19年) - 麻生区に[[昭和音楽大学]]が[[厚木市]]から移転。 * 2007年(平成19年) - 麻生区に川崎市アートセンターオープン。 * 2007年(平成19年) - 第3回[[アメリカンフットボール・ワールドカップ]]が開催される。 * 2007年(平成19年) - 成人ぜんそくの[[川崎公害]]の患者の医療費助成制度が開始される。 * [[2008年]](平成20年) - [[東京急行電鉄|東急電鉄]]が川崎市から購入した[[宮前区]]の土地の[[土壌汚染]]に関し、[[公害等調整委員会]]が市に[[損害賠償]]支払いを命じる<ref group="注釈">東急側は「1960年代後半から70年頃に川崎市が鉛を含む焼却灰などを搬入したことが汚染原因」などと、市が汚染の原因者であると主張していた。</ref>。 *[[2011年]](平成23年) - 多摩区に[[川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム|藤子・F・不二雄ミュージアム]]開館。 *[[2011年]] (平成23年) - [[モントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパン・イン・かわさき]]が市民の誘致により実現<ref group="注釈">2014年まで実施。</ref>。 *[[2012年]](平成24年) - [[ドラえもん]]誕生100年前を記念し、ドラえもんに「特別住民票」を交付。 * 2012年(平成24年) - 東京地裁、土壌汚染訴訟で川崎市側に責任なしと東急電鉄の訴えを棄却<ref>[https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-98375.html 川崎・土壌汚染訴訟で市側に責任なしと東京地裁、東急の訴え棄却/神奈川新聞・カナロコ]</ref>。 *[[2014年]](平成26年) - 川崎球場が[[川崎富士見球技場]](富士通スタジアム川崎)に改称。 * [[2015年]] (平成27年) [[4月1日]] - [[京都市]]を抜き人口国内7位の市となる<ref name="2015-04-16">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO85728760V10C15A4L83000/|title=川崎市人口、京都超え|newspaper=日本経済新聞|date=2015-04-16|accessdate=2023-09-22|}}</ref>。 *[[2016年]](平成28年) - [[南武線#浜川崎支線|南武線(浜川崎支線)]][[小田栄駅]]が開業。 *[[2017年]](平成29年) - 4月24日現在の人口が1,500,052人に達し人口150万人を突破したと発表。 *2017年(平成29年) - [[川崎フロンターレ]]がJ1リーグ初優勝。 *[[2019年]] ([[令和]]元年) [[川崎市役所|新庁舎]](高層棟及び低層棟)の着工。 * 2019年 (令和元年) [[5月1日]] - [[神戸市]]を抜き人口国内6位の市となる<ref name="2019-05-22">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/life/news/190522/lif1905220033-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190522152830/https://www.sankei.com/smp/life/news/190522/lif1905220033-s1.html|title=川崎市の人口が6位に 政令市で神戸抜き、次は福岡|newspaper=産経新聞|date=2019-05-22|accessdate=2019-10-30|archivedate=2019-05-22}}</ref>。 *2019年 (令和元年) 12月12日- [[ヘイトスピーチ]]に対して罰金刑という刑事罰を設けた[[ヘイトスピーチ条例]]が全国で初めて制定される。 *[[2022年]] (令和4年) 3月 - 羽田空港と川崎区を直結する[[多摩川スカイブリッジ]]が開通。[[ファイル:Kawasaki City New Main Government Building.jpg|サムネイル|川崎市 新本庁舎]] *2022年(令和4年)[[10月25日]] - 午前11時7分頃、建設中の川崎市新本庁舎24階で火災が発生した<ref>{{Cite web|和書|title=川崎市:新本庁舎で発生した火災について(第1報) |url=https://www.city.kawasaki.jp/templates/press/170/0000144759.html |website=www.city.kawasaki.jp |access-date=2023-07-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=建設中の川崎市新本庁舎24階で起こった火災、鋼板の切断時に断熱材に引火か |url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00154/01586/ |website=日経クロステック(xTECH) |date=2022-11-15 |access-date=2023-07-28 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>。 *[[2023年]](令和5年)[[6月19日]] - 川崎市新本庁舎が竣工<ref>{{Cite web |title=川崎市新本庁舎 |url=https://skyskysky.net/construction/202207.html |website=skyskysky.net |access-date=2023-07-28}}</ref>。 === 行政区域の変遷 === * [[1924年]]7月1日:[[橘樹郡]][[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]、[[御幸村 (神奈川県)|御幸村]]、[[大師町]]が合併して市制施行。 * [[1927年]]4月1日:橘樹郡[[田島町 (神奈川県)|田島町]]を編入。 * [[1933年]]8月1日:橘樹郡[[中原町 (神奈川県)|中原町]]を編入。 * [[1937年]]4月1日:橘樹郡[[高津町 (神奈川県)|高津町]]及び[[日吉村 (神奈川県)|日吉村]]の一部を編入。日吉村の一部は横浜市に編入。 * 1937年6月1日:橘樹郡[[橘村 (神奈川県)|橘村]]を編入。 * [[1938年]]10月1日:橘樹郡[[稲田町 (神奈川県)|稲田町]]、[[向丘村]]、[[宮前村 (神奈川県)|宮前村]]及び[[生田村 (神奈川県)|生田村]]を編入。橘樹郡が消滅。 * [[1939年]]4月1日:[[都筑郡]][[柿生村]]及び[[岡上村]]を編入。都筑郡が消滅。 * [[1975年]]2月15日:横浜市港北区日吉町字新川向の一部(矢上川左岸)を編入、川崎市幸区南幸町3丁目の一部(尻手駅西側)を横浜市に編入。埋立地以外で現在の市境が確定。 この他、明治以降の埋め立ての進行で市域は海に向かって拡大している。 == 政治 == === 行政 === ==== 市長 ==== *市長 : [[福田紀彦]](ふくだ のりひこ) (2013年11月19日就任、2期) *市制記念日 : [[7月1日]] ;歴代首長 *官選市長<ref>『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。</ref> **[[石井泰助]]:1924年10月18日 - 1929年3月11日 **[[春藤嘉平]]:1929年3月2日 - 1930年11月11日 **[[百済文輔]]:1931年8月22日 - 1932年6月27日 **[[中屋重治]]:1932年8月13日 - 1935年3月27日 **[[芝辻一郎]]:1935年9月14日 - 1939年9月13日 **[[村井八郎 (内務官僚)|村井八郎]]:1940年5月13日 - 1944年5月12日 **[[江辺清夫]]:1944年5月23日 - 1946年6月10日 *公選市長 **[[金刺不二太郎]]:1946年8月1日 - 1971年4月29日 **[[伊藤三郎]]:1971年4月30日 - 1989年 **[[高橋清 (川崎市長)|高橋清]]:1989年 - 2001年 **[[阿部孝夫]]:2001年 - 2013年 **[[福田紀彦]]:2013年 - 現在 ==== 役所 ==== *[[川崎市役所]] === 議会 === ==== 市議会 ==== {{main|川崎市議会}} * 定数:60名 * 任期:2023年(令和5年)5月3日〜2027年(令和9年)5月2日 * 議長:青木功雄(自由民主党、5期) * 副議長:岩隈千尋(みらい、5期) {|class="wikitable" |- !会派名!!議席数!!議員名(◎は団長) |- | style="width:13em" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]川崎市議会議員団 || style="text-align:right; width:3em;" | 17 || style="width:60em" | ◎原典之(中原区)、各務雅彦(多摩区)、上原正裕(多摩区)、青木功雄(高津区)、浅野文直(宮前区)、石田康博(宮前区)、大島明(高津区)、加藤孝明(幸区)、嶋崎嘉夫(川崎区)、末永直(中原区)、野田雅之(幸区)、橋本勝(多摩区)、本間賢次郎(川崎区)、松原成文(中原区)、矢沢孝雄(宮前区)、山崎直史(麻生区)、山田瑛里(川崎区) |- | みらい川崎市議会議員団 || align="right" | 14 || ◎堀添健(高津区)、木庭理香子(麻生区)、押本吉司(中原区)、林敏夫(川崎区)、雨笠裕治(麻生区)、井土清貴(中原区)、岩隈千尋(高津区)、織田勝久(宮前区)、嶋凌汰(幸区)、嶋田 和明(多摩区)、鈴木朋子(麻生区)、高橋美里(中原区)、田倉俊輔(多摩区)、長谷川智一(川崎区) |- | [[公明党]]川崎市議会議員団 || align="right" | 11 || ◎浜田昌利(川崎区)、田村伸一郎(宮前区)、河野ゆかり(多摩区)、浦田大輔(川崎区)、枝川舞(幸区)、川島雅裕(中原区)、かわの忠正(幸区)、工藤礼子(宮前区)、春孝明(高津区)、平山浩二(高津区)、柳沢優(麻生区) |- | [[日本共産党]]川崎市議会議員団 || align="right" | 8 || ◎宗田裕之(高津区)、井口真美(多摩区)、渡辺学(幸区)、石川建二(宮前区)、市古次郎(中原区)、後藤真左美(川崎区)、小堀祥子(高津区)、齋藤温(麻生区) |- | [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]川崎市議会議員団 || align="right" | 7 || ◎三宅隆介(多摩区)、仁平克枝(川崎区)、飯田満(宮前区)、岩田英高(高津区)、高戸友子(宮前区)、那須野純花(幸区)、三浦恵美(中原区) |- | [[無所属]] || align="right" | 3 || 重冨達也(中原区)、月本琢也(麻生区)、吉沢章子(多摩区) |} ==== 県議会 ==== ;神奈川県議会(川崎市選出) {{main|神奈川県議会}} * 定数:18名 * 任期:2023年(令和5年)4月30日〜2027年(令和9年)4月29日 {| class="wikitable" |- !選挙区!!氏名!!会派名 |- | rowspan="3" | [[川崎区]] || 杉山信雄 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |- || 西村くにこ || 公明党神奈川県議会議員団 |- || 栄居学 || 立憲民主党・かながわクラブ神奈川県議会議員団 |- | rowspan="2" | [[幸区]] || 田中徳一郎 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |- || 市川よし子 || 立憲民主党神奈川県議会議員団 |- | rowspan="3" | [[中原区]] || 川本学 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |- || たきた孝徳 || 立憲民主党・かながわクラブ神奈川県議会議員団 |- || 松川正二郎 || 日本維新の会神奈川県議会議員団 |- | rowspan="3" | [[高津区]] || 小川久仁子 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |- || 斉藤たかみ || 立憲民主党・かながわクラブ神奈川県議会議員団 |- || 日浦和明 || 日本維新の会神奈川県議会議員団 |- | rowspan="3" | [[宮前区]] || 持田文男 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |- || 添田勝 || 日本維新の会神奈川県議会議員団 |- || 柳瀬吉助 || 立憲民主党神奈川県議会議員団 |- | rowspan="2" | [[多摩区]] || 土井りゅうすけ || 自由民主党神奈川県議会議員団 |- || 青山圭一 || 立憲民主党・かながわクラブ神奈川県議会議員団 |- | rowspan="2" | [[麻生区]] || 石川裕憲 || かながわ未来神奈川県議会議員団 |- || 小林武史 || 自由民主党神奈川県議会議員団 |} ==== 衆議院 ==== * 任期:2021年(令和3年)10月31日〜2025年(令和7年)10月30日 {|class="wikitable" !選挙区 !議員名 !所属政党 |- |rowspan="2"|[[神奈川県第9区|神奈川9区]](多摩区・麻生区) |[[笠浩史]] |[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] |- |[[中山展宏]] |[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]([[志公会|麻生派]]) |- |rowspan="3"|[[神奈川県第10区|神奈川10区]](川崎区・幸区・中原区) |[[田中和徳]] |自由民主党(麻生派) |- |[[金村龍那]] |[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] |- |[[鈴木敦]] |[[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]] |- |[[神奈川県第18区|神奈川18区]](宮前区・高津区) |[[山際大志郎]] |自由民主党(麻生派) |} === 裁判所 === ;裁判所 *[[横浜地方裁判所]]川崎支部 *[[横浜家庭裁判所]]川崎支部 *川崎簡易裁判所 === 法務省 === ;[[検察庁]] *[[横浜地方検察庁]] 川崎支部 *川崎[[区検察庁]] == 施設 == === 警察 === ;本部 *[[神奈川県警察]][[川崎市警察部]] *[[神奈川県警察高速道路交通警察隊]] ;警察署 {{Multicol}} * [[川崎警察署|神奈川県川崎警察署]] * [[川崎臨港警察署|神奈川県川崎臨港警察署]] * [[幸警察署|神奈川県幸警察署]] * [[中原警察署|神奈川県中原警察署]] {{Multicol-break}} * [[高津警察署|神奈川県高津警察署]] * [[多摩警察署|神奈川県多摩警察署]] * [[宮前警察署|神奈川県宮前警察署]] * [[麻生警察署|神奈川県麻生警察署]] {{Multicol-end}} ===消防=== ;本部 *[[川崎市消防局]] ===図書館=== * [[川崎市立図書館]] ** 川崎図書館 - 最寄り駅は川崎駅。 *** 田島分館 - 川崎駅などからバス利用。 *** 大師分館 - 最寄り駅は川崎大師駅。 ** 幸図書館 - 最寄り駅は矢向駅(徒歩15 - 20分)<ref name="saiwai" group="注釈"/>。 *** 日吉分館 - 最寄り駅は新川崎駅。 ** [[川崎市立中原図書館|中原図書館]] - 最寄り駅は武蔵小杉駅。 ** 高津図書館 - 最寄り駅は高津駅。 *** 橘分館 - 武蔵新城駅や溝の口駅(武蔵溝ノ口駅)などからバス利用。 ** 宮前図書館 - 最寄り駅は宮前平駅。 ** 多摩図書館 - 最寄り駅は向ヶ丘遊園駅。 *** 菅閲覧所 - 最寄り駅は京王稲田堤駅。 ** 麻生図書館 - 最寄り駅は新百合ヶ丘駅。 *** 柿生分館 - 最寄り駅は柿生駅。 * [[神奈川県立図書館|神奈川県立川崎図書館]] - 「科学と産業の情報ライブラリー」。KSP(かながわサイエンスパーク)内。最寄駅は溝の口駅、武蔵溝ノ口駅(徒歩15分、無料シャトルバス5分)。 === 運動施設 === [[ファイル:Todoroki 2007 08 23.jpg|thumb|right|等々力陸上競技場]] [[ファイル:Todoroki Arena.jpg|thumb|right|とどろきアリーナ]] ;野球場 *[[川崎市等々力球場]] - 中原区等々力緑地内。収容人員5000人。照明設備もあり、[[高校野球]]の地方予選や[[アメリカンフットボール]]の公式戦などが開催される。 *[[川崎市多摩川丸子橋硬式野球場]] - 中原区[[上丸子天神町]]。観客席・照明設備なし。旧[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム球団]]多摩川グランド跡地を市が買い取って再オープン。 *[[読売ジャイアンツ球場]] - 多摩区[[菅仙谷]]。収容人員4000人。東京都[[稲城市]]との都県境に位置する[[読売ジャイアンツ]]の練習場兼2軍本拠地である。 *[[川崎富士見球技場]] - 川崎区富士見公園内。[[川崎球場]](開場当初は川崎スタヂアム)として1952年に開場し、長年の間、野球場であった。1954年-1991年はプロ野球球団([[1977年]]まで[[大洋]]ホエールズ(現在の[[横浜DeNAベイスターズ]])[[1978年]]以降ロッテオリオンズ(現在の[[千葉ロッテマリーンズ]]))の本拠地として使用(後述)。2001年に既設スタンドを取り壊し、球技場となり、現在は軟式野球のほか[[アメリカンフットボール]]や各種イベントに使用。2014年4月1日に現名称となる。 ;陸上競技場・サッカー場 * [[等々力陸上競技場]] - 中原区等々力緑地内。収容人員2万5000人。1964年に開場し、1993年からは数度の改修を経ながら[[川崎フロンターレ]]の本拠地として使用。日本陸連の1種公認競技場としても各種競技会で使用。 * 古市場陸上競技場 - 幸区古市場。1周400mのアンツーカートラック。多摩川の河川敷にある。 ;ゴルフ場 * 川崎国際生田緑地ゴルフ場 - 多摩区の丘陵地帯。1952年に川崎国際カントリークラブとして開設、1992年に川崎市公園緑地協会の管理に移りパブリックコースに。 ;屋内施設 * [[川崎市体育館]] - 川崎区の市街地内。1956年開設。[[プロレス]]の興行(試合)等が開催される。川崎駅東口から徒歩20分ほど。 * [[川崎市とどろきアリーナ]] - 中原区等々力緑地内。[[バレーボール]]の国際試合を含む各種屋内競技やコンサート等が開催される。 * [[ヨネッティー王禅寺]]- ごみ焼却場の余熱を利用した麻生区にある温水プール。 * スタジオ246 == 対外関係 == === 姉妹都市・提携都市 === ==== 海外 ==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|CRO}} [[リエカ|リエカ市]]([[クロアチア共和国]])- [[1977年]][[6月23日]]締結 *{{Flagicon|USA}} [[ボルチモア|ボルチモア市]]([[アメリカ合衆国]])- [[1979年]][[6月14日]]締結 *{{Flagicon|CHN}} [[瀋陽市]]([[中華人民共和国]])- [[1981年]][[8月18日]]締結 *{{Flagicon|AUS}} [[ウロンゴン|ウロンゴン市]]([[オーストラリア連邦]])- [[1988年]][[5月18日]]締結 *{{Flagicon|UK}} [[シェフィールド|シェフィールド市]]([[イギリス|イギリス連合王国]])- [[1990年]][[7月30日]]締結 *{{Flagicon|AUT}} [[ザルツブルク|ザルツブルク市]]([[オーストリア共和国]])- [[1992年]][[4月17日]]締結 *{{Flagicon|GER}} [[リューベック|リューベック市]]([[ドイツ連邦共和国]])- 1992年[[5月12日]]締結 *{{Flagicon|VIE}}[[ダナン|ダナン市]]([[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]) - [[1994年]][[1月24日]]締結 *{{Flagicon|KOR}} [[富川市]]([[大韓民国]])- [[1996年]][[10月21日]]締結 ==== 国内 ==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|北海道}}[[中標津町]]([[北海道]]) - [[1992年]][[7月9日]]締結 *{{Flagicon|長野県}}[[富士見町]]([[長野県]]) - [[1993年]][[4月22日]]締結 *{{Flagicon|沖縄県}}[[那覇市]]([[沖縄県]]) - [[1996年]][[5月20日]]締結 ;その他 *{{Flagicon|JPN}}[[全国門前町サミット]] - 全国の神社仏閣を中心に発展してきた門前町を有する自治体・観光協会・商業関係者などが集まり地域活性、街作り推進のため開催する会議。 === 姉妹港・提携港 === ;友好港 *{{Flagicon|VIE}}[[ダナン]]港([[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]])- 1994年1月24日締結 == 経済 == [[ファイル:CINECITTA.jpg|thumb|200px|[[チネチッタ (川崎市)|チネチッタ]]]] [[ファイル:LAZONAkawasaki 001.jpg|thumb|200px|ラゾーナ川崎プラザ]] [[File:Musashi-Kosugi20190504.jpg|thumb|200px|[[武蔵小杉]]]] === 第一次産業 === ==== 農業 ==== 江戸時代初期の[[二ヶ領用水]]の整備で、多摩川流域での水田開発が拡大し、農業生産力が向上した。また江戸時代以降、大消費地江戸に近い立地を利用して果樹栽培が営まれ、宿河原の桃や王禅寺の柿が知られた。中でも[[多摩川梨]]は明治20年代に新品種として[[ナシ#品種|長十郎]]が発見され、その栽培は全国に普及していった。しかし、その発見地である臨海部での果樹栽培は大正以降の工業開発によって失われた。内陸部でも、戦後は都市化の進行により急速に農地が減少した。現在は市の施策などで伝統的な名産品の復興などに力が注がれている。 === 第二次産業 === ==== 工業 ==== [[京浜工業地帯]]の中にあり、明治時代の産業革命以降は重工業が発展した。特に昭和前期に臨海部での大規模な埋め立てが行われ、製鉄所や化学工場、機械・電機工業などの建設が進んだ。日本鋼管(現[[JFEスチール]])、[[富士通]]、[[日本電気]]、[[東芝]]などの大規模工場と、それに関連する中小工場が多数建設され、現在に至っている。 近年では、先端技術の研究所なども多く立地する。[[かわさきマイコンシティ]]、[[かながわサイエンスパーク]]の建設などもこれを促進している。一方臨海部の工業地帯では重化学工業不振からの再生が企画される一方、[[産業遺産]]としての保護も進められている。また、市では羽田空港の神奈川口整備を見越して、臨空型の工業整備を意図している。 === 第三次産業 === ==== 商業 ==== [[川崎駅]]東口には地下街「[[川崎アゼリア|アゼリア]]」、西口には「[[ラゾーナ川崎プラザ|ラゾーナ川崎]]」が立地し、川崎駅周辺商業地の中核となっている。その他、特殊な例として近世からの歴史を持つ関東No.2の[[風俗街]]である[[堀之内 (川崎市)|堀之内]]と[[南町 (川崎市)|南町]]がある。川崎市の副都心として、[[溝の口駅]]には「[[丸井]]」、[[新百合ヶ丘駅]]には、「イオン」、「エルミロード」、「オーパ」などの商業施設が建設されている。また第三都心として、武蔵小杉駅も[[横須賀線]]の駅が出来たことで都市化が進んでいる。他、住宅地が多いため、中小規模の商店街やスーパーマーケットなどは市内全域で見られる。 しかし、2015年5月31日に百貨店の[[さいか屋]]川崎店が閉店したことで、日本全国の政令指定都市の中で唯一百貨店が存在しない都市となった<ref group="注釈">その後2019年9月30日に相模原市の[[伊勢丹相模原店]]が閉店したことにより、現在は川崎市のほか相模原市も百貨店のない政令指定都市となっている。</ref>。日本百貨店協会加盟店として[[そごう・西武]]が小型店をその前年に開業させたものの、[[売上]]が思わしくなく3年足らずの2017年8月27日には閉店となった<ref>{{Cite news |title=武蔵小杉の西武・そごう閉店へ 高級路線では客足伸びず|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2017年5月17日|url=https://www.asahi.com/articles/ASK5K54RZK5KULOB00Y.html|accessdate=2018-01-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sogo-seibu.jp/close/musashikosugi.html|title=西武・そごう武蔵小杉SHOP 営業終了のお知らせ|publisher=そごう・西武|accessdate=2018-01-13}}</ref>。さいか屋がその後ホテル内に開業させた小型店は協会加盟店ではない。 近年は芸術関係での産業振興に力を入れており、川崎駅周辺での[[チネチッタ (川崎市)|チネチッタ]]プロジェクトや[[ミューザ川崎]]の建設、麻生区では、新百合ヶ丘駅付近への[[昭和音楽大学]]、[[日本映画学校|日本映画大学]]の誘致や、川崎市アートセンターの建設、[[KAWASAKIしんゆり映画祭]]の開催などが進められている。なかでも[[2004年]](平成16年)にミューザ川崎がオープンした後に川崎市は「音楽のまち・かわさき」を推進している。 === 市内に拠点を置く企業 === ==== 本社・本店を置く企業 ==== {{Multicol}} * [[富士通]](本店・川崎工場) * [[富士通ゼネラル]] * [[PFU]](東京本社) * [[スパンション|スパンション・ジャパン]] * [[デル]](日本法人) * [[トイザらス#日本での展開|日本トイザらス]](日本法人) * [[三菱ふそうトラック・バス]] * [[パシオス]] * [[東亜石油]](本社、京浜製油所) * [[和幸商事]] * [[文教堂]] * [[住吉書房]] * [[さいか屋]] * [[川崎鶴見臨港バス]] * 麻生フオームクリート * [[富士古河E&C]] * [[川崎化成工業]] * [[東京応化工業]] * [[オンコセラピー・サイエンス]] * [[城南予備校|城南進学研究社]](城南予備校運営) * [[東計電算]] * [[東横化学]] * [[日本鋳造]] * [[日本冶金工業]] {{Multicol-break}} * [[日本触媒]] * [[沖電線]] * [[不二サッシ]] * [[三菱化工機]] * シスウェーブ * [[ルネサス エレクトロニクス]] * [[ディーアンドエムホールディングス]] * 帝国通信工業 * [[NKKスイッチズ]] * ファルテック * [[プレス工業]] * [[黒田精工]] * 山洋工業 * [[ノエル (企業)|ノエル]] * 日本工業検査 * [[デイ・シイ]] * 三和エレクトロニクス * [[電元社製作所]] * [[シグマ (カメラ)|シグマ]] * [[味の素食品]] * [[川崎フロンターレ]] * [[ヨネヤマ]] * [[ピットロード]] {{Multicol-end}} ==== 拠点を置く企業 ==== <!-- 50音順 --> {{Multicol}} * [[旭化成]] * [[味の素]](川崎事業所) * [[ENEOS]]<ref group="注釈">旧[[三菱石油]]・[[日本石油]]→[[新日本石油]]、旧東燃→[[東燃ゼネラル石油]]</ref> * [[花王]] * [[キヤノン]]<ref group="注釈">矢向事業所・川崎事業所・玉川事業所・小杉事業所</ref> * [[サントリー]] * [[JFEスチール]](旧[[JFEエンジニアリング|日本鋼管]]:通称NKK) * [[JERA]] {{Multicol-break}} * [[東芝]] * [[日本テレビ放送網|日本テレビ]](生田スタジオ) * [[日本電気]] * [[パイオニア]] * [[日立製作所]] * [[富士電機]] * [[三菱ふそうトラック・バス]] * [[レゾナック]] {{Multicol-end}} == 情報・通信 == === マスメディア === ==== 新聞社 ==== * [[神奈川新聞|神奈川新聞社]] 川崎総局 * [[朝日新聞社]] 川崎支局 * [[毎日新聞社]] 川崎支局 * [[読売新聞東京本社]] 川崎支局 * [[中日新聞東京本社]]([[東京新聞]]) 川崎支局 ==== 地上波放送 ==== * [[関東地方|関東]][[広域放送|広域圏]]、[[神奈川県]]域、[[東京都]]域、[[埼玉県]]域、[[千葉県]]域の各ラジオ・テレビジョン放送が川崎市の全域または大部分で受信可能。 * [[かわさき市民放送]](かわさきFM) - 川崎市([[中原区]])を放送エリアとする[[コミュニティ放送]]。 == 生活基盤 == === ライフライン === ==== 上下水道 ==== ;インフラ整備の状況 *下水道普及率:99.5%(平成29年度末<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kawasaki.jp/800/cmsfiles/contents/0000083/83693/29toukeinenpou.pdf|title=下水道事業の概要|accessdate=2019年8月7日|publisher=川崎市}}</ref>) == 教育 == ===大学=== {{Multicol}} * [[川崎市立看護大学]] * [[慶應義塾大学]] 新川崎タウンキャンパス * [[聖マリアンナ医科大学]]{{Multicol-break}} * [[専修大学]] 生田キャンパス * [[洗足学園音楽大学]] * [[田園調布学園大学]] {{Multicol-break}} * [[明治大学]] 生田キャンパス * [[昭和音楽大学]] * [[日本映画大学]] * [[グローバルBiz専門職大学]] {{Multicol-end}} ===短期大学=== {{Multicol}} * [[川崎市立看護短期大学]] {{Multicol-break}} * [[洗足こども短期大学]] {{Multicol-break}} * [[昭和音楽大学短期大学部]] {{Multicol-end}} ==== 専修学校 ==== ;準公立 * 日本溶接構造専門学校 ;私立 {{Multicol}} * 聖マリアンナ医科大学看護専門学校 * 高津看護専門学校 {{Multicol-break}} * 関東美容専門学校 * [[外語ビジネス専門学校]] {{Multicol-break}} * [[日本映画学校]] * 米山ファッション・ビジネス専門学校 {{Multicol-end}} === 高等学校 === ;県立 {{Multicol}} * [[神奈川県立川崎高等学校]] * [[神奈川県立大師高等学校]] * [[神奈川県立川崎工科高等学校]] * [[神奈川県立新城高等学校]] {{Multicol-break}} * [[神奈川県立住吉高等学校]] * [[神奈川県立川崎北高等学校]] * [[神奈川県立生田高等学校]] * [[神奈川県立生田東高等学校]] * [[神奈川県立菅高等学校]] {{Multicol-break}} * [[神奈川県立多摩高等学校]] * [[神奈川県立向の岡工業高等学校]] * [[神奈川県立百合丘高等学校]] * [[神奈川県立麻生高等学校]] * [[神奈川県立麻生総合高等学校]] {{Multicol-end}} ;市立高校 {{Multicol}} * [[川崎市立川崎高等学校・附属中学校|川崎市立川崎高等学校]]※中高併設 * [[川崎市立幸高等学校]] {{Multicol-break}} * [[川崎市立川崎総合科学高等学校]] * [[川崎市立橘高等学校]] {{Multicol-break}} * [[川崎市立高津高等学校]] {{Multicol-end}} ; 私立高等学校 {{Multicol}} * [[大西学園中学校・高等学校|大西学園高等学校]]※中高併設 * [[カリタス女子中学校・高等学校|カリタス女子高等学校]]※中高併設 {{Multicol-break}} * [[洗足学園中学校・高等学校|洗足学園高等学校]]※中高併設 * [[桐光学園中学校・高等学校|桐光学園高等学校]]※中高併設 {{Multicol-break}} * [[日本女子大学附属中学校・高等学校|日本女子大学附属高等学校]]※中高併設 * [[法政大学第二中学校・高等学校]]※中高併設 {{Multicol-end}} === 中高一貫校 === ; 市立高等学校を併設する市立中学校 * [[川崎市立川崎高等学校・附属中学校|川崎市立川崎高等学校附属中学校]] ; 私立高等学校を併設する私立中学校 {{Multicol}} * [[大西学園中学校・高等学校|大西学園中学校]] * [[カリタス女子中学校・高等学校|カリタス女子中学校]] {{Multicol-break}} * [[洗足学園中学校・高等学校|洗足学園中学校]] * [[桐光学園中学校・高等学校|桐光学園中学校]] {{Multicol-break}} * [[日本女子大学附属中学校・高等学校|日本女子大学附属中学校]] * [[法政大学第二中学校・高等学校|法政大学第二中学校]] {{Multicol-end}} === 特別支援学校 === * [[川崎市立田島支援学校]] * [[川崎市立中央支援学校]] * [[神奈川県立中原養護学校]] * 神奈川県立麻生養護学校 * 神奈川県立高津養護学校 * 川崎市立聾学校 === 各種学校 === {{Multicol}} * [[川崎朝鮮初中級学校]]([[朝鮮学校]]) {{Multicol-break}} * 南武朝鮮初級学校(朝鮮学校) {{Multicol-break}} * [[ヤマハ音楽院]] {{Multicol-end}} === 学校教育以外の教育施設 === ;自動車教習所 {{Multicol}} * KANTOモータースクール溝ノ口校 * KANTOモータースクール川崎校 {{Multicol-break}} * 飛鳥ドライビングカレッジ川崎 {{Multicol-break}} * 向ヶ丘自動車学校 {{Multicol-end}} === 職業訓練 === * 公共職業能力開発施設 ** 神奈川県立川崎高等職業技術校(平成20年3月に閉校) ** 神奈川県立川崎高等職業技術校 京浜分校(平成20年3月に閉校) * 認定職業訓練施設 ** 日本電気工業技術短期大学校(平成9年に廃止) ** [[川崎建築高等職業訓練校]] ** 川崎北部建職高等職業訓練校 ** [[東京スキルアップ専門学院]] == 交通 == === 空港 === 市内に空港はないが、多摩川を隔てて隣接している東京都大田区に[[東京国際空港]](羽田空港、IATAコード:HND)がある。同空港の再拡張工事にともなって川崎区殿町地区を空港周辺区域「[[キングスカイフロント]]」として整備する計画が現在進められており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kawasaki.jp/530/page/0000097966.html |title=川崎市:羽田連絡道路整備事業について|accessdate=2019-03-27}}</ref>、空港の「神奈川口」としてキングスカイフロントと羽田グローバルウイングズを結ぶ[[多摩川スカイブリッジ]]が2022年3月に開通し実用に供されている<ref>[https://merkmal-biz.jp/post/16454 大田区vs川崎市 「多摩川スカイブリッジ」開通の裏にあった、知られざる対決の歴史とは] Merkmal 2022年7月27日</ref>。 ==== 東京国際空港へのアクセス ==== * 鉄道 ** 京急本線(京急空港線へ直通運転あり) * バス ** 新百合ヶ丘駅(直行) ** 武蔵小杉駅横須賀線口(直行) ** 川崎駅東口(一般路線バス) ==== 成田国際空港へのアクセス ==== * 鉄道 ** 京急本線(都営浅草線・京成線へ直通運転あり) ** JR東日本横須賀線(直通運転あり) * バス ** 新百合ヶ丘駅(直行) === 鉄道 === [[ファイル:JRE Kawasaki-STA East.jpg|サムネイル|中心駅となるJR川崎駅]] '''[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)''' : [[ファイル:JR JT line symbol.svg|17px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]] ::* - ''[[川崎駅]]'' - ※特急列車は「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」号が停車する。 : [[ファイル:JR JK line symbol.svg|17px|JK]] [[京浜東北線]] ::* - ''川崎駅'' - : [[ファイル:JR JN line symbol.svg|17px|JN]] [[南武線]] ::* ''川崎駅'' - ''[[尻手駅]]'' - (この間の''[[矢向駅]]''は[[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]])- [[鹿島田駅]] - [[平間駅]] - [[向河原駅]] - [[武蔵小杉駅]] - [[武蔵中原駅]] - [[武蔵新城駅]] - [[武蔵溝ノ口駅]] - [[津田山駅]] - [[久地駅]] - [[宿河原駅]] - [[登戸駅]] - [[中野島駅]] - [[稲田堤駅]] - : [[ファイル:JR JN line symbol.svg|17px|JN]] 南武線支線 ::* ''尻手駅'' - ''[[八丁畷駅]]'' - ''[[川崎新町駅]]''- ''[[小田栄駅]]'' - ''[[浜川崎駅]]'' : [[ファイル:JR JI line symbol.svg|17px|JI]] [[鶴見線]] ::* - ''[[武蔵白石駅]]'' - ''浜川崎駅'' - ''[[昭和駅]]'' - ''[[扇町駅 (神奈川県)|扇町駅]]'' : [[ファイル:JR JI line symbol.svg|17px|JI]] 鶴見線大川支線 ::* - ''[[大川駅]]'' : [[ファイル:JR JO line symbol.svg|17px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]]、[[ファイル:JR JS line symbol.svg|17px|JS]] [[湘南新宿ライン]] ::* - 武蔵小杉駅 - [[新川崎駅]] - : [[相鉄・JR直通線]] ::* - 武蔵小杉駅 - : [[ファイル:JR JM line symbol.svg|17px|JM]] [[武蔵野線]]<ref group="注釈">市域内の路線は主に貨物線として利用され、旅客駅はない。旅客営業は臨時列車のみ。</ref> ::* - (貨)[[梶ヶ谷貨物ターミナル駅]] - :''斜体''で示した駅は、[[JR]]の[[特定都区市内]]制度の「横浜市内」駅として扱われる。 *京浜東北線、横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄・JR直通線は運転系統上の名称であり、線路名称上は東海道本線に属する。 '''[[東海旅客鉄道]](JR東海)''' : [[東海道新幹線]]が[[品川駅]] - [[新横浜駅]]間を通過するが、駅はない。 '''[[京王電鉄]](京王)''' : [[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|17px|KO]] [[京王相模原線|相模原線]] ::* - [[京王稲田堤駅]] - (この間の[[京王よみうりランド駅]] - [[稲城駅]]は[[稲城市]]) - [[若葉台駅]] - '''[[小田急電鉄]](小田急)''' : [[ファイル:Odakyu odawara logo.svg|17px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]] ::* - [[登戸駅]] - [[向ヶ丘遊園駅]] - [[生田駅 (神奈川県)|生田駅]] - [[読売ランド前駅]] - [[百合ヶ丘駅]] - [[新百合ヶ丘駅]] - [[柿生駅]] - : [[ファイル:Odakyu tama.svg|17px|OT]] [[小田急多摩線|多摩線]] ::* 新百合ヶ丘駅 - [[五月台駅]] - [[栗平駅]] - [[黒川駅 (神奈川県)|黒川駅]] - [[はるひ野駅]] - '''[[京浜急行電鉄]](京急)''' : [[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|17px|KK]] [[京急本線|本線]] ::* - [[八丁畷駅]] - [[京急川崎駅]] - : [[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|17px|KK]] [[京急大師線|大師線]](全線) ::* 京急川崎駅 - [[港町駅]] - [[鈴木町駅]] - [[川崎大師駅]] - [[東門前駅]] - [[大師橋駅]] - [[小島新田駅]] '''[[東急電鉄]](東急)''' : [[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|17px|TY]] [[東急東横線|東横線]] ::* - [[新丸子駅]] - [[武蔵小杉駅]] - [[元住吉駅]] - : [[ファイル:Tokyu MG line symbol.svg|17px|MG]] [[東急目黒線|目黒線]] ::* - 新丸子駅 - 武蔵小杉駅 - 元住吉駅 - : [[ファイル:Tokyu DT line symbol.svg|17px|DT]] [[東急田園都市線|田園都市線]] ::* - [[二子新地駅]] - [[高津駅 (神奈川県)|高津駅]] - [[溝の口駅]] - [[梶が谷駅]] - [[宮崎台駅]] - [[宮前平駅]] - [[鷺沼駅]] - : [[ファイル:Tokyu OM line symbol.svg|17px|OM]] [[東急大井町線|大井町線]] ::* - (二子新地駅)<ref name="ooimachisen" group="注釈">本来の大井町線側には二子新地駅・高津駅にホームがなく、各駅停車(G各)は両駅を通過する。両駅に停車するのは[[二子玉川駅]] - 溝の口駅間で田園都市線を走行する各駅停車(B各)に限られる。</ref> - (高津駅)<ref name="ooimachisen" group="注釈"/> - 溝の口駅 ==== 主な街・ターミナル ==== * [[川崎駅]]・[[京急川崎駅]] - [[アトレ川崎]]、[[川崎アゼリア]]、[[ヨドバシカメラ]]、[[川崎ルフロン]]、[[横浜岡田屋#川崎岡田屋モアーズ|川崎モアーズ]]、[[川崎DICE]]、[[ラ チッタデッラ]]、[[ミューザ川崎]]、[[ラゾーナ川崎プラザ|LAZONA川崎]]、[[パルコ#店舗一覧(ZERO GATE)|川崎ZERO GATE]]、[[川崎市スポーツ・文化総合センター|カルッツかわさき]] * [[武蔵小杉駅]] - [[グランツリー武蔵小杉]]、[[三井不動産商業マネジメント|ららテラス武蔵小杉]]、[[武蔵小杉東急スクエア]]、[[フーディアム|foodium武蔵小杉]]、[[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]、[[マルエツ]] * [[武蔵中原駅]] – エポックなかはら * [[武蔵溝ノ口駅]]・[[溝の口駅]] - マルイファミリー溝口、[[NOCTY]]、[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]、イトーヨーカドー、マルエツ、[[文教堂|文教堂書店溝ノ口本店]] * [[鷺沼駅]] - [[東急ストア|フレル]] * [[稲田堤駅]]・[[京王稲田堤駅]] - [[京王ストア]]、[[啓文堂書店]]、[[富士シティオ|fuji]]、[[ゆりストア]]、[[コープかながわ]] * [[若葉台駅]] - [[京王リトナード]] * [[登戸駅]]・[[向ヶ丘遊園駅]] - [[川崎市立多摩病院]]、[[ライフコーポレーション]] * [[新百合ヶ丘駅]] - [[イオン (店舗ブランド)|イオン]](イオン、[[イオンシネマズ]]等)、エルミロード(イトーヨーカドーなど)、[[OPA]]、[[小田急商事#展開事業|小田急OX]] === 索道 === * [[よみうりランド|よみうりランドゴンドラリフト]] (スカイシャトル): (京王口ステイションは稲城市) - 山頂ステイション ==== 廃止路線 ==== * [[川崎市交通局]] **[[川崎市電]](廃止) : 現在の京急川崎駅前から臨海部の工場地帯にかけて路線があった。1944年開業、1969年全廃<ref group="注釈">現在でも神奈川県道140号川崎町田線の一部が「市電通り」と呼ばれている。</ref>。 ** [[トロリーバス]](廃止) : 川崎駅前から臨海部の水江町まで運行。1951年開業、1967年廃止。 * 小田急電鉄(小田急) **[[小田急向ヶ丘遊園モノレール線|小田急向ヶ丘遊園モノレール]](廃止) : [[向ヶ丘遊園駅]] - [[向ヶ丘遊園正門駅]]。1966年開業、2000年廃止。 * [[よみうりランド|よみうりランドモノレール]] : 1964年1月1日開業、1978年11月30日廃止。<ref group="注釈">8月28日から遊園地→大駐車場→サッカー場→スカイロード→遊園地の周回コースで環状軌道となっている。当時世界最長のモノレール・日立アルヴェーグ式で、園内遊具扱ではなく、地方鉄道法の免許を受けた「交通機関」であった。</ref> ==== 計画中の路線 ==== * [[横浜市営地下鉄ブルーライン]] : [[あざみ野駅]] から [[新百合ヶ丘駅]]に路線を延伸(横浜市交通局)。 ==== 計画中止となった路線 ==== * [[川崎縦貫高速鉄道]] : 1960年代より都市交通の骨格として政府の答申で必要性が謳われ、2000年の[[運輸政策審議会答申第18号]]では「目標年次(2015年)までに開業することが適当である路線」 (A1) に位置づけられた。2001年には川崎市が鉄道事業許可を取得し環境アセスメント調査まで実施していたが、当時の厳しい経済環境を反映して着工が延期された。しかし、川崎市の大型公共施設が集積する[[等々力緑地]]、及び横須賀線新駅の建設が決まり[[交通結節点]]として重要度が増した[[武蔵小杉駅]]を経由するルートに変更する事にし、既に取得した鉄道事業認可を一旦返上。目下、新ルールでの事業認可に向けた調整が行われていた。 ==== 構想中の路線 ==== * 東海道貨物線 : 既存の[[東海道貨物線#東海道貨物支線貨客併用化|東海道貨物線を旅客化]]し、南武支線川崎駅-浜川崎間に路線を新設([[川崎アプローチ線]])。 === バス === ====一般道路線バス==== 川崎市バスがほぼ全域で運行されているほか、概ね臨港バスが臨海部から東横線周辺まで、東急バスが川崎駅から小田急線まで、小田急バスが小田急沿線でそれぞれ運行している。また、横浜市営バスが川崎駅西口に、神奈川中央交通東バスが登戸に週1日(1往復)・柿生周辺に週1日(2往復)に、京浜急行バスが武蔵小杉駅に乗り入れてくる。 乗車方法は前乗り後降り先払い方式、運賃は均一制である。2022年10月現在の均一運賃は220円(現金、IC同額)だが、民営バスのみ210円(現金、IC同額)である。また、民営バスで東京都区内、東京多摩地区または横浜市内にまたがって運行する路線は、乗車時に事前に降車停留所を申告して運賃を支払う多区間制を採っている。なお神奈川中央交通東の淵24系統は乗車方法が中乗り前降り後払い方式で、運賃は整理券を用いた区間制である。すべての路線において[[PASMO]]・[[Suica]](非接触型ICカード)が利用できる。 * [[川崎市交通局]] : [[川崎市バス上平間営業所|上平間営業所]]・[[川崎市バス塩浜営業所|塩浜営業所]]・[[川崎市バス井田営業所|井田営業所]]・[[川崎市バス鷲ヶ峰営業所|鷲ヶ峰営業所]]・[[川崎市バス菅生営業所|鷲ヶ峰営業所菅生車庫]] * [[川崎鶴見臨港バス]] : [[川崎鶴見臨港バス神明町営業所|神明町営業所]]・[[川崎鶴見臨港バス塩浜営業所|塩浜営業所]]・[[川崎鶴見臨港バス浜川崎営業所|浜川崎営業所]] * [[京浜急行バス]] : [[京浜急行バス新子安営業所|新子安営業所]]※・[[京浜急行バス羽田営業所|羽田営業所]]※ * [[東急バス]] : [[東急バス高津営業所|高津営業所]]・[[東急バス虹が丘営業所|虹が丘営業所]]・[[東急バス荏原営業所|荏原営業所]]※・[[東急バス新羽営業所|新羽営業所]]※・[[東急バス青葉台営業所|青葉台営業所]]※・[[東急バス東山田営業所|東山田営業所]]※ * [[小田急バス]] : [[小田急バス登戸営業所|登戸営業所]]・[[小田急バス新百合ヶ丘営業所|新百合ヶ丘営業所]] * [[神奈川中央交通]] : [[神奈川中央交通町田営業所|町田営業所]]※ * [[神奈川中央交通|神奈川中央交通東]] : [[神奈川中央交通東・相模原営業所|相模原営業所]]※・[[神奈川中央交通東・橋本営業所|橋本営業所]]※ * [[横浜市交通局]] : [[横浜市営バス鶴見営業所|鶴見営業所]]※ ※は路線乗り入れのみで、川崎市内に所在しない営業所。 ==== 高速バス ==== *長距離路線バス :[[WILLER EXPRESS]]が川崎駅東口(バスターミナル外)に西日本方面へのバスの停留所を設けている。 *中距離高速路線バス **川崎駅-東京湾アクアライン経由木更津駅 **川崎駅-[[東京ディズニーリゾート]] **川崎駅-成田空港 **武蔵小杉駅-成田空港 **新百合ヶ丘駅-成田空港 **溝の口駅-新横浜駅 === 道路 === ==== 高速道路 ==== * [[東名高速道路]]:[[東京料金所|東京TB]]/[[東京料金所#向ヶ丘バスストップ|向ヶ丘BS]] - [[東名川崎インターチェンジ|東名川崎IC]] * [[第三京浜道路]]:[[京浜川崎インターチェンジ|京浜川崎IC]] - [[国道466号]]の[[一般有料道路]]。 * [[東京湾アクアライン]]:[[浮島インターチェンジ (神奈川県)|浮島IC]] - [[国道409号]]の一般有料道路。 * [[首都高速道路]] ** K1 [[首都高速神奈川1号横羽線|神奈川1号横羽線]]:浅田出入口 - 浜川崎出入口 - 大師出入口 ** K6 [[首都高速神奈川6号川崎線|神奈川6号川崎線]]:殿町出入口 - 浮島出入口 - [[川崎浮島ジャンクション|川崎浮島JCT]] [[川崎縦貫道路]]第1期工事区間の一部。 ** B [[首都高速湾岸線|湾岸線]]:東扇島出入口 - 浮島出入口 - 川崎浮島JCT ==== 国道 ==== * [[国道1号]]([[第二京浜]]) * [[国道15号]]([[第一京浜]]) * [[国道132号]] * [[国道246号]]([[大山道#青山通り大山道|大山街道]]) * [[国道357号]] * [[国道409号]]([[府中街道]]) ==== 都道府県道 ==== ; [[主要地方道]] * [[東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線|神奈川県道2号東京丸子横浜線]](綱島街道) * [[東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線|神奈川県道3号世田谷町田線]](津久井道) * [[神奈川県道6号東京大師横浜線]] * [[神奈川県道・東京都道9号川崎府中線|神奈川県道9号川崎府中線]](府中街道) * [[神奈川県道12号横浜上麻生線]] * [[神奈川県道13号横浜生田線]](浄水場通り) * [[神奈川県道14号鶴見溝ノ口線]] * [[東京都道・神奈川県道19号町田調布線|神奈川県道19号町田調布線]](鶴川街道) * [[神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線]](中原街道) * [[川崎市主要地方道野川菅生線]](尻手黒川道路) * [[川崎市主要地方道幸多摩線]](多摩沿線道路) ; [[都道府県道|一般県道]] * [[神奈川県道101号扇町川崎停車場線]] * [[神奈川県道106号子母口綱島線]] * [[神奈川県道111号大田神奈川線]](ガス橋通り) * [[東京都道・神奈川県道124号稲城読売ランド前停車場線]] * [[神奈川県道・東京都道137号上麻生連光寺線]] * [[東京都道・神奈川県道139号真光寺長津田線]] * [[神奈川県道・東京都道140号川崎町田線]](一部市電通り) == 観光 == [[ファイル:川崎大師大本堂01.jpg|thumb|right|平間寺(川崎大師)]] [[ファイル:Kawasaki Nihon Minkaen-3.jpg|thumb|right|日本民家園]] === 名所・旧跡 === ;寺社 * [[平間寺|川崎大師]] :参道は[[日本の音風景100選]]に選ばれている。 * [[白幡八幡大神]](稲毛荘惣社) * [[稲毛神社]](旧・[[山王社]]) * [[橘樹神社 (川崎市)|橘樹神社]] * [[若宮八幡宮 (川崎市)|若宮八幡宮]] : [[金山神社 (川崎市)|金山神社]] * 女躰大神、幸区幸町 * 女體神社、幸区紺屋町 * 日枝大神社 * 大師稲荷神社 * 天満天神社 * 鹿島大神 * 身代わり不動 * 信行寺(春秋苑) * 琴平神社 * 高石神社 * 常楽寺(まんが寺、日本まんが博物館) * [[天照皇大神 (川崎市)|天照皇大神]]幸区南加瀬 * 天照皇大神宮、中原区井田中ノ町 [[ファイル:川崎河港水門.jpg|thumb|right|川崎河港水門]] * 京浜臨海部([[京浜工業地帯]]) * プチカレーター(世界最短[[エスカレーター]])[[横浜岡田屋|川崎モアーズ]]地下2階 * [[久地円筒分水]] * [[川崎河港水門]] * [[小沢城]]跡 === 観光スポット === ;博物館 [[ファイル:Kawasaki City Museum.jpg|thumb|川崎市市民ミュージアム]] [[ファイル:Taro Okamoto Museum3a.jpg|thumb|生田緑地にある川崎市岡本太郎美術館]] * 川崎市立[[日本民家園]] * [[川崎市青少年科学館|かわさき宙(そら)と緑の科学館]]([[プラネタリウム]]・[[メガスター]]2) * [[電車とバスの博物館]] - 東急電鉄運営 * [[東芝科学館|東芝未来科学館]] - 東芝運営 ;美術館 * [[川崎市市民ミュージアム]]([[博物館]]の役割も持つ) * 川崎市[[岡本太郎]]美術館 * [[川崎・砂子の里資料館]](浮世絵) * 中村正義の美術館 * [[藤子・F・不二雄ミュージアム]](2011年9月3日開館) ;レジャー * [[カワスイ 川崎水族館]] * [[川崎競馬場]] ** ウインズ川崎(川崎競馬場内) * [[川崎競輪場]] * [[川崎マリエン]] * [[よみうりランド]] * ヨネッティー王禅寺 * [[多摩川サイクリングロード]](かわさき多摩川ふれあいロード) * 川崎市フルーツパーク ;公園 * [[生田緑地]]([[枡形城]]跡) * [[等々力緑地]] * 神奈川県立[[東高根森林公園]] * [[夢見ヶ崎動物公園]] * [[大師公園]]・瀋秀園(中国式庭園) * [[富士見公園]] * [[王禅寺ふるさと公園]] * [[東扇島東公園]](人工海浜) * [[多摩川せせらぎ]] * [[浮島町公園]] * [[早野聖地公園]](墓地公園) == 文化・名物 == === 祭事・催事 === * かわさきロボット競技大会 * 下麻生不動院だるま市 * [[多摩川花火大会 (世田谷区・川崎市)|多摩川花火大会]] * 稲毛神社山王祭 * [[KAWASAKIしんゆり映画祭]] * しんゆり芸術フェスティバル * かわさき市民祭り * ファンタジーかわさきインナイト * かわさきロボット大会 * In Unity * フェスタ サマーミューザ * 交流の響き * アジア交流音楽祭 * Kawasaki Street Music Battle * 全国手づくり楽器アイデアコンテスト * かなまら祭り * 川崎国際環境技術展 * [[カワサキハロウィン]] * かわさきジャズ === 音楽 === [[ファイル:Muza.jpg|thumb|right|ミューザ川崎シンフォニーホール]] [[ファイル:Kawasaki ART Center.jpg|thumb|right|川崎市アートセンター]] *[[ミューザ川崎シンフォニーホール]] - [[東京交響楽団]]の本拠 *[[CLUB CITTA']](ライブハウス) *[[川崎市スポーツ・文化総合センター|川崎市スポーツ・文化総合センター(カルッツかわさき)]] *川崎市総合福祉センター(エポックなかはら) *[[よみうりランド]]EAST(オープンシアター、野外音楽場) *[[川崎市アートセンター]](劇場・映像ホール) *「音楽のまち・かわさき」推進協議会 *[[ラゾーナ川崎プラザソル]]。市が設置したスタジオ形式の本格的多目的ホール === 美術 === *[[川崎市岡本太郎美術館]] *[[川崎市市民ミュージアム]] *[[川崎浮世絵ギャラリー]] *[[中村正義の美術館]] *[[藤子・F・不二雄ミュージアム]] === スポーツ === {{See also|Category:川崎市のスポーツチーム|川崎市を本拠地にするスポーツチーム}} ==== 野球 ==== ;プロ野球 [[1952年]]に[[川崎球場]]が開設された当初は[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]が準本拠として公式戦を使用していたが、川崎市を本拠地とするプロスポーツチームの公式な第1号は[[1954年]]結成の[[高橋ユニオンズ]]だった。しかし、翌[[1955年]]に[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]が本拠地を川崎に移転すると、[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]、とりわけスター選手の宝庫といわれた[[読売ジャイアンツ|巨人]]との対戦を中心に観客動員が上昇。高橋球団は経営的な危機に立たされ、[[1957年]]のシーズン開幕前に[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]への吸収合体が発表され、わずか3年で消滅した。 一方、大洋は人気の面では観客動員が飛躍的な伸びを見せるが、戦力は今ひとつで常に最下位争いが指定席だった。しかし、[[1960年]]に巨人の5連覇を阻止してリーグ初優勝。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]でも全試合とも1点差という僅差で4連勝して日本一を決めた。その後は[[1964年]]に[[阪神タイガース|阪神]]との大接戦を演じ優勝を逃したが、その後は再び最下位争いに定着してしまった。しかし、ライバル・巨人、特に世界のホームラン王・[[王貞治]]が一本足打法第1号([[1962年]])、日本プロ野球初の700号([[1976年]])など多くのホームランを打ち込んだのも一つの人気だった。 だが、大洋球団は[[1978年]]のシーズン開幕時に[[横浜市]]に新設<!--(厳密には横浜公園野球場の全面改修)-->される[[横浜スタジアム]]への本拠地移転を示唆。川崎市民は本拠地の移転に反対したが、横浜移転は強行された。その後当時東京都近郊にメインスタジアムがなく、事実上[[仙台市]]を本拠としていたロッテ(前出の毎日オリオンズの後身)<!--(その当時も川崎で準本拠地的に数試合開催された)-->にアプローチをかけ、1978年から本拠地として使用することになった。川崎時代のロッテは観客動員に苦しむが、[[1980年]]の[[張本勲]]の3000本安打達成、[[1982年|1982]]・[[1985年|85]]・[[1986年|86年]]の[[落合博満]]の[[三冠 (野球)|三冠王]]獲得、また[[1988年]]の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]のリーグ優勝をかけた[[10.19|10.19決戦]]など、注目の好カードが展開された。しかし、そのロッテも[[福岡市]]や[[千葉市]]など各地からの移転のラブコールがあり、川崎市が球場改修しないため、[[1992年]]のシーズンから千葉市に建設された市営の新球場「[[千葉マリンスタジアム]]」に移転。これが川崎市を本拠とする最後のプロ野球チームとなった<!--(公式戦は1992年に千葉ロッテ vs 近鉄戦が開かれ、これが最後となった。本来は1993年に15年ぶりのセ・リーグ公式戦として組まれた横浜 vs 阪神戦が予定されたが雨天中止となり、予備日も設定されなかった)-->。 また、川崎球場自体も1995年に発生した[[阪神・淡路大震災|阪神大震災]]を契機に開かれた耐震調査で、震度5以上の大地震でスタンドが倒壊する恐れがあるということからスタンドの取り壊しが決定。[[2000年]]3月、横浜vs千葉ロッテの[[オープン戦]]を最後にプロ野球の開催球場から身を引くこととなる。現在、川崎市には[[川崎市等々力球場|等々力球場]]もあるが、設備の都合上1軍の試合は開催できず、プロ野球公式戦の開催予定は立っていない。 このほか、読売ジャイアンツが[[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍]]の本拠地である[[読売ジャイアンツ球場]]を多摩区に設けている。かつては、二軍の本拠地として中原区の多摩川河川敷内に、日本ハムファイターズが前身の東映時代より日本ハム球団多摩川グランド(1961年-2011年)を、大洋ホエールズが大洋多摩川球場(1955年-1980年)を設置していた。 ==== サッカー ==== ;Jリーグ [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]発足以前、川崎市には、[[東京都]][[稲城市]]と[[多摩区]]にホームタウンを有する[[日本サッカーリーグ|旧JSL]]1部に[[読売サッカークラブ]]、[[東芝堀川町サッカー部]](東芝)、[[日本鋼管サッカー部]](NKK)、同2部には[[富士通サッカー部]]がそれぞれ川崎市で多くの公式戦を開いていた。[[1993年]]のJリーグ開幕に当たって、東芝、NKK、富士通ともプロサッカークラブを川崎市で結成することに難色を示し、読売SCが川崎市を本拠地とするプロサッカークラブとなった。 読売は東京都を本拠としたい意向だったが、当時は東京都内にJリーグ開催規格のスタジアムが[[新宿区]]の[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]と[[世田谷区]]の[[駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場|駒沢]]しかなかった。しかし、国立はJリーグの方針により特定チームの本拠地とせず、各チームが試合開催できる中立的なスタジアムにすること、駒沢は[[目黒区]]にある[[独立行政法人国立病院機構東京医療センター|国立病院機構東京医療センター]]が近接しており、[[騒音]]や夜間照明による[[光害]]のため[[ナイトゲーム]]開催が不可能なため本拠地には出来なかった。そのため、やむなく[[等々力陸上競技場|等々力]]をホームに「[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]」として活動することにした。 [[ラモス瑠偉]]、[[三浦知良]]、[[武田修宏]]、[[北澤豪]]など当時のスター選手を多く抱えていたヴェルディ川崎はJリーグ初代年間王者に輝き、翌年度も年間王者を達成。しかし、当時の川崎市は等々力競技場を市民利用のための公園施設であるとして川崎球場同様に大規模な改修には殆ど手を付けず、マダラ模様で痛んだピッチの芝生の上(砂の部分)に塗料を塗るなどぞんざいな対応だったため、当時の人気チームらしからぬスタジアムとしてファンからの悪評を買うことになってしまった。その後2年をかけて25000人収容のスタンドやピッチの拡張など、Jリーグ基準に適合したスタジアムへのリニューアルを実施したが、一方で市幹部からは「川崎には代わりのチームがある」とこちらもぞんざいな発言をしたりしていた。当時Jリーグにあっても企業スポーツであり続けようとしたヴェルディと、革新政権であった川崎市との乖離は著しく、この時点で「地域密着」の理念が実現されることはなかった。 この頃、NKKサッカー部は企業合理化のため、[[1993年]]の[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]を最後に廃部が発表。東芝は川崎市でプロ化するとヴェルディのような人気が見込めず、またチームを維持することも難しくなっていたこと、[[札幌市]]でプロサッカークラブの誘致が活発化したことにより意見が一致し、[[1996年]]に「[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]」として移転した。富士通サッカー部は当初はプロ化には参加せず、アマチュアイズム重視を目指したが、等々力スタジアムのある[[中原区]]の商店街や[[日本青年会議所|青年会議所]]が中心となって実業団から市民クラブとして育てる事とし、チームもこれに応じる形で1996年(旧JFL)にまず名称を「富士通川崎サッカー部」と川崎市の名前を被せて、1997年にJリーグ準会員(JFL2位以内でJリーグ昇格の権利獲得)となるのを機に、富士通サッカー部を法人組織「富士通川崎スポーツマネジメント」、クラブ名も「[[川崎フロンターレ]]」として再スタートすることが決まった。 市対応の拙さから、プロ野球同様に[[2000年]]のシーズンを最後にヴェルディが[[東京都]]([[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京(味の素)スタジアム]])へ「東京ヴェルディ」として移転し、この時点で川崎市から1部リーグのチームは一旦消滅した。 一方川崎フロンターレは[[2001年]]にはJ2に降格したものの、[[2004年]]に元[[鹿島アントラーズ]]の[[関塚隆]]を監督として迎え、J2・2回目の優勝、J1復帰を決めた。フロンターレは地域のコミュニティを重視し、試合だけに限らず様々なイベントに参加することをチーム運営の方針としている。2004年9月には[[川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー]]制定による認定を受け、さらに[[2006年]]4月には[[フットサル]]施設「フロンタウン・さぎぬま」の[[指定管理者]]になっている。 ==== バスケットボール ==== ;Bリーグ [[2016年]]秋、[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]開幕し、[[川崎ブレイブサンダース]]が[[川崎市とどろきアリーナ]]をホームアリーナとするプロチームとなった。 ==== アマチュアスポーツ ==== 工業都市として発展した地域のため、社員・職員の福利厚生と健康増進を目的とした、市内の企業(製造業)によるスポーツチームは数多く作られてきた。とくに[[野球]]は盛んであり、そのシンボル的存在として[[川崎球場]](開設時は川崎スタヂアム)が誕生すると[[都市対抗野球大会|都市対抗野球]]で数多くのチームが活躍し、また他のスポーツでも全国リーグの展開やマスメディアの発達などにより社名の宣伝効果も期待されるようになった。 * 川崎市に本拠地を置く主な[[社会人野球]]チーム **[[東芝硬式野球部]] ** [[いすゞ自動車硬式野球部]] - [[藤沢市]]に本拠地を移転し、2003年から活動休止中。 ** [[日本鋼管野球部]] - 1987年に解散。 ** [[日本コロムビア硬式野球部]] - 1971年に解散。 ** [[三菱ふそう川崎硬式野球部]] - 2009年から活動を休止し、2013年に解散。 **全川崎クラブ~市民球団 だが、企業内の「非生産的部門」ということから[[不況]]による企業の経営悪化などの影響を強く受け、休廃部や市外への転出・統合も数多く発生した。しかし[[2004年]]9月に[[川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー]]が制定されると、プロサッカークラブの川崎フロンターレと同様に「市内のスポーツ資源」という立場を得ることになり、市の広報などでも多く扱われるようになった。 ==== 推進パートナー ==== [[川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー]]は、川崎市内を本拠地としてスポーツで活躍するチームや選手を対象に川崎市が認定する制度である。 ; 2004年認定 * [[川崎フロンターレ]](Jリーグ) * [[富士通レッドウェーブ]]([[バスケットボール女子日本リーグ機構|Wリーグ]]) * [[東芝硬式野球部]] * [[川崎ブレイブサンダース]]([[バスケットボール]]・Bリーグ) * [[中田大輔]]([[トランポリン]]) ; 2005年認定 * [[NECレッドロケッツ]]([[バレーボール]]・[[日本バレーボールリーグ機構|Vリーグ]]) * [[三菱ふそう川崎硬式野球部]] ; 2006年認定 * [[富士通フロンティアーズ]]([[アメリカンフットボール]]・[[Xリーグ]]) ==== その他のチーム ==== ;以下は「川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー」には参加していないが、当市を本拠地とするスポーツクラブである。 * 東信電気卓球部(日本卓球リーグ) * 信号器材卓球部(日本卓球リーグ) * [[富士通カワサキレッドスピリッツ]](バレーボール・Vリーグ) * [[中川部屋]](相撲部屋) * [[川崎新田ボクシングジム]] * [[アサヒビールシルバースター]](アメリカンフットボール・Xリーグ) * [[川崎ビーチスポーツクラブ]]([[ビーチバレー]]) === 公営競技 === [[ファイル:Kawasaki-keirin-1.jpg|thumb|right|川崎競輪場]] [[ファイル:Kawasakicitykeiba.jpg|thumb|right|川崎競馬場]] 川崎市として[[川崎競輪場]]、神奈川県と川崎市で共に[[神奈川県川崎競馬組合]]として[[川崎競馬場]]を主催している。 == 川崎市を舞台とした作品 == {{出典の明記|date=2015年11月|section=1}} === 映画 === * [[喜劇 駅前団地]](1961年)[[東宝]] * [[ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃]](1969年)[[東宝]] * 女子学園 悪い遊び(1970年)[[日活]] * [[現代やくざ 人斬り与太]](1972年)[[東映]] * [[トラック野郎]]シリーズ(1975-79年) 東映(10作品中9作品) ** [[トラック野郎・御意見無用|御意見無用]]、[[トラック野郎・爆走一番星|爆走一番星]]、[[トラック野郎・望郷一番星|望郷一番星]]、[[トラック野郎・天下御免|天下御免]]、[[トラック野郎・度胸一番星|度胸一番星]]<!--松下家は登場しないが、トルコのシーンが登場-->、[[トラック野郎・男一匹桃次郎|男一匹桃次郎]]、[[トラック野郎・一番星北へ帰る|一番星北へ帰る]]、[[トラック野郎・熱風5000キロ|熱風5000キロ]]、[[トラック野郎・故郷特急便|故郷特急便]] * [[首都消失]](1987年)[[大映]] * 女がいちばん似合う職業(1990年) ** [[アルゴプロジェクト]]冒頭シーンをアゼリアで撮影 * [[ガメラ 大怪獣空中決戦]](1995年)[[大映]] * [[みんな〜やってるか!]](1995年) ** 川崎球場がクライマックスの舞台 * [[17才 〜旅立ちのふたり〜]](2003年) * [[探偵事務所5]] 〜5ナンバーで呼ばれる探偵達の物語〜(2005年) * [[ダメジン]] ** 川崎区水江町、小島新田でロケ(2006年) * [[小川町セレナーデ]] ** 川崎市川崎区をはじめとする川崎市南部で撮影(2014年) * [[シン・ゴジラ]](2016年) === ネットシネマ === * [[探偵事務所5]] 〜Another Story 1st Season〜 * [[探偵事務所5]] 〜Another Story 2nd Season〜 === テレビドラマ === * [[シルバー仮面]](1971-1972年 [[TBSテレビ|TBS]]系列)第7話「青春の輝き」に浮島町のフェリー乗り場 * [[男女7人秋物語]](1987年 TBS系列) * [[あそびにおいでョ!]](1988年 [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列) * [[スクラップ]](1988年 TBS系列) * [[家なき子 (1994年のテレビドラマ)|家なき子]](1994年 日本テレビ) * [[若者のすべて (テレビドラマ)|若者のすべて]](1994年 フジテレビ系列) * [[火曜サスペンス劇場]]「月のかたち」(1998年 [[日本テレビ放送網|NTV]]系列) * [[GOOD LUCK!!]](2003年 TBS系列) * [[火消し屋小町]](2004年 [[日本放送協会|NHK]]系列) * [[相棒]]Season 7 第11話 「越境捜査」(2009年1月14日) * [[怪物くん (テレビドラマ)|怪物くん]](2010年 NTV系列) * [[ドン★キホーテ]](2011年 NTV系列) * [[妖怪人間ベム (テレビドラマ)|妖怪人間ベム]](2011年 NTV系列) * [[ドS刑事]](2015年 NTV系列) * [[ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子]](2016年 フジテレビ系列) * [[世にも奇妙な物語]](2018年 フジテレビ系列)5月12日放送「フォロワー」にラ・チッタデッラ(チネチッタ川崎) === 小説 === * [[異邦の騎士]]([[島田荘司]]) :主人公が[[元住吉駅]]近くのアパートに引っ越し、[[綱島]]の「御手洗潔占星学教室」を訪れる。 === 漫画 === * [[彼氏彼女の事情]]([[津田雅美]]) * [[天体戦士サンレッド]]([[くぼたまこと]]) ** 主に[[溝口 (川崎市)|溝口]]などの高津区周辺。地元色に富んだ設定とネタがふんだんにちりばめられている。 * [[ファンシーGUYきゃとらん]](くぼたまこと) * [[野望の王国]] * [[ツルモク独身寮]] * [[あひるの空]] * [[ハネムーンサラダ]]([[二宮ひかる]]) ** 主人公が通勤の際に利用する最寄駅に[[梶が谷駅]]が描かれている。 * [[オフサイド (漫画)|オフサイド]]([[塀内夏子]]) * [[NHKにようこそ!]]([[滝本竜彦]]・[[大岩ケンヂ]]) * [[ハイスコアガール]]([[押切蓮介]]) ** 主人公たちは溝口に居住。川崎駅周辺も何回か描かれている。 === テレビアニメ === * [[ベターマン]] - 有限会社アカマツ工業の所在地であることが『[[勇者王ガオガイガーFINAL]]』小説版で明らかになっている。 * [[RELEASE THE SPYCE]] * [[デジモンアドベンチャー:]] - 主人公・[[デジモンアドベンチャーの登場キャラクター#選ばれし子供たち|八神太一]]たちが住む街は、中原区(武蔵小杉近辺)をモデルとしており、エンディング(第27話 - 第38話)では区内の武蔵小杉駅周辺などが舞台として描かれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/nakahara/page/0000121712.html |title=武蔵小杉が「デジモンアドベンチャー:」の舞台!? |access-date=2022-08-19 |publisher=川崎市中原区 |year=2021 |website=川崎市中原区 |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220819131135/https://www.city.kawasaki.jp/nakahara/page/0000121712.html |archive-date=2022-08-19}}</ref>。 === 歌 === *「[[川崎踊り]]」([[都はるみ]]) ** [[東芝硬式野球部]]、[[川崎フロンターレ]]の応援でそれをアレンジしたものが演奏される。 *「[[好きです かわさき 愛の街]]」([[芹洋子]]) ** 市制60周年を記念して制定した市民愛唱歌。市内のごみ収集車のBGMに使われる。 * 「そんなことなら川崎市へ行こう」[[たむらぱん]] * 「川崎↑gradite」[[style-3!]] * 「LOVE かわさき」サニチル * 「立てよ! 川崎市民! 川崎7区アンソロジー」ヴィンセント&THE 暗黒 MEN * 「フロシャイム川崎支部の歌「われらフロシャイム川崎支部」」ヴァンプ将軍(山田ルイ53世(髭男爵)) * 「影絵(川崎〜太田) feat.bay4k from SCARS」[[SEEDA]] * 「川崎音頭」 * 「雨の川崎」[[SEX MACHINEGUNS]] * 「川崎」ちょっきんず * 「川崎リターン・ブルース」[[ジョニー大倉]] * 「[[川崎おどり]]」[[都はるみ]]、NeoBallad * 「ずっと川崎」ちょっきんず * 「川崎 -SMASH TAKE-」[[BLUE BOY]] * 「Till the End of Time(Version2.0)~がんばれ!川崎フロンターレBack to J1!!~」[[Virgin Berry]] * 「川崎純情音頭」[[川崎純情小町☆]] * 「かわさきの風に乗って」有坂ともよ * 「花火~音楽のまち・かわさき~」かわさきfutureアーティスト * 「好きですかわさき」ちょっキんず * 「やっぱ川崎」MARUGAN * 「川崎音頭」 * 「最幸のかわさきTheBestHAPPINESS!」CAMARU * 「かわさきの空へ」ジャムスタンマジック * 「川崎市歌(児童合唱バージョン)」川崎市立坂戸小学校合唱団 * 「川崎BLOSSOM」宇崎竜童 * 「雨の川崎」藤健一 * 「好きです かわさき 愛の街」[[チャラン・ポ・ランタン]] * 「天体戦士サンレッドのテーマ」manzoと屋根裏キッズ * 「[[港町十三番地]]」美空ひばり * 「..in the K-Town feat. MIC PRESIDENT」HYENA * 「[[百恵白書#収録曲|I CAME FROM 横須賀]]」[[山口百恵]] ※歌詞に[[横須賀市]]、[[横浜市]]、'''川崎市'''、[[東京都]][[品川区]]の地名が出てくる * 「川崎市歌」(ダンスバージョン)CAMARU * 「LUCKY FLOWER~宮前兄妹テーマソング~」PLECOと凜 * 「パワフル応援団」PanPopParadise * 「らら♪ミュートン」宮下敏子 * [[溝口 (川崎市)|溝口]] ** 「溝ノ口太陽族」[[manzo]] ** 「続・溝ノ口太陽族」「二ヶ領用水」manzo ** 「溝の口Forever」[[森野熊八]] ** 「溝の口音頭」[[柿島伸次]] * [[麻生区]] ** 「かがやいて麻生」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kawasaki.jp/asao/category/112-10-5-2-1-4-0-0-0-0.html |title=川崎市麻生区:麻生区イメージソング 『かがやいて麻生』 |publisher='''川崎市''' |accessdate=2016-3-12}}</ref> ゆりがおか児童合唱団、赤星啓子、柿生中学合唱部、「かがやいて麻生」をうたう会、FAiCO(元Far.Eastern.Comets.)、麻生フィルハーモニー管弦楽団、金程中学校吹奏楽部、大久保洋子 * [[柿生駅]] ** 「[[たいせつなひと|小田急柿生]]」[[19 (音楽グループ)|19]] === ゲーム === * [[ANGEL NAVIGATE]] * [[真剣で私に恋しなさい!]] * [[俺の彼女のウラオモテ]] * [[とらぶる@すぱいらる!]] * [[ナイものねだりはもうお姉妹]] == 人物 == {{see|川崎市出身の人物一覧}} == 広報・公聴関係 == === テレビ関連番組 === <!--番組放映日時を紹介する場所ではない--> * [[ファイト!川崎フロンターレ]]([[テレビ神奈川|tvk]]) * LOVEかわさき([[テレビ神奈川|tvk]]) * SuKiSuKiフロンターレ(イッツコム) === ラジオ関連番組 === * KAWASAKI CROSSING([[横浜エフエム放送|FMヨコハマ]]) * 土井里美のかわさき・みつけた([[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]) * 音楽のまち・かわさき(ラジオ日本) === その他 === [[兵庫県]][[神戸市]]に本社を置く二輪車や航空機などで著名な機械メーカーの[[川崎重工業]]([[川崎正蔵]]が創立)、疾患の[[川崎病]]([[川崎富作]]が発見)、[[岡山県]][[倉敷市]]にある[[学校法人川崎学園]]が運営する[[川崎医科大学]]・[[川崎医療福祉大学]]など([[川崎祐宣]]が運営法人を設立)はいずれもそれぞれの創業者・発見者・創立者に由来する名称であり、川崎市に由来する名称ではない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> <!-- 実際に参考にした文献一覧 --> == 関連項目 == {{Sisterlinks | commons = 川崎市 | commonscat = Kawasaki, Kanagawa | q = no | v = no | voy = ja:川崎市 | d = Q164234 }} {{See also|Category:川崎市}} * [[川崎町 (神奈川県)]]:1924年以前の川崎市 * [[神奈川税務署員殉職事件]] * [[川崎市消防局]] * [[かわさき市民放送]] * [[川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー]] * [[日本の地方公共団体一覧]] * [[川崎歴史ガイド]] * [[川崎市地域文化財]] * [[住民投票条例]] == 外部リンク == {{osm box|r|2689476}} * {{Official website}} * {{LINE公式アカウント|kawasakicity|川崎市}} * {{Instagram|kawasaki_townscape|川崎市まちづくり局計画部景観担当}} * {{Googlemap|川崎市}} * {{ウィキトラベル インライン|川崎市|川崎市}} {{日本の政令指定都市}} {{神奈川県の自治体}} {{日本50大都市}} {{Navboxes |title=川崎市各区の町名 |titlestyle=background-color:#FFE4C4 |list1= {{川崎区の町・字}} {{幸区の町・字}} {{中原区の町・字}} {{高津区の町・字}} {{多摩区の町・字}} {{宮前区の町・字}} {{麻生区の町・字}} }} {{グローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワーク会員}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かわさきし}} [[Category:川崎市|*]] [[Category:神奈川県の市町村]] [[Category:政令指定都市]] [[Category:門前町]] [[Category:1924年設置の日本の市町村]]
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政令指定都市
政令指定都市(せいれいしていとし)は、日本の地方自治法第252条の19第1項に基づき政令で指定された地方公共団体。 地方自治法第252条の19第1項では「政令で指定する人口五十万以上の市」と定義されており、法定人口が50万人以上で、なおかつ政令(具体的には「地方自治法第252条の19第1項の指定都市の指定に関する政令」)で指定された市のことである。中核市と並ぶ都道府県の事務権限の一部を移譲する日本の大都市制度の一つとなっている。 略称は政令市(せいれいし)が頻繁に使用されるが、正式名称は「指定都市」(地方自治法第252条の19)である。ただし、警察法や道路法などでは「指定市」が使用される。また、指定市を包括する県を「指定県」と呼ぶ。 地方自治法において、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体として、第二項の事務で広域にわたるものを処理するが、政令指定都市は一般の市町村や中核市と比べて都道府県の権限の多くを委譲される。 2015年(平成27年)国勢調査によると、20市ある政令市の人口の総計は2750万人で、日本の人口の2割強が政令市に集中している。 指定都市の制度(政令市制度)は、日本の大都市等に関する2つの特例制度のひとつであり、1956年(昭和31年)に運用が開始された。これに先立つ1947年(昭和22年)、国は大都市が府や県から独立する特別市制度を設けたが、権限を奪われることになる府県が猛反発、これに代えて権限の一部だけを府県から移す制度として設けられたのが政令市制度であった。 地方自治法第2編第12章第1節「大都市に関する特例」に、指定都市に関する、特例を中心とした規定がある。指定都市は「人口50万以上の市」とされている(第252条の19第1項)。特例制度の他の1つは、第2節に規定がある中核市の制度(人口20万以上、1995年開始)である。(「#行政能力要件」、「#人口要件」も参照) 指定都市は、条例で区を設けるものとされている(第252条の20第1項)。この区は、東京都の特別区(東京23区の各区)と区別して、「行政区」と通称される。(「#組織」も参照) 指定都市の制度は、地方自治法の1956年(昭和31年)の一部改正(昭和31年法律第147号)に含まれる形で、同年9月1日から実施された。同日から、指定都市を指定する政令が施行されて5市が指定都市に移行。以後、この政令の一部改正で新たに市が指定され、その施行日から指定都市に移行している。 なお、指定都市の制度により、大都市に関する2つの旧制度が置き換えられた。1つは、五大都市行政監督ニ関スル法律を根拠とした制度で、対象は京都市、大阪市、横浜市、神戸市、名古屋市であった(この5市は最初の指定都市)。もう1つは、地方自治法を根拠に1947年(昭和22年)以降、法令上に存在していた特別市の制度で、人口50万以上の市を法律で指定するものだったが、実際には1市も指定されなかった。(「#歴史」も参照) 2021年(令和3年)7月現在、全20指定都市の推計人口は約2777万人であり、国民の5人に1人は指定都市に居住していることになる。 八地方区分毎の政令指定都市の数は北海道1、東北1、関東5、中部4、近畿4、中国2、九州3で、四国のみ政令指定都市が存在しない。 政令指定都市は都道府県からの権限の移譲等により、 都道府県に準じた権限を行使することが可能で、都道府県との間の手続き等を経ることなく、都市独自の施策を実施することができる。 地方自治法第252条の19の第1項までを抜粋。 具体的には、主に以下のことが可能。 地方自治法第2編「普通地方公共団体」第12章「大都市等に関する特例」では、政令指定都市、中核市それぞれに関する特例制度が規定されている。特例により持ちうる権能は、指定都市が最も広い。政令指定都市、中核市いずれに関しても、権能の範囲など特例の具体的な定めは、ほぼ政令に委ねられており、対応する規定が地方自治法施行令第2編第8章にある。特例市の制度は2015年に廃止されたが、廃止時に特例市だった市のうち中核市等に移行しなかった市は施行時特例市と呼ばれ、中核市移行に際し経過措置がとられている。 指定都市が特例で処理できる事務は、第252条の19第1項(後に抜粋)で掲げる19の事務のうち、都道府県が法令に従って処理するとされているものから、政令で定められる(同条同項)。 また、事務処理への都道府県の関与については、都道府県知事や都道府県の委員会の ことになっている(同条第2項)。中核市に関しては、処分についてa.に相当する特例規定はない。命令についてb.に類似する特例規定はあるが、委員会の命令は対象とならない(第252条の22第2項、第252条の26の3第2項)。 なお、地方自治法以外の個別法令(例えば道路法、河川法、地方教育行政法など)の規定や都道府県の条例によっても権限が移譲されうる。 指定都市は、“市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例で、その区域を分けて区を設け、区の事務所又は必要があると認めるときはその出張所を置く”ものとされている(第252条の20第1項)。この区は「行政区」と通称される。区の事務所、通称「区役所」の長は、当該指定都市の職員の中から市長が任命するのが通例である(各市の行政組織によるが、一般的に局長クラスまたは部長クラスの役職)。指定都市は、必要と認めるときは、条例で、区ごとに区地域協議会を置くことができ、その場合、その区域内に地域自治区が設けられる区には、区地域協議会を設けないことができる(第252条の20第6項)。 区役所にどの程度の業務を担わせるかは、指定都市によって幅がある。戸籍、住民基本台帳、租税の賦課、国民健康保険、国民年金、福祉などの日常的・基本的な窓口業務のみを担当させる「小区役所制」(大阪市、名古屋市、京都市など)もあれば、保健、土木、建築などの業務も含めて幅広く行う「大区役所制」(川崎市、広島市、仙台市など)もある。 以前は地方教育行政の組織及び運営に関する法律に指定都市に関する特例が定められ、指定都市の県費負担教職員の任免、給与の決定、休職及び懲戒に関する事務、並びに研修は、当該指定都市の教育委員会が行うものとされていたが、平成29年以降は給与負担も移譲され、あわせて教職員定数の決定権も移譲された。 指定都市自体が、独自に警察を設置・運営することはできないが、各道府県警察本部は、その管轄区域内に指定都市がある場合、指定都市に対応する市警察部を設置する(警察法第52条第1項)。市警察部の役割は警察本部によって異なるが、主に指定都市と警察本部の連絡や指定都市に所在する警察署の管理に関する業務を行う。実働部隊を備えているのは、北九州市警察部のみである。 指定都市においては消防の専門部隊である特別高度救助隊の設置が義務付けられている。これは総務省消防庁の「救助隊の編成、装備及び配置の基準を定める省令(昭和61年自治省令第22号)」第6条の規定により「特別高度救助隊」を東京都及び政令指定都市に、第5条の規定により「高度救助隊」を中核市等に整備をするとされ、「高度救助隊の数のうち、特別区が連合して維持する消防及び指定都市にあつては1以上の高度救助隊を特別高度救助隊とする。」ことになっている。そのため、多くの指定都市では、高度救助隊と特別高度救助隊の両方が編成されている。 指定都市では、都市計画で区域区分(線引き)を定めるものとされている(都市計画法第7条第1項、都市計画法施行令第3条)。よって、スプロール化どころか過疎化が問題となるような地域が指定都市の一部となると、その地域が区域区分で市街化調整区域とされることにより、その地域での開発行為が法律で制限され、結果的に過疎化が深刻化するおそれがある。反対に、区域区分で新たに市街化区域とされた地域では、土地・建物について固定資産税に加えて都市計画税が課されることになる。 また、法律上の首都圏(首都圏整備法所定)、近畿圏(近畿圏整備法所定)、中部圏(中部圏開発整備法所定)内に指定都市が誕生すると、その指定都市の区域内の市街化区域にある農地は、地方税法附則第29条の7の特例の対象外となるので、その農地についての固定資産税と都市計画税は「宅地並み課税」とされ、増税となる。 指定都市は都道府県からの権限移譲等により、都道府県に準じた権限を行使することが可能で、都道府県との間の手続き等を経ることなく、都市独自の施策を実施することができる。しかし、都道府県に包括されており、都道府県の影響力が完全に排除されるわけではないため、一部の事務は都道府県が行っている。 以下に、都道府県と指定都市の間の役割分担の一例を示す。 このほか、後期高齢者医療制度においては、都道府県が直接事務に携わるわけではないが、都道府県の区域ごとに当該区域内の政令指定都市を含むすべての市町村が加入する広域連合(後期高齢者医療広域連合)を作り、そこで事務を取り扱う(高齢者の医療の確保に関する法律第48条)。指定都市の区役所は窓口代理業務を行うのみである。 指定都市移行にあたっては、移譲にあたっての行財政上の問題として、概ね次のような留意事項の指摘がなされている。 移行に起因する事務移譲により、指定都市に新たに発生する財政需要額は、概ね5,600億円程度とされる。これに対し、税制上の措置として指定都市に図られる増収対策の半分以上は、道路の管理に関する予算(道路特定財源の一部を増額交付するもの)で、それ以外の特例事務との純計で、おおむね3,000億円程度、税制上の措置が不十分であるとされる。指定都市制度には、都道府県側から指定都市側に対して交付金を交付する制度があるものの、行政上の負担割合の変更に伴い、逆に減収となる項目も存在する。このため、負担事務の増加に見合った増収を十分担保する措置が、必ずしも確保されるわけではない。 こうした経緯から、新規に指定都市へ移行する市の場合、移行と行政改革がセットで語られることがある。とくに平成の大合併期に、スケールメリットを期待した合併を経て誕生した指定都市では、移行に併せて地方債の繰上償還、これまで一般市町村として担当した行政分野での職員定員削減などが行われる。 上述のとおり、指定都市は各分野につき、完全に独立した行政を担当できるまでの事務移譲を受けるわけではなく、農林行政、防災行政については、ほとんど授権がない。一方で、都道府県と指定都市との間では、一部につき共通する行政を担当することから、両者の間での二重規制、二重行政に陥る可能性が指摘されることがある。法令上、指定都市は、一部の特例措置を除いては、一般の市町村と同列の制度の適用を受けるため、都道府県が市町村の行政を審査する行政不服審査制度に関する事項など、両者の関係についてあいまいな部分もある。新たな法令を制定することを通じ、都道府県に指定都市に対する勧告権を付与し、指定都市内の行政に関する関与権限を弱める案などが提唱される。 以下に大都市制度の沿革を記す。以下とは別に、首都圏整備法(昭和31年法律第83号)、近畿圏整備法(昭和38年法律第129号)、中部圏開発整備法(昭和41年法律第102号)が大都市圏制度として制定されている(「三大都市圏」を参照)。 地方自治法第252条の19が定める指定要件は「政令で指定する人口50万人以上の市」である。明文の要件は「人口50万人」のみであるが、総務省は「立法の経緯、特例を設けた趣旨から、人口その他の都市としての規模、行財政能力等において既存の指定都市と同等の実態を有するとみられる都市」を指定するとしており、指定は国の裁量に委ねられていることから、人口50万人を越えていても指定されない市は多い。これに対し自治体からは人口50万人のみを要件とすべきとの意見も出されている。 以下では、国の運用基準としての指定要件について記載する。 指定都市になるための人口要件は、50万人以上。しかし、実際の運用基準として、以下のものが並立して存在するとされる。 以下に記載する人口は、指定日直近の法定人口(合併市町村を含む国勢調査人口)。なお、比較のため、指定前年に国勢調査がなかった場合に限り、指定前年10月1日の推計人口(緑字)も付記する。 1956年(昭和31年)において、地方自治法上の有資格市(法定人口50万人以上の市)には、戦前から区制をしいている五大都市、および、区制をしいていない福岡市(54.4万人)の計6市が存在した(「都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位」を参照)。しかし、制度創設経緯から、五大都市のみが指定都市に移行した。 神戸市は、推計人口では1939年(昭和14年)に100万人に達したが、法定人口では1940年(昭和15年)実施の国勢調査で96.7万人となり100万人には達しなかった。その後、第二次世界大戦の激化や神戸大空襲により推計人口は30万人台にまで落ち込んだが、戦後に周辺自治体と合併して、指定都市となった翌月の1956年(昭和31年)10月1日に、推計人口で100万人に達した。ただし、法定人口で100万人を超えたのは1960年(昭和35年)の国勢調査が初である。このため、五大都市以外に制度の適用を広げる際には、神戸市を先例として、「おおむね100万人以上の人口」が運用基準とみなされた。 これ以降、福岡市を先例として、「人口100万以上、または、近い将来人口100万人を超える見込みの80万人以上の人口」が運用基準とみなされた。ただし、北九州市は2005年(平成17年)1月1日推計人口から100万人を下回り続けており、2023年10月1日時点の推計人口は916,241人である。詳しくは「日本の市の人口順位」を参照。 これら4市のうち、千葉市以外は人口100万人を突破し現在も維持し続けている。なお、千葉市の2023年10月1日時点の推計人口は979,532人である。詳しくは「日本の市の人口順位」を参照。 平成の大合併に際して2010年(平成22年)3月までに市町村合併を行った自治体には、期間限定で運用基準の緩和がなされた(「沿革」を参照)。ただし、どの程度の緩和がなされるか具体的に明記されなかった。 なお、静岡市は2017年(平成29年)4月1日推計人口から70万人を下回り続けている(2023年10月1日時点の推計人口は677,286人)が、総務省は「政令市の指定取り消しはない」としている。 都市機能や行財政能力については特に法令で規定されていないが、これまで指定都市に指定された都市では主に次のような要件を満たしており、これに遜色ない条件を満たす必要があるとされる。 指定都市移行の手続きは特に法令で規定されていないが、これまで指定都市に指定された都市では主に次のような手続きを経た上で、指定がなされている。 指定都市各市の2013年度(平成25年度)の財政規模は以下の通り(市債残高は年度末の値)。市民一人当たり市債現在高は、本項目の市債現在高から最新の推計人口で割って算出。 市町村の合併によって、現在以下の地域が指定都市移行を目指している。しかし、市町村合併協議の難航などにより、実現の見通しが立っていない都市が多い。また、実現可能性の高い中核市移行へ切り替え、将来的な目標として指定都市への意向を視野に入れるとしている市もある。なお、指定都市への移行を見据えた合併構想が持ち上がっている地域の多くは、都市圏(都市雇用圏など)を基礎としているが、必ずしも既存の広域行政圏とは一致しない。 国立社会保障・人口問題研究所「日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)」は、2045年時点での政令市人口は3市を除くほぼ全ての市で人口減少すると予測した。10市で100万人を下回る見込み。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "政令指定都市(せいれいしていとし)は、日本の地方自治法第252条の19第1項に基づき政令で指定された地方公共団体。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地方自治法第252条の19第1項では「政令で指定する人口五十万以上の市」と定義されており、法定人口が50万人以上で、なおかつ政令(具体的には「地方自治法第252条の19第1項の指定都市の指定に関する政令」)で指定された市のことである。中核市と並ぶ都道府県の事務権限の一部を移譲する日本の大都市制度の一つとなっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "略称は政令市(せいれいし)が頻繁に使用されるが、正式名称は「指定都市」(地方自治法第252条の19)である。ただし、警察法や道路法などでは「指定市」が使用される。また、指定市を包括する県を「指定県」と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地方自治法において、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体として、第二項の事務で広域にわたるものを処理するが、政令指定都市は一般の市町村や中核市と比べて都道府県の権限の多くを委譲される。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)国勢調査によると、20市ある政令市の人口の総計は2750万人で、日本の人口の2割強が政令市に集中している。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "指定都市の制度(政令市制度)は、日本の大都市等に関する2つの特例制度のひとつであり、1956年(昭和31年)に運用が開始された。これに先立つ1947年(昭和22年)、国は大都市が府や県から独立する特別市制度を設けたが、権限を奪われることになる府県が猛反発、これに代えて権限の一部だけを府県から移す制度として設けられたのが政令市制度であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "地方自治法第2編第12章第1節「大都市に関する特例」に、指定都市に関する、特例を中心とした規定がある。指定都市は「人口50万以上の市」とされている(第252条の19第1項)。特例制度の他の1つは、第2節に規定がある中核市の制度(人口20万以上、1995年開始)である。(「#行政能力要件」、「#人口要件」も参照)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "指定都市は、条例で区を設けるものとされている(第252条の20第1項)。この区は、東京都の特別区(東京23区の各区)と区別して、「行政区」と通称される。(「#組織」も参照)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "指定都市の制度は、地方自治法の1956年(昭和31年)の一部改正(昭和31年法律第147号)に含まれる形で、同年9月1日から実施された。同日から、指定都市を指定する政令が施行されて5市が指定都市に移行。以後、この政令の一部改正で新たに市が指定され、その施行日から指定都市に移行している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、指定都市の制度により、大都市に関する2つの旧制度が置き換えられた。1つは、五大都市行政監督ニ関スル法律を根拠とした制度で、対象は京都市、大阪市、横浜市、神戸市、名古屋市であった(この5市は最初の指定都市)。もう1つは、地方自治法を根拠に1947年(昭和22年)以降、法令上に存在していた特別市の制度で、人口50万以上の市を法律で指定するものだったが、実際には1市も指定されなかった。(「#歴史」も参照)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)7月現在、全20指定都市の推計人口は約2777万人であり、国民の5人に1人は指定都市に居住していることになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "八地方区分毎の政令指定都市の数は北海道1、東北1、関東5、中部4、近畿4、中国2、九州3で、四国のみ政令指定都市が存在しない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "政令指定都市は都道府県からの権限の移譲等により、 都道府県に準じた権限を行使することが可能で、都道府県との間の手続き等を経ることなく、都市独自の施策を実施することができる。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "地方自治法第252条の19の第1項までを抜粋。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "具体的には、主に以下のことが可能。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "地方自治法第2編「普通地方公共団体」第12章「大都市等に関する特例」では、政令指定都市、中核市それぞれに関する特例制度が規定されている。特例により持ちうる権能は、指定都市が最も広い。政令指定都市、中核市いずれに関しても、権能の範囲など特例の具体的な定めは、ほぼ政令に委ねられており、対応する規定が地方自治法施行令第2編第8章にある。特例市の制度は2015年に廃止されたが、廃止時に特例市だった市のうち中核市等に移行しなかった市は施行時特例市と呼ばれ、中核市移行に際し経過措置がとられている。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "指定都市が特例で処理できる事務は、第252条の19第1項(後に抜粋)で掲げる19の事務のうち、都道府県が法令に従って処理するとされているものから、政令で定められる(同条同項)。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、事務処理への都道府県の関与については、都道府県知事や都道府県の委員会の", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ことになっている(同条第2項)。中核市に関しては、処分についてa.に相当する特例規定はない。命令についてb.に類似する特例規定はあるが、委員会の命令は対象とならない(第252条の22第2項、第252条の26の3第2項)。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、地方自治法以外の個別法令(例えば道路法、河川法、地方教育行政法など)の規定や都道府県の条例によっても権限が移譲されうる。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "指定都市は、“市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例で、その区域を分けて区を設け、区の事務所又は必要があると認めるときはその出張所を置く”ものとされている(第252条の20第1項)。この区は「行政区」と通称される。区の事務所、通称「区役所」の長は、当該指定都市の職員の中から市長が任命するのが通例である(各市の行政組織によるが、一般的に局長クラスまたは部長クラスの役職)。指定都市は、必要と認めるときは、条例で、区ごとに区地域協議会を置くことができ、その場合、その区域内に地域自治区が設けられる区には、区地域協議会を設けないことができる(第252条の20第6項)。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "区役所にどの程度の業務を担わせるかは、指定都市によって幅がある。戸籍、住民基本台帳、租税の賦課、国民健康保険、国民年金、福祉などの日常的・基本的な窓口業務のみを担当させる「小区役所制」(大阪市、名古屋市、京都市など)もあれば、保健、土木、建築などの業務も含めて幅広く行う「大区役所制」(川崎市、広島市、仙台市など)もある。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "以前は地方教育行政の組織及び運営に関する法律に指定都市に関する特例が定められ、指定都市の県費負担教職員の任免、給与の決定、休職及び懲戒に関する事務、並びに研修は、当該指定都市の教育委員会が行うものとされていたが、平成29年以降は給与負担も移譲され、あわせて教職員定数の決定権も移譲された。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "指定都市自体が、独自に警察を設置・運営することはできないが、各道府県警察本部は、その管轄区域内に指定都市がある場合、指定都市に対応する市警察部を設置する(警察法第52条第1項)。市警察部の役割は警察本部によって異なるが、主に指定都市と警察本部の連絡や指定都市に所在する警察署の管理に関する業務を行う。実働部隊を備えているのは、北九州市警察部のみである。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "指定都市においては消防の専門部隊である特別高度救助隊の設置が義務付けられている。これは総務省消防庁の「救助隊の編成、装備及び配置の基準を定める省令(昭和61年自治省令第22号)」第6条の規定により「特別高度救助隊」を東京都及び政令指定都市に、第5条の規定により「高度救助隊」を中核市等に整備をするとされ、「高度救助隊の数のうち、特別区が連合して維持する消防及び指定都市にあつては1以上の高度救助隊を特別高度救助隊とする。」ことになっている。そのため、多くの指定都市では、高度救助隊と特別高度救助隊の両方が編成されている。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "指定都市では、都市計画で区域区分(線引き)を定めるものとされている(都市計画法第7条第1項、都市計画法施行令第3条)。よって、スプロール化どころか過疎化が問題となるような地域が指定都市の一部となると、その地域が区域区分で市街化調整区域とされることにより、その地域での開発行為が法律で制限され、結果的に過疎化が深刻化するおそれがある。反対に、区域区分で新たに市街化区域とされた地域では、土地・建物について固定資産税に加えて都市計画税が課されることになる。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、法律上の首都圏(首都圏整備法所定)、近畿圏(近畿圏整備法所定)、中部圏(中部圏開発整備法所定)内に指定都市が誕生すると、その指定都市の区域内の市街化区域にある農地は、地方税法附則第29条の7の特例の対象外となるので、その農地についての固定資産税と都市計画税は「宅地並み課税」とされ、増税となる。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "指定都市は都道府県からの権限移譲等により、都道府県に準じた権限を行使することが可能で、都道府県との間の手続き等を経ることなく、都市独自の施策を実施することができる。しかし、都道府県に包括されており、都道府県の影響力が完全に排除されるわけではないため、一部の事務は都道府県が行っている。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下に、都道府県と指定都市の間の役割分担の一例を示す。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このほか、後期高齢者医療制度においては、都道府県が直接事務に携わるわけではないが、都道府県の区域ごとに当該区域内の政令指定都市を含むすべての市町村が加入する広域連合(後期高齢者医療広域連合)を作り、そこで事務を取り扱う(高齢者の医療の確保に関する法律第48条)。指定都市の区役所は窓口代理業務を行うのみである。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "指定都市移行にあたっては、移譲にあたっての行財政上の問題として、概ね次のような留意事項の指摘がなされている。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "移行に起因する事務移譲により、指定都市に新たに発生する財政需要額は、概ね5,600億円程度とされる。これに対し、税制上の措置として指定都市に図られる増収対策の半分以上は、道路の管理に関する予算(道路特定財源の一部を増額交付するもの)で、それ以外の特例事務との純計で、おおむね3,000億円程度、税制上の措置が不十分であるとされる。指定都市制度には、都道府県側から指定都市側に対して交付金を交付する制度があるものの、行政上の負担割合の変更に伴い、逆に減収となる項目も存在する。このため、負担事務の増加に見合った増収を十分担保する措置が、必ずしも確保されるわけではない。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "こうした経緯から、新規に指定都市へ移行する市の場合、移行と行政改革がセットで語られることがある。とくに平成の大合併期に、スケールメリットを期待した合併を経て誕生した指定都市では、移行に併せて地方債の繰上償還、これまで一般市町村として担当した行政分野での職員定員削減などが行われる。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "上述のとおり、指定都市は各分野につき、完全に独立した行政を担当できるまでの事務移譲を受けるわけではなく、農林行政、防災行政については、ほとんど授権がない。一方で、都道府県と指定都市との間では、一部につき共通する行政を担当することから、両者の間での二重規制、二重行政に陥る可能性が指摘されることがある。法令上、指定都市は、一部の特例措置を除いては、一般の市町村と同列の制度の適用を受けるため、都道府県が市町村の行政を審査する行政不服審査制度に関する事項など、両者の関係についてあいまいな部分もある。新たな法令を制定することを通じ、都道府県に指定都市に対する勧告権を付与し、指定都市内の行政に関する関与権限を弱める案などが提唱される。", "title": "権能" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "以下に大都市制度の沿革を記す。以下とは別に、首都圏整備法(昭和31年法律第83号)、近畿圏整備法(昭和38年法律第129号)、中部圏開発整備法(昭和41年法律第102号)が大都市圏制度として制定されている(「三大都市圏」を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "地方自治法第252条の19が定める指定要件は「政令で指定する人口50万人以上の市」である。明文の要件は「人口50万人」のみであるが、総務省は「立法の経緯、特例を設けた趣旨から、人口その他の都市としての規模、行財政能力等において既存の指定都市と同等の実態を有するとみられる都市」を指定するとしており、指定は国の裁量に委ねられていることから、人口50万人を越えていても指定されない市は多い。これに対し自治体からは人口50万人のみを要件とすべきとの意見も出されている。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "以下では、国の運用基準としての指定要件について記載する。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "指定都市になるための人口要件は、50万人以上。しかし、実際の運用基準として、以下のものが並立して存在するとされる。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "以下に記載する人口は、指定日直近の法定人口(合併市町村を含む国勢調査人口)。なお、比較のため、指定前年に国勢調査がなかった場合に限り、指定前年10月1日の推計人口(緑字)も付記する。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1956年(昭和31年)において、地方自治法上の有資格市(法定人口50万人以上の市)には、戦前から区制をしいている五大都市、および、区制をしいていない福岡市(54.4万人)の計6市が存在した(「都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位」を参照)。しかし、制度創設経緯から、五大都市のみが指定都市に移行した。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "神戸市は、推計人口では1939年(昭和14年)に100万人に達したが、法定人口では1940年(昭和15年)実施の国勢調査で96.7万人となり100万人には達しなかった。その後、第二次世界大戦の激化や神戸大空襲により推計人口は30万人台にまで落ち込んだが、戦後に周辺自治体と合併して、指定都市となった翌月の1956年(昭和31年)10月1日に、推計人口で100万人に達した。ただし、法定人口で100万人を超えたのは1960年(昭和35年)の国勢調査が初である。このため、五大都市以外に制度の適用を広げる際には、神戸市を先例として、「おおむね100万人以上の人口」が運用基準とみなされた。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "これ以降、福岡市を先例として、「人口100万以上、または、近い将来人口100万人を超える見込みの80万人以上の人口」が運用基準とみなされた。ただし、北九州市は2005年(平成17年)1月1日推計人口から100万人を下回り続けており、2023年10月1日時点の推計人口は916,241人である。詳しくは「日本の市の人口順位」を参照。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "これら4市のうち、千葉市以外は人口100万人を突破し現在も維持し続けている。なお、千葉市の2023年10月1日時点の推計人口は979,532人である。詳しくは「日本の市の人口順位」を参照。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "平成の大合併に際して2010年(平成22年)3月までに市町村合併を行った自治体には、期間限定で運用基準の緩和がなされた(「沿革」を参照)。ただし、どの程度の緩和がなされるか具体的に明記されなかった。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、静岡市は2017年(平成29年)4月1日推計人口から70万人を下回り続けている(2023年10月1日時点の推計人口は677,286人)が、総務省は「政令市の指定取り消しはない」としている。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "都市機能や行財政能力については特に法令で規定されていないが、これまで指定都市に指定された都市では主に次のような要件を満たしており、これに遜色ない条件を満たす必要があるとされる。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "指定都市移行の手続きは特に法令で規定されていないが、これまで指定都市に指定された都市では主に次のような手続きを経た上で、指定がなされている。", "title": "要件" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "指定都市各市の2013年度(平成25年度)の財政規模は以下の通り(市債残高は年度末の値)。市民一人当たり市債現在高は、本項目の市債現在高から最新の推計人口で割って算出。", "title": "統計比較" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "市町村の合併によって、現在以下の地域が指定都市移行を目指している。しかし、市町村合併協議の難航などにより、実現の見通しが立っていない都市が多い。また、実現可能性の高い中核市移行へ切り替え、将来的な目標として指定都市への意向を視野に入れるとしている市もある。なお、指定都市への移行を見据えた合併構想が持ち上がっている地域の多くは、都市圏(都市雇用圏など)を基礎としているが、必ずしも既存の広域行政圏とは一致しない。", "title": "目指している地域" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "国立社会保障・人口問題研究所「日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)」は、2045年時点での政令市人口は3市を除くほぼ全ての市で人口減少すると予測した。10市で100万人を下回る見込み。", "title": "今後の展望" } ]
政令指定都市(せいれいしていとし)は、日本の地方自治法第252条の19第1項に基づき政令で指定された地方公共団体。 地方自治法第252条の19第1項では「政令で指定する人口五十万以上の市」と定義されており、法定人口が50万人以上で、なおかつ政令(具体的には「地方自治法第252条の19第1項の指定都市の指定に関する政令」)で指定された市のことである。中核市と並ぶ都道府県の事務権限の一部を移譲する日本の大都市制度の一つとなっている。 略称は政令市(せいれいし)が頻繁に使用されるが、正式名称は「指定都市」(地方自治法第252条の19)である。ただし、警察法や道路法などでは「指定市」が使用される。また、指定市を包括する県を「指定県」と呼ぶ。 地方自治法において、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体として、第二項の事務で広域にわたるものを処理するが、政令指定都市は一般の市町村や中核市と比べて都道府県の権限の多くを委譲される。 2015年(平成27年)国勢調査によると、20市ある政令市の人口の総計は2750万人で、日本の人口の2割強が政令市に集中している。
[[ファイル:Ordinance designed Cities (ja).svg|thumb|300px|政令指定都市の位置。全国に20市ある。]]{{座標一覧}}{{日本の統治機構}} '''政令指定都市'''(せいれいしていとし)は、[[日本]]の[[地方自治法]]第252条の19第1項に基づき'''[[政令]]'''で指定された[[地方公共団体]]。 地方自治法第252条の19第1項では「'''<u>政令</u>で指定する人口五十万以上の市'''」と定義されており、[[法定人口]]が50万人以上で、なおかつ政令(具体的には「'''地方自治法第252条の19第1項の指定都市の指定に関する政令'''」<ref name="法令-指定政令">{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=331CO0000000254|title=地方自治法第252条の19第1項の指定都市の指定に関する政令(昭和31年政令第254号)|accessdate=2008-10-15|work=e-Gov法令検索|publisher=総務省行政管理局}}</ref>)で指定された[[市]]のことである{{Refnest|group="†"|なお、法令で単に「政令で指定する市」と書かれている場合、各法令により指定基準が異なるため、地方自治法第252条の19に基づく指定都市(政令指定都市)と必ずしも一致しない。特定の市を「政令で指定する市」として定めている法令には、[[中小企業支援法]]、[[国民健康保険法]]、[[地方税法]]、[[道路整備特別措置法]]、国際観光文化都市の整備のための財政上の措置等に関する法律などがある。}}。[[中核市]]と並ぶ'''都道府県の事務権限の一部を移譲する'''日本の大都市制度の一つとなっている。 [[略語|略称]]は'''政令市'''(せいれいし)<ref group="†">国内で政令市と通称されるものには、他に[[保健所政令市]]や[[廃棄物の処理及び清掃に関する法律#行政の認許可・処分に関する権限|廃棄物処理法政令市]]がある。</ref>が頻繁に使用されるが、正式名称は「'''指定都市'''」([[地方自治法]]第252条の19<ref name="法令-地方自治法">{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000067|title=地方自治法(昭和22年法律第67号)|accessdate=2008-01-20|work=e-Gov法令検索|publisher=総務省行政管理局}}</ref>)である<ref name="jimin">{{Cite web|和書|url=http://jimin-seireitoshi.jp/%E6%94%BF%E4%BB%A4%E6%8C%87%E5%AE%9A%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%81%A8%E3%81%AF/|title=政令指定都市とは|publisher=自由民主党政令指定都市議会議員連盟|accessdate=2018-02-14}}</ref>。ただし、[[警察法]]や[[道路法]]などでは「'''指定市'''」が使用される。また、指定市を包括する県を「'''指定県'''」と呼ぶ。 地方自治法において、[[都道府県]]は<!--一般市より上位に位置する 現在、都道府県と市町村は、上位、下位の関係にはないとされている。-->市町村を包括する広域の地方公共団体として、第二項の事務で広域にわたるものを処理するが<ref>地方自治法第2条第5項</ref>、政令指定都市は一般の市町村や[[中核市]]と比べて都道府県の権限の多くを委譲される。 2015年(平成27年)国勢調査によると、20市ある政令市の人口の総計は2750万人で、日本の人口の2割強が政令市に集中している<ref>{{Cite web|和書|title=政令指定都市は全部で20 : 最大は横浜372万人、最小は静岡70万人|url=https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00854/|website=nippon.com|date=2020-11-02|accessdate=2021-01-16|language=ja}}</ref>。 == 概要 == 指定都市の制度(政令市制度)は、日本の大都市等に関する2つの特例制度のひとつであり、[[1956年]]([[昭和]]31年)に運用が開始された<ref name="総務省-制度配付資料">{{Cite web|和書|url=http://www.soumu.go.jp/singi/pdf/No28_senmon_14_1.pdf|title=大都市に関する制度について|accessdate=2007-11-28|date=2005-01-17|format=PDF|work=総務省第28次地方制度調査会第14回専門小委員会における総務省配付資料|publisher=総務省|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050529115324/http://www.soumu.go.jp/singi/pdf/No28_senmon_14_1.pdf|archivedate=2005-05-29|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。'''これに先立つ[[1947年]](昭和22年)、国は[[大都市]]が府や県から独立する[[特別市#日本|特別市]]制度を設けたが、権限を奪われることになる府県が猛反発、これに代えて権限の一部だけを府県から移す制度として設けられたのが政令市制度であった<ref>{{Cite news|title=県と歪み増す政令市 大都市行政現状を探る|newspaper=日本経済新聞|date=2011-11-22|at=東京・首都圏経済面|accessdate=2011-11-21}}</ref>。''' '''地方自治法<ref name="法令-地方自治法" />第2編第12章第1節「大都市に関する特例」に、指定都市に関する、特例を中心とした規定がある。'''指定都市は「'''人口50万以上の市'''」とされている(第252条の19第1項)<ref name="youken">[https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/22449.pdf 政令指定都市の指定要件]、熊本県</ref>。特例制度の他の1つは、'''第2節に規定がある中核市の制度'''(人口20万以上、[[1995年]]開始)である<ref name="法令-地方自治法" /><ref name="総務省-制度配付資料" />。(''「[[#行政能力要件]]」、「[[#人口要件]]」も参照'') 指定都市は、'''条例で[[区 (行政区画)|区]]を設けるものとされている'''(第252条の20第1項<ref name="法令-地方自治法" />)。この区は、東京都の[[特別区]]([[東京都区部|東京23区]]の各区)と区別して、'''「[[行政区]]」と通称される。'''(''「[[#組織]]」も参照'') 指定都市の制度は、地方自治法の1956年(昭和31年)の一部改正(昭和31年法律第147号)に含まれる形で、同年9月1日から実施された。同日から、指定都市を指定する政令<ref name="法令-指定政令" />が施行されて5市が指定都市に移行。以後、この政令の一部改正で新たに市が指定され、その施行日から指定都市に移行している<ref name="法令-指定政令"/><ref name="総務省-指定都市一覧">{{Cite web|和書|url=http://www.soumu.go.jp/shitei/|title=指定都市一覧|accessdate=2008-10-15|publisher=総務省|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100603150147/http://www.soumu.go.jp/shitei/|archivedate=2010-06-03|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。 なお、指定都市の制度により、大都市に関する2つの旧制度が置き換えられた<ref name="総務省-制度配付資料" />。1つは、[[五大都市]]行政監督ニ関スル法律<ref name="法令沿革-大都市法律">{{Cite web|和書|title=五大都市行政監督ニ関スル法律(大正11年法律第1号)|url=https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=9eJgw6YknNsqXmnVFbt%2FhA%3D%3D|accessdate=2008-10-15|work=日本法令索引|publisher=国立国会図書館}}</ref><ref group="†">なお、本法の制定時の名称は「六大都市行政監督ニ関スル法律」であり、[[東京都制]](昭和18年法律第89号)の施行に伴い、東京市が除外されるに当たり名称が変更された。本法は、地方自治法の1956年(昭和31年)の一部改正(昭和31年法律第147号)に伴い廃止された。</ref>を根拠とした制度で、対象は[[京都市]]、[[大阪市]]、[[横浜市]]、[[神戸市]]、[[名古屋市]]であった(この5市は最初の指定都市)。もう1つは、地方自治法を根拠に[[1947年]](昭和22年)以降、法令上に存在していた[[特別市]]の制度で、人口50万以上の市を法律で指定するものだったが、実際には1市も指定されなかった。(''「[[#歴史]]」も参照'') [[2021年]](令和3年)[[7月]]現在、全20指定都市の[[推計人口]]は約2777万人であり、国民の5人に1人は指定都市に居住していることになる。 [[日本の地域|八地方区分]]毎の政令指定都市の数は[[北海道]]1、東北1、関東5、中部4、近畿4、中国2、九州3で、四国のみ政令指定都市が存在しない<ref group="†">八地方区分においては、[[新潟県]]は中部と同じ区分、また[[沖縄県]]は九州と同じ区分とみなされる。</ref>。 == 権能 == 政令指定都市は'''都道府県からの[[権限]]の移譲等により、''' '''都道府県に準じた権限を行使することが可能で、都道府県との間の手続き等を経ることなく、都市独自の施策を実施することができる。''' 地方自治法<ref name="法令-地方自治法" />第252条の19の第1項までを抜粋。 <!--用語のウィキlinkは削除: 条文中と異なる意味が説明されている可能性あり。--> {{Cquote| (指定都市の権能)<br /> '''第252条の19''' 政令で指定する人口50万以上の市(以下「指定都市」という。)は、次に掲げる事務のうち都道府県が法律又はこれに基づく政令の定めるところにより処理することとされているものの全部又は一部で政令で定めるものを、政令で定めるところにより、処理することができる。 * 1 '''児童福祉に関する事務''' * 2 '''民生委員に関する事務''' * 3 '''身体障害者の福祉に関する事務''' * 4 '''生活保護に関する事務''' * 5 '''行旅病人及び行旅死亡人の取扱に関する事務''' * 5の2 '''社会福祉事業に関する事務''' * 5の3 '''知的障害者の福祉に関する事務''' * 6 '''母子家庭及び父子家庭並びに寡婦の福祉に関する事務''' * 6の2 '''老人福祉に関する事務''' * 7 '''母子保健に関する事務''' * 7の2 '''介護保険に関する事務''' * 8 '''障害者の自立支援に関する事務''' * 8の2 '''生活困窮者の自立支援に関する事務''' * 9 '''食品衛生に関する事務''' * 9の2 '''医療に関する事務''' * 10 '''精神保健及び精神障害者の福祉に関する事務''' * 11 '''結核の予防に関する事務''' * 11の2 '''難病の患者に対する医療等に関する事務''' * 12 '''土地区画整理事業に関する事務''' * 13 '''屋外広告物の規制に関する事務''' }} 具体的には、主に以下のことが可能。 * '''都道府県を通さずに直接[[政府|国]]と接触できるようになる。''' * '''[[統一地方選挙]]において行われる指定都市の市長選挙や議会議員選挙は、都道府県の[[知事]]選挙や議会議員選挙と同じ、いわゆる前日程で実施される。''' * 指定都市の住所を表記する際は都道府県名を省略することが多い(例:愛知県名古屋市中区栄 → 名古屋市中区栄)。これは慣例というよりは、昭和45年の旧自治省通達により、指定都市および、県名と同じ県庁所在地市(青森市、秋田市、山形市、福島市、富山市、福井市、長野市、岐阜市、奈良市、和歌山市、鳥取市、山口市、徳島市、高知市、大分市、佐賀市、長崎市、宮崎市、鹿児島市)以外は、[[公文書館|公文書]]において県名を省略してはならない(例:栃木県栃木市、栃木県宇都宮市、山梨県山梨市、山梨県甲府市、沖縄県沖縄市、沖縄県那覇市)とされていることに対する[[反対解釈]]である。 * '''スポーツ大会の場合でも一部で特別扱いされており、[[全国障害者スポーツ大会]]と[[全国健康福祉祭|全国健康福祉祭(ねんりんピック)]]では各都道府県の他に指定都市独自でチームを組むことが可能となっている。''' * 市の[[ドメイン名]]として "city.市名.都道府県名.jp" の代わりに "city.市名.jp" を使えるようになる。ただし、堺市、浜松市及び相模原市については、該当ドメイン名が他者によって登録済みであったため、"city.市名.jp" を使用できなかった。公共機関については"city.市名.lg.jp"で地方公共団体ドメイン名の代替はあるが、一般地域型ドメイン名"区名.市名.jp"は使用できないので公共機関以外は救済されない。 * '''職員採用において、[[大学]]卒業程度の[[公務員試験|採用試験]]が道府県と同じ日程の[[6月]]の第4[[日曜日]](俗に「地方上級」と称される)に行われる。[[短期大学|短大]]卒業程度・[[高等学校|高校]]卒業程度の採用試験が道府県と同じ日程の[[9月]]の第4日曜日(俗に「地方中級」・「地方初級」と称される)に行われる。また、択一試験の問題は道府県と一部を除き同一のものが使用される。''' * '''[[地方債]]において、都道府県と同様に市場公募債を発行出来るようになる。ただし、利回りが市場によって決められてしまうため、財政状況や信用力により資金繰りに差が出る。''' * [[1970年代]]に[[医科大学]]が次々設置された際、歯止めをかけるために「1県1医大」の制限が[[1974年]](昭和49年)にかけられたが、同年時点で指定都市中唯一医科大学がなかった[[北九州市]]に[[1978年]](昭和53年)、[[産業医科大学]]が設立されており、県と同格扱いされている。 * '''都道府県と同様に当せん金付証票(いわゆる[[宝くじ]])の発売元となることができるようになる([[地方財政法]]32条、[[当せん金付証票法]]4条、また戦災により総務大臣が指定する市も発売元となれるが割愛)。そのため、発売元である指定都市内で販売された宝くじの収益金は直接、指定都市の収入となる'''(''詳細は「[[宝くじ#収益金の取扱い]]」を参照'')。 === 特例と政令 === 地方自治法<ref name="法令-地方自治法" />第2編「普通地方公共団体」第12章「大都市等に関する特例」では、政令指定都市、中核市それぞれに関する特例制度が規定されている。特例により持ちうる権能は、指定都市が最も広い。政令指定都市、中核市いずれに関しても、権能の範囲など特例の具体的な定めは、ほぼ政令に委ねられており、対応する規定が地方自治法施行令<ref name="法令-施行令">{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322CO0000000016|title=地方自治法施行令(昭和22年政令第16号)|accessdate=2008-10-15|work=e-Gov法令検索|publisher=総務省行政管理局}}</ref>第2編第8章にある。[[特例市]]の制度は2015年に廃止されたが、廃止時に特例市だった市のうち中核市等に移行しなかった市は施行時特例市と呼ばれ、中核市移行に際し経過措置がとられている。 === 事務 === 指定都市が特例で処理できる事務は、第252条の19第1項([[#出典|後に抜粋]])で掲げる19の事務のうち、都道府県が法令に従って処理するとされているものから、政令で定められる(同条同項)<ref group="†">この指定都市の特例処理事務から中核市の特例処理事務を限定し、さらに特例市の特例処理事務を限定する仕組みになっている(第252条の22第1項、第252条の26の3第1項)。</ref>。 また、事務処理への都道府県の関与については、都道府県知事や都道府県の委員会の * a.'''処分'''(許可、認可、承認等)を要すると法令で定めている事項のうちから、政令により、その処分を不要とするか、代わりに各大臣の処分を要するものとする、 * b.'''命令'''を受けると法令で定めている事項のうちから、政令により、その命令に関する法令の規定を適用外とするか、代わりに各大臣の命令を受けるものとする、 ことになっている(同条第2項)。中核市に関しては、'''処分'''についてa.に相当する特例規定はない。'''命令'''についてb.に類似する特例規定はあるが、委員会の命令は対象とならない(第252条の22第2項、第252条の26の3第2項)。 なお、地方自治法以外の'''個別法令(例えば[[道路法]]、[[河川法]]、[[地方教育行政の組織及び運営に関する法律|地方教育行政法]]など)の規定や都道府県の条例によっても権限が移譲されうる。''' === 組織 === 指定都市は、“市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例で、その区域を分けて区を設け、区の事務所又は必要があると認めるときはその出張所を置く”ものとされている(第252条の20第1項)。この区は「'''[[行政区]]'''」と通称される。区の事務所、通称「区役所」の長は、当該指定都市の職員の中から[[市長]]が任命するのが通例である(各市の行政組織によるが、一般的に局長クラスまたは部長クラスの役職)。指定都市は、必要と認めるときは、条例で、区ごとに区地域協議会を置くことができ、その場合、その区域内に地域自治区が設けられる区には、区地域協議会を設けないことができる(第252条の20第6項)。 区役所にどの程度の業務を担わせるかは、指定都市によって幅がある。戸籍、住民基本台帳、租税の賦課、国民健康保険、国民年金、福祉などの日常的・基本的な窓口業務のみを担当させる「小区役所制」(大阪市、名古屋市、京都市など)もあれば、保健、土木、建築などの業務も含めて幅広く行う「大区役所制」(川崎市、広島市、仙台市など)もある。 === 教育行政 === 以前は[[地方教育行政の組織及び運営に関する法律]]に指定都市に関する特例が定められ、'''指定都市の県費負担教職員の任免、給与の決定、休職及び懲戒に関する事務、並びに研修は、当該指定都市の教育委員会が行うもの'''とされていたが、平成29年以降は給与負担も移譲され<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyuyo/__icsFiles/afieldfile/2017/09/14/1394392_02.pdf#search=%27%E7%9C%8C%E8%B2%BB%E8%B2%A0%E6%8B%85%E6%95%99%E8%81%B7%E5%93%A1+%E7%A7%BB%E8%AD%B2%27 県費負担教職員の給与負担等の移譲について]</ref>、あわせて'''教職員定数の決定権'''も移譲された。 === 市警察部 === 指定都市自体が、独自に警察を設置・運営することはできないが、各道府県[[警察本部]]は、その管轄区域内に指定都市がある場合、指定都市に対応する'''[[市警察部]]'''を設置する([[警察法]]第52条第1項)。市警察部の役割は警察本部によって異なるが、主に指定都市と警察本部の連絡や指定都市に所在する[[警察署]]の管理に関する業務を行う。実働部隊を備えているのは、[[北九州市警察部]]のみである。 {{Seealso|自治体警察 (旧警察法)}} === 消防 === 指定都市においては[[日本の消防|消防]]の専門部隊である'''[[特別高度救助隊]]の設置が義務付けられている'''。これは[[総務省消防庁]]の「'''救助隊の編成、装備及び配置の基準を定める省令'''(昭和61年自治省令第22号)」第6条の規定により「'''特別高度救助隊'''」を'''[[東京都]]及び政令指定都市'''に、第5条の規定により「'''高度救助隊'''」を'''[[中核市]]等'''に整備をするとされ、「'''高度救助隊の数のうち、特別区が連合して維持する消防及び指定都市にあつては1以上の高度救助隊を特別高度救助隊とする。'''」ことになっている。そのため、多くの指定都市では、'''高度救助隊と特別高度救助隊の両方が編成されている。''' {{Seealso|特別高度救助隊}} <!-- === JR線・特定都区市内駅制度 === {{main|特定都区市内}} 特定都区市内制度は、[[日本国有鉄道|国鉄]](現在は[[JR]])の運賃制度のひとつである。大都市制度の1つとも見られるが、同制度と指定都市制度との整合性はない。 [[1969年]](昭和44年)[[5月10日]]、同制度が[[六大都市]]に導入された。しかし、当時、既に指定都市となっていた北九州市には適用されなかった。[[1972年]](昭和47年)[[9月1日]]には、[[都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位|1970年国勢調査人口が50万人以上]]だった未適用の市にも拡大適用された。ただし、新規適用市には、当時指定都市ではなかった都市(仙台市、広島市)が含まれた一方で、指定都市であっても市域とは関係なく適用されている場合(川崎市<ref group="†">『横浜市内』制度を設定する際に、国鉄(JR)路線としては『飛び地』状態となる南武線[[矢向駅]]なども含める例外規定として、鶴見駅から矢向駅までのルート上に位置する[[川崎駅]]、鶴見線・南武線各駅を含めたため。従って、飽くまで『川崎市内』を理由に設定した意図はない。</ref>)がある。また、これ以降に国勢調査人口が50万人以上の市や指定都市が生まれても、同制度の新規適用は見送られている。--> === 都市計画と税金 === 指定都市では、'''都市計画で[[区域区分]](線引き)を定めるものとされている'''([[都市計画法]]第7条第1項、都市計画法施行令第3条)。よって、[[スプロール現象|スプロール化]]どころか[[過疎化]]が問題となるような地域が指定都市の一部となると、その地域が区域区分で[[市街化調整区域]]とされることにより、その地域での開発行為が法律で制限され、結果的に過疎化が深刻化するおそれがある。反対に、区域区分で新たに[[市街化区域]]とされた地域では、土地・建物について[[固定資産税]]に加えて[[都市計画税]]が課されることになる。 また、法律上の[[首都圏 (日本)|首都圏]]([[首都圏整備法]]所定)、近畿圏([[近畿圏整備法]]所定)、中部圏([[中部圏開発整備法]]所定)内に指定都市が誕生すると、その指定都市の区域内の[[市街化区域]]にある農地は、[[地方税法]]附則第29条の7の特例の対象外となるので、その農地についての固定資産税と都市計画税は「宅地並み課税」とされ、増税となる。 === 非取扱事務 === 指定都市は都道府県からの権限移譲等により、都道府県に準じた権限を行使することが可能で、都道府県との間の手続き等を経ることなく、都市独自の施策を実施することができる。しかし、都道府県に包括されており、都道府県の影響力が完全に排除されるわけではないため、一部の事務は都道府県が行っている。 以下に、都道府県と指定都市の間の役割分担の一例を示す。 {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:12.5em"|事務 !style="width:24em"|都道府県の事務 !style="width:24em"|指定都市の事務 |- style="vertical-align:top" ! 民生行政に関する事務 | * [[介護老人保健施設]]の開設許可 * 老人の介護の措置等の実施に関する連絡調整 | * [[養護老人ホーム]]、[[特別養護老人ホーム]]の設置の認可・監督 |- style="vertical-align:top" ! 保健衛生に関する事務 | * [[病院]]の開設許可 * [[薬局]]の開設許可 | * [[診療所]]の開設許可 * [[医薬品]]一般販売業の許可 |- style="vertical-align:top" ! 都市計画に関する事務 | * [[都市計画区域]]の指定 * [[市街化区域]]及び[[市街化調整区域]]の都市計画決定 * [[市街地再開発事業]]における組合の設立及び個人施行の認可 * 公共施行に係る[[土地区画整理事業]]に対する意見書の審査 | * 広域的な都市施設の都市計画の決定 * [[市街地開発事業]]の都市計画決定 * [[土地区画整理組合]]の設立認可 |- style="vertical-align:top" ! 文教行政に関する事務 | * 市町村立学校、[[私立学校]]等の設置、廃止等の認可 | * 県費負担教職員の人事、定数決定 * 学級編成基準の設定 |- style="vertical-align:top" ! style="white-space:nowrap;" | 農林水産行政に関する事務 | * [[農業振興地域]]の指定 * 農業振興地域整備基本方針の作成 * [[農地転用]]の許可 * [[農業協同組合]]の設立等の認可 * [[漁業権]]の設定の免許 |農林水産行政に関する授権は特にない。 |- style="vertical-align:top" ! 警察の設置に関する事務 | * [[都道府県警察]]の設置 | 自ら[[警察]]を設置することはできない<ref group="†">[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]から都道府県警察に移行する過度期の1954年度に五大都市で市警察が暫定措置として存置された。</ref>。 ただし指定都市は、[[都道府県警察]]を管理する[[公安委員会]]の委員を、都道府県知事に推薦できる。<br />指定都市が委員2名を推薦し、これに基づいて都道府県知事が委員を任命する。{{Main|公安委員会#委員}} また、指定都市の区域には、都道府県警察が「[[市警察部]]」を置く。詳細は当該項目を参照。 |} このほか、[[後期高齢者医療制度]]においては、都道府県が直接事務に携わるわけではないが、都道府県の区域ごとに当該区域内の政令指定都市を含むすべての市町村が加入する[[広域連合]]([[後期高齢者医療広域連合]])を作り、そこで事務を取り扱う([[高齢者の医療の確保に関する法律]]第48条)。指定都市の区役所は窓口代理業務を行うのみである。 ==== 留意すべき問題点 ==== 指定都市移行にあたっては、移譲にあたっての行財政上の問題として、概ね次のような留意事項の指摘がなされている。 ===== 財政上の問題 ===== 移行に起因する事務移譲により、指定都市に新たに発生する財政需要額は、概ね5,600億円程度とされる<ref name="zaiseijyuyou">総務省. "平成19年度地方財政白書"「市町村の規模別財政収支」項において総務省が算定した額による。</ref>。これに対し、[[税制]]上の措置として指定都市に図られる増収対策の半分以上は、[[道路]]の管理に関する予算([[道路特定財源]]の一部を増額交付するもの)<ref>指定都市市長会「指定都市の事務配分の特例に対応した大都市特例税制についての提言」(平成17年12月22日)の指摘による。</ref>で、それ以外の特例事務との純計で、おおむね3,000億円程度、税制上の措置が不十分であるとされる<ref>指定都市市長会「平成20年度大都市行政の実態に即応する財源の確保等に関する要望」の、「税制措置」の項において指定都市側が主張することを根拠とする。</ref>。指定都市制度には、都道府県側から指定都市側に対して交付金を交付する制度があるものの、行政上の負担割合の変更に伴い、逆に減収となる項目も存在する。このため、負担事務の増加に見合った増収を十分担保する措置が、必ずしも確保されるわけではない。 こうした経緯から、新規に指定都市へ移行する市の場合、移行と[[行政改革]]がセットで語られることがある。とくに[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]期に、スケールメリットを期待した[[日本の市町村の廃置分合|合併]]を経て誕生した指定都市では、移行に併せて[[地方債]]の繰上償還、これまで一般[[市町村]]として担当した行政分野での職員定員削減などが行われる<ref group="†">たとえば[[堺市]]、[[静岡市]]の例。静岡市「平成17年度一般会計決算の概要」、堺市「平成18年度当初予算の概要」など。</ref>。 ===== 行政上の問題 ===== 上述のとおり、指定都市は各分野につき、完全に独立した行政を担当できるまでの事務移譲を受けるわけではなく、農林行政、防災行政については、ほとんど授権がない。一方で、都道府県と指定都市との間では、一部につき共通する行政を担当することから、両者の間での二重規制、[[二重行政]]に陥る可能性が指摘されることがある<ref name="daitoshigyosei">第28次地方制度調査会(総務省)。 "大都市制度のあり方に関する報告" の中で指摘。</ref>。法令上、指定都市は、一部の特例措置を除いては、一般の市町村と同列の制度の適用を受けるため、都道府県が市町村の行政を審査する[[行政不服審査法|行政不服審査]]制度に関する事項など、両者の関係についてあいまいな部分もある<ref name="daitoshigyosei" />。新たな法令を制定することを通じ、都道府県に指定都市に対する勧告権を付与し、指定都市内の行政に関する関与権限を弱める案などが提唱される。 == 歴史 == 以下に'''大都市'''制度の沿革を記す。以下とは別に、[[首都圏整備法]](昭和31年法律第83号)、[[近畿圏整備法]](昭和38年法律第129号)、[[中部圏開発整備法]](昭和41年法律第102号)が'''[[都市圏|大都市圏]]'''制度として制定されている(''「[[三大都市圏]]」を参照'')。 === 明治以降 === * [[1878年]]([[明治]]11年)[[7月22日]]:[[郡区町村編制法]](明治11年[[太政官布告]]第17号)を制定。同法第四条により、「人民輻輳ノ地」に[[法人]]格を持たない[[区 (行政区画)|区]]が置かれ、区会(議会)も設置された。また東京、大阪、京都の'''[[三都]]'''は'''勅令指定都市'''に指定された。通常、1都市1区であったが、東京には[[東京15区|麹町区以下15区]]、大阪には[[東区 (大阪市)|東区]]・[[南区 (大阪市)|南区]]・[[西区 (大阪市)|西区]]・[[北区 (大阪市)|北区]]の4区<!--前制度の大区番号に呼応する順-->、京都には[[上京区]]・[[下京区]]の2区と、人口密集地が広い勅令指定都市には1都市に複数の区を置いた。 * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]]:[[市制]](明治21年法律第1号)を施行。「市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件」(明治22年法律第12号、'''[[市制特例|三市特例]]''')も制定され、人口が多い[[東京市]]、[[大阪市]]、[[京都市]]の'''三市'''では区が存置された。市を代表するのは市会であるが、一般市では市会が3人の[[市町村長|市長]]候補を推薦し、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]が[[天皇]]に上奏して1人の市長が裁可(市会推薦市長。任期6年)されたのに対し、三市では、市長を置かずにその職務は府知事が行った。 * [[1898年]](明治31年)[[10月1日]]:市制中東京市京都市大阪市ニ於ケル特例廃止法律(明治31年法律第19号)を施行。三市での反対運動により、三市特例が廃止されて一般市と同じ市制を適用し、市会推薦市長が生まれた。市制中追加法律により、三市では区制が残された。 * [[1908年]](明治41年)4月1日:'''[[名古屋市]]'''に区制施行(4区)。「三市」(三都)以外では初の大都市制度導入例。 * [[1911年]](明治44年):市制改正法律を施行。三市の区は法人格を持つこととなった。 * [[1922年]]([[大正]]11年):「六大都市行政監督ニ関スル法律」を制定。「三市」に[[横浜市]]、[[神戸市]]、名古屋市を加えて'''[[六大都市]]'''とした。六大都市では、府県知事の許可等なしで市の実務実行ができるようになった。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)10月1日:横浜市に区制施行(5区)。 * [[1931年]](昭和6年)[[9月1日]]:神戸市に区制施行(8区)。 * [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]]:[[東京都制]](昭和18年法律第89号)の施行により、[[東京府]]と[[東京市]]が廃止されて[[東京都]]が置かれた(''以降、東京については「'''[[特別区]]'''」を参照'')。「六大都市」から東京市を除いた5市に「五大都市行政監督特例」を施行し、'''[[五大都市]]'''(京都市、大阪市、横浜市、神戸市、名古屋市<!--「五大都市行政監督特例」の記載順-->)とした。 === 戦後 === * [[1947年]](昭和22年):[[地方自治法]](昭和22年法律第67号)を公布。「五大都市」が指定されることを見込んで、「'''[[特別市]]'''」の規定を盛り込んだ<ref name="総務省-制度配付資料" />。従来の五大都市の行政区については、地方自治法第155条第2項及びこれに基づく政令(地方自治法第百五十五条第二項の市の指定に関する政令(昭和22年政令第17号)に根拠を移した。 * [[1956年]](昭和31年):地方自治法を改正。特別市に関する規定を削除。「五大都市」が指定されることを念頭に「'''指定都市'''」制度を創設<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.somusomu.pref.aichi.jp/bunken/torikumi/arikata/2kai/ken-seireishi_yakuwari.html|title=指定都市制度の目的と沿革|accessdate=2007-11-28|work=分権時代における県の在り方検討委員会|publisher=愛知県|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。 * 1956年(昭和31年)9月1日:改正地方自治法を施行。地方自治法第252条の19第1項の指定都市の指定に関する政令<ref name="法令-指定政令" />(昭和31年政令第254号)を施行。同政令で指定された大阪市、名古屋市、京都市、横浜市、神戸市の「五大都市」が指定都市となる。<!--同法ではこの政令の題名/ 法令番号までは規定されていないので、「同法に基づき政令(題名/ 法令番号)で指定」といった表現は避ける。-->「五大都市行政監督特例」は、同日より廃止された。<!--「・・をもって」とするとその日が最終日と解される可能性があるので、同日から廃止とする。--> * [[1963年]](昭和38年)4月1日:5市合併により[[北九州市]]が指定都市となる。<ref group="†">府県庁所在地以外で指定都市に移行したのは北九州市が初。同じく[[福岡県]]の県庁所在地である[[福岡市]]が移行するより早かった(福岡市の指定移行は1972年)。</ref>旧「五大都市」以外では初の大都市制度導入例となった(''「[[#先行指定都市と同格]]」を参照'')。また、同市の指定以降、指定都市移行日は4月1日が通例となる。 * この間、[[1972年]](昭和47年)4月1日に[[札幌市]]、[[川崎市]]、[[福岡市]]が、[[1980年]](昭和55年)4月1日に[[広島市]]が、[[1989年]]([[平成]]元年)4月1日に[[仙台市]]が、[[1992年]](平成4年)4月1日に[[千葉市]]が指定都市となる。 * [[2001年]](平成13年)[[8月30日]]:市町村合併支援プラン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/sityouson/dai3/830plan.html|title=市町村合併支援プラン|accessdate=2007-05-10|date=2001-08-30|author=市町村合併支援本部|publisher=首相官邸}}</ref>を決定。[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|市町村合併]]を進める国の方針に従い、[[2005年]](平成17年)[[3月]]までに大規模な合併をした自治体に限って、人口要件の運用基準を緩和する方針(''「[[#期間限定措置]]」を参照'')が打ち出された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/sityouson/|title=市町村合併支援本部|accessdate=2007-05-10|publisher=首相官邸}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)4月1日:[[さいたま市]]が指定都市となる(''「[[#先行指定都市と同格]]」を参照'')。 * 市町村合併支援プランによる緩和措置に基いて、[[2005年]](平成17年)4月1日には[[静岡市]]が、[[2006年]](平成18年)4月1日には[[堺市]]が、[[2007年]](平成19年)4月1日には[[新潟市]]および[[浜松市]]が指定都市に移行した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.okayama.jp/kikaku/seirei/ikou/kukaku/shiryou1/2gaiyou.pdf|title=II 政令指定都市制度の概要 (2)政令指定都市の要件|accessdate=2008-10-25|format=PDF|publisher=岡山市|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。 * 2005年(平成17年)[[8月31日]]:新市町村合併支援プラン<ref>{{Cite web|和書|author=市町村合併支援本部|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/sityouson/dai9/831plan.pdf|title=新市町村合併支援プラン|accessdate=2007-05-10|date=2005-08-31|format=PDF|publisher=首相官邸}}</ref>を決定。当プランにおいても、[[2010年]](平成22年)[[3月]]まで人口要件の[[弾力運用]]が継続延長されることになった。 * 新市町村合併支援プランによる緩和措置に基いて、[[2009年]](平成21年)4月1日には[[岡山市]]が、[[2010年]](平成22年)4月1日には[[相模原市]]が、[[2012年]](平成24年)4月1日には[[熊本市]]が指定都市に移行した。 == 要件 == 地方自治法第252条の19が定める指定要件は「'''政令で指定する人口50万人以上の市'''」である。明文の要件は「人口50万人」のみであるが、[[総務省]]は「立法の経緯、特例を設けた趣旨から、人口その他の都市としての規模、行財政能力等において既存の指定都市と同等の実態を有するとみられる都市」を指定するとしており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.soumu.go.jp/main_content/000088886.pdf|title=指定都市制度の概要|accessdate=2011-10-19|format=PDF|publisher=総務省|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110323110419/http://www.soumu.go.jp/main_content/000088886.pdf|archivedate=2011-03-23|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>、指定は国の裁量に委ねられていることから、人口50万人を越えていても指定されない市は多い。これに対し自治体からは人口50万人のみを要件とすべきとの意見も出されている<ref name="gifu">{{Cite web|和書|url=http://www.city.gifu.lg.jp/c/02020211/02020211.html|title=政令指定都市構想|date=2008-10-31|accessdate=2011-10-19|publisher=岐阜市|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110926214447/http://www.city.gifu.lg.jp/c/02020211/02020211.html|archivedate=2011-09-26|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。 以下では、国の運用基準としての指定要件について記載する。 === 人口要件 === 指定都市になるための人口{{Refnest|name="法定人口"|地方自治法<ref name="法令-指定政令" />第254条“この法律における人口は、官報で公示された最近の国勢調査又はこれに準ずる全国的な人口調査の結果による人口による。”}}要件は、50万人以上。しかし、実際の運用基準として、以下のものが並立して存在するとされる<ref name="konwakai">{{Cite report|author="大都市"にふさわしい行財政制度のあり方についての懇話会|date=Mar 2009|title=大都市"にふさわしい行財政制度のあり方についての報告書|url=http://www.siteitosi.jp/research/international/pdf/konwakai_090317.pdf|publisher=指定都市市長会|format=PDF|accessdate=2013-01-19}}</ref>。 # [[五大都市]]を基礎にする市 # 先行指定都市と同格の人口を擁する市 # ('''期間限定''')[[日本の市町村の廃置分合|市町村合併]]をした自治体に対する運用基準緩和措置 以下に記載する人口は、指定日直近の法定人口<ref name="法定人口" />(合併市町村を含む[[国勢調査]]人口)。なお、比較のため、指定前年に国勢調査がなかった場合に限り、指定前年10月1日の[[推計人口]]({{Color|green|緑字}})も付記する。 ==== 五大都市 ==== 1956年(昭和31年)において、地方自治法上の有資格市(法定人口50万人以上の市)には、戦前から区制をしいている五大都市、および、区制をしいていない[[福岡市]](54.4万人)の計6市が存在した(''「[[都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位]]」を参照'')<ref name="Soumu30th">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000145111.pdf|title=第30次地方制度調査会諮問事項「大都市制度のあり方」関連資料|accessdate=2014-03-10|format=PDF|publisher=総務省}}</ref>。しかし、制度創設経緯から、五大都市のみが指定都市に移行した<ref name="konwakai"/><ref name="Soumu30th"/>。 * [[1956年]](昭和31年)[[9月1日]]、五大都市である[[大阪市]](254.7万人)、[[名古屋市]](133.7万人)、[[京都市]](120.4万人)、[[横浜市]](114.4万人)、[[神戸市]](97.9万人)が指定都市移行。 神戸市は、推計人口では[[1939年]](昭和14年)に100万人に達したが、法定人口では[[1940年]](昭和15年)実施の国勢調査で96.7万人となり100万人には達しなかった<ref name="KobeStats">{{Cite web|和書|format=XLS|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/data/statistics/toukei/toukeisho/87data/87-03jinko.xls|title=「3 人口」統計表|accessdate=2013-01-19|publisher=神戸市|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130512173307/http://www.city.kobe.lg.jp/information/data/statistics/toukei/toukeisho/87data/87-03jinko.xls|archivedate=2013-05-12|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。その後、[[第二次世界大戦]]の激化や[[神戸大空襲]]により推計人口は30万人台にまで落ち込んだが、戦後に周辺自治体と合併して、指定都市となった翌月の1956年(昭和31年)10月1日に、推計人口で100万人に達した<ref name="KobeStats"/><ref>{{Cite web|和書|author=都市計画総局|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/about/energy/rekishi/index.html|title=人口及び市域面積の推移|accessdate=2011-03-24|publisher=神戸市}}</ref>。ただし、法定人口で100万人を超えたのは[[1960年]](昭和35年)の国勢調査が初である<ref name="KobeStats"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/data/statistics/toukei/kokutyou/22data/22koku1jinkoukihon_kiji.pdf|title=平成22年国勢調査 -人口等基本集計結果-|accessdate=2013-01-19|format=PDF|publisher=神戸市}}</ref>。このため、五大都市以外に制度の適用を広げる際には、神戸市を先例として、「'''おおむね100万人以上の人口'''」が運用基準とみなされた<ref name="konwakai"/>。 ==== 先行指定都市と同格 ==== * [[1963年]](昭和38年)4月1日、[[北九州市]](98.6万人。{{Color|green|102.3万人}})が指定都市移行。 * [[1972年]](昭和47年)4月1日、[[札幌市]](101.0万人。{{Color|green|105.2万人}})、[[川崎市]](97.3万人。{{Color|green|98.3万人}})、[[福岡市]](86.2万人。{{Color|green|88.5万人}})が指定都市移行。 これ以降、福岡市を先例として、「'''人口100万以上、または、近い将来人口100万人を超える見込みの80万人以上の人口'''」が運用基準とみなされた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.suishinkyo.jp/seirei/wakaru1.html|title=政令指定都市とは?|accessdate=2007-05-10|publisher=堺市指定都市推進協議会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070520062345/http://www.suishinkyo.jp/seirei/wakaru1.html|archivedate=2007-05-20|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/gap-sui/gappei/gap-9-2.htm|title=政令指定都市の概要|accessdate=2007-05-10|publisher=高崎市|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081212020819/http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/gap-sui/gappei/gap-9-2.htm|archivedate=2008-12-12|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。ただし、北九州市は[[2005年]](平成17年)[[1月1日]]推計人口から100万人を下回り続けており、2023年10月1日時点の推計人口は'''916,241人'''である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kitakyushu.lg.jp/soumu/file_0373.html|title=推計人口、及び推計人口異動状況(Excel版)|accessdate=2023-12-14|publisher=北九州市}}</ref>。詳しくは''「[[日本の市の人口順位]]」を参照''。 * [[1980年]](昭和55年)4月1日に[[広島市]](85.3万人。{{Color|green|88.7万人}})が指定都市移行。 * [[1989年]](平成元年)4月1日に[[仙台市]](85.7万人。{{Color|green|89.8万人}})が指定都市移行。 * [[1992年]](平成4年)4月1日に[[千葉市]](82.9万人。{{Color|green|83.5万人}})が指定都市移行。 * [[2003年]](平成15年)4月1日に[[さいたま市]](102.4万人。{{Color|green|104.6万人}})が指定都市移行。なお、期間限定措置実施中の移行だが、従来の政令指定都市の運用基準で移行している。 これら4市のうち、千葉市以外は人口100万人を突破し現在も維持し続けている。なお、千葉市の2023年10月1日時点の推計人口は'''979,532人'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/kikaku/tokei/jinkou.html#suijin|title=推計人口|accessdate=2023-12-14|publisher=千葉市}}</ref>。詳しくは''「[[日本の市の人口順位]]」を参照''。 ==== 期間限定措置 ==== [[日本の市町村の廃置分合|平成の大合併]]に際して[[2010年]](平成22年)3月までに市町村合併を行った自治体には、期間限定で運用基準の緩和がなされた(''「[[#戦後|沿革]]」を参照'')<ref>{{Cite news|url=http://kumanichi.com/news/local/main/20111018003.shtml|title=熊本市の「政令市」決定 来年4月1日移行|date=2011-10-18|accessdate=2011-10-19|newspaper=熊本日日新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111018233520/http://kumanichi.com/news/local/main/20111018003.shtml|archivedate=2011年10月18日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。ただし、どの程度の緩和がなされるか具体的に明記されなかった。 ; 2001年の市町村合併支援プランによる指定都市 :* [[2005年]](平成17年)4月1日に[[静岡市]](70.7万人。{{Color|green|70.2万人}})が指定都市移行。 : 静岡市は、指定都市史上初めて「近い将来100万人を超える見込みがない<ref name="IPSS">{{Cite web|和書|url=http://www.ipss.go.jp/pp-shicyoson/j/shicyoson03/t-page/top.asp|title=日本の市区町村別将来推計人口(平成15年12月推計)|accessdate=2007-05-14|publisher=国立社会保障・人口問題研究所}}</ref>」かつ「80万人を下回る人口」という状況で移行した。これ以降、静岡市を先例として、当措置の人口要件は「'''70万人以上の人口'''」のみであると見られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/content/web/shicho/kiji_detail.asp?LS=61&ID=736&pg=3&sort=0|title=市長講演記録「政令指定都市に関する懇談会」卓話(農業5団体)|accessdate=2010-04-07|publisher=熊本市|archiveurl=https://archive.is/U371|archivedate=2012-07-30|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。 :* [[2006年]](平成18年)4月1日に[[堺市]](83.1万人)が指定都市移行。 :* [[2007年]](平成19年)4月1日に[[新潟市]](81.4万人。{{Color|green|81.3万人}})、[[浜松市]](80.4万人。{{Color|green|80.7万人}})が指定都市移行。 ; 2005年の新市町村合併支援プランによる指定都市 :* [[2009年]](平成21年)[[4月1日]]に[[岡山市]](69.6万人。{{Color|green|70.2万人}})が指定都市移行。 : 岡山市は、指定都市史上初めて「70万人を下回る法定人口」という状況で移行した。これ以降、岡山市を先例として「'''70万人程度の人口'''」があれば指定都市になれると見られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/CONTENT/WEB/asp/kiji_detail.asp?ID=6049&mid=4&LS=186|title=政令指定都市をめざして|accessdate=2011-10-19|publisher=熊本市|archiveurl=https://archive.is/deaa|archivedate=2012-08-04|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。 :* [[2010年]](平成22年)4月1日に[[相模原市]](70.2万人。{{Color|green|71.2万人}})が指定都市移行。 :* [[2012年]](平成24年)4月1日に[[熊本市]](73.4万人。{{Color|green|73.6万人}})が指定都市移行。 : 以上、当措置で指定都市となった7市は全て近い将来100万人を超える見込みがない<ref name="IPSS"/>。 なお、静岡市は[[2017年]](平成29年)[[4月1日]]推計人口から70万人を下回り続けている(2023年10月1日時点の推計人口は'''677,286人''')<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.shizuoka.lg.jp/000_001588_00002.html|title=月別人口データ(静岡市の人口・世帯数)|accessdate=2023-12-14|publisher=静岡市}}</ref>が、総務省は「政令市の指定取り消しはない」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20170408/k00/00m/040/087000c|title=静岡市 4月現在の推計人口70万人割る 政令市で初|accessdate=2020-10-03|publisher=[[毎日新聞]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/920152.html|title=静岡市、人口70万人割れ 2020年国勢調査、再び政令市最少|accessdate=2021-06-26|publisher=[[静岡新聞]]}}</ref>。 === 行政能力要件 === 都市機能や行財政能力については特に法令で規定されていないが、これまで指定都市に指定された都市では主に次のような要件を満たしており、これに遜色ない条件を満たす必要があるとされる<ref name="youken" />。 # 第1次産業就業者比率が10%以下であること # 都市的形態、機能を備えていること # 移譲事務処理能力を備えていること # 行政区の設置、区の事務を処理する体制が整っていること # 指定都市移行に関して県と市の意見が一致していること === 手続き要件 === 指定都市移行の手続きは特に法令で規定されていないが、これまで指定都市に指定された都市では主に次のような手続きを経た上で、指定がなされている。 # 市議会で指定都市に関する意見書を議決 # 知事や県議会に対し、指定都市の実現への要望書を提出 # 県議会で指定都市に関する意見書を議決 # [[総務大臣]]に対し、指定都市の実現への要望書を提出 # 関係省庁との協議 # 指定都市移行の[[閣議決定]] # 政令の公布 == 政令指定都市一覧 == {| class="wikitable sortable"style="width:150%" style="font-size:75%" |- ! 地域 ! 道府県 ! 市名 ! 市章 ! 市旗 ! 推計人口<br/>(人) !DID人口<br/>(人) ! 面積<br/>(km<sup>2</sup>) ! 市街地面積<br/>(km<sup>2</sup>) ! 人口密度<br/>(人/km<sup>2</sup>) ! DID人口密度<br/>(人/km<sup>2</sup>) ! 財政力指数 ! 企業数<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chusho.meti.go.jp/koukai/chousa/chu_kigyocnt/181130kigyou2.xlsx|title=都道府県・大都市別企業数、常用雇用者数、従業者数|accessdate=2020/11/09|publisher=中小企業庁}}</ref> ! 施行日 ! 行政区<ref group="†">'''太字'''の行政区は市役所がある区を示す。</ref> |- | style="text-align:center;"| [[北海道]] | style="text-align:center;"| 北海道 | style="text-align:center;"| '''[[札幌市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Symbol of Sapporo, Hokkaido.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Sapporo,_Hokkaido.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/北海道|札幌市}}}} |1,812,362 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/北海道|札幌市}}}} |250.2 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/北海道|札幌市}}/{{自治体面積/北海道|札幌市}}round0}}}} |7,966.4 |0.72 |47,412 | style="text-align:center;"| 1972年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[中央区 (札幌市)|中央区]]''' * [[北区 (札幌市)|北区]] * [[東区 (札幌市)|東区]] * [[白石区]] * [[豊平区]] * [[南区 (札幌市)|南区]] * [[西区 (札幌市)|西区]] * [[厚別区]] * [[手稲区]] * [[清田区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| [[東北地方|東北]] | style="text-align:center;"| [[宮城県]] | style="text-align:center;"| '''[[仙台市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Symbol of Sendai, Miyagi.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Sendai,_Miyagi.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/宮城県|仙台市}}}} |905,139 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/宮城県|仙台市}}}} |179.6 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/宮城県|仙台市}}/{{自治体面積/宮城県|仙台市}}round0}}}} |6,951.9 |0.89 |27,183 | style="text-align:center;"| 1989年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]''' * [[宮城野区]] * [[若林区]] * [[太白区]] * [[泉区 (仙台市)|泉区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;" rowspan="5" | [[関東地方|関東]] | style="text-align:center;"| [[埼玉県]] | style="text-align:center;"| '''[[さいたま市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem_of_Saitama,_Saitama.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Saitama,_Saitama.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/埼玉県|さいたま市}}}} |1,080,130 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/埼玉県|さいたま市}}}} |117.0 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/埼玉県|さいたま市}}/{{自治体面積/埼玉県|さいたま市}}round0}}}} |9,344.5 |0.98 |26,164 | style="text-align:center;"| 2003年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[西区 (さいたま市)|西区]] * [[北区 (さいたま市)|北区]] * [[大宮区]] * [[見沼区]] * [[中央区 (さいたま市)|中央区]] * [[桜区]] * '''[[浦和区]]''' * [[南区 (さいたま市)|南区]] * [[緑区 (さいたま市)|緑区]] * [[岩槻区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| [[千葉県]] | style="text-align:center;"| '''[[千葉市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Chiba, Chiba.svg |20px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Chiba,_Chiba.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市}}}} |830,383 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/千葉県|千葉市}}}} |128.8 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/千葉県|千葉市}}/{{自治体面積/千葉県|千葉市}}round0}}}} |7,022.9 |0.95 |17,426 | style="text-align:center;"| 1992年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[中央区 (千葉市)|中央区]]''' * [[花見川区]] * [[稲毛区]] * [[若葉区]] * [[緑区 (千葉市)|緑区]] * [[美浜区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;" rowspan="3" | [[神奈川県]] | style="text-align:center;"| '''[[横浜市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Yokohama, Kanagawa.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Yokohama,_Kanagawa.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|横浜市}}}} |3,487,816 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|横浜市}}}} |331.0 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|横浜市}}/{{自治体面積/神奈川県|横浜市}}round0}}}} |10,036.3 |0.97 |77,101 | style="text-align:center;"| 1956年9月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]] * [[神奈川区]] * [[西区 (横浜市)|西区]] * '''[[中区 (横浜市)|中区]]''' * [[南区 (横浜市)|南区]] * [[港南区]] * [[保土ケ谷区]] * [[旭区 (横浜市)|旭区]] * [[磯子区]] * [[金沢区]] * [[港北区]] * [[緑区 (横浜市)|緑区]] * [[青葉区 (横浜市)|青葉区]] * [[都筑区]] * [[戸塚区]] * [[栄区]] * [[泉区 (横浜市)|泉区]] * [[瀬谷区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| '''[[川崎市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:神奈川県川崎市市章.svg|22px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Kawasaki,_Kanagawa.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市}}}} |1,316,910 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|川崎市}}}} |127.3 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|川崎市}}/{{自治体面積/神奈川県|川崎市}}round0}}}} |9,974.3 |1.00 |28,222 | style="text-align:center;"| 1972年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[川崎区]]''' * [[幸区]] * [[中原区]] * [[高津区]] * [[宮前区]] * [[多摩区]] * [[麻生区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| '''[[相模原市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:神奈川県相模原市市章.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Sagamihara,_Kanagawa.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|相模原市}}}} |640,899 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/神奈川県|相模原市}}}} |67.8 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|相模原市}}/{{自治体面積/神奈川県|相模原市}}round0}}}} |8,998.9 |0.93 |16,293 | style="text-align:center;"| 2010年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[緑区 (相模原市)|緑区]] * '''[[中央区 (相模原市)|中央区]]''' * [[南区 (相模原市)|南区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| [[北陸地方|北陸]] | style="text-align:center;"| [[新潟県]] | style="text-align:center;"| '''[[新潟市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Niigata, Niigata.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Niigata,_Niigata.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/新潟県|新潟市}}}} |579,033 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/新潟県|新潟市}}}} |128.9 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/新潟県|新潟市}}/{{自治体面積/新潟県|新潟市}}round0}}}} |5,738.7 |0.75 |23,316 | style="text-align:center;"| 2007年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[北区 (新潟市)|北区]] * [[東区 (新潟市)|東区]] * '''[[中央区 (新潟市)|中央区]]''' * [[江南区 (新潟市)|江南区]] * [[秋葉区]] * [[南区 (新潟市)|南区]] * [[西区 (新潟市)|西区]] * [[西蒲区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;" rowspan="3" | [[東海地方|東海]] | style="text-align:center;" rowspan="2" | [[静岡県]] | style="text-align:center;"| '''[[静岡市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Shizuoka, Shizuoka.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Shizuoka,_Shizuoka.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/静岡県|静岡市}}}} |621,397 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/静岡県|静岡市}}}} |104.4 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/静岡県|静岡市}}/{{自治体面積/静岡県|静岡市}}round0}}}} |6,081.4 |0.91 |25,151 | style="text-align:center;"| 2005年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[葵区]]''' * [[駿河区]] * [[清水区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| '''[[浜松市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Symbol of Hamamatsu Shizuoka chapter.svg|22px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Hamamatsu,_Shizuoka.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/静岡県|浜松市}}}} |471,949 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/静岡県|浜松市}}}} |97.9 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/静岡県|浜松市}}/{{自治体面積/静岡県|浜松市}}round0}}}} |5,604.4 |0.89 |26,165 | style="text-align:center;"| 2007年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[中央区 (浜松市)|中央区]]''' * [[浜名区]] * [[天竜区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| [[愛知県]] | style="text-align:center;"| '''[[名古屋市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Nagoya, Aichi.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Nagoya,_Aichi.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/愛知県|名古屋市}}}} |2,159,379 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/愛知県|名古屋市}}}} |302.6 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/愛知県|名古屋市}}/{{自治体面積/愛知県|名古屋市}}round0}}}} |7,889.9 |0.99 |82,369 | style="text-align:center;"| 1956年9月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[千種区]] * [[東区 (名古屋市)|東区]] * [[北区 (名古屋市)|北区]] * [[西区 (名古屋市)|西区]] * [[中村区]] * '''[[中区 (名古屋市)|中区]]''' * [[昭和区]] * [[瑞穂区]] * [[熱田区]] * [[中川区]] * [[港区 (名古屋市)|港区]] * [[南区 (名古屋市)|南区]] * [[守山区]] * [[緑区 (名古屋市)|緑区]] * [[名東区]] * [[天白区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;" rowspan="4" | [[近畿地方|近畿]] | style="text-align:center;"| [[京都府]] | style="text-align:center;"| '''[[京都市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Kyoto, Kyoto.svg|22px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Kyoto_City.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市}}}} |1,387,532 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市}}}} |149.9 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市}}/{{自治体面積/京都府|京都市}}round0}}}} |9,903.9 |0.79 |52,918 | style="text-align:center;"| 1956年9月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[北区 (京都市)|北区]] * [[上京区]] * [[左京区]] * '''[[中京区]]''' * [[東山区]] * [[下京区]] * [[南区 (京都市)|南区]] * [[右京区]] * [[伏見区]] * [[山科区]] * [[西京区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;" rowspan="2" | [[大阪府]] | style="text-align:center;"| '''[[大阪市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Osaka, Osaka.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Osaka,_Osaka.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/大阪府|大阪市}}}} |2,628,312 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/大阪府|大阪市}}}} |211.5 | style="text-align:center;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/大阪府|大阪市}}/{{自治体面積/大阪府|大阪市}}round0}}}} |11,857.4 |0.92 |133,454 | style="text-align:center;"| 1956年9月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[都島区]] * [[福島区]] * [[此花区]] * [[西区 (大阪市)|西区]] * [[港区 (大阪市)|港区]] * [[大正区]] * [[天王寺区]] * [[浪速区]] * [[西淀川区]] * [[東淀川区]] * [[東成区]] * [[生野区]] * [[旭区 (大阪市)|旭区]] * [[城東区]] * [[阿倍野区]] * [[住吉区]] * [[東住吉区]] * [[西成区]] * [[淀川区]] * [[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]] * [[住之江区]] * [[平野区]] * '''[[北区 (大阪市)|北区]]''' * [[中央区 (大阪市)|中央区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| '''[[堺市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Sakai, Osaka.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Sakai,_Osaka.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/大阪府|堺市}}}} |794,924 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/大阪府|堺市}}}} |109.3 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/大阪府|堺市}}/{{自治体面積/大阪府|堺市}}round0}}}} |7,557.7 |0.84 |21,290 | style="text-align:center;"| 2006年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[堺区]]''' * [[中区 (堺市)|中区]] * [[東区 (堺市)|東区]] * [[西区 (堺市)|西区]] * [[南区 (堺市)|南区]] * [[北区 (堺市)|北区]] * [[美原区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| [[兵庫県]] | style="text-align:center;"| '''[[神戸市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Kobe, Hyogo.svg|22px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Kobe.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市}}}} |1,409,454 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/兵庫県|神戸市}}}} |203.7 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/兵庫県|神戸市}}/{{自治体面積/兵庫県|神戸市}}round0}}}} |9,536.2 |0.79 |47,517 | style="text-align:center;"| 1956年9月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[東灘区]] * [[灘区]] * [[兵庫区]] * [[長田区]] * [[須磨区]] * [[垂水区]] * [[北区 (神戸市)|北区]] * '''[[中央区 (神戸市)|中央区]]''' * [[西区 (神戸市)|西区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;" rowspan="2" | [[中国地方|中国]] | style="text-align:center;"| [[岡山県]] | style="text-align:center;"| '''[[岡山市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Okayama, Okayama.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Okayama,_Okayama.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/岡山県|岡山市}}}} |454,902 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/岡山県|岡山市}}}} |103.9 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/岡山県|岡山市}}/{{自治体面積/岡山県|岡山市}}round0}}}} |5,797.9 |0.79 |20,887 | style="text-align:center;"| 2009年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[北区 (岡山市)|北区]]''' * [[中区 (岡山市)|中区]] * [[東区 (岡山市)|東区]] * [[南区 (岡山市)|南区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| [[広島県]] | style="text-align:center;"| '''[[広島市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Hiroshima, Hiroshima.svg|22px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Hiroshima,_Hiroshima.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/広島県|広島市}}}} |1,004,506 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/広島県|広島市}}}} |159.8 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/広島県|広島市}}/{{自治体面積/広島県|広島市}}round0}}}} |7,436.9 |0.83 |34,596 | style="text-align:center;"| 1980年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[中区 (広島市)|中区]]''' * [[東区 (広島市)|東区]] * [[南区 (広島市)|南区]] * [[西区 (広島市)|西区]] * [[安佐南区]] * [[安佐北区]] * [[安芸区]] * [[佐伯区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;" rowspan="3" | [[九州]] | style="text-align:center;" rowspan="2" | [[福岡県]] | style="text-align:center;"| '''[[北九州市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Symbol of Kitakyushu, Fukuoka.svg|22px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Kitakyushu,_Fukuoka.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| 939,622 |888,161 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/福岡県|北九州市}}}} |204.4 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/福岡県|北九州市}}/{{自治体面積/福岡県|北九州市}}round0}}}} |5,667.2 |0.72 |29,486 | style="text-align:center;"| 1963年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[門司区]] * [[若松区]] * [[戸畑区]] * '''[[小倉北区]]''' * [[小倉南区]] * [[八幡東区]] * [[八幡西区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| '''[[福岡市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Fukuoka, Fukuoka.svg|23px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag of Fukuoka City.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/福岡県|福岡市}}}} |1,343,902 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/福岡県|福岡市}}}} |162.7 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/福岡県|福岡市}}/{{自治体面積/福岡県|福岡市}}round0}}}} |8,936.7 |0.88 |43,811 | style="text-align:center;"| 1972年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * [[東区 (福岡市)|東区]] * [[博多区]] * '''[[中央区 (福岡市)|中央区]]''' * [[南区 (福岡市)|南区]] * [[西区 (福岡市)|西区]] * [[城南区]] * [[早良区]] {{hidden end}} |- | style="text-align:center;"| [[熊本県]] | style="text-align:center;"| '''[[熊本市]]''' | style="text-align:center;"| [[File:Emblem of Kumamoto, Kumamoto.svg|20px]] | style="text-align:center;"| [[File:Flag_of_Kumamoto,_Kumamoto.svg|border|50x50px]] | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体人口/熊本県|熊本市}}}} |556,186 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{自治体面積/熊本県|熊本市}}}} |107.3 | style="text-align:center;"| {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/熊本県|熊本市}}/{{自治体面積/熊本県|熊本市}}round0}}}} |6,675.3 |0.70 |21,002 | style="text-align:center;"| 2012年4月1日 | style="text-align:center;"| {{hidden begin}} * '''[[中央区 (熊本市)|中央区]]''' * [[東区 (熊本市)|東区]] * [[西区 (熊本市)|西区]] * [[南区 (熊本市)|南区]] * [[北区 (熊本市)|北区]] {{hidden end}} |} == 統計比較 == === 面積・人口・市内総生産 === * 北海道および札幌市のみ[[登録人口]]。それ以外は[[推計人口]]。 * 「集積度」は、各市の人口が所属道府県の人口に占める割合。 * 市内総生産(生産側)(名目、実質:連鎖方式)および1人当たり市民所得は2013年度(平成25年度)の値<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/kenmin/kenmin_top.html|title=県民経済計算|accessdate=2016-07-22|publisher=内閣府}}</ref>。発表している15市のみ記載。(''「[[県民経済計算]]」を参照'') {| class="wikitable sortable" style="font-size:small; text-align:right" |+ 面積・人口・市内総生産 |- style="line-height:1.25em; white-space:nowrap" !scope="col" rowspan="2" class="unsortable" | 市 !scope="col" rowspan="2" class="unsortable" | 道府県 !scope="col" rowspan="2" | 面積([[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]) !scope="col" colspan="3" | 人口 !scope="col" colspan="2" | 市内総生産(兆円) !scope="col" rowspan="2" | 1人当たり<br />市民所得(万円) |- !scope="col" | 総人口 !scope="col" | 集積度 !scope="col" | 統計日 !scope="col" | 名目 !scope="col" | 実質 |- !scope="row" | {{Display none|01/}}札幌市 | style="text-align:center" | 北海道 | 1,121.12 | {{formatnum:{{自治体人口/北海道|札幌市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/北海道|札幌市}} / {{自治体人口/北海道|北海道}} round 1}} % | {{自治体人口/北海道|date}} | 6.4896 | 6.7081 | 262.3 |- !scope="row" | {{Display none|04/}}仙台市 | style="text-align:center" | 宮城県 | 788.09 | {{formatnum:{{自治体人口/宮城県|仙台市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/宮城県|仙台市}} / {{自治体人口/宮城県|宮城県}} round 1}} % | {{自治体人口/宮城県|date}} | 4.8904 | 5.1725 | 363.1 |- !scope="row" | {{Display none|11/}}さいたま市 | style="text-align:center" | 埼玉県 | 217.49 | {{formatnum:{{自治体人口/埼玉県|さいたま市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/埼玉県|さいたま市}} / {{自治体人口/埼玉県|埼玉県}} round 1}} % | {{自治体人口/埼玉県|date}} | 4.0464 | 4.2427 | 314.3 |- !scope="row" | {{Display none|12/}}千葉市 | style="text-align:center" | 千葉県 | 272.08 | {{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/千葉県|千葉市}} / {{自治体人口/千葉県|千葉県}} round 1}} % | {{自治体人口/千葉県|date}} | 3.4722 | 3.5948 | 306.5 |- !scope="row" | {{Display none|14-01/}}横浜市 | style="text-align:center" rowspan="3" | 神奈川県 | 437.38 | {{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|横浜市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/神奈川県|横浜市}} / {{自治体人口/神奈川県|神奈川県}} round 1}} % | {{自治体人口/神奈川県|date}} | 12.3399 | 13.1773 | 303.2 |- !scope="row" | {{Display none|14-02/}}川崎市 | 144.35 | {{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|川崎市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/神奈川県|川崎市}} / {{自治体人口/神奈川県|神奈川県}} round 1}} % | {{自治体人口/神奈川県|date}} | 5.1386 | 5.5059 | 305.6 |- !scope="row" | {{Display none|14-03/}}相模原市 | 328.84 | {{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|相模原市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/神奈川県|相模原市}} / {{自治体人口/神奈川県|神奈川県}} round 1}} % | {{自治体人口/神奈川県|date}} | | | |- !scope="row" | {{Display none|15/}}新潟市 | style="text-align:center" | 新潟県 | 726.10 | {{formatnum:{{自治体人口/新潟県|新潟市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/新潟県|新潟市}} / {{自治体人口/新潟県|新潟県}} round 1}} % | {{自治体人口/新潟県|date}} | 3.1300 | 3.2423 | 285.0 |- !scope="row" | {{Display none|22-01/}}静岡市 | style="text-align:center" rowspan="2" | 静岡県 | 1,388.78 | {{formatnum:{{自治体人口/静岡県|静岡市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/静岡県|静岡市}} / {{自治体人口/静岡県|静岡県}} round 1}} % | {{自治体人口/静岡県|date}} | | | |- !scope="row" | {{Display none|22-02/}}浜松市 | 1,511.17 | {{formatnum:{{自治体人口/静岡県|浜松市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/静岡県|浜松市}} / {{自治体人口/静岡県|静岡県}} round 1}} % | {{自治体人口/静岡県|date}} | | | |- !scope="row" | {{Display none|23/}}名古屋市 | style="text-align:center" | 愛知県 | 326.45 | {{formatnum:{{自治体人口/愛知県|名古屋市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/愛知県|名古屋市}} / {{自治体人口/愛知県|愛知県}} round 1}} % | {{自治体人口/愛知県|date}} | 12.3193 | 12.9126 | 338.6 |- !scope="row" | {{Display none|26/}}京都市 | style="text-align:center" | 京都府 | 827.90 | {{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/京都府|京都市}} / {{自治体人口/京都府|京都府}} round 1}} % | {{自治体人口/京都府|date}} | 6.0740 | 6.3991 | 331.0 |- !scope="row" | {{Display none|27-01/}}大阪市 | style="text-align:center" rowspan="2" | 大阪府 | 222.30 | {{formatnum:{{自治体人口/大阪府|大阪市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/大阪府|大阪市}} / {{自治体人口/大阪府|大阪府}} round 1}} % | {{自治体人口/大阪府|date}} | 18.7361 | 19.4263 | |- !scope="row" | {{Display none|27-02/}}堺市 | 149.99 | {{formatnum:{{自治体人口/大阪府|堺市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/大阪府|堺市}} / {{自治体人口/大阪府|大阪府}} round 1}} % | {{自治体人口/大阪府|date}} | | | |- !scope="row" | {{Display none|28/}}神戸市 | style="text-align:center" | 兵庫県 | 552.80 | {{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|神戸市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/兵庫県|神戸市}} / {{自治体人口/兵庫県|兵庫県}} round 1}} % | {{自治体人口/兵庫県|date}} | 6.1044 | 6.5167 | 298.1 |- !scope="row" | {{Display none|33/}}岡山市 | style="text-align:center" | 岡山県 | 789.91 | {{formatnum:{{自治体人口/岡山県|岡山市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/岡山県|岡山市}} / {{自治体人口/岡山県|岡山県}} round 1}} % | {{自治体人口/岡山県|date}} | 2.6545 | 2.7784 | 273.9 |- !scope="row" | {{Display none|34/}}広島市 | style="text-align:center" | 広島県 | 905.13 | {{formatnum:{{自治体人口/広島県|広島市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/広島県|広島市}} / {{自治体人口/広島県|広島県}} round 1}} % | {{自治体人口/広島県|date}} | 4.9773 | 5.1735 | 312.1 |- !scope="row" | {{Display none|40-01/}}北九州市 | style="text-align:center" rowspan="2" | 福岡県 | 487.71 | 939,622 | {{ #expr: 100*{{自治体人口/福岡県|北九州市}} / {{自治体人口/福岡県|福岡県}} round 1}} % | {{自治体人口/福岡県|date}} | 3.3659 | 3.5061 | 270.2 |- !scope="row" | {{Display none|40-02/}}福岡市 | 340.96 | {{formatnum:{{自治体人口/福岡県|福岡市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/福岡県|福岡市}} / {{自治体人口/福岡県|福岡県}} round 1}} % | {{自治体人口/福岡県|date}} | 6.4619 | 6.6874 | 312.0 |- !scope="row" | {{Display none|43/}}熊本市 | style="text-align:center" | 熊本県 | 389.53 | {{formatnum:{{自治体人口/熊本県|熊本市}}}} | {{ #expr: 100*{{自治体人口/熊本県|熊本市}} / {{自治体人口/熊本県|熊本県}} round 1}} % | {{自治体人口/熊本県|date}} | | | |} {| class="wikitable sortable" style="font-size:small; text-align:right; background-color:#ffffcc" |+ 同一府県にある政令指定都市 |- style="line-height:1.25em; white-space:nowrap" !scope="col" rowspan="2" class="unsortable" | 市 !scope="col" rowspan="2" class="unsortable" | 道府県 !scope="col" rowspan="2" | 面積 !scope="col" colspan="3" | 人口 |- !scope="col" | 総人口 !scope="col" | 集積度 !scope="col" | 統計日 |- !scope="row" | {{Display none|14/}}横浜市 + 川崎市 + 相模原市 | style="text-align:center" | 神奈川県 | 910.57 | {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/神奈川県|横浜市}}+{{自治体人口/神奈川県|川崎市}}+{{自治体人口/神奈川県|相模原市}}}}}} 人 | {{ #expr: 100*({{自治体人口/神奈川県|横浜市}}+{{自治体人口/神奈川県|川崎市}}+{{自治体人口/神奈川県|相模原市}}) / {{自治体人口/神奈川県|神奈川県}} round 1}} % | {{自治体人口/神奈川県|date}} |- !scope="row" | {{Display none|22/}}静岡市 + 浜松市 | style="text-align:center" | 静岡県 | 2,899.95 | {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/静岡県|静岡市}}+{{自治体人口/静岡県|浜松市}}}}}} 人 | {{ #expr: 100*({{自治体人口/静岡県|静岡市}}+{{自治体人口/静岡県|浜松市}}) / {{自治体人口/静岡県|静岡県}} round 1}} % | {{自治体人口/静岡県|date}} |- !scope="row" | {{Display none|27/}}大阪市 + 堺市 | style="text-align:center" | 大阪府 | 372.29 | {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/大阪府|大阪市}}+{{自治体人口/大阪府|堺市}}}}}} 人 | {{ #expr: 100*({{自治体人口/大阪府|大阪市}}+{{自治体人口/大阪府|堺市}}) / {{自治体人口/大阪府|大阪府}} round 1}} % | {{自治体人口/大阪府|date}} |- !scope="row" | {{Display none|40/}}北九州市 + 福岡市 | style="text-align:center" | 福岡県 | 828.67 | {{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/福岡県|北九州市}}+{{自治体人口/福岡県|福岡市}}}}}} 人 | {{ #expr: 100*({{自治体人口/福岡県|北九州市}}+{{自治体人口/福岡県|福岡市}}) / {{自治体人口/福岡県|福岡県}} round 1}} % | {{自治体人口/福岡県|date}} |} ===人口順位=== * [[推計人口]]による順位などは、各項目名にあるボタンを[[クリック (マウス)|クリック]]することで得られる。 * 人口の単位は「人」。 {| |- |style="vertical-align:top;"| {|class="wikitable sortable" style="font-size:90%;" !順<br/>位<br/>!!道<br/>府県<br/>!!市!!法定人口<br/>(人)!!推計人口<br/>(人)!!増減率<br/>(%)!!種別<br/>!!推計人口の<br/>統計年月日 {{citypop|1|神奈川県|横浜市|3777491|政令指定都市}} {{citypop|2|大阪府|大阪市|2752412|政令指定都市}} {{citypop|3|愛知県|名古屋市|2332176|政令指定都市}} {{citypop|4|北海道|札幌市|1973395|政令指定都市}} {{citypop|5|福岡県|福岡市|1612392|政令指定都市}} {{citypop|6|神奈川県|川崎市|1538262|政令指定都市}} {{citypop|7|兵庫県|神戸市|1525152|政令指定都市}} {{citypop|8|京都府|京都市|1463723|政令指定都市}} {{citypop|9|埼玉県|さいたま市|1324025|政令指定都市}} {{citypop|10|広島県|広島市|1200754|政令指定都市}} {{citypop|11|宮城県|仙台市|1096704|政令指定都市}} {{citypop|12|千葉県|千葉市|974951|政令指定都市}} {{citypop|13|福岡県|北九州市|939029|政令指定都市}} {{citypop|14|大阪府|堺市|826161|政令指定都市}} {{citypop|15|静岡県|浜松市|790718|政令指定都市}} {{citypop|16|新潟県|新潟市|789275|政令指定都市}} {{citypop|17|熊本県|熊本市|738865|政令指定都市}} {{citypop|18|神奈川県|相模原市|725493|政令指定都市}} {{citypop|19|岡山県|岡山市|724691|政令指定都市}} {{citypop|20|静岡県|静岡市|693389|政令指定都市}} |} |} === 財政 === 指定都市各市の[[2013年]]度(平成25年度)の財政規模は以下の通り(市債残高は年度末の値{{Refnest|group="†"|『大都市比較統計年表(平成25年)』(横浜市)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/stat/daitoshi/ |title=大都市比較統計年表(平成25年) |accessdate=2016-02-18 |website=横浜市統計ポータルサイト}}</ref>の「XX 財政」から、「歳入」は「6.普通会計歳入歳出決算額(1)歳入」の「総額」、「歳出」は「6.普通会計歳入歳出決算額(2)目的別歳出」の「総額」、「地方税収入」は「6.普通会計歳入歳出決算額(1)歳入」の「地方税」、「市債残高」は「5.地方債現在高(1)会計別」の「総額」より。}})。市民一人当たり市債現在高は、本項目の市債現在高から最新の推計人口で割って算出<ref group="†">ここで用いた市債現在高は、千万円の桁を四捨五入して計算。</ref>。 {| class="wikitable sortable" style="font-size:small; text-align: right;" |+ 財政 |-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;" !scope="col" |市名 !scope="col" style="vertical-align:bottom;"|歳入 (A)<br>(千円) !scope="col" style="vertical-align:bottom;"|歳出<br>(千円) !scope="col" style="vertical-align:bottom;"|地方税収入 (B)<br>(千円) !scope="col" |B/A !scope="col" style="vertical-align:bottom;"|市債現在高<br>(千円) !scope="col" style="padding-right:0px" |市民一人当たり<div style="text-align:left">市債現在高</div>(万円) |- !scope="row" | {{Display none|01/}}札幌市 |850,815,653||840,973,691||279,543,903||32.9%||1,854,609,012||{{#expr:18546 / {{自治体人口/北海道|札幌市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|04/}}仙台市 |577,186,793||539,894,283||175,904,623||30.5%||1,358,347,749||{{#expr:13583 / {{自治体人口/宮城県|仙台市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|11/}}さいたま市 |448,840,998||433,500,182||219,191,295||48.8%||692,987,535||{{#expr:6930 / {{自治体人口/埼玉県|さいたま市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|12/}}千葉市 |366,466,835||363,314,502||172,107,793||47.0%||1,045,303,312||{{#expr:10453 / {{自治体人口/千葉県|千葉市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|14-01/}}川崎市 |584,106,319||579,458,416||288,988,743||49.5%||1,507,463,481||{{#expr:15075 / {{自治体人口/神奈川県|川崎市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|14-02/}}横浜市 |1,598,029,363||1,558,218,510||707,362,294||44.3%||4,431,663,500||{{#expr:44317 / {{自治体人口/神奈川県|横浜市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|14-03/}}相模原市 |254,860,641||246,416,620||109,000,478||42.8%||367,810,398||{{#expr:3678 / {{自治体人口/神奈川県|相模原市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|15/}}新潟市 |370,883,110||365,485,326||118,992,952||32.1%||934,398,227||{{#expr:9344 / {{自治体人口/新潟県|新潟市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|22-01/}}静岡市 |279,775,906||269,506,052||125,668,001||44.9%||649,463,145||{{#expr:6495 / {{自治体人口/静岡県|静岡市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|22-02/}}浜松市 |288,578,705||280,152,448||126,978,628||44.0%||513,931,788||{{#expr:5139 / {{自治体人口/静岡県|浜松市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|23/}}名古屋市 |1,033,032,796||1,025,506,831||488,237,152||47.3%||3,079,221,555||{{#expr:30792 / {{自治体人口/愛知県|名古屋市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|26/}}京都市 |720,508,083||712,639,776||244,429,111||33.9%||2,149,408,461||{{#expr:21494 / {{自治体人口/京都府|京都市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|27-01/}}大阪市 |1,675,766,192||1,650,402,155||641,869,666||38.3%||4,825,790,057||{{#expr:48258 / {{自治体人口/大阪府|大阪市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|27-02/}}堺市 |340,345,277||337,368,905||131,058,924||38.5%||696,948,518||{{#expr:6969 / {{自治体人口/大阪府|堺市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|28/}}神戸市 |744,324,619||732,585,507||270,593,575||36.4%||2,187,075,200||{{#expr:21871 / {{自治体人口/兵庫県|神戸市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|33/}}岡山市 |274,090,531||265,069,699||110,008,252||40.1%||555,312,217||{{#expr:5553 / {{自治体人口/岡山県|岡山市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|34/}}広島市 |558,334,022||551,537,075||200,803,192||36.0%||1,728,313,493||{{#expr:17283 / {{自治体人口/広島県|広島市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|40-01/}}北九州市 |516,400,405||511,684,055||156,554,827||30.3%||1,379,539,962||{{#expr:13795 / {{自治体人口/福岡県|北九州市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|40-02/}}福岡市 |786,367,370||773,632,590||276,117,817||35.1%||2,418,962,608||{{#expr:24190 / {{自治体人口/福岡県|福岡市}} * 10000 round 1}} |- !scope="row" | {{Display none|43/}}熊本市 |299,360,237||294,385,551||96,099,841||32.1%||531,246,794||{{#expr:5312 / {{自治体人口/熊本県|熊本市}} * 10000 round 1}} |} ==目指している地域== === 構想段階の地域 === 市町村の合併によって、現在以下の地域が指定都市移行を目指している。しかし、[[日本の市町村の廃置分合|市町村合併]]協議の難航などにより、実現の見通しが立っていない都市が多い。また、実現可能性の高い中核市移行へ切り替え、将来的な目標として指定都市への意向を視野に入れるとしている市もある。なお、指定都市への移行を見据えた合併構想が持ち上がっている地域の多くは、都市圏(都市雇用圏など)を基礎としているが、必ずしも既存の広域行政圏とは一致しない。 ; [[埼玉県]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/gappei/|title=埼玉県の市町村合併|accessdate=2012-11-17|publisher=埼玉県|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714064632/http://www.pref.saitama.lg.jp/site/gappei/|archivedate=2014-07-14|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref> : 埼玉県庁による市町村合併推進構想の枠組み<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/1700.pdf|title=構想対象市町村の組合わせ|accessdate=2012-11-17|format=PDF|publisher=埼玉県|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140723154804/http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/1700.pdf|archivedate=2014-07-23|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>に、指定都市移行を想定した枠組みが見られる。県庁の構想による[[草加市]]・[[越谷市]]・[[八潮市]]・[[三郷市]]・[[吉川市]]・[[松伏町]]・[[春日部市]]の枠組みは人口約114万人(実際、越谷市以外と結びつきの希薄な春日部市を除いても90万人を超える)、[[川口市]]・[[蕨市]]・[[戸田市]]の枠組みは人口約78万人、[[所沢市]]・[[飯能市]]・[[狭山市]]・[[入間市]]・[[日高市]]の枠組みは人口約78万人、[[新座市]]・[[朝霞市]]・[[志木市]]・[[和光市]]・[[三芳町]]・[[富士見市]]・[[ふじみ野市]]の枠組みは人口約71万人となっているほか東京都[[清瀬市]]との越境合併も視野に入れている。 ; [[八王子市]]([[東京都]]) : [[2012年]][[1月22日]]に行われた市長選で当選した[[石森孝志]]が、市民サービス向上と自立したまちづくりの展開が出来る中核市に移行した後、政令市を目指すと公約した<ref>{{cite news|url=http://www.tamatimes.co.jp/article/11161|title=石森八王子市長に聞く|newspaper=多摩ニュータウンタイムズ|date=2012-03-22|accessdate=2011-03-22|archiveurl=https://archive.is/12GL8|archivedate=2013-05-01|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。2015年4月1日、八王子市は東京都で初めての中核市に移行した。 ; [[金沢市]]([[石川県]]) : 平成の大合併と前後して、経済界を中心に合併による指定都市移行を提唱する動きがあった{{Refnest|group="†"|「石川県 県都政令市推進経済人会議」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nsknet.or.jp/~ydp/kento/indexyup.html |title=県都政令市推進経済人会議 |accessdate=2007-06-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071221212058/http://www.nsknet.or.jp/~ydp/kento/indexyup.html |archivedate=2007-12-21 |deadlinkdate=2008-02-16}}</ref>(のち「構想いしかわ経済人会議」に移行<ref>{{Cite web|和書|url=http://kanazawa-rizityou.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_9f41.html |title=「構想いしかわ経済人会議」 |accessdate=2018-12-01 |date=2006-06-24 |website=金沢JC理事長}}</ref>)など。}}。しかし、金沢市との合併の筆頭候補に挙げられていた野々市町は単独市制を施行し[[野々市市]]となったほか、周辺市町の同意が得られない状況にある。なお、金沢市と同じ[[市外局番]]076(市内局番が200~216、218~299、800~809、890~899に限る)の地域(金沢市の他、[[かほく市]]、[[白山市]]、野々市市、[[内灘町]]、[[津幡町]]、[[川北町]])の合計人口は約72万人。また、[[金沢都市圏]]と一体性のある[[小松市|小松都市圏]](''「[[金沢都市圏]]」を参照'')を合わせた人口は約87万人となる(この枠組みでは、石川県の人口約117万人の4分の3)。 ; [[姫路市]]([[兵庫県]]) : [[2006年]](平成18年)[[3月27日]]に[[家島町]]、[[夢前町]]、[[香寺町]]、[[安富町]]を編入合併、合併後の人口は53万人となった。同市では、指定都市の法定の人口要件である50万人を適用しての指定都市移行を国に要望するとともに、今後も周辺自治体との協議を進める方針を打ち出した。[[姫路都市圏]]の人口は約74万人。[[2011年]](平成23年)4月には、[[石見利勝]]・姫路市長(当時)が「政令市を目指す」との公約を掲げて3選を果たし、当選直後に[[加古川市]]に対し合併を働きかける意向を表明した<ref name="himeji1">{{Cite news|title=石見・姫路市長:加古川市と合併を 「政令市を目指す」--会見で意向|newspaper=毎日新聞 兵庫版|date=2011-04-26|url=http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20110426ddlk28010410000c.html|accessdate=2011-05-14}}{{リンク切れ|date=2018年11月}}</ref>。同市と合併した場合、人口約80万人になる。一方、[[たつの市]]と[[相生市]]にも半年前に合併を打診したことを明らかにした<ref name="himeji2">{{Cite news|title=石見・姫路市長:政令市実現へ合併打診 たつのと相生市長に|newspaper=毎日新聞 兵庫版|date=2011-05-03|url=http://mainichi.jp/area/hyogo/archive/news/2011/05/03/20110503ddlk28010442000c.html|accessdate=2011-05-14}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。両市と合併した場合は人口が約64万8000人にとどまるため、加古川市とたつの・相生両市との「二本立て」で合併を模索していく姿勢を示した<ref name=himeji1 />。また、今後[[太子町 (兵庫県)|太子町]]にも合併を打診するほか、[[高砂市]]も合併相手として想定していることを明らかにした<ref name=himeji2 />が、加古川市や高砂市が難色を示した。 :2013年に姫路市は'''[[地方中枢拠点都市]]圏'''を提唱、これは2015年に'''[[連携中枢都市圏構想|連携中枢都市圏]]'''として法律上の裏付けのある制度となり、この構想に基づき、姫路市は加古川市やたつの市等を含む周辺7市8町と'''播磨圏域連携中枢都市圏連携協約'''を締結した<ref>[https://www.city.himeji.lg.jp/shisei/0000006495.html 連携中枢都市圏構想について]姫路市</ref>。当面は合併交渉よりも緩やかな周辺市町との連携を重視することとし、合併による政令市移行は事実上棚上げ状態となっている。 ; [[明石市]](兵庫県) :2021年5月27日記者会見 :令和2年国勢調査速報値、人口303,830。 :兵庫県明石市の[[泉房穂]]市長は5月27日の記者会見で、市内人口が初めて30万人を超えた機をとらえ、さらなる権限の移譲を進めるために、政令指定都市の人口要件を50万人から30万人に緩和するよう[[地方自治法]]の改正を国へ要望する意向を表明し、政令指定都市への移行を目指す考えを明らかにした。同時に政令市と同じ水準の権限を求め、兵庫県に対して2021年6月、条例改正を提案する。この構想の背景には、新型コロナウイルスの感染拡大によって、重症患者向け病床が不足した事例があり、泉市長は「市民の生活と命を守るためには、責任を果たせる権限を確保しないともどかしい」と訴えている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202105/sp/0014364489.shtml?pg=amp|title=人口30万人達成の明石市 市長「政令市目指す」|accessdate=2021-5-29|publisher=[[神戸新聞社]]|website=[[神戸新聞NEXT]]}}</ref> :合併構想はない。 === 構想が白紙撤回または頓挫した地域 === ;'''東葛飾・葛南地域'''([[千葉県]]) : [[柏市]]、[[野田市]]、[[流山市]]、[[我孫子市]]、[[松戸市]]、[[鎌ケ谷市]]の6市で構成する「東葛広域行政連絡協議会」では、[[2006年|平成18年]][[5月8日]]に「政令指定都市問題研究会」を設置した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/020100/p005130.html|title=政令指定都市問題研究会|accessdate=2013-08-14|publisher=柏市}}</ref>。この6市の人口の合計は約148万人である。一方、この6市のうち、比較的市川や船橋とのつながりの強い松戸市と鎌ケ谷市は[[2007年|平成19年]][[4月27日]]、[[船橋市]]や[[市川市]]とともに、将来的な指定都市移行を研究する「東葛飾・葛南地域4市政令指定都市研究会」を設置した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.funabashi.chiba.jp/shisei/keikaku/0005/p013363.html|title=東葛飾・葛南地域4市政令指定都市研究会|accessdate=2013-08-14|publisher=船橋市|deadlinkdate=2018-12-01}}</ref>。この4市の人口の合計は約171万人である。なお、[[1997年]](平成9年)には船橋市、鎌ケ谷市、[[習志野市]]、[[八千代市]]の議長経験者の間で、4市の合併で指定都市移行を検討する動きがあった。[[千葉日報]]の1面トップに掲載され、旧[[自治省]]ホームページにも長く掲載されていたが、結局具体的な動きには至らず頓挫した。この4市の人口の合計は約102万人となっている。 ; [[湘南]]地域([[神奈川県]]) : {{Main|湘南市}} : [[平塚市]]、[[藤沢市]]、[[茅ヶ崎市]]、[[寒川町]]、[[大磯町]]、[[二宮町]]の6市町が合併して指定都市を目指す「湘南市構想」がかつて存在したが、[[2003年]](平成15年)[[5月26日]]に白紙撤回された。実現すれば、人口100万人を突破する予定だった。 ; [[静岡県東部政令指定都市構想|駿東・伊豆地域]]([[静岡県]]) : 静岡県三都の一角を構成する沼津市を中心とする地域。静岡市と浜松市が政令市に移行したため待望論があった。静岡県庁自体が、県内合併再編に積極的だった。 : 指定都市化の研究会参加市町は、[[沼津市]]、[[三島市]]、[[御殿場市]]、[[裾野市]]、[[伊豆の国市]]、[[函南町]]、[[小山町]]、[[長泉町]]、[[清水町 (静岡県)|清水町]]であるが、合併への意欲について各市町で温度差があった。また、研究会参加市町だけでは現時点で70万人に満たないため、隣接する富士総合庁舎管轄地域、あるいは[[伊豆半島]]の全市町を取り込もうという意見も出ていたが、[[2008年]](平成20年)[[2月8日]]に白紙撤回し、研究会の解散を発表した。 ==今後の展望== 国立社会保障・人口問題研究所「日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)」は、[[2045年]]時点での政令市人口は3市を除くほぼ全ての市で人口減少すると予測した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ipss.go.jp/pp-shicyoson/j/shicyoson18/t-page.asp|title=日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)|accessdate=December 31st 2021}}</ref>。10市で100万人を下回る見込み。 ===将来推計人口(2045年)=== {| class="floatleft wikitable" style="text-align:center; font-size:85%;" !順位 !市区町村 !2045年推計人口 !2015年人口 !増減数 !増減率 !2015年順 |- |1 |横浜市 |3,446,124 |3,724,844 | -278,720 | -7.5 |1 |- |2 |大阪市 |2,410,820 |2,691,185 | -280,365 | -10.4 |2 |- |3 |名古屋市 |2,173,770 |2,295,638 | -121,868 | -5.3 |3 |- |4 |札幌市 |1,805,120 |1,952,356 | -147,236 | -7.5 |4 |- |5 |福岡市 |1,654,572 |1,538,681 |115,891 |7.5 |5 |- |6 |川崎市 |1,549,981 |1,475,213 |74,768 |5.1 |7 |- |7 |京都市 |1,297,241 |1,475,183 | -177,942 | -12.1 |8 |- |8 |神戸市 |1,295,786 |1,537,272 | -241,486 | -15.7 |6 |- |9 |さいたま市 |1,285,867 |1,263,979 |21,888 |1.7 |9 |- |10 |広島市 |1,122,112 |1,194,034 | -71,922 | -6.0 |10 |- |11 |仙台市 |922,655 |1,082,159 | -159,504 | -14.7 |11 |- |12 |千葉市 |905,240 |971,882 | -66,642 | -6.9 |12 |- |13 |北九州市 |771,168 |961,286 | -190,118 | -19.8 |13 |- |14 |堺市 |707,314 |839,310 | -131,996 | -15.7 |15 |- |15 |浜松市 |704,349 |797,980 | -93,631 | -11.7 |17 |- |16 |熊本市 |690,169 |740,822 | -50,653 | -6.8 |18 |- |17 |新潟市 |688,878 |810,157 | -121,279 | -15.0 |16 |- |18 |岡山市 |684,564 |719,474 | -34,910 | -4.9 |21 |- |19 |相模原市 |636,888 |720,780 | -83,892 | -11.6 |20 |- |20 |静岡市 |567,831 |704,989 | -137,158 | -19.5 |23 |- |} {{-}} ===将来推計人口(2060年 - 2065年)=== {|class="wikitable sortable" |- ! 市!! 推計人口<br/>(人) |- | [[File:Flag_of_Yokohama,_Kanagawa.svg|border|25x25px]] [[横浜市]] | style="text-align:center;" | 302万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/shien/jinkosuikei.html |title=横浜市将来人口推計 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Nagoya,_Aichi.svg|border|25x25px]] [[名古屋市]] | style="text-align:center;" |184万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000080/80550/sougousennryaku.pdf |title=名古屋市まち・ひと・しごと創生総合戦略 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Kawasaki,_Kanagawa.svg|border|25x25px]] [[川崎市]] | style="text-align:center;" |144万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/170/page/0000137342.html |title=川崎市総合計画 第3期実施計画の策定に向けた将来人口推計 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- |[[File:Flag_of_Sapporo,_Hokkaido.svg|border|25x25px]] [[札幌市]] | style="text-align:center;" |143万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sapporo.jp/kikaku/miraisousei/1st/documents/plan-3.pdf |title=人口ビジョン編 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Saitama,_Saitama.svg|border|25x25px]] [[さいたま市]] | style="text-align:center;" | 110万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.saitama.jp/006/008/002/012/004/004/p072092_d/fil/sankou1.pdf |title=さいたま市人口ビジョン |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Kobe.svg|border|25x25px]] [[神戸市]] | style="text-align:center;" |109万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kobe.lg.jp/documents/9935/data20.pdf |title=神戸市の人口の現状と将来シミュレーション |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Hiroshima,_Hiroshima.svg|border|25x25px]] [[広島市]] | style="text-align:center;" |102万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/life/239290_383004_misc.pdf |title=「世界に誇れる『まち』広島」人口ビジョン |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Sendai,_Miyagi.svg|border|25x25px]] [[仙台市]] | style="text-align:center;" | 95万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sendai.jp/chosatoke/shise/toke/shoraijinko.html |title=仙台市将来人口推計 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Chiba,_Chiba.svg|border|25x25px]] [[千葉市]] | style="text-align:center;"|76万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/kikaku/population2.html |title=人口の将来見通し |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Okayama,_Okayama.svg|border|25x25px]] [[岡山市]] | style="text-align:center;" |64万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.okayama.jp/shisei/cmsfiles/contents/0000028/28768/dai2kisougousenryaku.pdf |title=第2期岡山市 まち・ひと・しごと創生総合戦略 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Kitakyushu,_Fukuoka.svg|border|25x25px]] [[北九州市]] | style="text-align:center;" |62万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000876610.pdf |title=北九州市まち・ひと・しごと創生 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Kumamoto,_Kumamoto.svg|border|25x25px]] [[熊本市]] | style="text-align:center;" |60万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=12452&sub_id=9&flid=200755 |title=熊本市人口ビジョン |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Hamamatsu,_Shizuoka.svg|border|25x25px]] [[浜松市]] | style="text-align:center;" |58万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/48784/jinkouvision2.pdf |title=浜松市“やらまいか”人口ビジョン |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Sakai,_Osaka.svg|border|25x25px]] [[堺市]] | style="text-align:center;" |56万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/gyosei/shishin/shisei/kihonkeikaku/konwakai/dai1kaikonwakai.files/3siryouhhontai.pdf |title=将来推計人口 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Sagamihara,_Kanagawa.svg|border|25x25px]] [[相模原市]] | style="text-align:center;" |53万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/015/648/2015/jinkou_houkoku.pdf |title=2015 年国勢調査に基づく 相模原市の将来人口推計 |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Niigata,_Niigata.svg|border|25x25px]] [[新潟市]] | style="text-align:center;" |51万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.niigata.lg.jp/shisei/seisaku/jigyoproject/kurashisouzou/lifecreation.files/jinkouvision.pdf |title=新潟市人口ビジョン |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Shizuoka,_Shizuoka.svg|border|25x25px]] [[静岡市]] | style="text-align:center;" |47万<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.shizuoka.lg.jp/000703765.pdf |title=静岡市人口ビジョン |access-date=2022-04-29}}</ref> |- | [[File:Flag_of_Kyoto_City.svg|border|25x25px]] [[京都市]] | style="text-align:center;" | |- | [[File:Flag_of_Osaka,_Osaka.svg|border|25x25px]] [[大阪市]] | style="text-align:center;" | |- | [[File:Flag of Fukuoka City.svg|border|25x25px]] [[福岡市]] | style="text-align:center;" | |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"|}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[中核市]](政令指定都市に準ずる都市) * [[特例市]](中核市に準ずる都市、2015年に制度が廃止された。廃止時の特例市は施行時特例市に移行し、権限移譲を維持するものとされている) * [[保健所政令市]]([[地域保健法]]第5条第1項に基づき保健所を設置できる都市。政令指定都市のほか中核市等も可能) * [[特別市]](政令指定都市の元となったとされる制度だが、未施行のまま廃止された) * [[総合区]](条例で定めることで行政区に代えて設置することが可能。行政区より権限が大きく、また区長の任命に議会の同意を要する) * [[政令指定都市市長一覧]] * [[指定都市市長会]] * [[総務省]] * [[多重行政]] * [[広域連合]] - 地方自治法に、都道府県の条例で定めることにより、都道府県の権限を市町村のみで構成される広域連合にも委譲できる旨の規定がある。 == 外部リンク == {{Wikisourcecat|政令指定都市}} * [https://www.siteitosi.jp/ 指定都市市長会] * {{PDFlink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000079232.pdf 大都市制度の沿革]}}[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/235321/www.soumu.go.jp/singi/pdf/No27_senmon15_03.pdf Archived] 2004-12-13 at [[国立国会図書館]]インターネット資料収集保存事業 - 総務省 * {{PDFlink|[http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/jiti/gyoutokui/siryou/12_21/tokubetuku.pdf 特別区制度の沿革]}}{{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20041030114424/http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/jiti/gyoutokui/siryou/12_21/tokubetuku.pdf}} - 東京都知事本局 以下に示す法令は総務省行政管理局提供の[https://elaws.e-gov.go.jp/ e-Gov法令検索]により閲覧できます。<!-- 定型文 --> * {{Egov law|331CO0000000254|地方自治法第252条の19第1項の指定都市の指定に関する政令(昭和31年7月31日政令第254号)}} {{日本の政令指定都市}} {{政令指定都市市長}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいれいしていとし}} [[Category:政令指定都市|*]] [[Category:行政区画の単位]] [[Category:経済地理学]] [[Category:日本の地方自治]] [[Category:日本の行政区画]] [[Category:日本の市町村|*せいれいしていとし]] [[Category:日本の特別市]]
2003-05-13T08:56:38Z
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8,214
アンダーソン法
アンダーソン法(アンダーソンほう、Anderson method、Pulay法とも言う)は、線形外挿法(単純混合法)を拡張した電荷密度の混合の仕方のこと。セルフコンシステントな計算過程において電荷密度が十分収束していれば、イタレーション(繰り返し計算)の前(入力)と後(出力)の電荷密度の差の変化は、ほぼ線形になっていることを利用する。 具体的には、あるイタレーションの前の数回分の入力の電荷密度の線形結合と、出力の電荷密度の線形結合(入力と出力で同じ係数を使う)から得られる、それぞれの電荷密度の差が最小になるような係数を最小二乗法を使って求める。これで得られた係数をもとにして得られる、入力、出力の電荷密度を適当な単純混合比で混ぜて、これを新たな入力の電荷密度として次のイタレーションに渡す。
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アンダーソン法は、線形外挿法(単純混合法)を拡張した電荷密度の混合の仕方のこと。セルフコンシステントな計算過程において電荷密度が十分収束していれば、イタレーション(繰り返し計算)の前(入力)と後(出力)の電荷密度の差の変化は、ほぼ線形になっていることを利用する。 具体的には、あるイタレーションの前の数回分の入力の電荷密度の線形結合と、出力の電荷密度の線形結合(入力と出力で同じ係数を使う)から得られる、それぞれの電荷密度の差が最小になるような係数を最小二乗法を使って求める。これで得られた係数をもとにして得られる、入力、出力の電荷密度を適当な単純混合比で混ぜて、これを新たな入力の電荷密度として次のイタレーションに渡す。
{{出典の明記|date=2016年4月}} '''アンダーソン法'''(アンダーソンほう、Anderson method、Pulay法とも言う)は、線形外挿法(単純混合法)を拡張した[[電荷密度の混合の仕方]]のこと。[[セルフコンシステント]]な計算過程において[[電荷密度]]が十分収束していれば、イタレーション(繰り返し計算)の前(入力)と後(出力)の電荷密度の差の変化は、ほぼ[[線型性|線形]]になっていることを利用する。 具体的には、あるイタレーションの前の数回分の入力の電荷密度の[[線形結合]]と、出力の電荷密度の線形結合(入力と出力で同じ係数を使う)から得られる、それぞれの電荷密度の差が最小になるような係数を最小二乗法を使って求める。これで得られた係数をもとにして得られる、入力、出力の電荷密度を適当な単純混合比で混ぜて、これを新たな入力の電荷密度として次のイタレーションに渡す。 == 関連項目 == *[[バンド計算]] {{DEFAULTSORT:あんたあそんほう}} [[Category:バンド計算]]
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窒素
窒素(ちっそ、英: nitrogen、仏: azote、独: Stickstoff)は、原子番号7の元素である。元素記号はN。原子量は14.007。第15族元素、第2周期元素。 地球の大気中に安定した気体として存在するほか、生物に欠かせないアミノ酸、アンモニアなど様々な化合物を構成する。ハーバー・ボッシュ法によりアンモニアの量産が可能になって以降、人間により工業的に産生された窒素肥料や窒素酸化物が大量に投入・排出され、自然環境にも大きな影響を与えている。 一般に「窒素」という場合は、窒素の単体である窒素分子( N 2 {\displaystyle {\ce {N2}}} )を指すことが多く、本項でもそのように用いられる場合がある。本項では窒素分子についても記載する。 1772年に、ダニエル・ラザフォードが noxious air(有毒空気)と名付けた。その中に生物を入れると窒息して死んでしまうことにちなんでいる。 カール・ヴィルヘルム・シェーレは、酸素を「火の空気」、窒素を「駄目な空気」と命名した。 アントワーヌ・ラヴォアジエは、フランス語で「生きられないもの」という意味のazoteと命名した。 窒素の英語名「nitrogen」は、ギリシア語のνίτρον(硝石の意)とγεννάω(「生じる」の意)に由来している。 ドイツ語ではSticken(窒息させる)とStoff(物質)を組み合わせてStickstoffと呼ばれており、日本語の「窒素」は、これを訳したものである。 窒素は、かつて物が燃えるもとと考えられていた燃素の研究の過程で発見されたもので、最初に単体分離を行った者の特定は困難である。 1772年、ダニエル・ラザフォードが窒素を単体分離(窒素分子)した。 ほぼ同じ時期にカール・ヴィルヘルム・シェーレとヘンリー・キャヴェンディッシュも単体分離(窒素分子)したと言われている。 窒素が元素であることを発見したのはフランスのアントワーヌ・ラヴォアジエである。 近年の需要に対応して、窒素分子気体について2005年に日本工業規格(JIS K 1107)に規定の純度が高められた。 窒素は窒素分子として地球の大気の約78.08 %(体積比)を占める。ほかに、アミノ酸をはじめとする多くの生体物質中に含まれており、地球のほぼ全ての生物にとって、必須の元素である。 オーロラが起きる場合、窒素は赤、青、紫色の光を放出する。 窒素を主体とする大気は地球のほかに、土星の衛星であるタイタンも保持している。タイタンの大気は地球よりも濃密であり、気圧は地球の1.5倍にも上るが、その大気の97%は窒素によって占められている。 窒素は窒素族元素の一つ。生物にとっては非常に重要でアミノ酸やタンパク質、核酸塩基など、あらゆるところに含まれる。これらの窒素化合物を分解すると生体に有害なアンモニアとなるが、動物(特に哺乳類)は窒素を無害で水溶性の尿素として代謝する。しかし、貯蔵はできないためそのほとんどは尿として体外に排泄する。そのため、アミノ酸合成に必要な窒素は再利用ができず、持続的に摂取する必要がある。 ただし、窒素分子は非常に安定した分子であるためにほとんどの生物は大気中の窒素分子を利用することができず、微生物などが窒素固定によって作り出す窒素化合物を摂取することで体内に窒素原子を取り込んでいる。こうした窒素化合物はやはり微生物による脱窒の過程を経て再び大気中に放散され、窒素循環と呼ばれるサイクルを形成している。 窒素分子は化学式 N 2 {\displaystyle {\ce {N_2}}} で表され、常温常圧で無色無臭の気体として存在する。分子量28.014、融点−210 °C、沸点−195.8 °C、比重0.808(−195.8 °C)。地球の大気中に最も多く含まれる気体で、大気中の体積分率は地上でおよそ78%である。 窒素分子は常温では無味無臭の気体として安定した形で存在する。また、液化した窒素分子(液体窒素)は冷却剤としてよく使用される。常圧では、窒素分子の沸点は−195.8 °C、77 Kである。 常温常圧下では極めて不活性かつ、アルゴンなどの希ガスに比べると安価な気体であるため、嫌気性条件や乾燥条件を設定する際に、用いられることが多い。 1964年、山本明夫らのグループによって、窒素分子のコバルト錯体(山本錯体、パールハーバー・コンプレックス)が報告されている。このテーマは、森美和子らによって、窒素分子を活性化して有機化合物に組み込む研究に発展した。なお、2004年になって窒素を1700 °C、110万気圧で圧縮することにより、窒素原子が3本の腕で蜂の巣状のネットワーク「ポリ窒素(polynitrogen)」を作ることが判明した。このポリ窒素は、核兵器を除いた中では最大の威力を有する爆薬に比べて4倍以上のエネルギーを有すると考えられている。 雷(落雷)に付随して発光すると言われる超高層雷放電(レッドスプライト)は窒素分子がその発光に関係していることが分かった。 窒素は工業分野では幅広い用途に使われている。また窒素単体だけでなくその化合物も様々な用途に広く使用される。窒素化合物を生産する工業は「窒素工業」と総称され、化学工業の重要な一分野となっている。 窒素ガスの2004年度の日本国内生産量は90億5897万8000立方メートル、工業消費量は35億9448万立方メートル、液化窒素の2004年度日本国内生産量は22億2227万立方メートル、工業消費量は3億6105万1000立方メートルである。 植物にとって窒素は、たんぱく質や葉緑素をつくり生育を促す不可欠な要素である。そのためリン酸、カリウムと並んで肥料の三要素の一つに数えられる。特に葉を大きくする作用が強いため、窒素は葉肥と呼ばれる。 窒素不足になると葉の黄変や葉枯れを起こすことがある。一方、窒素過多になると、葉は濃緑色になり、開花が遅れたり咲かないことがある。 窒素化合物には、アンモニアや硝酸のような無機化合物から、各種ニトロ化合物や複素環式化合物などの有機化合物まで、非常に多くの種類がある。 20世紀以降、大量の窒素化合物が人為的に生産・排出されるようになり、酸性雨を含む大気汚染、水系の富栄養化、地下水の硝酸汚染を引き起こしており、微生物や触媒による窒素の回収・再利用技術が日本の産業技術総合研究所で研究されている。 以下では主に無機化合物について概説する。 窒素と酸素からできる化合物を窒素酸化物という。略称NOx(ノックス)で、大気汚染の原因物質の一つとされるが、窒素と酸素を混合して高温に加熱すると自然と生成するため、排出の抑制は難しい。 窒素のオキソ酸は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。 ※オキソ酸塩名称の'-'にはカチオン種の名称が入る 窒化物(ちっかぶつ)とは、窒素と窒素よりも陽性の(電気陰性度が小さい)元素から構成される化合物である。場合によってはアジ化物も含める場合もある。
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窒素は、原子番号7の元素である。元素記号はN。原子量は14.007。第15族元素、第2周期元素。 地球の大気中に安定した気体として存在するほか、生物に欠かせないアミノ酸、アンモニアなど様々な化合物を構成する。ハーバー・ボッシュ法によりアンモニアの量産が可能になって以降、人間により工業的に産生された窒素肥料や窒素酸化物が大量に投入・排出され、自然環境にも大きな影響を与えている。 一般に「窒素」という場合は、窒素の単体である窒素分子を指すことが多く、本項でもそのように用いられる場合がある。本項では窒素分子についても記載する。
{{Otheruses|元素|日本の化学工業の株式会社|チッソ}} {{Elementbox |name=nitrogen |japanese name=窒素 |number=7 |symbol=N |pronounce={{IPAc-en|ˈ|n|aɪ|t|r|ɵ|dʒ|ɨ|n}} {{respell|NYE|tro-jin}} |left=[[炭素]] |right=[[酸素]] |above=- |below=[[リン|P]] |series=非金属 |series comment= |group=15 |period=2 |block=p |series color= |phase color= |appearance=無色の[[気体]] |image name=Liquid nitrogen dsc04496.jpg |image size= |image name comment= |image name 2=Nitrogen Spectra.jpg |image name 2 comment=窒素の[[スペクトル線]] |atomic mass=14.0067 |atomic mass 2=2 |atomic mass comment= |electron configuration=1s<sup>2</sup> 2s<sup>2</sup> 2p<sup>3</sup> |electrons per shell=2, 5 |color= |phase=気体 |phase comment= |density gplstp=1.251 |density gpcm3nrt= |density gpcm3nrt 2= |density gpcm3mp= |density gpcm3bp=0.808 |melting point K=63.15 |melting point C=&minus;210.00 |melting point F=&minus;346.00 |boiling point K=77.36 |boiling point C=&minus;195.79 |boiling point F=&minus;320.33 |triple point K=63.152254583 |triple point kPa=12.52 |critical 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専門家に聞く】窒素排出、環境汚染の原因に/安く回収・再利用目指す『[[日経産業新聞]]』2021年11月8日イノベーション面</ref>。[[ハーバー・ボッシュ法]]によりアンモニアの量産が可能になって以降、人間により工業的に産生された[[肥料の三要素#窒素|窒素肥料]]や[[窒素酸化物]]が大量に投入・排出され、自然環境にも大きな影響を与えている<ref name="日経産業20211108"/>。 一般に「窒素」という場合は、窒素の[[単体]]である'''窒素分子'''(<chem>N2</chem>)を指すことが多く、本項でもそのように用いられる場合がある。本項では窒素[[分子]]についても記載する。 == 名称 == [[1772年]]に、[[ダニエル・ラザフォード]]が {{lang|en|noxious air}}(有毒空気)と名付けた。その中に生物を入れると[[窒息]]して死んでしまうことにちなんでいる<ref name="genso">{{Cite |和書 |author=[[桜井弘]] |title=元素111の新知識 |date=1998 |pages=57 |publisher=[[講談社]] |series=[[ブルーバックス]] |isbn=4-06-257192-7 |ref = harv }}</ref>。 [[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]は、[[酸素]]を「火の空気」、窒素を「駄目な空気」と命名した。 [[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]は、フランス語で「生きられないもの」という意味の{{lang|fr|azote}}と命名した。 窒素の英語名「<ruby lang="en">nitrogen<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">ナイトロジェン</rt><rp>)</rp></ruby>」は、[[ギリシア語]]の{{lang|el|νίτρον}}([[硝石]]の意)と{{lang|el|γεννάω}}(「生じる」の意)に由来している{{r|genso}}。 [[ドイツ語]]では<ruby lang="de">Sticken<rp>(</rp><rt lang="de-Kana">シュティッケン</rt><rp>)</rp></ruby>(窒息させる)と<ruby lang="de">Stoff<rp>(</rp><rt lang="de-Kana">シュトフ</rt><rp>)</rp></ruby>(物質)を組み合わせて<ruby lang="de">Stickstoff<rp>(</rp><rt lang="de-Kana">シュティクシュトフ</rt><rp>)</rp></ruby>と呼ばれており、日本語の「窒素」は、これを訳したものである{{r|genso}}。 == 歴史 == 窒素は、かつて物が燃えるもとと考えられていた[[フロギストン説|燃素]]の研究の過程で発見されたもので、最初に単体分離を行った者の特定は困難である。 [[1772年]]、[[ダニエル・ラザフォード]]が窒素を単体分離(窒素分子)した{{r|genso}}。 ほぼ同じ時期に[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]と[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]も単体分離(窒素分子)したと言われている。 窒素が元素であることを発見したのはフランスの[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]である。 近年の需要に対応して、窒素分子気体について[[2005年]]に[[日本工業規格]](JIS K 1107<ref>{{Cite jis|K|1107}}</ref>)に規定の[[純度]]が高められた。 == 分布 == 窒素は窒素分子として地球の大気の約78.08 %(体積比)を占める。ほかに、[[アミノ酸]]をはじめとする多くの生体物質中に含まれており、[[地球]]のほぼ全ての生物にとって、必須の元素である。 [[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]が起きる場合、窒素は赤、青、紫色の光を放出する<ref>デイヴィッド・ベイカー、トッド・ラトクリフ著 渡部潤一監訳 後藤真理子訳『[[太陽系]]探検ガイド エクストリームな50の場所』([[朝倉書店]] 2012年10月10日初版第1刷)p.140</ref>。 窒素を主体とする大気は地球のほかに、[[土星の衛星]]である[[タイタン (衛星)|タイタン]]も保持している。タイタンの大気は地球よりも濃密であり、気圧は地球の1.5倍にも上る<ref>『[[ニュートン (雑誌)|Newton]]別冊 探査機が明らかにした太陽系のすべて』(ニュートンプレス 2006年11月15日発行)p.98</ref>が、その大気の97%は窒素によって占められている。 == 性質 == [[ファイル:Neon orbitals.png|thumb|upright=1.6|窒素原子における、[[電子]]の占める5つの[[原子軌道]]。2つの色は[[波動関数]]の[[位相]]を表している。左端から1s、2s(二分割し内部構造を露出させている)、2p<sub>''x''</sub>、2p<sub>''y''</sub>、2p<sub>''z''</sub> 軌道である。]] 窒素は[[窒素族元素]]の一つ。生物にとっては非常に重要で[[アミノ酸]]や[[タンパク質]]、[[核酸塩基]]など、あらゆるところに含まれる。これらの窒素化合物を分解すると生体に有害な[[アンモニア]]となるが、動物(特に[[哺乳類]])は窒素を無害で水溶性の[[尿素]]として[[代謝]]する。しかし、貯蔵はできないためそのほとんどは[[尿]]として体外に排泄する。そのため、アミノ酸合成に必要な窒素は再利用ができず、持続的に摂取する必要がある。 ただし、窒素分子は非常に安定した分子であるためにほとんどの生物は大気中の窒素分子を利用することができず、[[微生物]]などが[[窒素固定]]によって作り出す窒素化合物を摂取することで体内に窒素原子を取り込んでいる。こうした窒素化合物はやはり微生物による[[脱窒]]の過程を経て再び大気中に放散され、[[窒素循環]]と呼ばれるサイクルを形成している<ref>武村政春『人間のための一般生物学』([[裳華房]] 2010年3月10日第3版第1刷)p.71</ref>。 == 窒素分子 == '''窒素分子'''<ref group="注">{{lang-en-short|dinitrogen}}</ref>は[[化学式]] <chem>N_2</chem> で表され、[[常温]]常圧で無色無臭の[[気体]]として存在する。[[分子量]]28.014、[[融点]]&minus;210&nbsp;[[セルシウス度|&deg;C]]、[[沸点]]&minus;195.8&nbsp;&deg;C、[[比重]]0.808(&minus;195.8&nbsp;&deg;C)。[[地球の大気]]中に最も多く含まれる[[気体]]で、大気中の体積分率は地上でおよそ78%である<ref>{{Cite web|和書|title=lesson01 |url=https://www.daikin.co.jp/school/class02/lesson01 |website=www.daikin.co.jp |access-date=2022-09-19 |language=ja-JP}}</ref>。 窒素分子は[[常温]]では無味無臭の気体として安定した形で存在する。また、[[液化]]した窒素分子('''[[液体窒素]]''')は冷却剤としてよく使用される。常圧では、窒素分子の沸点は&minus;195.8&nbsp;&deg;C、77&nbsp;[[ケルビン|K]]である。 常温常圧下では極めて[[不活性気体|不活性]]かつ、[[アルゴン]]などの[[希ガス]]に比べると安価な気体であるため、[[嫌気性]]条件や乾燥条件を設定する際に、用いられることが多い。 1964年、[[山本明夫]]らのグループによって、窒素分子の[[コバルト]][[錯体]]([[山本錯体]]、パールハーバー・コンプレックス)が報告されている。このテーマは、[[森美和子]]らによって、窒素分子を活性化して[[有機化合物]]に組み込む研究に発展した。なお、[[2004年]]になって窒素を1700&nbsp;&deg;C、110万気圧で圧縮することにより、窒素原子が3本の腕で蜂の巣状のネットワーク「ポリ窒素(polynitrogen)」を作ることが判明した<ref>[http://pubs.acs.org/cen/news/8231/8231notw6.html POLYNITROGEN]『Chemical & Engineering News』August 2, 2004. Volume 82, Number 31 p.10</ref>。このポリ窒素は、[[核兵器]]を除いた中では[[ヘキサニトロヘキサアザイソウルチタン|最大の威力を有する爆薬]]に比べて4倍以上のエネルギーを有すると考えられている。{{see also|窒素爆弾}} [[雷]]([[落雷]])に付随して発光すると言われる[[超高層雷放電]]([[レッドスプライト]])は窒素分子がその発光に関係していることが分かった<ref>{{Cite journal|last=Armstrong|first=R.A.|last2=Shorter|first2=J.A.|last3=Taylor|first3=M.J.|last4=Suszcynsky|first4=D.M.|last5=Lyons|first5=W.A.|last6=Jeong|first6=L.S.|date=1998-05|title=Photometric measurements in the SPRITES ’95 & ’96 campaigns of nitrogen second positive (399.8 nm) and first negative (427.8 nm) emissions|url=https://doi.org/10.1016/s1364-6826(98)00026-1|journal=Journal of Atmospheric and Solar-Terrestrial Physics|volume=60|issue=7-9|pages=787–799|doi=10.1016/s1364-6826(98)00026-1|issn=1364-6826}}</ref>。 == 窒素分子の用途 == 窒素は工業分野では幅広い用途に使われている。また窒素単体だけでなくその化合物も様々な用途に広く使用される。窒素化合物を生産する工業は「窒素工業」と総称され、化学工業の重要な一分野となっている。 * [[ハーバー・ボッシュ法]]によるアンモニア生産の原料<ref name="日経産業20211108"/>。 [[ファイル:2007Computex Day2 Hall2-23.jpg|thumb|250px|液体窒素を冷却材とする[[オーバークロック|オーバークロッキング]][[CPU]]]] * 冷却剤('''[[液体窒素]]''') - 液体窒素温度(&minus;195.8&nbsp;&deg;C)まで冷却でき、安価で比較的安全なため、低温における化学および物理学の実験、[[オーバークロック]]競技などでの[[CPUの冷却装置#寒剤を用いた冷却|CPUの冷却]]、工業用プラント、[[受精卵]]の凍結保存、[[爆発物処理]]などの冷却に用いられる。 * 食品の[[酸化]]防止のための封入ガス。 * [[テクニカルダイビング]]用呼吸ガス(ナイトロックスやトライミックスなど[[混合ガス]])。 * [[消火器]]の加圧粉末式・蓄圧粉末式の圧力源。 * [[不活性気体|不活性ガス]]としての特性を生かし、[[タイヤ]]や[[アキュムレータ (機械)|アキュムレータ]]にも使用されている。 * ゴムタイヤへの充填では、空気に比べて乾燥しているため、急激な温度変化にさらされる[[航空機]]用では内部の凍結や[[結露]]を防ぐことができ、かつ、[[モータースポーツ]]などの過酷な条件下でも温度に対する内圧の変化が少ない。一般的な自動車での使用でも(タイヤ内部に酸素遮断膜はあるものの)ゴムを透過しやすい酸素を含まないため抜けにくくなる利点がある。 窒素ガスの2004年度の[[日本]]国内生産量は90億5897万8000[[立方メートル]]、工業消費量は35億9448万立方メートル、液化窒素の2004年度日本国内生産量は22億2227万立方メートル、工業消費量は3億6105万1000立方メートルである。 == 窒素と植物 == 植物にとって窒素は、たんぱく質や葉緑素をつくり生育を促す不可欠な要素である<ref name="gifu">[https://www.gifu.crcr.or.jp/media/chousakenkyu/kenkyu/environment_01.pdf 岐阜県街路樹等整備・管理の手引き] 岐阜県建設研究センター、岐阜県造園緑化協会、2022年4月23日閲覧。</ref>。そのため[[リン酸]]、[[カリウム]]と並んで[[肥料の三要素]]の一つに数えられる。特に葉を大きくする作用が強いため、窒素は葉肥と呼ばれる<ref name="gifu" />。 窒素不足になると葉の黄変や葉枯れを起こすことがある<ref name="gifu" />。一方、窒素過多になると、葉は濃緑色になり、開花が遅れたり咲かないことがある<ref name="gifu" />。 == 窒素化合物 == 窒素化合物には、アンモニアや[[硝酸]]のような[[無機化合物]]から、各種[[ニトロ化合物]]や[[複素環式化合物]]などの[[有機化合物]]まで、非常に多くの種類がある。 20世紀以降、大量の窒素化合物が人為的に生産・排出されるようになり、[[酸性雨]]を含む[[大気汚染]]、水系の[[富栄養化]]、[[地下水]]の硝酸汚染を引き起こしており、微生物や[[触媒]]による窒素の回収・再利用技術が日本の[[産業技術総合研究所]]で研究されている<ref name="日経産業20211108"/>。 以下では主に無機化合物について概説する。 === 窒素酸化物 === 窒素と酸素からできる化合物を[[窒素酸化物]]という。略称'''NOx'''(ノックス)で、大気汚染の原因物質の一つとされるが、窒素と酸素を混合して高温に加熱すると自然と生成するため、排出の抑制は難しい。 * [[亜酸化窒素|一酸化二窒素]](亜酸化窒素)(<chem>N2O</chem>) * [[一酸化窒素]](<chem>NO</chem>) * [[三酸化二窒素]](<chem>N2O3</chem>) * [[二酸化窒素]](<chem>NO2</chem>) * [[四酸化二窒素]](<chem>N2O4</chem>) * [[五酸化二窒素]](<chem>N2O5</chem>) * {{link-zh|三酸化窒素|三氧化氮}}(<chem>NO3</chem>) === 窒素のオキソ酸 === 窒素の[[オキソ酸]]は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。 {| class="wikitable" ! style="white-space:nowrap" | オキソ酸の名称 !! style="white-space:nowrap" | [[化学式]]<br>([[酸化数]]) !! style="white-space:nowrap" | オキソ酸塩の名称 !! 備考 |- | style="white-space:nowrap" | [[次亜硝酸]]<br>({{lang-en-short|hyponitrous acid}})|| <chem>H2N2O2</chem>'''<br>(+I)|| 次亜硝酸塩<br>({{lang-en-short| - hyponitrite}})|| 次亜硝酸は[[2価]]の酸で、無色[[結晶]]として単離される。 |- | [[亜硝酸]]<br>({{lang-en-short|nitrous acid}})|| <chem>HNO2</chem><br>(+III)|| 亜硝酸塩<br>({{lang-en-short| - nitrite}})|| 亜硝酸は弱酸([[酸解離定数|pKa]]3.35)、不安定なため単離できず、[[水溶液]]中でも徐々に分解する。[[亜硝酸塩]]は安定で、種々の[[塩 (化学)|塩]]が知られている。 |- | [[硝酸]]<br>({{lang-en-short|nitric acid}})|| <chem>HNO3</chem><br>(+V)|| 硝酸塩<br>({{lang-en-short| - nitrate}})|| 硝酸およびその塩は「[[硝酸]]」の項に詳しい。 |} ''※オキソ酸塩名称の'-'にはカチオン種の名称が入る'' * [[亜硝酸エステル|亜硝酸アミル]] === 窒化物 === '''[[窒化物]]'''(ちっかぶつ<ref group="注">{{lang-en-short|nitride}}</ref>)とは、窒素と窒素よりも陽性の([[電気陰性度]]が小さい)元素から構成される化合物である。場合によっては[[アジ化物]]も含める場合もある。 * [[窒化ホウ素]] (<chem>BN</chem>) * [[窒化炭素]] (<chem>C_3N_4</chem>) * [[窒化ケイ素]] (<chem>Si_3N_4</chem>) * [[窒化ガリウム]] (<chem>GaN</chem>) * [[窒化インジウム]] (<chem>InN</chem>) * [[窒化アルミニウム]] (<chem>AlN</chem>) * [[窒化マグネシウム]] (<chem>Mg_3N_2</chem>) * [[アンモニア]] (<chem>NH_3</chem>) === その他の窒素化合物 === * [[三フッ化窒素]] (<chem>NF_3</chem>) * [[三塩化窒素]] (<chem>NCl_3</chem>) * [[三臭化窒素]] (<chem>NBr_3</chem>) * [[三ヨウ化窒素]] (<chem>NI_3</chem>) * [[クロラミン]] (<chem>NH_2Cl</chem>) , (<chem>NHCl_2</chem>) * [[ヒドロキシルアミン]] (<chem>NH_2OH</chem>) == 同位体 == {{Main|窒素の同位体}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[窒素飢餓]] * [[窒素酔い]] * [[ハーバー・ボッシュ法]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | n = no }} * [https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/08_seidou.html#menu5 『生産動態統計年報 化学工業統計編』][[経済産業省]] * {{Kotobank}} {{元素周期表}} {{窒素の化合物}} {{二原子分子}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちつそ}} [[Category:窒素|*]] [[Category:元素]] [[Category:非金属元素]] [[Category:ニクトゲン]] [[Category:第15族元素]] [[Category:第2周期元素]]
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液体窒素
液体窒素(えきたいちっそ、英: liquid nitrogen)は、冷却された窒素の液体である。液化窒素とも呼ばれ液化空気の分留により工業的に大量に製造される。純粋な窒素が液相状態になったものである(液体の密度は三重点で0.807 g/mL)。 液体窒素は冷却剤として使用される液体で、生体組織に付着すると容易に凍傷を引き起こし、また密閉空間で急激に気化させると酸素欠乏症に陥るので慎重な取り扱いが必要である。周囲の熱を断熱することで、液体窒素は目に見えるような蒸発による損失をともなうことなく貯蔵あるいは輸送ができる。 1883年4月15日に、ポーランドの物理学者、ジグムント・ヴルブレフスキとカロル・オルシェフスキらによって、ヤギェウォ大学で初めて液化された。 日本では取り扱いに際し、酸素欠乏危険作業主任者資格が必要な場合がある。 触れると一瞬で凍り付いたり凍傷になるようなイメージがあるが、実際には1 - 2秒くらい触れる程度であれば凍傷になることはない。 空気(大気)中の窒素ガスを原料とし、空気を冷凍サイクルにより液化する。なお、ホコリ、水分、二酸化炭素(CO2)は冷却中に除去し、温度差を利用し窒素以外(主に酸素)の成分を分離し液体窒素を得る。 液体窒素はコンパクトで、高圧装置なしで輸送可能な窒素ガスの供給源である。その上、水の凝固点を遙かに下回る低温を維持することができ(1気圧下での液体窒素の沸点は77 K, −196 °C, −320 °F)、おもに使い切りの冷却剤として様々な用途に利用されている。次に示す。 比較的容易に低温が得られるため多くの産業で利用されている。 低温工学分野 食品 医療分野 電子機器 土木工事 (77—276) ガス漏れによる酸欠、低温による凍傷、低温脆化(特に炭素鋼)、空気(酸素)の液化、液体窒素の急激な膨張による爆発などが報告されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "液体窒素(えきたいちっそ、英: liquid nitrogen)は、冷却された窒素の液体である。液化窒素とも呼ばれ液化空気の分留により工業的に大量に製造される。純粋な窒素が液相状態になったものである(液体の密度は三重点で0.807 g/mL)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "液体窒素は冷却剤として使用される液体で、生体組織に付着すると容易に凍傷を引き起こし、また密閉空間で急激に気化させると酸素欠乏症に陥るので慎重な取り扱いが必要である。周囲の熱を断熱することで、液体窒素は目に見えるような蒸発による損失をともなうことなく貯蔵あるいは輸送ができる。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1883年4月15日に、ポーランドの物理学者、ジグムント・ヴルブレフスキとカロル・オルシェフスキらによって、ヤギェウォ大学で初めて液化された。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本では取り扱いに際し、酸素欠乏危険作業主任者資格が必要な場合がある。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "触れると一瞬で凍り付いたり凍傷になるようなイメージがあるが、実際には1 - 2秒くらい触れる程度であれば凍傷になることはない。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "空気(大気)中の窒素ガスを原料とし、空気を冷凍サイクルにより液化する。なお、ホコリ、水分、二酸化炭素(CO2)は冷却中に除去し、温度差を利用し窒素以外(主に酸素)の成分を分離し液体窒素を得る。", "title": "製造方法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "液体窒素はコンパクトで、高圧装置なしで輸送可能な窒素ガスの供給源である。その上、水の凝固点を遙かに下回る低温を維持することができ(1気圧下での液体窒素の沸点は77 K, −196 °C, −320 °F)、おもに使い切りの冷却剤として様々な用途に利用されている。次に示す。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "比較的容易に低温が得られるため多くの産業で利用されている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "低温工学分野", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "食品", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "医療分野", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "電子機器", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "土木工事", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "(77—276)", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ガス漏れによる酸欠、低温による凍傷、低温脆化(特に炭素鋼)、空気(酸素)の液化、液体窒素の急激な膨張による爆発などが報告されている。", "title": "事故例" } ]
液体窒素は、冷却された窒素の液体である。液化窒素とも呼ばれ液化空気の分留により工業的に大量に製造される。純粋な窒素が液相状態になったものである。
[[File:Liquidnitrogen.jpg|thumb|240px|液体窒素]] [[File:Liquid nitrogen tank.JPG|thumb|冷凍装置へ冷却剤を補給する (実験室のサンプルを-150℃程度で保管する)ための液体窒素のタンク。]] [[File:Nitrogen ice cream 0020.jpg|thumb|学生が液体窒素で'''自家製'''[[アイスクリーム]]を作ろうとしている。]] '''液体窒素'''(えきたいちっそ、{{lang-en-short|liquid nitrogen}})は、冷却された[[窒素]]の液体である。液化窒素とも呼ばれ[[液体空気|液化空気]]の[[分留]]により工業的に大量に製造される。純粋な窒素が[[液相]]状態になったものである(液体の[[密度]]は[[三重点]]で0.807 g/mL)。 == 解説 == 液体窒素は[[冷却剤]]として使用される液体で、生体組織に付着すると容易に[[凍傷]]を引き起こし、また密閉空間で急激に気化させると[[酸素欠乏症]]に陥るので慎重な取り扱いが必要である。周囲の[[熱]]を断熱することで、液体窒素は目に見えるような蒸発による損失をともなうことなく貯蔵あるいは輸送ができる。 1883年4月15日に、[[ポーランド]]の物理学者、[[ジグムント・ヴルブレフスキ]]と[[カロル・オルシェフスキ]]らによって、[[ヤギェウォ大学]]で初めて液化された。 日本では取り扱いに際し、[[酸素欠乏危険作業主任者]]資格が必要な場合がある。 触れると一瞬で凍り付いたり[[凍傷]]になるようなイメージがあるが、実際には1 - 2秒くらい触れる程度であれば凍傷になることはない。 == 製造方法 == 空気(大気)中の窒素ガスを原料とし、空気を[[冷凍サイクル]]により液化する。なお、ホコリ、水分、二酸化炭素(CO{{sub|2}})は冷却中に除去し、温度差を利用し窒素以外(主に[[酸素]])の成分を分離し液体窒素を得る。 == 応用 == 液体窒素はコンパクトで、高圧装置なしで輸送可能な窒素ガスの供給源である。その上、水の[[凝固点]]を遙かに下回る低温を維持することができ(1気圧下での液体窒素の沸点は77&nbsp;[[ケルビン|K]], −196&nbsp;[[セルシウス度|℃]], −320&nbsp;[[華氏|{{°F}}]])、おもに使い切りの[[冷却剤]]として様々な用途に利用されている。次に示す。 比較的容易に低温が得られるため多くの産業で利用されている。 '''低温工学分野''' * [[低温物理学]]の実験。 * [[高温超伝導|高温超伝導体]]の冷却。 * 液体[[ヘリウム]]使用装置の冷却。 * [[吸着等温式#BETの吸着等温式|BET]]比表面積測定の実験。 '''食品''' * 缶飲料の液体充填後に缶の残空間に窒素を充填し陽圧化<ref>[https://www.toyo-seikan.co.jp/support/nitrogen.html 液体窒素充填装置] 東洋製罐</ref>。 * [[食品]]製造において瞬間冷凍や輸送に利用される。 '''医療分野''' * [[血液]]の[[凍結保存]]や、生殖細胞([[精子]]や[[卵子]])、[[生物学]]的サンプルや素材の保存。 * 将来の[[蘇生|よみがえり]]を期待した、[[人体冷凍保存|人間やペットの凍結保存]]。 * [[皮膚科学|皮膚医療]]において、[[イボ|いぼ]]や[[光線性角化症]]など見苦しかったり癌化の可能性がある[[腫瘍|新生物]]を除去するのに利用{{efn2|冷凍凝固療法 ウイルス性,老人性疣贅に液体窒素を圧抵し,壊死脱落させる方法<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.med.oita-u.ac.jp/hospital/sinryo_annai/hihu.htm | archiveurl = https://web.archive.org/web/20070627155331/med.oita-u.ac.jp/hospital/sinryo_annai/hihu.htm | title = 皮膚科・形成外科 | publisher= 大分大学付属病院診療科 | accessdate = 2007-10-4 | archivedate = 2007-6-27 | deadlinkdate = 2020年4月6日 }}</ref>}}。 '''電子機器''' * 高感度の[[センサー]]{{efn2|冷却によりCCDの[[熱雑音]]を抑えCCDの感度を高める。<ref>[http://www.astron.pref.gunma.jp/instruments/device_bcccd.html 150cm望遠鏡の液体窒素冷却CCDカメラ]</ref>}}、ローノイズ[[増幅器]]{{efn2|熱雑音を低減させるために特殊設計された増幅器を冷却する。<ref>[https://www.jst.go.jp/pr/jrdc_report/jrdc687/details.html 近赤外域微弱光検出装置]</ref>}}や[[テルル化カドミウム水銀|MCT]]検出器の[[冷却剤]]。 * [[走査型電子顕微鏡]]や[[透過型電子顕微鏡]]といった電子顕微鏡の素子冷却や冷却トラップに用いられる。 * [[スーパーコンピュータ]]の[[中央演算装置]]や他のコンピューターハードウェア類の[[オーバークロッキング]]用(記事 [[ETAシステムズ]]に詳しい) '''土木工事''' * 作業の状況によっては配水管を凍らせて作業区域に水があふれるのを阻止する。 * [[爆弾]]、[[時限爆弾]]などの処理の際に凍らせて爆発を防止する。この場合は電池を凍らせて起爆装置を無効化している。 (77—276) == 事故例 == ガス漏れによる酸欠、低温による凍傷、低温脆化(特に[[炭素鋼]])、空気(酸素)の液化、液体窒素の急激な膨張による爆発などが報告されている。 * 液体窒素の冷熱を利用してセラミックスと[[ベンゼン]]等の溶剤を凍結乾燥に、窒素よりも沸点の高い[[酸素]]が凝縮され[[液体酸素]](-183℃)が生成された。この液体酸素とベンゼンが爆発的に反応し負傷者が生じた。空気中の酸素が凝縮して可燃物と爆発性混合物を生成し爆発した事故であった<ref>[http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CC0200022.html 液体窒素で周辺空気の酸素が液化しベンゼンが爆発] 失敗知識データベース</ref>。 * 液体窒素とジュースの混合液体を飲み、胃破裂<ref>[https://doi.org/10.5833/jjgs.33.1648 液体窒素飲用による胃破裂の1例] 日本消化器外科学会雑誌 Vol.33 (2000) No.9 P1648-1651</ref>。 == 関連法規 == * [[高圧ガス保安法]] * 自加圧型容器など密閉容器は、[[容器保安規則]] * 輸送の場合、航空法、港則法、船舶安全法、道路法 * [[労働安全衛生法]]第76条 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} '''注釈''' {{Notelist2}} '''出典''' <references/> == 出典 == * {{Cite web|和書 | url = http://kohka.ch.t.kanazawa-u.ac.jp/lab7/kougi/seminar_2009/0616.pdf | archiveurl = https://web.archive.org/web/20150518094053/kohka.ch.t.kanazawa-u.ac.jp/lab7/kougi/seminar_2009/0616.pdf | title = 高圧ガスと液体窒素の取り扱い | publisher = 金沢大学工学部物質化学工学科 | accessdate = 2015-5-13 | archivedate = 2015-5-18 | deadlinkdate = 2020年4月6日 }} == 関連書籍 == * [[中央労働災害防止協会]]編 『酸素欠乏危険作業主任者テキスト』 {{ISBN2|978-4-8059-1590-5}} C3060 == 関連項目 == * [[ドライアイス]] * [[液体水素]] * [[液体酸素]] == 外部リンク == {{Commonscat|Liquid nitrogen}} * {{PDFlink|[http://www.suzukishokan.co.jp/msds/pdf/ln2.pdf 液化窒素 LN2 化学物質等安全データシート]|100&nbsp;[[キビバイト|KiB]]}} * {{Cite web|和書 | url = http://frontier.ltm.kyoto-u.ac.jp/kougiset.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20150518085736/frontier.ltm.kyoto-u.ac.jp/kougiset.html | author = 春日井昇 | title = 液化ガスの物性基礎論 初めての液体窒素 | publisher = [[京都大学]] | accessdate = 2015-5-13 | archivedate = 2015-5-18 | deadlinkdate = 2020年4月6日 }} * {{PDFlink|[http://www.ltm.kyoto-u.ac.jp/ltmuji/LiqN2/LiqN2A.pdf 液体窒素の使用にあたって]|156&nbsp;[[キビバイト|KiB]]}} - 京都大学低温物質科学研究センター {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えきたいちつそ}} [[Category:窒素]] [[Category:液化ガス]] [[Category:冷却]] [[Category:産業用ガス]]
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大塚駅 (東京都)
大塚駅(おおつかえき)は、東京都豊島区南大塚三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。 本項では、付近にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の大塚駅前停留場(おおつかえきまえていりゅうじょう)についても記述する。 大塚駅にJR東日本の山手線、大塚駅前停留所に東京都交通局の都電荒川線が乗り入れ、接続駅となっている。 JR東日本の駅には環状線としての山手線電車のみが停車し、山手貨物線を走行する湘南新宿ラインやその他の列車はホームがないため停車しない。特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。駅番号はJR東日本が「JY 12」、東京都交通局(大塚駅前停留場)が「SA 23」。 山手線の駅は、日本鉄道が当時の目白停車場付近から田端停車場までを短絡する路線を敷設した際に設置された。当初は現在のびっくりガード付近から分岐して田端までを直線的に結ぶ計画だったが、2度の変更を経て現在の山手線の経路で着工することになった。この着工時の計画では当地(当時・巣鴨村大字巣鴨字宮仲)の小字から「宮仲停車場」とされていたが、開業時には東京市内の最寄りの地名から「大塚」と名付けられている。 当駅周辺はもともと巣鴨村(のち西巣鴨町)であり、駅前の巣鴨警察署をはじめ当駅周辺や当駅より西側や南側でも「巣鴨」と名が付くものがいくつか存在している。しかし、駅の開業後は駅名に合わせて次第に「大塚」と呼ばれるようになり、1969年の住居表示実施に伴い、実態に合わせて現在の「北大塚」および「南大塚」となった。駅名から町名が変更された例としては山手線沿線では他に「恵比寿」、「代々木」、「高田馬場」、「目黒」、沿線以外では「新小岩」、「中野」、「中板橋」、「練馬」(西武・都営)等がある。 都電の大塚駅前停留場としては、かつては現在の荒川線の停留場とは別に、1971年に廃止された大塚線(16系統が使用)にも大塚駅前停留場が存在した。こちらは現在の大塚駅南口交差点の南付近にあった路線終点であり、荒川線とは線路が分断されていた。 第二次世界大戦前はデパート、花街もあり賑わっていたため、大塚に地下鉄が乗り入れる計画があったが、大塚駅一帯は低地で、地下鉄を通す技術が難しかったこともあり、実現しなかった。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している巣鴨駅管理の業務委託駅。島式ホーム1面2線を有する高架駅。線路の南北の地上部分にそれぞれ南口と北口の駅舎が建てられていたが(特に南口は山手線の駅舎としては貴重な木造駅舎であった)、2棟とも2009年に解体され、バリアフリー対応などの改良工事が行われた。改良工事の進捗により、2008年6月1日より池袋寄りにエスカレーターが設置され、後にエレベーターも設置された。そして、2009年1月11日より新改札口を開設し、旧南口・北口および各切符売り場が廃止され、新出入口に移動したので、南口・北口間を改札を通る事なく行き来できるようになった。後に構内(いわゆる駅ナカ)に飲食店やパン店などが開店した。 2013年(平成25年)、駅南口に地上12階・地下1階の駅ビル「JR大塚南口ビル」が建造された。地下1階 - 地上4階には複合商業施設「アトレヴィ大塚」(2013年9月21日開業)が入っている他、スポーツ施設、保育園、オフィスなどが入居している。また都電大塚駅前停留場への連絡通路の確保や、環境に配慮した設備の導入などが成されている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 JR高架下、大塚駅の巣鴨方、ガード下いっぱいに停留場が設けられている。同駅の南口・北口双方から当停留場に至ることが可能で、事実上JRの駅の自由通路を兼ねている。このホームを経由して大塚駅の南北を移動する人も多い。 西側の線路に上り(三ノ輪橋方面)、東側の線路に下り(早稲田方面)の電車が発着する。駅の向原方には渡り線があり、大塚駅前止まりの電車がこれを用いて転線する様子を見ることができる。下りホームの北端近くに窓口があり、定期券などを販売している。 各年度の1日平均乗車人員数は下表の通り。 都営バスの大塚駅前停留所が設けられている。かつては南口駅前広場に1番乗り場がある他は近辺の路上に設置されている状態だったが、駅前ロータリー整備に伴い、すべて大塚駅南口交差点部分に集約された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大塚駅(おおつかえき)は、東京都豊島区南大塚三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では、付近にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の大塚駅前停留場(おおつかえきまえていりゅうじょう)についても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大塚駅にJR東日本の山手線、大塚駅前停留所に東京都交通局の都電荒川線が乗り入れ、接続駅となっている。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "JR東日本の駅には環状線としての山手線電車のみが停車し、山手貨物線を走行する湘南新宿ラインやその他の列車はホームがないため停車しない。特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。駅番号はJR東日本が「JY 12」、東京都交通局(大塚駅前停留場)が「SA 23」。", "title": "乗り入れ路線" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "山手線の駅は、日本鉄道が当時の目白停車場付近から田端停車場までを短絡する路線を敷設した際に設置された。当初は現在のびっくりガード付近から分岐して田端までを直線的に結ぶ計画だったが、2度の変更を経て現在の山手線の経路で着工することになった。この着工時の計画では当地(当時・巣鴨村大字巣鴨字宮仲)の小字から「宮仲停車場」とされていたが、開業時には東京市内の最寄りの地名から「大塚」と名付けられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当駅周辺はもともと巣鴨村(のち西巣鴨町)であり、駅前の巣鴨警察署をはじめ当駅周辺や当駅より西側や南側でも「巣鴨」と名が付くものがいくつか存在している。しかし、駅の開業後は駅名に合わせて次第に「大塚」と呼ばれるようになり、1969年の住居表示実施に伴い、実態に合わせて現在の「北大塚」および「南大塚」となった。駅名から町名が変更された例としては山手線沿線では他に「恵比寿」、「代々木」、「高田馬場」、「目黒」、沿線以外では「新小岩」、「中野」、「中板橋」、「練馬」(西武・都営)等がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "都電の大塚駅前停留場としては、かつては現在の荒川線の停留場とは別に、1971年に廃止された大塚線(16系統が使用)にも大塚駅前停留場が存在した。こちらは現在の大塚駅南口交差点の南付近にあった路線終点であり、荒川線とは線路が分断されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前はデパート、花街もあり賑わっていたため、大塚に地下鉄が乗り入れる計画があったが、大塚駅一帯は低地で、地下鉄を通す技術が難しかったこともあり、実現しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している巣鴨駅管理の業務委託駅。島式ホーム1面2線を有する高架駅。線路の南北の地上部分にそれぞれ南口と北口の駅舎が建てられていたが(特に南口は山手線の駅舎としては貴重な木造駅舎であった)、2棟とも2009年に解体され、バリアフリー対応などの改良工事が行われた。改良工事の進捗により、2008年6月1日より池袋寄りにエスカレーターが設置され、後にエレベーターも設置された。そして、2009年1月11日より新改札口を開設し、旧南口・北口および各切符売り場が廃止され、新出入口に移動したので、南口・北口間を改札を通る事なく行き来できるようになった。後に構内(いわゆる駅ナカ)に飲食店やパン店などが開店した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2013年(平成25年)、駅南口に地上12階・地下1階の駅ビル「JR大塚南口ビル」が建造された。地下1階 - 地上4階には複合商業施設「アトレヴィ大塚」(2013年9月21日開業)が入っている他、スポーツ施設、保育園、オフィスなどが入居している。また都電大塚駅前停留場への連絡通路の確保や、環境に配慮した設備の導入などが成されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "相対式ホーム2面2線を有する地上駅。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "JR高架下、大塚駅の巣鴨方、ガード下いっぱいに停留場が設けられている。同駅の南口・北口双方から当停留場に至ることが可能で、事実上JRの駅の自由通路を兼ねている。このホームを経由して大塚駅の南北を移動する人も多い。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "西側の線路に上り(三ノ輪橋方面)、東側の線路に下り(早稲田方面)の電車が発着する。駅の向原方には渡り線があり、大塚駅前止まりの電車がこれを用いて転線する様子を見ることができる。下りホームの北端近くに窓口があり、定期券などを販売している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員数は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "都営バスの大塚駅前停留所が設けられている。かつては南口駅前広場に1番乗り場がある他は近辺の路上に設置されている状態だったが、駅前ロータリー整備に伴い、すべて大塚駅南口交差点部分に集約された。", "title": "バス路線" } ]
大塚駅(おおつかえき)は、東京都豊島区南大塚三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線の駅である。 本項では、付近にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の大塚駅前停留場(おおつかえきまえていりゅうじょう)についても記述する。
{{Otheruses|東京都豊島区にあるJR東日本山手線の大塚駅|同大田区にある東急池上線の駅|雪が谷大塚駅|同八王子市にある多摩都市モノレール線の駅|大塚・帝京大学駅}} {{出典の明記|date=2011年10月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |駅名 = 大塚駅 |画像 = Otsuka Station North.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 北口(2017年12月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point |marker=rail|marker2=rail-light |coord={{coord|35|43|54.6|N|139|43|41|E}}|marker-color=008000|title=JR 大塚駅 |coord2={{coord|35|43|53.7|N|139|43|45.6|E}}|marker-color2=ee86a7|title2=大塚駅前停留場 |frame-latitude=35.731665|frame-longitude=139.728682 }} |よみがな = おおつか |ローマ字 = &#332;tsuka |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本 2|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局 2|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[南大塚 (豊島区)|南大塚]]三丁目 }} '''大塚駅'''(おおつかえき)は、[[東京都]][[豊島区]][[南大塚 (豊島区)|南大塚]]三丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[山手線]]の[[鉄道駅|駅]]である。 本項では、付近にある[[東京都交通局]][[都電荒川線]](東京さくらトラム)の'''大塚駅前停留場'''(おおつかえきまえていりゅうじょう)についても記述する。 == 乗り入れ路線 == 大塚駅にJR東日本の山手線、大塚駅前停留所に東京都交通局の都電荒川線が乗り入れ、接続駅となっている。 JR東日本の駅には[[環状線]]としての山手線電車のみが停車し、[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[湘南新宿ライン]]やその他の列車はホームがないため停車しない。[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。[[駅ナンバリング|駅番号]]はJR東日本が「'''JY 12'''」、東京都交通局(大塚駅前停留場)が「'''SA 23'''」<ref name="SA-numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2017/tdn_p_20171116_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190119174432/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2017/tdn_p_20171116_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京さくらトラム(都電荒川線)及び日暮里・舎人ライナーに「駅ナンバリング」を導入いたします|publisher=東京都交通局|date=2017-11-16|accessdate=2020-05-02|archivedate=2019-01-19}}</ref>。 == 歴史 == {{出典の明記|date=2013年11月|section=1|ソートキー=駅}} [[ファイル:Otsuka Station in Sugamo Kosho period.jpg|thumb|[[1928年]]から[[1944年]]の間に撮影された大塚駅]] [[山手線]]の駅は、[[日本鉄道]]が当時の[[目白駅|目白停車場]]付近から[[田端駅|田端停車場]]までを短絡する路線を敷設した際に設置された。当初は現在の[[びっくりガード]]付近から分岐して田端までを直線的に結ぶ計画だったが<ref name="伊藤1">{{cite journal|和書|author=伊藤暢直|year=2004|title=日本鉄道池袋停車場設置経緯に関する考察(一)|journal=生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要|volume=14|pages=27-36}}</ref>、2度の変更を経て現在の山手線の経路で着工することになった<ref name="伊藤2">{{cite journal|和書|author=伊藤暢直|year=2005|title=日本鉄道池袋停車場設置経緯に関する考察(二)|journal=生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要|volume=15|pages=20-31}}</ref>。この着工時の計画では当地(当時・[[西巣鴨町|巣鴨村]]大字巣鴨字宮仲)の[[小字]]から「宮仲停車場」とされていたが<ref name="伊藤2" />、開業時には東京市内の最寄りの地名から「大塚」と名付けられている。 当駅周辺はもともと巣鴨村(のち西巣鴨町)であり、駅前の[[巣鴨警察署]]をはじめ当駅周辺や当駅より西側や南側でも「巣鴨」と名が付くものがいくつか存在している。しかし、駅の開業後は駅名に合わせて次第に「大塚」と呼ばれるようになり、[[1969年]]の[[住居表示]]実施に伴い、実態に合わせて現在の「[[北大塚]]」および「[[南大塚 (豊島区)|南大塚]]」となった<ref name="news20130920">{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK18039_Z10C13A9000000/?page=3|title=東京五輪が消した町 原宿・御徒町・田町・汐留…|date=2013-09-20|publisher=日経BP社|work=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-06-30|page=3|archivedate=2020-06-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200630020945/https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK18039_Z10C13A9000000/?page=3}}</ref>。駅名から町名が変更された例としては山手線沿線では他に「[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]」、「[[代々木]]」、「[[高田馬場]]」、「[[目黒 (目黒区)|目黒]]」、沿線以外では「[[新小岩]]」、「[[中野 (中野区)|中野]]」、「[[中板橋]]」、「[[練馬 (練馬区)|練馬]]」(西武・都営)等がある。 [[東京都電車|都電]]の大塚駅前停留場としては、かつては現在の荒川線の停留場とは別に、[[1971年]]に廃止された大塚線(16系統が使用)にも大塚駅前停留場が存在した。こちらは現在の大塚駅南口交差点の南付近にあった路線終点であり、荒川線とは線路が分断されていた。 [[第二次世界大戦]]前は[[デパート]]、[[花街]]もあり賑わっていたため、大塚に[[地下鉄]]が乗り入れる計画があったが、大塚駅一帯は低地で、地下鉄を通す技術が難しかったこともあり、実現しなかった。 === 年表 === ==== JR東日本 ==== * [[1903年]]([[明治]]36年)[[4月1日]]:[[日本鉄道]]の駅が開業。貨物営業も開始。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:[[鉄道国有法]]により国有化。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により山手線の所属となる。 * [[1974年]]([[昭和]]49年)[[10月1日]]:貨物の取扱が廃止。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[10月20日]]:北口に自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite news |title=年度内に田端駅など31駅 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-10-02 |page=1 }}</ref>。 ** [[12月15日]]:南口に自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=192 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[10月17日]]:南北自由通路が使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2009/10/18/070400.html|title=山手線 大塚駅の南北自由通路開通|website=[https://railf.jp/news/ 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース]|publisher=[[交友社]]|date=2009-10-18|accessdate=2021-04-30}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[4月20日]]:[[ホームドア]]の使用を開始<ref>[http://rail.hobidas.com/news/info/article/135519.html JR東日本 山手線 2013年度ホームドア使用開始時期を発表] ネコ・パブリッシング ホビダス</ref>。 ** [[9月12日]]:商業施設「アトレヴィ大塚」が開業<ref name="pr20130521">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/242_otsuka0521.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427081423/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/242_otsuka0521.pdf|format=PDF|language=日本語|title=アトレヴィ大塚 2013年9月12日(木)GRAND OPEN!|publisher=アトレ|date=2013-05-21|accessdate=2020-04-27|archivedate=2020-04-27}}</ref><ref name="press20130521">{{Cite press release|和書|url=http://www.jebl.co.jp/admin/news/pdf/20130521.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201203062907/http://www.jebl.co.jp/admin/news/pdf/20130521.pdf|format=PDF|language=日本語|title=大塚駅南口に「JR大塚南口ビル」が誕生します|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013-05-21|accessdate=2021-04-30|archivedate=2020-12-03}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[5月15日]]:業務委託化<ref name="2019-11-15">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html|title=「平成28年度営業関係施策(その4)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114163228/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[10月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd_330">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=330|title=駅の情報(大塚駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2021-10-01|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211001102746/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=330|archivedate=2021-10-01}}</ref><ref name="jtsu20210609">{{Cite web|和書|url=https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_3142be9834c145138bc3314ec42a3029.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210609124510/https://f06cf697-85c0-41a8-ab3d-c23ef021a7cb.filesusr.com/ugd/57fa70_3142be9834c145138bc3314ec42a3029.pdf|title=「2021年度営業関係施策(その1)」について提案を受ける!!|date=2021-06-09|archivedate=2021-06-09|accessdate=2021-06-09|publisher=JTSU-E 東京地本|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Ōtsuka Station.19630626.jpg|大塚駅周辺の白黒空中写真(1963年6月)<br />{{国土航空写真}} JR Otuska sta 001.jpg|駅ビル建設のため2009年に解体された旧駅舎(2007年12月) JR Otuska sta 002.jpg|駅ビル建設前の南口(2010年4月) </gallery> ==== 東京都交通局 ==== * [[1911年]](明治44年)[[8月20日]]:[[王子電気軌道]]飛鳥山上(現・[[飛鳥山停留場|飛鳥山]]) - 大塚間開業時に'''大塚停留場'''として開業。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月5日]]:東京市電(現・[[東京都電車]])大塚線の延伸に伴い'''大塚停車場前停留場'''が開業。まもなく'''大塚駅前停留場'''に改称。 * [[1925年]](大正14年)[[11月12日]]:王子電気軌道が大塚駅前 - [[鬼子母神前停留場|鬼子母神前]]を開業し、'''大塚駅前停留場'''が設置される。 * [[1928年]](昭和3年)[[12月25日]]:王子電気軌道の大塚停留場と大塚駅前停留場が統合、南北2線が連絡され直通開始。 * [[1942年]](昭和17年)[[2月1日]]:王子電気軌道が[[東京市]]に買収され、東京市電に組み込まれる。 ** 1911年開業区間が滝野川線、1925年開業区間が早稲田線となったが、これらは後に荒川線に統合されている。 * [[1944年]](昭和19年):戦時体制により滝野川線・早稲田線の営業を休止<ref>{{Cite book|和書|title=わが街わが都電|publisher=東京都交通局|date=1991-08}}</ref>。 * [[1946年]](昭和21年)[[7月10日]]:滝野川線・早稲田線の営業を再開<ref>{{Cite book|和書|title=日本鉄道旅行地図帳 : 全線・全駅・全廃線 5号|publisher=[[新潮社]]|author=今尾恵介|date=2008-09}}</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[3月18日]]:大塚線が廃止<ref group="注釈">現在は[[都営バス]]の[[都営バス巣鴨営業所#都02系統(グリーンライナー)|都02系統]]が同じルートを通っている。</ref>。 * [[2007年]](平成19年)3月18日:ICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-08|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 大塚駅 |画像 = Otsuka-Sta-S.JPG |pxl = 300 |画像の説明 = 南口(2017年6月) |よみがな = おおつか |ローマ字 = Ōtsuka |副駅名 = |前の駅 = JY 13 [[池袋駅|池袋]] |駅間A = 1.8 |駅間B = 1.1 |次の駅 = [[巣鴨駅|巣鴨]] JY 11 |電報略号 = オツ←ヲツ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]] |駅番号 = {{駅番号r|JY|12|#9acd32|1}} |キロ程 = 17.2 |起点駅 = [[品川駅|品川]] |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[南大塚 (豊島区)|南大塚]]三丁目33-1 |座標 = {{coord|35|43|54.6|N|139|43|41|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 大塚駅}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1903年]]([[明治]]36年)[[4月1日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = 48,509 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[巣鴨駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15"/>。[[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]。線路の南北の地上部分にそれぞれ南口と北口の駅舎が建てられていたが(特に南口は山手線の駅舎としては貴重な木造駅舎であった)、2棟とも[[2009年]]に解体され、[[バリアフリー]]対応などの改良工事が行われた。改良工事の進捗により、[[2008年]][[6月1日]]より池袋寄りに[[エスカレーター]]が設置され、後に[[エレベーター]]も設置された。そして、2009年[[1月11日]]より新改札口を開設し、旧南口・北口および各切符売り場が廃止され、新出入口に移動したので、南口・北口間を改札を通る事なく行き来できるようになった。後に構内(いわゆる駅ナカ)に[[飲食店]]やパン店などが開店した。 [[2013年]]([[平成]]25年)、駅南口に地上12階・地下1階の[[駅ビル]]「JR大塚南口ビル」が建造された<ref name="press20130521" />。地下1階 - 地上4階には[[複合商業施設]]「[[アトレ#アトレヴィ|アトレヴィ]]大塚」(2013年[[9月21日]]開業)が入っている他<ref name="pr20130521"/>、スポーツ施設、[[保育園]]、オフィスなどが入居している<ref name="press20130521" />。また都電大塚駅前停留場への連絡通路の確保や、環境に配慮した設備の導入などが成されている。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center;"|内回り<!--山手線では内回り・外回りを明確に--> |[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|外回り |[[田端駅|田端]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/330.html JR東日本:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JRE Otsuka-STA Gate.jpg|改札口(2022年12月) JRE Otsuka-STA Platform1-2.jpg|山手線ホーム(2022年12月) JR Otsuka Sta. N. - panoramio.jpg|山手線ホームから見た北口方向 Square in front of Ōtsuka Station, shot from JR 2.jpg|北口の駅前ロータリー </gallery> === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 大塚駅前停留場 |よみがな = おおつかえきまえ |ローマ字 = Otsuka-ekimae |副駅名 = |前の駅 = SA 22 [[巣鴨新田停留場|巣鴨新田]] |駅間A = 0.5 |駅間B = 0.5 |次の駅 = [[向原停留場|向原]] SA 24 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|SA|23|#ee86a7|4}} |所属事業者 = [[東京都交通局]] |所属路線 = [[都電荒川線]](東京さくらトラム) |キロ程 = 8.9 |起点駅 = [[三ノ輪橋停留場|三ノ輪橋]] |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[南大塚 (豊島区)|南大塚]]三丁目 |座標 = {{coord|35|43|53.7|N|139|43|45.6|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都電 大塚駅前停留場}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面2線 |開業年月日 = [[1911年]]([[明治]]44年)[[8月20日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = 7,990 |統計年度 = 2020年 |乗換 = |備考 = }} [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。 JR高架下、大塚駅の巣鴨方、ガード下いっぱいに停留場が設けられている。同駅の南口・北口双方から当停留場に至ることが可能で、事実上JRの駅の自由通路を兼ねている。このホームを経由して大塚駅の南北を移動する人も多い。 西側の線路に上り(三ノ輪橋方面)、東側の線路に下り(早稲田方面)の電車が発着する。駅の[[向原停留場|向原]]方には渡り線があり、大塚駅前止まりの電車がこれを用いて転線する様子を見ることができる。下りホームの北端近くに窓口があり、[[定期乗車券|定期券]]などを販売している。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、東京都交通局の「時刻表」の記載に準拠--> {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" frame="hsides" rules="rows" class="wikitable" !乗車ホーム!!路線!!方向!!行先 |- ! 西側 | rowspan=2|[[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] 都電荒川線<br />(東京さくらトラム) | style="text-align:center" | 上り | [[三ノ輪橋停留場|三ノ輪橋]]方面 |- ! 東側 | style="text-align:center" | 下り | [[早稲田停留場|早稲田]]方面 |} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Toden-SA23-Otsukaekimae-station-platform-20210207-102406.jpg|遠景(2021年2月) Toden-SA23-Otsukaekimae-station-platform-20210207-102504.jpg|ホーム(2021年2月) Tokyo Sakura Tram entering Otsuka-ekimae station.jpg|停車中の[[東京都交通局8900形電車|8900形電車]](2022年7月) </gallery> == 利用状況 == *'''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''48,509人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社の駅では[[茅ケ崎駅]]に次いで第86位。 *'''東京都交通局''' - 2020年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''7,990人'''である<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/safety/pdf/facilitation_r02_03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210813181223/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/safety/pdf/facilitation_r02_03.pdf|title=移動等円滑化取組報告書(軌道停留場)(令和2年度)|page=3|archivedate=2021-08-13|accessdate=2021-08-13|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 === 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員数は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" !年度!!日本鉄道 /<br />国鉄!!出典 |- |1903年(明治36年) |66 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |64 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |73 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |159 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |161 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |220 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |560 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |668 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |1,023 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,397 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,875 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |2,528 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |4,859 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |6,049 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |8,661 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |13,495 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |14,767 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |15,633 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |18,305 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |19,872 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |21,876 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |20,744 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |18,826 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |16,931 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |16,051 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |16,471 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |17,251 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |17,559 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="*" name="toshima">[http://www.city.toshima.lg.jp/kuse/gaiyo/jinko/toke-02/index.html としまの統計] - 豊島区</ref> !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !出典 |- |1953年(昭和28年) |25,956 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |27,707 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |29,701 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |32,282 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |34,300 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |36,459 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |38,738 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |41,983 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |43,519 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |47,526 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |50,382 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |53,014 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |54,339 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |55,856 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |54,823 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |55,346 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |51,099 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |51,110 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |51,369 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |52,551 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |52,466 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |54,501 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |53,992 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |55,419 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |53,608 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |53,137 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |52,801 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |51,156 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |51,216 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |50,803 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |50,678 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |49,967 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |49,668 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |50,134 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |48,997 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |51,622 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |52,836 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |57,030 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |58,828 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |60,208 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |59,132 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |57,334 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |56,377 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |56,389 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |56,025 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |55,978 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>56,231 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>54,956 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="toshima" /> !年度!!JR東日本!!出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>55,198 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>54,927 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>54,532 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>53,554 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>52,510 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>53,477 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>53,442 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>53,890 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>53,295 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>53,346 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>51,861 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>51,963 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>53,142 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>54,001 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>55,726 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>56,703 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>57,330 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>58,926 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>58,882 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>43,165 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>44,393 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>48,509 | |} == 駅周辺 == === 北口 === {{columns-list|2| * [[巣鴨警察署|警視庁巣鴨警察署]] * 豊島区東部区民事務所 * [[東京都立文京高等学校]] * [[十文字中学校・高等学校]] * [[巣鴨中学校・高等学校]] * [[ベストセラーズ]]広告本部 * [[東横INN]]山手線大塚駅北口2 * 東横INN大塚駅北口1(山手線大塚駅北口2のほうが大塚駅に近い) * [[みずほ銀行]]大塚支店 * 大塚駅前郵便局 * [[タイガー魔法瓶]]東京支店 * [[萬劇場]] |}} === 南口 === {{columns-list|2| * [[東京メトロ丸ノ内線]][[新大塚駅]] * 東京都第四建設事務所 * [[全日本年金者組合]] * 都立大塚病院 * 南大塚ホール * ホテル[[ベルクラシック]]東京 * [[アパホテル]]〈山手大塚駅タワー〉 * [[ホテルリブマックス]]東京大塚駅前 * [[写研]]本社 * [[新陽社]] * [[ベストセラーズ]]本社 * [[三菱UFJ銀行]]大塚支店・巣鴨支店(両支店は同一ビル内に所在) * [[りそな銀行]]池袋支店大塚出張所 |}} === 南北を通過 === * 南側:プラタナス通り - 北側:宮仲公園通り([[東京都道436号小石川西巣鴨線]]) == バス路線 == [[都営バス]]の'''大塚駅前'''停留所が設けられている。かつては南口駅前広場に1番乗り場がある他は近辺の路上に設置されている状態だったが、駅前ロータリー整備に伴い、すべて大塚駅南口交差点部分に集約された。 * 1番乗り場 **[[都営バス巣鴨営業所#都02系統(グリーンライナー)|都02]]:[[錦糸町駅|錦糸町駅前]]行・大塚二丁目行・[[春日駅 (東京都)|春日駅前]]行・[[東京ドームシティ]]行 *2番乗り場 **[[都営バス巣鴨営業所#上60系統|上60]]:[[上野恩賜公園|上野公園]]行 *3番乗り場 **上60:[[池袋駅|池袋駅東口]]行 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 :: [[池袋駅]] (JY 13) - '''大塚駅 (JY 12)''' - [[巣鴨駅]] (JY 11) ; 東京都交通局 : [[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] 都電荒川線(東京さくらトラム) :: [[巣鴨新田停留場]] (SA 22) - '''大塚駅前停留場 (SA 23)''' - [[向原停留場]] (SA 24) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===== {{Reflist|group="広報"}} === 利用状況 === ; JRの1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; JRの統計データ {{Reflist|group="*"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[大塚 (文京区)]] * [[中岡艮一]] - かつて当駅で駅員を務めていた。 * [[大塚駅 (広島県)]] - 同字の駅だが、こちらの読みは「'''おおづか'''」。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=330|name=大塚}} * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/toden/stations/otsuka-ekimae/index.html 大塚駅前停留場 | 都電 | 東京都交通局] {{山手線}} {{都電荒川線}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=大塚駅前停留場|都電の鉄道駅|1911年開業の鉄道駅}} {{DEFAULTSORT:おおつか}} [[Category:豊島区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 お|おつか]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:1903年開業の鉄道駅]]
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巣鴨駅
巣鴨駅(すがもえき)は、東京都豊島区巣鴨にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 JR東日本の山手線、都営地下鉄の三田線が乗り入れ、接続駅となっている。 都営地下鉄三田線は、目黒駅を経由して東急目黒線への相互直通運転を実施している。 所在地の「巣鴨」から。 「巣鴨」の地名の由来はよく分かっていないが、昔はこの地は湿地帯で所々にあった大池に鴨が群生しておりたくさんの巣を作っていたこと、または葦が茂る中にあちこち州があったことから「巣鴨」という地名が生まれたという説がある。古い文献には「須賀茂」、「菅面」、「州鴨」、「州処面」とも書かれており、これが「巣鴨」になったともいわれる。 島式ホーム1面2線を有する地上駅で、改札は大塚駅寄り、地上の白山通りに面する形の1か所のみである。 直営駅。元々は単独管理駅であったが、駒込駅・大塚駅の業務委託化に伴い、これらの駅の管理駅になった。現在は池袋営業統括センター傘下になっている。 2007年(平成19年)6月1日に、5階建ての駅ビル「アトレヴィ巣鴨」建設のための駅舎改修工事が着工された。工事に伴い、同年11月18日に自動券売機・みどりの窓口・びゅうプラザが、同年12月9日には自動改札機・精算機が南口仮駅舎に移設された。同年12月12日に構内が左側通行から右側通行に変更され、2008年(平成20年)1月11日には北口出口が一時閉鎖された。そして2010年(平成22年)3月25日にアトレヴィ巣鴨がグランドオープンし、駅舎改修工事が完了した。 隣接する山手貨物線(湘南新宿ラインが経由)には留置線があり、保線用車両が待機していることがある。 (出典:JR東日本:駅構内図) 島式ホーム1面2線を有する地下駅。 巣鴨駅務管区の所在駅であり、巣鴨駅務区として白山駅 - 本蓮沼駅間を管理する(巣鴨駅務管理所巣鴨駅務区時代は巣鴨駅 - 志村坂上駅間を管理していた)。傘下に上野御徒町駅務区(大江戸線牛込神楽坂駅 - 新御徒町駅間)、高島平駅務区(志村坂上駅 - 西高島平駅間)を持つ。 改札・定期券売り場が地下1階、ホームが地下2階にある。JR山手線側にエスカレーター・エレベーター、とげぬき地蔵側のA3出入口に高齢者の転倒防止のため、分速20mの低速運転のエスカレーターが設置されている。 改札は南側千石駅寄りに2か所と北側西巣鴨駅寄りに1か所の計3か所ある。山手線への乗り換えには前者、とげぬき地蔵尊・巣鴨地蔵通り商店街には後者のものが便利である。南側2か所は早朝・深夜を除き、山手線駅構内に繋がる出口に近い方が乗車専用、もう1か所が降車専用の改札となっている。 北側改札の近くには定期券発売所があり、8時 - 20時まで、土休日も営業している。 当駅の西巣鴨寄りに南行線から北行線への片渡り線が非常渡り線として存在する。 (出典:東京都交通局:構内立体図) 各年度の1日平均乗降人員数は下表の通り(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員数は下表の通り。 北側は近くにとげぬき地蔵で有名な高岩寺があり、門前町として発展している。商店街は多くの高齢者で賑わい、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれている。 駅近くには都営バス巣鴨営業所がある(バス停名は「とげぬき地蔵前」)。JR線の大塚寄りには白山通り(国道17号)が立体交差しており、三田線はその下を走っている。 都営バスの路線バスが発着する。
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巣鴨駅(すがもえき)は、東京都豊島区巣鴨にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。
{{出典の明記|date=2011年10月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 巣鴨駅 |画像 = Sugamo-Sta-Building.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 駅ビル「アトレヴィ巣鴨」(2010年5月) |地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail-metro|coord={{coord|35|44|0.5|N|139|44|21.6|E}}|title=JR 巣鴨駅|coord2={{coord|35|44|1.6|N|139|44|17.5|E}}|title2=東京都交通局 巣鴨駅|marker-color=008000|marker-color2=006ab8|frame-latitude=35.733745|frame-longitude=139.738829}} |よみがな = すがも |ローマ字 = Sugamo |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[巣鴨]] |乗換 = }} '''巣鴨駅'''(すがもえき)は、[[東京都]][[豊島区]][[巣鴨]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[山手線]]、都営地下鉄の[[都営地下鉄三田線|三田線]]が乗り入れ、接続駅となっている。 * JR東日本:[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線:[[電車線・列車線|電車線]]で運行される[[環状線]]としての山手線電車のみが停車し、[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[湘南新宿ライン]]やその他の列車は通過する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している<ref name="kippu">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/kippu/11041.html |title=JR東日本:きっぷに関するご案内>特定の都区市内駅を発着する場合の特例 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2014-08-02}}</ref>。 - 駅番号「'''JY 11'''」 * 都営地下鉄:[[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 三田線 - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''I 15'''」 == 歴史 == [[画像:Sugamo Station.19630626.jpg|thumb|巣鴨駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] [[画像:SugamoStation.jpg|thumb|旧駅舎(2007年9月)]] * [[1903年]]([[明治]]36年)[[4月1日]]:[[日本鉄道]]の駅が開業。貨物営業も開始。 ** 豊島線([[田端駅|田端]] - 巣鴨 - 雑司ヶ谷〈未成〉 - [[目白駅|目白]]、開業時には山手線に編入)の本免許が交付された時点で、既に駅設置が計画されていた<ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤暢直|year=2005|title=日本鉄道豊島線池袋停車場設置経緯に関する考察(二)|journal=生活と文化[豊島区立郷土資料館研究紀要]|volume=15|pages=20-31}}</ref>。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:[[鉄道国有法]]により国有化。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により山手線の所属となる。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[3月4日]]・[[4月13日]]:[[太平洋戦争]]中に[[空襲]]を受ける。 * [[1968年]](昭和43年)[[12月27日]]:都営地下鉄三田線の駅が開業。 * [[1979年]](昭和54年)[[3月31日]]:国鉄駅での貨物の取り扱いが廃止。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅(山手線所属)となる。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[1月26日]]:JR東日本の駅に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=193 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1997年]](平成9年)[[4月28日]]:三田線巣鴨駅でセンサー付き転落防止柵を試験設置(同年[[8月15日]]まで)<ref>{{cite news |title = ホームに転落防止さく・センサー/視覚障害者団体が視察 |newspaper = [[朝日新聞]] |publisher = [[朝日新聞社]] |page = 35(朝刊・東京<東部>) |date = 1997-05-23 }}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:都営地下鉄三田線の駅に駅番号がつけられる。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:都営地下鉄でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 ** [[6月1日]]:JR東日本の駅ビル着工。 * [[2007年]](平成19年) ** [[11月18日]]:JR東日本の自動券売機・みどりの窓口・びゅうプラザが南口仮駅舎に移設。 ** [[12月9日]]:JR東日本の自動改札機・精算機が南口に移設。 * [[2008年]](平成20年)[[1月11日]]:JR東日本の北口が一時閉鎖。 * [[2010年]](平成22年)[[3月25日]]:商業施設「アトレヴィ巣鴨」が開業<ref>{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/147_sugamo0126.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427080220/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/147_sugamo0126.pdf|format=PDF|language=日本語|title=フレッシュな毎日へ、ようこそ アトレヴィ巣鴨 GRAND OPEN!!|publisher=アトレ|date=2010-01-26|accessdate=2020-04-27|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[6月29日]]:JR東日本の駅で[[ホームドア]]の使用を開始<ref>[http://rail.hobidas.com/news/info/article/135519.html JR東日本 山手線 2013年度ホームドア使用開始時期を発表] ネコ・パブリッシング ホビダス</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[3月31日]]:この日をもって[[びゅうプラザ]]が営業を終了。 * [[2023年]]([[令和]]5年) ** [[1月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd=896">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=896|title=駅の情報(巣鴨駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-01-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230104041114/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=896|archivedate=2023-01-04}}</ref><ref name="jtsu-20220727">{{Cite web|和書|url=https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_ca25e4d04ed34d9d92c37b3ec680b1da.pdf|title=営業関係施策(その1)について提案を受ける!!|format=PDF|publisher=輸送サービス労組 東京地本|date=2022-07-27|accessdate=2022-07-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220727151103/https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_ca25e4d04ed34d9d92c37b3ec680b1da.pdf|archivedate=2022-07-27}}</ref>。 ** [[2月1日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="StationCd=896" /><ref name="jtsu-20220727" />。 === 駅名の由来 === 所在地の「巣鴨」から。 「巣鴨」の地名の由来はよく分かっていないが、昔はこの地は湿地帯で所々にあった大池に[[鴨]]が群生しておりたくさんの巣を作っていたこと、または[[葦]]が茂る中にあちこち[[州]]があったことから「巣鴨」という地名が生まれたという説がある。古い文献には「須賀茂」、「菅面」、「州鴨」、「州処面」とも書かれており、これが「巣鴨」になったともいわれる。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 巣鴨駅 |画像 = Sugamo-Sta-Central.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 正面口(2012年7月) |よみがな = すがも |ローマ字 = Sugamo |副駅名 = |前の駅 = JY 12 [[大塚駅 (東京都)|大塚]] |駅間A = 1.1 |駅間B = 0.7 |次の駅 = [[駒込駅|駒込]] JY 10 |電報略号 = スモ |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[巣鴨]]一丁目16-1 |座標 = {{coord|35|44|0.5|N|139|44|21.6|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 巣鴨駅}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]] |駅番号 = {{駅番号r|JY|11|#9acd32|1}} |キロ程 = 18.3 |起点駅 = [[品川駅|品川]] |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1903年]]([[明治]]36年)[[4月1日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />63,422 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd=896" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} }} [[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]で、[[改札]]は[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]寄り、地上の[[白山通り]]に面する形の1か所のみである。 直営駅。元々は単独管理駅であったが、[[駒込駅]]・大塚駅の業務委託化に伴い、これらの駅の管理駅になった<ref>{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html|title=「平成28年度営業関係施策(その4)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114163228/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html}}</ref>。現在は池袋営業統括センター傘下になっている。 [[2007年]]([[平成]]19年)[[6月1日]]に、5階建ての駅ビル「[[アトレ|アトレヴィ]]巣鴨」建設のための駅舎改修工事が着工された。工事に伴い、同年[[11月18日]]に[[自動券売機]]・[[みどりの窓口]]・びゅうプラザが、同年[[12月9日]]には[[自動改札機]]・精算機が南口仮駅舎に移設された。同年[[12月12日]]に構内が左側通行から右側通行に変更され、[[2008年]](平成20年)[[1月11日]]には北口出口が一時閉鎖された。そして[[2010年]](平成22年)[[3月25日]]にアトレヴィ巣鴨がグランドオープンし、駅舎改修工事が完了した。 隣接する山手貨物線([[湘南新宿ライン]]が経由)には留置線があり、保線用車両が待機していることがある。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center;"|外回り |[[田端駅|田端]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]方面 |- !2 |style="text-align:center;"|内回り |[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/896.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> JRE Sugamo-STA Gate.jpg|改札口(2023年2月) JRE Sugamo-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年2月) </gallery> ==== バリアフリー設備 ==== *エスカレーター 改札口 - ホーム *エレベーター 改札口 - ホーム *多機能トイレ === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 巣鴨駅 |画像 = Toei Sugamo-STA Entrance-A2.jpg |pxl = 300 |画像説明 = A2出入口(2023年2月) |よみがな = すがも |ローマ字 = Sugamo |副駅名 = |前の駅 = I 14 [[千石駅|千石]] |駅間A = 0.9 |駅間B = 1.4 |次の駅 = [[西巣鴨駅|西巣鴨]] I 16 |電報略号 = 鴨<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/contract/pdf/short_course_text.pdf|title=安全施工管理責任者講習会テキスト|accessdate=2021-05-14|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語}}</ref>(駅名略称) |駅番号 = {{駅番号r|I|15|#006ab8|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[巣鴨]]三丁目27-7 |座標 = {{coord|35|44|1.6|N|139|44|17.5|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都営地下鉄 巣鴨駅}} |所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]) |所属路線 = {{color|#006ab8|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄三田線|三田線]] |キロ程 = 14.6 |起点駅 = [[目黒駅|目黒]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1968年]]([[昭和]]43年)[[12月27日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />82,086 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]] * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])}} }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]。 巣鴨駅務管区の所在駅であり、巣鴨駅務区として[[白山駅 (東京都)|白山駅]] - [[本蓮沼駅]]間を管理する(巣鴨駅務管理所巣鴨駅務区時代は巣鴨駅 - 志村坂上駅間を管理していた)。傘下に[[上野御徒町駅|上野御徒町]]駅務区(大江戸線牛込神楽坂駅 - 新御徒町駅間)、[[高島平駅|高島平]]駅務区(志村坂上駅 - 西高島平駅間)を持つ<ref>[http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10115671.html 東京都交通局駅務管区処務規程]</ref>。 改札・定期券売り場が地下1階、ホームが地下2階にある。JR山手線側に[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]、とげぬき地蔵側のA3出入口に高齢者の転倒防止のため、分速20mの低速運転のエスカレーターが設置されている<ref>『通も知らない驚きのネタ! 鉄道の雑学大全』(櫻田純・監修、[[青春出版社]] 2017年3月10日第1刷)214-216頁</ref>。 改札は南側[[千石駅]]寄りに2か所と北側[[西巣鴨駅]]寄りに1か所の計3か所ある。山手線への乗り換えには前者、[[高岩寺|とげぬき地蔵尊]]・巣鴨地蔵通り商店街には後者のものが便利である。南側2か所は早朝・深夜を除き、山手線駅構内に繋がる出口に近い方が乗車専用、もう1か所が降車専用の改札となっている。 北側改札の近くには定期券発売所があり、8時 - 20時まで、土休日も営業している。 当駅の西巣鴨寄りに南行線から北行線への片渡り線が非常渡り線として存在する。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/mita/I15SD.html |title=巣鴨 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |- !1 |rowspan="2"|[[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 都営三田線 |[[目黒駅|目黒]]・[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] [[東急目黒線|東急線]]方面 |- !2 |[[西高島平駅|西高島平]]方面 |} (出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/sugamo.html 東京都交通局:構内立体図]) <gallery> Sugamo-Sta-A3.JPG|A3出入口(2016年6月) Toei Sugamo-STA JR-Sugamo-Sta-District-Gate.jpg|JR巣鴨駅方面改札(2022年12月) Toei Sugamo-STA Togenuki-jizo-District-Gate.jpg|とげぬき地蔵方面改札(2022年12月) Toei Sugamo-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2022年12月) </gallery> == 利用状況 == *'''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''63,422人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: JR東日本の駅の中では[[北朝霞駅]]に次いで第60位。 *'''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''82,086人'''(乗車人員:40,710人、降車人員:41,376人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 三田線全27駅の中では[[神保町駅]]、[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]、[[三田駅(東京都)|三田駅]]に次ぐ第4位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員数は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="*" name="toshima">[http://www.city.toshima.lg.jp/kuse/gaiyo/jinko/toke-02/index.html としまの統計] - 豊島区</ref> !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|都営地下鉄 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1975年(昭和50年) |<ref name="RP456_17">{{Cite journal|和書|author=佐々野良一(東京都交通局電車部)|title=都営地下鉄25年のあゆみとその将来 -建設・運転・輸送-|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1985-12-01|volume=35|issue=第12号(通巻第456号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>109,559 | |- |1984年(昭和59年) |<ref name="RP456_17" />98,938 | |- |1999年(平成11年) |<ref name="RP704_26">{{Cite journal|和書|author=篠澤政一(東京都交通局電車部運転課)|title=輸送と運転|journal=鉄道ピクトリアル|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻第704号)|page=26|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>93,691 | |- |2003年(平成15年) |85,939 |&minus;1.3% |- |2004年(平成16年) |85,360 |&minus;0.7% |- |2005年(平成17年) |86,516 |1.4% |- |2006年(平成18年) |86,858 |0.4% |- |2007年(平成19年) |90,044 |3.7% |- |2008年(平成20年) |90,621 |0.6% |- |2009年(平成21年) |90,677 |0.1% |- |2010年(平成22年) |91,357 |0.7% |- |2011年(平成23年) |89,446 |&minus;2.1% |- |2012年(平成24年) |92,177 |3.1% |- |2013年(平成25年) |93,470 |1.4% |- |2014年(平成26年) |92,991 |&minus;0.5% |- |2015年(平成27年) |93,538 |0.6% |- |2016年(平成28年) |95,518 |2.1% |- |2017年(平成29年) |96,125 |0.6% |- |2018年(平成30年) |95,847 |&minus;0.3% |- |2019年(令和元年) |94,567 |&minus;1.3% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="都交" name="toei2020" />67,471 |&minus;28.7% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="都交" name="toei2021" />72,595 |7.6% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="都交" name="toei2022" />82,086 |13.1% |} === 年度別1日平均乗車人員(1900年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員数は下表の通り。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" !年度!!日本鉄道 /<br />国鉄!!出典 |- |1903年(明治36年) |114 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |105 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |104 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |327 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |378 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |460 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |1,042 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |934 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |969 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,085 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |882 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,126 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |2,680 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |3,461 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |4,574 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |6,413 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |7,828 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |8,194 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |9,737 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |10,944 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |12,445 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |13,019 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |12,856 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |12,456 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |12,528 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |13,081 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |13,611 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |13,815 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑、豊島区統計書を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !都営地下鉄 !出典 |- |1953年(昭和28年) |29,640 |rowspan="15" style="text-align:center;"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |33,696 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |36,247 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |38,298 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |40,923 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |42,706 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |45,141 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |47,799 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |49,446 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |52,821 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |57,343 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |60,826 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |63,267 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |65,777 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |67,960 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |68,092 |<ref group="備考">1968年12月27日開業。開業日から1969年3月31日までの計95日間を集計したデータ。</ref>25,631 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |71,610 |30,639 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |82,888 |35,700 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |89,385 |41,194 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |93,986 |49,392 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |87,384 |48,981 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |89,447 |53,123 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |89,049 |54,153 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |91,474 |56,704 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |91,948 |57,447 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |91,811 |55,852 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |91,011 |53,637 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |86,726 |51,386 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |82,973 |49,030 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |81,912 |48,085 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |94,992 |48,016 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |89,995 |48,964 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |84,071 |48,403 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |70,973 |48,173 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |84,046 |48,776 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |88,057 |50,964 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |89,402 |51,717 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |92,994 |53,010 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |95,068 |54,517 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |96,052 |39,134 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |95,214 |54,630 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |94,304 |54,016 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |93,066 |52,404 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |90,718 |49,984 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |88,226 |49,433 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |87,529 |49,074 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>85,041 |46,825 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>81,818 |45,666 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="toshima" /> !年度!!JR東日本!!都営地下鉄!!出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>78,324 |44,153 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>76,943 |43,627 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>76,311 |43,156 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>75,445 |42,740 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>76,739 |43,290 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>77,197 |43,449 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>78,487 |44,675 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>77,958 |44,904 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>77,519 |44,854 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>77,457 |45,233 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>76,093 |44,268 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>76,249 |45,510 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>77,089 |46,241 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>75,801 |46,061 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>76,620 |46,788 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>77,151 |47,258 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>77,285 |47,553 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>77,199 |47,426 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>76,212 |46,801 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>52,955 |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>33,402 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>56,737 |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>35,974 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>63,422 |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>40,710 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[画像: Sugamo Jizodori Shōtengai.jpg |thumb|巣鴨地蔵通り商店街の様子(2023年)]] 北側は近くにとげぬき地蔵で有名な[[高岩寺]]があり、門前町として発展している。[[高岩寺#地蔵通り商店街|商店街]]は多くの高齢者で賑わい、「おばあちゃんの[[原宿]]」と呼ばれている。 駅近くには[[都営バス巣鴨営業所]]がある(バス停名は「とげぬき地蔵前」)。JR線の大塚寄りには[[白山通り]]([[国道17号]])が立体交差しており、三田線はその下を走っている。 {{columns-list|2| * [[アパホテル]](巣鴨駅前) * [[東京都交通局]] [[都営バス巣鴨営業所]] * [[染井霊園]] * [[東洋文庫]] - [[国立国会図書館]]の[[支部図書館]] * [[文京グリーンコート]] * [[駒込警察署]] * [[本郷中学校・高等学校]] * [[十文字中学校・高等学校]] * [[文京学院大学女子中学校・高等学校]] * [[東洋女子高等学校]] * [[東京都立小石川中等教育学校]] * [[駿台トラベル&ホテル専門学校]] * [[JTBトラベル&ホテルカレッジ]] * [[巣鴨信用金庫]]本店 * [[東京スイミングセンター]] |}} == バス路線 == <!--バス路線の記述は、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> [[都営バス]]の路線バスが発着する。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!停留所名!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|'''とげぬき地蔵前''' |rowspan="6" style="text-align:center;"|都営バス |[[都営バス巣鴨営業所#草63・草64系統|'''草63''']]:[[田原町駅 (東京都)|浅草寿町]] |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|'''草63''':[[池袋駅|池袋駅東口]]|'''草63-2''':[[豊島区役所|東池袋一丁目]]|'''草64''':[[浅草駅|浅草雷門南]]}} |「草64」は早朝のみ |- !3 |rowspan="2" style="text-align:center;"|'''巣鴨駅前''' |'''草63''':浅草寿町 |&nbsp; |- !4 |'''草63''':池袋駅東口 |&nbsp; |- !5 |rowspan="2" style="text-align:center;"|'''巣鴨駅南口''' |'''草63''':浅草寿町 |&nbsp; |- !6 |'''草63''':巣鴨駅前・池袋駅東口 |巣鴨駅前行は最終のみ |} == 隣の駅 == ;東日本旅客鉄道(JR東日本) :[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 ::[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]] (JY 12) - '''巣鴨駅 (JY 11)''' - [[駒込駅]] (JY 10) ;東京都交通局(都営地下鉄) :[[File:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] 都営三田線 ::[[千石駅]] (I 14) - '''巣鴨駅 (I 15)''' - [[西巣鴨駅]] (I 16) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ;東京都交通局 各駅乗降人員 {{Reflist|group="都交"|3}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="*"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{commonscat|Sugamo Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[大分姉妹]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=896|name=巣鴨}} * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/sugamo.html 巣鴨駅 | 都営地下鉄 | 東京都交通局] * [https://sugamo.or.jp/ 巣鴨地蔵通り商店街] {{山手線}} {{都営地下鉄三田線}} {{DEFAULTSORT:すかも}} [[Category:豊島区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 す|かも]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:都営地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1903年開業の鉄道駅]] [[Category:巣鴨|すかもえき]]
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駒込駅
駒込駅(こまごめえき)は、東京都豊島区駒込二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。豊島区最東端の駅である。 JR東日本の山手線、東京メトロの南北線が乗り入れ、接続駅となっている。1923年から1971年までの間は都電19系統(駒込線・飛鳥山線)との接続駅でもあった。 東京メトロ南北線の列車は東急目黒線、東急新横浜線、相模鉄道(新横浜線、相鉄本線、いずみ野線)と埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)との4社直通運転を行っている。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している巣鴨駅管理の業務委託駅。島式ホーム1面2線を有する地上駅。地形が傾斜しており、西側が掘割、東側が盛土上にホームがある構造となっている。山手線ホームの最東端は北区中里に位置している。 可動式ホーム柵が設置されている。 改札は2か所ある。西側(池袋方)の改札は、山手線ホームから階段、エスカレータまたはエレベータで上った先にあり、線路を渡る南北の通路に接しており北口と南口につながる。東側(田端駅寄り)には、階段を下りた先の改札を経て東口がある。北口には、みどりの窓口が営業されていたが廃止され、多機能券売機数機が設置されている。また、東口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、終日インターホンによる案内となる。 駅構内の掘割の斜面にあるつつじの植栽が有名で、これにより関東の駅百選にも認定されている。バリアフリー対応のためエレベーターやエスカレーターの設置工事が行われた際、工事の支障となる北側斜面のつつじの一部が伐採された。その後、可能な範囲でのつつじの新規植栽がされた。 山手線唯一の踏切である第二中里踏切が駅から田端側へ約400m程度行ったところにあるため、当駅の山手線外回りは通過禁止駅に指定されている。 (出典:JR東日本:駅構内図) 発車メロディは「さくらさくら」である。当駅近くがソメイヨシノの発祥の地であることから、地元の商店街が地域活性化の一環として2005年に実現させたものであり駅のシンボルとなっている。2005年と2006年は3月中旬から5月上旬までの期間限定で使用されていたが、2007年以降は通年で使用されている。内回りと外回りでは曲のアレンジが異なり、2006年度のみ内回りと外回りの組み合わせが入れ替わっていた。 島式ホーム1面2線を有する地下駅で、フルスクリーンタイプのホームドアが設置されている。また、目黒寄り(ホーム南端)には折り返し用の分岐器が設置されている。A線(赤羽岩淵方面)に当駅止まりが、B線(目黒方面)に当駅止まり及び始発列車が設定されている。 (出典:東京メトロ:構内立体図) 開業時から吉村弘作曲の南北線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月13日にスイッチ制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている。 曲は1番線が「ビスマス」(福嶋尚哉作曲)、2番線が「ツツジ、咲く」(塩塚博作曲)である。 近年の1日平均乗降人員の推移は下表の通り(JRを除く)。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通り。 区境に位置する住宅街で、周囲には教育機関や庭園が多い。 大和郷と呼ばれる地区。 ほぼ谷田川の暗渠に沿って、北方向には駒込さつき通り、しもふり銀座、染井銀座、南方向にはアゼリア通り、田端銀座、と複数の商店街が南北に連なっている。
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駒込駅(こまごめえき)は、東京都豊島区駒込二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。豊島区最東端の駅である。
{{出典の明記|date=2011年10月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |駅名 = 駒込駅 |画像 = Komagome-Station-North-exit.JPG |pxl = 300 |画像説明 = JR北口(2008年1月) |地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail-metro|coord={{coord|35|44|11.3|N|139|44|48.7|E}}|title=JR東日本 駒込駅|coord2={{coord|35|44|11|N|139|44|47.8|E}}|title2=東京メトロ 駒込駅|marker-color=008000|marker-color2=109ed4}} |よみがな = こまごめ |ローマ字 = Komagome |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[駒込 (豊島区)|駒込]]二丁目 |電報略号 = |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])}} |備考 = }} '''駒込駅'''(こまごめえき)は、[[東京都]][[豊島区]][[駒込 (豊島区)|駒込]]二丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。豊島区最東端の駅である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[山手線]]、東京メトロの[[東京メトロ南北線|南北線]]が乗り入れ、接続駅となっている。[[1923年]]から[[1971年]]までの間は都電19系統(駒込線・飛鳥山線)との接続駅でもあった。 * JR東日本:[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 - [[環状線]]としての山手線電車のみが停車し、[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]を走行する[[湘南新宿ライン]]やその他の列車は通過する。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属している。[[駅ナンバリング|駅番号]]「'''JY 10'''」 * 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 - 駅番号「'''N 14'''」 == 歴史 == [[File:JRE TokyoMetro Komagome Station 1974.jpg|thumb|駒込駅付近の空中写真。画像中心が駒込駅(1974年 国土画像情報オルソ化空中写真(国土交通省)より)。]] * [[1910年]]([[明治]]43年)[[11月15日]]:[[鉄道院]]の駅が開業。山手線所属の駅で、旅客営業のみ。 * [[1917年]]([[大正]]6年)[[6月6日]]:[[東京都電車|東京市電]]駒込線・駒込橋電停が開業。 * [[1922年]](大正11年)[[4月10日]]:駒込橋停留所を駒込駅方面に0.1km移設。 * [[1923年]](大正12年)[[4月12日]]:市電飛鳥山線開業。駒込駅隣接地に市電巣鴨車庫駒込分車庫が開設。1939年に独立車庫となる。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[4月13日]]:[[太平洋戦争]]中に[[東京大空襲#その後の空襲|空襲]]に遭い、駅舎が全焼。 * [[1957年]](昭和32年)[[10月27日]]:北口駅舎が改築される(それまで戦後に[[バラック]]造で復旧させた仮駅舎だった。)<ref name="交通1957" group="新聞">{{Cite news |和書|title=駒込駅北口完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1957-10-17 |page=1 }}</ref>。同時に南北自由通路を新設{{R|group="新聞"|交通1957}}。 * [[1971年]](昭和46年)[[3月17日]]:都電19系統(駒込線・飛鳥山線)廃止。これより20年間接続路線がなくなる。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[4月21日]]:JR東日本(東口)に[[自動改札機]]導入<ref group="新聞">{{Cite news|title=自動改札システム JR東日本、山手線にも導入|newspaper=交通新聞|publisher=交通新聞社|date=1990-04-07|page=1}}</ref>。 ** [[5月19日]]:JR東日本(北口・南口)に自動改札機導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=191 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1991年]](平成3年)[[11月29日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)7号線・南北線の駅が開業<ref name="RP555_50">{{Cite journal|和書|author=荒井正明(帝都高速度交通営団運輸本部計画部施設課)|title=営団南北線の開業|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1992-02-01|volume=42|issue=第2号(通巻第555号)|pages=50 - 54|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。当初は始発駅であった。 * [[1996年]](平成8年)[[3月26日]]:[[四ツ谷駅]] - 当駅間の開業に伴い、南北線の駅も途中駅となる<ref name="RP622_102">{{Cite journal|和書|author=福田孝義(帝都高速度交通営団運輸本部運輸部運転課)|title=1996.3.26 営団南北線四ツ谷延伸開業|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1996-06-01|volume=46|issue=第6号(通巻第622号)|pages=102 - 103|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|title=南北線駒込-四ツ谷 きょう延伸開業 営団後楽園駅で記念式典|newspaper=交通新聞|date=1996-03-26|publisher=交通新聞社|page=3}}</ref>。 * [[2000年]](平成12年):JR東日本の駅が[[関東の駅百選]]に選定される<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=32 - 33・229頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。選定理由は「山手線の中にあって季節になるとツツジが大変素晴らしい駅」<ref name="stations" />。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、南北線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[12月23日]]:JR東日本の駅舎改装工事が完了。北口・南口側に[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]・[[駅ナカ]]施設が設置される。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[12月14日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 * [[2015年]](平成27年)[[3月13日]]:南北線ホームの[[発車メロディ]]を変更<ref group="報道" name="pr20150302">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150302_21.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510120512/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線の発車メロディをリニューアル! 各駅に新しい発車メロディを導入します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-02|accessdate=2020-03-25|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[5月15日]]:JR東日本の駅が業務委託化<ref name="2019-11-15">{{Cite web|和書|url=http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html|title=「平成28年度営業関係施策(その4)について」提案を受ける|accessdate=2019-11-15|publisher=東日本ユニオン東京地本|archivedate=2019-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191114163228/http://jrtu-tokyo.sakura.ne.jp/job/jobfiles/h28eigyou_no4.html}}</ref>。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 駒込駅 |画像 = Komagome Station south entrance 2022-10-20.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 南口(2022年10月) |よみがな = こまごめ |ローマ字 = Komagome |電報略号 = コメ |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[駒込 (豊島区)|駒込]]二丁目1-1 |座標 = {{coord|35|44|11.3|N|139|44|48.7|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 駒込駅}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |開業年月日 = [[1910年]]([[明治]]43年)[[11月15日]] |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線 |乗車人員 = 40,906 |統計年度 = 2022年 |所属路線 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]] |駅番号 = {{駅番号r|JY|10|#9acd32|1}} |前の駅 = JY 11 [[巣鴨駅|巣鴨]] |駅間A = 0.7 |駅間B = 1.6 |次の駅 = [[田端駅|田端]] JY 09 |キロ程 = 19.0 |起点駅 = [[品川駅|品川]] |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15" /> * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|東口に導入<ref name="StationCd=712_230911" />。}}<ref name="StationCd=712_230911" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[巣鴨駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="2019-11-15"/>。[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。地形が傾斜しており、西側が[[切土|掘割]]、東側が[[盛土]]上にホームがある構造となっている。山手線ホームの最東端は[[北区 (東京都)|北区]][[中里 (東京都北区)|中里]]に位置している。 [[ホームドア#可動式ホーム柵|可動式ホーム柵]]が設置されている。 [[改札]]は2か所ある。西側(池袋方)の改札は、山手線ホームから[[階段]]、[[エスカレータ]]または[[エレベータ]]で上った先にあり、線路を渡る南北の通路に接しており北口と南口につながる。東側(田端駅寄り)には、階段を下りた先の改札を経て東口がある。北口には、[[みどりの窓口]]が営業されていたが廃止され、多機能券売機数機が設置されている。また、東口には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、終日インターホンによる案内となる<ref name="StationCd=712_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=712|title=駅の情報(駒込駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911143254/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=712|archivedate=2023-09-11}}</ref>。 駅構内の掘割の斜面にある[[ツツジ|つつじ]]の植栽が有名で、これにより[[関東の駅百選]]にも認定されている。[[バリアフリー]]対応のためエレベーターやエスカレーターの設置工事が行われた際、工事の支障となる北側斜面のつつじの一部が伐採された。その後、可能な範囲でのつつじの新規植栽がされた。 山手線唯一<ref group="注釈">運行系統としての山手線が走行する線路において。線路名称上の山手線には、[[山手線#山手貨物線|山手貨物線]]上に3か所の踏切がある。</ref>の[[踏切]]である第二中里踏切が駅から田端側へ約400m程度行ったところにあるため、当駅の山手線外回りは通過禁止駅に指定されている。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、JR東日本の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center"|外回り |[[田端駅|田端]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|内回り |[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]・[[渋谷駅|渋谷]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/712.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> Komagome Station east entrance (south) 2022-10-20.jpg|東口(2022年10月) JRE Komagome-STA North-Gate.jpg|北口改札(2022年12月) JRE Komagome-STA East-Gate.jpg|東口改札(2022年12月) JRE Komagome-STA Platform1-2.jpg|山手線ホーム(2022年12月) </gallery> ==== 駅施設 ==== [[ファイル:Hotel Mets Komagome 2017-04-06.jpg|thumb|駅に隣接された[[JR東日本ホテルメッツ|ホテルメッツ]]]] {{columns-list|2| * 南口 ** [[JR東日本ホテルメッツ]]駒込 * 北口 ** [[キヨスク|NewDaysKIOSK]] ** [[自動券売機]]・[[指定席券売機]] ** [[自動改札機]] ** 有人改札室 * 北口改札内 ** ほんのり屋(おにぎり) ** [[アンデルセンベーカリーパートナーズ|LITTLE MERMAID]] ** 多機能[[便所|トイレ]] ** 旅客階段 ** エスカレーター・エレベーター * 東口 ** KIOSK ** 自動券売機 ** 無人改札通路 ** 自動改札機 * 東口改札内 ** 旅客用トイレ(多機能トイレ設置工事中) ** 旅客用階段 ** 旅客用エレベーター |}} ==== 発車メロディ ==== [[発車メロディ]]は「[[さくらさくら]]」である。当駅近くが[[ソメイヨシノ]]の発祥の地であることから、地元の[[商店街]]が地域活性化の一環として[[2005年]]に実現させたものであり駅のシンボルとなっている。2005年<ref group="新聞">日本経済新聞2005年3月17日付け夕刊、23面</ref>と[[2006年]]は3月中旬から5月上旬までの期間限定で使用されていたが、[[2007年]]以降は通年で使用されている。内回りと外回りでは曲のアレンジが異なり、2006年度のみ内回りと外回りの組み合わせが入れ替わっていた。 {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1 |[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] |さくらさくら V1 |- !2 |[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] |さくらさくら V2 |} === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 駒込駅 |画像 = Komagome Station Tokyo Metro entrance and JR East south entrance 2022-10-20.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 入口(2022年10月) |よみがな = こまごめ |ローマ字 = Komagome |副駅名 = |所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[駒込 (豊島区)|駒込]]二丁目1-40 |座標 = {{coord|35|44|11|N|139|44|47.8|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ 駒込駅}} |前の駅 = N 13 [[本駒込駅|本駒込]] |駅間A = 1.4 |駅間B = 1.4 |次の駅 = [[西ケ原駅|西ケ原]] N 15 |電報略号 = コマ |駅番号 = {{駅番号r|N|14|#00ac9b|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#00ac9b|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ南北線|南北線]] |キロ程 = 15.0 |起点駅 = [[目黒駅|目黒]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月29日]]<ref name="RP555_50" /> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />34,065 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = |備考全幅 = }} 島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]で、[[ホームドア#フルスクリーンタイプ|フルスクリーンタイプのホームドア]]が設置されている。また、目黒寄り(ホーム南端)には折り返し用の[[分岐器]]が設置されている<ref name="RJ926_end">{{Cite journal|和書|author=|title=線路略図|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|page=巻末|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref group="注釈">四ツ谷延伸までは、分岐器の先の本線を[[引き上げ線]]として使用しており、2番線(当時は降車専用)の電車を引き上げ線まで回送させたあと、転線して1番線へ入線させていた。</ref>。A線(赤羽岩淵方面)に当駅止まりが、B線(目黒方面)に当駅止まり及び始発列車が設定されている。 ==== のりば ==== {| class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 |[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/komagome/timetable/namboku/a/index.html |title=駒込駅時刻表 赤羽岩淵・浦和美園方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- !2 |[[白金高輪駅|白金高輪]]・[[目黒駅|目黒]]・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/komagome/timetable/namboku/b/index.html |title=駒込駅時刻表 白金高輪・目黒・日吉方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/komagome/index.html 東京メトロ:構内立体図]) ==== 発車メロディ ==== 開業時から[[吉村弘]]作曲の南北線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月13日に[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている<ref group="報道" name="pr20150302" />。 曲は1番線が「ビスマス」([[福嶋尚哉]]作曲)、2番線が「ツツジ、咲く」([[塩塚博]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|title=「南北線」曲目リスト|format=PDF|work=[http://www.switching.co.jp/news/155 東京メトロ「南北線」が新駅メロディ採用 制作:株式会社スイッチ]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190711050827/http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|archivedate=2019-07-11|publisher=スイッチ|date=2015-03-02|accessdate=2021-03-28}}</ref>。 ==== 駅施設 ==== * 南口 ** [[コクミン|コクミンドラッグ]] <gallery> Tokyo-Metro Komagome-STA North-Gate.jpg|北改札(2022年12月) Tokyo-Metro Komagome-STA South-Gate.jpg|南改札(2022年12月) Tokyo-Metro Komagome-STA Platform1-2.jpg|南北線ホーム(2022年12月) </gallery> == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''40,906人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: JR東日本の駅では[[稲毛駅]]に次いで第99位。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''34,065人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 東京メトロ全130駅中98位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員の推移は下表の通り(JRを除く)。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="*" name="toshima">[http://www.city.toshima.lg.jp/kuse/gaiyo/jinko/toke-02/index.html としまの統計] - 豊島区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2002年(平成14年) |<ref name="RJ759_31" />26,863 | |- |2003年(平成15年) |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻第759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>27,858 |3.7% |- |2004年(平成16年) |28,988 |4.1% |- |2005年(平成17年) |30,252 |4.4% |- |2006年(平成18年) |31,279 |3.4% |- |2007年(平成19年) |33,572 |7.3% |- |2008年(平成20年) |34,487 |2.7% |- |2009年(平成21年) |34,171 |&minus;0.9% |- |2010年(平成22年) |34,797 |1.8% |- |2011年(平成23年) |34,403 |&minus;1.1% |- |2012年(平成24年) |35,768 |4.0% |- |2013年(平成25年) |36,707 |2.6% |- |2014年(平成26年) |37,443 |2.0% |- |2015年(平成27年) |38,532 |2.9% |- |2016年(平成28年) |39,584 |2.7% |- |2017年(平成29年) |40,799 |3.1% |- |2018年(平成30年) |41,842 |2.6% |- |2019年(令和元年) |41,685 |&minus;0.4% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>28,505 |&minus;31.6% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>30,252 |6.1% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>34,065 |12.6% |} === 年度別1日平均乗車人員(1910年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 !出典 |- |1910年(明治43年) |<ref group="備考">1910年11月15日開業。</ref> | |- |1911年(明治44年) |641 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |773 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |696 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |812 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,071 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,300 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |1,963 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |2,669 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |4,026 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |6,413 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |6,666 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |8,264 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |11,089 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |12,584 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |12,741 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |12,578 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |12,021 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |11,078 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |11,049 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |10,671 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |10,825 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |11,145 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !営団 !出典 |- |1953年(昭和28年) |20,184 |rowspan="38" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |21,675 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |23,764 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |26,499 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |29,247 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |32,177 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |35,078 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |38,003 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |39,364 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |41,902 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |44,219 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |46,694 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |47,570 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |48,127 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |49,020 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |49,364 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |45,503 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |45,677 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |45,959 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |46,216 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |44,863 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |44,575 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |42,667 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |42,153 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |41,197 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |40,027 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |38,516 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |37,268 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |36,953 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |36,773 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |36,678 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |37,266 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |37,307 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |38,471 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |38,126 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |41,337 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |41,356 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |41,688 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |43,975 |<ref group="備考">1991年11月29日開業。開業日から翌年3月31日までの計124日間を集計したデータ。</ref>1,435 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |47,671 |6,808 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |49,370 |7,723 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |50,008 |8,121 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |49,156 |8,317 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |45,803 |10,060 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |43,764 |10,279 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |43,257 |10,641 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>42,715 |10,574 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>42,827 |10,844 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*" name="toshima" /><ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="*">[http://www.city.kita.tokyo.jp/kuse/joho/shiryoshu/index.html 行政資料集] - 北区</ref> !年度!!JR東日本!!営団 /<br />東京メトロ!!出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>43,848 |12,951 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>44,351 |13,392 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>44,482 |13,918 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>43,957 |14,282 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>44,524 |14,841 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>45,118 |15,414 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>46,582 |16,647 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>46,777 |16,956 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>46,525 |16,923 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>46,555 |17,268 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>46,005 |17,118 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>46,988 |17,748 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>47,490 |18,211 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>47,231 |18,608 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>46,998 |19,131 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>48,094 |19,638 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>48,964 |20,236 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>49,541 |20,740 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>48,861 |20,694 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>35,245 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>37,059 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>40,906 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == [[画像:komagome_rrcrs.jpg|thumb|駅付近にある山手線唯一の踏切である第二中里踏切(2005年)]] {{See also|駒込 (東京都)|駒込 (豊島区)|本駒込|中里 (東京都北区)|西ケ原|}} 区境に位置する住宅街で、周囲には教育機関や庭園が多い。 === 北口側 === {{columns-list|2| * [[旧古河庭園]] *染井稲荷神社 * 妙義神社 * [[豊島区立図書館|豊島区立駒込図書館]] ** 豊島区区民ひろば駒込 ** 豊島区駒込地域文化創造館 ** [[赤十字血液センター|東京都赤十字血液センター]]駒込出張所 * [[染井霊園]] * 染井吉野記念公園 * 大國神社 * 駒込二丁目アパート([[東京都電車|都電]]車庫跡地) * [[女子栄養大学短期大学部]] * [[本郷中学校・高等学校]] * [[中央聖書神学校]] * 宗教法人[[日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団]]本部 * [[東京スイミングセンター]] |}} === 南口側 === [[大和郷 (文京区)|大和郷]]と呼ばれる地区。 {{columns-list|2| * [[六義園]] * [[駒込警察署]] * [[東洋文庫]] - [[国立国会図書館]]の[[支部図書館]] * 駒込駅前郵便局 * 本駒込二郵便局 * [[文京グリーンコート]] * 駒込すくすくルーム * [[文京学院大学女子中学校・高等学校]] * [[日本医師会]] * [[フレーベル館]] * [[芥川製菓]]本社 |}} === 東口側 === ほぼ[[石神井川#谷田川|谷田川]]の[[暗渠]]に沿って、北方向には駒込さつき通り、しもふり銀座、染井銀座、南方向にはアゼリア通り、田端銀座、と複数の[[商店街]]が南北に連なっている。 * 中里郵便局 * 日枝神社 * [[学校法人聖学院]]本部 * [[聖学院中学校・高等学校]]、[[女子聖学院中学校・高等学校]] == バス路線 == <!--バス路線の記述は、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> ; 駒込駅南口 * [[都営バス]] ** [[都営バス巣鴨営業所#茶51系統|茶51]]:[[秋葉原駅|秋葉原駅前]]行・[[御茶ノ水駅|御茶ノ水駅前]]行 ※御茶ノ水駅前行は早朝のみ * [[北区コミュニティバス|北区コミュニティバス「Kバス」]]([[日立自動車交通]]) ** 王子・駒込ルート:JR[[王子駅]]行 ** 田端循環ルート:JR[[田端駅]]循環 ; 南北線駒込駅 * 文京区コミュニティバス「[[Bーぐる]]」(日立自動車交通) ** [[文京区役所|文京シビックセンター]]([[春日駅 (東京都)|春日駅前]])方面 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 :: [[巣鴨駅]] (JY 11) - '''駒込駅 (JY 10)''' - [[田端駅]] (JY 09) ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 :: [[本駒込駅]] (N 13) - '''駒込駅 (N 14)''' - [[西ケ原駅]] (N 15) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="*"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 関連項目 == {{commonscat|Komagome Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=712|name=駒込}} * [https://www.tokyometro.jp/station/komagome/index.html 駒込駅/N14 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{山手線}} {{東京メトロ南北線}} {{関東の駅百選}} {{DEFAULTSORT:こまこめ}} [[Category:豊島区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 こ|まこめ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1910年開業の鉄道駅]]
2003-05-13T14:14:14Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E8%BE%BC%E9%A7%85
8,221
田端駅
田端駅(たばたえき)は、東京都北区東田端一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。北区最南端および最東端の駅である。 旅客線としては、旅客案内用の路線名における京浜東北線と山手線が乗り入れをしている。各線の線路名称上は、当駅から駒込方は山手線(当駅が終点駅)、上中里方および西日暮里方は(旅客案内用の路線名「京浜東北線」「山手線」ともに)東北本線(当駅の所属線)である(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)。 駅番号は、京浜東北線がJK 34、山手線がJY 09である。 島式ホーム2面4線を有する地上駅。ホームには古いレールを再使用した柱が使われ、開業当時をしのばせる。 旅客線ホーム東側には、田端信号場駅の着発線および東北新幹線の高架が見られる。 改札は北口と南口の2か所がある。自動券売機、多機能券売機、指定席券売機(北口のみ)、自動改札機が設置されている。 北口は橋上駅舎となっている。2008年7月30日に、人工地盤上に地上3階建ての駅ビル「アトレヴィ田端」が開業した。周辺に大きな商店や繁華街がないことを逆手にとり、成城石井やTSUTAYAなどのテナントを誘致し、乗降客や乗り換え客をターゲットとした駅ビル運営が行われている。 南口は北口とは対照的に小さな駅舎である。駅舎からホームに繋がる専用の跨線橋があるが、全体的に通路のスペースが狭い。お客さまサポートコールシステムが導入されており、駅員は終日常駐しておらず、インターホンで呼び出すようになっている。 山手線と京浜東北線は、田町駅から当駅まで、同一方向の電車は同じ島式ホームを共有する方向別複々線となっている。駅の西日暮里寄りには、山手線と京浜東北線との渡り線があり、工事および非常時に内側線・外側線のいずれかが使用できない場合、山手線・京浜東北線電車を使用できる線路に集約して運行するために用いられる。なお、その際は京浜東北線での日中の快速運転は行わず、終日各駅停車で運行される。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は37,291人である。山手線の駅の中では高輪ゲートウェイ駅、鶯谷駅、目白駅、新大久保駅に次いで少ない。ただし、乗車人員と京浜東北線・山手線間の乗り換え人員数を含めた「利用者」数では約8万3,000人が利用している(2008年時点)。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 駅は山手台地の縁に沿うような位置に立地し、台地の上と下を結ぶ形で都道458号線が在来線・貨物線を跨ぎ、駅の北口に面している。ロータリーも北口に設置されている。駅周辺に大きな商店や繁華街などはない。都道を東田端方面(北東方向)へ進み坂を下るか、あるいは動坂方面(南西方向)に坂を上ると飲食店や小さな商店が立地する一帯があるが、いずれも駅から400m程度離れている。 南口周辺は住宅地で、駅からは階段あるいは坂を上る必要がある。また駅の南東側(東田端・田端新町方面)へ直接行くことはできない。
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田端駅(たばたえき)は、東京都北区東田端一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属する。北区最南端および最東端の駅である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{混同|田畑駅}} {{出典の明記 |ソートキー = 鉄道 |date = 2015年1月 }} {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = 田端駅 |よみがな = たばた |ローマ字 = Tabata |画像 = Tabata-station-north-gate.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 北口(2019年1月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|44|17|N|139|45|39|E}}}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[東田端]]一丁目17-1 |座標 = {{coord|35|44|17|N|139|45|39|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}} |電報略号 = ハタ |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面4線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =21 }}</ref> |乗車人員 = 37,291 |統計年度 = 2022年 |開業年月日 = [[1896年]]([[明治]]29年)[[4月1日]]<ref name="sekiguchi-rashomon-stady-2009-5">[[関口安義]] 『「羅生門」の誕生』 [[翰林書房]]、2009年5月。ISBN 978-4877372828</ref> |廃止年月日 = |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]<br />(線路名称上は[[東北本線]]) |前の駅1 = JK 33 [[西日暮里駅|西日暮里]] |駅間A1 = 0.8 |駅間B1 = 1.7 |次の駅1 = [[上中里駅|上中里]] JK 35{{Refnest|group="*"|name="direct"|[[湘南新宿ライン]]など[[池袋駅|池袋]]・[[赤羽駅|赤羽]]方面の列車が運賃計算上直通運転。}} |駅番号1 = {{駅番号r|JK|34|#00b2e5|1}}<ref group="報道" name="JRE-numbering" /> |キロ程1 = 7.1&nbsp;km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から23.2 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]]{{Refnest|group="*"|線路名称上は、駒込方は[[山手線]]、西日暮里方は[[東北本線]]。}} |前の駅2 = <ref group="*" name="direct" />JY 10 [[駒込駅#JR東日本|駒込]]<!-- 品川起点で並べる --> |駅間A2 = 1.6 |駅間B2 = 0.8 |次の駅2 = [[西日暮里駅|西日暮里]] JY 08 |駅番号2 = {{駅番号r|JY|09|#9acd32|1}}<ref group="報道" name="JRE-numbering" /> |キロ程2 = 20.6 |起点駅2 = [[品川駅|品川]] |所属路線3 = [[常磐線]](貨物支線・田端貨物線) |前の駅3 = [[三河島駅|三河島]] |駅間A3 = 1.6 |駅間B3 = |次の駅3 = |キロ程3 = 1.6 |起点駅3 = [[三河島駅|三河島]] |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]] * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|南口に導入<ref name="StationCd=972_230911" />。}}<ref name="StationCd=972_230911" /> * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅= {{Reflist|group="*"}} }} [[ファイル:Tabata Station (4674872102).jpg|thumb|南口(2010年6月)]] '''田端駅'''(たばたえき)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[東田端]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属する。北区最南端および最東端の駅である。 == 乗り入れ路線 == 旅客線としては、旅客案内用の路線名における[[京浜東北線]]と[[山手線]]が乗り入れをしている。各線の線路名称上は、当駅から駒込方は山手線(当駅が終点駅)、上中里方および西日暮里方は(旅客案内用の路線名「京浜東北線」「山手線」ともに)[[東北本線]](当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]])である(詳細は路線記事および[[鉄道路線の名称]]参照)。 [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は、京浜東北線が'''JK 34'''、山手線が'''JY 09'''である<ref group="報道" name="JRE-numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200211041325/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf|format=PDF|language=日本語|title=首都圏エリアへ「駅ナンバリング」を導入します 〜2020年東京オリンピック・パラリンピックを見据え、よりわかりやすくご利用いただける駅を目指します〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-04-06|accessdate=2021-03-05|archivedate=2020-02-11}}</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:People take refuge from Nippori Station in 1923Great Kanto earthquake.jpg|thumb|[[関東大震災]]の際、田端駅から避難する人々]] [[ファイル:Tabata Station.19630626.jpg|thumb|田端駅周辺の白黒空中写真(1963年6月26日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1896年]]([[明治]]29年) ** [[4月1日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=389}}</ref><ref>{{Citation|和書|title=停車場設置 |periodical=官報 |issue=3823 |publisher=内閣官報局 |date=1896-03-31 |page=510 |url={{NDLDC|2947102/12}}}}</ref>。貨物取り扱いも開始{{R|停車場}}。当時はのちに東北本線となる路線のみが開業していた。 ** [[12月25日]]:当駅 - [[土浦駅]]間(後の常磐線)が開業。 * [[1903年]](明治36年)4月1日:[[常磐炭田]]の石炭などを[[横浜港]]へ運搬するために大塚支線(当駅 - [[池袋駅|池袋]]間 後の山手線)が開業。 * [[1905年]](明治38年)4月1日:[[日暮里駅]] - [[三河島駅]]間が開業。[[上野駅]]方面 - 土浦駅方面間の列車は当駅を経由しなくなり、当駅 - 三河島間は貨物線となる。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]により[[官設鉄道]]の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により東北本線の所属となる。 * [[1917年]]([[大正]]6年):貨物操車場に日本初の[[操車場 (鉄道)#ハンプヤード|ハンプ]]が設置される<ref>『[[#国鉄 (1972)|日本国有鉄道百年写真史]]』(1972年発行、p.247)</ref>。 * [[1961年]]([[昭和]]36年)[[2月17日]]:貨物取り扱いと[[操車場 (鉄道)|操車場]]の両業務を分離して田端操駅(現在の田端信号場駅)が開業。 * [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅(東北本線所属)となる{{R|停車場}}。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[5月19日]]:北口に[[自動改札機]]導入<ref name=JRR1991>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=191 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 ** [[11月10日]]:南口に自動改札機導入{{R|JRR1991}}。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)夏:改築工事着工。 * [[2006年]](平成18年)[[11月12日]]:北口建て替えに伴う仮駅舎の使用開始。 * [[2008年]](平成20年) ** [[3月23日]]:新北口改札とエレベーター2基使用開始。改札内に2店舗が開業。 ** [[5月17日]]:エスカレーター1基使用開始。 ** [[7月1日]]:エスカレーター全面使用開始。 ** [[7月30日]]:[[駅ビル]]「[[アトレ#アトレヴィ|アトレヴィ田端]]」が開業<ref group="報道" name="atre">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/58_20080625tabata.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190508114025/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/58_20080625tabata.pdf|format=PDF|language=日本語|title=今日いちにちのはじまりに。いつもの帰り道に。アトレヴィ田端 GRAND OPEN!!|publisher=東京圏駅ビル開発|date=2008-06-25|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-05-08}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[11月16日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]2面4線を有する{{R|zeneki05}}[[地上駅]]。ホーム{{Refnest|group="注釈"|1番線から線路を挟んだ石垣脇に、[[金魚]]が泳ぐ鑑賞池と植栽がある。国鉄時代の[[1970年]]頃、石垣下の暗さを和らげるため駅員が自費で造った池と築山が始まり。以前は[[コイ|鯉]]や[[ニシキゴイ|錦鯉]]が放されていた。石垣の耐震工事に伴い、JR東日本は金魚を自社施設の池に移して、池を取り壊す予定である<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/life/news/180117/lif1801170045-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200611144742/https://www.sankei.com/smp/life/news/180117/lif1801170045-s1.html|title=JR田端駅線路脇の金魚もう見納め?「鑑賞池」石垣工事で立ち退きへ|newspaper=産経新聞|date=2018-01-17|accessdate=2020-06-11|archivedate=2020-06-11}}</ref>。}}には古い[[レール]]を再使用した柱が使われ、開業当時をしのばせる。 旅客線ホーム東側には、[[田端信号場駅]]の着発線および[[東北新幹線]]の高架が見られる。 [[改札]]は北口と南口の2か所がある。[[自動券売機]]、多機能券売機<ref name="StationCd=972_230911" />、[[指定席券売機]](北口のみ)<ref name="StationCd=972_230911" />、[[自動改札機]]が設置されている。 北口は[[橋上駅|橋上駅舎]]となっている{{R|zeneki05}}。2008年7月30日に、人工地盤上に地上3階建ての駅ビル「アトレヴィ田端」が開業した。周辺に大きな商店や繁華街がないことを逆手にとり、[[成城石井]]や[[TSUTAYA]]などのテナントを誘致し、乗降客や乗り換え客をターゲットとした駅ビル運営が行われている<ref group="報道" name="atre"/>。 南口は北口とは対照的に小さな駅舎である{{R|zeneki05}}。駅舎からホームに繋がる専用の[[跨線橋]]があるが、全体的に通路のスペースが狭い。[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、駅員は終日常駐しておらず、インターホンで呼び出すようになっている<ref name="StationCd=972_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=972|title=駅の情報(田端駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911121926/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=972|archivedate=2023-09-11}}</ref>。 山手線と京浜東北線は、[[田町駅]]から当駅まで、同一方向の電車は同じ島式ホームを共有する[[複々線#方向別複々線|方向別複々線]]となっている。駅の西日暮里寄りには、山手線と京浜東北線との渡り線があり、工事および非常時に内側線・外側線のいずれかが使用できない場合、山手線・京浜東北線電車を使用できる線路に集約して運行するために用いられる。なお、その際<!--年末年始臨時ダイヤでは京浜東北線と山手線を同一線路上では運行しない-->は京浜東北線での日中の快速運転は行わず、終日各駅停車で運行される。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 |style="text-align:center"|北行 |[[赤羽駅|赤羽]]・[[浦和駅|浦和]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 |- !2 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center"|内回り |[[巣鴨駅|巣鴨]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]方面 |- !3 |style="text-align:center"|外回り |[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]方面 |- !4 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 |style="text-align:center"|南行 |上野・東京・[[横浜駅|横浜]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/972.html JR東日本:駅構内図]) <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JR East Tabata Station North Gate.jpg|北改札口(2022年7月) JR East Tabata Station South Entrance Gate.jpg|南口改札(2022年7月) JR East Tabata Station North Entrance Vending Machine.jpg|北口切符売り場(2022年7月) JR East Tabata Station South Entrance Vending Machine.jpg|南口切符売り場(2022年7月) JRE Tabata-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2022年12月) JRE Tabata-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2022年12月) </gallery> === バリアフリー設備 === * [[エレベーター]] * [[エスカレーター]] ** いずれも北口とホームの間を連絡する。 == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''37,291人'''である。山手線の駅の中では[[高輪ゲートウェイ駅]]、[[鶯谷駅]]、[[目白駅]]、[[新大久保駅]]に次いで少ない。ただし、乗車人員と京浜東北線・山手線間の乗り換え人員数を含めた「利用者」数では約8万3,000人が利用している(2008年時点)<ref group="報道" name="atre"/>。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |34,871 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |36,079 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |37,356 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |37,940 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |38,452 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |38,730 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |38,893 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |38,456 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |38,499 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |38,046 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>36,555 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>37,689 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>39,741 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>40,740 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>41,278 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>41,400 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>41,732 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>42,403 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>42,683 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>43,030 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>43,208 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>43,129 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>44,155 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>45,116 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>45,296 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>45,954 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>46,241 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>47,034 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>47,440 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>47,008 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>34,278 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>34,916 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>37,291 | |} == 駅周辺 == {{See also|東田端|田端 (東京都北区)|田端新町|西日暮里}} 駅は山手台地の縁に沿うような位置に立地し、台地の上と下を結ぶ形で[[東京都道458号白山小台線|都道458号線]]が在来線・貨物線を跨ぎ、駅の北口に面している。[[広場#交通広場と駅前広場|ロータリー]]も北口に設置されている。駅周辺に大きな商店や繁華街などはない。都道を[[東田端]]方面(北東方向)へ進み坂を下るか、あるいは動坂方面(南西方向)に坂を上ると飲食店や小さな商店が立地する一帯があるが、いずれも駅から400m程度離れている。 南口周辺は住宅地で、駅からは階段あるいは坂を上る必要がある。また駅の南東側(東田端・[[田端新町]]方面)へ直接行くことはできない。 === 北口 === <!--以下、チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店、パチンコ店などの娯楽施設、ATM設置のみの銀行無人店舗などは際限がなくなるので記載しない--> {{columns-list|2| * [[アトレ#アトレヴィ|アトレヴィ田端]] - 出店テナントの一覧・詳細情報は公式サイト「[http://www.atre.co.jp/store/tabata/floor_guide/01/F01 フロアガイド]」を参照。 * 田端ふれあい橋 - 都道に並行している歩行者専用の[[跨線橋]]。架設当時(1935年)の造船技術を生かし全部[[溶接]]で建造されている[[トラス橋#カンチレバートラス(ゲルバートラス)|ゲルバー橋]]である。 * [[東日本旅客鉄道首都圏本部]] * [[JR東日本ホテルメッツ]]田端 - 事前予約をすることで、駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」が利用可能<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|title=シェアオフィス事業の拡大で働き方改革を加速します ~「STATION WORK」の1,000カ所展開を目指すとともに、ワーケーションの推進を行います~|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-09-03|accessdate=2020-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200905155129/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200903_ho04.pdf|archivedate=2020-09-05}}</ref>。 * 田端アスカタワー ** [[田端文士村記念館]] * 北区田端区民センター ** 北区田端ふれあい館 ** 北区田端地域振興室 ** [[北区立図書館#一覧|北区立田端図書館]] * 北区東田端ふれあい館 * 北区東田端地域振興室 ** 北区役所滝野川区民事務所 東田端分室 ** 北区東田端児童室 * [[北区立図書館#一覧|北区立東田端図書館]] * 北区清掃事務所 滝野川清掃庁舎 * 田端郵便局 * 東田端郵便局 * 北田端新町郵便局 * 田端駅前通り商店街 * 田端高台通り商店街 * [[あみ印食品工業]]本社 * [[マルエツ]]田端店(2004年3月18日開店<ref name="taihan-news-2004-4-1-11">“マルエツ「田端店」3月18日(木)オープン 東京都北区”. タイハン特報 (大量販売新聞社). (2004年4月1日)</ref>) * [[田端運転所]] |}} <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> JRE-Tokyo-branch-office.jpg|東日本旅客鉄道首都圏本部 Hotel Mets Tabata.jpg|ホテルメッツ田端(右側の背の低い建物はJR貨物田端信号場駅庁舎) Tabata Asuka Tower.jpg|田端アスカタワー </gallery> === 南口 === * 田端駅前ホール([[葬儀場]]) == バス路線 == <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先 |- !colspan="3"|田端駅前 |- !1 |rowspan="3" style="text-align:center;"|[[都営バス]] |{{Unbulleted list|[[都営バス北営業所#東43系統|'''東43''']]:[[東京駅のバス乗り場|東京駅丸の内北口]]|'''東43'''・[[都営バス千住営業所#端44系統|'''端44''']]:駒込病院前}} |- !2 |'''端44''':[[北千住駅|北千住駅前]] |- !3 |'''東43''':[[江北駅 (東京都)|江北駅前]]・荒川土手・[[豊島 (東京都北区)|豊島]]五丁目団地 |- !colspan="3"|JR田端駅 |- !- |style="text-align:center;"|[[北区コミュニティバス]]「Kバス」<br />([[日立自動車交通]]) |[[駒込駅|JR駒込駅]] |} == エピソード == * [[大和田建樹]]作詞の[[鉄道唱歌]]では以下のように歌われている。まだ常磐線が田端に接続していたときのことである。 ** 車輪の巡り速に千住大橋右に見て環の端の限りなく再び戻る'''田端駅'''(第三集62番) ** 車輪の響き笛の声見返る後に消えてゆく上野の森の朝月夜'''田端'''は露もまだ寒し(第四集1番) ** 見あぐる岸は諏訪の臺 それにつづきて秋の夜は 道灌山の虫のねを ここまで風や送るらん(第四集2番) * [[1936年]](昭和11年)[[3月28日]]、[[浅草花やしき]]で飼育していた動物を[[仙台市立動物園]]へ移送。この際、田端駅にて動物の積み替えが行われた。これら動物には[[ゾウ]]や[[ライオン]]、[[シロクマ]]などの大型動物が含まれていた<ref>浅草名物花屋敷が閉店、動物は身売り『中外商業新報』昭和11年3月27日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p425 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[新海誠]]監督による[[2019年]]公開の映画「[[天気の子]]」に登場している<ref group="新聞" name="news20191102"/>。特に南口を出ると始まる[[坂|上り坂]]は映画の重要なシーンの舞台となっている<ref group="新聞" name="news20191102">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20191101/k00/00m/040/116000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191102050434/https://mainichi.jp/articles/20191101/k00/00m/040/116000c|title=山手線のマイナー駅・田端は、なぜ「天気の子」の聖地になったのか|newspaper=毎日新聞|date=2019-11-02|accessdate=2020-08-30|archivedate=2019-11-02}}</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速(当駅から上中里方面の各駅に停車) ::: [[上野駅]] (JK 30) - '''田端駅 (JK 34)''' - [[上中里駅]] (JK 35) :: {{Color|#00b2e5|■}}各駅停車 ::: [[西日暮里駅]] (JK 33) - '''田端駅 (JK 34)''' - 上中里駅 (JK 35) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 ::: 西日暮里駅 (JY 08) - '''田端駅 (JY 09)''' - [[駒込駅]] (JY 10) : 常磐線貨物支線(田端貨物線) ::: [[三河島駅]] - '''田端駅''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ;JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{cite book|和書 |author = [[日本国有鉄道]] |title = 日本国有鉄道百年写真史 |date = 1972年10月14日 発行 |publisher = [[交通新聞社|交通協力会]] |ref = 国鉄 (1972)}}(復刻版:{{cite book|和書 |title = 日本国有鉄道百年写真史 |date = 2005年10月)|publisher = [[成山堂書店]] |isbn = 978-4425301638}}) * [http://www.matikita.com/05_sassi/08tabata/sassi_tabata.htm 「街よ!元気になれ」 地域特集号「田端」(北区まちづくり公社)] P18-19「田端駅変貌」(王子法人会常任理事 研修委員長 有馬純雄) == 関連項目 == {{commonscat|Tabata Station (Tokyo)}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[田端信号場駅]] - 当駅と同一地点とみなされる[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の駅。 == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=972|name=田端}} {{京浜東北・根岸線}} {{山手線}} {{常磐線 (田端貨物線・隅田川貨物線)}} {{デフォルトソート:たはた}} [[Category:東京都北区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 た|はた]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:京浜東北・根岸線]] [[Category:1896年開業の鉄道駅]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%AB%AF%E9%A7%85
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黄銅
黄銅(おうどう、英語: brass)は、銅と亜鉛の合金で、特に亜鉛が20%以上のものをいう。真鍮(しんちゅう)とも呼ばれる。 青銅と並ぶ重要な銅合金で、少なくとも紀元前後に古代ローマ人が銅鉱と亜鉛鉱を混ぜて精製して使用していたが、両単体金属を溶かし合わせて作るようになったのは、十六世紀に亜鉛金属が発見されてからである。 先史時代から使用されていたが、製造時に使う亜鉛蒸気が金属として認識されていなかったため、銅亜鉛合金としての真の性質は中世後期まで理解されていなかった。 初期は、亜鉛が豊富に含まれる銅鉱石を精練して自然に得ていたと考えられる。ローマ時代までにはセメント化プロセスを使用したカラミンブラス(英語版)が開発され、19世紀半まで類似手法で製造されるようになった。最終的には、16世紀にヨーロッパに導入されたスペルター(英語版)法に置き換えられた。 紀元前3千年紀には、西アジアや地中海東岸地域でごく少数の痕跡が確認されている。しかし、隔絶された痕跡として紀元前5世紀の中国で真鍮の例が知られる。 なお、古代ローマではドゥポンディウスやセステルティウスなどの貨幣に使用されていた。 配合の比によって外見が変化し、亜鉛の量が増えるに従い銅赤色→黄金色→帯赤銀白色となり、機械的性質も変わるが一般的に引っ張り強さ・硬さ・延びともに良好で加工しやすく比較的安価なため、機械器具や日用品に極めて広い用途を持つ。また、鉛・錫・ニッケルなどを加えると特別な性質を持つので、用途に応じて特殊黄銅(鉛入黄銅・ネーバル黄銅・高力黄銅など)として製作される。 亜鉛のみとの合金では亜鉛の割合が増すごとに硬度を増すが、同時に脆さも増すため、亜鉛45%以上では実用に耐えない。最も一般的な黄銅は、銅65%、亜鉛35%のものである。また、銅と亜鉛の割合によって物性が変化する。JISでは銅合金として扱われ、材料記号は頭文字Cで始まる4桁記号で表される。下記に例を示す。 いずれの黄銅も展延性に優れており、よく冷間加工で使用される。適度な硬さと過度ではない展延性によって、旋盤やフライス盤などによる切削加工が容易でなおかつ価格もほどほどなので、微細な切削加工を要求される金属部品の材料としての使用頻度が高い。 黄銅の比較的低い融点(組成に応じて900〜940°C、1,650〜1,720°F)とその流動特性により、黄銅は青銅や亜鉛などより簡単に鋳造可能である。 鉄鋼材に比べ錆びにくく水気にも強いので、クロームめっきやステンレス材の普及以前は食器、調理器具、水回り配管、建具等にも多用された。 物に当たっても火花が出ないため、火気厳禁の場所での工具に利用された。 前記の特性ゆえに、身近なところでは切削加工を多用する鍵や錠前、時計部品。他には紙幣の印刷機などの精密機械や理化学器械類、蛇口などの水道設備、弾薬の薬莢や金属模型などに広く使用されている。 日本では仏具、多くの金管楽器(別名であるブラス(brass)は黄銅の英名に由来している)などに多用されている。 また、1948年から現在に至るまで、日本で発行されている五円硬貨(品位は銅60%-70%、亜鉛40%-30%)の素材としても使われている。日本の貨幣素材としてのこの組成は、戦争に使用した薬莢や弾帯その他の兵器のスクラップを材料に用いたのが起源で、五円硬貨に使われる以前は、終戦直後の五十銭硬貨(大小2種あり)に使われ、また1948年の五円硬貨と同時に発行が開始された一円硬貨にも使われていた。また戦前にも日本で1938年の烏一銭黄銅貨が発行されたこともあったが、これは「黄銅貨」と称しても組成が戦後の黄銅貨と異なり、この硬貨の品位は銅90%、亜鉛10%で、トムバック黄銅と呼ばれる組成である。その一銭・五十銭および一円の黄銅貨はいずれも現在通用停止となっている。 また、金に似た美しい黄色の光沢を放つことから金の代用品にもされ、poorman's gold(貧者の金)と呼ばれる。日本の時代劇において小道具として使われる偽の小判も真鍮製のものが多い。ただし錆に絶対的耐性をもつ純金と違い、黄銅は表面にくすみを生じるので、銀食器と同様に磨いたり、透明ラッカーでコーティング処理する対策を要する。 日本では、黄銅の製法は18世紀、江戸時代になって普及したとされてきたが、2014年4月21日、12世紀の平安時代に作られたとされる写経に黄銅が大量に使われていることが奈良大学の東野治之らの調査によって判明した。亜鉛は比較的、低温で蒸発してしまうため、精錬が難しく、日本での普及は江戸時代になってからとされるが、既に12世紀には金の代用品とされていたことが新たに分かった。寛永通宝にも真鍮製のものがあり、これは一文銭よりやや大型で裏面に波の模様があり、四文に通用した。 これ以外にエッチングして模型に使用される場合もあるほか、市販されている金色の塗料の多くには黄銅の微粉末が使われている。ただし、塗料については、経年により黒く変色し輝きを失うことがあり、ラテックス類・生ゴムに塗ると黄銅の成分(銅と亜鉛)によりゴムを分解腐食させてしまう欠点がある。 英語の慣用句で、組織のトップを top brass、高級将校を brass hat と言う。また「真鍮色の」という意味の brazen は、「恥知らず、図々しい」という意味をもつ。
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黄銅は、銅と亜鉛の合金で、特に亜鉛が20%以上のものをいう。真鍮(しんちゅう)とも呼ばれる。
{{参照方法|date=2016年10月}} [[画像:5JPY.JPG|thumb|250px|right|[[五円硬貨]]。銅60-70%、亜鉛40-30%の黄銅製。]] '''黄銅'''(おうどう<ref name="kotobank">{{kotobank|黄銅|2=}}</ref>、{{Lang-en|brass}})は、[[銅]]と[[亜鉛]]の[[合金]]で、特に亜鉛が20%以上のものをいう。'''真鍮'''(しんちゅう)<ref name="kotobank"/>とも呼ばれる。 == 歴史 == [[青銅]]と並ぶ重要な銅合金で、少なくとも紀元前後に古代ローマ人が銅鉱と亜鉛鉱を混ぜて精製して使用していたが、両単体金属を溶かし合わせて作るようになったのは、十六世紀に亜鉛金属が発見されてからである<ref name="genshoku1966">小学館編『世界原色百科事典 1 あ-おそ』小学館、昭和41年、p.565「黄銅」</ref>。 [[先史時代]]から使用されていたが<ref>Thornton, C. P. (2007) [http://www.safarmer.com/Indo-Eurasian/Brass2007.pdf "Of brass and bronze in prehistoric southwest Asia"] in La Niece, S. Hook, D. and Craddock, P.T. (eds.) ''Metals and mines: Studies in archaeometallurgy'' London: Archetype Publications. {{ISBN2|1-904982-19-0}}</ref>、製造時に使う亜鉛蒸気が金属として認識されていなかったため、銅亜鉛合金としての真の性質は中世後期まで理解されていなかった<ref>de Ruette, M. (1995) "From Contrefei and Speauter to Zinc: The development of the understanding of the nature of zinc and brass in Post Medieval Europe" in Hook, D.R. and Gaimster, D.R.M (eds) ''Trade and Discovery: The Scientific Study of Artefacts from Post Medieval Europe and Beyond'' London: British Museum Occasional Papers 109</ref>。 初期は、亜鉛が豊富に含まれる銅鉱石を精練して自然に得ていたと考えられる<ref name=Craddock>Craddock, P.T. and Eckstein, K (2003) "Production of Brass in Antiquity by Direct Reduction" in Craddock, P.T. and Lang, J. (eds) ''Mining and Metal Production Through the Ages'' London: British Museum pp. 226–7</ref>。ローマ時代までにはセメント化プロセスを使用した{{ill2|カラミンブラス|en|calamine brass}}が開発され、19世紀半まで類似手法で製造されるようになった<ref>Rehren and Martinon Torres 2008, pp. 170–5</ref>。最終的には、16世紀にヨーロッパに導入された{{ill2|スペルター|en|Spelter}}法に置き換えられた<ref name=Craddock/>。 紀元前3千年紀には、[[西アジア]]や地中海東岸地域でごく少数の痕跡が確認されている<ref>Thornton 2007, pp. 189–201</ref>。しかし、隔絶された痕跡として紀元前5世紀の中国で真鍮の例が知られる<ref name=r5>{{cite journal|url=http://sciencelinks.jp/j-east/article/200112/000020011201A0425152.php |author=Zhou Weirong |year=2001 |title=The Emergence and Development of Brass Smelting Techniques in China |journal=Bulletin of the Metals Museum of the Japan Institute of Metals |volume=34 |pages=87–98 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120125061916/http://sciencelinks.jp/j-east/article/200112/000020011201A0425152.php |archivedate=2012-01-25 |df= }}</ref>。 なお、古代ローマでは[[ドゥポンディウス]]や[[セステルティウス]]などの貨幣に使用されていた。 == 物性 == [[File:Diagramme binaire Cu Zn.svg|thumb|320px|銅-亜鉛混合系の[[相図]]。横軸は銅・亜鉛混合比、縦軸は[[温度]]を示す。混合比によりα相,β相,γ相等の異なる[[相 (物質)|相]]をとる。]] 配合の比によって外見が変化し、亜鉛の量が増えるに従い銅赤色→黄金色→帯赤銀白色となり、機械的性質も変わるが一般的に引っ張り強さ・硬さ・延びともに良好で加工しやすく比較的安価なため、機械器具や日用品に極めて広い用途を持つ。また、鉛・錫・ニッケルなどを加えると特別な性質を持つので、用途に応じて特殊黄銅(鉛入黄銅・ネーバル黄銅・高力黄銅など)として製作される<ref name="genshoku1966"/>。 亜鉛のみとの合金では亜鉛の割合が増すごとに[[硬度]]を増すが、同時に[[脆性|脆さ]]も増すため、亜鉛45%以上では実用に耐えない。最も一般的な黄銅は、銅65%、亜鉛35%のものである。また、銅と亜鉛の割合によって物性が変化する。JISでは[[銅合金]]として扱われ、[[材料記号]]は頭文字Cで始まる4桁記号で表される。下記に例を示す。 *C2600:七三黄銅(銅が約70%、亜鉛が約30%) イエローブラスとも言う。 *C2801:六四黄銅(銅が約60%、亜鉛が約40%) 黄金色に近い黄色を示す。 *C3604:快削黄銅(銅が57.0-61.0%、鉛が1.8-3.7%、[[鉄]]が0.50%以下、鉄+錫が1.0%以下、亜鉛は残部) 被削性を高めるために[[鉛]]を添加している。 *C3771:[[鍛造]]用黄銅(銅が57.0-61.0%、鉛が1.0-2.5%、鉄+錫が1.0%以下、亜鉛は残部) *C4600台:ネーバル({{Lang|en|naval}})黄銅(海軍黄銅とも言う) [[錫]](すず)を添加し耐海水性を高めたもの。 *CAC201:黄銅[[鋳物]]1種 いずれの黄銅も展延性に優れており、よく[[冷間加工]]で使用される。適度な硬さと過度ではない展延性によって、[[旋盤]]や[[フライス盤]]などによる[[切削加工]]が容易でなおかつ[[価格]]もほどほどなので、微細な切削加工を要求される金属部品の材料としての使用頻度が高い{{efn|金属の切削加工材としては、金や純銅などの軟らかい金属は展延性がありすぎて粘りが強く、硬い金属は削りにくく割れやすくどちらも微細な切削加工はしにくい。}}。 ==特徴== 黄銅の比較的低い融点(組成に応じて900〜940°C、1,650〜1,720°F)とその流動特性により、黄銅は青銅や亜鉛などより簡単に鋳造可能である。 鉄鋼材に比べ錆びにくく水気にも強いので、[[クロム|クローム]][[めっき]]や[[ステンレス]]材の普及以前は食器、調理器具、水回り配管、建具等にも多用された。 物に当たっても火花が出ないため、火気厳禁の場所での工具に利用された。 ;リサイクル性 :2002年の本によると90%回収されており、強磁性ではないため磁石によって容易に選別可能である<ref>{{cite book |author1=M. F. Ashby |author2=Kara Johnson |title=Materials and design: the art and science of material selection in product design |url=https://books.google.com/books?id=-RN57euC7x8C&pg=PA223 |accessdate=12 May 2011 |year=2002 |publisher=Butterworth-Heinemann |isbn=978-0-7506-5554-5 |pages=223–}}</ref>。 == 用途 == {{出典の明記|date=2021年7月|section=1}} 前記の特性ゆえに、身近なところでは切削加工を多用する[[鍵]]や[[錠前]]、[[時計]]部品。他には紙幣の印刷機などの[[精密機械]]や理化学器械類、[[蛇口]]などの水道設備、弾薬の[[薬莢]]や金属[[模型]]などに広く使用されている。 [[日本]]では[[仏具]]、多くの[[金管楽器]](別名であるブラス({{Lang|en|brass}})は黄銅の英名に由来している)などに多用されている。 また、1948年から現在に至るまで、[[日本]]で発行されている[[五円硬貨]](品位は銅60%-70%、亜鉛40%-30%)の素材としても使われている。日本の貨幣素材としてのこの組成は、戦争に使用した薬莢や弾帯その他の兵器のスクラップを材料に用いたのが起源で、五円硬貨に使われる以前は、終戦直後の五十銭硬貨(大小2種あり)に使われ、また1948年の五円硬貨と同時に発行が開始された一円硬貨にも使われていた。また戦前にも日本で1938年の烏一銭黄銅貨が発行されたこともあったが、これは「黄銅貨」と称しても組成が戦後の黄銅貨と異なり、この硬貨の品位は銅90%、亜鉛10%で、[[トムバック]]黄銅と呼ばれる組成である。その一銭・五十銭および一円の黄銅貨はいずれも現在通用停止となっている。 また、[[金]]に似た美しい黄色の光沢を放つことから金の[[代用品]]にもされ、{{Lang|en|poorman's gold}}([[貧乏|貧者]]の金)と呼ばれる。日本の[[時代劇]]において[[美術 (職業)|小道具]]として使われる偽の[[小判]]も真鍮製のものが多い。ただし錆に絶対的耐性をもつ純金と違い、黄銅は表面にくすみを生じるので、[[銀食器]]と同様に磨いたり、透明ラッカーでコーティング処理する対策を要する。 日本では、黄銅の製法は[[18世紀]]、[[江戸時代]]になって普及したとされてきたが<ref name=":0" /><ref name=":1" /><ref name=":2" />、2014年4月21日、[[12世紀]]の[[平安時代]]に作られたとされる[[写経]]に黄銅が大量に使われていることが[[奈良大学]]の[[東野治之]]らの調査によって判明した<ref name=":0">{{cite news |title=平安期の金字経から真ちゅう 制作者、費用ごまかす? |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2014-4-21 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2104C_R20C14A4CR8000/ |accessdate=2014-4-21}}</ref><ref name=":1" /><ref name=":2" />。亜鉛は比較的、低温で蒸発してしまうため、精錬が難しく、日本での普及は江戸時代になってからとされる<ref name=":1">{{cite news|date=2014-4-22|newspaper=[[東京新聞]]|title=平安の金字経に黄銅 利ざや稼ぐ? 発色のため?|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140429205011/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014042202000144.html|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014042202000144.html|accessdate=2016-10-7|archivedate=2014年4月22日}}</ref>が、既に12世紀には金の代用品とされていたことが新たに分かった<ref name=":2">{{cite news |title=真鍮合金、平安期に - 定説覆す発見/奈良大が分析 |newspaper=[[奈良新聞]] |date=2014-4-22 |url= https://www.nara-np.co.jp/news/20140422090033.html |accessdate=2014-4-29}}</ref>。[[寛永通宝]]にも真鍮製のものがあり、これは一文銭よりやや大型で裏面に波の模様があり、四文に通用した。 これ以外に[[エッチング]]して[[模型]]に使用される場合もあるほか、市販されている金色の[[塗料]]の多くには黄銅の[[粉|微粉末]]が使われている。ただし、塗料については、経年により黒く変色し輝きを失うことがあり、[[ラテックス]]類・[[ゴム|生ゴム]]に塗ると黄銅の成分(銅と亜鉛)により[[ゴム]]を分解腐食させてしまう欠点がある。 == 文化 == 英語の[[慣用句]]で、組織のトップを {{en|top brass}}、高級将校を {{en|brass hat}} と言う。また「真鍮色の」という意味の {{en|brazen}} は、「恥知らず、図々しい」という意味をもつ。 ; アンモニアによる腐食 : [[イギリス領インド帝国]]の[[イギリス軍]]内部で、夏場に厩舎に保管されていた弾薬の薬莢がクラックしていたのが発見された。調査の結果、夏場の熱さで厩舎内の[[アンモニア]]が蒸発し、それによって弾薬に使用される真鍮を腐食させたと判明した。この現象は、特定の季節に発生したことから、{{ill2|シーズンクラッキング|en|Season cracking}}と呼ばれる。 ; プレート : 教会に寄進されるプレート({{ill2|モニュメンタル・ブラス|en|Monumental brass}})に使用された。13-16世紀のイギリスで、プレートに彫られた文字や絵画をプレートの上に紙を置き、[[炭]]で擦って[[複写]]する技法である[[乾拓]]することが流行り、{{仮リンク|ブラスラビング|en|brass rubbing}}(直訳すると黄銅擦り)と呼ばれた。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * 門間改三『機械材料』SI単位版,実教,1993年,ISBN 978-4-407-02328-2 ==関連項目== *[[丹銅]](たんどう):亜鉛が5 - 20%未満、赤みが強い。ゴールドブラスとも言う。 *[[洋白]](銅と亜鉛とニッケルの合金) *[[青銅]](銅と錫の合金) *[[砲金]](銅と錫の合金) *[[白銅]](銅とニッケルの合金) *[[赤銅 (合金)|赤銅]](銅と金の合金) *[[セバ屑]](銅含有量が65%、亜鉛含有量が35%位の板の新くず) *[[コーペル屑]](銅含有量が60%、亜鉛含有量が40%位の板の新くず) *[[脱亜鉛腐食]] ==外部リンク== {{Commonscat}} {{Wiktionary}} *{{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おうとう}} [[Category:銅合金]] [[Category:亜鉛]]
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大林宣彦
大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年(昭和13年)1月9日 - 2020年(令和2年)4月10日)は、日本の映画監督。従四位、旭日中綬章。倉敷芸術科学大学客員教授、長岡造形大学造形学部客員教授、尚美学園大学名誉教授、文化功労者。 広島県尾道市東土堂町生まれ。尾道市立土堂小学校、尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報学部情報表現学科名誉教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。2014年(平成26年)4月から長岡造形大学客員教授。 妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており(映画「ハウス」の発案者である他、出演もしている)、その夫は漫画家の森泉岳土。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる。 自主製作映画の先駆者として、CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師"。 父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。父方の祖父は日本で初めて睡眠療法を取り入れようとした人で、大林は子どもの頃、夢遊病を取り入れた心理療法を受けたことがあるという。父方の一族の男子は、歴代"大林〇彦"と、母方の一族の男子の名前は歴代"村上〇祥"と名前を付けられた。両方の家は親戚を含めて大人になったら男は全員医者、女は医者の妻と宿命付けられており、大林家の息子と村上家の娘が結婚して男子が生まれたら、大人になったら医者になるしか選択肢はなかった。 宣彦の生誕時に父は岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)の寮にいたが、母は初産で、尾道の母方の実家に帰り宣彦を産んだ。1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、宣彦はそのまま母方の実家・尾道の山の手で、18歳で上京するまで育つ。母方の実家は築100年以上の古くて大きな家で、男女合わせて30~40人が住む賑やかな家ではあったが、父親がいないこと、他の従妹とも年が離れていたため一人で遊ぶことが多かった。1~2歳の頃の楽しみは、庭のすぐ下を通過する山陽本線の蒸気機関車で、それはとてつもない恐怖体験だったという。戦前の尾道には外国船も寄港し、南蛮渡来の不思議な積み荷が届くと、港の人が「先生、これは何でしょうか?」と祖父の元に持ち込み、「わしにもよう分からんけ、蔵に入れとけ」と、蔵の中は古今東西のガラクタで溢れていた。2歳でその蔵にあったブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳で35mmフィルムに手描きしてアニメーションを作った。大林は1977年『瞳の中の訪問者』撮影中に樋口尚文のインタビューに答え、影響を受けた監督は誰かの質問に対して「観た映画は全部栄養になっていますから、特に師匠のように尊敬している人は名前が挙がらないのですが、日本で誰か一人と言われたならマキノ雅弘さんになっちゃうでしょうね。もっと言えばエジソンが映画というオモチャを発明して僕の子供部屋に送り込んでくれたということでしょうか」などと述べている。映画監督は、映画を観て監督という職業を志すが、大林の場合は映画を観るより作ることから先に始まった。この祖父をモデルに作った『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が制作された。自身を投影している主人公の名前「馬場毬男」は、イタリアの撮影監督・マリオ・バーヴァをもじったもので、遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の主人公名でもある。 大林の映画作りは、尾道の旧い家の子供部屋の闇の中から、一人こつこつと始まる。戦争で近所の親しかった人たちが次々と亡くなった。「幼少期に感じた死者の気配が映画づくりの原点。私が描くのは虚実のはざま。生きているのか死んでいるのか分からない人が登場する」と語る。少年期は特にアメリカ映画に強い影響を受けた。実家の持ち家の一つに新藤兼人が一時期住んでおり、毎週末通っていた映画館では“新藤おじさん”の隣で活動写真を見ていたこともあった。尾道の(当時あった)九つの映画館で上映される映画をすべて観ようと決意し、どうかすると(尾道時代に)千本近い映画を観ていたと思います」と話す。15歳のときに小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに福永武彦『草の花』を読み、感銘を受ける。いつかショパンのピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『さびしんぼう』で実現する。高校時代は手塚治虫に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、同人誌を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した。 医者になることを宿命付けられていたが、真剣に医者を目指す同級生は、地元の広島医科大学か京大、阪大を目指していた。地元で実家の医者を継ぐという選択のリアリティは関西圏までしかなかった。大林は進路に迷いがあり、この時点で医者になることは虚構になり始めていた。1955年、父に与えられた8ミリカメラを手に上京し、慶應義塾大学医学部を受験する。しかし試験の途中で抜け出して映画を見に行き、「医者にはならない、映画の世界に行くんだ」と決意。尾道に戻り、父に「医者にならない、映画を作りたい」と言ったら、何と父はそれを認めてくれた。父親は岡山医科大学を首席に近い成績で卒業して、将来を嘱望された研究者で、戦争で研究者のキャリアを断念し、戦後復員後、妻の実家の病院を継ぎ、地元の医師として一生を終えた人だった。また母親も世が世なら、東京に行って女優か作家になりたいと考えていたモダンな人で、母親も賛成してくれた。1年浪人する間、東京中の名画座で映画を見まくる。「1960年代までは、日本で観ることのできる世界中の映画を全部観ている」と話している。ある日、自転車で雑木林に導かれ、いつのまにかどこかの敷地に侵入し、小高い丘の上に成城大学があり、学園というのが洒落ているなという理由で成城大を受験する。尾道には海と島と山はあっても陸地やそれに連なる雑木林はなく、雑木林なんてヨーロッパ映画でしか見たことはなく、東京は異国のようだったと話している。慶應の医学部を目指していたから成城は遊びで受かるだろうと思い、合格発表は見ていないという。映画作りを仕事にしようと決意し、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学した。映画学科がある大学は珍しかったが、学生が映画を作るわけではなく、理論を教えるだけ。この頃はまだ学生たちが映画を作るという時代ではなく、映研も日本大学しかまだなく、大変特殊な存在だった。当時ボードレールに憧れていた大林は、入学試験中にポケットからウイスキーの小瓶を出して飲みながら答案を書いていたところ、試験官の教員から「良き香りがいたしますな」と言われ「先生も一献いかがですか」と勧めると、相手が「頂戴いたしましょう」と応じたため、試験中に試験官と酒を酌み交わすことになったという。大学時代は東宝撮影所の裏にあった早坂文雄の子息が経営するアパート新樹荘に住んだ。大林の隣が東陽一の部屋で、もう一つ隣の部屋に平田オリザの父が住んでいた。大学では講義に全く出ず、赤いスカーフを首に巻いて片手に8ミリカメラを持ち、一日中グランドピアノの前でシャンソンを弾きながら、聴きに来る女学生たちを1コマずつ撮っていた。その中の一年後輩の女学生がのちの妻で、雑木林で思わず「僕と結婚しない?」と言ったら、翌日彼女は「昨日の返事はハイです。結婚のことは、この18年間考え尽くしていますから」と言い、そのまま手をつないで講堂を出て大林のアパートに行き、半同棲を始めた。当時はまだ「同棲」という言葉はなく、近所の人は兄妹が一緒に住んでいると思っていたという。両親は大学を卒業したら、東宝や東映に就職するのだろうと考えていたが、当時の大手映画会社は、エリートしか入れない時代で、東大か京大、早稲田ぐらいを卒業してないと入社試験も受からないと大林自身東京に来てから知った。そのため映画会社に就職して映画監督になるという選択はあまり現実的ではなく、ヌーヴェルヴァーグの影響を受け、これからは売れない作家が映画も撮る時代に来るぞ、と考え、8mmで個人映画を作ってアプレゲールになると意気込んだ。この頃、富士フイルムのようなフィルム会社がコンテストを始めたり、ようやく8ミリ関係の雑誌ジャーナリズムも刊行され始めた。在学中から8mmで作品を発表。1957年、文化祭のために福永武彦の詩集の映画化「青春・雲」発表。初恋を幻想的に描く二作目「絵の中の少女」(1958年)のヒロイン役が妻である。当時はまだ自主製作映画という概念はなかったが、その先駆者として、早くから名前を知られた。1960年に大学を中退。中退後に約2年、神保町で雑誌編集の仕事をする。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた高林陽一と飯村隆彦の3人しか日本にいなかったという。最初に自主映画を有料で公開しようとしたのはこの3人で、彼等は月刊『小型映画』のコンテスト落選組だったが、高橋徳行同誌編集長は、いつも落選している個性的な応募者を会わせたら面白いのではないかと考えて、編集長の計らいで会った3人はたちまち意気投合した。これが日本の戦後自主制作・自主上映映画の端緒となる。最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり、映画が上映される前に3〜5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた。経堂や祖師ヶ谷大蔵の商店街の短編を作ったことがあるという。当時のTVの台頭とコマーシャル(CM)には既に興味があった。自分たちの作品をもっと人に見てもらおうと画廊で映画を掛けたら反響が大きく、その後新宿アートシアター(ATG)や池袋人世坐など、大きな映画館で掛けるようになったため8ミリから16ミリに転換した。1963年に初の16mm作品、藤野一友との共作『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。 1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、高林陽一、金坂健二、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。高林が『砂』で、飯村が『ONAN』など揃って受賞したことで、マスコミが実験映画運動に関心を持ち出し、草月が海外の実験映画を上映したりした。『尾道』(1960年)、『中山道』(1961年)、『喰べた人』(1963年)、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』(1964年)、『遥かなるあこがれギロチン・恋の旅』(1968年)や、日本のカルト映画の草分け『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ。「今、個人映画は、ハリウッド映画をめざす」と話した。同作はロジェ・ヴァディム監督の1960年『血とバラ』のオマージュで、原題『Et mourir de plaisir』を大林は「死に至る病」と解釈していた。『EMOTION』は当時全国五分の三の大学で上映され、今日でも上映されることがある。本作を観てアングラ演劇から映画の道に移った若者も多かったという。安藤紘平は「僕は『EMOTION』に衝撃を受けて、榎本了壱、萩原朔美と共に『ファミリーフィルムメーカー』という映画グループを作り、それは後に『ビックリハウス』という雑誌になりました。大林さんはいろんな人の人生をいっぱい変えているんでしょうけど、僕もまさに変えられた一人でした」などと述べている。いつしか個人映画の教祖的存在となる。但し「僕の作ったアンダーグラウンド映画は、少しもアンダーグラウンドではなく、まさに個人映画の『ザッツ・エンターテインメント』みたいなものだった」と述べている。原正孝(原將人)は麻布高校の文化祭で『いつか見たドラキュラ』を知り合いから借りられ、自身の作品『おかしさに彩られた悲しみのバラード』と二本立てで上映し、『いつか見たドラキュラ』を徹底的に研究し、『おかしさに彩られた悲しみのバラード』を大幅に直して、第1回フィルムアートフェスティバル東京に出品してグランプリを取り、監督デビューすることが出来たと話している。また1965年に初めてCMロケでアメリカに渡った際に、ロスとサンフランシスコで「ジャパニーズ・アンダーグラウンド・ムービー」というフェスティバルがあり『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』が一本立て上映されていたという。1970年の高林陽一初の35mm監督作品『すばらしい蒸気機関車』の音楽を担当し、公開当時のプレスシートに「音楽は前衛映画作家として著名な大林宣彦氏」と記載がある。 1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「120秒フィルムフェスティバル」を企画。紀伊國屋ホールは8ミリには対応できず、16ミリでしか上映できないため、フィルムの値段が跳ね上がるから2分の16ミリ作品を作った。電通のプロデューサーは、この"2分"という触れこみに惹かれてこのイベントに参加し、ここで上映された2分バージョンの『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』を観て、大林をCMディレクターに誘った。まだ日本に横文字文化のない時代、コマーシャルは"広告"で、当時まだまだ宣伝はチンドン屋、CMは"おトイレタイム"と蔑視されていた時代。アンデパンダンで最初に名刺を差し出した電通の人は「電通という会社でコマーシャルを撮っている者です」と言った途端、さっと1メートルぐらい後ろに下がった。「どうしたんですか?」と聞いたら「先日、映画監督にそう言ったら『俺に物売りをやれというのか』と蹴とばされたんです」と言った。続く言葉は「これから言うことで、僕を殴らないで下さい、広告をやってみませんか」だった。日本はテーマ主義の国で、テーマのないCMのようなものは作家がやるべきじゃないという考えで、CMは恥ずかしい場所だった。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人で、飯村隆彦も薬のCMを1本だけやったが、すぐに撤退し、高林陽一も大林のCMの手伝いを少ししたが、「性に合わない」と結局CMには関わらなかった。当時は、電通のプロデューサーと、傾きかけた映画界のカメラマンとが組んでCMを撮っていた。当時の電通本社は、東京銀座8丁目土橋の東京高速道路の下にあった木造の貧相な二階建て。初めて遊びに行った日に、味の素の清涼飲料水のキャップを送ると景品が貰えるというCMを撮っていたが、あまりにヘタで「僕が撮ってあげるよ」と代わりに大林が撮ったCMが以降7年間放送された。それで「何でもいいから、遊びに来て下さい」という話になった。電通の小田桐昭プロデューサーの「僕は生涯を懸けてコマーシャルを世界に誇れるジャーナリズムにしてみせようと思っています」という言葉に感銘を受け、本格的にテレビコマーシャルの世界に踏み込む。まだ広告はアートでなかった時代で、クリエイターとは扱われず。電通と大林でスポンサーの所に行くと出入りの写真屋さんの扱い。スポンサーの企業に行っても表玄関からは入れず、裏口から入って「写真屋さん、ご苦労様」と言われ、仕事が終わると鮭の切身定食を御馳走になってまた裏口から帰っていたという。当時はその電通などの広告代理店がTVCMを独占する前夜で、CMディレクターを専門にやろうという人間はまだいなかった。こんな事では未来がないと考えた電通等が「CMに演出家を付けてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える」と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった。CM演出家のパイオニアとしては、杉山登志や松尾真吾らが挙げられるが、彼らがCM制作会社の社員だったことに対して、大林はどこの会社にも所属しないフリーの映像作家だった。1964年、セイコーのテレビコマーシャル(CM)を皮切りに、草創期のテレビCMにCMディレクターとして本格的に関わる。電通の大林起用の狙いは、高額のギャラを大林に払い、高級外車に乗ってみせるようなスタア演出家を似て任じてもらい、CMディレクターを花形職業にすることで、CM界に優秀な人材を集め、業界全体の活性化を狙ったものだった。小田桐から「できればスポーツカーに乗って、隣のシートに金髪のモデルを乗っけて、『朝日ジャーナル』と『平凡パンチ』を座席に置いて、青山あたりを乗り回して欲しい」と言われた。何の業界でも当時は貧しさが美徳で、腕を買うといってもお金の話はタブー視されていたから、その話を聞いて「面白い業界だな」と感心した。ギャラの基準もまだなく、ギャラは最初の1本が4,000円、2作目が8,000円、3作目で1万5,000円、4作目が4万円と、ギャラは瞬く間に跳ね上がったというが、1965年ぐらいに1本50万円ぐらいになった後は、回りが追いつき以降はほとんど変わらなくなったという。また当時の電通はギャラを貰うために経理に半日並ばないと貰えず、半日並んでギャラを貰うなら、別の撮影をした方がいいと半分はギャラを貰っていないと話している。当時はまだコマーシャルに対するモノづくりのフォーマットが全然なく、演出は全部任せてもらえた。高度経済成長期の始まり、テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、特撮もどんどん出来、自由に撮らせてもらえた。大林にとってCMはスポンサー付きの個人映画、映像実験室とも言え、非常に楽しいものだったという。CMのギャラを資金源に8ミリ作品を製作し続けた。CM業界で助監督を使うシステムを作ったのは大林。当然助監督にギャラは出ないため、大林のギャラで助監督やスタッフを養成した。阪本善尚は大林がCM業界に引っ張り込んだ人である。 高度経済成長の波に乗り、急成長したCM業界で、一日一本のペースでCMを作り続け、TVCMという分野の礎を築き、「CM界の巨匠」の異名を執った。大林が学生の時には東宝撮影所は連日夜間撮影で空が赤くなっていたというが、60年代半ばからは映画斜陽で東宝撮影所の映画用セットやスタジオは空いていた。大林は毎日のように東宝撮影所でCMを撮ったという。大林の手がけたCMで最も有名なのが、日本で初めてハリウッドスターを起用し、あまりのヒットに丹頂が社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」で、本作は男性に香りを着けさせようという、これまでの日本にない新しいライフ・スタイルの導入・定着に貢献した。体臭を消すのがそれまでの[[化粧品の考え方で、特に化粧品の香りはヨーロッパ指向だったため、アメリカの匂いのする男の体臭を売るという画期的なCMでもあった。ブロンソンの[[キャスティングは大林である。当時の西村彦次丹頂社長にブロンソンの写真を見せたら「何だ、こりゃ」と言われた。ブロンソンはまだ映画通しか知らない役者で、西村社長から当然「アラン・ドロンにしてくれ」と言われた。「こういう男の顔が、男の体臭に似合うんだ」と説得しても「分かった。だけどもう少し美男子じゃダメか」となかなかOKが取れず、しつこく説得を繰り返し、西村社長が、若き大林に仕事を任せるに当たり、大林夫婦を食事に招待した折り、極自然に夫人にサラダを取り分ける大林に感銘を受け、「この人物なら、我が社の広告を任せていい」とようやく決心したと言われ、西村から後で「自分もオヤジから引き継いだ会社で、会社は潰してもいいから、最後に一つだけ世間に良い仕事を残して潰れるならそれでいい。この作品は賭けですが、良い仕事をして下さい」と伝えられた。トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうしてインディアン役者の売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドのエージェントの反対を押し切り、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させた。ギャラは信じられないほど安かった。一世を風靡した「う~ん、マンダム」とつぶやく名ゼリフは大林の発案だという。このCMはホリプロと制作することになり、堀威夫とアメリカに行った。ホリプロとのCM制作のプロデューサーが笹井英男で、ホリプロとの付き合いはここから始まる。 大林恭子は「大林の手がけたCMは、セイコージュエル・ホワイトが最初。トヨタ自動車のコロナはロサンゼルスとオーストラリアで撮影した海外ロケCM第一号」などと述べている。他に、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「ホンダ・ロードパル」のソフィア・ローレン、「カネカ・フォンテーヌ」「ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「フォンテーヌ」のCMソングにはフランシス・レイを起用した。「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スター、「AGF・マキシムコーヒー」のカーク・ダグラス、マンダム・フーズフーのデヴィッド・ニーヴン、キャサリン・ヘプバーン、アイススケートのジャネット・リン(カルピス)等の起用で、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった。海外スターの起用、海外ロケ、映画のような特撮の導入等は、それまでの日本のCMにない画期的なものであった。当時はまだCMをアメリカで撮影するなんて考えられもしなかった時代、「CMならハリウッドスターを使えるぞ」という"アメリカ映画ごっこ"のようなもの、企業のお金を使った大林個人の夢の実現であったという。ブロンソンの「マンダム」の前に1本だけ、有名ではない外国人俳優を使ったCMがあったが、外タレCMブームはブロンソンの「マンダム」からである。CM撮影での初の渡米は1966年、電通社長の指示で大林を含めたスタッフ4人で行ったという。オイルショック前の1970年初頭はほとんど海外ロケで、1年の内、10か月以上海外生活であった。あまりにも家にいないため、恭子夫人は近所の人たちから未亡人と思われていたという。 日本のCMでは、東陶機器(TOTO)のホーローバスのCMで高沢順子に言わせて流行語になった「お魚になったワ・タ・シ」は、コピーライターという職業が無い時代に大林が考えたコピーである。『さびしんぼう』を気に入られた黒澤明から、1989年CM演出を指名され、NEC「オフィスプロセッサ」「夢にわがままです」を手掛け、CM出演した黒澤に初めてサングラスを外させた。これが縁で1990年、黒澤監督の『夢』のメイキングビデオ(『映画の肖像 黒澤明 大林宣彦 映画的対話』)を撮った。この他、山口百恵・三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、遠藤周作の「日立ヘアカーラ」、山村聰の「トヨタ・クラウン」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウン・「ピッコロ」、ワンサカ娘」、泉アキの「キリンレモン」、花王石鹸「ハイター」、長門裕之・南田洋子の「カルピス」、10年間で製作したテレビCMは3000本を越え、国際CM賞も受賞。テレビCMを新しいフィルムアートの一つとして世の中に認識させ、画期的な映像表現で、日本のテレビCMを飛躍的に進化させた。さまざまの映像的実験を試み、東洋現像所(IMAGICA Lab.)は「また大林さんのCMで難しい注文が入ってきた!」と度々言っていたという。当時は勿論、大林は一般レベルでは全くの無名だったが、大林の作ったフィルムは、日本で一番多くの人に見られていたのである。アメリカでのCM撮影の際に、アンダーグラウンド映画のスタッフと親しくなり、『イージー・ライダー』の編集にも大林は関わっているという。2013年、小林亜星等と共に全日本シーエム放送連盟(ACC)第3回「クリエイターズ殿堂」入り。 当時はメイド・イン・ジャパンは粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、毛染めのCMを製作するに当たり、その商品を使って茶髪になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている。また、自身も九州電力のCMに出演した事がある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある石上三登志とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。 手塚治虫は「幸運にも大林監督のディズニーランドのPR映画に出演させて貰い、真夜中から明け方にかけて、静まりかえったディズニーランドの中で人形の撮影をした。外来者禁制のディズニーランドの裏の様子を見ることができた。思いもかけず手品のタネを見れた」と話している。 盟友・高林陽一が1975年にATGの1,000万映画として、劇場用の35ミリで『本陣殺人事件』(大林は音楽として参加)を撮ったことは大きな刺激になった。まもなく東宝から「『ジョーズ』のような映画は撮れませんか?」と言われたのが『HOUSE』の制作スタートとなる。 1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。個人映画からCMを経て、劇場用映画に越境する。7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラー・ファンタジーを、ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない。子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される。1990年代に流行した「美少女ホラー」と直接的にはリンクしないとはいえ、その"祖"と評価もされる。1976年6月には馬場毬男名義による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされたが製作開始とはならず。大林は作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のようなことを始めた。オーディションで選んだ平均年齢当時18歳の7人のアイドルに水着を着させて大磯ロングビーチでキャンペーンをやるなど、プロモーションに2年を要して、様々なイベントを仕掛け、その後の"アイドル映画"の方向性を作った。ニッポン放送「オールナイトニッポン」枠で生放送されたラジオドラマ『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった。更にラジオドラマに続き、コミック化、ノベライズなど、大林が主導して「メディアミックス」を仕掛けていき、これらが功を奏して知名度が上がって話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなって、ようやく本体の映画化が決まった。大林は『HOUSE』のイラスト入りの大きな名刺を作り、会う人ごとに渡していたが、角川春樹もそれを見て「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けており、これも先駆と評価される。 大林が商業映画に進出すると報じられたとき、多くのジャーナリズムも大林が本来、映画を志向していることを知らなかった。『宝島』1977年5月号には「個人映画とCMという、いわば映画の本流(というものがあるとしての話だが)からずいぶん外れたところで数多くの仕事をしてきた人が、いったい映画のことをどんな風に考えているのか興味を持って、東宝・砧撮影所へインタビューへ出かけた」と書かれている。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる。他に先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの、自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューという事例は画期的であった。当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった。企画としては1975年に東宝の会議を通っていたが、撮影所の助監督経験のない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちが猛反対し、その後2年の間、塩漬けにされた。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した。日本映画の斜陽によって1977年の新人監督の登用は、ピンク映画以外では大林一人だった。大林が商業映画デビューしたこの年が一つのターニングポイントとなり、この流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た。大森は「大林宣彦の名はパイオニアだった。それに続くように翌年、ただの大学生だった私もまた松竹で『オレンジロード急行』を撮る幸運を得た」と話している。市川は「芸大を受験し続けていたけど、どうしても駄目で。僕も予備校の仲間とミニフィルムを作ったりしていた。当時は大林さんが自主制作で注目されていた。そこから美大入学ではなく、CM制作会社に入るという選択をした」と述べている。西河克己は「企業外から出たハシリは大林君ですね。森田芳光が二番手ですね。成功例ということであればですけど」と述べている。『HOUSE』という個人映画が賑々しく痛快に侵犯したことが、多くの自主映画作家を鼓舞し、次代のすぐれた映画作家を輩出させた。『HOUSE』はその震源地であった。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時東宝営業部長(のち社長、会長)だった松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる。松岡は大林に「恐るべき無内容」「しかしこれをわたしたちが考える良い脚本に直したら映画がつまらなくなる、よってこのまま撮ってくれ」とつけ加えたといわれる。しかしながら「あれは正規の映画ではない」と公言する人も多く、映画マニアからは酷く叩かれもした。『リング』、『呪怨』などのプロデューサー・一瀬隆重は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている。 ぴあは1977年12月に「第1回ぴあ展」を開催し、その企画の一つ「20代で出発った作家達」として、バスター・キートンや、ルイス・ブニュエル、ジャン・ヴィゴ、ケン・ラッセル、ロマン・ポランスキー、小津安二郎、稲垣浩、マキノ雅弘、大島渚、若松孝二ら、国内外の46人の映像作家が20代で撮った47本を特集上映した。『ぴあ1977年11月号臨時増刊号』では、その46人の映画作家を紹介しているが、五十音順でもないのに冒頭に商業映画デビューしたばかりの大林を取り上げている。この「20代で出発った作家達」という企画が「ぴあフィルムフェスティバル」に発展するが、ぴあとしても大林のような映像作家がこのイベントから出て来て欲しいと願っていたものと考えられる。1979年には、同フェスティバルの前身「OFF THEATER FILM FESTIVAL '79」のプロデューサーを松田政男、寺山修司とともに務めた。 大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMやコミックスの影響が濃い自主映画やテレビから生まれた才能の輩出によって支えられている。大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる。大林は後続の映画制作志望者たちをエンパワーしつつ、1970年代後半からは角川映画と共鳴することで日本映画の形態を転換したシネアストと評価される。さらに1992年の『転校生』に始まる尾道三部作はさらなる転機をもたらし、以後の錚々たるフィルモグラフィーを重ねることになる。『HOUSE』で同年、ブルーリボン賞新人賞を受賞。『HOUSE』が一定の成功を収めたことから、大林のもとには、アイドルを使った映画製作の依頼が来るようになった。 『HOUSE』は2009年頃から欧米で再発見されてコアな人気を集めているという。近年ではアメリカニューヨーク近代美術館(MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された。ニューヨークの単館系の劇場でもよく上映されるという。 1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作として多くの熱狂的な支持を集めた。1984年にはロケ地巡り目的で、20万人以上の若い観光客が訪れたといわれる。"尾道三部作"という言葉は大林映画のファンが作った言葉である(さびしんぼう (映画)#エピソード)。 これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「お子様ランチ」「おもちゃ箱」と酷評されることもあった初期作品に比べると、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がるフィルム・コミッションの先駆け、また2022年今日のアニメ作品の聖地巡礼(アニメツーリズム)の先駆けとなったと評価されている。「映画のまち・尾道」を確立したのも大林だった。『転校生』の試写を見た尾道の関係者が「あんなに協力したのに、いい所を撮ってない」などと、最初は尾道の人たちの中にも「町の汚いところばかりを映して」とか「これじゃ観光客が来なくなる。上映をやめてくれないか」と言う人もいたが、映画を観て逆に観光客が来るようになった。田舎町の息の詰まった古臭さを呪う人たちの多かった時代に於いて、日本にまだ、こんなきれいな地方都市の佇まいが残っていたか、と映画を通して再認識させたという点での功績も大きい。『転校生』の成功は、大林の名前と尾道の名を映画史に刻んだ。出身地とは謂えども、これ程一人の映画作家が、長年に亘り一つの街に愛情を注ぎ、何本もの作品を世に送り続けている事例は世界でも他に例が無いといわれる。三つの映画を撮った原動力は「ふるさとが壊されることを守るための戦いだった」などと述べている。 『さびしんぼう』公開時のインタビューで「"いつか見た風景"が、テクニック上のテーマ」と、近年のインタビューでは「町の人が汚いと思う、昔ながらの変わらない尾道の風景が、外の人には懐かしく見えたんじゃないでしょうか」と話している。なお、大林作品で尾道ロケを行った作品は、新・尾道三部作とよばれる『ふたり』『あした』『あの、夏の日』など他にも多数存在するが、この三作は、比較的近い時期に製作されていること、剣持亘脚本であること、尾身としのりが主演または準主演であること、中高生を主人公にしたSFファンタジーであることなどの共通項も多く、三部作として語られることが多い。 尾道三部作は地方活性化を旨とした地方発映画の先駆けとされ、地域における映画製作の道筋を開いたと評価された。映画のおかげで田舎町が観光地化するという現象を目の当たりにした平成の大合併を控えた全国の新市町村は、映画を作れば町のPRも出来るし、ロケによって地方経済の活性化も期待でき、住民の帰属意識も高められると考え、以降、地方発の映画が次々作られる切っ掛けになった。本広克行がオール香川ロケした2006年の『UDON』は、「古里に恩返しするために讃岐三部作を撮りなさい」という大林のアドバイスがあったという。 1984年、目黒区駒場に映画館「アゴラ」(現・こまばアゴラ劇場)を建設。 大林はこれまで主に、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行い、「アイドル映画の第一人者」とも称される。特に1970年代〜1980年代に手掛けた作品は「70年代アイドル映画」「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される。2015年2月に、ももいろクローバーZ主演・本広克行監督の『幕が上がる』と新垣結衣主演・三木孝浩監督の『くちびるに歌を』が公開された際に、「アイドル映画」「アイドル&女優が輝く映画」などと特集が組まれたが、大林はその先駆者として各メディアでフィーチャーされた。本広は『幕が上がる』は「大林さんの映画を真似ているところが多い」と話している。『日経エンタテインメント!』2015年3月号の特集「アイドル&女優が輝く映画」では、その系譜の始まりに1981年の『ねらわれた学園』が据えられた。同作は、大作路線を続けた角川春樹が一転、若者向け「アイドル映画」を手掛けた第1弾で、1979年の『金田一耕助の冒険』で意気投合した角川と大林は「誰もやらないような映画を作ってやろう」という目論見から薬師丸ひろ子主演で本作を企画した。また角川から大林に「薬師丸ひろ子をアイドルにしてやってくれませんか」との依頼があり、本作で薬師丸はアイドルとしての地位を確立させた。このため『ねらわれた学園』は「アイドル映画」時代の開幕を告げる作品と評される。同作はSFのジャンルに入れられるが、アイドルが恐怖に巻き込まれるスリリングな展開と独特の陰のある映像は、その後の「アイドル・ホラー」に大きな影響を与えたとも評され、その嚆矢ともいわれる。1983年、角川から「尾道で原田知世の映画を撮って下さい」と託された筒井康隆原作のジュブナイル『時をかける少女』では、合成やコマ落としなどの映像テクニックを最大限に駆使して幻想的な作品世界を描出、のちに定着する"映像の魔術師"、"大林ワールド"といった代名詞はここから始まった。この時期に日本テレビ「火曜サスペンス劇場」向けに円谷プロで撮った「麗猫伝説」は、アングラ映画すれすれの映画詩ふうな作品であり、これを常識を破ってテレビ用に製作できたあたりに当時の大林ブランドの強さと絶好調の自信が示されている。1984年、原田知世主演で撮った『天国にいちばん近い島』は映画は酷評されたが、それまであまり知られていなかったニューカレドニアブームを起こした。1980年代の日本映画は、大林宣彦と相米慎二の時代とも評される。アイドルを度々脱がせることから"昭和の脱がせ屋"などと異名をとるが、「着せてないだけ」と答えている。女優を手加減なしに自身の追求する映像を撮ったこれらは「アイドル映画」の皮をかぶった「作家映画」と見る向きもある。2014年に『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』を著した中川右介は「盟友関係にあった角川春樹と大林宣彦の二人が、70年代後半から80年代にかけての日本映画界を牽引していたという図式が明確に把握できた。そこであの本では『角川春樹』を主人公とし、副主人公に『大林宣彦』を置いた」、「あの時代個人名で『〇〇映画』と呼ばれていた監督は『大林映画』だけだったのではないか」と述べている。 長い自主映画製作キャリアから培ったスキルは撮影、編集、演技のみならず作曲や演奏にも及び、監督デビューよりも2年早く高林陽一監督の『本陣殺人事件』で音楽監督をつとめ印象的なメロディを提供している(自作での音楽監督兼任はそれほど多くない)。出演作品はそれほど多くないが、発声のきちんとしたプロ級演技は『俗物図鑑』(内藤誠監督)などで垣間見ることができる。 「同じことは二度としない」と公言している通り、大林のフィルモグラフィは1作ごとに異なる実験が行われている。『瞳の中の訪問者』(1977年)は、手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』最初の実写化であるが、『HOUSE』以上に趣味性を前面に押し出し、漫画そのものを実写で描こうとして、原作そのままのメイクで宍戸錠を登場させるなどで、「こんな人間がどこにいる!」と手塚を憤慨させたといわれる。「アイドル映画」などを挟みながら、一転して純文学に挑んだ福永武彦原作の『廃市』(1984年)は、大林自身「超ローバジェット映画」と表現している。寓話性を強調するため、台詞を棒読みさせたり、フラットな構図を採用したり、誇張したメーキャップを施したりするなどで、モノクロ版とカラー版の二種類を製作し同時に劇場公開した『野ゆき山ゆき海べゆき』(1986年)、1988年の各映画賞を独占した大人のファンタジー『異人たちとの夏』、NHKと組んでNHK初のハイビジョンテレビドラマと劇場用映画を同時に撮影した「尾道新三部作」『ふたり』(1991年)、演出、撮影、録音の大胆な実験を試みた『北京的西瓜』(1989年)。本作は天安門事件の影響で中国ロケが中止になった抗議に意図的に37秒間の空白を挿入した。『北京的西瓜』で試みた実験をさらに推し進め、複数の16mmカメラを手持ちで回し、リハーサル無し、NG無し、メイクも照明も最低限で一気呵成に撮り上げたフィルムを異常なハイテンションで編集した青春映画の傑作『青春デンデケデケデケ』(1992年)、タブー視されていた水との合成にあえて挑み、全編の9割をハイビジョン合成するなど、当時の最先端技術を導入した『水の旅人 -侍KIDS-』(1993年)、吉永小百合に「あなたのシワが撮りたい」と口説いて、吉永がノーメイクに近いナチュラルメイクで挑んだ、型破りの"小百合映画"『女ざかり』(1994年)。本作は1時間56分の本編をスーパー16mmカメラを多用し、1000カットに及ぶ短いカット繋ぎで構成した。宮部みゆきの小説世界を100名以上の俳優全員にノーメークで演じさせ、テレビのワイドショーの手法を使って完璧に映像化した『理由』(2004年) など、映画界に新風を吹き込む野心作を連打した。 1993年に自身が初めて俳優として出演した月9ドラマ「あの日に帰りたい」では、主演の工藤静香と菊池桃子のフィルムの制作も行った。 2000年代に入ると尾道を舞台にした映画は無くなり、代わって、大分や長野、新潟、北海道芦別、佐賀県など、その町の伝統や歴史を題材にした映画を製作している。大林はこれを「ふるさと映画」と称しており、地域における映画製作の道筋を拓いたと評価される。 またこの頃から反戦平和を正面から口にするようになった。その要因としては、2003年4月から、成安造形大学と倉敷芸術科学大学の客員教授に就任し、学生たちの前で定期的に話すようになったこと、2000年代以降の安全保障論や改憲論の盛り上がりで黙ってられない状況になったものと見られている。2013年12月27日付の朝日新聞に「特定秘密保護法が成立した6日、僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とのコメントを寄せる。2010年代以降の4本は、反戦を明確に打ち出した作品になった。 独特の語り口でトークも上手く、自主映画作家時代からマスメディアにしばしば登場した。生放送では喋り過ぎて放送事故寸前まで時間が押すこともあったという。各地の講演に招かれることも多く、コメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多かった。『幕が上がる』がさぬき映画祭で先行上映が行われた際に、楽屋でももいろクローバーZが大林節に魅了されていくのが横で聞いていた甥・平田オリザは妙におかしく「さすが、アイドル映画というジャンルを自ら切り拓いた人だけのことはあると、我が叔父ながら改めて感心した」と述べている。 2004年(平成16年)春の褒章に於いて紫綬褒章を受章。 2009年(平成21年)秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという。 2013年に手掛けたAKB48の長尺のミュージック・ビデオ「So long !」は物議を醸した。 2016年、第18回極東映画祭(イタリア)にて、マルベリー賞(生涯功労賞)を受賞。 (2017年12月公開の映画『花筐/HANAGATAMI』のクランクインを控えた)2016年8月に肺癌が判明、ステージ4まで進行しており医師より当初「余命6か月」、後に「余命3か月」の宣告を受ける。同年8月から10月にかけて佐賀県唐津市で行われた撮影と続く編集作業に並行して抗がん剤治療を継続。 2017年4月のスタッフ向け試写会において病状を公表。抗がん剤治療が奏効したことで病状が改善し、同年5月時点で「余命は未定」となったとしている。 2018年夏に、『あの、夏の日 とんでろ じいちゃん』以来約20年ぶりに尾道市をメインのロケ地として、戦争と広島の原爆をテーマとした映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を撮影、2019年10月28日に開幕する第32回東京国際映画祭「JapanNow部門」で組まれる大林監督特集で初上映された。本作で2018年度毎日芸術賞特別賞を受賞。 2019年3月24日、第33回高崎映画祭の授賞式(会場:高崎市の群馬音楽センター)に出席。監督を務めた『花筐/HANAGATAMI』が特別大賞を受賞し登壇。 2019年春公開を目指し全編熊本ロケでの映画化が決定していた『つばき、時跳び』は、体調不良を理由にクランクイン前の同年7月に辞退。監督補に指名していた熊本市出身の行定勲監督に引き継がれ、2021年に映画化される予定だった。 2019年7月27日、広島県広島市で開催された国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道〜大国の暴走を許さない」(朝日新聞社、広島市、広島平和文化センター主催)に登壇し東ちづると対談した。 2019年9月30日、広島国際映画祭2019「ヒロシマ平和映画賞」に『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が受賞したことが発表された。同年11月24日に同映画祭会場で『海辺の映画館―キネマの玉手箱』上映、大林監督トークショー、および、「ヒロシマ平和映画賞」授賞式が行われた。 2019年10月25日、東京国際映画祭が、永年の国内外を含めた映画界への貢献が目覚ましい方々へ贈る“特別功労賞”を、大林に授与することを発表、同年11月1日に同映画祭会場でワールドプレミア上映された『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の舞台あいさつ、Q&Aセッション、東京国際映画祭特別功労賞の贈呈式が行われた。11月4日の『花筐/HANAGATAMI』上映後の舞台あいさつは体調不良のため欠席。 2019年10月29日、同年度の文化功労者に選ばれ、母校である尾道市立土堂小学校が記念して校舎に垂れ幕と横断幕を掲げた。 2020年4月10日の封切りを予定していた『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、公開延期されることが3月31日に発表された。 4月10日19時23分、肺がんのため、東京都世田谷区の自宅で死去。82歳没。死没日をもって従四位叙位、旭日中綬章追贈。 2021年、第44回日本アカデミー賞会長特別賞を受賞。第94回キネマ旬報ベスト・テンでは『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を対象として日本映画監督賞が贈られた。 雑誌 大林宣彦が、出身地尾道市を舞台に撮影した映画の代表作として認知されている3つの映画作品のこと。後に、同じように尾道を舞台にした作品が同じく3つ作られたため、これを「新尾道三部作」と称すこともある。『転校生』や『時をかける少女』の頃はまだ尾道三部作と呼ばれておらず、続く『さびしんぼう』が撮られたことで、これらの3本が尾道三部作と言われるようになった。 大林作品にはテレビで製作された作品を後に劇場版として公開する、または劇場公開に先行してテレビで放送する、というケースが多く見られる。 『理由』はWOWOWで放送、劇場公開の後、さらに日本テレビで「日テレヴァージョン」が放送された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年(昭和13年)1月9日 - 2020年(令和2年)4月10日)は、日本の映画監督。従四位、旭日中綬章。倉敷芸術科学大学客員教授、長岡造形大学造形学部客員教授、尚美学園大学名誉教授、文化功労者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "広島県尾道市東土堂町生まれ。尾道市立土堂小学校、尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報学部情報表現学科名誉教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。2014年(平成26年)4月から長岡造形大学客員教授。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており(映画「ハウス」の発案者である他、出演もしている)、その夫は漫画家の森泉岳土。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "自主製作映画の先駆者として、CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた\"映像の魔術師\"。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。父方の祖父は日本で初めて睡眠療法を取り入れようとした人で、大林は子どもの頃、夢遊病を取り入れた心理療法を受けたことがあるという。父方の一族の男子は、歴代\"大林〇彦\"と、母方の一族の男子の名前は歴代\"村上〇祥\"と名前を付けられた。両方の家は親戚を含めて大人になったら男は全員医者、女は医者の妻と宿命付けられており、大林家の息子と村上家の娘が結婚して男子が生まれたら、大人になったら医者になるしか選択肢はなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "宣彦の生誕時に父は岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)の寮にいたが、母は初産で、尾道の母方の実家に帰り宣彦を産んだ。1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、宣彦はそのまま母方の実家・尾道の山の手で、18歳で上京するまで育つ。母方の実家は築100年以上の古くて大きな家で、男女合わせて30~40人が住む賑やかな家ではあったが、父親がいないこと、他の従妹とも年が離れていたため一人で遊ぶことが多かった。1~2歳の頃の楽しみは、庭のすぐ下を通過する山陽本線の蒸気機関車で、それはとてつもない恐怖体験だったという。戦前の尾道には外国船も寄港し、南蛮渡来の不思議な積み荷が届くと、港の人が「先生、これは何でしょうか?」と祖父の元に持ち込み、「わしにもよう分からんけ、蔵に入れとけ」と、蔵の中は古今東西のガラクタで溢れていた。2歳でその蔵にあったブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳で35mmフィルムに手描きしてアニメーションを作った。大林は1977年『瞳の中の訪問者』撮影中に樋口尚文のインタビューに答え、影響を受けた監督は誰かの質問に対して「観た映画は全部栄養になっていますから、特に師匠のように尊敬している人は名前が挙がらないのですが、日本で誰か一人と言われたならマキノ雅弘さんになっちゃうでしょうね。もっと言えばエジソンが映画というオモチャを発明して僕の子供部屋に送り込んでくれたということでしょうか」などと述べている。映画監督は、映画を観て監督という職業を志すが、大林の場合は映画を観るより作ることから先に始まった。この祖父をモデルに作った『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が制作された。自身を投影している主人公の名前「馬場毬男」は、イタリアの撮影監督・マリオ・バーヴァをもじったもので、遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の主人公名でもある。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大林の映画作りは、尾道の旧い家の子供部屋の闇の中から、一人こつこつと始まる。戦争で近所の親しかった人たちが次々と亡くなった。「幼少期に感じた死者の気配が映画づくりの原点。私が描くのは虚実のはざま。生きているのか死んでいるのか分からない人が登場する」と語る。少年期は特にアメリカ映画に強い影響を受けた。実家の持ち家の一つに新藤兼人が一時期住んでおり、毎週末通っていた映画館では“新藤おじさん”の隣で活動写真を見ていたこともあった。尾道の(当時あった)九つの映画館で上映される映画をすべて観ようと決意し、どうかすると(尾道時代に)千本近い映画を観ていたと思います」と話す。15歳のときに小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに福永武彦『草の花』を読み、感銘を受ける。いつかショパンのピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『さびしんぼう』で実現する。高校時代は手塚治虫に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、同人誌を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "医者になることを宿命付けられていたが、真剣に医者を目指す同級生は、地元の広島医科大学か京大、阪大を目指していた。地元で実家の医者を継ぐという選択のリアリティは関西圏までしかなかった。大林は進路に迷いがあり、この時点で医者になることは虚構になり始めていた。1955年、父に与えられた8ミリカメラを手に上京し、慶應義塾大学医学部を受験する。しかし試験の途中で抜け出して映画を見に行き、「医者にはならない、映画の世界に行くんだ」と決意。尾道に戻り、父に「医者にならない、映画を作りたい」と言ったら、何と父はそれを認めてくれた。父親は岡山医科大学を首席に近い成績で卒業して、将来を嘱望された研究者で、戦争で研究者のキャリアを断念し、戦後復員後、妻の実家の病院を継ぎ、地元の医師として一生を終えた人だった。また母親も世が世なら、東京に行って女優か作家になりたいと考えていたモダンな人で、母親も賛成してくれた。1年浪人する間、東京中の名画座で映画を見まくる。「1960年代までは、日本で観ることのできる世界中の映画を全部観ている」と話している。ある日、自転車で雑木林に導かれ、いつのまにかどこかの敷地に侵入し、小高い丘の上に成城大学があり、学園というのが洒落ているなという理由で成城大を受験する。尾道には海と島と山はあっても陸地やそれに連なる雑木林はなく、雑木林なんてヨーロッパ映画でしか見たことはなく、東京は異国のようだったと話している。慶應の医学部を目指していたから成城は遊びで受かるだろうと思い、合格発表は見ていないという。映画作りを仕事にしようと決意し、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学した。映画学科がある大学は珍しかったが、学生が映画を作るわけではなく、理論を教えるだけ。この頃はまだ学生たちが映画を作るという時代ではなく、映研も日本大学しかまだなく、大変特殊な存在だった。当時ボードレールに憧れていた大林は、入学試験中にポケットからウイスキーの小瓶を出して飲みながら答案を書いていたところ、試験官の教員から「良き香りがいたしますな」と言われ「先生も一献いかがですか」と勧めると、相手が「頂戴いたしましょう」と応じたため、試験中に試験官と酒を酌み交わすことになったという。大学時代は東宝撮影所の裏にあった早坂文雄の子息が経営するアパート新樹荘に住んだ。大林の隣が東陽一の部屋で、もう一つ隣の部屋に平田オリザの父が住んでいた。大学では講義に全く出ず、赤いスカーフを首に巻いて片手に8ミリカメラを持ち、一日中グランドピアノの前でシャンソンを弾きながら、聴きに来る女学生たちを1コマずつ撮っていた。その中の一年後輩の女学生がのちの妻で、雑木林で思わず「僕と結婚しない?」と言ったら、翌日彼女は「昨日の返事はハイです。結婚のことは、この18年間考え尽くしていますから」と言い、そのまま手をつないで講堂を出て大林のアパートに行き、半同棲を始めた。当時はまだ「同棲」という言葉はなく、近所の人は兄妹が一緒に住んでいると思っていたという。両親は大学を卒業したら、東宝や東映に就職するのだろうと考えていたが、当時の大手映画会社は、エリートしか入れない時代で、東大か京大、早稲田ぐらいを卒業してないと入社試験も受からないと大林自身東京に来てから知った。そのため映画会社に就職して映画監督になるという選択はあまり現実的ではなく、ヌーヴェルヴァーグの影響を受け、これからは売れない作家が映画も撮る時代に来るぞ、と考え、8mmで個人映画を作ってアプレゲールになると意気込んだ。この頃、富士フイルムのようなフィルム会社がコンテストを始めたり、ようやく8ミリ関係の雑誌ジャーナリズムも刊行され始めた。在学中から8mmで作品を発表。1957年、文化祭のために福永武彦の詩集の映画化「青春・雲」発表。初恋を幻想的に描く二作目「絵の中の少女」(1958年)のヒロイン役が妻である。当時はまだ自主製作映画という概念はなかったが、その先駆者として、早くから名前を知られた。1960年に大学を中退。中退後に約2年、神保町で雑誌編集の仕事をする。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた高林陽一と飯村隆彦の3人しか日本にいなかったという。最初に自主映画を有料で公開しようとしたのはこの3人で、彼等は月刊『小型映画』のコンテスト落選組だったが、高橋徳行同誌編集長は、いつも落選している個性的な応募者を会わせたら面白いのではないかと考えて、編集長の計らいで会った3人はたちまち意気投合した。これが日本の戦後自主制作・自主上映映画の端緒となる。最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり、映画が上映される前に3〜5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた。経堂や祖師ヶ谷大蔵の商店街の短編を作ったことがあるという。当時のTVの台頭とコマーシャル(CM)には既に興味があった。自分たちの作品をもっと人に見てもらおうと画廊で映画を掛けたら反響が大きく、その後新宿アートシアター(ATG)や池袋人世坐など、大きな映画館で掛けるようになったため8ミリから16ミリに転換した。1963年に初の16mm作品、藤野一友との共作『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、高林陽一、金坂健二、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。高林が『砂』で、飯村が『ONAN』など揃って受賞したことで、マスコミが実験映画運動に関心を持ち出し、草月が海外の実験映画を上映したりした。『尾道』(1960年)、『中山道』(1961年)、『喰べた人』(1963年)、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』(1964年)、『遥かなるあこがれギロチン・恋の旅』(1968年)や、日本のカルト映画の草分け『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ。「今、個人映画は、ハリウッド映画をめざす」と話した。同作はロジェ・ヴァディム監督の1960年『血とバラ』のオマージュで、原題『Et mourir de plaisir』を大林は「死に至る病」と解釈していた。『EMOTION』は当時全国五分の三の大学で上映され、今日でも上映されることがある。本作を観てアングラ演劇から映画の道に移った若者も多かったという。安藤紘平は「僕は『EMOTION』に衝撃を受けて、榎本了壱、萩原朔美と共に『ファミリーフィルムメーカー』という映画グループを作り、それは後に『ビックリハウス』という雑誌になりました。大林さんはいろんな人の人生をいっぱい変えているんでしょうけど、僕もまさに変えられた一人でした」などと述べている。いつしか個人映画の教祖的存在となる。但し「僕の作ったアンダーグラウンド映画は、少しもアンダーグラウンドではなく、まさに個人映画の『ザッツ・エンターテインメント』みたいなものだった」と述べている。原正孝(原將人)は麻布高校の文化祭で『いつか見たドラキュラ』を知り合いから借りられ、自身の作品『おかしさに彩られた悲しみのバラード』と二本立てで上映し、『いつか見たドラキュラ』を徹底的に研究し、『おかしさに彩られた悲しみのバラード』を大幅に直して、第1回フィルムアートフェスティバル東京に出品してグランプリを取り、監督デビューすることが出来たと話している。また1965年に初めてCMロケでアメリカに渡った際に、ロスとサンフランシスコで「ジャパニーズ・アンダーグラウンド・ムービー」というフェスティバルがあり『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』が一本立て上映されていたという。1970年の高林陽一初の35mm監督作品『すばらしい蒸気機関車』の音楽を担当し、公開当時のプレスシートに「音楽は前衛映画作家として著名な大林宣彦氏」と記載がある。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「120秒フィルムフェスティバル」を企画。紀伊國屋ホールは8ミリには対応できず、16ミリでしか上映できないため、フィルムの値段が跳ね上がるから2分の16ミリ作品を作った。電通のプロデューサーは、この\"2分\"という触れこみに惹かれてこのイベントに参加し、ここで上映された2分バージョンの『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』を観て、大林をCMディレクターに誘った。まだ日本に横文字文化のない時代、コマーシャルは\"広告\"で、当時まだまだ宣伝はチンドン屋、CMは\"おトイレタイム\"と蔑視されていた時代。アンデパンダンで最初に名刺を差し出した電通の人は「電通という会社でコマーシャルを撮っている者です」と言った途端、さっと1メートルぐらい後ろに下がった。「どうしたんですか?」と聞いたら「先日、映画監督にそう言ったら『俺に物売りをやれというのか』と蹴とばされたんです」と言った。続く言葉は「これから言うことで、僕を殴らないで下さい、広告をやってみませんか」だった。日本はテーマ主義の国で、テーマのないCMのようなものは作家がやるべきじゃないという考えで、CMは恥ずかしい場所だった。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人で、飯村隆彦も薬のCMを1本だけやったが、すぐに撤退し、高林陽一も大林のCMの手伝いを少ししたが、「性に合わない」と結局CMには関わらなかった。当時は、電通のプロデューサーと、傾きかけた映画界のカメラマンとが組んでCMを撮っていた。当時の電通本社は、東京銀座8丁目土橋の東京高速道路の下にあった木造の貧相な二階建て。初めて遊びに行った日に、味の素の清涼飲料水のキャップを送ると景品が貰えるというCMを撮っていたが、あまりにヘタで「僕が撮ってあげるよ」と代わりに大林が撮ったCMが以降7年間放送された。それで「何でもいいから、遊びに来て下さい」という話になった。電通の小田桐昭プロデューサーの「僕は生涯を懸けてコマーシャルを世界に誇れるジャーナリズムにしてみせようと思っています」という言葉に感銘を受け、本格的にテレビコマーシャルの世界に踏み込む。まだ広告はアートでなかった時代で、クリエイターとは扱われず。電通と大林でスポンサーの所に行くと出入りの写真屋さんの扱い。スポンサーの企業に行っても表玄関からは入れず、裏口から入って「写真屋さん、ご苦労様」と言われ、仕事が終わると鮭の切身定食を御馳走になってまた裏口から帰っていたという。当時はその電通などの広告代理店がTVCMを独占する前夜で、CMディレクターを専門にやろうという人間はまだいなかった。こんな事では未来がないと考えた電通等が「CMに演出家を付けてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える」と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった。CM演出家のパイオニアとしては、杉山登志や松尾真吾らが挙げられるが、彼らがCM制作会社の社員だったことに対して、大林はどこの会社にも所属しないフリーの映像作家だった。1964年、セイコーのテレビコマーシャル(CM)を皮切りに、草創期のテレビCMにCMディレクターとして本格的に関わる。電通の大林起用の狙いは、高額のギャラを大林に払い、高級外車に乗ってみせるようなスタア演出家を似て任じてもらい、CMディレクターを花形職業にすることで、CM界に優秀な人材を集め、業界全体の活性化を狙ったものだった。小田桐から「できればスポーツカーに乗って、隣のシートに金髪のモデルを乗っけて、『朝日ジャーナル』と『平凡パンチ』を座席に置いて、青山あたりを乗り回して欲しい」と言われた。何の業界でも当時は貧しさが美徳で、腕を買うといってもお金の話はタブー視されていたから、その話を聞いて「面白い業界だな」と感心した。ギャラの基準もまだなく、ギャラは最初の1本が4,000円、2作目が8,000円、3作目で1万5,000円、4作目が4万円と、ギャラは瞬く間に跳ね上がったというが、1965年ぐらいに1本50万円ぐらいになった後は、回りが追いつき以降はほとんど変わらなくなったという。また当時の電通はギャラを貰うために経理に半日並ばないと貰えず、半日並んでギャラを貰うなら、別の撮影をした方がいいと半分はギャラを貰っていないと話している。当時はまだコマーシャルに対するモノづくりのフォーマットが全然なく、演出は全部任せてもらえた。高度経済成長期の始まり、テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、特撮もどんどん出来、自由に撮らせてもらえた。大林にとってCMはスポンサー付きの個人映画、映像実験室とも言え、非常に楽しいものだったという。CMのギャラを資金源に8ミリ作品を製作し続けた。CM業界で助監督を使うシステムを作ったのは大林。当然助監督にギャラは出ないため、大林のギャラで助監督やスタッフを養成した。阪本善尚は大林がCM業界に引っ張り込んだ人である。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "高度経済成長の波に乗り、急成長したCM業界で、一日一本のペースでCMを作り続け、TVCMという分野の礎を築き、「CM界の巨匠」の異名を執った。大林が学生の時には東宝撮影所は連日夜間撮影で空が赤くなっていたというが、60年代半ばからは映画斜陽で東宝撮影所の映画用セットやスタジオは空いていた。大林は毎日のように東宝撮影所でCMを撮ったという。大林の手がけたCMで最も有名なのが、日本で初めてハリウッドスターを起用し、あまりのヒットに丹頂が社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」で、本作は男性に香りを着けさせようという、これまでの日本にない新しいライフ・スタイルの導入・定着に貢献した。体臭を消すのがそれまでの[[化粧品の考え方で、特に化粧品の香りはヨーロッパ指向だったため、アメリカの匂いのする男の体臭を売るという画期的なCMでもあった。ブロンソンの[[キャスティングは大林である。当時の西村彦次丹頂社長にブロンソンの写真を見せたら「何だ、こりゃ」と言われた。ブロンソンはまだ映画通しか知らない役者で、西村社長から当然「アラン・ドロンにしてくれ」と言われた。「こういう男の顔が、男の体臭に似合うんだ」と説得しても「分かった。だけどもう少し美男子じゃダメか」となかなかOKが取れず、しつこく説得を繰り返し、西村社長が、若き大林に仕事を任せるに当たり、大林夫婦を食事に招待した折り、極自然に夫人にサラダを取り分ける大林に感銘を受け、「この人物なら、我が社の広告を任せていい」とようやく決心したと言われ、西村から後で「自分もオヤジから引き継いだ会社で、会社は潰してもいいから、最後に一つだけ世間に良い仕事を残して潰れるならそれでいい。この作品は賭けですが、良い仕事をして下さい」と伝えられた。トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうしてインディアン役者の売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドのエージェントの反対を押し切り、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させた。ギャラは信じられないほど安かった。一世を風靡した「う~ん、マンダム」とつぶやく名ゼリフは大林の発案だという。このCMはホリプロと制作することになり、堀威夫とアメリカに行った。ホリプロとのCM制作のプロデューサーが笹井英男で、ホリプロとの付き合いはここから始まる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大林恭子は「大林の手がけたCMは、セイコージュエル・ホワイトが最初。トヨタ自動車のコロナはロサンゼルスとオーストラリアで撮影した海外ロケCM第一号」などと述べている。他に、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「ホンダ・ロードパル」のソフィア・ローレン、「カネカ・フォンテーヌ」「ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「フォンテーヌ」のCMソングにはフランシス・レイを起用した。「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スター、「AGF・マキシムコーヒー」のカーク・ダグラス、マンダム・フーズフーのデヴィッド・ニーヴン、キャサリン・ヘプバーン、アイススケートのジャネット・リン(カルピス)等の起用で、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった。海外スターの起用、海外ロケ、映画のような特撮の導入等は、それまでの日本のCMにない画期的なものであった。当時はまだCMをアメリカで撮影するなんて考えられもしなかった時代、「CMならハリウッドスターを使えるぞ」という\"アメリカ映画ごっこ\"のようなもの、企業のお金を使った大林個人の夢の実現であったという。ブロンソンの「マンダム」の前に1本だけ、有名ではない外国人俳優を使ったCMがあったが、外タレCMブームはブロンソンの「マンダム」からである。CM撮影での初の渡米は1966年、電通社長の指示で大林を含めたスタッフ4人で行ったという。オイルショック前の1970年初頭はほとんど海外ロケで、1年の内、10か月以上海外生活であった。あまりにも家にいないため、恭子夫人は近所の人たちから未亡人と思われていたという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本のCMでは、東陶機器(TOTO)のホーローバスのCMで高沢順子に言わせて流行語になった「お魚になったワ・タ・シ」は、コピーライターという職業が無い時代に大林が考えたコピーである。『さびしんぼう』を気に入られた黒澤明から、1989年CM演出を指名され、NEC「オフィスプロセッサ」「夢にわがままです」を手掛け、CM出演した黒澤に初めてサングラスを外させた。これが縁で1990年、黒澤監督の『夢』のメイキングビデオ(『映画の肖像 黒澤明 大林宣彦 映画的対話』)を撮った。この他、山口百恵・三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、遠藤周作の「日立ヘアカーラ」、山村聰の「トヨタ・クラウン」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウン・「ピッコロ」、ワンサカ娘」、泉アキの「キリンレモン」、花王石鹸「ハイター」、長門裕之・南田洋子の「カルピス」、10年間で製作したテレビCMは3000本を越え、国際CM賞も受賞。テレビCMを新しいフィルムアートの一つとして世の中に認識させ、画期的な映像表現で、日本のテレビCMを飛躍的に進化させた。さまざまの映像的実験を試み、東洋現像所(IMAGICA Lab.)は「また大林さんのCMで難しい注文が入ってきた!」と度々言っていたという。当時は勿論、大林は一般レベルでは全くの無名だったが、大林の作ったフィルムは、日本で一番多くの人に見られていたのである。アメリカでのCM撮影の際に、アンダーグラウンド映画のスタッフと親しくなり、『イージー・ライダー』の編集にも大林は関わっているという。2013年、小林亜星等と共に全日本シーエム放送連盟(ACC)第3回「クリエイターズ殿堂」入り。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "当時はメイド・イン・ジャパンは粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、毛染めのCMを製作するに当たり、その商品を使って茶髪になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている。また、自身も九州電力のCMに出演した事がある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある石上三登志とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "手塚治虫は「幸運にも大林監督のディズニーランドのPR映画に出演させて貰い、真夜中から明け方にかけて、静まりかえったディズニーランドの中で人形の撮影をした。外来者禁制のディズニーランドの裏の様子を見ることができた。思いもかけず手品のタネを見れた」と話している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "盟友・高林陽一が1975年にATGの1,000万映画として、劇場用の35ミリで『本陣殺人事件』(大林は音楽として参加)を撮ったことは大きな刺激になった。まもなく東宝から「『ジョーズ』のような映画は撮れませんか?」と言われたのが『HOUSE』の制作スタートとなる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。個人映画からCMを経て、劇場用映画に越境する。7人の少女が生き物のような\"家\"に食べられてしまうというホラー・ファンタジーを、ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない。子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される。1990年代に流行した「美少女ホラー」と直接的にはリンクしないとはいえ、その\"祖\"と評価もされる。1976年6月には馬場毬男名義による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされたが製作開始とはならず。大林は作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のようなことを始めた。オーディションで選んだ平均年齢当時18歳の7人のアイドルに水着を着させて大磯ロングビーチでキャンペーンをやるなど、プロモーションに2年を要して、様々なイベントを仕掛け、その後の\"アイドル映画\"の方向性を作った。ニッポン放送「オールナイトニッポン」枠で生放送されたラジオドラマ『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった。更にラジオドラマに続き、コミック化、ノベライズなど、大林が主導して「メディアミックス」を仕掛けていき、これらが功を奏して知名度が上がって話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなって、ようやく本体の映画化が決まった。大林は『HOUSE』のイラスト入りの大きな名刺を作り、会う人ごとに渡していたが、角川春樹もそれを見て「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けており、これも先駆と評価される。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "大林が商業映画に進出すると報じられたとき、多くのジャーナリズムも大林が本来、映画を志向していることを知らなかった。『宝島』1977年5月号には「個人映画とCMという、いわば映画の本流(というものがあるとしての話だが)からずいぶん外れたところで数多くの仕事をしてきた人が、いったい映画のことをどんな風に考えているのか興味を持って、東宝・砧撮影所へインタビューへ出かけた」と書かれている。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる。他に先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの、自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューという事例は画期的であった。当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった。企画としては1975年に東宝の会議を通っていたが、撮影所の助監督経験のない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちが猛反対し、その後2年の間、塩漬けにされた。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した。日本映画の斜陽によって1977年の新人監督の登用は、ピンク映画以外では大林一人だった。大林が商業映画デビューしたこの年が一つのターニングポイントとなり、この流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た。大森は「大林宣彦の名はパイオニアだった。それに続くように翌年、ただの大学生だった私もまた松竹で『オレンジロード急行』を撮る幸運を得た」と話している。市川は「芸大を受験し続けていたけど、どうしても駄目で。僕も予備校の仲間とミニフィルムを作ったりしていた。当時は大林さんが自主制作で注目されていた。そこから美大入学ではなく、CM制作会社に入るという選択をした」と述べている。西河克己は「企業外から出たハシリは大林君ですね。森田芳光が二番手ですね。成功例ということであればですけど」と述べている。『HOUSE』という個人映画が賑々しく痛快に侵犯したことが、多くの自主映画作家を鼓舞し、次代のすぐれた映画作家を輩出させた。『HOUSE』はその震源地であった。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時東宝営業部長(のち社長、会長)だった松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる。松岡は大林に「恐るべき無内容」「しかしこれをわたしたちが考える良い脚本に直したら映画がつまらなくなる、よってこのまま撮ってくれ」とつけ加えたといわれる。しかしながら「あれは正規の映画ではない」と公言する人も多く、映画マニアからは酷く叩かれもした。『リング』、『呪怨』などのプロデューサー・一瀬隆重は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ぴあは1977年12月に「第1回ぴあ展」を開催し、その企画の一つ「20代で出発った作家達」として、バスター・キートンや、ルイス・ブニュエル、ジャン・ヴィゴ、ケン・ラッセル、ロマン・ポランスキー、小津安二郎、稲垣浩、マキノ雅弘、大島渚、若松孝二ら、国内外の46人の映像作家が20代で撮った47本を特集上映した。『ぴあ1977年11月号臨時増刊号』では、その46人の映画作家を紹介しているが、五十音順でもないのに冒頭に商業映画デビューしたばかりの大林を取り上げている。この「20代で出発った作家達」という企画が「ぴあフィルムフェスティバル」に発展するが、ぴあとしても大林のような映像作家がこのイベントから出て来て欲しいと願っていたものと考えられる。1979年には、同フェスティバルの前身「OFF THEATER FILM FESTIVAL '79」のプロデューサーを松田政男、寺山修司とともに務めた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMやコミックスの影響が濃い自主映画やテレビから生まれた才能の輩出によって支えられている。大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる。大林は後続の映画制作志望者たちをエンパワーしつつ、1970年代後半からは角川映画と共鳴することで日本映画の形態を転換したシネアストと評価される。さらに1992年の『転校生』に始まる尾道三部作はさらなる転機をもたらし、以後の錚々たるフィルモグラフィーを重ねることになる。『HOUSE』で同年、ブルーリボン賞新人賞を受賞。『HOUSE』が一定の成功を収めたことから、大林のもとには、アイドルを使った映画製作の依頼が来るようになった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『HOUSE』は2009年頃から欧米で再発見されてコアな人気を集めているという。近年ではアメリカニューヨーク近代美術館(MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された。ニューヨークの単館系の劇場でもよく上映されるという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ\"尾道三部作として多くの熱狂的な支持を集めた。1984年にはロケ地巡り目的で、20万人以上の若い観光客が訪れたといわれる。\"尾道三部作\"という言葉は大林映画のファンが作った言葉である(さびしんぼう (映画)#エピソード)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「お子様ランチ」「おもちゃ箱」と酷評されることもあった初期作品に比べると、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がるフィルム・コミッションの先駆け、また2022年今日のアニメ作品の聖地巡礼(アニメツーリズム)の先駆けとなったと評価されている。「映画のまち・尾道」を確立したのも大林だった。『転校生』の試写を見た尾道の関係者が「あんなに協力したのに、いい所を撮ってない」などと、最初は尾道の人たちの中にも「町の汚いところばかりを映して」とか「これじゃ観光客が来なくなる。上映をやめてくれないか」と言う人もいたが、映画を観て逆に観光客が来るようになった。田舎町の息の詰まった古臭さを呪う人たちの多かった時代に於いて、日本にまだ、こんなきれいな地方都市の佇まいが残っていたか、と映画を通して再認識させたという点での功績も大きい。『転校生』の成功は、大林の名前と尾道の名を映画史に刻んだ。出身地とは謂えども、これ程一人の映画作家が、長年に亘り一つの街に愛情を注ぎ、何本もの作品を世に送り続けている事例は世界でも他に例が無いといわれる。三つの映画を撮った原動力は「ふるさとが壊されることを守るための戦いだった」などと述べている。 『さびしんぼう』公開時のインタビューで「\"いつか見た風景\"が、テクニック上のテーマ」と、近年のインタビューでは「町の人が汚いと思う、昔ながらの変わらない尾道の風景が、外の人には懐かしく見えたんじゃないでしょうか」と話している。なお、大林作品で尾道ロケを行った作品は、新・尾道三部作とよばれる『ふたり』『あした』『あの、夏の日』など他にも多数存在するが、この三作は、比較的近い時期に製作されていること、剣持亘脚本であること、尾身としのりが主演または準主演であること、中高生を主人公にしたSFファンタジーであることなどの共通項も多く、三部作として語られることが多い。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "尾道三部作は地方活性化を旨とした地方発映画の先駆けとされ、地域における映画製作の道筋を開いたと評価された。映画のおかげで田舎町が観光地化するという現象を目の当たりにした平成の大合併を控えた全国の新市町村は、映画を作れば町のPRも出来るし、ロケによって地方経済の活性化も期待でき、住民の帰属意識も高められると考え、以降、地方発の映画が次々作られる切っ掛けになった。本広克行がオール香川ロケした2006年の『UDON』は、「古里に恩返しするために讃岐三部作を撮りなさい」という大林のアドバイスがあったという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1984年、目黒区駒場に映画館「アゴラ」(現・こまばアゴラ劇場)を建設。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "大林はこれまで主に、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行い、「アイドル映画の第一人者」とも称される。特に1970年代〜1980年代に手掛けた作品は「70年代アイドル映画」「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される。2015年2月に、ももいろクローバーZ主演・本広克行監督の『幕が上がる』と新垣結衣主演・三木孝浩監督の『くちびるに歌を』が公開された際に、「アイドル映画」「アイドル&女優が輝く映画」などと特集が組まれたが、大林はその先駆者として各メディアでフィーチャーされた。本広は『幕が上がる』は「大林さんの映画を真似ているところが多い」と話している。『日経エンタテインメント!』2015年3月号の特集「アイドル&女優が輝く映画」では、その系譜の始まりに1981年の『ねらわれた学園』が据えられた。同作は、大作路線を続けた角川春樹が一転、若者向け「アイドル映画」を手掛けた第1弾で、1979年の『金田一耕助の冒険』で意気投合した角川と大林は「誰もやらないような映画を作ってやろう」という目論見から薬師丸ひろ子主演で本作を企画した。また角川から大林に「薬師丸ひろ子をアイドルにしてやってくれませんか」との依頼があり、本作で薬師丸はアイドルとしての地位を確立させた。このため『ねらわれた学園』は「アイドル映画」時代の開幕を告げる作品と評される。同作はSFのジャンルに入れられるが、アイドルが恐怖に巻き込まれるスリリングな展開と独特の陰のある映像は、その後の「アイドル・ホラー」に大きな影響を与えたとも評され、その嚆矢ともいわれる。1983年、角川から「尾道で原田知世の映画を撮って下さい」と託された筒井康隆原作のジュブナイル『時をかける少女』では、合成やコマ落としなどの映像テクニックを最大限に駆使して幻想的な作品世界を描出、のちに定着する\"映像の魔術師\"、\"大林ワールド\"といった代名詞はここから始まった。この時期に日本テレビ「火曜サスペンス劇場」向けに円谷プロで撮った「麗猫伝説」は、アングラ映画すれすれの映画詩ふうな作品であり、これを常識を破ってテレビ用に製作できたあたりに当時の大林ブランドの強さと絶好調の自信が示されている。1984年、原田知世主演で撮った『天国にいちばん近い島』は映画は酷評されたが、それまであまり知られていなかったニューカレドニアブームを起こした。1980年代の日本映画は、大林宣彦と相米慎二の時代とも評される。アイドルを度々脱がせることから\"昭和の脱がせ屋\"などと異名をとるが、「着せてないだけ」と答えている。女優を手加減なしに自身の追求する映像を撮ったこれらは「アイドル映画」の皮をかぶった「作家映画」と見る向きもある。2014年に『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』を著した中川右介は「盟友関係にあった角川春樹と大林宣彦の二人が、70年代後半から80年代にかけての日本映画界を牽引していたという図式が明確に把握できた。そこであの本では『角川春樹』を主人公とし、副主人公に『大林宣彦』を置いた」、「あの時代個人名で『〇〇映画』と呼ばれていた監督は『大林映画』だけだったのではないか」と述べている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "長い自主映画製作キャリアから培ったスキルは撮影、編集、演技のみならず作曲や演奏にも及び、監督デビューよりも2年早く高林陽一監督の『本陣殺人事件』で音楽監督をつとめ印象的なメロディを提供している(自作での音楽監督兼任はそれほど多くない)。出演作品はそれほど多くないが、発声のきちんとしたプロ級演技は『俗物図鑑』(内藤誠監督)などで垣間見ることができる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "「同じことは二度としない」と公言している通り、大林のフィルモグラフィは1作ごとに異なる実験が行われている。『瞳の中の訪問者』(1977年)は、手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』最初の実写化であるが、『HOUSE』以上に趣味性を前面に押し出し、漫画そのものを実写で描こうとして、原作そのままのメイクで宍戸錠を登場させるなどで、「こんな人間がどこにいる!」と手塚を憤慨させたといわれる。「アイドル映画」などを挟みながら、一転して純文学に挑んだ福永武彦原作の『廃市』(1984年)は、大林自身「超ローバジェット映画」と表現している。寓話性を強調するため、台詞を棒読みさせたり、フラットな構図を採用したり、誇張したメーキャップを施したりするなどで、モノクロ版とカラー版の二種類を製作し同時に劇場公開した『野ゆき山ゆき海べゆき』(1986年)、1988年の各映画賞を独占した大人のファンタジー『異人たちとの夏』、NHKと組んでNHK初のハイビジョンテレビドラマと劇場用映画を同時に撮影した「尾道新三部作」『ふたり』(1991年)、演出、撮影、録音の大胆な実験を試みた『北京的西瓜』(1989年)。本作は天安門事件の影響で中国ロケが中止になった抗議に意図的に37秒間の空白を挿入した。『北京的西瓜』で試みた実験をさらに推し進め、複数の16mmカメラを手持ちで回し、リハーサル無し、NG無し、メイクも照明も最低限で一気呵成に撮り上げたフィルムを異常なハイテンションで編集した青春映画の傑作『青春デンデケデケデケ』(1992年)、タブー視されていた水との合成にあえて挑み、全編の9割をハイビジョン合成するなど、当時の最先端技術を導入した『水の旅人 -侍KIDS-』(1993年)、吉永小百合に「あなたのシワが撮りたい」と口説いて、吉永がノーメイクに近いナチュラルメイクで挑んだ、型破りの\"小百合映画\"『女ざかり』(1994年)。本作は1時間56分の本編をスーパー16mmカメラを多用し、1000カットに及ぶ短いカット繋ぎで構成した。宮部みゆきの小説世界を100名以上の俳優全員にノーメークで演じさせ、テレビのワイドショーの手法を使って完璧に映像化した『理由』(2004年) など、映画界に新風を吹き込む野心作を連打した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1993年に自身が初めて俳優として出演した月9ドラマ「あの日に帰りたい」では、主演の工藤静香と菊池桃子のフィルムの制作も行った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると尾道を舞台にした映画は無くなり、代わって、大分や長野、新潟、北海道芦別、佐賀県など、その町の伝統や歴史を題材にした映画を製作している。大林はこれを「ふるさと映画」と称しており、地域における映画製作の道筋を拓いたと評価される。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "またこの頃から反戦平和を正面から口にするようになった。その要因としては、2003年4月から、成安造形大学と倉敷芸術科学大学の客員教授に就任し、学生たちの前で定期的に話すようになったこと、2000年代以降の安全保障論や改憲論の盛り上がりで黙ってられない状況になったものと見られている。2013年12月27日付の朝日新聞に「特定秘密保護法が成立した6日、僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とのコメントを寄せる。2010年代以降の4本は、反戦を明確に打ち出した作品になった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "独特の語り口でトークも上手く、自主映画作家時代からマスメディアにしばしば登場した。生放送では喋り過ぎて放送事故寸前まで時間が押すこともあったという。各地の講演に招かれることも多く、コメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多かった。『幕が上がる』がさぬき映画祭で先行上映が行われた際に、楽屋でももいろクローバーZが大林節に魅了されていくのが横で聞いていた甥・平田オリザは妙におかしく「さすが、アイドル映画というジャンルを自ら切り拓いた人だけのことはあると、我が叔父ながら改めて感心した」と述べている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)春の褒章に於いて紫綬褒章を受章。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2013年に手掛けたAKB48の長尺のミュージック・ビデオ「So long !」は物議を醸した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2016年、第18回極東映画祭(イタリア)にて、マルベリー賞(生涯功労賞)を受賞。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "(2017年12月公開の映画『花筐/HANAGATAMI』のクランクインを控えた)2016年8月に肺癌が判明、ステージ4まで進行しており医師より当初「余命6か月」、後に「余命3か月」の宣告を受ける。同年8月から10月にかけて佐賀県唐津市で行われた撮影と続く編集作業に並行して抗がん剤治療を継続。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2017年4月のスタッフ向け試写会において病状を公表。抗がん剤治療が奏効したことで病状が改善し、同年5月時点で「余命は未定」となったとしている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2018年夏に、『あの、夏の日 とんでろ じいちゃん』以来約20年ぶりに尾道市をメインのロケ地として、戦争と広島の原爆をテーマとした映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を撮影、2019年10月28日に開幕する第32回東京国際映画祭「JapanNow部門」で組まれる大林監督特集で初上映された。本作で2018年度毎日芸術賞特別賞を受賞。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2019年3月24日、第33回高崎映画祭の授賞式(会場:高崎市の群馬音楽センター)に出席。監督を務めた『花筐/HANAGATAMI』が特別大賞を受賞し登壇。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2019年春公開を目指し全編熊本ロケでの映画化が決定していた『つばき、時跳び』は、体調不良を理由にクランクイン前の同年7月に辞退。監督補に指名していた熊本市出身の行定勲監督に引き継がれ、2021年に映画化される予定だった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2019年7月27日、広島県広島市で開催された国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道〜大国の暴走を許さない」(朝日新聞社、広島市、広島平和文化センター主催)に登壇し東ちづると対談した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2019年9月30日、広島国際映画祭2019「ヒロシマ平和映画賞」に『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が受賞したことが発表された。同年11月24日に同映画祭会場で『海辺の映画館―キネマの玉手箱』上映、大林監督トークショー、および、「ヒロシマ平和映画賞」授賞式が行われた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2019年10月25日、東京国際映画祭が、永年の国内外を含めた映画界への貢献が目覚ましい方々へ贈る“特別功労賞”を、大林に授与することを発表、同年11月1日に同映画祭会場でワールドプレミア上映された『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の舞台あいさつ、Q&Aセッション、東京国際映画祭特別功労賞の贈呈式が行われた。11月4日の『花筐/HANAGATAMI』上映後の舞台あいさつは体調不良のため欠席。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2019年10月29日、同年度の文化功労者に選ばれ、母校である尾道市立土堂小学校が記念して校舎に垂れ幕と横断幕を掲げた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2020年4月10日の封切りを予定していた『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、公開延期されることが3月31日に発表された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "4月10日19時23分、肺がんのため、東京都世田谷区の自宅で死去。82歳没。死没日をもって従四位叙位、旭日中綬章追贈。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2021年、第44回日本アカデミー賞会長特別賞を受賞。第94回キネマ旬報ベスト・テンでは『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を対象として日本映画監督賞が贈られた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "雑誌", "title": "著書" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "大林宣彦が、出身地尾道市を舞台に撮影した映画の代表作として認知されている3つの映画作品のこと。後に、同じように尾道を舞台にした作品が同じく3つ作られたため、これを「新尾道三部作」と称すこともある。『転校生』や『時をかける少女』の頃はまだ尾道三部作と呼ばれておらず、続く『さびしんぼう』が撮られたことで、これらの3本が尾道三部作と言われるようになった。", "title": "尾道三部作" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "大林作品にはテレビで製作された作品を後に劇場版として公開する、または劇場公開に先行してテレビで放送する、というケースが多く見られる。 『理由』はWOWOWで放送、劇場公開の後、さらに日本テレビで「日テレヴァージョン」が放送された。", "title": "テレビ版から劇場版" } ]
大林 宣彦は、日本の映画監督。従四位、旭日中綬章。倉敷芸術科学大学客員教授、長岡造形大学造形学部客員教授、尚美学園大学名誉教授、文化功労者。
{{ActorActress | 芸名 = 大林 宣彦 | ふりがな = おおばやし のぶひこ | 画像ファイル = Eiga-Hyoron-1967-December-1.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像コメント = {{small|『[[映画評論 (雑誌)|映画評論]]』1967年12月号より。}} | 本名 = | 別名義 = 學草太郎(まなぶ そうたろう) | 出生地 = {{JPN}}・[[広島県]][[尾道市]]東土堂町 | 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[世田谷区]][[成城]] | 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --> | 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> | 身長 = | 血液型 = [[ABO式血液型|B型]] | 生年 = 1938 | 生月 = 1 | 生日 = 9 | 没年 = 2020 | 没月 = 4 | 没日 = 10 | 没時 = | 没分 = | 職業 = [[映画監督]] | ジャンル = [[映画]]<br />[[テレビドラマ]] | 活動期間 = | 活動内容 = | 配偶者 = 大林恭子 | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = '''映画'''<br />『[[ハウス (映画)|HOUSE ハウス]]』<br />『[[転校生 (映画)|転校生]]』<br />『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』<br />『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』<br />『[[ふたり]]』<br />『[[青春デンデケデケデケ#映画版|青春デンデケデケデケ]]』<br />『[[理由 (小説)#ドラマW 2004年版|理由]]』<br />『[[その日のまえに]]』<br />『[[この空の花 長岡花火物語|この空の花 -長岡花火物語]]』<br />『[[野のなななのか]]』<br />『[[花筐/HANAGATAMI]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ベルリン国際映画祭 = '''[[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br />[[第48回ベルリン国際映画祭|1998年]]『[[SADA〜戯作・阿部定の生涯]]』 | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = '''新人監督賞'''<br />[[1979年]]『[[ハウス (映画)|HOUSE ハウス]]』 | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 ='''優秀監督賞'''<br>[[1988年]]『[[異人たちとの夏]]』<br>[[1992年]]『[[青春デンデケデケデケ]]』<br>'''優秀編集賞'''<br>[[1993年]]『[[はるか、ノスタルジィ]]』 | その他の賞 = '''[[高崎映画祭]]'''<br>'''最優秀作品賞'''<br>[[1986年]]『[[野ゆき山ゆき海べゆき]]』<br>[[1991年]]『[[ふたり]]』<br>'''最優秀作品賞(特別大賞)'''<br>[[2014年]]『[[野のなななのか]]』<br>[[2017年]]『[[花筐/HANAGATAMI]]』<hr>'''[[山路ふみ子映画賞]]'''<br>[[1989年]]『[[北京的西瓜]]』<hr />'''[[芸術選奨文部科学大臣賞]]'''<br />[[1992年]]『[[青春デンデケデケデケ]]』<hr>'''[[紫綬褒章]]'''<br>[[2004年]]<hr>'''[[日本映画批評家大賞]]'''<br />'''監督賞'''<br />[[2004年]]『[[理由]]』<br>[[2017年]]『花筐/HANAGATAMI』<hr>'''[[TAMA映画祭]]<br>最優秀作品賞'''<br>[[2012年]]『[[この空の花 長岡花火物語]]』<br>[[2014年]]『[[野のなななのか]]』<br>[[2020年]]『[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]』<hr>'''[[日本映画プロフェッショナル大賞]]'''<br>'''特別功労賞'''<br>[[2017年]] | 備考 = }} '''大林 宣彦'''(おおばやし のぶひこ、[[1938年]]([[昭和]]13年)[[1月9日]]{{R|東宝特撮映画全史539}} - [[2020年]]([[令和]]2年)[[4月10日]]{{R|評伝}})は、[[日本]]の[[映画監督]]{{efn|[[撮影所システム]]で育った映画監督ではないとの理由から<!---<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/091103/tnr0911030956008-n1.htm 産経ニュース【秋の叙勲】旭日小綬章 映画作家・大林宣彦さん(71) 孤独でも誰か見ている 2009.11.3 09:55]{{リンク切れ|date=July 2014}}</ref>--->{{R|Location}}、本人は「映画作家」と称している{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|shikoku}}}}。}}。[[従四位]]、[[旭日中綬章]]<ref name="名前なし-1">『官報』第250号8頁 令和2年5月28日号</ref>。[[倉敷芸術科学大学]][[客員教授]]、[[長岡造形大学]][[造形学部]][[客員教授]]、[[尚美学園大学]][[名誉教授]]、[[文化功労者]]{{R|mext}}。 == 概要 == [[広島県]][[尾道市]]東土堂町生まれ{{Refnest|group="出典"|{{R|profile|nhk|wedge<!---|outemon-->}}}}。[[尾道市立土堂小学校]]{{R|tsuchidoes20191108}}、[[広島県立尾道北高等学校|尾道北高校]]卒業{{R|東宝特撮映画全史539}}、[[成城大学]]文芸学部中退。[[2006年]](平成18年)4月から[[尚美学園大学]]大学院芸術情報学部情報表現学科名誉教授<ref>[http://www.shobi-u.ac.jp/?action_teacher_intro=true&subject=22 尚美学園大学 | 芸術情報学部 | 情報表現学科 教員紹介]</ref>。[[2007年]](平成19年)4月から[[倉敷芸術科学大学]]芸術学部メディア映像学科客員教授<ref>[http://www.kusa.ac.jp/arts/media/16_13/ 倉敷芸術科学大学 芸術学部|メディア映像学科 映像・放送専攻]</ref>。[[2014年]](平成26年)4月から[[長岡造形大学]]客員教授<ref>[http://www.nagaoka-id.ac.jp/blog-nyushi/2014/07/18/%E5%AE%A2%E5%93%A1%E6%95%99%E6%8E%88%E3%80%80%E5%A4%A7%E6%9E%97%E5%AE%A3%E5%BD%A6%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E7%89%B9%E5%88%A5%E8%AC%9B%E7%BE%A9/ 客員教授 大林宣彦監督特別講義 | 長岡造形大学]</ref>。 妻は[[映画プロデューサー]]の[[大林恭子]]。長女の[[大林千茱萸]]は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており(映画「[[ハウス (映画)|ハウス]]」の発案者である他、出演もしている)、その夫は[[漫画家]]の[[森泉岳土]]{{R|森泉}}。劇作家・演出家の[[平田オリザ]]は甥にあたる{{R|ORIZA}}{{efn|成城大学時代の1960年に8ミリで映画『だんだんこ』を大林と共作したのが平田オリザの父・平田穂生で、後に大林の妻の姉と結婚したため平田オリザは甥となる{{R|independent}}。}}。 [[自主映画|自主製作映画]]の先駆者として{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|mext|nhk|independent|訃報|bs|シネアルバム52}}}}、[[コマーシャルメッセージ|CM]][[ディレクター]]として{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|wedge|訃報|onomichi-u|cmdir|mandom|dentsu-ho|yamaha|日本の映画人}}}}、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師"{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|nhk|訃報|onomichi-u|magician|tiff|toyokeizai200428|bunshun20190902|知っておきたい}}}}<!-- <ref name="アナーキー80">[[映画秘宝]]EX『爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011』[[洋泉社]]、2012年、P18-19、36-37</ref><ref name="トラベラー">[[樋口尚文]]『テレビ・トラベラーー昭和・平成テレビドラマ批評大全』[[国書刊行会]]、2012年、p354</ref>-->{{efn|1977年の『[[ハウス (映画)|ハウス]]』公開時の宣材に「CM界の魔術師・大林宣彦が鮮烈映像とハッピーなサウンドで描く新しい驚きと美しいオカルト映画新登場!」という[[キャッチコピー]]が使われた{{R|映画時報197705}}。}}。 == 来歴 == === 生い立ち === 父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる{{Refnest|group="出典"|{{R|profile|のこす言葉32<!--- リンク切れのため除去|oricon200411--->}}}}<!--- リンク切れのため除去<ref>{{Cite web|title=大林宣彦監督82歳 死去 「転校生」「時をかける少女」など|url=https://www.oricon.co.jp/article/1133684/|website=FNN.jpプライムオンライン|accessdate=2020-04-12|language=ja}}</ref>--->。父は[[福山市]]金江町の出身で、尾道市[[医師会]]長や尾道市教育委員長を歴任。母は[[茶道]][[裏千家]]の教授。父方の祖父は日本で初めて[[催眠#催眠療法|睡眠療法]]を取り入れようとした人で{{R|のこす言葉32}}、大林は子どもの頃、[[睡眠時遊行症|夢遊病]]を取り入れた[[心理療法]]を受けたことがあるという{{R|のこす言葉32}}。父方の一族の男子は、歴代"大林〇彦"と、母方の一族の男子の名前は歴代"村上〇祥"と名前を付けられた{{R|シネアルバム120_64}}。両方の家は親戚を含めて大人になったら男は全員医者、女は医者の妻と宿命付けられており{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|outemon}}}}、大林家の息子と村上家の娘が結婚して男子が生まれたら、大人になったら医者になるしか選択肢はなかった{{R|シネアルバム120_64}}。 宣彦の生誕時に父は[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医科大学]](現在の[[岡山大学]][[医学部]])の寮にいたが、母は初産で、尾道の母方の実家に帰り宣彦を産んだ{{R|のこす言葉32}}。1歳のとき父が[[軍医 (日本)|軍医]]として[[南方作戦|南方に出征]]したため、宣彦はそのまま母方の実家・尾道の山の手で、18歳で上京するまで育つ{{Refnest|group="出典"|{{R|のこす言葉32|田山198}}}}{{efn|大林によれば、戦前の尾道は[[カースト]]のようなものがあり、住む地域によってきれいに色分けされていて、大林が育った[[山陽本線]]より上の斜面が山の手の上流階級、今の[[国道2号線]]がある場所は戦争中は民家が立ち並ぶ下町。その下が商人の町で、海岸が漁師町でさらに海岸の先に[[水上生活者#日本|船上民族]]がいて、高校生ぐらいまで女の子が裸で暮らしていたという{{R|のこす言葉32}}。}}。母方の実家は築100年以上の古くて大きな家で、男女合わせて30~40人が住む賑やかな家ではあったが、父親がいないこと、他の[[いとこ|従妹]]とも年が離れていたため一人で遊ぶことが多かった{{R|のこす言葉32}}。1~2歳の頃の楽しみは、庭のすぐ下を通過する[[山陽本線]]の[[蒸気機関車]]で、それはとてつもない恐怖体験だったという{{R|のこす言葉32}}。[[戦前#「戦前」が指す戦争|戦前]]の尾道には外国船も寄港し、[[南蛮貿易|南蛮渡来]]の不思議な積み荷が届くと、港の人が「先生、これは何でしょうか?」と祖父の元に持ち込み、「わしにもよう分からんけ、蔵に入れとけ」と、蔵の中は[[古今東西]]の[[がらくた|ガラクタ]]で溢れていた{{R|のこす言葉32}}。2歳でその蔵にあった[[ブリキ]]の[[映写#映写機|映写機]]の[[玩具|おもちゃ]]に親しみ{{R|のこす言葉32}}、6歳で[[35mmフィルム]]に手描きして[[アニメーション]]を作った{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|interview|訃報|musabi}}}}。大林は1977年『[[ブラック・ジャック (実写版)#映画(1977年・宍戸錠版)|瞳の中の訪問者]]』撮影中に[[樋口尚文]]のインタビューに答え、影響を受けた監督は誰かの質問に対して「観た映画は全部栄養になっていますから、特に師匠のように尊敬している人は名前が挙がらないのですが、日本で誰か一人と言われたなら[[マキノ雅弘]]さんになっちゃうでしょうね。もっと言えば[[エジソン]]が映画というオモチャを発明して僕の子供部屋に送り込んでくれたということでしょうか」などと述べている{{R|ユリイカ総特集39}}。映画監督は、映画を観て監督という職業を志すが、大林の場合は映画を観るより作ることから先に始まった{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|訃報}}}}。この祖父をモデルに作った『マヌケ先生』をもとにして後に[[三浦友和]]主演でテレビドラマ、映画が制作された{{Refnest|group="出典"|{{R|takarajima|ユリイカ総特集20}}}}。自身を投影している主人公の名前「馬場毬男」は、イタリアの撮影監督・[[マリオ・バーヴァ]]をもじったもので、遺作となった『[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]』の主人公名でもある{{efn|商業映画デビューする際に、馬場毬男以外に、団茂([[ドン・シーゲル]])、鳥鳳介([[フランソワ・トリュフォー]])なども候補に考えていた{{R|ユリイカ総特集20}}。}}。 大林の映画作りは、尾道の旧い家の子供部屋の闇の中から、一人こつこつと始まる{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|読本550}}}}。[[太平洋戦争|戦争]]で近所の親しかった人たちが次々と亡くなった。「幼少期に感じた死者の気配が映画づくりの原点。私が描くのは虚実のはざま。生きているのか死んでいるのか分からない人が登場する」と語る{{R|訃報}}。少年期は特に[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]に強い影響を受けた{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|jt200416}}}}。実家の持ち家の一つに[[新藤兼人]]が一時期住んでおり、毎週末通っていた映画館では“新藤おじさん”の隣で活動写真を見ていたこともあった<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=6391|title=「新藤さんの遺志継ぐ」 大林監督 思い出語る|date=2012-06-04|accessdate=2015-11-07}}</ref>。尾道の(当時あった)九つの映画館で上映される映画をすべて観ようと決意し、どうかすると(尾道時代に)千本近い映画を観ていたと思います」と話す{{R|outemon}}。15歳のときに[[小津安二郎]]が『[[東京物語]]』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに[[福永武彦]]『[[草の花]]』を読み、感銘を受ける{{R|traveler}}。いつか[[フレデリック・ショパン|ショパン]]のピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』で実現する。高校時代は[[手塚治虫]]に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、[[同人誌]]を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した{{R|yamaha}}。 === 自主映画作家として === 医者になることを宿命付けられていたが{{R|outemon}}、真剣に医者を目指す同級生は、地元の[[広島医科大学]]か[[京都大学大学院医学研究科・医学部|京大]]、[[大阪大学|阪大]]を目指していた{{R|のこす言葉57}}。地元で実家の医者を継ぐという選択のリアリティは[[関西圏]]までしかなかった{{R|のこす言葉57}}。大林は進路に迷いがあり、この時点で医者になることは[[虚構]]になり始めていた{{R|のこす言葉57}}。[[1955年]]、父に与えられた[[8ミリ映画#機材|8ミリカメラ]]を手に上京し{{R|評伝}}、[[慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部|慶應義塾大学医学部]]を受験する。しかし試験の途中で抜け出して映画を見に行き、「医者にはならない、映画の世界に行くんだ」と決意{{R|のこす言葉57}}。尾道に戻り、父に「医者にならない、映画を作りたい」と言ったら、何と父はそれを認めてくれた{{R|のこす言葉57}}。父親は岡山医科大学を首席に近い成績で卒業して、将来を嘱望された[[学者|研究者]]で、戦争で研究者のキャリアを断念し、戦後復員後、妻の実家の病院を継ぎ、地元の医師として一生を終えた人だった{{R|のこす言葉57}}。また母親も世が世なら、東京に行って女優か作家になりたいと考えていたモダンな人で、母親も賛成してくれた{{R|のこす言葉57}}。1年[[過年度生|浪人]]する間、東京中の[[名画座]]で映画を見まくる{{R|のこす言葉57}}。「1960年代までは、日本で観ることのできる世界中の映画を全部観ている」と話している{{R|toyokeizai200428}}。ある日、自転車で[[雑木林]]に導かれ{{R|総特集18}}、いつのまにかどこかの敷地に侵入し、小高い丘の上に[[成城大学]]があり、学園というのが洒落ているなという理由で成城大を受験する{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|総特集18}}}}。尾道には海と島と山はあっても陸地やそれに連なる雑木林はなく{{R|総特集18}}、雑木林なんてヨーロッパ映画でしか見たことはなく、東京は[[異国]]のようだったと話している{{R|総特集18}}。慶應の医学部を目指していたから成城は遊びで受かるだろうと思い、合格発表は見ていないという{{R|総特集18}}。映画作りを仕事にしようと決意し{{R|outemon}}、[[1956年]]に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学した{{R|Location}}。映画学科がある大学は珍しかったが{{R|シネアルバム120_64}}、学生が映画を作るわけではなく{{R|シネアルバム120_64}}、理論を教えるだけ{{R|シネアルバム120_64}}。この頃はまだ学生たちが映画を作るという時代ではなく{{R|シネアルバム120_64}}、映研も[[日本大学]]しかまだなく{{R|シネアルバム120_64}}、大変特殊な存在だった{{R|シネアルバム120_64}}。当時[[ボードレール]]に憧れていた大林は、入学試験中にポケットからウイスキーの小瓶を出して飲みながら答案を書いていたところ、試験官の教員から「良き香りがいたしますな」と言われ「先生も一献いかがですか」と勧めると、相手が「頂戴いたしましょう」と応じたため、試験中に試験官と酒を酌み交わすことになったという{{R|wasahi}}。大学時代は[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]の裏にあった[[早坂文雄]]の[[子息]]が経営するアパート新樹荘に住んだ{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|総特集18}}}}。大林の隣が[[東陽一]]の部屋で{{R|総特集18}}、もう一つ隣の部屋に[[平田オリザ]]の父が住んでいた{{Refnest|group="出典"|{{R|ORIZA|independent|総特集18}}}}{{efn|平田オリザの父と大林は一緒にインディーズ映画を撮っていた仲間で{{R|ユリイカ総特集58}}、平田オリザの父は「大林に最初に[[16ミリフィルム#映画用カメラ|16ミリ]]を持たせたのはオレだ」と生涯自慢していたという{{R|ユリイカ総特集58}}。大林の初期の代表作『だんだんこ』は8ミリだが、原作は平田オリザの父{{R|ユリイカ総特集58}}。平田オリザの父が監督として[[撮影#映像撮影|クランクイン]]したが、撮影の大林が才能がありすぎ、大林作品になってしまったという{{R|ユリイカ総特集58}}。『だんだんこ』には平田の姉も出演している{{R|ユリイカ総特集58}}。平田の母と父をくっつけたのは大林夫妻の策略で、平田オリザは「世の中では『私のいまあるは、〇〇さんのおかげです』というようなスピーチをよく聞くが、私がこの世にあるのは(恩人というだけではなく)生物学的にも大林夫妻のおかげなんです」などと話している{{R|ユリイカ総特集58}}。大林は小学校3年生の平田に「オリザ君、映画監督というのはね、ゼロから世界を創る仕事なんだよ。神様と同じ仕事をするんだから、他人には謙虚じゃなきゃいけないんだよ」と真顔でいうような人だった。偉大な叔父から学んだ一番のことは、監督(演出家)は、いくつになっても、こういう台詞を吐いていいのだという点だった」などと述べている{{R|ユリイカ総特集58}}。}}。大学では講義に全く出ず、赤いスカーフを首に巻いて片手に8ミリカメラを持ち、一日中[[グランドピアノ]]の前で[[シャンソン]]を弾きながら、聴きに来る女学生たちを1コマずつ撮っていた{{Refnest|group="出典"|{{R|総特集18|wasahi}}}}。その中の一年後輩の女学生がのちの妻で、雑木林で思わず「僕と結婚しない?」と言ったら、翌日彼女は「昨日の返事はハイです。結婚のことは、この18年間考え尽くしていますから」と言い、そのまま手をつないで講堂を出て大林のアパートに行き、半[[同棲]]を始めた{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|ORIZA|総特集18|wasahi}}}}。当時はまだ「同棲」という言葉はなく{{R|のこす言葉57}}、近所の人は兄妹が一緒に住んでいると思っていたという{{R|のこす言葉57}}。両親は大学を卒業したら、[[東宝]]や[[東映]]に就職するのだろうと考えていたが{{R|のこす言葉57}}、当時の[[日本映画製作者連盟|大手映画会社]]は、[[エリート]]しか入れない時代で、[[東京大学|東大]]か京大、[[早稲田大学|早稲田]]ぐらいを卒業してないと[[入社試験]]も受からないと大林自身東京に来てから知った{{R|のこす言葉57}}。そのため映画会社に就職して映画監督になるという選択はあまり現実的ではなく{{R|のこす言葉57}}、[[ヌーヴェルヴァーグ]]の影響を受け{{R|総特集18}}、これからは売れない作家が映画も撮る時代に来るぞ、と考え{{R|総特集18}}、[[8ミリ映画|8mm]]で個人映画を作って[[アプレゲール]]になると意気込んだ{{R|総特集18}}。この頃、[[富士フイルム]]のような[[フィルム]]会社がコンテストを始めたり{{R|シネアルバム120_64}}、ようやく8ミリ関係の雑誌ジャーナリズムも刊行され始めた{{R|シネアルバム120_64}}。在学中から[[8ミリ映画|8mm]]で作品を発表{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|independent|訃報|シネアルバム52|のこす言葉57}}}}。[[1957年]]、文化祭のために[[福永武彦]]の詩集の映画化「青春・雲」発表{{Refnest|group="出典"|{{R|個人映画109|日本映画の監督たち}}}}。初恋を幻想的に描く二作目「絵の中の少女」([[1958年]])のヒロイン役が妻である{{Refnest|group="出典"|{{R|のこす言葉57|日本映画の監督たち}}}}。当時はまだ[[自主映画|自主製作映画]]という概念はなかったが{{R|Location}}、その先駆者として、早くから名前を知られた{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|interview|independent|訃報|シネアルバム52|jt200416}}}}。[[1960年]]に大学を中退{{R|日本映画の監督たち}}。中退後に約2年、[[神田神保町|神保町]]で雑誌編集の仕事をする{{R|ユリイカ総特集20}}。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた[[高林陽一]]と[[飯村隆彦]]の3人しか日本にいなかったという{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|independent|訃報|のこす言葉57}}}}。最初に自主映画を有料で公開しようとしたのはこの3人で、彼等は月刊『小型映画』のコンテスト落選組だったが、高橋徳行同誌編集長は{{R|総特集18}}、いつも落選している個性的な応募者を会わせたら面白いのではないかと考えて、編集長の計らいで会った3人はたちまち意気投合した{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|逆回転|総特集18}}}}。これが日本の戦後自主制作・自主上映映画の端緒となる{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|逆回転}}}}。最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり{{R|総特集18}}、映画が上映される前に3〜5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた{{Refnest|group="出典"|{{R|総特集18|terebikoma-sixyaru}}}}。[[経堂]]や[[祖師ヶ谷大蔵駅|祖師ヶ谷大蔵]]の商店街の短編を作ったことがあるという{{R|総特集18}}。当時の[[テレビ|TV]]の台頭と[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]](CM)には既に興味があった{{R|総特集18}}。自分たちの作品をもっと人に見てもらおうと[[画廊]]で映画を掛けたら反響が大きく、その後[[日本アート・シアター・ギルド|新宿アートシアター(ATG)]]や[[人世坐|池袋人世坐]]など、大きな映画館で掛けるようになったため[[8ミリ映画|8ミリ]]から[[16mmフィルム|16ミリ]]に転換した{{R|個人映画34}}。[[1963年]]に初の16mm作品、藤野一友との共作『喰べた人』で[[ベルギー]]国際実験映画祭で審査員特別賞受賞{{Refnest|group="出典"|{{R|東宝特撮映画全史539|musabi|全史}}}}。 1964年、[[飯村隆彦]]、[[石崎浩一郎]]、[[高林陽一]]、[[金坂健二]]、[[佐藤重臣]]、[[ドナルド・リチー]]、[[足立正生]]らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|musabi|フィルム・アンデパンダン}}}}。高林が『砂』で、飯村が『ONAN』など揃って受賞したことで、マスコミが実験映画運動に関心を持ち出し、[[草月流|草月]]が海外の実験映画を上映したりした{{R|個人映画34}}。『尾道』(1960年)、『中山道』(1961年)、『喰べた人』(1963年)、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』(1964年)、『遥かなるあこがれギロチン・恋の旅』(1968年)や、日本の[[カルト映画]]の草分け<ref>〔キーワード事典〕『朝までビデオ2』キーワード事典編集部、[[洋泉社]]、1990年、p256</ref>『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)などが[[アンダーグラウンド (文化)|アングラ]]{{efn|大林は「『アンダーグラウンド』という言葉を日本に紹介したのはフィルム・アンデパンダンの同人・[[金坂健二]]。金坂が留学から帰って来て『アメリカではもう実験映画ともアバンギャルドとも言わずに、"アンダーグラウンド"と言うんだ』と言い出して、[[佐藤重臣]]が『それは面白い、その言葉を流行らせよう』と、佐藤が『アンダーグラウンド』を『アングラ』と[[命名]]した。『アングラ』は佐藤が作った[[造語]]。佐藤は当時『[[映画評論 (雑誌)|映画評論]]』の編集長だったから、『アングラ』という言葉をバンバン売り出した。しかし日本では結果として演劇の方へ行った([[アングラ演劇]])」と述べている{{R|シネアルバム120_64}}。}}ブームに乗って反響を呼ぶ{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|dentsu-ho|日本映画の監督たち|doshisha|監督全集|キネマ旬報20105|個人映画3|note200412}}}}。「今、個人映画は、[[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド映画]]をめざす」と話した{{R|independent}}。同作は[[ロジェ・ヴァディム]]監督の[[1960年]]『[[血とバラ]]』の[[オマージュ]]で{{Refnest|group="出典"|{{R|総特集18|dracula}}}}、[[邦題|原題]]『Et mourir de plaisir』を大林は「死に至る病」と解釈していた{{R|ユリイカ総特集20}}。『EMOTION』は当時全国五分の三の大学で上映され{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|dracula|個人映画27|ユリイカ総特集20}}}}、今日でも上映されることがある{{R|ユリイカ総特集20}}。本作を観て[[アングラ演劇]]から映画の道に移った若者も多かったという{{R|総特集18}}。安藤紘平は「僕は『EMOTION』に衝撃を受けて、[[榎本了壱]]、[[萩原朔美]]と共に『ファミリーフィルムメーカー』という映画グループを作り、それは後に『[[ビックリハウス]]』という[[雑誌]]になりました。大林さんはいろんな人の人生をいっぱい変えているんでしょうけど、僕もまさに変えられた一人でした」などと述べている{{R|ユリイカ総特集20}}。いつしか個人映画の[[教祖]]的存在となる{{R|takarajima7705}}。但し「僕の作ったアンダーグラウンド映画は、少しもアンダーグラウンドではなく、まさに個人映画の『[[ザッツ・エンターテインメント]]』みたいなものだった」と述べている{{R|takarajima7705}}。原正孝([[原將人]])は[[麻布中学校・高等学校|麻布高校]]の[[文化祭]]で『いつか見たドラキュラ』を知り合いから借りられ、自身の作品『おかしさに彩られた悲しみのバラード』と二本立てで上映し、『いつか見たドラキュラ』を徹底的に研究し、『おかしさに彩られた悲しみのバラード』を大幅に直して、第1回フィルムアートフェスティバル東京に出品してグランプリを取り、監督デビューすることが出来たと話している{{R|総特集182}}。また1965年に初めて[[コマーシャルメッセージ|CM]][[ロケーション撮影|ロケ]]で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡った際に、[[ロサンゼルス|ロス]]と[[サンフランシスコ]]で「ジャパニーズ・アンダーグラウンド・ムービー」というフェスティバルがあり『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』が一本立て上映されていたという{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|読本323}}}}。1970年の高林陽一初の35mm監督作品『すばらしい蒸気機関車』の音楽を担当し、公開当時のプレスシートに「音楽は前衛映画作家として著名な大林宣彦氏」と記載がある<ref>{{Cite journal|和書| title = 野村正昭のDVD特典風雲録 『すばらしい蒸気機関車』 | journal = [[キネマ旬報]] |issue = 2006年2月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 197 }}</ref>。 === CMディレクターとして === [[1964年]]に開館した[[新宿区|新宿]][[紀伊國屋ホール]]の開館イベントとして「120秒フィルムフェスティバル」を企画{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|independent|takarajima|terebikoma-sixyaru}}}}。紀伊國屋ホールは8ミリには対応できず{{R|総特集18}}、16ミリでしか上映できないため{{R|総特集18}}、フィルムの値段が跳ね上がるから2分の16ミリ作品を作った{{R|総特集18}}。[[電通]]のプロデューサーは、この"2分"という触れこみに惹かれてこのイベントに参加し{{R|総特集18}}、ここで上映された2分バージョンの『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』を観て、大林をCMディレクターに誘った{{R|総特集18}}。まだ日本に[[横文字]]文化のない時代{{R|評伝}}、コマーシャルは"[[広告]]"で、当時まだまだ[[宣伝]]は[[チンドン屋]]{{Refnest|group="出典"|{{R|doshisha|総特集18|シネアルバム120_52|シネアルバム120_64}}}}、CMは"おトイレタイム"と蔑視されていた時代{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|doshisha|cmdir|ng151217|シネアルバム120_52|シネアルバム120_64}}}}。アンデパンダンで最初に[[名刺]]を差し出した電通の人は「電通という会社でコマーシャルを撮っている者です」と言った途端、さっと1メートルぐらい後ろに下がった{{R|のこす言葉57}}。「どうしたんですか?」と聞いたら「先日、[[映画監督]]にそう言ったら『俺に物売りをやれというのか』と蹴とばされたんです」と言った{{Refnest|group="出典"|{{R|のこす言葉57|総特集18|読本323}}}}。続く言葉は「これから言うことで、僕を殴らないで下さい、広告をやってみませんか」だった{{R|ワンダーランド78}}。日本はテーマ主義の国で、テーマのないCMのようなものは作家がやるべきじゃないという考えで{{R|シネアルバム120_64}}、CMは恥ずかしい場所だった{{R|シネアルバム120_64}}。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人で、[[飯村隆彦]]も薬のCMを1本だけやったが、すぐに撤退し、[[高林陽一]]も大林のCMの手伝いを少ししたが、「性に合わない」と結局CMには関わらなかった{{R|シネアルバム120_64}}。当時は、電通のプロデューサーと、傾きかけた映画界の[[カメラマン]]とが組んでCMを撮っていた{{R|総特集18}}。当時の電通本社は、[[銀座|東京銀座]]8丁目[[土橋入口|土橋]]の[[東京高速道路]]の下にあった木造の貧相な二階建て{{R|のこす言葉57}}。初めて遊びに行った日に、[[味の素]]の[[清涼飲料水]]の[[ボトルキャップ|キャップ]]を送ると[[景品]]が貰えるというCMを撮っていたが{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|のこす言葉57}}}}、あまりにヘタで「僕が撮ってあげるよ」と代わりに大林が撮ったCMが以降7年間放送された{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|のこす言葉57}}}}。それで「何でもいいから、遊びに来て下さい」という話になった{{R|のこす言葉57}}。電通の[[小田桐昭]]プロデューサーの「僕は生涯を懸けてコマーシャルを世界に誇れる[[ジャーナリズム]]にしてみせようと思っています」という言葉に感銘を受け、本格的にテレビコマーシャルの世界に踏み込む{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|のこす言葉57}}}}。まだ広告はアートでなかった時代で{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|cmdir}}}}、[[クリエイター]]とは扱われず{{R|シネアルバム120_64}}。電通と大林で[[スポンサー]]の所に行くと[[営業写真館|出入りの写真屋さん]]の扱い{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|田山198|総特集18}}}}。スポンサーの企業に行っても表玄関からは入れず、裏口から入って「写真屋さん、ご苦労様」と言われ、仕事が終わると鮭の切身定食を御馳走になってまた裏口から帰っていたという{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|総特集18}}}}。当時はその電通などの[[広告代理店]]がTVCMを独占する前夜で{{R|総特集18}}、CMディレクターを専門にやろうという人間はまだいなかった{{R|体験的仕事論36}}。こんな事では未来がないと考えた電通等が「CMに演出家を付けてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える」と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった{{Refnest|group="出典"|{{R|田山198|総特集18}}}}。CM演出家のパイオニアとしては、[[杉山登志]]や松尾真吾らが挙げられるが{{R|ユリイカ総特集78}}、彼らがCM制作会社の社員だったことに対して、大林はどこの会社にも所属しないフリーの映像作家だった{{R|ユリイカ総特集78}}。1964年、[[セイコーホールディングス|セイコー]]のテレビ[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]](CM)を皮切りに{{R|石坂186}}、草創期のテレビCMにCMディレクターとして本格的に関わる{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|interview|onomichi-u|cmdir|mandom|dentsu-ho|yamaha|日本の映画人}}}}<!-- <ref name="知っておきたい"/><ref name="takarajima"/><ref name="田山"/><ref name="映画100">『映画100物語 日本映画篇 1921-1995』([[読売新聞社]]、1995年)P184-185</ref> -->。電通の大林起用の狙いは、高額の[[ギャランティ|ギャラ]]を大林に払い、高級[[輸入車|外車]]に乗ってみせるようなスタア演出家を似て任じてもらい、CMディレクターを花形職業にすることで、CM界に優秀な人材を集め、業界全体の活性化を狙ったものだった{{R|総特集222}}。小田桐から「できれば[[スポーツカー]]に乗って、隣のシートに[[金髪]]の[[ファッションモデル|モデル]]を乗っけて、『[[朝日ジャーナル]]』と『[[平凡パンチ]]』を座席に置いて、[[青山 (東京都港区)|青山]]あたりを乗り回して欲しい」と言われた{{R|シネアルバム120_64}}。何の業界でも当時は貧しさが[[美徳]]で、腕を買うといってもお金の話は[[タブー]]視されていたから{{R|シネアルバム120_64}}、その話を聞いて「面白い業界だな」と感心した{{R|シネアルバム120_64}}。ギャラの基準もまだなく、ギャラは最初の1本が4,000円、2作目が8,000円、3作目で1万5,000円、4作目が4万円と{{R|シネアルバム120_64}}、ギャラは瞬く間に跳ね上がったというが{{R|シネアルバム120_64}}、1965年ぐらいに1本50万円ぐらいになった後は、回りが追いつき以降はほとんど変わらなくなったという{{R|シネアルバム120_64}}。また当時の電通はギャラを貰うために[[会計|経理]]に半日並ばないと貰えず{{R|のこす言葉57}}、半日並んでギャラを貰うなら、別の撮影をした方がいいと半分はギャラを貰っていないと話している{{R|のこす言葉57}}。当時はまだコマーシャルに対するモノづくりの[[フォーマット]]が全然なく、演出は全部任せてもらえた{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|ワンダーランド83}}}}。[[高度経済成長期]]の始まり、テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、[[特撮]]もどんどん出来、自由に撮らせてもらえた{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|cmdir|読本323}}}}。大林にとってCMはスポンサー付きの個人映画、映像実験室とも言え{{R|シネアルバム120_64}}、非常に楽しいものだったという{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|評伝|independent|cmdir|takarajima|放送批評}}}}。CMのギャラを資金源に8ミリ作品を製作し続けた{{R|総特集18}}。CM業界で[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]を使うシステムを作ったのは大林{{R|シネアルバム120_64}}。当然助監督にギャラは出ないため、大林のギャラで助監督や[[映画スタッフ|スタッフ]]を養成した{{R|シネアルバム120_64}}。[[阪本善尚]]は大林がCM業界に引っ張り込んだ人である{{R|シネアルバム120_64}}。 高度経済成長の波に乗り、急成長したCM業界で、一日一本のペースでCMを作り続け、TVCMという分野の礎を築き{{Refnest|group="出典"|{{R|doshisha|総特集222}}}}、「CM界の巨匠」の異名を執った{{Refnest|group="出典"|{{R|訃報|石坂186}}}}。大林が学生の時には東宝撮影所は連日夜間撮影で空が赤くなっていたというが{{R|総特集18}}、60年代半ばからは映画斜陽で東宝撮影所の映画用セットやスタジオは空いていた{{R|総特集18}}。大林は毎日のように東宝撮影所でCMを撮ったという{{R|総特集18}}。大林の手がけたCMで最も有名なのが、日本で初めて[[ハリウッド]]スターを起用し、あまりのヒットに丹頂が社名を変更した[[チャールズ・ブロンソン]]の「[[マンダム]]」で{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|訃報|cmdir|mandom|yamaha|個人映画グラビア|sannichi|黒沢|かまち|TVCM60}}}}{{efn|マンダムのCMを手掛けたのは大阪電通。大林は売り出す商品に愛を持っていないスポンサーを許せず、某菓子メーカーから発売された×レーのCMを作る際、その会社の宣伝部長が「×××みたいな×レー」と連発するので、大林がハラを立てて胸ぐらを掴んで「出ていけ!」と言ったら、その部長も怒鳴り返し、結局3億円の仕事が飛び、小田桐も責任を取らされて系列の子会社に飛ばされ、大林も以降は東京電通の仕事は出来なくなった。その話を聞いた大阪電通に呼ばれてやった仕事がマンダム{{R|のこす言葉57}}。}}、本作は男性に香りを着けさせようという、これまでの日本にない新しいライフ・スタイルの導入・定着に貢献した{{Refnest|group="出典"|{{R|TVCM60|戦後メディア}}}}。[[体臭]]を消すのがそれまでの[[化粧品]]の考え方で{{R|シネアルバム120_64}}、特に化粧品の香りはヨーロッパ指向だったため{{R|シネアルバム120_64}}、アメリカの匂いのする男の体臭を売るという画期的なCMでもあった{{R|シネアルバム120_64}}。ブロンソンの[[キャスティングは大林である{{R|シネアルバム120_64}}。当時の西村彦次丹頂社長にブロンソンの写真を見せたら「何だ、こりゃ」と言われた{{R|シネアルバム120_64}}。ブロンソンはまだ映画通しか知らない役者で{{R|シネアルバム120_64}}、西村社長から当然「[[アラン・ドロン]]にしてくれ」と言われた{{R|シネアルバム120_64}}。「こういう男の顔が、男の体臭に似合うんだ」と説得しても「分かった。だけどもう少し[[美男子]]じゃダメか」となかなかOKが取れず、しつこく説得を繰り返し{{R|シネアルバム120_64}}、西村社長が、若き大林に仕事を任せるに当たり、大林夫婦を食事に招待した折り、極自然に夫人に[[サラダ]]を取り分ける大林に感銘を受け、「この人物なら、我が社の広告を任せていい」とようやく決心したと言われ{{R|シネアルバム120_64}}、西村から後で「自分もオヤジから引き継いだ会社で、会社は潰してもいいから、最後に一つだけ世間に良い仕事を残して潰れるならそれでいい。この作品は賭けですが、良い仕事をして下さい」と伝えられた{{R|シネアルバム120_64}}。トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうしてインディアン役者の売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドの[[エージェント]]の反対を押し切り{{R|シネアルバム120_64}}、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させた{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|馬場}}}}。ギャラは信じられないほど安かった{{R|シネアルバム120_64}}。一世を風靡した「う~ん、マンダム」とつぶやく名ゼリフは大林の発案だという{{R|mandom}}。このCMは[[ホリプロ]]と制作することになり、[[堀威夫]]とアメリカに行った{{R|シネアルバム120_64}}。ホリプロとのCM制作のプロデューサーが笹井英男で{{R|シネアルバム120_64}}、ホリプロとの付き合いはここから始まる{{R|シネアルバム120_64}}。 大林恭子は「大林の手がけたCMは、セイコージュエル・ホワイトが最初。[[トヨタ・コロナ|トヨタ自動車のコロナ]]はロサンゼルスと[[オーストラリア]]で撮影した海外ロケCM第一号」などと述べている{{R|ユリイカ総特集20}}。他に、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「[[ホンダ・ロードパル]]」の[[ソフィア・ローレン]]{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|映画撮影235|takarajima7705}}}}、「[[カネカ]]・[[フォンテーヌ (カツラメーカー)|フォンテーヌ]]」「[[ユニリーバ・ジャパン|ラックス化粧品]]」の[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]、「フォンテーヌ」{{R|シネアルバム120_64}}の[[コマーシャルソング|CMソング]]には[[フランシス・レイ]]を起用した{{R|読本334}}。「[[レナウン (企業)|レナウン]]・シンプルライフ」の[[リンゴ・スター]]{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|映画撮影235|takarajima7705}}}}、「[[味の素AGF|AGF]]・マキシムコーヒー」の[[カーク・ダグラス]]{{R|dentsu-ho}}<ref>「[https://www.j-cast.com/tv/2007/06/25008678.html 「転校生」性善説・大林宣彦の映画には「毒」がない : J ... - J-Castニュース]</ref>、マンダム・フーズフーの[[デヴィッド・ニーヴン]]{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|個人映画グラビア}}}}、[[キャサリン・ヘプバーン]]、[[アイススケート]]の[[ジャネット・リン]](カルピス){{R|個人映画グラビア}}等の起用で{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|訃報|cmdir|yamaha|outemon|個人映画グラビア|sannichi}}}}、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった{{Refnest|group="出典"|{{R<!---|interview--->|訃報|cmdir|yamaha|outemon|jt200416|個人映画グラビア|sannichi|TVCM60|jprime200414|CM文化論}}}}。海外スターの起用、海外[[ロケーション撮影|ロケ]]、映画のような特撮の導入等は、それまでの日本のCMにない画期的なものであった{{R|Location}}。当時はまだCMをアメリカで撮影するなんて考えられもしなかった時代、「CMならハリウッドスターを使えるぞ」という"アメリカ映画ごっこ"のようなもの、企業のお金を使った大林個人の夢の実現であったという{{R|interview}}。ブロンソンの「マンダム」の前に1本だけ、有名ではない外国人俳優を使ったCMがあったが{{R|シネアルバム120_64}}、[[外国人タレント|外タレ]]CMブームはブロンソンの「マンダム」からである{{R|シネアルバム120_64}}。CM撮影での初の渡米は1966年、[[電通]]社長の指示で大林を含めたスタッフ4人で行ったという{{R|interview}}。[[オイルショック]]前の1970年初頭はほとんど海外ロケで、1年の内、10か月以上海外生活であった{{R|ワンダーランド93}}。あまりにも家にいないため、恭子夫人は近所の人たちから[[未亡人]]と思われていたという{{R|ユリイカ総特集20}}。 日本のCMでは、東陶機器([[TOTO (企業)|TOTO]])の[[風呂|ホーローバス]]のCMで[[高沢順子]]に言わせて[[流行語]]になった「お魚になったワ・タ・シ」は、[[コピーライター]]という職業が無い時代に大林が考えた[[キャッチコピー|コピー]]である{{Refnest|group="出典"|{{R|読本296|hirotarian}}}}。『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』を気に入られた[[黒澤明]]から{{R|石坂186}}、1989年CM演出を指名され{{Refnest|group="出典"|{{R|石坂186|この指}}}}、[[日本電気|NEC]]「[[NEAC#オフィスコンピュータ|オフィスプロセッサ]]」「夢にわがままです」を手掛け、CM出演した黒澤に初めて[[サングラス]]を外させた{{Refnest|group="出典"|{{R|石坂186|乾盃}}}}。これが縁で1990年、黒澤監督の『[[夢 (映画)#関連作品|夢]]』のメイキングビデオ(『映画の肖像 黒澤明 大林宣彦 映画的対話』)を撮った{{R|石坂186}}。この他、[[山口百恵]]・[[三浦友和]]コンビの「[[江崎グリコ|グリコ]][[チョコレート|アーモンドチョコレート]]」{{Refnest|group="出典"|{{R|訃報|cmdir|日本映画の監督たち|sannichi|TVCM60}}}}、[[高峰三枝子]]・[[上原謙]]の「[[日本国有鉄道|国鉄]]フルムーン」{{Refnest|group="出典"|{{R|訃報|cmdir|TVCM60}}}}、[[森繁久弥]]の「[[新幹線|国鉄新幹線]]」{{R|日本映画の監督たち}}<ref>田山力哉『日本映画名作全史. 現代編2』社会思想社、1988年、P84-86</ref>、[[遠藤周作]]の「[[日立]][[ヘアカラーリング剤|ヘアカーラ]]」{{R|個人映画グラビア}}、[[山村聰]]の「[[トヨタ・クラウン]]」{{R|映画撮影235}}、[[若尾文子]]の「[[パナソニック|ナショナル]][[浄水器]]」{{R|個人映画グラビア}}、「[[レナウン (企業)|レナウン]]・「ピッコロ」{{R|doshisha}}、[[ワンサカ娘]]」、[[泉アキ]]の「[[キリンレモン]]」{{R|ユリイカ総特集182}}、[[花王|花王石鹸]]「[[ハイター]]」{{R|doshisha}}、[[長門裕之]]・[[南田洋子]]の「[[カルピス]]」{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|cmdir|田山198|sannichi|映画撮影235|湯川}}}}、10年間で製作したテレビCMは3000本を越え{{Refnest|group="出典"|{{R|cmdir|tiff|terebikoma-sixyaru}}}}<ref>[[毎日新聞]] 2010年10月24日8面</ref>、国際CM賞も受賞{{R|takarajima}}。テレビCMを新しいフィルムアートの一つとして世の中に認識させ{{Refnest|group="出典"|{{R|cmdir|映画100}}}}、画期的な映像表現で、日本のテレビCMを飛躍的に進化させた{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|cmdir|doshisha}}}}。さまざまの映像的実験を試み、東洋現像所([[IMAGICA Lab.]])は「また大林さんのCMで難しい注文が入ってきた!」と度々言っていたという{{R|ユリイカ総特集20}}。当時は勿論、大林は一般レベルでは全くの無名だったが、大林の作ったフィルムは、日本で一番多くの人に見られていたのである{{R|takarajima7705}}。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でのCM撮影の際に、[[アンダーグラウンド映画]]のスタッフと親しくなり、『[[イージー・ライダー]]』の編集にも大林は関わっているという{{R|interview}}。2013年、[[小林亜星]]等と共に[[全日本シーエム放送連盟]](ACC)第3回「クリエイターズ殿堂」入り{{R|cmdir}}。 当時は[[Made in Japan|メイド・イン・ジャパン]]は粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、[[毛染め]]のCMを製作するに当たり、その商品を使って[[茶髪]]になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている{{R|terebikoma-sixyaru}}。また、自身も[[九州電力]]のCMに出演した事がある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある[[石上三登志]]とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。 [[手塚治虫]]は「幸運にも大林監督の[[東京ディズニーランド|ディズニーランド]]のPR映画に出演させて貰い、真夜中から明け方にかけて、静まりかえったディズニーランドの中で人形の撮影をした。外来者禁制のディズニーランドの裏の様子を見ることができた。思いもかけず手品のタネを見れた」と話している<ref name="キネ旬830402">{{Cite journal|和書 |author=手塚治虫 |authorlink=手塚治虫 |title=観たり撮ったり映したり(13) ディズニーランドの裏を見た |journal=[[キネマ旬報]] |issue=1983年4月下旬号 |publisher=[[キネマ旬報社]] |pages=122–123頁 }}</ref>。 盟友・高林陽一が[[1975年]]に[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]の1,000万映画として、劇場用の[[35ミリフィルム|35ミリ]]で『[[本陣殺人事件#映画|本陣殺人事件]]』(大林は音楽として参加)を撮ったことは大きな刺激になった{{R|総特集18}}。まもなく東宝から「『[[ジョーズ]]』のような映画は撮れませんか?」と言われたのが『[[ハウス (映画)|HOUSE]]』の制作スタートとなる{{R|総特集18}}。 === 商業映画に進出 === [[1977年]]の『[[ハウス (映画)|HOUSE]]』で、商業映画を初監督{{Refnest|group="出典"|{{R|東宝特撮映画全史539|評伝|訃報|onomichi-u|日本の映画人|note200412}}}}。個人映画からCMを経て、劇場用映画に越境する{{R|ユリイカ総特集85}}。7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうという[[ホラー映画|ホラー]]・[[ファンタジー映画|ファンタジー]]を、ソフト・フォーカスを用いた[[コマーシャルフィルム|CF]]的映像、実写と[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた{{Refnest|group="出典"|{{R|東宝特撮映画全史539|評伝|訃報|日本の映画人|outemon|監督全集|黒沢|shashinkan|HOUSE|映画撮影237}}}}<!-- <ref name="30年史80">[[#30年史]]P80-81</ref><ref name="CINEMA CAN WAIT">橋口尚文『映画の復讐 CINEMA CAN WAIT』(フィルムアート社、1992年)P186-211</ref> -->。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|nhk|訃報|監督全集|読本782|シネアルバム1978|大特撮|ぴあシネマクラブ|朝までビデオ2}}}}。子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される{{Refnest|group="出典"|{{R|jt200416|大特撮}}}}。[[1990年代]]に流行した「[[ジャパニーズホラー|美少女ホラー]]」と直接的にはリンクしないとはいえ、その"祖"と評価もされる{{Refnest|group="出典"|{{R|onomichi-u|HOUSE|アイドル映画30年史}}}}。1976年6月には馬場毬男名義による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされたが製作開始とはならず{{Refnest|group="出典"|{{R|outemon|中川52}}}}。大林は作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち{{R|キネ旬19792}}、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のようなことを始めた{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|outemon|HOUSE|シネアルバム1978|中川52}}}}。[[オーディション]]で選んだ平均年齢当時18歳の7人のアイドルに水着を着させて[[大磯ロングビーチ]]で[[キャンペーン]]をやるなど{{R|outemon}}、[[宣伝|プロモーション]]に2年を要して{{R|interview}}、様々なイベントを仕掛け、その後の"アイドル映画"の方向性を作った{{Refnest|group="出典"|{{R|田山198|HOUSE|アイドル映画30年史}}}}。[[ニッポン放送]]「[[オールナイトニッポン]]」枠で生放送された[[ラジオドラマ]]『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|outemon|shashinkan|中川52}}}}。更にラジオドラマに続き、[[漫画|コミック化]]、[[小説化|ノベライズ]]など、大林が主導して「[[メディアミックス]]」を仕掛けていき{{R|outemon}}、これらが功を奏して知名度が上がって話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなって{{Refnest|group="出典"|{{R|田山198|HOUSE}}}}、ようやく本体の映画化が決まった{{R|中川52}}。大林は『HOUSE』の[[イラスト]]入りの大きな[[名刺]]を作り、会う人ごとに渡していたが、[[角川春樹]]もそれを見て「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している{{R|中川52}}。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けており、これも先駆と評価される{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|中川52|読本644}}}}。 大林が商業映画に進出すると報じられたとき、多くの[[ジャーナリズム]]も大林が本来、映画を志向していることを知らなかった{{R|takarajima7705}}。『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』1977年5月号には「個人映画とCMという、いわば映画の本流(というものがあるとしての話だが)からずいぶん外れたところで数多くの仕事をしてきた人が、いったい映画のことをどんな風に考えているのか興味を持って、東宝・砧撮影所へインタビューへ出かけた」と書かれている{{R|takarajima7705}}。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|監督全集|中川52|読本644}}}}。他に先達として自主映画仲間の[[高林陽一]]らが存在するものの、自己プロダクション+[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]という経路であり、いきなりメジャーの[[東宝|東宝映画]]でデビューという事例は画期的であった{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|訃報|tiff|outemon|監督全集|中川52|キネ旬19792|読本644|note200412|ユリイカ総特集93}}}}。当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|訃報|onomichi-u|tiff|outemon|監督全集|note200412|キネマ旬報20105<!--|読本644|中川52-->|HOUSE|キネ旬19792}}}}。企画としては1975年に東宝の会議を通っていたが{{R|中川5275}}、撮影所の[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]経験のない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちが猛反対し、その後2年の間、[[塩漬け#転用|塩漬け]]にされた{{R|東宝特撮}}。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|mext|nhk|independent|訃報|bs|シネアルバム52|日本の映画人|tiff|1980年代の映画<!--|シネアルバム120_202|21世紀の映画監督|キネマ旬報20105|個人映画3<ref name="Location"/><ref name="秘宝20078"/><ref name="映画100"/><ref>[http://cinema.pia.co.jp/title/135870/ 転校生@ぴあ映画生活 - ぴあ映画生活 - チケットぴあ]、[http://openers.jp/culture/tips_movie/news_eigatocm_49754.html 映画とCMの『境目/さかいめ』にある未来 - OPENERS]、『爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011』P6</ref>-->}}}}。日本映画の斜陽によって1977年の新人監督の登用は、[[ピンク映画]]以外では大林一人だった{{Refnest|group="出典"|{{R|寺脇|キネ旬19832下}}}}。大林が商業映画デビューしたこの年が一つのターニングポイントとなり{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|寺脇|キネ旬19783下|編集ばか|ユリイカ総特集93}}}}、この流れから自主映画出身者として[[大森一樹]]、[[森田芳光]]、CM出身者として[[市川準]]らが出た{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|知っておきたい|キネ旬19792|キネ旬19852|熱中記|ぴあの時代|読本187|21世紀の映画監督|cinemore1844|シネアルバム120_202}}}}<!--- <ref>[[#乾盃]]、159頁</ref><ref>[[#movie]]、204頁</ref> --->。大森は「大林宣彦の名はパイオニアだった。それに続くように翌年、ただの大学生だった私もまた[[松竹]]で『[[オレンジロード急行]]』を撮る幸運を得た」と話している{{R|総特集202}}。市川は「[[東京芸術大学|芸大]]を受験し続けていたけど、どうしても駄目で。僕も予備校の仲間とミニフィルムを作ったりしていた。当時は大林さんが自主制作で注目されていた。そこから美大入学ではなく、CM制作会社に入るという選択をした」と述べている<ref>『ぼくのしょうらいのゆめ』プチグラパブリッシング、2006年、P14-15</ref>。[[西河克己]]は「企業外から出たハシリは大林君ですね。森田芳光が二番手ですね。成功例ということであればですけど」と述べている<ref name="kine850201">{{Cite journal|和書 |author= 山根貞男 |authorlink = 山根貞男 |title = 西河克己監督インタビュー |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1985年2月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |page = 118 }}</ref>。『HOUSE』という個人映画が賑々しく痛快に侵犯したことが、多くの自主映画作家を鼓舞し、次代のすぐれた映画作家を輩出させた{{Refnest|group="出典"|{{R|ユリイカ総特集85|ユリイカ総特集93}}}}。『HOUSE』はその震源地であった{{R|ユリイカ総特集85}}。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって{{R|田山198}}、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時東宝営業部長{{R|シネアルバム1978}}(のち社長、会長)だった[[松岡功]]と{{R|評伝}}、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン[[岡本喜八]]監督の口添えが大きかったといわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|terebikoma-sixyaru|中川52}}}}。松岡は大林に「恐るべき無内容」「しかしこれをわたしたちが考える良い脚本に直したら映画がつまらなくなる、よってこのまま撮ってくれ」とつけ加えたといわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|シネアルバム1978}}}}。しかしながら「あれは正規の映画ではない」と公言する人も多く{{R|キネマ旬報20105}}、映画マニアからは酷く叩かれもした{{R|interview}}。『[[リング (1998年の映画)|リング]]』、『[[呪怨]]』などのプロデューサー・[[一瀬隆重]]は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている<ref>[[一瀬隆重]]『ハリウッドで勝て!』([[新潮社]]、2006年)P30-32</ref>。 [[ぴあ]]は1977年12月に「第1回ぴあ展」を開催し、その企画の一つ「20代で出発った作家達」として、[[バスター・キートン]]や、[[ルイス・ブニュエル]]、[[ジャン・ヴィゴ]]、[[ケン・ラッセル]]、[[ロマン・ポランスキー]]、[[小津安二郎]]、[[稲垣浩]]、[[マキノ雅弘]]、[[大島渚]]、[[若松孝二]]ら、国内外の46人の映像作家が20代で撮った47本を特集上映した{{R|ぴあ7711}}。『ぴあ1977年11月号臨時増刊号』では、その46人の映画作家を紹介しているが、[[五十音順]]でもないのに冒頭に商業映画デビューしたばかりの大林を取り上げている{{R|ぴあ7711}}。この「20代で出発った作家達」という企画が「[[ぴあフィルムフェスティバル]]」に発展するが、ぴあとしても大林のような映像作家がこのイベントから出て来て欲しいと願っていたものと考えられる。1979年には、同フェスティバルの前身「OFF THEATER FILM FESTIVAL '79」のプロデューサーを[[松田政男]]、[[寺山修司]]とともに務めた<ref>松田政男「逆回転映画館 映画魔術館ほか」キネマ旬報、1980年1月上旬号、P67、[https://pff.jp/jp/old/festival/history.html#pagetop 映画祭History|ぴあフィルムフェスティバル(PFF)公式ホームページ]</ref>。 大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMや[[漫画|コミックス]]の影響が濃い自主映画やテレビから生まれた才能の輩出によって支えられている{{R|CINEMA CAN WAIT}}。大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し{{R|cinemore1844}}、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる{{R|キネマ旬報20105}}。大林は後続の映画制作志望者たちをエンパワーしつつ、1970年代後半からは[[角川映画]]と共鳴することで日本映画の形態を転換したシネアストと評価される{{R|ユリイカ総特集231}}。さらに1992年の『転校生』に始まる尾道三部作はさらなる転機をもたらし、以後の錚々たるフィルモグラフィーを重ねることになる{{R|ユリイカ総特集231}}。『HOUSE』で同年、[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]新人賞を受賞{{R|シネアルバム1978}}。『HOUSE』が一定の成功を収めたことから、大林のもとには、[[アイドル]]を使った映画製作の依頼が来るようになった{{R|outemon}}。 『HOUSE』は2009年頃から[[欧米]]で再発見されてコアな人気を集めているという{{R|HOUSE}}。近年ではアメリカ[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された{{Refnest|group="出典"|{{R|bs|HOUSE}}}}。[[ニューヨーク]]の[[ミニシアター|単館系の劇場]]でもよく上映されるという{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|HOUSE|nikkan1538515}}}}。 === 尾道三部作 === [[1982年]]、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『[[転校生 (映画)|転校生]]』を発表{{Refnest|group="出典"|{{R|wedge|監督全集}}}}。『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』、『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』と合わせ"'''尾道三部作'''として多くの熱狂的な支持を集めた{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|Location|nhk|wedge|yamaha|musabi|fc|尾道三部作|片岡}}}}。1984年にはロケ地巡り目的で、20万人以上の若い観光客が訪れたといわれる{{R|wedge}}。"尾道三部作"という言葉は大林映画のファンが作った言葉である([[さびしんぼう (映画)#エピソード]])。 これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「[[お子様ランチ]]」「[[おもちゃ箱]]」と酷評されることもあった初期作品に比べると{{R|全史}}、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった{{Refnest|group="出典"|{{R|知っておきたい|musabi|日経エンタ20153}}}}。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がる[[フィルム・コミッション]]の先駆け{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|mext|fc|キネ旬20191上}}}}、また2022年今日の[[アニメーション|アニメ作品]]の[[巡礼 (通俗)|聖地巡礼]](アニメツーリズム)の先駆けとなったと評価されている<ref name="キネ旬20191上"/>。「映画のまち・尾道」を確立したのも大林だった{{R|訃報}}。『転校生』の試写を見た尾道の関係者が「あんなに協力したのに、いい所を撮ってない」などと、最初は尾道の人たちの中にも「町の汚いところばかりを映して」とか「これじゃ観光客が来なくなる。上映をやめてくれないか」と言う人もいたが{{R|訃報}}、映画を観て逆に観光客が来るようになった{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|訃報|fc|キネ旬19854}}}}。田舎町の息の詰まった古臭さを呪う人たちの多かった時代に於いて、日本にまだ、こんなきれいな[[地方都市]]の佇まいが残っていたか、と映画を通して再認識させたという点での功績も大きい{{R|訃報}}。『転校生』の成功は、大林の名前と尾道の名を映画史に刻んだ{{Refnest|group="出典"|{{R|nhk|尾道三部作}}}}。出身地とは謂えども、これ程一人の映画作家が、長年に亘り一つの街に愛情を注ぎ、何本もの作品を世に送り続けている事例は世界でも他に例が無いといわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|sannichi|読本598}}}}。三つの映画を撮った原動力は「ふるさとが壊されることを守るための戦いだった」などと述べている{{Refnest|group="出典"|{{R|訃報|体験的仕事論114}}}}。 『さびしんぼう』公開時のインタビューで「"いつか見た風景"が、テクニック上のテーマ」と{{R|キネ旬19854}}、近年のインタビューでは「町の人が汚いと思う、昔ながらの変わらない尾道の風景が、外の人には懐かしく見えたんじゃないでしょうか」と話している{{R|Location}}。なお、大林作品で尾道ロケを行った作品は、新・尾道三部作とよばれる『ふたり』『あした』『あの、夏の日』など他にも多数存在するが、この三作は、比較的近い時期に製作されていること、剣持亘脚本であること、尾身としのりが主演または準主演であること、中高生を主人公にしたSFファンタジーであることなどの共通項も多く、三部作として語られることが多い。 尾道三部作は地方活性化を旨とした地方発映画の先駆けとされ{{Refnest|group="出典"|{{R|outemon|fc|秘宝201506}}}}、地域における映画製作の道筋を開いたと評価された{{Refnest|group="出典"|{{R|mext|outemon}}}}。映画のおかげで田舎町が観光地化するという現象を目の当たりにした[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]を控えた[[日本の市町村の廃置分合#合併と分割の種類|全国の新市町村]]は、映画を作れば町の[[パブリック・リレーションズ|PR]]も出来るし、ロケによって地方経済の活性化も期待でき、住民の帰属意識も高められると考え{{R|秘宝201506}}、以降、地方発の映画が次々作られる切っ掛けになった{{Refnest|group="出典"|{{R|outemon|秘宝201506}}}}。[[本広克行]]がオール[[香川県|香川]][[ロケーション|ロケ]]した[[2006年]]の『[[UDON]]』は、「古里に恩返しするために讃岐三部作を撮りなさい」という大林のアドバイスがあったという{{R|shikoku}}。 1984年、[[目黒区]][[駒場 (目黒区)|駒場]]に映画館「アゴラ」(現・[[こまばアゴラ劇場]])を建設<ref>{{Cite journal|和書 |title = ぴーぷる オーナー 大林宣彦 |journal = [[週刊文春]] |issue = [[1983年]]([[昭和]]58年)[[10月13日]]号 p.55 |publisher = [[文藝春秋]] }}</ref>。 === アイドル映画 === 大林はこれまで主に、新人[[アイドル]]・新人女優を主役にした映画作りを行い{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|nhk|森泉|訃報|jt200416|idolmovie}}}}、「[[アイドル映画]]の第一人者」とも称される{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|訃報|jt200416|jprime200414|中川143|EX大衆20151}}}}{{efn|1985年『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』公開時のキネマ旬報の記事で、映画評論家・[[増淵健]]が「大林は[[舛田利雄]]と並ぶ当代の"アイドル使い"」と評している<ref>『キネマ旬報』、1985年4月下旬号、P68。</ref>。}}。特に[[1970年代]]〜[[1980年代]]に手掛けた作品は「70年代アイドル映画」「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|interview|訃報|cmdir|アイドル映画30年史|idolmovie|中川143}}}}。[[2015年]]2月に、[[ももいろクローバーZ]]主演・[[本広克行]]監督の『[[幕が上がる#映画|幕が上がる]]』と[[新垣結衣]]主演・[[三木孝浩]]監督の『[[くちびるに歌を#映画|くちびるに歌を]]』が公開された際に、「アイドル映画」「アイドル&女優が輝く映画」などと特集が組まれたが、大林はその先駆者として各メディアで[[フィーチャー]]された{{Refnest|group="出典"|{{R|日経エンタ20153|idolmovie|kinejun20153}}}}。本広は『幕が上がる』は「大林さんの映画を真似ているところが多い」と話している{{Refnest|group="出典"|{{R|idolmovie|kinejun20153}}}}。『[[日経エンタテインメント!]]』2015年3月号の特集「アイドル&女優が輝く映画」では、その系譜の始まりに[[1981年]]の『[[ねらわれた学園 (1981年の映画)|ねらわれた学園]]』が据えられた{{R|日経エンタ20153}}。同作は、大作路線を続けた[[角川春樹]]が一転、若者向け「アイドル映画」を手掛けた第1弾で、[[1979年]]の『[[金田一耕助の冒険 (映画)|金田一耕助の冒険]]』で意気投合した角川と大林は「誰もやらないような映画を作ってやろう」という目論見から[[薬師丸ひろ子]]主演で本作を企画した{{Refnest|group="出典"|{{R|中川143|アナーキー80}}}}。また角川から大林に「薬師丸ひろ子をアイドルにしてやってくれませんか」との依頼があり{{R|中川145}}、本作で薬師丸はアイドルとしての地位を確立させた{{Refnest|group="出典"|{{R|EX大衆20151|ワンダーランド128}}}}。このため『ねらわれた学園』は「アイドル映画」時代の開幕を告げる作品と評される{{R|中川143}}。同作は[[SF映画|SF]]のジャンルに入れられるが、アイドルが恐怖に巻き込まれるスリリングな展開と独特の陰のある映像は、その後の「アイドル・ホラー」に大きな影響を与えたとも評され、その嚆矢ともいわれる{{R|EX大衆20151}}。[[1983年]]、角川から「尾道で[[原田知世]]の映画を撮って下さい」と託された[[筒井康隆]]原作の[[ジュブナイル]]『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』では、[[光学合成|合成]]や[[低速度撮影|コマ落とし]]などの映像テクニックを最大限に駆使して幻想的な作品世界を描出、のちに定着する"映像の魔術師"、"大林ワールド"といった[[代名詞]]はここから始まった{{R|知っておきたい}}。この時期に日本テレビ「火曜サスペンス劇場」向けに円谷プロで撮った「麗猫伝説」は、アングラ映画すれすれの映画詩ふうな作品であり、これを常識を破ってテレビ用に製作できたあたりに当時の大林ブランドの強さと絶好調の自信が示されている。1984年、原田知世主演で撮った『[[天国にいちばん近い島]]』は映画は酷評されたが、それまであまり知られていなかった[[ニューカレドニア]][[流行|ブーム]]を起こした{{R|newcaledonia}}。[[1980年代]]の日本映画は、大林宣彦と[[相米慎二]]の時代とも評される{{R|アイドル映画30年史}}。アイドルを度々脱がせることから"昭和の脱がせ屋"などと異名をとるが{{Refnest|group="出典"|{{R|bunshun20190902|週刊現代19201201}}}}、「着せてないだけ」と答えている{{Refnest|group="出典"|{{R|bunshun20190902}}}}。女優を手加減なしに自身の追求する映像を撮ったこれらは「アイドル映画」の皮をかぶった「作家映画」と見る向きもある{{Refnest|group="出典"|{{R|森泉|至高の映画}}}}。2014年に『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』を著した[[中川右介]]は「盟友関係にあった角川春樹と大林宣彦の二人が、70年代後半から80年代にかけての日本映画界を牽引していたという図式が明確に把握できた。そこであの本では『角川春樹』を主人公とし、副主人公に『大林宣彦』を置いた」{{R|体験的仕事論235}}、「あの時代個人名で『〇〇映画』と呼ばれていた監督は『大林映画』だけだったのではないか」と述べている{{R|体験的仕事論235}}。 長い自主映画製作キャリアから培ったスキルは撮影、編集、演技のみならず作曲や演奏にも及び、監督デビューよりも2年早く高林陽一監督の『本陣殺人事件』で音楽監督をつとめ印象的なメロディを提供している(自作での音楽監督兼任はそれほど多くない)。出演作品はそれほど多くないが、発声のきちんとしたプロ級演技は『[[俗物図鑑#映画|俗物図鑑]]』([[内藤誠]]監督)などで垣間見ることができる。 === 1980年代 - 1990年代 === 「同じことは二度としない」と公言している通り{{R|秘宝20078}}、大林のフィルモグラフィは1作ごとに異なる実験が行われている{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|interview|森泉|訃報|アナーキー80|映画撮影242|1980年代の映画105}}}}。『[[ブラック・ジャック (実写版)#映画(1977年・宍戸錠版)|瞳の中の訪問者]]』(1977年)は、[[手塚治虫]]の[[漫画]]『[[ブラック・ジャック]]』最初の[[実写]]化であるが、『HOUSE』以上に趣味性を前面に押し出し、漫画そのものを実写で描こうとして、原作そのままの[[化粧|メイク]]で[[宍戸錠]]を登場させるなどで、「こんな人間がどこにいる!」と手塚を憤慨させたといわれる{{R|アイドル映画30年史}}。「アイドル映画」などを挟みながら、一転して[[純文学]]に挑んだ[[福永武彦]]原作の『[[廃市]]』(1984年)は{{R|traveler}}、大林自身「超[[自主映画|ローバジェット映画]]」と表現している{{R|independent}}。[[寓話]]性を強調するため、[[台詞]]を棒読みさせたり、フラットな構図を採用したり、誇張したメーキャップを施したりするなどで、[[野ゆき山ゆき海べゆき#モノクロ版とカラー版|モノクロ版とカラー版]]の二種類を製作し同時に劇場公開した『[[野ゆき山ゆき海べゆき]]』(1986年)<ref>[[佐藤忠男]]『ATG映画を読む 60年代に始まった名作のアーカイブ』、フィルムアート社、1991年、P383</ref>、1988年の各映画賞を独占した大人の[[ファンタジー]]『[[異人たちとの夏]]』、[[日本放送協会|NHK]]と組んでNHK初の[[ハイビジョン]][[テレビドラマ]]と劇場用映画を同時に撮影した「尾道新三部作」『[[ふたり#映画|ふたり]]』(1991年){{Refnest|group="出典"|{{R|石坂191|傑作}}}}、[[演出]]、[[撮影]]、[[録音]]の大胆な実験を試みた『[[北京的西瓜]]』(1989年)<ref>佐藤忠男『日本映画』、P162-167</ref>。本作は[[天安門事件]]の影響で[[中国]][[ロケーション撮影|ロケ]]が中止になった抗議に意図的に37秒間の空白を挿入した{{R|アナーキー80}}。『北京的西瓜』で試みた実験をさらに推し進め、複数の[[16mmフィルム|16mmカメラ]]を手持ちで回し、[[リハーサル]]無し、[[NG (放送用語)|NG]]無し、[[化粧|メイク]]も[[照明]]も最低限で一気呵成に撮り上げた[[フィルム]]を異常なハイテンションで[[映像編集|編集]]した青春映画の傑作『[[青春デンデケデケデケ]]』(1992年)<ref>[https://eiga.com/news/20200428/2/ 大林宣彦監督90年代の傑作「青春デンデケデケデケ」「ふたり」初BD化]</ref>、[[タブー]]視されていた[[水]]との[[光学合成|合成]]にあえて挑み、全編の9割を[[ハイビジョン]]合成するなど、当時の最先端技術を導入した『[[水の旅人 侍KIDS|水の旅人 -侍KIDS-]]』(1993年){{Refnest|group="出典"|{{R|映画撮影242|特撮・幻想映画}}}}、[[吉永小百合]]に「あなたのシワが撮りたい」と口説いて、吉永がノーメイクに近いナチュラルメイクで挑んだ、型破りの"小百合映画"『[[女ざかり (1994年の映画)|女ざかり]]』(1994年){{R|秘宝20078}}。本作は1時間56分の本編を[[16mmフィルム#スペック|スーパー16mmカメラ]]を多用し、1000カットに及ぶ短い[[ジャンプカット|カット繋ぎ]]で構成した{{R|秘宝20078}}。[[宮部みゆき]]の小説世界を100名以上の俳優全員にノーメークで演じさせ、[[ワイドショー|テレビのワイドショー]]の手法を使って完璧に映像化した『[[理由 (小説)#映像化作品|理由]]』(2004年){{Refnest|group="出典"|{{R|評伝}}}}<ref>[https://web.archive.org/web/20160730230524/http://www.ntv.co.jp:80/d-complex/contents/20051108.html ドラマコンプレックス - 日本テレビ]</ref> など、映画界に新風を吹き込む野心作を連打した{{Refnest|group="出典"|{{R|知っておきたい|アナーキー80}}}}。 [[1993年]]に自身が初めて俳優として出演した[[月9]]ドラマ「[[あの日に帰りたい (テレビドラマ)|あの日に帰りたい]]」では、主演の[[工藤静香]]と[[菊池桃子]]のフィルムの制作も行った。 === 2000年代以降 === [[ファイル:Honolulu Festival Parade - Grand Marshals (6869570396).jpg|thumb|200px|[[2012年]][[3月4日]]、ホノルルフェスティバルにて[[長岡市]][[市長]][[森民夫]](左)と]] [[ファイル:Obayashi Nobuhiko from "Labyrinth of Cinema" at Opening Ceremony of the Tokyo International Film Festival 2019 (49014161137).jpg|thumb|200px|[[2019年]][[10月28日]]、[[東京国際映画祭]]オープニングセレモニーにて]] [[File:Nobuhiko Obayashi cropped 2 Nobuhiko Obayashi 201911.jpg|thumb|200px|文化功労者顕彰に際して(2019年)]] [[2000年代]]に入ると尾道を舞台にした映画は無くなり{{R|outemon}}、代わって、[[大分県|大分]]や[[長野県|長野]]、[[新潟県|新潟]]、[[北海道]][[芦別市|芦別]]、佐賀県など、その町の[[伝統]]や[[歴史]]を題材にした映画を製作している{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|訃報|outemon|ユリイカ総特集298}}}}。大林はこれを「ふるさと映画」と称しており{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|古里映画}}}}、地域における映画製作の道筋を拓いたと評価される{{R|mext}}。 またこの頃から[[反戦運動|反戦平和]]を正面から口にするようになった{{Refnest|group="出典"|{{R|ユリイカ総特集298|ユリイカ総特集307}}}}。その要因としては、2003年4月から、[[成安造形大学]]と[[倉敷芸術科学大学]]の[[客員教授]]に就任し、学生たちの前で定期的に話すようになったこと、2000年代以降の[[国家安全保障|安全保障論]]や[[憲法改正|改憲論]]の盛り上がりで黙ってられない状況になったものと見られている{{Refnest|group="出典"|{{R|ユリイカ総特集298|ユリイカ総特集307}}}}。2013年12月27日付の[[朝日新聞]]に「[[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]が成立した6日、僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とのコメントを寄せる<ref>{{Cite news |url = https://www.asahi.com/shimen/20131227/index_tokyo_list.html |title = (どうする 秘密法)平和作る世代、守る使命 大林宣彦さん |date = 2013年12月27日 |newspaper = [[朝日新聞]] |publisher = [[朝日新聞社]] |page = 38 }}</ref>。2010年代以降の4本は、[[反戦運動|反戦]]を明確に打ち出した作品になった{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|ユリイカ総特集307}}}}。 独特の語り口でトークも上手く{{R|森泉}}、自主映画作家時代から[[マスメディア]]にしばしば登場した。[[生放送]]では喋り過ぎて[[放送事故]]寸前まで時間が押すこともあったという{{R|森泉}}。各地の講演に招かれることも多く、コメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多かった{{R|講演}}。『[[幕が上がる]]』が[[さぬき映画祭]]で先行上映が行われた際に、[[楽屋]]で[[ももいろクローバーZ]]が大林節に魅了されていくのが横で聞いていた甥・[[平田オリザ]]は妙におかしく「さすが、アイドル映画というジャンルを自ら切り拓いた人だけのことはあると、我が叔父ながら改めて感心した」と述べている{{R|ユリイカ総特集58}}。 [[2004年]](平成16年)春の[[褒章]]に於いて[[紫綬褒章]]を受章<ref>[http://homepage2.nifty.com/ONO_MICHI/MENU/sannichi2004/20041005b.htm 大林宣彦監督褒賞祝会 東京でも仲間集い - nifty]{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/artist/17122|title=大林宣彦|publisher=[[映画ナタリー]]|accessdate=2023-07-11}}</ref>。 [[2009年]](平成21年)秋の[[叙勲]]で[[旭日小綬章]]を受章した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/political/20091103000028|title=秋の叙勲、川淵氏ら4024人に/旭日大綬章に張氏|accessdate=2023-04-14|publisher=[[四国新聞社]]|date =2009-11-03}}</ref>。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという<ref>[[産経新聞]] 2009年11月3日23面</ref>。 [[2013年]]に手掛けた[[AKB48]]の長尺の[[ミュージック・ビデオ]]「[[So long !]]」は物議を醸した{{Refnest|group="出典"|{{R|日経エンタ20153}}}}<ref>[https://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar489544 特別対談】高橋栄樹×宇野常寛 大林宣彦「So long ! The Movie」を語り尽くす]</ref>。 2016年、第18回極東映画祭(イタリア)にて、マルベリー賞(生涯功労賞)を受賞<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/04/26/kiji/K20160426012473570.html|title=大林宣彦監督に生涯功労賞 イタリアの極東映画祭|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-04-26|accessdate=2016-04-26}}</ref>。 (2017年12月公開の映画『[[花筐/HANAGATAMI]]』のクランクインを控えた)2016年8月に[[肺癌]]が判明、ステージ4まで進行しており医師より当初「余命6か月」、後に「余命3か月」の宣告を受ける。同年8月から10月にかけて[[佐賀県]][[唐津市]]で行われた撮影と続く編集作業に並行して[[抗がん剤]]治療を継続。 2017年4月のスタッフ向け試写会において病状を公表。[[抗がん剤]]治療が奏効したことで病状が改善し、同年5月時点で「余命は未定」となったとしている<ref>{{Cite news |title=大林宣彦監督「奇跡」の回復 昨年8月「あと6カ月」も…抗がん剤治療奏功 |newspaper=[[デイリースポーツ]] online |date=2017-05-12 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2017/05/12/0010179259.shtml |accessdate=2017-05-12}}{{Cite news |title=大林監督、撮影中「余命3カ月」 映画「花筐」|newspaper=[[佐賀新聞]]LIVE |date=2017-06-04 |url=http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/435011 |accessdate=2017-06-15}}</ref>。 2018年夏に、『[[あの、夏の日|あの、夏の日 とんでろ じいちゃん]]』以来約20年ぶりに尾道市をメインのロケ地として、戦争と[[広島市への原子爆弾投下|広島の原爆]]をテーマとした映画『[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]』を撮影<ref>{{Cite news |title=末期がんの大林監督、原爆を描く新作撮影 故郷でロケ |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |date=2018-07-08 |author=北村哲朗 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL714QKDL71PITB00F.html |accessdate=2018-07-31}}</ref>、2019年10月28日に開幕する第32回東京国際映画祭「JapanNow部門」で組まれる大林監督特集で初上映された<ref>{{Cite web|和書|date=2019-07-18 |url=https://hochi.news/articles/20190717-OHT1T50181.html |title=大林宣彦監督の最新作『海辺の映画館―キネマの玉手箱』、東京国際映画祭で世界初上映 |publisher=スポーツ報知 |accessdate=2019-08-12}}{{Cite web|和書|date=2019-07-18 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201907170000816.html |title=大林宣彦監督の最新作が東京国際映画祭で上映決定 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2019-08-12}}{{Cite web|和書|date=2019-07-18 |url=https://natalie.mu/eiga/news/340091 |title=大林宣彦の特集が東京国際映画祭で、新作「海辺の映画館」初上映も |publisher=映画ナタリー |accessdate=2019-08-12}}</ref>。本作で2018年度[[毎日芸術賞]]特別賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|date=2019-01-01 |url=https://mainichi.jp/articles/20190101/ddm/001/040/097000c |title=社告 第60回毎日芸術賞 |publisher=毎日新聞 東京朝刊 |accessdate=2019-08-12}}</ref>。 2019年3月24日、第33回[[高崎映画祭]]の授賞式(会場:高崎市の[[群馬音楽センター]])に出席。監督を務めた『花筐/HANAGATAMI』が特別大賞を受賞し登壇。 2019年春公開を目指し全編熊本ロケでの映画化が決定していた『[[つばき、時跳び#映画|つばき、時跳び]]』は<ref>{{Cite news |title=梶尾さん小説、大林監督が映画化 全編熊本ロケ |newspaper=[[熊本日日新聞]] |date=2017-12-16 |author=飛松佐和子 |url=https://this.kiji.is/314643274654663777 |accessdate=2020-04-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180203153013/https://this.kiji.is/314643274654663777 |archivedate=2018-02-03}}</ref>、体調不良を理由にクランクイン前の同年7月に辞退。監督補に指名していた熊本市出身の[[行定勲]]監督に引き継がれ、[[2021年]]に映画化される予定だった<ref>{{Cite news |title=梶尾さん小説の映画化に意欲 大林宣彦さん 行定監督へバトン |newspaper=[[熊本日日新聞]] |date=2020-04-12 |author=飛松佐和子 |url=https://this.kiji.is/621897520586736737?c=92619697908483575 |accessdate=2020-04-19}}</ref>。 2019年7月27日、広島県広島市で開催された国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道〜大国の暴走を許さない」([[朝日新聞社]]、[[広島市]]、[[広島平和文化センター]]主催)に登壇し[[東ちづる]]と対談した<ref>{{Cite web|和書|date=2019-06-21 |url=https://www.asahi.com/articles/ASM6344CBM63PTIL00K.html |title=国際平和シンポ、大林宣彦さんら対談 広島で27日 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |accessdate=2019-08-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-03 |url=https://www.asahi.com/articles/ASM7H6X90M7HPTIL01W.html |title=戦争や平和の話、日常的にしようよ 大林宣彦×東ちづる |publisher=朝日新聞デジタル |accessdate=2019-08-12}}</ref>。 2019年9月30日、広島国際映画祭2019「ヒロシマ平和映画賞」に『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が受賞したことが発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-01 |url=https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=575405&comment_sub_id=0&category_id=112 |title=平和映画賞に大林監督の最新作 |publisher=中国新聞デジタル |accessdate=2019-10-07}}</ref>{{R|hiff2019}}。同年11月24日に同映画祭会場で『海辺の映画館―キネマの玉手箱』上映、大林監督トークショー、および、「ヒロシマ平和映画賞」授賞式が行われた{{R|hiff2019}}。 2019年10月25日、[[東京国際映画祭]]が、永年の国内外を含めた映画界への貢献が目覚ましい方々へ贈る“特別功労賞”を、大林に授与することを発表{{R|tiff}}、同年11月1日に同映画祭会場でワールドプレミア上映された『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の舞台あいさつ、Q&Aセッション、東京国際映画祭特別功労賞の贈呈式が行われた{{R|tiff}}。11月4日の『花筐/HANAGATAMI』上映後の舞台あいさつは体調不良のため欠席<ref>{{Cite news|url= https://mantan-web.jp/article/20191104dog00m200010000c.html |title= 常盤貴子:デビュー当時の願いかなう 大林宣彦監督の常連に |newspaper= まんたんウェブ |publisher= 株式会社MANTAN |date= 2019-11-04 |accessdate= 2019-11-06 }}</ref>。 2019年10月29日、同年度の[[文化功労者]]に選ばれ{{R|mext}}、母校である尾道市立土堂小学校が記念して校舎に垂れ幕と横断幕を掲げた{{Refnest|group="出典"|{{R|mext|tsuchidoes20191108}}}}。 2020年4月10日の封切りを予定していた『海辺の映画館―キネマの玉手箱』が、[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大を受け、公開延期されることが3月31日に発表された<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/eiga/news/373546 |title= 大林宣彦「海辺の映画館―キネマの玉手箱」が公開延期に |newspaper= 映画ナタリー |publisher= ナターシャ |date= 2020-03-31 |accessdate= 2020-04-10 }}</ref>。 4月10日19時23分、肺がんのため、東京都世田谷区の自宅で死去{{R|訃報}}。{{没年齢|1938|1|9|2020|4|10}}。死没日をもって[[従四位]]叙位、[[旭日中綬章]]追贈<ref name="名前なし-1"/>。 2021年、[[第44回日本アカデミー賞]]会長特別賞を受賞。第94回[[キネマ旬報ベスト・テン]]では『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を対象として日本映画監督賞が贈られた<ref>[http://www.kinenote.com/main/award/kinejun/y2020.aspx キネマ旬報 ベスト・テン]、KINENOTE、2021年2月25日閲覧。</ref>。 == 主な監督作品 == === 自主映画作家時代の作品 === * ポパイの宝島(1944年/35mm/1分) - 手描きアニメーション * マヌケ先生(1945年/35mm/3分) - 手描きアニメーション * キングコング(1952年/35mm/2分) - 人形アニメーション * 青春・雲(1957年/8mm/30分) - [[福永武彦]]などの叙情詩をイメージして映像化した作品 * だんだんこ(1957年/8mm/11分) - 踊る少女のシルエットなどを使ったリズミカルな映像作品 * 眠りの記憶(1957年/8mm/30分) - 真実を知るのは罪、幸福は夢の中にあるということをテーマにした作品 * 絵の中の少女(1958年/8mm/30分) - 過ぎた時間は戻らない、後悔をテーマにした文学的な作品(現・恭子夫人も出演) * 木曜日(1960年/8mm/18分) - ある木曜日の男女の青春をスケッチ風に描いた作品 * 中山道(1961年/8mm/16分) - 映画仲間と中山道のことをいろいろと考え、旅をしながら撮ったレポート的な作品 * T氏の午後(1962年/8mm/25分) - [[高林陽一]]氏のとある一日をコマ撮りで撮影した作品 * 形見(1962年/8mm/17分) - 父親の墓参りに行った母と子が見た幻想的な世界を描いた作品 * 尾道(1963年/8mm/17分) - ふる里を大胆なカッティングでスケッチ風に描いたドキュメンタリー * 喰べた人(1963年/16mm/23分) - 食欲旺盛な客を見て倒れたウエイトレスの幻想世界を描いたシュールな喜劇作品 * Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道(1964年/16mm/14分) - 映画への夢と憧れを描いた切ない作品 * EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ(1966年/16mm/38分) - スタッフも出演者も多く、映像テクニックも駆使した、本格的な映画 * CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅(1968年/16mm/70分) - 回顧展用のもの、個人映画製作に区切りをつける作品 * てのひらの中で乾杯/キリンビールのできるまで(1969年/16mm/25分) - キリンビールのPR用に製作されたミュージカル仕立ての短編映画 * 海の記憶=さびしんぼう・序(1970年/16mm/20分) - 映画「さびしんぼう」を企画して製作 * オレレ・オララ(1971年/16mm/20分) - [[篠山紀信]]が写真集「オレレ・オララ」制作時に撮影した[[リオのカーニバル]]の写真を大林が16ミリムービーカメラで再撮して映画化した作品 * ジェルミ・イン・リオ(1971年/16mm/?) - 日立シェーバーのPR用映画 * スタンピード・カントリー(1972年/16mm/35分) - 日立のCF製作のときに撮られた記録映画 * ハッピー・ダイナノサウルス・アルバム(1972年/16mm/15分) - カナダの美しい湖に集まった人たちを撮った作品 === 映画 === [[ファイル:Obayashi Nobuhiko from "HANAGATAMI" at Opening Ceremony of the Tokyo International Film Festival 2017 (28423829669).jpg|thumb|200px|[[2017年]][[10月25日]]、[[東京国際映画祭]]オープニングセレモニーにて]] :* EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ([[1967年]]3月8日公開) - 16ミリ自主映画 # [[ハウス (映画)|HOUSE ハウス]]([[1977年]]7月30日公開 [[東宝]]) - 兼製作 # [[ブラック・ジャック (実写版)#映画(1977年・宍戸錠版)|瞳の中の訪問者]](1977年11月26日公開 [[ホリプロ]]/東宝) - 兼出演(テニスの審判) # [[ふりむけば愛]]([[1978年]]7月22日公開 東宝) # [[金田一耕助の冒険 (映画)|金田一耕助の冒険]]([[1979年]]7月14日公開 [[東映]]) # [[ねらわれた学園 (1981年の映画)|ねらわれた学園]]([[1981年]]7月11日 東宝) # [[転校生 (映画)|転校生]]([[1982年]]4月17日公開 [[松竹]]) # [[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]([[1983年]]7月16日公開 東映) - 兼潤色/編集 # [[廃市]]([[1984年]]1月2日公開 [[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]) - 兼プロデューサー/企画/編集/作曲 # [[少年ケニヤ#アニメ映画|少年ケニヤ]](1984年3月10日公開) - 兼編集 # [[天国にいちばん近い島#映画|天国にいちばん近い島]](1984年12月15日公開 東映) - 兼潤色/編集 # [[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]([[1985年]]4月13日公開 東宝) - 兼脚本/編集 # [[姉妹坂#映画|姉妹坂]](1985年12月21日公開 東宝) # [[彼のオートバイ、彼女の島#映画|彼のオートバイ、彼女の島]]([[1986年]]4月26日公開 東宝) - 兼編集 # [[四月の魚]](1986年5月31日公開 [[ジョイパックフィルム]]) - 兼企画/脚本/編集 # [[野ゆき山ゆき海べゆき]](1986年10月4日公開 ATG) - 兼編集/音楽 # [[漂流教室#映画|漂流教室]]([[1987年]]7月11日公開 [[東宝東和]]) - 兼潤色 # [[日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群]]([[1988年]]3月29日公開 アートリンクス) - 兼脚本/編集 # [[異人たちとの夏#映画|異人たちとの夏]](1988年9月15日 松竹) # [[北京的西瓜]]([[1989年]]11月18日公開 松竹) - 兼編集 # [[ふたり#映画|ふたり]]([[1991年]]5月11日公開 松竹 原作:[[赤川次郎]]) - 兼編集 # 私の心はパパのもの([[1992年]]6月13日公開 [[東北新社]]/ギャラクシーワン) - 兼編集 # 彼女が結婚しない理由(1992年6月13日公開 東北新社/ギャラクシーワン) - 兼編集 # [[青春デンデケデケデケ#映画版|青春デンデケデケデケ]](1992年10月31日公開 東映) - 兼編集 #* 第16回日本アカデミー賞優秀監督賞 # [[はるか、ノスタルジィ]]([[1993年]]2月20日公開 東映) - 兼脚本/編集 #* 第17回日本アカデミー賞優秀編集賞 # [[水の旅人 侍KIDS|水の旅人 -侍KIDS-]](1993年7月17日公開 東宝) - 兼編集 #* 第17回日本アカデミー賞優秀編集賞 # [[女ざかり (1994年の映画)|女ざかり]]([[1994年]]6月18日公開 松竹 原作:[[丸谷才一]]) - 兼脚本/編集 # [[あした (映画)|あした]]([[1995年]]9月23日公開) - 兼編集 # 三毛猫ホームズの推理〈ディレクターズカット〉([[1998年]]2月14日公開 PSC<!--[[PSC]]★曖昧回避にLinkせず該当項目に直接Linkを-->、[[ザナドゥー (企業)|ザナドゥー]]) - 兼編集 # [[SADA〜戯作・阿部定の生涯]](1998年4月11日公開 松竹) - 兼撮影台本/編集/ #* 第48回[[ベルリン国際映画祭]][[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞|国際批評家連盟賞]] # [[風の歌が聴きたい]](1998年7月17日公開 ザナドゥー) - 兼脚本/編集 # 麗猫伝説 劇場版(1998年8月16日公開 PSC) - 兼編集/作曲 # [[あの、夏の日|あの、夏の日 〜とんでろ じいちゃん〜]]([[1999年]]7月3日公開 東映) - 兼脚本 # マヌケ先生([[2000年]]9月30日公開 PSC) - 総監督/原作/脚本/編集 # [[淀川長治]]物語・神戸篇 サイナラ(2000年9月30日公開 PSC) # 告別([[2001年]]7月14日公開) # [[なごり雪 (映画)|なごり雪]]([[2002年]]9月28日公開 [[大映]]) - 兼脚本/編集 # [[理由 (小説)#ドラマW 2004年版|理由]]([[2004年]]12月18日公開 [[アスミック・エース]]) - 兼脚本 # [[転校生 -さよなら あなた-]]([[2007年]]6月23日公開 [[角川映画]]) - 兼脚本/潤色/編集/撮影台本 # [[22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語]](2007年8月18日 角川映画) - 兼脚本 # [[その日のまえに#映画|その日のまえに]]([[2008年]]11月1日公開 角川映画) - 兼撮影台本 # [[この空の花 長岡花火物語|この空の花 -長岡花火物語]]([[2012年]]4月7日公開) - 兼原作/脚本/撮影台本/編集 # [[野のなななのか]](2014年5月17日公開) - 兼脚本/撮影台本/編集/脚色 # [[花筐/HANAGATAMI]](2017年12月16日公開、製作:(一社)唐津映画製作委員会/(株)PSC) - 原作:檀一雄「花筐」、脚本:大林宣彦・桂千穂 # [[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]<ref>{{Cite news |title=東京国際映画祭 公式サイト|url=https://2019.tiff-jp.net/ja/lineup/film/32NOW10}}</ref>(2020年4月10日公開予定延期 → 2020年7月31日公開) - 兼脚本 # [[つばき、時跳び]]([[2020年]])- 企画 === テレビドラマ === * [[人はそれをスキャンダルという]] 第1回(1979年11月21日放送 [[TBSテレビ|TBS]]) * [[可愛い悪魔 (テレビドラマ)|可愛い悪魔]](1982年8月10日放送 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『火曜サスペンス劇場』) * 麗猫伝説(1983年8月30日放送 日本テレビ『火曜サスペンス劇場』) * 恋人よわれに帰れ LOVER COMEBACK TO ME(1983年9月23日放送 フジテレビ) * 私の心はパパのもの(1988年11月30日放送 日本テレビ『水曜グランドロマン』) * [[ふたり#テレビドラマ|ふたり]](「第一部 草の章」1990年11月9日「第二部 花の章」11月16日に前後編2週連続で放送 NHK『[[NHK子どもパビリオン|子どもパビリオン]]』枠) * 彼女が結婚しない理由([[1990年]]12月26日放送 日本テレビ『水曜グランドロマン』) * はるか、ノスタルジィ(1992年10月25日放送 WOWOW) * [[三毛猫ホームズの推理]]([[1996年]]9月放送 [[テレビ朝日]]) * マヌケ先生(1998年1月24日 中国放送/TBS) - 原作・総監督 * [[三毛猫ホームズの黄昏ホテル]](1998年2月21日放送 テレビ朝日) - 兼脚本 * 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ(1999年11月7日放送 テレビ朝日『日曜洋画劇場』) * [[忍ぶ川|にっぽんの名作・朗読紀行「忍ぶ川」]](2000年3月8日放送 [[日本放送協会|NHKBShi]]) - 演出 * 告別(2001年2月24日放送 BS-i) - 兼脚本 * 理由(2004年4月29日放送 WOWOW『ドラマW』) * 理由(日テレヴァージョン)([[2005年]]11月8日放送 日本テレビ『DRAMA COMPLEX』) === ミュージックビデオ === *[[高橋幸宏]]「A FRAGMENT」(1984年) *[[KAN]]「BRACKET」(1987年) *[[坂上香織]]「[[レースのカーディガン]]」([[1988年]]) *[[CANCION]]「嘘つき。THE MOVIE」(2004年) *松原 愛「ふたりの時計」「東京枯れすすき」([[2011年]]) *[[AKB48]]「[[So long !]]」([[2013年]]) == その他の主な作品 == * すばらしい蒸気機関車(1970年10月10日公開 [[高林陽一]]監督) - 音楽 * 最後の蒸気機関車(1975年1月11日公開 高林陽一監督) - 音楽 * [[本陣殺人事件]](1975年9月27日公開 高林陽一監督) - 音楽 * 新・[[木枯し紋次郎]](1977年10月5日〜1978年3月29日放送 [[テレビ東京|東京12チャンネル]]) - タイトル * 親子ねずみの不思議な旅(1978年3月11日公開 フレッド・ウォルフ/チャールズ・スウェンソン監督、[[日本ヘラルド映画]]) - 歌詞 * [[愛の嵐の中で]](1978年4月29日公開 [[小谷承靖]]監督、東宝) - 出演 * ピンクレディー/ジャンピング・サマーカーニバル (1978年、LIVE演出/35mm) * [[ホワイト・ラブ (映画)|ホワイト・ラブ]](1979年8月4日公開 小谷承靖監督、東宝) - 出演 * [[いい旅チャレンジ20,000km#テレビ番組|いい旅チャレンジ20,000&nbsp;km]] 清水港線・旅の表情 ([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、1980年5月3日、演出TV/16㎜)<ref name="TVガイド800509">{{Cite journal |和書 |title=CHALLENGE20,000km 『走る列車こそ大いなるスタジオなんだ!』 いい旅チャレンジ20,000km|journal= [[週刊TVガイド]]|publisher=[[東京ニュース通信社]]|issue=1980年5月9日号|pages=56-57}}</ref>。[[眞野あずさ|真野あづさ]]はこれが初の本格的テレビ出演<ref name="TVガイド800509"/>。 * いい旅チャレンジ20,000&nbsp;km 阿仁合線・野の音 (1980年、TV/16㎜) * いい旅チャレンジ20,000&nbsp;km 御殿場線・アメリカン・パイ (1980年、TV/16㎜) * さよならロッキーの仲間たち/日本語版 (1980年、35mm) * THE GOOD BAD GIRL (1981年、VTR VHDのみでのリリース) * MOMENT(1981年4月4日公開 [[手塚真]]監督) - 出演 * [[蔵の中]](1981年10月3日公開 [[高林陽一]]監督、角川映画) - 出演 * [[ダイアモンドは傷つかない]](1982年5月15日公開 [[藤田敏八]]監督、東映) - 出演 *[[俗物図鑑]](1982年11月8日公開 [[内藤誠]]監督) - 出演 * [[アイコ十六歳]](1983年12月17日公開 [[今関あきよし]]監督 [[日本ヘラルド映画|日本ヘラルド]]) - 製作総指揮 * 多様な国土(1985年3月17日公開、EXPO'85つくば科学万博・政府館で上映された70ミリフィルムで撮られた映画) - 監督 * 裸足のシンデレラ/[[沢口靖子]]ドキュメント 少女の時間 (1985年、TV/VTR&16mm テレビ東京「おーわらナイト」) * 夢の花・大連幻視行 (1987年、イベント映像/VTR 大連・尾道友好博) * NEIMAN'S WORLD JAPAN'88 (1988年、PV/VTR) ※リロイ・ニーマンのプロモーション・ビデオの演出 * モモとタローのかくれんぼ (1988年、イベント映像/VTR 瀬戸大橋博) * グリース (1988年、舞台演出) *マドンナは春風にのって(1990年1月3日放送 [[日本放送協会|NHK]]) - 出演(成人映画監督 役) * 乙女物語 お嬢様危機イッパツ!(1990年12月8日公開 内藤忠司監督 [[バンダイ]]) - 出演 * MAKING OF DREAMS [[夢 (映画)|夢]] [[黒澤明]]・大林宣彦映画的対話(1990年) - 演出・インタビュー聞き手 * 花地球夢旅行183日(1991年、[[大阪花博]] イベント映像/タマゴラマ) * スライス・オブ・サタデーナイト (1991年、舞台演出) * [[あの日に帰りたい (テレビドラマ)|あの日に帰りたい]](1993年1月11日~3月22日放送/[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 出演(青木順平 役) * ロシアン・ララバイ(1993年、TV/日本未公開) * 金なら返せん!(1994年12月9日放送) - 出演 * ひろしま国体・開会式(1996年、イベント総合演出 1996.10.12開催) * [[日曜洋画劇場]] オープニングタイトル (TV/VTR 1996.10/テレビ朝日) * [[タイム・リープ]](1997年6月7日公開 [[今関あきよし]]監督) - 監修 * 第51回[[全国植樹祭]](2000年、イベント/総合演出) * 自由にならないもの〜プーチとわたし物語〜(PV/35mm 2000.09 無料レンタルビデオ/TSUTAYA) * まほろば<土恋いのうた>の主題より(2001年) - 監督・脚本・語り・ピアノ演奏 (秋田生まれの写真家大野源二郎の作品をムービーで撮り下ろして制作した作品) * サンセット大通り/予告編 (2003年、VTR WOWOW) * [[セイキロスさんとわたし]](2006年2月22日公開 [[糸曽賢志]]・亀渕裕監督) - プロデューサー * 茶家 〜cha・ya〜 (舞台演出 2009.10.30~11.01公演/幌張馬車) * 思い出は映画とともに(2014年「文化療法(回想法)」DVD) - 脚本・出演・音楽・監督 * [[如水館中学校・高等学校]]校歌 - 作詞 * [[亜人 (漫画)|亜人]](2017年9月30日公開 [[本広克行]]監督、東宝) - 出演(藤川翔 役) * [[モキュメンタリー]]映画『エキストロ』(2020年3月13日公開 [[村橋直樹]]監督) - 出演 == 著書 == *『ぼくのアメリカン・ムービー』奇想天外社 1980 *『ムービーランドの子守唄―いつか見たジョン・ウェイン』ケイブンシャ文庫 1985 *『夢の色、めまいの時』桐原書店 1986 *『A movie・大林宣彦 ようこそ、夢の映画共和国へ』 <シネアルバム 12> 芳賀書店1986 *『むうびい・こんさあと』音楽之友社 1987 *『ワンス・アポン・ア・タイム・イン尾道』フィルムアート社 1987 *『映画、この指とまれ』徳間書店 アニメージュ文庫 1990 *{{Cite book|和書|author=|year=1992|series=仕事-発見シリーズ(26)|title=映画監督 さびしんぼうのワンダーランド|publisher=[[実業之日本社]]|isbn=4-408-41071-3|ref=ワンダーランド}} *『きみが、そこにいる』PHP研究所 1992 *{{Cite book|和書|author=|year=1992|title=さびしんぼう乾盃! Talk & message|publisher=[[主婦と生活社]]|isbn=|ref=乾盃}} *『映画、いいひとばかり』アドリブ 1993 のち道草文庫 *『人生には好きなことをする時間しかない』PHP研究所 1993 *『父の失恋娘の結婚 べそっかきの幸福そうな顔』フレーベル館 1995 *『4/9秒の言葉 4/9秒の暗闇+5/9秒の映像=映画』創拓社 1996 *『ぼくの活動写真・少年記 1 マヌケ先生』ポプラ社 1998 新・のびのび人生論 *『ぼくの青春映画物語 穏やかな一日を創造するために』集英社新書 2000 *『「カルピス」の忘れられないいい話』共著 集英社 2000 *{{Cite book|和書|author=|year=2001|title=大林宣彦のa movie book尾道|publisher=[[たちばな出版]]|isbn=4-8133-1380-9|ref=movie}} *『大林宣彦がんぼう』阿部久美子文 角川書店 2002 *『なごり雪』メディアファクトリー 2002 *『日日世は好日 五風十雨日記 巻の1(2001) (同時多発テロと《なごり雪》)』たちばな出版 2002 *『ぼくの瀬戸内海案内』岩波ジュニア新書 2002 *『日日世は好日 五風十雨日記 巻の2(2002-2003) (戦争映画は、もう見ない。)』たちばな出版 2003 *『あしたづくり―子供と共に考える、楽しい不便、賢い我慢。』アミューズブックス 2003 *{{Cite book|和書|author=|year=2008|title=大林宣彦の映画談議大全《転校生》読本 ジョン・ウェインも、阪東妻三郎も、… 1980-2008 a movie|publisher=[[角川グループホールディングス|角川グループパブリッシング]]|isbn=978-4-04-621169-9|ref={{SfnRef|読本}}}} *『なぜ若者は老人に席を譲らなくなったのか』幻冬舎新書 2008 *『ぼくの映画人生』実業之日本社 2008 *『大林宣彦の体験的仕事論 人生を豊かに生き抜くための哲学と技術』[[PHP研究所]] 2015 *『いつか見た映画館』上・下 七つ森書館 2016 *『大林宣彦の映画は歴史、 映画はジャーナリズム。』七つ森書館 2017 *『KAWADE夢ムック 大林宣彦「ウソからマコト」の映画』 [[河出書房新社]] 編集部 編 2017年10月28日 *『大林宣彦 戦争などいらない 未来を紡ぐ映画を』[[平凡社]] 2018 *{{Cite book|和書|author=|year=2008|title={{small|のこす言葉 KOKORO BOOKLET}} 大林宣彦 戦争などいらない - 未来を紡ぐ映画を|publisher=[[平凡社]]|isbn=9784582741155|ref=のこす言葉}} *『フィルムメーカーズ20 大林宣彦』[[樋口尚文]] 責任編集 [[宮帯出版社]] 2019年 *『最後の講義完全版大林宣彦 : 映画とは“フィロソフィー”』 主婦の友社 - 2020年 *『キネマの玉手箱』 ユニコ舎 2020年4月25日。ISBN 978-4-9911368-0-1 *『A MOVIE 大林宣彦、全自作を語る』[[立東舎]] 2020年10月22日 *『大林宣彦メモリーズ』キネマ旬報社 2021年4月26日 雑誌 * キネマ旬報 4月下旬号 2020 No.1836 - 大林宣彦、最強の哲学(フィロソフィー)「海辺の映画館 - キネマの玉手箱」 2020年 * キネマ旬報 6月上旬号 2020 No.1839 - 私たちが愛した大林宣彦監督 2020年 * 映画秘宝[永久保存版]1977-2020 時をかける-大林宣彦映画入門 2020年7月号 双葉社 * ユリイカ 2020年9月臨時増刊号 総特集:大林宣彦 1938-2020 [[青土社]] * 大林宣彦 フィルムメーカーズ20 [[宮帯出版社]] 2019年7月。[[樋口尚文]]責任編集 == 尾道三部作 == 大林宣彦が、出身地[[尾道市]]を[[舞台]]に撮影した映画の代表作として認知されている3つの映画作品のこと{{R|尾道三部作}}。後に、同じように尾道を舞台にした作品が同じく3つ作られたため、これを「新尾道三部作」と称すこともある。『転校生』や『時をかける少女』の頃はまだ尾道三部作と呼ばれておらず、続く『さびしんぼう』が撮られたことで、これらの3本が尾道三部作と言われるようになった。 * 尾道三部作 ** [[転校生 (映画)|転校生]](1982年) ** [[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]](1983年) ** [[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]](1985年) * 新尾道三部作 ** [[ふたり]](1991年) ** [[あした (映画)|あした]](1995年) ** [[あの、夏の日]](1999年) == 音楽作品 == * '''[[坂上香織]]『香織の、―わたし ものがたり。』'''(監督作品 VHS:FK030-7001 / LD:FV025-7001 1988年9月23日、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]より発売) : 坂上のイメージビデオ。仮題は『ゆらゆら夏の影法師』であった。 坂上のデビュー曲「レースのカーディガン」のPVはこの作品の編集版である。 : この[[ミュージック・ビデオ|MV]]撮影において、尾道三部作で使用されたロケ地を随所に織り交ぜて撮影し、「大林宣彦のワンダー・ワールド1988」と銘打って発売された、ミュージック関連の映像としては当時異色の作品。坂上が一人三役を演じ、合成演出を施した幻想的でメランコリーな雰囲気だが、非常に美しい仕上がりの作品である。この作品発表当時大林は、「''いつか香織と尾道で映画を撮ろう。これはいつかぼくが香織と作る映画の予告編だ。予告編というより、ちいさな約束の映画だ。''」と、同作品のライナーコメントに記していたが、一度も実現する事はなかった。 * 映画「[[ふたり]]」の主題歌'''「[[草の想い]]」大林宣彦&FRIENDS'''(1991年3月21日[[NECアベニュー]]よりCD発売) * '''「青春回顧録 - 絵の中の少女 - 」'''(1998年3月1日[[バップ]]よりCD発売) - 大林監督自身のピアノ演奏による自主制作映画群のための新録音ピアノ楽曲集。 == テレビ版から劇場版 == 大林作品にはテレビで製作された作品を後に劇場版として公開する、または劇場公開に先行してテレビで放送する、というケースが多く見られる。<br> 『理由』はWOWOWで放送、劇場公開の後、さらに日本テレビで「日テレヴァージョン」が放送された。 * 麗猫伝説 (1983年8月30日放送 日本テレビ) : → 劇場公開 1998年8月16日 * 私の心はパパのもの (1988年11月30日放送 日本テレビ) : → 劇場公開 1992年6月13日 * ふたり (1990年11月9日・16日放送 NHK) : → 劇場公開 1991年5月11日 * 彼女が結婚しない理由 (1990年12月26日放送 日本テレビ) : → 劇場公開 1992年6月13日 * はるか、ノスタルジィ (1992年10月25日放送 WOWOW) : → 劇場公開 1993年2月20日 * 三毛猫ホームズの推理(1996年9月放送 テレビ朝日) : → 劇場公開 1998年2月14日 * マヌケ先生(1998年1月24日 中国放送/TBS) : → 劇場公開 2000年9月30日 * 淀川長治物語・神戸篇 サイナラ (1999年11月7日放送 テレビ朝日) : → 劇場公開 2000年9月30日 * 告別 (2001年2月24日放送 BS-i) : → 劇場公開 2001年7月14日 * 理由 (2004年4月29日放送 WOWOW) : → 劇場公開 2004年12月18日 : → 「日テレヴァージョン」(2005年11月8日放送 日本テレビ) == 出演 == ;ドキュメンタリー * 映画が北の町を、熱くした〜大林宣彦・20年目の約束〜(2013年12月20日、[[NHK総合テレビジョン|NHK]]) - 語り:[[常盤貴子]] * [[クローズアップ現代]](NHK) **「シリーズ戦後70年若者たちへ〜映画監督・[[岡本喜八]]のメッセージ」(2015年10月28日) - ※スタジオゲスト **「大林宣彦監督 生きる覚悟」(2019年11月28日) * [[ETV特集]]「青春は戦争の消耗品ではない 映画作家 大林宣彦の遺言」(2017年9月2日、[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]) - 語り:[[原田知世]] * [[BS朝日ザ・ドキュメンタリー|ザ・ドキュメンタリー]]「時をかける 監督・大林宣彦〜余命3ヶ月の闘い」(2017年10月12日、[[ビーエス朝日|BS朝日]]) - 語り:[[近藤サト]] * [[アナザーストーリーズ 運命の分岐点]]「[[手塚治虫]] [[ブラック・ジャック]]からの伝言」(2017年11月7日、[[NHK BSプレミアム]]) - ※コメント出演 * 最後の講義「大林宣彦」(2018年3月11日、[[NHK BS1]])50分バージョン - 語り:[[門脇麦]] ** 最後の講義「大林宣彦 完全版」(2018年5月6日、NHK BS1)3時間バージョン - 語り:[[斉藤貴美子]] * 目撃!にっぽん「それでも僕は映画を撮る 〜監督・大林宣彦 80歳の決意〜」(2018年10月7日、NHK総合) * [[ノンフィクションW]]「 大林宣彦&恭子の成城物語 〜夫婦で歩んだ60年の映画作り〜」(2019年8月12日、WOWOW) ** ノンフィクションW「大林宣彦&恭子の成城物語[完全版] 〜夫婦で歩んだ60年の映画作り〜」(2019年11月17日、WOWOWプライム) - 2019年11月1日、TOHOシネマズ 六本木ヒルズで行われた「第32回東京国際映画祭」で上映。 *[[クローズアップ現代+]]「大林宣彦監督 生きる覚悟」(2019年11月28日、NHK総合) *[[BS1スペシャル]]「映画で未来を変えようよ ~大林宣彦から4人の監督へのメッセージ~」(2020年7月5日、NHK BS1) - 出演:[[岩井俊二]]、[[犬童一心]]、[[手塚眞]]、[[塚本晋也]] - 語り:[[中條誠子]] ;紀行番組 * 奥の細道をゆく 第14旅「石巻(宮城)」 (2000年7月15日、NHK-BS) * 名作をポケットに「川端康成 伊豆の踊子」(2001年4月9日、NHK-BS) * [[にっぽん木造駅舎の旅]]「上臼杵駅」(2010年4月30日、NHK-BS) ;トーク番組 * [[若い広場]]「フィルム・わが青春」 ―大林宣彦と語る― (1977年10月2日、[[NHK教育テレビジョン|NHK]]) - ※出演:[[能勢伊勢雄]]、今泉了輔、清水隆俊、[[高平哲郎]]、大林宣彦 * [[今夜は最高!]]「ときをかけるおじさん達?」(1984年7月21日、[[日本テレビ放送網|NTV]]) - ※出演:[[タモリ]]、[[荻野目慶子]]、大林宣彦、ほか * [[きょうの料理]] 男の料理 「大林宣彦の大根カレー」(1987年6月20日、NHK) - ※出演:大林宣彦、大林恭子 * [[スタジオL]] (NHK) ** 「今でもある?幽霊の館」(1987年2月4日) - ※出演:[[マッハ文朱]]、[[三浦清宏]]、大林宣彦 ** 「わたしの尾道・わたしの広島」(1987年10月19日) - ※出演:[[長谷川和彦]]、[[宮迫千鶴]]、井上浴、大林宣彦 ** 「ファンタジーこそわがいのち」(1987年10月20日) - ※出演:[[石ノ森章太郎]]、大林宣彦 ** 「永遠のダンディズム」(1987年10月21日) - ※出演:[[石津謙介]]、[[高橋幸宏]]、大林宣彦 ** 「われは海の子せとうちの」(1987年10月22日) - ※出演:[[坂田明]]、[[榮久庵憲司]]、仁田一也、大林宣彦 * [[スタジオパークからこんにちは]](2004年1月27日、NHK) - ※スタジオゲスト * 今夜は恋人気分〜とっておき夫婦物語「大林宣彦・恭子夫婦」(2004年9月15日、NHK) * 週刊 手塚治虫(2009年4月24日、NHK) - ※出演:[[杏 (女優)|杏]]、大林宣彦 * 立川志らくの演芸図鑑(2012年11月18日&11月25日、NHK) - ※トークゲスト * SWITCHインタビュー 達人達(たち)「AKB48×大林宣彦〜アイドルの本懐 映画作家の本懐」(2013年5月18日、Eテレ) * [[日曜美術館]]「郷愁に染まる風景〜版画家・川瀬巴水〜」(2013年12月15日、Eテレ) * [[藤井隆]]の胸キュン!アイドル天国(2014年3月27日、[[歌謡ポップスチャンネル]]) * [[男おばさん]]L #88 「[[ゆうばり映画祭]]2014大林宣彦監督インタビュー」(2014年3月27日、[[フジテレビTWO]]) * [[加藤浩次の本気対談!コージ魂!!]](2014年5月18日、[[BS日テレ]]) - ※トークゲスト * [[ゆうどき]]「尾道3部作・撮影秘話 大林監督」(2014年5月28日、NHK) - ※スタジオゲスト * Table of Dreams 〜夢の食卓〜 大林宣彦監督の映画と食卓(2014年6月21日、[[BSフジ]]) * [[岩井俊二]]のMOVIEラボ #5-6 (2015年2月5日・12日、Eテレ) - ※出演:岩井俊二、[[樋口尚文]]、[[岸野雄一]]、[[常盤貴子]]、大林宣彦 * [[徹子の部屋]]「大林宣彦&恭子夫妻」(2017年12月5日、[[テレビ朝日]]) - ※1992年ほか、これまでに計3回出演している * [[ザ・プロファイラー 〜夢と野望の人生〜]]「落語界の風雲児〜立川談志〜」(2017年12月21日、NHK-BS) - ※スタジオゲスト * THE NEXT「シネアスト4〜記録対談!大林宣彦監督が語る映画の神髄〜」(2019年3月7日、BS朝日)※[[安藤桃子]]との対談 ;映画番組 * 大林宣彦のいつか見た映画館(2009年4月〜2020年 [[衛星劇場]]) * 「花筐/HANAGATAMI」公開記念 大林宣彦×岩井俊二×常盤貴子 特別番組(2017年12月22日・23日・28日、2018年1月11日、[[日本映画専門チャンネル]]) ;ラジオ番組 * [[オールナイトニッポン]]特別番組 ラジオドラマ [[ハウス (映画)|ハウス]](1976年11月27日、[[ニッポン放送]]) * [[ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル]]「サタデーナイトラボ 大林宣彦監督降臨!」(2012年8月18日&2017年12月23日、[[TBSラジオ]]) * [[ラジオ深夜便]]「シネマと歩んだ人生 映画作家 大林宣彦」(2017年12月7日~8日、[[NHKラジオ第1放送]]・[[NHK-FM]]) - ※2夜連続2回に分けて放送 * [[嶌信彦 人生百景「志の人たち」]](2018年7月、TBSラジオ) - ※毎週日曜3週連続で出演 ;追悼放送 * 大林宣彦監督をしのんで(2020年4月19日、NHK総合) *:『目撃!にっぽん』「それでも僕は映画を撮る〜監督・大林宣彦 80歳の決意〜」(2018年10月7日放送)、『大林宣彦監督生きる覚悟』(2019年11月28日放送)の2本を番組内で再放送。 ;関連番組 * [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ43 愛は地球を救う]]「動く」 映画監督・大林宣彦の「動く」〜妻・恭子と愛の物語(2020年8月23日、日本テレビ)ナレーション:[[常盤貴子]] * クローズアップ現代+「“未来を変える力”を問いかけられて〜大林宣彦からの遺言〜」(2020年10月8日、NHK総合) == 追悼トーク == * シネマノヴェチェント(横浜市)により、大林宣彦監督追悼無料配信トーク 2020年5月5日(土)14:00時〜無料配信 <ref>[http://cinema1900.wixsite.com/home シネマノヴェチェント]</ref><ref name="cinema1900wixsite20200422">{{Cite web|和書|date=2020-04-29 |url=http://cinema1900.wixsite.com/home |title=シネマノヴェチェント CINEMA NOVECENTO TOPICS |publisher=映画とトラットリア 横浜にある小さな映画館 シネマノヴェチェント |accessdate=2020-04-29}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2 |refs= <ref name="評伝">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2159727/full/ |title=『時をかける少女』大林宣彦監督、死去 82歳 最新作の公開予定日に |newspaper= ORICON NEWS |publisher= オリコン |date= 2020-04-11 |accessdate= 2020-04-11 }}[https://www.cinemacafe.net/article/2020/04/11/66676.html 大林宣彦監督、最新作の公開予定日に逝去…行定勲監督「恩師を失ってしまったよう」]{{Cite news|title=大林監督が最後に撮りたかった「悲恋」 巨匠からの課題とは|author=行定勲|authorlink=行定勲|newspaper=[[西日本新聞|西日本新聞me]]|date=2020-04-16|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/601116/|publisher=[[西日本新聞社]]|accessdate=2023–07–20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200416105657/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/601116/|archivedate=2020-04-16}}[https://web.archive.org/web/20141009155610/http://www.holic-mag.com/hogaholic/int/int27.html 井口昇インタビュー - HogaHolic](Internet Archive)、[http://twitter.com/a_i_jp/status/201549491273338880 Twitter / a_i_jp: 17歳で『HOUSE』を観て以来の大林世代です]、[https://thetv.jp/news/detail/125328/【映画「ミックス。」連載】監督・石川淳一 “テレビの力を見せてやろう”という気持ちで臨みました]、[https://www.advertimes.com/20150407/article188846/5/ 「すぐおわ」放送開始1周年。憧れの原田知世さんが登場!(ゲスト:原田知世さん)]、[https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2020041102100013.html 「カメ止め」上田慎一郎監督「唯一無二の方でした」 大林宣彦監督との思い出つづる]、[https://moviewalker.jp/news/article/229950/ 【追悼】大林宣彦監督、旅立つ。「映画で歴史は変えられないが、未来を変えることはできる」]{{Cite web|和書|author = [[樋口尚文]] |title = ぴあ大林宣彦【追悼特別寄稿(1)】 大林宣彦はいかなる時も「私人=詩人」であった |work = [[ぴあ]] |publisher = |date = 2020-04-12 |url = https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_43c1a8f2-85ea-4538-a883-eb051f77caab.html |accessdate = 2020-04-15 }}{{Cite web|和書|author = 森直人 |title = 『HOUSE/ハウス』から『この空の花 長岡花火物語』『花筐/HANAGATAMI』まで! “A MOVIE”の素晴らしき大林宣彦ワールドへの招待<ザテレビジョンシネマ部コラム> |work = [[ザテレビジョン]] |publisher = [[KADOKAWA]] |date = 2019-07-30 |url = https://thetv.jp/news/detail/198850/ |accessdate = 2020-02-19 |archiveurl = https://megalodon.jp/2020-0206-1719-19/https://thetv.jp:443/news/detail/198850/ |archivedate = 2020-02-06 }}{{Cite web|和書|author = 森直人 |title = 映画監督・大林宣彦は永遠に…戦争体験から生まれた「夢」と「死」の世界観<ザテレビジョンシネマ部> |work = ザテレビジョン |publisher = KADOKAWA |date = 2020-05-07 |url = https://thetv.jp/news/detail/231937/ |accessdate = 2020-05-07 }}[https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_28fa72d5-f497-4bb7-a658-c5e41b68d86e.html 【追悼特別寄稿(2)】プロとしての大林宣彦の仕事の流儀 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映像の魔術師、無邪気さも|newspaper=[[中国新聞]]|date=2020-04-11|author=|url=https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=632782&comment_sub_id=0&category_id=256|accessdate=2020-04-13|publisher=[[中国新聞社]]|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0414-0105-09/https://www.chugoku-np.co.jp:443/local/news/article.php?comment_id=632782&comment_sub_id=0&category_id=256|archivedate=2020-04-13}}{{Cite web|和書|title=大林宣彦監督、逝く…薬師丸ひろ子、原田知世、富田靖子ら育てた“映像の魔術師”|url=https://hochi.news/articles/20200411-OHT1T50019.html|website=スポーツ報知|date=2020-04-11|accessdate=2020-04-12|language=ja|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0413-2034-43/https://hochi.news:443/articles/20200411-OHT1T50019.html|archivedate=2020-04-12}}{{Cite web|和書|title=大林宣彦監督、助監督の下積み経験なし、「マンダム」CMディレクターから風穴|url=https://hochi.news/articles/20200411-OHT1T50233.html|website=スポーツ報知|date=2020-04-12|accessdate=2020-04-14|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0414-0846-03/https://hochi.news:443/articles/20200411-OHT1T50233.html|archivedate=2020-04-14}}{{Cite web|和書|title=大林宣彦監督「また青春ものをやろう」新作構想語っていた 盟友・角川春樹氏明かす|url=https://hochi.news/articles/20200411-OHT1T50236.html|website=スポーツ報知|date=2020-04-12|accessdate=2020-04-13|language=ja|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0413-2341-21/https://hochi.news:443/articles/20200411-OHT1T50236.html|archivedate=2020-04-13}}{{Cite web|和書|title=大林宣彦監督…映画担当記者が悼む「時空、生死超えた中に生き続けた人」|url=https://hochi.news/articles/20200411-OHT1T50231.html|website=スポーツ報知|date=2020-04-12|accessdate=2020-04-12|language=ja|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0413-1848-13/https://hochi.news:443/articles/20200411-OHT1T50226.html|archivedate=2020-04-12}}{{Cite web|和書|title=大林宣彦監督、長時間感じさせないよどみない口調…映画担当記者が悼む|url=https://hochi.news/articles/20200411-OHT1T50229.html|website=スポーツ報知|date=2020-04-12|accessdate=2020-04-12|language=ja|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0413-1819-56/https://hochi.news:443/articles/20200411-OHT1T50229.html|archivedate=2020-04-12}}{{Cite web|和書|title=大林宣彦監督が死去、82歳 肺がん余命宣告3カ月から3年8カ月…|url=https://www.sanspo.com/geino/news/20200411/geo20041101020006-n1.html|website=サンケイスポーツ|date=2020-04-11|accessdate=2020-04-11|language=ja|archiveurl=https://archive.fo/F5urq|archivedate=2020-04-11}}{{Cite web|和書|title=アイドルの魅力引き出し「余命3カ月」後も熱意 大林宣彦監督|url=https://www.sanspo.com/geino/news/20200411/geo20041101020006-n1.html|website=サンケイスポーツ|date=2020-04-11|accessdate=2020-04-11|language=ja|archiveurl=https://archive.fo/L8o8c|archivedate=2020-04-11}} [https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200411-00010001-wordleaf-ent 映画界の巨匠・大林宣彦監督死去 遺作は新型コロナで公開延期に]、[https://encount.press/archives/38276/ 大林宣彦さん訃報に追悼と感謝の声 原田知世、中江有里、浅野忠信、町山智浩氏]{{Cite web|和書|title=大林宣彦監督82歳 死去 「転校生」「時をかける少女」など|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000181655.html|website=ANNニュース|accessdate=2020-04-13|language=ja}}{{Cite web|和書|title = 【訃報】映画監督の大林宣彦さんが逝去されました(享年82) |work = [[日本映画専門チャンネル]] |publisher = |date = 2020-04-13 |url = https://www.nihon-eiga.com/support/news/20200413_23604.html |accessdate = 2020-04-14 }}</ref> <ref name="interview">[https://megalodon.jp/2014-0617-2038-24/okstars.okwave.jp/vol28_05.html vol.28 映画監督 大林 宣彦 p5- OKStars - OKWave](Internet Archive)、[https://archive.fo/e1GAH NewYork Biz - ガチ!BOUT.137 大林宣彦](Internet Archive)、[https://archive.fo/dY1z0 vol.28 映画監督 大林 宣彦 p6- OKStars - OKWave](Internet Archive){{Cite web|和書|title=大林宣彦監督の遺した言葉 「戦争体験を伝え続けるために、僕は生かされているんだ」 余命3ヵ月月からの映画撮影 大林宣彦 映画監督|url=https://fujinkoron.jp/articles/-/1882|website=婦人公論.jp|publisher=[[中央公論新社]]|date=2020-04-15|accessdate=2020-04-15}}[http://www.jili.or.jp/kuraho/genso/web03/g_web03.html くらしと保険 WEB.03 私の元素 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name="シネアルバム1978">{{Cite book|和書|editor1=佐藤忠男|editor1-link=佐藤忠男|editor2=山根貞男|editor2-link=山根貞男|year=1978|month=|title=シネアルバム(62) 日本映画1978 1977年公開日本映画全集|publisher=[[芳賀書店]]|isbn=|page=138}}</ref> <ref name="寺脇">[[寺脇研]]『映画に恋して 年鑑1989年日本映画全評』弘文出版、1980年、P5-253</ref> <ref name="逆回転">[[山口猛]]『逆回転のフィルム <small>―七〇年代の映画作家たち</small>』[[東京新聞|東京新聞出版部]]、1981年、p13</ref> <ref name="東宝特撮映画全史539">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|p=539|loc=「特撮映画スタッフ名鑑」}}</ref> <ref name="日本映画の監督たち" >[[田山力哉]]『日本映画の監督たち』[[社会思想社]]、1991年、P190-192</ref> <ref name="CINEMA CAN WAIT">橋口尚文『映画の復讐 CINEMA CAN WAIT』(フィルムアート社、1992年)P186-211</ref> <ref name="映画100">『映画100物語 日本映画篇 1921-1995』([[読売新聞社]]、1995年)P184-185</ref> <ref name="terebikoma-sixyaru">[[山田奨治]]編者『文化としてのテレビ・コマーシャル』([[世界思想社]]、2007年)、P282-293</ref> <ref name="知っておきたい">[[キネマ旬報社]]編『知っておきたい映画監督100・日本映画編』キネマ旬報社、2009年、P183、186-187</ref> <!---<ref name="トラベラー">[[樋口尚文]]『テレビ・トラベラーー昭和・平成テレビドラマ批評大全』[[国書刊行会]]、2012年、p354</ref>---> <ref name="アナーキー80">[[映画秘宝]]EX『爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011』[[洋泉社]]、2012年、P18-19、36-37</ref> <ref name="シネアルバム52">{{Harvnb|シネアルバム52|1977|p=29|loc=「松田政男 自主映画・個人映画・記録映画 新しい映画の混迷」}}</ref> <ref name="黒沢">{{Cite book|和書|author=黒沢哲哉|authorlink=黒沢哲哉|year=2012|month=|title=ぼくらの60〜70年代熱中記|publisher=いそっぷ社|isbn=9784900963573|pages=70-73}}</ref> <ref name="かまち">{{Cite book|和書|author=かまち潤|authorlink=かまち潤|year=2010|month=|title=TVコマーシャルと洋楽コマソン40年史|publisher=清流出版|isbn=9784860293147|pages=13-17}}</ref> <ref name="放送批評">[[放送批評懇談会]]編、1971年12月号、P13-16</ref> <ref name="CM文化論">[[南博 (社会心理学者)|南博]]・[[江藤文夫]]監修『CM文化論 ヒットコマーシャルの25年』創拓社、1980年、p156</ref> <ref name="湯川">[[湯川れい子]]『熱狂の仕掛け人』[[小学館]]、2003年、P208</ref> <ref name="ぴあシネマクラブ">『ぴあシネマクラブ 日本映画編』[[ぴあ]]、P459</ref> <ref name="朝までビデオ2">キーワード事典編集部編『朝までビデオ2(邦画の夢) 』洋泉社、p254-256</ref> <ref name="アイドル映画30年史">[[#アイドル映画30年史]]P1、64、65、80-81、106-121、164、180、185、193、198、201</ref> <ref name="編集ばか">[[坪内祐三]]・名田屋昭二・[[内藤誠]]、フィギュール彩(40) 『編集ばか』、[[彩流社]]、2015年、P98</ref> <ref 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name="ユリイカ総特集20">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=〔対談〕いまでもどこかで 大林千茱萸×大林恭子 司会・安藤紘平 対談日 成城自宅、2020年6月23日|pp=20–34 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集39">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=一九七七年『HOUSE』直後の大林宣彦インタビュー 聞き手・構成=樋口尚文|pp=39–43 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集58">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=平田オリザ「叔父のこと」|pp=58–61 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集78">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[山田奨治]]「テレビCMが育てた大林宣彦」|pp=78–84 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集85">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[樋口尚文]]「『HOUSE』、映画史を変えた異形の詩篇」|pp=85–92 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集93">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[長谷正人]]「『幼少期』の映画、あるいは記号化する日常と『身体』極私的大林宣彦論」|pp=93–103 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集182">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[阪本善尚]]「大林宣彦監督を偲んで」|pp=182–187 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集231">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[石岡良治]]「大林宣彦『HOUSE』と悪夢のDiscover Nowhere」|pp=234–242 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集298">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=大林宣彦×[[高畑勲]]「対談 映画は境界を越えて」|pp=298–306 }}</ref> <ref name="ユリイカ総特集307">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[山本昭宏]]「幽霊と一輪車 映画による歴史叙述と反戦平和をめぐって」|pp=307–315 }}</ref> <!---<ref name="jinsei">関口宏の人生の詩([[BS-TBS]]、2014年9月24日放送){{出典無効|title=TVWATCH|date=2022年1月}}</ref>---> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献・ウェブサイト == *{{Cite book|和書|author=|year=1975|title=日本の個人映画作家 2 大林宣彦|publisher=映像文化罪保護委員会|isbn=|ref=個人映画}} *{{Cite book|和書|editor1=佐藤忠男|editor1-link=佐藤忠男|editor2=山根貞男|editor2-link=山根貞男|year=1977|month=|title=シネアルバム(52) 日本映画1977 1976年公開日本映画全集|publisher=[[芳賀書店]]|isbn=|ref={{SfnRef|シネアルバム52|1977}}}} *{{Cite book|和書|author1=猪俣勝人|authorlink1=猪俣勝人|author2=田山力哉|authorlink2=田山力哉|year=1978|title=日本映画作家全史ー下ー|series=現代教養文庫 928|publisher=[[社会思想社]]|isbn=|ref=全史}} * 『大特撮―日本特撮映画史―』(コロッサス 1979年) *{{Cite book|和書|author=田山力哉|authorlink=田山力哉|coauthors=|year=1980|title=新しい映画づくりの旗手たち|publisher=[[ダヴィッド社]]|isbn=|ref=田山}} *{{Cite book|和書|editor1=石原良太|editor2=野村正昭|year=1986|title=シネアルバム(120) A movie・大林宣彦 ようこそ、夢の映画共和国へ|publisher=[[芳賀書店]]|isbn=|ref={{SfnRef|シネアルバム120|1986}}}} * {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}} *{{Cite book|和書|editor1=石原良太|editor2=野村正昭|year=1986|title=シネアルバム(120) A movie・大林宣彦 ようこそ、夢の映画共和国へ|publisher=[[芳賀書店]]|isbn=|ref={{SfnRef|シネアルバム120|1986}}}} *{{Cite book|和書|author=|year=1988|month=|title=日本映画・テレビ監督全集|publisher=キネマ旬報社|isbn=|ref=監督全集}} *{{Cite book|和書|author=石坂昌三|year=1990|month=|title=続 巨匠たちの伝説|publisher=[[三一書房]]|isbn=4-380-90252-8|ref=石坂}} *{{Cite book|和書|author=山口猛|authorlink=山口猛|coauthors=|year=1997|title=映画撮影とは何か {{small|キャメラマン40人の証言}}|publisher=[[平凡社]]|isbn=|ref=映画撮影}} * 『新版 大林宣彦のa movie book 尾道』(たちばな出版 2001年) *{{Cite book|和書|author=|year=2003|month=|title=アイドル映画30年史|series=[[映画秘宝|別冊映画秘宝]] VOL.2|publisher=[[洋泉社]]|isbn=|ref=アイドル映画30年史}} *{{Cite book|和書|author=佐藤忠男|authorlink=佐藤忠男|year=2007|month=|title=日本の映画人 日本映画の創造者たち|publisher=[[日外アソシエーツ]]|isbn=978-4-8169-2035-6|ref=日本の映画人}} *{{Cite journal|和書|journal=[[キネマ旬報]]|volume=2010年5月上旬号|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=|ref=キネ旬20105}} 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(雑誌)|ユリイカ]]2020年9月臨時増刊号|publisher=[[青土社]]|isbn=9784791703890|ref={{SfnRef|ユリイカ総特集|2020}}}} * {{Cite journal|和書|author=片岡俊郎 |date=2003-09 |title=尾道と文化 : 大林宣彦の映画と地域開発 |journal=福山大学経済学論集 |ISSN=02884542 |publisher=[[福山大学]] |volume=28 |issue=1 |pages=71-89 |id={{CRID|1050845763171569792}} |naid=120005498848 |url=http://id.nii.ac.jp/1064/00006219/ |ref=片岡}} * {{Cite journal|和書|author=沼尻正之 |date=2021-03 |url=https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000145OTEMON_601210302 |title=大林映画にとって「地域」とは何か? -尾道三部作とそれ以後- |journal=追手門学院大学地域創造学部紀要 |ISSN=2423-8449 |publisher=追手門学院大学地域創造学部 |volume=6 |pages=23-61 |CRID=1050006275886113152 |accessdate=2023-09-13 |ref=outemon }} * {{Citation|和書|url=https://www.yhmf.jp/as/.assets/ads_41.pdf|format=PDF|date=|title=特集 TVCM60 日本のCMのぜんぶ 1953-2012 ー歴史を通して未来が見えるー|author=|periodical=AD STUDIES |issue = Vol.41 Summer 2012 2012年8月25日号|publisher=[[吉田秀雄記念事業財団]]|ref=TVCM60}} * {{Cite journal|和書 |author=竹内幸絵 |date=2023-05 |url=http://id.nii.ac.jp/1707/00029694/ |title=草月アートセンター催事「饒舌の映像:テレビ・コマーシャル・フィルム」(1968年)が広告界に与えた影響 |journal=評論・社会科学 |ISSN=0286-2840 |publisher=同志社大学社会学会 |volume=145 |pages=59-90 |doi=10.14988/00029694 |CRID=1390578050263879936 |accessdate=2023-09-13 |ref=doshisha}} == 関連項目 == <!-- 出演者という関連だけの俳優は消しました。--> * [[山中恒]] - 映画の原作となった作品が多い。 * [[石森史郎]] * [[宮崎尚志]] - 映画音楽を作曲 * [[久石譲]] - 映画音楽を作曲 * [[山下康介]] - 映画音楽を作曲 * [[尾美としのり]] - 旧尾道3部作をはじめ、14作品に出演する劇中に於ける大林の分身<!-- <ref name="塩田"/>-->。 * [[ピンク・レディー]] - 1977年にコンサート演出を担当。その模様が挿入された『ピンク・レディーの活動大写真』にも出演。 * [[ウッチャンナンチャン]] - [[内村光良]]と[[南原清隆]]が専門学校時代に、二人とも大林の映画が好きということで意気投合しコンビ結成に繋がる。 * [[今関あきよし]] * [[太田隆文]] * [[呉美保]] * [[本多猪四郎]] - 大林の作品「[[漂流教室]]」と「[[異人たちとの夏]]」にカメオ出演している。 == 外部リンク == * {{allcinema name|116982}} * {{kinejun name|87139}} * {{Movie Walker name|82232}} * {{映画.com name|22380}} * {{tvdrama-db name}} * {{NHK人物録|D0009071966_00000}} * [https://www.pasonica.com/2015/03/20/%E5%A4%A7%E6%9E%97%E5%AE%A3%E5%BD%A6/ 大林宣彦 有名人データベース] * [https://www.dgj.or.jp/members/?id=101 大林宣彦 日本映画監督協会] * [https://umibenoeigakan.jp/ 映画「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」公式サイト] * [https://www.locanavi.jp/konosora/director/top.html この空の花「長岡映画」製作委員会 大林宣彦からの手紙] * [https://www.locanavi.jp/konosora/director/profile.html この空の花「長岡映画」製作委員会 大林宣彦監督プロフィール] * [https://cinema-rank.net/list/50168 大林宣彦監督が制作した映画ランキング] * [https://www.ycam.jp/archive/profile/nobuhiko-obayashi.html?ua=desktop 山口情報芸術センター] * [https://www.ycam.jp/archive/profile/nobuhiko-obayashi.html?ua=desktop 第2回 2018 尾道映画祭「車座シンポジウム」大林監督を囲んで映画を使って僕たちは何ができるのか] * {{imdb name|nm0643171|Nobuhiko Obayshi}} * [https://web.archive.org/web/20101015060055/http://www011.upp.so-net.ne.jp/aunt/cinema-2.html 大林宣彦の映画 普遍的個人映画--A MOVIE] * [https://okstars.okwave.jp/vol28_01.html OKWAVE Stars vol.28 映画監督 大林宣彦 | 10Questions OKな人をもっと知りたい] * [http://webneo.org/archives/5320 【ドキュメンタリストの眼(2)】大林宣彦インタビュー「高林陽一君と青春の個人映画」 text 金子遊] * [https://web.archive.org/web/20130403060635/http://www.konosoranohana.jp/ この空の花] * [https://karatsueiga.com/ 唐津映画製作推進委員会Karatsu Film Project] * [https://twitter.com/karatsu_eiga 唐津映画製作推進委員会] - [[Twitter]] * [https://hanagatami-movie.jp/ 映画「花筐/HANAGATAMI」公式サイト] * [https://twitter.com/hanagatamimovie 映画「花筐/HANAGATAMI」公式tweitter] * [https://www.facebook.com/hanagatami.movie/ 映画「花筐/HANAGATAMI」公式Facebook] * [https://umibenoeigakan.jp/ 映画「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」公式サイト] * [https://twitter.com/umibenoeigakan 映画「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」公式tweitter] {{大林宣彦監督作品}} {{キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞}} {{毎日映画コンクール監督賞}} {{ブルーリボン賞新人賞}} {{日本映画批評家大賞監督賞}} {{毎日芸術賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおはやし のふひこ}} [[Category:大林宣彦|*]] [[Category:日本の映画監督]] [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:日本の実験映画作家]] [[Category:CMディレクター]] [[Category:従四位受位者]] [[Category:文化功労者]] [[Category:旭日中綬章受章者]] [[Category:旭日小綬章受章者]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:尚美学園大学の教員]] [[Category:倉敷芸術科学大学の教員]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:肺癌で亡くなった人物]] [[Category:1938年生]] [[Category:2020年没]]
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和田誠
和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 - 2019年〈令和元年〉10月7日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。大阪府生まれ。 実父は築地小劇場の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた和田精。日劇レビューで演出家を担った山本紫朗は伯父にあたる。 妻は料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミ。長男はロックバンド・TRICERATOPSの和田唱で、その妻は上野樹里。次男の和田率は元電通勤務で、現在は母・平野レミの料理サイト「remy」のクリエイティブ・ディレクター。率の妻は和田明日香。 和田がレミを紹介するよう頼んだのは当時レミとラジオ番組で共演していた久米宏であったという。久米は「レミさんだけはやめた方がいいと思いますよ」と返したという。 父である精が勤務していたJOBK(現在のNHK大阪放送局)の当時の赴任地である大阪市東住吉区で生まれる。1945年(昭和20年)、精の失職に伴い3月に一家で東京都世田谷区代田に転居。しかし誠は家族と一人離れて疎開した千葉県で敗戦を迎える。 東京へ戻り世田谷区立代沢小学校3年次に転入し、東京都立千歳高等学校(現・東京都立芦花高等学校)、多摩美術大学図案(現・デザイン)科を卒業。『グレン・ミラー物語』(1954年)を観て、ジェームズ・ステュアートに似顔絵付きのファンレターを出して、返事で絵を褒められたのが絵を職業にしようと決心した理由の一つだという。 1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシティにデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこ「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し、採用される(同製品のデザインは、1964年開業の東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれている)。 他にも自社のライトパブリシティ及び、社会党のロゴマークを手掛け、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、1968年(昭和43年)退社。 1964年に灘本唯人、宇野亞喜良、山口はるみ、横尾忠則らと東京イラストレーターズ・クラブを結成(70年解散)。 1965年から1995年、雑誌『話の特集』の創刊にかかわり、アート・ディレクターをつとめた。 退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙や星新一著作の挿絵などを手掛ける。他、星新一・丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜や阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する(この縁もあり、阿川や三谷とは交流があった)。 イラストレーターとしての仕事が知られる一方、『窓ぎわのトットちゃん』など、自身のイラストを用いないデザインも見られる(この縁から黒柳徹子とは交流があり、なかなかテレビ番組に出演しなかった和田も『徹子の部屋』には出演している)。 通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れている。結果、バーコードは帯に印刷されることが多い。 映画にも造詣が深く、1984年に角川映画として初監督作品である真田広之主演『麻雀放浪記#映画(1984年版)映画(1985年版)麻雀放浪記』を手掛け、小泉今日子主演の『快盗ルビイ』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続でキネマ旬報ベストテン入りを果たしたのは、後にも先にも和田一人である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマのエッセイ集を出している。 1992年、伯父の山本紫朗に国内レビューの黄金時代を取材した内容をまとめた著書『ビギン・ザ・ビギン』をモチーフに、『日劇物語』を映画化する話がもち上がった。和田が脚本を手掛け、クランク・イン寸前まで進んだが、資金不足のため撮影は中止された。 アニメーション作家としての実績もあり、1960年(昭和35年)に久里洋二・柳原良平・真鍋博が「アニメーション三人の会」を結成し、草月ホールで定期的に上映会を行っていた際に、横尾忠則や手塚治虫等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。1961年(昭和36年)NHKで放送開始の『みんなのうた』に参加し、初のアニメ映像作品『誰も知らない』を始め、他9曲の映像を製作した。また、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』のオープニングタイトルを手掛けている。 2019年10月7日、東京都内の病院にて肺炎のため死去。83歳没。 2021年12月17日、渋谷区立中央図書館に自著や装丁を手掛けた本、蔵書や本棚、打ち合わせに使用されたテーブルや椅子などが寄贈され、図書館4階に「和田誠記念文庫」が開設された。 無印は映像が現存する曲。▲マークは現存しない曲。 初のアニメ作品を手掛けたものの、その映像はわずかしか現存せず、2011年開始の「みんなのうた発掘プロジェクト」でも、音声曲は提供されたが、映像曲は提供されなかった。
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和田 誠は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。大阪府生まれ。
{{Otheruses|イラストレーター|音楽評論家|和田誠 (評論家)}} {{ActorActress | 芸名 = 和田 誠 | ふりがな = わだ まこと | 画像ファイル = Makoto Wada.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像コメント = <small>誠文堂新光社『アイデア=Idea』第13巻第75号(1966)より</small> | 本名 = | 別名義 = | 出生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]] | 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 国籍 = | 民族 = [[日本人]] | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1936 | 生月 = 4 | 生日 = 10 | 没年 = 2019 | 没月 = 10 | 没日 = 7 | 職業 = [[イラストレーター]]<br />[[エッセイスト]]<br />[[映画監督]] | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = [[1959年]] - [[2019年]] | 活動内容 = | 配偶者 = [[平野レミ]] | 著名な家族 = [[和田精]](父)<br />[[平野威馬雄]](義父)<br />[[山本紫朗]](伯父)<br />[[和田唱]](長男)<br/>[[上野樹里]](長男の妻)<br>[[和田明日香]](次男の妻) | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--> | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />[[1988年]]『[[快盗ルビイ]]』 | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = '''[[ヨコハマ映画祭]]'''<br />'''作品賞'''<br>[[1984年]]『[[麻雀放浪記]]』 | 備考 = }} '''和田 誠'''(わだ まこと、[[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[4月10日]] - [[2019年]]〈[[令和]]元年〉[[10月7日]])は、[[日本]]の[[イラストレーター]]、[[グラフィックデザイナー]]、[[エッセイスト]]、[[映画監督]]。[[大阪府]]生まれ。 == 家族 == 実父は[[築地小劇場]]の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた[[和田精]]<ref name=":0">{{Cite web |title=和田誠プロフィール - 渋谷区立図書館 |url=https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/wada-library/profile/ |website=www.lib.city.shibuya.tokyo.jp |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。[[日劇]][[レビュー]]で演出家を担った[[山本紫朗]]は伯父にあたる<ref>{{Cite web |title=【ノンフィクションで振り返る戦後史】「人気」をめぐる「回り舞台」をしみじみ感じる劇場史 「ビギン・ザ・ビギン―日本ショウビジネス楽屋口―」和田誠著・文藝春秋(1/2ページ) |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20220809-GCAJXLXKFJIV7MLIMERLLBTQUI/ |website=zakzak:夕刊フジ公式サイト |date=2022-08-09 |access-date=2023-12-20 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 妻は[[料理]]愛好家・[[シャンソン]][[歌手]]の[[平野レミ]]。長男は[[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]・[[TRICERATOPS]]の[[和田唱]]で、その妻は[[上野樹里]]。次男の和田率は元[[電通]]勤務で、現在は母・平野レミの料理サイト「remy」のクリエイティブ・ディレクター<ref>https://remy.jp/abouts/</ref>。率の妻は[[和田明日香]]。 == 人物 == 父である精が勤務していたJOBK(現在の[[NHK大阪放送局]])の当時の赴任地である[[大阪市]][[東住吉区]]<!-- 公式サイトには区名まで記載 -->で生まれる<ref>「プロフィルには大阪生まれと書きますので、雑誌の大阪人特集などで取材の依頼を受けることがありますが、たまたま父親の都合で大阪で生まれただけで、親戚もいないし、大阪人という意識はないんです。と言って東京人でもないし、郷土意識が何もありません」と当人は発言している。(『似顔絵物語』p.14)</ref>。[[1943年]]([[昭和]]18年)大阪市住吉区長池国民学校(現・[[大阪市立長池小学校]]に入学<ref name=":0" />。[[1945年]]([[昭和]]20年)、精の失職に伴い3月に一家で精の実家である[[東京都]][[世田谷区]][[代田 (世田谷区)|代田]]に転居。しかし誠は家族と一人離れて[[疎開]]した[[千葉県]]で敗戦を迎える。 東京へ戻り[[世田谷区立代沢小学校]]3年次に転入し、[[世田谷区立富士中学校]]<ref name=":0" />、[[東京都立千歳高等学校]]<ref name=":0" />(現・[[東京都立芦花高等学校]])、[[多摩美術大学]]図案(現・デザイン)科を卒業<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |title=多摩美術大学アートアーカイヴセンター |url=https://aac.tamabi.ac.jp/archive/archives/wadamakoto.html |website=aac.tamabi.ac.jp |access-date=2023-12-20}}</ref>。『[[グレン・ミラー物語]]』([[1954年]])を観て、[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]に似顔絵付きのファンレターを出して、返事で絵を褒められたのが絵を職業にしようと決心した理由の一つだという<ref>『ジェイムズ・スチュアート&和田誠」(和田誠『ぼくが映画ファンだった頃』[[七つ森書館]] 2015年pp.218-228)。</ref>。 [[1959年]](昭和34年)に広告制作プロダクション[[ライトパブリシティ]]に[[グラフィックデザイナー|デザイナー]]として入社し、同年、[[日本たばこ産業|日本専売公社]]が発売予定の新商品の[[紙巻きたばこ]]「[[ハイライト (タバコ)|ハイライト]]」のパッケージデザインコンペに参加し、24歳の若さで勝ち抜き採用される<ref name=":1">{{Cite web |title=ダリから剣持勇まで! 有名ロゴ&パッケージを手掛けたクリエイター |url=https://www.elle.com/jp/decor/decor-interior-design/g39590640/logo-package-design-2022-04/ |website=ELLE |date=2022-04-18 |access-date=2023-12-20 |language=ja-JP}}</ref>。(同製品のデザインは、[[1964年]]開業の[[東海道新幹線]]の車体の色を決めるときに配色の参考にされたといわれている<ref name=":1" /><ref name=":2">{{Cite web |title=和田誠さん |url=https://www.seiryupub.co.jp/blog/2019/11/post-161.html |website=加藤屋のメモと写真 |date=2019-11-27 |access-date=2023-12-20}}</ref>)。 他にも自社のライトパブリシティ及び、[[日本社会党|社会党]]の[[ロゴマーク]]を手掛け<ref name=":2" />、[[キヤノン]]や[[東レ]]といった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、[[1968年]](昭和43年)退社。 1964年に[[灘本唯人]]、[[宇野亞喜良]]、[[山口はるみ]]、[[横尾忠則]]らと東京イラストレーターズ・クラブを結成<ref name=":0" />(70年解散)。 1972年、出会って10日で[[平野レミ]]と結婚<ref>{{Cite web |title=平野レミ|人物|NHKアーカイブス |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009123318_00000 |website=平野レミ|人物|NHKアーカイブス |access-date=2023-12-20 |language=ja |last=NHK}}</ref><ref name=":3">{{Cite web |title=平野レミ、最愛の夫・和田誠さんを亡くした“抜け殻の日々”を支えた「家族の味」(2ページ目) |url=https://www.jprime.jp/articles/-/20577 |website=週刊女性PRIME |date=2017-10-17 |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。シャンソン歌手としてテレビで歌うレミを見て、和田がひと目惚れしたのが始まり。当時レミとラジオ番組で共演していた友人の[[久米宏]]に紹介を頼んだところ、久米は「レミさんだけはやめた方がいいと思いますよ」と返したという<ref>{{Cite|和書|title=久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった|author=久米宏|date=2017|publisher=世界文化社|isbn=978-4418175062}}</ref><ref name=":3" />。1975年に長男・和田唱<ref name=":3" />、1979年に次男・和田率が誕生<ref name=":3" />。1978年には[[渋谷区]]に事務所、自宅を構えた<ref name=":0" /><ref name=":4">{{Cite web |title=渋谷区立中央図書館に「和田誠記念文庫」 自著など3700冊、書棚など寄贈受け |url=https://www.shibukei.com/headline/16361/ |website=シブヤ経済新聞 |access-date=2023-12-20}}</ref>。 1965年から1995年、[[矢崎泰久]]から声をかけられ、雑誌『[[話の特集]]』の創刊にかかわり、1995年の休刊までアート・ディレクターをつとめた<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |title=<書評>『夢の砦(とりで) 二人でつくった雑誌「話の特集」』矢崎泰久、和田誠 著:東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/220480 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。 退社後は[[フリーランス]]となり、「[[週刊文春]]」の表紙や[[星新一]]著作の挿絵などを手掛ける。他、[[星新一]]・[[丸谷才一]]の一連の作品や[[村上春樹]]の『[[アフターダーク]]』、[[三谷幸喜]]や[[阿川佐和子]]作品を始め、数多くの[[ブックデザイン|装丁]]を担当する(この縁もあり、阿川や三谷とは交流があった)。 イラストレーターとしての仕事が知られる一方、『[[窓ぎわのトットちゃん]]』など、自身のイラストを用いないデザインも見られる(この縁から[[黒柳徹子]]とは交流があり、なかなかテレビ番組に出演しなかった和田も『[[徹子の部屋]]』には出演している)。 通常、書籍の[[バーコード]]は裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、[[ISBN]]の数字のみが表示されたデザインを採り入れている<ref name=":2" />。結果、バーコードは[[帯 (出版)|帯]]に印刷されることが多い<ref name=":2" />。 [[映画]]にも造詣が深く、[[1984年]]に角川映画として初監督作品である[[真田広之]]主演『[[麻雀放浪記#映画(1984年版)映画(1985年版)麻雀放浪記]]』を手掛け、[[小泉今日子]]主演の『[[快盗ルビイ]]』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続で[[キネマ旬報ベストテン]]入りを果たしたのは、後にも先にも和田一人である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマの[[エッセイ]]集を出している。 [[1992年]]、伯父の山本紫朗に国内レビューの黄金時代を取材した内容をまとめた著書『ビギン・ザ・ビギン』をモチーフに、『日劇物語』を映画化する話がもち上がった。和田が脚本を手掛け、クランク・イン寸前まで進んだが、資金不足のため撮影は中止された<ref>『怖がる人々を作った人々』(文藝春秋)のプロローグに記載あり。</ref>。 アニメーション作家としての実績もあり、[[1960年]](昭和35年)に[[久里洋二]]・[[柳原良平]]・[[真鍋博]]が「[[アニメーション三人の会]]」を結成し、[[草月ホール]]で定期的に上映会を行っていた際に、[[横尾忠則]]や[[手塚治虫]]等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。[[1961年]](昭和36年)[[日本放送協会|NHK]]で放送開始の『[[みんなのうた]]』に参加し、初の[[アニメーション]]作品『[[誰も知らない (みんなのうた)|誰も知らない]]』『[[ビビディ・バビディ・ブー]]』『[[ねこふんじゃった]]』を始め、他9曲の映像を製作した<ref name=":0" />。また、フジテレビ『[[ゴールデン洋画劇場]]』のオープニングタイトルを手掛けている<ref name=":0" />。 2019年10月7日、東京都内の病院にて[[肺炎]]のため死去<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191011/k10012123151000.html|title= イラストレーター 和田誠さん死去|date=2019-10-11|work=NHK NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|accessdate=2019-10-11}}</ref>。{{没年齢|1936|4|10|2019|10|7}}。 2020年3月、母校である[[多摩美術大学]]に約5万点の資料および作品が寄贈されたことを大学が公表<ref>{{Cite web |title=多摩美術大学アートアーカイヴセンター |url=https://aac.tamabi.ac.jp/archive/archives/wadamakoto.html |website=aac.tamabi.ac.jp |access-date=2023-12-20}}</ref><ref>{{Cite web |title=和田誠資料寄贈余話|ARTICLES|The Graphic Design Review |url=https://gdr.jagda.or.jp/articles/42/ |website=The Graphic Design Review |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。アーカイヴ展示が行われている<ref>{{Cite web |title=和田誠展ほか今秋開催される3つの展覧会に本学所蔵資料を貸出 {{!}} 多摩美術大学 アクティビティニュース |url=https://activity.tamabi.ac.jp/kikaku/3616026/ |website=activity.tamabi.ac.jp |access-date=2023-12-20 |language=jp}}</ref>。 2021年12月17日、[[渋谷区立中央図書館]]に自著や装丁を手掛けた本、蔵書や本棚、打ち合わせに使用されたテーブルや椅子などが寄贈され、図書館4階に「和田誠記念文庫」が開設された<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/?page_id=593|title=和田誠記念文庫 お知らせ|publisher=渋谷区立中央図書館 |accessdate=2022年1月10日 }}</ref><ref name=":4" />。 2022年4月、ジャズなどのレコード365枚が、生前親交のあった作家の[[村上春樹]]の関連資料を収蔵する[[早稲田大学国際文学館]]([[村上春樹ライブラリー]])に寄贈された<ref>{{Cite web |title=和田誠さんのレコード、村上春樹ライブラリー寄贈 |url=https://www.sankei.com/article/20220416-UMJDPYDQ6RPIVDQNS5PEADT4SI/ |website=産経ニュース |date=2022-04-16 |access-date=2023-12-20 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 == 名言 == *「人生の博打でいうと、イラストレーターという職業を選んだことかな?当時はまだそういう言葉はなかったけどね。」 == 受賞歴 == * [[1955年]] ([[昭和]]30年)- 多摩美大在学中に[[興和新薬]]の蛙のカットコンクールで一等賞受賞<ref name=":0" />。 * [[1957年]]([[昭和]]32年) - 同じく在学中に『夜のマルグリット』のポスターにより日本宣伝美術会賞受賞<ref>和田誠『出身県別 現代人物事典 西日本版』p1047 サン・データ・システム 1980年</ref>。 * [[1960年]](昭和35年) - [[タバコ|たばこ]]の「[[ハイライト (タバコ)|ハイライト]]」のデザイン・コンペに入賞。 * [[1961年]](昭和36年) - [[寺村輝夫]]作、和田誠画の『ぼくは王さま』で[[毎日出版文化賞]]を受賞<REF>日外アソシエーツ現代人物情報</REF>。 * [[1964年]](昭和39年) - 短編アニメ映画『殺人 MURDER』により[[毎日映画コンクール]]大藤信郎賞受賞。 * [[1967年]](昭和42年) - 和田がアートディレクターを務める雑誌『[[話の特集]]』が、アートディレクターズクラブによるADC賞(銅賞)を受賞<REF>[[矢崎泰久]]『編集後記』(話の特集)P.42</REF>。 * [[1969年]](昭和44年) - 「[[週刊サンケイ]]」などの表紙似顔絵<REF>日外アソシエーツ現代人物情報</REF>その他で[[文藝春秋漫画賞]]受賞。 * [[1974年]](昭和49年) - 似顔絵集『PEOPLE』で[[講談社出版文化賞]](ブックデザイン部門)受賞。 * [[1981年]](昭和56年) - 講談社出版文化賞(さしえ部門)受賞。 * [[1982年]](昭和57年) - 『ビギン・ザ・ビギン』で角川書店日本ノンフィクション賞受賞。 * [[1984年]](昭和59年) - 映画『麻雀放浪記』で[[報知映画賞]]新人賞受賞。[[山路ふみ子映画賞|山路ふみ子文化財団特別賞]]を受賞。 * [[1989年]]([[平成]]元年) - 映画『快盗ルビイ』で[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]受賞。 * [[1993年]](平成5年) - 『銀座界隈ドキドキの日々』で[[講談社エッセイ賞]]受賞<ref>{{Cite web |title=文春文庫『銀座界隈ドキドキの日々』和田誠 {{!}} 文庫 |url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167385040 |website=文藝春秋BOOKS |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年) - 幅広い活躍により[[菊池寛賞]]受賞。同年、「そらをとんだたまごやき」([[落合恵子]]作、和田は絵担当)で[[産経児童出版文化賞]](第41回)を受賞。 * [[1998年]](平成10年) - 『ねこのシジミ』で[[日本絵本賞]]受賞。[[毎日デザイン賞]]を受賞<REF>日外アソシエーツ現代人物情報</REF>。 * [[2002年]](平成14年) - [[日本宣伝賞]]山名賞を受賞<REF>読売人物データベース</REF>。 * [[2003年]](平成15年) - 淀川長治賞(第12回)を受賞<REF>日外アソシエーツ現代人物情報</REF>。 * [[2006年]](平成18年) - 『どんなかんじかなあ』(文・[[中山千夏]])で日本絵本賞受賞<ref>{{Cite web |title=どんなかんじかなあ|中山千夏の絵本|絵本・児童書|自由国民社 |url=https://www.jiyu.co.jp/ehonjido/detail.php?eid=00075&series_id=s05 |website=www.jiyu.co.jp |access-date=2023-12-20}}</ref><ref>{{Cite web |title=中山千夏さんの絵本「どんなかんじかなあ」 障がい者と「共に生きる」ことが大事|好書好日 |url=https://book.asahi.com/article/14622287 |website=好書好日 |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年) - 『和田誠切抜帖』で造本装幀コンクール展日本書籍出版協会理事長賞(第42回)を受賞<REF>日外アソシエーツ現代人物情報</REF>。 * [[2015年]](平成27年) - 「一コマ漫画を目指す人たちのお手本として」<REF>読売人物データベース</REF>、[[日本漫画家協会賞]]特別賞(第44回)を受賞<REF>日外アソシエーツ現代人物情報</REF>。 *[[2020年]](令和2年) - 「映画の素晴らしさや愉しさを広く伝え、多くの映画ファンを育てた功績に感謝をこめた」ことから、第93回[[キネマ旬報]]ベスト・テン授賞式で特別賞を受賞<ref>{{Cite web |title=2019年 第93回「キネマ旬報ベスト・テン」全作品公開! |url=https://www.kinejun.com/article/view/2064 |website=キネマ旬報WEB |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。 == 著書 == *画『People : 和田誠肖像画集』 美術出版社 1973年 *『デザイン街路図』 昭文社出版部 1973年 *『にっぽんほら話』 講談社 1974年 *『お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ』 文藝春秋 1975年 のち文庫 ::国書刊行会で2022年に復刊(全7巻) *『お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ Part2』 文藝春秋 1976年 *『日曜日は歌謡日』 講談社 1976年 *画『ポスターランド』 講談社 1976年 *画『People : 和田誠肖像画集 2』 美術出版社 1977年 *『いつか聴いた歌』 文藝春秋 1977年 のち文庫 のち愛育社 *『倫敦巴里』 話の特集 1977年 *『和田誠百貨店』 美術出版社 1978年 *『たかが映画じゃないか』 [[山田宏一]]と共著 文藝春秋 1978年 のち文庫 *『落語横車』 講談社 1980年 のち文庫 *『にっぽんほら話』 講談社 1980年 のち文庫 *『お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ part 3』 文藝春秋 1980年 *『シネマッド・ティーパーティ』 講談社 1980年 のち文庫 *『サニーサイドアップ : 和田誠漫画集』 CBS・ソニー出版 1980年 *『きなきな族からの脱出』 角川書店 1981年 のち文庫 *画『装幀パレード : 和田誠イラストレーション集』 岩崎美術社 1982年 *画『特別飛行便 : 和田誠・週刊文春表紙画選』 文藝春秋 1982年 *画『SF大会 : 和田誠イラストレーション集』 岩崎美術社 1982年 *対談『映画に乾杯 : 歓談・和田誠と11人のゲスト』 キネマ旬報社 1982年 *『わたくし大画報』 講談社 1982年 *画『CMくらぶ : 和田誠イラストレーション集』 岩崎美術社 1982年 *『ビギン・ザ・ビギン : 日本ショウビジネス楽屋口』 文藝春秋 1982年 のち文庫 *『ポストカード・ニューヨーク 1・2』 [[篠山紀信]]と共著 文芸春秋 1983年 (文春絵はがき文庫) *『プライヴェート・ニューヨーク』 和田誠 文・絵/篠山紀信 写真 文芸春秋 1983年 *『親馬鹿子馬鹿』 [[和田唱]]と共著 講談社 1983年 *対談『酒の本棚・酒の寓話』サントリー 1983年 *『いろんなもの・いろんなうた』 新潮社 1984年 *『シナリオ 麻雀放浪記』原作:[[阿佐田哲也]]、脚本:和田誠+[[澤井信一郎]] 角川文庫 1984年 *編『モンローもいる暗い部屋』新潮社 1985年 (エッセイ・おとなの時間) *『新人監督日記』 角川書店 1985年 *『A面B面 : 作詞・レコード・日本人』 [[阿久悠]]と共著 文芸春秋 1985年 のち、ちくま文庫 *対談『映画に乾杯 : 歓談・和田誠と11人のゲスト 2』 キネマ旬報社 1985年 *『日曜日は歌謡日』 講談社文庫 1986年 *『お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ part 4』 文藝春秋 1986年 *編『ひとコマランド傑作選』 講談社 1986年 *『カメラ対ギャルス』 話の特集 1986年 *対談『和田誠インタビューまたは対談 その2』 話の特集 1987年 *『和田誠百貨店〈B館〉』 美術出版社 1988年 *編『心がぽかぽかする本』NTT出版 1989年 *『メイキング・オブ・快盗ルビイ』 [[長谷川隆]]共著 筑摩書房 1989年 *対談『和田誠インタビューまたは対談 その3』 話の特集 1989年 *編『心がぽかぽかする本 2』 NTT出版 1990年 *『旅の絵日記』 平野レミと共著/関原彰 写真 講談社 1990年 *『Cats in Wadaland』 マガジンハウス 1991年 *『シネマッド・カクテルパーティ』 講談社 1991年 *『3D』 [[リブロポート]] 1991年 (a-tempo ; 9) *『ブラウン管の映画館』 ダイヤモンド社 1991年 のち、ちくま文庫 *編・画『心がぽかぽかする本 3』 NTT出版 1992年 *編著『映画とジャズ』 和田誠 ビクター音楽産業 1992年 (ビクターブックス) *対談『和田誠インタビューまたは対談 その4』 話の特集 1992年 *『和田誠装幀の本』 リブロポート 1993年 *『銀座界隈ドキドキの日々』 文藝春秋 1993年 のち文庫 *『おさる日記』 [[村上康成]] 絵 偕成社 1994年 *対談『怖がる人々を作った人々』 文藝春秋 1994年 *『ことばの波止場』 白水社 1995年 のち白水Uブックス、中公文庫 *『冒険がいっぱい』 [[長新太]] 画 文渓堂 1995年 (おはなしメリーゴーランド) *『お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ part 5』 文藝春秋 1995年 *童話『ことばのこばこ』 絵も 瑞雲舎 1995年 *童話『4人目の王さま』 絵も、[[八木正生]] 編曲 理論社 1995年 (うたのほん) *『gggBooks 27 和田 誠』ギンザ・グラフィック・ギャラリー 1996年 *童話『ねこのシジミ』 ほるぷ出版 1996年 (イメージの森) *編『[[日本の名随筆]] 別巻 63 芸談』 作品社 1996年 *『お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ part 6』文藝春秋 1996年 *童話『かいぞくのうた』 あかね書房 1996年 (あかねピクチャーブックス ; 4) *『ポートレイト・イン・ジャズ』 [[村上春樹]]と共著 新潮社 1997年 のち文庫 *『お楽しみはこれからだ : 映画の名セリフ pt.7』 文藝春秋 1997年 *『装丁物語』 和田誠 著 白水社 1997年 のち白水Uブックス *『それはまた別の話』 [[三谷幸喜]]と共著 文藝春秋 1997年 のち文庫 *『似顔絵物語』 白水社 1998年 のち白水Uブックス *『女の小説』 [[丸谷才一]]共著 光文社 1998年 のち文庫 *責任編集『[[赤塚不二夫]]1000ページ』 扶桑社 1998年 *童話『ガクの絵本』 ほるぷ出版 1999年 *『これもまた別の話』 三谷幸喜と共著 キネマ旬報社 1999年 のち新潮文庫 *『今日も映画日和』 [[川本三郎]]、[[瀬戸川猛資]]と共著 文藝春秋 1999年 のち文庫 *『時間旅行』 メディアファクトリー 2000年 *『知らない町角』 白水社 2001年 *『ジャズと映画と仲間たち』 [[猪腰弘之]]と共著 講談社 2001年 *『光と嘘、真実と影 : 市川崑監督作品を語る』 [[森遊机]]と共著 河出書房新社 2001年 *対談『仕事場対談 : 和田誠と27人のイラストレーター』 河出書房新社 2001年 *『ポートレイト・イン・ジャズ 2』 村上春樹と共著 新潮社 2001年 *『指からウロコ』 白水社 2001年 *『物語の旅』フレーベル館 2002年 *『パイがいっぱい』 文化出版局 2002年 *『白い嘘 : 句集』 梧葉出版 2002年 *『No idea』 [[安西水丸]]と共著 金の星社 2002年 *画『和田誠鉛筆映画館』 HBギャラリー 2002年 *『青豆とうふ』 安西水丸と共著 講談社 2003年 のち新潮文庫 *画『旅のスケッチブック』 新書館 2004年 *『シネマ今昔問答』 新書館 2004年 *『誠の話』 [[椎名誠]]と共著 角川書店 2004年 *『教養主義!』 山田宏一、[[村上知彦]]、[[中条省平]]、[[石上三登志]]、[[金井美恵子]]、[[萩原健太]]、[[高橋源一郎]]、[[飯沢耕太郎]]、[[井家上隆幸]]、[[鷲田清一]]、[[片岡義男]] 共著 フリースタイル 2004年 *『シネマ今昔問答 望郷篇』 新書館 2005年 *画『和田誠の絵本の仕事』 ふくやま美術館 編 ふくやま美術館 2005年 *『テーブルの上の犬や猫』 安西水丸と共著 文藝春秋 2005年 *童話『ぬすまれた月』 絵も 岩崎書店 2006年 (レインボーえほん ; 3) *『和田誠切抜帖』 新書館 2007年 *『[[村上ソングズ]]』 村上春樹共編訳 中央公論新社 2007年 *童話『ポケットからなにがでる?』 福音館書店 2007年 *画『表紙はうたう : 和田誠・「週刊文春」のカヴァー・イラストレーション』 装幀 文藝春秋 2008年 *『パートナーズ』 安西水丸と共著 文藝春秋 2008年 *『ヒッチコックに進路を取れ』 [[山田宏一]]と共著 草思社 2009年 のち文庫 *『本漫画』 毎日新聞社 2009年、[[中公文庫]] 2022年 *『ぼくのしょうらいのゆめ』 [[市川準]]、[[内田裕也]]、[[大竹伸朗]]、[[関野吉晴]]、[[祖父江慎]]、[[高橋悠治]]、[[田中泯]]、[[谷川俊太郎]]、[[野口聡一]]、[[舟越桂]]、[[吉本隆明]]、文藝春秋 2009年 (文春文庫) *『四人四色 : イラストレーター4人への30の質問』 [[灘本唯人]]、[[宇野亜喜良]]、和田誠、[[横尾忠則]] 著 白水社 2009年 *『東京見物』講談社 2009年 *童話『ポケットに砂と雪』 絵も フェリシモ 2010年 (おはなしのたからばこ ; 19) *『連句遊戯』 [[笹公人]]と共著 白水社 2010年 *画『Black & White in Wadaland : 和田誠モノクローム作品集』 愛育社 2010年 *画『和田誠私家版絵本ボックス』 復刊ドットコム 2011年 *画『和田誠展書物と映画』 デザイン・レイアウト 世田谷文学館 2011年 *『Coloring in Wadaland : 和田誠カラー作品集』 愛育社 2011年 *『五・七・五交遊録』白水社 2011年 *画『Posters in Wadaland : 和田誠ポスター集』 愛育社 2012年 *画『地にはピース』 たばこと塩の博物館 2012年 *『みんな猫である』 玄光社MOOK 2013年 *『画廊の隅から : 東日本大震災チャリティ・イラストレーション作品集』 講談社 2013年 *『回文の愉しみ 土屋耕一のことばの遊び場』 [[土屋耕一]]と共編著、東京糸井重里事務所 2013年 *編『聞いたり聞かれたり』 七つ森書館 2013年 *『生き物が見る私たち』 [[中村桂子]]と共著 青土社 2014年 *画『和田誠シネマ画集』 ワイズ出版 2014年 *画『Book Covers in Wadaland : 和田誠装丁集』 アルテスパブリッシング 2014年 *画『Record Covers in Wadaland : 和田誠レコードジャケット集』 アルテスパブリッシング 2014年 *『ニャンコトリロジー』 ハモニカブックス 2014年 *『ほんの数行』 七つ森書館 2014年 *『連句日和』 笹公人、[[矢吹申彦]]、[[俵万智]]と共著 自由国民社 2015年 *『ぼくが映画ファンだった頃』 七つ森書館 2015年 *『村上春樹とイラストレーター -佐々木マキ、大橋歩、和田誠、安西水丸』 村上春樹、[[佐々木マキ]]、[[大橋歩]]、安西水丸と共著 ちひろ美術館監修 ナナロク社 2016年 *『もう一度倫敦巴里』 ナナロク社 2017年 *画『和田誠と日本のイラストレーション』 たばこと塩の博物館 2017年 *『定本和田誠時間旅行』玄光社 2018年 *『夢の砦 二人でつくった雑誌「[[話の特集]]」』[[矢崎泰久]]共著、ハモニカブックス、2022年 *『和田誠 映画の仕事』国書刊行会、2023年 === 挿絵担当書籍一覧 === *『真説 金田一耕助』[[横溝正史]]著 毎日新聞社 1977年 のち角川文庫 *『[[金田一耕助の冒険]]』 横溝正史著 角川文庫 1979年 (1976年版では[[杉本一文]]の表紙であったが、分冊化した際に和田誠の表紙に差し替えられた) *絵本『あな』[[谷川俊太郎]]、[[福音館書店]] 1976年 *絵本『とぶ』[[谷川俊太郎]]、[[福音館書店]] 1978年 *絵本『これはのみのぴこ』[[谷川俊太郎]]、サンリード 1979年 *『[[マザー・グース]]』全4巻、[[谷川俊太郎]]訳、講談社文庫 *『戦後史グラフィティ』 [[色川武大]]、[[長部日出雄]]、[[村松友視]]共著 話の特集編集室 1989年 *『イソップ株式会社』[[井上ひさし]]著 中央公論新社 2005年 のち文庫 *『きまぐれロボット』他、[[星新一]]の著書 *『冷蔵庫より愛をこめて』他、[[阿刀田高]]の著書 *『[[マイナス・ゼロ]]』他(『[[広瀬正]]・小説全集』全6冊、集英社、1982年) *『[[熱海殺人事件]]』他、[[つかこうへい]]の著書 - つかこうへいの舞台のポスターも担当した *『気まずい二人』他、[[三谷幸喜]]著の対談集、エッセイ本 *[[丸谷才一]]著の[[エッセイ]]本 *[[東海林さだお]]著のエッセイ本 *[[カート・ヴォネガット]]の翻訳刊行本 *[[ぼくは王さま]]、ノコ星ノコくん(王さまシリーズの挿絵は1冊目のみ。その後は[[和歌山静子]]に交代している。誠は[[寺村輝夫]]の同級生の教え子にあたる) *『絵本 [[パパラギ]]』[[立風書房]] 2002年 *絵本『がいこつ』[[谷川俊太郎]]、[[福音館書店|教育画劇]] 2005年 *絵本『はなとひみつ』[[星新一]]、フレーベル館 2009年 ;他多数 === 翻訳 === * オフ・オフ・マザー・グース * [[スチュアート・M・カミンスキー]]・「トビー・ピータース」シリーズ(挿絵も担当)<ref>12年振りの翻訳出版となった3作目の『我輩はカモじゃない』では訳者が田口俊樹に代わり、解説と挿絵を担当。この経緯について解説の中で「カミンスキーは次々書いていたのだが、翻訳を約束していた私がサボっていたのである。(中略)わたしは絵と解説という形で辛うじてシリーズに踏みとどまらせてもらった。」とある。</ref> ** ロビン・フッドに鉛の玉を ** 虹の彼方の殺人 * [[劇団四季]]ミュージカル『[[クレイジー・フォー・ユー]]』訳詞 == 映像作品 == === 映画作品 === * [[新しい動画 3つのはなし]](1961年) - 監督・作画 * 殺人 MURDER(1964年) - 制作・監督・作画 * パンパの活躍([[1970年]]) - 美術・アニメーション * 恋の大冒険(1970年) - 美術 * [[金田一耕助の冒険 (映画)|金田一耕助の冒険]](1979年) - アニメーションパートとタイトルデザイン * [[麻雀放浪記#映画(1984年版)|麻雀放浪記]](1984年) - 監督・共同脚本 * ヒロシマという名の少年(1987年) - イラスト * [[快盗ルビイ]]([[1988年]]) - 監督・脚本(主題歌「[[快盗ルビイ (曲)|快盗ルビイ]]」の作詞、挿入歌「たとえばフォーエバー」の作詞・作曲も行った) * 怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年) - 製作・監督・作曲 * [[フィルムは生きている]] 手塚治虫フィルモグラフィー 1962-1989(1990年) - タイトル字慕デザイン * 怖がる人々(1994年) - 監督・脚本 * [[しずかなあやしい午後に]](第1話 ガクの絵本)([[1997年]]) - 監督・脚本 * [[真夜中まで]]([[1999年]]) - 監督・脚本 * [[みんなのいえ]]([[2001年]]) - 出演 * [[かあちゃん]]([[2001年]]) - タイトル画 * 照明熊谷学校([[2004年]]) - 監修 * [[ふしぎな岬の物語]]([[2014年]]) - 題字デザイン === みんなのうた === 無印は映像が現存する曲。▲マークは現存しない曲。<!--参考:「みんなのうた」サイト--> * 1.[[誰も知らない (みんなのうた)|誰も知らない]] / [[楠トシエ]] - 1961年、1965年とも。 * 2.[[ビビディ・バビディ・ブー]] / [[スリーグレイセス]]▲ * 3.[[ママごめんなさい]] / [[中尾ミエ]] * 4.[[つむじ風]] / [[立川澄人]]、[[NHK東京児童合唱団|東京放送児童合唱団]]▲ * 5.[[小さなカレンダー]] / 東京放送児童合唱団▲ * 6.[[お化けなんてないさ]] / [[弘田三枝子]]▲ * 7.[[猫踏んじゃった|ねこふんじゃった]] / [[天地総子]]、東京放送児童合唱団 * 8.[[四人目の王さま]] / [[坂本九]] * 9.[[パパのバイオリン]] / [[友竹正則]]、[[杉並児童合唱団]]▲ * 10.[[みんみんぜみの歌]] / [[荒木一郎]]、[[みすず児童合唱団]]▲ * 11.[[バケツの穴]] / [[熊倉一雄]]、東京放送児童合唱団 初のアニメ作品を手掛けたものの、その映像はわずかしか現存せず、[[2011年]]開始の「[[みんなのうた#発掘プロジェクト|みんなのうた発掘プロジェクト]]」でも、音声曲は提供されたが、映像曲は提供されなかった。 === その他映像作品 === * 東芝タイムスイッチ(テレビCM、東芝) *[[ゴールデン洋画劇場]](フジテレビ、タイトル画) * [[今夜は最高!]](日本テレビ、タイトル画) * [[サワコの朝]]([[MBSテレビ|毎日放送]]・[[TBSテレビ|TBS]]共同制作の[[トーク番組]]。同番組のタイトルデザインを製作) ==レコード== *[[三木鶏郎]]ソングブック(和田プロデュース、1971年) *ちいさな地球 和田誠・うたの絵本ちいさな地球(和田誠:作詞/作曲、歌:平野レミ・[[中山千夏]]、1977年) *和田誠寄席(和田誠の新作落語集、1979年) *[[岸洋子]]リサイタル '79(構成担当、1979年) *[[EVE (歌手グループ)|EVE]]『EVE LIVE』(和田プロデュース、1983年) ===CD=== *いつか聴いた歌 I've heard that song before (ソング・アンド・ダンス) 和田誠 監修・選曲 2013 *いつか聴いた歌 I've heard that song before 2 (ソング・アンド・ダンス) 和田誠 監修・選曲 2014 *和田誠ソングブック The Wada Makoto song book 和田誠 [作曲]、デューク・エイセス、岸洋子 ほか歌 ウルトラ・ヴァイヴ 2015 (TV age) == 関連文献 == *『12人の[[グラフィックデザイナー]] 第2集』編集部編、[[美術出版社]]・[[1977年]](昭和52年)([https://web.archive.org/web/20070927121303/http://www.booksrepublic.com/art-22detail.html]) *『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集=和田誠』2020年1月号、[[青土社]]。追悼特集。ISBN 4791703804 * {{Cite book|和書|title=和田誠展|author=和田誠展制作チーム|origdate=2021-10-22|publisher=[[ブルーシープ]]|isbn=978-4908356292}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[報知映画賞]] - 受賞者に贈呈されるブロンズ像のデザインを担当 == 外部リンク == * [https://wadamakoto.jp/ 和田誠 公式ホームページ] * {{allcinema name|118548|和田誠}} * {{Kinejun name|91939|和田誠}} * {{JMDb name|0379640|和田誠}} * {{IMDb name|0538706|Makoto Wada}} * [https://www.asahi.com/articles/ASMBC4GVKMBCUCLV00C.html 和田誠さん、83歳で死去 イラストレーター・映画監督(朝日新聞デジタル記事、2019年10月11日)] * [https://www.lib.city.shibuya.tokyo.jp/wada-library/ 渋谷区立図書館 和田誠記念文庫] * [https://aac.tamabi.ac.jp/archive/archives/wadamakoto.html 和田誠アーカイヴ] - [[多摩美術大学]]アートアーカイヴセンター * [https://wadamakototen.jp/ 和田誠展] * {{Twitter|wadamakototen|和田誠展}} * {{Instagram|wadamakoto_world}} {{講談社エッセイ賞|第9回}} {{ブルーリボン賞監督賞}} {{みんなのうたの映像制作者}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:わた まこと}} [[Category:和田誠|*]] [[Category:日本の男性イラストレーター]] [[Category:日本の映画評論家]] [[Category:日本の映画監督]] [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:日本の作詞家]] [[Category:日本の男性作曲家]] [[Category:日本の装幀家]] [[Category:日本の随筆家]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:20世紀日本の随筆家]] [[Category:21世紀日本の随筆家]] [[Category:ミステリに関連する人物]] [[Category:日本のコラムニスト]] [[Category:みんなのうたの映像制作者]] [[Category:講談社エッセイ賞受賞者]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:多摩美術大学出身の人物]] [[Category:和田精家|まこと]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:1936年生]] [[Category:2019年没]]
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金子修介
金子 修介(、1955年6月8日 - )は、日本の映画監督。 東京都渋谷区初台出身。東京都立三鷹高等学校、東京学芸大学教育学部卒業。大学卒業時には小学校教員・国語科の教員免許を取得している。 渋谷区立幡代小学校の同級生に劇作家の野田秀樹、大学映研の先輩部員に映画監督の押井守がいる。 東京学芸大学では映像芸術研究会に所属(押井の直接の後輩にあたる)。自主映画の制作ニュースを載せる新聞を発行して製作資金を集めて、コメディ映画を撮影した。 大学を卒業後、1978年に映画会社日活へ入社。日活ロマンポルノの助監督を務めていた1981年に、 押井の手がけていたテレビアニメ版『うる星やつら』第3話の脚本で商業デビュー。同作品での脚本担当はわずか3回(6話)分にすぎないが、アニメオリジナルエピソードに先鞭をつける役割を果たした。 その後、脚本の書ける助監督として何本かのロマンポルノで助監督兼任または単独で脚本を執筆したのち、1984年2月に日活ロマンポルノ『宇能鴻一郎の濡れて打つ』で商業監督デビューした。同年6月に、にっかつ撮影所の契約社員となり、1985年にニュー・センチュリー・プロデューサーズへ移籍。1987年、ヤクザコメディ『恐怖のヤッちゃん』をヤクザ映画の総本山、東映京都撮影所で撮るという難しい企画で初の他社撮影所進出に成功(しかも同撮影所はロマンポルノの先輩、田中登と神代辰巳がともに苦杯をなめた因縁の地であった)。以降、松竹、東宝と大手撮影所を総なめにし、現在はフリーランスの立場で映画製作を手がけている。 なお、自主映画出身でロマンポルノ『ピンクカット 太く愛して深く愛して』にゲスト監督として招聘された森田芳光とは、同作品および引き続いて日活撮影所協力で製作された『家族ゲーム』にもついたほか、監督昇進後も角川映画の『メイン・テーマ』で助監督を務めるなど、親密な関係であった。ロマンポルノでは、青春ものを得意とする小原宏裕らの現場に多くついている。 1995年、『ガメラ 大怪獣空中決戦』で第38回ブルーリボン賞監督賞および映画芸術誌邦画ベスト10で第1位、1996年に『ガメラ2 レギオン襲来』で第17回日本SF大賞を受賞。 両親は、日本共産党の党員で、雑誌『今日のソ連邦』を購読していた。父の金子徳好は、「アメリカはベトナムから手を引け」などの反戦ゼッケンを8年もの間、胸に付けて通勤し続けた。母の金子静枝は切絵作家、弟の金子二郎は脚本家である。脚本家の金子鈴幸は息子、映画監督の金子由里奈は娘。 小学生のころから石森章太郎の『マンガ家入門』を手本にマンガを描き始め、中学3年生のときには 『COM』にも投稿。高校に入学した1971年より8ミリ映画による自主映画の製作を始め、映画青年となる。 小学生のころは自作の怪獣事典を作るほどの怪獣少年であった。小学校時代の学芸会では、同級生であった野田秀樹とダンボールなどで作った怪獣を演じたという。小学1年生の時に観た『キングコング対ゴジラ』では、ゴジラが引き分けることに納得がいかず、ゴジラが勝つ漫画を自作した。 映画を撮り始めたころには怪獣のことは忘れて『仁義なき戦い』に傾倒しており、自身も社会問題を題材にすることを目指していたが、デビュー後に世界に通用するエンターテイメントは何か考えたところ、ハリウッドに対抗できる題材は怪獣映画だと思い至った。自身のデビュー当時は怪獣映画をやりたいと言っても笑い話にしかならなかったが、後年にハリウッドでモンスター・ヴァースが制作された際には、当時の考えは間違いではなかったと思えるようになったという。 幼少期、最初に鑑賞した映画『モスラ』は、両親とともに観た幸福な体験として記憶されているという。後年、『ゴジラvsモスラ』の制作発表当時の特報に監督名が記載されていなかったことから、東宝プロデューサーの富山省吾へ監督への起用を要望する年賀状を送っていた。これは実現に至らなかったが、地上のゴジラを空中からモスラが攻撃するとの構想は、後に手がけた『ガメラ 大怪獣空中決戦』でのガメラとギャオスの戦いに継承された。また、『ガメラ』への起用時には、『vsモスラ』の件を知っていた大映プロデューサーの鈴木良紀から「ゴジラの仇をガメラで討ちましょう」と言われたという。その後、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』でモスラを登場させているが、当初の企画におけるバランの代わりであったため、モスラを爆散させたことや小美人を出せなかったことなどが心残りであったと述べている。なお、ゴジラシリーズの中で好きな怪獣としてメカキングギドラを挙げている。 映画スタッフ編成では、いわゆる「○○組」といった形ではなく、作品ごとにチームを組むスタイルのため、固定スタッフは多くないが、撮影監督の高間賢治とは10作品以上で、作曲家の大谷幸とも8作品で組んでいる。 少女アイドル好きで知られ、アイドル映画で起用されることも多いが、自身の企画においても若手女優のキャスティングに偏重している。 ロマンポルノ時代には山本奈津子・イヴ・水島裕子・かとうみゆき、一般映画では深津絵里・小沢なつき・中山美穂・宮沢りえ・斉藤由貴・織田裕二・佐伯日菜子、最近作でも優香・上戸彩・藤原竜也らを起用しており、その演出手腕にも定評がある。 オタク歴を公言している世代としては映画監督デビュー第1号である。それもロマンポルノという特殊な分野においてアニメパロディを織り込んで注目を集め、その後も『ゴジラvsモスラ』の監督立候補など、怪獣映画を作ることに関心を寄せ、『ウルトラQ』映画化の頓挫を経験した後、『ガメラ 大怪獣空中決戦』の成功で怪獣映画というジャンルに新風を吹き込んだ。自らの嗜好と趣味を絶え間なくアピールし続けることにより、撮りたい映画を撮れる環境を作り上げていった努力の軌跡である。 怪獣映画の2大シリーズであるゴジラとガメラを両方とも撮った経験を持つ、最初の監督でもある。さらに、テレビドラマにおいては『ウルトラマンマックス』も演出しており、その劇中でソフトビニール人形を使った子供の遊びとして「ゴジラ対ガメラ」を意図的に構成してみせた。このシーンは金子が直接東宝プロデューサーの富山省吾や角川映画に許可を得ており、権利関係から再放送やソフト化の際にはカットされている。 物語を観客に信じさせるための強固な理屈作りを重視しており、原作ものでも原作にない設定を加えている。怪獣映画では、観客は2体以上の怪獣を観たいと分析しているが、2体以上では理屈付けが難しく、ガメラやゴジラでは対戦相手に古代からの因縁を設けている。 『ガメラ』の撮影では、自衛隊の全面協力を受けたことが『朝日新聞』と『読売新聞』に興味本位で取り上げられ、『しんぶん赤旗』同紙日曜版には自衛隊を賛美するものと同作の完成前から批判する読者投稿が掲載された。しかし、自身は「日本の自衛のためには憲法九条の二項の戦力の保持は改正して軍隊として認めるべきだが、集団的自衛権を否定して軍事同盟も破棄すべき」とする持論を挙げており、自衛隊のメディア戦略なども理解している。そして、映画の完成前から批判意見を載せた『しんぶん赤旗』に反論する自らの意見を掲載させている。ただし、『ガメラ』の監督作品全3作とも戦闘機が撃墜されるシーンが自衛隊から協力をもらうために不採用となった件に関しては、後年の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(以下『GMK』)で実在しない防衛軍を設定し、その戦闘機が住宅地へ墜落して火災が発生するシーンを映像化してみせた。同作品については、日米安全保障条約が締結されておらず戦争放棄のために兵器の所有を認めている世界観であるとしている。 ガメラシリーズのころから自身でも特撮の演出も手掛けたいと希望し、『GMK』では自身で造型の打ち合わせや絵コンテの制作を行った後に特殊技術の神谷誠へ委ねるというスタイルをとった。金子は、自身で怪獣に芝居をつけたいという想いもあったが、実際の現場を見て自身では細かい芝居をつけることはできなかっただろうと感じ、神谷を信頼して正解であったと述べている。 脚本家の長谷川圭一は、かつて金子組で装飾スタッフを務めており、執筆した脚本を金子に読んでもらってアドバイスを受けるなどを経て、デビューに至った。そのつながりから金子は、『GMK』で長谷川を脚本家として起用している。 津川雅彦には、CMを演出した縁から可愛がってもらったといい、金子作品には短いシーンでも出演することが多い。津川は、金子について義理人情に厚く、笑顔が可愛いので惚れてしまったと語っていた。 『GMK』で主演を務めた新山千春は、金子について「独特な雰囲気の方」と評しており、新山の役作りが金子の考えと違うものであっても頭ごなしに否定はせず、指示もわかりやすく伸び伸びと演技できたと語っている。同作品に出演した小林正寛も金子からいろいろなことを教えてもらい愛情を感じたと述べ、葛山信吾は「非常にマイペースな方」と述懐している。 1993年の作品『卒業旅行 ニホンから来ました』の撮影時、主演の織田裕二との間でトラブルが発生し、その顛末を公開直後の『シナリオ』誌に寄稿した。同誌では、製作裏話とともに織田への批判を述べている。また、『卒業旅行』の撮影に関しては『ガメラ監督日記』の中で「本が3冊書けるぐらい」の経験をした、と綴っている。
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金子 修介(かねこ しゅうすけ、は、日本の映画監督。
{{ActorActress | 芸名 = 金子 修介 | ふりがな = かねこ しゅうすけ | 画像ファイル = Kaneko Shusuke from "Gold Boy" at Red Carpet of the Tokyo International Film Festival 2023 (53348344064) (cropped).jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = [[第36回東京国際映画祭]]にて([[2023年]][[10月23日]]) | 出生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[渋谷区]] | 生年 = 1955 | 生月 = 6 | 生日 = 8 | 職業 = [[映画監督]] | ジャンル = [[映画]] | 活動期間 = [[1978年]] - | 公式サイト = [http://www.shusuke-kaneko.com/ 金子修介 公式情報サイト] | 主な作品 = {{Plainlist| * 『[[1999年の夏休み#映画「1999年の夏休み」|1999年の夏休み]]』 * 『[[就職戦線異状なし]]』 * 『[[毎日が夏休み]]』{{R|BOK62}} * 平成[[ガメラ]]3部作{{R|BOK62}} * 『[[学校の怪談 (映画)#『学校の怪談3』(1997年)|学校の怪談3]]』 * 『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』 * 『[[デスノート (映画)|デスノート2部作]]』{{R|BOK62}} }} | ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />'''第38回『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』{{R|BOK62}} | その他の賞 = '''[[ヨコハマ映画祭]]'''<br />'''新人監督賞'''<br />'''[[1984年]]『[[宇能鴻一郎の濡れて打つ]]』他'''<br />'''監督賞'''<br />'''[[1988年]]『[[1999年の夏休み]]』<br>[[1995年]]『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』<hr>[[日本SF大賞]]'''<br />'''第17回『[[ガメラ2 レギオン襲来]]』{{R|BOK62}} }} {{読み仮名|'''金子 修介'''|かねこ しゅうすけ|[[1955年]]{{Refnest|group="出典"|{{R|プロフィール|東宝SFSE0110|BOK62}}}}[[6月8日]] - }}は、[[日本]]の[[映画監督]]。 == 略歴 == [[東京都]]{{Refnest|group="出典"|name="東京都"|{{R|東宝SFSE0110|ソノラマGMK69|BOK62}}}}[[渋谷区]][[初台]]<ref>[https://www.actorschool.jp/sagworkshop/report05.html 金子修介 監督のワークショップ] 松濤アクターズギムナジウム 2023年3月29日閲覧。</ref>出身。[[東京都立三鷹高等学校]]、[[東京学芸大学]][[教育学部]]卒業。大学卒業時には[[小学校教員]]・[[国語 (教科)|国語科]]の[[教育職員免許状|教員免許]]を取得している。 渋谷区立幡代小学校の同級生に劇作家の[[野田秀樹]]{{R|プロフィール|BOK62}}、大学映研の先輩部員に映画監督の[[押井守]]がいる{{R|プロフィール}}。 東京学芸大学では映像芸術研究会に所属(押井の直接の後輩にあたる)。自主映画の制作ニュースを載せる新聞を発行して製作資金を集めて、コメディ映画を撮影した<ref>{{Cite book |和書 |author = 押井守 |title = すべての映画はアニメになる |year = 2004 |publisher = [[徳間書店]] |series = アニメージュ叢書 |pages = 138 - 139 |isbn = 4198618283 |quote = アニメ雑誌『[[アニメージュ]]』掲載の 押井と金子の対談記事再録 }}</ref>{{R|押井守全仕事 増補改訂版}}。 大学を卒業後、1978年に映画会社[[日活]]へ入社{{Refnest|group="出典"|name="東京都"}}。[[日活ロマンポルノ]]の[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]を務めていた[[1981年]]に、 押井の手がけていたテレビアニメ版『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』第3話の脚本で商業デビュー。同作品での脚本担当はわずか3回(6話)分にすぎないが、アニメオリジナルエピソードに先鞭をつける役割を果たした。 その後、脚本の書ける助監督として何本かのロマンポルノで助監督兼任または単独で脚本を執筆したのち、[[1984年]]2月に日活ロマンポルノ『[[宇能鴻一郎の濡れて打つ]]』で商業監督デビューした{{Refnest|group="出典"|name="東京都"}}。同年6月に、[[にっかつ撮影所]]の契約社員となり、1985年にニュー・センチュリー・プロデューサーズへ移籍。1987年、ヤクザコメディ『[[恐怖のヤッちゃん]]』をヤクザ映画の総本山、東映京都撮影所で撮るという難しい企画で初の他社撮影所進出に成功(しかも同撮影所はロマンポルノの先輩、[[田中登]]と[[神代辰巳]]がともに苦杯をなめた因縁の地であった)。以降、松竹、東宝と大手撮影所を総なめにし、現在はフリーランスの立場で映画製作を手がけている。 なお、自主映画出身でロマンポルノ『ピンクカット 太く愛して深く愛して』にゲスト監督として招聘された[[森田芳光]]とは、同作品および引き続いて日活撮影所協力で製作された『[[家族ゲーム]]』にもついたほか、監督昇進後も角川映画の『[[メイン・テーマ (映画)|メイン・テーマ]]』で助監督を務めるなど、親密な関係であった。ロマンポルノでは、青春ものを得意とする[[小原宏裕]]らの現場に多くついている。 [[1995年]]、『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』で第38回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]監督賞および映画芸術誌邦画ベスト10で第1位、[[1996年]]に『[[ガメラ2 レギオン襲来]]』で第17回[[日本SF大賞]]を受賞。 == 人物 == 両親は、[[日本共産党]]の党員で、雑誌『[[今日のソ連邦]]』を購読していた<ref>金子修介「三大怪獣 地球最大の決戦 怪獣映画と革命家族」『別冊映画秘宝 東宝特撮総進撃』洋泉社、2009年、p24</ref>。父の[[金子徳好]]は、「アメリカはベトナムから手を引け」などの反戦ゼッケンを8年もの間、胸に付けて通勤し続けた。母の金子静枝は切絵作家、弟の[[金子二郎]]は脚本家である。脚本家の[[金子鈴幸]]は息子、映画監督の[[金子由里奈]]は娘。 小学生のころから[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]の『マンガ家入門』を手本にマンガを描き始め、中学3年生のときには 『[[COM (雑誌)|COM]]』にも投稿。高校に入学した[[1971年]]より[[8ミリ映画]]による[[自主映画]]の製作を始め、映画青年となる。 小学生のころは自作の怪獣事典を作るほどの怪獣少年であった{{Sfn|金子修介|1998|pp=12 - 18}}{{R|GMK超全集36}}。小学校時代の学芸会では、同級生であった[[野田秀樹]]とダンボールなどで作った怪獣を演じたという{{R|max|BOK62}}。小学1年生の時に観た『[[キングコング対ゴジラ]]』では、ゴジラが引き分けることに納得がいかず、ゴジラが勝つ漫画を自作した{{R|GMK超全集36}}。 映画を撮り始めたころには怪獣のことは忘れて『[[仁義なき戦い]]』に傾倒しており、自身も社会問題を題材にすることを目指していたが、デビュー後に世界に通用するエンターテイメントは何か考えたところ、ハリウッドに対抗できる題材は怪獣映画だと思い至った{{R|BOK62}}。自身のデビュー当時は怪獣映画をやりたいと言っても笑い話にしかならなかったが、後年にハリウッドで[[モンスター・ヴァース]]が制作された際には、当時の考えは間違いではなかったと思えるようになったという{{R|BOK62}}。 幼少期、最初に鑑賞した映画『[[モスラ]]』は、両親とともに観た幸福な体験として記憶されているという{{R|モスラ映画大全16|平成ガメラP200}}。後年、『[[ゴジラvsモスラ]]』の制作発表当時の特報に監督名が記載されていなかったことから、東宝プロデューサーの[[富山省吾]]へ監督への起用を要望する年賀状を送っていた{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|金子修介|1998|p=8}}{{R|東宝SFSE0110|GMK超全集2|モスラ映画大全16|平成ガメラP200|GMKC73}}}}。これは実現に至らなかったが、地上のゴジラを空中からモスラが攻撃するとの構想は、後に手がけた『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』でのガメラとギャオスの戦いに継承された{{R|東宝SFSE0110|モスラ映画大全16}}。また、『ガメラ』への起用時には、『vsモスラ』の件を知っていた大映プロデューサーの[[砂本量|鈴木良紀]]から「ゴジラの仇をガメラで討ちましょう」と言われたという{{R|平成ガメラP200|GMKC73}}。その後、『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』でモスラを登場させているが、当初の企画における[[大怪獣バラン|バラン]]の代わりであったため、モスラを爆散させたことや[[小美人]]を出せなかったことなどが心残りであったと述べている{{R|モスラ映画大全16}}。なお、ゴジラシリーズの中で好きな怪獣として[[キングギドラ (平成VSシリーズ)#メカキングギドラ|メカキングギドラ]]を挙げている{{R|ソノラマGMK69}}。 == 作風および評価など == 映画スタッフ編成では、いわゆる「○○組」といった形ではなく、作品ごとにチームを組むスタイルのため、固定スタッフは多くないが、[[撮影監督]]の[[高間賢治]]とは10作品以上で、[[作曲家]]の[[大谷幸]]とも8作品で組んでいる。 少女アイドル好きで知られ、[[アイドル映画]]で起用されることも多いが、自身の企画においても若手女優のキャスティングに偏重している。 [[ロマンポルノ]]時代には[[山本奈津子]]・[[イヴ (AV女優)|イヴ]]・[[水島裕子]]・かとうみゆき、一般映画では[[深津絵里]]・[[小沢なつき]]・[[中山美穂]]・[[宮沢りえ]]・[[斉藤由貴]]・[[織田裕二]]・[[佐伯日菜子]]、最近作でも[[優香]]・[[上戸彩]]・[[藤原竜也]]らを起用しており、その演出手腕にも定評がある{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|アイドル映画30年史|2003|pp=181 - 182|loc=松井修「少女映画・満開の季節」}}{{Sfn|アイドル映画30年史|2003|pp=192-197|loc=馬買野宏 聞き手・構成「監督列伝90's 金子修介インタビュー」}}<ref>{{Cite book |和書 |editor = 武藤起一、森直人|title = 〈日本製映画〉の読み方 1980-1999 |date = 1999-07-02 |publisher = フィルムアート社 |series = CINE LESSON 6 |pages = 70-71 |isbn = 4-8459-9995-1 |chapter = 80-90年代を代表する注目の作家たち(1) 14 金子修介}}</ref>}}。 オタク歴を公言している世代としては映画監督デビュー第1号である{{efn|やはりSF、特撮、アニメ、アイドルなどのオタク趣味に強くこだわり、作品の多くにも反映させ続けているピンク映画監督に金子の2歳年少の[[渡邊元嗣]]がいるが、渡邊が『[[E.T.]]』にオマージュを捧げたデビュー作『女教師・淫らな放課後』が封切られたのは『濡れて打つ』と同年同月(1週間後)である。なお、[[螢雪次朗]]は両監督の作品に共通した常連俳優であり、金子と同年でやや早くデビューした滝田洋二郎のミステリ趣味濃厚な作品群のほとんどにも主演している。}}。それもロマンポルノという特殊な分野においてアニメパロディを織り込んで注目を集め{{efn|『[[みんなあげちゃう]]』では[[ウルトラの母]]を登場させている{{R|max}}。ガメラを登場させる案もあったが、大映から断られている{{R|max}}。}}、その後も『[[ゴジラvsモスラ]]』の監督立候補など、怪獣映画を作ることに関心を寄せ、『[[ウルトラQ]]』映画化の頓挫を経験した後、『[[ガメラ 大怪獣空中決戦]]』の成功で怪獣映画というジャンルに新風を吹き込んだ{{R|平成ガメラP200}}。自らの嗜好と趣味を絶え間なくアピールし続けることにより、撮りたい映画を撮れる環境を作り上げていった努力の軌跡である。 [[怪獣映画]]の2大シリーズである[[ゴジラ]]と[[ガメラ]]を両方とも撮った経験を持つ、最初の監督でもある<!-- 後年に同様の監督が出てくるかもしれないので、「唯一」は止めておきましょう。 -->。さらに、[[テレビドラマ]]においては『[[ウルトラマンマックス]]』も演出しており、その劇中でソフトビニール人形を使った子供の遊びとして「ゴジラ対ガメラ」を意図的に構成してみせた{{R|max}}。このシーンは金子が直接東宝プロデューサーの[[富山省吾]]や[[角川映画 (企業)|角川映画]]に許可を得ており、権利関係から再放送やソフト化の際にはカットされている{{R|max}}。 物語を観客に信じさせるための強固な理屈作りを重視しており、原作ものでも原作にない設定を加えている{{R|BOK62}}。怪獣映画では、観客は2体以上の怪獣を観たいと分析しているが、2体以上では理屈付けが難しく、ガメラやゴジラでは対戦相手に古代からの因縁を設けている{{R|BOK62}}。 『ガメラ』の撮影では、[[自衛隊]]の全面協力を受けたことが『[[朝日新聞]]』と『[[読売新聞]]』に興味本位で取り上げられ、『[[しんぶん赤旗]]』同紙日曜版には自衛隊を賛美するものと同作の完成前から批判する読者投稿が掲載された{{Sfn|金子修介|1998|p=245}}。しかし、自身は「日本の自衛のためには[[日本国憲法第9条|憲法九条]]の二項の戦力の保持は改正して軍隊として認めるべきだが、[[集団的自衛権]]を否定して軍事同盟も破棄すべき」とする持論を挙げており{{Sfn|切通理作|2002|p=440}}、自衛隊のメディア戦略なども理解している。そして、映画の完成前から批判意見を載せた『しんぶん赤旗』に反論する自らの意見を掲載させている{{Sfn|金子修介|1998|p=245 - 246}}。ただし、『ガメラ』の監督作品全3作とも戦闘機が撃墜されるシーンが自衛隊から協力をもらうために不採用となった件に関しては、後年の『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』(以下『GMK』)で実在しない[[東宝特撮映画の怪獣対策組織#防衛軍|防衛軍]]を設定し、その戦闘機が住宅地へ墜落して火災が発生するシーンを映像化してみせた{{Sfn|切通理作|2002|p=439}}。同作品については、[[日米安全保障条約]]が締結されておらず{{R|BOK62}}戦争放棄のために兵器の所有を認めている世界観であるとしている{{R|GMK超全集36}}。 ガメラシリーズのころから自身でも特撮の演出も手掛けたいと希望し、『GMK』では自身で造型の打ち合わせや絵コンテの制作を行った後に特殊技術の[[神谷誠]]へ委ねるというスタイルをとった{{R|東宝SFSE0110}}。金子は、自身で怪獣に芝居をつけたいという想いもあったが、実際の現場を見て自身では細かい芝居をつけることはできなかっただろうと感じ、神谷を信頼して正解であったと述べている{{R|東宝SFSE0110}}。 脚本家の[[長谷川圭一]]は、かつて金子組で装飾スタッフを務めており、執筆した脚本を金子に読んでもらってアドバイスを受けるなどを経て、デビューに至った{{R|ソノラマGMK69}}。そのつながりから金子は、『GMK』で長谷川を脚本家として起用している{{R|ソノラマGMK69}}。 === 俳優との関係 === [[津川雅彦]]には、CMを演出した縁から可愛がってもらったといい、金子作品には短いシーンでも出演することが多い{{R|GMKC73}}。津川は、金子について義理人情に厚く、笑顔が可愛いので惚れてしまったと語っていた{{R|ソノラマGMK64}}。 『GMK』で主演を務めた[[新山千春]]は、金子について「独特な雰囲気の方」と評しており、新山の役作りが金子の考えと違うものであっても頭ごなしに否定はせず、指示もわかりやすく伸び伸びと演技できたと語っている{{R|ソノラマGMK64}}。同作品に出演した[[小林正寛]]も金子からいろいろなことを教えてもらい愛情を感じたと述べ、[[葛山信吾]]は「非常にマイペースな方」と述懐している{{R|ソノラマGMK64}}。 [[1993年]]の作品『[[卒業旅行 ニホンから来ました]]』の撮影時、主演の[[織田裕二]]との間でトラブルが発生し、その顛末を公開直後の『シナリオ』誌に寄稿した<ref>{{Cite journal |和書 |author = 金子修介 |title = 『卒業旅行 ニホンから来ました』演出ノート――にっちもさっちもどうにもブルドッグ |journal = シナリオ |date = 1993-10 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} }}</ref>。同誌では、製作裏話とともに織田への批判を述べている。また、『卒業旅行』の撮影に関しては『ガメラ監督日記』の中で「本が3冊書けるぐらい」の経験をした、と綴っている<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/139379|title=金子修介監督と撮影で大モメした織田裕二|newspaper=[[日刊ゲンダイ]]|publisher=日刊現代|date=2012-10-29|accessdate=2014-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140518160047/http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/139379|archivedate=2014-05-18}}</ref>。 == 作品 == === 映画 === * [[宇能鴻一郎の濡れて打つ]](1984年) - 劇場公開初監督作品 * [[OL百合族19歳]](1984年) * [[イヴちゃんの姫]](1984年) * [[みんなあげちゃう]](1985年) - 初の一般向け(成人映画ではない)作品 * [[いたずらロリータ 後ろからバージン]](1986年) * [[恐怖のヤッちゃん]](1987年) * [[山田村ワルツ]](1988年) * [[1999年の夏休み#映画「1999年の夏休み」|1999年の夏休み]](1988年) * [[ラスト・キャバレー]](1988年) * [[どっちにするの。]](1989年) * [[香港パラダイス]](1990年) * [[就職戦線異状なし]](1991年) * [[咬みつきたい]](1991年) * [[ネクロノミカン]]「ザ・コールド」(1993年) * [[卒業旅行 ニホンから来ました]](1993年) * [[毎日が夏休み]](1994年) * 平成[[ガメラ]]シリーズ ** [[ガメラ 大怪獣空中決戦]](1995年) ** [[ガメラ2 レギオン襲来]](1996年) ** [[ガメラ3 邪神覚醒|ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒]](1999年) * [[学校の怪談 (映画)#『学校の怪談3』(1997年)|学校の怪談3]](1997年) * [[F (エフ)]](1998年) * [[クロスファイア (小説)|クロスファイア]](2000年) * [[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]](2001年) - 脚本([[長谷川圭一]]、[[横谷昌宏]]と共同)・監督 * [[恋に唄えば♪]](2002年) * [[あずみ2 Death or Love]](2005年) * [[デスノート (映画)|デスノート]](2006年) * [[デスノート (映画)#『デスノート the Last name』|デスノート the Last name]](2006年) * [[神の左手悪魔の右手#映画|神の左手 悪魔の右手]](2006年) * [[プライド (一条ゆかりの漫画)|プライド]](2009年) * [[ばかもの]](2010年) * [[ポールダンシングボーイ☆ず]](2011年) * [[メサイア (映画)|メサイヤ]](2011年) * [[青いソラ白い雲]](2012年) * [[百年の時計]](2012年) * [[生贄のジレンマ]] (上・中・下)(2013年) * [[ジェリー・フィッシュ]](2013年) * [[少女は異世界で戦った]](2014年) * [[スキャナー 記憶のカケラをよむ男]](2016年) * [[リンキング・ラブ]](2017年) * [[こいのわ 婚活クルージング]](2017年) * [[信虎 (映画)|信虎]](2021年、共同監督[[宮下玄覇]]) * [[百合の雨音]](2022年) * [[ゴールド・ボーイ]](2024年公開予定) === テレビアニメ === * [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]](1981年 - 1982年) * [[おちゃめ神物語コロコロポロン]](1982年) * [[銀河旋風ブライガー]](1982年) * [[魔法の天使クリィミーマミ]](1983年 - 1984年) === テレビドラマ === * [[ザ・サムライ#テレビドラマ版|ザ・サムライ]]([[月曜ドラマランド]])(1986年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[スカイハイ (漫画)#TVドラマ|スカイハイ2]] 第1話・第2話(2004年1月、[[テレビ朝日]]) * [[ウルトラシリーズ]] ** [[ウルトラQ dark fantasy]](2004年、[[テレビ東京]]) ** [[ウルトラマンマックス]](2005年、[[TBSテレビ|TBS]]) * [[ホーリーランド#2005年のテレビドラマ|ホーリーランド]](2005年、テレビ東京) * [[結婚詐欺師 (小説)|結婚詐欺師]](2007年11月18日、[[WOWOW]]) * [[ヒットメーカー 阿久悠物語]](2008年8月1日、日本テレビ) * [[ケータイ捜査官7]](2008年、テレビ東京) * 危険なカンケイ(2013年、[[BeeTV]]) * [[三島屋変調百物語|おそろし〜三島屋変調百物語]](2014年8月30日 - 9月27日、[[NHK BSプレミアム]]) * [[このミステリーがすごい! ベストセラー作家からの挑戦状]]「残されたセンリツ」(2014年12月29日、TBS) === オリジナルビデオ === * [[希望の党☆]](2005年、[[総務省]]・(財)明るい選挙推進協会) === オリジナルDVD === * [[ウルトラQ怪獣伝説 万城目淳の告白]](2005年) * [[ウルトラマン怪獣伝説 40年目の真実]](2005年) === 演劇 === * 偽伝、樋口一葉(2006年、[[アロッタファジャイナ]]) - 監修 === PV === * [[TOKIO]]「[[青春 SEISYuN]]」(2007年) * [[AKB48]]「[[ハート・エレキ]]」(2013年) == 出演 == === 映画(出演) === * ピンクカット 太く愛して深く愛して(1983年) - お色気理容室の客 * [[家族ゲーム]] (1983年) - クボタ書店の店員 * [[メイン・テーマ (映画)|メイン・テーマ]](1984年) - 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金子監督作の『ガメラ』『ゴジラ』の評論と金子インタビュー掲載。 * 洋泉社MOOK 別冊[[映画秘宝]]([[洋泉社]]) ** {{Cite book |和書|title=別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史|year= 2003|publisher =洋泉社|series= 洋泉社MOOK|isbn= 4896917642|ref = {{SfnRef|アイドル映画30年史|2003}}}} ** {{Cite book|和書|title=別冊映画秘宝 モスラ映画大全|publisher=洋泉社|series=洋泉社MOOK|date=2011-08-11|isbn=978-4-86248-761-2|ref={{SfnRef|モスラ映画大全|2011}}}} * {{Cite book|和書|title=平成ガメラパーフェクション|editor=[[電撃ホビーマガジン]]編集部|publisher=[[KADOKAWA]]|series=DENGEKI HOBBY BOOKS|date=2014-02-08|isbn=978-4-04-891881-7|ref={{SfnRef|平成ガメラパーフェクション|2014}}}} * {{Cite book|和書|title=バトル・オブ・キングギドラ|publisher=[[双葉社]]|date=2020-06-04|series=双葉社スーパームック|isbn=978-4-575-45842-8|ref={{SfnRef|バトル・オブ・キングギドラ|2020}}}} * {{Cite book|和書|title=ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃 コンプリーション|publisher=[[ホビージャパン]]|date=2022-03-31|isbn=978-4-7986-2779-3|ref={{SfnRef|GMKコンプリーション|2022}}}} == 外部リンク == * {{Official website|www.shusuke-kaneko.com/|Shusuke Kaneko Information Website}} * {{Official blog|http://blog.livedoor.jp/kaneko_power009/|金子修介の雑記“Essay”}}(ブログ) * {{Twitter|shusukekaneko}} * {{jmdb name|0089260}} * {{Allcinema name|25749}} * {{Kinejun name|49265}} * {{IMDb name|id=0437526|name=金子修介}} {{金子修介監督作品}} {{ブルーリボン賞監督賞}} {{ヨコハマ映画祭新人監督賞}} {{日本SF大賞|第17回}} {{ガメラ}} {{ゴジラ}} {{Film-director-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かねこ しゆうすけ}} [[Category:日本の映画監督]] [[Category:ピンク映画監督]] [[Category:SF映画監督]] [[Category:特撮スタッフ]] [[Category:日活の人物]] [[Category:みうらじゅん賞受賞者]] [[Category:教育学士取得者]] [[Category:東京学芸大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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カルダーノ
カルダーノ(イタリア語: Cardano):
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カルダーノ: ジェロラモ・カルダーノ カルダン駆動方式 カルダーノ・アル・カンポ
'''カルダーノ'''({{lang-it|'''Cardano'''}}): * [[ジェロラモ・カルダーノ]] ** [[カルダン駆動方式]] * [[カルダーノ・アル・カンポ]] {{disambig}} {{DEFAULTSORT:かるたあの}} [[Category:イタリア語の姓]]
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アーベル
アーベル (Abel) はヨーロッパ系の男性名、姓。旧約聖書の人物アベルに由来。
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アーベル (Abel) はヨーロッパ系の男性名、姓。旧約聖書の人物アベルに由来。
'''アーベル''' ('''Abel''') はヨーロッパ系の男性名、姓。[[旧約聖書]]の人物'''[[アベル]]'''に由来。 == 人名 == *[[アーベル (デンマーク王)]](1218年 - 1252年) - シュレースヴィヒ伯爵、[[デンマーク]]王。 *[[オテニオ・アーベル]](1875年 - 1946年) - オーストリアの古生物学者。 *[[カール・フリードリヒ・アーベル]](1723年 - 1787年) - ドイツの作曲家。 *[[ニールス・アーベル]](1802年 - 1829年) - [[ノルウェー]]の数学者。五次以上の代数方程式に解の公式が存在しないことを証明した。群論をはじめ多くの数学用語に名前が残っている([[#数学|下記]]を参照)。 == 会社 == *[[アーベル (ゲーム会社)]] - 東京都北区に本社を置く、プレイステーションやPSP等の開発・発売を行っているゲームソフト会社。 *アーベル(Arvel) - 京都市伏見区に本社を置くOAサプライ総合メーカー、[[バッファローコクヨサプライ|株式会社バッファローコクヨサプライ]]のブランド。2007年8月1日に株式会社アーベルから組織変更。アーベルの親会社であった[[コクヨ]]と、[[バッファロー (パソコン周辺機器)|株式会社バッファロー]]の持株会社である株式会社[[メルコホールディングス]]と2007年2月に提携したことに基づくもの。株式会社メルコホールディングスの連結対象会社。 == 数学 == *[[アーベル群]]、二項演算が可換な群 **[[アーベル群の圏]] {{mathbf|Ab}}, アーベル群と群準同型の圏 *{{仮リンク|メタアーベル群|en|Metabelian group}}、交換子部分群が可換な群 *[[アーベル化]] *[[アーベル拡大]]、ガロワ群が可換な体拡大 *[[アーベル多様体]]、射影空間に埋め込める複素トーラス *[[アーベル曲面]]、2次元アーベル多様体 *{{仮リンク|アーベル関数|en|Abelian function}}、アーベル多様体上の有理型関数 *{{仮リンク|アーベル積分|en|Abelian integral}}、第一種微分の不定積分に関連する関数 *{{仮リンク|前アーベル圏|en|Pre-abelian category}}、核と余核を必ず持つ加法圏 *[[アーベル圏]]、すべての単射が核でありすべての全射が余核である前アーベル圏 *[[ゲージ理論]]が(非)アーベルとは、その対称性の群が(非)可換なことをいう == その他 == *[[アーベル (クレーター)]] - 月面にある[[クレーター]]。ニールス・アーベルにちなんで名づけられた。 *[[アーベル賞]] - 数学の賞の一つ。ニールス・アーベルの生誕200年を記念して2002年に創設された。 == 関連項目 == * [[Able]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ああへる}} [[Category:ドイツ語の姓]] [[Category:ノルウェー語の姓]] [[Category:数学の曖昧さ回避]]
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ジェリー・ブラッカイマー
ジェリー・ブラッカイマー(英語: Jerry Bruckheimer, 本名:ジェローム・レオン・ブラックハイマー(Jerome Leon Bruckheimer、1943年9月21日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト生まれの映画プロデューサー・テレビプロデューサー。 ドイツからのユダヤ人移民の子孫で、本来の発音はブラックハイマー(ドイツ語読みはブルックハイマー)だが、1980年代の映画公開資料で誤った片仮名表記がそのまま使われている。 幼いころ写真好きのおじにカメラをもらってから写真に熱中するカメラ狂で、至る所でスナップ写真を撮っていた。コンテストにも応募しており、高校生の時にはコダックのコンテストで優勝した。アリゾナ大学で心理学を専攻。卒業後、ニューヨークに移り広告代理店のメール室で働いたが、すぐにコマーシャル・フィルムの製作に従事し、映画制作のきっかけをつかんだ。CF監督として数々の賞を受賞したブラッカイマーはロサンゼルスに移り映画製作に身を投じた。 1980年代から1990年代にかけて、彼はプロデューサー・ドン・シンプソンの製作助手になり、パラマウント映画のために働き一連の大ヒット映画を手がけた。ブラッカイマーの最初の大ヒットは1983年の『フラッシュダンス』であり、立て続けに『ビバリーヒルズ・コップ』(1984年)・『トップガン』(1986年)・『ビバリーヒルズ・コップ2』(1987年)・『デイズ・オブ・サンダー』(1990年)などのヒットを飛ばした。 1996年、ブラッカイマーはドラッグ濫用がひどくなった盟友シンプソンと絶縁した。直後シンプソンが急死したことによりブラッカイマーのキャリアは打撃を受けたが、マイケル・ベイほかミュージック・ビデオ出身の映画監督たちによるアクション映画の製作を続け、『アルマゲドン』・『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』・『ブラックホーク・ダウン』などの大ヒット作を送り出している。 2013年6月には、ハリウッドのウォーク・オブ・フェームに殿堂入りした。 2021年には新設されたナショナルホッケーリーグ(NHL)のシアトル・クラーケンの共同オーナーとなった。 彼の製作した映画のほとんどは凝った特殊効果の導入による派手なアクション、大ヒットしているポップ・ミュージックを起用したサウンドトラック、テレビ映りのよい俳優たちの起用を特徴としている。このため彼の映画は派手なオープニングと見た目のわりに無内容だとして全米の映画評論家からは酷評されているが、これは彼自身の『映画は極上の娯楽である』というポリシーによるものである。その屈託無く万民受けする映画のスタイルは、結果としてアメリカだけでなく世界中で多くの観客を集めることとなり、収益的には大きな成功を収めているに至っている。 1997年からはテレビへも進出して数多くの警察ドラマを製作し、テレビ界においても大きな成功を収めた。特に『CSI:科学捜査班』は2作のスピンオフがシリーズ化され、3作すべてが高い人気を誇る。テレビドラマにおける彼の作品は、娯楽性を追求をする映画とは異なり、社会に対する問題提起、人間模様や心理の緻密な描写に比重を置いているのが特徴的である。テレビドラマのほかにも『アメージング・レース』(The Amazing Race)のようなリアリティ番組を製作している。 ブラッカイマーが関わる作品にはいくつかの共通した趣向性があり、そのほとんどの作品で、太陽光線や自動車のヘッドライトを渋く光らせる場面を挿入したり、奇抜なカメラアングル、映像処理で随所にフィルターをかけたりと、視覚効果に対する美的な拘りが顕著である。アクション映画におけるカーチェイスシーンや爆破シーンといった見せ場では、より痛快かつ爽快な印象を与えんとするため、過剰なまでに緻密な計算を盛り込んだ密度の高い演出を好み、その撮影に膨大な費用や時間を割くことを惜しまないことで有名である。展開が堅くなりすぎないように演者に細かいところでコミカルなやり取りをさせたり小ネタを挟んで笑いを誘うようなシーンも多く挿入されている。また作品に込める根底のテーマとしては、怠慢な国家や政治の体制を皮肉るものが多いのも特徴である。 共和党支持者であり、2008年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジョン・マケインを支持した。『トップガン』、『アルマゲドン』、『パール・ハーバー』、『ブラックホーク・ダウン』などの軍事アクション映画の製作の際、軍や政府機関の協力を得られるのは、この事も関係していると思われる。 2010年2月、『ヴァニティ・フェア』誌が「2009年に最も稼いだハリウッドの稼ぎ手」のランキングを発表し、3,600万ドル(日本円で約32億4000万円)を稼いで10位にランクインした。この金額は映画のギャラだけでなく、商品のロイヤリティ収入なども含んでいる。 2010年12月、経済誌『フォーブス』が「エンターテインメント業界で最も稼いだ人物」のランキングを発表し、1億ドル(日本円で約82億円)を稼いで6位にランクインした。
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ジェリー・ブラッカイマー(英語: Jerry Bruckheimer, 本名:ジェローム・レオン・ブラックハイマーは、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト生まれの映画プロデューサー・テレビプロデューサー。 ドイツからのユダヤ人移民の子孫で、本来の発音はブラックハイマーだが、1980年代の映画公開資料で誤った片仮名表記がそのまま使われている。
{{ActorActress | 芸名 = Jerry Bruckheimer | ふりがな = ジェリー・ブラッカイマー | 画像ファイル = JerryBruckheimerHWOFJune2013.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = Jerry Bruckheimer at a ceremony to receive a star on the Hollywood Walk of Fame. | 本名 = ジェローム・レオン・ブラッカイマー<br />Jerome Leon Bruckheimer | 別名義 = | 出生地 = {{USA1912}}<br>[[ミシガン州]][[デトロイト]] | 死没地 = | 国籍 = | 民族 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1943 | 生月 = 9 | 生日 = 21 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[映画プロデューサー]] | ジャンル = | 活動期間 = 1972年–現在 | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = '''映画'''<br />『[[アメリカン・ジゴロ]]』<br />『[[フラッシュダンス]]』<br />『[[ビバリーヒルズ・コップ]]』シリーズ<br>『[[トップガン (映画)|トップガン]]』シリーズ<br>『[[デイズ・オブ・サンダー]]』<br />『[[バッドボーイズ (1995年の映画)|バッドボーイズ]]』シリーズ<br />『[[クリムゾン・タイド]]』<br />『[[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]]』<br />『[[コン・エアー]]』<br />『[[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]]』<br />『[[エネミー・オブ・アメリカ]]』<br />『[[タイタンズを忘れない]]』<br />『[[パール・ハーバー (映画)|パール・ハーバー]]』<br />『[[ブラックホーク・ダウン]]』<br />『[[パイレーツ・オブ・カリビアン]]』シリーズ<br />『[[ナショナル・トレジャー]]』シリーズ<br />『[[NY心霊捜査官]]』<hr />'''テレビ'''<br />『[[CSI:科学捜査班]]』<br />『[[アメージング・レース]]』 | ゴールデンラズベリー賞 = '''[[ゴールデンラズベリー賞 最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞|最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞]]'''<br>[[2013年]]『[[ローン・レンジャー]]』 | 備考 = }} [[file:Jerry Bruckheimer at Prince of Persia panel at WonderCon 2010 1.JPG|thumb|Jerry Bruckheimer at Prince of Persia panel at WonderCon 2010]] '''ジェリー・ブラッカイマー'''({{lang-en|'''Jerry Bruckheimer'''}}, 本名:'''ジェローム・レオン・ブラックハイマー'''({{en|'''Jerome Leon Bruckheimer'''}}、[[1943年]][[9月21日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[ミシガン州]][[デトロイト]]生まれの[[映画プロデューサー]]・[[テレビプロデューサー]]。 [[ドイツ]]からの[[ユダヤ人]]移民の子孫で、本来の発音はブラックハイマー(ドイツ語読みはブルックハイマー)だが、1980年代の映画公開資料で誤った片仮名表記がそのまま使われている。 == プロフィール == 幼いころ写真好きのおじにカメラをもらってから写真に熱中するカメラ狂で、至る所でスナップ写真を撮っていた。コンテストにも応募しており、高校生の時には[[コダック]]のコンテストで優勝した。[[アリゾナ大学]]で心理学を専攻。卒業後、[[ニューヨーク]]に移り[[広告代理店]]のメール室で働いたが、すぐにコマーシャル・フィルムの製作に従事し、映画制作のきっかけをつかんだ。CF監督として数々の賞を受賞したブラッカイマーは[[ロサンゼルス]]に移り映画製作に身を投じた。 [[1980年代]]から[[1990年代]]にかけて、彼はプロデューサー・[[ドン・シンプソン]]の製作助手になり、[[パラマウント映画]]のために働き一連の大ヒット映画を手がけた。ブラッカイマーの最初の大ヒットは[[1983年]]の『[[フラッシュダンス]]』であり、立て続けに『[[ビバリーヒルズ・コップ]]』(1984年)・『[[トップガン (映画)|トップガン]]』(1986年)・『[[ビバリーヒルズ・コップ2]]』(1987年)・『[[デイズ・オブ・サンダー]]』(1990年)などのヒットを飛ばした。 [[1996年]]、ブラッカイマーはドラッグ濫用がひどくなった盟友シンプソンと絶縁した。直後シンプソンが急死したことによりブラッカイマーのキャリアは打撃を受けたが、[[マイケル・ベイ]]ほか[[ミュージック・ビデオ]]出身の映画監督たちによるアクション映画の製作を続け、『[[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]]』・『[[パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち]]』・『[[ブラックホーク・ダウン]]』などの大ヒット作を送り出している。 [[2013年]]6月には、ハリウッドの[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム|ウォーク・オブ・フェーム]]に殿堂入りした<ref>[http://www.hollywood-news.jp/news/gossip/38727/ デップ&クルーズらが祝福、ジェリー・ブラッカイマー氏がハリウッド殿堂入り] Hollywood-News 2013-6-25付</ref>。 2021年には新設された[[ナショナルホッケーリーグ]](NHL)の[[シアトル・クラーケン]]の共同オーナーとなった。 == 作品の特徴 == 彼の製作した映画のほとんどは凝った[[SFX|特殊効果]]の導入による派手なアクション、大ヒットしている[[ポップ・ミュージック]]を起用した[[サウンドトラック]]、テレビ映りのよい俳優たちの起用を特徴としている。このため彼の映画は派手なオープニングと見た目のわりに無内容だとして全米の[[映画評論]]家からは酷評されているが、これは彼自身の『映画は極上の娯楽である』というポリシーによるものである。その屈託無く万民受けする映画のスタイルは、結果としてアメリカだけでなく世界中で多くの観客を集めることとなり、収益的には大きな成功を収めているに至っている。 [[1997年]]からは[[テレビ]]へも進出して数多くの[[刑事ドラマ|警察ドラマ]]を製作し、テレビ界においても大きな成功を収めた。特に『[[CSI:科学捜査班]]』は2作の[[スピンオフ]]がシリーズ化され、3作すべてが高い人気を誇る。[[テレビドラマ]]における彼の作品は、娯楽性を追求をする映画とは異なり、社会に対する問題提起、人間模様や心理の緻密な描写に比重を置いているのが特徴的である。テレビドラマのほかにも『[[アメージング・レース]]』(''The Amazing Race'')のような[[リアリティ番組]]を製作している。 ブラッカイマーが関わる作品にはいくつかの共通した趣向性があり、そのほとんどの作品で、[[太陽光線]]や自動車の[[前照灯|ヘッドライト]]を渋く光らせる場面を挿入したり、奇抜なカメラアングル、映像処理で随所にフィルターをかけたりと、視覚効果に対する美的な拘りが顕著である。アクション映画におけるカーチェイスシーンや爆破シーンといった見せ場では、より痛快かつ爽快な印象を与えんとするため、過剰なまでに緻密な計算を盛り込んだ密度の高い演出を好み、その撮影に膨大な費用や時間を割くことを惜しまないことで有名である。展開が堅くなりすぎないように演者に細かいところでコミカルなやり取りをさせたり小ネタを挟んで笑いを誘うようなシーンも多く挿入されている。また作品に込める根底のテーマとしては、怠慢な国家や政治の体制を皮肉るものが多いのも特徴である。 [[共和党 (アメリカ)|共和党]]支持者であり、[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、[[ジョン・マケイン]]を支持した。『[[トップガン (映画)|トップガン]]』、『[[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]]』、『[[パール・ハーバー (映画)|パール・ハーバー]]』、『[[ブラックホーク・ダウン]]』などの軍事アクション映画の製作の際、軍や政府機関の協力を得られるのは、この事も関係していると思われる。 == 映画界での高額収入記録 == [[2010年]]2月、『ヴァニティ・フェア』誌が「2009年に最も稼いだハリウッドの稼ぎ手」のランキングを発表し、3,600万ドル(日本円で約32億4000万円)を稼いで10位にランクインした。この金額は映画のギャラだけでなく、商品のロイヤリティ収入なども含んでいる<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0022297 "2009年「最も稼いだ監督」はマイケル・ベイ「最も稼いだ俳優」はダニエル・ラドクリフ"]、シネマトゥデイ(2010年2月5日)、2013年5月30日閲覧。</ref>。 [[2010年]]12月、経済誌『[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]』が「エンターテインメント業界で最も稼いだ人物」のランキングを発表し、1億ドル(日本円で約82億円)を稼いで6位にランクインした<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0029300 "今年エンターテインメント業界で最も稼いだ人物決定!2位にジェームズ・キャメロンで約172億円!"]、シネマトゥデイ(2010年12月28日)、2013年5月30日閲覧。</ref>。 == 製作作品 == === 映画 === * [[さらば愛しき女よ]] ''Farewell, My Lovely''(1975) * [[外人部隊フォスター少佐の栄光]] ''March or Die''(1977) * [[アメリカン・ジゴロ]] ''American Gigolo''(1980) * [[摩天楼ブルース (映画)|摩天楼ブルース]] ''Defiance'' (1980) * [[ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー]] ''Thief''(1981) * [[キャット・ピープル]] ''Cat People''(1982) * [[病院狂時代]] ''Young Doctor in Love''(1982) * [[フラッシュダンス]] ''Flashdance''(1983) * [[ビバリーヒルズ・コップ]] ''Beverly Hills Cop''(1984) * [[トップガン (映画)|トップガン]] ''Top Gun''(1986) * [[ビバリーヒルズ・コップ2]] ''Beverly Hills Cop II''(1987) * [[デイズ・オブ・サンダー]] ''Days of Thunder''(1990) * [[サイレントナイト/こんな人質もうこりごり]] ''The Ref''(1994) * [[バッドボーイズ (1995年の映画)|バッドボーイズ]] ''Bad Boys''(1995) * [[クリムゾン・タイド]] ''Crimson Tide''(1995) * [[デンジャラス・マインド/卒業の日まで]] ''Dangerous Minds''(1995) * [[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]] ''The Rock''(1996) * [[コン・エアー]] ''Con Air''(1997) * [[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]] ''Armageddon''(1998) * [[エネミー・オブ・アメリカ]] ''Enemy of the State''(1998) * [[60セカンズ]] ''Gone in Sixty Seconds''(2000) * [[コヨーテ・アグリー]] ''Coyote Ugly''(2000) * [[タイタンズを忘れない]] ''Remember the Titans''(2000) * [[パール・ハーバー (映画)|パール・ハーバー]] ''Pearl Harbor''(2001) * [[ブラックホーク・ダウン]] ''Black Hawk Down''(2001) * [[9デイズ]] ''Bad Company''(2002) * [[パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち]] ''Pirates of the Caribbean: The Curse of the Black Pearl''(2003) * [[ヴェロニカ・ゲリン]] ''Veronica Guerin''(2003) * [[バッドボーイズ2バッド]] ''Bad Boys II''(2003) * [[キング・アーサー (2004年の映画)|キング・アーサー]] ''King Arthur''(2004) * [[ナショナル・トレジャー]] ''National Treasure''(2004) * [[パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト]] ''Pirates of the Caribbean: 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{{DEFAULTSORT:ふらつかいまあ しえりい}} [[Category:アメリカ合衆国の映画プロデューサー]] [[Category:アメリカ合衆国のテレビプロデューサー]] [[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]] [[Category:アメリカ合衆国の実業家]] [[Category:アメリカ合衆国のアイスホッケーに関する人物]] [[Category:NHLのオーナー]] [[Category:シアトル・クラーケン]] [[Category:ドイツユダヤ系アメリカ人]] [[Category:デトロイト出身の人物]] [[Category:1945年生]] [[Category:存命人物]]
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リュミエール兄弟
リュミエール兄弟(frères Lumière、リュミエールきょうだい)は、トーマス・エジソンと並び称せられるフランスの映画発明者。「映画の父」と呼ばれる。世界初の実用カラー写真の開発者でもある。 父・アントワーヌ(1840年3月13日 - 1911年)はもともと肖像画家だったが、ダゲレオタイプを手にしてから写真館を開業していた。1881年に弟・ルイは父の仕事を手伝い始め、感光剤や写真乾板(ガラス乾板)の研究・改良を行った。ルイの研究が評判になったので、アントワーヌはリヨンに写真乾板の工場を開設。さらに、1890年頃にルイが開発した乾板感光剤「エチケット・ブルー(青ラベル)」が大ヒットした。 1894年、パリでアントワーヌはエジソンの開発したキネトスコープを目の当たりにした。父の勧めで兄弟は動画の研究を開始。キネトスコープを改良しスクリーンに投影することによって、一度に多くの人々が鑑賞できるシネマトグラフ・リュミエールを開発した。フィルムの長さは17メートルで、手で回すことで撮影・上映でき、映像は約50秒になる。 当時、義手や義足、写真機材等の製造を営んでいた二人は、自らの工場の近辺等で撮影を行い、1895年12月28日、パリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアン(=インドの間)(現ホテル・スクリーブ・パリ)で、その映像などを人々に有料公開(世界初の映画館ともされる)した。この中で、世界最初の実写映画は『工場の出口』である。また『ラ・シオタ駅への列車の到着』では、カメラに向かってくる汽車を見て観客が大騒ぎしたという伝説を産んだ(これについては異説もある。詳細は作品の項目を参照)。二人は1900年に開催されたパリ万博でも映画を上映しており、来場した世界中の人々を魅了している。一方で、リュミエール協会を立ち上げ世界中にカメラマンを派遣、日本を含む世界各地の最初期の映像を多く残した。 その後、二人はシネマトグラフの特許をパテに売り渡し映画事業から撤退するが、二人の活動に刺激を受けたエジソンは映画撮影のための施設を作り、劇映画製作に乗り出していった。 1907年、二人は世界初の実用カラー写真「オートクローム」を発売。これは、赤、緑、青(三原色)に染めた馬鈴薯澱粉をカラーフィルターにしたもの。従来の三色分解ワンショットカメラ(一度に三枚の乾板を使用)と違って乾板一枚だけで撮影できたので、アマチュアを中心に支持を集めた。1909年エリオット・クレッソン・メダル受賞。 日本ではリュミエール兄弟のシネマトグラフ映写機2台とフィルム8種が輸入され、1897年2月20日から大阪難波新地の南地演舞場で公開された。 また、1982年には映画発展のためのフランスの学術機関としてリヨンにリュミエール研究所(フランス語版)が設立された。最初の映画の撮影も行われた父・アントワーヌの写真乾板工場跡地には、現在映画上映も行われているプルミエ・フィルム(フランス語版)が建てられており、その向かいにはアントワーヌが1902年に建てた館を転用している「リュミエール美術館(フランス語版)」がある。同研究所はこれらの施設の管理・運営も行っている。
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リュミエール兄弟は、トーマス・エジソンと並び称せられるフランスの映画発明者。「映画の父」と呼ばれる。世界初の実用カラー写真の開発者でもある。
{{出典の明記|date=2020年11月}} [[ファイル:Auguste and Louis Lumière restored.jpg|thumb|200px|リュミエール兄弟(左が兄のオーギュスト、右が弟のルイ)]] '''リュミエール兄弟'''(frères Lumière、リュミエールきょうだい)は、[[トーマス・エジソン]]と並び称せられる[[フランス]]の[[映画]][[発明家|発明者]]。「'''映画の父'''」と呼ばれる。世界初の実用カラー[[写真]]の開発者でもある。 == 兄弟 == * 兄:'''オーギュスト・リュミエール'''(''Auguste Marie Louis Lumière'' 、1862年10月19日 - 1954年4月10日) * 弟:'''ルイ・リュミエール'''(''Louis Jean Lumière'' 、1864年10月5日 - 1948年6月6日) == 来歴 == 父・アントワーヌ(1840年3月13日 - 1911年)はもともと肖像画家だったが、[[ダゲレオタイプ]]を手にしてから[[写真]]館を開業していた。1881年に弟・ルイは父の仕事を手伝い始め、感光剤や[[写真乾板]](ガラス乾板)の研究・改良を行った。ルイの研究が評判になったので、アントワーヌは[[リヨン]]に写真乾板の工場を開設。さらに、1890年頃にルイが開発した乾板感光剤「エチケット・ブルー(青ラベル)」が大ヒットした。 1894年、パリでアントワーヌはエジソンの開発した[[キネトスコープ]]を目の当たりにした。父の勧めで兄弟は[[動画]]の研究を開始。キネトスコープを改良し[[スクリーン]]に投影することによって、一度に多くの人々が鑑賞できる[[シネマトグラフ|シネマトグラフ・リュミエール]]を開発した。フィルムの長さは17メートルで、手で回すことで撮影・上映でき、映像は約50秒になる。 当時、義手や義足、写真機材等の製造を営んでいた二人は、自らの工場の近辺等で撮影を行い、1895年12月28日、[[パリ]]のグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアン(=インドの間)(現[[ホテル・スクリーブ・パリ]])で、その映像などを人々に有料公開(世界初の[[映画館]]ともされる)した。この中で、世界最初の実写映画は『[[工場の出口]]』である。また『[[ラ・シオタ駅への列車の到着]]』では、カメラに向かってくる汽車を見て観客が大騒ぎしたという伝説を産んだ(これについては異説もある。詳細は作品の項目を参照)。二人は1900年に開催された[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]でも映画を上映しており、来場した世界中の人々を魅了している。一方で、リュミエール協会を立ち上げ世界中に[[カメラマン]]を派遣、日本を含む世界各地の最初期の映像を多く残した。 その後、二人はシネマトグラフの特許を[[パテ (映画会社)|パテ]]に売り渡し映画事業から撤退するが、二人の活動に刺激を受けたエジソンは映画撮影のための施設を作り、劇映画製作に乗り出していった。 1907年、二人は世界初の実用カラー[[写真]]「[[オートクローム]]」を発売。これは、赤、緑、青([[原色#加法混合|三原色]])に染めた[[馬鈴薯]]澱粉をカラーフィルターにしたもの。従来の三色分解ワンショットカメラ(一度に三枚の乾板を使用)と違って乾板一枚だけで撮影できたので、アマチュアを中心に支持を集めた。1909年[[エリオット・クレッソン・メダル]]受賞。 == その他 == 日本ではリュミエール兄弟のシネマトグラフ映写機2台とフィルム8種が輸入され、1897年2月20日から大阪難波新地の南地演舞場で公開された。 また、1982年には映画発展のためのフランスの学術機関としてリヨンに{{仮リンク|リュミエール研究所|fr|Institut Lumière}}が設立された。最初の映画の撮影も行われた父・アントワーヌの写真乾板工場跡地には、現在映画上映も行われている{{仮リンク|プルミエ・フィルム|fr|Hangar du premier film}}が建てられており、その向かいにはアントワーヌが1902年に建てた館を転用している「{{仮リンク|リュミエール美術館|fr|:Villa Lumière}}」がある。同研究所はこれらの施設の管理・運営も行っている<ref>[http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/backnumber/0511/museum_0511.html リュミエール美術館](MMM:メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド/日本語による解説ページ)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[映画史]] * [[ルイ・ル・プランス]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Frères Lumière}} * [http://www.institut-lumiere.org/ Institut Lumiere](リュミエール研究所) - 史上初の映画作品のうち10本を公開([http://www.institut-lumiere.org/musee/les-freres-lumiere-et-leurs-inventions/premiere-seance.html 作品公開ページ])<small>※1895年12月28日のイベントでのプログラムも含まれる。</small> * [http://www.industrienationale.fr Société d'encouragement pour l'industrie nationale] * [http://www.institut-lumiere.org/ Le musée Lumière](リュミエール博物館) * [http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/backnumber/0511/museum_0511.html リュミエール美術館](MMM:メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド/日本語による解説ページ) * [http://gaga.ne.jp/lumiere!/ 映画『リュミエール!』] * [https://web.archive.org/web/20010413015008/http://www.informatics.tuad.ac.jp/net-expo/cinema/lumiere/ja/ リュミエール・動画の衝撃から100年] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:りゆみええるきようたい}} [[Category:フランスの技術者]] [[Category:フランスの発明家]] [[Category:全米発明家殿堂]] [[Category:兄弟姉妹の二人]] [[Category:フランスの映画史]] [[Category:写真の先駆者]] [[Category:ユネスコ記憶遺産]] [[Category:ブザンソン出身の人物]] [[Category:1862年生|りゆみええる おおきゆすと]] [[Category:1954年没|りゆみええる おおきゆすと]] [[Category:1864年生|りゆみええる るい]] [[Category:1948年没|りゆみええる るい]]
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映画祭
映画祭(えいがさい)とは、特定の場所で期間限定で開催される映画関連のイベント。通常、年に一度など定期的な開催サイクルを持ち、名称は(ベルリン国際映画祭などのように)開催地の地名を冠したものである事が多い。映画の上演が主となるが、加えてエントリー作品の審査及び賞の授与や、映画に関するイベント(講演会、研修会、見学会、レセプション、等)を含むこともある。 最も有名なのは国際映画祭であるが、ファンタスティック映画祭、ドキュメンタリー映画祭、女性映画祭などテーマ別の映画祭も多数ある。複合的に国際アニメーション映画祭といった名称・分類もあり、東京国際映画祭の協賛企画として東京国際女性映画祭が開かれる場合などもある。作品上映の前後に、監督や出演者などの舞台挨拶、ティーチイン(観覧者との質疑応答)などが行われる事も多い。 国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭のうち、以下の3つを指す。モスクワ国際映画祭を加え、世界四大映画祭と称されることもある。 SF映画、ホラー映画、スリラー映画、サスペンス映画など、フィクション、ファンタジー系のジャンルに焦点を当てた専門の映画祭については、以下の3つが三大映画祭とされる。 国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の長編映画祭(Competitive Feature Film Festivals)で、長編・短編作品ともに扱う国際映画祭。 FIAPF公認の長編映画祭(Competitive Feature Film Festivals)で長編作品しか扱わない映画祭。 FIAPF公認のスペシャライズド長編映画祭(Competitive Specialised Feature Film Festivals)で、長編・短編作品ともに扱う国際映画祭。 FIAPF公認の非コンペティティブ長編映画祭(Non-Competitive Feature Film Festivals)で、長編・短編作品ともに扱う国際映画祭。 FIAPFに加盟していない、或いはFIAPFから公認を受けていないが、世界の映画界で重要な地位を占める映画祭としては以下のものがある。 アカデミー賞は授賞式前年の1年間にアメリカ国内の特定地域で公開された作品を対象に選考され、また映画産業全般に関連した業績に対して授与される賞であるが、例外としてアメリカ国内の特定地域で公開されていない作品でも同賞の候補作となることがある。それは世界各地で開かれるアカデミー賞の公認を受けた映画祭で受賞することであり、公認映画祭のグランプリ受賞作は自動的にアカデミー賞のノミネート候補作に推挙されるシステムとなっている。日本ではショートショートフィルムフェスティバルと広島国際アニメーションフェスティバルだけが公認を受けている。なお広島国際アニメーションフェスティバルは、2020年に開催された第18回大会をもって終了することになった。 国際アニメーション映画協会公認の映画祭の中で、アヌシー、ザグレブ、オタワ、広島をもって世界四大アニメーション映画祭とされているが、広島のみが ASIFA公認(ASIFA Endorsement)であり、その他はASIFAパートナーシップ映画祭(ASIFA Partnership Festival)である。ASIFA Endorsementを得るには「ASIFA公認国際映画祭規約」を遵守する必要がある。この規約には、コンペティションの審査方法や特別プログラムに関する基準のほか、作家や関係者等の招待、広報、著作権保護、表現の自由の保障等、映画祭運営全体について厳しい基準が設けられている。なお、広島は2020年に開催された第18回大会をもって終了することになった。 ASIFAに加盟していない、或いはASIFAから公認を受けていないアニメーション映画祭としては以下のものがある。 長編短編、ジャンル、性別、地域といった制限を課すことなく全世界で公募している国際映画祭 年は初回開催年
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映画祭(えいがさい)とは、特定の場所で期間限定で開催される映画関連のイベント。通常、年に一度など定期的な開催サイクルを持ち、名称は(ベルリン国際映画祭などのように)開催地の地名を冠したものである事が多い。映画の上演が主となるが、加えてエントリー作品の審査及び賞の授与や、映画に関するイベント(講演会、研修会、見学会、レセプション、等)を含むこともある。 最も有名なのは国際映画祭であるが、ファンタスティック映画祭、ドキュメンタリー映画祭、女性映画祭などテーマ別の映画祭も多数ある。複合的に国際アニメーション映画祭といった名称・分類もあり、東京国際映画祭の協賛企画として東京国際女性映画祭が開かれる場合などもある。作品上映の前後に、監督や出演者などの舞台挨拶、ティーチイン(観覧者との質疑応答)などが行われる事も多い。
{{独自研究|date=2011年5月}} {{Pathnav|映画|映画の一覧|frame=1}} '''映画祭'''(えいがさい)とは、特定の場所で期間限定で開催される[[映画]]関連の[[イベント]]。通常、年に一度など定期的な開催サイクルを持ち、名称は([[ベルリン国際映画祭]]などのように)開催地の地名を冠したものである事が多い。映画の上演が主となるが、加えてエントリー作品の審査及び賞の授与や、映画に関するイベント(講演会、研修会、見学会、レセプション、等)を含むこともある。 最も有名なのは[[国際映画祭]]であるが、ファンタスティック映画祭、[[ドキュメンタリー]]映画祭、女性映画祭などテーマ別の映画祭も多数ある。複合的に国際アニメーション映画祭といった名称・分類もあり、東京国際映画祭の協賛企画として東京国際女性映画祭が開かれる場合などもある。作品上映の前後に、監督や出演者などの舞台挨拶、ティーチイン(観覧者との質疑応答)などが行われる事も多い。 == 世界三大映画祭 == === 世界三大映画祭 === 国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭のうち、以下の3つを指す。[[モスクワ国際映画祭]]を加え、世界四大映画祭と称されることもある{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}}。 * [[カンヌ国際映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017b|p=267}}<ref name="eiganoshou">{{Cite web|和書|url=http://www.nichigai.co.jp/PDF/2223-7.pdf|accessdate=2017-11-22|title=映画の賞事典のチラシ|format=PDF |publisher=[[日外アソシエーツ]]|work=出版案内|quote=収録賞一覧【国内】あなたが選んだスクリーン・ゴールデン・グランプリ/市川雷蔵賞/伊藤幸夫賞/ AMA 全国映像コンテスト(後略)}}</ref> - 5月。[[パルム・ドール]]を受賞した日本映画は『[[地獄門]]』、『[[影武者 (映画)|影武者]]』、『[[楢山節考 (1983年の映画)|楢山節考]]』、『[[うなぎ (映画)|うなぎ]]』、『[[万引き家族]]』<ref>{{Cite web|和書|title=是枝裕和『万引き家族』に最高賞パルムドール!日本人21年ぶり:第71回カンヌ国際映画祭|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0100948|website=シネマトゥデイ|accessdate=2019-10-04}}</ref>。 * [[ベルリン国際映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017b|p=267}}<ref name="eiganoshou" /> - 2月。[[金熊賞]]を受賞した日本映画は『[[武士道残酷物語]]』、『[[千と千尋の神隠し]]』{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}}。 * [[ヴェネツィア国際映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017b|p=267}}<ref name="eiganoshou" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220824-WWXRQQXEBBFKJBJV3DR6WG6LPI/|title=ヴェネチア国際映画祭受賞なるか 日本のVR演劇ノミネート「三度目の正直」|publisher=産経ニュース|date=2022-08-24|accessdate=2022-08-24}}</ref> - 8月末から9月初旬。[[金獅子賞]]を受賞した日本映画は『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』、『[[無法松の一生 (1958年の映画)|無法松の一生]]』、『[[HANA-BI]]』{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}}。 === 世界三大ファンタスティック映画祭 === [[SF映画]]、[[ホラー映画]]、[[スリラー映画]]、[[サスペンス映画]]など、[[フィクション]]、[[ファンタジー]]系のジャンルに焦点を当てた専門の映画祭については、以下の3つが三大映画祭とされる。 * [[シッチェス・カタロニア国際映画祭]](FIAPF公認) * [[ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭]](FIAPF公認) * [[ポルト国際映画祭]] == 国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の映画祭 == === コンペティティブ長編映画祭(総合) === 国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の長編映画祭(Competitive Feature Film Festivals)で、長編・短編作品ともに扱う国際映画祭。 * [[ベルリン国際映画祭]] - ドイツ{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[カンヌ国際映画祭]] - フランス{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭]] - チェコ{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[ロカルノ国際映画祭]] - スイス{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[モントリオール世界映画祭]] - カナダ{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[ヴェネツィア国際映画祭]] - イタリア{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[ワルシャワ国際映画祭]] - ポーランド{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[タリン・ブラックナイト映画祭]] - エストニア<ref>{{Cite web|url=https://fiapf.org/festivals/accredited-festivals/competitive-feature-film-festivals|title=FIAPF Competitive Feature Film Festivals |publisher=FIAPF |accessdate=2023-10-16|date=2023-10-16}}</ref> === コンペティティブ長編映画祭(長編作品のみ) === FIAPF公認の長編映画祭(Competitive Feature Film Festivals)で長編作品しか扱わない映画祭。 * [[マール・デル・プラタ国際映画祭|マル・デル・プラタ国際映画祭]] - アルゼンチン{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[上海国際映画祭]] - 中国{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[モスクワ国際映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017b|p=267}}<ref name="eiganoshou" /> - ロシア 。最高賞を受賞した日本映画は[[新藤兼人]]監督の映画『[[裸の島]]』、『[[裸の十九才]]』、『[[生きたい]]』の3本{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}}。[[黒澤明]]監督のソビエト映画『[[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]]』も最高賞を受賞している{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}}。 * [[サン・セバスティアン国際映画祭|ドノスティア=サン・セバスティアン国際映画祭]] - スペイン{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[東京国際映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|pp=277-278}}{{sfn|キネ旬|2017b|p=270}}<ref name="eiganoshou" /> - 日本{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[カイロ国際映画祭]] - エジプト{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} * [[インド国際映画祭]] - インド{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 796 - 835/6665}} === コンペティティブ・スペシャライズド長編映画祭(総合) === FIAPF公認のスペシャライズド長編映画祭(Competitive Specialised Feature Film Festivals)で、長編・短編作品ともに扱う国際映画祭。 * [[シッチェス・カタロニア国際映画祭]](Fantasy films) - スペイン * [[ブリュッセル国際ファンタスティック映画祭]](Fantasy and science fiction films) - ベルギー * [[釜山国際映画祭]](New directors' films from Asian countries) - 韓国 * [[サンパウロ国際映画祭]](Films of new directors) - ブラジル * [[サラエヴォ映画祭]] * [[ストックホルム国際映画祭]](Films on new cinematographic orientations) - スウェーデン === 非コンペティティブ長編映画祭(総合) === FIAPF公認の非コンペティティブ長編映画祭(Non-Competitive Feature Film Festivals)で、長編・短編作品ともに扱う国際映画祭。 * [[シドニー映画祭]] - オーストラリア * [[トロント国際映画祭]] - カナダ == インディペンデントな主要映画祭 == FIAPFに加盟していない、或いはFIAPFから公認を受けていないが、世界の映画界で重要な地位を占める映画祭としては以下のものがある。 * [[エディンバラ国際映画祭]] - イギリス * [[サンダンス映画祭]] - アメリカ * [[ロッテルダム国際映画祭]] - オランダ == アカデミー賞(映画芸術科学アカデミー)公認の映画祭 == [[アカデミー賞]]は授賞式前年の1年間に'''アメリカ国内の特定地域で公開された作品'''を対象に選考され、また[[映画産業]]全般に関連した業績に対して授与される賞であるが、例外として'''アメリカ国内の特定地域で公開されていない作品'''でも同賞の候補作となることがある。それは世界各地で開かれるアカデミー賞の公認を受けた映画祭で受賞することであり、公認映画祭のグランプリ受賞作は自動的にアカデミー賞のノミネート候補作に推挙されるシステムとなっている。日本では[[ショートショートフィルムフェスティバル]]と[[広島国際アニメーションフェスティバル]]だけが公認を受けている。なお広島国際アニメーションフェスティバルは、[[2020年]]に開催された第18回大会をもって終了することになった。 * [[アスペン短編映画祭]] - アメリカ * [[アテネ国際映画祭]] - アメリカ * [[アトランタ映画祭]] - アメリカ * [[アヌシー国際アニメーション映画祭]] - フランス * [[アメリカ合衆国映画祭]] - アメリカ * [[アナーバー映画祭]] - アメリカ * [[インド国際映画祭]] - インド * [[ウエスカ映画祭]] - スペイン * [[ウプサラ国際短編映画祭]] - スウェーデン * [[ヴェネツィア国際映画祭]] - イタリア * [[オースティン映画祭]] - アメリカ * [[オーバーハウゼン国際短編映画祭]] - ドイツ * [[オタワ国際アニメーション映画祭]] - カナダ * [[カナダ映画&テレビアカデミー]] - カナダ * [[カルタヘナ国際映画祭]] - コロンビア * [[カンヌ国際映画祭]] - フランス * [[クラクフ国際短編映画祭]] - ポーランド * [[クレルモンフェラン国際短編映画祭]] - フランス * [[サンタバーバラ国際映画祭]] - アメリカ * [[サンダンス映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017b|p=268}} - アメリカ * [[サンフランシスコ国際映画祭]] - アメリカ * [[シーグラフ]] - アメリカ * [[シカゴ国際映画祭]] - アメリカ * [[シカゴ国際子供映画祭]] - アメリカ * [[シドニー映画祭]] - オーストラリア * [[シネクエスト映画祭]] - アメリカ * [[ジホン若者向け国際映画祭]] - スペイン * [[シュトゥットガルト国際アニメーション映画祭]] - ドイツ * [[ショーツ国際映画祭]] - アメリカ * [[ショートショートフィルムフェスティバル]] - 日本 * [[シンアニマ国際アニメーションフィルムフェスティバル]] - ポルトガル * [[スペイン映画科学アカデミー]] - スペイン * [[スラムダンス映画祭]] - アメリカ * [[世界アニメーションセレブレーション]] - アメリカ * [[ザグレブ世界アニメーション映画祭]] - クロアチア * [[セザール賞|セザール賞短編部門]] - フランス * [[セントルイス国際映画祭]] - アメリカ * [[タンペレ映画祭]] - フィンランド * [[ドナテロ・デビット・アワード]] - イタリア * [[トリノ国際映画祭]] - イタリア * [[トロント・ワールドワイド短編映画祭]] - カナダ * [[ナシュビル映画祭]] - アメリカ * [[パームスプリング国際短編映画祭]] - アメリカ * [[バミューダ国際映画祭]] - バミューダ諸島 * [[ハンプトン国際映画祭]] - アメリカ * [[ビルバオ国際映画祭]] - スペイン * [[山形国際ドキュメンタリー映画祭]] - 日本 * [[フォイル映画祭]] - アイルランド * [[富川国際アニメーション映画祭]] - 韓国 * [[ブラック・マリア映画祭]] - アメリカ * [[ブリティッシュアカデミー・オブ・映画&テレビアワード]] - イギリス * [[フリッカーフェスト]] - オーストラリア * [[フロリダ映画祭]] - アメリカ * [[ベルリン国際映画祭]] - ドイツ * [[メルボルン国際映画祭]] - オーストラリア * [[モントリオール世界映画祭]] - カナダ * [[モントリオール・ニュー・シネマ国際映画祭]] - カナダ * [[ヨーロッパ・フィルム・アワード]] - ドイツ * [[ロカルノ国際映画祭]] - スイス * [[ロサンゼルス映画祭]] - アメリカ * [[ロサンゼルス国際短編映画祭]] - アメリカ * [[ロサンゼルス・ラティーノ国際映画祭]] - アメリカ * [[ロードアイランド国際映画祭]] - アメリカ == 国際アニメーション映画協会公認の映画祭 == [[国際アニメーション映画協会]]公認の映画祭の中で、アヌシー、ザグレブ、オタワ、広島をもって世界四大アニメーション映画祭とされているが、広島のみが ASIFA公認(ASIFA Endorsement)であり、その他はASIFAパートナーシップ映画祭(ASIFA Partnership Festival)である。ASIFA Endorsementを得るには「ASIFA公認国際映画祭規約」を遵守する必要がある。この規約には、コンペティションの審査方法や特別プログラムに関する基準のほか、作家や関係者等の招待、広報、著作権保護、表現の自由の保障等、映画祭運営全体について厳しい基準が設けられている。なお、広島は2020年に開催された第18回大会をもって終了することになった。 * [[アニフェスト国際アニメーション映画祭]](International Festival of Animated Films AniFest) - チェコ * [[アヌシー国際アニメーション映画祭]] - フランス * [[オタワ国際アニメーション映画祭]] - カナダ * [[オランダアニメーション映画祭]](Holland Animation Film Festival) - オランダ * [[カタロニア国際アニメーション映画祭]](Catalunya International Animation Film Festival) - スペイン * [[ザグレブ国際アニメーション映画祭]](Zagreb World Festival of Animated Films) - クロアチア * [[シュトゥットガルト国際アニメーション映画祭]](Internationales Trickfilm-Festival Stuttgart - Festival of Animated Film) - ドイツ * [[ソウル国際マンガ・アニメーション映画祭]](Seoul International Cartoon & Animation Festival) - 韓国 * [[テヘラン国際アニメーション映画祭]](Tehran International Animation Festival) - イラン * [[広島国際アニメーションフェスティバル]] - 日本 * [[ブリスベン国際アニメーション映画祭]](Brisbane International Animation Festival) - オーストラリア * [[ライプツィヒ国際ドキュメンタリー・アニメーション映画祭]](International Leipzig Festival for Documentary and Animated Film) - ドイツ == インディペンデントな主要アニメーション映画祭 == ASIFAに加盟していない、或いはASIFAから公認を受けていないアニメーション映画祭としては以下のものがある。 * [[KROK国際アニメーション映画祭]](KROK International Animated Films Festival) - ウクライナ、ロシア * [[ネウムアニメーション映画祭]](Neum Animated Film Festival) - ボスニア・ヘルツェゴビナ * [[ブカレスト国際アニメーション映画祭]](Bucharest International Animation Film Festival) - ルーマニア * [[マドリード国際アニメーション映画祭]] - スペイン == 日本国内で開催される国際映画祭 == 長編短編、ジャンル、性別、地域といった制限を課すことなく全世界で公募している国際映画祭 <!--追記する場合は五十音順に当該位置へ挿入してください--> * [[沖縄国際映画祭]](沖縄)2009年~ * [[愛媛国際映画祭]](愛媛)2020年〜 * [[門真国際映画祭]](大阪)2018年~ * [[京都国際映画祭]](京都)2014年~ * [[キネコ国際映画祭]](東京)1992年~ * [[東京国際映画祭]](東京)1985年~ * [[徳島国際映画祭]](徳島)2016年~ * [[なら国際映画祭]](奈良)2010年~ * [[にいがた国際映画祭]](新潟)1991年~ * [[広島国際映画祭]](広島)2014年~ 年は初回開催年 == 日本国内で開催される映画祭 == <!--追記する場合は五十音順に当該位置へ挿入してください--> {{KTOC light}} === あ行 === * [[アーラ映画祭]](岐阜県可児市) * [[あいち国際女性映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=275}} * [[青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバル]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[秋田インディーズ映画祭]]<ref>[http://dvd.grrr.jp/movie/ 秋田フィルムコミッション研究会]{{リンク切れ|date=2015年11月}}</ref> * [[あきた十文字映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[あきる野映画祭(五日市映画祭)]] * [[朝日ベストテン映画祭]](2008年で終了) * [[アジア海洋映画祭イン幕張]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.amffm.net/|accessdate=2017-11-10|title=海洋映画情報 〜海洋映画を観よう! 〜}}</ref> * [[アジア国際子ども映画祭]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://asianfilm.chu.jp/|accessdate=2017-11-10|title=アジア国際子ども映画祭}}</ref> * [[アジアフォーカス・福岡映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=276}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.focus-on-asia.com/|accessdate=2017-11-10|title=アジアフォーカス・福岡国際映画祭}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[アジアンクィア映画祭]](AQFF:Asian Queer Film Festival) * [[EARTH VISION 地球環境映像祭]](EARTH VISION Tokyo Global Environmental Film Festival) * [[熱海怪獣映画祭]] * [[熱海国際映画祭]] * [[@ffあおもり映画祭]] * [[アフガニスタン映画祭]](東京、NPO法人[[クロスアーツ]]) * [[アラブ映画祭]](東京、[[国際交流基金]]) * [[池袋みらい国際映画祭]] * [[イタリア映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=274}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/italia/2017/|title=「イタリア映画祭2017」公式サイト:朝日新聞デジタル|accessdate=2017-11-14}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[いぶすき映画祭]] * [[イメージフォーラム・フェスティバル]](Image Forum Festival)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.imageforumfestival.com/|accessdate=2017-11-10|title=ImageForumFestival2017 イメージフォーラム・フェスティバル2017}}</ref> * [[岩槻映画祭]]<ref>{{cite web|url=http://iwatsuki-moviefes.com/|accessdate=2017-06-21|title=岩槻映画祭|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170621232646/http://iwatsuki-moviefes.com/|archivedate=2017-06-21|deadlinkdate=2017-11-10}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[雲州ふらた映画祭]] * [[映画のまち調布 シネマフェスティバル]] * [[ええじゃないかとよはし映画祭]] * [[NHKアジア・フィルム・フェスティバル]] * [[海老名プレミアム映画祭]](2008年で終了) * [[MKE映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[おおいた自主映画祭]] * [[大阪アジアン映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=273}}<ref name="eigasaiNavi" /> * [[大阪ヨーロッパ映画祭]] * [[大須にじいろ映画祭]] * [[岡山映画祭]] * [[沖縄国際映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|pp=273-274}}<ref name="eigasaiNavi" /> * [[お蔵出し映画祭]] * [[小田原映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[小津安二郎記念蓼科高原映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[オホーツク網走フィルムフェスティバル]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://abashiri-filmfes.com/|accessdate=2017-11-11|title=オホーツク網走フィルムフェスティバル}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[オンチ映画祭]] === か行 === * [[香川レインボー映画祭]] * [[学生残酷映画祭]] * [[門真国際映画祭]] * [[カナザワ映画祭]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eiganokai.com/|accessdate=2017-11-11|title=一般社団法人 映画の会}}</ref> * [[KAWASAKIしんゆり映画祭]] * [[関西 Queer Film Festival]] * [[吉祥寺アニメフェスティバル|吉祥寺アニメーション映画祭]] * [[京都映画祭]] * [[京都国際学生映画祭]] * [[京都ヒストリカ国際映画祭]] * [[きりゅう映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[神戸インディペンデント映画祭]] * [[神戸スポーツ映画祭]]<ref name="eigasaiNavi">{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/pages/2016/09/movie_festival/|title=映画祭ナビ|accessdate=2017-11-16|publisher=[[KINENOTE]]}}</ref> * [[神戸100年映画祭]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5e.biglobe.ne.jp/~kff100/|accessdate=2009-04-04|title=神戸100年映画祭}}{{リンク切れ|date=2017年11月}}</ref> * [[小坂本町一丁目映画祭]](愛知県豊田市)<ref>{{Cite web|和書|url=http://kozahon1.jpn.org/ff/|accessdate=2017-11-11|title=小坂本町一丁目映画祭}}</ref> * [[コリアン・シネマ・ウィーク]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=278}} * [[CON-CANムービーフェスティバル]] === さ行 === * [[札幌国際短編映画祭]](SAPPOROショートフェスト)<ref name="eigasaiNavi" /> * [[さぬき映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[したまちコメディ映画祭in台東]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=276}}<ref name="eigasaiNavi" /> * [[シネマベイビーフィルムフェスティバル]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cinema-baby.com/|accessdate=2008-03-06|title=シネマベイビー【複合型フィルムフェスティバル】|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080306103809/http://www.cinema-baby.com/|archivedate=2008-03-06|deadlinkdate=2017-11-11}}</ref>(2017年で終了) * [[渋谷TANPEN映画祭CLIMAXat佐世保]] * [[しまね映画祭]] * [[下北沢映画祭]] * [[周南映画祭 ~絆~]] * [[ショートショートフィルムフェスティバル|ショートショート フィルムフェスティバル & アジア]]{{sfn|キネ旬|2017b|p=271}}<ref name="eigasaiNavi" /> * [[新開地映画祭(神戸)]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://eigasai.shinkaichi.or.jp/|accessdate=2017-11-11|title=第14回 新開地映画祭(神戸)オンナ度50%アップ!|author=新開地映画祭実行委員会}}</ref> * [[新城映画祭]](新城ムービングイメージフェスティバル) * [[Shintoku空想の森映画祭]] * [[神保町映画祭]] * [[スウェーデン映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=276}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://sff-web.jp/|title=スウェーデン映画祭2016 オフィシャルサイト|accessdate=2017-11-15}}</ref> * [[すかがわ国際短編映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[SKIPシティ国際Dシネマ映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=275}}<ref name="eigasaiNavi" /> * [[杉並ヒーロー映画祭]] * [[SeishoCinemaFes]] * [[関前諸島岡村島映画祭]] * [[瀬戸田映画祭]] * [[仙台短篇映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> === た行 === * [[高崎映画祭]]<ref name="eiganoshou" /><ref name="eigasaiNavi" /> * [[宝塚映画祭]] *立川名画座通り映画祭 * [[田辺・弁慶映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[TAMA CINEMA FORUM | 映画祭TAMA CINEMA FORUM]] * [[茅ヶ崎映画祭]] * [[知多半島映画祭]] * [[TSSショートムービーフェスティバル]](2013年で終了) * [[ドイツ映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=279}}<ref>{{cite web|url=https://www.goethe.de/ins/jp/ja/ver.cfm?fuseaction=events.detail&event_id=20831000|title=ドイツ映画祭2016 「HORIZONTE」 - Goethe-Institut Japan|accessdate=2017-11-14}}</ref> * [[東葛国際映画祭]]<ref>{{cite web|url=http://www.tokatsufilm.com/|accessdate=2017-11-11|title=TOKATSU Film Festival 2013 東葛映画祭}}</ref> * [[東京学生映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[東京国際映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|pp=277-278}}{{sfn|キネ旬|2017b|p=270}}<ref name="eiganoshou" /><ref name="eigasaiNavi" /> * [[東京国際シネシティフェスティバル]] * [[東京国際女性映画祭]] * [[東京国際ファンタスティック映画祭]] * [[東京・中国映画週間]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=278}} * [[TOKYO月イチ映画祭]] * [[トーキョー ノーザンライツ フェスティバル]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=272}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://tnlf.jp/|title=トーキョー ノーザンライツ フェスティバル 2017|accessdate=2017-11-15}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[東京フィルメックス]](TOKYO FILMeX){{sfn|キネ旬|2017a|p=279}}<ref name="eiganoshou" /><ref name="eigasaiNavi" /> * [[東京平和映画祭]] * [[徳島国際映画祭]](旧・徳島国際短編映画祭) *#徳島ニューノーマル映画祭 * [[栃木・蔵の街かど映画祭]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://kura-movie.jp/|accessdate=2017-11-11|title=第10回 栃木・蔵の街かど映画祭 - 蔵の数々をミニシアターに変貌させた映画祭}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[TOYAMA地域映画フェスティバル]] * [[とよはしまちなかスロータウン映画祭]] === な行 === * [[中崎町サイレント映画祭]] * [[那須ショートフィルムフェスティバル]] * [[なら国際映画祭]] * [[にいがた国際映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[西東京市民映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[中之島映画祭]] === は行 === * [[八王子Short Film映画祭]] * [[はままつ映画祭]] * [[ぴあフィルムフェスティバル]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[東広島映画祭]] * [[飛騨国際メルヘンアニメ映像祭]]<ref name="eiganoshou" /> * [[ひろしま映像展]] * [[広島国際アニメーションフェスティバル|広島国際アニメーション映画祭]]<ref name="eiganoshou" /><ref name="eigasaiNavi" /> * [[広島国際映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=279}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://hiff.jp/|title=広島国際映画祭 HIFF|accessdate=2017-11-15}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[ヒロシマ平和映画祭]] *氷見"絆"国際映画祭 * [[フィンランド映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|pp=278-279}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.ne.jp/finland-film-festival/|title=フィンランド映画祭 2017|accessdate=2017-11-15}}</ref> * [[福井映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[福井駅前短編映画祭]]<ref>[http://mouzou-fukui.com/fukui-shortfilm/ 福井駅前短編映画祭]</ref> * [[福岡アジア映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|pp=274-275}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://asianfilm.tank.jp/|accessdate=2017-11-11|title=福岡アジア映画祭}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[福島こどものみらい映画祭]] * [[フランス映画祭 (日本)|フランス映画祭]](東京・横浜・大阪など){{sfn|キネ旬|2017a|p=274}}<ref name="eigasaiNavi" /> * [[古湯映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[ポーランド映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=279}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.polandfilmfes.com/|title=ポーランド映画祭|accessdate=2017-11-15}}</ref> * [[北海道ユニバーサル上映映画祭]]<ref>[http://www.hakodateitiba.com/udff/ 北海道ユニバーサル上映映画祭]{{リンク切れ|date=2015年11月}}</ref> === ま行 === * [[三鷹の森アニメフェスタ|三鷹の森インディーズアニメフェスタ]] * [[みちのく国際ミステリー映画祭]]<ref name="eiganoshou" /> * [[宮崎映画祭]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bunkahonpo.or.jp/mff/|title=宮崎映画祭 MIYAZAKI FILM FESTIVAL|accessdate=2018-10-27}}</ref> * [[みやざき自主映画祭]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bunkahonpo.or.jp/miff/index.html|title=Miff - みやざき自主映画祭|accessdate=2018-10-27}}</ref> * [[みゆき野映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> === や行 === * [[山形国際ドキュメンタリー映画祭]]<ref name="eiganoshou" /><ref name="eigasaiNavi" /> * [[山形国際ムービーフェスティバル]](YMF)<ref name="eigasaiNavi" /> * [[やまなし映画祭]] * [[ゆうばり国際ファンタスティック映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|pp=272–273}}{{sfn|キネ旬|2017b|p=270}}<ref name="eiganoshou" /><ref name="eigasaiNavi" /> * [[湯布院映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[ゆふいんこども映画祭]] * [[ゆふいん文化・記録映画祭]]<ref name="eigasaiNavi" /> * [[ヨコハマ映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017b|p=271}}<ref name="eiganoshou" /><ref name="eigasaiNavi" /> *[[ヨコハマ・フットボール映画祭]] * [[夜空と交差する森の映画祭]] * [[横濱インディペンデント・フィルム・フェスティバル]](旧・横濱HAPPY MUS!C映画祭)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.g-film.net/filmfes/|accessdate=2017-11-11|title=横濱インディペンデント・フィルム・フェスティバル}}</ref> === ら行 === * [[ラテンビート映画祭]]{{sfn|キネ旬|2017a|p=276}} * [[ラブストーリー映画祭]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://lovefestival.org/|accessdate=2017-11-11|title=ラブストーリー映画祭/LOVE STORY FILM FESTIVAL}}</ref><ref name="eigasaiNavi" /> * [[レインボー・リール東京]] (旧・東京国際レズビアン&ゲイ映画祭){{sfn|キネ旬|2017a|p=275}}<ref name="eigasaiNavi" /> == その他の映画祭 == * [[アジア国際青少年映画祭]]([[2004年]]〜、日中韓の三ヶ国の学生作品を対象にする映画祭) * [[ジェラルメ国際ファンタスティカ映画祭]](アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭) * [[シネリンピック!]] * [[マカオ国際映画祭]] * [[非同盟および発展途上国の平壌映画祭]] == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書 |year = 2017|title = 主要国内映画祭・特集上映 上映作品一覧 |journal = [[キネマ旬報]] |issue = [[2017年]]([[平成]]29年)[[2月]]下旬号 |pages = 272 - 277 |publisher = [[キネマ旬報社]]|ref={{SfnRef|キネ旬|2017a}}}} * {{Cite journal|和書 |year = 2017|title = 2016年内外映画祭・映画賞一覧 |journal = [[キネマ旬報]] |issue = [[2017年]]([[平成]]29年)[[2月]]下旬号 |pages = 266 - 277 |publisher = [[キネマ旬報社]]|ref ={{SfnRef|キネ旬|2017b}}}} * {{Cite book|和書 |title=映画の賞事典|url=http://www.nichigai.co.jp/cgi-bin/nga_search.cgi?KIND=BOOK1&ID=A2223|date=2009-12|publisher=[[日外アソシエーツ]]|isbn=978-4-8169-2223-7}} ** {{Cite web|和書|url=http://www.nichigai.co.jp/PDF/2223-7.pdf|accessdate=2017-11-22|title=映画の賞事典のチラシ|format=PDF |publisher=[[日外アソシエーツ]]|work=出版案内|quote=収録賞一覧【国内】あなたが選んだスクリーン・ゴールデン・グランプリ/市川雷蔵賞/伊藤幸夫賞/ AMA 全国映像コンテスト(後略)}} * {{cite book|和書 |author1=山下慧|author2=井上健一|author3=松崎健夫|title=現代映画用語事典|date=2012-05|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4-87376-367-5}} ** {{Wikicite | ref={{SfnRef|山下慧kindle|2012}} | reference=[[kindle]]版(2012年5月刊行本が底本・2019年3月2日ダウンロード)}} == 関連項目 == * [[国際映画製作者連盟]] * [[映画の賞]] == 外部リンク == {{Commonscat|Film festivals}} * {{Kotobank|映画祭}} {{映画祭}} {{世界の映画}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えいかさい}} [[Category:映画祭|*えいがさい]] [[Category:文化の祭典]]
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各国の映画
各国の映画、その特色など。
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各国の映画、その特色など。
{{Pathnav|映画|映画の一覧|frame=1}} '''各国の[[映画]]'''、その特色など。 {{世界の映画}} == 一覧 == {| class="sortable wikitable" style="font-size:90%;" |- !class="unsortable"| !!記事!!地域!!備考 |- |{{Flagicon|USA}}||[[アメリカ合衆国の映画]]||北中米||[[ハリウッド映画]] |- |{{Flagicon|CAN}}||[[カナダの映画]]||北中米|| |- |{{Flagicon|CUB}}||[[キューバの映画]]||北中米|| |- |{{Flagicon|PUR}}||[[プエルトリコの映画]]([[w:Cinema of Puerto Rico|en]])||北中米|| |- |{{Flagicon|MEX}}||[[メキシコの映画]]||北中米|| |- |{{Flagicon|ARG}}||[[アルゼンチンの映画]]([[w:Cinema of Argentina|en]])||南米|| |- |{{Flagicon|URU}}||[[ウルグアイの映画]]([[w:Cinema of Uruguay|en]])||南米|| |- |{{Flagicon|ECU}}||[[エクアドルの映画]]||南米|| |- |{{Flagicon|COL}}||[[コロンビアの映画]]([[w:Cinema of Colombia|en]])||南米|| |- |{{Flagicon|CHI}}||[[チリの映画]]([[w:Cinema of Chile|en]])||南米|| |- |{{Flagicon|BRA}}||[[ブラジルの映画]]||南米|| |- |{{Flagicon|IRL}}||[[アイルランドの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|GBR}}||[[イギリスの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|ITA}}||[[イタリアの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|AUT}}||[[オーストリアの映画]]([[w:Cinema of Austria|en]])||西欧|| |- |{{Flagicon|NED}}||[[オランダの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|GRE}}||[[ギリシャの映画]]([[w:Cinema of Greece|en]])||西欧|| |- |{{Flagicon|SUI}}||[[スイスの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|ESP}}||[[スペインの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|GER}}||[[ドイツの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|FRA}}||[[フランスの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|BEL}}||[[ベルギーの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|POR}}||[[ポルトガルの映画]]||西欧|| |- |{{Flagicon|ALB}}||[[アルバニアの映画]]([[w:Cinema of Albania|en]])||東欧|| |- |{{Flagicon|UKR}}||[[ウクライナの映画]]||東欧|| |- |{{Flagicon|SVK}}||[[スロバキアの映画]]||東欧|| |- |{{Flagicon|SRB}}||[[セルビアの映画]]||東欧|| |- |{{Flagicon|CZE}}||[[チェコの映画]]||東欧|| |- |{{Flagicon|HUN}}||[[ハンガリーの映画]]([[w:Cinema of Hungary|en]])||東欧|| |- |{{Flagicon|BUL}}||[[ブルガリアの映画]]||東欧|| |- |{{Flagicon|POL}}||[[ポーランドの映画]]||東欧|| |- |{{Flagicon|YUG}}||''[[ユーゴスラヴィアの映画]]''||東欧|| |- |{{Flagicon|RUS}}||[[ロシアの映画]]||東欧|| |- |{{Flagicon|URS}}||''[[ソビエトの映画]]''||東欧|| |- |{{Flagicon|ISL}}||[[アイスランドの映画]]||北欧|| |- |{{Flagicon|SWE}}||[[スウェーデンの映画]]||北欧|| |- |{{Flagicon|DEN}}||[[デンマークの映画]]||北欧|| |- |{{Flagicon|NOR}}||[[ノルウェーの映画]]||北欧|| |- |{{Flagicon|FIN}}||[[フィンランドの映画]]||北欧|| |- |||'''[[アジアの映画]]'''([[w:Asian cinema|en]])||アジア|| |- |{{Flagicon|KOR}}||[[韓国映画]]||東アジア|| |- |{{Flagicon|PRK}}||[[北朝鮮の映画]]||東アジア|| |- |{{Flagicon|ROC}}||[[台湾映画]]||東アジア|| |- |{{Flagicon|CHN}}||[[中国映画]]||東アジア|| |- |{{Flagicon|JPN}}||[[日本映画]](邦画)||東アジア|| |- |{{Flagicon|HKG}}||[[香港映画]]||東アジア|| |- |{{Flagicon|IND}}||[[インドの映画]]||アジア||マサラ・ムービー |- |{{Flagicon|INA}}||[[インドネシアの映画]]([[w:Cinema of Indonesia|en]])||アジア|| |- |{{Flagicon|SIN}}||[[シンガポールの映画]]([[w:Cinema of Singapore|en]])||アジア|| |- |{{Flagicon|THA}}||[[タイの映画]]||アジア|| |- |{{Flagicon|BAN}}||[[バングラデシュの映画]]([[w:Cinema of Bangladesh|en]])||アジア|| |- |{{Flagicon|VIE}}||[[ベトナムの映画]]([[w:Cinema of Vietnam|en]])||アジア|| |- |{{Flagicon|PHI}}||[[フィリピンの映画]]([[w:Cinema of the Philippines|en]])||アジア|| |- |{{Flagicon|LAO}}||[[ラオスの映画]]||アジア|| |- |{{Flagicon|UZB}}||[[ウズベキスタンの映画]]||中央アジア|| |- |{{Flagicon|KAZ}}||[[カザフスタンの映画]]||中央アジア|| |- |{{Flagicon|ISR}}||[[イスラエルの映画]]||中東|| |- |{{Flagicon|IRI}}||[[イランの映画]]||中東|| |- |{{Flagicon|KSA}}||[[サウジアラビアの映画]]||中東|| |- |{{Flagicon|SYR}}||[[シリアの映画]]||中東|| |- |{{Flagicon|TUR}}||[[トルコの映画]]||中東|| |- |{{Flagicon|PAK}}||[[パキスタンの映画]]||中東|| |- |{{Flagicon|PLE}}||[[パレスチナの映画]]||中東|| |- |{{Flagicon|AUS}}||[[オーストラリアの映画]]||オセアニア|| |- |{{Flagicon|NZL}}||[[ニュージーランドの映画]]||オセアニア|| |- |{{Flagicon|EGY}}||[[エジプトの映画]]([[w:Cinema of Egypt|en]])||アフリカ|| |- |{{Flagicon|KEN}}||[[ケニアの映画]]([[w:Cinema of Kenya|en]])||アフリカ|| |- |{{Flagicon|NIG}}||[[ニジェールの映画]]([[w:Cinema of Niger|en]])||アフリカ|| |- |{{Flagicon|BUR}}||[[ブルキナファソの映画]]([[w:Cinema of Burkina Faso|en]])||アフリカ|| |- |{{Flagicon|RSA}}||[[南アフリカ共和国の映画]]([[w:Cinema of South Africa|en]])||アフリカ|| |- |{{Flagicon|MAR}}||[[モロッコの映画]]([[w:Cinema of Morocco|en]])||アフリカ|| |- |{{Flagicon|LBA}}||[[リビアの映画]]||アフリカ|| |} ==関連項目== *[[日本を舞台にしたアメリカ映画一覧]] [[category:各国の映画|*]]
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映画会社の一覧
以下は、現存する世界の映画会社の一覧。会社の実体を持たない部門やブランドなども含まれる。
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以下は、現存する世界の映画会社の一覧。会社の実体を持たない部門やブランドなども含まれる。
{{Pathnav|映画|映画の一覧|frame=1}} 以下は、現存する[[世界]]の'''[[映画]]会社の一覧'''。会社の実体を持たない部門や[[ブランド]]なども含まれる。 == アメリカ == * [[ウォルト・ディズニー・スタジオ]]([[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]) **[[ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ]] ** [[ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ]] **[[ディズニーネイチャー]] **[[タッチストーン・ピクチャーズ]] **[[ピクサー・アニメーション・スタジオ]] **[[ルーカスフィルム]] **[[マーベル・スタジオ]] **[[20世紀スタジオ]] ***[[20世紀アニメーション]] ***[[ゼロ・デイ・フォックス|20デジタル・スタジオ]] ***[[サーチライト・ピクチャーズ]] * [[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]]([[ソニーグループ]]) **[[ソニー・ピクチャーズ モーション ピクチャー グループ]] *** [[コロンビア ピクチャーズ]] **** [[ゴースト・コープ]] *** [[トライスター ピクチャーズ]] ***[[スクリーン ジェムズ]] *** [[ソニー・ピクチャーズ アニメーション]] *** [[ソニー・ピクチャーズ クラシックス]] * [[パラマウント・ピクチャーズ]]([[バイアコムCBS]]) ** [[MTVフィルムズ]] ** [[ニコロデオン・ムービーズ]] ** [[パラマウント・ヴァンテージ]] ** [[リパブリック・ピクチャーズ]] * [[ユニバーサル・ピクチャーズ]]([[NBCユニバーサル]])([[コムキャスト]]) ** [[イルミネーション・エンターテインメント]] ** [[ドリームワークス・アニメーション]] ** [[フォーカス・フィーチャーズ]] ** [[ワーキング・タイトル・フィルムズ]] * [[ワーナー・ブラザース|ワーナー・ブラザース・エンターテインメント]]([[ワーナーメディア]])([[AT&T]]) **[[ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ]] ***[[ワーナー・アニメーション・グループ]] *** [[ニュー・ライン・シネマ]] ***[[DCフィルムズ]] *** [[ワーナー・インディペンデント・ピクチャーズ]] ***[[キャッスル・ロック・エンターテインメント]] *** [[シルバー・ピクチャーズ]] **** [[ダーク・キャッスル・エンターテインメント]] * [[ライオンズゲート]] ** [[サミット・エンターテインメント]] ** [[マンデート・ピクチャーズ]] ** [[ロードサイド・アトラクションズ]] * [[アンブリン・パートナーズ]] ** [[アンブリン・エンターテインメント]] ** [[ドリームワークス]] * [[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]([[MGMホールディングス]])([[Amazon.com|Amazon]]) ** [[アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ]] ** [[オライオン・ピクチャーズ]] ** [[ユナイテッド・アーティスツ]] ** [[:en:United Artists#United Artists Releasing|ユナイテッド・アーティスツ・リリーシング]](アンナプルナ・ピクチャーズとの[[合弁事業|合弁会社]]) * [[クレスト・アニメーション・プロダクションズ]] * [[アーゴシー・ピクチャーズ]] * [[IFCフィルムズ]]([[レインボー・メディア]]) * [[アサイラム (映画会社)|アサイラム]] * [[アメリカン・ゾエトロープ]] * [[アルコン・エンターテインメント]]([[フェデックス]]) * [[アンカーベイ・エンターテインメント]]([[Starz]]) * [[アンナプルナ・ピクチャーズ]] * [[イレブンアーツ]] * [[インフィニタム・ニヒル]] * [[ウォルター・ウェンジャー|ウォルター・ウェンジャー・プロダクションズ]] * [[ウォルデン・メディア]] * [[オーバーチュア・フィルムズ]](Starz) * [[オッド・ロット・エンターテインメント]] * [[キャピトル・フィルムズ]] ** [[シンクフィルム]] * [[グッドマシン]] * [[グラウンドスウェル・プロダクションズ]] * [[クルーズ/ワグナー・プロダクションズ]] * [[コンソリデイテッド・ピクチャーズ・グループ]](旧レオニダス・フィルムズ) * [[ザ・サミュエル・ゴールドウィン・カンパニー]] * [[ザ・フィルム・デパートメント]] * [[サミュエル・ゴールドウィン・スタジオ]] * [[サミュエル・ゴールドウィン・フィルムズ]] * [[サミュエル・ゴールドウィン|サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ]] * [[GKフィルムズ]] * [[CBSフィルムズ]]([[CBS]]傘下) * [[コーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニー|C・V・ホイットニー・ピクチャーズ]] * [[スタンリー・クレイマー|スタンリー・クレイマー・プロダクションズ]] * [[スパイグラス・エンターテインメント]]([[サーベラス・キャピタル・マネージメント]]) * [[デヴィッド・O・セルズニック|セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ]] * [[デイヴィス・エンターテインメント]] * [[トロマ・エンターテインメント]] * [[ニュー・イメージ]] ** [[ファースト・ルック・スタジオ]] ** [[ミレニアム・フィルムズ]] * [[ニューマーケット・フィルムズ]]([[ニューマーケット・キャピタル・グループ]]) * [[パーティシパント・メディア]](旧パーティシパント・プロダクションズ) * [[バジャック・プロダクションズ]] * [[1492ピクチャーズ]] * [[プラチナム・デューンズ]] * [[プランBエンターテインメント]] * [[フリースタイル・リリーシング]] * [[プロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション]] * [[マグノリア・ピクチャーズ]]([[2929エンターテインメント]]) ** マグネット * [[ミラマックス]]([[BeINメディア・グループ]]、[[パラマウント・グローバル]]) * [[ミリッシュ・カンパニー]] * [[モノグラム・ピクチャーズ]] ** [[アライド・アーティスツ・ピクチャーズ・コーポレーション]] * [[ヤーリ・フィルム・グループ]](YFG) * [[ライトストーム・エンターテインメント]] * [[リバー・ロード・エンターテインメント]](旧リバー・ロード・プロダクションズ) * [[リージェンシー・プライゼス]](旧エンバシー・インターナショナル・ピクチャーズ) ** [[ニュー・リージェンシー・プロダクションズ]] ** [[リージェンシー・ヴェンチャーズ]] * [[リージェント・エンターテインメント]] * [[レラティビティ・メディア]] ** [[ローグ (映画会社)|ローグ]] * [[レイクショア・エンターテインメント]] * [[レジェンダリー・ピクチャーズ]] * [[ダグラス・ウィック|レッドワゴン・エンターテインメント]] * [[ワインスタイン・カンパニー]] ** [[ディメンション・フィルムズ]] == 日本 == * [[角川映画]] * [[大映]] * [[日本ヘラルド映画]] * [[松竹]] * [[東映]] * [[東宝]] * [[東宝東和]] * [[アスミック・エース]]([[ジュピターテレコム]]) * [[ギャガ]]([[ティー ワイ リミテッド]]、[[木下工務店|キノシタ・マネージメント]]) * [[博報堂DYミュージック&ピクチャーズ]](ショウゲート、[[博報堂DYメディアパートナーズ]]) * [[日活]]([[日本テレビ放送網]]および[[スカパーJSAT]]) * [[アースゲート]] * [[アートポート]](旧松下プロモーション) * [[アイエス・フィールド]] * [[AOI Pro.]]([[AOI TYO Holdings]]傘下) * [[アクション (企業)|アクション]] * [[アクセスエー]] * [[アステア]] * [[アップリンク (映画会社)|アップリンク]] * [[アット エンタテインメント]] * [[アニープラネット]] *[[アニプレックス]]([[ソニーグループ]]傘下) * [[ティ・ジョイ]](ティー ワイ リミテッド、東映) ** [[アマゾンラテルナ]] *** [[CJ Entertainment Japan]] * [[アミューズ]] ** [[アミューズソフトエンタテインメント]](芸能プロダクション・[[アミューズ]]) * [[彩プロ]] * [[アルゴ・ピクチャーズ]](旧アルゴ・プロジェクト) * [[エプコット (企業)|エプコット]]([[アルシネテラン]]) * [[アルタミラピクチャーズ]] * [[アルバトロス (映画配給会社)|アルバトロス]](アルバトロス・フィルム、旧ニューセレクト) * [[アンプラグド (企業)|アンプラグド]] * [[イースト・プレス]] * [[インターフィルム]] * [[太秦 (企業)|太秦]] * [[エイジアピクチャーズ]] * [[エクセレントフィルム]] * [[スターダストピクチャーズ|SDP]](スターダストピクチャーズ) * [[エイベックス・ピクチャーズ]]([[エイベックス]]) * エスパース・サロウ([[新日本映画社]]) * [[エスピーオー]]([[フィールズ (企業)|フィールズ]]) * [[エデン (企業)|エデン]] * [[エレファントハウス]] * [[オフィス北野]] * [[オフィスクレッシェンド]] * [[オフィス・シロウズ]] * [[オフィス・リブラ]] * [[オンリー・ハーツ]] * [[カートエンターテイメント]] * [[カエルカフェ]] * [[カフェグルーヴ]] * [[カルチュア・パブリッシャーズ]]([[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|CCC]]) * [[紀伊國屋書店]] * [[キノフィルムズ]](木下グループ) * [[キュリオスコープ]] * [[キングレコード]]([[講談社]]) * [[クレストインターナショナル]] * クロスメディア * [[クロックワークス]]([[双日]]) * [[CREATIVE OFFICE CUE]] * [[ケンメディア]](不動産関連企業、[[ケン・コーポレーション]]) * [[国際放映]](東宝) - テレビ番組製作が中心。 * [[コムストック・グループ]] * [[ザジフィルムズ]] * [[ジェイ・シネカノン]]([[明通 (企業)|明通]]) * [[シグロ]] * [[シナジー・リレーションズ]] * [[シネマ・ディスト]] * [[シネムーブ]] * [[ジョリー・ロジャー (企業)|ジョリー・ロジャー]] * [[スープレックス (企業)|スープレックス]] * [[スールキートス]] * [[スターサンズ]] * [[スタイルジャム]] * [[スローラーナー]] * [[セディックインターナショナル]] * [[セテラ・インターナショナル]] * [[中央映画貿易]] ** [[オデッサ・エンタテインメント]] * [[ツイン (企業)|ツイン]] * [[デイズ]] * [[デジタルサイト]]([[レイ (企業)|レイ]]) * [[デスティニー (企業)|デスティニー]] * [[テレビマンユニオン]] * [[東京テアトル]] * [[東北新社]] * [[トライストーン・エンタテイメント]] * [[トランスフォーマー (企業)|トランスフォーマー]] * [[ナインマイルズ]] * [[日本出版販売]] * [[日本スカイウェイ]] * [[ニューセレクト]] * [[ネイキッド (映像制作会社)|ネイキッド]] * [[熱帯美術館]] * [[パイオニア映画シネマデスク社]] * [[ハピネット]]([[バンダイナムコホールディングス|バンダイナムコ]]) * [[パル企画]] * [[パンドラ (企業)|パンドラ]] * [[ビー・ビー・ビー]] * [[ビーワイルド]] * [[ピクニック (企業)|ピクニック]] * [[ピクチャーズネットワーク]] * [[ビターズ・エンド]] * [[ファインフィルムズ]] * [[ファントム・フィルム]] * [[フィルムヴォイス]]([[ワック (メディア企業)|ワック]]) * [[フェイス・トゥ・フェイス (企業)|フェイス・トゥ・フェイス]] * [[フォーカスピクチャーズ]]([[フォーカスシステムズ]]) * [[フニュウ]] * フューズビジュアル([[フューズ (企業)|フューズ]]) * [[プラネットエンターテイメント]](旧プラネット) * [[フランス映画社]](Bowjapan) * [[プレシディオ]] * [[プレノンアッシュ]] * [[ブロードウェイ]] * [[ブロードメディア・スタジオ]]([[ブロードメディア]]) * [[ヘキサゴン (企業)|ヘキサゴン]] ** ヘキサゴン・ピクチャーズ * [[ベンテンエンタテインメント]](べんてんムービー) * [[ポニーキャニオン]]([[フジサンケイグループ]]) * [[マジックアワー (企業)|マジックアワー]](MH、IMJエンタテインメントおよびエスピーオー) * [[マクザム]] * [[ミュージックシネマズジャパン]] * [[ミラクルヴォイス]] * [[ムヴィオラ (日本)|ムヴィオラ]] * [[メダリオンメディア]] * [[モンスター☆ウルトラ]] * [[楽映舎]] * [[樂舎]] * [[ユーロスペース]] * [[ユナイテッドエンタテインメント]] * UNITED PRODUCTIONS * [[ライジングシネマ]] * [[リクリ]] * [[リトル・モア]] * [[レイキフィルムズ]] * [[レイドバック・コーポレイション]] * [[レジェンド・ピクチャーズ]] * [[グラッシィ]] * [[ロックワークス]] * [[ロボット (企業)|ロボット]]([[IMAGICA GROUP]]) * [[ロングライド (映画配給会社)|ロングライド]] * [[ワコー]] == フランス == * [[アッヴェントゥーラ・フィルム]] * {{仮リンク|SND (企業)|fr|Société nouvelle de distribution|label=SND}}([[グループM6]]) * [[MK2 (企業)|MK2]] * [[ゴーモン]] * [[JLGフィルム]] * [[スタジオカナル]]([[ヴィヴェンディ]]傘下) * [[ディズニーネイチャー]](ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ) * [[パテ (映画会社)|パテ]]([[デイリー・メール・アンド・ゼネラル・トラスト|DMGTブロードキャスティング]]) * [[フランコ・ロンドン・フィルム]] * [[ペリフェリア]] * [[ヨーロッパ・コープ]](フロント・ライン) * [[レ・フィルム・デュ・キャロッス]] * [[レ・フィルム・デュ・ローザンジュ]] * [[ワイルド・バンチ (企業)|ワイルド・バンチ]] == イギリス == * [[BBCフィルムズ]]([[英国放送協会|BBC]]) * [[イーオン・プロダクションズ]]([[ダンジャック]]) * [[ゴーモン・ブリティッシュ]] * [[フィルム4]] * [[ブリティッシュ・ライオン・フィルムズ]] * [[ヘイデイ・フィルムズ]] * [[ライオンズゲートUK]] * [[ロンドン・フィルムズ]] == 韓国 == * [[CJエンターテインメント]]([[CJグループ]]) ** [[シネマ・サービス]] * [[ショーボックス]]([[メディアプレックス]]) == イタリア == * [[チネチッタ]] * [[チェッキ・ゴーリ・グループ]] * [[ティタヌス]] * [[メドゥーサ・フィルム]] * [[ラッキー・レッド]] == オーストラリア == * [[ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ]]([[ヴィレッジ・ロードショー]]) == スイス == * [[ヴェガ・フィルム]] == デンマーク == * [[ツェントローパ]] * [[ニンブス・フィルム]] == ブルガリア == * [[ニュー・ボヤナ・フィルム・スタジオ]](ニュー・イメージ) == 香港 == *[[ゴールデン・ハーベスト]] *[[ショウ・ブラザーズ]] *[[メディア・アジア]](メディア・アジア・グループ) *[[中国星|チャイナ・スター]] *[[ペガサス・エンターテイメント]] <references /> {{DEFAULTSORT:えいかかいしやのいちらん}} [[Category:映画会社|*]] [[Category:企業一覧|えいか]] [[Category:映画の一覧|かいしや]]
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映画の配信媒体
映画の配信媒体(えいがのはいしんばいたい)は、フィルムやビデオカセットなどの形で制作された映画が視聴者に映画として鑑賞されるまでに通る経路を指す。その主なものとして、次のような媒体があるとされている。 細分すると、映画館でもロードショー系の上映と、それ以外のものがあり、また、テレビでもペイ・パー・ビュー方式のもの、映画専門チャンネルなど有料の衛星やケーブル系のチャンネル、地上波放送などに分けることができる。ビデオも、セル(販売)とレンタルがある。 典型的には、映画の権利を持つ制作会社は、上映や販売や放送やレンタルなどのタイミングを調整し、複数の配信媒体を通じて繰り返し収益を上げようと試みる。また、近年では映画館での上映で制作費を回収することを見込まず、その他の配信媒体経由からの売り上げと併せて利潤を確保するべく制作費を充当する動きも出ている。 このように数多くの配信媒体がある1つの理由に、映画は制作費の膨大さに比べて上映、配信には費用がかからないことが挙げられる。一度映画が制作されれば、制作者側としてはそれを多く上映、販売、放送、レンタルに結びつけるほど収益が上がることが期待できる。 また、音楽ほどではないが、映画はしばしば繰り返し鑑賞される商品である点も指摘できる。人はしばしば気に入った映画を何度も見る。 映画のこうした特性は、近年、映画会社が「コンテンツ」資源を多く保有するメディア会社として注目されている理由でもあり、ソニーによるコロンビア映画(現ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)の買収(1989年)、松下電器によるMCAの買収(1990年)の背景でもあったとされる。その後、松下電器はMCA株を売却することになったが、逆にソニーはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)についても買収することで基本合意に達したことを2004年9月13日に発表し、DVDに続く次世代ビデオディスクにおいても、こうした動きが続くことが予想される。 また、伝統的に、映画の制作会社と配給会社、その他のメディア会社の融合や取り引き慣行は独占禁止法などの政策論議の対象となる傾向にある。
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映画の配信媒体(えいがのはいしんばいたい)は、フィルムやビデオカセットなどの形で制作された映画が視聴者に映画として鑑賞されるまでに通る経路を指す。その主なものとして、次のような媒体があるとされている。 映画館 オリジナルビデオ(ビデオ) ビデオ・オン・デマンド 定額制動画配信サービス レンタルDVD テレビ 細分すると、映画館でもロードショー系の上映と、それ以外のものがあり、また、テレビでもペイ・パー・ビュー方式のもの、映画専門チャンネルなど有料の衛星やケーブル系のチャンネル、地上波放送などに分けることができる。ビデオも、セル(販売)とレンタルがある。 典型的には、映画の権利を持つ制作会社は、上映や販売や放送やレンタルなどのタイミングを調整し、複数の配信媒体を通じて繰り返し収益を上げようと試みる。また、近年では映画館での上映で制作費を回収することを見込まず、その他の配信媒体経由からの売り上げと併せて利潤を確保するべく制作費を充当する動きも出ている。 このように数多くの配信媒体がある1つの理由に、映画は制作費の膨大さに比べて上映、配信には費用がかからないことが挙げられる。一度映画が制作されれば、制作者側としてはそれを多く上映、販売、放送、レンタルに結びつけるほど収益が上がることが期待できる。 また、音楽ほどではないが、映画はしばしば繰り返し鑑賞される商品である点も指摘できる。人はしばしば気に入った映画を何度も見る。 映画のこうした特性は、近年、映画会社が「コンテンツ」資源を多く保有するメディア会社として注目されている理由でもあり、ソニーによるコロンビア映画(現ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)の買収(1989年)、松下電器によるMCAの買収(1990年)の背景でもあったとされる。その後、松下電器はMCA株を売却することになったが、逆にソニーはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)についても買収することで基本合意に達したことを2004年9月13日に発表し、DVDに続く次世代ビデオディスクにおいても、こうした動きが続くことが予想される。 また、伝統的に、映画の制作会社と配給会社、その他のメディア会社の融合や取り引き慣行は独占禁止法などの政策論議の対象となる傾向にある。
'''映画の配信媒体'''(えいがのはいしんばいたい)は、フィルムやビデオカセットなどの形で制作された[[映画]]が視聴者に映画として鑑賞されるまでに通る経路を指す。その主なものとして、次のような媒体があるとされている。 *[[映画館]] *[[オリジナルビデオ]]([[映像信号|ビデオ]]) *[[ビデオ・オン・デマンド]] *[[定額制動画配信サービス]] *[[レンタルDVD]] *[[テレビ]] 細分すると、映画館でもロードショー系の上映と、それ以外のものがあり、また、テレビでも[[ペイ・パー・ビュー]]方式のもの、映画専門チャンネルなど有料の衛星やケーブル系のチャンネル、地上波放送などに分けることができる。ビデオも、セル(販売)とレンタルがある。 典型的には、映画の権利を持つ制作会社は、上映や販売や放送やレンタルなどのタイミングを調整し、複数の配信媒体を通じて繰り返し収益を上げようと試みる。また、近年では映画館での上映で制作費を回収することを見込まず、その他の配信媒体経由からの売り上げと併せて利潤を確保するべく制作費を充当する動きも出ている。 このように数多くの配信媒体がある1つの理由に、映画は制作費の膨大さに比べて上映、配信には費用がかからないことが挙げられる。一度映画が制作されれば、制作者側としてはそれを多く上映、販売、放送、レンタルに結びつけるほど収益が上がることが期待できる。 また、音楽ほどではないが、映画はしばしば繰り返し鑑賞される商品である点も指摘できる。人はしばしば気に入った映画を何度も見る。 映画のこうした特性は、近年、映画会社が「コンテンツ」資源を多く保有するメディア会社として注目されている理由でもあり、[[ソニー]]によるコロンビア映画(現[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント|ソニー・ピクチャーズエンタテインメント]])の買収(1989年)、[[パナソニック|松下電器]]によるMCAの買収(1990年)の背景でもあったとされる。その後、松下電器はMCA株を売却することになったが、逆にソニーは[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]](MGM)についても買収することで基本合意に達したことを2004年9月13日に発表し、[[DVD]]に続く次世代ビデオディスクにおいても、こうした動きが続くことが予想される。 また、伝統的に、映画の制作会社と配給会社、その他のメディア会社の融合や取り引き慣行は独占禁止法などの政策論議の対象となる傾向にある。 {{DEFAULTSORT:えいかのはいしんはいたい}} [[Category:映画|はいしんはいたい]] [[Category:媒体]] [[Category:レンタルビデオ]]
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映画の賞
映画の賞(えいがのしょう)では、映画に与えられる賞について述べる。 映画の賞には大きく分けて2種類ある。観客側(マスメディア 等含む)が与える賞と、映画製作関係者による技術的な部分にも目を向けた賞とである。前者が監督や俳優等への賞に集中するのに対して、後者は撮影や録音・音楽・美術等といった映画スタッフへの賞も設けている。ハリウッドのアカデミー賞等は後者の代表格である。 以上のものが年間を通しての評価であるのに対して、映画祭で与えられる賞もある。これにはコンペティション部門で与えられるもの、新人監督、永く映画界に貢献のあった監督に与えられるものなどがある。
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映画の賞(えいがのしょう)では、映画に与えられる賞について述べる。 映画の賞には大きく分けて2種類ある。観客側(マスメディア 等含む)が与える賞と、映画製作関係者による技術的な部分にも目を向けた賞とである。前者が監督や俳優等への賞に集中するのに対して、後者は撮影や録音・音楽・美術等といった映画スタッフへの賞も設けている。ハリウッドのアカデミー賞等は後者の代表格である。 以上のものが年間を通しての評価であるのに対して、映画祭で与えられる賞もある。これにはコンペティション部門で与えられるもの、新人監督、永く映画界に貢献のあった監督に与えられるものなどがある。
{{独自研究|date=2019年3月}} {{Pathnav|映画|映画の一覧|frame=1}} '''映画の賞'''(えいがのしょう)では、[[映画]]に与えられる[[賞]]について述べる。 映画の賞には大きく分けて2種類ある。[[観客]]側([[マスメディア]] 等含む)が与える賞と、映画製作関係者による技術的な部分にも目を向けた賞とである。前者が[[監督]]や[[俳優]]等への賞に集中するのに対して、後者は[[撮影]]や[[録音]]・[[映画音楽|音楽]]・[[美術 (職業)|美術]]等といった映画[[スタッフ]]への賞も設けている。ハリウッドのアカデミー賞等は後者の代表格である。 以上のものが年間を通しての評価であるのに対して、[[映画祭]]で与えられる賞もある。これにはコンペティション部門で与えられるもの、新人監督、永く映画界に貢献のあった監督に与えられるものなどがある。 == アメリカ == *[[アカデミー賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=266}}<ref name="eiganoshou">{{Cite web|和書|url=http://www.nichigai.co.jp/PDF/2223-7.pdf|title=映画の賞事典のチラシ|format=PDF |accessdate=2017-11-22|work=出版案内|publisher=[[日外アソシエーツ]]|quote=収録賞一覧【国内】あなたが選んだスクリーン・ゴールデン・グランプリ/市川雷蔵賞/伊藤幸夫賞/ AMA 全国映像コンテスト(後略)}}</ref> - 映画業界関係者による[[顕彰]]{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[ゴールデングローブ賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=269}}<ref name="eiganoshou" /> - ハリウッドの外国人映画記者協会の会員が選出する賞で、1月下旬に発表され、アカデミー賞の前哨戦と見られている{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[インディペンデント・スピリット賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=266}}<ref name="eiganoshou" /> *[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=268}} *[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=269}}<ref name="eiganoshou" /> - 映画批評家の選出による映画賞{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[ロサンゼルス映画批評家協会賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|pp=268 - 269}}<ref name="eiganoshou" /> - 映画批評家の選出による映画賞{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[全米映画批評家協会賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=268}} - 映画批評家の選出による映画賞{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *アメリカ各組合賞 **[[全米監督協会賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|pp=266 - 267}} **[[全米脚本家組合賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=267}} **[[全米映画俳優組合賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=267}} *[[クリティクス・チョイス・アワード]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=269}} *[[ゴールデンラズベリー賞]]<ref name="eiganoshou" /> *[[MTVムービー・アワード]]<ref name="eiganoshou" /> *[[オースティン映画批評家協会|オースティン映画批評家協会賞]] *[[ラスベガス映画批評家協会|ラスベガス映画批評家協会賞(シエラ賞)]] *[[アニー賞]](アニメのアカデミー賞といわれる) *[[スクリーム賞]] *[[サテライト賞]] *[[サターン賞]] == 日本 == *[[日本アカデミー賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|pp=270 - 271}}<ref name="eiganoshou" /> - 映画業界関係者による[[顕彰]]{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> - 東京のスポーツ新聞7紙の記者によって構成された「東京映画記者会」主催の映画賞{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 * キネマ旬報賞<ref name="eiganoshou" /> - 現行商業誌で世界最古の映画誌が主催する映画賞{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 ** [[キネマ旬報ベスト・テン]]<ref name="eiganoshou" /> ** キネマ旬報読者選出ベスト・テン<ref name="eiganoshou" /> ** キネマ旬報文化映画ベスト・テン<ref name="eiganoshou" /> *[[毎日映画コンクール]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> - 日本国内のマスコミによって選出される映画賞の1つ。 *[[報知映画賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> - 日本国内のマスコミによって選出される映画賞の1つ{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> - 日本国内のマスコミによって選出される映画賞の1つ{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[映画芸術]]ベストテン - 日本国内のマスコミによって選出される映画賞の1つ{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[山路ふみ子映画賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> *[[日本映画監督協会新人賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> - 映画業界が新人監督を顕彰するもの{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[ゴールデングロス賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=270}}<ref name="eiganoshou" /> - 映画業界が興行を顕彰するもの{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[川喜多賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> *[[藤本賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> - 映画業界が製作者を顕彰するもの{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[日本映画ペンクラブ賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://j-fpc.com/index.php|title=【日本映画ペンクラブ】のトップページ|accessdate=2017-10-29}}</ref><ref name="eiganoshou" /> **日本映画ペンクラブ選定 ベスト5 *[[三浦賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> - 映画業界が撮影を顕彰するもの{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[JSC賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> *[[城戸賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref name="eiganoshou" /> *[[優秀外国映画輸入配給賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gaihai.jp/g_award.htm|title=優秀外国映画輸入配給賞|accessdate=2017-10-29|publisher=外国映画輸入配給協会}}</ref><ref name="eiganoshou" /> - 映画業界が[[映画配給]]を顕彰するもの{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 *[[日本映画批評家大賞]]<ref name="eiganoshou" /> *[[日本映画プロフェッショナル大賞]]<ref name="eiganoshou" /> *[[東京スポーツ映画大賞]] *[[新藤兼人賞]]<ref name="eiganoshou" /> **SARVH賞<ref name="eiganoshou" /> *[[日本インターネット映画大賞]](旧称・ニフティ映画大賞) *[[全国映連賞]] *[[東京新聞映画賞]] <!-- *[[オリコン発表!ベストムービーランキング]] --> == アジア == *[[金鶏百花映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=270}}(中国のアカデミー賞といわれる。[[中華圏]]の3大映画賞の1つ) *[[香港電影金像奨]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=269}}(香港のアカデミー賞といわれる。中華圏の3大映画賞の1つ) *[[金馬奨]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=269}}(台湾のアカデミー賞といわれる。中華圏の3大映画賞の1つ) *[[大鐘賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=270}}<ref name="eiganoshou" />(韓国のアカデミー賞といわれる) *[[青龍映画賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=270}}<ref name="eiganoshou" />(韓国のアカデミー賞といわれることもある) *[[百想芸術大賞]](韓国のゴールデングローブ賞と呼ばれることもある<ref name="innolife">[http://kejnews.com/sections/photo/articles/9887 百想芸術大賞] KEJ Press 2015年6月12日閲覧。</ref><ref name="color">[http://www.cinemart.co.jp/color/color/index.html Introduction] 「COLOR カラー」オフィシャルサイト 2016年2月5日閲覧。</ref>。) *[[大韓民国映画大賞]](青龍映画賞を上回る賞金を誇る韓国の映画賞<ref name="seoulnavi">[http://www.seoulnavi.com/special/5001669 青龍映画賞 vs 大韓民国映画大賞2008] ソウルナビ 2015年6月15日閲覧。</ref>) *[[アジア・フィルム・アワード]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=270}} == ヨーロッパ == * [[英国アカデミー賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=266}}<ref name="eiganoshou" />(BAFTA(賞)ともいわれることもある) * [[英国インディペンデント映画賞]] * [[ドイツ映画賞]](ドイツのアカデミー賞といわれる) * [[セザール賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=267}}<ref name="eiganoshou" />(フランスのアカデミー賞といわれる) * [[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]](イタリアのアカデミー賞といわれる) * [[ゴヤ賞]](スペインのアカデミー賞といわれる) * [[ヨーロッパ映画賞]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=268}}<ref name="eiganoshou" /> == 映画祭 == {{See also|映画祭}} * [[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]] ** [[カンヌ国際映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=267}}<ref name="eiganoshou" /> ** [[ベルリン国際映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=267}}<ref name="eiganoshou" /> ** [[ヴェネツィア国際映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=267}}<ref name="eiganoshou" /> * [[世界四大映画祭]] ** カンヌ国際映画祭 ** ベルリン国際映画祭 ** ヴェネツィア国際映画祭 ** [[モスクワ国際映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=267}}<ref name="eiganoshou" /> * [[サンダンス映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=268}} * [[東京国際映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=270}} * [[ゆうばり国際ファンタスティック映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=270}} * [[ヨコハマ映画祭]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}} - 市民団体が主催する映画ベストテン・個人賞で有名な日本国内の映画祭{{Sfn|山下慧kindle|2012|loc=位置No. 835 - 855/6665}}。 * [[おおさかシネマフェスティバル]] * [[ショートショートフィルムフェスティバル]]{{sfn|キネマ旬報|2017|p=271}} * [[朝日ベストテン映画祭]] == 出典 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書 |year = 2017|title = 2016年内外映画祭・映画賞一覧 |journal = [[キネマ旬報]] |issue = [[2017年]]([[平成]]29年)[[2月]]下旬号 |pages = 266 - 271 |publisher = [[キネマ旬報社]]|ref ={{SfnRef|キネマ旬報|2017}}}} * {{Cite book|和書 |title=映画の賞事典|url=http://www.nichigai.co.jp/cgi-bin/nga_search.cgi?KIND=BOOK1&ID=A2223|date=2009-12|publisher=[[日外アソシエーツ]]|isbn=978-4-8169-2223-7}} ** {{Cite web|和書|url=http://www.nichigai.co.jp/PDF/2223-7.pdf|accessdate=2017-11-22|title=映画の賞事典のチラシ|format=PDF |publisher=[[日外アソシエーツ]]|work=出版案内|quote=収録賞一覧【国内】あなたが選んだスクリーン・ゴールデン・グランプリ/市川雷蔵賞/伊藤幸夫賞/ AMA 全国映像コンテスト(後略)}} * {{cite book|和書 |author1=山下慧|author2=井上健一|author3=松崎健夫|title=現代映画用語事典|date=2012-05|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4-87376-367-5}} ** {{Wikicite | ref={{SfnRef|山下慧kindle|2012}} | reference=[[kindle]]版(2012年5月刊行本が底本・2019年3月2日ダウンロード)}} == 外部リンク == * {{Kotobank|映画賞}} {{DEFAULTSORT:えいか}} [[Category:映画の賞|*]] [[Category:賞の一覧]]
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映画のジャンル
映画のジャンル(えいがのジャンル)とは、広義には、映画を構成する諸要素(主題、題材、ストーリーテリング、スタイル、登場人物など)の共通の特徴を基準に、映画をマスメディアと大衆が通俗的に分類したものである。 狭義には「ジャンル映画」と呼ばれる、種々分類された典型的な娯楽映画を指す。 映画をジャンル分けする際の明確な定義というものがある訳ではない。便宜上、その作品の中の特徴的な要素を恣意的に取り出して分類しているだけである。だから、分類方法も基準も選者によって、違ってくることも多い。また、特定のジャンルのみに固定できる映画ばかりでもない。公開時(放送、リリース時)のセールスの仕方に従っているのが通例である。 インターネット・ムービー・データベースは、映画のジャンルを23の基本的ジャンルに分類している。アクション映画、冒険映画、アニメーション映画、伝記映画、コメディ映画、犯罪映画、ドキュメンタリー映画、ドラマ映画、ファミリー映画、ファンタジー映画、フィルムノワール、歴史映画、ホラー映画、音楽、ミュージカル映画、ミステリー映画、ロマンス、SF映画、短編映画、スポーツ、スリラー映画、戦争映画、西部劇である。
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映画のジャンル(えいがのジャンル)とは、広義には、映画を構成する諸要素(主題、題材、ストーリーテリング、スタイル、登場人物など)の共通の特徴を基準に、映画をマスメディアと大衆が通俗的に分類したものである。 狭義には「ジャンル映画」と呼ばれる、種々分類された典型的な娯楽映画を指す。
{{Pathnav|映画|映画の一覧|frame=1}} {{複数の問題 |独自研究=2009年5月 |出典の明記=2021年7月 }} '''映画のジャンル'''(えいがのジャンル)とは、広義には、映画を構成する諸要素(主題、題材、ストーリーテリング、スタイル、登場人物など)の共通の特徴を基準に、映画を[[マスメディア]]と[[大衆]]が通俗的に分類したものである。 狭義には「[[ジャンル映画]]」と呼ばれる、種々分類された典型的な娯楽映画を指す<ref name="キネマ旬報">キネマ旬報『現代映画用語辞典』、[[キネマ旬報社]]、P.66。 </ref>。 == 定義 == [[映画]]を[[ジャンル]]分けする際の明確な定義というものがある訳ではない。便宜上、その作品の中の特徴的な要素を恣意的に取り出して分類しているだけである。だから、分類方法も基準も選者によって、違ってくることも多い。また、特定のジャンルのみに固定できる映画ばかりでもない。公開時(放送、リリース時)のセールスの仕方に従っているのが通例である。 {{quotation|様々な映画を題材、テーマ、物語形式、登場人物などの共通の特徴を基準に分類したカテゴリー。コメディ、アクション、西部劇、ホラー、SF、その他があり、特に前述のような娯楽性や見世物度がより高いジャンルに属する映画作品に対し、代名詞的に[[ジャンル映画]]の語を用いる事もある<ref>キネマ旬報『現代映画用語辞典』、[[キネマ旬報社]]、P.66。 </ref> 。|[[キネマ旬報]]『現代映画用語辞典』}} [[インターネット・ムービー・データベース]]は、'''映画のジャンル'''を23の基本的ジャンルに分類している。[[アクション映画]]、[[冒険映画]]、[[アニメーション映画]]、[[伝記映画]]、[[コメディ映画]]、[[犯罪映画]]、[[ドキュメンタリー映画]]、[[ドラマ映画]]、[[ファミリー映画]]、[[ファンタジー映画]]、[[フィルムノワール]]、[[歴史映画]]、[[ホラー映画]]、[[音楽]]、[[ミュージカル映画]]、[[ミステリー映画]]、[[ロマンス]]、[[SF映画]]、[[短編映画]]、[[スポーツ]]、[[スリラー映画]]、[[戦争映画]]、[[西部劇]]である<ref>{{Cite web|和書|last=Imdb|title=ジャンル|url=http://www.imdb.com/genre/|accessdate=2013-10-13}}</ref>。 == 内容別 == *[[アクション映画]] **[[カーアクション映画]] **[[カラテ映画]] **[[カンフー映画]] **[[ギャング映画]] **[[犯罪映画]] ***[[ケイパー映画]] **[[冒険映画]] **[[ポリスアクション映画]] **[[ミリタリーアクション映画]] **スパイアクション映画 **[[ヤクザ映画]] *[[SF映画]] **[[スペース・オペラ]] **[[怪獣映画]] *[[コメディ映画]] **[[スラップスティック・コメディ映画]] **[[ロマンティック・コメディ]] ***[[スクリューボール・コメディ]] *[[サスペンス映画]] **[[サイコサスペンス]] *[[時代劇]] *[[児童映画]] *[[スリラー映画]] **[[ミステリー映画]] **[[ホラー映画]] ***[[スプラッター映画]] ***[[サイコ・ホラー]] ***[[オカルト映画]] ***[[モンスター映画]] **[[ヴィジランテ映画]](自警団もの) *[[探偵映画]] *[[スペクタクル映画]] **[[歴史映画]] **[[戦争映画]] *[[スポーツ映画]] **[[ボクシング映画]] **[[サッカー映画]] **[[野球映画]] *[[青春映画]] *[[ノスタルジー映画]] *[[西部劇]] **[[マカロニ・ウェスタン]] **[[和製ウェスタン]] *[[パニック映画]] **[[災害映画]] *[[ファミリー映画]] **[[ファンタジー映画]] **[[動物映画]] **[[文芸映画]] *[[プロパガンダ映画]] *[[音楽映画]] **[[ミュージカル映画]] *[[恋愛映画]] *[[連続活劇]] *[[剣戟映画]] *[[ロードムービー]] *[[バディムービー]] *[[成人映画]] **[[ポルノ映画]] *[[レズビアン・ゲイ映画]] **[[アダルトビデオ]] **[[ゲイビデオ]] **[[レズビデオ]] == 形式・様式別 == *[[サイレント映画]] *白黒映画 *[[テクニカラー映画]] *[[トーキー映画]] *[[特撮映画]] *[[3-D映画]] *[[短編映画]] *[[長編映画]] == その他 == *[[アート・フィルム]]([[アート映画]]) *[[ポップコーンムービー]]([[娯楽映画]]) *[[親子映画]] *[[カルト映画]] *[[モンド映画]] *[[教育映画]] *[[宣伝映画]] *[[実験映画]] *[[B級映画]] *[[風刺映画]] *[[社会派映画]] *[[ミッドナイトムービー]] *[[エクスプロイテーション映画]] *[[テレビ映画]] *[[オリジナルビデオ]] == 劇映画ではないもの == *[[ドキュメンタリー映画]] *[[ニュース映画]] *[[記録映画]] *[[科学映画]] == 撮影技法別 == *[[セルアニメ]] *[[クレイアニメ]] *[[コンピュータグラフィックス]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> ==関連項目== * 原作別一覧 **[[ゲームを原作とする映画一覧]] **[[ヒット曲映画化作品]] *舞台別([[ご当地映画]]) *[[映画の分類]] *[[各国の映画]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えいかのしやんる}} [[Category:映画のジャンル|*]] [[Category:メディア別のジャンル]] [[Category:映画評論]]
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映画史
映画史(えいがし)は、映画がどのような経緯をもって誕生し、世界で発展してきたかという歴史である。 映画につながる技術は19世紀後半から、フランスのマレー、アメリカのマイブリッジ、ドイツのアンシュッツなど、多くの人々によって研究されてきた。それらの研究は全て、19世紀前半に完成された写真技術を、現実の運動の記録と再現に応用しようとしたものである。 これらの人々の積み重ねを経て、1893年、アメリカのトーマス・エジソンが自動映像販売機(映写機)キネトスコープを一般公開。さらに、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し、1895年3月にパリで開催された科学振興会で公開。同年12月28日にパリのグラン・カフェと言う名称のカフェ(現ホテル・スクリーブ・パリ)で有料の試写会を開いた。 他にフランス人のルイ・ル・プランスも同時期に映写装置を開発していた。しかし、透明で柔軟性に富むフィルム材料が手に入らず一時、頓挫していた。 エジソンが開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというもの。リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる。 リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『工場の出口』)など、計12作品。いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。これらの映画の多くは単なる情景描写に過ぎなかったが、やがて筋書きを含む演出の作品が作られるようになった。例えば『水をかけられた散水夫』という作品は、散水夫がホースで水を撒いていると、一人の少年がホースの根元を踏んで水が出なくなり、散水夫がホースを覗き込むと少年が足を離して散水夫がずぶぬれになり、散水夫は少年を追いかけ折檻するという筋書きで、数分の動画の中に筋書きと笑いの要素を含んでおり、コメディ映画の発端のひとつとなった。 またこの頃は著作権に関する意識が無く、フランス以外でもイギリスなどで同じような『散水夫』の模倣作品が数通り作られている。 なお、最初の作品はリュミエール兄弟が経営していた工場から従業員が出てくるシーンを捉えた『工場の出口』で、リュミエール兄弟は1894年末頃に撮影したとしているが詳細は不明。また、この作品はグラン・カフェで上映された12本のうちの1本とは別なバージョン(『工場の出口』は4つのバージョンがある)。 初期の映画は、画像のみで音声のないサイレント映画と呼ばれるもので、これは1920年代末期にトーキー映画が登場して普及するまで続いた。シネマトグラフの投影機はけたたましい騒音をもたらし、映画には音声がなかった。これを紛らわすため、ピアノや足踏みオルガンの演奏による音楽の伴奏とともに上映する形式が普及した。現在においてサイレント映画にフォックストロットやケークウォークのような当時流行したピアノのダンス音楽がつくことが多いのは、そのような理由によるものである。また後年名だたる作曲家や指揮者になったクラシック音楽家は、若い頃にサイレント時代の映画館のピアノ伴奏のアルバイトをしていたという人も多い。 1895年、アメリカのアルフレッド・クラークによって発表された『メアリー女王の処刑』は世界初のホラー映画として名を挙げられる。メアリーが処刑台の上に首を置き、処刑人が斧を振り下ろそうとするところでカメラを止め、メアリーの人形に置き換えられてから撮影を再開する「ストップ・トリック」(中止め、置き換えなどとも言う)という技法を用いており、映画史上初めてトリック撮影が行われた作品と言われる。 日本初の映画は1896年11月、神戸の花隈の神港倶楽部にて世界初のエジソンが発明した映写機「キネトスコープ」により一般公開されたもので、1896年12月には大阪市でエジソン社製映写機「ヴァイタスコープ」による試写が行われ、1897年1~2月に京都市で開かれたシネマトグラフによる上映会の記録があるという。 初期の映画は日本では別名「活動写真」とも呼ばれ、映画館は「活動小屋」とも呼ばれた。日本独自の上映手法として、上映中の場面に合わせて解説を行う「活動弁士」と呼ばれる人が活躍していた。 日本で最初の“活動写真”製作は、フランス製ゴーモンカメラにより、浅野四郎らが失敗を重ねた末、2年がかりで「浅草仲見世」「芸妓手踊」など実写11本を作り、1899年(明治32年)7月20日から東京歌舞伎座で公開。俳優を使った劇映画は同年関東各地を荒らしたピストル強盗逮捕を横山運平主演で柴田常吉が撮影した「稲妻強盗/清水定吉」で、同年9月に撮影、公開。 1898年、世界初のクリスマス映画『サンタクロース(英語: Santa Claus)』が発表される。史上初めて、異なった場所で起きた出来事を編集で関連性があるように見せる技法のパラレル・アクションを取り入れ、多重露光と呼ばれる方法で撮影された映画である。 1902年に、世界で初めて物語構成を持ち、複数のシーンで構成された映画『月世界旅行』がフランスで制作される。監督は元マジシャンで、世界で最初の職業映画作家でもあるジョルジュ・メリエス。この作品は、世界初のSF映画である。 翌年の1903年にアメリカでも、エドウィン・ポーター監督による物語性のある作品『大列車強盗』が制作・公開される。世界初の西部劇であり、この作品において、初めてクロスカッティングが用いられた。 1906年にジェームズ・スチュアート・ブラックトン(英語版)監督による『愉快な百面相(英語版)』が制作される。実写ではなく絵画表現を用いた世界初のアニメ映画とされる。 メジャーになりつつあった映画制作会社からの制約や支配を嫌い、またニッケルオデオンで消費されるだけのショートフィルムに飽きたらずに新しい表現を求めた若い映画人達が西海岸に移住し、映画都市・ハリウッドが形成され始める。 アメリカの映画監督であるD・W・グリフィスが、『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)、『散り行く花』(1919年)等により、クローズアップ等の様々な映画技法(映画文法とも呼ばれる)を発明し、今日的な意味における映画の原型を完成させる。このことによりグリフィスは後に「映画の父」と呼ばれるようになる。また、『國民の創生』は当時の映画興行収入1位を記録した。 政治権力は映画の持つ影響力に目を付け、プロパガンダの手段として使うようにもなった。第一次世界大戦においてはアメリカやドイツでプロパガンダ作品が制作された。ヴァイマル共和政下のドイツは複数の映画会社が合併して国策撮影所であるウーファ(UFA)が設営された。 1910年代-1920年代、アメリカやヨーロッパでは『ファントマ』シリーズや『吸血ギャング団』シリーズ(いずれもフランス)などの連続活劇が流行している。 1920年代には、チャールズ・チャップリン、バスター・キートン、ハロルド・ロイドといったコメディ俳優が台頭し、「世界の三大喜劇王」と称される。 1920年、ソ連において世界初の国立映画学校が創設され、クレショフがその教授として招聘された。クレショフは同校においてクレショフ映画実験工房(一般的にはクレショフ工房と略称で呼ばれる)なるワークショップを運営し、モンタージュ理論を打ち立てると共に、その実験を行った。 同年、ロベルト・ヴィーネ監督による『カリガリ博士』が公開される。本作はフィルム・ノワール、およびホラー映画、シュルレアリスムにも影響を与えた重要な作品として位置づけられることが多い。またドイツにおいて第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした芸術運動「ドイツ表現主義」の代表的な作品であり、映画としては最も古く、最も影響力があり、なおかつ、芸術的に評価の高い映像作品とされる。他にも『メトロポリス』や『M』のフリッツ・ラングや、『吸血鬼ノスフェラトゥ』のF・W・ムルナウ等が活躍した。 1921年、ドイツでハンス・リヒターにより、ダダイスムの一表現として幾何学模様の変容を映した『絶対映画』というアニメーション映画が作られる。遅れて1927年、マルセル・デュシャンによってフランスでも幾何学模様の変容(デュシャン作品は円盤の回転)による『純粋映画』が試みられた。ダダイスムのグループは実写による筋書き(ただし一貫性のある物語ではない)を持つ映画『幕間』も作っており、こちらはデュシャン本人をはじめエリック・サティなどが出演している。上映用の付随音楽はサティによって作曲され、これがサティの遺作となった。 1922年、世界初のドキュメンタリー映画とされる『極北のナヌーク』が公開される。カナダ北部で暮らすイヌイットの文化・習俗を収めた作品で、映画というものが記録・啓蒙にきわめて大きな役割を果たしうると考えていたイギリスの映画プロデューサージョン・グリアソン(en) が、その批評の中で「ドキュメンタリー」という言葉を初めて用いたことが始まり。 1925年、クレショフ工房の生徒であったセルゲイ・エイゼンシュテインはモンタージュ理論に基づき『戦艦ポチョムキン』を制作。エイゼンシュテインと共にクレショフ工房の出身者であったフセヴォロド・プドフキンやボリス・バルネット、ジガ・ヴェルトフなどはモンタージュ理論を元にした作品を製作し、ロシア・アヴァンギャルドにおける代表的映画監督となる。 1927年に『メトロポリス』が公開され、以降多数のSF作品に多大な影響を与え、世界初のSF映画とされる『月世界旅行』が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされている。また、前年の1925年に製作された『戦艦ポチョムキン』と並んで、当時の資本主義と共産主義の対立を描いた作品でもある。 1927年、アメリカで世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)公開。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)であったが、本作をきっかけにトーキーは世界的に受け入れられ、急速に普及した。もっともアメリカのチャールズ・チャップリン、ロシアのエイゼンシュタインといった映画製作者、映画伴奏の楽士や日本特有の映画職業であった活動弁士を生業とする人々など、熟成の期にあったサイレント映画に固執した人々も多く、本格的にトーキー映画の芸術性が認められたのは30年代に入ってよりの事である。 1928年、ディズニー制作の短編アニメーション作品『蒸気船ウィリー』が公開。一般的に、この作品がミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作とされ、世界で初めてサウンドトラック方式を採用した映画と言われている。 同年、長編映画として世界初のオール・トーキー映画『紐育の灯』が公開。 1929年、アメリカでアカデミー賞が始まる。初年度作品賞はウィリアム・A・ウェルマンの『つばさ』。なお、初年度についてのみ作品賞は二作品が選ばれており、もう一つの作品であるF・W・ムルナウの『サンライズ』には芸術作品賞という名目で賞が与えられている。 1920年代から1930年代にかけて、ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネらのフランスの作家が登場して商業的な成功を収め、フランス映画の黄金時代を形成する。後にこれらの作家・作品は、映画批評家のジョルジュ・サドゥール(Georges Sadoul)によって「詩的リアリズム」と定義された。特定のジャンルといえるほど明確ではないが、大型セットにおけるスタジオ撮影を基本とし、遠近などに関して誇張を行なう場合が多く、そのため画面上におけるパースペクティブに歪みを生じさせることが多い。 1929年、アヴァンギャルド映画の原点、シュルレアリスムの最高傑作と評される実験映画『アンダルシアの犬』が公開。 第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命する。亡命ではなく招聘されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスやエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まっていた。 スタジオ・システムにより、映画製作本数も年間400本を超え、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代~1940年代は「ハリウッド黄金期」と呼ばれている。 なお、1940年代の終わりにスタジオ・システムは独占禁止法と、テレビの登場によって崩壊した。 また世界的な不況の中、トーキーの時代が本格的に到来し、音楽や効果音が生かせることからミュージカル映画やギャング映画が映画の主流となる。アメリカでは宗教保守派などから、映画や漫画が若年者や犯罪者に与える影響を憂慮する声が高まり、1934年にはヘイズ・コードと呼ばれる暴力やセックス、社会に対する描写を制約する映画製作倫理規定が作られた。過激な暴力シーンや性的シーンは以後影を潜め、1960年代後半に撤廃されるまでハリウッド映画を縛ることになる。 1932年、イタリアでヴェネツィア国際映画祭が始まる。 同年、世界初の群像劇映画『グランド・ホテル』が公開。さまざまな人物が1つの舞台に集いあい、それぞれの人生模様が同時進行で繰り広げられていくという、当時としては斬新なストーリー展開が大ヒットを呼び、この手法は後に「グランドホテル方式」と名付けられる。その物語構成が高い評価を受け、第5回アカデミー賞 では作品賞を受賞。作品賞だけにノミネートされ、作品賞だけを受賞した史上唯一の映画となった。 1934年公開のフランク・キャプラの『或る夜の出来事』を皮切りに、アメリカでスクリューボール・コメディが流行。また、『或る夜の出来事』は、第7回アカデミー賞にて主要5部門でノミネートされ、史上初の5部門とも受賞した(作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞)。この5部門を全て制することは、1975年の『カッコーの巣の上で』が成し遂げるまで出ないほどの大記録であった。 1935年、世界初のカラー映画ルーベン・マムーリアンの『虚栄の市』が公開。テクニカラーによる。 同年、ジャン・ルノワール監督の『トニ』が公開。徹底したリアリズムで描く本作の影響を受け、1930年代の末から1940年代にかけて、イタリアでネオレアリズモ運動が起こる。中心的な作家は、ルノワールの助監督を勤めていたルキノ・ヴィスコンティやロベルト・ロッセリーニ等。 1937年、ディズニー制作の長編映画第1作目であり、世界初のカラー長編アニメーション映画となる『白雪姫』が公開。ロトスコープや、マルチプレーン・カメラの使用など、当時としては珍しいアニメーション技術を使用。桁外れの大ヒットを記録し、現在でもアニメ史に残る傑作として知られる。 1939年、ヴィクター・フレミング監督の『オズの魔法使』と『風と共に去りぬ』が公開。ジュディ・ガーランド主演のミュージカル映画である『オズの魔法使』は、当時一般的であったモノクロフィルムと、まだ極めて珍しかったカラーフィルムの両方で撮影され、その映像演出は高い評価を受けた。商業的には成功とは言えなかったものの、全時代を通じて史上最も多く鑑賞され、愛された映画だと考えられている。 一方で『風と共に去りぬ』は、400万ドル前後の製作費をかけて、当時としては画期的な長編テクニカラー映画であったことも手伝って、空前の世界的大ヒットとなった。世界観客動員数歴代最多の20億人を記録している。 1940年、ディズニー製作のアニメーション映画『ファンタジア』が公開。ステレオ効果が利用された最初の映画で、なおかつサラウンドの原型ともいえるステレオ再生方式が世界で初めて一般的に導入され、実用化された。音響技術において非常に重要な歴史的映画となった。 同年にはアドルフ・ヒトラーやファシズムを風刺したチャップリン初のトーキー映画である『独裁者』が公開され、大ヒットを記録した。ラストシーンでのチャップリンの6分にも渡る演説シーンは「世紀の6分間」と言われ、映画史上に残るシーンとして評価されている。 1941年から参戦した第二次世界大戦中には、『ミニヴァー夫人』や『カサブランカ』『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』などの戦意高揚を目的とした、愛国的な映画や、戦争プロパガンダ作品が多く製作された。 また、同年にはオーソン・ウェルズの監督デビュー作『市民ケーン』が公開。主人公が新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていたことから、上映妨害運動が展開され、興行的には失敗したが、パン・フォーカス、長回し、ローアングルなどの多彩な映像表現などにより、年々評価が高まった結果、現在では映画史上最高傑作として映画誌や批評家らによるランキングで常に上位にランクインしている。 1940年代から1950年代後半にかけて、ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』(1941年)を皮切りに、後にフィルム・ノワールと呼ばれる犯罪映画がさかんに作られる。代表作にはビリー・ワイルダー『深夜の告白』(1944年)や、ジャック・ターナー『過去を逃れて』(1947年)などがある。フィルム・ノワールの語は、第二次大戦前後のアメリカ映画を分析したフランスの批評家によって命名され、アメリカでは70年代頃に一般化した。 1946年、フランスで「カンヌ国際映画祭」が始まる。 同年、『我等の生涯の最良の年』が公開。第19回アカデミー賞において作品賞をはじめ、当時のアカデミー賞最多記録(アービング・G・タルバーグ賞を含めた場合) となる9部門の受賞に輝いた。興行成績においても、トーキー時代以降の映画として『風と共に去りぬ』以来という大ヒットを記録している。 1950年、『羅生門』が公開。日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞 を受賞し、黒澤明や日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。また同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、光と影の強いコントラストによる映像美や、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法などの斬新な撮影テクニックも高く評価された。 1951年、ドイツでベルリン国際映画祭が始まる。 1953年、テレビが新しい娯楽として広まったものの、『巴里のアメリカ人』や 『雨に唄えば』といった ミュージカル映画を中心とした大掛かりなセットを駆使し大量のスターを起用した娯楽大作の全盛期が続いた。一方で、『スタア誕生』、『喝采』、『オクラホマ!』など、ストーリー性を重視したミュージカルが50年代半ばに誕生し、現在まで続くミュージカル映画の原型を造った。 赤狩り(レッドパージ)の影響により多くのアメリカの映画人が追放の憂き目に遭う。実際に共産主義活動に関与したことがあるジョゼフ・ロージーやニコラス・レイ、ダルトン・トランボ等は米国議会の公聴会における証言を拒否して亡命や映画界からの排除を余儀なくされた。しかし中にはエリア・カザンのように移民の係累であるが故に証言を拒否することができず、やむなく証言し結果的にかつての仲間達を売らざるを得ない者もいた。70年代以降に彼らの多くは名誉回復し映画界への復帰を果たしたが、ロージーはかつての盟友であるエリア・カザンの再三に渡る帰国の呼びかけにも応じることなく、亡命先のイギリスで客死した。 テレビの普及による観客動員数の減少に頭を悩ませたアメリカ映画界は、テレビでは実現できない内容を目指し、画面サイズの拡大(シネラマ)や立体映画、大作主義に手を伸ばし始め、1954年の『ダイヤルMを廻せ!』がヒットすると最初の3D映画ブームが巻き起こった。また、大作主義は一時のハリウッドを席巻したが、そのことは映画監督を始めとする製作陣に精神的・肉体的な疲弊を呼び起こすと共に、制作本数の減少による新人監督のデビューの機会を奪い取ることになってしまった。 1930年代から反トラスト法(独占禁止法)に問われていた、メジャー映画制作会社の配給、興行の統括による劇場の系列化に関して最高裁判所で違法の判決が下され、メジャー各社は制作と興行との分離を強いられることになった。 赤狩りにより才能ある作家達の多くを一時的に失い、大作主義により残った作家達を疲弊させ新しい作家の登場の機会を阻み、さらには独禁法により安定的な興行システム(経営基盤)を奪われたハリウッドは、結果的に黄金時代の終焉を迎えることとなってしまった。 赤狩りは作品の内容にも大きな影響を与え、アメリカ国内ではなく、ヨーロッパやアフリカで撮影する場合も多くなり、『ローマの休日』や『ベン・ハー』はその代表的な作品である。なお『ベン・ハー』は、同年アカデミー賞で史上最多11部門の受賞を記録した。 1954年、日本で『ゴジラ』が公開。東宝が製作した日本初の本格的怪獣映画であり、本作のヒット以降、特撮映画が日本映画の人気ジャンルとして定着する。 1956年を境に、イギリスでフリー・シネマと呼ばれるドキュメンタリー・フィルムの映画運動が起こる。このフリー・シネマは、1950年代後期から1960年代初頭にイギリス・ニュー・ウェイヴと呼ばれる「イギリスの若手監督集団」、および「インディペンデント映画会社」に多大なる影響を与えることとなる。このイギリス・ニュー・ウェイヴは、イギリス映画の伝統であるドキュメンタリーとリアリズムの潮流における重要な段階としてみなされている。 1958年、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』が公開。近年ではヒッチコック作品の中でもトップクラスの傑作との評価されており、中でもズームレンズを用い、ズームアウトしながらカメラを被写体へ近づけることで、被写体のサイズが変わらずに背景だけが望遠から広角に変化してゆく「めまいショット」(一般にはドリーズーム(英語版)と呼ばれる)が、この作品以後、数え切れないほどの映画やCM、テレビドラマで引用されるようになった。 1950年代末期から1960年代初頭にかけて、フランスでヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画運動が起こる。それは端的に言えば、結末のない物語や、その場の偶然を生かした即興演出などで、従来の映画の定石を打ち破ろうとする試みであった。 そんなヌーヴェルヴァーグの評価を確固たるものにしたのがアナーキストとアナーキズムを主題としたジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1960年)であった。本作はジャンプカットという革新的な技法を定着させ、手持ちカメラでのロケ撮影や高感度フィルムの利用など、これまでの映画の既成概念をひっくり返すことに成功した。 同時期にアメリカでは、テレビに対抗意識を燃やしたハリウッド企業の巨大資本化、超大作志向が続く一方で、ヌーヴェルヴァーグに触発されたインデペンデント系の映画が急速に芽を出し始め、ジョナス・メカス等によるアメリカン・アヴァンギャルドと呼ばれる運動が起こる。 また同年にはサスペンス映画の金字塔『サイコ』や、『血を吸うカメラ』などのサイコロジカルホラー映画が公開。ジャッロと呼ばれるイタリア産の推理サスペンス映画の発展も重なり、スラッシャー映画というジャンルが黄金期を迎えることとなる。またこの2本は、異常殺人というモチーフの重なりや、その主題へのアプローチの差異などで、しばしば比較されるようになる。 1961年に日本において芸術系映画の配給を目的として日本アート・シアター・ギルド(ATG)が設立される。イェジー・カヴァレロヴィチの『尼僧ヨアンナ』を皮切りに当初は海外作品の配給が主体だったが、1960年代後半には独立系の制作会社の作品に対する出資を行うようになった。松竹を退社した大島渚等松竹ヌーヴェルヴァーグの面々を始めとする数多くの作家達がATGの出資により作品を手がけ、数多くの名作・傑作・話題作・問題作を世に送り出した。 1965年、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』が大ヒットし、当時の世界興行収入を塗り替える。 1968年、『猿の惑星』と『2001年宇宙の旅』の二作品のヒットによりSF映画に注目が集まり、後のスターウォーズブームへと繋がることとなった。 また、スタンリー・キューブリック監督は、SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情』(1964年)、『2001年宇宙の旅』(1968年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)を作り、これらの成功で、世界中の批評家から映画作家としての優れた才能を認知された。 これまでのハリウッド黄金期は、観客に夢と希望を与えることに主眼が置かれ、ハッピーエンドが多くを占めていた。しかし、スタジオ・システムの崩壊や、赤狩りの傷が深かったこともあり、ハリウッドは製作本数も産業としての規模も低迷。1960年代は、まだジャーナリズムの熱意が高かったことも相まって、ベトナム戦争の実態を目の当たりにした若者層のヒッピー化、反体制化が見られた。1960年代後半から1970年代半ばにかけて、このようなベトナム反戦ムーブメントや公民権運動を端を発した、当時の若者の世相を投影する作品群「アメリカン・ニューシネマ」が大流行する。代表作品には『俺たちに明日はない』(1967年)『卒業』(1967年)『イージー・ライダー』(1969年)『真夜中のカーボーイ』(1969年)などがある。 1960年代の末から登場したドイツの作家達が、ニュー・ジャーマン・シネマとしてもて囃される。ストローブ=ユイレ、フォルカー・シュレンドルフ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ヴィム・ヴェンダース、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー等がこれに相当するのだが、ヌーヴェルヴァーグのように作風における共通点があったり、共同活動などを行ったものではなく、同時期に登場した同世代の作家達に対して付けられた総称だった。 1968年の『ローズマリーの赤ちゃん』を起源として、1974年にウィリアム・フリードキン監督による『エクソシスト』が爆発的にヒットする。それを皮切りに、『キャリー』や『オーメン』(ともに1976年)、『サスペリア』(1977年)といったオカルト映画ブームが始まった。 時を同じくして、アメリカ・ハリウッドでパニック大作ブームが巻き起こる。1972年の『ポセイドン・アドベンチャー』を皮切りとし、1974年公開の20世紀フォックスとワーナー・ブラザースとの合作『タワーリング・インフェルノ』を頂点とするこのブームは、その商業的な大成功により凋落していたハリウッドの自信を回復させると共に、この後に続く新たなハリウッド映画の基本を形作るものとなった。1950年代の大作主義においては飽くまでも物語や人間ドラマに主眼が置かれており、豪華なセットやスター俳優の多用はこれらを効果的に表現するための手段だった。しかし、パニック大作においては派手な特殊効果や特異性を感じさせる映像表現すなわち観客の目を引く要素に主体が移っており、細部の肥大化や物語と画面表現との分離など今日におけるまで続いているハリウッド映画の特徴を形成している。 1971年、『時計じかけのオレンジ』が公開。前述の通り、キューブリックのSF三部作のひとつで、暴力的表現が多く、その過激さが議論を呼んだ。しかし大ヒットを記録したことで、『俺たちに明日はない』(1967年)『ワイルドバンチ』(1969年)『ダーティハリー』『わらの犬』(ともに1971年)等とともに映画における暴力的表現の規制緩和に一定の役割を果たした作品である。 また史上初めてドルビー研究所が開発したドルビーノイズリダクションシステムを使用し、ステレオ録音された映画である。ただし、劇場公開用のフィルムはモノラルである。 1972年、『ゴッドファーザー』が公開されると、瞬く間にアメリカ国内で1億3000万ドル以上の興行収入を達成し、当時の記録を塗り替える爆発的ヒットとなった。同年度の第45回アカデミー賞では作品賞を獲得し、2年後に公開された続編の『ゴッドファーザー PART II』(1974年)もアカデミー作品賞を受賞したため、正編と続編でアカデミー作品賞を獲得した唯一の例となる。また本作は、一般視聴者から熱烈な支持を得るとともに、世界中の批評家や映画関係者たちからも絶賛されており、史上最も偉大で影響力のある映画の一つとみなされている。 同年、成人映画である『ディープ・スロート』が公開される。本作は約6億ドルという『ゴッドファーザー』の1/3を超える興行収入を記録したとされており、当時のポップカルチャーに社会現象を巻き起こした。 1975年、上記のパニック大作ブームの流れを経て、スティーヴン・スピルバーグ監督による『ジョーズ』が公開。ユニバーサル・ピクチャーズは本作のマーケティングに180万ドルを費やし、前例のない70万ドルを掛けた全国テレビのCMも行った。また大規模な公開と画期的な宣伝戦略が組み合ったことで当時において事実上前例のない配給が実現。最初の10日間で21,116,354ドルの収益を上げ、制作費を回収。わずか78日で、それまでの北米の興行収入の最高記録であった『ゴッドファーザー』の8600万ドルを抜き、アメリカにおける劇場公開で最初に1億ドル稼いだ作品となった。最終的に全世界4億7,200万ドルの興行収入を記録し、世界一となった。これによって『ジョーズ』は夏のブロックバスター映画の原型となり、映画史における分岐点となった。 1976年、『ロッキー』が公開。当時のハリウッドでは ハッピーエンドを否定する作品や、英雄を描かない作品が最盛を極めていたが、「個人の可能性」「アメリカン・ドリーム」への憧憬を再燃させ、本作と翌年の『スター・ウォーズ』の大ヒットにより、アメリカン・ニューシネマの終焉を決定的なものとした。 1977年、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』が大ヒットし、1980年代まで続く世界的なSF映画ブームとなる。この作品以降、特殊効果(SFX、VFX)が映画の重要な要素として扱われるようになる。また同シリーズのキャラクター商品権によるビジネスで成功を収めたルーカスはその資金を映像・音響関係のデジタル化を中心とした技術開発に投資し、映画界に多大な功績を成している。1978年には『ジョーズ』の全米記録を抜いて、世界最高の興行収入を記録した。 1978年、アメリカでロバート・レッドフォードがサンダンス映画祭を始める。 1980年代はアメリカンニューシネマが完全に衰退したことで、様々なジャンルで娯楽作品が大量に増加した時代であった。 特に映画でCGの使用が大々的にアピールされるようになったのが1980年代からで、主な作品に『トロン』や『スタートレック2』(ともに1982年)、『スターファイター』(1984年)、『ナビゲイター』(1986年)、『アビス』(1989年)等がある。 また1950年代以来の二回目の3D映画ブームが起こり、主に『ジョーズ3』(1983年)や『13日の金曜日 PART3』(1982年)等が公開された。しかし、いずれも粗悪で映画自体の出来が悪いB級作品が多かったことから、一過性のブームで終わり定着せずに、3D映画は再び消滅することとなった。 そして1980年代には、シルヴェスター・スタローン、チャック・ノリス、アーノルド・シュワルツェネッガーなどを始めとする、いわゆる「肉体派アクション俳優」が本格的に台頭する。1980年代半ばにはアクション俳優の人気が全盛期を迎え、『ランボー』(1982年)や『地獄のヒーロー』(1984年)、『コマンドー』(1985年)などといった、「ワンマンアーミー」と呼ばれるスタイルの主人公が活躍するアクション映画も多数ヒットするようになった。こうしたワンマンアーミー映画の主人公は殆どダメージを受けずに1人で大勢の敵を倒すなど、現実離れした超人的かつ圧倒的な強さで描かれることが特徴として挙げられる。特に1985年の『ランボー/怒りの脱出』が世界中で大ヒットしたことで、『ランボー2』を安価にコピーした、機関銃を持った主人公の亜流B級映画が多数生まれた。また同時期にヒットしたアクション映画の中には、そうしたワンマンアーミー映画のカウンター的作品としてヒットした、『ターミネーター』(1984年)やブルース・ウィリス主演の『ダイ・ハード』(1988年)などがある。 一方で、1982年にシュワルツェネッガー主演の『コナン・ザ・グレート』が大ヒットすると、スパイ映画やSF映画の人気に押され、1960年代前半から衰退していたソード&サンダルやファンタジー映画のブームが1980年代に発生した。『コナン』をコピーした粗悪で安直なB級映画が大量に作られたほか、『ダーククリスタル』(1982年)『ネバーエンディング・ストーリー』(1984年)『レジェンド/光と闇の伝説』『レディホーク』(ともに1985年)『ラビリンス/魔王の迷宮』『ハイランダー 悪魔の戦士』(ともに1986年)『ウィロー』(1988年)等といった、多数のファンタジー映画が立て続けに公開され、幾つかの作品は高評価を得た。しかし、CG以前の当時の技術力ではファンタジー(剣と魔法)の表現に限界があったことや、粗悪なB級映画も多かったことから1990年代に突入すると飽きられ、再び衰退することとなった。 また、1981年にハリソン・フォード主演の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』が大ヒットすると、ソード&サンダルやファンタジー映画と同様に、衰退していた冒険映画の人気も復活。主に『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(1984年)や『ロマンシング・アドベンチャー/キング・ソロモンの秘宝』(1985年)などが公開された。しかし、中には『グーニーズ』(1985年)のようにコアな人気を獲得した作品もあったものの、基本的には何れも『インディ』の二番煎じ感は否めず、こちらも一過性のブームで終わり、1990年代にかけて再び衰退していった。 その他、ビデオレンタルによってホラー映画の需要が増加。中でもジョン・カーペンターの『ハロウィン』(1978年)が当時最も稼いだインディペンデント映画となったことで、殺人鬼が若者を襲うというフォーマットを模倣したスラッシャー映画が人気を博す。『13日の金曜日』(1980年)、『エルム街の悪夢』(1984年)、『チャイルド・プレイ』(1988年)などが人気を博した。 また1977年公開の『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒットを経て、『フラッシュダンス』(1983年)や『フットルース』(1984年)、『ダーティ・ダンシング』(1987年)など、青春ダンス映画が立て続けにヒットする。当時ミュージックビデオをひたすら流し続けるケーブルテレビ・チャンネルMTVが大流行しており、その中で映画の一部がミュージック・ビデオとして放送されたことがプロモーションに繋がり、ヒットの要因になったとされている。また、この時期から映画のサウンドトラックが爆発的に売れるようになり、これを機にMTVは映画界にとって重要なツールの1つとなった。 1980年、セクスプロイテーション映画であり、モキュメンタリー映画の先駆けでもある『食人族』が公開される。本作は、スナッフフィルムのように見せかけた宣伝方法などで注目を浴び、動物虐待、人肉食、強姦シーンが盛り込まれた映画でありながら、10億円近い配給収入を上げる大ヒットを記録した。 1982年、スティーヴン・スピルバーグ監督によるアメリカ映画『E.T.』が公開。約1,000万ドルという予算で製作されたが、公開後には北米で3億5,900万ドル、全世界で6億1,900万ドルの興行収入を記録し、『スター・ウォーズ』(1977年)を抜いて世界歴代興行収入歴代1位となった。日本でも『ジョーズ』(1975年)が保持していた日本記録を更新し、『もののけ姫』(1997年)に抜かれるまで日本最高配給収入記録を堅持していた。 同年には『ブレードランナー』が公開され、興行的には失敗したものの、後のSF作品に多大な影響を与え、現在では「サイバーパンク」の代表作と見なされている。 1983年、日本において長谷川和彦、相米慎二、黒沢清らによりディレクターズ・カンパニーが設立される。1960年代から1970年代におけるATGが果たしたのと同じ役割を担うことを目的としまた大きく期待されもしたが、ATGのように時流に乗ることができず大きな商業的成功を収めるには至らなかった。 1984年、『黄色い大地』公開。これの監督を務めたチェン・カイコー、撮影監督を務めた張芸謀を中心として、中国映画の第五世代が台頭。同時期に、台湾ニューシネマ運動の展開が開始。90年代にかけニューウェーブを感じさせる作品を次々と発表する。侯孝賢、揚徳昌が主な作家。 同年1984年、『ゴーストバスターズ』が社会現象となり、数十億ドル規模のマルチメディア・フランチャイズを立ち上げた。また興行収入は2億8220万ドルで、当時のコメディ映画史上最高の興行収入となった。 1985年、日本で「東京国際映画祭」が始まる。 1985年、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が大ヒットし、全米ではフューチャー現象なるものが巻き起こった。また主題歌であるヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「The Power of Love」は、世界的に大きな成功を収めた。現在では1980年代の最高傑作の一つ、SF映画の最高傑作の一つ、そして現代に置いて史上最高の映画の一つとされている。 1986年にはトム・クルーズ主演の『トップガン』が全米で大ブームとなり、トムの出世作となった。 同年、ベトナム戦争映画の傑作『プラトーン』が公開。ベトナム帰還兵であるオリバー・ストーンの実体験を基に作られており、初めて本物のベトナム戦争を忠実に再現した作品として、アメリカ国内だけで予算の20倍を超える1億3800万ドルの興行収入を記録。世界中で「プラトーン現象」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。 1988年、『AKIRA』が公開される。製作期間3年、当時の日本のアニメーション映画としては破格の10億円の制作費をかけ、日本アニメの世界的ブームの火付け役となった作品。中でも映画冒頭の金田がバイクを横滑りさせて急停止させるシーンは、本作を象徴する場面の一つであり、様々な作品でオマージュされている。また、走るバイクのテールライトの光が尾を引くように残像を残して描いたり、複雑な形状の脳波の波形を3DCGアニメーションとセル画の背景合成で再現したりなどの斬新な演出も多数行われ、その後のアニメ作品に多大な影響を与えている。 1989年、日本で「山形国際ドキュメンタリー映画祭」が始まる。 これまで長編アニメにおいて低迷期を迎えていたディズニーであったが、1989年の『リトル・マーメイド』を始めとして、『ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!』(1990)、『美女と野獣』(1991)、『アラジン』(1992)、『ライオン・キング』(1994)、『ポカホンタス (映画)』(1995)、『ノートルダムの鐘』(1996)、『ヘラクレス』(1997)、『ムーラン』(1998)、そして『ターザン』(1999)の10作品を制作・公開、多くの作品が高評価・好成績を挙げたことにより、この間の時代を指して「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれるようになる。特に『美女と野獣』は、アニメ映画史上初のアカデミー賞作品賞にノミネートされた(第64回)作品となった。 1990年、マーティン・スコセッシ監督による『グッドフェローズ』が公開。本作は当時の時代背景やバックグラウンドを意識せず、既存の曲を挿入歌として取り入れる手法や、あえて時系列を前後させた構成。またスコセッシ自身は、本作の精神をドキュメンタリーだと語っており、マフィアの日常を淡々と描くことであえて登場人物に感情移入させない仕組みになっている。その斬新な演出で、これまでのギャング映画とは一線を画すスタイルを確立し、新たな可能性を提示した一本となった。 1991年、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスが主演の『羊たちの沈黙』が、第64回アカデミー賞で主要5部門を受賞し、ホラー映画史上初のアカデミー作品賞という快挙を果たした。 同年公開の『ターミネーター2』では映画史上で初めて、映像の合成を全てデジタル処理で行い、本格的にCGが使用され注目を集める。本作品以降、映画でのCGの使用が一般的となり、本作品で使用されたモーフィング技術は一躍知名度を上げ、他作品でも多用された。 1993年、スティーヴン・スピルバーグ監督によるアメリカ映画『ジュラシック・パーク』が公開。映画におけるフォト・リアリスティックなコンピュータグラフィックスの使用として革新的で、ストップモーションアニメに取って代わり、その後の映画に大きな影響を与えた。また、自身の世界興行収入記録を塗り替える大ヒットとなった。 1993年、日本で初めてシネマコンプレックスがオープンする。 1994年、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』が公開。本作は、4つのストーリーが順序の異なる時間軸を入れ替えながら交わる、当時としては珍しい手法で構成されている事で高い芸術的評価を受けた。 同年には『フォレスト・ガンプ/一期一会』が公開される。ILMが担当したVFXにて、主演のトム・ハンクスをジョン・レノンやジョン・F・ケネディ、リチャード・ニクソンといった故人と共演させたことで話題になる。 なお上記を見ても分かる通り、1994年は「ハリウッド映画史上最も豊作な年」と言われており、同年には『ショーシャンクの空に』が公開されるも、公開当時は『フォレスト・ガンプ』や『パルプ・フィクション』、『ライオン・キング』、『スピード』、『レオン』、『トゥルーライズ』などの人気作や大作の影に埋もれて知名度が低かった。しかし、批評家達から高い評価を受け、その後のVHSの販売やレンタルビデオ、テレビ放送によって徐々に人気を獲得し、現在では最も評価の高い映画のひとつとなっている。 1995年、世界初の長編フルCGアニメーション『トイ・ストーリー』が公開。アメリカのディズニーとピクサーの共同製作による。 同年、デンマークでラース・フォン・トリアーらによるドグマ95と呼ばれる映画運動が始まる。現在でも続いている。 1997年、日本にて宮崎駿監督のアニメ映画『もののけ姫』が公開され、興行収入193億円を記録し、当時の日本映画の興行記録を塗り替えた。 1990年代後半に入るとCGの大幅な進歩により、迫力のある災害シーンを描くことが可能になったため、衰退していたパニック映画が再び制作されるようになった。特に1996年公開の『インデペンデンス・デイ』と『ツイスター』が共に大ヒットし、その後も『ダンテズ・ピーク』『ボルケーノ』(ともに1997年)『フラッド』『アルマゲドン』『ディープインパクト』『GODZILLA』(何れも1998年)『ディープ・ブルー』(1999年)などのパニック映画が立て続けに公開され、1990年代後半にはパニック映画が1970年代以来の第二次ブーム状態となった。 中でも、1997年に公開されたジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』が、全世界で18億3500万ドルを超える大ヒット。史上初めて10億ドルを突破した作品となり、映画史上最高の世界興行収入を記録したことで、ギネスブックに登録される。また、第70回アカデミー賞では最多14部門にノミネートされ、作品賞を始めとする最多11部門を受賞した。 1998年、スティーヴン・スピルバーグ監督による『プライベート・ライアン』が公開。冒頭20分に渡る「ノルマンディー上陸作戦」のシーンが高い評価を受け、後に“戦争映画の歴史はプライベート・ライアン以前・以後に分かれる”と言われるほど、戦争描写に革新をもたらした。 1999年、キアヌ・リーブス主演のSFアクション映画『マトリックス』シリーズ1作目が公開される。従来のCGにはない、ワイヤーアクションやバレットタイムなどのVFXを融合した斬新な映像表現は「映像革命」として話題となった。また翌年に公開された『グリーン・デスティニー』(2000年)や、翌々年公開の『少林サッカー』(2001年)でも、このワイヤーアクションが効果的に使われており、以後中華圏で制作される武俠映画やカンフー映画に色濃く反映され、世界中でワイヤーアクション技術が使われる端緒となった。 2000年代に入ると、HD24P方式のデジタル・ビデオカメラによるデジタルシネマの動向が活発化した。CGの活用による映画のデジタル化は進んでいたが、フィルムとビデオとの基本的な表示方式の違い(フィルムは24コマ/秒・ノン・インターレースで、ビデオは30コマ/秒のインターレース)によりテレシネという加工段階を経なければならず、これが大きな足枷になっていた。しかし、HD24Pはフィルムと同じ形式での記録が可能であるためテレシネ加工が不要で、ダイレクトにデジタル加工が可能という画期的な商品だった。『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(2002年)で利用され実用性が実証された後に採用が相次いでおり、デジタルビデオカメラによる撮影・制作への移行が進んだ。 中でも2000年公開の『オー・ブラザー!』では、カラリストによって史上初めて全編デジタルカラーコレクション(映像の色彩を補正する作業)の技術が駆使された映画となり、2004年に公開された『スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』は、世界で初めて全編デジタルバックグラウンド(背景がすべてCGのデジタル合成)で撮影された映画となった。 一方で2000年代中盤以降になると、家庭でもハイビジョンテレビ、液晶ディスプレイ、Blu-ray、HDMIなどで高解像度・HD化が急速に進み、従来の解像度の限界を超えることが必要になってきた。 またコンピュータグラフィックス(CG)技術の大幅な発展により、『X-メン』(2000年)や『スパイダーマン』(2002年)、『トランスフォーマー』(2007年)、『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』(2003年)等といった、以前であれば映像化が難しかった世界観の作品や、漫画やアニメが原作の超大作シリーズが数多く作られ、何れの作品も大ヒットを記録する。 2000年公開の『グラディエーター』と、翌年公開の『ロード・オブ・ザ・リング』が大ヒットしたことで、1990年代以降衰退していたソード&サンダル映画とファンタジー映画の人気が復活。『トロイ』(2004年)や『エラゴン 遺志を継ぐ者』(2006年)『300 〈スリーハンドレッド〉』(2007年)等が公開された。CGの大幅な発展と普及で、ファンタジー表現に対しての限界が事実上無くなったことも、ブームの理由の一つであるといえる。 中でも『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003年)は、全世界興行収入が『タイタニック』(1997年)以来史上2例目となる10億ドル超えを達成した作品となり、第76回アカデミー賞では『ベン・ハー』(1959年)と『タイタニック』に並ぶ史上最多11部門の受賞を果たす。これによって『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は、『スター・ウォーズ』オリジナル三部作、『ゴッドファーザー』三部作を超えて、世界で最も商業的に成功した三部作となった。 同時期には、J・K・ローリングのファンタジー小説を映画化した『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001年)を筆頭とした、『ハリー・ポッター』シリーズ(魔法ワールド)が、長きに渡り世界的な大ヒットを記録。その『ハリー・ポッター』シリーズを中心に、児童文学原作の映画がブームとなり、『ナルニア国物語』(2006年)や『ライラの冒険 黄金の羅針盤』(2007年)等が公開されたが、『ハリー・ポッター』程の成功には至らなかった。 またファンタジー映画がヒットした一方で、『シティ・オブ・ゴッド』(2002年)や『ホテル・ルワンダ』(2004年)、『ミュンヘン』(2005年)、『ユナイテッド93』(2006年)等といった実話を基にした社会派系作品や、『ナイロビの蜂』(2004年)や『ロード・オブ・ウォー』(2005年)、『ブラッド・ダイヤモンド』(2006年)などといった、実際の社会問題や国際問題等を題材とした作品が2000年代には流行し、何れの作品も高い評価を受けた。流行した理由としては、アメリカ同時多発テロ事件やイラク戦争などの影響によって、アメリカ国内で社会問題に関して敏感になったことが挙げられる。 2001年には、宮崎駿監督でスタジオジブリ作品の『千と千尋の神隠し』が公開され、興行収入は300億円を超え、当時の日本歴代興行収入第1位を達成した。翌年には、第52回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品され、最優秀作品賞である金熊賞を受賞した。世界三大映画祭で長編アニメーションが最高賞を獲得するのは史上初の快挙であった。 2002年、マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』が異例のヒットを記録し、ドキュメンタリー映画が新たな商業ジャンルとして注目を集める。『華氏911』や『スーパーサイズ・ミー』(ともに2004年)のような突撃取材ものや、『ディープ・ブルー』(2003年) や『皇帝ペンギン』(2005年)、『アース』(2007年)のようなネイチャードキュメンタリー、その他には『不都合な真実』(2006年)などの幅広い作品が生まれた。 同年、『シカゴ』が公開。ミュージカル映画はヒットしない状況が続いていたなかで、そのジンクスを覆す人気を獲得する。第75回アカデミー賞では作品賞を初めとする6部門受賞。その後、ブロードウェイのヒット作を映画化する形で、再びミュージカル映画がブームとなる。 2005年には、これまでのハリウッド映画界ではタブーとされていた同性愛をテーマにした作品『ブロークバック・マウンテン』が公開され、話題を呼ぶ。監督のアン・リー自身は、この映画を「普遍的なラブストーリー」と強調しており、そのテーマは観客に広く受け入れられ、人気を博す。 2006年に公開された『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』は史上最速での1億ドル、2億ドル、3億ドルを突破し、史上最速での世界興行収入10億ドル突破し、多くの世界記録を打ち立てた。 2008年、バットマンを題材としたクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』が公開。前作『バットマン ビギンズ』に続く「ダークナイト・トリロジー」の第2作目であったが、公開時は『タイタニック』に次ぐ、全米興行収入歴代2位を記録した。その年に亡くなったジョーカー役のヒース・レジャーは世界的に評価され数々の映画賞をそうなめにした。現在でもアメコミ史上最高の映画と言われている。 2009年頃からは、立体映画が1980年代以来の三回目のブームとなった。ハリウッドが多くの立体映画を製作し、また既存の作品を3Dに変換して立体映画として再上映する場合もある。中でもジェームズ・キャメロン監督の『アバター』が、3D映像による劇場公開が大きく取り上げられ、世界興行収入は自身の持つ『タイタニック』の記録を大幅に上回る27億8800万ドルを記録した。 邦画では、2003年に『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』が、国内興行収入173.5億円を記録する大ヒットとなった。これは2023年現在においても、実写邦画の歴代興行収入1位の記録である。 また、1998年公開の『リング』が世界的にヒットし、その後も『呪怨』(2003年)や『着信アリ』(2004年)等も成功したことで、所謂「Jホラー」ブームが世界中で巻き起こった。その勢いのまま、ハリウッドでリメイク版である『ザ・リング』(2002年)や『THE JUON/呪怨』(2004年)も制作され、こちらも一定の成功を収めた。 2008年公開の『アイアンマン』のヒットを経て、様々なマーベル・コミックの実写映画を、同一の世界観のクロスオーバー作品として扱う『マーベル・シネマティック・ユニバース』(MCU)シリーズが台頭を見せる。世界で最も大きな興行的成功を収めている映画シリーズとして、2位の『スター・ウォーズ』シリーズに大差をつけて、世界歴代1位の興行収入を記録。2019年には、シリーズ22作目となる『アベンジャーズ/エンドゲーム』が、『アバター』(2009年)の記録を抜き、当時の史上最高記録を塗り替えた。また、マーベル・シネマティック・ユニバースのヒットに倣って、『DCエクステンデッド・ユニバース』や『モンスターバース』といったシリーズ作品のメディア・フランチャイズ及びシェアード・ユニバース化が流行した。 2008年公開の『トワイライト〜初恋〜』が世界的に大ヒットすると、ヤングアダルト小説原作の映画が、2010年代前半から中盤にかけて一大ブームとなった。その『トワイライト』の続編や『ハンガーゲーム』(2012年)、『ダイバージェント』や『メイズ・ランナー』(ともに2014年)等も同じく世界的な大ヒットを記録したが、日本では何れの作品もほとんどヒットしなかった。2000年代の『ハリー・ポッター』シリーズが日本でも大ヒットを記録し、他の児童文学原作の映画も、それなりにヒットしていたのとは対照的であるといえる。 2010年、Facebookを創設したマーク・ザッカーバーグらを描いた映画『ソーシャル・ネットワーク』が公開。当時まだ珍しかった4K解像度カメラのレッド・ワンを使用、映画冒頭のマークとエリカの会話シーンでは99テイクもの撮影が行われるなど、挑戦的な撮影方法が話題となり、様々な批評家や観客に大絶賛された。その評価の高さからは「21世紀の『市民ケーン』」とまで評された。 2013年(日本では2014年)にはディズニーから、CGアニメ映画の『アナと雪の女王』が公開される。本作はアメリカ映画としては『アバター』(2009年)以来の大ヒット作となり、各国でアニメ映画の動員記録を塗り替え、世界的に社会現象となった。 同年、『ゼロ・グラビティ』が公開。巨大な回転装置やモーションコントロールロボット、壁一面がLEDに囲まれた「ライトボックス」と呼ばれる特殊装置を発明するなどして、宇宙空間における無重力表現を忠実に再現したことで、3D映画の新たな可能性を示したと称された。また本作以降、『ダンケルク』や『1917 命をかけた伝令』などリアルな臨場感や没入感を演出し、その場にいるような迫力を味わうことができる「体験型映画」という言葉が生まれた。 2010年代半ばから、映画やテレビ番組のオンラインストリーミングを提供する、サブスクリプション方式の定額制動画配信サービスが始まり、「Netflix」や「Amazonプライム・ビデオ」は独自の映画製作にも力を入れる。中でもNetflixの作品『ROMA/ローマ』(2018年)は、モノクロの小規模映画でありながら、6Kカメラのアレクサ65で撮られた65mmの美しい映像が、家庭のテレビで4K解像度で視聴できることが話題となった。 また、映画館でも新たな映画体験が用いられ、通常の映画で使用されるフィルムよりも大きなサイズの映像を記録・上映出来るIMAXや、映画の映像・音声に合わせて座席稼働や環境効果が体感できる4DXなどが広く知られるようになった。 2015年、前作『マッドマックス/サンダードーム』(1985年)以来、27年ぶりに製作された『マッドマックス』シリーズの第4作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が公開。本作は、2010年代を代表するアクション映画として大きな話題を呼び、この年最も評価された映画のひとつとなった。 第88回アカデミー賞のノミネーションにおいて、演技部門での候補者20名が2年連続白人で占められていたことから、「Oscars So White(白すぎるオスカー)」と呼ばれるハッシュタグがTwitterでトレンド入りするなど、ハリウッド内の人種多様性の欠如が世界的に大きな波紋を呼んだ。第90回アカデミー賞では、女優のフランシス・マクドーマンドが自身の受賞スピーチにて「インクルージョン・ライダー」という言葉を発し、キャストやスタッフの多様性を確保するよう求めるハリウッドの新しい条項が誕生した。 2016年、新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』が公開され、それがSNSや口コミで話題となり、日本国内の興行収入は瞬く間に250.3億円を記録。当時の日本における歴代興行収入ランキングでは日本映画として『千と千尋の神隠し』(2001年)に次ぐ第2位となった。 同年、ミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』が公開。往年のミュージカルへのオマージュが話題を呼び、第74回ゴールデングローブ賞ではノミネートされた7部門すべてを獲得し、歴代史上最多受賞を記録する。第70回英国アカデミー賞では11部門でノミネートを受け、6部門を受賞。第89回アカデミー賞では『タイタニック』(1997年)、『イヴの総て』(1950年)に並ぶ史上最多14ノミネート(13部門)を記録した。 2017年10月5日、ニューヨーク・タイムズの記者が、映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる数十年に及ぶセクシャルハラスメントを告発する記事を発表。のちにワインスタイン効果と呼ばれるほどの大反響があり、この影響がセクシャルハラスメントや性暴力の経験を共有することを奨励するMe Too運動を引き起こした。そうした情勢を反映し、以降『スリー・ビルボード』(2017年)や『スキャンダル』(2019年)『アシスタント』(2020年)『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020年)『最後の決闘裁判』(2021年)『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(2022年)など、「怒れる女性」や「有害な男らしさ」を描いた作品群が多く作られるようになる。 2019年3月、『タイタニック』や『スターウォーズ』の制作を勤めた21世紀フォックスがディズニーに買収される。 同年10月バットマンの悪役を題材にした作品『ジョーカー』が、R指定作品として史上初めて10億ドルを突破する。また、ロケ地となったニューヨーク・ブロンクス地区にある階段が観光名所となった。 同年、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』が第72回カンヌ国際映画祭で韓国映画初となるパルム・ドールの受賞を果たした。第92回アカデミー賞では、史上初の外国語映画の作品賞受賞であり、アカデミー作品賞とカンヌの最高賞を同時に受賞した作品は『マーティ』(1955年)以来、65年ぶりとなった。日本ではパラサイト旋風と呼ばれた。 2020年、社会現象となっていたテレビアニメ『鬼滅の刃』の劇場版アニメとして『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』が公開される。新型コロナウイルスの世界的流行下において、歴代最速で興行収入100億円に達成。公開から73日目となる12月27日には観客動員数2404万人、興行収入324億円を突破し、『千と千尋の神隠し』を超えて日本歴代興行収入1位を達成。さらには2020年公開映画の年間興行収入世界1位も記録した。 2021年3月12日、『アバター』が中国で大規模再上映され、『アベンジャーズ/エンドゲーム』との782万ドルの差を上回り、再び世界歴代興行収入1位の座に返り咲いた。 同年、新型コロナウイルスが猛威を振るう中、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が世界興行収入19億ドルという大ヒット。コロナ禍で初めて10億ドルを突破した作品となり、世界的に社会現象になった。 同年5月には、前作から36年ぶりの続編となる『トップガン マーヴェリック』が公開。コロナ禍により様々な大作映画が配信へ送られるなか、主演兼製作のトム・クルーズは本作の劇場公開に強くこだわっており、何度も公開延期を繰り返し、最終的には『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に次いで、コロナ禍二度目となる10億ドルを突破した。また中高年層の客足を取り戻したきっかけともされており、劇場文化復活の記念碑的作品と言われている。 また12月には『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』が公開。コロナ禍で初めての20億ドルを記録し、『タイタニック』を抜いて世界興行収入歴代3位を記録した。 同時期にはIMAXでの世界累計興行収入が1兆2000億円を突破した。 2023年、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が全米映画俳優組合賞にて歴代最多の4部門を制覇。同年のアカデミー賞でも作品賞を含む7部門を受賞するなど記録的な勝利となった。また演技賞を3つ獲得し、作品賞を受賞した映画は本作が史上初。アジア人俳優の主演女優賞や、SF映画、カンフー映画の受賞も初である。 同年7月、グレタ・ガーウィグの『バービー』とクリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』が同時公開され、対照的な2作を一緒に鑑賞する者が多いと報じられており、インターネット上では両方の映画のタイトルを合わせた「バーベンハイマー(Barbenheimer)」という造語(インターネット・ミーム)も誕生し、社会現象となった。。 また『バービー』は、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』(2011年)の全世界興行収入を抜いて、ワーナー・ブラザーズ配給作品で歴代最高記録を更新。女性監督が単独で手がけた作品の興行収入でも、初の10億ドルを達成し、パティ・ジェンキンスの『ワンダーウーマン』を抜いて歴代1位となった。一方の『オッペンハイマー』も、世界興行収入が9億ドルを突破し、『ボヘミアン・ラプソディ』を抜いて、伝記映画として歴代最高の興行収入となった。これらの影響力からもBBCが用いるなどして、映画産業の興行収入を分析する文脈で定着した用語となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "映画史(えいがし)は、映画がどのような経緯をもって誕生し、世界で発展してきたかという歴史である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "映画につながる技術は19世紀後半から、フランスのマレー、アメリカのマイブリッジ、ドイツのアンシュッツなど、多くの人々によって研究されてきた。それらの研究は全て、19世紀前半に完成された写真技術を、現実の運動の記録と再現に応用しようとしたものである。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これらの人々の積み重ねを経て、1893年、アメリカのトーマス・エジソンが自動映像販売機(映写機)キネトスコープを一般公開。さらに、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し、1895年3月にパリで開催された科学振興会で公開。同年12月28日にパリのグラン・カフェと言う名称のカフェ(現ホテル・スクリーブ・パリ)で有料の試写会を開いた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "他にフランス人のルイ・ル・プランスも同時期に映写装置を開発していた。しかし、透明で柔軟性に富むフィルム材料が手に入らず一時、頓挫していた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "エジソンが開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというもの。リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『工場の出口』)など、計12作品。いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。これらの映画の多くは単なる情景描写に過ぎなかったが、やがて筋書きを含む演出の作品が作られるようになった。例えば『水をかけられた散水夫』という作品は、散水夫がホースで水を撒いていると、一人の少年がホースの根元を踏んで水が出なくなり、散水夫がホースを覗き込むと少年が足を離して散水夫がずぶぬれになり、散水夫は少年を追いかけ折檻するという筋書きで、数分の動画の中に筋書きと笑いの要素を含んでおり、コメディ映画の発端のひとつとなった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "またこの頃は著作権に関する意識が無く、フランス以外でもイギリスなどで同じような『散水夫』の模倣作品が数通り作られている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、最初の作品はリュミエール兄弟が経営していた工場から従業員が出てくるシーンを捉えた『工場の出口』で、リュミエール兄弟は1894年末頃に撮影したとしているが詳細は不明。また、この作品はグラン・カフェで上映された12本のうちの1本とは別なバージョン(『工場の出口』は4つのバージョンがある)。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "初期の映画は、画像のみで音声のないサイレント映画と呼ばれるもので、これは1920年代末期にトーキー映画が登場して普及するまで続いた。シネマトグラフの投影機はけたたましい騒音をもたらし、映画には音声がなかった。これを紛らわすため、ピアノや足踏みオルガンの演奏による音楽の伴奏とともに上映する形式が普及した。現在においてサイレント映画にフォックストロットやケークウォークのような当時流行したピアノのダンス音楽がつくことが多いのは、そのような理由によるものである。また後年名だたる作曲家や指揮者になったクラシック音楽家は、若い頃にサイレント時代の映画館のピアノ伴奏のアルバイトをしていたという人も多い。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1895年、アメリカのアルフレッド・クラークによって発表された『メアリー女王の処刑』は世界初のホラー映画として名を挙げられる。メアリーが処刑台の上に首を置き、処刑人が斧を振り下ろそうとするところでカメラを止め、メアリーの人形に置き換えられてから撮影を再開する「ストップ・トリック」(中止め、置き換えなどとも言う)という技法を用いており、映画史上初めてトリック撮影が行われた作品と言われる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本初の映画は1896年11月、神戸の花隈の神港倶楽部にて世界初のエジソンが発明した映写機「キネトスコープ」により一般公開されたもので、1896年12月には大阪市でエジソン社製映写機「ヴァイタスコープ」による試写が行われ、1897年1~2月に京都市で開かれたシネマトグラフによる上映会の記録があるという。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "初期の映画は日本では別名「活動写真」とも呼ばれ、映画館は「活動小屋」とも呼ばれた。日本独自の上映手法として、上映中の場面に合わせて解説を行う「活動弁士」と呼ばれる人が活躍していた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本で最初の“活動写真”製作は、フランス製ゴーモンカメラにより、浅野四郎らが失敗を重ねた末、2年がかりで「浅草仲見世」「芸妓手踊」など実写11本を作り、1899年(明治32年)7月20日から東京歌舞伎座で公開。俳優を使った劇映画は同年関東各地を荒らしたピストル強盗逮捕を横山運平主演で柴田常吉が撮影した「稲妻強盗/清水定吉」で、同年9月に撮影、公開。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1898年、世界初のクリスマス映画『サンタクロース(英語: Santa Claus)』が発表される。史上初めて、異なった場所で起きた出来事を編集で関連性があるように見せる技法のパラレル・アクションを取り入れ、多重露光と呼ばれる方法で撮影された映画である。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1902年に、世界で初めて物語構成を持ち、複数のシーンで構成された映画『月世界旅行』がフランスで制作される。監督は元マジシャンで、世界で最初の職業映画作家でもあるジョルジュ・メリエス。この作品は、世界初のSF映画である。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "翌年の1903年にアメリカでも、エドウィン・ポーター監督による物語性のある作品『大列車強盗』が制作・公開される。世界初の西部劇であり、この作品において、初めてクロスカッティングが用いられた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1906年にジェームズ・スチュアート・ブラックトン(英語版)監督による『愉快な百面相(英語版)』が制作される。実写ではなく絵画表現を用いた世界初のアニメ映画とされる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "メジャーになりつつあった映画制作会社からの制約や支配を嫌い、またニッケルオデオンで消費されるだけのショートフィルムに飽きたらずに新しい表現を求めた若い映画人達が西海岸に移住し、映画都市・ハリウッドが形成され始める。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "アメリカの映画監督であるD・W・グリフィスが、『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)、『散り行く花』(1919年)等により、クローズアップ等の様々な映画技法(映画文法とも呼ばれる)を発明し、今日的な意味における映画の原型を完成させる。このことによりグリフィスは後に「映画の父」と呼ばれるようになる。また、『國民の創生』は当時の映画興行収入1位を記録した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "政治権力は映画の持つ影響力に目を付け、プロパガンダの手段として使うようにもなった。第一次世界大戦においてはアメリカやドイツでプロパガンダ作品が制作された。ヴァイマル共和政下のドイツは複数の映画会社が合併して国策撮影所であるウーファ(UFA)が設営された。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1910年代-1920年代、アメリカやヨーロッパでは『ファントマ』シリーズや『吸血ギャング団』シリーズ(いずれもフランス)などの連続活劇が流行している。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1920年代には、チャールズ・チャップリン、バスター・キートン、ハロルド・ロイドといったコメディ俳優が台頭し、「世界の三大喜劇王」と称される。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1920年、ソ連において世界初の国立映画学校が創設され、クレショフがその教授として招聘された。クレショフは同校においてクレショフ映画実験工房(一般的にはクレショフ工房と略称で呼ばれる)なるワークショップを運営し、モンタージュ理論を打ち立てると共に、その実験を行った。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "同年、ロベルト・ヴィーネ監督による『カリガリ博士』が公開される。本作はフィルム・ノワール、およびホラー映画、シュルレアリスムにも影響を与えた重要な作品として位置づけられることが多い。またドイツにおいて第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした芸術運動「ドイツ表現主義」の代表的な作品であり、映画としては最も古く、最も影響力があり、なおかつ、芸術的に評価の高い映像作品とされる。他にも『メトロポリス』や『M』のフリッツ・ラングや、『吸血鬼ノスフェラトゥ』のF・W・ムルナウ等が活躍した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1921年、ドイツでハンス・リヒターにより、ダダイスムの一表現として幾何学模様の変容を映した『絶対映画』というアニメーション映画が作られる。遅れて1927年、マルセル・デュシャンによってフランスでも幾何学模様の変容(デュシャン作品は円盤の回転)による『純粋映画』が試みられた。ダダイスムのグループは実写による筋書き(ただし一貫性のある物語ではない)を持つ映画『幕間』も作っており、こちらはデュシャン本人をはじめエリック・サティなどが出演している。上映用の付随音楽はサティによって作曲され、これがサティの遺作となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1922年、世界初のドキュメンタリー映画とされる『極北のナヌーク』が公開される。カナダ北部で暮らすイヌイットの文化・習俗を収めた作品で、映画というものが記録・啓蒙にきわめて大きな役割を果たしうると考えていたイギリスの映画プロデューサージョン・グリアソン(en) が、その批評の中で「ドキュメンタリー」という言葉を初めて用いたことが始まり。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1925年、クレショフ工房の生徒であったセルゲイ・エイゼンシュテインはモンタージュ理論に基づき『戦艦ポチョムキン』を制作。エイゼンシュテインと共にクレショフ工房の出身者であったフセヴォロド・プドフキンやボリス・バルネット、ジガ・ヴェルトフなどはモンタージュ理論を元にした作品を製作し、ロシア・アヴァンギャルドにおける代表的映画監督となる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1927年に『メトロポリス』が公開され、以降多数のSF作品に多大な影響を与え、世界初のSF映画とされる『月世界旅行』が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされている。また、前年の1925年に製作された『戦艦ポチョムキン』と並んで、当時の資本主義と共産主義の対立を描いた作品でもある。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1927年、アメリカで世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)公開。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)であったが、本作をきっかけにトーキーは世界的に受け入れられ、急速に普及した。もっともアメリカのチャールズ・チャップリン、ロシアのエイゼンシュタインといった映画製作者、映画伴奏の楽士や日本特有の映画職業であった活動弁士を生業とする人々など、熟成の期にあったサイレント映画に固執した人々も多く、本格的にトーキー映画の芸術性が認められたのは30年代に入ってよりの事である。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1928年、ディズニー制作の短編アニメーション作品『蒸気船ウィリー』が公開。一般的に、この作品がミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作とされ、世界で初めてサウンドトラック方式を採用した映画と言われている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "同年、長編映画として世界初のオール・トーキー映画『紐育の灯』が公開。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1929年、アメリカでアカデミー賞が始まる。初年度作品賞はウィリアム・A・ウェルマンの『つばさ』。なお、初年度についてのみ作品賞は二作品が選ばれており、もう一つの作品であるF・W・ムルナウの『サンライズ』には芸術作品賞という名目で賞が与えられている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1920年代から1930年代にかけて、ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネらのフランスの作家が登場して商業的な成功を収め、フランス映画の黄金時代を形成する。後にこれらの作家・作品は、映画批評家のジョルジュ・サドゥール(Georges Sadoul)によって「詩的リアリズム」と定義された。特定のジャンルといえるほど明確ではないが、大型セットにおけるスタジオ撮影を基本とし、遠近などに関して誇張を行なう場合が多く、そのため画面上におけるパースペクティブに歪みを生じさせることが多い。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1929年、アヴァンギャルド映画の原点、シュルレアリスムの最高傑作と評される実験映画『アンダルシアの犬』が公開。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命する。亡命ではなく招聘されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスやエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まっていた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "スタジオ・システムにより、映画製作本数も年間400本を超え、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代~1940年代は「ハリウッド黄金期」と呼ばれている。 なお、1940年代の終わりにスタジオ・システムは独占禁止法と、テレビの登場によって崩壊した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また世界的な不況の中、トーキーの時代が本格的に到来し、音楽や効果音が生かせることからミュージカル映画やギャング映画が映画の主流となる。アメリカでは宗教保守派などから、映画や漫画が若年者や犯罪者に与える影響を憂慮する声が高まり、1934年にはヘイズ・コードと呼ばれる暴力やセックス、社会に対する描写を制約する映画製作倫理規定が作られた。過激な暴力シーンや性的シーンは以後影を潜め、1960年代後半に撤廃されるまでハリウッド映画を縛ることになる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1932年、イタリアでヴェネツィア国際映画祭が始まる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同年、世界初の群像劇映画『グランド・ホテル』が公開。さまざまな人物が1つの舞台に集いあい、それぞれの人生模様が同時進行で繰り広げられていくという、当時としては斬新なストーリー展開が大ヒットを呼び、この手法は後に「グランドホテル方式」と名付けられる。その物語構成が高い評価を受け、第5回アカデミー賞 では作品賞を受賞。作品賞だけにノミネートされ、作品賞だけを受賞した史上唯一の映画となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1934年公開のフランク・キャプラの『或る夜の出来事』を皮切りに、アメリカでスクリューボール・コメディが流行。また、『或る夜の出来事』は、第7回アカデミー賞にて主要5部門でノミネートされ、史上初の5部門とも受賞した(作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞)。この5部門を全て制することは、1975年の『カッコーの巣の上で』が成し遂げるまで出ないほどの大記録であった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1935年、世界初のカラー映画ルーベン・マムーリアンの『虚栄の市』が公開。テクニカラーによる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "同年、ジャン・ルノワール監督の『トニ』が公開。徹底したリアリズムで描く本作の影響を受け、1930年代の末から1940年代にかけて、イタリアでネオレアリズモ運動が起こる。中心的な作家は、ルノワールの助監督を勤めていたルキノ・ヴィスコンティやロベルト・ロッセリーニ等。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1937年、ディズニー制作の長編映画第1作目であり、世界初のカラー長編アニメーション映画となる『白雪姫』が公開。ロトスコープや、マルチプレーン・カメラの使用など、当時としては珍しいアニメーション技術を使用。桁外れの大ヒットを記録し、現在でもアニメ史に残る傑作として知られる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1939年、ヴィクター・フレミング監督の『オズの魔法使』と『風と共に去りぬ』が公開。ジュディ・ガーランド主演のミュージカル映画である『オズの魔法使』は、当時一般的であったモノクロフィルムと、まだ極めて珍しかったカラーフィルムの両方で撮影され、その映像演出は高い評価を受けた。商業的には成功とは言えなかったものの、全時代を通じて史上最も多く鑑賞され、愛された映画だと考えられている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方で『風と共に去りぬ』は、400万ドル前後の製作費をかけて、当時としては画期的な長編テクニカラー映画であったことも手伝って、空前の世界的大ヒットとなった。世界観客動員数歴代最多の20億人を記録している。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1940年、ディズニー製作のアニメーション映画『ファンタジア』が公開。ステレオ効果が利用された最初の映画で、なおかつサラウンドの原型ともいえるステレオ再生方式が世界で初めて一般的に導入され、実用化された。音響技術において非常に重要な歴史的映画となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "同年にはアドルフ・ヒトラーやファシズムを風刺したチャップリン初のトーキー映画である『独裁者』が公開され、大ヒットを記録した。ラストシーンでのチャップリンの6分にも渡る演説シーンは「世紀の6分間」と言われ、映画史上に残るシーンとして評価されている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1941年から参戦した第二次世界大戦中には、『ミニヴァー夫人』や『カサブランカ』『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』などの戦意高揚を目的とした、愛国的な映画や、戦争プロパガンダ作品が多く製作された。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、同年にはオーソン・ウェルズの監督デビュー作『市民ケーン』が公開。主人公が新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていたことから、上映妨害運動が展開され、興行的には失敗したが、パン・フォーカス、長回し、ローアングルなどの多彩な映像表現などにより、年々評価が高まった結果、現在では映画史上最高傑作として映画誌や批評家らによるランキングで常に上位にランクインしている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1940年代から1950年代後半にかけて、ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』(1941年)を皮切りに、後にフィルム・ノワールと呼ばれる犯罪映画がさかんに作られる。代表作にはビリー・ワイルダー『深夜の告白』(1944年)や、ジャック・ターナー『過去を逃れて』(1947年)などがある。フィルム・ノワールの語は、第二次大戦前後のアメリカ映画を分析したフランスの批評家によって命名され、アメリカでは70年代頃に一般化した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1946年、フランスで「カンヌ国際映画祭」が始まる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "同年、『我等の生涯の最良の年』が公開。第19回アカデミー賞において作品賞をはじめ、当時のアカデミー賞最多記録(アービング・G・タルバーグ賞を含めた場合) となる9部門の受賞に輝いた。興行成績においても、トーキー時代以降の映画として『風と共に去りぬ』以来という大ヒットを記録している。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1950年、『羅生門』が公開。日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞 を受賞し、黒澤明や日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。また同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した。撮影担当の宮川一夫による、光と影の強いコントラストによる映像美や、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法などの斬新な撮影テクニックも高く評価された。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1951年、ドイツでベルリン国際映画祭が始まる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1953年、テレビが新しい娯楽として広まったものの、『巴里のアメリカ人』や 『雨に唄えば』といった ミュージカル映画を中心とした大掛かりなセットを駆使し大量のスターを起用した娯楽大作の全盛期が続いた。一方で、『スタア誕生』、『喝采』、『オクラホマ!』など、ストーリー性を重視したミュージカルが50年代半ばに誕生し、現在まで続くミュージカル映画の原型を造った。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "赤狩り(レッドパージ)の影響により多くのアメリカの映画人が追放の憂き目に遭う。実際に共産主義活動に関与したことがあるジョゼフ・ロージーやニコラス・レイ、ダルトン・トランボ等は米国議会の公聴会における証言を拒否して亡命や映画界からの排除を余儀なくされた。しかし中にはエリア・カザンのように移民の係累であるが故に証言を拒否することができず、やむなく証言し結果的にかつての仲間達を売らざるを得ない者もいた。70年代以降に彼らの多くは名誉回復し映画界への復帰を果たしたが、ロージーはかつての盟友であるエリア・カザンの再三に渡る帰国の呼びかけにも応じることなく、亡命先のイギリスで客死した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "テレビの普及による観客動員数の減少に頭を悩ませたアメリカ映画界は、テレビでは実現できない内容を目指し、画面サイズの拡大(シネラマ)や立体映画、大作主義に手を伸ばし始め、1954年の『ダイヤルMを廻せ!』がヒットすると最初の3D映画ブームが巻き起こった。また、大作主義は一時のハリウッドを席巻したが、そのことは映画監督を始めとする製作陣に精神的・肉体的な疲弊を呼び起こすと共に、制作本数の減少による新人監督のデビューの機会を奪い取ることになってしまった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1930年代から反トラスト法(独占禁止法)に問われていた、メジャー映画制作会社の配給、興行の統括による劇場の系列化に関して最高裁判所で違法の判決が下され、メジャー各社は制作と興行との分離を強いられることになった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "赤狩りにより才能ある作家達の多くを一時的に失い、大作主義により残った作家達を疲弊させ新しい作家の登場の機会を阻み、さらには独禁法により安定的な興行システム(経営基盤)を奪われたハリウッドは、結果的に黄金時代の終焉を迎えることとなってしまった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "赤狩りは作品の内容にも大きな影響を与え、アメリカ国内ではなく、ヨーロッパやアフリカで撮影する場合も多くなり、『ローマの休日』や『ベン・ハー』はその代表的な作品である。なお『ベン・ハー』は、同年アカデミー賞で史上最多11部門の受賞を記録した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1954年、日本で『ゴジラ』が公開。東宝が製作した日本初の本格的怪獣映画であり、本作のヒット以降、特撮映画が日本映画の人気ジャンルとして定着する。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1956年を境に、イギリスでフリー・シネマと呼ばれるドキュメンタリー・フィルムの映画運動が起こる。このフリー・シネマは、1950年代後期から1960年代初頭にイギリス・ニュー・ウェイヴと呼ばれる「イギリスの若手監督集団」、および「インディペンデント映画会社」に多大なる影響を与えることとなる。このイギリス・ニュー・ウェイヴは、イギリス映画の伝統であるドキュメンタリーとリアリズムの潮流における重要な段階としてみなされている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1958年、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』が公開。近年ではヒッチコック作品の中でもトップクラスの傑作との評価されており、中でもズームレンズを用い、ズームアウトしながらカメラを被写体へ近づけることで、被写体のサイズが変わらずに背景だけが望遠から広角に変化してゆく「めまいショット」(一般にはドリーズーム(英語版)と呼ばれる)が、この作品以後、数え切れないほどの映画やCM、テレビドラマで引用されるようになった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1950年代末期から1960年代初頭にかけて、フランスでヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画運動が起こる。それは端的に言えば、結末のない物語や、その場の偶然を生かした即興演出などで、従来の映画の定石を打ち破ろうとする試みであった。 そんなヌーヴェルヴァーグの評価を確固たるものにしたのがアナーキストとアナーキズムを主題としたジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1960年)であった。本作はジャンプカットという革新的な技法を定着させ、手持ちカメラでのロケ撮影や高感度フィルムの利用など、これまでの映画の既成概念をひっくり返すことに成功した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "同時期にアメリカでは、テレビに対抗意識を燃やしたハリウッド企業の巨大資本化、超大作志向が続く一方で、ヌーヴェルヴァーグに触発されたインデペンデント系の映画が急速に芽を出し始め、ジョナス・メカス等によるアメリカン・アヴァンギャルドと呼ばれる運動が起こる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また同年にはサスペンス映画の金字塔『サイコ』や、『血を吸うカメラ』などのサイコロジカルホラー映画が公開。ジャッロと呼ばれるイタリア産の推理サスペンス映画の発展も重なり、スラッシャー映画というジャンルが黄金期を迎えることとなる。またこの2本は、異常殺人というモチーフの重なりや、その主題へのアプローチの差異などで、しばしば比較されるようになる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1961年に日本において芸術系映画の配給を目的として日本アート・シアター・ギルド(ATG)が設立される。イェジー・カヴァレロヴィチの『尼僧ヨアンナ』を皮切りに当初は海外作品の配給が主体だったが、1960年代後半には独立系の制作会社の作品に対する出資を行うようになった。松竹を退社した大島渚等松竹ヌーヴェルヴァーグの面々を始めとする数多くの作家達がATGの出資により作品を手がけ、数多くの名作・傑作・話題作・問題作を世に送り出した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1965年、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』が大ヒットし、当時の世界興行収入を塗り替える。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1968年、『猿の惑星』と『2001年宇宙の旅』の二作品のヒットによりSF映画に注目が集まり、後のスターウォーズブームへと繋がることとなった。 また、スタンリー・キューブリック監督は、SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情』(1964年)、『2001年宇宙の旅』(1968年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)を作り、これらの成功で、世界中の批評家から映画作家としての優れた才能を認知された。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "これまでのハリウッド黄金期は、観客に夢と希望を与えることに主眼が置かれ、ハッピーエンドが多くを占めていた。しかし、スタジオ・システムの崩壊や、赤狩りの傷が深かったこともあり、ハリウッドは製作本数も産業としての規模も低迷。1960年代は、まだジャーナリズムの熱意が高かったことも相まって、ベトナム戦争の実態を目の当たりにした若者層のヒッピー化、反体制化が見られた。1960年代後半から1970年代半ばにかけて、このようなベトナム反戦ムーブメントや公民権運動を端を発した、当時の若者の世相を投影する作品群「アメリカン・ニューシネマ」が大流行する。代表作品には『俺たちに明日はない』(1967年)『卒業』(1967年)『イージー・ライダー』(1969年)『真夜中のカーボーイ』(1969年)などがある。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1960年代の末から登場したドイツの作家達が、ニュー・ジャーマン・シネマとしてもて囃される。ストローブ=ユイレ、フォルカー・シュレンドルフ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ヴィム・ヴェンダース、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー等がこれに相当するのだが、ヌーヴェルヴァーグのように作風における共通点があったり、共同活動などを行ったものではなく、同時期に登場した同世代の作家達に対して付けられた総称だった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1968年の『ローズマリーの赤ちゃん』を起源として、1974年にウィリアム・フリードキン監督による『エクソシスト』が爆発的にヒットする。それを皮切りに、『キャリー』や『オーメン』(ともに1976年)、『サスペリア』(1977年)といったオカルト映画ブームが始まった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "時を同じくして、アメリカ・ハリウッドでパニック大作ブームが巻き起こる。1972年の『ポセイドン・アドベンチャー』を皮切りとし、1974年公開の20世紀フォックスとワーナー・ブラザースとの合作『タワーリング・インフェルノ』を頂点とするこのブームは、その商業的な大成功により凋落していたハリウッドの自信を回復させると共に、この後に続く新たなハリウッド映画の基本を形作るものとなった。1950年代の大作主義においては飽くまでも物語や人間ドラマに主眼が置かれており、豪華なセットやスター俳優の多用はこれらを効果的に表現するための手段だった。しかし、パニック大作においては派手な特殊効果や特異性を感じさせる映像表現すなわち観客の目を引く要素に主体が移っており、細部の肥大化や物語と画面表現との分離など今日におけるまで続いているハリウッド映画の特徴を形成している。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1971年、『時計じかけのオレンジ』が公開。前述の通り、キューブリックのSF三部作のひとつで、暴力的表現が多く、その過激さが議論を呼んだ。しかし大ヒットを記録したことで、『俺たちに明日はない』(1967年)『ワイルドバンチ』(1969年)『ダーティハリー』『わらの犬』(ともに1971年)等とともに映画における暴力的表現の規制緩和に一定の役割を果たした作品である。 また史上初めてドルビー研究所が開発したドルビーノイズリダクションシステムを使用し、ステレオ録音された映画である。ただし、劇場公開用のフィルムはモノラルである。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1972年、『ゴッドファーザー』が公開されると、瞬く間にアメリカ国内で1億3000万ドル以上の興行収入を達成し、当時の記録を塗り替える爆発的ヒットとなった。同年度の第45回アカデミー賞では作品賞を獲得し、2年後に公開された続編の『ゴッドファーザー PART II』(1974年)もアカデミー作品賞を受賞したため、正編と続編でアカデミー作品賞を獲得した唯一の例となる。また本作は、一般視聴者から熱烈な支持を得るとともに、世界中の批評家や映画関係者たちからも絶賛されており、史上最も偉大で影響力のある映画の一つとみなされている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "同年、成人映画である『ディープ・スロート』が公開される。本作は約6億ドルという『ゴッドファーザー』の1/3を超える興行収入を記録したとされており、当時のポップカルチャーに社会現象を巻き起こした。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1975年、上記のパニック大作ブームの流れを経て、スティーヴン・スピルバーグ監督による『ジョーズ』が公開。ユニバーサル・ピクチャーズは本作のマーケティングに180万ドルを費やし、前例のない70万ドルを掛けた全国テレビのCMも行った。また大規模な公開と画期的な宣伝戦略が組み合ったことで当時において事実上前例のない配給が実現。最初の10日間で21,116,354ドルの収益を上げ、制作費を回収。わずか78日で、それまでの北米の興行収入の最高記録であった『ゴッドファーザー』の8600万ドルを抜き、アメリカにおける劇場公開で最初に1億ドル稼いだ作品となった。最終的に全世界4億7,200万ドルの興行収入を記録し、世界一となった。これによって『ジョーズ』は夏のブロックバスター映画の原型となり、映画史における分岐点となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1976年、『ロッキー』が公開。当時のハリウッドでは ハッピーエンドを否定する作品や、英雄を描かない作品が最盛を極めていたが、「個人の可能性」「アメリカン・ドリーム」への憧憬を再燃させ、本作と翌年の『スター・ウォーズ』の大ヒットにより、アメリカン・ニューシネマの終焉を決定的なものとした。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1977年、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』が大ヒットし、1980年代まで続く世界的なSF映画ブームとなる。この作品以降、特殊効果(SFX、VFX)が映画の重要な要素として扱われるようになる。また同シリーズのキャラクター商品権によるビジネスで成功を収めたルーカスはその資金を映像・音響関係のデジタル化を中心とした技術開発に投資し、映画界に多大な功績を成している。1978年には『ジョーズ』の全米記録を抜いて、世界最高の興行収入を記録した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1978年、アメリカでロバート・レッドフォードがサンダンス映画祭を始める。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1980年代はアメリカンニューシネマが完全に衰退したことで、様々なジャンルで娯楽作品が大量に増加した時代であった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "特に映画でCGの使用が大々的にアピールされるようになったのが1980年代からで、主な作品に『トロン』や『スタートレック2』(ともに1982年)、『スターファイター』(1984年)、『ナビゲイター』(1986年)、『アビス』(1989年)等がある。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "また1950年代以来の二回目の3D映画ブームが起こり、主に『ジョーズ3』(1983年)や『13日の金曜日 PART3』(1982年)等が公開された。しかし、いずれも粗悪で映画自体の出来が悪いB級作品が多かったことから、一過性のブームで終わり定着せずに、3D映画は再び消滅することとなった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "そして1980年代には、シルヴェスター・スタローン、チャック・ノリス、アーノルド・シュワルツェネッガーなどを始めとする、いわゆる「肉体派アクション俳優」が本格的に台頭する。1980年代半ばにはアクション俳優の人気が全盛期を迎え、『ランボー』(1982年)や『地獄のヒーロー』(1984年)、『コマンドー』(1985年)などといった、「ワンマンアーミー」と呼ばれるスタイルの主人公が活躍するアクション映画も多数ヒットするようになった。こうしたワンマンアーミー映画の主人公は殆どダメージを受けずに1人で大勢の敵を倒すなど、現実離れした超人的かつ圧倒的な強さで描かれることが特徴として挙げられる。特に1985年の『ランボー/怒りの脱出』が世界中で大ヒットしたことで、『ランボー2』を安価にコピーした、機関銃を持った主人公の亜流B級映画が多数生まれた。また同時期にヒットしたアクション映画の中には、そうしたワンマンアーミー映画のカウンター的作品としてヒットした、『ターミネーター』(1984年)やブルース・ウィリス主演の『ダイ・ハード』(1988年)などがある。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "一方で、1982年にシュワルツェネッガー主演の『コナン・ザ・グレート』が大ヒットすると、スパイ映画やSF映画の人気に押され、1960年代前半から衰退していたソード&サンダルやファンタジー映画のブームが1980年代に発生した。『コナン』をコピーした粗悪で安直なB級映画が大量に作られたほか、『ダーククリスタル』(1982年)『ネバーエンディング・ストーリー』(1984年)『レジェンド/光と闇の伝説』『レディホーク』(ともに1985年)『ラビリンス/魔王の迷宮』『ハイランダー 悪魔の戦士』(ともに1986年)『ウィロー』(1988年)等といった、多数のファンタジー映画が立て続けに公開され、幾つかの作品は高評価を得た。しかし、CG以前の当時の技術力ではファンタジー(剣と魔法)の表現に限界があったことや、粗悪なB級映画も多かったことから1990年代に突入すると飽きられ、再び衰退することとなった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "また、1981年にハリソン・フォード主演の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』が大ヒットすると、ソード&サンダルやファンタジー映画と同様に、衰退していた冒険映画の人気も復活。主に『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(1984年)や『ロマンシング・アドベンチャー/キング・ソロモンの秘宝』(1985年)などが公開された。しかし、中には『グーニーズ』(1985年)のようにコアな人気を獲得した作品もあったものの、基本的には何れも『インディ』の二番煎じ感は否めず、こちらも一過性のブームで終わり、1990年代にかけて再び衰退していった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "その他、ビデオレンタルによってホラー映画の需要が増加。中でもジョン・カーペンターの『ハロウィン』(1978年)が当時最も稼いだインディペンデント映画となったことで、殺人鬼が若者を襲うというフォーマットを模倣したスラッシャー映画が人気を博す。『13日の金曜日』(1980年)、『エルム街の悪夢』(1984年)、『チャイルド・プレイ』(1988年)などが人気を博した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "また1977年公開の『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒットを経て、『フラッシュダンス』(1983年)や『フットルース』(1984年)、『ダーティ・ダンシング』(1987年)など、青春ダンス映画が立て続けにヒットする。当時ミュージックビデオをひたすら流し続けるケーブルテレビ・チャンネルMTVが大流行しており、その中で映画の一部がミュージック・ビデオとして放送されたことがプロモーションに繋がり、ヒットの要因になったとされている。また、この時期から映画のサウンドトラックが爆発的に売れるようになり、これを機にMTVは映画界にとって重要なツールの1つとなった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1980年、セクスプロイテーション映画であり、モキュメンタリー映画の先駆けでもある『食人族』が公開される。本作は、スナッフフィルムのように見せかけた宣伝方法などで注目を浴び、動物虐待、人肉食、強姦シーンが盛り込まれた映画でありながら、10億円近い配給収入を上げる大ヒットを記録した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1982年、スティーヴン・スピルバーグ監督によるアメリカ映画『E.T.』が公開。約1,000万ドルという予算で製作されたが、公開後には北米で3億5,900万ドル、全世界で6億1,900万ドルの興行収入を記録し、『スター・ウォーズ』(1977年)を抜いて世界歴代興行収入歴代1位となった。日本でも『ジョーズ』(1975年)が保持していた日本記録を更新し、『もののけ姫』(1997年)に抜かれるまで日本最高配給収入記録を堅持していた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "同年には『ブレードランナー』が公開され、興行的には失敗したものの、後のSF作品に多大な影響を与え、現在では「サイバーパンク」の代表作と見なされている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1983年、日本において長谷川和彦、相米慎二、黒沢清らによりディレクターズ・カンパニーが設立される。1960年代から1970年代におけるATGが果たしたのと同じ役割を担うことを目的としまた大きく期待されもしたが、ATGのように時流に乗ることができず大きな商業的成功を収めるには至らなかった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1984年、『黄色い大地』公開。これの監督を務めたチェン・カイコー、撮影監督を務めた張芸謀を中心として、中国映画の第五世代が台頭。同時期に、台湾ニューシネマ運動の展開が開始。90年代にかけニューウェーブを感じさせる作品を次々と発表する。侯孝賢、揚徳昌が主な作家。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "同年1984年、『ゴーストバスターズ』が社会現象となり、数十億ドル規模のマルチメディア・フランチャイズを立ち上げた。また興行収入は2億8220万ドルで、当時のコメディ映画史上最高の興行収入となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1985年、日本で「東京国際映画祭」が始まる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1985年、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が大ヒットし、全米ではフューチャー現象なるものが巻き起こった。また主題歌であるヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「The Power of Love」は、世界的に大きな成功を収めた。現在では1980年代の最高傑作の一つ、SF映画の最高傑作の一つ、そして現代に置いて史上最高の映画の一つとされている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1986年にはトム・クルーズ主演の『トップガン』が全米で大ブームとなり、トムの出世作となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "同年、ベトナム戦争映画の傑作『プラトーン』が公開。ベトナム帰還兵であるオリバー・ストーンの実体験を基に作られており、初めて本物のベトナム戦争を忠実に再現した作品として、アメリカ国内だけで予算の20倍を超える1億3800万ドルの興行収入を記録。世界中で「プラトーン現象」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "1988年、『AKIRA』が公開される。製作期間3年、当時の日本のアニメーション映画としては破格の10億円の制作費をかけ、日本アニメの世界的ブームの火付け役となった作品。中でも映画冒頭の金田がバイクを横滑りさせて急停止させるシーンは、本作を象徴する場面の一つであり、様々な作品でオマージュされている。また、走るバイクのテールライトの光が尾を引くように残像を残して描いたり、複雑な形状の脳波の波形を3DCGアニメーションとセル画の背景合成で再現したりなどの斬新な演出も多数行われ、その後のアニメ作品に多大な影響を与えている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1989年、日本で「山形国際ドキュメンタリー映画祭」が始まる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "これまで長編アニメにおいて低迷期を迎えていたディズニーであったが、1989年の『リトル・マーメイド』を始めとして、『ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!』(1990)、『美女と野獣』(1991)、『アラジン』(1992)、『ライオン・キング』(1994)、『ポカホンタス (映画)』(1995)、『ノートルダムの鐘』(1996)、『ヘラクレス』(1997)、『ムーラン』(1998)、そして『ターザン』(1999)の10作品を制作・公開、多くの作品が高評価・好成績を挙げたことにより、この間の時代を指して「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれるようになる。特に『美女と野獣』は、アニメ映画史上初のアカデミー賞作品賞にノミネートされた(第64回)作品となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1990年、マーティン・スコセッシ監督による『グッドフェローズ』が公開。本作は当時の時代背景やバックグラウンドを意識せず、既存の曲を挿入歌として取り入れる手法や、あえて時系列を前後させた構成。またスコセッシ自身は、本作の精神をドキュメンタリーだと語っており、マフィアの日常を淡々と描くことであえて登場人物に感情移入させない仕組みになっている。その斬新な演出で、これまでのギャング映画とは一線を画すスタイルを確立し、新たな可能性を提示した一本となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "1991年、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスが主演の『羊たちの沈黙』が、第64回アカデミー賞で主要5部門を受賞し、ホラー映画史上初のアカデミー作品賞という快挙を果たした。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "同年公開の『ターミネーター2』では映画史上で初めて、映像の合成を全てデジタル処理で行い、本格的にCGが使用され注目を集める。本作品以降、映画でのCGの使用が一般的となり、本作品で使用されたモーフィング技術は一躍知名度を上げ、他作品でも多用された。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1993年、スティーヴン・スピルバーグ監督によるアメリカ映画『ジュラシック・パーク』が公開。映画におけるフォト・リアリスティックなコンピュータグラフィックスの使用として革新的で、ストップモーションアニメに取って代わり、その後の映画に大きな影響を与えた。また、自身の世界興行収入記録を塗り替える大ヒットとなった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1993年、日本で初めてシネマコンプレックスがオープンする。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1994年、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』が公開。本作は、4つのストーリーが順序の異なる時間軸を入れ替えながら交わる、当時としては珍しい手法で構成されている事で高い芸術的評価を受けた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "同年には『フォレスト・ガンプ/一期一会』が公開される。ILMが担当したVFXにて、主演のトム・ハンクスをジョン・レノンやジョン・F・ケネディ、リチャード・ニクソンといった故人と共演させたことで話題になる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "なお上記を見ても分かる通り、1994年は「ハリウッド映画史上最も豊作な年」と言われており、同年には『ショーシャンクの空に』が公開されるも、公開当時は『フォレスト・ガンプ』や『パルプ・フィクション』、『ライオン・キング』、『スピード』、『レオン』、『トゥルーライズ』などの人気作や大作の影に埋もれて知名度が低かった。しかし、批評家達から高い評価を受け、その後のVHSの販売やレンタルビデオ、テレビ放送によって徐々に人気を獲得し、現在では最も評価の高い映画のひとつとなっている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "1995年、世界初の長編フルCGアニメーション『トイ・ストーリー』が公開。アメリカのディズニーとピクサーの共同製作による。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "同年、デンマークでラース・フォン・トリアーらによるドグマ95と呼ばれる映画運動が始まる。現在でも続いている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1997年、日本にて宮崎駿監督のアニメ映画『もののけ姫』が公開され、興行収入193億円を記録し、当時の日本映画の興行記録を塗り替えた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1990年代後半に入るとCGの大幅な進歩により、迫力のある災害シーンを描くことが可能になったため、衰退していたパニック映画が再び制作されるようになった。特に1996年公開の『インデペンデンス・デイ』と『ツイスター』が共に大ヒットし、その後も『ダンテズ・ピーク』『ボルケーノ』(ともに1997年)『フラッド』『アルマゲドン』『ディープインパクト』『GODZILLA』(何れも1998年)『ディープ・ブルー』(1999年)などのパニック映画が立て続けに公開され、1990年代後半にはパニック映画が1970年代以来の第二次ブーム状態となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "中でも、1997年に公開されたジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』が、全世界で18億3500万ドルを超える大ヒット。史上初めて10億ドルを突破した作品となり、映画史上最高の世界興行収入を記録したことで、ギネスブックに登録される。また、第70回アカデミー賞では最多14部門にノミネートされ、作品賞を始めとする最多11部門を受賞した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "1998年、スティーヴン・スピルバーグ監督による『プライベート・ライアン』が公開。冒頭20分に渡る「ノルマンディー上陸作戦」のシーンが高い評価を受け、後に“戦争映画の歴史はプライベート・ライアン以前・以後に分かれる”と言われるほど、戦争描写に革新をもたらした。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "1999年、キアヌ・リーブス主演のSFアクション映画『マトリックス』シリーズ1作目が公開される。従来のCGにはない、ワイヤーアクションやバレットタイムなどのVFXを融合した斬新な映像表現は「映像革命」として話題となった。また翌年に公開された『グリーン・デスティニー』(2000年)や、翌々年公開の『少林サッカー』(2001年)でも、このワイヤーアクションが効果的に使われており、以後中華圏で制作される武俠映画やカンフー映画に色濃く反映され、世界中でワイヤーアクション技術が使われる端緒となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると、HD24P方式のデジタル・ビデオカメラによるデジタルシネマの動向が活発化した。CGの活用による映画のデジタル化は進んでいたが、フィルムとビデオとの基本的な表示方式の違い(フィルムは24コマ/秒・ノン・インターレースで、ビデオは30コマ/秒のインターレース)によりテレシネという加工段階を経なければならず、これが大きな足枷になっていた。しかし、HD24Pはフィルムと同じ形式での記録が可能であるためテレシネ加工が不要で、ダイレクトにデジタル加工が可能という画期的な商品だった。『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(2002年)で利用され実用性が実証された後に採用が相次いでおり、デジタルビデオカメラによる撮影・制作への移行が進んだ。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "中でも2000年公開の『オー・ブラザー!』では、カラリストによって史上初めて全編デジタルカラーコレクション(映像の色彩を補正する作業)の技術が駆使された映画となり、2004年に公開された『スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』は、世界で初めて全編デジタルバックグラウンド(背景がすべてCGのデジタル合成)で撮影された映画となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "一方で2000年代中盤以降になると、家庭でもハイビジョンテレビ、液晶ディスプレイ、Blu-ray、HDMIなどで高解像度・HD化が急速に進み、従来の解像度の限界を超えることが必要になってきた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "またコンピュータグラフィックス(CG)技術の大幅な発展により、『X-メン』(2000年)や『スパイダーマン』(2002年)、『トランスフォーマー』(2007年)、『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』(2003年)等といった、以前であれば映像化が難しかった世界観の作品や、漫画やアニメが原作の超大作シリーズが数多く作られ、何れの作品も大ヒットを記録する。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2000年公開の『グラディエーター』と、翌年公開の『ロード・オブ・ザ・リング』が大ヒットしたことで、1990年代以降衰退していたソード&サンダル映画とファンタジー映画の人気が復活。『トロイ』(2004年)や『エラゴン 遺志を継ぐ者』(2006年)『300 〈スリーハンドレッド〉』(2007年)等が公開された。CGの大幅な発展と普及で、ファンタジー表現に対しての限界が事実上無くなったことも、ブームの理由の一つであるといえる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "中でも『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003年)は、全世界興行収入が『タイタニック』(1997年)以来史上2例目となる10億ドル超えを達成した作品となり、第76回アカデミー賞では『ベン・ハー』(1959年)と『タイタニック』に並ぶ史上最多11部門の受賞を果たす。これによって『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は、『スター・ウォーズ』オリジナル三部作、『ゴッドファーザー』三部作を超えて、世界で最も商業的に成功した三部作となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "同時期には、J・K・ローリングのファンタジー小説を映画化した『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001年)を筆頭とした、『ハリー・ポッター』シリーズ(魔法ワールド)が、長きに渡り世界的な大ヒットを記録。その『ハリー・ポッター』シリーズを中心に、児童文学原作の映画がブームとなり、『ナルニア国物語』(2006年)や『ライラの冒険 黄金の羅針盤』(2007年)等が公開されたが、『ハリー・ポッター』程の成功には至らなかった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "またファンタジー映画がヒットした一方で、『シティ・オブ・ゴッド』(2002年)や『ホテル・ルワンダ』(2004年)、『ミュンヘン』(2005年)、『ユナイテッド93』(2006年)等といった実話を基にした社会派系作品や、『ナイロビの蜂』(2004年)や『ロード・オブ・ウォー』(2005年)、『ブラッド・ダイヤモンド』(2006年)などといった、実際の社会問題や国際問題等を題材とした作品が2000年代には流行し、何れの作品も高い評価を受けた。流行した理由としては、アメリカ同時多発テロ事件やイラク戦争などの影響によって、アメリカ国内で社会問題に関して敏感になったことが挙げられる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "2001年には、宮崎駿監督でスタジオジブリ作品の『千と千尋の神隠し』が公開され、興行収入は300億円を超え、当時の日本歴代興行収入第1位を達成した。翌年には、第52回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品され、最優秀作品賞である金熊賞を受賞した。世界三大映画祭で長編アニメーションが最高賞を獲得するのは史上初の快挙であった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "2002年、マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』が異例のヒットを記録し、ドキュメンタリー映画が新たな商業ジャンルとして注目を集める。『華氏911』や『スーパーサイズ・ミー』(ともに2004年)のような突撃取材ものや、『ディープ・ブルー』(2003年) や『皇帝ペンギン』(2005年)、『アース』(2007年)のようなネイチャードキュメンタリー、その他には『不都合な真実』(2006年)などの幅広い作品が生まれた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "同年、『シカゴ』が公開。ミュージカル映画はヒットしない状況が続いていたなかで、そのジンクスを覆す人気を獲得する。第75回アカデミー賞では作品賞を初めとする6部門受賞。その後、ブロードウェイのヒット作を映画化する形で、再びミュージカル映画がブームとなる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "2005年には、これまでのハリウッド映画界ではタブーとされていた同性愛をテーマにした作品『ブロークバック・マウンテン』が公開され、話題を呼ぶ。監督のアン・リー自身は、この映画を「普遍的なラブストーリー」と強調しており、そのテーマは観客に広く受け入れられ、人気を博す。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "2006年に公開された『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』は史上最速での1億ドル、2億ドル、3億ドルを突破し、史上最速での世界興行収入10億ドル突破し、多くの世界記録を打ち立てた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "2008年、バットマンを題材としたクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』が公開。前作『バットマン ビギンズ』に続く「ダークナイト・トリロジー」の第2作目であったが、公開時は『タイタニック』に次ぐ、全米興行収入歴代2位を記録した。その年に亡くなったジョーカー役のヒース・レジャーは世界的に評価され数々の映画賞をそうなめにした。現在でもアメコミ史上最高の映画と言われている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "2009年頃からは、立体映画が1980年代以来の三回目のブームとなった。ハリウッドが多くの立体映画を製作し、また既存の作品を3Dに変換して立体映画として再上映する場合もある。中でもジェームズ・キャメロン監督の『アバター』が、3D映像による劇場公開が大きく取り上げられ、世界興行収入は自身の持つ『タイタニック』の記録を大幅に上回る27億8800万ドルを記録した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "邦画では、2003年に『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』が、国内興行収入173.5億円を記録する大ヒットとなった。これは2023年現在においても、実写邦画の歴代興行収入1位の記録である。 また、1998年公開の『リング』が世界的にヒットし、その後も『呪怨』(2003年)や『着信アリ』(2004年)等も成功したことで、所謂「Jホラー」ブームが世界中で巻き起こった。その勢いのまま、ハリウッドでリメイク版である『ザ・リング』(2002年)や『THE JUON/呪怨』(2004年)も制作され、こちらも一定の成功を収めた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "2008年公開の『アイアンマン』のヒットを経て、様々なマーベル・コミックの実写映画を、同一の世界観のクロスオーバー作品として扱う『マーベル・シネマティック・ユニバース』(MCU)シリーズが台頭を見せる。世界で最も大きな興行的成功を収めている映画シリーズとして、2位の『スター・ウォーズ』シリーズに大差をつけて、世界歴代1位の興行収入を記録。2019年には、シリーズ22作目となる『アベンジャーズ/エンドゲーム』が、『アバター』(2009年)の記録を抜き、当時の史上最高記録を塗り替えた。また、マーベル・シネマティック・ユニバースのヒットに倣って、『DCエクステンデッド・ユニバース』や『モンスターバース』といったシリーズ作品のメディア・フランチャイズ及びシェアード・ユニバース化が流行した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "2008年公開の『トワイライト〜初恋〜』が世界的に大ヒットすると、ヤングアダルト小説原作の映画が、2010年代前半から中盤にかけて一大ブームとなった。その『トワイライト』の続編や『ハンガーゲーム』(2012年)、『ダイバージェント』や『メイズ・ランナー』(ともに2014年)等も同じく世界的な大ヒットを記録したが、日本では何れの作品もほとんどヒットしなかった。2000年代の『ハリー・ポッター』シリーズが日本でも大ヒットを記録し、他の児童文学原作の映画も、それなりにヒットしていたのとは対照的であるといえる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "2010年、Facebookを創設したマーク・ザッカーバーグらを描いた映画『ソーシャル・ネットワーク』が公開。当時まだ珍しかった4K解像度カメラのレッド・ワンを使用、映画冒頭のマークとエリカの会話シーンでは99テイクもの撮影が行われるなど、挑戦的な撮影方法が話題となり、様々な批評家や観客に大絶賛された。その評価の高さからは「21世紀の『市民ケーン』」とまで評された。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "2013年(日本では2014年)にはディズニーから、CGアニメ映画の『アナと雪の女王』が公開される。本作はアメリカ映画としては『アバター』(2009年)以来の大ヒット作となり、各国でアニメ映画の動員記録を塗り替え、世界的に社会現象となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "同年、『ゼロ・グラビティ』が公開。巨大な回転装置やモーションコントロールロボット、壁一面がLEDに囲まれた「ライトボックス」と呼ばれる特殊装置を発明するなどして、宇宙空間における無重力表現を忠実に再現したことで、3D映画の新たな可能性を示したと称された。また本作以降、『ダンケルク』や『1917 命をかけた伝令』などリアルな臨場感や没入感を演出し、その場にいるような迫力を味わうことができる「体験型映画」という言葉が生まれた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "2010年代半ばから、映画やテレビ番組のオンラインストリーミングを提供する、サブスクリプション方式の定額制動画配信サービスが始まり、「Netflix」や「Amazonプライム・ビデオ」は独自の映画製作にも力を入れる。中でもNetflixの作品『ROMA/ローマ』(2018年)は、モノクロの小規模映画でありながら、6Kカメラのアレクサ65で撮られた65mmの美しい映像が、家庭のテレビで4K解像度で視聴できることが話題となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "また、映画館でも新たな映画体験が用いられ、通常の映画で使用されるフィルムよりも大きなサイズの映像を記録・上映出来るIMAXや、映画の映像・音声に合わせて座席稼働や環境効果が体感できる4DXなどが広く知られるようになった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2015年、前作『マッドマックス/サンダードーム』(1985年)以来、27年ぶりに製作された『マッドマックス』シリーズの第4作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が公開。本作は、2010年代を代表するアクション映画として大きな話題を呼び、この年最も評価された映画のひとつとなった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "第88回アカデミー賞のノミネーションにおいて、演技部門での候補者20名が2年連続白人で占められていたことから、「Oscars So White(白すぎるオスカー)」と呼ばれるハッシュタグがTwitterでトレンド入りするなど、ハリウッド内の人種多様性の欠如が世界的に大きな波紋を呼んだ。第90回アカデミー賞では、女優のフランシス・マクドーマンドが自身の受賞スピーチにて「インクルージョン・ライダー」という言葉を発し、キャストやスタッフの多様性を確保するよう求めるハリウッドの新しい条項が誕生した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "2016年、新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』が公開され、それがSNSや口コミで話題となり、日本国内の興行収入は瞬く間に250.3億円を記録。当時の日本における歴代興行収入ランキングでは日本映画として『千と千尋の神隠し』(2001年)に次ぐ第2位となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "同年、ミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』が公開。往年のミュージカルへのオマージュが話題を呼び、第74回ゴールデングローブ賞ではノミネートされた7部門すべてを獲得し、歴代史上最多受賞を記録する。第70回英国アカデミー賞では11部門でノミネートを受け、6部門を受賞。第89回アカデミー賞では『タイタニック』(1997年)、『イヴの総て』(1950年)に並ぶ史上最多14ノミネート(13部門)を記録した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "2017年10月5日、ニューヨーク・タイムズの記者が、映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる数十年に及ぶセクシャルハラスメントを告発する記事を発表。のちにワインスタイン効果と呼ばれるほどの大反響があり、この影響がセクシャルハラスメントや性暴力の経験を共有することを奨励するMe Too運動を引き起こした。そうした情勢を反映し、以降『スリー・ビルボード』(2017年)や『スキャンダル』(2019年)『アシスタント』(2020年)『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020年)『最後の決闘裁判』(2021年)『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(2022年)など、「怒れる女性」や「有害な男らしさ」を描いた作品群が多く作られるようになる。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "2019年3月、『タイタニック』や『スターウォーズ』の制作を勤めた21世紀フォックスがディズニーに買収される。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "同年10月バットマンの悪役を題材にした作品『ジョーカー』が、R指定作品として史上初めて10億ドルを突破する。また、ロケ地となったニューヨーク・ブロンクス地区にある階段が観光名所となった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "同年、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』が第72回カンヌ国際映画祭で韓国映画初となるパルム・ドールの受賞を果たした。第92回アカデミー賞では、史上初の外国語映画の作品賞受賞であり、アカデミー作品賞とカンヌの最高賞を同時に受賞した作品は『マーティ』(1955年)以来、65年ぶりとなった。日本ではパラサイト旋風と呼ばれた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "2020年、社会現象となっていたテレビアニメ『鬼滅の刃』の劇場版アニメとして『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』が公開される。新型コロナウイルスの世界的流行下において、歴代最速で興行収入100億円に達成。公開から73日目となる12月27日には観客動員数2404万人、興行収入324億円を突破し、『千と千尋の神隠し』を超えて日本歴代興行収入1位を達成。さらには2020年公開映画の年間興行収入世界1位も記録した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "2021年3月12日、『アバター』が中国で大規模再上映され、『アベンジャーズ/エンドゲーム』との782万ドルの差を上回り、再び世界歴代興行収入1位の座に返り咲いた。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "同年、新型コロナウイルスが猛威を振るう中、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が世界興行収入19億ドルという大ヒット。コロナ禍で初めて10億ドルを突破した作品となり、世界的に社会現象になった。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "同年5月には、前作から36年ぶりの続編となる『トップガン マーヴェリック』が公開。コロナ禍により様々な大作映画が配信へ送られるなか、主演兼製作のトム・クルーズは本作の劇場公開に強くこだわっており、何度も公開延期を繰り返し、最終的には『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に次いで、コロナ禍二度目となる10億ドルを突破した。また中高年層の客足を取り戻したきっかけともされており、劇場文化復活の記念碑的作品と言われている。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "また12月には『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』が公開。コロナ禍で初めての20億ドルを記録し、『タイタニック』を抜いて世界興行収入歴代3位を記録した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "同時期にはIMAXでの世界累計興行収入が1兆2000億円を突破した。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "2023年、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が全米映画俳優組合賞にて歴代最多の4部門を制覇。同年のアカデミー賞でも作品賞を含む7部門を受賞するなど記録的な勝利となった。また演技賞を3つ獲得し、作品賞を受賞した映画は本作が史上初。アジア人俳優の主演女優賞や、SF映画、カンフー映画の受賞も初である。", "title": "映画史" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "同年7月、グレタ・ガーウィグの『バービー』とクリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』が同時公開され、対照的な2作を一緒に鑑賞する者が多いと報じられており、インターネット上では両方の映画のタイトルを合わせた「バーベンハイマー(Barbenheimer)」という造語(インターネット・ミーム)も誕生し、社会現象となった。。 また『バービー』は、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』(2011年)の全世界興行収入を抜いて、ワーナー・ブラザーズ配給作品で歴代最高記録を更新。女性監督が単独で手がけた作品の興行収入でも、初の10億ドルを達成し、パティ・ジェンキンスの『ワンダーウーマン』を抜いて歴代1位となった。一方の『オッペンハイマー』も、世界興行収入が9億ドルを突破し、『ボヘミアン・ラプソディ』を抜いて、伝記映画として歴代最高の興行収入となった。これらの影響力からもBBCが用いるなどして、映画産業の興行収入を分析する文脈で定着した用語となった。", "title": "映画史" } ]
映画史(えいがし)は、映画がどのような経緯をもって誕生し、世界で発展してきたかという歴史である。
{{出典の明記|date=2011年5月}} '''映画史'''(えいがし)は、[[映画]]がどのような経緯をもって誕生し、[[世界]]で発展してきたかという[[歴史]]である。 == 映画史 == === 1890年代 === [[File:LouisLePrinceFirstFilmEver RoundhayGardenScene.png|thumb|right|200px|ギネスブックが認定した世界最古の実在する映画フィルム『[[ラウンドヘイの庭の場面]]』(1888年)の1カット。]] 映画につながる技術は19世紀後半から、[[フランス]]の[[エティエンヌ=ジュール・マレー|マレー]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[エドワード・マイブリッジ|マイブリッジ]]、[[ドイツ]]の[[オットマール・アンシュッツ|アンシュッツ]]など、多くの人々によって研究されてきた。それらの研究は全て、19世紀前半に完成された[[写真]]技術を、現実の運動の記録と再現に応用しようとしたものである。 これらの人々の積み重ねを経て、1893年、アメリカの[[トーマス・エジソン]]が自動映像販売機(映写機)[[キネトスコープ]]を一般公開。さらに、フランスの[[リュミエール兄弟]]が[[シネマトグラフ]]・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し、1895年3月にパリで開催された科学振興会で公開。同年12月28日に[[パリ]]のグラン・カフェと言う名称の[[カフェ]](現[[ホテル・スクリーブ・パリ]])で有料の試写会を開いた。 他にフランス人の[[ルイ・ル・プランス]]も同時期に映写装置を開発していた。しかし、透明で柔軟性に富む[[写真フィルム|フィルム]]材料が手に入らず一時、頓挫していた。 [[トーマス・エジソン|エジソン]]が開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというもの。リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる。 リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、[[鉄道駅|駅]]の[[プラットホーム]]に[[蒸気機関車]]がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『[[ラ・シオタ駅への列車の到着]]』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『[[工場の出口]]』)など、計12作品。いずれも上映時間数分の[[短編映画|ショートフィルム]]だった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。これらの映画の多くは単なる情景描写に過ぎなかったが、やがて筋書きを含む演出の作品が作られるようになった。例えば『[[水をかけられた散水夫]]』という作品は、散水夫がホースで水を撒いていると、一人の少年がホースの根元を踏んで水が出なくなり、散水夫がホースを覗き込むと少年が足を離して散水夫がずぶぬれになり、散水夫は少年を追いかけ折檻するという筋書きで、数分の動画の中に筋書きと笑いの要素を含んでおり、[[コメディ映画]]の発端のひとつとなった。 またこの頃は[[著作権]]に関する意識が無く、フランス以外でもイギリスなどで同じような『散水夫』の模倣作品が数通り作られている。 なお、最初の作品はリュミエール兄弟が経営していた工場から従業員が出てくるシーンを捉えた『工場の出口』で、[[リュミエール兄弟]]は1894年末頃に撮影したとしているが詳細は不明。また、この作品はグラン・カフェで上映された12本のうちの1本とは別なバージョン(『工場の出口』は4つのバージョンがある)。 初期の映画は、画像のみで音声のない'''[[サイレント映画]]'''と呼ばれるもので、これは1920年代末期にトーキー映画が登場して普及するまで続いた。シネマトグラフの投影機はけたたましい騒音をもたらし、映画には音声がなかった。これを紛らわすため、ピアノや足踏みオルガンの演奏による音楽の伴奏とともに上映する形式が普及した。現在においてサイレント映画に[[フォックストロット]]や[[ケークウォーク]]のような当時流行したピアノのダンス音楽がつくことが多いのは、そのような理由によるものである。また後年名だたる作曲家や指揮者になったクラシック音楽家は、若い頃にサイレント時代の映画館のピアノ伴奏のアルバイトをしていたという人も多い<ref group="注釈">[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]、[[ピエール・ブーレーズ]]など</ref>。 1895年、アメリカのアルフレッド・クラークによって発表された『[[メアリー女王の処刑]]』は世界初のホラー映画として名を挙げられる。メアリーが処刑台の上に首を置き、処刑人が斧を振り下ろそうとするところでカメラを止め、メアリーの人形に置き換えられてから撮影を再開する「[[ストップ・トリック]]」(中止め、置き換えなどとも言う)という技法を用いており、映画史上初めて[[SFX|トリック撮影]]が行われた作品と言われる。 日本初の映画は1896年11月、神戸の花隈の神港倶楽部にて世界初のエジソンが発明した映写機「キネトスコープ」により一般公開されたもので<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210926055909/https://www.city.kobe.lg.jp/a09222/kosodate/lifelong/toshokan/furusato/kobe_shiru/eiga_kinenhi.html//|title=神戸を知る 映画記念碑 |work=|publisher=[[神戸市]]|}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.kavc.or.jp/cinema/1470//|title=神戸開港150年記念上映~映画初上陸は神戸だった!~「映画の初めて」集めました |work=|publisher=神戸市民文化振興財団|}}</ref>、1896年12月には[[大阪市]]でエジソン社製映写機「ヴァイタスコープ」による試写が行われ、1897年1~2月に[[京都市]]で開かれたシネマトグラフによる上映会の記録があるという<ref>武部好伸『大阪「映画」事始め』([[彩流社]])</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO07898500R01C16A0CR8000/|title=映画発祥の地は大阪? 1896年の試写会記録発見 |work=|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2016年10月2日}}</ref>。 初期の映画は日本では別名「'''活動写真'''」とも呼ばれ、映画館は「活動小屋」とも呼ばれた。日本独自の上映手法として、上映中の場面に合わせて解説を行う「[[活動弁士]]」と呼ばれる人が活躍していた。 日本で最初の“活動写真”製作は、フランス製[[ゴーモン]]カメラにより、[[浅野四郎]]らが失敗を重ねた末、2年がかりで「浅草仲見世」「芸妓手踊」など実写11本を作り、1899年(明治32年)7月20日から東京歌舞伎座で公開。俳優を使った劇映画は同年関東各地を荒らしたピストル強盗逮捕を[[横山運平]]主演で柴田常吉が撮影した「稲妻強盗/清水定吉」で、同年9月に撮影、公開。 1898年、世界初のクリスマス映画『{{日本語版にない記事リンク|サンタクロース(1898年の映画)|label=サンタクロース|en|Santa Claus (1898 film) |interwikilabel= Santa Claus}}』が発表される。史上初めて、異なった場所で起きた出来事を編集で関連性があるように見せる技法のパラレル・アクションを取り入れ、[[多重露光]]と呼ばれる方法で撮影された映画である。 === 1900年代 === [[File:Battle of Chemulpo Bay edison.ogv|thumb|right|200px|[[仁川沖海戦]]についての映画、Edison Studios製(1904年)]] 1902年に、世界で初めて物語構成を持ち、複数のシーンで構成された映画『[[月世界旅行 (映画)|月世界旅行]]』がフランスで制作される。監督は元[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]で、世界で最初の職業映画作家でもある[[ジョルジュ・メリエス]]。この作品は、世界初の[[SF映画]]である。 翌年の1903年にアメリカでも、[[エドウィン・ポーター]]監督による物語性のある作品『[[大列車強盗 (1903年の映画)|大列車強盗]]』が制作・公開される。世界初の[[西部劇]]であり、この作品において、初めて[[クロスカッティング]]が用いられた。 1906年に{{仮リンク|ジェームズ・スチュアート・ブラックトン|en|J. Stuart Blackton}}監督による『{{仮リンク|愉快な百面相|en|Humorous Phases of Funny Faces}}』が制作される。実写ではなく絵画表現を用いた世界初の[[アニメーション映画|アニメ]]映画とされる。 === 1910年代 === [[File:Charlie Chaplin, the Marriage Bond.ogv|thumb|200px|[[チャールズ・チャップリン]]の[[サイレント映画]] 「[[公債 (映画)|公債]]」(1918年)]] メジャーになりつつあった映画制作会社からの制約や支配を嫌い、また[[ニッケルオデオン (映画館)|ニッケルオデオン]]で消費されるだけのショートフィルムに飽きたらずに新しい表現を求めた若い映画人達が西海岸に移住し、映画都市・[[ハリウッド]]が形成され始める。 アメリカの[[映画監督]]である[[D・W・グリフィス]]が、『[[國民の創生]]』(1915年)、『[[イントレランス]]』(1916年)、『[[散り行く花]]』(1919年)等により、[[クローズアップ]]等の様々な映画技法(映画文法とも呼ばれる)を発明し、今日的な意味における映画の原型を完成させる。このことによりグリフィスは後に「映画の父」と呼ばれるようになる。また、『[[國民の創生]]』は当時の映画興行収入1位を記録した。 政治権力は映画の持つ影響力に目を付け、[[プロパガンダ]]の手段として使うようにもなった。第一次世界大戦においてはアメリカやドイツでプロパガンダ作品が制作された。[[ヴァイマル共和政]]下のドイツは複数の映画会社が合併して国策撮影所である[[ウーファ (映画会社)|ウーファ]](UFA)が設営された。 1910年代-1920年代、アメリカやヨーロッパでは『[[ファントマ]]』シリーズや『[[吸血ギャング団]]』シリーズ(いずれもフランス)などの[[連続活劇]]が流行している。 === 1920年代 === 1920年代には、[[チャールズ・チャップリン]]、[[バスター・キートン]]、[[ハロルド・ロイド]]といったコメディ俳優が台頭し、「[[世界の三大喜劇王]]」と称される。 1920年、ソ連において世界初の国立映画学校が創設され、[[クレショフ]]がその教授として招聘された。クレショフは同校においてクレショフ映画実験工房(一般的には[[クレショフ工房]]と略称で呼ばれる)なるワークショップを運営し、[[モンタージュ|モンタージュ理論]]を打ち立てると共に、その実験を行った。 同年、[[ロベルト・ヴィーネ]]監督による『[[カリガリ博士]]』が公開される。本作は[[フィルム・ノワール]]、および[[ホラー映画]]、[[シュルレアリスム]]にも影響を与えた重要な作品として位置づけられることが多い。また[[ドイツ]]において[[第一次世界大戦]]前に始まり[[1920年代]]に最盛となった、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした芸術運動「[[ドイツ表現主義]]」の代表的な作品であり、映画としては最も古く、最も影響力があり、なおかつ、芸術的に評価の高い映像作品とされる。他にも『[[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]]』や『[[M (1931年の映画)|M]]』の[[フリッツ・ラング]]や、『[[吸血鬼ノスフェラトゥ]]』の[[F・W・ムルナウ]]等が活躍した。 1921年、ドイツで[[ハンス・リヒター (画家)|ハンス・リヒター]]により、[[ダダイスム]]の一表現として幾何学模様の変容を映した『絶対映画』というアニメーション映画が作られる。遅れて1927年、[[マルセル・デュシャン]]によってフランスでも幾何学模様の変容(デュシャン作品は円盤の回転)による『純粋映画』が試みられた。[[ダダイスム]]のグループは実写による筋書き(ただし一貫性のある物語ではない)を持つ映画『[[幕間]]』も作っており、こちらはデュシャン本人をはじめ[[エリック・サティ]]などが出演している。上映用の付随音楽はサティによって作曲され、これがサティの遺作となった。 1922年、世界初の[[ドキュメンタリー映画]]とされる『[[極北のナヌーク]]』が公開される。カナダ北部で暮らす[[イヌイット]]の文化・習俗を収めた作品で、映画というものが記録・啓蒙にきわめて大きな役割を果たしうると考えていたイギリスの映画プロデューサー[[ジョン・グリアソン]]([[:en:John_Grierson|en]]) が、その批評の中で「ドキュメンタリー」という言葉を初めて用いたことが始まり<ref name=":3">Murray-Brown, Jeremy. "Documentary Films." ''Encyclopedia of International Media and Communications,'' Donald Johnston, Elsevier Science & Technology, 1st edition, 2003.</ref>。 1925年、クレショフ工房の生徒であった[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]はモンタージュ理論に基づき『[[戦艦ポチョムキン]]』を制作。エイゼンシュテインと共にクレショフ工房の出身者であった[[フセヴォロド・プドフキン]]や[[ボリス・バルネット]]、[[ジガ・ヴェルトフ]]などはモンタージュ理論を元にした作品を製作し、[[ロシア・アヴァンギャルド]]における代表的映画監督となる。 1927年に『[[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]]』が公開され、以降多数の[[サイエンス・フィクション|SF]]作品に多大な影響を与え、世界初の[[SF映画]]とされる『[[月世界旅行 (映画)|月世界旅行]]』が示した「映画におけるサイエンス・フィクション」の可能性を飛躍的に向上させたSF映画黎明期の傑作とされている。また、前年の1925年に製作された『[[戦艦ポチョムキン]]』と並んで、当時の[[資本主義]]と[[共産主義]]の対立を描いた作品でもある。 1927年、アメリカで世界初の'''[[トーキー]]'''映画『[[ジャズ・シンガー]]』([[アラン・クロスランド]]監督)公開。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)であったが、本作をきっかけにトーキーは世界的に受け入れられ、急速に普及した。もっともアメリカの[[チャールズ・チャップリン]]、ロシアのエイゼンシュタインといった映画製作者、映画伴奏の楽士や日本特有の映画職業であった[[活動弁士]]を生業とする人々など、熟成の期にあった[[サイレント映画]]に固執した人々も多く、本格的にトーキー映画の芸術性が認められたのは30年代に入ってよりの事である。 1928年、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]制作の短編アニメーション作品『[[蒸気船ウィリー]]』が公開。一般的に、この作品が[[ミッキーマウス]]と[[ミニーマウス]]のデビュー作とされ、世界で初めて[[サウンドトラック]]方式を採用した映画と言われている。 同年、長編映画として世界初のオール・トーキー映画『[[紐育の灯]]』が公開。 1929年、アメリカで[[アカデミー賞]]が始まる。初年度作品賞は[[ウィリアム・A・ウェルマン]]の『[[つばさ (映画)|つばさ]]』。なお、初年度についてのみ作品賞は二作品が選ばれており、もう一つの作品である[[F・W・ムルナウ]]の『[[サンライズ (映画)|サンライズ]]』には芸術作品賞という名目で賞が与えられている。 1920年代から1930年代にかけて、[[ジャック・フェデー]]、[[ルネ・クレール]]、[[ジュリアン・デュヴィヴィエ]]、[[マルセル・カルネ]]らのフランスの作家が登場して商業的な成功を収め、フランス映画の黄金時代を形成する。後にこれらの作家・作品は、映画批評家の[[ジョルジュ・サドゥール]][[:en:Georges Sadoul|(Georges Sadoul)]]によって「[[詩的リアリズム]]」と定義された。特定のジャンルといえるほど明確ではないが、大型セットにおける[[スタジオ (映像撮影)|スタジオ撮影]]を基本とし、遠近などに関して誇張を行なう場合が多く、そのため画面上における[[パースペクティブ]]に歪みを生じさせることが多い。 1929年、[[アヴァンギャルド]]映画の原点、[[シュルレアリスム]]の最高傑作と評される[[実験映画]]『[[アンダルシアの犬]]』が公開。 === 1930年代 === [[File: Poster - Gone With the Wind 01.jpg |thumb|200px|[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]](1939年)]] ==== ハリウッド黄金期 ==== [[第二次世界大戦]]の影響を受け、[[フリッツ・ラング]]([[ドイツ]])や[[ジャン・ルノワール]]([[フランス]])等の多くの映画人がアメリカに亡命する。亡命ではなく招聘されてあるいは自ら望んでアメリカに行った[[マックス・オフュルス]]や[[エルンスト・ルビッチ]](ドイツ)、[[ルネ・クレール]](フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まっていた。 [[スタジオ・システム]]により、映画製作本数も年間400本を超え、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代~1940年代は「'''[[ハリウッド]]黄金期'''」と呼ばれている。 なお、1940年代の終わりに[[スタジオ・システム]]は[[独占禁止法]]と、[[テレビ]]の登場によって崩壊した。 また世界的な不況の中、トーキーの時代が本格的に到来し、音楽や効果音が生かせることから[[ミュージカル映画]]や[[ギャング映画]]が映画の主流となる。アメリカでは宗教保守派などから、映画や漫画が若年者や犯罪者に与える影響を憂慮する声が高まり、1934年には[[ヘイズ・コード]]と呼ばれる暴力やセックス、社会に対する描写を制約する映画製作倫理規定が作られた。過激な暴力シーンや性的シーンは以後影を潜め、1960年代後半に撤廃されるまでハリウッド映画を縛ることになる。 1932年、イタリアで[[ヴェネツィア国際映画祭]]が始まる。 同年、世界初の[[群像劇]]映画『[[グランド・ホテル (映画)|グランド・ホテル]]』が公開。さまざまな人物が1つの舞台に集いあい、それぞれの人生模様が同時進行で繰り広げられていくという、当時としては斬新なストーリー展開が大ヒットを呼び、この手法は後に「[[グランドホテル方式]]」と名付けられる。その物語構成が高い評価を受け、[[第5回アカデミー賞]] では[[アカデミー作品賞|作品賞]]を受賞。作品賞だけにノミネートされ、作品賞だけを受賞した史上唯一の映画となった。 1934年公開の[[フランク・キャプラ]]の『[[或る夜の出来事]]』を皮切りに、アメリカで[[スクリューボール・コメディ]]が流行。また、『或る夜の出来事』は、[[第7回アカデミー賞]]にて[[アカデミー賞主要5部門候補作品の一覧|主要5部門]]でノミネートされ、史上初の5部門とも受賞した([[アカデミー作品賞|作品賞]]、[[アカデミー監督賞|監督賞]]、[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]、[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]、[[アカデミー脚色賞|脚色賞]])。この5部門を全て制することは、1975年の『[[カッコーの巣の上で]]』が成し遂げるまで出ないほどの大記録であった。 1935年、世界初のカラー映画[[ルーベン・マムーリアン]]の『[[虚栄の市 (1935年の映画)|虚栄の市]]』が公開。[[テクニカラー]]による。 同年、[[ジャン・ルノワール]]監督の『[[トニ (1935年の映画)|トニ]]』が公開。徹底したリアリズムで描く本作の影響を受け、1930年代の末から1940年代にかけて、イタリアで[[ネオレアリズモ]]運動が起こる。中心的な作家は、ルノワールの助監督を勤めていた[[ルキノ・ヴィスコンティ]]や[[ロベルト・ロッセリーニ]]等。 1937年、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]制作の長編映画第1作目であり、世界初のカラー長編[[アニメーション映画]]となる『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』が公開。[[ロトスコープ]]や、[[マルチプレーン・カメラ]]の使用など、当時としては珍しいアニメーション技術を使用。桁外れの大ヒットを記録し、現在でもアニメ史に残る傑作として知られる。 1939年、[[ヴィクター・フレミング]]監督の『[[オズの魔法使]]』と『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』が公開。[[ジュディ・ガーランド]]主演の[[ミュージカル映画]]である『[[オズの魔法使]]』は、当時一般的であった[[モノクロフィルム]]と、まだ極めて珍しかったカラーフィルムの両方で撮影され、その映像演出は高い評価を受けた。商業的には成功とは言えなかったものの、全時代を通じて史上最も多く鑑賞され、愛された映画だと考えられている。 一方で『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』は、400万ドル前後の製作費をかけて、当時としては画期的な長編[[テクニカラー]]映画であったことも手伝って、空前の世界的大ヒットとなった。世界観客動員数歴代最多の20億人を記録している。 === 1940年代 === [[File: CasablancaPoster-Gold.jpg |thumb|200px|[[カサブランカ (映画)|カサブランカ]](1942年)]] 1940年、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]製作のアニメーション映画『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』が公開。[[ステレオ]]効果が利用された最初の映画で、なおかつ[[サラウンド]]の原型ともいえるステレオ再生方式が世界で初めて一般的に導入され、実用化された。[[音響]]技術において非常に重要な歴史的映画となった。 同年には[[アドルフ・ヒトラー]]や[[ファシズム]]を[[風刺]]したチャップリン初のトーキー映画である『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』が公開され、大ヒットを記録した。ラストシーンでのチャップリンの6分にも渡る[[演説]]シーンは「世紀の6分間」と言われ、映画史上に残るシーンとして評価されている<ref>[https://www.tv-asahi.co.jp/ss/166/special/top.html]</ref>。 1941年から参戦した[[第二次世界大戦]]中には、『[[ミニヴァー夫人]]』や『[[カサブランカ (映画)|カサブランカ]]』『[[ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ]]』などの戦意高揚を目的とした、愛国的な映画や、[[プロパガンダ|戦争プロパガンダ]]作品が多く製作された。 また、同年には[[オーソン・ウェルズ]]の監督デビュー作『[[市民ケーン]]』が公開。主人公が新聞王[[ウィリアム・ランドルフ・ハースト]]をモデルにしていたことから、上映妨害運動が展開され、興行的には失敗したが、[[パン・フォーカス]]、[[長回し]]、[[ローアングル]]などの多彩な映像表現などにより、年々評価が高まった結果、現在では映画史上最高傑作として映画誌や批評家らによるランキングで常に上位にランクインしている。 1940年代から1950年代後半にかけて、[[ジョン・ヒューストン]]監督の『[[マルタの鷹 (1941年の映画)|マルタの鷹]]』(1941年)を皮切りに、後に[[フィルム・ノワール]]と呼ばれる犯罪映画がさかんに作られる。代表作には[[ビリー・ワイルダー]]『[[深夜の告白]]』(1944年)や、[[ジャック・ターナー (映画監督)|ジャック・ターナー]]『[[過去を逃れて]]』(1947年)などがある。フィルム・ノワールの語は、第二次大戦前後のアメリカ映画を分析したフランスの批評家によって命名され、アメリカでは70年代頃に一般化した。 1946年、フランスで「[[カンヌ国際映画祭]]」が始まる。 同年、『[[我等の生涯の最良の年]]』が公開。[[第19回アカデミー賞]]において[[アカデミー作品賞|作品賞]]をはじめ、当時の[[アカデミー賞]]最多記録([[アービング・G・タルバーグ賞]]を含めた場合)<ref name="バーグ281">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.281</ref> となる9部門の受賞に輝いた。[[興行成績]]においても、[[トーキー]]時代以降の映画として『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』以来という大ヒットを記録している。 === 1950年代 === [[File:Rashomon poster 2.jpg|thumb|160px|[[羅生門 (1950年の映画)]]。日本映画として初めて[[ヴェネツィア国際映画祭]][[金獅子賞]]と[[アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|名誉賞]]]] 1950年、『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』が公開。日本映画として初めて[[ヴェネツィア国際映画祭]][[金獅子賞]]と[[アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|名誉賞]]<ref group="注釈">[[#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref> を受賞し、[[黒澤明]]や[[日本映画]]が世界で認知・評価されるきっかけとなった。また同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた<ref name="大系1解説3">浜野保樹「解説・黒澤明の形成―グランプリ」({{Harvnb|大系1|2009|pp=712-714}})</ref>。海外では[[羅生門効果]]などの学術用語も成立した<ref name="大系1解説3"/>。撮影担当の[[宮川一夫]]による、光と影の強い[[コントラスト]]による映像美や、太陽に直接カメラを向けるという当時[[タブー]]だった手法などの斬新な撮影テクニックも高く評価された。 1951年、ドイツで[[ベルリン国際映画祭]]が始まる。 1953年、テレビが新しい娯楽として広まったものの、『[[巴里のアメリカ人]]』や 『[[雨に唄えば]]』といった [[ミュージカル映画]]を中心とした大掛かりなセットを駆使し大量のスターを起用した娯楽大作の全盛期が続いた。一方で、『[[スタア誕生 (1954年の映画)|スタア誕生]]』、『[[喝采 (1954年の映画)|喝采]]』、『[[オクラホマ! (映画)|オクラホマ!]]』など、ストーリー性を重視したミュージカルが50年代半ばに誕生し、現在まで続くミュージカル映画の原型を造った。 '''[[赤狩り]](レッドパージ)'''の影響により多くのアメリカの映画人が追放の憂き目に遭う。実際に[[共産主義]]活動に関与したことがある[[ジョゼフ・ロージー]]や[[ニコラス・レイ]]、[[ダルトン・トランボ]]等は米国議会の公聴会における証言を拒否して亡命や映画界からの排除を余儀なくされた。しかし中には[[エリア・カザン]]のように移民の係累であるが故に証言を拒否することができず、やむなく証言し結果的にかつての仲間達を売らざるを得ない者もいた。70年代以降に彼らの多くは名誉回復し映画界への復帰を果たしたが、ロージーはかつての盟友であるエリア・カザンの再三に渡る帰国の呼びかけにも応じることなく、亡命先のイギリスで客死した。 [[テレビ]]の普及による観客動員数の減少に頭を悩ませたアメリカ映画界は、テレビでは実現できない内容を目指し、[[画面サイズ]]の拡大([[画面アスペクト比#シネラマ|シネラマ]])や[[立体映画]]、[[大作主義]]に手を伸ばし始め、1954年の『[[ダイヤルMを廻せ!]]』がヒットすると最初の3D映画ブームが巻き起こった。また、大作主義は一時のハリウッドを席巻したが、そのことは映画監督を始めとする製作陣に精神的・肉体的な疲弊を呼び起こすと共に、制作本数の減少による新人監督のデビューの機会を奪い取ることになってしまった。 [[1930年代]]から[[反トラスト法]]([[独占禁止法]])に問われていた、メジャー映画制作会社の配給、興行の統括による劇場の系列化に関して最高裁判所で違法の判決が下され、メジャー各社は制作と興行との分離を強いられることになった。 [[赤狩り]]により才能ある作家達の多くを一時的に失い、[[大作主義]]により残った作家達を疲弊させ新しい作家の登場の機会を阻み、さらには独禁法により安定的な興行システム(経営基盤)を奪われたハリウッドは、結果的に黄金時代の終焉を迎えることとなってしまった。 [[赤狩り]]は作品の内容にも大きな影響を与え、アメリカ国内ではなく、[[ヨーロッパ]]や[[アフリカ]]で撮影する場合も多くなり、『[[ローマの休日]]』や『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』はその代表的な作品である。なお『ベン・ハー』は、同年アカデミー賞で史上最多11部門の受賞を記録した。 1954年、日本で『[[ゴジラ]]』が公開。東宝が製作した日本初の本格的[[怪獣映画]]であり、本作のヒット以降、[[特撮映画]]が日本映画の人気ジャンルとして定着する。 1956年を境に、イギリスで[[フリー・シネマ]]と呼ばれる[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー・フィルム]]の映画運動が起こる。このフリー・シネマは、1950年代後期から1960年代初頭に[[イギリス・ニュー・ウェイヴ]]と呼ばれる「イギリスの若手監督集団」、および「[[インディペンデント映画]]会社」に多大なる影響を与えることとなる。このイギリス・ニュー・ウェイヴは、[[イギリス映画]]の伝統であるドキュメンタリーとリアリズムの潮流における重要な段階としてみなされている。 1958年、[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督の『[[めまい (映画)|めまい]]』が公開。近年ではヒッチコック作品の中でもトップクラスの傑作との評価されており、中でもズームレンズを用い、ズームアウトしながらカメラを被写体へ近づけることで、被写体のサイズが変わらずに背景だけが望遠から広角に変化してゆく「めまいショット」(一般には{{仮リンク|ドリーズーム|en|Dolly zoom}}と呼ばれる)が、この作品以後、数え切れないほどの映画やCM、テレビドラマで引用されるようになった。 === 1960年代 === [[File:Mary_Martin_in_The_Sound_of_Music_by_Toni_Frissell.jpg|thumb|200px|[[サウンド・オブ・ミュージック]] (1965)]] 1950年代末期から1960年代初頭にかけて、フランスで'''[[ヌーヴェルヴァーグ]]'''と呼ばれる映画運動が起こる。それは端的に言えば、結末のない物語や、その場の偶然を生かした即興演出などで、従来の映画の定石を打ち破ろうとする試みであった。 そんな[[ヌーヴェルヴァーグ]]の評価を確固たるものにしたのがアナーキストとアナーキズムを主題とした[[ジャン=リュック・ゴダール]]監督の『[[勝手にしやがれ (映画)|勝手にしやがれ]]』(1960年)であった。本作は[[ジャンプカット]]という革新的な技法を定着させ、手持ちカメラでの[[ロケーション撮影|ロケ撮影]]や高感度フィルムの利用など、これまでの映画の既成概念をひっくり返すことに成功した。 同時期にアメリカでは、テレビに対抗意識を燃やしたハリウッド企業の巨大資本化、超大作志向が続く一方で、[[ヌーヴェルヴァーグ]]に触発されたインデペンデント系の映画が急速に芽を出し始め、[[ジョナス・メカス]]等による[[実験映画|アメリカン・アヴァンギャルド]]と呼ばれる運動が起こる。 また同年には[[サスペンス映画]]の金字塔『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』や、『[[血を吸うカメラ]]』などの[[サイコロジカルホラー]]映画が公開。[[ジャッロ]]と呼ばれるイタリア産の推理サスペンス映画の発展も重なり、[[スラッシャー映画]]というジャンルが黄金期を迎えることとなる。またこの2本は、異常殺人というモチーフの重なりや、その主題へのアプローチの差異などで、しばしば比較されるようになる。 1961年に日本において芸術系映画の配給を目的として[[日本アート・シアター・ギルド]](ATG)が設立される。[[イェジー・カヴァレロヴィチ]]の『尼僧ヨアンナ』を皮切りに当初は海外作品の配給が主体だったが、[[1960年代]]後半には独立系の制作会社の作品に対する出資を行うようになった。松竹を退社した[[大島渚]]等[[松竹ヌーヴェルヴァーグ]]の面々を始めとする数多くの作家達がATGの出資により作品を手がけ、数多くの名作・傑作・話題作・問題作を世に送り出した。 1965年、[[ミュージカル映画]]『[[サウンド・オブ・ミュージック]]』が大ヒットし、当時の世界興行収入を塗り替える。 1968年、『[[猿の惑星 (映画)|猿の惑星]]』と『[[2001年宇宙の旅]]』の二作品のヒットにより[[SF映画]]に注目が集まり、後の[[スターウォーズ]]ブームへと繋がることとなった。 また、[[スタンリー・キューブリック]]監督は、SF三部作と呼ばれる『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』(1964年)、『[[2001年宇宙の旅]]』(1968年)、『[[時計じかけのオレンジ]]』(1971年)を作り、これらの成功で、世界中の批評家から映画作家としての優れた才能を認知された。 これまでのハリウッド黄金期は、観客に夢と希望を与えることに主眼が置かれ、[[ハッピーエンド]]が多くを占めていた。しかし、[[スタジオ・システム]]の崩壊や、[[赤狩り]]の傷が深かったこともあり、[[ハリウッド]]は製作本数も産業としての規模も低迷。1960年代は、まだ[[ジャーナリズム]]の熱意が高かったことも相まって、[[ベトナム戦争]]の実態を目の当たりにした若者層の[[ヒッピー]]化、[[反体制]]化が見られた。1960年代後半から1970年代半ばにかけて、このようなベトナム反戦ムーブメントや[[公民権運動]]を端を発した、当時の若者の世相を投影する作品群「'''[[アメリカン・ニューシネマ]]'''」が大流行する。代表作品には『[[俺たちに明日はない]]』(1967年)『[[卒業 (1967年の映画)|卒業]]』(1967年)『[[イージー・ライダー]]』(1969年)『[[真夜中のカーボーイ]]』(1969年)などがある。 === 1970年代 === [[File:Star_wars_1977_us.svg|thumb|200px|[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望]](1977年)]] [[1960年代]]の末から登場したドイツの作家達が、[[ニュー・ジャーマン・シネマ]]としてもて囃される。[[ストローブ=ユイレ]]、[[フォルカー・シュレンドルフ]]、[[ヴェルナー・ヘルツォーク]]、[[ヴィム・ヴェンダース]]、[[ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー]]等がこれに相当するのだが、[[ヌーヴェルヴァーグ]]のように作風における共通点があったり、共同活動などを行ったものではなく、同時期に登場した同世代の作家達に対して付けられた総称だった。 1968年の『[[ローズマリーの赤ちゃん]]』を起源として、1974年に[[ウィリアム・フリードキン]]監督による『[[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]』が爆発的にヒットする。それを皮切りに、『[[キャリー (1976年の映画)|キャリー]]』や『[[オーメン]]』(ともに1976年)、『[[サスペリア]]』(1977年)といった[[オカルト|オカルト映画]]ブームが始まった。 時を同じくして、アメリカ・ハリウッドで[[パニック映画|パニック大作]]ブームが巻き起こる。[[1972年]]の『[[ポセイドン・アドベンチャー (映画)|ポセイドン・アドベンチャー]]』を皮切りとし、[[1974年]]公開の[[20世紀フォックス]]と[[ワーナー・ブラザース]]との合作『[[タワーリング・インフェルノ]]』を頂点とするこのブームは、その商業的な大成功により凋落していたハリウッドの自信を回復させると共に、この後に続く新たなハリウッド映画の基本を形作るものとなった。[[1950年代]]の大作主義においては飽くまでも物語や人間ドラマに主眼が置かれており、豪華なセットやスター俳優の多用はこれらを効果的に表現するための手段だった。しかし、パニック大作においては派手な[[特殊効果]]や特異性を感じさせる映像表現すなわち観客の目を引く要素に主体が移っており、細部の肥大化や物語と画面表現との分離など今日におけるまで続いているハリウッド映画の特徴を形成している。 1971年、『[[時計じかけのオレンジ]]』が公開。前述の通り、キューブリックのSF三部作のひとつで、暴力的表現が多く、その過激さが議論を呼んだ。しかし大ヒットを記録したことで、『[[俺たちに明日はない]]』(1967年)『[[ワイルドバンチ (映画)|ワイルドバンチ]]』(1969年)『[[ダーティハリー]]』『[[わらの犬]]』(ともに1971年)等とともに映画における暴力的表現の規制緩和に一定の役割を果たした作品である<ref>{{harvnb|MacDonald|p=235}}</ref>。 また史上初めて[[ドルビーラボラトリーズ|ドルビー]]研究所が開発した[[ドルビーノイズリダクションシステム]]を使用し、[[ステレオ]]録音された映画である{{efn|キューブリックが次にステレオ音響を使ったのは遺作となった『[[アイズ ワイド シャット]]』でもある。}}。ただし、劇場公開用のフィルムは[[モノラル]]である。 1972年、『[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]』が公開されると、瞬く間にアメリカ国内で1億3000万ドル以上の興行収入を達成し、当時の記録を塗り替える爆発的ヒットとなった。同年度の[[第45回アカデミー賞]]では作品賞を獲得し、2年後に公開された続編の『[[ゴッドファーザー PART II]]』(1974年)も[[アカデミー作品賞]]を受賞したため、正編と続編で[[アカデミー作品賞]]を獲得した唯一の例となる。また本作は、一般視聴者から熱烈な支持を得るとともに、世界中の批評家や映画関係者たちからも絶賛されており、[[#ランキング|史上最も偉大で影響力のある映画の一つ]]とみなされている<ref>{{cite web |url=http://www.history.com/topics/the-mafia-in-popular-culture |title=The Mafia in Popular Culture |access-date=July 16, 2014 |work=History |publisher=A&E Television Networks |date=2009 |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |archive-url=https://web.archive.org/web/20140717042547/http://www.history.com/topics/the-mafia-in-popular-culture |archive-date=July 17, 2014 |url-status=live}}</ref>。 同年、[[成人映画]]である『[[ディープ・スロート (映画)|ディープ・スロート]]』が公開される。本作は約6億ドルという『ゴッドファーザー』の1/3を超える興行収入を記録したとされており、当時の[[ポップカルチャー]]に社会現象を巻き起こした。 1975年、上記のパニック大作ブームの流れを経て、[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督による『[[ジョーズ]]』が公開。[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]は本作のマーケティングに180万ドルを費やし、前例のない70万ドルを掛けた全国テレビのCMも行った。また大規模な公開と画期的な宣伝戦略が組み合ったことで当時において事実上前例のない配給が実現。最初の10日間で21,116,354ドルの収益を上げ、制作費を回収。わずか78日で、それまでの北米の興行収入の最高記録であった『[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]』の8600万ドルを抜き、アメリカにおける劇場公開で最初に1億ドル稼いだ作品となった。最終的に全世界4億7,200万ドルの興行収入を記録し、世界一となった。これによって『ジョーズ』は夏の[[ブロックバスター]]映画の原型となり、映画史における分岐点となった。 1976年、『[[ロッキー (映画)|ロッキー]]』が公開。当時のハリウッドでは [[ハッピーエンド]]を否定する作品や、[[英雄]]を描かない作品が最盛を極めていたが、「個人の可能性」「[[アメリカン・ドリーム]]」への憧憬を再燃させ、本作と翌年の『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』の大ヒットにより、[[アメリカン・ニューシネマ]]の終焉を決定的なものとした。 1977年、[[ジョージ・ルーカス]]監督の『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望]]』が大ヒットし、1980年代まで続く世界的なSF映画ブームとなる。この作品以降、特殊効果([[SFX]]、[[VFX]])が映画の重要な要素として扱われるようになる。また同シリーズの[[キャラクター]]商品権による[[ビジネス]]で成功を収めたルーカスはその資金を映像・音響関係の[[デジタル]]化を中心とした技術開発に投資し、映画界に多大な功績を成している。1978年には『[[ジョーズ]]』の全米記録を抜いて、世界最高の[[興行収入]]を記録した。 1978年、アメリカで[[ロバート・レッドフォード]]が[[サンダンス映画祭]]を始める。 1979年、SFブームの流れを汲むように[[リドリー・スコット]]監督による『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』が大ヒット。[[シガニー・ウィーヴァー]]演じるリプリーという、新しい女性像(アクションの担い手としての役割を持った勇敢な女性キャラ)を生み出した先駆的な作品としても語らており<ref>"か弱い存在と位置づけられていた女性が,(中略)アクションの担い手へと立場を変えたのである" {{harvtxt|塚本まゆみ|2003|pp=103-104}}</ref>、SFホラーの火付け役であると同時に、フェミニズム映画の金字塔ともされている。 === 1980年代 === [[File: Back to the Future film series logo.png |thumb|200px|[[バック・トゥ・ザ・フューチャー]](1985年)]] 1980年代は[[アメリカンニューシネマ]]が完全に衰退したことで、様々なジャンルで娯楽作品が大量に増加した時代であった。 特に映画で[[CG]]の使用が大々的にアピールされるようになったのが1980年代からで、主な作品に『[[トロン (映画)|トロン]]』や『[[スタートレック2]]』(ともに1982年)、『[[スター・ファイター (映画)|スターファイター]]』(1984年)、『[[ナビゲイター (映画)|ナビゲイター]]』(1986年)、『[[アビス]]』(1989年)等がある。 また1950年代以来の二回目の[[3D映画]]ブームが起こり、主に『[[ジョーズ3]]』(1983年)や『[[13日の金曜日 PART3]]』(1982年)等が公開された。しかし、いずれも粗悪で映画自体の出来が悪いB級作品が多かったことから、一過性のブームで終わり定着せずに、3D映画は再び消滅することとなった。 そして1980年代には、[[シルヴェスター・スタローン]]、[[チャック・ノリス]]、[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]などを始めとする、いわゆる「肉体派[[アクション俳優]]」が本格的に台頭する。1980年代半ばにはアクション俳優の人気が全盛期を迎え、『[[ランボー]]』(1982年)や『[[地獄のヒーロー]]』(1984年)、『[[コマンドー]]』(1985年)などといった、「ワンマンアーミー」と呼ばれるスタイルの主人公が活躍する[[アクション映画]]も多数ヒットするようになった。こうしたワンマンアーミー映画の主人公は殆どダメージを受けずに1人で大勢の敵を倒すなど、現実離れした[[超人]]的かつ圧倒的な強さで描かれることが特徴として挙げられる。特に1985年の『[[ランボー/怒りの脱出]]』が世界中で大ヒットしたことで、『ランボー2』を安価にコピーした、[[M60機関銃|機関銃]]を持った主人公の亜流[[B級]]映画が多数生まれた。また同時期にヒットしたアクション映画の中には、そうしたワンマンアーミー映画のカウンター的作品としてヒットした、『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』(1984年)や[[ブルース・ウィリス]]主演の『[[ダイ・ハード]]』(1988年)などがある。 一方で、1982年にシュワルツェネッガー主演の『[[コナン・ザ・グレート]]』が大ヒットすると、[[スパイ映画]]や[[SF映画]]の人気に押され、1960年代前半から衰退していた[[ソード&サンダル]]や[[ファンタジー映画]]のブームが1980年代に発生した。『コナン』をコピーした粗悪で安直な[[B級映画]]が大量に作られたほか、『[[ダーククリスタル]]』(1982年)『[[ネバーエンディング・ストーリー]]』(1984年)『[[レジェンド/光と闇の伝説]]』『[[レディホーク]]』(ともに1985年)『[[ラビリンス/魔王の迷宮]]』『[[ハイランダー 悪魔の戦士]]』(ともに1986年)『[[ウィロー]]』(1988年)等といった、多数のファンタジー映画が立て続けに公開され、幾つかの作品は高評価を得た。しかし、[[CG]]以前の当時の技術力ではファンタジー([[剣と魔法]])の表現に限界があったことや、粗悪なB級映画も多かったことから1990年代に突入すると飽きられ、再び衰退することとなった。 また、1981年に[[ハリソン・フォード]]主演の『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]』が大ヒットすると、ソード&サンダルやファンタジー映画と同様に、衰退していた[[冒険映画]]の人気も復活。主に『[[ロマンシング・ストーン 秘宝の谷]]』(1984年)や『[[ロマンシング・アドベンチャー/キング・ソロモンの秘宝]]』(1985年)などが公開された。しかし、中には『[[グーニーズ]]』(1985年)のようにコアな人気を獲得した作品もあったものの、基本的には何れも『インディ』の二番煎じ感は否めず、こちらも一過性のブームで終わり、1990年代にかけて再び衰退していった。 その他、[[レンタルビデオ|ビデオレンタル]]によって[[ホラー映画]]の需要が増加。中でも[[ジョン・カーペンター]]の『[[ハロウィン (1978年の映画)|ハロウィン]]』(1978年)が当時最も稼いだ[[インディペンデント映画]]となったことで、殺人鬼が若者を襲うというフォーマットを模倣した[[スラッシャー映画]]が人気を博す。『[[13日の金曜日シリーズ#13日の金曜日(1980年)|13日の金曜日]]』(1980年)、『[[エルム街の悪夢]]』(1984年)、『[[チャイルド・プレイ (1988年の映画)|チャイルド・プレイ]]』(1988年)などが人気を博した。 また1977年公開の『[[サタデー・ナイト・フィーバー]]』のヒットを経て、『[[フラッシュダンス]]』(1983年)や『[[フットルース (1984年の映画)|フットルース]]』(1984年)、『[[ダーティ・ダンシング]]』(1987年)など、青春ダンス映画が立て続けにヒットする。当時ミュージックビデオをひたすら流し続けるケーブルテレビ・チャンネル[[MTV]]が大流行しており、その中で映画の一部が[[ミュージック・ビデオ]]として放送されたことがプロモーションに繋がり、ヒットの要因になったとされている。また、この時期から映画の[[サウンドトラック]]が爆発的に売れるようになり、これを機にMTVは映画界にとって重要なツールの1つとなった。 1980年、[[セクスプロイテーション|セクスプロイテーション映画]]であり、[[モキュメンタリー|モキュメンタリー映画]]の先駆けでもある『[[食人族]]』が公開される。本作は、[[スナッフフィルム]]のように見せかけた宣伝方法などで注目を浴び、[[動物虐待]]、[[人肉食]]、[[強姦]]シーンが盛り込まれた映画でありながら、10億円近い配給収入を上げる大ヒットを記録した。 1982年、[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督によるアメリカ映画『[[E.T.]]』が公開。約1,000万ドルという予算で製作されたが、公開後には北米で3億5,900万ドル、全世界で6億1,900万ドルの興行収入を記録し、『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』(1977年)を抜いて世界歴代興行収入歴代1位となった。日本でも『[[ジョーズ]]』(1975年)が保持していた日本記録を更新し、『[[もののけ姫]]』(1997年)に抜かれるまで日本最高配給収入記録を堅持していた。 同年には『[[ブレードランナー]]』が公開され、興行的には失敗したものの、後のSF作品に多大な影響を与え、現在では「[[サイバーパンク]]」の代表作と見なされている。 1983年、日本において[[長谷川和彦]]、[[相米慎二]]、[[黒沢清]]らにより[[ディレクターズ・カンパニー]]が設立される。[[1960年代]]から[[1970年代]]における[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]が果たしたのと同じ役割を担うことを目的としまた大きく期待されもしたが、ATGのように時流に乗ることができず大きな商業的成功を収めるには至らなかった。 1984年、『黄色い大地』公開。これの監督を務めた[[チェン・カイコー]]、撮影監督を務めた[[張芸謀]]を中心として、中国映画の第五世代が台頭。同時期に、[[台湾ニューシネマ]]運動の展開が開始。90年代にかけニューウェーブを感じさせる作品を次々と発表する。[[侯孝賢]]、[[揚徳昌]]が主な作家。 同年1984年、『[[ゴーストバスターズ]]』が[[社会現象]]となり、数十億ドル規模の[[ゴーストバスターズシリーズ|マルチメディア・フランチャイズ]]を立ち上げた。また興行収入は2億8220万ドルで、当時の[[コメディ映画]]史上最高の興行収入となった。 1985年、日本で「[[東京国際映画祭]]」が始まる。 1985年、『[[バック・トゥ・ザ・フューチャー]]』が大ヒットし、全米ではフューチャー現象なるものが巻き起こった。また主題歌である[[ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース]]の「[[パワー・オブ・ラヴ (ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの曲)|The Power of Love]]」は、世界的に大きな成功を収めた。現在では1980年代の最高傑作の一つ、SF映画の最高傑作の一つ、そして現代に置いて史上最高の映画の一つとされている。 1986年には[[トム・クルーズ]]主演の『[[トップガン (映画)|トップガン]]』が全米で大ブームとなり、トムの出世作となった。 同年、[[ベトナム戦争]]映画の傑作『[[プラトーン]]』が公開。[[ベトナム帰還兵]]である[[オリバー・ストーン]]の実体験を基に作られており、初めて本物のベトナム戦争を忠実に再現した作品として、アメリカ国内だけで予算の20倍を超える1億3800万ドルの興行収入を記録。世界中で「プラトーン現象」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。 1988年、『[[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]]』が公開される。製作期間3年、当時の日本の[[アニメーション映画]]としては破格の10億円の制作費をかけ、日本アニメの世界的ブームの火付け役となった作品<ref name="sponichi20080223">{{Cite web|和書|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/02/23/05.html |title= 「AKIRA」ハリウッドで実写版|date= 2008-02-23 |accessdate= 2023-01-24|website= |publisher= [[スポーツニッポン]] |archiveurl= https://web.archive.org/web/20080228043341/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/02/23/05.html |archivedate= 2008-02-28}}</ref>。中でも映画冒頭の金田がバイクを横滑りさせて急停止させるシーンは、本作を象徴する場面の一つであり、様々な作品でオマージュされている。また、走るバイクのテールライトの光が尾を引くように残像を残して描いたり、複雑な形状の脳波の波形を[[3DCG|3DCGアニメーション]]と[[セル画]]の背景合成で再現したりなどの斬新な演出も多数行われ、その後のアニメ作品に多大な影響を与えている<ref name="yorozoonews14513391">{{Cite web|和書|url =https://yorozoonews.jp/article/14513391|author=沼田浩一 |title =大友克洋のあくなき挑戦 大友アニメーションを振り返る 全集にブルーレイ「AKIRA」 |website = よろず〜|publisher = [[デイリースポーツ]] |date = 2022-01-29|accessdate= 2022-12-02}}</ref><ref name="A0007183">{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/page/A0007183 |author= |title=『AKIRA』はなにがすごいのか…! IMAXで蘇る傑作 |date=2020-04-03 |accessdate= 2023-01-24|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ}}</ref>。 1989年、日本で「[[山形国際ドキュメンタリー映画祭]]」が始まる。 === 1990年代 === [[File: Pulp Fiction Logo.svg |thumb|200px|[[パルプ・フィクション]](1994年)]] これまで長編アニメにおいて低迷期を迎えていた[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]であったが、1989年の『[[リトル・マーメイド]]』を始めとして、『[[ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!]]』(1990)、『[[美女と野獣 (1991年の映画)|美女と野獣]]』(1991)、『[[アラジン (1992年の映画)|アラジン]]』(1992)、『[[ライオン・キング]]』(1994)、『[[ポカホンタス (映画)]]』(1995)、『[[ノートルダムの鐘]]』(1996)、『[[ヘラクレス (1997年の映画)|ヘラクレス]]』(1997)、『[[ムーラン (1998年の映画)|ムーラン]]』(1998)、そして『[[ターザン (1999年の映画)|ターザン]]』(1999)の10作品を制作・公開、多くの作品が高評価・好成績を挙げたことにより、この間の時代を指して「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれるようになる。特に『[[美女と野獣 (1991年の映画)|美女と野獣]]』は、[[アニメ映画]]史上初の[[アカデミー賞]][[アカデミー作品賞|作品賞]]にノミネートされた([[第64回アカデミー賞|第64回]])作品となった。 1990年、[[マーティン・スコセッシ]]監督による『[[グッドフェローズ]]』が公開。本作は当時の時代背景やバックグラウンドを意識せず、既存の曲を[[挿入歌]]として取り入れる手法や、あえて時系列を前後させた構成。またスコセッシ自身は、本作の精神を[[ドキュメンタリー]]だと語っており、マフィアの日常を淡々と描くことであえて登場人物に感情移入させない仕組みになっている。その斬新な演出で、これまでの[[ギャング映画]]とは一線を画すスタイルを確立し、新たな可能性を提示した一本となった。 1991年、[[ジョディ・フォスター]]と[[アンソニー・ホプキンス]]が主演の『[[羊たちの沈黙 (映画)|羊たちの沈黙]]』が、[[第64回アカデミー賞]]で[[アカデミー賞主要5部門候補作品の一覧|主要5部門]]を受賞し、[[ホラー映画]]史上初の[[アカデミー作品賞]]という快挙を果たした。 同年公開の『[[ターミネーター2]]』では映画史上で初めて、映像の合成を全てデジタル処理で行い、本格的に[[CG]]が使用され注目を集める。本作品以降、映画でのCGの使用が一般的となり、本作品で使用された[[モーフィング]]技術は一躍知名度を上げ、他作品でも多用された。 1993年、[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督による[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[ジュラシック・パーク]]』が公開。映画におけるフォト・リアリスティックな[[コンピュータグラフィックス]]の使用として革新的で、[[ストップモーションアニメ]]に取って代わり、その後の映画に大きな影響を与えた。また、自身の世界興行収入記録を塗り替える大ヒットとなった。 1993年、日本で初めて[[シネマコンプレックス]]がオープンする。 1994年、[[クエンティン・タランティーノ]]監督の『[[パルプ・フィクション]]』が公開。本作は、4つのストーリーが順序の異なる時間軸を入れ替えながら交わる、当時としては珍しい手法で構成されている事で高い芸術的評価を受けた。 同年には『[[フォレスト・ガンプ/一期一会]]』が公開される。[[インダストリアル・ライト&マジック|ILM]]が担当した[[VFX]]にて、主演の[[トム・ハンクス]]を[[ジョン・レノン]]や[[ジョン・F・ケネディ]]、[[リチャード・ニクソン]]といった故人と共演させたことで話題になる。 なお上記を見ても分かる通り、1994年は「ハリウッド映画史上最も豊作な年」と言われており、同年には『[[ショーシャンクの空に]]』が公開されるも、公開当時は『[[フォレスト・ガンプ/一期一会|フォレスト・ガンプ]]』や『[[パルプ・フィクション]]』、『[[ライオン・キング]]』、『[[スピード (映画)|スピード]]』、『[[レオン (映画)|レオン]]』、『[[トゥルーライズ]]』などの人気作や大作の影に埋もれて知名度が低かった。しかし、批評家達から高い評価を受け、その後の[[VHS]]の販売や[[レンタルビデオ]]、テレビ放送によって徐々に人気を獲得し、現在では最も評価の高い映画のひとつとなっている。 1995年、世界初の長編フル[[コンピュータアニメーション|CGアニメーション]]『[[トイ・ストーリー]]』が公開。アメリカの[[ディズニー]]と[[ピクサー]]の共同製作による。 同年、[[デンマーク]]で[[ラース・フォン・トリアー]]らによる[[ドグマ95]]と呼ばれる映画運動が始まる。現在でも続いている。 1997年、日本にて[[宮崎駿]]監督の[[アニメ映画]]『[[もののけ姫]]』が公開され、興行収入193億円を記録し、当時の[[日本映画]]の興行記録を塗り替えた。 1990年代後半に入るとCGの大幅な進歩により、迫力のある[[災害]]シーンを描くことが可能になったため、衰退していた[[パニック映画]]が再び制作されるようになった。特に1996年公開の『[[インデペンデンス・デイ]]』と『[[ツイスター (映画)|ツイスター]]』が共に大ヒットし、その後も『[[ダンテズ・ピーク]]』『[[ボルケーノ]]』(ともに1997年)『[[フラッド (映画)|フラッド]]』『[[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]]』『[[ディープ・インパクト (映画)|ディープインパクト]]』『[[GODZILLA]]』(何れも1998年)『[[ディープ・ブルー (1999年の映画)|ディープ・ブルー]]』(1999年)などのパニック映画が立て続けに公開され、1990年代後半にはパニック映画が1970年代以来の第二次ブーム状態となった。 中でも、1997年に公開された[[ジェームズ・キャメロン]]監督の『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』が、全世界で18億3500万ドルを超える大ヒット。史上初めて10億ドルを突破した作品となり、映画史上最高の世界興行収入を記録したことで、[[ギネスブック]]に登録される。また、[[第70回アカデミー賞]]では最多14部門にノミネートされ、作品賞を始めとする最多11部門を受賞した。 1998年、[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督による『[[プライベート・ライアン]]』が公開。冒頭20分に渡る「[[ノルマンディー上陸作戦]]」のシーンが高い評価を受け、後に“[[戦争映画]]の歴史はプライベート・ライアン以前・以後に分かれる”と言われるほど、戦争描写に革新をもたらした。 1999年、[[キアヌ・リーブス]]主演の[[SF映画|SF]][[アクション映画]]『[[マトリックス (映画)|マトリックス]]』シリーズ1作目が公開される。従来のCGにはない、[[ワイヤーアクション]]や[[バレットタイム]]などの[[VFX]]を融合した斬新な映像表現は「映像革命」として話題となった。また翌年に公開された『[[グリーン・デスティニー]]』(2000年)や、翌々年公開の『[[少林サッカー]]』(2001年)でも、この[[ワイヤーアクション]]が効果的に使われており、以後[[中華圏]]で制作される[[武侠小説|武俠映画]]や[[カンフー映画]]に色濃く反映され、世界中でワイヤーアクション技術が使われる端緒となった。 === 2000年代 === [[File:Tloftr-rotk2-logo.svg|thumb|200px|[[ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還]](2003年)]] 2000年代に入ると、[[HD24P]]方式のデジタル・[[ビデオカメラ]]による[[デジタルシネマ]]の動向が活発化した。CGの活用による映画のデジタル化は進んでいたが、フィルムとビデオとの基本的な表示方式の違い(フィルムは24コマ/秒・ノン・インターレースで、ビデオは30コマ/秒の[[インターレース]])により[[テレシネ]]という加工段階を経なければならず、これが大きな足枷になっていた。しかし、HD24Pはフィルムと同じ形式での記録が可能であるためテレシネ加工が不要で、ダイレクトにデジタル加工が可能という画期的な商品だった。『[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃]]』([[2002年]])で利用され実用性が実証された後に採用が相次いでおり、デジタルビデオカメラによる撮影・制作への移行が進んだ。 中でも2000年公開の『[[オー・ブラザー!]]』では、カラリストによって史上初めて全編デジタル[[カラーコレクション]](映像の[[色|色彩]]を補正する作業)の技術が駆使された映画となり、2004年に公開された『[[スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー]]』は、世界で初めて全編デジタルバックグラウンド(背景がすべてCGのデジタル合成)で撮影された映画となった。 一方で2000年代中盤以降になると、家庭でも[[ハイビジョンテレビ]]、[[液晶ディスプレイ]]、[[Blu-ray]]、[[HDMI]]などで高解像度・[[高精細度ビデオ|HD]]化が急速に進み、従来の[[解像度]]の限界を超えることが必要になってきた。 また[[コンピュータグラフィックス]](CG)技術の大幅な発展により、『[[X-メン (映画)|X-メン]]』(2000年)や『[[スパイダーマン (2002年の映画)|スパイダーマン]]』(2002年)、『[[トランスフォーマー (2007年の映画)|トランスフォーマー]]』(2007年)、『[[パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち]]』(2003年)等といった、以前であれば映像化が難しかった世界観の作品や、[[アメリカン・コミックス|漫画]]や[[テレビアニメ|アニメ]]が原作の超大作シリーズが数多く作られ、何れの作品も大ヒットを記録する。 2000年公開の『[[グラディエーター]]』と、翌年公開の『[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]』が大ヒットしたことで、1990年代以降衰退していた[[ソード&サンダル]]映画と[[ファンタジー映画]]の人気が復活。『[[トロイ]]』(2004年)や『[[エラゴン 遺志を継ぐ者]]』(2006年)『[[300 〈スリーハンドレッド〉]]』(2007年)等が公開された。CGの大幅な発展と普及で、ファンタジー表現に対しての限界が事実上無くなったことも、ブームの理由の一つであるといえる。 中でも『[[ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還]]』(2003年)は、全世界興行収入が『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』(1997年)以来史上2例目となる10億ドル超えを達成した作品となり、[[第76回アカデミー賞]]では『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』(1959年)と『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』に並ぶ史上最多11部門の受賞を果たす。これによって『[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]』三部作は、『[[スター・ウォーズ・シリーズ|スター・ウォーズ]]』オリジナル三部作、『[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]』三部作を超えて、世界で最も商業的に成功した三部作となった。 同時期には、[[J・K・ローリング]]の[[ファンタジー小説]]を映画化した『[[ハリー・ポッターと賢者の石]]』(2001年)を筆頭とした、『[[ハリー・ポッター (映画シリーズ)|ハリー・ポッター]]』シリーズ([[魔法ワールド]])が、長きに渡り世界的な大ヒットを記録。その『ハリー・ポッター』シリーズを中心に、[[児童文学]]原作の映画がブームとなり、『[[ナルニア国物語 (映画)|ナルニア国物語]]』(2006年)や『[[ライラの冒険 黄金の羅針盤]]』(2007年)等が公開されたが、『ハリー・ポッター』程の成功には至らなかった。 またファンタジー映画がヒットした一方で、『[[シティ・オブ・ゴッド]]』(2002年)や『[[ホテル・ルワンダ]]』(2004年)、『[[ミュンヘン (映画)|ミュンヘン]]』(2005年)、『[[ユナイテッド93]]』(2006年)等といった実話を基にした社会派系作品や、『[[ナイロビの蜂]]』(2004年)や『[[ロード・オブ・ウォー]]』(2005年)、『[[ブラッド・ダイヤモンド]]』(2006年)などといった、実際の[[社会問題]]や国際問題等を題材とした作品が[[2000年代]]には流行し、何れの作品も高い評価を受けた。流行した理由としては、[[アメリカ同時多発テロ事件]]や[[イラク戦争]]などの影響によって、アメリカ国内で社会問題に関して敏感になったことが挙げられる。 2001年には、[[宮崎駿]]監督で[[スタジオジブリ]]作品の『[[千と千尋の神隠し]]』が公開され、興行収入は300億円を超え、当時の[[日本歴代興行成績上位の映画一覧#日本歴代興行収入ランキング|日本歴代興行収入]]第1位を達成した。翌年には、[[第52回ベルリン国際映画祭]]のコンペティション部門に出品され、最優秀作品賞である[[金熊賞]]を受賞した。世界三大映画祭で長編アニメーションが最高賞を獲得するのは史上初の快挙であった。 2002年、[[マイケル・ムーア]]監督の『[[ボウリング・フォー・コロンバイン]]』が異例のヒットを記録し、[[ドキュメンタリー映画]]が新たな商業ジャンルとして注目を集める。『[[華氏911]]』や『[[スーパーサイズ・ミー]]』(ともに2004年)のような突撃取材ものや、『[[ディープ・ブルー (2003年の映画)|ディープ・ブルー]]』(2003年) や『[[皇帝ペンギン]]』(2005年)、『[[アース (2007年の映画)|アース]]』(2007年)のようなネイチャードキュメンタリー、その他には『[[不都合な真実]]』(2006年)などの幅広い作品が生まれた。 同年、『[[シカゴ (2002年の映画)|シカゴ]]』が公開。[[ミュージカル映画]]はヒットしない状況が続いていたなかで、そのジンクスを覆す人気を獲得する。[[第75回アカデミー賞]]では作品賞を初めとする6部門受賞。その後、[[ブロードウェイ]]のヒット作を映画化する形で、再びミュージカル映画がブームとなる。 2005年には、これまでのハリウッド映画界ではタブーとされていた[[同性愛]]をテーマにした作品『[[ブロークバック・マウンテン]]』が公開され、話題を呼ぶ。監督の[[アン・リー]]自身は、この映画を「普遍的な[[恋愛|ラブストーリー]]」と強調しており、そのテーマは観客に広く受け入れられ、人気を博す。 2006年に公開された『[[パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト]]』は史上最速での1億ドル、2億ドル、3億ドルを突破し、史上最速での世界興行収入10億ドル突破し、多くの世界記録を打ち立てた。 2008年、[[バットマン]]を題材とした[[クリストファー・ノーラン]]監督の『[[ダークナイト]]』が公開。前作『[[バットマン ビギンズ]]』に続く「[[バットマンの映画作品#ダークナイト トリロジー(2005–12年)|ダークナイト・トリロジー]]」の第2作目であったが、公開時は『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』に次ぐ、全米興行収入歴代2位を記録した。その年に亡くなった[[ジョーカー (バットマン)|ジョーカー]]役の[[ヒース・レジャー]]は世界的に評価され数々の映画賞をそうなめにした。また本作は冒頭の6分間を含め、6つの大きなアクションシーンで65mmフィルムの[[IMAX]]カメラを使用。初めてIMAXカメラを使って撮影されたハリウッド大作となった。現在でもアメコミ史上最高の映画と言われている。 2009年頃からは、[[立体映画]]が1980年代以来の三回目のブームとなった。[[ハリウッド]]が多くの立体映画を製作し、また既存の作品を3Dに変換して立体映画として再上映する場合もある。中でもジェームズ・キャメロン監督の『[[アバター (2009年の映画)|アバター]]』が、[[3次元映像|3D映像]]による劇場公開が大きく取り上げられ、世界興行収入は自身の持つ『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』の記録を大幅に上回る27億8800万ドルを記録した。 [[邦画]]では、2003年に『[[踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!]]』が、国内興行収入173.5億円を記録する大ヒットとなった。これは2023年現在においても、実写邦画の歴代興行収入1位の記録である。 また、1998年公開の『[[リング (1998年の映画)|リング]]』が世界的にヒットし、その後も『[[呪怨]]』(2003年)や『[[着信アリ]]』(2004年)等も成功したことで、所謂「[[ジャパニーズホラー|Jホラー]]」ブームが世界中で巻き起こった。その勢いのまま、ハリウッドで[[リメイク]]版である『[[ザ・リング]]』(2002年)や『[[THE JUON/呪怨]]』(2004年)も制作され、こちらも一定の成功を収めた。 === 2010年代 === [[File:Marvel Cinematic Universe logo.png|thumb|200px|[[マーベル・シネマティック・ユニバース]]の[[インタータイトル]]]] 2008年公開の『[[アイアンマン (映画)|アイアンマン]]』のヒットを経て、様々な[[マーベル・コミック]]の実写映画を、同一の世界観の[[クロスオーバー作品]]として扱う『[[マーベル・シネマティック・ユニバース]]』(MCU)シリーズが台頭を見せる。世界で最も大きな興行的成功を収めている[[映画シリーズ]]として、2位の『[[スター・ウォーズシリーズ|スター・ウォーズ]]』シリーズに大差をつけて、世界歴代1位の[[興行収入]]を記録。2019年には、シリーズ22作目となる『[[アベンジャーズ/エンドゲーム]]』が、『[[アバター (2009年の映画)|アバター]]』(2009年)の記録を抜き、当時の史上最高記録を塗り替えた<ref>{{Cite web|title=Avengers: Endgame finally passes Avatar as the biggest movie of all time|url=https://www.theverge.com/2019/7/21/20702651/avengers-endgame-avatar-biggest-movie-box-office-comic-con-phase-4|website=The Verge|date=2019-07-21|accessdate=2019-07-23|first=Julia|last=Alexander}}</ref><ref name="Tartaglione">{{Cite web|title=‘Avatar’ Overtakes ‘Avengers: Endgame’ As All-Time Highest-Grossing Film Worldwide; Rises To $2.8B Amid China Reissue – Update|url=https://deadline.com/2021/03/avatar-overtakes-avengers-endgame-highest-grossing-film-all-time-worldwide-box-office-china-james-cameron-disney-1234713788/|website=Deadline|date=2021-03-13|accessdate=2021-03-13|language=en-US|first=Nancy|last=Tartaglione}}</ref>。また、[[マーベル・シネマティック・ユニバース]]のヒットに倣って、『[[DCエクステンデッド・ユニバース]]』や『[[モンスターバース]]』といったシリーズ作品の[[メディア・フランチャイズ]]及び[[シェアード・ワールド|シェアード・ユニバース]]化が流行した。 2008年公開の『[[トワイライト〜初恋〜]]』が世界的に大ヒットすると、[[ヤングアダルト]]小説原作の映画が、[[2010年代]]前半から中盤にかけて一大ブームとなった。その『トワイライト』の続編や『[[ハンガーゲーム]]』(2012年)、『[[ダイバージェント]]』や『[[メイズ・ランナー]]』(ともに2014年)等も同じく世界的な大ヒットを記録したが、日本では何れの作品もほとんどヒットしなかった。[[2000年代]]の『[[ハリー・ポッター (映画シリーズ)|ハリー・ポッター]]』シリーズが日本でも大ヒットを記録し、他の[[児童文学]]原作の映画も、それなりにヒットしていたのとは対照的であるといえる。 2010年、[[Facebook]]を創設した[[マーク・ザッカーバーグ]]らを描いた映画『[[ソーシャル・ネットワーク (映画)|ソーシャル・ネットワーク]]』が公開。当時まだ珍しかった[[4K解像度]]カメラの[[レッド・デジタル・シネマカメラ・カンパニー|レッド・ワン]]を使用、映画冒頭のマークとエリカの会話シーンでは99テイクもの撮影が行われるなど、挑戦的な撮影方法が話題となり、様々な批評家や観客に大絶賛された。その評価の高さからは「21世紀の『[[市民ケーン]]』」とまで評された。 2013年(日本では2014年)には[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]から、[[CGアニメ]]映画の『[[アナと雪の女王]]』が公開される。本作はアメリカ映画としては『[[アバター]]』(2009年)以来の大ヒット作となり、各国で[[アニメ映画]]の動員記録を塗り替え、世界的に[[社会現象]]となった。 同年、『[[ゼロ・グラビティ]]』が公開。巨大な回転装置やモーションコントロールロボット、壁一面が[[LED照明|LED]]に囲まれた「ライトボックス」と呼ばれる特殊装置を発明するなどして、宇宙空間における無重力表現を忠実に再現したことで、[[3次元映像|3D映画]]の新たな可能性を示したと称された。また本作以降、『[[ダンケルク (2017年の映画)|ダンケルク]]』や『[[1917 命をかけた伝令]]』などリアルな臨場感や没入感を演出し、その場にいるような迫力を味わうことができる「体験型映画」という言葉が生まれた。 2010年代半ばから、映画やテレビ番組のオンライン[[ストリーミング]]を提供する、[[サブスクリプション方式]]の[[定額制動画配信サービス]]が始まり、「[[Netflix]]」や「[[Amazonプライム・ビデオ]]」は独自の映画製作にも力を入れる。中でもNetflixの作品『[[ROMA/ローマ]]』(2018年)は、[[モノクロ]]の小規模映画でありながら、6Kカメラのアレクサ65で撮られた65mmの美しい映像が、家庭の[[テレビ]]で4K解像度で視聴できることが話題となった。 また、映画館でも新たな映画体験が用いられ、通常の映画で使用されるフィルムよりも大きなサイズの映像を記録・上映出来る[[IMAX]]や、映画の映像・音声に合わせて座席稼働や環境効果が体感できる[[4DX]]などが広く知られるようになった。 2015年、前作『[[マッドマックス/サンダードーム]]』(1985年)以来、27年ぶりに製作された『[[マッドマックス]]』シリーズの第4作『[[マッドマックス 怒りのデス・ロード]]』が公開。本作は、2010年代を代表するアクション映画として大きな話題を呼び、この年最も評価された映画のひとつとなった。 [[第88回アカデミー賞]]のノミネーションにおいて、演技部門での候補者20名が2年連続白人で占められていたことから、「Oscars So White(白すぎるオスカー)」と呼ばれるハッシュタグが[[Twitter]]でトレンド入りするなど、[[ハリウッド]]内の人種多様性の欠如が世界的に大きな波紋を呼んだ。[[第90回アカデミー賞]]では、女優の[[フランシス・マクドーマンド]]が自身の受賞スピーチにて「[[包摂条項|インクルージョン・ライダー]]」という言葉を発し、キャストやスタッフの多様性を確保するよう求めるハリウッドの新しい条項が誕生した。 2016年、[[新海誠]]監督の[[アニメ映画]]『[[君の名は。]]』が公開され、それが[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]や口コミで話題となり、日本国内の興行収入は瞬く間に250.3億円を記録。当時の[[日本歴代興行成績上位の映画一覧#日本歴代興行収入ランキング|日本における歴代興行収入ランキング]]では日本映画として『[[千と千尋の神隠し]]』(2001年)に次ぐ第2位となった。 同年、ミュージカル映画『[[ラ・ラ・ランド]]』が公開。往年のミュージカルへの[[オマージュ]]が話題を呼び、[[第74回ゴールデングローブ賞]]ではノミネートされた7部門すべてを獲得し、歴代史上最多受賞を記録する<ref name=eiga170109>{{cite news|url=http://eiga.com/news/20170109/6/|title=ゴールデングローブ賞発表 「ラ・ラ・ランド」が史上最多7部門を受賞|newspaper=映画.com|date=2017-01-09|accessdate=2017-02-16}}</ref>。[[第70回英国アカデミー賞]]では11部門でノミネートを受け、6部門を受賞。[[第89回アカデミー賞]]では『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』(1997年)、『[[イヴの総て]]』(1950年)に並ぶ史上最多14ノミネート(13部門)を記録した<ref>{{Cite web|和書|publisher=T-SITEニュース|url=http://top.tsite.jp/entertainment/cinema/i/34058182/|title=【第89回アカデミー賞】ライアン・ゴズリング主演『ラ・ラ・ランド』が本年度最多13部門14ノミネートを記録!『タイタニック』に並ぶ快挙!|accessdate=2017-02-16}}</ref>。またカメラを水平、もしくは垂直に高速で動かして映像をぼやけさせる撮影技法「高速パン」(一般には{{仮リンク|ウィップ・パン|en|Whip pan}}と呼ばれる)が効果的に使用されたことで、この撮影技法は[[デイミアン・チャゼル]]の代名詞となった。 [[2017年]]10月5日、[[ニューヨーク・タイムズ]]の記者が、[[映画プロデューサー]]の[[ハーヴェイ・ワインスタイン]]による数十年に及ぶ[[セクシャルハラスメント]]を告発する記事を発表<ref>[https://www.nytimes.com/2017/10/05/us/harvey-weinstein-harassment-allegations.html] ニューヨーク・タイムズ 2017年10月5日</ref>。のちに[[ワインスタイン効果]]と呼ばれるほどの大反響があり、この影響がセクシャルハラスメントや[[性暴力]]の経験を共有することを奨励する[[#MeToo|Me Too運動]]を引き起こした。そうした情勢を反映し、以降『[[スリー・ビルボード]]』(2017年)や『[[スキャンダル (2019年の映画)|スキャンダル]]』(2019年)『[[アシスタント (映画)|アシスタント]]』(2020年)『[[プロミシング・ヤング・ウーマン]]』(2020年)『[[最後の決闘裁判]]』(2021年)『[[ウーマン・トーキング 私たちの選択]]』(2022年)など、「怒れる女性」や「[[有害な男らしさ]]」を描いた作品群が多く作られるようになる。 2019年3月、『タイタニック』や『スターウォーズ』の制作を勤めた[[21世紀フォックス]]がディズニーに買収される。 同年10月[[バットマン]]の[[悪役]]を題材にした作品『[[ジョーカー (映画)|ジョーカー]]』が、[[映画のレイティングシステム|R指定]]作品として史上初めて10億ドルを突破する。また、ロケ地となった[[ニューヨーク]]・[[ブロンクス区|ブロンクス]]地区にある階段が[[観光]]名所となった。 同年、[[ポン・ジュノ]]監督の『[[パラサイト 半地下の家族]]』が[[第72回カンヌ国際映画祭]]で[[韓国映画]]初となる[[パルム・ドール]]の受賞を果たした。[[第92回アカデミー賞]]では、史上初の外国語映画の作品賞受賞であり、[[アカデミー作品賞]]とカンヌの最高賞を同時に受賞した作品は『[[マーティ (映画)|マーティ]]』(1955年)以来、65年ぶりとなった。日本ではパラサイト旋風と呼ばれた。 === 2020年代 === 2020年、社会現象となっていたテレビアニメ『[[鬼滅の刃 (アニメ)|鬼滅の刃]]』の劇場版アニメとして『[[劇場版 鬼滅の刃 無限列車編]]』が公開される。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの世界的流行]]下において、歴代最速で興行収入100億円に達成。公開から73日目となる12月27日には観客動員数2404万人、興行収入324億円を突破し、『[[千と千尋の神隠し]]』を超えて日本歴代興行収入1位を達成。さらには[[2020年の映画|2020年公開映画]]の[[世界歴代興行収入上位の映画一覧#年間最高興行収入|年間興行収入]]世界1位も記録した。 2021年3月12日、『[[アバター (2009年の映画)|アバター]]』が中国で大規模再上映され、『[[アベンジャーズ/エンドゲーム]]』との782万ドルの差を上回り、再び世界歴代興行収入1位の座に返り咲いた<ref name="Tartaglione"/>。 同年、[[新型コロナウイルス]]が猛威を振るう中、『[[スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム]]』が世界興行収入19億ドルという大ヒット。コロナ禍で初めて10億ドルを突破した作品となり、世界的に社会現象になった。 同年5月には、前作から36年ぶりの続編となる『[[トップガン マーヴェリック]]』が公開。コロナ禍により様々な[[ブロックバスター|大作映画]]が配信へ送られるなか、主演兼製作の[[トム・クルーズ]]は本作の劇場公開に強くこだわっており、何度も公開延期を繰り返し、最終的には『[[スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム]]』に次いで、[[コロナ禍]]二度目となる10億ドルを突破した。また中高年層の客足を取り戻したきっかけともされており、劇場文化復活の記念碑的作品と言われている。 また12月には『[[アバター:ウェイ・オブ・ウォーター]]』が公開。コロナ禍で初めての20億ドルを記録し、『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』を抜いて世界興行収入歴代3位を記録した。 同時期にはIMAXでの世界累計興行収入が1兆2000億円を突破した。 2023年、『[[エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス]]』が[[全米映画俳優組合賞]]にて歴代最多の4部門を制覇。同年の[[アカデミー賞]]でも作品賞を含む7部門を受賞するなど記録的な勝利となった。また演技賞を3つ獲得し、作品賞を受賞した映画は本作が史上初。[[アジア人]]俳優の[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]や、[[SF映画]]、[[カンフー映画]]の受賞も初である。 同年7月、[[グレタ・ガーウィグ]]の『[[バービー (映画)|バービー]]』と[[クリストファー・ノーラン]]の『[[オッペンハイマー (映画)|オッペンハイマー]]』が同時公開され、対照的な2作を一緒に鑑賞する者が多いと報じられており、インターネット上では両方の映画のタイトルを合わせた「[[バーベンハイマー]](Barbenheimer)」という造語([[インターネット・ミーム]])も誕生し、社会現象となった。<ref>{{Cite web|和書|title=映画「バービー」、週末で今年最高の収入 「原爆の父」の作品も好調 |url=https://www.asahi.com/articles/ASR7T3D6QR7TUHBI00H.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2023-07-25 |access-date=2023-07-26 |author=五十嵐大介}}</ref>。 また『バービー』は、『[[ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2]]』(2011年)の全世界興行収入を抜いて、[[ワーナー・ブラザーズ]]配給作品で歴代最高記録を更新。女性監督が単独で手がけた作品の興行収入でも、初の10億ドルを達成し、[[パティ・ジェンキンス]]の『[[ワンダーウーマン (映画)|ワンダーウーマン]]』を抜いて歴代1位となった。一方の『オッペンハイマー』も、世界興行収入が9億ドルを突破し、『[[ボヘミアン・ラプソディ (映画)|ボヘミアン・ラプソディ]]』を抜いて、伝記映画として歴代最高の興行収入となった<ref>{{Cite web|和書|title=映画「オッペンハイマー」の興行収入が伝記映画歴代1位に |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/276735 |website=東京スポーツ |date=2023-09-18 |access-date=2023-09-18}}</ref>。これらの影響力からも[[BBC]]が用いるなどして、映画産業の興行収入を分析する文脈で定着した用語となった<ref>{{cite news|title=BBC News - Barbie overtakes Super Mario Bros to be 2023's biggest box office hit|url=https://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-66705597|date=2023-09-04|publisher=BBC|accessdate=2023-09-04}}</ref><ref>{{cite newspaper|title=「バービー」やビヨンセ 米経済支える夏のエンタメ消費|newspaper=日本経済新聞|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFL00003_R00C23A9000000/|date=2023-09-01}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == === 映画史家 === *{{Flagicon|FRA}} [[ベルナール・エイゼンシッツ]] *{{Flagicon|JPN}} [[小松弘]] *{{Flagicon|FRA}} [[ジョルジュ・サドゥール]] *{{Flagicon|JPN}} [[田中純一郎]] *{{Flagicon|JPN}} [[出口丈人]] *{{Flagicon|JPN}} [[畑暉男]] *{{Flagicon|FIN}} [[ペーテル・フォン・バック]] *{{Flagicon|USA}} [[ゴードン・ヒチンズ]] *{{Flagicon|FRA}} [[ジャン・ミトリ]] *{{Flagicon|JPN}} [[四方田犬彦]] *{{Flagicon|USA}} [[ジェイ・レダ]] *{{Flagicon|JPN}} [[山田和夫]] *{{Flagicon|CHN}} [[晏妮]] *{{Flagicon|JPN}} [[三浦哲哉]] *{{Flagicon|USA}} [[デヴィッド・ボードウェル]] === 各国の映画史 === {{Portal 映画}} 各国の映画史については、[[各国の映画]]を参照のこと *[[日本映画]] *[[アメリカ合衆国の映画]] *[[フランスの映画]] === その他の関連単語 === * {{仮リンク|映画技術史|en|History of film technology}} - 映画技術における歴史を纏めたもの {{DEFAULTSORT:えいかし}} [[Category:映画史|*]] [[Category:情報技術史]] [[Category:テーマ史]]
2003-05-13T22:31:08Z
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フィルム・コミッション
フィルム・コミッション(Film Commission、略称:FC)とは、地域活性化を目的として、映像作品のロケーション撮影が円滑に行われるための支援を行う公的団体である。具体的にはロケ撮影に際して、映像制作者と地域社会(自治体、施設所有者など)との間にフィルム・コミッションが入り、各種連絡・交渉などの調整係の役割を果たす。映像作品は撮影時や上映による経済効果が大きいため、フィルム・コミッションが映像作品の誘致活動などを積極的に行うこともある。 フィルム・コミッションの主な業務は、ロケーションガイド(ロケーション・ハンティングの協力)、優遇措置の案内(自治体による優遇措置やキャンペーンの紹介)、許可の取得(施設使用許可等)、映像制作関連のリソース(撮影スタジオや録音スタジオの紹介、食事や資材の手配、宿泊場所や使用する自動車等に関する手配)などである。このほかエキストラの募集、パンフレットの製作や配布、エキストラ用の食事の手配なども行う。 フィルム・コミッションは世界各国に存在しており、市町村レベルの小さな組織から、国レベルの大きな組織まで様々な形態が存在する。 イギリスでは「スクリーン・エージェンシー」(Screen Agency)と呼ばれ、UKフィルム・カウンシル(英語版Wikipediaへのリンク)の傘下団体として、イギリス全土に9つの組織が存在する(en:Regional_screen_agencies)。 世界のフィルム・コミッションの業界団体として、1975年に設立された国際フィルム・コミッション協会(略称:AFCI、事務局:アメリカ・モンタナ州ヘレナ)が存在する。2006年の国際フィルム・コミッション協会の加盟メンバーは40か国299団体であり、アメリカ(167)、カナダ(29)の順に多く、ヨーロッパから58、アジアから17のメンバーが参加している。 アジア地域のフィルム・コミッションを統括する組織として、2004年10月に設立されたアジアン・フィルム・コミッションズ・ネットワーク(略称:AFCNet、本部:韓国・プサン)が存在する。 フィルム・コミッションは、1940年代後半のアメリカにおいて、映画会社がロケ撮影を円滑に実施する目的で、地方政府の交渉窓口として作られた組織がその源流である。この組織は、警察、高速道路のパトロール隊、道路管理局、消防署、公園警備官などとロケに関する調整を行った。アメリカにおいて初めて「フィルム・コミッション」という形で設立された組織は、1969年にコロラド州が立ち上げた「コロラド・フィルムコミッション」である。 日本では2000年以降、全国各地でフィルム・コミッションが整備されるようになった。(経緯については後述) アメリカのフィルム・コミッションでは「映画の内容に関しては一切物申さず、脚本に書かれていることは全て実現する」という点が協力の大前提となっている。しかし、日本は施設の撮影利用にあたり、世界的に見ても厳格で煩雑な公的規制が多数存在しており、申請先も外部から分かりづらいという課題を抱えている。そのため、フィルム・コミッションだけでは解決困難な問題が多い。 2017年以降、日本政府の知的財産戦略本部内に日本におけるロケ撮影環境の改善を目的とした「ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議」が設置され、年1回程度のペースで意見交換が行われている。 アメリカでは古くから映画が「産業」として認知されており、映画制作に対して官民共同の取り組みが行われている。そのため、日本のように「文化振興」を目的とした映画に対する公的支援ではなく、映画の撮影による雇用確保と市の収入増加を目的とする明確な産業支援政策の一環として、各州政府や自治体の一部門によってフィルム・コミッションが設置されている。 2006年現在、50州及びワシントンD.C.とプエルトリコの計52地域のうち、40以上の地域に160を超えるフィルム・コミッションが設立されている。フィルム・コミッションの数が最多なのはカリフォルニア州で、約60団体が州内に存在する。 アメリカのフィルム・コミッションのメンバーは数名規模のものが多く、1名のみの組織もある。また、有力なフィルム・コミッションでは、映像制作経験者が参加している組織も存在する。 アメリカの州によっては、映像制作産業に対してロケ実施時に下記の税制上の優遇措置が導入されている場合がある。 支援措置の中心となるのは売上税・使用税の免除と所得税等の税額控除である。さらに、作品によってロケーション地が変わることから、所得控除そのものが州をまたいで取引対象とされている。ただし、アメリカ最大の映画産業が存在するカリフォルニア州ではこのような優遇措置を導入していないため、優遇措置を導入している他の州や、同様の優遇措置を設けているカナダ、メキシコなどにロケ地の「流出」が発生している。 2000年以降、全国各地でフィルム・コミッションの整備が進められた結果、2021年現在の日本国内のフィルム・コミッションは約350団体であり、国内のフィルム・コミッションの数としては世界最多となっている。 その結果、日本国内でロケ撮影を実施する作品数が大幅に増加しており、2000年には282本だったものが、2008年には418本、2015年には2000年のほぼ2倍に当たる581本、2018年には613本となった。 邦画に限ると、2015年の国内興行収入上位32作品(うち実写22作品)のうち、フィルム・コミッションの支援を受けない実写作品はわずか1作品のみであった。2016年の邦画上位37作品では実写32作品中31作品、アニメーションは11作品中1作品がフィルム・コミッションの支援を受けている。2017年の邦画上位38作品のうち、実写28作品は全てフィルム・コミッションの支援を受けている。 日本の民間企業では「ロケーションサービス」という名称で、フィルム・コミッションとほぼ同様のサービスを行う部署を設置するケースがある(JR西日本や本州四国連絡高速道路など)。 また、日本のフィルム・コミッションは観光振興政策の延長線的位置づけとして、各都道府県庁、市役所、町村役場の観光課もしくは観光振興を目的とする外郭団体によって運営されている場合が多く、警察にも影響力を及ぼすことが可能なアメリカのフィルム・コミッションほど強力な権限を有していない。そのため、例えばアメリカのように道路を封鎖してカーアクションを撮影することは未だに困難な状況である。 現在、日本のフィルム・コミッションの連絡機関として2009年に設立された「特定非営利活動法人ジャパン・フィルムコミッション」(略称:JFC)が存在する。 ただし、JFCは民間団体であり、日本のフィルム・コミッションを全て統括するものではない。予算の関係などで、JFCに未加盟の小規模な市町村レベルのフィルム・コミッションが国内に多数存在する点にも留意が必要である。 近年、日本国内でフィルム・コミッションが整備された結果、全国の都道府県ほぼ全てに窓口が整備されており、都道府県レベルの窓口がJFC未加盟の団体も含めた市町村レベルのフィルム・コミッションを紹介するという流れができつつある。 JFCが定義するフィルム・コミッションの要件は、以下の通りである。 JFCでは、撮影環境整備ならびに人材育成のため、以下の取り組みを実施している。 フィルム・コミッション設立と直接関係するのかは不明だが、地元の人たちが映画製作に全面協力した例としては、群馬県高崎市で地元住民も参加して撮影された今井正監督作品『ここに泉あり』(1950年)や、広島市の一般市民8万8500人がエキストラとして参加したといわれる関川秀雄監督作品『ひろしま』(1953年)等、古くからある。但し、フィルム・コミッション設立の直接の切っ掛けとしては、大林宣彦監督が1980年代に、故郷・尾道で多くの地元賛同者の協力を得て撮影した「尾道三部作」(『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年))が、フィルム・コミッションの先駆けとして評価されることが多い。キネマ旬報は1980年代の特集記事で「尾道三部作」を1980年代のキーワードの一つとして取り上げ、尾道三部作が各地方自治体にフィルム・コミッションを生む切っ掛けとなり、またアニメ作品の聖地巡礼(アニメツーリズム)の先駆けとなったと論じている。 ただし、生前の大林の発言によると、このような地元の協力事例は、アメリカにおけるフィルム・コミッションとは似て非なるものだという。 日本国内向けのCM撮影の監督を多く務め、アメリカロケの豊富な実務経験を有していた大林によると、フィルム・コミッションのルールで最も重要なのは「映画の内容に関しては一切物申しはせず、脚本に書かれていることは全て実現する」という点である。アメリカでは、仮に映画ロケにより街の施設が破壊されたとしても、潤沢な予算を持つ映画制作サイドがロケの終了後に修復を行い、むしろ以前存在した施設よりも立派なものを作るということが社会的に許容されている。 しかし、邦画の制作にかけられる予算はアメリカのハリウッド映画と比べるとはるかに少ないため、日本の場合、アメリカとは逆に地元からタイアップを始めとした支援をしてもらわなければならない状況であった。この点は、日本でフィルム・コミッションが設立されるようになってもほぼ同様である。 大林は生前、「アメリカと日本では国状も映画の存在の意味も異なるから、「フィルムコミッション」という呼び名をそのまま日本で使うのは誤解の元で、国際的な混乱を招くから、違う名称を考案したほうが良いよ」と主張していた。 福岡県北九州市は、「修羅の国」「公害の街」「灰色の街」「暴力の街」というマイナスのイメージに長年悩まされていた。 北九州市のイメージを向上させるため、同市では自治体としては全国に先駆けて「北九州市広報室イメージアップ班」を設置し、1989年から国内外の映画・テレビドラマ等の誘致・支援への取り組みを開始した。北九州市が、映像振興のために1989年から1999年までの11年間に要した経費(人件費を除く)は1億円程度であったが、誘致したテレビ番組は合計475本に達し、宣伝効果は52億円にも登った。 その後、北九州市は広報室イメージアップ班を拡充する形で、2000年9月に「北九州フィルム・コミッション」を設立した。フィルム・コミッションとしての組織設立は、後述の大阪の方が北九州市より若干早い2000年2月であったが、大阪でロケ誘致・支援の検討を具体的に開始したのは1998年頃である。そのため、フィルム・コミッションとしての活動実態は北九州市が大阪より約10年先行しており、様々なノウハウを蓄積している。現在では、映像関係者の間で「不可能を可能にするロケ地」として、真っ先に北九州市の名前が挙がるようになり、他の地域では困難な爆破シーンや道路封鎖シーンなどが撮影できる体制が構築されている。 一般的に、フィルム・コミッションの活動は観光振興を兼ねているため、地元PRの要素を入れることが多いが、北九州市は他の都市の代替としてのロケも多数受け入れている。北九州フィルム・コミッションの担当者は「声をかけていただいた仕事には全て協力する。東京の代わりとしてのロケ地でも大歓迎」と語っており、2017年までに撮影された通算200本のうち、約半数が東京の代替ロケ地である。一例として、TBSドラマ『MOZU Season1』(2014年)では、東京・銀座での爆破シーンという設定で、小倉の市街地で実際の爆破ロケが行われた。 2000年2月、日本初のフィルム・コミッションである「大阪ロケーション・サービス協議会」(現在の大阪フィルム・カウンシル)が官民協力の下、大阪で立ち上げられた。 大阪の地で日本初のフィルム・コミッションが設立された理由は、1988年に大阪ロケを実施したハリウッド映画『ブラック・レイン』(1989年)の苦い経験を教訓としていたことが、2016年3月の産経新聞の報道により明らかになっている。 以下、産経新聞の報道内容ならびに同作の監督を務めたリドリー・スコットの発言から、当時発生した問題の概要と、フィルム・コミッション設立に至る経緯を記す。 松田優作の遺作となったことでも有名な『ブラック・レイン』は、日本の大阪で本格的なロケを行った作品である。映画制作サイドはこの作品の制作に当たり、当時の岸 昌(きし・さかえ)大阪府知事から「(映画撮影に)できる限り協力する」との“お墨付き”をもらっていた。しかし、当時の日本にはフィルム・コミッションが存在しなかったため、映画制作サイドが撮影対象者や施設所有者と個別に撮影関連の交渉を行わざるを得ず、撮影時に様々な問題が発生した。各種資料から公式に判明している範囲でも、下記の問題が発生したことが明らかになっている。 このような日本ロケのトラブルが続いた結果、親日家であるリドリー・スコットが最終的に「二度とこの地(日本)では映画を撮らない」と激怒するところまで追い込まれてしまった。ハリウッドで「日本は規制が多く、映画ロケがまともにできない環境の国である」という悪評が広まった結果、その後28年間の長きにわたり、海外の大作映画(特にハリウッド映画)の大阪ロケは全く実施されなかった。 大阪では『ブラック・レイン』のロケ協力が不十分であったことを反省するとともに、大阪における映像制作の撮影依頼が多かったことから、それを活かす方策を考えるため、1998年頃に研究会を立ち上げた。2000年2月、映画撮影による経済効果や集客力強化を目的として、大阪府・大阪市・大阪商工会議所など地元の行政・経済界の協力により、「大阪フィルム・カウンシル」の前身となる「大阪ロケーション・サービス協議会」を、日本初のフィルム・コミッションとして発足させた。2015年以降は、公益財団法人大阪観光局の組織の一部となっている。 「大阪ロケーション・サービス協議会」を立ち上げた当初、大阪商工会議所専務理事と大阪ロケーション・サービス協議会会長を併任していた大野隆夫は2001年、日本商工会議所のインタビューに対して「我々FCとしては、ロケ地の提供を通じて地域の活性化を図り、直接的な経済効果や、関連産業の振興、海外での知名度を上げることを第一義に活動しています。それに加えて、もう一度映像、特に劇場公開用の映画を見直し、日本の今ある姿を過不足なく国の内外に伝えて行く有力な手段として,映像制作活動をみんなで支援し、その結果、クオリティーの高い文化性のある作品が生まれていくことに少しでも役立てればと思います」と答えている。 大阪フィルム・カウンシルでは映像作品の誘致と、映画制作サイドへの協力を行っている。その内容は撮影ロケ対象施設の紹介、施設管理者との間の借用交渉の代行、ホテル・駐車場・機材調達先などの紹介、ボランティアのエキストラ募集などである。 当初は大阪の企業や自治体に撮影交渉の窓口となる専門部署がなかったため、大阪フィルム・カウンシル側の低姿勢な依頼で何とか撮影協力が得られるような状況だったが、徐々に映像作品による広告効果が認識されるようになり、現在では協力作品数が年間150件程度で推移している。 産経新聞の記事によると、大阪フィルム・カウンシルが協力した作品の中で、難易度が高い課題をクリアした作品がこれまでに2つ存在する。 1つ目は『交渉人 THE MOVIE タイムリミット高度10,000mの頭脳戦』(2010年)。この作品では、臨海部の堺泉北港に位置する泉大津大橋(大阪府泉大津市)を封鎖してアクションシーンを撮影する必要があった。そのため、関連する運送業など約50社の同意を取り付け、配送時間などを調整してアクションシーンを撮影することができた。 2つ目は『プリンセストヨトミ』(2011年)。この作品では、大阪府庁前の上町筋(うえまちすじ)を封鎖して撮影を行う必要があった。大阪フィルム・カウンシルでは、封鎖のための関係機関との交渉を実施したり、2千人以上のエキストラによる群衆シーンの準備に協力して、大阪市内での撮影が無事終了した。 大阪フィルム・カウンシルでは、このような難易度の高い経験を積むことで、ノウハウを蓄積し、新たな課題も次に生かせるようになったと説明している。 このような大阪フィルム・カウンシルの地道な努力が海外でも認められ、2016年には福山雅治が主演するジョン・ウー監督の中国映画『マンハント』の大阪ロケ誘致に成功した。 2021年にはハリウッド映画の『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』の撮影が行われた。『ブラック・レイン』と同じくパラマウントによる配給であり、難色示す上層部をプロデューサーが説得し日本ロケを敢行、完成作を見た上層部も満足したという。 かつて東京都知事であった石原慎太郎は、自身も映画監督の経験を有している。また、実弟で俳優の石原裕次郎も、石原プロモーションで『西部警察』シリーズに代表されるアクション映画・ドラマなどの制作を多数行っていた。そのため、石原慎太郎は、日本における映画ロケで発生する問題点を熟知していた。石原慎太郎は産経新聞が報道する15年以上も前に、自身の公式サイトで『ブラック・レイン』の大阪ロケで発生した問題点を明確に指摘している。 以下に石原慎太郎が指摘する、日本の映画撮影ロケが抱える根本的な課題を要約する。 石原の主張は、アメリカでの実務経験を有する大林宣彦の生前の発言と概ね一致する。そして、石原は「(日本が)映画制作に対して無理解なため、日本を舞台とした作品が海外で話題になったという話を聞くことはほとんどない」と結論づけている。日本の行政の映画制作に関する無理解と制度的な欠陥が、現実のトラブルとなって噴出したのが、『ブラック・レイン』の大阪ロケだったのである。 このような課題を踏まえ、石原慎太郎は2000年11月、第13回東京国際映画祭の開会式において「銀座でカーチェイスを撮れるようにする」と述べた。大林宣彦によると、石原慎太郎は「東京がフィルム・コミッションに参加するなら、銀座を全封鎖してどんな戦闘シーンも撮らせる」と発言したという。 そして、石原都政時代の2001年4月20日に、大阪に続く形で東京都が所管するフィルム・コミッション「東京ロケーションボックス」が開設された。東京ロケーションボックスのロケ申請第1号は、リュック・ベッソン監督のフランス映画『WASABI』(2001年)であり、これまで東京都が許可しなかった場所が撮影場所として使用され、社会的に大きな話題を呼んだ。 ただし、石原慎太郎の想いが海外に十分に伝わっているとは未だにいえない部分がある。 一例として、アメリカ映画で日本を舞台にした作品『ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT』(2006年)では、日本で撮影許可を得ることが困難であるとの前提の下に、東京都内などでゲリラ撮影を多数行った。監督の代役として逮捕される人物まで用意しており、実際に警視庁に拘束された。 そして、2021年現在も日本では撮影目的の道路封鎖のハードルが極めて高く、石原慎太郎が夢見た「銀座でのカーチェイス」は実現できていない。交通規制については、地方自治体レベルでは解決できない、国レベルの規制の問題が存在するためである。 ジャパン・フィルムコミッションが作成した資料によると、日本のフィルム・コミッションが現在抱えている問題として、下記が挙げられている。 近年、フィルム・コミッションが全国各地に設置されたことにより、以前と比べると日本国内におけるロケ撮影の環境は急速な勢いで改善されつつある。しかし、日本では未だに映画の経済効果への認識が十分とはいえない。例えば、撮影目的で道路使用の許可を得ることが著しく困難であったり、海外からの撮影関係者のビザの取り扱いの問題など、国家レベルで改善が必要な制度的問題が山積している。 映像制作関係者からの要望を背景として、2016年、日本政府は知的財産戦略本部「映画の振興施策に関する検討会議」を実施した。 この中で、「我が国における国内外の映像コンテンツのロケーション環境の整備を図り、地域でのロケを推進することによって、日本映画の更なる魅力の増進や、映像産業の技術の向上等の他、地域におけるロケによる経済効果等大きな効果が期待できる」と言及している。 この検討会議の取りまとめを踏まえた形で、「知的財産推進計画2017」(2017年5月16日、知的財産戦略本部決定)では「日本国内におけるロケ撮影の一層の環境整備を図るため、政府としてロケーション支援の強化を図ること」を明記した。 そして、2017年からは日本政府の知的財産戦略本部内に「ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議」が立ち上げられ、年1回程度のペースでロケ環境の改善に向けた議論が実施されている。 内閣府では2019年、「外国映像作品ロケ誘致プロジェクト」を試行的に実施し、中国映画『唐人街探偵 東京MISSION』(2021年中国公開、原題「唐人街探案3」)と、アメリカ映画『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』(2021年世界公開予定)の日本ロケに対して補助金が交付された。フジサンケイグループの広告代理店であるクオラスによって外国映画のロケ誘致の経済効果に関わる調査が実施され、その結果が首相官邸のWebサイトで公開されている。 本項では、全国の都道府県ならびに政令指定都市レベルのフィルム・コミッション(主に都道府県)または県庁などの窓口のリンクと、ジャパン・フィルムコミッションが掲載している地方別ブロックへのリンクを中心に示す。 市町村レベルの組織(政令指定都市を除く)は、文化庁のリンク集一覧(全国ロケーションデータベース FC一覧(文化庁))、各都道府県レベルのフィルム・コミッション、ジャパン・フィルムコミッションに地方ブロック別に掲載されているリンクなどを参照されたい。なお、以下の都道府県の順番は、総務省のコード順に基づく。 信州フィルムコミッションネットワーク(長野県) ながのフィルムコミッション(公益財団法人 ながの観光コンベンションビューロー) 松本フィルムコミッション (一般社団法人 松本観光コンベンション協会) 信州上田フィルムコミッション(一般社団法人 信州上田観光協会) 諏訪圏フィルムコミッション(諏訪地方観光連盟) 伊那谷フィルムコミッション(伊那市役所)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フィルム・コミッション(Film Commission、略称:FC)とは、地域活性化を目的として、映像作品のロケーション撮影が円滑に行われるための支援を行う公的団体である。具体的にはロケ撮影に際して、映像制作者と地域社会(自治体、施設所有者など)との間にフィルム・コミッションが入り、各種連絡・交渉などの調整係の役割を果たす。映像作品は撮影時や上映による経済効果が大きいため、フィルム・コミッションが映像作品の誘致活動などを積極的に行うこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "フィルム・コミッションの主な業務は、ロケーションガイド(ロケーション・ハンティングの協力)、優遇措置の案内(自治体による優遇措置やキャンペーンの紹介)、許可の取得(施設使用許可等)、映像制作関連のリソース(撮影スタジオや録音スタジオの紹介、食事や資材の手配、宿泊場所や使用する自動車等に関する手配)などである。このほかエキストラの募集、パンフレットの製作や配布、エキストラ用の食事の手配なども行う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "フィルム・コミッションは世界各国に存在しており、市町村レベルの小さな組織から、国レベルの大きな組織まで様々な形態が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "イギリスでは「スクリーン・エージェンシー」(Screen Agency)と呼ばれ、UKフィルム・カウンシル(英語版Wikipediaへのリンク)の傘下団体として、イギリス全土に9つの組織が存在する(en:Regional_screen_agencies)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "世界のフィルム・コミッションの業界団体として、1975年に設立された国際フィルム・コミッション協会(略称:AFCI、事務局:アメリカ・モンタナ州ヘレナ)が存在する。2006年の国際フィルム・コミッション協会の加盟メンバーは40か国299団体であり、アメリカ(167)、カナダ(29)の順に多く、ヨーロッパから58、アジアから17のメンバーが参加している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アジア地域のフィルム・コミッションを統括する組織として、2004年10月に設立されたアジアン・フィルム・コミッションズ・ネットワーク(略称:AFCNet、本部:韓国・プサン)が存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "フィルム・コミッションは、1940年代後半のアメリカにおいて、映画会社がロケ撮影を円滑に実施する目的で、地方政府の交渉窓口として作られた組織がその源流である。この組織は、警察、高速道路のパトロール隊、道路管理局、消防署、公園警備官などとロケに関する調整を行った。アメリカにおいて初めて「フィルム・コミッション」という形で設立された組織は、1969年にコロラド州が立ち上げた「コロラド・フィルムコミッション」である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本では2000年以降、全国各地でフィルム・コミッションが整備されるようになった。(経緯については後述)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アメリカのフィルム・コミッションでは「映画の内容に関しては一切物申さず、脚本に書かれていることは全て実現する」という点が協力の大前提となっている。しかし、日本は施設の撮影利用にあたり、世界的に見ても厳格で煩雑な公的規制が多数存在しており、申請先も外部から分かりづらいという課題を抱えている。そのため、フィルム・コミッションだけでは解決困難な問題が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2017年以降、日本政府の知的財産戦略本部内に日本におけるロケ撮影環境の改善を目的とした「ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議」が設置され、年1回程度のペースで意見交換が行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アメリカでは古くから映画が「産業」として認知されており、映画制作に対して官民共同の取り組みが行われている。そのため、日本のように「文化振興」を目的とした映画に対する公的支援ではなく、映画の撮影による雇用確保と市の収入増加を目的とする明確な産業支援政策の一環として、各州政府や自治体の一部門によってフィルム・コミッションが設置されている。", "title": "アメリカのフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2006年現在、50州及びワシントンD.C.とプエルトリコの計52地域のうち、40以上の地域に160を超えるフィルム・コミッションが設立されている。フィルム・コミッションの数が最多なのはカリフォルニア州で、約60団体が州内に存在する。", "title": "アメリカのフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アメリカのフィルム・コミッションのメンバーは数名規模のものが多く、1名のみの組織もある。また、有力なフィルム・コミッションでは、映像制作経験者が参加している組織も存在する。", "title": "アメリカのフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アメリカの州によっては、映像制作産業に対してロケ実施時に下記の税制上の優遇措置が導入されている場合がある。", "title": "アメリカのフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "支援措置の中心となるのは売上税・使用税の免除と所得税等の税額控除である。さらに、作品によってロケーション地が変わることから、所得控除そのものが州をまたいで取引対象とされている。ただし、アメリカ最大の映画産業が存在するカリフォルニア州ではこのような優遇措置を導入していないため、優遇措置を導入している他の州や、同様の優遇措置を設けているカナダ、メキシコなどにロケ地の「流出」が発生している。", "title": "アメリカのフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2000年以降、全国各地でフィルム・コミッションの整備が進められた結果、2021年現在の日本国内のフィルム・コミッションは約350団体であり、国内のフィルム・コミッションの数としては世界最多となっている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その結果、日本国内でロケ撮影を実施する作品数が大幅に増加しており、2000年には282本だったものが、2008年には418本、2015年には2000年のほぼ2倍に当たる581本、2018年には613本となった。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "邦画に限ると、2015年の国内興行収入上位32作品(うち実写22作品)のうち、フィルム・コミッションの支援を受けない実写作品はわずか1作品のみであった。2016年の邦画上位37作品では実写32作品中31作品、アニメーションは11作品中1作品がフィルム・コミッションの支援を受けている。2017年の邦画上位38作品のうち、実写28作品は全てフィルム・コミッションの支援を受けている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本の民間企業では「ロケーションサービス」という名称で、フィルム・コミッションとほぼ同様のサービスを行う部署を設置するケースがある(JR西日本や本州四国連絡高速道路など)。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、日本のフィルム・コミッションは観光振興政策の延長線的位置づけとして、各都道府県庁、市役所、町村役場の観光課もしくは観光振興を目的とする外郭団体によって運営されている場合が多く、警察にも影響力を及ぼすことが可能なアメリカのフィルム・コミッションほど強力な権限を有していない。そのため、例えばアメリカのように道路を封鎖してカーアクションを撮影することは未だに困難な状況である。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "現在、日本のフィルム・コミッションの連絡機関として2009年に設立された「特定非営利活動法人ジャパン・フィルムコミッション」(略称:JFC)が存在する。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ただし、JFCは民間団体であり、日本のフィルム・コミッションを全て統括するものではない。予算の関係などで、JFCに未加盟の小規模な市町村レベルのフィルム・コミッションが国内に多数存在する点にも留意が必要である。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "近年、日本国内でフィルム・コミッションが整備された結果、全国の都道府県ほぼ全てに窓口が整備されており、都道府県レベルの窓口がJFC未加盟の団体も含めた市町村レベルのフィルム・コミッションを紹介するという流れができつつある。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "JFCが定義するフィルム・コミッションの要件は、以下の通りである。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "JFCでは、撮影環境整備ならびに人材育成のため、以下の取り組みを実施している。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "フィルム・コミッション設立と直接関係するのかは不明だが、地元の人たちが映画製作に全面協力した例としては、群馬県高崎市で地元住民も参加して撮影された今井正監督作品『ここに泉あり』(1950年)や、広島市の一般市民8万8500人がエキストラとして参加したといわれる関川秀雄監督作品『ひろしま』(1953年)等、古くからある。但し、フィルム・コミッション設立の直接の切っ掛けとしては、大林宣彦監督が1980年代に、故郷・尾道で多くの地元賛同者の協力を得て撮影した「尾道三部作」(『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年))が、フィルム・コミッションの先駆けとして評価されることが多い。キネマ旬報は1980年代の特集記事で「尾道三部作」を1980年代のキーワードの一つとして取り上げ、尾道三部作が各地方自治体にフィルム・コミッションを生む切っ掛けとなり、またアニメ作品の聖地巡礼(アニメツーリズム)の先駆けとなったと論じている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ただし、生前の大林の発言によると、このような地元の協力事例は、アメリカにおけるフィルム・コミッションとは似て非なるものだという。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本国内向けのCM撮影の監督を多く務め、アメリカロケの豊富な実務経験を有していた大林によると、フィルム・コミッションのルールで最も重要なのは「映画の内容に関しては一切物申しはせず、脚本に書かれていることは全て実現する」という点である。アメリカでは、仮に映画ロケにより街の施設が破壊されたとしても、潤沢な予算を持つ映画制作サイドがロケの終了後に修復を行い、むしろ以前存在した施設よりも立派なものを作るということが社会的に許容されている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、邦画の制作にかけられる予算はアメリカのハリウッド映画と比べるとはるかに少ないため、日本の場合、アメリカとは逆に地元からタイアップを始めとした支援をしてもらわなければならない状況であった。この点は、日本でフィルム・コミッションが設立されるようになってもほぼ同様である。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "大林は生前、「アメリカと日本では国状も映画の存在の意味も異なるから、「フィルムコミッション」という呼び名をそのまま日本で使うのは誤解の元で、国際的な混乱を招くから、違う名称を考案したほうが良いよ」と主張していた。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "福岡県北九州市は、「修羅の国」「公害の街」「灰色の街」「暴力の街」というマイナスのイメージに長年悩まされていた。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "北九州市のイメージを向上させるため、同市では自治体としては全国に先駆けて「北九州市広報室イメージアップ班」を設置し、1989年から国内外の映画・テレビドラマ等の誘致・支援への取り組みを開始した。北九州市が、映像振興のために1989年から1999年までの11年間に要した経費(人件費を除く)は1億円程度であったが、誘致したテレビ番組は合計475本に達し、宣伝効果は52億円にも登った。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "その後、北九州市は広報室イメージアップ班を拡充する形で、2000年9月に「北九州フィルム・コミッション」を設立した。フィルム・コミッションとしての組織設立は、後述の大阪の方が北九州市より若干早い2000年2月であったが、大阪でロケ誘致・支援の検討を具体的に開始したのは1998年頃である。そのため、フィルム・コミッションとしての活動実態は北九州市が大阪より約10年先行しており、様々なノウハウを蓄積している。現在では、映像関係者の間で「不可能を可能にするロケ地」として、真っ先に北九州市の名前が挙がるようになり、他の地域では困難な爆破シーンや道路封鎖シーンなどが撮影できる体制が構築されている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一般的に、フィルム・コミッションの活動は観光振興を兼ねているため、地元PRの要素を入れることが多いが、北九州市は他の都市の代替としてのロケも多数受け入れている。北九州フィルム・コミッションの担当者は「声をかけていただいた仕事には全て協力する。東京の代わりとしてのロケ地でも大歓迎」と語っており、2017年までに撮影された通算200本のうち、約半数が東京の代替ロケ地である。一例として、TBSドラマ『MOZU Season1』(2014年)では、東京・銀座での爆破シーンという設定で、小倉の市街地で実際の爆破ロケが行われた。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2000年2月、日本初のフィルム・コミッションである「大阪ロケーション・サービス協議会」(現在の大阪フィルム・カウンシル)が官民協力の下、大阪で立ち上げられた。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "大阪の地で日本初のフィルム・コミッションが設立された理由は、1988年に大阪ロケを実施したハリウッド映画『ブラック・レイン』(1989年)の苦い経験を教訓としていたことが、2016年3月の産経新聞の報道により明らかになっている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "以下、産経新聞の報道内容ならびに同作の監督を務めたリドリー・スコットの発言から、当時発生した問題の概要と、フィルム・コミッション設立に至る経緯を記す。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "松田優作の遺作となったことでも有名な『ブラック・レイン』は、日本の大阪で本格的なロケを行った作品である。映画制作サイドはこの作品の制作に当たり、当時の岸 昌(きし・さかえ)大阪府知事から「(映画撮影に)できる限り協力する」との“お墨付き”をもらっていた。しかし、当時の日本にはフィルム・コミッションが存在しなかったため、映画制作サイドが撮影対象者や施設所有者と個別に撮影関連の交渉を行わざるを得ず、撮影時に様々な問題が発生した。各種資料から公式に判明している範囲でも、下記の問題が発生したことが明らかになっている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "このような日本ロケのトラブルが続いた結果、親日家であるリドリー・スコットが最終的に「二度とこの地(日本)では映画を撮らない」と激怒するところまで追い込まれてしまった。ハリウッドで「日本は規制が多く、映画ロケがまともにできない環境の国である」という悪評が広まった結果、その後28年間の長きにわたり、海外の大作映画(特にハリウッド映画)の大阪ロケは全く実施されなかった。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "大阪では『ブラック・レイン』のロケ協力が不十分であったことを反省するとともに、大阪における映像制作の撮影依頼が多かったことから、それを活かす方策を考えるため、1998年頃に研究会を立ち上げた。2000年2月、映画撮影による経済効果や集客力強化を目的として、大阪府・大阪市・大阪商工会議所など地元の行政・経済界の協力により、「大阪フィルム・カウンシル」の前身となる「大阪ロケーション・サービス協議会」を、日本初のフィルム・コミッションとして発足させた。2015年以降は、公益財団法人大阪観光局の組織の一部となっている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "「大阪ロケーション・サービス協議会」を立ち上げた当初、大阪商工会議所専務理事と大阪ロケーション・サービス協議会会長を併任していた大野隆夫は2001年、日本商工会議所のインタビューに対して「我々FCとしては、ロケ地の提供を通じて地域の活性化を図り、直接的な経済効果や、関連産業の振興、海外での知名度を上げることを第一義に活動しています。それに加えて、もう一度映像、特に劇場公開用の映画を見直し、日本の今ある姿を過不足なく国の内外に伝えて行く有力な手段として,映像制作活動をみんなで支援し、その結果、クオリティーの高い文化性のある作品が生まれていくことに少しでも役立てればと思います」と答えている。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "大阪フィルム・カウンシルでは映像作品の誘致と、映画制作サイドへの協力を行っている。その内容は撮影ロケ対象施設の紹介、施設管理者との間の借用交渉の代行、ホテル・駐車場・機材調達先などの紹介、ボランティアのエキストラ募集などである。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "当初は大阪の企業や自治体に撮影交渉の窓口となる専門部署がなかったため、大阪フィルム・カウンシル側の低姿勢な依頼で何とか撮影協力が得られるような状況だったが、徐々に映像作品による広告効果が認識されるようになり、現在では協力作品数が年間150件程度で推移している。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "産経新聞の記事によると、大阪フィルム・カウンシルが協力した作品の中で、難易度が高い課題をクリアした作品がこれまでに2つ存在する。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1つ目は『交渉人 THE MOVIE タイムリミット高度10,000mの頭脳戦』(2010年)。この作品では、臨海部の堺泉北港に位置する泉大津大橋(大阪府泉大津市)を封鎖してアクションシーンを撮影する必要があった。そのため、関連する運送業など約50社の同意を取り付け、配送時間などを調整してアクションシーンを撮影することができた。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2つ目は『プリンセストヨトミ』(2011年)。この作品では、大阪府庁前の上町筋(うえまちすじ)を封鎖して撮影を行う必要があった。大阪フィルム・カウンシルでは、封鎖のための関係機関との交渉を実施したり、2千人以上のエキストラによる群衆シーンの準備に協力して、大阪市内での撮影が無事終了した。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大阪フィルム・カウンシルでは、このような難易度の高い経験を積むことで、ノウハウを蓄積し、新たな課題も次に生かせるようになったと説明している。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このような大阪フィルム・カウンシルの地道な努力が海外でも認められ、2016年には福山雅治が主演するジョン・ウー監督の中国映画『マンハント』の大阪ロケ誘致に成功した。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2021年にはハリウッド映画の『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』の撮影が行われた。『ブラック・レイン』と同じくパラマウントによる配給であり、難色示す上層部をプロデューサーが説得し日本ロケを敢行、完成作を見た上層部も満足したという。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "かつて東京都知事であった石原慎太郎は、自身も映画監督の経験を有している。また、実弟で俳優の石原裕次郎も、石原プロモーションで『西部警察』シリーズに代表されるアクション映画・ドラマなどの制作を多数行っていた。そのため、石原慎太郎は、日本における映画ロケで発生する問題点を熟知していた。石原慎太郎は産経新聞が報道する15年以上も前に、自身の公式サイトで『ブラック・レイン』の大阪ロケで発生した問題点を明確に指摘している。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "以下に石原慎太郎が指摘する、日本の映画撮影ロケが抱える根本的な課題を要約する。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "石原の主張は、アメリカでの実務経験を有する大林宣彦の生前の発言と概ね一致する。そして、石原は「(日本が)映画制作に対して無理解なため、日本を舞台とした作品が海外で話題になったという話を聞くことはほとんどない」と結論づけている。日本の行政の映画制作に関する無理解と制度的な欠陥が、現実のトラブルとなって噴出したのが、『ブラック・レイン』の大阪ロケだったのである。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "このような課題を踏まえ、石原慎太郎は2000年11月、第13回東京国際映画祭の開会式において「銀座でカーチェイスを撮れるようにする」と述べた。大林宣彦によると、石原慎太郎は「東京がフィルム・コミッションに参加するなら、銀座を全封鎖してどんな戦闘シーンも撮らせる」と発言したという。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "そして、石原都政時代の2001年4月20日に、大阪に続く形で東京都が所管するフィルム・コミッション「東京ロケーションボックス」が開設された。東京ロケーションボックスのロケ申請第1号は、リュック・ベッソン監督のフランス映画『WASABI』(2001年)であり、これまで東京都が許可しなかった場所が撮影場所として使用され、社会的に大きな話題を呼んだ。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ただし、石原慎太郎の想いが海外に十分に伝わっているとは未だにいえない部分がある。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "一例として、アメリカ映画で日本を舞台にした作品『ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT』(2006年)では、日本で撮影許可を得ることが困難であるとの前提の下に、東京都内などでゲリラ撮影を多数行った。監督の代役として逮捕される人物まで用意しており、実際に警視庁に拘束された。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "そして、2021年現在も日本では撮影目的の道路封鎖のハードルが極めて高く、石原慎太郎が夢見た「銀座でのカーチェイス」は実現できていない。交通規制については、地方自治体レベルでは解決できない、国レベルの規制の問題が存在するためである。", "title": "日本のフィルム・コミッション" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ジャパン・フィルムコミッションが作成した資料によると、日本のフィルム・コミッションが現在抱えている問題として、下記が挙げられている。", "title": "日本のフィルム・コミッションの運営に関する課題" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "近年、フィルム・コミッションが全国各地に設置されたことにより、以前と比べると日本国内におけるロケ撮影の環境は急速な勢いで改善されつつある。しかし、日本では未だに映画の経済効果への認識が十分とはいえない。例えば、撮影目的で道路使用の許可を得ることが著しく困難であったり、海外からの撮影関係者のビザの取り扱いの問題など、国家レベルで改善が必要な制度的問題が山積している。", "title": "政府主導による映像制作者との官民連絡会議の設立" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "映像制作関係者からの要望を背景として、2016年、日本政府は知的財産戦略本部「映画の振興施策に関する検討会議」を実施した。", "title": "政府主導による映像制作者との官民連絡会議の設立" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "この中で、「我が国における国内外の映像コンテンツのロケーション環境の整備を図り、地域でのロケを推進することによって、日本映画の更なる魅力の増進や、映像産業の技術の向上等の他、地域におけるロケによる経済効果等大きな効果が期待できる」と言及している。", "title": "政府主導による映像制作者との官民連絡会議の設立" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "この検討会議の取りまとめを踏まえた形で、「知的財産推進計画2017」(2017年5月16日、知的財産戦略本部決定)では「日本国内におけるロケ撮影の一層の環境整備を図るため、政府としてロケーション支援の強化を図ること」を明記した。", "title": "政府主導による映像制作者との官民連絡会議の設立" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "そして、2017年からは日本政府の知的財産戦略本部内に「ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議」が立ち上げられ、年1回程度のペースでロケ環境の改善に向けた議論が実施されている。", "title": "政府主導による映像制作者との官民連絡会議の設立" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "内閣府では2019年、「外国映像作品ロケ誘致プロジェクト」を試行的に実施し、中国映画『唐人街探偵 東京MISSION』(2021年中国公開、原題「唐人街探案3」)と、アメリカ映画『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』(2021年世界公開予定)の日本ロケに対して補助金が交付された。フジサンケイグループの広告代理店であるクオラスによって外国映画のロケ誘致の経済効果に関わる調査が実施され、その結果が首相官邸のWebサイトで公開されている。", "title": "政府主導による映像制作者との官民連絡会議の設立" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "本項では、全国の都道府県ならびに政令指定都市レベルのフィルム・コミッション(主に都道府県)または県庁などの窓口のリンクと、ジャパン・フィルムコミッションが掲載している地方別ブロックへのリンクを中心に示す。", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "市町村レベルの組織(政令指定都市を除く)は、文化庁のリンク集一覧(全国ロケーションデータベース FC一覧(文化庁))、各都道府県レベルのフィルム・コミッション、ジャパン・フィルムコミッションに地方ブロック別に掲載されているリンクなどを参照されたい。なお、以下の都道府県の順番は、総務省のコード順に基づく。", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "信州フィルムコミッションネットワーク(長野県)", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ながのフィルムコミッション(公益財団法人 ながの観光コンベンションビューロー)", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "松本フィルムコミッション (一般社団法人 松本観光コンベンション協会)", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "信州上田フィルムコミッション(一般社団法人 信州上田観光協会)", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "諏訪圏フィルムコミッション(諏訪地方観光連盟)", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "伊那谷フィルムコミッション(伊那市役所)", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "", "title": "都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在)" } ]
フィルム・コミッションとは、地域活性化を目的として、映像作品のロケーション撮影が円滑に行われるための支援を行う公的団体である。具体的にはロケ撮影に際して、映像制作者と地域社会(自治体、施設所有者など)との間にフィルム・コミッションが入り、各種連絡・交渉などの調整係の役割を果たす。映像作品は撮影時や上映による経済効果が大きいため、フィルム・コミッションが映像作品の誘致活動などを積極的に行うこともある。
'''フィルム・コミッション'''({{Lang|en|Film Commission}}、略称:FC)とは、地域活性化を目的として、映像作品のロケーション撮影が円滑に行われるための支援を行う公的団体である<ref name="JFC 2020-12-15">{{Cite web|和書 | author = ジャパン・フィルムコミッション | url = https://www.mext.go.jp/sports/content/20210114-spt_stiiki-000012156_04.pdf | title = 【資料4】フィルムコミッションの活動について | date = 2020-12-15 | website = スポーツ庁 地域スポーツ振興組織の在り方検討会(第2回)配付資料(2020年12月15日開催) | publisher = [[スポーツ庁]] | accessdate = 2021-03-23 }}</ref>。具体的にはロケ撮影に際して、映像制作者と地域社会(自治体、施設所有者など)との間にフィルム・コミッションが入り、各種連絡・交渉などの調整係の役割を果たす<ref name="dbj">{{Cite web|和書 |url= https://www.dbj.jp/reportshift/area/newyork/pdf_all/91.pdf |title= アメリカで広がる映像製作に対する公的支援 |publisher= 日本政策投資銀行ニューヨーク駐在員事務所|accessdate=2021-01-05}}</ref>。映像作品は撮影時や上映による経済効果が大きいため、フィルム・コミッションが映像作品の誘致活動などを積極的に行うこともある。 == 概要 == フィルム・コミッションの主な業務は、ロケーションガイド([[ロケーション・ハンティング]]の協力)、優遇措置の案内(自治体による優遇措置やキャンペーンの紹介)、許可の取得(施設使用許可等)、映像制作関連のリソース(撮影スタジオや録音スタジオの紹介、食事や資材の手配、宿泊場所や使用する自動車等に関する手配)などである<ref name="dbj" />。このほかエキストラの募集、パンフレットの製作や配布、エキストラ用の食事の手配なども行う。 フィルム・コミッションは世界各国に存在しており、市町村レベルの小さな組織から、国レベルの大きな組織まで様々な形態が存在する<ref name="dbj" />。 [[イギリス]]では「スクリーン・エージェンシー」({{Lang|en|Screen Agency}})と呼ばれ<ref name ="Masubuchi-2015">{{ウェブアーカイブ |deadlink = yes |title = 増淵敏之, 映画によるまちづくりの現状と今後の展望 月刊地域づくり 第293号, 2015年11月 |url= https://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/book/monthly/1311/html/f00.htm |archiveurl = https://web.archive.org/web/20131109043246/https://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/book/monthly/1311/html/f00.htm |archiveservice = Internet Archive |archivedate =2013-11-06 }}</ref>、[[:en:UK Film Council|UKフィルム・カウンシル]]<small>(英語版Wikipediaへのリンク)</small>の傘下団体として、イギリス全土に9つの組織が存在する({{Lang|en|[[:en:Regional_screen_agencies]]}})。 世界のフィルム・コミッションの業界団体として、1975年に設立された'''国際フィルム・コミッション協会'''(略称:AFCI、事務局:アメリカ・[[モンタナ州]][[ヘレナ (モンタナ州)|ヘレナ]])が存在する<ref name="dbj" />。2006年の国際フィルム・コミッション協会の加盟メンバーは40か国299団体であり、アメリカ(167)、[[カナダ]](29)の順に多く、[[ヨーロッパ]]から58、[[アジア]]から17のメンバーが参加している<ref name="dbj" />。 アジア地域のフィルム・コミッションを統括する組織として、2004年10月に設立された'''アジアン・フィルム・コミッションズ・ネットワーク'''(略称:AFCNet、本部:[[韓国]]・[[釜山広域市|プサン]])が存在する<ref>{{Cite web|和書 | author = ジャパン・フィルムコミッション | url = https://www.japanfc.org/about/purpose | title = 概要|ジャパン・フィルムコミッション | website = ジャパン・フィルムコミッション | publisher = ジャパン・フィルムコミッション | accessdate = 2021-03-23 }}</ref>。 フィルム・コミッションは、1940年代後半のアメリカにおいて、映画会社がロケ撮影を円滑に実施する目的で、地方政府の交渉窓口として作られた組織がその源流である。この組織は、警察、高速道路のパトロール隊、道路管理局、消防署、公園警備官などとロケに関する調整を行った<ref name="dbj" />。アメリカにおいて初めて「フィルム・コミッション」という形で設立された組織は、1969年に[[コロラド州]]が立ち上げた「コロラド・フィルムコミッション」である<ref name="JFC 2020-12-15" /><ref name ="TVfanWeb 2013-05-11">{{ウェブアーカイブ |deadlink = no |title = 共同通信TVfanWeb【映画コラム】『県庁おもてなし課』をはじめ“ご当地映画”が続々登場(2013-05-11) |url = https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/40664 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20130809052258/https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/40664 |archiveservice = [[Internet Archive]] |archivedate = 2013-08-09 }}</ref>。 日本では2000年以降、全国各地でフィルム・コミッションが整備されるようになった。(経緯については後述) アメリカのフィルム・コミッションでは「'''映画の内容に関しては一切物申さず、脚本に書かれていることは全て実現する'''」という点が協力の大前提となっている<ref name ="Clair No_286 2013-08">{{Cite web|和書 | author = 自治体国際化協会 | url = https://www.clair.or.jp/j/forum/forum/pdf_286/04_sp.pdf | title = 自治体国際化フォーラム286号(2013年8月) 特集 フィルムコミッション | date = 2012-07-15 | website = [[自治体国際化協会]] | publisher = [[自治体国際化協会]] | accessdate = 2021-03-21 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20140306193324/https://www.clair.or.jp/j/forum/forum/pdf_286/04_sp.pdf | archivedate = 2014-03-06 }}</ref>。しかし、日本は施設の撮影利用にあたり、世界的に見ても厳格で煩雑な公的規制が多数存在しており、申請先も外部から分かりづらいという課題を抱えている。そのため、フィルム・コミッションだけでは解決困難な問題が多い。 2017年以降、日本政府の知的財産戦略本部内に日本におけるロケ撮影環境の改善を目的とした「'''[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/location_renrakukaigi/ ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議]'''」が設置され、年1回程度のペースで意見交換が行われている。 == アメリカのフィルム・コミッション == アメリカでは古くから映画が「産業」として認知されており、映画制作に対して官民共同の取り組みが行われている。そのため、日本のように「文化振興」を目的とした映画に対する公的支援ではなく、'''映画の撮影による雇用確保と市の収入増加'''を目的とする明確な産業支援政策の一環として、各州政府や自治体の一部門によってフィルム・コミッションが設置されている<ref name="dbj" /><ref name="Ishihara Shintaro Official" />。 2006年現在、50州及び[[ワシントンD.C.]]と[[プエルトリコ]]の計52地域のうち、40以上の地域に160を超えるフィルム・コミッションが設立されている<ref name="dbj" />。フィルム・コミッションの数が最多なのは[[カリフォルニア州]]で、約60団体が州内に存在する<ref name="dbj" />。 アメリカのフィルム・コミッションのメンバーは数名規模のものが多く、1名のみの組織もある。また、有力なフィルム・コミッションでは、映像制作経験者が参加している組織も存在する<ref name="dbj" />。 アメリカの州によっては、映像制作産業に対してロケ実施時に下記の税制上の優遇措置が導入されている場合がある<ref name="dbj" />。 * '''売上税・使用税の免除''' * '''所得税等の税額控除''' * '''宿泊税の免除''' * '''与信制度''' 支援措置の中心となるのは売上税・使用税の免除と所得税等の税額控除である。さらに、作品によってロケーション地が変わることから、所得控除そのものが州をまたいで取引対象とされている<ref name="dbj" />。ただし、アメリカ最大の映画産業が存在するカリフォルニア州ではこのような優遇措置を導入していないため、優遇措置を導入している他の州や、同様の優遇措置を設けている[[カナダ]]、[[メキシコ]]などにロケ地の「流出」が発生している<ref name="dbj" />。 == 日本のフィルム・コミッション == 2000年以降、全国各地でフィルム・コミッションの整備が進められた結果、2021年現在の日本国内のフィルム・コミッションは約350団体であり、国内のフィルム・コミッションの数としては世界最多となっている<ref name="JFC 2020-12-15" /><ref>{{ウェブアーカイブ | deadlink= no | title = 地域と映像業界、共栄へ=関根留理子 ジャパン・フィルムコミッション事務局長 毎日新聞 2021年1月7日付 |url = https://mainichi.jp/articles/20210107/ddm/004/070/009000c |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210108003859/https://mainichi.jp/articles/20210107/ddm/004/070/009000c |archiveservice=[[Internet Archive]] |archivedate=2021-01-08}}</ref>。 その結果、日本国内でロケ撮影を実施する作品数が大幅に増加しており、2000年には282本だったものが、2008年には418本<ref name="JFC 2020-12-15" />、2015年には2000年のほぼ2倍に当たる581本<ref name="JFC 2017-08-02">{{Cite web|和書 | author = ジャパン・フィルム・コミッション | url = https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/location_renrakukaigi/dai1/siryou2.pdf | title = 首相官邸 ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議 第1回会議資料 日本国内におけるロケ撮影の現状と課題 | date = 2017-08-02 | website = 首相官邸 ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議 | publisher = | accessdate = 2021-03-22 }}</ref>、2018年には613本<ref name="JFC 2020-12-15" />となった。 邦画に限ると、2015年の国内興行収入上位32作品(うち実写22作品)のうち、フィルム・コミッションの支援を受けない実写作品はわずか1作品のみであった{{Efn|宇宙を舞台としたコメディ映画『[[ギャラクシー街道]]』(2015年、[[三谷幸喜]]監督)<ref name="JFC 2017-08-02" />。実写作品ではあるが、舞台が宇宙となっており、全編がセット撮影とアニメーションの組み合わせで、ロケは実施されなかった。そのため、そもそもフィルム・コミッションの支援を受ける必要がなかったという、若干特殊な作品である。}}。2016年の邦画上位37作品では実写32作品中31作品、アニメーションは11作品中1作品がフィルム・コミッションの支援を受けている<ref name="JFC 2020-12-15" />。2017年の邦画上位38作品のうち、実写28作品は全てフィルム・コミッションの支援を受けている<ref name="JFC 2020-12-15" />。 日本の民間企業では「ロケーションサービス」という名称で、フィルム・コミッションとほぼ同様のサービスを行う部署を設置するケースがある([[西日本旅客鉄道|JR西日本]]や[[本州四国連絡高速道路株式会社|本州四国連絡高速道路]]など)。 また、日本のフィルム・コミッションは観光振興政策の延長線的位置づけとして、各都道府県庁、市役所、町村役場の観光課もしくは観光振興を目的とする外郭団体によって運営されている場合が多く、警察にも影響力を及ぼすことが可能なアメリカのフィルム・コミッションほど強力な権限を有していない<ref name ="Clair No_286 2013-08" /><ref name="Ishihara Shintaro Official">{{Cite web|和書 | author = [[石原慎太郎]] | url = http://210.136.153.187/policy/location/index.html | title = 支援策 東京ロケーションボックス 東京を世界のシネマスクリーンに | date = 2001年(公開日不詳) | website = 宣戦布告 NETで発信石原慎太郎 | publisher = 石原慎太郎 | accessdate = 2021-03-21 }}</ref>。そのため、例えばアメリカのように道路を封鎖してカーアクションを撮影することは未だに困難な状況である<ref name="cinemasplus 2021-03-18">{{Cite web|和書 | author = 杉本穂高 | url = https://cinema.ne.jp/article/detail/46101?page=1 | title = 銀座でカーチェイスも?東京であらゆる映画が撮れる時代がやってくる | date = 2021-03-18 | website = シネマズプラス | publisher = 株式会社フォンテーン・株式会社ギークピクチュアズ | accessdate = 2021-03-21}}</ref>。 現在、日本のフィルム・コミッションの連絡機関として2009年に設立された「'''特定非営利活動法人ジャパン・フィルムコミッション'''」(略称:JFC)が存在する。 ただし、JFCは民間団体であり、日本のフィルム・コミッションを全て統括するものではない。予算の関係などで、JFCに未加盟の小規模な市町村レベルのフィルム・コミッションが国内に多数存在する点にも留意が必要である<ref name ="Masubuchi-2015" />。 近年、日本国内でフィルム・コミッションが整備された結果、全国の都道府県ほぼ全てに窓口が整備されており、都道府県レベルの窓口がJFC未加盟の団体も含めた市町村レベルのフィルム・コミッションを紹介するという流れができつつある。 === フィルム・コミッションの3要件=== JFCが定義するフィルム・コミッションの要件は、以下の通りである<ref name="JFC 2020-12-15" />。 * '''非営利の公的機関であること''' ** フィルム・コミッションは制作者との対等な立場を担保するため、撮影支援サービスに対する対価を受け取ってはならない{{Efn|施設利用料等は除く。}}。 ** フィルム・コミッションのスタッフは、フィルム・コミッションの任務を個人的な利益と対立させてはならない。 ** フィルム・コミッションは、地域の自治体に所属する組織または地域の自治体が活動を支援している唯一の組織である必要がある。 * '''撮影支援の相談に対するワンストップサービスの提供''' ** トラブル等の把握、情報の集約などのため、フィルム・コミッションが'''一元的な相談窓口'''となっている必要がある。そのために、次の体制が整備されている必要がある。 *** 国や地方自治体における施設使用の許認可権を有する部局との協力体制 *** 地域内の企業・団体・住民等との信頼関係を保ち、民間施設の撮影支援要請を仲介可能な体制 * '''作品内容を選ばないこと''' ** [[表現の自由]]を尊重する観点から、フィルム・コミッションは検閲行為を行ってはならない。 ** フィルム・コミッションはロケ候補地の管理者と制作者の仲介・連絡調整を行うものであり、対象作品に対する撮影支援の可否は施設などの管理者が決定する。 ** ただし、作品の内容を除く条件において地域が不利益を被る場合は、この限りではない。 === JFCの取り組み === JFCでは、撮影環境整備ならびに人材育成のため、以下の取り組みを実施している<ref name="JFC 2017-08-02" />。 * '''フィルム・コミッション説明会'''(年1回) *:映像制作者を対象に、地域の撮影支援の取り組み、フィルム・コミッションの活動の説明、各地域の特徴等を説明する。さらに、警視庁の協力を得て、撮影に関する道路使用に関する説明や、通達の説明、相談会も同時に実施している。 * '''委員会の設置''' *:映像作品に対する支援事例などを共有するとともに、関係者にヒアリング調査などを実施。フィルム・コミッションや地域側の注意喚起を行ったり、研修などの資料として活用している。 * '''JFC認定研修会'''(年1回) *:新規にフィルム・コミッションの担当者となった人を対象に、基本的なフィルム・コミッション業務や映像制作の知識、撮影に関する道路交通法、関係する法律の知識などの研修会を実施。講師は警察庁関係者、弁護士、映像制作者、フィルム・コミッション経験者などで、毎年100名程度が受講している。同時に、実際の映像スタジオの見学なども行い、映像制作についても学んでいる。 * '''JFCスキルアップ研修会'''(年1回) *:経験を積んだフィルム・コミッション担当者を対象に、最新事例を学んだり、地域で抱える問題や課題を共有し、フィルム・コミッション活動に活かす。 === 日本のフィルム・コミッションならびに関連事象の沿革 === * 1988年 *: [[大阪]]でアメリカ映画『[[ブラック・レイン]]』の撮影が行われるが、フィルム・コミッションの不在により様々なトラブルが発生。以後、28年間にわたり大阪での海外作品の撮影は行われなかった<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。(詳しくは後述) * 1989年 *: [[福岡県]][[北九州市]]が、映画やドラマ等の撮影誘致と支援の取組みを開始<ref name="Kitakyushu-City">{{Cite web|和書 | author = 北九州フィルムコミッション | url = https://www.kitakyu-fc.com/about/index.html | title = KFCとは?|北九州フィルムコミッション | date = 2017年(公表日不詳) | website = 北九州フィルムコミッション | publisher = 北九州フィルムコミッション | accessdate = 2021-03-23 }}</ref>。 * 2000年 ** 2月 **:「フィルム・コミッション設立研究会」発足。 **: [[大阪フィルム・カウンシル|大阪ロケーション・サービス協議会(現在の大阪フィルム・カウンシル)]]が日本初{{Efn|name="Osaka and Kitakyushu"|北九州フィルムコミッションも自らを「日本初のフィルム・コミッション」と謳っているが<ref name="Kitakyushu-City" />、組織として設立されたのは大阪のほうが7ヶ月早い。}}のフィルム・コミッションとして設立される<ref name="Osaka-FC Official">{{Cite web|和書 | author = 大阪フィルム・カウンシル | url = https://www.osaka-fc.jp/council/ | title = メッセージ|大阪フィルム・カウンシルとは|大阪フィルム・カウンシル | publisher = 公益財団法人大阪観光局 | accessdate = 2021-03-17 }}</ref>。 ** 9月 **: 北九州市が[[北九州フィルム・コミッション]]を設立<ref name="Kitakyushu-City" />{{Efn|name="Osaka and Kitakyushu"}}。 **: 神戸市が[[神戸フィルムオフィス]]を設立<ref>{{Cite web|和書 | author = [[神戸フィルムオフィス]] | url = https://www.kobefilm.jp/about/ | title = 神戸フイルムオフィスとは|KOBE FILM OFFICE | website = [[神戸フィルムオフィス]] | publisher = [[神戸フィルムオフィス]] | accessdate = 2021-03-23 }}</ref>。 **:「フィルム・コミッション設立推進全国シンポジウム」開催。 ** 10月 **: 横浜市が横浜フィルム・コミッションを設立<ref>{{Cite web|和書 | author = [[横浜市]] | url = https://www.city.yokohama.lg.jp/kanko-bunka/miryoku/films/oyakudachi/fc.html#3C827 | title = フィルムコミッションについて | date = 2019-03-20 | website = [[横浜市]] | publisher = [[横浜市]] | accessdate = 2021-03-23 }}</ref>。 ** 11月 **: [[第13回東京国際映画祭]]において、国際シンポジウム開催。開会式の冒頭で、[[石原慎太郎]]都知事(当時)が「銀座でカーチェイスを撮れるようにする」と述べ、東京都のフィルム・コミッション設立を予告<ref name ="cinemasplus 2021-03-18" /><ref name="Response. 2001-04-20">{{Cite web|和書 | author = 石田真一 | url = https://response.jp/article/2001/04/20/8625.html | title = 東京・銀座でカーチェイス---都庁内ロケボックスで撮影許可を | date = 2001-04-20 | website = [[Response.]] | publisher = [[イード (企業)|株式会社イード]] | accessdate = 2021-03-21 }}</ref><ref name="Cinamatopics 2000-11-05">{{Cite web|和書 | author = Cinematopics | url = http://www3.cinematopics.com/archives/37706 | title = 銀座でカーチェイスを! | date = 2000-11-05 | website = Cinematopics | publisher = Cinematopics online | accessdate = 2021-03-21 }}</ref>。 * 2001年 ** 4月 **: 石原都政の強い主導により、東京都のフィルム・コミッション「東京ロケーションボックス」が設立される<ref name="Response. 2001-04-20" />。東京ロケーションボックスが協力する初の海外作品として、[[リュック・ベッソン]]監督のフランス映画『[[WASABI]]』(2001年)が採択。 ** 8月 **:「全国フィルム・コミッション連絡協議会」設立。 * 2005年頃 *: アメリカ映画『[[ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT]]』の日本ロケが行われるが、ゲリラ撮影{{Efn|name="Guerrilla Shooting"|日本の関係の所管機関(警察など)に申請しない状態で、路上などの施設で撮影を行うこと。}}を行ったため、関係者が[[警視庁]]に拘束される{{r|cinemasplus 2021-03-18|Front-row 2020-07-26}}。 * 2008年 *: 全国FC協議会の会員数が108団体に達する<ref name="JFC 2020-12-15" />。 * 2009年 ** 3月 **:「全国フィルム・コミッション連絡協議会」解散、翌月に特定非営利活動法人ジャパン・フィルムコミッションへ組織移行。 ** 4月 **:「特定非営利活動法人ジャパン・フィルムコミッション」設立。 * 2014年 *: 日本のフィルム・コミッションが278団体となる<ref name="JFC 2020-12-15" />。 * 2016年 *: 大阪フィルム・カウンシルが、[[福山雅治]]主演の中国映画『[[マンハント (2017年の映画)|マンハント]]』のロケ誘致に成功する<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。 *: 日本政府が知的財産戦略本部「映画の振興施策に関する検討会議」を実施<ref name="Kantei Renraku Kaigi" />。 * 2017年 *: 日本政府の[[知的財産戦略本部]]内に「'''[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/location_renrakukaigi/ ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議]'''」が立ち上げられる。 *: 日本のフィルム・コミッションが305団体となる<ref name="JFC 2020-12-15" />。 * 2019年 *: 内閣府が試行的に「外国映像作品ロケ誘致プロジェクト」を実施。中国映画『[[唐人街探偵 東京MISSION]]』(2021年中国公開、原題「唐人街探案3」)と、アメリカ映画『[[G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ]]』(2021年世界公開予定)に対して補助金の交付を実施する。 *: 日本のフィルム・コミッションが335団体となる<ref name="JFC 2020-12-15" />。 === 日本におけるフィルム・コミッション設立前史 === フィルム・コミッション設立と直接関係するのかは不明だが、地元の人たちが映画製作に全面協力した例としては、[[群馬県]][[高崎市]]で地元住民も参加して撮影された[[今井正]]監督作品『[[ここに泉あり]]』(1950年)や、[[広島市]]の一般市民8万8500人が[[エキストラ]]として参加したといわれる<ref name ="chosyu">{{Cite news|url=https://www.chosyu-journal.jp/review/12860|title=NHK・ETV特集 『忘れられた“ひろしま”』|author=|newspaper=[[長周新聞]]|publisher=長周新聞社|date=2019年8月22日|accessdate=2022年9月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200806220655/https://www.chosyu-journal.jp/review/12860|archivedate=2020年8月6日}}</ref>[[関川秀雄]]監督作品『[[ひろしま]]』(1953年)等、古くからある<ref name ="chosyu"/>。但し、フィルム・コミッション設立の直接の切っ掛けとしては、[[大林宣彦]]監督が[[1980年代]]に、故郷・[[尾道市|尾道]]で多くの地元賛同者の協力を得て撮影した「[[大林宣彦#尾道三部作|尾道三部作]]」(『[[転校生 (映画)|転校生]]』(1982年)、『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』(1983年)、『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』(1985年))が、フィルム・コミッションの先駆けとして評価されることが多い<ref name ="Masubuchi-2015" /><ref name ="TVfanWeb 2013-05-11" /><ref name ="Clair No_286 2013-08" /><ref>{{Cite web|和書 | author = 内閣府政策統括官室(経済財政分析担当) | url = https://www5.cao.go.jp/j-j/cr/cr07/chr07_3-5-3.html | title = 地域の経済2007 ~自立を目指す地域経済~ | date = 2007-11-30 | website = [[内閣府]] | publisher = [[内閣府]] | accessdate = 2021-03-21 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 | author = | url = https://www5.cao.go.jp/j-j/cr/cr07/chr07_3-5-3.html | title = 地域の経済2007 > 第3章 第5節 ケーススタディ1:「映画の街」尾道 | date = 2020-12-15 | website = 内閣府の政策 > 経済財政政策 > 白書等(経済財政白書、世界経済の潮流、地域の経済等) > 白書等(過去のデータ) > | publisher = [[内閣府]] | accessdate = 2022-09-25 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20110813205855/https://www5.cao.go.jp/j-j/cr/cr07/chr07_3-5-3.html | archivedate = 2011-08-13 }}</ref><ref name="キネ旬20191上">{{Cite journal|和書|author=|date=2019年1月上旬号|title=1980年代日本映画BEST15|chapter=キーワードでふりかえる1980年代〔日本映画篇〕 尾道三部作 文・金澤誠|journal=[[キネマ旬報]]|publisher=[[キネマ旬報社]]|page=57}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO57965620S0A410C2MM8000/|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2020-04-12|title=春秋|accessdate=2022年9月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210119140507/https://www.nikkei.com/article/DGXKZO57965620S0A410C2MM8000|archivedate=2021年1月19日}}{{Cite news|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/89709|title=「映画のまち」魅力アップへ 尾道フィルムラボ発足|author=森田晃司|newspaper=[[中国新聞|中国新聞デジタル]]|publisher=[[中国新聞社]]|date=2021-03-06|accessdate=2022年9月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220925062749/https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/89709|archivedate=2022年9月25日}}{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20220731-ZBDU3AUILBOATD6LAFKC27LVLM/|title=「映画のまち」尾道 受け継がれる大林宣彦監督の遺志|author=嶋田知加子|newspaper=[[産業経済新聞]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2022-07-31|accessdate=2022年9月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220731051508/https://www.sankei.com/article/20220731-ZBDU3AUILBOATD6LAFKC27LVLM/|archivedate=2022年7月31日}}</ref>。[[キネマ旬報]]は[[1980年代]]の特集記事で「[[大林宣彦#尾道三部作|尾道三部作]]」を1980年代の[[キーワード]]の一つとして取り上げ、尾道三部作が各[[地方公共団体|地方自治体]]にフィルム・コミッションを生む切っ掛けとなり<ref name="キネ旬20191上"/>、また[[アニメーション|アニメ作品]]の[[巡礼 (通俗)|聖地巡礼]](アニメツーリズム)の先駆けとなったと論じている<ref name="キネ旬20191上"/>。 ただし、生前の大林の発言<ref name ="Clair No_286 2013-08" />によると、このような地元の協力事例は、アメリカにおけるフィルム・コミッションとは似て非なるものだという。 日本国内向けのCM撮影の監督を多く務め、アメリカロケの豊富な実務経験を有していた大林によると、フィルム・コミッションのルールで最も重要なのは「'''映画の内容に関しては一切物申しはせず、脚本に書かれていることは全て実現する'''」という点である。アメリカでは、仮に映画ロケにより街の施設が破壊されたとしても、潤沢な予算を持つ映画制作サイドがロケの終了後に修復を行い、むしろ以前存在した施設よりも立派なものを作るということが社会的に許容されている<ref name ="Clair No_286 2013-08" />。 しかし、邦画の制作にかけられる予算はアメリカのハリウッド映画と比べるとはるかに少ないため、日本の場合、アメリカとは逆に地元からタイアップを始めとした支援をしてもらわなければならない状況であった<ref name ="Clair No_286 2013-08" />。この点は、日本でフィルム・コミッションが設立されるようになってもほぼ同様である<ref name ="Clair No_286 2013-08" />。 大林は生前、「アメリカと日本では国状も映画の存在の意味も異なるから、「フィルムコミッション」という呼び名をそのまま日本で使うのは誤解の元で、国際的な混乱を招くから、違う名称を考案したほうが良いよ」と主張していた<ref name ="Clair No_286 2013-08" />。 === 北九州市の先駆的取り組み(1989年) === [[福岡県]][[北九州市]]は、「[[修羅の国]]」「公害の街」「灰色の街」「暴力の街」というマイナスのイメージに長年悩まされていた<ref name="Ritsumeikan Sangyo 201103">{{Cite journal | author = 永橋爲介、神谷雅子、宮西恵津 | title = 2000年代におけるフィルム・コミッション論の検証 | journal = 立命館産業社会論集 | volume = 46 | issue = 4 | pages = 59 | publisher = [[立命館大学]] | location = | date = 2011-03-01 | language = 日本語 | url = https://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2010/46-4_02-04.pdf | issn = 02882205 | accessdate = 2021-03-25 }}</ref>。 北九州市のイメージを向上させるため、同市では自治体としては全国に先駆けて「北九州市広報室イメージアップ班」を設置し、1989年から国内外の映画・テレビドラマ等の誘致・支援への取り組みを開始した{{Efn|大阪を舞台とした映画『ブラック・レイン』が1989年公開である。北九州市の映像支援の取り組みは、偶然にも『ブラック・レイン』の大阪ロケでフィルム・コミッションの不在により様々なトラブルが起きたのとほぼ同時期に開始されたことになる。}}。北九州市が、映像振興のために1989年から1999年までの11年間に要した経費(人件費を除く)は1億円程度であったが、誘致したテレビ番組は合計475本に達し、宣伝効果は52億円にも登った。 その後、北九州市は広報室イメージアップ班を拡充する形で、2000年9月に「[[北九州フィルム・コミッション]]」を設立した。フィルム・コミッションとしての組織設立は、後述の大阪の方が北九州市より若干早い2000年2月であったが、大阪でロケ誘致・支援の検討を具体的に開始したのは1998年頃である。そのため、フィルム・コミッションとしての活動実態は北九州市が大阪より約10年先行しており、様々なノウハウを蓄積している。現在では、映像関係者の間で「不可能を可能にするロケ地」として、真っ先に北九州市の名前が挙がるようになり、他の地域では困難な爆破シーンや道路封鎖シーンなどが撮影できる体制が構築されている<ref name="tabirai 2017-03">{{Cite web|和書 | author = 河三平 | url = https://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000568.aspx | title = 「映画の街・北九州」のロケ地を巡る <小倉・門司>篇 | date = 2017-03-01 | website = たびらい | publisher = [[パム (企業)|株式会社パム]] | accessdate = 2021-03-25 }}</ref>。 一般的に、フィルム・コミッションの活動は観光振興を兼ねているため、地元PRの要素を入れることが多いが、北九州市は他の都市の代替としてのロケも多数受け入れている。北九州フィルム・コミッションの担当者は「声をかけていただいた仕事には全て協力する。東京の代わりとしてのロケ地でも大歓迎」と語っており、2017年までに撮影された通算200本のうち、約半数が東京の代替ロケ地である<ref name="tabirai 2017-03" />。一例として、TBSドラマ『[[MOZU#Season1|MOZU Season1]]』(2014年)では、東京・銀座での爆破シーンという設定で、[[小倉]]の市街地で実際の爆破ロケが行われた<ref name="tabirai 2017-03" />。 === 大阪における日本初のフィルム・コミッション設立とその経緯 (2000年) === 2000年2月、日本初のフィルム・コミッション{{Efn|name="Osaka and Kitakyushu"}}である「大阪ロケーション・サービス協議会」(現在の大阪フィルム・カウンシル)が官民協力の下、[[大阪]]で立ち上げられた<ref name="Osaka-FC Official" />。 大阪の地で日本初のフィルム・コミッションが設立された理由は、1988年に大阪ロケを実施したハリウッド映画『[[ブラック・レイン]]』(1989年)の苦い経験を教訓としていたことが、2016年3月の産経新聞の報道<ref name="Sankei West 2016-06-01">{{Cite web|和書 | author = 産経新聞社 | url = https://www.sankei.com/article/20160601-XBGYVKHAHFL4JDOZZJWNXCESBY/ | title =【けいざい徒然草】 「ブラック・レイン」の汚名返上なるか?福山主演のJ・ウー最新作で問われる大阪ロケの「おもてなし」度 | date = 2016-06-01 | website = 産経WEST | publisher = 産経新聞社 | accessdate = 2021-03-16 }}</ref>により明らかになっている。 以下、産経新聞の報道内容ならびに同作の監督を務めた[[リドリー・スコット]]の発言から、当時発生した問題の概要と、フィルム・コミッション設立に至る経緯を記す。 [[松田優作]]の遺作となったことでも有名な『ブラック・レイン』は、日本の大阪で本格的なロケを行った作品である。映画制作サイドはこの作品の制作に当たり、当時の[[岸昌|岸 昌]](きし・さかえ)大阪府知事から「(映画撮影に)できる限り協力する」との“お墨付き”をもらっていた<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。しかし、当時の日本にはフィルム・コミッションが存在しなかったため、映画制作サイドが撮影対象者や施設所有者と個別に撮影関連の交渉を行わざるを得ず、撮影時に様々な問題が発生した。各種資料から公式に判明している範囲でも、下記の問題が発生したことが明らかになっている。 * 大阪府庁舎内でのトラブル *: 大阪府庁舎で映画の撮影を開始したところ、映画制作側が雇った警備員が庁舎内の撮影現場付近の通行を制限したことに対して、大阪府の職員がクレームを入れてきた。また、映画のスタッフが撮影効果(スモーク)を目的として植物油を気化させたところ、庁舎内に白煙が充満して、大阪府側から厳重な抗議を受けた。そのため、映画制作側としては「府知事から協力の申し出があったのに、当の大阪府側からなぜこのような抗議を受けなければならないのか」という不満を抱くことになった<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。 * 道路使用許可のトラブル *: 大阪の繁華街ロケに[[大阪府警察|大阪府警]]からクレームがついたため、映画制作側は脚本の大幅な書き換えを余儀なくされ、日本ではカーチェイスなどの撮影許可も降りなかった<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。この作品のクライマックスシーンとなる日本のヤクザ・佐藤(松田優作)と、アメリカの刑事・ニック([[マイケル・ダグラス]])のバイクによる逃走・追跡のシーンは、[[アメリカ]]・[[ナパバレー]]のぶどう畑で撮影された{{Efn|IMDBの撮影地情報ならびにDVD・ブルーレイ収録情報による。}}。 * [[大阪市中央卸売市場]]でのトラブル *: 『ブラック・レイン』DVD・ブルーレイに収録されているリドリー・スコットのオーディオ・コメンタリーによると、ロケに使用した大阪市中央卸売市場では、市場側との2ヶ月間にわたる交渉{{Efn|日本語字幕は誤って「契約は2ヶ月間だ」と訳されているが、英語ではリドリー・スコットが「{{en|We had a deal for this with two months}}」と語っており、「市場における2日間の撮影期間を確保するための交渉に2ヶ月間もかけたのに、その条件を市場側に反故にされて、2日間の撮影期間を1日間に短縮された」というのが正しい日本語訳である。ハリウッド制作側の怒りは、妥当な理由も明示せずに後付で一方的に撮影条件を変更した挙げ句に、撮影の延長のために法外な保証金を要求した大阪の市場の態度に対するものである。}}の末、当初は2日間の撮影期間が確約されていた。しかし、その後市場側からの一方的な通告で撮影期間を1日間に短縮された挙句に、撮影延長をする場合は1日あたり25万ドル(1988年当時のレートで約3250万円)という法外な保証金を支払うように市場側から要求された。そのためやむを得ず無理なスケジュールを組み、わずか1日で大阪市中央卸売市場(魚市場)の全シーンの撮影を終えざるを得なかった。 このような日本ロケのトラブルが続いた結果、親日家{{Efn|リドリー・スコットは日本文化に関心が高く、日本人の女性メイドまで雇用していた<ref> {{Cite | author = 高尾 慶子 | title = イギリス人はおかしい~日本人ハウスキーパーが見た階級社会の素顔 | publisher = 文藝春秋社 | date = 2001年2月9日 | pages = 321 | isbn = 978-4167123093 }}</ref>。リドリー・スコットが監督を務めたSF映画『[[ブレードランナー]]』(1982年)に、日本をモチーフにした近未来像が多数出現するのは、このためである。}}であるリドリー・スコットが最終的に「'''二度とこの地(日本)では映画を撮らない'''」と激怒するところまで追い込まれてしまった<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。ハリウッドで「日本は規制が多く、映画ロケがまともにできない環境の国である」という悪評が広まった結果、その後28年間の長きにわたり、海外の大作映画(特にハリウッド映画)の大阪ロケは全く実施されなかった<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。 大阪では『ブラック・レイン』のロケ協力が不十分であったことを反省するとともに、大阪における映像制作の撮影依頼が多かったことから、それを活かす方策を考えるため、1998年頃に研究会を立ち上げた<ref name="Ritsumeikan Sangyo 201103" />。2000年2月、映画撮影による経済効果や集客力強化を目的として、[[大阪府]]・[[大阪市]]・[[大阪商工会議所]]など地元の行政・経済界の協力により、「[[大阪フィルム・カウンシル]]」の前身となる「大阪ロケーション・サービス協議会」を、日本初のフィルム・コミッションとして発足させた<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。2015年以降は、[[大阪観光局|公益財団法人大阪観光局]]の組織の一部となっている<ref name="Osaka-FC Official" />。 「大阪ロケーション・サービス協議会」を立ち上げた当初、大阪商工会議所専務理事と大阪ロケーション・サービス協議会会長を併任していた大野隆夫は2001年、[[日本商工会議所]]のインタビューに対して「我々FCとしては、ロケ地の提供を通じて地域の活性化を図り、直接的な経済効果や、関連産業の振興、海外での知名度を上げることを第一義に活動しています。それに加えて、もう一度映像、特に劇場公開用の映画を見直し、日本の今ある姿を過不足なく国の内外に伝えて行く有力な手段として,映像制作活動をみんなで支援し、その結果、クオリティーの高い文化性のある作品が生まれていくことに少しでも役立てればと思います」と答えている<ref name="Ritsumeikan Sangyo 201103" /><ref>{{Cite journal | title = 特集 ロケ誘致で地域を売り込め 設立相次ぐフィルム・コミッションの展望「インタビュー 市民のサポートで大阪を『映像の街』に」 | journal = 石垣 | volume = 21 | issue = 7 | publisher = 日本商工会議所 | date = 2001-09-10 | url = https://www.jcci.or.jp/nissyo/publication/ishi0110.html | issn = 03889807 }}</ref>。 大阪フィルム・カウンシルでは映像作品の誘致と、映画制作サイドへの協力を行っている。その内容は撮影ロケ対象施設の紹介、施設管理者との間の借用交渉の代行、ホテル・駐車場・機材調達先などの紹介、ボランティアのエキストラ募集などである{{Efn|『ブラック・レイン』では、これらの交渉を全てハリウッド側のスタッフが個別に行った結果、様々なトラブルが発生したと見られる。『ブラック・レイン』DVD・ブルーレイのリドリー・スコットのオーディオコメンタリーでは、プロデューサーの[[スタンリー・R・ジャッフェ]]が大阪市中央卸売市場側の対応に激怒したことが説明されている。}}。 当初は大阪の企業や自治体に撮影交渉の窓口となる専門部署がなかったため、大阪フィルム・カウンシル側の低姿勢な依頼で何とか撮影協力が得られるような状況だったが、徐々に映像作品による広告効果が認識されるようになり、現在では協力作品数が年間150件程度で推移している<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。 産経新聞の記事によると、大阪フィルム・カウンシルが協力した作品の中で、難易度が高い課題をクリアした作品がこれまでに2つ存在する。 1つ目は『[[交渉人 THE MOVIE タイムリミット高度10,000mの頭脳戦]]』(2010年)。この作品では、臨海部の[[堺泉北港]]に位置する泉大津大橋([[大阪府]][[泉大津市]])を封鎖してアクションシーンを撮影する必要があった。そのため、関連する運送業など約50社の同意を取り付け、配送時間などを調整してアクションシーンを撮影することができた<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。 2つ目は『[[プリンセス・トヨトミ#映画|プリンセストヨトミ]]』(2011年)。この作品では、[[大阪府庁]]前の[[上町筋]](うえまちすじ)を封鎖して撮影を行う必要があった。大阪フィルム・カウンシルでは、封鎖のための関係機関との交渉を実施したり、2千人以上の[[エキストラ]]による群衆シーンの準備に協力して、大阪市内での撮影が無事終了した<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。 大阪フィルム・カウンシルでは、このような難易度の高い経験を積むことで、ノウハウを蓄積し、新たな課題も次に生かせるようになったと説明している<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。 このような大阪フィルム・カウンシルの地道な努力が海外でも認められ、2016年には[[福山雅治]]が主演する[[ジョン・ウー]]監督の中国映画『[[マンハント_(2017年の映画)|マンハント]]』の大阪ロケ誘致に成功した<ref name="Sankei West 2016-06-01" />。 2021年にはハリウッド映画の『[[G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ]]』の撮影が行われた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=国が海外映画作品の「ロケ誘致」に乗り出した理由 {{!}} 映画界のキーパーソンに直撃|url=https://toyokeizai.net/articles/-/463905|website=東洋経済オンライン|date=2021-10-24|accessdate=2021-10-24|language=ja}}</ref>。『ブラック・レイン』と同じくパラマウントによる配給であり、難色示す上層部をプロデューサーが説得し日本ロケを敢行、完成作を見た上層部も満足したという<ref name=":0" />。 === 東京都のフィルム・コミッション設立 (2001年) === かつて[[東京都知事]]であった[[石原慎太郎]]は、自身も映画監督の経験を有している。また、実弟で俳優の[[石原裕次郎]]も、[[石原プロモーション]]で『[[西部警察]]』シリーズに代表されるアクション映画・ドラマなどの制作を多数行っていた。そのため、石原慎太郎は、日本における映画ロケで発生する問題点を熟知していた。石原慎太郎は産経新聞が報道する15年以上も前に、自身の公式サイトで『ブラック・レイン』の大阪ロケで発生した問題点を明確に指摘している<ref name="Ishihara Shintaro Official" />。 以下に石原慎太郎が指摘する、日本の映画撮影ロケが抱える根本的な課題を要約する。 * アメリカと日本では映画制作に対する考え方が根本的に大きく異なる。アメリカでは、映画が産業として認知されている。これは、映画制作に対して官民共同の取り組みが行われていることと同義である。 * [[ニューヨーク]]では、市長室に「フィルム・コミッション」が設置されている。これは、日本の自治体の映画協賛のような文化支援ではなく、'''映画の撮影による雇用確保と市の収入増加を目的としたものである'''。また、市長室にフィルム・コミッションが置かれていることにより、市長の強力な権限に基づき、市警など関係部局との調整を行うことが可能となる。アメリカでは、このような映画制作に対する自治体の支援体制が整っているため、撮影手続も簡素である。 * しかし、日本では撮影許可を得るためには映画関係者が多くの所管を回る必要があり、さらに申請をどこで行えばいいのかも分かりにくい。同じ東京都所管の施設であっても都立公園の管理は各々の管理事務所、海上公園は埠頭公社、都庁舎は財務局などというように、個々の所管が異なっており、外部にはわかりにくい。 石原の主張は、アメリカでの実務経験を有する大林宣彦の生前の発言<ref name ="Clair No_286 2013-08" />と概ね一致する。そして、石原は「(日本が)映画制作に対して無理解なため、日本を舞台とした作品が海外で話題になったという話を聞くことはほとんどない」と結論づけている。日本の行政の映画制作に関する無理解と制度的な欠陥が、現実のトラブルとなって噴出したのが、『ブラック・レイン』の大阪ロケだったのである。 このような課題を踏まえ、石原慎太郎は2000年11月、[[第13回東京国際映画祭]]の開会式において「銀座でカーチェイスを撮れるようにする」と述べた<ref name ="cinemasplus 2021-03-18" /><ref name="Response. 2001-04-20" /><ref name="Cinamatopics 2000-11-05" />。大林宣彦によると、石原慎太郎は「東京がフィルム・コミッションに参加するなら、銀座を全封鎖してどんな戦闘シーンも撮らせる」と発言したという<ref name ="Clair No_286 2013-08" />。 そして、石原都政時代の2001年4月20日に、大阪に続く形で東京都が所管するフィルム・コミッション「東京ロケーションボックス」が開設された。東京ロケーションボックスのロケ申請第1号は、[[リュック・ベッソン]]監督のフランス映画『[[WASABI]]』(2001年)であり、これまで東京都が許可しなかった場所が撮影場所として使用され、社会的に大きな話題を呼んだ<ref name="Ishihara Shintaro Official" />。 ただし、石原慎太郎の想いが海外に十分に伝わっているとは未だにいえない部分がある。 一例として、アメリカ映画で日本を舞台にした作品『[[ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT]]』(2006年)では、日本で撮影許可を得ることが困難であるとの前提の下に、東京都内などでゲリラ撮影{{Efn|name="Guerrilla Shooting"}}を多数行った。監督の代役として逮捕される人物まで用意しており、実際に警視庁に拘束された<ref name="cinemasplus 2021-03-18" /><ref name="Front-row 2020-07-26">{{Cite web|和書 | author = フロントロウ編集部 | url = https://front-row.jp/_ct/17378230 | title = 『ワイスピ TOKYO DRIFT』の日本ロケはゲリラ撮影だった! 撮影直後に監督が逮捕!? | date = 2020-07-26 | website = フロントロウ | publisher = 株式会社オウトグラフ・プロダクション | accessdate = 2021-03-21 }}</ref><ref>{{Cite web | author = Simon Reynolds | url = https://www.digitalspy.com/movies/a152322/ff-director-got-man-arrested-in-tokyo/ | title = 'F&F' director got man arrested in Tokyo | date = 2009-10-04 | website = Digital Spy | publisher = Hearst UK Entertainment Network | accessdate = 2021-03-16}}</ref>。 そして、2021年現在も日本では撮影目的の道路封鎖のハードルが極めて高く、石原慎太郎が夢見た「銀座でのカーチェイス」は実現できていない<ref name="cinemasplus 2021-03-18" />。交通規制については、地方自治体レベルでは解決できない、国レベルの規制の問題が存在するためである。 == 日本のフィルム・コミッションの運営に関する課題 == ジャパン・フィルムコミッションが作成した資料<ref name="JFC 2017-08-02" />によると、日本のフィルム・コミッションが現在抱えている問題として、下記が挙げられている。 * '''フィルム・コミッションの人手不足''' *: 日本におけるフィルム・コミッションの支援作品件数は年々増えているものの、フィルム・コミッションの担当者数は平均0.8人にすぎない。ほとんどのフィルム・コミッションでは、観光業務などとの兼任で行っているためである。そのため常に人手不足の状態となっており、ロケ支援以外の活動がままならないことも多い。 * '''撮影環境の整備''' *: 日本では許認可手続きが著しく煩雑であり、撮影に利用する施設によって警察(主に道路関係)、公安委員会(主に車両関係)、消防(主に観覧場、展示場関係)など窓口が多岐に分散している{{Efn|石原慎太郎の指摘<ref name="Ishihara Shintaro Official" />が、まさにこのことを指している。}}。さらに、国として映像撮影許可の窓口の一元化ができていない。 *:一度許可が下りていたロケ地でも、その後許可が下りなくなる場合がある{{Efn|この問題は、『ブラック・レイン』の撮影時に大阪市中央卸売市場とのトラブルが発生した1988年からそれほど変わっていない。}}。 * '''人材育成の不足''' *: 大学との連携に地域差があり、学生の人材育成が十分できていない。また、英語力を有する人材が不足しており、海外からの撮影依頼に対応できない。 * '''法的な課題''' *: 現在の日本の法制度では映像制作者に該当する[[ビザ]]が存在しないため、興行ビザで対応している。しかし、滞在先の事前申請が必要となったり、国内での興業収入が存在しないにもかかわらず、所得税の課税対象になるなどの不都合が多数発生している。 * '''インセンティブの不備''' *: 日本の映画に対する[[インセンティブ (経済学)|インセンティブ]]は、基本的に単年度の助成金のみである。また、金額的には大規模作品には安すぎ、小規模作品には申請のハードルが高すぎる。 * その他、海外の映像制作者に対する日本ロケのプロモーション不足や、海外放映のみの作品{{Efn|近年、中国、インド、タイ、フィリピンなど、これまで想定されなかった国が日本ロケを行うことが増えている。これらの国の作品は、全世界での上映を前提としているアメリカのハリウッド作品とは異なり、著作権や配給会社などの関係で、日本ではソフトが配給されないケースが多い。}}に対する費用対効果の算定が困難である。 == 政府主導による映像制作者との官民連絡会議の設立 == 近年、フィルム・コミッションが全国各地に設置されたことにより、以前と比べると日本国内におけるロケ撮影の環境は急速な勢いで改善されつつある。しかし、日本では未だに映画の経済効果への認識が十分とはいえない。例えば、撮影目的で道路使用の許可を得ることが著しく困難であったり、海外からの撮影関係者のビザの取り扱いの問題など、国家レベルで改善が必要な制度的問題が山積している。 映像制作関係者からの要望を背景として、2016年、日本政府は知的財産戦略本部「映画の振興施策に関する検討会議」を実施した<ref name="Kantei Renraku Kaigi">{{Cite web|和書 | author = [[首相官邸]] | url = https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/location_renrakukaigi/ | title = ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議 | website = [[首相官邸]] | publisher = [[首相官邸]] | accessdate = 2021-03-22 }}</ref>。 この中で、「'''我が国における国内外の映像コンテンツのロケーション環境の整備を図り、地域でのロケを推進することによって、日本映画の更なる魅力の増進や、映像産業の技術の向上等の他、地域におけるロケによる経済効果等大きな効果が期待できる'''」と言及している<ref name="Kantei Renraku Kaigi" />。 この検討会議の取りまとめを踏まえた形で、「知的財産推進計画2017」(2017年5月16日、知的財産戦略本部決定)では「'''日本国内におけるロケ撮影の一層の環境整備を図るため、政府としてロケーション支援の強化を図ること'''」を明記した<ref name="Kantei Renraku Kaigi" />。 そして、2017年からは日本政府の知的財産戦略本部内に「'''[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/location_renrakukaigi/ ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議]'''」が立ち上げられ、年1回程度のペースでロケ環境の改善に向けた議論が実施されている。 [[内閣府]]では2019年、「外国映像作品ロケ誘致プロジェクト」を試行的に実施し、中国映画『[[唐人街探偵 東京MISSION]]』(2021年中国公開、原題「唐人街探案3」)と、アメリカ映画『[[G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ]]』(2021年世界公開予定)の日本ロケに対して補助金が交付された{{Efn|補助金額は『僕はチャイナタウンの名探偵3』が4800万円、『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』が9600万円(いずれも消費税別)<ref name="Qualas Report" />。}}。[[フジサンケイグループ]]の広告代理店である[[クオラス]]によって外国映画のロケ誘致の経済効果に関わる調査が実施され、その結果が首相官邸のWebサイトで公開されている<ref name="Qualas Report">{{Cite web|和書 | author = [[クオラス]] | url = https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/location_renrakukaigi/dai5/siryou3-2.pdf | title = 地域経済の振興等に資する外国映像作品ロケ誘致に関する実証調査 実施報告書 | date = 2020-03-01 | website = 首相官邸 ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議 第5回会合 | accessdate = 2021-03-16 }}</ref>。 == 都道府県・政令指定都市におけるフィルム・コミッションの一覧(2021年現在) == 本項では、全国の都道府県ならびに政令指定都市レベルのフィルム・コミッション(主に都道府県)または県庁などの窓口のリンクと、ジャパン・フィルムコミッションが掲載している地方別ブロックへのリンクを中心に示す。 市町村レベルの組織(政令指定都市を除く)は、文化庁のリンク集一覧([https://www.jldb.bunka.go.jp/fc/ 全国ロケーションデータベース FC一覧(文化庁)])、各都道府県レベルのフィルム・コミッション、ジャパン・フィルムコミッションに地方ブロック別に掲載されているリンクなどを参照されたい。なお、以下の都道府県の順番は、総務省のコード順に基づく。 === 北海道・東北地方 === * [[北海道]] *: [https://www.pref.hokkaido.lg.jp/kz/kkd/location.htm 北海道ロケーション連絡室](北海道庁 経済部 観光局) * [[札幌市]](政令指定都市) *: [https://www.screensapporo.jp/ 札幌フィルムコミッション](一般財団法人さっぽろ産業振興財団 映像産業振興課 映像産業振興係) * [[青森県]] *: 青森県では2021年3月現在、県や県の外郭団体の窓口は設置されていない。JFC非加盟の市町村レベルの団体として[[弘前市]]、[[つがる市]]、[[黒石市]]、[[むつ市]]にそれぞれフィルム・コミッションが存在し、NPO団体「青森フィルムコミッション」も活動を行っている。 * [[岩手県]] *: 岩手県では2021年3月現在、県や県の外郭団体の窓口は設置されていない。市町村レベルではJFC加盟団体として[[盛岡市]]、[[奥州市]]、[[花巻市]]にフィルム・コミッションが存在する。詳細については、文化庁ならびにJFCのリンクを参照されたい。 * [[宮城県]]、 [[仙台市]](政令指定都市) *: [https://www.sendaimiyagi-fc.jp/ せんだい・宮城フィルムコミッション](公益財団法人 仙台観光国際協会) *: ※宮城県と仙台市では、フィルムコミッションの窓口を上記団体に統一している。その他、[[白石市]]にフィルム・コミッションが存在する。 * [[秋田県]] *: [https://common3.pref.akita.lg.jp/akitavision/nouvelakita/ ヌーベルあきた(あきたロケ支援ネットワーク)](秋田県) * [[山形県]] *: [https://www.fc-yamagata.jp// 山形フィルムコミッション](山形市) *: [https://www.jldb.bunka.go.jp/fc/0602/ 山形おきたまフィルムコミッション](山形県置賜総合支庁 観光振興室) *: 山形県は全国的に見ても若干ユニークな県と市の棲み分けとなっており、山形市周辺を山形市が運営する「山形フィルムコミッション」、[[置賜地方]]を山形県置賜総合支庁 観光振興室が運営する「山形おきたまフィルムコミッション」が管轄している。 * [[福島県]] *: [https://www.tif.ne.jp/houjin/loca/index.html ふくしまロケ支援ネット](公益財団法人 福島県観光物産交流協会) * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク''' *: [https://www.japanfc.org/area/hokkaido ジャパン・フィルムコミッション 北海道ブロック] *: [https://www.japanfc.org/area/touhoku ジャパン・フィルムコミッション 東北ブロック] === 関東地方 === * [[茨城県]] *: [https://www.ibaraki-fc.jp/ いばらきフィルムコミッション](茨城県 営業戦略部 観光物産課 フィルムコミッション推進室) * [[栃木県]] *: [https://www.tochigi-film.jp/ 栃木県フィルムコミッション](栃木県 産業労働観光部 観光交流課) * [[群馬県]] *: [https://www.gunma-fc.jp/ ぐんまフィルムコミッション](群馬県 産業経済部 戦略セールス局 eスポーツ・新コンテンツ創出課) * [[埼玉県]] *: [https://chocotabi-saitama.jp/location/ ロケーションサービス|埼玉県公式観光サイト ちょこたび埼玉](一般社団法人 埼玉県物産観光協会) * [[さいたま市]](政令指定都市) *: [https://www.city.saitama.jp/004/001/005/index.html さいたま市ロケーションサービス](さいたま市) * [[千葉県]] *: [https://fc.ccb.or.jp/ 千葉県フィルムコミッション](公益財団法人 ちば国際コンベンションビューロー) * [[千葉市]](政令指定都市) *: [https://www.city.chiba.jp/keizainosei/keizai/promotion/index.html 千葉市 経済農政局 経済部 観光プロモーション課] * [[東京都]] *: [https://www.locationbox.metro.tokyo.lg.jp/ 東京ロケーションボックス](公益財団法人 東京観光財団) * [[神奈川県]] *: [https://www.pref.kanagawa.jp/docs/ya3/cnt/f80022/p811391.html 神奈川ロケーションサポートデスク](公益社団法人 神奈川県観光協会) * [[横浜市]](政令指定都市) *: [https://www.city.yokohama.lg.jp/kanko-bunka/miryoku/films/ 横浜フィルムコミッション](横浜市) * [[川崎市]](政令指定都市) *: [http://www.kawasaki-location.org/ かわさきロケ情報](川崎市 市民文化局 市民文化振興室 映像のまち推進担当が、NPO法人 かわさきムーブアート応援隊と連携して運営) * [[相模原市]](政令指定都市) *: [https://www.sagamihara-fc.jp/ さがみはらフィルムコミッション](一般社団法人 相模原市観光協会) * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク''' *: [https://www.japanfc.org/area/kantou ジャパン・フィルムコミッション 関東ブロック] === 甲信越・静岡地方 === * [[新潟県]]、[[新潟市]](政令指定都市) *: [https://niigata-kankou.or.jp/location 新潟県フィルムコミッション協議会](公益社団法人 新潟県観光協会) * [[山梨県]] *: [https://www.yamanashi-kankou.jp/fc/ 富士の国やまなしフィルム・コミッション](山梨県) * [[長野県]]     [https://www.shinshu-film.net/modules/forfc/ 信州フィルムコミッションネットワーク](長野県) * [[長野市]]    [https://www.nagano-fc.org/ ながのフィルムコミッション](公益財団法人 ながの観光コンベンションビューロー) * [[松本市]]    [https://matsumoto-film.jp/ 松本フィルムコミッション] (一般社団法人 松本観光コンベンション協会) * [[上田市]]    [https://ueda-kanko.or.jp/fc/ 信州上田フィルムコミッション](一般社団法人 信州上田観光協会) * [https://www.suwa-tourism.jp/ 諏訪エリア](諏訪市・岡谷市・茅野市・下諏訪町・富士見町・原村)    [http://www.suwafc.com/ 諏訪圏フィルムコミッション](諏訪地方観光連盟) * [[伊那市]]    [https://www.inacity.jp/kankojoho/kanko_news/filmcommission/filmcommission.html 伊那谷フィルムコミッション](伊那市役所) * [[静岡県]] *: [https://www.japanfc.org/area/koushinetsu/shizuokakenfc.html 静岡県フィルムコミッション連絡協議会](静岡県 スポーツ・文化観光部観光交流局観光政策課) * [[静岡市]](政令指定都市) *: [https://www.city.shizuoka.lg.jp/742_000020.html 静岡市フィルムコミッション](静岡市 総務局 市長公室 広報課 シティプロモーション係) * [[浜松市]](政令指定都市) *: [http://www.hamamatsu-film.com 浜松フィルムコミッション](浜松市 観光・シティプロモーション課 フィルムコミッション推進室) * [[沼津市]] *:[https://numazukanko.jp/fc 沼津フィルムコミッション](沼津市産業振興部観光戦略課) * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク''' *: [https://www.japanfc.org/area/koushinetsu ジャパン・フィルムコミッション 甲信越静ブロック] === 北陸地方 === * [[富山県]] *: [https://www.location-toyama.jp/ 富山県ロケーションオフィス](富山県 観光・地域振興局観光課内) * [[石川県]] *: [https://kanazawa-fc.jp/ 金沢フィルムコミッション](公益財団法人 金沢コンベンションビューロー) *: ※石川県では、2021年3月現在、県や県の外郭団体の窓口は設置されていない。ただし、石川県内の撮影手配に関しては、金沢市の外郭団体である公益財団法人 金沢コンベンションビューローが運営する「金沢フィルムコミッション」が、実質的な窓口となっている。その他、市町村レベルのフィルムコミッションは、[[輪島市]]、[[内灘町]]に設置されている。詳細は「ジャパン・フィルムコミッション 中部ブロック」のリンクなどを参照されたい。 * [[福井県]] *: 2021年3月現在、県や県の外郭団体の窓口は設置されていない。市町村レベルのフィルムコミッションは[[福井市]]、[[勝山市]]、[[敦賀市]]、[[小浜市]]に設置されている。なお、福井県は北陸3県で唯一、「ジャパン・フィルムコミッション 近畿ブロック」に分類されている(富山県、石川県は「中部ブロック」に分類)。 === 東海地方 === * [[岐阜県]] *: [https://www.pref.gifu.lg.jp/page/2467.html 岐阜フィルムコミッション](岐阜県 商工労働部 観光国際局 観光企画課 活用推進係) * [[愛知県]] *: [http://aichi-film.jp/ 愛知県フィルムコミッション協議会](愛知県 観光コンベンション局 観光振興課) * [[名古屋市]](政令指定都市) *: [https://www.nagoya-info.jp/location/ なごや・ロケーション・ナビ](公益財団法人 名古屋観光コンベンションビューロー) * [[三重県]] *: [https://www.kankomie.or.jp/special/filmcommission/ みえフィルムコミッション協議会](三重県 観光魅力創造課) * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク(東海地方、富山県、石川県)''' *: [https://www.japanfc.org/area/chuubu ジャパン・フィルムコミッション 中部ブロック] === 近畿地方 === * [[滋賀県]] *: [https://www.shiga-location.jp/ 滋賀ロケーションオフィス](滋賀県 商工観光労働部 観光振興局) * [[京都府]] *: 2021年3月現在、府ならびに府の外郭団体の窓口は設置されていない。府内では[[舞鶴市]]、[[京丹後市]]などにフィルム・コミッションが設置されている。 * [[京都市]](政令指定都市) *: [https://ja.kyoto.travel/support/ 京都市メディア支援センター](京都市 産業観光局 観光MICE推進室 メディア支援センター) * [[大阪府]]、[[大阪市]](政令指定都市) *: [https://www.osaka-fc.jp/ 大阪フィルム・カウンシル](公益財団法人 大阪観光コンベンション協会) *: ※大阪では、政令指定都市である[[大阪市]]の手配も[[大阪フィルム・カウンシル]]が一括して担っている。 * [[堺市]](政令指定都市) *: [https://sakai-film.jp/ 堺フィルムオフィス](公益社団法人 堺観光コンベンション協会) * [[兵庫県]] *: [https://hyogo-film.jp/ ひょうごロケ支援Net](公益社団法人 ひょうご観光本部) * [[神戸市]](政令指定都市) *: [https://www.kobefilm.jp/ 神戸フィルムオフィス](神戸市 外郭団体) * [[奈良県]] *: [https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/019film_c-nara/ フィルムコミッション・奈良県サポートセンター](奈良県 文化・教育・くらし創造部 文化資源活用課) * [[和歌山県]] *: [https://www.wakayama-kanko.or.jp/travel-agencies-and-groups/film-commissions/ わかやまフィルムコミッション](和歌山県 観光振興課、公益社団法人 和歌山県観光連盟) * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク(近畿地方、福井県)''' *: [https://www.japanfc.org/area/kinki ジャパン・フィルムコミッション 近畿ブロック] === 中国地方 === * [[鳥取県]] *: [https://www.tottori-guide.jp/fc/ 鳥取県フィルムコミッション](公益社団法人 鳥取県観光連盟) * [[島根県]] *: [https://www.kankou-shimane.com/loca 島根フィルムコミッション](公益社団法人 島根県観光連盟) * [[岡山県]]、[[岡山市]](政令指定都市) *: [https://www.okayama-kanko.jp/fc/ 岡山県フィルムコミッション協議会](公益社団法人 岡山県観光連盟) * [[広島県]] *: 広島県には窓口は設置されていない。[[福山市]]、[[尾道市]]、[[呉市]]、[[三原市]]、[[安芸太田町]]にフィルム・コミッションが存在する。 * [[広島市]](政令指定都市) *: [http://www.fc.hcvb.city.hiroshima.jp/ 広島フィルム・コミッション](公益財団法人 広島観光コンベンションビューロー 魅力創造部) * [[山口県]] *: [https://www.film-yg.com/ 山口県フィルムコミッション](山口県 観光プロモーション推進室) * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク(中国)''' *: [https://www.japanfc.org/area/chuugoku ジャパン・フィルムコミッション 中国ブロック] === 四国地方 === * [[徳島県]] *: [https://www.awanavi.jp/site/tls/ 徳島県ロケーション・サービス](一般財団法人 徳島県観光協会) * [[香川県]] *: [https://fc.my-kagawa.jp/ 香川フィルムコミッション](公益社団法人 香川県観光協会) * [[愛媛県]] *: [https://www.jldb.bunka.go.jp/fc/3801/ えひめフィルム・コミッション](愛媛県経済労働部 観光交流局 観光物産課) * [[高知県]] *: [https://www.kochi-fc.jp/ 高知フィルムコミッション](公益財団法人 高知県観光コンベンション協会) * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク(四国)''' *: [https://www.japanfc.org/area/shikoku ジャパン・フィルムコミッション 四国ブロック] === 九州地方 === * [[福岡県]]、[[福岡市]](政令指定都市) *: [https://www.fukuoka-film.com/ 福岡フィルムコミッション](福岡市 コンテンツ振興課) *: ※福岡フィルムコミッションは福岡市が運営している団体であるが、福岡県知事が顧問を務めている。福岡県内には北九州市の他に、[[柳川市]]、[[田川市]]、[[うきは市]]にフィルム・コミッションが存在する。また、フィルムコミッションとは異なるが、[[筑豊]]地域をアクション撮影特区にして、地元自治体などと協力して爆破シーンを町おこしを図ろうとする[[筑豊アクションプロジェクト]]が存在する。 * [[北九州市]](政令指定都市) *: [https://www.kitakyu-fc.com/ 北九州フィルムコミッション]{{Efn|日本におけるフィルム・コミッション組織化のさきがけであり、[[1989年]]に北九州フィルムコミッションの前身である「北九州市広報室イメージアップ班」を日本で最初に設立した<ref name="Kitakyushu-City" />。}}(北九州市市民文化スポーツ局) * [[佐賀県]] *: [https://www.saga-fc.jp/ 佐賀県フィルムコミッション](佐賀県) * [[長崎県]] *: [https://www.nagasaki-tabinet.com/houjin/film 長崎県フィルムコミッション](一般社団法人 長崎県観光連盟、長崎県文化観光国際部観光振興課) * [[熊本県]] *: [https://kumamoto.guide/fc/ くまもとロケーションナビ](熊本県観光振興課) * [[熊本市]](政令指定都市) *: [https://kumamoto-guide.jp/film/ くまもとシティ・フィルムオフィス](熊本市観光政策課) * [[大分県]] *: [http://oita-fc.jp/ 大分県ロケツーリズム推進協議会](大分県企画振興部 観光・地域局 観光・地域振興課、地元民間企業のTMエンタテインメントが事務局を担当) * [[宮崎県]] *: [http://www.fc-miyazaki.com/ 宮崎フィルム・コミッション](宮崎県) * [[鹿児島県]] *: [http://kagoloca.jp/ ロケーション鹿児島](NPO法人かごしまフィルムオフィスが鹿児島県より運営を受託) * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク(九州)''' *: [https://www.japanfc.org/area/kyuushuu ジャパン・フィルムコミッション 九州ブロック] === 沖縄 === * [[沖縄県]] *: [https://filmoffice.ocvb.or.jp/ 沖縄フィルムオフィス](沖縄産業支援センター) *: [http://koza-fo.com/ 沖縄市KOZAフィルムオフィス](一般社団法人沖縄市観光物産振興協会) *: * '''ジャパン・フィルムコミッションの地域リンク(沖縄)''' *: [https://www.japanfc.org/area/shikoku ジャパン・フィルムコミッション 沖縄ブロック] == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://www.jldb.bunka.go.jp/fc/ 全国ロケーションデータベース FC一覧](文化庁) * [https://www.japanfc.org/ ジャパン・フィルムコミッション] (JFC) * [https://www.afci.org/ 国際フィルムコミッショナーズ協会] (AFCI) * [http://www.afcnet.org/ アジアン・フィルム・コミッションズ・ネットワーク] (AFCNet) * [https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/location_renrakukaigi/ 首相官邸 知的財産戦略本部 ロケ撮影の環境改善に関する官民連絡会議] {{DEFAULTSORT:ふいるむこみつしよん}} [[Category:映画]] [[Category:日本のフィルム・コミッション|*]]
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シネマ
シネマ(CINEMA)
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シネマ(CINEMA) 映画、または映画館のこと。キネマとも。 シネマ (バンド) - 元イエスのメンバーらによるプログレッシブ・ロック・バンド。 シネマ (日本のバンド) - 日本のポップバンド。1980年代に活躍し、鈴木さえ子、松尾清憲が参加したバンド。 シネマ - パスピエの楽曲。アルバム『演出家出演』に収録。 cinéma - 岩崎宏美の16枚目のオリジナル・アルバム(1985年)。 シ・ネ・マ - 日本のバンド ピカソの曲。 CINEMA - シュノーケルの楽曲。アルバム『EYE』に収録。 シネマ - Ayaseの楽曲。
'''シネマ'''(CINEMA) * [[映画]]、または[[映画館]]のこと。[[キネマ]]とも。 * [[シネマ (バンド)]] - 元[[イエス (バンド)|イエス]]のメンバーらによる[[プログレッシブ・ロック]]・バンド。 * [[シネマ (日本のバンド)]] - [[日本]]の[[バンド (音楽)|ポップバンド]]。1980年代に活躍し、[[鈴木さえ子]]、[[松尾清憲]]が参加したバンド。 * シネマ - [[パスピエ (バンド)|パスピエ]]の楽曲。アルバム『[[演出家出演]]』に収録。 * [[cinéma]] - [[岩崎宏美]]の16枚目のオリジナル・アルバム(1985年)。 * [[シ・ネ・マ]] - 日本のバンド [[ピカソ (バンド)|ピカソ]]の曲。 * CINEMA - [[シュノーケル (バンド)|シュノーケル]]の楽曲。アルバム『[[EYE (シュノーケルのアルバム)|EYE]]』に収録。 * [[飽和/シネマ|シネマ]] - [[Ayase]]の楽曲。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:しねま}} [[Category:同名の作品]]
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江東区
江東区(こうとうく)は、東京都の区部東部に位置する特別区。 江東区は、1947年(昭和22年)に旧深川区と旧城東区が合併して誕生した。区名は隅田川の東に位置することによる。隅田川と荒川にはさまれた江東デルタの南部を占め、東京湾に面する。 現在の江東区の区域は、古くは海面と散在する小島があるだけであった。江戸時代に入ると埋め立てられて新田開発が進み、特に深川地区は明暦の大火(1657年)後に江戸幕府の開発によって武家屋敷や社寺が移されて発展した。中でも亀戸天神のある亀戸、富岡八幡宮と深川不動堂のある深川は賑わいを見せ、深川は木場が繁盛して江戸を代表する下町の一つとなった。城東地区も農地として栄え、江戸近郊の行楽地としても知られた。明治以後は、広い土地と水運を活用していち早く工業化し、大・中工場や住宅、商店街が混在するようになった。深川地区は関東大震災および東京大空襲などを経て区画整理がされている。 青海・有明地区は東京臨海副都心として開発され発展が著しく、台場地区と連続した近代的計画都市となっている。この臨海エリアには2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の会場も集中している。東京ビッグサイトを筆頭に有明コロシアム、有明アリーナ、有明ガーデンシアターなどの大型イベント施設も多く、年間を通じて多くの来場者があり、ホテルなどの宿泊施設や商業施設も充実してきている。 豊洲地区や夢の島地区には子供向け施設が充実し、近年は都心からの近さゆえ都心回帰の影響で大型マンション建設が相次ぎ人口が増加しているが、区による少子化に伴った小学校の統廃合が行われた後の人口増加のため、統廃合が行われた小学校では生徒の受け入れが困難な状況である。同様に、保育園も不足する事態に陥り、待機児童が増加している。 ※2022年(令和4年)8月1日現在 2005年に夜間人口(居住者)は420,827人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は490,708人で昼は夜の1.166倍の人口になる(国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)。 中央区、港区、江戸川区、墨田区、品川区、大田区に接しており、南は東京湾に面している。また、東京都の東部低地帯に属している。大正時代から1970年代にかけて工業用地下水の汲み上げや天然ガス採取のために地盤沈下し、もっとも沈下したところである南砂2丁目では4.5m沈下した。地下水の汲み上げ規制や天然ガス採取の停止を実施し、1970年ごろには地盤沈下は止まった。しかし、2000年代になっても区の大部分がゼロメートル地帯、または海面より低い海抜マイナス地帯となっている。運河と橋が多く、区では「水彩都市」と呼んでいる。道路と水路が連なって作られており、住宅地のそばを船が行き交うことも多い。区内には、東京都から「副都心」に指定されている「錦糸町・亀戸副都心」と「臨海副都心」とがある。 臨海副都心は品川区・港区にも跨っているが、実際には江東区が大部分を占めている。また、バブル期以降に急速に開発が進められた新興開発地域でもあり、街の景観は近代的である。錦糸町・亀戸副都心のほうは昔からあった大繁華街で、古くから下町として栄えた。1990年代後半から、東京の新スポットとしても急速に開けており、下町情緒と近代的な再開発地域の同居する街並みへと変貌した。臨海副都心部には埋立地が多く、ゴミ埋立て「東京ゴミ戦争」で有名な夢の島や青海、有明などは観光地区としても賑わっている。また、臨海部にある湾岸地域は港区、江戸川区と海岸線を連ねてつながっており、台場や東京ディズニーリゾートへの交通の便が良い。なお、東日本大震災の際に、一部液状化した地区もあり、団地が浮き上がったり、道路など地面が沈み込んだ場所もあった。 外周には荒川(荒川放水路)と隅田川が、江東内部河川として旧中川、小名木川、横十間川、北十間川、大横川、仙台堀川、平久川、竪川、大島川西支川(運河)、大横川南支川(運河)、越中島川が流れている。 面積は43.01kmである。 区の臨海方面にあるかつてのゴミ埋立地である夢の島一帯は、夢の島公園などの大規模な公園が作られ、市街開発にあたって並木や草木が大量に植えられたため、東京23区内とは思えないほどの緑の多い地域となっている。豊洲や臨海副都心方面にも大型公園が整備されており、ゆとりのある街並みが形成されている。また、大島や木場でも工場跡地が再開発され、公園や緑地が造られた。区内には海抜ゼロメートル地帯があるため、避難場所として使えるよう盛り土された公園が多い。一方、亀戸や深川、南砂などの古くからの住宅街には小規模な児童公園が点在しており、運河を埋めて造成された緑道がある。 区名は、隅田川の東に位置するという地理的な意味から、「辰巳区」、「東区」、「永代区」などの候補の中から選ばれた。 1947年(昭和22年)2月21日に城東区会で、2月25日に深川区会で議決された。「江東」の区名は、隅田川の東に位置するという地理的な意味に加え、「江」は深川、「東」は城東の意味も含んでいる。 しかし、江東の地名はこの時初めて使われたものではない。すでに古くは江戸時代から使用されており、当時の江東という地域は、本所地区または深川地区を指す意味と、広く隅田川の東部を指す意味があった。 江東区では、中央防波堤外側埋立地を除く全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。 江東区は深川地区・城東地区の45個の町からなる。現在でも海岸隣接地域の埋立により、区の面積が増え続けている。 江東区では、区が主要と位置づける地域を都市核として指定している。区の長期基本計画によると、都市核と指定されたのは以下の6地域である。 江東区は江東ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。 平成20年度当初予算規模 江東区では地下鉄8号線事業推進課を新設し、地下鉄8号線の延伸(住吉 - 豊洲間)事業を2030年代半ばの開業に向けて進行中である。また、亀戸 - 新木場間にLRTを運行する構想も存在する。この構想には2つのプランがあり、一つ目は亀戸駅 - 南砂町駅を高架とし、以南は明治通り沿いの都有地などに線路を敷くとするプラン、二つ目は亀戸 - 南砂付近までは総武本線(越中島支線・上記参照)を使用し、以南は同じく明治通り沿いの都有地などに線路を敷くというプランである。しかし、収支の見通しの不明確さや新木場駅付近での国道357号との平面交差の問題など、課題が多い。 また、東京都が「都心部・臨海地域地下鉄構想」を発表している。この構想は、東京駅と有明・東京ビッグサイトを、銀座、新築地、勝どき、晴海、豊洲市場を経由して結ぶ地下鉄新線の計画である。さらに、つくばエクスプレスの延伸や羽田空港アクセス線とも連携させる予定である。 このほか、前山崎江東区長は汐留から築地、豊洲を経て国際展示場付近に至るロープウェイの導入を構想した。 江東区により、以下の図書館が運営されている。図書館業務の一部は、民間へ委託されている。 ※中高一貫校は#高等学校を参照 軽度の知的発達の遅れを対象とした特別支援学級(仲よし学級)はすべての小学校にあり、特別支援教室(ひまわり教室)は10校(平成32年度入学者対象)に設置し巡回指導している。 言語障害(ことばの教室)、聴覚障害(きこえの教室)は南陽小学校にあり、通級指導を受ける。 特別支援学校は下記参照。 東京都立の特別支援学校では、障害に応じてより専門性の高い教育を行う。 江東区は23特別区の中で唯一、区歌を制定していない。2015年(平成27年)11月14日(13日深夜)放送のテレビ朝日『タモリ倶楽部』でこの問題が取り上げられ、番組内でタモリ、レキシ、マキタスポーツの合作による「江東区歌」が作成されたが、区はこの楽曲について正式な区歌としての採用提案を拒否している。 なお番組の放送と同年には「江東水彩音頭」(作詞:寺崎敏夫、作曲:山田現)が民間で作成されており、区制70周年に当たる2017年(平成29年)に「KOTO活き粋体操」の一部に採り入れられて事実上「区の推奨歌」のような扱いとなっている。
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豊洲間)事業を2030年代半ばの開業に向けて進行中である。また、亀戸 - 新木場間にLRTを運行する構想も存在する。この構想には2つのプランがあり、一つ目は亀戸駅 - 南砂町駅を高架とし、以南は明治通り沿いの都有地などに線路を敷くとするプラン、二つ目は亀戸 - 南砂付近までは総武本線(越中島支線・上記参照)を使用し、以南は同じく明治通り沿いの都有地などに線路を敷くというプランである。しかし、収支の見通しの不明確さや新木場駅付近での国道357号との平面交差の問題など、課題が多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、東京都が「都心部・臨海地域地下鉄構想」を発表している。この構想は、東京駅と有明・東京ビッグサイトを、銀座、新築地、勝どき、晴海、豊洲市場を経由して結ぶ地下鉄新線の計画である。さらに、つくばエクスプレスの延伸や羽田空港アクセス線とも連携させる予定である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このほか、前山崎江東区長は汐留から築地、豊洲を経て国際展示場付近に至るロープウェイの導入を構想した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "江東区により、以下の図書館が運営されている。図書館業務の一部は、民間へ委託されている。", "title": "名所・旧跡・文化・スポーツ施設" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "※中高一貫校は#高等学校を参照", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "軽度の知的発達の遅れを対象とした特別支援学級(仲よし学級)はすべての小学校にあり、特別支援教室(ひまわり教室)は10校(平成32年度入学者対象)に設置し巡回指導している。 言語障害(ことばの教室)、聴覚障害(きこえの教室)は南陽小学校にあり、通級指導を受ける。 特別支援学校は下記参照。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "東京都立の特別支援学校では、障害に応じてより専門性の高い教育を行う。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "江東区は23特別区の中で唯一、区歌を制定していない。2015年(平成27年)11月14日(13日深夜)放送のテレビ朝日『タモリ倶楽部』でこの問題が取り上げられ、番組内でタモリ、レキシ、マキタスポーツの合作による「江東区歌」が作成されたが、区はこの楽曲について正式な区歌としての採用提案を拒否している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお番組の放送と同年には「江東水彩音頭」(作詞:寺崎敏夫、作曲:山田現)が民間で作成されており、区制70周年に当たる2017年(平成29年)に「KOTO活き粋体操」の一部に採り入れられて事実上「区の推奨歌」のような扱いとなっている。", "title": "その他" } ]
江東区(こうとうく)は、東京都の区部東部に位置する特別区。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2021年4月4日 (日) 17:14 (UTC)}} {{東京都の特別区 |画像 = Tokyo-Waterfront-City.jpg |画像の説明 = 江東区の臨海副都心 |区旗 = [[File:Flag of Koto, Tokyo.svg|border|100px]] |区旗の説明 = 江東[[市町村旗|区旗]] |区章 = [[File:東京都江東区区章.svg|75px]] |区章の説明 = 江東[[市町村章|区章]]<br />[[1951年]][[11月21日]]制定 |自治体名 = 江東区 |コード = 13108-3 |隣接自治体 = [[江戸川区]]、[[大田区]]、[[品川区]]、[[墨田区]]、[[中央区 (東京都)|中央区]]、[[港区 (東京都)|港区]] |木 = [[クロマツ]] |花 = [[サザンカ]] |シンボル名 = |鳥など = |郵便番号 = 135-8383 |所在地 = 江東区[[東陽 (江東区)|東陽]]四丁目11番28号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br/>[[File:江東区役所.jpg|center|250px]] |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|108|image=Koto-ku in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=230|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=35.64|frame-longitude=139.81}} }} '''江東区'''(こうとうく)は、[[東京都]]の[[東京都区部|区部]]東部に位置する[[特別区]]。 == 概要 == 江東区は、[[1947年]](昭和22年)に旧[[深川区]]と旧[[城東区 (東京都)|城東区]]が合併して誕生した<ref>{{Cite web|和書|title=1947年 江東区誕生|江東区 |url=https://www.city.koto.lg.jp/skoto/kotocity/tanjyo.html |website=www.city.koto.lg.jp |accessdate=2022-02-18}}</ref>。区名は[[隅田川]]の東に位置することによる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=江東区とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%8C%BA-62845 |website=[[コトバンク]] |accessdate=2022-02-18 |language=ja |first= |last=[[ブリタニカ国際大百科事典]]}}</ref>。隅田川と[[荒川 (関東)|荒川]]にはさまれた江東デルタの南部を占め、[[東京湾]]に面する<ref name=":0" />。 現在の江東区の区域は、古くは海面と散在する小島があるだけであった<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=江東区のおいたち |url=https://www.city.koto.lg.jp/011501/kuse/profile/shokai/5362.html |website=江東区 |accessdate=2022-02-18 |language=ja |last=江東区}}</ref>。[[江戸時代]]に入ると埋め立てられて新田開発が進み、特に深川地区は[[明暦の大火]](1657年)後に江戸幕府の開発によって[[武家屋敷]]や[[社寺]]が移されて発展した<ref name=":1" /><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=江東(区)とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%28%E5%8C%BA%29-1533275 |website=[[コトバンク]] |accessdate=2022-02-18 |language=ja |last=[[日本大百科全書]]}}</ref>。中でも[[亀戸天神社|亀戸天神]]のある[[亀戸]]、[[富岡八幡宮]]と[[成田山東京別院深川不動堂|深川不動堂]]のある[[深川 (江東区)|深川]]は賑わいを見せ、深川は[[木場]]が繁盛して江戸を代表する下町の一つとなった<ref name=":2" />。城東地区も農地として栄え、江戸近郊の行楽地としても知られた<ref name=":1" />。明治以後は、広い土地と水運を活用していち早く工業化し、大・中工場や住宅、商店街が混在するようになった<ref name=":1" /><ref name=":0" />。深川地区は[[関東大震災]]および[[東京大空襲]]などを経て[[土地区画整理事業|区画整理]]がされている。 [[青海 (江東区)|青海]]・[[有明 (江東区)|有明]]地区は[[東京臨海副都心]]として開発され発展が著しく、[[台場 (東京都港区)|台場]]地区と連続した近代的計画都市となっている<ref name=":2" />。この臨海エリアには[[2020年東京オリンピック・パラリンピックの会場|2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の会場]]も集中している。[[東京ビッグサイト]]を筆頭に[[有明コロシアム]]、[[有明アリーナ]]、[[有明ガーデン|有明ガーデンシアター]]などの大型イベント施設も多く、年間を通じて多くの来場者があり、ホテルなどの宿泊施設や商業施設も充実してきている。 [[豊洲]]地区や[[夢の島]]地区には[[子供]]向け施設が充実し、近年は[[都心]]からの近さゆえ[[都心回帰]]の影響で大型マンション建設が相次ぎ[[人口]]が増加しているが、区による[[少子化]]に伴った[[小学校]]の統廃合が行われた後の人口増加のため、統廃合が行われた小学校では生徒の受け入れが困難な状況である。同様に、[[保育園]]も不足する事態に陥り、[[待機児童]]が増加している。 == 人口 == * 世帯数:28万1464世帯 * 人口総数:53万932人 * 住民基本台帳:53万932人 ** 男:26万1130人 ** 女:26万9082人 * 外国人登録数:3万1822人 ** 男:1万5371人 ** 女:1万6451人 ※2022年(令和4年)8月1日現在<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.koto.lg.jp/060305/kuse/profile/shokai/documents/20220801.pdf |title=江東区の世帯と人口 |access-date=2022年8月28日 |publisher=江東区区民部区民課}}</ref> {{人口統計|code=13108|name=江東区|image=Population distribution of Koto, Tokyo, Japan.svg}} ===人口=== 2005年に夜間人口([[居住]]者)は420,827人であるが、区外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である[[昼間人口]]は490,708人で[[昼]]は[[夜]]の1.166倍の人口になる<ref>{{Cite book|和書|title=東京都の昼間人口2005|year=2008年|publisher=東京都|page=|pages=126-127}}</ref>(国勢調査では[[年齢]]不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)。 == 地理 == === 地勢 === [[中央区 (東京都)|中央区]]、[[港区 (東京都)|港区]]、[[江戸川区]]、[[墨田区]]、[[品川区]]、[[大田区]]に接しており、南は東京湾に面している<ref name=":02">{{Cite web|和書|title=江東区の位置、面積、町名 |url=https://www.city.koto.lg.jp/011501/kuse/profile/ichi/3106.html |website=江東区 |access-date=2023-01-25 |language=ja |last=江東区}}</ref>。また、東京都の東部低地帯に属している<ref>{{Cite book|和書 |title=東京のトリセツ |date=3月1日 |year=2021年 |publisher=昭文社 |page=44 |isbn=978-4-398-14817-9}}</ref>。大正時代から[[1970年代]]にかけて工業用[[地下水]]の汲み上げや天然ガス採取のために[[地盤沈下]]し、もっとも沈下したところである[[南砂]]2丁目では4.5m沈下した。地下水の汲み上げ規制や天然ガス採取の停止を実施し、1970年ごろには地盤沈下は止まった。しかし、2000年代になっても区の大部分が[[海抜ゼロメートル地帯|ゼロメートル地帯]]、または海面より低い海抜マイナス地帯となっている<ref>{{Cite web|和書|title=内陸を走る総武線の「海抜」が京葉線より低い謎 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/302394 |website=東洋経済オンライン |date=2019-09-26 |access-date=2023-01-24 |language=ja}}</ref>。運河と橋が多く、区では「水彩都市」と呼んでいる<ref>{{Cite book |title=2003_suisai_koutou_JP |url=https://www.gotokyo.org/book/actibook/2003_suisai_koutou_JP/HTML5/pc.html#/page/1}}</ref>。[[道路]]と[[水路]]が連なって作られており、[[住宅地]]のそばを船が行き交うことも多い<ref>{{Cite book |title=2003_koto_roundtrip_MAP_JP |url=https://www.gotokyo.org/book/actibook/2003_koto_roundtrip_MAP_JP/HTML5/pc.html#/page/4}}</ref>。区内には、東京都から「[[都心|副都心]]」に指定されている「[[錦糸町・亀戸副都心]]」と「[[東京臨海副都心|臨海副都心]]」とがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/4_01.pdf |title=01 多心型都市構造への再編 |access-date=2023-01-25 |publisher=東京都都市整備局 |language=日本語 |format=PDF}}</ref>。 臨海副都心は[[品川区]]・[[港区 (東京都)|港区]]にも跨っているが、実際には江東区が大部分を占めている<ref>{{Cite web|和書|title=7:「臨海副都心」の誕生 ~ 東京湾岸 {{!}} このまちアーカイブス {{!}} 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産 |url=https://smtrc.jp/town-archives/city/tokyo-bay/p07.html |website=smtrc.jp |access-date=2023-01-26 |language=ja}}</ref>。また、[[バブル景気|バブル期]]以降に急速に開発が進められた新興開発地域でもあり、街の景観は近代的である。錦糸町・亀戸副都心のほうは昔からあった大[[繁華街]]で、古くから[[下町]]として栄えた。1990年代後半から、[[東京]]の新スポットとしても急速に開けており、下町情緒と近代的な再開発地域の同居する街並みへと変貌した。臨海副都心部には[[埋立地]]が多く、ゴミ埋立て「[[東京ゴミ戦争]]」で有名な[[夢の島]]や[[青海駅 (東京都)|青海]]、[[有明駅 (東京都)|有明]]などは観光地区としても賑わっている。また、臨海部にある湾岸地域は[[港区 (東京都)|港区]]、[[江戸川区]]と海岸線を連ねてつながっており、[[台場 (東京都港区)|台場]]や[[東京ディズニーリゾート]]への[[交通]]の便が良い。なお、[[東日本大震災]]の際に、一部[[液状化現象|液状化]]した地区もあり、[[団地]]が浮き上がったり、道路など地面が沈み込んだ場所もあった<ref>{{Cite web|和書|title=江東区内の被害状況と対応(平成23年3月11日から3月13日まで) |url=https://www.city.koto.lg.jp/057101/bosai/daishinsai/58570.html |website=江東区 |access-date=2023-01-26 |language=ja |last=江東区}}</ref>。 外周には[[荒川 (関東)|荒川]](荒川放水路)と[[隅田川]]が、江東内部河川として[[旧中川]]、[[小名木川]]、[[横十間川]]、[[北十間川]]、[[大横川]]、[[仙台堀川]]、[[平久川]]、[[竪川 (東京都)|竪川]]、大島川西支川(運河)、大横川南支川(運河)、[[越中島川]]が流れている<ref>{{Cite web|和書|title=江東内部河川とは |url=https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/river/kankyo/ryuiki/01/kotonaibu/sita-kannaizu.html |website=www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp |access-date=2023-01-26}}</ref>。 面積は43.01km<sup>2</sup>である<ref name=":02" />。 === 自然環境 === 区の臨海方面にあるかつてのゴミ埋立地である夢の島一帯は、[[夢の島公園]]などの大規模な[[公園]]が作られ、市街開発にあたって並木や草木が大量に植えられたため、東京23区内とは思えないほどの緑の多い地域となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumenoshima.jp/park/history |title=夢の島の歴史 |access-date=2023-01-26 |publisher=夢の島公園 |language=日本語}}</ref>。[[豊洲]]や[[東京臨海副都心|臨海副都心]]方面にも大型公園が整備されており、ゆとりのある街並みが形成されている。また、[[大島 (江東区)|大島]]や[[木場]]でも工場跡地が再開発され、公園や緑地が造られた。区内には[[海抜ゼロメートル地帯]]があるため、避難場所として使えるよう盛り土された公園が多い。一方、[[亀戸]]や[[深川 (江東区)|深川]]、[[南砂]]などの古くからの住宅街には小規模な児童公園が点在しており、運河を埋めて造成された緑道がある。 == 歴史 == ;区名の由来 区名は、[[隅田川]]の東に位置するという地理的な意味から、「'''辰巳区'''」、「'''東区'''」、「'''永代区'''」などの候補の中から選ばれた。 [[1947年]](昭和22年)[[2月21日]]に[[城東区 (東京都)|城東区]]会で、[[2月25日]]に深川区会で議決された。「江東」の区名は、隅田川の東に位置するという地理的な意味に加え、「江」は[[深川 (江東区)|深川]]、「東」は[[城東]]の意味も含んでいる。 しかし、江東の地名はこの時初めて使われたものではない。すでに古くは[[江戸時代]]から使用されており、当時の江東という地域は、[[本所 (墨田区)|本所]]地区または深川地区を指す意味と、広く隅田川の東部を指す意味があった。 ;区の沿革 * [[1878年]]([[明治]]11年)11月2日 - [[郡区町村編制法]]が施行。東京府内が15区6郡に区画分けされ、深川区と[[南葛飾郡]]が発足。 * [[1889年]](明治22年)5月1日 - [[市制]]・[[町村制]]施行により、次の市区町村が発足。 ** [[東京市]]が発足。深川区は以後、東京市に属する。 ** 南葛飾郡の中に、亀戸村・大島村・砂村などが(町村制に基づく村として)発足。 * [[1894年]](明治27年)12月1日 - 総武本線が[[両国駅|両国]]まで開業し、それに伴い亀戸駅が開業。 * [[1900年]](明治33年)7月19日 - 亀戸村・大島村が町制施行。 * [[1904年]](明治37年)4月5日 - [[東武鉄道]]の亀戸駅が開業(後の[[東武亀戸線]])。 * [[1921年]]([[大正]]10年)7月1日 - 砂村が町制施行。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)4月15日 - 東武亀戸線の亀戸水神駅が開業。 * [[1932年]](昭和7年)10月1日 - 亀戸町・大島町・砂町が東京市に編入、3町の区域をもって城東区が発足。 * [[1943年]](昭和18年)7月1日 - [[東京都制]]施行により、東京府と東京市は廃止。東京都深川区、東京都城東区となる。 * [[1945年]](昭和20年)3月10日 - [[東京大空襲]]により、深川区内と城東区内のほぼ全域が焦土と化した。 * [[1947年]](昭和22年)3月15日 - 深川区と城東区が合併して'''江東区'''が誕生。 * 1947年(昭和22年)5月3日 - [[地方自治法]]が施行され、江東区は[[特別区]]となる。 * [[1965年]](昭和40年)5月14日 - 工業用水道[[南砂町浄水場]]通水。 * [[1967年]](昭和42年)9月14日 - 東西線が[[東陽町駅]]まで開業し、それに伴い門前仲町駅・木場駅・東陽町駅が開業。 * [[1969年]](昭和44年)3月29日 - 東西線の[[南砂町駅]]が開業。 * [[1972年]](昭和47年)11月12日 - 区内のすべての[[東京都電車|都電]]路線が廃止される。 * [[1978年]](昭和53年)12月21日 - 新宿線が開業、森下駅・住吉駅・西大島駅・大島駅・東大島駅が開業。 * [[1980年]](昭和55年)3月31日 - 工業用水道南砂町浄水場廃止。 * [[1982年]](昭和57年) - 亀戸(と[[墨田区]]の[[錦糸町]])が副都心に指定される。 * [[1988年]](昭和63年)6月8日 - 有楽町線が[[新木場駅]]まで開業し、それに伴い豊洲駅・辰巳駅・新木場駅が開業。 * 1988年(昭和63年)12月1日 - 京葉線が新木場駅まで開業。 * [[1990年]]([[平成]]2年)3月10日 - 京葉線が[[東京駅]]まで延伸し、それに伴い潮見駅・越中島駅が開業。 * [[1993年]](平成5年) - [[レインボーブリッジ]]開通。 * [[1995年]](平成7年) - 臨海地区が副都心に追加される。 * 1995年(平成7年)11月1日 - [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線]](ゆりかもめ)が開業、船の科学館駅(現:東京国際クルーズターミナル駅) - 有明駅が開業。 * [[1996年]](平成8年)3月30日 - [[東京臨海高速鉄道りんかい線]]が開業、東雲駅・国際展示場駅・東京テレポート駅が開業。 * [[1996年]](平成8年)4月 - [[東京国際展示場]](東京ビッグサイト)が開業。 * [[2000年]](平成12年)12月12日 - 大江戸線の森下駅・清澄白河駅・門前仲町駅が開業。 * [[2003年]](平成15年)3月19日 - 半蔵門線の住吉駅・清澄白河駅が開業。 * [[2005年]](平成17年)7月17日 - 深川シャトルが運行開始。 * 2005年(平成17年)11月1日 - 江東区コミュニティバスしおかぜが運行開始。 * [[2006年]](平成18年)3月27日 - ゆりかもめの有明 - 豊洲間が延伸開業。 * [[2009年]](平成21年)2月11日 - [[首都高速10号晴海線]]の豊洲出入口 - 東雲JCT間が開通。 * [[2010年]](平成22年) - 東京湾臨海道路が全線開通。 * [[2012年]](平成24年) - [[東京ゲートブリッジ]]開通。 * [[2018年]](平成30年)3月10日 - 首都高速10号晴海線の晴海出入口 - 豊洲出入口間が開通。 * [[2020年]](令和2年)4月1日 - 区域に編入された[[中央防波堤埋立地|中央防波堤内側埋立地]]に海の森の町名を新設(6月25日付で住居表示を実施)。 * [[2020年]](令和2年)6月20日 - 東京港臨港道路南北線および接続道路が開通(海の森トンネルや海の森大橋を含む区間)。 * [[2022年]](令和4年)8月20日 - [[有明アリーナ]]が開業。 * [[2023年]](令和5年)4月1日 - [[東京BRT]]が豊洲地区・有明テニスの森・国際展示場駅・東京テレポート駅に延伸開業(プレ2次運行)。 ==町名== 江東区では、中央防波堤外側埋立地を除く全域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。 江東区は深川地区・城東地区の45個の町からなる。現在でも海岸隣接地域の埋立により、区の面積が増え続けている。 ===江東区役所本庁管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所管内(22町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[枝川 (江東区)|枝川]]'''|えだがわ}}'''一丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川枝川町1・2(全) | |- |'''枝川二丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川枝川町1・2(全) | |- |'''枝川三丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川枝川町1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[木場]]'''|きば}}'''一丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川木場1〜4(全)、深川平久町1・2 | |- |'''木場二丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川木場1〜4(全)、深川平久町1・2 | |- |'''木場三丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川木場1〜4(全)、深川平久町1・2 | |- |'''木場四丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川木場1〜4(全)、深川平久町1・2 | |- |'''木場五丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川木場1〜4(全)、深川平久町1・2 | |- |'''木場六丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川木場1〜4(全)、深川平久町1・2 | |- |{{ruby|'''[[塩浜 (江東区)|塩浜]]'''|しおはま}}'''一丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川浜園町(全)、深川塩崎町(全) | |- |'''塩浜二丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川浜園町(全)、深川塩崎町(全) | |- |{{ruby|'''[[潮見]]'''|しおみ}}'''一丁目''' |1988年1月1日 |1988年1月1日 |潮見1・2(全) |町名成立は1968年1月30日(当時は住居表示未実施)。 |- |'''潮見二丁目''' |1988年1月1日 |1988年1月1日 |潮見1・2(全) |町名成立は1968年1月30日(当時は住居表示未実施)。 |- |{{ruby|'''[[東陽 (江東区)|東陽]]'''|とうよう}}'''一丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川洲崎弁天町1・2、深川東陽町1・2、深川平井町1・2、深川豊住町1〜3(以上全)、深川加崎町、深川東陽町3、深川平井町3 | |- |'''東陽二丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川洲崎弁天町1・2、深川東陽町1・2、深川平井町1・2、深川豊住町1〜3(以上全)、深川加崎町、深川東陽町3、深川平井町3 | |- |'''東陽三丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川洲崎弁天町1・2、深川東陽町1・2、深川平井町1・2、深川豊住町1〜3(以上全)、深川加崎町、深川東陽町3、深川平井町3 | |- |'''東陽四丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川洲崎弁天町1・2、深川東陽町1・2、深川平井町1・2、深川豊住町1〜3(以上全)、深川加崎町、深川東陽町3、深川平井町3 | |- |'''東陽五丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川洲崎弁天町1・2、深川東陽町1・2、深川平井町1・2、深川豊住町1〜3(以上全)、深川加崎町、深川東陽町3、深川平井町3 | |- |'''東陽六丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川洲崎弁天町1・2、深川東陽町1・2、深川平井町1・2、深川豊住町1〜3(以上全)、深川加崎町、深川東陽町3、深川平井町3 | |- |'''東陽七丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |深川洲崎弁天町1・2、深川東陽町1・2、深川平井町1・2、深川豊住町1〜3(以上全)、深川加崎町、深川東陽町3、深川平井町3 | |- |- |{{ruby|'''[[海の森]]'''|うみのもり}}'''一丁目''' |rowspan=3|2020年4月1日 |rowspan=3|2020年6月25日 |rowspan=3|[[中央防波堤埋立地|中央防波堤内側埋立地]] | |- |'''海の森二丁目''' | |- |'''海の森三丁目''' | |- |} {{Reflist|group="d"}} ===江東区役所豊洲特別出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所豊洲特別出張所管内(29町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[豊洲]]'''|とよす}}'''一丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川豊洲1〜6(全) | |- |'''豊洲二丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川豊洲1〜6(全) | |- |'''豊洲三丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川豊洲1〜6(全) | |- |'''豊洲四丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川豊洲1〜6(全) | |- |'''豊洲五丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川豊洲1〜6(全) | |- |'''豊洲六丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川豊洲1〜6(全) | |- |{{ruby|'''[[青海 (江東区)|青海]]'''|あおみ}}'''一丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |青海1・2 |旧青海一・二丁目は1983年1月1日成立(当時は住居表示未実施)。住居表示実施時に旧二丁目を新二・三・四丁目とする。 |- |'''青海二丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |青海1・2 |旧青海一・二丁目は1983年1月1日成立(当時は住居表示未実施)。住居表示実施時に旧二丁目を新二・三・四丁目とする。 |- |'''青海三丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |青海1・2 |旧青海一・二丁目は1983年1月1日成立(当時は住居表示未実施)。住居表示実施時に旧二丁目を新二・三・四丁目とする。 |- |'''青海四丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |青海1・2 |旧青海一・二丁目は1983年1月1日成立(当時は住居表示未実施)。住居表示実施時に旧二丁目を新二・三・四丁目とする。 |- |{{ruby|'''[[有明 (江東区)|有明]]'''|ありあけ}}'''一丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川有明町1〜5(全) |三・四丁目の成立は1979年4月1日(当時は住居表示未実施)。 |- |'''有明二丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川有明町1〜5(全) |三・四丁目の成立は1979年4月1日(当時は住居表示未実施)。 |- |'''有明三丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |深川有明町1〜5(全) |三・四丁目の成立は1979年4月1日(当時は住居表示未実施)。 |- |'''有明四丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |深川有明町1〜5(全) |三・四丁目の成立は1979年4月1日(当時は住居表示未実施)。 |- |{{ruby|'''[[東雲 (江東区)|東雲]]'''|しののめ}}'''一丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川東雲1〜3(全) | |- |'''東雲二丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |深川東雲1〜3(全) | |- |{{ruby|'''[[新木場]]'''|しんきば}}'''一丁目''' |1978年2月1日 |1978年2月1日 |新木場1〜4(全) |町名成立は一〜三丁目が1972年11月1日、四丁目が1979年4月1日(当時は住居表示未実施)。 |- |'''新木場二丁目''' |1978年2月1日 |1978年2月1日 |新木場1〜4(全) |町名成立は一〜三丁目が1972年11月1日、四丁目が1979年4月1日(当時は住居表示未実施)。 |- |'''新木場三丁目''' |1978年2月1日 |1978年2月1日 |新木場1〜4(全) |町名成立は一〜三丁目が1972年11月1日、四丁目が1979年4月1日(当時は住居表示未実施)。 |- |'''新木場四丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |新木場1〜4(全) |町名成立は一〜三丁目が1972年11月1日、四丁目が1979年4月1日(当時は住居表示未実施)。 |- |{{ruby|'''[[辰巳 (江東区)|辰巳]]'''|たつみ}}'''一丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |辰巳1・2(全) |町名成立は一丁目が1966年、二丁目が1967年、三丁目が1976年(当時は住居表示未実施)。 |- |'''辰巳二丁目''' |1968年4月1日 |1968年4月1日 |辰巳1・2(全) |町名成立は一丁目が1966年、二丁目が1967年、三丁目が1976年(当時は住居表示未実施)。 |- |'''辰巳三丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |辰巳1・2(全) |町名成立は一丁目が1966年、二丁目が1967年、三丁目が1976年(当時は住居表示未実施)。 |- |{{ruby|'''[[夢の島]]'''|ゆめのしま}}'''一丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |夢の島 |町名成立は1975年3月1日(当時は住居表示未実施、丁目の設定なし) |- |'''夢の島二丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |夢の島 |町名成立は1975年3月1日(当時は住居表示未実施、丁目の設定なし) |- |'''夢の島三丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |夢の島 |町名成立は1975年3月1日(当時は住居表示未実施、丁目の設定なし) |- |{{ruby|'''[[若洲]]'''|わかす}}'''一丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |若洲 |町名成立は1979年11月1日(当時は住居表示未実施、丁目の設定なし) |- |'''若洲二丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |若洲 |町名成立は1979年11月1日(当時は住居表示未実施、丁目の設定なし) |- |'''若洲三丁目''' |2009年11月1日 |2009年11月1日 |若洲 |町名成立は1979年11月1日(当時は住居表示未実施、丁目の設定なし) |- |} {{Reflist|group="d"}} ===江東区役所白河出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所白河出張所管内(26町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[白河 (江東区)|白河]]'''|しらかわ}}'''一丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川白河町1〜4(全) | |- |'''白河二丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川白河町1〜4(全) | |- |'''白河三丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川白河町1〜4(全) | |- |'''白河四丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川白河町1〜4(全) | |- |{{ruby|'''[[新大橋 (江東区)|新大橋]]'''|しんおおはし}}'''一丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川新大橋1〜3(全)、深川森下町1 | |- |'''新大橋二丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川新大橋1〜3(全)、深川森下町1 | |- |'''新大橋三丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川新大橋1〜3(全)、深川森下町1 | |- |{{ruby|'''[[森下 (江東区)|森下]]'''|もりした}}'''一丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川森下町2(全)、深川高橋2〜5(全)、深川高橋1 | |- |'''森下二丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川森下町2(全)、深川高橋2〜5(全)、深川高橋1 | |- |'''森下三丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川森下町2(全)、深川高橋2〜5(全)、深川高橋1 | |- |'''森下四丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川森下町2(全)、深川高橋2〜5(全)、深川高橋1 | |- |'''森下五丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川森下町2(全)、深川高橋2〜5(全)、深川高橋1 | |- |{{ruby|'''[[清澄 (江東区)|清澄]]'''|きよすみ}}'''一丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川清澄町1〜3(全) | |- |'''清澄二丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川清澄町1〜3(全) | |- |'''清澄三丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川清澄町1〜3(全) | |- |{{ruby|'''[[高橋 (江東区)|高橋]]'''|たかばし}} |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川高橋1 | |- |{{ruby|'''[[常盤 (江東区)|常盤]]'''|ときわ}}'''一丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川常盤町1・2(全) | |- |'''常盤二丁目''' |1971年4月1日 |1971年4月1日 |深川常盤町1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[三好 (江東区)|三好]]'''|みよし}}'''一丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川三好町1・3・4(全)、深川三好町2 | |- |'''三好二丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川三好町1・3・4(全)、深川三好町2 | |- |'''三好三丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川三好町1・3・4(全)、深川三好町2 | |- |'''三好四丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川三好町1・3・4(全)、深川三好町2 | |- |{{ruby|'''[[平野 (江東区)|平野]]'''|ひらの}}'''一丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川平野町1〜4(全)、深川三好町2 | |- |'''平野二丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川平野町1〜4(全)、深川三好町2 | |- |'''平野三丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川平野町1〜4(全)、深川三好町2 | |- |'''平野四丁目''' |1970年4月1日 |1970年4月1日 |深川平野町1〜4(全)、深川三好町2 | |- |} {{Reflist|group="a"}} ===江東区役所富岡出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所富岡出張所管内(22町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[富岡 (江東区)|富岡]]'''|とみおか}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川富岡町1・2(全) | |- |'''富岡二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川富岡町1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[深川 (江東区)|深川]]'''|ふかがわ}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川1・2(全) | |- |'''深川二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[門前仲町]]'''|もんぜんなかちょう}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川門前仲町1・2(全) | |- |'''門前仲町二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川門前仲町1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[冬木]]'''|ふゆき}} |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川冬木町(全) | |- |{{ruby|'''[[永代]]'''|えいたい}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川永代1・2(全) | |- |'''永代二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川永代1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[佐賀 (江東区)|佐賀]]'''|さが}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川佐賀町1・2(全) | |- |'''佐賀二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川佐賀町1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[越中島]]'''|えっちゅうじま}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川越中島町(全)、深川牡丹町1 | |- |'''越中島二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川越中島町(全)、深川牡丹町1 | |- |'''越中島三丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川越中島町(全)、深川牡丹町1 | |- |{{ruby|'''[[牡丹 (江東区)|牡丹]]'''|ぼたん}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川牡丹町2〜4(全)、深川牡丹町1 | |- |'''牡丹二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川牡丹町2〜4(全)、深川牡丹町1 | |- |'''牡丹三丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川牡丹町2〜4(全)、深川牡丹町1 | |- |{{ruby|'''[[福住 (江東区)|福住]]'''|ふくずみ}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川福住町1・2(全) | |- |'''福住二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川福住町1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[古石場]]'''|ふるいしば}}'''一丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川古石場1〜4(全)、深川牡丹町1 | |- |'''古石場二丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川古石場1〜4(全)、深川牡丹町1 | |- |'''古石場三丁目''' |1969年4月1日 |1969年4月1日 |深川古石場1〜4(全)、深川牡丹町1 | |- |} {{hidden end}} ===江東区役所小松橋出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所小松橋出張所管内(15町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[毛利 (江東区)|毛利]]'''|もうり}}'''一丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川毛利町(全) | |- |'''毛利二丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川毛利町(全) | |- |{{ruby|'''[[住吉 (江東区)|住吉]]'''|すみよし}}'''一丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川住吉町1・2(全) | |- |'''住吉二丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川住吉町1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[猿江]]'''|さるえ}}'''一丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川猿江町1・2(全) | |- |'''猿江二丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川猿江町1・2(全) | |- |{{ruby|'''[[扇橋]]'''|おうぎばし}}'''一丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川扇橋1〜3(全) | |- |'''扇橋二丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川扇橋1〜3(全) | |- |'''扇橋三丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川扇橋1〜3(全) | |- |{{ruby|'''[[石島 (江東区)|石島]]'''|いしじま}} |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川石島町 | |- |{{ruby|'''[[海辺 (江東区)|海辺]]'''|うみべ}} |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川海辺町(全) | |- |{{ruby|'''[[千石 (江東区)|千石]]'''|せんごく}}'''一丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川千石町1〜3(全)、深川石島町 | |- |'''千石二丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川千石町1〜3(全)、深川石島町 | |- |'''千石三丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川千石町1〜3(全)、深川石島町 | |- |{{ruby|'''[[千田 (江東区)|千田]]'''|せんだ}} |1968年12月1日 |1968年12月1日 |深川千田町 | |- |} {{Reflist|group="b"}} ===江東区役所亀戸出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所亀戸出張所管内(9町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[亀戸]]'''|かめいど}}'''一丁目''' |1968年8月1日 |1968年8月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |'''亀戸二丁目''' |1968年8月1日 |1968年8月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |'''亀戸三丁目''' |1968年8月1日 |1968年8月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |'''亀戸四丁目''' |1968年8月1日 |1968年8月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |'''亀戸五丁目''' |1968年8月1日 |1968年8月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |'''亀戸六丁目''' |1968年8月1日 |1968年8月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |'''亀戸七丁目''' |1968年8月1日 |1968年8月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |'''亀戸八丁目''' |1968年8月1日 |1968年8月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |'''亀戸九丁目''' |1968年12月1日 |1968年12月1日 |亀戸町1〜9(全) | |- |} ===江東区役所大島出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所大島出張所管内(9町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[大島 (江東区)|大島]]'''|おおじま}}'''一丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |'''大島二丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |'''大島三丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |'''大島四丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |'''大島五丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |'''大島六丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |'''大島七丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |'''大島八丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |'''大島九丁目''' |1965年1月1日 |1965年1月1日 |大島町1〜8(全) | |- |} {{Reflist|group="c"}} ===江東区役所砂町出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所砂町出張所管内(14町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[北砂]]'''|きたすな}}'''一丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町1〜4(全)、北砂町5〜7 | |- |'''北砂二丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町1〜4(全)、北砂町5〜7 | |- |'''北砂三丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町1〜4(全)、北砂町5〜7 | |- |'''北砂四丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町1〜4(全)、北砂町5〜7 | |- |'''北砂五丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町1〜4(全)、北砂町5〜7 | |- |'''北砂六丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町1〜4(全)、北砂町5〜7 | |- |'''北砂七丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町1〜4(全)、北砂町5〜7 | |- |{{ruby|'''[[東砂]]'''|ひがしすな}}'''一丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町8〜10(全)、北砂町5〜7、南砂町6〜9 | |- |'''東砂二丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町8〜10(全)、北砂町5〜7、南砂町6〜9 | |- |'''東砂三丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町8〜10(全)、北砂町5〜7、南砂町6〜9 | |- |'''東砂四丁目''' |1966年1月1日 |1966年1月1日 |北砂町8〜10(全)、北砂町5〜7、南砂町6〜9 | |- |'''東砂五丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |北砂町8〜10(全)、北砂町5〜7、南砂町6〜9 | |- |'''東砂六丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |北砂町8〜10(全)、北砂町5〜7、南砂町6〜9 | |- |'''東砂七丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |北砂町8〜10(全)、北砂町5〜7、南砂町6〜9 | |- |'''東砂八丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |北砂町8〜10(全)、北砂町5〜7、南砂町6〜9 | |- |} {{Reflist|group="d"}} ===江東区役所南砂出張所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+江東区役所南砂出張所管内(10町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|町区域新設年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施前の町名など !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[南砂]]'''|みなみすな}}'''一丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町1・2・3・5(全)、南砂町4・6、深川平井町3、深川東陽町3 | |- |'''南砂二丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町1・2・3・5(全)、南砂町4・6、深川平井町3、深川東陽町3 |1番1号から5号まで、5番、6号及び7号は本庁管内 |- |'''南砂三丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町1・2・3・5(全)、南砂町4・6、深川平井町3、深川東陽町3 | |- |'''南砂四丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町1・2・3・5(全)、南砂町4・6、深川平井町3、深川東陽町3 | |- |'''南砂五丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町1・2・3・5(全)、南砂町4・6、深川平井町3、深川東陽町3 | |- |'''南砂六丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町1・2・3・5(全)、南砂町4・6、深川平井町3、深川東陽町3 | |- |'''南砂七丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町1・2・3・5(全)、南砂町4・6、深川平井町3、深川東陽町3 | |- |{{ruby|'''[[新砂]]'''|しんすな}}'''一丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町4・9、深川加崎町 |1番は本庁管内 |- |'''新砂二丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町4・9、深川加崎町 | |- |'''新砂三丁目''' |1967年7月1日 |1967年7月1日 |南砂町4・9、深川加崎町 | |- |} {{Reflist|group="d"}} {{hidden end}} {{See also|江東区の町名}} == 地域 == === 祭事・催事 === ;[[深川祭]] : [[富岡八幡宮]]の[[例祭]]で、[[8月15日]]を中心に行われ、三年に一度だけ本祭りが行われる。本祭りは永代通りを起点とし、大門通り、清澄通り、[[清洲橋]]、[[日本橋箱崎町|箱崎町]]、[[永代橋]]、永代通りを経て八幡宮を終点とする、江東区と中央区にまたがる約8㎞のコースを、午後の出発地点である永代橋前からは囃子・木遣・手古舞・宮司など先頭に、54基もの神輿が9時間にわたって練り歩く。別名「水掛祭り」とも称され、沿道からバケツやホース、あるいは消防の放水を浴びせられる。掛け声は昔ながらの伝統の「ワッショイ」に統一され、「コリャサ」「ドッコイ」「ホイサ」などの合いの手も入るが、他の祭りで主流となっている「ソイヤ」「セイヤ」などの掛け声は一切禁止されている。前回の本祭りは[[2023年]](令和5年)であった。次回は[[2026年]]である。 ;鷽替神事 : 毎年1月24日・25日に[[亀戸天神社]]で行われる。前年の[[ウソ|鷽(ウソ)]]を新しいものに取り替えることで、福を呼び込むものとされている。毎年朝早くから長い行列ができる。縁起物である木彫りの鷽が授与される。「去年の悪(あ)しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」との言い伝えによる。木彫りの鷽は、高さ5〜22㎝くらい、白木の円柱に上部3分の1位が荒削りされて頭部と腹部となり、背後は削り掛けの手法で尾羽が切り込まれる。彩色は頭が黒、胸は朱、背の羽は緑と黒である。{{See also|鷽替え}} ;藤祭り : 4月下旬から5月上旬にかけて亀戸天神社で行われる。敷地内の藤棚が一斉に開花し、神社中が一面藤色に染まる。江戸時代から「亀戸の藤」と呼ばれた藤の名所であり、亀戸以外からも観光客が訪れる。同時に学業講祭も行われ、学業祈願の祈願者も多く訪れる。 ;木場の角乗(東京都指定文化財) ;木場の木遣(東京都指定文化財) ;江東区民まつり中央まつり : 毎年10月中旬に[[都立木場公園]]で行われる。 ;江東区民まつり亀戸地区大会 : 毎年8月下旬に都立[[亀戸中央公園]]で行われ、[[打ち上げ花火]]なども行われる。 ;江東区民まつり大島地区大会 : 毎年9月中旬に行われる。 ;江東区民まつり砂町地区まつり : 毎年10月上旬に行われる。 ;江東花火大会 :毎年8月の上旬に行われる。 ;[[赤旗まつり]] :[[日本共産党]]が主催する一般向けの催事。 ;[[コミックマーケット]] :毎年、夏と冬の2回、[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]にて行われる[[同人誌即売会]]。 ===都市核=== 江東区では、区が主要と位置づける地域を都市核として指定している。区の長期基本計画によると、都市核と指定されたのは以下の6地域である。 ;[[東陽 (江東区)|東陽]] :[[江東区役所|区役所]]が所在し、区行政の中心地。[[東陽町駅]]は東京地下鉄の単独駅としては乗降客数が最大である。日本を代表する[[オフィス街]]である[[大手町 (千代田区)|大手町]]までは[[電車]]で10分以内と好立地であるため、[[住宅街]]が多く点在している。一方で、有力[[企業]]の事業所も多く、ビジネス街としての一面を持つ。[[ホテル]]や[[飲食店]]の入る[[東京イースト21|イースト21]]などがある。 ;[[亀戸]] :区北部の中心地。東京都から「[[錦糸町・亀戸副都心|亀戸・錦糸町副都心]]」として[[都心#副都心|副都心]]に指定されている地域である。[[亀戸駅]]周辺は、[[駅ビル]]である[[アトレ|アトレ亀戸]]などを中心に栄えている。[[セイコーインスツル]]の本社跡地が再開発された[[サンストリート亀戸]](2016年3月31日に閉鎖)などがあった亀戸6丁目には、現在、[[カメイドクロック]]([[フラッグシップ|旗艦型]][[複合商業施設]])が営業している。[[亀戸天神|天神]]や[[船橋屋]]も有名で古くから栄えており、江東区内で最も古く市街地化された地域の一つ。[[東武亀戸線]]の始発駅でもあり、[[ライトレール|LRT]](下の交通を参照)計画の始発駅予定地でもある。 ;[[門前仲町]] :区西部の中心地。古くから栄える街で、富岡八幡宮、深川不動など神社仏閣が多い。「深川」というと、門前仲町界隈を連想しやすい。大きな商業施設はないが、[[商店街]]も非常に栄えている。東西線、大江戸線が通り、東西線においては[[大手町駅 (東京都)|大手町]]から3駅である。 ;[[南砂]] :区東部の中心地。住宅地・[[商業地]]として発展している。現在は再開発が進められており、「[[トピレックプラザ]]」や「SUNAMO」(スナモ)といった[[複合商業施設]]があり<ref>{{Cite web|和書|title=南砂町駅近くのショッピングセンター トピレックプラザ |url=https://topyrecplaza.com/ |website=topyrecplaza.com |access-date=2022-08-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=南砂町ショッピングセンターSUNAMO(スナモ) |url=http://www.sunamo.jp/ |website=南砂町ショッピングセンターSUNAMO(スナモ) |access-date=2022-08-28 |language=ja |last=SUNAMO}}</ref>、区内で最も充実した地域の一つである。その一方で、親水公園、[[仙台堀川公園]]などをはじめとして緑も多く、住環境が良いとされ、近年[[人口]]が急増している。区立[[図書館]]の中央館や、順天堂高齢者医療センターがある。[[ライトレール|LRT]]の主要駅設置予定地でもある。 ;[[東京臨海副都心]] :[[有明 (江東区)|有明]]、[[青海 (江東区)|青海]]など、通称「[[お台場]]」と呼ばれる場所のほとんどは江東区(港区[[台場 (東京都港区)|台場]]、品川区[[東八潮]]などもある)である。観光地・ビジネス街として栄える。青海には[[ダイバーシティ東京]]、[[日本未来科学館]]などの有名施設があり、有明には日本最大のコンベンション・センター[[東京ビッグサイト]]や[[複合商業施設]]の[[有明ガーデン]]、多目的アリーナである[[有明アリーナ]]、日本テニスの聖地となっている[[有明テニスの森公園]]などがある。[[2020年夏季オリンピック|2020年東京オリンピック]]の競技会場やメディアセンターにもなった。 ;[[豊洲]] :区南部の中心地。以前、造船場などの工業地帯として栄えた地域である。現在は開発が進んでおり、人口が爆発的に増加している。[[高層マンション]]・[[高層ビル]]などが多い。[[IHI]]、[[NTTデータ]]、[[BIPROGY]]、[[マルハニチロ]]の本社および[[芝浦工業大学]]の本部キャンパスが所在し、ショッピングモール施設である「[[ららぽーと豊洲]]」がある。また、[[コンビニエンスストア]]の[[セブン-イレブン]]が日本で第1号店を開店したのも当地である。2018年10月に[[東京都中央卸売市場]]が[[築地市場]]に替えて開設された([[豊洲新市場]])。チームラボプラネッツTOKYO・DMMが2023年4月の訪日外国人来館者数が約17万人を突破する<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000036.000037065.html チームラボプラネッツ(東京・豊洲)、夏限定で【ひまわり】が咲き渡る世界に。2018年7月の開館以来、月間の訪日外国人来館者数が過去最高に。]</ref>など、国内外から注目されるエリアの一つである。 === 郵便番号 === * 区内全域が130番台で、江東区では上3桁は、'''135'''、'''136'''に分かれる。 ** 135-XXXX [[深川郵便局]] ** 136-XXXX [[城東郵便局]] === 市外局番 === * 江東区は全域が'''「03」'''である。 *「03」地域の市内局番は大半が上から2桁目が'''「6」'''(36XX、56XX、66XX)となっているが、同じく「6」が使われる[[江戸川区]]、[[葛飾区]]、[[墨田区]]同様に枯渇対策で最近では'''「8」'''(38XX、58XX、68XXなど)も割り当てられている。 * 江東区豊洲周辺では、'''「5」'''(35XX、55XX)。 === ナンバープレート === 江東区は江東ナンバー([[東京運輸支局]])を割り当てられている。 == 行政 == === 区長 === * 区長:[[大久保朋果]] * 任期:2023年(令和5年)12月11日 - 2027年(令和9年)12月10日 === 行政機構 === * 区職員数:2632人([[2022年]](令和4年)4月1日) === 財政 === 平成20年度当初予算規模 * 総額:2160億2200万円 ** 一般会計:1394億1200万円 ** 国民健康保険会計:480億7800万円 ** 老人保険会計:29億1600万円 ** 介護保険会計:198億6100万円 ** 後期高齢者医療会計:57億5500万円 === 区の施設 === ====本庁舎==== *'''江東区役所本庁舎''' : 東陽4-11-28 {{Col-begin}} ====出張所==== *'''亀戸出張所''' : 亀戸2-19-1 *'''豊洲特別出張所''' : 豊洲2-2-18 *'''白河出張所''' : 白河1-3-28 *'''富岡出張所''' : 富岡1-16-12 *'''小松橋出張所''' : 扇橋2-1-5 *'''大島出張所''' : 大島4-5-1 *'''砂町出張所''' : 北砂4-7-3 *'''南砂出張所''' : 南砂6-8-3 {{Col-break}} ====文化センター==== *江東区文化センター **東陽4-11-3 *亀戸文化センター **亀戸2-19-1 *東大島文化センター **大島8-33-9 *豊洲文化センター **豊洲2-2-18 *砂町文化センター **北砂5-1-7 *森下文化センター **森下3-12-17 *古石場文化センター **古石場2-13-2 {{Col-end}} == 議会 == === 江東区議会 === {{main|江東区議会}} === 東京都議会 === ;2021年東京都議会議員選挙 * 選挙区:江東区選挙区 * 定数:4人 * 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日 * 投票日:2021年7月4日 * 当日有権者数:416,822人 * 投票率:43.89% {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 細田勇 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 60 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 31,864票 |- | [[山﨑一輝]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 48 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 31,812票 |- | 畔上三和子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 65 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 29,136票 |- | [[白戸太朗]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 54 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 27,650票 |- | 高橋恵海 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 52 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 24,215票 |- | [[高野勇斗]] || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 38 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 19,137票 |- | 清水良平 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 43 || 日本維新の会 || style="text-align:center" | 新 || 12,417票 |- | 藤川広明 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 48 || テレビ改革党 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 3,342票 |} ;2017年東京都議会議員選挙 * 選挙区:江東区選挙区 * 定数:4人 * 投票日:2017年7月2日 * 当日有権者数:404,179人 * 投票率:54.56% {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 白戸太朗 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 50 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 45,614票 |- | 山﨑一輝 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 44 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 37,970票 |- | 細田勇 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 56 || 公明党 || style="text-align:center" | 新 || 36,533票 |- | 畔上三和子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 61 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 現 || 29,804票 |- | 柿沢幸絵 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 47 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || 25,908票 |- | 高橋恵海 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 48 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 21,059票 |- | 大澤昇 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 52 || [[民進党]] || style="text-align:center" | 元 || 15,409票 |- | 古賀美子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 48 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 3,171票 |- | 表奈就子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 33 || [[幸福実現党]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 1,403票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[東京都第15区|東京15区]](江東区) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:424,125人 * 投票率:58.73% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[柿沢未途]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 50 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[無所属]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 76,261票 || style="background-color:#ffc0cb;" | |- | || [[井戸正枝]] || style="text-align:center;" | 55 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 元 || 58,978票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 金澤結衣 || style="text-align:center;" | 31 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center;" | 新 || 44,882票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || [[今村洋史]] || style="text-align:center;" | 59 || 無所属 || style="text-align:center;" | 元 || 26,628票 || |- | || 猪野隆 || style="text-align:center;" | 56 || 無所属 || style="text-align:center;" | 新 || 17,514票 || |- | || [[桜井誠 (活動家)|桜井誠]] || style="text-align:center;" | 49 || [[日本第一党]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 9,449票 || |- | || 吉田浩司 || style="text-align:center;" | 61 || 無所属 || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 4,608票 || |} == 公共機関 == === 消防 === *[[東京消防庁]] [[東京消防庁第七消防方面本部|第七消防方面本部]](森下五丁目)※深川消防署森下出張所併設 **[[深川消防署]](木場三丁目)消防活動二輪車・[[救急隊]]1・無人走行放水車(レインボー5)・[[特別救助隊]]・はしご隊 ***有明分署(有明三丁目)救急隊1 ***永代出張所(永代二丁目)救急隊無 ***枝川出張所(枝川三丁目)救急隊1 ***豊洲出張所(豊洲二丁目)[[特別消火中隊]]・救急隊1・大型化学車・屈折放水塔車 ***森下出張所(森下五丁目)救急隊1 **[[城東消防署 (東京都)|城東消防署]](亀戸六丁目)特別救助隊・救急隊1・はしご隊・補給隊 ***東砂出張所(東砂七丁目)救急隊1 ***大島出張所(大島五丁目)救急隊1 [[化学機動中隊]] ***砂町出張所(北砂四丁目)特別消火中隊・救急隊1 *[[東京消防庁航空隊|航空隊]] 江東航空センター [[航空消防救助機動部隊]](エアハイパーレスキュー) === 警察 === *[[警視庁]] [[城東警察署 (東京都)|城東警察署]] **天神橋交番(亀戸三丁目) **[[亀戸駅]]前交番(亀戸一丁目) **亀戸交番(亀戸九丁目) **大島交番(大島六丁目) **日曹橋交番(南砂二丁目) **[[葛西橋]]西交番(東砂五丁目) **砂町交番(北砂四丁目) **進開橋交番(大島四丁目) **元八幡交番(南砂七丁目) **北砂五丁目交番(北砂五丁目) **[[番所橋]]交番(東砂二丁目) **[[東大島駅]]前交番(大島九丁目) **水神森地域安全センター(亀戸四丁目) *[[深川警察署 (東京都)|深川警察署]] **森下交番(森下三丁目) **住吉交番(住吉二丁目) **東陽交番(東陽三丁目) **門前仲町交番(門前仲町一丁目) **千田交番(千田) **豊洲交番(豊洲二丁目) **白河交番(白河三丁目) **枝川交番(枝川一丁目) **清澄庭園前交番(清澄三丁目) **[[永代橋]]地域安全センター(佐賀一丁目) **浜園橋地域安全センター(塩浜一丁目) *[[東京湾岸警察署]]([[2008年]](平成20年)3月31日開署) **都橋交番(東雲一丁目)※ 深川警察署より管轄変更 **辰巳交番(辰巳一丁目)※ 深川警察署より管轄変更 **[[新木場駅]]前交番(新木場一丁目)※城東警察署より管轄変更 **新木場地域安全センター(新木場一丁目)※城東警察署より管轄変更 *[[警視庁航空隊|航空隊]] 本部・江東飛行センター *[[警視庁術科センター|術科センター]] *[[江東運転免許試験場]] === 税務署 === *江東西税務署(深川地区管轄) *江東東税務署(城東地区管轄) === 病院 === * 愛育会愛和病院 * [[あそか病院]] * [[がん研究会有明病院]] * 木場病院 * 青峰会くじらホスピタル * [[江東病院]] * [[江東リハビリテーション病院]] * 寿康会病院 * [[順天堂大学医学部附属順天堂東京江東高齢者医療センター]] * [[地域医療機能推進機構東京城東病院]] * [[昭和大学江東豊洲病院]] * 鈴木病院 * 鈴木リハビリテーション病院 * 清湘会記念病院 * 清湘会東砂病院 * 東京都立東部療育センター * 深川立川病院 * 藤崎病院 * 友仁病院 ===その他=== * [[国土交通省]]青海総合庁舎([[海上保安庁]] [[海洋情報部]]庁舎) * [[東京港湾合同庁舎]] * 東京都赤十字血液センター * [[江東運転免許試験場]] * [[東京タクシーセンター]] === 水道 === * [[東京都水道局]] ** [[有明給水所]] ** [[江東給水所]] * [[東京都下水道局]] ** [[砂町水再生センター]] ** [[有明水再生センター]] === 清掃工場 === * 新江東清掃工場 * 有明清掃工場 == 交通 == === 鉄道路線 === * 区役所最寄り駅:東陽町駅 ; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) * [[File:JR JB line symbol.svg|17px|JB|left]] [[中央・総武緩行線|総武線各駅停車]]([[総武本線]]) ** [[亀戸駅]] * [[File:JR JE line symbol.svg|17px|JE|left]] [[京葉線]] ** [[越中島駅]] - [[潮見駅]] - [[新木場駅]] *[[File:JR_JM_line_symbol.svg|17px|JM|left]] [[武蔵野線]] ** 越中島駅 - 潮見駅 - 新木場駅 ** ※[[東京駅]] - [[西船橋駅]]間は京葉線に直通運転 ; [[東武鉄道]] * [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|17px|TS|left]] [[東武亀戸線|亀戸線]] ** 亀戸駅 - [[亀戸水神駅]] ; [[東京地下鉄]](東京メトロ) * [[File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|17px|T|left]] [[東京メトロ東西線|東西線]] ** [[門前仲町駅]] - [[木場駅]] - '''[[東陽町駅]]''' - [[南砂町駅]] * [[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|17px|Y|left]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] ** [[豊洲駅]] - [[辰巳駅]] - [[新木場駅]] * [[File:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|17px|Z|left]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] ** [[住吉駅 (東京都)|住吉駅]] - [[清澄白河駅]] ; [[東京都交通局]](都営地下鉄) * [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|17px|S|left]] [[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]] ** [[森下駅 (東京都)|森下駅]] &#124;{{small|([[墨田区]]区間)}}&#124; [[住吉駅 (東京都)|住吉駅]] - [[西大島駅]] - [[大島駅 (東京都)|大島駅]] - [[東大島駅]] * [[File:Toei Oedo line symbol.svg|17px|E|left]] [[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]] ** 森下駅 - 清澄白河駅 - 門前仲町駅 ; [[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]] * [[File:Yurikamome line symbol.svg|17px|U|left]] [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|東京臨海新交通臨海線]] ** [[東京国際クルーズターミナル駅]] - [[テレコムセンター駅]] - [[青海駅 (東京都)|青海駅]] - [[東京ビッグサイト駅]] - [[有明駅 (東京都)|有明駅]] - [[有明テニスの森駅]] - [[市場前駅]] - [[新豊洲駅]] - [[豊洲駅]] ; [[東京臨海高速鉄道]] (TWR) * [[File:Rinkai Line symbol.svg|17px|R|left]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]] ** [[東京テレポート駅]] - [[国際展示場駅]] - [[東雲駅 (東京都)|東雲駅]] - [[新木場駅]] ; 一般利用不可路線 * [[日本貨物鉄道|JR貨物]] ** [[総武本線]][[越中島支線]] * [[東京地下鉄]] ** [[深川車両基地]] ** [[新木場車両基地]] * [[都営地下鉄]] ** [[木場車両検修場]] ** [[大島車両検修場]] 江東区では地下鉄8号線事業推進課を新設し、[[東京メトロ有楽町線|地下鉄8号線]]の延伸(住吉 - 豊洲間)事業を2030年代半ばの開業に向けて進行中である。また、亀戸 - 新木場間に[[ライトレール|LRT]]を運行する構想も存在する。この構想には2つのプランがあり、一つ目は亀戸駅 - 南砂町駅を高架とし、以南は[[明治通り (東京都)|明治通り]]沿いの都有地などに線路を敷くとするプラン、二つ目は亀戸 - 南砂付近までは総武本線(越中島支線・上記参照)を使用し、以南は同じく[[明治通り (東京都)|明治通り]]沿いの都有地などに線路を敷くというプランである。しかし、収支の見通しの不明確さや新木場駅付近での国道357号との平面交差の問題など、課題が多い。 * [https://www.city.koto.lg.jp/397101/chikatetsu8gousuishinka.html 地下鉄8号線事業推進課の関連サイト] * [https://www.city.koto.lg.jp/397101/kurashi/kotsu/kokyo/53247.html 地下鉄8号線(有楽町線)の延伸(豊洲~住吉)の関連サイト] * [http://www.city.koto.lg.jp/seikatsu/toshiseibi/7798/ 江東区土木部交通対策課交通係の関連サイト] * [http://www.city.koto.lg.jp/pub/faq/faq_detail.php?fid=615 LRT計画に対する質問と回答] また、東京都が「都心部・臨海地域地下鉄構想」を発表している。この構想は、東京駅と有明・東京ビッグサイトを、銀座、新築地、勝どき、晴海、豊洲市場を経由して結ぶ地下鉄新線の計画である。さらに、つくばエクスプレスの延伸や羽田空港アクセス線とも連携させる予定である。 * [https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2022/11/25/06.html 「都心部・臨海地域地下鉄」事業計画案] このほか、前[[山﨑孝明|山崎江東区長]]は汐留から築地、豊洲を経て国際展示場付近に至る[[索道#都市索道|ロープウェイ]]の導入を構想した<ref>[http://n-seikei.jp/2014/04/post-21434.html 東京湾岸モノレール構想浮上 汐留~豊洲 山崎江東区長発案 建設費215億円 <nowiki>|</nowiki> JC-NET(ジェイシーネット)]:</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |url=https://toyokeizai.net/articles/-/217942 |title=東京臨海部の貧弱交通はロープウェーが救う |publisher=東洋経済オンライン |accessdate=2019-3-13}}</ref>。 === バス路線 === * [[都営バス]] - 区内に[[都営バス深川営業所|深川営業所]]および[[都営バス有明営業所|有明営業所]]が設けられている。ちなみに、[[都営バス江東営業所|江東営業所]]は所在地が墨田区江東橋である。 ** 一般路線バスの運行がメインだが、江東区では土休日に運行される観光シャトルバス(城東シャトル<急行05系統>・深川シャトル<急行06系統>)やコミュニティバス「しおかぜ」<江東01系統>の運行を委託している。 * [[ジェイアールバス関東]] - 区内に本社および東京支店が設けられている。 ** 高速バスがメインだが、東京駅 - 東京ビッグサイト - 東京港フェリーターミナル線の一般路線も運行している。 * [[東京BRT]] - 区内に潮見営業所が設けられている。 ** 幹線ルート [[虎ノ門ヒルズ]] - 新橋 - BRT勝どき - 豊洲市場 - 有明テニスの森 - 国際展示場駅 - (東京テレポート駅) ** 晴海・豊洲ルート 虎ノ門ヒルズ - 新橋 - BRT勝どき - 晴海地区 - 豊洲 - 豊洲市場(ミチノテラス) * [[京成バス]] - 区内に奥戸営業所東雲車庫が設けられている。 ** 高速バスの運行がメインだが、東京BRTの連節バスも運行している。 * [[東京空港交通]](リムジンバス) * [[平和交通 (千葉県)|平和交通]] - 区内に東京営業所が設けられている * [[なの花交通バス]] - 日本橋・室町・京橋と豊洲・お台場を循環する「東京ひとめぐりバス」を運行 ※土曜・休日を中心に運行 <gallery> ファイル:Tobus S-N050_shiokaze.jpg|[[コミュニティバス]]「しおかぜ」 ファイル:Toeibus L-F458.JPG|[[都営バス]]・江東区PRラッピングバス </gallery> === 道路 === * [[首都高速道路|首都高速]] ** [[首都高速中央環状線|中央環状線]]:[[平井大橋出入口]] - [[船堀橋出入口]] ** [[首都高速7号小松川線|7号小松川線]]:[[錦糸町出入口]] ** [[首都高速9号深川線|9号深川線]]:[[福住出入口]] - [[木場出入口 (東京都)|木場出入口]] - [[塩浜入口]] - [[枝川出口]] - [[辰巳ジャンクション|辰巳JCT]]([[首都高速湾岸線|湾岸線]]に接続) **[[首都高速10号晴海線|10号晴海線]]:[[東雲ジャンクション|東雲JCT]]-[[豊洲出入口]] ** [[首都高速湾岸線|湾岸線]]:[[新木場出入口]] - [[辰巳ジャンクション|辰巳JCT]] - [[有明出入口]] - [[東雲ジャンクション|東雲JCT]] - [[有明ジャンクション|有明JCT]] - [[臨海副都心出入口]] * [[一般国道]] ** [[国道14号]]([[京葉道路]]) ** [[国道357号]]([[東京湾岸道路]]) * [[都道府県道|都道]] ** [[清澄通り]] ** [[東京都道319号環状三号線|三ッ目通り]] ** [[東京都道465号深川吾嬬町線|四ツ目通り]] ** [[明治通り (東京都)|明治通り]] ** [[東京都道476号南砂町吾嬬町線|丸八通り]] ** [[蔵前橋通り]] ** [[東京都道・千葉県道50号東京市川線|新大橋通り]] ** [[清洲橋通り]] ** [[葛西橋通り]] ** [[永代通り]] ** [[浅草通り]] ** [[晴海通り]] ** [[東京都道484号豊洲有明線]] ** [[東京都道477号亀戸葛西橋線]] * その他 ** [[東京港臨海道路]](計画線) === 海上 === * [[東京都観光汽船]] * [[東京都公園協会]](東京水辺ライン) * [[オーシャン東九フェリー]] === 空港 === * [[東京ヘリポート]] == 名所・旧跡・文化・スポーツ施設 == <gallery> ファイル:Fukagawafudoson.jpg|深川不動尊 File:Tomioka Hachiman-gu 2008 August.jpg|富岡八幡宮 ファイル:Sarue onshi park03s3200.jpg|猿江恩賜公園 ファイル:亀戸天神社_拝殿.jpg|亀戸天神・拝殿 ファイル:亀戸天神社 鳥居.jpg|亀戸天神・鳥居 ファイル:Tokyo-BigSight-01.jpg|東京国際展示場 ファイル:Ariake Gymnastics Centre.jpg|有明展示場(有明GYM-EX) ファイル:Panasonic center.jpg|パナソニックセンター東京 ファイル:Koto City Koto Library.jpg|江東図書館(中央館) </gallery> === 神社 === {|class="wikitable" !神社名!!所在地 |- |[[富岡八幡宮]]||富岡一丁目 |- |[[深川神明宮]]||森下一丁目 |- |[[正木稲荷神社]]||常盤一丁目 |- |[[深川稲荷神社]]||清澄二丁目 |- |[[三穂道別稲荷神社]]||清澄二丁目 |- |[[稲荷神社 (江東区佐賀)|佐賀稲荷神社]]||佐賀二丁目 |- |[[稲荷神社 (江東区牡丹)|黒船稲荷神社]]||牡丹一丁目 |- |[[猿江神社 (江東区)|猿江神社]]||猿江二丁目 |- |[[日先神社 (江東区)|日先神社]]||猿江一丁目 |- |[[宇迦八幡宮]]||千田二丁目 |- |[[洲崎神社 (江東区)|洲崎神社]]||木場六丁目 |- |[[香取神社 (江東区)|亀戸香取神社]]||亀戸三丁目 |- |[[天祖神社 (江東区亀戸)|江東天祖神社]]||亀戸三丁目 |- |[[亀戸天神社]]||亀戸三丁目 |- |[[石井神社 (江東区)|石井神社]]||亀戸四丁目 |- |[[水神社 (江東区)|水神社]]||亀戸四丁目 |- |[[浅間神社 (江東区)|亀戸浅間神社]]||亀戸九丁目 |- |[[愛宕神社 (江東区大島二丁目)|大島愛宕神社]]||大島二丁目 |- |[[稲荷神社 (江東区大島)|子安稲荷神社]]||大島三丁目 |- |[[大島稲荷神社]]||大島五丁目 |- |[[東大島神社]]||大島七丁目 |- |[[稲荷神社 (江東区東砂二)|妙法稲荷神社]]||東砂二丁目 |- |[[稲荷神社 (江東区東砂二)|陶首稲荷神社]]||東砂二丁目 |- |[[稲荷神社 (江東区東砂三)|生田稲荷神社]]||東砂三丁目 |- |[[天祖神社 (江東区東砂四)|大塚天祖神社]]||東砂四丁目 |- |[[稲荷神社 (江東区東砂五)|中田稲荷神社]]||東砂五丁目 |- |[[天祖神社 (江東区東砂六)|東砂天祖神社]]||東砂六丁目 |- |[[志演尊空神社]]||北砂二丁目 |- |[[治兵衛稲荷神社]]||北砂三丁目 |- |[[亀高神社 (江東区)|亀高神社]]||北砂四丁目 |- |[[富賀岡八幡宮]]||南砂七丁目 |} === 寺院 === * [[成田山東京別院深川不動堂|深川不動尊]](深川不動堂) === 公園 === * [[青海北ふ頭公園]] * [[青海中央ふ頭公園]] * [[青海南ふ頭公園]] * [[暁ふ頭公園]] * [[有明テニスの森公園]] - 敷地内に[[有明コロシアム]]がある。 * [[有明西ふ頭公園]] * [[海の森公園]] * [[越中島公園]] * [[大島小松川公園]] * [[亀戸中央公園]] * [[清澄庭園]] * [[木場公園]] * [[猿江恩賜公園]] ** [[ティアラこうとう]](江東公会堂、猿江恩賜公園に隣接) * [[東雲水辺公園]] * [[新木場公園]] * [[シンボルプロムナード公園]] * [[仙台堀川公園]] * [[辰巳の森海浜公園]] * [[辰巳の森緑道公園]] * [[東京臨海広域防災公園]](有明の丘) * [[豊洲公園]] * [[豊洲ぐるり公園]] * [[春海橋公園]] * [[水の広場公園]] * [[夢の島公園]] ** [[江東区夢の島陸上競技場]] ** [[夢の島熱帯植物館]] ** [[東京スポーツ文化館]](旧:夢の島総合体育館) * [[横十間川親水公園]] * [[若洲海浜公園]] === 博物館・美術館 === * [[ガスの科学館|ガスの科学館(東京ガス)]] * [[チームラボプラネッツ TOKYO DMM.com]] * [[東京大空襲・戦災資料センター]] * [[東京都現代美術館]] * [[日本科学未来館]] * [[虹の下水道館]] * [[パナソニックセンター東京]] * [[深川江戸資料館]] * [[東京都水の科学館|水の科学館]] [[ファイル:KotoLibrary.jpg|サムネイル|233x233ピクセル|江東図書館]] === 図書館 === 江東区により、以下の図書館が運営されている。図書館業務の一部は、民間へ委託されている。 {{columns-list|3| * 江東図書館(南砂六丁目) * 深川図書館(清澄三丁目) * 砂町図書館(北砂五丁目) * 東陽図書館(東陽二丁目) * 豊洲図書館(豊洲二丁目) * 東雲図書館(東雲二丁目) * 古石場図書館(古石場二丁目) * 城東図書館(大島四丁目) * 亀戸図書館(亀戸七丁目) * 東大島図書館(大島九丁目) * 白河こどもとしょかん(白河四丁目)}} === コンベンションセンター・ホール・アリーナ=== * [[東京国際展示場]](東京ビッグサイト) * [[有明体操競技場|有明展示場]](有明GYM-EX) * [[東京ファッションタウン]](TFT) ** THTホール 1000 * [[有明アリーナ]] * [[東京ガーデンシアター]] * [[Zepp|Zepp DiverCity (TOKYO)]] * [[チームスマイル|豊洲PIT]] * [[亀戸HARDCORE]] * IHI STAGE AROUND TOKYO(IHIステージアラウンド東京) === スポーツ施設 === * [[有明コロシアム]] * [[海の森水上競技場]] * [[亀戸野球場]] * [[江東区夢の島陸上競技場]] * [[東京辰巳国際水泳場]] * [[日本空手道会館]]([[全日本空手道連盟]]) * [[洲崎球場]] - 1930年代にプロ野球公式戦が行われた球場。 == メディア == [[ファイル:Wangan Studio.jpg|thumb|180px|フジテレビ湾岸スタジオ]] * [[テレコムセンター]](元[[東京メトロポリタンテレビジョン|MXTV]]の本拠地) * [[フジテレビ湾岸スタジオ]] * [[潮見GATE SQUARE]](踊る大捜査線ロケ地、旧称潮見コヤマビル時代) * [[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]] * [[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]] * [[デイリースポーツ]]東京本部 * [[レインボータウンエフエム放送]] - [[コミュニティ放送|コミュニティFM局]] == 複合商業施設 == <gallery> ファイル:Toyosu Park.jpg|豊洲公園とららぽーと豊洲 ファイル:Diver City Tokyo -03.jpg|ダイバーシティ東京 ファイル:Shopping City Ariake Garden Koto-ku Tokyo.jpg|有明ガーデン </gallery> ;[[豊洲]] * [[アーバンドック ららぽーと豊洲]] **主な店舗は{{see|ららぽーと豊洲#主要テナント}} ;[[臨海副都心]] * [[ダイバーシティ東京]] ** ダイバーシティ東京プラザ ** [[Zepp|Zepp DiverCity (TOKYO)]] * [[BMW GROUP Tokyo Bay]] * [[有明ガーデン]] ** ショッピングシティ有明ガーデン ** [[東京ガーデンシアター]] ** [[有明ガーデン#有明四季劇場|有明四季劇場]] ;[[東雲 (江東区)|東雲]] ;・[[イオン東雲店]] ;・[[東雲キャナルコートCODAN]] ;[[東陽 (江東区)|東陽]] * [[東京イースト21]] ;[[亀戸]] * [[アトレ|アトレ亀戸]] * [[カメイドクロック]] ;[[南砂]] * [[トピレックプラザ]] ** 主な店舗は{{see|トピレックプラザ#店舗}} ;[[新砂]] * [[南砂町ショッピングセンターSUNAMO]](以下代表する大型店舗) ** イオンフードスタイル by [[ダイエー]](食品スーパー) ** ドゥ・スポーツ(スポーツクラブ) ** [[カインズ]](ホームセンター) ** [[コジマ×ビックカメラ]](大型家電) ** [[フタバ図書]](複合図書) ** [[スポーツデポ]](スポーツ用品) ** [[ユニクロ]](衣料品) ** [[アドアーズ]](アミューズメント) ** ぴょんぴょん(アミューズメント) **他に、24の飲食店・44の物販店・21のサービス店など計98店 ;[[北砂]] * [[アリオ北砂]] ** [[イトーヨーカドー|イトーヨーカドー北砂店]] ;[[木場]] * [[深川ギャザリア]] ** [[イトーヨーカドー|イトーヨーカドー木場店]] ** [[スターバックスコーヒー|スターバックスコーヒー 木場店]] ** [[ヒマラヤ (企業)|ヒマラヤ スポーツアベニュー木場店]] ** [[109シネマズ|109シネマズ木場]] ** ロータスパーク [[飲食店|レストラン街]] ** [[ティップネス|ティップネス木場店]] ** [[藤倉コンポジット|フジクラ ゴルフクラブ相談室]] ** [[レインボータウンエフエム放送]]木場スタジオ == 教育 == === 大学 === [[File:Musashino University Ariake -01.jpg|200px|thumb|武蔵野大学有明キャンパス]] * [[東京海洋大学]]越中島キャンパス * [[芝浦工業大学]]豊洲キャンパス * [[東京有明医療大学]] * [[有明教育芸術短期大学]] * [[武蔵野大学]]有明キャンパス * [[東京保健医療専門職大学]] === 専修学校 === *[[読売自動車大学校]] *江東服飾高等専修学校 *東京服装文化学院 *[[秀林外語専門学校]] *[[東京YMCA社会体育・保育専門学校]] *臨床福祉専門学校 === 高等学校 === {|class="wikitable" !高等学校名!!設立区分!!郵便番号!!住所 |- | [[東京都立城東高等学校|城東高等学校]]||都立||〒136-0072||大島3-22-1 |- | [[東京都立深川高等学校|深川高等学校]]||都立||〒135-0016||東陽5-32-19 |- | [[東京都立大江戸高等学校|大江戸高等学校]]||都立||〒135-0015||千石3-2-11 |- | [[東京都立東高等学校|東高等学校]]||都立||〒136-0074||東砂7-19-24 |- | [[東京都立科学技術高等学校|科学技術高等学校]]||都立||〒136-0072||大島1-2-31 |- | [[東京都立江東商業高等学校|江東商業高等学校]]||都立||〒136-0071||亀戸4-50-1 |- | [[東京都立墨田工科高等学校|墨田工科高等学校]]||都立||〒135-0004||森下5-1-7 |- | [[東京都立第三商業高等学校|第三商業高等学校]]||都立||〒135-0044||越中島3-3-1 |- | [[中村中学校・高等学校]]||私立||〒135-8404||清澄2-3-15 |- | [[かえつ有明中学校・高等学校]]||私立||〒135-8711||東雲2-16-1 |- | [[芝浦工業大学中学高等学校]] ||私立||〒135-8139||豊洲6-2-7 |- | [[中央学院大学中央高等学校]]||私立||〒136-0071||亀戸7-65-12 |- |} === 中学校 === {|class="wikitable" !中学校名!!設立区分!!郵便番号!!住所 |- | [[江東区立深川第一中学校|深川第一中学校]]||区立||〒135-0004||森下4-9-22 |- | [[江東区立深川第二中学校|深川第二中学校]]||区立||〒135-0041||冬木22-10 |- | [[江東区立深川第三中学校|深川第三中学校]]||区立||〒135-0044||越中島3-7-1 |- | [[江東区立深川第四中学校|深川第四中学校]]||区立||〒135-0015||千石1-12-12 |- | [[江東区立深川第五中学校|深川第五中学校]]||区立||〒135-0061||豊洲4-11-18 |- | [[江東区立深川第六中学校|深川第六中学校]]||区立||〒135-0023||平野3-6-13 |- | [[江東区立深川第七中学校|深川第七中学校]]||区立||〒135-0001||毛利1-14-1 |- | [[江東区立深川第八中学校|深川第八中学校]]||区立||〒135-0043||塩浜2-21-14 |- | [[江東区立有明中学校|有明中学校]]||区立||〒135-0063||有明2-10-1 |- | [[江東区立有明西学園|有明西学園]]||区立||〒135-0063||有明1-7-13 |- | 辰巳中学校||区立||〒135-0053||辰巳1-10-57 |- | [[江東区立東陽中学校|東陽中学校]]||区立||〒135-0016||東陽2-1-8 |- | [[亀戸中学校]]||区立||〒136-0071||亀戸9-2-2 |- | [[江東区立第二亀戸中学校|第二亀戸中学校]]||区立||〒136-0071||亀戸4-51-1 |- | 第三亀戸中学校||区立||〒136-0071||亀戸1-12-10 |- | [[江東区立大島中学校|大島中学校]]||区立||〒136-0072||大島8-12-22 |- | [[江東区立第二大島中学校|第二大島中学校]]||区立||〒136-0072||大島3-27-18 |- | [[江東区立大島西中学校|大島西中学校]]||区立||〒136-0072||大島4-1-23 |- | 砂町中学校||区立||〒136-0073||北砂6-16-28 |- | 第二砂町中学校||区立||〒136-0074||東砂8-10-9 |- | 第三砂町中学校||区立||〒136-0076||南砂3-10-3 |- | 第四砂町中学校||区立||〒136-0073||北砂5-20-17 |- | 南砂中学校||区立||〒136-0076||南砂2-3-20 |- | 第二南砂中学校||区立||〒136-0076||南砂1-2-18 |} ※中高一貫校は[[#高等学校]]を参照 === 小学校 === {|class="wikitable" !小学校名!!設立区分!!郵便番号!!住所 |- | [[江東区立明治小学校|明治小学校]]||区立|| 135-0033|| 深川2-17-26 |- | [[江東区立深川小学校|深川小学校]]||区立|| 135-0005|| 高橋14-10 |- | [[江東区立八名川小学校|八名川小学校]]||区立|| 135-0007|| 新大橋3-1-15 |- | [[江東区立臨海小学校|臨海小学校]]||区立|| 135-0048|| 門前仲町1-1-6 |- | [[江東区立越中島小学校|越中島小学校]]||区立|| 135-0044|| 越中島3-6-38 |- | [[江東区立数矢小学校|数矢小学校]]||区立|| 135-0047|| 富岡1-18-7 |- | [[江東区立平久小学校|平久小学校]]||区立|| 135-0042|| 木場1-2-2 |- | [[江東区立東陽小学校|東陽小学校]]||区立|| 135-0016|| 東陽3-27-12 |- | [[江東区立南陽小学校|南陽小学校]]||区立|| 135-0016|| 東陽2-1-20 |- | [[江東区立川南小学校|川南小学校]]||区立|| 135-0015|| 千石2-9-12 |- | [[江東区立扇橋小学校|扇橋小学校]]||区立|| 135-0014|| 石島18-5 |- | [[江東区立元加賀小学校|元加賀小学校]]||区立|| 135-0021|| 白河4-3-19 |- | [[江東区立毛利小学校|毛利小学校]]||区立|| 135-0001|| 毛利2-2-2 |- | [[江東区立東川小学校|東川小学校]]||区立|| 135-0002|| 住吉1-12-2 |- | [[江東区立豊洲小学校|豊洲小学校]]||区立|| 135-0061|| 豊洲4-4-4 |- | [[江東区立豊洲北小学校|豊洲北小学校]]||区立|| 135-0061|| 豊洲3-6-1 |- | 江東区立豊洲西小学校|[[江東区立豊洲西小学校|豊洲西小学校]]||区立|| 135-0061|| 豊洲5-1-35 |- | [[江東区立東雲小学校|東雲小学校]]||区立|| 135-0062|| 東雲2-4-11 |- | [[江東区立有明小学校|有明小学校]]||区立|| 135-0063|| 有明2-10-1 |- | [[江東区立有明西学園|有明西学園]]||区立|| 135-0063||有明1-7-13 |- | [[江東区立枝川小学校|枝川小学校]]||区立|| 135-0051|| 枝川3-5-3 |- | [[江東区立辰巳小学校|辰巳小学校]]||区立|| 135-0053|| 辰巳1-11-1 |- | 第二辰巳小学校||区立|| 135-0053|| 辰巳1-1-22 |- | 第一亀戸小学校||区立|| 136-0071|| 亀戸2-5-7 |- | 第二亀戸小学校||区立|| 136-0071|| 亀戸6-36-1 |- | 香取小学校||区立|| 136-0071|| 亀戸4-26-22 |- | [[江東区立浅間竪川小学校|浅間竪川小学校]]||区立|| 136-0071|| 亀戸9-22-4 |- | [[江東区立水神小学校|水神小学校]]||区立|| 136-0071|| 亀戸5-22-22 |- | 第一大島小学校||区立|| 136-0072|| 大島2-41-4 |- | 第二大島小学校||区立|| 136-0072|| 大島3-16-2 |- | 第三大島小学校||区立|| 136-0072|| 大島9-5-3 |- | 第四大島小学校||区立|| 136-0072|| 大島6-7-8 |- | 第五大島小学校||区立|| 136-0072|| 大島8-40-13 |- | [[江東区立大島南央小学校|大島南央小学校]]||区立|| 136-0072|| 大島1-20-20 |- | 砂町小学校||区立|| 136-0073|| 北砂4-13-23 |- | 第二砂町小学校||区立|| 136-0074|| 東砂7-17-30 |- | 第三砂町小学校||区立|| 136-0076|| 南砂6-3-13 |- | 第四砂町小学校||区立|| 136-0076|| 南砂2-13-18 |- | 第五砂町小学校||区立|| 136-0074|| 東砂8-11-5 |- | 第六砂町小学校||区立|| 136-0073|| 北砂6-26-6 |- | 第七砂町小学校||区立|| 136-0074|| 東砂3-21-5 |- | 小名木川小学校||区立|| 136-0073|| 北砂5-22-10 |- | [[江東区立東砂小学校|東砂小学校]]||区立|| 136-0074|| 東砂2-12-14 |- | 北砂小学校||区立|| 136-0073|| 北砂1-3-36 |- | 南砂小学校||区立|| 136-0076|| 南砂2-3-21 |- | 亀高小学校||区立|| 136-0073|| 北砂5-20-16 |} 軽度の知的発達の遅れを対象とした[[特別支援学級]](仲よし学級)はすべての小学校にあり、特別支援教室(ひまわり教室)は10校(平成32年度入学者対象)に設置し巡回指導している<ref name="syuugakudoudan31">{{PDFlink|[https://www.city.koto.lg.jp/582102/kodomo/kosodate/sodan/documents/syuugakusoudan31.pdf 就学相談のご案内] 江東区教育委員会(平成31年4月)}}</ref>。<br> 言語障害(ことばの教室)、聴覚障害(きこえの教室)は南陽小学校にあり、通級指導を受ける。<br> [[特別支援学校]]は[[江東区#特別支援学校|下記]]参照。 === 幼稚園 === ==== 区立幼稚園 ==== {{columns-list|3| *平久幼稚園 *南陽幼稚園 *川南幼稚園 *つばめ幼稚園 *元加賀幼稚園 *豊洲幼稚園 *枝川幼稚園 *辰巳幼稚園 *ちどり幼稚園 *ひばり幼稚園 *第一亀戸幼稚園 *第二亀戸幼稚園 *大島幼稚園 *第三大島幼稚園 *もみじ幼稚園 *第五砂町幼稚園 *東砂幼稚園 *なでしこ幼稚園 *小名木川幼稚園 *みどり幼稚園}} === 特別支援学校 === 東京都立の特別支援学校では、障害に応じてより専門性の高い教育を行う<ref name="syuugakudoudan31" />。 * 城東特別支援学校(小・中/知的) * 臨海青海特別支援学校(小・中/知的) * 江東特別支援学校(高/知的) * 墨東特別支援学校(小・中・高/肢体不自由) * 大塚ろう学校江東分教室(幼・小/聴覚) * 葛飾盲学校(幼・小・中/視力) - 葛飾区 ===インターナショナル・スクール=== *[[K.インターナショナルスクール東京]] *[[インディア・インターナショナル・スクール]] ===教育関連施設=== * [[東京国際交流館]] *教育センター **東陽2-3-6 *青少年センター **亀戸7-41-16 *日光高原学園 **[[栃木県]][[日光市]]所野1542-6 *富士見高原学園 **[[長野県]][[諏訪郡]]富士見町境字広原12067-21 === 職業訓練 === * 東京都立城東職業能力開発センター(旧:亀戸技術専門校)([[職業能力開発促進法]]に基づく[[職業能力開発校]]) == 主な企業・団体 == [[ファイル:Toyosu Center Building 001.JPG|thumb|180px|NTTデータの本社である豊洲センタービル(左側)と豊洲センタービルアネックス(右側)]] * [[IHI]] - 旧・石川島播磨重工業。重工業を主体とする製造会社。[[豊洲]]に本社がある。 * [[アイベックスエアラインズ]] - 航空運送事業。事業所は[[仙台空港]]及び[[大阪国際空港]]。 * [[アサヒペン]] - [[塗料]]や各種製品の輸入・製造ならびに販売を行う企業。本社は[[大阪市]]に置くが、[[猿江]]に東京本社がある。 * [[アスクル]] - 事務用品を中心とする通信販売会社。豊洲に本社がある。 * [http://www.alix-corp.co.jp/ アリックス] - [[大豆]]を加工した[[健康食品]]の製造・販売を行う企業。[[佐賀 (江東区)|佐賀]]に本社がある。 * [[伊藤園]] - [[茶|茶製品]]および[[清涼飲料水]]メーカー。大島に東京東部支店がある。 * [[SCSK]] - [[住友商事|住友商事グループ]]の[[システムインテグレーター]]。豊洲に本社がある。 * [[NTTデータ]] - [[NTTグループ]]の中核企業であり、情報サービス事業では業界最大手である。豊洲に本社がある。 * [[NECソリューションイノベータ]] - [[NECグループ]]の主要企業である。[[木場#地理|新木場]]に本社がある。 * [[オタフクソース]] - [[お好み焼き]]などに使う[[ソース (調味料)|ソース]]などの調味料を製造・販売する企業。本社は[[広島市]]にあるが、木場に東京本部がある。 * [[オートバックスセブン]] - カー用品店最大手のチェーンである[[オートバックス]]などを運営している企業。豊洲に本社がある。 * [[大塚家具]] - [[有明 (江東区)|有明]]に本社を置く家具販売会社。 * [[大林組]] - 総合[[建設会社]]。[[スーパーゼネコン]]。[[南砂]]に「清砂寮」を置く。 * [[奥本製粉]] - 小麦粉を中心とした製粉会社。[[富岡 (江東区)|富岡]]に本社がある。 * [[オルガノ]] - 水処理装置、薬品などの製造販売を行う会社。[[新砂]]に本社がある。 * [[オリヂナル]] - ハンドクリーム「ももの花」で知られる。毛利に本社がある。 * [[カルチャーブレーン]] - 主に[[コンピュータゲーム]]を製造・販売している会社。[[亀戸]]に東京事業部がある。 * [[喜代村]]本店 - 「[[すしざんまい]]」を展開する[[寿司]][[チェーン店]]。創業時は[[富岡 (江東区)|富岡]]で弁当店を経営していた。 * [[崎陽軒]]東京工場 - [[焼売|シュウマイ]]で有名な食品加工会社。都内で販売されている同社製品の大半を製造している。 * [[ぎょうせい]] - [[加除式書籍|加除式法規書]]を中心とする出版社。新木場に本社がある。 * [[キリンビバレッジ]] - [[清涼飲料水]]メーカー。千石に中央支店がある。 * [[コジマ (ペットショップ)|コジマ]] - 「ペットの専門店 コジマ」の屋号で運営している[[ペットショップ]]。[[犬]]や[[ネコ|猫]]などのペットやペット用品の販売の他に、[[動物病院]]も経営している。亀戸に本社がある。 * [[佐川急便]] - 本社は[[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]だが、新砂に大規模な東京本部ビルがあり、新砂・新木場界隈には都心部を担当する営業店が多数存在する。 * [[サンコーコンサルタント]] - 総合建設コンサルタント会社。亀戸に本社がある。 * [[ジェイアールバス関東東京支店]] - 塩浜に車庫を持ち、東京地区発着のJRバスと共同運行の高速バスのほとんどが入出庫する。 * [[澁澤倉庫]] - [[渋沢財閥]]の流れをくむ老舗の物流企業。[[永代]]に本社がある。 * [[ショップチャンネル]] - 国内業界最大手の[[テレビショッピング|テレショップ]]([[通信販売|通販]])[[専門チャンネル]]企業。[[東陽]]に本社がある。 * [[シンドラーエレベータ]] - [[エレベーター]]・[[エスカレーター]]の製造・販売、保守・管理を行う日本の会社。[[越中島]]に本社がある。 * [[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]] - スポーツニッポンを発行する会社。越中島に本社がある。 * [[住友ゴム工業]] - [[タイヤ]]、スポーツ用品などを製造する[[住友グループ]]の企業。本社は[[神戸市]]に置くが、豊洲に東京本社を置く。 * [[セイコーインスツル]] - [[1993年]](平成5年)までは亀戸に本社・工場があった。跡地は[[サンストリート亀戸]]となった。 * [[セーラー万年筆]] - 万年筆をはじめとする文房具メーカー。[[広島県]][[呉市]]より毛利に本社を移転した。 * [[センコーグループホールディングス]] - 陸運業のセンコーや[[ランテック]]、[[東京納品代行]]、卸売業の[[アスト]]などを傘下に持ち、潮見に本社を構える。 * [[ソントン食品工業]] - [[ピーナッツバター]]や[[ジャム]]などの食品メーカー。[[2014年]]に[[文京区]][[千石 (文京区)|千石]]から移転した。 * [[第一生命保険]] - 日本最大手[[生命保険]]会社の一つ。豊洲にシステム部門などを集約した豊洲本社がある。 * [[ダイエー]] - 大手GMSおよびスーパーマーケットの運営会社で、[[イオン (企業)|イオン]]の完全子会社。登記上の本店所在地は[[神戸市]]だが、[[東陽 (江東区)|東陽]]に東京本社がある。 * [[大樹生命保険]] - 旧・三井生命保険。日本生命グループの生命保険会社。[[2013年]](平成25年)に本社機能を青海に集約。 * [[大丸松坂屋百貨店]] - 大手百貨店。[[2010年]](平成22年)3月に経営統合し、本社を大丸の自社ビルがある[[木場]]に移転。 * [[大和総研]] - [[大和証券グループ本社]]の主要子会社。[[冬木]]に本社がある。 * [[大和リビング]] - 大手不動産会社で[[大和ハウス]]のグループ会社。2012年に有明に本社を移転。 * [[高梨乳業|タカナシ乳業株式会社]] - 乳製品全般の製造・販売を営む企業。[[新砂]]に東京中央営業所がある。 * [[帝都自動車交通]] - 東京都を中心に[[ハイヤー]]・[[タクシー]]と[[不動産業]]を運営する事業者。[[門前仲町]]に本社がある。 * [[デイリースポーツプレスセンター]] - [[神戸新聞社]]が発行する[[スポーツ新聞]]「[[デイリースポーツ]]」の東京版を編集・印刷する企業。木場に本社がある。 * [[テラケン]] - 関東地区を中心に[[居酒屋]]チェーン「さくら水産」を展開する企業。亀戸に本社がある。 * [[テンヨー]] - マジック用品・ジグソーパズルなどを扱う[[玩具]]メーカー。[[千石 (江東区)|千石]]に本社がある。 * [[東京カットグラス工業協同組合]] - [[伝統工芸]]である[[江戸切子]]の組合。地場産業。亀戸に本部がある。 * [[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]] - 東京スポーツを発行する会社。本社はスポーツニッポンの本社と同居し越中島にある。 * [[東京臨海高速鉄道]] - [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]を運営している鉄道会社。[[青海 (江東区)|青海]]に本社がある。 * [[東光高岳]] - [[電力会社]]向けの電気機器メーカー。重電9社の一角。豊洲に本社がある。 * [[東日印刷]] - [[毎日新聞]]グループの印刷会社。本社はスポーツニッポン・東京スポーツの本社と同居し越中島にある。 * [[トステム住宅研究所]] - 日本の建設会社。亀戸に本社がある。 * [[トーヨーカネツ]] - ガスタンクなどを製造する会社。[[南砂]]に本社がある。 * [[トーヨーコーケン]] - ウインチ・ホイストなどを製造する会社。[[東砂]]に本社がある。 * [[日鉄ドラム]] - [[日本製鉄グループ]]の[[ドラム缶]]メーカー。亀戸に本社がある。 * [[日鉄建材]] - [[建築]]や[[土木]]分野に使用される[[形鋼]]や[[表面処理]][[鋼板]]などの[[鉄鋼]]製品を製造する企業。木場に本社がある。 * [[日本エア・リキード]] - 産業[[気体|ガス]]の製造販売メーカー。東雲に事業所を持つ。 * [[日本コークス工業]] - 旧・三井鉱山。海外炭輸入事業を中心とした[[エネルギー]]事業、粉粒体機器をメインとする化工機事業を主力とする企業。豊洲に本社がある。 * [[日本デジタル研究所]] (JDL) - [[財務会計]][[ソフトウェア]]や専用[[コンピュータシステム]]の開発・販売を行っている会社。新砂に本社がある。 * [[日本電子計算]] - [[福住 (江東区)|福住]]に本社がある。情報処理サービス、ソフトウェアの開発・販売会社。[[NTTデータ]]グループ傘下。 * [[日本ヒューレット・パッカード]] - 大手IT企業。2011年に東京都内に分散している事業所を大島の新自社ビルに集約し、本社とした。 * [[日本郵便]]([[新東京郵便局]]・[[東京国際郵便局]]・[[深川郵便局 (東京都)|深川郵便局]]・[[城東郵便局]]) * [[花岡車輌]] - 産業用物流機器、空港用物流機器、福祉介護用機器を製造するメーカー。白河に本社がある。 * [[パラマウントベッド]] - 家庭用ベッド、医療用ベッドを取り扱う日本の[[ベッド]]メーカー。東砂に本社がある。 * [[日立物流]] - [[日立製作所]]グループの物流会社。[[東陽 (江東区)|東陽]]に本社がある。 * [[BIPROGY]] - 旧・日本ユニシス。[[大日本印刷]]の関連会社であるが、かつての親会社・[[三井物産]]とも資本関係があり今も[[三井グループ]]に属する。豊洲に本社がある。 * [[ファミリア (アパレルメーカー)|ファミリア]] - 人気キャラクター製品を取り扱う[[子供服]]を中心とする[[アパレル]]メーカー。[[大島 (江東区)|大島]]に東京支社がある。 * [[フジアール]] - テレビ番組の美術を中心に製作する会社。2012年に[[品川区]][[東品川]]から[[青海 (江東区)|青海]]に本社を移転。 * [[フジクラ]] - 通信ケーブルや電線を製造する非鉄金属メーカー。電線御三家の一角。[[木場]]に本社を置き、以前は同社の深川工場があった場所は、[[深川ギャザリア]]として再開発されている。 * [[富士興産]] - 石油会社。[[亀戸]]に東京支店を置く。 * [[船橋屋]] - [[くず餅]]・[[あんみつ]]などの製造販売を行っている、文化2年([[1805年]])から続く[[老舗]]メーカー。亀戸に本社がある。 * [[文明堂]] - [[カステラ]]、[[和菓子]]を製造・販売する老舗。かつて、北砂に工場があり、現在も壹番舘砂町直売店が営まれている。 * [[ポリフォニー・デジタル]] - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]の子会社で、コンピューターゲームの企画・開発を主に事業を行っている会社。以前は[[枝川 (江東区)|枝川]]に本社があったが、越中島に本社を移転した。 * [[マルハニチロ]] - 水産・食品・倉庫関連事業。豊洲に本社がある。 * [[明治 (企業)|明治]] - 菓子・食品・乳製品を取り扱う[[明治ホールディングス]]傘下の総合食品メーカー。旧社名は[[明治乳業]]。新砂に本社がある。 * [[明治屋商事]] - [[三菱商事]]と[[明治屋]]の[[合弁会社]]である食品卸[[商社]]。豊洲に本社がある。 * [[りそなホールディングス]] - [[りそな銀行]]などを傘下にもつ銀行持株会社。東京本部を[[大手町 (千代田区)|大手町]]から木場に移転し、登記上の本社も[[大阪市]]から変更。 * [[レインボータウンエフエム放送]] - 江東区およびその周辺地域を可聴エリアとしている[[コミュニティ放送局]]。東陽に本社があり、木場の[[深川ギャザリア]]と亀戸のアンフェリシオンにスタジオがある。 * [[ロレックス]] - [[スイス]]の高級腕時計メーカー。東陽にサービスセンターがある。 * [[ヤマタネ]] - [[倉庫業]]準大手、米(コメ)の[[卸売|卸売業]]大手のメーカー。越中島に本社がある。 * [[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]] - [[鉄道]]事業および軌道事業([[新交通システム]])を営む、[[東京都]]などが出資する[[第三セクター]]方式の株式会社。有明に本社と車両基地がある。 * [[WOWOW]] - 日本を放送対象地域とする衛星基幹放送事業者。[[辰巳 (江東区)|辰巳]]に放送センターがある。 == 高層施設 == [[ファイル:Tokyo Baycourt Club.jpg|thumb|220px|東京ベイコート倶楽部ホテル&スパリゾート]] * [[江東区の超高層建築物・構築物の一覧]]を参照。 == 姉妹都市・友好都市 == === 姉妹都市・友好都市 === * {{Flagicon|日本}}{{Flagicon|岩手県}}[[岩手県]][[平泉町]] * {{Flagicon|カナダ}}{{Flagicon|British Columbia}}[[カナダ]][[ブリティッシュコロンビア州]][[サレー|サレー市]] == 住宅== ===大規模マンション=== * 亀戸レジデンス *イーストパークス大島 *コスモ21ザ・ガーデンズフォート *東大島ファミールハイツ *東京スイートレジデンス *シティテラス東陽町 *イトーピア東陽町マンション *南砂町グリーンハイツ *クリオレジダンス東京 *プラウドシティ東雲キャナルマークス *ファミール浜園 *ルネ門前仲町パークステイツ *木場サニータウン *ザ・ミッドランドアベニュー *アルファスシティ大島 *イトーピア東大島マンション *ソラネットシティ *メイツ深川住吉 === 住宅団地 === * UR[[東雲キャナルコート]] [[東雲キャナルコートCODAN]] * 豊洲四丁目団地 * みどり団地 * 都営白髭団地(東京都建築局、東京都)、防災拠点、1983年 * 都営東砂団地 * 南砂町グリーンハイツ * 都営住宅[[南砂]] * JKK南砂団地(東京都住宅供給公社、東京都、1972年) * 都営深川千石町アパート(千石 2-11、1966 - 1967年) * UR深川佐賀町団地(佐賀 市街地住宅 賃貸134 1963年 現存 譲渡返還) * UR北砂五丁目団地 (旧日本住宅公団、野生司建築設計事務所、面開発、1976年) * 北砂七丁目団地 * UR木場公園三好住宅 (旧日本住宅公団、[[坂倉建築研究所]]、1982年) * 都営越中島三丁目アパート(越中島 3-2、1968年) * 都営塩浜一丁目第2アパート(塩浜 1-3、1978 - 1981年) * 都営塩浜一丁目アパート(塩浜 1-5、1969 - 1970年) * 都営塩浜二丁目アパート(塩浜 2-10、1967年) * 都営塩浜二丁目第4アパート(塩浜 2-26、1994年) * 都営塩浜二丁目第2アパート(塩浜 2-5、1971年) * 都営牡丹町アパート(牡丹 2-2、1964 - 1969年) * 都営亀戸第2アパート(亀戸 2-11、1961年) * 都営亀戸六丁目アパート(亀戸 6-54、1966年) * 都営亀戸七丁目第2アパート(亀戸 7-40、1975年) * 都営亀戸七丁目第3アパート(亀戸 7-42、1988年) * 都営亀戸七丁目アパート(亀戸 7-56、1967 - 1972年) * 都営亀戸八丁目アパート(亀戸 8-4、1972年) * 都営亀戸九丁目アパート(亀戸 9-33、1978年) * UR亀戸一丁目団地(亀戸 市街地住宅 賃貸32 1960年 現存 譲渡返還) * 亀戸二丁目団地 * UR亀戸六丁目団地(亀戸 市街地住宅 賃貸9 1958年 現存譲渡) * UR亀戸西団地 * 都営枝川一丁目第3アパート(枝川 1-10、1999年) * 都営枝川一丁目アパート(枝川 1-5、1972年) * 都営枝川一丁目第2アパート(枝川 1-9、1988 - 1993年) * 都営枝川三丁目アパート(枝川 3-4、1974年) * 都営新砂三丁目アパート(新砂 -3、1999年) * 都営高橋アパート(森下 3-10、1957年) * 都営森下三丁目アパート(森下 3-13、1978年) * 都営千石一丁目第2アパート(千石 1-7、1996年) * 都営千石一丁目アパート(千石 1-9、1968年) * 都営千石二丁目アパート(千石 2-3、1994年) * 都営千田第2アパート(千田 21-10、1995年) * 都営千田アパート(千田 22-16、1995年) * 都営扇橋三丁目アパート(扇橋 3-20、1977年) * 新大橋団地(新大橋 市街地住宅 賃貸70 1963年 現存 譲渡返還) * URシティコート大島 (大島6-14、1999年) * UR大島団地(大島、賃貸360 分譲320 1957年) * 大島四丁目団地(大島、旧日本住宅公団、市浦建築設計事務所、面開発、ツインコリダー、1969年) * 大島六丁目団地 * 大島七丁目団地 * 都営大島四丁目アパート(大島 4-21、1975 - 1980年) * 都営大島五丁目第2アパート(大島 5-17、1967 - 1981年) * 都営大島五丁目第4アパート(大島 5-12、1987年) * 都営大島五丁目アパート(大島 5-53、1966 - 1968年) * 都営大島六丁目アパート(大島 6-3、1967 - 1969年) * 都営大島八丁目第3アパート(大島 8-12、1971年) * 都営大島八丁目第2アパート(大島 8-21、1970 - 1977年) * 都営大島八丁目アパート(大島 8-42、1967年) * 都営大島九丁目第2アパート(大島 9-6、2006年) * 都営大島九丁目アパート(大島 9-7、1987 - 1998年) * 都営辰巳団地 * 都営[[辰巳一丁目アパート]](辰巳 1-2、1967 - 1969年) * [[潮見]]一丁目アパート(都営住宅・都民住宅の合築、潮見 1-29、1997年) * UR潮見駅前プラザ一番街(潮見2-6-1、2002年) * UR潮見駅前プラザ二番街(潮見2-7-1、2002年) == 主な出来事 == * [[東京ゴミ戦争]]…[[清掃工場]]建設が進まなかった[[杉並区]]のゴミ搬入を、江東区長の[[小松崎軍次]]が実力行使で阻止する。 * [[亀戸異臭事件]]…[[オウム真理教]]による[[炭疽菌]]散布騒動。死傷者はなし。 * [[JT女性社員逆恨み殺人事件]]…婦女暴行で服役していた犯人が、出所後通報者を殺害。 * [[亀戸事件]] * [[千葉県北西部地震 (2005年)|千葉県北西部地震]]…この地震によって亀戸の立体駐車場から乗用車が転落した。 * [[江東区小5女児誘拐殺人事件]]…[[1969年]](昭和44年)に同区在住の当時小学5年生の女子児童が誘拐され、他殺体で発見された事件。[[犯人]][[逮捕]]に至らず[[1984年]](昭和59年)に[[公訴時効]]が成立。 * [[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]…[[1988年]](昭和63年)から[[1989年]](平成元年)にかけて東京都と[[埼玉県]]で起こった連続誘拐殺人事件。江東区でも1989年に[[東雲 (江東区)|東雲]]在住の女児(当時5歳)が誘拐され殺害された。 * [[亀戸警察官電殺事件]] * [[深川通り魔殺人事件]] * [[枝川事件]] * [[江東マンション神隠し殺人事件]] * [[城東署覚醒剤所持捏造事件]] * [[富岡八幡宮殺人事件]] == 出身有名人 == === 芸能 === * [[宇津井健]] - 俳優 * [[倉田てつを]] - 俳優 * [[蔵忠芳]] - 俳優 * [[坂本昌行]] - 俳優、歌手 * [[田中圭]] - 俳優 * [[寺島進]] - 俳優 * [[谷充義]] - 俳優 * [[関智一]] - 声優 * [[郷里大輔]] - 声優 * [[立川談笑]] - 落語家 * [[青江三奈]] - 歌手 * [[岩崎宏美]] - 歌手 * [[岩崎良美]] - 歌手 * [[持田香織]] - 歌手([[Every Little Thing]]) * [[水原弘]] - 歌手 * [[光永亮太]] - 歌手 * [[秋元順子]] - 歌手 * [[佐藤江梨子]] - [[俳優#性別での分類|女優]] * [[鈴木輝江]] - 女優 * [[片瀬那奈]] - 女優 * [[五月みどり]] - 女優 * [[小松みどり (1949年生)|小松みどり]] - 女優 * [[飛龍つかさ]] - 女優、元[[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]男役 * [[ILMARI]] - [[RIP SLYME]] * [[RYO-Z]] - RIP SLYME * [[おりも政夫]] - [[フォーリーブス]] * [[山田隆夫]] - タレント * [[中村アン]] - モデル・タレント * [[昔昔亭桃之助]] - 落語家 * [[柳家東三楼]] - 落語家 * [[三遊亭多歌介]] - 落語家 * [[灘康次]] - [[ボーイズ (演芸)|ボーイズグループ]]『[[灘康次とモダンカンカン]]』リーダー * [[岡部洋一 (音楽家)|岡部洋一]] - [[パーカッション|パーカッショニスト]] * [[松永天馬]] - [[アーバンギャルド]] === スポーツ === * [[井上亘]] - 元[[プロレスラー]] * [[越中詩郎]] - プロレスラー * [[小島聡]] - プロレスラー(新日本プロレス) * [[佐藤恵一]] - プロレスラー * [[十嶋くにお]] - プロレスラー([[KAIENTAI DOJO|2AW]]) * [[望月成晃]] - プロレスラー([[DRAGON GATE]]) * [[KAGETORA (プロレスラー)|KAGETORA]] - プロレスラー(DRAGON GATE) * [[小嶋川庄吉]] - 元力士 * [[鶴渡清治郎]] - 元力士 * [[大江戸勇二]] - 元力士 * [[春日竜功隠]] - 元力士 * [[魁将龍邦昭]] - 元力士 * [[大翔湖友樹]] - 元力士 * [[王鵬幸之介]] - 力士 * [[松坂大輔]] - 元プロ野球選手([[埼玉西武ライオンズ]]) * [[井納翔一]] - 元プロ野球選手([[横浜DeNAベイスターズ]]、[[読売ジャイアンツ]]) * [[小谷野栄一]] - 元プロ野球選手([[オリックス・バファローズ]]) * [[坪井智哉]] - 元プロ野球選手(オリックス・バファローズ) * [[小杉陽太]] - 元プロ野球選手(横浜DeNAベイスターズ) * [[高田誠 (野球)|高田誠]] - 元プロ野球選手 * [[ディビッドソン純マーカス]] - 元サッカー選手([[バンクーバー・ホワイトキャップス]]) * [[梶山陽平]] - 元サッカー選手([[FC東京]])、[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]サッカー日本代表。 * [[大久保択生]] - サッカー選手([[清水エスパルス]]) *[[金鍾成]] - 元サッカー選手([[ガイナーレ鳥取]]監督) * [[横山雅美]] - 元バレーボール選手([[デンソー・エアリービーズ]]) * [[伊藤雅雪]] - 元プロボクサー * [[堀米雄斗]] - プロスケートボード選手、[[2020年東京オリンピック]][[金メダリスト]] * [[瀬立モニカ]]- [[パラカヌー]]選手 === 諸分野 === * [[宮部みゆき]] - 作家 * [[小倉弘子]] - [[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー * [[高橋弘樹]] - 映像ディレクター・元[[テレビ東京]]プロデューサー * [[松田浩二]] - ゲームデザイナー、イラストレーター、[[薬剤師]] * [[山根Yuriko茂樹]] - [[イラストレーター]]、クリエイティブディレクター、アートディレクター。江東区観光キャラクターコンテスト審査委員長 * [[篠塚正典]] - [[グラフィックデザイナー]] * [[佐藤佑一]] - 写真家 * [[大塚守康]] - [[ランドスケープアーキテクト]] * [[向後つぐお]] - 漫画家 * [[大高忍]] - 漫画家 * [[所司和晴]] - [[棋士 (将棋)|将棋棋士]]、[[シャンチー]]選手 * [[飯島栄治]] - 将棋棋士 * [[渡辺大夢]] - 将棋棋士 * [[山本博志]] - 将棋棋士 * [[加藤充志]] - [[囲碁棋士]] * [[ダイナマイト幸男]] - [[AV男優]] * [[大河内卓哉]] - 実業家 * [[渡辺雅司]] - 実業家 * [[久夛良木健]] - 実業家、経営者 * [[蜷川虎三]] - [[経済学者]]、[[統計学者]]、[[政治家]]、[[京都府知事]] * [[内田祥三]] - [[建築家]]、[[東京帝国大学]]総長 * [[田辺貞之助]] - [[フランス文学者]] * [[赤松則良]] - [[政治家]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]] * [[木村勉 (政治家)|木村勉]] - 政治家、元[[衆議院議員]]、元[[内閣府]][[副大臣]]、[[消防団|城東消防団]][[消防団長]] * [[沢田良]] - 政治家、衆議院議員 === ゆかりの人物 === * [[三遊亭圓楽 (5代目)]] - 落語家。区内に寄席「若竹」を開くが、経営難から閉館。 * [[山本一力]] - 作家。出身は[[高知県]]だが、現在江東区内に住み、お[[江戸]]・[[深川 (江東区)|深川]]を舞台とした数々の作品を発表している。 * [[田河水泡]] - 漫画家。幼年期から青年期までを江東区で過ごし、死後遺族から遺品が区に提供された。 * [[大村正樹]] - フリーアナウンサー。現在、江東区[[東雲 (江東区)|東雲]]に住んでいる。 * [[富野由悠季]] - 『[[機動戦士ガンダム]]』で有名なアニメ監督。一時期、江東区大島に在住。両親の出身地で自著によれば、「大島で富野といえばお大尽で通っていた」という。 * [[歌川広重]] - 江戸時代後期の[[浮世絵師]]。「亀戸梅屋舗」などの作品がある。 * [[トカチョフ・サワ]] - ウクライナ人[[YouTuber]]。[[キーウ]]出身だが来日以降、区内在住であると公表している。 == 江東区を舞台とする作品 == ;[[小説]] :* [[忍ぶ川]] - [[三浦哲郎]] - 第44回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞作 :* [[洲崎パラダイス]] - [[芝木好子]] :* [[四つの終止符]] - [[西村京太郎]]の初長編で、江東区の亀戸・大島が舞台。 :* [[ぼんくら (小説)|ぼんくら]] - [[宮部みゆき]] : ;[[映画]] :* [[忍ぶ川]] - [[三浦哲郎]]の小説が原作。 :* [[洲崎パラダイス赤信号]] - 日活系。江東区洲崎が舞台。 :* [[純愛物語]] - 東映系。江東区高橋などを舞台にしている。 :* [[スペーストラベラーズ]] - 東宝系。[[台場 (東京都港区)|台場]]と同じく振興開発地域ながら、未だ陸の孤島の景観溢れる江東区臨海部が舞台。 :* [[学校 (映画)|学校III]] - 松竹系。江東区亀戸・大島が舞台。架空の江東区立職業学校も登場。まだ下町情緒を残す亀戸商店街が映った。 : ;[[漫画]]ほか :* [[四丁目の夕日]] - [[山野一]]の漫画作品。江東区の町工場を舞台としている。 :* [[深川三代目]] - [[秋本治]]の漫画作品。[[深川 (江東区)|深川]]にある材木店の下町っ娘が主人公。 :* [[逮捕しちゃうぞ]] - [[藤島康介]]の漫画作品。江東区の城東地区や墨田区の錦糸などを舞台としている。 :* [[するめいか (漫画)|するめいか]] - [[ルーツ (漫画家)|ルーツ]]の漫画・自主制作[[Webアニメ]]作品。亀戸が舞台で女子高生4人が主人公のシュールギャグ。 :* [[東のエデン]] - 主人公が買い取った東京での住居が、ららぽーと豊洲という設定。ユナイテッドシネマズのレストラン2階が居間となっている。そのほか、豊洲周辺が舞台として描かれている。 ;[[コンピュータゲーム|ゲーム]] :* [[アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ]] - [[バンダイナムコエンターテインメント]]制作。「765プロライブ劇場」が豊洲にある設定で登場し、コミュや漫画版でもその周辺が描写されている。 :* [[恋と選挙とチョコレート]] - [[Sprite (ゲームブランド)|sprite]]が制作した[[アダルトゲーム]]。メインヒロインの名前が江東区の地名からとっており、ゲーム内では錦糸町駅・大島駅・木場公園などが登場する。 ;[[テレビドラマ]] :* [[前略おふくろ様]]([[日本テレビ]]) :* [[いつかまた逢える]]([[フジテレビ]]) - 1995年に放送の「[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9]]」ドラマ。[[福山雅治]]演じる主人公の住むマンションとして、[[門前仲町駅]]近くの[[牡丹 (江東区)|牡丹]]二丁目が撮影現場となったほか、ロケ地として[[永代橋]]や[[ホテルイースト21東京]]が登場する。 :* [[踊る大捜査線]]([[フジテレビ]]) - 1997年から放送された[[刑事ドラマ]]シリーズ。潮見コヤマビル(後の[[潮見GATE SQUARE]])や [[the SOHO]]などがロケ地となった。 :* [[とと姉ちゃん]]([[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]) - 2016年上半期に放送されていたテレビドラマ。戦前〜戦中の深川・[[木場]]が舞台(戦時中に深川から離れて、[[目黒区]]へ転居する)。他、[[静岡県]]・[[浜松市]]も含まれる。 == その他 == 江東区は23特別区の中で唯一、[[区歌]]を制定していない<ref>[http://www.city.koto.lg.jp/pub/faq/faq_detail.php?fid=8870 江東区歌(区民歌)の制定について]</ref>。[[2015年]](平成27年)[[11月14日]]([[11月13日|13日]]深夜)放送の[[テレビ朝日]]『[[タモリ倶楽部]]』でこの問題が取り上げられ、番組内で[[タモリ]]、[[レキシ]]、[[マキタスポーツ]]の合作による「江東区歌」が作成されたが<ref>{{Cite news |date=2015-11-10|url=https://natalie.mu/owarai/news/165583|title=「タモリ倶楽部」マキタスポーツとレキシが江東区の区歌を勝手に作る|publisher=ナターシャ|work=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]|accessdate=2017-01-14}}</ref>、区はこの楽曲について正式な区歌としての採用提案を拒否している<ref>{{Cite news |date=2016-03-03|url=https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20160303/enn1603031528017-n1.htm|title=【編集局から】23区で唯一「区歌」がない江東区 「タモリ倶楽部」非公式ソングの“採用”は”拒否”|publisher=[[産業経済新聞社]]|work=[[夕刊フジ|ZAKZAK]]|accessdate=2017-01-14}}</ref>。 なお番組の放送と同年には「江東水彩音頭」(作詞:寺崎敏夫、作曲:山田現)が民間で作成されており<ref>[[読売新聞]]、2014年4月15日付33面江東版『踊ろう「水の都」江東』([[読売新聞東京本社]])</ref>、区制70周年に当たる[[2017年]](平成29年)に「KOTO活き粋体操」の一部に採り入れられて事実上「区の推奨歌」のような扱いとなっている<ref>{{Cite web|和書|title=KOTO活き粋体操(オリジナル介護予防体操)|url=https://www.city.koto.lg.jp/211502/documents/suisaihenn.pdf|publisher=江東区|accessdate=2020-06-30}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} ==関連項目== * [[ジェントリフィケーション]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website|name=江東区}} * [https://koto-kanko.jp/ 江東区観光協会] {{江東区の町名}} {{東京都の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうとうく}} [[Category:江東区|*]] [[Category:東京都の特別区]]
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ヴェガロケット
ヴェガ(イタリア語: Vettore Europeo di Generazione Avanzata, VEGA)ロケットは、欧州宇宙機関 (ESA) が開発した低軌道用人工衛星打ち上げロケットである。 ESAの主力ロケットのアリアン5は静止軌道に6トンものペイロードを投入できるが、300kgから2,000kg程度の小型の科学衛星や地球観測衛星を低軌道 (LEO) へ経済的に打ち上げたいという需要に応えるため、高度700kmの太陽同期軌道 (SSO) に1.5トンの衛星を打ち上げられるヴェガを開発することになった。 イタリア宇宙機関 (ASI) が開発プログラムを主導しており、ロケット機体および推進システムはフィアットアヴィオ社などが担当するほか、フランス国立宇宙センター (CNES) なども開発に参加し、打上げはCNESのギアナ宇宙センターのELA1から行う。参加各国の分担比率はイタリア65%、フランス12.43%、ベルギー5.63%、スペイン5%、オランダ3.5%、スイス1.35%、スウェーデン0.8%となっている。 開発及び製造はヴェガロケットの開発及び製造を目的として2000年12月に設立されたELV S.p.Aによってなされ、最低年4機の打ち上げを確保する予定である。 当初は2006年中の初飛行を目指していたが計画は大幅に遅れ、2012年2月13日に初打上げに成功した。 初期の構想は1990年代初頭になされ、アリアンの固体ロケットブースター (SRB) の技術を用いて小型衛星を打ち上げるロケットを補完するというものである。これは1988年にASIによって提案されたサン・マルコ・スカウト計画を引き継ぐものであった。サン・マルコ・スカウト計画は、引退したアメリカのスカウトを置き換える目的でZefiro モーターを用いた新たなロケットを開発するという計画であり、スカウト2として知られている試験機が1992年に1機が失敗し、制式型として予定されていたゼフィーロも含めて凍結されていた。 1995年の段階では3段構成で高度700kmのLEOに700kgの打ち上げ能力をもつロケットであり、直径1.9mのZefiro 16 固体ロケットモーターを1,2段目として用い、3段目としてIRIS (Italian Research Interim Stage) を用いるというものであった。 1997年には2つの型式がフィアット・アヴィオ社とウクライナのユージュノエ設計局の共同で提案された。 1998年においてASIによってアリアンのブースター技術を用いた固体ロケットとして再び提案された。同年4月にアリアン5のSRBであるEAPのノウハウを用いたものとしてESAのプリプロジェクトとして採用された。これはヴェガ Kの下段に第3段としてZefiro 7 固体ロケットモーターを使用する3段構成のロケットであり、最上段に液体ロケットエンジンを用いた軌道精度向上モジュールの採用を検討していた。打ち上げ能力は700km円軌道に2,000kgとなる予定であった。 2000年11月27日から28日にアリアンプログラムとして承認され、同年12月15日に7ヶ国による共同開発計画として正式に開始される。 最終的には2004年に現在の構成に定まった。 第4段であるAVUMの代替エンジンの開発が進行中である。 第1段から第3段までの各エンジンは、それぞれ2度の地上燃焼試験にパスすることが義務づけられている。 2014年12月2日に開催されたESAの閣僚レベル会合で、ヴェガC (Vega Consolidated) の開発予算が承認された。ヴェガCは1段にP120(既存のP80と比べると推進薬を80トンから120トンへ増加)固体ロケットを使用する発展型。P120はアリアン6ロケットと共用するため、量産効果が出てコストを低減することが出来るようになる。ヴェガCは2018年に初打上を行う計画。ヴェガの1段モータの製造ラインはこれまでイタリアにしかなかったがこの新しい1段P120に備えて2つ目の製造ラインをドイツに設置する予定。ドイツはヴェガ計画に7%の出資をしており、P120プログラムに関しては23%の出資比率を持つ。新しいP120はヴェガの1段だけでなく、アリアン6の1段(A62型で2本、A64型で4本装備)としても使用されるため、これまで年3基だった製造数が、両方のプログラムを合わせると年37基のP120が必要となる計画。 ヴェガCは2022年7月に運用が開始され、初号機の打ち上げに成功した。しかし2022年12月に2号機の打ち上げに失敗し、運用が中断。失敗原因となった第二段に修正を加えたうえで2023年6月28日に燃焼試験が行われたが、これも別の原因で失敗しており、この時点で打ち上げ再開時期は不透明となっている。 アップグレード構想として、第2段をP80に換装するESL、第1段をより大型なP230に換装し第3段を液体エンジンエスタスに換装するESLMなどがある。3,4段目をLOX/LCH4を推進剤とするMyraエンジンを採用したC10に置き換える構想のライラ (Lyra) では、太陽同期軌道 (SSO) への投入能力が2,000 kgに増大することが見込まれていた。また、ライラの上段エンジンMyraをVinciに換装するロケットや、ヴェガの第2段を省きSSOに300-400kgの投入能力を持つミニヴェガも計画されていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヴェガ(イタリア語: Vettore Europeo di Generazione Avanzata, VEGA)ロケットは、欧州宇宙機関 (ESA) が開発した低軌道用人工衛星打ち上げロケットである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ESAの主力ロケットのアリアン5は静止軌道に6トンものペイロードを投入できるが、300kgから2,000kg程度の小型の科学衛星や地球観測衛星を低軌道 (LEO) へ経済的に打ち上げたいという需要に応えるため、高度700kmの太陽同期軌道 (SSO) に1.5トンの衛星を打ち上げられるヴェガを開発することになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "イタリア宇宙機関 (ASI) が開発プログラムを主導しており、ロケット機体および推進システムはフィアットアヴィオ社などが担当するほか、フランス国立宇宙センター (CNES) なども開発に参加し、打上げはCNESのギアナ宇宙センターのELA1から行う。参加各国の分担比率はイタリア65%、フランス12.43%、ベルギー5.63%、スペイン5%、オランダ3.5%、スイス1.35%、スウェーデン0.8%となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "開発及び製造はヴェガロケットの開発及び製造を目的として2000年12月に設立されたELV S.p.Aによってなされ、最低年4機の打ち上げを確保する予定である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当初は2006年中の初飛行を目指していたが計画は大幅に遅れ、2012年2月13日に初打上げに成功した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "初期の構想は1990年代初頭になされ、アリアンの固体ロケットブースター (SRB) の技術を用いて小型衛星を打ち上げるロケットを補完するというものである。これは1988年にASIによって提案されたサン・マルコ・スカウト計画を引き継ぐものであった。サン・マルコ・スカウト計画は、引退したアメリカのスカウトを置き換える目的でZefiro モーターを用いた新たなロケットを開発するという計画であり、スカウト2として知られている試験機が1992年に1機が失敗し、制式型として予定されていたゼフィーロも含めて凍結されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1995年の段階では3段構成で高度700kmのLEOに700kgの打ち上げ能力をもつロケットであり、直径1.9mのZefiro 16 固体ロケットモーターを1,2段目として用い、3段目としてIRIS (Italian Research Interim Stage) を用いるというものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1997年には2つの型式がフィアット・アヴィオ社とウクライナのユージュノエ設計局の共同で提案された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1998年においてASIによってアリアンのブースター技術を用いた固体ロケットとして再び提案された。同年4月にアリアン5のSRBであるEAPのノウハウを用いたものとしてESAのプリプロジェクトとして採用された。これはヴェガ Kの下段に第3段としてZefiro 7 固体ロケットモーターを使用する3段構成のロケットであり、最上段に液体ロケットエンジンを用いた軌道精度向上モジュールの採用を検討していた。打ち上げ能力は700km円軌道に2,000kgとなる予定であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2000年11月27日から28日にアリアンプログラムとして承認され、同年12月15日に7ヶ国による共同開発計画として正式に開始される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最終的には2004年に現在の構成に定まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第4段であるAVUMの代替エンジンの開発が進行中である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "第1段から第3段までの各エンジンは、それぞれ2度の地上燃焼試験にパスすることが義務づけられている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2014年12月2日に開催されたESAの閣僚レベル会合で、ヴェガC (Vega Consolidated) の開発予算が承認された。ヴェガCは1段にP120(既存のP80と比べると推進薬を80トンから120トンへ増加)固体ロケットを使用する発展型。P120はアリアン6ロケットと共用するため、量産効果が出てコストを低減することが出来るようになる。ヴェガCは2018年に初打上を行う計画。ヴェガの1段モータの製造ラインはこれまでイタリアにしかなかったがこの新しい1段P120に備えて2つ目の製造ラインをドイツに設置する予定。ドイツはヴェガ計画に7%の出資をしており、P120プログラムに関しては23%の出資比率を持つ。新しいP120はヴェガの1段だけでなく、アリアン6の1段(A62型で2本、A64型で4本装備)としても使用されるため、これまで年3基だった製造数が、両方のプログラムを合わせると年37基のP120が必要となる計画。", "title": "ヴェガC" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ヴェガCは2022年7月に運用が開始され、初号機の打ち上げに成功した。しかし2022年12月に2号機の打ち上げに失敗し、運用が中断。失敗原因となった第二段に修正を加えたうえで2023年6月28日に燃焼試験が行われたが、これも別の原因で失敗しており、この時点で打ち上げ再開時期は不透明となっている。", "title": "ヴェガC" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アップグレード構想として、第2段をP80に換装するESL、第1段をより大型なP230に換装し第3段を液体エンジンエスタスに換装するESLMなどがある。3,4段目をLOX/LCH4を推進剤とするMyraエンジンを採用したC10に置き換える構想のライラ (Lyra) では、太陽同期軌道 (SSO) への投入能力が2,000 kgに増大することが見込まれていた。また、ライラの上段エンジンMyraをVinciに換装するロケットや、ヴェガの第2段を省きSSOに300-400kgの投入能力を持つミニヴェガも計画されていた。", "title": "過去に検討された将来構想" } ]
ヴェガロケットは、欧州宇宙機関 (ESA) が開発した低軌道用人工衛星打ち上げロケットである。
{{ロケット |名称 = Vega |画像名 = Sentinel-2 and vega.jpg |画像サイズ = 200px |画像の注釈 = ヴェガロケット |基本データ = 基本データ |運用国 = |開発者 = [[欧州宇宙機関|ESA]]/[[イタリア宇宙機関|ASI]] |運用機関 = [[アリアンスペース]] |使用期間 = [[2012年]] - 現役 |射場 = [[ギアナ宇宙センター]] ZLV (ELA-1) |打ち上げ数 = 22回 |成功数 = 19回 |開発費用 = 710M[[ユーロ]](2012年から2014年までの5機の打ち上げ支援金400Mユーロ含む)<ref name="SpaceNews20120213">[http://www.spacenews.com/launch/120213-vega-succeeds-debut.html Europe’s Italian-led Vega Rocket Succeeds in Debut]、SPACE NEWS 2012-02-13</ref> |打ち上げ費用 = 約20M$(支援金により低減された価格) |原型 = [[ゼフィーロ (ロケット)|ゼフィーロ]](計画中止) |姉妹型 = Mini Vega |発展型 = Vega C, ESL, ESLM, LYRA |公式ページ = http://www.esa.int/Our_Activities/Launchers/Launch_vehicles/Vega |公式ページ名 = ESA - Launch Vehicles - Vega |物理的特徴 = 物理的特徴 |段数 = 4段 |ブースター = |総質量 = 137 t |空虚質量 = |全長 = 30 m |直径 = 3.0 m |軌道投入能力 = 軌道投入能力 |低軌道 = 2,300 kg |低軌道詳細 = 300 km / 5.2 度 |中軌道 = |中軌道詳細 = |極軌道 = |極軌道詳細 = |太陽同期軌道 = 1,500 kg |太陽同期軌道詳細 = 700 km / 90 度 |静止移行軌道 = |静止移行軌道詳細 = |静止軌道 = |静止軌道詳細 = |その他軌道名 = |その他軌道 = |その他軌道詳細 = |その他軌道名2 = |その他軌道2 = |その他軌道詳細2 = |表の脚注 = }} '''ヴェガ'''({{lang-it|'''V'''ettore '''E'''uropeo di '''G'''enerazione '''A'''vanzata, '''VEGA'''}})ロケットは、[[欧州宇宙機関]] (ESA) が開発した[[低軌道]]用[[人工衛星]]打ち上げ[[ロケット]]である。 == 概要 == ESAの主力ロケットの[[アリアン5]]は[[静止軌道]]に6トンものペイロードを投入できるが、300kgから2,000kg程度の小型の[[科学衛星]]や[[地球観測衛星]]を[[低軌道]] (LEO) へ経済的に打ち上げたいという需要に応えるため、高度700kmの[[太陽同期軌道]] (SSO) に1.5トンの衛星を打ち上げられるヴェガを開発することになった。 [[イタリア宇宙機関]] (ASI) が開発プログラムを主導しており、ロケット機体および推進システムはフィアットアヴィオ社などが担当するほか、[[フランス国立宇宙センター]] (CNES) なども開発に参加し、打上げはCNESの[[ギアナ宇宙センター]]のELA1から行う。参加各国の分担比率は[[イタリア]]65%、[[フランス]]12.43%、[[ベルギー]]5.63%、[[スペイン]]5%、[[オランダ]]3.5%、[[スイス]]1.35%、[[スウェーデン]]0.8%となっている。 開発及び製造はヴェガロケットの開発及び製造を目的として[[2000年]]12月に設立された[[ELV S.p.A]]によってなされ、最低年4機の打ち上げを確保する予定である。 当初は[[2006年]]中の初飛行を目指していたが計画は大幅に遅れ、2012年2月13日に初打上げに成功した<ref>[https://sorae.info/030201/4590.html ヴェガロケット組立完了、初の打ち上げは2月9日] -sorae.jp</ref>。 == 歴史 == 初期の構想は[[1990年代]]初頭になされ、[[アリアン]]の[[固体ロケットブースター]] (SRB) の技術を用いて小型衛星を打ち上げるロケットを補完するというものである。これは[[1988年]]にASIによって提案された[[サン・マルコ・スカウト計画]]を引き継ぐものであった。サン・マルコ・スカウト計画は、引退した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[スカウト (ロケット)|スカウト]]を置き換える目的でZefiro モーターを用いた新たなロケットを開発するという計画であり、[[スカウト2]]として知られている試験機が[[1992年]]に1機が失敗し、制式型として予定されていた[[ゼフィーロ (ロケット)|ゼフィーロ]]も含めて凍結されていた。 [[1995年]]の段階では3段構成で高度700kmのLEOに700kgの打ち上げ能力をもつロケットであり、直径1.9mのZefiro 16 固体ロケットモーターを1,2段目として用い、3段目としてIRIS (Italian Research Interim Stage) を用いるというものであった。 [[1997年]]には2つの型式が[[アヴィオ|フィアット・アヴィオ]]社と[[ウクライナ]]の[[ユージュノエ設計局]]の共同で提案された。 * ヴェガ K0 *: 前述の構想と同様に1、2段にZefiro 16 固体ロケットモーターを用い、第3段、第4段に[[非対称ジメチルヒドラジン]] (UDMH) と[[四酸化二窒素]] (NTO) を用いる液体ロケットエンジンである[[RD-861]]と[[RD-869]]を用いる。高度700kmの[[極軌道]]に300kgの打ち上げ能力をもつ。 * ヴェガ K *: ヴェガ K0の第1段をアリアン5のブースターであるEAPを短縮したP85 固体ロケットモーターで置き換えたもの。高度700kmの極軌道に1,600kgの打ち上げ能力をもつ。 [[1998年]]においてASIによってアリアンのブースター技術を用いた固体ロケットとして再び提案された。同年4月に[[アリアン5]]のSRBであるEAPのノウハウを用いたものとしてESAのプリプロジェクトとして採用された。これはヴェガ Kの下段に第3段としてZefiro 7 固体ロケットモーターを使用する3段構成のロケットであり、最上段に液体ロケットエンジンを用いた軌道精度向上モジュールの採用を検討していた。打ち上げ能力は700km円軌道に2,000kgとなる予定であった。 [[2000年]]11月27日から28日にアリアンプログラムとして承認され、同年12月15日に7ヶ国による共同開発計画として正式に開始される。 最終的には[[2004年]]に現在の構成に定まった。 第4段であるAVUMの代替エンジンの開発が進行中である。<ref name="spaceflightnow">{{cite web | url=http://www.spaceflightnow.com/news/n1202/14germanyvega/ | title=Vega launcher program courts German participation | publisher=Spaceflight Now | date=2012-02-14 | accessdate=2015-05-29 | author=CLARK, S. | pages=1}}</ref><ref name=flightglobal-dlr>{{cite web |url=http://www.flightglobal.com/news/articles/esa-keeps-eye-on-ukraine-crisis-as-vega-launch-nears-398550|title=ESA keeps eye on Ukraine crisis as Vega launch nears.|publisher=Flightglobal|first1=Dan|last1=Thisdell|date=2014-04-24| accessdate=2015-05-29}}</ref> == 構成 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" |+ '''主要諸元一覧''' !全長 |colspan="4"|30 m |- !外径 |colspan="4"|3 m |- !質量 |colspan="4"|137 t |- !ペイロード |colspan="4"|2,300 kg / 300km LEO<br />1,500 kg / 700km SSO |- !段数 (Stage) !第1段 !第2段 !第3段 !第4段 (AVUM) |- !使用エンジン |P80 FW |Zefiro 23 FW |Zefiro 9 FW |[[RD-843]] |- !各段全長 |10.5 m |7.5 m |3.85 m |1.74 m |- !各段全径 |3.0 m |1.91 m |1.91 m |2.18 m |- !各段質量 |95,796 kg |25,751 kg |10,948 kg |968 kg |- !推進剤 |HTPB 1912 |HTPB 1912 |HTPB 1912 |UDMH/NTO |- !推進剤質量 |88,380 kg |23,906 kg |10,115 kg |183 kg / 367 kg |- !最大推力 |3,040 kN |1,200 kN |213 kN |2.45 kN |- !真空比推力 |280 s |289 s |295 s |315.5 s |- !ノズル膨張比 |16 |25 |56 | - |- !有効燃焼時間 |107 秒 |71.6 秒 |117 秒 |667 秒<br />(最大) |- |} 第1段から第3段までの各エンジンは、それぞれ2度の地上燃焼試験にパスすることが義務づけられている。 ;第1段:P80 固体ロケットモーター :[[2006年]]11月30日、[[2007年]]12月4日の地上燃焼試験に成功<ref>[http://www.esa.int/SPECIALS/Launchers_Home/SEMTHGD4VUE_0.html ESA: Successful firing of Vega’s first-stage motor in Kourou]</ref><ref>[http://www.esa.int/SPECIALS/Launchers_Home/SEMXE029R9F_0.html ESA: Vega main engine test in Kourou]</ref>。このP80 固体ロケットモーターの技術は将来アリアン5のブースターにも採用される予定である。開発費用は123Mユーロ<ref name="avio_vega">[http://www.aviogroup.com/en/catalog/space/lanciatore_vega/ Vega Launcher (Avio)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100918045257/http://aviogroup.com/en/catalog/space/lanciatore_vega/ |date=2010年9月18日 }}</ref>。 ;第2段:Zefiro 23 固体ロケットモーター :2006年6月23日、2008年3月27日の地上燃焼試験に成功<ref>[http://www.esa.int/esaCP/SEMH4REFWOE_Expanding_0.html ESA: Vega's second stage motor roars to life]</ref><ref>[http://www.esa.int/esaCP/SEMSEBR03EF_index_0.html Successful qualification firing test for Zefiro 23]</ref>。 ;第3段:Zefiro 9 固体ロケットモーター :2008年10月23日、[[2009年]]4月30日の地上燃焼試験に成功<ref>[http://www.esa.int/esaCP/SEM0KERTKMF_index_0.html Successful first test for Vega’s Zefiro 9-A solid-fuel rocket motor]</ref><ref>[http://www.esa.int/esaCP/SEM688BNJTF_index_0.html Second firing test for Vega’s Zefiro 9A solid rocket motor]</ref>。 ;第4段:AVUM (Attitude and Vernier Upper Module) [[RD-843]] 液体ロケットエンジン :旧ソビエトの[[R-36 (ミサイル)|R-36]][[大陸間弾道ミサイル]]のRD-869エンジンの燃焼室を流用したウクライナの[[ユージュノエ設計局]]製液体ロケットエンジンである。燃料には[[非対称ジメチルヒドラジン|UDMH]]、酸化剤には[[四酸化二窒素|NTO]]を使用する。これによって軌道投入精度99.7%を達成する予定である。 == 打ち上げ実績 == === ヴェガ(打ち上げ実績) === {| class="wikitable" style="font-size: 95%;" |- !回数 !! 構成 !! 打ち上げ日時 ([[世界標準時|UTC]])!! フライト !! ペイロード !! 結果 |- | 1 || Vega || [[2012年]]<br />2月13日10:00 || VV01 || [[LARES]], ALMASat-1, 7機の[[CubeSat]](Xatcobeo, Robusta, e-st@r, [[ゴリアテ (人工衛星)|ゴリアテ]], PW-Sat, [[MaSat-1]], UniCubeSat GG)|| {{yes|成功}} |- | 2 || Vega || [[2013年]]<br />5月7日02:06 || VV02 || [[PROBA-V]], [[VNREDSat-1A]], [[CubeSat]]1機 (ESTCube-1)|| {{yes|成功}} |- | 3 || Vega || [[2014年]]<br />4月30日01:35 || VV03 || カザフスタンの地球観測衛星KazEOSat-1 (DZZ-HR) || {{yes|成功}} <ref>{{cite news | title = Liftoff of Vega with KasEOSat-1 | url = http://www.arianespace.com/news-mission-update/2014/VV03-liftoff.asp | publisher = Arianespace | date = 2014-04-30 | accessdate = 2014-4-30}}</ref> |- | 4 || Vega || [[2015年]]<br />2月11日13:40 || VV04 || [[IXV]] (弾道飛行) || {{yes|成功}} <ref>{{cite news | title = A suborbital success: Vega supports European space technology development with launch of the IXV spaceplane | url = http://www.arianespace.com/news-mission-update/2015/1260-success.asp | publisher = Arianespace | date = 2015-02-11 | accessdate = 2015-2-15}}</ref> |- | 5 || Vega || 2015年<br />6月23日01:51 || VV05 || [[Sentinel-2|Sentinel-2A]] || {{yes|成功}} <ref name="VV05">{{cite web | title = Vega Flight VV05 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv05/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-10-21}}</ref> |- | 6 || Vega || 2015年<br />12月3日04:04 || VV06 || [[LISA パスファインダー]] || {{yes|成功}} <ref name="VV06">{{cite web | title = Vega Flight VV06 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv06/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-10-21}}</ref> |- | 7 || Vega || [[2016年]]<br />9月16日01:43 || VV07 || PerúSAT-1, SkySat4機(SkySat-4, SkySat-5, SkySat-6, SkySat-7) || {{yes|成功}} <ref name="VV07">{{cite web | title = Vega Flight VV07 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv07/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-10-21}}</ref> |- | 8 || Vega || 2016年<br />12月5日13:51 || VV08 || GÖKTÜRK-1 || {{yes|成功}} <ref name="VV08">{{cite web | title = Vega Flight VV08 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv08/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-10-21}}</ref> |- | 9 || Vega || [[2017年]]<br />3月7日01:49 || VV09 ||[[Sentinel-2|Sentinel-2B]]|| {{yes|成功}} <ref name="VV09">{{cite web | title = Vega Flight VV09 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv09/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-10-21}}</ref> |- | 10 || Vega || 2017年<br />8月2日01:58 || VV10 || OPSAT 3000, VENµS || {{yes|成功}} <ref name="VV10">{{cite web | title = Vega Flight VV10 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv10/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-10-21}}</ref> |- | 11 || Vega || 2017年<br />11月8日01:42 || VV11 || MOHAMMED Ⅵ-A || {{yes|成功}} <ref name="VV11">{{cite web | title = Vega Flight VV11 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv11/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-10-21}}</ref> |- | 12 || Vega || [[2018年]]<br />8月22日21:20 || VV12 || [[ADM-Aeolus]] || {{yes|成功}} <ref name="VV12">{{cite web | title = Vega Flight VV12 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv12/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-10-21}}</ref> |- | 13 || Vega || 2018年<br />11月21日01:42 || VV13 || MOHAMMED Ⅵ-B || {{yes|成功}} <ref name="VV13">{{cite web | title = Vega Flight VV13 – Arianespace | url = http://www.arianespace.com/mission/vega-flight-vv13/ | publisher = Arianespace | accessdate = 2018-11-21}}</ref> |- | 14 || Vega || 2019年<br />3月22日01:50 || VV14 || PRISMA || {{yes|成功}} |- | 15 || Vega || 2019年<br />7月11日01:54 || VV15 || Falcon Eye 1 || {{no|失敗}} |- | 16 || Vega || 2020年<br />9月3日01:51 || VV16 || キューブサット53基など || {{yes|成功}} |- | 17 || Vega || 2020年<br />11月17日01:52 || VV17 || SEOSat-Ingenio, TARANIS || {{no|失敗}} |- | 18 || Vega || 2021年<br />4月29日01:50 || VV18 || Pléiades Neo 3・NorSat-3・Bravo・ELO Alpha・Lemur-2×2基 || {{yes|成功}} |- | 19 || Vega || 2021年<br />8月17日01:47 || VV19 || Pléiades Neo 4・BRO-4・LEDSAT・RADCUBE・SUNSTORM || {{yes|成功}} |- | 20 || Vega || 2021年<br />11月16日09:27:55 || VV20 || CERES 1/2/3 || {{yes|成功}} |- | 21 || Vega-C || 2022年<br />7月13日13:13:17 || VV21 || LARES 2・ALPHA・AstroBioおよびキューブサット4基 || {{yes|成功}} |- | 22 || Vega-C || 2022年<br />12月21日01:47:31 || VV22 || Pléiades-Neo 5/6 || {{no|失敗}} |- |} == ヴェガC == [[File:Maquette Vega C DSC 0020.JPG|90px|thumb|ヴェガC]] 2014年12月2日に開催されたESAの閣僚レベル会合で、ヴェガC (Vega Consolidated) の開発予算が承認された。ヴェガCは1段にP120(既存のP80と比べると推進薬を80トンから120トンへ増加)固体ロケットを使用する発展型。P120は[[アリアン6]]ロケットと共用するため、量産効果が出てコストを低減することが出来るようになる。ヴェガCは2018年に初打上を行う計画<ref>{{cite news | title = Frequently asked questions on Vega | url = http://www.esa.int/Our_Activities/Launchers/Launch_vehicles/Frequently_asked_questions_on_Vega | publisher = ESA | date = 2015-2-9 | accessdate = 2015-2-15}}</ref>。ヴェガの1段モータの製造ラインはこれまでイタリアにしかなかったがこの新しい1段P120に備えて2つ目の製造ラインをドイツに設置する予定。ドイツはヴェガ計画に7%の出資をしており、P120プログラムに関しては23%の出資比率を持つ。新しいP120はヴェガの1段だけでなく、アリアン6の1段(A62型で2本、A64型で4本装備)としても使用されるため、これまで年3基だった製造数が、両方のプログラムを合わせると年37基のP120が必要となる計画<ref>{{cite news | title = ESA Ministerial Produces a Few Surprises | url = http://spacenews.com/esa-ministerial-produces-a-few-surprises/ | publisher = SpaceNews | date = 2014-12-12 | accessdate = 2015-2-15}}</ref>。 ヴェガCは2022年7月に運用が開始され、初号機の打ち上げに成功した。しかし2022年12月に2号機の打ち上げに失敗し、運用が中断。失敗原因となった第二段に修正を加えたうえで2023年6月28日に燃焼試験が行われたが、これも別の原因で失敗しており、この時点で打ち上げ再開時期は不透明となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://sorae.info/space/20230715-vega-c-zefiro40.html|title=「ヴェガC」ロケット第2段の燃焼試験失敗 打ち上げ再開時期は不透明|publisher=sorae|date=2023-07-15|accessdate=2023-07-16}}</ref>。 == 過去に検討された将来構想 == アップグレード構想として、第2段をP80に換装するESL、第1段をより大型なP230に換装し第3段を液体エンジン[[エスタス_(ロケットエンジン)|エスタス]]に換装するESLMなどがある<ref>[http://www.b14643.de/Spacerockets_1/West_Europe/VEGA/Versions/VEGA.htm Internet Reference Guide to Space Launch Vehicles - Vega Versions]</ref>。3,4段目をLOX/LCH4を推進剤とするMyraエンジンを採用したC10に置き換える構想のライラ (Lyra) では、太陽同期軌道 (SSO) への投入能力が2,000 kgに増大することが見込まれていた<ref>[http://www.aviogroup.com/en/media_room/press_release/2007/engine_for_the_future_lyra_launch_vehicle_is_ignited Engine for the future Lyra launch vehicle is ignited (Avio)]</ref>。また、ライラの上段エンジンMyraを[[Vinci (ロケットエンジン)|Vinci]]に換装するロケットや、ヴェガの第2段を省きSSOに300-400kgの投入能力を持つミニヴェガも計画されていた<ref>[http://www.cnes.fr/automne_modules_files/standard/public/p5898_ce2996a707aac899e51a4609497cd45ePreparation_des_lanceurs_futurs_3.pdf Future Launchers Preparation (CNES)] - P.19 / 2007-10-15</ref>。 == 脚注・出典 == {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Vega (rocket)}} * [[宇宙開発]] * [[ロケット]] * [[欧州宇宙機関]] (ESA) * [[イタリア宇宙機関]] (ASI) * [[フランス国立宇宙センター]] (CNES) * [[アリアンスペース]] * [[ギアナ宇宙センター]] (CSG) * [[固体燃料式軌道投入用打ち上げシステムの比較]] == 外部リンク == * [http://www.esa.int/SPECIALS/Launchers_Access_to_Space/ASEKMU0TCNC_0.html ESA - Launch Vehicles - Vega]{{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20090330165121/http://arianespace.com/launch-services-vega/vega_overview.asp Arianespace - Vega - Overview]{{en icon}} * [http://www.asi.it/en/activity/transportation/vega VEGA | A.S.I. - Agenzia Spaziale Italiana]{{en icon}} ** [http://www.asi.it/en/activity/transportation/lyra LYRA | A.S.I. - Agenzia Spaziale Italiana]{{en icon}} * [http://www.cnes.fr/web/CNES-en/5035-vega.php CNES : Vega]{{en icon}} * [http://www.dlr.de/rd/desktopdefault.aspx/tabid-2279/3410_read-5112/ DLR - Raumfahrtagentur - Vega]{{de icon}} {{European launch systems}} {{Expendable launch systems}} {{space-stub}} {{DEFAULTSORT:うえかろけつと}} [[Category:ロケット]] [[Category:欧州宇宙機関]] [[Category:欧州宇宙機関の固体燃料ロケット]]
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ベガ
ベガ(ヴェガ、英: Vega)は、こと座α星、こと座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ。七夕のおりひめ星(織女星(しょくじょせい))としてよく知られている。わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブとともに、夏の大三角を形成している。 0.19日の周期で僅かに変光するたて座δ型変光星である。変光範囲が0.01等 - 0.04等と小さいため、眼視観測では変光はわからない。2003年には、惑星系が形成されつつあることが分かった。この惑星系は太陽系に近似のものである可能性がある。2006年には、自転周期が12.5時間という高速で自転しており、その速さは遠心力でベガが自壊する速度の94%に達していることが判明した。このため、極付近と赤道付近では大きな温度差が生じている。地球の歳差運動により、およそ12,000年後には、地球から見て北半球の天頂に位置し、北極星となる。 2021年に、ベガの10年間のスペクトルを分析した論文により、ベガの周囲を公転する公転周期が2.43日間の信号の候補を検出したと発表した。統計的には、誤検出の可能性は1%にすぎないと推定されている。信号の振幅によると下限質量は21.9±5.1 M⊕(地球質量)となるが、地球から観測してベガ自体が6.2°斜めに自転していることを考慮すると、惑星もその面に位置を合わせ実際の質量は203±47 M⊕となる。その他、80±21 M⊕(6.2°の傾きで740±190 M⊕)と解釈できる、周期が196.4+1.6−1.9日の弱い信号も検出された。しかし利用可能なデータからは、この周期の惑星が存在する確実な証拠は得られなかったと結論付けられている。 固有名のベガ (Vega) は、この星のアラビアでの呼び名「アン=ナスル・アル=ワーキア( النسر الواقع (DMG: an-nasr al-wāqiʿ / ALA-LC: al-nasr al-wāqiʿ )」の「ワーキア」に由来する。このアラビア名は、「ナスル」が “鷲”、「ワーキア」が “降りている” で、 全体で “降りている鷲”、すなわち “(木の枝や巣に) 止まっている鷲” という意味である。「ワーキア」wāqiʿ は動詞「ワカア」waqaʿa の能動分詞(英語などの現在分詞に相当)で、「ワカア」の基本の意味は “落ちる” であるが、鳥についていう場合には “(木や地面、あるいは巣に) 降りる、止まる; 降りている、止まっている” という意味となる 。しかしヨーロッパでは、そのような意味をもたないラテン語の動詞「カドー」cadō の現在(能動)分詞を使った「ウルトゥル・カデンス」 Vultur cadens(“落ちる鷲”)という翻訳名が古くからあり、“(獲物に向かって)急降下する鷲”と解釈されてきたようである。日本でも、これまでその解釈が受け入れられてきた。 Vega は古くは Wega と綴られた。Vega という綴りは『アルフォンソ表』Tabulae Alphonsinae (13世紀) の16世紀の印刷本に現れる (15世紀の版ではWega)。 その後も Wega は使い続けられていて、ドイツ語では現在でも Wega である。なお、ヨーロッパでは Vega/Wega/Vultur cadens 以外にも、Alwega, Annazel alvuaza など、誤記や誤読も含め、さまざまな語形や綴りが存在していた。 アラビアでは、こと座 α 星「降りている鷲」と わし座 α 星「飛んでいる鷲」(アルタイル)を対のものとして捉え、「2つの鷲星」(「アン=ナスラーン」 النسران an-nasrān / al-nasrān)と呼んだ。そして、それぞれの近くにある2個の星(こと座 ε, ζ と わし座 β, γ)を鷲の翼に見立て、こと座の3個は三角形に並んでいるので「翼を閉じている」、わし座の3個は一直線に並んでいるので「翼を広げている」と見なした。本来は、3個のまとまりではなく、ベガとアルタイルが単独で「鷲」と呼ばれていたようである。 この星の名前「降りている鷲」は、アラビアではプトレマイオス星座の「こと座」の名前として使われることもあった。 ギリシャでも、プトレマイオスの『アルマゲスト』の恒星表に、この星の名前として、星座名と同じ「リュラー」 Λύρα Lyrā が挙げられている。 ローマでは、このギリシャ語をラテン語化した「リュラ」Lyra、および別のギリシャ語に由来する「フィデース」Fidesという言葉が「こと座」の名前として使われているが、星座ではなくこの星だけを指す用法があったかは分からない。 ヨーロッパでは、コペルニクスの『天球回転論』(ラテン語) の星表に、この星の名として、星座名と同じ「リュラ」と、「フィディクラ」Fidiculaが挙げられている。 英語やドイツ語には、リュラをハープに置き換えた「ハープ・スター」 Harp Star, 「ハルフェンシュテルン」Harfenstern (“ハープ星”) という呼び名もある。 メソポタミアでは、この星はアッカド語で「ラマッス」Lamassu [LAMMA] (“守護女神ランマ”) と呼ばれたらしい 日本では、中国の伝説に由来する「織姫(おりひめ)」や「織姫星(おりひめぼし)」、あるいは「織女(しょくじょ)」や「織女星(しょくじょせい)」という名で呼んでいる。「彦星(ひこぼし)」(わし座のアルタイル)、「すばる」(おうし座のプレアデス星団)とともに、現在も広く使われている数少ない和名の一つである。 中国でも、「織女」あるいは「織女星」といえば一般には こと座 α 星を指すが、中国の伝統的天文学では、「織女」は こと座 α, ε, ζ の3星からなる星官(中国固有の星座)の名前であって、こと座 α 星は「織女一」(“織女の第1星”) という。 国際天文学連合の恒星の固有名に関するワーキンググループは、2016年6月30日、Vega をこと座α星の固有名として正式に認証した。
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ベガは、こと座α星、こと座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ。七夕のおりひめ星(織女星)としてよく知られている。わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブとともに、夏の大三角を形成している。
{{Otheruses}} {{天体 基本 | 幅 =300px | 色 = 恒星 | 和名 = ベガ{{R|Hara}} | 英名 = [[:en:Vega|Vega]]{{R|Kunitzsch|iaucsn}} | 画像ファイル = Vega Spitzer.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = [[スピッツァー宇宙望遠鏡]]で撮影されたベガ。こと座で最も明るい星である。 | 画像背景色 = | 仮符号・別名 = こと座&alpha;星{{R|simbad}} | 星座 = [[こと座]] | 視等級 = 0.03{{R|simbad}}<br />-0.02 - 0.07(変光){{R|GCVS}} | 視直径 = | 変光星型 = [[たて座デルタ型変光星|たて座&delta;型]]{{R|simbad}}(DSCTC){{R|GCVS}} | 分類 = }} {{天体 位置 | 色 = 恒星 | 元期 = [[J2000.0]]{{R|simbad}} | 赤経 = {{RA|18|36|56.33635}}{{R|simbad}} | 赤緯 = {{DEC|+38|47|01.2802}}{{R|simbad}} | 視線速度 =-13.9km/s{{R|simbad}} | 固有運動 = [[赤経]]: 200.94 [[秒 (角度)|ミリ秒]]/年{{R|simbad}}<br />[[赤緯]]: 286.23 [[秒 (角度)|ミリ秒]]/年{{R|simbad}} | parallax = 130.23 | p_error = 0.36 | parallax_footnote = {{R|simbad}} | 赤方偏移 =-0.000046{{R|simbad}} | 絶対等級2 = 0.604 | 星図位置画像 =Lyra constellation map.png | 位置画像top = 40 | 位置画像left = 57.2 | 画像説明 =ベガの位置 }} {{天体 物理 | 色 = 恒星 | 赤道直径 = | 直径 = | 半径 = {{Solar radius|2.73|link=y}} | 表面積 = | 体積 = | 質量 = {{Solar mass|2.6|link=y}} | 相対対象 = | 相対質量 = | 相対対象2 = | 相対質量2 = | 平均密度 = | 表面重力 = | 脱出速度 = | 自転速度 = 274 km/s | 自転周期 = 12.5 時間 | スペクトル分類 = A0V{{R|simbad}} | 絶対等級 = | 光度 = {{Solar luminosity|51|link=y}} | 光度係数 = | 赤道傾斜角 = | 表面温度 = 9,300 [[ケルビン|K]] | 最小表面温度 = | 平均表面温度 = | 最大表面温度 = | 可視光明度 = | 全波長明度 = | 色指数_BV = 0.00{{R|yale}} | 色指数_UB = -0.01{{R|yale}} | 色指数_VI = | 金属量2 = 63%(太陽比) | 年齢 = 3.5 {{e|8}} 年 | 大気圧 = }} {{天体 別名称 | 色 = 恒星 | 別名称 = 織女星, 織姫星,<br />こと座3番星{{R|simbad}}<br />[[ボン掃天星表|BD]] +38 3238{{R|simbad}}, [[基本星表|FK5]] 699{{R|simbad}}<br />[[ヘンリー・ドレイパーカタログ|HD]] 172167{{R|simbad}}, [[ヒッパルコスカタログ|HIP]] 91262{{R|simbad}}<br />[[輝星星表|HR]] 7001{{R|simbad}}, [[スミソニアン天文台星表|SAO]] 67174{{R|simbad}}<br />[[星表#固有運動カタログ|LTT]]15486{{R|simbad}} }} {{天体 終了 | 色 = 恒星 }} '''ベガ'''{{R|nao_ac}}('''ヴェガ'''{{R|Kondo|Hara}}、{{lang-en-short|Vega}}{{efn2|{{IPA-en|ˈviːgə}} '''ヴィ'''ーガまたは{{IPAc-en|ˈ|v|eɪ|ɡ|ə}} '''ヴェ'''ィガ}})は、'''こと座&alpha;星'''、[[こと座]]で最も明るい[[恒星]]で全天21の[[1等星]]の1つ。[[七夕]]の'''[[おりひめ]]'''星('''織女星'''(しょくじょせい))としてよく知られている<ref>{{Cite Kotobank | word=ベガ(こと座) | encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) | hash=#E3%83%99%E3%82%AC%28%E3%81%93%E3%81%A8%E5%BA%A7%29-1590335 | access-date=2023-07-13 }}</ref>。[[わし座]]の[[アルタイル]]、[[はくちょう座]]の[[デネブ]]とともに、[[夏の大三角]]を形成している。 == 特徴 == 0.19日の周期で僅かに変光する[[たて座デルタ型変光星|たて座&delta;型変光星]]である。変光範囲が0.01等 - 0.04等と小さいため、眼視観測では変光はわからない。[[2003年]]には、[[惑星系]]が形成されつつあることが分かった。この惑星系は[[太陽系]]に近似のものである可能性がある。[[2006年]]には、[[自転]]周期が12.5時間という高速で自転しており、その速さは[[遠心力]]でベガが自壊する速度の94%に達していることが判明した。このため、極付近と赤道付近では大きな温度差が生じている。地球の[[歳差]]運動により、およそ[[11千年紀以降|12,000年後]]には、地球から見て[[北半球]]の[[天頂]]に位置し、[[北極星]]となる。 == 惑星系 == {{OrbitboxPlanet begin | table_ref = <ref name="Hurt2021">{{Cite journal | display-authors=1 | last=Hurt | first=Spencer A. | last2=Quinn | first2=Samuel N. | last3=Latham | first3=David W. | last4=Vanderburg | first4=Andrew | last5=Esquerdo | first5=Gilbert A. | last6=Calkins | first6=Michael L. | last7=Berlind | first7=Perry | last8=Angus | first8=Ruth | last9=Latham | first9=Christian A. | last10=Zhou | first10=George | title=A Decade of Radial-velocity Monitoring of Vega and New Limits on the Presence of Planets | journal=The Astronomical Journal | publisher=American Astronomical Society | volume=161 | issue=4 | date=2021-03-02 | issn=0004-6256 | doi=10.3847/1538-3881/abdec8 | page=157 | bibcode=2021AJ....161..157H}}</ref> }} {{OrbitboxPlanet hypothetical | exoplanet = [[ベガb|b]] | mass_earth = {{Val|21.9|5.1|p=≥}} | period = {{Val|2.42977|0.00016}} | semimajor = {{Val|0.04555|0.00053}} | eccentricity = {{Val|0.25|0.15}} }} {{OrbitboxPlanet disk | disk = 塵円盤 | periapsis = 86 | apoapsis = 815 | inclination = 6.2? }} {{Orbitbox end}} [[2021年]]に、ベガの10年間のスペクトルを分析した論文により、ベガの周囲を[[公転]]する[[公転周期]]が2.43日間の信号の候補を検出したと発表した。統計的には、誤検出の可能性は1%にすぎないと推定されている{{R|Hurt2021}}。信号の振幅によると下限[[質量]]は{{Val|21.9|5.1|ul=Earth mass}}([[地球質量]])となるが、地球から観測してベガ自体が6.2&deg;斜めに[[自転]]していることを考慮すると、惑星もその面に位置を合わせ実際の質量は{{Val|203|47|u=Earth mass}}となる{{R|Hurt2021}}。その他、{{Val|80|21|u=Earth mass}}(6.2&deg;の傾きで{{Val|740|190|u=Earth mass}})と解釈できる、周期が{{val|196.4|1.6|1.9}}日の弱い信号も検出された。しかし利用可能なデータからは、この周期の惑星が存在する確実な証拠は得られなかったと結論付けられている{{R|Hurt2021}}。 == 名称 == 固有名のベガ (Vega) は、この星のアラビアでの呼び名「アン=ナスル・アル=ワーキア{{efn2|続けて読むときの発音は「アン{{u|'''ナ'''}}スルル{{u|'''ワー'''}}キア」(太字下線部分にアクセント)。これに基づく表記「アン&#x3D;ナスル・ル&#x3D;ワーキア」や、定冠詞を省略した表記「ナスル・ワーキア」などもある。また、「ワーキア」は「ワーキウ」とも。}}( النسر الواقع (DMG: ''an-nasr al-wāqiʿ'' / ALA-LC: ''al-nasr al-wāqiʿ'' )」の「ワーキア」に由来する{{Sfn|Kunitzsch|1959|pp=81, 218}}。このアラビア名は、「ナスル」が “鷲”、「ワーキア」が “降りている” で、 全体で “降りている鷲”、すなわち “(木の枝や巣に) 止まっている鷲” という意味である<ref>''Encyclopaedia of Islam'', 2nd ed., Vol.7, Leiden 1993 の&quot;NASR&quot; の項(p.1012b-1015a) のうちの 1014b。</ref><ref>鈴木孝典(東海大学教養教育センター)「スーフィーの『星座の書』」『科学史の散歩道』[http://www2.ncc.u-tokai.ac.jp/suzuki/Sufi/SufiTopPage.htm](2007年9月25日閲覧、現在はリンク切れ)。</ref>。「ワーキア」''wāqiʿ'' は動詞「ワカア」''waqaʿa'' の能動分詞(英語などの現在分詞に相当)で、「ワカア」の基本の意味は “落ちる” であるが、鳥についていう場合には “(木や地面、あるいは巣に) 降りる、止まる; 降りている、止まっている” という意味となる{{efn2|代表的な古典アラビア語辞典『リサーヌル&#x3D;アラブ』 ''Lisān al-ʿarab'' や現代の辞典『ムンジド』''al-Munǧid fī l-luġa wa-l-ʿālam'' (1975年版、2005年版で確認) などのほか、 J. G. Hava, ''Al-Faraid Arabic English Dictionary'' にも、そのことが明記されている。}} 。しかしヨーロッパでは、そのような意味をもたないラテン語の動詞「カドー」cadō の現在(能動)分詞を使った「ウルトゥル・カデンス」 Vultur cadens(“落ちる鷲”)という翻訳名が古くからあり{{efn2|Vultur cadens という名前は12-14世紀のラテン語写本に現れており{{Sfn|Kunitzsch|1966|p=Typ XII}}、12世紀にアラビア語訳から翻訳されて16世紀に出版されたプトレマイオス『アルマゲスト』のラテン語訳 (''Almagestum Cl. Ptolemei'', Venezia 1515, fol.79v) や、ケプラーの『ルードルフ表』(J. Kepler, ''Tabulae Rudolphinae'', Ulm 1627, p.106) にも見られる。}}{{Sfn|Kunitzsch|1966}}、“(獲物に向かって)急降下する鷲”と解釈されてきたようである{{efn2|星名研究の権威であるクーニチュも der (herab-)stürzende Adler “急降下する鷲”{{Sfn|Kunitzsch|1959|pp=81, 218}}{{Sfn|Kunitzsch|1961|p=87}}, der fallende Adler “落ちる鷲”{{Sfn|Kunitzsch|1966|p=18}}としている。}}。日本でも、これまでその解釈が受け入れられてきた{{R|Kondo}}。 Vega は古くは Wega と綴られた{{efn2|Wega は10-11世紀のラテン語写本に現れており{{Sfn|Kunitzsch|1959|p=81}}{{Sfn|Kunitzsch|1966|p=Typ III}}、ヨーロッパに入ったアラビアの星名のうちでも最も古いものの1つである。}}。Vega という綴りは『アルフォンソ表』''Tabulae Alphonsinae'' (13世紀) の16世紀の印刷本に現れる (15世紀の版ではWega){{Sfn|Kunitzsch|1959|p=218}}{{efn2|なお、Veiga, Vuegega などの綴りが13世紀の写本にある{{Sfn|Kunitzsch|1966|p=Typ III}}。 }}。 その後も Wega は使い続けられていて、ドイツ語では現在でも Wega である。なお、ヨーロッパでは Vega/Wega/Vultur cadens 以外にも、Alwega, Annazel alvuaza など、誤記や誤読も含め、さまざまな語形や綴りが存在していた{{Sfn|Kunitzsch|1959|pp=81, 218}}{{Sfn|Kunitzsch|1966|p=90}}。 :ラテン語での発音は、通常は古典ラテン語(ローマ時代の文語ラテン語)の発音に従って表記するが、Vega は中世あるいは近代ラテン語で、しかも外来語であるので、「ウェ(ー)ガ」(古典)、「ヴェガ」(中世・近代)、「ウェーガ」(アラビア語や Wega という別綴りを考慮) など、さまざまな表記があり得る。 :Wega については、W(ダブルV)の文字は、ラテン語のVの発音が [w] から [v] に変わった後に、英語に存在した [w] 音を表すためにヨーロッパで生まれたものであるので、「ウェガ」と表記すべきであろうが、現代のドイツ語では「ヴェーガ」、フランス語 (Wéga) では「ヴェガ」と発音される。 アラビアでは、こと座 α 星「降りている鷲」と わし座 α 星「飛んでいる鷲」(アルタイル){{efn2|アラビア語では「アン&#x3D;ナスル・アッ&#x3D;ターイル」 النسر الطائر ''an-nasr aṭ-ṭāʾir'' / ''al-nasr al-ṭāʾir''.}}を対のものとして捉え、「2つの鷲星」(「アン=ナスラーン」 النسران ''an-nasrān'' / ''al-nasrān'')と呼んだ{{Sfn|Kunitzsch|1961|p=21}}<ref name="Qutayba">Ibn Qutayba, ''Kitāb al-anwāʾ'', Haidarābād: Dāʾirat al-Maʿārif al-ʿUṯmāniyya, 1956, p.151.</ref>{{efn2|「ナスラーン」''nasrān'' は「ナスル」''nasr'' の双数形。}}。そして、それぞれの近くにある2個の星(こと座 ε, ζ と わし座 β, γ)を鷲の翼に見立て、こと座の3個は三角形に並んでいるので「翼を閉じている」、わし座の3個は一直線に並んでいるので「翼を広げている」と見なした<ref name="Qutayba" /><ref name="Sufi">{{Cite book | author=ʿAbd ar-Raḥmān aṣ-Ṣūfī | title=Kitāb ṣuwar al-kawākib | publisher=Haidarābād: Dāʾirat al-Maʿārif al-ʿUṯmāniyya | year=1954 | pages=67-69}}</ref>。本来は、3個のまとまりではなく、ベガとアルタイルが単独で「鷲」と呼ばれていたようである{{Sfn|Kunitzsch|1961|p=87}}{{efn2|イブン&#x3D;クタイバやスーフィーの記述でも、最初に単独の星の名前として述べた後に、付随する2個の星に触れている。}}。 この星の名前「降りている鷲」は、アラビアではプトレマイオス星座の「こと座」の名前として使われることもあった{{efn2|例えば、バッターニーの『サービー・ジージュ』 ''az-Zīǧ aṣ-ṣābiʾ'' (“サービア教徒のジージュ”) の星表に見られる(C. A. Nallino (ed.), ''Al-Battānī sive Albatenii Opus astronomicum'', Milano, 1899-1907 の Pars 3 (アラビア語原文), p.248 および Pars 2 (ラテン語訳), p.148)。}}。 ギリシャでも、プトレマイオスの『アルマゲスト』の恒星表に、この星の名前として、星座名と同じ「リュラー」 Λύρα ''Lyrā'' {{efn2|リュラー(リュラ、リラ)は、亀の甲羅を使った、竪琴の一種。}}が挙げられている<ref>J. L. Heiberg (ed.), ''Claudii Ptolemaei opera quae extant omnia'', Vol. I, ''Syntax mathematica'', Leipzig: Teubner 1898-1903 の Pars II, p.56; プトレマイオス(藪内清訳)『アルマゲスト』〔フランス語訳からの重訳〕、恒星社厚生閣、新版1982年 (初版1949, 58年)、326頁。</ref>。 ローマでは、このギリシャ語をラテン語化した「リュラ」Lyra、および別のギリシャ語に由来する「フィデース」Fides{{efn2|フィデースはリュラーやキタラーなどの弦楽器を広く指す言葉。}}という言葉が「こと座」の名前として使われているが<ref>Ch. T. Lewis and Ch. Short, ''A Latin Dictionary'', Oxford: Clarendon Press 1879 の &quot;lyra&quot; および &quot;fides&quot; の項。</ref>、星座ではなくこの星だけを指す用法があったかは分からない。 ヨーロッパでは、コペルニクスの『天球回転論』(ラテン語) の星表に、この星の名として、星座名と同じ「リュラ」と、「フィディクラ」Fidicula{{efn2|フィディクラ fidicula はフィデース fides の縮小形。“小さな弦楽器”という意味。}}が挙げられている<ref>{{Cite book | 和書 | author=コペルニクス | translator=高橋憲一 | title=天球回転論 | publisher=みすず書房 | year=2017 | p=120}}</ref>。 英語やドイツ語には、リュラをハープに置き換えた「ハープ・スター」 Harp Star, 「ハルフェンシュテルン」Harfenstern (“ハープ星”) という呼び名もある。 メソポタミアでは、この星はアッカド語で「ラマッス」''Lamassu'' [<sup>d</sup>LAMMA] (“守護女神ランマ”) と呼ばれたらしい<ref>E. Reiner and D. Pingree, ''Babylonian Planetary Omens'': Part Two, ''Enūma Anu Enlil Tablets 50–51'', Malibu California: Undena Publications 1981, p.7; -- H. Hunger and D. Pingree, ''Astral Sciences in Mesopotamia'', Leiden/Boston/Köln: Brill 1999, p.273; -- H. Hunger and J. Steele, ''The Babylonian Astronomical Compendium'' MUL.APIN, London and New York: Routledge 2019, p.240 (Index).</ref> 日本では、中国の伝説に由来する「織姫(おりひめ)」や「織姫星(おりひめぼし)」、あるいは「織女(しょくじょ)」や「織女星(しょくじょせい)」という名で呼んでいる。「彦星(ひこぼし)」(わし座のアルタイル)、「すばる」(おうし座のプレアデス星団)とともに、現在も広く使われている数少ない和名の一つである。 :{{seealso|[[星・星座に関する方言#ベガ(こと座)とアルタイル(わし座)|ベガ(こと座)の方言]]}} 中国でも、「織女」あるいは「織女星」といえば一般には こと座 α 星を指すが<ref name="hanyu">羅竹風 (主編)、漢語大詞典編輯委員会・漢語大詞典編纂処 (編)『漢語大詞典』上海辞書出版社/漢語大詞典出版社 1986-1994年 の「織女星」および「織女」の項。</ref>、中国の伝統的天文学では、「織女」は こと座 α, ε, ζ の3星からなる星官(中国固有の星座)の名前であって、こと座 α 星は「織女一」(“織女の第1星”) という<ref name="hanyu" /><ref>陳遵嬀『中国天文学史』上海人民出版社 1986-89年、351, 659頁。</ref>。 国際天文学連合の恒星の固有名に関するワーキンググループは、2016年6月30日、Vega をこと座&alpha;星の固有名として正式に認証した{{R|iaucsn}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|25em|refs= <ref name="simbad">{{cite web | title=SIMBAD Astronomical Database | work=Results for NAME VEGA | url=https://simbad.u-strasbg.fr/simbad/sim-id?protocol=html&Ident=vega | accessdate=2013-01-15}}</ref> <ref name="yale">[[輝星星表]]第5版</ref> <ref name="GCVS">{{cite web | title=GCVS | work=Results for alf Lyr | url=http://www.sai.msu.su/gcvs/cgi-bin/search.cgi?search=alf+Lyr | accessdate=2015-10-12}}</ref> <ref name="Kondo">{{Cite book | 和書 | title=星の名前のはじまり | author=近藤二郎 | author-link=近藤二郎 | publisher=[[誠文堂新光社]] | year=2012-08-30 | isbn=978-4-416-21283-7 | page=128}}</ref> <ref name="Hara">{{Cite book | 和書 | author=原恵 | author-link=原恵 | title=星座の神話 - 星座史と星名の意味 | publisher=[[恒星社厚生閣]] | date=2007-02-28 | edition=新装改訂版第4刷 | page=163 | isbn=978-4-7699-0825-8}}</ref> <ref name="Kunitzsch">{{Cite book | last=Kunitzsch | first=Paul | last2=Smart | first2=Tim | author1-link=パウル・クーニチュ | title=A Dictionary of Modern star Names: A Short Guide to 254 Star Names and Their Derivations | publisher=Sky Pub. Corp. | year=2006 | pages=43-44 | isbn=978-1-931559-44-7}}</ref> <ref name="iaucsn">{{Cite web | last=Mamajek | first=Eric E. | url=https://www.pas.rochester.edu/~emamajek/WGSN/IAU-CSN.txt | title=IAU Catalog of Star Names | publisher=[[国際天文学連合]] | access-date=2023-07-13}}</ref> <ref name="nao_ac">{{Cite web|和書 | url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/stars.html | title=おもな恒星の名前 | work=こよみ用語解説 | publisher=[[国立天文台]] | accessdate=2018-11-14}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book | last=Kunitzsch | first=Paul | author-link=パウル・クーニチュ | title=Arabische Sternnamen in Europa | publisher=Harrassowitz | date=1959-12-31 | isbn=3-447-00549-1 | language=de | ref=harv}} * {{Cite book | last=Kunitzsch | first=Paul | author-link=パウル・クーニチュ | title=Untersuchungen zur Sternnomenklatur der Araber | publisher=Otto Harrassowitz Verlag | date=1961 | isbn=3-447-00551-3 | language=de | ref=harv}} * {{Cite book | last=Kunitzsch | first=Paul | author-link=パウル・クーニチュ | title=Typen von Sternverzeichnissen in astronomischen Handschriften des zehnten bis vierzehnten Jahrhunderts | publisher=Otto Harrassowitz Verlag | date=1966 | isbn=3-447-00550-5 | language=de | ref=harv}} == 関連項目 == * [[明るい恒星の一覧]] * [[アルタイル]] - いわゆる[[彦星]](牽牛星、牛郎星)のこと。[[天の川]]を挟んでベガ(織女星)と向かい合う白い星。 * [[太陽系外惑星]] == 外部リンク == *[https://www.astroarts.co.jp/news/2013/01/09vega/index-j.shtml 織姫星ベガに、太陽系そっくりの小天体の帯] * アストロアーツ「天文ニュース」 - [https://www.astroarts.co.jp/news/2003/12/09planetary-system/index-j.shtml 太陽系に似た惑星系存在の新たな証拠] *{{WikiSky|Vega}} {{1等星}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へか}} [[Category:1等星]] [[Category:脈動変光星]] [[Category:こと座]] [[Category:光世紀世界|1580]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:恒星の固有名]] [[Category:七夕]] [[Category:アラビア語からの借用語]] [[Category:星周円盤]]
2003-05-14T03:59:33Z
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翼(つばさ)は、鳥や航空機などの飛翔体が備え、空気中での飛行のために使用される構造。さらに広義の用法もある。文脈によっては「ヨク」とも読む。 日本語では、「鳥の翼」(英語: wing)を表す言葉には「つばさ(翼)」「はね(羽)」の2語があり、いずれも万葉集より用例がある。 「つばさ」がもっぱら「鳥の翼」の意味であったのに対し、「はね」はより広い語義をもち、「昆虫の翅」を指すのにも用いられる。さらに、「矢羽根」「赤い羽根」「羽根ペン」というように、「羽根」と書けば 英語: feather の意味になる。英単語 feather 「羽根」がギリシア語 pteron「翼」と同じ語源をもち、古くは複数形で「翼」を意味したことからも分かるように、「翼」と「羽根」とは互いに距離の近い概念であると言えよう。 漢字「羽」は羽根2枚、または双翼を並べた象形字、「翼」はそれに音符を加えたものである。 20世紀に入ると飛行機が登場し、「飛行機の翼」という概念が生まれると共に、流体力学などの新しい学問分野が発展し、「翼」という言葉も新しい定義を得ることとなった。 その定義とはおおむね、「流体との相互作用によって効率よく揚力を得られるような形状をした物体」というものである。 またこの定義から、この語は、飛行機の翼以外にも多様なものを指しうる。 なお、こうした用法における「翼」の字は、音読みで「ヨク」と読まれることが多い。 転義として、一般に、中央に位置する中心的な構造から左右に張り出したような構造を称して「翼」(ヨク)と呼んだり、また「ウイング」などとも呼ぶ。思想的立場を意味する「左翼」「右翼」の語は、革命期フランスの議会における、左右に分かれた議員席をそう呼んだことに由来するという。建築物の例としては、宇治平等院鳳凰堂の「翼廊」や、羽田空港(ビッグバード)の棟名「ウィング」などを挙げることができる。 生物学などの分野において特に厳密な「翼」の定義がある訳ではないが、一般的な用法でいえば、翼を持つ生物は以下の3種類である: これに加えて昆虫類の翅を翼として扱うこともある。 いずれも、飛翔(帆翔およびホバリングを含む)を目的とした、羽ばたく機能をもったものである。 翼の羽ばたきによる飛翔を最初に行った生物は古生代の昆虫であり、この能力の獲得が昆虫の今日の繁栄の1つの要因であったと考えられている。昆虫は、羽ばたきによる飛翔能力を獲得した唯一の無脊椎動物である。 中生代になると脊椎動物にも羽ばたき飛翔を行う翼の持ち主が現れた。現在のところ、三畳紀中ごろの翼竜がそのさきがけであったと考えられている。 ジュラ紀頃になると、恐竜の系統の一部から、鳥が生まれた。とはいえ、羽毛が化石に残りにくいこともあり、恐竜-鳥系統の進化の中で羽ばたき飛翔がいつ、どのように始まり、翼の進化がどのような過程を踏んできたのかについては、あまりよく分かっていない。 最後に登場した羽ばたき飛翔を行う生物は哺乳類のコウモリであり、新生代の第三紀のことであったと考えられている。 以上のような一般的な用法にこだわらず、航空機的な「翼」の意味を流用するなら、グライダーのように滑空する能力をもつ様々な生物が視野に入ってくる。 羽ばたいて上昇したり長距離を航続する能力は彼らにはないが、中には高度差の4〜5倍の距離を滑空するものもいる。 様々なアプローチのものが知られている。 さらに意味を広げるなら、水生生物の多くに見られる「鰭」(ひれ)もまた、流体力学的な意味で「翼」であると言えなくもない。とはいえこれら生物が滑空や遊泳のために発達させた器官は第一義的には「皮膜」であり「鰭」なのであって、これらを「翼」と呼ぶことは一般的ではない。 航空機、特に浮力でなく動的揚力を利用して飛行する重航空機にとって、翼はエンジン以上に重要な必須の装備品である(たとえば、グライダーにはエンジンがないが、翼はある)。歴史的経緯についての詳細は飛行機の歴史などを参照されたい。 簡単な説明のみ記してある。詳細については、各用語のリンク先を参照されたい。 自家用小型機のような低亜音速機の翼は一般に以下のような断面形状(翼型)をしている: これに似た翼型を持つものが翼と呼ばれたり、このような形状を指して「翼状」などと言うことが多い。しかしながら、現実には使用される流れの性質(速度・粘性など)によって断面形状は様々なものがある。 飛行機などの固定翼機は、翼を備えた機体全体が前進し、翼に風を受けることで揚力を得る。滑空中の鳥なども同じ。詳しい揚力発生の原理、揚力と抗力の関係などについては揚力や抗力を参照。 ある軸を中心に回転して相対速度を得る翼を回転翼という。揚力を発生する原理そのものは固定翼と変わらないが、翼自体が回転することで(も)周囲の流体との相対速度を得られる(すなわち、揚力を得られる)という点が異なる。 一般に回転翼と呼ばれるものは、回転軸が細長い翼状物体の一端にあるもので、ヘリコプターのローター・飛行機や船のプロペラ・カエデの種子などのようなものを指す。この場合、回転軸側と先端側で流れの速度に差ができ揚力の差となるため、揚力差の軽減を目的に、ねじりを付ける・位置によって翼型を変えるといった対策が採られることが多い。詳しくはプロペラ・ローター・タービンを参照。 一方、このような円盤面内運動でなく水車のような回転をする翼も存在する。こうしたものは、あまり回転翼とは呼ばれることはない。
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翼(つばさ)は、鳥や航空機などの飛翔体が備え、空気中での飛行のために使用される構造。さらに広義の用法もある。文脈によっては「ヨク」とも読む。
{{Otheruses}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年10月 | 独自研究 = 2021年10月 }} <!--[[image:Wing of the sparrow2.jpg|thumb|right|300px|[[スズメ]]の翼。[[揚力]]を発生させる構造を見ることが出来る]]--> '''翼'''(つばさ)は、[[鳥類|鳥]]や[[航空機]]などの飛翔体が備え、[[空気]]中での飛行のために使用される構造。さらに広義の用法もある。文脈によっては「ヨク」とも読む。 ==語彙== ===「つばさ」と「はね」=== [[日本語]]では、「鳥の翼」({{lang-en|'''wing'''}})を表す言葉には「'''つばさ'''(翼)」「'''はね'''([[羽]])」の2語があり、いずれも[[万葉集]]より用例がある。 {{quotation|葦辺行く'''雁の翼'''を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ (13#3345)<br/>梅が枝に鳴きて移ろふ'''鴬の羽'''白妙に沫雪ぞ降る (10#1840)}} 「つばさ」がもっぱら「鳥の翼」の意味であったのに対し、「はね」はより広い語義をもち、「[[昆虫の翅]]」を指すのにも用いられる<ref>学術的には「'''翅'''」と書いて「し」と読む。ただし「翅」は当用漢字外なので、分かりにくいがひらがなに開く場合もある。「半し類」など。</ref>。さらに、「[[矢羽根]]」「[[赤い羽根]]」「[[羽根ペン]]」というように、「'''羽根'''」と書けば {{lang-en|feather}} の意味になる。英単語 feather 「羽根」が[[ギリシア語]] pteron<ref>語根として helicopter 「ヘリコプター」、pterosaur 「翼竜」などに含まれている。</ref>「翼」と同じ語源をもち、古くは複数形で「翼」を意味したことからも分かるように、「翼」と「羽根」とは互いに距離の近い概念であると言えよう。 漢字「'''羽'''」は羽根2枚、または双翼を並べた象形字、「'''翼'''」はそれに音符を加えたものである。 ===流体力学などにおける「翼」=== {{See also|#航空機の翼}} 20世紀に入ると[[飛行機]]が登場し、「[[#航空機の翼|飛行機の翼]]」という概念が生まれると共に、[[流体力学]]などの新しい学問分野が発展し、「翼」という言葉も新しい定義を得ることとなった。 その定義とはおおむね、「'''[[流体]]との相互作用によって効率よく[[揚力]]を得られるような形状をした物体'''」というものである。 またこの定義から、この語は、飛行機の翼以外にも多様なものを指しうる。 *[[水中翼船]]の水中翼なども翼の一種である。 *[[レーシングカー]]等に取り付けられるウイングは、上下を逆にした翼であり、車体を地面に押し付けるために下向きの揚力([[ダウンフォース]])を発生させるものである。 *[[帆]]の一形態である[[帆#縦帆|縦帆]]は、水平方向の揚力を得る翼であると考えることができる。 *[[プロペラ]]やローターなどの「[[回転翼]]」も翼の一種である。産業用の[[圧縮機]]や[[風力原動機]]<ref>ただしこの場合は[[風]]から動力を得る方である。</ref>のブレードなども回転翼として理解することができる。 なお、こうした用法における「翼」の字は、音読みで「'''ヨク'''」と読まれることが多い。 ===その他の用法=== 転義として、一般に、中央に位置する中心的な構造から左右に張り出したような構造を称して「翼」(ヨク)と呼んだり、また「ウイング」などとも呼ぶ。思想的立場を意味する「'''[[左翼]]'''」「'''[[右翼]]'''」の語は、革命期フランスの議会における、左右に分かれた議員席をそう呼んだことに由来するという。建築物の例としては、宇治[[平等院]]鳳凰堂の「'''翼廊'''」や、[[東京国際空港|羽田空港]](ビッグバード)の棟名「'''ウィング'''」などを挙げることができる。 ==生物の翼== [[Image:Bird_ja.png|thumb|300px|鳥類の翼では、部位に応じて各種の機能を担う、様々な形状の[[羽毛]]が発達している。]] {{節スタブ}} 生物学などの分野において特に厳密な「翼」の定義がある訳ではないが、一般的な用法でいえば、翼を持つ生物は以下の3種類である: *[[翼竜]]類 : 絶滅。比較的横に長い、膜状の翼だったと考えられている。<!--補強のないただの膜だったという見方と、すじ状の補強がなされたものだったという見方とがある。後縁付け根の付着部位についても諸説ある。--> *[[鳥類|鳥]]類 : [[羽毛]]をまとった翼を持つ。 [[風切羽]]、[[鳥類用語#翼羽部]]などを参照。 *[[コウモリ]]類 : 長く伸びた指の骨と皮膜によって構成される翼を持つ。 これに加えて[[昆虫]]類の[[翅]]を翼として扱うこともある。 いずれも、'''[[飛翔]]'''(帆翔およびホバリングを含む)を目的とした、羽ばたく機能をもったものである。 ===小史=== 翼の羽ばたきによる飛翔を最初に行った生物は[[古生代]]の[[昆虫]]であり、この能力の獲得が昆虫の今日の繁栄の1つの要因であったと考えられている。昆虫は、羽ばたきによる飛翔能力を獲得した唯一の[[無脊椎動物]]である。 中生代になると[[脊椎動物]]にも羽ばたき飛翔を行う翼の持ち主が現れた。現在のところ、[[三畳紀]]中ごろの[[翼竜]]がそのさきがけであったと考えられている。 [[ジュラ紀]]頃になると、[[恐竜]]の系統の一部から、鳥が生まれた。とはいえ、[[羽毛]]が化石に残りにくいこともあり、恐竜-鳥系統の進化の中で羽ばたき飛翔がいつ、どのように始まり、'''翼の進化'''がどのような過程を踏んできたのかについては、あまりよく分かっていない<ref>[[羽毛]]を持つ恐竜や、飛翔可能な段階に達した小型恐竜の存在が知られるようになったのは、ようやく[[20世紀]]末以降、ここ20年ほどのことに過ぎないのである。</ref>。 最後に登場した羽ばたき飛翔を行う生物は[[哺乳類]]の[[コウモリ]]であり、[[新生代]]の[[第三紀]]のことであったと考えられている。 ===羽ばたかない“翼”=== 以上のような一般的な用法にこだわらず、航空機的な「翼」の意味を流用するなら、グライダーのように[[滑空]]する能力をもつ様々な生物が視野に入ってくる。 羽ばたいて上昇したり長距離を航続する能力は彼らにはないが、中には高度差の4〜5倍の距離を滑空するものもいる。 様々なアプローチのものが知られている。 *[[ムササビ]]、[[モモンガ]]、[[フクロモモンガ]]、[[ヒヨケザル]] : 四肢の間などに発達した皮膜の“翼”を持つ。 *[[トビトカゲ]] : 肋骨が横に伸び、体幹から大きく突き出した形になり、そこに皮膜が発達する。普段は折り畳まれている。現生脊椎動物のなかで四肢から独立した“翼”をもつ唯一の生物{{要出典|date=2015年5月}}である。 *[[トビヤモリ]]:トビトカゲほど発達しないが肋骨が広がり翼の役割を果たす。 *[[ロンギスクアマ]]:化石種。発達した胴体の複数の鱗が翼の役割を果たした。 *[[トビヘビ]]:肋骨を広げ体を扁平にし、全身をS字形にすることで、ほぼ全身を翼として使う<ref>[http://www.nhk.or.jp/wildlife/program/p012.html NHK]</ref><ref>[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/ NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版] よりWebナショジオの動物大図鑑</ref>。当然、四肢はなく、絶滅もしていないので、四肢を翼の前後につけて滑空するトビトカゲが、四肢から独立した翼をもつ唯一の原生脊椎動物ではない。 *[[トビガエル]]類 : 四肢の指が長く、そこに発達した“水かき”を使って滑空する。(樹上生であり、遊泳はしない) *[[トビウオ]]類 : 胸びれ、腹びれ、尾びれが発達し、翼の役を果たす。 *[[トビイカ]] : “先尾翼(カナード)”を備えるとともに、脚と粘液とで楕円平面形の“翼”を形成。 *植物 : 一部の植物の[[果実]]には、動的揚力を利用して移動距離を稼いでいるものがあり、[[翼果]]と呼ばれる。ほとんどは一種の回転翼であり、[[カエデ]]の種子が有名。特徴的なのはボルネオ島の森林に生える[[ハネフクベ]](''Zanonia Macrocarpa''; [[ウリ科]])で、これは左右対称な、[[全翼機|無尾翼]]のグライダーである。 さらに意味を広げるなら、水生生物の多くに見られる「[[鰭]]」(ひれ)もまた、流体力学的な意味で「翼」であると言えなくもない。とはいえこれら生物が滑空や遊泳のために発達させた器官は第一義的には「[[皮膜]]」であり「[[鰭]]」なのであって、これらを「翼」と呼ぶことは一般的ではない。 {{gallery |width=160 |File:Jill Flying 1.jpg|アメリカモモンガ |File:Draco volans.jpg|トビトカゲ (翼を半分ほど展開した状態) |File:Wallace frog.jpg|トビガエル |File:Schwalbenfisch.jpg|トビウオ |File:Samara olmo frassino acero.png|翼果のいろいろ |File:Wing of the sparrow1.jpg|スズメの左翼 |File:Alsomitra macrocarpa seed (syn. Zanonia macrocarpa).jpg|ハネフクベの翼果 }} ==航空機の翼== {{出典の明記|section=1|date=2018-1}} [[Image:US Air Force B-2 Spirit.jpg|thumb|right|[[B-2 (航空機)|B-2]]は水平尾翼も[[垂直尾翼]]も持たない[[無尾翼機]]([[全翼機]]とも)。[[ジェットエンジン]]も翼に内蔵している(手前の膨らみ)。]] 航空機、特に[[浮力]]でなく動的揚力を利用して飛行する重航空機にとって、翼はエンジン以上に重要な必須の装備品である(たとえば、[[グライダー]]にはエンジンがないが、翼はある)。歴史的経緯についての詳細は<!--[[航空史]]や-->[[飛行機の歴史]]などを参照されたい。 <!--固定翼やプロペラの翼の断面の形状、ならびに推力を持った飛行機を完成させたのは、いずれも飛行機を初めて実際に飛ばせた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ライト兄弟]]であるといわれる。--> ;高揚力装置 : 揚力の大きさは飛行速度の 2 乗に比例する([[揚力]]参照)ため、低速とならざるを得ない離着陸時には飛行速度を上げる以外の方法で充分な揚力を確保する必要がある。このために使用されるフラップなどの装置は[[高揚力装置]]と呼ばれる。詳しくはリンク先を参照。 ;翼の構造 : 航空機の翼構造は、胴体など他の部分の構造と同様、時代とともに変化してきている。詳しくは[[飛行機#主翼]]などを参照。 ===翼に関係する用語=== 簡単な説明のみ記してある。詳細については、各用語のリンク先を参照されたい。 ====形状関係==== [[ファイル:Wing model.png|thumb|400px|主翼の翼型のモデルと各部の名称。A翼弦長、B中心線、C最大翼厚、D最大キャンパ、E翼弦線、F前縁、G後縁。]] ;前縁(ぜんえん) : 翼の前側のふち。しばしば英語の Leading Edge から LE とも表記される。{{Main|前縁}} ;後縁(こうえん) : 翼の後ろ側のふち。しばしば英語の Trailing Edge から TE とも表記される。 ;翼弦線(よくげんせん) : コードライン (chord line) とも言い。前縁と後縁を結んだ直線<!--線分だけど-->のことである。この部分の長さは翼弦長あるいはコード長といい(単に「翼弦」で長さについていうこともある)、数式では c や l などと表記される。 ;[[翼型]](よくがた) : 翼を翼弦に沿って縦に切った断面のこと。エアフォイル (airfoil/aerofoil)、翼断面とも。[[流れ]]の性質(速度・粘性など)に応じて様々なかたちが存在し、翼の性能を大きく特徴づける重要な要素。 ;中心線 :翼の上面と下面から等しい距離にある点を前縁から後縁まで繋いだ線。 ;キャンバー :中心線の反りの大きさを表すもので、分かりやすく言えば中心線と翼弦線の差を表す。一般的にキャンバーというと最も差が大きい部分(最大キャンバー)を指すことが多い、最大キャンバーを翼弦長で割り百分率(%)に直して表示する。最大キャンパーの位置は、前縁から翼弦長の15-40%前後が多く、また、キャンバーがある場合、迎角が0度の状態でも揚力を発生する。またキャンバーが0の翼型を対称翼という。 ;翼厚 :翼の最大の厚さを翼厚といい、最大翼厚を翼弦長で割り百分率(%)に直してから、最大翼厚比として表示する。最大翼厚の位置は、一般翼においては前縁から翼弦長の20%前後が多く、高速機に使用されている層流翼においては40%まで下げて抗力を少なくしている。 ;前縁半径(ぜんえんはんけい) : 翼の前縁の丸味の半径のこと。同じ翼厚でも、前縁半径が大きいほど揚力係数が大きくなり、翼上面の気流が翼から離れる剝離が起きにくくなる。逆に前縁半径が小さいと剝離が早く起きるようになる。 ;[[翼端]](よくたん) : 翼の先端部分でウィングチップ (Wing tip)とも呼ばれる。翼端には[[ウィングレット]]などさまざまな形状がある。 ;[[翼付根]](よくつけね) : 翼付け根、翼根とも呼ばれ、航空機胴体に最も近い翼の部分。翼付根は航空機を介して最大の曲げ力を受ける。 ;[[翼幅]](よくふく) : 翼の横幅の長さ。スパン (span)、ウィングスパンとも。回転翼の場合、ブレード一枚の長さ。数式では b と表記されることが多い。 ;[[翼平面形]](よくへいめんけい) : 翼を真上から見たときの形<!--「真上」の定義はコードとスパンで張られる平面に垂直、か?ここに書くことはないだろうけど-->。単に平面形とも。テーパ(先細)だったり、楕円形だったり、後退角が付いていたりする。この形状が翼の特性を大きく左右する。詳しくはリンク先を参照。 ;翼面積 : 翼平面形の面積。投影面積とも。翼を平面に投影したときの最大投影面積を翼面積とする。胴体と重なる部分も含めて考える。数式では S で表されることが多い。 ;[[アスペクト比 (航空工学)|アスペクト比]] : 一般には長方形の縦と横の長さの比のこと。細長比あるいはアスペクトレシオとも。翼の場合、(翼幅)<sup>2</sup>÷翼面積という[[無次元数]]で表す。例えば、[[ムササビ]]は 1〜2<!--Alexander, David E. "Nature's Flyers"-->、[[ボーイング747|ボーイング 747-400]] は約 8<!--64m,541m^2で計算したら7.7くらい-->、[[ワタリアホウドリ]]は 15 程度<!--Tennekes, Henk "The Simple Science of Flight"の数値で計算-->である。アスペクト比が大きいほど、後述する揚抗比が大きくなり。翼に発生する[[抗力#物理的要因による分類|誘導抗力]]が小さくなる。例えば長距離の洋上飛行を要求される海鳥は、一般に陸の鳥よりも細長い翼を持つ。数式では AR や A などと表記される。 ;テーパー比 : 翼中央部の翼弦長と翼端部の翼弦長の比率。一般的にλ(ラムダ)で表される。 ;[[迎角]](げいかく)<!--性能のほうがいいかな--> : 迎え角(むかえかく)、AoA(えーおーえー、Angle of Attack)とも。翼弦線(コードライン)と流れのなす角度。数式では α(アルファ)と表記されることが多い。[[揚力]]の大きさは概ね迎え角に比例して増大する。飛行機の胴体線と翼弦線のなす角である「取付け角 (angle of incidence)」 、進行方向となす角度とは必ずしも一致しない。<!--絶対絵があった方がいい--> [[Image:AN225down.jpg|thumb|right|[[An-225 (航空機)|An-225]]の主翼には下反角が付けられている。]] ;上反角(じょうはんかく) : 水平面から斜め上に突き出すように取りつけられた翼の場合に、水平面と翼とがなす角。簡単に言うと、翼がバンザイしている角度。飛行の安定性に関わる要素で簡単に言えば、上反角をつけるとバンクを戻す方向に力が働く。即ち、外力による乱れに対して姿勢を元に戻す復元力が働く。(ただし上反角をつけすぎると、復元力がバンク角を超えてしまい、結果として機体を反対へ倒そうとする力が働き、却って不安定となる。また、方向安定性が弱い場合だと、'''[[ダッチロール]]'''と呼ばれる蛇行運動を起す。その場合、上反角を減らしたり逆に下反角をつけたり、または尾翼の見直し等の設計調査を行う) [[Image:Supersonic.arp.750pix.jpg|thumb|right|超音速での巡航が要求されたため、[[コンコルド]]の主翼は薄かった。]] ;下反角(かはんかく、げはんかく) : 水平面から斜め下に突き出すように取り付けられた翼の場合に、水平面と翼とがなす角。下反角をつけると安定性が低くなるため、古くはタブーとされたが、主翼に大きい後退角がある高速ジェット機では後退角による復元力が大きすぎ、下反角をつけて調整する場合がある。特に安定性よりも自在に飛行することが重要である戦闘機は下反角が付けられているものがある。 ====性能関係==== ;[[レイノルズ数]] : 物体にとってのまわりの流れの[[粘度|粘りけ]]を示す[[無次元数]]。流体の粘性・翼の大きさ・流れの速度によって決まり、翼の性能に大きく影響する非常に重要なパラメター。普通は桁単位で表現する。数式では R や Re と表記されることが多い。<!--ちょっとアヤシイ→例えば、飛行中の[[ハエ]]では 10〜100 の桁、小型飛行機の主翼では 1,000,000 の桁。--> ;[[揚力]] : 翼に生じる空気力のうち、流れと垂直な成分。数式では L と表記されることが多い。 ;[[抗力]] : 翼に生じる空気力のうち、流れと平行な成分。数式では D と表記されることが多い。 ;[[揚抗比]] : 揚力÷抗力 (L/D) あるいは 揚力係数÷抗力係数 (C<sub>L</sub>/C<sub>D</sub>) で表される無次元数。翼の性能を特徴付ける重要な値。簡単に言うと、揚抗比の大きな翼は、性能が良いといえる。ただし、揚力や抗力は速度や迎え角などによって変化するため、1つの翼でも状態によって変化する。翼だけについてでなく、航空機や鳥など飛翔体全体についても言うことがある<!--滑空飛行時には滑空比がこの値になる。詳しくは[[飛行]]を参照。-->。 ;[[翼面荷重]] : 機体重量を翼面積で割った値。つまり翼(の単位面積あたり)が支えるべき重量を示す。 ;[[失速]] : 翼(特に上面)から[[流れ]]が<!--急激に-->剥離する現象。ストール (stall) とも。失速状態に陥ると抗力が増大し、揚抗比が小さくなり、また気流の乱れによって安定性が悪化する。 ===翼理論=== ====基本==== 自家用小型機のような低亜音速機の翼は一般に以下のような断面形状(翼型)をしている: #前縁は丸く、前縁から 1/3 程度の所で最大の厚みになり、後縁が鋭利な細長い涙滴形状 #断面の上下中間を結ぶ線が円弧状 これに似た翼型を持つものが翼と呼ばれたり、このような形状を指して「翼状」などと言うことが多い。しかしながら、現実には使用される[[流れ]]の性質(速度・粘性など)によって断面形状は様々なものがある。 [[飛行機]]などの[[固定翼機]]は、翼を備えた機体全体が前進し、翼に風を受けることで揚力を得る。滑空中の鳥なども同じ。詳しい揚力発生の原理、揚力と抗力の関係などについては[[揚力]]や[[抗力]]を参照。 <!--[[揚力]]におまかせしていいような。 一様な流れに対して少しだけ傾けて翼を置くと、翼周りの流れは傾けた側に凸となり、翼後縁から滑らかに流れ去る。これは流体が持つ内部摩擦性([[粘度|粘性]])によって生ずる。そして、翼周りの流れの曲がりは、これを維持するための向心力が求められ、これは翼表面の圧力分布として現れる。この翼表面の圧力分布の一様流れに垂直な成分のみ翼全体で積分すると、揚力が求められる。また、圧力が低い翼面側では流れは吸い込まれて早くなり、圧力の高い翼面側では流れが押し戻されて遅くなる。 以上のことを応用すると、翼周りの流れの様子を調べるには翼表面の圧力を測定さえすれば、[[ベルヌーイの法則]]により翼周りの流速を求めることができる。 --> ====2次元翼と3次元翼==== ;2次元翼 : 均一な[[翼型]](どこを切っても同じ断面形)で、翼幅が無限大の翼を考え、この翼についての流れを議論することがある。このような翼を2次元翼と呼ぶ。翼型の形状のみに注目してその特性だけを議論したいときに想定する。必ずしも空想上の翼という訳ではなく、例えば、[[風洞]]で翼型を試験するという場合、均一な翼型を持つ翼の模型を風洞内の全幅にわたって(壁から壁へと)取り付け、中央付近では翼幅の影響を無視でき、2次元翼と見なせるとして取り扱ったりする。 ;3次元翼 : 現実に使用される翼は長さが有限である。[[翼平面形]]や上下方向の変化(上反角)などが問題となってくる。更に翼幅方向に翼型が変化することも珍しくない。このように翼型(翼断面)という2次元(平面)以外の要素も考慮するときの翼を3次元翼と呼ぶ。 ====回転翼==== [[Image:MH-53J Pave Low III.jpg|thumb|right|[[ヘリコプターのローター]]も揚力発生原理自体は同じ。写真は[[CH-53 (航空機)|MH-53]]。]] ある軸を中心に回転して相対速度を得る翼を回転翼という。揚力を発生する原理そのものは固定翼と変わらないが、翼自体が回転することで(も)周囲の流体との相対速度を得られる(すなわち、揚力を得られる)という点が異なる。 一般に回転翼と呼ばれるものは、回転軸が細長い翼状物体の一端にあるもので、[[ヘリコプターのローター]]・飛行機や[[船]]のプロペラ・カエデの種子などのようなものを指す。この場合、回転軸側と先端側で流れの速度に差ができ揚力の差となるため、揚力差の軽減を目的に、ねじりを付ける・位置によって翼型を変えるといった対策が採られることが多い。詳しくは[[プロペラ]]・[[ローター]]・[[タービン]]<!--や[[生物の飛行#回転翼]]-->を参照。 一方、このような円盤面内運動でなく[[水車]]のような回転をする翼も存在する。こうしたものは、あまり回転翼とは呼ばれることはない。 {{-}} ==文化の中の翼== {{節スタブ}} ===神話・宗教における翼=== <!-- 日本では『[[日本書紀]]』[[神功皇后]]の記述として、羽白熊鷲(はしろくまわし)と呼ばれる人が翼をもち、高く飛べたという記述が見られる。 --> <gallery> File:Ägyptischer Maler um 1360 v. Chr. 001.jpg|[[イシス]]神(紀元前14世紀、エジプト) File:Persepolis - carved Faravahar.JPG|[[ペルセポリス]]に遺る[[ゾロアスター教]]のシンボル [[:en:Faravahar|Faravahar]](紀元前6世紀?) File:Nike Samothrace 001.jpg|サモトラケの[[ニーケー]]像(c.190 BC) File:Rashid al-Din Tabib - Jami al-Tawarikh, f.45v detail - c. 1306-15.png|[[ムハンマド]]に天啓を与える天使ジブリール([[ガブリエル]])(1307) File:Seraf Haga Sofia RB1.jpg|[[アヤ・ソフィア]]内壁に復元された[[熾天使]]。6枚の翼だけで表現されている。(14世紀) File:Garudabkkholidayinn0609.jpg|ビシュヌ神の乗り物、[[ガルダ]] File:Quetzalcoatl statue.jpg|[[アステカ]]の有翼蛇神[[ケツァルコアトル]] </gallery> ===自由の象徴としての翼=== <!--*近代的自我以降の--> ===その他=== <!--[[File:Draper Herbert James Mourning for Icarus.jpg|thumb|300px|H.J.ドレーパー「イカロスへの嘆き」 (1898)]]--> *[[イカロス]] == 翼を利用するスポーツ == *[[ハンググライダー]] *[[パラグライダー]] *[[カイトサーフィン]] == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Commons category|Wings|Wing}} {{鳥類}} {{Normdaten}} {{Animal-stub}} {{Bird-stub}} {{DEFAULTSORT:つはさ}} [[Category:航空機の構成要素|よく]] [[Category:鳥類学]]
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活動写真
活動写真(かつどうしゃしん)は、日本の明治・大正期における映画の呼称。motion pictureの直訳語であり、元来は幻灯機のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に活動とも。自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは大正後期になってからである。英語でもmotion pictureは会社名やスタジオ名として使われるが映画そのものはmovieと呼ばれている。 活動写真は映画の昔の呼び名ではあるが、映画とは意味が少々違い、活動写真は荒唐無稽な時代劇や演劇の実写化したもののことを指す。大正時代に起こった純映画劇運動によって活動写真は、芸術的水準が向上し、活動写真とは一線を画した映画へと生まれ変わっていった。 1896年(明治29年)11月17日、神戸市の高橋新治が輸入した「キネトスコープ」(当時はニーテスコップと呼ばれた)の映像を、滞在中の小松宮彰仁親王に見せたことが、11月19日付の「神戸又新日報」の「ニーテスコップ(電氣作用寫眞活動機械)之儀 今般小松宮殿下御來港ニ際シ御照覧ニ奉供候」という記事になった。当初は活動写真ではなく、「写真活動機械」と呼ばれたことが分かる。11月25日には、高橋によって神戸市花隈の神港俱楽部で日本初の活動写真興行が催される。 同じ頃、フランスに渡っていた稲畑勝太郎は同窓生であったオーギュスト・リュミエールから2台の「シネマトグラフ」を購入していた。また、この年、荒木和一が「ヴァイタスコープ」(キネトスコープの改良型。スクリーン投射可能)を輸入し、その機械に「活動写真」と命名したと言われる。 明けて1897年(明治30年)2月15日には、フランスから帰国した稲畑勝太郎がシネマトグラフの映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映した。日本初の「映画興行」である。3月6日には、東京市の「新居商会」によって、神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる興行も行われた。 日本で国産第一号の活動写真が公開されたのは、1899年(明治32年)6月20日、東京歌舞伎座である。『芸者の手踊り』という題のドキュメンタリー映画だった。 劇映画の第一号『稲妻強盗』は同年9月に製作された。日本の映画俳優第一号は、この作品に出演した横山運平だと言われている。
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活動写真(かつどうしゃしん)は、日本の明治・大正期における映画の呼称。motion pictureの直訳語であり、元来は幻灯機のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に活動とも。自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは大正後期になってからである。英語でもmotion pictureは会社名やスタジオ名として使われるが映画そのものはmovieと呼ばれている。 活動写真は映画の昔の呼び名ではあるが、映画とは意味が少々違い、活動写真は荒唐無稽な時代劇や演劇の実写化したもののことを指す。大正時代に起こった純映画劇運動によって活動写真は、芸術的水準が向上し、活動写真とは一線を画した映画へと生まれ変わっていった。
{{otheruses|[[明治]]・[[大正]]期における[[映画]]の呼称|2005年発見のアニメーションフィルム|活動写真 (アニメーション)}} '''活動写真'''(かつどうしゃしん)は、[[日本]]の[[明治]]・[[大正]]期における[[映画]]の呼称。motion pictureの直訳語であり、元来は[[幻灯機]]のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に'''活動'''とも。'''自動幻画'''、'''活動大写真'''、'''自動写真'''という呼称もあった。[[映画]]という名称が広く使われるようになるのは[[大正]]後期になってからである。英語でもmotion pictureは会社名やスタジオ名として使われるが映画そのものはmovieと呼ばれている。 活動写真は映画の昔の呼び名ではあるが、映画とは意味が少々違い、活動写真は荒唐無稽な時代劇や演劇の実写化したもののことを指す。大正時代に起こった[[純映画劇運動]]によって活動写真は、芸術的水準が向上し、活動写真とは一線を画した映画へと生まれ変わっていった。 == 経緯 == [[1896年]](明治29年)[[11月17日]]、[[神戸市]]の[[高橋新治]]が輸入した「[[キネトスコープ]]」(当時はニーテスコップと呼ばれた)の映像を、滞在中の[[小松宮彰仁親王]]に見せたことが、11月19日付の「[[神戸又新日報]]」の「ニーテスコップ(電氣作用寫眞活動機械)之儀 今般小松宮殿下御來港ニ際シ御照覧ニ奉供候」という記事になった。当初は活動写真ではなく、「写真活動機械」と呼ばれたことが分かる。11月25日には、高橋によって神戸市[[花隈町|花隈]]の神港俱楽部で日本初の活動写真興行が催される<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.22-23)]]</ref>。 同じ頃、フランスに渡っていた[[稲畑勝太郎]]は同窓生であった[[リュミエール兄弟|オーギュスト・リュミエール]]から2台の「[[シネマトグラフ]]」を購入していた。また、この年、[[荒木和一]]が「[[ヴァイタスコープ]]」(キネトスコープの改良型。スクリーン投射可能)を輸入し、その機械に「活動写真」と命名したと言われる。 明けて[[1897年]](明治30年)[[2月15日]]には、フランスから帰国した稲畑勝太郎がシネマトグラフの映像を[[大阪市]][[戎橋|戎橋通り]]の[[南地演舞場]]で上映した。日本初の「映画興行」である。3月6日には、[[東京市]]の「[[新居商会]]」によって、[[神田錦輝館]]で「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる興行も行われた。 日本で国産第一号の活動写真が公開されたのは、[[1899年]](明治32年)[[6月20日]]、東京[[歌舞伎座]]である。『芸者の手踊り』という題の[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]だった。 劇映画の第一号『[[清水定吉|稲妻強盗]]』は同年9月に製作された。日本の映画俳優第一号は、この作品に出演した[[横山運平]]だと言われている。 ==おもな活動写真会社== * [[広目屋]] ([[日本率先活動写真会]]) * [[福宝堂]]・[[吉沢商会]]・[[M・パテー商会]]・[[横田商会]] - [[日活]] * [[小松商会]] * [[東京シネマ商会]] * [[三友倶楽部]] - [[東洋商会]] - [[天然色活動写真]] - [[山川興行部]] - [[帝国キネマ|帝国キネマ演芸]] - ([[東邦映画製作所]]・[[アシヤ映画製作所]]) - [[新興キネマ]] * [[常盤商会]] - 天活 - [[小林商会]] - [[国際活映]] - [[河合映画製作社]] - [[大都映画]] * [[東洋フィルム]] - [[大正活動映画]] ([[トーマス・栗原]]、[[谷崎潤一郎]]) * [[映画芸術協会]] ([[帰山教正]]) * [[松竹キネマ]] - [[松竹蒲田撮影所]] - [[松竹京都撮影所|松竹下加茂撮影所]] - [[松竹大船撮影所]] * [[小笠原プロダクション]] ([[小笠原明峰]]、[[小笠原章二郎|三善英芳]]) * [[活動写真資料研究会]] - [[タカマツ・アズマプロダクション]] * [[衣笠映画連盟]] ([[衣笠貞之助]]) * [[連合映画芸術家協会]] ([[直木三十五]]) * [[ミカド商会]] - [[牧野教育映画]] - [[マキノ・プロダクション]] - [[正映マキノキネマ]] - [[宝塚キネマ興行]] - [[エトナ映画社]] - [[マキノ・トーキー]] * [[不二映画社]] ([[鈴木傳明]]・[[岡田時彦]]・[[高田稔]]・[[渡辺篤 (俳優)|渡辺篤]] - [[上森健一郎]]・[[川口松太郎]]) * [[阪東妻三郎プロダクション]] - [[大日本(東洋)自由映画プロダクション]] ([[阪東妻三郎]]) * [[嵐寛寿郎プロダクション]] ([[嵐寛寿郎]]) * [[入江ぷろだくしょん]] ([[入江たか子]]、[[東坊城恭長]]) * [[甲陽キネマ]] - [[東亜シネマ]] - [[東活映画社]](東活) * [[J.O.スタヂオ]] * [[市川右太衛門プロダクション]] *福井映画 *森本プロ * [[赤沢映画]] == 脚注 == <references /> == 関連事項 == * [[ウィリアム・K・L・ディクソン]] - キネトスコープの発明者 * [[活動弁士]] * [[コニカ|小西本店]] - [[ゴーモン]]社製のムービーカメラを輸入、日本初の映画を実験的に製作 * [[浅野四郎]] - 日本初の[[撮影技師]] * [[駒田好洋]] - 日本初の商業公開用の映画、および日本初の劇映画の[[映画プロデューサー|製作者]] * [[撮影所]] * [[吉野二郎]] * [[花柳はるみ]] - 日本初の[[俳優#性別での分類|映画女優]](従来は「[[女形]]」が女役を演じた) * [[大映 (映画)|大映]] (トーキー時代の[[1942年]]、日活・新興・大都の3社統合で設立) == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author= |translator= |editor= |others= |chapter= |title=神戸新開地物語 |series= |date=1973-12-10 |publisher=のじぎく文庫 |isbn= |pages= |url=|ref=のじぎく}} {{DEFAULTSORT:かつとうしやしん}} [[Category:日本の映画史]] [[Category:サイレント映画]]
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映画料金割引
映画料金割引(えいがりょうきんわりびき)とは、映画興行の料金を正規料金より割引いて販売することである。 より多くの観客に映画を鑑賞してもらう事を目的に、映画興行業界が中心となり様々な割引サービスを行なっている。主な種類としては、年齢による割引や映画サービスデーなど、映画業界が中心となって行ない、ほとんどの映画館で適用されるもの、特定の興行会社が行なうもの、個々の館やサイトが独自で行なうものなどがある。また、「釣りバカ日誌シリーズ」のように、映画ごとに、通常よりも安い料金設定がなされるものもある。 映画館や上映される映画によって異なる場合もあるが、おおむね次のような割引料金が適用される(ただし、大人の通常料金が1900円である場合)。 なお、中学生から大学生までは、大半の映画館において身分証明のため学生証や生徒手帳の提示が求められる。一方、シニアについては運転免許証等年齢を証明するものの提示が必須のところもあるが、一部のシネコンチェーンでは自己申告制としているところもある。 劇場によって、入場料金が一律1000円になる等の特別日。かつて、12月1日の映画の日に宮城県環境衛生同業組合(現在の生活衛生同業組合宮城県映画協会)加盟映画館において入場料金の半額サービスおよび有料入場者に対する抽選による加盟映画館1年間無料パス進呈を行っていた。 この割引サービスが1981年から全国に広まり、1月1日と3・6・9月の第1水曜日を映画ファン感謝デーとし、これに映画の日を加えた年5回を全国興行生活衛生同業組合連合会加盟の映画館(全ての劇場ではない)で一律700円(のちに1000円)で入場する事が出来るようになった。これはその拡大版といえる。月毎に1日設けられるようになって、この名称がつけられた。このサービスに限らず、各劇場では大小様々なサービスを設けているところも多い。 2004年からは、映画人口2億人を目指して日本映画製作者連盟や全国興行生活衛生同業組合連合会などの団体が中心となって映画館に行こう!実行委員会を結成し、様々な割引サービスを提供している。 ※ミニシアター系列の映画館等では毎週1日、1000円入場の特別日を設けているところもある。 特に明記していない場合、割引額は映画館によって異なることを示す。 映画作品によっては、ユニークな条件をクリアすれば映画料金が割引になる。
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映画料金割引(えいがりょうきんわりびき)とは、映画興行の料金を正規料金より割引いて販売することである。 より多くの観客に映画を鑑賞してもらう事を目的に、映画興行業界が中心となり様々な割引サービスを行なっている。主な種類としては、年齢による割引や映画サービスデーなど、映画業界が中心となって行ない、ほとんどの映画館で適用されるもの、特定の興行会社が行なうもの、個々の館やサイトが独自で行なうものなどがある。また、「釣りバカ日誌シリーズ」のように、映画ごとに、通常よりも安い料金設定がなされるものもある。
{{複数の問題 | 未検証 = 2010年8月 | 言葉を濁さない = 2019年1月 | 独自研究 = 2019年1月 | 特筆性 = 2019年1月 }} '''映画料金割引'''(えいがりょうきんわりびき)とは、[[映画]]興行の料金を正規料金より割引いて販売することである。 より多くの観客に映画を鑑賞してもらう事を目的に、映画興行業界が中心となり様々な割引サービスを行なっている。主な種類としては、年齢による割引や映画サービスデーなど、映画業界が中心となって行ない、ほとんどの[[映画館]]で適用されるもの、特定の興行会社が行なうもの、個々の館やサイトが独自で行なうものなどがある。また、「[[釣りバカ日誌]]シリーズ」のように、映画ごとに、通常よりも安い料金設定がなされるものもある。 == 割引の種類 == === 年齢による割引 === 映画館や上映される映画によって異なる場合もあるが、おおむね次のような割引料金が適用される(ただし、大人の通常料金が1900円である場合)。 *[[未就学児|3歳~就学前]]  1000円(2歳未満はひざ上鑑賞で無料だが座席を使用する場合は1000円) *[[小学生]] 1000円 *[[中学生]] 1000円 *[[高校生]] 1000円または1500円 *[[大学生]] 1500円 *[[シニア]] 1200円 なお、中学生から大学生までは、大半の映画館において身分証明のため[[学生証]]や[[学生証#生徒手帳|生徒手帳]]の提示が求められる。一方、シニアについては[[運転免許証]]等年齢を証明するものの提示が必須のところもあるが、一部の[[シネマコンプレックス|シネコン]]チェーンでは自己申告制としているところもある。<ref>http://tenpara.com/pg130.html '''Q:シニア割引には証明が必要ですか?'''</ref> === 映画サービスデー === 劇場によって、入場料金が一律1000円になる等の特別日。かつて、[[12月1日]]の[[映画の日]]に宮城県環境衛生同業組合(現在の生活衛生同業組合宮城県映画協会)加盟映画館において入場料金の半額サービスおよび有料入場者に対する抽選による加盟映画館1年間無料パス進呈を行っていた。 この割引サービスが[[1981年]]から全国に広まり、[[1月1日]]と3・6・9月の第1水曜日を映画ファン感謝デーとし、これに映画の日を加えた年5回を[[全国興行生活衛生同業組合連合会]]加盟の映画館(全ての劇場ではない)で一律700円(のちに1000円)で入場する事が出来るようになった。これはその拡大版といえる。月毎に1日設けられるようになって、この名称がつけられた。このサービスに限らず、各劇場では大小様々なサービスを設けているところも多い。 2004年からは、映画人口2億人を目指して[[日本映画製作者連盟]]や[[全国興行生活衛生同業組合連合会]]などの団体が中心となって[[映画館に行こう!実行委員会]]を結成し、様々な割引サービスを提供している<ref>斉藤守彦『映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?』[[ダイヤモンド社]]、2009年、p.168</ref>。 ※ミニシアター系列の映画館等では毎週1日、1000円入場の特別日を設けているところもある。 === その他の割引サービス === ; 夫婦50割引 : 映画館に行こう!実行委員会が実施した最初の割引サービスで2004年に開始。[[夫婦]]どちらかが50歳以上なら映画料金が一人1000円になる。かつての映画全盛期の昭和30年代([[1955年]]から[[1964年]])に少年少女だった世代に設備の整った[[シネマコンプレックス]]を体験してもらい映画に呼び戻そうとして始まった。このサービスによってそれまで映画人口の4%だった中高年層が平均8%になり成功を収めた<ref>斉藤(2009)、pp.169,176</ref><ref name="soken2009">キネマ旬報映画総合研究所『キネ旬総研白書 映画ビジネスデータブック2009~2010』[[キネマ旬報社]]、2009年、p.77</ref>。夫婦であることの証明は不要だが、どちらかが50歳以上であることの証明(運転免許証など)が必須である。 ; 高校生友情プライス : 夫婦50割引に続けて、映画館に行こう!実行委員会が2005年から開始したサービス。[[高校生]]三人で映画館に行けば映画料金が一人1000円になるもので、現役高校生のアイデアが採用されて実施された。しかし、利用率が1%弱と非常に低く失敗に終わった。2009年6月30日に終了<ref name="soken2009" /><ref>斉藤(2009)、pp.178</ref><ref>掛尾良夫「BOX OFFICE REPORT 日本」『キネマ旬報』2008年7月下旬号、キネマ旬報社、p.161</ref><ref>「TOPIC JOURNAL」『キネマ旬報』2008年8月下旬号、キネマ旬報社、pp.158-159</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eigakan.org/yujo/ |title=映画館に行こう!|publisher=「映画館に行こう!」実行委員会|accessdate=2013-05-16|quote=高校生友情プライス、あと1年! 2009年6月30日まで}}</ref>。全員について生徒手帳の提示が必要だった。2009年7月以降も地方や映画館ごとに行われる割引として一部で継続されている。 ; 障害者割引 : 多くは1000円で、[[障害者手帳]]の提示が必須とされる。なお、付き添い者も割引対象としているところが多いが、人数については1名の場合と2名の場合がある。 === 地方や映画館ごとで行われている割引 === 特に明記していない場合、割引額は映画館によって異なることを示す。 ;[[レディースプラン|レディスデー]] :週1回、女性のみを対象とする曜日を設けている。割引額は1000円で、曜日は[[水曜日]]というところが大半である。多くの映画館で実施されているが、異なる曜日が設定されている場合もある。しかし、昨今ではこの割引が運営者側に意図はなくとも[[男性差別]]にあたるとして批判的な見方も大きい。それゆえ、一部の映画館では相殺措置としてメンズデー(後述)を設けている。また、[[性的マイノリティー]]の存在も実質無視されているなど、構造的な問題も多い。近年は、多くの映画館で「多様性ある社会を認めるジェンダーレスの広がり」を理由にレディースデーを廃止し、すべての来場者が割引を受けられるようになっている。 ;カップルディ :夫婦50割引と同主旨だが、こちらは年齢に制限はなく、カップルであれば2人で2000円で入場可能となる。ただし、毎週ではなく月に1日となるところが多い。実施しているところはかなり少ない。 ;メンズデー :レディスデーと同様の主旨だが、設けられて日が浅く、全国的にみれば実施している映画館はそれほど多くないうえ、映画業界もほとんど宣伝に力を入れていないため知名度もかなり低い。割引額は1000円で、曜日は[[月曜日]]や[[金曜日]]というところが多い。 ;'''高校生友情プライス''' :映画館に行こう!実行委員会が2005年から開始したサービスは、2008年6月30日に終了したが、一部の映画館では存続し、2013年現在も続けているところがある。[[高校生]]三人で映画館に行けば映画料金が一人1000円になるもの。 ;障害者割引 ;モーニングファーストショー :平日午前中の1回目の上映を割引対象とするもの。 ;[[レイトショー]] :午後8時以降に上映開始となる映画を割引対象とするもの。実施や割引額は、映画館によってさまざまであるが、[[シネコン]]では導入されているところが多い。 ;会員割引 :映画館が発行している会員証やスタンプカードを提示するだけで割引が適用されるもの。無料会員制の館だと曜日が制限されることが多いが、有料会員制であれば曜日の制限が設けられていないことが多い。 ;ハシゴ割引 :同一映画館で、1日に2度以上入場する場合に、2度目の入場料を割り引くという制度。1度目の入場券半券の提示が必須となる。 ;駐車券割引 :広大な無料駐車場を擁する郊外型シネコンに対抗し、独自の駐車場を持たない中心街の映画館で多く実施されている。近隣の駐車場の駐車券を提示するだけで、割引が適用される。駐車券には制限がない場合が多いが、[[コインパーキング]]等で駐車券が発行されない場合には、適用にならない。 ;商店街割引 :[[商店街]]で一定額以上の買い物をすると、映画の割引券(額によっては招待券)が進呈されるという制度。商店街と、それに隣接する映画館とが連携して実施することが多い。 ;テナントカード割引 :隣接する[[ショッピングセンター]]等が発行しているテナントカードを提示するだけで割引が適用されるもの。郊外型シネコンに多い。 ;クレジットカード割引 :あらかじめ決められた[[クレジットカード]]を窓口で提示するだけで割引が適用されるもの。入場料の支払いに、そのクレジットカードを使用する必要はない。 ;株主優待券 :多くの映画会社・興行会社においては、自社の株主に対し、[[株主優待]]の一環として、持ち株数に応じた映画鑑賞券を進呈している。 :ただし、対象となる館が限られていることや、封切り初日や満席時には断られる場合があること、優待の対象となる株数を得るためには、優待券の枚数では割に合わないほど膨大な金額が必要であること、さらに、第三者への譲渡が固く禁じられていること等、それほど有利な割引であるとは言えない。 ;業界団体会員向け割引 :例えば、[[日本アカデミー賞]]を選定するアカデミー協会会員には、全国どこの映画館でも無料鑑賞可能という特典が与えられている。また、[[日本映画監督協会]]会員であれば、全国どこの映画館でもシニア料金が適用という特典が与えられる。 :あるいは、カメラマンや照明技師等の映画スタッフが加盟する[[日本映画テレビ技術協会]]会員については、東京・大阪等の大都市圏の映画館でシニア料金が適用という特典が与えられる。同協会は、いわゆる一般人であっても、会費を払えば準会員として同じ特典が与えられるため、対象となる地域で年間にまとまった本数の映画をみる映画ファンにおいて、加盟する者が多い。ちなみに、一部ではこの会員証のことを「魔法のカード」と呼ぶ向きもある。 === その他の割引 === 映画作品によっては、ユニークな条件をクリアすれば映画料金が割引になる。 ;『[[私は貝になりたい]]』のBouz割引 : 丸刈りすれば1,000円で鑑賞可能。これは、出征を前に丸刈りするシーンにちなんでいるため。 ;『[[ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習]]』のヒゲ割引 : 口の周りにヒゲがあれば1,000円で鑑賞可能。付け髭でも構わない。 ;『[[ダークスカイズ]]』で高校生が全員選ばれたための割引 :「高校生は全員選ばれた」という理由で、高校生は1,000円で鑑賞可能(要学生証)。 == 出典 == <references /> {{デフォルトソート:えいかりようきんわりひき}} [[Category:映画館|わりひき]] [[Category:料金システム]]
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映画の日
映画の日(えいがのひ)は、1896年に神戸市において日本で初めて映画が一般公開されたのを記念して、1956年に日本映画連合会(現・日本映画製作者連盟)が制定した記念日。 この日は、日本映画界の各団体が、多年にわたり日本映画に貢献してきた人々への記念式典や上映会とトークショー、映画館の入場料割引などの事業を行っている。 1956年6月29日に日本映画連合会の総会で12月1日を映画の日にすることが決定された。 神戸の神戸倶楽部で1896年(明治29年)11月25日から29日にかけて映画が一般公開された。これを日本の映画の初公開として、11月25日は半端だから12月1日がキリがいいという理由で、12月1日が記念日とされた。なお、この神戸倶楽部で公開されたのは、今日のスクリーンに映写されるタイプではなく、1人ずつ覗き込んで見るタイプの「キネトスコープ」と呼ばれるもので、発明はエジソンによるもの。 1956年12月1日の映画の日第1回大会は、両国国際スタジアムで開催された。映画界のみならず鳩山一郎総理大臣や日本新聞協会、NHK会長、日本文藝家協会丹羽文雄など各界著名人が参加して、祝辞の挨拶に立った。セレモニーの後にはスタジアムで各種演芸が行われ、都心をパレードした。地方でもこの日にパレードやポスター展や映画館の入場料割引などの行事が行われた。 1974年の映画の日には、新人脚本家を育成する目的で映画脚本コンクールの城戸賞が制定された。 その後の「映画の日」中央大会は、「映画の日」執行委員会が主催し、映画界に40年以上勤務した数十名の永年勤続功労章受章者と、数名の特別功労章受章者が表彰される。その他に、大会では、城戸賞の授与式と全国興行生活衛生同業組合連合会が主催するゴールデングロス賞の授与式も行われている。 中央大会とは別に日本映画俳優協会は、映画の日のイベントとして、名作映画の上映会とトークショーを主催し、2009年で9回目を数える。 映画の日は、興行を行う側の全国興行生活衛生同業組合連合会も映画産業団体連合会と協力して、1980年代より映画入場券の割引サービスなどを映画の日の事業として実施している。 古くは宮城県環境衛生同業組合において映画の日に入場料金の半額サービスを行い、北海道でも半額サービスを行っていた。1981年に東京都興行生活衛生同業組合長で全興連の会長でもあった山田敏郎大旺映画社長の尽力により、東京都内全252館の半額サービスが決定。これに追随して21都道府県、全国の映画館の3分の2にあたる約1,500館が入場料金の半額サービスを行い、初めて全国的な展開がなされた。その結果、映画の日は観客動員が4倍、興行収入が2倍という成果を見せた。この成果を重視し、山田全興連会長が岡田茂日本映画製作者連盟会長や各映画会社の了解を取り付け、翌1982年には6月、9月が、1983年には3月がサービスデーに加わった。1980年代半ばには1月1日と3、6、9月の第1水曜日を「映画ファン感謝デー」とし、これに映画の日を加えた年5回の入場料金を700円(のちに1000円)とする形で定着した。 1997年に全国興行生活衛生同業組合連合会は、それまで全国一律だった映画サービスデーを12月1日のみを全国一律にし、12月1日以外のサービスデーは各都道府県の支部が自由に決定できるようにした。1990年代以降は、ほとんどの地域において毎月1日を「映画サービスデー」として入場料金の割引サービスが行われている。東京都での割引サービスは、2003年3月までは、12月1日と12月以外は第1水曜日だったが、2003年4月以降は、他の地区と同様毎月1日となった。 このような12月1日以外の割引サービスの日を「映画の日」と称する場合もあるが、それは割引を行っている劇場または組合に限ったものである。 元々は、リュミエール兄弟がシネマトグラフによる有料上映を行った1895年12月28日にちなんで設置されていた。この12月28日は、現在「シネマトグラフの日」とされている。
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映画の日(えいがのひ)は、1896年に神戸市において日本で初めて映画が一般公開されたのを記念して、1956年に日本映画連合会(現・日本映画製作者連盟)が制定した記念日。 この日は、日本映画界の各団体が、多年にわたり日本映画に貢献してきた人々への記念式典や上映会とトークショー、映画館の入場料割引などの事業を行っている。
'''映画の日'''(えいがのひ)は、[[1896年]]に[[神戸市]]において[[日本]]で初めて[[映画]]が一般公開されたのを記念して、[[1956年]]に日本映画連合会(現・[[日本映画製作者連盟]])が制定した[[記念日]]。 この日は、日本映画界の各団体が、多年にわたり[[日本映画]]に貢献してきた人々への記念式典や上映会とトークショー、[[映画館]]の入場料割引などの事業を行っている。 == 歴史 == 1956年6月29日に日本映画連合会の総会で12月1日を映画の日にすることが決定された<ref name="tanaka4">[[田中純一郎]]『日本映画発達史IV』中央公論社、1980年、510頁</ref>。 [[神戸市|神戸]]の[[神戸外国倶楽部|神戸倶楽部]]で1896年(明治29年)11月25日から29日にかけて映画が一般公開された<ref>田中純一郎『日本映画発達史I 活動写真の時代』[[中央公論社]]、1980年、p30.</ref>。これを日本の映画の初公開として、[[11月25日]]は半端だから[[12月1日]]がキリがいいという理由で、12月1日が記念日とされた<ref>田中純一郎「映画の日の決ったわけ」『秘録 日本の活動写真』ワイズ出版、[[2004年]]、p21.</ref>。なお、この神戸倶楽部で公開されたのは、今日のスクリーンに映写されるタイプではなく、1人ずつ覗き込んで見るタイプの「[[キネトスコープ]]」と呼ばれるもので、発明は[[トーマス・エジソン|エジソン]]によるもの。 1956年12月1日の映画の日第1回大会は、両国国際スタジアムで開催された。映画界のみならず[[鳩山一郎]][[総理大臣]]や[[日本新聞協会]]、[[日本放送協会|NHK]]会長、[[日本文藝家協会]][[丹羽文雄]]など各界著名人が参加して、祝辞の挨拶に立った。セレモニーの後にはスタジアムで各種演芸が行われ、都心をパレードした。地方でもこの日にパレードやポスター展や映画館の入場料割引などの行事が行われた<ref name="tanaka4" />。 [[1974年]]の映画の日には、新人脚本家を育成する目的で映画脚本コンクールの[[城戸賞]]が制定された<ref>「[http://www.eiren.org/kido/index.html 城戸賞制定の趣旨]」 社団法人日本映画製作者連盟公式サイト内</ref>。 その後の「映画の日」中央大会は、「映画の日」執行委員会が主催し<ref>「[http://www.eiren.org/aboutus/plan.html 平成21年度事業計画書]」 日本映画製作者連盟公式サイト</ref>、映画界に40年以上勤務した数十名の永年勤続功労章受章者と、数名の特別功労章受章者が表彰される。その他に、大会では、城戸賞の授与式と全国興行生活衛生同業組合連合会が主催するゴールデングロス賞の授与式も行われている<ref>[https://web.archive.org/web/20100109214043/http://eiga.com/buzz/20091215/3/ 第54回「映画の日」中央大会、12月1日盛大に開催]」 eiga.com() 2009年12月15日</ref>。 中央大会とは別に日本映画俳優協会は、映画の日のイベントとして、名作映画の上映会とトークショーを主催し、2009年で9回目を数える<ref>「[https://web.archive.org/web/20120123230209/http://www.eihaikyo.com/eiganohi09/09eiganihi.html '09映画の日 12月1日 第9回 主演者とともに 懐かしの名画鑑賞会]」 社団法人日本映画俳優協会公式サイト</ref><ref>「[https://web.archive.org/web/20160305064719/http://img.zakzak.co.jp/gei/200908/g2009080532_all.html 良質な映画文化目指し…日本映画俳優協会幹部にきく 映画上映とトークショー、フィルムの保存…]」 『夕刊フジ』ZAKZAK 2009年8月5日</ref>。 == 入場料割引 == 映画の日は、興行を行う側の全国興行生活衛生同業組合連合会も[[映画産業団体連合会]]と協力して、[[1980年代]]より映画入場券の割引サービスなどを映画の日の事業として実施している<ref>「[http://www.eidanren.com/activity01.html 活動内容 映画の日]」社団法人映画産業団体連合会公式サイト内</ref>。 古くは[[宮城県]]環境衛生同業組合において映画の日に入場料金の半額サービスを行い、[[北海道]]でも半額サービスを行っていた<ref name = "キネ旬198111-2">{{Cite journal | 和書 | author = 竹入栄二郎 | date = 1981年11月下旬号 | title = やぶにらみ 大きく前進した"映画の日" | journal = キネマ旬報 | page = 180 }}</ref>。[[1981年]]に東京都興行生活衛生同業組合長で[[全国興行生活衛生同業組合連合会|全興連]]の会長でもあった山田敏郎大旺映画社長の尽力により<ref name = "キネ旬198111-2"/><ref name = "キネ旬19831-2">{{Cite journal | 和書 | author = | date = 1983年1月下旬号 | title = 映画・トピック・ジャーナル 年3回に増える"終日半額興行"| journal = キネマ旬報 | pages = 180-181 }}</ref>、東京都内全252館の半額サービスが決定<ref name = "キネ旬198111-2-2">{{Cite journal | 和書 | author = | date = 1981年11月下旬号 | title = 映画界の動き「映画の日」入場料半額制実施 | journal = キネマ旬報 | page = 176 }}</ref>。これに追随して21都道府県、全国の映画館の3分の2にあたる約1,500館が入場料金の半額サービスを行い、初めて全国的な展開がなされた<ref name = "キネ旬19831-2"/><ref>{{Cite journal|和書|author=川端靖男|coauthors=立川健二郎|year=1982|month=2|title=1981年度日本映画・外国映画業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて|journal=キネマ旬報|issue=830|pages=118-132頁|publisher=キネマ旬報社}}</ref><ref>斉藤守彦『映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?』ダイヤモンド社、91頁</ref><ref name="chunichi">『[[中日新聞]]』1981年12月15日夕刊。</ref>。その結果、映画の日は観客動員が4倍、[[興行収入]]が2倍という成果を見せた<ref name="chunichi" />。この成果を重視し、山田全興連会長が[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[日本映画製作者連盟]]会長や各映画会社の了解を取り付け<ref name = "キネ旬198111-2-2"/>、翌[[1982年]]には6月、9月が、[[1983年]]には3月がサービスデーに加わった<ref name = "キネ旬198111-2-2"/><ref>{{Cite journal|和書|author=川端靖男|coauthors=伊東常吉、立川健二郎|year=1983|month=2|title=1982年度日本映画・外国映画業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて|journal=キネマ旬報|issue=854|pages=112-126頁|publisher=キネマ旬報社}}</ref>。1980年代半ばには1月1日と3、6、9月の第1水曜日を「映画ファン感謝デー」とし、これに映画の日を加えた年5回の入場料金を700円(のちに1000円)とする形で定着した。 [[1997年]]に全国興行生活衛生同業組合連合会は、それまで全国一律だった映画サービスデーを12月1日のみを全国一律にし、12月1日以外のサービスデーは各都道府県の支部が自由に決定できるようにした<ref>斉藤守彦『映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?』ダイヤモンド社、136頁</ref>。1990年代以降は、ほとんどの地域において毎月1日を「[[映画料金割引#映画サービスデー|映画サービスデー]]」として入場料金の割引サービスが行われている。[[東京都]]での割引サービスは、[[2003年]]3月までは、12月1日と12月以外は第1水曜日だったが、2003年4月以降は、他の地区と同様毎月1日となった。 このような12月1日以外の割引サービスの日を「映画の日」と称する場合もあるが、それは割引を行っている劇場または組合に限ったものである。 {{要出典範囲|元々は、[[リュミエール兄弟]]が[[シネマトグラフ]]による有料上映を行った[[1895年]][[12月28日]]にちなんで設置されていた|date=2010年3月}}。この12月28日は、現在「シネマトグラフの日」とされている。 == 脚注・出典 == <references/> == 関連項目 == * [[日本の記念日一覧]] * [[映画料金割引]] {{DEFAULTSORT:えいかのひ}} [[Category:日本の映画]] [[Category:日本の記念日]] [[Category:12月の記念日]]
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映画産業団体連合会
一般社団法人映画産業団体連合会(えいがさんぎょうだんたいれんごうかい)は、映画産業の振興を目的とする一般社団法人。 正会員6団体、賛助会員3団体28企業体(日本映画、映像業界のトップ企業の集合体)で構成されている。
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一般社団法人映画産業団体連合会(えいがさんぎょうだんたいれんごうかい)は、映画産業の振興を目的とする一般社団法人。 正会員6団体、賛助会員3団体28企業体(日本映画、映像業界のトップ企業の集合体)で構成されている。
{{出典の明記|date=2022年11月24日 (木) 03:14 (UTC)}} '''一般社団法人映画産業団体連合会'''(えいがさんぎょうだんたいれんごうかい)は、[[映画産業]]の振興を目的とする[[一般社団法人]]。 正会員6団体、賛助会員3団体28企業体([[日本映画]]、映像業界のトップ企業の集合体)で構成されている。 == 外部リンク == * {{Official website|name=社団法人映画産業団体連合会}} {{Normdaten}} {{Movie-substub}} {{デフォルトソート:えいかさんきようたんたいれんこうかい}} [[category:東京都中央区の一般社団法人]] [[Category:日本の映画団体]] [[Category:1953年設立の組織]]
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和集合
数学において集合族の和集合(わしゅうごう)、あるいは合併集合(がっぺいしゅうごう)、合併(がっぺい、英語: union)、あるいは演算的に集合の和(わ、英語: sum)、もしくは結び(むすび、英語: join)とは、集合の集まり(集合族)に対して、それらの集合のいずれか少なくとも一つに含まれているような要素を全て集めることにより得られる集合のことである。 集合 A と集合 B が与えられたとき、集合 A ∪ B を、A, B いずれかの集合の少なくとも一方に含まれる元 x の全体 (x ∈ A ∪ B ⇔ x ∈ A または x ∈ B) として定めて、あるいは同じことだが として定義される集合を、集合 A, B の和集合と呼ぶ。また特に、A と B が交わりを持たないときの和集合 A ∪ B を A と B の(集合論的)直和(ちょくわ、[set theoric] direct sum)あるいは非交和(ひこうわ、disjoint union)と呼び、"A ∪ B (disjoint)" や、明示的に記号を違えて などと記すこともある。また、集合の族 に対して、集合族に属するいずれかの集合に属する元 の全体として集合族の和を と定義する。有限個の元からなる集合族 A1, A2, ..., Ak の和集合は などとも表す。自然数などで添え字付けられた集合の和についても などのように表すことがある。また、集合族に属する集合からどの異なる二つを選んでもそれらが交わりを持たないとき、つまり となるとき、その集合族の和集合は直和、あるいは非交和であるといい、 などの記号を用いることがある。 一般に和集合には以下の恒等式が存在する。A, B, C を任意の集合とし、a, b, c を任意の実数とする。 これは に対応し、和の交換法則に相当する。 これは に対応し、和の結合法則に相当する。 これは に対応し、分配法則に相当する。 これも集合の演算に成り立ち、数の演算とは異なっている。 有限集合からなる有限な集合族 M = { M λ } λ ∈ Λ {\displaystyle {\mathfrak {M}}=\{M_{\lambda }\}_{\lambda \in \Lambda }} に対し が成立。 ここで ∅ {\displaystyle \varnothing \,} は空集合を表す。これは に対応し、 ∅ {\displaystyle \varnothing \,} は集合の加法の単位元に相当する。 これは冪等演算であり、数の演算とは異なる。 ここで は補集合を表す。これはド・モルガンの法則と呼ばれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "数学において集合族の和集合(わしゅうごう)、あるいは合併集合(がっぺいしゅうごう)、合併(がっぺい、英語: union)、あるいは演算的に集合の和(わ、英語: sum)、もしくは結び(むすび、英語: join)とは、集合の集まり(集合族)に対して、それらの集合のいずれか少なくとも一つに含まれているような要素を全て集めることにより得られる集合のことである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "集合 A と集合 B が与えられたとき、集合 A ∪ B を、A, B いずれかの集合の少なくとも一方に含まれる元 x の全体 (x ∈ A ∪ B ⇔ x ∈ A または x ∈ B) として定めて、あるいは同じことだが", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "として定義される集合を、集合 A, B の和集合と呼ぶ。また特に、A と B が交わりを持たないときの和集合 A ∪ B を A と B の(集合論的)直和(ちょくわ、[set theoric] direct sum)あるいは非交和(ひこうわ、disjoint union)と呼び、\"A ∪ B (disjoint)\" や、明示的に記号を違えて", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "などと記すこともある。また、集合の族", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "に対して、集合族に属するいずれかの集合に属する元", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "の全体として集合族の和を", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "と定義する。有限個の元からなる集合族 A1, A2, ..., Ak の和集合は", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "などとも表す。自然数などで添え字付けられた集合の和についても", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "などのように表すことがある。また、集合族に属する集合からどの異なる二つを選んでもそれらが交わりを持たないとき、つまり", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "となるとき、その集合族の和集合は直和、あるいは非交和であるといい、", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "などの記号を用いることがある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一般に和集合には以下の恒等式が存在する。A, B, C を任意の集合とし、a, b, c を任意の実数とする。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これは", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "に対応し、和の交換法則に相当する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "これは", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "に対応し、和の結合法則に相当する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これは", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "に対応し、分配法則に相当する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これも集合の演算に成り立ち、数の演算とは異なっている。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "有限集合からなる有限な集合族 M = { M λ } λ ∈ Λ {\\displaystyle {\\mathfrak {M}}=\\{M_{\\lambda }\\}_{\\lambda \\in \\Lambda }} に対し", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "が成立。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ここで ∅ {\\displaystyle \\varnothing \\,} は空集合を表す。これは", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "に対応し、 ∅ {\\displaystyle \\varnothing \\,} は集合の加法の単位元に相当する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これは冪等演算であり、数の演算とは異なる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ここで は補集合を表す。これはド・モルガンの法則と呼ばれる。", "title": "性質" } ]
数学において集合族の和集合(わしゅうごう)、あるいは合併集合(がっぺいしゅうごう)、合併、あるいは演算的に集合の和、もしくは結びとは、集合の集まり(集合族)に対して、それらの集合のいずれか少なくとも一つに含まれているような要素を全て集めることにより得られる集合のことである。
{{脚注の不足|date=2022年2月}} [[数学]]において集合族の'''和集合'''(わしゅうごう)、あるいは'''合併集合'''(がっぺいしゅうごう)、'''合併'''(がっぺい、{{lang-en|union}})、あるいは[[演算]]的に集合の'''和'''(わ、{{lang-en|sum}})、もしくは[[結びと交わり|'''結び''']](むすび、{{lang-en|join}})とは、[[集合]]の集まり(集合族)に対して、それらの集合のいずれか少なくとも一つに含まれているような要素を全て集めることにより得られる集合のことである{{Refnest|group="注"|文献によっては和集合と合併ということばを使い分けることがあるが、そのような使い分けはあまり一般的でない{{Sfn|齋藤|2002|pp=4&ndash;5}}。また、{{Harvtxt|齋藤|2002|p=5}} によれば、普通の数学者は合併集合を好み、集合論の専門家は和集合を好むようであるが、{{Harvtxt|中島|2012|p=69}} によれば、和集合が一般的に使われている。}}。 == 定義 == [[image:Venn A union B.png|thumb|right|和集合のベン図による視覚化]] 集合 ''A'' と集合 ''B'' が与えられたとき、集合 ''A'' &cup; ''B'' を、''A'', ''B'' いずれかの集合の少なくとも一方に含まれる元 ''x'' の全体 (''x'' &isin; ''A'' &cup; ''B'' &hArr; ''x'' &isin; ''A'' または ''x'' &isin; ''B'') として定めて、あるいは同じことだが :<math>A \cup B := \{x \mid x \in A \mbox{ or } x \in B\}</math> として定義される集合を、集合 ''A'', ''B'' の'''和集合'''と呼ぶ。また特に、''A'' と ''B'' が[[共通部分 (数学)|交わりを持たない]]ときの和集合 ''A'' &cup; ''B'' を ''A'' と ''B'' の(集合論的)[[直和]](ちょくわ、<span lang=en>[set theoric] <em>direct sum</em></span>)あるいは'''[[非交和]]'''(ひこうわ、<em lang=en>disjoint union</em>)と呼び、"''A'' &cup; ''B'' (disjoint)" や、明示的に記号を違えて :<math>A \sqcup B</math> などと記すこともある。また、集合の族 :<math>\mathfrak{M} = \{ M_{\lambda} \}_{\lambda \in \Lambda}</math> に対して、集合族に属するいずれかの集合に属する元 :<math>x \in M_\lambda \mbox{ for some } \lambda \in \Lambda</math> の全体として集合族の和を :<math>\bigcup \mathfrak{M} \equiv \bigcup_{\lambda \in \Lambda} M_{\lambda}:=\{x\ |\ {}^{\exists}\lambda \in \Lambda : x \in M_{\lambda}\}</math> と定義する。有限個の元からなる集合族 ''A''<sub>1</sub>, ''A''<sub>2</sub>, ..., ''A''<sub>''k''</sub> の和集合は :<math>A_1 \cup A_2 \cup \cdots \cup A_k, \quad \bigcup_{n=1}^k A_n</math> などとも表す。自然数などで添え字付けられた集合の和についても :<math>A_1 \cup A_2 \cup \cdots, \quad \bigcup_{n=1}^{\infty} A_n</math> などのように表すことがある。また、集合族に属する集合からどの異なる二つを選んでもそれらが交わりを持たないとき、つまり :<math>M, N \in \mathfrak{M},\ M \ne N \Rightarrow M \cap N = \emptyset</math> となるとき、その集合族の和集合は直和、あるいは非交和であるといい、 :<math> \coprod \mathfrak{M}, \quad \bigsqcup\, \mathfrak{M}, \quad \sum \mathfrak{M}, \quad \sum{}^{\cup}\, \mathfrak{M} </math> などの記号を用いることがある。 == 例 == *{{math|1=''P'' = {{(}}1, 3, 5, 7, 9{{)}}}} ({{math|10}} 以下の[[奇数]]の集合)、{{math|1=''Q'' = {{(}}2, 3, 5, 7{{)}}}} ({{math|10}} 以下の[[素数]]の集合)とすると、{{math|1=''P'' &cup; ''Q'' = {{(}}1, 2, 3, 5, 7, 9{{)}}}} である。 *[[実数]]からなる[[区間 (数学)|半開区間]]の族 {{math|1='''M''' = {{(}}&thinsp;(0, 1 &minus; 1/''n''] {{!}} ''n'' は 0 でない[[自然数]]&thinsp;{{)}}}} とすると集合族 {{math|'''M'''}} の和集合は開区間 {{math|(0, 1)}} である: ::<math> \bigcup \mathbf{M} = \bigcup_{n=1}^{\infty}\left(0,\,1-\frac{1}{n}\right] = (0, 1). </math> :実際、{{math|0 &lt; ''x'' &lt; 1}} なる {{math|''x''}} に対して、{{math|1=''x'' = 1 &minus; &epsilon;}} となるような正の実数 {{math|&epsilon;}} が存在するが、ここで {{math|1 / &epsilon; &lt; ''n''}} となる自然数 {{math|''n''}} は必ず存在して、この {{math|''n''}} に対して {{math|''x''}} は半開区間 {{math|(0, 1 &minus; 1 / ''n'']}} に属する。一方、{{math|1 &le; ''x''}} となる {{math|''x''}} は {{math|'''M'''}} のどの半開区間にも属さないので、和集合にも属さない。 *実数の全区間([[数直線]]){{math|1='''R''' = (&minus;&infin;, &infin;)}} は長さが {{math|1}} の半開区間の族 {{math|1={{(}}&thinsp;(''m'', ''m'' + 1] {{!}} ''m'' は[[整数]]&thinsp;{{)}}}} の直和に分割できる。つまり ::<math>\mathbb{R} = \coprod_{m=-\infty}^{\infty} (m, m+1]</math> :が成り立つ。 == 空なる合併 == {{seealso|[[空和]],[[束 (束論)#半順序集合として|Lattice論]],[[共通部分#空なる交叉|空な交叉]]}} *集合 <math>X</math> に対して, <math>\mathcal{P}(X)</math> を <math>X</math> の冪(ベキ)集合とする.全体集合 {{math|''U''}} を固定し、{{math|&cup;&empty;}} を考えると、定義により ::<math>\bigcup \varnothing = \bigcup_{A \in \varnothing}A=\{x \in U \mid {}^{\exists}A \in \varnothing : x \in A\} =\{x \in U \mid ({}^{\exists}A \in \mathcal{P}(U))[\underbrace{A \in \varnothing}_{\text{false}}\ \&\ x \in A]\}=\varnothing</math> :となる。ここで,最初の空集合と最後の空集合はニュアンスが違う(後者は単なる空集合だが前者は属する集合がない集合族).なお最後の等号は「条件を満たす {{math|''x'' &isin; ''U''}} が存在しない」ということから従う。なお、[[共通部分|{{math|&cap;}}]] の場合も、その定義により {{math|1=&cap;&empty; = ''U''}} がわかる。 == 性質 == 一般に和集合には以下の[[恒等式]]が存在する。''A'', ''B'', ''C'' を任意の集合とし、''a'', ''b'', ''c'' を任意の実数とする。 ; 交換法則 :<math>A \cup B = B \cup A</math> これは :<math>a + b = b + a \,</math> に対応し、[[加法|和]]の[[交換法則]]に相当する。 ; 結合法則 :<math>(A \cup B) \cup C = A \cup (B \cup C)</math> これは :<math>(a + b) + c = a + (b + c) \,</math> に対応し、和の[[結合法則]]に相当する。 ; 分配法則 :<math>A \cap (B \cup C) = (A \cap B) \cup (A \cap C)</math> これは :<math>a \times (b + c) = (a \times b) + (a \times c) \,</math> に対応し、[[分配法則]]に相当する。 :<math>A \cup (B \cap C) = (A \cup B) \cap (A \cup C)</math> これも集合の演算に成り立ち、数の演算とは異なっている。 ; 濃度 有限集合からなる有限な集合族 <math>\mathfrak{M} = \{ M_{\lambda} \}_{\lambda \in \Lambda}</math> に対し :<math>|\bigcup \mathfrak{M}| = \sum_{\Mu\subset\Lambda} (-1)^{|\Mu|-1} |\bigcap_{\lambda\in\Mu} M_\lambda|</math>. が成立。 ; その他 :<math>A \cup \varnothing = A</math> ここで <math> \varnothing \,</math> は[[空集合]]を表す。これは :<math> a + 0 = a \,</math> に対応し、<math> \varnothing \,</math> は集合の加法の[[単位元]]に相当する。 :<math>A \cup A = A</math> これは[[冪等]]演算であり、数の演算とは異なる。 :<math>(A \cup B)^{\mathrm{c}} = A^{\mathrm{c}} \cap B^{\mathrm{c}}</math> ここで <sup>c</sup> は[[補集合]]を表す。これは[[ド・モルガンの法則]]と呼ばれる。 == 注 == {{reflist|group="注"}} == 関連項目 == * [[集合の代数学]] * [[差集合]] * [[共通部分 (数学)|共通部分]] * [[商集合]] * [[論理和]] * [[和集合の公理]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book | 和書 | last1 = 齋藤 | first1 = 正彦 | year = 2002 | title = 数学の基礎 集合・数・位相 | series = 基礎数学14 | publisher = 東京大学出版会 | isbn = 978-4-13-062909-6 | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | last1 = 中島 | first1 = 匠一 | year = 2012 | title = 集合・写像・論理――数学の基本を学ぶ | publisher = 共立出版株式会社 | isbn = 978-4-320-11018-2 | ref = harv }} {{集合論}} {{DEFAULTSORT:わしゆうこう}} [[Category:集合論]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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共通部分 (数学)
数学において集合族の共通部分(きょうつうぶぶん、英: intersection)とは、与えられた集合の集まり(族)全てに共通に含まれる元を全て含み、それ以外の元は含まない集合のことである。共通集合(きょうつうしゅうごう)、共通分(きょうつうぶん)、交叉(こうさ、交差)、交わり(まじわり、meet)、積集合(せきしゅうごう)、積(せき)などとも呼ばれる。ただし、積集合は直積集合の意味で用いられることが多い。 集合 A, B の交わりは A ∩ B と記される。これは ということであり、記号では と書ける。A ∩ B に含まれるような元が存在するとき A と B とは互いに交わるあるいは交わりを持つといい、そのような元の存在しないとき A と B は互いに素であるまたは交わりを持たない (disjoint) という。 有限個の集合 M1, ... Mk の交わり は、そのすべてに共通に含まれる元の全体である。集合の交わりは結合的、つまり を満たすから、(一般結合法則)により有限個の集合の交わりは に等しく、また括弧の付け方に依らない。 とも表す。 集合の(空でない)族 に対して、その交わりを集合族に属する全ての集合に属する元、つまり となる x の全体であると定義して などで表す。特に集合列 {Mn}n∈N の交わり(可算交叉)の場合には のようにも書く。 与えられた集合族の共通部分が空集合となるとき、つまり全ての集合に共通に含まれる元が一つも存在しないとき、その集合族は交わりを持たない (disjoint) という。また、どの二つの集合を取っても交わらないとき、その集合族は対ごとに交わりを持たない (pairwise disjoint) と言う。disjoint ではないが pairwise disjoint な集合族が存在する。 P = {1, 3, 5, 7, 9} (10 以下の奇数の集合)、Q = {2, 3, 5, 7} (10 以下の素数の集合)とすると、P ∩ Q = {3, 5, 7} である。また、R = {2, 4, 6, 8, 10} (10 以下の偶数の集合)とすると P と R には共通の要素が存在しないから P ∩ R は空集合である。 実数からなる開区間の族 M = { (0, 1 + 1/n) | n は 1 以上の自然数 } の共通部分は半開区間 (0, 1] である: 実際、(0, 1] はどの区間にも含まれるので共通部分に含まれることは直ちに言える。一方、1 < x とするならば x = 1 + ε となる正の実数 ε が取れるが、1 / ε < n なる自然数は必ず存在して、x はそのような n に対する (0, 1 + 1 / n) に属さない。したがって上記の等式が成立する。また、同様の区間族 L = { (0, 1 − 1/n) | n は 1 以上の自然数 } は n = 1 に対応する区間が空集合であるので共通部分 ∩ L も空集合、つまり L は交わりを持たない。 上記、任意個数の集合の交叉の定義において、族が空集合 (∅) となる場合を排除したことに注意しなければならない。これは集合族 M の交わりを で定義するために、M が空ならば A ∈ M なる集合は存在しないから「x が満たすべき条件は一体何であるか」という問題を生じるからである。M が空なるときの上記条件は空虚な真の一例であるから、答えは「可能な限りの全ての x」となるべきである。すなわち、空な集合族の交わりは普遍集合(交叉演算の単位元)と定義することになる。 困ったことに標準的な集合論 (ZFC) には普遍集合が存在しないから、これを部分的に回避するために宇宙と呼ばれる一つの大きな集合 U を固定してその部分集合となる集合のみを考えることがよく行われる。このような条件下での U の部分集合族の交わりは と定義されるべきものであって、ここで M を空にとっても何も問題は生じない。即ち、空な交叉は定義により well-defined であって宇宙全体 U に一致する。そしてそれは U の部分集合全体の上で定義される交叉演算の単位元である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "数学において集合族の共通部分(きょうつうぶぶん、英: intersection)とは、与えられた集合の集まり(族)全てに共通に含まれる元を全て含み、それ以外の元は含まない集合のことである。共通集合(きょうつうしゅうごう)、共通分(きょうつうぶん)、交叉(こうさ、交差)、交わり(まじわり、meet)、積集合(せきしゅうごう)、積(せき)などとも呼ばれる。ただし、積集合は直積集合の意味で用いられることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "集合 A, B の交わりは A ∩ B と記される。これは", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ということであり、記号では", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "と書ける。A ∩ B に含まれるような元が存在するとき A と B とは互いに交わるあるいは交わりを持つといい、そのような元の存在しないとき A と B は互いに素であるまたは交わりを持たない (disjoint) という。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "有限個の集合 M1, ... Mk の交わり", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "は、そのすべてに共通に含まれる元の全体である。集合の交わりは結合的、つまり", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "を満たすから、(一般結合法則)により有限個の集合の交わりは", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "に等しく、また括弧の付け方に依らない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "とも表す。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "集合の(空でない)族", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "に対して、その交わりを集合族に属する全ての集合に属する元、つまり", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "となる x の全体であると定義して", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "などで表す。特に集合列 {Mn}n∈N の交わり(可算交叉)の場合には", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "のようにも書く。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "与えられた集合族の共通部分が空集合となるとき、つまり全ての集合に共通に含まれる元が一つも存在しないとき、その集合族は交わりを持たない (disjoint) という。また、どの二つの集合を取っても交わらないとき、その集合族は対ごとに交わりを持たない (pairwise disjoint) と言う。disjoint ではないが pairwise disjoint な集合族が存在する。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "P = {1, 3, 5, 7, 9} (10 以下の奇数の集合)、Q = {2, 3, 5, 7} (10 以下の素数の集合)とすると、P ∩ Q = {3, 5, 7} である。また、R = {2, 4, 6, 8, 10} (10 以下の偶数の集合)とすると P と R には共通の要素が存在しないから P ∩ R は空集合である。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "実数からなる開区間の族 M = { (0, 1 + 1/n) | n は 1 以上の自然数 } の共通部分は半開区間 (0, 1] である:", "title": "例" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "実際、(0, 1] はどの区間にも含まれるので共通部分に含まれることは直ちに言える。一方、1 < x とするならば x = 1 + ε となる正の実数 ε が取れるが、1 / ε < n なる自然数は必ず存在して、x はそのような n に対する (0, 1 + 1 / n) に属さない。したがって上記の等式が成立する。また、同様の区間族 L = { (0, 1 − 1/n) | n は 1 以上の自然数 } は n = 1 に対応する区間が空集合であるので共通部分 ∩ L も空集合、つまり L は交わりを持たない。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "上記、任意個数の集合の交叉の定義において、族が空集合 (∅) となる場合を排除したことに注意しなければならない。これは集合族 M の交わりを", "title": "空なる交叉" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "で定義するために、M が空ならば A ∈ M なる集合は存在しないから「x が満たすべき条件は一体何であるか」という問題を生じるからである。M が空なるときの上記条件は空虚な真の一例であるから、答えは「可能な限りの全ての x」となるべきである。すなわち、空な集合族の交わりは普遍集合(交叉演算の単位元)と定義することになる。", "title": "空なる交叉" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "困ったことに標準的な集合論 (ZFC) には普遍集合が存在しないから、これを部分的に回避するために宇宙と呼ばれる一つの大きな集合 U を固定してその部分集合となる集合のみを考えることがよく行われる。このような条件下での U の部分集合族の交わりは", "title": "空なる交叉" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "と定義されるべきものであって、ここで M を空にとっても何も問題は生じない。即ち、空な交叉は定義により well-defined であって宇宙全体 U に一致する。そしてそれは U の部分集合全体の上で定義される交叉演算の単位元である。", "title": "空なる交叉" } ]
数学において集合族の共通部分とは、与えられた集合の集まり(族)全てに共通に含まれる元を全て含み、それ以外の元は含まない集合のことである。共通集合(きょうつうしゅうごう)、共通分(きょうつうぶん)、交叉(こうさ、交差)、交わり(まじわり、meet)、積集合(せきしゅうごう)、積(せき)などとも呼ばれる。ただし、積集合は直積集合の意味で用いられることが多い。
{{redirect|インターセクション|映画|インターセクション (映画)}} {{出典の明記|date=2015年10月}} [[数学]]において[[集合族]]の'''共通部分'''(きょうつうぶぶん、{{lang-en-short|intersection}})とは、与えられた集合の集まり(族)全てに共通に含まれる元を全て含み、それ以外の元は含まない集合のことである。'''共通集合'''(きょうつうしゅうごう)、'''共通分'''<ref>{{Cite book|和書 |title=数の概念 |date=1949年8月20日 |publisher=[[岩波書店]] |author=髙木貞治 |author-link=高木貞治}}</ref>(きょうつうぶん)、'''交叉'''(こうさ、交差)、'''[[交わり (束論)|交わり]]'''(まじわり、{{en|meet}})、'''積集合'''(せきしゅうごう)、積(せき)<ref>[[集合の代数学]]あるいは集合族の[[ブール代数]]において、この場合、和に相当するのは[[差集合|集合論的差]]または[[対称差]]である([[集合環]]なども参照)。集合論的和は[[結び (束論)|結び]]と呼ばれ、補集合を取る操作に通じて積と同等の役割を果たす。</ref>などとも呼ばれる。ただし、積集合は[[直積集合]]の意味で用いられることが多い。 == 定義 == === 二つの集合の交叉 === [[image:Interseccion.svg|thumb|right|250px|共通部分の[[ベン図]]による視覚化]] 集合 {{mvar|A}}, {{mvar|B}} の交わりは {{math|''A'' &cap; ''B''}} と記される{{refnest|交わりの記号 {{math|&cap;}} は[[和集合|結び]]の記号 {{math|&cup;}} と共に[[1888年]]に[[ジュゼッペ・ペアノ]]によって導入された<ref>{{cite book |last = Cajori |first = F. |author-link = フロリアン・カジョリ |title = A History of Mathematical Notations |year = 1993 |publisher = Dover |isbn = 0-486-67766-4 |location = [[¶]]688 |url = {{google books|plainurl=yes|_byqAAAAQBAJ}} }}</ref><ref>{{internet archive2|id=calcologeometric00gpea|page=11|name=Calcolo geometrico, secondo l'Ausdehnungslehre di H. Grassmann}}</ref>。}}。これは : {{math|''x'' &isin; ''A'' &cap; ''B'' &hArr; ''x'' &isin; ''A'' かつ ''x'' &isin; ''B''}} ということであり、記号では : {{math|''A'' &cap; ''B'' {{=}} { ''x'' {{!}} ''x'' &isin; ''A'' [[論理積|&and;]] ''x'' &isin; ''B'' } }} と書ける。{{math|''A'' &cap; ''B''}} に含まれるような元が存在するとき {{mvar|A}} と {{mvar|B}} とは互いに'''交わる'''あるいは'''交わりを持つ'''といい、そのような元の存在しないとき ''A'' と ''B'' は'''互いに素'''であるまたは'''交わりを持たない''' ({{en|disjoint}}) という。 === 有限個の交叉 === 有限個の集合 {{math|''M''{{sub|1}}, … ''M''{{sub|''k''}}}} の交わり :<math>M_1 \cap M_2 \cap \cdots \cap M_k</math> は、そのすべてに共通に含まれる元の全体である。集合の交わりは[[結合法則|結合的]]、つまり : {{math|(''A'' &cap; ''B'') &cap; ''C'' {{=}} ''A'' &cap; (''B'' &cap; ''C'')}} を満たすから、(一般結合法則)により有限個の集合の交わりは : <math>(\cdots((M_1\cap M_2)\cap M_3)\cap\dotsb \cap M_k)</math> に等しく、また括弧の付け方に依らない。 : <math>\bigcap_{n=1}^k M_n = M_1 \cap M_2 \cap \dotsb \cap M_k</math> とも表す。 === 任意の交叉 === 集合の([[空集合|空]]でない)[[集合族|族]] :<math>\mathfrak{M} = \{ M_{\lambda} \}_{\lambda \in \Lambda}</math> に対して、その交わりを集合族に属する全ての集合に属する元、つまり : すべての {{math|''λ'' ∈ Λ}} に対して {{math|''x'' &isin; ''M<sub>&lambda;</sub>''}} となる {{mvar|x}} の全体であると定義して :<math>\bigcap \mathfrak{M},\quad \bigcap_{M\in\mathfrak{M}}M, \quad \bigcap_{\lambda \in \Lambda} M_{\lambda}</math> などで表す。特に集合[[列 (数学)|列]] {{math|{''M''{{sub|''n''}}}{{sub|''n''&isin;'''N'''}}}} の交わり(可算交叉)の場合には : <math>\bigcap_{n=1}^\infty M_n = M_1 \cap M_2 \cap M_3 \cdots = M_1\cap(M_2\cap(M_3\cap\cdots))</math> のようにも書く<ref>集合が非増大列 {{math|''M''{{sub|1}} &sup; ''M''{{sub|2}} &sup; &hellip;}} をなすとき、それらの共通部分は[[逆極限]]を用いて <math> \textstyle \varprojlim M_n </math> と書くこともできる。</ref>。 与えられた集合族の共通部分が空集合となるとき、つまり全ての集合に共通に含まれる元が一つも存在しないとき、その集合族は'''交わりを持たない''' (disjoint) という。また、どの二つの集合を取っても交わらないとき、その集合族は対ごとに交わりを持たない (pairwise disjoint) と言う。disjoint ではないが pairwise disjoint な集合族が存在する。 == 例 == ''P'' = {1, 3, 5, 7, 9} (10 以下の[[奇数]]の集合)、''Q'' = {2, 3, 5, 7} (10 以下の[[素数]]の集合)とすると、''P'' &cap; ''Q'' = {3, 5, 7} である。また、''R'' = {2, 4, 6, 8, 10} (10 以下の[[偶数]]の集合)とすると ''P'' と ''R'' には共通の要素が存在しないから ''P'' &cap; ''R'' は空集合である。 [[実数]]からなる[[区間 (数学)|開区間]]の族 '''M''' = { (0, 1 + 1/''n'') | ''n'' は 1 以上の[[自然数]] } の共通部分は半開区間 (0, 1] である: :<math>\bigcap \mathbf{M} = \bigcap_{n=1}^{\infty} \left(0,\, 1 + \frac{1}{n}\right) = (0, 1]. </math> 実際、(0, 1] はどの区間にも含まれるので共通部分に含まれることは直ちに言える。一方、1 &lt; ''x'' とするならば ''x'' = 1 + &epsilon; となる正の実数 &epsilon; が取れるが、1 / &epsilon; &lt; ''n'' なる自然数は必ず存在して、''x'' はそのような ''n'' に対する (0, 1 + 1 / ''n'') に属さない。したがって上記の等式が成立する。また、同様の区間族 '''L''' = { (0, 1 &minus; 1/''n'') | ''n'' は 1 以上の[[自然数]] } は ''n'' = 1 に対応する区間が空集合であるので共通部分 <span style="font-size:larger; font-weight:bold;">&cap;</span> '''L''' も空集合、つまり '''L''' は交わりを持たない。 == 空なる交叉 == {{seealso|[[空積]]・[[束 (束論)#半順序集合として|束論]]・[[和集合#空なる合併|空な合併]]}} 上記、任意個数の集合の交叉の定義において、族が[[空集合]] ({{Unicode|∅}}) となる場合を排除したことに注意しなければならない。これは集合族 {{math|'''M'''}} の交わりを : <math>\bigcap \mathbf{M} = \{x : \forall A \in \mathbf{M},\ x \in A\}</math> で定義するために、{{math|'''M'''}} が空ならば {{math|''A'' &isin; '''M'''}} なる集合は存在しないから「{{mvar|x}} が満たすべき条件は一体何であるか」という問題を生じるからである。{{math|'''M'''}} が空なるときの上記条件は[[空虚な真]]の一例であるから、答えは「可能な限りの全ての {{mvar|x}}」となるべきである。すなわち、空な集合族の交わりは[[普遍集合]](交叉演算の[[単位元]])と定義することになる<ref>{{citation | last = Megginson | first = Robert E. | title = An introduction to Banach space theory | series = Graduate Texts in Mathematics | volume = 183 | publisher = Springer-Verlag | location = New York | year = 1998 | pages = xx+596 | isbn = 0-387-98431-3 | chapter = Chapter 1 }}</ref>。 困ったことに標準的な集合論 ([[ツェルメロ=フレンケル集合論|ZFC]]) には普遍集合が存在しないから、これを部分的に回避するために[[宇宙 (集合論)|宇宙]]と呼ばれる一つの大きな集合 {{mvar|U}} を固定してその部分集合となる集合のみを考えることがよく行われる。このような条件下での {{mvar|U}} の部分集合族の交わりは :<math>\bigcap \mathbf{M} = \{x \in U : \forall A \in \mathbf{M},\ x \in A\}</math> と定義されるべきものであって、ここで {{math|'''M'''}} を空にとっても何も問題は生じない。即ち、空な交叉は定義により well-defined であって宇宙全体 {{mvar|U}} に一致する。そしてそれは {{mvar|U}} の部分集合全体の上で定義される交叉演算の単位元である。 == 注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[集合の代数学]] - [[合併 (集合論)|和]] / [[差集合|差]] / 積 / [[商集合|商]] * [[素集合]] * [[非交和]] * {{仮リンク|乗法族|label={{π}}-系|en|pi-system}}: 有限交叉で閉じている集合族 * [[コンパクト空間]]: 有限交叉性 (finite intersection property) で特徴付けられる * [[論理積]] == 外部リンク == * {{MathWorld|title=Intersection|urlname=Intersection}} * {{PlanetMath|title=intersection|urlname=Intersection}} {{集合論}} {{DEFAULTSORT:きようつうふふん}} [[Category:集合の基本概念]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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差集合
差集合(さしゅうごう、英: set difference)とは、ある集合の中から別の集合に属する要素を取り去って得られる集合のことである。特に、全体集合 U を固定して、U からその部分集合 A の要素を取り去って得られる集合を A の補集合という。 集合 B から集合 A に属する元を間引いて得られる集合を または B − A と表現し、B から A を引いた差、差集合あるいは B における A の(相対)補集合と呼ぶ。記号を用いて書けば、 すなわち が差集合の定義である。これは A ⊂ B {\displaystyle A\subset B} とは限らない場合にも定義される。後述の(絶対)補集合の言葉で書けば、 B ∖ A {\displaystyle B\setminus A} とは、B における A ∩ B の補集合である。なお、一般に集合の差は交換法則を満たさない: これらが等しくなるのは、A = B のとき、またそのときに限る。 集合 A, B が加法 + を持つ代数系(特に加法群)の部分集合であるとき、B − A は集合 {b − a | a ∈ A, b ∈ B} と紛らわしいのでこの記法を使用するには注意が必要である。 またLaTeXで入力するとき、差集合としては B \backslash A ( B ∖ A {\displaystyle B\backslash A} ) ではなく B \setminus A ( B ∖ A {\displaystyle B\setminus A} ) を用いるか、B \smallsetminus A ( B ∖ A {\displaystyle B\smallsetminus A} ) を用いる。 P = {1, 3, 5, 7, 9} (10 以下の奇数の集合) Q = {2, 3, 5, 7} (10 以下の素数の集合) このとき であり、 である。 全体集合や普遍集合などと呼ばれる(大きな)集合 U を固定して、その部分集合についてのみ考えているとき(例えば、U が自然数全体、実数全体やある位相空間であるときなど) U の部分集合 A について、 を A の(絶対)補集合(ほしゅうごう)といい、Uが了解されている文脈では単に で表す。 P の補集合を P と表す場合、おおくは P が P の閉包 をあらわす。逆に P が補集合を表しているような文脈では、P で P の閉包 (closure) を記すことがある。 P, Q をある集合の部分集合とするとき、 が成り立つことが分かる。これはもっと一般化できて、{Pλ}λ∈Λ をある基礎となる集合の部分集合の族とするときに、 が成り立つ。これらをド・モルガンの法則という。 この法則は、対応する論理記号の性質(特に双対性)を反映したものである。詳しくは記号論理学の項目を参照。
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差集合とは、ある集合の中から別の集合に属する要素を取り去って得られる集合のことである。特に、全体集合 U を固定して、U からその部分集合 A の要素を取り去って得られる集合を A の補集合という。
{{出典の明記|date=2016年2月17日 (水) 13:28 (UTC)}} {{読み仮名_ruby不使用|'''差集合'''|さしゅうごう|{{lang-en-short|set difference|links=no}}}}とは、ある集合の中から別の集合に属する要素を取り去って得られる[[集合]]のことである<ref>{{Cite Kotobank |word=差集合 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |accessdate=2022-02-15}}</ref>。特に、全体集合 {{mvar|U}} を固定して、{{mvar|U}} からその部分集合 {{mvar|A}} の要素を取り去って得られる集合を {{mvar|A}} の'''補集合'''という<ref>{{Cite Kotobank |word=補集合 |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |accessdate=2022-02-15}}</ref>。 ==定義== [[Image:Venn0010.svg|thumb|right|差集合 ''B'' &minus; ''A'' のベン図による視覚化(左がA、右がB。):<br><math>B \setminus A~~=~~A^c \cap B</math>]] [[image:Venn0100.svg|right|thumb|差集合 ''A'' &minus; ''B'' のベン図による視覚化(左がA、右がB。):<br><math>A \setminus B~~=~~A \cap B^c</math>]] 集合 ''B'' から集合 ''A'' に属する元を間引いて得られる集合を :<math>B \setminus A, \quad B \smallsetminus A</math> または ''B'' &minus; ''A'' と表現し、''B'' から ''A'' を引いた'''差'''、'''差集合'''あるいは ''B'' における ''A'' の('''相対''')'''補集合'''と呼ぶ。記号を用いて書けば、 :<math>x \in B \setminus A \iff x \in B \land x \notin A,</math> すなわち :<math>\begin{align} B \setminus A &= \{x \mid x \in B \land x \notin A\} \\ &= \{ x \in B \mid x \notin A \} \end{align}</math> が差集合の定義である。これは <math>A\subset B</math> とは限らない場合にも定義される。後述の[[#補集合|(絶対)補集合]]の言葉で書けば、<math>B \setminus A</math> とは、''B'' における ''A'' &cap; ''B'' の補集合である。なお、一般に集合の差は[[交換法則]]を満たさない: :<math>A \setminus B \neq B \setminus A.</math> これらが等しくなるのは、''A'' = ''B'' のとき、またそのときに限る。 ===注意=== 集合 ''A'', ''B'' が[[加法]] + を持つ[[代数系]](特に[[加法群]])の[[部分集合]]であるとき、''B'' &minus; ''A'' は集合 {''b'' &minus; ''a'' | ''a'' &isin; ''A'', ''b'' &isin; ''B''} と紛らわしいのでこの記法を使用するには注意が必要である。 また[[LaTeX]]で入力するとき、差集合としては <code>B \backslash A</code> (<math>B \backslash A</math>) ではなく <code>B \setminus A</code> (<math>B \setminus A</math>) を用いるか<ref>{{cite book|last=Knuth|first=D.|author-link=ドナルド・クヌース|title=The TeXbook|year=1986|page=436|publisher=Addison–Wesley|isbn=0-201-13447-0}}</ref><ref name="oda">{{cite journal|和書|author=小田忠雄|author-link=小田忠雄|title=数学の常識・非常識:由緒正しいTeX入力法|journal=数学通信|volume=4|issue=1|year=1999|month=05|pages=95–112|url=http://www.math.tohoku.ac.jp/tmj/oda_tex.pdf|format=PDF}}</ref>、<code>B \smallsetminus A</code> (<math>B \smallsetminus A</math>) を用いる<ref>{{cite web|title=Users’ guide to the fonts (for version 2.2d)|page=20|url=https://ctan.org/pkg/amsfonts|website=[[CTAN]]|accessdate=2023-11-07}}</ref><ref name="oda" />。 ===例=== ''P'' = {1, 3, 5, 7, 9} (10 以下の[[奇数]]の集合) ''Q'' = {2, 3, 5, 7} (10 以下の[[素数]]の集合) このとき :<math>P \smallsetminus Q = \{ 1,9 \}</math> であり、 :<math>Q \smallsetminus P = \{ 2 \}</math> である。 ==補集合== [[Image:Venn1010.svg|thumb|right|補集合のベン図による視覚化(左がA、右がB。):<br><math>A^c~~=~~\emptyset^c \setminus A</math>]] 全体集合や[[普遍集合]]<ref group="注釈">{{lang-en-short|universe|links=no}}</ref>などと呼ばれる(大きな)[[集合]] ''U'' を固定して、その[[部分集合]]についてのみ考えているとき(例えば、''U'' が[[自然数]]全体、[[実数]]全体やある[[位相空間]]であるときなど) ''U'' の部分集合 ''A'' について、 :<math>U \smallsetminus A</math> を ''A'' の('''絶対'''){{読み仮名_ruby不使用|'''補集合'''|ほしゅうごう}}<ref group="注釈">{{lang-en-short|complement|links=no}}</ref>といい、''U''が了解されている文脈では単に *<math>A^{\mathrm{c}}</math> *<math>\complement A</math> *<math>\overline{A}</math> で表す。 *ある集合の補集合の補集合はもとの集合自身である。 *自然数について考えているとき、奇数全体の集合の補集合は[[偶数]]全体の集合である。 *[[実数]]全体 '''R''' について考えているとき、[[有理数]]全体 '''Q''' の補集合 <math>\mathbf{R} \setminus \mathbf{Q}</math> は[[無理数]]全体である。 ===注意=== ''P'' の補集合を ''P''<sup>''c''</sup> と表す場合、おおくは {{overline|''P''}} が ''P'' の[[閉包 (位相空間論)|閉包]] をあらわす。逆に {{overline|''P''}} が補集合を表しているような文脈では、''P''<sup>''c''</sup> で ''P'' の閉包 (closure) を記すことがある。 ===ド・モルガンの法則=== ''P'', ''Q'' をある集合の部分集合とするとき、 :<math>\begin{align} (P \cup Q)^{\mathrm{c}} &= P^{\mathrm{c}} \cap Q^{\mathrm{c}} \\ (P \cap Q)^{\mathrm{c}} &= P^{\mathrm{c}} \cup Q^{\mathrm{c}} \end{align}</math> <!--[[画像:Venn1110.svg|100px|ベン図によるPとQの積集合に対する補集合]][[画像:Venn1000.svg|100px|ベン図によるPとQの和集合に対する補集合]][[画像:Venn1010.svg|100px|ベン図によるPの補集合]][[画像:Venn1100.svg|100px|ベン図によるQの補集合]]--> が成り立つことが分かる<ref>丹下基生『SGCライブラリ-163 例題形式で探求する集合・位相(連続写像の織りなすトポロジーの世界)』サイエンス社、2020年、p.6</ref>。これはもっと一般化できて、{''P''<sub>&lambda;</sub>}<sub>&lambda;&isin;&Lambda;</sub> をある基礎となる集合の部分集合の族とするときに、 :<math>\begin{align} \left( \bigcup_{\lambda \in \Lambda} P_\lambda \right) ^{\mathrm{c}} &= \bigcap_{\lambda \in \Lambda} P_\lambda^{\mathrm{c}} \\ \left( \bigcap_{\lambda \in \Lambda} P_\lambda \right) ^{\mathrm{c}} &= \bigcup_{\lambda \in \Lambda} P_\lambda^{\mathrm{c}} \end{align}</math> が成り立つ。これらを[[ド・モルガンの法則]]という。 この法則は、対応する論理記号の性質(特に双対性)を反映したものである。詳しくは[[記号論理学]]の項目を参照。 ==関連項目== *[[集合の代数学]] == 注釈 == {{Notelist}} == 出典 == {{reflist}} ==参考文献== {{集合論}} {{DEFAULTSORT:さしゆうこう}} [[Category:集合論]] [[Category:初等数学]] [[Category:差異]] [[Category:数学に関する記事]]
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集合論
集合論(しゅうごうろん、英語: set theory)は、集合とよばれる数学的対象をあつかう数学理論である。 通常、「集合」はいろいろな数学的対象の集まりを表していると見なされる。これは日常的な意味でのものの集まりやその要素、特定のものが入っているかいないか、という概念を包摂している。現代数学の定式化においては集合論がさまざまな数学的対象を描写する言葉をあたえている。集合論は数学の公理的な基礎付けをあたえ、数学的な対象を形式的に「集合」と「帰属関係」によって構成することが可能になる。また、集合論の公理として何を仮定するとどんな体系が得られるか、といった集合それ自体の研究も活発に行われている。 集合論における基本的な操作には、あたえられた集合のべき集合や直積集合をとる、などがある。また二つの集合の元同士の関係を通じて定義される順序関係や写像などの概念が集合の分類に重要な役割を果たす。集合論では、二つの集合の間に全単射が存在するとき濃度が等しいという。そこで集合を濃度の等しさによって類別した各々の同値類のことを濃度という。この定義では濃度は真のクラスになってしまうので、濃度そのものを集合論的な対象として取り扱い難い。選択公理を仮定すると任意の集合は整列可能であることが導かれる。整列集合の順序型を順序同型で類別した各々の同値類と定義してしまうと、それは真のクラスとなってしまう。幸いなことに任意の整列集合は順序数と呼ばれる特別な集合と順序同型となる。そのためそれら順序数を整列集合の順序型と定義することができる。また順序数全体 O n {\displaystyle \mathrm {On} } もまた整列順序付けられている。集合の濃度を と定義することができる。すなわち濃度というのを特別な順序数として定義するわけである。このようにすることで濃度の定義から真のクラスを追放することができる。ただし選択公理を仮定することなく濃度を定義し取り扱うことはできる。基本的なアイデアは濃度で類別した各々同値類から累積階層の意味で階数が最小なものだけを分出するというものである。詳細はスコットのトリックを参照。 集合論の初期の段階では、集合は「普通の意味での」ものの集まりとして導入され考察された。この見方を現在では素朴集合論(そぼくしゅうごうろん)という。 これは集合を理解する上で最もわかりやすい考え方であるが、「普通の意味での」ものの集まりを以下の内包公理で定式化すると、パラドックスが現れてしまう。 任意の性質 P ( x ) {\displaystyle P(x)} に対して、 P ( x ) {\displaystyle P(x)} を満たす元 x {\displaystyle x} の集合 { x | P ( x ) } {\displaystyle \{x|P(x)\}} が存在する パラドックスの有名なものとしては、以下のものがあげられる。 ベリーのパラドックス ただし、ツェルメロの公理的集合論では内包公理は以下の分出公理として弱められた形で定式化されており、上記のパラドックスは現れない。 任意の性質 P ( x ) {\displaystyle P(x)} と集合 A {\displaystyle A} に対して、 P ( x ) {\displaystyle P(x)} を満たす A {\displaystyle A} の元 x {\displaystyle x} の集合 { x ∈ A | P ( x ) } {\displaystyle \{x\in A|P(x)\}} が存在する 実際には数学を行う上では、適当な集合Aをあらかじめ設定した上で、分出公理を用いれば十分なことが多い。したがって、集合論の使用による、パラドックスの発生を意識する必要はない。 以上の背景から基礎論的な文脈においては――特定の集合論を採用することで――「パラドックスを回避した集合」とそのようなことがない「素朴な集合」とを区別して議論する必要がある。その場合、前者を集合(set)、後者を集まり(collection)というのが慣例となっている。 ゲオルク・カントールによるフーリエ級数の研究において、実直線上の級数がよく振る舞わない点を調べる過程で集合の概念が取り出された。彼はやがて有理数や代数的数のなす集合が可算であるという結果を得て、それをリヒャルト・デーデキントとの書簡の中で伝えている。 そこでは実数についてもこれが成り立つかという問題に取り組んでいること、どうやらそうではないらしいことが述べられている。それからわずか数週間で、彼は実数が可算でないということについての証明を得る。その後、彼は数直線 R と平面 Rの間に全単射があるかという問題に取り組んで、3年にわたる研究の結果、それらの集合の間に全単射が存在することを示した。彼はその証明を伝えたデーデキントへの書簡の中で、有名な "Je le vois, mais je ne le crois pas"「私にはそれが見えるが、しかし信じることができない」という言葉を書き残している。 実数集合の持つ超越的な性格は同時代の数学者の一部のあいだに揺籃期の集合論そのものに対する拒否反応を巻き起こした。カントールの師レオポルト・クロネッカーによる否定はカントールに影響を与えることになった。 ツェルメロによって選択公理とその帰結としてすべての集合上に整列順序関係が入るということがはっきりさせられた。選択公理の意味するところやその妥当性についてはルベーグとボレル、ベールの間の議論などに代表されるように数学者たちによる活発な議論の的となった。 一方で、カントールが頭を悩ませつづけた連続体仮説:「実数集合は自然数集合の次に大きい集合であるか?」は、クルト・ゲーデルとポール・コーエンの業績によってZFC公理系からは証明も反証もできないことがわかった。 集合論以前の数学は、数であるとか方程式であるとかあらかじめ与えられた数学的対象の性質を研究する、という性格が強いものだった。集合論以降は問題にしている数学的な現象をよく反映するような「構造」を積極的に記号論理によって定義し、その構造を持つ集合について何がいえるかを調べる、という考え方が優勢になった。とくに20世紀に入ってからの抽象代数学や位相空間論では様々な新しい数学的対象が集合の道具立てを用いて積極的に構成され、研究された。このパラダイムはブルバキによる『数学原論』においてその頂点に達したと見なされている。 一方で、さまざまな数学の問題に対応した構造を理解するときには、個々の対象が具体的にどんな集合として定義されたかということよりも、類似の構造を持つほかの数学的対象との関係性の方がしばしば重要になる。この関係性は対象間の写像のうちで「構造を保つ」ようなものによって定式化される。このような考え方を扱うために圏論が発達した。集合論の著しい特徴は集合間の写像たちまでが再び集合として実現できることだが、こういった性質を圏論的に定式化することで集合論の圏論化・幾何化ともいうべきトポスの概念がえられる。
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集合論は、集合とよばれる数学的対象をあつかう数学理論である。 通常、「集合」はいろいろな数学的対象の集まりを表していると見なされる。これは日常的な意味でのものの集まりやその要素、特定のものが入っているかいないか、という概念を包摂している。現代数学の定式化においては集合論がさまざまな数学的対象を描写する言葉をあたえている。集合論は数学の公理的な基礎付けをあたえ、数学的な対象を形式的に「集合」と「帰属関係」によって構成することが可能になる。また、集合論の公理として何を仮定するとどんな体系が得られるか、といった集合それ自体の研究も活発に行われている。 集合論における基本的な操作には、あたえられた集合のべき集合や直積集合をとる、などがある。また二つの集合の元同士の関係を通じて定義される順序関係や写像などの概念が集合の分類に重要な役割を果たす。集合論では、二つの集合の間に全単射が存在するとき濃度が等しいという。そこで集合を濃度の等しさによって類別した各々の同値類のことを濃度という。この定義では濃度は真のクラスになってしまうので、濃度そのものを集合論的な対象として取り扱い難い。選択公理を仮定すると任意の集合は整列可能であることが導かれる。整列集合の順序型を順序同型で類別した各々の同値類と定義してしまうと、それは真のクラスとなってしまう。幸いなことに任意の整列集合は順序数と呼ばれる特別な集合と順序同型となる。そのためそれら順序数を整列集合の順序型と定義することができる。また順序数全体 O n もまた整列順序付けられている。集合の濃度を と定義することができる。すなわち濃度というのを特別な順序数として定義するわけである。このようにすることで濃度の定義から真のクラスを追放することができる。ただし選択公理を仮定することなく濃度を定義し取り扱うことはできる。基本的なアイデアは濃度で類別した各々同値類から累積階層の意味で階数が最小なものだけを分出するというものである。詳細はスコットのトリックを参照。
{{No footnotes|date=2023年3月}} [[File:Venn A intersect B.svg|サムネイル|集合論]] '''集合論'''(しゅうごうろん、{{lang-en|set theory}})は、[[集合]]とよばれる数学的対象をあつかう[[数学]][[理論]]である。 通常、「集合」はいろいろな数学的対象の集まりを表していると見なされる。これは日常的な意味でのものの集まりやその要素、特定のものが入っているかいないか、という概念を包摂している。現代数学の定式化においては集合論がさまざまな数学的対象を描写する言葉をあたえている。集合論は数学の公理的な基礎付けをあたえ、数学的な対象を形式的に「集合」と「帰属関係」によって構成することが可能になる。また、集合論の[[公理]]として何を仮定するとどんな体系が得られるか、といった集合それ自体の研究も活発に行われている。 集合論における基本的な操作には、あたえられた集合の[[べき集合]]や[[直積集合]]をとる、などがある。また二つの集合の元同士の関係を通じて定義される[[順序関係]]や[[写像]]などの概念が集合の分類に重要な役割を果たす。集合論では、二つの集合の間に[[全単射]]が存在するとき濃度が等しいという。そこで集合を濃度の等しさによって類別した各々の同値類のことを濃度という。この定義では濃度は[[真のクラス]]になってしまうので、濃度そのものを集合論的な対象として取り扱い難い。選択公理を仮定すると任意の集合は整列可能であることが導かれる。[[整列集合]]の順序型を順序同型で類別した各々の同値類と定義してしまうと、それは真のクラスとなってしまう。幸いなことに任意の整列集合は[[順序数]]と呼ばれる特別な集合と順序同型となる。そのためそれら順序数を整列集合の順序型と定義することができる。また順序数全体 <math>\mathrm{On}</math>もまた整列順序付けられている。集合の濃度を <math display="block"> |A| = \min \{ \alpha \in \mathrm{On} \mid \exists R ((A,R) \cong (\alpha, \in)) \} </math> と定義することができる。すなわち濃度というのを特別な順序数として定義するわけである。このようにすることで濃度の定義から真のクラスを追放することができる。ただし選択公理を仮定することなく濃度を定義し取り扱うことはできる。基本的なアイデアは濃度で類別した各々同値類から累積階層の意味で階数が最小なものだけを分出するというものである。詳細は[[スコットのトリック]]を参照。 == 素朴集合論と公理的集合論 == 集合論の初期の段階では、集合は「普通の意味での」ものの集まりとして導入され考察された。この見方を現在では'''[[素朴集合論]]'''(そぼくしゅうごうろん)という。 これは集合を理解する上で最もわかりやすい考え方であるが、「普通の意味での」ものの集まりを以下の内包公理で定式化すると、[[パラドックス]]が現れてしまう。 {{Indent|任意の性質 <math>P(x)</math> に対して、 <math>P(x)</math> を満たす元 <math>x</math> の集合 <math>\{ x | P(x) \}</math> が存在する}} パラドックスの有名なものとしては、以下のものがあげられる。 ;[[カントールのパラドックス]] :全ての集合を含む集合(たとえば''X'' = {''a'' | ''a'' = ''a''})を考えると、そのべき集合は[[カントールの定理]]によってより大きな濃度を持つはずだが、一方もとの集合に含まれるのだから、濃度は大きくないはずである。 ;[[ブラリ=フォルティのパラドックス]] :全ての[[順序数]]からなる集合 ''O'' はそれ自体が順序数であり、''O'' ∈ ''O'' から ''O'' < ''O'' となって矛盾 ;[[ラッセルのパラドックス]] :''X'' = {''a'' | ''a'' ∉ ''a''} という集合を考える。それに対して''X'' ∈ ''X'' であると仮定してもあるいは ''X'' ∉ ''X'' であると仮定してもいずれも矛盾を生じる。 ;[[カリーのパラドックス]] :''X'' = {''a'' | ( ''a'' ∈ ''X'' ) → ''Y''} という集合を考える。いかなるYも真となるため、結果として矛盾を生じる。 ;[[リシャールのパラドックス]] [[ベリーのパラドックス]] ただし、ツェルメロの[[公理的集合論]]では内包公理は以下の分出公理として弱められた形で定式化されており、上記のパラドックスは現れない。 {{Indent|任意の性質 <math>P(x)</math> と集合 <math>A</math> に対して、 <math>P(x)</math> を満たす <math>A</math> の元 <math>x</math> の集合 <math>\{ x \in A | P(x) \}</math> が存在する}} 実際には数学を行う上では、適当な集合Aをあらかじめ設定した上で、分出公理を用いれば十分なことが多い。したがって、集合論の使用による、パラドックスの発生を意識する必要はない。 ===呼び分け=== 以上の背景から[[数学基礎論|基礎論]]的な文脈においては――特定の集合論を採用することで――「パラドックスを回避した集合」とそのようなことがない「素朴な集合」とを区別して議論する必要がある。その場合、前者を'''集合'''(set)、後者を'''集まり'''(collection)というのが慣例となっている。 == 集合論の歴史 == [[File:Georg Cantor2.jpg|thumb|120px|ゲオルク・カントール]] [[ゲオルク・カントール]]による[[フーリエ級数]]の研究において、実直線上の級数がよく振る舞わない点を調べる過程で集合の概念が取り出された。彼はやがて有理数や代数的数のなす集合が[[可算集合|可算]]であるという結果を得て、それを[[リヒャルト・デーデキント]]との書簡の中で伝えている。 そこでは実数についてもこれが成り立つかという問題に取り組んでいること、どうやらそうではないらしいことが述べられている。それからわずか数週間で、彼は実数が可算でないということについての証明を得る。その後、彼は数直線 R と平面 R<sup>2</sup>の間に全単射があるかという問題に取り組んで、3年にわたる研究の結果、それらの集合の間に全単射が存在することを示した。彼はその証明を伝えたデーデキントへの書簡の中で、有名な {{lang|fr|"Je le vois, mais je ne le crois pas"}}「私にはそれが見えるが、しかし信じることができない」という言葉を書き残している。<!-- この後彼は理論を発展させ、濃度、順序数、整列集合等の概念を得ていった。 are these really by Cantor? --> 実数集合の持つ超越的な性格は同時代の数学者の一部のあいだに揺籃期の集合論そのものに対する拒否反応を巻き起こした。カントールの師[[レオポルト・クロネッカー]]による否定はカントールに影響を与えることになった。 ツェルメロによって選択公理とその帰結としてすべての集合上に整列順序関係が入るということがはっきりさせられた。選択公理の意味するところやその[[妥当性]]については[[アンリ・ルベーグ|ルベーグ]]とボレル、ベールの間の議論などに代表されるように数学者たちによる活発な議論の的となった。 [[File:1925 kurt gödel.png|thumb|120px|クルト・ゲーデル]] 一方で、カントールが頭を悩ませつづけた[[連続体仮説]]:「実数集合は自然数集合の次に大きい集合であるか?」は、[[クルト・ゲーデル]]と[[ポール・コーエン (数学者)|ポール・コーエン]]の業績によってZFC公理系からは証明も反証もできないことがわかった。 == 数学にあたえた影響 == 集合論以前の数学は、数であるとか[[方程式]]であるとかあらかじめ与えられた数学的対象の性質を研究する、という性格が強いものだった。集合論以降は問題にしている数学的な現象をよく反映するような「構造」を積極的に記号論理によって定義し、その構造を持つ集合について何がいえるかを調べる、という考え方が優勢になった。とくに20世紀に入ってからの[[抽象代数学]]や[[位相空間]]論では様々な新しい数学的対象が集合の道具立てを用いて積極的に構成され、研究された。このパラダイムは[[ニコラ・ブルバキ|ブルバキ]]による『数学原論』においてその頂点に達したと見なされている。 一方で、さまざまな数学の問題に対応した構造を理解するときには、個々の対象が具体的にどんな集合として定義されたかということよりも、類似の構造を持つほかの数学的対象との関係性の方がしばしば重要になる。この関係性は対象間の写像のうちで「構造を保つ」ようなものによって定式化される。このような考え方を扱うために[[圏論]]が発達した。集合論の著しい特徴は集合間の写像たちまでが再び集合として実現できることだが、こういった性質を圏論的に定式化することで集合論の圏論化・幾何化ともいうべき[[トポス (数学)|トポス]]の概念がえられる。 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}}--> == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=公理論的集合論 |author=倉田令二朗|coauthors=篠田寿一|location= |publisher=河合出版|year=1996|id=ISBN 4879999679}} * {{Cite book|和書|title=集合論入門|author=赤摂也 |location=|publisher=培風館|year=1959 |edition=増補版|id=ISBN 4563003018}} * {{Cite book|和書|title=集合・位相入門 |author=松坂和夫|publisher=岩波書店 |year=1968|id=ISBN 4000054244}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}} {{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}} * [[公理的集合論]] * [[集合の代数学]] * [[数理論理学]] * [[論理演算]] * [[ベン図]] * [[オイラー図]] * [[グロタンディーク宇宙]] == 外部リンク == {{wikibooks}} * {{Kotobank}} {{数学}} {{集合論}} {{Mathematical logic}} {{Logic}} {{Foundations-footer}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆうこうろん}} [[Category:集合論|*]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:数学基礎論]]
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鉛フリーはんだ
鉛フリーはんだ(なまりフリーはんだ、Lead-free solder alloy)または無鉛はんだ(むえんはんだ)とは、鉛をほとんど含まないはんだの総称。 JIS Z 3282(はんだ-化学成分及び形状)では11種の合金系に区分され、さらに成分比により合計21種類となっている。 従来、電子回路などの基板に電子部品を搭載するためには鉛と錫の合金であるはんだ(いわゆる含鉛はんだ)が大量に使用されていた。しかし、鉛は人体に有害であり、また廃棄物として自然環境に対する悪影響(地下水汚染など)も懸念されたため、鉛を含まない鉛フリーはんだの開発、普及が進められている。しかし、鉛フリーはんだと含鉛はんだでは様々な特性の違いがあり、完全に置き換えるまでには至っていない。また現時点では鉛フリーはんだの人間やその他の生物に対する影響が深く評価されているわけではない。ACGIH(英語版、イタリア語版)では、鉛フリーはんだについても極少量の鉛を含む可能性があるため鉛入りはんだと同等の管理を求めている。 欧州連合ではRoHS指令として、2006年7月1日から鉛、水銀、カドミウム、六価クロム、ポリ臭化ビフェニル、ポリ臭化ジフェニルエーテルの電子・電気機器への使用が原則として禁止された。これにより、従来の鉛を含むはんだは欧州連合内に輸出するパソコン、テレビ受像機などへの使用ができなくなった。 欧州以外にも日本版RoHSと呼ばれるJ-MOSSや中国版RoHSと呼ばれる電子情報製品生産汚染防止管理弁法など各国で規制が進み、また企業の環境イメージの向上を目的として、鉛フリーはんだへの切り替えが進められている。 スズ鉱石から鉛を完全に除去することが難しいため、鉛の含有率が0であることは要求されていない。 鉛フリーはんだは下記のような問題点がある。このため鉛フリーはんだの改良や、電子部品の高耐熱化、はんだ付け機器の対応などが進んでいるが、従来はんだ用の機器や電子部品に鉛フリーはんだを適用する場合には注意しなければならない。 以下に合金系の一部を示す。電子情報技術産業協会(JEITA)が標準化したスズ-銀-銅の組成が多く利用されている。 鉛フリーはんだを使うことにより、以下の効果が得られると考えられる。 ただし、以下のような疑問も指摘されている。
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鉛フリーはんだまたは無鉛はんだ(むえんはんだ)とは、鉛をほとんど含まないはんだの総称。 JIS Z 3282(はんだ-化学成分及び形状)では11種の合金系に区分され、さらに成分比により合計21種類となっている。
'''鉛フリーはんだ'''(なまりフリーはんだ、''Lead-free solder alloy'')または'''無鉛はんだ'''(むえんはんだ)とは、[[鉛]]をほとんど含まない[[はんだ]]の総称。 JIS Z 3282(はんだ-化学成分及び形状)では11種の合金系に区分され、さらに成分比により合計21種類となっている。 ==概要== 従来、[[電子回路]]などの基板に[[電子部品]]を搭載するためには鉛と[[錫]]の[[合金]]である[[はんだ]](いわゆる含鉛はんだ)が大量に使用されていた。しかし、鉛は人体に有害であり、また廃棄物として自然環境に対する悪影響([[地下水汚染]]など)も懸念されたため、鉛を含まない鉛フリーはんだの開発、普及が進められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://pub.nikkan.co.jp/uploads/book/pdf_file4e2e2d21ae016.pdf |title=鉛が環境に及ぼす影響 |format=PDF |accessdate=2017-11-28 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.denso-ten.com/jp/gihou/jp_pdf/30/30-6.pdf |title=鉛フリーソルダペースト |format=PDF |publisher=株式会社[[デンソーテン]] |accessdate=2017-11-28 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hakko.com/japan/namari/pages/index.html |title=鉛フリーはんだ付け |publisher=白光株式会社 |accessdate=2017-11-28 }}</ref>。しかし、鉛フリーはんだと含鉛はんだでは様々な特性の違いがあり、完全に置き換えるまでには至っていない。また現時点では鉛フリーはんだの人間やその他の生物に対する影響が深く評価されているわけではない{{要出典|date=2011年9月}}。{{仮リンク|米国産業衛生専門家会議|en|American Conference of Governmental Industrial Hygienists|it|American Conference of Governmental Industrial Hygienists|label=ACGIH}}では、鉛フリーはんだについても極少量の鉛を含む可能性があるため鉛入りはんだと同等の管理を求めている。 [[欧州連合]]では[[RoHS]]指令として、[[2006年]][[7月1日]]から鉛、[[水銀]]、[[カドミウム]]、[[六価クロム]]、[[ポリ臭化ビフェニル]]、[[ポリ臭化ジフェニルエーテル]]の電子・電気機器への使用が原則として禁止された。これにより、従来の鉛を含むはんだは欧州連合内に輸出する[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]、[[テレビ受像機]]などへの使用ができなくなった。 欧州以外にも[[日本]]版RoHSと呼ばれる[[J-MOSS]]や[[中華人民共和国|中国]]版RoHSと呼ばれる[[電子情報製品生産汚染防止管理弁法]]など各国で規制が進み、また企業の環境イメージの向上を目的として、鉛フリーはんだへの切り替えが進められている。 ==鉛フリーはんだの鉛含有率== スズ鉱石から鉛を完全に除去することが難しいため、鉛の含有率が0であることは要求されていない。 * RoHS指令では、'''鉛含有率1000ppm(0.1wt%)以下'''に規制されている。 * JIS Z 3282(はんだ-化学成分及び形状)では、鉛含有率0.10質量%以下と規定されている。 * 各はんだメーカーの製造工程では、鉛含有率0.05質量%以下で管理している場合が多い<ref>[https://web.archive.org/web/20081024042926/http://www.senju-m.co.jp/j/news/press/20040828.html 千住金属工業 - 鉛フリーはんだ中の鉛含有率]</ref>。 ==問題点== 鉛フリーはんだは下記のような問題点がある。このため鉛フリーはんだの改良や、電子部品の高耐熱化、[[はんだ付け]]機器の対応などが進んでいるが、従来はんだ用の機器や電子部品に鉛フリーはんだを適用する場合には注意しなければならない。 ===機器対応=== * 融点が高い鉛フリーはんだを使用する場合、従来の[[はんだごて]]では熱量が足りなかったり、こて先が劣化しやすい等の問題があるため、対応したこてを使う必要がある<ref>[http://www.hakko.com/japan/new_products/ft700/topic_2.html]</ref>。 * 機械によるはんだ付けの場合は、従来の鉛を含むはんだと組成が異なるために自動はんだ槽を化学的に浸食して穴を開けるなどの問題([[エロージョン]])が発生し、それを防ぐためにはんだ槽材質の変更が必要となる。[[オーステナイト系ステンレス鋼|SUS304]]ではなく[[チタン]]材、SUS316、SUS316L、[[鋳物]]などを採用しているメーカーが多い。 ===部品対応=== * [[合金]]の溶融[[温度]]がこれまでより数十度上昇するため、素子の熱破壊や劣化の危険性が高くなる。 * Sn-Zn系鉛フリーはんだで積層[[セラミックス|セラミック]]・[[コンデンサ]]を実装すると、積層セラミック・コンデンサの[[絶縁抵抗]]が劣化する場合がある<ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/WORD/20060428/116737/ 絶縁抵抗(IR)劣化問題とは - NE用語 - Tech-On!]</ref>。 ===信頼性=== * 手作業によるはんだ付けにおいて、適切にはんだ付けされていても表面に艶ができない([[引け巣]])ため不良との区別が付きにくく、実際の不良を見逃しやすくなるおそれがある。 * 含鉛はんだ[[めっき]]と比較して錫めっきでは[[ウィスカー]](針状の金属結晶)が発生し易くなり、ウィスカーによる端子間のショートによるトラブルが問題となる(特に嵌合時に応力が掛かるコネクタ類の端子に発生し易い)。 * エロージョンと同じ現象により、[[プリント基板|プリント配線板]]上においても銅パターンや[[スルーホール実装|スルーホール]]が鉛フリーはんだにより溶解される'''銅食われ'''が発生することがある。銅食われが悪化すると最悪の場合断線してしまうため信頼性が低下する。 * Sn-Pb系の鉛含有はんだに比べて経年劣化や接続信頼性など、対環境性が低下することがある。 ==材質== 以下に合金系の一部を示す。[[電子情報技術産業協会]](JEITA)が標準化した[[スズ]]-[[銀]]-[[銅]]の組成が多く利用されている。 ; SnAg系 : Sn(錫)とAg(銀)を含むもの。例えばSn-3.5Ag(錫96.5% 銀3.5%)の融点は概ね221℃である。銀の含有量によって融点ほか特性が変化する。銀を含有するため高コストである。 ; SnAgCu系 : Sn(錫)、Ag(銀)、Cu(銅)を含むもの。加速試験などの対環境性に優れるが一般的に融点が最大220℃程度と高いため影響を考慮する必要がある。SnAg系はんだと同様に銀を含有するため高コストである。 : JEITA は Sn-3.0Ag-0.5Cu(銀3.0% 銅0.5% 錫 96.5%)を標準組成として推奨している。Sn-3.0Ag-0.5Cuの融点は217℃であり、標準的なSnAg系はんだより僅かに低い。JEITAは低銀組成のSn-1.0Ag-0.7CuとSn-0.3Ag-0.7Cuを第2世代フロー用ハンダとして推奨しているが、先述のSn-3.0Ag-0.5Cuよりも全体的に性能が劣る<ref>[http://home.jeita.or.jp/tss/JEITA_REVIEW2008.4_Lead-free.pdf 鉛フリーはんだの接合信頼性への取り組み] JEITA</ref>。 ; SnBi系 : Sn(錫)とBi(ビスマス)を含むもの。合金の組成比に依存するが、融点は140℃程度のものから、共晶ハンダと同程度のものまで様々である<ref>{{Cite journal|和書|author=菅沼克昭, 新原晧一, 森藤竜巳, 中村義一 |title=Sn-Bi系はんだおよびそのCuとの界面の特性 |journal=回路実装学会誌 |ISSN=13410571 |publisher=プリント回路学会 |year=1997 |month=sep |volume=12 |issue=6 |pages=406-412 |naid=10002522837 |url=https://doi.org/10.5104/jiep1995.12.406}}</ref>。ビスマスによって表面張力が低下することで、濡れ性が改善されているが、機械的強度が劣る<ref>{{Cite journal|和書|author=芹沢弘二, 下川英恵, 寺崎健 |title=Sn-Bi系はんだの実用化状況と今後の課題 |journal=エレクトロニクス実装学会誌 |ISSN=13439677 |publisher=エレクトロニクス実装学会 |year=2003 |month=aug |volume=6 |issue=5 |pages=394-399 |naid=110001235268 |doi=10.5104/jiep.6.394 |url=https://doi.org/10.5104/jiep.6.394}}</ref>。[[レノボ]]の大和研究所は、フラックスの成分やリフロー温度の調整することで、柔らかく脆いビスマスが合金全体に拡散せず一部に凝集して生じるクラックや機械的強度の低下を改善するSnBi系低温はんだリフロー技術を実用化した<ref>[https://www.lenovo.com/jp/ja/news/article/2017-02-07 レノボ、PC製造プロセスのブレークスルーとなる革新的な手法を発表]</ref>。 ; SnZnBi系 : Sn(錫)、Zn(亜鉛)、Bi(ビスマス)を含むもの。融点は共晶はんだと同等の183℃近辺だが、SnAgCu系に比べて加速試験などの対環境性に劣ると言われている。Znの活性度が高いために起こる現象である。 ; SnCu系 : Sn(錫)、Cu(銅)を含むもの。銀を含まないため材料コストは安く、従来のはんだに近い音響特性が得られる{{要出典|date=2022/02/20}}が、接合部の強度が低いのが難点である。これに対し近年は、Ni([[ニッケル]])、Ge([[ゲルマニウム]])、Co([[コバルト]])、Si([[ケイ素]])などを微量添加する事で信頼性を高めた製品が開発されている。SnAgCu系に比べて一般的に融点が高く、はんだ付け後に金属光沢が見られる事も特徴である。 ; SnAgInBi系 : Sn(錫)、Ag(銀)、In(インジウム)、Bi(ビスマス)を含むもの。InやBiを使うことで融点を下げている。 ; SnZnAl系 : [[富士通]]が開発したもの。米国特許(Patent No.: US 6,361,626)<ref>[https://www.google.com.ar/patents/US6361626 Solder alloy and soldered bond US 6361626 B1]</ref>日本特許(特許第3357045号)<ref>[http://worldwide.espacenet.com/publicationDetails/originalDocument?FT=D&date=20021216&DB=&&CC=JP&NR=3357045B2&KC=B2&ND=1&locale=en_EP 特許第3357045号]</ref>他取得。 ==賛否== 鉛フリーはんだを使うことにより、以下の効果が得られると考えられる。 ; 作業環境の改善 : はんだ付け中に作業者が有害な含鉛飛沫を吸入する危険性が低くなる。 ; 廃棄物による鉛汚染の防止 : 埋め立て処分された電気製品から鉛が周辺環境に流出して自然環境を汚染する危険性が低くなる。 ただし、以下のような疑問も指摘されている。 ; 鉛汚染の防止として効果が限定的 : 鉛汚染源としてはんだ以外にも[[鉛蓄電池]]や[[散弾銃]]の鉛散弾があるが、はんだほど厳しい規制がなされていない。 ; 代替物質が妥当でない : [[インジウム]]は毒性評価が不十分である<ref>{{Cite journal|和書|author=田中昭代 |title=インジウム化合物およびインジウム・スズ酸化物の生体影響 |journal=エアロゾル研究 |ISSN=0912-2834 |publisher=日本エアロゾル学会 |year=2005 |volume=20 |issue=3 |pages=213-218 |naid=130000125445 |doi=10.11203/jar.20.213 |url=https://doi.org/10.11203/jar.20.213}}</ref>。 : 銀、ビスマス、インジウムなどは価格や資源量に問題がある。 ; 費用対効果が妥当でない : 鉛フリーはんだは高価であり、はんだ付けにもより多くのエネルギーを使用するのに対し、費用対効果として妥当でないという指摘がなされることが多い。 ==脚注== {{Reflist|30em}} ==参考文献== * {{Cite book|和書|author=菅沼克昭 |title=鉛フリーはんだ技術・材料ハンドブック |publisher=工業調査会 |year=2007 |NCID=BA82609347 |ISBN=9784769312659 |id={{全国書誌番号|21357002}} |ref=harv}} ==関連項目== * [[RoHS]] * [[融剤]] * [[ロジン]] ==外部リンク== * [http://home.jeita.or.jp/tss/jisso_eas/japanese/leadfree/index.htm 鉛フリーはんだ実用化ロードマップ作成委員会] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なまりふりいはんた}} [[Category:合金]] [[Category:スズ]] [[Category:鉛]]<!--鉛は含まないが鉛に関係した話題なので--> [[Category:環境技術]] [[Category:電子工学]] [[Category:溶接]] [[Category:自動車環境技術]] [[Category:はんだ付け]]
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スズ
スズ(錫、英: Tin、独: Zinn)とは、典型元素の中の炭素族元素に分類される金属で、原子番号50の元素である。元素記号は Sn。 元素記号のSnは、ラテン語のstannumに由来する。元来この単語は銀と鉛の合金を意味していたが、4世紀にはスズを意味するようになった。それ以前にはスズのことはplumbum candidum(白い鉛)と呼んでいた。Stannumは、ロマンシュ語やケルト語においてスズを意味する語の語源であるstāgnumに由来しているものと見られる。stannumおよびstāgnumの起源は不明である。印欧語以前のものかもしれない。 『マイヤー百科事典』では、stannumはコーンウォール語(の祖語)のsteanに由来するものであるとし、紀元後の最初の数世紀においてコーンウォールがスズの主な産地であったことをその根拠としている。 英語のtinという語はゲルマン諸語の間で共有されており、再構されたゲルマン祖語の*tin-omにまで遡ることができる。同源の語に、ドイツ語のZinn、スウェーデン語のtenn、オランダ語のtinがある。この語は、ゲルマン語からの借用(英語からアイルランド語に借用されたtinneなど)を除いて、他の印欧語には見られない。 漢字の「錫」は「金」と「易」からなる会意文字で、容易に伸ばせる金属の意である。 スズは軟らかく展延性を有した結晶性の高い白銀色の金属である。金属スズに力をかけて変形させると、「スズ鳴き」と呼ばれる双晶変形による亀裂音を発する。第14族元素中で最も低い232 °Cの融点を持ち、粒径11 nmの微細粒子ではさらに低温(177 °C)で溶融する。 常温・常圧では展延性を有する正方晶のβスズ (beta-tin) 構造が安定であり、この状態の金属スズをβスズ(白色スズ)と言う。一方で、13.2 °C以下で安定なαスズは脆く灰色の非金属物質である。αスズはダイヤモンドやケイ素、ゲルマニウムなどに類似したダイヤモンド型結晶構造を取る。αスズは共有結合によって形成されているため自由電子を持たず、金属的な性質を有さない。αスズには一般的な用途は無いが、いくつかの特殊な半導体用途に用いられる。スズにはさらに2つの同素体があり、161 °C以上の温度ではγスズ、数GPa以上の高圧下ではσスズとなる。 一般に流通している金属スズの純度は99.8%であり、不純物として少量のビスマス、アンチモン、鉛および銀が含まれている。これらの不純物元素はβスズがαスズへと転移するのを抑制する働きがある。また、銅、アンチモン、ビスマス、カドミウム、銀などと合金を形成し、スズの硬度を向上させる。スズは硬く脆い金属間化合物相を容易に形成する傾向があり、それらはしばしば望ましくないものとされる。スズは一般的な金属と比べて固溶体を形成する範囲が狭く、スズに対して高い固溶度を示す元素はほとんど無い。一方でビスマス、ガリウム、鉛、タリウム、亜鉛との間では単純共晶系を示す。 超伝導転移温度は3.72Kである。超伝導スズは超伝導の研究において最も初期に発見された超伝導体の一つであり、超伝導体の持つ性質の一つであるマイスナー効果も超伝導スズから発見された。 スズには常温に近い温度にβスズとαスズの転移点が存在する。αスズへの転移では展性が失われ、同時に大幅に体積が増加する。この転移温度は13.2 °Cであるが、アルミニウムや亜鉛などの不純物が含まれると転移温度は0 °Cを下回る。通常の温度範囲では不純物などの影響によりこの転移はほとんど進まないが、極地方のような酷寒の環境では転移が進行する場合があり、スズ製品が膨らんでぼろぼろになってしまう現象が生じる。この現象はスズ製品の一部分から始まりやがて全体に広がるため、伝染病に喩えてスズペストと呼ばれる。アンチモンやビスマスを添加することで同素変態を防ぎスズの耐久性を向上させることができる。 スズに限らず金属にはこういった、温度や圧力に応じて結晶構造が変わる同素変態をみせるものがある。スズではこの同素変態によってその物性が大きく変化する。βスズからαスズには熱力学的には13.2 °Cで変態するが、実際に反応が進行するのは−10 °Cの低温領域からであり、−45 °Cでその反応速度は最大になるが、それでも1 mm進むのに約500時間も掛かる。スズは結晶構造の違いによってさらに161 °C以上でのγスズがあり、これらの異なる単体は同素体と呼ばれ、変態する温度は変態点と呼ばれる。 スズは両性を示し酸ともアルカリとも反応するが、中性領域においてはある程度の耐食性を示す。濃硝酸に対しては加水分解により不溶性の二酸化スズ水和物を形成して沈殿を生じる。アルカリとの反応では対応するスズ酸塩を形成する。 スズは通常+2価および+4価の酸化数を取る。+2価のスズ化合物はイオン結合性の強い物質で還元性を有しており、+4価のスズ化合物は共有結合性の強い物質である。単原子イオンのSnは存在しないと考えられており、+4価のスズイオンはSn(OH)6やSnCl6等の錯イオンの形で存在している。第14族元素は軽い元素ほど+4価が安定で、重い元素になるほど+2価が安定となる周期性を有しており、その周期性を反映して+2価のスズは比較的安定であるが、それでも+2価のスズイオンは容易に空気酸化を受けて+4価に酸化される。また、+3価の化合物としては、Sn[(Me3Si)2N]3のような配位化合物が知られている。通常スズの+3価の化合物は不安定で単離が困難だが、この化合物は分子サイズの大きな配位子に囲まれていることによる立体障害の大きさに守られているため、数ヶ月から1年程度は安定に存在できる。Sn3F8のような化合物は形式的には+2.7価であるが、これは2個のSnF2と1個のSnF4からなる混合原子価化合物である。 スズは他の第14族元素と同様にカテネーションを起こすことが知られており、例えばアンモニア中でアルカリ金属元素と反応してNa2Sn5のようなスズクラスター構造を含む化合物を形成する。また有機金属化合物ではスズが直鎖もしくは環状にカテネーションした化合物が多く存在しており、例えば[Sn(CH3)2]nではn=12から20のスズの直鎖構造を持ち、(C2H5)2Snはスズが環状にカテネーションした6量体や9量体の構造を取る。 スズには安定同位体の種類が比較的多い。これは、スズの陽子の数が魔法数の1つである50だからだと説明されている。 スズは鉄などと比較すると融点が低いため比較的加工しやすい金属材料として、また鉛などと比較すると害が少ない比較的扱いやすい金属材料として、スズ単体、または、合金の成分として古来から広く用いられてきた。 合金にすることで軟金属を硬くしたり、融点を下げてより加工性を良くする等の作用がある。スズを含む合金としては、鉛との合金であるはんだ(最近は鉛フリーのはんだもある)、銅との合金である青銅が代表的である。青銅の一種である砲金は靱性に富むため、1450年ごろからそれまで鋳鉄製だった大砲がこれで鋳造され、砲金の名もここからきている。この青銅製への変換によって大砲は安定性を獲得し、1520年ごろには大砲は完全に青銅製のものとなった。大砲はやがてふたたび鉄製に移行したが、砲金は現代においても機械の軸受けなどに広く使用される。 パイプオルガンのパイプもスズを主とした合金である。鉛は単体では金属素材として軟すぎるため、スズ等を加えて硬くした活字合金や硬鉛として利用されることが多い。 中世ヨーロッパでは、スズを主成分とする合金であるピューター(しろめ)が、銀食器に次ぐ高級食器に使われた。スズを大量に産出するマレーシアでは、19世紀からピューターで作った食器や花器、その他の工芸品が作られ、国を代表する特産品になっており、ロイヤルセランゴール社などの製品が各国に輸出されている。19世紀から20世紀前半にかけてのヨーロッパでは、スズで作られた男児用の玩具であるスズの兵隊が生産され、現代ではコレクターによって収集されている。全米フィギュアスケート選手権では4位の選手にピューター(錫合金)メダルを授与する。 時報として鳴らすベルや、仏教で使われる仏具のひとつ鈴の製造材料としても使われている。非常に安定した材質であるため、昔から存在するベルや鈴も現役で使われている。 このほか、軸受に用いられるバビットメタル(銅およびアンチモンとの合金)、ウッド合金やガリンスタンのような一連の低融点合金などがある。 スズ単体についても、錆びず適度な硬さがあり加工もしやすいため、食器などの日用品やスズ箔として広く用いられてきた。安価で錆びにくい金属食器としての地位は軽量・頑丈で熱に強いアルミニウム食器に置き換わったが、手工芸による加工に適したスズもなお食器材料として一定の需要がある。 液体金属冷却炉#スズ 近代の用途としてまず最初に開発されたのはβスズを鋼板に被覆したブリキであり、亜鉛を同じく鋼板に被覆したトタンとともに錆びやすい鋼板の大量使用への道を開き、缶詰や玩具の材料として広く使用された。 なお、スズには毒性(後述)があるため、食品衛生法により缶詰中に含まれる(溶出する)上限値が定められている。1969年には、上限値以上のスズが含まれるトマトジュースが流通して食中毒が起きたことがある。 第二次世界大戦以前のスズの生産地は、南アメリカや東南アジアなど政情が不安定な地域に限られていた。戦争中にスズの入手難に陥ったアメリカ合衆国は、電気メッキ法の改良よりブリキ製造に用いるスズの使用量を低減させることに成功。戦後、安価な製品を大量生産する道を拓いた。 インジウムとスズの酸化物 (ITO) は液晶ディスプレイ・有機ELの電極として用いられるほか、熱線カットガラスとして乗用車のフロントガラスなどの表面に用いられる。また、融点が低いことを利用してフロートガラスの製造にも使われている。 有機スズ化合物は塩化ビニールなどの安定剤などに広く使用される。 日本には、スズそのものの加工品としては奈良時代後期に茶とともに持ち込まれた可能性が高い。今でいう茶壷、茶托などと推測される。金属スズは比較的毒性が低く、酸化や腐食に強いため、主に飲食器として重宝された。現在でも、大陸喫茶文化の流れを汲む煎茶道ではスズの器物が用いられることが多い。日本独自のものには、神社で用いられる瓶子(へいし、御神酒徳利)、水玉、高杯などの神具がある。いずれも京都を中心として製法が発展し、全国へ広まった。それまでの特権階級のものから、江戸時代には町民階級にも慣れ親しまれ、酒器、中でも特に注器としてもてはやされた。落語『御神酒徳利』の語りの発端となる御神酒徳利は、スズ製という設定である。京都、大阪(大阪浪華錫器)、鹿児島(薩摩錫器)に、伝統的な錫工芸品が今も残る。近年では日本酒用以外にビアマグやタンブラーなどもつくられるようになった。また、一部の比較的高級な飲食店では日本酒の燗に、こだわりとして高価であるスズ製ちろりを使用するところがある。科学的には定かではないが、錫製品は水を浄化し雑味が取り除かれ、酒がまろやかになると言われている。近年では、錫の軟らかい性質を利用した錫製品や作品が、富山県を中心に製造されている。他にも第二次世界大戦中にチャフとして使われた。 上記用途のうちでもっとも重要な用途ははんだの製造であり、スズ年間使用量の約45%を占める。次いで約20%がスズめっき(ブリキなど)に使用される。3番目の用途は塩化ビニールなどの安定剤などに使用する化合物としての使用であり、この用途に約15%が使用される。残り20%が各種合金やガラス製造、スズ工芸品などその他の用途に使用される分である。 スズは人間や動物には容易に吸収されず、生体中での生物学的役割は知られていない。スズは金属や酸化物、塩類といった無機化合物の形では毒性が低いため食器や缶詰など広範囲に渡って利用されているが、缶詰内側の腐食などによって高濃度に無機スズが溶出した食品を摂取することによる急性中毒も発生している。急性毒性の症状としては吐き気、嘔吐、下痢などがみられる。例えば、日本の食品衛生法ではスズの濃度は150 ppm以下とするよう定められており、英国食品基準局では缶詰食品中のスズ濃度の上限を200 ppmとしている。この要因の多くは、何らかの理由で缶の錫メッキが腐食を起こして溶出したり、土壌に施した硝酸肥料により作物(主に根菜など)に高濃度の硝酸塩が含まれていたことによる。 2002年に英国食品基準局が行った調査では、調査対象となった食品の缶詰のうち99.5 %がスズの含有量の上限値を下回っており、基準値を超えていた缶詰に関しては販売差し止め措置が取られている。2003年のBlundenの報告では、過去25年間に100から200 ppmの濃度範囲ではスズの急性中毒の症例の報告がないことから、スズの急性中毒の閾値は200 ppmであることが示唆されるという見解が示されている。また、長期間酸化スズの粉塵に曝される環境では肺が冒されることがあり、錫肺症と呼ばれる。環境の整っていない時代には鉱山からの採掘の際に多くの労働者が肺を病んだ。 一方で、有機スズ化合物の毒性は無機スズ化合物の毒性よりもはるかに高く、その毒性は有機基によって異なるもののいくつかの有機スズ化合物はシアン化物と同程度の非常に強い毒性を有するものもある。トリブチルスズ誘導体 (TBT)は船底に貝が付着することを効果的に防止する塗料として広く用いられていたが、1970年代以降内分泌攪乱化学物質としての作用や海洋生物に対する蓄積毒性などTBTの毒性が知られ始め、1982年にフランス政府がTBTを含む塗料を小型ボートに使用することを禁止したのをはじめとして各国で規制されるようになっていった。例えば日本では化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(化審法)によって第一種特定化学物質としてビス(トリブチルスズ)オキシドが規制対象となっており、トリフェニルスズ誘導体やトリブチルスズ誘導体も第二種特定化学物質として規制対象となっている。2001年には全ての船舶に有機スズ化合物を含んだ塗料の使用を禁止する船舶の有害な防汚方法の規則に関する国際条約 (IMO条約)が国際海事機関によって採択され、2008年に25か国が批准したことによって発効した。また、TBTは2009年にロッテルダム条約(国際貿易の対象となる特定の有害な化学物質及び駆除剤についての事前のかつ情報に基づく同意の手続に関するロッテルダム条約、PIC条約)の規制対象物質リストである附属書IIIに追加され、TBTの国際貿易を行うには500 ppm以下の非意図的混入を除いて輸出申請を行わなければならないことが義務付けられている。 金属スズを曲げると、結晶構造が変化することによりスズ鳴き (tin cry) と呼ばれる独特の音がする。同様の現象は、ニオブやインジウムでも見られる。 体心正方晶格子である白色スズの結晶に力を加えて変形させると、「カリッ」と音を出して金属結晶が塑性変形して内部結晶が双晶に変化する。この双晶は変形双晶や機械的双晶と呼ばれ、冷間加工後に焼きなましされた時に作られる焼きなまし双晶と区別される。 スズは、錫石(すずいし)などに含まれている。比較的精錬や加工のしやすい金属として、古くから用いられてきた。青銅器などの材料として有名である。 スズの重要な鉱石鉱物は、錫石 (SnO2) であり、スズ鉱石の4分の3を占めている。主に石英との鉱石フォーメーションとして産する。鉱滓からはタンタルを回収できる。錫石は比重の大きなスズと比重の小さい石英を主体としており、また浮遊選鉱になじまないため、古い選鉱法である比重選鉱法(鉱石の載ったテーブル上に水を流し込み、振動させて比重の差により分離する)が主に使用される。風化に強いため、砂鉱の砂錫としても産出する。また、硫化物からなる黄錫鉱(Cu2FeSnS4)もおもな鉱石のひとつである。 スズの鉱床は漂砂鉱床と鉱脈とに大別され、東南アジアにおいては漂砂鉱床が、南アメリカのアンデス山脈においては鉱脈が主流である。2006年度の鉱山からの世界生産量は321000トンである。2006年度において最もスズの産出量が多い国はインドネシアであり、117500トンにのぼる。これに次ぐのが中国であり、114300トンを産出している。これ以外の国の産出量は上位2国に比べると生産量はずっと少なく、3位のペルーでも38470トンと半分以下になる。以下、産出量はボリビア、ブラジル、コンゴ民主共和国、ロシア、ベトナム、マレーシアと続く。こののち、2010年にはスズの最大生産国は中国となり、インドネシアはスズ鉱石・スズ精鉱ともに世界2位の生産量となった。スズは埋蔵量に比べて消費量が多い金属の1つであり、可採埋蔵量は18年(2007年)にすぎないが、スズは未探査区域の多い鉱物であり、その推定埋蔵が見込まれるため実際の枯渇はそれより後になると考えられている。また、スズはリサイクルが盛んであり、鉱山からの産出32万トンのほかに、リサイクルからの供給が14000トンほど存在する。スズ鉱石は必ずしも生産国で精錬されるわけではなく、ベルギーのようにまったく国内にスズを産しないにもかかわらず精錬量の多い国や、逆にコンゴ民主共和国のように多量のスズ鉱石を産出しながらまったく国内で精錬の行われない国も存在する。スズ生産企業としては、中国の雲南錫業やインドネシアの国営スズ鉱山企業であるティマ社などが大きい。 日本においてはかつて兵庫県の明延鉱山などで盛んに産出されたが、現在ではスズ鉱山のほとんどは閉山し産出はわずかである。2008年には日本のスズ輸入量は33659トンであったが、このほかに日本国内に流通するブリキやハンダの多くはリサイクルに回されるため、この回収された分の国内生産量が879トン存在する。 スズは融点が低く、また主要鉱石である錫石からの精練が容易であるため、人類史においてもっとも早くから使用され始めた金属の一つである。当初の主な用途は銅との合金である青銅を製造することであり、紀元前3000年頃にメソポタミアにおいて初めて青銅が開発されたことによって銅の硬度不足が大幅に改善され、人類は石器時代から青銅器時代へと移行した。ただしスズは地域的に非常に偏在している鉱物であり、現代においても一部地域に鉱山が集中する傾向がある。このため、スズを発見できなかった地域においては石器時代が長く続くことも稀ではなかった。日本においては青銅の製法は鉄と同時に伝えられたために青銅器時代が存在せず、また新大陸においても青銅の発見が遅れたために、スペイン人が新大陸に到達した時点において青銅は装飾品としての利用に限られていた。 古くから世界有数(少なくともヨーロッパ最大)のスズの産地だったのは、イギリスのコーンウォールである。この地域のスズ鉱山はフェニキア人が初めて開発したと言われ、各地に盛んにスズを輸出していた。コーンウォールに隣接するデヴォン州においては、スズの地金を積んだ青銅器時代の難破船が発見されており、この時期すでに盛んにスズ交易が行われていたことをうかがわせる。この航路を握っていたフェニキア人国家であるカルタゴの崩壊後はローマ人がこの交易を握り、やがて43年のクラウディウス帝の遠征によってコーンウォールはローマ帝国領のブリタンニアとなり、帝国崩壊後も中世・近世にかけて、イギリスはヨーロッパ中にスズを輸出していた。しかし産業革命により、とくに1810年にイギリスのピーター・デュラントによって缶詰が開発されブリキ製造用のスズの需要が急増すると、コーンウォールのスズでは不足するようになり、産出量も1871年を最後に減少するようになった。それ以降も1890年代までは世界有数の産地であり続けたが、他産地との競合に敗れて1900年代にはシェアが大幅に下落した。 それに代わって世界最大のスズ産出国となったのがマレーシアである。マレー半島は古くからスズの産地として知られていたが、イギリスの植民地時代に資源開発が進み、1972年の7700トン/年をピークに減少に転じたものの、1985年までは世界の約4分の1のシェアを占めていた。マレーにおけるスズの主産地はキンタ渓谷からクラン渓谷にかけての一帯であり、この錫鉱山地帯の中心となったイポーは1900年代に入り急速に発展した。この時期、スズが国家経済において重要な地位を占めたもう一つの国はボリビアである。ボリビアのスズ開発は1880年代に始まり、当時同国の主要輸出品であった銀の退潮と時を同じくして生産は急増していった。このスズの増産は民族資本によって行われたものであり、オルロ近郊にあるワヌニ鉱山の開発によって世界有数の大富豪と呼ばれたシモン・パティーニョのパティーニョ財閥をはじめとし、カルロス・ビクトル・アラマヨのアラマヨ財閥とマウリシオ・ホッホチルドのホッホチルド財閥を含めた3大財閥が生産の大部分を独占していた。これらの新興財閥はラパス市に本拠を置く自由党と結びつき、1899年には銀鉱山主と結びつきスクレ市を基盤とする保守党の政権を打倒した。これはボリビア連邦革命と呼ばれ、これによってボリビアの首都はスクレからスズ鉱山主の本拠地であるラパス市に事実上移動した。その後はさらにボリビアのスズ生産は増加し、1902年には銀の輸出額を抜き、1913年には同国の輸出の70%を占めるようになり、「スズの世紀」とも呼ばれる時期を現出した。この好況期は1929年の大恐慌によって終息するが、その後も1980年代に至るまでの100年以上もの間、スズはボリビア経済の柱となっていた。 こうしたスズ生産を統括するため、1956年には国際スズ協定が採択された。この協定は価格維持と生産安定を主眼に置いたもので、下部機関の国際スズ理事会によって輸出割り当てや需給調整が行われていた。このシステムは1976年頃までは有効に機能したが、しかしその後はオイルショックによる資源全般高に引っ張られたスズの価格高騰と、それに反比例する消費の低迷によってこの協定は揺らぎ始めた。また、この協定は生産国と消費国がともに加盟するものであったため、生産国のための機関として1983年、スズ生産国同盟がマレーシアを中心として結成された。さらに1982年に第6次協定が締結されたが、これには大生産国のボリビアやアメリカ、ソビエト連邦の3か国が参加しなかったため、市場支配力が80%から53%にまで激減したことも、この体制の動揺を加速させた。そして1985年、国際スズ市場が暴落したため国際スズ理事会が機能を停止し、それを受けてロンドン金属取引所(LME)でのスズが取引停止となり、世界中のスズ取引が停止してしまった。錫危機である。これによって国際スズ協定の価格維持策は完全に崩壊した。 このためにマレーシアのスズ鉱業は壊滅的な打撃を受け、翌1986年には産出量は半減し、その後も市場の混乱や資源枯渇による衰退が続き、現在は主要でない産出国の一つにすぎない。またボリビアも、1952年のボリビア革命によって3大財閥のスズ鉱山が接収されて国有化されたのちは、非効率な経営によって生産の減退が続き、1986年に国有企業のボリビア鉱山公社が解散した後でも生産の伸びはみられず、生産量は世界第4位にまで落ち込んでいる。 これに代わってスズ生産を伸ばし大生産国に躍り出たのは、インドネシアと中国だった。インドネシアは19世紀末のオランダ領インドネシア時代にバンカ島とブリトゥン島(ビリトン島)でのスズ開発が始まって以来のスズの生産国の一つである。このうちビリトン島で1860年にスズの採掘を始めたビリトン社は、やがてオランダ領スリナムのボーキサイト採掘など非鉄金属鉱山全般に業務を拡大し、やがて2001年にオーストラリアのBHP社と合併して世界最大の資源企業であるBHPビリトン(現在はBHPグループ)となった。この両島でのスズ採掘は現代ではインドネシア国営企業のティマ社が行っている。 スズの価格は上記のスズ危機以降低迷を続け、2002年頃まで低迷していたが、その後中国のスズ需要の急増などに伴って価格が急騰し、2007年には2002年の3倍以上の価格となった。 古くから用いられてきたことから錫(tin)を金属の代名詞とする言い回しも多い。例としては『tin fish(魚雷)』、『tin hat(軍用のヘルメット)』、『Tin Kincer(航空事故の調査官)』などである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スズ(錫、英: Tin、独: Zinn)とは、典型元素の中の炭素族元素に分類される金属で、原子番号50の元素である。元素記号は Sn。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "元素記号のSnは、ラテン語のstannumに由来する。元来この単語は銀と鉛の合金を意味していたが、4世紀にはスズを意味するようになった。それ以前にはスズのことはplumbum candidum(白い鉛)と呼んでいた。Stannumは、ロマンシュ語やケルト語においてスズを意味する語の語源であるstāgnumに由来しているものと見られる。stannumおよびstāgnumの起源は不明である。印欧語以前のものかもしれない。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『マイヤー百科事典』では、stannumはコーンウォール語(の祖語)のsteanに由来するものであるとし、紀元後の最初の数世紀においてコーンウォールがスズの主な産地であったことをその根拠としている。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "英語のtinという語はゲルマン諸語の間で共有されており、再構されたゲルマン祖語の*tin-omにまで遡ることができる。同源の語に、ドイツ語のZinn、スウェーデン語のtenn、オランダ語のtinがある。この語は、ゲルマン語からの借用(英語からアイルランド語に借用されたtinneなど)を除いて、他の印欧語には見られない。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "漢字の「錫」は「金」と「易」からなる会意文字で、容易に伸ばせる金属の意である。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "スズは軟らかく展延性を有した結晶性の高い白銀色の金属である。金属スズに力をかけて変形させると、「スズ鳴き」と呼ばれる双晶変形による亀裂音を発する。第14族元素中で最も低い232 °Cの融点を持ち、粒径11 nmの微細粒子ではさらに低温(177 °C)で溶融する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "常温・常圧では展延性を有する正方晶のβスズ (beta-tin) 構造が安定であり、この状態の金属スズをβスズ(白色スズ)と言う。一方で、13.2 °C以下で安定なαスズは脆く灰色の非金属物質である。αスズはダイヤモンドやケイ素、ゲルマニウムなどに類似したダイヤモンド型結晶構造を取る。αスズは共有結合によって形成されているため自由電子を持たず、金属的な性質を有さない。αスズには一般的な用途は無いが、いくつかの特殊な半導体用途に用いられる。スズにはさらに2つの同素体があり、161 °C以上の温度ではγスズ、数GPa以上の高圧下ではσスズとなる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一般に流通している金属スズの純度は99.8%であり、不純物として少量のビスマス、アンチモン、鉛および銀が含まれている。これらの不純物元素はβスズがαスズへと転移するのを抑制する働きがある。また、銅、アンチモン、ビスマス、カドミウム、銀などと合金を形成し、スズの硬度を向上させる。スズは硬く脆い金属間化合物相を容易に形成する傾向があり、それらはしばしば望ましくないものとされる。スズは一般的な金属と比べて固溶体を形成する範囲が狭く、スズに対して高い固溶度を示す元素はほとんど無い。一方でビスマス、ガリウム、鉛、タリウム、亜鉛との間では単純共晶系を示す。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "超伝導転移温度は3.72Kである。超伝導スズは超伝導の研究において最も初期に発見された超伝導体の一つであり、超伝導体の持つ性質の一つであるマイスナー効果も超伝導スズから発見された。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "スズには常温に近い温度にβスズとαスズの転移点が存在する。αスズへの転移では展性が失われ、同時に大幅に体積が増加する。この転移温度は13.2 °Cであるが、アルミニウムや亜鉛などの不純物が含まれると転移温度は0 °Cを下回る。通常の温度範囲では不純物などの影響によりこの転移はほとんど進まないが、極地方のような酷寒の環境では転移が進行する場合があり、スズ製品が膨らんでぼろぼろになってしまう現象が生じる。この現象はスズ製品の一部分から始まりやがて全体に広がるため、伝染病に喩えてスズペストと呼ばれる。アンチモンやビスマスを添加することで同素変態を防ぎスズの耐久性を向上させることができる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "スズに限らず金属にはこういった、温度や圧力に応じて結晶構造が変わる同素変態をみせるものがある。スズではこの同素変態によってその物性が大きく変化する。βスズからαスズには熱力学的には13.2 °Cで変態するが、実際に反応が進行するのは−10 °Cの低温領域からであり、−45 °Cでその反応速度は最大になるが、それでも1 mm進むのに約500時間も掛かる。スズは結晶構造の違いによってさらに161 °C以上でのγスズがあり、これらの異なる単体は同素体と呼ばれ、変態する温度は変態点と呼ばれる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "スズは両性を示し酸ともアルカリとも反応するが、中性領域においてはある程度の耐食性を示す。濃硝酸に対しては加水分解により不溶性の二酸化スズ水和物を形成して沈殿を生じる。アルカリとの反応では対応するスズ酸塩を形成する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "スズは通常+2価および+4価の酸化数を取る。+2価のスズ化合物はイオン結合性の強い物質で還元性を有しており、+4価のスズ化合物は共有結合性の強い物質である。単原子イオンのSnは存在しないと考えられており、+4価のスズイオンはSn(OH)6やSnCl6等の錯イオンの形で存在している。第14族元素は軽い元素ほど+4価が安定で、重い元素になるほど+2価が安定となる周期性を有しており、その周期性を反映して+2価のスズは比較的安定であるが、それでも+2価のスズイオンは容易に空気酸化を受けて+4価に酸化される。また、+3価の化合物としては、Sn[(Me3Si)2N]3のような配位化合物が知られている。通常スズの+3価の化合物は不安定で単離が困難だが、この化合物は分子サイズの大きな配位子に囲まれていることによる立体障害の大きさに守られているため、数ヶ月から1年程度は安定に存在できる。Sn3F8のような化合物は形式的には+2.7価であるが、これは2個のSnF2と1個のSnF4からなる混合原子価化合物である。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "スズは他の第14族元素と同様にカテネーションを起こすことが知られており、例えばアンモニア中でアルカリ金属元素と反応してNa2Sn5のようなスズクラスター構造を含む化合物を形成する。また有機金属化合物ではスズが直鎖もしくは環状にカテネーションした化合物が多く存在しており、例えば[Sn(CH3)2]nではn=12から20のスズの直鎖構造を持ち、(C2H5)2Snはスズが環状にカテネーションした6量体や9量体の構造を取る。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スズには安定同位体の種類が比較的多い。これは、スズの陽子の数が魔法数の1つである50だからだと説明されている。", "title": "同位体" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "スズは鉄などと比較すると融点が低いため比較的加工しやすい金属材料として、また鉛などと比較すると害が少ない比較的扱いやすい金属材料として、スズ単体、または、合金の成分として古来から広く用いられてきた。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "合金にすることで軟金属を硬くしたり、融点を下げてより加工性を良くする等の作用がある。スズを含む合金としては、鉛との合金であるはんだ(最近は鉛フリーのはんだもある)、銅との合金である青銅が代表的である。青銅の一種である砲金は靱性に富むため、1450年ごろからそれまで鋳鉄製だった大砲がこれで鋳造され、砲金の名もここからきている。この青銅製への変換によって大砲は安定性を獲得し、1520年ごろには大砲は完全に青銅製のものとなった。大砲はやがてふたたび鉄製に移行したが、砲金は現代においても機械の軸受けなどに広く使用される。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "パイプオルガンのパイプもスズを主とした合金である。鉛は単体では金属素材として軟すぎるため、スズ等を加えて硬くした活字合金や硬鉛として利用されることが多い。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中世ヨーロッパでは、スズを主成分とする合金であるピューター(しろめ)が、銀食器に次ぐ高級食器に使われた。スズを大量に産出するマレーシアでは、19世紀からピューターで作った食器や花器、その他の工芸品が作られ、国を代表する特産品になっており、ロイヤルセランゴール社などの製品が各国に輸出されている。19世紀から20世紀前半にかけてのヨーロッパでは、スズで作られた男児用の玩具であるスズの兵隊が生産され、現代ではコレクターによって収集されている。全米フィギュアスケート選手権では4位の選手にピューター(錫合金)メダルを授与する。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "時報として鳴らすベルや、仏教で使われる仏具のひとつ鈴の製造材料としても使われている。非常に安定した材質であるため、昔から存在するベルや鈴も現役で使われている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "このほか、軸受に用いられるバビットメタル(銅およびアンチモンとの合金)、ウッド合金やガリンスタンのような一連の低融点合金などがある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スズ単体についても、錆びず適度な硬さがあり加工もしやすいため、食器などの日用品やスズ箔として広く用いられてきた。安価で錆びにくい金属食器としての地位は軽量・頑丈で熱に強いアルミニウム食器に置き換わったが、手工芸による加工に適したスズもなお食器材料として一定の需要がある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "液体金属冷却炉#スズ", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "近代の用途としてまず最初に開発されたのはβスズを鋼板に被覆したブリキであり、亜鉛を同じく鋼板に被覆したトタンとともに錆びやすい鋼板の大量使用への道を開き、缶詰や玩具の材料として広く使用された。 なお、スズには毒性(後述)があるため、食品衛生法により缶詰中に含まれる(溶出する)上限値が定められている。1969年には、上限値以上のスズが含まれるトマトジュースが流通して食中毒が起きたことがある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦以前のスズの生産地は、南アメリカや東南アジアなど政情が不安定な地域に限られていた。戦争中にスズの入手難に陥ったアメリカ合衆国は、電気メッキ法の改良よりブリキ製造に用いるスズの使用量を低減させることに成功。戦後、安価な製品を大量生産する道を拓いた。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "インジウムとスズの酸化物 (ITO) は液晶ディスプレイ・有機ELの電極として用いられるほか、熱線カットガラスとして乗用車のフロントガラスなどの表面に用いられる。また、融点が低いことを利用してフロートガラスの製造にも使われている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "有機スズ化合物は塩化ビニールなどの安定剤などに広く使用される。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本には、スズそのものの加工品としては奈良時代後期に茶とともに持ち込まれた可能性が高い。今でいう茶壷、茶托などと推測される。金属スズは比較的毒性が低く、酸化や腐食に強いため、主に飲食器として重宝された。現在でも、大陸喫茶文化の流れを汲む煎茶道ではスズの器物が用いられることが多い。日本独自のものには、神社で用いられる瓶子(へいし、御神酒徳利)、水玉、高杯などの神具がある。いずれも京都を中心として製法が発展し、全国へ広まった。それまでの特権階級のものから、江戸時代には町民階級にも慣れ親しまれ、酒器、中でも特に注器としてもてはやされた。落語『御神酒徳利』の語りの発端となる御神酒徳利は、スズ製という設定である。京都、大阪(大阪浪華錫器)、鹿児島(薩摩錫器)に、伝統的な錫工芸品が今も残る。近年では日本酒用以外にビアマグやタンブラーなどもつくられるようになった。また、一部の比較的高級な飲食店では日本酒の燗に、こだわりとして高価であるスズ製ちろりを使用するところがある。科学的には定かではないが、錫製品は水を浄化し雑味が取り除かれ、酒がまろやかになると言われている。近年では、錫の軟らかい性質を利用した錫製品や作品が、富山県を中心に製造されている。他にも第二次世界大戦中にチャフとして使われた。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "上記用途のうちでもっとも重要な用途ははんだの製造であり、スズ年間使用量の約45%を占める。次いで約20%がスズめっき(ブリキなど)に使用される。3番目の用途は塩化ビニールなどの安定剤などに使用する化合物としての使用であり、この用途に約15%が使用される。残り20%が各種合金やガラス製造、スズ工芸品などその他の用途に使用される分である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "スズは人間や動物には容易に吸収されず、生体中での生物学的役割は知られていない。スズは金属や酸化物、塩類といった無機化合物の形では毒性が低いため食器や缶詰など広範囲に渡って利用されているが、缶詰内側の腐食などによって高濃度に無機スズが溶出した食品を摂取することによる急性中毒も発生している。急性毒性の症状としては吐き気、嘔吐、下痢などがみられる。例えば、日本の食品衛生法ではスズの濃度は150 ppm以下とするよう定められており、英国食品基準局では缶詰食品中のスズ濃度の上限を200 ppmとしている。この要因の多くは、何らかの理由で缶の錫メッキが腐食を起こして溶出したり、土壌に施した硝酸肥料により作物(主に根菜など)に高濃度の硝酸塩が含まれていたことによる。 2002年に英国食品基準局が行った調査では、調査対象となった食品の缶詰のうち99.5 %がスズの含有量の上限値を下回っており、基準値を超えていた缶詰に関しては販売差し止め措置が取られている。2003年のBlundenの報告では、過去25年間に100から200 ppmの濃度範囲ではスズの急性中毒の症例の報告がないことから、スズの急性中毒の閾値は200 ppmであることが示唆されるという見解が示されている。また、長期間酸化スズの粉塵に曝される環境では肺が冒されることがあり、錫肺症と呼ばれる。環境の整っていない時代には鉱山からの採掘の際に多くの労働者が肺を病んだ。", "title": "毒性" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "一方で、有機スズ化合物の毒性は無機スズ化合物の毒性よりもはるかに高く、その毒性は有機基によって異なるもののいくつかの有機スズ化合物はシアン化物と同程度の非常に強い毒性を有するものもある。トリブチルスズ誘導体 (TBT)は船底に貝が付着することを効果的に防止する塗料として広く用いられていたが、1970年代以降内分泌攪乱化学物質としての作用や海洋生物に対する蓄積毒性などTBTの毒性が知られ始め、1982年にフランス政府がTBTを含む塗料を小型ボートに使用することを禁止したのをはじめとして各国で規制されるようになっていった。例えば日本では化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(化審法)によって第一種特定化学物質としてビス(トリブチルスズ)オキシドが規制対象となっており、トリフェニルスズ誘導体やトリブチルスズ誘導体も第二種特定化学物質として規制対象となっている。2001年には全ての船舶に有機スズ化合物を含んだ塗料の使用を禁止する船舶の有害な防汚方法の規則に関する国際条約 (IMO条約)が国際海事機関によって採択され、2008年に25か国が批准したことによって発効した。また、TBTは2009年にロッテルダム条約(国際貿易の対象となる特定の有害な化学物質及び駆除剤についての事前のかつ情報に基づく同意の手続に関するロッテルダム条約、PIC条約)の規制対象物質リストである附属書IIIに追加され、TBTの国際貿易を行うには500 ppm以下の非意図的混入を除いて輸出申請を行わなければならないことが義務付けられている。", "title": "毒性" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "金属スズを曲げると、結晶構造が変化することによりスズ鳴き (tin cry) と呼ばれる独特の音がする。同様の現象は、ニオブやインジウムでも見られる。", "title": "スズ鳴き" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "体心正方晶格子である白色スズの結晶に力を加えて変形させると、「カリッ」と音を出して金属結晶が塑性変形して内部結晶が双晶に変化する。この双晶は変形双晶や機械的双晶と呼ばれ、冷間加工後に焼きなましされた時に作られる焼きなまし双晶と区別される。", "title": "スズ鳴き" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "スズは、錫石(すずいし)などに含まれている。比較的精錬や加工のしやすい金属として、古くから用いられてきた。青銅器などの材料として有名である。", "title": "スズ鉱石" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "スズの重要な鉱石鉱物は、錫石 (SnO2) であり、スズ鉱石の4分の3を占めている。主に石英との鉱石フォーメーションとして産する。鉱滓からはタンタルを回収できる。錫石は比重の大きなスズと比重の小さい石英を主体としており、また浮遊選鉱になじまないため、古い選鉱法である比重選鉱法(鉱石の載ったテーブル上に水を流し込み、振動させて比重の差により分離する)が主に使用される。風化に強いため、砂鉱の砂錫としても産出する。また、硫化物からなる黄錫鉱(Cu2FeSnS4)もおもな鉱石のひとつである。", "title": "スズ鉱石" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "スズの鉱床は漂砂鉱床と鉱脈とに大別され、東南アジアにおいては漂砂鉱床が、南アメリカのアンデス山脈においては鉱脈が主流である。2006年度の鉱山からの世界生産量は321000トンである。2006年度において最もスズの産出量が多い国はインドネシアであり、117500トンにのぼる。これに次ぐのが中国であり、114300トンを産出している。これ以外の国の産出量は上位2国に比べると生産量はずっと少なく、3位のペルーでも38470トンと半分以下になる。以下、産出量はボリビア、ブラジル、コンゴ民主共和国、ロシア、ベトナム、マレーシアと続く。こののち、2010年にはスズの最大生産国は中国となり、インドネシアはスズ鉱石・スズ精鉱ともに世界2位の生産量となった。スズは埋蔵量に比べて消費量が多い金属の1つであり、可採埋蔵量は18年(2007年)にすぎないが、スズは未探査区域の多い鉱物であり、その推定埋蔵が見込まれるため実際の枯渇はそれより後になると考えられている。また、スズはリサイクルが盛んであり、鉱山からの産出32万トンのほかに、リサイクルからの供給が14000トンほど存在する。スズ鉱石は必ずしも生産国で精錬されるわけではなく、ベルギーのようにまったく国内にスズを産しないにもかかわらず精錬量の多い国や、逆にコンゴ民主共和国のように多量のスズ鉱石を産出しながらまったく国内で精錬の行われない国も存在する。スズ生産企業としては、中国の雲南錫業やインドネシアの国営スズ鉱山企業であるティマ社などが大きい。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本においてはかつて兵庫県の明延鉱山などで盛んに産出されたが、現在ではスズ鉱山のほとんどは閉山し産出はわずかである。2008年には日本のスズ輸入量は33659トンであったが、このほかに日本国内に流通するブリキやハンダの多くはリサイクルに回されるため、この回収された分の国内生産量が879トン存在する。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "スズは融点が低く、また主要鉱石である錫石からの精練が容易であるため、人類史においてもっとも早くから使用され始めた金属の一つである。当初の主な用途は銅との合金である青銅を製造することであり、紀元前3000年頃にメソポタミアにおいて初めて青銅が開発されたことによって銅の硬度不足が大幅に改善され、人類は石器時代から青銅器時代へと移行した。ただしスズは地域的に非常に偏在している鉱物であり、現代においても一部地域に鉱山が集中する傾向がある。このため、スズを発見できなかった地域においては石器時代が長く続くことも稀ではなかった。日本においては青銅の製法は鉄と同時に伝えられたために青銅器時代が存在せず、また新大陸においても青銅の発見が遅れたために、スペイン人が新大陸に到達した時点において青銅は装飾品としての利用に限られていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "古くから世界有数(少なくともヨーロッパ最大)のスズの産地だったのは、イギリスのコーンウォールである。この地域のスズ鉱山はフェニキア人が初めて開発したと言われ、各地に盛んにスズを輸出していた。コーンウォールに隣接するデヴォン州においては、スズの地金を積んだ青銅器時代の難破船が発見されており、この時期すでに盛んにスズ交易が行われていたことをうかがわせる。この航路を握っていたフェニキア人国家であるカルタゴの崩壊後はローマ人がこの交易を握り、やがて43年のクラウディウス帝の遠征によってコーンウォールはローマ帝国領のブリタンニアとなり、帝国崩壊後も中世・近世にかけて、イギリスはヨーロッパ中にスズを輸出していた。しかし産業革命により、とくに1810年にイギリスのピーター・デュラントによって缶詰が開発されブリキ製造用のスズの需要が急増すると、コーンウォールのスズでは不足するようになり、産出量も1871年を最後に減少するようになった。それ以降も1890年代までは世界有数の産地であり続けたが、他産地との競合に敗れて1900年代にはシェアが大幅に下落した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "それに代わって世界最大のスズ産出国となったのがマレーシアである。マレー半島は古くからスズの産地として知られていたが、イギリスの植民地時代に資源開発が進み、1972年の7700トン/年をピークに減少に転じたものの、1985年までは世界の約4分の1のシェアを占めていた。マレーにおけるスズの主産地はキンタ渓谷からクラン渓谷にかけての一帯であり、この錫鉱山地帯の中心となったイポーは1900年代に入り急速に発展した。この時期、スズが国家経済において重要な地位を占めたもう一つの国はボリビアである。ボリビアのスズ開発は1880年代に始まり、当時同国の主要輸出品であった銀の退潮と時を同じくして生産は急増していった。このスズの増産は民族資本によって行われたものであり、オルロ近郊にあるワヌニ鉱山の開発によって世界有数の大富豪と呼ばれたシモン・パティーニョのパティーニョ財閥をはじめとし、カルロス・ビクトル・アラマヨのアラマヨ財閥とマウリシオ・ホッホチルドのホッホチルド財閥を含めた3大財閥が生産の大部分を独占していた。これらの新興財閥はラパス市に本拠を置く自由党と結びつき、1899年には銀鉱山主と結びつきスクレ市を基盤とする保守党の政権を打倒した。これはボリビア連邦革命と呼ばれ、これによってボリビアの首都はスクレからスズ鉱山主の本拠地であるラパス市に事実上移動した。その後はさらにボリビアのスズ生産は増加し、1902年には銀の輸出額を抜き、1913年には同国の輸出の70%を占めるようになり、「スズの世紀」とも呼ばれる時期を現出した。この好況期は1929年の大恐慌によって終息するが、その後も1980年代に至るまでの100年以上もの間、スズはボリビア経済の柱となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "こうしたスズ生産を統括するため、1956年には国際スズ協定が採択された。この協定は価格維持と生産安定を主眼に置いたもので、下部機関の国際スズ理事会によって輸出割り当てや需給調整が行われていた。このシステムは1976年頃までは有効に機能したが、しかしその後はオイルショックによる資源全般高に引っ張られたスズの価格高騰と、それに反比例する消費の低迷によってこの協定は揺らぎ始めた。また、この協定は生産国と消費国がともに加盟するものであったため、生産国のための機関として1983年、スズ生産国同盟がマレーシアを中心として結成された。さらに1982年に第6次協定が締結されたが、これには大生産国のボリビアやアメリカ、ソビエト連邦の3か国が参加しなかったため、市場支配力が80%から53%にまで激減したことも、この体制の動揺を加速させた。そして1985年、国際スズ市場が暴落したため国際スズ理事会が機能を停止し、それを受けてロンドン金属取引所(LME)でのスズが取引停止となり、世界中のスズ取引が停止してしまった。錫危機である。これによって国際スズ協定の価格維持策は完全に崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このためにマレーシアのスズ鉱業は壊滅的な打撃を受け、翌1986年には産出量は半減し、その後も市場の混乱や資源枯渇による衰退が続き、現在は主要でない産出国の一つにすぎない。またボリビアも、1952年のボリビア革命によって3大財閥のスズ鉱山が接収されて国有化されたのちは、非効率な経営によって生産の減退が続き、1986年に国有企業のボリビア鉱山公社が解散した後でも生産の伸びはみられず、生産量は世界第4位にまで落ち込んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "これに代わってスズ生産を伸ばし大生産国に躍り出たのは、インドネシアと中国だった。インドネシアは19世紀末のオランダ領インドネシア時代にバンカ島とブリトゥン島(ビリトン島)でのスズ開発が始まって以来のスズの生産国の一つである。このうちビリトン島で1860年にスズの採掘を始めたビリトン社は、やがてオランダ領スリナムのボーキサイト採掘など非鉄金属鉱山全般に業務を拡大し、やがて2001年にオーストラリアのBHP社と合併して世界最大の資源企業であるBHPビリトン(現在はBHPグループ)となった。この両島でのスズ採掘は現代ではインドネシア国営企業のティマ社が行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "スズの価格は上記のスズ危機以降低迷を続け、2002年頃まで低迷していたが、その後中国のスズ需要の急増などに伴って価格が急騰し、2007年には2002年の3倍以上の価格となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "古くから用いられてきたことから錫(tin)を金属の代名詞とする言い回しも多い。例としては『tin fish(魚雷)』、『tin hat(軍用のヘルメット)』、『Tin Kincer(航空事故の調査官)』などである。", "title": "歴史" } ]
スズとは、典型元素の中の炭素族元素に分類される金属で、原子番号50の元素である。元素記号は Sn。
{{otheruses|元素・金属|その他|すず}} {{redirect|錫|錫蘭(セイロン、略称: 錫)|スリランカ|錫(しゃく)|錫杖}} {{Elementbox |number=50 |symbol=Sn |name=tin |japanese name=スズ |pronounce={{IPAc-en|ˈ|t|ɪ|n}} |left=[[インジウム]] |right=[[アンチモン]] |above=[[ゲルマニウム|Ge]] |below=[[鉛|Pb]] |series=貧金属 |group=14 |period=5 |block=p |image name= Sn-Alpha-Beta.jpg |appearance=銀白色(左、βスズ)または灰色(右、αスズ) |atomic mass=118.710 |electron configuration=&#91;[[クリプトン|Kr]]&#93; 4d{{sup|10}} 5s{{sup|2}} 5p{{sup|2}} |electrons per shell= 2, 8, 18, 18, 4 |phase=固体 |density gpcm3nrt=(βスズ)7.265 |density gpcm3nrt 2=(αスズ)5.769 |density gpcm3mp=6.99 |melting point K=505.08 |melting point C=231.928 |melting point F=449.47 |boiling point K=2875 |boiling point C=2602 |boiling point F=4716 |heat fusion=(βスズ)7.03 |heat vaporization=(βスズ)296.1 |heat capacity=(βスズ)27.112 |vapor pressure 1=1497 |vapor pressure 10=1657 |vapor pressure 100=1855 |vapor pressure 1 k=2107 |vapor pressure 10 k=2438 |vapor pressure 100 k=2893 |vapor pressure comment= |crystal structure comment=[[立方晶]](βスズ)、[[立方ダイヤモンド]](αスズ) |oxidation states='''4''', 2, −4([[両性酸化物]]) |electronegativity=1.96 |number of ionization energies=3 |1st ionization energy=708.6 |2nd ionization energy=1411.8 |3rd ionization energy=2943.0 |atomic radius=140 |covalent radius=139 ± 4 |Van der Waals radius=217 |magnetic ordering=(βスズ)[[常磁性]]、(αスズ)[[反磁性]]<ref>[http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pd |date=2004年3月24日 }}, in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press. </ref> |electrical resistivity at 0=115 n |thermal conductivity=66.8 |thermal expansion at 25=22.0 |speed of sound rod at r.t.= |Young's modulus=50 |Shear modulus=18 |Bulk modulus=58 |Poisson ratio=0.36 |Mohs hardness=1.5 |Brinell hardness=51 |CAS number=7440-31-5 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_stable | mn=112 | sym=Sn | na=0.97 % | n=62}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=114 | sym=Sn | na=0.66 % | n=64}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=115 | sym=Sn | na=0.34 % | n=65}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=116 | sym=Sn | na=14.54 % | n=66}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=117 | sym=Sn | na=7.68 % | n=67}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=118 | sym=Sn | na=24.22 % | n=68}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=119 | sym=Sn | na=8.59 % | n=69}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=120 | sym=Sn | na=32.58 % | n=70}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=122 | sym=Sn | na=4.63 % | n=72}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=124 | sym=Sn | na=5.79% | hl= >1×10<sup>17</sup> [[年|y]] | dm=[[二重ベータ崩壊|β-β-]] | de=2.2870 | pn=124 | ps=[[テルル|Te]]}} {{Elementbox_isotopes_decay | mn=126 | sym=Sn | na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=2.3 × 10{{sup|5}} [[年|y]] | dm=[[ベータ崩壊|β{{sup|−}}]] | de=0.380 | pn=126 | ps=[[アンチモン|Sb]]}} |isotopes comment= }} '''スズ'''(錫、{{lang-en-short|Tin}}、{{lang-de-short|Zinn}})とは、[[典型元素]]の中の[[第14族元素|炭素族元素]]に分類される[[金属]]で、[[原子番号]]50の[[元素]]である。[[元素記号]]は '''Sn'''。 ==語源== 元素記号のSnは、[[ラテン語]]の''{{lang|la|stannum}}''に由来する。元来この単語は[[銀]]と[[鉛]]の合金を意味していたが、4世紀にはスズを意味するようになった<ref>''Encyclopædia Britannica, 11th Edition'', 1911, ''s.v.'' '[[s:en:1911 Encyclopædia Britannica/Tin|tin]]', citing H. Kopp</ref>。それ以前にはスズのことは''{{lang|la|plumbum candidum}}''(白い鉛)と呼んでいた。''{{lang|la|Stannum}}''は、[[ロマンシュ語]]や[[ケルト語]]においてスズを意味する語の語源<ref name="oed"/><ref>{{cite web |accessdate=2009-07-07 |url=http://www.oxleigh.freeserve.co.uk/pt77a.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090403092123/http://www.oxleigh.freeserve.co.uk/pt77a.htm |archivedate=2009-04-03 |title=The Ancient Mining of Tin |work=oxleigh.freeserve.co.uk |url-status=dead }}</ref>である''{{lang|la|stāgnum}}''に由来しているものと見られる<ref name="oed"/>。''{{lang|la|stannum}}''および''{{lang|la|stāgnum}}''の起源は不明である。印欧語以前のものかもしれない<ref>''[[American Heritage Dictionary]]''</ref>。 『[[マイヤー百科事典]]』では、''{{lang|la|stannum}}''は[[コーンウォール語]](の祖語)の''{{lang|kw|stean}}''に由来するものであるとし、紀元後の最初の数世紀において[[コーンウォール]]がスズの主な産地であったことをその根拠としている。 英語の''{{lang|en|tin}}''という語は[[ゲルマン語派|ゲルマン諸語]]の間で共有されており、[[再構 (言語学)|再構]]された[[ゲルマン祖語]]の''{{lang|mis|*tin-om}}''にまで遡ることができる。同源の語に、[[ドイツ語]]の''{{lang|de|Zinn}}''、[[スウェーデン語]]の''{{lang|sv|tenn}}''、[[オランダ語]]の''{{lang|nl|tin}}''がある。この語は、ゲルマン語からの借用(英語からアイルランド語に借用された''{{lang|ga|tinne}}''など)を除いて、他の[[印欧語]]には見られない<ref name="oed">{{OED|tin}}</ref>。 漢字の「錫」は「金」と「易」からなる[[会意文字]]で、容易に伸ばせる金属の意である。 == 性質 == === 物理的性質 === スズは軟らかく[[展延性]]を有した結晶性の高い白銀色の金属である。金属スズに力をかけて変形させると、「スズ鳴き」と呼ばれる双晶変形による亀裂音を発する<ref name="Hol1985"/>。[[第14族元素]]中で最も低い232 {{℃}}の融点を持ち、粒径11 nmの微細粒子ではさらに低温(177 {{℃}})で溶融する<ref>[http://www.physorg.com/news/2011-04-ink-tin-nanoparticles-future-circuit.html Ink with tin nanoparticles could print future circuit boards], Physorg, April 12, 2011; {{cite journal|doi=10.1088/0957-4484/22/22/225701|title=Synthesis and characterization of low temperature Sn nanoparticles for the fabrication of highly conductive ink|date=2011|last1=Jo|first1=Yun Hwan|last2=Jung|first2=Inyu|last3=Choi|first3=Chung Seok|last4=Kim|first4=Inyoung|last5=Lee|first5=Hyuck Mo|journal=Nanotechnology|volume=22|issue=22|page=225701|pmid=21454937|bibcode = 2011Nanot..22v5701J }}</ref>。 [[常温]]・[[常圧]]では展延性を有する[[正方晶]]のβスズ (beta-tin) 構造が安定であり、この状態の金属スズをβスズ(白色スズ)と言う。一方で、13.2 {{℃}}以下で安定なαスズは脆く灰色の非金属物質である。αスズは[[ダイヤモンド]]や[[ケイ素]]、[[ゲルマニウム]]などに類似したダイヤモンド型結晶構造を取る。αスズは[[共有結合]]によって形成されているため自由電子を持たず、金属的な性質を有さない。αスズには一般的な用途は無いが、いくつかの特殊な[[半導体]]用途に用いられる<ref name="Hol1985">{{cite book|publisher = Walter de Gruyter|date = 1985|edition = 91–100|pages = 793–800|isbn = 3-11-007511-3|title = Lehrbuch der Anorganischen Chemie|first1 = Arnold F.|last1 = Holleman| last2= Wiberg|first2=Egon|last3=Wiberg|first3=Nils|chapter = Tin| language = German}}</ref>。スズにはさらに2つの[[同素体]]があり、161 {{℃}}以上の温度ではγスズ、数GPa以上の高圧下ではσスズとなる<ref>{{cite journal|first = A. M.|last = Molodets|author2=Nabatov, S. S. |title = Thermodynamic Potentials, Diagram of State, and Phase Transitions of Tin on Shock Compression|journal = High Temperature|volume = 38|issue = 5|date = 2000|pages = 715–721|doi = 10.1007/BF02755923}}</ref>。 一般に流通している金属スズの純度は99.8%であり、不純物として少量の[[ビスマス]]、[[アンチモン]]、[[鉛]]および[[銀]]が含まれている。これらの不純物元素はβスズがαスズへと転移するのを抑制する働きがある。また、[[銅]]、アンチモン、ビスマス、[[カドミウム]]、[[銀]]などと[[合金]]を形成し、スズの硬度を向上させる。スズは硬く脆い金属間化合物相を容易に形成する傾向があり、それらはしばしば望ましくないものとされる。スズは一般的な金属と比べて[[固溶体]]を形成する範囲が狭く、スズに対して高い固溶度を示す元素はほとんど無い。一方でビスマス、[[ガリウム]]、鉛、[[タリウム]]、[[亜鉛]]との間では単純[[共晶]]系を示す<ref name="Schwartz">{{cite book|first = Mel|last = Schwartz |title = Encyclopedia of Materials, Parts and Finishes|edition = 2nd|chapter = Tin and Alloys, Properties|publisher = CRC Press|date = 2002|isbn= 1-56676-661-3}}</ref>。 超伝導転移温度は3.72[[ケルビン|K]]である<ref>{{cite journal|doi = 10.1016/S0031-8914(35)90114-8|title = The electrical resistance of cadmium, thallium and tin at low temperatures|year = 1935|last1 = Dehaas|first1 = W|last2 = Deboer|first2 = J|last3 = Vandenberg|first3 = G|journal = Physica|volume = 2|pages = 453|bibcode=1935Phy.....2..453D}}</ref>。超伝導スズは超伝導の研究において最も初期に発見された超伝導体の一つであり、超伝導体の持つ性質の一つである[[マイスナー効果]]も超伝導スズから発見された<ref name=meissner1>{{cite journal|volume = 21|issue = 44|pages = 787–788|last = Meissner|first = W.|author2=R. Ochsenfeld|title = Ein neuer effekt bei eintritt der Supraleitfähigkeit|journal = Naturwissenschaften|date = 1933|doi = 10.1007/BF01504252|bibcode=1933NW.....21..787M}}</ref>。 ==== 同素変態 ==== スズには常温に近い温度にβスズとαスズの[[転移点]]が存在する。αスズへの転移では[[展性]]が失われ、同時に大幅に体積が増加する。この転移温度は13.2 {{℃}}であるが、[[アルミニウム]]や亜鉛などの不純物が含まれると転移温度は0 {{℃}}を下回る<ref name="Schwartz"/>。通常の温度範囲では不純物などの影響によりこの転移はほとんど進まないが、極地方のような酷寒の環境では転移が進行する場合があり、スズ製品が膨らんでぼろぼろになってしまう現象が生じる。この現象はスズ製品の一部分から始まりやがて全体に広がるため、伝染病に喩えて[[スズペスト]]と呼ばれる<ref>This conversion is known as ''tin disease'' or ''[[tin pest]]''. Tin pest was a particular problem in northern Europe in the 18th century as [[organ pipes]] made of tin alloy would sometimes be affected during long cold winters. There are anecdotal claims that tin pest destroyed some of Captain Scott's stores in the ill-fated expedition (see [[tin pest]]). Some unverifiable sources also say that, during [[Napoleon]]'s Russian campaign of 1812, the temperatures became so cold that the tin buttons on the soldiers' uniforms disintegrated over time, contributing to the defeat of the [[Grande Armée]].{{cite book |last=Le Coureur |first=Penny |author2=Burreson, Jay |title=Napoleon's Buttons: 17 Molecules that Changed History |place=New York |publisher=Penguin Group USA |date=2004}}, a persistent legend that probably has no background in real events. {{cite book |last=Öhrström |first=Lars |title=The Last Alchemist in Paris |date=2013 |publisher=Oxford University Press |location=Oxford |isbn=978-0-19-966109-1}} {{cite journal|last=Cotton|first=Simon|date=2014|title=Book review: The last alchemist in Paris|journal=Chemistry World}}http://rsc.li/CW_140501</ref>。アンチモンやビスマスを添加することで同素変態を防ぎスズの耐久性を向上させることができる<ref name="Schwartz"/>。 スズに限らず金属にはこういった、温度や圧力に応じて結晶構造が変わる[[同素変態]]をみせるものがある。スズではこの同素変態によってその物性が大きく変化する。βスズからαスズには熱力学的には13.2 {{℃}}で変態するが、実際に反応が進行するのは−10 {{℃}}の低温領域からであり、−45 {{℃}}でその反応速度は最大になるが、それでも1 mm進むのに約500時間も掛かる。スズは結晶構造の違いによってさらに161 {{℃}}以上でのγスズがあり、これらの異なる単体は[[同素体]]と呼ばれ、変態する温度は[[変態点]]と呼ばれる<ref name ="金属のおはなし">{{Cite book |和書 |last=大澤 |first=直 |title=金属のおはなし |origdate=2006年1月25日 |edition=第1版第1刷 |publisher=日本規格協会 |id=ISBN 4542902757 }}</ref>。 === 化学的性質 === スズは[[両性 (化学)|両性]]を示し酸ともアルカリとも反応するが、中性領域においてはある程度の耐食性を示す<ref name=CICAD65>{{Cite web|和書|url=https://www.nihs.go.jp/hse/cicad/full/no65/full65.pdf|title=国際化学物質簡潔評価文書 No.65 Tin and inorganic tin compounds(2005) |publisher=[[世界保健機関]] 国際化学物質安全性計画(原文)、[[国立医薬品食品衛生研究所]] 安全情報部(日本語訳)|accessdate=2017-09-24}}</ref>。濃硝酸に対しては[[加水分解]]により不溶性の[[二酸化スズ]]水和物を形成して沈殿を生じる<ref>{{Cite journal|和書|title=難溶解性物質の分解法|author=松本健|pages=pp. 60-66|journal=ぶんせき|year=2002|issue=2|publisher=日本分析化学会}}</ref><ref name=CICAD65/>。アルカリとの反応では対応するスズ酸塩を形成する<ref>{{Harvnb|コットン、ウィルキンソン (1987)|}} 378頁。</ref>。 スズは通常+2価および+4価の酸化数を取る。+2価のスズ化合物は[[イオン結合]]性の強い物質で還元性を有しており、+4価のスズ化合物は[[共有結合]]性の強い物質である<ref>{{Cite book|和書|author=櫻井武、鈴木晋一郎、中尾安男|year=2003|title=ベーシック無機化学|pages=pp. 50-51|publisher=化学同人|ref=櫻井鈴木中尾2003|isbn=4759809031}}</ref>。[[単原子イオン]]のSn<sup>4+</sup>は存在しないと考えられており、+4価のスズイオンはSn(OH)<sub>6</sub><sup>2-</sup>やSnCl<sub>6</sub><sup>2-</sup>等の錯イオンの形で存在している<ref>{{Harvnb|コットン、ウィルキンソン (1987)|}} 371-372、389、394頁。</ref>。第14族元素は軽い元素ほど+4価が安定で、重い元素になるほど+2価が安定となる周期性を有しており、その周期性を反映して+2価のスズは比較的安定であるが、それでも+2価のスズイオンは容易に空気酸化を受けて+4価に酸化される<ref>{{Harvnb|コットン、ウィルキンソン (1987)|}} 393-394頁。</ref>。また、+3価の化合物としては、Sn[(Me<sub>3</sub>Si)<sub>2</sub>N]<sub>3</sub>のような[[配位化合物]]が知られている。通常スズの+3価の化合物は不安定で単離が困難だが、この化合物は分子サイズの大きな[[配位子]]に囲まれていることによる[[立体障害]]の大きさに守られているため、数ヶ月から1年程度は安定に存在できる。Sn<sub>3</sub>F<sub>8</sub>のような化合物は形式的には+2.7価であるが、これは2個のSnF<sub>2</sub>と1個のSnF<sub>4</sub>からなる[[混合原子価化合物]]である<ref>{{Harvnb|コットン、ウィルキンソン (1987)|}} 372頁。</ref>。 スズは他の第14族元素と同様に[[カテネーション]]を起こすことが知られており、例えばアンモニア中でアルカリ金属元素と反応してNa<sub>2</sub>Sn<sub>5</sub>のようなスズクラスター構造を含む化合物を形成する<ref>{{Harvnb|コットン、ウィルキンソン (1987)|}} 370頁。</ref>。また有機金属化合物ではスズが直鎖もしくは環状にカテネーションした化合物が多く存在しており、例えば[Sn(CH<sub>3</sub>)<sub>2</sub>]<sub>n</sub>ではn=12から20のスズの直鎖構造を持ち、(C<sub>2</sub>H<sub>5</sub>)<sub>2</sub>Snはスズが環状にカテネーションした6量体や9量体の構造を取る<ref>{{Harvnb|コットン、ウィルキンソン (1987)|}} 401頁。</ref>。 == 同位体 == {{main|スズの同位体}} スズには[[安定同位体]]の種類が比較的多い。これは、スズの[[陽子]]の数が[[魔法数]]の1つである[[50]]だからだと説明されている。 == 化合物 == * [[塩化スズ]] (SnCl{{sub|2}}, SnCl{{sub|4}}) * [[酸化スズ]] - 下記の3つが存在する。 ** [[酸化スズ(II)]] (SnO) ** [[酸化スズ(IV)]] (SnO{{sub|2}}) - 金属[[酸化物]]としては比較的高い導電性を持つ。 ** [[酸化スズ(VI)]] (SnO{{sub|3}}) * [[硫化スズ]] (SnS, SnS{{sub|2}}) * [[フッ化スズ]](SnF{{sub|2}},SnF{{sub|4}}) * [[臭化スズ]](SnBr{{sub|2}},SnBr{{sub|4}}) * [[ヨウ化スズ]](SnI{{sub|2}},SnI{{sub|4}}) * [[有機スズ化合物]]([[内分泌攪乱化学物質#研究の現状]] も参照) == 用途 == スズは鉄などと比較すると融点が低いため比較的加工しやすい金属材料として、また鉛などと比較すると害が少ない比較的扱いやすい金属材料として、スズ単体、または、合金の成分として古来から広く用いられてきた。 === 合金 === 合金にすることで軟金属を硬くしたり、融点を下げてより加工性を良くする等の作用がある。スズを含む合金としては、[[鉛]]との合金である[[はんだ]](最近は[[鉛フリーはんだ|鉛フリーのはんだ]]もある)、銅との合金である[[青銅]]が代表的である。青銅の一種である[[砲金]]は[[靱性]]に富むため、[[1450年]]ごろからそれまで鋳鉄製だった[[大砲]]がこれで鋳造され、砲金の名もここからきている。この青銅製への変換によって大砲は安定性を獲得し、[[1520年]]ごろには大砲は完全に青銅製のものとなった<ref>学研 「歴史群像グラフィック戦史シリーズ 戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編」p80 1995年10月1日第1刷</ref>。大砲はやがてふたたび鉄製に移行したが、砲金は現代においても機械の軸受けなどに広く使用される。 [[パイプオルガン]]のパイプもスズを主とした合金である。鉛は単体では金属素材として軟すぎるため、スズ等を加えて硬くした[[活字合金]]や[[硬鉛]]として利用されることが多い。 [[中世#ヨーロッパ|中世ヨーロッパ]]では、スズを主成分とする合金である[[ピューター]](しろめ)が、[[銀食器]]に次ぐ高級食器に使われた。スズを大量に産出する[[マレーシア]]では、[[19世紀]]からピューターで作った食器や花器、その他の[[工芸品]]が作られ、国を代表する[[特産品]]になっており、[[ロイヤルセランゴール]]社などの製品が各国に輸出されている<ref>http://www.tourismmalaysia.or.jp/mstyle/backnumber/backnumber-0710/omoshiro.html 「ピューターが紐解く発展の歴史」『Malaysia web magazine「m-style」』(マレーシア政府観光局)内 2015年10月24日閲覧</ref>。19世紀から20世紀前半にかけてのヨーロッパでは、スズで作られた男児用の玩具である[[スズの兵隊]]が生産され、現代ではコレクターによって収集されている。[[全米フィギュアスケート選手権]]では4位の選手にピューター(錫合金)メダルを授与する。 時報として鳴らすベルや、仏教で使われる仏具のひとつ鈴の製造材料としても使われている。非常に安定した材質であるため、昔から存在するベルや鈴も現役で使われている。 このほか、[[軸受]]に用いられる[[バビットメタル]]([[銅]]および[[アンチモン]]との合金)、[[ウッド合金]]や[[ガリンスタン]]のような一連の[[低融点合金]]などがある。 === 金属スズ === スズ単体についても、錆びず適度な硬さがあり加工もしやすいため、[[食器]]などの日用品やスズ箔として広く用いられてきた。安価で錆びにくい金属食器としての地位は軽量・頑丈で熱に強い[[アルミニウム]]食器に置き換わったが、手工芸による加工に適したスズもなお食器材料として一定の需要がある。 ==== 原子炉冷却材 ==== [[液体金属冷却炉#スズ]] === メッキ === 近代の用途としてまず最初に開発されたのはβスズを鋼板に被覆した[[ブリキ]]であり、[[亜鉛]]を同じく鋼板に被覆した[[トタン]]とともに錆びやすい鋼板の大量使用への道を開き、[[缶詰]]や[[玩具]]の材料として広く使用された。 なお、スズには毒性(後述)があるため、食品衛生法により缶詰中に含まれる(溶出する)上限値が定められている。1969年には、上限値以上のスズが含まれるトマトジュースが流通して食中毒が起きたことがある<ref>「東京でもスズを検出 かん詰トマトジュース」『朝日新聞』昭和44年(1969年)8月29日朝刊、12版、14面</ref>。 [[第二次世界大戦]]以前のスズの生産地は、[[南アメリカ]]や[[東南アジア]]など政情が不安定な地域に限られていた。戦争中にスズの入手難に陥った[[アメリカ合衆国]]は、[[電気メッキ]]法の改良よりブリキ製造に用いるスズの使用量を低減させることに成功。戦後、安価な製品を大量生産する道を拓いた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seikan-kyoukai.jp/history/01.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170804213823/http://www.seikan-kyoukai.jp/history/01.html |title=製缶技術の変遷 |publisher=日本製缶協会 |accessdate=2019-4-21 |archivedate=2017-8-4 }}</ref>。 === その他 === [[インジウム]]とスズの酸化物 ([[酸化インジウムスズ|ITO]]) は[[液晶ディスプレイ]]・[[有機EL]]の電極として用いられるほか、熱線カットガラスとして乗用車のフロントガラスなどの表面に用いられる。また、融点が低いことを利用して[[フロートガラス]]の製造にも使われている。 [[有機スズ化合物]]は塩化ビニールなどの安定剤などに広く使用される<ref>http://www.teta.jp/t-organictin.htm 「有機スズ化合物について」スズ化合物環境技術協議会 2015年10月24日閲覧</ref>。 === 日本での用途 === 日本には、スズそのものの加工品としては[[奈良時代]]後期に[[茶]]とともに持ち込まれた可能性が高い。今でいう[[茶壷]]、[[茶托]]などと推測される。金属スズは比較的毒性が低く、酸化や腐食に強いため、主に飲食器として重宝された。現在でも、大陸喫茶文化の流れを汲む[[煎茶道]]ではスズの器物が用いられることが多い。日本独自のものには、神社で用いられる瓶子(へいし、御神酒徳利)、水玉、高杯などの神具がある。いずれも京都を中心として製法が発展し、全国へ広まった。それまでの特権階級のものから、[[江戸時代]]には町民階級にも慣れ親しまれ、[[酒器]]、中でも特に注器としてもてはやされた。[[落語]]『[[御神酒徳利]]』の語りの発端となる御神酒徳利は、スズ製という設定である。[[京都府|京都]]、[[大阪]]([[大阪浪華錫器]])、[[鹿児島県|鹿児島]]([[薩摩錫器]])<ref>http://www.city.kagoshima.lg.jp/keizai/keizaishinko/san-shien/sangyo/shokogyo/jibasangyo/tokusanhin.html 「鹿児島の特産品」鹿児島市ホームページ 2015年10月24日閲覧</ref>に、伝統的な錫工芸品が今も残る。近年では[[日本酒]]用以外に[[ビアマグ]]や[[タンブラー]]などもつくられるようになった。また、一部の比較的高級な飲食店では日本酒の[[燗]]に、こだわりとして高価であるスズ製[[酒器#日本|ちろり]]を使用するところがある。科学的には定かではないが、錫製品は水を浄化し雑味が取り除かれ、酒がまろやかになると言われている。近年では、錫の軟らかい性質を利用した錫製品や作品が、[[富山県]]を中心に製造されている。他にも第二次世界大戦中にチャフとして使われた。 === 用途別使用量 === 上記用途のうちでもっとも重要な用途ははんだの製造であり、スズ年間使用量の約45%を占める。次いで約20%がスズめっき(ブリキなど)に使用される。3番目の用途は[[塩化ビニール]]などの安定剤などに使用する化合物としての使用であり、この用途に約15%が使用される。残り20%が各種合金やガラス製造、スズ工芸品などその他の用途に使用される分である<ref>「レアメタル・資源 38元素の統計と展望」p159-160 西山孝 丸善 平成21年11月30日発行</ref>。 <gallery caption="用途の例"> File:Inside of a tin platted can.jpg|錫鍍金した缶詰の鋼板 File:Pewterplate exb.jpg|ピューターの皿 File:Ex Lead freesolder.jpg|はんだ |[[バビットメタル]]の軸受 </gallery> == 毒性 == スズは人間や動物には容易に吸収されず、生体中での生物学的役割は知られていない。スズは金属や酸化物、塩類といった無機化合物の形では毒性が低いため食器や缶詰など広範囲に渡って利用されているが<ref name="Ullmann" />、缶詰内側の腐食などによって高濃度に無機スズが溶出した食品を摂取することによる急性中毒も発生している<ref name="HACCP">{{Cite web|和書|title=HACCP関連情報データベース 1.4.スズ|url=http://www.shokusan.or.jp/haccp/hazardous/2_8_ziyukin.html#04|publisher=社団法人 食品産業センター|accessdate=2012-10-18}}</ref>。急性毒性の症状としては吐き気、嘔吐、下痢などがみられる<ref name="HACCP" />。例えば、日本の[[食品衛生法]]ではスズの濃度は150 ppm以下とするよう定められており<ref name="HACCP" />、[[英国食品基準局]]では缶詰食品中のスズ濃度の上限を200 ppmとしている<ref>{{cite web|url = http://www.eatwell.gov.uk/healthissues/factsbehindissues/tins/|title = Eat well, be well&nbsp;— Tin|publisher = Food Standards Agency|accessdate = 2012-10-18}}</ref>。この要因の多くは、何らかの理由で缶の錫メッキが腐食を起こして溶出したり、土壌に施した硝酸肥料により作物(主に根菜など)に高濃度の硝酸塩が含まれていたことによる<ref name="HACCP2">{{Cite web|和書|title=HACCP関連情報データベース 化学的・物理的危害要因情報 重金属 |url=https://haccp.shokusan.or.jp/haccp/information/chemical_factor/metal/ | publisher=社団法人 食品産業センター|accessdate=2019-11-23}}</ref>。 2002年に英国食品基準局が行った調査では、調査対象となった食品の缶詰のうち99.5 %がスズの含有量の上限値を下回っており、基準値を超えていた缶詰に関しては販売差し止め措置が取られている<ref>{{cite web|url = http://www.food.gov.uk/multimedia/pdfs/fsis2902tin.pdf|title = Tin in canned fruit and vegetables (Number 29/02)|date = 2002-08-22|publisher = Food Standards Agency|accessdate = 2009-04-16|format = PDF}}</ref>。2003年のBlundenの報告では、過去25年間に100から200 ppmの濃度範囲ではスズの急性中毒の症例の報告がないことから、スズの急性中毒の閾値は200 ppmであることが示唆されるという見解が示されている<ref name="Blunden">{{cite journal|journal = Food and Chemical Toxicology|volume = 41|issue = 12|year = 2003|pages =1651–1662|doi = 10.1016/S0278-6915(03)00217-5|title = Tin in canned food: a review and understanding of occurrence and effect|first = Steve|last = Blunden|coauthors = Wallace, Tony|pmid = 14563390}}</ref>。また、長期間酸化スズの粉塵に曝される環境では肺が冒されることがあり、錫肺症と呼ばれる。環境の整っていない時代には鉱山からの採掘の際に多くの労働者が肺を病んだ。 一方で、有機スズ化合物の毒性は無機スズ化合物の毒性よりもはるかに高く、その毒性は有機基によって異なるもののいくつかの有機スズ化合物は[[シアン化物]]と同程度の非常に強い毒性を有するものもある<ref name="Ullmann">G. G. Graf "Tin, Tin Alloys, and Tin Compounds" in Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry, 2005 Wiley-VCH, Weinheim {{DOI|10.1002/14356007.a27_049}}</ref>。[[トリブチルスズ]]誘導体 (TBT)は船底に貝が付着することを効果的に防止する塗料として広く用いられていたが、1970年代以降[[内分泌攪乱化学物質]]としての作用や海洋生物に対する蓄積毒性などTBTの毒性が知られ始め、1982年にフランス政府がTBTを含む塗料を小型ボートに使用することを禁止したのをはじめとして各国で規制されるようになっていった<ref>{{Cite journal|url=https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.32.405 |journal=化学と生物|volume=Vol.32|issue=No.6|year=1994|title=有機スズ化合物の生物毒性|accessdate=2012-10-22 |naid=130004808180 |doi=10.1271/kagakutoseibutsu1962.32.405 }}</ref>。例えば日本では[[化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律]](化審法)によって第一種特定化学物質として[[酸化トリブチルスズ|ビス(トリブチルスズ)オキシド]]が規制対象となっており<ref>{{Cite web|和書|title=第一種特定化学物質|url=https://www.env.go.jp/chemi/kagaku/kisei/class1.html|publisher=環境省|accessdate=2012-10-18}}</ref>、トリフェニルスズ誘導体やトリブチルスズ誘導体も第二種特定化学物質として規制対象となっている<ref>{{Cite web|和書|title=第二種特定化学物質|url=https://www.env.go.jp/chemi/kagaku/kisei/class2.html|publisher=環境省|accessdate=2012-10-18}}</ref>。2001年には全ての船舶に有機スズ化合物を含んだ塗料の使用を禁止する[[船舶の有害な防汚方法の規則に関する国際条約]] (IMO条約)が[[国際海事機関]]によって採択され、2008年に25か国が批准したことによって発効した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fsc.go.jp/sonota/factsheets/f01_organotin_compound.pdf|title=食品安全委員会ファクトシート 有機スズ化合物(概要)|accessdate=2012-10-22}}</ref>。また、TBTは2009年に[[ロッテルダム条約]](国際貿易の対象となる特定の有害な化学物質及び駆除剤についての事前のかつ情報に基づく同意の手続に関するロッテルダム条約、PIC条約)の規制対象物質リストである附属書IIIに追加され、TBTの国際貿易を行うには500 ppm以下の非意図的混入を除いて輸出申請を行わなければならないことが義務付けられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.teta.jp/t-environment.htm|title=有機スズ化合物に関する環境動向|publisher=スズ化合物環境技術協議会|accessdate=2012-10-22}}</ref>。 == スズ鳴き == [[File:TinOreUSGOV.jpg|thumb|right|スズ鉱石]] 金属スズを曲げると、結晶構造が変化することにより'''スズ鳴き''' ([[:w:Tin cry|tin cry]]) と呼ばれる独特の音がする。同様の現象は、[[ニオブ]]や[[インジウム]]でも見られる。 体心正方晶格子である白色スズの結晶に力を加えて変形させると、「カリッ」と音を出して金属結晶が塑性変形して内部結晶が双晶に変化する。この双晶は変形双晶や機械的双晶と呼ばれ、冷間加工後に焼きなましされた時に作られる焼きなまし双晶と区別される<ref name ="金属のおはなし" />。 == スズ鉱石 == スズは、[[錫石]](すずいし)などに含まれている。比較的精錬や加工のしやすい金属として、古くから用いられてきた。[[青銅器]]などの材料として有名である。 スズの重要な[[鉱石鉱物]]は、[[錫石]] (SnO{{sub|2}}) であり、スズ鉱石の4分の3を占めている<ref name="名前なし-1">西川精一 『新版金属工学入門』p427 アグネ技術センター、2001年</ref>。主に[[石英]]との[[鉱石フォーメーション]]として産する。[[鉱滓]]からは[[タンタル]]を回収できる。錫石は比重の大きなスズと比重の小さい石英を主体としており、また[[浮遊選鉱]]になじまないため、古い選鉱法である比重選鉱法(鉱石の載ったテーブル上に水を流し込み、振動させて比重の差により分離する)が主に使用される<ref>「鉱物資源論」p61 志賀美英 九州大学出版会 2003年3月15日初版発行</ref>。風化に強いため、砂鉱の[[砂錫]]としても産出する。また、硫化物からなる[[黄錫鉱]](Cu2FeSnS4)もおもな鉱石のひとつである<ref name="名前なし-2">「レアメタル・資源 38元素の統計と展望」p159 西山孝 丸善 平成21年11月30日発行</ref>。 == 生産 == {|class="wikitable" |+スズの産出量 (2006年、[[トン]])<ref>[http://nora.nerc.ac.uk/3260/2/FINAL_WMP_2002_2006_COMPLETE_WEB.pdf]</ref> |- | {{IDN}} || style="text-align:right" | 117 500 |- | {{CHN}} || style="text-align:right" | 114 300 |- | {{PER}} || style="text-align:right" | 38 470 |- | {{BOL}} || style="text-align:right" | 17 669 |- | {{BRA}} || style="text-align:right" | 9 528 |- | {{COD}} || style="text-align:right" | 7 200 |- | {{RUS}} || style="text-align:right" | 5 000 |- | {{VNM}} || style="text-align:right" | 3 500 |- | {{MYS}} || style="text-align:right" | 2 398 |-{{rh}} | 世界計 || style="text-align:right" | 321 000 |} {{Clear}} {| class="wikitable" style="text-align:right" |+経済的可採資源量<ref>{{cite web|publisher = International Tin Research Institute|title = Tin: From Ore to Ingot|date = 1991|url = http://www.itri.co.uk/pooled/articles/BF_TECHART/view.asp?Q=BF_TECHART_230527|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090322030548/http://www.itri.co.uk/pooled/articles/BF_TECHART/view.asp?Q=BF_TECHART_230527|archivedate = 2009年3月22日|accessdate = 2009-03-21|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref> !年 !100万トン |- |1965 | 4,265 |- |1970 | 3,930 |- |1975 | 9,060 |- |1980 | 9,100 |- |1985 | 3,060 |- |1990 | 7,100 |- |2000 | 7,100<ref>{{cite web|publisher = United States Geological Survey |title=Tin: Statistics and Information|url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/tin|accessdate = 2008-11-23|first = James F.|last = Carlin, Jr.| format=PDF}}</ref> |- |2010 | 5,200<ref>{{cite web|publisher = United States Geological Survey |title=Tin: Statistics and Information|url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/tin|accessdate = 2008-11-23|first = James F.|last = Carlin, Jr.| format=PDF}}</ref> |} {| class="wikitable sortable" style="text-align:left;float:left;margin-right:1em;" |+世界のスズ鉱山埋蔵量 (トン, 2011年)<ref>{{cite web|publisher = United States Geological Survey |title=Tin: Statistics and Information|url = http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/tin|accessdate = 2008-11-23|first = James F.|last = Carlin, Jr.| format=PDF}}</ref> |- !国||埋蔵量 |- |{{flag|China}} | style="text-align:right" | 1,500,000 |- |{{flag|Malaysia}} | style="text-align:right" | 250,000 |- |{{flag|Peru}} | style="text-align:right" | 310,000 |- |{{flag|Indonesia}} | style="text-align:right" | 800,000 |- |{{flag|Brazil}} | style="text-align:right" | 590,000 |- |{{flag|Bolivia}} | style="text-align:right" | 400,000 |- |{{flag|Russia}} | style="text-align:right" | 350,000 |- |{{flag|Australia}} | style="text-align:right" | 180,000 |- |{{flag|Thailand}} | style="text-align:right" | 170,000 |- |&nbsp;&nbsp;その他の国 | style="text-align:right" | 180,000 |- |&nbsp;&nbsp;総計 | style="text-align:right" | 4,800,000 |} {{-}} {| class="wikitable sortable" style="text-align:right;float:left" |+世界の10大スズ生産企業(トン)<ref>{{cite web|title = International Tin Research Institute. Top Ten Tin Producing Companies.|url = http://www.itri.co.uk/pooled/articles/BF_TECHART/view.asp?Q=BF_TECHART_285697|archiveurl = https://web.archive.org/web/20081207093527/http://www.itri.co.uk/pooled/articles/BF_TECHART/view.asp?Q=BF_TECHART_285697|archivedate = 2008年12月7日|accessdate = 2009-05-05|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref> |- !社名||国||2006年||2007年||%増減 |- | style="text-align:left" | 雲南錫業 | style="text-align:left" | 中国 |52,339||61,129||16.7 |- | style="text-align:left" | ティマ社 | style="text-align:left" | インドネシア |44,689||58,325||30.5 |- | style="text-align:left" | Minsur | style="text-align:left" | ペルー |40,977||35,940|| −12.3 |- | style="text-align:left" | Malay | style="text-align:left" | 中国 |52,339||61,129||16.7 |- | style="text-align:left" | Malaysia Smelting Corp | style="text-align:left" | マレーシア |22,850||25,471||11.5 |- | style="text-align:left" | Thaisarco | style="text-align:left" | タイ |27,828||19,826|| −28.8 |- | style="text-align:left" | 雲南乗風 | style="text-align:left" | 中国 |21,765||18,000|| −17.8 |- | style="text-align:left" | Liuzhou China Tin | style="text-align:left" | 中国 |13,499||13,193|| −2.3 |- | style="text-align:left" | EM Vinto | style="text-align:left" | ボリビア |11,804||9,448|| −20.0 |- | style="text-align:left" | Gold Bell Group | style="text-align:left" | 中国 |4,696||8,000||70.9 |} {{-}} {| class="wikitable sortable" style="text-align:right;float:left" |+鉱山および精錬所のスズ生産量(トン)、2006年<ref>{{cite book|accessdate=2009-07-07|title=World Mineral Production 2002–06| publisher=British Geological Survey|page=89|url=http://nora.nerc.ac.uk/3260/2/FINAL_WMP_2002_2006_COMPLETE_WEB.pdf}}</ref> |- !国||鉱山生産量||精錬所生産量 |- | style="text-align:left" | [[インドネシア]] |117,500||80,933 |- | style="text-align:left" | [[中国]] |114,300||129,400 |- | style="text-align:left" | [[ペルー]] |38,470||40,495 |- | style="text-align:left" | [[ボリビア]] |17,669||13,500 |- | style="text-align:left" | [[タイ王国|タイ]] |225||27,540 |- | style="text-align:left" | [[マレーシア]] |2,398||23,000 |- | style="text-align:left" | [[ベルギー]] |0||8,000 |- | style="text-align:left" | [[ロシア]] |5,000||5,500 |- | style="text-align:left" | [[コンゴ民主共和国]] |15,000||0 |} {{-}} スズの鉱床は漂砂鉱床と鉱脈とに大別され、東南アジアにおいては漂砂鉱床が、南アメリカの[[アンデス山脈]]においては鉱脈が主流である。2006年度の鉱山からの世界生産量は321000トンである。2006年度において最もスズの産出量が多い国は[[インドネシア]]であり、117500トンにのぼる。これに次ぐのが[[中国]]であり、114300トンを産出している。これ以外の国の産出量は上位2国に比べると生産量はずっと少なく、3位の[[ペルー]]でも38470トンと半分以下になる。以下、産出量は[[ボリビア]]、[[ブラジル]]、[[コンゴ民主共和国]]、[[ロシア]]、[[ベトナム]]、[[マレーシア]]と続く。こののち、[[2010年]]にはスズの最大生産国は中国となり、インドネシアはスズ鉱石・スズ精鉱ともに世界2位の生産量となった<ref>村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 308ページ</ref>。スズは埋蔵量に比べて消費量が多い金属の1つであり、可採埋蔵量は18年(2007年)にすぎないが、スズは未探査区域の多い鉱物であり、その推定埋蔵が見込まれるため実際の枯渇はそれより後になると考えられている<ref name="名前なし-2"/>。また、スズはリサイクルが盛んであり、鉱山からの産出32万トンのほかに、リサイクルからの供給が14000トンほど存在する<ref name="名前なし-2"/>。スズ鉱石は必ずしも生産国で精錬されるわけではなく、[[ベルギー]]のようにまったく国内にスズを産しないにもかかわらず精錬量の多い国や、逆にコンゴ民主共和国のように多量のスズ鉱石を産出しながらまったく国内で精錬の行われない国も存在する。スズ生産企業としては、中国の雲南錫業やインドネシアの国営スズ鉱山企業であるティマ社などが大きい。 日本においてはかつて[[兵庫県]]の[[明延鉱山]]などで盛んに産出されたが、現在ではスズ鉱山のほとんどは閉山し産出はわずかである。2008年には日本のスズ輸入量は33659トンであったが、このほかに日本国内に流通するブリキやハンダの多くはリサイクルに回されるため、この回収された分の国内生産量が879トン存在する<ref>http://www.dowa-ecoj.jp/catalog/2011/20110901.html DOWAエコジャーナル2011年9月1日「スズ含有廃棄物のリサイクル事業」 2015年10月24日閲覧</ref>。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|古代のスズ原産地と貿易|en|Tin sources and trade in ancient times}}}} スズは融点が低く、また主要鉱石である錫石からの精練が容易であるため、人類史においてもっとも早くから使用され始めた金属の一つである。当初の主な用途は銅との合金である[[青銅]]を製造することであり、紀元前3000年頃に[[メソポタミア]]において初めて青銅が開発されたことによって銅の硬度不足が大幅に改善され、人類は[[石器時代]]から[[青銅器時代]]へと移行した。ただしスズは地域的に非常に偏在している鉱物<ref name="名前なし-1"/>であり、現代においても一部地域に鉱山が集中する傾向がある。このため、スズを発見できなかった地域においては石器時代が長く続くことも稀ではなかった。日本においては青銅の製法は鉄と同時に伝えられたために青銅器時代が存在せず、また[[新大陸]]においても青銅の発見が遅れたために、スペイン人が新大陸に到達した時点において青銅は装飾品としての利用に限られていた。 古くから世界有数(少なくともヨーロッパ最大)のスズの産地だったのは、[[イギリス]]の[[コーンウォール]]である。この地域のスズ鉱山は[[フェニキア人]]が初めて開発したと言われ、各地に盛んにスズを輸出していた。コーンウォールに隣接する[[デヴォン州]]においては、スズの[[地金]]を積んだ青銅器時代の[[難破船]]が発見されており<ref>「海を渡った人類の遙かな歴史 名もなき古代の海洋民はいかに航海したのか」p243 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社 2013年5月30日初版</ref>、この時期すでに盛んにスズ交易が行われていたことをうかがわせる。この航路を握っていたフェニキア人国家である[[カルタゴ]]の崩壊後は[[ローマ人]]がこの交易を握り、やがて[[43年]]の[[クラウディウス]]帝の遠征によってコーンウォールは[[ローマ帝国]]領の[[ブリタンニア]]となり、帝国崩壊後も中世・近世にかけて、イギリスはヨーロッパ中にスズを輸出していた。しかし[[産業革命]]により、とくに[[1810年]]にイギリスのピーター・デュラントによって[[缶詰]]が開発され[[ブリキ]]製造用のスズの需要が急増すると、コーンウォールのスズでは不足するようになり、産出量も[[1871年]]を最後に減少するようになった<ref name=AN00234698>工藤教和、「[https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234698-20130800-0001 第1次大戦直後のコーンウォール錫鉱山業 : 衰退産業と地域そして中央政府(1)]」『三田商学研究』 2013年 56巻 3号 p.1-25, 慶應義塾大学出版会, {{naid|120005468606}}</ref>。それ以降も1890年代までは世界有数の産地であり続けたが、他産地との競合に敗れて1900年代にはシェアが大幅に下落した<ref name=AN00234698 />。 それに代わって世界最大のスズ産出国となったのが[[マレーシア]]である。[[マレー半島]]は古くからスズの産地として知られていたが、イギリスの植民地時代に資源開発が進み、[[1972年]]の7700トン/年をピークに減少に転じたものの、[[1985年]]までは世界の約4分の1のシェアを占めていた。マレーにおけるスズの主産地はキンタ渓谷からクラン渓谷にかけての一帯であり<ref>http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/articles/jititai/133/INDEX.HTM 「自治体国際化フォーラム-イポー特別市」 一般財団法人自治体国際化協会 2015年7月1日閲覧</ref>、この錫鉱山地帯の中心となった[[イポー]]は1900年代に入り急速に発展した。この時期、スズが国家経済において重要な地位を占めたもう一つの国は[[ボリビア]]である。ボリビアのスズ開発は1880年代に始まり、当時同国の主要輸出品であった銀の退潮と時を同じくして生産は急増していった。このスズの増産は民族資本によって行われたものであり、[[オルロ]]近郊にある[[ワヌニ鉱山]]の開発によって世界有数の大富豪と呼ばれた[[シモン・パティーニョ]]のパティーニョ財閥をはじめとし、カルロス・ビクトル・アラマヨのアラマヨ財閥とマウリシオ・ホッホチルドのホッホチルド財閥を含めた3大財閥が生産の大部分を独占していた。これらの新興財閥は[[ラパス]]市に本拠を置く自由党と結びつき<ref name="ボリビアを知るための73章第2版p264">眞鍋周三編著 『ボリビアを知るための73章 【第2版】 』p264 明石書店 <エリア・スタディーズ 54> 2013年 {{ISBN2|978-4-7503-3763-0}}</ref>、[[1899年]]には銀鉱山主と結びつき[[スクレ]]市を基盤とする保守党の政権を打倒した。これはボリビア連邦革命と呼ばれ、これによってボリビアの首都はスクレからスズ鉱山主の本拠地であるラパス市に事実上移動した。その後はさらにボリビアのスズ生産は増加し、[[1902年]]には銀の輸出額を抜き、[[1913年]]には同国の輸出の70%を占めるようになり{{R|ボリビアを知るための73章第2版p264}}、「スズの世紀」とも呼ばれる時期を現出した。この好況期は[[1929年]]の大恐慌によって終息するが、その後も1980年代に至るまでの100年以上もの間、スズはボリビア経済の柱となっていた。 こうしたスズ生産を統括するため、[[1956年]]には国際スズ協定が採択された。この協定は価格維持と生産安定を主眼に置いたもので、下部機関の国際スズ理事会によって輸出割り当てや需給調整が行われていた。このシステムは[[1976年]]頃までは有効に機能したが、しかしその後は[[オイルショック]]による資源全般高に引っ張られたスズの価格高騰と、それに反比例する消費の低迷によってこの協定は揺らぎ始めた。また、この協定は生産国と消費国がともに加盟するものであったため、生産国のための機関として1983年、スズ生産国同盟がマレーシアを中心として結成された。さらに1982年に第6次協定が締結されたが、これには大生産国のボリビアやアメリカ、ソビエト連邦の3か国が参加しなかったため、市場支配力が80%から53%にまで激減したことも、この体制の動揺を加速させた。そして1985年、国際スズ市場が暴落したため国際スズ理事会が機能を停止し、それを受けてロンドン金属取引所(LME)でのスズが取引停止となり、世界中のスズ取引が停止してしまった。[[錫危機]]である<ref>「鉱物資源論」p165 志賀美英 九州大学出版会 2003年3月15日初版発行</ref>。これによって国際スズ協定の価格維持策は完全に崩壊した。 このためにマレーシアのスズ鉱業は壊滅的な打撃を受け、翌[[1986年]]には産出量は半減し、その後も市場の混乱や資源枯渇による衰退が続き、現在は主要でない産出国の一つにすぎない。またボリビアも、[[1952年]]の[[ボリビア革命]]によって3大財閥のスズ鉱山が接収されて国有化されたのちは、非効率な経営によって生産の減退が続き、[[1986年]]に国有企業のボリビア鉱山公社が解散した後でも生産の伸びはみられず、生産量は世界第4位にまで落ち込んでいる。 これに代わってスズ生産を伸ばし大生産国に躍り出たのは、[[インドネシア]]と[[中華人民共和国|中国]]だった。インドネシアは[[19世紀]]末の[[オランダ領インドネシア]]時代に[[バンカ島]]と[[ブリトゥン島]](ビリトン島)でのスズ開発が始まって以来のスズの生産国の一つである。このうちビリトン島で[[1860年]]にスズの採掘を始めたビリトン社は、やがてオランダ領[[スリナム]]の[[ボーキサイト]]採掘など[[非鉄金属]]鉱山全般に業務を拡大し、やがて[[2001年]]に[[オーストラリア]]のBHP社と合併して世界最大の資源企業であるBHPビリトン(現在は[[BHPグループ]])となった。この両島でのスズ採掘は現代ではインドネシア国営企業のティマ社が行っている<ref>村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子著『エリア・スタディーズ113 現代インドネシアを知るための60章』 明石書店 2013年 306ページ</ref>。 スズの価格は上記のスズ危機以降低迷を続け、[[2002年]]頃まで低迷していたが、その後中国のスズ需要の急増などに伴って価格が急騰し、[[2007年]]には2002年の3倍以上の価格となった<ref>「レアメタル・資源 38元素の統計と展望」p160 西山孝 丸善 平成21年11月30日発行</ref>。 古くから用いられてきたことから錫(tin)を金属の代名詞とする言い回しも多い。例としては『tin fish([[魚雷]])』、『tin hat(軍用のヘルメット)』、『Tin Kincer([[航空事故]]の調査官)』などである<ref>[[小学館ランダムハウス英和大辞典]]第二版</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=F.A. コットン, G. ウィルキンソン|others=中原 勝儼|title=コットン・ウィルキンソン無機化学(上)|publisher=培風館|year=1987|edition=原書第4版|isbn=4-563-04192-0|ref={{sfnRef|コットン、ウィルキンソン (1987)|}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Tin}} {{Wiktionary|すず|スズ|錫}} * [[錫石]] * [[ハンダ]] * [[青銅]] * [[ピューター]] == 外部リンク == * {{ICSC|1535}} * {{Kotobank}} * [https://chori-mukifine.com/yunnan-tin-group/ 雲錫集団(中国) › 蝶理株式会社 無機ファイン部ホームページ (chori-mukifine.com)] {{元素周期表}} {{スズの化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すす}} [[Category:スズ|*]] [[Category:元素]] [[Category:第14族元素]] [[Category:第5周期元素]] [[Category:卑金属]] [[Category:金属中毒]]
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窒化ホウ素
窒化ホウ素(ちっかホウそ、英: boron nitride、BN)は窒素とホウ素からなる固体の化合物である。周期表で炭素 (IV族) の両隣りの元素からなるIII-V族化合物なので、性質面で炭素と似ている点が多い。 炭素には常温常圧で安定な黒鉛と高温高圧で安定なダイヤモンドがあるように、窒化ホウ素にも六方晶系 (英: hexagonal) の常圧相と、立方晶系 (英: cubic) の高圧相があり、h-BN、c-BNと呼び分けられる。常圧相のh-BNは1842年にバルメイン (W. H. Balmain) により、高圧相のc-BNは1957年にウェンター (R. H. Wentor) によって初めて合成された。 h-BNの粉末や成形体は、固体潤滑剤、ファインセラミックスなどに使われる。c-BNの粒および焼結体は、おもに、鉄と鋼用の、研磨材および切削工具などに使われる。 左図がh-BNの結晶構造の模型で、小さな青がホウ素、大きな茶が窒素である。ホウ素と窒素が交互に正六角形の頂点にあるが、図中 (a) と (b) では、ホウ素と窒素の位置が逆である。そして、(a) の上に (b)、そのまた上に (a) というように、(a)(b)(a)(b)(a)(b) ......と二層周期で積めば、六方晶系の窒化ホウ素 (h-BN) が組み上がる。 図の六角の網目の重なり方が三層周期である、菱面体晶系の窒化ホウ素 (r-BN) も報告されている。シアン化カリウム (KCN) とメタホウ酸ナトリウム (Na2B2O4) から合成した窒化ホウ素に含まれるか、高圧相BNがh-BNに戻る過程で生成すると予想されている。 これらの構造は黒鉛と似ている。黒鉛では、青・茶の区別なしに角の全部が炭素原子で占められるが、やはり六角の網目が重なっている。 ほかに、低温または気相法で合成したBNは無秩序な積層構造となりやすく、このようなBNは乱層構造BN (t-BN, turbostratic BN) と呼ばれる。 常圧相窒化ホウ素は原子がしっかりと組み合った六角網面が広い間隔で重なり、層間をつなげるのは弱いファンデルワールス力であるから、互いに滑りやすい。このために「白い黒鉛」(ホワイトグラファイト)とも呼ばれる。 網面がしっかりしているので格子振動によって熱がよく伝わり、電気絶縁体の中では最高の熱伝導率を持つ。熱膨張率は低く、アルミナの約10分の1である。 高熱伝導率で低膨熱張率であるためセラミックス中で最高の熱衝撃抵抗を示し、1,500°C以上から急冷しても破壊しない。 電気絶縁体であるという点で黒鉛と異なる。黒鉛では層内の原子が3本の結合手で結び合い、炭素の4個目の価電子が金属における自由電子のように網面内を走り回ることができる。一方、常圧相窒化ホウ素では、六角の網目を組んだあと、窒素に残る2個の価電子は電気陰性度の高い窒素原子にとらえられ、動くことができない。可視光線を吸収しないため白色である。 大気中では1,000°Cまで、真空中では1,400°Cまで、不活性雰囲気では2,800°Cまで安定である。アルミニウム、銅、亜鉛、鉄、鋼、ゲルマニウム、ケイ素、ホウ素、氷晶石、硝子、ハロゲン化物の融体に濡れない。 柔らかく、モース硬度は石膏や黒鉛と同じく2である。成形体は機械加工しやすく、マシナブルセラミックスとも呼ばれる。密度は2.27 g/cm、融点は2,967°C、沸点は3,273°Cである。 つぎの製造法が代表的である。 右図の左半の正三角形に筋目をつけて折り上げ、接する稜線を貼りつければ、正三角形四枚の正四面体ができる。その四つの頂点にB原子あるいはN原子、そして重心位置にN原子あるいはB原子を置いた正四面体から、窒化ホウ素の結晶を組みあげることができる。ダイヤモンドでは頂点と重心位置とが、すべてCである。 その正四面体を密に平面上に並べると、図の右半の網目模様となり、正三角形の中央で120°間隔の三本足をつけた黒点が正四面体の頂点の原子、それ以外の黒丸が正四面体の底面の原子である。これらは正四面体からなる層をなす。その第1層の上に乗せる第2層の正四面体は、第1層の頂点、すなわち三本足つき黒点を足場に並べることになり、その場合、図の右端に斜線をつけた (<) 型と (>) 型の二通りの並べかたがある(第1層は (<) の向きに描いてある)。 そして、(<) 向きの層の上に < 向きに、その上も (<) 向きに、と (<)(<)(<)(<) ......と積んでゆくと、立方晶型の窒化ホウ素 (c-BN) になる。図の網目模様が立方晶の (111) 面である。この構造は閃亜鉛鉱型と呼ばれる。ダイヤモンドも同じく (<)(<)(<)(<) ......型である。 ほかに、ウルツ鉱型のw-BNと呼ばれる高圧相もあり、その模型は (<)(>)(<)(>) ......型である。これは六方晶である。 結晶構造がダイヤモンドに類似し、原子間距離もほぼ同じであるため(表を参照)、ダイヤモンドに準じて硬い。ヌープ硬度 (kgf/mm) はダイヤモンドの7000 - 8000に対し、4500 - 4700である。硬度は800°Cまで変わらない。 熱伝導はダイヤモンドと同程度に高い。ダイヤモンドと同じく電導性は持たず、純粋な結晶は無色透明である。 ダイヤモンドと違い、鉄、ニッケル、その他の合金に溶けない。 900°Cの酸化雰囲気では B2O3 の保護被膜を作るが、被膜は1,200 - 1,300°Cで蒸発する。1,400°C前後で常圧相に戻る。水蒸気があると、約900°Cでホウ酸とアンモニアに分解する。 密度は3.48g/cmである。 常圧相窒化ホウ素は、18GPa、1,730 - 3,230°Cの環境で高圧相に変わり、それは常温常圧下でも準安定相として存在できる。原料の常圧相に、アルカリ金属、アルカリ土類、あるいは、それらの窒化物を加えると、4 - 7GPa、1500°Cで変換するようになる。 右図のような組み合わせでその条件を作ることが多い。図は断面で、上から見れば、すべての部品が円形である。ベルトを絞めたような感じから、「ベルト型」と呼ばれることもある。 孔あき円盤のダイスと、上下の突起つきアンヴィルとが作る隙間に、原料やジュール熱発生用のヒーターなどを詰め込み、圧力漏れ防止のパッキングを挟み、上下から加圧し、上下間に電圧をかけて加熱し、高圧相に変換させる。後始末の精製処理はいる。この方法で生成する高圧相は、立方晶のc-BNである。 その方法のほか、爆薬で瞬間的に高温高圧状態を作り、高圧相に変えることもできる。この方法で生成する高圧相は、ウルツ鉱型のw-BNである。細かい。 炭素繊維的なh-BN繊維が製造されている。 フラーレン型の窒化ホウ素、カーボンナノチューブ状の窒化ホウ素も研究されている。 CVD、熱CVD、PVDなどで電子素子用のh-BN、c-BNを作る試みも進んでいる。 ペレット状にしたMgB2、Mg、BNを共に焼結して、MgB2超伝導体の単結晶をつくるシステム(Mg-B-Nシステム)が確立されている。 2009年には高圧相に相当する窒化ホウ素が自然界で初めて中国チベット自治区のクロム鉱床から発見され、2013年に青松鉱(英語版)(Qingsongite)と命名された。
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窒化ホウ素は窒素とホウ素からなる固体の化合物である。周期表で炭素 (IV族) の両隣りの元素からなるIII-V族化合物なので、性質面で炭素と似ている点が多い。 炭素には常温常圧で安定な黒鉛と高温高圧で安定なダイヤモンドがあるように、窒化ホウ素にも六方晶系 の常圧相と、立方晶系 の高圧相があり、h-BN、c-BNと呼び分けられる。常圧相のh-BNは1842年にバルメイン により、高圧相のc-BNは1957年にウェンター によって初めて合成された。 h-BNの粉末や成形体は、固体潤滑剤、ファインセラミックスなどに使われる。c-BNの粒および焼結体は、おもに、鉄と鋼用の、研磨材および切削工具などに使われる。
{{出典の明記|date=2013年8月}} {{Chembox | verifiedrevid = 396301421 | ImageFile = Hbncrystals.jpg | ImageName = 六方晶窒化ホウ素の結晶 | IUPACName = | SystematicName = | OtherNames = | Section1 = {{Chembox Identifiers | Abbreviations = | ChemSpiderID_Ref = {{chemspidercite|correct|chemspider}} | ChemSpiderID = 59612 | InChI = 1/BN/c1-2 | SMILES = B#N | InChIKey = PZNSFCLAULLKQX-UHFFFAOYAL | StdInChI_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChI = 1S/BN/c1-2 | StdInChIKey_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChIKey = PZNSFCLAULLKQX-UHFFFAOYSA-N | CASNo = 10043-11-5 | CASNo_Ref = {{cascite|correct|CAS}} | EINECS = 233-136-6 | EINECSCASNO = | PubChem = 66227 | RTECS = ED7800000 | ATCCode_prefix = | ATCCode_suffix = | ATC_Supplemental =}} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = BN | MolarMass = 24.818 g/mol | Appearance = 白色粉末または半透明の結晶 | Density = 3.4870 g/cm<sup>3</sup> ([[立方晶窒化ホウ素|c-BN]]) | MeltingPt = 2700 °C, ([[立方晶窒化ホウ素|c-BN]]) | Melting_notes = 昇華 | BoilingPt = | Boiling_notes = | Solubility = 不溶 | SolubleOther = [[酸]]に不溶 | LogP = | VaporPressure = | HenryConstant = | AtmosphericOHRateConstant = | pKa = | pKb = | BandGap = | ElectronMobility = 200 cm<sup>2</sup>/(V·s) ([[立方晶窒化ホウ素|c-BN]]) | ThermalConductivity = | RefractIndex = 2.17 ([[立方晶窒化ホウ素|c-BN]]) }} | Section3 = {{Chembox Structure | CrystalStruct = [[六方晶]]<br />[[閃亜鉛鉱型構造]]<br />[[ウルツ鉱型構造]] | Coordination = | MolShape =}} | Section4 = {{Chembox Thermochemistry | DeltaHf = −254.4 [[ジュール|kJ]] [[モル|mol<sup>−1</sup>]](六方晶)<ref name="化学便覧">{{Cite book|和書|title=化学便覧 基礎編|publisher=[[丸善出版]]|edition=改訂6版|volume=II|others=[[日本化学会]] 編|year=2021|isbn=978-4-621-30521-8}} 表10.10-1.</ref> | Entropy = 14.81 J mol<sup>−1</sup> K<sup>−1</sup>(六方晶)<ref name="化学便覧"/> | HeatCapacity =}} | Section5 = {{Chembox Pharmacology | HalfLife =}} | Section6 = {{Chembox Explosive | ShockSens = | FrictionSens = | ExplosiveV = | REFactor =}} | Section7 = {{Chembox Hazards | ExternalMSDS = | EUClass = | EUIndex = | MainHazards = | NFPA-H = | NFPA-F = | NFPA-R = | NFPA-O = | RPhrases = {{R-phrases|36|37}} | SPhrases = {{S-phrases|26|36}} | RSPhrases = | FlashPt = | Autoignition = | ExploLimits = | LD50 = | PEL =}} | Section8 = {{Chembox Related | OtherAnions = [[リン化ホウ素]]<br />[[ヒ化ホウ素]]<br />[[炭化ホウ素]]<br />[[三酸化ホウ素]] | OtherCations = | OtherFunctn = | Function = | OtherCpds =}} }} '''窒化ホウ素'''(ちっかホウそ、{{lang-en-short|boron nitride}}、BN)は[[窒素]]と[[ホウ素]]からなる固体の化合物である。[[周期表]]で[[炭素]] ([[第14族元素|IV族]]) の両隣りの元素からなる[[III-V族化合物]]なので、性質面で炭素と似ている点が多い。 炭素には常温常圧で安定な[[黒鉛]]と高温高圧で安定な[[ダイヤモンド]]があるように、窒化ホウ素にも[[結晶構造|六方晶]]系 ({{lang-en-short|hexagonal}}) の常圧相と、[[結晶構造|立方晶]]系 ({{lang-en-short|cubic}}) の高圧相があり、'''h-BN'''、'''c-BN'''と呼び分けられる。常圧相のh-BNは1842年にバルメイン (W. H. Balmain) により、高圧相のc-BNは1957年にウェンター (R. H. Wentor) によって初めて合成された。 h-BNの粉末や成形体は、固体[[潤滑剤]]、[[ファインセラミックス]]などに使われる。c-BNの粒および[[焼結]]体は、おもに、[[鉄]]と[[鋼]]用の、[[研磨材]]および[[切削工具]]などに使われる。 ==常圧相窒化ホウ素== ===構造=== [[Image:Boron-Nitride_h.png|thumb|left|200px|常圧相窒化ホウ素の結晶]] 左図がh-BNの結晶構造の模型で、小さな青がホウ素、大きな茶が窒素である。ホウ素と窒素が交互に正六角形の頂点にあるが、図中 (a) と (b) では、ホウ素と窒素の位置が逆である。そして、(a) の上に (b)、そのまた上に (a) というように、(a)(b)(a)(b)(a)(b) ……と二層周期で積めば、[[結晶構造|六方晶]]系の窒化ホウ素 (h-BN) が組み上がる。 図の六角の網目の重なり方が三層周期である、[[結晶構造|菱面体晶]]系の窒化ホウ素 (r-BN) も報告されている。[[シアン化カリウム]] (KCN) とメタホウ酸ナトリウム (Na<sub>2</sub>B<sub>2</sub>O<sub>4</sub>) から合成した窒化ホウ素に含まれるか、高圧相BNがh-BNに戻る過程で生成すると予想されている。 これらの構造は[[黒鉛]]と似ている。黒鉛では、青・茶の区別なしに角の全部が炭素原子で占められるが、やはり六角の網目が重なっている。 ほかに、低温または気相法で合成したBNは無秩序な積層構造となりやすく、このようなBNは乱層構造BN (t-BN, turbostratic BN) と呼ばれる。 {| class="wikitable" |+窒化ホウ素と炭素との結晶 |- ! 名称 !! 化学式<th>結晶構造 !! 最近接原子間距離 (pm) !! 層間距離 (pm) |- | 常圧相窒化ホウ素 || BN || 右図 || 145 || 334 |- | 黒鉛 || C || 右図の原子がすべてC || 142 || 335 |- | 高圧相窒化ホウ素 || BN || 下図 || 157 || - |- | ダイヤモンド || C || 下図の原子がすべてC || 154 || - |}{{clearleft}} ===性質=== 常圧相窒化ホウ素は原子がしっかりと組み合った六角網面が広い間隔で重なり、層間をつなげるのは弱い[[ファンデルワールス力]]であるから、互いに滑りやすい。このために「白い黒鉛」(ホワイトグラファイト)とも呼ばれる。 網面がしっかりしているので[[格子振動]]によって熱がよく伝わり、電気絶縁体の中では最高の熱伝導率を持つ。熱膨張率は低く、[[アルミナ]]の約10分の1である。 高熱伝導率で低膨熱張率であるため[[セラミックス]]中で最高の熱衝撃抵抗を示し、1,500℃以上から急冷しても破壊しない。 電気絶縁体であるという点で黒鉛と異なる。黒鉛では層内の原子が3本の結合手で結び合い、炭素の4個目の[[価電子]]が金属における[[自由電子]]のように網面内を走り回ることができる。一方、常圧相窒化ホウ素では、六角の網目を組んだあと、窒素に残る2個の価電子は[[電気陰性度]]の高い窒素原子にとらえられ、動くことができない。可視光線を吸収しないため白色である。 大気中では1,000℃まで、真空中では1,400℃まで、不活性雰囲気では2,800℃まで安定である。アルミニウム、銅、亜鉛、鉄、鋼、ゲルマニウム、ケイ素、ホウ素、氷晶石、硝子、ハロゲン化物の融体に濡れない。 柔らかく、[[モース硬度]]は石膏や黒鉛と同じく2である。成形体は[[機械加工]]しやすく、マシナブルセラミックスとも呼ばれる。密度は2.27 g/cm<sup>3</sup>、融点は2,967℃、沸点は3,273℃である。 ===製造法=== つぎの製造法が代表的である。 * 融解[[ホウ素|無水ホウ酸]] (B<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) と[[窒素]]あるいは[[アンモニア]] (NH<sub>3</sub>) を[[リン酸カルシウム]] (Ca<sub>3</sub>(PO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>) 触媒で反応させる。 * ホウ酸やホウ化アルカリと、[[尿素]]、[[グアニジン]]、[[メラミン]] (C<sub>3</sub>H<sub>6</sub>N<sub>6</sub>) などの有機窒素化合物を高温の窒素-アンモニア雰囲気中で反応させる。 * 融解ホウ酸ナトリウム (Na<sub>3</sub>BO<sub>3</sub>) と[[塩化アンモニウム]]をアンモニア雰囲気中で反応させる。 * [[三塩化ホウ素]] (BCl<sub>3</sub>) とアンモニアを高温で反応させる(高純度品が得られる)。 ===用途=== * 固体[[潤滑剤]] - 低温から酸化気中の900℃までの使用に耐える。[[二硫化モリブデン]]は350℃付近から、[[黒鉛]]は450℃付近から酸化が進行してしまうため500℃以上では使用できない。潤滑に水分を必要としないので、たとえば宇宙空間でも使える。ただし真空中では摩擦係数が上昇するためあまり使用されない。セラミックス、合金、樹脂、ゴムなどに混合して、潤滑性を持たせることができる。それら母体の熱伝導、電気絶縁性、化学的安定性などを高める効果ももつ。英語ないし英語混じりの名称(窒化ボロン、ボロンナイトライド等)あるいは単に「ファインセラミックス」との呼称で窒化ホウ素を含有する潤滑油用添加剤の例もある。 * 離型剤 - 自動車エンジンを鋳造する金型や、ガラス成形型などに塗布する。敷き粉にも使われる。 * 焼結助剤を使ってホットプレスまたは常圧焼結し、[[窒化アルミニウム]]や窒化ケイ素焼結体用セッターや、金属・ガラス用[[るつぼ]]などを作る。成形体は、高温雰囲気炉絶縁体や[[トランジスタ]]などの[[ヒートシンク]]にも重用されている。[[化学気相成長|CVD]]でも作られ、その高純度性から[[ヒ化ガリウム]]などの化合物半導体用坩堝に用いられている。 * 微粉は化粧品に配合される。 * 高圧相窒化ホウ素の原料である。 ==高圧相窒化ホウ素== ===構造=== [[画像:Tetrahedron Layer.png|thumb|right|300px|高圧相窒化ホウ素の結晶構造の模型]] 右図の左半の正三角形に筋目をつけて折り上げ、接する稜線を貼りつければ、正三角形四枚の[[正四面体]]ができる。その四つの頂点にB原子あるいはN原子、そして重心位置にN原子あるいはB原子を置いた正四面体から、窒化ホウ素の結晶を組みあげることができる。[[ダイヤモンド]]では頂点と重心位置とが、すべてCである。 その正四面体を密に平面上に並べると、図の右半の網目模様となり、正三角形の中央で120<span lang="en">°</span>間隔の三本足をつけた黒点が正四面体の頂点の原子、それ以外の黒丸が正四面体の底面の原子である。これらは正四面体からなる層をなす。その第1層の上に乗せる第2層の正四面体は、第1層の頂点、すなわち三本足つき黒点を足場に並べることになり、その場合、図の右端に斜線をつけた (<) 型と (>) 型の二通りの並べかたがある(第1層は (<) の向きに描いてある)。 そして、(<) 向きの層の上に < 向きに、その上も (<) 向きに、と (<)(<)(<)(<) ……と積んでゆくと、[[立方晶窒化ホウ素|立方晶型の窒化ホウ素 (c-BN)]] になる。図の網目模様が立方晶の (111) 面である。この構造は[[亜鉛|閃亜鉛鉱]]型と呼ばれる。ダイヤモンドも同じく (<)(<)(<)(<) ……型である。 ほかに、[[炭化ケイ素|ウルツ鉱]]型のw-BNと呼ばれる高圧相もあり、その模型は (<)(>)(<)(>) ……型である。これは六方晶である。 ===性質=== 結晶構造がダイヤモンドに類似し、原子間距離もほぼ同じであるため(表を参照)、ダイヤモンドに準じて硬い。[[ヌープ硬度|ヌープ硬度 (kgf/mm<sup>2</sup>)]] はダイヤモンドの7000 - 8000に対し、4500 - 4700である。硬度は800℃まで変わらない。 熱伝導はダイヤモンドと同程度に高い。ダイヤモンドと同じく電導性は持たず、純粋な結晶は無色透明である。 ダイヤモンドと違い、鉄、ニッケル、その他の合金に溶けない。 900℃の酸化雰囲気では B<sub>2</sub>O<sub>3</sub> の保護被膜を作るが、被膜は1,200 - 1,300℃で蒸発する。1,400℃前後で常圧相に戻る。水蒸気があると、約900℃で[[ホウ酸]]とアンモニアに分解する。 密度は3.48g/cm<sup>3</sup>である。 ===製造法=== 常圧相窒化ホウ素は、18GPa、1,730 - 3,230℃の環境で高圧相に変わり、それは常温常圧下でも[[準安定相]]として存在できる。原料の常圧相に、[[第1族元素|アルカリ金属]]、[[第2族元素|アルカリ土類]]、あるいは、それらの窒化物を加えると、4 - 7GPa、1500℃で変換するようになる。 [[Image:Hydrostatic_Synthesis.png|thumb|right|200px|静水圧高圧合成装置]] 右図のような組み合わせでその条件を作ることが多い。図は断面で、上から見れば、すべての部品が円形である。ベルトを絞めたような感じから、「ベルト型」と呼ばれることもある。 孔あき円盤のダイスと、上下の突起つきアンヴィルとが作る隙間に、原料や[[ジュール熱]]発生用のヒーターなどを詰め込み、圧力漏れ防止のパッキングを挟み、上下から加圧し、上下間に電圧をかけて加熱し、高圧相に変換させる。後始末の精製処理はいる。この方法で生成する高圧相は、立方晶のc-BNである。 その方法のほか、爆薬で瞬間的に高温高圧状態を作り、高圧相に変えることもできる。この方法で生成する高圧相は、ウルツ鉱型のw-BNである。細かい。 ===用途=== * 結合剤を加え、(おもに鉄鋼用の)[[砥石]]を作る。 * 焼結して、(おもに鉄鋼用の)切削工具を作る。焼結体は、電気絶縁性の[[ヒートシンク]]にも使われる。 ==その他== [[炭素繊維]]的なh-BN繊維が製造されている。 [[フラーレン]]型の窒化ホウ素、[[カーボンナノチューブ]]状の窒化ホウ素も研究されている。 [[化学気相成長|CVD]]、熱CVD、[[物理気相成長|PVD]]などで電子素子用のh-BN、c-BNを作る試みも進んでいる。 ペレット状にした[[二ホウ化マグネシウム|MgB2]]、[[マグネシウム|Mg]]、BNを共に焼結して、MgB2超伝導体の単結晶をつくるシステム(Mg-B-Nシステム)が確立されている。 [[2009年]]には高圧相に相当する窒化ホウ素が自然界で初めて[[中国]][[チベット自治区]]のクロム鉱床から発見され、[[2013年]]に{{仮リンク|青松鉱|en|Qingsongite}}(Qingsongite)と命名された<ref>[http://www.mindat.org/min-43792.html Qingsongite ''mindat.org'']</ref><ref>[https://spc.jst.go.jp/news/130901/topic_1_04.html チベットで新鉱物発見 中国人科学者を記念し「青松鉱」と命名]、Science Portal China([[科学技術振興機構]])、2013年9月2日、2022年9月20日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{ホウ素の化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちつかほうそ}} [[Category:セラミック材料]] [[Category:無機化合物]] [[Category:窒化物]] [[Category:ホウ素の化合物]] [[Category:研磨材]] [[Category:中性子毒]]
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2022-09-20T12:09:07Z
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円谷プロダクション
株式会社円谷プロダクション(つぶらやプロダクション、英: Tsuburaya Productions Co., Ltd.)は、日本の独立系映像製作会社。円谷フィールズホールディングスの連結子会社でバンダイナムコホールディングスの持分法適用会社。 高度な特殊撮影技術を用いた作品を作ることで知られており、『ウルトラシリーズ』を始めとする数多くのテレビ番組や映画を製作し続けている。 円谷プロダクションの作品は『ウルトラシリーズ』に代表されるようにクオリティの高い作品が多いが、それゆえに1本当たりの制作費が高くなり、作れば作るほど制作費の赤字がかさむという負の連鎖に長年悩まされていた。やがて、この問題は経営にたびたび大きく影響を及ぼしはじめた。 設立当初は創業者である円谷英二の出身映画会社である東宝との結びつきが強く、円谷プロダクションの筆頭株主にもなっており、東宝役員が非常勤役員を兼ねたり支配人など事務系スタッフを出向させていた。また、東宝の東京都世田谷区砧にある撮影所の近くにある衣装部の倉庫や東京美術センターの提供を受けたり、東宝受注のテレビ番組と映画を孫受けて受注するなどしていた。 1969年、特撮テレビドラマ『怪奇大作戦』が終了するころになっても、テレビ局からの新番組の発注はなく仕事が途絶えてしまう。経営に行き詰まった円谷プロダクションは資金調達のために増資を実施。筆頭株主の東宝がこれを引き受けて当社株の60%を取得して子会社化。社長は円谷英二だったが東宝からは7人の役員が派遣されて東宝の藤本真澄も代表権を持った。 東宝はリストラによる経営再建策で、金城哲夫が所属している企画文芸部を廃止して約150人いた社員を40人にまで圧縮した。滞っていた業者への支払いや借金返済についても、親会社になった東宝の力によって5年間の猶予期間が設けられた。そのおかげで制作を継続することができた。 人材的にも当初はプロデューサーの市川利明、末安昌実、監督の梶田興治、野長瀬三摩地による東宝からの出向者に多くを担ったが、『ウルトラシリーズ』の開始後はTBS映画部のディレクター陣が演出の中枢を担うようになり、このうち円谷一と満田かずほは退社してTBSに移籍している。 1970年1月25日、円谷英二の病死により、TBSを退社した円谷一が2代目社長に就任。 1973年2月9日、円谷一の急死により、円谷皐が3代目社長に就任。 1979年、映画『ウルトラマン怪獣大決戦』が松竹富士系で大ヒットしたが、これに関して映画雑誌『キネマ旬報』に「ライバルの松竹に塩を送った格好の東宝は渋い顔」という内容の記述がある。 1983年、経理は東宝から出向した重役が管理しており、代表印も東宝が保有していた。これにより、東宝のメインバンクであった三和銀行からの融資も容易になっており、経営難を乗り越えることができていた。円谷皐は、この状況を快く思っていなかった。 1992年、TBSへ期限付きで譲渡していた『ウルトラシリーズ』の販売権や窓口権が戻ってくると、これらの権利を担保に得た資金で、円谷プロダクションの株式を円谷皐が15%、皐が設立した円谷エンタープライズが45.5%を取得して東宝との資本関係を解消。円谷皐が円谷プロダクションの株式過半数を握るオーナー社長として円谷プロダクションを運営していた。 1995年6月11日、円谷皐が死去により、円谷一夫が4代目社長に就任。その後、円谷プロダクションの株式過半数は円谷一夫に相続された。 2001年、特撮テレビシリーズの本格的再開により、制作費は増加してしまった。しかし、その一方で大ヒットに恵まれなかったこと、東宝からの離反に伴いかつての後ろ盾であった三和銀行が抜けたため、経営基盤が弱体化してTBSとの関係が悪化してしまう。 2002年2月、円谷プロダクションを退社していた円谷粲が再入社して副社長に就任。 2003年、円谷一夫が辞任して円谷昌弘が5代目社長、円谷一夫が代表権を持つ会長、円谷英明が専務に就任。一方で専務取締役の高野宏一は、この過程でバンダイの乗っ取りに加担するクーデターを計画したとして、辞表を出すように要求されて退社する事態となった。 2004年6月、円谷昌弘が女性社員へのセクハラで辞任して円谷英明が6代目社長に就任。経理の正常化を目指した円谷英明も1年後に役員会で解任動議が出されて、円谷プロダクションの株式を持つ会長の円谷一夫の同意により解任。東宝不動産の取締役だった大山茂樹が7代目社長に就任。 2007年2月、期決算で売上高約56億円に対して当期純利益は約4400万円にとどまった。累積赤字の膨張による倒産を危惧した役員は、円谷一夫から制作部の円谷昌弘への社長交代を要求。6月、取締役会で大幅なリストラを主張していた大山は解任されて円谷一夫が8代目社長に就任。 銀行からの融資がストップしたため、30億円の累積赤字を抱えて倒産の危機に直面。10月、非常勤取締役の森島恒行の紹介により、CM映像のコンテンツ製作などを手がけるTYOから、当面の資金繰りのための数千万円の融資を受けた。しかし、それを返済できなかったため、TYOが担保になっていた円谷エンタープライズの株の過半数を取得。さらにTYOが第三者割当増資で取得した株と合わせて、円谷エンタープライズの株式の80%を保有して筆頭株主となった。また、円谷一夫が保有していた円谷プロダクションの株式22.5%を円谷エンタープライズに譲渡することにより、円谷エンタープライズにおける円谷プロダクションの株保有比率を45.5%から68%に引き上げた。これらのプロセスを経て、TYOは円谷プロダクションの経営権を取得してTYOの連結子会社となった。円谷一夫は解任されて森島が9代目社長に就任。TYOの経営参画後円谷一夫が円谷プロダクションと円谷エンタープライズの会長として残ったものの、設立から続いてきた円谷家による同族経営に終止符が打たれた。 TYOによる内部的な組織改革などが進み、これらと並行して円谷プロダクションとは『ウルトラシリーズ』で強い縁を持つバンダイナムコグループが資本参加。 2008年1月21日、TYOは持ち株のうち、33.4%をバンダイナムコグループの子会社であるバンダイに譲渡売却。10月、森島が辞任して大岡新一が10代目社長に就任。 2009年7月、さらなる株式譲渡が行われて(バンダイ持ち株比率は49%)、バンダイナムコグループの円谷プロダクションにおける経営発言力が増した。この間に円谷一夫は会長から名誉会長へ退き、その名誉職も退任となり、これで円谷家は経営から一切排除された。 2010年4月2日、TYOは保有する円谷プロダクションの株式51%をフィールズに売却して、円谷プロダクションはフィールズの連結子会社となった。2014年3月期に2007年ごろから続いてきた債務超過を解消。 2017年8月1日、大岡が辞任して塚越隆行が11代目社長に就任。2019年4月1日、塚越が辞任して永竹正幸が12代目社長、塚越は会長に就任。 2022年10月、フィールズがグループ会社を含めた持株会社制に移行するのに伴い、円谷プロダクションは円谷フィールズホールディングスの連結子会社となった。3月の時点でフィールズの営業利益のうち、4割近くを円谷プロダクションが占めている。 かつて東京都世田谷区砧に存在した円谷プロダクションの初代社屋。元々は東宝スタジオで京都衣裳の衣装倉庫として使用されていた。 1964年、東宝が資本参加した際に円谷プロダクションへ提供していた。京都衣装以前は医療関係の建物であったとされる。 2005年4月、本社移転により、名称をKinuta Digital SymphonyとしてCG部門の編集スタジオとして使用されていた。 2008年2月、Kinuta Digital Symphonyを解体。 『快獣ブースカ』に登場した大作発明研究所や『ウルトラセブン』第8話に登場した警察署などは、砧社屋の建物を使用して撮影されていた。円谷プロダクション製作以外の作品では『有言実行三姉妹シュシュトリアン』第40話でロケ地の1つとして使用されていた。 かつて円谷プロダクションに東宝が資本参加していたころ、東京都世田谷区砧に存在した円谷プロダクションの初代社屋2階にヒーローと怪獣の着ぐるみを保管していた倉庫。当初は着ぐるみに特化していたわけではなく衣装、小道具、人形、模型、ミニチュアなども保管されていた。 2005年4月、本社の移転により、収蔵物の多くも新社屋に移された。 2006年7月、着ぐるみ、衣装、小道具、人形、模型の一部を陳列した展示スペースとして改装されて限定的に一般公開された。 2008年2月、砧社屋の閉鎖により、怪獣倉庫も解体された。京都衣装時代から残されていた衣装整理用の札が貼られた傷だらけの柱の一部は円谷プロダクションで保管されている。 『ウルトラファイト』第196話や『ウルトラマンマックス』第24話などの撮影には怪獣倉庫も使用されていた。 かつて存在した東宝の撮影所の1つである。『ウルトラシリーズ』の撮影場所として長年使用されたことから「特撮の聖地」とも言われている 1996年、円谷プロダクションの出資で改築が行われていたなど関係性が深かった。 マークは光学合成技師の中野稔がデザインし、「ツブラヤ」の「ツ」をモチーフにツの線に加えて各線端を繋いで形成した多角形と中段に「TSUBURAYA」の英字表記を記したものとなっている。 エイプリルフールになるとインターネットで手の込んだネタを発表していた。円谷英二の、ひ孫にあたる円谷洋平が所属しているサイバーエデン(円谷プロダクションの公式サイト「円谷ステーション」を運営している会社)が企画、円谷プロダクションが監修の下で行われていた。 過去にインターネットで歴代キャラクターの人気投票を実施していた。
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株式会社円谷プロダクションは、日本の独立系映像製作会社。円谷フィールズホールディングスの連結子会社でバンダイナムコホールディングスの持分法適用会社。
{{Pathnav|円谷フィールズホールディングス|frame = 1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社円谷プロダクション |英文社名 = Tsuburaya Productions Co., Ltd. |ロゴ = [[File:円谷プロダクション.png|150px]] |画像 = [[File:Sumitomo Fudosan Shibuya Garden Tower.jpg|250px]] |画像説明 = 本社が入居する渋谷ガーデンタワー |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = 円谷プロ<br />TPC |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 150-0044 |本社所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[南平台町]]16番17号<br />渋谷ガーデンタワー24階 |設立 = [[1963年]]4月12日 |業種 = 5250 |事業内容 = 映像作品の企画、制作、配給、商品化、広告ライセンシング事業<br />ライブイベント企画、制作、運営<br />映像、造形技術提供 |代表者 = 代表取締役会長兼CEO [[塚越隆行]]<br />代表取締役社長兼COO [[永竹正幸]] |資本金 = 3億1000万円(2008年1月21日時点) |売上高 = 55億8884万円(2007年2月期実績) |総資産 = 52億896万円(2007年2月期実績) |従業員数 = 162名 |決算期 = 2月28日 |主要株主 = [[円谷フィールズホールディングス]] 51%<br />[[バンダイナムコホールディングス]] 49% |関係する人物 = [[円谷英二]](創業者) |外部リンク = {{Official URL}} |特記事項 = <br />[[1963年]]4月12日、株式会社円谷特技プロダクションとして設立。<br />[[1968年]]12月6日、社名を株式会社円谷プロダクションに変更。 }} [[File:Tsuburaya production head office hachimanyama setagaya tokyo 2009.JPG|thumb|250px|[[東京都]][[世田谷区]][[八幡山 (世田谷区)|八幡山]]の旧円谷プロダクション本社]] '''株式会社円谷プロダクション'''(つぶらやプロダクション、{{Lang-en-short|Tsuburaya Productions Co., Ltd.}})は、[[日本]]の独立系映像製作会社。[[円谷フィールズホールディングス]]の連結子会社で[[バンダイナムコホールディングス]]の持分法適用会社。 == 概要 == 高度な[[SFX|特殊撮影技術]]を用いた作品を作ることで知られており、『[[ウルトラシリーズ]]』を始めとする数多くのテレビ番組や映画を製作し続けている。 == 経営母体の変遷 == 円谷プロダクションの作品は『[[ウルトラシリーズ]]』に代表されるようにクオリティの高い作品が多いが、それゆえに1本当たりの制作費が高くなり、作れば作るほど制作費の赤字がかさむという負の連鎖に長年悩まされていた。やがて、この問題は経営にたびたび大きく影響を及ぼしはじめた。 === 東宝の傘下 === 設立当初は創業者である[[円谷英二]]の出身映画会社である[[東宝]]との結びつきが強く、円谷プロダクションの筆頭株主にもなっており、東宝役員が非常勤役員を兼ねたり支配人など事務系スタッフを出向させていた。また、東宝の[[東京都]][[世田谷区]][[砧 (世田谷区)|砧]]にある撮影所の近くにある衣装部の倉庫や[[東宝ビルト|東京美術センター]]の提供を受けたり、東宝受注のテレビ番組と映画を孫受けて受注するなどしていた。 [[1969年]]、特撮テレビドラマ『[[怪奇大作戦]]』が終了するころになっても、テレビ局からの新番組の発注はなく仕事が途絶えてしまう。経営に行き詰まった円谷プロダクションは資金調達のために増資を実施。筆頭株主の東宝がこれを引き受けて当社株の60%を取得して子会社化。社長は円谷英二だったが東宝からは7人の役員が派遣されて東宝の[[藤本真澄]]も代表権を持った。 東宝はリストラによる経営再建策で、[[金城哲夫]]が所属している企画文芸部を廃止して約150人いた社員を40人にまで圧縮した{{Sfn|白石雅彦|2006|p=239}}{{Sfn|円谷英明|2013|pp=49 - 50}}。滞っていた業者への支払いや借金返済についても、親会社になった東宝の力によって5年間の猶予期間が設けられた。そのおかげで制作を継続することができた<ref>[[伊藤孝一 (新聞学者)|伊藤孝一]]、[[公野勉]]、[[小林義寛]]「映画はこうしてつくられる」[[風塵社]] 2008年12月1日 pp.225 [[円谷粲]]のインタビューより</ref>。 人材的にも当初はプロデューサーの市川利明、末安昌実、監督の梶田興治、野長瀬三摩地による東宝からの出向者に多くを担ったが、『ウルトラシリーズ』の開始後は[[TBSテレビ|TBS]]映画部のディレクター陣が演出の中枢を担うようになり、このうち円谷一と満田かずほは退社してTBSに移籍している。 [[1970年]]1月25日、円谷英二の病死により、TBSを退社した[[円谷一]]が2代目社長に就任。 [[1973年]]2月9日、円谷一の急死により、[[円谷皐]]が3代目社長に就任。 [[1979年]]、映画『[[ウルトラマン怪獣大決戦]]』が[[松竹富士]]系で大ヒットしたが、これに関して映画雑誌『[[キネマ旬報]]』に「ライバルの[[松竹]]に塩を送った格好の東宝は渋い顔」という内容の記述がある{{Full|date = 2021年11月}}{{efn|[[東宝]]での配給は断ったという。}}。 [[1983年]]、経理は東宝から出向した重役が管理しており、代表印も東宝が保有していた。これにより、東宝のメインバンクであった[[三和銀行]]からの融資も容易になっており、経営難を乗り越えることができていた{{Sfn|円谷英明|2013|pp=87 - 92}}。円谷皐は、この状況を快く思っていなかった。 === 円谷家の経営 === [[1992年]]、TBSへ期限付きで譲渡していた『ウルトラシリーズ』の販売権や窓口権が戻ってくると、これらの権利を担保に得た資金で、円谷プロダクションの株式を円谷皐が15%、皐が設立した[[円谷エンタープライズ]]が45.5%を取得して東宝との資本関係を解消。円谷皐が円谷プロダクションの株式過半数を握るオーナー社長として円谷プロダクションを運営していた{{Sfn|円谷英明|2013|p=129}}。 [[1995年]]6月11日、円谷皐が死去により、円谷一夫が4代目社長に就任。その後、円谷プロダクションの株式過半数は円谷一夫に相続された{{Sfn|円谷英明|2013|pp=126、129}}。 [[2001年]]、特撮テレビシリーズの本格的再開により、制作費は増加してしまった。しかし、その一方で大ヒットに恵まれなかったこと、東宝からの離反に伴いかつての後ろ盾であった三和銀行が抜けたため、経営基盤が弱体化してTBSとの関係が悪化してしまう{{Sfn|円谷英明|2013|pp=64 - 65、89}}。 [[2002年]]2月、円谷プロダクションを退社していた[[円谷粲]]が再入社して副社長に就任{{R|円谷夢工房}}。 [[2003年]]、円谷一夫が辞任して[[円谷昌弘]]が5代目社長、円谷一夫が代表権を持つ会長、[[円谷英明]]が専務に就任。一方で専務取締役の[[高野宏一]]は、この過程で[[バンダイ]]の乗っ取りに加担するクーデターを計画したとして、辞表を出すように要求されて退社する事態となった{{R|高野}}。 [[2004年]]6月、円谷昌弘が女性社員へのセクハラで辞任して円谷英明が6代目社長に就任{{Sfn|円谷英明|2013|p=170}}。経理の正常化を目指した円谷英明も1年後に役員会で解任動議が出されて、円谷プロダクションの株式を持つ会長の円谷一夫の同意により解任。[[東宝不動産]]の取締役だった[[大山茂樹 (実業家)|大山茂樹]]が7代目社長に就任{{Sfn|円谷英明|2013|p=182}}。 [[2007年]]2月、期決算で売上高約56億円に対して当期純利益は約4400万円にとどまった。累積赤字の膨張による倒産を危惧した役員は、円谷一夫から制作部の円谷昌弘への社長交代を要求。6月、取締役会で大幅なリストラを主張していた大山は解任されて円谷一夫が8代目社長に就任{{Sfn|円谷英明|2013|p=183}}。 === TYOの連結子会社化 === 銀行からの融資がストップしたため、30億円の累積赤字を抱えて倒産の危機に直面。10月、非常勤取締役の[[森島恒行]]の紹介により、CM映像のコンテンツ製作などを手がける[[ティー・ワイ・オー|TYO]]から、当面の資金繰りのための数千万円の融資を受けた。しかし、それを返済できなかったため、TYOが担保になっていた円谷エンタープライズの株の過半数を取得。さらにTYOが第三者割当増資で取得した株と合わせて、円谷エンタープライズの株式の80%を保有して筆頭株主となった。また、円谷一夫が保有していた円谷プロダクションの株式22.5%を円谷エンタープライズに譲渡することにより、円谷エンタープライズにおける円谷プロダクションの株保有比率を45.5%から68%に引き上げた。これらのプロセスを経て、TYOは円谷プロダクションの経営権を取得してTYOの連結子会社となった{{Sfn|円谷英明|2013|pp=163、186}}。円谷一夫は解任されて森島が9代目社長に就任。TYOの経営参画後円谷一夫が円谷プロダクションと円谷エンタープライズの会長として残ったものの、設立から続いてきた円谷家による同族経営に終止符が打たれた。 === バンダイナムコグループの資本参加 === TYOによる内部的な組織改革などが進み、これらと並行して円谷プロダクションとは『ウルトラシリーズ』で強い縁を持つ[[バンダイナムコグループ]]が資本参加。 [[2008年]]1月21日、TYOは持ち株のうち、33.4%をバンダイナムコグループの子会社であるバンダイに譲渡売却。10月、森島が辞任して[[大岡新一]]が10代目社長に就任。 [[2009年]]7月、さらなる株式譲渡が行われて(バンダイ持ち株比率は49%)、バンダイナムコグループの円谷プロダクションにおける経営発言力が増した。この間に円谷一夫は会長から名誉会長へ退き、その名誉職も退任となり、これで円谷家は経営から一切排除された。 === フィールズの連結子会社化 === [[2010年]]4月2日、TYOは保有する円谷プロダクションの株式51%を[[フィールズ (企業)|フィールズ]]に売却して、円谷プロダクションはフィールズの連結子会社となった<ref>{{PDFlink|[https://www.fields.biz/ir/j/files/press/2010/press_20100326b.pdf 子会社化(株式会社円谷プロダクションの株式取得)に係る株式会社ティー・ワイ・オーとの譲渡契約締結に関するお知らせ]}}</ref><ref>[https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100317-OYT1T00948.htm 円谷プロ、パチンコ機器関連会社の傘下に] [[YOMIURI ONLINE]]([[読売新聞]]) 2010年3月17日</ref>。[[2014年]]3月期に2007年ごろから続いてきた債務超過を解消<ref>{{Cite web|和書|title=円谷プロが増収増益で2014年3月期、債務超過解消 今後は海外市場を視野|url=https://www.animeanime.biz/archives/19924|access-date=2023-1-26}}</ref>。 [[2017年]]8月1日、大岡が辞任して[[塚越隆行]]が11代目社長に就任。[[2019年]][[4月1日]]、塚越が辞任して[[永竹正幸]]が12代目社長、塚越は会長に就任。 === 円谷フィールズホールディングスの連結子会社化 === [[2022年]]10月、フィールズがグループ会社を含めた持株会社制に移行するのに伴い、円谷プロダクションは[[円谷フィールズホールディングス]]の連結子会社となった。3月の時点でフィールズの営業利益のうち、4割近くを円谷プロダクションが占めている。 == 沿革 == * [[1948年]]([[昭和]]23年) ** [[太平洋戦争]]中に戦意高揚映画を撮影したことから公職追放指定を受けて、[[東宝]]を依願解雇された[[円谷英二]]が自宅に'''円谷映画特殊技術研究所'''を設立{{R|特撮世界155|UPM vol.0230}}。 * [[1950年]](昭和25年) ** 円谷英二が東宝に嘱託として復帰{{R|UPM vol.0230}}。円谷映画特殊技術研究所の名称を'''円谷研究所'''に改称して東宝撮影所のスタジオ内に移転{{R|特撮世界155|UPM vol.0230}}。 * [[1952年]](昭和27年) ** 円谷英二が公職追放を解除されて東宝に正式復帰{{R|特撮世界155|UPM vol.0230}}。 * [[1956年]](昭和31年) ** 円谷英二が自宅の敷地に個人的な組織として'''円谷特技研究所'''を設立{{R|マガジン20203|UPM vol.0230|HISTORICA3}}。 * [[1959年]](昭和34年) ** [[佐川和夫]]と[[中野稔]]が所属して[[関沢新一]]の門下生であった脚本家の[[金城哲夫]]も参加して、同年に放送された毎日放送の連続テレビ映画『[[鉄腕アトム]]』の特撮パートを[[松崎プロダクション]]から受注する{{R|マガジン20203|UPM vol.0230}}。 * [[1962年]](昭和37年) ** 円谷特技研究所が[[東宝スタジオ]]内の小さな建物に移転{{R|マガジン20203|UPM vol.0230|HISTORICA3}}。 * [[1963年]](昭和38年) ** 4月12日 - 円谷特技研究所を法人化して'''株式会社円谷特技プロダクション'''を設立{{R|白書|特撮世界155|マガジン20203|UPM vol.0230|HISTORICA3}}。 ** 8月 - 撮影助手として鈴木清が、撮影技師として東宝出身で共同テレビジョンのニュースカメラマンであった高野宏一が参加{{R|マガジン20203|UPM vol.0230}}。 ** 10月27日 - 特撮シーンの実質的な初仕事となる[[日活]]と[[石原プロモーション]]が提携した映画『[[太平洋ひとりぼっち]]』を公開{{R|白書|TCMP|マガジン20203|UPM vol.0230}}{{Sfn|白石雅彦|2006|p=177}}。 * [[1964年]](昭和39年) ** 3月30日 - 東宝が資本参加を決めて役員を投入{{R|TCMP|マガジン20203|UPM vol.0230|HISTORICA3}}。また、代表と取締役に東宝の藤本真澄と柴山胖が就任。東宝の[[東京都]][[世田谷区]][[砧 (世田谷区)|砧]]の撮影所近くにある旧衣装部の倉庫や[[東宝ビルト|東京美術センター]]の敷地を円谷特技プロダクションに本社として貸与{{R|マガジン20203|UPM vol.0230}}。[[うしおそうじ]]が退社{{Sfn|白石雅彦|2006|pp=179-180}}。 * [[1966年]](昭和41年) ** 1月2日 - 初の特撮テレビドラマシリーズ『[[ウルトラQ]]』を放映開始{{R|特撮世界155}}。 ** 7月17日 - 特撮カラーテレビドラマシリーズ『[[ウルトラマン]]』を放映開始{{R|特撮世界155}}{{efn|キー局での放送開始が特撮テレビドラマ『[[マグマ大使 (テレビドラマ)|マグマ大使]]』に約2週遅れとなったため、最初のカラーテレビ特撮作品とはならなかった。}}。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[円谷皐]]が入社。[[成田亨]]、[[野長瀬三摩地]]が退社。 ** 5月10日 - 円谷皐が[[円谷エンタープライズ]]を設立{{R|特撮世界155}}。 ** 12月6日 - 東宝が大幅な増資を引き受けて円谷プロダクションの株式60%を所有する親会社となった。役員10人中7人が東宝から派遣されて、東宝の主導で150人の社員を40人にまでリストラして企画文芸部も廃止。商号を'''株式会社円谷プロダクション'''に変更{{R|白書|特撮世界155|マガジン20203|UPM vol.0230}}。 * [[1969年]](昭和44年) ** 金城哲夫、上原正三、池谷仙克が退社。 * [[1970年]](昭和45年) ** 1月25日 - 円谷英二の病死により、[[円谷一]]が2代目社長に就任{{R|マガジン20203}}。 * [[1972年]](昭和47年) ** 5月 - [[円谷ミュージック|円谷音楽出版]]を設立{{efn|[[2022年]]現在も、かつてのスタッフである「玉川静」が社長となって存続しているが、[[ティー・ワイ・オー|TYO]]の買収以降の円谷プロダクションとは一切関係ない別資本の会社となっている。『[[ウルトラマンメビウス]]』以前の作品の音楽の版権の一部は同社が保有している。}}。 * [[1973年]](昭和48年) ** 2月9日 - 円谷一の急死により、円谷皐が3代目社長に就任{{R|マガジン20203|UPM vol.0430}}。 ** [[田口成光]]が退社。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[チャイヨー・プロダクション]]と共同で映画『[[ジャンボーグA&ジャイアント]]』と映画『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』を制作。 * [[1979年]](昭和54年) ** 4月4日 - 初のテレビアニメ『[[ザ☆ウルトラマン]]』を放映開始。 * [[1983年]](昭和58年) ** 4月 - [[円谷一夫]]と[[円谷英明]]が入社{{Sfn|円谷英明|2013|pp=73、77}}。 * [[1984年]](昭和59年) ** 経営危機に陥る。倒産回避のため、この年から7年間の期間限定で番組販売権と窓口権を[[TBSテレビ|TBS]]に数千万円で売却{{Sfn|円谷英明|2013|pp=74 - 75}}。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ハリウッド]]に[[ウルトラコム]]を設立。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** 6月 - [[円谷粲]]が退社{{R|円谷夢工房}}。 * [[1991年]](平成3年) ** [[中華人民共和国|中国]]の[[上海市]]に[[円谷アニメーションスタジオカンパニー]]を設立<ref>[[津田浩司]]「国境を越える日本映像ビジネスの現状」[[創 (雑誌)|創]] 1996年1月 pp.56 - 57</ref>。 * [[1992年]](平成4年) ** 円谷皐が東宝が所有する円谷プロダクションの株式過半数を取得して、東宝の傘下から独立。円谷皐が経営権を掌握して諸権利は円谷プロダクション、円谷エンタープライズ、円谷音楽出版に配分された{{Sfn|円谷英明|2013|p=90}}。 * [[1995年]](平成7年) ** 6月11日 - 円谷皐が病気により退任して、円谷一夫が4代目社長に就任{{R|円谷夢工房}}。中国の上海市に「上海圓谷策劃有限公司」設立<ref>[https://www.animeanime.biz/archives/1914 円谷プロ 中国子会社を解散 中国でアライアンス戦略に切替] アニメ!アニメ!ビズ 2008年11月27日(2021年7月7日確認)</ref>。 ** 12月 - このころからチャイヨー・プロダクションにより、「『ウルトラQ』から『[[ウルトラマンタロウ]]』及び『[[ジャンボーグA]]』の7作品において、[[日本]]以外における独占権(以下は本項において「ウルトラマンの海外利用権」)」の主張がなされる(詳しくは「[[ウルトラマン訴訟]]」を参照)。 * [[2002年]](平成14年) ** 2月 - 円谷プロダクションを退社していた円谷粲が再入社して副社長に就任。 ** 6月 - 資金繰りに行き詰まり、銀行からの借り入れも出来なくなり、[[バンダイ]]から経営改善を条件に12月を返済期限に2億円の融資を受ける{{R|高野}}。 * [[2003年]](平成15年) ** 円谷一夫が辞任して円谷昌弘が5代目社長に就任。クーデターを計画したとして辞表を提出させられて専務取締役の高野宏一が退任{{R|高野}}。右田昌万が退社。 * [[2004年]](平成16年) ** 4月 - チャイヨー・プロダクションに対する著作権確認訴訟に関する敗訴が最高裁判所判決にて確定。その結果、円谷プロダクションは日本法において「ウルトラマンの海外利用権」を喪失。なお、この権利は[[1998年]]にチャイヨー・プロダクションがバンダイから1億円を受け取り、[[タイ王国|タイ]]以外の独占利用権行使放棄と引き換えに譲渡しており(本件はチャイヨー・プロダクションの円谷プロダクションへの著作権侵害損害賠償訴訟の敗訴の過程で最高裁判決により確定している)、日本法においては「ウルトラマンの海外利用権」はバンダイが保有していることになる。 ** 6月 - 円谷昌弘が女性社員へのセクハラで辞任して円谷英明が6代目社長に就任。 * [[2005年]](平成17年) ** 4月 - 本社を東京都世田谷区砧から東京都世田谷区[[八幡山 (世田谷区)|八幡山]]に移転。旧本社は改装して砧社屋としてヒーローと怪獣の着ぐるみの保管やCG製作に使用。 ** 5月 - 円谷粲が退社。 ** 6月 - 円谷英明が解任されて[[大山茂樹 (実業家)|大山茂樹]]が7代目社長に就任。 * [[2007年]](平成19年) ** 6月 - 大山は解任されて円谷一夫が8代目社長に就任。 ** 10月 - [[ティー・ワイ・オー|TYO]]が円谷プロダクションの株式68%を取得してTYOの連結子会社となった。円谷一夫は解任されて[[森島恒行]]が9代目社長に就任。設立から続いてきた円谷家による同族経営に終止符が打たれた。 * [[2008年]](平成20年) ** 1月7日 - 円谷プロダクションが存続会社となって、円谷エンタープライズ及びTYOの傘下である[[ビルドアップ (企業)|ビルドアップ]]と合併してTYOの完全子会社となった。ビルドアップは円谷プロダクションの特撮製作セクションとして再スタートする同時に、資本金を1000万円から3億1000万円へ大幅増資。 ** 1月21日 - 『[[ウルトラシリーズ]]』の玩具を長年手がけてきたバンダイが、TYOから円谷プロダクションの株式33.4%を取得。同時に従来は年毎更新であった円谷プロダクションの作品の商品化権を独占化。[[丸山浩 (デザイナー)|丸山浩]]が退社。 ** 2月 - タイの最高裁判所は「ウルトラマンの海外利用権」に関する契約書は偽造されたものであると認定、譲渡は無効と判決。その結果、タイ法では「ウルトラマンの海外利用権」は依然、円谷プロダクションにあることとなる。 ** 2月6日 - 砧社屋を閉鎖して、敷地を東宝へ返却及び隣接地の自社所有分を[[東宝不動産]]へ売却して、取り壊しを発表。最後のマスコミ向け公開が実施された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080206/tnr0802061228011-n1.htm 円谷プロの"聖地"にお別れ] [[MSN|MSN Japan]] 2008年2月6日 [[インターネットアーカイブ|Internet Archive Wayback Machine]]に納められた当時のコンテンツは [https://web.archive.org/web/20080209110823/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080206/tnr0802061228011-n1.htm このリンク] 先から閲覧可能。</ref>。 ** 10月 - 森島が辞任して[[大岡新一]]が10代目社長に就任。 ** 12月24日 - ユーエムがチャイヨー・プロダクションから「ウルトラマンの海外利用権」を譲受して各種訴訟を承継。 * [[2010年]](平成22年) ** 4月2日 - TYOは保有する当社の全株式を[[フィールズ (企業)|フィールズ]]に譲渡。円谷プロダクションはフィールズの連結子会社となり、フィールズの取締役会長である[[山本英俊]]が会長に就任。 * [[2011年]](平成23年) ** 7月 - 本社を東京都世田谷区八幡山から東京都[[渋谷区]][[桜丘町 (渋谷区)|桜丘町]]に移転。 * [[2017年]](平成29年) ** 8月1日 - 大岡が辞任して[[塚越隆行]]が11代目社長に就任。 * [[2018年]](平成30年) ** 4月18日 - [[カルフォルニア州|カリフォルニア]]中央区地方裁判所は「ディスカバリー」を用いた調査の結果は「ウルトラマンの海外利用権」に関する契約書は偽造されたものであると認定、譲渡は無効と判決<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1804/24/news077.html|title=円谷プロ、米国のウルトラマン海外権利訴訟で勝訴 タイ人実業家の契約書は「真正ではない」との判断|date=2018-4-24|accessdate=2018-4-25|publisher=ねとらぼ}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年) ** 12月5日、[[アメリカ合衆国連邦裁判所#控訴裁判所|第9巡回区控訴裁判所]]における控訴審においても、この結論は維持された<ref>{{Cite press release|和書|title=米国訴訟(控訴審)の勝訴判決に関するお知らせ|publisher=円谷プロダクション|url=https://www.tsuburaya-prod.co.jp/pressrelease/191210-winning_judgment/|date=2019-12-10|accessdate=2020-3-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://otakei.otakuma.net/archives/2019121005.html|title=ウルトラマン訴訟アメリカ控訴審判決 再び円谷プロの勝訴|date=2019-12-10|accessdate=2020-3-16|publisher=おたくま経済新聞}}</ref>。その結果、合衆国憲法で「ウルトラマンの海外利用権」は依然、円谷プロダクションにあることとなる。 ** 4月1日 - 塚越が辞任して[[永竹正幸]]が12代目社長、塚越は会長に就任。 * [[2021年]]([[令和]]3年) ** 3月17日 - 『ウルトラシリーズ』ほか円谷プロダクション発の映像作品、ライブエンターテイメント、コミックなどを配信する公式デジタルプラットフォームサービス「[[TSUBURAYA IMAGINATION]]」のサービスを開始。 * [[2022年]](令和4年) ** 3月22日 - フィールズグループが10月をもって持株会社制に移行する旨を発表。 ** 5月13日 - ウルトラマン55周年記念長編劇場映画作品『[[シン・ウルトラマン]]』公開。 ** 10月3日 - フィールズがグループ会社を含めた持株会社制に移行。フィールズは社名を[[円谷フィールズホールディングス]]に変更してグループ統括及び持株会社となり、円谷プロダクションは円谷フィールズホールディングスの連結子会社となった。 * [[2023年]](令和5年) ** 3月22日 - [[TBSテレビ|TBS]]と新規コンテンツの企画、開発で包括業務提携を行うことを発表<ref>{{Cite news|title= 円谷プロとTBSが提携 新規コンテンツを秋発表へ|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2303/22/news107.html|work=[[ITmedia]]|date=2023-3-22|accessdate=2023-3-23}}</ref>。 == 作品 == === テレビ === * [[ウルトラシリーズ]] ** 詳しくは「[[ウルトラシリーズの作品一覧]]」を参照。 * [[快獣ブースカ]](1966年11月 - 1967年9月)([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系) ** [[ブースカ! ブースカ!!]](1999年10月 - 2000年6月)([[テレビ東京]]系) * [[マイティジャック]](1968年4月 - 1968年6月)([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系) ** [[マイティジャック|戦え! マイティジャック]](1968年7月 - 1968年12月)(フジテレビ系) * [[怪奇大作戦]](1968年9月 - 1969年3月)([[TBSテレビ|TBS]]系) ** [[怪奇大作戦 セカンドファイル]](2007年4月)([[NHKデジタル衛星ハイビジョン]]) ** [[怪奇大作戦 ミステリー・ファイル]](2013年10月)([[NHK BSプレミアム]]) * [[独身のスキャット]](1970年1月 - 1970年3月)(TBS系) * [[チビラくん]](1970年3月 - 1971年9月)(日本テレビ系) * [[ミラーマン]](1971年12月 - 1972年11月)(フジテレビ系) ** [[ミラーファイト]](1974年4月 - 1974年9月)([[テレビ東京|東京12チャンネル]]) * [[レッドマン]](1972年4月 - 1972年10月)(日本テレビ系) * [[トリプルファイター]](1972年7月 - 1972年12月)(TBS系) * [[緊急指令10-4・10-10]](1972年7月 - 1972年12月)([[テレビ朝日|NET]]系) * [[ファイヤーマン]](1973年1月 - 1973年7月)(日本テレビ系) * [[恐怖劇場アンバランス]](1973年1月 - 1973年4月)(フジテレビ系) * [[ジャンボーグA]](1973年1月 - 1973年12月)([[毎日放送]]制作、NET系) * [[東海テレビ制作昼の帯ドラマ|昼の帯ドラマ]]([[東海テレビ放送|東海テレビ]]制作、フジテレビ系) ** [[君待てども]](1974年8月 - 1974年10月) ** [[殺さないで!]](1975年1月 - 1975年3月) ** [[満天の星 (テレビドラマ)|満天の星]](1976年2月 - 1976年4月) * [[SFドラマ 猿の軍団]](1974年10月 - 1975年3月)(TBS系) * [[円谷恐竜三部作]] ** [[恐竜探険隊ボーンフリー]](1976年10月 - 1977年3月)(NET系) ** [[恐竜大戦争アイゼンボーグ]](1977年10月 - 1978年6月)(東京12チャンネル) ** [[恐竜戦隊コセイドン]](1978年7月 - 1979年6月)(東京12チャンネル) * [[プロレスの星 アステカイザー]](1976年10月 - 1977年3月)(NET系) * [[土曜ワイド劇場]]([[テレビ朝日]]系) ** [[怪奇!巨大蜘蛛の館]](1978年8月26日) ** [[白い手 美しい手 呪いの手]](1979年8月4日) ** [[怨霊!あざ笑う人形]](1980年8月2日) ** [[怪奇!金色の眼の少女]](1980年12月27日) ** [[眼の中の悪魔]](1984年8月11日) ** [[呪いのマネキン人形]](1984年8月18日) ** [[赤い蛍は血の匂い]](1986年2月15日) ** [[ご主人を殺してあげます]](1990年1月20日) * [[スターウルフ]](1978年4月 - 1978年9月)(日本テレビ系) * [[ぼくら野球探偵団]](1980年4月 - 1980年9月)(東京12チャンネル) * [[時代劇スペシャル (フジテレビ)|時代劇スペシャル]](フジテレビ系) ** [[怪談累ヶ淵]](1981年8月21日) ** [[悪霊桜子姫]](1982年9月11日) * [[火曜サスペンス劇場]](日本テレビ系) ** [[乱れからくり|乱れからくり ねじ屋敷連続殺人事件]](1982年3月23日) ** [[可愛い悪魔 (テレビドラマ)|可愛い悪魔]](1982年8月10日) ** [[相沢夏子の失われた名誉]](1983年3月29日) ** [[麗猫伝説]](1983年8月30日) ** [[二人の女 (テレビドラマ)|二人の女]](1983年12月27日) ** [[私が死んだ夜]](1985年12月10日) ** [[グルメを料理する十の方法#テレビドラマ|グルメを料理する十の方法]](1987年7月28日) ** [[猫に憑かれた花嫁]](1987年8月4日) ** [[殺意の証明]](1987年11月3日) * [[アンドロメロス]](1983年2月 - 1983年4月)(TBS) * [[ひなまつりアニメ・ファンタジー! 宇宙の果てまで冒険旅行 ロマンチック銀河ツアーへの御招待!!]](1983年3月3日)(日本テレビ系) * [[楽しく作る!!童話に出てくるお菓子の絵本]](1983年12月4日)(日本テレビ系) * [[人気怪獣大パレード]] (1984年3月26日 - 30日) (テレビ東京系) * [[木曜ゴールデンドラマ]]([[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]制作、日本テレビ系) ** [[二人なら生きられる]](1985年12月5日) ** [[姑VS嫁 笑って乾杯!!]](1985年12月26日) ** [[姑VS嫁 姑の心意気]](1986年8月28日) ** [[紅に燃える時]](1986年11月19日) ** [[初婚 再婚 二人三脚]](1986年12月25日) ** [[女は海]](1987年6月25日) ** [[泣きもせず、ン! 居残り母さんとカムバック娘]](1988年4月7日) ** [[背中合わせに・愛 父と娘の結婚二重奏]](1988年7月28日) ** [[燃えて生きる お母さんは死なない]](1988年8月11日) ** [[父の贈りもの]](1989年3月16日) ** [[待てば海路の秋日和 息子の結婚]](1989年9月28日) ** [[妻が家を出るとき]](1990年8月16日) * [[月曜ドラマランド]](フジテレビ系) ** [[ザ・サムライ]](1986年2月24日) * [[テレビ東京月曜9時枠の連続ドラマ#ドラマ・女の手記(1986年10月 - 1987年9月)|ドラマ・女の手記]](テレビ東京系) ** [[女ふたり 半分だけ嫁姑]](1987年5月18日) * [[AM3:00の恐怖]](1987年10月 - 1988年3月)(フジテレビ系) * [[不思議なクリスマス・イヴ サンタが街にやって来た]](1987年12月24日)(フジテレビ系) * [[テレビ東京月曜9時枠の連続ドラマ#ドラマ・女の四季(1987年10月 - 1988年3月)|ドラマ・女の四季]](テレビ東京系) ** [[母の朝帰り]](1988年2月1日) * [[テレビ東京月曜9時枠の連続ドラマ#月曜・女のサスペンス(1988年4月 - 1993年3月)|月曜・女のサスペンス]](テレビ東京系) ** [[復讐の滑走路灯]](1988年4月18日) ** [[狙われた目撃者]](1988年7月18日) ** [[闇の中の女 恐怖の二重離婚届]](1988年9月12日) ** [[水子地蔵は呪いの因縁]](1990年1月15日) * [[月曜ドラマスペシャル]](TBS系) ** [[紅の海に願いを]](1990年3月19日) ** [[ハワイからアロハ]](1990年7月30日) * [[電光超人グリッドマン]](1993年4月 - 1994年1月)(TBS系) ** [[SSSS.GRIDMAN]](2018年10月 - 2018年12月)([[WOWOW]]、[[TOKYO MX]]、[[日本BS放送|BS11]]、[[毎日放送]]) ** [[SSSS.DYNAZENON]](2021年4月 - 2021年6月)(TOKYO MX、BS11、毎日放送) * [[ムーンスパイラル]](1996年5月)(日本テレビ系) * [[サイバー美少女テロメア]](1998年4月 - 1998年6月)(テレビ朝日系) * [[生物彗星WoO]](2006年4月 - 2006年8月)(NHKデジタル衛星ハイビジョン) * [[KAIJU DECODE 怪獣デコード]](2021年12月13日)([[TSUBURAYA IMAGINATION]]) === 映画 === * [[怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス]](1972年12月17日)([[東宝]]系) * [[極底探険船ポーラーボーラ]](1977年9月10日)([[東宝東和]]系) * [[バミューダの謎/魔の三角水域に棲む巨大モンスター!]](1978年1月27日)([[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]) * [[アニメちゃん]](1984年7月14日)([[松竹]]系) * [[勝利者たち]](1992年10月10日)(東宝系) * [[ミラーマンREFLEX]](2006年1月28日)(ゼアリス・エンタープライズ系) * [[シン・ウルトラマン]](2022年5月13日)(東宝系) === オリジナルビデオ === * [[マシーネンクリーガー|S.F.3.D. Original Video Nutrocker]](1985年8月21日)([[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]) * [[餓鬼魂]](1985年12月27日)([[東芝]]) * [[ミカドロイド]] (1991年11月8日) ([[東宝]]、[[東北新社]]) * [[オタスケガール]](2003年6月 - 2003年8月)([[アミューズソフトエンタテインメント]]) * [[ミラーマンREFLEX]](2006年3月 - 2006年5月)([[バップ]]) === 舞台 === * [[銀色の少年]](2004年10月8日) * [[ウルトラセブン#舞台|独りぼっちの地球人 feat.ULTRASEVEN]](2013年9月12日) === PV === * [[おさわり探偵 なめこ栽培キット#なめこスクールウォーズ|なめこスクールウォーズ]](2013年6月26日) === CM === * [[パナソニック|ナショナル]][[掃除機]]「隼」 * [[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]][[超合金 (玩具)|超合金]]「[[超電磁ロボ コン・バトラーV#コン・バトラーV|コン・バトラーV]]」 * ポピー[[ポピニカ|DXポピニカ]]「[[仮面ライダースーパー1#専用マシン|Vマシーン]]」 * [[コーリン鉛筆]] 「シャープ芯ゴールド」 * [[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]「[[トランスフォーマー]]」[[戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー2010|2010]]移行編 === 制作協力 === * [[鉄腕アトム (実写版)|鉄腕アトム]](特撮シーンの制作協力) * [[太平洋ひとりぼっち]](特殊技術提供) * [[ナショナル劇場]](タイトルコール映像制作協力) * [[愛の劇場|花王 愛の劇場]] ** [[愛と死と]] ** [[氷点#1970年代|氷点]] ** [[人妻椿#1971年版|人妻椿]] ** [[愛染椿#テレビドラマ|愛染椿]] ** [[越前竹人形#1973年版|越前竹人形]] ** [[婚期 (テレビドラマ)|婚期]] ** [[五番町夕霧楼#1974年版|五番町夕霧楼]] * [[ライオン奥様劇場]] ** [[新妻鏡#1974年版|新妻鏡]] ** [[白い恐怖 (テレビドラマ)|白い恐怖]] ** [[おかあさん (テレビドラマ)|おかあさん]] * [[鞍馬天狗 (1974年のテレビドラマ)|鞍馬天狗]] * [[江戸の旋風#同心部屋御用帳 江戸の旋風|同心部屋御用帳 江戸の旋風]] ** [[江戸の旋風#同心部屋御用帳 江戸の旋風II|同心部屋御用帳 江戸の旋風II]] ** [[江戸の旋風#同心部屋御用帳 江戸の旋風(第3シリーズ)|同心部屋御用帳 江戸の旋風(第3シリーズ)]] ** [[江戸の旋風#同心部屋御用帳 江戸の旋風(第4シリーズ)|同心部屋御用帳 江戸の旋風(第4シリーズ)]] ** [[江戸の旋風#同心部屋御用帳 新・江戸の旋風|同心部屋御用帳 新・江戸の旋風]] * [[江戸の渦潮]] * [[江戸の激斗]] * [[江戸の朝焼け]] * [[西遊記 (1978年のテレビドラマ)#パート1|西遊記]](特撮シーン制作協力) * [[時代劇スペシャル (フジテレビ)|時代劇スペシャル]] ** [[振り袖御免]] ** [[仕掛人・藤枝梅安#時代劇スペシャル 仕掛人・藤枝梅安|仕掛人・藤枝梅安 梅安流れ星]] ** [[江戸の旋風#時代劇スペシャル 同心部屋御用帳 江戸の旋風|同心部屋御用帳 江戸の旋風]] * [[江戸芙蓉堂医館]] * [[戦国の女たち]](特撮シーン制作協力) * [[バイト人生百発百中]] * [[笑ってポン!]](怪獣の提供) * [[S.F.3.D NUT ROCKER]] * [[キャプテンパワー]](日本語版制作協力) * [[精霊使い]] * [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (1987年のアニメ)#OVA『ミュータント・タートルズ 超人伝説編』|ミュータント・タートルズ 超人伝説編]](アニメーション制作協力) * [[現代恐怖サスペンス]] ** [[誰かが夢を覗いてる あるOLの場合…]] ** [[ホラー・ペンション 女たちの好奇心]] * [[楽勝!ハイパードール]] * [[キューティーハニーFX]](アニメーション制作協力) * [[機動戦艦ナデシコ]](アニメーション制作協力) * [[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]](アニメーション制作協力) * [[ドリームキッズ]](協賛) * [[ビーストウォーズII 超生命体トランスフォーマー#劇場版『ビーストウォーズII 超生命体トランスフォーマー ライオコンボイ危機一髪!』|ビーストウォーズII 超生命体トランスフォーマー ライオコンボイ危機一髪!]](アニメーション制作協力) * [[ニーベルングの指環 (漫画)#OVA『ハーロック・サーガ ニーベルングの指環』|ハーロック・サーガ ニーベルングの指環]](アニメーション制作協力) * [[F-ZERO ファルコン伝説#テレビアニメ|F-ZERO ファルコン伝説]]([[3次元コンピュータグラフィックス|3D]][[Computer Generated Imagery|CGI]]制作協力) * [[ドラゴンドライブ]](第12話のアニメーション制作協力) * [[鍵姫物語 永久アリス輪舞曲]](第3話、第8話、第13話のアニメーション制作協力) * [[RAY (漫画)#テレビアニメ『RAY THE ANIMATION』|RAY THE ANIMATION]](原画協力) * [[かみちゅ!]] * [[魔法先生ネギま! (アニメ)|魔法先生ネギま!]] * [[D.C. 〜ダ・カーポ〜 (アニメ)#D.C.S.S. 〜ダ・カーポ セカンドシーズン〜|D.C.S.S. 〜ダ・カーポ セカンドシーズン〜]](アニメーション制作協力) * [[実録レンジャー訓練〜RANGER〜]] * [[環境超人エコガインダー]](キャラクター造形協力) ** [[環境超人エコガインダー#環境超人エコガインダーII|環境超人エコガインダーII]](キャラクター造形協力) * [[ゆめまち観音]] * [[ゴジラ FINAL WARS]](特典映像の製作協力) * [[仮面ライダー THE NEXT]]([[VFX]]制作協力) * [[ラスト レムナント]]([[モーションキャプチャ]]制作協力) * [[BATON]] * [[デスカッパ]](特撮シーン制作協力) * [[僕と妻の1778の物語]] * [[HUNTER〜その女たち、賞金稼ぎ〜]](第1話の撮影協力) * [[ギンガムチェック]](ミュージックビデオの特撮シーン制作協力) * [[星新一ミステリーSP]](美術協力) * [[世界がビビる夜]](第1回の協力) * [[アクティヴレイド -機動強襲室第八係-]](実物大ウィルウェア制作協力) * [[EXまにあっくす]](企画と制作の協力) * [[TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇]](意見協力) == 歴代社長 == {|class="wikitable" !歴代 !氏名 !在職期間 !備考 |- |初代 |[[円谷英二]] |1963年 - 1970年 |円谷プロダクションの創業者 |- |第2代 |[[円谷一]] |1970年 - 1973年 |円谷英二の長男 |- |第3代 |[[円谷皐]] |1973年 - 1995年 |円谷英二の次男 |- |第4代 |[[円谷一夫]] |1995年 - 2003年 |円谷皐の長男 |- |第5代 |[[円谷昌弘]]||2003年 - 2004年 |円谷一の長男。女性社員へのセクハラで退任 |- |第6代 |[[円谷英明]] |2004年 - 2005年 |円谷一の次男 |- |第7代 |[[大山茂樹 (実業家)|大山茂樹]] |2005年 - 2007年 |[[東宝不動産]]の取締役から招致で円谷家以外から初の社長就任 |- |第8代 |円谷一夫 |2007年 |大山茂樹を解任して復職 |- |第9代 |[[森島恒行]]||2007年 - 2008年 |[[円谷エンタープライズ]]の設立に参加 |- |第10代 |[[大岡新一]]||2008年 - 2017年 |円谷プロダクションの生え抜きカメラマン |- |第11代 |[[塚越隆行]] |2017年 - 2019年 |[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]出身で[[MovieNEX]]の仕掛け人 |- |第12代 |[[永竹正幸]] |2019年 - |[[タカラトミー]]の海外部門「[[トミーインターナショナル]]」で海外事業を経験 |} == スタッフ == * [[桜井浩子]] * [[満田かずほ]] * [[大岡新一]] * [[北浦嗣巳]] * [[渋谷浩康]] * [[品田冬樹]] * [[岡野弘之]] * [[後藤正行]] * [[足木淳一郎]] * [[澗淵隆文]] * [[岡崎聖]] * [[柴崎誠]] * [[古澤圭亮]] * [[黒澤桂]] * [[大塩忠正]] == 過去のスタッフ == * [[金城哲夫]] * [[上原正三]] * [[高野宏一]] * [[池谷仙克]] * [[井口昭彦]] * [[山口修 (美術デザイナー)|山口修]] * [[田口成光]] * [[円谷昌弘]] * [[円谷英明]] * [[円谷浩|円谷寛]] * [[濱田知彦]] * [[笈田雅人]] * [[江藤直行]] * [[八木毅]] * [[表有希子]] * [[丸山浩 (デザイナー)|丸山浩]] * [[右田昌万]] * [[岡部淳也]] * [[山本天志]] * [[伊部由起子]] * [[小林煕昌]] * [[玉川静]] == 過去の関連スタッフ == * [[成田亨]] * [[飯島敏宏]] * [[実相寺昭雄]] * [[市川森一]] * [[佐々木守]] * [[赤井鬼介]] * [[的場徹]] * [[川北紘一]] * [[大木淳吉]] == 関連施設 == === 砧社屋 === [[File:Tsuburaya Productions 2008-1.jpg|right|thumb|250px|砧社屋]] かつて[[東京都]][[世田谷区]][[砧 (世田谷区)|砧]]に存在した円谷プロダクションの初代社屋。元々は[[東宝スタジオ]]で[[東宝コスチューム|京都衣裳]]の衣装倉庫として使用されていた。 [[1964年]]、[[東宝]]が資本参加した際に円谷プロダクションへ提供していた{{Sfn|ウルトラマン全史|2013|pp=4 - 5}}。京都衣装以前は医療関係の建物であったとされる{{Sfn|ウルトラマン全史|2013|pp=4 - 5}}。 [[2005年]]4月、本社移転により、名称をKinuta Digital SymphonyとしてCG部門の編集スタジオとして使用されていた。 [[2008年]]2月、Kinuta Digital Symphonyを解体。 『[[快獣ブースカ]]』に登場した大作発明研究所や『[[ウルトラセブン]]』第8話に登場した警察署などは、砧社屋の建物を使用して撮影されていた{{Sfn|ウルトラマン全史|2013|pp=4 - 5}}。円谷プロダクション製作以外の作品では『[[有言実行三姉妹シュシュトリアン]]』第40話でロケ地の1つとして使用されていた。 === 怪獣倉庫 === かつて円谷プロダクションに東宝が資本参加していたころ、東京都世田谷区砧に存在した円谷プロダクションの初代社屋2階にヒーローと怪獣の着ぐるみを保管していた倉庫。当初は着ぐるみに特化していたわけではなく衣装、小道具、人形、模型、ミニチュアなども保管されていた{{Sfn|ウルトラマン全史|2013|pp=4 - 5}}{{R|HISTORICA20}}。 2005年4月、本社の移転により、収蔵物の多くも新社屋に移された<ref>{{Cite book|和書|editor = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]編集部編|others = 円谷プロダクション監修|date = 2006-10-30|title = ウルトラマンマックス マックス!マックス!マックス!怪獣大画報|series = [[ファンタスティックコレクション]]|publisher = [[朝日ソノラマ]]|page = 72|chapter = マックス怪獣造型の秘密 開米プロダクション|isbn = 4-257-03735-0}}</ref>。 [[2006年]]7月、着ぐるみ、衣装、小道具、人形、模型の一部を陳列した展示スペースとして改装されて限定的に一般公開された<ref>{{Cite journal|和書|title = さらば、空想特撮の夢工場|journal = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume = Vol.120|issue = (2008春 復活号)|publisher = [[ホビージャパン]]|date = 2008-4-1|pages = pp.84 - 87|isbn = 978-4-89425-693-4}}</ref>{{R|asahi_TKY200802060383}}。 2008年2月、砧社屋の閉鎖により、怪獣倉庫も解体された。京都衣装時代から残されていた衣装整理用の札が貼られた傷だらけの柱{{R|asahi_TKY200802060383}}の一部は円谷プロダクションで保管されている<ref>{{Cite book|和書|title = 円谷プロ図録 ウルトラマンメカニック編|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|series = NEKO MOOK|date = 2013-7-18|page = pp.160|isbn = 978-4-7770-1440-8}}</ref>。 『[[ウルトラファイト]]』第196話や『[[ウルトラマンマックス]]』第24話などの撮影には怪獣倉庫も使用されていた{{Sfn|ウルトラマン全史|2013|pp=4 - 5}}{{R|HISTORICA20}}。 === 東宝ビルト === {{main|東宝ビルト}} かつて存在した東宝の撮影所の1つである。『[[ウルトラシリーズ]]』の撮影場所として長年使用されたことから「特撮の聖地」とも言われている [[1996年]]、円谷プロダクションの出資で改築が行われていたなど関係性が深かった{{Sfn|ウルトラマン全史|2013|pp=4 - 5}}。 == エピソード == === ロゴマーク === マークは光学合成技師の中野稔がデザインし、「ツブラヤ」の「ツ」をモチーフにツの線に加えて各線端を繋いで形成した多角形と中段に「TSUBURAYA」の英字表記を記したものとなっている<ref>[https://twitter.com/hiro_mrym/status/1379088311482871808 円谷プロのロゴマーク ツブラヤの「ツ」をすべて繋ぐとロゴマークになります。これは光学合成の中野稔さんによるデザインなのです!] - [[丸山浩 (デザイナー)|丸山浩]](Twitter)</ref>。 === エイプリルフール === エイプリルフールになるとインターネットで手の込んだネタを発表していた<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1004/01/news028.html 今年もすごいぞ! エイプリルフールネタ合戦、円谷プロから2ちゃんまで] 2010年4月1日</ref>{{R|impress100423}}。[[円谷英二]]の、ひ孫にあたる[[円谷洋平]]が所属している[[サイバーエデン]](円谷プロダクションの公式サイト「円谷ステーション」を運営している会社)が企画、円谷プロダクションが監修の下で行われていた{{R|impress100423}}。 * [[2005年]]、[[バルタン星人]]が円谷プロダクションの公式サイト「円谷ステーション」を乗っ取った。円谷プロダクションのエイプリルフールネタ第1号{{R|impress100423}}。 * [[2006年]]、「m-78(エム-ナナハチ)」([[mixi]]のパロディ)を開設{{R|impress100423}}。 * [[2007年]]、前回と同じく「m-78」を開設。前回はアクセスが集中してしまったため、サーバダウンを起こして観覧できなかったファンから苦情が寄せられたこともあり、[[ウルトラの父]]による謝罪文を掲載していた。実際にサーバ環境の増強も行われていた{{R|impress100423}}。また、前日が『[[ウルトラマンメビウス]]』最終回だったこともあり、ウルトラマンメビウスのアカウントでログインする形になっていた。 * [[2008年]]、[[カネゴン]]が「カネゴンの78ちゃんねるまとめブログ」([[2ちゃんねる]]系[[まとめサイト]]のパロディ)を開設{{R|impress100423}}。[[ウルトラ兄弟]]と怪獣たちが[[2ちゃんねる用語]]や[[VIP語]]で会話を繰り広げるという珍妙な光景が繰り広げられていた。また、一部には[[文化 (2ちゃんねるカテゴリ)#特撮!板|特撮!板]]のウルトラネタも含まれていた。 * [[2009年]]、前回に引き続き、カネゴンのブログに加えて[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]の「光の国ではたらく隊長のブログ」、[[ウルトラマンタロウ]]の「光の国ではたらく教官のブログ」、バルタン星人の「宇宙忍者的隠密行動ブログ」、[[メトロン星人]]の「地球人観察ブログ」、[[ゼットン]]の「ウルトラヒーロー攻略ブログ」、[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]の「ごもたん★ぶろぐ」([[しょこたん☆ぶろぐ]]のパロディ)などのブログが開設されていた。ゴモラのブログに書かれているメールアドレスに応援メールを送信すると個別にゴモラから返信があった(翌日に返信が持ち越された人もいた)。また、「シュワシュワ動画」([[ニコニコ動画]]のパロディ)も開設して公式で配信されている動画以外にもニコニコ動画で人気だった動画のパロディも表示していたほかに生放送も実施していた。なお、生放送中に発表した「[[ウルトラマン80]]放送30周年記念 DVD-BOX」は実際に発売されることになった。 * [[2010年]]、「円谷ッター(ツブッター)」([[Twitter]]のパロディ)を開設{{R|impress100423}}。ウルトラ戦士と怪獣たちが24時間ほぼリアルタイムで、つぶやきを続けていた。つぶやき自体はTwitterの公認アカウントを取得して行われたため、ウルトラ戦士と怪獣のTwitterが閲覧できていた。[[快獣ブースカ#快獣|ブースカ]]と『[[ウルトラマンフェスティバル]]』のアカウント以外は「翻訳者の体力的限界」を理由に1日のみで更新を停止してウルトラ戦士と怪獣のTwitterは全面的に削除された。「Twitterのパロディ」というアイディアは以前からあり、当初は名称を「デュワッター」にする予定だったが、わかりにくいという理由で「円谷ッター」に変更された{{R|impress100423}}。 * [[2011年]]、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])ならびに[[福島第一原子力発電所]]での[[福島第一原子力発電所事故]]への配慮からこの企画は行われず、代わりに「ウルトラ5つの誓い2011」を[[YouTube]]で配信していた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=MM7Bwxj57o0 【ウルトラマン基金】ウルトラ5つの誓い2011] ウルトラチャンネル 2011年5月20日</ref>。 * [[2012年]]、円谷洋平が転職したことを機に行われなくなることがTwitterで経緯と共に告知された。 === 人気投票 === 過去にインターネットで歴代キャラクターの人気投票を実施していた。 * [[2010年]]、映画「[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]」の公開を記念して「円谷ヒーロー&怪獣・星人ランキング」を実施<ref>「ニュース [https://m-78.jp/news/n-907 「円谷ヒーロー&怪獣・星人ランキング」実施中!壁紙プレゼント!]」 円谷ステーション 2010年8月</ref><ref>「[https://m-78.jp/45th/ranking.php 円谷ヒーロー・怪獣&宇宙人ランキング!結果]」 円谷ステーション 2011年1月</ref>。 ** ヒーロー部門 - 1位:[[ウルトラマンゼロ]]、2位:[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]、3位:[[ウルトラマンメビウス#ウルトラマンメビウス|ウルトラマンメビウス]] ** 怪獣・星人部門 - 1位:バルタン星人、2位:ゴモラ、3位:ゼットン * [[2013年]]、円谷プロダクション創立50周年を記念して「ウルトラヒーロー総選挙」と「ウルトラ怪獣総選挙」を実施。「ウルトラ怪獣総選挙」の方は[[Yahoo! JAPAN]]の協力により、特設Webサイトが設置されたため、「ウルトラヒーロー総選挙」を上回って投票総数が80万近くに上る結果となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://event.yahoo.co.jp/tsuburaya50/vote/teama/|title=円谷プロダクション創立50周年記念 ウルトラ怪獣総選挙 円谷ステーション 2013年9月|archiveurl=https://archive.ph/Fc2L0|archivedate=2014-6-16|accessdate=2021-3-14}}</ref><ref>「[https://m-78.jp/ranking/ ウルトラヒーロー総選挙2013]」 円谷ステーション 2013年9月</ref>。 ** ウルトラヒーロー総選挙 - 1位:[[ウルトラマンティガ#ウルトラマンティガ|ウルトラマンティガ]]、2位:ウルトラマンゼロ、3位:ウルトラマンメビウス ** ウルトラ怪獣総選挙 - 1位:ゼットン、2位:バルタン星人、3位:ゴモラ == 円谷プロダクション芸能部 == * [[1982年]]3月、円谷プロダクションに入社した[[円谷浩]]をマネジメントする目的で発足。 * [[2007年]]10月31日、慢性的な赤字体質を脱却できず閉鎖。所属タレントの大半は[[円谷ミュージック]]の新会社である[[T.M.Lab]]に移籍している。 * [[2013年]]11月30日、T.M.Labが所属タレントのマネジメント事業を終了。所属タレントの大半は新たに設立した[[vif]]に移籍している。 === 過去の所属タレント === ==== 男性 ==== * [[飛鳥信]]([[アール・クルー (芸能プロダクション)|アール・クルー]]に移籍) * [[アライタカシ]]([[エル・アミティエ]]に移籍) * [[市村直樹]](アール・クルーに移籍) * [[打出親五]] * [[エド山口]](アール・クルーに移籍)([[オフィス・オーパ]]と業務提携) * [[遠藤哲司]]([[ALBA (芸能プロダクション)|ALBA]]に移籍) * [[大橋祐太郎]] * [[影丸茂樹]](OSBに移籍) * [[柏木佑介]](アール・クルーに移籍) * [[川村悠椰]](アール・クルーに移籍) * [[岸田真弥]](旧:川岸晋也、岸田新也)([[ジェイ・クリップ]]と業務提携) * [[佐原健二]]([[佐原プロモーション]]を設立) * [[周防進]] * [[須藤学]] * [[円谷皐]] * 円谷浩 * [[東城大]] * [[外島孝一]]([[アズリードカンパニー]]に移籍) * [[成元一真]](vifに移籍) * [[原武昭彦]](アール・クルーに移籍) * [[原元太仁]]([[エビス大黒舎]]に移籍) * [[古谷敏]] * [[洞内秀幸]](旧:洞内秀)(vifに移籍) * [[前田益弘]] * [[Masahiro.]] * [[松原剛志]] * [[右田昌万]](俳優としても所属) * [[三村幸司]]([[BOSアクションユニティ]]の提携メンバー) * [[三宅敏夫]] * [[三輪治輝]] * [[満田かずほ]] * [[谷嶋俊]] ==== 女性 ==== * [[青山梨子]] * [[安藤咲]](vifに移籍) * [[磯崎亜紀子]] * [[伊東香緒]](旧:伊東花桜、伊東佳乙)(vifに移籍) * [[岩佐まり]](旧:岩佐真理子)([[オールウェーブ・アソシエツ]]に移籍) * [[岩崎光里]](アール・クルーに移籍) * [[大水亜里紗]] * [[おかのみさと]](旧:鈴木みさと) * [[岡本さとこ]](旧:岡本さと子) * [[落合ひとみ]]([[オフィスPSC]]に移籍) * [[小野日路美]](vifに移籍) * [[鎌田葉月]] * [[クノ真季子]](旧:久野真紀子、久野翔子)([[フェニックス (芸能プロダクション)|フェニックス]]に移籍) * [[倉田いづみ]] * [[五藤圭子]](vifに移籍) * [[高橋愛子]] * [[高橋沙也]](アール・クルーに移籍) * [[多田あやか]]([[A-PRO]]に移籍) * [[立原ありさ]] * [[長井ゆめの]] * [[中村薫 (女優)|中村薫]] * [[蜷川香子]] * [[平山さとみ]]([[生島企画室]]に移籍) * [[松澤友梨]] * [[松本智代美]] * [[三上ユリエ]](A-PROに移籍) * [[三井智映子]] * [[山田ふしぎ]](旧:山田恭子)([[81プロデュース]]に移籍) * [[湯田美由紀]] * [[わかばかなめ]](旧:若葉要)([[ドリーヴス]]に移籍) ==== グループ ==== * [[Project DMM]] * [[烈火斬]] * [[GIRLS ON THE RUN]] == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |title = 円谷英二特撮世界 |date = 2001-8-10 |publisher = [[勁文社]] |isbn = 4-7669-3848-8 |ref = {{SfnRef|円谷英二特撮世界|2001}} }} * {{Cite book|和書 |author = 白石雅彦 |authorlink = 白石雅彦 |title = 円谷一 ウルトラQと"テレビ映画"の時代 |publisher = [[双葉社]] |date = 2006-7-01 |ref = harv }} * {{Cite book|和書 |author = 円谷英明 |authorlink = 円谷英明 |title = ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗 |publisher = [[講談社]] |series = [[講談社現代新書]] |date = 2013-6-18 |isbn = 978-4-06-288215-6 |ref = harv }} * 講談社MOOK(講談社) ** {{Cite book|和書 |title = 円谷ヒーロー ウルトラマン全史 |editor = 講談社 |publisher = 講談社 |series = 講談社MOOK |date = 2013-7-10 |isbn = 978-4-06-389762-3 |ref = {{SfnRef|ウルトラマン全史|2013}} }} ** {{Cite book|和書 |title = テレビマガジン特別編集 ウルトラ特撮マガジン 2020 |publisher = 講談社 |series = 講談社MOOK |date = 2020-8-31 |isbn = 978-4-06-520743-7 |ref = {{SfnRef|マガジン2020|2020}} }} ** {{Cite book|和書 |title = ULTRAMAN HISTORICA ウルトラQからシン・ウルトラマンまで |publisher = 講談社 |series = 講談社MOOK |date = 2022-6-28<!--奥付表記--> |isbn = 978-4-06-528129-1 |ref = {{SfnRef|HISTORICA|2022}} }} * 講談社シリーズMOOK ウルトラ特撮 PERFECT MOOK(講談社) ** {{Cite book|和書 |volume = vol.02 |volume-title = ウルトラマン |publisher = 講談社 |date = 2020-7-28 |isbn = 978-4-06-519603-8 |ref = {{SfnRef|UPM vol.02|2020}} }} ** {{Cite book|和書 |volume = vol.04 |volume-title = 帰ってきたウルトラマン |publisher = 講談社 |date = 2020-8-25 |isbn = 978-4-06-519974-9 |ref = {{SfnRef|UPM vol.04|2020}} }} == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="円谷夢工房">[http://www.tsuburaya-yume.co.jp/profile.html プロフィール] 円谷夢工房</ref> <ref name="高野">「[https://web.archive.org/web/20030904041759/http://www.zakzak.co.jp/top/t-2003_09/1t2003090201.html 大揺れ円谷プロ、セクハラ後はリストラ騒動 前専務のカリスマ特技監督が怒りの提訴]」[[ZAKZAK]] 2003年9月2日</ref> <ref name="asahi_TKY200802060383">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/komimi/TKY200802060383.html|title=「怪獣倉庫」でイカルス、アントラー、ゼットンを見た|newspaper=asahi.com|publisher=朝日新聞社|date=2008-02-07|accessdate=2020-11-28}}</ref> <ref name=impress100423>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/special/363106.html 毎年話題のエイプリルフール企画を生み出す「円谷プロ」インタビュー] INTERNET watch([[インプレス]]) 2010年4月23日</ref> <ref name="白書">{{Cite book|和書|chapter=円谷特技プロの創立|title = 不滅のヒーローウルトラマン白書|publisher = [[朝日ソノラマ]]|series = [[ファンタスティックコレクション|ファンタスティックコレクションスペシャル]]|date = 1982-12-31|edition = 初版|page=11|id = 雑誌コード:67897-80}}</ref> <ref name="特撮世界155">{{Harvnb|円谷英二特撮世界|2001|pp=155-157|loc=「円谷英二年代世相表」}}</ref> <ref name="TCMP">{{Cite book|和書|editor=[[電撃ホビーマガジン]]編集部|title=ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション|date=2014-11-29|publisher=[[KADOKAWA]]([[アスキー・メディアワークス]])|series=DENGEKI HOBBY BOOKS|page=123|chapter=プロジェクト東宝チャンピオンまつり 祭り囃子は遠くに|isbn=978-4-04-866999-3}}</ref> <ref name="マガジン20203">{{Harvnb|マガジン2020|2020|pp=3-5|loc=「特撮映像の砦 その誕生と成長」}}</ref> <ref name="UPM vol.0230">{{Harvnb|UPM 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エニグマ (暗号機)
エニグマ (Enigma) とは、第二次世界大戦でナチス・ドイツが用いたローター式暗号機である。幾つかの型がある。暗号機によって作成される暗号も広義にはエニグマと呼ばれる。名称はギリシア語に由来し、「謎」を意味する。 エニグマ暗号機は、1918年にドイツの発明家アルトゥール・シェルビウスによって発明された電気機械式暗号機械で、1925年にはドイツ軍が正式に採用。続いてドイツ政府や国営鉄道なども採用し、3万台以上を販売した。 暗号方式は換字式であり、詳しくは順変多表式である。エニグマはM-209(英語版)と同様な反転暗号となり、暗号文を同じ鍵で再暗号化すると平文が得られる特徴がある。 大戦中の1939年に、イギリスはアラン・チューリングらによってエニグマの解読に成功したが、その事実は徹底して極秘事項とされ、ドイツ軍は終戦までエニグマを使用し続けた。 手前にキーボードがあり、その奥にランプボード(表示盤)、一番奥には3枚のローター(暗号円盤)が入っていて、ローターの初期状態を設定できるようにホイールの端が出ている。ローターの左にはリフレクター(反転ローター)がつけられている。キーボードの手前にはプラグボードが格納されている。 上蓋の内側の下にプラグコードが格納されている。 キーボードで平文(ひらぶん)の一文字を打ち込むと、ランプボードの一つが点灯して暗号文の一文字が得られる。暗号文を復号する際も、同様にキーボードで暗号文を打ち込むとランプボードが点灯して平文が得られる。 暗号化・復号の鍵は、いくつかあるローターのうちどの3枚を使うかの組み合わせと、ローターをセットする順序、ローターの目盛りの初期位置、およびプラグボード配線である。 内部のローターは、中の配線が暗号化機(スクランブラー)になっている。打ち込んだ文字は3枚のローターを通って変換され、反転ローターでもう一度3枚のローターを逆方向に通って再度変換されて出力される。 1文字暗号化する毎にローターが一目盛り回転し、回路が変更されるので、同じ文字を打ち込んでも前回とは別の文字に変換される。端のローターが1回転すると隣のローターが一目盛り回転するので回路の組み合わせは膨大な数になる。これは異なる換字表を1文字ごとに使っていくことと同じである。 ドイツ陸軍用I型のエニグマ暗号機は理論上3つの換字要素、ローター、反転ローターおよびプラグボードから構成されている。 A - Zのアルファベットによる多表式暗号であれば、多表の数は理論上26! = 403,291,461,126,605,635,584,000,000 通り得られる。もしローターの代わりにプラグボードを利用すればこの多表全てを所望の順番で変更利用できるが、1文字を暗号化する度にプラグの差し替えが必要であり実用性に乏しい。そこで多表数をアルファベット数と同じ数(エニグマは26表)で妥協する代わりに、機械的に多表を逐次変更する方法の一つとしてローター式(鼓胴とかドラム式とも呼ばれる)暗号機が登場した。 ローターには、その内部配線により26!通りの中から所望の単文字換字表を1つだけ設定することができる。よって「動かないローター」は「挿しっぱなしのプラグボード」と等価である。配線の変更作業は端末ユーザーには事実上不可能であり、配線内容が敵に漏洩した場合は別配線の新規ローターを全ユーザーに配布・交換する必要がある。 ローターを駆動することにより、そのローターの単文字換字表から関連付けられた26の多表を切り替えて利用できる。26の多表はローター固有の表であり、変更することは出来ない。よって1文字換字する度にローターを駆動させ、どの表を利用するかが重要となるが、エニグマはローターの多表が秘匿されていることを前提にした順変多表式であり、1文字換字毎に1/26段階ずつ駆動させている。つまり多表を頭から順繰りに切り替えていく。 しかし利用するローターが1個では多表が26と少ない欠点を持つ。そこで3つのローターを連結して3回換字することで見かけ上、26=17,576表を利用できる。ローターによる換字は群論でいう交換則が成立しない。よってローターを連結する順序を変えることにより、異なる多表を用意できる。例えばA,B,Cの異なるローターが有れば、3の順列数である6通りの連結が可能であり、17,576表が6倍の105,456表に増える。 3つのローターの並べ替え(105,456表)でも不足ならば、新規ローターを追加配布して入れ替えることができる。例えば異なる5つのローターA,B,C,D,Eがあれば、任意の3つを選んで60通り (60=5P3) に並べることができるので、17,576表が60倍の1,054,560表に増える。 電気的閉回路を構成する反転ローターの採用は、エニグマ換字に、反転性 (reciprocity) とある種の不完全性 (noncrashing) と言う2つの特徴を同時に与えた。 原字Aが暗字Bに換字されるなら (Ap=Bc)、原字Bは暗字Aとなる (Bp=Ac) 特徴を持つ。この特長により暗号文を再度暗号化すると平文が得られ、機械構造がシンプルになった。例えば反転ローターを持たないHebern rotor machineにはreciprocityはないので、作成・翻訳切り替え機構が必要である。 原字は自分自身に換字されない (Ap≠Ac) 特徴を持つ。仮にエニグマの"A"のボタンを連続して打鍵すると、その都度に異なる文字ランプが点灯するが決して"A"だけは点灯しない。これは反転ロータの構造による(26個の接点を2個ずつ結合しているから)。例えばM-209はreciprocityであるがnoncrashingではない。 これはクリブによる解読が容易である欠点となった。この特徴を利用して気象通報用エニグマ暗号文の冒頭部に対してクリブ (crib) を当てはめる場合を説明する。 暗号文の冒頭 仮定する独語 cribとなる文字列 crib(クリブ) 暗号文とcribを重ね合わせ、上下で同じ文字(暗字=原字)になった場合は、誤った位置として棄却できる。エニグマ暗号文には、こうしてcribを当てはめることが可能である。この例では2番目、5番目および10番目にcribがある可能性がある。 各ローターの多表は固定されており、野戦で使用される暗号機は盗まれたり鹵獲されたりする可能性がある。そこでプラグボードが追加された。プラグボードはキーボード・ランプボードとローター換字部の間に挿入され、単文字換字を行う。アルファベット26個分の入出力端子があり、任意の2つのアルファベットをバナナプラグの付いた1組のケーブルで入れ替えることができる。右の写真では"A"と"J"、"S"と"O"が入れ替えてある。なおプラグの刺さっていないアルファベットは入出力が短絡された状態である(例えば"W"は"W"になる) ドイツ軍は初めは3組(3.5×10通り)、後に10組(1.5×10通り)のアルファベットを入れ替えた。ローターの並べ替え・入れ替えに比べ、桁違いの鍵規約数を末端ユーザーが利用できるのが特徴である。しかし頻繁にプラグを入れ替えることは困難であり、実際には1日毎(後に8時間毎)の入れ替えとなった。ポーランドの解読者は暗号解読に群論を初めて導入し、プラグボードの影響を排除してローター多表の解析に成功したことがエニグマ解読の重要な一歩となった。 1920年代にドイツ軍は3ロータ型のエニグマを運用開始し、1930年代に入るとイギリス、アメリカ、フランスがこの3ロータ型のエニグマ解読を試みたが不成功に終わった。 1932年、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局(en)の数学者マリアン・レイェフスキ(当時27歳)と、彼のポズナン大学における後輩ヘンリク・ジガルスキとイェジ・ルジツキは、1932年ころ初期型を解読した。これはフランス情報部のスパイが、ベルリン暗号局シフリーシュテーレで勤務するハンス=ティロ・シュミット(英語版)から得た情報から推察される構造を復元したエニグマを用いて解読された。元々がエニグマ実機が敵国側に堕ちることを想定され設計された暗号機であったので、レイェフスキにより解読された時点で実質エニグマは原理的に敗北したも同然であるといえよう(実のところ、レイェフスキの上司であるランゲル少佐はフランス側からローターの日毎の配置を記したコードブックも得ていた。が、戦争激化時のスパイ行為の難しさを見越して独力で解かせることにしていたという)。レイェフスキは「ボンバ」という暗号解読機を6台制作、ジガルスキは6枚のコードシート「ジガルスキ・シート」を6枚製作して、当時のドイツが使用していたもの(基本的に3ロータで、6つのホイールオーダーを可能としていた)より複雑なエニグマでも解読できるようにまで発展させた。 ところがドイツ側はローター数やプラグ数を2つ追加、これによりホイールオーダーは原理的に6から60に増加、暗号をより強固なものとした。ポーランド暗号局は当時6台制作したボンバとジガルスキ・シートにさらにそれぞれ54台、54枚を追加しなければ太刀打ちできない状況になった。原理は同じものであるから理論的にはレイェフスキの手法で新しいエニグマの暗号解読は十分可能であったが、ドイツとの戦争が差し迫っている中、ポーランド側には54台のボンバと54枚のジガルスキ・シートを追加制作し運用するために割く時間も予算も人員も足りなかった。既にドイツの独裁者であったヒトラーはポーランドへの強硬的な発言を強めており、ポーランドでは危機感が募るばかりで、ドイツが侵攻してくればポーランド側が独自に国土防衛を行いながらボンバを用いた新エニグマ解読作戦を継続することは考えられなかった。のちにレイェフスキはこう述べている: もはやボンバの改良や人員の強化は開戦に間に合わないと悟ったランゲル少佐は、やむなくイギリス・フランスの情報担当官を緊急でワルシャワに招き、"解読不可能"とされていたエニグマ解読の成果(bombe等)を披露し、旧式とはなっていたがドイツ軍用エニグマのレプリカを送呈した。その結果イギリスの政府暗号学校 (GC&CS) のアラン・チューリングが、1939年秋には電動式の暗号解読機「ボンブ(英語版)」の設計を行った。ポーランドのレイェフスキ・ボンバがエニグマ解読専用の設計であったのに対し、このイギリスのチューリング・ボンブはいわゆるクリブ方式の暗号一般に対応できるよう設計された。そのためには大西洋上のドイツの気象観測船を奇襲により捕獲したり、損傷して自沈のために浮上したUボートを捕獲したりしてエニグマの実物や暗号書を手に入れることが不可欠だった。 イギリスの諜報機関内で解読作業をしたグループはUltra(ウルトラ)と呼ばれ、解読情報はUltra情報と呼ばれた。Ultraの作業は戦時中はもちろん戦後も極秘とされ、1974年にその内実を記した書籍が出版されるまで世間に知られる事は無かった。そのためチューリングら関与した科学者は戦後にその功績に見合った評価や待遇を受けられず不遇の日々を送る事となった。 エニグマ解読には5つの方法、そしてモチベーションが必要とされた。どれもが重要な役割を果たし、タイムリーな解読のために相互に補完した。 群論によるローター配線解析の成功。これは解読者に数学よりも語学のセンスを要求したイギリスの方針を転換させた。 アラン・チューリングが開発した多数の暗号解読機「ボンベ (Bombe)」による総当り攻撃。 単に解読が可能になったのみならず、捕獲できなかった部分に対しての解読が容易になった。 無線コールサインを解析し、送信・受信者や重要度、内容までも推定すること。クリブが最大限に活用された。 フランス情報部のギュスターヴ・ベルトラン(英語版)大尉はスパイであるシュミットから以下の情報を受け取った。 ベルトラン大尉はまず自国の暗号家であるバジェールに入手した情報を見せたが、専門家の返答は「この資料だけでは何も出来ない。エニグマ模造機を作るにはローター配線情報が必須だ」と否定的な意見だった。次に当時友好的であったイギリス情報部のウィルフレッド・ダンダーデイルに話を持ち掛けたが、情報は役に立たないと判断された。最後にベルトラン大尉が相談したのがポーランドであった。解読チームBS-4の幹部ランゲルに面会したところ、ランゲルは積極的な態度を示し「我々は貴方がた(英仏解読者)とは(ドイツに対する恐怖感からの)モチベーションが違います」とコメントした。 2006年2月、未解読のままになっていた三つの暗号文の内の一つが、ドイツのアマチュア暗号解読家とインターネット上の仲間による共同プロジェクトM4 Projectによって解読された。M4 Projectは、分散コンピューティングを使用したブルートフォースアタック(総当たり攻撃)によってエニグマ暗号文を解読しようとするプロジェクトで、解読された内容はUボートが発信した「敵を追跡している」という内容のものであった。同年3月には2つ目の暗号も解読され、2013年1月には最後の暗号も解読された。 イギリスが暗号を解読するようになると「ドイツ軍の指揮官が自分達への命令を確認するため、イギリスに問い合わせた」というジョークすら生まれた。
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}, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1932年、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局(en)の数学者マリアン・レイェフスキ(当時27歳)と、彼のポズナン大学における後輩ヘンリク・ジガルスキとイェジ・ルジツキは、1932年ころ初期型を解読した。これはフランス情報部のスパイが、ベルリン暗号局シフリーシュテーレで勤務するハンス=ティロ・シュミット(英語版)から得た情報から推察される構造を復元したエニグマを用いて解読された。元々がエニグマ実機が敵国側に堕ちることを想定され設計された暗号機であったので、レイェフスキにより解読された時点で実質エニグマは原理的に敗北したも同然であるといえよう(実のところ、レイェフスキの上司であるランゲル少佐はフランス側からローターの日毎の配置を記したコードブックも得ていた。が、戦争激化時のスパイ行為の難しさを見越して独力で解かせることにしていたという)。レイェフスキは「ボンバ」という暗号解読機を6台制作、ジガルスキは6枚のコードシート「ジガルスキ・シート」を6枚製作して、当時のドイツが使用していたもの(基本的に3ロータで、6つのホイールオーダーを可能としていた)より複雑なエニグマでも解読できるようにまで発展させた。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ところがドイツ側はローター数やプラグ数を2つ追加、これによりホイールオーダーは原理的に6から60に増加、暗号をより強固なものとした。ポーランド暗号局は当時6台制作したボンバとジガルスキ・シートにさらにそれぞれ54台、54枚を追加しなければ太刀打ちできない状況になった。原理は同じものであるから理論的にはレイェフスキの手法で新しいエニグマの暗号解読は十分可能であったが、ドイツとの戦争が差し迫っている中、ポーランド側には54台のボンバと54枚のジガルスキ・シートを追加制作し運用するために割く時間も予算も人員も足りなかった。既にドイツの独裁者であったヒトラーはポーランドへの強硬的な発言を強めており、ポーランドでは危機感が募るばかりで、ドイツが侵攻してくればポーランド側が独自に国土防衛を行いながらボンバを用いた新エニグマ解読作戦を継続することは考えられなかった。のちにレイェフスキはこう述べている:", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "もはやボンバの改良や人員の強化は開戦に間に合わないと悟ったランゲル少佐は、やむなくイギリス・フランスの情報担当官を緊急でワルシャワに招き、\"解読不可能\"とされていたエニグマ解読の成果(bombe等)を披露し、旧式とはなっていたがドイツ軍用エニグマのレプリカを送呈した。その結果イギリスの政府暗号学校 (GC&CS) のアラン・チューリングが、1939年秋には電動式の暗号解読機「ボンブ(英語版)」の設計を行った。ポーランドのレイェフスキ・ボンバがエニグマ解読専用の設計であったのに対し、このイギリスのチューリング・ボンブはいわゆるクリブ方式の暗号一般に対応できるよう設計された。そのためには大西洋上のドイツの気象観測船を奇襲により捕獲したり、損傷して自沈のために浮上したUボートを捕獲したりしてエニグマの実物や暗号書を手に入れることが不可欠だった。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イギリスの諜報機関内で解読作業をしたグループはUltra(ウルトラ)と呼ばれ、解読情報はUltra情報と呼ばれた。Ultraの作業は戦時中はもちろん戦後も極秘とされ、1974年にその内実を記した書籍が出版されるまで世間に知られる事は無かった。そのためチューリングら関与した科学者は戦後にその功績に見合った評価や待遇を受けられず不遇の日々を送る事となった。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "エニグマ解読には5つの方法、そしてモチベーションが必要とされた。どれもが重要な役割を果たし、タイムリーな解読のために相互に補完した。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "群論によるローター配線解析の成功。これは解読者に数学よりも語学のセンスを要求したイギリスの方針を転換させた。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アラン・チューリングが開発した多数の暗号解読機「ボンベ (Bombe)」による総当り攻撃。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "単に解読が可能になったのみならず、捕獲できなかった部分に対しての解読が容易になった。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "無線コールサインを解析し、送信・受信者や重要度、内容までも推定すること。クリブが最大限に活用された。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "フランス情報部のギュスターヴ・ベルトラン(英語版)大尉はスパイであるシュミットから以下の情報を受け取った。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ベルトラン大尉はまず自国の暗号家であるバジェールに入手した情報を見せたが、専門家の返答は「この資料だけでは何も出来ない。エニグマ模造機を作るにはローター配線情報が必須だ」と否定的な意見だった。次に当時友好的であったイギリス情報部のウィルフレッド・ダンダーデイルに話を持ち掛けたが、情報は役に立たないと判断された。最後にベルトラン大尉が相談したのがポーランドであった。解読チームBS-4の幹部ランゲルに面会したところ、ランゲルは積極的な態度を示し「我々は貴方がた(英仏解読者)とは(ドイツに対する恐怖感からの)モチベーションが違います」とコメントした。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2006年2月、未解読のままになっていた三つの暗号文の内の一つが、ドイツのアマチュア暗号解読家とインターネット上の仲間による共同プロジェクトM4 Projectによって解読された。M4 Projectは、分散コンピューティングを使用したブルートフォースアタック(総当たり攻撃)によってエニグマ暗号文を解読しようとするプロジェクトで、解読された内容はUボートが発信した「敵を追跡している」という内容のものであった。同年3月には2つ目の暗号も解読され、2013年1月には最後の暗号も解読された。", "title": "解読" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イギリスが暗号を解読するようになると「ドイツ軍の指揮官が自分達への命令を確認するため、イギリスに問い合わせた」というジョークすら生まれた。", "title": "余談" } ]
エニグマ (Enigma) とは、第二次世界大戦でナチス・ドイツが用いたローター式暗号機である。幾つかの型がある。暗号機によって作成される暗号も広義にはエニグマと呼ばれる。名称はギリシア語に由来し、「謎」を意味する。 エニグマ暗号機は、1918年にドイツの発明家アルトゥール・シェルビウスによって発明された電気機械式暗号機械で、1925年にはドイツ軍が正式に採用。続いてドイツ政府や国営鉄道なども採用し、3万台以上を販売した。 暗号方式は換字式であり、詳しくは順変多表式である。エニグマはM-209と同様な反転暗号となり、暗号文を同じ鍵で再暗号化すると平文が得られる特徴がある。 大戦中の1939年に、イギリスはアラン・チューリングらによってエニグマの解読に成功したが、その事実は徹底して極秘事項とされ、ドイツ軍は終戦までエニグマを使用し続けた。
{{参照方法|date=2015年9月5日 (土) 11:25 (UTC)}} [[ファイル:Enigma-logo.jpg|thumb|エニグマのロゴ]] '''エニグマ''' (Enigma) とは、[[第二次世界大戦]]で[[ナチス・ドイツ]]が用いたローター式[[暗号機]]である。幾つかの型がある。暗号機によって作成される[[暗号]]も広義にはエニグマと呼ばれる。名称はギリシア語に由来し、「謎」を意味する。 [[ファイル:EnigmaMachineLabeled.jpg|thumb|エニグマ暗号機]] エニグマ暗号機は、[[1918年]]に[[ドイツ国|ドイツ]]の発明家[[アルトゥール・シェルビウス]]によって発明された電気機械式暗号機械で、[[1925年]]には[[ヴァイマル共和国軍|ドイツ軍]]が正式に採用。続いてドイツ政府や[[ドイツ国営鉄道|国営鉄道]]なども採用し、3万台以上を販売した。 暗号方式は[[換字式暗号|換字式]]であり、詳しくは順変多表式である。エニグマは{{仮リンク|M-209|en|M-209}}と同様な反転暗号となり、[[暗号文]]を同じ鍵で再暗号化すると[[平文]]が得られる特徴がある。 大戦中の1939年に、[[イギリス]]は[[アラン・チューリング]]らによってエニグマの解読に成功したが、その事実は徹底して極秘事項とされ、[[ドイツ]]軍は終戦までエニグマを使用し続けた。 == 構造 == 手前に[[鍵盤 (入力装置)|キーボード]]があり、その奥にランプボード(表示盤)、一番奥には3枚のローター(暗号円盤)が入っていて、ローターの初期状態を設定できるようにホイールの端が出ている。ローターの左にはリフレクター(反転ローター)がつけられている。キーボードの手前には[[プラグボード]]が格納されている。 上蓋の内側の下にプラグコードが格納されている。 キーボードで[[平文]](ひらぶん)の一文字を打ち込むと、ランプボードの一つが点灯して暗号文の一文字が得られる。暗号文を復号する際も、同様にキーボードで暗号文を打ち込むとランプボードが点灯して平文が得られる。 [[ファイル:Enigma rotor set.png|thumb|内部のローター]] 暗号化・復号の[[鍵 (暗号)|鍵]]は、いくつかあるローターのうちどの3枚を使うかの組み合わせと、ローターをセットする順序、ローターの目盛りの初期位置、およびプラグボード配線である。 内部のローターは、中の配線が暗号化機(スクランブラー)になっている。打ち込んだ文字は3枚のローターを通って変換され、反転ローターでもう一度3枚のローターを逆方向に通って再度変換されて出力される。 1文字暗号化する毎にローターが一目盛り回転し、回路が変更されるので、同じ文字を打ち込んでも前回とは別の文字に変換される。端のローターが1回転すると隣のローターが一目盛り回転するので回路の組み合わせは膨大な数になる。これは異なる換字表を1文字ごとに使っていくことと同じである。 === ローターの構造 === [[ファイル:Enigma rotor exploded view.png|thumb|300px|ローターの構造]] # 刻み付リング, ロータが一回転したときにラッチ機構を通して隣のローターを一目盛り回転させる # "A"の場所を示すドット印, 操作者がローターを組み立てるときに使う # アルファベットが刻まれたリング, 文字ではなく数字がついているリングもある # 端子板 # 端子板とピン端子を接続するワイヤ;このワイヤの接続が換字表を実現している部分である # スプリング付ピン端子 # スプリング付リング, アルファベットリングの位置を変更するのに使う; リバー上のピンがアルファベットリングの側面の穴に入るようになっている # ハブ, 中心軸を通す # Finger wheel, ローターの初期位置を手動でセットするのに使う # ラッチ機構 {{-}} == エニグマ換字の原理 == ドイツ陸軍用I型のエニグマ暗号機は理論上3つの換字要素、ローター、反転ローターおよびプラグボードから構成されている。 === ローター === A - Zの[[アルファベット]]による[[ヴィジュネル暗号|多表式暗号]]であれば、多表の数は理論上26! = 403,291,461,126,605,635,584,000,000 通り得られる。もしローターの代わりにプラグボードを利用すればこの多表全てを所望の順番で変更利用できるが、1文字を暗号化する度にプラグの差し替えが必要であり実用性に乏しい。そこで多表数をアルファベット数と同じ数(エニグマは26表)で妥協する代わりに、機械的に多表を逐次変更する方法の一つとしてローター式(鼓胴とかドラム式とも呼ばれる)暗号機が登場した。 ローターには、その内部配線により26!通りの中から所望の単文字換字表を1つだけ設定することができる。よって「動かないローター」は「挿しっぱなしのプラグボード」と等価である。配線の変更作業は端末ユーザーには事実上不可能であり、配線内容が敵に漏洩した場合は別配線の新規ローターを全ユーザーに配布・交換する必要がある。 ローターを駆動することにより、そのローターの単文字換字表から関連付けられた26の多表を切り替えて利用できる。26の多表はローター固有の表であり、変更することは出来ない。よって1文字換字する度にローターを駆動させ、どの表を利用するかが重要となるが、エニグマはローターの多表が秘匿されていることを前提にした順変多表式であり、1文字換字毎に1/26段階ずつ駆動させている。つまり多表を頭から順繰りに切り替えていく。 しかし利用するローターが1個では多表が26と少ない欠点を持つ。そこで3つのローターを連結して3回換字することで見かけ上、26<sup>3</sup>=17,576表を利用できる。ローターによる換字は[[群論]]でいう交換則が成立しない。よってローターを連結する順序を変えることにより、異なる多表を用意できる。例えばA,B,Cの異なるローターが有れば、3の順列数である6通りの連結が可能であり、17,576表が6倍の105,456表に増える。 3つのローターの並べ替え(105,456表)でも不足ならば、新規ローターを追加配布して入れ替えることができる。例えば異なる5つのローターA,B,C,D,Eがあれば、任意の3つを選んで60通り (60=<sub>5</sub>P<sub>3</sub>) に並べることができるので、17,576表が60倍の1,054,560表に増える。 === 反転ローター === [[ファイル:enigma wiring kleur.svg|thumb|250px|反転ローターによる電気的閉回路。この例ではAとDが同じ閉回路にあり、(A<sub>p</sub>=D<sub>c</sub>) かつ (D<sub>p</sub>=A<sub>c</sub>) である。他方 (A<sub>p</sub>=A<sub>c</sub>) となるように電流を流すことは不可能]] 電気的閉回路を構成する反転ローターの採用は、エニグマ換字に、反転性 (reciprocity) とある種の不完全性 (noncrashing) と言う2つの特徴を同時に与えた。 ==== 反転性 (reciprocity) ==== 原字Aが暗字Bに換字されるなら (A<sub>p</sub>=B<sub>c</sub>)、原字Bは暗字Aとなる (B<sub>p</sub>=A<sub>c</sub>) 特徴を持つ。この特長により暗号文を再度暗号化すると平文が得られ、機械構造がシンプルになった。例えば反転ローターを持たない[[:en:Hebern rotor machine|Hebern rotor machine]]にはreciprocityはないので、作成・翻訳切り替え機構が必要である。 ==== <!-- 暫定の和訳 -->ある種の不完全性 (noncrashing) ==== 原字は自分自身に換字されない (A<sub>p</sub>≠A<sub>c</sub>) 特徴を持つ。仮にエニグマの"A"のボタンを連続して打鍵すると、その都度に異なる文字ランプが点灯するが決して"A"だけは点灯しない。これは反転ロータの構造による(26個の接点を2個ずつ結合しているから)。<!-- 如何なる鍵規約においても平文を暗号化して平文を得ることは出来ない。 -->例えばM-209はreciprocityであるがnoncrashingではない。 これは[[クリブ]]による解読が容易である欠点となった。この特徴を利用して気象通報用エニグマ暗号文の冒頭部に対して[[クリブ]] (crib) を当てはめる場合を説明する。 暗号文の冒頭 : TVQLKIGWHBSTUXNTXEYLKPEAZZNSKUFJRCADVVTI… 仮定する独語 : Wetterübersicht 0600(üは暗号変換時は「ue」として扱う。英訳は「Weathersurvey 06:00」。) cribとなる文字列 : WUEBYYNULLSEQSNULLNULL(Wueb=Wetterübersicht, YY=空白, Seqs=Sechs) '''crib'''(クリブ) : 原文中にあることが推定される単語やフレーズ 暗号文とcribを重ね合わせ、上下で同じ文字(暗字=原字)になった場合は、誤った位置として棄却できる。エニグマ暗号文には、こうしてcribを当てはめることが可能である。この例では2番目、5番目および10番目にcribがある可能性がある。 TVQLKIGWHBSTUXNTXEYLKPEAZZNSKUFJRCADVVTI WUEBYYNULL'''S'''EQS'''N'''ULLNULL ←棄却 WUEBYYNULLSEQSNULLNULL ←正解候補 WUEBYYNULLSEQSNUL'''L'''NULL ←棄却 WUEBYYNULLSEQSNU'''L'''LNULL ←棄却 WUEBYYNULLSEQSNULLNULL ←正解候補 WUEBYYN'''U'''LLSEQSNULLNULL ←棄却 WUE'''B'''YYNULLS'''E'''QSNULLNULL ←棄却 '''W'''UEBYYNULLSEQSNULLNULL ←棄却 WUEBYY'''N'''ULLSEQSNULL'''N'''ULL ←棄却 WUEBYYNULLSEQSNULLNULL ←正解候補 WUEBYYNUL'''L'''SEQSNULLN'''U'''LL ←棄却 === プラグボード === [[ファイル:Enigma-plugboard.jpg|thumb|280px|プラグボード]] 各ローターの多表は固定されており、野戦で使用される暗号機は盗まれたり[[鹵獲]]されたりする可能性がある。そこでプラグボードが追加された。プラグボードはキーボード・ランプボードとローター換字部の間に挿入され、単文字換字を行う。アルファベット26個分の入出力端子があり、任意の2つのアルファベットをバナナプラグの付いた1組のケーブルで入れ替えることができる。右の写真では"A"と"J"、"S"と"O"が入れ替えてある。なおプラグの刺さっていないアルファベットは入出力が短絡された状態である(例えば"W"は"W"になる) ドイツ軍は初めは3組(3.5×10<sup>6</sup>通り)、後に10組(1.5×10<sup>14</sup>通り)のアルファベットを入れ替えた。ローターの並べ替え・入れ替えに比べ、桁違いの鍵規約数を末端ユーザーが利用できるのが特徴である。しかし頻繁にプラグを入れ替えることは困難であり、実際には1日毎(後に8時間毎)の入れ替えとなった。[[ポーランド]]の解読者は暗号解読に[[群論]]を初めて導入し、プラグボードの影響を排除してローター多表の解析に成功したことがエニグマ解読の重要な一歩となった。 == 解読 == 1920年代にドイツ軍は3ロータ型のエニグマを運用開始し、1930年代に入ると[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]がこの3ロータ型のエニグマ解読を試みたが不成功に終わった。 1932年、[[ポーランド軍参謀本部]]第2部暗号局([[:en:Biuro Szyfrów|en]])の[[数学者]][[マリアン・レイェフスキ]](当時27歳)と、彼の[[ポズナン大学]]における後輩[[ヘンリク・ジガルスキ]]と[[イェジ・ルジツキ]]<ref group="注釈">ポーランド暗号局では、これまで各国の機関や王室が語学的素養のあるものを採用していたことに対し、([[ドイツ語]]に堪能な)数学者を中心に採用した。</ref>は、[[1932年]]ころ初期型を[[暗号解読|解読]]した。これはフランス情報部のスパイが、ベルリン暗号局シフリーシュテーレで勤務する{{仮リンク|ハンス=ティロ・シュミット|en|Hans-Thilo Schmidt}}<ref group="注釈">ハンス=ティロ・シュミットの兄ルドルフはエニグマを採用した通信隊の隊長である。弟のハンス=ティロは軍を追い出され事業には立て続けに失敗していたが、兄はエニグマの採用で成功しており、兄への恨み・妬みと失望感から[[売国奴 #売国|売国]]行為に走っていたという。ハンス=ティロは作戦要員の裏切りから[[1943年]]に逮捕され、獄中で[[自殺]]した。</ref>から得た情報<ref group="注釈">軍事協定により得た情報は相互に共有することになっており、価値を見出せなかったフランス当局は"エニグマに関する情報"に興味を示していたポーランドに情報を与えた。</ref>から推察される構造を復元したエニグマを用いて解読された。元々がエニグマ実機が敵国側に堕ちることを想定され設計された暗号機であったので、レイェフスキにより解読された時点で実質エニグマは原理的に敗北したも同然であるといえよう(実のところ、レイェフスキの上司であるランゲル少佐はフランス側からローターの日毎の配置を記したコードブックも得ていた。が、戦争激化時のスパイ行為の難しさを見越して独力で解かせることにしていたという)。レイェフスキは「[[ボンバ (暗号解読機)|ボンバ]]」という暗号解読機を6台制作、ジガルスキは6枚のコードシート「ジガルスキ・シート」を6枚製作して、当時のドイツが使用していたもの(基本的に3ロータで、6つのホイールオーダーを可能としていた)より複雑なエニグマでも解読できるようにまで発展させた。 ところがドイツ側はローター数やプラグ数を2つ追加、これによりホイールオーダーは原理的に6から60に増加、暗号をより強固なものとした。ポーランド暗号局は当時6台制作したボンバとジガルスキ・シートにさらにそれぞれ54台、54枚を追加しなければ太刀打ちできない状況になった。原理は同じものであるから理論的にはレイェフスキの手法で新しいエニグマの暗号解読は十分可能であったが、ドイツとの戦争が差し迫っている中、ポーランド側には54台のボンバと54枚のジガルスキ・シートを追加制作し運用するために割く時間も予算も人員も足りなかった。既にドイツの独裁者であったヒトラーはポーランドへの強硬的な発言を強めており、ポーランドでは危機感が募るばかりで、ドイツが侵攻してくればポーランド側が独自に国土防衛を行いながらボンバを用いた新エニグマ解読作戦を継続することは考えられなかった。のちにレイェフスキはこう述べている: {{blockquote|「僕らは新しいロータの回路をすぐに把握したが、その導入部はロータの配列が6から60に増加することを可能としていた。だからそのため解読の鍵を見つけるのにこれまでの10倍の労力が必要となってしまったわけだ。つまりこの変化というのは本質的なものではなく単に量的なものであった。だから僕らは、ボンバを運転したり、穿孔シートを製作したり、その穿孔シート操作したりするための人員をずっと増やさなければならない状況になっていたのだ。」}} もはやボンバの改良や人員の強化は開戦に間に合わないと悟ったランゲル少佐は、やむなくイギリス・フランスの情報担当官を緊急でワルシャワに招き、"解読不可能"とされていたエニグマ解読の成果(bombe等)を披露し、旧式とはなっていたがドイツ軍用エニグマのレプリカを送呈した。その結果[[イギリス]]の[[政府暗号学校]] (GC&CS) の[[アラン・チューリング]]が、[[1939年]]秋には電動式の暗号解読機「{{仮リンク|ボンブ (暗号解読機)|en|Bombe|label=ボンブ}}」の設計を行った。ポーランドのレイェフスキ・ボンバがエニグマ解読専用の設計であったのに対し、このイギリスのチューリング・ボンブはいわゆる[[クリブ]]方式の暗号一般に対応できるよう設計された。そのためには大西洋上のドイツの気象観測船を奇襲により捕獲したり、損傷して自沈のために浮上した[[Uボート]]を捕獲したりしてエニグマの実物や暗号書を手に入れることが不可欠だった。 イギリスの諜報機関内で解読作業をしたグループは[[:en:Ultra|Ultra]](ウルトラ)と呼ばれ、解読情報はUltra情報と呼ばれた。<!-- 第二次大戦末期には、解読のために[[Colossus]](コロッサス)と呼ばれる初期の[[コンピュータ]]が利用された。このグループとコンピュータの存在は、[[1976年]]まで秘密に保たれた。 コロッサスは対ローレンツ暗号機用金物では? -->Ultraの作業は戦時中はもちろん戦後も極秘とされ、1974年にその内実を記した書籍が出版される<ref>{{ Citation | last = Winterbotham | first = F.W. | title = The Ultra secret: the inside story of Operation Ultra, Bletchley Park and Enigma | place = London | publisher = Orion Books Ltd | origyear = 1974 | year = 2000 | oclc = 222735270 | isbn = 978-0-7528-3751-2 }} </ref>まで世間に知られる事は無かった。そのためチューリングら関与した科学者は戦後にその功績に見合った評価や待遇を受けられず不遇の日々を送る事となった。 エニグマ解読には5つの方法、そしてモチベーションが必要とされた。どれもが重要な役割を果たし、タイムリーな解読のために相互に補完した。 === 学理的な解読 === 群論によるローター配線解析の成功。これは解読者に[[数学]]よりも語学のセンスを要求したイギリスの方針を転換させた。 === 機械による解読 === [[アラン・チューリング]]が開発した多数の暗号解読機「ボンベ (Bombe)」による総当り攻撃。 === スパイや捕獲による暗号機(書)の入手 === 単に解読が可能になったのみならず、捕獲できなかった部分に対しての解読が容易になった。 === 運用する人間の心理を突いた解読 === * 思いついた文字やキーボードの並びから、開始符を決める悪癖。 * 規約更新直後のローター開始位置に無意識の偏りがあること("Herivel tip"と呼ばれる)。 * ローターを入れ替えする際に前回と同じ位置に同じローターを避ける心理。 * ドイツ軍は各メッセージを一時的な鍵で暗号化し、その鍵を日鍵と呼ばれる一日変更されない鍵で暗号化してメッセージと共に送信していたが、初期は間違いを避けるため送信する鍵を反復していたこと。 === 交信解析 === 無線コールサインを解析し、送信・受信者や重要度、内容までも推定すること。[[クリブ]]が最大限に活用された。 === 解読のきっかけとなった「モチベーション」 === フランス情報部の{{仮リンク|ギュスターヴ・ベルトラン|en|Gustave Bertrand}}大尉はスパイであるシュミットから以下の情報を受け取った。 # ローターI,II,IIIの配列 # 各ローターに装着するアルファベットリングの位置。 # 共通鍵用のローター開始位置 # プラグボード配線 ベルトラン大尉はまず自国の暗号家であるバジェールに入手した情報を見せたが、専門家の返答は「この資料だけでは何も出来ない。エニグマ模造機を作るにはローター配線情報が必須だ」と否定的な意見だった。次に当時友好的であったイギリス情報部のウィルフレッド・ダンダーデイルに話を持ち掛けたが、情報は役に立たないと判断された。最後にベルトラン大尉が相談したのがポーランドであった。解読チームBS-4の幹部ランゲルに面会したところ、ランゲルは積極的な態度を示し「我々は貴方がた(英仏解読者)とは(ドイツに対する恐怖感からの)モチベーションが違います」とコメントした。 === 64年ぶりの解読 === 2006年2月、未解読のままになっていた三つの暗号文の内の一つが、ドイツのアマチュア暗号解読家と[[インターネット]]上の仲間による共同プロジェクト[[M4 Project]]によって解読された。M4 Projectは、[[分散コンピューティング]]を使用したブルートフォースアタック([[総当たり攻撃]])によってエニグマ暗号文を解読しようとするプロジェクトで、解読された内容は[[Uボート]]が発信した「敵を追跡している」という内容のものであった<ref>[http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,20097348,00.htm]</ref><ref>[https://archive.is/20130425113209/http://news.com.com/2100-1029_3-6043572.html]</ref>。同年3月には2つ目の暗号も解読され、2013年1月には最後の暗号も解読された。 == 歴史 == * [[1918年]] ** [[アルトゥール・シェルビウス|シェルビウス]]がエニグマの特許を出願。 * [[1923年]] ** Chiffriermaschinen A.G.がエニグマのA型を展示会に出品。 *** Scherbius特許を忠実に商品化したA型は28接点のローター4個が不規則な回転を行う。A型は大きくて不評だった。 *** B型は接点数を28→26字にする。 *** CおよびD型は3つのローター (fast,medium,slow) が距離計のように駆動、周期は<math> 26\times 25\times 26 = 16,900</math>字である(slowが駆動する時、mediumも連れ周り)。さらにHugo Kochが発明した反転ローター"Umkehrwalze"を採用。小型化に成功したD型は欧州各国で採用が広まった。 * [[1926年]] ** [[ドイツ海軍]]が軍用エニグマの運用を開始。これは商用D型に[[ウムラウト]]を加えた29字タイプである。 * [[1928年]] ** [[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]が軍用エニグマ G型の運用を開始。 * [[1930年]] ** ドイツ陸軍は改良したI型を本格運用。商用D型との主な違いは、 *** 反転ローターは固定され、駆動はしない。 *** プラグボードの採用。商用型の被解読性にドイツも気付いた。 * [[1931年]] ** [[フランス]]側[[スパイ]]のシュミット(独暗号局職員)が11月頃からドイツ陸軍エニグマの鍵と操作書を盗み出す。 ** この頃のドイツ暗号員はAAAやABCのような安易なローター開始位置を用いていた。 * [[1932年]] ** 12月、[[ポーランド]]の解読者であるレイェフスキがシュミット情報を元に3個のローター配線を解析することに成功。これでドイツ陸軍のエニグマが読めるようになった。なおローター解析には[[群論]]を導入した。 ** ドイツ上層部は安易な開始位置を禁止するが今度はキーボード配列を借用したQAY, PYX等の鍵が多発する。 ** この頃の鍵探索法は"grill-method"と呼ばれ、プラグボードがまだ6組しか置換していないのが幸いした。 Q W E R T Z U I O A S D F G H J K P Y X C V B N M L * [[1934年]] ** 10月、ドイツ海軍もエニグマ I型を運用開始 * [[1935年]] ** 8月、[[ドイツ空軍]]もエニグマ I型を運用開始 * [[1936年]] ** 1月、ローター配列が1か月ごとに更新される(以前は3か月ごと) *** [[スペイン内戦]]では[[イタリア軍]]がプラグボードのない商用エニグマを使用。[[ドイツ外務省]]は[[イタリア]]のエニグマ解読に成功する。同じ鍵系列で100通近い電文を暗号化したので古典的解読法が適用できた。この頃になるとフランスでは、商用型のローター配線がわかれば、文頭仮定語からローターの開始位置と配置順序を見つける"La Method des Batons"を編み出す。正しい位置と順序ならば、仮定語と暗号文はisomorphsを成すからである。類似の解読法をイギリスでは"Casting the rod"、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では"strip"と呼んだ。 ** 10月、プラグボードの数が8組に増加して"grill-method"の効率が低下した。対抗策としてプラグボードには影響されない"cyclometer"および"card-catalog"が導入される。共通鍵(日鍵)は僅か12 - 20分で突き止められた。 ** 10月、8時間ごとにローター配列が変更されるようになった。 * [[1937年]] ** 11月、反転ローターが更新されてcard-catalogの再構築が必要となった。1年以内に完了して新しい反転ローターに追随できた。 * [[1938年]] ** 9月15日、個別鍵の秘匿方法が変更されてcard-catalogが利用できない。そこでポーランドは2つの対抗策を編み出した。 *** "bombe"の構築。card-catalogと同様に全ての文字がプラグボードを通過しないことを利用していたが、より柔軟な運用ができた。bombeが稼動すると個別鍵は2時間で求まった。 *** Zygalskiが"perforated-sheets"を考案。これもプラグボードの影響を受けないが、シート作成に時間がかかり38年末になっても1/3しか完成しなかった。 ** 12月、ドイツ陸軍がローターの種類を3個から5個にする。Rejewskiが追加されたローター配線も復元する。 * [[1939年]] ** 1月1日、プラグボードが10組に増え、bombeの効率が低下した。ローター配列の規約数も増加しており、ポーランド独力ではタイムリーな解読は維持できない。 ** 7月24日、ポーランドの解読成果が英仏に提供される。 ** 8月16日、ポーランド製エニグマ模造機がロンドンに。 ** 9月1日、ドイツがポーランドに侵攻、英仏は宣戦布告。 *** イギリスがperforated-sheetsを作成開始(60×26=1560枚)、仏に逃れていたポーランド解読者に提供されると日鍵の探索が再開された。解読には70 - 100通の電文が必要だった。しかし翌年には個別鍵秘匿方法が変更されてperforated-sheetsも役立たずになる。 * [[1940年]] ** 1月、イギリスはドイツ空軍のエニグマを解読(紙と鉛筆による) ** 2月、イギリスは海軍エニグマのローター2個分をU-33から捕獲。脱出乗員がポケットにローターを入れたまま捕虜になった。 ** 3月14日、GC&CSにボンベ初号機が導入。 ** 5月、ドイツの偽装トロール漁船からの回収文書を利用して海軍エニグマを解読。 ** 5月、空軍の汎用鍵システムの解読に成功。終戦まで追随できた。 ** 8月8日、ボンブ改良機、始動。 ** 8月、海軍エニグマの3番目のローターを捕獲成功。 ** 9月、[[バトル・オブ・ブリテン]]でのドイツ空軍敗退決定。 ** 12月、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の汎用鍵システムの解読に成功。 * [[1941年]] ** 1月、アフリカ戦線での空軍鍵システムの解読に成功。 ** 3月、ドイツ哨戒船Krebから捕獲した文書により3 - 5月分の海軍Home Water鍵を入手、この鍵はUボートも使用していた。 ** 6月、U-110と気象観測船Münchenから1か月分の鍵を捕獲。 ** 6月、[[独ソ戦|東部戦線]]の陸軍鍵システムの解読に成功。 ** 7月、気象観測船Lauenburgから1か月分の鍵を捕獲。 ** 8月、海軍Home Water鍵(Uボート含む)を捕獲暗号鍵無しでも36時間以内に解読可能となる。これは6・7月の捕獲鍵がヒントになる。 ** 10月、Uボート専用鍵システム (TRITON) が12 - 120時間で解読可能。 ** 12月、[[アプヴェーア]](国防軍情報部、カナリス提督)鍵システムの解読に成功。1944年まで追随した。 * [[1942年]] ** 1月、空軍の鍵システムであるFliegerkorps IXとFliegerkorps Xの解読に成功。 ** 1月、新しい海軍気象通報用鍵システムが採用されるが、[[クリブ]]から解読可能となる。 ** 2月、Uボートが4個ローターのエニグマ暗号機を採用 (SHARK)。これにてGC&CSでの対Uボート解読は振り出しに戻る。 ** 4月、アフリカ戦線で空地連絡用鍵の解読に成功。解読は1943年9月まで追随。 ** 10月、U-559から新しい海軍気象通報用鍵を捕獲。 ** 10月13日、第一次遣独潜水艦[[伊号第三〇潜水艦]]がドイツからエニグマ50台を持ち帰ったが、インド洋における日独海軍の協同作戦用かこのうち10台をシンガポールで陸揚げした後、出航時に同艦は触雷沈没した。 ** 11月、連合軍アフリカ侵攻。 ** 12月、Uボート用鍵 (SHARK) の解読成功。気象通報用鍵が[[クリブ]]となる。解読には8日かかったが、月末には12時間に短縮した。 * [[1943年]] ** 1月、SHARK解読に遅れ。いくつかは戦術的価値のあるうちに解読。 ** 3月、90個のSHARK鍵を112日間で解読。 ** 8月、SHARK解読が加速する。 * [[1944年]] ** 6月、連合軍[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディー上陸]] ** 11月、各Uボートで個別鍵を採用。 * [[1945年]] ** 5月、ドイツ降伏 ==余談== イギリスが暗号を解読するようになると「ドイツ軍の指揮官が自分達への命令を確認するため、イギリスに問い合わせた」というジョークすら生まれた<ref>「イギリスの暗号解読」ディスカバリー・チャンネル</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2016年6月|section=1}} * 小説 ** 『エニグマ奇襲指令』[[マイケル・バー・ゾウハー]]著, [[田村義進]]訳 ハヤカワ文庫NV 234 1980年9月1日 ** 『暗号機エニグマへの挑戦』、[[ロバート・ハリス (1957年生)|ロバート・ハリス]]著、後藤安彦訳、新潮文庫ハ-32-1、新潮社、1996年9月1日、ISBN 4-10-249301-8 ** 『クリプトノミコン(1)』、[[ニール・スティーヴンスン]]著、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF1398、早川書房、2002年4月30日、ISBN 4-15-011398-X (全4巻) * 映画 ** 『エニグマ奇襲指令/ベルリン暗殺データバンクを強奪せよ!』(1982年、イギリス/フランス):『エニグマ奇襲指令』の映画化作品 ** 『[[U-571]]』(2000年、アメリカ) ** 『[[エニグマ (映画)|エニグマ]]』(2001年、ドイツ/イギリス):『暗号機エニグマへの挑戦』の映画化作品(製作:[[ミック・ジャガー]]) ** 『[[イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密]]』(2014年、英=米) * ドキュメンタリー ** 『[[Uボート捕獲大作戦-エニグマ暗号を解読せよ!-]]』『イギリスの暗号解読』([[ディスカバリーチャンネル]]) ** 『[[素数の魔力に囚われた人々]]』([[日本放送協会|NHK]]) * 歴史 ** Seizing the Enigma: The Race to Break the German U-Boats Codes, 1939-1943, David Kahn,Houghton Mifflin 1991, ISBN 0-395-42739-8 ** 『エニグマ暗号戦-恐るべき英独情報戦』、広田厚司著、光人社NF文庫、2004年2月13日、ISBN 4-7698-2409-2 * 解読理論 ** ENIGMA, Wladyslaw Kozaczuk, University Publications of America, 1984, ISBN 0-89093-547-5 ** Machine Cryptography and Modern Cryptanalysis, Cipher A. Deavours, Louis Kruh, Artech House, 1985 ISBN 0-89006-161-0 * 解読演習 ** Breakthrough '32 The Polish Solution of the Enigma / Includes MS DOS 5-1/4" diskette for IBM PC, Cipher A. Deavours, 1988, ISBN 0-89412-152-9(付属のプログラムはBoland Turbo BASICでコンパイルされている) == 関連項目 == * [[機械式暗号]] * [[換字式暗号]] * [[暗号史]] * [[暗号]] * [[M4 Project]] * [[イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密]] * [[ヘルシュライバー]] - 暗号を送受信するために使用された通信機 == 外部リンク == {{cryptography navbox|machines}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えにくま}} [[Category:暗号機]] [[Category:ナチス・ドイツ]] [[Category:第二次世界大戦]] [[Category:イギリス政府通信本部]] [[Category:ドイツの通信]]
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軍人
軍人(ぐんじん、英: Military Personnel、羅: miles ミーレス)は、軍隊の構成員。 当該国家の正規の軍事組織に所属し、正規の軍事訓練を受け、国家により認められた階級を与えられた者を指す。軍人は国際法上、敵対勢力を破壊する権利([交戦権]]。但し、交戦権なる用語は主に日本でのみ使用される)を持つ。また、敵対勢力に投降した場合には、捕虜として基本的人権が保障される。 文民(シビリアン、文官とは異なる)や民間人の対義語として用いられる。軍属は原則として、文官(雇員・傭人等を含む)であり軍人とは異なる。 軍人としての籍を兵籍、軍籍などといい、軍人としての履歴を軍歴という。 また、武官は軍人のうち、官吏でもある職業軍人を指し、徴兵された者は含まない。なお、自衛隊は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた日本国憲法第九条に従い、自衛のための必要最低限の実力組織と定義されているが、中山太郎外相が国会答弁で「自衛隊は、憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の厳しい制約を課せられております。通常の観念で考えられます軍隊ではありませんが、国際法上は軍隊として取り扱われておりまして、自衛官は軍隊の構成員に該当いたします」と述べているように、国際法上は自衛官は軍人として扱われるとされる。 西洋史上、近代以前においては(たとえば日本では「軍人」を「いくさびと」と訓じるように)ミーレスは戦闘を行う者を幅広く指していた。封建制の下では、兵と住民の区別、また士官と騎士・貴族・官僚の区別は基本的に存在しなかった。 絶対王政成立以降、国家の権力が中央に集められてゆき、貴族と土地、住民の関係が分断されることによって、軍事のみに関わる貴族(軍事貴族)等が出現し、王の軍隊として編成されていった。 その後、国民国家の成立や市民革命を経て、軍隊の性質が国民軍に変化し、近代的軍人が成立した。その代表格がグランダルメ(大陸軍)を率いたナポレオンであり、プロイセン陸軍を改革したシャルンホルストである。ただし、現在でも少なくとも名目上は「王の軍隊」としての性質が色濃い近代軍も存在する。例えば、英軍は「国王陛下/女王陛下の軍隊」(英: His/Her Majesty's Armed Forces)、「王冠の軍隊」(英: Armed Forces of the Crown)である。 日本では明治維新以降、既存の武士(侍)とは異なる位置づけの近代的軍人が成立し、今日の自衛官まで引き継がれている。 ただし、草創期の帝国陸海軍の高級軍人の殆どは旧武士層の出身であり、例えば陸軍の山県有朋は長州藩士、海軍の東郷平八郎は薩摩藩士である。 また、幕府陸軍、幕府海軍は近代軍と見做される。 陸海空軍の三軍種(英: tri-service)の他、海兵隊(海軍陸戦隊)、国家憲兵隊、沿岸警備隊、宇宙軍等が存在する。 なお、沿岸警備隊員は、米国等では軍人(武官組織)扱いだが、例えば日本の海上保安官は警察官扱いである。また、そもそも十分な装備を有する独立した沿岸警備隊を持つ国は日本(海上保安庁)、韓国(海洋警察庁)、中国(海警局)、米国など少数である。英国のように海軍がその業務を担う国やブラジルの様に沿岸警備隊が海軍の一部隊に過ぎない国も多い。 軍人はその軍隊における階級によって大きく以下のように大別される。 軍人は戦争という国家の緊急事態において、場合によっては負傷、死の危険もある最前線に出て職務を遂行することが求められる。その業務の性質上、「無制限の責任」を負うことが求められる。ゆえに軍人は緊急事態において生命の危機を賭してでも職務に当たることが必要である。交戦においても、その行動には交戦規定によって制約される。また、平時においても、緊急事態に速やかに対応出来るように居住可能な地域を限定され、秘密保守や品位の維持なども、その職業の性質上求められる重要な責任である。 軍人の制度として、国民にある一定期間軍隊に入ることを義務化する徴兵制と、募集を行い志願者を募る志願制がある。 国民国家の成立期や総力戦である世界大戦の時代においては徴兵制が広く採用されていた。安全保障上、また軍事地理的に危険度の高い地理に位置する国家では現在でも徴兵制が行われている場合が多い。ただし、徴兵制といえどもその内容は国によって千差万別であり、兵員削減中で志願者のみで定員を充足していたり(中華人民共和国など)、良心的兵役拒否が認められて合法的な代替役務制度が確立されて、実質的に志願兵制と変わらない国が多い(北欧諸国など)。一方、国民皆兵に近い厳格な制度を採る国は現在では北朝鮮、韓国、イスラエル、トルコなど少数に留まる。また比較的に安全な地理的環境にあり、また軍事的な緊張が高まっていない国家では志願制が採られる傾向が認められる。志願者の多くは職業軍人とも呼ばれ、安定した雇用や高給取りを目指す若者にとっては人生の跳躍台としての希望も多い。 徴兵・志願いずれも、基準に満たない者は不採用となる。義務である徴兵制の場合は不平感の原因となり、しばしば免除者への非難につながる。 軍人が受ける教育訓練(軍事教育、軍事訓練)は、個人及び部隊の軍事的な能力を向上させるためのものであり、その内容は階級によって大きく異なる。現場で行動する兵卒や下士官が学ぶべき事項としては基本教練、銃器の分解結合、格闘や射撃などの戦闘技術、通信技術や野外衛生などが挙げられる。 また部隊を指揮する士官の学ぶべき事項としては前述した基本教練などに加えて、戦術学や戦史などの軍事学がある。軍事学以外の学科は普通学と呼ばれ、重要なものとして物理学や数学など理科系の自然科学が挙げられる。
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軍人は、軍隊の構成員。
{{出典の明記|date=2015年11月10日 (火) 07:31 (UTC)}} [[ファイル:IJA troops in Manchuria.jpg|275px|thumb|[[大日本帝国陸軍]]の軍人と[[軍旗]]。[[1931年]](昭和6年)撮影。]] '''軍人'''(ぐんじん、[[英語|英]]: Military Personnel、[[ラテン語|羅]]: miles ミーレス)は、[[軍隊]]の構成員。 == 定義 == 当該[[国家]]の正規の[[軍隊|軍事組織]]に所属し、正規の[[軍事訓練]]を受け、国家により認められた[[軍隊の階級|階級]]を与えられた者を指す。軍人は[[国際法]]上、敵対勢力を破壊する権利([[交戦権]]。但し交戦権なる用語は主に日本でのみ使用される)を持つ<ref>[http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2010/2010/html/m2122500.html 交戦権] 2010年度防衛白書</ref>。また、敵対勢力に[[投降]]した場合には、'''[[捕虜]]'''として[[基本的人権]]が保障される。 '''[[文民]]'''(シビリアン、文官とは異なる)や'''[[民間人]]'''の対義語として用いられる。'''[[軍属]]'''は原則として、'''[[文官]]'''([[雇員]]・[[傭人]]等を含む)であり軍人とは異なる。 軍人としての籍を'''[[兵籍]]'''、'''[[軍籍]]'''などといい、軍人としての履歴を'''軍歴'''という。 また、[[武官]]は軍人のうち、[[官吏]]でもある[[職業軍人]]を指し、[[徴兵制度|徴兵]]された者は含まない。なお、自衛隊は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた[[日本国憲法第九条]]に従い、自衛のための必要最低限の[[実力組織]]と定義されている<ref>[https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/kihon02.html 防衛省・自衛隊 憲法と自衛権、保持できる自衛権]</ref>が、[[中山太郎]][[外務大臣 (日本)|外相]]が国会答弁で「自衛隊は、憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の厳しい制約を課せられております。通常の観念で考えられます軍隊ではありませんが、国際法上は軍隊として取り扱われておりまして、[[自衛官]]は軍隊の構成員に該当いたします<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=111905254X00419901018&page=1&spkNum=0&current=-1 平成2年10月18日第119回臨時国会衆議院本会議] における中山太郎外務大臣答弁。</ref>」と述べているように、'''国際法上は[[自衛官]]は軍人として扱われる'''。 == 歴史 == === 西洋 === [[ファイル:David - Napoleon crossing the Alps - Malmaison1.jpg|サムネイル|[[ナポレオン・ボナパルト]]。[[国民軍]]創設の先駆け。]] [[西洋史]]上、近代以前においては(たとえば[[日本]]では「軍人」を「いくさびと」と訓じるように)ミーレスは戦闘を行う者を幅広く指していた。[[封建制]]の下では、[[兵]]と住民の区別、また士官と[[騎士]]・[[貴族]]・[[官僚]]の区別は基本的に存在しなかった。 [[絶対王政]]成立以降、国家の権力が中央に集められてゆき、貴族と土地、住民の関係が分断されることによって、軍事のみに関わる貴族([[軍事貴族]])等が出現し、王の軍隊として編成されていった。 その後、[[国民国家]]の成立や[[市民革命]]を経て、軍隊の性質が'''[[国民軍]]'''に変化し、近代的軍人が成立した。その代表格が[[グランダルメ]](大陸軍)を率いた[[ナポレオン]]であり、[[プロイセン陸軍]]を改革した[[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト|シャルンホルスト]]である。ただし、現在でも少なくとも名目上は「王の軍隊」としての性質が色濃い近代軍も存在する。例えば、[[英軍]]は「国王陛下/女王陛下の軍隊」([[英語|英]]: His/Her Majesty's Armed Forces)、「王冠<ref group="注">英語には男女共通の「王」呼称が基本的に存在しない(kingは男性を指す)ため、クラウン即ち「王冠」に「王」の意味が込められている。</ref>の軍隊」([[英語|英]]: Armed Forces of the Crown)である。 === 日本 === 日本では[[明治維新]]以降、既存の[[武士]]([[侍]])とは異なる位置づけの近代的軍人が成立し、今日の自衛官まで引き継がれている。 ただし、草創期の帝国陸海軍の高級軍人の殆どは旧武士層の出身であり、例えば陸軍の[[山県有朋]]は長州藩士、海軍の[[東郷平八郎]]は薩摩藩士である。 また、[[幕府陸軍]]、[[幕府海軍]]は近代軍と見做される。 == 分類 == === 軍種による分類 === 陸海空軍の三軍種([[英語|英]]: tri-service)の他、[[海兵隊]]([[海軍陸戦隊]])、[[国家憲兵隊]]、[[沿岸警備隊]]、[[宇宙軍]]等が存在する。 * '''[[陸軍軍人]]'''([[英語|英]]: soldier<ref group="注">[[英語]]のsoldierは通常陸軍軍人のみを指す。</ref>) * '''[[海軍軍人]]'''([[英語|英]]: sailor/seaman<ref group="注">狭義には水兵の意。商船の[[船員]]も「sailor/seaman」と呼ぶ。</ref>) * '''[[空軍軍人]]'''([[英語|英]]: airman<ref group="注">狭義には飛行兵、航空兵の意。ほか、陸海軍の飛行兵、航空兵なども指すことがある。</ref>) * '''[[海兵隊員]]'''/[[陸戦隊員|'''海軍陸戦隊員''']]([[英語|英]]: marine<ref group="注">本来は海軍の陸上戦闘部隊であるため、「海」を意味する「marine」と呼ばれる。</ref>) * [[国家憲兵|'''国家憲兵隊員''']]([[英語|英]]: gendarmerie) * '''[[沿岸警備隊員]]'''([[英語|英]]: coast guard) なお、[[沿岸警備隊員]]は、米国等では軍人(武官組織)扱いだが、例えば日本の[[海上保安官]]は[[警察官]]扱いである。また、そもそも十分な装備を有する独立した沿岸警備隊を持つ国は日本([[海上保安庁]])、韓国([[海洋警察庁]])、中国([[中国海警局|海警局]])、米国など少数である。英国のように海軍がその業務を担う国やブラジルの様に沿岸警備隊が海軍の一部隊に過ぎない国も多い。 === 役種による分類 === {{Main|役種}} * '''現役'''([[英語|英]]: active duty) * '''[[予備役]]'''([[英語|英]]: reserve) * [[退役軍人|'''退役''']]([[英語|英]]: veteran) === 階級による分類 === 軍人はその軍隊における階級によって大きく以下のように大別される。 * '''[[士官]]'''/'''[[将校]]'''([[英語|英]]: (commissioned officer) ** [[将官]]([[英語|英]]: general officer, flag officer) *** [[将軍]]([[英語|英]]: general) - 陸軍等<ref group="注">他に[[空軍]]、[[海兵隊]]、[[国家憲兵隊]]など。</ref>の将官、狭義には大将([[英語|英]]: full general)。 *** [[提督]]([[英語|英]]: admiral) - 海軍等<ref group="注">他に[[沿岸警備隊]]など。</ref>の将官、狭義には大将([[英語|英]]: full admiral)。 ** [[佐官]]([[英語|英]]: senior officer) ** [[尉官]]([[英語|英]]: junior officer) * '''[[准士官]]'''([[英語|英]]: warrant officer、WO) * '''[[下士官]]'''([[英語|英]]: non-commissioned officer、NCO) * '''[[兵]]'''([[英語|英]]: enlisted<ref group="注">enlisted はアメリカでは日本の「兵」に対応し下士官を含まないが、他の多くの国では下士官まで含むのが普通である。</ref>) - 下士官の下に位置し、比較的に若い人材が2年程度の任期制で採用されることが多い。軍隊の末端にあたる。 == 責任 == 軍人は[[戦争]]という国家の[[緊急事態]]において、場合によっては[[負傷]]、[[死]]の危険もある最前線に出て職務を遂行することが求められる。その業務の性質上、「無制限の責任」を負うことが求められる。ゆえに軍人は緊急事態において生命の危機を賭してでも職務に当たることが必要である。[[交戦]]においても、その行動には[[交戦規定]]によって制約される。また、平時においても、緊急事態に速やかに対応出来るように居住可能な地域を限定され、[[守秘義務|秘密保守]]や品位の維持なども、その職業の性質上求められる重要な責任である。 == 制度 == 軍人の制度として、国民にある一定期間軍隊に入ることを義務化する[[徴兵制度|'''徴兵制''']]と、募集を行い志願者を募る[[志願制度|'''志願制''']]がある。 国民国家の成立期や[[総力戦]]である[[世界大戦]]の時代においては徴兵制が広く採用されていた。[[安全保障]]上、また軍事地理的に危険度の高い地理に位置する国家では現在でも徴兵制が行われている場合が多い。ただし、徴兵制といえどもその内容は国によって千差万別であり、兵員削減中で志願者のみで定員を充足していたり([[中華人民共和国]]など)、[[良心的兵役拒否]]が認められて合法的な代替役務制度が確立されて、実質的に志願兵制と変わらない国が多い([[北欧諸国]]など)。一方、[[国民皆兵]]に近い厳格な制度を採る国は現在では[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[大韓民国|韓国]]、[[イスラエル]]、[[トルコ]]など少数に留まる。また比較的に安全な地理的環境にあり、また軍事的な緊張が高まっていない国家では志願制が採られる傾向が認められる。志願者の多くは'''[[職業軍人]]'''とも呼ばれ、安定した雇用や高給取りを目指す若者にとっては人生の跳躍台としての希望も多い。 徴兵・志願いずれも、基準に満たない者は不採用となる。義務である徴兵制の場合は不平感の原因となり、しばしば免除者への非難につながる。 == 教育訓練 == 軍人が受ける教育訓練([[軍事教育]]、[[軍事訓練]])は、個人及び[[部隊]]の軍事的な能力を向上させるためのものであり、その内容は階級によって大きく異なる。現場で行動する兵卒や下士官が学ぶべき事項としては[[基本教練]]、[[銃|銃器]]の分解結合、[[近接格闘術|格闘]]や[[射撃]]などの[[戦闘技術]]、通信技術や野外衛生などが挙げられる。 また部隊を[[指揮 (軍事)|指揮]]する士官の学ぶべき事項としては前述した基本教練などに加えて、戦術学や戦史などの'''[[軍事学]]'''がある。軍事学以外の学科は'''普通学'''と呼ばれ、重要なものとして[[物理学]]や[[数学]]など理科系の[[自然科学]]が挙げられる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Military people|軍隊の人々}} {{Wiktionary}} * [[軍事指揮官の一覧]] * [[世界各国の国防大臣一覧]] * [[軍事的リーダーシップ]] * [[自衛官]] * [[傷痍軍人]] - 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ウルトラマン
『ウルトラマン』は、1966年7月17日から1967年4月9日まで、TBS系列で毎週日曜19:00 - 19:30(JST)に全39話が放送された、TBS・円谷プロダクション制作の特撮テレビドラマ、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローの名称である。 武田薬品の一社提供枠「タケダアワー」内で放送。TBSにて最初にカラーで放送された特撮テレビ番組でもある。『ウルトラQ』放送中の1966年4月1日に、初めてマスコミに公開された。 本作品はテレビドラマ(以下、テレビシリーズ)の他、漫画や劇場用映画、小説、テレビゲームなどでメディア展開も行われているが、本項目ではテレビシリーズを中心に記述する。また、本作品に続いて放送された一連の番組、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローも「ウルトラマン」と総称される場合があり、便宜上これら後続作品のヒーローと区別するため、本作品に登場するウルトラマンを「初代ウルトラマン」と呼ぶ場合もある。種族としてのウルトラマンについては#ウルトラマンを参照。 本作品は、怪獣や宇宙人によって起こされる災害や超常現象の解決に当たる科学特捜隊と、それに協力するM78星雲光の国の宇宙警備隊員であるウルトラマンの活躍劇である。作中に登場する怪獣が好評だった『ウルトラQ』に続く「空想特撮シリーズ」の第2作として、『ウルトラQ』の世界観を継承する番組として制作・放映された。オープニングタイトルの流れはカラー化された『ウルトラQ』のタイトルロゴ映像から赤画面になり、上に『ウルトラマン』、下に「空想特撮シリーズ」とクレジットされる。 番組フォーマットは、タケダアワーのOP→タイトル画面→CM→OPテーマ→本編(途中でCMを挟まずラストまで放送)の順番で、本編開始の画面下には『カラー』のマークがあった。 テレビシリーズがスタートするや否や『ウルトラQ』を凌ぐ人気番組となり、本放送時の第1話の視聴率は34.4%、平均視聴率は36.8%、最高視聴率は42.8%(1967年3月26日放送の第37話。ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録。テレビシリーズの放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録した。海外でも1970年代から100を超える国・地域で放映されてきた。 テレビシリーズ初放映から半世紀以上が経過した今日も世代を問わず高い認知度を誇り、『決定! これが日本のベスト100』(テレビ朝日系列)の2002年9月8日放送分「特撮&アニメ ヒーロー&ヒロインベスト100」の第2位にランクインしている。固有名詞としての「ウルトラマン」は、『広辞苑』の見出しにも記載されている。また、第39話(最終回)でウルトラマンがゼットンに倒されたシーンは、初放映当時の子供たちに少なからぬ衝撃を与え、影響を受けたと語る著名人も多い。前田日明は「ウルトラマンの敵(かたき)を討ってやる!」と、格闘技を始めたきっかけになったことを語っている。 商業的にも成功を収め、本作品やそのキャラクターに関連する商品は玩具だけでなく、生活用品などあらゆる分野で発売されている。商業的側面から本作品で特筆すべき点は、日本のテレビ番組で初めて商品化権の入札制度を導入したことである。本作品が制作される以前は、テレビ局の担当者とコネがある業者が商品化権を取得していたが、本作品で前述の制度が導入されて以降は金のあるものから優先的に商品化権取得の機会が与えられるようになった。もっとも、実際のところは『ウルトラQ』を商品化したマルサン商店などの業者が優遇されており、本格的に入札制度が機能するのは『キャプテンウルトラ』以降である。 科学特捜隊のハヤタ隊員は小型ビートルで青い球体と赤い球体を追跡するが、赤い球体と衝突したうえに墜落死してしまう。 赤い球体の正体はウルトラマンだった。M78星雲人の彼は、宇宙の墓場への護送中に逃亡した宇宙怪獣ベムラー(青い球体の正体)を追って地球までやって来た。そして、自分の不注意でハヤタを死なせたことに対する罪の意識からウルトラマンは、ハヤタに自分の命を分け与えて地球の平和を守るために戦うことを決意。こうして、ウルトラマンとハヤタは一心同体となった。 以後、ハヤタはベーターカプセルを点火させてウルトラマンに変身し、怪獣や宇宙人と戦う。 ドラマのクライマックスで登場し、怪獣や宇宙人と戦う巨人。その正体はM78星雲光の国出身の宇宙人である。宇宙警備隊員として、怪獣墓場に護送中に逃走した宇宙怪獣ベムラーを追跡して地球を訪れ、誤って死なせてしまった科学特捜隊のハヤタ隊員に自分の命を共有して一心同体となり、地球の平和を守るために戦うことを決意する。 普段はハヤタの姿で行動するが、有事の際にはベーターカプセルを点火させてウルトラマンに変身し、怪獣や宇宙人と戦う。 ごく一部の例外を除き、原則として地球人とは会話せず、感情などは動きだけで表現し、「シュワッチ」あるいは「シュワッ」などと表記される数種の掛け声のみを発することがほとんどである。 ウルトラマンのプロフィールは、作中では語られていないが、雑誌記事などでは詳細に紹介されている。 ハヤタがウルトラマンに変身する際に使用するアイテム。第1話でハヤタがウルトラマンと一体化する際に、ウルトラマンから託される。 カプセル内部には超小型プラズマスパーク核融合装置とベーターコントローラーが内蔵されている。これがないと、ハヤタはウルトラマンには変身できず、常に隊員服の内ポケットに携帯しているが、何度かカプセルを落とすシーンもある。ウルトラマンでいる時もどこかに携帯しているらしく、第26話ではゴモラとの格闘中に落としたのを現場にいた子供に拾われる。 第39話ではウルトラマンを迎えに来たゾフィーが、自ら持ってきたベーターカプセルを使ってハヤタに命を与えると同時に、ハヤタとウルトラマンを分離させる。 映画『大決戦!超ウルトラ8兄弟』では別次元のハヤタが、自身をウルトラマンと気が付いた際にハヤタの右手に実体化する。 『帰ってきたウルトラマン』の原型となる『続ウルトラマン』では、ウルトラマンと一体化したバン・ヒデキの変身アイテムとして登場予定だった。 近年は玩具などで「ベータカプセル」とする記述が増えている。 ハヤタがベーターカプセルの赤いスイッチを押すと、閃光と共に光のエネルギー、ベーター線が発光部から放射し、ハヤタの周りを渦巻き状に包み込んでウルトラマンに変身する。変身・巨大化時のポーズは「右手を宙空に突き上げ、左手は顔の隣に置く」という独特の形であり、ウルトラマンを特徴づけるポーズとして以降の作品でもほぼ踏襲されている。 書籍設定では、フラッシュビームにM78星雲人の生命の源である人工太陽プラズマスパークと同じエネルギーが含まれ、この光によって元の姿を一定時間取り戻すことができるとされている。 ウルトラマンは様々な特殊能力や格闘術を持っている。作中で名称が明言されたのは「スペシウム光線」と「テレポーテーション」のみで、その他の名称は書籍や年代によってばらつきがあったが、後年には円谷プロにより統一されている。技の一部は後のウルトラマンたちにも継承されている。 ウルトラマンの活動時間は「3分間」と視聴者に認知されているが、本作品の作中およびシナリオにおいて3分間と言及されているわけではない。作中で「ウルトラマンのエネルギーは3分間しか続かない」と初めて明言されたのは、『帰ってきたウルトラマン』の第1話である。 TBS番組宣伝課発行の「ウルトラマンあらすじ集」には「ウルトラマンの持続時間は胸に点滅するカラータイマーのランプの色と警告ブザーが示す。最初は青色で3分間、途中黄色に変わった時が注意信号で、赤色になるとあと30秒で全ての力を失う危険信号になっている」と記述されているが、これは仮タイトル時の2月15日にTBS第一会議室で作成された「レッドマン最終申し合わせ事項」をほぼそのまま引用したもの。放映直前の「週刊TVガイド」1966年6月24日号では、「ウルトラマンの胸に赤ランプがつくと、彼の超能力もあと30秒で消滅するのだ!」と、青の具体的な持続時間および黄色の注意信号の件が省略され、続く「ジュニアTBSニュース号外」では「ウルトラマンの胸に赤ランプがつきブザーが鳴るのは、もうすぐエネルギーがゼロになるという警告である」と、ラスト30秒の件までが省略されて完成作品におけるナレーションに近いものになっている。ただし第7話には「あと30秒だ」というイデ隊員のセリフがあり、当初の基本設定が踏襲されている。 これら初期の設定を、大伴昌司が『少年マガジン』誌上で簡略化のうえ「3分間」と紹介したものを、円谷特技プロが後から公認したとされる。 なぜ制限が3分間であるかについて、円谷プロの満田かずほ監督は、多額の予算を必要とする特撮・格闘シーンを30分番組の1割に当たる3分間に収めるという約束事がなされたためと語っている。また、当時の人気格闘技ボクシングにおける1ラウンドの試合時間、長嶋茂雄の背番号などからヒントを得たとしている。 撮影費用のかかる特撮部分の経費削減と、ウルトラマンが完全無欠のヒーローでありすぎると話に面白みが欠けるので、子供にも分かりやすい弱点を作ることが目的とされ、当初のデザインでは存在していなかったカラータイマーと変身時間の制限が導入されたといわれている。カラータイマーの点滅については、当時の主流だった白黒テレビを考慮しての面が大きい。 カラータイマーはデザイン上の要請とは無関係に後の企画会議で考案されたものであり、デザイナーの成田亨は「ロボットになってしまう」とこれを嫌い、自身が作成したウルトラマンの絵画や塑像にはカラータイマーをつけていないことも多い。また、ウルトラマンの変身・巨大化時の右手を宙空に突き上げたポーズの人形にはカラータイマーがついていないが、ウルトラマンに不可欠なデザイン上の特徴として以後のウルトラシリーズに継承され、他の類似作品にも大きな影響を与えた。成田は、『ウルトラセブン』のデザイン時にこのことを見越してウルトラセブンの額に小さなランプをあらかじめ盛り込んでおり、実際にシリーズ中盤から活動限界を知らせる機能が追加されている。 撮影に用いられた実物は、3ミリの透明板をヒートプレスして透明エポキシ樹脂で点モールドが置かれ、中には青と赤のセロファンが入っている。 作中では、第1話でハヤタは当初巨大宇宙人のことを「彼」と呼び「名なんて無いよ」と言っていたが、イデ隊員に「名無しの権兵衛なんてあるもんか」と言われたためその場で「ウルトラマン」と命名した。この時のハヤタはウルトラマンと一心同体になっていたため、ウルトラマンが自称したと解釈することも可能であるが、この命名がハヤタの意思なのかウルトラマンの意思なのか、作中で明示されたことはない。その後、敵対する宇宙人やゾフィーからも「ウルトラマン」と呼ばれている。 『ウルトラマンメビウス』第1話ではウルトラの父が「あの星(地球)では我々をそう呼ぶ」と語っている。 映像作品以外で「ウルトラマン」の名前のルーツが明示されることもあり、『小説 ウルトラマン』ではアラシの「ウルトラに強かった」と評するセリフから、漫画『ウルトラマン THE FIRST』では「ウルトラ作戦第一号の協力者」という着想からそれぞれハヤタが名付けている。 ウルトラマンのデザインは、『ウルトラQ』でも怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを手がけた彫刻家の成田亨が担当。仕上げの最終段階で平面上の作業に見切りをつけたため、デザイン画の決定稿は存在しない。成田の指示のもと、美術スタッフの佐々木明が粘土による造型作業を繰り返す中で、マスクと身体の模様が完成した。成田のデザインイメージでは、ウルトラマンはマットなシルバー塗装ではなく、メッキ加工による銀であったという。ウルトラマンでは実現しなかったが、後に成田が美術を担当する『突撃! ヒューマン!!』において、主役ヒーローのステンレス製マスクで結実した。 雛型とスーツ、マスクの製作は佐々木明が担当。 造形は、演技者の古谷敏の体型を採寸してライフマスクを取って完全に古谷専用として作られており、他の演技者が着用することは考慮されていない。古谷の体型が八頭身であることから、マスクを着けることで成田が人体の美の理想とする七頭身になるとしている。 撮影での傷みによる作り直しと改良・修正の意味も併せて、2度大きなモデルチェンジが行われている。これはAタイプ(第13話まで)、Bタイプ(第14 - 29話)、Cタイプ(第30話以降)と呼ばれて区別されている。 第2期ウルトラシリーズでは特別視されていたため、単独で客演したことはなかった。だが、平成以降は単独での客演が多くなる。『メビウス』以降の作品では、ウルトラ兄弟の中でも伝説的存在とされる「ウルトラ6兄弟」の1人にカウントされている。 テレビシリーズの終了後、本作品の流れをくむ作品群「ウルトラシリーズ」が制作され、各作品のヒーローは「ウルトラマン」と総称されるようになった。その後、作中世界においても、『ウルトラマンメビウス』の物語冒頭でウルトラの父がメビウスに対し「地球人が光の国の戦士たちを「ウルトラマン」と呼ぶ」と語っており、彼らの総称として「ウルトラマン」という名称が定着していることが物語にも反映された。 その姿は基本的にFRP製のマスクとウェットスーツをベースにしたスーツで造形され、銀と赤を基調としたデザインや、胸部の発光器などの特徴がある。しかし、それぞれの要素に例外が多く、全員の共通項を示すのは難しい。 当初はM78星雲光の国と呼ばれる特定の星の出身と設定されていたが、シリーズが続くにつれてウルトラマンレオやジョーニアス、ウルトラマンオーブなどM78星雲出身でないウルトラマンや、ウルトラマンガイアのように宇宙人でないウルトラマンも登場し、出自の設定も多彩になっている。 詳細はウルトラシリーズの各作品およびウルトラマン一覧を参照。 隊員の名前はカタカナ表記のみで、フジ・アキコとホシノ・イサム以外のメンバーには名字しか設定されていなかったが、1996年公開の映画『甦れ!ウルトラマン』で全隊員のフルネームと漢字表記が追加設定された。年齢は、TBS番宣課が発行した「ウルトラマンあらすじ集」第一集に基づく。 国際科学警察機構の下部組織で、正式名称は科学特別捜査隊()。略称は科特隊()。通常の警察組織では対処できない怪事件や異変の調査、地球を他惑星の侵略者からの防衛が主な任務である。基本的には怪事件調査のための組織で、怪獣との戦闘は特別任務である。パリに本部があり、作中ではインドやボリビア、ニューヨーク、中近東などの支部について言及され、他にもブラジル、ロンドン、モスクワ、トルコ、そして日本に支部を置く。外部から本部へは交換手を介しての通話が可能で、緊急連絡時の直通番号は999。英語表記はSSSP(Science Special Search Party・通称スリーエスピー)である。設定ではパリ本部の長官はスイス人のF・G・ピースであるとされている。 日本(極東)支部の隊員で作品中に登場するのは5名で、ムラマツ隊長以下副隊長格のハヤタ隊員、アラシ隊員、イデ隊員、フジ・アキコ隊員。途中からホシノ少年も準隊員になり、ピグモンにも特別隊員の称号が贈られる(第37話)。パリ本部やインド支部の隊員が訪れることもある(第7話、22話、23話、31話、32話)。 ムラマツ隊長以下のムラマツ班の他にも、『ウルトラマンメビウス』には宇宙での任務を目的としたサコミズ班が登場するほか、設定上はミナト班やヤマト班などが存在しており、金城哲夫の小説では100人以上の隊員がいると設定されている。また、漫画『ウルトラマン 科特隊奮戦記 ジャイアント作戦』には、電波班・分析班・技術班などのほか、科特隊日本支部上層部の人間としてサイゴウ総司令、ミヤジマ副司令が登場する。 設定では、『ウルトラQ』に登場した一ノ谷博士らが中心となって日本支部を設立したとされ、『ウルトラQ』と本作品の間の出来事を描いた円谷プロ公認のPCゲーム『ウルトラ作戦 科特隊出動せよ!』では、ウルトラマンが現れる以前から怪獣と戦っており、創設者の一ノ谷博士も最初はメンバーに入っていたが第1話「科特隊日本支部誕生」の六角村での核露怪獣ゴルドキング迎撃作戦時に重傷を負い、第一線から退いている。第31話のムラマツキャップの話によると、少なくとも20年は歴史がある。 ビデオ『ウルトラマンのすべて!』(バンダイビジュアル)では科学特捜隊が創設されることになった理由として『ウルトラQ』に登場したゴメス、ゴロー、ペギラ、ガラモンの映像を見せている。 本来は戦闘よりも調査に重点を置いた組織として描かれているが、科特隊が独力で倒す怪獣も多く(科特隊がいなければ、ウルトラマンが倒されていたかもしれないケースもある)、その数は歴代の防衛チームで最多である。 東京近郊(城西方面)に位置し、スロープに囲まれた五面体型で銀色の建造物と五面体型で黒色の建造物を組み合わせた「本部」と呼ばれる支部、効率的に配置されたジェットビートルの発着ポートなどの付属建造物で構成されている。本部の外壁は、あらゆる光線や熱線を遮る特殊な合金を加えた鉄筋コンクリート製。基地内部には、隊員たちが勤務する地下に大型電子頭脳が装備された司令室をはじめ、司令室の上階とポールで繋がる隊員寝室や、ホテル並みの環境が整った来客用のレスト・ルーム、回収された遺留品を研究する保管室に、新装備開発のための作業室などが置かれ、基地周囲には、自動消火装置や鉄壁も設置されている。 24時間体制で隊員と守衛が常駐して備えている。 第17話で、ブルトンが生み出した四次元空間に包まれ、第31話ではゴトウに化けたケロニアに侵入されるなど、襲撃を受けることも少なくない。また最終回では、ゼットン星人に侵入されて内部を破壊され、ゼットンの火球攻撃を受けて火災が発生する。 第38話と最終回である第39話では、司令室の大型電子頭脳以外に様々なレーダー機や計測器といったコンソールシステムが導入されている。 『ULTRAMAN』の世界では表向き解体されており、日本支部はウルトラマンの軌跡、活躍を展示した「光の巨人記念館」となっている。 科学特捜隊は数々の特殊装備を持ち、状況に応じて運用している。装備の開発は主に科学センター所属の岩本博士とイデ隊員が行っている。 通常任務や非番の際は威圧感を与えないために青いブレザーとライトブラウンのスラックスとネクタイ(フジ隊員はスカート)、白いワイシャツを着用している。作戦出動時の戦闘服はオレンジ色で、オレンジ色のネクタイ、黒いブーツとグローブをつける。肩から背中はセーラー服のような処理がされており、ワイシャツのようにもなっている。耐寒・耐熱性が高く、宇宙空間では簡易宇宙服の機能も持つ。ネクタイピンのオートジャイロは放射能や電磁波を感知してランプが点滅する危険探知機である。また、設定のみではあるが、小型カメラがベルトのバックルにある。左胸のスリットに収納するためのチャックがあるが、ハヤタのみの仕様である。 普段着ている青いブレザーの下に出動時のユニフォームを身に着けており、着替えを必要としないのも、本作品だけの設定である。また、簡単な調査活動や一般市民への聞き込み、他の支部から来た隊員の出迎えなどの場合には、ブレザーのままで出る(第3話、22話、28話、31話、32話)。 本作品には科特隊とは別に、通常の防衛組織が怪獣や宇宙人との戦闘に参加している。その呼称は防衛隊(軍)とされたり自衛隊とされたりしているが、明確な区別はない。また、東宝特撮映画に登場した架空兵器のプロップが流用されていることが多いのも特徴である。 防衛隊(軍)は第2・11・15話に登場する。戦力としては放映当時の自衛隊が装備していた61式戦車、M4中戦車(M4シャーマン)などの他、架空兵器である火炎放射戦車、メーサー殺獣光線車、熱線砲車などがある。火炎放射戦車はオリジナルの装軌式車両の上部に旋回式の火炎放射器を装備した物で、第9話ではガボラ、第15話ではガヴァドンBに対して攻撃を行う他、第15話でもギャンゴに対して出動する。熱線砲車は『怪獣大戦争』(1965年、東宝)に登場したAサイクル光線車の牽引車をオミットし、本体から拡声器と照明塔を外したもので、第3話ではネロンガ、第11話ではギャンゴに対する攻撃に使われる。第3話ではAサイクル光線車のものと同じ見た目の光線を放つが、第11話では直線的な赤い光線に変わっている。その牽引車に本体から外した照明塔をつけて改造した照明車も、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年、東宝)で使われた後、第15話で使用され、ガヴァドンAを包囲する戦車群の中に見られる。メーサー殺獣光線車は、第11話で熱線砲車と共にギャンゴへの攻撃に向かう姿が確認できるが、その後の戦闘シーンは描かれておらず、こちらも牽引車は使われていない。また、第2話では本部と思われる防衛基地が登場。都心に現れたバルタン星人に対し、防衛基地の屋上に備え付けられたランチャーから新型核ミサイル「はげ鷹」を2発発射するが、小爆発を起こしただけでほとんど効果がない。 自衛隊は第4・26・27・34・39話に登場する。第4話で海上自衛隊の護衛艦がイデ隊員の提案でラゴンに音楽を聞かせる。第26・27話で伊丹市に駐屯している陸上自衛隊のロケットランチャー・トレーラーがゴモラを攻撃する。また第27話では61式戦車やM4などの実在兵器の他に、9連装の装輪式自走ロケット砲とおぼしき架空兵器が登場する。第34話では科特隊が怪獣風船化作戦で浮かび上がらせたスカイドンを航空自衛隊のF-86F戦闘機が誤って撃墜してしまった。航空自衛隊は第39話にも登場し、精鋭パイロットからなる戦闘機編隊がゼットン星人の円盤群迎撃のために出動して一部を撃墜するが、逆襲を受けて全滅する。同話では出撃シーンにはF-86Fが、戦闘シーンではF-104もしくはX-3に類似した形状の架空機が登場する。 上記以外にも防衛組織が敵を攻撃する場面のある話は多く存在する(第3・9・17 - 19・21・23・31 - 33話)。だがそれらの多くでは、その組織が防衛隊、自衛隊、あるいは機動隊のいずれに属するのかについて触れられていない。第18話では『モスラ』(1961年、東宝)に登場した装軌式ミサイル車両がにせウルトラマンを攻撃する。 この他の防衛組織としては、第22話に「国際宇宙開発軍」なる組織の名前が登場するが、その詳細については特に言及されていない。また、第25話には「地球防衛委員会」という組織が登場する。こちらは国際的な組織のようであり、彗星ツイフォンからの放射線による水爆の自然爆発を防止すべく、世界中の核保有国に対して水爆の安全性強化を命令する。『ウルトラマンレオ』第25話「かぶと虫は宇宙の侵略者!」にも同名の組織が登場するが、関連性については特に触れられていない。 当初、イデ隊員役には石川進がキャスティングされ、制作第1話の一部や番宣スチールの2日分の撮影に参加していたが、契約上の問題により降板し、東宝出身の二瓶がキャスティングされたという。そのため、第7話の脚本では「トレードマークのおでこから血が出るイデ隊員」という記述があった。 ※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』(講談社・2012年) ※全てノンクレジット、参考文献:『円谷プロ画報 第1巻』(竹書房・2013年) ※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』(講談社・2012年) ※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』(講談社・2012年) 本作品の企画が始動したのは、1965年8月ごろのことだった。当時、第2クールを制作中の『ウルトラQ』が日曜19時台にて翌年1月2日からスタートとほぼ決定したことも追い風となり、TBSプロデューサーの栫井 巍()と円谷特技プロ企画文芸部室長・金城哲夫が中心となってさまざまなアイデアが出されていった。TBSはかなり早い段階で、4つの条件を円谷特技プロに提示している。 会議の中では「主人公が怪獣では問題がある」という意見も強く、監修者の円谷英二からも「スーパーマンのようなヒーローを」との提案が出された。また、この時期に円谷が特技監督を担当した東宝特撮映画で、人間に味方する巨人と凶暴な怪獣が死闘を展開する『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965年・東宝)が公開されており、この映画も本作品の企画に少なからず影響を与えていると言われている。 ここでフジテレビ用に企画されていた番組『WoO』の「人間に味方する友好的宇宙人の活躍」というアイデアが流用され、『科学特捜隊ベムラー』というSF活劇の企画書が作成された。この企画書では、「本部をパリに置き、警察の手に負えない常識を越えた異変や怪事件を専門に調査する科学特捜隊の日本支部」と彼らに協力する正体不明の正義の宇宙人ベムラーが設定されている。「飛行機事故で消息を絶った主人公がヒーローになって生還する」という設定はこの時点ですでに見られるが、主人公とベムラーの関係は企画書には明記されていない。科学特捜隊のサコミズが変身することは決まっていたものの、あえて変身の描写はオミットされ、ベムラーの正体はぼかす方向性であったという。また、変身アイテムもなく、変身時に両腕を掲げ、忍術のようなポーズをとっていた。この時点では、平田昭彦と藤田進の配役が予定されていた指揮班があった。 渡辺明がデザインしたベムラーの容姿は日本の伝説上の生物・烏天狗を思わせる翼を持つスマートなもので、関係者から「敵怪獣との区別がつきにくい」や「ヒーローとしてのキャラクター性が弱い」との指摘があった。そこで『ベムラー』企画は再検討され、新たに『科学特捜隊レッドマン』が企画されることとなった。この企画書では、正義の怪獣ではなく「甲冑を思わせるような赤いコスチューム」をまとった謎のヒューマノイドタイプの宇宙人として設定されている。身長は2メートルから40メートルまで伸縮自在と設定されている。また、変身時間の制限も導入された。主人公とヒーローの関係についても「飛行機事故でサコミズを死なせた宇宙人レッドマンが責任を取ってサコミズの肉体を借りる」と明記され、後の完成作品におけるウルトラマンの設定の基本的な部分は完成していた。その一方、レッドマンは故郷がX星人の侵略で滅亡している遊星人であること、サコミズ本人はすでに死亡してその心はレッドマンであること、サコミズには人気歌手の恋人・由木ひかるがいることなど、完成作品との相違部分もある。 こうして成田亨が担当したレッドマンのデザインは火星の運河状のラインをもつスマートなボディで、幾分かヒーロー的になったものの、拵井はもっとシンプルでインパクトのあるメタリックカラーを基調としたデザインを要求した。また、前述のように本作品はアメリカへのセールスを前提としており、アメリカの事情に詳しいTBS編成局企画部の大谷乙彦らが海外輸出を考慮して「今の形では外国人には受け入れられない。もっと無表情な鉄仮面のようなものの方が謎があっていい」などと提案した。こうして試行錯誤した結果、生命感のある究極なる徹底した単純化を図ったレッドマンのデザインが完成した。成田は、デザインを描かずにマスクの原型を佐々木明に依頼したが、最後はアトリエに篭って一人で完成させた。 「ベムラー」の名は、第1話に登場する怪獣の名前として残された。脚本家の関沢新一は、円谷英二から企画の相談を受けた際に、自身が『ウルトラマン』という題名を言ったのかもしれないと述べている。 前作の『ウルトラQ』は放送前に全話の撮影を終了させていたが、本作品は放映と平行して制作する一般的なドラマのスタイルとなった。TBSから支給された予算は1クールにつき7000万円(1本約538万円)、本編のクランクインは1966年3月16日だった。 本作品は、ほぼ同時期に放映された『マグマ大使』とともにカラー放送による連続テレビ映画の草分けだったうえ、巨大な宇宙人を主人公とする大がかりな特撮中心のドラマは世界にも類例が存在しないため、番組制作は苦難の連続だった。 『ウルトラQ』では、円谷英二の「16mmのクォリティでは特撮はできない」との主張で劇場映画用と同じ35mmフィルムで撮影し、放映用フィルムとして16mmに縮小するという手法が採られた。この手法によりテレビ作品としては異例のクオリティを得られたが、フィルム代で予算が圧迫される問題が発生した。本作品では高価なカラーフィルムを使用することから、合成カットのみ35mm、それ以外は本編・特撮とも16mmとすることで、合成映像の不自然さを低減させつつコストダウンを図った。しかしカラー撮影のノウハウが少ないため、調整や取り直しなどで時間やフィルムを浪費することとなり、3月中旬まで飯島敏宏組の本編クランクインはずれ込んでしまう。 撮影では飯島敏宏監督によるAブロック(放映第2話、第5話、第3話)は本編・特撮を同一スタッフが手がける一斑編成で開始したが、カラーフィルムの入念なテスト(色彩設計や照明の光量など)やウルトラマンの着ぐるみの度重なる塗り直し(初期は、ラテックス製のマスクと未塗装の黒いウェットスーツを使用していた)などカラー撮影にまつわる細々とした対応の他、操演中のジェットビートルをホリゾントにぶつけて大破させるなどの事故も重なり撮影は遅々として進まず、野長瀬三摩地監督のBブロック(放映第7話、第4話、第6話、第9話)からは制作費的にも合理的な別班編成に変更された。Bブロックは円谷一監督によるCブロック(放映第1話と第8話)の本編シーンの撮影を優先したため、完成済みの第7話を除いて後回しにされた。第1話に先駆けて放映されたテレビ番組『ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生』のおかげで、なんとか無事に放映が始まったものの、スケジュールは次第に切迫し、特撮を2班編成にしてもその遅れは間に合わなくなってきた。円谷英二のダメ出しによる撮り直しだけでなく、スタジオと撮影機材のレンタル費、脚本費、俳優費、スタッフ費も大きな負担になっており、1本平均の直接制作費が450万~470万円になるなど予算・時間共に余裕の無い状況となっていた。ソフビ人形などのマーチャンダイジングの収益が、版権所有各社で莫大な版権使用料として分配されることで、円谷特技プロの運営はようやく安定していた。 そのため、番組の続行を望むTBS側とこれ以上の続行は不可能とする円谷特技プロとの間で協議が重ねられ、「赤字はともかく、週1回の放送に間に合わないのが確実になった」ために、1967年初頭に高視聴率を維持していながらも第4クール目の発注が断念され、3クール39話の放送で一旦終了することが決定した。 テレビシリーズの本放送当時は厳密な時代設定の統一は行われておらず、その当時の現実と未来とが混在している。 本放送当時にTBS番宣課が発行した「ウルトラマンあらすじ集」第一集と、『週刊少年マガジン』1966年31号(8月7日号)でのグラビアページの時代設定は、「1975年ごろ」という記載がある。スタッフの認識は近未来という程度で明確な合意はなく、第23話でジャミラの墓標に没年が1993年と記されていたり、第39話で「1930年代から40年以上」とのセリフがあるなど一定していない。 唯一の前後編である第26話・第27話は、作中で子供たちが怪獣の存在を否定していたり、子供のごっこ遊びでウルトラマンの変身方法が知られていたりと、現実世界寄りの演出がされている。また、第35話では延長工事途中の首都高速道路や日本で唯一の超高層ビルなど、放送当時の東京の景観がそのままミニチュアセットで再現されている。 『ウルトラマン』に続いて一連のシリーズ作品が制作・放映された。毎回、巨大ヒーローと怪事件処理専門チームが連携し、宇宙や異次元、地球のどこからか現れる怪獣や宇宙人たちと戦うというコンセプトの特撮番組で、子供たちから人気を博す。これらの作品は、「ウルトラシリーズ」や「ウルトラマンシリーズ」と呼ばれる。 本作品の音楽は、前作『ウルトラQ』に引き続き宮内國郎が担当した。メインタイトル映像のうち『ウルトラQ』のロゴを使った部分の曲は、『ウルトラQ』のメインタイトル曲(M-1T2)に本作品オリジナルの曲(タイトルT6)を被せたものである。第1話のハヤタ隊員とウルトラマンの出会いのシーンに『ウルトラQ』第28話「あけてくれ!」用の音楽が選曲されるなど、過去に宮内の書いた東宝特撮映画『ガス人間第一号』や『ウルトラQ』、『快獣ブースカ』の楽曲が流用されることも多い。 『ウルトラマン』自体の汎用BGM録音は3回行われた。「特捜隊のテーマ」など一部の曲は主題歌録音と同時にステレオで録音されたが、モノラルのコピーしか残存していない。また、実相寺昭雄が監督した第14・15・23話では追加録音が行われ、これらの楽曲は他のエピソードでも使用される。追加録音は最終回の第39話でも行われたが、これらの追加録音曲はいずれもテープの所在が確認されていない。 (TBS、1966年7月10日 19:00放送) 2016年7月9日・10日、『ウルトラマン』放送開始50年を記念して開催されたイベント。会場は『ウルトラマン誕生』と同じ杉並公会堂。この「ウルトラマンの日」は日本記念日協会公認の記念日とされており、当日は初代ウルトラマンを初めとする歴代ウルトラシリーズ出演者が当時のイベントを再現するとともに、ライブ、トークショーなどを展開。会場内ではウルトラシリーズのソフビやフィギュアなどを製作する各メーカーが集結した「『ウルトラマンの日』スペシャルホビーマーケット」も開催された。当日のステージの一部は2016年7月10日にTBSチャンネル1で生放送された。 不思議な映画館を舞台にした、4部作で再構成の4K版オムニバス映画。2023年12月1日公開の『円谷映画祭』Part2で第1部「生命のものがたり」を先行上映。 編集/制作は全てスタジオ・ハード。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『ウルトラマン』は、1966年7月17日から1967年4月9日まで、TBS系列で毎週日曜19:00 - 19:30(JST)に全39話が放送された、TBS・円谷プロダクション制作の特撮テレビドラマ、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローの名称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "武田薬品の一社提供枠「タケダアワー」内で放送。TBSにて最初にカラーで放送された特撮テレビ番組でもある。『ウルトラQ』放送中の1966年4月1日に、初めてマスコミに公開された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本作品はテレビドラマ(以下、テレビシリーズ)の他、漫画や劇場用映画、小説、テレビゲームなどでメディア展開も行われているが、本項目ではテレビシリーズを中心に記述する。また、本作品に続いて放送された一連の番組、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローも「ウルトラマン」と総称される場合があり、便宜上これら後続作品のヒーローと区別するため、本作品に登場するウルトラマンを「初代ウルトラマン」と呼ぶ場合もある。種族としてのウルトラマンについては#ウルトラマンを参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本作品は、怪獣や宇宙人によって起こされる災害や超常現象の解決に当たる科学特捜隊と、それに協力するM78星雲光の国の宇宙警備隊員であるウルトラマンの活躍劇である。作中に登場する怪獣が好評だった『ウルトラQ』に続く「空想特撮シリーズ」の第2作として、『ウルトラQ』の世界観を継承する番組として制作・放映された。オープニングタイトルの流れはカラー化された『ウルトラQ』のタイトルロゴ映像から赤画面になり、上に『ウルトラマン』、下に「空想特撮シリーズ」とクレジットされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "番組フォーマットは、タケダアワーのOP→タイトル画面→CM→OPテーマ→本編(途中でCMを挟まずラストまで放送)の順番で、本編開始の画面下には『カラー』のマークがあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "テレビシリーズがスタートするや否や『ウルトラQ』を凌ぐ人気番組となり、本放送時の第1話の視聴率は34.4%、平均視聴率は36.8%、最高視聴率は42.8%(1967年3月26日放送の第37話。ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録。テレビシリーズの放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録した。海外でも1970年代から100を超える国・地域で放映されてきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "テレビシリーズ初放映から半世紀以上が経過した今日も世代を問わず高い認知度を誇り、『決定! これが日本のベスト100』(テレビ朝日系列)の2002年9月8日放送分「特撮&アニメ ヒーロー&ヒロインベスト100」の第2位にランクインしている。固有名詞としての「ウルトラマン」は、『広辞苑』の見出しにも記載されている。また、第39話(最終回)でウルトラマンがゼットンに倒されたシーンは、初放映当時の子供たちに少なからぬ衝撃を与え、影響を受けたと語る著名人も多い。前田日明は「ウルトラマンの敵(かたき)を討ってやる!」と、格闘技を始めたきっかけになったことを語っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "商業的にも成功を収め、本作品やそのキャラクターに関連する商品は玩具だけでなく、生活用品などあらゆる分野で発売されている。商業的側面から本作品で特筆すべき点は、日本のテレビ番組で初めて商品化権の入札制度を導入したことである。本作品が制作される以前は、テレビ局の担当者とコネがある業者が商品化権を取得していたが、本作品で前述の制度が導入されて以降は金のあるものから優先的に商品化権取得の機会が与えられるようになった。もっとも、実際のところは『ウルトラQ』を商品化したマルサン商店などの業者が優遇されており、本格的に入札制度が機能するのは『キャプテンウルトラ』以降である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "科学特捜隊のハヤタ隊員は小型ビートルで青い球体と赤い球体を追跡するが、赤い球体と衝突したうえに墜落死してしまう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "赤い球体の正体はウルトラマンだった。M78星雲人の彼は、宇宙の墓場への護送中に逃亡した宇宙怪獣ベムラー(青い球体の正体)を追って地球までやって来た。そして、自分の不注意でハヤタを死なせたことに対する罪の意識からウルトラマンは、ハヤタに自分の命を分け与えて地球の平和を守るために戦うことを決意。こうして、ウルトラマンとハヤタは一心同体となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以後、ハヤタはベーターカプセルを点火させてウルトラマンに変身し、怪獣や宇宙人と戦う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ドラマのクライマックスで登場し、怪獣や宇宙人と戦う巨人。その正体はM78星雲光の国出身の宇宙人である。宇宙警備隊員として、怪獣墓場に護送中に逃走した宇宙怪獣ベムラーを追跡して地球を訪れ、誤って死なせてしまった科学特捜隊のハヤタ隊員に自分の命を共有して一心同体となり、地球の平和を守るために戦うことを決意する。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "普段はハヤタの姿で行動するが、有事の際にはベーターカプセルを点火させてウルトラマンに変身し、怪獣や宇宙人と戦う。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ごく一部の例外を除き、原則として地球人とは会話せず、感情などは動きだけで表現し、「シュワッチ」あるいは「シュワッ」などと表記される数種の掛け声のみを発することがほとんどである。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ウルトラマンのプロフィールは、作中では語られていないが、雑誌記事などでは詳細に紹介されている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ハヤタがウルトラマンに変身する際に使用するアイテム。第1話でハヤタがウルトラマンと一体化する際に、ウルトラマンから託される。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "カプセル内部には超小型プラズマスパーク核融合装置とベーターコントローラーが内蔵されている。これがないと、ハヤタはウルトラマンには変身できず、常に隊員服の内ポケットに携帯しているが、何度かカプセルを落とすシーンもある。ウルトラマンでいる時もどこかに携帯しているらしく、第26話ではゴモラとの格闘中に落としたのを現場にいた子供に拾われる。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第39話ではウルトラマンを迎えに来たゾフィーが、自ら持ってきたベーターカプセルを使ってハヤタに命を与えると同時に、ハヤタとウルトラマンを分離させる。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "映画『大決戦!超ウルトラ8兄弟』では別次元のハヤタが、自身をウルトラマンと気が付いた際にハヤタの右手に実体化する。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『帰ってきたウルトラマン』の原型となる『続ウルトラマン』では、ウルトラマンと一体化したバン・ヒデキの変身アイテムとして登場予定だった。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "近年は玩具などで「ベータカプセル」とする記述が増えている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ハヤタがベーターカプセルの赤いスイッチを押すと、閃光と共に光のエネルギー、ベーター線が発光部から放射し、ハヤタの周りを渦巻き状に包み込んでウルトラマンに変身する。変身・巨大化時のポーズは「右手を宙空に突き上げ、左手は顔の隣に置く」という独特の形であり、ウルトラマンを特徴づけるポーズとして以降の作品でもほぼ踏襲されている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "書籍設定では、フラッシュビームにM78星雲人の生命の源である人工太陽プラズマスパークと同じエネルギーが含まれ、この光によって元の姿を一定時間取り戻すことができるとされている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ウルトラマンは様々な特殊能力や格闘術を持っている。作中で名称が明言されたのは「スペシウム光線」と「テレポーテーション」のみで、その他の名称は書籍や年代によってばらつきがあったが、後年には円谷プロにより統一されている。技の一部は後のウルトラマンたちにも継承されている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ウルトラマンの活動時間は「3分間」と視聴者に認知されているが、本作品の作中およびシナリオにおいて3分間と言及されているわけではない。作中で「ウルトラマンのエネルギーは3分間しか続かない」と初めて明言されたのは、『帰ってきたウルトラマン』の第1話である。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "TBS番組宣伝課発行の「ウルトラマンあらすじ集」には「ウルトラマンの持続時間は胸に点滅するカラータイマーのランプの色と警告ブザーが示す。最初は青色で3分間、途中黄色に変わった時が注意信号で、赤色になるとあと30秒で全ての力を失う危険信号になっている」と記述されているが、これは仮タイトル時の2月15日にTBS第一会議室で作成された「レッドマン最終申し合わせ事項」をほぼそのまま引用したもの。放映直前の「週刊TVガイド」1966年6月24日号では、「ウルトラマンの胸に赤ランプがつくと、彼の超能力もあと30秒で消滅するのだ!」と、青の具体的な持続時間および黄色の注意信号の件が省略され、続く「ジュニアTBSニュース号外」では「ウルトラマンの胸に赤ランプがつきブザーが鳴るのは、もうすぐエネルギーがゼロになるという警告である」と、ラスト30秒の件までが省略されて完成作品におけるナレーションに近いものになっている。ただし第7話には「あと30秒だ」というイデ隊員のセリフがあり、当初の基本設定が踏襲されている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これら初期の設定を、大伴昌司が『少年マガジン』誌上で簡略化のうえ「3分間」と紹介したものを、円谷特技プロが後から公認したとされる。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なぜ制限が3分間であるかについて、円谷プロの満田かずほ監督は、多額の予算を必要とする特撮・格闘シーンを30分番組の1割に当たる3分間に収めるという約束事がなされたためと語っている。また、当時の人気格闘技ボクシングにおける1ラウンドの試合時間、長嶋茂雄の背番号などからヒントを得たとしている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "撮影費用のかかる特撮部分の経費削減と、ウルトラマンが完全無欠のヒーローでありすぎると話に面白みが欠けるので、子供にも分かりやすい弱点を作ることが目的とされ、当初のデザインでは存在していなかったカラータイマーと変身時間の制限が導入されたといわれている。カラータイマーの点滅については、当時の主流だった白黒テレビを考慮しての面が大きい。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "カラータイマーはデザイン上の要請とは無関係に後の企画会議で考案されたものであり、デザイナーの成田亨は「ロボットになってしまう」とこれを嫌い、自身が作成したウルトラマンの絵画や塑像にはカラータイマーをつけていないことも多い。また、ウルトラマンの変身・巨大化時の右手を宙空に突き上げたポーズの人形にはカラータイマーがついていないが、ウルトラマンに不可欠なデザイン上の特徴として以後のウルトラシリーズに継承され、他の類似作品にも大きな影響を与えた。成田は、『ウルトラセブン』のデザイン時にこのことを見越してウルトラセブンの額に小さなランプをあらかじめ盛り込んでおり、実際にシリーズ中盤から活動限界を知らせる機能が追加されている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "撮影に用いられた実物は、3ミリの透明板をヒートプレスして透明エポキシ樹脂で点モールドが置かれ、中には青と赤のセロファンが入っている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "作中では、第1話でハヤタは当初巨大宇宙人のことを「彼」と呼び「名なんて無いよ」と言っていたが、イデ隊員に「名無しの権兵衛なんてあるもんか」と言われたためその場で「ウルトラマン」と命名した。この時のハヤタはウルトラマンと一心同体になっていたため、ウルトラマンが自称したと解釈することも可能であるが、この命名がハヤタの意思なのかウルトラマンの意思なのか、作中で明示されたことはない。その後、敵対する宇宙人やゾフィーからも「ウルトラマン」と呼ばれている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンメビウス』第1話ではウルトラの父が「あの星(地球)では我々をそう呼ぶ」と語っている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "映像作品以外で「ウルトラマン」の名前のルーツが明示されることもあり、『小説 ウルトラマン』ではアラシの「ウルトラに強かった」と評するセリフから、漫画『ウルトラマン THE FIRST』では「ウルトラ作戦第一号の協力者」という着想からそれぞれハヤタが名付けている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ウルトラマンのデザインは、『ウルトラQ』でも怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを手がけた彫刻家の成田亨が担当。仕上げの最終段階で平面上の作業に見切りをつけたため、デザイン画の決定稿は存在しない。成田の指示のもと、美術スタッフの佐々木明が粘土による造型作業を繰り返す中で、マスクと身体の模様が完成した。成田のデザインイメージでは、ウルトラマンはマットなシルバー塗装ではなく、メッキ加工による銀であったという。ウルトラマンでは実現しなかったが、後に成田が美術を担当する『突撃! ヒューマン!!』において、主役ヒーローのステンレス製マスクで結実した。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "雛型とスーツ、マスクの製作は佐々木明が担当。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "造形は、演技者の古谷敏の体型を採寸してライフマスクを取って完全に古谷専用として作られており、他の演技者が着用することは考慮されていない。古谷の体型が八頭身であることから、マスクを着けることで成田が人体の美の理想とする七頭身になるとしている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "撮影での傷みによる作り直しと改良・修正の意味も併せて、2度大きなモデルチェンジが行われている。これはAタイプ(第13話まで)、Bタイプ(第14 - 29話)、Cタイプ(第30話以降)と呼ばれて区別されている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "第2期ウルトラシリーズでは特別視されていたため、単独で客演したことはなかった。だが、平成以降は単独での客演が多くなる。『メビウス』以降の作品では、ウルトラ兄弟の中でも伝説的存在とされる「ウルトラ6兄弟」の1人にカウントされている。", "title": "ウルトラマン" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "テレビシリーズの終了後、本作品の流れをくむ作品群「ウルトラシリーズ」が制作され、各作品のヒーローは「ウルトラマン」と総称されるようになった。その後、作中世界においても、『ウルトラマンメビウス』の物語冒頭でウルトラの父がメビウスに対し「地球人が光の国の戦士たちを「ウルトラマン」と呼ぶ」と語っており、彼らの総称として「ウルトラマン」という名称が定着していることが物語にも反映された。", "title": "総称としての「ウルトラマン」" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "その姿は基本的にFRP製のマスクとウェットスーツをベースにしたスーツで造形され、銀と赤を基調としたデザインや、胸部の発光器などの特徴がある。しかし、それぞれの要素に例外が多く、全員の共通項を示すのは難しい。", "title": "総称としての「ウルトラマン」" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "当初はM78星雲光の国と呼ばれる特定の星の出身と設定されていたが、シリーズが続くにつれてウルトラマンレオやジョーニアス、ウルトラマンオーブなどM78星雲出身でないウルトラマンや、ウルトラマンガイアのように宇宙人でないウルトラマンも登場し、出自の設定も多彩になっている。", "title": "総称としての「ウルトラマン」" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "詳細はウルトラシリーズの各作品およびウルトラマン一覧を参照。", "title": "総称としての「ウルトラマン」" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "隊員の名前はカタカナ表記のみで、フジ・アキコとホシノ・イサム以外のメンバーには名字しか設定されていなかったが、1996年公開の映画『甦れ!ウルトラマン』で全隊員のフルネームと漢字表記が追加設定された。年齢は、TBS番宣課が発行した「ウルトラマンあらすじ集」第一集に基づく。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "国際科学警察機構の下部組織で、正式名称は科学特別捜査隊()。略称は科特隊()。通常の警察組織では対処できない怪事件や異変の調査、地球を他惑星の侵略者からの防衛が主な任務である。基本的には怪事件調査のための組織で、怪獣との戦闘は特別任務である。パリに本部があり、作中ではインドやボリビア、ニューヨーク、中近東などの支部について言及され、他にもブラジル、ロンドン、モスクワ、トルコ、そして日本に支部を置く。外部から本部へは交換手を介しての通話が可能で、緊急連絡時の直通番号は999。英語表記はSSSP(Science Special Search Party・通称スリーエスピー)である。設定ではパリ本部の長官はスイス人のF・G・ピースであるとされている。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本(極東)支部の隊員で作品中に登場するのは5名で、ムラマツ隊長以下副隊長格のハヤタ隊員、アラシ隊員、イデ隊員、フジ・アキコ隊員。途中からホシノ少年も準隊員になり、ピグモンにも特別隊員の称号が贈られる(第37話)。パリ本部やインド支部の隊員が訪れることもある(第7話、22話、23話、31話、32話)。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ムラマツ隊長以下のムラマツ班の他にも、『ウルトラマンメビウス』には宇宙での任務を目的としたサコミズ班が登場するほか、設定上はミナト班やヤマト班などが存在しており、金城哲夫の小説では100人以上の隊員がいると設定されている。また、漫画『ウルトラマン 科特隊奮戦記 ジャイアント作戦』には、電波班・分析班・技術班などのほか、科特隊日本支部上層部の人間としてサイゴウ総司令、ミヤジマ副司令が登場する。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "設定では、『ウルトラQ』に登場した一ノ谷博士らが中心となって日本支部を設立したとされ、『ウルトラQ』と本作品の間の出来事を描いた円谷プロ公認のPCゲーム『ウルトラ作戦 科特隊出動せよ!』では、ウルトラマンが現れる以前から怪獣と戦っており、創設者の一ノ谷博士も最初はメンバーに入っていたが第1話「科特隊日本支部誕生」の六角村での核露怪獣ゴルドキング迎撃作戦時に重傷を負い、第一線から退いている。第31話のムラマツキャップの話によると、少なくとも20年は歴史がある。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ビデオ『ウルトラマンのすべて!』(バンダイビジュアル)では科学特捜隊が創設されることになった理由として『ウルトラQ』に登場したゴメス、ゴロー、ペギラ、ガラモンの映像を見せている。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "本来は戦闘よりも調査に重点を置いた組織として描かれているが、科特隊が独力で倒す怪獣も多く(科特隊がいなければ、ウルトラマンが倒されていたかもしれないケースもある)、その数は歴代の防衛チームで最多である。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "東京近郊(城西方面)に位置し、スロープに囲まれた五面体型で銀色の建造物と五面体型で黒色の建造物を組み合わせた「本部」と呼ばれる支部、効率的に配置されたジェットビートルの発着ポートなどの付属建造物で構成されている。本部の外壁は、あらゆる光線や熱線を遮る特殊な合金を加えた鉄筋コンクリート製。基地内部には、隊員たちが勤務する地下に大型電子頭脳が装備された司令室をはじめ、司令室の上階とポールで繋がる隊員寝室や、ホテル並みの環境が整った来客用のレスト・ルーム、回収された遺留品を研究する保管室に、新装備開発のための作業室などが置かれ、基地周囲には、自動消火装置や鉄壁も設置されている。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "24時間体制で隊員と守衛が常駐して備えている。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "第17話で、ブルトンが生み出した四次元空間に包まれ、第31話ではゴトウに化けたケロニアに侵入されるなど、襲撃を受けることも少なくない。また最終回では、ゼットン星人に侵入されて内部を破壊され、ゼットンの火球攻撃を受けて火災が発生する。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "第38話と最終回である第39話では、司令室の大型電子頭脳以外に様々なレーダー機や計測器といったコンソールシステムが導入されている。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "『ULTRAMAN』の世界では表向き解体されており、日本支部はウルトラマンの軌跡、活躍を展示した「光の巨人記念館」となっている。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "科学特捜隊は数々の特殊装備を持ち、状況に応じて運用している。装備の開発は主に科学センター所属の岩本博士とイデ隊員が行っている。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "通常任務や非番の際は威圧感を与えないために青いブレザーとライトブラウンのスラックスとネクタイ(フジ隊員はスカート)、白いワイシャツを着用している。作戦出動時の戦闘服はオレンジ色で、オレンジ色のネクタイ、黒いブーツとグローブをつける。肩から背中はセーラー服のような処理がされており、ワイシャツのようにもなっている。耐寒・耐熱性が高く、宇宙空間では簡易宇宙服の機能も持つ。ネクタイピンのオートジャイロは放射能や電磁波を感知してランプが点滅する危険探知機である。また、設定のみではあるが、小型カメラがベルトのバックルにある。左胸のスリットに収納するためのチャックがあるが、ハヤタのみの仕様である。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "普段着ている青いブレザーの下に出動時のユニフォームを身に着けており、着替えを必要としないのも、本作品だけの設定である。また、簡単な調査活動や一般市民への聞き込み、他の支部から来た隊員の出迎えなどの場合には、ブレザーのままで出る(第3話、22話、28話、31話、32話)。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "本作品には科特隊とは別に、通常の防衛組織が怪獣や宇宙人との戦闘に参加している。その呼称は防衛隊(軍)とされたり自衛隊とされたりしているが、明確な区別はない。また、東宝特撮映画に登場した架空兵器のプロップが流用されていることが多いのも特徴である。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "防衛隊(軍)は第2・11・15話に登場する。戦力としては放映当時の自衛隊が装備していた61式戦車、M4中戦車(M4シャーマン)などの他、架空兵器である火炎放射戦車、メーサー殺獣光線車、熱線砲車などがある。火炎放射戦車はオリジナルの装軌式車両の上部に旋回式の火炎放射器を装備した物で、第9話ではガボラ、第15話ではガヴァドンBに対して攻撃を行う他、第15話でもギャンゴに対して出動する。熱線砲車は『怪獣大戦争』(1965年、東宝)に登場したAサイクル光線車の牽引車をオミットし、本体から拡声器と照明塔を外したもので、第3話ではネロンガ、第11話ではギャンゴに対する攻撃に使われる。第3話ではAサイクル光線車のものと同じ見た目の光線を放つが、第11話では直線的な赤い光線に変わっている。その牽引車に本体から外した照明塔をつけて改造した照明車も、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年、東宝)で使われた後、第15話で使用され、ガヴァドンAを包囲する戦車群の中に見られる。メーサー殺獣光線車は、第11話で熱線砲車と共にギャンゴへの攻撃に向かう姿が確認できるが、その後の戦闘シーンは描かれておらず、こちらも牽引車は使われていない。また、第2話では本部と思われる防衛基地が登場。都心に現れたバルタン星人に対し、防衛基地の屋上に備え付けられたランチャーから新型核ミサイル「はげ鷹」を2発発射するが、小爆発を起こしただけでほとんど効果がない。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "自衛隊は第4・26・27・34・39話に登場する。第4話で海上自衛隊の護衛艦がイデ隊員の提案でラゴンに音楽を聞かせる。第26・27話で伊丹市に駐屯している陸上自衛隊のロケットランチャー・トレーラーがゴモラを攻撃する。また第27話では61式戦車やM4などの実在兵器の他に、9連装の装輪式自走ロケット砲とおぼしき架空兵器が登場する。第34話では科特隊が怪獣風船化作戦で浮かび上がらせたスカイドンを航空自衛隊のF-86F戦闘機が誤って撃墜してしまった。航空自衛隊は第39話にも登場し、精鋭パイロットからなる戦闘機編隊がゼットン星人の円盤群迎撃のために出動して一部を撃墜するが、逆襲を受けて全滅する。同話では出撃シーンにはF-86Fが、戦闘シーンではF-104もしくはX-3に類似した形状の架空機が登場する。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "上記以外にも防衛組織が敵を攻撃する場面のある話は多く存在する(第3・9・17 - 19・21・23・31 - 33話)。だがそれらの多くでは、その組織が防衛隊、自衛隊、あるいは機動隊のいずれに属するのかについて触れられていない。第18話では『モスラ』(1961年、東宝)に登場した装軌式ミサイル車両がにせウルトラマンを攻撃する。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "この他の防衛組織としては、第22話に「国際宇宙開発軍」なる組織の名前が登場するが、その詳細については特に言及されていない。また、第25話には「地球防衛委員会」という組織が登場する。こちらは国際的な組織のようであり、彗星ツイフォンからの放射線による水爆の自然爆発を防止すべく、世界中の核保有国に対して水爆の安全性強化を命令する。『ウルトラマンレオ』第25話「かぶと虫は宇宙の侵略者!」にも同名の組織が登場するが、関連性については特に触れられていない。", "title": "科学特捜隊" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "当初、イデ隊員役には石川進がキャスティングされ、制作第1話の一部や番宣スチールの2日分の撮影に参加していたが、契約上の問題により降板し、東宝出身の二瓶がキャスティングされたという。そのため、第7話の脚本では「トレードマークのおでこから血が出るイデ隊員」という記述があった。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』(講談社・2012年)", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "※全てノンクレジット、参考文献:『円谷プロ画報 第1巻』(竹書房・2013年)", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』(講談社・2012年)", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』(講談社・2012年)", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "本作品の企画が始動したのは、1965年8月ごろのことだった。当時、第2クールを制作中の『ウルトラQ』が日曜19時台にて翌年1月2日からスタートとほぼ決定したことも追い風となり、TBSプロデューサーの栫井 巍()と円谷特技プロ企画文芸部室長・金城哲夫が中心となってさまざまなアイデアが出されていった。TBSはかなり早い段階で、4つの条件を円谷特技プロに提示している。", "title": "誕生過程" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "会議の中では「主人公が怪獣では問題がある」という意見も強く、監修者の円谷英二からも「スーパーマンのようなヒーローを」との提案が出された。また、この時期に円谷が特技監督を担当した東宝特撮映画で、人間に味方する巨人と凶暴な怪獣が死闘を展開する『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965年・東宝)が公開されており、この映画も本作品の企画に少なからず影響を与えていると言われている。", "title": "誕生過程" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ここでフジテレビ用に企画されていた番組『WoO』の「人間に味方する友好的宇宙人の活躍」というアイデアが流用され、『科学特捜隊ベムラー』というSF活劇の企画書が作成された。この企画書では、「本部をパリに置き、警察の手に負えない常識を越えた異変や怪事件を専門に調査する科学特捜隊の日本支部」と彼らに協力する正体不明の正義の宇宙人ベムラーが設定されている。「飛行機事故で消息を絶った主人公がヒーローになって生還する」という設定はこの時点ですでに見られるが、主人公とベムラーの関係は企画書には明記されていない。科学特捜隊のサコミズが変身することは決まっていたものの、あえて変身の描写はオミットされ、ベムラーの正体はぼかす方向性であったという。また、変身アイテムもなく、変身時に両腕を掲げ、忍術のようなポーズをとっていた。この時点では、平田昭彦と藤田進の配役が予定されていた指揮班があった。", "title": "誕生過程" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "渡辺明がデザインしたベムラーの容姿は日本の伝説上の生物・烏天狗を思わせる翼を持つスマートなもので、関係者から「敵怪獣との区別がつきにくい」や「ヒーローとしてのキャラクター性が弱い」との指摘があった。そこで『ベムラー』企画は再検討され、新たに『科学特捜隊レッドマン』が企画されることとなった。この企画書では、正義の怪獣ではなく「甲冑を思わせるような赤いコスチューム」をまとった謎のヒューマノイドタイプの宇宙人として設定されている。身長は2メートルから40メートルまで伸縮自在と設定されている。また、変身時間の制限も導入された。主人公とヒーローの関係についても「飛行機事故でサコミズを死なせた宇宙人レッドマンが責任を取ってサコミズの肉体を借りる」と明記され、後の完成作品におけるウルトラマンの設定の基本的な部分は完成していた。その一方、レッドマンは故郷がX星人の侵略で滅亡している遊星人であること、サコミズ本人はすでに死亡してその心はレッドマンであること、サコミズには人気歌手の恋人・由木ひかるがいることなど、完成作品との相違部分もある。", "title": "誕生過程" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "こうして成田亨が担当したレッドマンのデザインは火星の運河状のラインをもつスマートなボディで、幾分かヒーロー的になったものの、拵井はもっとシンプルでインパクトのあるメタリックカラーを基調としたデザインを要求した。また、前述のように本作品はアメリカへのセールスを前提としており、アメリカの事情に詳しいTBS編成局企画部の大谷乙彦らが海外輸出を考慮して「今の形では外国人には受け入れられない。もっと無表情な鉄仮面のようなものの方が謎があっていい」などと提案した。こうして試行錯誤した結果、生命感のある究極なる徹底した単純化を図ったレッドマンのデザインが完成した。成田は、デザインを描かずにマスクの原型を佐々木明に依頼したが、最後はアトリエに篭って一人で完成させた。", "title": "誕生過程" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "「ベムラー」の名は、第1話に登場する怪獣の名前として残された。脚本家の関沢新一は、円谷英二から企画の相談を受けた際に、自身が『ウルトラマン』という題名を言ったのかもしれないと述べている。", "title": "誕生過程" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "前作の『ウルトラQ』は放送前に全話の撮影を終了させていたが、本作品は放映と平行して制作する一般的なドラマのスタイルとなった。TBSから支給された予算は1クールにつき7000万円(1本約538万円)、本編のクランクインは1966年3月16日だった。", "title": "制作背景" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "本作品は、ほぼ同時期に放映された『マグマ大使』とともにカラー放送による連続テレビ映画の草分けだったうえ、巨大な宇宙人を主人公とする大がかりな特撮中心のドラマは世界にも類例が存在しないため、番組制作は苦難の連続だった。", "title": "制作背景" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "『ウルトラQ』では、円谷英二の「16mmのクォリティでは特撮はできない」との主張で劇場映画用と同じ35mmフィルムで撮影し、放映用フィルムとして16mmに縮小するという手法が採られた。この手法によりテレビ作品としては異例のクオリティを得られたが、フィルム代で予算が圧迫される問題が発生した。本作品では高価なカラーフィルムを使用することから、合成カットのみ35mm、それ以外は本編・特撮とも16mmとすることで、合成映像の不自然さを低減させつつコストダウンを図った。しかしカラー撮影のノウハウが少ないため、調整や取り直しなどで時間やフィルムを浪費することとなり、3月中旬まで飯島敏宏組の本編クランクインはずれ込んでしまう。", "title": "制作背景" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "撮影では飯島敏宏監督によるAブロック(放映第2話、第5話、第3話)は本編・特撮を同一スタッフが手がける一斑編成で開始したが、カラーフィルムの入念なテスト(色彩設計や照明の光量など)やウルトラマンの着ぐるみの度重なる塗り直し(初期は、ラテックス製のマスクと未塗装の黒いウェットスーツを使用していた)などカラー撮影にまつわる細々とした対応の他、操演中のジェットビートルをホリゾントにぶつけて大破させるなどの事故も重なり撮影は遅々として進まず、野長瀬三摩地監督のBブロック(放映第7話、第4話、第6話、第9話)からは制作費的にも合理的な別班編成に変更された。Bブロックは円谷一監督によるCブロック(放映第1話と第8話)の本編シーンの撮影を優先したため、完成済みの第7話を除いて後回しにされた。第1話に先駆けて放映されたテレビ番組『ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生』のおかげで、なんとか無事に放映が始まったものの、スケジュールは次第に切迫し、特撮を2班編成にしてもその遅れは間に合わなくなってきた。円谷英二のダメ出しによる撮り直しだけでなく、スタジオと撮影機材のレンタル費、脚本費、俳優費、スタッフ費も大きな負担になっており、1本平均の直接制作費が450万~470万円になるなど予算・時間共に余裕の無い状況となっていた。ソフビ人形などのマーチャンダイジングの収益が、版権所有各社で莫大な版権使用料として分配されることで、円谷特技プロの運営はようやく安定していた。", "title": "制作背景" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "そのため、番組の続行を望むTBS側とこれ以上の続行は不可能とする円谷特技プロとの間で協議が重ねられ、「赤字はともかく、週1回の放送に間に合わないのが確実になった」ために、1967年初頭に高視聴率を維持していながらも第4クール目の発注が断念され、3クール39話の放送で一旦終了することが決定した。", "title": "制作背景" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "テレビシリーズの本放送当時は厳密な時代設定の統一は行われておらず、その当時の現実と未来とが混在している。", "title": "時代設定" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "本放送当時にTBS番宣課が発行した「ウルトラマンあらすじ集」第一集と、『週刊少年マガジン』1966年31号(8月7日号)でのグラビアページの時代設定は、「1975年ごろ」という記載がある。スタッフの認識は近未来という程度で明確な合意はなく、第23話でジャミラの墓標に没年が1993年と記されていたり、第39話で「1930年代から40年以上」とのセリフがあるなど一定していない。", "title": "時代設定" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "唯一の前後編である第26話・第27話は、作中で子供たちが怪獣の存在を否定していたり、子供のごっこ遊びでウルトラマンの変身方法が知られていたりと、現実世界寄りの演出がされている。また、第35話では延長工事途中の首都高速道路や日本で唯一の超高層ビルなど、放送当時の東京の景観がそのままミニチュアセットで再現されている。", "title": "時代設定" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "『ウルトラマン』に続いて一連のシリーズ作品が制作・放映された。毎回、巨大ヒーローと怪事件処理専門チームが連携し、宇宙や異次元、地球のどこからか現れる怪獣や宇宙人たちと戦うというコンセプトの特撮番組で、子供たちから人気を博す。これらの作品は、「ウルトラシリーズ」や「ウルトラマンシリーズ」と呼ばれる。", "title": "シリーズとしての「ウルトラマン」" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "本作品の音楽は、前作『ウルトラQ』に引き続き宮内國郎が担当した。メインタイトル映像のうち『ウルトラQ』のロゴを使った部分の曲は、『ウルトラQ』のメインタイトル曲(M-1T2)に本作品オリジナルの曲(タイトルT6)を被せたものである。第1話のハヤタ隊員とウルトラマンの出会いのシーンに『ウルトラQ』第28話「あけてくれ!」用の音楽が選曲されるなど、過去に宮内の書いた東宝特撮映画『ガス人間第一号』や『ウルトラQ』、『快獣ブースカ』の楽曲が流用されることも多い。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "『ウルトラマン』自体の汎用BGM録音は3回行われた。「特捜隊のテーマ」など一部の曲は主題歌録音と同時にステレオで録音されたが、モノラルのコピーしか残存していない。また、実相寺昭雄が監督した第14・15・23話では追加録音が行われ、これらの楽曲は他のエピソードでも使用される。追加録音は最終回の第39話でも行われたが、これらの追加録音曲はいずれもテープの所在が確認されていない。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "(TBS、1966年7月10日 19:00放送)", "title": "関連番組" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2016年7月9日・10日、『ウルトラマン』放送開始50年を記念して開催されたイベント。会場は『ウルトラマン誕生』と同じ杉並公会堂。この「ウルトラマンの日」は日本記念日協会公認の記念日とされており、当日は初代ウルトラマンを初めとする歴代ウルトラシリーズ出演者が当時のイベントを再現するとともに、ライブ、トークショーなどを展開。会場内ではウルトラシリーズのソフビやフィギュアなどを製作する各メーカーが集結した「『ウルトラマンの日』スペシャルホビーマーケット」も開催された。当日のステージの一部は2016年7月10日にTBSチャンネル1で生放送された。", "title": "関連番組" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "不思議な映画館を舞台にした、4部作で再構成の4K版オムニバス映画。2023年12月1日公開の『円谷映画祭』Part2で第1部「生命のものがたり」を先行上映。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "", "title": "漫画版" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "編集/制作は全てスタジオ・ハード。", "title": "ゲームブック版" } ]
『ウルトラマン』は、1966年7月17日から1967年4月9日まで、TBS系列で毎週日曜19:00 - 19:30(JST)に全39話が放送された、TBS・円谷プロダクション制作の特撮テレビドラマ、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローの名称である。 武田薬品の一社提供枠「タケダアワー」内で放送。TBSにて最初にカラーで放送された特撮テレビ番組でもある。『ウルトラQ』放送中の1966年4月1日に、初めてマスコミに公開された。 本作品はテレビドラマ(以下、テレビシリーズ)の他、漫画や劇場用映画、小説、テレビゲームなどでメディア展開も行われているが、本項目ではテレビシリーズを中心に記述する。また、本作品に続いて放送された一連の番組、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローも「ウルトラマン」と総称される場合があり、便宜上これら後続作品のヒーローと区別するため、本作品に登場するウルトラマンを「初代ウルトラマン」と呼ぶ場合もある。種族としてのウルトラマンについては#ウルトラマンを参照。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses|特撮テレビ番組「ウルトラシリーズ」のひとつ|シリーズ全般|ウルトラシリーズ|その他}} {{Pathnav|ウルトラシリーズ|frame=1}} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = ウルトラマン | 画像 = Ultraman_logo.svg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = | ジャンル = | 放送時間 = 日曜 19:00 - 19:30 | 放送分 = 30 | 放送枠 = タケダアワー | 放送期間 = [[1966年]][[7月17日]] - [[1967年]][[4月9日]] | 放送回数 = 39 | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = [[TBSテレビ|TBS]] | 企画 = | 製作総指揮 = | 監修 = [[円谷英二]] | 監督 = 本編:[[円谷一]] ほか<br />特撮:[[高野宏一]] ほか | 原作 = | 脚本 = [[金城哲夫]] ほか | プロデューサー = | 出演者 = {{Plainlist| * [[黒部進]] * [[小林昭二]] * [[桜井浩子]] * [[二瓶正也]] * [[毒蝮三太夫|石井伊吉]] ほか }} | ナレーター = {{Plainlist| * [[石坂浩二]] * [[浦野光]] }} | 音声 = [[モノラル放送]] | 字幕 = | データ放送 = | OPテーマ = 「ウルトラマンの歌」 | 時代設定 = | 外部リンク = | 外部リンク名 = | 特記事項 = カラー放送{{efn|name="COLOR"}} }} 『'''ウルトラマン'''』は、[[1966年]][[7月17日]]から[[1967年]][[4月9日]]まで、[[TBSテレビ|TBS]]系列で毎週日曜19:00 - 19:30([[日本標準時|JST]])に全39話が放送された、TBS・[[円谷プロダクション]]制作の特撮テレビドラマ、およびその作中に登場する巨大[[変身 (ヒーロー)|変身ヒーロー]]の名称である。 [[武田薬品工業|武田薬品]]の一社提供枠「[[タケダアワー]]」内で放送{{efn|本作品、および以降の[[ウルトラシリーズ]]の作品で怪獣が毒殺されることがなかったのはこれに起因しているとも言われている。また、第26・27話での関西ロケは大阪に本社を置いていた武田薬品工業の要請によると言われ、作中でも同話数に登場した怪獣・[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]が武田本社ビルを破壊するという一幕も盛り込まれている。}}。TBSにて最初にカラーで放送された[[特撮]][[テレビ番組]]でもある{{R|1966+27p}}。『ウルトラQ』放送中の1966年[[4月1日]]に、初めてマスコミに公開された{{R|1966+27p}}。 本作品はテレビドラマ(以下、テレビシリーズ)の他、[[漫画]]や劇場用映画、[[小説]]、[[テレビゲーム]]などでメディア展開も行われているが、本項目ではテレビシリーズを中心に記述する。また、本作品に続いて放送された一連の番組、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローも「ウルトラマン」と総称される場合があり、便宜上これら後続作品のヒーローと区別するため、本作品に登場するウルトラマンを「'''初代ウルトラマン'''」と呼ぶ場合もある。種族としてのウルトラマンについては[[#ウルトラマン]]を参照。 == 概要 == [[File:Statue of Ultraman.jpg|250px|thumb|right|横浜マリタイムミュージアム前に設置された4.5メートルの初代ウルトラマンの巨大立像。]] [[File:Ultraman Soshigaya-Okura station.jpg|180px|thumb|right|ウルトラマン像([[小田急小田原線|小田急線]][[祖師ヶ谷大蔵駅]]北口)]] [[File:Asahigraph-1967-01-06-2.jpg|thumb|180px|ウルトラマンのスーツアクターを務めた[[古谷敏]]]] 本作品は、[[怪獣]]や[[宇宙人]]によって起こされる災害や[[超常現象]]の解決に当たる[[#科学特捜隊|科学特捜隊]]と、それに協力する[[M78星雲]]光の国の[[宇宙警備隊#ウルトラシリーズでの宇宙警備隊|宇宙警備隊員]]であるウルトラマンの活躍劇である。作中に登場する怪獣が好評だった『[[ウルトラQ]]』に続く「空想特撮シリーズ」の第2作として{{R|特撮世界138}}、『ウルトラQ』の世界観を継承する番組として制作・放映された。オープニングタイトルの流れはカラー化された『ウルトラQ』のタイトルロゴ映像から赤画面になり、上に『ウルトラマン』、下に「空想特撮シリーズ」とクレジットされる{{efn|BGMは「Q」のものに新録のパーカッションなどをオーバーダビングしたものを使用。}}{{efn|放映前から「ウルトラQ 空想特撮シリーズ」と銘打って番組宣伝されていた。}}。 番組フォーマットは、タケダアワーのOP→タイトル画面→CM→OPテーマ→本編(途中でCMを挟まずラストまで放送)の順番で、本編開始の画面下には『カラー』のマークがあった{{R|1966+51p}}{{efn|このフォーマットは後の『キャプテンウルトラ』『ウルトラセブン』でも使用された。}}。 テレビシリーズがスタートするや否や『ウルトラQ』を凌ぐ人気番組となり、本放送時の第1話の視聴率は34.4%{{R|1966+51p}}、平均視聴率は36.8%<ref>「続ウルトラマン」企画書より(ジェネオンエンタテインメント刊「帰ってきたウルトラマン1971」30頁所収)</ref>、最高視聴率は42.8%([[1967年]][[3月26日]]放送の第37話。[[ビデオリサーチ]]調べ、関東地区)<ref>{{Cite book|和書|author=引田惣弥|title=全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した|publisher=講談社|year=2004|pages=4,99,224|isbn=4-06-212222-7}}</ref>を記録。テレビシリーズの放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録した。海外でも1970年代から100を超える国・地域で放映されてきた<ref>[http://globe.asahi.com/feature/111016/01_2.html 特集・特撮ヒーローは今もたたかう Part2 タイに渡ったウルトラマン。バルタン星人をやっつけろ!] - 朝日新聞グローブ、2016年11月29日</ref>。 テレビシリーズ初放映から半世紀以上が経過した今日も世代を問わず高い認知度を誇り、『決定! これが日本のベスト100』([[テレビ朝日]]系列)の[[2002年]][[9月8日]]放送分「特撮&アニメ ヒーロー&ヒロインベスト100」の第2位にランクインしている<ref>[https://web.archive.org/web/20040311193246/http://www.tv-asahi.co.jp/best100/contents/100/0017/ranking/index.html 特撮&アニメ ヒーロー&ヒロインベスト100]、テレビ朝日。([[インターネットアーカイブ]])</ref>。固有名詞としての「ウルトラマン」は、『[[広辞苑]]』の見出しにも記載されている<ref>2008年刊の第6版287ページ</ref>。また、第39話(最終回)でウルトラマンが[[ゼットン]]に倒されたシーンは、初放映当時の子供たちに少なからぬ衝撃を与え、影響を受けたと語る著名人も多い。[[前田日明]]は「ウルトラマンの敵(かたき)を討ってやる!」と、格闘技を始めたきっかけになったことを語っている<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0060045 前田日明、ウルトラマンの敵討ち!宿敵ゼットンを打ちのめす!] シネマトゥデイ 2014年1月29日</ref>。 商業的にも成功を収め、本作品やそのキャラクターに関連する商品は玩具だけでなく、生活用品などあらゆる分野で発売されている。商業的側面から本作品で特筆すべき点は、日本のテレビ番組で初めて商品化権の入札制度を導入したことである{{efn|これは『ウルトラQ』の海外販売の際にTBSが[[アメリカ合衆国]]の商品化権業務の実態を調査した結果、導入されたものである。}}。本作品が制作される以前は、テレビ局の担当者とコネがある業者が商品化権を取得していたが、本作品で前述の制度が導入されて以降は金のあるものから優先的に商品化権取得の機会が与えられるようになった。もっとも、実際のところは『ウルトラQ』を商品化した[[マルサン商店]]などの業者が優遇されており、本格的に入札制度が機能するのは『[[キャプテンウルトラ]]』以降である。 === 物語の骨子 === 科学特捜隊のハヤタ隊員は小型ビートルで青い球体と赤い球体を追跡するが、赤い球体と衝突したうえに墜落死してしまう。 赤い球体の正体はウルトラマンだった。M78星雲人の彼は、宇宙の墓場への護送中に逃亡した宇宙怪獣[[ベムラー (ウルトラ怪獣)|ベムラー]](青い球体の正体)を追って地球までやって来た。そして、自分の不注意でハヤタを死なせたことに対する罪の意識からウルトラマンは、ハヤタに自分の命を分け与えて地球の平和を守るために戦うことを決意。こうして、ウルトラマンとハヤタは一心同体となった。 以後、ハヤタは'''ベーターカプセル'''を点火させてウルトラマンに変身し、怪獣や宇宙人と戦う。 == ウルトラマン == [[File:Ultraman Soshigaya.jpg|280px|thumb|right|ウルトラマンアーチ([[東京都]][[世田谷区]]祖師谷通り上)]] {{キャラスペック |名称=ウルトラマン |身長=40{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="MAN"|{{R|怪獣大全集10|銀河伝説超全集|UPM026}}{{Sfn|完全超百科|2004|p=4}}{{Sfn|全ウルトラマン増補改訂|2018|p=4}}}}{{efn|『タロウ』第40話のナレーションでは53メートル。}}{{efn|映像上の縮尺は厳密なものではなく、場面によって他のものとの対比が変わることがある。}} |体重=3万5千{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|MAN}} |年齢=約2万歳<ref>第39話での台詞より。</ref>{{R|UPM026}} |飛行速度=[[マッハ数|マッハ]]5{{R|UPM026}} |走行速度=時速450{{nbsp}}[[キロメートル|km]]{{R|UPM026}} |水中速度=200{{nbsp}}[[ノット|kt]]{{R|UPM026}} |地中速度=マッハ3{{Sfn|ウルトラヒーローナンバーワン|2012|p=9}} |ジャンプ力=800{{nbsp}}m{{R|UPM026}} |腕力=10万{{nbsp}}tタンカーを持ち上げる |キック力=320[[文 (通貨単位)#長さの単位|文]]の威力がある }} ドラマのクライマックスで登場し、怪獣や宇宙人と戦う巨人。その正体はM78星雲光の国出身の宇宙人である。宇宙警備隊員として、[[怪獣墓場]]に護送中に逃走した宇宙怪獣ベムラーを追跡して地球を訪れ、誤って死なせてしまった科学特捜隊のハヤタ隊員に自分の命を共有して一心同体となり{{R|UPM026}}、地球の平和を守るために戦うことを決意する。 普段はハヤタの姿で行動するが、有事の際にはベーターカプセルを点火させてウルトラマンに変身し、怪獣や宇宙人と戦う。 ごく一部の例外を除き、原則として地球人とは会話せず、感情などは動きだけで表現し、「シュワッチ」あるいは「シュワッ」などと表記される数種の掛け声のみを発することがほとんどである。 * 腰を屈めた前傾姿勢のファイティングスタイルは、怪獣と対峙した際に相手の力量を見極めるための構えで、映画『[[理由なき反抗]]』で[[ジェームズ・ディーン]]が身構えたポーズを真似している{{R|F28810|UPM0232}}。[[美セン]]の[[ホリゾント]]が見切れるため、話数を経るごとに猫背が低くなっていったという{{R|UPM0232}}。また、構えの手も空手の流れでグーではなく、パーになっている{{R|UPM0232}}。[[ザラブ星人#にせウルトラマン|にせウルトラマン]]にチョップした際に痛がっていたのは、古谷が実際に痛がっていたものであるという{{R|F28810}}。 <gallery> File:Fighting stance of Ultraman 2022-05-30.png|ウルトラマンのファイティング・ポーズ </gallery> === プロフィール === ウルトラマンのプロフィールは、作中では語られていないが、雑誌記事などでは詳細に紹介されている{{Full|date=2019年10月}}。 * 職業:宇宙大学教授、宇宙警備隊銀河系局長(後に支部長) * 趣味:読書<ref>株式会社雪書房 編「ウルトラの国ひみつ百科」 『ウルトラ怪獣全百科』小学館〈コロタン文庫30〉、1978年10月10日、332頁。このコーナーには、「本といっても[[マイクロフィルム]]のようなものが多い」という記述もある。</ref> * 家族構成 ** 父:宇宙保安庁長官 ** 母:ウルトラ学校教師 === ベーターカプセル === ハヤタがウルトラマンに変身する際に使用するアイテム{{efn|書籍『ウルトラ怪獣大全集』では大きさを「12色ボールペンほど」と表現している{{R|怪獣大全集10}}。}}。第1話でハヤタがウルトラマンと一体化する際に、ウルトラマンから託される。 カプセル内部には超小型プラズマスパーク[[核融合]]装置とベーターコントローラーが内蔵されている。これがないと、ハヤタはウルトラマンには変身できず、常に隊員服の内ポケットに携帯しているが、何度かカプセルを落とすシーンもある。ウルトラマンでいる時もどこかに携帯しているらしく{{efn|耳の突起(電飾のスイッチ)がそうだとする説がある<ref>『懐かしのヒーロー・ウルトラマン99の謎』(二見書房・1993年)p.72 - p.73.</ref>。}}、第26話では[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]との格闘中に落としたのを現場にいた子供に拾われる。 第39話ではウルトラマンを迎えに来た[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]が、自ら持ってきたベーターカプセルを使ってハヤタに命を与えると同時に、ハヤタとウルトラマンを分離させる。 映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』では別次元のハヤタが、自身をウルトラマンと気が付いた際にハヤタの右手に実体化する。 『帰ってきたウルトラマン』の原型となる『続ウルトラマン』では、ウルトラマンと一体化したバン・ヒデキの変身アイテムとして登場予定だった{{Sfn|白書|1982|p=83}}。 近年は玩具などで「'''ベータカプセル'''」とする記述が増えている。 * 第2話の脚本では「ガンマー発光器」という仮称であった{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=29}}。 === 変身方法 === ハヤタがベーターカプセルの赤いスイッチを押すと、閃光と共に光のエネルギー、ベーター線{{efn|「フラッシュビーム」とも呼ばれる{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集10|UPM026|マガジン38}}}}。また、放映当時の資料などには太陽光線に含まれるベーター線からディファイレイター光線が変換されたものと記述されていた{{Sfn|大ウルトラマン図鑑|1996|p=84}}。}}が発光部から放射し、ハヤタの周りを渦巻き状に包み込んで{{efn|実際に作中で渦巻き状のベーター線が出たのは、第3話と第10話のみである。第12話と第27話では飛行中のウルトラマンの両手から光のリング・'''ウルトラリング'''を放ち、地上に到達するとハヤタの姿に戻る{{R|UPM026}}(リングが出た時点ではウルトラマンはまだ存在しており、ウルトラマンがどこで消えたのかは描写されていない)という形で変身が解除されている。第27話の変身解除は第12話の流用であることから、マスクはAタイプのままとなっている{{R|F29118}}。第16話のみ変身解除後(解除までの過程は描写されていない)、ハヤタが意識がない描写がある。}}ウルトラマンに変身する。変身・巨大化時のポーズは「右手を宙空に突き上げ、左手は顔の隣に置く」という独特の形であり、ウルトラマンを特徴づけるポーズとして以降の作品でもほぼ踏襲されている{{efn|両腕を宙空に突き上げながら巨大化するという例外もある。}}。 書籍設定{{Full|date=2016年9月}}では、フラッシュビームにM78星雲人の生命の源である人工太陽プラズマスパークと同じエネルギーが含まれ、この光によって元の姿を一定時間取り戻すことができるとされている。 === ウルトラマンの能力 === ウルトラマンは様々な特殊能力や格闘術を持っている。作中で名称が明言されたのは「スペシウム光線」と「[[テレポーテーション]]」のみで、その他の名称は書籍や年代によってばらつきがあったが、後年には円谷プロにより統一されている。技の一部は後のウルトラマンたちにも継承されている。 ; スペシウム光線{{R|必殺技SG239|UPM028}} : ウルトラマンが使う代表的な必殺技で、左右の手刀を十字型に交差させて体内のスペシウムエネルギーを[[スパーク]]{{Sfn|全ウルトラマン増補改訂|2018|p=9}}させ、右手から発射する破壊光線である。右腕にマイナス、左腕にプラスのエネルギー(磁場{{Sfn|大ウルトラマン図鑑|1996|p=84}})が蓄えられ、それをスパークさせて発射すると設定されている{{R|怪獣大全集10|超技10}}。そのエネルギーはすさまじく、相手を爆破または炎上させる効果がある。決まり手として多用される一方、通用しない敵も数体いる{{efn|直撃しても効かないのはアントラー、ケムラー、ケロニア、キーラの4体(バリアで防御・吸収・光線で相殺といったケースを除く)。ただし、『ウルトラマンサーガ』内では、アントラーにスペシウム光線を発射し、決定打となる。}}。連射や長時間照射も可能。この光線には[[火星]]に存在し[[バルタン星人]]が苦手とする架空の物質[[スペシウム]]が多量に含まれているとされ、作中では第2話でムラマツがそのことを指摘したのを受けてフジ隊員が命名する。50万度の威力がある。 : 「スペシウム」の名称は「スペース(宇宙)」+「イウム(「物質」を意味する接尾語)」から成り、命名とポーズの考案は脚本・監督の[[飯島敏宏]]によるもので、飯島によれば「十字ポーズは[[忍者]]が[[手裏剣]]を投擲する際の動作が元になっている」とのことである。 : 白色の光線だが、後年の作品にゲスト出演する際は色が異なっていることがある{{efn|『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』では金色になっている。}}。 : 本作品以降も、こうした「腕を交差または組むことで放たれる必殺光線」はウルトラ戦士の特徴となっている。ほとんどのウルトラ戦士が何らかの必殺光線を有しており、それを得意技としている。 : 映画『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』によると、全ウルトラマンの光線技の原点とされ、すべてのウルトラマンがその構えをしている{{efn|指揮についていた[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]・[[ウルトラの父]]・[[ウルトラの母]]・[[ウルトラマンキング]]と、スペシュッシュラ光線の構え(スペシウム光線の逆)をとっていた[[ウルトラマンゼアス]]を除く。}}。 :* エフェクトは光線を描く人物が変わっても、同じに見えるようなシンプルなものにするために、光のラインが流れるようなものが考案された{{R|F29118}}。 :* スーツアクターの[[古谷敏]]によるスペシウム光線のポーズは左手の甲から指が下向きの弧を描いているが、これは古谷自身の[[日本舞踊]]の経験が活かされているという{{R|F28810|UPM0232}}。ポーズは[[力道山]]の空手チョップを参考にしており、右手を手刀にして縦にしたものだが、そのままでは合成した際にぶれてしまうことから右手は反らずに少し力を抜いて、左手を添えて腕を十字に組んだものとなった{{R|UPM0232}}。 :* 第19話は円谷英二が撮影に参加しており、一部演出を円谷が担当したことから、合成予算もあって、設定を無視して3連発で放っている{{R|UPM0631|HISTORICA8}}。 <gallery> File:Bin Furuya Photo Op GalaxyCon Louisville 2019.jpg|スペシウム光線のポーズをとる古谷敏([[2019年]]に[[ルイビル (ケンタッキー州)|ルイビル]]で開催された{{仮リンク|ギャラクシーコン|en|GalaxyCon}}にて) File:Spacium beam of Ultraman 2022-05-30.gif|スペシウム光線のフォーム </gallery> ; 八つ裂き光輪(ウルトラスラッシュ{{R|超技10}}){{R|必殺技SG239|UPM028}} : スペシウムエネルギーを円盤ノコギリ状に丸めた光のカッターで{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|白書|1982|p=3}}{{R|怪獣大全集10|超技10}}}}、外周にのこぎり状態の突起がある。相手の体を切断するために使う。まず両手を胸の前に水平に構えた後、挙げた右手を振り下ろして投げる。第16話で[[バルタン星人#二代目|バルタン星人(2代目)]]に対して初使用。空中で2つに分離して[[レッドキング#二代目|レッドキング(2代目)]]を3つに切り裂くシーンもある。投げ返されたり、バリアーに防がれるなど、通用しないことも多い。 : 『[[ウルトラマン80]]』では第45話で80が[[バルタン星人#六代目|バルタン星人(6代目)]]を倒した八つ裂き光輪は初代ウルトラマンから教わったと言及されている{{efn|イメージ映像に初代ウルトラマンがバルタン星人(二代目)を真っ二つにするシーンが流用された。}}。 : 『[[ウルトラマンメビウス]]』以降の作品へのゲスト出演時にもたびたび使用され、その際には高速追尾機能を追加したり、左手に発生させて直接斬りつけて頑丈な[[キングジョー#『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』に登場するキングジョーブラック|キングジョーブラック]]の腕を切断したり、[[ゴルザ#ゴーグファイヤーゴルザ|ゴーグファイヤーゴルザ]]の破壊光線を跳ね返したりと、特殊な使用例を見せる。 :* 脚本では「ウルトラ・スラッシュ」という名称であった{{R|全調査報告16}}。 ; ウルトラアタック光線{{Refnest|group="出典"|{{R|超技11|必殺技SG239|UPM028}}}} : 両腕先に発生させた高熱エネルギーを左手に発生させた爆発光線を右腕に集中させて絡ませスプリング状の光線にして放ち、相手の全身をエネルギー波動で覆って動きを麻痺させ、凝固させた後念波を送り粉砕する技{{R|画報上}}。作中では第31話でスペシウム光線の効かない[[ウルトラマンの登場怪獣#吸血植物 ケロニア|ケロニア]]を倒すのが唯一の使用例である。資料によっては火に弱い敵に有効な熱線{{R|超技11}}、スペシウム光線にも勝る強力光線である<ref>ウルトラ戦士全必殺技大百科 (ケイブンシャの大百科別冊)p.70</ref>などの説明もあるが、シナリオによればリング状光線から相手の爆発まで一連の技である。 : 『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』では同様にスペシウム光線が効かない[[アントラー (ウルトラ怪獣)|アントラー]]を倒す際に使用。 : 『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』でも使用、モルド・スペクターとの戦いで至近距離から二発発射する。 : 『[[ウルトラマンギンガS]]』の前日談小説『マウンテンピーナッツ』では、再生能力でスペシウム光線と八つ裂き光輪に耐えた[[スペースビースト#ノスフェル|ノスフェル(SD)]]を粉砕した。 :* 脚本では、ケロニアの胸に帯のような光芒が当たると金縛りになり、亀裂が次の瞬間に走り、砕け散るものとなっている{{R|全調査報告16}}。 ; 透視光線{{R|超技11|UPM028}}(ウルトラ透視光線{{R|怪獣大全集10}}) : 両目から放って透明な敵や円盤を可視化したり、壁の向こう側を見通す光線。[[バルタン星人#初代|バルタン星人(初代)]]の宇宙船や、透明化した[[ダダ (ウルトラ怪獣)|ダダ]]を発見するために使う。 ; ウルトラアイスポット{{Refnest|group="出典"|{{R|超技11|必殺技SG239|UPM028}}}}(ウルトラ眼光{{R|超技11}}) : 両目から放つ光線。八つ裂き光輪も防ぐバルタン星人(2代目)の光波バリヤーを無効化する{{R|超技11}}。 ; スラッシュ光線{{R|必殺技SG239|UPM028}} : 両掌を重ねて連続発射する矢尻状の光線{{efn|書籍によってはカッター光線{{Sfn|白書|1982|p=3}}、破壊光線{{R|超技11|UPM029}}、切断光線と推測している{{R|全調査報告16}}と解説している。}}。第33話で使うが、[[メフィラス星人]]の光線に相殺される。 ; キャッチ・リング{{R|超技11|UPM028}}(金縛り光線{{R|超技11|全調査報告16}}){{R|必殺技SG239}} : 相手の動きを封じるための3本の光輪。空中で高速スピンを行いながら発生させた3本のリング状の光線を敵の体にはめて動きを抑える。第39話で使用し、[[ゼットン]]の体を一度は拘束するが火球でスピンを止められ、引き千切られる。 ; リバウンド光線{{R|超技12|UPM028}}(ウルトラバリヤー{{R|超技12}}){{R|必殺技SG239}} : 手の先から発するエネルギーで光の壁を前面に発生させ、攻撃を遮って跳ね返す{{R|超技12}}。第37話で使用し、[[ジェロニモン]]の無重力光線を跳ね返す。『ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』では、光の国の氷結から逃れる際に[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]と共に使用する{{efn|書籍『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE超全集』では名称を'''ウルトラバリヤー'''と記述している{{R|銀河伝説超全集}}。}}。 : 『[[ウルトラマンVS仮面ライダー]]』では、サソリガドラスの光線を防ぐのに使った。 ; ウルトラ念力{{R|必殺技SG239|UPM028}} : 強力な念力を放って物体を粉砕したり、静止させる能力。[[アボラス]]の吐いた溶解泡を吹き飛ばし、[[ジェロニモン]]が放った大量の羽根手裏剣を止める。ケロニア戦ではウルトラアタック光線に組み込まれる形で使用された。『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』では、ハヤタの状態で使用する{{R|銀河伝説超全集}}。 ; ウルトラエアキャッチ{{Refnest|group="出典"|{{R|超技12|必殺技SG239|UPM028}}}}(ウルトラ反重力光線{{efn|書籍『ウルトラマン白書』では、名称を'''ウルトラ反重力念力'''と記載している{{Sfn|白書|1982|p=3}}。}}) : 両手先から放射するウルトラ念力の一種で、空中へウルトラ念力で持ち上げた敵の動きを抑制させることができる念力波{{Sfn|完全超百科|2004|p=9}}{{Sfn|全ウルトラマン増補改訂|2018|p=8}}。第25話で[[レッドキング#二代目|レッドキング(2代目)]]に使う。 ; ウルトラサイコキネシス{{Refnest|group="出典"|{{R|超技12|必殺技SG239|UPM028}}}} : 両掌から放つ渦巻き状の光線で相手の意識を喪失させて動きを抑え、左右の手の指先でその動きを操り、空中に持ち上げて遠方に飛ばし、爆破させる技。第38話でスペシウム光線や八つ裂き光輪が効かない[[ウルトラマンの登場怪獣#光熱怪獣 キーラ|キーラ]]に使用する。 ; ウルトラ水流{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集10|超技13|必殺技SG239|UPM028}}}} : 念力で空気中の酸素と水素を集めて融合して水を発生させた後{{R|画報上}}、両手を組み合わせ、その間から高圧水流を放射する技。構えは2種類存在する{{R|怪獣大全集10|超技13}}。第13話では、[[ペスター]]が起こした[[コンビナート|石油コンビナート]]の大火災を鎮火するために使う。また、第23話では、胸で腕を合わせて{{R|画報上}}、水を弱点とする[[ジャミラ (ウルトラ怪獣)|ジャミラ]]に浴びせて倒す。 ; ハイスピン{{Refnest|group="出典"|{{R|超技13|必殺技SG239|UPM028}}}} : 体を地上でコマのように高速回転させる能力。これにより[[ブルトン (ウルトラ怪獣)|ブルトン]]が作り出す四次元空間から脱出する。 ; テレポーテーション{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集10|超技12|必殺技SG239|UPM028}}}} : 精神統一をした後、顔の前で×字に交差させた腕を解いて、頭から順に消えていき、別の場所で頭から順に現れる。別の星に移動できるほどだが、膨大なエネルギーと強靭な精神力を要するため、著しく寿命を縮める。第16話で使用し、R惑星から地球へ移動した。戦闘終了後、ハヤタはテレポーテーションの後遺症で気を失う。 ; 光線白刃取り{{Refnest|group="出典"|{{R|超技13|必殺技SG239|UPM028}}}} : 第31話で[[ウルトラマンの登場怪獣#吸血植物 ケロニア|ケロニア]]の熱線を合掌した両手で受け止めて周囲に散らして無力化した技。 ; 飛行能力{{R|UPM026}} : 大気圏内だけでなく宇宙空間を自由に飛行する能力を持っている。大気圏内での飛行速度はマッハ5{{efn|初期の設定ではマッハ3。}}。超光速で宇宙空間を飛行する時は赤い光の球で全身を包む(第1話)。 ; 地中突進能力{{R|超技13}}(地中進行能力{{R|UPM026}}) : 地中を掘り進む能力{{R|超技13}}。第29話で使用。 ; 次元移動能力{{R|全調査報告16}} : 四次元空間から空間を突破して三次元空間に戻ってくる技。 ; 巨大化能力{{R|超技13|UPM026}} : 第28話で[[ダダ (ウルトラ怪獣)|ダダ]]のミクロ化器(縮小光線銃)により等身大にされた際にのみ使用。胸の前で両手を合わせてスパークさせ、変身時と同じプロセスで再度巨大化する。 ; 空中体当たり{{Refnest|group="出典"|{{R|超技13|必殺技SG239|UPM029}}}} : 高速飛行しながら落下してくる敵に空中激突する。[[ウルトラマンの登場怪獣#汐吹き怪獣 ガマクジラ|ガマクジラ]]と[[ウルトラマンの登場怪獣#メガトン怪獣 スカイドン|スカイドン]]を倒す。第14・34話では激突時の飛行ポーズが異なる{{efn|ガマクジラの時には頭から突っ込むが、スカイドンの際には通常の飛びポーズ人形を使う。}}。 ; ウルトラ頭突き{{R|超技15|UPM029}} : [[ダイヤモンド]]の100倍の硬さがあるといわれる頭頂部を使い{{R|超技15}}、低い姿勢から勢いよく飛び出して敵の顔面に打ち込む技。 ; ウルトラチョップ{{Refnest|group="出典"|{{R|超技15|必殺技SG239|UPM029}}}} : パワーを活かした手刀で相手の弱点を打ち据える。 :; ウルトラダブルチョップ{{R|必殺技SG239|UPM029}} :: 敵の胸に掌を合わせた左右の手刀を素早く打ち込む ; ウルトラかすみ斬り{{R|超技15}}(ウルトラ霞斬り{{R|必殺技SG239|UPM029}}) : 敵目掛けて走り込み、すれ違いざまに敵の頭部にカウンターチョップを打ち込み、致命傷を与える技。第10話で使用し、[[ジラース]]を倒す。 ; ウルトラパンチ{{Refnest|group="出典"|{{R|超技15|必殺技SG239|UPM029}}}} : 敵の弱点を見極めて打ち込むストレートパンチで、[[インドゾウ]]50頭分の破壊力がある{{R|超技15}}と言われているが、真偽は不明{{R|UPM029}}。 ; 蹴り技{{R|超技14}} :; ウルトラキック{{Refnest|group="出典"|{{R|超技14|必殺技SG239|UPM029}}}} :: 足に体内の全パワーを集中して素早く打ち込むストレートキック。ウルトラマンの関節は「三重関節」と呼ばれ、キックなどの威力が数百倍になる{{R|超技14}}。 :; 急降下キック{{Refnest|group="出典"|{{R|超技14|必殺技SG239|UPM029}}}} :: 高空から敵めがけて急降下する力を利用して、両足で一気に怪獣を蹴り倒す技で、[[ウルトラマンの登場怪獣#怪奇植物 グリーンモンス|グリーンモンス]]、[[レッドキング]]、[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]、[[ジェロニモン]]に使用する。 ; 回転首締め{{R|超技14|必殺技SG239}}(回転首絞め{{R|UPM029}}) : 両脚を敵の首に挟み込んだまま転倒させて、ともに大地に横たわった状態で12万トンの怪力で強く締めつけて地面に叩きつける、プロレス技に似た戦法。第28話で使用し、[[ダダ (ウルトラ怪獣)|ダダ]]を苦しめる。 ; 投げ技{{R|超技14}} :; ウルトラスウィング{{Refnest|group="出典"|{{R|超技14|必殺技SG239|UPM029}}}}(ハンマー投げ) :: 敵の頭部や尻尾を掴んで振り回し、地面や空中に勢い良く放り投げる。 :; 岩石落とし{{Refnest|group="出典"|{{R|超技14|必殺技SG239|UPM029}}}} :: 怪獣にダメージを与えて、ひるんだところを両腕の怪力で頭上高く持ち上げ、勢い良く地面に叩きつける大技。[[テレスドン]]を頭から地面に投げつけて倒した。 :; 背負い投げ{{R|超技14|UPM029}} :: 相手の首を後ろ手に掴み、肩に担ぎ上げて地面に投げ飛ばして地面に叩きつける大技。レッドキング、テレスドンを一撃で倒している。 :; 巴投げ{{R|超技14|UPM029}} :: 大地に倒れ込んで、相手の突進してくる力や動きを利用するようにして、両足の力で投げ飛ばす技。 ; ネックハンギング{{R|超技15|必殺技SG239}} : 両手で怪獣の首を締め上げたまま体を吊り上げ、気絶させる技。この技で怪獣を弱らせ、投げ技へとつなぐことが多い。 ; ヘッドロック{{R|超技15|UPM029}} : 両腕で怪獣の首を押さえて締め上げ、動きを一時的に封じる技。戦況に応じて、片手で締めたり両腕を使って挟んだりする。怪獣が突進してきた瞬間に抱え込んで、そのまま投げ飛ばす技に転ずることも多い。 ; 闘牛戦法{{Refnest|group="出典"|name="戦法"|{{Sfn|完全超百科|2004|p=8}}{{Sfn|全ウルトラマン増補改訂|2018|p=7}}{{R|UPM029}}}} : ジラースから引きちぎった襟巻きをマントに見立て、闘牛士のように戦う戦法。 ; 角折り戦法{{R|group="出典"|戦法}} : パワータイプの怪獣の角を叩き折ることで、戦意を喪失させる戦法。 ; 馬乗り戦法{{R|必殺技SG239|UPM029}} : 上空から勢いよく四足歩行の敵の背後にのしかかり、馬乗りになって動きを抑え込みながら攻撃を加える戦法。 ; くすぐり戦法{{R|超技15|UPM029}} : 相手の首や脇腹をくすぐって戦意を奪い、隙を作り出す技。第11話で使用し、馬乗りになったギャンゴから逃れた。 ==== 他作品への出演時に見せる能力 ==== ; ウルトラセパレーション{{R|必殺技SG239|UPM1831}} : 映画『[[甦れ!ウルトラマン]]』で使った新技。5体に分身し、それぞれが各地に飛んで独自に怪獣と戦う超能力技。 ; マリン・スペシウム光線{{R|必殺技SG239|UPM1831}} : 映画『甦れ!ウルトラマン』で使用。スペシウム光線の威力を強化させた7色の破壊光線。スペシウム光線が効かないゼットンを倒す。ゲーム作品『[[スーパーヒーロージェネレーション]]』でも、ウルトラマンの最強の技として使用可能。 ; ギガスペシウム光線 : ゲーム作品『[[ウルトラマン Fighting Evolution#ウルトラマン Fighting Evolution Rebirth|ウルトラマン Fighting Evolution Rebirth]]』限定の技。[[ウルトラマン Fighting Evolution#カオスロイド|カオスロイドU]]のカオススペシウム光線を撃たれた後に、プラズマスパーク・エネルギーコアの光のパワーを得た時にのみ発射できる究極のスペシウム光線。威力は通常の光線を凌駕する。 ; 赤い球状での体当たり(名称なし) : 『[[ウルトラマンティガ]]』第49話で、[[円谷英二]]監督の想いが実体化して現れたウルトラマンが使用。[[ウルトラマンティガの登場怪獣#宇宙恐竜 ヤナカーギー|ヤナカーギー]]を弾き飛ばす。 ; エネルギー付与 : 同じく『ウルトラマンティガ』第49話で使用。ティガにエネルギーを与える光線。 ; カラーリウム光線 : 『[[ウルトラマンフェスティバル]]2016』ライブステージで使用。敵の動きを止める光線で、敵が動きを止めている間に次の攻撃をする。 ; 他のキャラクターとの合同技 :{{Main2|超ウルトラ8兄弟での合体技|大決戦!超ウルトラ8兄弟}} :; ウルトラの星作戦{{R|必殺技SG239}} :: 『[[帰ってきたウルトラマン]]』第38話にゲスト出演した際に、[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]と共に使用する技。2人で飛行しながら体を交差させてエネルギー域を作り出す。[[ナックル星人]]に捕らえられた[[帰ってきたウルトラマン#帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)|ウルトラマンジャック]]を蘇生させる{{R|超技98}}。 :; ダブル光線{{R|超技98}} :: 『帰ってきたウルトラマン』第38話にゲスト出演した際に、ウルトラセブンとともに使用する技。スペシウム光線とエメリウム光線を同時に放ち、ナックル星人の円盤を破壊する。 :; ウルトラチャージ{{R|UPM1011}} :: Aにウルトラ4兄弟が自らの活動エネルギーをチャージする際に使用した技。 :; 金縛り光線{{R|超技98}} :: 『[[ウルトラマンタロウ]]』第34話にゲスト出演した際に、[[テンペラー星人]]の動きを封じるために、[[ウルトラマンA#ウルトラマンA|ウルトラマンエース]]と同時に発射する、青白い帯状の光線。スペシウム光線を発射するときと同じように、腕を十字型に組んで放ち、テンペラー星人の体を何重にも縛り、締め上げる。 :; 必殺光線一斉発射{{R|超技97|M兄超全集}}(グランドスパーク{{R|必殺技SG239}}) :: 複数のウルトラ戦士が必殺光線を同時に放つ技。 :: 『ウルトラマンタロウ』第34話にゲスト出演した際に、ゾフィー、ウルトラセブン、ウルトラマンジャック、ウルトラマンエースとともに放つ。ウルトラマンはスペシウム光線を発射しているとされるが{{R|超技97}}、構えは全員L字型である。テンペラー星人の宇宙船に向かい、それぞれが必殺光線を一斉に発射することで、大爆発させる。ウルトラマン列伝第1話にて名称が確認された。 :: 映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』ではマン・セブン・ジャック・エースの4人で使用。こちらはスペシウム光線の構えである{{R|M兄超全集}}。月面でのUキラーザウルスとの戦いでは、光線を一点に集中することで威力を増している{{R|M兄超全集}}。 :: 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』ではデルストの大群を倒した{{Sfn|ゼロTHE MOVIE超全集|2011|pp=46-47}}。 :; 5兄弟リフター{{R|超技97}} :: 『ウルトラマンタロウ』第34話にゲスト出演した際に、ウルトラ5兄弟がテンペラー星人を空中に放り投げる際に使用する技{{R|超技97}}。5兄弟で相手を持ち上げ、回転しながら空中に放り投げる。 :; トリプルスピンビーム{{R|超技97}} :: 映画『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』で使う、初代マン、ウルトラセブン、[[ウルトラマンタロウ|タロウ]]の3人による合体技。「トリプルスピンビーム!」と叫び、肩を組んで回転しながら、敵のエネルギーを中和させるアンチエネルギー波を放つ{{R|超技97}}。怪獣帝王[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]のキャッチビームを無力化する。 :; ウルトラフラッシャー{{R|超技97}} :: 「ウルトラフラッシャー」と叫び、初代マンのスペシウム光線、セブンのエメリウム光線、タロウのストリウム光線を同時に撃つ合体技。映画『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』で使い、トリプルスピンビームで無力化したキャッチビームを破壊して中に閉じ込められていたハヌマーンを救出する。 :; 3戦士トリプル光線{{R|超技97}} :: 『[[ウルトラマンレオ]]』第38・39話にゲスト出演した際に、ウルトラキーを盗んだ[[ウルトラマンレオ#アストラ|アストラ]]をババルウ星人の化けた偽者とも知らずにかばう彼の兄・[[ウルトラマンレオ]]に対し、ジャック、エースとともに放つ光線。全員が両腕をL字型に組み、右腕から発射する。 :; ウルトラスペシウムシュシュファイナル :: 『[[有言実行三姉妹シュシュトリアン]]』にゲスト出演した際、[[バルタン星人]]を倒すために使用される。前衛で巨大化したシュシュトリアンが必殺技「シュシュファイナル」のポーズを取り「ウルトラスペシウムシュシュファイナル」と技名を叫び、後衛に配したウルトラマンが「スペシウム光線」を「シュシュファイナル」を放つ交差したバトン越しにバルタン星人に向かい放つことで二つの技が合わさった技。 :; ファイナル・クロスシールド{{R|M兄超全集}} :: 映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』で、[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟#究極超獣 Uキラーザウルス|Uキラーザウルス]]と[[ヤプール人|ヤプール]]の怨念を封印するためにウルトラセブン、ウルトラマンジャック(新マン)、ウルトラマンAと共に使う大技。光エネルギーのほぼ全てを使い果たすため、使用後は変身と戦闘を行うことが困難になる。 :; エネルギー照射{{R|M兄超全集}} :: 映画『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』で、セブン、ジャック、Aと共に使う能力。宇宙人連合に捕らえられたメビウスに、4方向からエネルギーを与える。 :; 結界 :: 『[[ウルトラギャラクシー大怪獣バトル]]』で使った、付近一帯に怪獣を寄せ付けなくする結界。[[大怪獣バトルの登場キャラクター#レイブラッド星人|レイブラッド星人]]に肉体を封印された状態で使用し、自らの命を削りながらも人間を守る。 :; 赤い光線(正式名称不明) :: OV『[[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター]]』でゾフィー、セブンと共に放った光線。3人が手を繋いで輪を作り、回転することで発射される。ビートスターが惑星ブラムに衝突する際の時間稼ぎとして使用する。 === 変身時間 === ウルトラマンの活動時間は「3分間」と視聴者に認知されているが、本作品の作中およびシナリオにおいて3分間と言及されているわけではない{{efn|ウルトラマンの作中登場時間を変身時間として検証した文献がいくつかあるが{{Full|date=2014年1月}}、それによると変身時間は1分台から6分台までばらつきがあり、3分は目安程度とされている。}}。作中で「ウルトラマンのエネルギーは3分間しか続かない」と初めて明言されたのは、『[[帰ってきたウルトラマン]]』の第1話である。 TBS番組宣伝課発行の「ウルトラマンあらすじ集」には「ウルトラマンの持続時間は胸に点滅する[[カラータイマー]]のランプの色と警告ブザーが示す。最初は青色で3分間、途中黄色に変わった時が注意信号で、赤色になるとあと30秒で全ての力を失う危険信号になっている」と記述されているが、これは仮タイトル時の2月15日にTBS第一会議室で作成された「レッドマン最終申し合わせ事項」をほぼそのまま引用したもの。放映直前の「[[週刊TVガイド]]」1966年6月24日号では、「ウルトラマンの胸に赤ランプがつくと、彼の超能力もあと30秒で消滅するのだ!」と、青の具体的な持続時間および黄色の注意信号の件が省略され、続く「ジュニアTBSニュース号外」では「ウルトラマンの胸に赤ランプがつきブザーが鳴るのは、もうすぐエネルギーがゼロになるという警告である」と、ラスト30秒の件までが省略されて完成作品におけるナレーションに近いものになっている。ただし第7話には「あと30秒だ」というイデ隊員のセリフがあり、当初の基本設定が踏襲されている。 これら初期の設定を、[[大伴昌司]]が『少年マガジン』誌上で簡略化のうえ「3分間」と紹介したものを、円谷特技プロが後から公認したとされる。 なぜ制限が3分間であるかについて、円谷プロの[[満田かずほ]]監督は、多額の予算を必要とする特撮・格闘シーンを30分番組の1割に当たる3分間に収めるという約束事がなされたためと語っている。また、当時の人気格闘技[[ボクシング]]における1ラウンドの試合時間、[[長嶋茂雄]]の背番号などからヒントを得たとしている。 ==== カラータイマー ==== 撮影費用のかかる特撮部分の経費削減と、ウルトラマンが完全無欠のヒーローでありすぎると話に面白みが欠けるので、子供にも分かりやすい弱点を作ることが目的とされ、当初のデザインでは存在していなかったカラータイマーと変身時間の制限が導入されたといわれている。カラータイマーの点滅については、当時の主流だった白黒テレビを考慮しての面が大きい。 カラータイマーはデザイン上の要請とは無関係に後の企画会議で考案されたものであり、デザイナーの[[成田亨]]は「ロボットになってしまう」とこれを嫌い{{R|HISTORICA8}}、自身が作成したウルトラマンの絵画や塑像にはカラータイマーをつけていないことも多い{{R|白書102}}{{efn|[[国道4号]]に設置された[[青森県立美術館]]の案内看板に使われているイラストにはカラータイマーを描いている。}}。また、ウルトラマンの変身・巨大化時の右手を宙空に突き上げたポーズの人形にはカラータイマーがついていないが、ウルトラマンに不可欠なデザイン上の特徴として以後のウルトラシリーズに継承され、他の類似作品にも大きな影響を与えた。成田は、『[[ウルトラセブン]]』のデザイン時にこのことを見越してウルトラセブンの額に小さなランプをあらかじめ盛り込んでおり、実際にシリーズ中盤から活動限界を知らせる機能が追加されている。 撮影に用いられた実物は、3ミリの透明板をヒートプレスして透明エポキシ樹脂で点モールドが置かれ、中には青と赤のセロファンが入っている{{Sfn|新大全集|1994|p=149}}。 === 名付け === 作中では、第1話でハヤタは当初巨大宇宙人のことを「彼」と呼び「名なんて無いよ」と言っていたが、イデ隊員に「[[名無しの権兵衛]]なんてあるもんか」と言われたためその場で「ウルトラマン」と命名した。この時のハヤタはウルトラマンと一心同体になっていたため、ウルトラマンが自称したと解釈することも可能であるが、この命名がハヤタの意思なのかウルトラマンの意思なのか、作中で明示されたことはない{{efn|ハヤタとウルトラマンとの意思の関係については、スタッフからの共通見解も示されていない。}}。その後、敵対する宇宙人やゾフィーからも「ウルトラマン」と呼ばれている。 『ウルトラマンメビウス』第1話では[[ウルトラの父]]が「あの星(地球)では我々をそう呼ぶ」と語っている。 映像作品以外で「ウルトラマン」の名前のルーツが明示されることもあり、『[[小説 ウルトラマン]]』ではアラシの「ウルトラに強かった」と評するセリフから、漫画『[[ウルトラマン THE FIRST]]』では「ウルトラ作戦第一号の協力者」という着想からそれぞれハヤタが名付けている。 === ウルトラマンのデザイン・造形 === {{出典の明記|section=1|date=2012年10月}} ウルトラマンのデザインは、『ウルトラQ』でも怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを手がけた彫刻家の[[成田亨]]が担当。仕上げの最終段階で平面上の作業に見切りをつけたため、デザイン画の決定稿は存在しない{{R|白書102|特秘3ABC}}。成田の指示のもと、美術スタッフの[[佐々木明 (造形家)|佐々木明]]が粘土による造型作業を繰り返す中で、マスクと身体の模様が完成した{{R|特秘3ABC}}{{efn|デザイン画は存在しないが、佐々木明の制作した雛形は残されている。佐々木によると、顔の中央上部にあるトサカ状のものは、[[侍]](=強い者の象徴)の[[ちょんまげ]]をモチーフとしている。宇宙人であることから、赤いボディのラインは、火星の縞模様をイメージしている{{R|全調査報告28}}。}}{{efn|漫画家の[[みうらじゅん]]は「ウルトラマンの顔は[[弥勒菩薩]]の顔を元にしている<ref>別冊宝島「映画宝島」Vol.2『怪獣学・入門!』([[宝島社|JICC出版局]]・1992年)p.38.</ref>」「弥勒菩薩が怪獣と言う名の煩悩と戦い排除する」「スペシウム光線は、角度を変えると仏像のポーズになる」という指摘をしているが、成田や制作陣もそれを認めている。}}。成田のデザインイメージでは、ウルトラマンはマットなシルバー塗装ではなく、メッキ加工による銀であったという。ウルトラマンでは実現しなかったが、後に成田が美術を担当する『[[突撃! ヒューマン!!]]』において、主役ヒーローの[[ステンレス]]製マスクで結実した<ref>タイの特撮書籍{{Full|date=2014年1月}}におけるインタビューより</ref>。 雛型とスーツ、マスクの製作は佐々木明が担当{{R|HISTORICA8}}。 造形は、演技者の[[古谷敏]]の体型を採寸して[[ライフマスク]]を取って完全に古谷専用として作られており、他の演技者が着用することは考慮されていない{{R|特秘3ABC}}。古谷の体型が八頭身であることから、マスクを着けることで成田が人体の美の理想とする七頭身になるとしている。 撮影での傷みによる作り直しと改良・修正の意味も併せて、2度大きなモデルチェンジが行われている{{R|特秘3ABC}}。これは'''Aタイプ'''(第13話まで)、'''Bタイプ'''(第14 - 29話)、'''Cタイプ'''(第30話以降)と呼ばれて区別されている{{R|特秘3ABC|マガジン266}}{{efn|実際には撮影に伴う[[劣化]]などのために、単純に3種類だけでは区切れない細部の変更が認められる(Aタイプは黒いウェットスーツの上から銀と赤の塗料で何度も塗り直していた。足についてもCタイプスーツは当初の第30・31話ではBタイプの爪先の反り返った物をそのまま流用していたが、第32話からCタイプ用のブーツに代わるなど)。}}。 ; マスク : Aタイプのマスクはそれ以降のマスク同様に土台となる[[繊維強化プラスチック|FRP]]樹脂製マスクの裏打ちの表面に、マスク原型から抜いた合成ゴム・[[ラテックス]]の表皮をコートする形で作成されている{{Refnest|group="出典"|{{R|特秘3ABC|全調査報告28|マガジン20209|マガジン266|HISTORICA8}}}}。これは当初、作中で口を可動させる予定だったが{{efn|当初は必殺技として口からシルバーヨードを吐いたり、喋る予定であったが{{R|全調査報告28}}、後にテレパシーによる会話に変更となった{{R|F29118}}。}}、撮影が開始されてから口の開閉の効果が充分に発揮できないことが判明し、なおかつ口の横に不自然なシワ{{efn|開閉ギミックのせいでついたとされる硬化したラテックスの特徴的な劣化による変形{{R|マガジン20209|マガジン38}}。}}ができてしまった{{R|特秘3ABC|99謎}}ため、開閉がオミットされた{{R|マガジン38}}{{efn|この開閉ギミックがどのようなものであったかは明らかになっていない{{R|特秘3ABC}}。演じた古谷敏は特別な装置はついていなかったと証言しており、古谷の口の動きに合わせるものであったとも言われる{{R|特秘3ABC}}。書籍によってはえらを軸にして別体で下あご全体が可動する構造と記述している{{R|HISTORICA8}}。}}。1クール分の撮影が終了したころ、傷みと劣化が進行したため{{efn|撮影技師として参加していた[[佐川和夫]]は、保管時にマスクを起点に吊っていたためスーツの重みでマスクが伸びたと証言している{{R|特秘3ABC}}。}}、Bタイプに新調されるが、この際に口の開閉が廃されて口はモールドのみとなり、ラテックス使用の必要性がなくなったため、素材はFRP製となり、Aタイプの原型からポリエステル(FRP{{Refnest|group="出典"|{{R|UPM026|マガジン38|F29118}}}})で抜いて一体成型で仕上げて製作している{{Refnest|group="出典"|{{R|特秘3ABC|99謎|全調査報告60|マガジン20209|マガジン266|UPM026|HISTORICA8}}}}。一部の文芸スタッフ{{誰|date=2016年5月}}はこの経緯を知らず、放送を見て「前回まで宇宙人然としていた顔が鉄仮面のようになって驚いた」と証言している{{要出典|date=2021年4月}}。Bタイプマスクの特徴として上アゴの部分がやや飛び出して頬がほっそりし、口幅が狭く口元が締まっていることもあってやや口の上部分が出ており{{R|マガジン20209}}、知的でシャープな顔立ちである{{R|全調査報告60}}{{efn|目の淵上部には、よく見ないと分からないほど小さい穴が4つずつ空けられている。}}。Aタイプマスクの途中から右の耳の中には目とカラータイマーの電飾のスイッチが付けられている{{Sfn|新大全集|1994|p=148}}{{R|全調査報告60}}{{efn|Aタイプ初期のころは右耳のすぐ後ろに電飾スイッチが付けられている{{R|全調査報告60}}。}}。佐々木によって改良されたマスク原型から作られたCタイプマスクはBタイプに比べて細身ながらも、丸みを帯びた印象で口幅がより広く雄々しくなり、アルカイックスマイルが強調された穏やかに微笑んでいるかのような口元と、どことなく温和な雰囲気の顔立ちが特徴であり、Bタイプと比べると目の取り付け位置、耳の形状、その位置や角度も異なっている{{R|全調査報告100}}。耳の中心をくり抜くことで外部の音が聞こえやすくなっており、外側には銀色に塗った薄いスポンジが張られている{{Sfn|新大全集|1994|p=149}}。 : BからCに新たに造形し直されたことについては、デザイン・造形ともに関与していた成田の「晩年近くになるまで全く知らなかった」との証言や「[[佐々木明 (造形家)|佐々木明]]が自身で造形したBタイプにどうも満足がいかず、それを解決するため独自の判断で全面的に作り直ししたのではないか」との憶測はあるが、現在に至るもはっきりとわかっていない{{R|特秘3ABC}}。 : この新たに作られたCタイプマスクの原型は、ゾフィーや後の『帰ってきたウルトラマン』にも流用され、以降は長期に渡ってウルトラマン(ゾフィーと新マン含む)の標準的マスクになる{{R|特秘3ABC}}。 : 目の形状は3タイプとも共通である{{R|特秘3ABC}}。最初の撮影会の段階では目に覗き穴はなかった{{R|特秘3ABC}}。視界確保のために目の一部を透明パーツにするための作業が間に合わず、4月1日に行われた記者取材では成田自らマスクと目の一部に覗き穴があけたという{{R|HISTORICA8}}。内部の電球が見えないよう薄めたFRPが内側に塗られている{{R|特秘3ABC}}。 : A・B・Cマスク共通で2ミリのエンビ板がヒートプレスしてあり、目の押し型は木製となっている{{Sfn|新大全集|1994|p=149}}。 ; スーツ : 新宿御苑付近の東京アクアラングサービスに発注されたものが基になっている{{R|全調査報告28|HISTORICA8}}。スーツは前作の[[ケムール人]]で使用した[[ウェットスーツ]]が質感として成功したため、ウルトラマンもウェットスーツで製作されることになった。初期のAタイプは銀と赤(朱)のラインでそれぞれ型紙を起こし、スキューバダイビング用のポリエチレンの厚さ5ミリメートルの黒いウェットスーツ生地{{R|マガジン266|HISTORICA8}}をウレタンパッドを入れる前提で古谷の体形に合わせて裁断し、バラバラに作ったラインのパーツを接合して、ラテックスを張って製作されている{{Refnest|group="出典"|{{R|全調査報告28|UPM026|マガジン38}}}}。その後、当初の「宇宙人」からヒーロー性を強調した造形に変更が加えられ、スーツが作り替えられるたびに上半身がより筋骨隆々としたたくましい体型に変化していった{{efn|Aタイプではスーツの厚さは3ミリメートルであったが、Bタイプでは10ミリメートルほどの厚さになり、肩部と胸部の内側にウレタンパッドを貼って筋肉を強調している{{Refnest|group="出典"|{{R|特秘3ABC|マガジン266|マガジン38}}}}。Cタイプではスーツの厚さはBより薄くなったが、ウレタンを増量している{{R|特秘3ABC}}。}}。BタイプとCタイプは、赤い素材に銀の模様が描かれている{{R|マガジン266}}。AタイプとBタイプはマスクとの境目付近が銀色に塗装されていたが、Cタイプは塗装されておらず、マスクとの境目がそのまま色の境界線になっている。その後、アメリカから輸入した銀色のウェットスーツを基に赤いラインを描いて使うようになり、後にアメリカ製の赤いウェットスーツを入手するとそれらを裁断して1つのスーツに縫い合わせていたという{{R|全調査報告28|F29116}}。Cタイプでは、パッドが尻部分にも入れられている{{R|全調査報告100}}。 : 足(靴)は、Aタイプは市販のゴム[[地下足袋]]の改造品{{R|特秘3ABC}}。当初はラテックスのオリジナルのブーツを作っていたが、崩れたり破れたりとダメージが酷かったことから、後に既製品のブーツが改良されたものが使用された{{R|F29116}}。Bタイプはブーツの爪先が尖って反り返っている{{R|マガジン266}}上に、踵の上に成田のデザイン画にもあった縦に小さなヒレ([[ファスナー]]隠しと思われる)が付いている{{R|特秘3ABC|全調査報告60}}。Cタイプは靴底を薄いゴムに貼り替えた[[皮革]]製ブーツであるため、両内側にファスナーラインが見える。第30・31話では、Bタイプと思われるものを使用しているが、第32話以降は先の反り返っていないブーツ式のものが使用された{{R|全調査報告100}}。 : 手は医療用(外科手術用)の極薄手の手袋を使用し{{Refnest|group="出典"|{{R|特秘3ABC|F29116|HISTORICA8}}}}、スーツとの継ぎ目を撮影のたびにテープで貼って隠した{{R|マガジン38}}上で、手から手首全体をスーツと同じ銀色に塗装する{{R|マガジン266}}ことで、視聴者に「人が[[着ぐるみ]]を着て演じている」印象を薄める処理がなされている。足についても靴とスーツの境目に同様の処理が施されている{{R|全調査報告28}}。Cタイプではグローブの上に袖部分をはめている{{R|全調査報告100}}。 : 電飾のバッテリーは両脇に仕込まれている{{R|全調査報告60}}。 : 第39話のゾフィーの赤い球の中にいるウルトラマンは、ゾフィーがウルトラマンのスーツを流用しているため、古谷敏がゾフィーを担当することとなり、ゾフィーの手前で詰め物がされたウルトラマンのスーツをピアノ線で吊っている{{R|全調査報告140}}。ウルトラマンのスーツアクターを務めた古谷敏は、隆々とした体型にするためにウレタンを入れていたことから、古谷自身の皮膚感として伝わってこず、殴られた際の痛みは少ないものの、芝居はし難しかったとしている{{R|F28810}}。 ; 塗装 : 塗装にもウェットスーツ(ゴム)に対する密着性とアクションに伴う伸縮性が求められたが、当時はウェットスーツ専用の塗料が存在しなかった。そこで、ゴム系[[接着剤]]を[[溶媒|溶剤]]で希釈したものに銀粉を混ぜた専用の塗料を手作りし、使用している。これは通称「円谷銀」「ボンド銀{{R|特秘3ABC}}」と呼ばれ、ムラにならないようにするために非常に薄く、何度も塗り重ねてようやく塗装面として完成する。ウェットスーツ専用の塗料が一般に出回るようになるまで、以降のシリーズや他の円谷ヒーローなどの塗装の基本になった。黒いスーツの全体を銀色に塗装し、赤い色を上から重ねて塗っていたが、当初用いられていた塗料は色落ちや乾燥後のひび割れが激しく、撮影の度に補修が必要となっていた{{Refnest|group="出典"|{{R|特秘3ABC|マガジン38|F29116}}}}。 : Aタイプでは配色に合わせてスーツが継ぎ接ぎされていたが、Bタイプ以降は塗料のみで色分けされている{{R|特秘3ABC}}。Cタイプでは頭部側面が銀部分がなくなって赤一色のみに変更され、マスクのラインが赤と銀の分かれ目になっている{{R|全調査報告100}}。 : また、ウルトラマンの赤色は本来は[[朱色]]だが、[[ウルトラマンの登場怪獣#透明怪獣 ネロンガ|ネロンガ]]戦とその時の雑誌用特写で見られる色は真っ赤である。これは当時、まだ主流だったモノクロでの掲載を考慮してコントラストをハッキリさせるため{{efn|白黒写真では朱色も銀もグレーっぽくなってしまい、ラインが判然としない。原色の赤だと白黒では黒っぽく写る。}}のこの撮影時のみの処置で、後から拭き取れるように朱色の上から[[ポスターカラー]]で赤く塗ったものだった。 ; スーツの保存・その後 : これら撮影用スーツのその後の処理、保存状況などの詳細は以下の通りである。 :* Aタイプ - Bタイプに交代後、マスクを剥がして[[ザラブ星人#にせウルトラマン|にせウルトラマン]]を経て、ゾフィーに改造{{R|特秘3ABC}}。マスクはラテックスのために劣化し、廃棄されて現存しない。 :* Bタイプ - Cタイプに交代後は円谷倉庫で保管されていたが、1970年代に盗難に遭って現在に至るまで所在不明。 :* Cタイプ - 撮影終了後に番組スタッフの手元に渡っており、スーツ本体は経年劣化してしまったが、マスクのみスーツから外され当時の実物が現存する{{efn|放送終了後、新たに抜かれたCタイプのマスクが古谷に記念として贈られた。被る目的ではないため、目や口に穴やスリットは空けられていない。}}。 : ウルトラマンのスーツはゴム素材のウェットスーツを使用しているため、ゴムの腐食による傷みが激しく、数年以上完全な形で保存できない。また、銀色などの塗装にも合成ゴム系接着剤が使用されるため、日ごとに柔軟性が下がり、塗装面が大きいほどスーツが硬化して縮んでしまう。また撮影用スーツについては、爆発の爆煙効果に使用される[[セメント]]粉が表面の微細な気泡に入り込んで硬化してしまうため、なお劣化が早い。後のウルトラシリーズの各番組や映画、またイベントや展示、CM撮影時には、数年ごとに新調されている。作品の制作が終了後もこうして多くのスーツが作られる。またこれらは基本的に手造りであり、当初はこれほど長期的コンテンツになるとは考えられておらず、身体のラインの型紙なども存在しなかった。既存の写真などを参考に作るため、細部の異なった様々なバリエーションのスーツが存在することになる。スーツは中に入る演技者の体形に合わせて製作されるため、身長や体型の違いによるバリエーションも非常に多い。 : Cタイプを模したマスクは、佐々木明が撮影当時にオリジナルの型から作成したレプリカを原型としているが、古谷のような長身のスーツアクターは稀であるため、マスクを小さくしてバランスをとっている{{R|特秘3品田}}。目やカラータイマーの電飾は電球ではなく[[発光ダイオード|LED]]が用いられている{{R|特秘3品田}}。 === 他作品での活躍 === 第2期ウルトラシリーズでは特別視されていたため、単独で客演したことはなかった<ref>『てれびくんデラックス 愛蔵版ウルトラ兄弟大百科』([[小学館]]・[[1989年]])p60「ウルトラ兄弟誕生秘話特別座談会(2)」</ref>。だが、平成以降は単独での客演が多くなる。『メビウス』以降の作品では、[[ウルトラ兄弟]]の中でも伝説的存在とされる「ウルトラ6兄弟」の1人にカウントされている{{Refnest|group="出典"|<ref>『てれびくんデラックス愛蔵版 ウルトラマンメビウス超全集』(2007年・小学館)p60「ウルトラマンメビウス大辞泉 / ウルトラ6兄弟」</ref><ref>『ゴーストリバース』STAGE.1封入の作品解説書<!--ページ数表記なし--></ref>{{R|銀河伝説超全集|ウルトラ銀河伝説VisualFile}}}}。 ; 『[[帰ってきたウルトラマン]]』 : 第38話に登場{{efn|name="HAYATA"}}。ナックル星人によって処刑寸前だったジャックを、セブンと敢行した「ウルトラの星作戦」で救出する。ハヤタの姿でも登場し、さらには科特隊の隊員服を着ていた。 : 第51話では直接姿を見せてはいないものの、郷秀樹(ジャック)にテレパシーを送る。声は[[谷津勲]]が担当。 ; 『[[ウルトラマンA]]』 : 第1話、第13・14話、第26・27話に登場し、第13話のみ[[辻村真人]]が声を担当。 : 第1話でウルトラマンエースが北斗星司と南夕子にウルトラリングを与える場に立ち会う。第13・14話で[[ヤプール人|ヤプール]]の罠でゴルゴダ星におびき寄せられ、自分たちに気を使うエースを叱責する。エースを地球に送った後、十字架に縛られてスペシウム光線のエネルギーを奪われる。第26・27話では[[ヒッポリト星人]]にブロンズ像にされたエース同様、ヒッポリト星人の前にブロンズ化される。 :* 第1話でのスーツは、ジャックのスーツを塗り替えたもの{{Sfn|白書|1982|p=74}}。 ; 『[[ウルトラマンタロウ]]』 : 第1話、第25話、第33・34話{{efn|name="HAYATA"}}、第40話に登場。第1話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 アストロモンス|アストロモンス]]との戦いで瀕死の重傷を負った東光太郎をウルトラの国に連れていき、ウルトラマンタロウと合体させる。第25話でウルトラの国でタロウらとウルトラ六重合体を果たし、ウルトラタワーからウルトラベルを入手する。第33・34話でタロウからの招待で地球を訪れ、兄弟全員で[[テンペラー星人]]と戦う。第40話では[[天王星]]で[[タイラント (ウルトラ怪獣)|タイラント]]と戦い、敗北する。 ; 『[[ウルトラマンレオ]]』 : 第38・39話に登場。[[ババルウ星人]]の計略にかかり、ウルトラマンレオと戦う。 ; 映画『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』 : [[古川登志夫]]が声を担当。 ; 映画『[[ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団]]』 ; 映画『[[ウルトラマン物語]]』 : 上記とも声は[[堀内賢雄]]が担当。 ; 『[[ウルトラマンティガ]]』 : 第49話に登場。単独では初の客演。マドカ・ダイゴ(ウルトラマンティガ)がパラレルワールド(1965年の円谷プロ)に迷い込むという設定のもとで客演を果たす。宇宙恐竜[[ウルトラマンティガの登場怪獣#宇宙恐竜 ヤナカーギー|ヤナカーギー]]に苦戦するティガと共闘する。声は[[二又一成]]が担当。 ; 『[[ウルトラマンメビウス]]』 : 第1話{{efn|イメージのみ。}}、第47話{{efn|name="HAYATA"}}、第50話{{efn|name="KUROBE"}}、[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟|劇場版]]{{efn|name="HAYATA"}}、OV『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』STAGE.1{{efn|name="KUROBE"}}に登場。 : 劇場版では、ウルトラマンメビウスが地球防衛に就く20年前にセブン、ジャック、エースとともにファイナル・クロスシールドで[[ヤプール人|ヤプール]]を封印したのと引き替えに変身能力を失い、ハヤタの姿になって[[神戸空港]]の空港長を務めながらヤプールを監視していた。ヒビノ・ミライ(メビウス)に対し、「ウルトラ戦士は決して神ではなく、どんなに頑張っても救えない命や届かない想いもある」ということを認めながらも、「大切なのは最後まで諦めないこと」であると諭した。ヤプール復活を目論む宇宙人連合の策略に陥れられ、十字架にかけられたメビウスを救出するため、決死の変身を果たす。上着の襟には科特隊のエンブレムを付けている。映画のエンドロールや公式サイトなどのクレジットでは「ハヤタ」のみの表記であるが、作中の小道具である[[神戸空港]]制限区域立入証では「ハヤタ・シン」と表記されている。 : 第47話では暗黒四天王最後の刺客・[[メフィラス星人#『ウルトラマンメビウス』に登場するメフィラス星人|メフィラス星人]]が仕組んだゲームを傍観せざるを得なかったが、最終的にはメビウスとタッグを組み、メフィラス星人と戦う。第50話ではCREW GUYSに[[テレパシー]]を送って励まし、セブンから80までの兄弟と協力して太陽を覆っていた黒点を消し去る。『ゴーストリバース』STAGE.1では、[[ウルトラマンメビウス#ウルトラマンヒカリ / ハンターナイトツルギ|ウルトラマンヒカリ]]からのウルトラサインを見て、エースやタロウを怪獣墓場に向かうのを見届ける。 :* 劇場版ではAタイプを再現した着ぐるみが使用された{{R|特秘3品田}}{{efn|これについて、チーフプロデューサーの鈴木清は、ジャックと並んだ際の差別化もあり、表情のあるAタイプのマスクになったという{{Sfn|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009|p=87}}。}}。 ; 『[[ウルトラギャラクシー大怪獣バトル]]』 : 第13話に登場。[[大怪獣バトルの登場キャラクター#レイブラッド星人|レイブラッド星人]]によって惑星ボリスで石像化していたが、[[大怪獣バトルの登場キャラクター#レイブラッド星人|レイモン]]の力によって封印を解かれ、[[キングジョー#『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』に登場するキングジョーブラック|キングジョーブラック]]からペンドラゴンを助ける。 ; 映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』{{efn|name="HAYATA"}} : ウルトラマンが存在しないパラレルワールドで普通の人間として暮らしていたが、世界の危機に接してウルトラマンの記憶が宿り、モロボシ・ダン(セブン)、郷(ジャック)、北斗星司(エース)とともに変身する。 : エンドロールでは「ハヤタ」のみの表記であるが、公式サイトのクレジットでは「ハヤタ・シン」と表記されている。 :* スーツは『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』で使用されたAタイプを模したものが用いられた{{R|TVMAGA超8}}{{Sfn|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009|p=85}}。 ; 『[[ウルトラギャラクシー大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY]]』 : 第13話に登場。セブンとともにレイブラッド星人を撃破し、窮地に陥ったペンドラゴンを救う。 ; 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』{{efn|name="HAYATA"}} : セブンやメビウス、レイオニクス・レイとともに、[[ウルトラマンベリアル]]が率いる怪獣軍団と戦う。 :* スーツは他のウルトラ戦士との区別などからBタイプを模したものが用いられた{{Sfn|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=75|loc=「造型チーム座談会」}}{{R|ウルトラ銀河伝説VisualFile|特秘3品田}}。 ; 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』{{efn|name="KUROBE"}} : アナザースペースへと旅立つ[[ウルトラマンゼロ]]に、他のウルトラ戦士とともにエネルギーを与えた後、光の国を襲撃したダークロプス軍団を迎え撃つ。 :* スーツはCタイプを模したものが用いられた{{R|特秘3品田}}。 ; OV『[[ウルトラマンゼロ外伝 キラー ザ ビートスター]]』{{efn|name="KUROBE"}} : ビートスター天球で戦っていたウルティメイトフォースゼロの危機に、セブンやゾフィーとともに駆けつけ、[[天球]]のコースを変える時間稼ぎを行う。 ; 映画『[[ウルトラマンサーガ]]』{{efn|name="HAYATA"}} : セブン、ジャック、エース、レオとともにゼロの身を案じた他、本編からカットされたシーンでは[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#『ウルトラマンサーガ』に登場するバット星人|バット星人]]が作りだした怪獣兵器[[アントラー (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマン列伝』に登場するアントラー|アントラー]]と戦う。また、ゼロが時空を越えたのが怪獣墓場から怪獣を連れ去る謎の円盤と関係があると察知している。 ; 『[[ウルトラマン列伝|新ウルトラマン列伝]]』 : 第1話に登場{{efn|name="KUROBE"}}。セブンやゾフィーとともに歴代ウルトラマンの地球人との出会いを振り返った後、[[ウルトラマンギンガ#ウルトラマンギンガ|ウルトラマンギンガ]]を紹介する。 ; 『[[ウルトラマンギンガ]]』 : 他のウルトラ戦士とともに、スパークドールズに変えられた。第8話終盤において、[[ウルトラマンギンガ#ウルトラマンダーク(SD)|ウルトラマンダーク(SD)]]にダークライブされ突如出現、ギンガの前に立ちはだかる。[[ウルトラセブン (キャラクター)#ウルトラセブンダーク(SD)|ウルトラセブンダーク(SD)]]とのコンビネーションでギンガを苦しめるが最終的に敗北し、スパークドールズはヒカルのもとに渡る。第10話では久野千草がギンガライトスパークでウルトライブし、ウルトラセブン(SD)やウルトラマンティガ(SD)とともに[[グランドキング#超怪獣 スーパーグランドキング(SD)|スーパーグランドキング(SD)]]と戦うも敗れ、スパークドールズに戻る。最終回(第11話)で他のスパークドールズたちとともに地球を去る。番外編ではギンガライトスパークとともに再び地球に飛来し、再び千草がウルトライブしてティガ(SD)とともに[[ゼットン#『ウルトラマンギンガ』に登場するゼットン|ゼットン(SD)]]や[[マグマ星人#『ウルトラマンギンガ』に登場するマグマ星人(SD)|マグマ星人(SD)]]と戦う。 ; 『[[ウルトラマンギンガS]]』 : 直接登場していないが、[[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンギンガストリウム|ウルトラマンギンガストリウム]]のウルトラ6兄弟の力のうち2つにウルトラマンの技(スペシウム光線とウルトラスラッシュ=八つ裂き光輪)とイメージが登場。スペシウム光線はインペライザー軍団を殲滅した。ファイブキング(SDU)にも使用し、レイキュバスの部位を破壊した。物語開始時点より1年前を描いた前日談小説『マウンテンピーナッツ』では三度ギンガライトスパークとともに地球へ飛来。千草と共に[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#地底怪獣 デットン|デットン(SD)]]、[[ジャミラ (ウルトラ怪獣)|ジャミラ(SD)]]、[[スペースビースト#ノスフェル|ノスフェル(SD)]]と交戦した。 ; 映画『[[ウルトラマンX#映画|劇場版 ウルトラマンX きたぞ! われらのウルトラマン]]』 : [[ウルトラマンX#閻魔獣 ザイゴーグ|ザイゴーグ]]を封印していた碧石より出現し、[[ゴルザ#ゴーグファイヤーゴルザ|ゴーグファイヤーゴルザ]]と戦う。 :* スーツはCタイプを模したものが新造された{{R|特秘3品田}}。マスクはCタイプのレプリカをデジタルスキャンして[[3Dプリンター]]で縮小して出力したものから型どりしている{{R|特秘3品田}}。 ; 『[[ウルトラマンオーブ]]』 : 直接登場していないが、かつて[[ゼットン#光ノ魔王獣 マガゼットン|マガゼットン]]を封印しており、ウルトラマンオーブ=クレナイ・ガイがマガゼットンを倒した際にウルトラマンのフュージョンカードがオーブの手に渡った。それ以降、オーブがスペシウムゼペリオンに変身する際には、イメージとして登場。 : 第25話でフュージョンカードの絵柄が実体化した。 ; 『[[ウルトラマンジード]]』 : 第1話、第25話、劇場版に登場。第1話では他のウルトラ戦士たちとともにベリアルと戦い、第25話ではセブンやレオ、劇場版ではウルトラの父、ウルトラの母、ゾフィー、セブンとともにジードに思いを馳せた。台詞は発していない。 : この他、ジードがプリミティブに変身する際、ジード ロイヤルメガマスターが第17話でブラザーズシールド、第19話でスペシウムフラッシャーを使用した際にそれぞれ、イメージとして登場。 ; 『[[ウルトラマンR/B]]』 : ウルトラマン本人は登場していないが、光のエレメントを宿したウルトラマンクリスタルが登場。ウルトラマンロッソとウルトラマンブルがウルトラマンルーブに合体変身する時、イメージとして登場。 ; 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ』|ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ]]』 : ゾフィー、セブン、ジャック、エース、タロウとともに登場。台詞は発していない。 ; 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突』|ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突]]』 : 声は[[櫻井孝宏]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/471646|title=「ウルトラギャラクシーファイト」にウルトラフォース参戦、PVや声優発表|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-29|accessdate=2022-03-29}}</ref>{{efn|櫻井は2016年以降の『[[ウルトラマンフェスティバル]]』や、『ウルトラヒーローズEXPO』などでも声を担当している。}}。 === 本作品以降に登場する形態 === * [[大決戦!超ウルトラ8兄弟#グリッターバージョン|グリッターバージョン]] * [[ウルトラマンギンガ#ウルトラマンダーク(SD)|ウルトラマンダーク(SD)]] * 他のウルトラ戦士との合体 ** [[ウルトラマン物語|スーパーウルトラマン]] ** [[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟#メビウスインフィニティー|メビウスインフィニティー]] * ウルトラマンの能力を持つ他のウルトラ戦士の形態 ** [[ウルトラマンゼロ#グランセイバードゼロ|グライセイバードゼロ]] ** [[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンギンガストリウム|ウルトラマンギンガストリウム]] ** [[ウルトラマンX#ウルトラマンエクシードX|ウルトラマンエクシードX ベータスパークアーマー]] ** [[ウルトラマンオーブ]] *** スペシウムゼペリオン *** スペシウムシュトローム ** [[ウルトラマンジード]] *** プリミティブ *** シャイニングミスティック ** [[ウルトラマンZ|ウルトラマンゼット ベータスマッシュ]] == 総称としての「ウルトラマン」 == テレビシリーズの終了後、本作品の流れをくむ作品群「ウルトラシリーズ」が制作され、各作品のヒーローは「ウルトラマン」と総称されるようになった。その後、作中世界においても、『[[ウルトラマンメビウス]]』の物語冒頭で[[ウルトラの父]]がメビウスに対し「地球人が光の国の戦士たちを「ウルトラマン」と呼ぶ」と語っており、彼らの総称として「ウルトラマン」という名称が定着していることが物語にも反映された。 その姿は基本的にFRP製のマスクとウェットスーツをベースにしたスーツで造形され、銀と赤を基調としたデザインや、胸部の発光器などの特徴がある。しかし、それぞれの要素に例外が多く、全員の共通項を示すのは難しい。 当初はM78星雲光の国と呼ばれる特定の星の出身と設定されていたが、シリーズが続くにつれて[[ウルトラマンレオ]]やジョーニアス、[[ウルトラマンオーブ]]などM78星雲出身でないウルトラマンや、[[ウルトラマンガイア]]のように宇宙人でないウルトラマンも登場し、出自の設定も多彩になっている。 詳細は[[ウルトラシリーズ]]の各作品および[[ウルトラマン一覧]]を参照。 == 登場人物 == === 科学特捜隊隊員 === [[File:Asahigraph-1967-01-06-1.jpg|250px|thumb|right|科学特捜隊 (左からイデ、アラシ、ムラマツ、フジ、ハヤタ、ホシノ少年) (『[[アサヒグラフ]]』1967年1月6日号より)]] 隊員の名前はカタカナ表記のみで、フジ・アキコとホシノ・イサム以外のメンバーには名字しか設定されていなかったが、1996年公開の映画『甦れ!ウルトラマン』で全隊員のフルネームと漢字表記が追加設定された。年齢は、TBS番宣課が発行した「ウルトラマンあらすじ集」第一集に基づく{{R|ReferenceA}}。 ; ハヤタ(ハヤタ・シン/早田進) : 科学特捜隊養成所を首席で卒業したエリート隊員で、年齢25歳{{R|UPM0211}}。 : 竜ヶ森湖上空をパトロール中に、怪獣ベムラーを追っていたウルトラマンと衝突して殉職する。直後ウルトラマンと一心同体になって復活し、事件の際はウルトラマンに変身して怪獣や宇宙人と戦う。ウルトラマンと一心同体となって以降のハヤタの意識が本人のものなのか、それともウルトラマンの意識なのかは、明確に設定されていない{{efn|『ファンタスティックコレクション』{{Full|date=2014年2月}}では、ウルトラマンがハヤタを生かすためにハヤタに乗り移ってその人格を演じていたと記述されている。}}。 : ムラマツ不在時はキャップ代理を務める{{R|UPM0211}}。職務を忠実にこなす真面目な隊員{{efn|ムラマツのみならず、ウルトラマンからも「ハヤタは立派な人間」だと評される。}}であるが、第32話ではくじ引きに細工をする、第34話では変身しようとして間違って[[スプーン]]を掲げる、第35話では地球の平和のために倒し続けた怪獣たちに謝罪、第37話では戦意喪失により[[ピグモン]]を死なせてしまったイデに激昂して殴るなど、人間味を感じさせる一面も見せている。 : ハヤタがウルトラマンであることは、他の隊員たちには知られることはない。第14話のシナリオ準備稿では、ハヤタとウルトラマンが同じ個所を負傷したことを、ムラマツとアラシが不審がるシーンがあったが、未使用に終わっている<ref>『ウルトラマンベストブック』(竹書房・1993年)より{{要ページ番号|date=2021年4月}}。</ref>{{efn|『[[小説 ウルトラマン]]』にこの展開が残されている。}}。ただし、第1話でウルトラマンに命を救われたことは明かし、第11話ではウルトラマンとの特殊な関係を匂わせる。メフィラス星人から「貴様は宇宙人なのか?人間なのか?」と問われた際には、「両方さ。貴様のような宇宙の掟を破る奴と戦うために生まれてきたんだ」と答えている。 : 第39話で[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]から新たな命を与えられて、ウルトラマンと分離させられた。ウルトラマンと同化してからの記憶は失われており、そのことを不思議に思いながらも、宇宙に帰っていくウルトラマンを科特隊の仲間たちと共に見送った。 : その後、ウルトラマンがハヤタに姿を変えて登場することがあった<ref>『[[帰ってきたウルトラマン]]』第38話、『[[ウルトラマンタロウ]]』第33・34話、『[[ウルトラマンメビウス]]』の[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟|劇場版]]と第47話、映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』、『[[ウルトラマンサーガ]]』。</ref>。 : 『[[ウルトラマン怪獣伝説 40年目の真実]]』([[2005年]])ではウルトラマンとの再会が描かれた。 : 映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』([[2008年]][[9月13日]]公開)では、別世界のハヤタとフジ・アキコが夫婦になっており、こちらの世界の記憶がそれぞれ宿った際に、アキコが秘かにハヤタとウルトラマンの関係を知っていたことを示唆する発言をした。 : テレビシリーズから40年後の世界を描いた『ULTRAMAN』では17歳の息子、進次郎がおり、自身は防衛大臣の職に就いている。 :* 企画段階では、[[黒沢年雄]]や[[久保明]]もキャスティング候補に挙がっていた{{R|VIP}}。久保は、ブームになってからはやっておけばよかったという想いも抱いたが、当時は怪獣もの専門として扱われることを嫌っていたという{{R|VIP}}。 :* 『[[帰ってきたウルトラマン]]』の前身となる企画『続ウルトラマン』では、すでに引退し、冒険家になっている設定で登場が予定されていた{{R|帰ってきた帰ってきた13}}<ref>『続ウルトラマン』企画書第3話より。</ref>。 ; ムラマツ(ムラマツ・トシオ/村松敏夫) : 年齢36歳{{R|UPM0212}}。科学特捜隊日本支部ムラマツ班隊長。通称「キャップ」{{efn|時に「キャプテン」とも。}}。 : 部下を見守る良き隊長であり、謹厳実直な性格で部下からも慕われる。その一方、必要なときには冷徹な判断を下すこともある。侵略行為から地球を守るという科特隊の使命に対しては常に忠実であり、ウルトラマン{{efn|実はザラブ星人が変身した偽物。}}による破壊行為に対しても堂々と出動命令を下す決断力も持つ。また、[[バルタン星人]]の対策会議で攻撃に反対したり、[[ゼットン星人]]の円盤の侵攻に際しても攻撃を主張する部下をなだめるなど、慎重派の姿を見せる。ウルトラマンが宇宙に帰っていく際、寂しさに駆られる部下たちに向けて、「地球の平和は我々、科学特捜隊の手で守り抜いていこう」と告げた。パイプ煙草とコーヒーの愛好者{{R|UPM0212}}。 :* 『[[帰ってきたウルトラマン]]』の前身となる企画『続ウルトラマン』では、既に引退した老人で、再び現れた怪獣に苦戦する地球防衛組織に助言を与える人物として登場が予定されていた<ref>『続ウルトラマン』企画書第1話より。</ref>{{R|帰ってきた帰ってきた13}}。 ; フジ・アキコ(富士明子) : 年齢21歳{{R|UPM0212}}。科特隊ムラマツ班の紅一点。主に本部での通信オペレーションを担当するが、現場へも積極的に出動する活動的な隊員{{R|UPM0212}}。女性であることを理由に軽く見られることに対しては、少なからず反感を持つ。その一方、病人用のスープや[[チョコレート]]菓子を作って振舞ったり、自身の[[誕生石]]である[[真珠]]でおしゃれするなど女性らしい一面もあり、[[野点]]と怪獣供養では[[和服]]姿も披露する。第4話ではムラマツに「入隊以来一度も休暇を取っていない」と語られ、他の隊員たちに出動命令が下った中で一人だけ休暇を取っている。第14話では、プライベートでイデ隊員に銀座で買い物の付き添いをさせる。第24話では自分のミスで事態を悪化させたと思い込み、危険な水中任務を自ら志願するという責任感の強さも見せる。 : サトルという弟がいる。 ::*初期の台本では、「藤アキコ」という名前だった{{Sfn|大ウルトラマン図鑑|1996|p=82}}。本作品の企画時から『ウルトラQ』のレギュラーを1人スピンオフさせる旨が要求されていたため、江戸川由利子役の桜井が抜擢された{{Sfn|マガジン2020|2020|p=22|loc=「ウルトラ特集 あえて今! 愛のむきだし」}}。第32話で髪を結っているのは、同話にゲストとして出演した真理アンヌの髪がロングだったことによるものであったが、結果的に真理もショートにしていたという{{Sfn|マガジンVOL.3|2022|pp=20-21|loc=「桜井浩子 ウルトラマンを語る!」}}。 ; イデ(イデ・ミツヒロ/井手光弘) : 年齢24歳{{R|UPM0212}}。科特隊の科学担当で、数々の武器や装備を開発した発明マニア{{R|UPM0212}}。隊員たちの前ではコミカルなムードメーカーである一方で繊細な面も持ち、自分のミスを償うために無謀な行動に出たり(第13話)、事情のある敵との戦いを躊躇する(第23話、第30話)こともある。また、ウルトラマンさえいれば防衛チームは必要ないのではないかという、後のシリーズで繰り返し問われるテーマをいち早く提起する(第37話)。 : 第2話と第12話でウルトラマンとハヤタが同一人物ではないかという疑念を抱く。 : 幼いころに母を亡くしたらしい(第30話)。 : 漫画『ULTRAMAN』では光の巨人記念館の館長に就任している。 ; アラシ(アラシ・ダイスケ/嵐大助{{efn|[[満田かずほ]]は[[毒蝮三太夫]]の[[YouTube]]チャンネル『マムちゃんねる』に出演した際に「嵐大介」であるとしている<ref>{{YouTube|sOsrVfMlQzA|そうか!オレの芝居を長く見たいということだったのか!! 【満田かずほ】01}}</ref>。}}) : 年齢26歳{{R|UPM0212}}。科特隊きっての射撃の名手にして怪力の持ち主{{R|UPM0212}}。人間大のグリーンモンスを投げ飛ばした{{R|UPM0212}}。スパイダーショットを筆頭に、イデの開発した銃器はほとんどアラシが使用する。熱血漢であり、斬り込み隊長的な役回りが多く、そのためにバルタン星人にメッセンジャーとして体を乗っ取られる、[[ウルトラマンの登場怪獣#透明怪獣 ネロンガ|ネロンガ]]の電撃で気絶させられ、グリーンモンスの毒霧を2度も浴びせられるなど、しばしば危険な目に遭う。一見すると明るい性格だが、場合によっては一人で責任を背負い込むなどナイーブな面もある。第36話ではムラマツの命令に背いたために隊員の資格を一時剥奪される。 : 作中ではよくイデとコンビを組み{{R|UPM0212}}、二人の会話でストーリーが進むことが多い。 : [[ザラブ星人]]に化けられたり、[[メフィラス星人]]に巨人化させられたり、ケロニアや[[ゼットン星人]]には襲われたりするなど、宇宙人に狙われることが多い。 : 映画『大決戦!超ウルトラ8兄弟』では別世界の設定ながらハヤタと夫婦として登場する。 ; ホシノ・イサム(星野勇) : 年齢11歳{{R|UPM0212}}。科特隊本部にフリーパスで出入りしている少年{{R|マガジン38}}。本部への部外者の出入りは禁止されていると第20話で説明されるが、彼がどのような資格で出入りが許可されているのかは語られていない。第17話で「ハヤタを助けた」{{efn|ムラマツのセリフより。作中で実際にハヤタを助ける描写はないが、[[隕石]]の異変を早くから指摘し、[[ブルトン (ウルトラ怪獣)|ブルトン]]を発見するなど事件解決に貢献する。}}功績により準隊員に任命されたが{{R|UPM0212}}、既に第16話で科特隊の制服を着用する。年少者であるため、放射能汚染が懸念されるような危険な現場への出動は認められていない。スパイダーショットで[[ウルトラマンの登場怪獣#透明怪獣 ネロンガ|ネロンガ]]の片目を潰したり(第3話)、フジとミチコを[[ラゴン (ウルトラ怪獣)|ラゴン]]から逃がすために自ら囮になったり(第4話)、ザラブ星人に捕らえられたハヤタにベーターカプセルを届けたり(第18話)、フジ隊員に代わって小型ビートルを本隊の指示を受けながら離陸させたり(第21話)と、子供ながら数々の功績を残す。 :* 演者がスキー事故で骨折したため、第25話を最後に降板。作中では何の説明もないままの退場となった。 :* 『超ウルトラ8兄弟』の初期プロット『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟2』では、成人している設定で登場<ref>『超ウルトラ8兄弟』のDVDメモリアルボックス(バンダイビジュアル・2009年1月23日発売・BCBS-3428)封入のレプリカ台本</ref>。 === 科学特捜隊の協力者 === {{節スタブ|date=2016年5月25日 (水) 13:02 (UTC)}} ; {{読み仮名|岩本博士|いわもと はかせ}} : 40歳、御殿山の科学センター所長{{R|ReferenceA}}。ジェットビートルの設計者であると同時に、フェニックス号などの高性能宇宙船も開発している。冷静な判断力とロケット工学や動物学などあらゆる方面の学問に精通する優れた頭脳で科学特捜隊に貢献している{{Refnest|group="出典"|{{R|全調査報告26|UPM0210|マガジン38}}}}。 : 最終回では前日に作った無重力弾でウルトラマンでも倒せなかったゼットンを一瞬で倒した。 : ゲーム『[[ウルトラ作戦 科特隊出動せよ!]]』の設定では、科特隊初任務時に引退した一の谷博士に代わって科特隊顧問になったとされる。 :* 第11話の山本博士、第24話の山川博士、第33話のヤマモト博士は脚本では岩本博士になっており、第18話の森田博士、第36話の博士を含めていずれも岩本博士役の平田の代役であった{{R|全調査報告26}}{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=46}}。 == 科学特捜隊 == 国際科学警察機構の下部組織で、正式名称は{{読み仮名|'''科学特別捜査隊'''|かがくとくべつそうさたい}}{{R|UPM0210}}{{efn|放送当時に人気であった『[[特別機動捜査隊]]』を意識したネーミングとなっている{{R|TVMAGA超892|マガジン38}}。}}。略称は{{読み仮名|'''科特隊'''|かとくたい}}。通常の警察組織では対処できない怪事件や異変の調査、地球を他惑星の侵略者からの防衛が主な任務である{{R|UPM0210}}。基本的には怪事件調査のための組織で、怪獣との戦闘は特別任務である。[[パリ]]に本部があり、作中では[[インド]]や[[ボリビア]]、[[ニューヨーク]]、[[中近東]]などの支部について言及され、他にも[[ブラジル]]、[[ロンドン]]、[[モスクワ]]、[[トルコ]]、そして[[日本]]に支部を置く。外部から本部へは交換手を介しての通話が可能で、緊急連絡時の直通番号は999{{R|全調査報告20}}。[[英語]]表記は'''SSSP'''(Science Special Search Party・通称スリーエスピー)である。設定ではパリ本部の長官は[[スイス]]人のF・G・ピースであるとされている{{R|SSSP}}。 日本(極東)支部の隊員で作品中に登場するのは5名で、ムラマツ隊長以下副隊長格のハヤタ隊員、アラシ隊員、イデ隊員、フジ・アキコ隊員。途中からホシノ少年も準隊員になり、[[ピグモン]]にも特別隊員の称号が贈られる(第37話)。パリ本部やインド支部の隊員が訪れることもある(第7話、22話、23話、31話、32話){{R|UPM0210}}。 ムラマツ隊長以下のムラマツ班の他にも、『ウルトラマンメビウス』には宇宙での任務を目的としたサコミズ班が登場するほか、設定上はミナト班やヤマト班などが存在しており{{R|SSSP|UPM0210}}、[[金城哲夫]]の小説では100人以上の隊員がいると設定されている。また、漫画『[[#未制作シナリオ|ウルトラマン 科特隊奮戦記 ジャイアント作戦]]』には、電波班・分析班・技術班などのほか、科特隊日本支部上層部の人間としてサイゴウ総司令、ミヤジマ副司令が登場する。 設定では、『ウルトラQ』に登場した一ノ谷博士らが中心となって日本支部を設立したとされ<ref>ノーベル書房「怪獣大全集」{{要ページ番号|date=2016年5月}}</ref>、『ウルトラQ』と本作品の間の出来事を描いた[[円谷プロダクション|円谷プロ]]公認のPCゲーム『[[ウルトラ作戦 科特隊出動せよ!]]』では、ウルトラマンが現れる以前から怪獣と戦っており、創設者の一ノ谷博士も最初はメンバーに入っていたが第1話「科特隊日本支部誕生」の六角村での核露怪獣ゴルドキング迎撃作戦時に重傷を負い、第一線から退いている{{efn|雑誌記事(B-club 83 octobr 1992)では一ノ谷博士の死が記述されているが、ゲーム中にそのような描写はない。}}。第31話のムラマツキャップの話によると、少なくとも20年は歴史がある。 ビデオ『ウルトラマンのすべて!』(バンダイビジュアル)では科学特捜隊が創設されることになった理由として『ウルトラQ』に登場したゴメス、ゴロー、ペギラ、ガラモンの映像を見せている。 本来は戦闘よりも調査に重点を置いた組織として描かれているが、科特隊が独力で倒す怪獣も多く(科特隊がいなければ、ウルトラマンが倒されていたかもしれないケースもある)、その数は歴代の防衛チームで最多である{{efn|name="no1"}}{{efn|これは「ウルトラマンと戦う怪獣は1話につき1体だけ」と決められていたため、怪獣が複数登場するエピソードでは残りの怪獣は他の怪獣に倒されるか科特隊が倒すかしなければならなかったからである。}}。 === 日本支部基地 === [[東京]]近郊(城西方面)に位置し、スロープに囲まれた五面体型で銀色の建造物と五面体型で黒色の建造物を組み合わせた「本部」と呼ばれる支部、効率的に配置されたジェットビートルの発着ポートなどの付属建造物で構成されている{{R|全調査報告20|UPM1230}}。本部の外壁は、あらゆる光線や熱線を遮る特殊な合金を加えた[[鉄筋コンクリート]]製{{R|UPM0210}}。基地内部には、隊員たちが勤務する地下に大型[[電子頭脳]]が装備された司令室をはじめ、司令室の上階とポールで繋がる隊員寝室や、ホテル並みの環境が整った来客用のレスト・ルーム、回収された遺留品を研究する保管室に、新装備開発のための作業室などが置かれ、基地周囲には、自動消火装置や鉄壁も設置されている{{R|全調査報告20}}。 24時間体制で隊員と守衛が常駐して備えている{{R|全調査報告20}}。 第17話で、[[ブルトン (ウルトラ怪獣)|ブルトン]]が生み出した[[四次元]]空間に包まれ、第31話ではゴトウに化けたケロニアに侵入されるなど、襲撃を受けることも少なくない。また最終回では、[[ゼットン星人]]に侵入されて内部を破壊され、[[ゼットン]]の火球攻撃を受けて火災が発生する。 第38話と最終回である第39話では、司令室の大型電子頭脳以外に様々な[[レーダー]]機や計測器といったコンソールシステムが導入されている{{efn|これらの計器類は、第35話に登場した月ロケットセンターのセットを流用している。}}。 『ULTRAMAN』の世界では表向き解体されており、日本支部はウルトラマンの軌跡、活躍を展示した「光の巨人記念館」となっている。 ; デザイン・造形 : デザインは成田亨が担当{{R|UPM1230}}。最初に作られたセットは初期のライブ撮影後に取り壊され、その後は必要に応じて新たに作られた。第16話で作られたセットでは、ビートルの発射台に[[カタパルト]]が増設され、同時に周囲の骨組みや照明の色が変更された。第17話で作られたセットは、発射台の裏手を通るスロープの基部の形状やレーダーの位置が異なる{{R|UPM1230}}。第39話で作られたセットは、本棟と発射台の位置関係が異なる(そのためスロープがなくなっている)ほか、別棟の形状がまったく異なる<ref>『ウルトラマン超兵器大研究 〜「科学特捜隊基地<初期型>」超精密ペーパークラフト付き〜』(2013年、マイナビ)より{{要ページ番号|date=2016年5月}}。同書はタイトルの通り、付録の[[ペーパークラフト]]で初期型の基地を再現している(ただし、裏手の造形は画面に映っておらず資料も残っていないため、推測に基づくものである)。</ref>{{R|UPM1230}}。 : 司令室は、東京美術センターの倉庫であったNo.3ステージの南側の一角に組まれ、大コンピューターの稼働をイメージさせるために、壁面コンピューターには大量に小型電球が配されている{{R|UPM3728}}。 === 装備 === 科学特捜隊は数々の特殊装備を持ち、状況に応じて運用している。装備の開発は主に科学センター所属の岩本博士{{efn|書籍『ウルトラマンベストブック』には、岩本博士は対宇宙防衛研究所では山根博士に、電波研究所では一ノ谷博士に師事」という記述がある{{R|ベストブック69}}。また同書籍では、『[[快獣ブースカ]]』物語の舞台であるブースカ横丁は科学特捜隊日本支部の近くにあるとされている。}}とイデ隊員が行っている。 ==== 隊員服 ==== 通常任務や非番の際は威圧感を与えないために青い[[ブレザー]]とライトブラウンのスラックスとネクタイ(フジ隊員はスカート)、白いワイシャツを着用している{{R|全調査報告20|UPM0210}}。作戦出動時の戦闘服は[[オレンジ色]]で、オレンジ色の[[ネクタイ]]、黒いブーツとグローブをつける{{R|全調査報告20}}。肩から背中はセーラー服のような処理がされており、ワイシャツのようにもなっている{{R|UPM0330}}。耐寒・耐熱性が高く、宇宙空間では簡易[[宇宙服]]の機能も持つ{{R|マガジン232|UPM0213}}。[[ネクタイピン]]の'''オートジャイロ'''{{R|画報上}}は[[放射能]]や[[電磁波]]を感知してランプが点滅する危険探知機である。また、設定のみではあるが、小型カメラがベルトのバックルにある{{R|UPM0330}}。左胸のスリットに収納するためのチャックがあるが、ハヤタのみの仕様である{{Sfn|新大全集|1994|p=90}}。 普段着ている青いブレザーの下に出動時のユニフォームを身に着けており、着替えを必要としないのも、本作品だけの設定である。また、簡単な調査活動や一般市民への聞き込み、他の支部から来た隊員の出迎えなどの場合には、ブレザーのままで出る(第3話、22話、28話、31話、32話)。 * デザインは岩崎致躬が担当{{R|UPM0330}}。科学特捜隊の企画設定であった「国際警察機構」のイメージから警官のようなものに仕上げられた{{Sfn|新大全集|1994|p=90}}。オレンジはクランクイン以降は赤味がやや強くなっている{{R|UPM0330}}。 ==== 銃器類・特殊装備 ==== ; 流星バッジ{{R|UPM0213}} : 隊員全員(岩本博士を含む)が隊員服の襟につけている科特隊の[[エンブレム]]型バッジで、内蔵されている[[アンテナ]]を伸ばして超小型の高性能[[通信機]]として使用される。普段は、服の裏地にあるパイプの中に収められている{{Sfn|新大全集|1994|p=90}}。 :* 中央部にある流星マークは布製で、左右にあるカバーは金属の叩き出しである{{Sfn|新大全集|1994|p=90}}。マークのライン処理が異なる2種類のものが存在する{{R|UPM0330}}。 [[File:ウルトラマン ヘルメット (29095968076).jpg|thumb|科特隊のヘルメット]] ; ヘルメット{{R|UPM0213}} : 出動時に被る特殊[[ヘルメット]]。丈夫な素材で出来ており、無線機と、防護[[バイザー]]を備える。放射能防御バリア機能も備わっており、第18話で使用された。話数や隊員によってバイザーの色が異なっている{{R|UPM0330}}。 :* 撮影用[[プロップ]]は、当時[[クノー工業]]から市販されていた[[ヘルメット (オートバイ)|バイク用ヘルメット]]をベースに美術スタッフが製作したもの<ref>『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]Vol.52』(1990年春季号)p.10 - 11</ref>。 ; 防毒マスク : ヘルメットの別添パーツ。第21話のみ使用された。ヘルメットの正面に装着してバイザーを下ろせば、顔面を完全に覆うことができる。あらゆる[[毒ガス]]から隊員の生命を守るために開発された高性能なマスクだが、[[ケムラー (ウルトラ怪獣)|ケムラー]]の吐く強烈な[[亜硫酸ガス]]に対してはあまり効果がない。 ; 潜水用具{{R|UPM0214}} : 第24話に登場。[[ウルトラマンの登場怪獣#深海怪獣 グビラ|グビラ]]に襲われた海洋センターの救助活動でフジ隊員が着用。ウェットスーツとアクアラングのみと動きやすく非常に軽装だが深海200メートルの水圧やグビラの巨体が起こす水流にも耐えることができる。 ; 宇宙服{{R|UPM0214}} : 第38話に登場。Q星での探査において隊員たちが着用した酸素ボンベとセットになった気密服。緊急時にはボンベから酸素を噴射させることで短時間ながら500メートルの飛行も可能。 ; [[スーパーガン]]{{R|UPM0213}} : 全長:25センチメートル 重量:1キログラム : 隊員全員が腰のホルスターに携行する小型[[レーザー]]光線銃。岩本博士、福山博士も装備。安全装置を解除すると基部に格納されていた銃身が瞬時に飛び出し、稲妻状の高出力レーザー光線(第5話では直線状、11話では連射する光弾状)を撃ち出す{{R|マガジン232|UPM0213}}。単独使用では怪獣を牽制する程度の威力しかないが、第37話では3人で銃口を合わせて格段に破壊力を向上させて一斉に撃つトリプルショットで再生[[テレスドン]]を倒す。パワーを絞ることで門扉の開閉スイッチを押すことも可能{{R|全調査報告20}}。また、以下のような各種の特殊弾やアタッチメントを銃身に装着して、様々な戦術を行うことができる。科特隊基地への来訪者に対しては、ムラマツがこの銃を用いて身体検査を行う(第22、31話)。 : 後年制作された『[[ウルトラマンダイナ]]』第41話の作中にも同型の銃が登場するが、本作品との繋がりを意図した演出ではない。また、小説『[[ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント]]』では、銃身を切り詰めたスーパーガン・コンバットタイプの存在が語られている。 :* 撮影用プロップは金属を削り出して作られており{{R|全調査報告20}}、後年のインタビューで桜井浩子がその重さのために苦労したと語っている。 :; 特殊風船爆弾{{R|UPM0214}} :: 第8話に登場。命中すると風船爆弾が飛び出す。用心のために[[ピグモン]]に取り付け、さらに見失わないための目印とした。後に[[レッドキング]]の前に飛んだ瞬間スーパーガンで撃たれ爆発した。 :; SOS信号弾{{R|UPM0214}} :: 第8話で登場。上空に色のついた煙を撒く信号弾を打ち上げる。 :; 原子弾{{R|UPM0214}}{{efn|書籍によっては「超小型核弾頭」と記述している{{R|画報上}}。}} :: 第19話に登場。[[バニラ (ウルトラ怪獣)|バニラ]]の目をつぶす。 :; 麻酔弾{{R|UPM0214}} :: 第34話に登場。強力な麻酔機能で[[ウルトラマンの登場怪獣#メガトン怪獣 スカイドン|スカイドン]]を約10分間眠らせる。 :; 新型麻酔弾{{R|UPM0214}} :: 麻酔弾と同じく、第34話に登場。麻酔弾より効果は強く、スカイドンに使用。 :; UNG麻酔弾{{R|UPM0214}} :: 第26話に登場。[[ワシントン大学]]{{要曖昧さ回避|date=2023年4月}}のスミス博士が開発した、米国製の新型麻酔弾。気温などにもよるが一発で6時間近くは効果がある。[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]に使用して眠らせるが、6時間より早く目を覚ます。希少な兵器で、ムラマツはNY支部に追加の麻酔弾を発注するが、在庫切れと回答される。 :; 小型発信弾{{Sfn|研究読本|2013|p=94}}{{efn|書籍によっては「小型発信器」{{R|画報上}}、「発信器」{{R|UPM0214}}と記述している。}} :: 第27話でゴモラの尻尾に撃ち込み、移動するゴモラの位置を確認した。 :; スパーク8{{R|UPM0214}} :: 第37話に登場。イデ隊員の発明した新兵器で、スーパーガンの銃身に装着したアタッチメントから強力な光弾を連射する。巨大怪獣の体を粉砕するほどの破壊力がある。再生[[ドラコ (ウルトラ怪獣)|ドラコ]]、[[ジェロニモン]]を撃破した。 :; 無重力弾{{R|UPM0214}}{{efn|書籍によっては「無重力爆弾」と記述している{{R|画報上}}。}} :: 第39話に登場。岩本博士が一発のみ試作した強力爆弾で、ウルトラマンを倒した[[ゼットン]]を、一撃で空中に浮かせ爆発させる。文献では形状が鉛筆に似ているため'''ペンシル爆弾'''と表記されていることが多い{{Sfn|白書|1982|p=51}}。 :; スタミナカプセル :: 映画『甦れ!ウルトラマン』に登場。イデ隊員が開発した物で、ウルトラマンのスタミナを回復させる効果を持つ。ウルトラマンのカラータイマーに命中し、点滅していたカラータイマーを青にまで回復させる。上記の小型発信弾使用シーンのバンクが使われている。 ; スパイダーショット{{R|UPM0214}} : 全長:50センチメートル 重量:3キログラム : イデ隊員が開発し、主にアラシ隊員が装備している高出力の大型熱線銃。ホシノ少年でも扱いが可能。銃の後部上面にダイヤル式セレクターがあり、熱線、微小な威力のリング状光線、高熱火炎の3種類を撃ち出し、破壊力を敵に合わせて調整することも可能{{R|マガジン232}}。8種類の光線を発射可能なことから8本の脚を持つ[[蜘蛛]]にちなんで命名された、と紹介されることもある。動力源は超小型[[原子炉]]で、カセット式で交換できるとの設定がある{{R|全調査報告20}}(作中未登場)。火炎放射は[[ウルトラマンの登場怪獣#怪奇植物 スフラン|スフラン]]のツタを焼き切る。熱線はミイラ人間を倒し、[[ウルトラマンの登場怪獣#透明怪獣 ネロンガ|ネロンガ]]の片眼を潰す。 :; 水素注入機 :: 第34話に登場。スカイドンを[[地球の大気|大気圏]]外へ飛ばすためにスパイダーショットで打ち込まれた水素ガスを送り込むアタッチメント{{R|全調査報告20}}。チューブで水素ガス供給車に繋がっている。 ; マルス133{{R|UPM0214}} : 全長:78センチメートル 重量:2キログラム : イデ隊員が危急存亡に備えて密かに2丁製作した小型強力光線銃で、第16話で初登場する。マルス(Mars、[[火星]])の名の通り、理論上スペシウム光線と同じ威力を有し{{R|マガジン232}}{{efn|火星には、スペシウム光線に含まれる物質スペシウムが存在するという設定である。}}、[[バルタン星人#二代目|バルタン星人(2代目)]]の小型分身を撃墜したり、[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]の尻尾を切断したり、[[ゼットン星人]]を銃撃して倒すなど、スパイダーショットに次ぐ主力火器として活躍する。ゼットンには全く効かない。プロップは『ウルトラセブン』の「パラライザー」に流用された。 ; マッド・バズーカ{{R|UPM0214}} : 全長:1メートル 重量:5キログラム{{Sfn|白書|1982|p=59}} : 第21話でホシノ少年の「相手の泣き所(弱点)を一発で」という言葉をヒントにイデ隊員が開発し、[[ケムラー (ウルトラ怪獣)|ケムラー]]を倒す。第29話では、強い光を放つコロナ弾で光に弱い[[ウルトラマンの登場怪獣#黄金怪獣 ゴルドン|ゴルドン]]にダメージを与える。 :* プロップは『ウルトラセブン』の「スパイダー バーチカルショットガン」に改造された。 ; QXガン{{R|UPM0214}} : 第36話に登場。イデ隊員が4年かけて開発した携行火器で、QXとは'''Q'''uick e'''X'''tinguish(急速な消滅)の略{{R|全調査報告20}}。怪獣の脳細胞を一撃で破壊する特殊な火器。[[ウルトラマンの登場怪獣#変身怪獣 ザラガス|ザラガス]]戦において使用。頭部を攻撃した際は自動反撃能力でさらに凶暴にさせるものの、ジェットビートルから口の中に撃ち込むことによってダメージを与える。 :* 脚本では、可視光線に変換した宇宙線エネルギーを、敵の脳に直接発射し、中枢神経を分断する、という説明があった{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=48}}。 ; ニードルS80{{R|UPM0214}} : 第38話に登場。イデ隊員が開発した新型携行大型火器で、スパイダーショットの10倍の威力を持つ。Q星で[[ウルトラマンの登場怪獣#光熱怪獣 キーラ|キーラ]]に対して用いられるが、無効に終わる。 :* プロップは後に黒と赤にリペイントされた上で[[ウルトラ警備隊]]のエンブレムが施され、『ウルトラセブン』の「エレクトロHガン」に流用された。 ; 熱線重機関銃{{Sfn|研究読本|2013|p=96}} : 第23話に登場。本体と銃架に分割して携行する。[[ジャミラ (ウルトラ怪獣)|ジャミラ]]に対して使用された。 ; ナパーム手榴弾{{R|UPM0214}}{{efn|書籍によっては「携帯ナパーム弾」と記述している{{R|画報上}}。}} : 第8話に登場。ハヤタ隊員とムラマツキャップがベルト後部のボックスに入れて携行して使い、2発で[[ウルトラマンの登場怪獣#地底怪獣 マグラー|マグラー]]を倒す。有効投擲距離は20メートル。 ; 強力乾燥ミサイル{{efn|書籍によっては「急速乾燥ミサイル」と記述している{{R|画報上}}。}} : 第25話で使用されたもの。[[ウルトラマンの登場怪獣#冷凍怪獣 ギガス|ギガス]]を乾燥状態にして粉々に砕く。作中ではイデ隊員が「ミサイル」と呼ぶが、実際にはビートル機の胴体底部の自動開閉弾倉から落とす「[[無誘導爆弾|投下弾]]」タイプの兵器である。 ; バリア・マシン{{Sfn|全調査報告|2012|p=22}}{{R|UPM0214}}{{efn|書籍によっては「バリヤーマシーン」と記述している{{R|画報上}}。}} : 第12話に登場。イデ隊員が開発したバリヤー発生装置で、この装置を背負った者を電磁幕が覆って怪獣の光線を防ぐが、物理的攻撃は防げない。小型原子炉が背部に装備されている{{R|画報上}}。アラシ隊員が使用して[[ウルトラマンの登場怪獣#ミイラ怪獣 ドドンゴ|ドドンゴ]]の怪光線に効果を発揮するが、光線で飛び散った岩石の破片には効果がなく、アラシは負傷する。パーソナル・バリヤーという名称で紹介している文献もある。また、小説『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』では、ウルトラ警備隊の[[ウルトラ警備隊#車両・潜航艇|ポインター]]に装備されている「光波バリヤーシステム」はこれの発展型とされている。 ; パンスペースインタープリター : 第16話に登場。イデ隊員開発の[[万能翻訳機|全宇宙語翻訳機]]で、[[バルタン星人#二代目|バルタン星人(2代目)]]から科特隊本部への通信の翻訳で初めて実戦投入される(124875回路に接続)。これを発展させたという設定で『ウルトラマンメビウス』に同名の装置が登場する。 : 似たような用途の装置として、第37話に登場する怪獣語翻訳機がある。イデ隊員と東西大学の権田博士が開発した物で、ピグモンの言葉を自動翻訳するのに使用される。 ; スペクトルα線・β線・γ線 : 第23話に登場。イデ隊員がムラマツが推測した透明化のメカニズムに基づいて徹夜で開発した三つの新兵器で、スペクトルα線は光の屈折を自由にコントロールする効果、スペクトルβ線は光の色彩吸収力を破壊する効果、スペクトルγ線は光の反射角度に制限を加える効果を持つ。ジェットビートルと小型ビートルに搭載されて使用され、[[ジャミラ (ウルトラ怪獣)|ジャミラ]]の見えない宇宙船を可視化させる。 ; ナイフ{{R|UPM0213|マガジン38}} : 隊員服の肩の襟の裏に内蔵している流星型のナイフ。第2話でハヤタ隊員が[[バルタン星人]]に対して[[手裏剣]]のように投げつけるのが唯一の使用例。相手が消え去った痕の影から僅かな出血があっただけである。 ; マーカー{{R|UPM0213}} : 第10話でイデ隊員が使用。ブーツ横に貼り付けられた科特隊のエンブレム(通称「流星マーク」)を模した万能マーカー。はがして木や壁に貼ることで、他の隊員にルートを指示する。 ; 溶解器{{R|全調査報告22|UPM0214}}{{efn|脚本では、ジェット・バーナーという表記であった{{Sfn|全調査報告|2012|p=85}}。}} : 第24話でフジ隊員が使用。[[ウルトラマンの登場怪獣#深海怪獣 グビラ|グビラ]]に襲われた海底センターの救助のためにイデ隊員が急造したもので、海底センターの外装に使用されている特殊合金を溶断可能な能力を持つ。 ; 消火液噴射装置{{R|画報上}} : 第32話で使用。ビートル機の胴体底部に装備され、上空から噴霧装置で散布する。短時間のうちに山火事を消し止める。 ; ハンド電波探知機{{R|UPM0214}} : 高性能の探知装置で、接近するネロンガを確認するために使用された。 ; 方位磁石{{R|UPM0214}} : 多々良島での探索でイデが左腕に嵌めて使用した装置。 ; 宇宙用追加装備{{R|UPM0214}} : 宇宙空間での移動に使用する、ヘルメットと噴射装置兼用のボンベ。 ; 身分証{{R|UPM0214}} : 自身の身分証明のために隊員が携行する、プレート状の証明証。 ; 磁力カウンター{{R|UPM0214}} : 地底人のケリチウム磁力光波を出す機器を見つけた。 ; 水爆探知機{{R|UPM0214}} : レッドキング二代目が飲み込んだ水爆を見つけるために用いられたが、半径20キロメートルでしか反応しない{{R|全調査報告22}}。 ; スパイカメラ(ミノックス){{R|UPM0214}} : 28話でイデ隊員がバスの中で所持、31話でフジ・アキコ隊員がゴトウ隊員の所持品を撮影。 ==== 航空機 ==== :{{機動兵器 |名称=ジェットビートル |全長=18.5{{nbsp}}m |全幅=13.8{{nbsp}}m |重量=25{{nbsp}}t |最高速度=マッハ2.2{{efn|書籍『ウルトラマン白書』ではマッハ2と記載している{{Sfn|白書|1982|p=58}}。}} |乗員=6名 }} ; ジェットビートル{{R|UPM0215}} : 岩本博士が機動性を重視して開発した科特隊の汎用戦闘攻撃機(VTOL機)で、主兵装は機首のビーム砲や主翼端のロケットランチャー{{efn|ミサイルポッドという表記もある{{R|夢のかけら125}}。}}で、地上に斜めに着陸して攻撃することも可能で、第35話で[[ウルトラマンの登場怪獣#亡霊怪獣 シーボーズ|シーボーズ]]を攻撃した。さらに、機体下部や主翼下部に多弾装ロケットランチャー{{R|マガジン202042}}や各種爆弾などの様々な兵器を装備し、第25話では強力乾燥ミサイルでギガスを倒す。コクピットにある銃架にマルス133やQXガンを装着して使うこともある。機体下部には上昇用ノズルが3基装備され、ホバリングや垂直離着陸が可能{{R|画報上}}。また、機体各部のハードポイントによって、特殊潜航艇S号や[[オートジャイロ]]、ベルシダーなど他の装備の設置、さらに乗員や怪獣の輸送にも用いられる{{R|マガジン202042}}。基本的には6名が搭乗するが、1名でも操縦や怪獣への攻撃は可能{{R|UPM0215}}。作中には主にSIII{{Sfn|全調査報告|2012|p=22}}{{R|マガジン202042}}{{efn|資料によっては'''S111'''と記述している{{Refnest|group="出典"|{{R|UPM0215|夢のかけら125|マガジン38}}。}}}}・S115・117{{R|UPM0215|マガジン38}}・118{{R|UPM0215|マガジン38}}・119{{R|UPM0215|マガジン38}}{{efn|後者3機はSなし。}}、17{{R|UPM0215}}、19{{R|UPM0215}}の6機が使われ、最大で同時に同型3機が登場する{{R|夢のかけら125}}。 : [[ラゴン (ウルトラ怪獣)|ラゴン]]や[[アントラー (ウルトラ怪獣)|アントラー]]、[[ウルトラマンの登場怪獣#脳波怪獣 ギャンゴ|ギャンゴ]]に撃墜・破壊されるが、[[ウルトラマンの登場怪獣#汐吹き怪獣 ガマクジラ|ガマクジラ]]や[[テレスドン]]の攻撃の直撃を受けながら緊急着陸に成功し、防衛隊の[[F-4 (戦闘機)|F-4戦闘機]]隊を一撃で撃破するメフィラス円盤の攻撃の直撃を受けながら、これを跳ね返しつつ、急降下攻撃を続ける頑丈さを見せる。 : 英語表記は「JET [[垂直離着陸機|VTOL]]」だが、後年に追加されたもので、本放送当時は設定されていなかった{{efn|ただし、当時の井上英沖の漫画版で「ヴィトル」という表現が確認できる(『新バルタン星人の巻』など) <!--図鑑は分かりませんが漫画版の復刻で確認-->}}。 : 『ウルトラマンメビウス』第24話では、[[動態保存]]されていたという設定で[[ウルトラ警備隊#航空機|ウルトラホーク1号]]、3号と共に飛行する場面がある。 :* 『レッドマン』時の第3話の脚本では、「ジェットVITOL」やヴィトル、ヴィートル、VTOL機などの記述があった{{R|全調査報告22}}。 :* 撮影用のプロップは、郡司模型製作所によって、[[ブリキ]]の叩き出しで制作されており、同製作所が担当した、映画『[[妖星ゴラス]]』(1962年、[[東宝]])に登場する「国連VTOL機」の約60センチメートルのミニチュアと同じ叩き出し用の木型が使われている{{R|全調査報告22|ALLMECHA64}}。この「国連[[VTOL]]機」とは外見はほぼ同じため、資料によってはミニチュアそのものが流用されたと記述しているものもあるが{{Refnest|group="出典"|{{R|東宝メカ大全70|夢のかけら16|マガジン38}}}}、両者は別々のミニチュアである。撮影話数が進むにつれ、破損と修理が相次いだため、数多くのモデルが新たに制作されている。少なくとも3種類以上のサイズの物があり、場面によって使い分けられていた。素材も板金製と木製の2種があった。前述の板金プロップの他に東宝映画のバンクシーンが用いられ、第14話からはもう1機の板金プロップが製作された{{R|全調査報告22}}。 :* 後年に出版された書籍『U.W.W.〜ULTRA WEAPON WORLD〜』<ref>ホビージャパン 1991年12月初版発行{{要ページ番号|date=2021年4月}}</ref>には、本機の武装・索敵機器を取り外して座席数を増やした民間旅客機型を『ウルトラQ』の星川航空が所有しているという記述があるが、これは円谷プロ監修による「お遊び設定」であり、公式設定ではない。 :; 宇宙ビートル :: ジェットビートル117号の主翼端に岩本博士が水爆の原理を応用して設計した成層圏を短時間で越える性能を有する大気圏外用のハイドロジェネード・サブロケットエンジン([[核パルス推進]]システムの一種)と核パルス推進ロケットを追加装着したもので、第16話で初登場する{{R|マガジン202042}}。以降、主に宇宙で起きた異変調査や隊員たちの宇宙パトロールなどに運用される(第22話、33話、35話)。SIIIに装備されたものも存在する{{R|マガジン202042|マガジン322}}。 :: 『ウルトラマンメビウス』第42話には、本機の改良型である「イカヅチ」(機体番号はS217)が登場する。 ::* 「宇宙ビートル」という名称は、ブルマァクのプラモデルの商品名であり、書籍によっては、「ハイドロジェネードロケット装備ビートル機{{Sfn|全怪獣怪人・中|2003|p=305}}」、「ジェットビートル ハイドロジェネード・サブロケット装着タイプ{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|全調査報告|2012|p=24}}{{R|UPM0215|マガジン38|マガジン322}}}}」と記載している。カットによっては、SIIIにサブロケットを取り付けたものやサブロケットをビートルの30センチメートルプロップに装着したものを使用している{{R|全調査報告22}}。 :{{機動兵器 |名称=小型ビートル<br />(三角ビートル) |全長=15.5{{nbsp}}m |全幅=10.5{{nbsp}}m |重量=17{{nbsp}}t |最高速度=マッハ1.5 |乗員=2名 }} ; 小型ビートル{{R|UPM0215}} : 通称'''三角ビートル'''。作中ではジェットビートルと区別なく単に「ビートル」と呼ばれる。 : ジェットビートルと同じく岩本博士が開発し、[[コクピット]]に[[銃架]]を備えた支援機、主に[[偵察]]や観測に使われる。当初は、パトロール用として使用されていたが、ガマクジラ戦からは戦闘任務に投入された。 : 一種の[[リフティングボディ]]機で、動力は[[ロケットエンジン]]。武装として機首のビーム砲と[[ロケットランチャー]]、機首とコクピット下部からのフラッシュ光を有する{{R|マガジン202042}}。また、自動追尾飛行や本部基地からの遠隔操縦が可能で、第16話で[[金星]]ロケット「おおとり」が2段ロケットを点火するまでの間護衛する。 : 登場話数は第1話、14話、16話、19〜21話、23話。活躍はほぼ中盤に集中しており、終盤は全く出番がない。 : 第1話でウルトラマンとの衝突時にハヤタが乗っていた「ビートル」は本機である。 : この機はVTOL機ではなく短距離離着陸([[STOL]])機なので、離着陸は垂直に近いかなりの急角度で行う。<!--「STOL」の単独項目化を視野に入れ、現在暫定的にリダイレクトページへのリンクとしています-->第21話では後部を下にして、[[垂直離着陸機#テイルシッター|テイルシッター]]式の垂直離着陸を披露する。 :* デザインは成田亨によるもの。当初は主力戦闘機という予定であった{{R|マガジン38}}。脚本では、スモール・ヴィートルや小型VTOLなどと表記されている{{R|全調査報告22}}。後年、ジェットビートルが原型流用された物で不満があったためデザインしたとコメントしており、非公式にではあるが「ビートル2号」と呼んでいた。 :* ミニチュアは木製の約30センチメートルのもの、金属板金製の60センチメートルプロップのものがあり、フラッシュが付いたものや機首が透明パーツではないものなどがある{{R|全調査報告22}}。コクピットにはパイロットの人形が1体置かれているが、劇中では2人乗っていることもある{{R|夢のかけら120}}。第1話で使用されたミニチュアは、特撮監督の[[原口智生]]が所有している{{R|夢のかけら120}}。 ; [[F-4 (戦闘機)|F-4戦闘機]]{{efn|書籍によっては「F4EJファントムII」と記述している{{R|画報上}}。}} : [[ニューヨーク]]支部の装備。ジョンスン島にUMG麻酔弾を空輸する。また、防衛隊も本機を装備しており、[[ブルトン (ウルトラ怪獣)|ブルトン]]や[[アボラス]]、[[メフィラス星人]]の円盤などを攻撃する。 :* 実在の戦闘機で、放送当時の最新鋭機であった。また本作品の放映時点では、実在の[[航空自衛隊]]には装備されていなかった。 ; フェニックス{{R|UPM0214|マガジン325}} : 第16話に登場する、岩本博士が開発・設計した[[金星]]探査用の高性能有人宇宙ロケット。ライバルである毛利博士の「おおとり」が通常の多段式ロケットとなっているのに対して、本機は未来的なデザインの単段式ロケットとなっている。人類初の有人金星探査は、毛利博士の「おおとり」に先を越されたが、99%の完成度で金星探査に向かった毛利博士に対して、岩本博士は100%の完成度を得るためにあえて飛行を延期したためであり、双方の完成度は同等であるという。 : 岩本博士が操縦し、R惑星に取り残された科特隊隊員の救助を行う。また、フェニックス用のハイドロジェネートサブロケットは宇宙ビートルに流用されている。 :* デザインは成田亨が担当{{R|U175}}。 :* 造形は郡司模型が担当{{R|U175}}。旋盤加工した丸太で、[[こけし]]に似た方法で造られたという{{R|U175}}。書籍によっては納品後に現場で塗り直されたため、映像とは異なっている{{R|U175}}。怪獣倉庫に残っていたものは、アンテナは片方紛失していたが、はんだ付けして加工した針金で復元している。アンテナの先端にはピンポン玉が付いていたが、ピンポン玉の規格が2000年に変わったため、1960年代のピンポン玉で修復している{{R|U175}}。 :* 発着シーンは、映画『[[宇宙大戦争]]』のスピップ号や映画『[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]』のマーカライトジャイロと同様に[[奥多摩]]の吊り橋から吊って撮影された{{Sfn|特撮秘宝3|2016|p=21}}{{R|U175}}。 :* 操演の中島徹朗は、ミニチュアはロケット噴射用の火薬が爆発して大破し、作り直してから撮影されたと証言している{{Sfn|特撮秘宝3|2016|p=21}}。 ; しらとり(白鳥{{Refnest|group="出典"|{{R|UPM0215|マガジン38|マガジン326}}}}) : 第38話に登場する白黒のツートンカラーの科特隊専用の大型宇宙ロケット。船体ナンバーは「SE105」。主な武装はないが、主翼両端にはメインブースターを装備している。岩本博士によって開発された物で、交信を絶った[[宇宙ステーション]]V2の救助に赴く際に使用される。航空機に近い形状をしており、底部に[[エアロック]]や搭載している探険用の宇宙タンクを下ろすためのハッチを有している。また、ジェットビートルと同様に垂直離着陸が可能。わずか28時間強でV2の軌道に到達するが、キーラの襲撃になす術がなかった。 :* デザインは深田達郎による。 :* プロップはV2合体用の約30センチメートルと主に使用された約60センチメートルが存在する{{R|全調査報告22}}。 :* 出撃シーンは、後に『長篇怪獣映画ウルトラマン』のジェットビートルの出撃シーンに流用された。撮影で使用されたミニチュアは後に再塗装され、『[[快獣ブースカ]]』に使用された{{Sfn|大ウルトラマン図鑑|1996|p=183}}。 ==== 車両・潜航艇 ==== * ミニチュア制作は郡司模型製作所。 :{{機動兵器 |名称=科特隊専用車 |全長=4.9{{nbsp}}m |全幅=1.9{{nbsp}}m |重量=1.6{{nbsp}}t |最高速度=時速190{{nbsp}}km |乗員=5名 }} ; 科特隊専用車{{R|UPM0215}} : 日本支部で使用されている車輌。後のウルトラシリーズに登場する車両と異なり、特に武装や特殊機能はないが、通信機など高性能の探査機器は装備されており、ボディとエンジンとシャーシも強化され{{R|マガジン232}}、頑強に改造されている。主にパトロールや基地近隣への移動に使われる。そのうち、一台が第23話で透明円盤の噴射に巻き込まれて爆発する。 :* 自動車は[[シボレー・コルヴェア]]を使用{{R|マガジン232|マガジン38}}。撮影に用いられたのは[[円谷一]]監督{{efn|書籍によっては[[円谷英二]]のものと記述している{{R|全調査報告22}}。}}の愛車で、これに科特隊のステッカーを貼付けて撮影に用いられた{{efn|ハヤタ役の黒部進は撮影当時自動車運転免許を持っておらず、撮影初日にぶつけてしまったという。}}。その後、科特隊のステッカーを外し、『[[マイティジャック]]』第8話で使用されたのちに、第12話で爆破破壊された<ref>{{Cite book|和書 | title = 別冊映画秘宝 円谷プロSFドラマ大図鑑 | publisher = [[洋泉社]] | series = 洋泉社MOOK | date = 2013 | page = 81 | chapter = MJの車(文・青井邦夫) | isbn = 978-4-8003-0209-0 }}</ref>。 :{{機動兵器 |名称=ベルシダー |全長=7{{nbsp}}m |全幅=1.2{{nbsp}}m |重量=37{{nbsp}}t |最高時速=20{{nbsp}}km(地中掘削時) |乗員=3名 }} ; ベルシダー{{R|UPM0215}} : 第29話に登場する、削岩ドリルを装備したイデ隊員が設計し、科学センターが製作した試作[[地底戦車]]。前後の圧力に対して強靭であり、自動車と同様の操縦方法である{{R|全調査報告22|マガジン38}}。車体上部の熱線銃と地底魚雷が武器{{R|マガジン232}}。 :* デザインは池谷仙克で、円谷プロではこれが初仕事となった。このデザインについて、[[円谷英二]]監督から安定性がないと叱られたという。設定画ではS号と同様にジェットビートルの胴体下面に吊下して空輸される。作中では'''ベ'''ルシダーと呼称されているが、資料では'''ペ'''ルシダーと記載されることが多い。このメカのコンセプトは『ウルトラセブン』に登場するウルトラ警備隊の「マグマライザー」に継承される。 :* プロップは、約60センチメートルと約30センチメートルが存在する{{R|全調査報告22}}。 ; [[三菱・ジープ]] : 第21話に登場する白塗りのジープ。イデとホシノ少年が乗車し、完成したマッドバズーカを乗せて、[[ケムラー (ウルトラ怪獣)|ケムラー]]が暴れる大武山に駆け付ける。この他にも、防衛隊や警察のものと思われるジープが各話に登場する。 ; 火炎砲車{{R|画報上}} : 第23話に登場する大型車両。車体後部に大型の[[火炎放射器]]1門を装備している。[[ジャミラ (ウルトラ怪獣)|ジャミラ]]に対して使用されるが、高温への耐性を身に付けていたジャミラには通用しない。防衛隊の火炎放射戦車とは別物である。 ; 高射砲{{efn|書籍によっては「カノン砲トレーラー」と記述している{{R|画報上}}。}} : 第23話に登場する[[自走式対空砲|自走高射砲]]。ベース車両は16輪の大型[[トレーラートラック]]で、トレーラーの荷台に高射砲1門を装備している。水が苦手なジャミラを人工降雨弾で攻撃する。 ; 宇宙タンク{{R|全調査報告22}} : スペースタンクとも。第38話に登場する高性能の宇宙探索用の万能タンクで、「しらとり」に搭載されており、腹部ハッチから発車する{{R|UPM0215}}。車体ナンバーは「SL77」。乗員は4名と推測される{{R|マガジン38}}。キャビンが2台の装軌式台車で支えられた形状をしており、4つの無限軌道を持ち、キャビン上部にSNKミサイルの発射装置を格納している。SNKミサイルで[[ウルトラマンの登場怪獣#砂地獄怪獣 サイゴ|サイゴ]]を倒す。 :* 車体デザインは深田達郎が担当{{R|全調査報告22}}。 :* ミニチュアは大型のものと小型のものの2つあり大型のものは転輪が5つ、小型のものは6つになっている(小型のものは[[タミヤ|田宮模型]]のM4シャーマン戦車のプラモデルの流用)<ref>『別冊映画秘宝ウルトラマン研究読本』[[洋泉社]]91-92ページ</ref>。プロップのキャタピラ部は、61式戦車のものを流用している{{R|全調査報告22}}。 :{{機動兵器 |名称=特殊潜航艇S号 |全長=9{{nbsp}}m |全幅=2.4{{nbsp}}m |重量=40{{nbsp}}t |最高速度=20{{nbsp}}kt(水中) |乗員=5名 }} ; 特殊潜航艇S号{{R|UPM0215}} : 水中ジェット推進エンジンをもつ高性能小型潜航艇で、艇下部に音波探知機([[ソナー]])、水中カメラ、先端にサーチライトなどを装備し、武器は主翼先端から連射する[[魚雷]]。第24話では操縦席が2階式になった{{R|全調査報告22}}。S21号のみ、操縦の際には酸素吸入器を使用している。ジェットビートルの胴体下面に吊下して空輸される際はセイルが艇体に収納される。作中にはS16号(第1話)、S21号(第10話)、S25号(第24話)の3隻が登場する{{R|UPM0215}}。 :* 書籍によっては、「S型特殊潜航艇」と記載している{{Sfn|全怪獣怪人・中|2003|p=305}}。 :* デザインは成田亨が担当{{R|マガジン38}}。 :* プロップは、艦橋収納用、操演用の約60センチメートル、運搬時の約30センチメートルの3種類が存在する{{R|全調査報告22}}。 === 防衛隊(軍)および自衛隊 === 本作品には科特隊とは別に、通常の防衛組織が怪獣や宇宙人との戦闘に参加している。その呼称は防衛隊(軍)とされたり[[自衛隊]]とされたりしているが、明確な区別はない。また、[[東宝特撮|東宝特撮映画]]に登場した架空兵器のプロップが流用されていることが多いのも特徴である。 防衛隊(軍)は第2・11・15話に登場する。戦力としては放映当時の自衛隊が装備していた[[61式戦車]]、[[M4中戦車]](M4シャーマン{{R|画報上}})などの他、架空兵器である[[火炎放射戦車]]、[[メーサー兵器#メーサー殺獣光線車|メーサー殺獣光線車]]、熱線砲車などがある。火炎放射戦車はオリジナルの[[無限軌道|装軌式]]車両の上部に旋回式の[[火炎放射器]]を装備した物で、第9話では[[ガボラ]]、第15話では[[ウルトラマンの登場怪獣#二次元怪獣 ガヴァドン|ガヴァドンB]]に対して攻撃を行う他、第15話でも[[ウルトラマンの登場怪獣#脳波怪獣 ギャンゴ|ギャンゴ]]に対して出動する。熱線砲車は『[[怪獣大戦争]]』(1965年、東宝)に登場した[[怪獣大戦争#登場兵器・メカニック|Aサイクル光線車]]の[[砲兵トラクター|牽引車]]をオミットし、本体から[[拡声器]]と照明塔を外したもので、第3話では[[ウルトラマンの登場怪獣#透明怪獣 ネロンガ|ネロンガ]]、第11話ではギャンゴに対する攻撃に使われる{{R|ゴジラ大百科MG|ALLMECHA96}}。第3話ではAサイクル光線車のものと同じ見た目の光線を放つが、第11話では直線的な赤い光線に変わっている。その牽引車に本体から外した照明塔をつけて改造した照明車も、『[[フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ]]』(1966年、東宝)で使われた後、第15話で使用され、[[ウルトラマンの登場怪獣#二次元怪獣 ガヴァドン|ガヴァドンA]]を包囲する戦車群の中に見られる。メーサー殺獣光線車は、第11話で熱線砲車と共にギャンゴへの攻撃に向かう姿が確認できるが{{R|ゴジラ大百科MG}}、その後の戦闘シーンは描かれておらず、こちらも牽引車は使われていない。また、第2話では本部と思われる防衛基地が登場。都心に現れた[[バルタン星人#初代|バルタン星人]]に対し、防衛基地の屋上に備え付けられたランチャーから新型[[核ミサイル]]「はげ鷹」{{R|UPM0214}}を2発発射するが、小爆発を起こしただけでほとんど効果がない{{efn|小説『ウルトラマン ジャイアント作戦』では、同型の限定核弾頭「オオトリ」がバルタン星人に対して使用される。}}。 自衛隊は第4・26・27・34・39話に登場する。第4話で[[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]{{efn|形状は[[日本海軍]]の甲型駆逐艦(駆潜艇{{R|画報上}}・[[陽炎型駆逐艦|陽炎型]]または[[夕雲型駆逐艦|夕雲型]])がベース。}}がイデ隊員の提案で[[ラゴン (ウルトラ怪獣)|ラゴン]]に音楽を聞かせる。第26・27話で[[伊丹市]]に駐屯している[[陸上自衛隊]]のロケットランチャー・トレーラーがゴモラを攻撃する。また第27話では61式戦車やM4などの実在兵器の他に、9連装の装輪式自走[[ロケット砲]]とおぼしき架空兵器が登場する。第34話では科特隊が怪獣風船化作戦で浮かび上がらせたスカイドンを[[航空自衛隊]]の[[F-86 (戦闘機)|F-86F]]戦闘機が誤って撃墜してしまった。航空自衛隊は第39話にも登場し、精鋭パイロットからなる戦闘機編隊がゼットン星人の円盤群迎撃のために出動して一部を撃墜するが、逆襲を受けて全滅する。同話では出撃シーンにはF-86Fが、戦闘シーンでは[[F-104 (戦闘機)|F-104]]もしくは[[X-3_(航空機)|X-3]]に類似した形状の架空機{{efn|この機体はF-104やX-3のような、細身の胴体に小型の尾翼がある超音速飛行性能を追求した機体に類似した形状を持ち、[[キャノピー]]が突出しておらず[[エアインテーク]]の開口部も小さい。}}が登場する。 上記以外にも防衛組織が敵を攻撃する場面のある話は多く存在する(第3・9・17 - 19・21・23・31 - 33話)。だがそれらの多くでは、その組織が防衛隊、自衛隊、あるいは機動隊のいずれに属するのかについて触れられていない。第18話では『[[モスラ]]』(1961年、東宝)に登場した[[東宝特撮映画の登場兵器#83式600mm地対地ミサイル車|装軌式ミサイル車両]]が[[ザラブ星人#にせウルトラマン|にせウルトラマン]]を攻撃する。 この他の防衛組織としては、第22話に「国際宇宙開発軍」なる組織の名前が登場する{{Sfn|研究読本|2013|p=168}}が、その詳細については特に言及されていない。また、第25話には「地球防衛委員会」という組織が登場する。こちらは国際的な組織のようであり、彗星ツイフォンからの放射線による水爆の自然爆発を防止すべく、世界中の[[核保有国]]に対して水爆の安全性強化を命令する。『[[ウルトラマンレオ]]』第25話「かぶと虫は宇宙の侵略者!」にも同名の組織が登場するが、関連性については特に触れられていない。 === その他のメカ === ; ML-1 : 第4話に登場する輸送用の大型[[ロケット]]。[[木星]]開発用の[[原子爆弾]]「AB-Z-01」6個を[[宇宙ステーション]]へ輸送する任務に就いていたが、爆発事故(前述の原爆とは無関係)を起こし太平洋上へ墜落、この際に1発の原爆が爆発したことで周辺の島々に津波の被害を起こし、残りの原爆が周辺海域に散らばり4発は回収されたが最後の1発が不明(実は巨大化したラゴンに引っかかっていた)なまま作中につながる。またこの原爆には、1発でも関東地方全域を吹き飛ばす威力がある。 :* プロップは映画『[[地球防衛軍 (映画)|地球防衛軍]]』に登場したマーカライト・ジャイロの流用。 ; 小型ジェット噴射器{{R|全調査報告22}} : 第14話でガマクジラを空へ打ち上げるために使用し見事成功している。 ; オオトリ{{Sfn|全調査報告|2012|p=67}} : 第16話に登場する人類初の有人金星探査ロケット。現実的なデザインの三段式大型宇宙ロケットで、三段目がそのまま宇宙船となる。高度15万キロメートル上空までマッハ6以上のスピードで短時間で打ち上げられる。全体的な形状は[[サターンV]]に類似している。また、船内には人工重力が働いている。開発者である宇宙開発研究所の毛利博士が自ら乗り込み、人類初の有人金星探査に向けて打ち上げられる。 : ムラマツ隊長の台詞によれば完成度は99%であり、第二段ロケットの発火装置の安全性に疑問があるため、科特隊が救助体制を取る。これは杞憂に終わり、無事金星への航路に乗るものの、地球侵略とウルトラマンへの復讐を狙う[[バルタン星人#二代目|バルタン星人]]の襲撃を受け、毛利博士はバルタン星人に乗り移られる。 ; 宇宙ロケット{{Sfn|全調査報告|2012|p=71}} : 第18話に登場する有人の土星探検ロケット。レイアウトは[[アポロ宇宙船]]のものに近い。[[土星]]の有人探査を目的としていたが、出発してから一カ月後に東京上空に出現する。軌道を間違え木星の周りを漂流していた最中にザラブ星人に救助され、地球へと誘導されたものとされていたが、実際にはザラブ星人の策略であり、搭乗員もザラブ星人によって催眠をかけられていた。 :* 脚本では、「スペース・ドラゴン号」と記述。 ; 人間衛星 : 第23話に登場する某国の有人[[宇宙船]]で、地球に帰還した際の形状は円盤型であった。かつての[[宇宙開発競争]]時代に宇宙飛行士[[ジャミラ (ウルトラ怪獣)#『ウルトラマン』に登場するジャミラ|ジャミラ]]を乗せて打ち上げられたが、事故によって遭難し行方不明となり、その存在は非難を恐れた某国によって隠蔽された。 : その後、宇宙を彷徨いある星に漂着。そこで怪獣化したジャミラの手で修理と[[光学迷彩|透明化機能]]の付与などの改造が行われ、自らを見捨てた地球への復讐を目論むジャミラを乗せて地球へと帰還し、国際平和会議の開催を妨害する。 : また、同話では宇宙開発時代を示す物として、[[ジェミニ宇宙船]]とサターンVの静止画像が例示されている。 ; トータス号 : 第24話に登場する海底探検船。[[海洋研究所]]が保有する[[潜水艇]]で、強力な排水能力を有している。[[ウルトラマンの登場怪獣#深海怪獣 グビラ|グビラ]]に襲撃された海底センターの救援のために使用され、フジ隊員が溶解機によって焼き切った部位に排水ハッチを接続し、海底センター内部に取り残されたムラマツ隊長らを救出する。 ; ロケット弾{{Sfn|全調査報告|2012|p=113}} : 第34話でもスカイドンを空へ返す際にフジ隊員の提案で使用されたが、スカイドンの体重が重すぎるあまり打ち上げることができなかった。 ; オートジャイロ{{Sfn|全調査報告|2012|p=113}} : 第34話でスカイドンを空へ返すためイデ隊員が使用を提案。スカイドンを持ち上げ空へ上げることに成功したものの、無重力空間でプロペラの推進力が弱まったせいで落下、失敗に終わる。 ; 月ロケット : 第35話に登場する無人ロケット。月ロケットセンターが開発した日本初の月探査ロケットで、1号機と2号機が存在する。1号機には「EP-1」、2号機には「EP-2」とマーキングされている。 : 1号機は月へと打ち上げられたが、途中で[[ウルトラマンの登場怪獣#亡霊怪獣 シーボーズ|シーボーズ]]に抱きつかれ、地球へと落下する。2号機はシーボーズを抱きつかせ、怪獣墓場へ送り返すために使用されるが、一度目は失敗。その後、赤と銀で塗装された「ウルトラマンロケット」へと修理・改造され(脚本ではウルトラマンに似せたぬいぐるみをかぶせた)<ref>『別冊映画秘宝ウルトラマン研究読本』[[洋泉社]]195ページ</ref>、無事シーボーズを怪獣墓場へと送り返す。 : 『ウルトラマンメビウス』第21話にも、シーボーズに抱きつかれた状態で登場する。 ; プロスペクター{{R|マガジン323}} : 第38話に登場する無人の[[宇宙探査機]]。[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]がQ星探査計画「プロスペクター計画」のために開発した物で、宇宙ステーションV2から管制されている。Q星にて[[ウルトラマンの登場怪獣#光熱怪獣 キーラ|キーラ]]に遭遇して光熱を中継した後、宇宙ステーションV2の修理のため、搭載していた三基のBMヒューズのうち一基を使用される。 ; 宇宙ステーションV2{{R|UPM0214|マガジン327}} : 第38話に登場する宇宙ステーション。地球から28時間強で到達する位置にあり、4人のNASAの宇宙飛行士たちが駐留している。Q星には往復20時間で到達する位置にある。プロスペクター計画の中継を行っていたが、キーラの発光によって放電管第3回路のBM[[ヒューズ]]が焼き切れた。科特隊が到着したころには、[[原子炉]]が24時間後には爆発する状態に陥る。科特隊はフジをクルーの介護役に残し、Q星のプロスペクター内のBMヒューズの1つを入手。大爆発5分前に修理を終えた。 : 『ウルトラセブン』にも同名の宇宙ステーションが登場する。 == キャスト == === レギュラー・準レギュラー === 当初、イデ隊員役には[[石川進]]がキャスティングされ、制作第1話の一部や番宣スチールの2日分の撮影に参加していたが、契約上の問題により降板し、東宝出身の二瓶がキャスティングされたという{{Refnest|group="出典"|{{R|UPM024|UPM0216|マガジン38}}}}。そのため、第7話の脚本では「トレードマークのおでこから血が出るイデ隊員」という記述があった{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=31}}。 * ハヤタ隊員:[[黒部進]] * ムラマツ隊長:[[小林昭二]]{{efn|name="30話"}} * フジ・アキコ隊員:[[桜井浩子]]{{efn|name="30話"}} * イデ隊員:[[二瓶正也]] * アラシ隊員:[[毒蝮三太夫|石井伊吉]] * ホシノ・イサム少年:[[津沢彰秀]](第1 - 4・6・9・11・16 - 18・21・24・25話{{efn|第5話にもクレジットされているが登場シーンはカット。}}) * 岩本博士:[[平田昭彦]]、[[森塚敏]]{{efn|第36話のみの代役。資料によってはこの岩本博士は同姓の別人扱いで平田のみ記載してあるものもある({{Harvnb|画報 上巻|2002|p=34・203}}など、なお同書p.34では第36話の博士は「センター所属の博士」と表記されている。)。}}{{efn|岩本博士は、シナリオ決定稿の段階で12本のエピソードに登場している(第5・11・12・13・16・18・22・24・25・33・36・39話)。しかし平田昭彦のスケジュールが合わないなどの理由により、撮影段階で別の科学者への変更を余儀なくされている回が存在する(第18話…モリタ博士、第33話…ヤマモト博士)。これ以外の例をみると、第22話に登場する「博士」は作中で明確な呼称がないものの、演者が福田善之(第19話の福山博士役)であるために、この回の科学者も福山博士だという解釈が一般的になっている({{Harvnb|画報 上巻|2002|p=34}}など)。また第11話は改訂稿で山本博士に、第24話は最終決定稿で山川博士にそれぞれ変更されているが、後者は登場人物表やト書きの一部でも岩本博士のままであり、制作時の混乱した状況が伺える。}}(第5・12・13・16・25・36・39話) * ナレーター:[[石坂浩二]](第1 - 19話)、[[浦野光]](第20 - 39話) === ゲスト === ※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』(講談社・2012年) {{colbegin|2}} * 埼玉県警警邏隊巡査:久仁博士、[[渡辺晃三]](1) * 防衛隊幕僚長:[[藤田進]](2) * 防衛隊幕僚:[[飯田覚三]]、[[幸田宗丸]](2) * 防衛隊長:[[緒方燐作]](2) * 城の係員:[[林家珍平]](3) * ホテルのボーイ:[[鈴木清 (映画監督)|鈴木清]](3){{efn|name="CAMEO"}} * 水力発電所技師:[[渋谷英男]](3) * 伊和送電所技師:[[小高まさる]](3) * 第三火力発電所職員:[[加藤茂雄]](3) * ミチコ:近藤美智子(4) * 巡視船船員:[[大塚周夫]](4) * 医師:[[佐伯久]](4) * 山田博士:笹川恵三(5) * 松尾博士:[[奥野匡]](5) * 浜口節子:[[若林映子]](5) * 小林次郎:山中紘(5) * マキ:[[槇みちる]](5) * 中島三郎(ダイヤモンド・キック):[[伊藤久哉]](6) * 中島の配下:[[長谷川弘]] (6) * 斧山船員:[[柳谷寛]](6) * ホシノの友達:中島洋(チロ)、飯田有子(ノブコ)(6) * 湾岸事務官:[[鹿島信哉]]、渡辺晃三(6) * 神奈川県警巡査:[[加藤茂雄]](6) * ジム連絡員:エドガー・ケイザー(7) * チャータム:[[弓恵子]](7) * バラージの民:[[安芸津広]]、[[牧よし子]](7) * 松井所員:[[松本朝生|松本朝夫]](8) * 多々良島測候所員{{efn|松井所員以外の測候所職員3人の名前はラストの墓前の場面で松井所員のセリフより、「カワダ」「ササキ」「フジタ」と分かるが、梅本正明がこのうち誰を演じたかは不明。}}:梅本正明<ref>DVD『[[ウルトラセブン]]』VOL.3特典映像「ウルトラアペンディックス」の本人の弁より判明。</ref>(8){{efn|name="CAMEO"}} * 高原少年団・団長補佐:佐藤英明(武)、[[山村哲夫]](敏男)(9) * 高原少年団・団長:[[今井和雄|今井和夫]](9) * 土木作業現場主任:[[池田忠夫]](9) * 土木作業現場作業員:[[市原清彦]](9) * 警察署長:[[熊谷卓三]](9) * 宇波里町町長:[[深見吉衛]](9) * 中村博士(モンスター博士):[[森幹太]](10) * 二階堂教授:[[灰地順]](10) * 久保友子:[[谷育子]](10) * 林一郎:[[岡村春彦]](10) * 釣り人:[[西條康彦]](林)、[[中山豊]](新田)(10) * 北山湖の釣り人:[[高野宏一]](10){{efn|name="CAMEO"}} * ホテルのボーイ:[[古谷敏]](10){{efn|name="CAMEO"}} * 山本博士:[[浅香春彦|朝香春彦]](11) * 鬼田:[[山本廉]](11) * ミドリ:南不二子(11) * 新聞記者:[[三浦威]]、[[矢野陽子]]、古河秀樹(11) * 花嫁を出した新聞記者:[[青島幸男]](11) * 花嫁(美少女):[[若山真樹]](11) * ホテルのボーイ:奈ヶ岡信、石黒正男(11) * 水着撮影のカメラマン :[[鈴木和夫]](11) * ミー子:[[相原ふさ子]](11){{efn|ノンクレジット。}} * 科学センター警備員:[[稲吉靖司|稲吉靖]](原田)、[[奥村公延]](森)(12) * 警官:[[平松慎吾]](12) * 刑事:[[永谷悟一]](12) * 広川:[[梅津栄]](13) * タンクローリーの運転手:[[野本礼三]](13) * 神奈川県警刑事:[[生井健夫]]、[[宮川洋一]](13) * 製油所所長:[[近衛敏明]](13) * 製油所幹部:[[松尾文人]](13) * 宝石店支配人:[[矢野宣]](14) * 真珠貝運搬トラック運転手:[[樋浦勉]](14) * 運転手の助手:[[寺田農]](14) * ムシバ:川田勝明(15) * 土管の持主(髭親父):[[原保美]](15) * タカシ:内野惣次郎(15) * ゼロ戦 :[[金子吉延]](15) * オバケ:佐藤継知夫(15) * サスケ:橋本有史(15) * チャコ:岩井敏枝(15) * 毛利博士:[[池田忠夫]](16) * 新聞記者:[[堤康久]](16) * 川口博士:[[舟橋元]](17) * 福井一郎博士:[[永井秀明]](17) * イエスタディ:[[ハンス・ホルネフ|ハンス・ホルネス]](17) * 藤井洋子:[[那須ますみ]](17) * 吉沢:[[佐竹弘行]](17) * 森田博士:[[土屋嘉男]](18) * 防衛庁長官:[[高田稔]](18) * 村木博士:[[森山周一郎]](18) * 宇宙局職員:[[勝部義夫]]、[[住吉正博]](18) * 防衛会議メンバー:[[金城哲夫]](18){{efn|name="CAMEO"}} * 警察長官:[[土屋詩朗]](18) * 政府役人:[[山田圭介 (俳優)|山田圭介]](18) * 福山博士:[[福田善之]](19・22) * 木村助手:[[丸山謙一郎]](19) * 石岡主任:[[相沢治夫]](19) * 志賀助手:[[塚田正昭]](19) * 木村助手:[[丸山謙一郎]](19) * ムトウ・アキラ:榊原秀春(20) * 大室公園の警備員:[[金井大]](20) * あけぼの少年ホーム保母:[[北川恭子]](20) * 飼育係:[[松原靖 (俳優)|松原靖]]、[[鈴木治夫 (俳優)|鈴木治夫]](20) * トラックの運転手:[[中島元]](20) * 高原レストハウス支配人:大塚周夫(21) * 地震研究所所員:山中紘(21) * テキストを読む少年:[[小山潔]](21) * 教頭:[[池田生二]](21) * 先生:[[溝井哲夫]](21) * パイロット:[[久野征四郎]](21) * 防衛隊隊長:[[日方一夫]](21) * アンヌ・モーハイム隊員:アネット・ソンファーズ(22) * 地底人X:[[フランツ・グルーベル]](22) * 東京TVセンター職員:丸山謙一郎(22) * アラン隊員:ピエール・ピロッツ(23) * アキラ:[[雷門ケン坊|吉野謙二郎]](23) * アキラの母:[[中村富士子]](23) * 警察官:[[飯田和平]](23) * 吉村総裁:[[高橋正夫]](24) * 山川博士:[[可知靖之]](24) * ジェニー・チルダー:エルビラ・フビ(24) * ウィリアム・チルダー:[[ハロルド・コンウェイ]](24) * ター坊:[[宮本智弘]](25) * 親父風の男:[[中島春雄]](25) * インテリ風のサラリーマン:勝部義夫(25) * マダム風の女:[[毛利幸子]](25) * 近所の主婦:[[江島和子]](26) * 中谷教授:[[富田浩太郎]](26・27) * 鈴木治 / 怪獣殿下:稲吉千春(26・27) * 治の両親:[[宮田洋容・布地由起江|宮田洋容]](三平)、[[宮田洋容・布地由起江|布地由起江]](リエ子)(26・27) * 武:[[加藤勉 (俳優)|加藤勉]](26・27) * 吉村:[[緒方燐作]](27) * 警官:[[川又由希夫]](27) * 秋川叶子:[[荒砂ゆき|田原久子]](28) * 宇宙線研究所所員 / ダダの声:[[鈴木泰明]](28) * バスの運転手:中島元(28) * 警部:[[起田志郎]](28) * 警官:[[米地政英]](28) * 所員:[[国島英慈]](28) * 秋田:[[佐田豊]](29) * 山本:[[大村千吉]](29) * ゆき:富永幸子(30) * 町村:山本廉(30) * 秋田:近衛敏明(30) * ロッジの客:高野宏一(30){{efn|name="CAMEO"}} * 村の男:[[伊藤実]]、塚田正昭(30) * 正太:[[藤田修弘]](30) * 敏夫:[[折原正弘]](30) * 祐三:[[山口浩治]](30) * ゴトウ隊員 / ケロニアの声:[[桐野洋雄]](31) * 二宮博士:[[中山昭二]](31) * パティ隊員:[[真理アンヌ]](32) * 宮の森工事現場主任:[[伊藤実]](32) * 事務員:[[桂伸夫]]、加藤茂雄(32) * ヤマモト博士:伊藤久哉(33) * フジ・サトル:川田勝明(33) * 警官隊隊長:中島春雄(33) * 警官:[[岩本弘司]](33) * 月ロケットセンター所長:永井秀明(35) * 月ロケットセンター所員:奥野匡、斉藤三勇、[[田村奈巳]](35) * 僧侶:石川隆昭(35) * 住職:中野稔(35){{efn|name="CAMEO"}} * 自衛隊司令官:[[青木義朗|青木義郎]](36) * 係員:[[小沢直平]](36) * 看護婦:[[河西郁子]](36) * 権田博士:[[浅野進治郎]](37) * デパート支配人:金井大(37) * 子供:近藤美智子(37) * 警官:鈴木和夫、中山豊(37) * 母親:[[毛利幸子]](37) * デパート店員:佐竹弘行、[[佐渡絹代]](37) * 細川局長:[[武内亨]](38) * アーサー船長:[[エンベル・アルテンバイ]](38) * 宇宙局局員:[[北原隆]](38) * 吉野隊員:灰地順(38) {{colend}} === 声の出演 === ※全てノンクレジット、参考文献:『円谷プロ画報 第1巻』([[竹書房]]・[[2013年]]) * ウルトラマン:[[中曽根雅夫]](掛け声・33)、近藤久(1・39)、[[石坂浩二]](15){{efn|一言のみであり、ナレーターとして代弁した演出とも取れる。}} * 防衛会議メンバー:[[黒部進]](2) * ラジオのアナウンサー:[[鹿島信哉]]{{efn|name="あり"}}(6) * 中央気象台職員:鹿島信哉(8) * 空艇隊203号機:[[若尾義昭]]{{efn|name="あり"}}(13) * バルタン星人(二代目):[[西田昭市]](16) * ザラブ星人:[[青野武]](18) * 地底人X:[[矢田耕司]](22) * アラン隊員:[[上田敏也]](23) * メフィラス星人:[[加藤精三 (声優)|加藤精三]](33) * 再生ピグモン:[[江戸家猫八 (3代目)|江戸家猫八]](鳴き声)<ref>満田かずほ監督談、『[[NIKKEI×BS LIVE 7PM]]』2012年7月5日([[BSジャパン]]){{出典無効|date=2021年4月}}。</ref>、[[小宮山清]](怪獣翻訳機)(37) * テレビ中継:[[浦野光]](38) * アーサー船長:[[森山周一郎]](38) * ゾフィー:[[浦野光]](39) === スーツアクター === ※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』([[講談社]]・[[2012年]]) {{colbegin|2}} * ウルトラマン:[[古谷敏]](全話) * ベムラー:[[荒垣輝雄]](1) * バルタン星人:佐藤武志(2) * ネロンガ:[[中島春雄]](3){{R|大全集179}} * ラゴン:[[泉梅之助]](4) * グリーンモンス:[[中村晴吉]](5) * ゲスラ:荒垣輝雄(6) * アントラー:荒垣輝雄(7) * レッドキング:荒垣輝雄(8) * マグラー:泉梅之助(8) * チャンドラー:[[清野幸弘]](8) * ピグモン:藤田修治(8) * ガボラ:中島春雄(9){{R|大全集179}} * ジラース:中島春雄(10){{R|大全集179}} * ギャンゴ:荒垣輝雄(11) * ドドンゴ:荒垣輝雄、清野幸弘(12) * ミイラ人間:[[満月英世]](12) * ペスター:荒垣輝雄、清野幸弘(13) * ガマクジラ:荒垣輝雄(14) * ガヴァドン:荒垣輝雄(15) * バルタン星人(二代目):飛鋪正直(16) * ブルトン:荒垣輝雄(17) * ザラブ星人:青野武(18) * にせウルトラマン:池田文男(18) * アボラス:中村晴吉、[[鈴木邦夫]]{{efn|一部〈ノンクレジット〉}}(19) * バニラ:田尻康博(19) * ヒドラ:荒垣輝雄(20) * ケムラー:鈴木邦夫(21) * テレスドン:鈴木邦夫(22) * ジャミラ:荒垣輝雄(23) * グビラ:荒垣輝雄(24) * レッドキング(二代目):鈴木邦夫(25) * ギガス:南明(25) * ドラコ:池田文男(25) * ゴモラ:鈴木邦夫(26、27) * ダダ:鈴木邦夫(28) * ゴルドン:扇幸二(29) * ウー:鈴木邦夫(30) * ケロニア:扇幸二(31) * ザンボラー:鈴木邦夫(32) * メフィラス星人:扇幸二{{efn|特撮パートのスーツアクターは扇だが、「等身大時は[[久野征四郎]]説がある」という記載もある{{R|特別編集スペシャル|全調査報告108}}。}}(33) * ケムール人(二代目):中島春雄{{R|大全集179}}{{efn|『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』{{R|全調査報告110}}『大人のウルトラマン大図鑑』{{R|大人のウルトラマン大図鑑46}}では三山登士と記載している。}}(33) * バルタン星人(三代目):渡辺白洋児(33) * ザラブ星人(二代目):不明(33) * スカイドン:松島映一(34) * シーボーズ:鈴木邦夫(35) * ザラガス:鈴木邦夫(36) * ジェロニモン:荒垣輝雄(37) * 再生テレスドン:清野幸弘{{efn|クレジットは清野弘幸。}}(37) * 再生ドラコ:松島映一(37) * 再生ピグモン :[[千葉裕|小宅雅裕]](37) * キーラ:中島春雄(38) * サイゴ:松島映一(38) * ゼットン:荒垣輝雄(39) * ゾフィー:古谷敏(39) * ゼットン星人:不明{{efn|岩本博士役の[[平田昭彦]]が演じたという説がある{{R|大人のウルトラマン大図鑑53}}。}}(39) {{colend}} == スタッフ == ※参考文献:『キャラクター大全ウルトラマン全調査報告』(講談社・2012年) * 監修 - [[円谷英二]]{{efn|第18話・第19話では、事実上の特技監督を務めた{{R|特撮世界138}}。}} * 制作{{efn|第18話以降、'''プロデューサー'''と表示。}} - 市川利明(第1 - 13話)、末安昌美(第14 - 39話)、三輪俊道(TBS) * 脚本 - [[金城哲夫]]、[[飯島敏宏|千束北男(飯島敏宏)]]、[[山田正弘]]、[[野長瀬三摩地|南川竜(野長瀬三摩地)]]、[[藤川桂介]]、[[佐々木守]]{{efn|第22話は名義のみ。}}、[[樋口祐三|海堂太郎(樋口祐三)]]、[[若槻文三]]、[[上原正三]]、[[関沢新一]]{{efn|name="関沢"|関沢は、円谷から脚本の執筆を依頼されたが、自身ではなく当時弟子入りしていた金城に執筆させることを提案し、これを修正するかたちで参加した{{R|東宝SF2}}。}}、宮田達男 * 本編 ** 監督 - [[円谷一]]{{efn|第12話、第13話の特殊技術も実質的に担当。}}、飯島敏宏{{efn|制作第3話までは立ち回りの指示や特撮の演出も行っている{{R|HISTORICA8}}。}}、[[野長瀬三摩地]]、[[満田かずほ]]、[[実相寺昭雄]]{{efn|第22話の脚本も実質的に担当。}}、樋口祐三、[[鈴木俊継]] ** 撮影 - 内海正治(制作第4 - 39話)、福沢康道(制作第4 - 39話)、鈴木斌(制作第4 - 39話) ** 照明 - 山口偉治(制作第4 - 39話)、高島利雄(制作第4 - 39話) ** 美術 - 岩崎致躬(制作第4 - 39話){{efn|制作初期の3話分は成田亨の美術助手とクレジットされている{{R|UPM3728}}。}} ** 音楽 - [[宮内國郎]] ** 効果 - 西本定正(制作第4 - 39話)、荒川与志雄、知久長 ** 編集 - 兼子玲子(制作第1 - 3話)、近藤久(制作第4 - 39話)、柳川義博(制作第4 - 39話)、小倉昭夫(制作第4 - 39話) ** 編集助手 - 泉典彦、[[小林煕昌]](制作第4 - 39話)、小倉昭夫 ** 録音 - [[光映新社|キヌタ・ラボラトリー]] ** 助監督 - [[東條昭平]]{{efn|東条とクレジット。}}、吉高勝之、鈴木俊継、大平隆 ** 制作担当者 - [[熊谷健]](制作第4 - 39話)、守田康司、久東晃、上村宏、原田昇、篠塚正弘 ** 現像 - [[東京現像所]] ** オプチカル - [[TBSビジョン|東京テレビ映画]] ** 協力制作 - [[朝日放送テレビ|朝日放送]](26,27) ** 協力 - [[大阪タワー]]株式会社(26,27) * 特殊技術 ** [[高野宏一]](第12・13話は名義のみ){{efn|制作第4話では立ち回りの演技指導も行っている{{R|全調査報告140}}。}}、[[的場徹]]、[[有川貞昌]] ** 撮影 - 高野宏一(制作第1 - 3話)、[[佐川和夫]](制作第4 - 39話)、[[森喜弘]]、[[鈴木清 (映画監督)|鈴木清]](制作第4 - 39話) ** 照明 - 小林哲也、原勲(制作第24 - 39話) ** 美術 - [[成田亨]]{{efn|第26話以降、'''怪獣デザイン'''と表示。}}、深田達郎、大瀬賢一(第26話 - )、[[池谷仙克]] ** 怪獣・怪獣ミニチュア制作 - [[高山良策]]、[[佐々木明 (造形家)|佐々木明]](第2・3・9・16話)、[[エキスプロダクション]](第8(スフラン)・20・25(ギガス)・29・30話)、[[開米栄三]]、[[東宝|東宝特殊美術部]](第5・10話)、円谷プロ特殊美術スタッフ ** 機電 - 倉方茂雄 ** メカニック制作 - 郡司模型製作所 ** 光学撮影 - [[中野稔]]、[[川北紘一]](タイトルバック合成、変身シーン) ** 助監督 - 鈴木俊継(制作第4 - 39話)、山本正孝、[[大木淳吉|大木淳]] ** [[スクリプター|記録]] - [[宍倉徳子|鈴木徳子]] * 製作進行 - 熊谷健(制作第1 - 3話)、梅本正明(制作第4 - 39話)、太田勝正(制作第4 - 39話) * 製作デスク{{efn|第13話まで、'''演技事務'''と表示。}} - 新野悟 * 制作 - TBS、円谷プロダクション == 誕生過程 == 本作品の企画が始動したのは、[[1965年]][[8月]]ごろのことだった。当時、第2クールを制作中の『ウルトラQ』が日曜19時台にて翌年1月2日からスタートとほぼ決定したことも追い風となり、TBSプロデューサーの{{読み仮名|栫井 巍|かこい たかし}}と円谷特技プロ企画文芸部室長・[[金城哲夫]]が中心となってさまざまなアイデアが出されていった。TBSはかなり早い段階で、4つの条件を円谷特技プロに提示している。 # 海外への番組販売を考慮してカラーフィルムで制作する。 # 「ベムラー」という、怪獣と互角に戦える、正義のモンスターをシリーズを通じての主人公にする。 # [[スピンオフ]]として『ウルトラQ』のレギュラー俳優を1人残す{{efn|ただし、初期の企画書『科学特捜隊ベムラー』では、桜井浩子の役どころはサコミズ隊員の妹・由起子となっており、女性隊員役には[[田村奈巳]]、[[那須ますみ]]、[[中真千子]]などが候補に挙がっていた<ref>バンダイ『ウルトラマンLDボックス』解説書2頁、ジェネオンエンタテインメント刊『昭和41年ウルトラマン誕生』78頁</ref>。}}。 # 自然な展開のために怪獣事件を専門に扱う公的機関 会議の中では「主人公が怪獣では問題がある」という意見も強く、監修者の円谷英二からも「[[スーパーマン]]のようなヒーローを」との提案が出された{{Sfn|ULTLAMAN(ウルトラマン)|1995|p=90|loc=作品解説}}。また、この時期に円谷が特技監督を担当した東宝特撮映画で、人間に味方する巨人と凶暴な怪獣が死闘を展開する『[[フランケンシュタイン対地底怪獣]]』(1965年・東宝)が公開されており、この映画も本作品の企画に少なからず影響を与えていると言われている。 ここでフジテレビ用に企画されていた番組『WoO』の「人間に味方する友好的宇宙人の活躍」というアイデアが流用され、『科学特捜隊ベムラー』というSF活劇の企画書が作成された{{Refnest|group="出典"|{{R|白書42|UPM024|F29116|HISTORICA8}}}}。この企画書では、「本部をパリに置き、警察の手に負えない常識を越えた異変や怪事件を専門に調査する科学特捜隊の日本支部」と彼らに協力する正体不明の正義の宇宙人'''ベムラー'''が設定されている{{Refnest|group="出典"|{{R|TVMAGA超892|全調査報告130|マガジン20209}}}}。「飛行機事故で消息を絶った主人公がヒーローになって生還する」という設定はこの時点ですでに見られるが、主人公とベムラーの関係は企画書には明記されていない。科学特捜隊のサコミズが変身することは決まっていたものの、あえて変身の描写はオミットされ、ベムラーの正体はぼかす方向性であったという{{R|TVMAGA超892|全調査報告130}}。また、変身アイテムもなく、変身時に両腕を掲げ、忍術のようなポーズをとっていた{{R|F29116}}。この時点では、平田昭彦と藤田進の配役が予定されていた指揮班があった{{R|全調査報告130}}。 渡辺明がデザインしたベムラーの容姿は日本の伝説上の生物・[[烏天狗]]を思わせる翼を持つスマートなもので、関係者から「敵怪獣との区別がつきにくい」や「ヒーローとしてのキャラクター性が弱い」との指摘があった。そこで『ベムラー』企画は再検討され、新たに『科学特捜隊レッドマン』が企画されることとなった{{efn|レッドマンの名称は、本作品以後の作品でも企画段階の番組名を他社に商標登録されてしまうのを防ぐために秘匿した初期段階の仮題として認識され{{R|TVMAGA超892}}、円谷特技プロでしばしば用いられるようになった。『ウルトラマン白書』では、本作品の時点でも盗用防止用の仮題であったとしている{{R|白書42}}。1972年には[[レッドマン|同名のミニ番組]]も制作されている。}}。この企画書では、正義の怪獣ではなく「甲冑を思わせるような赤いコスチューム」をまとった謎のヒューマノイドタイプの宇宙人として設定されている{{R|TVMAGA超892}}。身長は2メートルから40メートルまで伸縮自在と設定されている。また、変身時間の制限も導入された。主人公とヒーローの関係についても「飛行機事故でサコミズを死なせた宇宙人レッドマンが責任を取ってサコミズの肉体を借りる」と明記され、後の完成作品におけるウルトラマンの設定の基本的な部分は完成していた。その一方、レッドマンは故郷がX星人の侵略で滅亡している遊星人であること{{R|全調査報告130}}、サコミズ本人はすでに死亡してその心はレッドマンであること、サコミズには人気歌手の恋人・由木ひかるがいることなど、完成作品との相違部分もある{{R|F29116}}。 こうして成田亨が担当したレッドマンのデザインは火星の運河状のラインをもつスマートなボディで、幾分かヒーロー的になったものの、拵井はもっとシンプルでインパクトのあるメタリックカラーを基調としたデザインを要求した{{R|全調査報告130|マガジン38}}。また、前述のように本作品は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へのセールスを前提としており、アメリカの事情に詳しいTBS編成局企画部の大谷乙彦らが海外輸出を考慮して「今の形では外国人には受け入れられない。もっと無表情な鉄仮面のようなものの方が謎があっていい」などと提案した{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|テレビヒーローの創造|1993|p=103-104|loc=第三章●「ウルトラ」時代の欧米型ヒーロー 『ウルトラマン』、欧米型ヒーローの設計}}{{R|全調査報告130|UPM024|マガジン38|HISTORICA8}}}}。こうして試行錯誤した結果、生命感のある究極なる徹底した単純化を図ったレッドマンのデザインが完成した{{R|TVMAGA超892|全調査報告130}}{{efn|[[飯島敏宏]]は無表情なウルトラマンのデザインに反対しており、当初のスーツでは口が可動するものにするように指示した。Aタイプマスクの口元に寄っているシワは、その仕掛けの名残である。}}。成田は、デザインを描かずにマスクの原型を佐々木明に依頼したが、最後はアトリエに篭って一人で完成させた{{R|HISTORICA8}}。 「ベムラー」の名は、第1話に登場する怪獣の名前として残された{{Sfn|白書|1982|p=43}}。脚本家の[[関沢新一]]は、円谷英二から企画の相談を受けた際に、自身が『ウルトラマン』という題名を言ったのかもしれないと述べている{{R|東宝SF2}}。 == 制作背景 == 前作の『ウルトラQ』は放送前に全話の撮影を終了させていたが、本作品は放映と平行して制作する一般的なドラマのスタイルとなった。TBSから支給された予算は1クールにつき7000万円(1本約538万円)、本編のクランクインは1966年3月16日だった<ref>ジェネオンエンタテインメント刊『ウルトラマン1966+』54頁</ref>。 本作品は、ほぼ同時期に放映された『[[マグマ大使 (テレビドラマ)|マグマ大使]]』とともにカラー放送による{{efn|name="COLOR"|テレビシリーズの本放送開始当時、カラー放送が開始されていなかった一部のネット局では(主に九州地方に多かった)、当該局のカラー放送開始まで本放送を[[モノクローム|モノクロ]]で放送していた。}}連続テレビ映画の草分けだったうえ、巨大な宇宙人を主人公とする大がかりな特撮中心のドラマは世界にも類例が存在しないため、番組制作は苦難の連続だった。 『ウルトラQ』では、円谷英二の「16mmのクォリティでは特撮はできない」との主張で劇場映画用と同じ35mmフィルムで撮影し、放映用フィルムとして16mmに縮小するという手法が採られた。この手法によりテレビ作品としては異例のクオリティを得られたが、フィルム代で予算が圧迫される問題が発生した{{efn|監督の[[中川晴之助]]が16mm撮影の調子でカメラを回し続け、他の監督から「フィルム喰いのハルゴン」とあだ名を付けられたというエピソードも残っている。}}。本作品では高価なカラーフィルムを使用することから、合成カットのみ35mm、それ以外は本編・特撮とも16mmとすることで、合成映像の不自然さを低減させつつコストダウンを図った。しかしカラー撮影のノウハウが少ないため、調整や取り直しなどで時間やフィルムを浪費することとなり、3月中旬まで飯島敏宏組の本編クランクインはずれ込んでしまう{{R|マガジン20209}}。 撮影では飯島敏宏監督によるAブロック(放映第2話、第5話、第3話)は本編・特撮を同一スタッフが手がける一斑編成で開始したが、カラーフィルムの入念なテスト(色彩設計や照明の光量など)やウルトラマンの着ぐるみの度重なる塗り直し(初期は、[[ラテックス]]製のマスクと未塗装の黒い[[ウェットスーツ]]を使用していた)などカラー撮影にまつわる細々とした対応の他、操演中のジェットビートルを[[ホリゾント]]にぶつけて大破させるなどの事故も重なり撮影は遅々として進まず、野長瀬三摩地監督のBブロック(放映第7話、第4話、第6話、第9話)からは制作費的にも合理的な別班編成に変更された{{R|全調査報告130|マガジン20209}}。Bブロックは円谷一監督によるCブロック(放映第1話と第8話)の本編シーンの撮影を優先したため、完成済みの第7話を除いて後回しにされた。第1話に先駆けて放映されたテレビ番組『[[#ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生|ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生]]』のおかげで、なんとか無事に放映が始まったものの、スケジュールは次第に切迫し、特撮を2班編成にしてもその遅れは間に合わなくなってきた。円谷英二のダメ出しによる撮り直しだけでなく、スタジオと撮影機材のレンタル費、脚本費、俳優費、スタッフ費も大きな負担になっており、1本平均の直接制作費が450万~470万円になるなど予算・時間共に余裕の無い状況となっていた。ソフビ人形などのマーチャンダイジングの収益が、版権所有各社で莫大な版権使用料として分配されることで、円谷特技プロの運営はようやく安定していた{{R|全調査報告130}}。 そのため、番組の続行を望むTBS側とこれ以上の続行は不可能とする円谷特技プロとの間で協議が重ねられ、「赤字はともかく、週1回の放送に間に合わないのが確実になった」<ref>高野宏一他複数のスタッフによる証言{{Full|date=2021年12月}}</ref>ために、1967年初頭に高視聴率を維持していながらも第4クール目の発注が断念され、3クール39話の放送で一旦終了することが決定した{{Refnest|group="出典"|{{R|特撮世界134|TVMAGA超892|HISTORICA8}}}}{{efn|制作体制の見直しが行われ、『[[ウルトラセブン]]』放送までの半年間、[[東映]]制作の『[[キャプテンウルトラ]]』が放映されることになった{{R|特撮世界134}}。}}。 == 時代設定 == {{独自研究|section=1|date=2017年7月}} テレビシリーズの本放送当時は厳密な時代設定の統一は行われておらず、その当時の現実と未来とが混在している。 本放送当時にTBS番宣課が発行した「ウルトラマンあらすじ集」第一集<ref>『宇宙船別冊 ウルトラマン大鑑』(朝日ソノラマ・1987年)。218頁</ref>と、『[[週刊少年マガジン]]』1966年31号([[8月7日]]号)での[[グラビアページ]]の時代設定は、「[[1975年]]ごろ」という記載がある。スタッフの認識は[[近未来]]という程度で明確な合意はなく、第23話で[[ジャミラ (ウルトラ怪獣)|ジャミラ]]の墓標に没年が[[1993年]]と記されていたり、第39話で「1930年代から40年以上」とのセリフがあるなど一定していない。 唯一の前後編である第26話・第27話は、作中で子供たちが怪獣の存在を否定していたり、子供のごっこ遊びでウルトラマンの変身方法が知られていたりと、現実世界寄りの演出がされている。また、第35話では延長工事途中の[[首都高速道路]]や日本で唯一の[[超高層ビル]]{{efn|作中のイデ隊員のセリフより。ビルの名までは明確に語られていなかったが、放送当時の日本で超高層ビルと言えば[[霞が関ビル]]だけで、しかもまだオープン前である。}}など、放送当時の東京の景観がそのままミニチュアセットで再現されている。 == シリーズとしての「ウルトラマン」 == 『ウルトラマン』に続いて一連のシリーズ作品が制作・放映された。毎回、巨大ヒーローと怪事件処理専門チームが連携し、宇宙や[[異次元]]、地球のどこからか現れる怪獣や宇宙人たちと戦うというコンセプトの特撮番組で、子供たちから人気を博す。これらの作品は、「ウルトラシリーズ」や「ウルトラマンシリーズ」と呼ばれる。 {{Main|ウルトラシリーズ}} == 放送日程 == * 各怪獣の詳細は「[[ウルトラマンの登場怪獣]]」を参照。 * 各話オープニングの最後にその回に登場する怪獣や宇宙人の名前や肩書が表示されるが、実際には登場していても表示されていないものがある{{efn|ミイラ人間など。}}。また複数の怪獣名を表記した回{{efn|具体的には第8・19・25・37・38話。}}とダダ以外の宇宙人の表記{{efn|具体的には第2・16・18・33話。}}、ならびにネロンガとグリーンモンス{{efn|第3・5話}}は名前のみで肩書き表示がなかった。 * シナリオの表紙に記載された制作No.は、実際の撮影順とは異なっている。ここでの制作順は「キヌタ・ラボラトリーの作業日誌<ref>バンダイLD「ウルトラマン」vol.9解説書。</ref>」、「高山良策の怪獣造型日誌<ref>バンダイ「ウルトラマンLDボックス」解説書。</ref>」、「テレビマガジンヒーローグラフィックライブラリー1 ウルトラマン」(講談社)を参考にした。 * 視聴率はビデオリサーチ調べ(関東地区) {|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:95%" !放送回!! style="width:9em" |放送日!! style="line-height:1.1" |制作順!!サブタイトル!!登場怪獣・宇宙人!!脚本!!特技監督!!監督!!視聴率 |- !- |style="text-align:right"|'''1966年'''{{0}}7月10日 | - |ウルトラマン前夜祭 | - |[[金城哲夫]] | - |{{Plainlist| * [[実相寺昭雄]] * [[樋口祐三]] }} |30.6% |- !1 |style="text-align:right"|7月17日 |5 |ウルトラ作戦第一号 |style="text-align:left"|ベムラー |{{Plainlist| * [[関沢新一]]{{efn|name="関沢"}} * 金城哲夫 }} |[[高野宏一]] |[[円谷一]] |34.0% |- !2 |style="text-align:right"|7月24日 |1 |侵略者を撃て |style="text-align:left"|バルタン星人 |[[飯島敏宏|千束北男]] |rowspan="2"|[[的場徹]] |rowspan="2"|[[飯島敏宏]] |34.6% |- !3 |style="text-align:right"|7月31日 |3 |科特隊出撃せよ |style="text-align:left"|ネロンガ |[[山田正弘]] |33.6% |- !4 |style="text-align:right"|8月{{0}}7日 |7 |大爆発五秒前 |style="text-align:left"|ラゴン |[[野長瀬三摩地|南川竜]] |高野宏一 |[[野長瀬三摩地]] |29.5% |- !5 |style="text-align:right"|8月14日 |2 |ミロガンダの秘密 |style="text-align:left"|グリーンモンス |[[藤川桂介]] |的場徹 |飯島敏宏 |29.0% |- !6 |style="text-align:right"|8月21日 |8 |沿岸警備命令 |style="text-align:left"|ゲスラ |山田正弘 |rowspan="6"|高野宏一 |rowspan="2"|野長瀬三摩地 |34.9% |- !7 |style="text-align:right"|8月28日 |4 |バラージの青い石 |style="text-align:left"|アントラー |{{Plainlist| * 南川竜 * 金城哲夫 }} |34.0% |- !8 |style="text-align:right"|9月{{0}}4日 |6 |怪獣無法地帯 |style="text-align:left"|{{Plainlist| * レッドキング * チャンドラー * マグラー * ピグモン * スフラン }} |{{Plainlist| * 金城哲夫 * [[上原正三]] }} |円谷一 |36.6% |- !9 |style="text-align:right"|9月11日 |9 |電光石火作戦{{efn|脚本では「ガボラ誘導せよ!」、初稿では「パゴス反撃指令」という題名であった{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=32}}。}} |style="text-align:left"|ガボラ |山田正弘 |野長瀬三摩地 |39.5% |- !10 |style="text-align:right"|9月18日 |11 |謎の恐竜基地 |style="text-align:left"|ジラース |金城哲夫 |rowspan="2"|[[満田かずほ]] |39.0% |- !11 |style="text-align:right"|9月25日 |10 |宇宙から来た暴れん坊{{efn|初期の脚本では「宇宙から来た悪戯者」という題名であった{{Sfn|シリーズ大図鑑|2015|p=33}}。}} |style="text-align:left"|ギャンゴ |宮田達男 |30.1% |- !12 {{efn|この回からOPの影絵が変更されている。}} |style="text-align:right"|10月{{0}}2日 |12 |ミイラの叫び |style="text-align:left"|{{Plainlist| * ドドンゴ * ミイラ人間 }} |藤川桂介 |rowspan="2" colspan="2" |円谷一 |37.6% |- !13 |style="text-align:right"|10月{{0}}9日 |13 |オイルSOS |style="text-align:left"|ペスター |style="line-height:1.2"|金城哲夫 |38.3% |- !14 |style="text-align:right"|10月16日 |15 |真珠貝防衛指令 |style="text-align:left"|ガマクジラ |rowspan="2"|[[佐々木守]] |rowspan="23"|高野宏一 |rowspan="2"|[[実相寺昭雄]] |37.8% |- !15 |style="text-align:right"|10月23日 |14 |恐怖の宇宙線 |style="text-align:left"|ガヴァドン |37.4% |- !16 |style="text-align:right"|10月30日 |17 |科特隊宇宙へ |style="text-align:left"|バルタン星人(二代目) |千束北男 |rowspan="2"|飯島敏宏 |38.9% |- !17 |style="text-align:right"|11月{{0}}6日 |16 |無限へのパスポート |style="text-align:left"|ブルトン |藤川桂介 |36.0% |- !18 |style="text-align:right"|11月13日 |19 |遊星から来た兄弟 |style="text-align:left"|{{Plainlist| * ザラブ星人 * にせウルトラマン }} |{{Plainlist| * 南川竜 * 金城哲夫 }} |rowspan="2"|野長瀬三摩地 |39.8% |- !19 |style="text-align:right"|11月20日 |18 |悪魔はふたたび |style="text-align:left"|{{Plainlist| * バニラ * アボラス }} |{{Plainlist| * 山田正弘 * 南川竜 }} |36.8% |- !20 |style="text-align:right"|11月27日 |20 |恐怖のルート87 |style="text-align:left"|ヒドラ |金城哲夫 |rowspan="2"|[[樋口祐三]] |39.0% |- !21 |style="text-align:right"|12月{{0}}4日 |21 |噴煙突破せよ |style="text-align:left"|ケムラー |[[樋口祐三|海堂太郎]] |36.5% |- !22 |style="text-align:right"|12月11日 |23 |地上破壊工作 |style="text-align:left"|{{Plainlist| * テレスドン * 地底人 }} |rowspan="2"|佐々木守 |rowspan="2"|実相寺昭雄 |38.0% |- !23 |style="text-align:right"|12月18日 |22 |故郷は地球 |style="text-align:left"|ジャミラ ||38.2% |- !24 |style="text-align:right"|12月25日 |24 |海底科学基地 |style="text-align:left"|グビラ |藤川桂介 |rowspan="2"|飯島敏宏 |35.8% |- !25 |style="text-align:right"|'''1967年'''{{0}}1月{{0}}1日 |25 |怪彗星ツイフォン<ref name="25話">実際のオープニング画面上の表記は『怪彗星ツイフ'''オ'''ン』</ref> |style="text-align:left"|{{Plainlist| * ギガス * ドラコ * レッドキング(二代目) }} |[[若槻文三]] |35.7% |- !26 |style="text-align:right"|1月{{0}}8日 |26 |怪獣殿下 前篇 |style="text-align:left"|{{Plainlist| * スフランII * ゴモラ }} |rowspan="2"|{{Plainlist| * 金城哲夫 * 若槻文三 }} |rowspan="2"|円谷一 |37.5% |- !27 |style="text-align:right"|1月15日 |27 |怪獣殿下 後篇 |style="text-align:left"|ゴモラ |37.0% |- !28 |style="text-align:right"|1月22日 |28 |人間標本5・6 |style="text-align:left"|{{Plainlist| * ダダ * ダダ上司 }} |山田正弘 |rowspan="2"|野長瀬三摩地 |37.7% |- !29 |style="text-align:right"|1月29日 |29 |地底への挑戦 |style="text-align:left"|ゴルドン |{{Plainlist| * 南川竜 * 金城哲夫 }} |36.1% |- !30 |style="text-align:right"|2月{{0}}5日 |31 |まぼろしの雪山 |style="text-align:left"|ウー |金城哲夫 |rowspan="2"|樋口祐三 |39.9% |- !31 |style="text-align:right"|2月12日 |30 |来たのは誰だ |style="text-align:left"|ケロニア |海堂太郎 |38.7% |- !32 |style="text-align:right"|2月19日 |32 |果てしなき逆襲 |style="text-align:left"|ザンボラー |藤川桂介 |rowspan="2"|[[鈴木俊継]] |39.2% |- !33 |style="text-align:right"|2月26日 |33 |禁じられた言葉 |style="text-align:left"|{{Plainlist| * メフィラス星人 * バルタン星人(三代目) * ザラブ星人(二代目) * ケムール人(二代目) * 巨大フジ隊員 }} |金城哲夫 |40.7% |- !34 |style="text-align:right"|3月{{0}}5日 |34 |空の贈り物 |style="text-align:left"|スカイドン |rowspan="2"|佐々木守 |rowspan="2"|実相寺昭雄 |33.9% |- !35 |style="text-align:right"|3月12日 |35 |怪獣墓場 |style="text-align:left"|シーボーズ |37.2% |- !36 |style="text-align:right"|3月19日 |36 |射つな! アラシ |style="text-align:left"|ザラガス |山田正弘 |rowspan="2"|満田かずほ |38.4% |- !37 |style="text-align:right"|3月26日 |37 |小さな英雄 |style="text-align:left"|{{Plainlist| * ジェロニモン * ピグモン(再生) * ドラコ(再生) * テレスドン(再生) }} |金城哲夫 |rowspan="2"|[[有川貞昌]] |42.8% |- !38 |style="text-align:right"|4月{{0}}2日 |38 |宇宙船救助命令 |style="text-align:left"|{{Plainlist| * キーラ * サイゴ }} |上原正三 |rowspan="2"|円谷一 |34.4% |- !39 |style="text-align:right"|4月{{0}}9日 |39 |さらばウルトラマン |style="text-align:left"|{{Plainlist| * ゼットン * ゼットン星人 * ゾフィー }} |金城哲夫 |高野宏一 |37.8% |} == 放送局 == {{節スタブ}} * TBS:日曜 19:00 - 19:30 * [[北海道放送]]:日曜 19:00 - 19:30{{R|k6612}} * [[IBC岩手放送|岩手放送]]:日曜 19:00 - 19:30{{R|k6612}} * [[秋田テレビ]]:月曜 18:00 - 18:30(1971年に放送。1972年2月14日が最終回)<ref>『河北新報』1971年8月2日、1972年2月14日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山形放送]]:月曜 - 金曜 17:00 - 17:30(1970年に放送)<ref>『河北新報』1970年4月20日 - 4月24日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[東北放送]]:日曜 19:00 - 19:30{{R|k6612}} * [[福島テレビ]]:日曜 19:00 - 19:30{{R|k6612}} * [[新潟放送]]:日曜 19:00 - 19:30{{R|ho}} * [[北日本放送]]:土曜 17:30 - 18:00(『[[ウルトラセブン]]』の後番組として1968年に放送) <ref>『北國新聞』1968年9月7日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[北陸放送]]:日曜 19:00 - 19:30{{R|ho}} * [[福井放送]]:木曜 18:00 - 18:30(1969年に放送)<ref>『北國新聞』1969年3月6日付朝刊、テレビ欄。</ref> * 中部日本放送(現・[[CBCテレビ]]):日曜 19:00 - 19:30<ref>『[[北日本新聞]]』1967年1月15日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[朝日放送テレビ|朝日放送]]:日曜 19:00 - 19:30<ref>『[[朝日新聞]]大阪本社』1966年7月17日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山口放送]] * [[RKB毎日放送]]:日曜 19:00 - 19:30<ref>『[[朝日新聞]]西部本社』1966年7月17日付朝刊、テレビ欄。</ref> == 音楽 == === オープニングテーマ === ; 「ウルトラマンの歌」 :* 作詞:[[円谷一|東京一]] / 作曲・編曲:[[宮内國郎]] / 歌:みすず児童合唱団、コーロ・ステルラ{{efn|JASRAC登録上はすべて『みすず児童合唱団』である。}} : 主題歌の売上は[[ミリオンセラー]]を記録した<ref>{{Cite book|和書|author=長田暁二|authorlink=長田暁二|title=昭和の童謡アラカルト―戦後編|publisher=ぎょうせい|year=1985|page=253|isbn=4-324-00124-3}}</ref>。作中では3種類の音源が使われており、日本コロムビアのCDでは以下のように呼び分けられている。 :; ウルトラマンの歌(第1話、7話) :: 市販の音源には原則としてこのバージョンのフルサイズが収録される{{efn|「ウルトラ作戦第一号」は制作第5話、「バラージの青い石」は制作第4話と、ダビング時期が近接している。}}。 :; ウルトラマンの歌 (First Recording Version)(第2 - 6話、第8 - 30話) :: 3種類のうち最初に録音されたもので、みすず児童合唱団の編成と歌詞の最後の部分の歌い方が独自のものになっている。このバージョンの歌唱者については、その声質から「実際は[[上高田少年合唱団]]ではないか」という説がある<ref>『ウルトラマン 総音楽集』(1991年、キングレコード)のライナーノーツより。</ref>。 :; ウルトラマンの歌 (Version 3)(第31 - 39話){{efn|インターネット配信版では当該エピソードについてもFirst Recording Versionに差し替えられている。}} :: 劇伴の追加に合わせて録音されたもの。このバージョンのみコーロ・ステルラは歌っておらず、放送用のTVサイズしか存在しない。 :; 海外版(海外作詞者および歌手不詳) :: 「ウルトラマンの歌」の音源を海外で使用したバージョン。 :* 本作品には登場しないM1号、[[カネゴン]]、[[ウルトラQの登場怪獣#貝獣 ゴーガ|ゴーガ]]、[[ウルトラQの登場怪獣#冷凍怪獣 ペギラ|ペギラ]]{{efn|M1号と同様、現存する初期OP用絵コンテにはペギラと明記されている。}}、[[ガラモン (ウルトラ怪獣)|ガラモン]]が影絵で登場している。 === 挿入歌 === ; 「特捜隊の歌」 :* 作詞:東京一 / 作曲・編曲:宮内國郎 / 歌:みすず児童合唱団、コーロ・ステルラ : 主旋律をアレンジした「科特隊マーチ」(科特隊のテーマ)が出動シーンなどで頻繁に使われる。本曲自体も第3話や第4話にごく短く編集された形で使われる。 : ; 「進め! ウルトラマン」 :* 作詞:東京一 / 作曲・編曲:宮内國郎 / 歌:みすず児童合唱団、コーロ・ステルラ : 主題歌の候補としては長調、短調の2曲が作られた。長調の曲が主題歌として採用され、短調の曲が挿入歌「進め! ウルトラマン」となった。アレンジ曲「勝利」(M-5、別題「激闘! ウルトラマン」)が第18話からウルトラマンの戦闘シーンで使われるようになり、[[カラオケ]]は後に『[[ウルトラファイト]]』のタイトル部分に使われる{{efn|M-5は1991年発売の15枚組限定盤『TSUBURAYA PRODUCTION HISTORY OF MUSIC』のために再録音が行われている。これは1997年放送の『ウルトラマンティガ』第49話に流用されたことから『ティガ』のサントラ『ウルトラマンティガ MORE MUSIC COLLECTION』にも収録された(後に発売された3枚組盤では、他の流用曲と同様に未収録となっている)。またバンダイのカードゲーム・[[データカードダス]]の『大怪獣バトル』の戦闘部分にもこの曲が使われる。}}。 : 後年公開されたNG版では、一部歌詞の違いを確認できる。 === BGM === 本作品の音楽は、前作『ウルトラQ』に引き続き宮内國郎が担当した。メインタイトル映像のうち『ウルトラQ』のロゴを使った部分の曲は、『ウルトラQ』のメインタイトル曲(M-1T2)に本作品オリジナルの曲(タイトルT6)を被せたものである。第1話のハヤタ隊員とウルトラマンの出会いのシーンに『ウルトラQ』第28話「あけてくれ!」用の音楽が選曲されるなど、過去に宮内の書いた[[東宝特撮]]映画『[[ガス人間第一号]]』や『ウルトラQ』、『[[快獣ブースカ]]』の楽曲が流用されることも多い。 『ウルトラマン』自体の汎用BGM録音は3回行われた。「特捜隊のテーマ」など一部の曲は主題歌録音と同時にステレオで録音されたが、モノラルのコピーしか残存していない。また、[[実相寺昭雄]]が監督した第14・15・23話では追加録音が行われ、これらの楽曲は他のエピソードでも使用される。追加録音は最終回の第39話でも行われたが、これらの追加録音曲はいずれもテープの所在が確認されていない。 == 関連番組 == === ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生 === {{基礎情報 テレビ番組 |番組名=ウルトラマン誕生 |ジャンル=[[特別番組]] |画像=[[ファイル:Suginami public hall 1.jpg|250px]] |画像説明=ウルトラマン放送開始前のイベントが行われた杉並公会堂<br />記念プレートが設置されている |放送期間=[[1966年]][[7月10日]] |放送時間=日曜19:00 - 19:30 |放送分=30 |放送回数=1 |放送枠=タケダアワー |放送国={{JPN}} |制作局=[[TBSテレビ|TBS]] |脚本=[[金城哲夫]] |演出=[[樋口祐三]]、[[実相寺昭雄]] |出演者={{Plainlist| * [[小林昭二]] * [[黒部進]] * [[毒蝮三太夫|石井伊吉]] * [[二瓶正也]] * [[桜井浩子]] * [[津沢彰秀]] * [[田中明夫]] * 伊藤素道とリリオリズムエアーズ * [[ナンセンストリオ]] * [[円谷英二]] }} |音声=[[モノラル放送]] |OPテーマ=「ウルトラマンの歌」 |EDテーマ=同上 }} ; 放送日 (TBS、1966年7月10日 19:00放送) ; 概要 : 1966年7月9日、テレビシリーズの放送に先駆け、[[杉並公会堂]]で行われたイベント『ウルトラマン子ども大会』<ref>{{cite news| title = ウルトラお宝秘話「ウルトラマン前夜祭で使われた歌詞カード持ってます?」|ウルトラマン放送開始50年記念企画“ウルトラお宝大進撃”| newspaper = ASCII.jp| url =http://ascii.jp/elem/000/001/404/1404268/| date = 2016-12-20| accessdate = 2021-9-1}}</ref>の中継VTR録画番組(VTR収録){{R|UPM0235}}。『ウルトラQ』は、「UNBALANCE」時代の怪奇路線を後半に回す形をとりつつ、28本を全て放送するスケジュールが組まれていた<ref>「ジュニアTBSニュース号外」より。ジェネオンエンタテインメント刊「ウルトラマン1966+」、2016年。44頁</ref>。「206便消滅す」は当初から最終回(第28話)として7月10日の放送が告知されており、『ウルトラマン』の放送開始は7月17日と公表されていた。しかし5月15日の放送予定であった第20話「あけてくれ!」は、「怪獣が登場しないうえに内容が難解すぎる」という理由で、4月末ごろに本放送見送りの処置が下された。これにより、『ウルトラマン』の放送開始は7月10日に繰り上がってしまったのである。にもかかわらず放映第1話の特撮班が6月に入ってようやくクランクインという撮影スケジュールの遅れ{{efn|飯島敏宏監督によるAブロック3本は、3月16日にクランクイン→5月下旬にクランクアップという具合に、撮影に2か月以上もかかっていた。高山良策の日誌によれば、ベムラーのぬいぐるみを円谷プロに引き渡したのは6月5日。第1話の撮影が終了し、怪獣ギャンゴへの改造を施すべく高山邸にベムラーが戻ってきたのは6月27日。}}を危惧したTBSプロデューサーの栫井巍が、1週間の時間稼ぎにと急遽企画したものが本番組だった。また実際にテレビシリーズ第1話「ウルトラ作戦第一号」の完成品フィルムがTBSに納品されたのは7月13日であり、栫井の判断は正しかったと言える。最終スケジュール日程は、7月6日に技術スタッフの打ち合わせ、翌7日と8日にリハーサル、9日の13:00より開演となった。本番では演出用の豚が暴走したり{{R|99謎63}}、視界が悪いマスクのためにウルトラマンがつまずいてしまったりなどのトラブルが続出した。また、アントラーの着ぐるみの胴体部分を前後逆に着用するミスも生じていた。そうした状況を恥じたTBSの担当ディレクター・[[実相寺昭雄]]は、独断でスタッフロールから自身の名前のテロップを外し{{R|F29116}}、そのまま郷里に帰った{{R|99謎63}}。その後、本番での数々のトラブルは編集で削除され{{R|99謎63}}、さらに完成していた第3話のハイライトシーンが加えられての放送となった。その結果、『ウルトラマン前夜祭』は30.6%の高視聴率を得たため、実相寺はお咎めなしで済んだという。 : カラー放送だったと伝えられるが、当時のマスターテープの現存が確認されていないため、詳細は不明{{efn|書籍によっては、モノクロと記述している{{R|UPM0235|マガジン38}}。}}。現存する映像は『[[タケダアワー]]』の[[オープニングキャッチ]]、CM{{efn|冒頭の「[[アリナミン|アリナミンA]]」の[[生コマーシャル|生CM]](担当 - [[林ひな子]])と、「[[ハイシー (ビタミン飲料)|ハイシーA]]」のビデオCMの2つ。}}、提供画面、新番組予告を含むモノクロの[[キネコ]]フィルムで、『現代の主役 ウルトラQのおやじ』とのカップリングで1988年にビデオ化された。その後、LD-BOX・DVD-BOX・BD-BOXなどに特典映像として収録されている。 :* 登場怪獣:[[カネゴン]]、[[ウルトラQの登場怪獣#人工生命 M1号|M1号]]、[[ガラモン (ウルトラ怪獣)|ガラモン]]、[[チャンドラー (ウルトラ怪獣)|チャンドラー]]、[[バルタン星人]]、[[レッドキング]]、[[アントラー (ウルトラ怪獣)|アントラー]]、[[ウルトラマンの登場怪獣#透明怪獣 ネロンガ|ネロンガ]](対決映像){{efn|ネロンガの放映部分の舞台裏は、『ウルトラ THE BACK 〜ウルトラマンの背中〜』(秋田書店)のP157に掲載されている[[古谷敏]]と[[河崎実]]の対談にて判明する。}}。その他、[[ウルトラQの登場怪獣#冷凍怪獣 ペギラ|ペギラ]]と[[ゴメス (ウルトラ怪獣)|ゴメス]]が名前だけ登場している。 : ; スタッフ :* 演出 - 樋口祐三、実相寺昭雄{{R|UPM0235}} :* 脚本 - [[金城哲夫]]{{R|UPM0235}} : ; 出演 :* [[円谷英二]](本人) :* [[田中明夫]](ニセ円谷英二 / モンスター博士) :* [[ナンセンストリオ]](泥棒) :* [[伊藤素道]]とリリオリズムエアーズ(「ウルトラマンの歌」・「特捜隊の歌」を歌う) :* 科特隊メンバーとホシノイサム :* [[古谷敏]](ウルトラマン) === ウルトラマンの日 in 杉並公会堂 === 2016年7月9日・10日、『ウルトラマン』放送開始50年を記念して開催されたイベント。会場は『ウルトラマン誕生』と同じ杉並公会堂。この「ウルトラマンの日」は[[日本記念日協会]]公認の記念日とされており、当日は初代ウルトラマンを初めとする歴代ウルトラシリーズ出演者が当時のイベントを再現するとともに、ライブ、トークショーなどを展開。会場内ではウルトラシリーズのソフビやフィギュアなどを製作する各メーカーが集結した「『ウルトラマンの日』スペシャルホビーマーケット」も開催された。当日のステージの一部は2016年7月10日に[[TBSチャンネル|TBSチャンネル1]]で生放送された<ref>[http://m-78.jp/50th/suginami/ ウルトラマンの日in杉並公会堂]</ref>。 == 映画 == * 1967年7月22日『[[長篇怪獣映画ウルトラマン]]』 ** テレビシリーズ第1話、第8話、第26話、第27話を再編集して作られた。 * 1979年3月17日『[[実相寺昭雄監督作品ウルトラマン]]』 ** テレビシリーズの再編集。 * 1979年7月21日『[[ウルトラマン怪獣大決戦]]』 ** テレビシリーズの再編集。 * 1989年4月28日『ウルトラマン 恐怖のルート87』 ** 第20話のブローアップ上映{{R|UPM0235}}。「ウルトラマン大会(フェスティバル)」にて『[[ウルトラマンUSA]]』『ウルトラマンA 大蟻超獣対ウルトラ兄弟』『ウルトラマンキッズ』と同時上映{{R|UPM0235}}。 ** 前年TBSでオンエアされた「ウルトラマン」から意図的に外されてこの併映に選ばれた。配給元の東宝は「悪魔はふたたび」を考えていたが、『[[ウルトラマンA#映画作品|ウルトラマンA 大蟻超獣対ウルトラ兄弟]]』併映のバーターで上映が決定した。 * 1996年3月9日『[[甦れ!ウルトラマン]]』 ** 『ウルトラマンワンダフルワールド』内の1つであり、『[[ウルトラマンゼアス]]』『[[ウルトラマンカンパニー]]』と同時上映。テレビシリーズの既存のフィルムを再編集し、新録のセリフを被せた第39話の後日譚{{R|UPM0235}}。 * 2022年6月3日『庵野秀明セレクション ウルトラマン 4K特別上映』 ** 『[[シン・ウルトラマン]]』公開記念として、第18・26・28・34話の厳選4エピソードを4K映像で期間限定上映。 * 2022年7月8日『ウルトラマン』第33話「禁じられた言葉」 * 2022年7月22日 『ウルトラマン』第39話「さらばウルトラマン」 ** 『シン・ウルトラマン』の併映作として期間限定上映<ref>[https://shin-ultraman.jp/sp/news/#20220704001 テレビシリーズ「ウルトラマン」(1966年)メフィラス・ゼットン登場回付き上映 各2週間限定上映決定!!]映画公式サイト 2022年7月4日</ref>。 === 4Kディスカバリー === ; 『空想特撮シリーズ ウルトラマン 4Kディスカバリー』 不思議な映画館を舞台にした、4部作で再構成の4K版オムニバス映画。2023年12月1日公開の『円谷映画祭』Part2で第1部「生命のものがたり」を先行上映<ref>[https://m-78.jp/news/post-6939 石坂浩二さん出演『空想特撮シリーズ ウルトラマン 4Kディスカバリー』「円谷映画祭2023」Part2にて上映]円谷ステーション 2023年11月25日 </ref>。 ; キャスト * 劇場支配人 - [[石坂浩二]] * 謎の少女 - [[浅沼みう]] ; 4部作エピソード * 生命(いのち)のものがたり : 使用作品「ウルトラ作戦第一号」「侵略者を撃て」「怪獣墓場」「さらばウルトラマン」 * 浪漫のものがたり * 仲間のものがたり * 正義のものがたり == Webムービー == ; 『ウルトラマン-シンガポールの新たな力-』 : 日本とシンガポールの外交関係樹立55周年記念事業の⼀環として、2021年12月よりシンガポール政府観光局の公式SNSやウルトラマン公式YouTubeチャンネルで配信された短編ドラマ<ref>[https://m-78.jp/news/post-6158 「ウルトラマン-シンガポールの新たな力-」シンガポールを舞台にした完全新作バトル観光ムービー配信開始!日本・シンガポール外交関係樹立55周年(SJ55)記念事業]円谷ステーション 2021年12月7日</ref>。オリジナル怪獣マーライガーも登場する。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;" border="1" |- !話数!!配信日!!登場怪獣!!ロケ地 |- |EPISODE:01||2021年12月{{0}}7日||レッドキング||ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ |- |EPISODE:02||12月14日||ネロンガ||ジュエル・チャンギ・エアポート |- |EPISODE:FINAL||12月21日||{{hlist-comma|マーライガー、レッドキング、ネロンガ、グビラ}}||マリーナ・ベイ |} * キャスト ** アリーシャ・ホシ博士 - [[黒木ひかり]] ** スーツアクター - [[岩田栄慶]]、[[矢崎大貴]]、[[梶川賢司]]、[[新井宏幸]]、[[石川真之介]]、[[根本史彦]]、[[高橋舜]] * スタッフ ** 監督 - [[田口清隆]] ** 撮影 - 村川聡 ** 画コンテ - [[なかの★陽]] ** キャラクターデザイン - [[後藤正行]] == 未制作シナリオ == {{出典の明記|section=1|date=2014年1月}} ; 『ベムラー』ストーリー案集に記載されたサンプルストーリー :; 「地球を売る商人」{{R|全調査報告138}} :: A国ミサイル基地司令官が宇宙人シビラスに洗脳され、人類自滅戦争開始のミサイル発射ボタンを押してしまい、戦争回避の後に姿を消す。その後、科特隊を誘き出すために「地球売ります」という広告が新聞に出る。 :; 「大誘拐」{{R|全調査報告138}} :: 登場宇宙人は[[ケムール人]]であるが、怪獣の形状説明には「ウルトラQの'''ケムール'''」、ストーリーでは'''ケムール星人'''と記されており、統一性がない。 :: 種の保存に失敗したケムール星人が、自分たちの子孫を残すために全国の200人近い児童たちを空間転移で誘拐する。 :; 「宇宙獣人来襲」{{R|全調査報告138}} :: 青い雪が南極の宇宙旅行基地建設現場に降ったことで廃墟と化し、人々は高熱で苦しんでいた。宇宙胞子であった青い雪を科特隊たちが焼いていると、空から侵略者の脳手術によって人間並みの知能を得た巨大な宇宙獣人スキラーが下りてくる。 :; 「黄金怪鳥スバード」{{R|全調査報告138}} :: 宇宙を漂流する金色の物体は、接近した宇宙ステーションBの機能を狂わせる。科特隊が物体を破壊したことで誕生した「黄金怪鳥スバード」を地球に飛来させないため、宇宙で戦うストーリー。 :: この黄金怪鳥スバードは[[キングギドラ]]をモチーフにしている。 :; 「怪竜ウラー」{{R|全調査報告138}} :: 怪竜が棲むというヤマタ湖にある洞穴の池に顔が2つある双頭怪獣ウラーが登場する。 :: 『ウルトラセブン』の[[パンドン]]の原型にあたる。ストーリーの一部は第10話に転用。 :; 「凍る極光ライン」{{R|全調査報告138}} :: 科学特捜隊と北極点で地球の熱を奪うカニ星雲M73光星から来た円盤の飛行戦が繰り広げられ、サコミズの活躍で爆撃される。だが、粉砕された円盤の中から冷凍怪獣[[ウルトラQの登場怪獣#冷凍怪獣 ペギラ|ペギラ]]が出現。 :; 「氷点下四十度の決戦」{{R|全調査報告138}} :: フランス基地を冷凍怪獣トドゴンが襲撃し、南極・昭和基地に接近する。 :: [[セイウチ]]の怪獣ということから、『ウルトラQ』の[[ウルトラQの登場怪獣#四次元怪獣 トドラ|トドラ]]を改造予定だったと言われている。 :; 「シータランテラ」{{R|全調査報告138}} :: 存在しないと言われている島である原始島で、遭難した第三不知火丸がクモの糸に覆われる。科特隊が原始島に向かうと鉄を腐解する糸を吐く海グモが霧の海に出現する。 :: 海蜘蛛の怪獣で『ウルトラQ』の[[ウルトラQの登場怪獣#大ぐも タランチュラ|タランチュラ]]を改造予定だったと言われている。 :; 「ミステランドの怪物」{{R|全調査報告138}} :: 御蔵島付近で謎の孤島に上陸したサコミズの妹・ユキたちは卵のようなものを拾ってヨットに戻るが、古代生物マンダスが島から現れる。逃げ帰ったユキたちは、卵を分析するが正体は不明であった。数週間後、マンダスが油壷に上陸し、東京へ進撃する。 :; 「グリーン・モンス」{{R|全調査報告138}} :: 失血死事件が午前2時13分に決まって連続発生する。イデとホシノは、放射能の墓場・カロリング島からある漁師が植物を持ち込み、それが姿を消した日から事件が発生したことを突き止める。 :; 「パゴス反撃指令」{{R|全調査報告138}} :: ウラン怪獣パゴスが暴風雨後のU町に出現し、科特隊は大ウラン鉱が同町の一帯の地底にあることを突き止める。パゴスの吐く放射能による汚染を防ぐため、アラシはパゴスを濃縮ウランカプセルで誘導しようとするが、パゴスによってアラシの乗るヘリが叩き落されたことから、サコミズは濃縮ウランを詰めたリュックを背負ってパゴスを誘き出す。 :; 「散歩する土星」{{R|全調査報告138}} :: 太陽系の各惑星の引力バランスが太陽付近を通過する白色伴星の影響によって崩れ、衛星間軌道と各惑星が狂い出したことで朝が来なくなる。白色伴星が遠ざかったことで朝は来たが、地球に土星が接近し始めたことで、土星苔が奥多摩に繁殖し、猛威を振るい始める。 :; 「宇宙船遭難」{{R|全調査報告138}} :: 消息を絶った初の木星ロケット・古都を調査しに、ステーションDへと飛んだ科特隊は、古都を発見するが、サコミズは透視力によって艇長がトロ星人であることを見破る。トロ星人はトロ星へと一同を連れていき、地球侵略要員として訓練させようとする。 :; 「ゲスラ上陸」{{R|全調査報告138}} :: 毛虫の大怪物・ゲスラが横浜港の洋上60kmにある一大遊園地、ニューアイランドを襲撃し、島が沈む。ゲスラは原子力超タンカー・グレートオリエント号も襲撃する。 ; その他の『ベムラー』時代の未制作話 :; 「ベムラー誕生」(脚本:山田正弘) :: 科学特捜隊日本隊の誕生とベムラーの初登場を描く。敵として登場するのは地球の[[窒素|チッ素]]を狙う宇宙人「光芒人間」{{Sfn|研究読本|2013|p=106 - 112|loc=科学特捜隊ベムラーシナリオ ベムラー誕生}}。 ; 『レッドマン』時代の未制作話 :; 「地球を売る男」(脚本:[[山浦弘靖]]){{R|全調査報告138}} :: 核ミサイルの発射ボタンを預かるコンノ中佐は、地球を売ってくれとシビラス星人から言われるが拒否する。宇宙人はコンノを操って人類を滅亡させ、その後に移住しようとする。 :: ベムラー時期からのプロット「地球を売る商人」をシナリオ化。 :; 「リプロスが狙っている」(脚本:田中美樹){{R|全調査報告138}} :: QX星の軟体動物リプロスによって次々と原子力科学研究者が誘拐される。リプロスは細胞分裂に必要な地球の水を独占するために、各国要人を暗殺して核戦争を起こさせようとする。 :: 吸水怪獣ウェットンが登場。少年月刊誌「ぼくら」連載、一峰大二・画「ウルトラマン」最終回「怪獣ウェットンの巻」(原作・梓博)として掲載された。 :; 「宇宙基地救助命令」(脚本:上原正三){{R|全調査報告138}} :: 宇宙ステーションS7の機能が謎の漂流物体によってマヒした。駆けつけたハヤタが物体を破壊すると、金星怪鳥ガースが出現する。ハヤタたちはステーション乗員を脱出させるためにS7に残り、ロケットが飛び立つが、ガースはロケットを追う。 :: ベムラー時期からのプロット「黄金怪鳥スバード」をシナリオ化。改訂を重ねて第38話「宇宙船救助命令」となった{{R|HISTORICA8}}。 :; 「マンダスの島」(脚本:虎見邦男){{R|全調査報告138}} :: アキコは連続船舶事故の生存者である密輸ギャングに人質にされる。密輸ギャングは海に捨てた現金を取り戻そうとするが、彼らの乗るボートの下から、島が突然浮上する。消失した火星の衛星デイモスであった島は、東京湾に迫る。自衛隊によって島が攻撃されると島の時間が逆行し、怪獣マンダスが出現する。 :: その後、『ウルトラセブン』の「漂流する惑星」→「散歩する惑星」として放送された。 :; 「怪獣用心棒」(仮題)(脚本:上原正三){{R|全調査報告138}} :: 地球転覆を企むサン・ダスト団(人間の集団)の総統ヒラーはレッドマンと科特隊に降伏を迫る。それを科特隊が拒否したことでアキコが誘拐されるが、敵のアジトに一同が潜入してアキコを救出するも、今度はハヤタが捕らえられる。ヒラーは東京に皆既日食と時を同じくして守護神の怪獣「ゴルダー」を送り込み、ウルトラマンと対決させる。 :: ウルトラマン対人間に雇われた怪獣という図式が、ウルトラマンのスタンダードからかけ離れているために没になった。放送終了後、成田亨によってデザイン画が起され、一峰大二によって漫画版が掲載された。 ; 『ウルトラマン』になってからの未制作話 :; 「東京危機一発」(脚本:藤川桂介 予定監督:飯島敏宏){{R|全調査報告138}} :: 火の玉が地表から飛び、有害物質が東京の空から消える。ガスタンクの爆発とともにガスを吸うガス怪獣パンドラーが出現するが、消火銃によって吐く火を封じられる。エネルギー発散の場をなくしたパンドラーは巨大化して暴れ回る。 :: 公害をテーマにした意欲作であったが、予算の関係で一旦映像化が見送られた後、終盤の第38話として再浮上したが、実現せずに終わった。 :; 「科学島脱出」(脚本:藤川桂介 予定監督:飯島敏宏){{R|全調査報告138}} :: 採油工場が総合科学基地の置かれた浮き島に建設されると、温度上昇とともに熱怪獣グビラが出現し、周囲を火の海にする。磁気嵐で不時着したビートルに代わって、新型戦車でアキコが出動するもグビラの下敷きとなり、島の爆発が開始する。 :: 怪獣による大火災、外国人隊員を交えた救出劇が描かれる。改訂を重ねて第24話「海底科学基地」が出来上がった{{R|HISTORICA8}}。 :; 「侵略基地を砕け」 :: 怪獣と[[軍艦]]が合体した軍艦怪獣ヤマトンが登場。成田亨によるデザイン画も書かれており、一峰大二による漫画版が後に連載された他、[[ソフトビニール|ソフビ]]も発売された。 :; 「サイボーグ恐竜」 :: [[南極]]で眠っていた古代の侵略者の手先で、格子の付いた[[首長竜]]の[[サイボーグ]]恐竜タンギラーが登場する。後に一峰大二による漫画版が連載された他、ソフビも発売された。 ; 劇場版ウルトラマン「ジャイアント作戦」(脚本:千束北男、予定監督:飯島敏宏){{R|全調査報告138}} : 1966年9月27日に脱稿され、完全新作として放送期間中に上映予定で準備が進められていたが、実現しなかった{{R|白書108}}。これを基に再構成し、テレビシリーズの終盤には第4クール用として「ザ・ジャイアント」(鋼鉄巨人G登場。脚本:飯島敏宏、予定監督:円谷一)が上梓されたが、ここでも映像化は見送られた{{R|HISTORICA8}}。 : [[講談社]]から発売されたオフィシャルファイルマガジン『ULTRAMAN』の専用バインダー初回生産分と、[[学習研究社]]の「ウルトラマン大百科」で「ジャイアント作戦」の復刻版脚本が収録されている。[[2005年]]、飯島が「千束北男」名義で執筆した小説版が発売された。また、『ウルトラマン 科特隊奮戦記 ジャイアント作戦』として[[川崎郷太]]により漫画化されている([[1993年]]、[[朝日ソノラマ]])。 == 漫画版 == * [[ぼくら]] 1966年8月号 - 1967年9月号 全14話 [[一峰大二]] # ネロンガの巻 # グリーンモンスの巻 # 怪獣ギャンゴの巻 # あぶら怪獣ペスターの巻 # バルタン星人の巻 # 怪獣アボラスの巻 # 怪獣ゴモラの巻 # 三大怪獣の巻 # 怪獣ケムラーの巻 # 怪獣スカイドンの巻 # サイボーグ恐竜の巻 # 怪獣ヤマトンの巻 # 怪獣ゴルダーの巻 # 怪獣ウェットンの巻 * [[週刊少年マガジン]]/[[月刊少年マガジン|別冊少年マガジン]] 1966年 - 1967年 [[楳図かずお]] ** 週刊少年マガジン *# バルタン星人の巻 *# なぞの恐竜基地の巻 *# ミイラ怪獣ドドンゴの巻 *# 怪すい星ツイフォンの巻 *# メフィラス星人の巻 ** 別冊少年マガジン *# 二次元怪獣ガヴァドンの巻{{efn|初出時はサブタイトルなし。}} *# 高原竜ヒドラの巻 *: 前期の絵ではウルトラマンの顔が顎のない仮面を付けているとも解釈できる表現になっており、楳図の絵柄を再現した商品では顎が肌色に塗られていることもある<ref>該当する商品が講談社漫画文庫『ウルトラマン』下巻の巻頭カラーページの写真に写っている。</ref> が、実際はAタイプの面に付いていた筋を忠実に描いたものだという<ref>講談社漫画文庫『ウルトラマン』下巻P350</ref>。また、編集部からは「ウルトラマンは最初から出すこと」というのが唯一の注文だったとのこと<ref>講談社漫画文庫『ウルトラマン』下巻P345</ref>。一方で怪獣や宇宙人は怪奇性が強調され、楳図の得意とするホラー調の作風となっている。 * 現代コミクス # ネロンガの巻 1966年11月創刊号 [[井上英沖]] # バルタン星人の巻 1966年11月創刊号 井上英沖 # エリまき大怪獣ジラースの巻 1966年12月号 井上英沖 # ギャンゴの巻 1966年12月号 井上英沖 # ミイラ怪獣ドドンゴの巻 1967年1月号 井上英沖 # ガボラの巻 1967年1月号 井上英沖 # ベムラーの巻 1967年別冊2号「ウルトラマン」[[岸本修 (漫画家)|岸本修]] # グリーンモンスの巻 1967年別冊2号「ウルトラマン」岸本修 # ペスターの巻 1967年2月号 井上英沖 # 新バルタン星人の巻 1967年2月号 井上英沖 # アボラス・バニラの巻 1967年3月号 井上英沖 # ヒドラの巻 1967年3月号 井上英沖 # 怪獣無法地帯の巻 1967年4月号 井上英沖 # ガバドンの巻 1967年4月号 加来あきら # 怪彗星ツイフォン 1967年4月号増刊「ウルトラマン」 岸本修 # 怪獣殿下 1967年4月号増刊「ウルトラマン」 [[宮坂栄一]] # ケムラーの巻 1967年5月号 井上英沖 # メフィラス星人の巻 1967年5月号 加来あきら # ジャミラの巻 1967年6月号 井上英沖 # メガトン怪獣登場スカイドンの巻空の贈り物 1967年6月号 井上英沖 # 二大怪獣登場サイゴ,キーラの巻 1967年7月号 井上英沖 # 幽霊怪獣登場シーボーズの巻 1967年7月号 井上英沖 # ダダ星人の巻 1967年8月号 加来あきら * TBSコミックス # 怪獣酋長ジェロニモンの巻 1967年11月創刊号 井上英沖 # 黄金怪獣ゴルドンの巻 1967年11月創刊号 井上英沖 # 恐怖の怪獣島 ジャミラの巻 1967年12月号 井上英沖 # ジラースの巻 1967年12月号 井上英沖 # 宇宙の大決斗バルタン星人,アントラーの巻 1968年1月号 井上英沖 # ヒドラ,ザラガスの巻 1968年1月号 井上英沖 # 伝説怪獣ウー 1968年1月増刊号 井上英沖 # 恐怖の爪怪獣ドラコの巻 1968年2月号 井上英沖 # 変身怪獣ザラブ星人の巻 1968年2月号 英京治 # 亡霊怪獣シーボーズ 1968年3月号 井上英沖 # ウラン怪獣ガボラ 1968年4月号 井上英沖 # ドクロ怪獣レッドキング 1968年5月号 [[井上智]] * たのしい幼稚園 # ガボラをたおせ 1967年3月増刊号 久松文雄 # しおふきかいじゅうガマクジラ 1967年3月増刊号 久松文雄 # アボラス、バニラ 1970年7月号 福元一義 # ガボラ 1970年12月号 福元一義 # ペスター 1971年1月号 福元一義 # ガヴァドン 1971年1月増刊号 福元一義 # グビラ 1971年2月号 福元一義 # ザラブ星人 1971年3月号 福元一義 # ガマクジラ 1971年4月号 福元一義 * コミック・メイト「ウルトラマン」 1979年 [[野原正光]] [[若木書房]]<ref>{{Cite web|和書|title=ウルトラマン - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M231647 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-08-20}}</ref> == 小説版 == ; [[小説 ウルトラマン|怪獣大全集3 怪獣絵物語ウルトラマン]] : [[金城哲夫]]著。1967年に[[ノーベル書房]]より刊行され、2002年に『小説 ウルトラマン』に改題されて[[筑摩書房]]より文庫化された。 : テレビシリーズのノベライズであり、一部展開に差異がある他、作中で語られなかった設定なども活かされている。 ; ウルトラマン VOL.1 ゴールドラッシュ作戦 : [[実相寺昭雄]]著。1993年に[[小学館]]の[[スーパークエスト文庫]]より刊行された。 : 地底から現れた怪獣ジグリス、海から現れた怪獣ムンデラーとの、科学特捜隊とウルトラマンの奮闘を描く。 : テレビシリーズにおける時系列について明確な言及がないが、作中ではテレビシリーズ第38話に登場する怪獣キーラの存在についても語られている。 ; ウルトラマン ジャイアント作戦 : 千束北男([[飯島敏宏]])著。2005年に[[講談社]]より刊行された。 : 飯島が脚本を担当した、前述([[#未制作シナリオ]])の「ジャイアント作戦」を原案として書き下ろされた作品。 == ゲームブック版 == 編集/制作は全て[[スタジオ・ハード]]。 ; ウルトラマン 謎の隕石群を撃て! : 吉川剛史、[[滝沢一穂]]著。{{ISBN2|4-543-02509-1}}。1986年に日音より刊行された。 : 日本列島に落下した隕石群から出現した怪獣軍団。科学特捜隊とウルトラマンが落下した7つの隕石群の謎を究明すべく奮闘する姿を描く。ハヤタが語る形式(一人称は「俺」)で綴られウルトラマンに変身後はウルトラマンが語る形式になる。 : テレビシリーズに登場した怪獣たちだけではなく、[[ガラモン (ウルトラ怪獣)|ガラモン]]、[[ウルトラQの登場怪獣#冷凍怪獣 ペギラ|ペギラ]]、[[ウルトラQの登場怪獣#四次元怪獣 トドラ|トドラ]]といった『ウルトラQ』の怪獣も登場している。ハヤタとパートナーがダムに到着する場面は「ウルトラQ」の「ガラマタ」を取り入れている。ウルトラマンのエネルギー消耗により変身時の姿のハヤタがバルタン星人に踏み潰されたり、バルタン星人が憑依した岩本博士にハヤタが射殺されたりとバッドエンドも用意されている。また、レッドキングとペギラの戦い(テレビ作品ではペギラを改造したチャンドラー)やウルトラマンとドドラの戦いやウルトラマンとガラモンの戦いという、テレビシリーズにはない独自の展開も存在する。 ; ウルトラマン 東京救出作戦 : 滝沢一穂著。{{ISBN2|4-06-190128-1}}。1987年に[[講談社X文庫]]より刊行された。 : バルタン星人の怨念パワーによって怪獣墓場と東京都心の空間が合体してしまった地球を救うため、科学特捜隊とウルトラマンが東京都心にある次元震動銃を完成させるために二重空間の東京に乗り込むというストーリー。 : 前半はパートナー(イデ、アラシ)と一緒に怪獣墓場の空間と合体してしまった東京都心のダンジョン内で次元震動銃のパーツを探す探索もの、後半は二重空間内でのバルタン星人との戦いを繰り広げるバトルもの。前半のダンジョンでは制限時間が設けられており、1マス移動することによって、1時間が経過するため、18時間以内に次元震動銃を完成させ、科学平和センターに辿り着かねばならない。あとがきで『ウルトラセブン』のゲームブックを制作する企画に関して触れられているにもかかわらず、制作には至っていない。 == ビデオゲーム == === 単独のゲーム作品 === * [[ウルトラマン 怪獣帝国の逆襲]] * [[ウルトラマン2 出撃科特隊]] * [[ウルトラマン (1991年版ゲーム)]] * SDウルトラバトル ウルトラマン伝説 * [[ウルトラマン (PlayStation 2)]] === ウルトラシリーズでの出演作品 === * [[ウルトラマン倶楽部 (ゲーム)|ウルトラマン倶楽部 シリーズ]] * [[ウルトラ闘魂伝説]] * [[ウルトラマン Fighting Evolution|ウルトラマン Fighting Evolutionシリーズ]] * [[PDウルトラマンバトルコレクション64]] * [[ウルトラマン Fighting Evolution 0]] === その他 === * [[巨影都市]] == ビデオソフト == * [[VHS]]及び[[ベータマックス]]は1980年に第1話、第2話、第3話、第8話、第19話、第25話、第26話、第27話、第33話を収録した全9巻が[[東宝]]映像事業部から発売(各巻1話収録)。1987年には同じ東宝より、新たに各巻3話収録による全13巻(全話収録)VHSが発売、同年に[[バンダイビジュアル|バンダイ・ネットワークフロンティア事業部]]より[[レーザーディスク|LD]]が発売された。1992年には[[D2-VTR]]ニューマスター版LD-BOXとVHSがバンダイビジュアルより発売。 * DVD([[デジタルウルトラシリーズ]])は、1999年12月8日〜2000年6月21日に発売。全10巻で9巻まで4話収録だが、10巻のみ3話収録。また、DVDの全巻には「お楽しみメニュー画面」を選択すると円谷プロ制作のオリジナルドラマ「親と子のための特撮講座」が特典映像として収録されている。廉価版の「ウルトラ1800」が2009年2月18日〜4月22日に発売。 * DVD-BOXは、2005年4月29日に発売。本編はデジタルウルトラシリーズと同仕様だが、特典が変更されている。 * Blu-ray Discは、2013年7月10日にバンダイビジュアルからBlu-ray BOX Iが、同年10月25日にBlu-ray BOX IIがそれぞれ発売された。2014年1月29日にBlu-ray BOX III(最終巻)発売。前年にテレビ放送用素材として制作された[[HDリマスター|HDリマスタリング]]版を元にレストア処理を加え、当時のフィルムの質感を再現するべく映像を鮮明化、ノイズ除去ならびにステレオリミックスされた「HDリマスター2.0」が収録されている。BOX IIIには特典映像として新たに発見された未公開映像が収録されている。2017年9月27日には、廉価版の「Blu-ray BOX Standard Edition」が発売。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist |refs= <ref name="HAYATA">ハヤタの姿で登場。</ref> <ref name="KUROBE">[[黒部進]]がウルトラマンの声を担当。</ref> <ref name="no1">科特隊が独力で退治する・あるいは大きなダメージを与えることに成功する怪獣はアントラー、マグラー、ミイラ人間、ペスター、等身大のバルタン星人群、バニラ、ケムラー、ギガス、ゴルドンNo.1、ザラガス、再生テレスドン、再生ドラコ、ジェロニモン、サイゴ、ゼットン星人、ゼットン</ref> <ref name="30話">第30話は出演せず。</ref> <ref name="CAMEO">[[カメオ出演]]。</ref> <ref name="あり">クレジットあり。</ref> }} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="SSSP">『怪獣大全集』第1巻「円谷怪獣のひみつ」(ノーベル書房、[[1967年]])より。</ref> <ref name="白書42">{{Harvnb|白書|1982|p=42|loc=怪獣ベムラーとレッドマン}}</ref> <ref name="白書102">{{Harvnb|白書|1982|pp=102 - 103|loc=成田亨コメント}}</ref> <ref name="白書108">{{Harvnb|白書|1982|p=108|loc=幻の劇場用ウルトラマン ジャイアント作戦}}</ref> <ref name="怪獣大全集10">{{Harvnb|ウルトラ怪獣大全集|1984|pp=10-11|loc=「ウルトラマン」}}</ref> <ref name="東宝SF2">{{Cite book|和書|date=1985-01-01<!--奥付表記-->|title= モスラ/モスラ対ゴジラ|publisher=東宝出版事業室|series=東宝SF特撮映画シリーズVOL.2|page=166|chapter=関沢新一 長編インタビュー|isbn=4-924609-04-8}}</ref> <ref name="ReferenceA">『宇宙船別冊 ウルトラマン大鑑』(朝日ソノラマ・1987年)。219頁</ref> <ref name="大全集179">{{Harvnb|大全集|1987|p=179|loc=「空想特殊美術の世界●インタビュー 中島春雄」}}</ref> <ref name="超技10">{{Harvnb|超技全書|1990|p=10}}</ref> <ref name="超技11">{{Harvnb|超技全書|1990|p=11}}</ref> <ref name="超技12">{{Harvnb|超技全書|1990|p=12}}</ref> <ref name="超技13">{{Harvnb|超技全書|1990|p=13}}</ref> <ref name="超技14">{{Harvnb|超技全書|1990|p=14}}</ref> <ref name="超技15">{{Harvnb|超技全書|1990|p=15}}</ref> <ref name="超技97">{{Harvnb|超技全書|1990|p=97}}</ref> <ref name="超技98">{{Harvnb|超技全書|1990|p=98}}</ref> <ref name="99謎">青柳宇井郎 / [[赤星政尚]] 『懐かしのヒーロー・ウルトラマン99の謎』(二見書房・1993年)p66-67</ref> <ref name="99謎63">『懐かしのヒーロー ウルトラマン99の謎』(二見書房・1993年)p63</ref> <ref name="ベストブック69">{{Harvnb|ベストブック|1993|p=69|loc=CHAPTER3 科特隊結成!}}</ref> <ref name="ゴジラ大百科MG">{{Cite book|和書|others=監修 [[田中友幸]]、責任編集 [[川北紘一]]|title=ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]|publisher=[[Gakken]]|series=Gakken MOOK|date=1993-12-10|page=157|chapter=ゴジラ映画を100倍楽しくする 東宝怪獣映画カルト・コラム 17 作品登場回数No.1の東宝超兵器}}</ref> <ref name="帰ってきた帰ってきた13">『帰ってきた 帰ってきたウルトラマン』([[辰巳出版]]・1999年)p.13.</ref> <ref name="特撮世界134">{{Harvnb|円谷英二特撮世界|2001|pp=134-135|loc=「円谷英二特撮作品 円谷プロダクション総論」}}</ref> <ref name="特撮世界138">{{Harvnb|円谷英二特撮世界|2001|pp=138-139|loc=「ウルトラマン」}}</ref> <ref name="画報上">{{Harvnb|画報 上巻|2002|pp=28-33}}</ref> <ref name="東宝メカ大全70">{{Harvnb|東宝特撮メカニック大全|2003|p=70|loc=「1960s VTOLジェット機」}}</ref> <ref name="M兄超全集">{{Harvnb|メビウス&兄弟超全集|2006|p=30|loc=「これがウルトラ兄弟の合同技だ!!」}}</ref> <ref name="特別編集スペシャル">{{Cite book |和書 |chapter= |date=2006-12-26 |editor=岩畠寿明(エープロダクション) |isbn=4-06-179158-3 |page=39 |publisher=[[講談社]] |series = 講談社ヒットブックス |title= テレビマガジン特別編集スペシャル ウルトラマン}}</ref> <ref name="ウルトラ銀河伝説VisualFile">{{Harvnb|ウルトラ銀河伝説VisualFile|2010|pp=26-27|loc=「ウルトラマン」}}</ref> <ref name="銀河伝説超全集">{{Harvnb|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=31|loc=「ウルトラマン」}}</ref> <ref name="TVMAGA超8">{{Harvnb|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009|p=49|loc=「ウルトラマン」}}</ref> <ref name="TVMAGA超892">{{Harvnb|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009|pp=92-93|loc=「主要ウルトラシリーズ再確認」}}</ref> <ref name="全調査報告16">{{Harvnb|全調査報告|2012|pp=16-19|loc=「ウルトラマン全戦力・能力」}}</ref> <ref 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撮影-加藤文哉|title=夢のかけら 円谷プロダクション篇|publisher=[[ホビージャパン]]|date=2021-08-31|isbn=978-4-7986-2523-2|ref={{SfnRef|夢のかけら 円谷篇|2021}}}} * 雑誌 ** {{Cite journal|和書|date = 2021-12-28|journal=宇宙船|volume=vol.175|issue=(WINTER 2021.冬)|publisher=ホビージャパン |isbn=978-4-7986-2694-9|ref={{SfnRef|宇宙船175|2021}}}} ** [[フィギュア王]]([[ワールドフォトプレス]]) *** {{Cite journal|和書|date=2022-02-28<!--奥付表記-->|journal=フィギュア王|volume=No.288|publisher=ワールドフォトプレス|isbn=978-4-8465-3264-2|ref={{SfnRef|フィギュア王288|2022}}}} *** {{Cite journal|和書|date=2022-05-30<!--奥付表記-->|journal=フィギュア王|volume=No.291|publisher=ワールドフォトプレス|isbn=978-4-8465-3269-7|ref={{SfnRef|フィギュア王291|2022}}}} == 関連項目 == * [[第一次怪獣ブーム]] * [[1 E1 m]] - 長さ(高さ)の比較(様々な構造物の大きさ比較)。記述内容は「40m ウルトラマン(架空の宇宙人)の身長」 * [[ゴジラ]] - テレビシリーズ第10話に登場するジラースの着ぐるみはゴジラの着ぐるみを流用したもので、ゴジラのスーツアクターだった[[中島春雄]]が演じている。 * [[特撮]] * [[ぬいぐるみ]] * [[着ぐるみ]] * [[ウルトラシリーズ]] * [[ウルトラシリーズの作品一覧]] * [[ウルトラマンの登場怪獣]] * [[ウルトラマン一覧]] * [[チャイヨー・プロダクション]] * [[ULTRAMAN (映画)|ULTRAMAN]](映画) - 本作品のリメイク的要素を含む。 * [[生物彗星WoO]] * [[祖師ヶ谷大蔵駅#ウルトラマン商店街|ウルトラマン商店街]] * [[グリーンランド (遊園地)|三井グリーンランド]]([[熊本県]][[荒尾市]]。現・グリーンランド) * [[ウルトラマンランド]] * [[ウルトラマンスタジアム]] * [[ウルトラマン電車]]([[小田急500形電車]]・[[神戸電気鉄道3000系電車]]) * [[武田薬品]] - 本作品のスポンサー。 * [[ABCハウジング]]([[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]系・ABC開発の[[住宅展示場]]。本作品が放送されたのと同じ[[1966年]]創業で、45周年コラボレーションキャンペーンを実施) * [[ULTRAMAN (漫画)|ULTRAMAN]](漫画) - 本作品の40年後の世界を描いた後日談的な続編。原作:[[清水栄一]]、作画:[[下口智裕]]。2019年に[[Netflix]]にてアニメ化。 * [[仮面ライダー]] - 国産テレビヒーローとして本作品とは双璧を成し、対比される。後年には共演作『[[ウルトラマンVS仮面ライダー]]』も制作された。 * [[白戸家]] - [[ソフトバンクモバイル]]のCMシリーズ。ウルトラマンは[[ULTRA SPEED|ULTRA Wi-Fi]]関連のCMに登場。 * [[中東直己]] - 元[[広島東洋カープ]]捕手・外野手。引退後に勤務している株式会社大和興産(広島市の不動産業者)のテレビCMでウルトラマンと共演。 * [[草刈正雄]] -[[ビデオデッキ]]の[[東芝]]ビュースターのテレビCMでウルトラマンと共演。みすず児童合唱団が「ウルトラマン」の部分を「ビュースター」に変えた替え歌を歌唱。 == 外部リンク == {{commonscat|Ultraman}} * [http://m-78.jp/ultraman-bd/ ウルトラマンBlu-ray BOX 2013/7/10発売 - ウルトラマンBD BOX] * [http://www.wowow.co.jp/drama/ultra/ultraman/ ウルトラマン ハイビジョンリマスター版] * [https://www.fami-geki.com/detail/index.php?fami_id=00024 ウルトラマン デジタルリマスター版] {{前後番組 |放送局=[[TBSテレビ|TBS]]系列 |放送枠=日曜19:00 - 19:30([[タケダアワー]]) |番組名=ウルトラマン<br />(1966年7月17日 - 1967年4月9日) |前番組=[[ウルトラQ]]<br />(1966年1月2日 - 7月3日) |次番組=[[キャプテンウルトラ]]<br />(1967年4月16日 - 9月24日) }} {{タケダアワー}} {{ウルトラシリーズ}} {{石坂浩二}} {{新世紀エヴァンゲリオン}} {{東映不思議コメディーシリーズ}} {{デフォルトソート:うるとらまん}} [[Category:ウルトラマン|*]] [[Category:ウルトラシリーズの特撮テレビドラマ|1]] [[Category:タケダアワー]] [[Category:1966年のテレビドラマ]] [[Category:1960年代の特撮作品]] [[Category:TBSの特撮番組]] [[Category:藤川桂介脚本のテレビドラマ]] [[Category:上原正三脚本のテレビドラマ]] [[Category:佐々木守]] [[Category:デジタルウルトラシリーズ]] [[Category:漫画作品 う|るとらまん]] [[Category:1966年の漫画]] [[Category:週刊少年マガジンの漫画作品]] [[Category:ぼくら]] [[Category:楳図かずおの漫画作品]] [[Category:スーパークエスト文庫]]
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刑事訴訟法
刑事訴訟法(、英: code of criminal procedure)は、刑事手続について定めた日本の法律(形式的意義の刑事訴訟法、刑事訴訟法典)。法令番号は昭和23年法律第131号、1948年(昭和23年)7月10日に公布された。所管官庁は、法務省である。実質的意義の刑事訴訟法としては、上記の法典だけでなく、刑事手続に関する法を指し、日本における実質的意義の刑事訴訟法としては、刑事訴訟法典のほか刑事訴訟規則その他法令によって規律されている(「刑事手続法」ともいう)。 なお、本項目では主に形式的意義の刑事訴訟法について解説し、同法の条文については、条名のみ記載する。 日本の刑事訴訟法の前身は、1870年(明治3年)の新律綱領、1873年(明治6年)の改定律例、及び1880年(明治13年)の治罪法(ちざいほう、明治13年太政官布告第37号)である。原案起草者はフランス人法学者のギュスターヴ・ボアソナード。自由民権運動を弾圧した福島事件の公判(1882年)に際して刑事手続が意外にフェアだったことから、福澤諭吉の時事新報から高く評価された。 その後1890年(明治23年)に刑事訴訟法(旧々刑事訴訟法、明治刑事訴訟法、明治23年法律第96号)が制定され、高校日本史の教科書の中には独法系と記述するものがあるが、明治憲法制定に対応した部分的修正に過ぎない、依然仏法の影響の強い法典だったというのが法学者の多数である。 なお制定当初のナポレオン治罪法典(1808年)はフランス革命の反動法の性格極めて濃厚な「糾問主義」法典だとして英米の法学者から批判されていたが、その後の法改正で徐々に穏健化し近代的性格の強いものになって独法にも大きな影響を与えており、仏・独どちらも模範法にするのに値するものであった。 1922年(大正11年)、ドイツ刑事訴訟法を取り入れた新たな刑事訴訟法(旧刑事訴訟法、大正刑事訴訟法、大正11年法律第75号)が制定された。独法との比較の観点からは保守的性格が強調されるが、前法(旧々刑訴法)との比較の観点からは、官尊民卑の風潮や治安維持法などの制定によって骨抜きにされたものの、法典そのものはより進歩的性格の強いものだったとの評価がある。なおドイツ刑訴法は1877年に起訴便宜主義から起訴法定主義に移行していたが、日本法はあえて起訴便宜主義を採用している。 現行法は日本国憲法の下刑事手続の抜本的改革を行ったもので、1948年(昭和23年)に制定され、1949年(昭和24年)1月1日に施行され、7編506条よりなり、主に公判手続及び前提となる捜査手続を定める。1948年には検察審査会法を設置。 その後も被害者保護やサイバー犯罪などの現代犯罪への対応による改正が頻繁である。2000年には、審査申立権者の拡大、被害者陳述権等の設置、強姦事件等の告訴期間の制限撤廃等が行われた(2005年施行)。また2004年の裁判員制度の導入に合わせ公判手続の充実・迅速化を図る改正(公判前整理手続の導入等)もされ、2010年に施行。この改正で、被告人(起訴後)にのみ適用されていた国選弁護制度が、一定の重い事件につき被疑者(起訴前)段階から適用可能になった。同年には犯罪被害者等基本法も設置された。 2007年(平成19年)、犯罪被害者の権利利益保護に関する2010年(平成22年)4月の改正で、殺人罪・強盗殺人罪などの公訴時効が撤廃され、事件から15年経過後も捜査継続可能になった。2016年6月には司法取引の導入などの改正が行われた(2018年6月施行)。 犯罪を認知した場合には、警察等の捜査機関が捜査に着手する(法189条2項)。捜査機関によって犯罪の嫌疑をかけられた人を被疑者という。捜査機関は、任意に出頭を求め、または逮捕・勾留された被疑者を取り調べることができる(法198条1項)。警察等が犯罪を捜査した場合、事件を検察官に送致しなければならない(法203条1項、法246条)。ただし、検察官が指定した事件については検察官に送致せず、警察等限りで微罪処分とすることができる(法246条ただし書)。また、交通反則通告制度(道路交通法125条以下)による交通反則金の納付を通告して、これを納付したときは、当該通告の理由となった行為に係る事件について、公訴を提起されず、または家庭裁判所の審判に付されない(道交法128条2項)。 検察官は、送致された事件を受理し、または、自ら事件を認知する(法191条1項)。日本の刑事訴訟法には法定起訴の規定がないので、検察官が自らの裁量を持って、これらの事件について、被疑者を起訴(法247条)または不起訴(法248条)とする。司法取引により不起訴になった場合であっても裁判所には理由は提出されない。起訴された場合は被疑者は、被告人となる。他方、告訴人・告発人は不起訴処分に不服である場合には検察審査会への申立てが出来、また付審判請求が出来る場合もある。 裁判所は、受理した事件を公判手続にかけて審理する。公判手続を経て、実体判決をすることができるときは、裁判所は、判決で無罪または有罪を決する。なお、簡易裁判所は、検察官の請求により、その管轄に属する事件について、公判前、略式命令で、100万円以下の罰金または科料を科することができる(略式手続、法461条以下)。また、売春の勧誘罪等を犯した満20歳以上の女子に対しては、その罪に係る懲役または禁錮につきその執行を猶予するときは、その者を補導処分に付することができる(売春防止法17条以下)。 有罪判決等の裁判は、確定した後これを執行する(法471条)。裁判の執行は、その裁判をした裁判所に対応する検察庁の検察官がこれを指揮する(法472条1項本文)。死刑または自由刑(懲役、禁錮または拘留)の言渡しを受けた者が拘禁されていないときは、検察官は、執行のためこれを呼び出さなければならず、呼出しに応じないときは、収容状を発しなければならない(法484条)。死刑または自由刑の言渡しを受けた者は、呼出しまたは収容状に基づき、刑事施設(死刑の言渡しを受けた者については拘置所、懲役、禁錮又は拘留の言渡しを受けた者は刑務所)に入所する(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律)。また、罰金又は科料を完納することができない場合には、刑事施設等の労役場に留置される(労役場留置、刑法18条、刑訴法505条)。刑事施設に入所した者は、刑期の満了によって釈放(満期釈放)される(刑法24条2項)。刑期の満了前に仮釈放、仮出場が許されることもある(刑法28条、30条、更生保護法33条以下)。なお、補導処分に付された者は、婦人補導院に収容し、その更生のために必要な補導を行う(同法17条2項)。 仮釈放を許された者、婦人補導院の仮退院が許された者、保護観察付執行猶予の判決を受けた者に対しては、管轄の保護観察所の下、保護観察官、保護司によって保護観察が実施される(更生保護法48条、売春防止法25条)。保護観察は、その仮釈放期間の満了や仮釈放の取消し等により終了する。 民間人は、犯罪があることを発見しても、告発するかしないかは本人の自由だが、公務員は職務を遂行する際に犯罪があると思ったときは、告発する義務がある(下記の「官吏」は国家公務員、「公吏」は地方公務員のこと。明治時代の法文がそのまま口語体に全文改正された)。
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刑事訴訟法(けいじそしょうほう、は、刑事手続について定めた日本の法律。法令番号は昭和23年法律第131号、1948年7月10日に公布された。所管官庁は、法務省である。実質的意義の刑事訴訟法としては、上記の法典だけでなく、刑事手続に関する法を指し、日本における実質的意義の刑事訴訟法としては、刑事訴訟法典のほか刑事訴訟規則その他法令によって規律されている。 なお、本項目では主に形式的意義の刑事訴訟法について解説し、同法の条文については、条名のみ記載する。
{{otheruses|日本の現行刑事訴訟法|日本の現行刑事訴訟法以外の法典|刑事訴訟法 (曖昧さ回避)}} {{半保護}} {{law}} {{日本の法令| 題名=刑事訴訟法| 通称=| 番号=昭和23年法律第131号| 効力=現行法| 種類=[[訴訟法]]| 所管=[[法務省]]| 内容=第一審、[[上訴]]、[[再審]]、[[非常上告]]、[[略式手続]]、裁判の執行| 関連=[[刑事訴訟規則]]、[[犯罪捜査規範]]、[[日本国憲法]]、[[裁判所法]]、[[犯罪捜査のための通信傍受に関する法律|通信傍受法]]、[[裁判員の参加する刑事裁判に関する法律|裁判員法]]、[[警察法]]、[[警察官職務執行法]]、[[検察庁法]]| リンク= [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000131 e-Gov法令検索] |}} {{読み仮名|'''刑事訴訟法'''|けいじそしょうほう|{{lang-en-short|code of criminal procedure}}<ref name="lawtranslation2013">{{Cite web|和書|url=http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?id=2283&vm=&re=&new=1 |title=日本法令外国語訳データベースシステム-刑事訴訟法 |trans-title=Code of Criminal Procedure |accessdate=2017-06-14 |author=日本法令外国語訳データベースシステム |coauthors=日本法令外国語訳推進会議 |date=2011-12-01 |publisher=法務省 |page=1 }}</ref>}}は、[[#日本の刑事手続|刑事手続]]について定めた[[日本]]の[[法律]](形式的意義の刑事訴訟法、刑事訴訟法典)。[[法令番号]]は昭和23年法律第131号、1948年(昭和23年)7月10日に[[公布]]された。所管官庁は[[法務省]]。実質的意義の刑事訴訟法としては上記[[法典]]だけでなく刑事手続に関する法全般を指し、日本では[[刑事訴訟規則]]その他[[法令]]によっても規律される(刑事手続法ともいう)。 本項目では主に形式的意義の刑事訴訟法について解説し、条文は条名のみ記載する。 == 歴史 == [[File:Partial Amendment to Penal Code of Japan (2004, Abstruct).pdf|thumb|200px|[[:s:刑事訴訟法等の一部を改正する法律のあらまし(2004年)|2004年改正法の概要(官報)]]]] 日本の刑事訴訟法の前身は、1870年(明治3年)の[[新律綱領]]、1873年(明治6年)の[[改定律例]]、及び[[1880年]](明治13年)の'''[[治罪法]]'''(ちざいほう、明治13年太政官布告第37号)である。治罪法原案起草者はフランス人法学者の[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ギュスターヴ・ボアソナード]]。[[自由民権運動]]を弾圧した[[福島事件]]の[[公判]](1882年)に際して刑事手続が意外にフェアだったことから、[[福澤諭吉]]の[[時事新報]]から高く評価された<ref>高田晴仁「福澤諭吉の法典論 法典論争前夜」『慶應の法律学 商事法 慶應義塾創立一五〇年記念法学部論集』慶應義塾大学法学部、2008年、211-213頁</ref>。 その後[[1890年]](明治23年)に刑事訴訟法(旧々刑事訴訟法、明治刑事訴訟法、明治23年法律第96号)が制定され{{efn|{{wikisource-inline|刑事訴訟法|刑事訴訟法に関連する文献}}}}、高校日本史の教科書の中には独法系と記述するもの<ref>[[黒田日出男]]監修『日本史通覧』帝国書院、2014年、225頁</ref>があるが、[[明治憲法]]制定に対応した部分的修正に過ぎない<ref>[[平野竜一]]『刑事訴訟法』有斐閣、1958年、14頁</ref>、依然仏法の影響の強い法典だった<ref>斉藤金作『刑事訴訟法 上巻』有斐閣、1961年、14頁、[[團藤重光]]『新刑事訴訟法綱要』7訂版、創文社、1970年、15頁、[[小田中聰樹]]『刑事訴訟法の歴史的分析』日本評論社、1976年、6頁、[[高田卓爾]]『刑事訴訟法』改訂版、青林書院新社、1978年、15頁、[[伊藤正己]]編『岩波講座現代法14 外国法と日本法』岩波書店、1966年、226頁([[奥田昌道]])</ref>というのが法学者の多数である。 なお制定当初の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]治罪法典(1808年)は[[フランス革命]]の反動法の性格極めて濃厚な「[[糾問主義・弾劾主義|糾問主義]]」法典だとして英米の法学者から批判されていたが、その後の法改正で徐々に穏健化し近代的性格の強いものになって独法にも大きな影響を与えており、仏・独どちらも模範法にするのに値するものであった<ref>團藤重光『新刑事訴訟法綱要』7訂版、創文社、1970年、9-11頁</ref>。 [[1922年]](大正11年)、ドイツ刑事訴訟法を取り入れた新たな刑訴法(旧刑事訴訟法、大正刑事訴訟法、大正11年法律第75号)が制定された<ref>裁判所職員総合研修所(2011)4頁</ref>。独法との比較の観点からは保守的性格が強調<ref>平野竜一『刑事訴訟法』有斐閣、1958年、14-15頁</ref>する説もあるが、前法(旧々刑訴法)との比較の観点からは、官尊民卑の風潮や[[治安維持法]]などの制定によって骨抜きにされたものの、法典そのものはより進歩的性格の強いものだったとの評価<ref>高田卓爾『刑事訴訟法』改訂版、青林書院新社、1978年、16-17頁</ref>もある。なおドイツ刑訴法は1877年に[[起訴便宜主義]]から起訴法定主義に移行していたが、日本法はあえて起訴便宜主義を採用している<ref>内田一郎「ドイツにおける起訴法定主義」『早稲田法学』第40巻第2号、早稲田大学法学会、1965年3月、21-45頁、ISSN 0389-0546、NAID 120000788168、CRID 1050001202480584320、2022年12月29日閲覧</ref>。 現行法は[[日本国憲法]]の下刑事手続の抜本的改革を行ったもので、[[1948年]](昭和23年)制定、[[1949年]](昭和24年)[[1月1日]]に施行され、主に[[公判]]手続及び前提となる[[捜査]]手続を定める。1948年には[[検察審査会法]]を設置。 その後も[[被害者]]保護や[[サイバー犯罪]]などの現代犯罪に対応した改正が頻繁である。[[2000年]]には審査申立権者の拡大、被害者陳述権等の設置、強姦事件等の告訴期間の制限撤廃等が行われた(2005年施行)。また[[2004年]]の[[裁判員制度]]の導入に合わせ[[公判]]手続の充実・迅速化を図る改正([[公判前整理手続]]の導入等)<ref>刑事訴訟法等の一部を改正する法律(平成16年法律第62号)。{{wikisource-inline|刑事訴訟法等の一部を改正する法律のあらまし(2004年)}}</ref>もされ、2010年に施行。[[被告人]](起訴後)にのみ適用されていた[[国選弁護制度]]が、重大事件につき[[被疑者]](起訴前)段階から適用可能になった。同年には[[犯罪被害者等基本法]]も設置された。 [[2007年]](平成19年)、犯罪被害者の権利利益保護に関する[[2010年]](平成22年)4月の改正で、[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[強盗致死傷罪|強盗殺人罪]]などの[[公訴時効]]が撤廃され、事件から15年経過後も捜査継続可能になった。[[2016年]]6月には[[司法取引]]の導入などの改正<ref>法務省「刑事訴訟法等の一部を改正する法律」 ([http://www.moj.go.jp/content/001184610.pdf PDF])、2016年6月3日</ref>が行われた(2018年6月施行)。 ==構成== *第一編 総則 *第二編 第一審 *第三編 上訴 *第四編 再審 *第五編 非常上告 *第六編 略式手続 *第七編 裁判の執行 == 日本の刑事手続 == {{日本の刑事手続}} {{ウィキプロジェクトリンク|刑法 (犯罪)}} {{Main2|少年(20歳未満の者)の[[刑事手続]]|少年保護手続}} === 捜査 === '''[[犯罪]]'''を認知した場合には、[[日本の警察|警察]]等の[[捜査#捜査機関|捜査機関]]が捜査に着手する([[b:刑事訴訟法第189条|法189条]]2項)。捜査機関によって犯罪の嫌疑をかけられた人を'''[[被疑者]]'''という。捜査機関は、任意に出頭を求め、または[[逮捕]]・[[勾留]]された被疑者を取り調べることができる([[b:刑事訴訟法第198条|法198条]]1項)。警察等が犯罪を捜査した場合、事件を[[検察官]]に'''[[送致]]'''しなければならない([[b:刑事訴訟法第203条|法203条]]1項、[[b:刑事訴訟法第246条|法246条]])。ただし、検察官が指定した事件については検察官に送致せず、警察等限りで'''[[微罪処分]]'''とすることができる([[b:刑事訴訟法第246|法246条]]ただし書)。また、[[交通反則通告制度]]([[道路交通法]]125条以下)による'''[[反則金|交通反則金]]'''の納付を通告して、これを納付したときは、当該通告の理由となった行為に係る事件について、公訴を提起されず、または[[家庭裁判所]]の審判に付されない(道交法128条2項)。 === 検察官の処分 === [[検察官]]は、送致された事件を受理し、または、自ら事件を認知する([[b:刑事訴訟法第191条|法191条]]1項)。日本の刑事訴訟法には[[起訴法定主義|法定起訴]]の規定がないので、検察官が自らの裁量を持って、これらの事件について、被疑者を'''[[起訴]]'''([[b:刑事訴訟法第247条|法247条]])または'''[[起訴#不起訴処分|不起訴]]'''([[b:刑事訴訟法第248条|法248条]])とする。[[司法取引]]により不起訴になった場合であっても裁判所には理由は提出されない{{efn|[[日本国憲法]]は、「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行う」こと(82条の1)、「政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となっている事件の対審は、常にこれを公開しなければならない」こと(82条2後段)、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」こと(37条)を定めている。}}。起訴された場合は被疑者は、'''[[被告人]]'''となる。他方、告訴人・告発人は不起訴処分に不服である場合には[[検察審査会]]への申立てが出来、また[[付審判請求]]が出来る場合もある。 === 公判及び判決 === [[裁判所]]は、受理した事件を'''[[公判]]手続'''にかけて審理する。公判手続を経て、実体判決をすることができるときは、裁判所は、[[判決]]で'''[[無罪]]'''または'''[[有罪判決|有罪]]'''を決する。なお、[[簡易裁判所]]は、検察官の請求により、その管轄に属する事件について、公判前、[[略式手続#略式命令|略式命令]]で、100万円以下の[[罰金]]または[[科料]]を科することができる('''[[略式手続]]'''、法461条以下)。また、[[売春]]の勧誘罪等を犯した満20歳以上の女子に対しては、その罪に係る[[懲役]]または[[禁錮]]につきその執行を猶予するときは、その者を'''[[補導|補導処分]]'''に付することができる([[売春防止法]]17条以下)。 === 刑の執行 === 有罪判決等の裁判は、確定した後これを執行する([[b:刑事訴訟法第471条|法471条]])。裁判の執行は、その裁判をした裁判所に対応する[[検察庁]]の[[検察官]]がこれを指揮する([[b:刑事訴訟法第472条|法472条]]1項本文)。[[死刑]]または[[自由刑]](懲役、禁錮または[[拘留]])の言渡しを受けた者が拘禁されていないときは、検察官は、執行のためこれを呼び出さなければならず、呼出しに応じないときは、[[収容状]]を発しなければならない([[b:刑事訴訟法第484条|法484条]])。死刑または自由刑の言渡しを受けた者は、呼出しまたは収容状に基づき、[[刑事施設]](死刑の言渡しを受けた者については[[拘置所]]、懲役、禁錮又は拘留の言渡しを受けた者は[[刑務所]])に入所する([[刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律]])。また、罰金又は科料を完納することができない場合には、刑事施設等の労役場に留置される([[労役場留置]]、[[刑法 (日本)|刑法]]18条、[[b:刑事訴訟法第505条|刑訴法505条]])。刑事施設に入所した者は、刑期の満了によって釈放(満期釈放)される(刑法24条2項)。刑期の満了前に'''[[仮釈放]]'''、[[仮出場]]が許されることもある(刑法28条、30条、[[更生保護法]]33条以下)。なお、補導処分に付された者は、[[婦人補導院]]に収容し、その更生のために必要な[[補導]]を行う(同法17条2項)。 仮釈放を許された者、婦人補導院の仮退院が許された者、[[保護観察付執行猶予]]の判決を受けた者に対しては、管轄の[[保護観察所]]の下、[[保護観察官]]、[[保護司]]によって'''[[保護観察]]'''が実施される(更生保護法48条、売春防止法25条)。保護観察は、その仮釈放期間の満了や仮釈放の取消し等により終了する。 == 刑事訴訟法における重要な概念 == === 刑事訴訟法の理念に関する原則 === ;実体的真実主義 :刑事訴訟においては、過去の出来事について、訴訟法などの法律に基づいて認定するほかないという点で神の目から見た「絶対的真実」そのものとは違うものの、可能な限り真相に近い事実(実体的真実)を追求するという原則<ref>裁判所職員総合研修所(2011)11頁以下</ref>。これに対し、[[民事訴訟]]においては、当事者の[[自白]]した事実はそのまま真実とみなすなど、形式的真実を前提に裁判がされるといえる。 === 捜査に関する原則 === ;[[強制処分法定主義]] :個人の利益を侵害するような処分(強制処分)は、法律に定めがない限りできないとする原則([[b:刑事訴訟法第197条|刑訴法197条]]1項)。古くは捜査手段としての写真撮影の可否が論じられ、その後は、[[犯罪捜査のための通信傍受に関する法律|通信傍受法]]ができるまでは、捜査機関が有線通信の傍受(いわゆる[[盗聴]])をできるかについてこの原則との関係で問題となり、近年では[[GPS]]を利用してする捜査の可否が問題となるなどして議論が進展している。 ;[[令状]]主義 :[[逮捕 (日本法)|逮捕]]、[[捜索]]・[[差押え]]等の強制捜査は、現行犯の場合を除き、裁判所が発付する令状がなければ行うことができないという原則([[日本国憲法第33条|憲法33条]]、[[日本国憲法第35条|35条]]、[[b:刑事訴訟法第199条|刑訴法199条]]、[[b:刑事訴訟法第210条|210条]]、[[b:刑事訴訟法第218条|218条]]等)。 ;[[比例原則|捜査比例の原則]] ;[[捜査#任意捜査の原則|任意捜査の原則]] :捜査目的を達成するために必要な手段として、強制捜査と任意捜査が考えられる場合、任意捜査によるべきとする原則(刑訴法197条)。 === 公訴・公判手続に関する原則 === {{Main2|[[起訴独占主義]] [[b:刑事訴訟法第247条|247条]]・[[起訴便宜主義]] [[b:刑事訴訟法第248条|248条]]・[[起訴状一本主義]] [[b:刑事訴訟法第256条|256条]]6項|公訴#公訴に関する諸原則}} ;[[当事者主義]] :訴訟進行の主導権は、[[裁判官]]ではなく当事者([[検察官]]、[[被告人]]・[[弁護人]])にあるとする原則。日本法の刑事訴訟手続はこれを基調とするが、[[b:刑事訴訟法第294条|第294条]](裁判長の訴訟指揮権)などの例外もある。対義語は職権主義。 === 事実認定・証拠法に関する原則 === ;[[証拠裁判主義]] :事実の認定は証拠によるという原則([[b:刑事訴訟法第317条|317条]])。 ;[[疑わしきは罰せず]](疑わしきは被告人の利益に) :被告人が罪を犯したとすることについて合理的な疑いが残る場合には、有罪の判断をしてはならない(有罪の判断をするためには合理的な疑いを超える証明が必要)という原則。 ;[[伝聞証拠禁止の原則]] :伝聞証拠には原則として証拠能力を認めないとする原則([[b:刑事訴訟法第320条|320条]]、例外[[b:刑事訴訟法第321条|321条]]以下)。 ;[[自白法則]] :任意性に疑いのある自白は証拠とすることができないとする原則(憲法38条2項、刑訴319条1項)。 ;[[補強法則|自白の補強法則]] :被告人を有罪とするためには、自白のみでは足らず補強証拠が必要として、自白の証明力を制限する原則([[b:刑事訴訟法第319条|319条]]2項)。 === 公務員の職務上の告発義務 === 民間人は、犯罪があることを発見しても、[[告発]]するかしないかは本人の自由だが、[[日本の公務員|公務員]]は職務を遂行する際に犯罪があると思ったときは、告発する義務がある(下記の「官吏」は国家公務員、「公吏」は地方公務員のこと。明治時代の法文がそのまま口語体に全文改正された)。 *[[b:刑事訴訟法第239条|第239条]] **1項 何人でも、犯罪があると思料するときは、告発をすることができる。 **2項 官吏又は公吏は、その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない。 === 判決の効力に関する原則 === * [[一事不再理]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == *裁判所職員総合研修所監修『刑事訴訟法講義案(四訂版)』司法協会、2011年 == 関連項目 == * [[予備審問]](予審) * [[訴因]] * [[附帯私訴]] * [[刑法 (日本)|刑法]] * [[刑事学]] * [[犯罪学]] * [[刑事政策]] * [[国語]](175条 国語に通じない者に通訳人を法定 国語使用を前提とする条文) *{{仮リンク|起訴法定主義|en|Compulsory prosecution|preserve=1}} == 外部リンク == {{wikiversity|Topic:刑事訴訟法|刑事訴訟法}} * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000131 刑事訴訟法] * {{Kotobank}} {{法学のテンプレート}} {{Law-stub}} {{DEFAULTSORT:けいしそしようほう}} [[Category:日本の法律]] [[Category:1948年の法]] [[Category:日本の法典]]
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捜査
捜査(、英: criminal investigation)は、犯罪に対し、捜査機関が犯人を発見・確保し、かつ証拠を収集・保全する目的で行う一連の行為である。 捜査は犯罪の発生を前提として行われる。 その一方で、捜査機関が犯罪者を発見や逮捕する目的で、捜査官や第三者を「おとり」にして、捜査機関側があえて犯罪を誘発し、その犯罪の犯人を現行犯として逮捕しようとする捜査方法が採用されることがある。これをおとり捜査と言う。 なお捜査は公訴の遂行のためにも行われる(通説)。ただし、陪審制度(陪審手続)をとる国では一応の嫌疑でも公訴しうるが、そうではない日本などでは確実な嫌疑のない起訴は公訴権濫用として伝統的に許されていない。 捜査は社会の変化・進展に対応するかたちで、法医学・心理学・物理学・化学・工学・精神医学などの助けを借りて、次第に科学的捜査の性格を強めてきている。 捜査は、逮捕・捜索などといった強力な権限行使を含みうるものであり、関係者の人権に強い影響を与えるものであるので(つまり人権侵害をしかねないものであるので)、法律によって厳格に規制されなければならない。そのため捜査官を規律するための原則がいくつも定められている。#捜査に関する原則 捜査行為はすべて法律の規定の範囲内で行わなければならない。法律を逸脱して行ってはならない。一般に違法な捜索・押収等によって証拠物を集めること、また広義には、被疑者を違法に身柄拘束すること、違法な取り調べを行って自白を得ること、違法な盗聴により会話を録音することなどを違法捜査と言う。違法な捜査を行う捜査官は、もはや捜査官ではなく、彼自身のほうが犯罪者であり、捜査官には不適なので解任されて厳格に処罰されるべき存在、という位置づけとなる。 犯罪が発生しようとしているため、それを予防し制止しようとする行為は、警察官の行為であっても司法警察権の行使とはいえず行政警察権の行使であり捜査ではない。また、捜査は捜査機関によって行われるものであり、犯罪被害者からの告訴等は捜査の端緒とはなるが捜査そのものではない。 自白への偏重を避け、あらゆる証拠を適正に収集しその合理的総合力により捜査を完結させること(証拠によって事実を明らかにすること)を証拠捜査主義という。捜査は社会の変化・進展に対応するかたちで、法医学・心理学・物理学・化学・工学・精神医学などの助けを借りて、次第に科学的捜査の性格を強めてきている。 日本ではいまだに、捜査官が個人的に心におもいついたストーリー(フィクション)にもとづいて、被疑者を長時間拘束し密室で尋問(「取り調べ」)をつづけ被疑者を心理的に追い詰めたり心理的に誘導することで、犯罪を犯していない人にまで自白の強要(捜査機関の思い込みによる虚偽の自白の作文や署名の強要など)が行われ、その「自白」を絶対視して証拠を恣意的に解釈したり、捜査機関側が本物の証拠を隠ぺいするなどのことが行われ、冤罪を多数生んでいる。本来、適法な捜査だけが行われていれば尋問は全て録画されていて何の問題もない。(アメリカでは警察の取り調べは録画されるようになっている。自白の状況が録画されていない自白や自白調書は無効である)。本来なら取り調べは全て100%録画されて公正さが確保されなければならないのだが、日本の捜査機関にはいまだに前近代的な風土が残っており、自白偏重で、問題だらけの尋問が行われているようで、100%の録画も行われないまま尋問が行われる状態がずさんに放置されてしまっていて、捜査官による不適切な行為が密室で行われ、多数の冤罪を生むような状態がいまだに放置されている。日本におけるこの野蛮な状態を改善するには、取り調べは全て100%録画されていなければならない、とする規則が制定され、取り調べが100%録画されていない場合はたとえ「自白があった」と捜査官が言ったり、自白調書に署名があったとしても、それを自白としては認めない、とする裁判原則が確立され、この原則が完全に守られなければならない。そうしない限り、捜査官らは虚偽の自白の強要を続け、冤罪が無限に生じ続ける。 たとえば日本では捜査機関が痴漢冤罪を多数発生させていることはつとに有名であり、乱暴な捜査風土が社会問題にもなっている。映画監督の周防正行が取材を行い、日本の問題ある捜査風土を扱った映画『それでもボクはやってない』が2007年に公開された。日本の捜査機関は、人権軽視の体質が酷く、たまたま同じ客車内の近くに乗り合わせただけの人でも犯人と決めつけて密室に何日も何日も閉じ込めて、妻子などの家族と連絡をとることも、職場に連絡を一本入れることも一切許さず、密室に閉じ込められた当人が「愛する家族たちは、自分が行方不明になったと、もう何日も心配しているだろう」「同僚たちも行方不明になったと心配しているだろう。職場でも大問題になっているに違いない」「だが目の前の捜査官らが、連絡を1本入れることすら許さない」という極限状況に追い詰めておいて、「ここから出たければ自白しろ」などと脅して、捜査機関側が作文した文章に署名を強要して、犯罪をおかしていない人々まで強引に犯罪者にしてしまうのである。 たとえば障害者郵便制度悪用事件では、大阪地検の検事がやはり、たまたま自分の心に思い浮かんだストーリーにとりつかれ、当時厚生労働省の局長であった村木厚子を証拠も無いのに犯人だと決めつけ、あげくは証拠の改ざんまで行った(大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件) 適正かつ公平の原則とは、捜査は公共の福祉を維持しながら個人の基本的人権の尊重を全うしつつ事案の真相を明らかにするものであるから、捜査権は公正誠実に実行され、個人の自由や権利を不当に侵害するものであってはならないという原則をいう。 任意捜査の原則とは、捜査は基本的人権の尊重に配慮する必要があるという前提に基づいて人権に対する侵害の少ない形態を原則とすることをいう。即ち、強制捜査(逮捕、家宅捜索など)は最後の手段とせよ、ということ。 密行の原則とは、捜査は事件関係者の基本的人権を保障する趣旨からも、捜査内容の外部への漏えいによる証拠隠滅や犯人逃亡を防ぐ意味からも密行を原則とする。ただし、捜査情報の一部を公開して広く国民の協力を求める場合もある(公開捜査)。 1958年、平野龍一は全く対照的な捜査観として糾問的捜査観と弾劾的捜査観との二つの考え方を示した。 いずれの考え方の一方を取り入れればよいというものではなく、事実の解明・犯罪の防止・人権の尊重との調和の必要性が求められている。なお、上記2つのモデル論の他、訴訟的捜査観(捜査独自性説)とよばれる独自の捜査構造の提唱がある。 通説は捜査を「公判の準備手続的性格」のものと位置付けるが、従来のこの考え方は、捜査機関のみを捜査の主体として捉えており、当事者主義を基調とする現行刑事訴訟法にはそぐわず、捜査機関のみならず、被疑者側も捜査の主体として互いに対立した構造を有するとするされている捜査独自性説も有力に唱えられている。捜査独自性説では、捜査の目的を「起訴・不起訴を決定するための事実関係の有無を明らかにすること」とし、公判前の捜査手続の段階から被疑者側も証拠収集や弁解などの防御活動を行うことにより、被疑者側も捜査機関と並び「捜査の主体」であることから、捜査手続の弾劾化を図る見解である。 また、実務家からは、上記の捜査独自性説とは別の視点から捜査の目的を問い直す見解が出されている。捜査活動は犯人に対しての訓戒的役割を果たしており、社会にとっても不安を緩和し、正義が行われたことの満足感を与えていることから、捜査それ自体の実際的効果は重要であり、無視できないとされる。また、実際問題として、犯罪捜査は、当初から「公訴の提起、公判維持」を目的としているといえるのかという疑問も出されている。訴訟条件が整わない場合に於いても捜査活動が行われることがありうる(後述・訴訟条件を欠く場合の捜査の許容性参照)ことから、捜査活動自体が持つ嫌疑の判断・事案の解明等の機能にも着目すべきであるとされる。それによると、公訴提起以前の段階である、事件性・嫌疑の有無を判断するための捜査が行われうるのであって、それに先だって「公訴の提起、公判維持」を目的とする活動が行われているとするのは現実にそぐわないとされる。そのため、捜査の目的を旧来の「公訴の提起・公判維持」に限定する考え方は不合理であり、また限定する必要性に欠けるとの批判がある。公訴に向けた捜査だけではなく、被疑者とされているものの疑いを解き、犯人ではないことを確定させるための捜査や、起訴猶予にするための捜査活動つまり、起訴ではなく不起訴に向けた捜査も行われている。このようにみて、捜査の目的を公訴の提起・遂行の準備のみであるとすることは狭きに失し、むしろ、端的に、「犯人の改善・更生を含めた真相の発見、正義の実現のためにする犯人の検挙・証拠の収集保全」にあるとした方が正しいという主張もなされている。 警察関係者からは、警察における捜査の目的を「公訴の提起及び公判維持の準備」に資することだけに限定することは、現実の捜査活動と乖離しているという批判がある。これによると、現実には警察捜査活動それ自体、独立して犯罪の予防・鎮圧・犯人の更生・平穏な社会生活の維持などの機能をも有しているとされる。犯罪の予防・鎮圧をも責務とする警察における捜査を他の捜査機関が行う捜査と分け、警察捜査として「個人の生命、身体及び財産の保護並びに公訴の提起・遂行、の準備その他公共の安全と秩序の維持のため、証拠を発見・収集するほか、犯罪にかかる情報を収集分析するとともに、犯人を制圧し、及び被疑者を発見・確保する活動」と定義づける見解がある。 捜査は、捜査機関によってなされる。刑事訴訟法が規定する捜査機関としては以下が挙げられる。 ほとんどの事件では、司法警察職員が第一次的捜査機関として捜査を担当する(刑事訴訟法189条2項)。この場合の捜査は検察官が担当していないため司法警察活動と同義であり、主として犯罪の予防活動を目的とする行政警察活動とは区別される。もっとも、両者の法による規制は重なり合う部分が多い(司法警察活動と行政警察活動の区別に関する議論については、行政警察活動を参照)。 また、検察官は第二次的捜査機関として、司法警察職員の捜査に対し、必要な指示を出し、指揮監督を行うことができ、司法警察職員の行った捜査に不備がある場合には補完的立場から捜査を行うことができる(刑事訴訟法191条1項)。検察官の捜査権は二次的なものではなく、独自の捜査権を持つものであり、いわゆる「特捜部」などに所属する検察官が直接捜査を担当する場合もある(検察官の捜査権参照)。 捜査は、捜査機関が犯罪があると思料したときに開始される(刑事訴訟法189条2項、191条1項)。捜査開始の原因となるもの(「捜査の端緒」(犯罪捜査規範2章))には次のようなものが挙げられる。 捜査は、強制捜査と任意捜査とに分けられる。 強制捜査とは、強制処分による捜査のことを言う。強制捜査の具体的内容としては、被疑者の身柄確保のための逮捕・勾留、物証を確保するための捜索・差押え・検証などがある。 なお、強制処分について、判例は 有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段 とする。 この判例のうち「有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく」の部分は、従来通説であった有形力を用いる手段が強制処分であるとの学説およびこれに基づく被告人の主張への応答、「特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」の部分は強制処分法定主義からの当然の帰結(トートロジー)であるため、その本質は(被処分者の意思に反する)重要な権利・利益を侵害する捜査手段という点にあると考えられている(通説)。しかし、「特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」という要件を判例が要求していることには、法学上批判が強い。 これに対して、重要とは言えなくてもある程度の権利・利益を侵害すればすべて強制処分であるとする見解もいわゆる「新しい強制処分説」と結びついて主張されている。新しい強制処分説とは、刑事訴訟法の規定しない強制処分であっても令状主義の要請が実質的にみたされる場合にはこれを許容すべきであるとの見解である。かかる見解に対しては立法論あるいは連邦憲法修正4条の下のアメリカ法解釈としてはともかく、日本法の解釈論としては無理であるとの批判がある。 なお、強制捜査が違法に行われた場合、その捜査で得られた証拠が証拠能力を有するか否かについては違法収集証拠排除法則の問題となる。 任意捜査とは、任意処分による捜査を言う。任意処分とは強制処分以外の処分をいい、一般的な意味での「任意」という言葉とは若干ニュアンスが異なる。 捜査は任意捜査が原則であり、特別な法的根拠を必要としないことから、任意処分については任意捜査の限界が重要論点として論じられる。 訴訟条件とは、刑事訴訟法上、公訴を追行し、事件の実体審理及び裁判をするための要件をいい、このうち起訴(公訴の提起)のための適法要件を特に起訴条件ともいう。 訴訟条件を欠く場合の例として、(a)被疑者が死亡している場合、(b)公訴時効が完成している場合、(c)親告罪で被害者の告訴を欠く場合などがある。 いずれの場合でも、起訴も公判維持もできない。 では、訴訟条件ないし起訴条件を欠く場合に捜査できるか。 捜査の定義・主要目的を公訴提起(起訴・不起訴の決定)及び公判維持にあると考えると、起訴も公判の維持もできないことから、捜査の目的を満たしえない。このため、このような場合にも捜査を行うことが可能か、解釈上の議論の余地がある。 しかし、訴訟条件は捜査条件とは異なる。また、例えば犯人が犯行後に死亡してしまった場合等でも、そのまま放置しておくことはできず、事件処理は必要であるから合理的妥当性がある範囲内での捜査は許されると解されている。 なお、「訴訟条件が完全に欠ける場合」の強制捜査は、(a)事案解明の要請がそれほど強くないか(公益性の強度)、あるいは(b)対象者の利益を侵害してまで行なう必要性が小さいので(被侵害法益との比較衡量)、極力控えるべきとされる。 国際刑事裁判所に関するローマ規程に定める対象犯罪が行われていると考えられる場合には、国際連合安全保障理事会(国連安保理)や締約国は事態を検察官に付託する(国際刑事裁判所に関するローマ規程第13条・第14条)。付託された事態については捜査を行うことが原則とされ、十分な根拠がないため捜査を中止する場合には付託者に通知することを要する(国際刑事裁判所に関するローマ規程第13条・第53条2)。 検察官は自らの発意で捜査に着手することもできるが、捜査の続行に合理的理由があるときは、捜査の許可を予審部に請求する必要がある。 なお、国連安保理は決議によって12か月間捜査や訴追の開始または続行しないよう要請することができ、この要請は更新することができる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第16条)。 捜査は国家からの協力を得て行うことを原則とし、任務を果たしうる国内機関が存在しない場合に限って例外的に国際刑事裁判所の検察官が直接行う(国際刑事裁判所に関するローマ規程第57条3d)。 国連安保理から付託された事態については、国連安保理は非締約国に対しても国連憲章第7章の権限を行使することができる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第87条5参照)。また、この場合、国際刑事裁判所は締約国の協力拒否についてその問題を国連安保理に付託できる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第87条7)。
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"日本ではいまだに、捜査官が個人的に心におもいついたストーリー(フィクション)にもとづいて、被疑者を長時間拘束し密室で尋問(「取り調べ」)をつづけ被疑者を心理的に追い詰めたり心理的に誘導することで、犯罪を犯していない人にまで自白の強要(捜査機関の思い込みによる虚偽の自白の作文や署名の強要など)が行われ、その「自白」を絶対視して証拠を恣意的に解釈したり、捜査機関側が本物の証拠を隠ぺいするなどのことが行われ、冤罪を多数生んでいる。本来、適法な捜査だけが行われていれば尋問は全て録画されていて何の問題もない。(アメリカでは警察の取り調べは録画されるようになっている。自白の状況が録画されていない自白や自白調書は無効である)。本来なら取り調べは全て100%録画されて公正さが確保されなければならないのだが、日本の捜査機関にはいまだに前近代的な風土が残っており、自白偏重で、問題だらけの尋問が行われているようで、100%の録画も行われないまま尋問が行われる状態がずさんに放置されてしまっていて、捜査官による不適切な行為が密室で行われ、多数の冤罪を生むような状態がいまだに放置されている。日本におけるこの野蛮な状態を改善するには、取り調べは全て100%録画されていなければならない、とする規則が制定され、取り調べが100%録画されていない場合はたとえ「自白があった」と捜査官が言ったり、自白調書に署名があったとしても、それを自白としては認めない、とする裁判原則が確立され、この原則が完全に守られなければならない。そうしない限り、捜査官らは虚偽の自白の強要を続け、冤罪が無限に生じ続ける。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "たとえば日本では捜査機関が痴漢冤罪を多数発生させていることはつとに有名であり、乱暴な捜査風土が社会問題にもなっている。映画監督の周防正行が取材を行い、日本の問題ある捜査風土を扱った映画『それでもボクはやってない』が2007年に公開された。日本の捜査機関は、人権軽視の体質が酷く、たまたま同じ客車内の近くに乗り合わせただけの人でも犯人と決めつけて密室に何日も何日も閉じ込めて、妻子などの家族と連絡をとることも、職場に連絡を一本入れることも一切許さず、密室に閉じ込められた当人が「愛する家族たちは、自分が行方不明になったと、もう何日も心配しているだろう」「同僚たちも行方不明になったと心配しているだろう。職場でも大問題になっているに違いない」「だが目の前の捜査官らが、連絡を1本入れることすら許さない」という極限状況に追い詰めておいて、「ここから出たければ自白しろ」などと脅して、捜査機関側が作文した文章に署名を強要して、犯罪をおかしていない人々まで強引に犯罪者にしてしまうのである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "たとえば障害者郵便制度悪用事件では、大阪地検の検事がやはり、たまたま自分の心に思い浮かんだストーリーにとりつかれ、当時厚生労働省の局長であった村木厚子を証拠も無いのに犯人だと決めつけ、あげくは証拠の改ざんまで行った(大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件)", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "適正かつ公平の原則とは、捜査は公共の福祉を維持しながら個人の基本的人権の尊重を全うしつつ事案の真相を明らかにするものであるから、捜査権は公正誠実に実行され、個人の自由や権利を不当に侵害するものであってはならないという原則をいう。", "title": "捜査に関する原則" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "任意捜査の原則とは、捜査は基本的人権の尊重に配慮する必要があるという前提に基づいて人権に対する侵害の少ない形態を原則とすることをいう。即ち、強制捜査(逮捕、家宅捜索など)は最後の手段とせよ、ということ。", "title": "捜査に関する原則" 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"また、実務家からは、上記の捜査独自性説とは別の視点から捜査の目的を問い直す見解が出されている。捜査活動は犯人に対しての訓戒的役割を果たしており、社会にとっても不安を緩和し、正義が行われたことの満足感を与えていることから、捜査それ自体の実際的効果は重要であり、無視できないとされる。また、実際問題として、犯罪捜査は、当初から「公訴の提起、公判維持」を目的としているといえるのかという疑問も出されている。訴訟条件が整わない場合に於いても捜査活動が行われることがありうる(後述・訴訟条件を欠く場合の捜査の許容性参照)ことから、捜査活動自体が持つ嫌疑の判断・事案の解明等の機能にも着目すべきであるとされる。それによると、公訴提起以前の段階である、事件性・嫌疑の有無を判断するための捜査が行われうるのであって、それに先だって「公訴の提起、公判維持」を目的とする活動が行われているとするのは現実にそぐわないとされる。そのため、捜査の目的を旧来の「公訴の提起・公判維持」に限定する考え方は不合理であり、また限定する必要性に欠けるとの批判がある。公訴に向けた捜査だけではなく、被疑者とされているものの疑いを解き、犯人ではないことを確定させるための捜査や、起訴猶予にするための捜査活動つまり、起訴ではなく不起訴に向けた捜査も行われている。このようにみて、捜査の目的を公訴の提起・遂行の準備のみであるとすることは狭きに失し、むしろ、端的に、「犯人の改善・更生を含めた真相の発見、正義の実現のためにする犯人の検挙・証拠の収集保全」にあるとした方が正しいという主張もなされている。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "警察関係者からは、警察における捜査の目的を「公訴の提起及び公判維持の準備」に資することだけに限定することは、現実の捜査活動と乖離しているという批判がある。これによると、現実には警察捜査活動それ自体、独立して犯罪の予防・鎮圧・犯人の更生・平穏な社会生活の維持などの機能をも有しているとされる。犯罪の予防・鎮圧をも責務とする警察における捜査を他の捜査機関が行う捜査と分け、警察捜査として「個人の生命、身体及び財産の保護並びに公訴の提起・遂行、の準備その他公共の安全と秩序の維持のため、証拠を発見・収集するほか、犯罪にかかる情報を収集分析するとともに、犯人を制圧し、及び被疑者を発見・確保する活動」と定義づける見解がある。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "捜査は、捜査機関によってなされる。刑事訴訟法が規定する捜査機関としては以下が挙げられる。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ほとんどの事件では、司法警察職員が第一次的捜査機関として捜査を担当する(刑事訴訟法189条2項)。この場合の捜査は検察官が担当していないため司法警察活動と同義であり、主として犯罪の予防活動を目的とする行政警察活動とは区別される。もっとも、両者の法による規制は重なり合う部分が多い(司法警察活動と行政警察活動の区別に関する議論については、行政警察活動を参照)。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、検察官は第二次的捜査機関として、司法警察職員の捜査に対し、必要な指示を出し、指揮監督を行うことができ、司法警察職員の行った捜査に不備がある場合には補完的立場から捜査を行うことができる(刑事訴訟法191条1項)。検察官の捜査権は二次的なものではなく、独自の捜査権を持つものであり、いわゆる「特捜部」などに所属する検察官が直接捜査を担当する場合もある(検察官の捜査権参照)。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "捜査は、捜査機関が犯罪があると思料したときに開始される(刑事訴訟法189条2項、191条1項)。捜査開始の原因となるもの(「捜査の端緒」(犯罪捜査規範2章))には次のようなものが挙げられる。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "捜査は、強制捜査と任意捜査とに分けられる。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "強制捜査とは、強制処分による捜査のことを言う。強制捜査の具体的内容としては、被疑者の身柄確保のための逮捕・勾留、物証を確保するための捜索・差押え・検証などがある。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお、強制処分について、判例は", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "とする。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "この判例のうち「有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく」の部分は、従来通説であった有形力を用いる手段が強制処分であるとの学説およびこれに基づく被告人の主張への応答、「特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」の部分は強制処分法定主義からの当然の帰結(トートロジー)であるため、その本質は(被処分者の意思に反する)重要な権利・利益を侵害する捜査手段という点にあると考えられている(通説)。しかし、「特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」という要件を判例が要求していることには、法学上批判が強い。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "これに対して、重要とは言えなくてもある程度の権利・利益を侵害すればすべて強制処分であるとする見解もいわゆる「新しい強制処分説」と結びついて主張されている。新しい強制処分説とは、刑事訴訟法の規定しない強制処分であっても令状主義の要請が実質的にみたされる場合にはこれを許容すべきであるとの見解である。かかる見解に対しては立法論あるいは連邦憲法修正4条の下のアメリカ法解釈としてはともかく、日本法の解釈論としては無理であるとの批判がある。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、強制捜査が違法に行われた場合、その捜査で得られた証拠が証拠能力を有するか否かについては違法収集証拠排除法則の問題となる。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "任意捜査とは、任意処分による捜査を言う。任意処分とは強制処分以外の処分をいい、一般的な意味での「任意」という言葉とは若干ニュアンスが異なる。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "捜査は任意捜査が原則であり、特別な法的根拠を必要としないことから、任意処分については任意捜査の限界が重要論点として論じられる。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "訴訟条件とは、刑事訴訟法上、公訴を追行し、事件の実体審理及び裁判をするための要件をいい、このうち起訴(公訴の提起)のための適法要件を特に起訴条件ともいう。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "訴訟条件を欠く場合の例として、(a)被疑者が死亡している場合、(b)公訴時効が完成している場合、(c)親告罪で被害者の告訴を欠く場合などがある。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "いずれの場合でも、起訴も公判維持もできない。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "では、訴訟条件ないし起訴条件を欠く場合に捜査できるか。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "捜査の定義・主要目的を公訴提起(起訴・不起訴の決定)及び公判維持にあると考えると、起訴も公判の維持もできないことから、捜査の目的を満たしえない。このため、このような場合にも捜査を行うことが可能か、解釈上の議論の余地がある。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "しかし、訴訟条件は捜査条件とは異なる。また、例えば犯人が犯行後に死亡してしまった場合等でも、そのまま放置しておくことはできず、事件処理は必要であるから合理的妥当性がある範囲内での捜査は許されると解されている。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、「訴訟条件が完全に欠ける場合」の強制捜査は、(a)事案解明の要請がそれほど強くないか(公益性の強度)、あるいは(b)対象者の利益を侵害してまで行なう必要性が小さいので(被侵害法益との比較衡量)、極力控えるべきとされる。", "title": "日本の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "国際刑事裁判所に関するローマ規程に定める対象犯罪が行われていると考えられる場合には、国際連合安全保障理事会(国連安保理)や締約国は事態を検察官に付託する(国際刑事裁判所に関するローマ規程第13条・第14条)。付託された事態については捜査を行うことが原則とされ、十分な根拠がないため捜査を中止する場合には付託者に通知することを要する(国際刑事裁判所に関するローマ規程第13条・第53条2)。", "title": "国際刑事裁判所の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "検察官は自らの発意で捜査に着手することもできるが、捜査の続行に合理的理由があるときは、捜査の許可を予審部に請求する必要がある。", "title": "国際刑事裁判所の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、国連安保理は決議によって12か月間捜査や訴追の開始または続行しないよう要請することができ、この要請は更新することができる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第16条)。", "title": "国際刑事裁判所の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "捜査は国家からの協力を得て行うことを原則とし、任務を果たしうる国内機関が存在しない場合に限って例外的に国際刑事裁判所の検察官が直接行う(国際刑事裁判所に関するローマ規程第57条3d)。", "title": "国際刑事裁判所の刑事手続における捜査" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "国連安保理から付託された事態については、国連安保理は非締約国に対しても国連憲章第7章の権限を行使することができる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第87条5参照)。また、この場合、国際刑事裁判所は締約国の協力拒否についてその問題を国連安保理に付託できる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第87条7)。", "title": "国際刑事裁判所の刑事手続における捜査" } ]
捜査(そうさ、は、犯罪に対し、捜査機関が犯人を発見・確保し、かつ証拠を収集・保全する目的で行う一連の行為である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{読み仮名|'''捜査'''|そうさ|{{lang-en-short|criminal investigation}}}}は、[[犯罪]]に対し、捜査機関が[[犯人]]を発見・確保し、かつ[[証拠]]を収集・保全する目的で行う一連の行為である<ref name="britanica">ブリタニカ国際大百科事典「捜査」</ref>。 == 概説 == 捜査は犯罪の発生を前提として行われる{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=8}}。 その一方で、捜査機関が犯罪者を発見や逮捕する目的で、捜査官や第三者を「おとり」にして、捜査機関側があえて犯罪を誘発し、その犯罪の犯人を[[現行犯]]として逮捕しようとする捜査方法が採用されることがある。これを[[おとり捜査]]と言う<ref>『日本大百科全書』【おとり捜査】 </ref>。 なお捜査は公訴の遂行のためにも行われる(通説){{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=8}}。ただし、[[陪審制度]](陪審手続)をとる国では一応の嫌疑でも公訴しうるが、そうではない日本などでは確実な嫌疑のない起訴は[[公訴権濫用]]として伝統的に許されていない{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=8}}。 捜査は社会の変化・進展に対応するかたちで、法医学・心理学・物理学・化学・工学・精神医学などの助けを借りて、次第に科学的捜査の性格を強めてきている<ref name="britanica" />。 捜査は、逮捕・捜索などといった強力な権限行使を含みうるものであり、関係者の[[人権]]に強い影響を与えるものであるので<ref name="britanica" />(つまり[[人権侵害]]をしかねないものであるので)、法律によって厳格に[[規制]]されなければならない<ref name="britanica" />。そのため捜査官を規律するための原則がいくつも定められている。[[#捜査に関する原則]] 捜査行為はすべて法律の規定の範囲内で行わなければならない。法律を逸脱して行ってはならない。一般に違法な捜索・押収等によって証拠物を集めること、また広義には、被疑者を違法に身柄拘束すること、違法な取り調べを行って自白を得ること、違法な盗聴により会話を録音することなどを[[違法捜査]]と言う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%8D%9C%E6%9F%BB-1270868 コトバンク 違法捜査</ref>。違法な捜査を行う捜査官は、もはや捜査官ではなく、彼自身のほうが[[犯罪者]]であり、捜査官には不適なので解任されて厳格に処罰されるべき存在、という位置づけとなる。 ;線引き、名称の使い分け 犯罪が発生しようとしているため、それを予防し制止しようとする行為は、警察官の行為であっても司法警察権の行使とはいえず行政警察権の行使であり捜査ではない{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=10}}。また、捜査は捜査機関によって行われるものであり、犯罪被害者からの告訴等は捜査の端緒とはなるが捜査そのものではない{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=11}}。 ;自白偏重から証拠主義へ [[自白]]への偏重を避け、あらゆる証拠を適正に収集しその合理的総合力により捜査を完結させること(証拠によって事実を明らかにすること)を'''証拠捜査主義'''という{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=13}}。捜査は社会の変化・進展に対応するかたちで、[[法医学]]・[[心理学]]・[[物理学]]・[[化学]]・[[工学]]・[[精神医学]]などの助けを借りて、次第に科学的捜査の性格を強めてきている<ref name="britanica" />。 ;日本における違法捜査、密室での不適切な取り調べ、自白偏重 日本ではいまだに、捜査官が個人的に心におもいついた[[ストーリー]](フィクション)にもとづいて、被疑者を長時間拘束し密室で尋問(「取り調べ」)をつづけ被疑者を心理的に追い詰めたり心理的に誘導することで、犯罪を犯していない人にまで'''自白の強要'''(捜査機関の思い込みによる'''虚偽の自白の作文や署名の強要など''')が行われ、その「自白」を絶対視して証拠を恣意的に解釈したり、'''捜査機関側が本物の証拠を隠ぺい'''するなどのことが行われ、[[冤罪]]を多数生んでいる<ref name=mainichi>[https://mainichi.jp/articles/20190403/ddm/005/070/038000c 冤罪生む捜査風土 自白の絶対視は許されぬ]</ref>。本来、適法な捜査だけが行われていれば尋問は全て録画されていて何の問題もない。(アメリカでは警察の取り調べは録画されるようになっている。自白の状況が録画されていない自白や自白調書は無効である)。本来なら取り調べは全て100%録画されて公正さが確保されなければならないのだが、日本の捜査機関にはいまだに前近代的な風土が残っており、自白偏重で、問題だらけの尋問が行われているようで、100%の録画も行われないまま尋問が行われる状態がずさんに放置されてしまっていて、捜査官による不適切な行為が密室で行われ、多数の冤罪を生むような状態がいまだに放置されている<ref name=mainichi />。日本におけるこの野蛮な状態を改善するには、取り調べは全て100%録画されていなければならない、とする規則が制定され、取り調べが100%録画されていない場合はたとえ「自白があった」と捜査官が言ったり、自白調書に署名があったとしても、それを自白としては認めない、とする裁判原則が確立され、この原則が完全に守られなければならない。そうしない限り、捜査官らは虚偽の自白の強要を続け、冤罪が無限に生じ続ける。 たとえば日本では捜査機関が痴漢冤罪を多数発生させていることはつとに有名であり、乱暴な捜査風土が社会問題にもなっている。映画監督の周防正行が取材を行い、日本の問題ある捜査風土を扱った映画『[[それでもボクはやってない]]』が2007年に公開された。日本の捜査機関は、人権軽視の体質が酷く、たまたま同じ客車内の近くに乗り合わせただけの人でも犯人と決めつけて密室に何日も何日も閉じ込めて、妻子などの家族と連絡をとることも、職場に連絡を一本入れることも一切許さず、密室に閉じ込められた当人が「愛する家族たちは、自分が行方不明になったと、もう何日も心配しているだろう」「同僚たちも行方不明になったと心配しているだろう。職場でも大問題になっているに違いない」「だが目の前の捜査官らが、連絡を1本入れることすら許さない」という極限状況に追い詰めておいて、「ここから出たければ自白しろ」などと[[脅迫|脅して]]、捜査機関側が作文した文章に署名を強要して、犯罪をおかしていない人々まで強引に犯罪者にしてしまうのである。 たとえば[[障害者郵便制度悪用事件]]では、'''[[大阪地検]]の検事'''がやはり、たまたま自分の心に思い浮かんだストーリーにとりつかれ、当時厚生労働省の局長であった[[村木厚子]]を証拠も無いのに犯人だと決めつけ、あげくは'''証拠の改ざん'''まで行った([[大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件]]) {{Gallery|width=250px |US_Army_51870_CID_agent_at_crime_scene.jpg|アメリカ軍の捜査官による犯罪[[現場]]の捜査 |AFOSI_interview.jpg|アメリカ空軍特別捜査チームによる尋問 |Bodom-1960-tutkintaa.jpg|1960年6月6日にフィンランドで起きた[[ボドム湖殺人事件]]の現場での捜査。写真中央のArvi Vainio副裁判官が捜査を指揮している。この殺人事件は今も未解決のままである。 }} == 捜査に関する原則 == === 適正かつ公平の原則 === 適正かつ公平の原則とは、捜査は公共の福祉を維持しながら個人の基本的人権の尊重を全うしつつ事案の真相を明らかにするものであるから、捜査権は公正誠実に実行され、個人の自由や権利を不当に侵害するものであってはならないという原則をいう{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=11}}。 === 任意捜査の原則 === 任意捜査の原則とは、捜査は基本的人権の尊重に配慮する必要があるという前提に基づいて人権に対する侵害の少ない形態を原則とすることをいう{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=11}}。即ち、強制捜査([[逮捕]]、[[家宅捜索]]など)は最後の手段とせよ、ということ。 === 密行の原則 === 密行の原則とは、捜査は事件関係者の基本的人権を保障する趣旨からも、捜査内容の外部への漏えいによる証拠隠滅や犯人逃亡を防ぐ意味からも密行を原則とする{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=12}}。ただし、捜査情報の一部を公開して広く国民の協力を求める場合もある{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=11}}(公開捜査)。 == 日本の刑事手続における捜査 == {{日本の刑事手続}} === 捜査構造論 === ==== 糾問的捜査観と弾劾的捜査観 ==== 1958年、[[平野龍一]]は全く対照的な捜査観として糾問的捜査観と弾劾的捜査観との二つの考え方を示した{{Sfn|河上和雄|河村博|2012|p=13}}。 ; 糾問的捜査観 : 捜査活動は執行機関が全て行い、被疑者はその客体に過ぎないとするものであり、被疑者は一方当事者としての立場ではないとする考え方である。戦前の旧刑訴法上はこの考え方に基づいた捜査活動、公判維持が行われてきた。国家による事実の究明活動という側面が強い考え方である。 ; 弾劾的捜査観 : 捜査段階においても、捜査機関と被疑者が対等に争うもので、事実の解明は裁判での争訟によるものとする考え方であり、戦後の刑訴法はこの弾劾的な法制度が取り入れられたものである。 いずれの考え方の一方を取り入れればよいというものではなく、事実の解明・犯罪の防止・人権の尊重との調和の必要性が求められている。なお、上記2つのモデル論の他、訴訟的捜査観(捜査独自性説)とよばれる独自の捜査構造の提唱がある。 ==== 捜査の独自性 ==== 通説は捜査を「公判の準備手続的性格」のものと位置付けるが、従来のこの考え方は、捜査機関のみを捜査の主体として捉えており、当事者主義を基調とする現行刑事訴訟法にはそぐわず、捜査機関のみならず、被疑者側も捜査の主体として互いに対立した構造を有するとするされている捜査独自性説も有力に唱えられている<ref>[[石川才顕]]『捜査における弁護の機能』(日本評論社)</ref>。捜査独自性説では、捜査の目的を「起訴・不起訴を決定するための事実関係の有無を明らかにすること」とし、公判前の捜査手続の段階から被疑者側も証拠収集や弁解などの防御活動を行うことにより、被疑者側も捜査機関と並び「捜査の主体」であることから、捜査手続の弾劾化を図る見解である<ref>[[井戸田侃]]『刑事訴訟理論と実務の交錯』有斐閣</ref>。 また、実務家からは、上記の捜査独自性説とは別の視点から捜査の目的を問い直す見解が出されている。捜査活動は犯人に対しての訓戒的役割を果たしており、社会にとっても不安を緩和し、正義が行われたことの満足感を与えていることから、捜査それ自体の実際的効果は重要であり、無視できないとされる。また、実際問題として、犯罪捜査は、当初から「公訴の提起、公判維持」を目的としているといえるのかという疑問も出されている。訴訟条件が整わない場合に於いても捜査活動が行われることがありうる(後述・[[#訴訟条件を欠く場合の捜査の許容性|訴訟条件を欠く場合の捜査の許容性]]参照)ことから、捜査活動自体が持つ嫌疑の判断・事案の解明等の機能にも着目すべきであるとされる。それによると、公訴提起以前の段階である、事件性・嫌疑の有無を判断するための捜査が行われうるのであって、それに先だって「公訴の提起、公判維持」を目的とする活動が行われているとするのは現実にそぐわないとされる。そのため、捜査の目的を旧来の「公訴の提起・公判維持」に限定する考え方は不合理であり、また限定する必要性に欠けるとの批判がある。公訴に向けた捜査だけではなく、被疑者とされているものの疑いを解き、犯人ではないことを確定させるための捜査や、起訴猶予にするための捜査活動つまり、起訴ではなく不起訴に向けた捜査も行われている。このようにみて、捜査の目的を公訴の提起・遂行の準備のみであるとすることは狭きに失し、むしろ、端的に、「犯人の改善・更生を含めた真相の発見、正義の実現のためにする犯人の検挙・証拠の収集保全」にあるとした方が正しいという主張もなされている<ref>[[土本武司]]『犯罪捜査』弘文堂</ref>。 警察関係者からは、警察における捜査の目的を「公訴の提起及び公判維持の準備」に資することだけに限定することは、現実の捜査活動と乖離しているという批判がある。これによると、現実には警察捜査活動それ自体、独立して犯罪の予防・鎮圧・犯人の更生・平穏な社会生活の維持などの機能をも有しているとされる。犯罪の予防・鎮圧をも責務とする警察における捜査を他の捜査機関が行う捜査と分け、'''警察捜査'''として「個人の生命、身体及び財産の保護並びに公訴の提起・遂行、の準備その他公共の安全と秩序の維持のため、証拠を発見・収集するほか、犯罪にかかる情報を収集分析するとともに、犯人を制圧し、及び被疑者を発見・確保する活動」と定義づける見解がある<ref>[[佐藤英彦]]『治安復活の迪』(立花書房)</ref>。 === 捜査機関 === 捜査は、捜査機関によってなされる。[[刑事訴訟法]]が規定する捜査機関としては以下が挙げられる。 *一般[[司法警察職員]](=[[日本の警察官|警察官]])(刑事訴訟法189条2項) *[[特別司法警察職員]](警察官以外の司法警察職員)(刑事訴訟法190条) *[[検察官]](刑事訴訟法191条1項) *[[検察事務官]](刑事訴訟法191条2項) ほとんどの事件では、司法警察職員が第一次的捜査機関として捜査を担当する(刑事訴訟法189条2項)。この場合の捜査は検察官が担当していないため司法警察活動と同義であり、主として犯罪の予防活動を目的とする[[行政警察活動]]とは区別される。もっとも、両者の法による規制は重なり合う部分が多い(司法警察活動と行政警察活動の区別に関する議論については、[[行政警察活動]]を参照)。 また、検察官は第二次的捜査機関として、司法警察職員の捜査に対し、必要な指示を出し、指揮監督を行うことができ、司法警察職員の行った捜査に不備がある場合には補完的立場から捜査を行うことができる(刑事訴訟法191条1項)。検察官の捜査権は二次的なものではなく、独自の捜査権を持つものであり、いわゆる「[[特別捜査部|特捜部]]」などに所属する検察官が直接捜査を担当する場合もある([[検察官#捜査|検察官の捜査権]]参照)。 === 捜査の端緒 === 捜査は、捜査機関が犯罪があると思料したときに開始される(刑事訴訟法189条2項、191条1項)。捜査開始の原因となるもの(「捜査の端緒」([[犯罪捜査規範]]2章))には次のようなものが挙げられる。 *[[告訴・告発]](刑事訴訟法230条、239条、犯罪捜査規範63条) *[[自首]](刑事訴訟法245条、犯罪捜査規範63条) *被害届(犯罪捜査規範61条) :[[犯罪]]の被害に遭ったと考える者が、その旨を[[警察]]などの[[捜査機関]]に申告する届出を'''被害届'''という<ref name="kotobank-higai">{{cite kotobank|word=被害届|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2021-08-23}}</ref>。単に被害の事実を申告するにとどまるものであり、犯人の訴追を求める[[告訴]]とは異なる<ref name="kotobank-higai"/>。火薬や銃砲の盗難被害に遭った者は被害届(法文上の名称は「事故届」)を提出する義務を負うが([[火薬類取締法]]第46条1項、[[銃刀法]]第23条の2)、その他の犯罪の被害についてはそのような義務はない<ref name="kotobank-higai"/>。 *[[検視]](刑事訴訟法229条) *[[職務質問]](警察官職務執行法2条1項、犯罪捜査規範59条) *[[警ら]]([[地域警察運営規則]]19条、25条、犯罪捜査規範59条) *[[現行犯]]人の発見(刑事訴訟法212条) *[[自動車]]の[[検問|一斉検問]](地域警察運営規則28条3項、最判昭55.9.22により職務質問とは異なることが認められた) *新聞紙その他の出版物の記事、インターネットを利用して提供される情報、匿名の申告、風説その他広く社会の事象(犯罪捜査規範59条) *その他(他事件の取り調べ、[[密告]]、[[風評]]、[[報道]]、投書等) ===強制捜査と任意捜査=== 捜査は、強制捜査と任意捜査とに分けられる。 ;強制捜査 強制捜査とは、[[強制処分]]による捜査のことを言う。強制捜査の具体的内容としては、[[被疑者]]の身柄確保のための[[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[勾留]]、[[証拠|物証]]を確保するための[[捜索]]・[[差押え]]・[[検証]]などがある。 なお、強制処分について、判例は {{quotation| 有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段 |[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第三小法廷昭和51年3月16日決定}}とする。 この判例のうち「有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく」の部分は、従来通説であった有形力を用いる手段が強制処分であるとの学説およびこれに基づく[[被告人]]の主張への応答、「特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」の部分は[[強制処分法定主義]]<ref>憲法31条,刑事訴訟法197条1項但書</ref>からの当然の帰結([[恒真式|トートロジー]])であるため、その本質は(被処分者の意思に反する)重要な権利・利益を侵害する捜査手段という点にあると考えられている(通説)。しかし、「特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」という要件を判例が要求していることには、法学上批判が強い。 これに対して、重要とは言えなくてもある程度の権利・利益を侵害すればすべて強制処分であるとする見解もいわゆる「新しい強制処分説」と結びついて主張されている。新しい強制処分説とは、刑事訴訟法の規定しない強制処分であっても令状主義の要請が実質的にみたされる場合にはこれを許容すべきであるとの見解である。かかる見解に対しては立法論あるいは連邦憲法修正4条の下のアメリカ法解釈としてはともかく、日本法の解釈論としては無理であるとの批判がある。 なお、強制捜査が違法に行われた場合、その捜査で得られた証拠が証拠能力を有するか否かについては[[違法収集証拠排除法則]]の問題となる。 ;任意捜査 任意捜査とは、[[強制処分#任意処分|任意処分]]による捜査を言う。任意処分とは強制処分以外の処分をいい、一般的な意味での「[[任意]]」という言葉とは若干ニュアンスが異なる。 捜査は任意捜査が原則であり、特別な法的根拠を必要としない<ref>刑事訴訟法197条1項本文</ref>ことから、任意処分については任意捜査の限界が重要論点として論じられる。 ===訴訟条件を欠く場合の捜査の許容性=== [[訴訟条件]]とは、刑事訴訟法上、公訴を追行し、事件の実体審理及び[[裁判]]をするための要件をいい、このうち起訴(公訴の提起)のための適法要件を特に起訴条件ともいう。 訴訟条件を欠く場合の例として、(a)[[被疑者]]が死亡している場合、(b)[[公訴時効]]が完成している場合、(c)[[親告罪]]で[[被害者]]の[[告訴]]を欠く場合などがある。 いずれの場合でも、起訴も公判維持もできない。 では、訴訟条件ないし起訴条件を欠く場合に捜査できるか。 捜査の定義・主要目的を公訴提起(起訴・不起訴の決定)及び公判維持にあると考えると、起訴も公判の維持もできないことから、捜査の目的を満たしえない。このため、このような場合にも捜査を行うことが可能か、解釈上の議論の余地がある。 しかし、訴訟条件は捜査条件とは異なる。また、例えば犯人が犯行後に死亡してしまった場合等でも、そのまま放置しておくことはできず、事件処理は必要であるから合理的妥当性がある範囲内での捜査は許されると解されている。 なお、「訴訟条件が完全に欠ける場合」の強制捜査は、(a)事案解明の要請がそれほど強くないか(公益性の強度)、あるいは(b)対象者の利益を侵害してまで行なう必要性が小さいので(被侵害法益との比較衡量)、極力控えるべきとされる。 == 国際刑事裁判所の刑事手続における捜査 == === 捜査の端緒 === [[国際刑事裁判所]]に関するローマ規程に定める対象犯罪が行われていると考えられる場合には、[[国際連合安全保障理事会]](国連安保理)や締約国は事態を検察官に付託する(国際刑事裁判所に関するローマ規程第13条・第14条){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=235|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。付託された事態については捜査を行うことが原則とされ、十分な根拠がないため捜査を中止する場合には付託者に通知することを要する(国際刑事裁判所に関するローマ規程第13条・第53条2){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=235|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 検察官は自らの発意で捜査に着手することもできるが、捜査の続行に合理的理由があるときは、捜査の許可を予審部に請求する必要がある{{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=235|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 なお、国連安保理は決議によって12か月間捜査や訴追の開始または続行しないよう要請することができ、この要請は更新することができる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第16条){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|pp=235-236|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 === 捜査の遂行 === 捜査は国家からの協力を得て行うことを原則とし、任務を果たしうる国内機関が存在しない場合に限って例外的に国際刑事裁判所の検察官が直接行う(国際刑事裁判所に関するローマ規程第57条3d){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=236|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 国連安保理から付託された事態については、国連安保理は非締約国に対しても国連憲章第7章の権限を行使することができる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第87条5参照){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=237|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。また、この場合、国際刑事裁判所は締約国の協力拒否についてその問題を国連安保理に付託できる(国際刑事裁判所に関するローマ規程第87条7){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=237|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[尾行]] * {{ill2|ノック・アンド・トーク|en|Knock and talk}} ‐ アメリカにおいて、捜査令状がない段階で同意のもとに室内捜査を行う手法。 * {{ill2|なりすまし警察|en|Police impersonation}} * {{ill2|携帯電話の追跡|en|Mobile phone tracking}} * {{ill2|Mr. Big (捜査)|en|Mr. Big (police procedure)}} ‐ 架空の犯罪組織に容疑者を参加させて、偽の犯罪を成功させて信頼を得てから、犯罪歴などの情報を自白させる手法。 * {{ill2|虚偽の自白|en|False confession}} * [[コールド・ケース]](未解決事件、迷宮入り) * [[チョーク・アウトライン]] * [[裁判官面前調書]]、[[検察官面前調書]]、[[司法警察員面前調書]]、[[捜査報告書]]、{{ill2|Murder book|en|Murder book}} - 捜査結果をまとめた書面。 == 参考文献 == * 河上和雄・中山善房・古田佑紀・原田國男・河村博・渡辺咲子 編『大コンメンタール 刑事訴訟法 第二版 第4巻(第189条〜第246条)』[[青林書院]]、2012年 * 村瀬信也・洪恵子 編『国際刑事裁判所 - 最も重大な国際犯罪を裁く 第二版』東信堂、2014年 *平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣) *渥美東洋『刑事訴訟法』(有斐閣) *池田修/前田雅英『刑事訴訟法講義』(東京大学出版会) *田宮裕『変革のなかの刑事法』(有斐閣) *田宮裕『捜査の構造』(有斐閣) *熊谷宏/松尾浩也/田宮裕編『捜査法大系』全3巻(日本評論社) *平良木登規男『捜査法』(成文堂) *土本武司『犯罪捜査』(弘文堂) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そうさ}} [[Category:捜査|*]] [[Category:刑事訴訟法]]
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被疑者
被疑者(ひぎしゃ)とは、捜査機関に犯罪の嫌疑をかけられており、かつ公訴を提起されていない者。容疑者(ようぎしゃ)とほぼ同じ意味だが、被疑者は日本法上の法令用語として、容疑者は犯罪報道や小説を含めた一般的な用語として使用されることが多い。また、これら被疑者 /容疑者のうち、逮捕された者に対する報道上の呼称として氏名の後に容疑者を付ける用法もある。 法令用語としての被疑者と概念上区別をする必要のある場合にも、法令において「被疑者」ではなく「容疑者」という語が用いられることがある。 捜査機関によってある犯罪を犯したと疑われ捜査の対象となったが、起訴されていない者を被疑者という。起訴された後は、当該事件との関係においては被告人と呼ばれる。 被疑者が大日本帝国憲法下での法令用語として使われている一方、容疑者も同時期から推理小説などで使われてきた。広辞苑では以下のように説明されている。 特に容疑者は「逮捕された者」とみられがちだが、法令用語としての被疑者は、逮捕・勾留による身体的拘束を受けているか否かを問わない。犯罪の嫌疑を受けて捜査の対象となっているのであれば、逮捕される前の者や逮捕されなかった者も被疑者である。報道における容疑者はほとんどの場合は逮捕された者を報道する場合に使われるが、被疑者死亡や被疑者の病気などを理由に逮捕できなかった時にも「○○容疑者」と表記する場合もある。 逮捕・勾留を受けている場合、取調受忍義務が実務の上ではあるとされている。 被疑者は被疑者特有の権利を有する。当然ながら基本的人権を有するが、刑事訴訟法に基づいて一定の制限を受ける。 被疑者は捜査機関から犯罪を犯したとの嫌疑を受けているものの、被疑者には法的には無罪であるという推定が働いている。これを無罪推定の原則もしくは推定無罪という。しかし、現実の社会においては、被疑者とされた者は有罪であるとの誤った観念に基づく問題が発生することがある。有名な例では、ロス疑惑や松本サリン事件と、その後のマスコミ報道に対する民事訴訟裁判がある。 日本のマスメディア(マスコミ)では一般的に、任意捜査の段階ではなく逮捕などの強制捜査の段階に至った者について、被疑者/容疑者を使用している。明治の初期以来、被疑者は実名呼び捨てであったが、1980年代半ばから末にかけて、被疑者/容疑者になった特定の個人に対して、その個人名の後に「容疑者」という呼称を付ける記述が広まり、その後も続いている。この時期に変革を迎えた理由としては下記が挙げられる。 1984年にNHKが「○○容疑者」呼称を開始。同年に産経新聞が「肩書き表記」を採用したが、「○○会社員」などはまだしも「○○無職」などの表記に違和感があったこともあって廃れた。その後、1989年11月に毎日新聞が「○○容疑者」表記をルール化したのを機に一気に全マスコミに広がった。被疑者の犯人視を防ぐための改革だったが、「○○容疑者とは言うが、あたかも容疑者=真犯人であるかのように、大々的に報道する傾向がある」と、呼び捨ての頃とあまり変わらない報道姿勢に対する批判も存在する。 逮捕されない場合、「容疑者」という肩書きを付けないことが一般的である。しかし、被疑者側の事情で逮捕に至らなかった場合でも、被疑者の氏名を容疑者という肩書きをつけて報道することがある。一例として、島根女子大生死体遺棄事件では、被疑者が死亡していたため逮捕されていないが、朝日新聞(朝日新聞2016年12月20日夕刊11面)、毎日新聞(毎日新聞2016年12月20日夕刊9面)、読売新聞(読売新聞2016年12月20日夕刊13面)、日本経済新聞(日本経済新聞2016年12月20日夕刊13面)は、いずれも〇〇容疑者と報道した。 前記の「名前の後ろに容疑者を付ける呼称」については報道機関によってルールがあり、1つの記事の中で2回目以降に実名を記載する場合などは「容疑者」の語は用いず、「さん」「氏」などの敬称や、職業上の肩書きなどを付けて報道することも可能である。 役職に絡んだ容疑で逮捕された場合でも肩書きを使うことが多い。2020年東京オリンピック・パラリンピックの贈収賄事件では、日本オリンピック委員会の元理事やスポンサー企業の元会長らをすべて「○○容疑者」と表記してしまうと分かりにくくなるため、新聞では初出のみ容疑者とし2回目からは元理事、元会長などの肩書きにしたメディアがあった。会社社長、役員、公務員(警察官、自治体職員など)などの被疑者・被告人に関して、最初に「会社社長の○○容疑者」と呼び、その後は「役職」をつけて報道することがしばしばみられる。 あるいは有名芸能人が軽微な犯罪の被疑者になったり、逮捕に至っていない場合などで、「〇〇メンバー」や「〇〇タレント」などの呼称を用いることがある。 なお、学校で使われる公民科の教科書では、「~である人物を容疑者(または被疑者)と呼ぶ」などと、容疑者の文字は太字、被疑者の文字は細字のカッコ書きになっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "被疑者(ひぎしゃ)とは、捜査機関に犯罪の嫌疑をかけられており、かつ公訴を提起されていない者。容疑者(ようぎしゃ)とほぼ同じ意味だが、被疑者は日本法上の法令用語として、容疑者は犯罪報道や小説を含めた一般的な用語として使用されることが多い。また、これら被疑者 /容疑者のうち、逮捕された者に対する報道上の呼称として氏名の後に容疑者を付ける用法もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "法令用語としての被疑者と概念上区別をする必要のある場合にも、法令において「被疑者」ではなく「容疑者」という語が用いられることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "捜査機関によってある犯罪を犯したと疑われ捜査の対象となったが、起訴されていない者を被疑者という。起訴された後は、当該事件との関係においては被告人と呼ばれる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "被疑者が大日本帝国憲法下での法令用語として使われている一方、容疑者も同時期から推理小説などで使われてきた。広辞苑では以下のように説明されている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "特に容疑者は「逮捕された者」とみられがちだが、法令用語としての被疑者は、逮捕・勾留による身体的拘束を受けているか否かを問わない。犯罪の嫌疑を受けて捜査の対象となっているのであれば、逮捕される前の者や逮捕されなかった者も被疑者である。報道における容疑者はほとんどの場合は逮捕された者を報道する場合に使われるが、被疑者死亡や被疑者の病気などを理由に逮捕できなかった時にも「○○容疑者」と表記する場合もある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "逮捕・勾留を受けている場合、取調受忍義務が実務の上ではあるとされている。", "title": "被疑者の義務" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "被疑者は被疑者特有の権利を有する。当然ながら基本的人権を有するが、刑事訴訟法に基づいて一定の制限を受ける。", "title": "被疑者の権利" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "被疑者は捜査機関から犯罪を犯したとの嫌疑を受けているものの、被疑者には法的には無罪であるという推定が働いている。これを無罪推定の原則もしくは推定無罪という。しかし、現実の社会においては、被疑者とされた者は有罪であるとの誤った観念に基づく問題が発生することがある。有名な例では、ロス疑惑や松本サリン事件と、その後のマスコミ報道に対する民事訴訟裁判がある。", "title": "被疑者の権利" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本のマスメディア(マスコミ)では一般的に、任意捜査の段階ではなく逮捕などの強制捜査の段階に至った者について、被疑者/容疑者を使用している。明治の初期以来、被疑者は実名呼び捨てであったが、1980年代半ばから末にかけて、被疑者/容疑者になった特定の個人に対して、その個人名の後に「容疑者」という呼称を付ける記述が広まり、その後も続いている。この時期に変革を迎えた理由としては下記が挙げられる。", "title": "日本の報道における「容疑者」の語について" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1984年にNHKが「○○容疑者」呼称を開始。同年に産経新聞が「肩書き表記」を採用したが、「○○会社員」などはまだしも「○○無職」などの表記に違和感があったこともあって廃れた。その後、1989年11月に毎日新聞が「○○容疑者」表記をルール化したのを機に一気に全マスコミに広がった。被疑者の犯人視を防ぐための改革だったが、「○○容疑者とは言うが、あたかも容疑者=真犯人であるかのように、大々的に報道する傾向がある」と、呼び捨ての頃とあまり変わらない報道姿勢に対する批判も存在する。", "title": "日本の報道における「容疑者」の語について" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "逮捕されない場合、「容疑者」という肩書きを付けないことが一般的である。しかし、被疑者側の事情で逮捕に至らなかった場合でも、被疑者の氏名を容疑者という肩書きをつけて報道することがある。一例として、島根女子大生死体遺棄事件では、被疑者が死亡していたため逮捕されていないが、朝日新聞(朝日新聞2016年12月20日夕刊11面)、毎日新聞(毎日新聞2016年12月20日夕刊9面)、読売新聞(読売新聞2016年12月20日夕刊13面)、日本経済新聞(日本経済新聞2016年12月20日夕刊13面)は、いずれも〇〇容疑者と報道した。", "title": "日本の報道における「容疑者」の語について" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "前記の「名前の後ろに容疑者を付ける呼称」については報道機関によってルールがあり、1つの記事の中で2回目以降に実名を記載する場合などは「容疑者」の語は用いず、「さん」「氏」などの敬称や、職業上の肩書きなどを付けて報道することも可能である。", "title": "日本の報道における「容疑者」の語について" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "役職に絡んだ容疑で逮捕された場合でも肩書きを使うことが多い。2020年東京オリンピック・パラリンピックの贈収賄事件では、日本オリンピック委員会の元理事やスポンサー企業の元会長らをすべて「○○容疑者」と表記してしまうと分かりにくくなるため、新聞では初出のみ容疑者とし2回目からは元理事、元会長などの肩書きにしたメディアがあった。会社社長、役員、公務員(警察官、自治体職員など)などの被疑者・被告人に関して、最初に「会社社長の○○容疑者」と呼び、その後は「役職」をつけて報道することがしばしばみられる。", "title": "日本の報道における「容疑者」の語について" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "あるいは有名芸能人が軽微な犯罪の被疑者になったり、逮捕に至っていない場合などで、「〇〇メンバー」や「〇〇タレント」などの呼称を用いることがある。", "title": "日本の報道における「容疑者」の語について" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、学校で使われる公民科の教科書では、「~である人物を容疑者(または被疑者)と呼ぶ」などと、容疑者の文字は太字、被疑者の文字は細字のカッコ書きになっている。", "title": "日本の報道における「容疑者」の語について" } ]
被疑者(ひぎしゃ)とは、捜査機関に犯罪の嫌疑をかけられており、かつ公訴を提起されていない者。容疑者(ようぎしゃ)とほぼ同じ意味だが、被疑者は日本法上の法令用語として、容疑者は犯罪報道や小説を含めた一般的な用語として使用されることが多い。また、これら被疑者 /容疑者のうち、逮捕された者に対する報道上の呼称として氏名の後に容疑者を付ける用法もある。 法令用語としての被疑者と概念上区別をする必要のある場合にも、法令において「被疑者」ではなく「容疑者」という語が用いられることがある。
{{拡張半保護}} {{redirect|容疑者|}} {{日本の刑事手続}} '''被疑者'''(ひぎしゃ)とは、[[捜査機関]]に[[犯罪]]の嫌疑をかけられており、かつ[[公訴]]を提起されていない者。'''容疑者'''(ようぎしゃ)とほぼ同じ意味だが、被疑者は[[日本法]]上の法令用語として、容疑者は犯罪報道や小説を含めた一般的な用語として使用されることが多い。また、これら被疑者 /容疑者のうち、逮捕された者に対する報道上の呼称として氏名の後に容疑者を付ける用法もある。 法令用語としての被疑者と概念上区別をする必要のある場合にも、法令において「被疑者」ではなく「容疑者」という語が用いられることがある<ref group="注">例えば、[[出入国管理及び難民認定法]]においては、[[入国警備官]]において同法24条各号の一に該当すると思料する外国人を「容疑者」と呼ぶ。また、[[犯罪捜査規範]]及び[[犯罪捜査共助規則]]においては「容疑者及び捜査資料その他の参考事項」との表現も用いられている。また、被収容者の懲罰に関する訓令(法務省矯成訓第3351号)では、反則行為をした疑いがある被収容者等(被収容者([[刑事施設]]に収容されている者)、[[労役場]]留置者及び監置場留置者をいう)を反則容疑者としている。</ref>。 == 定義 == 捜査機関によってある犯罪を犯したと疑われ捜査の対象となったが、[[起訴]]されていない者を被疑者という。[[起訴]]された後は、当該事件との関係においては'''[[被告人]]'''と呼ばれる。 被疑者が[[大日本帝国憲法]]下での[[法令用語]]として使われている一方、容疑者も同時期から[[推理小説]]などで使われてきた。[[広辞苑]]では以下のように説明されている。 {{Quote|被疑者 犯罪の嫌疑を受けた者でまだ起訴されない者。<br/>容疑者 犯罪の嫌疑によって検事または司法警察から取調を受け、まだ公訴を提起されないもの。||『広辞苑』第1版(1955年)}} {{Quote|被疑者 犯罪の嫌疑を受けた者でまだ起訴されない者。容疑者。<br/>容疑者 犯罪の容疑を持たれている人。被疑者。||『広辞苑』第7版(2018年)}} 特に容疑者は「[[逮捕]]された者」とみられがちだが、法令用語としての被疑者は、逮捕・[[勾留]]による身体的拘束を受けているか否かを問わない。犯罪の嫌疑を受けて捜査の対象となっているのであれば、逮捕される前の者や逮捕されなかった者<ref group="注">逮捕の要件を満たさない場合や逮捕の要件は満たすが逮捕をせず在宅で取り調べるとの判断を捜査機関がした場合。</ref>も被疑者である。[[報道]]における容疑者はほとんどの場合は逮捕された者を報道する場合に使われるが、被疑者死亡や被疑者の病気などを理由に逮捕できなかった時にも「○○容疑者」と表記する場合もある。 == 被疑者の義務 == 逮捕・勾留を受けている場合、[[取調受忍義務]]が実務の上ではあるとされている。 == 被疑者の権利 == 被疑者は被疑者特有の権利を有する。当然ながら[[基本的人権]]を有するが、刑事訴訟法に基づいて一定の制限を受ける。 ;弁護人選任権 :[[弁護人]]を選任する権利である。私選弁護人が原則であるが、今後、国選弁護人を選任することを求めることができるようになる。 ;国選弁護人選任請求権 :[[国選弁護制度]]を参照 ;接見交通権 :[[接見交通権]]を参照 ;その他の権利 :被疑者も[[基本的人権]]を有し、その人権は合理的な理由なく妨げられてはならない。もっとも、被疑者であるために一般国民よりも広い、合理的な制限([[強制捜査]]や逮捕・勾留など)が課せられうる。 === 無罪推定の原則(推定無罪) === 被疑者は捜査機関から犯罪を犯したとの嫌疑を受けているものの、被疑者には法的には[[無罪]]であるという推定が働いている。これを'''[[無罪推定の原則]]'''もしくは'''推定無罪'''という。しかし、現実の社会においては、被疑者とされた者は[[犯罪|有罪]]であるとの誤った観念に基づく問題が発生することがある。有名な例では、[[ロス疑惑]]や[[松本サリン事件]]と、その後のマスコミ報道に対する[[民事訴訟]]裁判がある。 == 日本の報道における「容疑者」の語について == 日本の[[マスメディア]]([[報道機関|マスコミ]])では一般的に、任意捜査の段階ではなく逮捕などの強制捜査の段階に至った者について、被疑者/容疑者を使用している。[[明治]]の初期以来、被疑者は実名呼び捨てであったが、[[1980年代]]半ばから末にかけて、被疑者/容疑者になった特定の個人に対して、その個人名の後に「容疑者」という呼称を付ける記述が広まり、その後も続いている。この時期に変革を迎えた理由としては下記が挙げられる{{要出典|date=2023年8月}}。 *被疑者は無罪を推定されている立場であり、基本的人権の観点から呼び捨ては適正でないという意見が広がったこと *[[呼び捨て報道訴訟]]があったこと *80年代に戦後の裁判で冤罪により死刑判決を受けた人の再審が相次いで認められたこと *刑事裁判を受ける人の「○○被告」表記がすでに広がっており、逮捕段階での呼び捨てと矛盾があること 1984年にNHKが「○○容疑者」呼称を開始。同年に産経新聞が「肩書き表記」を採用したが、「○○会社員」などはまだしも「○○無職」などの表記に違和感があったこともあって廃れた。その後、1989年11月に毎日新聞が「○○容疑者」表記をルール化したのを機に一気に全マスコミに広がった。被疑者の犯人視を防ぐための改革だったが、「○○容疑者とは言うが、あたかも容疑者=真犯人であるかのように、大々的に報道する傾向がある」と、呼び捨ての頃とあまり変わらない報道姿勢に対する批判も存在する<ref>[[渡辺洋三]]「法とは何か新版」62ページ</ref>。 逮捕されない場合、「容疑者」という肩書きを付けないことが一般的であり、例えば書類送検された場合、著名人であれば役職などの肩書きで報じられ、一般人であれば氏名が報じられないことが多い。しかし、被疑者側の事情で逮捕に至らなかった場合でも、被疑者の氏名を容疑者という肩書きをつけて報道することがある。一例として、[[第一生命多額詐取事件]]では、89歳の女性営業職員(存命)が詐欺容疑で書類送検されたところ、読売新聞は○○容疑者という肩書きで報じた(読売新聞2021年5月20日西部朝刊30面)。ほか、[[島根女子大生死体遺棄事件]]では、被疑者が死亡していたため逮捕されていないが、朝日新聞(朝日新聞2016年12月20日夕刊11面)、毎日新聞(毎日新聞2016年12月20日夕刊9面)、読売新聞(読売新聞2016年12月20日夕刊13面)、日本経済新聞(日本経済新聞2016年12月20日夕刊13面)は、いずれも〇〇容疑者と報道した。 === 「容疑者」「被疑者」以外の報道上の呼称 === {{See also|無罪推定の原則#マスコミによる容疑者・被告の使用例}} 前記の「名前の後ろに容疑者を付ける呼称」については報道機関によってルールがあり、1つの記事の中で2回目以降に実名を記載する場合などは「容疑者」の語は用いず、「さん」「氏」などの敬称や、職業上の肩書きなどを付けて報道することも可能である<ref>{{Cite book |和書 |title=記者ハンドブック 新聞用字用語集 |publisher=共同通信社 |year=2016 |pages=539-540 | edition =第13版}}</ref><ref name=buzz>[https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/tokio-nhk2 強制わいせつ報道「山口達也メンバー」にネットでは「暗黙のルール」と指摘。実際は…] - 籏智広太、瀬谷健介、[[BuzzFeed]] News、2018年4月25日</ref>。 役職に絡んだ容疑で逮捕された場合でも肩書きを使うことが多い。[[2020年東京オリンピック・パラリンピック]]の贈収賄事件では、[[日本オリンピック委員会]]の元理事やスポンサー企業の元会長らをすべて「○○容疑者」と表記してしまうと分かりにくくなるため、新聞では初出のみ容疑者とし2回目からは元理事、元会長などの肩書きにしたメディアがあった。[[社長|会社社長]]、役員、[[公務員]]([[警察官]]、[[地方公共団体|自治体]]職員など)などの被疑者・被告人に関して、最初に「会社社長の○○容疑者」と呼び、その後は「役職」をつけて報道することがしばしばみられる。 あるいは有名芸能人が軽微な犯罪の被疑者になったり、逮捕に至っていない場合などで、「〇〇メンバー」や「〇〇タレント」などの呼称を用いることがある<ref>[https://www.bengo4.com/c_23/n_7821/ 「山口メンバー」報道から振り返る、芸能人呼称の歴史 逮捕・書類送検で各社対応は?]弁護士ドットコム 2018年4月29日</ref>。 なお、学校で使われる[[公民 (教科)|公民科]]の[[教科書]]では、「~である人物を'''容疑者'''(または被疑者)と呼ぶ」などと、容疑者の文字は太字、被疑者の文字は細字のカッコ書きになっている{{要出典|date=2023年8月}}。 === 歴史 === * [[1984年]](昭和59年)4月 [[日本放送協会|NHK]]が「容疑者」呼称の使用開始。 * [[1989年]](平成元年)4月 [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列([[フジニュースネットワーク|FNN]])が「容疑者」呼称の使用開始。 * 同年11月 [[TBSテレビ|TBS]]系列([[Japan News Network|JNN]])、[[毎日新聞]]が「容疑者」呼称の使用開始。 * 同年12月 [[読売新聞]]、[[朝日新聞]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列([[Nippon News Network|NNN]])、[[テレビ朝日]]系列([[All-nippon News Network|ANN]])、[[テレビ東京]]系列([[TXN]])など、[[日本新聞協会]]加盟各社及び[[共同通信社]]、[[時事通信社]]が「容疑者」呼称の使用を開始。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|刑法 (犯罪)}} {{Wikibooks|刑事訴訟法}} * [[黙秘権]] * [[実名報道]] * [[呼び捨て報道訴訟]] * [[犯人]]・[[実行犯]] * [[尾行]] * [[被疑者ノート]] == 外部リンク == * 「[http://www.nichibenren.or.jp/ja/legal_aid/on-duty_lawyer/higishanote.html 被疑者ノート(取調べの記録)の活用について]」([[日本弁護士連合会]]。ノート本文は[[Portable Document Format|PDF]]ファイル) {{DEFAULTSORT:ひきしや}} [[Category:刑事訴訟法]] [[Category:報道]]
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被告人
被告人()とは、犯罪の嫌疑を受けて起訴された者。 被告人は、日本を含む英米法系刑事訴訟においては、原告である検察官と並び、その相手方たる当事者として位置付けられている。 なお、被告とは民事裁判において訴えを提起された者のことを指し、「被告人」と「被告」は異なる用語である。 被告人は、捜査機関によって犯罪の嫌疑を受け、検察官によって公訴提起をされた者であり、刑事裁判の審判対象となっている者である。犯罪の嫌疑を受け捜査の対象になっていながら未だ公訴の提起を受けていない者を「被疑者」という。 現在の日本の刑事訴訟法においては、検察官と被告人は対等の当事者である。もっとも、当事者ではあるものの、原則として挙証責任を負うことはない。これに関連し、捜査段階における黙秘権、公判における自己負罪拒否特権が重要な憲法(同第38条)上の権利として与えられている。また、対等とはいえ、現実の法的な攻撃防御能力には大きな差があるため、弁護人を選任することが認められ、必要的弁護事件においては弁護人が必ず選任される。 なお、被告人は勾留されている場合があるが、必ずしも身体的拘束を受けているとは限らず、勾留されていない場合もある。勾留された被告人をはじめ、被逮捕者、被勾留者等を総称して未決拘禁者(みけつこうきんしゃ)と呼ぶ。また、勾留されずに起訴された場合、「在宅起訴」と呼ばれる。 被告人は、犯罪の嫌疑を受けている者であるが、法的には未だ無罪の推定が働いている存在である。 被告人は、無罪の推定が働いているため、原則としては自由な存在である。しかし、刑事裁判の当事者であることから、一定の範囲で権利・自由に制限が課せられることがある。 罪証隠滅や逃亡のおそれのある者については、裁判官の命令又は裁判所の決定により、勾留がなされる。未決拘禁者の場合、逃亡及び罪証隠滅の防止の目的から拘束され身体・行動の自由に大幅な制限が加えられている。外部の者との信書の発受や面会に制限が加えられることもある。また、他罪で逮捕・勾留されている場合の接見指定など捜査のために制限される場合もある。 逮捕・勾留されず在宅起訴を受けた被告人や、逮捕・勾留されたが保釈された被告人は、身体を拘束されていないことから自宅においては自由に活動できるなど、未決拘禁者に比べ権利・自由への制限は小さい。 日本語における報道では、起訴され被告人となった状態の個人について報じる際に、その氏名の後に「被告」という呼称を付け、呼び捨てを避ける用法が一般的になっている。被告人が刑の確定した後、再審請求を求めた場合などは「元被告」と付ける場合もある。 明治以来、新聞は犯罪被疑者を呼び捨てで表記するのが慣例であり、昭和40年代(1960年代後半~70年代前半)のマスコミも、起訴された刑事被告人について実名で報じる際は、NHKなどほぼ全部のマスコミが実名の呼び捨て(「氏」などは付けない。)であった。これが昭和50年代(1970年代後半~80年代前半)になると、呼び捨てを避ける策として、呼称として実名の後に付ける「被告」が用いられ始め、現在に至っている。被疑者が逮捕された時点で実名に「容疑者」を付けるのが一般化したのは1989年で、それより早く裁判での「○○被告」表記・呼称が採用されたのは、この時期に免田事件で戦後初となる死刑囚の再審が認められ無罪判決が出たり、ロッキード事件で元首相の田中角栄の裁判があったりしたため、それぞれ冤罪被害者や元首相の呼び捨てを続けることに不都合が生じたことなどが理由として指摘されている。 一方、報道では法律上の「被告人」を「被告」に置き換えることもルールとして定められている。「被告3人が起訴内容認める」、「この被告は起訴内容を認めなかった」など、ある裁判を報じる際に具体的な被告人のことについて記述する際に場合によって用いられる。公判での「被告人を無期懲役に処する」「被告人は反省している」などの判決文や発言内容、「被告人質問」「疑わしきは被告人の利益に」などの一般的な用語、用法が「被告」に置き換わることは少ない。 被告人の「人」をあえて削った理由としては、字数の節約とも、テレビ・ラジオ等の音声メディアにおいて「非国民」と聴こえてしまうため、とも言われる。本来の被告は民事裁判で用いられる言葉である。刑事裁判の被告人と民事裁判の被告を同じ「被告」で表記する結果、民事裁判で訴えられた者が「被告」と呼ばれ、「犯罪者と一緒にするな」という誤解がたびたび起こっている。 法曹関係者が「被告」を法律用語の誤用だと批判するケースもある。ただ前述のとおり報道においても法律用語の「被告人質問」などを「被告質問」などと書き換えているわけではなく、法律上も被告人となった個人に対する呼称について「○○被告人」としなければならないルールはない。
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被告人とは、犯罪の嫌疑を受けて起訴された者。 被告人は、日本を含む英米法系刑事訴訟においては、原告である検察官と並び、その相手方たる当事者として位置付けられている。 なお、被告とは民事裁判において訴えを提起された者のことを指し、「被告人」と「被告」は異なる用語である。
{{混同|被告}}{{日本の刑事手続}} {{独自研究|date=2009年11月}} {{読み仮名|'''被告人'''|ひこくにん}}とは、[[犯罪]]の[[嫌疑]]を受けて[[起訴]]された者。 被告人は、[[日本]]を含む[[コモン・ロー|英米法]]系[[刑事訴訟]]においては、原告である[[検察官]]と並び、その相手方たる当事者として位置付けられている。 なお、'''[[被告]]'''とは[[民事裁判]]において訴えを提起された者のことを指し、「被告人」と「被告」は異なる用語である。 ==概要== 被告人は、[[捜査機関]]によって犯罪の嫌疑を受け、検察官によって公訴提起をされた者であり、刑事裁判の審判対象となっている者である。[[犯罪]]の嫌疑を受け[[捜査]]の対象になっていながら未だ[[公訴]]の提起を受けていない者を「[[被疑者]]」という。 現在の日本の刑事訴訟法においては、'''検察官と被告人は対等の当事者'''である。もっとも、当事者ではあるものの、原則として[[挙証責任]]を負うことはない。これに関連し、捜査段階における[[黙秘権]]、[[公判]]における[[自己負罪拒否特権]]が重要な憲法([[日本国憲法第38条|同第38条]])上の権利として与えられている。また、対等とはいえ、現実の法的な攻撃防御能力には大きな差があるため、[[弁護人]]を選任することが認められ、[[必要的弁護事件]]においては弁護人が必ず選任される。 なお、被告人は[[勾留]]されている場合があるが、必ずしも身体的拘束を受けているとは限らず、勾留されていない場合もある。勾留された被告人をはじめ、被逮捕者、被勾留者等を総称して'''[[未決拘禁者]]'''(みけつこうきんしゃ)と呼ぶ。また、勾留されずに起訴された場合、「[[在宅起訴]]」と呼ばれる。 被告人は、犯罪の嫌疑を受けている者であるが、法的には未だ無罪の推定が働いている存在である。 {{main|推定無罪}} ==被告人の権利自由== 被告人は、無罪の推定が働いているため、原則としては自由な存在である。しかし、[[刑事裁判]]の当事者であることから、一定の範囲で権利・自由に制限が課せられることがある。 罪証隠滅や[[逃亡]]のおそれのある者については、[[裁判官]]の命令又は裁判所の決定により、[[勾留]]がなされる。未決拘禁者の場合、逃亡及び罪証隠滅の防止の目的から拘束され身体・行動の自由に大幅な制限が加えられている。外部の者との信書の発受や面会に制限が加えられることもある。また、他罪で逮捕・勾留されている場合の[[接見指定]]など捜査のために制限される場合もある。 逮捕・勾留されず在宅起訴を受けた被告人や、逮捕・勾留されたが[[保釈]]された被告人は、身体を拘束されていないことから自宅においては自由に活動できるなど、未決拘禁者に比べ権利・自由への制限は小さい。 ==報道による用法== 日本語における報道では、起訴され被告人となった状態の個人について報じる際に、その氏名の後に「被告」という呼称を付け、呼び捨てを避ける用法が一般的になっている。被告人が刑の確定した後、再審請求を求めた場合などは「元被告」と付ける場合もある。 明治以来、新聞は犯罪被疑者を呼び捨てで表記するのが慣例であり、昭和40年代(1960年代後半~70年代前半)のマスコミも、[[起訴]]された[[刑事]]被告人について実名で報じる際は、[[日本放送協会|NHK]]などほぼ全部のマスコミが実名の呼び捨て(「氏」などは付けない。)であった。これが昭和50年代(1970年代後半~80年代前半)になると、呼び捨てを避ける策として、呼称として実名の後に付ける「[[被告]]」が用いられ始め、現在に至っている。被疑者が逮捕された時点で実名に「容疑者」を付けるのが一般化したのは1989年で、それより早く裁判での「○○被告」表記・呼称が採用されたのは、この時期に[[免田事件]]で戦後初となる死刑囚の再審が認められ無罪判決が出たり、[[ロッキード事件]]で元首相の[[田中角栄]]の裁判があったりしたため、それぞれ冤罪被害者や元首相の呼び捨てを続けることに不都合が生じたことなどが理由として指摘されている。 一方、報道では法律上の「被告人」を「被告」に置き換えることもルールとして定められている。「被告3人が起訴内容認める」、「この被告は起訴内容を認めなかった」など、ある裁判を報じる際に具体的な被告人のことについて記述する際に場合によって用いられる。公判での「被告人を無期懲役に処する」「被告人は反省している」などの判決文や発言内容、「被告人質問」「疑わしきは被告人の利益に」などの一般的な用語、用法が「被告」に置き換わることは少ない。 被告人の「人」をあえて削った理由としては、字数の節約とも、テレビ・ラジオ等の音声メディアにおいて「[[非国民]]」と聴こえてしまうため、とも言われる{{要出典|date=2018年7月}}。本来の[[被告]]は[[民事裁判]]で用いられる言葉である。刑事裁判の被告人と民事裁判の被告を同じ「被告」で表記する結果、民事裁判で訴えられた者が「被告」と呼ばれ、「[[犯罪者]]と一緒にするな」という誤解がたびたび起こっている{{要出典|date=2018年7月}}。(もっとも、被告人は、前述のとおり、[[無罪推定の原則]]があるため、裁判確定までは、犯罪者ときまったわけではないのだが) 法曹関係者が「被告」を法律用語の誤用だと批判するケースもある。ただ前述のとおり報道においても法律用語の「被告人質問」などを「被告質問」などと書き換えているわけではなく、法律上も被告人となった個人に対する呼称について「○○被告人」としなければならないルールはない。 ==関連項目== {{ウィキプロジェクトリンク|刑法 (犯罪)}}{{Wikibooks|刑事訴訟法}} *[[被疑者]] *[[推定無罪]] *[[起訴独占主義]] *[[国家訴追主義]] *[[挙証責任]] *[[起訴状一本主義]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Law-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひこくにん}} [[Category:刑事訴訟法]]
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キネマ
キネマ(kinema)は、映画を意味するキネマトグラフの略。 ギリシャ語のkinematos(動き)に由来。また、忌み言葉でシネマの「シネ」が「死ね」を連想するためとも言われている。 第二次世界大戦前の日本では、映画のことを「活動写真」あるいは「活動」と呼ぶのが一般的であったが、次第に「キネマ」、「シネマ」とも呼ばれるようになった。 「キネマ」は大正時代から使われており「キネマ・レコード」「キネマ旬報」など大正以降に創刊された映画関連雑誌の誌名や、「松竹キネマ(1920年設立)」という社名にも使われている。昭和になった頃から「シネマ」という言葉も使われ、映画『東京行進曲』(1929年)中で歌われた「東京行進曲」でも4番の歌詞に使われている。 今日では一般に「キネマ」、「シネマ」という言葉はレトロ(懐古)趣味から使われる。
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キネマ(kinema)は、映画を意味するキネマトグラフの略。
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杉山龍丸
杉山 龍丸(すぎやま たつまる、1919年(大正8年)5月26日 - 1987年(昭和62年)9月20日)私財を投げうってインドの緑化に尽力し、インドの緑の父(Green Father)と呼ばれる。 1919年、杉山直樹(夢野久作)、クラの長男として生まれる。福岡県福岡市出身。二男は三苫鉄児、三男は杉山参緑。 1935年(昭和10年)、祖父杉山茂丸没、1936年(昭和11年)、父杉山直樹没、祖父と父を相次いでなくす。 1937年(昭和12年)、福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。1938年(昭和13年)19歳、農園の土地を売らずに一家を養うために、陸軍士官学校に入学する。軍人が戦争反対運動をやらぬ限り戦争は止められないと考え、反戦活動を行い、憲兵隊に捕われる。卒業時、陸軍航空技術学校への入学を命じられる。 1943年(昭和18年)24歳、陸軍航空技術学校乙種学生卒業後、飛行第31戦隊整備隊長、フィリピン隼集成整備隊長となる。ボルネオタワオ(タワウ)基地でアメリカ軍のP-38ロッキード戦闘機の銃撃を受け、右胸部貫通銃創の重傷を負う。サイゴン南方総司令部から立川整備師団に転任の途中、敗戦を迎える。 1945年(昭和20年)8月30日、軍籍を離れる。医者から3年しか生きられないと言われ、部下の家族に死んだ状況を告げる旅に出る。外地からの引揚者を収容するため、福岡市で杉山農園を経営する。そのかたわら、千葉県稲毛の引揚援護局(復員局)で働く。この頃、福岡市に「公共のために」と杉山農園の土地を寄付するが、土地がアメリカ軍のゴルフ場になることに激怒し、交渉の末、ゴルフ場になる以外の土地を取り戻す。 1955年(昭和30年)36歳、波多江光子と結婚。同年、インドのネルー首相から「産業技術の指導支援の依頼」があり、これを受けて、日本の農法、技術によってアジアから貧困をなくすために国際文化福祉協会(ICWA)を創設する。日本で農業を学んでいたインド人に杉山農園で農業技術を教え始めた。 1962年(昭和37年)43歳、初めてインドを訪れ、約1ヶ月の旅をする。砂漠となったパンジャブ州を見て、国道1号線沿いの延長470キロメートルに、成長が早く根が深くパルプの原料となるユーカリを植林し、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて水を確保することを提案した。 しかし、植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態に、インド政府も事業中止に至った。 1966年、インドの餓死者の状況を調査し国連に直訴するが、相手にされなかった。 しかし、杉山は杉山農園の3万坪(総面積は4万6千坪)を売却して資金を調達し、家族を日本に残して渡印した。国連関係者からの環境会議出席の求めに友人から旅費を借りて出席した。 終始、日本政府からの援助は無く、学界からは黙殺され、国際文化福祉協会の財団法人認可申請もいまだ認められていない。インド、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は杉山の功績であるとされている。 1965年(昭和40年)46歳、小田実、鶴見俊輔、開高健、小松左京、篠田正浩ら、20数名と共に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(後の「ベトナムに平和を!市民連合」)に参加する。 その思いを『声なき声のたより』に投稿した。 1967年(昭和42年)48歳、孫文生誕百年祭に蒋介石総統から国賓として台湾に招かれる 。インドの窮状を訴え、祖父・茂丸が台湾で関与した蓬莱米の種籾を分けてくれるように申し入れる。翌年、台湾政府から国連食糧農業機関(FAO)を通じてインドに蓬莱米の種籾が贈られ、インドで栽培することに成功する。 1972年(昭和47年)52歳、砂漠に生え、食用になり成長が早い植物モリンガを知る。シュワリック・レンジ(丘陵)の崩落を食い止めるため、モリンガとサダバールという植物を使って、緑化に着手する。 1979年(昭和54年)60歳、インドの新聞で「3万本の木を植えた日本人」として紹介される。 1980年(昭和55年)61歳、杉山農園の最後の土地と自宅千坪を売却、太宰府市国分の借家へ移転。 1985年(昭和60年)7月23日、脳溢血で倒れる。 この時、インドを緑化するために杉山農園を全て売却しており、保険も解約していた。そのため杉山家の収入は傷病軍人恩給しかなく、入院費の負担は重かった。 杉山は従軍中、現地で「整備日誌」にメモを書き続けていた。それを基に「幻の戦闘機隊」という題の記録を書き、その原稿の出版を陸軍士官学校同期の影山に頼んでいた。入院中、影山が杉山の見舞いに来た際、その原稿を満丸に託した。それから30年経過して出版されたのが『グリーンファーザーの青春譜』である。 1987年(昭和62年)9月20日、死去。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "杉山 龍丸(すぎやま たつまる、1919年(大正8年)5月26日 - 1987年(昭和62年)9月20日)私財を投げうってインドの緑化に尽力し、インドの緑の父(Green Father)と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1919年、杉山直樹(夢野久作)、クラの長男として生まれる。福岡県福岡市出身。二男は三苫鉄児、三男は杉山参緑。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)、祖父杉山茂丸没、1936年(昭和11年)、父杉山直樹没、祖父と父を相次いでなくす。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)、福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。1938年(昭和13年)19歳、農園の土地を売らずに一家を養うために、陸軍士官学校に入学する。軍人が戦争反対運動をやらぬ限り戦争は止められないと考え、反戦活動を行い、憲兵隊に捕われる。卒業時、陸軍航空技術学校への入学を命じられる。 1943年(昭和18年)24歳、陸軍航空技術学校乙種学生卒業後、飛行第31戦隊整備隊長、フィリピン隼集成整備隊長となる。ボルネオタワオ(タワウ)基地でアメリカ軍のP-38ロッキード戦闘機の銃撃を受け、右胸部貫通銃創の重傷を負う。サイゴン南方総司令部から立川整備師団に転任の途中、敗戦を迎える。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)8月30日、軍籍を離れる。医者から3年しか生きられないと言われ、部下の家族に死んだ状況を告げる旅に出る。外地からの引揚者を収容するため、福岡市で杉山農園を経営する。そのかたわら、千葉県稲毛の引揚援護局(復員局)で働く。この頃、福岡市に「公共のために」と杉山農園の土地を寄付するが、土地がアメリカ軍のゴルフ場になることに激怒し、交渉の末、ゴルフ場になる以外の土地を取り戻す。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1955年(昭和30年)36歳、波多江光子と結婚。同年、インドのネルー首相から「産業技術の指導支援の依頼」があり、これを受けて、日本の農法、技術によってアジアから貧困をなくすために国際文化福祉協会(ICWA)を創設する。日本で農業を学んでいたインド人に杉山農園で農業技術を教え始めた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)43歳、初めてインドを訪れ、約1ヶ月の旅をする。砂漠となったパンジャブ州を見て、国道1号線沿いの延長470キロメートルに、成長が早く根が深くパルプの原料となるユーカリを植林し、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて水を確保することを提案した。 しかし、植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態に、インド政府も事業中止に至った。 1966年、インドの餓死者の状況を調査し国連に直訴するが、相手にされなかった。 しかし、杉山は杉山農園の3万坪(総面積は4万6千坪)を売却して資金を調達し、家族を日本に残して渡印した。国連関係者からの環境会議出席の求めに友人から旅費を借りて出席した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "終始、日本政府からの援助は無く、学界からは黙殺され、国際文化福祉協会の財団法人認可申請もいまだ認められていない。インド、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は杉山の功績であるとされている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1965年(昭和40年)46歳、小田実、鶴見俊輔、開高健、小松左京、篠田正浩ら、20数名と共に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(後の「ベトナムに平和を!市民連合」)に参加する。 その思いを『声なき声のたより』に投稿した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)48歳、孫文生誕百年祭に蒋介石総統から国賓として台湾に招かれる 。インドの窮状を訴え、祖父・茂丸が台湾で関与した蓬莱米の種籾を分けてくれるように申し入れる。翌年、台湾政府から国連食糧農業機関(FAO)を通じてインドに蓬莱米の種籾が贈られ、インドで栽培することに成功する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)52歳、砂漠に生え、食用になり成長が早い植物モリンガを知る。シュワリック・レンジ(丘陵)の崩落を食い止めるため、モリンガとサダバールという植物を使って、緑化に着手する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)60歳、インドの新聞で「3万本の木を植えた日本人」として紹介される。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1980年(昭和55年)61歳、杉山農園の最後の土地と自宅千坪を売却、太宰府市国分の借家へ移転。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)7月23日、脳溢血で倒れる。 この時、インドを緑化するために杉山農園を全て売却しており、保険も解約していた。そのため杉山家の収入は傷病軍人恩給しかなく、入院費の負担は重かった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "杉山は従軍中、現地で「整備日誌」にメモを書き続けていた。それを基に「幻の戦闘機隊」という題の記録を書き、その原稿の出版を陸軍士官学校同期の影山に頼んでいた。入院中、影山が杉山の見舞いに来た際、その原稿を満丸に託した。それから30年経過して出版されたのが『グリーンファーザーの青春譜』である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)9月20日、死去。", "title": "経歴" } ]
杉山 龍丸私財を投げうってインドの緑化に尽力し、インドの緑の父と呼ばれる。
{{Infobox 人物 |氏名 = 杉山 龍丸 |ふりがな = すぎやま たつまる |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |出生名 = |生年月日 = [[1919年]][[5月26日]] |生誕地 = 福岡県福岡市 |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1919|5|26|1987|9|20}} |死没地 = |国籍 = |肩書き= |政治運動 = |出身校 = 陸軍航空技術学校 |著名な実績 = 砂漠の緑化 |団体 = 国際文化福祉協会 |配偶者 = 波多江光子 |子供 = 杉山満丸 |家族 = |受賞 = |栄誉 = |墓地=[[福岡市]]一行寺}} '''杉山 龍丸'''(すぎやま たつまる、[[1919年]]〈[[大正]]8年〉[[5月26日]] - [[1987年]]〈[[昭和]]62年〉[[9月20日]])は、私財を投げうってインドの緑化に尽力し、[[インド]]の緑の父(Green Father)と呼ばれる{{Sfn|杉山|2015|p=7}}。 ==経歴== [[1919年]]、杉山直樹([[夢野久作]])、クラの長男として生まれる<ref name="杉山2015">{{Harvnb|杉山|2015|p=376}}</ref>{{Sfn|鶴見|1989|p=279}}。[[福岡県]][[福岡市]]出身。二男は三苫鉄児、三男は[[杉山参緑]]。 [[1935年]](昭和10年)、祖父[[杉山茂丸]]没、[[1936年]](昭和11年)、父杉山直樹没、祖父と父を相次いでなくす<ref name="杉山2015"/>。 [[1937年]](昭和12年)、福岡中学校(現[[福岡県立福岡高等学校]])卒業。[[1938年]](昭和13年)19歳、農園の土地を売らずに一家を養うために、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に入学する<ref name="杉山2015"/>。軍人が戦争反対運動をやらぬ限り戦争は止められないと考え、反戦活動を行い、憲兵隊に捕われる<ref name="杉山2015"/>。卒業時、陸軍航空技術学校への入学を命じられる<ref name="杉山2015"/>。 [[1943年]](昭和18年)24歳、陸軍航空技術学校乙種学生卒業後、飛行第31戦隊<ref group="注釈">{{Harvnb|杉山|2015|p=359}}。この戦隊は「[[特攻]]」に最初に参加した部隊の一つであり、フィリピンで最後まで戦い続けた部隊であった。</ref>整備隊長、フィリピン隼集成整備隊長となる<ref name="杉山2015-2">{{Harvnb|杉山|2015|p=377}}</ref>。[[ボルネオ]]タワオ(タワウ)基地でアメリカ軍の[[P-38 (航空機)|P-38]]ロッキード戦闘機の銃撃を受け、右胸部貫通銃創の重傷を負う<ref>{{Harvnb|杉山|2015|p=358}}</ref><ref name="杉山2015-3">{{Harvnb|杉山|1975}}</ref>。サイゴン南方総司令部から立川整備師団に転任の途中、敗戦を迎える<ref name="杉山2015-2"/>。 [[1945年]](昭和20年)8月30日、軍籍を離れる。医者から3年しか生きられないと言われ、部下の家族に死んだ状況を告げる旅に出る<ref group="注釈">{{Harvnb|杉山|2015|p=370}}。「隊長のお前だけがなぜ生き残った」という言葉を投げつけられる辛い旅であった。</ref>。外地からの引揚者を収容するため、福岡市で杉山農園<ref group="注釈">{{Harvnb|杉山|2015|p=376}}。杉山農園は、福岡市東区唐原4丁目一帯にあった。</ref>を経営する。そのかたわら、千葉県稲毛の引揚援護局(復員局)で働く<ref name="杉山2015-2"/>。この頃、福岡市に「公共のために」と杉山農園の土地を寄付するが、土地がアメリカ軍のゴルフ場になることに激怒し、交渉の末、ゴルフ場になる以外の土地を取り戻す<ref name="杉山2015-2"/>。 [[1955年]](昭和30年)36歳、波多江光子と結婚<ref name="杉山2015-2"/>。同年、インドの[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー首相]]から「産業技術の指導支援の依頼」があり<ref name="杉山2015-2"/>、これを受けて、日本の農法、技術によってアジアから貧困をなくすために[[国際文化福祉協会]](ICWA)を創設する<ref>[https://web.archive.org/web/20190330043048/http://www.geocities.jp/kubo_yasu/ICWA_NEWS_23.pdf ICWA news 第23号]、[[1983年]](昭和58年)1月1日発行。</ref>。日本で農業を学んでいたインド人に杉山農園で農業技術を教え始めた。 [[1962年]](昭和37年)43歳、初めてインドを訪れ、約1ヶ月の旅をする<ref name="杉山2015-2"/>。砂漠となった[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャブ州]]を見て、国道1号線沿いの延長470キロメートルに、成長が早く根が深くパルプの原料となる[[ユーカリ]]を植林し、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて水を確保することを提案した。 しかし、植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態に、インド政府も事業中止に至った。 [[1966年]]、インドの餓死者の状況を調査し国連に直訴するが、相手にされなかった<ref name="杉山2015-4">{{Harvnb|杉山|2015|p=378}}</ref>。 しかし、杉山は杉山農園の3万坪(総面積は4万6千坪)を売却して資金を調達し<ref group="注釈">{{Harvnb|杉山|2015|p=3}}。祖父・杉山茂丸と父・夢野久作から長男(龍丸)にのみに伝えられた言葉は「杉山農園は私物化せずにアジアのために使え」であったという(杉山満丸「はじめに」)。</ref>、家族を日本に残して渡印した。[[国際連合|国連]]関係者からの環境会議出席の求めに友人から旅費を借りて出席した。 終始、日本政府からの援助は無く、学界からは黙殺され、国際文化福祉協会の[[財団法人]]認可申請もいまだ認められていない{{要出典|date=2023年1月}}。インド、パンジャブから[[パキスタン]]までの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は杉山の功績であるとされている。 [[1965年]](昭和40年)46歳、[[小田実]]、[[鶴見俊輔]]、[[開高健]]、[[小松左京]]、[[篠田正浩]]ら、20数名と共に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(後の「[[ベトナムに平和を!市民連合]]」)に参加する<ref name="杉山2015-4"/>。 その思いを『声なき声のたより』<ref group="注釈">「声なき声の会」代表であった[[小林トミ]]を参照。</ref>に投稿した<ref>{{Harvnb|鶴見|1989|p=265}}</ref><ref group="注釈">「[http://tanizokolion.fc2web.com/futatunokanasimi.html ふたつの悲しみ]」『声なき声のたより』43号(1967年11月20日発行)等、[http://tanizokolion.fc2web.com/sugiyama_tatumaru.html 杉山龍丸の資料]にもアーカイブされている。なお『声なき声のたより』に発表された著作は、自由に転載が許されている({{Harvnb|鶴見|1989|p=265}})。</ref>。 [[1967年]](昭和42年)48歳、[[孫文]]生誕百年祭に[[蒋介石]]総統から国賓として台湾に招かれる<ref group="注釈">祖父・茂丸が関わっていた[[玄洋社]]は、孫文の活動を支援していた。</ref> <ref name="杉山2015-4"/>。インドの窮状を訴え、祖父・茂丸が台湾で関与した[[蓬莱米]]の種籾を分けてくれるように申し入れる。翌年、台湾政府から[[国連食糧農業機関]](FAO)を通じてインドに蓬莱米の種籾が贈られ、インドで栽培することに成功する<ref name="杉山2015-4"/>。 [[1972年]](昭和47年)52歳、砂漠に生え、食用になり成長が早い植物[[モリンガ]]を知る<ref name="杉山2015-3"/>。シュワリック・レンジ(丘陵)の崩落を食い止めるため、モリンガと[[サダバール]]という植物を使って、緑化に着手する<ref name="杉山2015-4"/>。 [[1979年]](昭和54年)60歳、インドの新聞で「3万本の木を植えた日本人」として紹介される<ref name="杉山2015-4"/>。 [[1980年]](昭和55年)61歳、杉山農園の最後の土地と自宅千坪を売却、太宰府市国分の借家へ移転<ref name="杉山2015-4"/>。 [[1985年]](昭和60年)7月23日、脳溢血で倒れる<ref name="杉山2015-5">{{Harvnb|杉山|2015|p=379}}</ref>。 この時、インドを緑化するために杉山農園を全て売却しており、保険も解約していた。そのため杉山家の収入は傷病軍人恩給しかなく、入院費の負担は重かった<ref>{{Harvnb|杉山|2015|p=366}}</ref>。 杉山は従軍中、現地で「整備日誌」にメモを書き続けていた。それを基に「幻の戦闘機隊」という題の記録を書き、その原稿の出版を陸軍士官学校同期の影山に頼んでいた。入院中、影山が杉山の見舞いに来た際、その原稿を満丸に託した。それから30年経過して出版されたのが『グリーンファーザーの青春譜』である<ref>{{Harvnb|杉山|2015|pp=366-370}}</ref>。 [[1987年]](昭和62年)9月20日、死去<ref name="杉山2015-5"/>。 ==参考文献== * {{Cite web|和書 | last = | first = | author = 杉山龍丸 | authorlink = | url = http://tanizokolion.fc2web.com/aruyumenohanasi.htm | title = 或る夢の話 | date = 1975-01-10 | website = | publisher = | format = | doi = | accessdate = 2023-03-01 | ref={{SfnRef|杉山|1975}} }} *{{Citation |和書 |last=杉山 |first=龍丸 |editor=杉山満丸 |title=グリーンファーザーの青春譜 ファントムと呼ばれた士(サムライ)たち | volume= |series= |publisher=[[書肆心水]] |date=2015 |isbn=9784906917396}} *杉山龍丸『砂漠緑化に挑む』[[葦書房]]、1984年。死の2年前の論文を含み、[[砂漠緑化]]のノウハウをまとめている。 *[[杉山満丸]]『グリーン・ファーザー インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡』ひくまの出版、2001年。長男の満丸がインドでの緑化事業の軌跡を訪ねたドキュメント。 *{{Citation |和書 |last=鶴見 |first=俊輔 |title=夢野久作 迷宮の住人 | volume=20 |series=シリーズ民間日本学者 |publisher=リブロポート |date=1989 |isbn=4845704072}} <ref group="注釈">鶴見は「あとがき」で、杉山の志がどのようなものであったかを伝えるため、「ふたつの悲しみ」全文を引用して紹介している。</ref> *{{Citation |和書 |last= |first= |editor=山田太一|title=生きる悲しみ | volume= |series=ちくま文庫 |publisher=[[筑摩書房]] |date=1995 |isbn=4480029435}} 「ふたつの悲しみ」が収録されている。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === {{Reflist|20em}} == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/kubo_yasu/ |title=杉山龍丸氏関連文書アーカイブ |date=20190330043046}} ** {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/kubo_yasu/indonogasinomonndai.pdf |title=インドの餓死に関する報告書 |date=20190330043045}}:60年代のインド農村部では植民地時代の政策の影響で下層カーストの人々には教育や道具が行き届いていないため、社会保障制度の利用や仕事ができず、餓死・病死していく。[[社会保障制度]]・[[職業教育]]・手段の確保(森・土地・工具・農具)・上下水道などの社会基盤があれば人々は救済可能であるとしている。 *[http://www.ifsa.jp/index.php?Gsugiyamatatsumaru 杉山龍丸](NPO法人 国際留学生協会) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すきやま たつまる}} [[Category:大日本帝国陸軍軍人]] [[Category:日本の自然保護活動家]] [[Category:日本の農林系技術者]] [[Category:日本の平和運動家]] [[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]] [[Category:福岡県立福岡高等学校出身の人物]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:日印関係]] [[Category:緑化|人]] [[Category:夢野久作]] [[Category:1919年生]] [[Category:1987年没]]
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ストリートファイターII
『ストリートファイターII』(ストリートファイターツー、Street Fighter II)は、カプコン制作の対戦型格闘ゲームであり、『ストリートファイター』の続編にあたる。サブタイトルも含めたタイトル名は『ストリートファイターII -The World Warrior-』。通称『ストII』(ストツー)。 1991年3月より、アーケードゲーム基板CPシステム用ゲーム第14弾として稼働を開始した。 本作は攻撃の強弱を別ボタンに分け、それらの組み合わせによるコマンド入力によって技を出せるシステムを確立したことで『ストリートファイター』からゲーム性が大幅に変化した。一方で本作はそれまでの対戦型格闘ゲーム(特に前作)同様、CPU戦を中心に制作され、対戦はそれほど考慮されておらず、バグ技をはじめ、システムや演出面においても粗があった。 それでもアーケードゲームとして登場して以来、爆発的ヒットを記録したことで対戦型格闘ゲームブームを引き起こした。また家庭用ゲーム機への移植が行われたことで、家庭で好きなだけ遊べるようになり、ブームに拍車をかけ、特にスーパーファミコン版は国内販売本数約288万本、世界累計販売本数630万本を記録している。 その後は多くの続編が発売され、またゲーム以外にもアニメ、実写映画、漫画、ドラマCDなどの幅広いメディアミックス展開が行われた。 現在、商標などの全ての知的所有権はカプコンのグループ会社、カプコンUSAが保持している。 一対一の近接格闘を主体とした本作は、先に相手の体力を0にした方が勝利となり、3ラウンド中で2ラウンド先取するとその相手を倒したことになる。 各ラウンドには時間制限があり、残り時間がなくなると強制的にラウンドが終了し、残り体力の多い方がラウンドの勝利者となる。残り体力が全く同じ場合や、互いの攻撃が同時に当たってお互いの体力が0より減った場合(相打ち)は引き分けとなる。その際、前者はドロー(Draw Game)、後者はダブルK.O.(Double K.O.)とそれぞれ表示される。3ラウンド目が終了した時点でどちらも2本取っていなければ、ファイナルラウンドとして4ラウンド目が行われる(『II』のみ10ラウンドまで延長可能)。ファイナルラウンドでも引き分けになった場合は両者ゲームオーバーとなる。 1人用のCPU戦では、各ステージが世界地図として表示され、ステージを転戦しながらゲームを進めていく。また、同モードでは、3人を倒すごとに車、樽、ドラム缶を破壊するボーナスステージが挿入される。スコアの下二桁はコンティニュー回数を測る役割があり、ゲーム内で加算される得点は100点単位以上となる。 本作のシステムやルールの一部は、前作『ストリートファイター』をもとにしており、たとえば1レバー+6ボタンという操作体系は同作のテーブル筐体に由来している。レバーはキャラクターの移動やジャンプ、しゃがみに用いられている。一方、6つのボタンはパンチとキックに割り振られており、それぞれ弱・中・強の三段階に分かれている。このほかにも相手をつかんで投げる動作も存在する。その一方で、『ストリートファイター』では隠し要素だったレバーとボタンの入力による必殺技の発動は、本作において基本的なシステムとして組み込まれた。また、本作においては通常技をヒットした瞬間に必殺技のコマンド入力に成功した後、通常技の動作が取り消されて必殺技が発動される「キャンセル」という要素が誕生した。 プレイアブルキャラクターが前作よりも増えた分、戦闘スタイルや必殺技、さらには相手に追い打ちをかける連続技(コンボ)も多様化した。 プレイヤーが使用可能なキャラクターは以下の8人。リュウとケンは前作から登場しているので、本作から6人の使用キャラクターが追加されている。 また、対コンピュータ戦で敵として現れるプレイヤーが選択可能なキャラクター(『II』では自キャラクター以外の7人、『II'』以降は8人)を全て倒すと、以下の4人が順番に登場する。 これら4人のボスキャラクターは「四天王」と呼ばれ、続編の『II'』でプレイヤーキャラクターとしての調整を加えた上で使用可能になった。 ゲームデザイナー兼ディレクターのNINこと西谷亮は、初代『ストリートファイター』(大型筐体)の開発バージョンを遊んだ際、感圧式ボタンを叩く強さで攻撃の強弱をつける操作体系や、ジャンプの重さなどを気にしており、この問題を改善したいと考えていた。 一方、初代『ストリートファイター』がアメリカで人気を博しており、現地法人から続編のオファーを受けたカプコンはそのつもりで西谷らに『ファイナルファイト』を作らせるも結局は別物になってしまったため、初代『ストリートファイター』における対戦要素を発展させる形に切り替えた。 西谷亮は、初代『ストリートファイター』のディレクターである西山隆志からは特にアドバイスもなく、岡本吉起からは自由にやるように言われたとゲーム文化保存研究所・所長の大堀康祐との対談の中で明かしている。 本作のシステムは、『ファイナルファイト』で得た知見や西谷たちが遊んできたゲームをヒントに構築されており、たとえば、操作性やボス戦は西谷らが遊んできた『ゲットスター』の影響を受けている。 開発初期の段階では、弱キックに相当する動作がなく、空振りした場合は技と技の間に沈黙が流れてしまっており、西谷は自分でテストプレイをしていて気持ち悪かったため、『ファイナルファイト』の連続技をヒントに技の途中を省略して連続技として成立させるようにしたところ爽快感が出たため、弱キックの実装につながった。 当初は初代『ストリートファイター』(大型筐体)と同様に、感圧スイッチを用いた2ボタンの操作体系にする予定だったが、様々な案が出た末に、同作のテーブル筐体をもとにした6ボタン+ジョイスティックという操作体系に決まった。 『ストリートファイター』では隠し要素だった必殺技は本作においては基本的なシステムとして導入された。必殺技を出しやすくするため、 「通常技が出掛けたところを必殺技で上書きできる」(つまり、コマンドとボタンの入力に若干のタイムラグがあっても必殺技を発動できるようにする)という設定がゲーム全体に対して施された。その結果、設定フレームよりも発生が速い通常技が当たった後でも必殺技で上書きできるようになった。これは開発者の意図せぬ動作(バグ)だったために修正する予定であったが、最終的にこの方が面白いと判断され、「キャンセル」としてシステム化された。 また、攻撃が当たった際に双方の動きが一瞬止まる「ヒットストップ」は、『脱獄』(1988年)で飛び蹴りをした時の引っ掛かりをヒントに取り入れられた。さらに、「ガード」の概念は、『R-TYPE』(1987)におけるフォースをヒントに取り入れられた。 当初はキャラクターの特定の部位に弱点を設けることが検討されていたが、時期尚早だとして見送られた。ところが、リュウだけが検証用の設定のままになっていたため、気絶時の被ダメージが大きくなる事象が発生した。この事象はのちに「病気持ちのリュウ」とも呼ばれた。 初代『ストリートファイターII』(以下『II』)の企画やキャラクターデザインを手がけたあきまんは、各キャラクターのインサイドストーリーを作ったものの、オープニングやエンディングなどに極力力を注がず、また映画的な手法でも表現しなかったと語っている。その理由は「ゲームの『戦い』の部分にすべてのパワーを注ぎたかったから」「『ゲーム』の部分の他にストーリーはいらなかったから」だとしている。『II』の劇場アニメ化の際にも「ストーリーに凝るなら、それより『ストリートファイト』という表現をしてほしい。なぜならストIIの登場キャラクターの接点は『ストリートファイト』というもののみだから」と説明している。このため、キャラクターの詳細な設定の中にはメディアミックスによって付与されたものやファンによる二次創作を初出とするものもある。また、西谷の提案で、親近感を持たせるため、キャラクターの身長は低めに設定された。さらに、ドット作成に当たっては、細身にならぬよう横に太い量感を出すことが意識された。加えて、『ファイナルファイト』のキャラクターよりも頭を大きくデザインしたことで、顔の表情を描けるようになった。 本作の登場キャラクターのうち、リュウとケン、ならびにサガットは前作『ストリートファイター』からの続投である。 当初、リュウとケンのグラフィックは別人が担当する予定だったが、開発初期にSHOEIこと岡野正衛が引き継いだ。あきまんはまず、岡野に前作における彼らの必殺技である波動拳のモーションを作るよう命じた。この時点で、すでに「フットワーク」と呼ばれる立ちポーズだけができていたものの、そこからいかに波動拳へ自然に移行させるかが岡野にとって悩みの種となった。その後、正式な企画書を渡され、詳細な仕様を知ることができたものの、悩みの解決にはいたらなかった。岡野は前作のイメージを引き継ぎつつも、よりよい動作を模索していった。また、前作における波動拳は3発当てただけで敵を倒せる文字通りの必殺技だったが、駆け引きが求められる本作においてはふさわしくないとして、大幅に弱体化された。加えて、技の発動を可視化するために溜めるポーズが用意されたが、この硬直時間の調整にも時間がかかった。 キャラクター面においても前作から大幅に変更されており、前作においては破天荒でやんちゃな雰囲気を漂わせていたが、開発が進むにつれて「ストイックな放浪の格闘家」へと変貌していった。一方、この時点では2人のプレイヤーが同じキャラクターを選択できなかったため、ケンはライバルであるリュウと同等の性能にし、大半のモーションも同じものを使用しているが、勝利モーションで性格の差を表現した。 なお、岡野は本作のタイトル画面も手掛けている。 本作においては、初の女性プレイアブルキャラクターとして春麗が登場している。あきまんは女性キャラクターを導入した理由について、本来「格闘技世界一決定戦」にいないはずの女性を入れることでより楽しさを演出できると思ったとカプコン公式ホームページ内の『ストリートファイターII』開発者座談会で説明している。岡野は春麗の登場によりゲームに奥行きが出たと2022年のインタビューの中で話している。また、岡野は春麗のグラフィックについて2020年のインタビューの中で、「春麗のタイツの表現にはとてもこだわっていました。[中略]当時は16色で色合いや質感を表現しており、タイツや立体感の表現にデザイナーの工夫と愛情が込められています」と説明している。なお、キャラクターそのものは最後に作られており、蓄積されたノウハウを駆使したため、データの容量は12人の中で最も少ない。 リュウ、ケン以外は「獣人」や「軍人」「相撲取り」といったテーマに沿った草案をもとに、複数のドッターによるじゃんけんで担当者を決めた。うち「プロレスラー」(ザンギエフ)と「相撲取り」(エドモンド本田)は、いずれも早い段階から開発が進められていた。前者は世界共通の格闘技であると同時に、技も多彩であることから、格闘ゲームにふさわしいということで取り入れられた。後者は日本を代表する格闘技として取り入れられたものの、そのままでは使えないため、ゲーム向けにアレンジされた。 最初にじゃんけんに勝ったIKUSAN.Zは、もともとプロレスファンだったため、ザンギエフを担当することになった。次いでじゃんけんに勝った女性スタッフのERICHANはエドモンド本田を担当した。最後に残った「獣人」(ブランカ)はPIGMONが担当した。当初ブランカは肌色だったが、面白みがないということで緑色に変更された。 「軍人」ことガイルは、全キャラクター中で唯一空中投げが存在するなど動きが多彩な分、必要なデータも膨らんだ。 (初代の時点では)非プレイアブルのボスキャラクターとしてシャドルー四天王を登場させた理由として、西谷はアクションゲームとしての遊び方を考えた際に、必要なボリューム数を満たすため、キャラクター選択画面で表示されている以外のキャラクターがいた方がよいと考えたと座談会の中で話している。また、前作『ストリートファイター』のボスであるサガットを登場させるつもりではあったものの、それだけではつまらないため人数を増やした。 シャドルー四天王のうち、バルログのドットはKATURAGIが担当した。KATAGIRIは後から開発チームに入った際、あきまんから「スペインまたはタイの忍者を描いてほしい」と言われ、後者の内容で描いたところ「『北斗の拳』の修羅の国編の序盤に出てくるようなスペインの忍者にしてほしい」と言われ、デザインを変更した。ラスボスのベガは、春麗が戦う理由と関連づけるために「悪の帝王」として設定された。また、あきまんは開発当時タイが世界一格闘技の強い国であるという印象を抱いており、「悪の組織が資金力を用いて格闘技に特化した勢力を作った」という設定を持たせた。あきまんは2016年のインタビューの中で、ゲームの中にベガを登場させた際、ベガの身体が予想より小さい事に気づくと同時に、かっこいいと感じたとも振り返っている。 なお、本作の欧米版を製作する際、四天王のうち『ストリートファイター』からの続投であるサガット以外は、「M・バイソン→バルログ(Balrog)」、「バルログ→ベガ(Vega)」、「ベガ→M・バイソン(M. Bison)」と名前が交換された。名称変更の理由は、バイソンの姿と名前が実在するプロボクサーのマイク・タイソンに酷似しているので肖像権に配慮したためと、「ベガ」にこと座のイメージがあり、日本国外のマーケティングから見るとなよなよしているとされ、中性的なバルログにこの名前があてられたためである。 本作に登場するキャラクターの音声やラウンドコールは声優ではなくすべてカプコンの社員が担当しており、たとえば春麗の声はERICHANが担当した。また、声の良さを見込まれて他の部署から呼ばれたケースもあった。このようなこともあって、キャラクターのイメージと実際の音声が異なると指摘する者もおり、たとえば、前述の春麗の場合、険しい顔つきや筋肉質な脚部とは裏腹に、勝利デモでは「ヤッター」とかわいい声をあげている。 『ストリートファイターII' TURBO』(以下『II' TURBO』)までにおけるオープニングデモに登場した2人の無名キャラクター(白人と黒人)がストリートファイトを行っている描写があり、『ストリートファイターV』の公式ホームページ「シャドルー格闘家研究所」の「キャラ図鑑」にて個人プロフィールが明かされている。 シリーズの派生作品を発売するたびにデザインを変えて区別をつけてきたものの、キャラクターの配色には特に苦労したと岡野は振り返っている。たとえば、ガイルの場合、着用している迷彩服の一部に肌と同じ色が用いられているため、服の色を変えたつもりが肌の色まで変わってしまい、開発スタッフから「ゾンビガイル」というあだ名がついたこともあったという。 BGM担当者の一人である阿部功は、本作での作曲方法について、イメージをシーケンサーで作った後に「五線譜エディター」と呼ばれるツール向けに改作していたと座談会の中で説明している。「五線譜エディター」にはサウンド再生機能がないため、筐体に入れるROMへの書き込みを繰り返しながら試行錯誤していったと阿部は振り返っている。 また、初代『ストII』(アーケード版)ではFM音源だったのに対し、それ以降の作品ではPCM音源が採用された。阿部はもともとFM音源に慣れており、(スーパーファミコン版『ストII-』の音楽も手掛けていたとはいえ)、アーケード向けのPCM音源の不安定さなどに戸惑ったと座談会で振り返っている。 もう一人のBGM担当者である下村陽子はもともと家庭用ゲーム機用ソフト志望だったが先輩の勧めでアーケードゲームの作曲にかかわった経緯があり、その流れで本作に参加した。下村は、6月26日放送の『THE JASRAC SHOW!』のvol.68内で行われた大森俊之との対談の中で、最初にキャラクターのテーマ曲を作るという話を聞かされた際は、そのような経験がなかったため不安だったと振り返っている。この時点でゲームのグラフィック制作はある程度進んでおり、その内容が世界各国のステレオタイプに近かったため、「日本人がイメージした○○」というコンセプトで制作した。また、カプコン社内には民族音楽に関する資料もあったため、それをもとに味わいを持たせたと振り返っている。下村が手掛けた曲のうち、ブランカのテーマ曲は「アマゾンの奥地で育った野生児」というキャラクター設定から、コンガをはじめとするパーカッションを主体としたリズム構成はすぐできたものの、それに載せるためのメロディがなかなか思い浮かばなかった。そんな中、電車の網棚に乗っていた黄緑色の紙袋からメロディを思いついたと下村は振り返っている。 いずれもアーケード作品として、ゲーム内容の調整が行われた『ストリートファイターII'』や『ストリートファイターII' TURBO』、キャラクターなどが追加された『スーパーストリートファイターII』とその調整版の『スーパーストリートファイターII X』がある。これらが家庭用ゲーム機に移植された際には、さらに新規要素が追加されたり、タイトル名が変更されているものもある。 1992年4月より稼働。日本国外版のタイトル名はStreet Fighter II Champion Edition。 『ストII』の好評を受けて売り出されたバージョンアップ版であり、『ストII』ではCPU専用だった四天王がプレイアブルキャラクターとなるなど、仕様がいくつか変更された。 一方、『II'』においてもハメ技が多いとの指摘もあり、特定のキャラクターの使用を禁じるゲームセンターもあったという。また、違法改造した海賊版が出回っていたことでも知られている。 1992年12月より稼働。日本国外版のタイトル名はStreet Fighter II' HYPER FIGHTING。 外見より内容の洗練に力を入れたマイナーチェンジ版とされている。 当初、ターボはアメリカのみの発売で日本での発売の予定がなかった。また、同作は『ストリートファイターII'』の海賊版、特に『ストリートファイターII レインボー(英語版)』対策のために作られたバージョンといわれる。 1993年10月より稼働。日本国外版のタイトル名はSuper Street Fighter II The New Challenger。 以下の新キャラクター4人が追加された。この4人はデフォルトで選択可能。キャラクターのカラーも8色に増えた。 なお前作(『II' TURBO』)までのキャラクターのカラーは弱パンチがデフォルトカラー、中パンチがダッシュカラー(ただしガイルのみ色が違う)、強パンチがターボカラー(ただしM・バイソンのみ色が違う)となっていて、それ以外ボタンの5色は本作で追加されたカラーとなる。 前作までの一部のキャラクターの技グラフィックが新たに修正・変更されている。気絶が発生すると、前作までは一度ダウンして起き上がった時に気絶を知らせるエフェクトが出ていたが、本作以降は吹き飛んだ時点で気絶を知らせるエフェクトが出るように変更されている。特定アクションによるボーナス点や、コンボの際のコンボ数の表示が導入され、4ラウンド目(最終ラウンド)でもコンボなどのテクニカルボーナスは加算されるようになった(通常の得点は入らない)。キャラクターの動作速度は『II』『II'』の頃に戻った。 エンディングまでに要するCPU対戦相手はこれまで通り計12人で、初代から選択可能な8人は原則的に同キャラ戦が無く、本作から参戦したキャラクターおよび四天王のみ同キャラ戦が発生する。 1994年3月より稼働。日本国外版タイトルはSuper Street Fighter II TURBO。 条件を満たした時だけベガの代わりに出現する隠しボスとして、以下の新キャラクターが追加された。 隠しコマンドを入力することでプレイヤーが豪鬼を使用することが可能(能力は幾分調整されている)。また、後期のコンシューマー版では最初から使用できるようになっているものもある。なおCPUの豪鬼(後に真・豪鬼(SHIN GOUKI)と呼ばれた)とプレイヤー仕様の豪鬼とでは、キャラクター能力が若干異なる。 多くのキャラクターで通常技・必殺技が追加・変更され、さらに本作よりスーパーコンボや空中コンボ属性、投げ受身(『スパII』仕様では不可)が登場した。またゲームスピードを変更でき、しかもゲームスピードをプレイヤーが選択可能なようにオペレーターが設定できる(選択可能な設定で営業使用された場合が多かった)。また、ボーナスステージが削除された。 演出面においては、スーパーコンボで相手を倒した際に背景が変化する「あけぼのフィニッシュ」が導入された。 プレイヤーのカラーパターンは通常の8色と『スパII』仕様の2色(実際には『スパII』のものとも微妙に異なる)の合計10色。前作(『スパII』)での弱パンチ(デフォルト)カラーのみ変更されており、それらは『スパII』仕様を選択した場合に使用ができる。 アーケードゲームとしては異例のテレビCMが放映された。 家庭用ゲーム機で発売されたタイトルにはストリートファイターIIシリーズを一つのパッケージにまとめたコレクション作品が存在する。 1997年9月18日にセガサターン用タイトル、1997年10月23日にPlayStation用タイトルとして発売。日本国外でもStreet Fighter Collectionの名称で販売された。 『スパII』『スパII X』のCD-ROMと『ストリートファイターZERO2'』のCD-ROMの2枚組。 PlayStation版は基本的にはセガサターン版と同様だが、一部相違点がある。 2014年12月3日よりゲームアーカイブスにて『ストリートファイターZERO2'』名義で配信が行われたが、内容は単体ではなく『コレクション』の方を再現した『ZERO2'』『スパII』『スパIIX』の3本セットになっている。 1998年12月3日にカプコン クラシックス コレクションの一つとしてセガサターン用およびPlayStation用タイトルで発売。日本国外ではStreet Fighter Collection 2の名称で販売された。 カプコンの旧作タイトルを当時の現行機種にて低価格リリースするシリーズで、『II』『II'』『II' TURBO』がセット。ほぼアーケード版の完全移植といった出来栄えで、スーパーファミコン版などで再現できなかった要素も完全再現されている。また、アーケード版にあったいくつものバグ技の中から、ガイルの真空投げのみ可能となっている。 オプションにてBGMをオリジナル (CPS1) 音源と3DO版のアレンジ音源との2種類から選択可能となっている。 一定の条件を満たすと『II』『II'』『II' TURBO』のキャラクターで対戦が可能となる対人戦専用モード「SUPER VS. MODE」が出現する。作品ごとに性能が異なるキャラクター同士の対戦が可能。『II』仕様の同キャラ対戦も可能になっており、この場合の2Pカラーは『II'』と同じカラーになる。なおその際、『II』の2Pカラーと『II'』の2Pカラーの同時選択は不可能である。また『II』および『II'』の1Pと『II'TURBO』の2Pカラーの同時選択も不可能である(例:リュウの場合、赤ハチマキ白道着カラーが従来カラーであるが、どちらかが先にこのカラーを選択した場合にはもう一方は『II'』カラーである青ハチマキ黒道着か『II'TURBO』カラーである白ハチマキ白道着のどちらかしか選べなくなる)。 全モード共通でトレーニングモードおよび対戦相手をCPUにした1人プレイ専用のCPUバトルモードが追加されている。 『II』仕様の四天王はプレイヤー操作キャラクターとして選択できない一方、トレーニングモードおよびCPUバトルモードでの対戦相手側としての選択は可能である。 2016年1月6日から2月2日にPlayStation Plus会員向けのフリープレイとしてゲームアーカイブス版(PlayStation 3/PlayStation Vita/PSP)が先行配信され、2月3日から一般配信された。『THE WORLD WARRIOR』、『CHAMPION EDITION』、『TURBO HYPER FIGHTING』の3作品が収録されているほか、設定集やトレーニングモードなどが加されている。 難易度を問わず、3タイトルの中のいずれかをノーコンティニューでクリアすることで、敵キャラクターのCPUが強化された「CPU BATTLE」がクリアしたタイトルのモード選択画面に追加される。 2003年12月18日にPlayStation 2用タイトルとして発売。2004年1月28日にアーケード用タイトルとして稼働。2004年10月9日に配信開始。日本国外でもHyper Street Fighter II The Anniversary Editionの名称で販売された。 システムは『スパII X』に準拠し、『II』から『スパII X』までの全シリーズ(下から順にNORMAL、DASH、TURBO、SUPER、SUPERXが選択、日本国外ではNORMAL、CHAMP、TURBO、SUPER、SUPERTの順)の最終バージョンにおけるキャラクターを使用可能であり、「初代『ストII』のリュウと『スパII』のケン」というように、作品の垣根を超えたキャラクター同士の対戦も可能である。『スパII』『スパIIX』のキャラクターカラーは前作と同じで、『II'』『II' TURBO』のキャラクターカラーはオリジナルに準拠している。またキャラクターボイスは『II』(ノーマル) - 『II' TURBO』と『スパII』『スパIIX』の2種類で各仕様選択時に各々決定され、同様に攻撃を繰り出した際のヒット音やガード時の効果音、投げ技などの気合ボイス(『II' TURBO』以前で無言の場合はそれに準する)も先述の通りになる。ただし攻撃を繰り出した際の風切り音は『スパII』以降の音に統一されている。 CPU豪鬼の乱入は、乱入無しのものと同様にベガステージBGMとマントを羽織った状態にてCPUベガが現れ、「ROUND1 FIGHT!」コールがされた後に、CPU豪鬼が出現する(ただし、体力ゲージにある顔と名前は既に豪鬼のものになっている)。BGMは豪鬼のものに切り替わり、暗転が明けた時にはベガは既に仰向けに倒れている。 香港の国旗がイギリス統治時代の旗(香港旗)から中華人民共和国の国旗になった(1997年にイギリスから中国へ返還されたため)が、ザンギエフのものはソビエト連邦の国旗のままである。 アーケード版『ストリートファイターII』シリーズの中で、唯一1本先取から3本先取までオペレーターが設定を変更できる。本作ではピンチ時のBGMがビハインド側にとって負けたら最終ラウンドになる場合でのみ切り替わる仕様となっている。なおリード側がそのラウンドを落としてもまだ次がある場合はリード側がピンチになってもBGMは切り替わらない。また両者共々最終ラウンドになる場合は従来通りどちらかが先にピンチになればBGMは切り替わる。 1人プレイ時の乱入可能状態の表示がこれまで「PUSH START」であったのが家庭用版移植作品同様の「PRESS START」に変更されている。 本作は日本国外版のみ通常のCPシステムII向けBボードでリリースされ、日本国内では主にリース用に使用されていた1枚基板タイプのCPシステムII(黒いケースで包まれており、フラッシュROMを使用)としてリリースされている。 PlayStation 2版にはアニメ映画『ストリートファイターII MOVIE』が収録されているが、ゲームソフトの一部としてのおまけなので、ソニーのゲームガイドラインに従い、春麗のシャワーシーンはカットされている。CEROレーティング15歳以上対象。 キャラクターの動きの一部に、オリジナルと違う部分がある(アーケード版では解消されている)。カプコレ版ではサガットの硬直が長いバグなどが修正されている他、波動拳やソニックブームなどの飛び道具を撃つ際に出る風切り効果音がこれまで「SUPER」「SUPER X」モードのみであったのが、モード不問で全て出るように修正された(アーケード版では「SUPER」「SUPER X」モードのみ風切り効果音が出る)。 メモリーカードには非対応になっている。 オプションでBGMをCPSI・CPSII・ARRANGEから選択することができる。特にCPSIには『スパII』以降に追加された5人のステージBGMも新たに追加対応されている。 2008年9月18日には『ハイパーストリートファイターII アニバーサリーエディション ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション バリューパック』として、本作と『ヴァンパイア』のカップリング作品が発売。先着購入特典としてDVD「ストリートファイターII&ヴァンパイア アーケードエンディングギャラリー」が配布。 2004年10月28日に『ストリートファイターアニバーサリーコレクション』として発売。 『ハイパーII』『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』が1本にまとまったソフト。ともにネット通信対戦対応(通信対戦はサービス終了しているが、ローカルでのプレイはXbox 360にも対応)。 2018年10月25日にNintendo Switch、PlayStation 4、Xbox One、Steam向けに発売。日本国外ではStreet Fighter 30th Anniversary Collectionの名称で販売された。 開発はDIGITAL ECLIPSE。アーケード版12タイトルの中に『II』『II'』『II' TURBO』『スパII』『スパIIX』を収録。『カプコンジェネレーション』や『ストリートファイターコレクション』のものとは違い、完全にアーケード版そのままとなっている。そのためアーケード版のバグ技もそのまま使用可能となっている。パッケージ版のみ特典として「ALL ABOUT ストリートファイター 30周年復刻版」が同梱される。 カプコンが発売した複数タイトルのうちの一つとしてストリートファイターIIシリーズが収録されたタイトルが存在する。 そのほか、Nintendo Switch、PlayStation 4、Xbox One、Steam向けに以下のタイトルが配信されている。 春麗を主人公としたドラマCDが東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)より発売されている。3巻のエンディングで4巻の発売を匂わせていたが、販売は全3巻で終了している。 『ストリートファイターII』を対象にしたものを記載。 本作は小学生から上は若年の社会人に至るまで幅広い年齢層に支持され、本作の筐体を多く設置する店や、本作のみを設置した店が現れるなど、インベーダーブーム以来の様相となった。本作は多くのコンシューマ機にも移植され、専用コントローラが発売されるだけではなく、その後発売されるゲーム機では、格闘用6ボタンを意識した配置のものが多くなった。このうち、スーパーファミコン版はアーケード版で魅力を知っていた小中学生を中心に支持された。この低年齢層が後年の格闘ゲームファンとなっていく。大きく描かれたキャラクターが1対1で対戦する。各キャラクターはプレイヤーの操作により生き生きと動き、またキャラクター間のバランスは続編の『ストリートファイターII'』(以下『II'』と表記)以降、綿密に調整され、対戦をより奥深いものとした。プレイ中の相手に対戦を申し込む「乱入対戦」と、いわゆる「対戦台」のスタイルを確立した作品である。 こうしたメディアミックスの結果、本作をプレイしていない層にまでキャラクター人気が波及。本作をパロディ化したマンガや同人誌も登場し、特に女性キャラクターである春麗は男性ハイティーン層に人気を博した。同人マンガ即売会は春麗のコスプレの女の子であふれかえった。アニメではこうしたキャラクター先行の人気は珍しいことではないが、ゲームセンター発祥のキャラクターでこの現象が起きたのは春麗が初めてとされている。 海外の人気も高く、日本より先に発売されたアメリカでは対戦大会がテレビ中継されており、ジャッキー・チェン出演で映画化という噂(デマ?)も飛ぶ。 人気が高い反面、1992年秋ごろからは世界各地で偽造基板も出回るようになり、カプコンが法的措置に乗り出した。 基板偽造の輸出にかかわったとされる香港のゲーム場運営会社ボンディール代表フレッド・ミルナーは、アメリカのコンピュータゲーム業界誌「リプレイ」からの電話取材の中で、アメリカなど著作権に厳しい国には偽造基板を輸出しなかったものの、南米など著作権に甘い国には輸出したことを話しており、プエルトリコも南米のうちに入っていると思っていたと述べている。 また、香港、台湾、イギリスでは警察による偽造基板販売業者への家宅捜索が行われたほか、逮捕者が出た例もあった。アーケードゲーム業界紙「ゲームマシン」445号(1993年3月15日)によると、たとえばイギリスでは当時1万台の『ストII』筐体が稼働しているが、うち6割は偽造基板だとされている。 コマンド入力をはじめとするシステムは今日における対戦型格闘ゲームの雛形となると共に多くのフォロワーを生み出している。このような作品が多数生まれた背景についてライターの仁科十蔵は、『ストII』の人気が高すぎて筐体の前に長蛇の列ができてしまい、仕方なくほかの格闘ゲームに流れていったためだと推測している。このうち、データイーストの『ファイターズヒストリー』に対して、カプコンは訴訟を起こしており、最終的には和解している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ストリートファイターII』(ストリートファイターツー、Street Fighter II)は、カプコン制作の対戦型格闘ゲームであり、『ストリートファイター』の続編にあたる。サブタイトルも含めたタイトル名は『ストリートファイターII -The World Warrior-』。通称『ストII』(ストツー)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1991年3月より、アーケードゲーム基板CPシステム用ゲーム第14弾として稼働を開始した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本作は攻撃の強弱を別ボタンに分け、それらの組み合わせによるコマンド入力によって技を出せるシステムを確立したことで『ストリートファイター』からゲーム性が大幅に変化した。一方で本作はそれまでの対戦型格闘ゲーム(特に前作)同様、CPU戦を中心に制作され、対戦はそれほど考慮されておらず、バグ技をはじめ、システムや演出面においても粗があった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "それでもアーケードゲームとして登場して以来、爆発的ヒットを記録したことで対戦型格闘ゲームブームを引き起こした。また家庭用ゲーム機への移植が行われたことで、家庭で好きなだけ遊べるようになり、ブームに拍車をかけ、特にスーパーファミコン版は国内販売本数約288万本、世界累計販売本数630万本を記録している。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後は多くの続編が発売され、またゲーム以外にもアニメ、実写映画、漫画、ドラマCDなどの幅広いメディアミックス展開が行われた。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現在、商標などの全ての知的所有権はカプコンのグループ会社、カプコンUSAが保持している。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一対一の近接格闘を主体とした本作は、先に相手の体力を0にした方が勝利となり、3ラウンド中で2ラウンド先取するとその相手を倒したことになる。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "各ラウンドには時間制限があり、残り時間がなくなると強制的にラウンドが終了し、残り体力の多い方がラウンドの勝利者となる。残り体力が全く同じ場合や、互いの攻撃が同時に当たってお互いの体力が0より減った場合(相打ち)は引き分けとなる。その際、前者はドロー(Draw Game)、後者はダブルK.O.(Double K.O.)とそれぞれ表示される。3ラウンド目が終了した時点でどちらも2本取っていなければ、ファイナルラウンドとして4ラウンド目が行われる(『II』のみ10ラウンドまで延長可能)。ファイナルラウンドでも引き分けになった場合は両者ゲームオーバーとなる。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1人用のCPU戦では、各ステージが世界地図として表示され、ステージを転戦しながらゲームを進めていく。また、同モードでは、3人を倒すごとに車、樽、ドラム缶を破壊するボーナスステージが挿入される。スコアの下二桁はコンティニュー回数を測る役割があり、ゲーム内で加算される得点は100点単位以上となる。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本作のシステムやルールの一部は、前作『ストリートファイター』をもとにしており、たとえば1レバー+6ボタンという操作体系は同作のテーブル筐体に由来している。レバーはキャラクターの移動やジャンプ、しゃがみに用いられている。一方、6つのボタンはパンチとキックに割り振られており、それぞれ弱・中・強の三段階に分かれている。このほかにも相手をつかんで投げる動作も存在する。その一方で、『ストリートファイター』では隠し要素だったレバーとボタンの入力による必殺技の発動は、本作において基本的なシステムとして組み込まれた。また、本作においては通常技をヒットした瞬間に必殺技のコマンド入力に成功した後、通常技の動作が取り消されて必殺技が発動される「キャンセル」という要素が誕生した。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "プレイアブルキャラクターが前作よりも増えた分、戦闘スタイルや必殺技、さらには相手に追い打ちをかける連続技(コンボ)も多様化した。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "プレイヤーが使用可能なキャラクターは以下の8人。リュウとケンは前作から登場しているので、本作から6人の使用キャラクターが追加されている。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、対コンピュータ戦で敵として現れるプレイヤーが選択可能なキャラクター(『II』では自キャラクター以外の7人、『II'』以降は8人)を全て倒すと、以下の4人が順番に登場する。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "これら4人のボスキャラクターは「四天王」と呼ばれ、続編の『II'』でプレイヤーキャラクターとしての調整を加えた上で使用可能になった。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ゲームデザイナー兼ディレクターのNINこと西谷亮は、初代『ストリートファイター』(大型筐体)の開発バージョンを遊んだ際、感圧式ボタンを叩く強さで攻撃の強弱をつける操作体系や、ジャンプの重さなどを気にしており、この問題を改善したいと考えていた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方、初代『ストリートファイター』がアメリカで人気を博しており、現地法人から続編のオファーを受けたカプコンはそのつもりで西谷らに『ファイナルファイト』を作らせるも結局は別物になってしまったため、初代『ストリートファイター』における対戦要素を発展させる形に切り替えた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "西谷亮は、初代『ストリートファイター』のディレクターである西山隆志からは特にアドバイスもなく、岡本吉起からは自由にやるように言われたとゲーム文化保存研究所・所長の大堀康祐との対談の中で明かしている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "本作のシステムは、『ファイナルファイト』で得た知見や西谷たちが遊んできたゲームをヒントに構築されており、たとえば、操作性やボス戦は西谷らが遊んできた『ゲットスター』の影響を受けている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "開発初期の段階では、弱キックに相当する動作がなく、空振りした場合は技と技の間に沈黙が流れてしまっており、西谷は自分でテストプレイをしていて気持ち悪かったため、『ファイナルファイト』の連続技をヒントに技の途中を省略して連続技として成立させるようにしたところ爽快感が出たため、弱キックの実装につながった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当初は初代『ストリートファイター』(大型筐体)と同様に、感圧スイッチを用いた2ボタンの操作体系にする予定だったが、様々な案が出た末に、同作のテーブル筐体をもとにした6ボタン+ジョイスティックという操作体系に決まった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『ストリートファイター』では隠し要素だった必殺技は本作においては基本的なシステムとして導入された。必殺技を出しやすくするため、 「通常技が出掛けたところを必殺技で上書きできる」(つまり、コマンドとボタンの入力に若干のタイムラグがあっても必殺技を発動できるようにする)という設定がゲーム全体に対して施された。その結果、設定フレームよりも発生が速い通常技が当たった後でも必殺技で上書きできるようになった。これは開発者の意図せぬ動作(バグ)だったために修正する予定であったが、最終的にこの方が面白いと判断され、「キャンセル」としてシステム化された。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、攻撃が当たった際に双方の動きが一瞬止まる「ヒットストップ」は、『脱獄』(1988年)で飛び蹴りをした時の引っ掛かりをヒントに取り入れられた。さらに、「ガード」の概念は、『R-TYPE』(1987)におけるフォースをヒントに取り入れられた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当初はキャラクターの特定の部位に弱点を設けることが検討されていたが、時期尚早だとして見送られた。ところが、リュウだけが検証用の設定のままになっていたため、気絶時の被ダメージが大きくなる事象が発生した。この事象はのちに「病気持ちのリュウ」とも呼ばれた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "初代『ストリートファイターII』(以下『II』)の企画やキャラクターデザインを手がけたあきまんは、各キャラクターのインサイドストーリーを作ったものの、オープニングやエンディングなどに極力力を注がず、また映画的な手法でも表現しなかったと語っている。その理由は「ゲームの『戦い』の部分にすべてのパワーを注ぎたかったから」「『ゲーム』の部分の他にストーリーはいらなかったから」だとしている。『II』の劇場アニメ化の際にも「ストーリーに凝るなら、それより『ストリートファイト』という表現をしてほしい。なぜならストIIの登場キャラクターの接点は『ストリートファイト』というもののみだから」と説明している。このため、キャラクターの詳細な設定の中にはメディアミックスによって付与されたものやファンによる二次創作を初出とするものもある。また、西谷の提案で、親近感を持たせるため、キャラクターの身長は低めに設定された。さらに、ドット作成に当たっては、細身にならぬよう横に太い量感を出すことが意識された。加えて、『ファイナルファイト』のキャラクターよりも頭を大きくデザインしたことで、顔の表情を描けるようになった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "本作の登場キャラクターのうち、リュウとケン、ならびにサガットは前作『ストリートファイター』からの続投である。 当初、リュウとケンのグラフィックは別人が担当する予定だったが、開発初期にSHOEIこと岡野正衛が引き継いだ。あきまんはまず、岡野に前作における彼らの必殺技である波動拳のモーションを作るよう命じた。この時点で、すでに「フットワーク」と呼ばれる立ちポーズだけができていたものの、そこからいかに波動拳へ自然に移行させるかが岡野にとって悩みの種となった。その後、正式な企画書を渡され、詳細な仕様を知ることができたものの、悩みの解決にはいたらなかった。岡野は前作のイメージを引き継ぎつつも、よりよい動作を模索していった。また、前作における波動拳は3発当てただけで敵を倒せる文字通りの必殺技だったが、駆け引きが求められる本作においてはふさわしくないとして、大幅に弱体化された。加えて、技の発動を可視化するために溜めるポーズが用意されたが、この硬直時間の調整にも時間がかかった。 キャラクター面においても前作から大幅に変更されており、前作においては破天荒でやんちゃな雰囲気を漂わせていたが、開発が進むにつれて「ストイックな放浪の格闘家」へと変貌していった。一方、この時点では2人のプレイヤーが同じキャラクターを選択できなかったため、ケンはライバルであるリュウと同等の性能にし、大半のモーションも同じものを使用しているが、勝利モーションで性格の差を表現した。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、岡野は本作のタイトル画面も手掛けている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "本作においては、初の女性プレイアブルキャラクターとして春麗が登場している。あきまんは女性キャラクターを導入した理由について、本来「格闘技世界一決定戦」にいないはずの女性を入れることでより楽しさを演出できると思ったとカプコン公式ホームページ内の『ストリートファイターII』開発者座談会で説明している。岡野は春麗の登場によりゲームに奥行きが出たと2022年のインタビューの中で話している。また、岡野は春麗のグラフィックについて2020年のインタビューの中で、「春麗のタイツの表現にはとてもこだわっていました。[中略]当時は16色で色合いや質感を表現しており、タイツや立体感の表現にデザイナーの工夫と愛情が込められています」と説明している。なお、キャラクターそのものは最後に作られており、蓄積されたノウハウを駆使したため、データの容量は12人の中で最も少ない。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "リュウ、ケン以外は「獣人」や「軍人」「相撲取り」といったテーマに沿った草案をもとに、複数のドッターによるじゃんけんで担当者を決めた。うち「プロレスラー」(ザンギエフ)と「相撲取り」(エドモンド本田)は、いずれも早い段階から開発が進められていた。前者は世界共通の格闘技であると同時に、技も多彩であることから、格闘ゲームにふさわしいということで取り入れられた。後者は日本を代表する格闘技として取り入れられたものの、そのままでは使えないため、ゲーム向けにアレンジされた。 最初にじゃんけんに勝ったIKUSAN.Zは、もともとプロレスファンだったため、ザンギエフを担当することになった。次いでじゃんけんに勝った女性スタッフのERICHANはエドモンド本田を担当した。最後に残った「獣人」(ブランカ)はPIGMONが担当した。当初ブランカは肌色だったが、面白みがないということで緑色に変更された。 「軍人」ことガイルは、全キャラクター中で唯一空中投げが存在するなど動きが多彩な分、必要なデータも膨らんだ。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "(初代の時点では)非プレイアブルのボスキャラクターとしてシャドルー四天王を登場させた理由として、西谷はアクションゲームとしての遊び方を考えた際に、必要なボリューム数を満たすため、キャラクター選択画面で表示されている以外のキャラクターがいた方がよいと考えたと座談会の中で話している。また、前作『ストリートファイター』のボスであるサガットを登場させるつもりではあったものの、それだけではつまらないため人数を増やした。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "シャドルー四天王のうち、バルログのドットはKATURAGIが担当した。KATAGIRIは後から開発チームに入った際、あきまんから「スペインまたはタイの忍者を描いてほしい」と言われ、後者の内容で描いたところ「『北斗の拳』の修羅の国編の序盤に出てくるようなスペインの忍者にしてほしい」と言われ、デザインを変更した。ラスボスのベガは、春麗が戦う理由と関連づけるために「悪の帝王」として設定された。また、あきまんは開発当時タイが世界一格闘技の強い国であるという印象を抱いており、「悪の組織が資金力を用いて格闘技に特化した勢力を作った」という設定を持たせた。あきまんは2016年のインタビューの中で、ゲームの中にベガを登場させた際、ベガの身体が予想より小さい事に気づくと同時に、かっこいいと感じたとも振り返っている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお、本作の欧米版を製作する際、四天王のうち『ストリートファイター』からの続投であるサガット以外は、「M・バイソン→バルログ(Balrog)」、「バルログ→ベガ(Vega)」、「ベガ→M・バイソン(M. Bison)」と名前が交換された。名称変更の理由は、バイソンの姿と名前が実在するプロボクサーのマイク・タイソンに酷似しているので肖像権に配慮したためと、「ベガ」にこと座のイメージがあり、日本国外のマーケティングから見るとなよなよしているとされ、中性的なバルログにこの名前があてられたためである。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "本作に登場するキャラクターの音声やラウンドコールは声優ではなくすべてカプコンの社員が担当しており、たとえば春麗の声はERICHANが担当した。また、声の良さを見込まれて他の部署から呼ばれたケースもあった。このようなこともあって、キャラクターのイメージと実際の音声が異なると指摘する者もおり、たとえば、前述の春麗の場合、険しい顔つきや筋肉質な脚部とは裏腹に、勝利デモでは「ヤッター」とかわいい声をあげている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "『ストリートファイターII' TURBO』(以下『II' TURBO』)までにおけるオープニングデモに登場した2人の無名キャラクター(白人と黒人)がストリートファイトを行っている描写があり、『ストリートファイターV』の公式ホームページ「シャドルー格闘家研究所」の「キャラ図鑑」にて個人プロフィールが明かされている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "シリーズの派生作品を発売するたびにデザインを変えて区別をつけてきたものの、キャラクターの配色には特に苦労したと岡野は振り返っている。たとえば、ガイルの場合、着用している迷彩服の一部に肌と同じ色が用いられているため、服の色を変えたつもりが肌の色まで変わってしまい、開発スタッフから「ゾンビガイル」というあだ名がついたこともあったという。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "BGM担当者の一人である阿部功は、本作での作曲方法について、イメージをシーケンサーで作った後に「五線譜エディター」と呼ばれるツール向けに改作していたと座談会の中で説明している。「五線譜エディター」にはサウンド再生機能がないため、筐体に入れるROMへの書き込みを繰り返しながら試行錯誤していったと阿部は振り返っている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、初代『ストII』(アーケード版)ではFM音源だったのに対し、それ以降の作品ではPCM音源が採用された。阿部はもともとFM音源に慣れており、(スーパーファミコン版『ストII-』の音楽も手掛けていたとはいえ)、アーケード向けのPCM音源の不安定さなどに戸惑ったと座談会で振り返っている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "もう一人のBGM担当者である下村陽子はもともと家庭用ゲーム機用ソフト志望だったが先輩の勧めでアーケードゲームの作曲にかかわった経緯があり、その流れで本作に参加した。下村は、6月26日放送の『THE JASRAC SHOW!』のvol.68内で行われた大森俊之との対談の中で、最初にキャラクターのテーマ曲を作るという話を聞かされた際は、そのような経験がなかったため不安だったと振り返っている。この時点でゲームのグラフィック制作はある程度進んでおり、その内容が世界各国のステレオタイプに近かったため、「日本人がイメージした○○」というコンセプトで制作した。また、カプコン社内には民族音楽に関する資料もあったため、それをもとに味わいを持たせたと振り返っている。下村が手掛けた曲のうち、ブランカのテーマ曲は「アマゾンの奥地で育った野生児」というキャラクター設定から、コンガをはじめとするパーカッションを主体としたリズム構成はすぐできたものの、それに載せるためのメロディがなかなか思い浮かばなかった。そんな中、電車の網棚に乗っていた黄緑色の紙袋からメロディを思いついたと下村は振り返っている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "いずれもアーケード作品として、ゲーム内容の調整が行われた『ストリートファイターII'』や『ストリートファイターII' TURBO』、キャラクターなどが追加された『スーパーストリートファイターII』とその調整版の『スーパーストリートファイターII X』がある。これらが家庭用ゲーム機に移植された際には、さらに新規要素が追加されたり、タイトル名が変更されているものもある。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1992年4月より稼働。日本国外版のタイトル名はStreet Fighter II Champion Edition。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "『ストII』の好評を受けて売り出されたバージョンアップ版であり、『ストII』ではCPU専用だった四天王がプレイアブルキャラクターとなるなど、仕様がいくつか変更された。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一方、『II'』においてもハメ技が多いとの指摘もあり、特定のキャラクターの使用を禁じるゲームセンターもあったという。また、違法改造した海賊版が出回っていたことでも知られている。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1992年12月より稼働。日本国外版のタイトル名はStreet Fighter II' HYPER FIGHTING。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "外見より内容の洗練に力を入れたマイナーチェンジ版とされている。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "当初、ターボはアメリカのみの発売で日本での発売の予定がなかった。また、同作は『ストリートファイターII'』の海賊版、特に『ストリートファイターII レインボー(英語版)』対策のために作られたバージョンといわれる。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1993年10月より稼働。日本国外版のタイトル名はSuper Street Fighter II The New Challenger。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "以下の新キャラクター4人が追加された。この4人はデフォルトで選択可能。キャラクターのカラーも8色に増えた。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお前作(『II' TURBO』)までのキャラクターのカラーは弱パンチがデフォルトカラー、中パンチがダッシュカラー(ただしガイルのみ色が違う)、強パンチがターボカラー(ただしM・バイソンのみ色が違う)となっていて、それ以外ボタンの5色は本作で追加されたカラーとなる。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "前作までの一部のキャラクターの技グラフィックが新たに修正・変更されている。気絶が発生すると、前作までは一度ダウンして起き上がった時に気絶を知らせるエフェクトが出ていたが、本作以降は吹き飛んだ時点で気絶を知らせるエフェクトが出るように変更されている。特定アクションによるボーナス点や、コンボの際のコンボ数の表示が導入され、4ラウンド目(最終ラウンド)でもコンボなどのテクニカルボーナスは加算されるようになった(通常の得点は入らない)。キャラクターの動作速度は『II』『II'』の頃に戻った。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "エンディングまでに要するCPU対戦相手はこれまで通り計12人で、初代から選択可能な8人は原則的に同キャラ戦が無く、本作から参戦したキャラクターおよび四天王のみ同キャラ戦が発生する。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1994年3月より稼働。日本国外版タイトルはSuper Street Fighter II TURBO。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "条件を満たした時だけベガの代わりに出現する隠しボスとして、以下の新キャラクターが追加された。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "隠しコマンドを入力することでプレイヤーが豪鬼を使用することが可能(能力は幾分調整されている)。また、後期のコンシューマー版では最初から使用できるようになっているものもある。なおCPUの豪鬼(後に真・豪鬼(SHIN GOUKI)と呼ばれた)とプレイヤー仕様の豪鬼とでは、キャラクター能力が若干異なる。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "多くのキャラクターで通常技・必殺技が追加・変更され、さらに本作よりスーパーコンボや空中コンボ属性、投げ受身(『スパII』仕様では不可)が登場した。またゲームスピードを変更でき、しかもゲームスピードをプレイヤーが選択可能なようにオペレーターが設定できる(選択可能な設定で営業使用された場合が多かった)。また、ボーナスステージが削除された。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "演出面においては、スーパーコンボで相手を倒した際に背景が変化する「あけぼのフィニッシュ」が導入された。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "プレイヤーのカラーパターンは通常の8色と『スパII』仕様の2色(実際には『スパII』のものとも微妙に異なる)の合計10色。前作(『スパII』)での弱パンチ(デフォルト)カラーのみ変更されており、それらは『スパII』仕様を選択した場合に使用ができる。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アーケードゲームとしては異例のテレビCMが放映された。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "家庭用ゲーム機で発売されたタイトルにはストリートファイターIIシリーズを一つのパッケージにまとめたコレクション作品が存在する。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1997年9月18日にセガサターン用タイトル、1997年10月23日にPlayStation用タイトルとして発売。日本国外でもStreet Fighter Collectionの名称で販売された。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "『スパII』『スパII X』のCD-ROMと『ストリートファイターZERO2'』のCD-ROMの2枚組。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "PlayStation版は基本的にはセガサターン版と同様だが、一部相違点がある。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2014年12月3日よりゲームアーカイブスにて『ストリートファイターZERO2'』名義で配信が行われたが、内容は単体ではなく『コレクション』の方を再現した『ZERO2'』『スパII』『スパIIX』の3本セットになっている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1998年12月3日にカプコン クラシックス コレクションの一つとしてセガサターン用およびPlayStation用タイトルで発売。日本国外ではStreet Fighter Collection 2の名称で販売された。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "カプコンの旧作タイトルを当時の現行機種にて低価格リリースするシリーズで、『II』『II'』『II' TURBO』がセット。ほぼアーケード版の完全移植といった出来栄えで、スーパーファミコン版などで再現できなかった要素も完全再現されている。また、アーケード版にあったいくつものバグ技の中から、ガイルの真空投げのみ可能となっている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "オプションにてBGMをオリジナル (CPS1) 音源と3DO版のアレンジ音源との2種類から選択可能となっている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "一定の条件を満たすと『II』『II'』『II' TURBO』のキャラクターで対戦が可能となる対人戦専用モード「SUPER VS. MODE」が出現する。作品ごとに性能が異なるキャラクター同士の対戦が可能。『II』仕様の同キャラ対戦も可能になっており、この場合の2Pカラーは『II'』と同じカラーになる。なおその際、『II』の2Pカラーと『II'』の2Pカラーの同時選択は不可能である。また『II』および『II'』の1Pと『II'TURBO』の2Pカラーの同時選択も不可能である(例:リュウの場合、赤ハチマキ白道着カラーが従来カラーであるが、どちらかが先にこのカラーを選択した場合にはもう一方は『II'』カラーである青ハチマキ黒道着か『II'TURBO』カラーである白ハチマキ白道着のどちらかしか選べなくなる)。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "全モード共通でトレーニングモードおよび対戦相手をCPUにした1人プレイ専用のCPUバトルモードが追加されている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "『II』仕様の四天王はプレイヤー操作キャラクターとして選択できない一方、トレーニングモードおよびCPUバトルモードでの対戦相手側としての選択は可能である。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2016年1月6日から2月2日にPlayStation Plus会員向けのフリープレイとしてゲームアーカイブス版(PlayStation 3/PlayStation Vita/PSP)が先行配信され、2月3日から一般配信された。『THE WORLD WARRIOR』、『CHAMPION EDITION』、『TURBO HYPER FIGHTING』の3作品が収録されているほか、設定集やトレーニングモードなどが加されている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "難易度を問わず、3タイトルの中のいずれかをノーコンティニューでクリアすることで、敵キャラクターのCPUが強化された「CPU BATTLE」がクリアしたタイトルのモード選択画面に追加される。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2003年12月18日にPlayStation 2用タイトルとして発売。2004年1月28日にアーケード用タイトルとして稼働。2004年10月9日に配信開始。日本国外でもHyper Street Fighter II The Anniversary Editionの名称で販売された。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "システムは『スパII X』に準拠し、『II』から『スパII X』までの全シリーズ(下から順にNORMAL、DASH、TURBO、SUPER、SUPERXが選択、日本国外ではNORMAL、CHAMP、TURBO、SUPER、SUPERTの順)の最終バージョンにおけるキャラクターを使用可能であり、「初代『ストII』のリュウと『スパII』のケン」というように、作品の垣根を超えたキャラクター同士の対戦も可能である。『スパII』『スパIIX』のキャラクターカラーは前作と同じで、『II'』『II' TURBO』のキャラクターカラーはオリジナルに準拠している。またキャラクターボイスは『II』(ノーマル) - 『II' TURBO』と『スパII』『スパIIX』の2種類で各仕様選択時に各々決定され、同様に攻撃を繰り出した際のヒット音やガード時の効果音、投げ技などの気合ボイス(『II' TURBO』以前で無言の場合はそれに準する)も先述の通りになる。ただし攻撃を繰り出した際の風切り音は『スパII』以降の音に統一されている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "CPU豪鬼の乱入は、乱入無しのものと同様にベガステージBGMとマントを羽織った状態にてCPUベガが現れ、「ROUND1 FIGHT!」コールがされた後に、CPU豪鬼が出現する(ただし、体力ゲージにある顔と名前は既に豪鬼のものになっている)。BGMは豪鬼のものに切り替わり、暗転が明けた時にはベガは既に仰向けに倒れている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "香港の国旗がイギリス統治時代の旗(香港旗)から中華人民共和国の国旗になった(1997年にイギリスから中国へ返還されたため)が、ザンギエフのものはソビエト連邦の国旗のままである。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "アーケード版『ストリートファイターII』シリーズの中で、唯一1本先取から3本先取までオペレーターが設定を変更できる。本作ではピンチ時のBGMがビハインド側にとって負けたら最終ラウンドになる場合でのみ切り替わる仕様となっている。なおリード側がそのラウンドを落としてもまだ次がある場合はリード側がピンチになってもBGMは切り替わらない。また両者共々最終ラウンドになる場合は従来通りどちらかが先にピンチになればBGMは切り替わる。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1人プレイ時の乱入可能状態の表示がこれまで「PUSH START」であったのが家庭用版移植作品同様の「PRESS START」に変更されている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "本作は日本国外版のみ通常のCPシステムII向けBボードでリリースされ、日本国内では主にリース用に使用されていた1枚基板タイプのCPシステムII(黒いケースで包まれており、フラッシュROMを使用)としてリリースされている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "PlayStation 2版にはアニメ映画『ストリートファイターII MOVIE』が収録されているが、ゲームソフトの一部としてのおまけなので、ソニーのゲームガイドラインに従い、春麗のシャワーシーンはカットされている。CEROレーティング15歳以上対象。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "キャラクターの動きの一部に、オリジナルと違う部分がある(アーケード版では解消されている)。カプコレ版ではサガットの硬直が長いバグなどが修正されている他、波動拳やソニックブームなどの飛び道具を撃つ際に出る風切り効果音がこれまで「SUPER」「SUPER X」モードのみであったのが、モード不問で全て出るように修正された(アーケード版では「SUPER」「SUPER X」モードのみ風切り効果音が出る)。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "メモリーカードには非対応になっている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "オプションでBGMをCPSI・CPSII・ARRANGEから選択することができる。特にCPSIには『スパII』以降に追加された5人のステージBGMも新たに追加対応されている。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2008年9月18日には『ハイパーストリートファイターII アニバーサリーエディション ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション バリューパック』として、本作と『ヴァンパイア』のカップリング作品が発売。先着購入特典としてDVD「ストリートファイターII&ヴァンパイア アーケードエンディングギャラリー」が配布。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2004年10月28日に『ストリートファイターアニバーサリーコレクション』として発売。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "『ハイパーII』『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』が1本にまとまったソフト。ともにネット通信対戦対応(通信対戦はサービス終了しているが、ローカルでのプレイはXbox 360にも対応)。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2018年10月25日にNintendo Switch、PlayStation 4、Xbox One、Steam向けに発売。日本国外ではStreet Fighter 30th Anniversary Collectionの名称で販売された。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "開発はDIGITAL ECLIPSE。アーケード版12タイトルの中に『II』『II'』『II' TURBO』『スパII』『スパIIX』を収録。『カプコンジェネレーション』や『ストリートファイターコレクション』のものとは違い、完全にアーケード版そのままとなっている。そのためアーケード版のバグ技もそのまま使用可能となっている。パッケージ版のみ特典として「ALL ABOUT ストリートファイター 30周年復刻版」が同梱される。", "title": "コレクション作品" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "カプコンが発売した複数タイトルのうちの一つとしてストリートファイターIIシリーズが収録されたタイトルが存在する。", "title": "オムニバス作品" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "そのほか、Nintendo Switch、PlayStation 4、Xbox One、Steam向けに以下のタイトルが配信されている。", "title": "オムニバス作品" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "春麗を主人公としたドラマCDが東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)より発売されている。3巻のエンディングで4巻の発売を匂わせていたが、販売は全3巻で終了している。", "title": "ゲーム以外のメディア展開" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "『ストリートファイターII』を対象にしたものを記載。", "title": "ゲーム以外のメディア展開" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "本作は小学生から上は若年の社会人に至るまで幅広い年齢層に支持され、本作の筐体を多く設置する店や、本作のみを設置した店が現れるなど、インベーダーブーム以来の様相となった。本作は多くのコンシューマ機にも移植され、専用コントローラが発売されるだけではなく、その後発売されるゲーム機では、格闘用6ボタンを意識した配置のものが多くなった。このうち、スーパーファミコン版はアーケード版で魅力を知っていた小中学生を中心に支持された。この低年齢層が後年の格闘ゲームファンとなっていく。大きく描かれたキャラクターが1対1で対戦する。各キャラクターはプレイヤーの操作により生き生きと動き、またキャラクター間のバランスは続編の『ストリートファイターII'』(以下『II'』と表記)以降、綿密に調整され、対戦をより奥深いものとした。プレイ中の相手に対戦を申し込む「乱入対戦」と、いわゆる「対戦台」のスタイルを確立した作品である。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "こうしたメディアミックスの結果、本作をプレイしていない層にまでキャラクター人気が波及。本作をパロディ化したマンガや同人誌も登場し、特に女性キャラクターである春麗は男性ハイティーン層に人気を博した。同人マンガ即売会は春麗のコスプレの女の子であふれかえった。アニメではこうしたキャラクター先行の人気は珍しいことではないが、ゲームセンター発祥のキャラクターでこの現象が起きたのは春麗が初めてとされている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "海外の人気も高く、日本より先に発売されたアメリカでは対戦大会がテレビ中継されており、ジャッキー・チェン出演で映画化という噂(デマ?)も飛ぶ。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "人気が高い反面、1992年秋ごろからは世界各地で偽造基板も出回るようになり、カプコンが法的措置に乗り出した。 基板偽造の輸出にかかわったとされる香港のゲーム場運営会社ボンディール代表フレッド・ミルナーは、アメリカのコンピュータゲーム業界誌「リプレイ」からの電話取材の中で、アメリカなど著作権に厳しい国には偽造基板を輸出しなかったものの、南米など著作権に甘い国には輸出したことを話しており、プエルトリコも南米のうちに入っていると思っていたと述べている。 また、香港、台湾、イギリスでは警察による偽造基板販売業者への家宅捜索が行われたほか、逮捕者が出た例もあった。アーケードゲーム業界紙「ゲームマシン」445号(1993年3月15日)によると、たとえばイギリスでは当時1万台の『ストII』筐体が稼働しているが、うち6割は偽造基板だとされている。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "コマンド入力をはじめとするシステムは今日における対戦型格闘ゲームの雛形となると共に多くのフォロワーを生み出している。このような作品が多数生まれた背景についてライターの仁科十蔵は、『ストII』の人気が高すぎて筐体の前に長蛇の列ができてしまい、仕方なくほかの格闘ゲームに流れていったためだと推測している。このうち、データイーストの『ファイターズヒストリー』に対して、カプコンは訴訟を起こしており、最終的には和解している。", "title": "反響" } ]
『ストリートファイターII』は、カプコン制作の対戦型格闘ゲームであり、『ストリートファイター』の続編にあたる。サブタイトルも含めたタイトル名は『ストリートファイターII -The World Warrior-』。通称『ストII』(ストツー)。 1991年3月より、アーケードゲーム基板CPシステム用ゲーム第14弾として稼働を開始した。 本作は攻撃の強弱を別ボタンに分け、それらの組み合わせによるコマンド入力によって技を出せるシステムを確立したことで『ストリートファイター』からゲーム性が大幅に変化した。一方で本作はそれまでの対戦型格闘ゲーム(特に前作)同様、CPU戦を中心に制作され、対戦はそれほど考慮されておらず、バグ技をはじめ、システムや演出面においても粗があった。 それでもアーケードゲームとして登場して以来、爆発的ヒットを記録したことで対戦型格闘ゲームブームを引き起こした。また家庭用ゲーム機への移植が行われたことで、家庭で好きなだけ遊べるようになり、ブームに拍車をかけ、特にスーパーファミコン版は国内販売本数約288万本、世界累計販売本数630万本を記録している。 その後は多くの続編が発売され、またゲーム以外にもアニメ、実写映画、漫画、ドラマCDなどの幅広いメディアミックス展開が行われた。 現在、商標などの全ての知的所有権はカプコンのグループ会社、カプコンUSAが保持している。
{{複数の問題 |出典の明記 = 2013年8月14日(水) |独自研究 =2013年8月16日(金) |内容過剰 =2013年8月16日(金) |雑多な内容の箇条書き =2013年8月16日(金) }} {{注意|本シリーズの正式な名称は『ストリートファイターⅡ』([[ローマ数字]]の「Ⅱ」)ですが、[[Wikipedia:表記ガイド#ローマ数字]]の「ローマ数字(IV、viなど)は使用しないでください」に基づき、半角英字で代替表記しています}} {{コンピュータゲーム |Title= ストリートファイターII |image=File:Street Fighter II arcade-20061027.jpg |caption=本作を遊ぶ男性 |Genre= [[対戦型格闘ゲーム|対戦格闘]] |Plat= {{ubl|[[アーケードゲーム]]|[[スーパーファミコン]]|[[MS-DOS]]|[[Amiga]]|[[ゲームボーイ]]|携帯アプリ}} |Dev= [[カプコン]] |Pub= カプコン |producer = [[岡本吉起]] |director = [[西谷亮]] |designer = 西谷亮(NIN)<br />[[安田朗]](AKIMAN) |artist = |composer = [[下村陽子]]<br />阿部功 |Play= 1人<br />2人(対戦) |Media= |Date= 1991年3月 |UseBlock= |Charge= |Rating= {{CERO-B}} |ContentsIcon = 暴力 |Device= |cabinet = アップライト |arcade system = [[CPシステム]]<br />[[CPシステムII]] |cpu = |sound = |display = |Sale= [[アーケードゲーム基板|基板]]:[[ファイル:Newworldmap.png|22px|世界]] 約80万枚<ref>『[[CONTINUE (雑誌)|CONTINUE]]』 Vol.13「春麗を描いた男」。</ref> |ArcOnly= 1 |OnlineGame= |etc= }} 『'''ストリートファイターII'''』(ストリートファイターツー、Street Fighter II)は、[[カプコン]]制作の[[対戦型格闘ゲーム]]であり、『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』の続編にあたる。サブタイトルも含めたタイトル名は『ストリートファイターII -The World Warrior-』{{Efn2|ROM内のキャラクターデータは『The World Warri'''e'''r』と綴りを間違えている。西谷はロケテスト開始前の時点でこのミスに気付いていたものの見て見ぬふりをしていたが、最終マスターアップの3日前に判明したため修正が行われ、タイトル画面に表示する際は「e」の上に別のデータを重ねることで「o」に見えるようにして無理やり対応している<ref>月刊ゲーメスト増刊『ストリートファイターII』、1991年10月1日発行、新声社。</ref>。}}。通称『'''ストII'''』(ストツー)。 [[1991年]]3月<ref name="AA">{{Cite book|和書|year=2000-09-15|title=ALL ABOUT カプコン対戦格闘ゲーム 1987-2000|page=14-27|publisher=[[電波新聞社]]|isbn=978-4-8855-4676-1}}</ref>より、[[アーケードゲーム]]基板[[CPシステム]]用ゲーム第14弾として稼働を開始した。 本作は攻撃の強弱を別ボタンに分け、それらの組み合わせによるコマンド入力によって技を出せるシステムを確立した<ref name="famitsuNo622P88">{{Cite book|和書|title=[[週刊ファミ通]] No.622 対戦格闘ゲームの新時代到来|date=2000年11月17日|year=2000|publisher=[[エンターブレイン]]|page=88}}</ref>ことで『ストリートファイター』からゲーム性が大幅に変化した。一方で本作はそれまでの対戦型格闘ゲーム(特に前作)同様、CPU戦を中心に制作され、対戦はそれほど考慮されておらず、バグ技{{Efn2|後述する「病気持ちのリュウ」や、ガイルの「[[ガイル (ストリートファイター) #バグ技|真空投げ]]」と呼ばれる、一定の間合いに入れば、相手の状態に関係なく投げが成立する事象<ref>{{Cite web|和書|title=「ストリートファイター」シリーズ12タイトルが集結! 一足先に海外版をプレイ! 「Street Fighter 30th Anniversary Collection」 Street Fighter 30th Anniversary Collection |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/review/1128183.html |website=GAME Watch |date=2018-06-19 |access-date=2022-08-04 |publisher=インプレス}}</ref>。初期に生産された[[アーケードゲーム基板|基板]]のみ存在。}}をはじめ、システムや演出面においても粗があった{{Efn2|例えば、キャラクターの相性が極端であったり、ガード状態から投げることも出来たり、気絶状態になるまで弱攻撃が連続で入り続けることができる。}}。 それでもアーケードゲームとして登場して以来、爆発的ヒットを記録したことで対戦型格闘ゲームブームを引き起こした。また[[家庭用ゲーム機]]への[[移植 (ソフトウェア)|移植]]が行われたことで、家庭で好きなだけ遊べるようになり、ブームに拍車をかけ<ref name=":0">{{Cite book|title=平成の時代に起きたゲームの出来事を振り返る|date=2019年3月31日|year=2019|publisher=Gzブレイン|page=90}}</ref>、特に[[スーパーファミコン]]版は国内販売本数約288万本、世界累計販売本数630万本<ref name="Sales">{{Cite web|和書|date=2013-06-30|url=http://www.capcom.co.jp/ir/finance/million.html|title=ミリオンセールスタイトル一覧|publisher=カプコン|accessdate=2019-03-16}}</ref>を記録している。 その後は[[ストリートファイター (ゲーム)#シリーズ一覧|多くの続編]]が発売され、またゲーム以外にもアニメ、実写映画、漫画、ドラマCDなどの幅広いメディアミックス展開が行われた。 現在、[[商標]]などの全ての[[知的財産権|知的所有権]]はカプコンのグループ会社、カプコンUSAが保持している。 == ゲームシステム == 一対一の近接格闘を主体とした本作は、先に相手の体力{{Efn2|name="inst"|アーケード版[[インストラクションカード|インストカード]]上では「気力」と表現されており「立ち上がる気力がなくなると[[ノックアウト|KO]]」とされていた。}}を0にした方が勝利となり、3ラウンド中で2ラウンド先取するとその相手を倒したことになる。 各ラウンドには時間制限があり、残り時間がなくなると強制的にラウンドが終了し、残り体力の多い方がラウンドの勝利者となる。残り体力が全く同じ場合や、互いの攻撃が同時に当たってお互いの体力が0より減った場合(相打ち)は引き分けとなる。その際、前者はドロー(Draw Game)、後者はダブルK.O.(Double K.O.)とそれぞれ表示される。3ラウンド目が終了した時点でどちらも2本取っていなければ、ファイナルラウンドとして4ラウンド目が行われる(『II』のみ10ラウンドまで延長可能{{Efn2|なお移植作品ではSFC版『II』のみが唯一例外で『II'』以降と同じ扱いの4ラウンド目がファイナルラウンドとなっている。}})。ファイナルラウンドでも引き分けになった場合は両者ゲームオーバーとなる。 1人用のCPU戦では、各ステージが[[世界地図]]として表示され、ステージを転戦しながらゲームを進めていく。また、同モードでは、3人を倒すごとに車、樽、ドラム缶を破壊するボーナスステージが挿入される{{Efn2|『スーパーストリートファイターII』(以下『スパII』)まで。}}。スコアの下二桁はコンティニュー回数を測る役割があり、ゲーム内で加算される得点は100点単位以上となる。<ref>{{Cite book|和書|title=[[ファミコン通信]] no.185|date=1992年7月3日|year=1992|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|page=158}}</ref> 本作のシステムやルールの一部は、前作『ストリートファイター』をもとにしており、たとえば1レバー+6ボタンという操作体系は同作のテーブル筐体に由来している{{R|CapcomInterview}}。レバーはキャラクターの移動やジャンプ、しゃがみに用いられている。一方、6つのボタンはパンチとキックに割り振られており、それぞれ弱・中・強の三段階に分かれている。このほかにも相手をつかんで投げる動作も存在する。その一方で、『ストリートファイター』では隠し要素だったレバーとボタンの入力による必殺技の発動は、本作において基本的なシステムとして組み込まれた。また、本作においては通常技をヒットした瞬間に必殺技のコマンド入力に成功した後、通常技の動作が取り消されて必殺技が発動される「キャンセル」という要素が誕生した<ref name="shadoloo20180514">{{Cite web|和書|title=特別編:ストIIのコンボを100倍楽しむために {{!}} ストゼミ {{!}} 活動報告書 |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/131578 |website=CAPCOM:シャドルー格闘家研究所|date=2018-05-14 |access-date=2022-08-18 |publisher=CAPCOM|author=bug}}</ref>。 プレイアブルキャラクターが前作よりも増えた分、戦闘スタイルや必殺技、さらには相手に追い打ちをかける[[コンボ (ゲーム)|連続技(コンボ)]]も多様化した<ref name="Redbull20171019">{{Cite web|和書|title=『ストリートファイター』シリーズがもたらした10の変化|url=https://www.redbull.com/jp-ja/street-fighter-10-ways |publisher=Redbull|access-date=2022-08-19|date=2017年10月19日|first=Damien|last=McFerran}}</ref>。 == 登場キャラクター == プレイヤーが使用可能なキャラクターは以下の8人。リュウとケンは前作から登場しているので、本作から6人の使用キャラクターが追加されている。 *[[リュウ (ストリートファイター)|リュウ]](RYU){{Flagicon|JPN}} *[[ケン・マスターズ|ケン]](KEN){{Flagicon|USA}} *[[エドモンド本田]](E.HONDA){{Flagicon|JPN}} *[[春麗]](CHUN-LI){{Flagicon|CHN}} *[[ブランカ (ストリートファイター)|ブランカ]](BLANKA){{Flagicon|BRA}} *[[ザンギエフ]](ZANGIEF){{Flagicon|USSR}}<!-- {{Efn2|開発中のキャラクター設定の最存在していたソ連もSFC発売時には崩壊。崩壊後もソ連出身を名乗っている。}} --> *[[ガイル (ストリートファイター)|ガイル]](GUILE){{Flagicon|USA}} *[[ダルシム]](DHALSIM){{Flagicon|IND}} また、対コンピュータ戦で敵として現れるプレイヤーが選択可能なキャラクター(『II』では自キャラクター以外の7人、『II'』以降は8人)を全て倒すと、以下の4人が順番に登場する。前作の最終ボスであるサガットは本作では最後の中ボスとして登場する。 *[[マイク・バイソン|M・バイソン]](M.BISON){{Flagicon|USA}} *[[バルログ (ストリートファイター)|バルログ]](BALROG){{Flagicon|ESP}} *[[サガット]](SAGAT){{Flagicon|THA}} *[[ベガ (ストリートファイター)|ベガ]](VEGA) これら4人のボスキャラクターは「四天王」と呼ばれ、続編の『II'』でプレイヤーキャラクターとしての調整を加えた上で使用可能になった。 == 開発 == === 背景・企画 === ゲームデザイナー兼ディレクターのNINこと[[西谷亮]]は、初代『ストリートファイター』(大型筐体)の開発バージョンを遊んだ際、感圧式ボタンを叩く強さで攻撃の強弱をつける操作体系や、ジャンプの重さなどを気にしており、この問題を改善したいと考えていた<ref name="igcc20200119">{{Cite web|和書|title=西谷 亮インタビュー Part2 |url=https://igcc.jp/int-nishitani-02/ |website=ゲーム文化保存研究所 |date=2020-01-19 |access-date=2022-08-09}}</ref>。 一方、初代『ストリートファイター』がアメリカで人気を博しており、現地法人から続編のオファーを受けたカプコンはそのつもりで西谷らに『[[ファイナルファイト]]』を作らせるも結局は別物になってしまったため、初代『ストリートファイター』における対戦要素を発展させる形に切り替えた<ref name="TVTokyo20181116">{{Citation|title=永遠に「ストII」を作り続けたかもしれない「ストリートファイター」シリーズ30年史(その一部)|website=テレ東プラス|publisher=テレビ東京-TV TOKYO|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/2018/018406.html|date=2018.11.16|access-date=2022-08-09}}</ref>{{R|igcc20200119}}。 西谷亮は、初代『ストリートファイター』のディレクターである[[西山隆志]]からは特にアドバイスもなく、[[岡本吉起]]からは自由にやるように言われたとゲーム文化保存研究所・所長の大堀康祐との対談の中で明かしている<ref name="igcc20200125">{{Cite web|和書|title=西谷 亮インタビュー Part3 |url=https://igcc.jp/int-nishitani-03/ |website=ゲーム文化保存研究所 |date=2020-01-25 |access-date=2022-08-08}}</ref>。 === システム構築 === 本作のシステムは、『ファイナルファイト』で得た知見や西谷たちが遊んできたゲームをヒントに構築されており{{R|igcc20200125}}、たとえば、操作性やボス戦は西谷らが遊んできた『[[ゲットスター]]』の影響を受けている{{R|igcc20200119}}。 開発初期の段階では、弱キックに相当する動作がなく、空振りした場合は技と技の間に沈黙が流れてしまっており、西谷は自分でテストプレイをしていて気持ち悪かったため、『[[ファイナルファイト]]』の連続技をヒントに技の途中を省略して連続技として成立させるようにしたところ爽快感が出たため、弱キックの実装につながった{{R|igcc20200125}}。 当初は初代『ストリートファイター』(大型筐体)と同様に、感圧スイッチを用いた2ボタンの操作体系にする予定だったが、様々な案が出た末に、同作のテーブル筐体{{Efn2|「ストリートファイター 30th アニバーサリーコレクション インターナショナル」のプロモーションプロデューサーを務めた[[綾野智章]]はテレビ東京とのインタビューの中で、大型筐体を設置できない店舗向けにテーブル筐体が発売されていたと説明している{{R|TVTokyo20181116}}。}}をもとにした6ボタン+ジョイスティックという操作体系に決まった{{R|CapcomInterview}}。 『ストリートファイター』では隠し要素だった必殺技は本作においては基本的なシステムとして導入された{{R|Walkerplus20220721P1|TVTokyo20181116}}。必殺技を出しやすくするため、 「通常技が出掛けたところを必殺技で上書きできる」(つまり、コマンドとボタンの入力に若干のタイムラグがあっても必殺技を発動できるようにする)という設定がゲーム全体に対して施された。その結果、設定フレームよりも発生が速い通常技が当たった後でも必殺技で上書きできるようになった。これは開発者の意図せぬ動作([[バグ]])だったために修正する予定であったが、最終的にこの方が面白いと判断され、「キャンセル」としてシステム化された{{R|shadoloo20180514}}<ref>{{Cite web|和書|title=『ストII』で格闘ゲームを生んだ伝説の男、西谷亮が挑むジャンルの再構築──『FIGHTING EX LAYER』にアリカが社運をかけて臨む理由【聞き手:「鉄拳」原田勝弘】 |url=https://news.denfaminicogamer.jp/interview/171212 |website=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ|date=2017-12-12 |access-date=2022-08-19 |author=電ファミニコゲーマー編集部}}</ref>。 また、攻撃が当たった際に双方の動きが一瞬止まる「ヒットストップ」は、『[[脱獄 -Prisoners of War-|脱獄]]』(1988年)で飛び蹴りをした時の引っ掛かりをヒントに取り入れられた{{R|igcc20200125}}。さらに、「ガード」の概念は、『[[R-TYPE]]』(1987)におけるフォースをヒントに取り入れられた{{R|igcc20200125}}。 当初はキャラクターの特定の部位に弱点を設けることが検討されていたが、時期尚早だとして見送られた<ref>{{cite tweet|user=nin_arika|author=西谷亮|number=377792518718779393|title=そうですね、部位毎に弱点などを設定できるようにはしていました。|date=2013-09-11|accessdate=2022-08-22}}</ref>。ところが、リュウだけが検証用の設定のままになっていたため、気絶時の被ダメージが大きくなる事象が発生した<ref>{{cite tweet|user=nin_arika|author=西谷亮|number=377767464404140033|title=リュウがピヨった時にたまに異常なダメージがはいるストⅡ。|date=2013-09-11|accessdate=2022-08-22|link=no}}</ref>。この事象はのちに「病気持ちのリュウ」とも呼ばれた。 === セッティング === 初代『ストリートファイターII』(以下『II』)の企画やキャラクターデザインを手がけた[[あきまん]]は、各キャラクターのインサイドストーリーを作ったものの、オープニングやエンディングなどに極力力を注がず、また映画的な手法でも表現しなかったと語っている<ref name="gamestmook17">ゲーメストムックVol.17『カプコンイラストレーションズ カプコンイラスト作品集』 新声社、1996年、11頁。</ref>。その理由は「ゲームの『戦い』の部分にすべてのパワーを注ぎたかったから」「『ゲーム』の部分の他にストーリーはいらなかったから」だとしている{{R|gamestmook17}}。『II』の劇場アニメ化の際にも「ストーリーに凝るなら、それより『ストリートファイト』という表現をしてほしい。なぜならストIIの登場キャラクターの接点は『ストリートファイト』というもののみだから」と説明している{{R|gamestmook17}}。このため、キャラクターの詳細な設定の中にはメディアミックスによって付与されたものやファンによる二次創作を初出とするものもある<ref name="Walkerplus20220721P1">{{Cite web|和書|title=春麗が履く“タイツ”へのこだわりとは?格ゲーの金字塔「ストⅠⅠ」開発秘話を当時の制作スタッフに直撃!(1/2)|url=https://www.walkerplus.com/article/1091546/ |website=Walkerplus|date=2022年7月21日 |access-date=2022-08-04 |language=ja}}</ref>。また、西谷の提案で、親近感を持たせるため、キャラクターの身長は低めに設定された{{R|shadolooo20160404}}。さらに、ドット作成に当たっては、細身にならぬよう横に太い量感を出すことが意識された{{R|shadolooo20160404}}。加えて、『ファイナルファイト』のキャラクターよりも頭を大きくデザインしたことで、顔の表情を描けるようになった<ref name="ITMedia20221116P3">{{Cite web|和書|title=なぜストリートファイターの代表作は『スト2』なのか? 開発者が明かす当時の社内組織 (3ページ目)|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2211/16/news050_3.html|website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2023-09-01 |date=2022年11月16日 }}</ref>。 本作の登場キャラクターのうち、リュウとケン{{R|Walkerplus20220721P1|TVTokyo20181116}}、ならびにサガットは前作『ストリートファイター』からの続投である。 当初、リュウとケンのグラフィックは別人が担当する予定だったが、開発初期にSHOEIこと岡野正衛が引き継いだ<ref name="ITMedia20221116P1">{{Cite web|和書|title=なぜストリートファイターの代表作は『スト2』なのか? 開発者が明かす当時の社内組織 |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2211/16/news050.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2023-09-01 |date=2022年11月16日 }}</ref>。あきまんはまず、岡野に前作における彼らの必殺技である波動拳のモーションを作るよう命じた{{R|ITMedia20221116P1}}。この時点で、すでに「フットワーク」と呼ばれる立ちポーズだけができていたものの、そこからいかに波動拳へ自然に移行させるかが岡野にとって悩みの種となった{{R|ITMedia20221116P1}}。その後、正式な企画書を渡され、詳細な仕様を知ることができたものの、悩みの解決にはいたらなかった<ref name="ITMedia20221116P2"/>。岡野は前作のイメージを引き継ぎつつも、よりよい動作を模索していった<ref name="ITMedia20221116P2"/>。また、前作における波動拳は3発当てただけで敵を倒せる文字通りの必殺技だったが、駆け引きが求められる本作においてはふさわしくないとして、大幅に弱体化された<ref name="ITMedia20221116P2"/>。加えて、技の発動を可視化するために溜めるポーズが用意されたが、この硬直時間の調整にも時間がかかった<ref name="ITMedia20221116P2"/>。キャラクター面においても前作から大幅に変更されており、前作においては破天荒でやんちゃな雰囲気を漂わせていたが、開発が進むにつれて「ストイックな放浪の格闘家」へと変貌していった<ref name="ITMedia20221116P2">{{Cite web|和書|title=なぜストリートファイターの代表作は『スト2』なのか? 開発者が明かす当時の社内組織 (2ページ目)|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2211/16/news050_2.html|website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2023-09-01 |date=2022年11月16日 }}</ref>。一方、この時点では2人のプレイヤーが同じキャラクターを選択できなかったため、ケンはライバルであるリュウと同等の性能にし、大半のモーションも同じものを使用しているが、勝利モーションで性格の差を表現した{{R|ITMedia20221116P3}}。 なお、岡野は本作のタイトル画面も手掛けている{{R|Walkerplus20220721P1}}。 本作においては、初の女性プレイアブルキャラクターとして春麗が登場している。あきまんは女性キャラクターを導入した理由について、本来「格闘技世界一決定戦」にいないはずの女性を入れることでより楽しさを演出できると思ったとカプコン公式ホームページ内の『ストリートファイターII』開発者座談会で説明している<ref name="CapcomInterview">{{Cite web|和書|title=ストリートファイターII開発者インタビュー |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/132581 |website=シャドルー格闘家研究所 |access-date=2022-08-04 |publisher=CAPCOM}}</ref>。岡野は春麗の登場によりゲームに奥行きが出たと2022年のインタビューの中で話している{{R|ITMedia20221116P4}}。また、岡野は春麗のグラフィックについて2020年のインタビューの中で、「春麗のタイツの表現にはとてもこだわっていました。{{Interp|中略}}当時は16色で色合いや質感を表現しており、タイツや立体感の表現にデザイナーの工夫と愛情が込められています」と説明している{{R|Walkerplus20220721P1}}。なお、キャラクターそのものは最後に作られており、蓄積されたノウハウを駆使したため、データの容量は12人の中で最も少ない{{R|ITMedia20221116P4}}。 リュウ、ケン以外は「獣人」や「軍人」「相撲取り」といったテーマに沿った草案をもとに、複数のドッターによるじゃんけんで担当者を決めた{{R|CapcomInterview}}。うち「プロレスラー」(ザンギエフ)と「相撲取り」(エドモンド本田)は、いずれも早い段階から開発が進められていた{{R|ITMedia20221116P4}}。前者は世界共通の格闘技であると同時に、技も多彩であることから、格闘ゲームにふさわしいということで取り入れられた<ref name="ITMedia20221116P4">{{Cite web|和書|title=なぜストリートファイターの代表作は『スト2』なのか? 開発者が明かす当時の社内組織 (4ページ目)|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2211/16/news050_4.html|website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2023-09-01 |date=2022年11月16日 }}</ref>。後者は日本を代表する格闘技として取り入れられたものの、そのままでは使えないため、ゲーム向けにアレンジされた{{R|ITMedia20221116P4}}。 最初にじゃんけんに勝ったIKUSAN.Zは、もともとプロレスファンだったため、ザンギエフを担当することになった{{R|CapcomInterview}}。次いでじゃんけんに勝った女性スタッフのERICHANはエドモンド本田を担当した{{R|CapcomInterview}}。最後に残った「獣人」(ブランカ)はPIGMONが担当した{{R|CapcomInterview}}。当初ブランカは肌色だったが、面白みがないということで緑色に変更された{{R|igcc20200125}}<ref name="shadolooo20160404">{{Cite web|和書|title=ROUND 1:安田朗さん 後編 {{!}} ゲスト {{!}} 活動報告書 |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/100957 |website=CAPCOM:シャドルー格闘家研究所 |access-date=2022-08-19 |date=2016-04-04|publisher=CAPCOM}}</ref>。 <!--草案には技の名前などの記載はあったものの、具体的な内容はドッターに任せられていた。--> 「軍人」ことガイルは、全キャラクター中で唯一空中投げが存在するなど動きが多彩な分、必要なデータも膨らんだ{{R|ITMedia20221116P4}}。 (初代の時点では)非プレイアブルのボスキャラクターとしてシャドルー四天王を登場させた理由として、西谷はアクションゲームとしての遊び方を考えた際に、必要なボリューム数を満たすため、キャラクター選択画面で表示されている以外のキャラクターがいた方がよいと考えたと座談会の中で話している{{R|CapcomInterview}}。また、前作『ストリートファイター』のボスであるサガットを登場させるつもりではあったものの、それだけではつまらないため人数を増やした{{R|CapcomInterview}}。 シャドルー四天王のうち、バルログのドットはKATURAGIが担当した{{R|CapcomInterview}}。KATAGIRIは後から開発チームに入った際、あきまんから「スペインまたはタイの忍者を描いてほしい」と言われ、後者の内容で描いたところ「『[[北斗の拳]]』の修羅の国編の序盤に出てくるようなスペインの忍者にしてほしい」と言われ、デザインを変更した{{R|CapcomInterview}}。ラスボスのベガは、春麗が戦う理由と関連づけるために「悪の帝王」として設定された{{R|shadolooo20160404}}。また、あきまんは開発当時タイが世界一格闘技の強い国であるという印象を抱いており、「悪の組織が資金力を用いて格闘技に特化した勢力を作った」という設定を持たせた。あきまんは2016年のインタビューの中で、ゲームの中にベガを登場させた際、ベガの身体が予想より小さい事に気づくと同時に、かっこいいと感じたとも振り返っている{{R|shadolooo20160404}}。 なお、本作の欧米版を製作する際、四天王のうち『ストリートファイター』からの続投であるサガット以外は、「M・バイソン→バルログ(Balrog)」、「バルログ→ベガ(Vega)」、「ベガ→M・バイソン(M. Bison)」と名前が交換された{{R|IGN20170602}}。名称変更の理由は、バイソンの姿と名前が実在するプロボクサーの[[マイク・タイソン]]に酷似しているので[[肖像権]]に配慮したため{{R|IGN20170602}}と、「ベガ」に[[こと座]]のイメージがあり、日本国外のマーケティングから見るとなよなよしているとされ、中性的なバルログにこの名前があてられたためである<ref>[https://web.archive.org/web/20071105080206/http://www.capcom.co.jp/sound/topics/tpcs1_2.html カプコン公式サイト ストリートファイターの歴史・座談会第2回(インターネットアーカイヴに保存されたもの)] - ここで名前の変更の経緯について触れられている。</ref>。 本作に登場するキャラクターの音声やラウンドコールは声優ではなくすべてカプコンの社員が担当しており、たとえば春麗の声はERICHANが担当した{{R|Walkerplus20220721P1}}{{Efn2|ただし、IGNは宝島社の「ストリートファイター15周年最強読本」のスタッフインタビューおよびユーザからの情報を根拠として、ERICHANとは別の人物も春麗の声を当てていたと指摘している<ref name="IGN20170602">{{Cite web|和書|title=30年の「ストリートファイター」、気になる20の裏話 |url=https://jp.ign.com/street-fighter-30-years/13920/feature/3020 |website=IGN Japan |date=2017-06-02 |access-date=2022-08-07 |author=クラベ・エスラ }}</ref>。}}。また、声の良さを見込まれて他の部署から呼ばれたケースもあった{{R|Walkerplus20220721P1}}。このようなこともあって、キャラクターのイメージと実際の音声が異なると指摘する者もおり、たとえば、前述の春麗の場合、険しい顔つきや筋肉質な脚部とは裏腹に、勝利デモでは「ヤッター」とかわいい声をあげている{{R|Walkerplus20220721P1}}。 『ストリートファイターII' TURBO』(以下『II' TURBO』)までにおけるオープニングデモに登場した2人の無名キャラクター(白人<ref name="Scott">[http://game.capcom.com/cfn/sfv/column-100906.html キャラ図鑑050:スコット|キャラ図鑑|活動報告書|CAPCOM:シャドルー格闘家研究所]</ref>と黒人<ref name="Max">[http://game.capcom.com/cfn/sfv/column-100887.html キャラ図鑑051:マックス|キャラ図鑑|活動報告書|CAPCOM:シャドルー格闘家研究所]</ref>)がストリートファイトを行っている描写があり、『[[ストリートファイターV]]』の公式ホームページ「シャドルー格闘家研究所」の「キャラ図鑑」にて個人プロフィールが明かされている。 シリーズの派生作品を発売するたびにデザインを変えて区別をつけてきたものの、キャラクターの配色には特に苦労したと岡野は振り返っている{{R|Walkerplus20220721P1}}。たとえば、ガイルの場合、着用している迷彩服の一部に肌と同じ色が用いられているため、服の色を変えたつもりが肌の色まで変わってしまい、開発スタッフから「ゾンビガイル」というあだ名がついたこともあったという{{R|Walkerplus20220721P1}}。 === 音楽 === BGM担当者の一人である阿部功は、本作での作曲方法について、イメージをシーケンサーで作った後に「五線譜エディター」と呼ばれるツール向けに改作していたと座談会の中で説明している<ref name="CapcomSound3">[https://web.archive.org/web/20071111064148/http://www.capcom.co.jp/sound/topics/tpcs1_3.html カプコン公式サイト ストリートファイターの歴史・座談会第3回(インターネットアーカイヴに保存されたもの)]</ref>。「五線譜エディター」にはサウンド再生機能がないため、筐体に入れるROMへの書き込みを繰り返しながら試行錯誤していったと阿部は振り返っている{{R|CapcomSound3}}。 また、初代『ストII』(アーケード版)ではFM音源だったのに対し、それ以降の作品ではPCM音源が採用された{{R|CapcomSound3}}。阿部はもともとFM音源に慣れており、(スーパーファミコン版『ストII-』の音楽も手掛けていたとはいえ)、アーケード向けのPCM音源の不安定さなどに戸惑ったと座談会で振り返っている{{R|CapcomSound3}}。 もう一人のBGM担当者である[[下村陽子]]はもともと家庭用ゲーム機用ソフト志望だったが先輩の勧めでアーケードゲームの作曲にかかわった経緯があり、その流れで本作に参加した<ref name="Niconico20180709">{{Cite web|和書|title=『ストリートファイターII』作曲者・下村陽子が明かす「ブランカのテーマ」制作秘話…誕生のヒントは“黄緑の紙袋”にあった |url=https://originalnews.nico/111619 |website=ニコニコニュース オリジナル |access-date=2022-08-07 |date=2018年7月9日}}</ref>。下村は、6月26日放送の『THE JASRAC SHOW!』のvol.68内で行われた[[大森俊之]]との対談の中で、最初にキャラクターのテーマ曲を作るという話を聞かされた際は、そのような経験がなかったため不安だったと振り返っている{{R|Niconico20180709}}。この時点でゲームのグラフィック制作はある程度進んでおり、その内容が世界各国のステレオタイプに近かったため、「日本人がイメージした○○」というコンセプトで制作した{{R|Niconico20180709}}。また、カプコン社内には[[民族音楽]]に関する資料もあったため、それをもとに味わいを持たせたと振り返っている{{R|Niconico20180709}}。下村が手掛けた曲のうち、ブランカのテーマ曲は「アマゾンの奥地で育った野生児」というキャラクター設定から、[[コンガ]]をはじめとする[[パーカッション]]を主体としたリズム構成はすぐできたものの、それに載せるためのメロディがなかなか思い浮かばなかった{{R|Niconico20180709}}。そんな中、電車の網棚に乗っていた黄緑色の紙袋からメロディを思いついたと下村は振り返っている{{R|Niconico20180709}}。 == 移植版 == ;スーパーファミコン :[[1992年]][[6月10日]]<ref>{{Cite web|和書|title=SFC『ストリートファイターII』30周年。下R上L…なんだっけ?【今日は何の日:6月10日】 |url=https://dengekionline.com/articles/136199 |website=電撃オンライン |access-date=2022-08-18 |date=2022年06月10日}}</ref>発売。販売本数は国内が約288万本(第5位)<ref name="natsukashi">[http://qbq.jp/ QBQ]編『[http://diapress.jp/archives/7402.html 懐かしスーパーファミコン パーフェクトガイド]』[http://www.magazinebox.co.jp/ マガジンボックス](M.B.ムック)、2016年。ISBN 9784866400082 p8</ref>で世界では630万本。 :スーパーファミコン初の16MBit[[ロムカセット]]で発売。ハード性能およびメディア容量の関係でアーケード版と異なる部分があり、簡略化されている部分がある。一方、隠しコマンドでアーケードでは不可能だった「同キャラ対戦」が可能になる。2Pキャラクターのカラーは四天王も含めてすでに稼動していた『II'』に準じる。ただし四天王は使用不可{{Efn2|スーパーファミコン版において、四天王を使用できる裏技が存在すると言うニセ情報が多く出回り、一部のゲーム雑誌で検証されたこともあった{{要出典|date=2022年8月}}。}}。 :アーケード版との違いは以下の通り。 :*1人プレイ時の乱入可能状態の表示がAC版では「PUSH START」であったのが「PRESS START」になっている(以降のスーパーファミコン版、メガドライブ版などの移植作に共通)。 :*タイトルデモの殴りあう白人と黒人のアニメーションがない(『ターボ』も同様)。 :*積んである[[ドラム缶]]を破壊するボーナスステージが、レンガを破壊するものに差し替えられた(以降のスーパーファミコン版、メガドライブ版の2作〈後述〉も同様)。また本作のみ樽を破壊するステージが入っておらず、ボーナスステージは4ステージ間となっている。アーケード版本来なら全3つある内2つのみとなっている。 :;開発 ::本作開発時点におけるカプコンは家庭用ゲーム機部門とアーケードゲーム機部門に分かれていたが、この時点で『II』はカプコンにとっても大型タイトルへと成長していたため、岡本の勧めもあって、西谷が開発に参加した{{R|igcc20200125}}。 ::元々西谷はアーケードゲームからの移植とは名ばかりのゲームが多いことに不満を感じており、家庭用への移植には抵抗がなく、プレイ感覚を近づけようと考えた{{R|igcc20200125}}。 ::最初の課題はアーケードゲームとスーパーファミコンの処理能力の差異であり、これを解決するために、画面の上下を切り取った{{R|igcc20200125}}。 ::また、容量節約のため、似た複数の攻撃を一つのグラフィックにまとめる措置が取られ、それに合わせて攻撃判定も変更された{{R|igcc20200125}}。 ::その一方で、それぞれのキャラクターのエンディングに固有のグラフィックが用意された。大堀は西谷との対談の中で、サンプルROMの時点ではキャラクターの攻撃モーションが流用されていた{{Efn2|たとえばブランカの場合、母親と抱き合う場面では噛みつき攻撃のグラフィックが流用されている{{R|igcc20200125}}。}}が、完成版のROMでは一枚絵に差し替えられていたと話している{{R|igcc20200125}}。これに対し、西谷はそのサンプルROMを見たことがないとしつつも、なんとか似たグラフィックパターンを探してエンディングを制作したものの、このままではまずいと思って一枚絵に差し替えたのだろうと推測している{{R|igcc20200125}}。 :;テレビCM ::本作はコンシューマ向けの本格作品ということで、俳優による実写映像がCMとして用いられた。リュウ役のRYOと、春麗役の[[水野美紀]]{{R|famitsu 20220610}}はいずれも新人である。ベガを[[軍司眞人]]が演じた。なお、CMのキャッチコピーは「'''俺より強いヤツに会いに行く。'''」<ref name="famitsu 20220610">{{Cite web|和書|title=SFC『ストリートファイターII』が発売30周年。全世界で630万本売り上げた格闘ゲームの金字塔。本作の登場が追い風となり、ブームがさらにヒートアップ【今日は何の日?】 |url=https://www.famitsu.com/news/202206/10264190.html |website=ファミ通.com |publisher=KADOKAWA Game Linkage |access-date=2022-08-18 |date= 2022.06.10 }}</ref>で、CMソングは[[筋肉少女帯]]の『[[バトル野郎〜100万人の兄貴〜]]』だった。 :;出版 ::スーパーファミコン版の[[攻略本]]は[[徳間書店]]が独占的な出版権を確保した。大ヒットを記録したこの攻略本の著者(数名のゲームライター)はそれぞれ1千万円を超える印税を手にしており、当時マスコミでも話題となっている{{要出典|date=2018年11月}}。なお攻略本については[[エンターブレイン|アスキー]]や[[宝島社|JICC出版局]]でも企画されていた。このうちJICC出版局は徳間書店の権利を侵害しない形式を模索の上、当時スーパーファミコンで発売されていたいくつかの格闘ゲームの攻略を特集した『[[ファミコン必勝本|HIPPON SUPER!]]』の増刊号として実質的な攻略本の発行を実現している。この増刊号のメインとして巻頭を飾った、『ストII』の攻略記事を担当したのは[[手塚一郎]]だった。 :[[バーチャルコンソール]]でWii向けに[[2006年]][[12月2日]]に配信開始<ref>[https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_sf2/ バーチャルコンソール ストリートファイターII] 2013年10月26日閲覧。</ref>。同様にWii U向けに[[2014年]][[6月25日]]に配信開始<ref name="Gamer20140625">{{Cite web|和書|title=「ストリートファイターII」「ストII ターボ」「スパII」がWii U バーチャルコンソールタイトルとして同時配信 |url=https://www.gamer.ne.jp/news/201406250051/ |website= Gamer|access-date=2023-09-01 |date=2014年6月25日}}</ref>。 ;MS-DOS :販売は[[U.S. Gold]]が担当。当初は日本国外向けに発売されていたが、後に日本の書店で旧作PCソフトを販売するSOFBOXブランドにて書店販売された。 :1 - 2ボタン仕様で、後ろ方向、ニュートラル、前方向の組み合わせで弱中強の振り分けをする。 ;Amiga :U.S. Goldによって、日本国外向けに発売された。基本的にはPC/AT互換機版と同じで、マニュアルには同社販売の複数機種版(コモドール64/128、SPECTRAM、AMSTRAD CPC 6128、ATARI ST/AMIGA、PC & COMPATIBLES)がまとめて記されている<ref>STREET FIGHTER II マニュアル(U.S. Gold 配布)</ref>。 :アーケード版のオープニングデモのストリートファイトのシーンが再現されているものの、BGMが少ないなどの差異がある。 :ケンの「昇龍拳」がしゃがみアッパーのグラフィックになっている。1 - 2ボタン仕様。 ;ゲームボーイ :[[1995年]][[8月11日]]発売。カプコンの下請けであるさんえるが開発した{{R|gbkuso}}。要素を削減したアレンジ移植。 :使用キャラクターはリュウ、ケン、春麗、ガイル、ブランカ、ザンギエフ、バイソン、サガット、ベガのみ。キャラクターイラストとステージ背景は『スパII』のものが使われており、春麗の気功拳やリュウのファイヤー波動拳の他、ブランカのアマゾンリバーランなど、技の一部には『スパII X』で見られるのも登場する。 :通常のモードに加え、サバイバルモード、VSモードが用意されている。2ボタンのため、パンチとキックの強弱はボタンを押している時間の長さで変化する。ただしキャラクターの色分けはされていないため、[[スーパーゲームボーイ]]などで同キャラ対戦すると見分けがつかなくなる。4Mソフトで操作性は悪く、それにより一部のコマンド技は発動するのが不可能に近い<ref name="natsukashiGB">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、30ページ</ref>。それにもかかわらず、CPUは間合いを見定めて正確に必殺技を繰り出してくる。それらのことからカプコンの歴史的失敗作とも評される<ref name="gbkuso">QBQ編『ゲームボーイクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2017年。ISBN 9784865117790 p8-9</ref>。 :CMには[[ストリートファイターII MOVIE|アニメ映画]]の主題歌を担当した[[篠原涼子]]を起用したが、それだけに「予算の無駄遣い」などとゲーム評論家筋から散々な評価を受けた<ref>QBQ編『ゲームボーイクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2017年。ISBN 9784865117790 p119</ref>。 ;携帯アプリ :[[NTTドコモ|docomo]]より[[2004年]][[11月1日]]<ref>{{Cite web|和書|title=携帯で「ストII」配信開始~「天地を喰らう」も |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0411/01/news028.html |website=ITmedia Mobile |publisher=アイティメディア |date=2004-11-01 |access-date=2022-08-20}}</ref>に、[[au (携帯電話)|au]]より[[2005年]][[7月28日]]に、[[ソフトバンクモバイル|Softbank]]より[[2005年]][[11月1日]]に配信開始。 :携帯電話機であることを考慮したアレンジが施されている。容量の問題により、ステージ背景が一部のキャラクターのものしか収録されておらず、ボーナスゲームも削除されている。技の強弱、必殺技のタメが存在せず、斜めが含まれているコマンドについては、斜め押ししなくても必殺技が出せるようになっている。オートガード機能、1ボタン必殺技も追加されているが、1ボタン必殺技は使用した場合パーフェクト時のボーナスが減らされる措置がとられている。 :エンディングはアプリ内に存在せず、全クリア時に専用ウェブサイトへ接続できるようになっている。 :[[GREE]]では、使用できるキャラクターが限られ、ネットランキングに対応したカスタマイズ版が配信されている。こちらはGREEの会員登録をすれば無料でダウンロード、プレイができる。 :;開発 ::2004年9月24日に行われた「[[東京ゲームショウ]]2004」のデモ出展時のスタッフによると、アプリ版『ストII』では、オリジナルと同様のソースが用いられているとされている<ref name="ITmediaMobile20040924">{{Cite web|和書|title=ワンボタンで昇龍拳が~携帯版「ストII」を試す |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0409/24/news112.html |website=ITmedia Mobile |publisher=アイティメディア |date=2004-09-24 |access-date=2022-08-20}}</ref>。当初は操作体系もオリジナルに合わせる予定だったが、携帯電話が壊れてしまう恐れがあったため、別のものが用いられた{{R|ITmediaMobile20040924}}。 == 派生作品 == いずれもアーケード作品として、ゲーム内容の調整が行われた『ストリートファイターII'』や『ストリートファイターII' TURBO』、キャラクターなどが追加された『スーパーストリートファイターII』とその調整版の『スーパーストリートファイターII X』がある。これらが家庭用ゲーム機に移植された際には、さらに新規要素が追加されたり、タイトル名が変更されているものもある。 === ストリートファイターII'(ダッシュ) -CHAMPION EDITION- === {{Main|ストリートファイターII'}} [[1992年]]4月{{R|AA}}より稼働。日本国外版のタイトル名は''[[:en:Street Fighter II Champion Edition|Street Fighter II Champion Edition]]''。 『ストII』の好評を受けて売り出されたバージョンアップ版であり、『ストII』ではCPU専用だった四天王がプレイアブルキャラクターとなるなど、仕様がいくつか変更された{{R|igcc20200125}}。 一方、『II'』においてもハメ技が多いとの指摘もあり、特定のキャラクターの使用を禁じるゲームセンターもあったという<ref name="Inside20220227">{{Cite web|和書|title=画面ではベガが飛び、リアルでは灰皿が飛ぶ!?『ストII』初期のベガがエグいくらいに強かった |url=https://www.inside-games.jp/article/2022/02/27/137028.html |website=インサイド |access-date=2022-08-05 |date=2022.2.27|author=蚩尤}}</ref>。また、違法改造した[[海賊版]]が出回っていたことでも知られている<ref>{{Cite news|和書|title=謹告|newspaper=ゲームマシン|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19930101p.pdf|format=PDF|agency=[[アミューズメント通信社]]|issue=441|page=8|date=1993-01-01,15|accessdate=2021-03-11}}</ref>{{Efn2|ライターのDamien McFerranはレッドブルに寄せた記事の中で、初代『ストII』の時点から海賊版が存在していたと指摘しており、その中にはシャドルー四天王を操作できるものもあったことから、『II'』の登場自体も海賊版対策だったと推測している{{R|Redbull20171019}}。}}。 === ストリートファイターII' TURBO(ダッシュターボ) -HYPER FIGHTING- === {{Main|ストリートファイターII' TURBO}} 1992年12月{{R|AA}}より稼働。日本国外版のタイトル名は''[[:en:Street Fighter II Turbo|Street Fighter II' HYPER FIGHTING]]''。 外見より内容の洗練に力を入れたマイナーチェンジ版とされている<ref>{{Cite book|title=電撃王|date=1993年3月1日|year=1993|publisher=メディアワークス|page=142}}</ref>。 当初、ターボはアメリカのみの発売で日本での発売の予定がなかった<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=必殺荒ワザ増刊 最新格闘ゲーム |date=1993年7月30日 |year=1993 |publisher=[[新声社]] |page=123}}</ref>。また、同作は『ストリートファイターII'』の海賊版、特に『{{仮リンク|ストリートファイターII レインボー|en|Street Fighter II: Rainbow Edition}}』対策のために作られた[[バージョン]]といわれる<ref name="PolygonSF2OralHistory4">{{cite web |last1=Leone |first1=Matt |title=Street Fighter 2: An Oral History|url=https://www.polygon.com/a/street-fighter-2-oral-history/chapter-4 |website=[[Polygon]] |accessdate=2022-08-18}}</ref>。 === スーパーストリートファイターII -The New Challengers- === [[1993年]]10月{{R|AA}}より稼働。日本国外版のタイトル名は''[[:en:Super Street Fighter II|Super Street Fighter II The New Challenger]]''。 以下の新キャラクター4人が追加された。この4人はデフォルトで選択可能。キャラクターのカラーも8色に増えた。 *[[サンダー・ホーク]](T.HAWK){{Flagicon|MEX}} *[[キャミィ]](CAMMY){{Flagicon|GBR}} *[[フェイロン]](FEI-LONG){{Flagicon|HKG1959}} *[[ディージェイ (ストリートファイター)|ディージェイ]](DEE JAY){{Flagicon|JAM}} なお前作(『II' TURBO』)までのキャラクターのカラーは弱パンチがデフォルトカラー、中パンチがダッシュカラー(ただしガイルのみ色が違う)、強パンチがターボカラー(ただしM・バイソンのみ色が違う)となっていて、それ以外ボタンの5色は本作で追加されたカラーとなる。 前作までの一部のキャラクターの技グラフィックが新たに修正・変更されている。気絶が発生すると、前作までは一度ダウンして起き上がった時に気絶を知らせるエフェクトが出ていたが、本作以降は吹き飛んだ時点で気絶を知らせるエフェクトが出るように変更されている。特定アクションによるボーナス点や、コンボの際のコンボ数の表示が導入され、4ラウンド目(最終ラウンド)でもコンボなどのテクニカルボーナスは加算されるようになった(通常の得点は入らない)。キャラクターの動作速度は『II』『II'』の頃に戻った。 エンディングまでに要するCPU対戦相手はこれまで通り計12人で、初代から選択可能な8人は原則的に同キャラ戦が無く、本作から参戦したキャラクターおよび四天王のみ同キャラ戦が発生する{{Efn2|ただしコンティニューなどで該当するキャラクターに変更した場合のみ同キャラ戦が発生する。}}。 ;開発 :あきまんは2016年のインタビューの中で、開発当初はキャラクターを4人追加すべきだと主張していたものの、フェイロンとディージェイについては難産だったと振り返っている{{R|shadolooo20160404}}。これらのキャラクター群について、あきまんは『ストII』よりリアルな設定にしようとしたため、どこか面白みに欠けるとも述べている{{R|shadolooo20160404}}。 :ブランカのドッター<!--PIGMONのこと?-->がカプコンを退社したため、あきまんが代行した{{R|shadolooo20160404}}。 :また、開発中期に専用の基板{{Efn2|『スーパーストリートファイターII -The Tournament Battle-』([[CPシステムII#概要|Bボード]])『スパII』のBボードとしても使用できた。出荷数が少ない。}}を4枚接続して設定すれば、CPUを含めて8人での[[スイス式トーナメント|スイスドロー]]方式による[[トーナメント方式|トーナメント戦]]が急遽導入されたほか、後期になっても仕様変更が続いた<ref name="SRCL-2822">『スーパーストリートファイターII アーケード ゲームトラック』 (SONY RECORDS SRCL-2822) の添付ブックレット。</ref>。 :本作から基板に[[CPシステムII]]を採用し、それに合わせてグラフィック、サウンド(Qサウンド採用)なども改めて作り直された。BGMは1、2ラウンド間は止まらずに通しで流れるように変更され、一部を除くキャラクターの声が一新され(例としてリュウ、ケンなど前作までほとんどの男性キャラクターで共通になっていたボイスが区別化された)、またラウンドコールなどのアナウンスボイスも改めて新録された。 ;反響 :専用基板によるスイスドロー方式のトーナメント戦は、席移動を要したり、最高でも5ラウンド戦っただけでゲームオーバーになるなどの理由で、ほとんど普及しなかった{{R|SRCL-2822}}。 :対戦型格闘ゲームとして内容がよく練られてあり、営業成績でもそこそこの結果を出した。しかし、CPシステムII自体の開発と平行して製作されていたという事情もあり、同時期に[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]よりリリースされた『[[餓狼伝説スペシャル]]』など同カテゴリーの他作品と比較すると、相対的には視覚効果が最も地味な作品となった。その現状を[[岡本吉起]]は「こりゃまずいな」と感じたと後のインタビューで語っている{{要出典|date=2022年8月}}。 ;移植版 :;スーパーファミコン ::[[1994年]][[6月25日]]<ref>{{Cite web|和書|title=今日は何の日? 東芝設立(1904)、スーパーストリートファイターII発売(1994) |url=https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/616/2616344/ |website=週刊アスキー |access-date=2022-08-19 |language=ja |last=ASCII}}</ref>発売。販売本数は国内が約129万本で、世界で200万本{{R|Sales}}。 ::メガドライブ版と同時に発売。32MBitロムカセット採用。アニメ映画とのタイアップで、パッケージはアニメ映画のデザインで描かれており、アーケード版のイラストは使われなかった。 ::前作まで削除されていたオープニングが再現されているほか、ステージやエンディングなどの内容が一部変更された一方、隠しコマンドによる追加要素やサウンドテストも削除された。 ::[[XBAND]]で通信対戦できる。『ストリートファイターコレクション』収録の同タイトルには無い、グループバトル、トーナメント、タイムチャレンジが収録されている反面、ハード性能の限界でBGMや効果音が無くなっていたり貧弱なものに差し替えられている<ref name="natsumega">QBQ編『懐かしのメガドライブ 蘇れメガドライバー!!』マイウェイ出版発行、2018年。ISBN 9784865118704 p36-37</ref>。 ::アーケード版ではスピード調整は無かったが、すでに稼働中である『スパIIX』同様0 - 3まで4段階にスピード調整が可能となっている(☆*0 - ☆*3)。 ::CMは2か月後に公開された劇場アニメ『[[ストリートファイターII MOVIE]]』に合わせたもので、メガドライブ版とも合わせて作られた。 ::バーチャルコンソールでWii向けに[[2007年]][[12月18日]]に配信開始<ref>[https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_sfnc/ バーチャルコンソール スーパーストリートファイターII] 2013年10月26日閲覧。</ref>。 ::同様に[[2014年]][[6月25日]]にはWii U向け{{R|Gamer20140625}}に、[[2016年]][[6月7日]]にはNewニンテンドー3DS向け<ref>{{Cite web|和書|title=Newニンテンドー3DS専用バーチャルコンソール版『スーパーストリートファイターII ザ ニューチャレンジャーズ』が配信開始! |url=https://www.famitsu.com/news/201606/07107642.html |website=ファミ通.com |publisher=KADOKAWA Game Linkage |date=2016-06-07 |access-date=2023-09-01}}</ref>に配信された。 :;メガドライブ ::[[1994年]][[6月25日]]{{Sfn|レトロゲーム愛好会|2020|p=148|loc=スーパーストリートファイターII}}発売。 ::40MBitロムカセット採用により、スーパーファミコン版では省略された一部のグラフィックや音声(ラウンドコールなど)が再現されている。ゲーム内容はほぼ同じ{{Sfn|レトロゲーム愛好会|2020|p=148|loc=スーパーストリートファイターII}}だが、1ラウンドでの獲得スコアを競う「スコアチャレンジ」が追加されたほか、オプション内の「スーパーモード」を「エキスパート」に設定することで、1人プレイ時に戦う人数が12人ではなく16人全員になる。さらに、スピード調整が0 - 4の5段階に増えているなど、随所に細かい差異がある{{Sfn|レトロゲーム愛好会|2020|p=148|loc=スーパーストリートファイターII}}。 ::より優れた対戦環境を求めてソフトとパッド2つを購入すると発売当時の小売価格にして15900円もの予算を費やすこととなったが、好意的な意見としては「それだけ払っても惜しくない魅力があったのだ」という声がある{{R|natsumega}}。 ::日本国外においては、メガドライブ向けのオンライン通信対戦がサポートされていた。 ::{{出典範囲|text1=2011年11月8日にはWiiの[[バーチャルコンソール]]向けに配信された。このバージョンでは[[ニンテンドーWi-Fiコネクション]]対応で、同国内のユーザーのみという制限付きながらオンライン通信対戦を可能としていた。|ref1=<ref>{{Cite web|和書|title=「スーパーストリートファイターII」,Wiiバーチャルコンソールに11月8日配信決定 |url=https://www.4gamer.net/games/092/G009231/20111104080/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-09-01 |publisher=Aetas |date=2011/11/04}}</ref>}}{{efn2|[[2014年]][[5月20日]]をもってニンテンドーWi-Fiコネクションの無料サービスの提供は終了した。}} ::[[2022年]][[10月27日]]にはメガドライブ ミニの続編としてセガからリリースされる復刻系ゲーム機・[[メガドライブ ミニ2]]にプリインストールされる60作品の一つとして収録される<ref>{{Cite web|和書|title=「メガドラミニ2」、対戦格闘ゲーム「スーパーストリートファイターII ザ ニューチャレンジャーズ」を収録 T・ホーク、キャミィなど新キャラクター4人が参戦 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1425475.html |website=GAME Watch |publisher=インプレス |date=2022-07-15 |access-date=2023-09-01}}</ref>。 :;X68000 ::音声面では、CPシステムII独特のエコー処理や空間処理がすべて削除されている。『ダッシュ』同様、X68030以上で多重PCMドライバがインストールされる。またBGMなどのADPCMが収録されたファイル内に、サウンドチームのメッセージのようなものが埋め込まれている。MIDI対応(GM1レベル)、CPSアダプター対応、チェルノブアダプタ対応(非公式)。 :;FM TOWNS ::プレイヤーキャラクターに関してはほぼアーケード版に近い一方、背景は多重スクロールが省略されている。BGMはQサウンドが再現されており、オリジナル版とアレンジ版が選択可能だった。オプションにRGBによるカラーエディットモード搭載。専用パッドを同梱したパッケージも発売された。 :;MS-DOS ::移植はRonzer Labs Software Group Inc.が担当。 ::日本国外で流通。グラフィックは基本的にSFC版やMD版と同一。移植度は比較的良好だが、解像度の関係で横幅が長く、ラウンド開始時の互いの距離の開きが大きいなどの違いがある。 :;Amiga ::1994年に、U.S. Goldが日本国外向けに発売した。 ::PC/AT互換機版と同じくSFC版やMD版のグラフィックを使用している。大まかな挙動は再現されており、BGMも全16ステージのものを収録している。背景のアニメーションが削除されたほか、キャラクターの声が削減され、一部の声が複数のキャラクターで共有されている。 === スーパーストリートファイターII X -Grand Master Challenge- === [[1994年]]3月{{R|AA}}{{Efn2|ゲーム専門サイト「インサイド」の「あけぼのフィニッシュ」の記事では1994年4月に発売されたと記載されている<ref name="Inside20140826">{{Cite web|和書|title=【今日のゲーム用語】「あけぼのフィニッシュ」とは ─ 出来ればこれで勝ちたい、爽快感極まる演出 |url=https://www.inside-games.jp/article/2014/08/26/79838.html |website=インサイド |access-date=2022-08-20 |date=2014-08-26 |author=臥待 弦}}</ref>。}}より稼働。日本国外版タイトルは''[[:en:Super Street Fighter II Turbo|Super Street Fighter II TURBO]]''。 条件を満たした時{{Efn2|最終ステージに到達した時点で、それまでの各ラウンド終了までに要した時間の総和や得点などが関係する。}}だけベガの代わりに出現する[[隠れキャラクター|隠しボス]]として、以下の新キャラクターが追加された。 *[[豪鬼]](GOUKI){{Flagicon|JPN}} 隠しコマンドを入力することでプレイヤーが豪鬼を使用することが可能(能力は幾分調整されている)。また、後期のコンシューマー版では最初から使用できるようになっているものもある。なおCPUの豪鬼(後に[[豪鬼#真・豪鬼|真・豪鬼]](SHIN GOUKI)と呼ばれた)とプレイヤー仕様の豪鬼とでは、キャラクター能力が若干異なる。 多くのキャラクターで通常技・必殺技が追加・変更され、さらに本作よりスーパーコンボや空中コンボ属性、投げ受身(『スパII』仕様では不可)が登場した。またゲームスピードを変更でき、しかもゲームスピードをプレイヤーが選択可能なようにオペレーターが設定できる(選択可能な設定で営業使用された場合が多かった)。また、ボーナスステージが削除された。 演出面においては、スーパーコンボで相手を倒した際に背景が変化する「あけぼのフィニッシュ」が導入された{{R|Inside20140826}}。 プレイヤーのカラーパターンは通常の8色と『スパII』仕様の2色(実際には『スパII』のものとも微妙に異なる)の合計10色。前作(『スパII』)での弱パンチ(デフォルト)カラーのみ変更されており、それらは『スパII』仕様を選択した場合に使用ができる。 アーケードゲームとしては異例の{{Efn2|業務用ゲームに関わるCMは、多くが自主規制の対象であり、また費用対効果が期待できないため、現在でも深夜帯以外の放送は困難(アミューズメント施設に関しても、当時は深夜帯以外は放送することが難しかった)。ただしCPシステムが登場した当時、深夜帯を中心に企業広告 (CI) として、直接ゲームに触れず部分的にフィーチャーする形で、業務用ゲーム機を扱ったCMを出したことはある。}}テレビCMが放映された。 ;移植版 :;3DO ::[[1994年]][[11月13日]]発売。 ::BGMにはアレンジされたバージョンが使われており、のちに家庭用『ハイパー』や『[[ストリートファイターZERO ファイターズ ジェネレーション]]』、『[[カプコン クラシックス コレクション]]』でも使用されている。 :;MS-DOS ::1995年5月に『スーパーストリートファイターII TURBO』として発売。移植はEurocom Entertainment Software<ref>[https://web.archive.org/web/20110930060449/http://www.eurocom.co.uk/index.php/video-games/super-street-fighter-2-turbo Eurocom Entertainment Software](2011年9月30日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])。</ref>が担当し、販売は[[:en:GameTek|GameTek]]が担当。 ::北米版を移植したものなのでタイトルが「ターボ」となっているが、内容は『スパII X』と同等。6ボタンに対応している。また隠し要素のノーマルカラーや、3DOではメモリの関係で削除(統合)された技がすべて入っている。オプションメニューも充実していて、ロースペックの機種用に背景の多重スクロールを固定する機能なども用意されていた。最も目立つ相違点は[[解像度]]の違いで、PC/AT互換機版では320×200の解像度で製作されているにもかかわらず、グラフィックデータはアーケード版のオリジナルを単純に形式変換したまま使用しているので、全体的にキャラクターが大きく画面が狭い。 ::修正パッチファイルが数度配布され、上記の不具合はv1.5で修正された。修正パッチファイルはv1.6までリリースされた模様である。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]版がgamebank([[ソフトバンク]])より発売予定だったが、中止されている。 :;ドリームキャスト ::[[2000年]][[12月22日]]に『スーパーストリートファイターII X for Matching Service』としてドリームキャストダイレクト専売ソフトで発売。 ::アナログ回線専用通信対戦システム「マッチングサービス」に対応した商品で、通販のみでの販売。マッチングサービスは2003年9月1日に終了しているが、単体で遊ぶことは現在も可能。アーケード版では削除されたボーナスステージが復活している(設定でなしにすることも可能)。 ::PS版やSS版のようにスコア表示位置の相違が本作では一切ない。前作にあたる『SUPER』の能力を持ったキャラクターが選択可能。スーパーコンボは使えないが攻撃力が高いなど『SUPER X』とは能力の違うキャラとなり、色などの描写は『II』に準じている。<ref>{{Cite book|和書 |title=ファミ通 No.627 |date=2000年12月22日 |year=2000 |publisher=エンターブレイン |page=183}}</ref> ::一定の条件を満たすと真・豪鬼も使用可能になる。さらにスーパーコンボ「[[瞬獄殺]]」を使うことができる真・豪鬼も使用可能。また、特定の操作で選択できる「EXオプション」、特定条件を満たすことで選択可能になる「シークレットオプション」が存在し、多様な項目の変更が可能。 ::後の『[[ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション]]』『[[ストリートファイターZERO ファイターズ ジェネレーション]]』にも同様の項目が存在する。 :;ゲームボーイアドバンス ::[[2001年]][[7月13日]]に『スーパーストリートファイターII Xリバイバル』<ref name="gamewatch20010713">{{Cite web|和書|title=GBAゲームレビュー「スーパーストリートファイターIIX リバイバル」 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010718/st2.htm |website=GAME Watch |publisher=インプレス |date=2001-07-18 |access-date=2022-08-18}}</ref>として発売。 ::各キャラクターのイラストやタイトル画面などが新規のものに変更されている{{R|gamewatch20010713}}。携帯ゲーム機とはいえ移植度は良く、モードも豊富{{R|gamewatch20010713}}。 ::ハードの仕様に合わせ操作体系が4ボタンに変更されているほか、オプションでL/Rボタンを含めた6ボタンの操作体系に変更できる{{R|gamewatch20010713}}。 ::また、試合中にSELECTボタンを押すことで、必殺技やスーパーコンボが簡単に出せる「カンタンコマンドモード」が搭載されている{{R|gamewatch20010713}}。 ::グラフィックなどは基本的にスーパーファミコン版(以下SFC)に準拠しており、『スパII X』から新たに加わった技にはアーケード版(以下AC)と同じサイズのグラフィックとアニメーション枚数が使われている。このため、ガイルが立ち強キック(遠・近共)を出した時、一回り大きくなるという現象が起きる。また後退時の歩行グラフィックが前進時の歩行グラフィックと同じであるのもSFC版のままであるが、豪鬼のみ後退時の歩行グラフィックがAC版同様の専用グラフィックである。 ::ケン、ガイル、ベガの各ステージ背景が新規となり、リュウのステージは『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』ベースに、春麗のステージは『ZERO2』、ザンギエフは『II』と『ZERO3』を合わせたもの、バイソンのステージは『ZERO3』のステージに差し替えられている。リュウの新ステージの色変えで、豪鬼のステージも存在。また、リュウのみボイスが『II』のものになっているが、他のキャラクターのボイスやエフェクトなどはオリジナル版『スパII X』と同じ。なお、豪鬼のボイスは他のキャラクターの掛け声の流用だったが、本作では『ZERO』シリーズでの[[西村知道]]のボイスになっている。BGMのうち、ピンチ時の専用BGMがAC版と同様、原曲をアレンジした専用曲(基本メロディの1フレーズを4段階に[[転調]])となっている。また、『スパII X』で削除されたボーナスステージの車破壊と樽破壊が復活した{{R|GameWatch20150701}}。 ::『スパII X』でスーパーコンボが用意されていなかった豪鬼も、スーパーコンボ「瞬獄殺」が使用可能となっている。豪鬼が使用可能になった後、さらに特定の条件を満たすと、より強力な真・豪鬼が使用可能となる。 ::[[2015年]][[7月1日]]には[[Wii U]]のレトロゲーム配信サービス・[[バーチャルコンソール]]で配信開始<ref name="GameWatch20150701">{{Cite web|和書|title=Wii U向けに、「スーパーストリートファイターIIX リバイバル」配信 |url=http://game.watch.impress.co.jp/docs/news/709756.html |website=GAME Watch |publisher=インプレス |date=2015-07-01 |access-date=2023-09-01}}</ref>。 ;アレンジ版 :;Xbox 360 / PlayStation 3 ::[[2008年]][[11月26日]]より''[[:w:Super Street Fighter II Turbo HD Remix]]''として日本国外で配信{{R|Game Watch20081216}}{{Efn2|Game Dudeが「Game Watch」に連載した記事では2008年11月27日と記載されている。}}。一方、日本向けには配信されていない<ref name="Game Watch20081216">{{Cite web|和書|title=Game Dudeの「大人のための海外ゲームレポート」 「Super Street Fighter II Turbo HD Remix」 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20081216/kaigai34.htm|website=Game Watch|author=Game Dude|date=2008-12-16 |access-date=2022-08-19}}</ref>。 ::日本国外版『スパIIX』を基に、タイトルの「HD」が示すように、全てのグラフィックが高解像度で描画しなおされている{{R|Game Watch20081216}}。オリジナル版を再現したモードと、ゲームバランスを再調整したモードを選択可能である。キャラクターボイスや効果音は日本国外版『スパIIX』のものが使用されているが、ガイルのみ一部のボイスが『II'TURBO』までのものに差し替えられている。ネット通信対戦対応{{R|Game Watch20081216}}。 ::本作はいずれもカナダに拠点を置く{{仮リンク|バックボーン・エンタテインメント|en|Backbone Entertainment}}と[[ウドン・エンターテインメント]]が開発し、BGMはゲームミュージック愛好家のコミュニティ・[[OverClocked ReMix]]による新規アレンジ版が用いられている{{R|Game Watch20081216}}。 :;Nintendo Switch ::[[2017年]][[5月26日]]に『{{仮リンク|ウルトラストリートファイターII -The Final Challengers-|en|Ultra Street Fighter II: The Final Challengers}}』として発売。[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]レーティングB(12歳以上対象)。 ::『スパIIX』の使用キャラクター17人に加え、後のシリーズ作品からの逆輸入として新たに[[殺意の波動に目覚めたリュウ]](EVIL RYU)と[[ケン・マスターズ#洗脳されたケン|洗脳されたケン]](VIOLENT KEN)が使用できるようになった{{R|4Gamer.net20170525}}。 ::ネット対戦に対応し、アーケードモードでの待ち受けにも対応。対戦グラフィックは『スパIIX』を再現した「クラシックジェネレーション」と日本国外の『スパIITURBO HD』のグラフィックを使用した「ニュージェネレーション」から選択でき、これとは別にBGMも従来の「クラシックジェネレーション」と新規アレンジの「ニュージェネレーション」を選択できる。後者はボイスが『[[ストリートファイターIV]]』シリーズのものになる(担当声優は後述)。ゲームシステムは『スパIIX』のものをベースに、投げ受け身が「投げ抜け」(技後の硬直中は不可)に変更、豪鬼もスーパーコンボを使えるなどのバランス調整が行われている。『ハパII』とは違い、旧キャラクターの性能は『スパIIX』準拠のもの1種類で固定となっており、『スパII』性能への切り替えも削除されている。顔合わせや勝利メッセージ画面の背景文字「SUPER」が「ULTRA」に変更されている。 ::ガイルのみ上記の『スパIITURBO HD』同様、一部のボイスが『II'TURBO』までのものに差し替えられている。また、ザンギエフの出身国がソビエト連邦から[[ロシア]]に変更されている。これに伴いラウンドコールなどのアナウンスボイスは今回改めて新録された。 ::キャラクターセレクトや体力表示などは『スパIIX』のものをベースにHD画質となっており、豪鬼は正式に豪鬼の名前が表示されるようになり、顔アイコンのシルエットが外され敗北時の表情もハッキリしたものとなっている。キャラクターセレクトはプレイヤー用に性能が調整された豪鬼が正式に追加されたほか、殺意の波動に目覚めたリュウ、洗脳されたケンに加えランダムセレクトが追加され全20枠となった。また特定の操作をすることで、性能が調整されていないCPU用の豪鬼が、真・豪鬼として使用できる。 ::なお、ベガ戦にて乱入する豪鬼は真・豪鬼の性能だが、名前は豪鬼のままである。通常の豪鬼はCPUとしては出現しない。 ::モードは「アーケード」、コンピューターとの対戦にも対応した「バーサス」、「トレーニング」のほか、新モードとして協力プレイで2on1形式のバトルを行う「バディファイト」、「カラーエディット」、リュウになりきって襲ってくるシャドルー兵を倒していくモード「放て!波Do拳」が収録されている<ref name="4Gamer.net20170525">{{Cite web|和書|title=ストIIとは何だったのか。初代「ストリートファイター」からNintendo Switch「ウルトラストリートファイターII」まで,ストIIシリーズの歴史を辿る |url=https://www.4gamer.net/games/368/G036842/20170520002/ |website=4Gamer.net |access-date=2022-07-11 |publisher=Aetas |date=2017/05/25}}</ref>。 ::これまでの本『II』シリーズ作品では相手をK.O.勝利ならびにタイムオーバー時では生き残っている側は、勝利ポーズを取るまでの間はニュートラル動作が完全硬直するが、本作のみ他作品(『ZERO』シリーズや『III』シリーズ)同様ニュートラル動作が動く仕様となっている。 ::各キャラクターの「ニュージェネレーション」でのボイス(『ストリートファイターIV』シリーズで担当)は次の通り。 ::『スパIITURBO HD』同様背景のギミックが全撤廃され、全体のアニメーションも簡素なものになっている。 ::*リュウ、殺意の波動に目覚めたリュウ - [[高橋広樹]] ::*ケン、洗脳されたケン - [[岸祐二]] ::*エドモンド本田 - [[永野善一]] ::*春麗 - [[折笠富美子]] ::*ブランカ - [[うえだゆうじ]] ::*ザンギエフ - [[三宅健太]] ::*ガイル - [[安元洋貴]] ::*ダルシム - [[江川大輔]] ::*バイソン - [[鶴岡聡]] ::*バルログ - [[諏訪部順一]] ::*サガット - [[遠藤大輔]] ::*ベガ - [[若本規夫]] ::*サンダー・ホーク - [[奈良徹]] ::*フェイロン - [[中村悠一]] ::*ディージェイ - [[浜田賢二]] ::*キャミィ - [[沢城みゆき]] ::*豪鬼、真・豪鬼 - [[武虎]] == コレクション作品 == 家庭用ゲーム機で発売されたタイトルにはストリートファイターIIシリーズを一つのパッケージにまとめたコレクション作品が存在する。 === ストリートファイターコレクション === [[1997年]][[9月18日]]にセガサターン用タイトル、1997年[[10月23日]]にPlayStation用タイトルとして発売。日本国外でも''[[:w:Street Fighter Collection|Street Fighter Collection]]''の名称で販売された。 『スパII』『スパII X』のCD-ROMと『[[ストリートファイターZERO|ストリートファイターZERO2']]』のCD-ROMの2枚組。 PlayStation版は基本的にはセガサターン版と同様だが、一部相違点がある。 [[2014年]][[12月3日]]よりゲームアーカイブスにて『ストリートファイターZERO2'』名義で配信が行われたが、内容は単体ではなく『コレクション』の方を再現した『ZERO2'』『スパII』『スパIIX』の3本セットになっている。 === カプコンジェネレーション・第5集〜格闘家たち〜 === [[1998年]][[12月3日]]に[[カプコン クラシックス コレクション]]の一つとしてセガサターン用およびPlayStation用タイトルで発売。日本国外では''[[:w:Capcom Generations#Capcom Generations 5: Street Fighter Collection 2|Street Fighter Collection 2]]''の名称で販売された。 カプコンの旧作タイトルを当時の現行機種にて低価格リリースするシリーズで、『II』『II'』『II' TURBO』がセット。ほぼアーケード版の完全移植といった出来栄えで、スーパーファミコン版などで再現できなかった要素も完全再現されている。また、アーケード版にあったいくつものバグ技の中から、ガイルの真空投げのみ可能となっている。 オプションにてBGMをオリジナル (CPS1) 音源と[[3DO]]版のアレンジ音源との2種類から選択可能となっている。 一定の条件を満たすと『II』『II'』『II' TURBO』のキャラクターで対戦が可能となる対人戦専用モード「SUPER VS. MODE」が出現する。作品ごとに性能が異なるキャラクター同士の対戦が可能。『II』仕様の同キャラ対戦も可能になっており、この場合の2Pカラーは『II'』と同じカラーになる。なおその際、『II』の2Pカラーと『II'』の2Pカラーの同時選択は不可能である。また『II』および『II'』の1Pと『II'TURBO』の2Pカラーの同時選択も不可能である(例:リュウの場合、赤ハチマキ白道着カラーが従来カラーであるが、どちらかが先にこのカラーを選択した場合にはもう一方は『II'』カラーである青ハチマキ黒道着か『II'TURBO』カラーである白ハチマキ白道着のどちらかしか選べなくなる)。 全モード共通でトレーニングモードおよび対戦相手をCPUにした1人プレイ専用のCPUバトルモードが追加されている。 『II』仕様の四天王はプレイヤー操作キャラクターとして選択できない一方、トレーニングモードおよびCPUバトルモードでの対戦相手側としての選択は可能である。 2016年1月6日から2月2日に[[PlayStation Plus]]会員向けのフリープレイとして[[ゲームアーカイブス]]版([[PlayStation 3]]/[[PlayStation Vita]]/[[PlayStation Portable|PSP]])が先行配信され、2月3日から一般配信された。『[[#ストリートファイターII -The World Warrior-|THE WORLD WARRIOR]]』、『[[#ストリートファイターII'(ダッシュ) -CHAMPION EDITION-|CHAMPION EDITION]]』、『[[#ストリートファイターII' TURBO(ダッシュターボ) -HYPER FIGHTING-|TURBO HYPER FIGHTING]]』の3作品が収録されているほか、設定集やトレーニングモードなどが加されている。 難易度を問わず、3タイトルの中のいずれかをノーコンティニューでクリアすることで、敵キャラクターのCPUが強化された「CPU BATTLE」がクリアしたタイトルのモード選択画面に追加される<ref>{{Cite book|和書||title=[[PlayStation Magazine]] No.24|year=1998-12-17|publisher=徳間書店|page=76}}</ref>。 === ハイパーストリートファイターII -The Anniversary Edition- === [[2003年]][[12月18日]]にPlayStation 2用タイトルとして発売。[[2004年]][[1月28日]]にアーケード用タイトルとして稼働。2004年10月9日に配信開始<ref name="famitsu20141009">{{Cite web|和書|title=『ハイパーストリートファイターII』が“カプコン格ゲー復刻プロジェクト”第1弾として配信スタート |url=https://www.famitsu.com/news/201410/09063185.html |website=ファミ通.com |publisher=KADOKAWA Game Linkage |access-date=2022-08-18 |date=2014-10-09 }}</ref>。日本国外でも''[[:w:Hyper Street Fighter II|Hyper Street Fighter II The Anniversary Edition]]''の名称で販売された。 システムは『スパII X』に準拠し、『II』から『スパII X』までの全シリーズ(下から順にNORMAL、DASH、TURBO、SUPER、SUPERXが選択、日本国外ではNORMAL、CHAMP、TURBO、SUPER、SUPERTの順)の最終バージョンにおけるキャラクター{{Efn2|一部修正が入ったキャラクターもいる。}}を使用可能であり、「初代『ストII』のリュウと『スパII』のケン」というように、作品の垣根を超えたキャラクター同士の対戦も可能である{{R|famitsu20141009}}{{Efn2|『II'』の2Pカラーと『スパII』の中パンチボタンカラーの同時選択および『II' TURBO』の1Pカラーと『スパII』の強パンチボタンカラーの同時選択は不可能である。またNORMALの1P、『II'』の1P、『II' TURBO』の2P、『スパII』の1Pと『スパIIX』準拠の『スパII』キャラクターの1Pカラーの同時選択、そしてNORMALの2P、スーパーの2PとX準拠のスーパーキャラクターの2Pカラーの同時選択も不可能である。}}。『スパII』『スパIIX』のキャラクターカラーは前作と同じで、『II'』『II' TURBO』のキャラクターカラーはオリジナルに準拠している。またキャラクターボイスは『II』(ノーマル) - 『II' TURBO』と『スパII』『スパIIX』の2種類で各仕様選択時に各々決定され、同様に攻撃を繰り出した際のヒット音やガード時の効果音、投げ技などの気合ボイス(『II' TURBO』以前で無言の場合はそれに準する)も先述の通りになる。ただし攻撃を繰り出した際の風切り音は『スパII』以降の音に統一されている。 CPU豪鬼の乱入は、乱入無しのものと同様にベガステージBGMとマントを羽織った状態にてCPUベガが現れ、「ROUND1 FIGHT!」コールがされた後に、CPU豪鬼が出現する(ただし、体力ゲージにある顔と名前は既に豪鬼のものになっている)。BGMは豪鬼のものに切り替わり、暗転が明けた時にはベガは既に仰向けに倒れている。 香港の国旗がイギリス統治時代の旗([[香港旗]])から[[中華人民共和国の国旗]]になった([[1997年]]にイギリスから中国へ返還されたため)が、ザンギエフのものは[[ソビエト連邦の国旗]]のままである。 アーケード版『ストリートファイターII』シリーズの中で、唯一1本先取から3本先取までオペレーターが設定を変更できる。本作ではピンチ時のBGMがビハインド側にとって負けたら最終ラウンドになる場合でのみ切り替わる仕様となっている。なおリード側がそのラウンドを落としてもまだ次がある場合はリード側がピンチになってもBGMは切り替わらない。また両者共々最終ラウンドになる場合は従来通りどちらかが先にピンチになればBGMは切り替わる。 1人プレイ時の乱入可能状態の表示がこれまで「PUSH START」であったのが家庭用版移植作品同様の「PRESS START」に変更されている。 本作は日本国外版のみ通常のCPシステムII向けBボードでリリースされ、日本国内では主にリース用に使用されていた1枚基板タイプのCPシステムII(黒いケースで包まれており、フラッシュROMを使用)としてリリースされている。 ==== PlayStation 2版 ==== PlayStation 2版にはアニメ映画『[[ストリートファイターII MOVIE]]』が収録されているが、ゲームソフトの一部としてのおまけなので、[[ソニー]]のゲームガイドラインに従い、春麗のシャワーシーンはカットされている。[[コンピュータエンターテインメントレーティング機構|CERO]]レーティング15歳以上対象。 キャラクターの動きの一部に、オリジナルと違う部分がある(アーケード版では解消されている)。[[カプコレ]]版ではサガットの硬直が長いバグなどが修正されている他、波動拳やソニックブームなどの飛び道具を撃つ際に出る風切り効果音がこれまで「SUPER」「SUPER X」モードのみであったのが、モード不問で全て出るように修正された(アーケード版では「SUPER」「SUPER X」モードのみ風切り効果音が出る)。 メモリーカードには非対応になっている。 オプションでBGMをCPSI・CPSII・ARRANGEから選択することができる。特にCPSIには『スパII』以降に追加された5人のステージBGMも新たに追加対応されている。 [[2008年]][[9月18日]]には『'''ハイパーストリートファイターII アニバーサリーエディション [[ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション]] バリューパック'''』として、本作と『[[ヴァンパイア (ゲーム)|ヴァンパイア]]』のカップリング作品が発売。先着購入特典としてDVD「ストリートファイターII&ヴァンパイア アーケードエンディングギャラリー」が配布。 ==== Xbox版 ==== [[2004年]][[10月28日]]に『ストリートファイターアニバーサリーコレクション』として発売。 『ハイパーII』『[[ストリートファイターIII|ストリートファイターIII 3rd STRIKE]]』が1本にまとまったソフト。ともにネット通信対戦対応(通信対戦はサービス終了しているが、ローカルでのプレイは[[Xbox 360]]にも対応)。 === ストリートファイター 30th アニバーサリーコレクション インターナショナル === [[2018年]][[10月25日]]にNintendo Switch、PlayStation 4、Xbox One、Steam向けに発売<ref>{{Cite web|和書|title=「ストリートファイター 30th アニバーサリーコレクション インターナショナル」レビュー 幻の初代「ストリートファイター」から傑作「ストIII 3rd STRIKE」まで網羅した30年の歴史が詰まった究極のファンアイテム ストリートファイター 30th アニバーサリーコレクション インターナショナル |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/review/1149379.html |website=GAME Watch |publisher=インプレス |date=2018-10-24 |access-date=2022-07-11}}</ref>。日本国外では''[[:w:Street Fighter 30th Anniversary Collection|Street Fighter 30th Anniversary Collection]]''の名称で販売された。 開発はDIGITAL ECLIPSE。アーケード版12タイトルの中に『II』『II'』『II' TURBO』『スパII』『スパIIX』を収録。『カプコンジェネレーション』や『ストリートファイターコレクション』のものとは違い、完全にアーケード版そのままとなっている。そのためアーケード版のバグ技もそのまま使用可能となっている。パッケージ版のみ特典として「[[ALL ABOUTシリーズ|ALL ABOUT]] ストリートファイター 30周年復刻版」が同梱される。 == オムニバス作品 == カプコンが発売した複数タイトルのうちの一つとしてストリートファイターIIシリーズが収録されたタイトルが存在する。 ;[[カプコン クラシックス コレクション]] :[[2006年]][[3月2日]]にPlayStation 2用タイトルとして発売。PlayStation・セガサターンで発売された『カプコンジェネレーション』シリーズ5作に6タイトルを追加した計22タイトルを収録している。22タイトルの中に『II』『II'』『II' TURBO』が収録されている。PlayStation版の移植のため、対戦の前後にディスク読み込みがある。 :同年[[9月7日]]にはPlayStation Portable用タイトルとして発売。PlayStation 2版と同様『カプコンジェネレーション』シリーズ5作に新たな3タイトルを追加した計19タイトルを収録している。19タイトルの中に『II』『II'』『II' TURBO』が収録されている。携帯ゲーム機の中では最もアーケード版に近い移植が行われた。条件を満たすことで「得点アップ」、「攻撃力アップ」のチートを使うことができる。PlayStation版の移植のため、ディスク読み込みがあるのが難点(特にPSP-1000はかなり長い)。なお本作にはBGMをアレンジバージョンに変更する機能があるが、BGMをアレンジバージョンに変更することで合わせてキャラクターの音声やラウンドコールの音声がアーケード版よりも高音質なものに変わる。 :日本国外では''Capcom Classics Collection''としてPlayStation 2用のほか、Xbox用タイトルとしても発売された。また日本国外ではVol.2が発売され『Super Street Fighter II Turbo』(『スパII X』の欧米版)が収録されている。 ;[[カプコン クラシックス コレクション#カプコンアーケード|カプコンアーケード]] :iPhone/iPod touch用タイトルとして配信。 :アプリ内の仮想ゲームセンターに設置されている筐体として移植されている。アプリの機能として難易度を下げたモードが用意されたり、攻略を助ける追加アイテムを購入したりできる。 :;ストリートファイターII ::[[2010年]][[11月4日]]に配信開始。 ::PlayStation版をベースとした移植がされている。必殺技ボタンが追加され、各キャラクターに割り振られた必殺技1つを1ボタンで出すことができる。画面の大きさが足りないことから、中パンチ・中キックボタンと必殺技ボタンはいずれか片方しか使用できない仕様になっている。これらは設定で選択でき、画面内のレバーやボタンの配置はある程度自由に変更が可能。 :;ストリートファイターII' ::2010年[[12月16日]]に配信開始。 :;ストリートファイターII' TURBO ::[[2011年]][[7月28日]]のアップデートにて追加<ref>{{Cite web|和書|title=カプコン、iPhone/iPod touch「ファイナルファイト@カプコンアーケード」 「ストリートファイターII'ターボ」と「マジックソード」を追加 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/463957.html |website=GAME Watch |publisher=インプレス |date=2011-07-29 |access-date=2022-08-20}}</ref>。 ;ストリートファイターIIコレクション :2011年[[9月15日]]にiPhone/iPod touch用タイトルとして配信開始。 :『II』『II'』『II' TURBO』を収録。『カプコンアーケード』に収録されたものをベースに、操作性を改善している。必殺技ボタンが弱・中・強の3つになり、レバーと組み合わせて押すことで複数の必殺技を出すことができる。また、必殺技ボタンと中パンチ・中キックボタンを両立することができる。 そのほか、Nintendo Switch、PlayStation 4、Xbox One、Steam向けに以下のタイトルが配信されている。 ;[[カプコンアーケードスタジアム]] :[[2021年]][[2月18日]]配信開始。アーケード版『II』『II' TURBO』『スパIIX』を収録。 ;[[カプコン ファイティング コレクション]] :[[2022年]][[6月26日]]配信開始。アーケード版『ハイパーII』を収録。日本国外版への切り替えも可能。 ;[[カプコンアーケード2ndスタジアム]] :2022年[[7月22日]]配信開始。アーケード版『ハイパーII』を収録。 == ゲーム以外のメディア展開 == === 映画 === ==== 1994年実写映画 ==== ;『[[ストリートファイター (1994年の映画)|STREET FIGHTER]]』([[1994年]]、アメリカ) :興行成績は全米興行収入3300万ドル、日本配給収入3億円。 :アメリカ軍人という理由で[[ガイル (ストリートファイター)|ガイル]]が主役に据えられ、[[ジャン=クロード・ヴァン・ダム]]が演じた。元々はヴァン・ダムと[[ジャッキー・チェン]]との共演作として企画され、ジャッキーがフェイロンを演じる予定だったが、契約上の問題により実現しなかった。この映画をゲーム化したアーケードゲーム『[[ストリートファイター ザ・ムービー]]』も登場し、家庭用では別物の『[[ストリートファイター リアルバトル オン フィルム]]』も発売された。 ==== 1994年アニメ映画 ==== ;『[[ストリートファイターII MOVIE]]』(1994年、[[日本]]) :アニメ映画。この映画をさらにゲーム化した『[[ストリートファイターII MOVIE#ゲーム版|ストリートファイターII ムービー]]』も発売された。 ===== オリジナルサウンドトラック ===== ; Street Fighter II Original Sound Track : Sony Recordsより1994年8月1日に発売。 : Bonus Track-A Riddle/GOUKI theme 収録。 : (Qサウンド使用によりトラックダウン) ; Street Fighter II Original Sound Track vol.2 Original Score Album : Sony Recordsより1994年11月21日に発売。 : Bonus Track-[[恋しさとせつなさと心強さと]]Q Sound Mix Version 収録。 ==== よみがえる藤原京 ==== ;『ストリートファイターII よみがえる藤原京 時を駆けたファイターたち』 :1995年3月29日 - 5月21日に『[[ロマントピア藤原京'95]]』のCAPCOMブースで上映された劇場作品。キャラクター原案は[[西村キヌ]]<ref>ゲーメストムックVol.17『カプコンイラストレーションズ カプコンイラスト作品集』 新声社、1996年、141頁。</ref>。 :2004年に漫画『ストリートファイターII-RYU』と共に『ストリートファイターII RYU VS. よみがえる藤原京』に収録されて発売された。 :;ストーリー ::[[亀石]]によって突如起こった時空嵐で1300年前にタイムスリップしたリュウ、ケン、春麗、本田は、急速な時間の流れの中、[[藤原京]]の栄枯を体験する。 :;キャスト ::* リュウ - [[大塚明夫]] ::* ケン - [[難波圭一]] ::* 春麗 - [[富沢美智恵]] ::* エドモンド本田 - [[郷里大輔]] ::* 祈祷の老婆 - [[峰あつ子]] ::* その他 - [[中嶋聡彦]]、[[松尾貴司]]、[[伊崎寿克]]、[[池田優こ]]、[[川中子雅人]]、斎藤周、[[早矢仕裕之]] ::;スタッフ ::* 製作総指揮 - [[辻本憲三]] ::* 製作 - CAPCOM ::* プロデューサー - 坂井昭夫、朴谷直治 ::* アシスタントプロデューサー - 鍵山裕一 ::* 制作進行 - 藤原浩幸 ::* アニメーション制作 - [[ぴえろ|スタジオぴえろ]] ::* キャラクター原案・デザイン - CAPCOM ::* 作画監督・藤原京キャラクターデザイン - [[都留稔幸]] ::* 演出 - 横山広行 ::* 藤原京監修 - 黒崎直 ::* 監督・脚本 - [[鳥海永行]] ==== ザ・レジェンド・オブ・チュンリー ==== ;『[[ストリートファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー]]』([[2009年]]、アメリカ) :[[春麗]]を主人公に据えたストーリーの映画。米国の映画配給会社であるハイドパーク社とカプコンが共同会社を起こし制作。カプコンのウェブサイト上で2006年10月31日に発表された<ref>[http://www.capcom.co.jp/ir/news/html/061031.html カプコン、『ストリートファイター』の実写映画化を決定 〜ハイドパーク社とジョイントベンチャーを設立し、全世界で公開〜] 2013年10月26日閲覧。</ref>。 ==== 実写Webドラマ ==== ; 『Street Fighter<nowiki>:</nowiki> Legacy』 : 2010年5月に配信された自主制作ショートムービー。俳優のジョーイ・アンサーによってプロジェクトが組まれ製作され、この作品がカプコンに認められたことで『Assassin's Fist』への製作と繋がった。 ; 『Street Fighter<nowiki>:</nowiki> Assassin's Fist』 : 2014年5月23日よりYoutube配信の実写ドラマ<ref>[https://www.cinemacafe.net/article/2014/06/10/23959.html “神”ゲー「ストリートファイター」がリアル実写化! 玄里ら日本からも参加]cinemacafe.net 2014年6月10日</ref>。全12話+Episode0。オプションで日本語字幕あり。日本国内ではこれらを1本にまとめ、『'''ストリートファイター 暗殺拳'''』として2014年8月2日に[[ヒューマントラスト|ヒューマントラストシネマ渋谷]]で特別劇場公開が行われた。2014年10月2日に未公開シーンを追加したDVD『ストリートファイター 暗殺拳 コンプリートエディション』が発売。 : {{Main|ストリートファイター 暗殺拳}} :;キャスト ::* [[剛拳]]:[[小家山晃]] ::** 若き日の剛拳:[[尚玄]] ::** 剛拳(11歳):[[ビクター・ホワ・ファム]] ::* ケン:[[クリチャン・ハワード]] ::** ケン(12歳):[[シメオン・ツォロフ]] ::* リュウ:[[マイク・モー]] ::** リュウ(12歳):[[ザン・チョン・ダンク]] ::** リュウ(5歳):[[ウーコン・ハイアン]] ::* 轟鉄:[[伊川東吾]] ::* ケンの父:[[マーク・キリーン]] ::* ゴウマ:伊川東吾 ::* 仙蔵:[[ハル・ヤマノウチ]] ::** 若き日の仙蔵:[[ハイクワーン・グエン]] ::* 豪鬼 / アクマ:[[ジョーイ・アンサー]] ::** 若き日の豪鬼:[[ガク・スペース]] ::** 豪鬼(11歳):[[ホアン・チョン・ハン]] ::* サヤカ:[[玄里]] ::** サヤカ(11歳):[[トゥアン・グエン]] === テレビアニメ === * [[ストリートファイターII V]]([[1995年]]、日本) * {{仮リンク|ストリートファイター USA|en|Street Fighter (TV series)}}([[1995年]] - [[1997年]]、アメリカ) *:主人公のガイルが正義の格闘家チーム「ストリートファイター」を率いて悪の組織シャドルーと戦う内容。日本では2019年に日本語版字幕付きで動画配信サービスで配信開始<ref>[http://www3.cinematopics.com/archives/108050 誕生から30周年を迎えた「ストリートファイターシリーズ」! 幻のTVアニメ『ストリートファイター USA』が遂に日本上陸!!!](シネマトピックス、2019年3月14日)</ref>。 === ドラマCD === 春麗を主人公とした[[ドラマCD]]が東芝EMI(現[[EMIミュージック・ジャパン]])より発売されている。3巻のエンディングで4巻の発売を匂わせていたが、販売は全3巻で終了している。 # ストリートファイターII 春麗飛翔伝説([[1992年]][[7月14日]]) # ストリートファイターII 復讐の戦士([[1992年]][[12月16日]]) # ストリートファイターII -魔人の肖像-([[1993年]][[7月14日]]) *キャスト **春麗:[[冬馬由美]] **リュウ:[[島田敏]] **ベガ:[[銀河万丈]] **バルログ:[[速水奨]] **[[ストリートファイター (ゲーム)#CPU専用|烈]]:[[青野武]] **ケン:[[関俊彦]] **サガット:[[大塚明夫]] **ガイル:[[若本規夫]] **バイソン:[[郷里大輔]] **ダルシム:[[龍田直樹]] **春麗の父:[[中尾隆聖]] **所長:[[上田敏也]] **崑崙:[[草尾毅]] **李妖狗:[[千葉繁]] **[[ナッシュ (ストリートファイター)|ナッシュ]]:[[中村大樹]] **部下:[[津久井教生]] **警官:[[鈴木琢磨]] **老婆:[[巴菁子]] **アナウンサー:菊池貴子 **ナレーション:[[玄田哲章]] ; ストリートファイターII外伝 〜キャミィ・闘いの序曲〜 : キャミィを主人公としたドラマCD。 :* キャスト :** キャミィ:[[三石琴乃]] :** ウォーレン少佐:関俊彦 :** ウルフマン大佐:[[内海賢二]] :** ゴメス:[[池田秀一]] :** イザベル:[[井上喜久子]] :** 情報部の男:[[星野充昭]] :** コンピューターの声:[[呉林卓美|くればやしたくみ]] :** 男1:[[小形満]] :** 男2:[[宇垣秀成]] :** ディーラー:[[菅原淳一]] :** ナレーション:[[政宗一成]] === 漫画 === ; ストリートファイターII -RYU : [[神崎将臣]]作。『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』に連載。 : 『ストII』の世界が作者のフィルターを通し[[シリアス]]を主体に描かれた。本格的なストーリーを持つ『ストII』の漫画は、本作と後述の[[中平正彦]]作『キャミィ外伝』が並ぶ。 : リュウとケンの師匠の「[[剛拳]]」はこの作品が初出。後に増補版が発売された。全2巻で一度完結しているが『II'』の発売に伴い「蜃気楼編」として連載が再開され(3巻)、ゲーム版の新要素である2Pカラーの自分自身との同キャラ対決がテーマとなっている。 ; [[ストII爆笑!!4コマギャグ外伝]] : ゲームのキャラクターを登場人物にした4コマギャグ漫画。[[橋口たかし|橋口隆志]]作。『[[月刊コロコロコミック]]』に連載。 ; ストII4コマ笑龍拳 : 4コマギャグ漫画。[[よしむらひでお]]作。『[[コミックボンボン]]』に連載。 ; ストII4コマ大行進! :『[[デラックスボンボン]]』での[[水戸いずみ (漫画家)|水戸いずみ]]、[[御童カズヒコ]]、[[佐藤元]](もしくは水戸、佐藤、[[有賀ヒトシ]])三者の4コマ漫画の複合連載枠。それらの作品をまとめた同名の単行本も発売された([[かみやたかひろ]]、[[岩村俊哉|岩村としや]]の作品も収録)。 ; スーパーストリートファイターII キャミィ外伝 : [[中平正彦]]作。『[[週刊少年サンデー|週刊少年サンデー増刊]]』に連載。キャミィを主役とし、ゲームの設定を下敷きにストーリーが描かれた。 : 作者の中平正彦はこの作品を端緒として、後もストリートファイターシリーズのコミカライズを手がけている。 ; SUPER STREET FIGHTERII X 外伝 : [[伊藤真美]]作。新声社『[[コミックゲーメスト]]』1995年7月号 - 1996年3月まで連載。8話のオムニバス。単行本は1巻{{Efn2|単行本に○に「1」と記載あり。}}だけ発行しているが、フェイロンが主役の漫画があった2巻以降は発行していない。 : 括弧内のキャラクター名は作品の主役。 :* 第一話:闘いの予感(リュウ) :* 第二話:刺客!前編(春麗) :* 第三話:刺客!後編(春麗) :* 第四話:親友(ガイル) :* 第五話:放たれた美獣(キャミィ) :* 第六話:明かされた過去(キャミィ) - 第五話の続編 :* 第七話:約束の大地(T・ホーク) :* 第八話:闘いの先に見えざる者(ケン、E・本田) : 作者の伊藤真美は、この作品の前に新声社から1994年12月20日発行している『ストリートファイターIIコミックアンソロジー』でもイラスト(リュウ、ケン、T・ホーク、キャミィ)と短編漫画『ホリディ・マーチ』(キャミィ、春麗、フェイロン)を執筆している。 ; SUPER STREET FIGHTERIIX HARD SPIN OFF : 伊藤真美作。徳間書店。『SUPER STREET FIGHTERII X 外伝』を単行本未収録込みの全話と1部のアンソロジーコミック<!-- ホリディ・マーチが該当 -->収録した完全版。出版社をかえ、単行本が2冊発売された。 ; シャドルーのベガさん : [[大和田秀樹]]作。[[スクウェア・エニックス]]『[[月刊ビッグガンガン]]』にて2013年Vol.11から2014年Vol.11まで連載された。 ; ケンガンアシュラVS.STREET FIGHTER : 原作:[[サンドロビッチ・ヤバ子]]、作画:[[だろめおん]]。『[[ケンガンアシュラ]]』とのコラボ作。『[[週刊少年サンデー]]』2014年36・37合併号&38号に前後編で掲載。 === 小説 === ; ストリートファイターII キャミィヒストリー 雨の日に拾った子猫 : 著:[[皆河有伽|皆川ゆか]]、イラスト:[[うるし原智志]]。[[ワニブックス]]刊。全2巻。 ; ストリートファイターII SAGA : 著:碧星タケル、イラスト:うるし原智志。ワニブックス刊。「昇龍激闘篇」、「明王降臨篇」の全2巻。 ; ストリートファイターII(外伝) : 著:[[いさき玲衣]]、イラスト:[[ことぶきつかさ]]。[[ゲーメストΖ文庫]]刊。「ウルティメット・タワーズ」、「ロンドン・クライシス」の全2巻。 === ゲーメストビデオ === * スーパーストリートファイターII The New Challengers(1994年3月5日 新声社)ISBN 4-88199-107-8 * スーパーストリートファイターII X Grand Master Challenge(1994年6月11日 新声社)ISBN 4-88199-116-7 === コラボレーション === 『ストリートファイターII』を対象にしたものを記載。 ; [[佐賀県]] : 佐賀県の地方創生プロジェクト「サガプライズ!」の一環としてコラボレーション企画「ストリートファイター佐賀」が実施され、[[東京都|東京]]・[[銀座]]の[[銀座プレイス]]でコラボ名産を販売する「佐賀ット商店」が2018年1月22日 - 28日に期間限定オープンした。佐賀と急速に距離を縮めている[[タイ王国|タイ]]出身であり、佐賀と相性の良い語感を持つサガットが[[観光大使]]に就任し、佐賀ット商店の店長として佐賀県の名産品の魅力を発信する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/283/G028398/20180111002/|title=佐賀県,今度は「ストII」とのコラボ企画「ストリートファイター佐賀」実施を発表。銀座に名産品ショップ「佐賀ット商店」が1月22日よりオープン|publisher=4Gamer.net|accessdate=2018-11-19|date=2018-01-11}}</ref>。 ; [[トランスフォーマー]] : 2018年5月26日に、『ストリートファイター』30周年を記念して[[タカラトミー]]からリュウ、ベガ、ケン、春麗をモチーフにした変形[[フィギュア]]が発売。タカラトミーの開発チーム内の『ストII』ファンの意見も取り入れて作られており、[[エネルゴン]]を求めて『ストリートファイターII』の世界にやってきたトランスフォーマーたちがファイターたちをスキャン(擬態)したという設定で、[[コンボイ (トランスフォーマー)|コンボイ]]がリュウ、[[メガトロン (トランスフォーマー)|メガトロン]]がベガ、[[ロディマスコンボイ|ホットロディマス]]がケン、[[アーシー]]が春麗に扮している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/368/G036842/20171121052/|title=トランスフォーマーが「ストII」ファイターをスキャン。リュウ風のコンボイや春麗風のアーシーが2018年5月に発売|publisher=[[4Gamer.net]]|accessdate=2018-11-19|date=2017-11-22}}</ref>。 === その他 === [[File:Rare odditity (2060587599).jpg|thumb|拳聖土竜]] ;拳聖土竜(けんせいもぐら) :本作をモチーフにした[[モグラ叩き]]ゲーム。[[トーゴ (企業)|トーゴ]]、[[アドアーズ|シグマ]]との共同開発作品<ref>{{Cite web|和書|title=上野事業所レポート {{!}} The Vault {{!}} Activity Reports |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/132588 |website=CAPCOM:Shadaloo C.R.I. |access-date=2022-08-07 |publisher=CAPCOM}}</ref>。 :6箇所から顔を出すベガを叩くと、モニターに表示されるリュウや春麗が必殺技を出す。この作品で春麗の声を担当した[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]は、『[[ストリートファイターZERO|ZERO]]』シリーズや『[[X-MEN VS. STREET FIGHTER]]』を始めとする[[VSシリーズ]]でも春麗の声を担当することになった。 ;[[CRフィーバーストII]] :本作をモチーフにした[[パチンコ]]機。『[[ポケットファイター]]』に使われていた2頭身のキャラクターグラフィックを使用(『ポケットファイター』に登場していないキャラクターは作り下ろし)している。PlayStation用ソフト『[[FEVER4 SANKYO公式パチンコシミュレーション]]』では、リュウや春麗とこのパチンコで勝負することができる。 ;[[ストリートファイター2 (パチスロ)|ストリートファイター2]] :本作をモチーフにした[[パチスロ]]機。 ;[[カードダス]] :『ストII』の全シリーズがカード化された。『ストリートファイターII MOVIE』や『ストリートファイターII V』を扱ったものも存在する。 ;春麗にまかせチャイナ :本作をモチーフにしたパチスロ機。 ;ピンボール版ストリートファイターII :本作をモチーフにしたゴッドリーブ社製作のピンボール。国内ではタイトーが販売したが、輸入台数が非常に少なかった。得点プレートに描かれている春麗がアメコミ風に描かれている。 ;[[妄想コントローラー]] :十字キーと2つのボタンが付いたコントローラーを操作して、時間内に規定数の必殺技を出すという内容の玩具。音と操作感覚のみで楽しむため、テレビへの接続はできない。全3種類あり、それぞれ収録されているキャラクターが異なる。なお音声はスーパーファミコン版のものが用いられている。 ==反響 == 本作は小学生から上は若年の社会人に至るまで幅広い年齢層に支持され、本作の筐体を多く設置する店や、本作のみを設置した店が現れるなど、インベーダーブーム以来の様相となった。本作は多くのコンシューマ機にも移植され、専用コントローラが発売されるだけではなく、その後発売されるゲーム機では、格闘用6ボタンを意識した配置のものが多くなった。このうち、スーパーファミコン版はアーケード版で魅力を知っていた小中学生を中心に支持された。この低年齢層が後年の格闘ゲームファンとなっていく<ref name="MDR">マーチャンダイジングライツレポート1998年9月号。</ref>。大きく描かれたキャラクターが1対1で対戦する。各キャラクターはプレイヤーの操作により生き生きと動き、またキャラクター間のバランスは続編の『ストリートファイターII'』(以下『II'』と表記)以降、綿密に調整され、対戦をより奥深いものとした。プレイ中の相手に対戦を申し込む「乱入対戦」と、いわゆる「対戦台」のスタイルを確立した作品である。 こうしたメディアミックスの結果、本作をプレイしていない層にまでキャラクター人気が波及。本作をパロディ化したマンガや同人誌も登場し<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=「ドラクエ」「信長」ソフト産業の崩壊 神話の正体は!?|date=1993年1月30日|year=1993|publisher=光文社|pages=126,127,128,}}</ref>、特に女性キャラクターである[[春麗]]は男性ハイティーン層に人気を博した。同人マンガ即売会は春麗の[[コスプレ]]の女の子であふれかえった{{R|:1}}。アニメではこうしたキャラクター先行の人気は珍しいことではないが、ゲームセンター発祥のキャラクターでこの現象が起きたのは春麗が初めてとされている{{R|MDR}}。 海外の人気も高く、日本より先に発売されたアメリカでは対戦大会がテレビ中継されており、[[ジャッキー・チェン]]出演で映画化という噂(デマ?)も飛ぶ{{R|:1}}。 === 偽造基板問題 === 人気が高い反面、1992年秋ごろからは世界各地で偽造基板も出回るようになり、カプコンが法的措置に乗り出した<ref>{{Cite news|和書 |title=カプコン「ストリートファイターII」偽造基板でコピー対策を強化 韓国など各国での法的手続きを中心に|newspaper=ゲームマシン |date=1993-03-15 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19920215p.pdf|access-date=2023-04-16|issue=420|page=1}}</ref>。 基板偽造の輸出にかかわったとされる香港のゲーム場運営会社ボンディール代表フレッド・ミルナーは、アメリカのコンピュータゲーム業界誌「リプレイ」からの電話取材の中で、アメリカなど著作権に厳しい国には偽造基板を輸出しなかったものの、南米など著作権に甘い国には輸出したことを話しており、プエルトリコも南米のうちに入っていると思っていたと述べている<ref name="GameMachine420P17">{{Cite news|和書 |title=「ストリートファイターII」で活発な台湾の偽造業者 香港のボンディール社のミルナー氏語る |newspaper=ゲームマシン |format=PDF|agency=アミューズメント通信社 |date=1993-03-15 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19920215p.pdf#page=09 |access-date=2023-04-16|issue=420|page=17}}</ref>{{efn2|この電話取材の様子が掲載された「ゲームマシン」420号では、ミルナーが「南米もコピー品が合法的な国だ」と述べていたされているが、事実誤認であると指摘している。また、プエルトリコはアメリカ自治領であり、アメリカの著作権法が適用される{{R|GameMachine420P17}}。}}。 また、香港、台湾、イギリスでは警察による偽造基板販売業者への家宅捜索が行われたほか、逮捕者が出た例もあった{{R|GameMachine445}}。アーケードゲーム業界紙「ゲームマシン」445号(1993年3月15日)によると、たとえばイギリスでは当時1万台の『ストII』筐体が稼働しているが、うち6割は偽造基板だとされている<ref name="GameMachine445">{{Cite news|和書 |title=「ストII」無断コピー事件 英国でも販売 3社捜査し、偽造基板押収、1名逮捕|newspaper=ゲームマシン |format=PDF|agency=アミューズメント通信社 |date=1993-03-15 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19930315p.pdf|access-date=2023-03-21 |issue=445|page=1}}</ref>。 === 他作品への影響 === コマンド入力をはじめとするシステムは今日における対戦型格闘ゲームの[[雛形]]となると共に多くのフォロワーを生み出している。このような作品が多数生まれた背景についてライターの仁科十蔵は、『ストII』の人気が高すぎて筐体の前に長蛇の列ができてしまい、仕方なくほかの格闘ゲームに流れていったためだと推測している<ref name="IGCC20180508">{{Cite web|和書|title=怒涛の攻めからの気絶が楽しかった対戦格闘ゲーム『ファイターズヒストリー』 |url=https://igcc.jp/%e3%83%95%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%82%ba%e3%83%92%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%aa%e3%83%bc/ |website=ゲーム文化保存研究所 |date=2018-05-08 |access-date=2022-08-07}}</ref>。このうち、データイーストの『ファイターズヒストリー』に対して、カプコンは[[カプコン対データイースト裁判|訴訟]]を起こしており、最終的には和解している{{R|IGCC20180508}}<ref name="GameMachine485">{{Cite news |和書 |title=カプコン対データイースト著作権訴訟|newspaper=ゲームマシン|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19941201p.pdf|format=PDF|agency=アミューズメント通信社|volume=485|date=1994-12-01 |page=1|accessdate=2022-08-07}}</ref>。 {{See also|カプコン対データイースト裁判}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|30em}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == *{{Cite book |和書 |author=レトロゲーム愛好会 |date=2020-08-28|title=メガドライブコンプリートガイドデラックス With マークIII|publisher=主婦の友インフォス |isbn=978-4-07-442206-7|ref={{SfnRef|レトロゲーム愛好会|2020}} }} == 関連項目 == * [[対戦型格闘ゲーム一覧]] * [[ALPH LYLA|アルフ・ライラ]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20110812045032/http://www.capcom.co.jp/newproducts/consumer/gbasf2ad/ スーパーストリートファイターIIX リバイバル] - [[ゲームボーイアドバンス]] * [http://capcom.nesica.net/hsf2/ ハイパーストリートファイターII for NESICAxLive 公式サイト] * {{Wiiバーチャルコンソール|sf2|ストリートファイターII ザ ワールド ウォーリアー(スーパーファミコン版)}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|jamj|ストリートファイターII ザ ワールド ウォーリアー(スーパーファミコン版)}} * {{Wiiバーチャルコンソール|sft|ストリートファイターII ターボ ハイパー ファイティング(スーパーファミコン版)}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|jayj|ストリートファイターII ターボ ハイパー ファイティング(スーパーファミコン版)}} * [https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000040921 ストリートファイターII ターボ ハイパー ファイティング(スーパーファミコン版)] - [[Newニンテンドー3DS|New 3DS]]バーチャルコンソール * {{Wiiバーチャルコンソール|sfnc|スーパーストリートファイターII ザ ニューチャレンジャーズ(スーパーファミコン版)}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|javj|スーパーストリートファイターII ザ ニューチャレンジャーズ(スーパーファミコン版)}} * [https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000040556 スーパーストリートファイターII ザ ニューチャレンジャーズ(スーパーファミコン版)] - [[Newニンテンドー3DS|New 3DS]]バーチャルコンソール * {{Wii Uバーチャルコンソール|pb9j|Super Street FighterII X Revival}} * [http://vc.sega.jp/vc_streetfighter2/ バーチャルコンソール ストリートファイターIIダッシュプラス(メガドライブ版)] * [http://vc.sega.jp/vc_ssf2/ バーチャルコンソール スーパーストリートファイターII(メガドライブ版)] * [http://www.capcom.co.jp/usf2/ ULTRA STREET FIGHTER II The Final Challengers] - [[Nintendo Switch]] *[http://www.capcom.co.jp/sf30ac/ ストリートファイター 30th アニバーサリーコレクション インターナショナル] {{StreetFighter}} {{カプコン対戦格闘}} {{Golden Joystick GOTY}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header= |redirect1=ストリートファイターII (スーパーファミコン) |1-1=スーパーファミコン用ソフト |1-2=1992年のコンピュータゲーム |1-3=Wii用バーチャルコンソール対応ソフト |1-4=Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト |redirect2=スーパーストリートファイターII |2-1=スーパーファミコン用ソフト |2-2=メガドライブ用ソフト |2-3=1994年のコンピュータゲーム |2-4=Wii用バーチャルコンソール対応ソフト |2-5=Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト |2-6=Newニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト |2-7=ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト |redirect3=シャドルーのベガさん |3-1=漫画作品 し |3-2=月刊ビッグガンガン }} {{DEFAULTSORT:すとりいとふあいたあ2}} [[Category:ストリートファイターII|*]] [[Category:1991年のアーケードゲーム]] [[Category:ファミ通クロスレビュープラチナ殿堂入りソフト]] [[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]] [[Category:PCエンジン用ソフト]] [[Category:メガドライブ用ソフト]] [[Category:X68000用ゲームソフト]] [[Category:FM TOWNS用ゲームソフト]] [[Category:3DO用ソフト]] [[Category:セガサターン用ソフト]] [[Category:PlayStation用ソフト]] [[Category:ゲームボーイ用ソフト]] [[Category:ドリームキャスト用ソフト]] [[Category:PlayStation 2用ソフト]] [[Category:Xbox用ソフト]] [[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]] [[Category:携帯電話アプリゲーム]] [[Category:iPhone用ゲームソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Newニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Nintendo Switch用ソフト]] [[Category:セガ メガドライブ for Nintendo Switch Online収録ソフト]] [[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]] [[Category:漫画作品 す|とりいとふあいたあ2]] [[Category:ゲーム雑誌掲載漫画作品]] [[Category:ファミリーコンピュータMagazine]] [[Category:オールタイム100ビデオゲーム選出]] [[Category:豪鬼]] [[Category:世界ビデオゲームの殿堂]]
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ネット配信
ネット配信(ネットはいしん)とは、広域ネットワーク(インターネットなど)を経由してデータを求めるユーザーの元に送信するサービスをいう。WEB配信、オンライン配信、デジタル配信、ウェブキャスト(英語:Webcast)、ウェブキャスティング(英語:Webcasting)などとも言われる。 マルチメディア関連のコンテンツのデジタル化が急速に進んだうえ、ネットワーク通信・メディア再生ともに機器の性能やインフラの整備が格段に向上したことから、高音質・高画質の映像(動画)や音楽などの音声コンテンツデータをネットワークを通じて配信することが可能になった。こうした流れの中で、ネットを通じた映画の配信も行われるようになった。また、アニメやドラマの有料配信もされている。映画のネット配信はユーザーにとっては歓迎すべき状況だが、製作者側の立場に立ってみれば課題も多い。課題としてよく挙げられるのが、著作権をどう守っていくかということと、課金システムをどう整備していくか、である。著作権保護の観点からいうと、ユーザビリティを高めつつ違法コピーを防止する技術・法整備など(プライバシーの保護との兼ね合いが難しいが)の確立が急務である。
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{{出典の明記|date=2016-07-05}} [[ファイル:Niconico Live studio, Niconico chokaigi 20120428.jpg|サムネイル|[[ニコニコ超会議]]2012の[[ニコニコ生放送]]:Zero 超ユーザー生放送ブース]] '''ネット配信'''(ネットはいしん)とは、広域[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]([[インターネット]]など)を経由して[[データ]]を求める[[ユーザー]]の元に送信するサービスをいう。'''[[ワールドワイドウェブ|WEB]]配信'''、'''[[オンライン]]配信'''、'''[[デジタル]]配信'''、'''ウェブキャスト'''([[英語]]:Webcast)、'''ウェブキャスティング'''(英語:Webcasting)などとも言われる。 [[マルチメディア]]関連の[[コンテンツ]]の[[デジタル]]化が急速に進んだうえ、ネットワーク通信・[[電子媒体|メディア]]再生ともに機器の性能や[[インフラ]]の整備が格段に向上したことから、高音質・高画質の映像([[動画]])や[[音楽]]などの[[音声]][[コンテンツ]]データをネットワークを通じて配信することが可能になった。こうした流れの中で、ネットを通じた[[映画]]の配信も行われるようになった。また、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[ドラマ]]の有料配信もされている。映画のネット配信はユーザーにとっては歓迎すべき状況だが、製作者側の立場に立ってみれば課題も多い。課題としてよく挙げられるのが、[[著作権]]をどう守っていくかということと、[[課金]]システムをどう整備していくか、である。著作権保護の観点からいうと、[[ユーザビリティ]]を高めつつ[[違法コピー]]を防止する技術・法整備など([[プライバシー]]の保護との兼ね合いが難しいが)の確立が急務である。 == 関連項目 == * [[ライブ配信]] * [[ダウンロード販売]] * [[音楽配信]] * [[IP放送]] * [[インターネット放送]] * [[インターネットテレビ]] * [[インターネット放送ネットワーク]] * [[インターネットラジオ]] * [[ポッドキャスト]] * [[オンデマンド]] ** [[ビデオ・オン・デマンド]] ** [[ビデオスルー]] * [[動画共有サービス]] * [[セットトップボックス]] * [[スマートデバイス#スマートテレビ・スマート家電|スマートスティック]] * [[映画の著作物]] * [[Webアニメ]] * [[コンテンツ連動型広告]] * [[パブリック・アクセス]] * [[動画配信]] * [[通信社]] {{Internet-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ねつとはいしん}} [[Category:インターネットサービス]] [[Category:動画配信]]
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対戦型格闘ゲーム
対戦型格闘ゲーム(たいせんがたかくとうゲーム)とは、プレイヤーとコンピュータ、あるいはプレイヤー同士が操作するキャラクターが、主に1対1の格闘技(もしくはそれに類する形式)で戦う対戦型コンピュータゲームである。コンピュータゲームのジャンルの一つであり、対戦アクションゲームの派生物のジャンルである。 コンピュータゲームのジャンルにおいてはアクションゲームの一種として分類できる。単に格闘ゲーム、対戦ゲーム、格ゲーと略されることや、格闘アクションゲーム、格闘アクション、対戦格闘ゲーム、対戦格闘という別称で呼ばれることもある。大別して、上下左右の動きだけで奥行きのないもの(2D)と、奥行きのあるもの(3D)の2種類がある。 プレイヤーは多数のキャラクターの中から自分の使用するキャラクターを選び、互いに攻撃しあい相手の体力 をなくした方が勝利となるシステムが一般的である。 1984年の『カラテカ』や『スパルタンX』、テクノスジャパンの『対戦空手道』、任天堂の『アーバンチャンピオン』、セガ(後のセガ・インタラクティブ)の『アッポー』、1985年のバンダイの『キン肉マン マッスルタッグマッチ』、コナミ(後のコナミデジタルエンタテインメント並びにコナミアミューズメント)の『イー・アル・カンフー』、1987年のカプコンの『ストリートファイター』など、格闘技や武道を題材としたゲームが1980年代半ばから後半にかけて増え始めた。 1991年のカプコンの『ストリートファイターII』により、複雑な駆け引きのできる対戦を前提としたゲームシステムが完成。この作品の世界中での爆発的なヒットにより、1990年代前半から半ばにかけて、対戦格闘ゲームは一つの大きなブームを巻き起こした。また、それまで一般的に「不良の溜まり場」と見做されていたゲームセンターに低年齢層を引き込む要因となった。数々の亜流ゲームが作られた以外に、格闘ゲームを原作とする実写映画やアニメが多数作られ、1993年に始まった「K-1」などの現実の格闘技人気や、『聖龍伝説』といったテレビドラマや、『機動武闘伝Gガンダム』等のテレビアニメにも大きく寄与した。また、アーケードゲームとして人気だった格闘ゲームは家庭用ゲーム機に移植され、キラーソフトとして家庭用ゲーム機の普及に大きく貢献した。 対戦格闘ゲームは当初は爆発的ブームとなったが、各シリーズの新作とともにシステムが複雑化し、ポリゴン技術による3D化を除いて大きな革新がなかったことも手伝い、徐々にマニア向けなジャンルとなっていった。近年ではカードシステムによる戦績データの閲覧や、アイテムによるプレイヤーキャラクターのカスタマイズなどの蓄積要素を取り入れている。 ゲームとして2人のキャラが対戦して相手を打ち負かすという形式は1984年に稼動を開始したアーケードゲームの『対戦空手道』などから始まったものである。1991年に日本においてカプコンの『ストリートファイターII』(略称『ストII』)がアーケードゲームとして登場してから、ジャンプやしゃがみなどの基本行動、攻撃やガード、コマンド入力方式の必殺技などを駆使する形式が確立され、同ジャンル成長のきっかけを生んだ。これらはCPUとの対戦に加え、プレイヤー同士の対戦による駆け引きが人気を呼ぶ鍵となり、全国的な対戦ブームを生み出し、各地で大会なども開かれ、ブームは日本国外にも広がりを見せた。 この『ストII』人気に乗じ、中堅以上のメーカーは大抵一作品以上は格闘ゲームを市場に投入するほどの過剰供給とも言える状況を生み出した。それにしたがって各メーカーは競うようにグラフィックを向上させ、新システムや追加要素を盛り込み、どんどん高度化、複雑化した格闘ゲームを生み出すようになり、1990年代前半にはピークを迎えた。しかし、やがて各メーカーは同じゲームの改良版を次々に出さざるを得ない状況に陥り、市場は飽和し、それに並行してユーザーのマンネリ化を生み出していった。また、ブームに陰りが見え始めた1990年代後半になると、『コロコロコミック』や『コミックボンボン』とのタイアップも打ち切られ、それに伴いブームを支えていた子供層からの人気も、『ポケットモンスター』や『デジモン』等といった育成ゲームや、『遊戯王』等のトレーディングカードゲームに全て奪われてしまい、ブームは過渡期を迎え、収束していった。 2001年頃になるとカプコンがアーケード向けの対戦格闘ゲーム開発の凍結を発表し、カプコンと並び同ジャンルを牽引していたSNKの倒産(のちに関連会社がSNKプレイモアとして再出発し、2016年に旧社と同じ「SNK」へ社名変更)などもあり、ブームは完全に終了した。 しかし、市場は下降傾向にありながらも、『ギルティギア』シリーズ、『メルティブラッド』など定期的にヒット作は出現している。ここ最近ではNESiCAxLiveのコンテンツ(『BLAZBLUE』シリーズ、『AQUAPAZZA』など)が市場の中心である。 1993年にセガ(後のセガ・インタラクティブ)の『バーチャファイター』がアーケードに登場して以降は、ポリゴンで描かれたキャラクターを使用して3次元空間での戦いを表現した格闘ゲームが増加。これによって格闘ゲームに2D、3Dと呼ばれる区別が生まれることとなった。『バーチャファイター』が独特なシステムを数多く持っていたためか、それ以降の3D対戦格闘ゲームでも『バーチャファイター』を踏襲したと思われる要素を持つものが多い。 その最たるものがしゃがみガードができない中段攻撃の導入(後述)である。中段攻撃自体は『バーチャファイター』の発明ではないが、大抵の3D対戦格闘ゲームでは、ほとんどのキャラクターに基本技として中段攻撃を持つ。そのため2D対戦型格闘ゲームでありがちな「しゃがみガードをしていれば安定して相手の攻撃を防ぐことができるため、相手の攻撃を凌ぎながらスキを見て反撃する」という待ち状態がなくなったことが大きい。中段攻撃の存在により、状況に応じての立ちガードとしゃがみガードの使い分けや通常技の連係を重視した対戦となり、必殺技を重視したそれまでの2D対戦型格闘ゲームとは全く違うゲーム性となった。ネットワーク対応およびカードシステムの普及により、近年の作品では海外展開がされなくなったタイトルもある。 かつては人間が手作業で描いたドット絵のキャラクターが登場する作品が2D格闘ゲーム、ポリゴンによるキャラクターによる作品が3D格闘ゲームとされていた。しかし技術が進歩し、トゥーンレンダリング等で手描きと遜色がないポリゴン描写ができるようになったことから、『ストリートファイターIV』のようにポリゴンキャラクターを使用しながらかつての2D格闘ゲームのシステムを踏襲するゲームも登場するようになった。 このため、『ストリートファイターIV』以降の作品でキャラクターの描写方法ではなく、試合中の視点がほぼ真横に固定され、奥行きへの移動を伴わないゲームが2D格闘ゲーム、キャラクターの移動に伴い視点角度が変更されるゲームが3D格闘ゲームとされる場合が多い。 2D格闘ゲームではキャラクターが向かい合って戦う都合から、1P又は2P(作品又はキャラ毎にどちらが基準になるか異なる)側にいるキャラクターが反対を向いた場合はグラフィックを左右反転させている。そのため、左右非対称で描かれたキャラクターは武器を持つ利き手、傷痕の位置なども鏡映しのグラフィックになり、本来の設定とは逆方向になる。ただし、この矛盾を2D上で解決しようとすると開発の手間が増える、グラフィックに割く容量が倍になってしまう、攻撃の当たり判定に差異が出るなどの問題が起こってしまうためゲームの操作上では特に問題視はされていない。また、衣服に書かれた文字や文字タトゥーなど、反転する事で明らかな違和感が生じるグラフィックは反転せずに2P用のグラフィックが書き起こされる。 なお、この問題はジャンルを問わず左右の振り向きの概念があるほぼ全ての2Dゲームに言える為、2D格闘ゲーム特有の話ではない。 対して3D格闘ゲームでは多くの場合、左右反転を行わず、キャラクターが対戦相手をジャンプで飛び越えるなどして向きを変える際に、キャラクターが回転して自然に向きが変わるようになっている。この時、攻撃する利き手やアクションなども反転されない。また、キャラクターによっては構えの都合上、主に2P側はプレイヤーに背中を向けた状態になってしまう事もある。 こうした左右反転の描写に新たな表現を取り入れたのが『バトルファンタジア』で、3Dグラフィックでありながら2Dのシステムをベースにした同作では2P側の位置にいるキャラクターのグラフィックの反転を行わず、アクションとアクションに関わる要素(利き手、武器の持ち手など)だけを反転させている。以降、同作からの影響を公言している『ストリートファイターIV』などでも同様の反転を取り入れている。 2D格闘ゲームの試合ステージは基本的に左右に後退するとこれ以上進めなくなる領域が存在し、画面端と呼ばれる。この時、画面のフレームそのものが左右の壁の役割を果たす事になり、キャラクターによっては三角飛びなど画面端を足場にしてアクションを行う例もある。これに対し3Dでのステージの端は、 のいずれかとなる傾向にある。1では壁にぶつける事によってダメージ増加や、バウンドを利用して連続技を叩き込むなどの要素が含まれる。1、2の複合型も存在し、一定回数、対戦相手を壁にぶつける事によって壁が破壊されリングアウトが成立する。2Dにも『REAL BOUT 餓狼伝説』のように壁やリングアウトを取り入れたゲームも存在する。 特にアーケードゲームでは3ラウンド中2ラウンドを先取することで勝利とするラウンド制をとった作品が多い。乱入したプレイヤーと対戦する場合、5ラウンド中3ラウンドを先取することで勝利とする制度を取り入れたり、一部の作品ではそれに加えて特定の状況下において一つの必殺技を決めることでラウンド先取数と関係なくその場で一方の勝利が確定するというルールの作品もある。 それまでの各ジャンルのゲームに登場するキャラクターは、名前や簡単な動機(姫を助けに行く、等)が解説されてはいるものの、情報としてはそれ以外はほぼ皆無だった。しかし他ジャンルとは違うエポックメイキングなファクターとして、詳細なプロフィールが設定された事により、キャラクターの個性をより引き立てる事になった。プロフィールは身長、体重、国籍など、遊ぶにはさほど影響しない情報を持ち、さらには趣味嗜好、スリーサイズ、恋人の有無なども設定されるものもある。 キャラクター設定には業界全体を通して傾向が見られる。ある作品で持ち込んだ設定がヒットしたことがライバル社に影響をもたらしているためとされている。以下はその一例である。 また、CPU戦の最終ステージで登場する敵キャラクターのことをボス(または最終ボス、ラストボス、ラスボス)キャラクターと呼ぶ。作品によってはCPU戦の途中でいわゆる中ボスキャラクターが登場する場合や、一定の条件を満たすとボス戦前後に隠しボスキャラクターとの対戦に移行することもある。『ザ・キング・オブ・ファイターズXII』のように、ストーリー設定のない一部作品の中にはボスキャラクターが存在しないケースもある。 なお、ボスキャラクターをプレイヤーが使用できるかどうかは作品によってまちまちで、他のキャラクターより性能が高すぎるなどの理由でアーケード版・コンシューマ版ともに使用できない場合や、アーケード版では使用できないがコンシューマ版なら一定の条件を満たせば使用できる場合など、様々なケースがある。中には始めからプレイヤーが使用できるキャラクターの中にボスが混じっている(作品によっては性能が通常バージョンよりアップしていたり、ボスバージョン専用の技が搭載されているキャラクターも存在する)こともある。 例外は多々あるが、上下左右の方向キー(アーケードゲームではレバー、コンシュマーでは十字キー)と3~6個のボタンで入力を行うものが多い。それらでは方向キーでキャラクターを移動やコマンドの入力をし、ボタンで攻撃する。以下一般的な例を説明する。 左か右に入力することで前後に移動し、上でジャンプ、そして移動ではないが下へ入力するとその場でキャラはしゃがむ、というのが方向キーに関する最も一般的な仕様と言える。作品やキャラクターによっては斜め下へ入力するとしゃがんだ状態で移動する「しゃがみ歩き」と呼ばれる行動を持っている場合もある。 多くの場合、2D格闘ゲームでのジャンプは足払いなどの低い位置への攻撃を回避でき、さらにジャンプキックなどの攻撃を(特には連続技の始点になる通常技を)出しながら横方向へ移動できるという点で重要な行動である。ただしアッパーカットなど上向きの攻撃には良い的にされてしまうことがある。しゃがむことには相手の打点の高い攻撃を避けることができるという利点がある。 3D格闘ゲームのジャンプは事情が違っている。ジャンプの軌道がゆるやかで飛距離も極端に高いか低いのどちらかが多く、またジャンプ中の攻撃が強力なものは少ないため、あくまで回避手段として用いられることが多い。 歩行やジャンプの他にダッシュと呼ばれる移動方がある作品も多い。これはたいていの作品では同じ方向に続けて素早く2回入力するというコマンドで出すことができる。ダッシュの性能は一様ではなく、作品によって違うし、また同じ作品の中でもキャラによって差別化されている場合があるが、一滴距離を踏み込むステップタイプと、走り続けるランタイプが多い。積極的に敵に接近するための前方へのダッシュにくらべると、後退し敵から離れるためのバックダッシュの性能は低く抑えられていることが多いが、無敵時間が設定されているゲームもある(『餓狼伝説SPECIAL』など。ただし、空中投げに対しては無力)。3D対戦格闘ゲームではレバー入力に応じた自然な足の動きを再現することが難しく、キャラクターによっては通常の移動が極めて遅い者もいるため、素早く移動するには大抵このダッシュを使うことになる。 ダッシュは、必ずしも前後のそれが揃っているとは限らず、前か後、どちらかへのダッシュしかない作品も存在する。また作品のシステム上ダッシュはあるが、鈍重で移動能力が極端に低いという設定のキャラクターだけダッシュできないようにされている場合もある。例えば、作品中唯一前へのダッシュができない『ヴァンパイア』のビクトルや、作品中唯一前にも後にもダッシュができない『北斗の拳』のハート様などが該当する。 特殊な例として『サイキックフォース』のように360度全方位に移動できる作品もある。 3Dでは上下左右のほかに奥・手前(キャラクターにとって左右)の概念が付加される。この方向への移動は主に軸移動と呼ばれる。キャラクター同士の中心点を結ぶ直線を軸と呼び、この軸が移動するためである。 一般にレバーを下方向ないし上方向に素早く2回入力することで行なえ、直線的な攻撃を回避することができる。しかし、内部処理の方法は多種多様であり、『バーチャファイター』では直線攻撃(縦攻撃)と回転攻撃(横攻撃)を明確に分け、直線攻撃に対してのみ有効な無敵時間を用い時間的に回避の成否を決定している。一方『鉄拳』や『ソウルキャリバー』では当たり判定を動かし、相対的な位置で回避の成否を決定している。そのため、タイミングや位置が良ければ回転攻撃でも回避することができるし、システム上直線攻撃であっても回避しきれない場合も出てくる。 特殊な例として、『ソウルキャリバー』では通常のレバー操作で、俯瞰視点における前後左右の動作が行なえ、ジャンプやしゃがみはガードボタンとレバーを同時に用いて行なう。 攻撃は主にボタン一つだけで発生する通常技とボタンとレバーの操作を組み合わせることで発生する必殺技に分類される。通常技の攻撃力は押したボタンによって異なっており、一般的に弱→(中)→強とダメージが高くなると同時に隙が大きくなる(技前後の予備動作が長くなる)。 2D対戦型格闘ゲームの最大手だったカプコンが制作したゲームの多くは『ストリートファイターII』に代表される6ボタン入力系を採用している。これは元々は、前作『ストリートファイター』の汎用筐体向けのコンパネ仕様である。上段の3つを左から順に弱、中、強威力のパンチに、下段の3つを同様にキックに割り当てている。この入力体系をカプコンとアリカ製のゲーム以外で採用したゲームは『カイザーナックル』『ファイターズヒストリー』など『ストリートファイターII』ブームに乗る形で出したゲームが多い。 2D対戦型格闘ゲームで同じく多く使用されたのは4ボタン入力系である。これは格闘ゲームを多く送り出したネオジオで使用できる最大ボタン数が4までだったこともある。4ボタンと一括してもその使用法はバリエーションが多く、中攻撃を削除し、パンチ、キックの弱、強に割り当てるもの(『餓狼伝説スペシャル』『ザ・キング・オブ・ファイターズ』など)、弱・中に割り当てて強攻撃を弱、中のボタンを同時に押すことで発生させるもの(『サムライスピリッツ』『ワールドヒーローズパーフェクト』など)、3ボタンを攻撃に割き(弱、中、強、パンチ、キック、強攻撃、弱攻撃など)、4ボタン目を何らかの特殊行動に割り当てるもの(『サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣』『龍虎の拳』『ジョジョの奇妙な冒険』『MELTY BLOOD』『GUILTY GEARシリーズ』など)、等々、様々なものが存在する。 同時押しで強攻撃を発生させるタイプの場合、店舗側で5、6ボタン目を取り付けて弱、中ボタンの同時押しになるように改造し、6ボタン入力仕様にした筐体も散見された。また、4ボタンでは特殊動作をする際に同時押しを要求されることも多く、『餓狼伝説3』など格闘ゲームが進化していくにつれ直感的に分かりづらい煩雑な同時押しを要求されることも多かった。近年では、『北斗の拳』のように攻撃ボタンの4ボタンに加え、特殊動作に1ボタンを加え5ボタンにした作品も多い。 対戦型格闘ゲームの元祖とされる作品『ストリートファイター』では、感圧式のボタンが使用されていた。『ワールドヒーローズ』『龍虎の拳2』など、ボタンの押し具合によって強弱を使い分ける方式もある。 上段および下段のパンチ、キックと、それらの中央にガードボタンを配置したもの(『モータルコンバット』)、3ボタンの構成がパンチ、キック、ジャンプとなっているもの(『ナックルヘッズ』)等がある。 『バーチャファイター』に代表される3D対戦型格闘ゲームは、ガード・パンチ・キックの3ボタンで構成されるものが多い。パンチ・キックは1種類ずつしかないが、ボタンを特定の順番・タイミングで押す、特定の組み合わせで同時に押す、レバー入力と組み合わせるなどの操作で様々な技に派生させられる。「キックの威力はパンチの2倍」に従ってか、全体的にキックの方が威力は高い。ガードボタン単体では攻撃には関わらないが、ボタンを攻撃のバリエーションとして使用することもある。 これの操作系をアレンジしたものとして、ドリームファクトリー製のゲームはパンチ・キックの代わりに上段攻撃・下段攻撃とし(上下同時押しで中段攻撃)、技の属性が直感的に分かりやすいようになっている。 その他の特徴的なものに、左右の手足に4つのボタンを割り当てたもの(『鉄拳』)、キャラクターが武器を持ち、縦横の武器を振る方向で構成されたもの(『ソウルキャリバー』『スターグラディエイター』など)、前・後のボタンで移動、レバーで攻撃する『武力 〜BURIKI ONE〜』がある。 ガードは相手の攻撃を防御し、ダメージを完全に防ぐか最小限の被害に留める防御行動であるが、投げに対しては脆い(後述)。技による攻撃と同じぐらい重要な行動である。 2D対戦型格闘ゲームのほとんどと3D対戦型格闘ゲームの一部は、進行方向の逆にレバーを入力することでガードする。例えばキャラクターが右を向いている場合、左に入力するとガードになる。また、足下を狙う攻撃には左を入れてガードすることはできず(下段技)、左下を入力してガードする。また、ジャンプ中の攻撃は左下の入力ではガードできず、左を入れてガードする。 2D対戦型格闘ゲームにおいてはしゃがみ技に強力なものが多く、立ち技も下段ガード可能でジャンプ攻撃は下段ガード不能だが切り替えは比較的容易なため、しゃがみガードが防御の基本となる。地上での中段技(後述)を持っているキャラもいるが、そのほとんどがガード崩しのバリエーションにすぎないため、相手の動きに応じて中段技を意識はしつつ、ガードはしゃがみガードを中心とすれば基本的には安全である。だが、空中ダッシュなどでキャラクターが空中で機敏に動けるゲームではジャンプ攻撃が擬似的な中段技として機能することもあるため、一概にそうとは言い切れない。 3D対戦型格闘ゲームのほとんどは、レバー入力方向に応じず地上にいるときガードボタンを押すことでガードする。立っている時にガードボタンを押すと立ちガードになり、しゃがんでいる時にガードボタンを押すとしゃがみガードになる。但し『鉄拳』シリーズではレバーでガード動作を行う。 2D格闘ゲームと異なる点は、しゃがみガードできない「中段技」と呼ばれる技が多くあること(この中段技の元祖は2D格闘ゲームの『龍虎の拳』)で、それに比べしゃがみ攻撃は弱く、下段技も中段技に比べるとリスクやリターンでは劣っているものが多いため、3D格闘ゲームでは立ちガードが基本となる。しかし、隙の少ない上段攻撃はしゃがみで避けることができ、下段技も多用できる性能のため、2D格闘ゲームに比べて相手の動きに合わせて立ちとしゃがみを使い分ける機会は遥かに多い。また、先述のように2D格闘ゲームでもこのボタンガードを採用しているゲームもある。 投げは近くにいる相手を掴み、名前の通り投げ飛ばしたり至近距離からの打撃を与える攻撃行動で、基本的に防御に強く、打撃に弱い(後述。) 通常投げ、コマンド投げ、移動投げ、対空投げ、空中投げ、打撃投げ、返し投げなどが存在する。 最大の特長はほとんどの投げ技が条件が成立していれば即可能で、通常の攻撃より出が早く前述のガードを無効化できる点であるが、相手との距離がきわめて近くないと投げられない、相手が攻撃を受けているモーション中は投げられないなどの条件が存在する。これは2D対戦格闘では攻撃することのリスクは低く、なんらかの技を出している・移動中の状態が多いため、密着状態にすること自体のリスクが高いからである。即ち、2D対戦型格闘での投げはガードを崩す裏の選択肢といえる。ただし、いわゆる投げキャラは打撃技等が今一つである反面、コマンド投げが大ダメージの場合もあるため、主流の選択肢となる。 投げられる条件を満たさないまま投げ技の入力をしたり、入力から実際につかむまでに条件が解けたりすると、別の技が出たり投げ失敗のモーションになり、隙をさらすことになるゲームも多い。特に「投げ失敗モーション」は昨今の格闘ゲームにはもはや一般的なものになっている。 1990年代後半に「投げ抜け」という投げられたタイミングに特定の入力をすることで投げ掴みを捌くことができるシステムが導入され始め、昨今の格闘ゲームのほとんどに採用されている。2D格闘ゲームの場合、相手が使用したの投げのコマンドと似たボタン入力が求められることが多い([P投げ]に対して[P]、[→K投げ]に対して[→K]など)。また、一部のコマンド投げや通常投げ以外を「投げ抜け不可」としている格闘ゲームも多く存在する。 3D対戦格闘における投げは、ガードは無効化できるが、打撃技と比較しても早い部類と同等程度で、ダメージも単発としては高めな程度でしかない。しかし打撃技が、ある程度接近しないとヒットさせられず、ガードされると基本的には不利である。このガードに対する存在として、投げが存在する。そしてその投げも攻撃技とかち合うと一方的に潰される羽目になる。すなわち、打撃<ガード<投げ<打撃...という基本の「三すくみ」を構成する、重要な要素・選択肢といえる。 更に立ち・しゃがみガードの使い分けから、立ち状態を投げる立ち投げ、しゃがみ状態を投げるしゃがみ投げを区分。これを含めて細分化すると、中段攻撃<立ちガード<立ち投げ<中段攻撃の主流の三すくみに、更に下段攻撃<しゃがみガード<しゃがみ投げ・中段攻撃、更に立ち投げ<しゃがみガード、しゃがみ投げ<立ちガード等という複雑なすくみ関係のループが構成されている(ただ、基本的にしゃがみ投げを持つキャラは少ない。出の速い中段技でもしゃがみガード崩しは十分できるためである)。 これにより、どの行為にも有利・不利の相性があり、少なくないメリットとリスクがあるようになるため、相手がどう行動するのかの読みに勝つことが重要となるのである。これらは開祖である『バーチャファイター』が基本形を構築しており、後のゲームも大きな影響を受けている。 稀に、打撃技の出がかりをも投げられる「キャッチ投げ」があったり、投げをしゃがみ・立ち状態共通にするゲームも存在する。 投げ抜けに関しては、投げの殆どがコマンド投げであるため、すべてできるようにしているのが一般的。ただし対応する投げ抜けコマンド(相手投げコマンドの最後の方向と同じレバー+投げなど)でなければ抜けられないという制限を課し、ここにも読み合いの要素を入れていることがある。 また投げ失敗モーションがあるゲームも一般的。これは読みの失敗を明確にする効果もある。これも『バーチャファイター2』において、投げ失敗がなくコマンドの重複が可能だったため、いわゆる「自動二択」(投げられなければ、自動で中段攻撃が出る)がリスクが非常に低く強かったことの反省から導入されている。 2D対戦型格闘ゲームのほとんどと3D対戦型格闘ゲームの一部は、特定のレバー操作(コマンド入力と呼ぶ)の後にボタンを押すことで必殺技を発動させられる。必殺技はガードすると体力がわずかに減少する(削り)。特定の操作とは、例えばボタンの連打、レバーを下から右方向に4分の1回転させた後パンチボタンを押す(波動拳コマンド)、といったもの。比較的簡単なものから、レバーを1回転させるような難しいものまで様々なものが存在する。 レバー操作のコマンド入力の歴史は初代ストリートファイターから存在しているが当初このシステムは他社の対戦格闘ゲームでは浸透していなかったが『ストリートファイターII』の大ヒット以降標準化されて行った物である。 『龍虎の拳』において必殺技を越える超必殺技が登場し、すぐに他の作品でも採用された。性能は必殺技よりも高いものの、残り体力やゲージなど、一定の条件を満たす必要がある。さらに必殺技以上にコマンドが複雑なものが多く、『龍虎の拳』で初めて採用されたボタン同時押しを始め、当時のプレイヤーに「隠しコマンド探し」というやり込みを促す方向へ進んでいった。1990年代中盤までは複雑化の一途を辿り、出せること自体が能力となっていた面もあったが、その後は単純なものへと回帰していった。これは格闘ゲーム自体がマニアックになりすぎ、プレイヤーの新規参入を阻んだことへの反動と言われる。 レバーを前方や後方などに入れながらボタンを押すと、通常とは違う攻撃を出せる場合もある。例えばレバーを進行方向に入れながら中パンチボタンを押すと、通常はフックが出るところを、上から振り下ろすようなパンチに変化する、といったもの(『スーパーストリートファイターIIX』、リュウ:鎖骨割り)。これらは通常技ではないが必殺技と言うほど特別ではない、という意味で特殊技もしくは単にレバー入れ技などと呼ばれる。レバーを下方向に入れた場合の攻撃はしゃがんだ状態の通常技と見なされ、特殊技とはされない。同様に上方向に入れた場合も、ジャンプ中の通常技と見なされる。ただし、例えば進行方向斜め下にレバーを入れた場合のみ技が変化する場合は特殊技とされる。 3D対戦型格闘ゲームについては、前述の通りボタン入力とレバー入力の組み合わせで様々な技に派生する。2D対戦型格闘ゲームでは一つのボタンでは状態によって決まった一つの通常技しか出なかったが、3D対戦型格闘ゲームは通常パンチボタンを押した際に出るジャブの他に、レバーを前に倒しながらボタンを押すことで全く異なる技の肘打ちを出すことができる。このように2D格闘ゲームのようなボタンの違いによる使い分けではなく、ボタンとレバーとの組み合わせで技を使い分けるようになっている。また「パンチ・パンチ・パンチ・キック」のように順にボタンを押していくことで固有のコンビネーション技を出すことができるキャラクターも多い。また、2D格闘ゲームの必殺技のようなコマンド入力を要求されることもある(レバーを←←→と倒してパンチとキックを同時押しなど)。 このレバーとボタンの組み合わせによる技の入力は、非常に簡便で使い分けやすいが、一方で人気シリーズでは新作を重ねると共に技は追加され続け、結果的にはその技の多さが複雑さを招いた。 代表的なコマンドと通称を以下に挙げる。以下の例はキャラクターが右を向いているとき(左側にいるとき)の場合(左向きの場合は逆になる)。 これらのコマンドは2D対戦型格闘ゲームの典型となっており、他のゲームやキャラクターのコマンドを説明する際にも用語として用いられることが多い。例えば『餓狼伝説』のテリーの必殺技「パワーウェーブ」は「波動 + A」、『ストリートファイターZERO』の豪鬼の「滅殺豪波動」は「逆ヨガ×2 + P」等と説明できる。 なお、プレイヤー層やゲームによって呼び方が異なる場合がある。例えば「 + ボタン」というコマンドを、主にSNK系の格闘ゲームに親しむものは「覇王コマンド」(『龍虎の拳』の超必殺技「覇王翔吼拳」に由来)と呼ぶが、主にカプコン系の格闘ゲームに親しむものは「前 + ヨガ」等と呼ぶ。 各ゲームのインストカードや、アーケードゲーム誌『ゲーメスト』等では、上記のようにレバー入力方向を矢印で表記している。また、末期のカプコンのゲーム等ではレバーの軌跡(昇龍拳コマンドではレバーをZ字状に動かすなど)を図示したものがある。 パソコン通信のフォーラムやウェブページ・電子掲示板等ではコマンドを「623 + P」のように表記することが多い(この例は昇龍拳コマンド)。これは、キーボードのテンキーまたは電卓の数字をレバーに見立て、1を左下、2を真下、3を右下、4を左......のように表現したもの。斜め方向の矢印がJIS X 0208に含まれず、表現しにくい理由から生み出された。 慣れるまでは分かりづらいが、文字ベースで簡潔に表現できるという利点がある。但し、携帯電話の普及により、電卓ではなく電話のテンキー表記(上下が逆)と勘違いされることも多い(例えば、春日野さくらの咲桜拳のコマンドを623Pと表記した場合に、右・上・右上・パンチと解釈されるなど。もちろん咲桜拳など出ず、ジャンプ攻撃が出る)。 その他、斜め方向の入力を全角スラッシュ(/)およびバックスラッシュ(\)で表現する方法もあるが、左下と右上、右下と左上の区別が付かないという欠点のため主流ではない。昇龍拳コマンドなら「→↓\ + P」のように表記し、ヨガフレイムコマンドなら「←/↓\→」のように表記する。Unicode対応ウェブブラウザの普及によって斜め方向の矢印も表示可能になっているが(例:↘ - &#8600;)、入力の手間がかかることなどから主流とはなっていない。 2D格闘ゲームにおいても3Dと同じく打撃<ガード<投げ<打撃...だが、キャラ特性や個性が強く表れるので基本的に三すくみ関係は存在しない。こちらから仕掛ける攻撃は以下に集約。 3D格闘ゲームにおける基本的な選択肢は、打撃・ガード・投げに集約される事が多い。基本的に下記のような優劣関係があり、攻防の核になるこの仕組みを三すくみという。概念的には『バーチャファイター』で成立していたものだが、板垣伴信が雑誌インタビューで語って以来、この呼び方が定着した。近年では例外的な性能を持つ技や、技の方向属性などで三すくみを拡張し、攻防要素が作品ごとに細分化、多様化している。 広義的には地上における牽制による駆け引きのことを指す。相手が技を出したところに判定の強い技で対応しカウンターヒットを狙ったり、間合いを調整して相手が技を空振りした所を攻撃するのが代表的。『サムライスピリッツ』シリーズは総じて単発の攻撃力が高く、連続技がほとんど存在しないため、差し合いが全てと言っても良いゲーム性になっている。 相手がなんらかの行動(主にガード)を取ることを前提に、対処法の異なる複数の攻撃のどれかを選んで攻撃する。例としては「下段攻撃と中段攻撃のどちらかを選んで攻撃する二択攻撃」など。この場合、大雑把に言えば2分の1の確率で打撃がヒットすることになる。攻撃側が選択肢を3択・4択と増やせばヒット確率はさらに3分の2・4分の3と増加していく。想定外の行動(いわゆる「暴れ」や「逃げ」など)に対しては案外弱かったりする場合もある。 ダウンさせられた側は、起き上がり時の相手の出方に対処する必要がある。相手は通常の攻めと同じだけの選択肢があるが、ダウンさせられた側は取れる行動が非常に限定されたものとなるため、立ち状態のときよりも非常に不利な状態と言える。ダウンを取った攻め側は相手に択一攻撃を仕掛けたり、長く硬直する技を当てるなどして有利な状況を生かした攻撃を仕掛けるのがベター。逆に守り側は起き上がり中に出せる攻撃を出すか、防御行動をとって相手の起き攻めを回避するかを選択する必要がある(ゲームによっては、「何もしない」という選択が無敵時間などの関係上有効な場合もある。起き上がりモーション中は無敵だが何らかの行動を取った瞬間に無敵が解けるなど)。 ゲームによっては、正常な、もしくは全く駆け引きが発生しない状況が発生する。例えばハメがそれである。正常の駆け引きが発生しない状況から異なる駆け引きが発生することもある(先にハメの始動技を決めた方が勝ちが了解として通じる)が、アーケードにおいてこうなった場合は大抵新規ユーザーが介入することができなくなる。 対戦型格闘ゲームにはプレイヤーの間で使われる用語が存在する。これらは格闘ゲームにとどまらず、派生して他のジャンルで使われることもある。用語は数多く存在するが、その中でも代表的なもののみ以下に挙げる。 前述の待ち・ハメに関しては、古くは雑誌の投稿欄から、パソコン通信・電子掲示板などに渡って現在でも論争が繰り返されている。大まかに言って、待ち・ハメ否定派は「相手と戦い合うこと」を至上とし、「人にされて嫌だと思うことはするべきでない」「バグを利用するのは制作者の意図するものではない」との立場から主張し、待ち・ハメ肯定派は「自らが勝利すること」を至上とし、「ルール(ゲーム内において操作で可能な行為)の範囲内で最善を尽くすのは当然である」「バグではない仕様であれば、制作者の意図したものだから、問題ない」とする立場から、それぞれ主張している。前提が違うままに主張し合うので議論がかみ合わず、不毛な論争になりがちである。現実的問題を挙げれば、『北斗の拳』におけるレイの「バグ昇竜」(特定条件で上昇技を当てるとヒットし続けながらどこまでも画面外に上り続けるバグ)などは、これまたゲージなど特定の条件が揃わないと解除が出来ず、最終的にゲームの筐体自体が停止してしまう。このようなゲーム自体が不成立になったりゲームセンターの財産である機械に損害を与えかねないケースもあるため、最終的に円滑な運営のためにはゲームセンター運営者の裁定を以ってハウスルールとするのが最も無難である。 興味深い点として、ブームが去りプレイヤーが減少し、マニア層の声が相対的に大きくなった2000年代中盤では、肯定する立場の意見が優勢であり、バグを利用したハメまで肯定される傾向が強くなりつつある。なぜなら、もともと待ちやハメ行為を問題として、極端なまでのバランス調整を要求していたのはマニア層であり、立場が逆転しているからである。インターネット掲示板などではモラルの問題として自主規制する向き(待ち・ハメプレイヤーを嘲笑するなども含む)であるが、これも強制力を持たないものであるため、各プレイヤーやローカルレベルで周知・規制されている程ではない。 3D対戦格闘ゲームの場合は攻めのリスクは低くなく、守りは必ず崩す手段があるため、守りも攻めも極端なバランスにはなっておらず、「待ちを崩せない方が悪い」という考え方が一般的である。試合内容に関しても、待ちやハメに対しての是非を問うよりも、いかに面白い読み合いができたか、読み合いのやり取りができる相手だったかどうかで語られることが多い。そういう意味では、ハメは論外としても、一方的な試合内容になりがちな対戦スタイル、同じ行動ばかり取るスタイルは、読み合いになっていないため敬遠される傾向にある。 メーカー側としては、『初心者狩り』による対戦人口の減少・不公平感の増大・対戦が陳腐化するという待ち・ハメの害悪を重視し、ゲージを消費するが無敵の切り返し技を全キャラ装備させる、受身など取れる行動の選択肢を増やす、技を待ち・ハメが成立しないような性能にするなど、最初からできないようにする方向で進んでいる。しかし、調整しすぎると、爽快感やキャラクターの特色などがなくなってしまう他、受け方を知らない相手にのみ成立するハメができ初心者狩りの原因となってしまうなど、製作側には難しいさじ加減が要求される所である。 なお、これらの論争はいずれも対人戦においての物であり、対CPU戦においてのいわゆる「パターンハメ」については事情が異なっている(前述のCPUの項目を参照)。 1990年代後半当たりまで、格闘ゲームはアーケードでは主役だった。しかしその数は次第に減少していくことになった。 これは「最初は売れていても続編がどんどんマニア向けになって一般客が離れ、最後にはマニアもついていけなくなって別ジャンルに流れてしまう」という、1980年代前半のボードウォー・シミュレーションゲーム以来、対人を目的とした玩具全般が繰り返してきた歴史を踏襲するものであり、対戦格闘もこれらと同様に衰退の道を歩みゲーム離れの原因のひとつとも言える。 現在では、対戦格闘ゲームと並んでアーケードゲームの花形ジャンルだったシューティングゲームも同様に衰退しているジャンルの代表として挙げられる。任天堂の岩田聡社長(当時)は、この2ジャンルを東京ゲームショウ2003の講演で「普通の人が遊べない、重厚長大化して飽和してしまった」と述べた。後に、『ストリートファイター』シリーズを担当した小野義徳も「声が大きくて開発者側も意見を気持ちよく感じる熱心なファンを、ユーザー全ての感想と思い込んでしまっていた。それ以外の人にはまったく響いていないということには、4~5年前(2000年代半ば)まで気づかなかった」とこれを認めている。『MARVEL VS. CAPCOM 3 Fate of Two Worlds』の製作陣は、「格闘ゲームと聞くだけで拒否反応が出るような閉塞感がある」と窮状を指摘した上で「元がアーケードゲームである以上、上手い人が尊敬されるのは当然であるがライトユーザーも楽しめるよう追求するべき」とし、そのバランスをいかにして取るかを今後の課題としている。また、その打開策の一つとして格闘ゲーム以外のオマケモードの充実を挙げている。 また、各地の筐体をブロードバンドで結び、同レベルの対戦相手を選べるなどのシステムを導入し、さらにはデータの保存ができるカードで、キャラクターの服装等をカスタマイズできるといった要素も導入されている。しかしこれらの対策も、マニア層の引き留め以上の効果は得られておらず、ユーザー離れが続いている。 各メーカーはグラフィックの質の向上、同人層の取り込みや「萌え」との接近、操作性の極端な複雑化や逆に簡略化(『アカツキ電光戦記』等)など、様々なアプローチで格闘ゲーム人気復権の道を模索している。 他にも格闘ゲームの全国大会である闘劇の開催や、その大会の観戦チケットが売り出されたり対戦模様をDVD化するなど、観戦目的で格闘ゲームを楽しむというユーザーも少なからず存在している。 また、2019年世界的にはeスポーツとして対戦型格闘ゲームがスポーツの一種として見直される風潮も出てきているが、日本においては未だ途上である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "対戦型格闘ゲーム(たいせんがたかくとうゲーム)とは、プレイヤーとコンピュータ、あるいはプレイヤー同士が操作するキャラクターが、主に1対1の格闘技(もしくはそれに類する形式)で戦う対戦型コンピュータゲームである。コンピュータゲームのジャンルの一つであり、対戦アクションゲームの派生物のジャンルである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームのジャンルにおいてはアクションゲームの一種として分類できる。単に格闘ゲーム、対戦ゲーム、格ゲーと略されることや、格闘アクションゲーム、格闘アクション、対戦格闘ゲーム、対戦格闘という別称で呼ばれることもある。大別して、上下左右の動きだけで奥行きのないもの(2D)と、奥行きのあるもの(3D)の2種類がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "プレイヤーは多数のキャラクターの中から自分の使用するキャラクターを選び、互いに攻撃しあい相手の体力 をなくした方が勝利となるシステムが一般的である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1984年の『カラテカ』や『スパルタンX』、テクノスジャパンの『対戦空手道』、任天堂の『アーバンチャンピオン』、セガ(後のセガ・インタラクティブ)の『アッポー』、1985年のバンダイの『キン肉マン マッスルタッグマッチ』、コナミ(後のコナミデジタルエンタテインメント並びにコナミアミューズメント)の『イー・アル・カンフー』、1987年のカプコンの『ストリートファイター』など、格闘技や武道を題材としたゲームが1980年代半ばから後半にかけて増え始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1991年のカプコンの『ストリートファイターII』により、複雑な駆け引きのできる対戦を前提としたゲームシステムが完成。この作品の世界中での爆発的なヒットにより、1990年代前半から半ばにかけて、対戦格闘ゲームは一つの大きなブームを巻き起こした。また、それまで一般的に「不良の溜まり場」と見做されていたゲームセンターに低年齢層を引き込む要因となった。数々の亜流ゲームが作られた以外に、格闘ゲームを原作とする実写映画やアニメが多数作られ、1993年に始まった「K-1」などの現実の格闘技人気や、『聖龍伝説』といったテレビドラマや、『機動武闘伝Gガンダム』等のテレビアニメにも大きく寄与した。また、アーケードゲームとして人気だった格闘ゲームは家庭用ゲーム機に移植され、キラーソフトとして家庭用ゲーム機の普及に大きく貢献した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "対戦格闘ゲームは当初は爆発的ブームとなったが、各シリーズの新作とともにシステムが複雑化し、ポリゴン技術による3D化を除いて大きな革新がなかったことも手伝い、徐々にマニア向けなジャンルとなっていった。近年ではカードシステムによる戦績データの閲覧や、アイテムによるプレイヤーキャラクターのカスタマイズなどの蓄積要素を取り入れている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ゲームとして2人のキャラが対戦して相手を打ち負かすという形式は1984年に稼動を開始したアーケードゲームの『対戦空手道』などから始まったものである。1991年に日本においてカプコンの『ストリートファイターII』(略称『ストII』)がアーケードゲームとして登場してから、ジャンプやしゃがみなどの基本行動、攻撃やガード、コマンド入力方式の必殺技などを駆使する形式が確立され、同ジャンル成長のきっかけを生んだ。これらはCPUとの対戦に加え、プレイヤー同士の対戦による駆け引きが人気を呼ぶ鍵となり、全国的な対戦ブームを生み出し、各地で大会なども開かれ、ブームは日本国外にも広がりを見せた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この『ストII』人気に乗じ、中堅以上のメーカーは大抵一作品以上は格闘ゲームを市場に投入するほどの過剰供給とも言える状況を生み出した。それにしたがって各メーカーは競うようにグラフィックを向上させ、新システムや追加要素を盛り込み、どんどん高度化、複雑化した格闘ゲームを生み出すようになり、1990年代前半にはピークを迎えた。しかし、やがて各メーカーは同じゲームの改良版を次々に出さざるを得ない状況に陥り、市場は飽和し、それに並行してユーザーのマンネリ化を生み出していった。また、ブームに陰りが見え始めた1990年代後半になると、『コロコロコミック』や『コミックボンボン』とのタイアップも打ち切られ、それに伴いブームを支えていた子供層からの人気も、『ポケットモンスター』や『デジモン』等といった育成ゲームや、『遊戯王』等のトレーディングカードゲームに全て奪われてしまい、ブームは過渡期を迎え、収束していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2001年頃になるとカプコンがアーケード向けの対戦格闘ゲーム開発の凍結を発表し、カプコンと並び同ジャンルを牽引していたSNKの倒産(のちに関連会社がSNKプレイモアとして再出発し、2016年に旧社と同じ「SNK」へ社名変更)などもあり、ブームは完全に終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかし、市場は下降傾向にありながらも、『ギルティギア』シリーズ、『メルティブラッド』など定期的にヒット作は出現している。ここ最近ではNESiCAxLiveのコンテンツ(『BLAZBLUE』シリーズ、『AQUAPAZZA』など)が市場の中心である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1993年にセガ(後のセガ・インタラクティブ)の『バーチャファイター』がアーケードに登場して以降は、ポリゴンで描かれたキャラクターを使用して3次元空間での戦いを表現した格闘ゲームが増加。これによって格闘ゲームに2D、3Dと呼ばれる区別が生まれることとなった。『バーチャファイター』が独特なシステムを数多く持っていたためか、それ以降の3D対戦格闘ゲームでも『バーチャファイター』を踏襲したと思われる要素を持つものが多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その最たるものがしゃがみガードができない中段攻撃の導入(後述)である。中段攻撃自体は『バーチャファイター』の発明ではないが、大抵の3D対戦格闘ゲームでは、ほとんどのキャラクターに基本技として中段攻撃を持つ。そのため2D対戦型格闘ゲームでありがちな「しゃがみガードをしていれば安定して相手の攻撃を防ぐことができるため、相手の攻撃を凌ぎながらスキを見て反撃する」という待ち状態がなくなったことが大きい。中段攻撃の存在により、状況に応じての立ちガードとしゃがみガードの使い分けや通常技の連係を重視した対戦となり、必殺技を重視したそれまでの2D対戦型格闘ゲームとは全く違うゲーム性となった。ネットワーク対応およびカードシステムの普及により、近年の作品では海外展開がされなくなったタイトルもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "かつては人間が手作業で描いたドット絵のキャラクターが登場する作品が2D格闘ゲーム、ポリゴンによるキャラクターによる作品が3D格闘ゲームとされていた。しかし技術が進歩し、トゥーンレンダリング等で手描きと遜色がないポリゴン描写ができるようになったことから、『ストリートファイターIV』のようにポリゴンキャラクターを使用しながらかつての2D格闘ゲームのシステムを踏襲するゲームも登場するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "このため、『ストリートファイターIV』以降の作品でキャラクターの描写方法ではなく、試合中の視点がほぼ真横に固定され、奥行きへの移動を伴わないゲームが2D格闘ゲーム、キャラクターの移動に伴い視点角度が変更されるゲームが3D格闘ゲームとされる場合が多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2D格闘ゲームではキャラクターが向かい合って戦う都合から、1P又は2P(作品又はキャラ毎にどちらが基準になるか異なる)側にいるキャラクターが反対を向いた場合はグラフィックを左右反転させている。そのため、左右非対称で描かれたキャラクターは武器を持つ利き手、傷痕の位置なども鏡映しのグラフィックになり、本来の設定とは逆方向になる。ただし、この矛盾を2D上で解決しようとすると開発の手間が増える、グラフィックに割く容量が倍になってしまう、攻撃の当たり判定に差異が出るなどの問題が起こってしまうためゲームの操作上では特に問題視はされていない。また、衣服に書かれた文字や文字タトゥーなど、反転する事で明らかな違和感が生じるグラフィックは反転せずに2P用のグラフィックが書き起こされる。 なお、この問題はジャンルを問わず左右の振り向きの概念があるほぼ全ての2Dゲームに言える為、2D格闘ゲーム特有の話ではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "対して3D格闘ゲームでは多くの場合、左右反転を行わず、キャラクターが対戦相手をジャンプで飛び越えるなどして向きを変える際に、キャラクターが回転して自然に向きが変わるようになっている。この時、攻撃する利き手やアクションなども反転されない。また、キャラクターによっては構えの都合上、主に2P側はプレイヤーに背中を向けた状態になってしまう事もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "こうした左右反転の描写に新たな表現を取り入れたのが『バトルファンタジア』で、3Dグラフィックでありながら2Dのシステムをベースにした同作では2P側の位置にいるキャラクターのグラフィックの反転を行わず、アクションとアクションに関わる要素(利き手、武器の持ち手など)だけを反転させている。以降、同作からの影響を公言している『ストリートファイターIV』などでも同様の反転を取り入れている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2D格闘ゲームの試合ステージは基本的に左右に後退するとこれ以上進めなくなる領域が存在し、画面端と呼ばれる。この時、画面のフレームそのものが左右の壁の役割を果たす事になり、キャラクターによっては三角飛びなど画面端を足場にしてアクションを行う例もある。これに対し3Dでのステージの端は、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "のいずれかとなる傾向にある。1では壁にぶつける事によってダメージ増加や、バウンドを利用して連続技を叩き込むなどの要素が含まれる。1、2の複合型も存在し、一定回数、対戦相手を壁にぶつける事によって壁が破壊されリングアウトが成立する。2Dにも『REAL BOUT 餓狼伝説』のように壁やリングアウトを取り入れたゲームも存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "特にアーケードゲームでは3ラウンド中2ラウンドを先取することで勝利とするラウンド制をとった作品が多い。乱入したプレイヤーと対戦する場合、5ラウンド中3ラウンドを先取することで勝利とする制度を取り入れたり、一部の作品ではそれに加えて特定の状況下において一つの必殺技を決めることでラウンド先取数と関係なくその場で一方の勝利が確定するというルールの作品もある。", "title": "勝敗" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "それまでの各ジャンルのゲームに登場するキャラクターは、名前や簡単な動機(姫を助けに行く、等)が解説されてはいるものの、情報としてはそれ以外はほぼ皆無だった。しかし他ジャンルとは違うエポックメイキングなファクターとして、詳細なプロフィールが設定された事により、キャラクターの個性をより引き立てる事になった。プロフィールは身長、体重、国籍など、遊ぶにはさほど影響しない情報を持ち、さらには趣味嗜好、スリーサイズ、恋人の有無なども設定されるものもある。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "キャラクター設定には業界全体を通して傾向が見られる。ある作品で持ち込んだ設定がヒットしたことがライバル社に影響をもたらしているためとされている。以下はその一例である。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、CPU戦の最終ステージで登場する敵キャラクターのことをボス(または最終ボス、ラストボス、ラスボス)キャラクターと呼ぶ。作品によってはCPU戦の途中でいわゆる中ボスキャラクターが登場する場合や、一定の条件を満たすとボス戦前後に隠しボスキャラクターとの対戦に移行することもある。『ザ・キング・オブ・ファイターズXII』のように、ストーリー設定のない一部作品の中にはボスキャラクターが存在しないケースもある。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、ボスキャラクターをプレイヤーが使用できるかどうかは作品によってまちまちで、他のキャラクターより性能が高すぎるなどの理由でアーケード版・コンシューマ版ともに使用できない場合や、アーケード版では使用できないがコンシューマ版なら一定の条件を満たせば使用できる場合など、様々なケースがある。中には始めからプレイヤーが使用できるキャラクターの中にボスが混じっている(作品によっては性能が通常バージョンよりアップしていたり、ボスバージョン専用の技が搭載されているキャラクターも存在する)こともある。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "例外は多々あるが、上下左右の方向キー(アーケードゲームではレバー、コンシュマーでは十字キー)と3~6個のボタンで入力を行うものが多い。それらでは方向キーでキャラクターを移動やコマンドの入力をし、ボタンで攻撃する。以下一般的な例を説明する。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "左か右に入力することで前後に移動し、上でジャンプ、そして移動ではないが下へ入力するとその場でキャラはしゃがむ、というのが方向キーに関する最も一般的な仕様と言える。作品やキャラクターによっては斜め下へ入力するとしゃがんだ状態で移動する「しゃがみ歩き」と呼ばれる行動を持っている場合もある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "多くの場合、2D格闘ゲームでのジャンプは足払いなどの低い位置への攻撃を回避でき、さらにジャンプキックなどの攻撃を(特には連続技の始点になる通常技を)出しながら横方向へ移動できるという点で重要な行動である。ただしアッパーカットなど上向きの攻撃には良い的にされてしまうことがある。しゃがむことには相手の打点の高い攻撃を避けることができるという利点がある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "3D格闘ゲームのジャンプは事情が違っている。ジャンプの軌道がゆるやかで飛距離も極端に高いか低いのどちらかが多く、またジャンプ中の攻撃が強力なものは少ないため、あくまで回避手段として用いられることが多い。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "歩行やジャンプの他にダッシュと呼ばれる移動方がある作品も多い。これはたいていの作品では同じ方向に続けて素早く2回入力するというコマンドで出すことができる。ダッシュの性能は一様ではなく、作品によって違うし、また同じ作品の中でもキャラによって差別化されている場合があるが、一滴距離を踏み込むステップタイプと、走り続けるランタイプが多い。積極的に敵に接近するための前方へのダッシュにくらべると、後退し敵から離れるためのバックダッシュの性能は低く抑えられていることが多いが、無敵時間が設定されているゲームもある(『餓狼伝説SPECIAL』など。ただし、空中投げに対しては無力)。3D対戦格闘ゲームではレバー入力に応じた自然な足の動きを再現することが難しく、キャラクターによっては通常の移動が極めて遅い者もいるため、素早く移動するには大抵このダッシュを使うことになる。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ダッシュは、必ずしも前後のそれが揃っているとは限らず、前か後、どちらかへのダッシュしかない作品も存在する。また作品のシステム上ダッシュはあるが、鈍重で移動能力が極端に低いという設定のキャラクターだけダッシュできないようにされている場合もある。例えば、作品中唯一前へのダッシュができない『ヴァンパイア』のビクトルや、作品中唯一前にも後にもダッシュができない『北斗の拳』のハート様などが該当する。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "特殊な例として『サイキックフォース』のように360度全方位に移動できる作品もある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "3Dでは上下左右のほかに奥・手前(キャラクターにとって左右)の概念が付加される。この方向への移動は主に軸移動と呼ばれる。キャラクター同士の中心点を結ぶ直線を軸と呼び、この軸が移動するためである。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一般にレバーを下方向ないし上方向に素早く2回入力することで行なえ、直線的な攻撃を回避することができる。しかし、内部処理の方法は多種多様であり、『バーチャファイター』では直線攻撃(縦攻撃)と回転攻撃(横攻撃)を明確に分け、直線攻撃に対してのみ有効な無敵時間を用い時間的に回避の成否を決定している。一方『鉄拳』や『ソウルキャリバー』では当たり判定を動かし、相対的な位置で回避の成否を決定している。そのため、タイミングや位置が良ければ回転攻撃でも回避することができるし、システム上直線攻撃であっても回避しきれない場合も出てくる。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "特殊な例として、『ソウルキャリバー』では通常のレバー操作で、俯瞰視点における前後左右の動作が行なえ、ジャンプやしゃがみはガードボタンとレバーを同時に用いて行なう。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "攻撃は主にボタン一つだけで発生する通常技とボタンとレバーの操作を組み合わせることで発生する必殺技に分類される。通常技の攻撃力は押したボタンによって異なっており、一般的に弱→(中)→強とダメージが高くなると同時に隙が大きくなる(技前後の予備動作が長くなる)。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2D対戦型格闘ゲームの最大手だったカプコンが制作したゲームの多くは『ストリートファイターII』に代表される6ボタン入力系を採用している。これは元々は、前作『ストリートファイター』の汎用筐体向けのコンパネ仕様である。上段の3つを左から順に弱、中、強威力のパンチに、下段の3つを同様にキックに割り当てている。この入力体系をカプコンとアリカ製のゲーム以外で採用したゲームは『カイザーナックル』『ファイターズヒストリー』など『ストリートファイターII』ブームに乗る形で出したゲームが多い。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2D対戦型格闘ゲームで同じく多く使用されたのは4ボタン入力系である。これは格闘ゲームを多く送り出したネオジオで使用できる最大ボタン数が4までだったこともある。4ボタンと一括してもその使用法はバリエーションが多く、中攻撃を削除し、パンチ、キックの弱、強に割り当てるもの(『餓狼伝説スペシャル』『ザ・キング・オブ・ファイターズ』など)、弱・中に割り当てて強攻撃を弱、中のボタンを同時に押すことで発生させるもの(『サムライスピリッツ』『ワールドヒーローズパーフェクト』など)、3ボタンを攻撃に割き(弱、中、強、パンチ、キック、強攻撃、弱攻撃など)、4ボタン目を何らかの特殊行動に割り当てるもの(『サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣』『龍虎の拳』『ジョジョの奇妙な冒険』『MELTY BLOOD』『GUILTY GEARシリーズ』など)、等々、様々なものが存在する。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "同時押しで強攻撃を発生させるタイプの場合、店舗側で5、6ボタン目を取り付けて弱、中ボタンの同時押しになるように改造し、6ボタン入力仕様にした筐体も散見された。また、4ボタンでは特殊動作をする際に同時押しを要求されることも多く、『餓狼伝説3』など格闘ゲームが進化していくにつれ直感的に分かりづらい煩雑な同時押しを要求されることも多かった。近年では、『北斗の拳』のように攻撃ボタンの4ボタンに加え、特殊動作に1ボタンを加え5ボタンにした作品も多い。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "対戦型格闘ゲームの元祖とされる作品『ストリートファイター』では、感圧式のボタンが使用されていた。『ワールドヒーローズ』『龍虎の拳2』など、ボタンの押し具合によって強弱を使い分ける方式もある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "上段および下段のパンチ、キックと、それらの中央にガードボタンを配置したもの(『モータルコンバット』)、3ボタンの構成がパンチ、キック、ジャンプとなっているもの(『ナックルヘッズ』)等がある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "『バーチャファイター』に代表される3D対戦型格闘ゲームは、ガード・パンチ・キックの3ボタンで構成されるものが多い。パンチ・キックは1種類ずつしかないが、ボタンを特定の順番・タイミングで押す、特定の組み合わせで同時に押す、レバー入力と組み合わせるなどの操作で様々な技に派生させられる。「キックの威力はパンチの2倍」に従ってか、全体的にキックの方が威力は高い。ガードボタン単体では攻撃には関わらないが、ボタンを攻撃のバリエーションとして使用することもある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "これの操作系をアレンジしたものとして、ドリームファクトリー製のゲームはパンチ・キックの代わりに上段攻撃・下段攻撃とし(上下同時押しで中段攻撃)、技の属性が直感的に分かりやすいようになっている。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その他の特徴的なものに、左右の手足に4つのボタンを割り当てたもの(『鉄拳』)、キャラクターが武器を持ち、縦横の武器を振る方向で構成されたもの(『ソウルキャリバー』『スターグラディエイター』など)、前・後のボタンで移動、レバーで攻撃する『武力 〜BURIKI ONE〜』がある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ガードは相手の攻撃を防御し、ダメージを完全に防ぐか最小限の被害に留める防御行動であるが、投げに対しては脆い(後述)。技による攻撃と同じぐらい重要な行動である。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2D対戦型格闘ゲームのほとんどと3D対戦型格闘ゲームの一部は、進行方向の逆にレバーを入力することでガードする。例えばキャラクターが右を向いている場合、左に入力するとガードになる。また、足下を狙う攻撃には左を入れてガードすることはできず(下段技)、左下を入力してガードする。また、ジャンプ中の攻撃は左下の入力ではガードできず、左を入れてガードする。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2D対戦型格闘ゲームにおいてはしゃがみ技に強力なものが多く、立ち技も下段ガード可能でジャンプ攻撃は下段ガード不能だが切り替えは比較的容易なため、しゃがみガードが防御の基本となる。地上での中段技(後述)を持っているキャラもいるが、そのほとんどがガード崩しのバリエーションにすぎないため、相手の動きに応じて中段技を意識はしつつ、ガードはしゃがみガードを中心とすれば基本的には安全である。だが、空中ダッシュなどでキャラクターが空中で機敏に動けるゲームではジャンプ攻撃が擬似的な中段技として機能することもあるため、一概にそうとは言い切れない。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "3D対戦型格闘ゲームのほとんどは、レバー入力方向に応じず地上にいるときガードボタンを押すことでガードする。立っている時にガードボタンを押すと立ちガードになり、しゃがんでいる時にガードボタンを押すとしゃがみガードになる。但し『鉄拳』シリーズではレバーでガード動作を行う。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2D格闘ゲームと異なる点は、しゃがみガードできない「中段技」と呼ばれる技が多くあること(この中段技の元祖は2D格闘ゲームの『龍虎の拳』)で、それに比べしゃがみ攻撃は弱く、下段技も中段技に比べるとリスクやリターンでは劣っているものが多いため、3D格闘ゲームでは立ちガードが基本となる。しかし、隙の少ない上段攻撃はしゃがみで避けることができ、下段技も多用できる性能のため、2D格闘ゲームに比べて相手の動きに合わせて立ちとしゃがみを使い分ける機会は遥かに多い。また、先述のように2D格闘ゲームでもこのボタンガードを採用しているゲームもある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "投げは近くにいる相手を掴み、名前の通り投げ飛ばしたり至近距離からの打撃を与える攻撃行動で、基本的に防御に強く、打撃に弱い(後述。)", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "通常投げ、コマンド投げ、移動投げ、対空投げ、空中投げ、打撃投げ、返し投げなどが存在する。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "最大の特長はほとんどの投げ技が条件が成立していれば即可能で、通常の攻撃より出が早く前述のガードを無効化できる点であるが、相手との距離がきわめて近くないと投げられない、相手が攻撃を受けているモーション中は投げられないなどの条件が存在する。これは2D対戦格闘では攻撃することのリスクは低く、なんらかの技を出している・移動中の状態が多いため、密着状態にすること自体のリスクが高いからである。即ち、2D対戦型格闘での投げはガードを崩す裏の選択肢といえる。ただし、いわゆる投げキャラは打撃技等が今一つである反面、コマンド投げが大ダメージの場合もあるため、主流の選択肢となる。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "投げられる条件を満たさないまま投げ技の入力をしたり、入力から実際につかむまでに条件が解けたりすると、別の技が出たり投げ失敗のモーションになり、隙をさらすことになるゲームも多い。特に「投げ失敗モーション」は昨今の格闘ゲームにはもはや一般的なものになっている。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1990年代後半に「投げ抜け」という投げられたタイミングに特定の入力をすることで投げ掴みを捌くことができるシステムが導入され始め、昨今の格闘ゲームのほとんどに採用されている。2D格闘ゲームの場合、相手が使用したの投げのコマンドと似たボタン入力が求められることが多い([P投げ]に対して[P]、[→K投げ]に対して[→K]など)。また、一部のコマンド投げや通常投げ以外を「投げ抜け不可」としている格闘ゲームも多く存在する。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "3D対戦格闘における投げは、ガードは無効化できるが、打撃技と比較しても早い部類と同等程度で、ダメージも単発としては高めな程度でしかない。しかし打撃技が、ある程度接近しないとヒットさせられず、ガードされると基本的には不利である。このガードに対する存在として、投げが存在する。そしてその投げも攻撃技とかち合うと一方的に潰される羽目になる。すなわち、打撃<ガード<投げ<打撃...という基本の「三すくみ」を構成する、重要な要素・選択肢といえる。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "更に立ち・しゃがみガードの使い分けから、立ち状態を投げる立ち投げ、しゃがみ状態を投げるしゃがみ投げを区分。これを含めて細分化すると、中段攻撃<立ちガード<立ち投げ<中段攻撃の主流の三すくみに、更に下段攻撃<しゃがみガード<しゃがみ投げ・中段攻撃、更に立ち投げ<しゃがみガード、しゃがみ投げ<立ちガード等という複雑なすくみ関係のループが構成されている(ただ、基本的にしゃがみ投げを持つキャラは少ない。出の速い中段技でもしゃがみガード崩しは十分できるためである)。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "これにより、どの行為にも有利・不利の相性があり、少なくないメリットとリスクがあるようになるため、相手がどう行動するのかの読みに勝つことが重要となるのである。これらは開祖である『バーチャファイター』が基本形を構築しており、後のゲームも大きな影響を受けている。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "稀に、打撃技の出がかりをも投げられる「キャッチ投げ」があったり、投げをしゃがみ・立ち状態共通にするゲームも存在する。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "投げ抜けに関しては、投げの殆どがコマンド投げであるため、すべてできるようにしているのが一般的。ただし対応する投げ抜けコマンド(相手投げコマンドの最後の方向と同じレバー+投げなど)でなければ抜けられないという制限を課し、ここにも読み合いの要素を入れていることがある。 また投げ失敗モーションがあるゲームも一般的。これは読みの失敗を明確にする効果もある。これも『バーチャファイター2』において、投げ失敗がなくコマンドの重複が可能だったため、いわゆる「自動二択」(投げられなければ、自動で中段攻撃が出る)がリスクが非常に低く強かったことの反省から導入されている。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2D対戦型格闘ゲームのほとんどと3D対戦型格闘ゲームの一部は、特定のレバー操作(コマンド入力と呼ぶ)の後にボタンを押すことで必殺技を発動させられる。必殺技はガードすると体力がわずかに減少する(削り)。特定の操作とは、例えばボタンの連打、レバーを下から右方向に4分の1回転させた後パンチボタンを押す(波動拳コマンド)、といったもの。比較的簡単なものから、レバーを1回転させるような難しいものまで様々なものが存在する。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "レバー操作のコマンド入力の歴史は初代ストリートファイターから存在しているが当初このシステムは他社の対戦格闘ゲームでは浸透していなかったが『ストリートファイターII』の大ヒット以降標準化されて行った物である。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "『龍虎の拳』において必殺技を越える超必殺技が登場し、すぐに他の作品でも採用された。性能は必殺技よりも高いものの、残り体力やゲージなど、一定の条件を満たす必要がある。さらに必殺技以上にコマンドが複雑なものが多く、『龍虎の拳』で初めて採用されたボタン同時押しを始め、当時のプレイヤーに「隠しコマンド探し」というやり込みを促す方向へ進んでいった。1990年代中盤までは複雑化の一途を辿り、出せること自体が能力となっていた面もあったが、その後は単純なものへと回帰していった。これは格闘ゲーム自体がマニアックになりすぎ、プレイヤーの新規参入を阻んだことへの反動と言われる。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "レバーを前方や後方などに入れながらボタンを押すと、通常とは違う攻撃を出せる場合もある。例えばレバーを進行方向に入れながら中パンチボタンを押すと、通常はフックが出るところを、上から振り下ろすようなパンチに変化する、といったもの(『スーパーストリートファイターIIX』、リュウ:鎖骨割り)。これらは通常技ではないが必殺技と言うほど特別ではない、という意味で特殊技もしくは単にレバー入れ技などと呼ばれる。レバーを下方向に入れた場合の攻撃はしゃがんだ状態の通常技と見なされ、特殊技とはされない。同様に上方向に入れた場合も、ジャンプ中の通常技と見なされる。ただし、例えば進行方向斜め下にレバーを入れた場合のみ技が変化する場合は特殊技とされる。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "3D対戦型格闘ゲームについては、前述の通りボタン入力とレバー入力の組み合わせで様々な技に派生する。2D対戦型格闘ゲームでは一つのボタンでは状態によって決まった一つの通常技しか出なかったが、3D対戦型格闘ゲームは通常パンチボタンを押した際に出るジャブの他に、レバーを前に倒しながらボタンを押すことで全く異なる技の肘打ちを出すことができる。このように2D格闘ゲームのようなボタンの違いによる使い分けではなく、ボタンとレバーとの組み合わせで技を使い分けるようになっている。また「パンチ・パンチ・パンチ・キック」のように順にボタンを押していくことで固有のコンビネーション技を出すことができるキャラクターも多い。また、2D格闘ゲームの必殺技のようなコマンド入力を要求されることもある(レバーを←←→と倒してパンチとキックを同時押しなど)。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "このレバーとボタンの組み合わせによる技の入力は、非常に簡便で使い分けやすいが、一方で人気シリーズでは新作を重ねると共に技は追加され続け、結果的にはその技の多さが複雑さを招いた。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "代表的なコマンドと通称を以下に挙げる。以下の例はキャラクターが右を向いているとき(左側にいるとき)の場合(左向きの場合は逆になる)。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "これらのコマンドは2D対戦型格闘ゲームの典型となっており、他のゲームやキャラクターのコマンドを説明する際にも用語として用いられることが多い。例えば『餓狼伝説』のテリーの必殺技「パワーウェーブ」は「波動 + A」、『ストリートファイターZERO』の豪鬼の「滅殺豪波動」は「逆ヨガ×2 + P」等と説明できる。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "なお、プレイヤー層やゲームによって呼び方が異なる場合がある。例えば「 + ボタン」というコマンドを、主にSNK系の格闘ゲームに親しむものは「覇王コマンド」(『龍虎の拳』の超必殺技「覇王翔吼拳」に由来)と呼ぶが、主にカプコン系の格闘ゲームに親しむものは「前 + ヨガ」等と呼ぶ。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "各ゲームのインストカードや、アーケードゲーム誌『ゲーメスト』等では、上記のようにレバー入力方向を矢印で表記している。また、末期のカプコンのゲーム等ではレバーの軌跡(昇龍拳コマンドではレバーをZ字状に動かすなど)を図示したものがある。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "パソコン通信のフォーラムやウェブページ・電子掲示板等ではコマンドを「623 + P」のように表記することが多い(この例は昇龍拳コマンド)。これは、キーボードのテンキーまたは電卓の数字をレバーに見立て、1を左下、2を真下、3を右下、4を左......のように表現したもの。斜め方向の矢印がJIS X 0208に含まれず、表現しにくい理由から生み出された。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "慣れるまでは分かりづらいが、文字ベースで簡潔に表現できるという利点がある。但し、携帯電話の普及により、電卓ではなく電話のテンキー表記(上下が逆)と勘違いされることも多い(例えば、春日野さくらの咲桜拳のコマンドを623Pと表記した場合に、右・上・右上・パンチと解釈されるなど。もちろん咲桜拳など出ず、ジャンプ攻撃が出る)。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "その他、斜め方向の入力を全角スラッシュ(/)およびバックスラッシュ(\\)で表現する方法もあるが、左下と右上、右下と左上の区別が付かないという欠点のため主流ではない。昇龍拳コマンドなら「→↓\\ + P」のように表記し、ヨガフレイムコマンドなら「←/↓\\→」のように表記する。Unicode対応ウェブブラウザの普及によって斜め方向の矢印も表示可能になっているが(例:↘ - &#8600;)、入力の手間がかかることなどから主流とはなっていない。", "title": "操作系" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2D格闘ゲームにおいても3Dと同じく打撃<ガード<投げ<打撃...だが、キャラ特性や個性が強く表れるので基本的に三すくみ関係は存在しない。こちらから仕掛ける攻撃は以下に集約。", "title": "駆け引き" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "3D格闘ゲームにおける基本的な選択肢は、打撃・ガード・投げに集約される事が多い。基本的に下記のような優劣関係があり、攻防の核になるこの仕組みを三すくみという。概念的には『バーチャファイター』で成立していたものだが、板垣伴信が雑誌インタビューで語って以来、この呼び方が定着した。近年では例外的な性能を持つ技や、技の方向属性などで三すくみを拡張し、攻防要素が作品ごとに細分化、多様化している。", "title": "駆け引き" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "広義的には地上における牽制による駆け引きのことを指す。相手が技を出したところに判定の強い技で対応しカウンターヒットを狙ったり、間合いを調整して相手が技を空振りした所を攻撃するのが代表的。『サムライスピリッツ』シリーズは総じて単発の攻撃力が高く、連続技がほとんど存在しないため、差し合いが全てと言っても良いゲーム性になっている。", "title": "駆け引き" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "相手がなんらかの行動(主にガード)を取ることを前提に、対処法の異なる複数の攻撃のどれかを選んで攻撃する。例としては「下段攻撃と中段攻撃のどちらかを選んで攻撃する二択攻撃」など。この場合、大雑把に言えば2分の1の確率で打撃がヒットすることになる。攻撃側が選択肢を3択・4択と増やせばヒット確率はさらに3分の2・4分の3と増加していく。想定外の行動(いわゆる「暴れ」や「逃げ」など)に対しては案外弱かったりする場合もある。", "title": "駆け引き" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ダウンさせられた側は、起き上がり時の相手の出方に対処する必要がある。相手は通常の攻めと同じだけの選択肢があるが、ダウンさせられた側は取れる行動が非常に限定されたものとなるため、立ち状態のときよりも非常に不利な状態と言える。ダウンを取った攻め側は相手に択一攻撃を仕掛けたり、長く硬直する技を当てるなどして有利な状況を生かした攻撃を仕掛けるのがベター。逆に守り側は起き上がり中に出せる攻撃を出すか、防御行動をとって相手の起き攻めを回避するかを選択する必要がある(ゲームによっては、「何もしない」という選択が無敵時間などの関係上有効な場合もある。起き上がりモーション中は無敵だが何らかの行動を取った瞬間に無敵が解けるなど)。", "title": "駆け引き" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ゲームによっては、正常な、もしくは全く駆け引きが発生しない状況が発生する。例えばハメがそれである。正常の駆け引きが発生しない状況から異なる駆け引きが発生することもある(先にハメの始動技を決めた方が勝ちが了解として通じる)が、アーケードにおいてこうなった場合は大抵新規ユーザーが介入することができなくなる。", "title": "駆け引き" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "対戦型格闘ゲームにはプレイヤーの間で使われる用語が存在する。これらは格闘ゲームにとどまらず、派生して他のジャンルで使われることもある。用語は数多く存在するが、その中でも代表的なもののみ以下に挙げる。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "前述の待ち・ハメに関しては、古くは雑誌の投稿欄から、パソコン通信・電子掲示板などに渡って現在でも論争が繰り返されている。大まかに言って、待ち・ハメ否定派は「相手と戦い合うこと」を至上とし、「人にされて嫌だと思うことはするべきでない」「バグを利用するのは制作者の意図するものではない」との立場から主張し、待ち・ハメ肯定派は「自らが勝利すること」を至上とし、「ルール(ゲーム内において操作で可能な行為)の範囲内で最善を尽くすのは当然である」「バグではない仕様であれば、制作者の意図したものだから、問題ない」とする立場から、それぞれ主張している。前提が違うままに主張し合うので議論がかみ合わず、不毛な論争になりがちである。現実的問題を挙げれば、『北斗の拳』におけるレイの「バグ昇竜」(特定条件で上昇技を当てるとヒットし続けながらどこまでも画面外に上り続けるバグ)などは、これまたゲージなど特定の条件が揃わないと解除が出来ず、最終的にゲームの筐体自体が停止してしまう。このようなゲーム自体が不成立になったりゲームセンターの財産である機械に損害を与えかねないケースもあるため、最終的に円滑な運営のためにはゲームセンター運営者の裁定を以ってハウスルールとするのが最も無難である。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "興味深い点として、ブームが去りプレイヤーが減少し、マニア層の声が相対的に大きくなった2000年代中盤では、肯定する立場の意見が優勢であり、バグを利用したハメまで肯定される傾向が強くなりつつある。なぜなら、もともと待ちやハメ行為を問題として、極端なまでのバランス調整を要求していたのはマニア層であり、立場が逆転しているからである。インターネット掲示板などではモラルの問題として自主規制する向き(待ち・ハメプレイヤーを嘲笑するなども含む)であるが、これも強制力を持たないものであるため、各プレイヤーやローカルレベルで周知・規制されている程ではない。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "3D対戦格闘ゲームの場合は攻めのリスクは低くなく、守りは必ず崩す手段があるため、守りも攻めも極端なバランスにはなっておらず、「待ちを崩せない方が悪い」という考え方が一般的である。試合内容に関しても、待ちやハメに対しての是非を問うよりも、いかに面白い読み合いができたか、読み合いのやり取りができる相手だったかどうかで語られることが多い。そういう意味では、ハメは論外としても、一方的な試合内容になりがちな対戦スタイル、同じ行動ばかり取るスタイルは、読み合いになっていないため敬遠される傾向にある。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "メーカー側としては、『初心者狩り』による対戦人口の減少・不公平感の増大・対戦が陳腐化するという待ち・ハメの害悪を重視し、ゲージを消費するが無敵の切り返し技を全キャラ装備させる、受身など取れる行動の選択肢を増やす、技を待ち・ハメが成立しないような性能にするなど、最初からできないようにする方向で進んでいる。しかし、調整しすぎると、爽快感やキャラクターの特色などがなくなってしまう他、受け方を知らない相手にのみ成立するハメができ初心者狩りの原因となってしまうなど、製作側には難しいさじ加減が要求される所である。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "なお、これらの論争はいずれも対人戦においての物であり、対CPU戦においてのいわゆる「パターンハメ」については事情が異なっている(前述のCPUの項目を参照)。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1990年代後半当たりまで、格闘ゲームはアーケードでは主役だった。しかしその数は次第に減少していくことになった。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "これは「最初は売れていても続編がどんどんマニア向けになって一般客が離れ、最後にはマニアもついていけなくなって別ジャンルに流れてしまう」という、1980年代前半のボードウォー・シミュレーションゲーム以来、対人を目的とした玩具全般が繰り返してきた歴史を踏襲するものであり、対戦格闘もこれらと同様に衰退の道を歩みゲーム離れの原因のひとつとも言える。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "現在では、対戦格闘ゲームと並んでアーケードゲームの花形ジャンルだったシューティングゲームも同様に衰退しているジャンルの代表として挙げられる。任天堂の岩田聡社長(当時)は、この2ジャンルを東京ゲームショウ2003の講演で「普通の人が遊べない、重厚長大化して飽和してしまった」と述べた。後に、『ストリートファイター』シリーズを担当した小野義徳も「声が大きくて開発者側も意見を気持ちよく感じる熱心なファンを、ユーザー全ての感想と思い込んでしまっていた。それ以外の人にはまったく響いていないということには、4~5年前(2000年代半ば)まで気づかなかった」とこれを認めている。『MARVEL VS. CAPCOM 3 Fate of Two Worlds』の製作陣は、「格闘ゲームと聞くだけで拒否反応が出るような閉塞感がある」と窮状を指摘した上で「元がアーケードゲームである以上、上手い人が尊敬されるのは当然であるがライトユーザーも楽しめるよう追求するべき」とし、そのバランスをいかにして取るかを今後の課題としている。また、その打開策の一つとして格闘ゲーム以外のオマケモードの充実を挙げている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "また、各地の筐体をブロードバンドで結び、同レベルの対戦相手を選べるなどのシステムを導入し、さらにはデータの保存ができるカードで、キャラクターの服装等をカスタマイズできるといった要素も導入されている。しかしこれらの対策も、マニア層の引き留め以上の効果は得られておらず、ユーザー離れが続いている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "各メーカーはグラフィックの質の向上、同人層の取り込みや「萌え」との接近、操作性の極端な複雑化や逆に簡略化(『アカツキ電光戦記』等)など、様々なアプローチで格闘ゲーム人気復権の道を模索している。 他にも格闘ゲームの全国大会である闘劇の開催や、その大会の観戦チケットが売り出されたり対戦模様をDVD化するなど、観戦目的で格闘ゲームを楽しむというユーザーも少なからず存在している。 また、2019年世界的にはeスポーツとして対戦型格闘ゲームがスポーツの一種として見直される風潮も出てきているが、日本においては未だ途上である。", "title": "現状" } ]
対戦型格闘ゲーム(たいせんがたかくとうゲーム)とは、プレイヤーとコンピュータ、あるいはプレイヤー同士が操作するキャラクターが、主に1対1の格闘技(もしくはそれに類する形式)で戦う対戦型コンピュータゲームである。コンピュータゲームのジャンルの一つであり、対戦アクションゲームの派生物のジャンルである。
{{Pathnav|コンピュータゲーム|コンピュータゲームのジャンル|アクションゲーム|frame=1|対戦アクションゲーム}} {{独自研究|date=2009年12月}}{{未検証|date=2009年12月}} {{ウィキプロジェクトリンク|対戦型格闘ゲーム|[[ファイル:Karate icon.svg|36px]]|break=yes}} '''対戦型格闘ゲーム'''(たいせんがたかくとうゲーム)とは、[[プレイヤー (ゲーム)|プレイヤー]]と[[コンピュータ]]、あるいはプレイヤー同士が操作する[[キャラクター]]が、主に1対1の[[格闘技]](もしくはそれに類する形式)で戦う対戦型[[コンピュータゲーム]]である。[[コンピュータゲームのジャンル]]の一つであり、'''[[対戦アクションゲーム]]'''の派生物のジャンルである。 == 概要 == コンピュータゲームのジャンルにおいては[[アクションゲーム]]の一種として分類できる。単に'''格闘ゲーム'''、'''対戦ゲーム'''、'''格ゲー'''と略されることや、'''格闘アクションゲーム'''、'''格闘アクション'''、'''対戦格闘ゲーム'''、'''対戦格闘'''という別称で呼ばれることもある。大別して、上下左右の動きだけで奥行きのないもの([[2次元|2D]])と、奥行きのあるもの([[3D]])の2種類がある。 プレイヤーは多数のキャラクターの中から自分の使用するキャラクターを選び、互いに攻撃しあい相手の[[ライフ (コンピュータゲーム)|体力]] <ref group="注釈">なお、『[[ストリートファイターII]]』では、[[インストラクションカード]]のルール説明で体力ではなく「精神力」と表記されていた。</ref>をなくした方が[[勝利]]となる[[システム]]が一般的である。 == 歴史 == [[1984年]]の『[[カラテカ (ゲーム)|カラテカ]]』や『[[スパルタンX (ゲーム)|スパルタンX]]』、[[テクノスジャパン]]の『[[空手道 (ゲーム)|対戦空手道]]』、[[任天堂]]の『[[アーバンチャンピオン]]』、セガ(後の[[セガ・インタラクティブ]])の『[[アッポー]]』、[[1985年]]の[[バンダイ]]の『[[キン肉マン マッスルタッグマッチ]]』、コナミ(後の[[コナミデジタルエンタテインメント]]並びに[[コナミアミューズメント]])の『[[イー・アル・カンフー]]』、[[1987年]]の[[カプコン]]の『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』など、[[格闘技]]や[[武道]]を題材としたゲームが[[1980年代]]半ばから後半にかけて増え始めた。 [[1991年]]のカプコンの『[[ストリートファイターII]]』により、複雑な駆け引きのできる対戦を前提としたゲームシステムが完成。この作品の世界中での爆発的なヒットにより、[[1990年代]]前半から半ばにかけて、対戦格闘ゲームは一つの大きな[[流行|ブーム]]を巻き起こした。また、それまで一般的に「[[不良行為少年|不良]]の溜まり場」と見做されていた[[ゲームセンター]]に低年齢層を引き込む要因となった。数々の亜流ゲームが作られた以外に、格闘ゲームを原作とする[[実写映画]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]が多数作られ、[[1993年]]に始まった「[[K-1]]」などの現実の格闘技人気や、『[[聖龍伝説]]』といった[[テレビドラマ]]や、『[[機動武闘伝Gガンダム]]』等の[[テレビアニメ]]にも大きく寄与した。また、[[アーケードゲーム]]として人気だった格闘ゲームは[[家庭用ゲーム機]]に移植され、[[キラーソフト]]として家庭用ゲーム機の普及に大きく貢献した。 対戦格闘ゲームは当初は爆発的ブームとなったが、各[[シリーズ (作品)|シリーズ]]の新作とともにシステムが複雑化し、[[ポリゴン]]技術による3D化を除いて大きな革新がなかったことも手伝い、徐々に[[マニア]]向けなジャンルとなっていった。近年{{いつ|date=2015年12月}}ではカードシステムによる戦績データの閲覧や、アイテムによるプレイヤーキャラクターの[[カスタマイズ]]などの蓄積要素を取り入れている。 === 2D対戦格闘ゲーム === ゲームとして2人のキャラが対戦して相手を打ち負かすという形式は[[1984年]]に稼動を開始した[[アーケードゲーム]]の『[[空手道 (ゲーム)|対戦空手道]]』などから始まったものである。[[1991年]]に[[日本]]において[[カプコン]]の『[[ストリートファイターII]]』(略称『ストII』)が[[アーケードゲーム]]として登場してから、ジャンプやしゃがみなどの基本行動、[[攻撃]]や[[防御|ガード]]、[[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]入力方式の[[必殺技]]などを駆使する形式が確立され、同ジャンル成長のきっかけを生んだ。これらは[[CPU]]との対戦に加え、プレイヤー同士の対戦による駆け引きが人気を呼ぶ鍵となり、全国的な対戦ブームを生み出し、各地で[[大会]]なども開かれ、ブームは日本国外にも広がりを見せた。 この『ストII』人気に乗じ、中堅以上のメーカーは大抵一作品以上は格闘ゲームを市場に投入するほどの過剰供給とも言える状況を生み出した。それにしたがって各メーカーは競うようにグラフィックを向上させ、新システムや追加要素を盛り込み、どんどん高度化、複雑化した格闘ゲームを生み出すようになり、1990年代前半にはピークを迎えた。しかし、やがて各メーカーは同じゲームの改良版を次々に出さざるを得ない状況に陥り、市場は飽和し、それに並行してユーザーのマンネリ化を生み出していった。また、ブームに陰りが見え始めた1990年代後半になると、『[[コロコロコミック]]』や『[[コミックボンボン]]』との[[タイアップ]]も打ち切られ、それに伴いブームを支えていた子供層からの人気も、『[[ポケットモンスター (ゲームシリーズ)|ポケットモンスター]]』や『[[デジモン]]』等といった[[育成ゲーム]]や、『[[遊☆戯☆王オフィシャルカードゲーム|遊戯王]]』等の[[トレーディングカードゲーム]]に全て奪われてしまい、ブームは過渡期を迎え、収束していった。 [[2001年]]頃になるとカプコンがアーケード向けの対戦格闘ゲーム開発の凍結を発表し、カプコンと並び同ジャンルを牽引していた[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]の[[倒産]](のちに関連会社がSNKプレイモアとして再出発し、[[2016年]]に旧社と同じ「[[SNK (2001年設立の企業)|SNK]]」へ社名変更)などもあり、ブームは完全に終了した。 しかし、市場は下降傾向にありながらも、『[[ギルティギア]]』シリーズ、『[[MELTY BLOOD|メルティブラッド]]』など定期的にヒット作は出現している。ここ最近{{いつ|date=2015年12月}}では[[NESiCAxLive]]のコンテンツ(『[[BLAZBLUE]]』シリーズ、『[[AQUAPAZZA]]』など)が市場の中心である。 === 3D対戦格闘ゲーム === {{redirect|3D格闘|ダイソーでこの名称で販売されたフリーゲーム|Fate Axis}}[[1993年]]にセガ(後の[[セガ・インタラクティブ]])の『[[バーチャファイター]]』がアーケードに登場して以降は、[[ポリゴン]]で描かれたキャラクターを使用して3次元空間での戦いを表現した格闘ゲームが増加。これによって格闘ゲームに2D、3Dと呼ばれる区別が生まれることとなった。『バーチャファイター』が独特なシステムを数多く持っていたためか、それ以降の3D対戦格闘ゲームでも『バーチャファイター』を踏襲したと思われる要素を持つものが多い。 その最たるものがしゃがみガードができない中段攻撃の導入([[#3D対戦型格闘ゲームでのガード|後述]])である。中段攻撃自体は『バーチャファイター』の発明ではないが、大抵の3D対戦格闘ゲームでは、ほとんどのキャラクターに基本技として中段攻撃を持つ。そのため2D対戦型格闘ゲームでありがちな「しゃがみガードをしていれば安定して相手の攻撃を防ぐことができるため、相手の攻撃を凌ぎながらスキを見て反撃する」という待ち状態がなくなったことが大きい。中段攻撃の存在により、状況に応じての立ちガードとしゃがみガードの使い分けや通常技の連係を重視した対戦となり、必殺技を重視したそれまでの2D対戦型格闘ゲームとは全く違うゲーム性となった。ネットワーク対応およびカードシステムの普及により、近年{{いつ|date=2015年12月}}の作品では海外展開がされなくなったタイトルもある。 === 2Dと3Dの違い === かつては人間が手作業で描いた[[ドット絵]]のキャラクターが登場する作品が2D格闘ゲーム、[[ポリゴン]]によるキャラクターによる作品が3D格闘ゲームとされていた。しかし技術が進歩し、[[トゥーンレンダリング]]等で手描きと遜色がないポリゴン描写ができるようになったことから、『[[ストリートファイターIV]]』のようにポリゴンキャラクターを使用しながらかつての2D格闘ゲームのシステムを踏襲するゲームも登場するようになった<ref group="注釈">同作品では試合中は基本的に視点が真横に固定されているが、超必殺技の演出や試合後の勝ち名乗り演出では視点変更による演出が導入されている。</ref>。 このため、『ストリートファイターIV』以降の作品でキャラクターの描写方法ではなく、試合中の[[視点]]がほぼ真横に固定され、奥行きへの移動を伴わない<ref group="注釈">『[[餓狼伝説]]』シリーズのラインバトルシステムのような簡易的な奥行き移動はこれに含まれない</ref>ゲームが2D格闘ゲーム、キャラクターの移動に伴い視点角度が変更されるゲームが3D格闘ゲームとされる場合が多い。 ==== 左右反転問題 ==== 2D格闘ゲームではキャラクターが向かい合って戦う都合から、1P又は2P(作品又はキャラ毎にどちらが基準になるか異なる)側にいるキャラクターが反対を向いた場合は[[グラフィック]]を左右反転させている。そのため、左右非対称で描かれたキャラクターは[[武器]]を持つ利き手、傷痕の位置なども鏡映しのグラフィックになり、本来の設定とは逆方向になる。ただし、この矛盾を2D上で解決しようとすると開発の手間が増える、グラフィックに割く容量が倍になってしまう、攻撃の当たり判定に差異が出るなどの問題が起こってしまうためゲームの操作上では特に問題視はされていない。また、衣服に書かれた文字や文字タトゥーなど、反転する事で明らかな違和感が生じるグラフィックは反転せずに2P用のグラフィックが書き起こされる。 なお、この問題はジャンルを問わず左右の振り向きの概念があるほぼ全ての2Dゲームに言える為、2D格闘ゲーム特有の話ではない。 対して3D格闘ゲームでは多くの場合、左右反転を行わず、キャラクターが対戦相手をジャンプで飛び越えるなどして向きを変える際に、キャラクターが回転して自然に向きが変わるようになっている。この時、攻撃する利き手やアクションなども反転されない。また、キャラクターによっては構えの都合上、主に2P側はプレイヤーに背中を向けた状態になってしまう事もある。 こうした左右反転の描写に新たな表現を取り入れたのが『[[バトルファンタジア]]』で、3Dグラフィックでありながら2Dのシステムをベースにした同作では2P側の位置にいるキャラクターのグラフィックの反転を行わず、アクションとアクションに関わる要素(利き手、武器の持ち手など)だけを反転させている。以降、同作からの影響を公言している『[[ストリートファイターIV]]』などでも同様の反転を取り入れている。 ==== ステージ領域 ==== 2D格闘ゲームの試合ステージは基本的に左右に後退するとこれ以上進めなくなる領域が存在し、画面端と呼ばれる。この時、画面のフレームそのものが左右の壁の役割を果たす事になり、キャラクターによっては[[三角飛び]]など画面端を足場にしてアクションを行う例もある。これに対し3Dでのステージの端は、 # 「文字通り[[壁]]に遮られている」(『[[ファイティングバイパーズ]]』、『[[鉄拳4]]』) # 「[[相撲]]の[[土俵]]のように段差で仕切られており、[[ステージ]]から[[転落]]すると[[リングアウト]]負けとなる」(『[[バーチャファイター]]』) # 「ステージ境界が存在せず、(対戦相手と距離を保っている限り)無限に[[ループ]]する」(『鉄拳』) のいずれかとなる傾向にある。1では壁にぶつける事によって[[ダメージ]]増加や、[[バウンド]]を利用して連続技を叩き込むなどの要素が含まれる。1、2の複合型も存在し、一定回数、対戦相手を壁にぶつける事によって壁が破壊されリングアウトが成立する。2Dにも『[[REAL BOUT 餓狼伝説]]』のように壁やリングアウトを取り入れたゲームも存在する。 == 勝敗 == 特に[[アーケードゲーム]]では3ラウンド中2ラウンドを先取することで勝利とするラウンド制をとった作品が多い。乱入したプレイヤーと対戦する場合、5ラウンド中3ラウンドを先取することで勝利とする制度を取り入れたり、一部の作品ではそれに加えて特定の状況下において一つの必殺技を決めることでラウンド先取数と関係なくその場で一方の勝利が確定するというルールの作品もある。 ; ノックアウト : 対戦型格闘ゲームの基本的な勝敗の付け方。キャラクターの体力はゲージで表現されており、敵の攻撃に当たるたびにそれが減っていく。体力が尽きてしまうとノックアウトとなり、そのラウンドを落としたことになる。前のラウンドの終了時の状況に関わらず最大値まで体力が回復した状態で次のラウンドが始まるという作品が多いが、『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]シリーズ』の様に前のラウンドの結果が反映される作品も存在する。また、一定の条件下において、対戦中でも若干体力を回復できる要素を取り入れた作品もある。 ; タイムオーバー : 設定されている制限時間が0になった場合、残っている体力が多い方がラウンドを制したことになる(いわゆる判定勝ち)。[[アーケードゲーム]]では基本的に制限時間が設定されているが、家庭用ゲーム機への移植作ではオプションで制限時間をなくすことができるのもある。 ; [[リングアウト]] : 基本的な対戦格闘ゲームではステージの端まで行くとそれ以上は進めなくなっているが、中にはそこから更に進む、あるいは敵に押し出されるなどするとリングアウトとなり、ラウンドを取られてしまうルールのものもある。『[[Rivals of Aether]]』ではリングアウトは主な勝敗の付け方となっている。 == キャラクター == {{出典の明記|section=1|date=2008年9月}} それまでの各ジャンルのゲームに登場するキャラクターは、名前や簡単な動機(姫を助けに行く、等)が解説されてはいるものの、情報としてはそれ以外はほぼ皆無だった。しかし他ジャンルとは違うエポックメイキングなファクターとして、詳細なプロフィールが設定された事により、キャラクターの個性をより引き立てる事になった。プロフィールは身長、体重、国籍など、遊ぶにはさほど影響しない情報を持ち、さらには趣味嗜好、スリーサイズ、恋人の有無なども設定されるものもある。 キャラクター設定には業界全体を通して傾向が見られる。ある作品で持ち込んだ設定がヒットしたことがライバル社に影響をもたらしているためとされている。以下はその一例である。 ; 主人公とライバル : 動作や技にクセが無く操作しやすい、キャラクター選択時に最初にカーソルが合わさっているキャラクターと、大抵の場合は外見のみ違うほぼ同性能のライバルキャラクター。黎明期の作品で同キャラ対戦が行えなかったための救済処置の名残。代表例であるリュウとケンから'''リュウケンキャラ'''、'''リュウケンタイプ'''とも呼ばれる。 : 例:『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』の[[リュウ (ストリートファイター)|リュウ]]と[[ケン・マスターズ|ケン]]、『[[龍虎の拳]]』の[[リョウ・サカザキ]]と[[ロバート・ガルシア (龍虎の拳)|ロバート・ガルシア]]、各『[[ワールドヒーローズ]]』の[[服部半蔵 (ワールドヒーローズ)|ハンゾウ]]と[[風魔小太郎 (ワールドヒーローズ)|フウマ]]など。[[八神庵]](『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』)や[[牙神幻十郎]](『サムライスピリッツ』)など第1作には登場せず第2作以降にライバルキャラとして追加されるキャラクターもおり、その場合は性能の差別化は大きい傾向にある。 ; 暴走キャラ : 自分でも制御不能な何らかの力に突き動かされ、暴走状態となったキャラクター。新キャラクターではなく既存のキャラクターの派生として登場することが多い。こういったキャラは通常の状態よりも攻撃力が高い、移動スピードが速いなどの特徴をもつ場合が多い。 : 例:[[八神庵|ツキノヨルオロチノチニクルフイオリ]](『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』)、[[リュウ (ストリートファイター)|殺意の波動に目覚めたリュウ]](『[[ストリートファイターZERO]]』)、デビル一八([[鉄拳シリーズ|『鉄拳』シリーズ]])、暴走アルクェイド(『[[MELTY BLOOD]]』)など。 ; 最弱キャラ : 意図的に性能を低く設定されているキャラクターや、公式に他のキャラと比較して弱いという設定があるキャラクター。技は主人公の技をデチューンしたもの(飛び道具の飛距離や威力など)であることが多く、グラフィックも主人公のものを流用したものが多い。 : 例:[[火引弾]](『ストリートファイターZERO』)、ネコアルク(『[[MELTY BLOOD]]』)、[[矢吹真吾]](『ザ・キング・オブ・ファイターズ』)など。ただし真吾の場合キャラ性能自体は決して低くはない。 ; 他キャラの技を使用するキャラ : 他のキャラクターの技を何らかの形でコピーして使用するキャラクター。大別して2通りのタイプがあり、あらかじめ一定の技をコピーしている者と、完全ランダムで技をコピーする者がいる。前者は多くのキャラクターの様々な技を詰め込み、少数ながらオリジナルの技も持ち合わせている、後者はランダムで決定された一人のキャラクターの技だけを全てコピーする傾向が強い。どちらの場合でも、ボスに多く見られるキャラクターである。 : 例:ギガス(『ワールドヒーローズ』)、木人、オーガ、アンノウン、コンボット(いずれも『鉄拳』シリーズ)、サイクロイドβ、サイクロイドγ(『[[ストリートファイターEX]]』シリーズ)、[[セス (ストリートファイター)|セス]](『[[ストリートファイターIV]]』)など また、CPU戦の最終ステージで登場する敵キャラクターのことを'''ボス(または最終ボス、ラストボス、ラスボス)'''キャラクターと呼ぶ。作品によってはCPU戦の途中でいわゆる'''中ボス'''キャラクターが登場する場合や、一定の条件を満たすとボス戦前後に'''隠しボス'''キャラクターとの対戦に移行することもある。『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|ザ・キング・オブ・ファイターズXII]]』のように、ストーリー設定のない一部作品の中にはボスキャラクターが存在しないケースもある。 なお、ボスキャラクターをプレイヤーが使用できるかどうかは作品によってまちまちで、他のキャラクターより性能が高すぎるなどの理由でアーケード版・コンシューマ版ともに使用できない場合や、アーケード版では使用できないがコンシューマ版なら一定の条件を満たせば使用できる場合など、様々なケースがある。中には始めからプレイヤーが使用できるキャラクターの中にボスが混じっている(作品によっては性能が通常バージョンよりアップしていたり、ボスバージョン専用の技が搭載されているキャラクターも存在する)こともある。 == 操作系 == 例外は多々あるが、上下左右の方向キー(アーケードゲームではレバー、コンシュマーでは十字キー)と3~6個のボタンで入力を行うものが多い。それらでは方向キーでキャラクターを移動やコマンドの入力をし、ボタンで攻撃する。以下一般的な例を説明する。 === 移動 === 左か右に入力することで前後に移動し、上でジャンプ、そして移動ではないが下へ入力するとその場でキャラはしゃがむ、というのが方向キーに関する最も一般的な仕様と言える。作品やキャラクターによっては斜め下へ入力するとしゃがんだ状態で移動する「しゃがみ歩き」と呼ばれる行動を持っている場合もある。 多くの場合、2D格闘ゲームでのジャンプは足払いなどの低い位置への攻撃を回避でき、さらにジャンプキックなどの攻撃を(特には連続技の始点になる通常技を)出しながら横方向へ移動できるという点で重要な行動である。ただしアッパーカットなど上向きの攻撃には良い的にされてしまうことがある。しゃがむことには相手の打点の高い攻撃を避けることができるという利点がある。 3D格闘ゲームのジャンプは事情が違っている。ジャンプの軌道がゆるやかで飛距離も極端に高いか低いのどちらかが多く、またジャンプ中の攻撃が強力なものは少ないため、あくまで回避手段として用いられることが多い。 歩行やジャンプの他にダッシュと呼ばれる移動方がある作品も多い。これはたいていの作品では同じ方向に続けて素早く2回入力するというコマンドで出すことができる。ダッシュの性能は一様ではなく、作品によって違うし、また同じ作品の中でもキャラによって差別化されている場合があるが、一滴距離を踏み込むステップタイプと、走り続けるランタイプが多い。積極的に敵に接近するための前方へのダッシュにくらべると、後退し敵から離れるためのバックダッシュの性能は低く抑えられていることが多いが、無敵時間が設定されているゲームもある(『[[餓狼伝説スペシャル|餓狼伝説SPECIAL]]』など。ただし、空中投げに対しては無力)。3D対戦格闘ゲームではレバー入力に応じた自然な足の動きを再現することが難しく、キャラクターによっては通常の移動が極めて遅い者もいるため、素早く移動するには大抵このダッシュを使うことになる。 ダッシュは、必ずしも前後のそれが揃っているとは限らず、前か後、どちらかへのダッシュしかない作品も存在する。また作品のシステム上ダッシュはあるが、鈍重で移動能力が極端に低いという設定のキャラクターだけダッシュできないようにされている場合もある。例えば、作品中唯一前へのダッシュができない『[[ヴァンパイア (ゲーム)|ヴァンパイア]]』の[[ビクトル・フォン・ゲルデンハイム|ビクトル]]や、作品中唯一前にも後にもダッシュができない『[[北斗の拳 (対戦型格闘ゲーム)|北斗の拳]]』のハート様などが該当する。 特殊な例として『[[サイキックフォース]]』のように360度全方位に移動できる作品もある。 ==== 3D対戦型格闘ゲームでの軸移動 ==== 3Dでは上下左右のほかに奥・手前(キャラクターにとって左右)の概念が付加される。この方向への移動は主に軸移動と呼ばれる。キャラクター同士の中心点を結ぶ直線を軸と呼び、この軸が移動するためである。 一般にレバーを下方向ないし上方向に素早く2回入力することで行なえ、直線的な攻撃を回避することができる。しかし、内部処理の方法は多種多様であり、『[[バーチャファイター]]』では直線攻撃(縦攻撃)と回転攻撃(横攻撃)を明確に分け、直線攻撃に対してのみ有効な無敵時間を用い時間的に回避の成否を決定している。一方『[[鉄拳シリーズ|鉄拳]]』や『[[ソウルキャリバー]]』では[[当たり判定]]を動かし、相対的な位置で回避の成否を決定している。そのため、タイミングや位置が良ければ回転攻撃でも回避することができるし、システム上直線攻撃であっても回避しきれない場合も出てくる。 特殊な例として、『ソウルキャリバー』では通常のレバー操作で、俯瞰[[視点]]における前後左右の動作が行なえ、ジャンプやしゃがみはガードボタンとレバーを同時に用いて行なう。 === 攻撃 === 攻撃は主にボタン一つだけで発生する'''通常技'''とボタンとレバーの操作を組み合わせることで発生する'''必殺技'''に分類される。通常技の攻撃力は押したボタンによって異なっており、一般的に弱→(中)→強とダメージが高くなると同時に隙が大きくなる(技前後の予備動作が長くなる)。 ==== 2D対戦型格闘ゲームでのボタン操作 ==== 2D対戦型格闘ゲームの最大手だった[[カプコン]]が制作したゲームの多くは『ストリートファイターII』に代表される6ボタン入力系を採用している。これは元々は、前作『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』の汎用筐体向けのコンパネ仕様である。上段の3つを左から順に弱、中、強威力のパンチに、下段の3つを同様にキックに割り当てている。この入力体系をカプコンと[[アリカ]]製のゲーム以外で採用したゲームは『[[カイザーナックル]]』『[[ファイターズヒストリー]]』など『ストリートファイターII』ブームに乗る形で出したゲームが多い。 2D対戦型格闘ゲームで同じく多く使用されたのは4ボタン入力系である。これは格闘ゲームを多く送り出した[[ネオジオ]]で使用できる最大ボタン数が4までだったこともある。4ボタンと一括してもその使用法はバリエーションが多く、中攻撃を削除し、パンチ、キックの弱、強に割り当てるもの(『[[餓狼伝説スペシャル]]』『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』など)、弱・中に割り当てて強攻撃を弱、中のボタンを同時に押すことで発生させるもの(『[[サムライスピリッツ]]』『[[ワールドヒーローズ|ワールドヒーローズパーフェクト]]』など)、3ボタンを攻撃に割き(弱、中、強、パンチ、キック、強攻撃、弱攻撃など)、4ボタン目を何らかの特殊行動に割り当てるもの(『[[サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣]]』『[[龍虎の拳]]』『[[ジョジョの奇妙な冒険 (対戦型格闘ゲーム)|ジョジョの奇妙な冒険]]』『[[MELTY BLOOD]]』『[[GUILTY GEARシリーズ]]』など)、等々、様々なものが存在する。 同時押しで強攻撃を発生させるタイプの場合、店舗側で5、6ボタン目を取り付けて弱、中ボタンの同時押しになるように改造し、6ボタン入力仕様にした筐体も散見された。また、4ボタンでは特殊動作をする際に同時押しを要求されることも多く、『[[餓狼伝説3]]』など格闘ゲームが進化していくにつれ直感的に分かりづらい煩雑な同時押しを要求されることも多かった。近年では、『[[北斗の拳 (対戦型格闘ゲーム)|北斗の拳]]』のように攻撃ボタンの4ボタンに加え、特殊動作に1ボタンを加え5ボタンにした作品も多い。 対戦型格闘ゲームの元祖とされる作品『ストリートファイター』では、感圧式のボタンが使用されていた。『[[ワールドヒーローズ]]』『[[龍虎の拳2]]』など、ボタンの押し具合によって強弱を使い分ける方式もある。 上段および下段のパンチ、キックと、それらの中央にガードボタンを配置したもの(『[[モータルコンバット]]』)、3ボタンの構成がパンチ、キック、ジャンプとなっているもの(『[[ナックルヘッズ]]』)等がある。 ==== 3D対戦型格闘ゲームでのボタン操作 ==== 『[[バーチャファイター]]』に代表される3D対戦型格闘ゲームは、ガード・パンチ・キックの3ボタンで構成されるものが多い。パンチ・キックは1種類ずつしかないが、ボタンを特定の順番・タイミングで押す、特定の組み合わせで同時に押す、レバー入力と組み合わせるなどの操作で様々な技に派生させられる。「キックの威力はパンチの2倍」に従ってか、全体的にキックの方が威力は高い。ガードボタン単体では攻撃には関わらないが、ボタンを攻撃のバリエーションとして使用することもある。 これの操作系をアレンジしたものとして、[[ドリームファクトリー (企業)|ドリームファクトリー]]製のゲームはパンチ・キックの代わりに上段攻撃・下段攻撃とし(上下同時押しで中段攻撃)、技の属性が直感的に分かりやすいようになっている。 その他の特徴的なものに、左右の手足に4つのボタンを割り当てたもの(『[[鉄拳シリーズ|鉄拳]]』)、キャラクターが武器を持ち、縦横の武器を振る方向で構成されたもの(『[[ソウルキャリバー]]』『[[スターグラディエイター]]』など)、前・後のボタンで移動、レバーで攻撃する『[[武力 〜BURIKI ONE〜]]』がある。 === ガード === ガードは相手の攻撃を防御し、ダメージを完全に防ぐか最小限の被害に留める防御行動であるが、投げに対しては脆い(後述)。技による攻撃と同じぐらい重要な行動である。 ==== 2D対戦型格闘ゲームでのガード ==== 2D対戦型格闘ゲームのほとんどと3D対戦型格闘ゲームの一部は、進行方向の逆にレバーを入力することでガードする。例えばキャラクターが右を向いている場合、左に入力するとガードになる。また、足下を狙う攻撃には左を入れてガードすることはできず(下段技)、左下を入力してガードする。また、ジャンプ中の攻撃は左下の入力ではガードできず、左を入れてガードする。 2D対戦型格闘ゲームにおいてはしゃがみ技に強力なものが多く、立ち技も下段ガード可能でジャンプ攻撃は下段ガード不能だが切り替えは比較的容易なため、しゃがみガードが防御の基本となる。地上での中段技([[#3D対戦型格闘ゲームでのガード|後述]])を持っているキャラもいるが、そのほとんどがガード崩しのバリエーションにすぎないため、相手の動きに応じて中段技を意識はしつつ、ガードはしゃがみガードを中心とすれば基本的には安全である。だが、空中ダッシュなどでキャラクターが空中で機敏に動けるゲームではジャンプ攻撃が擬似的な中段技として機能することもあるため、一概にそうとは言い切れない。 ==== 3D対戦型格闘ゲームでのガード ==== 3D対戦型格闘ゲームのほとんどは、レバー入力方向に応じず地上にいるときガードボタンを押すことでガードする。立っている時にガードボタンを押すと立ちガードになり、しゃがんでいる時にガードボタンを押すとしゃがみガードになる。但し[[鉄拳シリーズ|『鉄拳』シリーズ]]ではレバーでガード動作を行う。 2D格闘ゲームと異なる点は、しゃがみガードできない「中段技」と呼ばれる技が多くあること(この中段技の元祖は2D格闘ゲームの『[[龍虎の拳]]』)で、それに比べしゃがみ攻撃は弱く、下段技も中段技に比べるとリスクやリターンでは劣っているものが多いため、3D格闘ゲームでは立ちガードが基本となる。しかし、隙の少ない上段攻撃はしゃがみで避けることができ、下段技も多用できる性能のため、2D格闘ゲームに比べて相手の動きに合わせて立ちとしゃがみを使い分ける機会は遥かに多い。また、先述のように2D格闘ゲームでもこのボタンガードを採用しているゲームもある。 === 投げ === 投げは近くにいる相手を掴み、名前の通り投げ飛ばしたり至近距離からの打撃を与える攻撃行動で、基本的に防御に強く、打撃に弱い(後述。) ==== 2D対戦型格闘ゲームでの投げ ==== 通常投げ、コマンド投げ、移動投げ、対空投げ、空中投げ、打撃投げ、返し投げなどが存在する。 最大の特長はほとんどの投げ技が条件が成立していれば即可能で、通常の攻撃より出が早く前述のガードを無効化できる点であるが、相手との距離がきわめて近くないと投げられない、相手が攻撃を受けているモーション中は投げられないなどの条件が存在する。これは2D対戦格闘では攻撃することのリスクは低く、なんらかの技を出している・移動中の状態が多いため、密着状態にすること自体のリスクが高いからである。即ち、2D対戦型格闘での投げはガードを崩す裏の選択肢といえる。ただし、いわゆる投げキャラは打撃技等が今一つである反面、コマンド投げが大ダメージの場合もあるため、主流の選択肢となる。 投げられる条件を満たさないまま投げ技の入力をしたり、入力から実際につかむまでに条件が解けたりすると、別の技が出たり投げ失敗のモーションになり、隙をさらすことになるゲームも多い。特に「'''投げ失敗モーション'''」は昨今の格闘ゲームにはもはや一般的なものになっている。 1990年代後半に「投げ抜け」という投げられたタイミングに特定の入力をすることで投げ掴みを捌くことができるシステムが導入され始め、昨今の格闘ゲームのほとんどに採用されている。2D格闘ゲームの場合、相手が使用したの投げのコマンドと似たボタン入力が求められることが多い([P投げ]に対して[P]、[→K投げ]に対して[→K]など)。また、一部のコマンド投げや通常投げ以外を「投げ抜け不可」としている格闘ゲームも多く存在する。 ==== 3D対戦型格闘ゲームでの投げ ==== 3D対戦格闘における投げは、ガードは無効化できるが、打撃技と比較しても早い部類と同等程度で、ダメージも単発としては高めな程度でしかない。しかし打撃技が、ある程度接近しないとヒットさせられず、ガードされると基本的には不利である。このガードに対する存在として、投げが存在する。そしてその投げも攻撃技とかち合うと一方的に潰される羽目になる。すなわち、打撃<ガード<投げ<打撃…という基本の「[[三すくみ]]」を構成する、重要な要素・選択肢といえる。 更に立ち・しゃがみガードの使い分けから、立ち状態を投げる立ち投げ、しゃがみ状態を投げるしゃがみ投げを区分。これを含めて細分化すると、中段攻撃<立ちガード<立ち投げ<中段攻撃の主流の三すくみに、更に下段攻撃<しゃがみガード<しゃがみ投げ・中段攻撃、更に立ち投げ<しゃがみガード、しゃがみ投げ<立ちガード等という複雑なすくみ関係のループが構成されている(ただ、基本的にしゃがみ投げを持つキャラは少ない。出の速い中段技でもしゃがみガード崩しは十分できるためである)。 これにより、どの行為にも有利・不利の相性があり、少なくないメリットとリスクがあるようになるため、相手がどう行動するのかの読みに勝つことが重要となるのである。これらは開祖である『[[バーチャファイター]]』が基本形を構築しており、後のゲームも大きな影響を受けている。 稀に、打撃技の出がかりをも投げられる「キャッチ投げ」があったり、投げをしゃがみ・立ち状態共通にするゲームも存在する。 投げ抜けに関しては、投げの殆どがコマンド投げであるため、すべてできるようにしているのが一般的。ただし対応する投げ抜けコマンド(相手投げコマンドの最後の方向と同じレバー+投げなど)でなければ抜けられないという制限を課し、ここにも読み合いの要素を入れていることがある。 また投げ失敗モーションがあるゲームも一般的。これは読みの失敗を明確にする効果もある。これも『[[バーチャファイター2]]』において、投げ失敗がなくコマンドの重複が可能だったため、いわゆる「自動二択」(投げられなければ、自動で中段攻撃が出る)がリスクが非常に低く強かったことの反省から導入されている。 === レバーとボタンの組み合わせ === 2D対戦型格闘ゲームのほとんどと3D対戦型格闘ゲームの一部は、特定のレバー操作('''コマンド'''入力と呼ぶ)の後にボタンを押すことで[[必殺技]]を発動させられる。必殺技はガードすると体力がわずかに減少する(削り)。特定の操作とは、例えばボタンの連打、レバーを下から右方向に4分の1回転させた後パンチボタンを押す(波動拳コマンド)、といったもの。比較的簡単なものから、レバーを1回転させるような難しいものまで様々なものが存在する。 レバー操作のコマンド入力の歴史は初代ストリートファイターから存在しているが当初このシステムは他社の対戦格闘ゲームでは浸透していなかったが『ストリートファイターII』の大ヒット以降標準化されて行った物である。 『[[龍虎の拳]]』において必殺技を越える超必殺技が登場し、すぐに他の作品でも採用された。性能は必殺技よりも高いものの、残り体力やゲージなど、一定の条件を満たす必要がある。さらに必殺技以上にコマンドが複雑なものが多く、『龍虎の拳』で初めて採用された'''ボタン同時押し'''を始め、当時のプレイヤーに「隠しコマンド探し」<ref group="注釈">SNK自身が、リリース当初から『超必殺技を探せ!』というイベントを行っていた。</ref>というやり込みを促す方向へ進んでいった。[[1990年代]]中盤までは複雑化の一途を辿り、出せること自体が能力となっていた面もあったが、その後は単純なものへと回帰していった。これは格闘ゲーム自体がマニアックになりすぎ、プレイヤーの新規参入を阻んだことへの反動と言われる。 * 複雑なコマンドの例 ** 『ブレイクスパイラル』(登場作品:『[[餓狼伝説スペシャル]]』他):[[File:Fightinggame arrow l.gif]] [[File:Fightinggame arrow dl.gif|Fightinggame arrow dl.gif]] [[File:Fightinggame arrow d.gif]] [[File:Fightinggame arrow dr.gif]] [[File:Fightinggame arrow r.gif]] [[File:Fightinggame arrow ur.gif]] [[File:Fightinggame arrow d.gif]] +BCボタン ** 『レイジングストーム』(登場作品:『餓狼伝説スペシャル』他):[[File:Fightinggame arrow dl.gif]] [[File:Fightinggame arrow r.gif]] [[File:Fightinggame arrow dr.gif]] [[File:Fightinggame arrow d.gif]] [[File:Fightinggame arrow dl.gif]] [[File:Fightinggame arrow l.gif|→]] [[File:Fightinggame arrow dr.gif]] +BCボタン ** 『天覇封神斬』(登場作品:『[[サムライスピリッツ#真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変|真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変]]』):[[File:Fightinggame arrow dr.gif]] [[File:Fightinggame arrow l.gif]] [[File:Fightinggame arrow dl.gif]] [[File:Fightinggame arrow d.gif]] [[File:Fightinggame arrow dr.gif]] [[File:Fightinggame arrow r.gif]] [[File:Fightinggame arrow l.gif]] [[File:Fightinggame arrow d.gif]] [[File:Fightinggame arrow dl.gif]] +BCボタン レバーを前方や後方などに入れながらボタンを押すと、通常とは違う攻撃を出せる場合もある。例えばレバーを進行方向に入れながら中パンチボタンを押すと、通常は[[フック (打撃)|フック]]が出るところを、上から振り下ろすようなパンチに変化する、といったもの(『スーパーストリートファイターIIX』、[[リュウ (ストリートファイター)|リュウ]]:鎖骨割り)。これらは通常技ではないが必殺技と言うほど特別ではない、という意味で'''特殊技'''もしくは単に'''レバー入れ技'''などと呼ばれる。レバーを下方向に入れた場合の攻撃はしゃがんだ状態の通常技と見なされ、特殊技とはされない。同様に上方向に入れた場合も、ジャンプ中の通常技と見なされる。ただし、例えば進行方向斜め下にレバーを入れた場合のみ技が変化する場合は特殊技とされる。 3D対戦型格闘ゲームについては、前述の通りボタン入力とレバー入力の組み合わせで様々な技に派生する。2D対戦型格闘ゲームでは一つのボタンでは状態によって決まった一つの通常技しか出なかったが、3D対戦型格闘ゲームは通常パンチボタンを押した際に出る[[ジャブ]]の他に、レバーを前に倒しながらボタンを押すことで全く異なる技の肘打ちを出すことができる。このように2D格闘ゲームのようなボタンの違いによる使い分けではなく、ボタンとレバーとの組み合わせで技を使い分けるようになっている。また「パンチ・パンチ・パンチ・キック」のように順にボタンを押していくことで固有のコンビネーション技を出すことができるキャラクターも多い。また、2D格闘ゲームの必殺技のようなコマンド入力を要求されることもある(レバーを←←→と倒してパンチとキックを同時押しなど)。 このレバーとボタンの組み合わせによる技の入力は、非常に簡便で使い分けやすいが、一方で人気シリーズでは新作を重ねると共に技は追加され続け、結果的にはその技の多さが複雑さを招いた。 === コマンドの例 === 代表的なコマンドと通称を以下に挙げる。以下の例はキャラクターが右を向いているとき(左側にいるとき)の場合(左向きの場合は逆になる)。 ; 通常技 - ボタン1つ : 最も基本的なパターン。ほとんどは普通の攻撃だがゲームや操作設定によっては必殺技などの特殊な行動をする事がある。 ; レバー入れ技 - 一方向 + ボタン : ボタン入力と同時に行うレバー倒しの方向は技によって様々。ほぼ全ての対戦型格闘ゲームで採用されており[[対戦アクションゲーム]]でも採用される。 ; 波動拳コマンド - [[画像:Fightinggame arrow d.gif|↓]] [[画像:Fightinggame arrow dr.gif|&#8600;]] [[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]] + ボタン : 『ストリートファイター』シリーズのリュウの必殺技、波動拳に由来する。波動拳と同様に、なんらかの飛び道具を放つ技にこのコマンドが割り当てられることが多い。 : 「波動コマンド」、「波動」とも。英語圏では'''QCF'''('''Quarter Circle Front'''の略)と呼ばれる。 ; 昇龍拳コマンド - [[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]] [[画像:Fightinggame arrow d.gif|↓]] [[画像:Fightinggame arrow dr.gif|&#8600;]] + ボタン : 同じくリュウの必殺技、昇龍拳に由来する。昇龍拳と同様に、上昇しつつ攻撃を放つ技にこのコマンドが割り当てられることが多い。波動拳コマンドに比べやや難しい。「昇龍コマンド」、「昇龍」とも。英語圏では'''DP'''('''Dragon Punch'''の略、米国版初代における昇龍拳の名称)や'''SRK'''('''Shoryuken'''の略、昇龍拳の英字表記)と呼ばれる。 ; 竜巻旋風脚コマンド - [[画像:Fightinggame arrow d.gif|↓]] [[画像:Fightinggame arrow dl.gif|&#8601;]] [[画像:Fightinggame arrow l.gif|←]] + ボタン : 同じくリュウの必殺技、竜巻旋風脚に由来する。竜巻旋風脚と同様に、相手に向かって突進する技にこのコマンドが割り当てられることが多い。 : 「竜巻コマンド」、「竜巻」、「逆波動」とも。英語圏では'''QCB'''('''Quarter Circle Back'''の略)と呼ばれる。 ; ため技 - レバーを[[画像:Fightinggame arrow l.gif|←]]方向にしばらく入れ、[[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]] + ボタン : '''溜め技'''、'''タメ技'''、'''溜めコマンド'''、'''タメコマンド'''とも言われる<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1604/20/news066.html 「待つのはやめた」ガイル、溜めてる間も歩けるようになって「ストV」に帰還 - ねとらぼ]</ref><ref>[https://www.inside-games.jp/article/2017/05/19/107299.html スイッチ新作『ウルトラストリートファイターII』発売直前ハンズオン―新キャラや「放て ! 波Do拳」モードの触り心地は ? | インサイド]</ref><ref name=gamewatch-streetfighterV>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1037080.html 「ストリートファイターV」、Ver.02.000をプレイ感から解説 ! - GAME Watch]</ref><ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1331051921537/ 待ちガイルが青春だった時代がたしかにあった『ハイスコアガール』- エキレビ ! (1/3)]</ref>。『ストII』の[[インストラクションカード|インストカード]]で「ためる」という表現をしていたためこう呼ばれる。ためる時間はゲームや必殺技によって様々だが、多くは1秒前後。『ストII』の[[ガイル (ストリートファイター)|ガイル]]の必殺技、ソニックブームが代表的。 : ほとんどは「[[画像:Fightinggame arrow l.gif|←]]にためて[[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]]」か、「[[画像:Fightinggame arrow d.gif|↓]]にためて[[画像:Fightinggame arrow u.gif|↑]]」だが、変則的なものも存在する。<ref group="注釈">例として、『[[ファイターズヒストリー]]』のキャラクター、ジャン・ピエールの「ロンダート」([[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]]タメ[[画像:Fightinggame arrow d.gif|↓]] [[画像:Fightinggame arrow dl.gif|&#8601;]] [[画像:Fightinggame arrow l.gif|←]] + K)など。</ref> ; {{Anchors|ホールドボタン技}}ホールドボタン技 - ボタンをしばらく押したままにして、そのボタンを離す : 1つのボタンを使用するタイプもあれば複数のボタンを使用するタイプもある。「ホールドボタン技」という名称は『[[ストリートファイターV]]』で使用されている<ref name=gamewatch-streetfighterV/>。 ; ヨガフレイムコマンド - [[画像:Fightinggame arrow l.gif|←]] [[画像:Fightinggame arrow dl.gif|&#8601;]] [[画像:Fightinggame arrow d.gif|↓]] [[画像:Fightinggame arrow dr.gif|&#8600;]] [[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]] + ボタン : 『ストII』の[[ダルシム]]の必殺技、ヨガフレイムに由来する。 : 省略して「ヨガ」「前半回転」とも。英語圏では'''HCF'''('''Half Circle Front'''の略)と呼ばれる。『[[バーチャファイター]]』などの3D対戦型格闘ゲームでは強力な[[投げ技]]([[ジャイアントスイング]]など)で用いられることが多い。 : この逆に、前方から後方に半回転させる場合([[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]] [[画像:Fightinggame arrow dr.gif|&#8600;]] [[画像:Fightinggame arrow d.gif|↓]] [[画像:Fightinggame arrow dl.gif|&#8601;]] [[画像:Fightinggame arrow l.gif|←]])は「逆ヨガ」、「後ろ半回転」と呼ばれる。英語圏では'''HCB'''('''Half Circle Back'''の略)となる。ヨガフレイムのコマンド自体は後に『[[ストリートファイターZERO|ストリートファイターZERO2]]』などで「逆ヨガ」に変更されたが、用語としての「ヨガフレイムコマンド」の指す意味は変わらずにいる。 ; スクリューコマンド - レバー1回転 + ボタン : 『ストII』の[[ザンギエフ]]の必殺技、スクリューパイルドライバーに由来する。 : 2D対戦型格闘ゲームでは、スクリューパイルドライバーのように強力な投げ必殺技を出すときのコマンドで用いられる事が多く、大概は一撃必殺の威力を誇る。ボタンはパンチボタンが割り当てられる事がほとんどだが、稀にキックボタンで投げる事もあり、『ストZERO』の[[ソドム (ファイナルファイト)|ソドム]]のようにパンチとキック、それぞれに投げ必殺技があるキャラも存在する(後にザンギエフにもキックで投げる必殺技が追加された)。また、超必殺技型の投げ必殺技ではレバーを2回転させるものが大半である。 : 投げ必殺技の性質上、相手に接近しなければならず、しかも普通にレバーを回転させようとするとジャンプしてしまう事が多い為、使いこなすにはある程度の慣れと工夫が必要になる。しかし『[[ストリートファイターIV]]』では従来作よりも出しやすくなっている。 : 現在『[[アルカナハート]]』シリーズの[[大道寺きら]]、『[[BLAZBLUE]] CONTINUUM SHIFT』のテイガーの2キャラクターがレバー3回転コマンドの技を持っている。 これらのコマンドは2D対戦型格闘ゲームの典型となっており、他のゲームやキャラクターのコマンドを説明する際にも用語として用いられることが多い。例えば『[[餓狼伝説]]』の[[テリー]]の必殺技「パワーウェーブ」は「波動 + A」、『[[ストリートファイターZERO]]』の[[豪鬼]]の「滅殺豪波動」は「逆ヨガ×2 + P」等と説明できる。 なお、プレイヤー層やゲームによって呼び方が異なる場合がある。例えば「[[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]] [[画像:Fightinggame arrow l.gif|←]] [[画像:Fightinggame arrow dl.gif|&#8601;]] [[画像:Fightinggame arrow d.gif|↓]] [[画像:Fightinggame arrow dr.gif|&#8600;]] [[画像:Fightinggame arrow r.gif|→]] + ボタン」というコマンドを、主にSNK系の格闘ゲームに親しむものは「覇王コマンド」(『[[龍虎の拳]]』の超必殺技「覇王翔吼拳」に由来)と呼ぶが、主にカプコン系の格闘ゲームに親しむものは「前 + ヨガ」等と呼ぶ。 ==== コマンドの表記法 ==== 各ゲームのインストカードや、アーケードゲーム誌『[[ゲーメスト]]』等では、上記のようにレバー入力方向を矢印で表記している。また、末期のカプコンのゲーム等ではレバーの軌跡(昇龍拳コマンドではレバーをZ字状に動かすなど)を図示したものがある。 [[パソコン通信]]のフォーラムや[[ウェブページ]]・[[電子掲示板]]等ではコマンドを「623 + P」のように表記することが多い(この例は昇龍拳コマンド)。これは、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]の[[キー配列#テンキー|テンキー]]または[[電卓]]の数字をレバーに見立て、1を左下、2を真下、3を右下、4を左……のように表現したもの。斜め方向の矢印が[[JIS X 0208]]に含まれず、表現しにくい理由から生み出された。 慣れるまでは分かりづらいが、文字ベースで簡潔に表現できるという利点がある。但し、[[携帯電話]]の普及により、[[電卓]]ではなく[[電話]]のテンキー表記(上下が逆)と勘違いされることも多い(例えば、[[春日野さくら]]の咲桜拳のコマンドを623Pと表記した場合に、右・上・右上・パンチと解釈されるなど。もちろん咲桜拳など出ず、ジャンプ攻撃が出る)。 その他、斜め方向の入力を全角[[スラッシュ (記号)|スラッシュ]](/)および[[バックスラッシュ]](\)で表現する方法もあるが、左下と右上、右下と左上の区別が付かないという欠点のため主流ではない。昇龍拳コマンドなら「→↓\ + P」のように表記し、ヨガフレイムコマンドなら「←/↓\→」のように表記する。[[Unicode]]対応[[ウェブブラウザ]]の普及によって斜め方向の矢印も表示可能になっているが(例:↘ - &amp;#8600;)、入力の手間がかかることなどから主流とはなっていない。 == 駆け引き == {{節スタブ}} === 三すくみ === 2D格闘ゲームにおいても3Dと同じく打撃<ガード<投げ<打撃…だが、キャラ特性や個性が強く表れるので基本的に三すくみ関係は存在しない。こちらから仕掛ける攻撃は以下に集約。 ; ジャンプ攻撃 : ジャンプによる飛び込み攻撃。一番の基本攻撃。あえてジャンプ攻撃をせずに相手のガードを狙って地上で投げるなどバリエーションは豊富。 ; 牽制 : 地上や空中の敵を狙って当てる攻撃。特に飛び道具などを持つキャラは強力な牽制ができる。相手の動きを早めに封じたい時などに。相手のジャンプし始めに攻撃を当てるジャンプ防止技なども含まれる。 ; 対空 : 空中の敵を落とす攻撃。基本的にジャンプを見てから対空技を使う。出始めに無敵時間があるのが多く、相手の弱キック連打などの牽制に合わせたり、起き上がりに攻撃を仕掛けようとする相手を潰したい時に使用する。この技を持たないキャラも多数いる。 3D格闘ゲームにおける基本的な選択肢は、打撃・ガード・投げに集約される事が多い。基本的に下記のような優劣関係があり、攻防の核になるこの仕組みを三すくみという。概念的には『バーチャファイター』で成立していたものだが、[[板垣伴信]]が雑誌インタビューで語って以来、この呼び方が定着した。近年では例外的な性能を持つ技や、技の方向属性などで三すくみを拡張し、攻防要素が作品ごとに細分化、多様化している。 ; 打撃技 : 地上における攻撃全般。ガードされると基本的に不利。大技だと反撃が確定。投げ技は潰すことができる。 ; ガード : 打撃技を無効化する。投げには無防備。 ; 投げ : ガード状態を無視して攻撃できる。打撃技とかち合うと一方的に潰される。 === 差し合い === 広義的には地上における牽制による駆け引きのことを指す。相手が技を出したところに判定の強い技で対応しカウンターヒットを狙ったり、間合いを調整して相手が技を空振りした所を攻撃するのが代表的。『[[サムライスピリッツ]]』シリーズは総じて単発の攻撃力が高く、連続技がほとんど存在しないため、差し合いが全てと言っても良いゲーム性になっている。 === 択一攻撃 === 相手がなんらかの行動(主にガード)を取ることを前提に、対処法の異なる複数の攻撃のどれかを選んで攻撃する。例としては「下段攻撃と中段攻撃のどちらかを選んで攻撃する二択攻撃」など。この場合、大雑把に言えば2分の1の確率で打撃がヒットすることになる。攻撃側が選択肢を3択・4択と増やせばヒット確率はさらに3分の2・4分の3と増加していく。想定外の行動(いわゆる「暴れ」や「逃げ」など)に対しては案外弱かったりする場合もある。 === 起き攻め === ダウンさせられた側は、起き上がり時の相手の出方に対処する必要がある。相手は通常の攻めと同じだけの選択肢があるが、ダウンさせられた側は取れる行動が非常に限定されたものとなるため、立ち状態のときよりも非常に不利な状態と言える。ダウンを取った攻め側は相手に択一攻撃を仕掛けたり、長く硬直する技を当てるなどして有利な状況を生かした攻撃を仕掛けるのがベター。逆に守り側は起き上がり中に出せる攻撃を出すか、防御行動をとって相手の起き攻めを回避するかを選択する必要がある(ゲームによっては、「何もしない」という選択が無敵時間などの関係上有効な場合もある。起き上がりモーション中は無敵だが何らかの行動を取った瞬間に無敵が解けるなど)。 === 駆け引きからの逸脱 === ゲームによっては、正常な、もしくは全く駆け引きが発生しない状況が発生する。例えばハメがそれである。正常の駆け引きが発生しない状況から異なる駆け引きが発生することもある('''先にハメの始動技を決めた方が勝ち'''が了解として通じる)が、アーケードにおいてこうなった場合は大抵新規ユーザーが介入することができなくなる。 == キャラクター性能 == {{see also|対戦アクションゲーム#キャラクター性能}} ; リーチタイプ : 総じて技のリーチが長いキャラクター。 ; 投げキャラ : 何かしらの理由で投げに特化しているキャラクター。 ; 一人二役タイプ : 人形を動かすキャラクターや二人で一組となっているキャラクター。 ; 溜めキャラ / タメキャラ : 必殺技がタメコマンドが中心のキャラクター。元々は溜めキャラ(タメキャラ)でも別の作品で必殺技がタメコマンドでなくなる事もありそうなったキャラクターは後述のコマンドキャラと呼ばれる。 : 2D対戦型格闘ゲームで必殺技に溜めが必要かどうかはすごく大きな要素で溜めキャラ(タメキャラ)は自分から動いでゲームメイクをするのが難しく能動的な攻めはコマンドキャラに劣るがガードしながらほぼワンボタンで必殺技が出せ、難しいコマンドを入力する必要がないため相手の攻撃に反応しやすいというメリットが存在する<ref name=famitsucom-sako>[https://www.famitsu.com/matome/sfv/Interview01.html カプコンカップ歴代王者が語る『ストV』の魅力―sako編― - 『ストリートファイターV』特設サイト"挑戦者の標" | ファミ通.com]</ref>。 ; コマンドキャラ : 必殺技がタメコマンドではないキャラクターで主に元々は溜めキャラ(タメキャラ)だったが別の作品で必殺技がタメコマンドでなくなったキャラクターに対して言う。 : 2D対戦型格闘ゲームで必殺技に溜めが必要かどうかはすごく大きな要素で能動的な攻めは溜めキャラ(タメキャラ)よりも有利である<ref name=famitsucom-sako/>。 ; スタンダードキャラクター / スタンダードキャラ : 2種類のキャラクターの一つで基本に忠実のキャラクター<ref name=1coingame>[https://1coingame.info/kakuge-rookie/tecnick/ 格ゲーで"テクニカルキャラ"を使うときのアドバイス | ワンコインゲームズ !]</ref>。スタンダードタイプとは意味が異なる。 : 戦い方に枠組みが出来てしまい自由が効きにくい部分が出てくるがどのキャラクターでも比較的使いやすいキャラクターが多く対戦型格闘ゲームの基本さえ覚えればどのキャラクターもそこそこ使えるようになりほぼ全ての対戦型格闘ゲームで通じる性能になっている<ref name=1coingame/>。 ; テクニカルキャラクター / テクニカルキャラ : 2種類のキャラクターの一つで性能が特殊でそのキャラクターにしかない特性を持っている<ref name=1coingame/>。 : 何かに特化しており性能がピーキーで型にハメれるほど基本的な性能がない<ref name=1coingame/>。しっかりとキャラクターを理解してないと使い物にならなくゲームに慣れている人でも使いこなすには結構時間が掛かるがやれる事が多く自分で考える自由な戦いになっていきそのキャラにしか出来ない事が必ず存在する<ref name=1coingame/>。 == 用語 == <!--五十音順にソート--> 対戦型格闘ゲームにはプレイヤーの間で使われる用語が存在する。これらは格闘ゲームにとどまらず、派生して他のジャンルで使われることもある。用語は数多く存在するが、その中でも代表的なもののみ以下に挙げる。 ; 当身(当て身)投げ : 格闘ゲームでは概ね「相手の攻撃を受け止め自動で反撃する技」の総称として使用されている。『[[餓狼伝説]]』の[[ギース・ハワード]]の必殺技「当て身投げ」を『ゲーメスト』が省略して「当て身」と略称していたが、本来の意味から言えば誤謬である。 : 実際の「[[当身]]」とは、打撃、打突技(すなわち突きや蹴り)の総称であり、「当て身投げ」とは「相手の当て身を受け止めて投げ飛ばす技」という意味である。名前を省略した事で語意に誤りが生じている。 ; いなし / さばき / 受け流し : 主に『[[バーチャファイター]]』に代表される3D格闘ゲームで用いられ、どの表現であっても「ダメージを奪わずに仕切り直したり、立ち位置を入れ替える効果の技」を意味している。 ; キャンセル : 行動の最中に次の行動の入力を完成し、前に行われていた行動を中断し即座に次の行動に移すテクニック。たとえばパンチの後には拳を戻す動作がある訳だが、その動作を中断(と言うより消滅)して次の動作に入ることにより、本来は繋がらない筈の連続攻撃が行える。 : 元々はバグだったが、これが存在することによりゲームが面白くなるということで正式にシステムとして使われることになった。現在の2D対戦格闘ゲームにおいて、ほぼ全てのものに導入されているシステム。 : キャンセルは無条件でできることはまずなく、相手に当たらないとできない、通常技→必殺技は可だが逆は不可、ゲージ使用技のみ可能などの制限がかかっていることが多い。 : また、特殊なキャンセルにはスーパーキャンセル、ロマンキャンセルなど、名前が付いている場合も多い。 ; 硬直 : 格闘ゲームでは、移動以外のほぼ全ての行動に行動後に、他の行動が取れない時間『硬直時間』が存在する。作品によって異なるが、一般的に攻撃動作を終えた瞬間やジャンプ攻撃を出した後、地面に着地した瞬間などに設定されていることが多い。 ;削り :2D格闘ゲームの多くはガードによって通常技のダメージは無効化できるが、必殺技はわずかにダメージを受けてしまう。その性質を利用して、わずかなダメージを重ねていって相手の体力ゲージを減少させていく行為で、「削る」ともいう。削りによって相手をKOする事を「削り勝ち」という。 ; [[コンボ (ゲーム)|コンボ]](combo) : '''連続技'''の意、英[[俗語]]で「combination」の略。英語圏では当初からコンボと呼ばれていたが、日本では『スーパーストリートファイターII』で「3 HIT COMBO」のように画面表示がされるようになってから急速に一般化した。格闘ゲームだけでなく、「プレイヤーの操作によって継続されるパターン」を指す用語として、後年[[シューティングゲーム]]や『[[beatmania|ビートマニア]]』などの[[音楽ゲーム]]にも使われるようになっている。ゲーム用語としては、元々は[[ピンボール]]で使われていた用語。 : 相手に攻撃を当てると、のけぞって短時間行動不能状態となるが、そこへさらに攻撃を当てることでコンボとなる。コンボを決めた際の爽快さを好むプレイヤーは多く、メーカーも需要を受けてコンボを楽しませるためのシステムを次々に導入し、またコンボに特化したゲームデザインのゲームもあり、そういったものは'''コンボゲー'''と呼ばれている。中にはA→B→C→A(A、B、Cはそれぞれ違う攻撃)の様に特定の攻撃がループで繋がってしまう物もあり、これは'''永久コンボ'''(または'''[[永久パターン#対戦格闘ゲームにおける永久パターン|永久パターン]]'''から'''永パ''')と呼ばれるハメになるが、意図して入れられた物は少ない。 : また似た物に'''即死コンボ'''というものがあり、これは名前の通り体力が最大だったとしても1回のコンボで体力が0になってしまうコンボで、永久コンボと同じで対戦で使うのはマナー違反と見られる場合が多い。 : 初期はコンボにより一瞬で勝負が付いてしまうこともあったが、後年の格闘ゲームの多くはヒット数が増えるほど1発あたりのダメージが低くなるよう補正し、[[ゲームバランス]]を調整するような設定がなされるようになった。また、ゲームによってはコンボ数に制限が設けられ、制限に達した場合その時点で無敵状態を伴うダウンとなり、強制的にコンボを終了させることもある。 : コンボの中には'''[[チェーンコンボ]]'''という種類がある。 ; CPU : 原義はコンピュータの[[CPU|中央処理装置]]('''C'''entral '''P'''rocessing '''U'''nit)の略称であるが、格闘ゲームではコンピュータが[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]に従い操作する[[ノンプレイヤーキャラクター]]のことを呼ぶ。プレイヤーが操作するキャラクターとの対人戦に対して、「対CPU戦」のように呼ばれる。なお格闘ゲーム以外の場合は、Computerの頭文字をとって「COM」「COM操作」などのように呼ぶことが多い。 : コンピュータの反応速度は人間のそれを遙かに上回るので、出した技にことごとく反撃するようなプログラムも作成できる(人間に不可能な確定反撃等を行う際の反応速度については、'''超反応'''と呼ばれる)。超反応は対人戦での、人間の反応速度を前提としたセオリーが通用せず、プレイヤーの不平不満感が大きい。一方でCPUはプログラムされていない状況に弱いため、それを利用した攻略(CPUの動きを誘う→撃墜する→誘う…といった、いわゆるパターンハメ)が可能なことも多い。 : また人間がプレイした際の制限を無視した行動(タメなし、コマンド入力時間ほぼゼロなど)を行うと、不平不満感を増大させることになる。逆に一部のゲームでは、高次面において1対2(プレイヤー1人に対してCPU2人)の対戦をさせるなどの方法でCPUの弱さを補完する場合もある(『モータルコンバット』、『ナックルヘッズ』、『ピットファイター』、『ストリートファイターZERO3』など)。 ; [[スーパーアーマー]] :特定の条件下において、相手の攻撃によって自身の行動がキャンセルされずに継続される状態。ただし多くの場合、ダメージは受けてしまう。 ; [[対戦ダイアグラム]] : キャラクターの相性(有利・不利)を数値化した[[テーブル (情報)|表]]。ここから全キャラクターの強さの順列、いわゆる'''キャラランク'''が決まる。 ; 挑発 : 名前の通り、相手を挑発したり、見栄を張る行為。多くの作品では、スタートボタンで発動することができる。初出は『[[龍虎の拳]]』シリーズ。相手のゲージを減らす、防御力を向上させるなどの有意義な効果がある行動である作品もあるが、ほとんどの作品では(相手の攻める気持ちを起こさせる、といった心理戦的な作戦などでない限り)メリットが無く、それどころか相手の攻撃を受けてしまうほどの隙を晒す事になることが多いが、その通例に対するネタとして挑発動作そのものにダメージ極小の攻撃判定を設けているものもある。 :挑発は一般的に相手の心象を悪くする可能性が大いにある行動だが、[[火引弾]]の超必殺技として発動させる「挑発伝説」、霧島恭子のランダムパターンでセリフが複数種存在するトリビア挑発、その霧島恭子と友人関係にある増田千穂の対恭子戦のときのみ変化する特定キャラクター時専用挑発、SNK系によく見られるレバーと組み合わせることで披露する特殊挑発など、キャラクター性や一種の愛嬌を表現する手段として用いられているケースも存在する。 ; ディレイ : 主に『[[バーチャファイター]]』に代表される3D格闘ゲームで用いられる。連続技コマンドの入力をわざと遅らせて、時間差をつけるテクニックの意。 : 相手の判断を迷わせる、ガード方向を揺さぶる、などの手段として用いられる。 ; 飛び道具 : 『ストリートファイター』シリーズにおける「波動拳」などに代表される攻撃判定のある物体を射出する技の総称。 ; ハメ : 一方が特定の行動を取り続けてもう一方を脱出不可能、または脱出が非常に困難な状況に追い込むことで、一方的な展開で相手が倒れるまで継続するテクニック。狭義には脱出不可能なもののみを指し、一般的に[[デバッグ]]で取り除けなかった既知ないし未知の[[バグ]]を利用するケースが多い。 : '''投げハメ'''が代表的で、弱パンチ等隙の少ない攻撃をガードさせてから即座に投げるというもの。多用することでゲームとして面白くない一方的な試合になってしまい、使われた側の顰蹙を買う等トラブルの元になる事もままある。『ストII』稼動当初の[[ゲームセンター]]にはまだ「不良のたまり場」的な側面が残っており、ハメを使った側が逆恨みされた挙句犯罪に巻き込まれるといった事件も頻発したと言われる。 : 後述の「待ち」と併せて非難の対象になりやすく、特に投げハメは後期のゲームほど成立しづらいゲームデザイン(ガード成立後投げられ判定が一定時間消失するなど)がなされる傾向にある。また、待ち以上にプレイヤーの立場は様々であり、完全否定する者、[[ザンギエフ]]の「スクリューハメ(詳細はザンギエフの項を参照)」のような"その状況に持って行くのが困難なもの"のみ許容する者、狭義のハメのみを否定する者、完全肯定する者などがいる。 : なお、対抗手段がちゃんと存在する(知識があれば操作次第で必ず脱出できる)場合は後述の「わからん殺し」が類似語として存在する。 ; {{Anchors|ピヨる}}ピヨる : なんらかの攻撃を受けて、キャラクターが一時的に気絶したり朦朧とした状態になること。この間キャラクターは操作不能に陥り、完全に無防備であるため非常に危険な状態である(通常入らない、「技を見てからガードや回避が間に合うほど隙の大きい攻撃」を決められる可能性があるなど)。作品によってシステムとして採用されていないものもあるため一概には言い切れないが、短時間にダメージを連続して受けたりするとこの状態になることが多く、ピヨってしまった際にはボタンやレバーを連打または高速で動かすこと('''レバガチャ''')で、復帰を早めることができる場合が多い。 : 名前の由来は『ストII』で、気絶したときに頭の上を[[ひよこ]]がピヨピヨ回る様から。ひよこ以外に星などが回る場合もこう呼ぶ。表現としては[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]作品などで古くから用いられているが、『ストII』を境に似た表現を使用するゲームが増加した(『[[ロマンシング サ・ガ]]』など)。無防備なだけでなく、この状態で攻撃を受けた場合にすべて「カウンターヒット」扱いとされて通常よりも大きなダメージを受ける様なゲームもある。 ;[[コマ (映画・漫画)|フレーム]] : 多くの格闘ゲームでは[[フレームレート]]は60fps(秒間60フレーム)である。格闘ゲームにおいては技をヒット・ガードさせたときのお互いの硬直差でフレーム(60分の1秒)単位の有利・不利が発生したり、技後の硬直よりその技の発生速度が早ければ確定して相手にヒットする(確定反撃)など、特に上級者の間でフレーム単位の攻防が繰り広げられる。 ; 待ち : 自分からは接近などの行動を起こさず、近づいてきた相手の行動に対応して攻撃する、といういわゆるカウンター的な戦い方。『ストII』のガイルが有名で、歩いて近づいてきた相手はリーチの長い下段キックで追い払い、ジャンプで跳び込んできた相手は対空必殺技で迎撃し、近付かず飛び道具を使ってくる相手には飛び道具で返すというスタイルは「待ちガイル」と呼ばれる。 : ゲームやキャラクターの相性にもよるが、自分で攻め込むよりも楽であったり一方的な展開になることもある(上記のガイルで言えば同ゲームのザンギエフとのそれが有名)など、しばしば安易であるとか「格闘」として画面的に盛り下がる戦法であるとして非難の対象になる。このためか、後年に発表されたタイトルほど待ちが成立しにくいようなゲームデザインがなされる傾向にある(『ストZERO3』ガードゲージの導入、『GGX』ネガティブペナルティ導入など)。一方で、ゲーム内で取れる行動を制限すべきでないとする立場から、待ちを積極的あるいは消極的に認める者もいる。 : 『待ち』と似ているがタイムアップ寸前に体力勝ちしている側がガードを固め、距離をとり続ける戦法は『逃げ』と呼ばれ、これも賛否両論あるが『待ち』とは明確に区別される。 ; 無敵 : アクションゲームで言う「相手からのダメージを一切受け付けない状態」とほぼ同義語であるが、アイテムなどで意図的に発生した長い時間(数十秒〜数分程度)の無敵状態ではなく、格闘ゲームでは技のモーション中に数フレーム〜数十フレーム程度、キャラクターからダメージ判定が消えた状態を指す。初期の格闘ゲームではダメージ判定の優先順位を設定する過程で偶発的に設定されたものであるが、現在は意図的に無敵時間が設定されたり調整されたりすることが多い。ザンギエフの「ハイスピードダブルラリアット」のように特定の部位のみに無敵判定が設定されている技も存在する。 ; めくり : ガードは「自分の後ろ側にレバー入力」であるゲームで、これを逆に利用し、前方ジャンプなどで相手を飛び越えて、相手が向きを変えるまで、またはガードコマンドを再入力するまでのタイムラグを利用して攻撃をヒットさせること。ガード方向が通常のものとは反対向きになるため、幻惑効果もある。ゲームによっては見た目は通常なのに前・後判定の内部処理(セルフディレクション)上では逆状態などもある。当然ボタン式のガードを採用するゲームや手動で振り向きを行うゲーム(背後方向からの攻撃に完全に無防備なゲームを除く)では成立しない。 : また、攻撃により防御側は後ろに仰け反り間合いが離れるため、連続で攻撃を当てられる回数が制限されるわけだが、めくり攻撃では防御側が仰け反った方向に攻撃側が着地するため、連続攻撃を増やせるというメリットもある。 : 呼称の由来は『[[ゲーメスト]]』誌上で『背中の皮めくり』を語源として作られた。システムとしては『ストII』からあったが、スタッフが意図して入れたものではなかった。プレイヤーの研究によって発見され、以降のゲームでは特にジャンプからの攻めを重視したゲームで意図して入れられることが多くなっている。 ; 乱入 : 接続された2台の筐体の片方で誰かがプレイしている時に、もう1台の筐体へクレジットを投入して挑戦すること。負けた方はゲームオーバーとなり、勝った方はプレイを継続できる。『ストII』で対戦人気が出始めた頃は筐体1台に2人でプレイするためか、相手にお伺いを立ててから対戦を行ったが、筐体2台を使うようになってからは、顔も見ずに挑める様になり「乱入」と呼ばれるようになった。 : 上手な者の長時間プレイは[[インカム]]の低下を招くが、乱入対戦なら乱入が起こるたびにインカムが増えるという店側の事情がある。 : 当初はその目的のため、'''乱入された側は拒否できない'''仕様であった。しかし「乱入される = 即ゲームオーバー」では「初心者狩り」(ある程度の実力があるプレイヤーが、練習中の初心者相手に乱入する行為。極端な場合、初心者と判った相手がプレイを始めると間髪入れずに乱入する者も居る)等によりプレイヤー人口が増えなくなるため『[[ワールドヒーローズ2]]』では拒否も可能になった(ただし一度でも対人戦をするとゲームオーバーまで拒否ができなくなる)。他には乱入されない「ビギナーモード」を用意している場合もあるが、ビギナーモードは通常モードより対CPU戦の回数を減らすことによりインカムの低下を防いでいる。『[[ストリートファイターIV]]』のビギナーモードの様に最初の3試合だけ乱入されないというのもある。 : 逆に、既に片方がプレイしている状態で'''乱入せずに最初からプレイすることは不可能'''と言うのも一般的である。しかし、(対戦型格闘ゲームではないが)『[[機動戦士ガンダム 連邦vsジオン]]』で「乱入しない」を選ぶことも可能になった。 ; 乱舞技 : 『龍虎の拳』シリーズにおける「龍虎乱舞」などに代表されるコンボ系の技の総称。 ; リバーサル : キャラクターが操作不能の状態から操作可能な状態になった瞬間に、'''最速のタイミングで'''技を繰り出すテクニックのこと。狭義では、キャラクターがダウンから起き上がった瞬間に技を繰り出すことを指す。主に相手の攻撃をガードした直後の反撃や、「[[対戦型格闘ゲーム#駆け引き|起き攻め]]」に対する対抗手段として用いられる。作品によっては、成功時に画面にエフェクトが表示されたり、得点にボーナスが加算される場合もある。 : 略称は「リバサ」。語源の「reversal」は「反転、逆転」を意味する。 ; わからん殺し<!-- Google検索表示最多2013年10月付 --> : '''初見殺し'''、'''ワカラン殺し'''などとも読み書きされる。格闘ゲームにおいては、初心者やセオリーの知識が無いプレイヤーが特定の強技や難解な攻めの流れに対処できずに「何をして回避ないし反撃すればいいのか分からない」まま防戦一辺倒になってしまい、大概はそのままK.O.されてしまうのでこう呼ばれる。 : この一連のパターンがプログラム上やプレイヤーの意志(操作)で脱せなくなっている、あるいは強制的に続く場合は、前・後述の'''ハメ'''へとつながっていくこともある。 === 待ち・ハメ論争 === {{出典の明記|section=1|date=2009年12月}} 前述の待ち・ハメに関しては、古くは雑誌の投稿欄から、パソコン通信・電子掲示板などに渡って現在でも論争が繰り返されている。大まかに言って、待ち・ハメ否定派は「相手と戦い合うこと」を至上とし、「人にされて嫌だと思うことはするべきでない」「[[バグ]]を利用するのは制作者の意図するものではない」との立場から主張し、待ち・ハメ肯定派は「自らが勝利すること」を至上とし、「ルール(ゲーム内において操作で可能な行為)の範囲内で最善を尽くすのは当然である」「バグではない仕様であれば、制作者の意図したものだから、問題ない」とする立場から、それぞれ主張している。前提が違うままに主張し合うので議論がかみ合わず、不毛な論争になりがちである。現実的問題を挙げれば、『北斗の拳』におけるレイの「バグ昇竜」(特定条件で上昇技を当てるとヒットし続けながらどこまでも画面外に上り続けるバグ)などは、これまたゲージなど特定の条件が揃わないと解除が出来ず、最終的にゲームの筐体自体が停止してしまう。このようなゲーム自体が不成立になったりゲームセンターの財産である機械に損害を与えかねないケースもあるため、最終的に円滑な運営のためには[[ゲームセンター]]運営者の裁定を以ってハウスルールとするのが最も無難である。 興味深い点として、ブームが去りプレイヤーが減少し、マニア層の声が相対的に大きくなった[[2000年代]]中盤では、肯定する立場の意見が優勢であり、バグを利用したハメまで肯定される傾向が強くなりつつある。なぜなら、もともと待ちやハメ行為を問題として、極端なまでのバランス調整を要求していたのはマニア層であり、立場が逆転しているからである。インターネット掲示板などではモラルの問題として自主規制する向き(待ち・ハメプレイヤーを嘲笑するなども含む)であるが、これも強制力を持たないものであるため、各プレイヤーやローカルレベルで周知・規制されている程ではない。 3D対戦格闘ゲームの場合は攻めのリスクは低くなく、守りは必ず崩す手段があるため、守りも攻めも極端なバランスにはなっておらず、「待ちを崩せない方が悪い」という考え方が一般的である。試合内容に関しても、待ちやハメに対しての是非を問うよりも、いかに面白い読み合いができたか、読み合いのやり取りができる相手だったかどうかで語られることが多い。そういう意味では、ハメは論外としても、一方的な試合内容になりがちな対戦スタイル、同じ行動ばかり取るスタイルは、読み合いになっていないため敬遠される傾向にある。 メーカー側としては、『初心者狩り』による対戦人口の減少・不公平感の増大・対戦が陳腐化するという待ち・ハメの害悪を重視し、ゲージを消費するが無敵の切り返し技を全キャラ装備させる、受身など取れる行動の選択肢を増やす、技を待ち・ハメが成立しないような性能にするなど、最初からできないようにする方向で進んでいる。しかし、調整しすぎると、爽快感やキャラクターの特色などがなくなってしまう他、受け方を知らない相手にのみ成立するハメができ初心者狩りの原因となってしまうなど、製作側には難しいさじ加減が要求される所である。 なお、これらの論争はいずれも対人戦においての物であり、対CPU戦においてのいわゆる「パターンハメ」については事情が異なっている(前述のCPUの項目を参照)。 == 現状 == {{出典の明記|section=1|date=2007年7月}} 1990年代後半当たりまで、格闘ゲームは[[アーケードゲーム|アーケード]]では主役だった。しかしその数は次第に減少していくことになった。 これは「最初は売れていても続編がどんどんマニア向けになって一般客が離れ、最後にはマニアもついていけなくなって別ジャンルに流れてしまう」という、1980年代前半のボード[[ウォー・シミュレーションゲーム]]以来、対人を目的とした玩具全般が繰り返してきた歴史を踏襲するものであり、対戦格闘もこれらと同様に衰退の道を歩みゲーム離れの原因のひとつとも言える。 現在では、対戦格闘ゲームと並んでアーケードゲームの花形ジャンルだった[[シューティングゲーム]]も同様に衰退しているジャンルの代表として挙げられる。[[任天堂]]の[[岩田聡]]社長(当時)は、この2ジャンルを[[東京ゲームショウ]]2003の講演で「普通の人が遊べない、重厚長大化して飽和してしまった」と述べた。後に、『ストリートファイター』シリーズを担当した[[小野義徳]]も「声が大きくて開発者側も意見を気持ちよく感じる熱心なファンを、ユーザー全ての感想と思い込んでしまっていた。それ以外の人にはまったく響いていないということには、4~5年前(2000年代半ば)まで気づかなかった」とこれを認めている<ref>詳しくは [https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/creators/vol5/index4.html 任天堂ホームページ 『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 第5回:『スーパーストリートファイターIV 3D EDITION』] を参照。</ref>。『[[MARVEL VS. CAPCOM 3 Fate of Two Worlds]]』の製作陣は、「格闘ゲームと聞くだけで拒否反応が出るような閉塞感がある」と窮状を指摘した上で「元がアーケードゲームである以上、上手い人が尊敬されるのは当然であるがライトユーザーも楽しめるよう追求するべき」とし、そのバランスをいかにして取るかを今後の課題としている。また、その打開策の一つとして格闘ゲーム以外のオマケモードの充実を挙げている<ref name="DvM">『電撃オンライン』2012年3月15日 [http://news.dengeki.com/elem/000/000/464/464157/ 次にカプコンが戦いたいお相手は? 『ULTIMATE MARVEL VS. CAPCOM 3』の開発陣にロングインタビュー!!]。</ref>。 また、各地の筐体をブロードバンドで結び、同レベルの対戦相手を選べるなどのシステムを導入し、さらにはデータの保存ができるカードで、キャラクターの服装等をカスタマイズできるといった要素も導入されている。しかしこれらの対策も、マニア層の引き留め以上の効果は得られておらず、ユーザー離れが続いている。 各メーカーはグラフィックの質の向上、同人層の取り込みや「萌え」との接近、操作性の極端な複雑化や逆に簡略化(『[[アカツキ電光戦記]]』等)など、様々なアプローチで格闘ゲーム人気復権の道を模索している。 他にも格闘ゲームの全国大会である[[闘劇]]の開催や、その大会の観戦チケットが売り出されたり対戦模様をDVD化するなど、観戦目的で格闘ゲームを楽しむというユーザーも少なからず存在している。 また、2019年世界的には[[eスポーツ]]として対戦型格闘ゲームがスポーツの一種として見直される風潮も出てきているが、日本においては未だ途上である。 == 対戦型格闘ゲーム一覧 == {{main|対戦型格闘ゲーム一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[対戦アクションゲーム]] * [[闘劇]] * [[Evolution Championship Series]] {{コンピュータゲームのジャンル}} {{DEFAULTSORT:たいせんかたかくとうけえむ}} [[Category:対戦型格闘ゲーム|たいせんかたかくとうけえむ]]
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三輪車
三輪車(さんりんしゃ、英: three wheelerスリーホイーラー あるいは英: tricycleトライシクル)は、三つの車輪を持つ乗り物の総称である。 三輪車という概念・用語は、二輪車や四輪車という概念・用語などと対比されているものである。英語の学術用語では「three wheeler」となる(やや硬い)。「tricycle」は広く使える表現。若者などが気軽に短縮して呼びたい場合は「英: trike トライク」と呼んでいる。 世界的に見ると三輪車はさかんに利用されており、大人用の台数が圧倒的に多い。 フランス語では「tricycle」という用語は、1828年に omnibus tricycle(三輪バス)という用語で登場しており、1830年に三輪の voiture を指すために用いられた(なお1828年の三輪バスも、1830年の voiture も、時代ごとの技術を考慮するとどちらも内燃機関を搭載したものではなく、それぞれ馬車方式のバス、つまり乗り会い馬車のことで、1830年の voiture は(おそらく個人所有の)馬車のこと)。そのおよそ60年後の1889年にペダルでこぐタイプが「tricycle」と呼ばれた。 英語(など)で"tricycle"の語源はラテン語で「3」を意味する接頭辞の "tri" と「輪」を意味する "cyclus" に由来する。ドイツ語では ”Dreirad” と呼び、これも「3」+「車輪」という表現。 さまざまな分類法がある。ひとつは車輪の配置で分類する方法である。使用目的で分類する方法もある。駆動方式で分類する方法もある。三輪車の利用がさかんな国々では、荷台の形状や屋根の有無など、特徴的なタイプを独特の愛称で呼んで分類している。世界的に見ると、非常にさまざまなタイプがあり、簡単には分類できないほどである。 では車輪の配置による分類に話を戻すと、三輪車の車輪は基本的に車両中心に対して左右対称の二等辺三角形に配置されるが、ミニカーなど、場合によっては変則的な配置のものもある。左右対称に配置されたものは前輪が一つのデルタタイプ(英: delta)と、後輪が一つのオタマジャクシタイプ(タッドポールタイプ)(英: tadpole)などと分類する 駆動する車輪が後輪のタイプと、前輪のタイプがある。 エンジン付きのタイプと、エンジン無しのタイプがある。さらに言うと、電動モーターを搭載したものもあり、純粋に電動モーターだけで動くタイプと、ペダルと電動モーターの両方を備えた電動アシストタイプがあるので、分類は複雑である。 車体を左右に傾けられないのが一般的であるが、左右に傾けること(リーン)が可能な三輪車をen:Tilting three-wheelerと分類する。(ただの実験的車両だけでなく、量販型でも)ここ数十年、エンジンつきで左右に傾けることができるタイプが販売されている(ヨーロッパのメーカーのものが先行し、近年になり日本のメーカー製のヤマハ・トリシティやヤマハ・NIKENが登場した)。 3輪の、記録に残る最初の使用は、1828年の三輪馬車。その後、ペダルつき、蒸気機関、内燃機関などが登場してからはそれを搭載するものも発達した。trike(トライク)という略称の使用は1883年に遡ることができる。 初期の時点から三輪車は大人用であり、大人用ペダル式三輪車は1868年から存在する。エンジン付きのものなどさまざまな三輪車が登場したわけである。 世界的に見ると、現在でも三輪車の大半は大人用である。 各言語での呼び方はさまざま。タイ語では「サムロー」と呼ぶ。 フランス語ではtricycleあるいは短くtrikeと呼ぶ。 英語では人力を動力とするものも原動機を備えるものも共に trike と呼び、前後の文脈から区別するか、特に必要な場合は人力のものに Human-powered を付けて Human-powered-trike とするか、原動機を持つものに motor を付けて motor-trike とするなどして区別する。 前輪直結のペダルを直接回す小児用の三輪車とは異なり、一般的な二輪自転車と似た構造で後輪をチェーンにより駆動させている。このさい後輪の片側だけを回す構造のものが多く、路面の状態によりスリップや走行不安定になることもあるため、後二輪に駆動力を分配するものも作られている(宮田工業 スカーフウィンディ など)。 イタリアのDi Blasi社では、車体をコンパクトに折り畳めるユニークな製品を作っている(Di Blasi製 TRICYCLE R31)。これにはスイング機構は付いていない。 欧州諸国ではクリスチャニア・Zigo・nihora・JERNHESTEN等があり、目が届くことから子守に使用されることも多い。 そのほか諸外国では貨物運搬用のカーゴバイクのほか、自転車タクシーの一部にもこの形式が見られる。 前二輪型は車体のもっとも幅広い部分が運転者の視界の中に位置するため、後二輪型よりも車幅感覚がつかみ易い利点があり、これに着目したものも造られている(ブリヂストンサイクル ブリヂストン・ミンナ など)。これもカーブを曲がる時に車体が傾かずバランスが取れなくなる弱点があるが、前二輪に特殊なリンク機構などを加えて傾かせることを可能とし、普通の自転車に準ずる旋回性を与えた車両も存在する(アバンテク「trikeシリーズ」やランドウォーカー「ランドウォーカー」など)。 参考写真の様に前輪の幅を広く取ったものもあれば、車幅を取らず安定性のみを高める目的として、前二輪の横幅を一般的なシティサイクルとほぼ同じに詰めたものも存在する。 三輪式のリカンベントを指す。 欧米では、極端に車高を低くし、寝そべるような乗車姿勢とすることで重心位置を下げると同時に、左右輪の間隔(トレッド)を広く設定することで安定性を確保し、さらに低い車高にともなう前面投影面積の縮小による空気抵抗削減の効果もあわせて、高速走行を可能とするもの(リカンベントトライク)が作られており、熱心な愛好家がいる。 三輪の自転車は二輪のものより重量が重くなるため、電動アシスト自転車としての機能の恩恵が大きい。 障害者スポーツである車いす陸上競技では、前一輪、後二輪で、後輪を直接手で回す三輪車が使用されている。 ハンドルをクランクとして回して駆動するハンドサイクルは基本的に三輪車の形態が多い。車輪構造は前一輪、後二輪のものが多いが、前二輪、後一輪のものも開発されている。 子供三輪車、子供用三輪車、キッズ三輪車などと言う。 一般的にデルタタイプ。ペダルで前輪を直接駆動し、ステアリングも前輪。つまり後輪は空回りしているだけ。多くは自転車に乗ることを覚える前の幼児が使う。 三つの車輪があることで、安定が良く、ほとんどバランス感覚を必要とせず簡単に乗りこなすことができる。ペダルが直結されている前輪の直径が小さいため、速度はあまり出ない。 平地での使用を想定しているためブレーキ装置を持たないものが多く、傾斜地では暴走の危険があるため、保護者は注意を払う必要がある。 保護者が立った姿勢のまま車体を押して移動させるための棒状のハンドルを取り付けることができるものがあり、それらの中にはそのハンドルを介して保護者が舵取りを行えるものもある。このようなタイプは玩具としての用途と乳母車に似た用途を兼ねているといえる。 近年は自動車などに載せての移動や収納スペースの節約のために、車体をコンパクトに折り畳むことができるものもある。 日本の場合、昔から作られているものは前一輪後二輪のものが多く、現在でも多数を占めている。これらは2本の後輪の間に大型の荷台もしくは荷乗せカゴを持つ、実用性を重視した製品がほとんどである。 日本においてスイング機構を持つ三輪自転車が発達したのは、狭く混雑した道路環境により車幅の広い自転車は使いにくいことや、普通自転車の規定に合致させることが利便性の面で有利であるため、車幅を広げることで安定性を確保する手法は避けられ、代わりに車体を傾けることで旋回安定性を確保する手法が求められたためである。 古くは前輪のハンドル部分しか曲げることが出来ず、旋回時の安定性が悪いという欠点があったが、1970年代前期頃から、前輪だけでなくフレーム主要部と後輪部分との間に「スイング機構」を追加して車体を傾けられるようにすることで、二輪車とも遜色ない旋回特性が得られ、なおかつ同機構に組み込まれたばねの復元力によって、ある程度の自立補助が得られるように改良されたものが主流となった。ただし、何らかの理由で自らバランスを取ることが困難なユーザーのために、あえてスイング機構を固定または動作制限してしまうオプションが選べる物が多い。この場合、上述の通り旋回時の安定性が低下するため、カーブに入る前に充分速度を落とさなければ横転事故に至る危険があることを、運転者は理解しておかなければならない。 この形式のものは、車体前半部の構造が二輪の自転車と同様であり、スイング機構によって操縦感覚も二輪車と似ているが、あくまでも三輪車であるため、後輪の通る軌跡が二輪車とは異なる。これを忘れて二輪車の感覚で走行した場合、内輪差により曲がり角の障害物に内側後輪を引っ掛けたり、あるいは乗り上げたり、段差や側溝に脱輪するなどして、激しく転倒し大事故に至る危険があることを、運転者は理解しておかなければならない。 1978年の道路交通法改正により、ペダルを脚でこぐタイプで、なおかつ基準を満たしたものは普通自転車扱いとなった。さらに2007年(平成19年)に道路交通法が改正され、自転車は原則的には歩道の走行が禁止となった(歩道走行はやむを得ない場合だけ、例外的に認められる)。三輪自転車も原則的に歩道の走行は不可。 日本の場合、前二輪後一輪タイプは、古くは小型の貨物自動車が普及する以前に、実用車の車体前半部を取り払い、代わりにリヤカーを前後逆に取り付けたような重量物運搬用自転車(フロントカー)もあったが、これは国内ではめったに見られなくなった。 欧米製の三輪自転車を輸入した場合は、欧米流に、そしておしゃれに「トライク」と呼んでいる場合がある。 2005年の愛・地球博では、場内タクシーとしてこのタイプのトライクが3種類活躍した。 日本における幼児用三輪車の安全性を担保するものとして財団法人製品安全協会が定める安全基準があり、この基準に適合した製品にのみ「SGマーク」が表示される。 オートバイの鈴鹿8時間耐久ロードレースを模した形での長時間耐久レースも各地で開催されている。その中で、継続して実施されている(た)ものを以下に記す。これらのレースにおいては、選手が長時間乗車できるよう、ルールによる制限は設けているものの、強度面などの理由もあり改造もしくはフルスクラッチでの新造を基本的に考慮するものとしていることが多い。
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三輪車は、三つの車輪を持つ乗り物の総称である。 三輪車という概念・用語は、二輪車や四輪車という概念・用語などと対比されているものである。英語の学術用語では「three wheeler」となる(やや硬い)。「tricycle」は広く使える表現。若者などが気軽に短縮して呼びたい場合は「英: trike トライク」と呼んでいる。 世界的に見ると三輪車はさかんに利用されており、大人用の台数が圧倒的に多い。 フランス語では「tricycle」という用語は、1828年に omnibus tricycle(三輪バス)という用語で登場しており、1830年に三輪の voiture を指すために用いられた。そのおよそ60年後の1889年にペダルでこぐタイプが「tricycle」と呼ばれた。 英語(など)で"tricycle"の語源はラテン語で「3」を意味する接頭辞の "tri" と「輪」を意味する "cyclus" に由来する。ドイツ語では ”Dreirad” と呼び、これも「3」+「車輪」という表現。
{{画像過剰|date=2022年5月}} {{Otheruses}} '''三輪車'''(さんりんしゃ、{{Lang-en-short|three wheeler}}'''スリーホイーラー''' あるいは{{Lang-en-short|tricycle}}トライシクル)は、三つの[[車輪]]を持つ[[乗り物]]の[[総称]]である。 三輪車という[[概念]]・[[用語]]は、[[二輪車]]や[[四輪車]]という概念・用語などと対比されているものである。英語の[[学術用語]]では「three wheeler」となる(やや硬い)。「tricycle」は広く使える表現。若者などが気軽に短縮して呼びたい場合は「{{Lang-en-short|trike}} トライク」と呼んでいる。 [[世界]]的に見ると三輪車はさかんに利用されており、大人用の台数が圧倒的に多い<ref>三輪車という言葉は、ともかく三輪の乗り物を広く指すための総称である。日本では、三輪車の利用はあまり昔、日本で三輪車が一般的でなかった時に乱暴な言葉遣いをする者がいたが、最近では呼び分けることが行われるようになっており、大人用は「三輪自転車」、モーターサイクルは「[[トライク]]」、自動車の形態に近いものは「[[三輪自動車]]」、幼児用は「子供三輪車」とか「キッズ三輪車」といったように呼び分けていることも多い(正式な商品名が「5way子供三輪車[https://item.rakuten.co.jp/ioffice/ms199289/]」となっていたりする。</ref>。 [[フランス語]]では「tricycle」という用語は、[[1828年]]に [[:fr:omnibus|omnibus]] tricycle(三輪[[バス (交通機関)|バス]])という用語で登場しており、[[1830年]]に三輪の [[:fr:Voiture|voiture]] を指すために用いられた(なお1828年の三輪バスも、1830年の voiture も、時代ごとの技術を考慮するとどちらも[[内燃機関]]を搭載したものではなく、それぞれ[[馬車]]方式のバス、つまり乗り会い馬車のことで、1830年の voiture は(おそらく個人所有の)馬車のこと)。そのおよそ60年後の[[1889年]]にペダルでこぐタイプが「tricycle」と呼ばれた<ref>[https://www.cnrtl.fr/etymologie/tricycle]</ref>。 [[英語]](など)で"[[:en:Tricycle|tricycle]]"の語源は[[ラテン語]]で「3」を意味する[[接頭辞]]の "tri" と「輪」を意味する "cyclus" に由来する<ref>[http://www.etymonline.com/index.php?search=tricycle&searchmode=none tricycle]{{en icon}}</ref>。[[ドイツ語]]では ”Dreirad” と呼び、これも「3」+「車輪」という表現。 == 分類、種類 == さまざまな分類法がある。ひとつは車輪の配置で分類する方法である。使用目的で分類する方法もある。駆動方式で分類する方法もある。三輪車の利用がさかんな国々では、荷台の形状や屋根の有無など、特徴的なタイプを独特の愛称で呼んで分類している。世界的に見ると、非常にさまざまなタイプがあり、簡単には分類できないほどである。 では車輪の配置による分類に話を戻すと、三輪車の車輪は基本的に車両中心に対して左右対称の[[二等辺三角形]]に配置されるが、[[ミニカー (車両)|ミニカー]]など、場合によっては変則的な配置のものもある。左右対称に配置されたものは前輪が一つの'''デルタタイプ'''({{Lang-en-short|delta}})と、後輪が一つの'''[[オタマジャクシ]]タイプ(タッドポールタイプ)'''({{Lang-en-short|tadpole}})などと分類する 駆動する車輪が後輪のタイプと、前輪のタイプがある。 エンジン付きのタイプと、エンジン無しのタイプがある。さらに言うと、電動モーターを搭載したものもあり、純粋に電動モーターだけで動くタイプと、ペダルと電動モーターの両方を備えた電動アシストタイプがあるので、分類は複雑である。 車体を左右に傾けられないのが一般的であるが、左右に傾けること(リーン)が可能な三輪車を[[:en:Tilting three-wheeler]]と分類する。(ただの実験的車両だけでなく、量販型でも)ここ数十年、エンジンつきで左右に傾けることができるタイプが販売されている(ヨーロッパのメーカーのものが先行し、近年になり日本のメーカー製の[[ヤマハ・トリシティ]]や[[ヤマハ・NIKEN]]が登場した)。 <gallery mode="packed" caption="現代のさまざまな三輪車"> File:Dhaka 37.jpg|[[バングラデシュ]]を走行する三輪車([[2005年]]) File:DSCF5247 Dacca FMagallon.jpg|三輪車(バングラデシュ、[[ダッカ]]、2014年) File:Tricycle au carrefour toyota.jpg|[[ベナン]]を走行する三輪車(2020年)。 File:Tricycle 1.jpg|[[ガーナ]]北部で普及しており、現地で便利な足として重宝がられている三輪のタクシー(2020年) File:Tricycle Cargo.jpg|ガーナの三輪車。商品運搬に使われているもの(現代)。 File:Tricycle01.jpg|ガーナで大人数が乗って走っている様子(2019年) File:Kebbi tricycle.jpg|[[ナイジェリア]]の三輪車(2020年)。 File:Transport de marchandises par tricycle 01.jpg|[[ドゥアラ]]で活躍している三輪車。商品の配達に使っている(2020年) File:Tricycle VéloSolex - Mons 161112.JPG|三輪車([[フランス]]、現代)。[[モペット]]方式で、小型エンジンが前輪を直接駆動。 File:Trike - decorated with printed foil.jpg|[[ドイツ]]、[[ニュルンベルク]]近くの街の三輪車(2015年)後輪駆動 File:Couple on Harley-Davidson Tri Glide (entering) - Ride for Kids Las Vegas 2019.jpg|三輪車(米国、[[ラスベガス]]、2019年)後輪駆動 File:Peugeot Metropolis 400 RS (1).jpg|{{仮リンク|プジョー・メトロポリス400|en|Peugeot Metropolis 400}}(フランス、2018年)。後輪駆動。走行時に車体を左右に傾けることができる。 File:Kanagawa Prefectural Police Yamaha Tricity 125.jpg|[[ヤマハ・トリシティ]](日本、2017年)後輪駆動。走行時に車体を左右に傾けることができる。 File:Tricycle IMG 2989.jpg|三輪車([[イスラエル]]、[[2011年]]) File:Pashley Loadstar tricycle.jpg|三輪車(イギリス、[[カッスルフォード]]、2018年) File:Japanese Tricycle BRIDGESTONE WAGON.jpg|三輪車(日本、2008年) File:Nha_Trang_2013-11-20_34.jpg|三輪車([[ベトナム]]、2013年) File:臺北市木柵路一段 三輪車 20110827.jpg|三輪車([[台北市]]木柵路) File:President Transnet tricycle 20081213.jpg|[[台湾]]の宅配便(ヤマト系列)の三輪車 File:Seller tricycle.jpg|商品販売に使われている三輪車([[中国語圏]]、2014年) File:SelectivelyeditedTricycle.jpg|子供用三輪車(英語圏、2008年) File:Tricycle for children.jpg|子供用三輪車(2010年、日本) File:Bamboo childrens tricycle.jpg|子供用三輪車。竹製。 File:Tricycle poubelle.jpg|三輪車(中国語圏、2014年)ゴミ収集用。 File:Recumbent tricycles on the road to Ladakh.jpg|前輪1つ後輪2つ、低い姿勢の[[リカンベント]]で[[ラダック]]を[[ツーリング]]する人たち File:Recumbent Trike.jpg|前輪が2つで後輪が1つで、低い姿勢で走る[[リカンベント]]三輪車 </gallery> == 歴史 == {{出典の明記|date=2011年8月|section=1}} 3輪の、記録に残る最初の使用は、[[1828年]]の三輪[[馬車]]。その後、[[ペダル]]つき、[[蒸気機関]]、[[内燃機関]]などが登場してからはそれを搭載するものも発達した。''trike''([[トライク]])という略称の使用は[[1883年]]に遡ることができる。 初期の時点から三輪車は大人用であり、大人用ペダル式三輪車は[[1868年]]から存在する。[[機関 (機械)|エンジン]]付きのものなどさまざまな三輪車が登場したわけである。 世界的に見ると、現在でも三輪車の大半は大人用である。 <gallery mode="packed"> File:TricycleAntique.jpg|歴史的な三輪車 File:سه‌چرخه.jpg|[[19世紀]]、[[イラン]]の三輪車 File:1885Benz.jpg|[[ベンツ・パテント・モトールヴァーゲン]]([[1885年]])。内燃機関で走る世界初の自動車。 File:Die Gartenlaube (1886) b 130 1.jpg|1886年の三輪車 File:De Dion-Bouton Steam tricycle-CnAM 16387-IMG 6804-white.jpg|1888年の三輪車 File:De Dion-Bouton Tricycle ½ HP (1895).jpg|1895年の三輪車 File:The Tricycle 1958-2013.png|子供三輪車([[1958年]]、[[ドイツ]]) </gallery> == エンジン付き == <gallery mode="packed" caption="前1輪後2輪、屋根つき"> File:Tuktuk on the streets of Bangkok.jpg|タイで観光客向けタクシーとしてさかんに利用されている三輪自動車。タイでは[[トゥクトゥク]]と呼ばれている。 File:Traffic police tuk tuk Chiang Mai.jpg|タイの交通警察の警察車両として使われている三輪自動車 File:Autorickshaw Bangalore.jpg|インドでタクシーとして利用されている三輪自動車 File:TricycleTypeCFront.JPG|フィリピンのトライシクル File:Tricycle 1.jpg|[[ガーナ]]北部でタクシーとして普及している三輪自動車(2020年) File:MOTORCYCLE TRIKE PATTAYA THAILAND FEB 2013 (8577376248).jpg|オートバイを改造したタイプ(タイ王国) </gallery> === オートバイ類 === {{Flexbox start|justify-content=center}} {{Flex-item start|max-width=fit-content}} <gallery mode="packed" caption="前一輪後二輪のオートバイ"> File:Tricycle VéloSolex - Mons 161112.JPG|三輪車([[フランス]]、現代)。[[モペット]]方式で、小型エンジンが前輪を直接駆動。 File:Trike - decorated with printed foil.jpg|[[ドイツ]]、[[ニュルンベルク]]近くの街の三輪車(2015年)後輪駆動 File:Couple on Harley-Davidson Tri Glide (entering) - Ride for Kids Las Vegas 2019.jpg|三輪車(米国、[[ラスベガス]]、2019年)後輪駆動 </gallery> {{Flex-item end}} {{Flex-item start|max-width=fit-content}} <gallery mode="packed" caption="側車式"> File:Samlor_in_Pakse_01.jpg|オートバイに側車をつけたタイプの三輪車 </gallery> {{Flex-item end}} {{Flex-item start|max-width=fit-content}} <gallery mode="packed" caption="前二輪後一輪(かつ、左右に傾けられるタイプ)"> File:Peugeot_Metropolis,_IFEVI,_2014_(2).JPG|{{仮リンク|プジョー・メトロポリス400|en|Peugeot Metropolis 400}}(フランス)。前二輪後一輪で、後輪駆動。走行時に車体を左右に傾けることができる。 File:Kanagawa Prefectural Police Yamaha Tricity 125.jpg|[[ヤマハ・トリシティ]](日本、2017年)後輪駆動。走行時に車体を左右に傾けることができる。 File:Yamaha_Niken_-_Mondial_de_l'Automobile_de_Paris_2018_-_003.jpg|[[ヤマハ・NIKEN]]。845cc。いくつものコースで、オートバイとしてのコース記録をたたき出している。 </gallery> {{Flex-item end}} {{Flex-item start|max-width=fit-content}} <gallery mode="packed" caption="前二輪後一輪(かつ、左右に傾けられないタイプ)"> File:Tuk-tuk in Sukhothai 02.JPG|オートバイを改造したらしき三輪車(左右に傾けられない) File:Can-Am Spyder RSS (02).jpg|Can-Am Spyder。(左右に傾けられない)。 </gallery> {{Flex-item end}} {{Flexbox end}} == ペダル式(脚こぎ式、手こぎ式)三輪車 == ; 前一輪、後二輪 : 後ろの車輪の間に買い物かごなどをおく。フランスでもイスラエルでも、世界各地にある。 ; 前二輪、後一輪 : [[ヨーロッパ]]や[[東南アジア]]では、前二輪の間に幅の広い運搬・乗車用装置をおくものが発達している。 <gallery mode="packed" caption="前一輪後二輪タイプ"> File:Dhaka 37.jpg|[[バングラデシュ]]を走行する、脚こぎ式の三輪車([[2005年]]) File:DSCF5247 Dacca FMagallon.jpg|三輪車(バングラデシュ、[[ダッカ]]、2014年) File:Barcelona dreirad Fahrrad Touristtour Desigual 2009.jpg|[[スペイン]]・[[バルセローナ]]の[[自転車タクシー|ベロ・タクシー]]に使われている三輪車 File:Vélotaxi dans le centre ville de Lyon.jpg|[[フランス]]・[[リヨン]]のベロ・タクシーに使われている三輪車 File:Frankfurt Velotaxi.jpg|[[ドイツ]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]のベロ・タクシーに使われている三輪車 File:20080804_freight_bicycle_Shanghai_2383.jpg|中国・[[上海]]で三輪車で荷物を運ぶ人 File:Tri-Fecta folded trike jeh.jpg|ペダル式三輪車。折りたたみ式。 </gallery> <gallery mode="packed" caption="前二輪後一輪タイプ"> File:Nha Trang 2013-11-20 34.jpg|タクシーとして利用されている三輪車 File:BamBuk Trike Tandem1.jpg|タンデム用 File:Wheelchairbike dutch.jpg|普段[[車いす]]に乗る人を前に乗せて走れる三輪車 </gallery> 各言語での呼び方はさまざま。タイ語では「[[サムロー]]」と呼ぶ。 [[フランス語]]ではtricycleあるいは短くtrikeと呼ぶ。 [[英語]]では人力を動力とするものも[[原動機]]を備えるものも共に trike と呼び、前後の文脈から区別するか、特に必要な場合は人力のものに Human-powered を付けて Human-powered-trike とするか、原動機を持つものに motor を付けて motor-trike とするなどして区別する。 === 特徴 === ; 長所 :* 二輪車(以下、この記事でいう二輪車は、車輪を前後一列に並べたもの(Bike - Bicycle)を指す)は、停止時には乗員が地面に足を着くなどするか、[[スタンド]]を立てるなどして車体を支えなければ横倒しに倒れてしまう。またごく低速で走行する際には、倒れないようにバランスを取ることに技量を要する。これに対して、三輪のトライクは自立性を持つため、特に遅い速度で走る時は運転が容易である(ただし「決して転倒しない」ということではない)。 :** またこの自立性ゆえに、二輪車を運転することが困難な[[身体障害者]]が手軽に乗れる乗り物としても注目されている。[[パラリンピック]]では重度および中度の[[脳性麻痺]]の選手が使用する(中度の場合二輪車の使用も可)。 :* 二輪車よりも積載能力に優れており、四輪車よりも小動力で運行でき小回りの利く輸送機器である。 :** この特徴を生かして、運転席の他に座席を設けて乗客を乗せる[[自転車タクシー]](輪タク)に用いられることがある。現在の日本国内では観光地などで少数の[[ベロタクシー]]などが運行されているのみであるが、日本国外では現在もよく見られる。また電動トライクが[[空港]]や大規模[[鉄道駅]]内において、旅客や従業員の移動に使用されることがある。 :* 車体の構造が単純で開放的であるため、二輪車に準ずる(場合によっては上回る)開放感が得られる。 : ; 短所 :* 停止時と低速時の自立性はあるが、カーブでの旋回時に[[遠心力]]を受けた際に、四輪車と比較して安定性の限界が低いものが多く、運転者の技量によっては横転事故を起こす恐れがある。特に前一輪後二輪のものは、旋回中に[[ブレーキ]]を働かせて減速しようとした場合、遠心力と[[慣性]]力の合成によって転倒しやすい性質がある。 :* 二輪車に比べ車体が大きく重いため、機敏な動きが取り難く、狭隘な通路の通り抜けが困難。また動力の消費量も多い。 :* 車体の構造が単純で開放的であるため、悪天候時や事故の際に乗員を保護する機能が脆弱。 === 前一輪後二輪 === 前輪直結のペダルを直接回す小児用の'''三輪車'''とは異なり、一般的な二輪自転車と似た構造で後輪を[[ローラーチェーン|チェーン]]により駆動させている。このさい後輪の片側だけを回す構造のものが多く、路面の状態により[[スリップ]]や走行不安定になることもあるため、後二輪に駆動力を分配するものも作られている(宮田工業 スカーフウィンディ など)。 イタリアのDi Blasi社では、車体をコンパクトに折り畳めるユニークな製品を作っている(Di Blasi製 TRICYCLE R31)。これにはスイング機構は付いていない。 === 前二輪後一輪 === [[ファイル:Tricicle.JPG|thumb|前方に大型の荷台が付いている三輪自転車]] 欧州諸国ではクリスチャニア<ref>[http://www.christianiabikes.com/ クリスチャニア]</ref>・Zigo・nihora・JERNHESTEN等があり、目が届くことから子守に使用されることも多い。 そのほか諸外国では貨物運搬用の[[カーゴバイク]]のほか、[[自転車タクシー]]の一部にもこの形式が見られる。 前二輪型は車体のもっとも幅広い部分が運転者の視界の中に位置するため、後二輪型よりも車幅感覚がつかみ易い利点があり、これに着目したものも造られている([[ブリヂストンサイクル]] ブリヂストン・ミンナ など)。これもカーブを曲がる時に車体が傾かずバランスが取れなくなる弱点があるが、前二輪に特殊なリンク機構などを加えて傾かせることを可能とし、普通の自転車に準ずる旋回性を与えた車両も存在する(アバンテク「trikeシリーズ」やランドウォーカー「ランドウォーカー」など)。 参考写真の様に前輪の幅を広く取ったものもあれば、車幅を取らず安定性のみを高める目的として、前二輪の横幅を一般的なシティサイクルとほぼ同じに詰めたものも存在する。 === リカンベントトライク === [[ファイル:Recumbent Trike.jpg|thumb|前二輪後一輪のリカンベントトライク(ICE社製)]] 三輪式のリカンベントを指す。 欧米では、極端に車高を低くし、寝そべるような乗車姿勢とすることで重心位置を下げると同時に、左右輪の間隔(トレッド)を広く設定することで安定性を確保し、さらに低い車高にともなう前面投影面積の縮小による空気抵抗削減の効果もあわせて、高速走行を可能とするもの(リカンベントトライク)が作られており、熱心な愛好家がいる。 {{Main|リカンベント}} === 電動アシストタイプ === 三輪の自転車は二輪のものより重量が重くなるため、[[電動アシスト自転車]]としての機能の恩恵が大きい。 === 障害者スポーツ用車いす === [[File:Wheelchair Racing Parapan 2007.jpg|thumb|障害者スポーツ用車いす]][[障害者スポーツ]]である[[車いす陸上競技]]では、前一輪、後二輪で、後輪を直接手で回す三輪車が使用されている。 {{Main|車いすマラソン#競技用車いす}} === ハンドサイクル === [[image:Berlin_marathon_2011_innsbrucker_platz_blauweissrollstuhl_25.09.2011_09-47-43.jpg|thumb|ハンドサイクルでの自転車競技]] ハンドルをクランクとして回して駆動するハンドサイクルは基本的に三輪車の形態が多い。車輪構造は前一輪、後二輪のものが多いが、前二輪、後一輪のものも開発されている。 {{Main|ハンドサイクル}} == 幼児用三輪車 == 子供三輪車、子供用三輪車、キッズ三輪車などと言う。 一般的にデルタタイプ。ペダルで前輪を直接駆動し、ステアリングも前輪。つまり後輪は空回りしているだけ。多くは[[自転車]]に乗ることを覚える前の幼児が使う。 三つの車輪があることで、安定が良く、ほとんどバランス感覚を必要とせず簡単に乗りこなすことができる。ペダルが直結されている前輪の直径が小さいため、速度はあまり出ない。 平地での使用を想定しているため[[ブレーキ]]装置を持たないものが多く、傾斜地では暴走の危険があるため、保護者は注意を払う必要がある。 保護者が立った姿勢のまま車体を押して移動させるための棒状のハンドルを取り付けることができるものがあり、それらの中にはそのハンドルを介して保護者が舵取りを行えるものもある。このようなタイプは玩具としての用途と[[乳母車]]に似た用途を兼ねているといえる。 近年は自動車などに載せての移動や収納スペースの節約のために、車体をコンパクトに折り畳むことができるものもある。 == 日本 == ===自転車=== [[ファイル:Japanese Tricycle BRIDGESTONE MINNA.jpg|thumb|日本の三輪自転車 ブリヂストン・ミンナ]] [[ファイル:Japanese_Tricycle_BRIDGESTONE_WAGON.jpg|thumb|日本の典型的な三輪自転車 ブリヂストン・ワゴン]] 日本の場合、昔から作られているものは前一輪後二輪のものが多く、現在でも多数を占めている。これらは2本の後輪の間に大型の荷台もしくは荷乗せカゴを持つ、実用性を重視した製品がほとんどである。 日本においてスイング機構を持つ三輪自転車が発達したのは、狭く混雑した道路環境により車幅の広い自転車は使いにくいことや、[[普通自転車]]の規定に合致させることが利便性の面で有利であるため、車幅を広げることで安定性を確保する手法は避けられ、代わりに車体を傾けることで旋回安定性を確保する手法が求められたためである。 古くは前輪の[[ハンドルバー (自転車)|ハンドル]]部分しか曲げることが出来ず、旋回時の安定性が悪いという欠点があったが、1970年代前期頃から、前輪だけでなく[[フレーム (自転車)|フレーム]]主要部と後輪部分との間に「スイング機構」を追加して車体を傾けられるようにすることで、二輪車とも遜色ない旋回特性が得られ、なおかつ同機構に組み込まれた[[ばね]]の復元力によって、ある程度の自立補助が得られるように改良されたものが主流となった。ただし、何らかの理由で自らバランスを取ることが困難なユーザーのために、あえてスイング機構を固定または動作制限してしまうオプションが選べる物が多い。この場合、上述の通り旋回時の安定性が低下するため、カーブに入る前に充分速度を落とさなければ横転事故に至る危険があることを、運転者は理解しておかなければならない。 この形式のものは、車体前半部の構造が二輪の自転車と同様であり、スイング機構によって操縦感覚も二輪車と似ているが、あくまでも三輪車であるため、後輪の通る軌跡が二輪車とは異なる。これを忘れて二輪車の感覚で走行した場合、[[内輪差]]により曲がり角の障害物に内側後輪を引っ掛けたり、あるいは乗り上げたり、段差や側溝に[[脱輪]]するなどして、激しく転倒し大事故に至る危険があることを、運転者は理解しておかなければならない。 [[1978年]]の[[道路交通法]]改正により、ペダルを脚でこぐタイプで、なおかつ基準を満たしたものは[[普通自転車]]扱いとなった。さらに2007年(平成19年)に道路交通法が改正され、自転車は原則的には歩道の走行が禁止となった(歩道走行はやむを得ない場合だけ、例外的に認められる)。三輪自転車も原則的に歩道の走行は不可。 日本の場合、前二輪後一輪タイプは、古くは小型の貨物自動車が普及する以前に、[[実用車 (自転車)|実用車]]の車体前半部を取り払い、代わりに[[リヤカー]]を前後逆に取り付けたような重量物運搬用自転車(フロントカー)もあったが、これは国内ではめったに見られなくなった。 欧米製の三輪自転車を輸入した場合は、欧米流に、そしておしゃれに「トライク」と呼んでいる場合がある<ref>[http://www.avantec-df.co.jp/ アバンテク社「トライク」] など、特定企業の特定製品の[[商品名]]として「トライク」が使用されている。</ref>。 ====電動アシスト==== [[2005年]]の[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]では、場内タクシーとしてこのタイプのトライクが3種類活躍した。 * ヤマハ発動機製 PASワゴン * ブリヂストンサイクル製 アシスタワゴン * パナソニック サイクルテック製 かろやかライフEB * アバンテク製 trike typeSE * 豊田トライク<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=QTfDRUqooEc 豊田TRIKE|こげば、未来が動き出す]</ref>。 ====幼児用==== 日本における幼児用三輪車の安全性を担保するものとして財団法人[[製品安全協会]]が定める安全基準があり、この基準に適合した製品にのみ「[[SGマーク]]」が表示される<ref>[http://www.sg-mark.org/index.htm(財)製品安全協会]</ref>。 == 三輪車を用いた競技 == オートバイの[[鈴鹿8時間耐久ロードレース]]を模した形での長時間耐久レースも各地で開催されている。その中で、継続して実施されている(た)ものを以下に記す。これらのレースにおいては、選手が長時間乗車できるよう、ルールによる制限は設けているものの、強度面などの理由もあり改造もしくはフルスクラッチでの新造を基本的に考慮するものとしていることが多い。 ; 全日本8時間耐久三輪車レース([[宮城県]][[石巻市]]) : 改造した市販車のみ参加可。無改造車による2時間耐久レースもあり。[[東日本大震災]]以後の開催については不明。 ; 三輪車12時間耐久レース(東京・お台場) : 上の全日本大会を模して行った。 ; WEC Japan(ウェック ジャパン、[[静岡県]][[小山町]]([[富士スピードウェイ]])、元「3輪ワールドGP」) : (WECは「ワールド・エコロジカルカー・チャンピオンシップ」の略(自動車の耐久レースの世界選手権 World Endurance Championship、および過去に存在した [[WEC-JAPAN]] に掛けている)) : 複数カテゴリの混走レース。自称「富士スピードウェイの最遅カテゴリー」「無理すれば、誰でも出れる、世界選手権!」「三輪車や椅子による人力車レースの最高峰」。カテゴリGT3(グレートチューニング三輪車)が三輪車のカテゴリである<ref name="wec">[http://www.japan-racing.jp/fsw/19/wec.html 2019 WEC JAPAN] - WEC JAPANウェブサイト</ref>。ルールから抜粋すると、前1輪駆動の3輪車で、クランク軸=車軸でなくともよい(チェン駆動等も可)が、比が1:1でなければならない。富士スピードウェイ付属施設の一つであるカートコースを使用する。5時間耐久。2009年に第1回が開催された<ref name="wec"/>。 ; 南飛騨三輪8耐([[岐阜県]][[下呂市]]) : 旧[[萩原町 (岐阜県)|萩原町]]で実施され、別名「萩原8耐」。ルール(縦横高さ合計3m以内)に基づく手作り三輪車によるレース。1997年に第1回を開催した<ref>[http://www.esri.go.jp/jp/prj/mytown/genki/report/g078-0606-01.html 手作り三輪車で8時間の激走レース] - [[内閣府]]経済社会総合研究所(わがまち元気情報)</ref>。2009年を最後に開催されていない。 ; 全日本あいとう4時間耐久三輪車レース([[滋賀県]][[東近江市]]) : 旧[[愛東町]]で毎年10月の第4日曜日に開催されている。最も歴史の古い三輪車レースである(2013年で26回目<ref>{{Cite news|url=http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0014076|title=25チームが参戦 4H耐久三輪|newspaper=滋賀報知新聞|date=2013-10-26|accessdate=2020-05-23}}</ref>(2011年は中止))。2014年以降の開催は不明。 : 改造部門とノーマル部門の二つの部門がある。 : 1周350〜400mの特設サーキットを走行する。コースレイアウトは毎年変わる。 : ロングストレート・連続ヘアピン・アップ&ダウン等テクニカルなコースレイアウトが特徴。 ; 南丹サンサン祭4時間耐久三輪車レース([[京都府]][[南丹市]]) : 毎年10月の「南丹サンサン祭」の際に実施されている<ref>{{Cite news|url=https://www.47news.jp/4131101.html|title=三輪車で4時間耐久、負けられない戦い しかも手作り!|newspaper=[[京都新聞]] ([[47NEWS]])|date=2019-10-21|accessdate=2020-05-23}}</ref>。規定内の自作車両を使用<ref>{{PDFlink|[https://nantan.kyoto-fsci.or.jp/wp-content/uploads/2019/07/2019三輪車レース%ef%bc%88裏%ef%bc%89.pdf 2019年度実施要領]}}2020年5月23日閲覧</ref>。サンサン祭自体は2009年に第1回が開催されている<ref>{{PDFlink|[https://www.kkr.mlit.go.jp/river/follwup/jouhou/siryo/pdf/170215/0607doutai.pdf 日吉ダム水源地域動態]}} - [[国土交通省]][[近畿地方整備局]](14ページ目「表 7.3-1(3) 日吉ダム事業と地域社会情勢の変遷(2000 年-2015 年) 」を参照)</ref>。 ; かつらぎ三輪車4時間耐久レース([[和歌山県]][[かつらぎ町]]) : 規定に従った自作またはレンタル車両でのレース<ref name="katsuragi">[http://katuragi.or.jp/sanrinsya/index.htm かつらぎ三輪車4時間耐久レース] - かつらぎ町商工会</ref>。第1回は1990年に開催された<ref name="katsuragi"/>。第1回のみ4月の実施で、第2回以降は毎年11月に実施されていた<ref name="katsuragi"/>。2018年の第30回を最後に終了<ref name="katsuragi"/><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=nSKrvYt3Icg 平成とともに去りぬ 三輪車4時間耐久レースの30年] - Youtube(朝日新聞社、2019年4月30日)</ref>。 ; 養父市三輪車4時間耐久レース([[兵庫県]][[養父市]]) : 2013年に第1回を開催<ref>[http://www.y-town.net/blog/%E7%AC%AC%EF%BC%91%E5%9B%9E%E3%80%80%E9%A4%8A%E7%88%B6%E5%B8%82%E4%B8%89%E8%BC%AA%E8%BB%8A%EF%BC%94%E6%99%82%E9%96%93%E8%80%90%E4%B9%85%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9/ 第1回 養父市三輪車4時間耐久レース] - ワイタウン</ref>。主催者が用意した車両を使う「レンタルクラス」と、規定内の改造車・市販車・自作車のいずれでもエントリー可能な「オリジナルクラス」がある<ref>[http://www.yabusci.or.jp/seinen/full/fullthrottle.html 第5回 三輪車4時間耐久レース] - 養父市商工会青年部</ref>。 ; 遠賀町三輪車4時間耐久レース([[福岡県]][[遠賀町]]) : 2017年で16回を数えていた<ref>[http://www.town.onga.lg.jp/machi_navi/kanko_shiseki/sanrinsya/index.html 第16回三輪車4時間耐久レース] - 遠賀町(町ナビ、2017年12月11日閲覧)</ref>。2019年の第18回までの開催が確認できるが<ref>[http://yahata-tech.fku.ed.jp/intro/pub/detail.aspx?c_id=134&id=189 第18回三輪車4時間耐久レース] - [[福岡県立八幡工業高等学校]](2019年10月18日)2023年10月3日閲覧。</ref>、2021年度に[[コロナ禍]]での市のイベント事業見直しにより「当初の目的を一定程度果たした」として廃止が決定された<ref>[https://www.town.onga.lg.jp/soshiki/17/1184.html 【事業廃止のお知らせ】三輪車4時間耐久レース] - 遠賀町(2022年4月1日)2023年10月3日閲覧。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat}} * [[自転車]] ** [[サイクルトレーラー]] ** [[カーゴバイク]] ** [[ハンドサイクル]] * [[トライク]] * [[三輪自動車]] ** [[オート三輪]] * [[サイドカー]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さんりんしや}} [[Category:車両]] [[Category:自転車の形態]] [[Category:三輪自動車|*]] [[Category:人力の乗り物]] [[Category:遊具]]
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2023-10-03T12:55:19Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E8%BB%8A
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ガンダムシリーズ一覧
ガンダムシリーズ一覧は、バンダイナムコグループが保有するIP『機動戦士ガンダム』を題材にした一連のメディアミックス作品群の記事である。各作品はいくつかの世界設定を共有している。例外もあるが正式な作品にはサンライズの共同筆名である矢立肇と、シリーズ第1作を手掛けた富野由悠季の名義を入れることが慣習となっている。 「モビルスーツバリエーション」「SDガンダム」「ガンダムシリーズのゲーム作品」については別の記事も合わせて参照。 原作が映像媒体の作品、およびそのコミカライズ・ノベライズ(リブート作品を除く)。※は原作が映像媒体ではない作品。 原作が映像媒体の作品、およびそのコミカライズ・ノベライズ(リブート作品を除く)。※は原作が映像媒体ではない作品。 武者・騎士・コマンド戦記といったシリーズに代表されるように、同一もしくは複数の世界設定のもと幅広く展開されている。シリーズをまとめた記事があるためそちらを参照。 原作が書籍媒体のスピンオフ・外伝作品とリブート作品、およびその派生作品(ノベライズ・コミカライズも含む)。 原作が書籍媒体のスピンオフ・外伝作品とリブート作品、およびその派生作品。 媒体ではなくシリーズごとにまとめる。 「モビルスーツバリエーション」も参照。 宇宙世紀 アナザー 宇宙世紀 アナザー 「ガンダムシリーズのゲーム作品」も参照。ゲーム作品とそのコミカライズ・ノベライズ。 上記のシリーズとは世界設定が異なる作品群。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ガンダムシリーズ一覧は、バンダイナムコグループが保有するIP『機動戦士ガンダム』を題材にした一連のメディアミックス作品群の記事である。各作品はいくつかの世界設定を共有している。例外もあるが正式な作品にはサンライズの共同筆名である矢立肇と、シリーズ第1作を手掛けた富野由悠季の名義を入れることが慣習となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「モビルスーツバリエーション」「SDガンダム」「ガンダムシリーズのゲーム作品」については別の記事も合わせて参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "原作が映像媒体の作品、およびそのコミカライズ・ノベライズ(リブート作品を除く)。※は原作が映像媒体ではない作品。", "title": "映像作品(宇宙世紀シリーズ)" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "原作が映像媒体の作品、およびそのコミカライズ・ノベライズ(リブート作品を除く)。※は原作が映像媒体ではない作品。", "title": "映像作品(アナザーガンダム)" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "", "title": "映像作品(アナザーガンダム)" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "武者・騎士・コマンド戦記といったシリーズに代表されるように、同一もしくは複数の世界設定のもと幅広く展開されている。シリーズをまとめた記事があるためそちらを参照。", "title": "SDガンダムを題材にした作品" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "原作が書籍媒体のスピンオフ・外伝作品とリブート作品、およびその派生作品(ノベライズ・コミカライズも含む)。", "title": "書籍作品(宇宙世紀シリーズ)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "原作が書籍媒体のスピンオフ・外伝作品とリブート作品、およびその派生作品。", "title": "書籍作品(アナザーガンダム)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "媒体ではなくシリーズごとにまとめる。", "title": "書籍作品(アナザーガンダム)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「モビルスーツバリエーション」も参照。", "title": "MSV企画・模型企画" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "宇宙世紀", "title": "MSV企画・模型企画" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アナザー", "title": "MSV企画・模型企画" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "宇宙世紀", "title": "MSV企画・模型企画" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アナザー", "title": "MSV企画・模型企画" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「ガンダムシリーズのゲーム作品」も参照。ゲーム作品とそのコミカライズ・ノベライズ。", "title": "ゲーム作品" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "上記のシリーズとは世界設定が異なる作品群。", "title": "その他の作品" } ]
ガンダムシリーズ一覧は、バンダイナムコグループが保有するIP『機動戦士ガンダム』を題材にした一連のメディアミックス作品群の記事である。各作品はいくつかの世界設定を共有している。例外もあるが正式な作品にはサンライズの共同筆名である矢立肇と、シリーズ第1作を手掛けた富野由悠季の名義を入れることが慣習となっている。 「モビルスーツバリエーション」「SDガンダム」「ガンダムシリーズのゲーム作品」については別の記事も合わせて参照。
{{pp-vandalism|small=yes}} '''ガンダムシリーズ一覧'''は、[[バンダイナムコグループ]]が保有する[[知的財産権|IP]]『[[機動戦士ガンダム#IPとしての機動戦士ガンダム|機動戦士ガンダム]]』を題材にした一連の[[メディアミックス]]作品群の記事である。各作品はいくつかの世界設定を共有している。例外{{Efn2|その様な作品も復刻・復刊にあたって両名義が記載されたケースが有る。例としては魔法の少尉ブラスターマリ、Gの影忍などの古い作品。}}もあるが正式な作品にはサンライズの共同筆名である[[矢立肇]]と、シリーズ第1作を手掛けた[[富野由悠季]]の名義を入れることが慣習となっている<ref>{{Cite interview|和書|subject=[[太田垣康男]]|date=2019-05-01|url=https://news.1242.com/article/174085|title=ガンダムサンダーボルト、作者がMSのデザインを自由に出来る権利を連載前に取得!?|interviewer=[[吉田尚記]]|work=[[オールナイトニッポン|オールナイトニッポン.com]]|publisher=[[ニッポン放送]]|accessdate=2021-11-15<!--|archivedate=2019年9月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190904081824/http://www.allnightnippon.com/news/20190501-41036/?pg=mcplus-->}}</ref>。 「[[モビルスーツバリエーション]]」「[[SDガンダム]]」「[[ガンダムシリーズゲーム作品一覧|ガンダムシリーズのゲーム作品]]」については別の記事も合わせて参照。 == 映像作品(宇宙世紀シリーズ) == {{Anchors|宇宙世紀シリーズ|宇宙世紀}} 原作が映像媒体の作品、およびそのコミカライズ・ノベライズ([[リブート (作品展開)|リブート作品]]を除く)。※は原作が映像媒体ではない作品。 === 1970年代-1980年代 === * '''「[[機動戦士ガンダム]]」 TVアニメ''' [[富野由悠季|富野喜幸]]【全43話】 1979年–1980年 ** '''映画「機動戦士ガンダム」''' 富野喜幸 【3部作】1981年-1982年 ** 小説/富野由悠季 [[朝日ソノラマ]]【全3巻】/ [[角川書店]] 1979年–1981年 ** 小説/中根真明 朝日ソノラマ 【全3巻】 1980年 ** 漫画「[[機動戦士ガンダム (冒険王版)]]」 [[岡崎優]] [[秋田書店]] 【全2巻】 1979年 * '''「[[機動戦士Ζガンダム]]」 TVアニメ''' 富野由悠季【全50話】1985年 ** 小説/富野由悠季 講談社【全5巻】 / 角川書店 1985年-1986年 ** 漫画/近藤和久 講談社【全3巻】 / [[バンダイ]]【全2巻】 / [[メディアワークス]](旧版【全3巻】 / 新装版【全3巻】 / セレクション版) 1985年–1986年 ** '''映画「機動戦士Ζガンダム A New Translation」''' 富野由悠季 【3部作】2005年-[[2006年]] *** 漫画/田巻久雄、白石琴似、津島直人 角川書店【全3巻】 2005年-2006年 * '''「[[機動戦士ガンダムΖΖ]]」 TVアニメ''' 富野由悠季 【全47話】1986年 ** 小説/遠藤明範 [[講談社]]【全2巻】 / 角川書店 1986年 ** 漫画/村上としや 講談社(ボンボンKC【全3巻】 / KPC【全2巻】 / KCDX【全2巻】)/ [[大都社]](復刻版【全2巻】、普及版【全2巻】) 1986年 * '''「[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]」 映画''' 富野由悠季 1988年 ** 小説「[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア#機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー|機動戦士ガンダム 逆襲のシャア (ハイ・ストリーマー)]]」 富野由悠季 徳間書店([[アニメージュ#アニメージュ文庫|アニメージュ文庫]]【全3巻】 / [[徳間デュアル文庫]] / 復刻版 アニメージュ文庫) 1987年–1988年 ** 小説「[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア#機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン|機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン]]」 富野由悠季 角川書店 1988年 *** カセットブック / 復刻版ドラマCD 1989年 *** 漫画/[[左菱虚秋]] 角川書店【全7巻】 2014年-2018年 ** 漫画/村上としや 大都社(漫画版ΖΖの復刻版2巻に収録) 1999年 ** 漫画/[[ときた洸一]] 講談社(ボンボンKC / KPC / KCDX / KPC復刻版) 1998-1999年 * '''「[[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争]]」 OVA''' [[高山文彦 (アニメ監督)|高山文彦]] 【全6話】 1989年 ** 小説/[[結城恭介]] 角川書店 1989年 ** 漫画/[[池原しげと]] 講談社(ボンボンKC / KPC / KCDX) / 大都社 1989年 === 1990年代 === * '''「[[機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY]]」 OVA''' [[加瀬充子]]、[[今西隆志]] 【全13話】 1991年 ** '''映画「機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光」'''[[今西隆志]] 1992年 ** 小説「機動戦士ガンダム0083」 [[山口宏 (脚本家)|山口宏]] 角川書店【全3巻】 1992年 ** 漫画「機動戦士ガンダム0083 星屑の英雄」 松浦まさふみ メディアワークス【全2巻】 2000年–2001年 ** 漫画/[[加登屋みつる]] 講談社(KPC / 「大都社版ガンダムF91」「ガンダム短編集(2)」「一年戦争名作選」に収録)1992年 * '''「[[機動戦士ガンダムF91]]」 映画 '''富野由悠季 1991年 ** 小説「機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード」 富野由悠季 角川書店【全2巻】 1991年 *** 漫画「機動戦士ガンダムF91 プリクエル」 おおのじゅんじ 角川書店【既刊2巻】 2020年- ** 漫画/[[井上大助]] 講談社 /大都社 1991年 * '''「[[機動戦士Vガンダム]]」 TVアニメ''' 富野由悠季【全51話】1993年–1994年 * '''「[[機動戦士ガンダム 第08MS小隊]]」 OVA''' [[神田武幸]]、[[飯田馬之介]] 【全12話】1996年–1999年 ** '''映画「機動戦士ガンダム 第08MS小隊 ミラーズ・リポート」''' [[加瀬充子]] 1998年 ** 小説/[[大河内一楼]] 角川書店【全3巻】 1999年 *'''「[[GUNDAM Mission to the Rise]]」''' [[大友克洋]] 20周年記念『ガンダムビッグバン宣言』イベント上映(劇場作品「[[スチームボーイ]]」のチケット初回販売版にDVDが付属) 1998年 === 2000年代 === * '''「[[G-SAVIOUR]]」 映画'''グラム・キャンベル 2000年 ** 小説/[[河原よしえ]] [[集英社]] 2000年–2001年 ** 漫画/[[拓人]] ファミ通ブロス(未単行本化) * '''「[[GUNDAM THE RIDE|GUNDAM THE RIDE ‐A BAOA QU‐]]」 シミュレーションライド型アトラクション ''' 2000年 * '''「[[ガンダム新体験 グリーンダイバーズ|ガンダム新体験 ‐0087‐ グリーンダイバーズ]]」 プラネタリウムCGシアター''' 2001年 *'''「[[GUNDAM EVOLVE]]」 OVA''' 2001年–2003年 ** '''OVA「GUNDAM EVOLVE../」''' 2004年–2007年 *** 漫画「[[GUNDAM EVOLVE#機動戦士ガンダム U.C.戦記 追憶のシャア・アズナブル|機動戦士ガンダム U.C.戦記 追憶のシャア・アズナブル]]」 大森倖三 角川書店 2009年 * '''「[[機動戦士ガンダム MS IGLOO]] -1年戦争秘録-」 OVA''' 今西隆志 【全3話】 2004年 ** '''OVA「機動戦士ガンダム MS IGLOO -黙示録0079-」''' 今西隆志 【全3話】 2006年 ** 小説/林譲治 角川書店 2005年 ** 漫画 *** 「機動戦士ガンダム MS IGLOO 603」[[MEIMU]] 角川書店【全2巻】 2004年-2005年 *** 「機動戦士ガンダム MS IGLOO 黙示録0079」MEIMU 角川書店 2006年 * '''「[[機動戦士ガンダム MS IGLOO#機動戦士ガンダム MSイグルー2 重力戦線|機動戦士ガンダム MSイグルー2 重力戦線]]」 OVA''' 今西隆志 【全3話】 2008年–2009年 ** 漫画「[[機動戦士ガンダム MS IGLOO#漫画版|機動戦士ガンダム MSイグルー2 重力戦線]]」MEIMU 角川書店【全2巻】 2009年 * '''「[[リング・オブ・ガンダム]]」 短編映像''' 30周年記念『GUNDAM BIG EXPO』イベント上映 2009年 * '''「機動戦士ガンダム戦記 アバンタイトル」 OVA''' ゲーム特典映像 2009年 === 2010年代 === * '''「[[機動戦士ガンダムUC]]」 OVA'''(※) [[古橋一浩]] 【全7話】 2010年–2014年 ** 漫画「機動戦士ガンダムUC バンデシネ」大森幸三 角川書店【全17巻】 2010年–2016年 *** 漫画「機動戦士ガンダムUCバンデシネEpisode:0」大森幸三 角川書店【全3巻】 2017年–2018年 ** '''TVシリーズ「機動戦士ガンダムUC RE:0096」''' 古橋一浩 2016年 ** '''DOME-G映像「[[機動戦士ガンダムUC One of Seventy Two]]」'''2013年 ** '''DOME-G映像「機動戦士ガンダムUC ネオ・ジオング、お台場に現る!」''' 2014年 ** '''WALL-G映像「機動戦士ガンダムUC A Phantom World」''' 2016年 ** '''VR映像「機動戦士ガンダムUC VR 激突・ダイバ上空」''' 2017年 ** '''WALL-G映像「機動戦士ガンダムUC ペルフェクティビリティ」''' 2018年 ** '''映像「episode EX 百年の孤独」''' バンダイナムコアーツ(「ガンダムUC ep7、BD-BOX Complete Edition」の特典) 2014年 ** 小説「獅子の帰還」 福井晴敏 バンダイナムコアーツ(「ガンダムUC BD-BOX Complete Edition」の特典) 2019年 *** ドラマCD バンダイナムコアーツ(「ガンダムNT」BD特典) 2019年 *** 漫画「機動戦士ガンダムUC episode EX2 獅子の帰還」 玉越博幸 角川書店 2019年-2020年 * '''「ガンダムさん」 TVアニメ'''(※) [[まんきゅう]] 【全13話】 2014年 * '''「[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN]]」 OVA'''(※) 安彦良和 【全6話】 2015年-2018年 * '''「[[機動戦士ガンダム サンダーボルト]](第1シーズン)」 OVA'''(※) 2015年-2016年 ** '''第2シーズン OVA''' 2017年 ** '''映画「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」''' 2016年 ** '''映画「機動戦士ガンダム サンダーボルト BANDIT FLOWER」''' 2017年 *'''「[[機動戦士ガンダム Twilight AXIS]]」 Webアニメ'''(※) 金世俊 2017年 ** '''OVA「機動戦士ガンダム Twilight AXIS 赤き残影」''' 2017年 * '''「[[機動戦士ガンダムNT]]」 映画'''(※) 吉沢俊一 2018年 ** 漫画 大森倖三 角川書店 【既刊3巻】 2018年- * '''「[[機動戦士ガンダム 光る命 Chronicle U.C.]]」 映像''' 福井晴敏 バンダイナムコアーツ(「U.C.ガンダムBlu-rayライブラリーズ」の特典) 2019年 /「編集版」 ガンダムチャンネル 2021年 === 2020年代以降 === * '''「機動戦士ガンダムG40」 Webアニメ''' 2020年 * '''「[[機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ]]」 映画'''(※) 【3部作(予定)】2021年- * '''「[[機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島]]」 映画''' 安彦良和 2022年 == 映像作品(アナザーガンダム) == 原作が映像媒体の作品、およびそのコミカライズ・ノベライズ([[リブート (作品展開)|リブート作品]]を除く)。※は原作が映像媒体ではない作品。 === G - W - X - ∀ === * '''「[[機動武闘伝Gガンダム]]」 TVシリーズ''' [[今川泰宏]] 【全49話】 1994年–1995年 ** 漫画/[[ときた洸一]] 講談社(ボンボンKC【全3巻】 / KPC【全2巻】/ KCDX【全3巻】) 1994年–1995年 ** 小説/[[鈴木良武]] 角川書店【全3巻】 1995年–1997年 * '''「[[新機動戦記ガンダムW]]」 TVシリーズ''' [[池田成]] 【全49話】 1995年–1996年 ** 小説/神代創 角川書店【全5巻】 1996年–1997年 **漫画 *** ときた洸一 講談社(ボンボンKC【全3巻】 / KPC【全2巻】/ KCDX【全3巻】) 1995年–1996年 *** 冬凪れく 角川書店 1998年 *** 面出明美、あさぎ桜 学習研究社 1999年 * '''「[[新機動戦記ガンダムW Endless Waltz]]」 OVA''' 青木康直 【全3巻】 1997年 ** '''映画「新機動戦記ガンダムW Endless Waltz 特別篇」''' 青木康直 1998年 ** 小説/[[隅沢克之]] 講談社【全2巻】 / 角川書店 1997年 ** 漫画/ときた洸一 講談社(ボンボンKC / KPC / KCDX) 1998年   * '''「[[機動新世紀ガンダムX]]」 TVシリーズ''' [[高松信司]] 【全39話】 1996年 ** 漫画/ときた洸一 講談社(ボンボンKC【全3巻】 / KPC【全2巻】 / KCDX【全3巻】) 1996年–1997年 *** 漫画「機動新世紀ガンダムX Re:Master Edition」 ときた洸一 角川書店 2022年 * '''「[[∀ガンダム]]」 TVシリーズ''' [[富野由悠季]] 【全50話】 1999年–2000年 ** '''映画「∀ガンダム」''' 【全2作】富野由悠季 2002年 ** 小説/[[佐藤茂]] 角川書店 【全5巻】 1999年–2000年 *** 小説「月に繭 地は果実」[[福井晴敏]] [[角川春樹事務所]]【全2巻】 / 幻冬舎(通常版【全3巻】 / 愛蔵版) / 講談社【全2巻】 2000年 ** 漫画/ときた洸一 講談社(ボンボンKC【全2巻】 / KCDX【全2巻】) 1999年–2000年 ** 漫画/[[曽我篤士]] 講談社【全5巻】 1999年–2002年 === SEEDシリーズ - 00 - AGE === * '''「[[機動戦士ガンダムSEED]]」 TVシリーズ''' [[福田己津央]] 【全50話+AFTER PHASE】 2002年–2003年 ** '''HDリマスター版''' 【全48話+AFTER PHASE】 2011年–2012年 ** 小説/[[後藤リウ]] 角川書店【全5巻】 2003年–2004年 ** 漫画 *** [[岩瀬昌嗣]] 講談社【全5巻】 2002年–2004年 *** 「機動戦士ガンダムSEED キラとアスランの激闘」高山瑞穂 講談社【全2巻】 2003年 *'''「機動戦士ガンダムSEED MSV ASTRAY」 OVA・店頭PV'''(※) * '''「[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]」 TVシリーズ''' 福田己津央 【全50話+FINAL PLUS】 2004年–2005年 ** '''HDリマスター版''' 【全50話】 2013年–2014年 ** 小説/後藤リウ 角川書店【全5巻】 2005年–2006年 ** 漫画 *** 高山瑞穂 講談社【全4巻】 2004年–2005年 *** 岩瀬昌嗣 講談社【全4巻】 2004年–2006年 *** 「[[機動戦士ガンダムSEEDシリーズ (書籍)#機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE|機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE]]」[[久織ちまき]] 角川書店【全5巻】 2004年–2006年 *** 「機動戦士ガンダムSEED DESTINY THE EDGE Desire」 久織ちまき 角川書店【全2巻】 2006年–2007年 * '''「[[機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZER]]」 OVA''' 西澤晋 【全3話】 2006年 ** 漫画/守屋直樹 角川書店 2007年 * '''「GUNDAM SEED PROJECT ignited」'''(メディアミックス企画) ** '''映画''' 福田己津央<ref>{{Cite news|title=「ガンダム SEED」新プロジェクト始動!劇場版を中心に新作ゲーム開発など多数展開|newspaper=コミックナタリー|date=2021-05-28|url=https://natalie.mu/comic/news/430164|access-date=2022-04-24}}</ref> 詳細未発表 * '''「[[機動戦士ガンダム00]](ファーストシーズン)」 TVシリーズ''' [[水島精二]] 【全25話】2007年–2008年 ** 小説/[[木村暢]] [[角川書店]]【全3巻】 2008年 ** 漫画 *** 大森倖三 角川書店【全3巻】 2007年–2008年 *** 田口央斗 講談社【全4巻】 2007年–2009年 *''''「[[機動戦士ガンダム00]](セカンドシーズン)」 TVシリーズ''' 水島精二【全25話】 2008年–2009年 **小説/木村暢 角川書店【全5巻】 2008年–2010年 **漫画 ***大森倖三 角川書店【全4巻】 2009年–2010年 ***田口央斗 講談社【全4巻】 2009年–2010年 *'''「[[劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-]]」''' 水島精二 2010年 **小説/木村暢 角川書店 2010年 **漫画/[[介錯 (漫画家)|介錯]] 角川書店 2011年 * '''「機動戦士ガンダム00 Revealed Chronicle」アニメ''' 水島精二 2022年 * '''「[[機動戦士ガンダムAGE]]」 TVシリーズ''' [[山口晋 (アニメ演出家)|山口晋]] 【全49話】 2011年 - 2012年 **小説/[[小太刀右京]] 角川書店【全5巻】 2012年 ** '''OVA「機動戦士ガンダムAGE MEMORY OF EDEN」''' 綿田慎也 2013年 ** 漫画 *** 「機動戦士ガンダムAGE 〜始まりの物語〜」 [[中西寛 (漫画家)|中西寛]] [[小学館]] (「追憶のシド」1・2巻に収録) 2011年 *** 「機動戦士ガンダムAGE -First Evolution-」 葛木ヒヨン 角川書店【全3巻】 2011年-2012年 *** 「機動戦士ガンダムAGE -Second Evolution-」 ばう 角川書店【全2巻】 2011年-2012年 *** 「機動戦士ガンダムAGE 〜クライマックスヒーロー〜」 [[鷹岬諒]] 小学館【全1巻】 2012年 *** 「機動戦士ガンダムAGE -Final Evolution-」 ばう 角川書店【全1巻】 2012年-2013年 === Gレコ - 鉄血 - 水星の魔女 === * '''「[[ガンダム Gのレコンギスタ]]」 TVシリーズ''' 富野由悠季 【全26話】 2014年-2015年 ** 漫画/[[太田多門]] 角川書店【既刊4巻】 2014年- ** '''イベント上映「ガンダム Gのレコンギスタ FROM THE PAST TO THE FUTURE」''' 2015年 ** '''映画「Gのレコンギスタ」''' 【全5作】 2019年-2022年 * '''「[[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ]]」 TVシリーズ''' [[長井龍雪]] ** '''第1期'''【全25話】 2015年-2016年 ** '''第2期'''【全25話】 2016年-2017年 ** '''特別編'''【全9回】 2022年 ** 漫画/磯部一真 角川書店(第1期【全3巻】2015年-2016年 / 第2期【全4巻】 2016年-2018年) * '''「[[機動戦士ガンダム 水星の魔女]]」 TVシリーズ''' [[小林寛 (アニメーション監督)|小林寛]] ** '''「[[機動戦士ガンダム 水星の魔女|機動戦士ガンダム 水星の魔女 PROLOGUE]]」 '''イベント上映・配信 ** '''Season 1'''【全12話】 2022年 - 2023年 ** '''Season 2'''【全12話】 2023年 == 映像作品(ガンプラ系) == === 『ガンダムビルド』シリーズ === * '''「[[ガンダムビルドファイターズ]]」 TVシリーズ''' [[長崎健司]] 【全25話】 2013年-2014年 ** 小説/[[あすか正太]] 角川書店【全2巻】 2015年 * '''「[[ガンダムビルドファイターズトライ]]」 TVシリーズ''' 綿田慎也 【全25話】 2014年-2015年 ** '''TVスペシャル「ガンダムビルドファイターズトライ アイランド・ウォーズ」''' 綿田慎也 2016年 * '''「ガンダムビルドファイターズ バトローグ」 Webアニメ''' [[大張正己]] 【全5話】 2017年-2018年 * '''「ガンダムビルドファイターズ GMの逆襲」 Webアニメ''' 長崎健司 2017年 * '''「[[ガンダムビルドダイバーズ]]」 TVシリーズ''' 綿田慎也 【全25話】 2018年 * '''「[[ガンダムビルドダイバーズRe:RISE]](1st Season)」 Webアニメ''' 綿田慎也【全13話】2019年 ** '''2nd Season'''【全13話】2020年 ** ''' Webアニメ「ガンダムビルドダイバーズ バトローグ」''' [[大張正己]] 2020年 * '''「[[ガンダムビルドリアル]]」 Webドラマ''' [[本広克行]]、[[田中佑和]] 【全6話】 2021年 === その他 === * '''「[[模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG]]」 OVA''' 松尾衝 【全1巻(3部)】2010年 ** 漫画「模型戦士ガンプラビルダーズA」 [[岩本佳浩]] 角川書店 2010年–2011年 * '''「[[ガンダムブレイカー バトローグ]]」 Webアニメ''' 大張正己 【全6話】 2021年 == SDガンダムを題材にした作品 == {{Main|SDガンダム}} [[武者ガンダム|武者]]・[[騎士ガンダム|騎士]]・[[SDコマンド戦記|コマンド戦記]]といったシリーズに代表されるように、同一もしくは複数の世界設定のもと幅広く展開されている。シリーズをまとめた記事があるためそちらを参照。 == 書籍作品(宇宙世紀シリーズ) == 原作が書籍媒体のスピンオフ・外伝作品とリブート作品、およびその派生作品(ノベライズ・コミカライズも含む)。 === 漫画が原作の作品 === ==== 1980年代 ==== * 「[[MS戦記 機動戦士ガンダム0079外伝]]」 [[高橋昌也 (作家)|高橋昌也]]、[[近藤和久]] [[講談社]]([[コミックボンボン|ボンボンKC]] / KPC)/ [[バンダイ]] / メディアワークス 1984年 * 「機動戦士ΖΖガンダム シーサイドパニック」 [[水原賢治]] バンダイ(同人誌「廊」に収録) 1993年 * 「IRON HEART」 [[藤田一己]] ビークラブ(未単行本化) 1986年 * 「ニュータイプ戦史」 小林誠 角川書店(月刊ニュータイプ付録冊子に収録)1987年 * 「機動戦士ガンダム 逆襲のアムロ」 岡崎武士 SDクラブ(未単行本化) 1988年 * 「[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア#機動戦士ガンダム 逆襲のシャア BEYOND THE TIME|機動戦士ガンダム 逆襲のシャア BEYOND THE TIME]]」 [[久織ちまき]] 角川書店【全2巻】 2010年-2013年 * 「[[機動戦士ガンダム ジオンの再興]]」 近藤和久 角川書店([[ニュータイプ100%コミックス]] / 角川CA復刻版) 1988年 ** 「[[機動戦士ガンダム ジオンの再興|機動戦士ガンダム 新ジオンの再興]]」 近藤和久 角川書店 【全1巻】 2010年-2011年 ** 「機動戦士ガンダム ジオンの再興 レムナント・ワン」 近藤和久 角川書店 2020年- * 「STAMPEDE ミノフスキー博士物語」 沖一、高橋昌也 バンダイ(「ガンダムジェネレーション1」に収録) 1988年 * 「ルウム戦記」 漫画 赤井孝美 バンダイ(「ガンダムジェネレーション2」に収録) 1988年 * 「あしたのガンダム」 漫画 [[島本和彦]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション1」 / 「島本和彦ヒーロー傑作選」 / 「島本和彦ヒーロー傑作選」に収録) 1988年 * 「異なる人々」 [[そうま竜也]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション1」「そうま竜也作品集」に収録) 1988年 * 「[[Gの影忍]]」 [[こやま基夫]] PCコミックス「1990年版」 / メディアワークス「完璧版」「2005年版」/ 復刊ドットコム「新装版」 1988年-1994年 ** ゲームブック「Gの影忍 太陽系の秘宝」 バンダイ * 「整備しちゃうぞ!」 [[あろひろし]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション2」に収録) 1988年 * 「[[ダブルフェイク アンダー・ザ・ガンダム]]」 朝霧鉄矢、[[うしだゆうじ]] バンダイ / メディアワークス 1988年-1989年 * 「Jupiter Mirage」 [[GAINAX]]、仁木ひろし、小林誠、田中雅人 バンダイ(「ガンダムジェネレーション3」に収録) 1988年 * 「宇宙戦艦ハーレムノクターン」 [[安永航一郎]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション1」に収録) 1988年 * 「WAGON SALE」 漫画 [[奈和浩子]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション2」に収録) 1988年 * 「[[Gの伝説 機動戦士ガンダム外伝]]」 小林誠 バンダイ 1988年-1989年 * 「機動戦士ガンダム0080サイドストーリー BURN STORMER」 大連([[栗橋伸祐]]) バンダイ(「ガンダムジェネレーション」1巻、2巻に収録) 1989年 * 「ここだけのガンダム0080 少年アル」 [[ひぐちきみこ]] バンダイ(「VISUAL COMIC 機動戦士ガンダム0080 vol.1」「ガンダムジェネレーション」2巻、3巻に収録) 1989年 * 「ポケットの中の戦争」 水原賢治 メディアワークス(同人誌「廊」に収録) 1994年 * 「F.φ.U」 [[西崎まりの]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション4」に収録) 1989年 * 「MOON RAIN」 [[夢野レイ]] バンダイ(「VISUAL COMIC 機動戦士ガンダム0080 vol.1」「ガンダムジェネレーション1」に収録) 1989年 * 「緑の館 GREEN MANSIONS」 [[本多将]] バンダイ(「VISUAL COMIC 機動戦士ガンダム0080 vol.1」「ガンダムジェネレーション1」に収録) 1989年 * 「機動戦士ガンダム 海底100,000糎の死闘」 秋本行治 バンダイ(「ガンダムジェネレーション2」に収録) 1989年 * 「[[機動戦士ガンダム MSジェネレーション]]」 [[中原れい]] バンダイ【全2巻】 / メディアワークス【全1巻】 1989年-1990年 *「[[魔法の少尉ブラスターマリ]]」 [[池田恵 (漫画家)|池田恵]] バンダイ / メディアワークス 1989年-1990年 * 「機動戦士Zガンダム ユーロサーカス」 そうま竜也 PCコミックス(未単行本化) 1989年-未完 * 「ガンダム 空手一代」 [[松本久志]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション4」に収録) 1989年 * 「機動戦士ガンダム プログラム=マスター」 [[松浦まさふみ]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション1」に収録) 1989年 * 「機動戦士ガンダム アイシム」 夢月なな バンダイ(「VISUAL COMIC 機動戦士ガンダム0080 Vol.2」に一部収録) 1989年-1990年 ==== 1990年代 ==== * 「機動戦士ガンダム 英雄伝説」 [[青木健太]]、[[松川健一]] SDクラブ(未単行本化) 1990年 * 「機動戦士Vガンダム外伝」 長谷川裕一 角川書店(「逆襲のギガンティス」に収録) / 新装版(「機動戦士Vガンダム プロジェクト・エグソダス」) 1990年 *「機動戦士バロムガンダム」 松本久志 バンダイ(「ガンダムジェネレーション2」に一部収録) 1990年-1991年 *「実録 ジオン体育大学」 ローマ帝国堂 バンダイ(「ガンダムジェネレーション2」、同人誌「バカがゾックでやって来る!」に収録) 1990年-1991年 * 「デュアル・ハーツ(機動戦士ガンダム デュアル・ハート)」 加藤文克 サイバーコミックス(未単行本化) 1990年 * 「アルマリア」 [[福地仁]] バンダイ(「ダブルフェイク・アンダー・ザ・ガンダム」に収録) 1990年 * 「ロボゾック」 安永航一郎 バンダイ(「ガンダムジェネレーション4」、同人誌「バカがゾックでやって来る!」に収録) 1990年 * 「鋼鉄の処女」 [[海明寺裕]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション3」に一部収録) 1990年-1991年 * 「[[アウターガンダム]]」 松浦まさふみ バンダイ / 電撃コミックス 1990年-1992年 * 「[[NIGHT=HAWKS!]]」 [[此路あゆみ]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション」3巻、4巻に一部収録) 1990年-1991年 * 「強化人間物語 ANOTHER Z GUNDAM STORY」 [[森下薫 (男性漫画家)|森下薫]] バンダイ 1991年-1992年 ** 「強化人間物語 MAD WANG 1160」 森下薫 バンダイ 1994年-1995年 * 「機動戦士ガンダム サイゴン0081」 たけばしんご サイバーコミックス(未単行本化) 1991年-未完 * 「[[機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス]]」 [[長谷川裕一]] [[学研ホールディングス|学習研究社]] / 角川書店(「機動戦士Vガンダム外伝」「機動戦士Vガンダム プロジェクト・エグソダス」に収録) *「[[機動戦士ガンダム0079]]」 [[近藤和久]] [[メディアワークス]]【全12巻】 1992年-2005年 * 「機動戦士ガンダム0084 Psi-trailing」 バンダイ(同人誌「廊」に収録) 1993年 * 「[[機動戦士ガンダム ムーンクライシス]]」 松浦まさふみ バンダイ / メディアワークス(メディアコミックス版 / 電撃コミックス版【全2巻】) 1993年-1994年 ** 漫画「機動戦士ガンダム 敵中逃亡者」 バンダイ(電撃コミックス版「ムーンクライシス」に収録) 1996年 * 「[[機動戦士クロスボーン・ガンダム]]」 [[長谷川裕一]] 角川書店【全6巻】 / 普及版【全2巻】 / 新装版【全6巻】 1994年–1997年 ** 漫画「[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝|機動戦士クロスボーン・ガンダム スカルハート]]」 長谷川裕一 角川書店【全1巻】 2005年 ** 漫画「[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人|機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人]]」 長谷川裕一 角川書店【全3巻】 2006年–2007年 ** 漫画「[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト|機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト]]」 長谷川裕一 角川書店【全12巻】 2011年-2016年 ** 漫画「[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST|機動戦士クロスボーン・ガンダム Dust]]」 長谷川裕一 角川書店【全13巻】 2016年-2021年 ** 漫画「[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム X-11|機動戦士クロスボーン・ガンダム X-11]]」 長谷川裕一 角川書店【既刊-巻】 2021年- * 「[[機動戦士ガンダムReon]]」 松浦まさふみ メディアワークス 1994年-1995年 * 「[[新MS戦記 機動戦士ガンダム短編集]]」 近藤和久 メディアワークス 1996年 * 「機動戦士ガンダム 極東MS戦線記」 [[高山瑞穂]] 講談社 (「ガンダム短編集」1巻に収録)1997年 * 「機動戦士ガンダム外伝 ジオンの赤い稲妻」 [[おとといきたろう]] 講談社 (「ガンダム短編集」1巻に収録)1997年 * 「DEAD ZONE」 [[馬場康誌]] 講談社(「ガンダム短編集」1巻に収録)1997年 * 「機動戦士ガンダムZZ 悪夢の戦場」 [[服部健吾]] ボンボン増刊号(未単行本化) 1997年 * 「[[ガンダムパイロット列伝 蒼穹の勇者達]]」 [[沖一]] ホビージャパン(単行本:[[ソニーマガジンズ]] / 講談社)1998年 ==== 2000年代 ==== * '''「[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN|機動戦士ガンダムTHE ORIGIN]]」'''[[安彦良和]] [[角川書店]]【全23巻】 2001年–2011年 ** 漫画「機動戦士ガンダムTHE ORIGIN シャアとキャスバル(11才)」 [[谷和也]] 角川書店 2015年 ** 漫画「機動戦士ガンダムTHE ORIGIN 笑劇のまるごとルウム会戦編」 谷和也 角川書店 2016年-2018年 ** 漫画「機動戦士ガンダムTHE ORIGIN 笑劇のまるごとシャア・セイラ編」」 谷和也 角川書店 2016年 * 「[[機動戦士ガンダム C.D.A. 若き彗星の肖像]]」 [[北爪宏幸]] 角川書店【全14巻】 2001年–2009年 ** 漫画「[[アクシズのハマーンさん]]」 [[井上行広]] 角川書店【全2巻】 2003年–2006年 * 「[[機動戦士ガンダムさん]]」[[大和田秀樹]] 角川書店【既刊18巻】 2001年- ** 漫画「ガンダム創世(単行本タイトル:「ガンダム」を創った男たち。)」 [[大和田秀樹]] 角川書店【全2巻】 2009年-2011年 * 「ジオン少女物語」 [[介錯 (漫画家)|介錯]] 角川書店(「機動戦士ガンダム THE ANTHOLOGY」1巻に収録) 2001年 * 「[[機動戦士ガンダム エコール・デュ・シエル]]」[[美樹本晴彦]] 角川書店【既刊12巻】 2001年– ** 小説「天空の少女」中原健一 角川書店【全2巻】2002年–2004年 * 「[[Developers 機動戦士ガンダム Before One Year War]]」 [[山崎峰水]] 角川書店 2001年–2003年 * 「OVER THE MIND」 [[藤岡建機]] 角川書店(「[[A.O.Z Re-Boot ガンダム・インレ-くろうさぎのみた夢-]]」1巻に収録) 2003年 * 「無重力の虹」 [[寺田克也]] 角川書店(「機動戦士ガンダム THE ANTHOLOGY」1巻に収録) 2002年 * 「いつか きっと」 [[皇なつき]] 角川書店(「機動戦士ガンダム THE ANTHOLOGY」1巻に収録) 2002年 * 「[[機動戦士ガンダム 宇宙のイシュタム]]」 飯田馬之介 2003年–2006年 * 「BIG CLOW」 [[松田未来 (漫画家)|松田未来]] 角川書店(「機動戦士ガンダム THE ANTHOLOGY」2巻に収録) 2003年 * 「皇女陛下のレジェンドラ号」 松田未来 ガンダムエース(未単行本化) 2003年 * 「地の底ふかく」 [[西川魯介]] ガンダムエース(未単行本化) 2003年 * 「蒼空の長槍 Blue Sky in 0087」 松田未来 ガンダムエース(未単行本化) 2004年 * 「[[機動劇団はろ一座]]」 [[株式会社ボトルキューブ]] ガンダムエース(未単行本化) 2004年 ** 漫画「帰ってきた機動劇団はろ一座」 株式会社ボトルキューブ ガンダムエース(未単行本化) 2007年 * 「[[GUNDAM LEGACY]]」 夏元雅人 角川書店【全3巻】 2005年–2009年 * 「[[機動戦士ゼータガンダム1/2]]」 長谷川裕一 角川書店 2005年-2006年 * [[機動戦士Ζガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのレポートより―]] [[ことぶきつかさ]] 角川書店【全2巻】 2006年–2007年 ** 漫画「[[機動戦士Ζガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのレポートより―#機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのメモリーより―|機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのメモリーより―]]」ことぶきつかさ 角川書店【全2巻】 2009年-20012年 * 「クロスディゾルブ」 [[赤津豊]] ゼータガンダムエース(未単行本化) 2006年 * 「円卓の白い騎士 サラ・ザビアロフ物語」 [[K2商会]] ゼータガンダムエース(未単行本化) 2006年 * 「[[機動戦士ガンダム バニシングマシン]]」 近藤和久 角川書店【全4巻】 2006年-2010年 * 「MS海洋戦記 眼下の宇宙」 [[西川伸司]] 講談社(「ガンダム短編集3巻」に収録) 2006年 * 「機動戦士ガンダム喧嘩列伝 アムロ10番勝負!」 [[津島直人]] 講談社(「ガンダム短編集3巻」に収録) 2006年 * 「機動戦士ガンダム エクスプロージョン」 [[杉山実]] 講談社(「ガンダム短編集3巻」に収録) 2006年 * 「爆!ガンダムマン」 松本久志 講談社(「ガンダム短編集3巻」に収録) 2006年 * 「[[機動戦士ガンダム 第08MS小隊#漫画|機動戦士ガンダム 第08MS小隊U.C.0079+α]]」 飯田馬之介 角川書店【全4巻】 2007年–2009年 / 「Tribute」角川書店 2011年 * 「[[機動戦士ガンダム オレら連邦愚連隊]]」 [[曽野由大]] 角川書店【全5巻】 2007年–2009年 ** 漫画「機動戦士ガンダム アッガイ北米横断2250マイル」曽野由大 角川書店【全1巻】 2009年 ** 漫画「[[機動戦士ガンダム カタナ]]」曽野由大 角川書店【全7巻】 2009年–2013年 * 「[[機動戦士ガンダムΖΖ外伝 ジオンの幻陽]]」 [[森田崇]] 角川書店【全2巻】 2007年–2008年 * 「[[機動戦士ガンダムMSV戦記 ジョニー・ライデン]]」 長谷川裕一 講談社 2007年 * 「[[機動戦士ガンダム ギレン暗殺計画]]」 [[Ark Performance]] 角川書店【全4巻】 2007年–2010年 * 「[[機動戦士ガンダム ハイブリッド4コマ大戦線]]」 谷和也 角川書店【全5巻】 2007年-2013年 ** 漫画「機動戦士ガンダムUC ハイブリッド4コマ大戦線」谷和也 角川書店(ハイブリ4コマの単行本に収録) 2010年- ** 漫画「機動戦士ガンダムUC 4コマ」 谷和也 角川書店【全3巻】 * 「[[ゼロの旧ザク|機動戦士ガンダム ゼロの旧ザク]]」 岡本一広 角川書店【全2巻】 2008年–2010年 * 「[[機動戦士ガンダムMS BOYS -ボクたちのジオン独立戦争-]]」 高山瑞穂 角川書店【全2巻】 2009年–2010年 ==== 2010年代 ==== * 「[[機動戦士ガンダム 光芒のア・バオア・クー]]」 Ark Performance 角川書店 2010年 * 「[[機動戦士ガンダム ジオン公国幼年学校]]」 [[新條まゆ]] 角川書店【既刊2巻】 2010年-休載 * 「ガンダム4コマ最前線」 アンソロジー{{Efn2|[[吉崎観音]]、[[美水かがみ]]、大和田秀樹、左菱虚空、谷和也、ときた洸一、井上行広、鈴木小波、森永もそ、久米沢徹、ひらぶき雅浩、小松耕介、安彦良和、幸村誠、ことぶきつかさ、にわげんじ、長田悠幸、筒井旭}} 角川書店【全2巻】 2010年-2012年 * 「機動戦士ガンダムUC テスタメント」虎哉孝征 角川書店【全1巻】 2010年 * 「機動戦士ガンダムUC 『袖付き』の機付長は詩詠う」白石琴似 角川書店【全2巻】 2010年–2013年 * 「機動戦士ガンダムUC 星月の欠片」 森田崇 角川書店【全2巻】 2010年–2014年 * 「[[機動戦士ガンダム THE MSV]]」 近藤和久 角川書店 【全3巻】 2011年-2013年 * 「[[機動戦士Ζガンダム Define]]」 北爪宏幸 角川書店 【既巻16巻】 2011年- * 「砂漠のU.C.0079」 葛木ヒヨン ガンダムエース(未単行本化) 2011年 * '''「[[機動戦士ガンダム サンダーボルト]]」''' 漫画(原作) [[太田垣康男]] 小学館 【既刊10巻】 2012年- * 「[[機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY#機動戦士ガンダム0083 REBELLION|機動戦士ガンダム0083 REBELLION]]」 [[夏元雅人]] 角川書店 【全16巻】 2013年-2021年 * 「機動戦士ガンダムUC 虹にのれなかった男」葛木ヒヨン 角川書店 2013年 * 「[[機動戦士ガンダム 黒衣の狩人]]」 [[万乗大智]] 小学館 2012年-2013年 * 「[[機動戦士ガンダム FAR EAST JAPAN]]」 [[大谷アキラ]] 小学館 【全2巻】 2013年 * 「[[機動戦士ガンダム 名も無き戦場]]」 近藤和久 角川書店 【全2巻】 2013年-2014年 * 「[[機動戦士ガンダム U.C.0094 アクロス・ザ・スカイ]]」[[葛木ヒヨン]] 角川書店【全4巻】 2013年–2014年 ** 「[[機動戦士ガンダム U.C.0096 ラスト・サン]]」葛木ヒヨン 角川書店【全6巻】 2014年-2017年 * 「[[A.O.Z Re-Boot ガンダム・インレ-くろうさぎのみた夢-]]」 藤岡建機 アスキー・メディアワークス【既刊 漫画版6巻】 2014年- * 「[[機動戦士ガンダム ANAHEIM RECORD]]」 近藤和久 角川書店【全4巻】 2014年-2017年 * 「[[機動戦士ガンダム アグレッサー]]」 [[万乗大智]] 小学館【既刊14巻】 2014年- * 「[[アッガイ博士]]」 曽野由大 角川書店 【全2巻】 2015年-2016年 * 「[[機動戦士ガンダム ヴァルプルギス]]」 [[葛木ヒヨン]] 角川書店 【既刊7巻】 2017年- * 「[[機動戦士ムーンガンダム]]」 [[虎哉孝征]] 角川書店【既刊5巻】 2017年- * 「[[アストナージ・メドッソ#その他|アストナージ・メドッソのメソッド]]」 [[川崎順平]] 角川書店(「シャアとアムロと老いと ー安らぎの地平へー」に収録) 2017年 * 「エクスマキナの邂逅」 玉越博幸 ガンダムエース(未単行本化)2018年 ==== 2020年代以降 ==== * 「[[機動戦士ガンダム バンディエラ]]」 加納梨衣 小学館【既刊3巻】 2020年- * 「[[ラル飯~ランバ・ラルの背徳ごはん~]]」 谷和也 料理監修:鈴木小波 角川書店 2020年- * 「[[機動戦士ガンダム ピューリッツァー -アムロ・レイは極光の彼方へ-]]」 シナリオ:[[大脇千尋]] 作画:[[才谷ウメタロウ]] 2021年- * 「[[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争#漫画(玉越博幸版)|機動戦士ガンダム ポケットの中の戦争]]」 [[玉越博幸]] 角川書店 2021年- * 「[[機動戦士ガンダム RUST HORIZON]]」 シナリオ:[[吉野弘幸 (脚本家)|吉野弘幸]] 作画:[[寺田ケンイチ]] [[集英社]] 2022年- === 小説・フォトストーリーが原作の作品 === ==== 1980年代 ==== * 「WHITE-BASE LIVE」 小説:[[松崎健一]] 作画:[[美樹本晴彦|美樹本良晴]] みのり書房(「[[ガンダムセンチュリー]]」に収録) 1982年 * 「密会 アムロとララァ」 富野由悠季 角川書店([[角川mini文庫]]【全2巻】/ 角川スニーカー文庫) [[1997年]] * 「[[Zガンダム#その他の派生機|ウィリアム・A・ブリッジマンの手記]]」 マイアニメ(未単行本化) 1985年 * 「白い夜」 鈴木裕美子 学習研究社(「Zガンダムパーフェクトガイド」に収録) 1985年 * 「[[FSWS計画#シャトルガンダム|Shuttle Gundam]]」 ホビージャパン(「HOW TO BUILD GUNDAM 3」に収録) 1986年 * 「フォウ・ストーリー そして、戦士に…」 [[遠藤明範]] [[徳間書店]] / 角川書店 1986年 * 「素描 エルピー・プル」 角川書店(月刊ニュータイプ付録冊子に収録)1987年 * 「Sensitive Eyes of Sisters 優しすぎた妹たち」 鈴木裕美子 学習研究社(別冊アニメディア 機動戦士ガンダムZZ PART.2に収録) 1987年 * 「[[ガイア・ギア]]」 富野由悠季 角川書店【全5巻】 1987年 ** [[ラジオドラマ]]版 [[文化放送]] [[1992年]] * 「ZIONの星 MOBILE SUIT in ACTION」 ホビージャパン (「HOW TO BUILD GUNDAM 4」に途中まで収録) 1986年 * 「[[ガンダム・センチネル]]」 [[大日本絵画]] 1987年-1990年 ** 小説「ALICEの懺悔」 高橋昌也 大日本絵画 1987年-1988年 ** フォトストーリー「ガンダムセンチネル0079」 モデルグラフィックス(未単行本化) 1990年 * 「[[タイラント・ソード]]」 [[藤田一己]] ホビージャパン(未単行本化) 1987年-1988年 * 「TOP GUNDAM」 山口宏、[[小林誠 (イラストレーター)|小林誠]] バンダイ(「ガンダムジェネレーション2」「0080ビジュアルコミック」に一部収録) 1988年 * 「クリスが見る夢」山賀博之 徳間書店(アニメージュの付録冊子) 1989年 * '''「[[機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ]]」''' 富野由悠季 角川書店【全3巻】 1989年–1990年 ** 漫画/[[左菱虚秋|さびしうろあき]] 角川書店【既刊-巻】 2021年- ==== 1990年代 ==== * 「[[MS ERA 0001〜0080 ガンダム戦場写真集]]{{Efn2|name="Sysbook"}}」 メディアワークス 1990年 ** ムック「M.S.ERA0099 機動戦士ガンダム戦場写真集」 メディアワークス 1999年 / 廉価版 2008年 * 「U.C.ガンダムメカニカルヒストリー{{Efn2|name="Sysbook"|作品世界の人物により執筆された記事・出版物という体裁の資料。作品世界の観点から執筆されている。}}」 ビークラブ(未単行本化) 1991年 * 「月刊MSジャーナル{{Efn2|name="Sysbook"}}」 ビークラブ(未単行本化) 1991年-1992年 * 「[[機動戦士ガンダム 戦略戦術大図鑑|機動戦士ガンダム 戦略戦術大図鑑―1年戦争全記録]]{{Efn2|name="Sysbook"}}」 バンダイ 1991年 * 「[[機動戦士ガンダム 第08MS小隊#小説|機動戦士ガンダム 第08MS小隊外伝 TRIVIAL OPERATION]]」 飯田馬之介 電撃ホビーマガジン(未単行本化) 1999年 * 「[[機動戦士ガンダム ソロモン・エクスプレス]] 」小林誠 電撃ホビーマガジン(未単行本化) 1999年 ** フォトストーリー「ソロモン・エクスプレス2 ミステリー・オブ・サイコミュシステム」 電撃ホビーマガジン(未単行本化) 2000年 ==== 2000年代 ==== * 「[[機動戦士ガンダム ファントム・ブレット]]」 [[兵頭一歩]] メディアワークス(「ガンダム0083 withファントム・ブレット3D&設定資料集」に収録) 2002年 * 「[[ADVANCE OF Ζ ティターンズの旗のもとに]](フォトストーリー版)」 [[今野敏]] メディアワークス【全6巻】 2002年–2008年 ** 小説/今野敏 メディアワークス(電撃ホビーブックス【全2巻】 / メディアワークス文庫) / 角川書店 2008年 ** 漫画/[[みずきたつ]] メディアワークス【全4巻】 2003年–2008年 * 「機動戦士ガンダム公式設定集 アナハイム・ジャーナル U.C.0083-0099{{Efn2|name="Sysbook"}}」 エンターブレイン、サンライズ 2004年 * 「U.C.ARCHIVE{{Efn2|name="Sysbook"}}」 電撃ホビーマガジン(未単行本化) 2004年-2005年(偶数月) * 「[[マスターピース ゼータ・ガンダム|マスターピース]]{{Efn2|name="Sysbook"}}」 ソフトバンククリエイティブ 2006年 ** ムック「マスターピース ロールアウト MSZ-006 ゼータ・ガンダム」 ソフトバンククリエイティブ 2008年 ** ムック「マスターピース MSZ-010 ダブルゼータ・ガンダム」ソフトバンククリエイティブ 2008年 ** ムック「マスターピース ロールアウト MSZ-010 ダブルゼータ・ガンダム」ソフトバンククリエイティブ 2009年 * 「[[GUNDAM EVOLVE#ガンダムMSグラフィカ|ガンダムMSグラフィカ]]」 ソフトバンククリエイティブ、サンライズ 2006年 * '''「[[機動戦士ガンダムUC]]」''' [[福井晴敏]] 角川書店(角川コミックス・エース【全10巻】 / 角川文庫【全10巻】 / 角川スニーカー文庫【全10巻】)2007年–2009年 ==== 2010年代 ==== * 「[[ADVANCE OF Ζ 刻に抗いし者]]」 [[神野淳一]] アスキー・メディアワークス 地上編【全4巻】/宇宙編【全4巻】 2010年-2012年 ** ビジュアルムック アスキー・メディアワークス【全3巻】 2011年 - 2013年 ** 漫画/[[暁葉悠]] アスキー・メディアワークス【既刊1巻】 2013年-休載 ** 小説「審判のメイス」(刻に抗いし者ビジュアルムックに一部収録)2012年 *** 漫画「機動戦士Zガンダム外伝 審判のメイス」 原作:神野淳一 作画:[[老眼 (漫画家)|ROHGUN]] アスキー・メディアワークス【全3巻】 2016年 * 「[[マスターアーカイブ]]{{Efn2|name="Sysbook"}}」 ソフトバンククリエイティブ【既刊9冊】 2010年- ** ムック「モビルスーツアーカイブ」 ソフトバンククリエイティブ【既刊3冊】 2015年- * 「[[機動戦士ガンダム ブレイジングシャドウ]]」 [[板倉俊之]] 角川書店 【全4巻】 2013年-2016年 * '''「[[機動戦士ガンダム Twilight AXIS]]」''' ストーリー構成:Ark Performance 執筆:中村浩二郎 [[矢立文庫]] 2016年-2017年 ** 漫画/蒔島梓 講談社 【全3巻】 2017年-2019年 * 「[[アナハイム・ラボラトリー・ログ]]」 脚本:石井誠、高村泰稔 矢立文庫 2016年-(休載中) ==== 2020年代以降 ==== * 「機動戦士ガンダム 異世界宇宙世紀 二十四歳職業OL、転生先でキシリアやってます」 小説:[[築地俊彦]] イラスト:NOCO 角川書店【全2巻】 2020年-2021年 === ゲームブック・リプレイ小説 === * 「Z GUNDAM(ゲームブック)」拓唯 [[ホビージャパン]]【全2巻】 1986年 * 「MOBILE SUIT GUNDAM ΖΖ(ゲームブック)」拓唯 ホビージャパン【全3巻】 1986年-1987年 * 「機動戦士ガンダム0079 灼熱の追撃」 [[山口宏 (脚本家)|山口宏]]、[[勁文社]] / バンダイ 1986年 * 「機動戦士ガンダム 最期の赤い彗星」 山口宏、勁文社 / バンダイ 1986年 * 「機動戦士ガンダム0087 ジェリド出撃命令」 山口宏、勁文社 / バンダイ 1987年 *「[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア#機動戦士ガンダム シャアの帰還 ―逆襲のシャア外伝―|機動戦士ガンダム シャアの帰還]]」 草野直樹、日高誠之 勁文社 1988年 * 「[[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争#ゲームブック|機動戦士ガンダム0080 消えたガンダムNT]]」 バンダイ 1988年 * 「[[ガンダム・カバード ネメシスの天秤]]」ホビージャパン(未単行本化) 1998年 == 書籍作品(アナザーガンダム) == 原作が書籍媒体のスピンオフ・外伝作品とリブート作品、およびその派生作品。 媒体ではなくシリーズごとにまとめる。 === 『機動武闘伝Gガンダム』シリーズ === * 「機動武闘伝Gガンダム外伝 -翔龍伝説-」漫画 [[村上としや]] 講談社 1995年 * 「機動武闘伝Gガンダム外伝 決別」 [[上田信舟]] 漫画 徳間書店(「Gガンダム テクニカルマニュアルVol.2」に収録) 1995年 ** 小説「機動武闘伝Gガンダム外伝 ドモン、出奔す」今川泰宏 大日本絵画(「ガンダムウォーズIV」に収録」1995年 * 「機動武闘伝Gガンダム外伝 硝煙の果て」 漫画 松浦まさふみ バンダイ(メディアコミックス版「ガンダムReon」、電撃コミックス版「ガンダム ムーンクライシス」に収録) * 「機動武闘伝Gガンダム外伝 死亡の塔」 漫画 加登屋みつる 講談社「ガンダム短編集」1巻に収録 1994年 * 「機動武闘伝Gガンダム ガンダムマスクの挑戦」 漫画 [[富士原昌幸]] ビークラブ(未単行本化) 1995年 * 「機動武闘伝Gガンダム 復讐のJガンダム」 漫画 富士原昌幸 ビークラブ(未単行本化) 1995年 * 「機動武闘伝Gガンダム外伝 "ザ・ネクスト・ジェネレーション"」 漫画 おとといきたろう コミックボンボン(未単行本化) 1995年 * 「機動武闘伝外伝」 フォトストーリー コミックボンボン(未単行本化) 1995年 ** フォトストーリー「機動武闘伝外伝II」 コミックボンボン(未単行本化) 1996年 * 「機動武闘伝Gガンダム外伝 温泉でドキドキ!?ガンダム温泉恐怖の罠」 [[リプレイ (TRPG)]] ホビージャパン(未単行本化) 1996年 *「[[機動武闘外伝ガンダムファイト7th]]」 漫画 [[おとといきたろう]] 講談社 1997年 * 「[[超級!機動武闘伝Gガンダム]]」漫画 [[島本和彦]] 角川書店 【全26巻】 2010年–2016年 === 『新機動戦記ガンダムW』シリーズ === * 「[[新機動戦記ガンダムW#アンソロジーコミック|新機動戦記ガンダムW(アンソロジーコミック)]]」 * 「新機動戦記ガンダムW外伝 〜右手に鎌を左手に君を〜」 小説 皆川ゆか 講談社 1996年 * 「アフターコロニー年代記」 漫画 高山瑞穂 [[ラポート]](「ガンダムW大事典」に収録) 1996年 * 「[[新機動戦記ガンダムW EPISODE ZERO]]」 漫画 学習研究社 / 1997年 * 「SATANAS 創世の闇」 漫画 [[椎隆子]] ガンダムエース(未単行本化) 2002年-未完 * 「[[新機動戦記ガンダムW BATTLEFIELD OF PACIFIST]]」 漫画 ときた洸一 講談社(ボンボンKC 1997年 / KPC 2003年 / KCDX 2005年) * 「[[新機動戦記ガンダムW デュアルストーリー G-UNIT|新機動戦記ガンダムW G-UNIT]]」 漫画 ときた洸一 講談社(ボンボンKC【全3巻】 / KPC / KCDX【全3巻】) 1997年–1998年 ** 漫画/[[みずきたつ]] ホビージャパン(未単行本化) 1997年 * 「[[新機動戦記ガンダムW〜ティエルの衝動〜]]」 漫画 実業之日本社(「ガンダムWエンドレスワルツ最強プレイングブック」掲載) 1998年 * 「[[新機動戦記ガンダムW Frozen Teardrop]]」 小説 隅沢克之 角川書店【全13巻】 2010年–2015年 * 「[[新機動戦記ガンダムW Endless Waltz 敗者たちの栄光]]」 漫画 [[小笠原智史]] 角川書店【全14巻】 2010年-2017年 * 「新機動戦記ガンダムW G-UNIT オペレーション・ガリアレスト」 漫画 ときた洸一 角川書店 【既刊4巻】 2019年- === 『機動新世紀ガンダムX』シリーズ === * 「機動新世紀ガンダムX外伝 ニュータイプ戦士ジャミル・ニート」 漫画 ときた洸一 講談社(ときた版ガンダムXに収録) 1997年 * 「[[機動新世紀ガンダムX〜UNDER THE MOONLIGHT〜]]」 漫画 シナリオ:[[大島千歳]]、漫画:[[赤津豊]] 角川書店【全4巻】 2005年–2006年 * 「機動新世紀ガンダムX NEXT PROLOGUE あなたと、一緒なら」 漫画 監修:高松信司 脚本:川崎ヒロユキ 作画:ときた洸一 バンダイナムコアーツ(BDメモリアルボックス、ときた版ガンダムXリマスターに収録) 2018年 === 『∀ガンダム』シリーズ === * 「[[∀ガンダム Episodes]]」 小説 佐藤茂 角川書店 2000年 * 「∀ガンダム 月の風」 漫画 [[あきまん]](安田朗) 角川書店 2007年 === 『機動戦士ガンダムSEED』シリーズ === * 「機動戦士ガンダムSEED SEED Club 4コマ」 漫画 As'まりあ 角川書店【全3巻】 2005年-2007年 * '''「[[機動戦士ガンダムSEED ASTRAY]]」''' ** 漫画「機動戦士ガンダムSEED ASTRAY」シナリオ:千葉智宏 作画:ときた洸一 角川書店【全3巻】 2002年–2003年 *** 漫画「機動戦士ガンダムSEED ASTRAY Re:Master Edition」 角川書店【全6巻】 2013年 ** 漫画「機動戦士ガンダムSEED ASTRAY R」シナリオ:千葉智宏 作画:[[戸田泰成]] 角川書店【全4巻】 2002年–2004年 ** 小説「機動戦士ガンダムSEED ASTRAY」 千葉智宏 角川書店【全2巻】 2002年–2004年 ** フォトストーリー「機動戦士ガンダムSEED ASTRAY B」千葉智宏 メディアワークス 2002年-2004年 * 「[[機動戦士ガンダムSEED X ASTRAY]]」 シナリオ:千葉智宏、作画:ときた洸一 角川書店【全2巻】 2003年-2004年 * 「[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY]]」 ** 漫画「機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY」 シナリオ:千葉智宏、作画:ときた洸一 角川書店【全4巻】 2004年–2006年 *** 漫画「機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY 天空を往く者」 町田能彦 ガンダムエース(未単行本化) 2006年 *** 漫画「機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY Re:Master Edition」 角川書店【全3巻】 2013年 ** 小説/千葉智宏 角川書店【全2巻】 2004年–2006年 ** フォトストーリー/千葉智宏 メディアワークス【全2巻】 2004年-2006年 * 「機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZER PHANTOM PAIN REPORT」フォトストーリー アスキー・メディアワークス(小説版「VS ASTRAY」に収録) 2007年 * 「[[機動戦士ガンダムSEED C.E.73 Δ ASTRAY]]」 漫画 シナリオ:千葉智宏、作画:ときた洸一 角川書店【全2巻】 2006年-2007年 * 「[[機動戦士ガンダムSEED FRAME ASTRAYS]]」 フォトストーリー 文章:千葉智宏、イラスト:ときた洸一 アスキー・メディアワークス(ムック【全2巻】/漫画パート【全1巻】) 2007年–2008年 * 「[[機動戦士ガンダムSEED VS ASTRAY]]」 フォトストーリー 文章:千葉智宏、イラスト:ときた洸一 アスキー・メディアワークス(ムック【全2巻】/小説パート【全1巻】) 2009年–2011年 * 「機動戦士ガンダムSEED Re:」 漫画 石川十 角川書店 【全4巻】 2012年-2014年 * 「機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY R」 フォトストーリー 文章:千葉智宏 ホビージャパン【全2巻】 2013年–2014年 * 「機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY B」 小説 千葉智宏 アスキー・メディアワークス【全2巻】 2013年–2014年 * 「機動戦士ガンダムSEED ASTRAY 天空の皇女」 漫画 シナリオ:千葉智宏、作画:ときた洸一 角川書店【全4巻】 2015年–2019年 * '''GUNDAM SEED PROJECT ignited''' ** 漫画「[[機動戦士ガンダムSEED ECLIPSE]]」 シナリオ:[[SOW]] 作画:[[曽我篤士]] 角川書店【既刊-巻】 2021年- === 『機動戦士ガンダム00』シリーズ === * 「[[機動戦士ガンダム00外伝|機動戦士ガンダム00 公式外伝シリーズ]]」 ** フォトストーリー *** 「[[機動戦士ガンダム00外伝#機動戦士ガンダム00P|機動戦士ガンダム00P]]」 千葉智宏(スタジオオルフェ) アスキー・メディアワークス【ムック版全4巻/小説版全2巻】 2007年-2009年 *** 「[[機動戦士ガンダム00外伝#機動戦士ガンダム00V|機動戦士ガンダム00V]]」 千葉智宏(スタジオオルフェ) ホビージャパン 【全1巻】 2007年-2009年 *** 「[[機動戦士ガンダム00外伝#機動戦士ガンダム00N|機動戦士ガンダム00N]]」{{Efn2|name="Sysbook"}} 千葉智宏(スタジオオルフェ) アスキー・メディアワークス【全1巻】 2010年-2011年 *** 「[[機動戦士ガンダム00外伝#機動戦士ガンダム00V戦記|機動戦士ガンダム00V戦記]]」 千葉智宏(スタジオオルフェ) ホビージャパン【全1巻】 2010年-2011年 ** 漫画 *** 「[[機動戦士ガンダム00外伝#機動戦士ガンダム00F|機動戦士ガンダム00F]]」 シナリオ:千葉智宏(スタジオオルフェ) 漫画:ときた洸一 角川書店【旧版全4巻/リマスター版全4巻】 2007年-2009年 *** 「[[機動戦士ガンダム00外伝#機動戦士ガンダム00I|機動戦士ガンダム00I]]」 シナリオ:千葉智宏(スタジオオルフェ) 漫画:ときた洸一 角川書店【全3巻】 2009年-2010年 *** 「[[機動戦士ガンダム00外伝#機動戦士ガンダム00I 2314|機動戦士ガンダム00I 2314]]」 シナリオ:千葉智宏(スタジオオルフェ) 漫画:ときた洸一 角川書店 2011年 * 「機動戦士ガンダム00 蒼い記憶」 漫画 しぐま太郎 角川書店 2009年 * 「機動戦士ガンダム00 蒼い絆」 漫画 しぐま太郎 角川書店 2010年 * 「機動戦士ガンダム00 in those days」 漫画 [[高河ゆん]] 角川書店 2010年 === 『機動戦士ガンダムAGE』シリーズ === * 「機動戦士ガンダムAGE トレジャースター」 漫画 [[吉田正紀]] 小学館 【全2巻】 2011年-2012年 * 「機動戦士ガンダムAGE 〜追憶のシド〜」 漫画 中西寛 小学館 【全3巻】 2012年 * 「機動戦士ガンダムAGE UNKNOWN SOLDIERS」 フォトストーリー ホビージャパン 2012年-2013年 * 「機動戦士ガンダムAGE EXA-LOG」{{Efn2|name="Sysbook"}} 資料・フォトストーリー 電撃ホビーマガジン(未単行本化) 2012年-2013年 === 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』シリーズ === * 「[[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ#外伝|機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 月鋼]]」 ** フォトストーリー ホビージャパン【全2巻】 2016年-2017年 ** 漫画 シナリオ:[[鴨志田一]]、作画:寺馬ヒロスケ、団伍 角川書店【全4巻】 2016年-2018年 === 『機動戦士ガンダム 水星の魔女』シリーズ === * 「ゆりかごの星」 Web小説 大河内一楼 2022年 == 書籍作品(ガンプラ系) == === 『ガンダムビルド』シリーズ === * 「[[ガンダムビルドファイターズの外伝#ガンダムビルドファイターズ炎|ガンダムビルドファイターズ炎]]」 フォトストーリー ホビージャパン 2013年-2014年 ** フォトストーリー「[[ガンダムビルドファイターズの外伝#ガンダムビルドファイターズ炎トライ|ガンダムビルドファイターズ炎トライ]]」 ホビージャパン 2014年-2017年 * 「[[ガンダムビルドファイターズの外伝#ガンダムビルドファイターズD(ドキュメント) / A(アメイジング) / AR(アメイジングレディ) / AT(アメイジングトライ)|ガンダムビルドファイターズD]]」 フォトストーリー アスキー・メディアワークス 2013年-2015年 ** 漫画「ガンダムビルドファイターズA」 [[今ノ夜きよし]] 角川書店 【全5巻】 2013年-2015年 *** 漫画「ガンダムビルドファイターズAR」 今ノ夜きよし 角川書店 【全5巻】 2016年-2018年 *** 漫画「ガンダムビルドファイターズAT」 今ノ夜きよし 角川書店 2017年 * 「ガンダムビルドファイターズ プラモダイバー キット&ビルト」 漫画 河本けもん 小学館 2013年-2014年 * 「もっと!つくろう部っ!! 非公式?ビルドファイターズファンクラブ」 Web漫画 今ノ夜きよし * 「ガンダムビルドダイバーズ ブレイク」 漫画 しいたけ元帥 角川書店 【全2巻】 2018年-2019年 * 「GundamBuildDivers GIMM&BALL's WorldChallenge」 フォトストーリー ガンダムホビーライフ 2018年-2019年 * 「[[ガンダムビルドダイバーズRe:RISE#ガンダムビルドダイバーリゼ|ガンダムビルドダイバーリゼ]]」 漫画 しいたけ元帥 角川書店【全3巻】 2020年-2021年 * 「ガンダムビルドダイバーズ外伝 ジニアスヘッドライン」 フォトストーリー ガンダムホビーライフ 2021年- === その他 === * 「[[プラモ狂四郎]] {{Efn2|ガンプラを主軸とした作品ではあるが他の作品のプラモデルも登場する。}}」 漫画 [[やまと虹一]]、[[クラフト団]] 講談社(KC【全15巻】、愛蔵版【全11巻】/ KCDX【全6巻】/ KPC【全13巻】) ** 派生作品に関しては[[プラモ狂四郎#関連作品]]を参照。 *「模型戦士ガンプラビルダーズJ」 ホビージャパン 2011年-2012年 *「模型戦士ガンプラビルダーズD」 アスキー・メディアワークス 【全2冊】 2011年-2012年 * 「ガンプラ戦記 ジャブローズ・スカイ」 漫画 原作:ゆきもり 作画:ロドリゲス井之介 小学館【全5巻】 2015年-2017年 * 「[[HGに恋するふたり]]」 漫画 工藤マコト 角川書店【既刊3巻】 2019年- == MSV企画・模型企画 == 「[[モビルスーツバリエーション]]」も参照。 === MSV === 宇宙世紀 * 「[[モビルスーツバリエーション|MSV]](機動戦士ガンダム MSV)」 1983年-1984年 **「GUNDAM MSV エースパイロット列伝」 [[石橋謙一]] 講談社(「復刻版ガンダムマガジン コンプリートBOX」で小冊子化) 1983年 * 「[[モビルスーツバリエーション#MS-X|MS-X]]」 講談社(未単行本化) 1985年 * 「[[Ζ-MSV|Z-MSV]]」ビークラブ(未単行本化) 1986年 * 「ZZ-MSV」 * 「CCA-MSV」 * 「[[M-MSV]]」 SDクラブ(未単行本化) 1990年 ** 小説 「モビルスーツコレクション・ノベルズ」 SDクラブ(未単行本化) 1990年 ** 漫画 「シークレットフォーミュラ」 SDクラブ(未単行本化) 1990年-1991年 * 「MSV90」 ボンボン(未単行本化)1990年 * 「F.M.S」 * 「F91-MSV」 * 「[[機動戦士ガンダムF90]]」 山口宏、[[中原れい]] バンダイ / メディアワークス 1990年-1991年 ** 「機動戦士ガンダムF-90」 [[神田正宏]] SDクラブ(未単行本化) 1990年-1991年 ** 「機動戦士ガンダムF90 ファステストフォーミュラ」 今ノ夜きよし 【既刊4巻】 角川書店 2019年- * 「[[機動戦士ガンダム シルエットフォーミュラ91]]」 [[やすだひろし]] メディアワークス 1992年-1995年 ** 小説 サンライズ企画部 模型情報(未単行本化) 1992年–1993年 ** 漫画「クラスターガンダム編(フォーミュラ91の亡霊)」 岩村俊哉 講談社(「ガンダム短編集2巻」に収録) 1994年 * 「NEWモビルスーツバリエーション(V-MSV)」 * 「[[ハーモニー・オブ・ガンダム]]」 * 「[[MSV-R]](機動戦士ガンダムMSV-R)」 角川書店(「連邦編」「ジオン編」「ザク編」に一部収録) 2009年-2013年 ** 漫画「[[機動戦士ガンダム MSV-R ジョニー・ライデンの帰還]]」 [[Ark Performance]] 角川書店【既刊20巻】 2010年- ** 漫画「[[機動戦士ガンダム MSV-R アクショングラフィック編]]」 [[兼房光]] 角川書店【全2巻】 2011年-2014年 ** 小説「[[機動戦士ガンダム MSV-R ザ・トラブルメーカーズ]]」 [[孝岡春之介]] [[高崎とおる]] アスキー・メディアワークス 【全2巻】 2013年-2014年 *** フォトストーリー版 アスキー・メディアワークス(グラフィックドキュメント2に収録)2013年-2014年 ** 漫画「[[機動戦士ガンダム MSV-R 宇宙世紀英雄伝説 虹霓のシン・マツナガ]]」 [[虎哉孝征]] 角川書店【全9巻】 2012年-2017年 *「UC-MSV」 ** 漫画「[[機動戦士ガンダムUC MSV 楔]]」本橋雄一 角川書店【全1巻】 2012年 * 「[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN#THE ORIGIN MSD|MSD]](機動戦士ガンダム THE ORIGIN Mobile Suit Discovery)」 資料 ガンダムエース、ORIGIN公式サイト 2015年- ** 漫画「[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN MSD ククルス・ドアンの島]]」 おおのじゅんじ 角川書店 【全5巻】 2016年-2019年 アナザー * 「[[ガンダムSEED MSV]]」資料 [[森田繁]] ホビージャパン(「機動戦士ガンダムSEEDモデルVol.3 SEED MSV編」に収録)2003年-2004年 ** フォトストーリー「SEED MSV戦記」 森田繁 ホビージャパン(「機動戦士ガンダムSEED DESTINYモデルVol.2 DESTINY MSV編」に収録) 2004年 ** 漫画「機動戦士ガンダムSEED MSV 乱れ桜と白鯨」 町田能彦 ガンダムゲームエース(未単行本化) 2004年 ** 漫画「機動戦士ガンダムSEED MSV 戦場に咲くホウセンカ」 白石琴似 ガンダムゲームエース(未単行本化) 2004年 * 「[[ガンダムSEED MSV|ガンダムSEED DESTINY MSV]]」 資料 森田繁 ホビージャパン(「機動戦士ガンダムSEED DESTINYモデルVol.2 DESTINY MSV編」に収録) 2004年-2005年 ** フォトストーリー「DESTINY MSV戦記」森田繁 ホビージャパン(「機動戦士ガンダムSEED DESTINYモデルVol.2 DESTINY MSV編」に収録)2005年 ** フォトストーリー「MSV戦記 C.E.73 SPECIAL」 千葉智宏 ホビージャパン(「GUNDAM WEAPONS 機動戦士ガンダムSEED DESTINY編」に収録) 2006年 * 「[[機動戦士ガンダム00外伝|機動戦士ガンダム00 公式外伝シリーズ]]」 漫画・フォトストーリー 2007年-2011年 * 「機動戦士ガンダムAGE UNKNOWN SOLDIERS」 フォトストーリー ホビージャパン 2012年-2013年 * 「機動戦士ガンダムAGE EXA-LOG」{{Efn2|name="Sysbook"}} 資料・フォトストーリー 電撃ホビーマガジン(未単行本化) 2012年-2013年 * 「[[機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ#外伝|機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 月鋼]]」 漫画・フォトストーリー 2016年-2018年 === 模型企画 === 宇宙世紀 * 「[[U.C.ハードグラフ|機動戦士ガンダム U.C.ハードグラフ]]」 バンダイホビー 2005年- ** 漫画「[[機動戦士ガンダムU.C.HARD GRAPH 鉄の駻馬]]」 夏元雅人 角川書店 【全2巻】 2011年-2012年 ** 小説「機動戦士ガンダム U.C.HARD GRAPH[小説] 地球連邦軍編」 高橋昌也 エンターブレイン 2012年 ** 小説「機動戦士ガンダム U.C.HARD GRAPH[小説] ジオン公国軍編」 吉祥寺怪人 エンターブレイン 2012年 *「[[MOBILE SUIT IN ACTION!!#U.C.Arms Gallery|U.C.ARMS GALLERY]]{{Efn2|name="Sysbook"}}」 バンダイホビー 2005年-2006年 ** 「[[MOBILE SUIT IN ACTION!!#U.C.Arms Gallery|U.C.ARMS GALLERY]]{{Efn2|name="Sysbook"}}」 電撃ホビーマガジン(未単行本化) 2005年-2006年 アナザー * 「オルタナティブストライク」 メタルビルド、ホビージャパン(模型、付録冊子のフォトストーリーなど) 2019年- * '''「機動戦士ガンダム00 Revealed Chronicle」''' 模型企画・'''アニメ''' 2022年 == ゲーム作品 == 「[[ガンダムシリーズゲーム作品一覧|ガンダムシリーズのゲーム作品]]」も参照。ゲーム作品とそのコミカライズ・ノベライズ。 * 「[[機動戦士ガンダムF91 フォーミュラー戦記0122]]」 バンダイ 1991年 ** 漫画/[[岩村俊哉]] 講談社(「ガンダムマガジン名作集」に収録) 1991年 * 「[[機動戦士ガンダム アドバンスドオペレーション]]」 ファミリーソフト 1992年 * 「[[機動戦士ガンダム リターン・オブ・ジオン]]」 ファミリーソフト 1993年 * 「死にゆく者たちへの祈り」 バンダイ([[機動戦士ガンダム CROSS DIMENSION 0079]] 収録エピソード) 1995年 * 「[[機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY]]」 バンダイ 1996年–1997年 ** 小説/[[皆川ゆか]] 講談社(マガジンノベルススペシャル / 講談社文庫) 1997年 ** 漫画/[[高山瑞穂]] 講談社(KCDX / KPC) 1996年-1997年 ** 漫画「ザ・ブルー・ディスティニー」 シナリオ:千葉智宏(スタジオオルフェ) 作画:たいち庸 角川書店【既刊8巻】 2015年- * 「[[機動戦士ガンダム外伝 コロニーの落ちた地で…]]」 バンダイ 1999年 ** 小説/[[林譲治 (作家)|林譲治]] 角川書店 1999年–2000年 ** 漫画 *** 「連邦編」 [[千葉智宏]]、[[祭丘ヒデユキ]] マガジンZ(未単行本化) 1999年 *** 「ジオン編」 千葉智宏、[[木下ともたけ]] マガジンZ(未単行本化) 2000年 *** 「機動戦士ガンダム GROUND ZERO コロニーの落ちた地で」 [[才谷ウメタロウ]] 角川書店【既刊-巻】2017年- * 「G-SAVIOUR」 サンライズインタラクティブ 2000年 * 「[[ジオニックフロント 機動戦士ガンダム0079]]」 バンダイ 2001年 ** 小説/[[林譲治 (作家)|林譲治]] 角川書店【全2巻】 2001年 * 「[[機動戦士ガンダム戦記 Lost War Chronicles]]」 バンダイ 2002年 ** 小説/林譲治 角川書店【全2巻】 2002年 ** 漫画/夏元雅人 角川書店【全2巻】/ 完全版 角川書店【全2巻】 2002年–2003年 * 「[[機動戦士ガンダム外伝 宇宙、閃光の果てに…]]」 バンダイ(「[[機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙]]」に収録) 2003年 ** 小説/[[宮本一毅]] 角川書店 2003年 ** 漫画/夏元雅人 角川書店【全3巻】 2004年–2005年 * 「[[機動戦士ガンダム クライマックスU.C.]]」 バンダイ 2006年 ** 漫画「機動戦士ガンダム クライマックスU.C.-紡がれし血統-」 [[森田崇]] 角川書店【全2巻】 2006年–2007年 * '''「[[機動戦士ガンダム戦記 (PlayStation 3)|機動戦士ガンダム戦記 BATTLE FIELD RECORD U.C.0081]]」''' ゲーム バンダイ 2009年 ** 漫画「[[機動戦士ガンダム戦記 (PlayStation 3)#漫画|機動戦士ガンダム戦記-水天の涙-]]」 夏元雅人 角川書店【全4巻】 2009年–2011年 * 「[[機動戦士ガンダム サイドストーリーズ|機動戦士ガンダム外伝 ミッシングリンク]]」 バンダイナムコゲームス 2014年 ** 漫画 おおのじゅんじ 角川書店【全4巻】 2014年-2016年 * 「[[機動戦士ガンダム バトルオペレーション Code Fairy]]」 バンダイナムコエンターテインメント 【全3弾】 2021年 ** 漫画 [[高木秀栄]] 角川書店 2021年- * 「機動戦士ガンダム U.C. ENGAGE」 バンダイナムコエンターテインメント 2021年 * '''「[[ガンダムブレイカー]]」 ゲーム バンダイナムコゲームス [[クラフト&マイスター]] 2013年 ** ゲーム「[[ガンダムブレイカー2]]」 バンダイナムコゲームス クラフト&マイスター 2014年 ** ゲーム「[[ガンダムブレイカー3]]」 バンダイナムコゲームス クラフト&マイスター 2016年 ** ゲーム「[[New ガンダムブレイカー]]」 バンダイナムコゲームス クラフト&マイスター 2018年 ** ゲーム「ガンダムブレイカーモバイル」 バンダイナムコゲームス 2019年 * 「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズG」 バンダイナムコ 2022年 ** 「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ ウルズハント」 鉄血のオルフェンズG収録エピソード 2022年 == 音声作品・ドラマCD == * 「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY CDシネマ ルンガ沖砲撃戦」CDシネマ [[JVCエンタテインメント|ビクター音楽産業]] 1992年 * 「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY CDシネマ 宇宙の蜉蝣」CDシネマ ビクター音楽産業 1992年 * 「機動戦士ガンダム 第08MS小隊」 CDドラマ キングレコード【全2作】  1996年 * 「G-SAVIOUR Soundcinema」 CDドラマ ビースタック、パイオニアLDC【全3巻】 2000年-2001年 * 「[[新機動戦記ガンダムW BLIND TARGET]]」 ラジオドラマ [[TBSラジオ]] 1996年 ** CDドラマ [[キングレコード]] 1997年 *「機動戦士ガンダムSEED featuring SUIT CD」ドラマCD ビクターエンタテインメント【全5巻】 2003年 *「機動戦士ガンダムSEED DESTINY SUIT CDSUIT CD」ドラマCD ビクターエンタテインメント【全5巻】 2005年–2006年 *「機動戦士ガンダム00 アナザーストーリー MISSION-2306」ドラマCD JVCエンタテインメント【全4巻】 2008年 * 「機動戦士ガンダムAGE CDドラマ Wedding Eve」ドラマCD 2012年 == 舞台・イベント == * 「ガンダム00 Festival 10 "Re:vision"」 10周年記念イベント・朗読劇 バンダイナムコアーツ 2018年 * 「機動戦士ガンダム00 -破壊による再生-Re:Build」 舞台 [[松崎史也]] 2019年 * 「機動戦士ガンダム00 -破壊による覚醒-Re:(in)nobvation」 舞台 松崎史也 2020年 == その他の作品 == 上記のシリーズとは世界設定が異なる作品群。 * 「GREAT ADVENTURE OF GUNDAM」 漫画 SUEZEN サイバーコミックス(未単行本化) 1989年 * 「[[アベニールをさがして]]」 小説 富野由悠季 朝日ソノラマ【全3巻】 1995年-1996年 * 「[[いけ!いけ!ぼくらのVガンダム!!|いけ! いけ! ぼくらのシャイニングアッガイ!!]]」 漫画 ことぶきつかさ バンダイ(「いけ!いけ!僕らのVガンダム!!」単行本描き下ろし) 1994年 ** 漫画「いけ!いけ!ぼくらのシェンロンアッガイ」 ことぶきつかさ 角川書店(2012年の新装版「ことぶきつかさ短編集 いけ!いけ!僕らのVガンダム!!」に収録) 1995年 ** 漫画「いけ!いけ!ぼくらのウイングアッガイ」 ことぶきつかさ 角川書店(同上) 1995年 * 「[[私立ガンダム学園]]」 漫画 ぶるまほげろー メディアワークス【全1巻】 1995年 * 「[[フォー・ザ・バレル]]」 小説 [[大塚ギチ]] 月刊ニュータイプ(未単行本化) 2000年-2002年 ** 漫画「FOR THE BARREL "1984"」 [[コヤマシゲト]] 月刊ニュータイプ(未単行本化) 2000年-2001年 * 「モノアイガンダムズ」 **ゲーム「[[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION モノアイガンダムズ|SDガンダム GGENERATION モノアイガンダムズ]]」 バンダイ ヴァンガード 2002年 ** ゲーム「[[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION DS|SDガンダム GGENERATION DS]]」 バンダイ ヴァンガード 2005年 * 「[[機動戦士ガンダムALIVE]]」 漫画 シナリオ構成:皆川ゆか、作画:高山瑞穂 講談社【全5巻】 2006年–2008年 * 「[[妹ガンダム]]」 漫画 [[徳光康之]] 角川書店【全3巻】 2006年-2007年 * 「[[犬ガンダム]]」 漫画 [[唐沢なをき]] 角川書店【全2巻】 2006年-2007年 ** 漫画「犬Ζガンダム」 [[唐沢なをき]] 角川書店(犬ガンダム単行本に収録) * 「ガンフリ GUNDAM FREAK Girls」 漫画 [[桂よしひろ]] ガンダムエーススペシャル、ガンダムエース(未単行本化) 2006年-2007年 * 「[[俺は生ガンダム]]」 漫画 [[羽生生純]] 角川書店 2006年-2009年 ** 漫画「俺は生ガンダムUC」羽生生純 角川書店 2011年-2014年 * 「[[ガンオタの女]]」 漫画 [[左菱虚秋]] 角川書店【全3巻】 2007年–2008年 * 「[[フュージョン戦記ガンダムバトレイヴ]]」 漫画 [[一式まさと]] 集英社【全2巻】 2008年–2009年 * 「ドム子の青春日記」 漫画 [[筒井旭]] 角川書店(「Gの食卓」に収録) 2008年 * 「機動戦士ガンダム Gの食卓」 漫画 筒井旭 角川書店 2008年–2009年、2010年 * 「[[機動戦士ぶよガンダム]]」 漫画 唐沢なをき 角川書店【全2巻】 2009年-2010年 * 「[[ガンダム系の人々]]」 漫画 よしたに 角川書店 2010年-2014年 * 「[[ガンダムEXA]]」 漫画 シナリオ:千葉智宏(スタジオオルフェ)、作画:ときた洸一 角川書店【全7巻】 2011年-2014年 ** 漫画「ガンダムEXA VS」 シナリオ:千葉智宏(スタジオオルフェ)、作画:ときた洸一 角川書店【全7巻】 2014年-2017年 * 「[[アイアンアッガイ]]」 漫画 曽野由大 角川書店 2013年-2014年 * 「[[アパートメント・オブ・ガンダム]]」 漫画 [[春風邪三太]] 小学館【全4巻】 2013年-2015年 * '''「ガンダムvsハローキティプロジェクト特別PV」 Webアニメ''' 【全3話】 2019年-2020年 * 「[[機動戦史ガンダム武頼]]」 漫画:[[礒部一真]] デザイン協力:[[諸星佑吾]] 角川書店【既刊2巻】 2019年- * 「[[シャアとアムロと老いと —安らぎの地平へ—]]」 漫画 [[川崎順平]] 角川書店 2019年-2020年 * 「[[アラサーOLハマーン様]]」 漫画 いわさきまさかず 角川書店【既刊1巻】 2020年- * 「Project N-EXTREME」(メディアミックス企画) ** 漫画「[[機動戦士ガンダム N-EXTREAM]]」 [[水口鷹志]] 角川書店【既刊-巻】 2022年- * 「[[機動絶記ガンダムSEQUEL]]」 漫画 脚本:[[井上敏樹]]、作画:[[千明太郎]] [[ヒーローズ (企業)|ヒーローズ]] 2022年- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[モビルスーツバリエーション]] * [[SDガンダム]] * [[ガンダムシリーズゲーム作品一覧]] * [[バンダイナムコホールディングス]] * [[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]] * [[KADOKAWA]] ** [[角川書店]] ** [[アスキー・メディアワークス]](旧[[メディアワークス]]) * [[徳間書店]] * [[講談社]] * [[ホビージャパン]] * [[小学館]] == 外部リンク == * {{YouTube|channel = UC7wu64jFsV02bbu6UHUd7JA|ガンダムチャンネル}} ** {{YouTube|playlist = PLU3MW54GsPFp_DxbgbU7JjbtLK6X10lDi|レギュラーライブラリー}} ** {{Twitter|gundam_ch|ガンチャン@ガンダムチャンネル}} * [http://gundam40th.net/ 「機動戦士ガンダム40周年プロジェクト」公式サイト] ** {{Twitter|gundam40th|ガンダム40周年プロジェクト}} * [https://www.gundam.info/ GUNDAM.INFO | 公式ガンダム情報ポータルサイト] ** {{Twitter|gundam_info|ガンダムインフォ}} {{ガンダムシリーズ}} {{デフォルトソート:かんたむしりいす}} [[Category:ガンダムシリーズ|*いちらん]] [[Category:日本の作品の一覧]] [[Category:アニメ関連の一覧]]
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羽田盃
羽田盃(はねだはい)は南関東公営競馬の3歳クラシック三冠の第1冠として特別区競馬組合が大井競馬場ダート1800メートルで施行する地方競馬の重賞競走である。南関東グレードはSI。 本競走創設当初は大井競馬場に由来する大井盃という名称であったが、1964年より現名称となった。現競走名はかつて現在の東京都大田区にあった地方競馬の羽田競馬場に由来。 2024年より中央地方交流3歳ダート三冠競走のひとつとなり、JpnIに格付け予定である。また優勝賞金も5000万円となり、出走資格も中央・地方所属を問わず3歳牡馬・牝馬限定となる(せん馬の出走ができなくなる)予定。また、本競走で5着以内の中央所属馬上位3頭及び地方所属馬の上位3頭に東京ダービーへの優先出走権が付与される。なお、初年度である2024年においては、フルゲート16頭に対してJRA4頭、地方12頭の割り当てとして施行される。 2024年については以下の競走で優先出走権が得られる予定である。
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羽田盃(はねだはい)は南関東公営競馬の3歳クラシック三冠の第1冠として特別区競馬組合が大井競馬場ダート1800メートルで施行する地方競馬の重賞競走である。南関東グレードはSI。
{{競馬の競走 |馬場 = ダート |競走名 = 羽田盃 |開催国 = {{Flagicon|JPN}}[[日本の競馬|日本]] |主催者 = [[特別区競馬組合]]([[南関東公営競馬|南関東公営]]) |開催地 = [[大井競馬場]] |年次 = 2023 |格付け = 南関東SI |1着賞金 = 3500万円 |距離 = 1800[[メートル|m]] |条件 = [[サラブレッド]]系3歳オープン・[[南関東公営競馬|南関東]]所属 |負担重量 = 定量(56[[キログラム|kg]]、[[牝馬]]54kg(南半球産2kg減)) |創設 = [[1956年]][[4月18日]] |出典 = <ref name="kettei">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/wp-content/uploads/sites/3/2023/05/kettei_r05_02.pdf|title=令和5年度 第2回大井競馬競走番組表(決定)|website=東京シティ競馬 : TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2023-5-07}}</ref> }} '''羽田盃'''(はねだはい)は[[南関東公営競馬]]の3歳クラシック[[三冠 (競馬)|三冠]]の第1冠として[[特別区競馬組合]]が[[大井競馬場]][[ダート]]1800[[メートル]]で施行する[[地方競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]である。南関東グレードはSI。 == 概要 == 本競走創設当初は大井競馬場に由来する'''大井盃'''という名称であったが、[[1964年]]より現名称となった。現競走名はかつて現在の[[東京都]][[大田区]]にあった[[地方競馬]]の羽田競馬場に由来。 2024年より中央地方交流[[3歳ダート三冠]]競走のひとつとなり、JpnIに格付け予定である<ref name="nar20220620">{{Cite news|url=https://www.keiba.go.jp/topics/2022/06/2015003324361.html|publisher=地方競馬全国協会|title=3歳ダート三冠競走を中心とした2・3歳馬競走の体系整備について|date=2022-06-20|accessdate=2022-06-20}}</ref>。また優勝賞金も5000万円となり、出走資格も中央・地方所属を問わず3歳牡馬・牝馬限定となる(せん馬の出走ができなくなる)予定。また、本競走で5着以内の中央所属馬上位3頭及び地方所属馬の上位3頭に[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]への優先出走権が付与される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/newroad/ |title=新ダート競走体系特設ページ|publisher=地方競馬全国協会|accessdate=2023年12月2日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyocitykeiba.com/news/wp-content/uploads/sites/2/2023/03/bf00cb351a688e7a81fb26bd7f109a56.pdf|title=3歳ダート三冠競走等における地方所属馬の出走馬選定方法|publisher=特別区競馬組合|accessdate=2023-5-24}}</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/keiba/news/202211290000196.html 3歳ダート3冠レース体系発表 24年からスタート すべてにトライアルレースを設定]日刊スポーツ、2022年11月29日配信・閲覧</ref>。なお、初年度である2024年においては、フルゲート16頭に対してJRA4頭、地方12頭の割り当てとして施行される。 === 条件・賞金等(2023年) === ;出走資格 :サラブレッド系3歳、南関東所属。 :*[[京浜盃]]の上位3着以上馬、[[雲取賞]]の上位2着以上馬、[[クラウンカップ]]の優勝馬、クラシックトライアルの上位2着以上馬に優先出走権がある<ref name="kettei"/>。 ;負担重量 :定量。56kg、牝馬は54kg(南半球産2kg減)<ref name="kettei"/>。 ;賞金額 :1着3500万円、2着1225万円、3着700万円、4着350万円、5着175万円<ref name="kettei"/>、着外手当20万円<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.tokyocitykeiba.com/race/wp-content/uploads/sites/3/2023/03/keiba_bangumi_2023.pdf#page=29|title=令和5年度大井競馬番組|publisher=特別区競馬組合|page=27|accessdate=2023-5-07}}</ref>。 ;優先出走権付与 :本競走の上位5着以上の馬には[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]の優先出走権が、優勝馬には[[ジャパンダートダービー]]の優先出走権が付与される<ref name="kettei"/>。 ;副賞 :特別区競馬組合管理者賞、東京都馬主会理事長賞<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.nagoyakeiba.com/info/race/file/a3e9bd8eb2feba04940ebc2e8706d303503af802.pdf|title=大井競馬出走馬一覧表 令和4年度第3回大井競馬第4日5月12日(木)|website=名古屋けいばオフィシャルサイト|accessdate=2022-5-10}}</ref> 2024年については以下の競走で優先出走権が得られる予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/newroad/ |title=新ダート競走体系特設ページ|publisher=地方競馬全国協会|accessdate=2023年12月2日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyocitykeiba.com/news/wp-content/uploads/sites/2/2023/03/bf00cb351a688e7a81fb26bd7f109a56.pdf|title=3歳ダート三冠競走等における地方所属馬の出走馬選定方法|publisher=特別区競馬組合|accessdate=2023-05-24}}</ref>。 {| class="wikitable" !競走名!!格付!!施行競馬場!!施行距離!!優先出走権獲得条件 |- |[[ブルーバードカップ]]||JpnIII||1800m||[[船橋競馬場]]||地方所属馬の1着馬 |- |[[雲取賞]]||JpnIII||1800m||大井競馬場||中央所属馬は5着以内の上位2頭、地方所属馬は上位2頭 |- |スターバーストカップ||準重賞||2000m||大井競馬場||1着馬 |- |[[京浜盃]]||JpnII||大井競馬場||1700m||中央所属馬は5着以内の上位2頭、地方所属馬は上位2頭 |- |クラシックトライアル||特別競走||大井競馬場||1800m||1着馬 |} == 歴史 == === 年表 === * 1956年 - 4歳の競走馬による重賞競走「'''大井盃'''」の名称で創設、大井競馬場・ダート1800mで第1回が施行された。 * 1964年 - 名称を「'''羽田盃'''」に変更。 * 1967年 - 施行距離をダート2000mに変更。 * 1975年 - 1着賞金が1800万円に増額。 * 1976年 - 1着賞金が2100万円に増額。 * 1980年 - 1着賞金が2300万円に増額。 * 1984年 - 1着賞金が2000万円に減額。 * 1985年 - 1着賞金が1800万円に減額。 * 1988年 - 1着賞金が2000万円に増額。 * 1989年 - 1着賞金が2500万円に増額。 * 1990年 - 1着賞金が3200万円に増額。 * 1991年 - 1着賞金が3800万円に増額。 * 1992年 - 1着賞金が4500万円に増額。 * 1994年 - 1着賞金が4000万円に減額。 * 1995年 - 南関東地区のグレード制施行により、G1に格付け。 * 1996年 - 施行距離をダート1800mに変更。 * 1997年 ** 1着賞金が4100万円に増額。 ** 売得金額が7億2564万1100円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。 * 1999年 ** 施行距離をダート1600mに変更。 ** 1着賞金が4000万円に減額。 * 2001年 - [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したのに伴い、競走条件を「4歳」から「3歳」に変更。 * 2002年 - 施行距離をダート1790mに変更。 * 2004年 - 施行距離をダート1800mに変更。 * 2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をSIに変更。 * 2011年 - 1着賞金が3500万円に減額。 * 2020年 - 売得金額が7億6347万4500円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。 * 2021年 - 売得金額が8億9772万8800円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。 * 2023年 - 売得金額が9億4369万3600円を記録し、同競走の1レース売上レコードを更新。 * 2024年 ** 3歳ダートグレード競走の再整備によりダートグレード競走とし、JpnIに格付け。 ** 競走条件を「3歳牡馬・牝馬」に変更。 ** 1着賞金が5000万円に増額。 == 歴代優勝馬 == {| class="wikitable" !回数!!施行日!!優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!style="white-space:nowrap"|所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||style="white-space:nowrap"|[[1956年]][[4月18日]]||オートネ||牡3||[[大井競馬場|大井]]||style="white-space:nowrap"|1:56 4/5||栗田武||栗田金吾||井門昭二 |- |style="text-align:center"|第2回||[[1957年]][[4月1日]]||ハツユキ||牡3||大井||1:57 0/5||永井繁||栗田金吾||大久保常吉 |- |style="text-align:center"|第3回||[[1958年]][[4月23日]]||[[ダイニコトブキ]]||牡3||[[船橋競馬場|船橋]]||1:57 0/5||[[須田茂]]||[[出川己代造]]||出川日出 |- |style="text-align:center"|第4回||[[1959年]][[4月10日]]||ハルセキト||牡3||大井||1:57 1/5||武智一夫||野沢勝敏||新見つぎの |- |style="text-align:center"|第5回||[[1960年]][[4月1日]]||ダイサンコトブキ||牡3||船橋||1:58.2||[[矢熊寿]]||出川己代造||出川日出 |- |style="text-align:center"|第6回||[[1961年]][[4月5日]]||ヤグチホープ||牡3||大井||1:58.2||矢熊寿||矢熊寿||近藤丈一 |- |style="text-align:center"|第7回||[[1962年]]4月10日||ボールドプライド||牡3||大井||1:56.9||[[荒山徳一]]||福島酉次||丸山栄之助 |- |style="text-align:center"|第8回||[[1963年]][[4月11日]]||コクユウ||牡3||大井||1:55.1||宮下哲朗||伊藤正美||大杉精一 |- |style="text-align:center"|第9回||[[1964年]][[4月16日]]||コトブキノニ||牡3||船橋||1:54.0||溝辺正||出川己代造||出川日出 |- |style="text-align:center; white-space:nowrap"|第10回||[[1965年]][[4月27日]]||マサホウ||牡3||[[川崎競馬場|川崎]]||1:53.8||宮下紀英||[[井上宥蔵]]||山上光子 |- |style="text-align:center"|第11回||[[1966年]][[5月12日]]||イチシデン||牡3||[[浦和競馬場|浦和]]||1:55.1||[[赤間清松]]||野口周三||佐藤シズヱ |- |style="text-align:center"|第12回||[[1967年]][[5月1日]]||[[ヒカルタカイ]]||牡3||大井||2:07.3||竹山隆||鏑木文一郎||高井正子 |- |style="text-align:center"|第13回||[[1968年]][[5月2日]]||style="white-space:nowrap"|チヤイナーキヤツプ||牡3||船橋||2:06.5||赤間清松||出川己代造||出川日出 |- |style="text-align:center"|第14回||[[1969年]][[5月13日]]||ヤマノタイヨウ||牡3||大井||2:07.7||田畑勝男||田村勝男||山口米吉 |- |style="text-align:center"|第15回||[[1970年]][[5月15日]]||ダイニヘルスオー||牡3||大井||2:09.7||出藤篤||山下春茂||[[東京都競馬]](株) |- |style="text-align:center"|第16回||[[1971年]][[5月27日]]||フジプリンス||牡3||船橋||2:07.3||溝辺正||出川己代造||出川日出 |- |style="text-align:center"|第17回||[[1972年]][[5月16日]]||トキワタイヨウ||牡3||大井||2:05.8||赤間清松||竹内美喜男||小宮喜美子 |- |style="text-align:center"|第18回||[[1973年]][[5月7日]]||ヨウコウザン||牡3||大井||2:06.1||岡部正道||岡部猛||岡部公 |- |style="text-align:center"|第19回||[[1974年]][[5月20日]]||ミツルコトブキ||牡3||船橋||2:06.4||渥美忠男||出川己代造||フジホース(株) |- |style="text-align:center"|第20回||[[1975年]][[5月23日]]||ゴールデンリボー||牡3||大井||2:07.1||赤間清松||竹内美喜男||滝沢チイ |- |style="text-align:center"|第21回||[[1976年]][[5月10日]]||ダイハードコトブキ||牡3||船橋||2:05.6||[[桑島孝春]]||出川己代造||フジホース(株) |- |style="text-align:center"|第22回||[[1977年]][[5月9日]]||タケノオーカン||牡3||船橋||2:04.6||style="white-space:nowrap"|[[佐々木竹見]]||安藤栄作||竹下繁實 |- |style="text-align:center"|第23回||[[1978年]]5月15日||[[ハツシバオー]]||牡3||大井||2:05.5||[[宮浦正行]]||大山末治||佐久間有寿 |- |style="text-align:center"|第24回||[[1979年]][[5月14日]]||ソウルシヤトー||牡3||大井||2:06.5||赤間清松||竹内美喜男||(有)兼正商事 |- |style="text-align:center"|第25回||[[1980年]]5月14日||タカフジミノル||牡3||大井||2:04.4||赤間清松||斉藤義行||(株)高藤 |- |style="text-align:center"|第26回||[[1981年]]5月14日||コーナンルビー||牡3||大井||2:05.3||[[堀千亜樹]]||遠間波満行||越路玄太 |- |style="text-align:center"|第27回||[[1982年]][[5月6日]]||[[ホスピタリテイ]]||牡3||大井||2:05.4||西川栄二||朝倉文四郎||渡辺泰子 |- |style="text-align:center"|第28回||[[1983年]][[5月4日]]||[[サンオーイ]]||牡3||大井||2:06.1||赤間清松||秋谷元次||酒巻仁五郎 |- |style="text-align:center"|第29回||[[1984年]]5月1日||[[キングハイセイコー]]||牡3||浦和||2:06.9||[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]]||横山栄次郎||井上丑松 |- |style="text-align:center"|第30回||[[1985年]]5月14日||マルゼンアデイアル||牡3||大井||2:06.6||[[的場文男]]||岡部猛||[[早坂太吉]] |- |style="text-align:center"|第31回||[[1986年]]5月13日||ハナキオー||牡3||大井||2:06.9||堀千亜樹||武森辰己||笠井忠一 |- |style="text-align:center"|第32回||[[1987年]]5月6日||シナノデービス||牡3||大井||2:10.1||的場文男||松浦備||品田良實 |- |style="text-align:center"|第33回||[[1988年]][[5月17日]]||リユウコウキング||牡3||船橋||2:11.0||[[佐藤隆 (競馬)|佐藤隆]]||森誉||池田徳七 |- |style="text-align:center"|第34回||[[1989年]]5月10日||[[ロジータ]]||牝3||川崎||2:10.2||[[野崎武司]]||福島幸三郎||加藤富保 |- |style="text-align:center"|第35回||[[1990年]]5月17日||アウトランセイコー||牡3||浦和||2:09.5||高橋三郎||広瀬龍夫||山口克己 |- |style="text-align:center"|第36回||[[1991年]][[5月5日]]||アーバントップ||牡3||浦和||2:06.7||田部和廣||及川六郎||足立康則 |- |style="text-align:center"|第37回||[[1992年]]5月13日||カシワズプリンセス||牝3||川崎||2:07.9||高橋三郎||高橋正豪||柏木善治郎 |- |style="text-align:center"|第38回||[[1993年]][[5月12日]]||[[ブルーファミリー]]||牡3||大井||2:05.7||的場文男||栗田繁||森杉茂 |- |style="text-align:center"|第39回||[[1994年]]5月17日||スペクタクル||牡3||船橋||2:07.5||[[張田京]]||濱月睦生||北條傳三 |- |style="text-align:center"|第40回||[[1995年]]5月4日||ヒカリルーファス||牡3||浦和||2:06.3||佐々木竹見||牛房榮吉||原口常雄 |- |style="text-align:center"|第41回||[[1996年]]5月14日||[[ナイキジャガー]]||牡3||大井||1:54.2||的場文男||長沼正義||小野誠治 |- |style="text-align:center"|第42回||[[1997年]][[4月29日]]||[[キャニオンロマン]]||牡3||大井||1:52.4||吉井竜一||飯野貞次||谷川弘一郎 |- |style="text-align:center"|第43回||[[1998年]]5月13日||[[ゴールドヘッド]]||牡3||大井||1:54.9||的場文男||蛯名末五郎||中田和宏 |- |style="text-align:center"|第44回||[[1999年]][[4月13日]]||[[オリオンザサンクス]]||牡3||大井||1:41.3||[[早田秀治]]||赤間清松||日浦桂子 |- |style="text-align:center"|第45回||[[2000年]]4月11日||イエローパワー||牡3||大井||1:42.0||[[石崎隆之]]||高橋三郎||大志総合企画(株) |- |style="text-align:center"|第46回||[[2001年]]4月16日||[[トーシンブリザード]]||牡3||船橋||1:38.5||石崎隆之||[[佐藤賢二]]||稲垣博信 |- |style="text-align:center"|第47回||[[2002年]][[4月25日]]||プリンシパルリバー||牡3||大井||1:54.1||石崎隆之||栗田裕光||[[吉田照哉]] |- |style="text-align:center"|第48回||[[2003年]]5月14日||[[ナイキアディライト]]||牡3||船橋||1:52.3||石崎隆之||[[出川龍一]]||小野スミ |- |style="text-align:center"|第49回||[[2004年]]4月21日||トキノコジロー||牡3||川崎||1:53.5||[[山田信大]]||style="white-space:nowrap"|長谷川蓮太郎||田中久續 |- |style="text-align:center"|第50回||[[2005年]][[5月11日]]||[[シーチャリオット]]||牡3||船橋||1:53.5||[[内田博幸]]||[[川島正行]]||[[ダーレー・ジャパン|ダーレー・ジャパン・レーシング]](有) |- |style="text-align:center"|第51回||[[2006年]]5月10日||サンキューウィン||騸3||船橋||1:53.1||[[左海誠二]]||[[岡林光浩]]||井高義光 |- |style="text-align:center"|第52回||[[2007年]]5月9日||トップサバトン||牡3||船橋||1:51.1||[[石崎駿]]||柿本政男||木谷ツヤ |- |style="text-align:center"|第53回||[[2008年]]4月23日||ニックバニヤン||牡3||大井||1:52.8||的場文男||佐々木洋一||津村靖志 |- |style="text-align:center"|第54回||[[2009年]][[4月22日]]||[[ナイキハイグレード]]||牡3||船橋||1:54.9||[[戸崎圭太]]||川島正行||小野誠治 |- |style="text-align:center"|第55回||[[2010年]][[4月21日]]||シーズザゴールド||牡3||大井||1:53.7||内田博幸||[[荒山勝徳]]||大典牧場(有) |- |style="text-align:center"|第56回||[[2011年]]5月11日||[[クラーベセクレタ]]||牝3||船橋||1:52.1||戸崎圭太||川島正行||(有)[[サンデーレーシング]] |- |style="text-align:center"|第57回||[[2012年]]5月9日||アートサハラ||牡3||大井||1:52.9||[[今野忠成]]||荒山勝徳||大典牧場(有) |- |style="text-align:center"|第58回||[[2013年]]4月24日||アウトジェネラル||牡3||船橋||1:52.8||[[御神本訓史]]||川島正行||(有)サンデーレーシング |- |style="text-align:center"|第59回||[[2014年]]4月23日||[[ハッピースプリント]]||牡3||大井||1:52.6||[[吉原寛人]]||森下淳平||(有)[[辻牧場]] |- |style="text-align:center"|第60回||[[2015年]]4月22日||ストゥディウム||牡3||船橋||1:54.6||石崎駿||矢野義幸||(株)Nicks |- |style="text-align:center"|第61回||[[2016年]]4月20日||[[タービランス]]||牡3||浦和||1:55.5||[[森泰斗]]||[[水野貴史]]||[[泉俊二]] |- |style="text-align:center"|第62回||[[2017年]]5月10日||キャプテンキング||牡3||大井||1:54.4||[[矢野貴之]]||[[的場直之]]||平本敏夫 |- |第63回||[[2018年]]5月9日||ヤマノファイト||牡3||船橋||1:53.7||[[本橋孝太]]||矢野義幸||山口明彦 |- |第64回||[[2019年]]4月24日||[[ミューチャリー]]||牡3||船橋||1:53.5||御神本訓史||矢野義幸||石瀬丈太郎 |- |第65回||[[2020年]]4月29日||ゴールドホイヤー||牡3||川崎||1:53:3||[[山崎誠士]]||岩本洋||岡田初江 |- |第66回||[[2021年]]4月29日||トランセンデンス||牡3||浦和||1:51.5||森泰斗||[[小久保智]]||徳原英修 |- |第67回||[[2022年]]5月12日||ミヤギザオウ||牡3||大井||1:52.4||[[真島大輔]]||森下淳平||鈴木雅俊 |- |第68回||[[2023年]]5月10日||[[ミックファイア]]||牡3||大井||1:50.9||御神本訓史||[[渡邉和雄]]||[[星加浩一]] |} * 距離:第12〜40回 2000m、第44〜46回 1600m、第47、48回 1790m、第49回〜 1800m * 条件:第6〜8回 3歳牡馬限定 * タイム:第1〜4回 1/5秒表示、第5回〜 1/10秒表示 * 出典:南関東4競馬場公式「[https://www.nankankeiba.com/win_uma/04.do 羽田盃競走優勝馬]」 ==脚注== ===参考文献=== ===注釈=== <references group="注"/> ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[東京ダービー (競馬)]] * [[ジャパンダートダービー]] * [[東京王冠賞]] * [[京浜盃]] - 上位3着までに本競走への優先出走権が与えられる南関東重賞競走。 * [[クラウンカップ]] *[[雲取賞]] == 外部リンク == * [http://www.tokyocitykeiba.com/race/grade_race/2023-05-10/ TCK公式「レースと日程」より(2023年版)] {{南関東公営競馬の重賞競走}} {{ダービーWeek}} {{DEFAULTSORT:はねたはい}} [[Category:地方競馬の競走]] [[Category:大井競馬場の競走]]
2003-05-15T05:03:39Z
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プリークネスステークス
プリークネスステークス(Preakness Stakes)はアメリカクラシック三冠の第2冠として、メリーランド州ボルティモアにあるピムリコ競馬場のダート1マイル3/16(9ハロン1/2・約1911メートル)で行われる競馬の競走である。 ケンタッキーダービーの2週間後に行われるが、かつてはケンタッキーダービーよりも先に開催された年度もあった。前日には牝馬限定のG2競走・ブラックアイドスーザンステークスが行われる。 また出走条件は3歳限定だがケンタッキーダービーやベルモントステークスと同様に性別による出走制限はなく、騸(せん)馬の出走も可能である。多くの場合はケンタッキーダービーを経由してこの競走に出走してくるが三冠競走の中ではもっとも距離が短いこともあり、ケンタッキーダービーに出走しなかったマイル路線組が登録することも多い。 競走の創設はケンタッキーダービーよりも2年早い1873年で、競走名は1870年にピムリコ競馬場がオープンされた時に行われたディナーパーティーステークスの優勝馬・プリークネスを記念して当時のメリーランド州知事オーデン・ボウイによって命名されたものである。 出走馬の本馬場入場時にメリーランド・マイ・メリーランド(英語版)を観客全員で歌うのが習慣となっている。優勝馬にはメリーランド州の州花でもあるブラックアイドスーザンのレイが掛けられ、優勝馬の馬主には「ウッドローンの瓶」のレプリカが贈られる。
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プリークネスステークスはアメリカクラシック三冠の第2冠として、メリーランド州ボルティモアにあるピムリコ競馬場のダート1マイル3/16(9ハロン1/2・約1911メートル)で行われる競馬の競走である。
{{出典の明記|date=2015年8月}} {{競馬の競走 |馬場 = ダート |競走名 = プリークネスステークス<br />{{Lang|en|Preakness Stakes}} |画像 = [[ファイル:Preakness Stakes textlogo.svg|150px]]<br />[[File:147th_Preakness_Stakes_(52094131900).jpg|275px]] |画像説明 = 2022年プリークネスステークス |開催国 = {{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国の競馬|アメリカ]] |開催地 = [[ピムリコ競馬場]] |年次 = 2014 |施行時期 = 5月中旬 |格付け = {{G1}} |賞金総額 = 150万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]<ref name="IFHA2014"/> |距離 = 9.5[[ハロン (単位)|ハロン]] |条件 = [[サラブレッド]]3歳 |負担重量 = 牡馬・せん馬 126[[ポンド (質量)|ポンド]](57.2[[キログラム]])<br />牝馬 121ポンド(54.9キログラム) |創設 = [[1873年]]5月27日 }} '''プリークネスステークス'''({{Lang|en|Preakness Stakes}})は[[アメリカクラシック三冠]]の第2冠として、[[メリーランド州]][[ボルティモア]]にある[[ピムリコ競馬場]]の[[ダート]]1[[マイル]]3/16(9[[ハロン (単位)|ハロン]]1/2・約1911メートル)で行われる[[競馬の競走]]である。 == 概要 == [[ケンタッキーダービー]]の2週間後に行われるが、かつてはケンタッキーダービーよりも先に開催された年度もあった。前日には牝馬限定のG2競走・[[ブラックアイドスーザンステークス]]が行われる。 また出走条件は3歳限定だがケンタッキーダービーや[[ベルモントステークス]]と同様に性別による出走制限はなく、[[せん馬|&#39480;(せん)馬]]の出走も可能である。多くの場合はケンタッキーダービーを経由してこの競走に出走してくるが三冠競走の中ではもっとも距離が短いこともあり、ケンタッキーダービーに出走しなかったマイル路線組が登録することも多い。 競走の創設はケンタッキーダービーよりも2年早い[[1873年]]で、競走名は[[1870年]]にピムリコ競馬場がオープンされた時に行われた[[ディキシーステークス|ディナーパーティーステークス]]の優勝馬・[[プリークネス]]を記念して当時のメリーランド州知事オーデン・ボウイによって命名されたものである。 出走馬の本馬場入場時に{{仮リンク|メリーランド・マイ・メリーランド|en|Maryland,_My_Maryland}}を観客全員で歌うのが習慣となっている。優勝馬にはメリーランド州の州花でもある[[アラゲハンゴンソウ|ブラックアイドスーザン]]のレイが掛けられ{{refnest|group="注"|ただし、実際にはこの優勝レイに用いられているのは本物のブラックアイドスーザンではなく、塗装による代用品であることがよく知られている<ref name="BS-20140516">Susan Reimer(「[[:en:The Baltimore Sun|The Baltimore Sun]]紙)、2014年5月16日付、[https://www.baltimoresun.com/features/bs-md-preakness-black-eyed-susans-20140516-story.html Neither Susans nor daisies]。2019年10月14日閲覧。</ref>。ブラックアイドスーザンの開花期は夏であり、プリークネスステークスを開催する5月にはまだ花が咲いていないので、代わりにキク科の黄色い花の中央部を黒く塗装したものを用いている。毎年競馬場で配布されるガイドブックにもそのことが記載されており、大手メディアでもプリークネスSの時期になるとこれを報じる。<ref name="BS-20140516"/> 1990年代頃からは、花びらが黄色で中央部が茶色の「Viking Pom」という名のキク科の花を用いていて、もう塗装はしていないとの報告もある。<ref name="BS-20140516"/>}}、優勝馬の[[馬主]]には「ウッドローンの瓶」のレプリカが贈られる。 == 歴史 == * [[1873年]] - 創設される。当初の施行距離は1マイル1/2(12ハロン・約2410メートル)。 * [[1889年]] - 施行距離が1マイル1/4(10ハロン・約2010メートル)に変更されるが、翌年元に戻る。 * [[1890年]] - [[1889年]]にメリーランドジョッキークラブが[[ギャロップ]]競走を中止したため、[[ニューヨーク州]]のモーリスパーク競馬場で'''プリークネスハンデキャップ'''として代替開催される。 * [[1891年]]〜[[1893年]] - 開催休止。 * [[1894年]] - ニューヨーク州のグレーヴセンド競馬場に移設して開催される。施行距離が1マイル1/16(8.5ハロン・約1710メートル)に変更される。 ** 代替開催されていた期間の競走については、[[1948年]]になってプリークネスステークスとして公式に記録されることになった。その期間内の競走は「失われたプリークネス」と呼ばれている。 * [[1901年]] - グレーヴセンド競馬場からピムリコ競馬場に開催場所が戻り、施行距離が1マイル70[[ヤード]](約1670メートル)に変更される。 * [[1908年]] - 施行距離が1マイル1/16で開催される。 * [[1909年]] - 施行距離が1マイル(8ハロン・約1600メートル)に変更される。 * [[1911年]] - 施行距離が1マイル1/8(9ハロン・約1810メートル)に変更される。 * [[1917年]] - かつて存在したウッドローン競馬場を記念した「ウッドローンの瓶」レプリカの贈呈が初めて行われる。 * [[1918年]] - 26頭の登録があり、[[分割競走]]として施行される。 * [[1925年]] - 施行距離が1マイル3/16(9.5ハロン・約1911メートル)に変更される。 * [[1948年]] - [[CBS]]による、[[テレビ]]での放映が始まる。 * [[1985年]] - [[タンクズプロスペクト]]が1分53秒40のレコードタイムを記録する。 * [[1996年]] - [[ルイカトラズ]]が1分53秒40のレコードタイムのタイ記録で優勝する。 * [[2006年]] - 1番人気の[[バーバロ]]が、スタートして100ヤードほど進んだところで競走中止になる。 * [[2009年]] - [[レイチェルアレクサンドラ]]が牝馬として85年ぶりの優勝。 * [[2012年]] - [[セクレタリアト]]が優勝した第98回プリークネスステークスの公式タイムが、メリーランド州競馬委員会により1分53秒0に修正される。 * [[2020年]] - [[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大の影響で5月16日に開催予定だったが、延期(10月3日開催)になった。 == 歴代優勝馬 == {| class="wikitable" !回数!!施行日!!優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||style="white-space:nowrap"|[[1873年]][[5月27日]]||Survivor||牡3||style="white-space:nowrap"|2:43 0/4||G.Barbee||A.Pryor||J.Chamberlain |- |style="text-align:center"|第2回||[[1874年]][[5月26日]]||Culpepper||牡3||2:56 1/2||B.Donohue||H.Gaffney||H.Gaffney |- |style="text-align:center"|第3回||[[1875年]][[5月28日]]||Tom Ochiltree||牡3||2:43 1/2||L.Hughes||R.Walden||J.Chamberlain |- |style="text-align:center"|第4回||[[1876年]][[5月25日]]||Shirley||&#39480;3||2:44 3/4||G.Barbee||W.Brown||P.Lorillard |- |style="text-align:center"|第5回||[[1877年]][[5月24日]]||Cloverbrook||牡3||2:45 1/2||C.Holloway||J.Walden||E.Clabaugh |- |style="text-align:center"|第6回||[[1878年]]5月27日||Duke of Magenta||牡3||2:40 1/2||C.Holloway||R.Walden||G.Lorillard |- |style="text-align:center"|第7回||[[1879年]]5月24日||Harold||牡3||2:40 1/2||L.Hughes||R.Walden||G.Lorillard |- |style="text-align:center"|第8回||[[1880年]]5月28日||Grenada||牡3||2:40 1/2||L.Hughes||R.Walden||G.Lorillard |- |style="text-align:center"|第9回||[[1881年]]5月27日||Saunterer||牡3||2:40 1/2||T.Costello||R.Walden||G.Lorillard |- |style="text-align:center"|第10回||[[1882年]]5月27日||Vanguard||牡3||2:44 1/2||T.Costello||R.Walden||G.Lorillard |- |style="text-align:center"|第11回||[[1883年]]5月26日||Jacobus||牡3||2:42 1/2||G.Barbee||R.Dwyer||J.Kelly |- |style="text-align:center"|第12回||[[1884年]][[5月23日]]||Knight of Ellersille||牡3||2:39 1/2||S.FIsher||T.Doswell||T.Doswell |- |style="text-align:center"|第13回||[[1885年]][[5月22日]]||Tecumseh||牡3||2:49 0/4||J.McLaughlin||C.Littlefield||W.Donohue |- |style="text-align:center"|第14回||[[1886年]][[5月21日]]||The Bard||牡3||2:45 0/4||S.Fisher||J.Huggins||A.Cassatt |- |style="text-align:center"|第15回||[[1887年]][[5月13日]]||Dunboyne||牡3||2:39 1/2||B.Donohue||W.Jennings||W.Jennings |- |style="text-align:center"|第16回||[[1888年]][[5月11日]]||Refund||牡3||2:49 0/4||F.Littlefield||R.Walden||R.Walden |- |style="text-align:center"|第17回||[[1889年]][[5月10日]]||Buddhist||牡3||2:17 1/2||W.Anderson||J.Rogers||S.Brown |- |style="text-align:center"|第18回||[[1890年]][[6月10日]]||Montague||牡3||2:36 3/4||W.Martin||E.Feakes||Preakness Stable |- |style="text-align:center"|第19回||[[1894年]][[5月17日]]||Assignee||牡3||1:47 1/4||F.Taral||W.Lakeland||[[ジェームズ・ロバート・キーン|J. & F.Keene]] |- |style="text-align:center"|第20回||[[1895年]]5月25日||Belmar||牡3||1:50 1/2||F.Taral||E.Feakes||Preakness Stable |- |style="text-align:center"|第21回||[[1896年]][[6月6日]]||Margrave||牡3||1:51 0/4||H.Griffin||B.McClelland||[[オーガスト・ベルモント2世|A.Belmont II]] |- |style="text-align:center"|第22回||[[1897年]][[6月8日]]||Paul Kauvar||牡3||1:51 1/4||T.Thorpe||T.Hayes||T.Hayes |- |style="text-align:center"|第23回||[[1898年]][[6月11日]]||Sly Fox||牡3||1:49 3/4||W.Simms||H.Campbell||C.Dwyer |- |style="text-align:center"|第24回||[[1899年]][[5月30日]]||Half Time||牡3||1:47 0/4||R.Clawson||F.McCabe||P.Dwyer |- |style="text-align:center"|第25回||[[1900年]][[5月29日]]||Hindus||牡3||1:48 2/5||H.Spencer||J.Morris||P.Dwyer |- |style="text-align:center"|第26回||[[1901年]]5月28日||The Parader||牡3||1:47 1/5||F.Landry||T.Healey||R.Wison Jr. |- |style="text-align:center"|第27回||[[1902年]]5月27日||Old England||牡3||1:45 4/5||L.Jackson||G.Morris||G.Morris |- |style="text-align:center"|第28回||[[1903年]]5月30日||Flocarline||牝3||1:44 4/5||W.Gannon||H.Riddle||M.Tichenor |- |style="text-align:center"|第29回||[[1904年]]5月28日||Bryn Mawr||牡3||1:44 1/5||E.Hildebrand||W.Presgrave||Goughacres Stable |- |style="text-align:center"|第30回||[[1905年]]5月27日||Cairngora||牡3||1:45 4/5||W.Davis||A.Joyner||S.Paget |- |style="text-align:center"|第31回||[[1906年]]5月22日||Whimsical||牝3||1:45 0/5||W.Miller||T.Gaynor||T.Gaynor |- |style="text-align:center"|第32回||[[1907年]]5月21日||Don Enrique||牡3||1:45 2/5||G.Mountain||J.Whalen||A.Belmont II |- |style="text-align:center"|第33回||[[1908年]][[6月2日]]||Royal Tourist||牡3||1:46 2/5||E.Dugan||A.Joyner||[[ハリー・ペイン・ホイットニー|H.Whitney]] |- |style="text-align:center"|第34回||[[1909年]][[5月12日]]||Effendi||牡3||1:39 4/5||W.Doyle||F.Frisbie||W.Ryan |- |style="text-align:center"|第35回||[[1910年]][[5月7日]]||Layminster||牡3||1:40 3/5||R.Estep||J.Healy||E.Cassatt |- |style="text-align:center"|第36回||[[1911年]]5月17日||Watervale||牡3||1:51 0/5||E.Dugan||J.Whalen||A.Belmont II |- |style="text-align:center"|第37回||[[1912年]][[5月15日]]||Colonel Holloway||牡3||1:56 3/5||C.Turner||D.Woodford||Beverwyck Stable |- |style="text-align:center"|第38回||[[1913年]][[5月20日]]||Buskin||&#39480;3||1:53 2/5||J.Butwell||J.Whalen||J.Whalen |- |style="text-align:center"|第39回||[[1914年]]5月21日||Holiday||&#39480;3||1:53 4/5||A.Schuttinger||J.Healy||Mrs. A.Barklie |- |style="text-align:center"|第40回||[[1915年]]5月17日||Rhine Maiden||牝3||1:58 0/5||D.Hoffman||F.Devers||E.Whitney |- |style="text-align:center"|第41回||[[1916年]][[5月16日]]||Damrosch||牡3||1:54 4/5||L.McAtee||A.Weston||J.Ross |- |style="text-align:center"|第42回||[[1917年]]5月12日||Kalitan||牡3||1:54 2/5||E.Haynes||B.Hurley||[[エドワード・ライリー・ブラッドリー|E.Bradley]] |- |style="text-align:center"|第43回||[[1918年]]5月15日||Jack Hare Jr.<br />War Cloud||牡3||1:53 2/5<br />1:53 0/5||C.Peak<br />J.Loftus||F.Weir<br />W.Jennings||W.Applegate<br />A.Macomber |- |style="text-align:center"|第44回||[[1919年]][[5月14日]]||[[サーバートン|Sir Barton]]||牡3||1:53 0/5||J.Loftus||H.Bedwell||J.Ross |- |style="text-align:center"|第45回||[[1920年]][[5月18日]]||[[マンノウォー|Man o'War]]||牡3||1:51 3/5||C.Rummer||L.Feustel||[[サミュエル・ドイル・リドル|Glen Riddle Farm]] |- |style="text-align:center"|第46回||[[1921年]]5月16日||Broomspun||牡3||1:54 1/5||F.Coltiletti||[[ジェームズ・ゴードン・ロウ・シニア|J.Rowe]]||H.Whitney |- |style="text-align:center"|第47回||[[1922年]]5月13日||Pillory||牡3||1:51 3/5||L.Morris||T.Healey||R.Wilson Jr. |- |style="text-align:center"|第48回||[[1923年]]5月12日||Vigil||牡3||1:53 3/5||B.Marinelli||T.Healey||W.Salmon |- |style="text-align:center"|第49回||[[1924年]]5月12日||Nellie Morse||牝3||1:57 1/5||J.Merimee||A.Gordon||H.Fisher |- |style="text-align:center"|第50回||[[1925年]][[5月8日]]||Conventry||牡3||1:59 0/5||C.Kummer||W.Duke||G.Cochran |- |style="text-align:center"|第51回||[[1926年]]5月10日||[[ディスプレイ (競走馬)|Display]]||牡3||1:59 4/5||J.Maiben||T.Healey||W.Salmon |- |style="text-align:center"|第52回||[[1927年]][[5月9日]]||Bostonian||牡3||2:01 3/5||W.Abel||F.Hopkins||H.Whitney |- |style="text-align:center"|第53回||[[1928年]]5月11日||Victorian||牡3||2:00 1/5||S.Workman||J.Rowe Jr.||H.Whitney |- |style="text-align:center"|第54回||[[1929年]]5月10日||Dr.Freeland||牡3||2:01 3/5||L.Schaefer||T.Healey||W.Salmon |- |style="text-align:center"|第55回||[[1930年]]5月9日||[[ギャラントフォックス|Gallant Fox]]||牡3||2:00 3/5||E.Sande||style="white-space:nowrap"|[[ジェームズ・エドワード・フィッツシモンズ|J.Fitzsimmons]]||Belair Stud |- |style="text-align:center"|第56回||[[1931年]]5月9日||Mate||牡3||1:59 0/5||G.Ellis||J.Healy||A.Bostwick |- |style="text-align:center"|第57回||[[1932年]]5月15日||[[バーグーキング|Burgoo King]]||牡3||1:59 4/5||E.James||D.Thompson||E.Bradley |- |style="text-align:center"|第58回||[[1933年]]5月13日||Head Play||牡3||2:02 0/5||[[チャールズ・カートシンガー|C.Kurtsinger]]||T.Hayes||Mrs. S.Mason |- |style="text-align:center"|第59回||[[1934年]]5月12日||High Quest||牡3||1:58 1/5||R.Jones||B.Smith||Brookmeade Stable |- |style="text-align:center"|第60回||[[1935年]]5月11日||[[オマハ (競走馬)|Omaha]]||牡3||1:58 2/5||W.Saunders||J.Fitzsimmons||Belair Stud |- |style="text-align:center"|第61回||[[1936年]]5月16日||Bold Venture||牡3||1:59 0/5||[[ジョージ・ウルフ|G.Woolf]]||M.Hirsch||M.Schwartz |- |style="text-align:center"|第62回||[[1937年]]5月15日||[[ウォーアドミラル|War Admiral]]||牡3||1:58 2/5||C.Kurtsinger||G.Conway||Glen Riddle Farm |- |style="text-align:center"|第63回||[[1938年]]5月14日||Dauber||牡3||1:59 4/5||M.Peters||D.Handlen||[[ウィリアム・デュポン・ジュニア|Foxcatcher Farms]] |- |style="text-align:center"|第64回||[[1939年]]5月13日||[[シャルドン|Challedon]]||牡3||1:59 4/5||G.Seabo||L.Schaefer||W.Brann |- |style="text-align:center"|第65回||[[1940年]]5月11日||[[バイムレック|Bimelech]]||牡3||1:58 3/5||F.Smith||B.Hurley||E.Bradley |- |style="text-align:center"|第66回||[[1941年]]5月10日||[[ワーラウェイ|Whirlaway]]||牡3||1:58 4/5||[[エディ・アーキャロ|E.Arcaro]]||B.Jones||[[カルメットファーム|Calumet Farm]] |- |style="text-align:center"|第67回||[[1942年]]5月9日||[[アルサブ|Alsab]]||牡3||1:57 0/5||B.James||S.Swenke||Mrs. A.Sabath |- |style="text-align:center"|第68回||[[1943年]]5月8日||[[カウントフリート|Count Fleet]]||牡3||1:57 2/5||J.Longden||D.Cameron||Mrs. J.Hertz |- |style="text-align:center"|第69回||[[1944年]]5月13日||[[ペンシヴ|Pensive]]||牡3||1:59 1/5||C.McCreary||B.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第70回||[[1945年]][[6月16日]]||[[ポリネシアン (競走馬)|Polynesian]]||牡3||1:58 4/5||W.Wright||M.Dixon||Mrs. P.Widener |- |style="text-align:center"|第71回||[[1946年]]5月11日||[[アソールト|Assault]]||牡3||2:01 2/5||W.Mehrtens||M.Hirsch||King Ranch |- |style="text-align:center"|第72回||[[1947年]]5月10日||Faultless||牡3||1:59 0/5||D.Dodson||J.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第73回||[[1948年]]5月15日||[[サイテーション (競走馬)|Citation]]||牡3||2:02 2/5||E.Arcaro||J.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第74回||[[1949年]]5月14日||[[カポット|Capot]]||牡3||1:56 0/5||T.Atkinson||J.Gaver||Greentree Stable |- |style="text-align:center"|第75回||[[1950年]]5月20日||[[ヒルプリンス|Hill Prince]]||牡3||1:59 1/5||E.Arcaro||C.Hayes||C.Chenery |- |style="text-align:center"|第76回||[[1951年]][[5月19日]]||Bold||牡3||1:56 2/5||E.Arcaro||P.Burch||Brookmeade Stable |- |style="text-align:center"|第77回||[[1952年]]5月17日||Blue Man||牡3||1:57 2/5||C.McCreary||W.Stephens||Whitw Oak Stable |- |style="text-align:center"|第78回||[[1953年]]5月23日||[[ネイティヴダンサー|Native Dancer]]||牡3||1:57 4/5||E.Guerin||B.Winfrey||A.Vanderbilt |- |style="text-align:center"|第79回||[[1954年]]5月22日||[[ヘイスティロード|Hasty Road]]||牡3||1:57 2/5||J.Adams||H.Trotsek||Hasty House Farm |- |style="text-align:center"|第80回||[[1955年]]5月28日||[[ナシュア (競走馬)|Nashua]]||牡3||1:54 3/5||E.Arcaro||J.Fitzsimmons||Belair Stud |- |style="text-align:center"|第81回||[[1956年]]5月19日||Fabius||牡3||1:58 2/5||[[ビル・ハータック|W.Hartack]]||J.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第82回||[[1957年]]5月18日||[[ボールドルーラー|Bold Ruler]]||牡3||1:56 1/5||E.Arcaro||J.Fitzsimmons||Wheatley Stable |- |style="text-align:center"|第83回||[[1958年]]5月17日||[[ティムタム (競走馬)|Tim Tam]]||牡3||1:57 1/5||I.Valenzuela||J.Jones||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第84回||[[1959年]]5月16日||Royal Orbit||牡3||1:57 0/5||W.Harmatz||R.Cornell||J.Braunstein |- |style="text-align:center"|第85回||[[1960年]]5月21日||Bally Ache||牡3||1:57 3/5||D.Ussery||J.Pitt||Turfland |- |style="text-align:center"|第86回||[[1961年]]5月20日||[[キャリーバック|Carry Back]]||牡3||1:57 3/5||[[ジョニー・セラーズ|J.Sellers]]||J.Price||Mrs. J.Prince |- |style="text-align:center"|第87回||[[1962年]]5月19日||Greek Money||牡3||1:56 1/5||J.Rotz||V.Raines||Brandy |- |style="text-align:center"|第88回||[[1963年]]5月18日||Candy Spots||牡3||1:56 1/5||[[ウィリー・シューメーカー|W.Shoemaker]]||M.Tenney||R.Ellsworth |- |style="text-align:center"|第89回||[[1964年]]5月16日||[[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]||牡3||1:56 4/5||W.Hartack||H.Luro||Windfields Farm |- |style="text-align:center"|第90回||[[1965年]]5月15日||[[トムロルフ|Tom Rolfe]]||牡3||1:56 1/5||R.Turcotte||F.Whiteley||Powhatan Stable |- |style="text-align:center"|第91回||[[1966年]]5月21日||[[カウアイキング|Kauai King]]||牡3||1:55 2/5||D.Brumfield||H.Forrest||M.Ford |- |style="text-align:center"|第92回||[[1967年]]5月20日||[[ダマスカス (競走馬)|Damascus]]||牡3||1:55 1/5||W.Shoemaker||F.Whiteley||Mrs. T.Bancroft |- |style="text-align:center"|第93回||[[1968年]]5月18日||[[フォワードパス (競走馬)|Forward Pass]]||牡3||1:56 4/5||I.Valenzuela||H.Forrest||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第94回||[[1969年]]5月17日||[[マジェスティックプリンス|Majestic Prince]]||牡3||1:55 3/5||W.Hartack||J.Longden||F.McMahon |- |style="text-align:center"|第95回||[[1970年]]5月16日||[[パーソナリティ (競走馬)|Personality]]||牡3||1:56 1/5||E.Belmonte||J.Jacobs||Mrs E.Jacobs |- |style="text-align:center"|第96回||[[1971年]]5月15日||[[キャノネロ|Canonero]]||牡3||1:54 0/5||G.Avila||J.Arias||E.Caibett |- |style="text-align:center"|第97回||[[1972年]]5月20日||[[ビービービー|Bee Bee Bee]]||牡3||1:55 3/5||E.Nelson||R.Carroll||W.Farish III |- |style="text-align:center"|第98回||[[1973年]]5月19日||[[セクレタリアト|Secretariat]]||牡3||<span style="color:red"> 1:53 0/5 </span>||R.Turcotte||L.Laurin||[[ヘレン・チェナリー|Meadow Stable]] |- |style="text-align:center"|第99回||[[1974年]]5月18日||Little Current||牡3||1:54 3/5||M.Rivera||L.Rondinello||Darby Dan Farm |- |style="text-align:center; white-space:nowrap"|第100回||[[1975年]]5月17日||[[マスターダービー|Master Derby]]||牡3||1:56 2/5||D.McHargue||S.Adams||Golden Chance Farm |- |style="text-align:center"|第101回||[[1976年]]5月15日||[[エロキューショニスト|Elocutionist]]||牡3||1:55 0/5||J.Lively||P.Adwell||E.Cashman |- |style="text-align:center"|第102回||[[1977年]]5月21日||[[シアトルスルー|Seattle Slew]]||牡3||1:54 2/5||J.Cruguet||B.Turner||K.Taylor |- |style="text-align:center"|第103回||[[1978年]]5月20日||[[アファームド|Affirmed]]||牡3||1:54 2/5||S.Cauthen||L.Barrera||Harbor View Farm |- |style="text-align:center"|第104回||[[1979年]]5月19日||[[スペクタキュラービッド|Spectacular Bid]]||牡3||1:54 1/5||R.Franklin||B.Delp||Hawksworth Farm |- |style="text-align:center"|第105回||[[1980年]]5月17日||Codex||牡3||1:54 1/5||A.Cordero Jr.||[[ウェイン・ルーカス|D.Lukas]]||Tartan Stable |- |style="text-align:center"|第106回||[[1981年]]5月16日||[[プレザントコロニー|Pleasant Colony]]||牡3||1:54 3/5||J.Velasquez||J.Campo||Buckland Farm |- |style="text-align:center"|第107回||[[1982年]]5月15日||Aloma's Ruler||牡3||1:55 2/5||J.Kaenel||J.Lenzini Jr.||N.Scherr |- |style="text-align:center"|第108回||[[1983年]]5月21日||Deputed Testamony||牡3||1:55 2/5||D.Miller Jr.||B.Boniface||F.Sears |- |style="text-align:center"|第109回||[[1984年]]5月19日||Gate Dancer||牡3||1:53 3/5||A.Cordero Jr.||J.Berg||W.Davis |- |style="text-align:center"|第110回||[[1985年]]5月18日||Tank's Prospect||牡3||1:53 2/5||[[パット・デイ|P.Day]]||D.Lukas||Mr. & Mrs. E.Klein |- |style="text-align:center"|第111回||[[1986年]]5月17日||Snow Chief||牡3||1:54 4/5||A.Solis||M.Stute||C.Grinstead & B.Rochelle |- |style="text-align:center"|第112回||[[1987年]]5月16日||[[アリシーバ|Alysheba]]||牡3||1:55 4/5||[[クリス・マッキャロン|C.McCarron]]||J.Berg||D. & P.Scharbauer |- |style="text-align:center"|第113回||[[1988年]]5月21日||[[リズンスター|Risen Star]]||牡3||1:56 1/5||[[エディー・デラフーセイ|E.Delahoussaye]]||L.Roussel III||L.Roussel III & R.Lamarque |- |style="text-align:center"|第114回||[[1989年]]5月20日||[[サンデーサイレンス|Sunday Silence]]||牡3||1:53 4/5||P.Valenzuela||[[チャーリー・ウィッティンガム|C.Whittingham]]||Gaillard, Hancock, Whittingham |- |style="text-align:center"|第115回||[[1990年]]5月19日||Summer Squall||牡3||1:53 3/5||P.Day||N.Howard||Dogwood Stable |- |style="text-align:center"|第116回||[[1991年]]5月18日||[[ハンセル (競走馬)|Hansel]]||牡3||1:54 0/5||[[ジェリー・ベイリー|J.Bailey]]||F.Brothers||Lazy Lane Farms |- |style="text-align:center"|第117回||[[1992年]]5月16日||Pine Bluff||牡3||1:55 3/5||C.McCarron||T.Bohannan||Loblolly Stable |- |style="text-align:center"|第118回||[[1993年]]5月15日||Prairie Bayou||&#39480;3||1:56 3/5||[[マイク・スミス|M.Smith]]||T.Bohannan||Loblolly Stable |- |style="text-align:center"|第119回||[[1994年]]5月21日||[[タバスコキャット|Tabasco Cat]]||牡3||1:56 2/5||P.Day||D.Lukas||D.Reynolds & W.Young |- |style="text-align:center"|第120回||[[1995年]]5月20日||[[ティンバーカントリー|Timber Country]]||牡3||1:54 2/5||P.Day||D.Lukas||Gainesway Farm, Lewis, Young |- |style="text-align:center"|第121回||[[1996年]]5月18日||Louis Quatorze||牡3||1:53.43||P.Day||N.Zito||Condren & Cornacchia |- |style="text-align:center"|第122回||[[1997年]]5月17日||[[シルバーチャーム|Silver Charm]]||牡3||1:54 4/5||[[ゲイリー・スティーヴンス (競馬)|G.Stevens]]||B.Baffert||B. & R.Lewis |- |style="text-align:center"|第123回||[[1998年]]5月16日||[[リアルクワイエット|Real Quiet]]||牡3||1:54.75||[[ケント・デザーモ|K.Desormeaux]]||B.Baffert||M.Pegram |- |style="text-align:center"|第124回||[[1999年]]5月15日||[[カリズマティック|Charismatic]]||牡3||1:55.32||[[クリス・アントレー|C.Antley]]||D.Lukas||B. & R.Lewis |- |style="text-align:center"|第125回||[[2000年]]5月20日||Red Bullet||牡3||1:56.04||J.Bailey||J.Orseno||Stronach Stables |- |style="text-align:center"|第126回||[[2001年]]5月19日||[[ポイントギヴン|Point Given]]||牡3||1:55.51||G.Stevens||B.Baffert||The Thoroughbred Corporation |- |style="text-align:center"|第127回||[[2002年]]5月18日||[[ウォーエンブレム|War Emblem]]||牡3||1:56.36||[[ビクター・エスピノーザ|V.Espinoza]]||B.Baffert||The Thoroughbred Corporation |- |style="text-align:center"|第128回||[[2003年]]5月17日||[[ファニーサイド|Funny Cide]]||&#39480;3||1:55.61||[[ホセ・サントス|J.Santos]]||B.Tagg||Sackatoga Stable & J.Knowlton |- |style="text-align:center"|第129回||[[2004年]]5月15日||[[スマーティージョーンズ|Smarty Jones]]||牡3||1:55.59||S.Elliott||J.Servis||Someday Farm |- |style="text-align:center"|第130回||[[2005年]]5月21日||[[アフリートアレックス|Afleet Alex]]||牡3||1:55.04||J.Rose||T.Ritchey||Cash Is King Stable |- |style="text-align:center"|第131回||[[2006年]]5月20日||[[バーナーディニ|Bernardini]]||牡3||1:54.65||[[ハビエル・カステリャーノ|J.Castellano]]||T.Albertrani||[[ダーレーグループ|Darley]] |- |style="text-align:center"|第132回||[[2007年]]5月19日||[[カーリン|Curlin]]||牡3||1:53.46||R.Albarado||S.Asmussen||Stonestreet Stables & Padua Stables et al |- |style="text-align:center"|第133回||[[2008年]]5月17日||[[ビッグブラウン|Big Brown]]||牡3||1:54.80||K.Desormeaux||R.Dutrow||IEAH Stables & P.Pompa Jr. et al |- |style="text-align:center"|第134回||[[2009年]]5月16日||[[レイチェルアレクサンドラ|Rachel Alexandra]]||牝3||1:55.08||[[カルヴィン・ボレル|C.Borel]]||S.Asmussen||J.Jackson & H.Mccormick |- |style="text-align:center"|第135回||[[2010年]]5月15日||[[ルッキンアットラッキー|Lookin at Lucky]]||牡3||1:55.47||M.Garcia||[[ボブ・バファート|B.Baffert]]||K.Watson, M.Pegram, P.Weitman |- |style="text-align:center"|第136回||[[2011年]]5月21日||[[シャックルフォード|Shackleford]]||牡3||1:56.47||J.Castanon||D.Romans||M.Lauffer & W.Cubbedge |- |style="text-align:center"|第137回||[[2012年]]5月19日||[[アイルハヴアナザー|I'll Have Another]]||牡3||1:55.94||[[マリオ・グティエレス|M.Gutierrez]]||[[ダグ・オニール|Doug O'Neill]]||Reddam Racing LLC |- |style="text-align:center"|第138回||[[2013年]]5月18日||[[オクスボウ|Oxbow]]||牡3||1:57.54||G.Stevens||D.Lukas||Calumet Farm |- |style="text-align:center"|第139回||[[2014年]]5月17日||[[カリフォルニアクローム|California Chrome]]||牡3||1:54.84||V.Espinoza||A.Sherman||S.Coburn & P.Martin |- |style="text-align:center"|第140回||[[2015年]]5月16日||[[アメリカンファラオ|American Pharoah]]||牡3||1:58.46||V.Espinoza||B.Baffert||Zayat Stables LLC |- |style="text-align:center"|第141回||[[2016年]]5月21日||[[エグザジャレイター|Exaggerator]]||牡3||1:58.31||Kent Desormeaux|| J. Keith Desormeaux|| Big Chief Racing LLC et al |- |style="text-align:center"|第142回||[[2017年]]5月20日|| Cloud Computing ||牡3||1:55.98|| Javier Castellano|| [[チャド・ブラウン (調教師)|Chad Brown]] ||Klaravich Stables, Inc. and William H. Lawrence |- |style="text-align:center"|第143回||[[2018年]]5月19日||[[ジャスティファイ|Justify]]||牡3|| 1:55.93||M.Smith|| B.Baffert|| China Horse Club, Head of Plains Partners,<br />Starlight Racing and [[ウインスターファーム|WinStar Farm]] |- |style="text-align:center"|第144回||[[2019年]]5月18日||War of Will||牡3||1:54.34||T.Gaffalione||M.Casse||Gary Barber |- |style="text-align:center"|第145回||[[2020年]]10月3日||[[スイススカイダイバー|Swiss Skydiver]]||牝3||1:53.28|| R.Albarado || K.McPeek|| Peter J. Callahan |- |style="text-align:center"|第146回||[[2021年]]5月15日||[[ロンバウアー|Rombauer]]||牡3||1:53.62||F.Prat||M.McCarthy||Diane & John Fradkin |- |style="text-align:center"|第147回||[[2022年]]5月21日||[[アーリーヴォーティング|Early Voting]]||牡3||1:54.54||[[ホセ・オルティス (競馬)|J.Ortiz]]||C.Brown||Three Chimneys Farm LLC |- |style="text-align:center"|第148回||[[2023年]]5月20日||[[ナショナルトレジャー (競走馬)|National Treasure]]||牡3||1:55.12||[[ジョン・ヴェラスケス|J.Velazquez]]||B.Baffert||SF Racing LLC et al |} === 日本調教馬の成績 === {{Main|日本調教馬の日本国外への遠征#プリークネスステークス}} == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist |refs= * <ref name="IFHA2014">[http://www.horseracingintfed.com/default.asp?section=Racing&area=8&racepid=57233 IFHA Race Detail Preakness S.] 2014年11月11日閲覧。</ref> }} === 各回競走結果の出典 === * レーシング・ポストより(最終閲覧日:2015年5月19日) ** {{Racing Post|603266|2014|05|17}}、{{Racing Post|627481|2015|05|16}} == 関連項目 == * [[ケンタッキーダービー]] * [[ベルモントステークス]] * [[トラヴァーズステークス]] * [[ケンタッキーオークス]] * [[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ]] * [[アメリカクラシック三冠]] == 外部リンク == * [http://www.preakness.com/ Preakness Stakes] - プリークネスステークス公式サイト * [http://www.pimlico.com/ Maryland Jockey Club] - ピムリコ競馬場の管理団体 * [http://www.equibase.com/profiles/Results.cfm?type=Stakes&stkid=994 Equibase Preakness Stakes] {{アメリカ競馬三冠}} {{デフォルトソート:ふりくねすすてくす}} [[Category:アメリカ合衆国の競馬の競走]]
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2023-05-21T00:35:31Z
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2000ギニーステークス
2000ギニーステークス(Two Thousand Guineas Stakes)とはイギリスのクラシック三冠の第1冠として、ニューマーケット競馬場の芝の直線1マイル(約1609メートル)で行われる競馬のG1競走である。 競走名の由来は第1回の優勝馬の馬主が2000ギニーをもらったからとされる。 出走条件は3歳限定で繁殖能力の選定のために行われるので、騸(せん)馬の出走はできない。 日本では皐月賞のモデルレースとなっている。日本の皐月賞は多くの馬が3月頃の決まったステップレースから挑むのに対し、2000ギニーは年の初戦にされることも多い。2000年以降、ゴーラン(2001年)、ロックオブジブラルタル(2002年)、フットステップスインザサンド(2005年)、ジョージワシントン(2006年)、コックニーレベル(2007年)、ヘンリーザナビゲーター(2008年)、シーザスターズ(2009年)、キャメロット(2012年)、ドーンアプローチ(2013年)、グレンイーグルス(2015年)、ガリレオゴールド(2016年)、チャーチル(2017年)、サクソンウォリアー(2018年)、マグナグレシア(2019年)、カメコ(2020年)、コロエバス(2022年)の16頭が当年の初戦として臨み勝利している。
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2000ギニーステークスとはイギリスのクラシック三冠の第1冠として、ニューマーケット競馬場の芝の直線1マイル(約1609メートル)で行われる競馬のG1競走である。 競走名の由来は第1回の優勝馬の馬主が2000ギニーをもらったからとされる。 出走条件は3歳限定で繁殖能力の選定のために行われるので、騸(せん)馬の出走はできない。 日本では皐月賞のモデルレースとなっている。日本の皐月賞は多くの馬が3月頃の決まったステップレースから挑むのに対し、2000ギニーは年の初戦にされることも多い。2000年以降、ゴーラン(2001年)、ロックオブジブラルタル(2002年)、フットステップスインザサンド(2005年)、ジョージワシントン(2006年)、コックニーレベル(2007年)、ヘンリーザナビゲーター(2008年)、シーザスターズ(2009年)、キャメロット(2012年)、ドーンアプローチ(2013年)、グレンイーグルス(2015年)、ガリレオゴールド(2016年)、チャーチル(2017年)、サクソンウォリアー(2018年)、マグナグレシア(2019年)、カメコ(2020年)、コロエバス(2022年)の16頭が当年の初戦として臨み勝利している。
{{競馬の競走 |馬場 = 芝 |競走名 = 2000ギニーステークス<br />''{{Lang|en|Two Thousand Guineas Stakes}}'' |画像 = [[ファイル:The_Finish_of_the_Two_Thousand_Guineass_at_Newmarket_Samuel_Henry_Alken.jpg|250px]] |画像説明 = 2000ギニーステークスにおける入線の風景<br />サミュエル・ヘンリー・アルケン([[1810年|1810]] - [[1894年|1894]])作 |開催国 = {{Flagicon|UK}}[[イギリスの競馬|イギリス]] |開催地 = [[ニューマーケット競馬場]] |年次 = 2014 |施行時期 = 主に5月第1土曜 |格付け = G1 |距離 = 直線・1[[マイル|mile]](約1609[[メートル|m]]) |条件 = [[サラブレッド]]3歳[[牡馬]]・[[牝馬]] |1着賞金 = |賞金総額 = 45万[[スターリング・ポンド|英ポンド]]<ref name="IFHA2014"/> |負担重量 = 牡馬 9[[ストーン (単位)|ストーン]]=126[[ポンド (質量)|ポンド]](≒57.15kg)<br>牝馬 8ストーン11ポンド=123ポンド(約55.79kg)<ref name="IFHA2014"/> |創設 = [[1809年]]4月18日 }} '''2000ギニーステークス'''('''Two Thousand Guineas Stakes''')とはイギリスの[[クラシック (競馬)|クラシック]][[三冠 (競馬)|三冠]]の第1冠として、[[ニューマーケット競馬場]]の芝の直線1[[マイル]](約1609[[メートル]])で行われる[[競馬]]の[[競馬の競走格付け|G1]]競走である。 競走名の由来は第1回の優勝馬の馬主が2000[[ギニー]]をもらったからとされる。 出走条件は3歳限定で繁殖能力の選定のために行われるので、[[せん馬|騸(せん)馬]]の出走はできない。 日本では[[皐月賞]]のモデルレースとなっている。日本の皐月賞は多くの馬が3月頃の決まったステップレースから挑むのに対し、2000ギニーは年の初戦にされることも多い。2000年以降、[[ゴーラン]]([[2001年]])、[[ロックオブジブラルタル]]([[2002年]])、[[フットステップスインザサンド]]([[2005年]])、[[ジョージワシントン]]([[2006年]])、[[コックニーレベル]]([[2007年]])、[[ヘンリーザナビゲーター]]([[2008年]])、[[シーザスターズ]]([[2009年]])、[[キャメロット (競走馬)|キャメロット]]([[2012年]])、[[ドーンアプローチ]]([[2013年]])、[[グレンイーグルス]](2015年)、[[ガリレオゴールド]](2016年)、[[チャーチル (競走馬)|チャーチル]]([[2017年]])、[[サクソンウォリアー]]([[2018年]])、[[マグナグレシア]](2019年)、[[カメコ (競走馬)|カメコ]](2020年)、[[コロエバス]](2022年)の16頭が当年の初戦として臨み勝利している{{Refnest|group="注"|[[キングズベスト]]([[2000年]])と{{仮リンク|ハーフド|en|Haafhd}}([[2004年]])は[[クレイヴンステークス]]{{enlink|Craven_Stakes}}(G3、[[ニューマーケット競馬場]])から、{{仮リンク|リフューズトゥベンド|en|Refuse_To_Bend}}([[2003年]])は{{仮リンク|レパーズタウン2000ギニートライアルステークス|en|Leopardstown_2,000_Guineas_Trial_Stakes}}(G3、アイルランドの[[レパーズタウン競馬場]])から、[[マクフィ]]([[2010年]])は{{仮リンク|ジェベル賞|en|Prix_Djebel}}(G3、フランスの[[メゾンラフィット競馬場]])から、[[フランケル (競走馬)|フランケル]]([[2011年]])は[[グリーナムステークス]]{{enlink|Greenham_Stakes}}(G3、[[ニューベリー競馬場]])からの参戦であった。}}。 == 歴史 == 成立経緯は当時の貴族社会にあった内輪的な考えもあり、記録が少なく定かでない。<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |pages=36-39}}</ref>[[山本雅男]]はニューマーケットと[[ジョッキークラブ]]の関係性を踏まえ、同組織幹部や永世会長の[[チャールズ・バンベリー (第6代準男爵)|チャールズ・バンベリー]]が組織の統治の下のレースとして設立したという説を唱えている。<ref name=":0" /> また同人物は、競走馬は3歳春から秋にかけて能力の急成長を遂げるため、若駒の可能性を見るという需要の元に創設したと分析している。<ref name=":0" /> *[[1809年]] ニューマーケット競馬場で第1回競走を施行 *[[1868年]] フォルモーザ(Formosa)とモスレム(Moslem)が1着同着 *[[1940年]] - [[1945年]] [[第二次世界大戦]]の影響によりローリーマイルコースからジュライコースで代替開催 *[[1980年]] [[ヌレイエフ]](Nureyev)、1位入線も斜行により失格 *[[2020年]] 新型コロナウイルス感染拡大の影響で6月に順延開催 === 歴代優勝馬 === {| class="wikitable" !回数!!施行日!!優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||style="white-space:nowrap"|[[1809年]][[4月18日]]||Wizard||牡3||||W.Clift||T.Perren||C.Wilson |- |style="text-align:center"|第2回||[[1810年]][[月日]]||Hephestion||牡3||||F.Buckle||R.Robson||2nd Earl Grosvenor |- |style="text-align:center"|第3回||[[1811年]]月日||Trophonus||牡3||||S.Barnard||D.Boyce||R.Andrew |- |style="text-align:center"|第4回||[[1812年]]月日||Cwrw||牡3||||S.Chifney||W.Chifney||3rd Earl of Darlington |- |style="text-align:center"|第5回||[[1813年]]月日||Smolensko||牡3||||H.Miller||Crouch||C.Bunbury |- |style="text-align:center"|第6回||[[1814年]]月日||Olive||牡3||||W.Arnull||D.Boyce||C.Wyndham |- |style="text-align:center"|第7回||[[1815年]][[4月25日]]||Tigris||牡3||||W.Arnull||D.Boyce||Lord Rous |- |style="text-align:center"|第8回||[[1816年]]月日||Nectar||牡3||||W.Arnull||D.Boyce||G.Cavendish |- |style="text-align:center"|第9回||[[1817年]]月日||Manfred||牡3||||W.Wheatley||R.Stephenson||S.Stonehewer |- |style="text-align:center"|第10回||[[1818年]]月日||Interpreter||牡3||||W.Clift||R.Prince||Lord Foley |- |style="text-align:center"|第11回||[[1819年]]月日||Antar||牡3||||E.Edwards||J.Edwards||J.Shelley |- |style="text-align:center"|第12回||[[1820年]]月日||Pindarrie||牡3||||F.Buckle||R.Robson||4th Duke of Grafton |- |style="text-align:center"|第13回||[[1821年]]月日||Reginald||牡3||||F.Buckle||R.Robson||4th Duke of Grafton |- |style="text-align:center"|第14回||[[1822年]]月日||Pastille||牝3||||F.Buckle||R.Robson||4th Duke of Grafton |- |style="text-align:center"|第15回||[[1823年]]月日||Nicolo||牡3||||W.Wheatley||J.Rogen||J.Rogers |- |style="text-align:center"|第16回||[[1824年]]月日||Schahriar||牡3||||W.Wheatley||||J.Haffenden |- |style="text-align:center"|第17回||[[1825年]]月日||Enamel||牡3||||J.Robinson||C.Marson||2nd Marquess of Exeter |- |style="text-align:center"|第18回||[[1826年]]月日||Dervise||牡3||||J.B.Day||R.Robson||4th Duke of Grafton |- |style="text-align:center"|第19回||[[1827年]]月日||Turcoman||牡3||||F.Buckle||R.Robson||4th Duke of Grafton |- |style="text-align:center"|第20回||[[1828年]]月日||Cadland||牡3||||J.Robinson||D.Boyce||5th Duke of Rutland |- |style="text-align:center"|第21回||[[1829年]]月日||Patron||牡3||||F.Boyce||C.Marson||2nd Marquess of Exeter |- |style="text-align:center"|第22回||[[1830年]]月日||Augustus||牡3||||P.Connolly||C.Marson||2nd Marquess of Exeter |- |style="text-align:center"|第23回||[[1831年]][[4月19日]]||Riddlesworth||牡3||||J.Robinson||J.Edwards||5th Earl of Jersey |- |style="text-align:center"|第24回||[[1832年]]月日||Archibald||牡3||||A.Pavis||||C.Peel |- |style="text-align:center"|第25回||[[1833年]]月日||Clearwell||牡3||||J.Robinson||||3rd Earl of Orford |- |style="text-align:center"|第26回||[[1834年]]月日||[[グレンコー (競走馬)|Glencoe]]||牡3||||J.Robinson||J.Edwards||5th Earl of Jersey |- |style="text-align:center"|第27回||[[1835年]]月日||Ibrahim||牡3||||J.Robinson||J.Edwards||5th Earl of Jersey |- |style="text-align:center"|第28回||[[1836年]]4月19日||[[ベイミドルトン|Bay Middleton]]||牡3||||J.Robinson||J.Edwards||5th Earl of Jersey |- |style="text-align:center"|第29回||[[1837年]]月日||Achmet||牡3||||E.Edwards||E.Edwards||5th Earl of Jersey |- |style="text-align:center"|第30回||[[1838年]]月日||Grey Momus||牡3||||J.Day||J.Day||Lord G.Bentinck |- |style="text-align:center"|第31回||[[1839年]]月日||The Corsair||牡3||||B.Wakefield||J.Doe||1st Earl of Lichfield |- |style="text-align:center"|第32回||[[1840年]]月日||[[クルシフィックス|Crucifix]]||牝3||||J.Day||J.Day||G.Bentinck |- |style="text-align:center"|第33回||[[1841年]]月日||Ralph||牡3||||J.Day||J.Scott||4th Earl of Albemarle |- |style="text-align:center"|第34回||[[1842年]]月日||Meteor||牡3||||B.Scott||J.Scott||J.Bowes |- |style="text-align:center"|第35回||[[1843年]]月日||Cotherstone||牡3||||B.Scott||J.Scott||J.Bowes |- |style="text-align:center"|第36回||[[1844年]]月日||The Ugly Buck||牡3||||J.Day||J.Day||J.Day |- |style="text-align:center"|第37回||[[1845年]]月日||Idas||牡3||||E.Flatman||R.Boyce Jr.||Lord Stradbroke |- |style="text-align:center"|第38回||[[1846年]]月日||Sir Tatton Sykes||牡3||||B.Scott||W.Oates||W.Scott |- |style="text-align:center"|第39回||[[1847年]]月日||Conyngham||牡3||||J.Robinson||J.Day Jr.||R.Pigot |- |style="text-align:center"|第40回||[[1848年]]4月25日||Flatcatcher||牡3||||J.Robinson||H.Stebbing||B.Green |- |style="text-align:center"|第41回||[[1849年]]月日||Nunnykirk||牡3||||F.Butler||J.Scott||A.Nichol |- |style="text-align:center"|第42回||[[1850年]]月日||Pitsford||牡3||||A.Day||J.Day Jr.||H.Hill |- |style="text-align:center"|第43回||[[1851年]]月日||Hernandez||牡3||||E.Flatman||J.Kent Jr.||Lord Enfield |- |style="text-align:center"|第44回||[[1852年]]月日||[[ストックウェル (競走馬)|Stockwell]]||牡3||||J.Norman||W.Harlock||2nd Marquess of Exeter |- |style="text-align:center"|第45回||[[1853年]]4月日||[[ウェストオーストラリアン (競走馬)|West Australian]]||牡3||||F.Butler||J.Scott||J.Bowes |- |style="text-align:center"|第46回||[[1854年]]月日||The Hermit||牡3||||A.Day||J.Day Jr.||J.Gully |- |style="text-align:center"|第47回||[[1855年]]月日||Lord of the Isles||牡3||||T.Aldcroft||W.Day||J.Merry |- |style="text-align:center"|第48回||[[1856年]]月日||Fazzoletto||牡3||||N.Flatman||J.Scott||[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|14th Earl of Derby]] |- |style="text-align:center"|第49回||[[1857年]]月日||Vedette||牡3||1:51||A.Day||J.Osborne||2nd Earl of Zetland |- |style="text-align:center"|第50回||[[1858年]]月日||Fitz-Roland||牡3||||J.Wells||G.Manning||Sir J.Hawley |- |style="text-align:center"|第51回||[[1859年]]月日||The Promised Land||牡3||||A.Day||W.Day||W.Day |- |style="text-align:center"|第52回||[[1860年]][[4月24日]]||The Wizard||牡3||||T.Ashmall||J.Scott||A.Nichol |- |style="text-align:center"|第53回||[[1861年]][[4月30日]]||Diophantus||牡3||1:43||A.Edwards||J.Dawson||7th Earl of Stamford |- |style="text-align:center"|第54回||[[1862年]]月日||The Marquis||牡3||||T.Ashmall||J.Scott||S.Hawke |- |style="text-align:center"|第55回||[[1863年]]月日||Macaroni||牡3||||T.Chaloner||J.Godding||R.Naylor |- |style="text-align:center"|第56回||[[1864年]][[4月26日]]||General Peel||牡3||||T.Aldcroft||T.Dawson||5th Earl of Glasgow |- |style="text-align:center"|第57回||[[1865年]][[5月2日]]||[[グラディアトゥール|Gladiateur]]||牡3||||H.Grimshaw||T.Jennings||Count F.de Lagrange |- |style="text-align:center"|第58回||[[1866年]]月日||Lord Lyon||牡3||||R.Thomas||J.Dover||R.Sutton |- |style="text-align:center"|第59回||[[1867年]]月日||Vauban||牡3||||G.Fordham||J.Day Jr.||8th Duke of Beaufort |- | rowspan="2" style="text-align:center" |第60回|| rowspan="2" |[[1868年]]4月28日||[[フォルモサ (競走馬)|Formosa]]||牝3|| ||G.Fordham||H.Woolcott||W.Graham |- |Moslem |牡3 | |T.Challoner |A.Taylor |W.Crawfurd |- |style="text-align:center"|第61回||[[1869年]]月日||Pretender||牡3||||J.Osborne||T.Dawson||J.Johnstone |- |style="text-align:center"|第62回||[[1870年]]月日||Macgregor||牡3||||J.Daley||J.Waugh||J.Merry |- |style="text-align:center"|第63回||[[1871年]]月日||Bothwell||牡3||||J.Osborne||T.Dawson||J.Johnstone |- |style="text-align:center"|第64回||[[1872年]]月日||Prince Charlie||牡3||||J.Osborne||J.Dawson||J.Dawson |- |style="text-align:center"|第65回||[[1873年]]4月30日||Gang Forward||牡3||1:46||T.Challoner||A.Taylor||W.Crawfurd |- |style="text-align:center"|第66回||[[1874年]][[5月6日]]||Atlantic||牡3||||[[フレッド・アーチャー|F.Archer]]||[[マシュー・ドーソン|M.Dawson]]||6th Viscount Falmouth |- |style="text-align:center"|第67回||[[1875年]][[4月28日]]||Camballo||牡3||||J.Osborne||M.Dawson||H.Vyner |- |style="text-align:center"|第68回||[[1876年]]月日||Petrarch||牡3||||H.Luke||J.Dawson||Lord Dupplin |- |style="text-align:center"|第69回||[[1877年]]月日||Chamant||牡3||||J.Goater||T.Jennings||Count F.de Lagrange |- |style="text-align:center"|第70回||[[1878年]][[5月8日]]||Pilgrimage||牝3||||T.Cannon||J.Dawson||4th Earl of Lonsdale |- |style="text-align:center"|第71回||[[1879年]]4月30日||Charibert||牡3||||F.Archer||M.Dawson||6th Viscount Falmouth |- |style="text-align:center"|第72回||[[1880年]]4月28日||Petronel||牡3||||G.Fordham||J.Cannon||8th Duke of Beaufort |- |style="text-align:center"|第73回||[[1881年]][[5月4日]]||Peregrine||牡3||||F.Webb||R.Peck||1st Duke of Westminster |- |style="text-align:center"|第74回||[[1882年]]月日||[[ショットオーヴァー|Shotover]]||牝3||||T.Cannon||J.Porter||1st Duke of Westminster |- |style="text-align:center"|第75回||[[1883年]]4月25日||Galliard||牡3||||F.Archer||M.Dawson||6th Viscount Falmouth |- |style="text-align:center"|第76回||[[1884年]]月日||Scot Free||牡3||||W.Platt||T.Chaloner||J.Foy |- |style="text-align:center"|第77回||[[1885年]]5月6日||Paradox||牡3||style="white-space:nowrap"|1:51 2/5||F.Archer||J.Porter||W.Broderick-Cloete |- |style="text-align:center"|第78回||[[1886年]]4月28日||[[オーモンド|Ormonde]]||牡3||1:46 4/5||G.Barnett||J.Porter||1st Duke of Westminster |- |style="text-align:center"|第79回||[[1887年]]4月26日||Enterprise||牡3||1:45 3/5||T.Cannon||J.Ryan||D.Baird |- |style="text-align:center"|第80回||[[1888年]]5月2日||Ayrshire||牡3||1:52 1/5||J.Osborne||G.Dawson||6th Duke of Portland |- |style="text-align:center"|第81回||[[1889年]]月日||Enthusiast||牡3||||T.Cannon||J.Ryan||D.Baird |- |style="text-align:center"|第82回||[[1890年]]月日||Surefoot||牡3||||J.Liddiard||C.Jousiffe||A.W.Merry |- |style="text-align:center"|第83回||[[1891年]]4月日||[[コモン (競走馬)|Common]]||牡3||||G.Barrett||J.Porter||F.Johnstone & 1st Baron Alington |- |style="text-align:center"|第84回||[[1892年]][[5月3日]]||[[ボナヴィスタ|Bona Vista]]||牡3||||J.Robinson||W.Jarvis||C.Rose |- |style="text-align:center"|第85回||[[1893年]]4月日||[[アイシングラス (競走馬)|Isinglass]]||牡3||1:42 2/5||T.Loates||J.Jewitt||H.McCalmont |- |style="text-align:center"|第86回||[[1894年]]月日||Ladas||牡3||1:44 1/5||W.Bradford||M.Dawson||5th Earl of Rosebery |- |style="text-align:center"|第87回||[[1895年]]月日||Kirkconnel||牡3||||J.Watts||J.Day||J.Maple |- |style="text-align:center"|第88回||[[1896年]]月日||St.Frusquin||牡3||||T.Loates||A.Hayhoe||L.de Rothschild |- |style="text-align:center"|第89回||[[1897年]]月日||Galtee More||牡3||||C.Wood||S.Darling||J.Gubbins |- |style="text-align:center"|第90回||[[1898年]][[4月27日]]||Disraeli||牡3||||S.Loates||J.Dawson||W.Johnstone |- |style="text-align:center"|第91回||[[1899年]]月日||[[フライングフォックス|Flying Fox]]||牡3||||M.Cannon||J.Porter||1st Duke of Westminster |- |style="text-align:center"|第92回||[[1900年]]5月2日||[[ダイヤモンドジュビリー (競走馬)|Daiamond Jubilee]]||牡3||||H.Jones||R.Marsh||[[エドワード7世 (イギリス王)|Prince of Wales]] |- |style="text-align:center"|第93回||[[1901年]]月日||Handicapper||牡3||||W.Halsey||F.Day||E.Cassel |- |style="text-align:center"|第94回||[[1902年]]4月日||[[セプター (競走馬)|Sceptre]]||牝3||||H.Randall||R.S.Sievier||J.Miller |- |style="text-align:center"|第95回||[[1903年]][[4月29日]]||[[ロックサンド|Rock Sand]]||牡3||||S.Martin||G.Blackwell||J.Miller |- |style="text-align:center"|第96回||[[1904年]]月日||St.Amant||牡3||||K.Cannon||A.Hayhoe||L.de Rothschild |- |style="text-align:center"|第97回||[[1905年]]月日||Vedas||牡3||||H.Jones||J.Robinson||F.de Wend-Fenton |- |style="text-align:center"|第98回||[[1906年]]月日||Gorgos||牡3||||H.Jones||R.Marsh||A.James |- |style="text-align:center"|第99回||[[1907年]]月日||Slieve Gallion||牡3||||B.Higgs||S.Darling||H.Greer |- |style="text-align:center; white-space:nowrap"|第100回||[[1908年]]月日||Norman||牡3||||O.Madden||J.Watson||A.Belmont II |- |style="text-align:center"|第101回||[[1909年]]5月日||[[ミノル (イギリスの競走馬)|Minoru]]||牡3||||H.Jones||R.Marsh||[[エドワード7世 (イギリス王)|The King Edward VII]] |- |style="text-align:center"|第102回||[[1910年]]月日||Neil Gow||牡3||||D.Maher||P.Peck||5th Earl of Rosebery |- |style="text-align:center"|第103回||[[1911年]]月日||Sunstar||牡3||||G.Stern||C.Morton||J.Joel |- |style="text-align:center"|第104回||[[1912年]]月日||Sweeper||牡3||1:38 2/5||D.Maher||A.Persse||H.Duryea |- |style="text-align:center"|第105回||[[1913年]]月日||Louvois||牡3||1:38 4/5||J.Reiff||D.Waugh||W.Raphael |- |style="text-align:center"|第106回||[[1914年]]月日||Kennymore||牡3||1:38 0/5||G.Stern||A.Taylor||J.Thursby |- |style="text-align:center"|第107回||[[1915年]]5月日||[[ポマーン|Pommern]]||牡3||1:43 2/5||S.Donoghue||C.Peck||S.Joel |- |style="text-align:center"|第108回||[[1916年]]月日||Clarissimus||牡3||1:39 3/5||J.Clark||W.Waugh||7th Viscount Falmouth |- |style="text-align:center"|第109回||[[1917年]]5月2日||[[ゲイクルセイダー|Gay Crusader]]||牡3||1:40 4/5||S.Donoghue||A.Taylor||A.Cox |- |style="text-align:center"|第110回||[[1918年]][[5月1日]]||[[ゲインズバラ (競走馬)|Gainsborough]]||牡3||1:44 3/5||J.Childs||A.Taylor||Lady J.Douglas |- |style="text-align:center"|第111回||[[1919年]][[5月7日]]||The Panther||牡3||1:44 2/5||D.Cooper||G.Manser||A.Black |- |style="text-align:center"|第112回||[[1920年]]4月28日||[[テトラテマ|Tetratema]]||牡3||1:43 1/5||B.Carslake||A.Persse||D.McCalmont |- |style="text-align:center"|第113回||[[1921年]]月日||Craig an Eran||牡3||1:41 3/5||J.Brennan||A.Taylor||2nd Viscount Astor |- |style="text-align:center"|第114回||[[1922年]]月日||St.Louis||牡3||1:43 3/5||G.Archibald||P.Gilpin||Lord Queensborough |- |style="text-align:center"|第115回||[[1923年]]月日||Ellangowan||牡3||1:37 4/5||C.Elliott||J.Jarvis||5th Earl of Rosebery |- |style="text-align:center"|第116回||[[1924年]]月日||Diophon||牡3||1:39 0/5||G.Hulme||D.Dawson||[[アーガー・ハーン3世|His Highness A.Khan]] |- |style="text-align:center"|第117回||[[1925年]]4月日||[[マンナ (競走馬)|Manna]]||牡3||1:39 2/5||S.Donoghue||F.Darling||H.Morriss |- |style="text-align:center"|第118回||[[1926年]]月日||[[コロラド (競走馬)|Colorado]]||牡3||1:43 3/5||T.Weston||G.Lambton||[[エドワード・スタンリー (第17代ダービー伯爵)|17th Earl of Derby]] |- |style="text-align:center"|第119回||[[1927年]]月日||Adam's Apple||牡3||1:38 1/5||J.Leach||H.Cottrill||C.Whitburn |- |style="text-align:center"|第120回||[[1928年]]月日||Flamingo||牡3||1:38 4/5||C.Elliott||J.Jarvis||1st Baron Milford |- |style="text-align:center"|第121回||[[1929年]]月日||Mr.Jinks||牡3||1:39 4/5||H.Beasley||A.Persse||D.McCalmont |- |style="text-align:center"|第122回||[[1930年]]月日||[[ダイオライト|Diolite]]||牡3||1:42 2/5||F.Fox||F.Templeman||H.Hirst |- |style="text-align:center"|第123回||[[1931年]]4月29日||Cameronian||牡3||1:39 2/5||J.CHilds||F.Darling||J.Dewar |- |style="text-align:center"|第124回||[[1932年]]月日||Orwell||牡3||1:42 2/5||B.Jones||J.Lawson||W.Singer |- |style="text-align:center"|第125回||[[1933年]]4月26日||Rodosto||牡3||1:40 2/5||R.Breithis||H.Count||P.de Facigny-Lucinge |- |style="text-align:center"|第126回||[[1934年]]月日||Colombo||牡3||1:40 0/5||R.Johnstone||T.Hogg||1st Baron Glanely |- |style="text-align:center"|第127回||[[1935年]]5月日||[[バーラム (競走馬)|Bahram]]||牡3||1:41 2/5||F.Fox||F.Butters||His Highness A.Khan |- |style="text-align:center"|第128回||[[1936年]]月日||Pay Up||牡3||1:39 3/5||B.Dick||J.Lawson||2nd Viscount Astor |- |style="text-align:center"|第129回||[[1937年]]月日||Le Ksar||牡3||1:44 3/5||C.Semblat||F.Carter||E.de Saint-Alary |- |style="text-align:center"|第130回||[[1938年]]月日||Pasch||牡3||1:38 4/5||[[ゴードン・リチャーズ|G.Richards]]||F.Darling||H.Morriss |- |style="text-align:center"|第131回||[[1939年]]5月日||Blue Peter||牡3||1:39 2/5||E.Smith||J.Jarvis||6th Earl of Rosebery |- |style="text-align:center"|第132回||[[1940年]]月日||[[ジェベル (競走馬)|Djebel]]||牡3||1:42 3/5||C.Elliott||A.Swann||M.Boussac |- |style="text-align:center"|第133回||[[1941年]]月日||Lambert Simnel||牡3||1:42 3/5||C.Elliott||F.Templeman||2nd Duke of Westminster |- |style="text-align:center"|第134回||[[1942年]]月日||Big Game||牡3||1:40 4/5||G.Richards||F.Darling||[[ジョージ6世 (イギリス王)|The King George VI]] |- |style="text-align:center"|第135回||[[1943年]]月日||Kingsway||牡3||1:37 3/5||S.Wragg||J.Lawson||A.Saunders |- |style="text-align:center"|第136回||[[1944年]]月日||Garden Path||牝3||1:39 3/5||H.Wragg||W.Earl||17th Earl of Derby |- |style="text-align:center"|第137回||[[1945年]]5月日||[[コートマーシャル|Court Martial]]||牡3||1:40 4/5||G.Richards||J.Lawson||2nd Viscount Astor |- |style="text-align:center"|第138回||[[1946年]]月日||Happy Knight||牡3||1:38 1/5||T.Weston||H.Jelliss||W.Cooke |- |style="text-align:center"|第139回||[[1947年]]4月30日||[[テューダーミンストレル|Tudor Minstrel]]||牡3||1:37 4/5||G.Richards||F.Darling||J.Dewar |- |style="text-align:center"|第140回||[[1948年]]4月28日||[[マイバブー|My Babu]]||牡3||1:35 4/5||C.Smirke||S.Armstrong||H.H.Maharaja of Baroda |- |style="text-align:center"|第141回||[[1949年]]5月日||[[ニンバス (1946年生の競走馬)|Nimbus]]||牡3||1:38 0/5||C.Elliott||G.Colling||M.Glenister |- |style="text-align:center"|第142回||[[1950年]]月日||[[パレスタイン|Palestine]]||牡3||1:36 4/5||C.Smirke||M.Marsh||[[アーガー・ハーン4世|His Highness A.Khan]] |- |style="text-align:center"|第143回||[[1951年]]月日||Ki Ming||牡3||1:42 0/5||S.Breasley||M.Beary||L.On |- |style="text-align:center"|第144回||[[1952年]]4月30日||Thunderhead||牡3||1:42.48||R.Poincelet||E.Pollet||E.Constant |- |style="text-align:center"|第145回||[[1953年]]月日||Nearula||牡3||1:38.26||E.Britt||C.Elsey||W.Humble |- |style="text-align:center"|第146回||[[1954年]]5月日||Darius||牡3||1:39.45||M.Mercer||H.Wragg||P.Loraine |- |style="text-align:center"|第147回||[[1955年]]4月27日||[[アワバブー|Our Babu]]||牡3||1:38.83||D.Smith||G.Brooke||D.Robinson |- |style="text-align:center"|第148回||[[1956年]]5月日||Gilles de Retz||牡3||1:38.76||F.Barlow||H.Houghton||A.Samuel |- |style="text-align:center"|第149回||[[1957年]]5月1日||[[クレペロ|Crepello]]||牡3||1:38.24||[[レスター・ピゴット|L.Piggott]]||N.Murless||Sir V.Sassoon |- |style="text-align:center"|第150回||[[1958年]]4月30日||Pall Mall||牡3||1:39.43||D.Smith||C.Rochefort||[[エリザベス2世|The Queen Elizabeth II]] |- |style="text-align:center"|第151回||[[1959年]]4月29日||Taboun||牡3||1:42.42||G.Moore||A.Head||Prince A.Khan |- |style="text-align:center"|第152回||[[1960年]]4月27日||Martial||牡3||1:38.33||R.Hutchinson||P.Prendergast||R.Webster |- |style="text-align:center"|第153回||[[1961年]]4月26日||Rockavon||牡3||1:39.46||N.Stick||G.Boyd||T.Yuill |- |style="text-align:center"|第154回||[[1962年]]5月2日||Privy Councillor||牡3||1:38.74||B.Rickaby||T.Waugh||G.Glover |- |style="text-align:center"|第155回||[[1963年]]5月1日||[[オンリーフォアライフ|Only for Life]]||牡3||1:45.00||J.Lindley||J.Tree||M.Sheriffe |- |style="text-align:center"|第156回||[[1964年]]4月29日||[[ボールドリック|Baldric]]||牡3||1:38.44||[[ビル・パイアーズ|Bill Pyers]]||E.Fellows||[[ボールドリック#ブルラン牧場とジャクソン夫妻|Mrs H.Jackson]] |- |style="text-align:center"|第157回||[[1965年]]4月28日||Niksar||牡3||1:43.31||D.Keith||W.Nightingall||W.Harvey |- |style="text-align:center"|第158回||[[1966年]]4月27日||Kashmir||牡3||1:40.48||J.Lindley||M.Barholomew||P.Butler |- |style="text-align:center"|第159回||[[1967年]]5月3日||[[ロイヤルパレス|Royal Palace]]||牡3||1:39.37||G.Moore||N.Murless||J.Joel |- |style="text-align:center"|第160回||[[1968年]]5月1日||[[サーアイヴァー|Sir Ivor]]||牡3||1:39.26||L.Piggott||[[ヴィンセント・オブライエン|M.V.O'Brien]]||R.Guest |- |style="text-align:center"|第161回||[[1969年]]4月30日||Right Tack||牡3||1:41.65||G.Lewis||J.Sutcliffe||J.Brown |- |style="text-align:center"|第162回||[[1970年]]4月29日||[[ニジンスキー (競走馬)|Nijinsky]]||牡3||1:41.54||L.Piggott||M.V.O'Brien||[[チャールズ・W・エンゲルハード・ジュニア|C.Engelhard]] |- |style="text-align:center"|第163回||[[1971年]]5月1日||[[ブリガディアジェラード|Brigadier Gerard]]||牡3||1:41.54||J.Mercer||W.R.Hern||J.Hislop |- |style="text-align:center"|第164回||[[1972年]]4月30日||[[ハイトップ|High Top]]||牡3||1:40.82||[[ウィリー・カーソン|W.Carson]]||B.Cutsem||J.Thorn |- |style="text-align:center"|第165回||[[1973年]]5月5日||[[ハリーオン系#モンフィス|Mon Fils]]||牡3||1:42.97||F.Durr||R.Hannon||Mrs. B.Davis |- |style="text-align:center"|第166回||[[1974年]]5月4日||[[ノノアルコ|Nonoalco]]||牡3||1:39.49||style="white-space:nowrap"|[[イヴ・サンマルタン|Y.Saint-Martin]]||F.Boutin||M.Berger |- |style="text-align:center"|第167回||[[1975年]]5月3日||Bolkonski||牡3||1:39.49||G.Dettori||[[ヘンリー・セシル|H.Cecil]]||C.d'Alessio |- |style="text-align:center"|第168回||[[1976年]]4月28日||[[ウォロー|Wollow]]||牡3||1:38.09||[[ジャンフランコ・デットーリ|G.Dettori]]||H.Cecil||C.d'Alessio |- |style="text-align:center"|第169回||[[1977年]]4月27日||Nebbiolo||牡3||1:38.54||G.Curran||K.Prendergast||N.Schibbye |- |style="text-align:center"|第170回||[[1978年]]5月6日||Roland Gardens||牡3||1:47.33||F.Durr||D.Sasse||J.Hayter |- |style="text-align:center"|第171回||[[1979年]]5月6日||Tap on Wood||牡3||1:43.60||[[スティーブ・コーゼン|S.Cauthen]]||B.Hills||T.Shead |- |style="text-align:center"|第172回||[[1980年]]5月3日||[[ノウンファクト|Known Fact]]||牡3||1:40.46||W.Carson||J.Tree||[[ハーリド・ビン・アブドゥッラー|K.Abdulla]] |- |style="text-align:center"|第173回||[[1981年]]5月2日||To-Agori-Mou||牡3||1:41.43||[[グレヴィル・スターキー|G.Starkey]]||G.Harwood||A.Muinos |- |style="text-align:center"|第174回||[[1982年]]5月1日||Zino||牡3||1:37.13||[[フレディ・ヘッド|F.Head]]||F.Boutin||G.Oldham |- |style="text-align:center"|第175回||[[1983年]]4月30日||[[ロモンド|Lomond]]||牡3||1:43.87||[[パット・エデリー|P.J.Eddery]]||M.V.O'Brien||[[ロバート・サングスター|R.Sangster]] |- |style="text-align:center"|第176回||[[1984年]]5月5日||[[エルグランセニョール|El Gran Senor]]||牡3||1:37.41||P.Eddery||M.V.O'Brien||R.Sangster |- |style="text-align:center"|第177回||[[1985年]]5月4日||Shadeed||牡3||1:37.41||L.Piggott||[[マイケル・スタウト|M.Stoute]]||M.Al Maktoum |- |style="text-align:center"|第178回||[[1986年]]5月3日||[[ダンシングブレーヴ|Dancing Brave]]||牡3||1:40.40||G.Starkey||G.Harwood||K.Abdulla |- |style="text-align:center"|第179回||[[1987年]]5月2日||Don't Forget Me||牡3||1:36.74||W.Carson||R.Hanson||J.Horgan |- |style="text-align:center"|第180回||[[1988年]]4月30日||Doyoun||牡3||1:41.73||W.Swinburn||M.Stoute||[[アーガー・ハーン4世|His Highness A.Khan]] |- |style="text-align:center"|第181回||[[1989年]]5月6日||[[ナシュワン|Nashwan]]||牡3||1:36.44||W.Carson||R.Hern||[[ムハンマド・ビン=ラーシド・アール=マクトゥーム|S.Al Maktoum]] |- |style="text-align:center"|第182回||[[1990年]]5月5日||Tirol||牡3||1:35.84||[[マイケル・キネーン|M.Kinane]]||R.Hannon||J.Horgan |- |style="text-align:center"|第183回||[[1991年]]5月4日||Mystiko||牡3||1:37.83||[[マイケル・ロバーツ (競馬)|M.Roberts]]||C.Brittain||The Dowager Lady Beaverbrook |- |style="text-align:center"|第184回||[[1992年]]5月2日||[[ロドリゴデトリアーノ|Rodrigo de Triano]]||牡3||1:38.37||L.Piggott||style="white-space:nowrap"|[[ピーター・チャップルハイアム|P.Chapple-Hyam]]||R.Sangster |- |style="text-align:center"|第185回||[[1993年]]5月1日||[[ザフォニック|Zafonic]]||牡3||1:35.32||P.Eddery||[[アンドレ・ファーブル|A.Fabre]]||K.Abdulla |- |style="text-align:center"|第186回||[[1994年]]4月30日||Mister Baileys||牡3||1:35.08||J.Weaver||M.Johnston||G R Bailey Ltd |- |style="text-align:center"|第187回||[[1995年]]5月6日||[[ペニカンプ|Pennekamp]]||牡3||1:35.16||[[ティエリ・ジャルネ|T.Jarnet]]||A.Fabre||S.Mohammed |- |style="text-align:center"|第188回||[[1996年]]5月4日||[[マークオブエスティーム|Mark of Esteem]]||牡3||1:37.59||[[ランフランコ・デットーリ|L.Dettori]]||[[サイード・ビン・スルール|S.bin Suroor]]||[[ゴドルフィン|Godolphin]] |- |style="text-align:center"|第189回||[[1997年]]5月3日||Entrepreneur||牡3||1:35.64||M.Kinane||M.Stoute||[[マイケル・テイバー|M.Tabor]] & [[ジョン・マグナー|Mrs. J.Magnier]] |- |style="text-align:center"|第190回||[[1998年]]5月2日||[[キングオブキングス (競走馬)|King of Kings]]||牡3||1:39.25||M.Kinane||[[エイダン・オブライエン|A.O'Brien]]||M.Tabor & Mrs. J.Magnier |- |style="text-align:center"|第191回||[[1999年]]5月1日||Island Sands||牡3||1:37.14||L.Dettori||S.bin Suroor||Godolphin |- |style="text-align:center"|第192回||[[2000年]]5月6日||[[キングズベスト|King's Best]]||牡3||1:37.77||[[キーレン・ファロン|K.Fallon]]||M.Stoute||S.Suhail |- |style="text-align:center"|第193回||[[2001年]]5月5日||[[ゴーラン|Golan]]||牡3||1:37.48||K.Fallon||M.Stoute||Exors Of The Late [[アーノルド・ウェインストック|Lord Weinstock]] |- |style="text-align:center"|第194回||[[2002年]]5月4日||[[ロックオブジブラルタル|Rock of Gibraltar]]||牡3||1:36.50||M.Kinane||A.O'Brien||[[アレックス・ファーガソン|A.Ferguson]] & Mrs. J.Magnier |- |style="text-align:center"|第195回||[[2003年]]5月3日||[[リフューズトゥベンド|Refuse to Bend]]||牡3||1:37.98||P.Smullen||[[ダーモット・ウェルド|D.Weld]]||Moyglare Stud Farm Ltd |- |style="text-align:center"|第196回||[[2004年]]5月1日||[[ハーフド|Haafhd]]||牡3||1:36.64||[[リチャード・ヒルズ|R.Hills]]||B.Hills||[[ハムダーン・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム |H.Al Maktoum]] |- |style="text-align:center"|第197回||[[2005年]]4月30日||[[フットステップスインザサンド|Footstepsinthesand]]||牡3||1:36.10||K.Fallon||A.P.O'Brien||M.Tabor & Mrs. J.Magnier |- |style="text-align:center"|第198回||[[2006年]]5月6日||style="white-space:nowrap"|[[ジョージワシントン|George Washington]]||牡3||1:36.86||K.Fallon||A.P.O'Brien||Mrs. J.Magnier, M.Tabor, D.Smith |- |style="text-align:center"|第199回||[[2007年]]5月5日||[[コックニーレベル|Cockney Rebel]]||牡3||1:35.28||[[オリビエ・ペリエ|O.Peslier]]||[[ジェフ・ハファー|G.Huffer]]||P.Cunningham |- |style="text-align:center"|第200回||[[2008年]]5月3日||[[ヘンリーザナビゲーター|Henrythenavigator]]||牡3||1:39.14||[[ジョニー・ムルタ|J.Murtagh]]||A.O'Brien||Mrs. J.Magnier |- |style="text-align:center"|第201回||[[2009年]]5月2日||[[シーザスターズ|Sea the Stars]]||牡3||1:35.88||M.Kinane||J.Oxx||C.Tsui |- |style="text-align:center"|第202回||[[2010年]]5月1日||[[マクフィ|Makfi]]||牡3||1:36.35||[[クリストフ・ルメール|C.Lemaire]]||M.Delzangles||M.Offenstadt |- |style="text-align:center"|第203回||[[2011年]]4月30日||[[フランケル (競走馬)|Frankel]]||牡3||1:37.30||[[トム・クウィリー|T.Queally]]||H.Cecil||K.Abdullah |- |style="text-align:center"|第204回||[[2012年]]5月5日||[[キャメロット (競走馬)|Camelot]]||牡3||1:42.46||[[ジョセフ・オブライエン|J.O'Brien]]||A.O'Brien||Mrs. J.Magnier, M.Tabor, D.Smith |- |style="text-align:center"|第205回||[[2013年]]5月4日||[[ドーンアプローチ|Dawn Approach]]||牡3||1:35.84||[[ケヴィン・マニング|K.Manning]]||J.Bolger||Godolphin |- |style="text-align:center"|第206回||[[2014年]]5月3日||[[ナイトオブサンダー|Night of Thunder]]||牡3||1:36.61||K.Fallon||R.Hannon||Saeed Manana |- |style="text-align:center"|第207回||[[2015年]]5月2日||[[グレンイーグルス|Gleneagles]]||牡3||1:37.55||[[ライアン・ムーア|R.Moore]]||A.O'Brien||M.Tabor, D.Smith, Mrs J.Magnier |- |style="text-align:center"|第208回||[[2016年]]4月30日||[[ガリレオゴールド|Galileo Gold]]||牡3||1:35.91 ||F.Dettori ||H.Palmer ||Al Shaqab Racing |- |style="text-align:center"|第209回||[[2017年]]5月6日|| [[チャーチル (競走馬)|Churchill]]||牡3||1:36.61||[[ライアン・ムーア|R.Moore]]||A.O'Brien||M.Tabor, D.Smith, Mrs J.Magnier |- |style="text-align:center"|第210回||[[2018年]]5月5日|| [[サクソンウォリアー|Saxon Warrior]]||牡3||1:36.55 ||[[ドナカ・オブライエン|D.O'Brien]]|| A.O'Brien ||M.Tabor, D.Smith, Mrs J.Magnier |- |style="text-align:center"|第211回||[[2019年]]5月4日|| [[マグナグレシア|Magna Grecia]]||牡3||1:36.84||[[ドナカ・オブライエン|D.O'Brien]]|| A.O'Brien ||M.Tabor, D.Smith, Mrs J.Magnier |- |style="text-align:center"|第212回||[[2020年]]6月6日||[[カメコ (競走馬)|Kameko]] ||牡3||1:34.72 ||[[オイシン・マーフィー|O.Murphy]]|| A.Balding || Qatar Racing |- |style="text-align:center"|第213回||[[2021年]]5月1日||[[ポエティックフレア|Poetic Flare]]||牡3||1:35.69||K.Manning||J.Bolger||Jackie Bolger |- |style="text-align:center"|第214回||[[2022年]]4月30日||[[コロエバス|Coroebus]]||牡3||1:36.27||J.Doyle||[[チャーリー・アップルビー|C.Appleby]]||[[ゴドルフィン|Godolphin]] |- |style="text-align:center"|第215回||[[2023年]]5月6日||[[シャルディーン (競走馬)|Chaldean]]||牡3||1:41.64||F.Dettori||A.Balding||Juddmonte |} == 脚注・出典 == === 参考文献 === === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist |refs= *<ref name="IFHA2014">[http://www.horseracingintfed.com/default.asp?section=Racing&area=8&racepid=57119 IFHA Race Detail Qipco 2000 Guineas Stakes] 2014年11月12日閲覧。</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== *レーシング・ポストより(最終閲覧日:2017年8月16日) ** {{Racing Post|90468|1988|04|30|38|newmarket}}, {{Racing Post|94699|1989|05|06|38|newmarket}}, {{Racing Post|99092|1990|05|05|38|newmarket}}, {{Racing Post|103895|1991|05|04|38|newmarket}}, {{Racing Post|108662|1992|05|02|38|newmarket}}, {{Racing Post|113660|1993|05|01|38|newmarket}}, {{Racing Post|118728|1994|04|30|38|newmarket}}, {{Racing Post|124169|1995|05|06|38|newmarket}}, {{Racing Post|200528|1996|05|04|38|newmarket}}, {{Racing Post|234849|1997|05|03|38|newmarket}} ** {{Racing Post|248501|1998|05|02|38|newmarket}}, {{Racing Post|263151|1999|05|01|174|newmarket-july}}, {{Racing Post|277262|2000|05|06|38|newmarket}}, {{Racing Post|297565|2001|05|05|38|newmarket}}, {{Racing Post|312340|2002|05|04|38|newmarket}}, {{Racing Post|328491|2003|05|03|38|newmarket}}, {{Racing Post|345919|2004|05|01|38|newmarket}}, {{Racing Post|378064|2005|04|30|38|newmarket}}, {{Racing Post|401434|2006|05|06|38|newmarket}}, {{Racing Post|425847|2007|05|05|38|newmarket}} ** {{Racing Post|450433|2008|05|03|38|newmarket}}, {{Racing Post|475571|2009|05|02|38|newmarket}}, {{Racing Post|499570|2010|05|01|38|newmarket}}, {{Racing Post|524462|2011|04|30|38|newmarket}}, {{Racing Post|548475|2012|05|05|38|newmarket}}, {{Racing Post|573046|2013|05|04|38|newmarket}}, {{Racing Post|594460|2014|05|03|38|newmarket}}, {{Racing Post|619230|2015|05|02|38|newmarket}}, {{Racing Post|635196|2016|04|30|38|newmarket}}, {{Racing Post|660040|2017|05|06|38|newmarket}} ** {{Racing Post|689710|2018|05|05|38|newmarket}}, {{Racing Post|723098|2019|05|04|38|newmarket}}, {{Racing Post|757535|2020|06|06|38|newmarket}}, {{Racing Post|777451|2021|05|01|38|newmarket}}, {{Racing Post|804248|2022|04|30|38|newmarket}} == 関連項目 == *[[イギリスクラシック三冠]] *[[クラシック (競馬)]] *[[三冠 (競馬)]] *[[ダービーステークス]] *[[セントレジャーステークス]] *[[1000ギニー]] *[[オークス]] ;2000ギニーを模した競走 <!-- 世界には無数に存在するため、パート1国のものに限る。また、英国2000ギニーを直接模したもののみをここに掲載するものとする。地方競馬の競走の多くは英国ではなく中央競馬の皐月賞を模したものであることに注意。 --> *[[プール・デッセ・デ・プーラン]] *[[アイリッシュ2000ギニー]] *[[ランドウィックギニーズ]] *[[オーストラリアンギニー]] *[[ニュージーランド2000ギニー]] *[[皐月賞]] *[[UAE2000ギニー]] ;イギリス・フランスのマイルG1競走 *[[セントジェームズパレスステークス]] *[[サセックスステークス]] *[[ジャック・ル・マロワ賞]] *[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]] *[[クイーンエリザベス2世ステークス]] == 外部リンク == *[http://www.newmarketracecourses.co.uk/ Newmarket Racecourse] - ニューマーケット競馬場 {{イギリス競馬のグループワン競走}} {{イギリスクラシック三冠}} {{ブリティッシュ・チャンピオンズシリーズ}} {{アメリカ競馬三冠}} {{Keiba-stub}} {{デフォルトソート:2000きにすてくす}} [[Category:イギリスの競馬の競走]]
2003-05-15T05:32:06Z
2023-10-03T12:52:30Z
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8,300
差押
差押え(さしおさえ)とは、国家権力によって特定の有体物または権利について、私人の事実上・法律上の処分を禁止し、確保すること。新聞・テレビなどでは一般に「差し押さえ」と表記される。 民事執行法上の差押えは、債権者の権利の実現のために、国が債務者に、財産(不動産、動産、債権)の処分を禁止することをいう。原則として強制執行(競売や強制管理)に入る前段階の措置として行われる。このような処分禁止措置が強制執行の開始決定時に講じられるのは、開始決定があったにもかかわらず、いつまでも債務者が自己の財産を自由に処分できる状態にしておくと、債務者は執行を免れようと財産の譲渡や隠蔽を行なう可能性があるためである。しかし、債務者の財産処分の全てを禁止するとすると私的自治の原則に反し、債権者の権利濫用にもつながる。そこで、債務者の総財産のうちで債務者の生存に必要な部分を差押禁止財産とし、なおかつ、無剰余差押(強制執行後配当が出ない差押)と、超過差押(債権者の被保全債権の額が予想配当額を上回る差押)を原則禁止することで債務者の保護を図っている。 差押えの申立てには、時効中断効がある(民法147条2号)が、権利者の請求によりまたは法律の規定に従わないことにより取り消されたときは、時効中断効を生じない(同法154条)。 民事執行法上の差押えは、差押財産の種類によって大別して3種類に分かれる。 なお、仮差押えについては民事保全法及び仮差押えを参照。 刑事手続における差押えとは、物の占有を強制的に取得する処分をいう(これに対し、任意に占有を取得する処分は領置と呼ばれ、差押えと領置を総称して押収と呼ぶ)。基本的に証拠物を対象とするが、逮捕に伴う無令状の差押え(刑訴法220条1項2号)の場合には、武器や逃走用具の差押えも可能と解されている。 捜査段階における差押えは原則として裁判官の発する令状により執行されるが(刑事訴訟法218条)、適法な逮捕の現場で行われる場合には令状を要しない(憲法35条、刑事訴訟法220条)。 差押えは、逮捕に伴う無令状の差押え(刑訴法220条1項2号)の場合を除き、捜索差押許可状によってなされる。 検察官、検察事務官又は司法警察員は、捜索差押許可状の発付を裁判官に対して請求することができる(刑訴法218条3項)。裁判官はこれを受けて令状を発付する。 令状には、以下の記載事項が必要である(刑訴法219条1項)。 検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、裁判官の発する令状により、捜索及び差押えを行うことができる(刑訴法218条1項)。 執行にあたっては、令状は被処分者に対して示す必要がある(刑訴法222条1項、110条)。 公正取引委員会や証券取引等監視委員会が行う犯則事件調査では、裁判所の発行する許可状により捜索、差押及び領置ができる(独占禁止法102条、金融商品取引法211条)。 なお、両者の犯則事件調査の結果、捜査当局に刑事告発し、差押物件を引き継いだ場合は、刑事訴訟法の規定により押収されたものとみなされる(独占禁止法116条、金融商品取引法226条)。 国税徴収法が、租税の滞納処分の一段階として差押を規定している(47条から81条)。
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差押え(さしおさえ)とは、国家権力によって特定の有体物または権利について、私人の事実上・法律上の処分を禁止し、確保すること。新聞・テレビなどでは一般に「差し押さえ」と表記される。
{{出典の明記|date=2021年12月6日 (月) 16:58 (UTC)}} {{日本の刑事手続}} '''差押え'''(さしおさえ)とは、[[国家権力]]によって特定の有体物または[[権利]]について、私人の[[事実上]]・法律上の処分を禁止し、確保すること。[[新聞]]・[[テレビ]]などでは一般に「'''差し押さえ'''」と表記される。 == 民事手続 == === 民事執行法上の差押え === [[民事執行法]]上の差押えは、債権者の権利の実現のために、国が債務者に、財産(不動産、動産、債権)の処分を禁止することをいう。原則として強制執行([[競売]]や[[強制管理]])に入る前段階の措置として行われる。このような処分禁止措置が[[強制執行]]の開始決定時に講じられるのは、開始決定があったにもかかわらず、いつまでも債務者が自己の財産を自由に処分できる状態にしておくと、債務者は執行を免れようと財産の譲渡や隠蔽を行なう可能性があるためである。しかし、債務者の財産処分の全てを禁止するとすると[[私的自治の原則]]に反し、債権者の[[権利濫用]]にもつながる。そこで、債務者の総財産のうちで債務者の生存に必要な部分を[[差押禁止財産]]とし、なおかつ、無剰余差押(強制執行後配当が出ない差押)と、超過差押(債権者の被保全債権の額が予想配当額を上回る差押)を原則禁止することで債務者の保護を図っている。 差押えの申立てには、[[時効]]中断効がある([[民法 (日本)|民法]][[b:民法第147条|147条]]2号)が、権利者の請求によりまたは法律の規定に従わないことにより取り消されたときは、時効中断効を生じない([[b:民法第154条|同法154条]])。 === 差押えの種類 === 民事執行法上の差押えは、差押財産の種類によって大別して3種類に分かれる。 *[[不動産]]の差押手続は、[[b:民事執行法第45条|民事執行法45条]]以降、[[b:民事執行法第93条|93条]]以降を参照 **開始決定を行った裁判所の嘱託により差押の登記が行われ(48条)、強制競売又は強制管理の手続が進行する。 *[[動産]]の差押手続は、[[b:民事執行法第122条|民事執行法122条]]以降を参照 **執行官が対象となる動産を物理的に差押えて占有し(123条)、売却し(134条)、売得金を債権者に配当する。 **[[b:民事執行法第131条|第131条]](差押禁止動産) *[[債権]]の差押手続は、[[b:民事執行法第143条|民事執行法143条]]以降を参照 **債権者の申立てにより第三債務者に対して陳述の催告が行われ、第三債務者は債権の存否等を回答する(147条)。債権者は、差押の競合がなければ当該債権を裁判上(取立訴訟、157条)又は裁判外で取立てることができる(155条)。[[転付命令]]を得ることもできる(159条)。 **差押の競合がある場合は、第三債務者は供託し(156条2項)、執行裁判所による配当が行われる(166条)。 **[[b:民事執行法第152条|第152条]](差押禁止債権) なお、'''仮差押え'''については[[民事保全法]]及び[[仮差押え]]を参照。 <!--ひとりのユーザーによる、出典のない大量追記 == 差押禁止動産の一覧 == 以下に該当するものは差押えることができない。また、ここにないものであっても、[[ゲーム機]]や[[ゲームソフト]]、[[スマホ]]に[[タブレット]]、[[書籍]]や[[漫画]]、[[レコーダー]]・[[ディスプレイ]]、[[自家用車]]も差押えられることは 原則としてほぼない([[高級車]]を除く)。 === 生活に欠くことのできない衣服・寝具、家具家電・台所用品、家財道具、畳及び建具など === 項目は、ベッド・布団、タンス、調理器具、食器棚、食器類(箸・スプーン含む)空調類(エアコンなど)冷暖房器具、衣類、洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、ポット、テレビ、ラジオ、掃除機、ビデオデッキ、パソコン、鏡台など。ただし、複数個ある場合は 最低1つのみの禁止であったりする。また、よほどの[[ラグジュアリー|高級品]]であればこの限りではない。 === 1か月の生活に必要な食料及び燃料 === [[防災用品]]や[[防災非常袋|持ち出し袋]]([[非常食]]、[[発電機]]用の燃料など)も含まれる。 === 職業 職種 業種に応じた業務上 欠くことのできない道具他 === 農業事業者の農器具 [[農業機械]]。肥料 家畜 飼料。来年度の収穫に必要な種子に、その他農産物。水産・漁業事業者の[[漁船]]、漁網他の漁具。[[養殖]]水槽類、エサ 稚魚 その他水産物。高所作業・林業事業者の[[重機|作業機械]]や[[高所作業車|作業車]] [[安全帯]]。商品を含めない店舗の[[什器]]類、また[[キッチンカー|車両]]。工場の設備類など。 === 実印 その他判子、系譜 日記 系統 帳簿など、職業及び生活の手続き上 欠かせないもの === 各種手続の必要書類。その証明書など === 宗教などに関するもの === [[仏像]]、[[位牌]]。その他[[礼拝]]または[[祭祀]]に要するもの。 === 勲章 賞状。その他受勲、名誉を表彰するもの === [[ノーベル賞]]など === 当人 また親族が、学校及び学習課程に必要なもの === [[教科書]] [[制服]] [[教材]]など === 発明または著作に係る物で、公表していないもの === [[特許]] [[商標]] [[版権]]を取得していないものなど === 義肢(義手・義足)福祉用具(福祉車両 車椅子など)その他 身体補助に供する物 === [[エレベータ]] [[階段昇降機|昇降リフト]]など含む === 建物 艦艇 その他工作物への、各種保安・法令(消防法 災害法など)の規定により設置義務のある設備。防火設備や避難器具。その他の備品 === [[消火器]]・[[防火シャッター]]、ほか --> <!--ひとりのユーザーによる、出典のない大量追記 == 差押禁止債権の一覧 == 差押えた結果、[[最低賃金]]を下回ってしまうような時は この限りではない(また、医療ローンなども同義である)。 === 年俸、俸給・給料・給与・賃金、退職金・退職年金 賞与(ボーナス)などの内、1/4を超える額 === ただし 額が33万円を上回る場合は、その部分については可能。また、[[養育費]]や婚姻費用であれば1/2。 === 65万円に満たない現金 === 2か月分の生活費という法令によるもの === 各種年金(国民年金・厚生年金など)生活保護・児童手当など、個別法による受給 === これらの受給については第三者の手で停止することはできず、また それらの金銭を返済に充てることも許されない。 --> == 刑事手続 == [[刑事手続]]における差押えとは、物の占有を強制的に取得する処分をいう(これに対し、任意に占有を取得する処分は[[領置]]と呼ばれ、差押えと[[領置]]を総称して[[押収]]と呼ぶ)。基本的に[[証拠|証拠物]]を対象とするが、逮捕に伴う無令状の差押え(刑訴法220条1項2号)の場合には、武器や逃走用具の差押えも可能と解されている。 捜査段階における差押えは原則として裁判官の発する[[令状]]により執行されるが([[刑事訴訟法]]218条)、適法な[[逮捕]]の現場で行われる場合には令状を要しない([[日本国憲法第35条|憲法35条]]、刑事訴訟法220条)。 === 捜索差押許可状 === 差押えは、逮捕に伴う無令状の差押え(刑訴法220条1項2号)の場合を除き、[[捜索|捜索差押許可状]]によってなされる。 検察官、検察事務官又は司法警察員は、捜索差押許可状の発付を裁判官に対して請求することができる(刑訴法218条3項)。裁判官はこれを受けて令状を発付する。 令状には、以下の記載事項が必要である(刑訴法219条1項)。 *被疑者若しくは被告人の氏名 *罪名 *:罪名を記載すれば足り、適用法条を示す必要はない(最大決昭和33年7月29日刑集12巻12号2776頁)。 *差し押さえるべき物 *:一般令状禁止の趣旨から、差押対象物は令状の記載自体によって特定される必要がある。この点に関して判例では「会議議事録、闘争日誌、資料、通達類、連絡資料、連絡文書、報告書、メモ」という例示に付加する形で「その他本件に関係ありと思料せられる一切の文書及び物件」と記載されても、差押え対象物の特定に欠けるところはないとされている(最判昭和51年11月18日判時837号104頁)。 *捜索すべき場所、身体若しくは物 *有効期間 === 令状の執行 === 検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、裁判官の発する令状により、捜索及び差押えを行うことができる(刑訴法218条1項)。 執行にあたっては、令状は被処分者に対して示す必要がある(刑訴法222条1項、110条)。 == 犯則事件調査 == [[公正取引委員会]]や[[証券取引等監視委員会]]が行う犯則事件調査では、裁判所の発行する許可状により捜索、差押及び領置ができる(独占禁止法102条、金融商品取引法211条)。 なお、両者の犯則事件調査の結果、捜査当局に刑事告発し、差押物件を引き継いだ場合は、刑事訴訟法の規定により押収されたものとみなされる(独占禁止法116条、金融商品取引法226条)。 == 行政法 == [[国税徴収法]]が、租税の[[滞納処分]]の一段階として[[滞納処分#財産の差押|差押]]を規定している(47条から81条)。 == 関連項目 == *[[民事執行法]] *[[強制執行]] *[[刑事訴訟法]] *[[司法警察職員]] *[[押収]] *[[滞納処分]] *[[公正取引委員会]] *[[証券取引等監視委員会]] {{債務}} {{Law-stub}} {{DEFAULTSORT:さしおさえ}} [[Category:民事執行法]] [[Category:刑事訴訟法]] [[Category:行政]] [[ar:حجز مال المدين]] [[de:Drittschuldner]] [[en:Garnishment]] [[fi:Ulosotto]] [[sv:Utmätning]]
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押収
押収(おうしゅう)とは、刑事手続における物の占有を取得する処分の総称。 取得段階から強制である場合を差押といい、取得段階には強制力が行使されないものを領置という。占有取得段階での強制力行使の有無にかかわらず、その占有を継続しつづけることができるという意味ではいずれも強制処分の一種である。
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押収(おうしゅう)とは、刑事手続における物の占有を取得する処分の総称。
'''押収'''(おうしゅう)とは、[[刑事手続]]における物の[[占有]]を取得する処分の総称。 == 概説 == 取得段階から強制である場合を'''[[差押]]'''といい、取得段階には強制力が行使されないものを'''領置'''という。占有取得段階での強制力行使の有無にかかわらず、その占有を継続しつづけることができるという意味ではいずれも[[強制処分]]の一種である。 == 関連項目 == {{Div col}} *[[没収]] *{{仮リンク|捜索と押収|en|search and seizure}} - [[:en:Category:Searches and seizures]] *[[提出命令]] - [[博多駅テレビフィルム提出命令事件]] *[[TBSビデオテープ押収事件]] *[[証拠]] - [[証拠保全]] *[[令状]] - [[捜索]] - [[検身]] - [[体腔検査]] *[[押収品目録交付書]] *[[官報#公告]] - [[還付]] *[[違法収集証拠排除法則]] *[[住居の不可侵]] *[[鹵獲]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{wiktionary}} *{{kotobank}} *[https://keiji-soudan.jp/words/1004/ 押収(おうしゅう) | 刑事事件の用語集] | 私選弁護人、示談なら刑事事件の弁護士無料相談-名古屋市・愛知県 *[https://www.bengo4.com/c_1009/c_19/bbs/%E6%8A%BC%E5%8F%8E/ 【弁護士が回答】「押収」の相談3,690件] - [[弁護士ドットコム]] *[https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2001/2001_12.html 押収拒絶権に関する会長談話]:[[日本弁護士連合会]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おうしゆう}} [[Category:日本の刑事手続法]]
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強制処分
強制処分()とは、刑事訴訟法上の処分のうち、「個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」のことを指す刑事手続上の用語である。 強制処分法定主義()は、強制処分は法律の根拠がなければ行うことができないという刑事手続法上の用語で、刑事訴訟法197条1項ただし書に規定されている。またこの裏返しとして、法の定めのない強制処分を行った場合には違法であるということを意味する。 任意処分()は強制処分に当たらない処分のことを指す刑事手続上の用語である。強制処分法定主義の反面として、任意処分については法の定めが不要である、と解されている。任意処分によって行われる捜査を任意捜査という。捜査はなるべく任意捜査の方法で行われる(任意捜査の原則。犯罪捜査規範99条)。 強制処分および強制処分法定主義の考えは、刑事手続における重要な用語および原則である。刑事手続のうち一定のものは強制処分であり、法の定めがなくてはなしえない、とすることで、捜査機関の活動に立法府が制約を課し、国民に対する捜査機関による無制限の人権侵害を防ぐ役割を持っている(同時に司法府からの制約として、令状主義が要求される)。 強制処分によって行われる捜査が強制捜査である(強制処分にはこのほか公判上の手続などが含まれる)。強制捜査についてはその違法性が問題とされることが多い。強制捜査が法の定めに従わずなされた場合(捜索・押収などを令状を取らずに行った場合など)は、違法な捜査が行われたことになり、違法収集証拠排除法則の問題となる。 「強制の処分」の具体的内容についてはかつて争いがあった。 これを受けて判例(最決昭和51年3月16日刑集30巻2号187頁)は、強制処分とは「有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」である、と説示している。これを支持する通説(重要な利益侵害説)の理解によると、(1)同意がないことと(2)重要な利益の侵害の2つが要件となる。 任意処分とは、強制処分以外の処分のことである。原則としては司法警察活動上の用語であるが、任意処分についての概念は職務質問・所持品検査といった行政警察活動においても妥当するとされる。 また、強制処分=有形力の行使という構造が否定されたことで、任意処分であっても有形力を行使しうる場合があるとされている(たとえば、職務質問中に突如逃げ出した相手の手をつかむ、など)。 もっとも、任意処分であっても自由になしうるわけではない。特に任意捜査の場合に問題となるが、判例によって、任意捜査であっても人権侵害を生じ又は生じるおそれがあるから必要性・緊急性等に照らし具体的状況の下で相当な限度でのみ行い得る、とされている(比例原則)。任意捜査の限界を超えた任意処分がなされた場合に、違法収集証拠排除法則の問題を生じるかについては争いがあるが、現在の判例は否定的である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "強制処分()とは、刑事訴訟法上の処分のうち、「個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」のことを指す刑事手続上の用語である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "強制処分法定主義()は、強制処分は法律の根拠がなければ行うことができないという刑事手続法上の用語で、刑事訴訟法197条1項ただし書に規定されている。またこの裏返しとして、法の定めのない強制処分を行った場合には違法であるということを意味する。", "title": "関連概念" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "任意処分()は強制処分に当たらない処分のことを指す刑事手続上の用語である。強制処分法定主義の反面として、任意処分については法の定めが不要である、と解されている。任意処分によって行われる捜査を任意捜査という。捜査はなるべく任意捜査の方法で行われる(任意捜査の原則。犯罪捜査規範99条)。", "title": "関連概念" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "強制処分および強制処分法定主義の考えは、刑事手続における重要な用語および原則である。刑事手続のうち一定のものは強制処分であり、法の定めがなくてはなしえない、とすることで、捜査機関の活動に立法府が制約を課し、国民に対する捜査機関による無制限の人権侵害を防ぐ役割を持っている(同時に司法府からの制約として、令状主義が要求される)。", "title": "強制処分・強制処分法定主義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "強制処分によって行われる捜査が強制捜査である(強制処分にはこのほか公判上の手続などが含まれる)。強制捜査についてはその違法性が問題とされることが多い。強制捜査が法の定めに従わずなされた場合(捜索・押収などを令状を取らずに行った場合など)は、違法な捜査が行われたことになり、違法収集証拠排除法則の問題となる。", "title": "強制処分・強制処分法定主義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「強制の処分」の具体的内容についてはかつて争いがあった。", "title": "強制処分・強制処分法定主義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これを受けて判例(最決昭和51年3月16日刑集30巻2号187頁)は、強制処分とは「有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」である、と説示している。これを支持する通説(重要な利益侵害説)の理解によると、(1)同意がないことと(2)重要な利益の侵害の2つが要件となる。", "title": "強制処分・強制処分法定主義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "任意処分とは、強制処分以外の処分のことである。原則としては司法警察活動上の用語であるが、任意処分についての概念は職務質問・所持品検査といった行政警察活動においても妥当するとされる。", "title": "任意処分" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、強制処分=有形力の行使という構造が否定されたことで、任意処分であっても有形力を行使しうる場合があるとされている(たとえば、職務質問中に突如逃げ出した相手の手をつかむ、など)。", "title": "任意処分" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "もっとも、任意処分であっても自由になしうるわけではない。特に任意捜査の場合に問題となるが、判例によって、任意捜査であっても人権侵害を生じ又は生じるおそれがあるから必要性・緊急性等に照らし具体的状況の下で相当な限度でのみ行い得る、とされている(比例原則)。任意捜査の限界を超えた任意処分がなされた場合に、違法収集証拠排除法則の問題を生じるかについては争いがあるが、現在の判例は否定的である。", "title": "任意処分" } ]
強制処分とは、刑事訴訟法上の処分のうち、「個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」のことを指す刑事手続上の用語である。
{{日本の刑事手続}} {{読み仮名|'''強制処分'''|きょうせいしょぶん}}とは、[[刑事訴訟法]]上の処分のうち、「個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に[[捜査]]目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」のことを指す[[刑事手続]]上の用語である。 ==関連概念== {{読み仮名|'''強制処分法定主義'''|きょうせいしょぶんほうていしゅぎ}}は、強制処分は法律の根拠がなければ行うことができないという刑事手続法上の用語で、[[刑事訴訟法]]197条1項ただし書に規定されている。またこの裏返しとして、法の定めのない強制処分を行った場合には違法であるということを意味する。 {{読み仮名|'''任意処分'''|にんいしょぶん}}は強制処分に当たらない処分のことを指す刑事手続上の用語である。強制処分法定主義の反面として、任意処分については法の定めが不要である、と解されている。任意処分によって行われる捜査を'''任意捜査'''という。捜査はなるべく任意捜査の方法で行われる('''任意捜査の原則'''。犯罪捜査規範99条)。 ==強制処分・強制処分法定主義== 強制処分および強制処分法定主義の考えは、刑事手続における重要な用語および原則である。刑事手続のうち一定のものは強制処分であり、法の定めがなくてはなしえない、とすることで、捜査機関の活動に立法府が制約を課し、国民に対する捜査機関による無制限の人権侵害を防ぐ役割を持っている(同時に司法府からの制約として、[[令状主義]]が要求される)。 強制処分によって行われる[[捜査]]が'''強制捜査'''である(強制処分にはこのほか公判上の手続などが含まれる)。強制捜査についてはその違法性が問題とされることが多い。強制捜査が法の定めに従わずなされた場合([[捜索]]・[[押収]]などを[[令状]]を取らずに行った場合など)は、違法な捜査が行われたことになり、[[違法収集証拠排除法則]]の問題となる。 === 強制処分の意義 === 「強制の処分」の具体的内容についてはかつて争いがあった。 ;古典的強制処分概念 :かつての有力な学説は、強制処分は、直接的な有形力の行使を伴う捜査手段、または、制裁を予告して命令の実行を義務付ける捜査手段をいい、それ以外の処分を任意処分としていた。しかし、任意捜査(職務質問など)においても一定の場合には有形力の行使を認める現実の必要がある。また、逆に有形力の行使を伴わずとも重大な[[人権]]侵害を伴う捜査手段(たとえば[[通信傍受]]、[[プライバシー]]領域の秘密撮影)があり、これらは強制処分と扱うべきである、などと指摘された。 ;新しい強制処分概念 :同意を得ないで個人の法益を侵害する処分は、有形力の行使の有無を問わず強制処分だとする定義が主張された(利益侵害説)。しかし、この立場では、ほとんどの捜査が強制処分にあたることになるが、権利や利益の侵害が一定の限度の場合には、捜査活動の迅速性、有効性のために、強制処分法定主義や令状主義の適用を必須とすべきでないと考えられる。 これを受けて判例(最決昭和51年3月16日刑集30巻2号187頁)は、強制処分とは「有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」である、と説示している。これを支持する通説(重要な利益侵害説)の理解によると、(1)同意がないことと(2)重要な利益の侵害の2つが要件となる。 ==任意処分== '''任意処分'''とは、強制処分以外の処分のことである。原則としては[[司法警察活動]]上の用語であるが、任意処分についての概念は職務質問・所持品検査といった[[行政警察活動]]においても妥当するとされる。 また、強制処分=有形力の行使という構造が否定されたことで、任意処分であっても有形力を行使しうる場合があるとされている(たとえば、職務質問中に突如逃げ出した相手の手をつかむ、など)。 ===任意捜査の限界=== もっとも、任意処分であっても自由になしうるわけではない。特に任意捜査の場合に問題となるが、判例によって、任意捜査であっても人権侵害を生じ又は生じるおそれがあるから必要性・緊急性等に照らし具体的状況の下で相当な限度でのみ行い得る、とされている([[比例原則]])。任意捜査の限界を超えた任意処分がなされた場合に、[[違法収集証拠排除法則]]の問題を生じるかについては争いがあるが、現在の判例は否定的である。 ==関連項目== *[[罪刑法定主義]] *[[租税法律主義]] *[[侵害留保原則]] *[[法律の留保]] [[Category:刑事訴訟法|きょうせいしよふん]]
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ゴードン・ムーア
ゴードン・ムーア(Gordon E. Moore, 1929年1月3日 - 2023年3月24日)は、アメリカ合衆国の電気工学者、実業家。半導体メーカーであるインテル(英語: Intel Corporation)の共同創業者。 1929年、サンフランシスコ南部の太平洋岸の小さな田舎町で生まれた。中学生の頃におもちゃの実験セットで黒色火薬などを作って遊んでいるうちに科学に興味を持ち、高校時代にはニトログリセリンを作ったこともあった。 1946年、サンノゼ州立大学へ進学。専攻は化学、副専攻は数学を学び、1948年に化学の上級カリキュラムを学ぶためカリフォルニア大学バークレー校に転籍し1950年に卒業した。すぐにカリフォルニア工科大学大学院に進学。赤外線分光学分野の研究で化学博士号を取得した。修了後はジョンズ・ホプキンズ大学応用物理研究所に入所した。しかし研究チームの解散とともに退所した。 1956年、ウィリアム・ショックレー博士に誘われてショックレー半導体研究所に入社。ここで盟友ロバート・ノイスに出逢う。だが博士との折り合いの悪さからノイスら7人の仲間とともに同社を退社した。後にこの8人の研究員は「八人の裏切り者」と呼ばれることになる。 起業家アーサー・ロックの支援により、ムーアは仲間とともに1957年にフェアチャイルドセミコンダクターを設立した。1961年にはICの大量生産に乗り出し、60年代半ばには世界最大の半導体メーカーとなった。1963年には同社に面接に来たアンドルー・グローヴを採用した。 しかし会社が大きくなるにつれて人事を巡る問題が生じ、経営陣に強い不満を持っていたノイスと共に会社を去った。そして1968年7月18日にインテルを設立した。翌8月に従業員第一号としてグローヴを採用した。インテルは、1970年に世界初のDRAMを、翌年には世界初のマイクロプロセッサ4004を開発、発売するなどして成功を収めた。 1979年にはインテル会長に就任。ノイスは副会長、グローヴは社長という体制になった。1979年から1987年までCEO(最高経営責任者)を務め、同社を世界的な半導体メーカーに育てた。 インテルを退社後は妻であるベティ・ムーアとともに2000年「ゴードン・アンド・ベティ・ムーア財団」を設立。環境保護活動、医療(患者ケア)、科学研究、サンフランシスコ・ベイエリアのプロジェクトなどの支援に毎年3億ドルを寄付している。また同財団の資産は64億ドルでアメリカ最大級である。 2023年3月24日に、米ハワイ州の自宅で94歳で死去した。 1965年にムーアが唱えた「ムーアの法則」は、半導体産業のガイドライン的な役割を果たすようになる。『日本経済新聞』コメンテーターの中山淳史はムーアの法則について、「GAFA誕生の下地をつくったともいえ、現在もハイテク産業の指針」と評している。
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ゴードン・ムーアは、アメリカ合衆国の電気工学者、実業家。半導体メーカーであるインテルの共同創業者。
{{別人|ゴードン・ムーア (イギリス海軍軍人)}} {{Infobox 人物 |氏名= ゴードン・ムーア |ふりがな= Gordon Moore |画像= Gordon Moore 1978 (cropped).png |画像サイズ= |画像説明= 1978年 |生年月日= [[1929年]][[1月3日]] |生誕地= [[カリフォルニア州]][[ペスカデロ]]{{sfn|Thackray|2015|p=xvi}} |没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1929|01|03|2023|03|24}} |死没地= [[ハワイ州]][[ワイメア (ハワイ州)|ワイメア]] |住居= ハワイ州 |国籍= {{USA}} |出身校= [[カリフォルニア工科大学]]([[PhD]])<br/>[[カリフォルニア大学バークレー校]]([[理学士|BS]]) |職業= 電気工学者、実業家 |時代= [[20世紀]] - [[21世紀]] |著名な実績= [[インテル]]創業<br/>[[ムーアの法則]]<br/>[[ゴードン・アンド・ベティ・ムーア財団]] }} [[画像:Gordon Moore.jpg|thumb|right|魚釣りを楽しむゴードン・ムーア(2005年ごろ)]] '''ゴードン・ムーア'''(Gordon E. Moore, [[1929年]][[1月3日]] - [[2023年]][[3月24日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[電気工学者]]、[[実業家]]。[[半導体]][[メーカー]]である[[インテル]]({{lang-en|Intel Corporation}})の共同創業者<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230325/k10014019571000.html |title=インテル共同創業者「ムーアの法則」のゴードン・ムーア氏死去 |date=2023-03-25 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |access-date=2023-03-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230327052131/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230325/k10014019571000.html |archive-date=2023-03-27}}</ref>。 == 経歴 == 1929年、[[サンフランシスコ]]南部の太平洋岸の小さな田舎町で生まれた。中学生の頃におもちゃの実験セットで[[黒色火薬]]などを作って遊んでいるうちに科学に興味を持ち、高校時代には[[ニトログリセリン]]を作ったこともあった。 1946年、[[サンノゼ州立大学]]へ進学。専攻は[[化学]]、副専攻は[[数学]]を学び、1948年に化学の上級カリキュラムを学ぶため[[カリフォルニア大学バークレー校]]に転籍し1950年に卒業した。すぐに[[カリフォルニア工科大学]]大学院に進学。[[赤外線]][[分光法|分光学]]分野の研究で化学博士号を取得した。修了後は[[ジョンズ・ホプキンズ大学応用物理研究所]]に入所した。しかし研究チームの解散とともに退所した。 1956年、[[ウィリアム・ショックレー]]博士に誘われて[[ショックレー半導体研究所]]に入社。ここで盟友[[ロバート・ノイス]]に出逢う。だが博士との折り合いの悪さからノイスら7人の仲間とともに同社を退社した。後にこの8人の研究員は「[[8人の反逆者|八人の裏切り者]]」と呼ばれることになる。 起業家[[アーサー・ロック]]の支援により、ムーアは仲間とともに[[1957年]]に[[フェアチャイルドセミコンダクター]]を設立した。1961年には[[集積回路|IC]]の大量生産に乗り出し、60年代半ばには世界最大の半導体メーカーとなった。1963年には同社に面接に来た[[アンドルー・グローヴ]]を採用した。 しかし会社が大きくなるにつれて人事を巡る問題が生じ、経営陣に強い不満を持っていたノイスと共に会社を去った。そして[[1968年]]7月18日に[[インテル]]を設立した。翌8月に従業員第一号としてグローヴを採用した。インテルは、1970年に世界初の[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]を、翌年には世界初の[[マイクロプロセッサ]][[Intel 4004|4004]]を開発、発売するなどして成功を収めた。 1979年にはインテル会長に就任。ノイスは副会長、グローヴは社長という体制になった。1979年から1987年までCEO([[最高経営責任者]])を務め、同社を世界的な半導体メーカーに育てた<ref name="nikkei20230325" />。 インテルを退社後は妻である[[ベティ・ムーア]]とともに2000年「[[ゴードン・アンド・ベティ・ムーア財団]]」を設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/37784 |date=2020-10-26 |title=インテル株急落、91歳のゴードン・ムーアの資産が10億ドル減少 |author=Sergei Klebnikov |website=[[Forbes JAPAN]] |publisher=linkties |access-date=2023-03-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230325141540/https://forbesjapan.com/articles/detail/37784 |archive-date=2023-03-25}}</ref>。[[環境保護]]活動、[[医療]](患者ケア)、[[科学]][[研究]]、[[サンフランシスコ・ベイエリア]]のプロジェクトなどの支援に毎年3億ドルを寄付している。また同財団の資産は64億ドルでアメリカ最大級である<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/17297/page2 |title=資産の半分以上を寄付する「ギビングプレッジ富豪」20人 |author=Forbes JAPAN 編集部 |date=2017-08-12 |website=[[Forbes JAPAN]] |publisher=linkties |access-date=2023-03-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230327052531/https://forbesjapan.com/articles/detail/17297/page2 |archive-date=2023-03-27}}</ref>。 2023年3月24日に、米[[ハワイ州]]の自宅で94歳で死去した<ref name="nikkei20230325">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN250OA0V20C23A3000000/ |title=ゴードン・ムーア氏死去 インテル創業「ムーアの法則」 |author=[[佐藤浩実]] |date=2023-03-25 |website=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |access-date=2023-03-25}}</ref>。 == 後世への影響 == 1965年にムーアが唱えた「[[ムーアの法則]]」は、[[半導体]]産業のガイドライン的な役割を果たすようになる。『日本経済新聞』コメンテーターの中山淳史はムーアの法則について、「GAFA誕生の下地をつくったともいえ、現在もハイテク産業の指針」と評している<ref>中山淳史「半導体の飛躍的進化を鼓舞 インテル創業ムーア氏死去 GAFA誕生の下地に」『日本経済新聞』2023年3月26日朝刊、総合5面。</ref>。 == 受賞歴 == *1990年 - [[アメリカ国家技術賞]] *1997年 - [[IEEEファウンダーズメダル]] *2002年 **[[バウアー賞]]ビジネスリーダーシップ部門 **[[大統領自由勲章]]<ref>{{Cite web |url=https://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2002/07/20020709-8.html |title=President Honors Recipients of the Presidential Medal of Freedom |access-date=2023-03-27 |publisher=アメリカ国立公文書記録管理局 |date=2002-07-09 |website=ジョージ・W・ブッシュ政権ホワイトハウス}}</ref> *2003年 - [[C&C賞]] *2008年 - [[IEEE栄誉賞]] *2010年 - [[ダン・デイヴィッド賞]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 評伝 インテルとともに(1995年 [[日本経済新聞社]]) ISBN 4532161592 ISBN 978-4532161590 *{{Cite book |last=Thackray |first=Arnold |url=https://archive.org/details/mooreslawlifeofg0000thac |title=Moore's Law : The Life of Gordon Moore, Silicon Valley's Quiet Revolutionary |url-access=registration |date=2015 |isbn=978-0-465-05562-3 |location=New York}} == 外部リンク == {{Commonscat}} *[https://www.youtube.com/watch?v=AiZwA8_43ZE Gordon Moore and Arthur Rock Oral History Panel] - YouTube Computer History Museumチャンネル *[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/semicon/1494017.html 福田昭:「【インテル・トリニティの生涯】ゴードン・ムーア:インテルを最も長く愛し続けた男」(PC Watch,2023年4月18日)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:むうあ こおとん}} [[Category:アメリカ合衆国の電気工学者]] [[Category:アメリカ合衆国の実業家]] [[Category:IEEE栄誉賞受賞者]] [[Category:アメリカ国家技術賞受賞者]] [[Category:全米技術アカデミー会員]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:アメリカ哲学協会会員]] [[Category:コンピュータ歴史博物館フェロー]] [[Category:アメリカ科学振興協会フェロー]] [[Category:IEEEフェロー]] [[Category:全米発明家殿堂]] [[Category:インテルの人物]] [[Category:サンフランシスコ出身の人物]] [[Category:カリフォルニア工科大学出身の人物]] [[Category:カリフォルニア大学バークレー校出身の人物]] [[Category:1929年生]] [[Category:存命人物]]
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背理法
背理法(はいりほう、英: proof by contradiction, reduction to the absurd, indirect proof, apagogical argument など、羅: reductio ad absurdum, RAA)とは、ある命題 P を証明したいときに、P が偽であることを仮定して、そこから矛盾を導くことによって、P が偽であるという仮定が誤り、つまり P は真であると結論付けることである。帰謬法(きびゅうほう)とも言う。 P を仮定すると、矛盾 ⊥ が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付けることは否定の導入などと呼ばれる。 これに対して ¬P を仮定すると矛盾 ⊥ が導けることにより P を結論付けることを狭義の背理法あるいは否定の除去ということがある。 否定の導入と狭義の背理法をあわせて広義の背理法ということもある。 一般的に、背理法と言った場合は広義の背理法を指す。否定の導入により、¬P から矛盾が導けた場合、¬¬P を結論できるが、いわゆる古典論理では推論規則として二重否定の除去が認められているため、結局 P が結論できることになる。排中律や二重否定の除去が成り立たない直観論理では、狭義の背理法による証明は成立しないが、否定の導入や、¬¬¬P から ¬P を結論することは、認められる。 背理法を使って証明される有名な定理には、 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} が無理数であること、素数が無限に存在すること、中間値の定理,ハイネ・カントールの定理などがある。 しかし例えば、 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} が無理数である(すなわち有理数でない)ことの証明は、狭義の背理法ではなく否定の導入によって証明することができる。
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背理法とは、ある命題 P を証明したいときに、P が偽であることを仮定して、そこから矛盾を導くことによって、P が偽であるという仮定が誤り、つまり P は真であると結論付けることである。帰謬法(きびゅうほう)とも言う。 P を仮定すると、矛盾 ⊥ が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付けることは否定の導入などと呼ばれる。 これに対して ¬P を仮定すると矛盾 ⊥ が導けることにより P を結論付けることを狭義の背理法あるいは否定の除去ということがある。 否定の導入と狭義の背理法をあわせて広義の背理法ということもある。 一般的に、背理法と言った場合は広義の背理法を指す。否定の導入により、¬P から矛盾が導けた場合、¬¬P を結論できるが、いわゆる古典論理では推論規則として二重否定の除去が認められているため、結局 P が結論できることになる。排中律や二重否定の除去が成り立たない直観論理では、狭義の背理法による証明は成立しないが、否定の導入や、¬¬¬P から ¬P を結論することは、認められる。 背理法を使って証明される有名な定理には、 2 が無理数であること、素数が無限に存在すること、中間値の定理,ハイネ・カントールの定理などがある。 しかし例えば、 2 が無理数である(すなわち有理数でない)ことの証明は、狭義の背理法ではなく否定の導入によって証明することができる。
{{redirect|帰謬法|修辞学における帰謬法|帰謬法 (修辞学)}} {{出典の明記|date=2016年4月}} '''背理法'''(はいりほう、{{lang-en-short|''proof by contradiction'', ''reduction to the absurd'', ''indirect proof'', ''apagogical argument''}} など、{{lang-la-short|''reductio ad absurdum'', ''RAA''}})とは、ある命題 {{mvar|''P''}} を証明したいときに、{{mvar|''P''}} が偽であることを仮定して、そこから[[矛盾]]を導くことによって、{{mvar|''P''}} が偽であるという仮定が誤り、つまり {{mvar|''P''}} は真であると結論付けることである{{sfn|前原昭二|2005|p=57}}。'''帰謬法'''(きびゅうほう)とも言う。 {{mvar|''P''}} を[[仮定]]すると、[[矛盾]] {{math|⊥}} が導けることにより、{{mvar|''P''}} の否定 {{math|&not;''P''}} を結論付けることは[[否定の導入]]などと呼ばれる{{sfn|前原昭二|2005|pp=45f}}。 :<math> \cfrac{\displaystyle{[P] \atop \bot}}{\neg P} </math> これに対して {{math|&not;''P''}} を仮定すると矛盾 {{math|⊥}} が導けることにより {{mvar|''P''}} を結論付けることを狭義の背理法あるいは否定の除去ということがある。 :<math> \cfrac{\displaystyle{[\neg P] \atop \bot}}{P} </math> 否定の導入と狭義の背理法をあわせて広義の背理法ということもある。 一般的に、背理法と言った場合は広義の背理法を指す。否定の導入により、{{math|&not;''P''}} から矛盾が導けた場合、{{math|&not;&not;''P''}} を結論できるが、いわゆる[[古典論理]]では[[推論規則]]として[[二重否定の除去]]が認められているため、結局 {{mvar|''P''}} が結論できることになる。[[排中律]]や二重否定の除去が成り立たない[[直観論理]]では、狭義の背理法による証明は成立しないが{{sfn|前原昭二|2005|loc=第2章 §8, 付録 II §2}}、否定の導入や、{{math|&not;&not;&not;''P''}} から {{math|&not;''P''}} を結論することは、認められる。 背理法を使って証明される有名な定理には、[[2の平方根]]<math>\sqrt{2}</math> が[[無理数]]であること、[[素数が無数に存在することの証明|素数が無限に存在する]]こと、[[中間値の定理]],[[ハイネ・カントールの定理]]などがある。 しかし例えば、<math>\sqrt{2}</math> が無理数である(すなわち有理数でない)ことの証明は、狭義の背理法ではなく否定の導入によって証明することができる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}{{reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book |和書 |author = 前原昭二 |title = 記号論理入門 |edition = 新装版 |year = 2005 |publisher = [[日本評論社]] |series = 日評数学選書 |isbn = 4-535-60144-5 |ref = harv }} == 関連項目 == {{Div col}} *[[直観主義 (数学の哲学)|直観主義]] *[[転換法]] *[[否定の導入]] *[[二重否定の除去]] *[[無矛盾律]] *[[排中律]] *[[無限降下法]] *[[対角線論法]] *[[帰謬法 (修辞学)]] {{Div col end}} == 外部リンク == *{{Kotobank|背理法}} *{{高校数学の美しい物語|title=背理法のいろいろな例|urlname=contradiction}} *{{MathWorld|title=Reductio ad Absurdum|urlname=ReductioadAbsurdum}} {{Mathlogic-stub}} {{DEFAULTSORT:はいりほう}} [[Category:命題論理の定理]] [[Category:数学的証明]] [[Category:証明法]] [[Category:数学に関する記事]]
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はじめの一歩
『はじめの一歩』(はじめのいっぽ)は、ボクシングを題材とした森川ジョージによる日本の漫画作品。1989年から『週刊少年マガジン』(講談社)で連載中。各話数の通し番号の表記はそれぞれ「Round.○○」。2023年7月14日発売の138巻をもってコミックスのシリーズ累計発行部数は1億部の大台を突破した。1991年(平成3年)度、第15回講談社漫画賞少年部門受賞。 母子家庭のいじめられっ子であり、釣り船屋を親子で支えている主人公・幕之内一歩が、プロボクサー鷹村守との出会いをきっかけに鴨川ボクシングジムに入門。「強いとは何か?」という問いの答えを求め、プロボクサーとして、また人間としても成長していく過程を、周囲との交流やライバル達との戦いを通じて描いてゆく。主人公のみならず脇役である仲間やライバル達の戦いも詳細に描いている点が特徴的であり、作者は「登場人物全員が主人公です」とコメントしている。また、ボクサーとそれ以外の人間の軋轢も含まれており、貧困や人種差別、いじめや環境問題などの社会問題も描いている。 登場人物の多くにボクシングの歴史を彩った実在選手の姿が投影されている。作者自身も実際にボクシングジムのオーナーで著名なプロボクサー達と親交があり、『週刊少年マガジン』誌上でも若手を応援するコメントなどを載せている。 2012年12月5日発売の週刊少年マガジン2013年1号で、連載1000回を迎えた。 なお、週刊少年マガジンは2015年より電子書籍版の出版が始まったが、本作は作者である森川の意向により電子書籍版に掲載されておらず、1巻から60巻及び100巻が電子書籍として出版されていた単行本も同年8月31日で配信を終了した。 2021年の元日より『マガジンポケット』で1か月間限定で60巻分が無料で配信されていたが、新型コロナウイルス感染症 (2019年)の影響による緊急事態宣言を受けて3月7日まで無料配信が延期され、ストーリーの区切りのいい61巻が追加配信された。同年6月23日、講談社より『はじめの一歩』の再電子書籍化と「週刊少年マガジン」電子版への収録が発表。7月1日発売の「週刊少年マガジン」2021年31号から収録が始まり、同時に最新刊となる131巻までの全巻の電子版配信が開始された。 199X年日本の東京の町を舞台とし、とりわけその一角にある「鴨川ボクシングジム」を中心に物語が展開される。 国名・地名や有名施設は実在のそれに準じており(後楽園ホール、両国国技館など。「下野動物園」といったように一部例外もある)、市民の生活や感覚もおおむね作品の連載時期であった1990年代のそれに準じている。さらに、鷹村の家の黒電話が留守番電話になる、青木や木村が携帯電話を持つようになる、登場人物が皆シャツインの着方をしなくなるなど劇中でも実際の1990年代日本と同様の変化がみられた。しかし連載が2000年代に入っても尚この世相を反映させる傾向が続いたため、DVD、スマートフォン、ETCなど、時折1990年代の時代設定に不釣り合いな要素もみられるようになった。 現実の世界では、『はじめの一歩』連載開始後の1998年に世界ボクシング協会(WBA)と世界ボクシング評議会(WBC)とでルールが統合、両団体で異なっていた一部の階級の名称が一本化され、これに追随して日本ボクシングコミッション(JBC)もそれらの階級の名称を変更したが、『はじめの一歩』の世界では以前の名称が使われている。作中で登場している階級では、スーパーウェルター級はジュニアミドル級、スーパーライト級はジュニアウェルター級、スーパーフェザー級はジュニアライト級、スーパーバンタム級はジュニアフェザー級と表記されている。 登場するボクサーやボクシングジムはすべて架空のものであるが、実在する海外の有名ボクサー(当時の現役含む)や引退済みの日本のボクサーは例外的に引き合いに出されることがある(ファイティング原田、マイク・タイソンなど)。 劇中の登場人物、対戦相手等の詳細な情報は上記ページを参照。 これまで3つの連続テレビシリーズとテレビスペシャル・OVA作品が1つずつ製作・放送(リリース)されている。テレビ作品は全て日本テレビほかで本放送。全作品およびOVAは日テレグループ企業・バップからリリース。 Round76はテレビ未放送、DVD第25巻にのみ収録。ファミリー劇場、日テレプラス、アニマックス、キッズステーションではRound76まで放送。 タイトルは『リアルファイティング「はじめの一歩」The Glorious Stage!!』。2020年1月31日から2月9日まで品川プリンスホテル ステラボールで公演した。演出・脚本はアニメで幕之内一歩の声を務めた喜安浩平が担当。 DVD、Blu-ray、CDともにバップが発売している。 また、1996年には講談社からドラマCDが発売された。
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『はじめの一歩』(はじめのいっぽ)は、ボクシングを題材とした森川ジョージによる日本の漫画作品。1989年から『週刊少年マガジン』(講談社)で連載中。各話数の通し番号の表記はそれぞれ「Round.○○」。2023年7月14日発売の138巻をもってコミックスのシリーズ累計発行部数は1億部の大台を突破した。1991年(平成3年)度、第15回講談社漫画賞少年部門受賞。
{{Otheruses|[[森川ジョージ]]の漫画|その他|はじめの一歩 (曖昧さ回避)}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = はじめの一歩 | ジャンル = [[少年漫画]]、[[格闘漫画]]、[[スポーツ漫画|スポーツ]]([[ボクシング]]) }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[森川ジョージ]] | 出版社 = [[講談社]] | 掲載誌 = [[週刊少年マガジン]] | レーベル = 講談社コミックス | 開始号 = 1989年43号 | 終了号 = | 巻数 = 既刊139巻(2023年11月現在) }} {{Infobox animanga/TVAnime | 監督 = 西村聡 | シリーズ構成 = [[浦畑達彦]] | キャラクターデザイン = 杉浦幸次 | 音楽 = [[今堀恒雄]] | アニメーション制作 = [[マッドハウス]] | 製作 = [[バップ|VAP]] | 放送局 = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]ほか | 放送開始 = 2000年10月3日 | 放送終了 = 2002年3月26日 | 話数 = 全76話 }} {{Infobox animanga/TVAnime | タイトル = はじめの一歩 Champion Road | 監督 = 西村聡 | キャラクターデザイン = 杉浦幸次 | アニメーション制作 = マッドハウス | 製作 = 日本テレビ、バップ | 放送局 = [[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]] | 放送開始 = 2003年4月18日 | 放送終了 = 同日 | 話数 = 全1話 }} {{Infobox animanga/OVA | タイトル = はじめの一歩 間柴vs木村 死刑執行 | 監督 = [[難波日登志]] | キャラクターデザイン = 杉浦幸次 | アニメーション制作 = マッドハウス | 製作 = 日本テレビ、バップ | 発売日 = 2003年9月5日 | 話数 = 全1話 }} {{Infobox animanga/TVAnime | タイトル = はじめの一歩 New Challenger | 監督 = [[宍戸淳]] | シリーズ構成 = [[筆安一幸|ふでやすかずゆき]] | キャラクターデザイン 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[[母子家庭]]の[[いじめ]]られっ子であり、釣り船屋を親子で支えている主人公・[[幕之内一歩]]が、プロボクサー[[鷹村守]]との出会いをきっかけに鴨川ボクシングジムに入門。「強いとは何か?」という問いの答えを求め、プロボクサーとして、また人間としても成長していく過程を、周囲との交流やライバル達との戦いを通じて描いてゆく。主人公のみならず脇役である仲間やライバル達の戦いも詳細に描いている点が特徴的であり、作者は「登場人物全員が主人公です」とコメントしている。また、ボクサーとそれ以外の人間の軋轢も含まれており、貧困や人種差別、いじめや環境問題などの社会問題も描いている。 登場人物の多くにボクシングの歴史を彩った実在選手の姿が投影されている。作者自身も実際にボクシングジムのオーナーで著名なプロボクサー達と親交があり、『週刊少年マガジン』誌上でも若手を応援するコメントなどを載せている。 2012年12月5日発売の週刊少年マガジン2013年1号で、連載'''1000回'''を迎えた<ref>{{Cite web|和書|title=はじめの一歩:マガジン初の連載1000回達成 小栗旬、ジョーも祝福|url=https://mantan-web.jp/article/20121204dog00m200050000c.html|website=MANTANWEB(まんたんウェブ)|accessdate=2021-02-01|language=ja-JP}}</ref>。 なお、週刊少年マガジンは2015年より電子書籍版の出版が始まったが、本作は作者である森川の意向により電子書籍版に掲載されておらず<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1501/06/news112.html “諸事情”により「週刊少年マガジン」電子版に「はじめの一歩」掲載されず 講談社「掲載の目処などは立っていない」](ねとらぼ、2015年01月06日)</ref>、1巻から60巻及び100巻が電子書籍として出版されていた単行本も同年8月31日で配信を終了した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/ebook/articles/1507/16/news129.html 『はじめの一歩』『ナニワ金融道』の電子版が配信停止に](ITmedia eBook USER、2015年07月16日)</ref>。 2021年の元日より『マガジンポケット』で1か月間限定で60巻分が無料で配信されていたが<ref>[https://mantan-web.jp/article/20201228dog00m200034000c.html はじめの一歩:マガポケでコミックス60巻分無料公開 31年の歴史で初のアプリ掲載] MANTAN WEB 2021年01月01日</ref>、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)]]の影響による緊急事態宣言を受けて3月7日まで無料配信が延期され、ストーリーの区切りのいい61巻が追加配信された<ref>[https://mantan-web.jp/article/20210206dog00m200021000c.html はじめの一歩:コミックス無料公開をさらに延長 3月7日まで] MANTAN WEB 2021年02月06日 2021年2月18日 閲覧</ref>。同年6月23日、講談社より『はじめの一歩』の再電子書籍化と「週刊少年マガジン」電子版への収録が発表<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2106/23/news122.html 紆余曲折を経て「はじめの一歩」電子版“解禁” マガジン電子版でも連載へ](ITmedia NEWS、2021年6月23日)</ref>。7月1日発売の「週刊少年マガジン」2021年31号から収録が始まり、同時に最新刊となる131巻までの全巻の電子版配信が開始された<ref> {{Cite web|和書|url= https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000233.000005279.html |title= 『はじめの一歩』全131巻電子書籍配信開始記念!特別クーポン配布! |website= |publisher=PR TIMES |date=2021-07-01 |accessdate=2022-07-02}}</ref>。 == 世界観 == 199X年<ref>{{独自研究範囲|date=2023年2月|登場人物の生年月日と年齢から、物語開始時点で1990年と推測される}}。また実際のボクシング界では1998年に階級の名称が変更されたが、劇中では変更前のままである(例:木村のジュニアライト級は、現在スーパーフェザー級)。</ref><ref>初期はポスター等に年数の表記がなされることがあり、例えば鷹村の国内初防衛戦(対ボンチャイ戦)が1992年(第13巻84ページ)、一歩とヴォルグ戦の直前が1993年(第18巻137ページ)、千堂とのタイトルマッチ直前が1994年(第28巻47ページ)であった。</ref>日本の東京の町<ref>海沿い川沿いに位置するが、町の外観は[[練馬区]]のそれに似る。</ref>を舞台とし、とりわけその一角にある「鴨川ボクシングジム」を中心に物語が展開される。 国名・地名や有名施設は実在のそれに準じており([[後楽園ホール]]、[[両国国技館]]など。「[[上野動物園|下野動物園]]」といったように一部例外もある)、市民の生活や感覚もおおむね作品の連載時期であった1990年代のそれに準じている。さらに、鷹村の家の[[黒電話]]が[[留守番電話]]になる、青木や木村が[[携帯電話]]を持つようになる、登場人物が皆[[タックイン|シャツイン]]の着方をしなくなるなど劇中でも実際の1990年代日本と同様の変化がみられた。しかし連載が2000年代に入っても尚この世相を反映させる傾向が続いたため、[[DVD]]<ref>森川ジョージ「Round 913 ボーイズトーク」『はじめの一歩 95』講談社、2011年3月17日、{{ISBN2|978-4-06-384455-9}}、16頁。</ref>、[[スマートフォン]]<ref>森川ジョージ「Round 914 デート・デート・デート」『はじめの一歩 95』35頁。ただし36頁では[[フィーチャーフォン]]になっている。</ref>、ETCなど、時折1990年代の時代設定に不釣り合いな要素もみられるようになった。 現実の世界では、『はじめの一歩』連載開始後の1998年に[[世界ボクシング協会]](WBA)と[[世界ボクシング評議会]](WBC)とでルールが統合、両団体で異なっていた一部の階級の名称が一本化され、これに追随して[[日本ボクシングコミッション]](JBC)もそれらの階級の名称を変更したが、『はじめの一歩』の世界では以前の名称が使われている。作中で登場している階級では、[[スーパーウェルター級]]はジュニアミドル級、[[スーパーライト級]]はジュニアウェルター級、[[スーパーフェザー級]]はジュニアライト級、[[スーパーバンタム級]]はジュニアフェザー級と表記されている。 登場するボクサーやボクシングジムはすべて架空のものであるが、実在する海外の有名ボクサー(当時の現役含む)や引退済みの日本のボクサーは例外的に引き合いに出されることがある([[ファイティング原田]]、[[マイク・タイソン]]など)。 == 登場人物 == {{main|はじめの一歩の登場人物}} 劇中の登場人物、対戦相手等の詳細な情報は上記ページを参照。 == 書誌情報 == === 単行本 === <div class="NavFrame" style="border:0; text-align:left"> <div class="NavHead">コミック一覧(138巻)</div> <div class="NavContent"> * 森川ジョージ 『はじめの一歩』 講談社〈少年マガジンコミックス / プレミアムKC{{Efn2|限定版のみレーベルはプレミアムKC。}}〉、既刊139巻(2023年11月16日現在) *# 1990年2月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005071 |title=はじめの一歩 1 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311532-1}} *# 1990年3月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005080 |title=はじめの一歩 2 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311543-7}} *# 1990年5月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005098 |title=はじめの一歩 3 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311566-6}} *# 1990年8月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005122 |title=はじめの一歩 4 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311591-7}} *# 1990年10月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005139 |title=はじめの一歩 5 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311608-5}} *# 1990年12月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005154 |title=はじめの一歩 6 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311625-5}} *# 1991年2月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005167 |title=はじめの一歩 7 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311641-7}} *# 1991年4月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005182 |title=はじめの一歩 8 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311658-1}} *# 1991年7月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005209 |title=はじめの一歩 9 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311690-5}} *# 1991年9月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005225 |title=はじめの一歩 10 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311708-1}} *# 1991年12月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005244 |title=はじめの一歩 11 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311730-8}} *# 1992年2月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005268 |title=はじめの一歩 12 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311754-5}} *# 1992年5月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005297 |title=はじめの一歩 13 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311783-9}} *# 1992年8月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005325 |title=はじめの一歩 14 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311814-2}} *# 1992年10月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005341 |title=はじめの一歩 15 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311830-4}} *# 1992年12月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005359 |title=はじめの一歩 16 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311851-7}} *# 1993年3月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005386 |title=はじめの一歩 17 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311881-9}} *# 1993年6月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005414 |title=はじめの一歩 18 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311909-2}} *# 1993年8月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005432 |title=はじめの一歩 19 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311927-0}} *# 1993年11月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005461 |title=はじめの一歩 20 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311956-4}} *# 1994年1月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005480 |title=はじめの一歩 21 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311975-0}} *# 1994年3月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005499 |title=はじめの一歩 22 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-311994-7}} *# 1994年6月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005529 |title=はじめの一歩 23 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312025-2}} *# 1994年8月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005545 |title=はじめの一歩 24 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312041-4}} *# 1994年11月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005572 |title=はじめの一歩 25 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312068-6}} *# 1995年1月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005594 |title=はじめの一歩 26 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312090-2}} *# 1995年3月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005615 |title=はじめの一歩 27 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312112-7}} *# 1995年5月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000004367 |title=はじめの一歩 28 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312135-6}} *# 1995年8月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000000019 |title=はじめの一歩 29 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312165-8}} *# 1995年11月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000004395 |title=はじめの一歩 30 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312197-6}} *# 1996年1月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000004416 |title=はじめの一歩 31 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312219-0}} *# 1996年3月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000004438 |title=はじめの一歩 32 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312241-7}} *# 1996年5月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000004462 |title=はじめの一歩 33 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312265-4}} *# 1996年8月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000004496 |title=はじめの一歩 34 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312299-9}} *# 1996年10月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005623 |title=はじめの一歩 35 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312325-1}} *# 1997年1月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005659 |title=はじめの一歩 36 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312361-8}} *# 1997年4月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005688 |title=はじめの一歩 37 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312390-1}} *# 1997年6月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005714 |title=はじめの一歩 38 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312417-7}} *# 1997年8月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005736 |title=はじめの一歩 39 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312439-8}} *# 1997年11月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005772 |title=はじめの一歩 40 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312475-4}} *# 1998年2月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005805 |title=はじめの一歩 41 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312509-2}} *# 1998年4月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005828 |title=はじめの一歩 42 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312532-7}} *# 1998年6月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005852 |title=はじめの一歩 43 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312556-4}} *# 1998年8月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005874 |title=はじめの一歩 44 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312578-5}} *# 1998年11月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005911 |title=はじめの一歩 45 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312616-1}} *# 1999年1月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005935 |title=はじめの一歩 46 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312640-4}} *# 1999年4月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005968 |title=はじめの一歩 47 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312673-0}} *# 1999年6月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000005992 |title=はじめの一歩 48 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312697-8}} *# 1999年8月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006017 |title=はじめの一歩 49 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312723-0}} *# 1999年10月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006038 |title=はじめの一歩 50 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312744-3}} *# 2000年2月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006093 |title=はじめの一歩 51 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312799-0}} *# 2000年5月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006130 |title=はじめの一歩 52 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312837-7}} *# 2000年7月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006150 |title=はじめの一歩 53 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312857-1}} *# 2000年9月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006172 |title=はじめの一歩 54 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312879-2}} *# 2000年12月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006203 |title=はじめの一歩 55 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312911-X}} *# 2001年3月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006236 |title=はじめの一歩 56 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-312944-6}} *# 2001年6月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000006269 |title=はじめの一歩 57 |publisher=講談社 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2018年11月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000313256 |title=はじめの一歩 14(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-512767-4}} *# 2018年12月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000313257 |title=はじめの一歩 15(文庫版) |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-512768-1}} === 廉価版 === * 森川ジョージ 『はじめの一歩特別総集編』 講談社〈講談社MOOK〉、全3巻 *# 「第1集 鴨川軍団日本タイトルマッチ編」2012年5月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000018954 |title=はじめの一歩特別総集編 第1集 鴨川軍団日本タイトルマッチ編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-389668-8}} *# 「第2集 泣ける『はじめの一歩』編」2012年6月14日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000018955 |title=はじめの一歩特別総集編 第2集 泣ける『はじめの一歩』編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-389669-5}} *# 「第3集 激闘!リング外での大バトル編」2012年7月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000018956 |title=はじめの一歩特別総集編 第3集 激闘!リング外での大バトル編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-389670-1}} * 森川ジョージ 『ベストバウト オブ はじめの一歩!』 講談社〈講談社プラチナコミックス〉、全24巻 *# 「ブライアン・ホークVS.鷹村守 WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ編」2019年1月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000319233 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! ブライアン・ホークVS.鷹村守 WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-514328-5}} *# 「千堂武士VS.幕之内一歩 日本フェザー級タイトルマッチ 豪腕対決編」2019年1月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000319234 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 千堂武士VS.幕之内一歩 日本フェザー級タイトルマッチ 豪腕対決編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-514329-2}} *# 「伊達英二VS.幕之内一歩 日本フェザー級タイトルマッチ 王座初挑戦編」2019年2月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000319571 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 伊達英二VS.幕之内一歩 日本フェザー級タイトルマッチ 王座初挑戦編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-514470-1}} *# 「間柴了VS.木村達也 日本J・ライト級タイトルマッチ編」2019年2月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000319573 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 間柴了VS.木村達也 日本J・ライト級タイトルマッチ編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-514471-8}} *# 「宮田一郎VS.ランディー・ボーイJr 東洋太平洋フェザー級王座統一戦編」2019年3月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000320595 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 宮田一郎VS.ランディー・ボーイJr 東洋太平洋フェザー級王座統一戦編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-514940-9}} *# 「幕之内一歩VS.沢村竜平 日本フェザー級タイトルマッチ 尾張の竜編」2019年3月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000320597 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.沢村竜平 日本フェザー級タイトルマッチ 尾張の竜編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-514939-3}} *# 「幕之内一歩VS.アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフ 日本フェザー級 A級ボクサー賞金トーナメント決勝戦編」2019年4月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000321380 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフ 日本フェザー級 A級ボクサー賞金トーナメント決勝戦編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-515356-7}} *# 「幕之内一歩VS.宮田一郎 幕之内一歩VS.ハンマー・ナオ スパーリング第2戦&日本フェザー級タイトルマッチ編」2019年4月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000321381 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.宮田一郎 幕之内一歩VS.ハンマー・ナオ スパーリング第2戦&日本フェザー級タイトルマッチ編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-515357-4}} *# 「幕之内一歩VS.間柴了 日本フェザー級東日本新人王決定戦編」2019年5月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000321890 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.間柴了 日本フェザー級東日本新人王決定戦編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-515619-3}} *# 「幕之内一歩VS.ウォーリー 日本フェザー級10回戦 驚異の野生児編」2019年5月29日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000321891 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VSウォーリー 日本フェザー級10回戦 驚異の野生児編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-515592-9}} *# 「幕之内一歩VS.マルコム・ゲドー 日本フェザー級10回戦 フィリピンの魔術師編」2019年6月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000321994 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.マルコム・ゲドー 日本フェザー級10回戦 フィリピンの魔術師編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-516058-9}} *# 「リカルド・マルチネスVS.伊達英二 WBA世界フェザー級タイトルマッチ編」2019年6月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000321995 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! リカルド・マルチネスVS.伊達英二 WBA世界フェザー級タイトルマッチ編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-516059-6}} *# 「間柴了VS.沢村竜平 日本J・ライト級タイトルマッチ編」2019年7月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000323496 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 間柴了VS.沢村竜平 日本J・ライト級タイトルマッチ編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-516463-1}} *# 「幕之内一歩VS.真田一機 日本フェザー級タイトルマッチ 二羽の燕編」2019年7月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000323497 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.真田一機 日本フェザー級タイトルマッチ 二羽の燕編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-516462-4}} *# 「鴨川源二VS.ラルフ・アンダーソン 千堂武士VS.アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフ 焼け野原の鉄拳編&日本フェザー級王座決定戦編」2019年8月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000324035 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 鴨川源二VS.ラルフ・アンダーソン 千堂武士VS.アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフ 焼け野原の鉄拳編&日本フェザー級王座決定戦編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-516746-5}} *# 「デビッド・イーグルVS.鷹村守 WBC世界ミドル級タイトルマッチ編」2019年8月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000324036 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! デビッド・イーグルVS.鷹村守 WBC世界ミドル級タイトルマッチ編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-516747-2}} *# 「幕之内一歩VS.千堂武士 日本フェザー級全日本新人王決定戦編」2019年9月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000324682 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.千堂武士 日本フェザー級全日本新人王決定戦編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517070-0}} *# 「幕之内一歩VS.島袋岩男 日本フェザー級タイトルマッチ 海人対決編」2019年9月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000324683 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.島袋岩男 日本フェザー級タイトルマッチ 海人対決編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517073-1}} *# 「幕之内一歩VS.武恵一 日本フェザー級タイトルマッチ 父の背中編」2019年10月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000325467 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.武恵一 日本フェザー級タイトルマッチ 父の背中編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517467-8}} *# 「マイク・エリオットVS.アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフ IBFJ・ライト級タイトルマッチ編」2019年10月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000325468 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! マイク・エリオットVS.アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフ IBFJ・ライト級タイトルマッチ編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517468-5}} *# 「幕之内一歩VS.冴木卓麻 幕之内一歩VS.唐沢拓三 A級ボクサートーナメント&日本フェザー級タイトルマッチ スピードスター編」2019年11月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000326894 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.冴木卓麻 幕之内一歩VS.唐沢拓三 A級ボクサートーナメント&日本フェザー級タイトルマッチ スピードスター編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517746-4}} *# 「幕之内一歩VS.ジミー・シスファー 日本フェザー級10回戦 堕ちた英雄編」2019年11月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000326895 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.ジミー・シスファー 日本フェザー級10回戦 堕ちた英雄編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517748-8}} *# 「幕之内一歩VS.アルフレド・ゴンザレス フェザー級世界前哨戦編」2019年12月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000327394 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.アルフレド・ゴンザレス フェザー級世界前哨戦編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517980-2}} *# 「幕之内一歩VS.アントニオ・ゲバラ 幕之内一歩再起戦編」2019年12月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000327395 |title=ベストバウト オブ はじめの一歩! 幕之内一歩VS.アントニオ・ゲバラ 幕之内一歩再起戦編 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-517979-6}} === 関連書籍 === * 『はじめの一歩&栄光のチャンピオンの勝つ方程式』1993年2月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000176263 |title=はじめの一歩&栄光のチャンピオンの勝つ方程式 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-206278-X}} * 『はじめの一歩公式ガイドブック』1996年3月11日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000031568 |title=はじめの一歩公式ガイドブック |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-319691-7}} * 『はじめの一歩 INDEX 01』2001年9月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000035331 |title=はじめの一歩 INDEX 01 |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|4-06-334450-9}} * 『連載開始30周年記念出版 はじめの一歩 メモリアルベスト』2019年9月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000323827 |title=連載開始30周年記念出版 はじめの一歩 メモリアルベスト |publisher=講談社 |accessdate=2021-06-04}}</ref>、{{ISBN2|978-4-06-516640-6}} == アニメ == これまで3つの連続テレビシリーズとテレビスペシャル・OVA作品が1つずつ製作・放送(リリース)されている。テレビ作品は全て[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]ほかで本放送。全作品およびOVAは日テレグループ企業・[[バップ]]からリリース。 ; 第1期 : 2000年10月から2002年3月まで放送された。原作を忠実に再現した劇画的な表情や影のつき方、迫力ある演出が話題となり、[[深夜アニメ]]としては異例の6クール全75話という長期シリーズとなる。また視聴率もこの時間帯ではアニメとしてだけでなく通常の番組としても驚異的な平均視聴率4.5%、最高視聴率6.1%(2001年2月27日放送・第21話)を記録した。 : ストーリーは一歩が日本チャンピオンとなるまでを描く。DVD第25巻には原作での断片的な描写を基にした鷹村と鴨川の出会いからデビュー戦までを描いたオリジナルストーリーの第76話『ボクサーの拳』を収録。絵柄は50巻以降のものになっている。 ; TVスペシャル : 2003年4月18日、『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』で放送のテレビスペシャル。ストーリーは原作の対真田戦となっている。本作以降のアニメ作品は[[デジタルアニメ|デジタル制作]]に移行している。 ; OVA : 2003年9月5日発売のOVA。異色作品で木村役の[[藤原啓治]]がキャストロールの先頭で紹介されている。 ; 第2期 : 2009年1月から6月まで放送の第2期。主要キャラクターの担当声優は第1期テレビアニメ版とほぼ同じ。また、第2期では[[ハイビジョン制作]]となり、[[NTSC|地上アナログ放送]]は[[レターボックス (映像技術)|レターボックス]]となっている。 ; 第3期 : 2013年10月から2014年3月まで放送。このシリーズからアニメーション制作がマッドハウスと[[MAPPA]]の共同制作になった。また鴨川会長の声優が同年に逝去した[[内海賢二]]から第2期でミゲル役だった[[飯塚昭三]]に、実況アナウンサーも日本テレビ元アナウンサーで当シリーズの制作を担当する[[船越雅史]]に変更。本放送中には猫田役の[[永井一郎]]が2014年1月に急逝、第19話が最後の出演となった<!--ソース http://mantan-web.jp/2014/02/06/20140205dog00m200039000c.html-->ほか、本編への登場はなかったものの現代の浜役の[[加藤精三 (声優)|加藤精三]]も同月に逝去している。 : ストーリー的には一歩 VS 島袋、一歩 VS 沢村、鷹村 VS イーグル戦を中心に描き、最終4話はスペシャル番外編として鴨川と猫田、浜の若き日を描いた「戦後編」となる。この番外編では、OVA『死刑執行』以来、久々に西村聡が演出・監督として制作に関わる。<!-- ソース http://mantan-web.jp/2014/02/07/20140206dog00m200077000c.html-->なお、若き日の鴨川は[[宮野真守]]が、同じく猫田は[[吉野裕行]](戦後編の冒頭に現在の猫田が登場するが、この声は[[山寺宏一]]が演じる<!--ソースhttp://www.ntv.co.jp/ippo/news/06.html-->)、浜は[[安元洋貴]]が演じた。戦後編最終回の終了後、故人となった内海、永井に捧げるとのテロップが流された。 === スタッフ === {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" ! !! 第1期 !! TVSP !! OVA !! 第2期 !! 第3期 |- ! 企画 | 伊藤和明<br />伊藤梅男 || colspan="2" |[[大澤雅彦]]<br />大島満 || 藤本鈴子、平山博志<br />[[丸山正雄]] || [[船越雅史]]<br />岡本東郎 |- ! rowspan="3" |企画協力 | colspan="3" |今西陽介 || 福井恭介、立石謙介 || rowspan="3" {{N/A}} |- | rowspan="2" |野内雅宏、西村浩 || colspan="3" |宮本敦史 |- | colspan="2" |工富保 || 飯田郁乃 |- ! 監督 | colspan="2" |西村聡 || [[難波日登志]] || [[宍戸淳]] || 宍戸淳{{efn2|name="第3期1"|第1 - 21話}}、西村聡{{efn2|name="第3期2"|第22 - 25話}} |- ! 助監督{{efn2|第1期・TVSP}}<br />監修{{efn2|OVA}}<br />シリーズ監督{{efn2|第3期}} | colspan="2" |川村賢一 || 西村聡 || {{N/A}} || 宍戸淳{{efn2|name="第3期2"}} |- ! シリーズ構成 | colspan="3" |[[浦畑達彦]] || colspan="2" |[[筆安一幸|ふでやすかずゆき]] |- ! キャラクターデザイン | colspan="5" |杉浦幸次 |- ! キャラクター監修 | colspan="4" rowspan="2" {{N/A}} || [[阿部恒]] |- ! アクション監督 | 佐藤千春 |- ! 総作画監督 | [[神志那弘志]]、筱雅律 || {{N/A}} || ふくだのりゆき || 杉浦幸次 || |- ! rowspan="2" |美術監督 | colspan="5" |金子英俊 |- | colspan="4" {{N/A}} || 岡本有香 |- ! 撮影監督 | [[白井久男]]、宮田崇弘{{efn2|name="第1期1"|第76話}} || 宮田崇弘 || 福士亨 | colspan="2" |熊澤祐哉 |- ! CGディレクター | colspan="4" {{N/A}} || 池田恵一 |- ! rowspan="2" |編集 | colspan="4" |寺内聡 || rowspan="2" |神宮司由美 |- | 木村佳史子、[[有里紅良|伊藤勇喜子]]{{efn2|name="第1期2"|第1 - 75話}}<br />土谷百合香{{efn2|name="第1期2"}} || colspan="3" {{N/A}} |- ! rowspan="2" |色彩設計 | rowspan="2" |磯崎昭彦<br />こしかわよしみ{{efn2|name="第1期1"}} || colspan="2" rowspan="2" |こしかわよしみ || colspan="2" |田中千春 |- | {{N/A}} || 三笠修{{efn2|name="第3期2"}} |- ! 音響監督 | colspan="3" |[[三間雅文]] || 三間雅文{{efn2|第1・2話}}、[[中嶋聡彦]] || 三間雅文 |- ! rowspan="2" |音楽 | colspan="3" rowspan="2" |[[今堀恒雄]] || colspan="2" |[[平野義久]] |- | [[タニウチヒデキ]]{{efn2|第11話 - }} || 今堀恒雄 |- ! rowspan="3" |プロデューサー | colspan="5" |田村学 |- | colspan="3" |山下洋、丸山正雄 || colspan="2" |[[中谷敏夫]] |- | 大島満 || colspan="3" {{N/A}} || 進藤友博 |- ! クリエイティブ<br />プロデューサー | colspan="4" {{N/A}} || 丸山正雄 |- ! rowspan="2" |アニメーション<br />プロデューサー | colspan="4" |吉本聡 || rowspan="2" |岩瀬安輝、橋本信太郎<br />渡部正和{{efn2|name="第3期1"}}、上田純久{{efn2|name="第3期2"}} |- | 諸澤昌男 || colspan="2" {{N/A}} || 服部優太 |- ! rowspan="2" |アニメーション制作 | colspan="5" |[[マッドハウス]] |- | colspan="4" {{N/A}} || [[MAPPA]] |- ! 企画制作 | [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] || colspan="4" {{N/A}} |- ! rowspan="2" |製作著作 | colspan="3" |[[バップ|VAP]] || rowspan="2" |はじめの一歩<br />製作委員会{{efn2|日本テレビ、[[D.N.ドリームパートナーズ]]、バップ、マッドハウス}} || rowspan="2" |「はじめの一歩 Rising」<br />製作委員会{{efn2|日本テレビ、バップ}} |- | {{N/A}} || colspan="2" |日本テレビ |} === 主題歌 === ; 第1期 :; オープニングテーマ ::; 「under star」(Round1〜Round25) ::; 「Inner Light」(Round26〜Round52) ::: 歌 - Shocking Lemon ::; 「TUMBLING DICE」(インストゥルメンタル)(Round53〜Round75) ::: 作曲 - 今堀恒雄 :; エンディングテーマ ::; 「夕空の紙飛行機」(Round1〜25) ::; 「360°」(Round26〜Round52、Round75) ::: 歌 - [[モリナオヤ]] ::; 「ETERNAL LOOP」(Round53〜Round74) ::: 歌 - [[SABER TIGER]] ; TVスペシャル :; オープニングテーマ ::; 「Inner Light」(インストメンタル) ::: 作曲 - タニウチヒデキ (Shocking Lemon) :; エンディングテーマ ::; 「夕空の紙飛行機」 ::: 歌 - モリナオヤ ; OVA :; エンディングテーマ ::; 「360°」 ::: 歌 - モリナオヤ :; 挿入歌 ::; 「夕空の紙飛行機」 ::: 歌 - モリナオヤ ; 第2期 :; オープニングテーマ「HEKIREKI」 :: 歌 - [[LAST ALLIANCE]] :; エンディングテーマ「8AM」 :: 歌 - [[coldrain]] ; 第3期 :; オープニングテーマ「夜間飛行」 :: 歌 - [[忘れらんねえよ]] :; エンディングテーマ「ブチコメ!!」 :: 歌 - [[シクラメン (グループ)|シクラメン]] === 各話リスト === {|class="wikitable" style="font-size:small" |+ 第1期 |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出<br />(演出助手)!!作画監督!!放送日!!DVD収録巻!!DVD-BOX収録巻 |- |Round1||THE FIRST STEP||rowspan="3"|[[浦畑達彦]]||西村聡||川村賢一||田崎聡<br />菅野利之<br />細山正樹<br />長谷部敦志||'''2000年'''<br />10月3日||rowspan="3"|Vol.1||rowspan="38"|Vol.1 |- |Round2||努力の成果||[[松尾衡]]||橋本三郎||[[西城隆詞]]||10月10日 |- |Round3||うれし涙||[[善聡一郎]]||[[難波日登志]]||岡田敏靖||10月17日 |- |Round4||シャドーボクシング||荒西大介||colspan="2" style="text-align:center"|[[島崎奈々子]]||[[神志那弘志]]||10月24日||rowspan="3"|Vol.2 |- |Round5||カウンターへの3ヶ月||[[筆安一幸]]||さかいあきお||郷敏治||李豪善<br />渡辺和夫||10月31日 |- |Round6||再戦のゴング||杉原研二||日巻裕二||いわもとやすお||松田芳明||11月7日 |- |Round7||1cmの破壊力||浦畑達彦||[[川瀬敏文]]||[[山口祐司 (アニメーション監督)|山口祐司]]||菅野利之||11月14日||rowspan="3"|Vol.3 |- |Round8||再会の約束||加茂靖子||松尾衡||[[真野玲]]||山縣亜紀||11月21日 |- |Round9||C級ライセンス||森博志||colspan="2" style="text-align:center"|萩原露光||松田芳明||11月28日 |- |Round10||デビュー戦!||[[中村亮介_(アニメ演出家)|中村亮介]]||善聡一郎||[[増原光幸]]||神志那弘志||12月5日||rowspan="3"|Vol.4 |- |Round11||勝利への執念||荒西大介||[[小林治 (1945年生のアニメ演出家)|小林治]]||辻伸一||岡田敏靖||12月12日 |- |Round12||手荒なダチ宣言||筆安一幸||松村やすひろ||松村やすひろ<br />([[宍戸淳]])||李豪善||12月19日 |- |Round13||開幕、東日本新人王戦||杉原研二||colspan="2" style="text-align:center"|島崎奈々子||菅野利之<br />杉浦幸次||12月26日||rowspan="3"|Vol.5 |- |Round14||強腕!フックVSアッパー!||中村亮介||平塚住雄||真野玲||山縣亜紀||'''2001年'''<br />1月9日 |- |Round15||我慢くらべ||筆安一幸||善聡一郎||かわむらけんいち||筱雅律||1月16日 |- |Round16||激戦の予感||荒西大介||さかいあきお||増原光幸||神志那弘志||1月23日||rowspan="3"|Vol.6 |- |Round17||イッポ・オン・ザ・ビーチ||加茂靖子||colspan="2" style="text-align:center"|[[佐藤雄三]]||福田紀之||1月30日 |- |Round18||クリンチ||森博志||辻伸一||[[石山タカ明|石山貴明]]||岡田敏靖||2月6日 |- |Round19||KOの夢||筆安一幸||郷敏治||松村やすひろ<br />宍戸淳||李豪善||2月13日||rowspan="3"|Vol.7 |- |Round20||ショットガンの脅威||中村亮介||colspan="2" style="text-align:center"|林秀夫||菅野利之||2月20日 |- |Round21||天才攻略の道||杉原研二||平塚住雄||真野玲||山縣亜紀||2月27日 |- |Round22||前へ!前へ!!||加茂靖子||colspan="2" style="text-align:center"|増原光幸||神志那弘志||3月6日||rowspan="3"|Vol.8 |- |Round23||もう一つの準決勝||荒西大介||colspan="2" style="text-align:center"|島崎奈々子||ふくだのりゆき||3月13日 |- |Round24||約束の場所へ…||森博志||中村賢太郎||秦義人||筱雅律||3月20日 |- |Round25||それぞれの想い||筆安一幸||さかいあきお||宍戸淳||李豪善||3月27日||rowspan="3"|Vol.9 |- |Round26||距離の攻防||杉原研二||colspan="2" style="text-align:center"|ひいろゆきな||三浦和也||4月3日 |- |Round27||死闘||中村亮介||colspan="2" style="text-align:center"|川村賢一||菅野利之<br />筱雅律||4月10日 |- |Round28||勝敗||加茂靖子||平塚住雄||真野玲||山縣亜紀||4月17日||rowspan="3"|Vol.10 |- |Round29||浪速のロッキー||荒西大介||小金井鮭雄||[[政木伸一]]||神志那弘志||4月24日 |- |Round30||敵地へ||中村亮介||colspan="2" style="text-align:center"|島崎奈々子||rowspan="2"|ふくだのりゆき||5月1日 |- |Round31||激闘の足跡||浦畑達彦||colspan="2" style="text-align:center"|川村賢一||5月8日||rowspan="4"|Vol.11 |- |Round32||右を打て!||筆安一幸||さかいあきお||宍戸淳||李豪善<br />渡辺和夫||5月15日 |- |Round33||スマッシュの威圧||杉原研二||colspan="2" style="text-align:center"|増原光幸||筱雅律||5月22日 |- |Round34||新人王||加茂靖子||colspan="2" style="text-align:center"|ひいろゆきな||三浦和也||5月29日 |- |Round35||さらなる旅立ち||筆安一幸||平塚住雄||真野玲||山縣亜紀||6月5日||rowspan="3"|Vol.12 |- |Round36||王者との出会い||荒西大介||colspan="2" style="text-align:center"|[[早川啓二]]||柳瀬譲二||6月12日 |- |Round37||目指すもの||杉原研二||川村賢一||中村賢太郎||神志那弘志||6月19日 |- |Round38||二人の新人王||中村亮介||郷敏治||宍戸淳||李豪善||6月26日||rowspan="3"|Vol.13 |- |Round39||異国での挑戦||筆安一幸||colspan="2" style="text-align:center"|ひいろゆきな||安田好孝||7月3日||rowspan="38"|Vol.2 |- |Round40||カウンターを超えたカウンター||杉原研二||colspan="2" style="text-align:center"|佐藤雄三||かどともあき||7月10日 |- |Round41||ゲロ道の戦い||筆安一幸||[[小島正幸]]||小島正幸<br />(増原光幸)||ふくだのりゆき||7月17日||rowspan="3"|Vol.14 |- |Round42||夢への共感||加茂靖子||平塚住雄||真野玲<br />(増原光幸)||山縣亜紀||7月24日 |- |Round43||THE SPEED STAR||荒西大介||colspan="2" style="text-align:center"|森田浩光||柳瀬譲二||7月31日 |- |Round44||リングの死角||中村亮介||川村賢一||秦義人||筱雅律||8月7日||rowspan="3"|Vol.15 |- |Round45||狼の白い牙||rowspan="2"|筆安一幸||colspan="2" style="text-align:center"|島崎奈々子||神志那弘志||8月14日 |- |Round46||かもしかになれ!||佐藤雄三||宍戸淳||李豪善||8月21日 |- |Round47||秘められた闘志||杉原研二||colspan="2" style="text-align:center"|山口美浩||河合静男||8月28日||rowspan="3"|Vol.16 |- |Round48||赤い狼||筆安一幸||colspan="2" style="text-align:center"|鈴木吉男||かどともあき||9月4日 |- |Round49||信頼する勇気||rowspan="2"|荒西大介<br />筆安一幸||colspan="2" style="text-align:center"|ひいろゆきな||三浦和也||9月18日 |- |Round50||伝えたいこと||善聡一郎||中村賢太郎||ふくだのりゆき||9月25日||rowspan="3"|Vol.17 |- |Round51||合コン||加茂靖子||colspan="2" style="text-align:center"|増原光幸||神志那弘志||10月2日 |- |Round52||挑戦者||浦畑達彦||colspan="2" style="text-align:center"|川村賢一||杉浦幸次||10月9日 |- |Round53||俺が俺であるために||中村亮介||colspan="2" style="text-align:center"|杉村泰弘||北野五郎||10月16日||rowspan="3"|Vol.18 |- |Round54||王者の拳||筆安一幸||新留俊哉||[[高橋敦史]]||かどともあき||10月23日 |- |Round55||日本フェザー級タイトルマッチ||荒西大介||川村賢一||政木伸一||菅野利之<br />神志那弘志||10月30日 |- |Round56||立ちはだかる力||杉原研二||矢野博之||中村賢太郎||ふくだのりゆき||11月6日||rowspan="3"|Vol.19 |- |Round57||決着||加茂靖子||川村賢一||増原光幸||筱雅律<br />神志那弘志<br />杉浦幸次||11月13日 |- |Round58||傷心||筆安一幸||colspan="2" style="text-align:center"|島崎奈々子||吉田大輔||11月20日 |- |Round59||決意のまなざし||荒西大介||colspan="2" style="text-align:center"|ひいろゆきな||安田好孝||11月27日||rowspan="3"|Vol.20 |- |Round60||ライバル||中村亮介||平塚住雄||中村賢太郎||かどともあき||12月4日 |- |Round61||再起への不安||杉原研二||杉村泰弘||杉村泰弘<br />川村賢一||北野五郎<br />筱雅律||12月11日 |- |Round62||復活||加茂靖子||川村賢一||川村賢一<br />(李光燮)||筱雅律||12月18日||rowspan="3"|Vol.21 |- |Round63||炎の青春||筆安一幸||矢野博之||中村亮介||ふくだのりゆき||12月25日 |- |Round64||熱中時代||荒西大介||平塚住雄||高橋敦史||吉田大輔||'''2002年'''<br />1月8日 |- |Round65||鴨川軍団の夏||中村亮介||colspan="2" style="text-align:center"|増原光幸||かどともあき<br />菅野利之||1月15日||rowspan="3"|Vol.22 |- |Round66||鷹村さんの涙||筆安一幸||[[阿部記之]]||島崎奈々子||安田好孝||1月22日 |- |Round67||動き出す鴨川ジム||杉原研二||colspan="2" style="text-align:center"|山口美浩||河合静男||1月29日 |- |Round68||会長の危機||荒西大介||新留俊哉||武井良幸||堀川耕一||2月5日||rowspan="3"|Vol.23 |- |Round69||サウスポーの罠||西川真剛||colspan="2" style="text-align:center"|ひいろゆきな||ふくだのりゆき||2月12日 |- |Round70||ごんたくれ||有冨興二||神志那弘志||中村賢太郎||吉田大輔||2月19日 |- |Round71||決戦の刻||中村亮介||colspan="2" style="text-align:center"|佐藤真二||佐藤真二<br />ふくだのりゆき(総作画監督)||2月26日||rowspan="3"|Vol.24 |- |Round72||LALLAPALLOOZA||加茂靖子||島崎奈々子<br />佐々木守||武井良幸<br />川村賢一||[[逢坂浩司]]<br />杉浦幸次||3月5日 |- |Round73||あの時を超えろ||中村亮介||佐藤雄三||島崎奈々子||筱雅律<br />菅野利之||3月12日 |- |Round74||ミックスアップ||杉原研二||colspan="2" style="text-align:center"|ひいろゆきな||ふくだのりゆき<br />杉浦幸次||3月19日||rowspan="3"|Vol.25 |- |Round75||さらなる、一歩を||筆安一幸||rowspan="2"|川村賢一<br />西村聡||中村賢太郎||吉田大輔<br />神志那弘志||3月26日 |- |Round76||ボクサーの拳||浦畑達彦||川村賢一||杉浦幸次<br />[[伊藤嘉之]]||'''2003年'''<br />3月21日 |} Round76はテレビ未放送、DVD第25巻にのみ収録。ファミリー劇場、[[日テレプラス]]、アニマックス、キッズステーションではRound76まで放送。 {|class="wikitable" style="font-size:small" |+ 第2期 !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出<br />(演出補)!!作画監督<br />(作監補)!!放送日!!DVD収録巻 |- |Round 1||新たなる一歩||rowspan="12"|[[筆安一幸|ふでやすかずゆき]]||rowspan="4"|[[宍戸淳]]||高橋知也||ふくだのりゆき||'''2009年'''<br />1月6日||rowspan="3"|Vol.1 |- |Round 2||BLOODY CROSS-血の十字架-||大脊戸聡||Jang Kil Yong<br />Kim Dong jun||1月13日 |- |Round 3||約束の場所へ||鈴木孝聡||小谷杏子||1月20日 |- |Round 4||世界への胎動||下田久人||Jang Kil Yong<br />Kim Dong jun||1月27日||rowspan="3"|Vol.2 |- |Round 5||世界の力||colspan="2" style="text-align:center"|高橋知也||今木宏明、夘野一郎<br />武内啓||2月3日 |- |Round 6||追い続ける背中||高橋知也<br />川村賢一||名取孝浩||Kim Dae Hoon<br />Kim Bo Kyeong<br />夘野一郎(総作監補)||2月10日 |- |Round 7||悪魔の降臨||rowspan="3"|川村賢一||鈴木孝聡||若野哲也<br />(宮井加奈)<br />清水健一(アクション)<br />夘野一郎(総作監補)||2月17日||rowspan="3"|Vol.3 |- |Round 8||魂の一撃||大脊戸聡||津幡佳明<br />(ふくだのりゆき)<br />夘野一郎(アクション)||2月24日 |- |Round 9||受け継ぐ資格||下田久人||Lee Boo Hee<br />Joo Hyun Woo<br />清水健一(アクション)||3月3日 |- |Round 10||噛ませ犬||colspan="2" style="text-align:center"|室井ふみえ||あべたくじ<br />(村田睦明)||3月10日||rowspan="3"|Vol.4 |- |Round 11||一歩VSハンマー・ナオ||[[坂田純一]]||浅利藤彰||Sin Jea Ik<br />Kim Jun Hwan<br />清水健一(アクション)||3月17日 |- |Round 12||プロの条件||川村賢一||Kim Min Sun||Kim Bo Kyeong<br />Kwon Hyeok Jung<br />林秀夫(アクション)||3月24日 |- |Round 13||イッポ・オン・ザ・ビーチ 2||中川淳||colspan="3" style="text-align:center"|東出太||3月31日||rowspan="3"|Vol.5 |- |Round 14||二つのスパーリング||武井風太||川村賢一||高橋知也||夘野一郎、津幡佳明<br />林秀夫(アクション)||4月7日 |- |Round 15||板垣、デビュー戦||渡邉こと乃||新留俊哉||鈴木孝聡||Kim Dong Joon<br />Jang Kil Yong<br />清水健一(アクション)||4月14日 |- |Round 16||二羽の鷹||門脇康裕||川村賢一||Kim Min Sun||Kim Bo Kyeong<br />Kwon Hyeok Jung<br />林秀夫(アクション)||4月21日||rowspan="3"|Vol.6 |- |Round 17||野生児||久野恵里||[[宮繁之]]||内山まな||川筋豊、安本学<br />清水健一(アクション)<br />夘野一郎(総作画監督)||4月28日 |- |Round 18||極限の減量||室井ふみえ||[[西田正義]]||浅利藤彰||あべたくじ、日向正樹<br />(村田睦明)||5月5日 |- |Round 19||一触即発||土谷三奈||玉川真人||[[末田宜史]]||堀剛史<br />Han Sung Hui<br />清水健一(アクション)||5月12日||rowspan="3"|Vol.7 |- |Round 20||世界J・ミドル級タイトルマッチ||森脇誠||西田正義||名取孝浩||Jang Kil Yong<br />Woo Jin Woo||5月19日 |- |Round 21||BATTLE OF HAWK!||吉原崇郎||colspan="2" style="text-align:center"|[[池添隆博]]||永作友克||5月26日 |- |Round 22||ケンカバトル||大内真一||川村賢一||Kim Min Sun<br />(高橋知也)||堀剛史<br />Kim Bo Kyeong<br />Kwon Hyeok Jung<br />清水健一(アクション)||6月2日||rowspan="3"|Vol.8 |- |Round 23||支える手||武井風太||colspan="2" style="text-align:center"|ひいろゆきな||夘野一郎||6月9日 |- |Round 24||王様||中川淳||室井ふみえ||室井ふみえ<br />(高橋知也)||あべたくじ、清水健一||6月16日 |- |Round 25||銅像をどうぞ||rowspan="2"|森脇誠||川村賢一||久保山英一||若野哲也、飯飼一幸<br />(河野稔、清水健一)<br />夘野一郎(総作画監督)||6月23日||rowspan="2"|Vol.9 |- |Round 26||NEW CHALLENGER||渡邉こと乃<br />宍戸淳||渡邉こと乃||杉浦幸次<br />(夘野一郎、室井ふみえ)||6月30日 |} {|class="wikitable" style="font-size:small" border="1" |+ 第3期 !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出<br />(演出補)<ref>6・7・8・10話は「監督補」、25話は「演出協力」</ref>!!作画監督!!放送日 |- |Round 01||最強の挑戦者||rowspan="3"|ふでやすかずゆき||宍戸淳||山岡実<br />久藤瞬||陣馬直、服部一郎<br />[[阿部恒]]、佐藤千春||'''2013年'''<br />10月5日 |- |Round 02||デンプシーロール破り||内田信吾<br />宍戸淳||神保昌登||阿部恒、佐藤千春||10月12日 |- |Round 03||女の闘い||[[西田正義]]||久藤瞬||片山みゆき||10月19日 |- |Round 04||勝利の女神||石野敦夫||吉村文宏||南川達馬||青木一紀||10月26日 |- |Round 05||100%のフェイク||ふでやすかずゆき||西田正義||久藤瞬||内田裕||11月2日 |- |Round 06||栄光までの距離(ディスタンス)||石野敦夫||林明偉||真野玲<br />(久藤瞬)||薄谷栄之、片山みゆき<br />中村路之将||11月9日 |- |Round 07||チーズチャンピオン||rowspan="2"|ふでやすかずゆき||福山新市||大久保唯男<br />(久藤瞬)||Jang Hee-kyu、Woo Jin-woo<br />Kim Min-sun||11月16日 |- |Round 08||飢えた狂犬、赤い狼||[[波多正美]]||波多正美<br />(久藤瞬)||Woo Jin-woo||11月23日 |- |Round 09||悪魔のシナリオ||rowspan="2"|石野敦夫||colspan="2" style="text-align:center"|山岡実||阿部恒<br />佐藤千春(アクション)||11月30日 |- |Round 10||決断の表情(カオ)||[[古瀬登]]||真野玲<br />(久藤瞬)||片山みゆき、青木一紀<br />中村路之将、薄谷栄之<br />藤田正幸、相坂直紀||12月7日 |- |Round 11||不敵な挑戦者||rowspan="3"|[[高屋敷英夫]]||[[平野俊貴]]||rowspan="2"|波多正美<br />(久藤瞬)||Kim Min-sun||12月28日 |- |Round 12||完全なるデンプシー破り||[[青山弘]]||Jang Hee-kyu||rowspan="2"|'''2014年'''<br />1月4日 |- |Round 13||活人の拳||中村橋橋乃丞||Lee Jongh-yeon<br />(久藤瞬)||Park Chang-hwan |- |Round 14||力の出る言葉||rowspan="3"|石野敦夫||真野玲||西田正義||陳占東||1月11日 |- |Round 15||風雲!釣り船幕之内!!||rowspan="4"|なかの☆陽||Kim Dong-jun<br />(久藤瞬)||Kwon Yoon-hee||1月18日 |- |Round 16||黄金の鷲(ゴールデンイーグル)||大久保唯男<br />(久藤瞬)||Woo Jin woo||1月25日 |- |Round 17||デンゲキエレキとココナッツパパイヤ||石田勝也||波多正美||Kim Ki nam||2月1日 |- |Round 18||未完の新型カウンター||石野敦夫||Kim Min sun<br />(久藤瞬)||Jang Hee kyu||2月8日 |- |Round 19||鷹VS鷲||rowspan="3"|稲本達郎||福田ノリユキ||福田ノリユキ<br />山岡実||福田ノリユキ||2月15日 |- |Round 20||忘れられない教え||福山新市||佐藤千春<br />(久藤瞬)||佐藤千春||2月22日 |- |Round 21||死闘の果てに||森魚<br />[[阿部記之]]<br />宍戸淳||波多正美||Kim Gi nam<br />阿部恒(総作画監督)||3月1日 |- |Round 22||希望の花||rowspan="4" colspan="2" style="text-align:center"|西村聡||Kim Dong jun<br />(久藤瞬)||Kwon Yoon hee||3月8日 |- |Round 23||生きる勇気を||武藤健司<br />(久藤瞬)||内田裕||3月15日 |- |Round 24||鉄拳||Kim Min sun||Woo Jin woo||3月22日 |- |Round 25||誓い||西村聡<br />(宍戸淳)||菅野利之、阿部恒<br />佐藤千春、福田ノリユキ<br />内田裕||3月29日 |} {|class="wikitable" style="font-size:small" border="1" |+ TVSP・OVA !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!監督<br />(監修)!!放送日<br />(発売日) |- |TVSP||Champion Road||rowspan="2"|筆安一幸||西村聡、川村賢一<br />佐藤雄三||西村聡、川村賢一<br />佐藤雄三、島崎奈々子<br />中村賢太郎||杉浦幸次、伊藤嘉之<br />ふくだのりゆき、菅野利行<br />田崎聡、吉田大輔||西村聡||'''2003年'''<br />4月18日 |- |OVA||間柴vs木村 死刑執行||難波日登志、ひいろゆきな||ひいろゆきな||高岡淳一、安田好孝<br />堀剛史、かどともあき<br />矢崎優子、夘野一郎<br />ふくだのりゆき||難波日登志<br />(西村聡)||9月5日 |- |} === 放送局 === {{注意|[[プロジェクト:放送または配信の番組#放送]]に基づき、本放送期間内の放送局および配信サイトのみを記載しています。}} {|class="wikitable" style="font-size:small" |+ 第1期 |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時<ref>『[[アニメディア]]』2001年8月号『TV STATION NETWORK』(115 - 117頁)</ref>!!放送系列!!備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]||rowspan="3"|2000年10月3日 - 2001年9月25日<br />2001年10月2日 - 2002年3月26日||rowspan="3"|火曜 24:50 - 25:20<br />火曜 24:45 - 25:15||rowspan="9"|[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]||'''制作局''' |- |[[宮城県]]||[[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]]||rowspan="2"|同時ネット |- |[[熊本県]]||[[熊本県民テレビ]] |- |[[広域放送|中京広域圏]]||[[中京テレビ放送|中京テレビ]]||2001年3月6日 - 2002年8月20日||火曜 25:28 - 25:58|| |- |[[北海道]]||[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]||2001年4月1日 - 2002年9月22日||日曜 6:00 - 6:30|| |- |[[岩手県]]||[[テレビ岩手]]||2001年4月3日 - 2002年12月24日||火曜 15:55 - 16:25|| |- |[[福島県]]||[[福島中央テレビ]]||2001年4月2日 - 2002年9月30日||月曜 24:50 - 25:20|| |- |[[福岡県]]||[[福岡放送]]||2001年4月6日 - 2002年9月27日||金曜 25:25 - 25:55|| |- |[[徳島県]]||[[四国放送]]||2001年7月7日 - 2003年3月29日||土曜 25:55 - 26:25<ref>『[[アニメディア]]』2002年8月号『TV STATION NETWORK』(119頁)</ref>|| |} {|class="wikitable" style="font-size:small" |+ 第2期 |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]||2009年1月6日 - 6月30日||火曜 25:29 - 25:59||[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]||'''制作局''' |- |[[全国放送|日本全域]]||[[日テレプラス]]||2009年1月7日 - 7月1日||水曜 23:30 - 24:00||[[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CS放送]]||リピート放送あり |- |[[北海道]]||[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]||2009年3月30日 - 9月21日 ||月曜 25:34 - 26:04||rowspan="3"|日本テレビ系列|| |- |[[福岡県]]||[[福岡放送]]||2009年5月17日 - 11月22日 ||日曜 25:20 - 25:50|| |- |[[広島県]]||[[広島テレビ放送|広島テレビ]]||2009年10月13日 - 2010年4月13日||火曜 25:04 - 25:34|| |- |日本全域||[[アニマックス]]||2010年11月19日 - 12月24日||月曜 - 金曜 19:30 - 20:00||CS放送||リピート放送あり |} {| class="wikitable" style="font-size:small;" border="1" |+ 第2期国外放送 |- !国!!放送局!!放送期間!!放送日時!!備考 |- |[[台湾]]||東森電影台||2009年12月6日 - ||土曜・日曜 10:30 - 12:30||土曜、日曜連続2日放送 |} {| class="wikitable" style="font-size:small;" border="1" |+ 第3期 |- !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]||2013年10月6日 - 2014年3月30日||日曜 1:35 - 2:05(土曜深夜)||[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]|| |- |[[大韓民国|韓国全域]]||[[ANIPLUS]]||2013年10月11日 - 2014年4月4日||金曜 22:00 - 22:30||[[KTスカイライフ|CS放送]]<br />[[IP放送]]<br />[[ケーブルテレビ]]<br />[[インターネットテレビ|ネット配信]]||15歳以上視聴可で放送<br />[[朝鮮語|韓国語]]字幕あり |- |[[全国放送|日本全域]]||[[日テレプラス]]||2014年1月11日 - ||土曜 1:30 - 2:00(金曜深夜)||[[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CS放送]]||リピート放送あり |} == 舞台 == タイトルは『'''リアルファイティング「はじめの一歩」The Glorious Stage!!'''』。2020年1月31日から2月9日まで品川プリンスホテル ステラボールで公演した。演出・脚本はアニメで幕之内一歩の声を務めた[[喜安浩平]]が担当。 == 関連作品 == === ゲーム === * はじめの一歩 THE FIGHTING!(1997年、講談社、[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]作品) * はじめの一歩 VICTORIOUS BOXERS(2000年、[[ESP (ゲーム会社)|ESP]]、[[PlayStation 2|PS2]]作品) * [[ハードパンチャー はじめの一歩]] THE FIGHTING!(2001年、[[タイトー]]業務用作品、[[パンチングマシン]]) * はじめの一歩 THE TYPING!(2001年、[[バンプレスト]]、[[Windows]]用作品、タイピングソフト) * はじめの一歩 VICTORIOUS BOXERS CHAMPIONSHIP VERSION Playstation 2 the Best(2002年、ESP、PS2作品) * はじめの一歩 THE TYPING! 2nd Step (2002年、[[バンプレスト]]、[[Windows]]用作品、タイピングソフト) * ハードパンチャー はじめの一歩2 王者への挑戦(2002年、タイトー業務用作品、パンチングマシン) * はじめの一歩 THE FIGHTING!(2002年、ESP、[[ゲームボーイアドバンス|GBA]]作品) * はじめの一歩 ALL☆STARS(2004年、ESP、PS2作品) * はじめの一歩2 VICTORIOUS ROAD(2004年、ESP、PS2作品) * はじめの一歩 THE FIGHTING!(2006年、講談社/[[インタラクティブブレインズ]]、携帯電話用ゲーム作品) * はじめの一歩 Revolution(2007年、AQインタラクティブ、[[Wii]]作品) * はじめの一歩 THE FIGHTING! PORTABLE VICTORIUS SPIRITS(2007年、[[ESP (ゲーム会社)|ESP]]、[[PlayStation Portable|PSP]]作品) - [[西本英雄]]のルポ漫画『[[もう、しませんから。]]』では森川ジョージと西本英雄の対戦用にキャラクターを変えた特別バージョンが製作された。 * 『もしもジョーと一歩が戦っ たら!!』週刊少年マガジン創刊50周年特別企画の一環で制作されたボクシングゲームシステム。これを使用して夢の対決が実施された。(記事用に制作されたもので、一般非公開) * はじめの一歩 THE FIGHTING! DS(2008年、ESP、[[ニンテンドーDS|DS]]作品) * はじめの一歩 THE FIGHTING!(2010年<!--11月25日-->、ダーツライブゲームズ、携帯電話/スマートフォン用ゲーム作品)(前述・後述の同タイトルとは異なる)※[[モバゲータウン]](後述のMobage配信のTHE CHAMPIONS!とは異なる) * PCブラウザゲーム版 はじめの一歩 THE FIGHTING!(2011年、ダーツライブゲームズ(現在のアルグラフ))※[[Yahoo!モバゲー]]・[[mixi]]ゲーム・[[TSUTAYA]]オンラインゲーム(全て同内容。前述のタイトルとは異なる) * モバイルゲーム版 はじめの一歩 THE CHAMPIONS!(2012年、ダーツライブゲームズ(現在のアルグラフ)、携帯電話/スマートフォン用ゲーム作品)※[[Mobage]]・[[GREE]]・[[dゲーム]](全て同内容) * はじめの一歩(2014年、[[バンダイナムコゲームス]]、[[PlayStation 3|PS3]]作品) === DVD・Blu-ray・CD === DVD、Blu-ray、CDともにバップが発売している。 * DVDは現在第1期は全25巻、DVD-BOX2巻、TVスペシャル、OVAが各1巻、第2期New Challengerは全9巻をそれぞれ発売。第3期RisingはDVD-BOX、Blu-ray BOXをそれぞれ2巻ずつ発売予定<!-- ソース http://www.vap.co.jp/ippo3/-->。 * CDはオープニング、エンディングのほか、サウンドトラックなどが収録された「[[はじめの一歩 first KO|'''first KO''']]」、「'''FINAL ROUND'''」、「'''はじめの一歩 New Challenger オリジナル・サウンドトラック'''」、「'''はじめの一歩 Rising オリジナル・サウンドトラック'''」が発売されている。 また、1996年には[[講談社]]からドラマCDが発売された。 ==その他== * 『週刊少年マガジン』2008年16号と、『週刊少年サンデー』2008年16号の表紙と並べると、幕之内一歩が、『[[名探偵コナン]]』の主人公・[[江戸川コナン]]と握手をするイラストとなる(両誌の創刊50周年を記念したコラボレーション企画)。 * 『週刊少年マガジン』2008年30号では、『[[あしたのジョー]]』の主人公・矢吹丈と、幕之内一歩がコンピューターのシミュレーション上で試合をする特別企画が掲載された。両者の能力値などは同階級になるように調整の上、『あしたのジョー』の作者[[ちばてつや]]と、森川ジョージの監修をうけ設定されている。結果、5ラウンドで一歩のKO勝ち。その後も同様の設定で100試合行われたが、一歩が57勝し勝ち越している。 * 2009年、連載20周年を記念して単行本90巻を全国の小中学校100校に寄贈するプレゼントがあり、応募資格は、教師のみであった。 * PC用のブラウザゲーム『はじめの一歩 THE FIGHTING』と同じくPC用のブラウザゲーム『[[あしたのジョー#PCゲーム|あしたのジョー〜あしたのために〜]]』がコラボキャンペーンを2013年11月18日 - 12月5日に行い、双方の登場人物がイベントボスとして登場した。 * [[iOS]]向けゲームアプリ『ラーメン魂』で、アニメ『はじめの一歩 Rising』とのコラボレーションイベントを実施した。イベント実施期間は、前半「幕之内一歩」編が1月23日 - 1月30日、後半「鷹村守」編が1月30日 - 2月6日の期間、開催。 * 単行本50巻前後から、週刊連載での休載・減ページの頻度が高くなっていく。一話あたり13ページ以下の場合も多くなり、Round556「勝利の余韻」、Round881の「笑うボクサー」は全9ページである。雑誌に「ここまでしか掲載できません」と謝罪ページが載ることもあった。『週刊少年マガジン』の連載漫画『[[もう、しませんから。]]』では、ゲスト出演した先輩漫画家の[[塀内夏子]]に「『マガジン』見ると一番に『一歩』チェックするんだよ。今週は何ページ描いてるかな?って」と皮肉られている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本テレビ系アニメ]] * [[深夜アニメ一覧]] == 外部リンク == * 講談社 ** {{Wayback|url=http://kc.kodansha.co.jp/content/top.php/1000000058 |title=マガメガ はじめの一歩 |date=20080412205606}} ** [http://ippo-100.com/ 「はじめの一歩」100巻記念公式サイト] ** {{Twitter|hajimenoippo100|『はじめの一歩』担当}} ** [https://pocket.shonenmagazine.com/episode/13933686331772734561 マガジンポケット はじめの一歩] * 日本テレビ ** {{Wayback|url=http://www.ntv.co.jp/ippo/ |title=はじめの一歩 |date=20060103181749}} *** テレビシリーズポータルページ。現在は第3期告知ページも兼ねている。 ** {{Wayback|url=http://www.ntv.co.jp/ippo/newchallenger/ |title=はじめの一歩 New Challenger |date=20130830052152}} ** {{Wayback|url=http://www.ntv.co.jp/ippo/past/ |title=はじめの一歩〜チャンピオンロード |date=20081203114936}} ** {{Twitter|ippo_anime|TVアニメ「はじめの一歩 Rising」}} * [https://www.vap.co.jp/ippo/ はじめの一歩 (VAP)] * 日テレオンデマンド ** {{Wayback|url=http://vod.ntv.co.jp/program/ippo/ |title=はじめの一歩 |date=20120312155045}} ** {{Wayback|url=http://vod.ntv.co.jp/program/ippo_Champion_Road/ |title=はじめの一歩 TVスペシャル 〜Champion Road〜 |date=20120518125440}} ** {{Wayback|url=http://vod.ntv.co.jp/program/ippo_mashiba_vs_kimura/ |title=はじめの一歩 OVA 間柴vs木村 死刑執行 |date=20120518121900}} ** {{Wayback|url=http://vod.ntv.co.jp/program/ippo_new_challenger/ |title=はじめの一歩 New Challenger |date=20120518124010}} ** {{Wayback|url=http://vod.ntv.co.jp/program/ippo_rising/ |title=はじめの一歩 Rising |date=20131001231232}} {{前後番組 |放送局=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] |放送枠=[[日本テレビの深夜アニメ枠|火曜24:50枠]] |番組名=はじめの一歩 |前番組=[[陽だまりの樹]] |次番組=[[天地無用! GXP]] |2放送局=日本テレビ |2放送枠=[[日本テレビの深夜アニメ枠|火曜25:29枠]] |2番組名=はじめの一歩<br />New Challenger |2前番組=[[魍魎の匣]] |2次番組=[[賭博黙示録カイジ|逆境無頼カイジ]]<br />(再放送) |3放送局= 日本テレビ |3放送枠= [[日本テレビの深夜アニメ枠|土曜25:35枠]] |3番組名= はじめの一歩<br />Rising |3前番組= [[アイドルの穴〜日テレジェニックを探せ!〜|アイドルの穴2013<br />〜日テレジェニックを探せ!〜]]<br />※25:20 - 25:50 ---- [[NexT]]<br />※25:50 - 26:20 |3次番組= [[金色のコルダ3|金色のコルダ Blue♪Sky]] }} {{Manga-stub}} {{はじめの一歩}} {{週刊少年マガジン連載中}} {{講談社漫画賞少年部門}} {{Navboxes |title= オリコン週間チャート第1位 |titlestyle= background-color:#CEE6C1 |list1= {{オリコン週間コミックチャート第1位 1995年|1995年12月4日付}} {{オリコン週間コミックチャート第1位 1997年|1997年5月5日付}} {{オリコン週間コミックチャート第1位 2009年|2009年12月28日付}} }} {{宍戸淳監督作品}} {{マッドハウス}} {{MAPPA}} {{難波日登志監督作品}} {{日本テレビの深夜アニメ枠}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1=はじめの一歩 Champion Road |1-1=2003年のテレビアニメ |1-2=スペシャルアニメ |redirect2=はじめの一歩 間柴vs木村 死刑執行 |2-1=2003年のOVA |redirect3=はじめの一歩 New Challenger |3-1=2009年のテレビアニメ |redirect4=はじめの一歩 Rising |4-1=2013年のテレビアニメ |4-2=MAPPA }} {{DEFAULTSORT:はしめのいつほ}} [[Category:はじめの一歩|*]] [[Category:漫画作品 は|しめのいつほ]] [[Category:1989年の漫画]] [[Category:週刊少年マガジンの漫画作品]] [[Category:ボクシング漫画]] [[Category:社会問題を題材とした漫画作品]] [[Category:漫画を原作とする舞台作品]] [[Category:2020年の舞台作品]] [[Category:アニメ作品 は|しめのいつほ]] [[Category:2000年のテレビアニメ]] [[Category:日本テレビの深夜アニメ]] [[Category:マッドハウス]] [[Category:バップのアニメ作品]] [[Category:マガジンKCのアニメ作品]] [[Category:ボクシングアニメ]] [[Category:社会問題を題材としたアニメ作品]] [[Category:ファミ通クロスレビューゴールド殿堂入りソフト]] [[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]] [[Category:継続中の作品]]
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ハエ
ハエ(蠅・蝿)は、ハエ目(双翅目)に属する昆虫のうち、ハエ亜目(短角亜目)環縫短角群(かんぽうたんかくぐん)ハエ下目(Muscomorpha)に属する種の総称である。日本だけで、60ほどの科と、そこに属する3,000種近い種が存在する。 成虫は一般に小さな胴体、よく発達した前翅、後翅が変化した平均棍を持つ。飛翔能力は昆虫類の中でも非常に高い部類で、空間に完全に固定されたかのようなホバリングや、高速での急激な方向転換など、複雑で敏捷な飛翔をこなせるものが多い。「短角亜目」という名の通り触角は通常短い。 羽化の際には蛹の背中が縦に割れずに環状に開く。このためさなぎの縫い目が環状になっているとの意で「環縫短角群 」、あるいは単に「環縫群」「環縫類」とも呼ばれる。アブは通常ハエとは別の直縫短角群を指す呼称だが、「アブ」と名のつくもののうちハナアブ科やアタマアブ科などはハエの仲間であり、逆に「ハエ」と名のつくもののうち、アシナガバエ科やオドリバエ科などはアブの仲間である。 ハエの幼虫については「蛆」で詳述する。 日本全国、世界各国のどこにいても極めて一般的に見られる昆虫ではあるが、衛生害虫、農業害虫の双方の側面で害虫とみなされることが多い。 イエバエ科、クロバエ科、ニクバエ科などの一部の種は人の居住環境に棲むことで、衛生害虫化している。衛生害虫としてのハエの害は、大きく3つに大別される。 他のハエ目昆虫と同じく、卵 - 幼虫(蛆) - 蛹 - 成虫という成長段階を踏む完全変態の昆虫である。 多くは卵生で、成虫が幼虫の生息場所となる環境に卵を直接産みつける。ただし、ニクバエ科の全てやクロバエ科、イエバエ科の一部などは雌体内で胚が発育し、幼虫を直接産み付ける卵胎生である。 幼虫が寄生生活をするヤドリバエ科の一部では、直接幼虫が育つ宿主に産卵せず、植物上に産卵し、孵化した幼虫が宿主の接近を待つものもいる。 1齢で孵化し、3齢が終齢である。いわゆる蛆(ウジ)であり、無脚でかつ頭蓋(とうがい)など頭部器官はほとんど退化している。その代わりに複雑強固な咽頭骨格が発達している。咽頭骨格の先端には口鉤(こうこう)というかぎ状部が発達し、底部にはろ過器官(pharyngeal filter)が見られる。 ハエの幼虫の多くは腐敗、あるいは発酵した動植物質に生息し、液状化したものを吸引し、そこに浮遊する細菌、酵母といった微生物や有機物砕片といった粒状物を pharyngeal filter によってろ過して摂食する。さらに一部のものは寄生や捕食によって、あるいは動物の新鮮な死体から動植物組織を体外消化して直接吸引、あるいは体液を吸収する。 微生物によって分解されつつある生物組織を摂食する腐食性から捕食、寄生といった生きている生物組織を直接摂食する生食性に移行した種では、pharyngeal filter を失う傾向にある。口鉤は大顎に起源し、基物に引っ掛けることで歩行、腐敗有機物の攪拌、動植物組織の破壊、獲物や宿主の皮膚の穿孔などに用いられる。 老熟した終齢幼虫は幼虫時代を過ごした摂食場所を離れ、多くは土中に潜り蛹となる。ハエ類の蛹形成の際は、終齢幼虫が脱皮せずに、幼虫の体が短縮してコメの様な形になり、そのまま幼虫の外皮が硬化するのが特徴である。硬化した外皮の内側で、真のさなぎがさらに一回り小さく収縮して形成される。こうした二重構造の蛹を囲蛹(いよう)と呼ぶ。 羽化に際しては硬化した幼虫の皮膚の前方体節が環状に分離し、蓋のように外れることで成虫が脱出する。これが環縫短角群の名前の由来である。 多くの上科があり、このうち同系統の上科をまとめる2つの「節」に分かれる。 分類体系は『日本動物大百科9昆虫II』(平凡社、1997年)に準拠。 系統樹は以下に準拠。 分類群の和名は以下に準拠。 成虫が囲蛹(いよう)や土中から脱出するのに使われる嚢状器官である額嚢(後述)を欠き、その点で原始的形質を保持しているとされる。 成虫の触角上方の額に逆V字状の切れ込みがあり、羽化直後の体が柔らかいときにのみこれが開き、体液で膨らむ風船状の器官、額嚢が反転突出する。羽化に際してこのグループに属すハエは額嚢を断続的に突出させて囲蛹の蓋を押し開け、また土中からの脱出のために土を押しのける。地上脱出後は額嚢は頭部に格納され、外骨格の硬化に伴い二度と反転突出することはなくなる。 大型種もいるが5mm未満の小型の種が多く、ショウジョウバエなど日常生活で「コバエ」と呼ばれているのはこの仲間が多い。 大型のいわゆるハエらしいハエで、日常生活で「ハエ」として認識されているのはたいていこの仲間である。 ハエはとにかく人間の周りにまとわりつくように飛び回るうるさい存在である。古くから身の回りの衛生を守ることは、ハエを対象としてきた。例えば身の回りの虫除けは往々にしてハエの名を持つ。蠅叩き、蠅取り紙、はえいらずなどの例がある。 ただし、具体的な形でヒトを害するものではないためか、どこかユーモラスな印象もある。
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ハエ(蠅・蝿)は、ハエ目(双翅目)に属する昆虫のうち、ハエ亜目(短角亜目)環縫短角群(かんぽうたんかくぐん)ハエ下目(Muscomorpha)に属する種の総称である。日本だけで、60ほどの科と、そこに属する3,000種近い種が存在する。 成虫は一般に小さな胴体、よく発達した前翅、後翅が変化した平均棍を持つ。飛翔能力は昆虫類の中でも非常に高い部類で、空間に完全に固定されたかのようなホバリングや、高速での急激な方向転換など、複雑で敏捷な飛翔をこなせるものが多い。「短角亜目」という名の通り触角は通常短い。 羽化の際には蛹の背中が縦に割れずに環状に開く。このためさなぎの縫い目が環状になっているとの意で「環縫短角群 」、あるいは単に「環縫群」「環縫類」とも呼ばれる。アブは通常ハエとは別の直縫短角群を指す呼称だが、「アブ」と名のつくもののうちハナアブ科やアタマアブ科などはハエの仲間であり、逆に「ハエ」と名のつくもののうち、アシナガバエ科やオドリバエ科などはアブの仲間である。 ハエの幼虫については「蛆」で詳述する。
{{Otheruseslist|虫のハエ|魚のハエ|ハヤ|[[電報略号 (鉄道)|電報略号]]が「ハエ」のJR東日本川越線・東武東上本線の駅|川越駅|電報略号が「ハエ」のJR東日本の車両基地|川越車両センター}} {{redirect|蠅|[[横光利一]]の掌編|蠅 (横光利一)}} {{生物分類表 | 名称 = 環縫短角群 Cyclorrhapha<br />ハエ下目 Muscomorpha | fossil_range= {{fossil range|245|0}}<div style="text-align:center;"><small>[[三畳紀中期]] - 現世</small></div> | 画像 = [[画像:A Fly by Matthias Zimmermann.jpg|250px]] | 画像キャプション = [[ニクバエ]]の一種 {{snamei|Sarcophaga carnaria}} |省略 = 昆虫綱 | 目 = [[ハエ目]](双翅目) [[:w:Diptera|Diptera]] | 亜目 = [[ハエ亜目]](短角亜目) [[:w:Brachycera|Brachycera]] | 亜目階級なし = '''環縫短角群''' [[:w:Cyclorrhapha|Cyclorrhapha]] | 下目 = '''ハエ下目''' [[:w:Muscomorpha|Muscomorpha]]<!-- <br />{{Taxonomist|★★★}}, [[@@@@年|@@@@]] --> | 下位分類名 = [[体節|節]] | 下位分類 = * [[無額嚢節]] [[:w:Aschiza|Aschiza]] * [[額嚢節]] [[:w:Schizophora|Schizophora]] }} '''ハエ'''(蠅・蝿)は、[[ハエ目]](双翅目)に属する[[昆虫]]のうち、[[ハエ亜目]](短角亜目)環縫短角群(かんぽうたんかくぐん)[[ハエ下目]]({{sname|Muscomorpha}})に属する[[種 (分類学)|種]]の総称である。[[日本]]だけで、60ほどの[[科 (分類学)|科]]と、そこに属する3,000種近い種が存在する。 [[成虫]]は一般に小さな胴体、よく発達した[[昆虫の翅|前翅]]、後翅が変化した[[平均棍]]を持つ。[[飛翔]]能力は昆虫類の中でも非常に高い部類で、空間に完全に固定されたかのようなホバリングや、高速での急激な方向転換など、複雑で敏捷な飛翔をこなせるものが多い。「短角亜目」という名の通り[[触角]]は通常短い。 [[羽化]]の際には[[蛹]]の背中が縦に割れずに環状に開く。このためさなぎの縫い目が環状になっているとの意で「'''環縫短角群'''」、あるいは単に「'''環縫群'''」「'''環縫類'''」とも呼ばれる。[[アブ]]は通常ハエとは別の[[直縫短角群]]を指す呼称だが、「アブ」と名のつくもののうち[[ハナアブ科]]や[[アタマアブ科]]などはハエの仲間であり、逆に「ハエ」と名のつくもののうち、[[アシナガバエ科]]や[[オドリバエ科]]などはアブの仲間である。 ハエの[[幼虫]]については「[[蛆]]」で詳述する。 == 人間とのかかわり == [[File:Forty-four-south-village-kitchenTable.JPG|thumb|食べ物に被せられた[[蠅帳]]]] [[File:Fly-swatter.jpg|thumb|典型的な[[ハエ叩き]]]] [[File:Espantamoscas_pelo_mono_blanco_MNA.JPG|thumb|伝統的な{{ill2|ハエ払い|en|Fly-whisk}}。アフリカからアジアまで広く利用され、神具等としても用いられている。]] [[File:3 fly-bottles.jpg|thumb|フライボトル(蠅取り瓶)]] === 害虫 === 日本全国、世界各国のどこにいても極めて一般的に見られる昆虫ではあるが、[[衛生害虫]]、[[農業害虫]]の双方の側面で[[害虫]]とみなされることが多い。 [[イエバエ]]科、[[クロバエ]]科、[[ニクバエ]]科などの一部の種は人の居住環境に棲むことで、衛生害虫化している。衛生害虫としてのハエの害は、大きく3つに大別される。 ;(1)汚物の散布, (2)[[病原体]]の間接的な媒介 :ハエの成虫の多くはエネルギー源として[[花]]の[[蜜]]や[[果物]]、[[アブラムシ]]の[[排泄物]]([[甘露]])などから[[糖分]]を摂取するが、[[卵巣]]や[[精巣]]の成熟のための[[タンパク質|蛋白源]]として種によって様々な食物を摂取する。蛋白源となる食物は[[ヒト]]や[[家畜]]の[[体液]]([[涙]]、[[唾液]]、傷口からの浸出液など)、死肉や動物の[[糞]]、[[腐敗]]植物質といった動植物の死骸、[[花粉]]などである。 :衛生害虫としてのハエの害の1つ目と2つ目はこのハエの摂食習性に起因する。まず、動植物の死骸から好んで[[蛋白質]]を摂取するハエの場合、人間の糞便などの汚物または死骸と、肉や魚など食物の双方で摂食を行う場合があり、このときに病原性のある[[細菌]]、[[ウイルス]]、[[寄生虫]]卵などを体の表面を通じて、または食品上で[[消化管]]内容物を吐出したり糞便を排泄したりすることによって媒介することとなる。ヒトの居住空間に進出しているハエの一部には、イエバエのように積極的に人家に侵入する性質を持ったものがあり、こうしたハエは特に食物の病原体による汚染を引き起こす可能性が高い。 :古くから、[[ポリオウイルス]]、[[赤痢菌]]、[[サルモネラ]]、[[アメーバ赤痢|赤痢アメーバ]]、[[回虫]]卵、[[鞭虫]]卵などがハエによって媒介されることが知られ、警戒されていたが、公衆衛生の向上によってこれらの病原体が少なくなった日本ではあまり危険視されなくなっていた。しかし、1990年代後半以降、[[病原性大腸菌]](O157など)や[[トリインフルエンザ]]ウイルスといった感染症病原体がハエによって媒介されていることを強く示唆する研究結果が公表され、再びハエによる病原体媒介が着目されつつある。 ;(3)直接的な病原体の媒介 :上記の病原体媒介は食物を通じた間接的なものであるが、ハエの食性によっては動物やヒトの[[個体]]の間で、病原体を直接媒介することが知られている。例えば、ヒトを含めた動物の涙から蛋白質を摂取する小型のハエをメマトイと呼ぶが、こうした食性のハエは目から目に直接寄生虫などの病原体を運ぶことも知られている。日本では[[線虫]]の一種、[[東洋眼虫]]が、雄がこの性質を示す[[ショウジョウバエ]]科のマダラメマトイによって媒介されることが知られている。また、ハエの中には吸血性を持ち、健全な皮膚から血液を直接摂取して蛋白源とするものがあり、これも寄生虫などを媒介することがある。日本にもいるイエバエ科の[[サシバエ]]類による病原体媒介は、日本では知られていないが、[[アフリカ]]の[[ツェツェバエ]]類によって媒介される[[トリパノソーマ]]は、アフリカ諸国では深刻な問題となっている。 ;(4)寄生 :こうした2通りの病原体の媒介以外に衛生学上、医学上重要なハエによる害として、[[蠅蛆症]](ようそしょう)あるいはハエ症と呼ぶものがある。これは[[クロバエ科]]や[[ニクバエ]]科といった肉食性のハエの幼虫が人体寄生を引き起こす疾患である。これは、死肉や糞便でも発生する種類のハエによる偶発性蠅蛆症と、[[脊椎動物]]専門寄生性のハエによる真性蠅蛆症の二つに分けられる。 :偶発性蠅蛆症には、幼虫が傷口や皮膚潰瘍部に寄生する皮膚ハエ症、耳道に寄生する耳ハエ症、幼虫を食物とともに誤飲、あるいは肛門から幼虫が入り込むことによって消化管粘膜が刺激されて腹痛を起こす消化器ハエ症に分けられる。 :ヒトに真性蠅蛆症を起こすハエは、どれも皮膚に寄生する種である。アフリカの[[ヒトクイバエ]]や[[ローダインコブバエ]]、[[ラテンアメリカ|中南米]]の[[ヒトヒフバエ]]、[[ラセンウジバエ]]といった[[熱帯]]性のものが知名度が高いが、寒冷な[[温帯]]にも[[ユーラシア大陸]]内陸部に広く分布するヒフヤドリニクバエ類の {{snamei|Wohlfahrtia magnifica}}、[[東アジア]]や[[南アジア]]の[[亜熱帯]]、熱帯域にはトウヨウラセンウジバエなどがおり、注意を要する。ただし、[[ヒツジ]]の鼻腔に寄生し、吸血して育つ真性寄生種のヒツジバエが、偶発的にヒトに産卵して一時寄生することが知られている。 ;(5)不快感 :また、こうした深刻な健康被害をもたらさなくとも、ヒト親和性の高いハエは人体や食物に大きな羽音で付きまとい、不快害虫としても大きな地位を占める。日本でも[[ごみ処理場]]で大発生するイエバエや、[[鶏舎]]に群れを成す[[ヒメイエバエ]]は社会問題になることもあり、熱帯や亜熱帯地域では、ヒトの糞便を主な発生源とし、性成熟に必要な蛋白質を主としてヒトの涙や唾液から摂取する[[フタスジイエバエ]]が、人体の目や口に大挙して群がり、慣れない者には非常な不快感を催させる。 ;(6)農業被害 :農業害虫としては[[ハナバエ科]]の[[タマネギバエ]]や[[タネバエ]]、[[ミバエ科]]の[[ウリミバエ]]や[[チチュウカイミバエ]]などが[[栽培植物]]の[[果実]]、[[種子]]、[[球根]]などに[[寄生]]し、腐敗させつつ食害するため、[[農業]]に深刻な被害を及ぼす。 === 益虫 === * 腐食性のハエの幼虫([[蛆]])の多くは[[生態系]]において動植物の遺体の[[分解者]]として重要な位置を占めている。 * [[ヤドリバエ]]科には一部[[カイコ|養蚕]]害虫が見られるものの農業害虫の[[天敵]]が多く見られるし、捕食性のイエバエ科の幼虫には衛生害虫になるハエの幼虫の天敵として重要なものが少なくない。 * 青果業、醸造業において衛生害虫でもあるショウジョウバエ科の一部は生命科学の実験動物として多大の貢献をしている。 * [[ハナアブ]]科は[[虫媒花]]に集まるので[[農作物]]の[[受粉]]に役立っている。イエバエの成虫も一般には害虫とされるが、種苗会社等による[[品種改良]]の際には、ハチの代わりに受粉のために用いられることがある。こうしたハエ(フライ)は[[ミツバチ]](ビー)にたとえて「ビーフライ」とも呼ばれ、[[蜂群崩壊症候群|ミツバチの世界的な激減]]を受けて一部作物の受粉に使われている。ミツバチより活動する温度帯は広いが、蜜が少ない農作物には寄り付かないこと、[[帰巣本能]]がないため管理が難しいことや消費者の嫌悪感が課題となる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62417460X00C20A8SHB000/ 【ドキュメント日本】「働きバエ」農家を救う/ハチの代わりに受粉 暑い日も寒い日も/イメージ払拭が課題]『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年8月11日(社会面)2020年9月23日閲覧</ref>。また、アブラムシを捕食する[[ヒラタアブ]]類の幼虫などもいる。 * ハエの幼虫を[[昆虫食|食用]]にする[[民族]]もいる。 * [[家畜]]の糞などにイエバエを産卵させ、分解した糞は[[肥料]]に、幼虫や蛹は[[飼料]]にして処理・利用する技術を日本企業のムスカが実用化している。元々は[[ソビエト連邦]]が[[有人火星探査]]用[[宇宙船]]内での糞便処理と食料確保を想定して[[品種改良]]したイエバエを引き継いでいる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54508520X10C20A1TL1000/ 【Disruption 断絶の先に】第10部 地球に生き続ける(3)タンパク質危機 ハエが救う?]『日本経済新聞』朝刊2020年1月22日(ディスラプション面)2020年9月23日閲覧</ref>。 * [[マゴットセラピー]](蛆虫療法)という、特別に清潔な環境下で繁殖させたハエの幼虫(蛆)に、外傷患部の[[壊死]]した[[組織 (生物学)|組織]]を食べさせる外科的治療法がある。 *[[チーズバエ]]の一種は[[チーズ]]の[[発酵]]に利用されることもある。[[イタリア]]の[[サルデーニャ]]地方で作られる[[カース・マルツゥ]]はその代表格である。 ===駆除=== [[File:Japanese Fly Catcher.jpg|thumb|大正~昭和期にかけて製造されたと思われる「村瀬式蠅捕器」(三好日出一氏所有)]] * [[網戸]]、[[蚊帳]]、[[蠅帳]] * [[殺虫剤]] * [[ハエ取り紙]] :粘着性のある薬品を塗布した紙でハエを捕らえる駆除用品<ref name="okazaki">[https://www.city.okazaki.lg.jp/libra/803/p015437_d/fil/dogu4.pdf はえとりの道具] [[岡崎市]] 2020年2月16日閲覧。</ref>。 * [[蠅叩き]] :ハエ駆除用品 * [[蠅取器]] :[[ガラス]]製で、据え置きタイプと管状タイプがある<ref name="okazaki" />。 :[[大正]]時代には[[ゼンマイ]]式の自動蠅取器が尾張時計(現:[[尾張精機]])によって開発された<ref name="okazaki" />。回転する筒で網状の部分にハエを閉じ込める。 * [[めんつゆ]]もしくは[[ワイン]]と食器用[[洗剤]]を混ぜたもの :めんつゆやワインでおびき寄せ、揮発する洗剤で窒息させる<ref>『一生モノの知恵袋』(主婦の友社)p78</ref> * {{ill2|殺虫灯|en|Bug zapper}}(電気的殺虫器、電殺器<ref>『改訂食品衛生責任者ガイドブック』([[日本食品衛生協会]] 2003年6月1日発行)「ハエの駆除」p43</ref>) :ショウジョウバエ等のハエが持つ光に誘導される[[走光性]]を利用して駆除する装置<ref>田中毅弘『ビルメンテナンスが一番わかる』(2015年1月25日)p74</ref><ref>Jason Drew、Justine Josep『The Story of the Fly: ..and How It Could Save the World』ISBN 0980274281「Fly zappers」の項 </ref>。電撃、吸引式、粘着捕虫器がある。ただ、電気式の場合は、駆除した虫の小片が飛び散り、周囲雰囲気の浮遊粒子を増加させる報告もなされている<ref>平尾 素一「[https://doi.org/10.11257/jjeez.13.163 走光性昆虫による異物混入とその対策]」『環動昆』2002年 13巻 3号 p.163-171, {{doi|10.11257/jjeez.13.163}}</ref><ref>Gopal P. Ananth , David C. Bronson & Jeffrey K. Brown [https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/09603129209356738 Generation of airborne fly body particles by four electrocution fly traps and an electronic fly trap] International Journal of Environmental Health Research Volume 2, 1992 - Issue 2 Published online: 20 Sep 2008 pp.106-113 </ref>。 * [[不妊虫放飼]] :特定条件を満たす種類の蝿を根絶するための国家的プロジェクトの一種。放射線や遺伝子組み換えにより生殖能力異常となる個体を意図的に生み出して散布することにより、その地域の蝿などを根絶させることを目的とする。なお、プロジェクトの最終段階として行うものであり、前段階で粗方の個体数を減少させておかなくてはならない。 * [[焼却]] :[[東京都]]のゴミ[[最終処分場]]であった[[夢の島]]では、[[1960年代]]にハエの発生が深刻化。焦土作戦として、堆積物を深さ1.5[[メートル|m]]にわたりハエの幼虫ごと焼き払う手法が採られた<ref>「焦土作戦は成功 ハエの幼虫はほぼ死滅」『日本経済新聞』昭和40年7月16日15面</ref>。 == 生活史 == 他のハエ目昆虫と同じく、[[卵]] - [[幼虫]]([[蛆]]) - [[蛹]] - [[成虫]]という成長段階を踏む[[完全変態]]の昆虫である。 === 卵 === 多くは[[卵生]]で、成虫が幼虫の生息場所となる環境に卵を直接産みつける。ただし、[[ニクバエ]]科の全てや[[クロバエ]]科、[[イエバエ]]科の一部などは雌体内で[[胚]]が発育し、幼虫を直接産み付ける[[卵胎生]]である。 幼虫が[[寄生]]生活をする[[ヤドリバエ]]科の一部では、直接幼虫が育つ[[宿主]]に産卵せず、植物上に[[産卵]]し、[[孵化]]した幼虫が宿主の接近を待つものもいる。 === 幼虫 === 1齢で孵化し、3齢が終齢である。いわゆる[[蛆]](ウジ)であり、無[[脚]]でかつ[[頭蓋]](とうがい)など頭部[[器官]]はほとんど[[退化]]している。その代わりに複雑強固な[[咽頭]][[骨格]]が発達している。咽頭骨格の先端には口鉤(こうこう)というかぎ状部が発達し、底部にはろ過器官({{lang|en|pharyngeal filter}})が見られる。<!-- (成虫には眼があるが、幼虫には眼はまったく存在しないのだろうか?)--> ハエの[[幼虫]]の多くは[[腐敗]]、あるいは[[発酵]]した動植物質に生息し、液状化したものを吸引し、そこに浮遊する[[細菌]]、[[酵母]]といった[[微生物]]や[[有機物]]砕片といった粒状物を {{lang|en|pharyngeal filter}} によってろ過して摂食する。さらに一部のものは[[寄生]]や[[捕食]]によって、あるいは動物の新鮮な死体から動植物組織を体外消化して直接吸引、あるいは体液を吸収する。 [[微生物]]によって分解されつつある生物組織を摂食する腐食性から捕食、寄生といった生きている生物組織を直接摂食する生食性に移行した種では、{{lang|en|pharyngeal filter}} を失う傾向にある。口鉤は[[大顎]]に起源し、基物に引っ掛けることで歩行、腐敗有機物の攪拌、動植物組織の破壊、獲物や宿主の皮膚の穿孔などに用いられる。 <gallery height="200"> 画像:シリアカニクバエ幼虫.jpg|シリアカニクバエ ''Parasarcophaga crassipalpis''(Macquart, 1839)の終齢幼虫。 画像:咽頭骨格側面.jpg|シリアカニクバエ終齢幼虫の咽頭骨格側面。熱湯固定した幼虫を[[乳酸]]で透明化して撮影。 画像:咽頭骨格腹面.jpg|シリアカニクバエ終齢幼虫の咽頭骨格腹面。左右の腹角の間に膜状に pharyngeal filter が広がってそれが食道につながる </gallery> === 蛹(さなぎ) === 老熟した終齢幼虫は幼虫時代を過ごした摂食場所を離れ、多くは土中に潜り[[蛹]]となる。ハエ類の蛹形成の際は、終齢幼虫が[[脱皮]]せずに、幼虫の体が短縮してコメの様な形になり、そのまま幼虫の外皮が硬化するのが特徴である。硬化した外皮の内側で、真のさなぎがさらに一回り小さく収縮して形成される。こうした二重構造の蛹を囲蛹(いよう)と呼ぶ。 [[羽化]]に際しては硬化した幼虫の皮膚の前方体節が環状に分離し、蓋のように外れることで成虫が脱出する。これが環縫短角群の名前の由来である。 <gallery height="200"> 画像:シリアカニクバエ蛹.jpg|シリアカニクバエの蛹。左は幼虫の体が短縮した段階、右は幼虫の外皮が硬化した段階。 画像:シリアカニクバエ脱皮殻.jpg|シリアカニクバエの羽化後の囲蛹殻(いようかく)。蓋状に外れた囲蛹殻の前方体節が背方と腹方に分離して脱落している。 </gallery> == 分類 == 多くの上科があり、このうち同系統の上科をまとめる2つの「節」に分かれる。 * 無額嚢節(むがくのうせつ){{sname||Aschiza}} *** ヤリバエ上科 {{sname||Lomchopteroidea}} - [[ノミバエ]] *** ハナアブ上科 {{sname||Syrphoidea}} - [[ハナアブ]]、[[ヒラタアブ]]、[[アタマアブ]]など * 額嚢節(がくのうせつ){{sname||Schizophora}} ** 無弁翅亜節(むべんしあせつ){{sname||Acalyptratae}} *** アシナガヤセバエ上科 {{sname||Nerioidea}} - [[シュモクバエ]] *** メバエ上科 {{sname||Conopoidea}} - [[メバエ科|メバエ]]類 *** ミバエ上科 {{sname||Tephritoidea}} - [[ウリミバエ]]や[[チチュウカイミバエ]]などの[[ミバエ]]類、[[デガシラバエ]]など *** シマバエ上科 {{sname||Lauxanioidea}} - [[シマバエ]] *** ヤチバエ上科 {{sname||Sciomyzoidea}} - [[ヤチバエ]] *** ヒメコバエ上科 {{sname||Opomyzoidea}} - [[ハモグリバエ]]など *** キモグリバエ上科 {{sname||Carnoidea}} - [[キモグリバエ]]類 *** ハヤトビバエ上科 {{sname||Sphaeroceroidea}} - [[トゲハネバエ]]類 *** ミギワバエ上科 {{sname||Ephydroidea}} - [[キイロショウジョウバエ]]などの[[ショウジョウバエ]]類、[[ミギワバエ]]類など ** 弁翅亜節(べんしあせつ) {{sname||Calyptratae}} *** シラミバエ上科 {{sname||Hippoboscoidea}} - [[シラミバエ]]、[[コウモリバエ]]、[[クモバエ]]、[[ツェツェバエ]]など *** イエバエ上科 {{sname||Muscoidea}} - [[イエバエ]]など *** [[ヒツジバエ上科]] {{sname||Oestroidea}} - [[クロバエ]]、[[ヒツジバエ]]、[[ニクバエ]]など 分類体系は『日本動物大百科9昆虫II』([[平凡社]]、1997年)に準拠。 === 系統樹 === ==== 形態情報に基づくもの ==== [[系統樹]]は以下に準拠。 * McAlpine , J.F., "Phylogeny and Classification of The Muscomorpha," ''Manual of Nearctic Diptera,'' J. F. McAlpine and D. M. Wood (eds.), Vol. 3, Ottawa: Canadian Government Publishing Center, 1989 pp. 1397-1518 ISBN 0-660-12961-2 分類群の[[和名]]は以下に準拠。 * 三枝豊平「ハエ目(双翅目)DIPTERA 概説」『新訂 原色昆虫大圖鑑』平嶋義宏 森本桂 (監修), Vol.III, 東京: [[北隆館]], 2008年 pp. 255-283 ISBN 978-4-8326-0827-6 {{Clade | style=font-size:75%; | label1=環縫短角群 [[:en:Cyclorrhapha|Cyclorrhapha]] | 1={{Clade | label1=無額嚢節 [[:en:Aschiza|Aschiza]] | 1={{Clade | label1=ヒラタアシバエ上科 [[:en:Platypezoidea|Platypezoidea]] | 1={{Clade | 1=[[ヒラタアシバエ科]] [[:en:Platypezidae|Platypezidae]] | 2={{Clade | 1=[[ヤリバエ科]] [[:en:Lonchopteridae|Lonchopterida]] | 2={{Clade | 1=[[:en:Ironomyiidae|Ironomyiidae]] | 2={{Clade | 1=[[ムカシノミバエ科]] [[:en:Sciadoceridae|Sciadoceridae]] | 2=[[ノミバエ科]] [[:en:Phoridae|Phoridae]] }} }} }} }} | label2=ハナアブ上科 [[:en:Syrphoidea|Syrphoidea]] | 2={{Clade | 1=[[ハナアブ科]](アブバエ科, ショクガバエ科) [[:en:Syrphidae|Syrphidae]] | 2=[[アタマアブ科]](アタマバエ科) [[:en:Pipunculidae|Pipunculidae]] }} }} | label2=額嚢節 [[:en:Schizophora|Schizophora]] | 2={{Clade | label1=無弁翅亜節 [[:en:Acalyptera|Acalyptera]] | 1={{Clade | 1={{Clade | 1={{Clade | label1=[[アシナガヤセバエ上科]] [[:en:Nerioidea|Nerioidea]] | 1={{Clade | 1=[[マルズヤセバエ科]](チビヒゲアシナガヤセバエ科) [[:en:Micropezidae|Micropezidae]] | 2={{Clade | 1=[[アシナガヤセバエ科]](ナガズヤセバエ科) [[:en:Neriidae|Neriidae]] | 2=[[バナナバエ科]] [[:en:Cypselosmatid|Cypselosmatid]] }} }} | label2=[[シュモクバエ上科]] [[:en:Diopsoidea|Diopsoidea]] | 2={{Clade | 1={{Clade | 1=[[:en:Tanypezidae|Tanypezidae]] | 2=[[ハネオレホソバエ科]] [[:en:Strongylopthalmyidae|Strongylopthalmyidae]] }} | 2={{Clade | 1={{Clade | 1=[[:en:Somatidae|Somatidae]] | 2=[[ハネオレバエ科]] [[:en:Psilidae|Psilidae]] }} | 2={{Clade | 1=[[:en:Nothybidae|Nothybidae]] | 2={{Clade | 1={{Clade |1=[[モモブトホソバエ科]](フトモモホソバエ科, モモブトバエ科) [[:en:Megamerinidae|Megamerinidae]] |2=[[:en:Syringogastridae|Syringogastridae]] }} | 2=[[シュモクバエ科]](トビメバエ科) [[:en:Diopsidae|Diopsidae]] }} }} }} }} }} | 2={{Clade | label1=[[メバエ上科]] [[:en:Conopoidea|Conopidea]] | 1=[[メバエ科]] [[:en:Conopidae|Conopidae]] | label2=[[ミバエ上科]] [[:en:Tephritoidea|Tephritoidea]] | 2={{Clade | 1=[[クロツヤバエ科]] [[:en:Lonchaeidae|Lonchaeidae]] | 2={{Clade | 1={{Clade | 1=[[マダラバエ科]](ニセハネフリバエ科) [[:en:Otitidae|Otitidae]] | 2={{Clade | 1=[[ヒロクチバエ科]] [[:en:Platystomatidae|Platystomatidae]] | 2={{Clade | 1=[[ミバエ科]] [[:en:Tephritidae|Tephritidae]] | 2={{Clade | 1=[[デガシラバエ科]] [[:en:Pyrgotidae|Pyrgotidae]] | 2=[[:en:Tachiniscidae|Tachiniscidae]] }} }} }} }} | 2={{Clade | 1=[[:en:Richardiidae|Richardiidae]] | 2={{Clade | 1=[[ニセミバエ科]](ハネフリバエ科) [[:en:Pallopteridae|Pallopteridae]] | 2=[[チーズバエ科]] [[:en:Piophilidae|Piophilidae]] }} }} }} }} }} }} | 2={{Clade | 1={{Clade | label1=[[シマバエ上科]] [[:en:Lauxanioidea|Lauxanioidea]] | 1={{Clade | 1={{Clade | 1=[[シマバエ科]] [[:en:Lauxaniidae|Lauxaniidae]] | 2={{Clade | 1=[[:en:Eurychoromyiidae|Eurychoromyiidae]] | 2=[[ヨロイバエ科]] [[:en:Celyphidae|Celyphidae]] }} }} | 2=[[アブラコバエ科]] [[:en:Chamaemyiidae|Chamaemyiidae]] }} | label2=[[ヤチバエ上科]] [[:en:Sciomyzoidea|sciomyzoidea]] | 2={{Clade | 1=[[ハマベバエ科]] [[:en:Coelopidae|Coelopidae]] | 2={{Clade | 1={{Clade | 1=[[ベッコウバエ科]] [[:en:Dryomyzidae|Dryomyzidae]] | 2=[[:en:Helosciomyzidae|Helosciomyzidae]] | 3=[[ヤチバエ科]] [[:en:Sciomyzidae|Sciomyzidae]] }} | 2={{Clade | 1=[[:en:Ropalomeridae|Ropalomeridae]] | 2=[[ツヤホソバエ科]] [[:en:Sepsidae|Sepsidae]] }} }} }} }} | 2={{Clade | 1={{Clade | label1=[[ヒメコバエ上科]] [[:en:Opomyzoidea|Opomyzoidea]] | 1={{Clade | label1=[[クチキバエ科群]] [[:en:Clusioinea|Clusioinea]] | 1={{Clade | 1=[[クチキバエ科]] [[:en:Clusiidae|Clusiidae]] | 2=[[:en:Acartopthalmidae|acartopthalmidae]] }} | 2={{Clade | label1=[[ハモグリバエ科群]] [[:en:Agromyzoinea|Agromyzoinea]] | 1={{Clade | 1=[[トゲアシモグリバエ科]] [[:en:Odiniidae|Odiniidae]] | 2={{Clade | 1=[[ハモグリバエ科]] [[:en:Agromyzidae|Agromyzidae]] | 2=[[:en:Fergusoninidae|Fergusoninidae]] }} }} | 2={{Clade | label1=[[ヒメコバエ科群]] [[:en:Opomyzoinea|Opomyzoinea]] | 1={{Clade | 1=[[ヒメコバエ科]] [[:en:Opomyzidae|Opomyzidae]] | 2=[[ハナホソバエ科]] [[:en:Anthomyzidae|Anthomyzidae]] }} | label2=[[ヒメホソバエ科群]] [[:en:Asteionea|Asteionea]] | 2={{Clade | 1={{Clade | 1={{Clade | 1=[[ナガショウジョウバエ科]] [[:en:Aulacigastridae|Aulacigastridae]] | 2=[[ケシショウジョウバエ科]] [[:en:Periscelididae|Periscelididae]] }} | 2=[[:en:Neurochaetidae|Neurochaetidae]] }} | 2={{Clade | 1=[[シダコバエ科]] [[:en:Teratomyzidae|Teratomyzidae]] | 2={{Clade | 1=[[ニセヒメホソバエ科]] [[:en:Xenasteiidae|Xenasteiidae]] | 2=[[ヒメホソバエ科]] [[:en:Asteiidae|Asteiidae]] }} }} }} }} }} }} | label2=[[チスイコバエ上科]] [[:en:Carnoidea|Carnoidea]] | 2={{Clade | 1={{Clade | 1={{Clade | 1=[[:en:Australimyzidae|Australimyzidae]] | 2=[[ミツバチシラミバエ科]] [[:en:Braulidae|Braulidae]] }} | 2=[[チスイコバエ科]](チビコバエ科) [[:en:Carnidae|Carnidae]] }} | 2={{Clade | 1={{Clade | 1=[[ハマベホソバエ科]](イソベバエ科) [[:en:Tethnidae|Tethnidae]] | 2=[[ニセミギワバエ科]](イソバエ科) [[:en:Canacidae|Canacidae]] }} | 2={{Clade | 1={{Clade | 1=[[シロガネコバエ科]](コガネコバエ科, コガネバエ科) [[:en:Milichiidae|Milichiidae]] | 2=[[:en:Risidae|Risidae]] }} | 2={{Clade | 1=[[ヒゲブトコバエ科]] [[:en:Cryptochetidae|Cryptochetidae]] | 2=[[キモグリバエ科]] [[:en:Chloropidae|Chloropidae]] }} }} }} }} }} | 2={{Clade | label1=[[フンコバエ上科]] [[:en:Sphaeroceroidea|Sphaeroceroidea]] | 1={{Clade | 1={{Clade | 1=[[トゲハネバエ科]] [[:en:Heleomyzidae|Heleomyzidae]] | 2={{Clade | 1=[[:en:Trixocelids|Trixocelids]] | 2=[[:en:Rhinotorids|Rhinotorids]] }} }} | 2={{Clade | 1=[[:en:Mormotomyiidae|Mormotomyiidae]] | 2={{Clade | 1=[[キイロコバエ科]] [[:en:Chyromyidae|Chyromyidae]] | 2=[[フンコバエ科]](ハヤトビバエ科) [[:en:Sphaeroceridae|Sphaeroceridae]] }} }} }} | label2=[[ミギワバエ上科]] [[:en:Ephydroidea|Ephydroidea]] | 2={{Clade | 1=[[セダカショウジョウバエ科]] [[:en:Curitonotidae|Curitonotidae]] | 2={{Clade | 1={{Clade | 1=[[:en:Camillidae|Camillidae]] | 2=[[ショウジョウバエ科]] [[:en:Drosophilidae|Dorosophilidae]] }} | 2={{Clade | 1=[[ホソショウジョウバエ科]] [[:en:Diastatidae|Diastatidae]] | 2=[[ミギワバエ科]] [[:en:Ephydridae|Ephydridae]] }} }} }} }} }} }} }} | label2=有弁翅亜節 [[:en:Calyptera|Calyptera]] | 2={{Clade | label1=[[シラミバエ上科]] [[:en:Hippoboscoidea|Hippoboscoidea]] | 1={{Clade | 1={{Clade | 1=[[ツェツェバエ科]] [[:en:Glossinidae|Glossinidae]] | 2=[[シラミバエ科]] [[:en:Hippoboscidae|Hippoboscidae]] }} | 2={{Clade | 1=[[コウモリバエ科]] [[:en:Streblidae|Streblidae]] | 2=[[クモバエ科]] [[:en:Nycteribiidae|Nycteribiidae]] }} }} | 2={{Clade | label1=[[イエバエ上科]] [[:en:Muscoidea|Muscoidea]] | 1={{Clade | 1=[[フンバエ科]] [[:en:Scathophagidae|Scathophagidae]] | 2={{Clade | 1=[[ハナバエ科]] [[:en:Anthomyiidae|Anthomyiidae]] | 2={{Clade | 1=[[ヒメイエバエ科]] [[:en:Fanniidae|Fanniidae]] | 2=[[イエバエ科]] [[:en:Muscidae|Muscidae]] }} }} }} | label2=[[ヒツジバエ上科]] [[:en:Oestroidea|Oestroidea]] | 2={{Clade | 1={{Clade | 1={{Clade | 1=[[クロバエ科]] [[:en:Calliphoridae|Calliphoridae]] | 2=[[:en:Mystacinobiidae|Mystacinobiidae]] }} | 2=[[ニクバエ科]] [[:en:Sarcophagidae|Sarcophagidae]] }} | 2={{Clade | 1={{Clade | 1=[[ワラジムシヤドリバエ科]](タンカクヤドリバエ科) [[:en:Rhinophoridae|Rhinophoridae]] | 2=[[ヤドリバエ科]] [[:en:Tachinidae|Tachinidae]] }} | 2=[[ヒツジバエ科]] [[:en:Oestridae|Oestridae]] }} }} }} }} }} }} }} === 無額嚢節 Aschiza === 成虫が囲蛹(いよう)や土中から脱出するのに使われる嚢状器官である額嚢(後述)を欠き、その点で原始的形質を保持しているとされる。 ; ヤリバエ上科 Lonchopteroidea : 代表的なものに[[ノミバエ]]科 {{sname|Phoridae}} があり、様々な環境や生活型に進出して繁栄している。[[ノミバエ]]科の幼虫は腐敗した動物質や[[下水道]][[浄化槽]]の[[汚泥]]に発生してしばしば衛生害虫になるもの、[[キノコ]]を食べるもの、狩蜂の巣に寄生するものなどが知られている。[[サトイモ科]][[テンナンショウ]]類の[[送粉者]]としても重要。また、ノミバエ科の成虫は[[特定生物]]の一種である[[ヒアリ]]などの天敵としても有名。 ; ハナアブ上科 Syrphoidea : ここに属する[[ハナアブ]]科 {{sname|Syrphidae}} は有弁翅亜節に並んで大型種が多い。また種の多様性が高く美麗種も多いので、日本でもプロの研究者のみならず、これに注目して調査、研究を進めているアマチュア研究家が増加しつつある。 : 幼虫の生活型も多様で、[[有機化合物|有機物]]に富んだ汚水に生活するもの、樹洞に溜まった水の中で長期間かけて成長するもの、朽ち木中で育つもの、多年生草本の地下部に穿孔し腐敗させて摂食するもの、植物上で[[アブラムシ]]などを捕食するもの、[[アリ]]の巣に寄生するものなどが知られる。 : 成虫の大半は花に集まり、花蜜や花粉を摂取する。虫媒花の送粉者として重要で、[[シマハナアブ]] {{snamei|Eristalis cerealis}} (Fabricius,1805)では農作物の送粉者として人工増殖法も開発されている。 : ハナアブ上科には他に[[アタマアブ]]科 {{sname|Pipunculidae}} がよく知られ、農業害虫である[[ウンカ]]、[[ヨコバイ]]類の寄生者として重要である。 [[画像:シリアカニクバエ額嚢.jpg|thumb|250px|シリアカニクバエの羽化直後の成虫の頭部に反転した額嚢]] === 額嚢節 Schizophora === 成虫の触角上方の額に逆[[V]]字状の切れ込みがあり、羽化直後の体が柔らかいときにのみこれが開き、体液で膨らむ[[風船]]状の器官、額嚢が反転突出する。羽化に際してこのグループに属すハエは額嚢を断続的に突出させて囲蛹の蓋を押し開け、また土中からの脱出のために土を押しのける。地上脱出後は額嚢は頭部に格納され、外骨格の硬化に伴い二度と反転突出することはなくなる。 ==== 無弁翅亜節 Acalyptratae ==== 大型種もいるが5mm未満の小型の種が多く、[[ショウジョウバエ]]など日常生活で「コバエ」と呼ばれているのはこの仲間が多い。 ; アシナガヤセバエ上科 Nerioidea : 頭部が[[シュモクザメ]]と同様に細く左右に伸び、その先端に眼がつく奇異な形態の[[シュモクバエ]]科 {{sname|Diopsidae}} が有名である。最近日本でも、[[八重山諸島]]で[[ヒメシュモクバエ]] {{snamei|Sphyracephala detrahens}} (Walker, 1860)の生息が確認された。 ; メバエ上科 Conopoidea : [[メバエ科|メバエ]]科Conopidaeは寄生性のグループで、ほとんどの種が[[ハチ目]]の[[有剣類]]の成虫に飛びかかって体内に産卵する。果樹園で受粉用に飼育している単独性[[ハナバチ]]類に大害を与えることがある。 ; ミバエ上科 Tephritoidea : この上科を代表する[[ミバエ]]科 {{sname|Tephritidae}} は植物寄生性であり、農作物の果実を腐敗させつつ食害する[[ウリミバエ]] {{snamei|Zeugodacus cucurbitae}} (Coquillett,1899)のような大害虫が著名である。他に虫えいを作ったり葉に潜るなど、様々な寄生のスタイルが知られている。他に幼虫が[[コガネムシ]]などに寄生し、成虫がハチそっくりな[[デガシラバエ]]科 {{sname|Pyrgotidae}}や、幼虫がチーズや塩蔵生革などに発生する[[チーズバエ]]科 {{sname|Piophilidae}} などが知られる。 [[Image:Homoneura hirayamae.JPG|right|thumb|200px|ヒラヤマシマバエ(シマバエ科)5mmほど。日本全土の森に春~秋まで比較的よく見られる]] ; シマバエ上科 Lauxanioidea : [[シマバエ]]科 {{sname|Lauxaniidae}} は腐敗植物質、[[鳥類|鳥]]の[[巣]]の汚物で繁殖する他、生きた植物に寄生するものも知られる。 ; ヤチバエ上科 Sciomyzoidea : [[ヤチバエ]]科 {{sname|Sciomyzidae}} は幼虫が淡水産及び陸産[[軟体動物]]の捕食者として多様化した科である。 ; ヒメコバエ上科 Opomyzoidea : [[ハモグリバエ]]科 {{sname|Agromyzidae}} の幼虫は生きた植物に穿孔する。潜葉時の食痕が「エカキムシ(絵描き虫)」として知られる。 ; キモグリバエ上科 Carnoidea : [[キモグリバエ]]科 {{sname|Chloropidae}} の[[ヨシノメバエ]]類は幼虫が[[ヨシ]]の若[[芽]]の成長点に侵入し、一部の種では葉巻型の顕著な[[虫えい]]を形成する。成虫はヨシの茎上で振動によって雌雄のコミュニケーションを行う。 ; ハヤトビバエ上科 Sphaeroceroidea : [[トゲハネバエ]]科の[[チャバネトゲハネバエ]] {{snamei|Tephrochlamys japonica}} Okadome,1967は汲み取り[[便所]]などの生活に伴う汚物に発生するので人家付近に普通に見られる。また、本科にはキノコに幼虫が発生するものも多い。 [[画像:Drosophila melanogaster - side (aka).jpg|right|thumb|200px|キイロショウジョウバエのオス]] [[Image:Notiphila watanabei male01.JPG|right|thumb|180px|[[アサザ]]の葉にいるワタナベトゲミギワバエ(ミギワバエ科)]] ; ミギワバエ上科 Ephydroidea : [[ショウジョウバエ]]科 {{sname|Drosophilidae}} には多くの種類があるが、[[モデル生物]]として生物学、特に[[遺伝学]]に多大の貢献をした[[キイロショウジョウバエ]] {{snamei|Drosophila (Sophophora) melanogaster}} Meigen,1830が最も知名度が高い。生物学においては、「ハエ」と言えばショウジョウバエ、特にこの種を指す場合も多い。 : [[ミギワバエ]]科 {{sname|Ephydridae}} はその名のとおり湖沼・河川の水際に群れて見られるものが多く、幼虫の生態が極めて多様化していることが知られている。捕食性の[[カマバエ]]属 {{snamei|Ochthera}} は成虫の前脚が[[カマキリ]]そっくりの捕獲脚に変形しており、他の昆虫を捕らえて食べる。トゲミギワバエ属 {{snamei|Notiphila}} の幼虫は池などに棲み、蛹化(ようか)の際は[[抽水植物]]の組織内の空隙に呼吸管を刺して空気を採る。この属のイミズトゲミギワバエ {{snamei|N. sekiyai}} は幼虫が[[イネ]]の[[根]]を食害する害虫だが、発生量は少ない。 ==== 弁翅亜節 Calyptratae ==== 大型のいわゆるハエらしいハエで、日常生活で「ハエ」として認識されているのはたいていこの仲間である。 ; シラミバエ上科 Hippoboscoidea : 成虫が[[鳥類]]や[[哺乳類]]といった[[恒温動物]]の寄生者として特殊化したグループで、体外寄生して吸血する。[[蛹生類]](ようせいるい)とも呼ばれ、幼虫は雌成虫の体内で卵から孵化すると体内で分泌される栄養物質を摂取して成長し、蛹化(ようか)寸前に産み落とされ、直ちに蛹になる。 : 宿主に到達した成虫が終生そこに留まる[[シラミバエ]]科 {{sname|Hippoboscidae}}、[[コウモリバエ]]科 {{sname|Streblidae}}、[[クモバエ]]科 {{sname|Nycteribiidae}} の他に、アフリカのみから知られ、短時間の吸血時以外は自由生活をする[[ツェツェバエ]]科 {{sname|Glossinidae}} が知られる。[[ツェツェバエ]]科は「睡眠病」または「眠り病」とも呼ばれる[[アフリカ・トリパノソーマ症]]の病原体を媒介することで知られる。 [[画像:モモエグリイエバエ成虫.jpg|thumb|200px|モモエグリイエバエ ''Hydrotaea dentipes'' (イエバエ科)のオス]] ; イエバエ上科 Muscoidea : 大型のハエらしいハエの中で、主として腐敗植物質、草食・雑食性動物の排泄物を主たる発生源とするものが多いグループ。 :*[[フンバエ]]科 {{sname|Scatophagidae}} は[[ヒメフンバエ]] {{snamei|Scatophaga stercoraria}} のような幼虫が[[食糞]]性の種がよく知られるが、幼虫が生きた植物の葉などに穿孔する種も多い。成虫は小昆虫を捕食する種が多い。 :* [[ハナバエ]]科 {{sname|Anthomyiidae}} にも生きた植物に幼虫が穿孔して成長する種が多いが、キノコや動物の糞で成長する種も少なくない。農作物の顕著な害虫として知られる[[ダイコンバエ]]、[[タマネギバエ]]、[[タネバエ]]の幼虫は宿主植物を腐敗させつつ食害するが、その一方で施肥された[[油粕]]などの腐敗有機物にも産卵が行われ、幼虫が成長することが知られている。[[ハナバエ]]科の一部の種も成虫が小昆虫を捕食する。 :*[[ヒメイエバエ]]科 {{sname|Fanniidae}} の幼虫は動物の糞などで発生するが、褐色で比較的硬い外皮に多数の突起を有する毛虫状の外観を有し、一見ハエの幼虫に見えない。雄の成虫はしばしば集団で群飛する。 :* [[イエバエ]]科 {{sname|Muscidae}} には幼虫が動物の糞や腐敗有機物で発生するものが多いが、キノコなど様々な場所で幼虫が成育する種を擁する。幼虫が捕食性の種もある。汎世界的な屋内害虫であるイエバエ {{snamei|Musca domestica}} は近縁種には[[クロイエバエ]] {{snamei|Musca bezzi}} など成虫が大型草食獣の体表で涙や傷口からの滲出体液を摂取し、宿主が排泄した糞に産卵して幼虫がそこで成長する種が多い。イエバエは[[アフリカ]]でそうした生活史を送っていた種が人家内に進入し、人の生活に伴う廃棄物に依存して生活するように分化して世界中に広がったものと考えられる。今日でも畜舎の[[牛糞]]などからよく発生するなど大型草食獣との親和性の高さを維持しており、[[ウシ]]の[[腸]]内にしばしば常在する[[病原性大腸菌]][[O157]]の媒介種としても注目されている。 ; [[ヒツジバエ上科]] Oestroidea : 大型のハエらしいハエの中で、主として腐敗動物質、肉食・雑食性動物の排泄物を主たる発生源とし、寄生性の種も多いグループ。 :*[[クロバエ科|クロバエ]]科 {{sname|Calliphoridae}} の幼虫は動物の糞や腐敗物などで繁殖する。そのため病気の媒介者ともなる。一部寄生性のものもあり、[[カエル]]や[[ミミズ]]、[[カタツムリ]]などへの捕食寄生を行うものも知られる。 :*{{sname|Mystacinobiidae}}科は {{snamei|Mystacinobia zelandica}} 1属1種のみが属する。[[ニュージーランド]]に[[固有種|固有]]の科で、[[コウモリ]]の一種[[ツギホコウモリ]] {{snamei|Mystacina tuberculata}} の樹洞中の巣に寄生し、無翅でクモのような姿をしている。ただし吸血性はなく成虫、幼虫とも糞食で、新天地への移動のために成虫はコウモリの体表にしがみつく。かつてはショウジョウバエに近縁ともされたが、分子系統などからはクロバエ科に比較的近いとされ、クロバエ科の亜科 {{sname|Mystacinobiinae}} ともされる。 :*[[ヒツジバエ科]] {{sname|Oestridae}} の幼虫は[[哺乳類]]に寄生する。 :*[[ワラジムシヤドリバエ科]] {{sname|Rhinophoridae}} の幼虫は[[ワラジムシ亜目]]や[[カタツムリ]]など、陸生の[[節足動物]]や[[軟体動物]]に寄生するとされる。 :*[[ニクバエ]]科 {{sname|Sarcophagidae}} の幼虫は[[肉]]で増えるが、寄生性のものも多い。 [[Image:Zophomyia temula01.jpg|right|thumb|180px|クロツヤナガハリバエ ''Zophomyia temula'' (ヤドリバエ科)。北海道を含む[[旧北区]]に広く分布。寄主は不明。]] :*[[ヤドリバエ]]科 {{sname|Tachinidae}} の幼虫のほとんどは他の昆虫類に寄生し、一部は[[クモ]]や[[ムカデ]]などの陸生節足動物などに寄生する。種類が非常に多く、含まれる数亜科をそれぞれ独立の科として扱う場合もある。 :*{{sname|Axiniidae}}科は D.H.Colless という研究者が1994年に提唱した<ref>D H Colless, A New Name for a Genus in Axiniidae (Diptera), Australian Journal of Entomology 33: 380-380 (1994)</ref>新しい科で、オーストラリアとニューギニアに分布するが、独立の科とせず、ワラジムシヤドリバエ科に含める考えがある。幼虫は何に寄生するかは未知である。 == ハエに関する文化 == ハエはとにかく人間の周りにまとわりつくように飛び回るうるさい存在である。古くから身の回りの衛生を守ることは、ハエを対象としてきた。例えば身の回りの虫除けは往々にしてハエの名を持つ。[[蠅叩き]]、[[蠅取り紙]]、[[はえいらず]]などの例がある。ただし、具体的な形でヒトを害するものではないためか、どこかユーモラスな印象もある。 === ハエに関する作品 === * [[オペレッタ]] ** 『[[地獄のオルフェ]]』(邦題:天国と地獄) - ([[ジャック・オッフェンバック]]作・[[1858年]]初演)では[[ユーピテル|ユピテル]]がハエに変身して鍵穴を通り抜け、[[エウリュディケー|エウリュディケ]]を誘惑する。ただし[[1914年]](大正3年)の日本の[[帝国劇場|帝劇]]での初演では[[セミ]]として演じられており、日本人のハエ観に配慮した可能性もある。 * [[小説]] ** 『[[蝿の王]]』 - [[ウィリアム・ゴールディング]]、([[1954年]])([[1990年]] 、ハリー・フック監督により映画化) ** 『[[冬の蠅]]』 - [[梶井基次郎]]の短編小説。 ** 『[[蠅 (横光利一)|蠅]]』 - [[横光利一]]、([[1923年]]) ** 『[[兎の眼]]』 - [[灰谷健次郎]]、([[1974年]]) ハエの生態に詳しい小学生が主人公。 * [[俳句]] ** 「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」- [[小林一茶]] * [[絵画]] ** 『[[カルトジオ会修道士の肖像]]』 - [[ペトルス・クリストゥス]]の[[肖像画]]([[1446年]]) * [[映画]] ** 『[[ハエ男の恐怖]](The Fly)』 - アメリカの[[SF映画]]([[1958年]]) ** 『[[ザ・フライ]]』 - アメリカのSF映画。上記のリメイク版。([[1987年]]) ** 『[[マッキー (映画)|マッキー]]』 - インドの[[ファンタジー映画]]([[2013年]]) * [[TVドラマ]] ** [[仮面ライダーシリーズ|『仮面ライダー』シリーズ]] - [[仮面ライダー#ショッカー|ショッカー]]怪人「ハエ男」、[[仮面ライダーV3#デストロン|デストロン]]怪人「テレビバエ」など、破壊活動の尖兵として描かれる事が多い。 ** 『[[獣拳戦隊ゲキレンジャー]]』 - [[獣拳戦隊ゲキレンジャー#獣拳|獣拳]]使いの1人として激獣フライ拳の使い手[[獣拳戦隊ゲキレンジャー#キャスト|バエ]](声・[[石田彰]])がいる。 * [[音楽]] ** [[横浜銀蝿]] - 日本のロックバンド。 ** 『ハエ』 - 日本のロックバンド、[[ザ・スターリン]]の楽曲。アルバム『[[Trash (ザ・スターリンのアルバム)|trash]]』収録。 ** 『[[ハエ男/Memories|ハエ男]]』 - 日本の歌手、[[森高千里]]の楽曲。 == 出典 == {{reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2022年3月|section=1}} * [[日高敏隆]]監修、石井実・大谷剛・常喜豊編『日本動物大百科第9巻 昆虫2』[[平凡社]]、1997年、ISBN 4-582-54559-9。 == 関連項目 == {{Wikispecies|Muscomorpha|ハエ下目}} {{Commonscat|Muscomorpha|ハエ下目}} * [[ラフレシア]] - 世界最大の花で知られる植物。ハエを受粉に利用する。 * [[法医昆虫学]] - 死体にやってくる昆虫とその摂食活動などから、死後の経過時間や死因などを推定する学問。 * [[はえ座]] - [[星座]]の一つ。現代は[[天の南極]]付近にあり日本からは見えない。 * [[ベルゼブブ]] - [[旧約聖書]]『[[列王記]]』に登場する異教神、転じて[[悪魔]]とされるようになった。 * [[フライ級]] - [[格闘技]]の[[体重別階級]]の一つ。 * [[ハエ男]] - 「ハエ男・蠅男」に関する曖昧さ回避記事。 * [[カ]] - [[アブ]] - [[ガガンボ]] - [[蛆]] ;天敵 * [[ハエトリグサ]](ハエトリソウ、ハエジゴク) - [[北アメリカ]]原産の[[食虫植物]] * [[ハエドクソウ]]-ハエ殺しに使われる植物 * [[テングタケ]]、[[ベニテングタケ]]、[[ハエトリシメジ]] - ハエ取りに使われるキノコ。 * [[ハエトリグモ]] - クモの分類群の一つ。徘徊性の小型のクモ。 == 外部リンク == * {{Kotobank|ハエ(蠅)}} * {{科学映像館|genre=animal|id=319|name=はえ}} {{双翅目}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はえ}} [[Category:ハエ目|*はえ]] [[Category:釣り餌]]
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ロバート・ノイス
ロバート・ノートン・ノイス(英語: Robert Norton Noyce, 1927年12月12日 - 1990年6月3日)は、フェアチャイルドセミコンダクター(1957年創業)とインテル(1968年)の共同創業者の1人であり、the Mayor of Silicon Valley(シリコンバレーの主)とあだ名された人物。ジャック・キルビーと並んで集積回路を発明したことでも知られている。彼の事業の成功は、その後の世代の起業家(例えばAppleを起業したスティーブ・ジョブズなど)にとっては、師であり目標だった。 家系を遡ると、メイフラワー号で北米大陸に移住しブリッジウォーター(現在のマサチューセッツ州)という町を建設したラヴ・ブリュースター、同じくメイフラワー号で入植しプリマス植民地の精神的支柱となったウィリアム・ブリュースター、プリマス植民地の知事となり、プロビンスタウン港でのメイフラワー誓約に2番目に署名したウィリアム・ブラッドフォードといった人物がいる。 また、18世紀アメリカの詩人および作家として有名なマーサ・ワーズワース・ブリュースターや、牧師でグリネル大学の創設者であるルーベン・ゲイロードの子孫でもある。 1927年12月12日、アイオワ州バーリントンで生まれる。 会衆派教会の牧師だった父ラルフ・ブリュースターの4人の息子の3番目として生まれた。母ハリエット・メイ・ノートンも会衆派教会の牧師の娘であり、意志の強い聡明な女性と評されている。 ノイスの最も幼いころの記憶は、卓球で父に勝ち、それを母に知らせたところ「パパがあなたに勝たせてあげたのよ」と言われてがっかりしたことだという。5歳のころからロバートは何においても負けず嫌いだった。「そんなのゲームじゃない。やるんなら勝つためにやらなきゃ」とロバートは母にむかって拗ねたという。 1940年夏、ロバートが12歳のとき、兄弟と共に子供が乗れる大きさの飛行機を作り、グリネル大学の馬小屋の屋根から飛ぶという遊びをした。その後も彼はラジオを一から作ったり、古い洗濯機のモーターを使ってソリの後ろに電動のプロペラをつけたりしている。 アイオワ州グリネルで育ったロバートは、地元の学校に通った。高校時代に数学と理科に才能を見せ、高校在学中にグリネル大学の新入生向け物理学コースを受講した。1945年に高校を卒業するとグリネル大学に入学。1949年、物理学と数学の学士号を取得して卒業。1953年、マサチューセッツ工科大学で物理学の博士号を取得。ベル研究所で開発されたばかりのトランジスタに初めて触れたのは、グリネル大学でのことだった。 グリネル大学では グラント・ゲイル教授の物理学講座に参加し、物理学に魅了されていった。ゲイルはベル研究所から初期のトランジスタを2個入手し、それを学生に見せた。ノイスはそれに目を奪われた。しかし同時にノイスは手に負えないいたずら好きという面もあった。屋外便所をひっくり返したり、届出もなく花火を打ち上げたりというのはまだいい方で、仲間と共に飲酒した上で宴会のために豚を盗むというのは全く別次元の問題だった。 ノイスと仲間はその所業を後になって後悔し、農場に行って豚の代金を支払おうとした。農夫は豚が盗まれていたことに気づいていなかったが、話を聞いて激怒した。農夫はグリネル大学の学長に連絡し、保安官も呼んでノイスらを刑事告発すると主張した。ノイスは停学となり、1948年には大学だけでなくグリネルの町から追放された。 ノイスは追放されている期間をニューヨークの生命保険会社の保険計理部の事務員として働いて過ごした。その後グリネルに戻り、1949年4月にグリネル大学を何とか卒業した。 その後アメリカ空軍に入隊しようとしたが、色覚異常だったため戦闘機パイロットになれないことを知り、兵役そのものから逃れることにした。大学の指導教官のグラント・ゲイルはMITの物理学の博士課程への進学を勧め、ノイスはそれに従った。ノイスは頭の回転が速く、MIT時代の友人は彼を "Rapid Robert" と呼んでいた。 1953年にマサチューセッツ工科大学を卒業すると、フィラデルフィアの Philco Corporation の研究開発部門に技術者として就職した。その後、ウイリアム・ショックレーにスカウトされ、1956年にマウンテンビューのショックレー半導体研究所に移った。しかし、まもなくショックレーと意見が合わなくなり、1957年にゴードン・ムーアら若手研究者を伴ってフェアチャイルドセミコンダクターを設立し独立。この社名は、出資企業(親会社)のフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツに由来する。親会社の社長だった シャーマン・フェアチャイルド によれば、ノイスの熱を帯びたプレゼンテーションが出資を決めた理由だったという。 フェアチャイルドでは半導体集積回路の研究開発と普及につとめたが、後に親会社との意見衝突や経営悪化をおこし、1968年に再びムーアとともにフェアチャイルドを飛びだし、アンドルー・グローヴと共にインテルを設立した。インテルの主要出資者で会長も務めたアーサー・ロック は、インテルの成功にはノイスとムーアとグローヴの3人がこの順番で必須だったと述べている。ノイスは発想豊かな夢想家であり、ムーアは技術面の大家であり、グローヴは技術畑出身の経営科学者だったという。ノイスがインテルで培った企業文化は、フェアチャイルド時代と同じくゆったりしたものだった。従業員を家族のように遇し、チームワークを重視した。この経営スタイルはその後のシリコンバレーで成功した各企業にも受け継がれている。彼は高級な社用車や専用駐車スペースや自家用ジェット機や専用オフィスを避け、階層化されていないゆったりした職場環境を好んだ。従業員はみな事業に貢献しているという考え方から、特定の誰かに臨時収入を与えるということもなかった。このような特権を放棄した経営スタイルはインテルのその後のCEOに受け継がれている。インテルではテッド・ホフらのマイクロプロセッサの発明を監督し、それが彼の2度目の技術的革命となった。 1953年、エリザベス・ボトムリーと結婚し、1974年に離婚した。2人は4人の子をもうけた。その後1974年、ノイスはアン・バウワースと再婚。アンはインテルの初代人事部長だった女性で、後にAppleで人事担当副社長を務めた。 ノイスはヘミングウェイを愛読し、飛行機操縦、ハンググライダー、スキューバダイビングを趣味としていた。 1990年6月3日、テキサス州オースティンの病院で心不全で死去。そのころノイスは半導体製造技術の基礎研究を行う非営利組織 Sematech(セマテック) を運営していた。アメリカ政府と14の企業の提携によって創設された組織であり、日本の半導体製造技術に追いつくことを意図した組織である。 彼はマイクロエレクトロニクスがどんどん複雑化し洗練されていくと信じ、そのテクノロジーをどう利用するかが社会問題になるだろうと考えていた。生前最後のインタビューでノイスは、アメリカ合衆国の「皇帝」だったら何をするかと訊かれた。彼は色々答える中で、「次の世代がハイテク社会で繁栄することを確実にしたい。そのためには最も貧しい階級の者にも高度な教育を受けさせる必要がある」と述べている。ノイス財団は、数学と理科の教育の改善を目的としてノイスの遺族らが設立した。現在、妻のアンはノイス財団の会長を務めている。 1959年7月、 アメリカ合衆国特許第 2,981,877号 "Semiconductor Device and Lead Structure" という集積回路に関する特許を出願した。なお、その数カ月前にジャック・キルビーが出願した特許は「同様」「同等」とは言い難いものだが(そもそも本当に同様あるいは同等なら、どちらか片方は却下されていなければならない)、この2人が集積回路の発明者とされ、3人のアメリカ合衆国大統領に表彰されている。1966年IEEEフェロー。 ノイスは様々な賞や栄誉を受けている。1987年にはロナルド・レーガンからアメリカ国家技術賞を授与された。その2年後、ジョージ・H・W・ブッシュによりビジネス殿堂(Business Hall of Fame)に入るという栄誉を与えられた。特許法施行200周年の記念式典には、ジャック・キルビーやトランジスタの発明者ジョン・バーディーンらと共に招待され、生涯貢献賞を授与された。 1966年にはスチュアート・バレンタイン・メダル、1978年にはIEEE栄誉賞を受賞した。また、1979年には、アメリカ国家科学賞およびファラデー・メダル、1990年には全米技術アカデミーのチャールズ・スターク・ドレイパー賞を受賞した。 サンタクララにあるインテル本社ビルは、ロバート・ノイス・ビルと名付けられている。また、グリネル大学にも、ノイスの名を冠した建物がある。 米国半導体工業会では毎年半導体業界において優れた業績とリーダーシップを持つ者に送られるRobert N. Noyce Awardに、またIEEEではインテルの後援で、マイクロエレクトロニクス業界への卓越した貢献者に対して贈られるIEEEロバート・ノイス・メダルに名を残す。 ノイスの名で成立した特許は以下の通りである。
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"フェアチャイルドでは半導体集積回路の研究開発と普及につとめたが、後に親会社との意見衝突や経営悪化をおこし、1968年に再びムーアとともにフェアチャイルドを飛びだし、アンドルー・グローヴと共にインテルを設立した。インテルの主要出資者で会長も務めたアーサー・ロック は、インテルの成功にはノイスとムーアとグローヴの3人がこの順番で必須だったと述べている。ノイスは発想豊かな夢想家であり、ムーアは技術面の大家であり、グローヴは技術畑出身の経営科学者だったという。ノイスがインテルで培った企業文化は、フェアチャイルド時代と同じくゆったりしたものだった。従業員を家族のように遇し、チームワークを重視した。この経営スタイルはその後のシリコンバレーで成功した各企業にも受け継がれている。彼は高級な社用車や専用駐車スペースや自家用ジェット機や専用オフィスを避け、階層化されていないゆったりした職場環境を好んだ。従業員はみな事業に貢献しているという考え方から、特定の誰かに臨時収入を与えるということもなかった。このような特権を放棄した経営スタイルはインテルのその後のCEOに受け継がれている。インテルではテッド・ホフらのマイクロプロセッサの発明を監督し、それが彼の2度目の技術的革命となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1953年、エリザベス・ボトムリーと結婚し、1974年に離婚した。2人は4人の子をもうけた。その後1974年、ノイスはアン・バウワースと再婚。アンはインテルの初代人事部長だった女性で、後にAppleで人事担当副社長を務めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ノイスはヘミングウェイを愛読し、飛行機操縦、ハンググライダー、スキューバダイビングを趣味としていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1990年6月3日、テキサス州オースティンの病院で心不全で死去。そのころノイスは半導体製造技術の基礎研究を行う非営利組織 Sematech(セマテック) 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"1966年にはスチュアート・バレンタイン・メダル、1978年にはIEEE栄誉賞を受賞した。また、1979年には、アメリカ国家科学賞およびファラデー・メダル、1990年には全米技術アカデミーのチャールズ・スターク・ドレイパー賞を受賞した。", "title": "受賞・栄誉" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "サンタクララにあるインテル本社ビルは、ロバート・ノイス・ビルと名付けられている。また、グリネル大学にも、ノイスの名を冠した建物がある。", "title": "受賞・栄誉" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "米国半導体工業会では毎年半導体業界において優れた業績とリーダーシップを持つ者に送られるRobert N. Noyce Awardに、またIEEEではインテルの後援で、マイクロエレクトロニクス業界への卓越した貢献者に対して贈られるIEEEロバート・ノイス・メダルに名を残す。", "title": "受賞・栄誉" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ノイスの名で成立した特許は以下の通りである。", "title": "特許" } ]
ロバート・ノートン・ノイスは、フェアチャイルドセミコンダクター(1957年創業)とインテル(1968年)の共同創業者の1人であり、the Mayor of Silicon Valley(シリコンバレーの主)とあだ名された人物。ジャック・キルビーと並んで集積回路を発明したことでも知られている。彼の事業の成功は、その後の世代の起業家(例えばAppleを起業したスティーブ・ジョブズなど)にとっては、師であり目標だった。
{{Infobox Engineer |氏名=Robert Noyce<br>ロバート・ノイス |各国語表記={{lang|en|Robert Noyce}} |画像=Robert Noyce with Motherboard 1959.png |画像のサイズ=280px |画像の説明=ロバート・ノイス(1959) |別名=シリコンバレーの主 |国籍={{USA}} |生年月日={{生年月日と年齢|1927|12|12|no}} |生誕地={{USA1912}}、[[アイオワ州]][[バーリントン (アイオワ州)|バーリントン]] |死没日={{死亡年月日と没年齢|1927|12|12|1990|6|3}} |死没地={{USA}}、[[テキサス州]][[オースティン (テキサス州)|オースティン]] |出身校=[[グリネル大学]]<br/>[[マサチューセッツ工科大学]] |職業=[[フェアチャイルドセミコンダクター]]と[[インテル]]の共同創業者 |配偶者=エリザベス・ボトムリー<br>アン・バウワース |両親=父:ラルフ・ブリュースター・ノイス<br>母:ハリエット・メイ・ノートン |子供=ウィリアム<br>ペンドレッド<br>プリスシラ<br>マーガレット |専門分野= |所属機関= |勤務先=[[マウンテンビュー]] |雇用者= |プロジェクト= |設計= |成果=[[集積回路]]の発明 |受賞歴=[[IEEE栄誉賞]](1978年)<br>[[アメリカ国家科学賞]](1979年)<br>[[アメリカ国家技術賞]](1987年)<br>[[チャールズ・スターク・ドレイパー賞]](1990年) |署名= |公式サイト= |補足= }} '''ロバート・ノートン・ノイス'''({{lang-en|Robert Norton Noyce}}, [[1927年]][[12月12日]] - [[1990年]][[6月3日]])は、[[フェアチャイルドセミコンダクター]](1957年創業)と[[インテル]](1968年)の共同創業者の1人であり、'''the Mayor of Silicon Valley'''(シリコンバレーの主)と[[あだ名]]された人物。[[ジャック・キルビー]]と並んで[[集積回路]]を[[発明]]したことでも知られている<ref name="Lécuyer,129">Lécuyer, Christophe. ''Making Silicon Valley: Innovation and the Growth of High Tech, 1930-1970'' Published by MIT Press, 2006.ISBN 0262122812, p. 129</ref>。彼の事業の成功は、その後の世代の[[起業家]](例えば[[Apple]]を起業した[[スティーブ・ジョブズ]]など)にとっては、師であり目標だった<ref name="Berlin,252">{{Harvnb|Berlin|2005|p=252}}</ref><ref name="Apple1">{{cite web | last = Vader | first = Darren | authorlink = | title = Biography: Steve Jobs | work = | publisher = The Apple Museum | year = 2009 | url = http://www.theapplemuseum.com/index.php?id=49 | accessdate = 2010-05-07}}</ref>。 == 家系 == 家系を遡ると、[[メイフラワー号]]で[[北アメリカ大陸|北米大陸]]に移住し[[ブリッジウォーター (マサチューセッツ州)|ブリッジウォーター]](現在の[[マサチューセッツ州]])という町を建設した[[:en:Love Brewster|ラヴ・ブリュースター]]、同じくメイフラワー号で入植し[[プリマス植民地]]の精神的支柱となった[[ウィリアム・ブリュースター]]、プリマス植民地の知事となり、[[プロビンスタウン (マサチューセッツ州)|プロビンスタウン港]]での[[メイフラワー誓約]]に2番目に署名した[[ウィリアム・ブラッドフォード (ピューリタン)|ウィリアム・ブラッドフォード]]といった人物がいる<ref name=Jones54>{{Harvnb|Jones|1908|p=54}}</ref><ref name=Jones86>{{Harvnb|Jones|1908|p=86}}</ref><ref name=Jones142>{{Harvnb|Jones|1908|p=142}}</ref>。 また、18世紀アメリカの詩人および作家として有名な[[:en:Martha Wadsworth Brewster|マーサ・ワーズワース・ブリュースター]]<ref name="Burt71">Burt, Daniel S. ''The chronology of American literature: America's literary achievements from the colonial era to modern times'' Houghton Mifflin Harcourt, 2004. ISBN 0618168214, p.71</ref>や、牧師で[[グリネル大学]]の創設者である[[:en:Reuben Gaylord|ルーベン・ゲイロード]]<ref name="Berlin,14">{{Harvnb|Berlin|2005|p=14}}</ref><ref name="Welles Gaylord,130">Gaylord, Mrs. Mary M. Welles. [https://books.google.co.jp/books?id=PvYEAAAAYAAJ&printsec=frontcover&dq=Life+and+labors+of+Rev.+Reuben+Gaylord&source=bl&ots=jiAnKaPNAn&sig=GN6jFJ0CqKHtFivtBTv0eIrV3hQ&hl=en&ei=VVDkS_anIp_WtAO2n-i6DQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false ''Life and Labors of Rev. Reuben Gaylord''] Omaha: Rees Printing Company, 1889., p. 130</ref>の子孫でもある。 == 生涯 == === 幼少期 === [[1927年]][[12月12日]]、[[アイオワ州]][[バーリントン (アイオワ州)|バーリントン]]で生まれる<ref name="Berlin,10">{{Harvnb|Berlin|2005|p=10}}</ref><ref name="Berlin,11">{{Harvnb|Berlin|2005|p=11}}</ref>。 [[会衆派教会]]の牧師だった父ラルフ・ブリュースター<ref name="Jones625">{{Harvnb|Jones|1908|p=625}}</ref><ref name="Jones626">{{Harvnb|Jones|1908|p=626}}</ref>の4人の息子の3番目として生まれた<ref name="Berlin,10">{{Harvnb|Berlin|2005|p=10}}</ref><ref name="Berlin,11">{{Harvnb|Berlin|2005|p=11}}</ref>。母ハリエット・メイ・ノートンも会衆派教会の牧師の娘であり、意志の強い聡明な女性と評されている<ref name="Wolfe1">{{cite web | last = Wolfe | first = Tom | authorlink = トム・ウルフ | title = The Tinkerings of Robert Noyce | work = | publisher = Esquire Magazine | year = December 1983 | url = http://www.stanford.edu/class/e140/e140a/content/noyce.html | accessdate = 2010-05-07 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090227111808/http://www.stanford.edu/class/e140/e140a/content/noyce.html | archivedate = 2009年2月27日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 ノイスの最も幼いころの記憶は、[[卓球]]で父に勝ち、それを母に知らせたところ「パパがあなたに勝たせてあげたのよ」と言われてがっかりしたことだという。5歳のころからロバートは何においても負けず嫌いだった。「そんなのゲームじゃない。やるんなら勝つためにやらなきゃ」とロバートは母にむかって拗ねたという<ref name="Berlin,12">{{Harvnb|Berlin|2005|p=12}}</ref>。 [[1940年]]夏、ロバートが12歳のとき、兄弟と共に子供が乗れる大きさの飛行機を作り、グリネル大学の馬小屋の屋根から飛ぶという遊びをした。その後も彼は[[ラジオ]]を一から作ったり、古い洗濯機のモーターを使ってソリの後ろに電動のプロペラをつけたりしている<ref name="Berlin,7">{{Harvnb|Berlin|2005|p=7}}</ref>。 === 学生時代 === アイオワ州[[グリネル (アイオワ州)|グリネル]]で育ったロバートは、地元の学校に通った。高校時代に数学と理科に才能を見せ、高校在学中にグリネル大学の新入生向け物理学コースを受講した。[[1945年]]に高校を卒業すると[[グリネル大学]]に入学。[[1949年]]、[[物理学]]と[[数学]]の学士号を取得して卒業。[[1953年]]、[[マサチューセッツ工科大学]]で物理学の博士号を取得。[[ベル研究所]]で開発されたばかりの[[トランジスタ]]に初めて触れたのは、グリネル大学でのことだった。 グリネル大学では [[グラント・ゲイル]]教授の物理学講座に参加し、物理学に魅了されていった。ゲイルは[[ベル研究所]]から初期のトランジスタを2個入手し、それを学生に見せた。ノイスはそれに目を奪われた。しかし同時にノイスは手に負えないいたずら好きという面もあった。屋外便所をひっくり返したり、届出もなく花火を打ち上げたりというのはまだいい方で、仲間と共に飲酒した上で宴会のために豚を盗むというのは全く別次元の問題だった。 ノイスと仲間はその所業を後になって後悔し、農場に行って豚の代金を支払おうとした。農夫は豚が盗まれていたことに気づいていなかったが、話を聞いて激怒した。農夫はグリネル大学の学長に連絡し、保安官も呼んでノイスらを刑事告発すると主張した。ノイスは停学となり、[[1948年]]には大学だけでなくグリネルの町から追放された<ref name="Wolfe1" /><ref name="Berlin,22">{{Harvnb|Berlin|2005|p=22}}</ref>。 ノイスは追放されている期間をニューヨークの生命保険会社の保険計理部の事務員として働いて過ごした<ref name="Berlin,24">{{Harvnb|Berlin|2005|p=24}}</ref>。その後グリネルに戻り、1949年4月にグリネル大学を何とか卒業した。 その後[[アメリカ空軍]]に入隊しようとしたが、[[色覚異常]]だったため戦闘機パイロットになれないことを知り、兵役そのものから逃れることにした<ref name="Berlin,24">{{Harvnb|Berlin|2005|p=24}}</ref>。大学の指導教官のグラント・ゲイルはMITの物理学の博士課程への進学を勧め、ノイスはそれに従った<ref name="Berlin,106">{{Harvnb|Berlin|2005|p=106}}</ref>。ノイスは頭の回転が速く、MIT時代の友人は彼を "Rapid Robert" と呼んでいた<ref name="Berlin,1">{{Harvnb|Berlin|2005|p=1}}</ref>。 === フェアチャイルドセミコンダクターとインテルの設立 === 1953年にマサチューセッツ工科大学を卒業すると、[[フィラデルフィア]]の Philco Corporation の研究開発部門に技術者として就職した。その後、[[ウイリアム・ショックレー]]にスカウトされ、[[1956年]]に[[マウンテンビュー]]の[[ショックレー半導体研究所]]に移った<ref name="Shurkin,170">{{Harvnb|Shurkin|2007|p=170}}</ref>。しかし、まもなくショックレーと意見が合わなくなり、1957年に[[ゴードン・ムーア]]ら若手研究者を伴って[[フェアチャイルドセミコンダクター]]を設立し独立<ref name="Shurkin,181">{{Harvnb|Shurkin|2007|p=181}}</ref>。この社名は、出資企業(親会社)のフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツに由来する。親会社の社長だった [[:en:Sherman Fairchild|シャーマン・フェアチャイルド]] によれば、ノイスの熱を帯びたプレゼンテーションが出資を決めた理由だったという<ref name="Shurkin,181">{{Harvnb|Shurkin|2007|p=181}}</ref>。 フェアチャイルドでは半導体[[集積回路]]の[[研究開発]]と普及につとめたが、後に親会社との意見衝突や経営悪化をおこし、[[1968年]]に再びムーアとともにフェアチャイルドを飛びだし、[[アンドルー・グローヴ]]と共に[[インテル]]を設立した<ref name="Berlin,1">{{Harvnb|Berlin|2005|p=1}}</ref><ref name="Shurkin,184">{{Harvnb|Shurkin|2007|p=184}}</ref>。インテルの主要出資者で会長も務めた[[アーサー・ロック]] は、インテルの成功にはノイスとムーアとグローヴの3人がこの順番で必須だったと述べている。ノイスは発想豊かな夢想家であり、ムーアは技術面の大家であり、グローヴは技術畑出身の経営科学者だったという<ref name="Tedlow,405">Tedlow, Richard S. ''Giants of enterprise: seven business innovators and the empires they built'' Publisher Harper Collins, 2003 ISBN 0066620368, p. 405</ref>。ノイスがインテルで培った企業文化は、フェアチャイルド時代と同じくゆったりしたものだった。従業員を家族のように遇し、チームワークを重視した。この経営スタイルはその後の[[シリコンバレー]]で成功した各企業にも受け継がれている。彼は高級な社用車や専用駐車スペースや自家用ジェット機や専用オフィスを避け、階層化されていないゆったりした職場環境を好んだ。従業員はみな事業に貢献しているという考え方から、特定の誰かに臨時収入を与えるということもなかった。このような特権を放棄した経営スタイルはインテルのその後のCEOに受け継がれている。インテルでは[[マーシャン・ホフ|テッド・ホフ]]らの[[マイクロプロセッサ]]の発明を監督し、それが彼の2度目の技術的革命となった<ref>{{cite web | last = Garten | first = Jeffrey E. | authorlink = | coauthors = | title = Andy Grove Made The Elephant Dance | work = | publisher = Business Week | date = April 11, 2005 | url = http://www.businessweek.com/magazine/content/05_15/b3928036_mz007.htm | doi = | accessdate = 2010-05-07 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100529040842/http://www.businessweek.com/magazine/content/05_15/b3928036_mz007.htm | archivedate = 2010年5月29日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>{{efn2|グローヴはノイスを「ナイスガイ」だが無能だと考えていた。グローヴはノイスが本質的に競争を嫌っていたと見ている。このスタイルの違いから、ノイスとグローヴの間には若干の不和があったとも言われている。}}。 === 私生活と死 === 1953年、エリザベス・ボトムリー<ref>{{cite news| url= http://www.nytimes.com/1996/09/20/us/elizabeth-b-noyce-65-benefactor-of-maine-with-vast-settlement-from-her-divorce.html | work=The New York Times | title=Elizabeth B. Noyce, 65, Benefactor of Maine With Vast Settlement From Her Divorce | date=September 20, 1996 | accessdate=April 10, 2010}}</ref>と結婚し、1974年に離婚した。2人は4人の子をもうけた。その後1974年、ノイスはアン・バウワースと再婚。アンはインテルの初代人事部長だった女性で、後に[[Apple]]で人事担当副社長を務めた。 ノイスは[[アーネスト・ヘミングウェイ|ヘミングウェイ]]を愛読し、飛行機操縦、ハンググライダー、スキューバダイビングを趣味としていた。 [[1990年]][[6月3日]]、テキサス州[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]の病院で[[心不全]]で死去<ref>{{cite news| url= http://www.nytimes.com/1990/06/04/obituaries/an-inventor-of-the-microchip-robert-n-noyce-dies-at-62.html?sec=&spon=&pagewanted=all | work=The New York Times | title=An Inventor of the Microchip, Robert N. Noyce, Dies at 62 | first=Constance L. | last=Hays | date=June 4, 1990 | accessdate=April 10, 2010}}</ref>。そのころノイスは半導体製造技術の基礎研究を行う非営利組織 [[SEMATECH|Sematech(セマテック)]] を運営していた。アメリカ政府と14の企業の提携によって創設された組織であり、日本の半導体製造技術に追いつくことを意図した組織である。 彼は[[マイクロエレクトロニクス]]がどんどん複雑化し洗練されていくと信じ、そのテクノロジーをどう利用するかが社会問題になるだろうと考えていた。生前最後のインタビューでノイスは、アメリカ合衆国の「皇帝」だったら何をするかと訊かれた。彼は色々答える中で、「次の世代がハイテク社会で繁栄することを確実にしたい。そのためには最も貧しい階級の者にも高度な教育を受けさせる必要がある」と述べている。ノイス財団<ref>[http://www.noycefdn.org/ Noyce Foundation]</ref>は、数学と理科の教育の改善を目的としてノイスの遺族らが設立した。現在、妻のアンはノイス財団の会長を務めている。 == 受賞・栄誉 == 1959年7月、 {{US Patent|2981877}} "Semiconductor Device and Lead Structure" という[[集積回路]]に関する特許を出願した。なお、その数カ月前に[[ジャック・キルビー]]が出願した特許は「同様」「同等」とは言い難いものだが(そもそも本当に同様あるいは同等なら、どちらか片方は却下されていなければならない)、この2人が集積回路の発明者とされ、3人のアメリカ合衆国大統領に表彰されている。1966年[[IEEE]]フェロー。 ノイスは様々な賞や栄誉を受けている。1983年に[[全米発明家殿堂]]に選出され、1987年には[[ロナルド・レーガン]]大統領から[[アメリカ国家技術賞]]を授与された。その2年後、[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]大統領によりビジネス殿堂(Business Hall of Fame)に入るという栄誉を与えられた。特許法施行200周年の記念式典には、ジャック・キルビーやトランジスタの発明者[[ジョン・バーディーン]]らと共に招待され、生涯貢献賞を授与された。 1966年には[[スチュアート・バレンタイン・メダル]]、1978年には[[IEEE栄誉賞]]を受賞した。また、1979年には、[[アメリカ国家科学賞]]および[[ファラデー・メダル (英国工学技術学会)|ファラデー・メダル]]、1990年には[[全米技術アカデミー]]の[[チャールズ・スターク・ドレイパー賞]]を受賞した。 [[サンタクララ (カリフォルニア州)|サンタクララ]]にあるインテル本社ビルは、ロバート・ノイス・ビルと名付けられている。また、グリネル大学にも、ノイスの名を冠した建物がある。 [[:en:Semiconductor Industry Association|米国半導体工業会]]では毎年半導体業界において優れた業績とリーダーシップを持つ者に送られるRobert N. Noyce Award<ref>{{Cite web|title=Awards|url=https://www.semiconductors.org/news-events/awards/|website=Semiconductor Industry Association|accessdate=2021-08-13|language=en-US|last=dcadmin}}</ref>に、またIEEEではインテルの後援で、マイクロエレクトロニクス業界への卓越した貢献者に対して贈られる[[IEEEロバート・ノイス・メダル]]<ref>{{Cite web|title=Corporate Awards|url=https://corporate-awards.ieee.org/corporate-awards/|website=IEEE Awards|accessdate=2021-08-13|language=en-US}}</ref>に名を残す。 == 特許 == ノイスの名で成立した特許は以下の通りである。 * {{US patent|2875141}} ''Method and apparatus for forming semiconductor structures'', 1954年8月出願、1959年2月発効。譲渡人は Philco Corporation * {{US patent|2929753}} ''Transistor structure and method'', 1957年出願、1960年3月発効。譲渡人は Beckmann Instruments(ショックレー研究所の親会社) * [https://www.google.com/patents/about?id=qntwAAAAEBAJ&dq= アメリカ合衆国特許第2,968,750号] ''Transistor structure and method of making the same'', 1957年出願、1961年1月発効。譲渡人は Clevite Corporation(ショックレー研究所の売却先) * {{US patent|3140206}} ''Method of making a transistor structure'' (ショックレーと共同), 1957年4月出願、1964年7月発効。譲渡人は Clevite Corporation * {{US patent|3010033}} ''[[電界効果トランジスタ|Field effect transistor]]'', 1958年1月出願、1961年11月発効。譲渡人は Clevite Corporation * {{US patent|3098160}} ''Field controlled avalanche semiconductive device'', 1958年2月出願、1963年7月発効。譲渡人は Clevite Corporation * {{US patent|3111590}} ''Transistor structure controlled by an avalanche barrier'', 1958年7月出願、1963年11月発効。譲渡人は Clevite Corporation * {{US patent|3108359}} ''Method for fabricating transistors'', 1959年7月出願、1963年10月発効。譲渡人はフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツ * {{US patent|3150299}} ''Semiconductor circuit complex having isolation means'', 1959年9月出願、1964年発効。譲渡人はフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツ * {{US patent|2959681}} ''Semiconductor scanning device'', 1959年6月出願、1959年11月発効。譲渡人はフェアチャイルドセミコンダクター * {{US patent|2971139}} ''Semiconductor switching device'', 1959年6月出願、1961年2月発効。譲渡人はフェアチャイルドセミコンダクター * {{US patent|2981877}} ''Semiconductor Device and Lead Structure'', 1959年7月出願、1961年4月発効。譲渡人はフェアチャイルドセミコンダクター * {{US patent|3325787}} ''Trainable system'', 1964年10月出願、1967年7月発効。譲渡人はフェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツ == 注釈 == {{notelist2}} == 出典 == {{reflist|3}} == 参考文献 == * {{Citation|last= Berlin |first= Leslie |title= The man behind the microchip: Robert Noyce and the invention of Silicon Valley |publisher= Oxford University Press |place= US |year=2005 |isbn= 0195163435}} * {{Citation |last= Jones |first= Emma C. Brewster |title= The Brewster Genealogy, 1566-1907: a Record of the Descendants of William Brewster of the "Mayflower," ruling elder of the Pilgrim church which founded Plymouth Colony in 1620 |place=New York |publisher= Grafton Press |year= 1908 |url= http://www.williambrewster.com/brewstergenealogy.htm }} * {{Citation |last= Shurkin |first= Joel N. |title= Broken Genius: The Rise and Fall of William Shockley, Creator of the Electronic Age |publisher= Palgrave Macmillan |year= 2007 |isbn= 0230551920}} == 関連文献 == * [[トム・ウルフ|Wolfe, Tom]] [https://books.google.co.jp/books?id=_O-7s31ficcC&dq=hooking+up+and+tom+wolfe&printsec=frontcover&source=bn&hl=en&ei=vIDkS6XvAZSwswPDuP3cBQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false ''Hooking Up''] New York. Publisher: Macmillan, 2001. == 外部リンク == * [http://www.pbs.org/transistor/album1/addlbios/noyce.html Noyce biography] PBS.org * [http://www.ideafinder.com/history/inventors/noyce.htm Noyce biography] IdeaFinder.com * [http://content.cdlib.org/view?docId=kt3m3nc61v&&chunk.id=did-1.3.1&brand=oac Guide to the Robert Noyce Papers at Stanford University] * [http://berkeley.edu/news/media/releases/2004/11/08_noyce.shtml ロバート・ノイスの兄弟 Donald Noyce の死亡記事] * [https://web.archive.org/web/20090818155859/http://www.yale.edu/divinity/news/090813_news_noyce.shtml ロバート・ノイスの兄弟 Gaylord Brewster Noyce の死亡記事] - 1961年の7人の [[:en:Freedom Rides|Freedom Riders]] の1人でもある。 * [https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/semicon/1496846.html 福田昭:「【インテル・トリニティの生涯】ロバート・ノイス:ノーベル賞を「2度も」獲り損なった男」(PC Watch2023年4月27日)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:のいす ろはあと}} [[Category:アメリカ合衆国の実業家]] [[Category:アメリカ合衆国の発明家]] [[Category:アメリカ合衆国の電気工学者]] [[Category:チャールズ・スターク・ドレイパー賞受賞者]] [[Category:IEEE栄誉賞受賞者]] [[Category:アメリカ国家科学賞受賞者]] [[Category:アメリカ国家技術賞受賞者]] [[Category:IEEEフェロー]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:米国科学アカデミー会員]] [[Category:全米技術アカデミー会員]] [[Category:全米発明家殿堂]] [[Category:インテルの人物]] [[Category:ショックレー半導体研究所の人物]] [[Category:イングランド系アメリカ人]] [[Category:アイオワ州バーリントン出身の人物]] [[Category:1927年生]] [[Category:1990年没]]
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第17族元素
第17族元素(だいじゅうななぞくげんそ、仏: halogèneアロジェーヌ、英: halogen ハロジェン)は周期表において第17族に属する元素の総称。フッ素・塩素・臭素・ヨウ素・アスタチン・テネシンがこれに分類される。ただしアスタチンは半減期の長いものでも数時間であるため、その化学的性質はヨウ素よりやや陽性が高いことがわかっている程度である。またテネシンは2009年にはじめて合成されており、証明されていることがさらに少ない。 フッ素、塩素、臭素、ヨウ素は性質がよく似ており、アルカリ金属あるいはアルカリ土類金属と典型的な塩を形成するので、これら元素からなる元素族を古代ギリシア語の「塩」ἅλς háls と、「作る」γεννάω gennáō を合わせ「塩を作るもの」という意味の「halogen ハロゲン」と、18世紀フランスで命名された。これらの任意の元素を表すために化学式中ではしばしば X と表記される。任意のハロゲン単体を X2 と表す。 周期表の一番右側にある貴ガスの左隣の列に位置する。価電子は最外殻のs軌道およびp軌道にある電子である(s軌道は2電子が占有し、p軌道は5個の電子が占有しており一価の陰イオンになる)。 第17族元素は、原子番号が若いものは非常に反応性に富む。特にフッ素は第一イオン化エネルギーが大きい上、F−F 間の結合距離が短く、それぞれの原子の非共有電子対同士が反発することによって結合エネルギーが小さくなっているために著しく反応性が高く、酸化剤としては最も強い部類のものである。 塩素は水圏に大量に存在する(クラーク数)が、地殻中の存在比ではフッ素>塩素>臭素>ヨウ素である。放射性物質であるアスタチンは、既知の最も長い半減期を持つ質量数210の同位体でも8.3時間しかないため、自然環境中にはほとんど存在せず、質量数218の同位体などがウランUの壊変生成物として定常的に極低濃度、存在するが確認は困難である。一般的に分子量の大きなものほどファンデルワールス力が増大し、常温、常圧でフッ素は薄黄色の気体、塩素は淡黄緑色の気体、臭素は赤褐色の液体、ヨウ素は黒紫色の固体、アスタチンは固体で、ヨウ素、アスタチンの固体は金属光沢を持つ。 第17族元素の水素化物はハロゲン化水素と呼ばれる。水素とは1対1で結合する化合物しか知られておらず、ハロゲン化水素一般を表す略号として HX と書き表されることが多い。 フッ化水素酸以外のハロゲン化水素は水中では完全電離するものの、その分子自体はそれほど強い極性物質ではない。そして塩化水素、臭化水素、ヨウ化水素の水溶液は完全電離して強酸性を示し、酸の強度は HCl < HBr < HI の順である。 それに対して、液化フッ化水素は水に相当する誘電率と相対的に高い沸点を持ち、水素結合を形成する極性物質である点で特徴的である。また、希薄溶液であってもフッ化水素は水中で完全電離しない。これはイオン半径の小さなものほど水素イオンとの間の静電気力が強くなり、結合が強くなるためである。 フッ素以外のハロゲン元素については酸化数として I, III, (IV,) V, VII のいずれかをとり、種々の酸化物とオキソ酸を形成する。しかし、フッ素は酸化数として -I しか取りえず、他のハロゲン元素とは化学的性質が異なる面を持つ。フッ素と酸素の化合物はフッ素酸化物と呼ぶよりは酸素のフッ化物と呼ぶのが適当な性質を有し、いわゆるオキソ酸の構造をもつ物質は HOF (次亜フッ素酸)以外形成しない。 ハロゲン元素の酸化物を次に示す。 また、ハロゲン元素のオキソ酸を次に示す。 ハロゲンの酸化数を増すに従いハロゲン元素のオキソ酸は次の傾向を示す。 名称が似るが、過ハロゲン酸は過酸ではなく通常の最高酸化状態のオキソ酸である。 また、異なるハロゲン元素が結合した化合物を形成し、それらはハロゲン間化合物と呼ばれる。 代表的なものに、以下のものが知られている。 また、複数のハロゲン元素が結合してイオンとなったものをポリハロゲン化物イオン(陰イオンの場合)、ポリハロゲニウムイオン(陽イオンの場合)と呼ぶ。ハロゲンアニオンはハロゲン単体と結合して ICl2, BrF4, I3, I5, I7 などを生成することが知られている。またハロゲン間化合物の溶融物は電気伝導性を示すものがあり、それらは自己イオン化によりポリハロゲニウムイオンが生成している。 なお、ハロゲン間化合物は消防法第2条第7項及び別表第一第6類4号、危険物の規制に関する政令第1条により危険物第6類に指定されている。 有機ハロゲン化物とは、狭義ではハロゲン化アルキル、ハロゲン化アリールなど、炭化水素の水素がハロゲン原子で置き換わった化合物を指す。広義ではハロゲンを含む有機化合物を意味し、ハロゲン化アシルやハロゲン酸を含む。 有機ハロゲン化物に含まれる炭素-ハロゲン結合はハロゲンの高い電気陰性度のために分極している。そのため、炭素原子を陰イオンなど求核剤が攻撃しやすい。しかしながら、ハロゲン化アリールなど sp炭素にハロゲンが結びついた基質においては、立体的な要因によりこのような反応が起こりにくい。詳細は 求核置換反応、芳香族求核置換反応 を参照。 鉱物学において、金属元素とハロゲン元素とが結合している鉱物をハロゲン化鉱物(ハロゲンかこうぶつ、英: halide mineral)という。岩塩 (NaCl)、蛍石 (CaF2) などがある。
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第17族元素(だいじゅうななぞくげんそ、仏: halogèneアロジェーヌ、英: halogen ハロジェン)は周期表において第17族に属する元素の総称。フッ素・塩素・臭素・ヨウ素・アスタチン・テネシンがこれに分類される。ただしアスタチンは半減期の長いものでも数時間であるため、その化学的性質はヨウ素よりやや陽性が高いことがわかっている程度である。またテネシンは2009年にはじめて合成されており、証明されていることがさらに少ない。 フッ素、塩素、臭素、ヨウ素は性質がよく似ており、アルカリ金属あるいはアルカリ土類金属と典型的な塩を形成するので、これら元素からなる元素族を古代ギリシア語の「塩」ἅλς háls と、「作る」γεννάω gennáō を合わせ「塩を作るもの」という意味の「halogen ハロゲン」と、18世紀フランスで命名された。これらの任意の元素を表すために化学式中ではしばしば X と表記される。任意のハロゲン単体を X2 と表す。
{{脚注の不足|date=2022年12月}} {| class="infobox" style="background-color: white; text-align: center" |- | [[元素の族|'''族''']] || [[第16族元素|←]] '''17''' [[第18族元素|→]] |- | style="width:40%" | [[元素の周期|'''周期''']] | |- | [[第2周期元素|'''2''']] | style="background-color: #ff9" | {{small|9}} <br />[[フッ素|F]] |- | [[第3周期元素|'''3''']] | style="background-color: #ff9" | {{small|17}} <br />[[塩素|Cl]] |- | [[第4周期元素|'''4''']] | style="background-color: #ff9" | {{small|35}} <br />[[臭素|Br]] |- | [[第5周期元素|'''5''']] | style="background-color: #ff9" | {{small|53}} <br />[[ヨウ素|I]] |- | [[第6周期元素|'''6''']] | style="background-color: #ff9" | {{small|{{color|red|85}}}} <br />[[アスタチン|At]] |- | [[第7周期元素|'''7''']] | style="background-color: #ff9" | {{small|{{color|red|117}}}} <br />[[テネシン|Ts]] |} '''第17族元素'''(だいじゅうななぞくげんそ、{{lang-fr-short|halogène}}アロジェーヌ、{{lang-en-short|halogen}} '''ハロジェン''')は[[周期表]]において第17族に属する[[元素]]の総称。[[フッ素]]・[[塩素]]・[[臭素]]・[[ヨウ素]]・[[アスタチン]]・[[テネシン]]がこれに分類される。ただしアスタチンは半減期の長いものでも数時間であるため、その化学的性質はヨウ素よりやや陽性が高いことがわかっている程度である。またテネシンは2009年にはじめて合成されており、証明されていることがさらに少ない。 フッ素、塩素、臭素、ヨウ素は性質がよく似ており、[[アルカリ金属]]あるいは[[アルカリ土類金属]]と典型的な[[酸と塩基#酸塩基反応|塩]]を形成するので、これら元素からなる元素族を[[古代ギリシア語]]の「塩」{{lang|grc|ἅλς}} ''háls'' と、「作る」{{lang|grc|γεννάω}} ''gennáō'' を合わせ「塩を作るもの」という意味の「'''halogen ハロゲン'''」と、[[18世紀]][[フランス]]で命名された。これらの任意の元素を表すために[[化学式]]中ではしばしば '''X''' と表記される。任意のハロゲン単体を '''X<sub>2</sub>''' と表す。 == 性質 == [[ファイル:Halogene.jpg|thumb|300px|ハロゲン元素単体 X<sub>2</sub> のサンプル]] [[周期表]]の一番右側にある[[第18族元素|貴ガス]]の左隣の列に位置する。[[価電子]]は[[最外殻]]の[[s軌道]]および[[p軌道]]にある[[電子]]である(s軌道は2電子が占有し、p軌道は5個の電子が占有しており一価の[[陰イオン]]になる)。 {{clear}} {| class="wikitable" style="text-align:right" ! &nbsp; !! [[フッ素]]<br /><sub>9</sub>F !! [[塩素]]<br /><sub>17</sub>Cl !! [[臭素]]<br /><sub>35</sub>Br !! [[ヨウ素]]<br /><sub>53</sub>I !! [[アスタチン]]<br /><sub>85</sub>At |- |[[電子配置]] || <chem>[He]{}2s^2{}2p^5</chem> || <chem>[Ne]{}3s^2{}3p^5</chem> || <chem>[Ar]{}3d^{10}{}4s^2{}4p^5</chem> || <chem>[Kr]{}4d^{10}{}5s^2{}5p^5</chem> || <chem>[Xe]{}4f^{14}{}5d^{10}{}6s^2{}6p^5</chem> |- |第1イオン化エネルギー<br />(kJ·mol<sup>-1</sup>)||1,681||1,251||1,140||1,008||930 |- |電子付加エンタルピー<br />(kJ·mol<sup>-1</sup>)||−328||−349||−325||−295||−270 |- |電子親和力<br />(kJ·mol<sup>-1</sup>)||340||365||342||303||298 |- |電気陰性度<br />(Allred-Rochow)||4.1||2.83||2.74||2.21|| - |- |イオン半径<br />(X<sup>-</sup>, [[ピコメートル|pm]])||133||181||195||216||(〜230) |- |共有結合半径<br />(r(X<sup>2</sup>)/2, pm)||72||99||114||133||(〜140) |- |van der Waals<br />半径 (pm)||147||175||185||198|| - |- |融点 (X<sub>2</sub>, [[ケルビン|K]])||40||172.16||265.90||386.75||(575) |- |沸点 (X<sub>2</sub>, K)||85||239.10||332||458||(610) |- |解離エネルギー<br />(X<sub>2</sub>, kJ·mol<sup>-1</sup>)||155||243||193||151||(〜116) |- |水和エネルギー<br />(X<sup>-</sup>, kJ·mol<sup>-1</sup>)||485||350||320||280||(〜277) |- |還元電位<sup>†</sup> ''E''<sup>0</sup> (V)||2.89||1.40||1.10||0.62||(〜0.3) |} *( ) 内は推定値 *<chem>(^) X2 (aq) + 2 e^- -> 2 X^- (aq)</chem> 第17族元素は、[[原子番号]]が若いものは非常に反応性に富む。特にフッ素は第一イオン化エネルギーが大きい上、F−F 間の結合距離が短く、それぞれの原子の非共有電子対同士が反発することによって結合エネルギーが小さくなっているために著しく反応性が高く、[[酸化剤]]としては最も強い部類のものである。 塩素は水圏に大量に存在する([[クラーク数]])が、[[地殻]]中の存在比ではフッ素&gt;塩素&gt;臭素&gt;ヨウ素である。[[放射性物質]]であるアスタチンは、既知の最も長い[[半減期]]を持つ[[質量数]]210の[[同位体]]でも8.3時間しかないため、自然環境中にはほとんど存在せず、質量数218の同位体などが[[ウラン]]<sup>238</sup>Uの壊変生成物として定常的に極低濃度、存在するが確認は困難である。一般的に分子量の大きなものほど[[ファンデルワールス力]]が増大し、常温、常圧でフッ素は薄黄色の[[気体]]、塩素は淡黄緑色の気体、臭素は赤褐色の[[液体]]、ヨウ素は黒紫色の[[固体]]、アスタチンは固体で、ヨウ素、アスタチンの固体は金属光沢を持つ。 == 水素化物 == {| class="wikitable floatright" style="text-align:right" |+ ハロゲン化水素の特性一覧表 ! &nbsp; !! [[フッ化水素]]<br>HF !! [[塩化水素]]<br>HCl !! [[臭化水素]]<br>HBr !! [[ヨウ化水素]]<br>HI!! [[アスタチン化水素]]<br>HAt |- ! 融点 (℃) |−83.5||−114.2||−88.6||−51.0|| |- ! 沸点 (℃) |19.5||−85.1||−67.1||−35.1|| |- ! [[誘電率]](液相) |83.6<br>(0 ℃)||9.3<br>(−95 ℃)||7.0<br>(−85 ℃)||3.4<br>(-50 ℃)|| |- ! H−X [[結合解離エネルギー]]<br>(kJ·mol<sup>−1</sup>) |567||431||366||298|| |- ! |H−X 結合距離<br>(pm) |92||127||141||161||172 |- style="text-align:center" ! 水溶液 |フッ化水素酸<br>弱酸<br>({{pKa}} = 3.14)||塩酸<br>強酸||臭化水素酸<br>強酸||ヨウ化水素酸<br>強酸|| |} 第17族元素の水素化物は'''ハロゲン化水素'''と呼ばれる。[[水素]]とは1対1で結合する化合物しか知られておらず、ハロゲン化水素一般を表す略号として '''HX''' と書き表されることが多い。 フッ化水素酸以外のハロゲン化水素は水中では完全[[電離]]するものの、その分子自体はそれほど強い極性物質ではない。そして塩化水素、臭化水素、ヨウ化水素の水溶液は完全電離して強酸性を示し、酸の強度は HCl &lt; HBr &lt; HI の順である。 それに対して、液化フッ化水素は水に相当する誘電率と相対的に高い沸点を持ち、[[水素結合]]を形成する極性物質である点で特徴的である。また、希薄溶液であってもフッ化水素は水中で完全電離しない。これは[[イオン半径]]の小さなものほど[[水素イオン]]との間の[[静電気力]]が強くなり、結合が強くなるためである。 == 酸化物・オキソ酸 == フッ素以外のハロゲン元素については[[酸化数]]として I, III, (IV,) V, VII のいずれかをとり、種々の酸化物と[[オキソ酸]]を形成する。しかし、フッ素は酸化数として -I しか取りえず、他のハロゲン元素とは化学的性質が異なる面を持つ。フッ素と酸素の化合物はフッ素酸化物と呼ぶよりは酸素のフッ化物と呼ぶのが適当な性質を有し、いわゆるオキソ酸の構造をもつ物質は HOF ([[次亜フッ素酸]])以外形成しない。 ハロゲン元素の酸化物を次に示す。 {| class="wikitable" !ハロゲン元素の酸化数!![[フッ素]]!![[塩素]]!![[臭素]]!![[ヨウ素]] |- | -I || [[二フッ化酸素]]<br />'''OF<sub>2</sub>'''<br />[[二フッ化二酸素]]<br />'''O<sub>2</sub>F<sub>2</sub>'''<br />[[二フッ化三酸素]]<br />'''O<sub>3</sub>F<sub>2</sub>'''||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp; |- | +I ||&nbsp;||[[一酸化二塩素]]<br />(亜酸化塩素)<br />'''Cl<sub>2</sub>O'''||[[一酸化二臭素]]<br />(亜酸化臭素)<br />'''Br<sub>2</sub>O'''||一酸化二ヨウ素<br />'''I<sub>2</sub>O'''<br />(単離できない) |- | +III ||&nbsp;||三酸化二塩素<br />'''Cl<sub>2</sub>O<sub>3</sub>'''||三酸化二臭素<br />'''Br<sub>2</sub>O<sub>3</sub>'''||三酸化二ヨウ素<br />'''I<sub>2</sub>O<sub>3</sub>'''<br />(単離できない) |- | +IV ||&nbsp;||[[二酸化塩素]]<br />'''ClO<sub>2</sub>'''||二酸化臭素<br />'''BrO<sub>2</sub>'''||&nbsp; |- | +Iと+VII ||&nbsp;||四酸化二塩素<br />'''Cl−O−ClO<sub>3</sub>'''||&nbsp; ||四酸化二ヨウ素<br />'''I−O−IO<sub>3</sub>''' |- | +V ||&nbsp;||[[五酸化二塩素]]<br />'''O<sub>2</sub>Cl−O−ClO<sub>2</sub>'''||&nbsp;||五酸化二ヨウ素<br />'''O<sub>2</sub>I−O−IO<sub>2</sub>''' |- | +Vと+VII ||&nbsp;||六酸化二塩素<br />'''Cl<sub>2</sub>O<sub>6</sub>'''||&nbsp;||&nbsp; |- | +VII ||&nbsp;||[[七酸化二塩素]]<br />'''Cl<sub>2</sub>O<sub>7</sub>'''||&nbsp; ||&nbsp; |- | その他 ||&nbsp;||&nbsp;||八酸化三臭素<br />'''Br<sub>3</sub>O<sub>8</sub>'''||九酸化四ヨウ素<br />'''I<sub>4</sub>O<sub>9</sub>''' |} また、[[ハロゲン元素]]のオキソ酸を次に示す。 {| class="wikitable" !オキソ酸(酸化数)!![[フッ素]]!![[塩素]]!![[臭素]]!![[ヨウ素]] |- |(-I)||[[次亜フッ素酸]]<br />'''HO-F'''<br />(不安定)||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp; |- |'''次亜ハロゲン酸'''<br />HO-X(+I)|| ||[[次亜塩素酸]]<br />'''HO-CI'''<br />(水溶液、気体として存在)||[[次亜臭素酸]]<br />'''HO-Br'''<br />(単離できず)||[[次亜ヨウ素酸]]<br />'''HO-I'''<br />(単離できず) |- |'''亜ハロゲン酸'''<br />HO−X=O (+III)||&nbsp;||[[亜塩素酸]]<br />'''HO−Cl=O'''<br />(単離できず)||[[亜臭素酸]]<br />'''HO-Br=O'''<br />(単離できず)||[[亜ヨウ素酸]]<br />'''HO−I=O'''<br />(未確認) |- |'''ハロゲン酸'''<br />HO−X(=O)<sub>2</sub> (+V)||&nbsp;||[[塩素酸]]<br />'''HO−Cl(=O)<sub>2</sub>'''<br />(単離できず)||[[臭素酸]]'''HO−Br(=O)<sub>2</sub>'''<br />(単離できず)||[[ヨウ素酸]]<br />'''HOI(=O)<sub>2</sub>''' |- |'''過ハロゲン酸'''<br />HO−X(=O)<sub>3</sub> (+VII)||&nbsp;||[[過塩素酸]]'''<br />HO−Cl(=O)<sub>3</sub>'''||[[過臭素酸]]<br />'''HO-Br(=O)<sub>3</sub>'''<br />(無水物は単離できず)||(メタ)[[過ヨウ素酸]]'''<br />HO−I(=O)<sub>3</sub>'''<br />パラ過ヨウ素酸<br />'''O=I(OH)<sub>5</sub>''' |} ハロゲンの酸化数を増すに従いハロゲン元素のオキソ酸は次の傾向を示す。 # 熱不安定性が減少する # 速度論的な酸化作用が減少する # 酸の強さが増大する 名称が似るが、過ハロゲン酸は[[過酸]]ではなく通常の最高酸化状態の[[オキソ酸]]である。 == ハロゲン間化合物 == また、異なるハロゲン元素が結合した化合物を形成し、それらは'''ハロゲン間化合物'''と呼ばれる。 代表的なものに、以下のものが知られている。 * [[フッ化塩素]] ClF * [[三フッ化塩素]] ClF<sub>3</sub> * [[五フッ化塩素]] ClF<sub>5</sub> * [[三フッ化臭素]] BrF<sub>3</sub> * [[五フッ化臭素]] BrF<sub>5</sub> * [[一塩化臭素]] BrCl * [[五フッ化ヨウ素]] IF<sub>5</sub> * [[七フッ化ヨウ素]] IF<sub>7</sub> * [[一塩化アスタチン]] AtCl * [[一臭化アスタチン]] AtBr * [[一ヨウ化アスタチン]] AtI また、複数のハロゲン元素が結合して[[イオン]]となったものを'''ポリハロゲン化物イオン'''(陰イオンの場合)、'''ポリハロゲニウムイオン'''(陽イオンの場合)と呼ぶ。ハロゲンアニオンはハロゲン単体と結合して ICl<sub>2</sub><sup>−</sup>, BrF<sub>4</sub><sup>−</sup>, I<sub>3</sub><sup>−</sup>, I<sub>5</sub><sup>−</sup>, I<sub>7</sub><sup>−</sup> などを生成することが知られている。また'''ハロゲン間化合物'''の溶融物は電気伝導性を示すものがあり、それらは自己イオン化により'''ポリハロゲニウムイオン'''が生成している。 : <chem>3IX <=> (I-X-I)^+ + IX2^- (X = Cl, B)</chem> なお、ハロゲン間化合物は[[消防法]]第2条第7項及び別表第一第6類4号、[[危険物の規制に関する政令]]第1条により[[危険物第6類]]に指定されている。 == 有機ハロゲン化物 == [[有機ハロゲン化合物|有機ハロゲン化物]]とは、狭義では[[ハロゲン化アルキル]]、[[ハロゲン化アリール]]など、炭化水素の水素がハロゲン原子で置き換わった化合物を指す。広義ではハロゲンを含む有機化合物を意味し、ハロゲン化アシルやハロゲン酸を含む。 有機ハロゲン化物に含まれる炭素-ハロゲン結合はハロゲンの高い電気陰性度のために分極している。そのため、炭素原子を陰イオンなど[[求核剤]]が攻撃しやすい。しかしながら、ハロゲン化アリールなど sp<sup>2</sup>炭素にハロゲンが結びついた基質においては、立体的な要因によりこのような反応が起こりにくい。詳細は [[求核置換反応]]、[[芳香族求核置換反応]] を参照。 == ハロゲン化鉱物 == {{See also|鉱物の一覧#ハロゲン化鉱物}} [[鉱物学]]において、金属元素とハロゲン元素とが結合している[[鉱物]]を'''ハロゲン化鉱物'''(ハロゲンかこうぶつ、{{Lang-en-short|[[:en:halide mineral|halide mineral]]}})という。[[岩塩]] (NaCl)、[[蛍石]] (CaF<sub>2</sub>) などがある。 {{Strunz}} <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} --> == 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} --> * {{Cite book|和書 |author = [[青木正博]] |title = 鉱物分類図鑑 : 見分けるポイントがわかる |year = 2011 |publisher = [[誠文堂新光社]] |isbn = 978-4-416-21104-5 |page = 84-87 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Halogens}} * [[元素の族]] * [[物性物理]] * [[鉱物]]、[[鉱物の一覧]] {{元素周期表}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たい17そくけんそ}} [[Category:ハロゲン|*]] [[Category:周期表の族|#17]]
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ナトリウム
ナトリウム(独: Natrium [ˈnaːtriʊm]、羅: Natrium)は、原子番号11の元素、およびその単体金属のことである。ソジウム(ソディウム、英: sodium [ˈsoʊdiəm])、ソーダ(曹達)ともいう。元素記号Na。原子量22.99。アルカリ金属元素、典型元素のひとつ。 ナトリウムという名称は、天然炭酸ソーダを意味するギリシャ語の νίτρον、あるいはラテン語の natron(ナトロン)に由来するといわれている。 ドイツ語では Natrium、英語では sodium と呼ばれる。いずれも近代にラテン語として造語された単語である(現代ラテン語では natrium が使われる)。日本ではドイツ語から輸入され、ナトリウムという名称が定着した。元素記号はドイツ語からNaになった一方、IUPAC名は英語から sodium とされている。 日本では、医薬学や栄養学などの分野でソジウム(ソディウム、英: sodium [ˈsoʊdiəm])ともいう。工業分野では(特に化合物中において)ソーダ(曹達)と呼ばれている。 1807年、ハンフリー・デービーが水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)を電気分解することにより発見した。 毒物および劇物取締法により劇物に指定されている。 消防法第2条第7項及び別表第一第3類1号により第3類危険物に指定されている。 鉛ビスマス合金ほどではないにせよ溶解、あるいはナトリウム中の不純物により金属容器を腐食することがあるので、冷却材として用いる際はこれら化学的な腐食による漏出に注意する必要が有る。 常温、常圧での結晶構造は、BCC構造(体心立方構造)。融点は98 °Cで、沸点は883 °C。比重は0.97で、わずかに水より軽い。 非常に反応性の高い金属で、酸、塩基に侵され、水と激しく反応する。下記に示される化学反応過程を経て水酸化ナトリウムとなるため、素手で触ると、手の表面にある水分と化合し、水酸化ナトリウムとなって皮膚を侵す。さらに空気中で容易に酸化されるため、天然には金属ナトリウム単体は存在しない。保存する際は灯油に浸ける。後述の化学反応に示すように、アルコールなどのプロトン溶媒とも反応するがエーテルや灯油とは反応しないため、灯油などを保存液体として使用する。イオン化する時は一価の陽イオンになりやすい。炎色反応で黄色を呈する。 200 GPa(約200万気圧)の高圧下では、結晶構造が変化し、金属光沢を失い透明になる。 水酸化物や塩化物を融解塩電解することによって単体を得られる。カストナー法(原料NaOH)、ダウンズ法(原料NaCl)が知られる。2006年まで、新潟県に立地する日本曹達二本木工場が、国内で唯一工業的規模の金属ナトリウム製造を行っていたが、現在は操業を停止している。海外ではフランスのMAAS社とアメリカのDuPont社がダウンズ法で生産している。日本の輸入量は2007年で3055トンであった。またカストナー法は工業生産としては使用されていない。 熱伝導率がよく、高温でも液体で存在するため、単体としては高速増殖炉の冷却材として用いられる。融点が低いため、エンジンの排気バルブのステムを中空にして部分的にナトリウムを封入し、バルブ動作に伴う溶融ナトリウムの運動によりバルブヘッドを冷却する用途にも使われる。そのほかに、負極にナトリウム、正極に硫黄を使ったNaS電池がある。これは大型の非常用電源や、風力発電のエネルギー貯蔵に利用される。トンネルの中などに使われている発光(ナトリウムのD線、D1:589.6 nmとD2:589.0 nm)はナトリウムランプである。二本に分裂するのは3p軌道のスピン軌道相互作用によるものである。 生体にとっては重要な電解質のひとつであり、ヒトではその大部分が細胞外液に分布している。神経細胞や心筋細胞などの電気的興奮性細胞の興奮には、細胞内外のナトリウムイオン濃度差が不可欠である。細胞外濃度は135–145 mol/m程度に保たれており、細胞外液の陽イオンの大半を占める。そのため、ナトリウムイオンの過剰摂取は濃度維持のための水分貯留により、高血圧の大きな原因となる。 記事カテゴリ Category:ナトリウムの化合物 も参照。 ナトリウムの同位体は20種類が知られているが、その中で安定同位体はNaのみである。Naは、恒星中での炭素燃焼過程において、2つの炭素原子の核融合によって生成される。この反応には、600 MK以上の温度と、少なくとも太陽の3倍以上の質量を持つ恒星が必要となる。その他のナトリウムの同位体は放射性同位体であるが、その中でも比較的半減期の長いNa(半減期2.6年)およびNa(半減期15時間)の2つは宇宙線による核破砕によって生成され(宇宙線誘導核種)、自然中においては雨水などに痕跡量が存在している。ほかの放射性同位体の半減期はすべて1分未満である。そのほかに2つの核異性体が発見されており、長寿命のものでは半減期が20.2ミリ秒のNaがある。臨界事故などによる急性の中性子被曝では、人体の血液中に含まれる安定なNaの一部が放射性同位体であるNaに変化する。そのため、被曝者の受けた中性子線量は血中におけるNaに対するNaの濃度比を測定することによって計算することができる。
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ナトリウムは、原子番号11の元素、およびその単体金属のことである。ソジウム、ソーダ(曹達)ともいう。元素記号Na。原子量22.99。アルカリ金属元素、典型元素のひとつ。
{{Elementbox |name=sodium |japanese name=ナトリウム |number=11 |symbol=Na |molar mass=22.9898 g/mol |left=[[ネオン]] |right=[[マグネシウム]] |above=[[リチウム|Li]] |below=[[カリウム|K]] |series=アルカリ金属 |series comment= |group=1 |period=3 |block=s |series color= |phase color= |appearance=銀白色 |image name=Na (Sodium).jpg |image size= |image name comment= |image name 2=Sodium Spectra.jpg |image name 2 comment=ナトリウムのスペクトル線 |atomic mass=22.98976928 |atomic mass 2=2 |atomic mass comment= |electron configuration=&#91;[[ネオン|Ne]]&#93; 3s<sup>1</sup> |electrons per shell= 2,8,1 |color= |phase=固体 |phase comment= |density gplstp= |density gpcm3nrt=0.968 |density gpcm3nrt 2= |density gpcm3mp=0.927 |melting point K=370.87 |melting point C=97.72 |melting point F=207.9 |boiling point K=1156 |boiling point C=883 |boiling point F=1621 |triple point K= |triple point kPa= |critical point K=(推定)2573 |critical point MPa=35 |heat fusion=2.60 |heat fusion 2= |heat vaporization=97.42 |heat capacity=28.230 |vapor pressure 1=554 |vapor pressure 10=617 |vapor pressure 100=697 |vapor pressure 1 k=802 |vapor pressure 10 k=946 |vapor pressure 100 k=1153 |vapor pressure comment= |crystal structure=[[体心立方構造]] |oxidation states='''+1''', 0, &minus;1 |oxidation states comment=強[[塩基]]性酸化物 |electronegativity=0.93 |number of ionization energies=4 |1st ionization energy=495.8 |2nd ionization energy=4562 |3rd ionization energy=6910.3 |atomic radius=[[1 E-10 m|186]] |atomic radius calculated= |covalent radius=[[1 E-10 m|166±9]] |Van der Waals radius=[[1 E-10 m|227]] |magnetic ordering=[[常磁性]] |electrical resistivity= |electrical resistivity at 0= |electrical resistivity at 20=47.7 n |thermal conductivity=142 |thermal conductivity 2= |Max burning temp=1003 K |thermal diffusivity= |thermal expansion= |thermal expansion at 25=71 |speed of sound= |speed of sound rod at 20=3200 |speed of sound rod at r.t.= |Young's modulus=10 |Shear modulus=3.3 |Bulk modulus=6.3 |Poisson ratio= |Mohs hardness=0.5 |Vickers hardness= |Brinell hardness=0.69 |CAS number=[http://www.commonchemistry.org/ChemicalDetail.aspx?ref=7440-23-5 7440-23-5] |UN number=1428 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_decay3_(2_2_1) | mn=22 | sym=Na | na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E7 s|2.602]] [[年|y]] | dm1=[[β崩壊|β<sup>+</sup>]]→[[γ崩壊|γ]] | de1a=0.5454 | pn1a=22 | ps1a=[[ネオン|Ne]][[励起状態|*]] | de1b=1.27453(2)<ref>{{cite journal| | last = Endt | first = P. M. ENDT, ,1 (1990) | title = Energy levels of A = 21-44 nuclei (VII) | journal = Nuclear Physics A | volume = 521 | pages = 1 | date = 12/1990 | doi = 10.1016/0375-9474(90)90598-G}}</ref> | pn1b=22 | ps1b=[[ネオン|Ne]] | dm2=[[電子捕獲|ε]]→[[γ崩壊|γ]] | de2a=- | pn2a=22 | ps2a=[[ネオン|Ne]][[励起状態|*]] | de2b=1.27453(2) | pn2b=22 | ps2b=[[ネオン|Ne]] | dm3=[[β崩壊|β<sup>+</sup>]] | de3=1.8200 | pn3=22 | ps3=[[ネオン|Ne]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=23 | sym=Na | na=100 % | n=12}} |isotopes comment= }} '''ナトリウム'''({{lang-de-short|Natrium}} {{IPA-de|ˈnaːtriʊm|}}、{{lang-la-short|Natrium}})は、[[原子番号]]11の[[元素]]、およびその単体金属のことである。'''ソジウム'''('''ソディウム'''、{{lang-en-short|sodium}} {{IPA-en|ˈsoʊdiəm|}})、'''ソーダ'''('''曹達''')ともいう。[[元素記号]]'''Na'''。[[原子量]]22.99。[[第1族元素#アルカリ金属|アルカリ金属]]元素、[[典型元素]]のひとつ。 == 名称 == ナトリウムという名称は、天然炭酸ソーダを意味する[[ギリシャ語]]の {{lang|el|νίτρον}}<ref>近角、木越、田沼「最新元素知識」東京書籍、1976年</ref>、あるいは[[ラテン語]]の {{lang|la|''natron''}}([[ナトロン]])<ref>桜井「元素111の新知識」BLUE BACKS、講談社、1997年。 {{ISBN2|4-06-257192-7}}</ref>に由来するといわれている。 [[ドイツ語]]では {{lang|de|Natrium}}、[[英語]]では {{lang|en|sodium}} と呼ばれる。いずれも近代にラテン語として造語された単語である(現代ラテン語では {{lang|la|natrium}} が使われる)。[[日本]]ではドイツ語から輸入され、ナトリウムという名称が定着した。[[元素記号]]はドイツ語から'''Na'''になった一方、[[IUPAC名]]は英語から {{lang|en|sodium}} とされている。 日本では、[[医学|医]][[薬学]]や[[栄養学]]などの分野で'''ソジウム'''('''ソディウム'''、{{lang-en-short|sodium}} {{IPA-en|ˈsoʊdiəm|}})ともいう。工業分野では(特に化合物中において)'''ソーダ'''('''曹達''')と呼ばれている{{efn|[[炭酸水素ナトリウム]]を重炭酸ソーダ(重曹)と呼んだり、[[水酸化ナトリウム]]を苛性ソーダと呼ぶ。また、ナトリウム化合物を作ることから[[日本曹達]]や東洋曹達(現[[東ソー]])などの名前の由来となっている。}}。 == 歴史 == [[1807年]]、[[ハンフリー・デービー]]が[[水酸化ナトリウム]](苛性ソーダ)を[[電気分解]]することにより発見した。 == 危険性 == 毒物および劇物取締法により劇物に指定されている<ref>[https://www.nihs.go.jp/law/dokugeki/beppyo2.pdf 毒物及び劇物取締法 昭和二十五年十二月二十八日 法律三百三号 第二条 別表第二]</ref>。 [[消防法]]第2条第7項及び別表第一第3類1号により第3類[[危険物]]に指定されている。 [[鉛冷却高速炉#鉛ビスマス共晶合金使用|鉛ビスマス合金]]ほどではないにせよ溶解、あるいはナトリウム中の不純物により金属容器を腐食することがあるので、冷却材として用いる際はこれら化学的な腐食による漏出に注意する必要が有る。<ref>{{Cite journal|last=和男|first=古川|last2=勲|first2=二瓶|date=1969|title=Iii. 液体ナトリウムによる腐食|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcorr1954/18/11-12/18_11-12_503/_article/-char/ja/|journal=防蝕技術|volume=18|issue=11-12|pages=503–511|doi=10.3323/jcorr1954.18.11-12_503}}</ref> {{Chembox | container_only = yes |Section7={{Chembox Hazards | ExternalSDS = | GHSPictograms = {{GHS02}}{{GHS05}} | GHSSignalWord = Danger | HPhrases = {{H-phrases|260|314}} | PPhrases = {{P-phrases|223|231+232|280|305+351+338|370+378|422}}<ref>{{Cite web|url=https://www.sigmaaldrich.com/catalog/product/aldrich/262714|title=Sodium 262714|website=Sigma-Aldrich|accessdate=2022-01-08}}</ref> | EU分類 = {{Hazchem O}}{{Hazchem C}} | EUIndex = Danger | NFPA-H = 3 | NFPA-F = 2 | NFPA-R = 2 | NFPA-S = w | NFPA_ref =<ref>[http://www.ehs.neu.edu/laboratory_safety/general_information/nfpa_hazard_rating/documents/NFPAratingSZ.htm Hazard Rating Information for NFPA Fire Diamonds] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150217135922/http://www.ehs.neu.edu/laboratory_safety/general_information/nfpa_hazard_rating/documents/NFPAratingSZ.htm |date=17 February 2015 }}. Ehs.neu.edu. Retrieved on 11 November 2015.</ref> }} }} == 単体 == {{節スタブ}} === 性質 === 常温、常圧での結晶構造は、BCC構造(体心立方構造)。[[融点]]は98 &deg;Cで、[[沸点]]は883 &deg;C。比重は0.97で、わずかに[[水]]より軽い。 非常に反応性の高い[[金属]]で、[[酸]]、[[塩基]]に侵され、水と激しく反応する。下記に示される化学反応過程を経て水酸化ナトリウムとなるため、素手で触ると、手の表面にある水分と化合し、水酸化ナトリウムとなって皮膚を侵す。さらに[[空気]]中で容易に[[酸化]]されるため、天然には金属ナトリウム単体は存在しない。保存する際は[[灯油]]に浸ける。後述の化学反応に示すように、アルコールなどの[[プロトン溶媒]]とも反応するが[[エーテル (化学)|エーテル]]や灯油とは反応しないため、灯油などを保存液体として使用する。[[イオン化]]する時は一価の[[陽イオン]]になりやすい。[[炎色反応]]で[[黄色]]を呈する。 200 [[ギガ|G]][[パスカル (単位)|Pa]](約200万[[気圧]])の[[高圧]]下では、[[結晶構造]]が変化し、[[金属光沢]]を失い[[透明]]になる<ref>Yanming Ma et al., "Transparent dense sodium", ''Nature'' '''458''', 182-185 (2009). {{doi|10.1038/nature07786}}</ref>。 === 生産 === 水酸化物や塩化物を[[融解塩電解]]することによって単体を得られる。[[カストナー法]](原料NaOH)、[[ダウンズ法]](原料NaCl)が知られる。2006年まで、新潟県に立地する[[日本曹達]]二本木工場が、国内で唯一工業的規模の金属ナトリウム製造を行っていたが、現在は操業を停止している。海外ではフランスのMAAS社とアメリカのDuPont社がダウンズ法で生産している<ref>{{cite web | title = Sodium Metal from France | publisher = U.S. International Trade Commission | url = http://www.usitc.gov/publications/701_731/pub4045.pdf | accessdate = 2012-08-04}}</ref>。日本の輸入量は2007年で3055トンであった<ref name="kagaku">{{Cite book|和書|author=|authorlink=|year=2009|month=2|title=15509の化学商品|publisher=化学工業日報社|isbn=978-4-87326-544-5}}</ref>。またカストナー法は工業生産としては使用されていない。 === 用途 === [[熱伝導率]]がよく、高温でも液体で存在するため、単体としては[[高速増殖炉]]の[[冷却材]]として用いられる。融点が低いため、[[レシプロエンジン|エンジン]]の排気[[ポペットバルブ|バルブ]]のステムを中空にして部分的にナトリウムを封入し、バルブ動作に伴う溶融ナトリウムの運動によりバルブヘッドを冷却する用途にも使われる。そのほかに、負極にナトリウム、正極に硫黄を使った[[ナトリウム・硫黄電池|NaS電池]]がある。これは大型の非常用電源や、風力発電の[[エネルギー貯蔵]]に利用される。[[トンネル]]の中などに使われている発光(ナトリウムのD線、D1:589.6 nmとD2:589.0 nm)は[[ナトリウムランプ]]である。二本に分裂するのは3p軌道の[[スピン軌道相互作用]]によるものである。 生体にとっては重要な[[電解質]]のひとつであり、ヒトではその大部分が[[細胞外液]]に分布している。神経細胞や心筋細胞などの電気的興奮性細胞の興奮には、細胞内外のナトリウムイオン濃度差が不可欠である。細胞外濃度は135&ndash;145 [[モル濃度|mol/m<sup>3</sup>]]程度に保たれており、細胞外液の陽イオンの大半を占める。そのため、ナトリウムイオンの過剰摂取は濃度維持のための水分貯留により、[[高血圧]]の大きな原因となる。 === おもな化学反応 === <!--空気中では、最終的に炭酸塩になります。コメントアウトしておきます。* [[空気]]中に放置すると[[酸化]]されて[[酸化ナトリウム]] (Na<sub>2</sub>O) になる。--> * [[水]]と反応して[[水素]]を発生させながら[[水酸化ナトリウム]](NaOH)になる。 :: <chem>2Na + 2H2O -> 2NaOH + H2</chem> * 空気中での反応性は高く、乾いた空気中でも速やかに[[酸化]]され、金属[[光沢]]を失う。 :: <chem>4Na + O2 -> 2Na2O</chem> * さらに放置すると、空気中の[[二酸化炭素]]と反応して、最終的に[[炭酸ナトリウム]]になる。 :: <chem>Na2O + CO2 -> Na2CO3</chem> * 単体を[[水素]]と熱すると、[[水素化ナトリウム]]が生じる。 :: <chem>2Na + H2 -> 2NaH</chem> * 水に固体ナトリウムを投げ込むと、水分子との接触によってナトリウム原子から電子が飛び出し、周囲の水に[[溶媒和]]され藍色を呈する<ref name=natureasia>[https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v12/n4/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%AA%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%81%AE%E7%88%86%E7%99%BA%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%8C%E6%98%8E%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AB/61962 アルカリ金属の爆発の秘密が明らかに]</ref>。突然に電子を失ったナトリウム陽イオンは、互いに近接しているため、[[クーロン力]]の大きな反発を受け爆発的に離散する([[クーロン爆発]])。陽イオン単位で離散したナトリウムは、水との接触面積が大きいため水との反応が進み、気体の水素が発生する。このときの反応熱によって水素ガスが空気中の酸素と反応して爆発を起こす<ref name=natureasia/>。 * [[アルコール]]、[[カルボン酸]]、[[フェノール類]]などの[[ヒドロキシ基]]と反応して、水素を発生させながら[[アルコキシド]]などを与える。 :: <chem>2Na + 2ROH -> 2RONa + H2</chem>(アルコール:R=アルキル基、フェノール類:R=芳香族置換基) :: <chem>2Na + 2RCOOH -> 2RCOONa + H2</chem> * ナトリウムは液体アンモニア中で電子1個を放出し陽イオンとなり、電子は溶媒であるアンモニアに囲われた溶媒和電子となる。[[バーチ還元]]はこの溶媒和電子によって起こる。 *[[第17族元素|ハロゲン]]の単体と結合(反応)して、[[塩 (化学)|塩]]になる。 :: <chem>2Na + Cl2 -> 2NaCl</chem> * 非常に[[酸化]]されやすいため、[[還元剤]]としてはたらく。例えば、[[トリウム]]、[[ジルコニウム]]、[[タンタル]]、[[チタン]]などの多くの希有な[[金属]]を最も簡単に採取する方法は、ナトリウムを用いる[[還元]]法である。[[チタン]]は[[塩化チタン]]を金属ナトリウムで[[還元剤|還元]]して得られる。 :: <chem>4Na + TiCl4 -> 4NaCl + Ti</chem> == 化合物 == 記事カテゴリ [[:Category:ナトリウムの化合物]] も参照。 === オキソ酸の塩 === * [[炭酸水素ナトリウム]](重曹、NaHCO<sub>3</sub>) * [[炭酸ナトリウム]](炭酸ソーダ、Na<sub>2</sub>CO<sub>3</sub>) * [[過炭酸ナトリウム]](2Na<sub>2</sub>CO<sub>3</sub>・3H<sub>2</sub>O<sub>2</sub>) * [[亜二チオン酸ナトリウム]](亜ジチオン酸ナトリウム、ナトリウムハイドロサルファイト、Na<sub>2</sub>S<sub>2</sub>O<sub>4</sub>) * [[亜硫酸ナトリウム]](Na<sub>2</sub>SO<sub>3</sub>) * [[亜硫酸水素ナトリウム]](NaHSO<sub>3</sub>) * [[硫酸ナトリウム]](芒硝、Na<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>) * [[チオ硫酸ナトリウム]](ハイポ、Na<sub>2</sub>S<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) * [[亜硝酸ナトリウム]](NaNO<sub>2</sub>) * [[硝酸ナトリウム]](NaNO<sub>3</sub>) === ハロゲン化物 === * [[フッ化ナトリウム]](NaF) * [[塩化ナトリウム]]([[食塩]]、NaCl) * [[臭化ナトリウム]](NaBr) * [[ヨウ化ナトリウム]](NaI) === 酸化物・水酸化物 === * [[酸化ナトリウム]](Na<sub>2</sub>O) * [[過酸化ナトリウム]](Na<sub>2</sub>O<sub>2</sub>) * [[水酸化ナトリウム]](苛性ソーダ、NaOH) === その他の無機塩 === * [[水素化ナトリウム]](NaH) * [[硫化ナトリウム]](Na<sub>2</sub>S) * [[硫化水素ナトリウム]](水硫化ナトリウム、NaHS) * [[珪酸ナトリウム]](Na<sub>2</sub>SiO<sub>3</sub>) * [[リン酸三ナトリウム]](Na<sub>3</sub>PO<sub>4</sub>) * [[ホウ酸ナトリウム]](Na<sub>3</sub>BO<sub>3</sub>) * [[水素化ホウ素ナトリウム]](NaBH<sub>4</sub>) * [[シアン化ナトリウム]](青酸ナトリウム、NaCN) * [[シアン酸ナトリウム]](NaOCN) * [[テトラクロロ金酸ナトリウム]](Na[AuCl<sub>4</sub>]) === 有機酸塩 === * [[酢酸ナトリウム]](CH<sub>3</sub>COONa) * [[クエン酸ナトリウム]] == 同位体 == {{main|ナトリウムの同位体}} ナトリウムの同位体は20種類が知られているが、その中で安定同位体は<sup>23</sup>Naのみである。<sup>23</sup>Naは、[[恒星]]中での[[炭素燃焼過程]]において、2つの[[炭素]]原子の[[核融合]]によって生成される。この反応には、600&nbsp;M[[ケルビン|K]]以上の温度と、少なくとも太陽の3倍以上の質量を持つ恒星が必要となる<ref>{{cite journal|bibcode=1987SvAL...13..214D|title= Sodium Synthesis in Hydrogen Burning Stars|last1=Denisenkov |first=P. A.|last2=Ivanov|first2=V. V.|volume=13| date=1987|page= 214|journal=Soviet Astronomy Letters}}</ref>。その他のナトリウムの同位体は[[放射性同位体]]であるが、その中でも比較的[[半減期]]の長い<sup>22</sup>Na(半減期2.6年)および[[ナトリウム24|<sup>24</sup>Na]](半減期15時間)の2つは[[宇宙線による核破砕]]によって生成され(宇宙線誘導核種)、自然中においては雨水などに[[痕跡量]]が存在している<ref>{{Cite journal|title=「超低レベル放射能測定の現状と展望」まとめ|author=小村和久|year=2006|journal=RADIOISOTOPES|volume=55|issue=11|pages=691-697|doi=10.3769/radioisotopes.55.691}}</ref>。ほかの放射性同位体の半減期はすべて1分未満である<ref>{{cite journal| last=Audi|first=Georges|title=The NUBASE Evaluation of Nuclear and Decay Properties| journal=Nuclear Physics A|volume=729|pages=3–128|date=2003| doi=10.1016/j.nuclphysa.2003.11.001| bibcode=2003NuPhA.729....3A| last2=Bersillon| first2=O.| last3=Blachot| first3=J.| last4=Wapstra| first4=A. H.}}</ref>。そのほかに2つの[[核異性体]]が発見されており、長寿命のものでは半減期が20.2ミリ秒の<sup>24m</sup>Naがある。[[臨界事故]]などによる急性の中性子被曝では、人体の血液中に含まれる安定な<sup>23</sup>Naの一部が放射性同位体である<sup>24</sup>Naに変化する。そのため、被曝者の受けた中性子線量は血中における<sup>23</sup>Naに対する<sup>24</sup>Naの濃度比を測定することによって計算することができる<ref>{{cite journal|title=Neutron Activation of Sodium in Anthropomorphous Phantoms|journal=HealthPhysics| volume=8|issue=4| pages=371–379| date=1962| last1=Sanders| first1=F. W.|last2=Auxier|first2=J. A.| doi= 10.1097/00004032-196208000-00005|pmid=14496815}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Sisterlinks | q = no }} * [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-01-02-08.html ナトリウムの特性] - 原子力百科事典 ATOMICA) * [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-01-02-09.html ナトリウム冷却システム] 同 * [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-01-02-10.html ナトリウム取扱い技術] 同 * [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-01-03-04.html ナトリウムの安全性(1次系ナトリウム)] 同 * [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-01-03-05.html ナトリウムの安全性(蒸気発生器および2次系ナトリウム)] 同 * {{PaulingInstitute|jp/mic/minerals/sodium|ナトリウム}} * {{Hfnet|586|ナトリウム}} * {{ICSC|0717}} * {{Kotobank}} * {{YouTube|Ft4E1eCUItI&gl|Alkali metals in water ( Not the braniac version )}}{{en icon}} - ナトリウムと水の反応動画 * [http://kikakurui.com/k8/K8687-2011-01.html ナトリウム (試薬) JISK8687:2011] {{元素周期表}} {{ナトリウムの化合物}} {{ナトリウムのオキソ酸塩}} {{乾燥}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なとりうむ}} [[Category:ナトリウム|*]] [[Category:元素]] [[Category:アルカリ金属]] [[Category:第3周期元素]] [[Category:必須ミネラル]] [[Category:劇物]] [[Category:第3類危険物]] [[Category:冷却材]] [[Category:乾燥剤]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0
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奥井亜紀
奥井 亜紀(おくい あき、1971年10月19日 - )は、日本の女性シンガーソングライター。兵庫県伊丹市出身。血液型はB型。 代表曲に「Wind Climbing 〜風にあそばれて〜」、「晴れてハレルヤ」などがある。
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奥井 亜紀は、日本の女性シンガーソングライター。兵庫県伊丹市出身。血液型はB型。 代表曲に「Wind Climbing 〜風にあそばれて〜」、「晴れてハレルヤ」などがある。
{{別人|向井亜紀}} {{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = 奥井 亜紀 | Background = singer | Birth_name = 奥井 亜紀 | Alias = | Born = {{生年月日と年齢|1971|10|19}} | Blood = B型 | School_background = | Died = | Origin = {{flagicon|JPN}} [[兵庫県]][[伊丹市]] | Instrument = | Genre = [[J-POP]]・[[アニメソング]] | Occupation = [[シンガーソングライター]] | Years_active = [[1993年]] - | Label = {{plainlist| *[[ワーナーミュージック・ジャパン]]<br>([[1993年]]) *[[ワーナーミュージック・ジャパン|wea japan]]<br>([[1994年]] - [[1997年]]) *[[スターチャイルド]]<br>([[2000年]]) *BUTTERFLY<br>([[2001年]]) *Infinity Records<br>([[2003年]] - [[2006年]])*livemaster records<br>([[2007年]] - [[2009年]]) *[[メディアファクトリー]]<br>([[2010年]] - [[2012年]]) *[[カプリチオ・ミュージック]]<br>([[2019年]] - ) }} | Production = {{plainlist| *バディーミュージック<br>([[1993年]] - [[1995年]]) *アップビート<br>([[1996年]] - [[1997年]]) *Infinity Records<br>([[2003年]] - [[2006年]]) *[[文化放送グループ|セントラルミュージック]]<br>([[2007年]] - [[2010年]]) *アンジップ エンターテインメント<br>([[2012年]] - ) }} | Associated_acts = | Influences = | URL = [http://www.okuiaki.net/ okuiaki.net] | Current_members = | Past_members = }} '''奥井 亜紀'''(おくい あき、[[1971年]][[10月19日]] - )は、[[日本]]の[[女性]][[シンガーソングライター]]。[[兵庫県]][[伊丹市]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はB型。代表曲に「[[Wind Climbing 〜風にあそばれて〜]]」、「[[晴れてハレルヤ]]」などがある。 ==来歴== 小学生時代、音楽のテストで先生に「声がきれい」と褒められたことがきっかけで、自分の得意な物に出会えたと感じて、歌を始める。学校のコーラス部、伊丹市の合唱団に入って活動していた<ref name="mantan24">『奥井亜紀♪まんたん音楽』([[旺文社]]インタラクティブムック)24ページ</ref>。 中学生時代、ノートに詞を書き溜め、作詞を始める。高校1年生の時に、あるディレクターと知り合ったのがきっかけで、音楽を仕事にすることを意識するようになる<ref name="mantan24" />。 大学は[[近畿大学]]文芸学部[[芸術学科]](演劇芸能専攻)に進学。音楽ではなく、演劇の勉強をしていた。しかし、本当にやりたいのは演劇ではなく音楽だという[[ジレンマ]]を抱え、またかねてから東京に来るように言っていた人に誘われる形で、やはり音楽をやろうという考えに戻り、3年で大学を中退。[[1993年]][[7月21日]]に上京<ref>『奥井亜紀♪まんたん音楽』36ページ</ref><ref name="mantan44">『奥井亜紀♪まんたん音楽』44ページ</ref>。 [[1993年]][[11月28日]]、 シングル「銀のスプーンで」([[ワーナーミュージック・ジャパン]])で[[デビュー]]。 [[1994年]]から[[1995年]]、[[テレビ朝日]]系[[テレビアニメ|アニメ]]『[[魔法陣グルグル (1994年のアニメ)|魔法陣グルグル]]』のエンディングテーマとオープニングテーマを担当。 [[1996年]]、テレビ朝日系アニメ『[[クレヨンしんちゃん]]』のエンディングテーマを担当。 [[1997年]]、当時所属していたワーナーミュージック・ジャパンとの契約を終了。 [[1998年]]4月から9月、[[テレビ朝日]]で放送されたドラマ『[[せつない]]』の挿入歌を提供。 [[2000年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系アニメ『[[∀ガンダム]]』のエンディングテーマを提供。 [[2001年]]、インディーズ初となるシングル「大樹」(Butterflyレーベル)をリリース。 [[2003年]]、活動の場をインディーズシーンに移し、事実上歌手として再開する。7月、[[篠原美也子]]と期間限定ユニット「福娘。」を結成し、ミニアルバム『夏ノ花』を発表。11月、歌手活動10周年を記念し、セルフカバーベストアルバム『COCOROTO』を発表。[[2004年]]、[[カゴメ]]のCM曲を担当。 [[2007年]]4月、[[セントラルミュージック]]の新レーベル『LIVEMASTER RECORDS』の第1弾リリースとして、アルバム『青空の手紙』を発表。7月、シングル「うつくしもの」が契機となり、[[京都府]][[亀岡市]]の観光大使に任命される。 [[2008年]]11月、約4年ぶりとなるアコースティックアルバム『うたの素 弐巻』を発表。歌手活動15周年を記念し、公式サイトにて『[https://web.archive.org/web/20090306164147/http://www.okuiaki.com/2006/15th2/index.html 15th Anniversary]』の特設ページを開設、フォトライブラリと15の質問を掲載。 [[2010年]]9月、テレビ東京系アニメ『[[ポケットモンスター ベストウイッシュ]]』のエンディングテーマを担当。 [[2012年]]5月、[[UHFアニメ]]『[[黄昏乙女×アムネジア]]』のエンディングテーマを担当。 [[2014年]]6月、アニメ『[[メカクシティアクターズ]]』9話のオープニングテーマを担当。 [[2017年]]8月、アニメ『[[18if#主題歌|18if]]』5話のエンディングテーマを担当。 [[2019年]]12月、デジタル配信『関西風』をリリース。 [[2020年]]4月、デジタル配信『トロフィー』、10月、デジタル配信『Wakaii』をリリース。 [[2021年]]9月、デジタル配信『つない手』をリリース。 [[2022年]]4月、デジタル配信『伝言』をリリース。 == エピソード == デビュー直前の1993年8月から『[[清水宏 (コメディアン)|清水宏]]の[[オールナイトニッポン]]』([[ニッポン放送]])に出演していた<ref name="mantan44" />。[[神田うの]]が彼女の歌を絶賛したことがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rankingshare.jp/rank/qzltvsulju/detail/9|title=Ranking Share『20代が反応する…?! 一度は耳にしたことのある奥井亜紀名曲10選 のNO.9「銀のスプーンで」』|publisher=[[GMOインターネット]]|date=2014-06-27|accessdate=2014-12-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150221022626/https://www.rankingshare.jp/rank/qzltvsulju/detail/9|archivedate=2015年2月21日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。ファルセットの歌声や世界観に反し、関西弁のままにトークが繰り広げられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcm.gr.jp/livemaster.html|title=LIVEMASTER RECORDS内のプロフィールに記載|work=|author=|accessdate=2009年5月18日}}</ref>。友人は、[[加藤いづみ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.okuiaki.com/cgi-bin/ldiary/backnumber0604.cgi?yymm=0606|title=公式サイトの「Diary」にて加藤いづみとの交流を記載(2006.06.13内)|work=|author=|accessdate=2009年5月18日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110414150006/http://www.okuiaki.com/cgi-bin/ldiary/backnumber0604.cgi?yymm=0606|archivedate=2011年4月14日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>、[[片岡大志]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.odn.ne.jp/jiminy/aki.html|title=片岡大志公式サイト内で連載していた「B型のオンナ」ページの紹介文に記載|work=|author=|accessdate=2009年5月18日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090503180143/http://www2.odn.ne.jp/jiminy/aki.html|archivedate=2009年5月3日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>[[相馬裕子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/katoizumi/entry-10437998187.html|title=加藤いづみのブログにてガールポップアーティスト達の女子会が紹介|work=|author=|accessdate=2012年1月2日}}</ref>など。 == 作品 == === シングル === {| class="wikitable" style="font-size: small;" |- ! !リリース ! タイトル(c/w) ! 品番 ! タイアップ等 ! 最高位 |- |'''1st''' |1993年11月28日 | 銀のスプーンで<br />もう何もいらない | WPDL-4377 | &nbsp; | 圏外 |- |'''2nd''' |1994年11月10日 | [[Wind Climbing 〜風にあそばれて〜]]<br />愛はかける | WPD6-9019 | ABC/テレビ朝日系アニメ「[[魔法陣グルグル (1994年のアニメ)|魔法陣グルグル]]」エンディング主題歌 | 41位 |- |'''3rd''' |1995年2月25日 | 泣くもんか<br />あしかになってしまいたい | WPD6-9035 | &nbsp; | 100位 |- |'''4th''' |1995年6月25日 | [[晴れてハレルヤ]]<br />あなたに会いにいこう | WPD6-9051 | ABC/テレビ朝日系アニメ「魔法陣グルグル」オープニング主題歌 | 18位 |- |'''5th''' |1995年9月25日 | ゆきうさぎ<br />夢の帆船 | WPD6-9058 | テレビ東京系「[[TXNニュース THIS EVENING]]」エンディングテーマソング | 81位 |- |'''6th''' |1996年4月25日 | しあわせのいろ<br />風になりたい | WPD6-9079 | TBS系「[[どうぶつ奇想天外!]]」エンディングテーマソング | 圏外 |- |'''7th''' |1996年5月24日 | Love&Love<br />勝子の就職物語 | WPD6-9088 | ABC/テレビ朝日系「快楽通信」エンディングテーマソング | 99位 |- |'''8th''' |1996年11月10日 | BOYS BE BRAVE 〜少年よ勇気を持て〜<br />魔法の呪文 | WPD6-9102 | テレビ朝日系アニメ「[[クレヨンしんちゃん]]」8代目エンディングテーマ曲 | 圏外 |- |'''9th''' |2000年2月4日 | 月の繭<br />炎と雨 | KIDA-192 | フジテレビ系アニメ「[[∀ガンダム]]」エンディング主題歌 | 94位 |- |'''10th''' |2001年5月2日 | 大樹<br />CRAZY ABOUT YOU<br />Iのこころ | BUCA-11112 | &nbsp; | 圏外 |- |'''11th''' |2003年4月21日 | うつくしもの<br />奥井亜紀コメント | INSP-0006 | [[京都府]][[亀岡市]]「平和の歌」 | 圏外 |- |'''12th''' |2012年5月23日 | カランドリエ<br>粒星 | ZMCZ-7836 | [[UHFアニメ]]「[[黄昏乙女×アムネジア]]」エンディング主題歌 | 70位 |} === デジタルシングル === {| class="wikitable" style="font-size: small;" |- ! !リリース ! タイトル |- |'''1st''' |2019年12月1日 | 関西風 |- |'''2nd''' |2020年4月1日 |トロフィー |- |'''3rd''' |2020年10月21日 |Wakaii |- |'''4th''' |2021年9月22日 |つない手 |- |'''5th''' |2022年4月2日 |伝言 |} === アルバム === {| class="wikitable" style="font-size: small;" |- ! ! リリース ! タイトル ! 品番 ! 最高位 |- |'''1st''' | 1994年4月25日 | [[Lost Melodies]] | WPC6-8013 | 圏外 |- |'''2nd''' | 1995年3月25日 | [[Wind Climbing]] | WPC6-8096 | 77位 |- |'''3rd''' | 1995年10月25日 | [[Voice of Hallelujah]] | WPC6-8053 | 47位 |- |'''4th''' | 1996年11月30日 | [[You're the only melody]] | WPC6-8244 | 82位 |- |'''5th''' | 1997年9月25日 | [[Straw Color〜Single Collection&More〜]] | WPC6-8373 | 圏外 |- |'''6th''' | 2003年4月21日<br />再:2007年8月29日 | [[DENIMUM]] | INSP-5<br />再:JCLM-1003 | 圏外 |- |'''7th''' | 2003年11月28日<br />再:2009年3月18日 | [[COCOROTO]] | MTCL-1002<br />再:XQDQ-1006 | 圏外 |- |'''8th''' | 2004年9月28日<br />再:2009年3月18日 | [[うたの素]] 壱巻 | MTCL-1004<br />再:XQDQ-1007 | 圏外 |- |'''9th''' | 2004年11月28日 | [[cyclong]] | MTCL-1005 | 圏外 |- |'''10th''' | 2006年1月27日 | [[トキノマニ]] | FINSP-0001 | 圏外 |- |'''11th''' | 2006年2月8日 | [[Pp (奥井亜紀のアルバム)|pp]] | INSP-0007 | 圏外 |- |'''12th''' | 2007年4月18日 | [[青空の手紙]] | JCLM-1001 | 圏外 |- |'''13th''' | 2008年4月23日 | [[音海スイム]] | XQDQ-1003 | 圏外 |- |'''14th''' | 2008年11月12日 | [[うたの素]] 弐巻 | XQDQ-1005 | 289位 |- |'''15th''' | 2009年5月13日 | [[TIMEcARTRIDGE]] | XQDQ-1008 | 230位 |- |'''16th''' | 2012年7月25日 | [[OPENER]] | ZMCZ-8042 | 105位 |- |} === DVD === {| class="wikitable" style="font-size: small;" |- ! リリース ! タイトル ! 品番 |- | 2003年8月31日 | DENIMUM DATA 517 | MTBL-8001 |- | 2004年2月25日 | 心音符 | MTBL-8002 |- | 2009年3月18日 | 15FESTA | XQDQ-2001 |} === 楽曲参加 === {| class="wikitable" style="font-size: small;" |- ! リリース ! タイトル !楽曲 !規格 ! 品番 !備考 |- |1991年6月21日 |[[KOSHIEN OF DREAMS 〜夢のかたち〜]] |「THE AFTER」 |CD |PLCP-30 | |- |1998年8月25日 |[[せつない]] TOKYO HEART BREAK |「さよならびより」 |CD |TOCT-10405 |ドラマ「せつない」オリジナル・アルバム |- |1999年12月8日 |枡野浩一プレゼンツ「君の鳥は歌を歌える」 |「セミくらい大きな声で鳴けたならモラトリアムが長かったなら」 |CD |TOCT-24286 | |- |2000年6月7日 |COCOA |「限りなき旅路」<br />「炎と雨」<br />「月の繭」 |CD |KICA-508 |アニメ「∀ガンダム」オリジナル・サウンドトラック |- |2003年7月20日 |夏ノ花 |「夏ノ花」/ 福娘。<br />「Candy Pot」<br />「Place」 |CD |MTCL-1001 |[[篠原美也子]]とのユニット『福娘。』として |- |2003年8月20日 |百歌集〜色は匂へど散りぬるを |「大樹(LIVE VERSION)」 |CD |INSP-0002 | |- |2006年4月28日 |THE LIVE goes on シリーズ第12弾!「東京百歌&TOKYO ACOUSTIC NITE 2006」 |「花冠」 |DVD |HMBH-1021 | |- |2006年7月12日 |絵日記と紙芝居~村下孝蔵トリビュートアルバム~ |「とまりぎ」 |CD |SECL-414 | |- |2009年5月27日 |[[スペース バイオチャージ|YOKO KANNO SEATBELTS 来地球記念コレクションアルバム スペース バイオチャージ]] |「限りなき旅路」 |CD |VTCL-60141 | |- |2010年2月24日 |機動戦士ガンダム<br />「30周年記念CD-BOX GUNDAM SONGS 145」 |「月の繭」<br />「限りなき旅路」 |CD |VTZL-30 |機動戦士ガンダム 30周年記念CD-BOX |- |2010年11月24日 |[[ベストウイッシュ!]] |「心のファンファーレ」 |CD |ZMCP-5653 |テレビ東京系アニメ『ポケットモンスター ベストウイッシュ』エンディングテーマ |- |2012年7月18日 |[[やじるしになって!]] |「七色アーチ」 |CD |ZMCP-6093 |テレビ東京系アニメ『ポケットモンスター ベストウイッシュ』エンディングテーマ<br />ポケモンBW合唱団('''奥井亜紀'''、[[江崎とし子]]、[[あきよしふみえ]])として参加 |- |2013年12月18日 |ライブインメカクシティ SUMMER'13 |「シニガミレコード」<br />「アヤノの幸福理論」 |Blu-ray/DVD |MHXL-17/8(Blu-ray初回盤)<br />MHXL-19(Blu-ray通常盤)<br />MHBL-253(DVD) |2013年8月15日Zepp Divercityで行われた[[じん|じん (自然の敵P)]]のライブ映像作品 |- |2014年11月26日 |メカクシティアクターズ 9「アヤノの幸福理論」 |「アヤノの幸福理論」 |Blu-ray/DVD+CD |ANZX-11237(Blu-ray)<br />ANZB-11237(DVD) |アニメ『[[メカクシティアクターズ]]』9話の映像作品<br />完全生産限定版 特典CDに収録 |- |2015年04月01日 |MEKAKUCITY M's 1 メカクシティアクターズ・ヴォーカル&サウンド コレクション |「群青レイン」<br />「アヤノの幸福理論」 |CD |ZMCL-1023 | |- |2017年10月4日 |TVアニメ「18if」主題歌集 |「プルメリア」 |CD |KICA-3268 | |- |2017年11月15日 |Magical Circle |「Wind Climbing ~風にあそばれて~」 |CD |LACM-14679 |[[TECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUND]]による新アレンジバージョン |- |2022年7月27日 |[[TWO-MIX Tribute Album "Crysta-Rhythm"]] |「[[BPM 132|THOUSAND NIGHTS]]」 |CD |KICS-4058 |[[TWO-MIX]]の[[トリビュート・アルバム]] |- |2022年12月24日 |なつかし あたらし にほんうた |「ずいずいずっころばし」<br />「この道」 |デジタル |ー | |} === 楽曲提供 === *美裕リュウ - 君がいない(作詞・作曲) **1996年11月21日 アルバム『gardenia』収録 *DRAMATIC BLUE BIRD - 夏休みをふたりで(作詞・作曲) **1998年6月20日 シングル『夏休みをふたりで』収録 *[[竹達彩奈]] - パルス通信(作詞・作曲) **2016年11月2日 アルバム『Lyrical Concerto』収録 *[[不知火フレア]] - SKYSONAR(作詞・作曲) **2023年7月16日 デジタルシングル『SKYSONAR』収録 === 未収録曲 === *散るまで *ラスト *君のために泣いてくれる人はいますか *After Summer Coke *どうしてあんなやつ好きになったんだろう *6月の晴れた午後に *冬休みになったら *君はレモン *愛の迷い子 *12月の香椎 *ポートレート *軌跡 *アンテナ *祷火 *リンゴの匂いのする手紙 *I know I love you *I LOVE HONG KONG *ナツノックロック *初めての夏休み *ドヤドヤ *インヌコナサカス(逆さの国) *レインボーロール *シンガーソングウォーカー *北風トランペット *蒼思蒼愛 *ソンブレラ *夢 *晴点 *ONE *日日晶人 *幸福の森 *ソングバード *iPhone6 *Never Ending Fantasy *クリスマスのように *M one y *アキオクリズム *サマーチューナー *マイナンバー *コール *メニーメニーメリークリスマス === 著書 === * B型のオンナ(2007年12月16日/発行元:文化放送メディアブリッジ) ==ラジオ番組== * [[まんたんMUSIC]]([[全国FM放送協議会|JFN]]) - 火曜深夜担当(1994年4月 - 1997年3月) * [[らじおの王様]] ([[静岡放送]]) * ARTIST JAM([[新潟県民エフエム放送|FM PORT]]) - 月曜担当 (2005年 - 2006年3月) * [[奥井亜紀の手紙]]([[BBQR]] 2007年4月 - 2010年4月、[[文化放送]] 2007年10月 - 2010年4月) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===出典=== {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.okuiaki.net/ AKI OKUI official web site](公式サイト) * [http://www.jcm.gr.jp/livemaster.html LIVEMASTER RECORDS] * {{Twitter|aikioku}} * {{Instagram|akiokui}} * [https://web.archive.org/web/20080417055049/http://www.joqr.co.jp/aki/ 奥井亜紀の手紙](インターネットラジオ) * [https://web.archive.org/web/19990209025710/http://www.sankei.co.jp/kusano/tokyolittle/tokyolittleback.html 奥井亜紀の東京リトルジャーニー] {{奥井亜紀}} {{Normdaten}} {{Singer-stub}} {{DEFAULTSORT:おくい あき}} [[Category:日本の女性シンガーソングライター]] [[Category:日本の女性ポップ歌手]] [[Category:アニメソング歌手]] [[Category:ワーナーミュージック・ジャパンのアーティスト]] [[Category:メディアファクトリーのアーティスト]] [[Category:兵庫県立伊丹北高等学校出身の人物]] [[Category:近畿大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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8,321
ワードマシン
ワードマシン(ワード指向マシン)とは、メモリのアドレス付けがバイト等の小さめの単位ではなく、12ビット、16ビット、36ビット等のワード単位で(ワードアドレッシング)、ワード単位の演算を得意とするコンピュータのこと。System/360でバイトマシンが標準になる前は、科学技術計算用のコンピュータにはワードマシンが多かった。これに対し、字単位の処理を得意とするコンピュータをキャラクタマシンと言う。 代表的なコンピュータとしては、以下がある。
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ワードマシン(ワード指向マシン)とは、メモリのアドレス付けがバイト等の小さめの単位ではなく、12ビット、16ビット、36ビット等のワード単位で(ワードアドレッシング)、ワード単位の演算を得意とするコンピュータのこと。System/360でバイトマシンが標準になる前は、科学技術計算用のコンピュータにはワードマシンが多かった。これに対し、字単位の処理を得意とするコンピュータをキャラクタマシンと言う。 代表的なコンピュータとしては、以下がある。 黎明期のコンピュータ EDSACなど多数 メインフレーム NEC ACOS-6シリーズ Bull NovaScale 9000シリーズ ユニシス ClearPath Plus Server (2200/IX系) ミニコンピュータ MSシリーズ DEC PDP-8 IBM 1130、IBM 1800 マイクロプロセッサ パナファコム L-16A(MN1610) など その他 情報処理技術者試験で出題される架空のコンピュータ COMET(16ビット)
'''ワードマシン'''(ワード指向マシン)とは、[[メモリ]]のアドレス付けが[[バイト (情報)|バイト]]等の小さめの単位ではなく、12ビット、16ビット、36ビット等の[[ワード]]単位で(ワードアドレッシング)、ワード単位の演算を得意とするコンピュータのこと。System/360で[[バイトマシン]]が標準になる前は、科学技術計算用のコンピュータにはワードマシンが多かった。これに対し、字単位の処理を得意とするコンピュータを[[キャラクタマシン]]と言う。 代表的なコンピュータとしては、以下がある。 *黎明期のコンピュータ **[[EDSAC]]など多数 *[[メインフレーム]] **[[日本電気|NEC]] [[ACOS-6]]シリーズ(36ビット = 1ワード) **[[Bull]] NovaScale 9000シリーズ(OSは[[GCOS]]。36ビット = 1ワード) **[[ユニシス]] ClearPath Plus Server (2200/IX系)(OSは[[OS2200]]。36ビット = 1ワード) *[[ミニコンピュータ]] **MSシリーズ **[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]] [[PDP-8]]<!--、[[PDP-11]]シリーズ--> **[[IBM 1130]]、[[IBM 1800]] *[[マイクロプロセッサ]] **[[パナファコム]] L-16A(MN1610) など *その他 **[[情報処理技術者試験]]で出題される架空のコンピュータ [[CASL|COMET]](16ビット) == 関連項目 == * [[メモリアドレス]] {{Computer-stub}} {{デフォルトソート:わあとましん}} [[Category:コンピュータアーキテクチャ|わとましん]] [[Category:コンピュータ史|わとましん]]
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8,322
塩素
塩素(えんそ、英: chlorine)は原子番号17の元素。元素記号はCl。原子量は35.45。ハロゲン元素のひとつ。 一般に「塩素」という場合は、塩素の単体である塩素分子(Cl2、二塩素、塩素ガス)を示すことが多い。ここでも合わせて述べる。塩素分子は常温常圧では特有の臭を持つ黄緑色の気体で、腐食性と強い毒を持つ。 1774年にスウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレが「脱フロギストン海塩酸気」と命名した。 1810年にハンフリー・デービーが、気体が黄緑色である点から、ギリシャ語で「黄緑色」を意味する χλωρος (Chloros) を取って chlorine と命名した。日本語では原義から緑気(りょっき)とも呼ばれた。 日本語の「塩素」(鹽素)は江戸時代後期に宇田川榕菴が著書「遠西医方名物考補遺」で用いたのが最初である。オランダ語 zoutstof の訳語であり、食塩の主成分である点による命名である。 塩素原子の電子親和力は非常に大きく、通常イオン化する際は1価の陰イオンとなる(EA=3.617 eV)。 単体(塩素ガス)は、常温常圧では特有の臭いを有する黄緑色の気体。分子量70.90。融点−101 °C、沸点−34.1 °C、比重2.49。非常に反応性が高く、多くの金属や有機物と反応し塩化物を形成する。 強い漂白・殺菌作用を持つため、パルプや衣類の漂白剤や、水道水やプールの殺菌剤として使用される。ただし、気体を扱うのは困難であり、また保存性の点から水酸化ナトリウム (NaOH) 水溶液と反応させた次亜塩素酸ナトリウムの形で利用されることが多い。 地球上において、92ある天然元素のうち18番目に多く存在し、鉱物やイオン、気体などとしてマントルに99.6パーセント、地殻に0.3パーセント、海水に0.1パーセントが保有されている。 現在では一般的に、塩化ナトリウム水溶液からイオン交換と電気分解とを併用するイオン交換膜法によって、水酸化ナトリウムとともに生産される。塩素ガスの2016年度日本国内生産量は343万9341トン、消費量は296万9305トン、液体塩素の2016年度日本国内生産量は47万3016トン、消費量は30万909トンである。高圧ガス保安法に基づく容器保安規則により、黄色いボンベに保管するように決められている。また液化塩素専用タンク車のタキ5450形も塗装は黄色である。 塩酸やクロロホルムなど各種塩化物の原料、ポリ塩化ビニルやポリ塩化ビニリデンなどの合成樹脂原料として多方面で使用されるほか、合成中間体としてシリコーンやポリウレタン、各種ポリマーなど塩素を含まない製品の製造にも用いられる。 塩素は強い毒性を持つため、人類初の本格的な化学兵器としても使われた。第一次世界大戦中の1915年4月22日、イープル戦線でのことである。このときにドイツ軍の化学兵器部隊の司令官を務めていたのは、後年(1918年)ノーベル化学賞を受賞するフリッツ・ハーバーである。塩素ガスは、色がついていて重いためすぐにばれ、周りへの被害が少ない。支給されたマスクは中和液を含ませたガーゼマスクだった。 塩素を吸引すると、まず呼吸器に損傷を与える。空気中である程度以上の濃度では、皮膚の粘膜を強く刺激する。目や呼吸器の粘膜を刺激して咳や嘔吐を催し、重大な場合には呼吸不全で死に至る場合もある。液体塩素の場合には、塩素に直接触れた部分が炎症を起こす。 塩素を浴びてしまった場合、ただちにその場から離れ、着ていた衣服を脱ぎ、毛布に包まるなどして体を温めなければならない。ただちに医療機関での処置を要する。呼吸が停止している場合には一刻も早く人工呼吸による蘇生を行わなければならない。呼吸が苦しい場合には酸素マスクの着用を要する。 毒物および劇物取締法により劇物に指定されている。また、労働安全衛生法の第2類特定化学物質に指定されている。 特に塩素を含む漂白剤(次亜塩素酸ナトリウム)と酸性の物質(おもにトイレ用の洗剤)を混合すると、有毒な単体の塩素ガスが遊離し危険な状態となる。このため、漂白剤や酸性のトイレ用の洗剤には「混ぜるな危険」との大きく目立つ表示がある。このような表示がされる前(当時も小さな注意書き自体は存在した)には1986年には徳島県で、1989年には長野県で、実際に塩素系漂白剤と酸性洗浄剤を混ぜたことにより、塩素ガスが発生し死亡した事故が起こっている。 工場レベルでもミスがあると類似の事故が発生する。1976年3月26日、東大阪市のメッキ廃液処理場では、清掃業者が塩素酸ソーダのタンクに誤って硫酸を投入、大量の塩素ガスが発生して周辺住民約100人が入院する騒ぎとなった。 塩素はオゾンホールの原因物質としても指摘されている。フロンなどの塩素原子を含む化合物が紫外線に当たると、結合が切断され塩素ラジカルが生じる。塩素ラジカルは周囲のオゾンと反応して触媒的にオゾンを酸素分子へと分解するため、オゾン層の破壊効果が大きい。 1774年にスウェーデンのカール・ヴィルヘルム・シェーレが、海塩酸(塩酸)と二酸化マンガンを加熱させることによって単体を分離。 1810年にハンフリー・デービーが元素であると認めた。 塩化物イオンあるいは置換基として塩素を含む化合物は塩化物あるいは塩素化合物と呼ばれる。塩素はほとんどすべての元素と安定な化合物を形成し、また有機化合物にも塩素を含むものが多く知られている(記事塩化物に詳しい)。個々の化合物については、「塩化物のカテゴリ」および「有機ハロゲン化合物のカテゴリ」を参照されたい。 有機塩素化合物は、安定で、かつ安価に合成できるために、クロロホルムやジクロロメタンのような代表的な有機溶媒として、あるいはポリ塩化ビニルなどのプラスチックとして、大量に生産・使用されている。 反面、多くは毒性を持ち、環境中に放出された際に化学分解されにくい点、さらに焼却時にはダイオキシンを発生する点から、法令などで規制されている物質も多い。 塩素のオキソ酸は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。 ※オキソ酸塩名称の '-' にはカチオン種の名称が入る。 塩素のオキソ酸はいずれも酸化力が強い。代表的な化合物に次のようなものがある。
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塩素(えんそ、英: chlorine)は原子番号17の元素。元素記号はCl。原子量は35.45。ハロゲン元素のひとつ。 一般に「塩素」という場合は、塩素の単体である塩素分子(Cl2、二塩素、塩素ガス)を示すことが多い。ここでも合わせて述べる。塩素分子は常温常圧では特有の臭を持つ黄緑色の気体で、腐食性と強い毒を持つ。
{{Elementbox |name=chlorine |japanese name=塩素 |pronounce={{IPAc-en|ˈ|k|l|ɔər|iː|n}} {{Respell|KLOR|een}} |number=17 |symbol=Cl |left=[[硫黄]] |right=[[アルゴン]] |above=[[フッ素|F]] |below=[[臭素|Br]] |series=ハロゲン |series comment= |group=17 |period=3 |block=p |series color= |phase color= |appearance=黄緑色気体 |image name=Chlorine ampoule.jpg |image size= |image name comment= |image name 2= |image name 2 comment= |atomic mass=35.453 |atomic mass 2=2 |atomic mass comment= |electron configuration=&#91;[[ネオン|Ne]]&#93; 3s<sup>2</sup> 3p<sup>5</sup> |electrons per shell=2, 8, 7 |color= |phase=気体 |phase comment= |density gplstp=3.2 |density gpcm3nrt= |density gpcm3nrt 2= |density gpcm3mp= |density gpcm3bp=1.5625<ref>[http://encyclopedia.airliquide.com/Encyclopedia.asp?LanguageID=11&CountryID=19&Formula=&GasID=13&UNNumber=&EquivGasID=3&PressionBox=&VolLiquideBox=&MasseLiquideBox=&VolGasBox=&MasseGasBox=&RD20=29&RD9=8&RD6=64&RD4=2&RD3=22&RD8=27&RD2=20&RD18=41&RD7=18&RD13=71&RD16=35&RD12=31&RD19=34&RD24=62&RD25=77&RD26=78&RD28=81&RD29=82 Chlorine], Gas Encyclopaedia, Air Liquide</ref> |melting point K=171.6 |melting point C=&minus;101.5 |melting point F=&minus;150.7 |boiling point K=239.11 |boiling point C=&minus;34.04 |boiling point F=&minus;29.27 |triple point K= |triple point kPa= |critical point K=416.9 |critical point MPa=7.991 |heat fusion=(Cl<sub>2</sub>) 6.406 |heat fusion 2= |heat vaporization=(Cl<sub>2</sub>) 20.41 |heat capacity=(Cl<sub>2</sub>) 33.949 |vapor pressure 1=128 |vapor pressure 10=139 |vapor pressure 100=153 |vapor pressure 1 k=170 |vapor pressure 10 k=197 |vapor pressure 100 k=239 |vapor pressure comment= |crystal structure=orthorhombic |japanese crystal structure=[[斜方晶系]] |oxidation states='''7''', 6, '''5''', 4, '''3''', 2, '''1''', '''&minus;1'''(強[[酸性酸化物]]) |electronegativity=3.16 |number of ionization energies=4 |1st ionization energy=1251.2 |2nd ionization energy=2298 |3rd ionization energy=3822 |atomic radius= |atomic radius calculated= |covalent radius=[[1 E-10 m|102±4]] |Van der Waals radius=[[1 E-10 m|175]] |magnetic ordering=[[反磁性]]<ref>{{PDF|[https://web.archive.org/web/20040324080747/http://www-d0.fnal.gov/hardware/cal/lvps_info/engineering/elementmagn.pdf Magnetic susceptibility of the elements and inorganic compounds]}}(2004年3月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]), in Handbook of Chemistry and Physics 81st edition, CRC press.</ref> |electrical resistivity= |electrical resistivity at 0= |electrical resistivity at 20=> 10&nbsp; |thermal conductivity={{val|8.9|e=-3}} |thermal conductivity 2= |thermal diffusivity= |thermal expansion= |thermal expansion at 25= |speed of sound=(気体、0 {{℃}})206 |speed of sound rod at 20= |speed of sound rod at r.t.= |Young's modulus= |Shear modulus= |Bulk modulus= |Poisson ratio= |Mohs hardness= |Vickers hardness= |Brinell hardness= |CAS number=7782-50-5 |isotopes= {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[塩素35|35]] | sym=Cl | na=75.77 % | n=18}} {{Elementbox_isotopes_decay2 | mn=[[塩素36|36]] | sym=Cl | na=[[微量放射性同位体|trace]] | hl=[[1 E12 s|{{val|3.01|e=5}} y]] | dm1=[[ベータ崩壊|β<sup>&minus;</sup>]] | de1=0.709 | pn1=[[アルゴン36|36]] | ps1=[[アルゴン|Ar]] | dm2=[[電子捕獲|ε]] | de2=- | pn2=[[硫黄36|36]] | ps2=[[硫黄|S]]}} {{Elementbox_isotopes_stable | mn=[[塩素37|37]] | sym=Cl | na=24.23 % | n=20}} |isotopes comment= }} '''塩素'''(えんそ、{{lang-en-short|chlorine}})は[[原子番号]]17の[[元素]]。[[元素記号]]は'''Cl'''。[[原子量]]は35.45。[[ハロゲン元素]]のひとつ。 一般に「塩素」という場合は、塩素の[[単体]]である'''塩素分子'''(Cl<sub>2</sub>、二塩素、塩素ガス)を示すことが多い。ここでも合わせて述べる。塩素分子は常温常圧では特有の臭を持つ[[黄緑]]色の気体で、腐食性と強い毒を持つ。 == 名称 == [[1774年]]に[[スウェーデン]]の[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]が「脱[[フロギストン]]海塩酸気{{efn|Dephlogisticated muriatic acid air.<ref>{{cite journal|title=History of the chlorine industry|author=Robert T. 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Educ.|year= 1927|volume= 4|issue= 3|pages= 313–319|doi=10.1021/ed004p313}}</ref>}}」と命名した。 [[1810年]]に[[ハンフリー・デービー]]が、気体が[[黄緑]]色である点から、ギリシャ語で「黄緑色」を意味する {{lang|el|χλωρος}} ({{lang|grc-latn|Chloros}}) を取って {{lang|en|'''chlorine'''}} と命名した。日本語では原義から'''緑気'''(りょっき)とも呼ばれた<ref>{{cite journal|和書|title=グリフィス講述『化学筆記』について|author=沖 久也|journal=化学史研究|year=2012|volume=39|issue=4|pages=13–20|url=https://hdl.handle.net/10098/7093}}</ref>。 日本語の「塩素」(鹽素)は江戸時代後期に[[宇田川榕菴]]が著書「遠西医方名物考補遺」で用いたのが最初である<ref>{{Cite book |author=[[宇田川榕菴]] |year=1834 |url= https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00857_0037/index.html|title=遠西医方名物考補遺 |publisher= |location= |volume =8 |language = |isbn= |page = |chapter =元素編第二 |chapterurl = https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ya09/ya09_00857/ya09_00857_0044/ya09_00857_0044_p0005.jpg|quote= }}</ref>。オランダ語 {{lang|nl|zoutstof}} の訳語であり、食塩の主成分である点による命名である。 == 性質 == 塩素原子の[[電子親和力]]は非常に大きく、通常[[イオン化]]する際は1価の[[陰イオン]]となる(''EA''=3.617&nbsp;[[電子ボルト|eV]]<ref name="binran">{{Cite book |和書 |author=日本化学会(編) |title=化学便覧 基礎編 |edition=改訂4版 |publisher=丸善 |year=1993}}</ref>)。 単体(塩素ガス)は、常温常圧では特有の臭いを有する黄緑色の[[気体]]。[[分子量]]70.90。[[融点]]{{val|-101|u=degC}}、[[沸点]]{{val|-34.1|u=degC}}、[[比重]]2.49。非常に反応性が高く、多くの金属や有機物と反応し[[塩化物]]を形成する。 強い[[漂白]]・[[殺菌]]作用を持つため、[[パルプ]]や衣類の漂白剤や、[[水道水]]や[[プール]]の殺菌剤として使用される。ただし、気体を扱うのは困難であり、また保存性の点から[[水酸化ナトリウム]] (NaOH) 水溶液と反応させた[[次亜塩素酸ナトリウム]]の形で利用されることが多い<ref name="daijiten">{{Cite book | 和書 |title=化学大辞典 |publisher=共立出版 |year=1993}}</ref>。 == 地球上の塩素の存在 == 地球上において、92ある天然[[元素]]のうち18番目に多く存在し、鉱物やイオン、気体などとして[[マントル]]に99.6パーセント、[[地殻]]に0.3パーセント、[[海水]]に0.1パーセントが保有されている<ref>『塩素白書』p10-21</ref>。 * マントル - [[アルステア・キャメロン]]による隕石の分析で、ケイ素原子10000個に対し塩素原子190個が含まれていると考えられていることから、地球の質量約6000&nbsp;[[ヨタ|Y]][[グラム|g]]に対し22&nbsp;Yg ({{val|22|e=24|u=g}})の塩素が存在すると推測される。 * 地殻 - 塩素が地殻の総重量の0.19パーセントを占めると考えられていることから、約60 [[ゼタ|Z]]g({{val|60|e=21|u=g}})の塩素が地殻に存在すると推測される。火山噴火により毎年0.4&ndash;11&nbsp;[[テラ|T]]g({{val|0.4|-|11|e=12|u=g}})の塩素がおもに塩化水素の形で対流圏に放出され、その大部分が地表や海洋に降下する。 * 海水 - 約{{val|1.36|e=8|u=km3}}の海水の総量のうち、平均塩素濃度19.354&nbsp;g/kgであることから、26&nbsp;Zgがおもに[[塩化ナトリウム]] (NaCl)として存在すると推測される。海面上で生じる[[波]]により、年間6&ndash;18&nbsp;[[ペタ|P]]g({{val|6|-|18|e=15|u=g}})が大気中に放出される。大部分が海洋に戻るが、一部は揮発性塩素となる。 * [[川|河川水]]・[[湖|湖水]] - 河川・湖の水の総量は約{{val|1|e=5|u=km3}}であり、河川水には約5.8&nbsp;mg/[[リットル|L]]含まれていることから、河川・湖水総量に対し580&nbsp;Tgが含まれていると推測される。 * [[地下水]] - 帯水層および土壌中の地下水は地球の水量のおよそ8パーセントであり、標準的塩素濃度が40&nbsp;mg/Lであることから、地下水中の塩素含有総量は320&nbsp;Pgと推測される。 * [[雪氷圏]] - 極地や大陸の氷原には、0.5 [[ギガ|G]]g({{val|0.5|e=9|u=g}})の塩素が存在すると推測される。 * [[対流圏]] - 大気中では主に[[塩化水素]]や[[クロロメタン]]の状態で存在し、塩化水素は地表近くでは体積濃度{{val|100|-|300|e=-12|u=m3/m3}}、都市部の高濃度域では{{val|3000|e=-12|u=m3/m3}}が測定される。クロロメタンや、より高層の塩化水素、海水からのエアロゾルなどを含めると、5.3&nbsp;Tgが存在していると推測される。対流圏から成層圏へは年間約0.03&nbsp;Tgが放出され、成層圏から対流圏へもほぼ同量が移動する。 * [[成層圏]] - 成層圏には約{{val|3|e=-12|u=m3/m3}}の塩素が含まれ、約0.4 Tgの塩素が存在すると推測される。 == 生産 == 現在では一般的に、[[塩化ナトリウム]]水溶液からイオン交換と[[電気分解]]とを併用する[[イオン交換膜]]法によって、[[水酸化ナトリウム]]とともに生産される<ref name=Cotton>{{Cite book |和書 |author=F.A. コットン |author2=G. ウィルキンソン |coauthors=中原勝儼(訳) |title=コットン・ウィルキンソン無機化学 |publisher=培風館 |year=1987}}</ref>。塩素ガスの2016年度日本国内生産量は343万9341トン、消費量は296万9305トン、液体塩素の2016年度日本国内生産量は47万3016トン、消費量は30万909トンである<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/08_seidou.html#menu5 経済産業省生産動態統計年報 化学工業統計編]</ref>。[[高圧ガス保安法]]に基づく容器保安規則により、[[黄色]]い[[ボンベ]]に保管するように決められている<ref>{{Egov law|341M50000400050|容器保安規則}}</ref>。また液化塩素専用[[タンク車]]の[[国鉄タキ5450形貨車|タキ5450形]]も塗装は黄色である。 [[塩酸]]や[[クロロホルム]]など各種塩化物の原料、[[ポリ塩化ビニル]]や[[ポリ塩化ビニリデン]]などの[[合成樹脂]]原料として多方面で使用されるほか、合成中間体として[[シリコーン]]や[[ポリウレタン]]、各種[[ポリマー]]など塩素を含まない製品の製造にも用いられる<ref>『塩素白書』p45</ref>。 == 人体・環境への影響 == {{Chembox |container_only = yes |Section7={{Chembox Hazards | ExternalSDS = | GHSPictograms = {{GHS03}} {{GHS06}} {{GHS09}} | GHSSignalWord = Danger | HPhrases = {{H-phrases|270|315|319|331|335|400}} | PPhrases = {{P-phrases|220|244|261|304|340|312|403|233|410}} | EU分類 = {{Hazchem O}}{{Hazchem T}}{{Hazchem N}} | EUIndex = Danger | GHS_ref = <ref>{{Cite web | url=https://www.sigmaaldrich.com/catalog/product/aldrich/295132?lang=en&region=US | title=Chlorine 295132 |publisher=Sigma-Aldrich |date=2021-07-29 |access-date=2021-12-22}}</ref> | NFPA-H = 3 | NFPA-F = 0 | NFPA-R = 0 | NFPA-S = OX | NFPA_ref = <ref>{{Cite web | url=https://www.sigmaaldrich.com/MSDS/MSDS/DisplayMSDSPage.do?country=US&language=en&productNumber=295132&brand=ALDRICH&PageToGoToURL=https%3A%2F%2Fwww.sigmaaldrich.com%2Fcatalog%2Fproduct%2Faldrich%2F295132%3Flang%3Den | title=Msds – 295132}}</ref> }} }} === 単体の毒性 === 塩素は強い毒性を持つため、人類初の本格的な[[化学兵器]]としても使われた。[[第一次世界大戦]]中の[[1915年]][[4月22日]]、[[第二次イーペル会戦|イープル]]戦線でのことである。このときに[[ドイツ軍]]の化学兵器部隊の司令官を務めていたのは、後年([[1918年]])[[ノーベル化学賞]]を受賞する[[フリッツ・ハーバー]]である。塩素ガスは、色がついていて重いためすぐにばれ、周りへの被害が少ない。支給されたマスクは中和液を含ませたガーゼマスクだった。 塩素を吸引すると、まず[[呼吸器]]に損傷を与える。[[空気]]中である程度以上の[[濃度]]では、[[皮膚]]の[[粘膜]]を強く刺激する。[[目]]や呼吸器の粘膜を刺激して[[咳]]や[[嘔吐]]を催し、重大な場合には[[呼吸不全]]で[[死]]に至る場合もある。液体塩素の場合には、塩素に直接触れた部分が炎症を起こす。 塩素を浴びてしまった場合、ただちにその場から離れ、着ていた[[衣服]]を脱ぎ、[[毛布]]に包まるなどして体を温めなければならない。ただちに[[医療機関]]での処置を要する。[[呼吸]]が停止している場合には一刻も早く[[人工呼吸]]による[[蘇生]]を行わなければならない。呼吸が苦しい場合には[[酸素マスク]]の着用を要する。 毒物および劇物取締法により劇物に指定されている<ref>[https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=81097000&dataType=0&pageNo=1&mode=0 毒物及び劇物指定令 昭和四十年一月四日 政令第二号 第二条 十七の三]</ref>。また、[[労働安全衛生法]]の[[特定化学物質#第2類物質|第2類特定化学物質]]に指定されている。 === 塩素ガス発生事故等 === 特に塩素を含む漂白剤([[次亜塩素酸ナトリウム]])と酸性の物質(おもに[[便所|トイレ]]用の洗剤)を混合すると、有毒な単体の塩素ガスが遊離し危険な状態となる。このため、漂白剤や酸性のトイレ用の洗剤には「混ぜるな危険」との大きく目立つ表示がある。このような表示がされる前(当時も小さな注意書き自体は存在した)には1986年には徳島県で、1989年には長野県で、実際に塩素系漂白剤と酸性洗浄剤を混ぜたことにより、塩素ガスが発生し死亡した事故が起こっている。 工場レベルでもミスがあると類似の事故が発生する。[[1976年]][[3月26日]]、[[東大阪市]]の[[メッキ]]廃液処理場では、清掃業者が塩素酸ソーダのタンクに誤って硫酸を投入、大量の塩素ガスが発生して周辺住民約100人が入院する騒ぎとなった<ref>塩素ガス漏れ住民バタバタ 東大阪約百人が入院『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月26日夕刊、3版、11面</ref>。 === オゾン層への影響 === {{See also|一酸化塩素}} 塩素は[[オゾンホール]]の原因物質としても指摘されている。[[フロン]]などの塩素原子を含む化合物が[[紫外線]]に当たると、結合が切断され'''[[ラジカル|塩素ラジカル]]'''が生じる。塩素ラジカルは周囲の[[オゾン]]と反応して触媒的にオゾンを[[酸素]]分子へと分解するため、[[オゾン層]]の破壊効果が大きい。 == 歴史 == [[1774年]]に[[スウェーデン]]の[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]が、海塩酸([[塩酸]])と[[二酸化マンガン]]を加熱させることによって単体を分離。 [[1810年]]に[[ハンフリー・デービー]]が元素であると認めた。 == 塩素の化合物 == 塩化物イオンあるいは置換基として塩素を含む化合物は'''塩化物'''あるいは'''塩素化合物'''と呼ばれる。塩素はほとんどすべての元素と安定な化合物を形成し、また有機化合物にも塩素を含むものが多く知られている(記事[[塩化物]]に詳しい)。個々の化合物については、「[[:Category:塩化物|塩化物のカテゴリ]]」および「[[:Category:有機ハロゲン化合物|有機ハロゲン化合物のカテゴリ]]」を参照されたい。 [[有機塩素化合物]]は、安定で、かつ安価に合成できるために、[[クロロホルム]]や[[ジクロロメタン]]のような代表的な[[有機溶媒]]として、あるいはポリ塩化ビニルなどの[[プラスチック]]として、大量に生産・使用されている。 反面、多くは毒性を持ち、[[環境]]中に放出された際に[[化学分解]]されにくい点、さらに焼却時には[[ダイオキシン]]を発生する点から、法令などで規制されている物質も多い。 === 塩素のオキソ酸 === 塩素のオキソ酸は慣用名を持つ。次にそれらを挙げる。 {| class="wikitable" |- ! オキソ酸の名称 ! style="white-space:nowrap"| 化学式(酸化数) ! style="white-space:nowrap"| オキソ酸塩の名称 ! 備考 |- | [[次亜塩素酸]]<br />(hypochlorous acid)|| <chem>HClO</chem> (+I)|| [[次亜塩素酸塩]]<br />( - hypochlorite)|| 次亜塩素酸塩は[[塩基性]]を示し、[[遊離酸]]よりも安定で漂白剤、殺菌剤として使用される。 |- | [[亜塩素酸]]<br />(chlorous acid)|| <chem>HClO2</chem> (+III)|| [[亜塩素酸塩]]<br />( - chlorite)|| 亜塩素酸は中程度の酸(pKa2.31)。亜塩素酸塩は[[危険物#第1類|危険物第1類]]。 |- | [[塩素酸]]<br />(chloric acid)|| <chem>HClO3</chem> (+V)|| [[塩素酸塩]]<br />( - chlorate)|| 塩素酸は強酸。塩素酸塩は[[危険物#第1類|危険物第1類]]で[[マッチ]]や[[火薬]]などの[[酸化]]剤として用いられる。 |- | [[過塩素酸]]<br />(perchloric acid)|| <chem>HClO4</chem> (+VII)|| [[過塩素酸塩]]<br />( - perchlorate)|| 過塩素酸は強酸で[[危険物#第6類|危険物第6類]]。過塩素酸塩は[[危険物#第1類|危険物第1類]]。 |} ※オキソ酸塩名称の '-' には[[イオン|カチオン]]種の名称が入る。 塩素のオキソ酸はいずれも[[酸化力]]が強い。代表的な化合物に次のようなものがある。 * [[次亜塩素酸ナトリウム]](<chem>NaClO</chem>) * [[次亜塩素酸カルシウム]](さらし粉(<chem>CaCl(ClO).H2O</chem>) - 不純物として原料の<chem>Ca(OH)2</chem>を含む == 同位体 == {{Main|塩素の同位体}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=[[国際純正・応用化学連合|IUPAC]]編、宮本純之監訳 |year=2000 |title=塩素白書 |publisher=[[化学工業日報社]] |isbn=4-87326-346-8 }} == 外部リンク == {{Commons|Chlorine}} * {{Hfnet|614|塩素}} * {{ICSC|0126}} * {{Kotobank}} {{元素周期表}} {{塩素の化合物}} {{二原子分子}} {{Chemical warfare}} {{ハロゲン間化合物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えんそ}} [[Category:塩素|*]] [[Category:元素]] [[Category:ハロゲン]] [[Category:第3周期元素]] [[Category:必須ミネラル]] [[Category:劇物]] [[Category:窒息剤]] [[Category:産業用ガス]] [[Category:有毒ガス]]
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食塩水
食塩水(しょくえんすい、英語:saline water)は水に食塩を溶かした溶液のこと。塩水(えんすい、しおみず)と呼ばれることもある。生理食塩水(せいりしょくえんすい)として適当な濃度にして生物を生かすために用いるほか、調理や比重差を利用した選別などにも用いられる。化学実験においては、反応溶液から酸や塩を除去するために用いられる。 塩化ナトリウム(NaCl)は我々の周辺の水におけるもっとも主要な溶質である。海水に溶けている成分でもっとも量が多く、我々が海水から受ける負担の大部分はこの成分に基づく。他方で生物は海で生まれたとされるように、塩化ナトリウムは生物体内においても常に一定濃度を保っている。また、体外の水域とのその濃度の違いは、浸透圧調節においてもっとも影響が大きい成分でもある。そのため、食塩の水溶液は、生活においては食品の処理、海水の代用、医学的には浸透圧調節、その他様々な用途に用いられる。 生物体と浸透圧が同じになるように調節された食塩水は、生理食塩水と言われる。生物によってその値は異なるので、対象とする生物にあわせたものを利用しなければならない。 日常では、医療的な処理をする際に使う。特に、傷口や粘膜などを洗うような用途には生理食塩水を使う。 スパゲティなど、パスタ類をゆでる場合、濃いめの塩水を使う。これは、これらが塩味を含んでいないので、ゆでる際に味付けをするためである。他方うどんやそうめんは真水でゆで、元々含まれる塩分を流し出す。 野菜を茹でる際などにも食塩水を使う。これには、沸点上昇によってより高い温度で加熱できる効果があるなどの説があるが間違いであり、薄く塩味をつけることが実質的な目的である。水の沸点上昇は1リットルの水に対して1モルの溶質あたり約0.515 K と小さいため、概算で1リットルの水に対して大さじ4杯の食塩を加えるごとに沸点が約1度ずつ上がる計算になり「高い温度」が期待できるほど食塩を加えたら、ほとんどの料理は塩辛くなりすぎる。したがって、通常料理に使う食塩濃度では、沸点上昇による調理への影響はないと考えて良い。
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食塩水は水に食塩を溶かした溶液のこと。塩水(えんすい、しおみず)と呼ばれることもある。生理食塩水(せいりしょくえんすい)として適当な濃度にして生物を生かすために用いるほか、調理や比重差を利用した選別などにも用いられる。化学実験においては、反応溶液から酸や塩を除去するために用いられる。 塩化ナトリウム(NaCl)は我々の周辺の水におけるもっとも主要な溶質である。海水に溶けている成分でもっとも量が多く、我々が海水から受ける負担の大部分はこの成分に基づく。他方で生物は海で生まれたとされるように、塩化ナトリウムは生物体内においても常に一定濃度を保っている。また、体外の水域とのその濃度の違いは、浸透圧調節においてもっとも影響が大きい成分でもある。そのため、食塩の水溶液は、生活においては食品の処理、海水の代用、医学的には浸透圧調節、その他様々な用途に用いられる。
{{出典の明記|date=2019年7月}} [[Image:SaltInWaterSolutionLiquid.jpg|thumb|[[食塩]]([[塩化ナトリウム|NaCl]])を[[水]]に溶かして食塩水[[溶液]]を作ります。塩が溶質、水が溶媒です。]] '''食塩水'''(しょくえんすい、[[英語]]:saline water)は[[水]]に[[塩|食塩]]を溶かした[[溶液]]のこと。'''[[塩水]]'''(えんすい、しおみず)と呼ばれることもある。'''[[生理食塩水]]'''(せいりしょくえんすい)として適当な[[濃度]]にして[[生物]]を[[生命|生かす]]ために用いるほか、[[調理]]や[[比重]]差を利用した選別などにも用いられる。[[化学]][[実験]]においては、[[化学反応|反応]][[溶液]]から[[酸]]や[[塩 (化学)|塩]]を除去するために用いられる。 [[塩化ナトリウム]](NaCl)は我々の周辺の[[水]]におけるもっとも主要な[[溶質]]である。[[海水]]に溶けている成分でもっとも量が多く、我々が海水から受ける負担の大部分はこの成分に基づく。他方で生物は海で生まれたとされるように、塩化ナトリウムは生物体内においても常に一定濃度を保っている。また、体外の[[水域]]とのその濃度の違いは、[[浸透圧]]調節においてもっとも影響が大きい成分でもある。そのため、食塩の[[水溶液]]は、[[生活]]においては[[食品]]の処理、海水の代用、[[医学]]的には[[浸透圧調節]]、その他様々な用途に用いられる。 == 利用法 == === 生理食塩水 === {{Main|生理食塩水}} 生物体と浸透圧が同じになるように調節された食塩水は、[[生理食塩水]]と言われる。生物によってその値は異なるので、対象とする生物にあわせたものを利用しなければならない。 日常では、[[医療]]的な処理をする際に使う。特に、[[傷|傷口]]や[[粘膜]]などを[[洗浄|洗う]]ような用途には生理食塩水を使う。 === 味付け === [[スパゲティ]]など、[[パスタ]]類をゆでる場合、濃いめの塩水を使う。これは、これらが塩味を含んでいないので、ゆでる際に味付けをするためである。他方[[うどん]]や[[そうめん]]は真水でゆで、元々含まれる塩分を流し出す。 [[野菜]]を[[茹でる]]際などにも食塩水を使う。これには、[[沸点]]上昇によってより高い[[温度]]で[[加熱]]できる効果があるなどの説があるが間違いであり、薄く塩味をつけることが実質的な目的である。水の沸点上昇は1[[リットル]]の水に対して1[[モル濃度|モル]]の[[溶質]]あたり約0.515 K と小さいため、概算で1リットルの水に対して[[計量スプーン|大さじ]]4杯の食塩を加えるごとに沸点が約1度ずつ上がる計算になり「高い温度」が期待できるほど食塩を加えたら、ほとんどの料理は塩辛くなりすぎる。したがって、通常料理に使う食塩濃度では、沸点上昇による調理への影響はないと考えて良い。 == 調理 == * [[カキ (貝)|カキ]]などは水洗いでなく食塩水で洗う。 * [[野菜]]を[[湯通し]]する際の[[湯]]には塩をひとつまみ入れる。 * [[潮干狩り]]で捕ってきた[[アサリ]]などは[[海水]]に近い濃度の塩水に一晩つけ、[[砂]]を吐かせる。これは簡易的な海水の代用としての用途である。 == 関連項目 == * [[経口補水塩]] * [[海水]] * [[輸液]] * [[鹹水]] * [[塩水]] * [[塩分濃度]] * [[生理食塩水]] * [[砂糖水]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しよくえんすい}} [[Category:水]] [[Category:塩化ナトリウム]] [[Category:液体水]] [[Category:溶液]]
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SUN
SUN, Sun, sun
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SUN, Sun, sun 太陽 日曜日 (Sunday) 血清尿素窒素 サン・マイクロシステムズ ザ・サン - イギリスの新聞。 サンテレビジョン - 日本のテレビ局。 SUN (アルバム) - UAのアルバム。 SUN (曲) - 星野源のシングル。 流星/the sun - 清春のシングル。 THE SUN (佐野元春のアルバム) the Sun Soul of the Ultimate Nation - ネットゲーム。 サン - ゲームから派生した漫画『ポケットモンスターSPECIAL』に登場する架空の人物。 ぷよぷよSUN
'''SUN''', '''Sun''', '''sun''' ; 一般名詞 * [[太陽]] * [[日曜日]] (Sunday) * [[尿素窒素|血清尿素窒素]] ; 企業名など * [[サン・マイクロシステムズ]] (Sun Microsystems) * [[ザ・サン]] (The Sun) - イギリスの[[新聞]]。 * [[サンテレビジョン]] - 日本のテレビ局。 ; 音楽 * [[SUN (アルバム)]] - [[UA (歌手)|UA]]のアルバム。 * [[SUN (曲)]] - [[星野源]]のシングル。 * [[流星/the sun]] - [[清春]]のシングル。 * [[THE SUN (佐野元春のアルバム)]] * [[the Sun (Brian the Sunのアルバム)]] ; その他作品名など * [[Soul of the Ultimate Nation]] - ネットゲーム。 * [[ポケットモンスターSPECIALの登場人物|サン]] - ゲームから派生した漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』に登場する架空の人物。 * [[ぷよぷよSUN]] == 関連項目 == {{wiktionary|sun}} * [[SAN (曖昧さ回避)]] * [[サン (曖昧さ回避)]] * [[ザ・サン (曖昧さ回避)]] * [[:en:Sun and Moon]] * {{prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:さん}} [[Category:英語の語句]] [[Category:同名の作品]]
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漫画原作者
漫画原作者(まんがげんさくしゃ)とは、漫画における脚本「原作」を担当する者のこと。考案する「原作」は脚本形式のほか、小説形式、ネーム形式などさまざまである。 漫画原作者は特定の漫画作品を作成するため、そのストーリーや人物・世界観といった設定を考案・執筆する。特定の漫画作品のために書かれたものを漫画原作と呼び、脚本や絵コンテなど、さまざまな形態で作成される。また、漫画原作者は自らの著作として完成された形態で脚本などを執筆するわけではなく、それらの原稿にも著作権を有するため、執筆されたものが書籍などで読者の目に触れて公開されることは、ほとんどない。 漫画原作者は自ら画を描くことはなく作品設定やストーリー、セリフを作成し、漫画家がそれらをベースに作画する。映画でいうところの脚本家に近い位置づけで、演出については漫画家が主導権を持つことが多い。ただし、近年はネーム原作と呼ばれる演出(絵コンテ)まで担当する漫画原作者も増えている。 アメリカン・コミックスにおいては、スクリプト(脚本)を担当する者はライターと呼ばれる。 漫画はその黎明期には、漫画家が作画のすべてとストーリー創作・資料収集のすべてを手がけた。しかし、読者のニーズに合わせる形で漫画が多様化し、作画やストーリーが複雑化した結果、単独で、しかも限られた期間内において創作の全工程を手がけることが難しくなっていった。このような背景から、漫画創作においても映画やテレビドラマのように分業化が生じた。 最初の分業は作画工程に起きた。友人などを動員して作画を「お手伝い」していた時代から、漫画家が作画のためにアシスタントとして雇うことが増えた。 次に、漫画家のためにストーリーを提供する役割が求められた。発表済みの小説が漫画の原作となることが多くあったが、さらに漫画作品のためのオリジナル・ストーリーが作成される事例が現れる。これが、漫画の「原作」と呼ばれるようになった。 著者に名を連ねず、ストーリー構成について同じような役割を担うスタッフが存在したことから、漫画原作者の存在が認知されるようになった後でも、その役割は明確ではない。漫画作品には漫画家の名のほか、漫画原作者とは違った多種多様なクレジットが存在する。それらは脚本執筆以上の役割や、それ以下の役割であることを暗示するためと考えられるが、個々に厳密な定義は存在しない。 以下、漫画原作者としての代表作を付記する。 ただし、監修、データ協力、もともとの小説の作者、小説の脚色や潤色、といったケースは漫画原作を担ったものではないため、含めない。
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漫画原作者(まんがげんさくしゃ)とは、漫画における脚本「原作」を担当する者のこと。考案する「原作」は脚本形式のほか、小説形式、ネーム形式などさまざまである。
{{複数の問題 |特筆性 = 2023年1月2日 (月) 04:28 (UTC) |独自研究 = 2023年1月2日 (月) 04:28 (UTC) |出典の明記 = 2023年3月 }} '''漫画原作者'''(まんがげんさくしゃ)とは、[[漫画]]における[[脚本]]「[[漫画原作|原作]]」を担当する者のこと。考案する「原作」は脚本形式のほか、[[小説]]形式、[[ネーム (漫画)|ネーム]]形式などさまざまである。 == 概要 == 漫画原作者は特定の漫画作品を作成するため、そのストーリーや人物・世界観といった設定を考案・執筆する。特定の漫画作品のために書かれたものを[[漫画原作]]と呼び、[[脚本]]や[[絵コンテ]]など、さまざまな形態で作成される。また、漫画原作者は自らの著作として完成された形態で脚本などを執筆するわけではなく、それらの原稿にも[[著作権]]を有するため、執筆されたものが書籍などで読者の目に触れて公開されることは、ほとんどない。 漫画原作者は自ら画を描くことはなく作品設定やストーリー、セリフを作成し、[[漫画家]]がそれらをベースに作画する。映画でいうところの[[脚本家]]に近い位置づけで、[[演出]]については漫画家が主導権を持つことが多い。ただし、近年は[[ネーム (漫画)|ネーム原作]]と呼ばれる演出(絵コンテ)まで担当する漫画原作者も増えている。 [[アメリカン・コミックス]]においては、[[スクリプト (アメリカンコミック)|スクリプト(脚本)]]を担当する者は'''ライター'''と呼ばれる。 === 分業化 === 漫画はその黎明期には、漫画家が作画のすべてとストーリー創作・資料収集のすべてを手がけた。しかし、読者のニーズに合わせる形で漫画が多様化し、作画やストーリーが複雑化した結果、単独で、しかも限られた期間内において創作の全工程を手がけることが難しくなっていった。このような背景から、漫画創作においても映画やテレビドラマのように分業化が生じた。 最初の分業は作画工程に起きた。友人などを動員して作画を「お手伝い」していた時代から、漫画家が作画のために[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]として雇うことが増えた。 次に、漫画家のためにストーリーを提供する役割が求められた。発表済みの小説が漫画の原作となることが多くあったが、さらに漫画作品のためのオリジナル・ストーリーが作成される事例が現れる。これが、漫画の「原作」と呼ばれるようになった。 === 役割と提供形式 === 著者に名を連ねず、ストーリー構成について同じような役割を担うスタッフが存在したことから、漫画原作者の存在が認知されるようになった後でも、その役割は明確ではない。漫画作品には漫画家の名のほか、漫画原作者とは違った多種多様なクレジットが存在する。それらは脚本執筆以上の役割や、それ以下の役割であることを暗示するためと考えられるが、個々に厳密な定義は存在しない。 * 漫画原作者は漫画作品の絵を描かない。作品設定、ストーリー、セリフなどを作成し、プロット(物語)作成または[[脚本家]]としての役割を果たす。 * 原作を提供する形態として、[[小説]]形式・[[脚本]]形式で提供され、作画担当者が漫画に起こす場合と、原作者が「[[ネーム (漫画)|ネーム]]」という「漫画のコマ割」までを作って作画担当者に渡す場合とがある。後者の「コマ割」という形態をとる原作者は、主に漫画家の経験者である。 * 主流は小説形式ではなく、シナリオ形式である。 * 完成済みの文学作品(小説、[[ライトノベル]]など)・テレビアニメ・コンピュータゲームなどを原作として、漫画が描かれることもあるが、このような場合はオリジナルの著作権者が個人([[自然人]])よりも[[法人]](ゲーム会社、[[アニメ制作会社]]などの企業)である場合が多いため、「漫画」原作者とは呼ぶことはない。作者が故人となっている過去の作品が漫画原作となることもあるが、これについても同様である。 * 原作とは別に「企画」「原案」「監修」「協力」などと、さまざまなクレジットが存在する。しかし、いずれの実態や役割も明確にされていない。 * 漫画作品は古くから、漫画家や編集者とのディスカッションなどを通じて製作されていた。その発展形態として、少年誌を中心に編集者が事実上ストーリーを作成して漫画家が作画をする作業形態が存在すると、漫画家や関係者によって語られている。しかし、編集者が著者としてクレジットされている例は見られない。 == 漫画原作者の一覧 == 以下、漫画原作者としての代表作を付記する。 ただし、監修、データ協力、もともとの小説の作者、小説の脚色や潤色、といったケースは漫画原作を担ったものではないため、含めない。 === あ === ;あいだいろ : 『[[地縛少年花子くん]]』 ; [[青木潤太朗]] : 『[[℃りけい。]]』『[[鍋に弾丸を受けながら]]』 ; [[青山広美]] : 『[[ギャンブルフィッシュ]]』 ; [[赤坂アカ]] : 『[[【推しの子】]]』 ; [[暁なつめ]] : 『[[けものみち (漫画)|けものみち]]』 ; [[あかほりさとる]] : 『[[爆れつハンター]]』『[[MOUSE (漫画)|MOUSE]]』 ; [[赤見千尋]] : 『優駿の門 アスミ』 ; 秋月戸市 : 『[[日掛け金融伝 こまねずみ出世道]]』 ; [[秋元康]] : 『[[OH!MYコンブ]]』『[[あずきちゃん]]』 ; [[日日日]] : 『[[虐殺魔法少女ベリアル☆ストロベリー]]』『[[邪眼探偵ネクロさんの事件簿]]』『[[ぽち軍曹。]]』『せんがく』 ; [[あすか正太]] : 『ひ・め・こ・と』 ; [[東史朗]](東史郎、西脇英夫) : 『[[夜叉 (漫画)|夜叉]]』『花と襟章』 ; あべ善太 : 『[[味いちもんめ]]』 ; [[安部譲二]] : 『[[RAINBOW-二舎六房の七人-]]』 ; [[天沢彰]] : 『警視庁迷宮課』 ; [[天原]] : 『[[異種族レビュアーズ]]』『[[平穏世代の韋駄天達]]』 ; [[池田悦子]] : 『[[悪魔の花嫁]]』 ; [[井沢ひろし]] : 『[[デジモンアドベンチャーVテイマー01]]』『[[ファイアーエムブレム 覇者の剣]]』『[[ETOILE -三銃士星羅-]]』 ; [[いしぜきひでゆき]] : 『[[コンシェルジュ (漫画)|コンシェルジュ]]』 ; イタバシマサヒロ : 『[[BOYS BE…]]』 ; [[市原剛]] : 『[[ダブル・ハード]]』『RUNNING CHASER』 ; [[伊藤智義]] : 『[[栄光なき天才たち]]』 ; [[稲垣理一郎]] : 『[[アイシールド21]]』『[[Dr.STONE]]』『[[トリリオンゲーム]]』 ; [[井上敏樹]] : 『DRUM拳』『[[なんてっ探偵アイドル]]』『[[メビウスギア]]』『[[ソードガイ 装刀凱|ソードガイ]]シリーズ』『パワーザキティ イチゴマン』 ; [[井龍一]] : 『[[親愛なる僕へ殺意をこめて]]』 ; [[伊庭晋太郎]] : 『マリア ブーメランのように』 ; [[今井亮一]] : 『交通被告人前へ!!』 ; [[岩井恭平]] : 『[[OZ (岩井恭平・刻夜セイゴの漫画)|Oz-オズ-]]』『[[ホリィさんが通る]]』 ; [[岩見吉朗]](久部緑郎、義凡) : 『[[ラーメン発見伝]]』『[[ヴィルトゥス (漫画)|ヴィルトゥス]]』 ; [[魚柄仁之助]] : 『[[おかわり飯蔵]]』 ; [[大石賢一]] : 『[[HOTEL]]』 ; [[大竹オサム]] : 『[[ケンタウロスの伝説]]』 ; [[大塚英志]] : 『[[魍魎戦記MADARAシリーズ]]』『[[多重人格探偵サイコ]]』『[[黒鷺死体宅配便]]』『[[木島日記]]』『[[アンラッキーヤングメン]]』 ; [[大友克洋]] : 『沙流羅』 ; [[大場つぐみ]] : 『[[DEATH NOTE]]』『[[バクマン。]]』『[[プラチナエンド]]』 ; [[岡田麿里]] : 『[[荒ぶる季節の乙女どもよ。]]』 ; [[オクショウ]] : 『[[リアルアカウント]]』『[[バックステージ!]]』 === か === ; [[高山よしのり|鏡丈二]] : 『[[ホールインワン (漫画)|ホールインワン]]』 ; [[香川まさひと]] : 『[[島根の弁護士]]』<ref group="注釈">第66話で降板。第67話以降は作画の[[あおきてつお]]が原作も兼任。</ref>『[[監察医 朝顔]]』『[[前科者 (漫画)|前科者]]』 ; [[梶研吾]] : 『[[交通事故鑑定人・環倫一郎]]』 ; [[梶原一騎]](高森朝雄) : 『[[巨人の星]]』『[[あしたのジョー]]』『[[タイガーマスク]]』『[[愛と誠]]』『[[空手バカ一代]]』『[[柔道一直線]]』『[[侍ジャイアンツ]]』 ; [[門馬司]] : 『死神サイ殺ゲーム』『首を斬らねば分かるまい』『ストーカー行為がバレて人生終了男』『[[満州アヘンスクワッド]]』 ; [[金城宗幸]] : 『[[神さまの言うとおり]]』『[[グラシュロス]]』『[[ジャガーン]]』『[[ブルーロック]]』 ; [[金成陽三郎]] : 『[[金田一少年の事件簿]]』<ref group="注釈">開始当初はメインで製作していたが、後期からは原案の[[樹林伸|天樹征丸]]がメインとなり、単行本でも名前が記載されなくなった。</ref>『[[ギミック!]]』 ; [[鎌池和馬]] : 『[[とある科学の超電磁砲]]』『とある魔術の禁書目録外伝 とある科学の一方通行』 ; [[上代務|神尾龍]](上代務) : 『[[ラストイニング]]』『[[鳳 (漫画)|鳳]]』 ; [[狩撫麻礼]](カリブ・マーレィ、ひじかた憂峰) : 『[[迷走王 ボーダー]]』『[[湯けむりスナイパー]]』『[[リバースエッジ 大川端探偵社]]』 ; [[雁屋哲]] : 『[[男組]]』『[[野望の王国]]』『[[美味しんぼ]]』 ; [[河島正]] : 『[[アライブ-最終進化的少年-]]』 ; [[河村塔]] : 『[[ゆらふるべ]]』『水』(原案協力) ; [[河本ほむら]] : 『[[賭ケグルイ]]』 ; [[木内一雅]] : 『[[代紋TAKE2]]』『[[アウト・ロー]]』 ; [[きうちかずひろ]] : 『こども極道ボンガドン』 ; [[喜国雅彦]] : 『この花はわたしです。』<ref group="注釈">作画を務めた[[国樹由香]]の怪我により、原作者自身が執筆した回がある。<!--月刊サンデーGX・2002年1月号 - 2月号--></ref> ; [[北芝健]](喜田健夫) : 『[[まるごし刑事]]』『[[新まるごし刑事]]』『私刑都市』『[[俺の空]] 刑事編』『[[内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎]]』『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』の一部 ; [[北原雅紀]](小路谷純平) : 『昆虫鑑識官ファーブル』『あんこう 〜快釣海上捜査線〜』『玄米せんせいの弁当箱』『[[あいどるDays]]』『[[ジキルとハイドと裁判員]]』『[[どらコーボク]]』、『ショパンの事件譜』 ; [[樹林伸]](天樹征丸、安童夕馬、青樹佑夜、亜紀直) : 『[[金田一少年の事件簿]]』『[[サイコメトラーEIJI]]』『[[GetBackers-奪還屋-]]』『[[神の雫]]』 ; [[きむらはじめ (漫画原作者)|きむらはじめ]](勝鹿北星、ラデック・鯨井) : 『なんか妖かい!?』『[[MASTERキートン]]』([[長崎尚志]]との連名)『SEED』『[[ゴルゴ13]]』(一部) ; [[牛次郎]](三枝四郎) : 『釘師サブやん』『[[包丁人味平]]』『[[炎の巨人]]』『[[プラレス3四郎]]』『[[やる気まんまん (漫画)|やる気まんまんシリーズ]]』 ; [[来賀友志]](注連木賢、五條敏) : 『[[天牌]]』『[[麻雀群狼記 ゴロ]]』 ; [[久住昌之]] : 『[[孤独のグルメ]]』『[[花のズボラ飯]]』『[[荒野のグルメ]]』 ; [[工藤かずや]] : 『[[パイナップルARMY]]』、『[[信長 (漫画)|信長]]』、『[[極道ステーキ]]』 ; [[倉科遼]](司敬) : 『[[夜王]]』『[[女帝 SUPER QUEEN|女帝]]』『[[嬢王]]』 ; [[倉田英之]] : 『[[R.O.D]]』 ; [[黒沢哲哉]] : 『[[マジック・マスター]]』『HAIKARA事件帖』『プレイヤーは眠れない』『マル暴鑑識官』『[[タイムアンドアゲイン]]』 ; [[小池一夫]] : 『[[子連れ狼]]』『[[クライング フリーマン]]』『[[オークションハウス]]』 ; [[小林深雪]] : 『[[キッチンのお姫さま]]』 ; 小堀洋 : 『五百蔵酒店物語』『ヒットラーの息子』『[[ザ・コップ]]』 ; [[小森陽一 (作家)|小森陽一]] : 『[[海猿|海猿 -UMIZARU-]]』『[[トッキュー!!]]』『[[S -最後の警官-]]』 ; 近藤雅之 : 『[[警視総監アサミ]]』 === さ === ; [[さいふうめい]](竹内一郎) : 『[[哲也-雀聖と呼ばれた男]]』『アストライアの天秤』 ; [[佐木飛朗斗]] : 『[[疾風伝説 特攻の拓]]』 ; [[櫻井寛]] : 『[[駅弁ひとり旅]]』 ; [[佐々木守]] : 『[[男どアホウ甲子園]]』 ; [[貴家悠]] : 『[[テラフォーマーズ]]』 ; [[佐藤大輔]] : 『[[皇国の守護者]]』『[[学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD]]』 ; [[三条陸]](瑳川竜) : 『[[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-]]』『[[冒険王ビィト]]』 ; [[サンドロビッチ・ヤバ子]] : 『[[ケンガンアシュラ]]』『[[ダンベル何キロ持てる?]]』 ; [[施川ユウキ]] : 『[[ハナコ@ラバトリー]]』 ; [[志名坂高次]] : 『[[モンキーピーク]]』『ラクガキ〜呪いの館〜』 ; [[城アラキ]](荒仁、観月穣、伊藤昭) : 『[[ソムリエ (漫画)|ソムリエ]]』『[[ソムリエール (漫画)|ソムリエール]]』『[[新ソムリエ 瞬のワイン]]』『[[バーテンダー]]』 ; 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ロック
ロック(lock, locke, rock ほか)
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ロック
{{WikipediaPage|ウィキメディアにおけるロックについては、[[m:Global locks/ja]]をご覧ください。}} {{Wiktionary|ロック}} '''ロック'''(lock、locke、rockなど) == lock == {{Wiktionary|lock}} * [[固定]]・固着すること。 ** [[格闘技]]の[[固技|固め技]]。例:[[ヘッドロック]]。 * [[錠前]]。または、錠前などに[[鍵]]をかける(施錠する)こと。 * 上記に転じて、物質・データなどを(実在・仮想の)ものの中に閉じ込め、自由に接触できなくすること。 ** [[安全装置]] ** [[ロック (計算機科学)]] - [[アクセス制御]]のための仕組み。例:[[SIMロック]]。 *** [[ウェブサイト]]管理者が[[アクセス禁止]]状態を課すこと。またはその状態。例:[[グローバルロック]]。 * [[ロック (ダンス)]] - ダンスのジャンル。 * [[ロック核酸]] - [[ゼノ核酸]]の一種。 * ロック - [[ラグビーユニオン|ラグビー]]のポジションのうち、フォワードの第2列(ロック・フォワード)のこと。[[ラグビーユニオンのポジション#セカンドロー]]参照。 * [[閘門]]。[[運河]]などで、水位の異なる[[水面]]間を[[船]]が移動するための設備。 == locke == {{Wiktionary|en:Locke}} * 英語圏の姓。 ** [[ジョン・ロック]] - 哲学者 *** [[ロック (小惑星)]] ** [[マシュー・ロック]] - 作曲家 * Locke - 2013年のイギリス・アメリカ合作映画『[[オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分]]』の原題。 == rock == {{Wiktionary|rock}} * [[岩石]]。例:[[ロッククライミング]]、[[ロックガーデン]]。 * [[ロック (音楽)]] * 英語圏におけるロックフィッシュ(rockfish)の略。⇒[[根魚]] ** [[ロック (潜水艦)]] - アメリカ海軍の潜水艦 * [[クラック・コカイン]]を指す英語圏の俗語。 * 日本語における[[オン・ザ・ロック]]の略。酒類の飲み方の一種で、[[氷]]を入れること。 * [[ROCK (木村カエラのアルバム)]] - 2013年 * ロック (ROCK) - 中国製の[[葉巻きたばこ|リトルシガー]]の銘柄のひとつ。 ; 地名 * [[ロック郡]] - 曖昧さ回避 ; 人名 * [[ロック・ハドソン]] - アメリカ合衆国の俳優。 * The Rock - [[ドウェイン・ジョンソン]]のリングネーム。 * [[ROCK-Tee]] - 日本のミュージシャン。[[EAST END]]のメンバー。 == その他 == ; 地名 * Loc - フランスの地名に用いられる接頭辞。[[ロック=エギネール]]、[[ロック=ブレヴァレール]]など。 ; 人名 * [[古川ロック]] - 日本の俳優。 ; その他 * [[ロック鳥]](roc) - インド洋地域の伝説に登場する巨鳥。 * [[ストラトローンチ・システムズ|モデル351 ロック]](roc) - ロケットの空中発射を行う超大型機。愛称は上記巨鳥にちなむ。 * [[ラグナロク|ラグナロック]](Ragnarøk) - 北欧神話の世界における終末の日。カタカナ表記のゆらぎの一つ。 * [[ブラックバーン ロック]](roc) - イギリスの戦闘機。 * {{仮リンク|ロック (競技)|en|Roque}}(roque) - [[球技]]。[[クロッケー]]の亜種。 * [[ロック 〜わんこの島〜]] - 2011年公開の日本映画。 * [[ロックペイント]] - 日本の塗料メーカー。 * [[ロック開発]] - かつて存在した日本のショッピングセンターのデベロッパー。 * [[ロック座]] - 日本・東京都にある大人向け劇場。 === 架空の人名 === * [[ロック・ホーム]] - [[手塚治虫]]の漫画・アニメーション作品に多数登場するキャラクター。別名・間久部緑郎。 * [[ロック・リー]] - 漫画『[[NARUTO -ナルト-]]』の登場人物。 * [[ロック・ハワード]] - ゲーム『[[餓狼 MARK OF THE WOLVES]]』の主人公。 * [[超人ロック]] - [[聖悠紀]]の漫画、および同作品の主人公。 ; その他項目のないもの * ゲーム「[[ロックマンシリーズ]]」(海外版「[[Mega Man]]」含む)の主人公・ロックマンの本名。 ** ロック・ヴォルナット - 上記ゲームの関連シリーズ「[[ロックマンDASHシリーズ]]」の主人公。 * 漫画『[[BLACK LAGOON]]』の主人公・岡島緑郎の通称。 * メディアミックス作品『[[俺の妹がこんなに可愛いわけがない]]』の登場人物・田村いわおの通称。 * テレビアニメ『[[Go!プリンセスプリキュア]]』の敵キャラクター。 * ゲーム『[[絶対音感オトダマスター]]』に登場するアイテムキャラクター「オトダマ」のひとつ。 * メディアミックス『[[BanG Dream!]]』の登場人物・朝日六花の愛称。 * パチスロ『[[秘宝伝〜太陽を求める者達〜]]』の主人公。 * ロック・コール - ゲーム『[[ファイナルファンタジーVI]]』の登場人物。 == 関連項目 == * {{intitle|ロック}} * {{intitle|lock}} * {{intitle|rock}} * [[ロックス (曖昧さ回避)]] * [[ザ・ロック (曖昧さ回避)]] * [[ロックンロール (曖昧さ回避)]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ろつく}} [[Category:英語の語句]] [[Category:英語の姓]]
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カント (曖昧さ回避)
カント
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カント カント (路線) - 道路、競輪場や鉄道の線路の曲線部において、通過する車両に働く遠心力の影響を低減するために、路面もしくは軌道面の曲線外周側を高くして、車両を内側に傾けるようにすること。道路の場合には「横断勾配」「片勾配」「バンク」とも呼ばれる。道路の場合は傾斜角度を「何度何分」、鉄道の場合は2本のレールの高度差で「何ミリ」と表記することが多い。 イタリアに存在した企業カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコの通称。 英語で女性の性器のこと。女性器参照。ヴァギナは膣のみを意味するのに対して女性器全体を意味する。 ドイツ人の姓。 イマヌエル・カント - ドイツの哲学者。 インド人の姓。 クリシャン・カント - インドの副大統領。 カント (キルギス) - キルギスの都市。 フィンランド人の姓。 ミンナ・カント - フィンランドの小説家。 イタリア語で歌のこと。ベルカントも参照のこと。 ウィリアム・フランシス・マクベスの吹奏楽曲。第26回全日本吹奏楽コンクール課題曲を参照。 詩や小説の編、章のこと。en:Canto ミゲル・カント - メキシコの元プロボクサー。元WBC世界フライ級王者。
'''カント''' ; cant * [[カント (路線)]] - [[道路]]、[[競輪場]]や[[鉄道]]の[[線路 (鉄道)|線路]]の曲線部において、通過する車両に働く遠心力の影響を低減するために、路面もしくは軌道面の曲線外周側を高くして、車両を内側に傾けるようにすること。道路の場合には「横断勾配」「片勾配」「[[バンク]]」とも呼ばれる。道路の場合は傾斜角度を「何度何分」、鉄道の場合は2本のレールの高度差で「何ミリ」と表記することが多い。 ; CANT * [[イタリア]]に存在した企業[[カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ]]の通称。 ; cunt * 英語で[[女性]]の[[性器]]のこと。[[女性器]]参照。[[ヴァギナ]]は[[膣]]のみを意味するのに対して女性器全体を意味する。 ; Kant * ドイツ人の姓。 ** [[イマヌエル・カント]] - ドイツの哲学者。 * インド人の姓。 ** {{仮リンク|クリシャン・カント|en|Krishan Kant}} - [[インド]]の副大統領。 * {{仮リンク|カント (キルギス)|en|Kant, Kyrgyzstan}} - [[キルギス]]の都市。 ; Canth * フィンランド人の姓。 ** [[ミンナ・カント]] - フィンランドの小説家。 ; canto * イタリア語で歌のこと。[[ベルカント]]も参照のこと。 ** [[ウィリアム・フランシス・マクベス]]の吹奏楽曲。[[第26回全日本吹奏楽コンクール課題曲]]を参照。 * 詩や小説の編、章のこと。[[:en:Canto]] ; Canto * [[ミゲル・カント]] - メキシコの元プロボクサー。元WBC世界フライ級王者。 {{aimai}} {{デフォルトソート:かんと}} [[Category:英語の語句]] [[Category:イタリア語の語句]] [[Category:ドイツ語の姓]] [[Category:スペイン語の姓]] [[Category:フィンランド語の姓]]
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平均
平均(へいきん、英: mean, average, 独: Mittelwert, 仏: moyenne)または平均値(へいきんち、英: mean value, average value)とは、数学において、数の集合やデータの中間的な値を指す。 狭い意味での中間値にとどまらず、算術平均(相加平均)・幾何平均(相乗平均)・調和平均・対数平均など様々な種類で用いられる。ただし一般的には算術平均を指す。これは、集合の要素の総和を要素数で割ったものである。 数学以外では、日本語では、不揃いでないこと、釣り合いが取れていることなどの意味を指す(英: balance)。 科学観測や社会調査から得られるデータでは、算術平均を代表値の一つとして用いる。算術平均が中央値、最頻値、中点値と比べてデータの特徴をよく表すものかどうかを検討する必要がある。正規分布に近い場合は算術平均と標準偏差を用いることは適切だが、そうでない分布の場合は、算術平均値が度数の多い値を示すとはいえない。 例えば、国民(例えば日本人)の所得について考える。このデータでは、一部の高所得者が算術平均値を引き上げてしまい、算術平均値をとる世帯は実際にはほとんどいないということになる。よってこの場合正規分布には従わない。日本の国税庁の民間給与実態統計調査によると、平成29年度の場合、給与所得の算術平均値は423万円だが、最頻値は300万円~400万円の区分であり、ずれている。従って、一般的な世帯の所得をとらえるには中央値や最頻値が有効であるが、所得は97%~99%は所得の対数値が正規分布(対数正規分布)に従っているため、所得の対数値の算術平均、つまり幾何平均を用いるのが適切な所得の代表値であるともいえる。 分布が左右対称でない時、中央値、最頻値を用いると良い場合もある。また、飛び抜けた値(外れ値)がごく少数の場合には、最大と最小を除外した刈込平均(トリム平均(英語版))を用いることもある。平均が中央値、最頻値、中点値と乖離している場合は刈込平均を含めた平均以外の使用を考えるとよい。 統計学では、平均値とは普通は算術平均(相加平均)のことを指す。これはデータの値から算術的に計算して得られる統計指標値の一つである。 統計学では平均には母平均と標本平均がある。母平均は、母集団の相加平均のこと。標本平均は、抽出した標本(母集団の部分集合)の相加平均のこと。母平均を μ、標本平均を m と書いて区別する場合がある。 算術平均(さんじゅつへいきん、英: arithmetic mean, 独: arithmetisches Mittel, 仏: moyenne arithmétique)とも呼ぶ。 相加平均は で定義される。式変形して と表すこともできる。 x 1 , x 2 , ... , x n {\displaystyle x_{1},x_{2},\dots ,x_{n}} の相加平均を x ̄ {\displaystyle {\bar {x}}} とも表す。 相加平均は、加法とスカラー倍が定義された数(実数、複素数、ベクトル等)に対して定義できる。 相乗平均(そうじょうへいきん)または幾何平均(きかへいきん、英: geometric mean, 独: geometrisches Mittel, 仏: moyenne géométrique)は で定義される。幾何平均は相乗平均と同義の用語である。 式変形して とも表せる。 対数を取ると となり、相乗平均は、対数の算術平均の指数関数である。あるいは、相乗平均の対数は対数の算術平均である。 データに1つ以上の 0 があるときは、相乗平均は 0 となる。値全てが実数であっても、積が負の場合は、相乗平均は実数の範囲内では存在しない。また複素数の範囲内では、値全てが実数であって積が正負いずれであっても、相乗平均は一意に定まらない可能性がある。 相乗平均は、積と累乗根が定義された数(実数、複素数)について定義できる。 調和平均(ちょうわへいきん、英: harmonic mean)は で定義される。あるいは とも表せる。 調和平均は、逆数の算術平均の逆数である。あるいは、逆数の算術平均は調和平均の逆数である。 しかし、データに1つ以上の 0 があるとき、調和平均はもとの定義式からは定義できないが、0 への極限を取ると、調和平均は 0 となる( x i → 0 {\displaystyle x_{i}\to 0} のとき μ H → 0 {\displaystyle \mu _{\mathrm {H} }\to 0} )。データに負数があっても調和平均は計算することができる。ただし、正負が混在している場合に逆数の和が 0 になることがあり、その場合の極限は発散する。 算術平均、相乗平均、調和平均は同じ式 あるいは で表せる。この実数 p に対して定義した式の値を p一般化平均と呼ぶ。 p = 1 で算術平均、p = −1 で調和平均となり、p → 0 への極限が相乗平均である。また、p = 2 の場合を二乗平均平方根 (RMS) と呼び、物理学や工学で様々な応用をもつ。p → ∞ への極限は最大値、p → −∞ への極限は最小値である。 一般化平均は、ベクトル ( x 1 , ... , x n ) {\displaystyle (x_{1},\dots ,x_{n})} の pノルムを n 1 / p {\displaystyle n^{1/p}} で割った結果に一致する。 データの p乗の平均、つまり、一般化平均の p乗 を p乗平均と呼ぶ。 p乗平均・一般化平均の応用として、例えば統計学では分散と標準偏差がある。偏差(値から相加平均を引いた値)のそれぞれ 2乗平均・2一般化平均として定義されている。 一般化平均はさらに一般化が可能で、全単射な関数 f により という平均が定義できる。恒等関数 f(x) = x により相加平均が、逆数 f(x) = 1/x により調和平均が、対数関数 f(x) = log x により相乗平均がそれぞれ表されている。 実数 p に対する p一般化平均は、データの値が全て非負の実数であるときに定義される。これは、一般化平均の式に現れる p乗根(冪函数)が負数に対し定義できないためである。例外は、冪関数を使わずに計算できる算術平均と調和平均 (p = ±1) である。それ以外の p ≠ ±1 の場合、負数が1つでも含まれるデータに対しては、一般化平均の定義式は実数を返さないか、実数を返したとしても結果は解釈が難しい。 p < 0 の場合、0 を含むデータに対しては一般化平均の定義式は使えないが、調和平均同様、0 への極限を取ると一般化平均は 0 となる。幾何平均(0一般化平均)も 0 となるので、p ≤ 0 の場合に一般化平均は 0 と考えることができる。 n個の実数が全て正の時、次の大小関係が成り立つ。 等号成立条件は である。 左側の不等式は、両辺に対数をとりlogの凸性(イェンセンの不等式)を適用すれば証明できる(数学的帰納法を使った別証明も知られている)。右側の不等式は、調和平均が逆数の相加平均の逆数という事実を左側の不等式に適用すれば証明できる。 さらに拡張した p一般化平均 ( 1 n ∑ i = 1 n x i p ) 1 / p {\displaystyle \left({\frac {1}{n}}\sum _{i=1}^{n}{x_{i}}^{p}\right)^{1/p}} (p は実数)について、一般には p の広義増加関数となる。p = 1 のとき相加平均、p = −1 のとき調和平均、p → 0 のとき極限として幾何平均になる(#一般化平均を参照)。 データの大きさ n が 2 のときの相加平均、相乗平均、調和平均をそれぞれ A, G, H とすると、 なので、 が成立する。すなわち、データの相乗平均は相加平均と調和平均の相乗平均に等しくなる。 データの値それぞれに不均等な重みがある場合は、単に相加平均をとるのでなく重みを考慮した平均をとるべきである。各値 xi に、重み wi がついているときの加重平均(重み付き平均)は と定義される。特に全ての重みが等しければ、これは通常の相加平均である。 例えば、重み付き最小二乗法では、誤差の小さなデータに大きな重みを与えた残差の加重平均を最小化することで、尤度の最大化を図る。重点サンプリング(英語版)によって期待値をモンテカルロ推定するときは、求めたい期待値に関する確率密度とサンプルの確率密度の比を重みとした加重平均を推定量とする。 相乗平均についての重み付き平均は と定義される。ただし p = ∑ i = 1 n w i {\displaystyle p=\sum _{i=1}^{n}w_{i}} とする。 データ x(t) が区間 [a, b] で連続的に分布しているとき、その相加平均は積分 と定義される。これは離散分布の相加平均に対して、無限個の平均を算出する操作を極限により表したものである。 特に x(t) が指数関数である場合、その相加平均は端点での関数の値 x(a), x(b) のみで計算でき、 となる。これは対数平均と呼ばれ、対数平均温度差などの応用例がある。 相加平均や加重平均はベクトルの場合に定義を拡張することができる。ベクトルの平均は物理学における質点の重心と関係がある。相乗平均や調和平均は定義できない。 ベクトル x1, ..., xn に対し、それらの(相加)平均を で定義する。 n = 3 の場合、x1, x2, x3 の平均は各点が作る三角形の重心である。これはベクトルの数が n の場合にも一般化でき、x1, ..., xn の平均は各点が作る n単体の重心である。 加重平均も同様にベクトルに拡張でき、 と定義される。 m乗平均・一般化平均はスカラー として定義される。ただしここで ‖ ・ ‖ は、ベクトルのノルムである。m = 2 の場合、‖ x ‖ は内積 ⟨ x , x ⟩ {\displaystyle \langle {\boldsymbol {x}},{\boldsymbol {x}}\rangle } に一致するので、m = 2 の場合の m乗平均や一般化平均が特に重要である。たとえば物理学では速さの平均値(根二乗平均速度)として、m = 2 の場合の一般化平均を使うことがある。 ベクトルの加重平均の概念には、物理的な解釈を与えることができる。質点 P1, ..., Pn がそれぞれ位置 x1, ..., xn にあり、それぞれの質量が m1, ..., mn であるとき、加重平均 は系の重心である。 a0, b0 を、a0 > b0 を満たす2つの非負実数とする。a1, a2, ...; b1, b2, ... を により定義する。このとき、 を a0 と b0 の算術幾何平均という。 系列データ を平滑化する手法である。画像や音声等、デジタル信号処理に留まらず、テクニカル分析などの金融分野、気象、水象を含む計測分野等、広い技術分野で使われている。
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"左側の不等式は、両辺に対数をとりlogの凸性(イェンセンの不等式)を適用すれば証明できる(数学的帰納法を使った別証明も知られている)。右側の不等式は、調和平均が逆数の相加平均の逆数という事実を左側の不等式に適用すれば証明できる。", "title": "一般化平均" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "さらに拡張した p一般化平均 ( 1 n ∑ i = 1 n x i p ) 1 / p {\\displaystyle \\left({\\frac {1}{n}}\\sum _{i=1}^{n}{x_{i}}^{p}\\right)^{1/p}} (p は実数)について、一般には p の広義増加関数となる。p = 1 のとき相加平均、p = −1 のとき調和平均、p → 0 のとき極限として幾何平均になる(#一般化平均を参照)。", "title": "一般化平均" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "データの大きさ n が 2 のときの相加平均、相乗平均、調和平均をそれぞれ A, G, H とすると、", "title": "一般化平均" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なので、", "title": "一般化平均" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "が成立する。すなわち、データの相乗平均は相加平均と調和平均の相乗平均に等しくなる。", "title": "一般化平均" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "データの値それぞれに不均等な重みがある場合は、単に相加平均をとるのでなく重みを考慮した平均をとるべきである。各値 xi に、重み wi がついているときの加重平均(重み付き平均)は", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "と定義される。特に全ての重みが等しければ、これは通常の相加平均である。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "例えば、重み付き最小二乗法では、誤差の小さなデータに大きな重みを与えた残差の加重平均を最小化することで、尤度の最大化を図る。重点サンプリング(英語版)によって期待値をモンテカルロ推定するときは、求めたい期待値に関する確率密度とサンプルの確率密度の比を重みとした加重平均を推定量とする。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "相乗平均についての重み付き平均は", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "と定義される。ただし p = ∑ i = 1 n w i {\\displaystyle p=\\sum _{i=1}^{n}w_{i}} とする。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "データ x(t) が区間 [a, b] で連続的に分布しているとき、その相加平均は積分", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "と定義される。これは離散分布の相加平均に対して、無限個の平均を算出する操作を極限により表したものである。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "特に x(t) が指数関数である場合、その相加平均は端点での関数の値 x(a), x(b) のみで計算でき、", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "となる。これは対数平均と呼ばれ、対数平均温度差などの応用例がある。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "相加平均や加重平均はベクトルの場合に定義を拡張することができる。ベクトルの平均は物理学における質点の重心と関係がある。相乗平均や調和平均は定義できない。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ベクトル x1, ..., xn に対し、それらの(相加)平均を", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "で定義する。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "n = 3 の場合、x1, x2, x3 の平均は各点が作る三角形の重心である。これはベクトルの数が n の場合にも一般化でき、x1, ..., xn の平均は各点が作る n単体の重心である。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "加重平均も同様にベクトルに拡張でき、", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "と定義される。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "m乗平均・一般化平均はスカラー", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "として定義される。ただしここで ‖ ・ ‖ は、ベクトルのノルムである。m = 2 の場合、‖ x ‖ は内積 ⟨ x , x ⟩ {\\displaystyle \\langle {\\boldsymbol {x}},{\\boldsymbol {x}}\\rangle } に一致するので、m = 2 の場合の m乗平均や一般化平均が特に重要である。たとえば物理学では速さの平均値(根二乗平均速度)として、m = 2 の場合の一般化平均を使うことがある。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ベクトルの加重平均の概念には、物理的な解釈を与えることができる。質点 P1, ..., Pn がそれぞれ位置 x1, ..., xn にあり、それぞれの質量が m1, ..., mn であるとき、加重平均", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "は系の重心である。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "a0, b0 を、a0 > b0 を満たす2つの非負実数とする。a1, a2, ...; b1, b2, ... を", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "により定義する。このとき、", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "を a0 と b0 の算術幾何平均という。", "title": "様々な平均" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "系列データ を平滑化する手法である。画像や音声等、デジタル信号処理に留まらず、テクニカル分析などの金融分野、気象、水象を含む計測分野等、広い技術分野で使われている。", "title": "様々な平均" } ]
平均または平均値とは、数学において、数の集合やデータの中間的な値を指す。 狭い意味での中間値にとどまらず、算術平均(相加平均)・幾何平均(相乗平均)・調和平均・対数平均など様々な種類で用いられる。ただし一般的には算術平均を指す。これは、集合の要素の総和を要素数で割ったものである。 数学以外では、日本語では、不揃いでないこと、釣り合いが取れていることなどの意味を指す。
{{Otheruses|数学・統計学の平均|他の平均|平均 (曖昧さ回避)}} '''平均'''(へいきん、{{lang-en-short|mean, average}}, {{lang-de-short|Mittelwert}}, {{lang-fr-short|moyenne}})または'''平均値'''(へいきんち、{{lang-en-short|mean value, average value}})とは、[[数学]]・[[統計学]]において、数の[[集合]]や[[データ]]の中間的な値を指す。欧米語の原意の中間(値)などと和訳することは少ない。 狭い意味での中間値にとどまらず、[[算術平均]](相加平均)・[[幾何平均]](相乗平均)・[[調和平均]]・[[対数平均]]など様々な種類で用いられる。一般的には特に算術平均を指し、集合の要素の総和を要素数で割ったものである{{sfn|JIS Z 8101-1 : 1999|loc=2.13 平均}}<ref>例えば A, B, C という3人の体重がそれぞれ 55 kg, 60 kg, 80 kg であったとすると、3人の体重の平均値は (55 kg + 60 kg + 80 kg) ÷ 3 = 65 kg である。</ref>。 == 算術平均を用いる際の注意 == 科学観測や社会調査から得られる[[データ]]では、[[算術平均]]を[[要約統計量|代表値]]の一つとして用いる。算術平均が[[中央値]]、[[最頻値]]、[[中点値]]と比べてデータの特徴をよく表すものかどうかを検討する必要がある。[[正規分布]]に近い場合は算術平均と[[標準偏差]]を用いることは適切だが、そうでない分布の場合は、算術平均値が度数の多い値を示すとはいえない。 例えば、国民(例えば日本人)の所得について考える。このデータでは、一部の高所得者が算術平均値を引き上げてしまい、算術平均値をとる世帯は実際にはほとんどいないということになる。よってこの場合正規分布には従わない。日本の[[国税庁]]の民間給与実態統計調査によると、平成29年度の場合、給与所得の算術平均値は423万円だが、最頻値は300万円~400万円の区分であり、ずれている<ref>[https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan2017/minkan.htm 民間給与実態統計調査結果 - 標本調査結果|国税庁]</ref>。従って、一般的な世帯の所得をとらえるには中央値や最頻値が有効であるが、所得は97%~99%は所得の[[対数]]値が[[正規分布]]([[対数正規分布]])に従っているため<ref>Clementi, Fabio; [[Mauro Gallegati|Gallegati, Mauro]] (2005) [https://ideas.repec.org/p/wpa/wuwpmi/0505006.html "Pareto's law of income distribution: Evidence for Germany, the United Kingdom, and the United States"], EconWPA</ref>、所得の対数値の算術平均、つまり[[幾何平均]]を用いるのが適切な所得の代表値であるともいえる。 分布が左右対称でない時、中央値、最頻値を用いると良い場合もある。また、飛び抜けた値([[外れ値]])がごく少数の場合には、最大と最小を除外した刈込平均({{仮リンク|トリム平均|en|Truncated mean}})を用いることもある。平均が中央値、最頻値、中点値と乖離している場合は刈込平均を含めた平均以外の使用を考えるとよい{{sfn|西岡|loc=刈込平均 p.7}}。 == 統計学 == [[統計学]]では、平均値とは普通は算術平均(相加平均)のことを指す。これはデータの値から算術的に計算して得られる[[統計]]指標値の一つである。 === 母平均と標本平均 === 統計学では平均には母平均と標本平均がある。母平均は、[[母集団]]の相加平均のこと。<!--母平均は、与えられた確率分布の[[期待値]]のことである←★母平均は母集団の全ての要素に関する相加平均であり確率分布ではない-->標本平均は、抽出した[[標本 (統計学)|標本]](母集団の部分集合)の相加平均のこと。母平均を {{mvar|μ}}、標本平均を {{mvar|m}} と書いて区別する場合がある{{sfn|西岡|loc=p.5}}{{sfn|伏見|loc=第II章 確率論 10節 偶然量、平均値 p.70}}。 === 相加平均 === {{Main|算術平均}} '''算術平均'''(さんじゅつへいきん、{{lang-en-short|arithmetic mean}}, {{lang-de-short|arithmetisches Mittel}}, {{lang-fr-short|moyenne arithmétique}})とも呼ぶ。 相加平均は :<math>\mu = \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} x_i = \dfrac{x_1+x_2 + \dotsb +x_n}{n}</math> で定義される。式変形して :<math>n \mu = \sum_{i=1}^{n} x_i = x_1 +x_2 + \dotsb +x_n</math> と表すこともできる。 <math>x_1, x_2, \dots, x_n</math> の相加平均を <math>\bar{x}</math> とも表す。 相加平均は、加法とスカラー倍が定義された数(実数、複素数、ベクトル等)に対して定義できる。 == 一般化平均 == === 相乗平均 === {{Main|幾何平均}} 相乗平均(そうじょうへいきん)または'''幾何平均'''(きかへいきん、{{lang-en-short|geometric mean}}, {{lang-de-short|geometrisches Mittel}}, {{lang-fr-short|moyenne géométrique}})は :<math>\mu_{\mathrm G} = \sqrt[n]{\prod_{i=1}^{n} x_i} = \sqrt[n]{x_1x_2 \dotsb x_n}</math> で定義される。幾何平均は相乗平均と同義の用語である。 式変形して :<math>{\mu_{\mathrm G}}^n = \prod_{i=1}^{n} x_i = x_1 x_2 \dotsb x_n</math> とも表せる。 対数を取ると :<math>\mu_{\mathrm G} = \exp \left( \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} \log x_i \right)</math> :<math>n \log \mu_{\mathrm G} = \sum_{i=1}^{n} \log x_i</math> となり、相乗平均は、[[対数]]の算術平均の[[指数関数]]である。あるいは、相乗平均の対数は対数の算術平均である。 データに1つ以上の 0 があるときは、相乗平均は 0 となる。値全てが実数であっても、積が負の場合は、相乗平均は実数の範囲内では存在しない。また複素数の範囲内では、値全てが実数であって積が正負いずれであっても、相乗平均は一意に定まらない可能性がある。 相乗平均は、積と累乗根が定義された数(実数、複素数)について定義できる。 === 調和平均 === {{main|調和平均}} [[調和平均]](ちょうわへいきん、{{lang-en-short|harmonic mean}})は :<math>\mu_{\mathrm H} = \frac{n}{\sum_{i=1}^{n} \frac{1}{x_i}} = \frac{n}{\tfrac{1}{x_1}+\tfrac{1}{x_2} + \cdots + \tfrac{1}{x_n}}</math> で定義される。あるいは :<math>\frac{n}{\mu_{\mathrm H}}= \sum_{i=1}^{n} \frac{1}{x_i} = \frac{1}{x_1}+\frac{1}{x_2} + \cdots + \frac{1}{x_n}</math> とも表せる。 調和平均は、[[逆数]]の算術平均の逆数である。あるいは、逆数の算術平均は調和平均の逆数である。 しかし、データに1つ以上の 0 があるとき、調和平均はもとの定義式からは定義できないが、0 への[[極限]]を取ると、調和平均は 0 となる(<math>x_i \to 0</math> のとき <math>\mu_{\mathrm H} \to 0</math>)。データに負数があっても調和平均は計算することができる。ただし、正負が混在している場合に逆数の和が 0 になることがあり、その場合の極限は発散する。 === 一般化平均 === {{main|ヘルダー平均}} 算術平均、相乗平均、調和平均は同じ式 :<math>\mu_p = \left( \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} {x_i}^p \right)^{1/p}</math> あるいは :<math>n {\mu_p}^p = \sum_{i=1}^{n} {x_i}^p</math> で表せる。この[[実数]] {{mvar|p}} に対して定義した式の値を {{mvar|p}}一般化平均と呼ぶ。 {{math2|1=''p'' = 1}} で算術平均、{{math2|1=''p'' = &minus;1}} で調和平均となり、{{math2|''p'' → 0}} への[[極限]]が相乗平均である。また、{{math2|1=''p'' = 2}} の場合を[[二乗平均平方根]] (RMS) と呼び、物理学や工学で様々な応用をもつ。{{math2|''p'' → ∞}} への極限は[[最大と最小|最大値]]、{{math2|''p'' → &minus;∞}} への極限は最小値である。 一般化平均は、ベクトル <math>(x_1,\dots,x_n)</math> の {{mvar|p}}[[ノルム]]を <math>n^{1/p}</math> で割った結果に一致する。 データの {{mvar|p}}乗の平均、つまり、一般化平均の {{mvar|p}}乗 :<math>{\mu_p}^p = \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} {x_i}^p</math> を {{mvar|p}}乗平均と呼ぶ。 {{mvar|p}}乗平均・一般化平均の応用として、例えば統計学では[[分散 (統計学)|分散]]と[[標準偏差]]がある。[[偏差]](値から相加平均を引いた値)のそれぞれ {{math|2}}乗平均・{{math|2}}一般化平均として定義されている。 一般化平均はさらに一般化が可能で、[[全単射]]な関数 {{mvar|f}} により :<math>\mu_f = f^{-1} \left( \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} f(x_i) \right)</math> という平均が定義できる。[[恒等写像|恒等関数]] {{math2|1=''f''(''x'') = ''x''}} により相加平均が、[[逆数]] {{math2|1=''f''(''x'') = {{sfrac|1|''x''}}}} により調和平均が、対数関数 {{math2|1=''f''(''x'') = log ''x''}} により相乗平均がそれぞれ表されている。 {|class="wikitable" style="text-align:center;width:90%" ! !!相加平均!!相乗平均!!調和平均 |- !<math>f(x)</math> |<math>x</math> |<math>\log x</math> |<math>x^{-1}</math> |- !<math>f^{-1}(y)</math> |<math>y</math> |<math>\exp y</math> |<math>y^{-1}</math> |- !<math>f^{-1}\left( \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} f(x_i) \right)</math> |<math>\frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} x_i</math> |<math>\exp \left( \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} \log x_i \right)</math> |<math>\left( \frac{1}{n} \sum_{i=1}^{n} {x_i}^{-1} \right)^{-1}</math> |} === 定義域 === 実数 {{mvar|p}} に対する {{mvar|p}}一般化平均は、データの値が全て[[正の数と負の数|非負]]の実数であるときに定義される。これは、一般化平均の式に現れる {{mvar|p}}乗根([[冪函数]])が負数に対し定義できないためである。例外は、冪関数を使わずに計算できる算術平均と調和平均 ({{math2|1=''p'' = ±1}}) である。それ以外の {{math2|''p'' ≠ ±1}} の場合、負数が1つでも含まれるデータに対しては、一般化平均の定義式は実数を返さないか、実数を返したとしても結果は解釈が難しい。 {{math2|''p'' < 0}} の場合、0 を含むデータに対しては一般化平均の定義式は使えないが、調和平均同様、0 への極限を取ると一般化平均は 0 となる。幾何平均({{math|0}}一般化平均)も 0 となるので、{{math2|''p'' ≤ 0}} の場合に一般化平均は 0 と考えることができる。 === 具体例 === *相乗平均 ** 78年の経済成長率20%、79年の経済成長率80%の場合、この2年間の平均成長率は<math>\sqrt{1.2 \times 1.8}= 1.469693846\cdots</math>より、約47% *調和平均 ** 往は時速60 km、復は時速90 kmの場合の往復の平均速度は <math>\frac{2}{1 / (60 ~ \mathrm{km ~ h^{-1}}) + 1 / (90 ~ \mathrm{km ~ h^{-1}})} = 72 ~ \mathrm{km ~ h^{-1}}</math> である。 ** 並列接続された電気抵抗の抵抗値などを考える場合に用いる([[直列回路と並列回路]])。 === 関係式 === ==== 相加平均≧相乗平均≧調和平均 ==== {{mvar|n}}個の実数が全て正の時、次の大小関係が成り立つ。 :相加平均 ≥ 相乗平均 ≥ 調和平均 :<math>\frac{x_1+x_2+\cdots+x_n}{n} \ge \sqrt[n]{x_1x_2\cdots x_n} \ge \frac{n}{\frac{1}{x_1}+\frac{1}{x_2}+\cdots+\frac{1}{x_n}}</math> 等号成立[[同値#必要十分条件|条件]]は :<math>x_1 = x_2 = \cdots = x_n</math> である。 左側の不等式は、両辺に対数をとりlogの[[凸関数|凸性]]([[イェンセンの不等式]])を適用すれば証明できる(数学的帰納法を使った別証明も知られている)。右側の不等式は、調和平均が逆数の相加平均の逆数という事実を左側の不等式に適用すれば証明できる。 さらに拡張した {{mvar|p}}一般化平均 <math>\left( \frac{1}{n} \sum_{i=1}^n {x_i}^p \right)^{1/p}</math>({{mvar|p}} は実数)について、一般には {{mvar|p}} の広義増加関数となる。{{math2|1=''p'' = 1}} のとき相加平均、{{math2|1=''p'' = &minus;1}} のとき調和平均、{{math2|''p'' → 0}} のとき極限として幾何平均になる([[#一般化平均 2|#一般化平均]]を参照)。 ==== 相加平均と調和平均の相乗平均 ==== データの大きさ {{mvar|n}} が 2 のときの相加平均、相乗平均、調和平均をそれぞれ {{math2|''A'', ''G'', ''H''}} とすると、 :<math>A = \frac{x_1 + x_2}{2}, \quad G = \sqrt{x_1 x_2}, \quad H = \frac{2 x_1 x_2}{x_1 + x_2}</math> なので、 :<math>G = \sqrt{AH}</math> が成立する。すなわち、データの相乗平均は相加平均と調和平均の相乗平均に等しくなる。 == 様々な平均 == === 加重平均 === データの値それぞれに不均等な重みがある場合は、単に相加平均をとるのでなく重みを考慮した平均をとるべきである。各値 {{mvar|x{{sub|i}}}} に、重み {{mvar|w{{sub|i}}}} がついているときの'''加重平均(重み付き平均)'''は :<math>\cfrac{w_1x_1+\dots+w_nx_n}{w_1+\dots+w_n}</math> と定義される。特に全ての重みが等しければ、これは通常の相加平均である。 例えば、[[最小二乗法#測定の誤差が既知の場合|重み付き最小二乗法]]では、誤差の小さなデータに大きな重みを与えた残差の加重平均を最小化<ref group="注">最小二乗法において、加重和の最小化と加重平均の最小化は同じことである。</ref>することで、[[尤度関数|尤度]]の最大化を図る。{{仮リンク|重点サンプリング|en|Importance sampling}}によって期待値を[[モンテカルロ法|モンテカルロ]]推定するときは、求めたい期待値に関する確率密度とサンプルの確率密度の比を重みとした加重平均を推定量とする。 相乗平均についての重み付き平均は :<math>\left({x_1}^{w_1} \dotsb {x_n}^{w_n}\right)^{1/p}</math> と定義される。ただし <math>p=\sum_{i=1}^n w_i</math> とする。 === 連続分布の相加平均 === {{See also|函数の平均}} データ {{math|''x''(''t'')}} が[[区間 (数学)|区間]] {{math|[''a'', ''b'']}} で連続的に分布しているとき、その相加平均は積分 :<math>\frac{1}{b-a} \int_a^b x(t)\,dt</math> と定義される。これは離散分布の相加平均に対して、無限個の平均を算出する操作を[[極限]]により表したものである。 ==== 対数平均 ==== {{main|対数平均}} 特に {{math|''x''(''t'')}} が指数関数である場合、その相加平均は端点での関数の値 {{math2|''x''(''a''), ''x''(''b'')}} のみで計算でき、 :<math>\frac{x(b)-x(a)}{\ln\left(x(b)\right) - \ln\left(x(a)\right)}</math> となる。これは'''対数平均'''と呼ばれ、[[対数平均温度差]]などの応用例がある。 === ベクトルの平均 === 相加平均や加重平均はベクトルの場合に定義を拡張することができる。ベクトルの平均は物理学における質点の重心と関係がある。相乗平均や調和平均は定義できない。 ==== 相加平均 ==== ベクトル {{math2|'''''x'''''{{sub|1}}, …, '''''x'''{{sub|n}}''}} に対し、それらの(相加)平均を :<math>\frac{\boldsymbol{x}_1+\dots+\boldsymbol{x}_n}{n}</math> で定義する。 {{math2|1=''n'' = 3}} の場合、{{math2|'''''x'''''{{sub|1}}, '''''x'''''{{sub|2}}, '''''x'''''{{sub|3}}}} の平均は各点が作る三角形の[[重心]]である。これはベクトルの数が {{mvar|n}} の場合にも一般化でき、{{math2|'''''x'''''{{sub|1}}, …, '''''x'''{{sub|n}}''}} の平均は各点が作る {{mvar|n}}[[単体 (数学)|単体]]の重心である。 ==== 加重平均 ==== 加重平均も同様にベクトルに拡張でき、 :<math>\frac{w_1\boldsymbol{x}_1+\dots+w_n\boldsymbol{x}_n}{w_1+\dots+w_n}</math> と定義される。 {{mvar|m}}乗平均・一般化平均は[[スカラー (数学)|スカラー]] :<math>\frac{\| \boldsymbol{x}_1 \|^m + \dots + \| \boldsymbol{x}_n \|^m}{n}, \quad \sqrt[m]{\frac{\| \boldsymbol{x}_1 \|^m + \dots + \| \boldsymbol{x}_n \|^m}{n}}</math> として定義される。ただしここで {{math|{{norm|・}}}} は、ベクトルの[[ノルム]]である。{{math2|1=''m'' = 2}} の場合、{{math|{{norm|'''''x'''''}}{{sup|2}}}} は内積 <math>\langle\boldsymbol{x},\boldsymbol{x}\rangle</math> に一致するので、{{math2|1=''m'' = 2}} の場合の {{mvar|m}}乗平均や一般化平均が特に重要である。たとえば物理学では速さの平均値([[根二乗平均速度]])として、{{math2|1=''m'' = 2}} の場合の一般化平均を使うことがある。 ベクトルの加重平均の概念には、物理的な解釈を与えることができる。質点 {{math2|P{{sub|1}}, …, P{{sub|''n''}}}} がそれぞれ位置 {{math2|'''''x'''''{{sub|1}}, …, '''''x'''{{sub|n}}''}} にあり、それぞれの質量が {{math2|''m''{{sub|1}}, …, ''m{{sub|n}}''}} であるとき、加重平均 :<math>\cfrac{m_1\boldsymbol{x}_1 + \dots + m_n \boldsymbol{x}_n}{m_1+\dots+m_n}</math> は系の重心である。 === 算術幾何平均 === {{main|算術幾何平均}} {{math2|''a''{{sub|0}}, ''b''{{sub|0}}}} を、{{math2|''a''{{sub|0}} > ''b''{{sub|0}}}} を満たす2つの非負実数とする。{{math2|''a''{{sub|1}}, ''a''{{sub|2}}, …; ''b''{{sub|1}}, ''b''{{sub|2}}, …}} を :<math>a_{i+1}=\frac{a_i+b_i}{2}</math> :<math>b_{i+1}=\sqrt{a_ib_i}</math> により定義する。このとき、 :<math>\lim_{i\to\infty}a_i=\lim_{i\to\infty}b_i</math> を {{math|''a''{{sub|0}}}} と {{math|''b''{{sub|0}}}} の'''算術幾何平均'''という。 === 移動平均 === {{See|移動平均}}[[時系列|系列]]データ を平滑化する手法である。画像や音声等、デジタル信号処理に留まらず、[[テクニカル分析]]などの[[金融]]分野、[[気象]]、[[水象]]を含む[[計測]]分野等、広い技術分野で使われている。 == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 岡田泰栄『平均値の統計』共立出版<数学ワンポイント双書>、1981年。 * 鷲尾泰俊『推定と検定』共立出版<数学ワンポイント双書>、1978年。 * {{Cite book|和書 |author=西岡康夫|year=2013 |title=数学チュートリアル やさしく語る 確率統計 |publisher=[[オーム社]] |isbn=9784274214073 |ref={{sfnref|西岡}}}} * {{Cite book|和書|author=日本数学会|authorlink=日本数学会|year=2007|title=数学辞典|publisher=[[岩波書店]]|isbn=9784000803090}} * {{Citation |year=1999 |title=JIS Z 8101-1:1999 統計 − 用語と記号 − 第1部:確率及び一般統計用語 |publisher=[[日本規格協会]] |publisherlink=kikakurui.com |url=http://kikakurui.com/z8/Z8101-1-1999-01.html |ref={{sfnref|JIS Z 8101-1 : 1999}}}} * {{Cite book|和書 |author=伏見康治|authorlink=伏見康治|year=1942 |title=確率論及統計論 |publisher=[[河出書房]] |isbn=9784874720127 |url=http://ebsa.ism.ac.jp/ebooks/ebook/204 |ref={{sfnref|伏見}}}} == 関連項目 == * [[統計学]] ** [[要約統計量]] *** [[算術平均]] *** [[中央値]] (median) *** [[最頻値]] (mode) ** [[期待値]] * [[:en:Inequality of arithmetic and geometric means]] {{統計学}} {{DEFAULTSORT:へいきん}} [[Category:平均|*]] [[Category:統計量]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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作曲家一覧
作曲家一覧(さっきょくかいちらん)は、Wikipedia内に記事のある作曲家の一覧。洋楽・邦楽混合。人名の五十音順。ただしクラシック音楽の作曲家、オペラ作曲家を除く。また作曲をメインとしている者、もしくは作曲能力に秀でた者を中心に記載。分野にまたがって活動している者も多いため、主に活動している分野に分類する。
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作曲家一覧(さっきょくかいちらん)は、Wikipedia内に記事のある作曲家の一覧。洋楽・邦楽混合。人名の五十音順。ただしクラシック音楽の作曲家、オペラ作曲家を除く。また作曲をメインとしている者、もしくは作曲能力に秀でた者を中心に記載。分野にまたがって活動している者も多いため、主に活動している分野に分類する。
'''作曲家一覧'''(さっきょくかいちらん)は、Wikipedia内に記事のある[[作曲家]]の一覧。洋楽・邦楽混合。人名の五十音順。ただし[[クラシック音楽の作曲家一覧|クラシック音楽の作曲家]]、[[オペラ作曲家一覧|オペラ作曲家]]を除く。また作曲をメインとしている者、もしくは作曲能力に秀でた者を中心に記載。分野にまたがって活動している者も多いため、主に活動している分野に分類する。 == ニューエイジ・ミュージック == {{main|ニューエイジ・ミュージックの作曲家一覧}} == 映画音楽 == {{main|映画音楽|劇伴音楽の作曲家一覧}} {{Div col}} *[[アラン・シルヴェストリ]] (Alan Silvestri) *[[エンニオ・モリコーネ]] *[[ジェリー・ゴールドスミス]]<ref>http://www.allmusic.com/artist/jerry-goldsmith-mn0000330634 </ref> *[[ジョルジュ・ドルリュー]] (Georges Delerue) *[[ジェイムズ・バーナード (作曲家)|ジェイムズ・バーナード]] (James Bernard) *[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]] (John Williams) *[[バーナード・ハーマン]] (Bernard Herrmann) *[[デイヴィッド・フォスター]] (David Foster) *[[スコット・ブラッドリー]] (Scott Bradley) *[[ニーノ・ロータ]] (Nino Rota) *[[ハワード・ショア]] (Howard Shore) *[[ダニー・エルフマン]] (Danny Elfman) *[[ヘンリー・マンシーニ]] *[[フランシス・レイ]]<ref>http://www.discogs.com/artist/135912-Francis-Lai</ref> *[[レナード・ローゼンマン]] (Leonard Rosenman) *[[伊福部昭]] *[[岩代太郎]] *[[Infinix]] *[[宇乃かつを]] *[[大島ミチル]] *[[大友良英]] *[[大野雄二]] *[[小杉太一郎]] *[[小六禮次郎]] *[[海田庄吾]] *[[鏑木創]] *[[三枝成彰]] *[[佐藤直紀]] (Naoki Sato) *[[澤野弘之]] *[[篠原敬介]] *[[鈴木ヤスヨシ]] *[[千住明]] *[[たかしまあきひこ]] *[[徳永暁人]] *[[仲西匡]] *[[長谷部徹 (作曲家)|長谷部徹]] *[[服部隆之]] (Takayuki Hattori) *[[久石譲]] *[[深澤恵梨香]] *[[富貴晴美]] (Harumi Fuuki) *[[藤掛廣幸]] (Hiro Fujikake) *[[溝口肇]] *[[村松崇継]] *[[八木正生]] *[[渡辺俊幸]] (Toshiyuki Watanabe) {{Div col end}} == 現代音楽 == {{Div col}} *[[アントン・ヴェーベルン]] *[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]] *[[エドガー・ヴァレーズ]] *[[エリオット・カーター]] *[[イルハン・ミマールオール]] *[[カルロ・フォルリヴェジ]] *[[ジェームス・ホールデン]] (James Holden) *[[ネイサン・フェイク]] *[[ピエール・ブーレーズ]] *[[天野正道]] *[[秋岸寛久]] *[[池辺晋一郎]] *[[一柳慧]] *[[内池秀和]] *[[宇乃かつを]] *[[大友良英]] *[[大野雄二]] *[[大谷千正]] *[[加古隆]] *[[河合孝治]] *[[ペテル・マハイジック]] (Peter Machajdík) *[[菅野よう子]] *[[川崎真弘]] *[[木村純]] *[[栗山和樹]] *[[小杉太一郎]] *[[小六禮次郎]] *[[五木田岳彦]] (Takehiko Gokita, Ph.D.) *[[斉藤恒芳]] *[[佐藤俊介 (吹奏楽作曲家)|佐藤俊介]] *[[佐橋俊彦]] *[[佐藤礼央]] *[[佐藤泰将]] *[[塩塚博]] *[[篠原敬介]] *[[嶋津武仁]] *[[清水チャートリー]] *[[須田くにお]] *[[夛川王彦]] *[[武満徹]] *[[月野そら]] *[[土屋洋一]] *[[冨田勲]] *[[中堀海都]] *[[中村幸代]] *[[野見祐二]] *[[羽毛田丈史]] *[[服部隆之]] *[[林光]] *[[樋口康雄]] *[[富貴晴美]] *[[福嶋尚哉]] *[[藤掛廣幸]] *[[細野真由美]] *[[冬樹かずみ]] *[[高橋美香]] *[[間宮芳生]] *[[宮川彬良]] *[[山崎翔]] *[[山下毅雄]] *[[山下宏明]] *[[山田真由美 (作曲家)|山田真由美]] *[[湯浅譲二]] *[[ヒラサワンダ]] *[[横田信夫]] *[[吉川洋一郎]] *[[吉田敬 (作曲家)|吉田敬]] *[[和田薫 (作曲家)|和田薫]] *[[Romi (歌手)|Romi]] {{Div col end}} == ソウル/R&B == * [[アイザック・ヘイズ]] * [[カーティス・メイフィールド]] * [[ジェームス・ブラウン]] * [[スモーキー・ロビンソン]] * [[トム・ベル]] * [[ドン・デイヴィス]] == ブルース == * [[ウィリー・ディクソン]] * [[ハウリン・ウルフ]] * [[マディ・ウォーターズ]] == レゲエ == * [[ボブ・マーレー]] == ヒップホップ == * [[ドクター・ドレー]] == ロック == * [[ジョージ・ハリスン]] * [[ジョン・レノン]] * [[ニール・ヤング]] * [[ポール・マッカートニー]] * [[マーク・ボラン]] * [[レオン・ラッセル]] == フォーク == {{Div col|4}} *[[ボブ・ディラン]] *[[ジョニ・ミッチェル]] * [[阿久悠]] * [[安部俊幸]] * [[荒木とよひさ]] * [[石川鷹彦]] * [[伊藤薫 (作曲家)|伊藤薫]] * [[井上輝彦 (作詞家)|井上輝彦]] * [[梅垣達志]] * [[大津あきら]] * [[おおはた雄一]] * [[大間ジロー]] * [[岡本おさみ]] * [[岡林信康]] * [[門谷憲二]] * [[河村通夫]] * [[加川良]] * [[喜多條忠]] * [[北山修]] * [[工藤忠幸]] * [[坂崎幸之助]] * [[佐藤準]] * [[鈴木キサブロー]] * [[瀬尾一三]] * [[高田渡]] * [[ちあき哲也]] * [[町支寛二]] * [[常富喜雄]] * [[中里綴]] * [[冬樹かずみ]] * [[中川五郎]] * [[馬飼野俊一]] * [[松任谷正隆]] * [[松山猛]] * [[宮城伸一郎]] * [[村井邦彦]] * [[村上律]] * [[森下次郎]] * [[山川啓介]] * [[吉川忠英]] * [[渡辺勝 (音楽家)|渡辺勝]] {{Div col end}} == アフリカ音楽 == * [[フェラ・クティ]] == ラテン == * [[ザビア・クガート]] * [[ティト・プエンテ]] * [[ペレス・プラード]] == ヨーロッパの音楽 == * [[ミッシェル・ポルナレフ]] == ポピュラー音楽・ポップス == * [[アンドレ・ポップ]] * [[キャロル・キング]] * [[バート・バカラック]] * [[ポール・ウィリアムズ (シンガーソングライター)|ポール・ウィリアムズ]] * [[ロジャー・ニコルズ]] == ゲーム音楽 == {{main|ゲーム音楽の作曲家一覧}} {{Div col}} * [[青木秀仁]] * [[青木佳乃]] * [[朝倉紀行]] * [[伊藤賢治]] * [[岩田匡治]] * [[植松伸夫]] * [[大熊謙一]] * [[大島ミチル]] * [[梶浦由記]] * [[金子剛 (サウンドクリエーター)|金子剛]] * [[金田充弘]] * [[菅野よう子]] * [[古代祐三]] * [[近藤浩治]] * [[斎藤幹雄]] (メタルユーキ) * [[崎元仁]] * [[桜庭統]] * [[佐々木朋子]] * [[塩田信之 (作曲家)|塩田信之]] * [[志方あきこ]] * [[志倉千代丸]] * [[柴田徹也]] * [[下村陽子]] * [[すぎやまこういち]] * [[田中敬一]] * [[田中しのぶ]] * [[前山田健一]] (ヒャダイン) * [[牧野忠義 (作曲家)|牧野忠義]] * [[松枝賀子]] * [[松下一也 (音楽家)|松下一也]] * [[松永政信]] * [[松前真奈美]] * [[光田康典]] * [[山根ミチル]] * [[山本光男 (作曲家)|山本光男]] * [[横田真人 (作曲家)|横田真人]] * [[渡辺大地]] * [[ビル・ブラウン (作曲家)|ビル・ブラウン]] * [[マイケル・ジアッキーノ]] * [[ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ]] * [[スティーブ・ジャブロンスキー]] * [[イェスパー・キッド]] * [[クリストファー・レナーツ]] * [[トム・サルタ]] * [[ブライアン・タイラー]] * [[デビッド・ワイズ]] * [[ロホン・ジリアニ]] {{Div col end}} == アニメ == {{main|アニメ音楽の作曲家一覧}} {{Div col}} *[[朝倉紀行]] *[[綾部薫]] *[[有澤孝紀]] *[[飯塚昌明]] *[[家原正嗣]] *[[乾裕樹]] *[[岡崎律子]] *[[大谷幸]] *[[大橋恵]] *[[梶浦由記]] *[[川井憲次]] *[[ノアム・カニエル]] *[[菅野よう子]] *[[菊池俊輔]] *[[如月なつき]] *[[神津裕之]] *[[小坂明子]] *[[越部信義]] *[[鷺巣詩郎]] *[[佐藤直紀]] *[[佐橋俊彦]] *[[澤野弘之]] *[[ハイム・サバン]] *[[篠原敬介]] *[[田中公平]] *[[徳永暁人]] *[[伊藤真澄|七瀬光]] *[[三宅一徳]] *[[宮路一昭]] *[[山本正之]] *山本光男 *[[吉川洋一郎]] *ryo([[supercell (クリエイター集団)|supercell]]) *[[渡辺岳夫]] *[[渡部チェル]] *[[渡辺宙明]] *[[TA,Cool]] *[[シュキ・レヴィ]] {{Div col end}} == ジャズ == {{Div col}} *[[安藤正容]] *[[和泉宏隆]] *[[穐吉敏子]](秋吉敏子) *[[上原ひろみ]] *[[大野雄二]] *[[佐藤允彦]] *[[鈴木宏昌]] *[[鐸木能光]] *[[クリヤ・マコト]] *[[久米大作]] *[[野呂一生]] *[[本多俊之]] *[[本田雅人]] *[[前田憲男]] *[[松永貴志]] *[[山下洋輔]] *[[渡辺貞夫]] *[[デューク・エリントン]] *[[クインシー・ジョーンズ]] *[[ジョン・コルトレーン]] *[[チャーリー・パーカー]] *[[カウント・ベイシー]] *[[チャールズ・ミンガス]] *[[ベニー・グッドマン]] *[[ボブ・ミンツァー]] *[[ヴィンス・メンドーザ]] *[[ジェリー・ロール・モートン]] {{Div col end}} == イージーリスニング == *[[フランク・プールセル]] *[[ポール・モーリア]](Paul Mauriat) *[[レイモン・ルフェーブル]](Raymond Lefevre) *[[ジェームス・ラスト]](James Last) == 労働歌 == *[[荒木栄]] == 民族音楽 == *[[顧冠仁]] *[[劉文金]] == 日本の歌謡曲・J-POP・演歌 == {{Div col}} * [[本間昭光|ak.homma]] * [[赤塩正樹]] * [[秋山桃花]] * [[芥川也寸志]] * [[浅倉大介]]([[access (音楽ユニット)|access]]) * [[朝倉紀行]](GANG) * [[ASKA]](飛鳥涼) * [[綾部薫]] * [[荒井洋明]] * [[荒木啓六]] * [[荒幡亮平]] * [[aya Sueki]] * [[石井健太郎]] * [[五十嵐充]] * [[石井亮輔]] * [[石川寛門]] * [[磯貝サイモン]] * [[市川昭介]] * [[和泉一弥]] * [[市川淳]] * [[市川喜康]] * [[稲葉浩志]] * [[稲沢祐介]] * [[乾裕樹]] * [[井上大輔]](井上忠夫) * [[井上尭之]] * [[井上ジョー]] * [[猪俣公章]] * [[上野まな]] * [[宇崎竜童]] * [[遠藤浩二]] * [[遠藤実]] * [[大川タツユキ]] * [[大島こうすけ]] * [[大谷靖夫]] * [[大野愛果]] * [[大野克夫]] * [[岡千秋]] * [[尾崎亜美]] * [[小川よしあき]] * [[小川類]] * [[小澤正澄]] * [[小田裕一郎]] * [[織田哲郎]] * [[Gajin]] * [[角松敏生]] * [[金子奈未]] * [[鎌田雅人]] * [[河内淳一]] * [[川口大輔]] * [[川口真]]  * [[菊池一仁]] * [[菊池常利]] * [[岸谷香]] * [[岸正之]] * [[来生たかお]] * [[キダ・タロー]] * [[北野正人]] * [[吉川晃司]] * [[木根尚登]]([[TM NETWORK]]) * [[木森敏之]] * [[桐野丈二郎]](平和勝次とダークホース/中川ヒロシ) * [[草野マサムネ|草野正宗]] * [[葛谷葉子]] * [[栗原将輝]] * 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バーナード・ハーマン
バーナード・ハーマン(Bernard Herrmann, 1911年6月29日 - 1975年12月24日)は、主に映画音楽で活躍したアメリカの作曲家である。アルフレッド・ヒッチコック監督作品(『めまい』、『北北西に進路を取れ』など)や『市民ケーン』、『ケープ・フィアー』、『タクシードライバー』(遺作となった)など多くの映画作品に音楽を提供した。 出生名マックス・ハーマン(Max Herman)としてニューヨークでロシア出身のユダヤ移民1世の家庭に生まれる。父の旧姓はダルディック(DardickもしくはDardik)であったが、米国に移民する際に母方の旧姓であるフィンケルパール(Finkelpearl)に改め、次いで母のいとこのファーストネームにちなんでハーマン(Herman)と改め、さらにドイツ語風にHerrmannと綴りを改めた。 幼時からヴァイオリンの英才教育を受けた。 ジュリアード音楽院卒業後、指揮者として自作を含めて多くの録音を制作し、純音楽分野における自作もステレオ録音で残した。交響曲やクラリネット五重奏曲、オペラ『嵐が丘』、カンタータなどを残した。ヒッチコックの『知りすぎていた男』にも指揮者として登場している。イギリス、アメリカの20世紀音楽に造詣が深く、チャールズ・アイヴズを擁護する一方、ウィリアム・ウォルトンの新ロマン主義的な作風に傾倒した。ハーマンによると映画音楽は商業音楽というより機会音楽の一種であり、ハイドンやモーツァルトがダンス音楽を作曲したように、自分は映画音楽を作曲するということだった。 1941年の『悪魔の金』で、アカデミー作曲賞を受賞した。 ヒッチコック映画に数々の曲を提供したが、1966年『引き裂かれたカーテン』のために作曲した音楽の出来映えを巡ってヒッチコックと対立し、以後永久に袂を分かった。 ハーマンは熱烈なイギリスびいきとして知られ、晩年をイギリスで過ごした。 ヒッチコックと決別して以降、映画音楽で傑作を生み出せずにいたが、『タクシー・ドライバー』でのジャズの要素を取り入れたスコアが絶賛され、ブライアン・デ・パルマ監督の『愛のメモリー』と共にアカデミー作曲賞に30年ぶりにノミネートされた。 『タクシードライバー』の最後のレコーディング・セッションが終了して12時間後、息を引き取った。 同時代および後世の映画音楽に与えた影響は計り知れない。ダニー・エルフマンは、最も感化された映画音楽家としてハーマンの名を挙げている。後述のように、1998年のリメイク版『サイコ』では、ハーマンのスコアをほとんどアレンジせずに再構成している。 他の作曲家の作品にも独自の見解を持っていて、友人のエルマー・バーンスタインが『オリエント急行殺人事件』の中で列車が発進する時に流れる軽いワルツを気に入り、ハーマンの前で弾いてみせたところ、ハーマンは「死を運ぶ列車なのにワルツなんて!」と憤慨したという。 ハーマンが亡くなった後も音楽は使用され続けている。 1977年、プログレッシブ・ロックのユートピアはアルバム『Ra』において、映画『地底探検』(1959年)で使用された楽曲「Mountain Top/Sunrise」をロックのアレンジでアルバム1曲目「Communion With The Sun」として収録した。 1991年、ハーマン作曲の映画『恐怖の岬』(1962年)がマーティン・スコセッシ監督により『ケープ・フィアー』としてリメイクされた。エルマー・バーンスタインは『恐怖の岬』のハーマンの楽曲、およびハーマンが映画『引き裂かれたカーテン』(1966年)のために作曲したがアルフレッド・ヒッチコック監督により却下された楽曲を基にアレンジして使用した。 1993年、アームステッド・モーピンの小説を基にして始まったミニシリーズ『Tales Of The City』のオープニングで映画『めまい』(1958年)のオープニングの楽曲が再現された。 1998年、ガス・ヴァン・サント監督のリメイク版『サイコ』のために、作曲家のダニー・エルフマンと編曲家のスティーヴ・バーテックは 『サイコ』(1960年)で使用された全楽曲を再現した。 2003年、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル Vol.1』で殺し屋のエル・ドライバー(ダリル・ハンナ)が病院の廊下でハーマンが作曲した映画『密室の恐怖実験』(1968年)の「Georgie's Theme」を口笛で吹く。 2011年、『めまい』のハーマン作曲のテーマ曲がレディー・ガガの「ボーン・ディス・ウェイ」のミュージック・ビデオの導入部で使用された。 2011年、FXの『アメリカン・ホラー・ストーリー』のパイロット版のフラッシュバックのシーンで『めまい』(のテーマ曲が使用された。のちのエピソードではテイト(エヴァン・ピーターズ)の登場シーンで映画『密室の恐怖実験』(1968年)の「Georgie's Theme」が度々使用された。 2011年、映画『アーティスト』において作曲家ルドヴィック・ブールスは『めまい』の愛のテーマを最後のシーンで使用した。 2018年、Amazonプライムの『ホームカミング』において、第1話「規則」に『めまい』、第4話「セコイア」に映画『地球の静止する日』(1951年)のハーマンの楽曲が使用された。 脚本家のルシール・フレッチャーと1939年に結婚したが、1948年に離婚した。
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バーナード・ハーマンは、主に映画音楽で活躍したアメリカの作曲家である。アルフレッド・ヒッチコック監督作品(『めまい』、『北北西に進路を取れ』など)や『市民ケーン』、『ケープ・フィアー』、『タクシードライバー』(遺作となった)など多くの映画作品に音楽を提供した。
[[File:Bernard-Herrmann.jpg|thumb|240px|バーナード・ハーマン]] {{Portal box|映画|クラシック音楽}} '''バーナード・ハーマン'''(Bernard Herrmann, [[1911年]][[6月29日]] - [[1975年]][[12月24日]])は、主に[[映画音楽]]で活躍した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[作曲家]]である。[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督作品(『[[めまい (映画)|めまい]]』、『[[北北西に進路を取れ]]』など)や『[[市民ケーン]]』、『[[ケープ・フィアー]]』、『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』(遺作となった)など多くの映画作品に音楽を提供した。 == 経歴 == 出生名マックス・ハーマン(Max Herman)として[[ニューヨーク]]で[[ロシア]]出身の[[ユダヤ人|ユダヤ]]移民1世の家庭に生まれる<ref name="benny">[http://folk.uib.no/smkgg/midi/soundtrackweb/herrmann/articles/family/rivkin01.html Benny, Max and Moby]</ref>。父の旧姓はダルディック(DardickもしくはDardik)であったが、米国に移民する際に母方の旧姓であるフィンケルパール(Finkelpearl)に改め、次いで母のいとこのファーストネームにちなんでハーマン(Herman)と改め、さらにドイツ語風にHerrmannと綴りを改めた<ref name="benny" />。 幼時から[[ヴァイオリン]]の英才教育を受けた。 [[ジュリアード音楽院]]卒業後、指揮者として自作を含めて多くの録音を制作し、純音楽分野における自作もステレオ録音で残した。[[交響曲]]や[[クラリネット五重奏曲]]、[[オペラ]]『[[嵐が丘]]』、[[カンタータ]]などを残した。ヒッチコックの『[[知りすぎていた男]]』にも指揮者として登場している。[[イギリス]]、アメリカの[[20世紀]]音楽に造詣が深く、[[チャールズ・アイヴズ]]を擁護する一方、[[ウィリアム・ウォルトン]]の[[新ロマン主義音楽|新ロマン主義的]]な作風に傾倒した。ハーマンによると映画音楽は商業音楽というより機会音楽の一種であり、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]や[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]がダンス音楽を作曲したように、自分は映画音楽を作曲するということだった。 1941年の『悪魔の金』で、[[アカデミー作曲賞]]を受賞した。 ヒッチコック映画に数々の曲を提供したが、1966年『[[引き裂かれたカーテン]]』のために作曲した音楽の出来映えを巡ってヒッチコックと対立し、以後永久に袂を分かった。 ハーマンは熱烈なイギリスびいきとして知られ、晩年をイギリスで過ごした。 ヒッチコックと決別して以降、映画音楽で傑作を生み出せずにいたが、『タクシー・ドライバー』での[[ジャズ]]の要素を取り入れたスコアが絶賛され、[[ブライアン・デ・パルマ]]監督の『[[愛のメモリー (映画)|愛のメモリー]]』と共に[[アカデミー作曲賞]]に30年ぶりにノミネートされた。 『タクシードライバー』の最後のレコーディング・セッションが終了して12時間後、息を引き取った。 同時代および後世の映画音楽に与えた影響は計り知れない。[[ダニー・エルフマン]]は、最も感化された映画音楽家としてハーマンの名を挙げている。後述のように、1998年のリメイク版『[[サイコ (1998年の映画)|サイコ]]』では、ハーマンのスコアをほとんどアレンジせずに再構成している。 他の作曲家の作品にも独自の見解を持っていて、友人の[[エルマー・バーンスタイン]]が『[[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]』の中で列車が発進する時に流れる軽いワルツを気に入り、ハーマンの前で弾いてみせたところ、ハーマンは「死を運ぶ列車なのにワルツなんて!」と憤慨したという。 == レガシー == ハーマンが亡くなった後も音楽は使用され続けている。 1977年、[[プログレッシブ・ロック]]の[[ユートピア (バンド)|ユートピア]]はアルバム『''[[:en:Ra (Utopia album)|Ra]]''』において、映画『[[地底探検 (1959年の映画)|地底探検]]』(1959年)で使用された楽曲「''Mountain Top/Sunrise''」をロックのアレンジでアルバム1曲目「''Communion With The Sun''」として収録した。 1991年、ハーマン作曲の映画『[[恐怖の岬]]』(1962年)が[[マーティン・スコセッシ]]監督により『[[ケープ・フィアー]]』としてリメイクされた。[[エルマー・バーンスタイン]]は『恐怖の岬』のハーマンの楽曲、およびハーマンが映画『[[引き裂かれたカーテン]]』(1966年)のために作曲したが[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督により却下された楽曲を基にアレンジして使用した<ref>{{Cite web|url=https://www.filmtracks.com/titles/cape_fear.html|title=Editorial Review: Cape Fear (1991 Re-recording)|date=April 9, 2006|website=[[:en:Filmtracks|Filmtracks]]|access-date=October 23, 2019}}</ref>。 1993年、アームステッド・モーピンの小説を基にして始まったミニシリーズ『[[:en:Tales of the City (1993 miniseries)|''Tales Of The City'']]』のオープニングで映画『[[めまい (映画)|めまい]]』(1958年)のオープニングの楽曲が再現された。 1998年、[[ガス・ヴァン・サント]]監督のリメイク版『[[サイコ (1998年の映画)|サイコ]]』のために、作曲家の[[ダニー・エルフマン]]と編曲家のスティーヴ・バーテックは 『[[サイコ (1960年の映画)|サイコ]]』(1960年)で使用された全楽曲を再現した<ref>{{cite web|url=https://www.filmtracks.com/titles/psycho98.html|title=Review: Psycho (1998) (Bernard Herrmann/Danny Elfman/Steve Bartek)|author=<!--Not stated-->|date=November 27, 2009|website=FilmTracks|access-date=October 7, 2019|quote=So loyal is Elfman (and cohort Steve Bartek) to Herrmann's original intent that he succeeded better than anyone else at re-recording the work.}}</ref>。 2003年、[[クエンティン・タランティーノ]]監督の『[[キル・ビル|キル・ビル Vol.1]]』で殺し屋のエル・ドライバー([[ダリル・ハンナ]])が病院の廊下でハーマンが作曲した映画『[[密室の恐怖実験]]』(1968年)の「''Georgie's Theme''」を口笛で吹く。 2011年、『めまい』のハーマン作曲のテーマ曲が[[レディー・ガガ]]の「[[ボーン・ディス・ウェイ (曲)|ボーン・ディス・ウェイ]]」の[[ミュージック・ビデオ]]の導入部で使用された。 2011年、[[FX (テレビ局)|FX]]の『[[アメリカン・ホラー・ストーリー]]』の[[パイロット版]]のフラッシュバックのシーンで『めまい』(のテーマ曲が使用された。のちのエピソードではテイト([[エヴァン・ピーターズ]])の登場シーンで映画『密室の恐怖実験』(1968年)の「''Georgie's Theme''」が度々使用された。 2011年、映画『[[アーティスト (映画)|アーティスト]]』において作曲家[[ルドヴィック・ブールス]]は『めまい』の愛のテーマを最後のシーンで使用した。 2018年、[[Amazonプライム]]の『[[ホームカミング (テレビドラマ)|ホームカミング]]』において、第1話「規則」に『めまい』、第4話「セコイア」に映画『[[地球の静止する日]]』(1951年)のハーマンの楽曲が使用された<ref>{{Cite web|url=https://www.indiewire.com/2018/11/homecoming-score-classic-thriller-movie-soundtracks-sam-esmail-complete-list-1202018145/|title='Homecoming': All the Classic Movie Soundtracks In the Series – And Why Sam Esmail Used Them|last=O'Falt|first=Chris|date=November 5, 2018|website=[[:en:IndieWire|IndieWire]]|language=en|access-date=October 23, 2019}}</ref>。 == 主な映画作品 == * [[市民ケーン]] - ''Citizen Kane'' (1941) * 悪魔の金 - ''All That Money Can Buy'' (1941) * [[ジェーン・エア (1943年の映画)|ジェーン・エア]] - ''Jane Eyre'' (1944) * [[地球の静止する日]] - ''The Day the Earth Stood Still'' (1951) * [[五本の指]] - ''5 Fingers'' (1952) * [[キリマンジャロの雪]] - ''The Snows of Kilimanjaro'' (1952) * [[エジプト人 (映画)|エジプト人]] - ''The Egyptian'' (1954) * [[ハリーの災難]] - ''The Trouble with Harry'' (1955) * [[間違えられた男]] - ''The Wrong Man'' (1956) * [[知りすぎていた男]] - ''The Man Who Knew Too Much'' (1956) * [[夜を逃れて]] - ''A Hatful of Rain'' (1957) * [[めまい (映画)|めまい]] - ''Vertigo'' (1958) * [[裸者と死者 (映画)|裸者と死者]] - ''The Naked and the Dead'' (1958) * [[シンバッド七回目の航海]] - ''The Seventh Voyage of Sinbad'' (1958) * [[北北西に進路を取れ]] - ''North by Northwest'' (1959) * [[地底探検 (1959年の映画)|地底探検]] - ''Journey to the Center of the Earth'' (1959) * [[サイコ (1960年の映画)|サイコ]] - ''Psycho'' (1960) * [[SF巨大生物の島]] - ''Mysterious Island'' (1961) * [[鳥 (1963年の映画)|鳥]] - ''The Birds'' (1963) * [[アルゴ探検隊の大冒険]] - ''Jason and the Argonauts'' (1963) * [[マーニー (映画)|マーニー]] - ''Marnie'' (1964) * [[華氏451]] - ''Fahrenheit 451'' (1966) * [[黒衣の花嫁]] - ''La Mariée était en noir'' (1968) * [[密室の恐怖実験]] - ''Twisted Nerve'' (1968) * [[ネレトバの戦い (映画)|ネレトバの戦い]] - ''Bitka na Neretvi'' (1969) * [[悪魔のシスター]] ''Sisters'' (1973) * [[悪魔の赤ちゃん]] - ''It’s Alive!'' (1974) * [[愛のメモリー (映画)|愛のメモリー]] - ''Obsession'' (1976) * [[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]] - ''Taxi Driver'' (1976) == 主な演奏会・舞台用音楽 == * 交響詩「森」 (1929) * 交響詩「11月の夕暮れ」 (1929) * ヴァイオリンとピアノのための「鎮魂の祈り」 (1929) * ヴァイオリンとピアノのための「黄昏」 (1929) * バレエ「軍隊行進曲」 (1932) * フルートとハープのための「アリア」 (1932) * 弦楽のためのシンフォニエッタ (1935) * [[:w:Moby Dick (cantata)|カンタータ「白鯨」]] (1937) **[[チャールズ・アイヴズ]]に献呈。 * [[:w:Symphony No. 1 (Herrmann)|交響曲]] (1941) **「第1番」と題されているが、2作目以降は手掛けられずに終わった。 * [[:w:Wuthering Heights (1951 opera)|オペラ「嵐が丘」]] (1951) * 弦楽四重奏のための「エコー」 (1965) * [[クラリネット五重奏曲]]「旅の思い出」(1967) == 受賞歴 == === アカデミー賞 === ;受賞 :[[1942年]] [[アカデミー作曲賞|アカデミー劇映画音楽賞]]:『[[悪魔の金]]』 ;ノミネート :1942年 アカデミー劇映画音楽賞:『[[市民ケーン]]』 :[[1947年]] アカデミー劇・喜劇映画音楽賞:『[[アンナとシャム王]]』 :[[1977年]] アカデミー作曲賞:『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』、『[[愛のメモリー (映画)|愛のメモリー]]』 == 家族 == 脚本家の[[ルシール・フレッチャー]]と1939年に結婚したが、1948年に離婚した。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == *{{cite book | last = Smith | first = Steven C. | year=1991 | title = A Heart at Fire's Center: The Life and Music of Bernard Herrmann | publisher = University of California Press | location= US | isbn = 0520071239 }} *{{cite book | last = Cooper | first = David | year=2001 | title = Bernard Herrmann's Vertigo: A Film Score Handbook | publisher = Greenwood Press | location= US | isbn = 031331490X }} *{{cite book | last = Cooper | first = David | year=2005 | title = Bernard Herrmann's The Ghost and Mrs Muir: A Film Score Guide | publisher = Scarecrow Press | location= US | isbn = 0810856794 }} *{{cite book | last = Johnson | first = Edward | year=1977 | title = Bernard Herrmann - Hollywood's Music-Dramatist - Foreword by Miklos Rozsa | publisher = Triad Press - Bibliographical Series No. 6 | location= Rickmansworth, UK }} == 外部リンク == * {{allcinema name|955|バーナード・ハーマン}} * {{Kinejun name|3355|バーナード・ハーマン}} * {{IMDb name|0002136|Bernard Herrmann}} * {{Discogs artist|Bernard Herrmann|Bernard Herrmann}} {{アカデミー賞作曲賞}} {{ロサンゼルス映画批評家協会賞 音楽賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はあまん はあなあと}} [[Category:アメリカ合衆国の作曲家]] [[Category:近現代の作曲家]] [[Category:アメリカ合衆国の映画音楽の作曲家]] [[Category:ユダヤ人の作曲家]] [[Category:アメリカ合衆国の指揮者]] [[Category:グッゲンハイム・フェロー]] [[Category:アカデミー賞受賞者]] [[Category:英国アカデミー賞受賞者]] [[Category:ジュリアード音楽院出身の人物]] [[Category:在イギリス・アメリカ人]] [[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]] [[Category:ニューヨーク市出身の人物]] [[Category:1911年生]] [[Category:1975年没]]
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パウル・ギュルダン
パウル・ギュルダン(パウル・グルディン、ポール・ギュルダン、Paul Guldin,1577年6月12日 - 1643年11月3日)はスイス生まれのオーストリアの数学者である。彼はユダヤ人の家系のプロテスタントの家庭に生まれたが、後にカトリックに改宗した。パウルという名前はその時改名した名前である。元の名前はHabakkuk Guldin。 グラーツ大学およびウィーン大学で数学の教授を務めた。 彼の数学上の業績はパップス=ギュルダンの定理と呼ばれる回転体の表面積と体積に関する定理しかおそらく知られていない。
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パウル・ギュルダンはスイス生まれのオーストリアの数学者である。彼はユダヤ人の家系のプロテスタントの家庭に生まれたが、後にカトリックに改宗した。パウルという名前はその時改名した名前である。元の名前はHabakkuk Guldin。 グラーツ大学およびウィーン大学で数学の教授を務めた。 彼の数学上の業績はパップス=ギュルダンの定理と呼ばれる回転体の表面積と体積に関する定理しかおそらく知られていない。
{{Infobox person | name = パウル・グルディン<br />(Paul Guldin) | image = Paul Guldin.jpg | alt = Paul Guldin | caption = Paul Guldin | birth_date = {{Birth date|1577|06|12}} | birth_place = | death_date = {{Death date and age|1643|11|03|1577|06|12}} | death_place = | nationality = [[スイス]] | other_names = Habakkuk Guldin | known_for = [[パップス=ギュルダンの定理|ギュルダンの定理]] | occupation = [[イエズス会]]員<br/>[[数学者]]<br/>[[天文学者]] }} '''パウル・ギュルダン'''(パウル・グルディン、ポール・ギュルダン、'''Paul Guldin''',[[1577年]][[6月12日]] - [[1643年]][[11月3日]]<ref>{{MacTutor|id=Guldin|title=Paul Guldin|class=Biographies}}</ref>)は[[スイス]]生まれの[[オーストリア]]の[[数学者]]である。彼は[[ユダヤ人]]の家系の[[プロテスタント]]の家庭に生まれたが、後に[[カトリック教会|カトリック]]に改宗した。パウルという名前はその時改名した名前である。元の名前は'''Habakkuk Guldin'''。 [[グラーツ大学]]および[[ウィーン大学]]で数学の教授を務めた。 彼の数学上の業績は[[パップス=ギュルダンの定理]]と呼ばれる[[回転体]]の[[表面積]]と[[体積]]に関する定理しかおそらく知られていない。 == 脚注 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きゆるたん はうる}} [[Category:スイスの数学者]] [[Category:16世紀の数学者|770612]] [[Category:17世紀の数学者|-770612]] [[Category:ウィーン大学の教員]] [[Category:グラーツ大学の教員]] [[Category:1577年生]] [[Category:1643年没]] [[Category:数学に関する記事]]
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パップス
アレキサンドリアのパップス(Pappus of Alexandria)はアレキサンドリア生まれのエジプトの数学者。4世紀の前半に活躍した。 彼はギリシャ数学を幅広く渉猟し、その技法を修得して8巻に及ぶ数学上の著作を残した。彼はその第七巻において、パップス=ギュルダンの定理と呼ばれる定理を証明しているが、これは後世の数学者に大きな影響を与えた。その他、射影幾何学におけるパップスの定理(パップスの六角形定理(英語版))など平面幾何学のいくつかの定理に彼の名前が残っている。 三角形の中線定理がパップスの中線定理と知られているが、実はこれはアポロニウスの定理である。
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イエズス会
イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societas Iesu)は、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナティウス・デ・ロヨラを中心として、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルら7人によって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された。草創期から世界各地への宣教に積極的に取り組み、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である。 会の略称はS.J.であり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)やジェズイット (Jesuit) 教団とも呼ばれた。 16世紀の宗教改革の時代に、フランス・モンマルトルの礼拝堂で、イグナティウス・デ・ロヨラとその学友によって「エルサレムへの巡礼」や「清貧と貞節」等の誓いが立てられたのが、その始まりである。 イエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる。このような軍隊的な会風は、創立者の1人で・初代総長のイグナティウス・デ・ロヨラが、修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことと深い関係がある。 現代では六大陸の112か国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大規模のものである。イエズス会の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。 イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母 (Madonna Della Strada) 」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアルトゥロ・ソサ(スペイン語版) 師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会(Chiesa del Gesù)は歴史的建築物となっている。 1534年8月15日、イグナティウス・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ大修道院教会堂(現在のサクレ・クール寺院の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。この日がイエズス会の創立日とされている。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。 1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。 1538年の10月、ロヨラはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』(Regimini Militantis) でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』(Injunctum Nobis) で取り払われた。ロヨラは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣した。 会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツやポーランド、オーストリアなどのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。 ロヨラが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(ロヨラは「死人のごとき従順」(perinde ac cadaver) という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」(Ad Majorem Dei Gloriam) である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表している。 イエズス会が創立されたのは対抗宗教改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の始まる直前であった。「イエズス会がプロテスタントに対抗して創設された」と言われており、教皇に対する忠実というイエズス会の精神から、会員たちは活動を通して人々にカトリック信仰を堅持させることに成功した。あくまで誇張した表現ではあるが、ロヨラは教皇への忠実を以下のように表現する。 教皇への服従を唱えながらも、ロヨラと初期の会員たちは当時のカトリック教会には改革と刷新の必要があることを十分に理解していた。イエズス会員たちはプロテスタントへの攻撃などという表面的なことでなく、まずカトリック教会の内部に目を向けることの重要性を認識しており、教会にはびこる汚職、不正、霊的倦怠を激しく批判した。その結果、教皇への忠誠を誓うイエズス会員たちが教皇や教会の高位聖職者たちと揉め事を起こすという皮肉な事態に陥ることもあった。 ロヨラによれば、カトリック教会の改革の基本は1人1人の内的改心にあった。イエズス会員たちは個人の改心のための方法としてロヨラの編み出した霊的指導いわゆる「霊操」を用いた。霊操は、沈黙のうちに行う1ヶ月の黙想のプログラムで、これを授かるものは毎日異なるテーマについて黙想し、司祭による定期的な指導を受けながら、神が自分に望まれていることは何かを考えていく。霊操は、清めから照らし、統一へとすすむヨハネ・カッシアヌス(英語版)と砂漠の教父たち以来の神秘主義の伝統にのっとっている。ロヨラの「霊操」は、神秘主義の黙想の伝統に即しながら、一般の人が実生活の中で行えるように、さらにはカトリック教会の内的刷新に貢献できるようにデザインされていることに意義がある。 ルネサンス後期におけるイエズス会の意義は、世界宣教だけでなく、主要な任務として大学と高等教育機関の運営に積極的に取り組んだことにある。1556年のロヨラの逝去時までに、イエズス会はすでに三つの大陸で74の大学を運営していた。自由教育のさきがけとして知られるイエズス会の教育方針は、ルネサンスの人文主義者が発展させた当時の新潮流である古典研究とカトリック教会で長年にわたって研鑽されてきたスコラ学を無理なく融合させたものとして大きな意味を持っていた。世界のイエズス会の統一教育指針となった「ラツィオ・ストゥディオールム」(学事規定)は信仰教育だけでなくラテン語・ギリシア語および古典文学、詩文、哲学、非ヨーロッパ語、科学、芸術の学習を課した。 それだけでなく、イエズス会学校ではその地域特有の言葉の文学および修辞学の学習を奨励した結果、各国における法律家や官公吏の重要な養成施設となった。教育事業によってイエズス会はポーランドのようなプロテスタントが急速に普及していた地域をカトリックに回帰させることになった。現代でも世界100か国以上にイエズス会の経営する学校がある。目に見えるものや芸術を通して人間は神と出会えるというカトリック教会の伝統的思想に従い、イエズス会では儀式や装飾の利用が奨励された。美術や音楽の重視というのは当時のイエズス会員の際立った特質であった。 強い信念と深い教養を持ったイエズス会員は各国の王族から霊的指導者として招聘されたため、近代ヨーロッパの政治状況に大きな影響を与えることになった。また、イエズス会が聖務日課の共唱など当時の修道会で常識とされていたことを会員に課さなかったことで、会員たちはより自由な活動が可能になった。 イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。最も有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。2年滞在して困難な宣教活動に従事した(→ #日本での活動)。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去した。16世紀のイエズス会士たちは中国と日本への宣教の拠点としてマカオを利用した。 アメリカ大陸におけるイエズス会の宣教活動はヨーロッパ諸国(特に広大な植民地を保持していたスペインとポルトガル)の利害とかかわってしまったため、内政干渉という口実でさまざまな議論を巻き起こすことになった。ドミニコ会やイエズス会は主として当時のアメリカ大陸でネイティブ・アメリカンの権利を主張し、奴隷制に抗議していたからである。イエズス会員はキリスト教徒になったインディオを他部族やヨーロッパの奴隷商人の襲撃から守るためブラジルとパラグアイに「保護統治地」(Reducciones) をつくった。インディオを保護しようとするイエズス会員はスペインとポルトガルの奴隷商人およびそこから利権を得る政府高官にとって目障りであったため、のちにポルトガルからイエズス会への迫害が始まることになる。 マヌエル・ダ・ノブレガ(英語版) (Manoel da Nóbrega) やジョゼ・デ・アンシエタ (José de Anchieta) は16世紀のブラジルでインディオ相手に宣教・教育事業を行いながら、いくつもの街をつくった。その中にはサンパウロ、リオデジャネイロなどのちに大都市になったものも含まれている。17世紀にはエウセビオ・キノがヌエバ・エスパーニャ北部のソノラ砂漠に、「砂漠の白い鳩」と呼ばれその美しさが称えられているアリゾナ州ツーソン近郊の聖ザビエル伝道教会などの多くの伝道所を設立した。またエウセビオ・キノは当時島だと信じられていたバハ・カリフォルニアが、半島であることを証明した。 中国におけるイエズス会の活動は典礼論争を生むことになり、後に問題の本質から離れてイエズス会への政治的攻撃の道具とされた。また、ヨハネス・グリューベル (Johannes Gruber) とアルベール・ドルヴィル (Albert d'Orville) は1661年に北京から青海湖を経てラサにたどりつき、同地に滞在後、カトマンズからアグラにいたった。彼らは初めてチベットの実情をヨーロッパに伝えたことで知られている。 宣教地で働くイエズス会員たちはその土地の文化や言語の学術的研究をすすめ、ヨーロッパに紹介した。たとえば1603年に発行された日葡辞書 (Vocabvlario da Lingoa de Iapam) は非常に画期的かつ浩瀚な内容で、現代においても17世紀の日本語の貴重な研究資料になっている。ほかにも南米ではトゥピ・グアラニ語辞典などもつくられている。 ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたとき、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在が目障りなものとなっていた。イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。列強は教皇クレメンス13世にイエズス会を禁止するよう圧力をかけたが、教皇は頑として聞き入れなかった。だが、イエズス会を保護し続けたクレメンス13世が急逝し、次の教皇としてクレメンス14世が着座すると圧力はいっそう強まり、教皇はイエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国と教皇庁との関係をとるかという究極の選択を迫られることになった。 このような経緯を経て1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世も自国へのイエズス会士の亡命を許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。 1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会の復興が許可された。復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。 スイスでは19世紀に起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、1848年憲法によってイエズス会の禁止が決定された。この禁止令は1973年5月20日に、国民投票によって廃止が決議されるまで存続した。 20世紀はイエズス会にとって発展と衰退の両面を示す世紀となった。カトリック教会全体の趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代にピークを迎え、以後ゆるやかに減少していった。会員が減少したにもかかわらず関連施設は増加し、協力者会の会員数も増えた。20世紀の著名なイエズス会員の中には「第2バチカン公会議のデザイナー」とも呼ばれるジョン・コートニー・マレー(英語版)がおり、彼は同会議の文書の一つ「信教の自由に関する宣言(英語版)」の草稿を書いたことで知られる。 イエズス会は会員数約2万人弱、活動地域は六大陸の112か国に及ぶ世界で二番目に大きいカトリックの男子修道会である。会の活動は宣教・教育・社会正義など広範な分野にわたるが、特に有名なのは依然として高等教育である。世界各地にイエズス会の大学と高等教育機関があるが、現在この分野でもっとも活発なのはインドとフィリピンであろう。各地のイエズス会学校は所在地の文化に適応した教育を行っているが、「人生のモデルとしてのキリスト、生涯教育のスタートとして知的・霊的教育」という共通の教育目標を掲げている。 ラテン・アメリカでは解放の神学の熱心な推進者として多くのイエズス会員が知られている。解放の神学は時に微妙な政治の領域へ踏み込む危険があるため、カトリック教会において物議をかもしてきた。教皇ヨハネ・パウロ2世は数度にわたってその行き過ぎを非難している。アルゼンチンでの「汚い戦争」と呼ばれる軍政期の1976年に解放の神学のイエズス会士2人がアルゼンチンに赴いたものの海軍により拉致され拷問を受けることとなった。当時のイエズス会アルゼンチン管区長のホルヘ・マリオ・ベルゴリオは政府要人と接触し2人の解放のための交渉をし実現にこぎつけた。しかしベルゴリオの管区長としての軍政下の「非政治的な態度」は彼が2013年にローマ教皇に選出されると賛否が分かれた。 ペドロ・アルペ総長時代、イエズス会の活動テーマとして「社会正義と社会的弱者への優先的配慮」が掲げられた。オスカル・ロメロ司教暗殺から10年ほどたった1989年11月16日、イエズス会の六司祭(イグナシオ・エラクリア、セグンド・モンテス、イグナシオ・マルティン・ベロ、ホアキン・ロペス・イ・ロペス、フアン・ラモン・モレノ、アマド・ロペス)と家政婦をしていたエルバ・ラモスとその娘セリア・マリセラ・ラモスがエル・サルバドル軍兵士によって中央アメリカ大学の構内で殺害された。彼らは貧者の保護者であったため、政府から破壊活動を扇動しているというレッテルを張られた上での殺害であった。この事件はイエズス会全体の社会正義運動に対する意識を高め、殺害した兵士たちがアメリカ合衆国のジョージア州の基地で訓練されたことからアメリカ軍に対する抗議運動へと発展することになった。 2002年にはボストンカレッジの総長でイエズス会員のウィリアム・リーハイがカトリック教会を「危機を超えて再生へ向かわせる」とうたった21世紀プログラムを発表した。その中ではカトリック教会の検討すべき課題として司祭の独身性、女性の役割、信徒の役割などがとりあげられた。 2006年2月2日、ペーター・ハンス・コルヴェンバッハ総長は、教皇の了承のもと、80歳を迎える2008年に総長を退任すると発表した。2008年1月5日からローマで行われる第35回イエズス会総会では新総長の選出が行われることとなった。イエズス会総長は終身制だが、自主的な退任も可能であると会憲に定められている。 2006年4月22日、イエズス会の守護者である聖母の祝日に教皇ベネディクト16世はローマを訪れたイエズス会員たちに対して贈った言葉で「イグナチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーヴルのような優れた聖性の人を源流とするイエズス会の存在に感謝し」た。彼はロヨラについて「まさに神の人であり、祈りの人であった。彼の存在の根源にあったのは聖体への深い信心であった」と語った。 2008年1月15日、ローマで開かれていた第35回イエズス会総会において前述のコルヴェンバッハ総長の退任に伴い、日本の上智大学に学び同校において教鞭を執ったこともあるスペイン人会士アドルフォ・ニコラス神父を新総長に選出。広島での活動が有名で上智大学で教鞭もとっていた28代ペドロ・アルペ総長に続く、日本に縁の深い人物の総長就任となった。 2013年3月13日、2月28日のベネディクト16世の退位に伴い前日12日から開幕したコンクラーヴェにおいて、イエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(ブエノスアイレス大司教)が第266代ローマ教皇に選出され、教皇フランシスコを名乗る。フランシスコは3月16日のメディア向け会見の席上、教皇名を選んだ際のエピソードとして、冗談と前置きした上で「『君はクレメンス15世を名乗るべきだ。そうすれば(上記の通りイエズス会を弾圧した)クレメンス14世に仕返しができるじゃないか』と言われました」と述べ、出席者の笑いを誘った。フランシスコはまた教皇選出後、ニコラス総長から届いたイエズス会からの祝いのことばの返礼のために、ローマのイエズス会本部に直接電話している。 日本でのイエズス会事業は、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。日本人初のイエズス会士は薩摩国(鹿児島県)出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となった。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。 1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであった(ただし大村純忠は実際に熱心な信徒でもあり、領民への改宗強制や仏教や神道への迫害を行ったため領内で反発を招いている)。しかし、これをスペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目を向けた豊臣秀吉は、1587年にバテレン追放令を発布し、長崎をイエズス会から取り上げて直轄領とした。最終的に江戸幕府による禁教令によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、江戸時代にイエズス会は日本での活動を終えた。 イエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。アレッサンドロ・ヴァリニャーノなども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。サン=フェリペ号事件のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった。 イエズス会員の養成は、霊的養成、知的養成、司牧活動(世界のいずれの場所でも働ける修道者としての)養成の三つの分野からなる。イグナティウス・デ・ロヨラはルネサンス人であり、会員たちにどんな仕事でもすぐにできるようあらゆる分野での準備をしておくことを求めた。司祭養成には(当該人物の学歴にもよるが)通常10年から12年かかる。 養成にはいくつかの段階があるが、養成に先立っておかれるのが志願期という時期である。志願期にはその人物が霊的指導を受けながらイエズス会員にふさわしいかどうかが慎重に調べられる。志願期を終えた後でようやく養成の正式な第一段階である修練期に入る。2年間の修練期では修練院(修道院)で暮らしながら、霊操を受け、イエズス会の歴史や霊性について学ぶ。同時にイエズス会の使徒職を実際に手伝うことで体験する。修練が終わると、初誓願を立てる。誓願とはカトリック教会の修道者が立てる従順、清貧、貞潔の三つの誓いのことである。誓願を立てた後で神学の勉強を継続して司祭職を目指すか、修道士になるか選ぶことになる。修道士を目指すものはそれぞれの希望や適性に応じて専門性の高い勉学をおこなう場合も多い。 司祭職を目指す場合、以下のようなコースを進むことになる。まず、哲学と神学を学ぶ。次に実地課程という期間が2年あるいは3年間あり、実際のイエズス会の使徒職に従事する。その後さらに神学の勉強を深め、叙階を受ける。叙階後の数年間支部における活動に従事した後で、再び養成支部に戻り、第3修練と呼ばれる期間に入る。これは文字通り修練期の内容を実際の体験を通してさらに深める期間である。この期間に1か月の霊操を再び授かることで霊的にもより深められる。 つねに世界のどこでも活動できることを求めるイエズス会において、現代の会員たちは英語の習得が求められている。英語が母語である会員にはスペイン語の学習が求められる。 イエズス会は近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が、しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられるのは、その名残である。イエズス会は「より大いなる善」のためなら、どんなことでもするというイメージをもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆など、あらゆる「陰謀」の犯人とされた。さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに、教皇とバチカン市国を陰から操っているのは、実はイエズス会総長であるという噂が、まことしやかに吹聴されてきた。 フィクションの中でも、陰謀の枢軸としてのイエズス会がしばしば強調される。デュマの『ダルタニャン物語』では、イエズス会の管区長となるためには、世界を揺るがすほどの秘密を持っていなければならないとされ、フランス王ルイ14世に瓜二つの双子の弟がいるという重大な秘密を握っていた三銃士のひとりアラミスが管区長となる。管区長アラミスは、その秘密を用いてフランス王を双子の弟と取り換え、自らの傀儡にしようとするのである。イエズス会が陰謀の首謀者とされている代表例の一つと言える。 現代においても、イエズス会員について「過度に進歩的であり、特定の話題において教会の公式な教説に反することを説くことがある」と批判されることがある。たとえば、人工妊娠中絶手術、司祭の独身性、同性愛、奴隷貿易及び、解放の神学などの話題が、それにあたる。 ロヨラやザビエルなどの創立メンバー以外にも、イエズス会には多くの著名人がいる。 イエズス会は高等教育を使命とし、長きにわたって世界中で高等教育機関を運営してきた。イエズス会学校は数多く著名な卒業生たちを輩出している。いくつかあげると以下のようなものがある。 1908年に再来日したイエズス会は現在、日本で以下のミッションスクールを運営している。また、広島教区(岡山・広島・島根・鳥取・山口の中国地方5県)や東京の麹町教会(聖イグナチオ教会)などにおける司牧を担当している。 学校や教育機関だけでなく、イエズス会は世界各地で聖堂や教会を建立しており、歴史的に価値のあるものが多い。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societas Iesu)は、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナティウス・デ・ロヨラを中心として、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルら7人によって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された。草創期から世界各地への宣教に積極的に取り組み、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "会の略称はS.J.であり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)やジェズイット (Jesuit) 教団とも呼ばれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "16世紀の宗教改革の時代に、フランス・モンマルトルの礼拝堂で、イグナティウス・デ・ロヨラとその学友によって「エルサレムへの巡礼」や「清貧と貞節」等の誓いが立てられたのが、その始まりである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "イエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる。このような軍隊的な会風は、創立者の1人で・初代総長のイグナティウス・デ・ロヨラが、修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことと深い関係がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現代では六大陸の112か国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大規模のものである。イエズス会の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母 (Madonna Della Strada) 」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアルトゥロ・ソサ(スペイン語版) 師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会(Chiesa del Gesù)は歴史的建築物となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1534年8月15日、イグナティウス・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ大修道院教会堂(現在のサクレ・クール寺院の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。この日がイエズス会の創立日とされている。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1538年の10月、ロヨラはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』(Regimini Militantis) でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』(Injunctum Nobis) で取り払われた。ロヨラは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツやポーランド、オーストリアなどのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ロヨラが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(ロヨラは「死人のごとき従順」(perinde ac cadaver) という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」(Ad Majorem Dei Gloriam) である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "イエズス会が創立されたのは対抗宗教改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の始まる直前であった。「イエズス会がプロテスタントに対抗して創設された」と言われており、教皇に対する忠実というイエズス会の精神から、会員たちは活動を通して人々にカトリック信仰を堅持させることに成功した。あくまで誇張した表現ではあるが、ロヨラは教皇への忠実を以下のように表現する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "教皇への服従を唱えながらも、ロヨラと初期の会員たちは当時のカトリック教会には改革と刷新の必要があることを十分に理解していた。イエズス会員たちはプロテスタントへの攻撃などという表面的なことでなく、まずカトリック教会の内部に目を向けることの重要性を認識しており、教会にはびこる汚職、不正、霊的倦怠を激しく批判した。その結果、教皇への忠誠を誓うイエズス会員たちが教皇や教会の高位聖職者たちと揉め事を起こすという皮肉な事態に陥ることもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ロヨラによれば、カトリック教会の改革の基本は1人1人の内的改心にあった。イエズス会員たちは個人の改心のための方法としてロヨラの編み出した霊的指導いわゆる「霊操」を用いた。霊操は、沈黙のうちに行う1ヶ月の黙想のプログラムで、これを授かるものは毎日異なるテーマについて黙想し、司祭による定期的な指導を受けながら、神が自分に望まれていることは何かを考えていく。霊操は、清めから照らし、統一へとすすむヨハネ・カッシアヌス(英語版)と砂漠の教父たち以来の神秘主義の伝統にのっとっている。ロヨラの「霊操」は、神秘主義の黙想の伝統に即しながら、一般の人が実生活の中で行えるように、さらにはカトリック教会の内的刷新に貢献できるようにデザインされていることに意義がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ルネサンス後期におけるイエズス会の意義は、世界宣教だけでなく、主要な任務として大学と高等教育機関の運営に積極的に取り組んだことにある。1556年のロヨラの逝去時までに、イエズス会はすでに三つの大陸で74の大学を運営していた。自由教育のさきがけとして知られるイエズス会の教育方針は、ルネサンスの人文主義者が発展させた当時の新潮流である古典研究とカトリック教会で長年にわたって研鑽されてきたスコラ学を無理なく融合させたものとして大きな意味を持っていた。世界のイエズス会の統一教育指針となった「ラツィオ・ストゥディオールム」(学事規定)は信仰教育だけでなくラテン語・ギリシア語および古典文学、詩文、哲学、非ヨーロッパ語、科学、芸術の学習を課した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "それだけでなく、イエズス会学校ではその地域特有の言葉の文学および修辞学の学習を奨励した結果、各国における法律家や官公吏の重要な養成施設となった。教育事業によってイエズス会はポーランドのようなプロテスタントが急速に普及していた地域をカトリックに回帰させることになった。現代でも世界100か国以上にイエズス会の経営する学校がある。目に見えるものや芸術を通して人間は神と出会えるというカトリック教会の伝統的思想に従い、イエズス会では儀式や装飾の利用が奨励された。美術や音楽の重視というのは当時のイエズス会員の際立った特質であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "強い信念と深い教養を持ったイエズス会員は各国の王族から霊的指導者として招聘されたため、近代ヨーロッパの政治状況に大きな影響を与えることになった。また、イエズス会が聖務日課の共唱など当時の修道会で常識とされていたことを会員に課さなかったことで、会員たちはより自由な活動が可能になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。最も有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。2年滞在して困難な宣教活動に従事した(→ #日本での活動)。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去した。16世紀のイエズス会士たちは中国と日本への宣教の拠点としてマカオを利用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "アメリカ大陸におけるイエズス会の宣教活動はヨーロッパ諸国(特に広大な植民地を保持していたスペインとポルトガル)の利害とかかわってしまったため、内政干渉という口実でさまざまな議論を巻き起こすことになった。ドミニコ会やイエズス会は主として当時のアメリカ大陸でネイティブ・アメリカンの権利を主張し、奴隷制に抗議していたからである。イエズス会員はキリスト教徒になったインディオを他部族やヨーロッパの奴隷商人の襲撃から守るためブラジルとパラグアイに「保護統治地」(Reducciones) をつくった。インディオを保護しようとするイエズス会員はスペインとポルトガルの奴隷商人およびそこから利権を得る政府高官にとって目障りであったため、のちにポルトガルからイエズス会への迫害が始まることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "マヌエル・ダ・ノブレガ(英語版) (Manoel da Nóbrega) やジョゼ・デ・アンシエタ (José de Anchieta) は16世紀のブラジルでインディオ相手に宣教・教育事業を行いながら、いくつもの街をつくった。その中にはサンパウロ、リオデジャネイロなどのちに大都市になったものも含まれている。17世紀にはエウセビオ・キノがヌエバ・エスパーニャ北部のソノラ砂漠に、「砂漠の白い鳩」と呼ばれその美しさが称えられているアリゾナ州ツーソン近郊の聖ザビエル伝道教会などの多くの伝道所を設立した。またエウセビオ・キノは当時島だと信じられていたバハ・カリフォルニアが、半島であることを証明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国におけるイエズス会の活動は典礼論争を生むことになり、後に問題の本質から離れてイエズス会への政治的攻撃の道具とされた。また、ヨハネス・グリューベル (Johannes Gruber) とアルベール・ドルヴィル (Albert d'Orville) は1661年に北京から青海湖を経てラサにたどりつき、同地に滞在後、カトマンズからアグラにいたった。彼らは初めてチベットの実情をヨーロッパに伝えたことで知られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "宣教地で働くイエズス会員たちはその土地の文化や言語の学術的研究をすすめ、ヨーロッパに紹介した。たとえば1603年に発行された日葡辞書 (Vocabvlario da Lingoa de Iapam) は非常に画期的かつ浩瀚な内容で、現代においても17世紀の日本語の貴重な研究資料になっている。ほかにも南米ではトゥピ・グアラニ語辞典などもつくられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたとき、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在が目障りなものとなっていた。イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。列強は教皇クレメンス13世にイエズス会を禁止するよう圧力をかけたが、教皇は頑として聞き入れなかった。だが、イエズス会を保護し続けたクレメンス13世が急逝し、次の教皇としてクレメンス14世が着座すると圧力はいっそう強まり、教皇はイエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国と教皇庁との関係をとるかという究極の選択を迫られることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このような経緯を経て1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世も自国へのイエズス会士の亡命を許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会の復興が許可された。復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "スイスでは19世紀に起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、1848年憲法によってイエズス会の禁止が決定された。この禁止令は1973年5月20日に、国民投票によって廃止が決議されるまで存続した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "20世紀はイエズス会にとって発展と衰退の両面を示す世紀となった。カトリック教会全体の趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代にピークを迎え、以後ゆるやかに減少していった。会員が減少したにもかかわらず関連施設は増加し、協力者会の会員数も増えた。20世紀の著名なイエズス会員の中には「第2バチカン公会議のデザイナー」とも呼ばれるジョン・コートニー・マレー(英語版)がおり、彼は同会議の文書の一つ「信教の自由に関する宣言(英語版)」の草稿を書いたことで知られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "イエズス会は会員数約2万人弱、活動地域は六大陸の112か国に及ぶ世界で二番目に大きいカトリックの男子修道会である。会の活動は宣教・教育・社会正義など広範な分野にわたるが、特に有名なのは依然として高等教育である。世界各地にイエズス会の大学と高等教育機関があるが、現在この分野でもっとも活発なのはインドとフィリピンであろう。各地のイエズス会学校は所在地の文化に適応した教育を行っているが、「人生のモデルとしてのキリスト、生涯教育のスタートとして知的・霊的教育」という共通の教育目標を掲げている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ラテン・アメリカでは解放の神学の熱心な推進者として多くのイエズス会員が知られている。解放の神学は時に微妙な政治の領域へ踏み込む危険があるため、カトリック教会において物議をかもしてきた。教皇ヨハネ・パウロ2世は数度にわたってその行き過ぎを非難している。アルゼンチンでの「汚い戦争」と呼ばれる軍政期の1976年に解放の神学のイエズス会士2人がアルゼンチンに赴いたものの海軍により拉致され拷問を受けることとなった。当時のイエズス会アルゼンチン管区長のホルヘ・マリオ・ベルゴリオは政府要人と接触し2人の解放のための交渉をし実現にこぎつけた。しかしベルゴリオの管区長としての軍政下の「非政治的な態度」は彼が2013年にローマ教皇に選出されると賛否が分かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ペドロ・アルペ総長時代、イエズス会の活動テーマとして「社会正義と社会的弱者への優先的配慮」が掲げられた。オスカル・ロメロ司教暗殺から10年ほどたった1989年11月16日、イエズス会の六司祭(イグナシオ・エラクリア、セグンド・モンテス、イグナシオ・マルティン・ベロ、ホアキン・ロペス・イ・ロペス、フアン・ラモン・モレノ、アマド・ロペス)と家政婦をしていたエルバ・ラモスとその娘セリア・マリセラ・ラモスがエル・サルバドル軍兵士によって中央アメリカ大学の構内で殺害された。彼らは貧者の保護者であったため、政府から破壊活動を扇動しているというレッテルを張られた上での殺害であった。この事件はイエズス会全体の社会正義運動に対する意識を高め、殺害した兵士たちがアメリカ合衆国のジョージア州の基地で訓練されたことからアメリカ軍に対する抗議運動へと発展することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2002年にはボストンカレッジの総長でイエズス会員のウィリアム・リーハイがカトリック教会を「危機を超えて再生へ向かわせる」とうたった21世紀プログラムを発表した。その中ではカトリック教会の検討すべき課題として司祭の独身性、女性の役割、信徒の役割などがとりあげられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2006年2月2日、ペーター・ハンス・コルヴェンバッハ総長は、教皇の了承のもと、80歳を迎える2008年に総長を退任すると発表した。2008年1月5日からローマで行われる第35回イエズス会総会では新総長の選出が行われることとなった。イエズス会総長は終身制だが、自主的な退任も可能であると会憲に定められている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2006年4月22日、イエズス会の守護者である聖母の祝日に教皇ベネディクト16世はローマを訪れたイエズス会員たちに対して贈った言葉で「イグナチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーヴルのような優れた聖性の人を源流とするイエズス会の存在に感謝し」た。彼はロヨラについて「まさに神の人であり、祈りの人であった。彼の存在の根源にあったのは聖体への深い信心であった」と語った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2008年1月15日、ローマで開かれていた第35回イエズス会総会において前述のコルヴェンバッハ総長の退任に伴い、日本の上智大学に学び同校において教鞭を執ったこともあるスペイン人会士アドルフォ・ニコラス神父を新総長に選出。広島での活動が有名で上智大学で教鞭もとっていた28代ペドロ・アルペ総長に続く、日本に縁の深い人物の総長就任となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2013年3月13日、2月28日のベネディクト16世の退位に伴い前日12日から開幕したコンクラーヴェにおいて、イエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(ブエノスアイレス大司教)が第266代ローマ教皇に選出され、教皇フランシスコを名乗る。フランシスコは3月16日のメディア向け会見の席上、教皇名を選んだ際のエピソードとして、冗談と前置きした上で「『君はクレメンス15世を名乗るべきだ。そうすれば(上記の通りイエズス会を弾圧した)クレメンス14世に仕返しができるじゃないか』と言われました」と述べ、出席者の笑いを誘った。フランシスコはまた教皇選出後、ニコラス総長から届いたイエズス会からの祝いのことばの返礼のために、ローマのイエズス会本部に直接電話している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本でのイエズス会事業は、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。日本人初のイエズス会士は薩摩国(鹿児島県)出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となった。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。", "title": "日本での活動" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであった(ただし大村純忠は実際に熱心な信徒でもあり、領民への改宗強制や仏教や神道への迫害を行ったため領内で反発を招いている)。しかし、これをスペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目を向けた豊臣秀吉は、1587年にバテレン追放令を発布し、長崎をイエズス会から取り上げて直轄領とした。最終的に江戸幕府による禁教令によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、江戸時代にイエズス会は日本での活動を終えた。", "title": "日本での活動" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "イエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。アレッサンドロ・ヴァリニャーノなども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。サン=フェリペ号事件のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった。", "title": "日本での活動" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "イエズス会員の養成は、霊的養成、知的養成、司牧活動(世界のいずれの場所でも働ける修道者としての)養成の三つの分野からなる。イグナティウス・デ・ロヨラはルネサンス人であり、会員たちにどんな仕事でもすぐにできるようあらゆる分野での準備をしておくことを求めた。司祭養成には(当該人物の学歴にもよるが)通常10年から12年かかる。", "title": "会員の養成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "養成にはいくつかの段階があるが、養成に先立っておかれるのが志願期という時期である。志願期にはその人物が霊的指導を受けながらイエズス会員にふさわしいかどうかが慎重に調べられる。志願期を終えた後でようやく養成の正式な第一段階である修練期に入る。2年間の修練期では修練院(修道院)で暮らしながら、霊操を受け、イエズス会の歴史や霊性について学ぶ。同時にイエズス会の使徒職を実際に手伝うことで体験する。修練が終わると、初誓願を立てる。誓願とはカトリック教会の修道者が立てる従順、清貧、貞潔の三つの誓いのことである。誓願を立てた後で神学の勉強を継続して司祭職を目指すか、修道士になるか選ぶことになる。修道士を目指すものはそれぞれの希望や適性に応じて専門性の高い勉学をおこなう場合も多い。", "title": "会員の養成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "司祭職を目指す場合、以下のようなコースを進むことになる。まず、哲学と神学を学ぶ。次に実地課程という期間が2年あるいは3年間あり、実際のイエズス会の使徒職に従事する。その後さらに神学の勉強を深め、叙階を受ける。叙階後の数年間支部における活動に従事した後で、再び養成支部に戻り、第3修練と呼ばれる期間に入る。これは文字通り修練期の内容を実際の体験を通してさらに深める期間である。この期間に1か月の霊操を再び授かることで霊的にもより深められる。", "title": "会員の養成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "つねに世界のどこでも活動できることを求めるイエズス会において、現代の会員たちは英語の習得が求められている。英語が母語である会員にはスペイン語の学習が求められる。", "title": "会員の養成" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "イエズス会は近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が、しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられるのは、その名残である。イエズス会は「より大いなる善」のためなら、どんなことでもするというイメージをもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆など、あらゆる「陰謀」の犯人とされた。さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに、教皇とバチカン市国を陰から操っているのは、実はイエズス会総長であるという噂が、まことしやかに吹聴されてきた。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "フィクションの中でも、陰謀の枢軸としてのイエズス会がしばしば強調される。デュマの『ダルタニャン物語』では、イエズス会の管区長となるためには、世界を揺るがすほどの秘密を持っていなければならないとされ、フランス王ルイ14世に瓜二つの双子の弟がいるという重大な秘密を握っていた三銃士のひとりアラミスが管区長となる。管区長アラミスは、その秘密を用いてフランス王を双子の弟と取り換え、自らの傀儡にしようとするのである。イエズス会が陰謀の首謀者とされている代表例の一つと言える。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "現代においても、イエズス会員について「過度に進歩的であり、特定の話題において教会の公式な教説に反することを説くことがある」と批判されることがある。たとえば、人工妊娠中絶手術、司祭の独身性、同性愛、奴隷貿易及び、解放の神学などの話題が、それにあたる。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ロヨラやザビエルなどの創立メンバー以外にも、イエズス会には多くの著名人がいる。", "title": "著名な会員" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "イエズス会は高等教育を使命とし、長きにわたって世界中で高等教育機関を運営してきた。イエズス会学校は数多く著名な卒業生たちを輩出している。いくつかあげると以下のようなものがある。", "title": "関連施設" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1908年に再来日したイエズス会は現在、日本で以下のミッションスクールを運営している。また、広島教区(岡山・広島・島根・鳥取・山口の中国地方5県)や東京の麹町教会(聖イグナチオ教会)などにおける司牧を担当している。", "title": "関連施設" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "学校や教育機関だけでなく、イエズス会は世界各地で聖堂や教会を建立しており、歴史的に価値のあるものが多い。", "title": "関連施設" } ]
イエズス会は、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナティウス・デ・ロヨラを中心として、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルら7人によって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された。草創期から世界各地への宣教に積極的に取り組み、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である。 会の略称はS.J.であり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)やジェズイット (Jesuit) 教団とも呼ばれた。 16世紀の宗教改革の時代に、フランス・モンマルトルの礼拝堂で、イグナティウス・デ・ロヨラとその学友によって「エルサレムへの巡礼」や「清貧と貞節」等の誓いが立てられたのが、その始まりである。 イエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる。このような軍隊的な会風は、創立者の1人で・初代総長のイグナティウス・デ・ロヨラが、修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことと深い関係がある。 現代では六大陸の112か国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大規模のものである。イエズス会の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。 イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母 (Madonna Della Strada) 」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアルトゥロ・ソサ 師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会は歴史的建築物となっている。
{{参照方法|date=2016年3月}} {{Infobox 組織 | 名称 = イエズス会<br />{{lang|la|Societas Iesu}} | 略称 = SJ | 画像 = Image:Ihs-logo.svg | 画像サイズ = 200 | 画像説明 = イエズス会の紋章 | 画像2 = Image:Casa generalizia Compagnia di Gesù.jpg | 画像サイズ2 = 200 | 画像説明2 = ローマのイエズス会本部、2017年1月 | 設立者 = [[イグナティウス・デ・ロヨラ]]、他 | 設立 = [[1534年]] | 種類 = カトリック教会の男子修道会 | 目的 = 宣教、教育、社会活動 |本部 = {{ITA}}・[[ローマ]]・ボルゴ・サント・スピリト4<ref name=dir>{{Cite web |author= |date= |url=http://www.sjweb.info/housesDIR.cfm |title=The Interprovincial Jesuit Houses in Rome |work= |publisher=イエズス会 |accessdate=2017-10-28}}{{en icon}}</ref> |位置 = | 緯度度 = 41|緯度分 =54 |緯度秒 = 3 | 経度度 = 12|経度分 =27 |経度秒 =36 |leader_title = <!-- 既定値:会長 -->総長{{仮リンク|アルトゥロ・ソサ|es|Arturo Sosa Abascal}} | ウェブサイト = https://www.jesuits.global/<br /> https://www.jesuits-japan.org/{{ja icon}} }} [[Image:Ignatius Loyola.jpg|thumb|right|200px|イグナティウス・デ・ロヨラ]] [[Image:Franciscus de Xabier.jpg|thumb|200px|right|創設メンバーの一人、[[フランシスコ・ザビエル]]。彼は日本にキリスト教を伝えたことで知られる。[[神戸市立博物館]]蔵。]] '''イエズス会'''(イエズスかい、{{Lang-la|''Societas Iesu''}})は、[[カトリック教会]]の男子[[修道会]]<ref>{{Cite web|和書|title=イエズス会とは |url=https://www.jesuits-japan.org/blank |website=イエズス会日本管区 |access-date=2022-05-08 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite Kotobank|word=イエズス会|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2022-05-08}}</ref>。[[1534年]]に'''[[イグナチオ・デ・ロヨラ|イグナティウス・デ・ロヨラ]]'''を中心として、'''[[フランシスコ・ザビエル]]'''、'''[[ピエール・ファーブル]]'''ら7人によって創設され、[[1540年]]に[[教皇|ローマ教皇]][[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]により承認された<ref>{{Cite Kotobank|word=イエズス会|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2022-05-08}}</ref>。草創期から世界各地への宣教に積極的に取り組み<ref>{{Cite Kotobank|word=イエズス会|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2022-05-08}}</ref>{{sfn|バンガード|2018a|p=65}}、日本に初めてカトリックをもたらした<ref>{{Cite web|和書|title=イエズス会とは |url=https://www.jesuits-japan.org/blank |website=イエズス会日本管区 |access-date=2023-1-17 |language=ja}}</ref>。なおイエズスは、中世ラテン語による {{la|Iesus}}([[イエス・キリスト]])の古くからのカトリックの[[日本語]]表記である{{要出典|date=2022年5月}}。 会の略称は'''S.J.'''であり、[[中国]]や古くの日本では「[[イエス・キリスト|イエス]]」の[[漢訳]]が耶穌であることから'''耶穌会'''(やそかい)や'''ジェズイット''' (Jesuit<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/jesuit |title=Jesuit |access-date=2022-05-08 |publisher=Cambridge University Press |website=Cambridge Dictionary}}</ref>) '''教団'''とも呼ばれた<ref>{{Cite Kotobank |word=イエズス会 |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |accessdate=2022-05-08}}</ref>。 16世紀の[[宗教改革]]の時代に、[[フランス]]・[[モンマルトル]]の礼拝堂で、[[イグナチオ・デ・ロヨラ|イグナティウス・デ・ロヨラ]]とその学友によって「[[エルサレム]]への巡礼」や「清貧と貞節」等の誓いが立てられたのが、その始まりである。 イエズス会は「[[神]]の軍隊」、イエズス会員は「[[教皇]]の精鋭部隊」とも呼ばれ、[[軍隊]]的な規律で知られる。このような[[軍隊]]的な会風は、創立者の1人で・初代総長の[[イグナチオ・デ・ロヨラ|イグナティウス・デ・ロヨラ]]が、修道生活に入る以前に[[騎士]]であり、長く[[軍隊]]で過ごしたことと深い関係がある。 現代では六大陸の112か国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大規模のものである。イエズス会の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や[[社会正義]]事業と並んで活動の三本柱となっている。 イエズス会の保護者は[[聖母マリア]]の数ある[[称号]]の一つである「道の聖母{{enlink|Madonna Della Strada}}」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長は{{仮リンク|アルトゥロ・ソサ|es|Arturo Sosa Abascal}} 師である。会の総本部は[[ローマ]]にあり、かつて本部がおかれていた[[ジェズ教会]]({{It|Chiesa del Gesù}})は歴史的建築物となっている。 == 歴史 == === 創設 === [[1534年]][[8月15日]]{{refnest | group="注"|この日は、キリスト教における[[聖母被昇天]]の祝日である{{sfn|バンガード|2018a|p=41}}}}、[[イグナチオ・デ・ロヨラ|イグナティウス・デ・ロヨラ]]と[[パリ大学]]の学友だった6名の同志([[スペイン]]出身の[[フランシスコ・ザビエル]]、[[アルフォンソ・サルメロン]]、[[ディエゴ・ライネス (イエズス会総長)|ディエゴ・ライネス]]、[[ニコラス・ボバディリャ]]、[[ポルトガル]]出身の[[シモン・ロドリゲス]]、サヴォイア出身の[[ピエール・ファーヴル]])が[[パリ]]郊外の[[モンマルトル]]の丘の中腹の[[サン=ドニ大聖堂|サン・ドニ大修道院教会堂]](現在の[[サクレ・クール寺院]]の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、[[ミサ]]にあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。この日がイエズス会の創立日とされている{{sfn|エスコバル|2013|p=69}}。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「[[エルサレム]]への巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。 ; 「モンマルトルの誓い」のメンバー(7人){{refnest | group="注"|{{harvnb|バンガード|2018a|pp=38-41}}に基づく。また、以下の表は、イグナティウスが出会った順番に並べている{{sfn|バンガード|2018a|pp=38-41}}}} * イグナティウス・デ・ロヨラ([[1491年]] - [[1556年]]) * ピエール・ファーヴル([[1506年]] - [[1546年]]) * フランシスコ・ザビエル(1506年 - [[1552年]]) * シモン・ロドリゲス([[1510年]] - [[1579年]]) * ディエゴ・ライネス([[1512年]] - [[1565年]]):第2代総長{{sfn|バンガード|2018a|p=96}} * アルフォンソ・サルメロン([[1515年]] - [[1585年]]) * ニコラス・ポバディリャ([[1507年]]/[[1511年]] - [[1590年]]) [[1537年]]、一行は[[イタリア]]へ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの[[司祭]][[叙階]]を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年[[6月24日]]に[[ヴェネツィア]]で叙階を受けた。[[オスマン帝国]]と[[神聖ローマ帝国]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の間で行われていた争いのために[[地中海]]を渡って[[エルサレム]]に赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。 [[1538年]]の10月、ロヨラはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した[[枢機卿]]会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は[[1540年]][[9月27日]]の[[回勅]]『レジミニ・ミリタンティス』(Regimini Militantis) でイエズス会に正式な認可を与えた{{sfn|エスコバル|2013|p=70}}。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も[[1543年]][[5月14日]]の回勅『インユンクトゥム・ノビス』(Injunctum Nobis) で取り払われた。ロヨラは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や[[神学校]]設立のために派遣した。 会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三は[[プロテスタント]]の拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南[[ドイツ]]や[[ポーランド]]、[[オーストリア]]などのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した{{sfn|エスコバル|2013|p=72}}。 ロヨラが[[1554年]]に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(ロヨラは「死人のごとき従順」(perinde ac cadaver) という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」(Ad Majorem Dei Gloriam) である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず[[神の王国|神の国]]のためになる」という精神を表している。 === 初期の活動 === イエズス会が創立されたのは[[対抗宗教改革]](カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の始まる直前であった。「イエズス会がプロテスタントに対抗して創設された」と言われており、教皇に対する忠実というイエズス会の精神から、会員たちは活動を通して人々にカトリック信仰を堅持させることに成功した。あくまで誇張した表現ではあるが、ロヨラは教皇への忠実を以下のように表現する。 :「自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう」 <!--この言葉は、カトリック教会に対する彼の盲目的な服従を示しているようだが、深く考えればロヨラにとって教会の宣言したことというのはそれほど重要なものでなく、むしろそれ以上に自分自身の中の霊の動きのほうが大切だということの表明ともとれる。 --> 教皇への服従を唱えながらも、ロヨラと初期の会員たちは当時のカトリック教会には改革と刷新の必要があることを十分に理解していた。イエズス会員たちはプロテスタントへの攻撃などという表面的なことでなく、まずカトリック教会の内部に目を向けることの重要性を認識しており、教会にはびこる汚職、不正、霊的倦怠を激しく批判した。その結果、教皇への忠誠を誓うイエズス会員たちが教皇や教会の高位聖職者たちと揉め事を起こすという皮肉な事態に陥ることもあった。 ロヨラによれば、カトリック教会の改革の基本は1人1人の内的改心にあった。イエズス会員たちは個人の改心のための方法としてロヨラの編み出した霊的指導いわゆる「[[霊操]]」を用いた。霊操は、沈黙のうちに行う1ヶ月の黙想のプログラムで、これを授かるものは毎日異なるテーマについて黙想し、司祭による定期的な指導を受けながら、神が自分に望まれていることは何かを考えていく。霊操は、清めから照らし、統一へとすすむ{{仮リンク|ヨハネ・カッシアヌス|en|John Cassian}}と砂漠の教父たち以来の神秘主義の伝統にのっとっている。ロヨラの「霊操」は、神秘主義の黙想の伝統に即しながら、一般の人が実生活の中で行えるように、さらにはカトリック教会の内的刷新に貢献できるようにデザインされていることに意義がある。 ルネサンス後期におけるイエズス会の意義は、世界宣教だけでなく、主要な任務として大学と高等教育機関の運営に積極的に取り組んだことにある。[[1556年]]のロヨラの逝去時までに、イエズス会はすでに三つの大陸で74の大学を運営していた。自由教育のさきがけとして知られるイエズス会の教育方針は、ルネサンスの人文主義者が発展させた当時の新潮流である古典研究とカトリック教会で長年にわたって研鑽されてきた[[スコラ学]]を無理なく融合させたものとして大きな意味を持っていた。世界のイエズス会の統一教育指針となった「ラツィオ・ストゥディオールム」(学事規定)は信仰教育だけでなく[[ラテン語]]・[[ギリシア語]]および古典文学、詩文、哲学、非ヨーロッパ語、科学、芸術の学習を課した。 それだけでなく、イエズス会学校ではその地域特有の言葉の文学および[[修辞学]]の学習を奨励した結果、各国における法律家や官公吏の重要な養成施設となった。教育事業によってイエズス会は[[ポーランド]]のようなプロテスタントが急速に普及していた地域をカトリックに回帰させることになった。現代でも世界100か国以上にイエズス会の経営する学校がある。目に見えるものや芸術を通して人間は神と出会えるというカトリック教会の伝統的思想に従い、イエズス会では儀式や装飾の利用が奨励された。美術や音楽の重視というのは当時のイエズス会員の際立った特質であった。 強い信念と深い教養を持ったイエズス会員は各国の王族から霊的指導者として招聘されたため、近代ヨーロッパの政治状況に大きな影響を与えることになった。また、イエズス会が[[聖務日課]]の共唱など当時の修道会で常識とされていたことを会員に課さなかったことで、会員たちはより自由な活動が可能になった。 === 発展 === [[File:Jesuit with Japanese nobleman circa 1600.jpg|thumb|イエズス会員と日本人(1600年ごろ)]] イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な[[宣教師]]たちを積極的に派遣した。最も有名な宣教師は[[フランシスコ・ザビエル]]である。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって[[1541年]]に[[インド]]の[[ゴア州|ゴア]]へ赴いた(ゴアは[[アジア]]におけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった[[1759年]]までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、[[マラッカ]]で出会った日本人[[ヤジロウ|ヤジロー]]の話から日本とその文化に興味を覚えて[[1549年]]に来日。2年滞在して困難な宣教活動に従事した(→ [[#日本での活動]])。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去した。16世紀のイエズス会士たちは中国と日本への宣教の拠点として[[マカオ]]を利用した。 [[Image:Jesuit_ruins_at_trinidad.jpg|thumb|left|300px|[[パラグアイ]]の[[ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナ]]伝道所遺跡]] [[アメリカ大陸]]におけるイエズス会の宣教活動はヨーロッパ諸国(特に広大な[[植民地]]を保持していたスペインとポルトガル)の利害とかかわってしまったため、内政干渉という口実でさまざまな議論を巻き起こすことになった。[[ドミニコ会]]やイエズス会は主として当時のアメリカ大陸で[[ネイティブ・アメリカン]]の権利を主張し、[[奴隷制]]に抗議していたからである。イエズス会員はキリスト教徒になった[[インディオ]]を他部族やヨーロッパの奴隷商人の襲撃から守るため[[ブラジル]]と[[パラグアイ]]に「[[イエズス会伝道所|保護統治地]]」(Reducciones) をつくった。インディオを保護しようとするイエズス会員はスペインと[[ポルトガルの奴隷貿易|ポルトガルの奴隷]]商人およびそこから利権を得る政府高官にとって目障りであったため、のちにポルトガルからイエズス会への迫害が始まることになる{{sfn|エスコバル|2013|p=72-74}}。 {{See also|[[奴隷制度に対するキリスト教徒の見解]]}} {{仮リンク|マヌエル・ダ・ノブレガ|en|Manuel da Nóbrega}} (Manoel da Nóbrega) や[[ジョゼ・デ・アンシエタ]] (José de Anchieta) は16世紀のブラジルでインディオ相手に宣教・教育事業を行いながら、いくつもの街をつくった。その中には[[サンパウロ]]、[[リオデジャネイロ]]などのちに大都市になったものも含まれている。[[17世紀]]には[[エウセビオ・キノ]]が[[ヌエバ・エスパーニャ]]北部の[[ソノラ砂漠]]に、「砂漠の白い鳩」と呼ばれその美しさが称えられている[[アリゾナ州]][[ツーソン (アリゾナ州)|ツーソン]]近郊の[[聖ザビエル伝道教会]]などの多くの[[イエズス会伝道所|伝道所]]を設立した。またエウセビオ・キノは当時[[カリフォルニア島|島]]だと信じられていた[[バハ・カリフォルニア]]が、[[バハ・カリフォルニア半島|半島]]であることを証明した。 中国におけるイエズス会の活動は[[典礼論争]]を生むことになり、後に問題の本質から離れてイエズス会への政治的攻撃の道具とされた。また、[[ヨハネス・グリューベル]] (Johannes Gruber) と[[アルベール・ドルヴィル]] (Albert d'Orville) は[[1661年]]に北京から[[青海湖]]を経て[[ラサ]]にたどりつき、同地に滞在後、[[カトマンズ]]から[[アーグラ|アグラ]]にいたった。彼らは初めてチベットの実情をヨーロッパに伝えたことで知られている。 宣教地で働くイエズス会員たちはその土地の文化や言語の学術的研究をすすめ、ヨーロッパに紹介した。たとえば[[1603年]]に発行された[[日葡辞書]] (Vocabvlario da Lingoa de Iapam) は非常に画期的かつ浩瀚な内容で、現代においても17世紀の日本語の貴重な研究資料になっている。ほかにも南米ではトゥピ・グアラニ語辞典などもつくられている。 === 弾圧と復興 === ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたとき、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在が目障りなものとなっていた。イエズス会への弾圧は18世紀になると急速に進み、ポルトガルがイエズス会員の国外追放を決めるとフランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国もこれにならった。列強は教皇[[クレメンス13世 (ローマ教皇)|クレメンス13世]]にイエズス会を禁止するよう圧力をかけたが、教皇は頑として聞き入れなかった。だが、イエズス会を保護し続けたクレメンス13世が急逝し、次の教皇として[[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]が着座すると圧力はいっそう強まり、教皇はイエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国と教皇庁との関係をとるかという究極の選択を迫られることになった。 このような経緯を経て[[1773年]]7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していた[[エカテリーナ2世]]がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]も自国へのイエズス会士の亡命を許可し{{sfn|エスコバル|2013|p=74}}(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。 [[1814年]]に教皇[[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会の復興が許可された{{sfn|エスコバル|2013|p=76}}。復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀に[[ウルトラモンタニスム]](教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、[[第1バチカン公会議]]における[[教皇不可謬説]]の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。 [[スイス]]では19世紀に起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、[[1848年]]憲法によってイエズス会の禁止が決定された。この禁止令は[[1973年]][[5月20日]]に、国民投票によって廃止が決議されるまで存続した。 20世紀はイエズス会にとって発展と衰退の両面を示す世紀となった。カトリック教会全体の趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代にピークを迎え、以後ゆるやかに減少していった。会員が減少したにもかかわらず関連施設は増加し、協力者会の会員数も増えた。20世紀の著名なイエズス会員の中には「[[第2バチカン公会議]]のデザイナー」とも呼ばれる{{仮リンク|ジョン・コートニー・マレー|en|John Courtney Murray}}がおり、彼は同会議の文書の一つ「{{仮リンク|信教の自由に関する宣言|en|Dignitatis humanae}}」の草稿を書いたことで知られる{{sfn|エスコバル|2013|p=78-79}}。 === 現代 === [[File:Pope Francis in March 2013.jpg|thumb|200px|right|第266代ローマ教皇フランシスコは史上初のイエズス会出身のローマ教皇である。]] [[ファイル:Coat of arms of Franciscus.svg|thumb|200px|right|教皇フランシスコの紋章。青のフィールドにイエズス会の太陽の紋章。それにマリアの象徴としての星とヨセフの象徴としての{{仮リンク|カンショウ|label=甘松|en|Spikenard}}(ナルド)の果実を配している。前のベネディクト16世と同様に三重冠の代わりに[[ミトラ (司教冠)|ミトラ]]を戴いている。]] イエズス会は会員数約2万人弱<ref name="japanorgblank">[https://www.jesuits-japan.org/blank イエズス会とは] イエズス会日本管区公式ウェブサイト</ref>、活動地域は六大陸の112か国に及ぶ世界で二番目に大きいカトリックの男子修道会である。会の活動は宣教・教育・社会正義など広範な分野にわたるが、特に有名なのは依然として高等教育である。世界各地にイエズス会の大学と高等教育機関があるが、現在この分野でもっとも活発なのは[[インド]]と[[フィリピン]]であろう。各地のイエズス会学校は所在地の文化に適応した教育を行っているが、「人生のモデルとしてのキリスト、生涯教育のスタートとして知的・霊的教育」という共通の教育目標を掲げている。 ラテン・アメリカでは[[解放の神学]]の熱心な推進者として多くのイエズス会員が知られている。解放の神学は時に微妙な政治の領域へ踏み込む危険があるため、カトリック教会において物議をかもしてきた。教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は数度にわたってその行き過ぎを非難している{{sfn|エスコバル|2013|p=81}}。[[アルゼンチン]]での「[[汚い戦争]]」と呼ばれる軍政期の[[1976年]]に解放の神学のイエズス会士2人がアルゼンチンに赴いたものの海軍により拉致され拷問を受けることとなった。当時のイエズス会アルゼンチン管区長の[[フランシスコ (ローマ教皇)|ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ]]は政府要人と接触し2人の解放のための交渉をし実現にこぎつけた。しかしベルゴリオの管区長としての軍政下の「非政治的な態度」は彼が[[2013年]]にローマ教皇に選出されると賛否が分かれた。 [[ペドロ・アルペ]]総長時代、イエズス会の活動テーマとして「社会正義と社会的弱者への優先的配慮」が掲げられた。[[オスカル・ロメロ]]司教暗殺から10年ほどたった[[1989年]][[11月16日]]、イエズス会の六司祭(イグナシオ・エラクリア、セグンド・モンテス、イグナシオ・マルティン・ベロ、ホアキン・ロペス・イ・ロペス、フアン・ラモン・モレノ、アマド・ロペス)と家政婦をしていたエルバ・ラモスとその娘セリア・マリセラ・ラモスが[[エル・サルバドル]]軍兵士によって中央アメリカ大学の構内で殺害された。彼らは貧者の保護者であったため、政府から破壊活動を扇動しているというレッテルを張られた上での殺害であった。この事件はイエズス会全体の社会正義運動に対する意識を高め、殺害した兵士たちがアメリカ合衆国のジョージア州の基地で訓練されたことからアメリカ軍に対する抗議運動へと発展することになった。 [[2002年]]には[[ボストンカレッジ]]の総長でイエズス会員のウィリアム・リーハイがカトリック教会を「危機を超えて再生へ向かわせる」とうたった21世紀プログラムを発表した。その中ではカトリック教会の検討すべき課題として司祭の独身性、女性の役割、信徒の役割などがとりあげられた。 [[2006年]][[2月2日]]、ペーター・ハンス・コルヴェンバッハ総長は、教皇の了承のもと、80歳を迎える[[2008年]]に総長を退任すると発表した。2008年[[1月5日]]からローマで行われる第35回イエズス会総会では新総長の選出が行われることとなった。イエズス会総長は終身制だが、自主的な退任も可能であると会憲に定められている。 2006年[[4月22日]]、イエズス会の守護者である聖母の祝日に教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]はローマを訪れたイエズス会員たちに対して贈った言葉で「イグナチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーヴルのような優れた聖性の人を源流とするイエズス会の存在に感謝し」た。彼はロヨラについて「まさに神の人であり、祈りの人であった。彼の存在の根源にあったのは聖体への深い信心であった」と語った。 2008年[[1月15日]]、ローマで開かれていた第35回イエズス会総会において前述のコルヴェンバッハ総長の退任に伴い、日本の[[上智大学]]に学び同校において教鞭を執ったこともあるスペイン人会士[[アドルフォ・ニコラス]]神父を新総長に選出。広島での活動が有名で上智大学で教鞭もとっていた28代[[ペドロ・アルペ]]総長に続く、日本に縁の深い人物の総長就任となった。 2013年3月13日、2月28日の[[ベネディクト16世の退位]]に伴い前日12日から開幕したコンクラーヴェにおいて、イエズス会出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿([[ブエノスアイレス大司教区|ブエノスアイレス大司教]])が第266代ローマ教皇に選出され、[[フランシスコ (ローマ教皇)|教皇フランシスコ]]を名乗る。フランシスコは3月16日のメディア向け会見の席上、教皇名を選んだ際のエピソードとして、冗談と前置きした上で「『君はクレメンス15世を名乗るべきだ。そうすれば(上記の通りイエズス会を弾圧した)クレメンス14世に仕返しができるじゃないか』と言われました」と述べ、出席者の笑いを誘った。フランシスコはまた教皇選出後、ニコラス総長から届いたイエズス会からの祝いのことばの返礼のために、ローマのイエズス会本部に直接電話している。 ==日本での活動== 日本でのイエズス会事業は、[[ルイス・フロイス]]や[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ]]、[[ルイス・デ・アルメイダ]]といった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。日本人初のイエズス会士は[[薩摩国]]([[鹿児島県]])出身の[[鹿児島のベルナルド|ベルナルド]]で、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、[[1553年]]にリスボンで入会して修道士となった。[[1561年]]には琵琶法師であった[[ロレンソ了斎]]が入会。有名な[[天正遣欧少年使節]]を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]であった。 [[1580年]]に[[大村純忠]]が[[長崎市|長崎]]の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の[[港]]にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであった(ただし大村純忠は実際に熱心な信徒でもあり{{Sfn|松田|p=211}}、領民への改宗強制や仏教や神道への迫害を行ったため領内で反発を招いている{{Sfn|松田|p=203}})。しかし、これをスペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目を向けた[[豊臣秀吉]]は、[[1587年]]に[[バテレン追放令]]を発布し、長崎をイエズス会から取り上げて直轄領とした。最終的に[[江戸幕府]]による[[禁教令]]によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、[[正保]]元年([[1644年]])[[マンショ小西]]の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、[[江戸時代]]にイエズス会は日本での活動を終えた。 イエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]なども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。[[サン=フェリペ号事件]]のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった<ref>[[高瀬弘一郎]]『キリシタン時代の研究』第一部第三章「キリシタン宣教師の軍事計画」</ref>。 == 会員の養成 == イエズス会員の養成は、霊的養成、知的養成、司牧活動(世界のいずれの場所でも働ける修道者としての)養成の三つの分野からなる。[[イグナチオ・デ・ロヨラ|イグナティウス・デ・ロヨラ]]はルネサンス人であり、会員たちにどんな仕事でもすぐにできるようあらゆる分野での準備をしておくことを求めた。司祭養成には(当該人物の学歴にもよるが)通常10年から12年かかる。 養成にはいくつかの段階があるが、養成に先立っておかれるのが志願期という時期である。志願期にはその人物が霊的指導を受けながらイエズス会員にふさわしいかどうかが慎重に調べられる。志願期を終えた後でようやく養成の正式な第一段階である修練期に入る。2年間の修練期では修練院(修道院)で暮らしながら、霊操を受け、イエズス会の歴史や霊性について学ぶ。同時にイエズス会の使徒職を実際に手伝うことで体験する。修練が終わると、初誓願を立てる。[[修道誓願|誓願]]とはカトリック教会の修道者が立てる従順、清貧、貞潔の三つの誓いのことである。誓願を立てた後で神学の勉強を継続して司祭職を目指すか、修道士になるか選ぶことになる。修道士を目指すものはそれぞれの希望や適性に応じて専門性の高い勉学をおこなう場合も多い。 司祭職を目指す場合、以下のようなコースを進むことになる。まず、哲学と神学を学ぶ。次に実地課程という期間が2年あるいは3年間あり、実際のイエズス会の使徒職に従事する。その後さらに神学の勉強を深め、叙階を受ける。叙階後の数年間支部における活動に従事した後で、再び養成支部に戻り、第3修練と呼ばれる期間に入る。これは文字通り修練期の内容を実際の体験を通してさらに深める期間である。この期間に1か月の霊操を再び授かることで霊的にもより深められる。 つねに世界のどこでも活動できることを求めるイエズス会において、現代の会員たちは[[英語]]の習得が求められている。英語が母語である会員には[[スペイン語]]の学習が求められる。 == 批判 == イエズス会は近代において、プロテスタント側のみならずカトリック側の人間からも、さまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)が、しばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられるのは、その名残である。イエズス会は「より大いなる善」のためなら、どんなことでもするという[[イメージ]]をもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆など、あらゆる「陰謀」の犯人とされた<ref>{{Cite web |author= |date= |url=https://www.jesuit.org.uk/jesuits-and-conspiracy-theories |title=JESUITS AND CONSPIRACY THEORIES |work= |publisher=Jesuits in Britain |accessdate=2020-04-06}}</ref>。さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに、[[教皇]]と[[バチカン市国]]を陰から操っているのは、実はイエズス会総長であるという噂が、まことしやかに吹聴されてきた{{sfn|エスコバル|2013|p=71-76}}。 フィクションの中でも、陰謀の枢軸としてのイエズス会がしばしば強調される。[[アレクサンドル・デュマ・ペール|デュマ]]の『[[ダルタニャン物語]]』では、イエズス会の管区長となるためには、世界を揺るがすほどの秘密を持っていなければならないとされ、フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に瓜二つの双子の弟がいるという重大な秘密を握っていた三銃士のひとり[[アラミス]]が管区長となる。管区長アラミスは、その秘密を用いてフランス王を双子の弟と取り換え、自らの傀儡にしようとするのである。イエズス会が陰謀の首謀者とされている代表例の一つと言える。 現代においても、イエズス会員について「過度に進歩的であり、特定の話題において教会の公式な教説に反することを説くことがある」と[[批判]]されることがある。たとえば、[[人工妊娠中絶]]手術、[[司祭]]の[[独身]]性、[[同性愛]]、[[奴隷貿易]]及び、解放の神学などの話題が、それにあたる。 == 著名な会員 == ロヨラやザビエルなどの創立メンバー以外にも、イエズス会には多くの著名人がいる。{{see also|Category:イエズス会士}} * [[アタナシウス・キルヒャー]](Athanasius Kircher) ドイツ出身、17世紀の万能学者。 * [[アルフレート・デルプ]](Alfred Delp) 20世紀、ドイツ出身。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]を厳しく批判しつづけて処刑される。 * [[アルフォンス・デーケン]] (Alfons Deeken) 哲学者、上智大学名誉教授。死生学研究で有名。 * [[アルベルト・ウルタード]](St. Alberto Hurtado) [[チリ]]の社会運動家、聖人。 * [[アレクサンドル・ドゥ・ロード]](Alexandre de Rhodes) 16世紀、フランス出身。[[ベトナム]]宣教で活躍。 * [[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]](Alessandro Valignano) 16世紀、イタリア出身。戦国時代の日本に巡察師として到来。 * [[アロイシウス・ゴンザーガ]](St. Aloysius Gonzaga) 16世紀、[[マントヴァ]]の名家[[ゴンザーガ家]]の出身。青少年の守護聖人。 * [[アルフォンソ・ロドリゲス]](St. Alphonsus Rodríguez) 16・17世紀に活躍したイエズス会ブラザーの保護者。聖人。 * [[アンソニー・デ・メロ]](Anthony de Mello) インド出身。数々の霊的著作で知られるが、バチカンからクレームがついたこともある。 * [[アントニオ・ヴィエイラ]](Antonio Vieira 1608–1697) 17世紀、ポルトガル出身。ブラジルで活躍した宣教師であり、ポルトガル王の信頼厚い外交官でもあった。 * [[アンジェイ・ボボラ]](St. Andrzej Bobola) 16世紀、ポーランド出身。ポーランド宣教で活躍するも[[コサック]]に暗殺される。[[ピウス11世]]により列聖される。 * [[アヴェリー・デュレス]](Avery Dulles) アメリカ出身。20世紀を代表する神学者の一人、[[枢機卿]]。 * [[アダム・シャール]](Johann Adam Schall von Bell) 湯若望として知られる。清朝宮廷で活躍。 * [[イグナシオ・エラクリア]](Ignacio Ellacuría)中央アメリカ大学総長、1989年エル・サルバドルで暗殺される。 * [[イグナチイ・ツェンマルトニー]](Ignacije Szentmartony) 18世紀 クロアチア出身の[[数学者]]・[[天文学者の一覧|天文学者]]。 * [[伊東マンショ]] 天正遣欧少年使節の主席正使。 * [[ヴォイチェフ・メンチンスキー]](Wojciech Męcińsk) ポーランド出身。1643年、長崎・西坂で殉教<ref>{{Cite news|url=https://dorzeczy.pl/historia/113478/polski-meczennik-w-japonii-torturowali-go-105-razy.html|title=Polski męczennik w Japonii. Torturowali go 105 razy|publisher=Do rzeczy|date=2019-09-10|accessdate=2021-01-06}}</ref>。 * [[エウセビオ・キノ]](Eusebio Francisco Kino) 17世紀、スイス出身。南米のインディアンへの宣教と地図作成に功。 * [[エドマンド・キャンピオン]](St. Edmund Campion) 16世紀、イギリスで捕らえられ処刑される。聖人。 * [[オラシオ・デラ・コスタ]](Horacio De La Costa) 歴史家。フィリピン人としてはじめてフィリピン管区長になる。 * [[カール・ラーナー]](Karl Rahner) 20世紀を代表する神学者の1人。 * [[門脇佳吉]] 日本の神学者。禅の研究で著名。 * [[カルロ・マリア・マルティーニ]](Carlo Maria Martini) ミラノ大司教、枢機卿を歴任。 * [[クラウス・リーゼンフーバー]](Klaus Riesenhuber) 哲学者、上智大学名誉教授。 * [[クリストフ・クラヴィウス]](Christoph Clavius) 16世紀、ドイツ出身。物理学者。[[グレゴリオ暦]]算定の中心人物。 * [[クリストフ・グリーンベルガー]](Christoph Grienberger)16世紀の天文学者。 * [[クリストフ・シャイナー]](Christoph Scheiner)16世紀の天文学者。 * [[クロード・ジャン・アルエ]](Claude-Jean Allouez) 17世紀、フランス出身、[[五大湖]]周辺を回り、[[ネイティブ・アメリカン]]に宣教。 * [[ゲオルク・ヨーゼフ・カメル]](Georg Joseph Kamel) 17世紀、[[モラヴィア]]出身。宣教師としてフィリピンで活躍。植物学者として椿を初めてヨーロッパに紹介した。[[ツバキ]]の学名Camelliaはこのカーメルに由来。 * [[ジェームズ・ウォルシュ]]{{要曖昧さ回避|date=2018年4月}}(James Walsh) 神学者、ジョージタウン大学教授。 * [[ジェラード・マンリ・ホプキンス]](Gerard Manley Hopkins)19世紀、イギリス出身。[[ジョン・ヘンリー・ニューマン]]の影響でカトリックに改宗し、イエズス会に入会。『ドイチュランド号の難破』など英国文学史に名前を残す。 * [[ジャック・クルトワ]](Jacques Courtois) フランス出身。17世紀の画家。 * [[ジョセフ=マリー・アミオ]](Jean Joseph Marie Amiot)フランス出身。中国において「銭徳明」の名で活躍し、『[[孫子 (書物)|孫子]]』を欧州に紹介、作曲家としても知られる。 * [[ジュゼッペ・カスティリオーネ]](Giuseppe Castiglione) 画家として清朝宮廷で重用され、郎世寧を名乗る。 * [[ジュリオ・アレーニ]](Giulio Alenio) 17世紀、イタリア出身。正確な中国地図を作成。 * [[ジョアン・ロドリゲス]] - [[ポルトガル]]出身。[[安土桃山時代]]の日本で布教。『[[日本大文典]]』・『[[日本教会史]]』の著者として知られる。 * [[ジョゼ・デ・アンシエタ]](José de Anchieta) ブラジル、[[サンパウロ]]市の創設者。 * [[ジョン・コートニー・マリ]] (John Courtney Murray) 20世紀、アメリカ出身。思想家。 * [[ジョン・キャロル]](John Carroll)アメリカ合衆国最初の司教にして[[ジョージタウン大学]]の創立者。 * [[ジョン・ジェラード (イエズス会)|ジョン・ジェラード]](John Gerard) イギリス出身。[[ロンドン塔]]に収監されながら釈放された数少ない生存者。 * [[ジロラモ・デ・アンゼリス]] 17世紀、日本の[[東北地方]]で布教。[[江戸]]で殉教。 * [[トマス・エウィン・シャーマン]](Thomas Ewing Sherman) [[南北戦争]]の英雄[[ウィリアム・シャーマン]]将軍の息子。 * [[中浦ジュリアン]] 天正遣欧使節の副使。福者。 * [[バーナード・ロナガン]](Bernard Lonergan) カナダ出身、哲学者・神学者。代表作『インサイト』。 * [[パウロ三木]] 16世紀の日本人、日本二十六聖人殉教者の1人。 * [[原マルティノ]] 天正遣欧使節の副使。 * [[バルタサル・グラシアン]](Baltasar Gracián y Morales) 17世紀スペインの哲学者・神学者。 * [[ピーター・ミルワード]](Peter Milward) 英文学者、上智大学名誉教授。 * [[ピエール・テイヤール・ド・シャルダン]](Pierre Teilhard de Chardin) フランス出身の思想家。[[北京原人]]の発掘に携わったことでも知られる。 * [[ピエール・ファーヴル]](Peter Faber) イエズス会創設メンバーの1人、ヨーロッパ各地で宣教。福者。 * [[フェルディナント・フェルビースト]](Ferdinand Verbiest:1623-1688)[[フランドル]](現在の[[ベルギー]])出身、南懐仁(ナン・ファイレン)を名乗った。清朝[[康熙帝]](1654年-1722年:在位1661年-1722年)に重用される。明朝末期から清朝にかけてヨーロッパの技術による世界地図『坤輿全図』を製作。中国初の国境制定([[ネルチンスク条約]])へ影響を与えた。天文学への貢献、蒸気自走車製作などもおこなっている。 * [[フーゴ・ラッサール|フーゴ・マキビ・エノミヤ=ラッサール]](Hugo Makibi Enomiya-Lassalle) 禅に傾倒し、日本に帰化した司祭。 * [[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]] 第266代ローマ教皇。ベルゴリオ枢機卿。 * [[フランシスコ・カブラル]] 戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。 * [[フランシスコ・スアレス]](Francisco Suarez) 16世紀、スペイン出身。ローマ学院で教えた神学者。 * [[フランチェスコ・デ・ヴィコ]](Francesco de Vico) 19世紀、イタリア出身。天文学者としてコッレージョ・ロマーノの天文台で観測を行い、周期彗星2個、非周期彗星4個を発見。 * [[フランシスコ・デ・トレド]](Francisco de Toredo) 16世紀、スペイン出身。ローマ学院で教えた神学者。 * [[フランソワ・ダギロン]](François d'Aguillon) 16世紀、ベルギー出身。数学と物理学に業績がある。 * [[フランツ・イェッツィンガー]](Franz Jetzinger) 神学教授、ヒトラーの青年時代の伝記を記す。 * [[フレデリック・コプルストン]](Frederick Copleston) 20世紀、イギリス出身。全12巻の『西洋哲学史』で有名。 * [[ペトルス・ヨセフス・ツェートムルダー]](Petrus Josephus Zoetmulder)オランダ出身。古ジャワ語研究の大家。 * [[ペトロ岐部|ペトロ・カスイ・岐部]] 17世紀日本の殉教者。福者。 * [[ペトルス・カニシウス]](St. Petrus Canisius) オランダ出身。イエズス会の最初期のメンバーの1人。教会博士、聖人 * [[ペドロ・クラベル]](St. Peter Claver) 16世紀、聖人。南米で黒人奴隷の霊的指導にあたる。 * [[ペドロ・ダ・フォンセカ]](Pedro da Fonseca) 16世紀、ポルトガル出身。「ポルトガルのアリストテレス」と呼ばれる。[[スコラ哲学]]を再生。 * [[ヘルマン・ホイヴェルス]] (Hermann Heuvers) 第2代上智大学学長。エッセイで著名。 * [[ヘンリー・ガーネット]](St. Henry Garnett)イギリス管区初代管区長、[[火薬陰謀事件]]で陥れられ処刑される、聖人。 * [[ホアン・アンドレス]](Juan Andres)18世紀スペインの論客。 * [[ホセ・マリア・ルビオ]](St. José María Rubio) スペイン出身。2003年に列聖される。 * [[マテオ・リッチ]](Matteo Ricci)17世紀、イタリア出身。中国で活躍した宣教師でもっとも有名。中国にヨーロッパ文化を伝え、ヨーロッパに中国文化を伝えた。 * [[マヌエル・ダ・ノブレガ]](Manoel da Nóbrega) 16世紀、ポルトガル出身。[[リオデジャネイロ]]市の創設者。 * [[ヤコブ・バルデ]](Jakob Balde)ドイツ出身、[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の宮廷付司祭。 * [[ヤン2世 (ポーランド王)|ヤン2世カジミェシュ・ヴァーザ]] 17世紀、ポーランド出身。イエズス会退会後、ポーランド国王になる。 * [[ヨゼフ・ピタウ]](Joseph Pittau) 上智大学学長、グレゴリアン大学学長、バチカン教育省局長を歴任。 * [[ヨハネス・ベルヒマンス]](St. John Berchmans) 16世紀、ベルギー出身。若くして亡くなったが1888年に列聖された。 * [[ルイス・デ・モリーナ]](Luis de Molina) 16世紀、スペイン出身。神学者。 * [[ルイス・フロイス]](Luis Frois)16世紀、ポルトガル出身。戦国時代の日本に到来し、『日本史』を表す。 * [[ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ]](ルッジエーロ・ジュゼッペ・ボスコヴィッチ Ruđer Josip Bošković) 18世紀、[[ダルマチア]]出身の物理学者。[[グレゴリアン大学|ローマ学院]]で教える。[[イタリア科学アカデミー]]を創設。 * [[レオンハルト・レッシウス]](Leonardus Lessius)16世紀、ベルギー出身。[[サラマンカ学派]]の重鎮。倫理神学・経済学の論文で有名。 * [[ロバート・M・フリン]](Robert M.Flynn) 中学・高校生向けの英語教科書を製作。 * [[ロバート・ドゥリナン]](Robert Drinan) 20世紀、司祭としてアメリカ合衆国連邦議会下院議員(民主党)になった唯一の人物。 * [[ロケ・ゴンサレス・デ・サンタクルス]](Saint Roque González de Santa Cruz) パラグアイ宣教で有名。殉教者。 * [[ロベルト・ベラルミーノ]](Roberto Bellarmino) 17世紀、イタリア出身。枢機卿にして稀代の論客。 * [[ロベルト・デ・ノービリ]] (Roberto de Nobili) 16世紀、イタリア出身。インド宣教で[[適応政策]]を実施して活躍。 * [[ロレンソ了斎]] 16世紀日本の修道士。 == 歴代総長一覧 == # イグナティウス・デ・ロヨラ(1541年 - 1556年) # [[ディエゴ・ライネス (イエズス会総長)|ディエゴ・ライネス]](1558年 - 1565年) # [[フランシスコ・ボルハ]](1565年 - 1572年) # [[エヴェラール・メルキュリアン]](1573年 - 1580年) # [[クラウディオ・アクアヴィーヴァ]](1581年 - 1615年) 総長としての在位期間は史上最長。 # [[ムツィオ・ヴィテレスキ]](1615年 - 1645年) # [[ヴィンチェンツォ・カラハ]](1646年 - 1649年) # [[フランチェスコ・ピッコローミニ]](1649年 - 1651年) # [[アレクサンドロ・ゴッディフレディ]](1652年) 選ばれてすぐ逝去。 # [[ゴスヴィン・ニッケル]](1652年 - 1664年) # [[ジョバンニ・パオロ・オリヴァ]](1664年 - 1681年) # [[シャルル・ド・ノワイエル]](1682年 - 1686年) # [[ティルソ・ゴンサレス]](1687年 - 1705年) # [[ミケランジェロ・タンブリーニ]](1706年 - 1730年) # [[フランティシェク・レッツ]](1730年 - 1750年) # [[イニャツィオ・ヴィスコンティ]](1751年 - 1755年) # [[ルイジ・チェントゥリネ]](1755年 - 1757年) # [[ロレンツォ・リッチ]](1758年 - 1773年) イエズス会が禁止になり、サンタンジェロ城に幽閉される。 # [[タデウス・ブルツォツォフスキ]](1814年 - 1820年) # [[ルイジ・フォルティス]](1820年 - 1829年) # [[ヤン・フィリップ・ローターン]](1829年 - 1853年) # [[ピーテル・ベックス]](1853年 - 1887年) # [[アントン・アンデルレディ]](1887年 - 1892年) # [[ルイス・マルティン]](1892年 - 1906年) # [[フランツ・ヴェルンツ]](1906年 - 1914年) # [[ヴロディミール・レドホフスキ]](1915年 - 1942年) # [[ヨハネス・バプティスタ・ヤンセンス]](1946年 - 1964年) # [[ペドロ・アルペ]](1965年 - 1983年) 長く日本で働く。医学を学んでおり、原爆投下時の広島に居合わせたため、会員を率いて救護活動にあたった。 # [[ペーター・ハンス・コルヴェンバッハ]](1983年 - 2008年) # [[アドルフォ・ニコラス]](2008年 - 2016年) 1936年スペイン生れ。過去に日本管区長を務め、上智大学で神学を教えていた。また、東アジアでの布教、司牧活動を長期間行った。 # [[アルトゥロ・ソサ・アバスカル]](2016年 - )初の欧州外出身総長<ref>{{Cite news|url=http://www.cathoshin.com/news/jesuit-new-head/11235|title=イエズス会、欧州外から新総長|newspaper=カトリック新聞オンライン|publisher=カトリック新聞社|date=2016-10-20|accessdate=2020-02-08|archiveurl= https://web.archive.org/web/20170204125139/http://www.cathoshin.com/news/jesuit-new-head/11235 |archivedate=2017-02-04 }}</ref>。1948年ベネズエラ生まれ。政治学博士として {{仮リンク|ベネズエラ中央大学|es|Universidad Central de Venezuela}} でベネズエラ政治史を教えていた。政治学に関するさまざまな研究を行った。 == 関連施設 == === 教育機関 === イエズス会は高等教育を使命とし、長きにわたって世界中で高等教育機関を運営してきた。イエズス会学校は数多く著名な卒業生たちを輩出している。いくつかあげると以下のようなものがある。 * 韓国 [[ソウル特別市|ソウル]] [[西江大学校]] * フィリピン ケソンシティ [[アテネオ・デ・マニラ大学]] * アメリカ合衆国 [[シカゴ]] [[ロヨラ大学]] * アメリカ合衆国 [[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]] [[ボストンカレッジ]] * アメリカ合衆国 [[ワシントンD.C.]] [[ジョージタウン大学]] * アメリカ合衆国 [[ニューヨーク]] [[フォーダム大学]] * アメリカ合衆国 [[ニュージャージー州|ニュージャージー]] {{仮リンク|セントピーター大学|en|St. Peter's Preparatory School}} * アメリカ合衆国 [[サンタクララ]]([[サンノゼ]]近郊)[[サンタクララ大学]] * アメリカ合衆国 [[サンフランシスコ]] [[サンフランシスコ大学]] * アメリカ合衆国 [[シアトル]] [[シアトル大学]] * イギリス [[ロンドン]] {{仮リンク|ヒースロップカレッジ|en|Heythrop College, University of London}} * イタリア ローマ [[グレゴリアン大学]] === 日本の教育機関 === [[image:St._Ignatius_Church_00.jpg|thumb|200px|[[聖イグナチオ教会]]]] [[1908年]]に再来日した<ref name="japanorgblank"/>イエズス会は現在、日本で以下の[[ミッションスクール]]を運営している。また、[[カトリック広島司教区|広島教区]](岡山・広島・島根・鳥取・山口の中国地方5県)や東京の麹町教会([[聖イグナチオ教会]])などにおける[[司牧]]を担当している。 ;上智学院設置校 *'''[[上智大学]]'''([[東京都]][[千代田区]]) *[[上智大学短期大学部]]([[神奈川県]][[秦野市]]) *[[六甲学院中学校・高等学校]]([[兵庫県]][[神戸市]][[灘区]]) *[[栄光学園中学校・高等学校]](神奈川県[[鎌倉市]]) *[[広島学院中学校・高等学校]]([[広島県]][[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]) *[[上智福岡中学校・高等学校]]([[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]) ;系列校 *[[エリザベト音楽大学]](広島県広島市[[中区 (広島市)|中区]]) === 著名な聖堂 === [[Image:Église Gesù - Rome (IT62) - 2021-08-30 - 2.jpg|thumb|200px|right|ローマ・ジェズ教会]] 学校や教育機関だけでなく、イエズス会は世界各地で聖堂や教会を建立しており、歴史的に価値のあるものが多い。 * [[聖パウロ大聖堂跡]]([[マカオ]]) - 16世紀に日本を追われた信徒たちが彫刻を施したことで知られるが、19世紀に火事で崩壊。ファサードのみ残る。 * [[ジェズ教会]](ローマ) - 元イエズス会本部聖堂 * アテネオ・デ・マニラ大学付属聖堂(マニラ) * [[ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群|ラ・サンティッシマ・トリニダド・デ・パラナ]](パラグアイ) == 関連書籍 == *イエスズ会(耶蘇会)『[{{NDLDC|2994439}} 日本年報]』等(1552年 - 1624年)、大分県史料刊行会編『大分県史料 第15』。大分県立教育研究所、1963年 * 高橋裕史 『イエズス会の世界戦略』、[[講談社]]選書メチエ、2006年 * フィリップ・レクリヴァン 『イエズス会 世界宣教の旅』、垂水洋子訳([[「知の再発見」双書]]53)[[創元社]]、1996年 * ウィリアム・バンガート 『イエズス会の歴史』、岡安喜代・[[村井則夫]]訳、[[上智大学]]中世思想研究所監修 *: [[原書房]]、2004年/[[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]〉(上下)、2018年 * イエズス会日本管区編 『100年の記憶 イエズス会再来日から一世紀』、南窓社、2008年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{reflist | group="注"}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author= 松田毅一 |authorlink= 松田毅一 |title= 大村純忠伝 |date= 1978 |publisher= 教文館 |ref = {{SfnRef|松田}}}} * {{Citation|和書|author=マリオ・エスコバル|translator=八重樫克彦/八重樫由貴子共訳|title=教皇フランシスコ|publisher=新教出版社|year=2013 |isbn=978-4400226673|ref = {{sfnref|エスコバル|2013}}}} * {{Cite book|author= ウィリアム・バンガード |title= イエズス会の歴史(上) |date= 2018 |publisher= 中央公論新社 | series=中公文庫 |isbn=978-4-12-206643-4|ref = {{SfnRef|バンガード|2018a}}}} * {{Cite book |author= ウィリアム・バンガード |title= イエズス会の歴史(下) |date= 2018 |publisher= 中央公論新社 | series=中公文庫 |isbn=978-4-12-206644-1|ref = {{SfnRef|バンガード|2018b}}}} == 関連項目 == * [[典礼問題]] * [[イエズス会社会司牧センター]] * [[聖三木図書館]] - イエズス会の運営する私立図書館 * [[聖イグナチオ教会]] * [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]] * [[ネグロイド#イエズス会士による蔑称]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Society of Jesus}} * [https://www.jesuits.global/ イエズス会公式ホームページ]{{en icon}}{{it icon}}{{fr icon}}{{es icon}} * [https://www.youtube.com/channel/UCpqwciWoMlKhXL1Ge3L6vug/ Jesuit MEDIA] - [[YouTube]]{{en icon}} * [https://www.jesuits-japan.org/ イエズス会日本管区]{{ja icon}}{{en icon}} * [http://www.kiwi-us.com/~selasj/index.html イエズス会社会司牧センター]{{リンク切れ|date=2021年12月}} * [https://1000ya.isis.ne.jp/0222.html 松岡正剛の千夜千冊/フィリップ・レクリヴァン『イエズス会』] * {{Kotobank}} {{イエズス会}} {{キリスト教史}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いえすすかい}} [[Category:イエズス会|*]] [[Category:イエズス会士|*]] [[Category:カトリック教会の修道会]] [[Category:1534年設立]] [[Category:ローマの組織]] [[Category:ユネスコ記憶遺産]] [[Category:パウルス3世]]
2003-05-15T18:17:39Z
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